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岡山県
津山市を中心とする美作地域では、江戸後期から幕末にかけて宇田川家、箕作家などの洋学の人材を輩出した。 主に東京式アクセントの岡山弁が用いられる。県内の方言は旧国ごとに「備前弁」・「備中弁」・「美作弁(作州弁・津山弁)」の3種に分類されることあるが互いに対立して分布しているという事象は、必ずしも多いとは言えない。笠岡市・井原市などは旧備中国であるが備後福山藩領であったなど歴史的な背景から広島県側と共通の方言(福山弁・備後弁)が用いられる。このため県内では井笠地域のみに広島県からの連続分布により独自の事象分布が認められ、倉敷市などの備中弁とは語彙など多くの差異がある。笠岡市の真鍋島などでは特有のアクセントが用いられる。 古代以来の農業の盛んな地域で、農産物・水産物は豊富である。主要なものは以下の通り。 など など など 岡山県は、プロ野球とJリーグの球団の両方が本拠を構えている兵庫県と広島県に挟まれ、地元に拠点を置くスポーツに対する関心が低い。1995年(平成7年)には倉敷市を本拠としていた川崎製鉄サッカー部(現・ヴィッセル神戸)がJリーグ誘致を目指していた神戸市に本拠を移すなど、長年にわたって本県に本拠を置くプロスポーツチームができず、「プロスポーツ不毛の地」と揶揄されることもあった。しかし、2001年(平成13年)11月に女子バレーボール・Vリーグに所属するシーガルズが岡山市に本拠を移転。美作町(現・美作市)に女子サッカークラブ・岡山湯郷Belleが設立された。その後、2005年(平成17年)には晴れの国おかやま国体が開催され、県全体でスポーツに対する関心が高まった。国体開催の機運に乗じてJリーグを目指すサッカークラブとしてファジアーノ岡山FCが設立され、好成績を収め続けたファジアーノは岡山県リーグから中国リーグ、JFLと次々と昇格し、2009年(平成21年)シーズンからはJ2に昇格した。また2017年には県西部の井笠地方をホームタウンとする福山シティFCが結成された。こうした市民クラブに対するスポンサーやボランティアなどの支援の輪が広がっており、プロスポーツが県民にとって身近な存在になりつつある。
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岡山県
その他、女子マラソンに関しては岡山市に本店がある天満屋の女子陸上競技部から2000年(平成12年)シドニーオリンピックに山口衛里が、2004年(平成16年)アテネオリンピックに坂本直子、さらに2008年(平成20年)の北京オリンピックでも中村友梨香が出場している。さらに、1992年(平成4年)のバルセロナオリンピック、1996年(平成8年)のアトランタオリンピックの2大会でメダルを獲得した有森裕子は岡山県出身であり、オリンピックに5大会連続で岡山県の関係者が出場している。 高校野球においては1965年(昭和40年)の選抜高等学校野球大会で優勝し、平松政次や八木裕らを輩出した岡山東商業高校、星野仙一らを輩出した倉敷商業高校や倉敷工業高校をはじめとした古豪がある。また、1999年(平成11年)の全国高等学校野球選手権大会で準優勝した岡山理科大学附属高校、関西高校などの私立校が台頭している。近年では、2011年のセンバツに春夏通じて甲子園史上初となる創部1年目の出場を果たした創志学園高校や、甲子園3回の出場を果たしている岡山学芸館高校、2017年夏に甲子園初出場を果たし、2023年夏には甲子園で8強入りを果たしたおかやま山陽高校なども甲子園に進出している。 岡山県名誉県民の称号は、1981年(昭和56年)3月25日に制定された岡山県名誉県民条例(岡山県条例第24号)に基づき、「岡山県の発展に功績があり、県民の誇りとしてひとしく敬愛を受ける者」へ贈られる(条例第1条)。対象者は「本県に居住し、又は居住していた者で、社会福祉の向上、経済の発展又は学術文化の振興に卓絶した功績があり、もつて県民福祉の増進に貢献し、又は本県の名声を著しく高め、県民が郷土の誇りとしてひとしく敬愛するもの」であり(条例第2条)、岡山県知事が岡山県議会の同意を得て選定することが定められる(条例第2条第2項)。名誉県民に選定された者には、顕彰状や徽章、記念品も併せて贈られるほか(条例第3条)、知事が定める礼遇や特典を受けられる(条例第4条)。
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沖縄県
沖縄県(おきなわけん、沖縄語: ウチナー /ʔucinaa/、英語: Okinawa Prefecture)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は那覇市。 鹿児島県の薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島、先島諸島、大東諸島)から構成されており、東シナ海と太平洋に挟まれている。面積は2,281平方キロメートルで、日本の都道府県では小さい順に香川県、大阪府、東京都に次いで第4位であり、人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある。又、八重山郡与那国町は日本の最西端にある地方自治体であり、与那国島の北北西端にあるトゥイシが日本最西端の地点である。 県民人口の約9割が沖縄本島に集中しており、さらに本島中南部に県人口の8割が集中している。那覇市中心部は三大都市圏に匹敵する人口密度がある。 ほぼ全域が亜熱帯気候であり、一部は熱帯に属する。年間を通して温暖な気候であり、最低気温が氷点下以下になる事はほとんどない。 海上輸送路(シーレーン)及び軍事的要地(第一列島線)として重要な場所に位置し、多数の在日米軍基地が存在する。主な米軍施設として、嘉手納飛行場、普天間飛行場、キャンプ・バトラーなどが存在する。 歴史的経緯(後述)から、宗教、文化並びに風習、人名や方言、料理や食文化及び産業、人口構成ならびに所得格差に至るまで日本列島主要四島との差異が大きい。俗に沖縄「県外」のことを「内地(ナイチ)」、沖縄県外の日本人を「内地人(ナイチャー)」と呼び分ける場合がある。 日本では数少ない南の島であるため、日本屈指のリゾート地となり、日本人の夏の観光先として定番化した。特に2001年のテレビドラマ「ちゅらさん」の放送以後は、県外でも沖縄文化がブームを超えて身近なものとして定着し、県外からの観光客や移住者も大幅に増加した。沖縄県としても文化体験、沖縄料理、レジャー、マリンスポーツや戦争遺跡などを強みに観光分野に特に力を入れている。沖縄全体で見た場合の世界的な知名度は、高いとはいえないが、座間味島のみは、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン二つ星を獲得し、国定公園になったことで、海外でも日本の観光名所として大きく紹介されるようになり、一定の知名度を獲得している。
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沖縄県
沖縄県内の産業割合を見ると観光業を含む第三次産業が79.2%を占めている一方で第一次産業は5.4%、第二次産業は15.4%と低調である。沖縄は太平洋高気圧の南側に位置し、熱帯低気圧が発生する海域に近いため、台風発生シーズンの9月上旬から11月上旬までは沖縄の天候が荒れやすく、沖縄発着の旅客機が欠航しやすい。しかし、9月は気温が高いにもかかわらずオフシーズンとなるため、夏と殆ど同じ条件で安価に旅行する事が可能となる。 格闘技界においては空手の発祥の地(琉球唐手)として世界的に有名であり、多数の外国人門下生が県内の空手道場に入門し稽古している。ボクシングにおいては石垣市出身の具志堅用高を始めとして数多くの世界王者、名選手を輩出している。 淡海三船が著した779年成立の鑑真の伝記『唐大和上東征伝』では、天平勝宝5年(753年)11月21日に遣唐使一行が阿児奈波嶋(あこなはしま/あこなわじま)に到着したと記述されており、この島は沖縄本島のことを指していたという。後に中国側からの呼称による「流求」「琉球」と呼ばれるようになった。 琉球処分の際、明治政府内では「琉球県」の名称も検討された。これは1879年(明治12年)、琉球藩を廃して沖縄県が設置される際に俎上に上っていたものである。内務卿の伊藤博文から太政大臣の三条実美に提出した同年3月1日付の琉球処分に関する文章には「琉球藩ヲ廃シ、更ニ琉球県ヲ被置候、此旨布告候事但県庁ハ首里ニ被置候事」とあり、琉球県の名称が使われていたが採用には至らなかった。この間の経緯は不明であるが、中国語由来の琉球に対し、沖縄のほうがより日本帰属の意思が明確になるため選ばれたと推察できる。また、旧信濃国が長野県、旧上野国が群馬県となったように、旧国名などの広範な地域名は都道府県の名前として使用しないという原則があったのも理由の一つだと考えられる。用語としての「沖縄」は元々は沖縄本島を指す言葉であったが、沖縄県設置により奄美群島が正式に日本に編入、さらに沖縄諸島・先島諸島全域が「沖縄」と呼ばれるようになり、より広義に解釈されるようにもなった。
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沖縄県
国土交通省による日本の14地域区分の1つである沖縄は、沖縄県1県のみから成る。なお、「九州地方」の一部または「九州・沖縄地方」と呼ぶ場合もある(「九州#近現代の「九州」」を参照)。国土交通省は、「沖縄本島」を、「本土」5島の一つとしている。 国土地理院によると、沖縄県は691の島から成っている。49の有人島と多数の無人島から成り、0.01km以上の面積を有する島は160島存在する。最東端から最西端までは約1,000km、最北端から最南端までは約400kmと、広大な県域を持つ。 南西諸島は鹿児島県から台湾近くまで長く延びており、地理的分布では北のトカラ列島までと、奄美群島と沖縄諸島および先島諸島の3つに大きく分けられる。 沖縄本島と宮古島の間は宮古海峡と呼ばれ最狭区間でも約145海里(約270km)の距離があり、そのうち約48海里(約89km)が領海と接続水域になっており、残りの約97海里(約180km)が排他的経済水域になっている。 与那国島と台湾の間は約54海里(約100km)である。 離島が多いものの、離島の医療は人材的あるいは経済的理由から不足気味であり、病院がなく診療所のみという島も多い。そのため、離島で治療できない急患患者の沖縄本島への空輸を陸上自衛隊や海上保安庁が行っている。なお、宮古島、石垣島には県立の総合病院が設置されているため、それらの島の周辺離島での急患は沖縄本島ではなく宮古島や石垣島に搬送される場合もある。 県庁所在地である那覇市の半径1,000km圏内には九州島全域や下関市、上海、福州や台湾島全域が含まれ、1,500km圏内には大阪、南京、ソウル、平壌、マニラ、香港などが位置する。2000km圏内には東京、仙台、北京、瀋陽、海南省海口市、長春、ウラジオストクなどが存在し、2500km圏内には稚内、成都、重慶、ハノイ、グアム、北マリアナ諸島、パラオが収まるなど、まさに東アジア・東南アジアと日本との接点とも言える位置にある。
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沖縄県
沖縄本島の中南部は那覇市や沖縄市を中心として都市化や人口集中が進んでおり、全面積の約5分の1に110万人以上が居住している(沖縄本島#中南部都市圏 も参照)。その上、治外法権の米軍基地が多数存在しており、利用できる面積はさらに限られる。そのため人口密度は全国で第9位であり、三大都市圏の都府県を除くと福岡県に次いで2番目に高い。 琉球諸島は太平洋側の琉球海溝と東シナ海側の沖縄トラフに挟まれる。琉球海溝はフィリピン海プレートがユーラシアプレートに潜り込むことによりできたもので、これは南海トラフと同様の成因である。また背海盆沖縄トラフはユーラシアプレートが新しい時代に引き裂かれて陥没した1000〜2000mの窪みであり熱水鉱床などがみられる。地質的には琉球列島(諸島)のうち沖縄島と奄美大島はケラマ海裂とトカラ海峡とに挟まれた中琉球と呼ばれ、島は海洋地殻の上に海洋地殻の付加体(海洋地殻の陸側斜面となるユーラシア・プレートの下にフィリピン海プレートが沈み込むときに、海溝の陸側斜面ユーラシアプレートの端に押し付けられて隆起した海洋地殻の上の堆積物)で構成され、さらに3億〜5000万年前の古い付加堆積物で作られる沖縄島北側と、500万年前に作られた現地性堆積物により構成される沖縄島南側に大きく分けられる。 日本国内における気候区分では南日本気候に属する。
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沖縄県
日本国内における気候区分では南日本気候に属する。 宮古島、多良間島、石垣島、西表島、与那国島、波照間島および沖大東島は熱帯性気候でケッペンの気候区分では熱帯雨林気候 (Af) に、北大東島および南大東島は同じく熱帯性気候で熱帯モンスーン気候(Am)、それ以外の地域は亜熱帯性で温暖湿潤気候 (Cfa) に属する。沖縄県各地方ともに高温多湿で年間降水量は2,000mm以上で、年間平均気温は約22°Cとなっている。しかし、最高気温が35°Cを超える猛暑日になることはほとんど無い。これは、沖縄は陸地面積が狭く周りを海に囲まれていること(海洋性気候)から、フェーン現象や晴天弱風と都市化がもたらす大規模なヒートアイランド現象のような要因がないためである(但し都市部での小規模なヒートアイランド現象の研究報告はある)。また沖縄は台風銀座と呼ばれており、毎年多くの台風が接近する。月別で注目すると、降水量は梅雨入りの平均期間である5月と台風が多く接近する8月に多い。また、日照時間は7月に長く、冬期の1月・2月では短い。冬季は北からの季節風の影響で雨や曇りの日が多い。梅雨明けころには、夏至南風(沖縄本島ではカーチーベー、宮古・八重山周辺ではカーチーバイ)と呼ばれる秒速10m以上の南寄りの強い風が吹き、夏の到来を告げる季節風として知られている。 冬期に降雪があることはごくまれであるが、1977年(昭和52年)2月17日に久米島で、2016年(平成28年)1月24日に久米島と名護市でそれぞれみぞれ(気象記録上は雪と同じ扱い)が観測された 。気象庁が公式に発表した沖縄県での降雪記録はこの2例のみで、久米島での降雪は日本における降雪の南限記録である。 観測開始以前においては、琉球王国の正史とされる『球陽』によると、1774年、1816年、1843年、1845年、1857年にそれぞれ現在の沖縄県の領域で降雪があったことを記録している。 なお、昭和38年1月豪雪では県内各地で霜、あられ、ひょうなどが観測されており農作物への被害も発生している。 1999年(平成11年)12月20日とその前後に那覇市などで「雪が降った」という目撃談が複数報告され、NHK沖縄放送局でその「雪らしきもの」の映像を放送したが、気温が高かったことなどから気象台は否定的で、公式な降雪記録とはなっていない。
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沖縄県
なお、昭和38年1月豪雪では県内各地で霜、あられ、ひょうなどが観測されており農作物への被害も発生している。 1999年(平成11年)12月20日とその前後に那覇市などで「雪が降った」という目撃談が複数報告され、NHK沖縄放送局でその「雪らしきもの」の映像を放送したが、気温が高かったことなどから気象台は否定的で、公式な降雪記録とはなっていない。 本県の河川の特徴としては、急勾配でかつ、河川延長が短く、流域面積が小さいことが挙げられる。その為、河川流量の変動が顕著で、大雨による増水、少雨による水不足に陥りやすい。またマングローブ林など県外と異なる亜熱帯特有の自然環境を形成している。現在、沖縄本島北部では赤土の流出、中南部では畜舎からの排水などの影響による河川汚染が問題となっている。 本県には国内で唯一、一級河川が存在しない。二級河川の開発は知事の要請に基づき沖縄振興特別措置法により、日本政府の直轄事業として改良・修繕工事を行っている。 2019年現在、沖縄県には11市、5郡、11町、19村があり、町は全て「ちょう」、村は全て「そん」と読む。 現代(2020年)において沖縄県の地域は北部地域、中部地域、南部地域(南部離島地域)、宮古・八重山地域に大分される。 南部離島地域は、南部地域に包含される場合があるが、沖縄本島と、伊江島、伊平屋島および伊是名島を除く沖縄諸島と大東諸島の島々の町村を含んだ概念である。 また、伊江島、伊平屋島、伊是名島の村域は北部地域に包含される(「北部離島地域」と言う呼び方は公式ではない)。 ただし、本島周囲の離島であって国頭村、大宜味村、今帰仁村、本部町、名護市、恩納村、うるま市、豊見城市、糸満市、南城市に属する小島嶼はこれら離島地域には含まれない。 1896年(明治29年)4月1日の郡制施行(沖縄県区制)に伴い、那覇区、首里区と、国頭郡、中頭郡、島尻郡、宮古郡、八重山郡の5郡が設置された(2区5郡)。この時点では沖縄県発足以来継続していた旧慣温存政策により琉球王国時代の間切制が残存していた。これは、1908年(明治41年)4月1日に沖縄県独自の島嶼町村制施行により、間切→村(そん)に移管されるまで続いた。 この1896年沖縄県区制施行当時の郡区分を特に「旧郡制」と言う事があり、この境界をもって5地域(5地区)に分ける慣例が制度上も残っている。
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沖縄県
この1896年沖縄県区制施行当時の郡区分を特に「旧郡制」と言う事があり、この境界をもって5地域(5地区)に分ける慣例が制度上も残っている。 この歴史的経緯により、旧郡制当初から現代まで、伊平屋村・伊是名村は島尻郡に属しているがその一方で現代行政区分としては北部地域に組み入れられている。ほか、沖縄本島と伊江島を除く沖縄諸島と、大東諸島の島々の市町村も同様に島尻郡に属しており、必ずしも南部とは言えない南部地域(南部離島地域)に組み入れられている。 行政による地域区分は上記のほか、沖縄本島(周辺離島を含む)における広域行政圏として北部広域市町村圏、中部広域市町村圏、南部広域市町村圏を持つ。 これら広域行政圏は、沖縄都市圏や那覇都市圏の影響を受けており、行政機能的、商業的にもより実態に即した圏域を構成している。そのため、中部地域に属する浦添市は南部広域市町村圏に組み入れられている。西原町は公式にも中部広域市町村圏だが、より実態に即して南部扱いされる場合も一部にある。 2017年現在、在日米軍の専用施設は沖縄本島の総面積の15%を占めている。 古代 『続日本紀』には、文武天皇2年(698年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士が南島(なんとう)(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、文武天皇3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。和銅8年(715年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも養老4年(720年)に南島人232人に位を授け、また神亀4年(727年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある。
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沖縄県
琉球王国時代に編纂された「中山世鑑」によると、保元の乱で敗れ伊豆に流された源為朝が追手から逃れるため沖縄本島(運天港)に渡り、その子が初代琉球国王舜天になったとされており、正史として扱われていた。14世紀後半には三山王国(北山、中山、南山)が勃興するグスク時代に突入し、中国(明)に朝貢し冊封を受け琉球貿易を行っていた。1429年に中山王尚巴志が南山と北山を滅ぼし琉球を統一、琉球王国を建国した(第一尚氏)。グスク時代の城跡遺跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産に登録されている。1469年に尚徳王の家臣であった金丸が王位を簒奪し、自らを尚円王と号し即位した(第二尚氏)。周辺の先島諸島や奄美群島にも版図を拡げるが、1609年(慶長14年)に薩摩藩の侵攻を受け尚寧王は降伏、当時王国の支配下にあった奄美群島は薩摩藩に割譲、王国は薩摩藩の支配下におかれた(琉球侵攻)。薩摩による侵攻以降も王国は中国の冊封を受け続け、日本の薩摩藩と清国に『両属』する体制となっていたが鎖国体制下の両国の中継貿易地としての役割を担い、交易を通じて独自の文化と自治を保っていた。この当時の日本本土と沖縄の関わりが、現代まで続く日本の南洋幻想の発端となった。 近代に入り、1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が琉球に来航し首里城を訪問。翌1854年(嘉永7年)琉米修好条約を締結するのを皮切りにフランスやオランダとも修好条約を締結した。一方、日本本土では明治維新がおこり開国したことを受け、1871年(明治4年)9月に日清修好条規が締結され清との間に外交関係が樹立された。しかし、その約1ヶ月後となる同年10月に宮古島島民遭難事件が発生、明治政府は外交対処のために中央集権国家の確立を急ぎ、1872年(明治5年)、琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰を「琉球藩王」に封じて東京に藩邸を置いた。福島外務卿による清との交渉後、1874年(明治7年)に台湾出兵となり、日本の航客に危害を加えないなどの統括権などがイギリス大使の調停による事後処理条約で確認され、清との外交事件が帰着した。1879年3月27日(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置、尚泰は東京の藩邸に居を移し華族となる。明治初期に琉球が日本に編入される一連の過程を琉球処分と言う。
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沖縄県
1945年(昭和20年)、太平洋戦争では『国内最大の地上戦』と呼ばれる沖縄戦の戦場となった。米軍は4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸、瞬く間に島の北半分を制圧、日本軍は米軍の総攻撃を受け南部に追い込まれ、総司令部が置かれていた首里城も焼け落ち、6月23日に沖縄守備軍最高指揮官の牛島満中将らが摩文仁で自決したことで組織的戦闘は終結した。約3カ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃した。現在、摩文仁は沖縄戦跡国定公園に指定されており、6月23日は慰霊の日として沖縄県の休日となっている。 沖縄戦後、GHQのSCAPIN - 677指令により南西諸島は米軍軍政下となり、日本の施政権は停止、行政実体(内務省知事下)としての沖縄県は一旦消滅した(アメリカ合衆国による沖縄統治)。米軍統治下で基地建設のため集落や農地を大規模に接収し、右側通行の道路を整備し、通貨としてB円、後に米ドルを使用させ、日本本土への渡航にパスポートが必要になるなど、米国流のやり方で戦後復興が進められていった。1952年(昭和27年)にGHQの占領下にあった日本が主権回復した後も沖縄は引き続き米軍の統治下におかれた。同年、米軍政が終了、米国主導で新たに琉球政府を設置、本格的な琉球統治と復興に乗り出す。 1950年代以降になると朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発し、沖縄は米軍の前線補給基地として重要度を増し、数多くの米軍人が駐留、B-52などの戦略爆撃機や枯葉剤や核兵器といった大量破壊兵器が多数配備され、ベトナムからは『悪魔の島』と恐れられた。経済は基地に大きく依存していた一方で、当時ドル高円安の固定相場制の影響もあり物価は安く生活は安定しており、人口は終戦直後の約50万人から本土に復帰するまでのわずか27年間で約100万人に倍増した。しかし米軍による強権的かつ差別的な施政に島民は強い反感を抱き、本土への復帰を求める大規模な反基地運動が各地で展開されていった(島ぐるみ闘争)。1971年(昭和46年)に佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との間で沖縄返還協定が締結され、翌1972年(昭和47年)に沖縄は日本に施政権が返還され沖縄県が復活した(沖縄返還)。米軍統治時代から続く基地問題や不発弾の問題、日米地位協定の問題は県の主要な政治課題となっている(「普天間基地移設問題」を参照)。
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沖縄県
2015年度の国勢調査結果より前回の2010年度と比較して、沖縄県の人口は約4万人(2.9%)増加し、都道府県別で東京都(2.7%)を抜き全国で最も人口増加率が高くなった。人口別では初めて65歳以上人口が15歳未満人口を上回った。地域別で見ると沖縄本島の中部と南部で増加し、沖縄本島北部と石垣島を除く離島の大部分で減少している。国立社会保障・人口問題研究所は、2025年に143万3千人まで増加すると予測している。2010年の自然増加率は人口千人あたり5.0人増と全国最高であるが、社会増加率は各年により増減が変動する。また2010年度の合計特殊出生率は1.87人と1975年度以来連続で全国1位を維持している。2015年度国勢調査によれば、65歳以上の人口比率 (19.6%) が、調査開始以来、15歳未満 (17.4%) を上回った。粗死亡率は男女ともに全国で最も低いが、年齢調整死亡率は全国平均に近く、特に成人男性は全国3位以上の年齢調整死亡率となっている。沖縄県在住の外国人は、国籍別で2010年現在アメリカ(米軍とその関係者は含まれない。)が最も多いが、中国・韓国籍の外国人も増加傾向にある。2015年度の国勢調査で、県内の外国人は11,020人となり、2010年度より3,369人 (44%) 増加している。 なお人口統計には含まれない在沖米軍人と軍属およびその家族数は2013年度現在47,300人にのぼる。 2016年度の沖縄県への入域観光客統計は年間8,613,100人で過去最高を記録し一日平均で約23,500人になる。 また県外から赴任した自衛官や国の出先機関の出向公務員も多数存在するために、これらを含めると見かけ上の人口は統計よりも7〜10万人も多い。 沖縄県議会議員選挙は統一地方選挙では実施されない数少ない都道府県議会議員選挙の1つである(他は東京都、茨城県、岩手県、宮城県、福島県)。これは、日本復帰後の選挙が1972年(昭和47年)6月25日に行われたことによるためで、東京と茨城は議会の解散、岩手、宮城と福島は東日本大地震による延期のためであり、事情が異なる。
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沖縄県
沖縄県議会議員選挙は統一地方選挙では実施されない数少ない都道府県議会議員選挙の1つである(他は東京都、茨城県、岩手県、宮城県、福島県)。これは、日本復帰後の選挙が1972年(昭和47年)6月25日に行われたことによるためで、東京と茨城は議会の解散、岩手、宮城と福島は東日本大地震による延期のためであり、事情が異なる。 沖縄県は日本屈指の観光立県でありサービス業が発達していて県経済の中心になっている。また在日米軍基地が生み出す経済(軍雇用者所得、軍用賃借料、米兵向け商店・飲食店など)に依存している側面があり、経済依存度は、1972年の15.5%から1982年度には7.4%にまで低下し、ここ30年は5%前後で推移している。米軍基地内には、オフィスや病院、ショッピングセンターなどの施設があり、約9,000人前後の県民が基地施設に勤務していて、沖縄県庁に次ぐ大口の就職先になっている。「観光」「公共事業」「基地収入」に依存する「3K経済」とも称されている。 沖縄県の産業構造は、全国に比べて第2次産業のウエイトが低く、第3次産業のウエイトが高いことが特徴である。平成25年度の県内総生産に占める第2次産業及び第3次産業の割合は、それぞれ13.9%及び84.4%となっており、全国の24.4%及び73.9%と比べその差異は明らかである。特に、製造業の割合は、全国が18.4%に対し沖縄県は4.2%とその差異は極めて大きい。また、政府サービス生産者(公的な電気・ガス・水道業や公務などの経済活動)の割合が沖縄県(平成25年度)では16.0%と高い。これらの要因として、アメリカ統治下の沖縄では円よりも価値の高い軍票やドルが用いられ外国製品が安く手に入るため製造業が育たなかったこと、本土復帰後は大規模な公共事業に重点的に取り組むも地元企業は下請けに回ることが多く、その結果雇用が見込める大規模工場が少なく、非正規雇用者が多い要因の一つとなっている。2017年の非正規従業員の割合は43.1%と全国で最も高い。
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2014年(平成26年)度の県内総生産は4兆1749億円で、前年度と比較した経済成長率は、1.5%増加した。名目は3.5%増の4兆511億円で、それぞれ6年連続のプラス成長だった。平成26年度の一人あたり県民所得は212万9000円(全国平均は286万8000円)である。失業率は日本一高いが2016年には沖縄の完全失業率は23年ぶり3%台に低下した。 県外の日本国内で生産または供給される商品に関しては、輸送距離の関係から時間・費用が嵩み、輸送費の分だけ県外に比べ割高となってしまう。そのため、県内生産品を除き、県外の地方と比べて、平均小売価格は特段低くはない。食品や携帯電話サービスでは全国的なブランドの商品生産・提供を沖縄独自の法人(沖縄ビバレッジ、沖縄セルラー電話など)が一括して担っていたり、オキコやオリオンビールやブルーシールなど、沖縄独自のブランドが特定ジャンルのシェアを占めている場合もある。 農業では日本有数の亜熱帯性気候を生かし、マンゴー、アセロラ、パインアップル、ドラゴンフルーツなどのトロピカルフルーツや、サトウキビ、タバコ、ゴーヤー(ニガウリ)といった農作物が生産されている。また、伊平屋島などでは稲作が盛んである。 漁業ではマグロ、イカ、ブリ、タカサゴ、アジ、アカハタなどの他クルマエビ、モズクの養殖も盛んである。 畜産業では、養豚が古くから盛んに行われ沖縄固有品種アグーが有名。またヤギやウシも生産されている。 本土復帰後は付加価値の高い品目に移り変わりつつある。マンゴーや石垣牛などは産出額を大きく増やしているのに対し、サトウキビやパイナップルは栽培・収穫面積を大きく減らしている。 製糖業、飲食料品製造業や、セメント製造を中心とした窯業・土石製品製造業があるがいずれも小規模である。 沖縄本島の本部半島には良質な石灰岩が存在し、セメントの原料や砕石・砕砂の原料として採掘されている。沖大東島や北大東島にはかつて燐鉱山が経営されていたが、北大東島は良鉱石が枯渇しており、沖大東島は戦後、米軍射爆撃場に指定されたたままである。 沖縄本島沖の海底には国内最大規模の熱水鉱床が広がっており、銅、亜鉛などのほか、ガリウムやビスマスなどレアメタルを含むため、次世代の海洋資源として試掘調査が活発化している。
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沖縄本島沖の海底には国内最大規模の熱水鉱床が広がっており、銅、亜鉛などのほか、ガリウムやビスマスなどレアメタルを含むため、次世代の海洋資源として試掘調査が活発化している。 東シナ海の海底には推定埋蔵量約1000億バレルに上る天然ガスや石油が眠っており、日中中間線周辺では中国との領有権争い(東シナ海ガス田問題を参照のこと)が生じている。 植物資源を燃料に充てられるバイオエタノールが脚光を浴び、県産サトウキビが原料として注目され試験操業も行われたが、結局採算が取れず撤退した。 本県の主な産業として、伝統、歴史、自然、食文化や国際色を生かした観光業が挙げられる。ただし、これらの観光業は景気に左右されやすい。 沖縄本島のリゾートホテル付設や公営の海水浴場の多くは、ワイキキビーチと同様に人工海浜であり、観光資源ではあるが「沖縄の自然」ではない。2009年観光客数は国内外合わせて5,690,000人(国内:5,443,800人、海外:246,200人)である。2019年の訪れる外国人観光客数は1,951,150人に達し、台湾 (40.00%)、韓国 (22.99%)、中国 (18.38%)、香港 (10.26%)、米国 (3.51%) という比率になっている。米国からの観光客は、米軍基地関係者が多く含まれる。 2000年(平成12年)に主要国首脳会議が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。また県はスポーツアイランド構想を掲げエコツーリズムも活発化している。一方2020年(令和2年)以降のコロナ禍では観光頼みの沖縄経済のもろさが露呈した。2020年度の観光客数は258万人にまで落ち込み、海外客は復帰後初のゼロを記録した。 1998年(平成10年)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX (Internet Exchange) の語に掛けて IT Exchange などの呼びかけを行いコールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行っている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴わないとして箱物行政といった批判も多い。 2010年代ごろからスマートフォンアプリの開発業も盛んになっている。 経済振興のため、数々の特例が設定されている。
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2010年代ごろからスマートフォンアプリの開発業も盛んになっている。 経済振興のため、数々の特例が設定されている。 県内では、本州などで展開している企業の地域会社が多数存在する。 島嶼県であるという事情から、県外への移動や県内離島間の移動は空路が主に利用されている。特に、宮古列島、および八重山列島については、域外との定期旅客航路が休止または廃止となっており、原則として航空路線での移動が必須となっている。県内には、以下の表の空港と伊是名場外離着陸場があるほか、在日米軍が基地として利用する嘉手納飛行場、普天間飛行場などがある。 大正時代、沖縄本島に沖縄県営鉄道、沖縄電気(路面電車)、沖縄軌道、糸満馬車軌道が相次いで開業したが、沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道はバスの台頭により太平洋戦争以前の1930年代に廃止され、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も沖縄戦で破壊され消滅した。戦後は長らく鉄道路線が存在しなかったが、2003年(平成15年)に沖縄都市モノレール線(ゆいレール)那覇空港 - 首里間が開業した。ゆいレールは2019年10月には首里から浦添市のてだこ浦西まで延長され、那覇空港 - てだこ浦西間17.0kmの路線となっている。 2013年現在、2006年(平成18年)に明らかになった那覇 - 名護間に鉄道を建設する沖縄鉄軌道構想は、建設費を政府が一部(または全部)負担することを除き、建設や運営の主体や手法などについて調査、検討段階にある。また南大東村では、観光客の増加を図ることが目的に、1983年までサトウキビを運搬するために島内を運行していた鉄道「シュガートレイン」の復活を計画している。 全都道府県の中で唯一、JR各社の路線が敷設されていない。これは歴史上でも樺太を含む内地48都庁府県で唯一、国有の交通機関が存在したことがなく、鉄道小荷物については琉球海運などとの連絡運輸により取り扱いが行われていた。なお、かつては那覇市に九州旅客鉄道(JR九州)沖縄支店が設置されていたが、2017年3月17日をもって閉店したためJRの営業拠点が全く存在しなくなった。 このほか、鉄道事業法に準拠する索道としては2016年4月1日に宮古島のシギラリゾート内にリフトが設置されている。
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このほか、鉄道事業法に準拠する索道としては2016年4月1日に宮古島のシギラリゾート内にリフトが設置されている。 沖縄県には陸続きで接する都道府県がなく、他県につながる海底トンネルや橋もないため、沖縄県では全国47都道府県で唯一、他県につながる鉄道路線が一つもない。 沖縄本島では那覇市・浦添市内の沖縄都市モノレール(ゆいレール)以外に鉄道がないため、都市内および都市間を結ぶ交通機関として、島内各地にバス路線網が展開されている。また、石垣島や宮古島でも島内の交通機関としてバス路線網がある。 ほかに、島の港、空港、中心集落や観光地を結ぶ交通手段として、小規模な路線バスの運行が行われている島も多い。 また、沖縄県は、前述のとおり日本で唯一、国鉄バスと後身のJRバスの定期旅客営業路線が歴史上において存在したことのない都道府県である。 航空機を使うまでもない近接離島間の移動には、船舶が広く利用されている。 2007年度より開始された小学6年生および中学3年生を対象にした全国学力・学習状況調査では、2011年度、沖縄県は全ての科目で最下位 となったが、2014年度の調査では沖縄県は小学6年生算数で全国2位となった。 国立 公立 私立 私立 私立 国立 2大県紙のシェアが合わせて約7割弱に達し、全国紙(一般紙)は下記の事情もあり、他県と比べシェアが極めて低い。また、先島諸島では独自の地域紙が発行されている。 西日本新聞も沖縄県の官公庁や図書館、および九州に本社を置く企業・法人の出先機関(沖縄支店など)に向けた事実上の「業務用」として新聞を発行していたが、2009年(平成21年)に発行を停止した。同新聞は1967年(昭和42年)-1977年(昭和52年)と2000年(平成12年)-2009年(平成21年)に那覇支局を設けていた。
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西日本新聞も沖縄県の官公庁や図書館、および九州に本社を置く企業・法人の出先機関(沖縄支店など)に向けた事実上の「業務用」として新聞を発行していたが、2009年(平成21年)に発行を停止した。同新聞は1967年(昭和42年)-1977年(昭和52年)と2000年(平成12年)-2009年(平成21年)に那覇支局を設けていた。 読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、日本経済新聞、産経新聞の各社が県に総局・支局を設置している。2008年(平成20年)11月1日より日経が琉球新報社への委託による現地印刷を開始し、全国紙では唯一、朝夕刊(2018年1月からは朝刊のみで、夕刊は廃止した。)とも地元紙と同時に配達を行っている。なお、読売、毎日、朝日は東京本社版および西部本社版を、産経と、世界日報は東京本社版を取り扱う販売店が存在する。これらの一般紙はいずれも発行地より空輸されるため、配達は当日の午後にずれ込む(前日の夕刊と同時配達)。また先島諸島や大東諸島については、全国紙だけでなく地方県域新聞2紙も印刷後空輸や船便で配送されるため、本島などから比べて朝刊の配達が遅れてしまう。 スポーツ新聞は、日刊スポーツとスポーツニッポン(新報スポニチ)が県で現地印刷を行っているが、両紙とも本州などで発行される新聞とは異なり、10〜12ページで発行されている(沖縄県には公営競技の施設がないため公営競技面は掲載されていないほか、番組表も非掲載)。なお、那覇空港内や那覇市内の一部のコンビニでは、東京本社版の各紙が発行日当日に空輸され販売されているが、価格は定価より50円上乗せした180円となっている。 デジタルテレビの親局送信所は、NHKと沖縄テレビが豊見城市高安に共用し、RBCとQABは1kmほど離れた豊見城市嘉数に共用している。NHK-FMの親局とRBCのFM補完放送のメイン中継局は、それぞれ兼営するデジタルテレビ送信所に設置。単独局のFM沖縄は南風原町の新川に単独で、ラジオ沖縄のFM補完放送のメイン中継局はそこに近接するおきなわTOWERに設置されている。 アメリカ合衆国の施政権下では KSxx を用いていたが、本土復帰(1972年(昭和47年))以降は JOxx を用いている。
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アメリカ合衆国の施政権下では KSxx を用いていたが、本土復帰(1972年(昭和47年))以降は JOxx を用いている。 琉球王国成立以前から日本本土の影響を受けつつ、中国大陸や東アジアの文化も受け入れ、混ざり合う文化を築き上げてきた。また太平洋戦争後から沖縄返還に至るまで、長期間米軍に統治されていたため、アメリカ合衆国の文化も多岐にわたって浸透している。 アニミズムを基本としており、日本本土の神道の原形(古神道)に近いと言われる。琉球神道とも言われ、県外の神社に当たるものとして御嶽がある。また、祖先崇拝の風も強く残る。 仏教は、王族や一部の上層階級が信仰するのみで、一般の農民にはほとんど浸透しておらず、葬式の儀礼の一部に用いられるにとどまった。現在でも仏教信徒(檀家)の数は、県外に比べると極端に少ない。近年葬儀は一応仏式で行われるようになったが、県外のように宗派別の僧侶ではなく、無宗派の僧によって執り行われる場合が多い。また、僧とは別にユタを呼ぶ事例もある。 墓は、自然のほら穴などを使った岩陰墓や崖を掘り込んだ掘込墓から、中国の影響を受けた亀甲墓へと変わり、現在では破風墓が一般的である。また、遺骨の処理方法も風葬や洗骨をする独特の風習があったが、近年では保健所などの指導や婦人運動の結果、多くの地域で火葬が実施されるようになった。 戦後は、米軍の影響でキリスト教信仰も盛んである。その多くはプロテスタント派に属する。県内には約210か所のキリスト教会が存在し、全国で最もクリスチャン人口の比率が高い。 沖縄県で使われている言葉は大まかに以下の三つに区分できる。県民の中でも、団塊の世代より後に生まれた世代では、共通語化が著しく、平成以降(特に2000年以降)に生まれた世代になると、琉球語だけでなく沖縄弁(ウチナーヤマトグチ)でさえも衰退が著しいが、特別な保護政策などはとられていない。
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沖縄県で使われている言葉は大まかに以下の三つに区分できる。県民の中でも、団塊の世代より後に生まれた世代では、共通語化が著しく、平成以降(特に2000年以降)に生まれた世代になると、琉球語だけでなく沖縄弁(ウチナーヤマトグチ)でさえも衰退が著しいが、特別な保護政策などはとられていない。 人種的には先史時代から10世紀にかけて九州以北の本土住民が沖縄の地に移住したとされる。分子生物学の研究では、沖縄県民の遺伝的構成は、東アジア大陸部の主要集団とは異なり、日本列島人種(大和人)の遺伝的構成に近く、同じ祖先を持つことが確かめられている。沖縄の地に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であり、考古学などの研究を含めると大東諸島民を除く沖縄県民の先祖は、比較的新しい時期(10世紀から12世紀ごろ)に農耕をする人々が九州南部から沖縄の地に南下して定住したとされる。 沖縄の地に先祖を持つ人々は、地理的、歴史的および文化的な経緯から「琉球民族」であるとする立場がある。日本政府は琉球民族を沖縄の「先住民族」とは認定していないが、2014年8月に人種差別撤廃委員会は「国連教育科学文化機関が琉球・沖縄について特有の民族性、歴史、文化、伝統を認めている」と言う理由で「先住民族」であるとした。これに対して、日本政府は撤回を働きかけるとし、自民党系議員は「民族分断工作」であると反発した。 沖縄の名字の多くは、地名に由来する。琉球王国時代では、王族、士族らは現在の名字に相当する家名を名乗り、領地が変わるたびにそれも変化した。薩摩藩による侵攻以降、薩摩藩の政策と琉球王府の施策により、日本風の二字姓家名からいわゆる沖縄風の三文字姓に改名した家系が多い。琉球処分後、一般庶民にも姓を名乗ることが許され、また明治以降は琉球語読みの名字の多くは日本語読みに改まった。 沖縄県の伝統的な建築技術は、主に琉球王国時代後期(近世)に発展した。多くの建造物は、建築様式や素材、技術などの面で周辺地域の建築様式(主に日本建築・中国建築)との類似点が多く見られるが、資源の状況や風土などが異なるため沖縄独自の発展が見られる。
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沖縄県の伝統的な建築技術は、主に琉球王国時代後期(近世)に発展した。多くの建造物は、建築様式や素材、技術などの面で周辺地域の建築様式(主に日本建築・中国建築)との類似点が多く見られるが、資源の状況や風土などが異なるため沖縄独自の発展が見られる。 王朝時代において、琉球士族などを中心に瓦葺きの木造建築である貫木屋(ヌチジャー)、庶民は主に穴屋(アナヤー)と呼ばれる掘立小屋に住居を構えていた。また住居以外には、城壁や橋梁などの石造建築物に琉球石灰岩が多く使用されたが、沖縄戦により失われた建築物も多い。戦争により多くの木造住宅だけでなく山林が消失し、大量の職人と資材が失われ、復興をアメリカ軍が主導するかたちでツーバイフォー構造の建物が多く建てられた。 現在では、台風やシロアリに強い鉄筋コンクリート構造に給水タンク(大きな河川がなく幾度と水不足を経験したため)を設置した住宅が一般的になっている。 在日米軍の軍人軍属およびその家族が居住する目的で基地外に建築された外人住宅も多数存在しており、県外の基地縮小とは裏腹に復帰後も戸数は拡大していった。増加する米軍人員を収容するための住宅需要が高まり、民間投資によるアメリカ人向けの大規模な土地造成と住宅地建築が行われた。現在も宜野湾市、北中城村、沖縄市、うるま市、北谷町などに「外人住宅街」が存在し、独特の街並みを形成している。 エイサーは浄土宗の念仏が基となり形成された伝統芸能であり、近年では宗教色のない創作エイサーへも発展している。 アメリカ統治時代に、コザ市(現沖縄市)では、朝鮮戦争やベトナム戦争に明け暮れた米軍人向けにクラブやライブハウスが流行し、多数のハードロックミュージシャン達が活躍した。戦争の終結、米ドルの相対価値の下落、Aサインバーの閉鎖など、環境の変化に伴い衰えたものの、現在でも全国に進出して活動しているミュージシャンは多い。 現代では沖縄県出身の芸能人も盛んに活躍し、沖縄アクターズスクールの卒業生を筆頭に数多くの歌手、アイドル、タレントの輩出している。 伝統的衣装である琉装のほか、近年ではアロハシャツに似たかりゆしウェアも見られる。 戦後は収容所で生活していた住民らに米軍から放出された衣類が支給された。収容所が解体された後も耐久性や利便性から米軍放出品の衣類が利用され、現在に至るまで販売されている。
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現代では沖縄県出身の芸能人も盛んに活躍し、沖縄アクターズスクールの卒業生を筆頭に数多くの歌手、アイドル、タレントの輩出している。 伝統的衣装である琉装のほか、近年ではアロハシャツに似たかりゆしウェアも見られる。 戦後は収容所で生活していた住民らに米軍から放出された衣類が支給された。収容所が解体された後も耐久性や利便性から米軍放出品の衣類が利用され、現在に至るまで販売されている。 以前から存在していた沖縄固有の武術「手(ティー)」と、琉球王国時代に伝来した中国武術により融合して誕生したのが、唐手(からて、トゥーディー)であり、後の空手道に発展した。戦後、空手を習得したアメリカ軍人や、日本から海外へ渡った空手家により、次第に世界へと普及した。 広義の琉球古武術は、徒手空拳術(空手)と武器術から成る。一般的に古武術は後者を指すが、空手と武器術は互いに密接な関係にある。棒術、トンファー術など様々だが、中でもヌンチャクを用いた武器術は世界的にも有名である。 速さではなく、美しさを競う古式競馬。琉球競馬(ンマハラシー)は300-500年ほど前から行われ、明治以降は全県民的な催事となり太平洋戦争中までは琉球競馬が盛んに行われていた。 2013年から琉球競馬の復活事業として沖縄こどもの国にて行われる。 日本本土においては7世紀以降、稲作を神聖視する一方で、肉食は穢れとみなされ、表向き禁忌とされた。しかし沖縄はこの思想がなく、早くから肉料理が発達した。中国の影響からか特に豚肉料理が伝統的に発達している。牛、馬、猪、鳥の肉を食べるが、祝いの席などで山羊の刺身、山羊汁、チーイリチーをふるまうことが多い、山羊の肉と血液を調理するチーイリチャーは、沖縄ならではのものといえる。海洋交易立国の伝統から、琉球料理には、遠い北海道産の昆布も古くから使われる。 かつては国内有数の長寿地域であった理由に健康的な伝統的食文化があるのでは無いかと考えられている。他方、米軍統治時代に発展したファーストフードやアメリカ料理も根付いており、食の欧米化も進んでいる。 また、アメリカ占領時の食文化も今日に受け継がれている。
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かつては国内有数の長寿地域であった理由に健康的な伝統的食文化があるのでは無いかと考えられている。他方、米軍統治時代に発展したファーストフードやアメリカ料理も根付いており、食の欧米化も進んでいる。 また、アメリカ占領時の食文化も今日に受け継がれている。 琉球王国時代、中山王府(琉球王国王府)の管轄下にあったニンブチャー(念仏者、チョンダラー:京太郎)以外には被差別民がいなかったため、大和の部落差別にあたるものはないものの、王族や士族と庶民(農奴)の格差が甚だしく大きい身分制度社会であった。また都市部以外ではシマ社会の旧習が今も色濃く残っており、男尊女卑や、部外者排斥の傾向が見られる。「シマ」とは「島嶼」のほかに「村落」や「分領」をも意味する。日本本土の村社会に似た構図がある。 日本本土ではかつて、沖縄出身者が異質な存在として差別的に扱われることが多かった。1903年には展覧会で沖縄出身の遊女をアイヌや台湾原住民などとともに異民族として「展示」し、沖縄県民の反発を招く事件が起こった(詳細は人類館事件を参照)。大正から昭和初期にかけて沖縄から県外への出稼ぎが増加した際には、県外の言語や慣習、例えば標準語や時間感覚などに不慣れな者が多かったことなどを背景に、求人告知や商店の入口で「琉球人お断り」と但し書きされる事例があった。 戦後のアメリカ統治時代に、米軍は銃剣とブルドーザーによって強権的に土地を接収し、米軍兵による強盗、強姦や殺人などの事件が相次ぎ、沖縄人の間に反米感情が高まった。特にポール・W・キャラウェイ琉球列島高等弁務官時代には非常に強権的な態度で沖縄人を抑圧した(キャラウェイ旋風)。1970年12月には、米軍人による交通事故を発端にコザ暴動にまで発展した。
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戦後のアメリカ統治時代に、米軍は銃剣とブルドーザーによって強権的に土地を接収し、米軍兵による強盗、強姦や殺人などの事件が相次ぎ、沖縄人の間に反米感情が高まった。特にポール・W・キャラウェイ琉球列島高等弁務官時代には非常に強権的な態度で沖縄人を抑圧した(キャラウェイ旋風)。1970年12月には、米軍人による交通事故を発端にコザ暴動にまで発展した。 地理的、文化的に近い奄美群島は、琉球王国の侵略を受け15世紀から17世紀初頭にかけて服属していたが、その琉球王国が薩摩藩の間接支配を受け幕藩体制下に入り、明治維新から琉球処分を経て併合された後もなお、沖縄との人的交流が盛んな地域であった。しかし、太平洋戦争後のアメリカ占領軍の施政下から奄美群島が先に祖国復帰を果たすと、「日本国民」に戻った奄美出身者の公職追放、参政権剥奪、財産権の制限など基本的人権を大幅に制限する施策が、沖縄本島住民の陳情により次々と導入された。また、民間に差別感情が広まった。沖縄マスコミもこれらを煽る報道を行った。 琉球王国時代に服属した先島諸島に対して中山王府(琉球王国王府)は過酷な人頭税を導入し圧政を強いた。薩摩藩、および王府に加え、先島諸島の現地支配層による農民の二重搾取、強制賦役、弾圧や迫害の歴史は琉球王国の滅亡まで連綿と続き、さらに明治維新を経て琉球処分後も旧慣温存政策に基づいた現地支配層による強制的な搾取構造は20世紀まで連綿と続いた。薩摩や王府の権威による圧政に、王府や支配層による農民の強制移住、干魃や暴風雨による不作、さらに大津波などの自然災害、疫病の流行や飢饉の発生が追い打ちをかけ人口の大減少をもたらした(詳細は「八重山地震」参照)。
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先島諸島の人頭税は1637年から制度化され、重税であり収穫が少ない年でも徴収され島民を苦しめたと言われる。人頭税は琉球処分後も旧琉球王国の既得権益層への懐柔のために執られた旧慣温存策により存続した。1893年(明治26年)に中村十作、城間正安、平良真牛、西里蒲ら4人により、沖縄本島の官憲や士族らの妨害を乗り越えて、国会請願書が当時内務大臣であった井上馨に届けられた。中村の同郷(新潟県)の読売新聞記者である増田義一の記事で国民に周知されるところとなり、世論の後押しも受け第8回帝国議会において1903年(明治36年)廃止され、日本本土と同様の地租に切り替えられた。 アメリカ人とアジア人、特にアジア地域へ来たアメリカ軍人と現地の女性との間にできた子どもはアメラジアンと呼ばれる。沖縄には今日でもアメリカ軍の軍人や軍属が多く居住し、多くのアメラジアンが生まれ続けているが、差別も根深い。米軍基地とテレビで目にすることが、沖縄で育ったアメラジアンが知っているアメリカ文化の全てということが多く、そういう点では一般の沖縄県民と何ら変わる面はない。にもかかわらず外見でアメリカ人と決めつけられ、商店からつまみ出される、公共のプールに入れさせてもらえないといった差別を受けている。特にアフリカ系アメリカ人との混血児に対してはその傾向が強い。慰霊の日の前後に公立校では反米的な学習が展開されるため、「ヤンキー・ゴー・ホーム」と迫害されるいじめを浴びる。さらに、アメラジアン自身だけではなくその母親にまで、反米意識に基づく差別、偏見のまなざしが向けられている。また、アメラジアンの多くが集まっていたオキナワ・クリスチャン・スクール・インターナショナルの新校舎建設地が産廃の投棄跡であったため生徒に吐き気や皮膚炎症いった健康被害が多発した時には、沖縄県はダイオキシンやPCBの検査をせずに「安全宣言」を出して済ませてしまい、結局約80名が退学する事態となった。
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沖縄県はハンセン病が多く発生してきた地域であり、20世紀末には日本人の新規発症者の6割から7割を沖縄県出身者が占めているが、沖縄社会のハンセン病に対する差別や迫害は厳しいものであった。シマではハンセン病者(「クンチャー」と呼ばれ、これは乞食を意味する琉球方言である)をガマ、崖地、ゴミ捨て場などに隔離し、シマに戻ることを禁じる文化があった。亡くなっても一族の墓には入れず、逆さまにして埋め、二度と生まれてこないよう呪いをかけた。昭和50年代に火葬場が増えてから沖縄にも県外式の葬儀が広まったが、その下でも遺骨に炒り豆を置く呪い(「これが芽吹いたら生き返ってこい」という意味だが、炒ってあるので絶対に芽は出ない)が行われている。 近代医学的なハンセン病医療の場を作る動きに、沖縄県民は激しく抵抗した。国立ハンセン病療養所設置を阻止するための暴動(嵐山事件)が起きたり、療養所設置を求めた青木恵哉ら、ハンセン病患者が焼き討ちにあったりもしている。その青木らにより、ようやく開園にこぎつけた沖縄県立国頭愛楽園(現在の国立療養所沖縄愛楽園)は、地域社会との交流が他の療養所以上に乏しかった。 感染性への誤解も根強く、琉球新報は投薬治療中の教員から児童へ感染が広がっているという誤った考え方を主張し(後に他紙記者により「沖縄戦後ジャーナリズム最大の汚点」と指弾される)、またらい予防法廃止(1996年)の前に行われた世論調査では住民の87%がハンセン病患者の全員隔離に賛成という結果が出ている。 復帰前の調査では、沖縄は精神障害の有病率が県外の2倍との結果が得られ、近年でも精神的疾病、性暴力、家族内暴力、学校内暴力、自殺などが全国トップレベルである。
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復帰前の調査では、沖縄は精神障害の有病率が県外の2倍との結果が得られ、近年でも精神的疾病、性暴力、家族内暴力、学校内暴力、自殺などが全国トップレベルである。 その沖縄で特徴的なのは、西洋医学とは整合しない土着の信仰や旧習に基づく障害観である。精神障害者を家族が座敷牢に閉じこめる私宅監置は、県外では1950年に禁止されたが、沖縄では復帰後もなお障害者の座敷牢状態が続き、また家族は地域社会から疎外され見捨てられる有様であった。精神障害は悪霊(マジムン)によって起こされているという理解もあり、これを迷信として否定するよう呼びかける精神科医がいる一方で、ユタ信仰の影響を受け土着化したキリスト教である沖縄キリスト教福音はその主張自体が悪霊に言わされているものだと批判し、統合失調症やてんかんには悪霊払いを行っている。「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、精神科医が精神病の患者にユタを勧める例もある。 一方、ユタは精神障害者に近いというとらえ方から、精神障害者が社会の役に立っているという認識をしている人も多い。精神異常を来した者のうち、神や先祖とのコンタクトや憑依体験に至った者はカミダーリと呼ばれ、社会に受けいれられる「肯定的な狂気」として存在できる。 職業差別として、自衛官に対する差別がある。本土復帰に伴い自衛隊が沖縄に配置されると、自衛官たちは人殺し呼ばわりされ、自衛隊員の子供は半年以上も学校に通うことが出来なかったほどである。また様々な行事から閉めだされた上に、参加が許可されても自衛隊を名乗ることを許されなかった。自治体は自衛官やその家族の住民登録を拒否し、ゴミの処理を受け付けなかった事例もあった。那覇ハーリーで自衛隊を名乗って参加することが許されたのは2001年のことであった。
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沖縄県
2017年3月9日には宮古島市の市議である石嶺香織が、自身のFacebookに「(アメリカ)海兵隊から訓練を受けた陸上自衛隊が宮古島に来たら、米軍が来なくても絶対に婦女暴行事件が起こる」などと投稿し炎上したため、「自衛隊全体を批判しているわけではない」と謝罪し「戦争のための軍隊という仕組みに対して(批判した)」などと言及したところ、再度炎上する事態となり、石嶺は2つの投稿をFacebookから削除した。宮古島市議会は「投稿は自衛隊員、米海兵隊員に対する職業的差別であり、断じて許すことができない暴言と言わざるを得ず、市議会の品位を著しく傷つけるものだ」などとして石嶺に対する辞職勧告決議(賛成20、反対3、欠席1)を可決した。石嶺は「私は議会が選んだ議員ではない」などとして辞職を拒否している。 雪が降らないため、プロ野球の春季キャンプ地が沖縄県に集中しており、2011年(平成23年)は、12球団中10球団(1軍のみ)が県内でキャンプを行った。以下に主な運動公園および野球場を挙げた。 沖縄県名誉県民の称号は、2003年(平成15年)3月31日に制定された沖縄県名誉県民条例(平成15年3月31日沖縄県条例第1号)に基づき、「社会の発展に卓越した功績があり、県民が誇りとしてひとしく敬愛する者」へ贈られる(条例第1条)。対象者は「沖縄県の出身者、沖縄県に居住したことがある者又は沖縄県にゆかりのある者で、社会福祉の向上、学術文化若しくはスポーツ又は産業経済の振興その他の社会の発展に貢献したもの」であり、沖縄県知事が沖縄県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第2条)。名誉県民に選定された者には、沖縄県名誉県民称号記と沖縄県名誉県民章および記念品が贈呈される(条例第3条)。 沖縄県県民栄誉賞は、1999年(平成11年)4月8日に制定された沖縄県県民栄誉賞表彰規則(平成11年4月8日沖縄県規則第45号)に基づき、「広く県民に敬愛され、県民に明るい希望と活力を与える顕著な功績があったもの」へ、沖縄県知事から贈られる(規則第1条・第2条)。
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香川県
香川県(かがわけん)は、日本の四国地方に位置する県。県庁所在地は高松市。 令制国の讃岐国に当たる。県名は旧讃岐国のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡である香川郡から採られた。面積は47都道府県で一番小さく、1945年~1972年にかけてアメリカの統治下であった沖縄県を除くと最も遅く独立した県である。都市の利便性と豊かな自然が調和した生活環境を持つ。 日本で最も面積が狭い都道府県である。かつては大阪府の面積を上回り46位であったが、1988年10月1日に国土地理院が算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km)を県全体の面積に算入しないことになったため面積が減少し、大阪府と逆転した。その後、大阪府では関西国際空港(関空)の開港や大阪市西部の開発などで埋め立てが進められたため、現在では直島町を含めた参考値よりも大阪府のほうが面積が大きくなっている。県全体の面積は日本一面積の大きい市町村である岐阜県高山市よりも狭い。また、平野が県土のほぼ半分を占めている。 人口密度は全国11位で、四大都市圏に属する9都府県(一都三県・愛知県・京都府・大阪府・兵庫県・福岡県)と沖縄県に次いで高い。可住地面積比率は全国10位、居住室畳数は全国9位、誘導居住面積水準以上世帯割合は全国11位、自然災害は少ない方から全国3位である(2008年統計)。 県庁所在地である高松市は、四国の玄関口であり、四国を統轄する国の出先機関のほとんどや、多くの全国的規模の企業の四国支社や支店、また四国電力やJR四国といった、四国を代表するような企業の本社などが置かれ、四国の政治経済における中心拠点である。高松市の人口41万人は四国内では、愛媛県松山市の50万人を下回るものの、高松都市圏の人口規模は松山都市圏を上回り、四国最大である。 古来より雨量、河川の流水量ともに少なく旱魃に備えて県内各地に14,000を超える数のため池が点在している。
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香川県
古来より雨量、河川の流水量ともに少なく旱魃に備えて県内各地に14,000を超える数のため池が点在している。 北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。岡山駅と高松駅は快速「マリンライナー」で約1時間程度でアクセスが可能である。瀬戸内海を越えた岡山県との結びつきは強く、民間テレビ放送局が同一のエリアになる程である(「岡高地区」を参照)。 麺のコシがしっかりとした讃岐うどんや、こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮、空海の生誕地としても知られる善通寺(四国八十八箇所の一つ)、寛永通宝の銭形砂絵で知られる観音寺、対岸の倉敷市児島から坂出市にかけて海上に架けられた瀬戸大橋などが有名である。うどんの消費量は全国一であり、香川県も「うどん県」として押し出している。 正月には、餡餅の入った白味噌仕立の雑煮「餡餅雑煮」を食べる風習が東部を中心とする一部にある。江戸時代、讃岐の国では塩・木綿そして香川県東部を領有した高松藩が奨励した砂糖が特産で、「讃岐三白」と呼ばれていた。このうち砂糖は幕府への献上品として多くが用いられ、庶民の口には滅多に入らなかったことから「せめて正月ぐらいは砂糖を使った餡の入った甘い餅を食べたい」という思いから餡餅雑煮が誕生したと言われている。ただ、食べる県民と食べない県民の比率は半々であり、好みが分かれる。 香川県庁舎の設計者は丹下健三であり、この他にも丹下は香川県立体育館や県営一宮団地も設計している。 救急病院数は全国2位、救急車搬送所要時間は全国3位、介護老人保健施設普及率は全国8位、看護師数は全国14位、医師数は全国12位である。また、2009年度と2010年度の有効求人倍数はそれぞれ全国1位、2位である。 県内を供給区域とする電力会社は四国電力であるが、岡山県に隣接した島嶼部である香川郡直島町および小豆郡の全域は、海底地形の理由から四国電力ではなく中国電力の供給区域となっている。 香川県は四国の北東部に位置し、北部には瀬戸内海に面して讃岐平野が広がる。南部は山がちで、讃岐山脈が連なる。最高峰は竜王山で1059.9mあるが、丘陵部は500 - 800mで各地峠越えに行き来が行われた。
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香川県
県内を供給区域とする電力会社は四国電力であるが、岡山県に隣接した島嶼部である香川郡直島町および小豆郡の全域は、海底地形の理由から四国電力ではなく中国電力の供給区域となっている。 香川県は四国の北東部に位置し、北部には瀬戸内海に面して讃岐平野が広がる。南部は山がちで、讃岐山脈が連なる。最高峰は竜王山で1059.9mあるが、丘陵部は500 - 800mで各地峠越えに行き来が行われた。 多島海である瀬戸内海には小豆島をはじめ、塩飽諸島や直島諸島など約110余りの島々が存在する。 川が少なく、またどれも33 - 38kmぐらいで短いため、昔から渇水対策に手を焼いてきた。このため、道守朝臣(みちのかみあそん)が造り、空海が修築したことで知られる満濃池をはじめとするため池が県内に14,000余あり、国内有数の数である。 国土地理院地理情報によると香川県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは92.15km、南北の長さは61.29kmである。 瀬戸内海式気候で晴天の日が多く雨量が少ないのが特徴である。日照時間が長いことが塩の生産・発展に役立ち、「塩田王国香川」と言われた。 積雪も一冬に1 - 2回程度は起こるが、大雪は少ない。また夏は瀬戸内海の「凪」や四国山地越えのフェーン現象などの影響で、猛暑日や熱帯夜になる日も少なくない。 地域区分は広義・狭義とも県民生活の基盤にもなっており、この区分によって気候・風土・方言(讃岐弁参照)なども異なっている。香川県は江戸時代、歴史的な背景から東は高松藩が治める東讃、西は丸亀藩が治める西讃に二分されていた。しかし、地方行政や住民の生活感覚などから自然的に実際は5つに大別するものと考えられるが近年は交通手段の発達により地域区分も薄らいでいる。 東西に長い香川県を分けて考える場合、最も多く用いられるのが五色台を境に東部を「東讃」(とうさん)、西部を「西讃」(せいさん)とする概念である。この名称は香川県が旧讃岐国の範囲と合致しているため、旧国名である「讃岐」に東・西を冠した言い方である。このスケールは県民の会話上でも西讃のことを「西の方」や単に「西」、東讃のことを「東の方」や単に「東」と呼ぶことで通用するほど定着した概念である。
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香川県
東西に長い香川県を分けて考える場合、最も多く用いられるのが五色台を境に東部を「東讃」(とうさん)、西部を「西讃」(せいさん)とする概念である。この名称は香川県が旧讃岐国の範囲と合致しているため、旧国名である「讃岐」に東・西を冠した言い方である。このスケールは県民の会話上でも西讃のことを「西の方」や単に「西」、東讃のことを「東の方」や単に「東」と呼ぶことで通用するほど定着した概念である。 この方式に沿った言い方に「中讃」(ちゅうさん)があるが、こちらはより狭い範囲を表すものであり、このスケールでは同じ「西讃」といった場合でも指し示す範囲が異なる。同じように「東讃」も高松地域・小豆地域を除いた範囲を指す狭義が存在する。小豆地域は狭義の東讃にも含むとする概念もあるが、小豆島は航路で結ばれているのがすべて高松であるため、直接の結びつきがない香川県東部とは分けて小豆地域、あるいは単に小豆島とする場合が多い。 その他にも、東讃に高松市を含んだ上で残りの西部を中讃、西讃の計3つで分ける概念もあるが、この場合では県都の位置する地域が中讃であると捉えられる場合があるため、あえて県都の高松市を別格として「高松地域」とする場合がほとんどである。 行政区分や天気予報、県立高校の学区などでも用いられるこの区分は自治体ごとに区切られているため、市町村合併により所属地域が変化する例が多く見られた。特に平成の大合併では高松市へ合併した綾歌郡国分寺町の所属地域が西讃から東讃へ変わったほか、木田郡庵治町と牟礼町が同じく高松市への合併により、狭義の東讃から高松地域へ所属地域が変わった。 8市5郡9町を含む。香川県では、地方公共団体としての町はすべて「ちょう」と読む。なお、村は1970年に消滅している。 約2万年前の旧石器時代人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高400メートルの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、サヌカイト製のナイフ形石器、尖頭器、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した。
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香川県
約2万年前の旧石器時代人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高400メートルの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、サヌカイト製のナイフ形石器、尖頭器、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した。 縄文時代晩期後半の林防城遺跡(高松市)で、当時の土器と木製諸手狭鍬が出土しているなどから、県下にも稲作が伝播し、水田耕作が行われたと推定されるが、他に水稲耕作に直接かかわる道具や同時に伝播するはずの文化要素が見当たっていない。また、水稲耕作に従事したムラの形跡がない。 『日本書紀』などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐ではため池の開発や雨乞い儀式などが行われていた。大宝年間から工事が開始され、弘法大師空海が修築工事を指導したとされる満濃池のほか多くのため池が開発され、それより耕地は灌漑された。菅原道真も、一時は讃岐国国司となっている。 平安時代には関東地方での平将門の乱に乗じて藤原純友が伊予国で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させた。朝廷が追捕使として小野好古を派遣すると讃岐国の武士も乱の平定のために戦う。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流刑され、讃岐国で死んだ。平安時代後期には源平合戦の1つである屋島の戦いが行われる。一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平氏は屋島の戦いにおいても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は瀬戸内海における制海権を失った。 鎌倉新仏教派の法然も流刑されたことで有名。足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入った。以後、南北朝時代を経て室町時代を通じて、細川氏が守護大名として讃岐国を支配した。室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い、敗れた(白峰合戦、現宇多津町・坂出市)。 讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されたという(南海通紀)。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。
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香川県
讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されたという(南海通紀)。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。 戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香西氏、阿野氏、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。しかし安富氏は細川・三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏に臣従し、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。三好氏は三好長慶の弟である十河一存に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った元吉合戦があったとされる。 土佐国を統一した長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻する、これにより織田信長による四国攻めを招くことになった。豊臣秀吉が四国平定に取りかかると讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤知宣、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。 生駒氏が生駒騒動によって出羽国へ移されると、水戸徳川家の嫡流である松平頼重が高松に入って東讃高松藩12万石を、京極氏が丸亀に入って西讃丸亀藩5万1千石を領する。途中、京極丸亀藩は支藩として多度津藩1万石を分立させたため、江戸時代の讃岐国には3つの藩が並立することになった。高松藩からは平賀源内が出ている。 このころには、讃岐国の小農家と阿波国北部の山間農家の間で借耕牛の交流が始まっていた。なお、吉備国から古代に分立された備前国より、直島諸島と小豆島が讃岐国に移されたのは江戸年間のことと思われる。幕末には高杉晋作を匿った日柳燕石が出ている。 災害としては、宝永4年(1707年)10月に西日本を襲った宝永地震(東海・東南海・南海連動型地震)の被害は讃岐国にも及び、牟礼・庵治の五剣山の一角が崩れ落ち、各地の家や堤防も崩れたところに1 - 2メートルの高さの津波が押し寄せた。 徳川時代の讃岐国には、高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、徳川幕府の直轄地である天領、津山藩の飛地が分立していた。
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香川県
災害としては、宝永4年(1707年)10月に西日本を襲った宝永地震(東海・東南海・南海連動型地震)の被害は讃岐国にも及び、牟礼・庵治の五剣山の一角が崩れ落ち、各地の家や堤防も崩れたところに1 - 2メートルの高さの津波が押し寄せた。 徳川時代の讃岐国には、高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、徳川幕府の直轄地である天領、津山藩の飛地が分立していた。 1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となった。 その直後に、倉敷県の管轄地が丸亀県へと移された後に、同年に高松県と丸亀県が合併されて香川県(1873年2月19日以前)が設置され、1872年(明治5年)に小豆島西部を編入して、現在の香川県(1888年12月3日以後)と同じ管轄範囲(行政区画は1888年12月3日に分割)となる。 しかし、1873年2月20日には名東県(後の徳島県)に編入されるも、2年後の1875年9月5日に香川県(1875年9月5日〜1876年8月20日)として分離されたが、翌年1876年8月21日には愛媛県に編入された。度重なる編入の度に、地理的要因や地域文化や住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の県の設置を望む声が再び高まり、12年後の1888年12月3日に香川県が復活して、現在に至る。なお、1888年の香川県の分離独立を最後に、東京府と東京市の合併(1943年7月1日)や、第二次世界大戦後にアメリカの統治下に置かれた沖縄県の日本再編入(1972年5月15日)などの特殊な事例を除いて、新しい県の設置はなく、この1888年12月3日に現在の47都道府県体制がほぼ確立したことになる。 「香川県」の名称は、高松市が所属していた香川郡から取ったもので、いわば郡名を県名にしたものである。 明治から大正にかけて香川県で鉄道敷設競争が起こり、讃岐鉄道(のちの国鉄)、琴平参宮電鉄、琴平電鉄(後の高松琴平電気鉄道)、琴平急行電鉄の4社が高松 - 丸亀 - 琴平間で競って鉄道を敷設した。
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香川県
「香川県」の名称は、高松市が所属していた香川郡から取ったもので、いわば郡名を県名にしたものである。 明治から大正にかけて香川県で鉄道敷設競争が起こり、讃岐鉄道(のちの国鉄)、琴平参宮電鉄、琴平電鉄(後の高松琴平電気鉄道)、琴平急行電鉄の4社が高松 - 丸亀 - 琴平間で競って鉄道を敷設した。 2010年(平成22年)国勢調査速報によると、香川県の総人口は前回調査より1.6%減少し、30年ぶりに100万人を下回った。2019年の合計特殊出生率は1.59であり、四国トップかつ全国平均を超えている。しかし人口維持に必要な2.07には届いておらず、他の多くの都道府県と同様に自然減となっている。 社会動態においても、香川県は四国の中心地として社会増の時期もあったが、2016年からは転出が転入を上回り、社会減に転換した。転入者の出身地は、2020年で1位愛媛県(2114人・11.4%)、2位大阪府(1568人・8.4%)、3位東京都(1495人・8.0%)となっている。転出先は、1位大阪府(2,208人・10.8%)、2位東京都(2,031人・9.9%)、3位愛媛県となっている。 傾向として、四国のほかの県から流入し、首都圏や関西に人口が流出するという特徴がある。交通や経済、文化の面で結びつきの強い岡山県との人口の転出入割合も大きい。 市町別でみると、2021年7月1日時点では、人口が増えている自治体は1つもない。社会増となっているのは、丸亀市、土庄町、宇多津町、直島町の1市3町で、そのほかはすべて社会減である。 香川県は他の四国の県に比べて鉄道網が充実しているため、高松市のベットタウンとして予讃線沿線は人口減少が控えめとなっている。 人口首位の高松市は中核市に含まれている。人口2位の丸亀市は、県庁所在地を除くと人口10万を超える四国では数少ない都市である。 高松都市圏は四国最大の都市圏であり、西讃と島しょ部を除いた全ての地域で構成している。瀬戸大橋を挟んだ先の岡山都市圏との経済的結びつきが強いことから東瀬戸経済圏と呼ばれることもある。 「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」が2020年3月18日に可決され、同年4月1日に施行された。
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香川県
高松都市圏は四国最大の都市圏であり、西讃と島しょ部を除いた全ての地域で構成している。瀬戸大橋を挟んだ先の岡山都市圏との経済的結びつきが強いことから東瀬戸経済圏と呼ばれることもある。 「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」が2020年3月18日に可決され、同年4月1日に施行された。 条例では18歳未満のコンピューターゲームの使用は1日60分(休日は90分)まで、スマートフォンにおいては中学生以下は午後9時、18歳未満は午後10時以降の使用を控えると言った“目安”を設けている。 なお、学習や家族との連絡のためのスマートフォンなどの使用は対象とならない。 また条例に違反しても罰則などの規定はないとしている。このため、実効性には疑問の声もある。 2020年1月23日から同年2月6日までの15日間、県民から条例に関するパブリックコメントを募集し、期間内に合計2613人の県民から意見を得た。 意見を寄せた県民のおよそ9割にあたる2268人から同条例に関する賛成票を、333人からは反対票だった。 その一方で、意見を寄せた県内外の69の団体と事業者のうち、賛成は1団体にとどまり、反対は68団体/事業者になった。 条例ではゲーム開発企業など事業者に対し、課金システムなどゲーム依存症を進行させる恐れのある事業への自主的な規制を求めており、団体/事業者から反対票を得ることとなった。 また、パブリックコメントの募集期間が極端に短かったこと、通常は公表されるパブリックコメントの内容が公表されない事などが問題点として指摘されている。 県内の高校生がこの条例に対し幸福追求権や自己決定権などの基本的人権を侵害しており違憲であるとして県に対し損害賠償を求める訴えを起こしている。 現職 池田豊人 地方債残高 情報公開について都道府県と全市を対象に実施された2011年度全国情報公開度調査では、香川県は80満点中62点だった。県内の市で最高は高松市の80点、最低は東かがわ市の30点だった。
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香川県
県内の高校生がこの条例に対し幸福追求権や自己決定権などの基本的人権を侵害しており違憲であるとして県に対し損害賠償を求める訴えを起こしている。 現職 池田豊人 地方債残高 情報公開について都道府県と全市を対象に実施された2011年度全国情報公開度調査では、香川県は80満点中62点だった。県内の市で最高は高松市の80点、最低は東かがわ市の30点だった。 中選挙区時代は2区体制だったが小選挙区になってからは3区体制となる。かつては自民党と社会党と半々だったが、1990年代以降は3区すべてで自民党公認または推薦の候補が当選していた。2009年(平成21年)の総選挙で1区・2区を民主党が制し、オール自民党体制は幕を下ろした。また、2012年(平成24年)の総選挙では民主党が2区を制したが、これは中国・四国・九州地方で唯一民主党が議席を獲得した小選挙区となった。 10数年自民党が議席を独占した後に、2007年(平成19年)の選挙で民主党公認の女性候補である植松恵美子が当選した。さらに2010年(平成22年)に自民党所属の山内俊夫が離党し、改革クラブに入党したため、自民党所属の議員がゼロとなったが、同年の選挙で自民党の公募による新人の磯﨑仁彦が初当選し、再び自民党所属の議員が復活した。 香川県は山岳地帯が少なく全域にわたって平地が多くを占めているため、県内全域に稲作を中心とした農地が広がっている。また、それらはほぼすべてが古来より続く小規模農地であり、農業目的の干拓地のような計画的な大規模農業はほとんど行われていない。 米の作付面積はヒノヒカリが全体の45.9%と最も多く、次いでコシヒカリ37.4%となっており、この2品種で全体の8割以上を占めている。これら主食用うるち米の6割は県内で消費され、残り3割は大阪府、1割は兵庫県に向けて出荷されている。麦の作付面積はさぬきの夢2000が68.5%、イチバンボシが31.2%でこの2品種でほぼすべてを構成している。野菜の生産量で最も多いのはレタスで、次いでたまねぎ、ブロッコリー、きゅうり、ねぎ、いちごの順となっている。
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2004年(平成16年)には高松市、丸亀市、坂出市、宇多津町に設定されていた市街化調整区域(いわゆる線引き)が全廃されたため、急速に開発が進み農地が次々と宅地に転用されている。特に丸亀市では線引き廃止後の3年間でそれまでの134倍もの面積が開発許可を受けている。 香川県の形状は讃岐山脈のある南側を弦に見立てた弓なりになっているため、北・西・東すべてが瀬戸内海に面し、そのほか瀬戸内海には漁業が主要産業となっているような離島も多く抱えているため県として水産業は重要な産業の一つでもある。 そのような主要産業であるが瀬戸内海特有の赤潮の発生は香川県の水産業に大打撃を与えるため、県によって赤潮研究所が置かれているほどである。 坂出市には瀬戸内工業地域の一翼を担う番の州臨海工業団地があり、造船、石油などの企業が立地している。また、四国地方に対する物資の集散地となっている高松市には運輸、卸売を主とした企業が朝日町、福岡町、木太町北部、郷東町、香西地区などの沿岸部に集積し、食品や印刷など市場指向型、軽工業系の工場もその周辺に位置している。 工業の製造品出荷額等は番の州を擁する坂出市が県内で突出して多く7685億円、次いで高松市の3296億円、三菱マテリアル製錬所がある直島町の2392億円と続いている。 建設業では穴吹工務店といった大企業の本社があるものの、産業全体に占める従事者数の率は中国・四国地方各県では広島県に次いで2番目に低く、土建屋が産業構造に幅を利かせるといった地方に特有の性格は薄い。逆に製造業従事者が占める率は四国最大であるほか、中四国でも広島県、岡山県に次いで3番目に多い。
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香川県
建設業では穴吹工務店といった大企業の本社があるものの、産業全体に占める従事者数の率は中国・四国地方各県では広島県に次いで2番目に低く、土建屋が産業構造に幅を利かせるといった地方に特有の性格は薄い。逆に製造業従事者が占める率は四国最大であるほか、中四国でも広島県、岡山県に次いで3番目に多い。 面積の大部分が平地で占められている香川県は全域に人口が分布しているため、その需要に対応して最寄品を取り扱う大型商業施設などのロードサイド店が県内の広い範囲に分布している。特に高松市は四国最大規模の高松都市圏の中心都市であり、周辺からの圧倒的な集客力を有している。そのため情報通信業や金融保険業は大部分が高松市に集中しており、日用買回品を販売する小売業も多くが高松市に本社あるいは事業所を置いている。高松市では日本一長いアーケードを有する高松中央商店街周辺が一大商業地区となっているほか、それに準じてゆめタウン高松も県内外に対して大きな集客吸引力を持っている。大型小売店舗数は全国第6位、飲食店数は全国第12位と全国一小さい県にしては数多い。 1980年代までは伝統的な個人経営の小売店舗が多数を占めていたが、1990年代以降、都市化やモータリゼーションの進行、大量消費社会の浸透により、全国や中国・四国地方で展開するスーパーマーケットやコンビニ、電器店などのチェーン店舗が郊外の幹線道路沿いに多数開店し、生活する上での利便性が増した一方、バブル経済の崩壊もあいまって各市ともほぼ例外なく中心市街地がドーナツ化現象により空洞化し、都市部の地価の下落が進んだ。その反動で特に高松市では2000年代に中心市街地周辺への高層マンションの建設が相次ぎ、複数の再開発事業など公共投資が活発に展開された結果、小売店舗の中心市街地への新規出店などにより活気や人通りが戻りつつある。 第三次産業が香川県の産業に占める割合は大きく、情報通信業、卸売・小売業、サービス業それぞれの従事者数の割合は四国各県で最高であるほか、中国四国地方でも広島県に次いで2番目に高くなっている。 ※太字は上場企業 県庁所在地の高松市には四国地方4つの県警察を監督する中国四国管区警察局四国警察支局が置かれている。そのうち香川県内を管轄するのは香川県警察本部以下12の警察署である。
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香川県
第三次産業が香川県の産業に占める割合は大きく、情報通信業、卸売・小売業、サービス業それぞれの従事者数の割合は四国各県で最高であるほか、中国四国地方でも広島県に次いで2番目に高くなっている。 ※太字は上場企業 県庁所在地の高松市には四国地方4つの県警察を監督する中国四国管区警察局四国警察支局が置かれている。そのうち香川県内を管轄するのは香川県警察本部以下12の警察署である。 2014年(平成26年)の香川県内の刑法犯認知件数は8,802件。人口1000人当りに換算すると8.71件であり、国内第16位と全国平均(9.44件)を下回っていた。また、件数は減少傾向が続いている。 地域別に見ると高松地域が9.70件、東讃・小豆島地域が5.74件、中讃地域が10.16件、西讃地域が5.28件となっている。警察署別に見ると数値の高かったのは高松北署13.28件、丸亀署11.07件、坂出署10.58件の順であった。数値の低かったのは小豆署4.42件、観音寺署4.60件、高松西署4.76件の順であった。 香川県警は丸亀署と善通寺署を統合して新署を設置するにあたって、現在高松市に置かれている交通機動隊を分散させて、中讃分駐隊を同新署に新設し、治安の回復を図ろうとしている。 香川県内の唯一の空港は高松空港である。高松市香南町由佐に所在する国管理空港で、国内線では東京、成田、那覇の3都市へ、国際線ではソウル、上海、台北、香港の4都市へ定期便が運行している。上海便は格安航空会社によって2011年(平成23年)3月末に就航する予定であったが、東日本大震災や福島第一原発の事故の影響(主に風評被害)で就航が延期され、同年7月15日から週2回で運航が開始された。成田、台北への路線は2013年(平成25年)に運航が開始されたものである。 利用客は香川県のほか一部徳島県にも及び、徳島県を放送エリアとする四国放送では高松空港発着のツアーCMが流されることがある。
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香川県
利用客は香川県のほか一部徳島県にも及び、徳島県を放送エリアとする四国放送では高松空港発着のツアーCMが流されることがある。 香川県は四国の鉄道の集中点であり、予讃線と高徳線は高松駅から、土讃線は多度津駅から四国各県へ鉄道路線を延ばしている。四国で唯一、四国全県の県庁所在地と優等列車で直結されている県であり、その全列車が発着している列車運用上の集中点である高松駅は、一大ターミナル駅としてJR四国で最大の利用客数を有する。また、県内のJRの路線は神奈川県・大阪府・滋賀県と同じく四国内で唯一、すべて幹線で、地方交通線は存在しない。 なお、香川県では、平成の大合併により鉄道が通っていない市町村と鉄道が通る市町村が合併したことで、2020年現在、離島部を除く四国本土部のすべての市町村に鉄道が通っている。 香川県で最初の鉄道は1889年(明治22年)5月23日に讃岐鉄道によって開通した丸亀 - 多度津(現駅とは別の場所) - 琴平(現・予讃線、土讃線)間であり、県庁所在地の高松ではなかった。その高松には8年後の1897年(明治30年)2月21日に丸亀から順延する形で開通した。その後、讃岐鉄道は山陽鉄道に買収されるものの、直後に国有化される。国鉄はその後順次路線を拡大していき、1925年(大正14年)8月1日には高徳線を開業させるに至った。一方、私鉄は1911年(明治44年)11月18日には東讃電気軌道(現・ことでん志度線)、1912年(明治45年)4月30日には高松電気軌道(現・ことでん長尾線)、1926年(大正15年)12月21日には琴平電鉄(現・ことでん琴平線)が相次いで開業している。他にも大正から昭和にかけて、琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄、塩江温泉鉄道などの私鉄が開業したが、いずれも経営不振や太平洋戦争への資材供出などにより廃止されている。また、1917年(大正6年)5月20日には高松市内を走る路面電車(市内線)が開通し、市民の足として盛況していたが、1945年(昭和20年)7月4日の高松空襲による戦災で復興されずに廃止されている。 戦後は県内の鉄道に関して大きな変化は無かったが、1988年(昭和63年)4月10日に瀬戸大橋が開通すると本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業し、本州の鉄道と直結されることによって県内はもとより四国各県の鉄道事情は大きく変化、向上した。
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香川県
戦後は県内の鉄道に関して大きな変化は無かったが、1988年(昭和63年)4月10日に瀬戸大橋が開通すると本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業し、本州の鉄道と直結されることによって県内はもとより四国各県の鉄道事情は大きく変化、向上した。 四国新幹線の計画があるが、実現の見通しは全く立っていない。このため2016年3月の北海道新幹線開業により、四国は日本の主要4島で唯一高速鉄道の存在しない島となっている。 香川県に事業拠点を置く路線バス事業者。 東西に長い香川県を高松自動車道が貫通し、対岸の本州とは瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道)で結ばれている。一般国道は高松道と平行する国道11号が県内の最重要動脈になっており、南の讃岐山脈を越える幹線道路も多数存在する。 平地の多い香川県は国内でも特に道路事情が良く、すべての主要国道は4車線以上のバイパスが完備されているほか、幹線道路として機能する県道や市町道もほぼすべてが4車線以上の規格の高い道路で構成されている。この道路事情は数値にも表れており、国道・県道において道路改良率は86.8%、歩道設置率は44.7%であるほか、道路舗装率は99.9%で国内3位となっている。また、それ以下の市町村道においても改良率60.0%、舗装率94.0%、歩道設置率5.4%と水準が極めて高い。 以下の国道は国土交通省四国地方整備局管理 以下の国道は香川県管理(将来は国土交通省四国地方整備局管理になる予定) 香川県は瀬戸内海に特に多くの離島を抱えていたり、四国自体が本州に対しての島であることから海上交通は非常に重要な交通手段の一つである。その中には坂出港や丸亀港など臨海工業地帯に重要な役割を果たしている港や、土庄港など旅客輸送に特化した港、その両方の性格を有する高松港などさまざまな性格を持つ港が存在する。
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香川県
以下の国道は香川県管理(将来は国土交通省四国地方整備局管理になる予定) 香川県は瀬戸内海に特に多くの離島を抱えていたり、四国自体が本州に対しての島であることから海上交通は非常に重要な交通手段の一つである。その中には坂出港や丸亀港など臨海工業地帯に重要な役割を果たしている港や、土庄港など旅客輸送に特化した港、その両方の性格を有する高松港などさまざまな性格を持つ港が存在する。 香川県内における公的病院はいずれも隣県の岡山大学と徳島大学の医局が大きな影響力を占めており、県内唯一の大学病院である香川大学医学部はこの二大学閥に及んでいない。主な病院としては香川県立中央病院・香川労災病院・三豊総合病院が岡山大学、高松市立みんなの病院・四国こどもとおとなの医療センターが徳島大学であり、坂出市立病院は例外的に香川大学の医局が占める公的病院であるが、ここも経営再建以前は岡山大学の影響下にあった。そもそも香川大学医学部(旧香川医科大学)も開学時から教授の出身が岡山大学に偏っているほか、関連病院の少なさもあって卒業生が県内に定着しないといった風潮も特徴的である。 香川県内では公立小学校・中学校の通学区域を指す通称を、東日本を中心とした広い範囲で用いられる「学区」ではなく「校区」と呼ぶ。学区は主に県立高校の通学区域を指す場合にのみ用いられるため、県内で単に「学区」といった場合にはより広域的な意味合いを持つ。ただし、「学区」は県内の小中学校のそれを指す通称としては通用しないが、対岸の岡山県南部では小中学校の通学区域を指して広く使われており、また香川県と岡山県は同一の放送エリアであるためテレビのローカルニュースなどでは「学区」を耳にすることがある(香川県内の小中学校を指すときは通常通り「校区」と呼称する)。 国立の香川大学教育学部附属小学校が2校(高松・坂出)あり、私立の小学校は1校もない。 国立の香川大学教育学部附属中学校が2校(高松・坂出)あり、県立中学としては高松北中学校(高松北高校に併設)がある。また、私立の中高一貫校は4校。
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香川県
国立の香川大学教育学部附属小学校が2校(高松・坂出)あり、私立の小学校は1校もない。 国立の香川大学教育学部附属中学校が2校(高松・坂出)あり、県立中学としては高松北中学校(高松北高校に併設)がある。また、私立の中高一貫校は4校。 県立高校の学区は東と西で2つに分かれており、東では高松高校、西では丸亀高校を頂点として、各学区内にて受験生の間で序列化されている。私立は一部の進学校を除いて主に滑り止め扱いであり、公立の人気が根強い。2003年(平成15年)ごろに高松高校が定員割れしたり、新設校である三木高校、高松桜井高校などの人気が上昇したり、新しい動きも出ているものの、学区内トップ校である高松高校、丸亀高校の人気の高さは変わっていない。二学区を一学区にすることも検討されたが、高松市の高校に対して県下全域から人気が集中する可能性があり、高松市内に居住する者が競争率の影響で学力に関係無く近隣の高校に進学しにくくなるなどの弊害が指摘されたため、各方面からの強い反発を受けて見送られた。 公立、私立はなく、国立のみ1校だけ存在する。(2009年(平成21年)10月1日に高松工業高等専門学校と詫間電波工業高等専門学校が統合されて香川高等専門学校となった。) 民放テレビ局においては、岡山県・香川県は同一のエリアとして扱われており、民放テレビの送信所親局は岡山県金甲山に置かれている。NHK総合・Eテレは香川県域の放送で、親局は前田山。前田山には民放の中継局も設置されている。 テレビ中継局数は27か所あるが、各局の中継局数が統一されているわけではない。香川県内ではNHK総合・Eテレ>RNC>KSB>RSK=OHK>TSCの順であり、TSCは7か所の設置である。 県域FM局及びRNCのFM補完放送の中継局は、デジタルテレビとは異なり五色台に設置されている。 日本アマチュア無線連盟 (JARL) を免許人とするアマチュア無線用中継局が県内7箇所に設置されている。 香川県のほぼ全域で讃岐弁が話されており、県内では西と東で違いがあり、大まかに東讃弁と西讃弁に区別されるが、現在は、東西の差も少なくなっており、メディアの発達に伴い、若い世代を中心に共通語化が進んでいる。瀬戸内海の島々では独特の方言や岡山弁に近い方言が使われているところもある。
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香川県
日本アマチュア無線連盟 (JARL) を免許人とするアマチュア無線用中継局が県内7箇所に設置されている。 香川県のほぼ全域で讃岐弁が話されており、県内では西と東で違いがあり、大まかに東讃弁と西讃弁に区別されるが、現在は、東西の差も少なくなっており、メディアの発達に伴い、若い世代を中心に共通語化が進んでいる。瀬戸内海の島々では独特の方言や岡山弁に近い方言が使われているところもある。 2007年(平成19年) - 2009年(平成21年)家計調査によれば県庁所在地の高松市では全国平均と比較して以下のような特徴が見られた。特筆すべきは家庭内・外食ともうどんの消費が国内1位であるばかりか、全国平均や直近の2位と比べても圧倒的大量なことである。逆に大衆食品と目される食品のうちスパゲッティやハンバーグ、緑茶、ビールは香川県が日本で最も消費されていない都道府県である。さらに特徴的なのは、雨が降らず日照時間も長い気候を反映してティッシュペーパーやトイレットペーパーの紙類の消費が最低な点である。 うどんの生産量が日本一であり、オリーブ・金時人参・マーガレット・レタス、ニンニクなどの生産も盛んである。中でも、オリーブの日本での栽培は、小豆島で1907年(明治40年)に初めて成功したとされる。 2011年(平成23年)10月11日、県観光協会の特設サイトが開設された。内容は、県名を「うどん県」に改名するという架空の設定のもと、県出身の俳優、要潤を副知事役に配するとともに、その他の県出身有名人を出演させた動画の閲覧を主とするものである。これは、県の広報活動の一環として、県名物のうどんをきっかけに県の魅力を内外にPRしようとする趣旨のもので、同日の公開開始後、一時アクセスが集中してサーバーがダウンするなど、インターネットを中心に反響を呼んでいる。さらに観光振興課が「うどん県。それだけじゃない香川県」プロジェクトをスタートさせ、うどん以外の瀬戸内海・食・アートなど「それだけじゃない香川県」の魅力の情報発信にも取り組んでいる。2012年6月には源平合戦を題材に全員が女性配役の「かがわ源平紅白キャラバン隊」が発足した(かがわ源平紅白キャラバン隊)。 キャラクターはうどん健(声は同県出身の声優中村悠一)である。
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香川県
2012年(平成24年)11月8日『現代用語の基礎知識』選 ユーキャン新語・流行語大賞の候補語50語にノミネートされたが、入賞にはならなかった。ポケットモンスターのキャラクター「ヤドン」を「うどん県PR団」に任命しており香川県の観光に一役買っている。
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岐阜県
岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は岐阜市。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。内陸県であり、五畿七道の東海道に含まれないものの、一般的には東海地方に属するとされ、愛知県や三重県とともに東海3県の一つである。岐阜市など県南部の濃尾平野一帯は、大都市の名古屋市に近いことから名古屋都市圏(中京圏)に含まれ、名古屋の衛星都市(ベッドタウン)でもある。県の北部から中部は飛騨山脈(北アルプス)、両白山地などが連なる山岳地帯である。 「岐阜」の名は諸説あり、一説には、織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。 政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩の案によって、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」を選定して、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名したとされる。 江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、長瀬寛二『岐阜志略』(1885年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。 同時代史料を確認してみても、「言継卿記」永禄11年11月10日条に「三州徳川左京大夫所へ沢路隼人佑差下、予岐阜へ下向之次也」。また、ルイス・フロイスの日本耶蘇会年報にも、永禄12年5月、「我等は岐阜の町に著きたり、人口約一万なるべし」。という記述があり、信長命名以前に、岐阜という地名が確認できないことが分かる。 他にも、『細川両家記』や『多聞院日記』での岐阜の初見は永禄11年である。 一方、井口の地名の方は、永禄三年七月廿一日六角承禎の書状に、濃州井口。『歴代古案』、織田信長の書状に、(永錄七年)仍先月濃州相働、井口近所取出。このことから、信長公記にある1568年(永禄11年)に、信長が井口を岐阜と改めた以前に、岐阜であった事実は確認できない。
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岐阜県
他にも、『細川両家記』や『多聞院日記』での岐阜の初見は永禄11年である。 一方、井口の地名の方は、永禄三年七月廿一日六角承禎の書状に、濃州井口。『歴代古案』、織田信長の書状に、(永錄七年)仍先月濃州相働、井口近所取出。このことから、信長公記にある1568年(永禄11年)に、信長が井口を岐阜と改めた以前に、岐阜であった事実は確認できない。 岐阜は信長命名以前にすでに使用されていたという異論もある。『岐阜市案内』(岐阜市教育会編、1915年)では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正のころより旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載。 『美濃国諸旧記』(寛永正保の作か?作者が不明である)には、稲葉山城があった稲葉山を岐山、里を岐阜と呼び、信長が岐阜・中節・井ノ口・今泉・桑田を合併して、岐府と称したとし、岐阜は古来の字で、信長は岐府と府の字を使ったと主張されている。 ただし、忠節・今泉は近世地名(江戸時代の地名)であり、岐阜を岐府と別称した文書はない。 また、仁岫録、東陽英朝の語録;少林無孔笛、明応8年孟夏日・土岐成頼画像;東陽英朝賛にいずれも岐阜鐘秀。万里集九の梅花無尽蔵に、岐陽という語句が頻出、岐下風流、雖退去于岐阜陽、とあるが、同書物中では岐陽とは何かについての具体的な説明はなく、梅花無尽蔵注釈;市木武雄において、岐蘇川(木曽川)の陽(北)に位置し、鵜沼・岐阜一帯を指すとするが、同書物中には、木曽川となっており、木曽陽あるいは木陽でないとおかしいし、岐蘇川としても岐蘇陽という表現がないのもおかしいという疑問もある。 ※木曽川(岐蘇川)由来説の最大の問題点は、承和2年の太政官符に、「尾張・美濃両国堺墨俣河」という記述があり、古来は墨俣川と呼ばれていることである。 当然、川の名前由来で、岐阜岐陽は、成り立たない。1586年(天正14年)6月24日に、織田家領内の木曽川の大洪水が起こり、古来の河道が大変化をした。ほぼ現状の河川地形となったのである。 また、信長は、井口を岐阜と改めたとしているのに、万里集九の『梅花無尽蔵』には、「濃之井口有祥雲院」という記述があり、井口を岐陽としていない。
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岐阜県
当然、川の名前由来で、岐阜岐陽は、成り立たない。1586年(天正14年)6月24日に、織田家領内の木曽川の大洪水が起こり、古来の河道が大変化をした。ほぼ現状の河川地形となったのである。 また、信長は、井口を岐阜と改めたとしているのに、万里集九の『梅花無尽蔵』には、「濃之井口有祥雲院」という記述があり、井口を岐陽としていない。 さらに、「濃之革県、濃革手」という記述もあり、革手府を岐阜(岐陽)と呼んでいない。井口から相当離れた鵜沼(各務原市東端)を井口と一帯として岐陽と呼ぶのも無理がある。同書物中には、河陽=駿河国とする記述もあり、となると、岐陽=美濃国=濃陽という広範囲すぎる呼称となり、やはり、信長が井口を岐阜と改めたという事実と矛盾する。 なお、万里集九以前に、五山の学僧に岐陽方秀がおり、道号は初め岐山、のち岐陽と改めた、讃岐国出身であることから、岐山=岐陽=讃岐国を意味するか。岐阜県教育会編『濃飛両国通史』(1923年)、花見朔巳『安土桃山時代史』(1939年)にも、岐阜命名は信長以前説を唱えている。 阿部栄之助の『濃飛両国通史』を見ると、永禄4年に崇福寺の快川国師(紹喜)が斎藤義龍を「岐陽賢太守」と呼んだとするが、出典不明であり、永禄沙汰には「永祿3年12月24日美濃齋藤義龍、同国の禅家をして、伝燈寺に帰附せしむ、尋で、同国崇福寺紹喜(快川)等、之を憤り、国外に出奔す」という記述があり、永禄4年の段階で、美濃国外退去になりすでに崇福寺の住職ではなく、憤慨した相手の斎藤義龍を賢太守と褒めたとは疑問である。 『御湯殿上日記』には、天正9年9月6日正親町天皇が、前妙心寺住持快川(紹喜)に大通智勝国師の号を賜ふ、という記述があり、永禄4年の段階で国師であったはずがないなど、明らかにおかしな記述である。 県域のほとんどは旧美濃国と旧飛騨国とで構成される。近年には長野県から旧神坂村・旧山口村を越境編入して県域が変更された。国の境目だった一部村落の分離などの境界変更で一部に旧越前国、旧信濃国、旧尾張国、旧伊勢国だった地域も含まれている。 国土地理院によると2021年(令和3年)1月18日現在の岐阜県の広袤(こうぼう)は以下の通り。 北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。
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岐阜県
国土地理院によると2021年(令和3年)1月18日現在の岐阜県の広袤(こうぼう)は以下の通り。 北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。 一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がり、海抜0m以下の場所もある。この地域には水害から身を守るための輪中と呼ばれる堤防で囲まれた構造あるいはその集落があり、このような岐阜県の地形の特徴を表して、飛山濃水という言葉で表される。 各県との県境はほとんどが山地山脈である。ただし、愛知県の尾張地方との県境の大部分および三重県との県境の一部は、木曽川、長良川、揖斐川などの河川となっている。 岐阜県の河川は以下の6つの水系から構成される。 飛騨地方の大部分と美濃地方の一部は日本海側気候、美濃地方の大部分は太平洋側気候、飛騨地方・美濃地方の各一部は中央高地式気候となっており、標高差も大きいため同じ県内であっても気候差が大きい。県内全域で内陸性気候をあわせ持ち、一部地域は豪雪地帯・特別豪雪地帯でたびたび大雪に見舞われる。標高の高い地帯の西側に当たる為に雨雲が発達しやすく、年平均降水量は1700mm~2500mm程度と比較的多い。 冬は乾燥した晴天の日が多く、岐阜県西部では、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。強い冬型の気圧配置になると雪雲が流入し、岐阜県西部で局地的な大雪に見舞われることがある。 美濃地方は低い山に囲まれているということもあって、夏は暑く冬は寒いうえ、気温の日較差も大きい。特に東濃の多治見市では、その年の国内最高気温を記録することもある(2007年(平成19年)8月16日、埼玉県熊谷市と並び国内の過去最高気温となる40.9°Cを記録した)。夏期には内陸性の気候に加え、ヒートアイランド現象、さらに西風が吹いた際には、近畿地方の熱風が伊吹山系にぶつかりフェーン現象を起こす。こうして高温を記録することが多い。
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岐阜県
飛騨地方は標高も高いこともあり、気温は美濃地方と比べると低いが、高山盆地では夏期に猛暑日を記録することもある。2018年(平成30年)8月6日午後2時2分には、下呂市でも南部に位置する金山地域(旧・益田郡金山町)のアメダス金山観測所において、高知県四万十市と並ぶ日本国内における最高気温歴代2位タイとなる気温41.0°Cを観測した。ただし、湿度が低いため比較的すごしやすい。冬期は内陸山間部では気温が低く、特に高山市荘川町六厩(むまや)は、亜寒帯湿潤気候で本州では寒い地域の1つとも言われており、1981年(昭和56年)2月28日には-25.4度を記録するなど-20°C以下まで下がる日も多い。 主な旧国名は、「飛騨国」「美濃国」。わずかに「越前国」「信濃国」「伊勢国」「尾張国」の区域も含む。 愛知県境にほど近い、県中南〜西南部の濃尾平野地域が岐阜県の可住地の大部分であり、県人口全体の半分を占める上位6市(岐阜市、大垣市、各務原市、多治見市、可児市、関市)は全て同エリアに集中する。一方で飛騨地方と県南東部(旧恵那郡・旧土岐郡)は小規模盆地が点在する地形となっており、人口10万人以上の都市が存在しない。 県南部を中心に、日系ブラジル人やフィリピン人などの外国人が数多く暮らしている。近年では在日中国人も増えている。特に美濃加茂市では人口の1割は外国人で、工場などで労働者として働いているケースが多い。1990年(平成2年)の入国管理法改正以降、急速に増えていった。彼らの最大の問題は子どもの教育で、日本語が理解できないなどのために不就学になる場合もある。ブラジル学校は県内に数校あるが、大半が無認可である。2008年(平成20年)の世界的経済危機を受けブラジル人が母国へ帰国するケースが少なからずあり、岐阜県は彼らの帰国旅行費用について支援している。 近年は中国人に対する日本入国の条件の緩和などにより、主に高山市や白川村など飛騨地方を中心とする県内の観光地では外国人観光客が大幅に増えている傾向がある。 5年ごとに実施される国勢調査の結果、日本の人口重心が決められるが、岐阜県内を東(東京方面)に移動中。
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岐阜県
近年は中国人に対する日本入国の条件の緩和などにより、主に高山市や白川村など飛騨地方を中心とする県内の観光地では外国人観光客が大幅に増えている傾向がある。 5年ごとに実施される国勢調査の結果、日本の人口重心が決められるが、岐阜県内を東(東京方面)に移動中。 本県でも約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。他にも山中の狭い細尾根にある遺跡(揖斐川町藤橋村徳山寺屋敷遺跡)や低湿地の遺跡(飛騨市宮川村宮ノ前遺跡)が確認されている。 それらの遺跡から石を割ってで切る剥片でつくった石器、例えばナイフ形石器・削器・細石刃・尖頭器など、また調理に使ったと考えられる礫郡、加工痕のある木片などの生活用具が確認されている。 4世紀の前期には、美濃西部が大和政権の勢力下に入り、4世紀後期には飛騨地方にまで支配が及んだ。開化朝に三野前国造が不破郡に設置され、次いで成務朝には三野後国造が各務郡に、額田国造が大野郡に、牟義都国造が武儀郡に、斐陀国造が大野郡に設置された。 その他本巣国造の記載も見られる(『先代旧事本紀』、『古事記』)。 律令制以降は上記の国造国が合併され、令制国の美濃国(18郡・131郷)と飛騨国(3郡・13郷)の二国になった(和名類聚抄)。美濃は「御野」(大宝2年:702の正倉院文書)、飛騨は「裴陀」(養老令)と書かれた。ヒダの国名の表記法が「飛騨」に定着したのは8世紀の前半である。 美濃と飛騨国は、東山道に属し、畿内からの本線は近江・美濃を通り、信濃上野へと向かうから美濃から飛騨へは東山道の支線であった。 この東山道は古くから利用された。ヤマトタケルの征服伝説にも登場する(『古事記』)。 美濃国は、日本のほぼ中心として、東国と畿内を結ぶ重要な軍事拠点であったので、日本の歴史上で重要な合戦が多く起こっている地域である。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。 8世紀には、国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に国分尼寺は垂井町平尾に其々建てられた。一宮は南宮大社(現:垂井町宮代)となった。
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美濃国は、日本のほぼ中心として、東国と畿内を結ぶ重要な軍事拠点であったので、日本の歴史上で重要な合戦が多く起こっている地域である。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。 8世紀には、国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に国分尼寺は垂井町平尾に其々建てられた。一宮は南宮大社(現:垂井町宮代)となった。 中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となる。飛騨国は姉小路氏が支配し、その後羽柴秀吉に従った金森氏が支配した。 徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦い(1600年)が関ケ原町、垂井町、大垣市の西濃地域で天下分け目の合戦が行われた。 江戸時代に入ると、先の関ヶ原の戦いによる論功行賞などにより藩の改易・転封などを含めながらも、美濃国は依然として戦略的に重要な地であり石高も多いことから幕府によりいくつかの小藩に分割された。幕府領としては笠松陣屋の美濃郡代が支配した。 美濃国内藩としては、最大でも大垣藩の10万石の他、苗木藩、岩村藩、郡上藩、高富藩、加納藩、大垣新田藩や尾張藩附家老の竹腰氏の今尾藩、尾張藩分家の高須藩が成立する。美濃国外藩としては尾張藩の12万石のほか、磐城平藩、備中岡田藩が領地を有した。 また、旗本知行地としては明知遠山氏や交代寄合の竹中氏陣屋など複数あった。飛騨国は当初飛騨高山藩があったが、元禄期に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩に転封し、その後は幕府領として高山陣屋の飛騨郡代が支配した。 また、律令時代から整備された東山道を元として、戦国時代に各地の戦国大名によって整備された道を繋ぎ、中山道が整備された。 当初の県庁は笠松陣屋。(この時点では美濃国のみ) 県令は長谷部佳恕連(元福井藩)、権参事は小崎利準(元亀山藩)。その後県庁舎が手狭になり、今泉村(岐阜市)八寺地内に新庁舎を建設。1874年(明治7年)6月21日に移転。 県全域で岐阜県選挙区を構成する。定員2、改選数1。 県の多くが山岳地のために林業が盛ん。ヒノキの産出量では国内有数の量で、県内には木材を扱う業者が多い。また、切り出した木を使用した木工品などの工芸品の生産に力を注いでいる。
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岐阜県
県全域で岐阜県選挙区を構成する。定員2、改選数1。 県の多くが山岳地のために林業が盛ん。ヒノキの産出量では国内有数の量で、県内には木材を扱う業者が多い。また、切り出した木を使用した木工品などの工芸品の生産に力を注いでいる。 長良川などの清流が県内を流れているため、県を挙げて日本酒・焼酎の生産の振興に乗り出している。 岐阜市では戦後、軍服や古着を売る繊維問屋街ができ、さらに布を仕入れて服を作って売るアパレル産業が盛んになり、全国的な産地となった。2000年代中ごろ以降は東京や名古屋に押されて問屋街は苦戦しており、ファッションの産地としての生き残りを図るには岐阜の個性ある特徴を打ち出すのが課題となっている。岐阜市には一般社団法人岐阜ファッション産業連合会などのファッション産地団体組織があり、定期的にファッションイベントを開催している。 ハイテクパークである大垣市ソフトピアジャパン、各務原市VRテクノジャパン(テクノプラザ)を設立し、ベンチャー企業の育成を図るなど、IT産業の育成に力を注いでいる。 恵那市で創業し、多治見市に本部があるバローホールディングスの子会社であるスーパーマーケットバローが県内に71店舗ある(全国では310店舗)。また、バローホールディングスの子会社である中部薬品が運営するV・drugが県内に156店舗存在する(全国では469店舗)。他にスポーツクラブ188店舗(全国)、ホームセンター156店舗(全国)、ペットショップ111店舗(全国)などを運営する(2021年時点)。バローグループは連結売上7,000億円を超える岐阜県を代表する流通企業である。 2010年代後半にはドラッグストアが多く出店し、激戦区となった。V・drugに加え、ゲンキー、クスリのアオキなど県外資本のドラッグストアも出店し、2018年末には店舗数が408店となった。人口10万人あたりの店舗数は約20店(2018年末)で全国最多である。 定期便が飛ぶ空港は県内に存在しない。近隣の空港は名古屋飛行場と中部国際空港(いずれも愛知県)、富山空港(富山県)がある。 国立 公立 私立 公立 私立 岐阜県には地元紙の岐阜新聞が存在するが、シェアは愛知県名古屋市に本社を置く中日新聞が圧倒的に強い。 岐阜新聞と中日新聞の仲の悪さは有名な話である。
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定期便が飛ぶ空港は県内に存在しない。近隣の空港は名古屋飛行場と中部国際空港(いずれも愛知県)、富山空港(富山県)がある。 国立 公立 私立 公立 私立 岐阜県には地元紙の岐阜新聞が存在するが、シェアは愛知県名古屋市に本社を置く中日新聞が圧倒的に強い。 岐阜新聞と中日新聞の仲の悪さは有名な話である。 名古屋市に本社を置く民放各局(県域局のテレビ愛知を除く)およびNHK名古屋Eテレ(教育テレビ)が本県に中継局を設けている。 美濃地方西部の大半や東濃地方の一部(可児市や土岐市以南)では愛知県の県域放送(NHK名古屋総合テレビ、FM放送とテレビ愛知、FM AICHI、ZIP-FM)や三重県の県域放送(三重テレビ、FM三重)が受信可能エリアになる。 お婆々どこへ行きゃるナーナーナー お婆々どこへ行きゃるナ 三升樽さげてソーラバエ ヒュルヒュルヒュードンドン 嫁の在所へナーナーナー 嫁の在所へナ ささ孫抱きにソーラバエ ヒュルヒュルヒュードンドン 郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる 天のお月様 ツン丸こて丸て 丸て角のて そいよかろ 郡上の殿様 自慢なものは 金の弩標(どひょう)に 七家老 金が出る出る 畑佐の山で 銀と鉛と 赤がねと 向(むかい)小駄良の 牛の子を見やれ 親が黒けりゃ 子も黒い 唄も続くが 踊りも続く 月の明るい 夜も続く 泣いて分かれて 松原行けば 松の露やら 涙やら 忘れまいぞえ 愛宕の桜 縁を結んだ 花じゃもの 雪の降る夜は 来ないでおくれ かくし切れない 下駄の跡
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岐阜県名誉県民の称号は、1958年(昭和33年)11月29日に制定された岐阜県名誉県民条例(昭和33年11月29日岐阜県条例第32号)に基づき、「社会文化の興隆に功績があつた者」へ贈られる(条例第1条)。対象者は「公共の福祉の増進又は学術、技芸の発展に寄与し、もつて県民の生活及び文化に貢献し、その功績が卓絶で県民の尊敬を受ける者」、「岐阜県に十年以上居住し、若しくは居住していた者で、広く社会文化の興隆に貢献し、その功績が卓絶で県民が郷土の誇りとしてひとしく尊敬する者」であることが定められているが(条例第2条)、後者の居住期間については特に必要があると認められるときには短縮することが可能である。名誉県民号の贈呈については、岐阜県知事が岐阜県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第3条)。名誉県民に選定された者には、表彰状と名誉県民き章が贈呈される(条例第4条)。
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熊本県
熊本県(くまもとけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は熊本市。 令制国の肥後国に当たる。有明海、不知火海、東シナ海に面している。 熊本という地名は、古くは隈本と書いた。隈本の由来には諸説あるが、菊池則隆に因むとする伝承がある。「隈本」の名が文献に見られるのは南北朝時代以降で、これを加藤清正が「隈」の字が畏(おそれる、かしこまる)の字を含むため武将の居城の名に相応しくないとして「熊」の字を充てたと言われている。なお「来熊(らいゆう)」「訪熊(ほうゆう)」「帰熊(きゆう)」と1文字で略するときは「熊(雄と同じ「ゆう」と音読み)」を使用する。 九州本島の中央部に位置し、福岡、大分、宮崎、鹿児島の各県と境を接する。海上で有明海を隔て長崎県とも接する。東部の阿蘇地方に日本第2位(阿蘇カルデラを、最大級と表現するのはこの為)の阿蘇カルデラを持つ阿蘇山や九州山地の山々が聳え、西部は熊本平野が有明海に、八代平野および芦北地方のリアス式海岸が不知火海に面する。その間に宇土半島が突き出し天草諸島に続いている。中心都市である熊本市は、市域の70万人超の人口を支える水道水が全て地下水でまかなわれている世界でも稀有な都市である。 気候は県内全域が太平洋側気候に属し温暖だが、冬と夏で寒暑の差が激しい。冬の気温は緯度の割には寒冷である。(数値は気象庁1991 - 2020年の統計による) 隣接している県は、九州地方最多である。 熊本県は、県北・県央・県南の3つに大きく分けられ、さらに11の地域に区分される。 また、県内には14市9郡23町8村(計45市町村)がある。熊本県では、2003年(平成15年)以降に町村合併で誕生したあさぎり町・山都町・氷川町の3町が「ちょう」としている以外は、町はすべてが「まち」、村はすべて「むら」と読む。 (旧鹿本郡であった熊本市植木町域が含まれることもある) (旧下益城郡であった熊本市富合町・城南町域が含まれることもある)
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(旧鹿本郡であった熊本市植木町域が含まれることもある) (旧下益城郡であった熊本市富合町・城南町域が含まれることもある) 県内で人々が狩猟・採集活動を開始し、生活し始めたのは今から3万年以上前である。現在、県内で確認された最古の石器は、熊本市平山町の石の本遺跡出土の石器群である。アカホヤ火山灰や姶良・胆沢火山灰(AT)堆積の土層の確認や放射性炭素年代測定から分かった。当該遺跡は旧石器時代に属し、石器製作地点としての性格を有するが、基本的にこのころは定住性の低い流動的な生活形態であった。 定住して集落をいとなみ、土器を製作するようになった縄文時代になると、遺跡の数が急増する。約1万年間にわたる当該時代、熊本県下にあっては約9000年前、縄文早期から生活の痕跡が認められる。同時期、鹿児島県を中心とする九州南部においては上野原遺跡にみられる先進的・独創的な土器型式を展開しているが、県下のそれは押型文土器・撚糸文土器など、西日本で広範的にみられる型式であり、南九州の影響は受けていないようである。 縄文前期に入ると、宇土市宮庄町の轟(とどろき)貝塚・同岩古曽(いわこそ)町の曽畑(そばた)貝塚などで特徴的な土器が出土し、それぞれ轟式土器・曽畑式土器の標式遺跡となっており、いずれも九州地方に広く分布するが、曽畑式土器は九州を超えて南西諸島にまで及ぶ。 縄文中期には、熊本市南区城南町の阿高(あだか)貝塚・黒橋(くろはし)貝塚などにおいて汽水域に生息する貝類が優位となるなど、海岸線の内陸進出が一気に進む。阿高貝塚は、当該時期における九州地方の土器型式を代表する阿高式土器の標式遺跡となった。 縄文後期には、菊池郡大津町のワクド石遺跡においてモミの圧痕のついた土器が出土するなど、農耕の痕跡が認められるようになる。熊本市南区城南町の御領貝塚・菊池市泗水町の三万田東原(みまんだひがしばる)遺跡などで出土した土器が、九州地方の土器型式を代表するとしてそれぞれ御領式土器・三万田式土器の標式遺跡となり、いずれも熊本県外にまで広く分布している。石器については、合志市の二子山遺跡から当時の石器製作拠点が確認されたほか、前述の三万田東原遺跡からはクロム白雲母製の装身具未製品が大量に出土し、同遺跡が装身具の製作拠点であったことが判明した。
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縄文晩期になると、上益城郡益城町の古閑(こが)遺跡から出土した土器には器形の大型化への志向が認められ、当該時期における九州地方の土器型式を代表する古閑式土器の標式遺跡となる。 大陸からもたらされた稲作と金属加工技術によって生産性が急増した弥生時代に入ると、稲作に適した低地への進出がみられる。 もっとも早い弥生時代早期、熊本市東区の江津湖(えづこ)遺跡群(江津湖中ノ島遺跡)においては、縄文時代晩期の遺物と共伴している。 弥生前期になると、玉名市天水町の斎藤山(さいとやま)貝塚から、これまでのところ県内で最も古い鉄製の斧が出土する。集落の周りにはほりを巡らせるようになるが、そうした環濠集落は宇土市の宇土城城山(うとじょうしろやま)遺跡・熊本市中央区の新屋敷遺跡で確認されている。弥生時代を代表する墓制である甕棺墓は弥生早期には出現するが、熊本県下ではこの時期から、前述の江津湖遺跡群・熊本市南区城南町の沈目立山(しずめたてやま)遺跡・同西区の白藤町(しらふじまち)遺跡群などで確認されているほか、当該時期の支石墓が菊池郡大津町の岩坂樋ノ口(いわさかひのくち)遺跡から見つかっている。 続く弥生中期になると遺跡の数が急増する。環濠集落は玉名市岱明町(まいめいまち)の塚原(つかはら)遺跡・山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡・菊池市七城町のうてな遺跡・宇土市境目町の境目・善道寺遺跡・阿蘇郡南阿蘇村・高森町の幅・津留遺跡などで確認され、環濠は判っていないが中央区神水(くわみず)の神水遺跡群・東区新南部(しんなべ)の新南部遺跡群・東区上南部(かんなべ)の上南部遺跡群、菊池郡菊陽町の梅ノ木遺跡などで大規模な集落が確認されている。この時期の甕棺墓は、前述の塚原遺跡・方保田東原遺跡・神水遺跡群・新南部遺跡群・上南部遺跡群・梅ノ木遺跡のほか、白藤町遺跡群・中央区黒髪町の黒髪町遺跡群などから見つかっているが、とりわけ白藤町遺跡からは200基以上が出土しており、規模においてきわだっている。上益城郡嘉島町においても、圃場整備事業に伴う発掘調査の結果多数の甕棺墓が確認されているが、幅・津留遺跡においては甕棺墓はひとつもない代わり、木棺墓が100基以上見つかるなど、異彩を放っている。
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弥生後期に入ると環濠集落は増えるが、熊本市北区貢町の五丁中原(ごちょうなかばる)遺跡・菊池郡大津町の西弥護免(にしやごめん)遺跡・菊池市七城町の小野崎(おのざき)遺跡・玉名郡和水町の蒲生・上の原遺跡・上益城郡嘉島町の二子塚遺跡・球磨郡あさぎり町の本目(もとめ)遺跡など、海岸線を離れた内陸部にも出現する。 当該時期においては、中期の黒髪町遺跡が標式遺跡となったほか、本目遺跡から出土した土器が一時期免田式土器と特筆されるなど、独自性の高い個性的な土器型式を呈しているほか、阿蘇郡阿蘇市の小野原(このばる)遺跡群・下扇原(しもおおぎばる)遺跡などにみられる大規模な鍛冶・赤色顔料生産拠点の存在が確認されているものの、鏡・剣・勾玉を一緒に副葬する王墓はこれまでのところ見つかっておらず、王権が成立していたかどうかは判らない。 古墳時代に入ると、天神山(てんじんやま)古墳(宇土市、107m)が他に先駆けて4世紀前半に築かれる。宇土市にはその後、4世紀後半に摺鉢山(すりばちやま)古墳(96m)、迫ノ上(さこのうえ)古墳(56m)、4世紀末に向野田(むこうのだ)古墳(86m)などの前方後円墳がつぎつぎと築かれた。中でも、向野田古墳はその主体部から、おびただしい副葬品とともに女性の人骨が見つかっている。このころになると、長目塚(ながめづか)古墳(阿蘇市、111m)・竜王山(たつおうさん)古墳(山鹿市、不明)・松坂古墳(和水町、120m)など宇土市以外でも古墳が築かれるようになっていく。 5世紀に入ると、伝左山(でんざやま)古墳(玉名市)・江田船山古墳(和水町)・二子塚古墳(山鹿市)・楢崎古墳(宇土市)などが築かれていくが、中でも江田船山古墳は75文字の銀象嵌銘太刀をはじめとする副葬品で知られる。また、小田良(おだら)古墳(宇城市)にみられるような装飾古墳も出現する。装飾古墳は、6世紀に入るとチブサン古墳(山鹿市)・井寺(いでら)古墳(嘉島町)・釜尾(かまお)古墳(熊本市)・千金甲(せごんこう)古墳(熊本市)・横山古墳(熊本市、山鹿市へ移設)などさかんに築かれるようになる。
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熊本県の古墳は、4世紀代は単独で築かれることもあるが、えてして一箇所に集まり古墳群を形成する。二子塚古墳のある岩原(いわばる)古墳群、長目塚古墳のある中通(なかどおり)古墳群、高速道路が下を通る塚原(つかわら)古墳群、氷川町の野津(のづ)古墳群などがある。同時期の墓制に横穴墓があるが、古墳と同様に4世紀から築かれはじめ、6世紀に入ると装飾を有するものもさかんに築かれた。古墳と異なる点ははじめから群をなして形成されていることで、鍋田(なべた)横穴群(山鹿市)・城(じょう)横穴群(山鹿市)・つつじが丘横穴群(熊本市)・大村(おおむら)横穴群(人吉市)などがある。 これらに加えて、墳丘上にもうけられた装飾品に土を焼いた埴輪だけでなく、石人・石馬と称される凝灰岩製の彫像を有しているものがある。発祥は筑紫君磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳であり、福岡県南部・熊本県北部のほかには島根県に1例だけというきわめて特異的なものである。 熊本県の領域はかつての肥後国のそれとほぼ重なるが、肥後国を含む広範囲は古代においては火国(肥国)と呼ばれていた。この火国(肥国)の中心は八代郡肥伊郷(氷川流域)で、多氏と同系の有力豪族である火君(ひのきみ)がいた。肥国はやがて、現在の佐賀県・長崎県の地域をも含むようになるが、7世紀終わりごろに肥前国と肥後国に分けられた。 肥後国は生産力が高い豊かな土地で、地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。行政管区では西海道に属し、道内における大国は肥後国だけであった。 地方行政は国郡制をとり、国の行政拠点となった国府ははじめ益城に置かれ、次いで託麻へ、最後は飽田(二本木)に移った。国を細分した郡の行政単位は郡衙で、熊本県にあっては玉名郡衙だけが発掘調査により全貌が判明している。仏教の導入後は鎮護国家の理念の下、各地に官寺が建立される。熊本市南区城南町の陳内廃寺は所在が判明しているが、宇城市豊野町の浄水寺跡は、当時隆盛を誇っていた火(肥)君により建立された私寺であることが石碑により判明している。
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律令体制化にあっては中央との人流・物流を円滑ならしめるために官道を整備し、人員・物資・情報往来の便宜を図るための拠点として駅を置いた。県内に比定される駅のうち、蚕養(こかい)・左色(さしき)については発掘調査により所在地が確認されている。これらの物流に資するべく、馬を飼育する牧が阿蘇郡(二重牧)と宇土郡(宇土牧)に設けられ、また国土防衛のために軍団が組織され、肥後国内には4個軍団からなる益城軍団が置かれていたとされているが、いずれも所在地は判明していない。白村江の戦い以降には古代山城が各地に築かれる。山鹿市菊鹿町にある鞠智(くくち)城跡は、他の山城と異なり行政拠点的な性格が強い点、大陸とは反対方向である南側の防御にすぐれている点が特徴的である。 中世には、阿蘇神社の神威を利用して勢力を拡大した多氏後裔の阿蘇氏、遠江国から地頭として下り球磨郡に土着した相良氏、大宰府の府官であった菊池氏といった豪族が勢力を伸ばした。 鎌倉時代、後鳥羽天皇の皇子である寒巖義尹が大慈寺を建立し、白川に初めて橋を架けた。 南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子懐良親王を擁する菊池氏が九州における南朝勢力の中核として活躍したほか、宇土では、懐良親王を最初に受け入れた宇土氏が終始南朝方として活動し、南朝方の有力武将であった伯耆国の名和長年は、その子孫が領地のある八代へ移った。阿蘇神社の大宮司職を世襲していた阿蘇氏は、北朝を支持した一の宮神社派と、南朝を支持した甲佐神社派とに分かれ、球磨郡へ下向した相良氏も、南朝を支持した上相良氏・北朝を支持した下相良氏に分かれてそれぞれ対立した。 続く室町時代、肥後国守護となった菊池氏は筑後国守護を兼任し、全盛期を迎える。上下に分かれて争っていた相良氏は、台頭してきた山北相良氏によって統一され、葦北郡・八代郡を支配下に置いた。
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続く室町時代、肥後国守護となった菊池氏は筑後国守護を兼任し、全盛期を迎える。上下に分かれて争っていた相良氏は、台頭してきた山北相良氏によって統一され、葦北郡・八代郡を支配下に置いた。 戦国時代に至って、相良氏は名和氏を八代から追い払い、肥後国南部に加えて薩摩国大口にまで勢力を拡大するが、やがて薩摩国の島津氏に屈服した。北部では、守護大名だった菊池氏が家中の統制を取ることが出来ず、内紛の末ついに滅亡、国人が割拠する状態が続いた。八代を追われた名和氏は、菊池氏滅亡の後領主が不在となった宇土へ移り、阿蘇氏は、豊後国の守護大友氏と同盟を締結して命脈を保ったが、名将として知られる家老の甲斐宗運が亡くなると島津氏に滅ぼされ、肥後国全体が島津氏の支配するところとなった。 豊臣秀吉の九州征伐により佐々成政が肥後の国主を命じられるが、太閤検地に反対する国人たちによる一揆が起こった。秀吉は成政にその責任を負わせて切腹を命じる一方、一揆に参加した国人たちを徹底的に弾圧し、その勢力は一掃された。その後、秀吉は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に分け与え、球磨郡においては相良氏の支配を認めた。 小西行長が関ヶ原の戦いで敗れ滅亡すると、加藤清正がその領地を併せ52万石の領主となった。清正は名城熊本城を築き、また河川・水路を改修して耕地を広げ生産力の向上に努めたため治水の名人として崇められた。しかし清正の死後、息子忠広の代に改易され、代わって細川氏が54万石の領主となった。(熊本藩)支藩として宇土藩、肥後新田藩がある。また、家老の松井家は八代城の城代として、3万石を与えられており、事実上の八代支藩の藩主であった。他に肥後国内には、相良氏が治める人吉藩があった。 天草は長崎に近く、また、キリシタン大名であった小西行長の領地になったこともあり、キリシタンの数が多かった。関ヶ原の戦い後、唐津藩12万石の領主である寺沢広高の領地となるが、寺沢はキリシタンを弾圧し、また過酷な徴税を行ったことから、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に島原の乱が起こると、住民の半分がこれに参加し、全滅した。乱後、天草は天領となり、初代代官の鈴木重成の尽力によって天草は次第に復興していった。
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明治4年(1871年)、肥後国には熊本県と八代県が設置された、熊本県はその後白川県と改められ、1873年(明治6年)、白川県と八代県が合併して白川県となった。1876年(明治9年)、再び熊本県に改名され、現在の熊本県が誕生した。 1916年(大正5年)、横浜港に入港した「ハワイ丸」の乗客から全国にコレラが拡大。熊本県内にもコレラ禍は飛び火し、死者は4100人を超える。 太平洋戦争末期までは熊本が九州の中心と見なされ、熊本鎮台・第五高等学校などが設置されたが、戦況が悪化すると連合国軍による本土上陸を恐れた政府が、九州統監府をより本州、帝都東京に近い福岡に設置したため戦後も九州の中心が福岡となった歴史を持つ。 第五高等学校教師として夏目漱石・小泉八雲が熊本市に住んでいたことがあり、森鷗外も第12師団軍医部長を務めていた時に、熊本市を訪れたことがあり短編小説『阿部一族』を書いた。これは江戸時代初期に肥後藩で実際に起きた、阿部一族が上意討ちで全滅した事件を題材にしている。 2012年(平成24年)4月1日、熊本市が20番目の政令指定都市に昇格した。 2016年(平成28年)4月14日以降相次いで熊本県で地震が発生し、震度7が2回観測された(熊本地震)。 熊本県の人口は戦後一貫して増加を続け、1995年(平成7年)には約186万人に達した。九州地方第三の都市である熊本市(約74万人)や熊本都市圏(人口約111万人で県人口の過半数を占める)に含まれる自治体は人口増加が堅調だが、他の市町村では人口の減少が顕著になってきている。そのため、県全体では2000年(平成12年)ごろから人口は減少に転じている。なお、2012年(平成24年)現在、政令指定都市が所在する都道府県では最も人口が少ない。また、県で最多の人口を抱える熊本市と、県で第2位の人口を抱える八代市との間には約61万人の差があり、熊本市とその周辺自治体への人口集中が顕著である。 人の流出先としては、関西や中京圏などが多い。 ※柔道家の内柴正人が2004年9月24日に県民栄誉賞、2008年9月16日に県民栄誉賞特別賞を受賞していたが、2011年の逮捕を受け取り消された。 衆議院の小選挙区が5。参議院では、全県で1区を構成。
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人の流出先としては、関西や中京圏などが多い。 ※柔道家の内柴正人が2004年9月24日に県民栄誉賞、2008年9月16日に県民栄誉賞特別賞を受賞していたが、2011年の逮捕を受け取り消された。 衆議院の小選挙区が5。参議院では、全県で1区を構成。 2015年(平成27年)度の県内総生産は5兆5794億円である。およそ世界の3分の2の国よりも大きな経済規模を有している。一人当たり県民所得は226.5万円である。 農業産出額(2008年(平成20年))は全国7位(九州3位)。各品目の生産量を見ると、トマト・藺草(熊本県以外でい草の生産はほとんど行われていない)・葉煙草・宿根霞草・スイカが全国1位、栗・茄子・生姜・ユーストマ・オリーブが全国2位、苺・メロンが全国3位となっている。農水省統計で全国の主要農畜産物上位10品目(産出額ベース)について、熊本県は生乳・肉用牛・苺・蜜柑・トマトの5つでトップ5に入っている。他に、デコポン・夏蜜柑が名産。菊池および阿蘇地域では畜産が盛ん。 有明海や天草沿岸で車海老・のり・真珠などの養殖が行われている。 熊本空港(阿蘇くまもと空港)が、熊本県において主な空港である。また、熊本県天草市には、天草飛行場(天草空港)がある。 旅客輸送を行っている鉄道。 路線バスは、熊本都市圏では九州産交バス(産交)・熊本電気鉄道(電鉄)・熊本バス(赤バス)・熊本都市バス(都市)の4事業者が運行しているが、都市圏以外は産交バスが大部分の地域をカバーしている。高速バスも産交がほぼ独占し、一般道経由の長距離路線もいくつかある。路線網は熊本市中央区の熊本桜町バスターミナルをターミナルとして各方面へ伸びている。 県外からは西鉄バス大牟田(福岡県から)や南国交通(鹿児島県から)などの乗り入れがある。 九州自動車道・南九州西回り自動車道・熊本天草幹線道路・九州中央自動車道 国道3号・国道57号・国道208号・国道212号・国道218号・国道219号・国道265号・国道266号・国道267号・国道268号・国道324号・国道325号・国道387号・国道388号・国道389号・国道442号・国道443号・国道445号・国道501号・国道503号 国立 公立 私立 私立 国立 デジタルテレビの親局は、金峰山に置かれている。
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熊本県
国道3号・国道57号・国道208号・国道212号・国道218号・国道219号・国道265号・国道266号・国道267号・国道268号・国道324号・国道325号・国道387号・国道388号・国道389号・国道442号・国道443号・国道445号・国道501号・国道503号 国立 公立 私立 私立 国立 デジタルテレビの親局は、金峰山に置かれている。 FMラジオの親局とRKKラジオのFM補完放送のメイン中継局も、金峰山に置かれている。 過去にはエフエムたまな(コミュニティ放送局)も存在したが、2006年(平成18年)4月をもって閉局。また、福岡県大牟田市に所在する有明ねっとこむ(FMたんと)は、荒尾市も放送対象地域に含んでいる。 方言は熊本弁(八代弁、天草弁、球磨弁などを含む)が話される。 このほか、県内各地に数多くの温泉地がある。 姉妹(友好)交流地域は、以下の通り。
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高知県
高知県(こうちけん)は、日本の四国地方に位置する県。県庁所在地は高知市。 令制国では土佐国に当たり、県庁所在地の高知市の大半は土佐国の土佐郡に属していた。日本最後の清流といわれる四万十川(しまんとがわ)のほか、水辺利用率全国一の仁淀川、物部川、安田川など四国山地に源を発する清流が多く流れる。室戸岬・足摺岬・龍河洞・四国カルストなど多くの天然の観光資源を有する。 近年は、徳島県、宮崎県などの他の産地や、輸入野菜などに押されがちであるが、ピーマンやなすやトマトをはじめとする野菜類の促成栽培でも有名で、県中央部の沿岸部(土佐市〜芸西村付近)は、ビニールハウスが多く並んでいる。 高知県は東西に長い四国の南部、太平洋から四国山地の尾根までの範囲で「海の国」としてのイメージが強いが、高知市から香南市・香美市土佐山田町南部に至る高知平野、香長平野と南西部の四万十市周辺がやや広い平野となっているほかは、そのほとんどが海の近くまで山が迫る典型的な山国である。 山地率は89 %と全国一位で、全国平均の66 %と比べてもその険しさがよく分かる。最高峰は三嶺で(山頂が高知県単独の場合は手箱山)、地質的には四万十帯と呼ばれる堆積岩が多い地域でもあり、土砂災害がきわめて多い。その一方で県西部を流れる四万十川、石鎚山から土佐湾に南下する仁淀川、県北部から徳島県へと流れる吉野川など水量豊富な河川が多くあり、近年はカヌーでの川下りをする人が増えてきている。 水不足に悩まされることはほとんどないが、治水は古くからの課題となっており江戸時代初期の土佐藩奉行野中兼山による大規模な河川改修は県下主要河川のほとんどで実施されてきた。現在は全国有数の治水能力を有し、降雨量が多いにもかかわらず、全国的に見ると水害が少ない県でもある。
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高知県
水不足に悩まされることはほとんどないが、治水は古くからの課題となっており江戸時代初期の土佐藩奉行野中兼山による大規模な河川改修は県下主要河川のほとんどで実施されてきた。現在は全国有数の治水能力を有し、降雨量が多いにもかかわらず、全国的に見ると水害が少ない県でもある。 高知県沖の太平洋を黒潮が流れており、冬の朝などは海面から湯気が立っているのが見える。気候は黒潮の影響を受けて冬でも温暖であり、台風の襲来も多く、1951年(昭和26年)以降の台風上陸数は鹿児島県に次いで2番目に多い県である。特に「室戸台風」では、室戸岬上陸時の中心気圧が911.6hPaであり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風だった。台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱いとされているが、これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録として、いまだに破られていない。太平洋に突き出た足摺岬、室戸岬は強風でも知られる。 県南西部の山間は大きく開発されることが無く、豊かな山林とダムの無い大きな川が残されている。四万十川は最後の清流として有名である。1980年代後半には四万十川河川敷に小規模なコミューター空港、2000年初頭に宿毛市と愛媛県愛南町(旧一本松町)の県境にまたがる2000m級の空港(仮称:高知西南空港)を建設する計画が浮上したがいずれも頓挫している。 高知県の東西南北それぞれの端、及び重心は以下の位置である。北端はちち山、南端は沖の島 (高知県)、東端は甲浦港沖に浮かぶ葛島、西端は鵜来島にある。また統計局の平成22年国勢調査によると、人口重心は土佐市新居付近にある。 高知県の年間日照時間は2000時間を越え、全国2-3位が定位置となっている一方、年間降水量も平野部で2500mm前後、山間部では3000mmを超え、東部山間部の魚梁瀬は4100mm程度と日本有数である。夏は蒸し暑く、熱帯夜が連日のように続くが、昼は猛暑になりにくい。その反面、西部側の地域は北西風が四国山地を超えてフェーンを起こし、本州内陸部にも匹敵する暑さとなることがある。四万十市江川崎では、2013年8月12日に日本の歴代最高気温記録(当時)である41.0°Cを観測している。
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高知県
平野部での積雪はまれであるが、山間部や豊後水道側に開けた県西部の幡多地域平野部では大雪に見舞われることもあり、剣山系、石鎚山系の高い山では厳冬期に根雪が見られる地域も存在する。冬は晴れ間が多く、放射冷却によって朝などは高知市でも氷点下になることも多いが、日中は暖かい。その反面、室戸岬や足摺岬などの半島部や沿岸部では無霜地帯が存在する。その温暖な気候を求め、スポーツチームが多数キャンプを設置する。春は宇和島と並び、ソメイヨシノの開花前線が全国でも早く訪れることで知られるが、夏から秋は頻繁に台風の直撃を受けることがあるほか、台風本体が東シナ海から日本海側を通過する際も南からの温かい湿った風が、四国山地に遮られて大雨になることもある。室戸岬と足摺岬は「台風銀座」と呼ばれている。 以下の11市6郡17町6村がある。町はすべて「ちょう」、村は「むら」と読む。 以下、7つの広域市町村圏ごとに記述する。 高知県は、全国では鳥取県、島根県に次いで3番目に人口が少なく(全政令指定都市よりも人口が少ない)、四国地方では最下位である。人口密度は中部地方以西の府県では最も低い。 人口の分布としては県庁所在地の高知市に県民のほぼ半数が居住し、いわゆるプライメートシティとなっている。単独市制施行に必要な人口である5万人を上回る市は高知市のみであり、全都道府県中最も少ない。 県中部の高知平野の他に比較的まとまった人口が居住する地域は四万十市などごく僅かであり、県西部・東部は日本でも有数の人口密度が低い地域となっている。 現在の高知県の行政機構の最も古い時代の記録は、国造本紀の記録があり、幡多(県西部、後の幡多郡か)・都佐(県中東部)の二つの国造がおかれた。それぞれの初代の任命者は、幡多国造が崇神朝(紀元前1世紀ごろ)の天韓襲命、都佐国造が成務朝(2世紀後半ごろ)の小立足尼であり、幡多のほうが先であったことから、古来は幡多地方がはやくから大和朝廷の勢力と交渉があったものと思われる。 この時期の高知県域の詳細な文献記録は乏しいが、天韓襲命、小立足尼はいずれも三島溝杭(賀茂氏)の後裔を称しており、摂津国三嶋県(大阪府北部)を根拠とした賀茂氏の一族が阿波国を経て都佐・幡多に降り、土着した可能性がある。また、土佐神社(のちの土佐国一宮)の主祭神であるアヂスキタカヒコネは、賀茂氏の氏神とされる。
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高知県
この時期の高知県域の詳細な文献記録は乏しいが、天韓襲命、小立足尼はいずれも三島溝杭(賀茂氏)の後裔を称しており、摂津国三嶋県(大阪府北部)を根拠とした賀茂氏の一族が阿波国を経て都佐・幡多に降り、土着した可能性がある。また、土佐神社(のちの土佐国一宮)の主祭神であるアヂスキタカヒコネは、賀茂氏の氏神とされる。 高知県域に国司が置かれた初見は、天武天皇13年(684年)の白鳳地震に際して、日本書紀に土佐国内での被害状況が「土左国司」からの報告として引用されたものが挙げられる、遅くともこの時期には高知県域にも国司が置かれ土佐国が成立、完全に律令体制下に組み込まれたことがわかる。個人名の分かる国司の初例は、天平15年(743年)任命の引田虫麻呂である。 律令制下での土佐の国制については、以下の通り。 土佐国司として任命されたのは、治承・寿永の乱(源平合戦)のころまでの五世紀弱の間に106名に及んでいるが、時代が下るにつれて、他の国の国司の例に漏れず、遥任の発生など、利権に与って蓄財に走る事例が定着した。延暦4年(785年)には、調の納入が遅れ、しかも届いた品が粗悪品であったため、守から目(さかん)に至るまで、国司税人が解任されている。 歴代の国司の中では、紀貫之(延長8年(930年)任命)が特に善政を行った事例として全国的に著名であり、また任期を終えての復命中の道中記「土佐日記」には、当時の土佐の風俗なども記されている。 また、土佐国は畿内から特に遠く離れた遠国とされたため、重罪人の配流が多かった。土佐へ配流されたものは、天武天皇5年(676年)の屋垣王を初例として、鎌倉時代までに約60人に及んだ。 12世紀末に鎌倉幕府が成立した時、土佐は源平合戦時において源氏と関係が強かったため、いち早く幕府の勢力下に入った。文治元年(1185年)、源頼朝が守護・地頭の設置を許されたのと前後して(文治の勅許)、梶原朝景(梶原景時の弟)が事実上の初代守護として派遣され、国内の鎮撫にあたった。 その後、建久3年(1192年)には佐々木経高、建仁元年(1200年)には豊島朝経、建仁3年(1202年)には三浦義村が守護となり、宝治元年(1247年)の三浦氏滅亡(宝治合戦)まで三浦氏が守護を務めた。時代が下ると執権北条氏の一族が守護を務め、大須賀氏や安藤氏が守護代として現地での任に当たった。
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高知県
その後、建久3年(1192年)には佐々木経高、建仁元年(1200年)には豊島朝経、建仁3年(1202年)には三浦義村が守護となり、宝治元年(1247年)の三浦氏滅亡(宝治合戦)まで三浦氏が守護を務めた。時代が下ると執権北条氏の一族が守護を務め、大須賀氏や安藤氏が守護代として現地での任に当たった。 また、地頭には香宗我部氏・長曾我部氏・津野氏・安芸氏・大黒氏らが補任された。 鎌倉幕府滅亡後の建武3年(1336年)足利尊氏は豊島河原合戦に敗れ、九州に退いて体勢を立て直す途中、四国に細川氏の一族を配置して武士たちを統制させた。土佐国は細川顕氏が配され、以降の南北朝時代において、土佐の勢力争いは興国2年/暦応4年(1341年)の時点で北朝優位が確立した。 室町時代の間、四国一帯は、南北朝時代に細川頼之の地域平定の功により細川氏の両国となり、土佐国は一門の細川頼益の子孫(遠州家)が守護代として下向、統治にあたった。 遠州家の土佐統治は5代にわたって続いたが、4代勝益の代になると、豪族の反乱の討伐に手間取るなど、領内の統制がままならなくなった。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると、勝益は乱の当事者となった細川勝元の命を受けて、豪族を引き連れて上洛、国元を長期間不在にすることにより、影響力を徐々に減退させる。 応仁の乱終結後も遠州家の土佐統治は、本家の細川政元の影響力のもと、曲がりなりにも継続していた。しかし、栄正4年(1507年)、政元の暗殺(永正の錯乱)が引き金となり、国人の抑えが効かなくなり、5代政益は土佐を脱出する。 この後、土佐国内は守護の勢力が及ばない動乱状態に陥り、土佐七雄(本山氏・吉良氏・安芸氏・津野氏・香宗我部氏・大平氏・長曾我部氏)に国司であるところの土佐一条氏の八勢力を中心にしのぎを削り、国内の城は最盛時には300を超えた。 土佐国は天正3年(1575年)、長曾我部元親の手によって統一される。元親は次いで四国平定に乗り出したが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国進出に敗れ、土佐一国の領主に収まった。 その後、元親の後を継いだ盛親は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに西軍として参陣、これに敗れて、領地を改易された。土佐一国は、東軍に属した遠州掛川城主山内一豊に与えられた。
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高知県
土佐国は天正3年(1575年)、長曾我部元親の手によって統一される。元親は次いで四国平定に乗り出したが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国進出に敗れ、土佐一国の領主に収まった。 その後、元親の後を継いだ盛親は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに西軍として参陣、これに敗れて、領地を改易された。土佐一国は、東軍に属した遠州掛川城主山内一豊に与えられた。 土佐国は山内一豊の入府以降、一度も転封を経ることなく、山内氏が16代にわたって、廃藩置県に至るまでこれを統治した。 山内氏の土佐入府にあたり、長曾我部遺臣の一領具足たちは頑強な抵抗を見せた(浦戸一揆)。最終的には、一揆中の裏切りによって、多くの旧臣が打ち取られる形でことは決着した。一豊が入府したのちも、滝山一揆など、数年間は散発的な反乱が続いた。 一豊は入府後、元親の居城を引き継いだ浦戸城にかわり、広域な城下町形成を企図して高知平野の大高坂山に新城を築城、慶長8年(1603年)にここへ移った。新城は慶長15年(1610年)に高知城と名付けられ、以降山内家代々の土佐経営の中心地となった。同時に城下町も碁盤目状に整備され、家臣や商人・職人などが定住した。 土佐藩の統治機構は以下の通りである。まず、家柄などをもととする身分の区別として、上士(家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組)と下士(郷士・徒士・組外・足軽・奉公人)があり、大まかに分けて遠州時代からの山内家臣が上士、長曾我部旧臣が下士とされた。のちに、上士と下士の間で、白札(しろふだ)という特別の身分が出来た。 家臣のうち、領国統治に直接関わる部署は外官と称された。外官職のトップは奉行職(執政とも)と呼ばれ、家老のうちから任命された。実際に実務を指揮するのは仕置役(参政とも)であり、中老や馬廻から任命された。仕置役の下に各部署が設置されて職務を分担し、奉行がこれを統率した。裁判や警察に関する職務は大目付が担当し、奉行職に直属した。 藩主の家政に関わる部署は内官と称された。内官職のトップは近習家老と呼ばれ、山内家の私的な家政の管理のほか、江戸・京都・大坂の藩邸を通じて幕府や他大名との渉外なども統括した。
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藩主の家政に関わる部署は内官と称された。内官職のトップは近習家老と呼ばれ、山内家の私的な家政の管理のほか、江戸・京都・大坂の藩邸を通じて幕府や他大名との渉外なども統括した。 慶長10年(1605年)、一豊の甥、山内忠義が2代藩主に就任する。このころ、山内家は幕府から土木建築の助役(江戸城、名古屋城など)や大坂の陣への参陣などの要求により出費がかさみ、さらに忠義本人の浪費癖もあいまって、借金は最も多い時期では歳入米2、3年分にまで膨れ上がり、幕府から借財整理を勧告されるほどであった。 勧告を受けて元和7年(1621年)、仕置役・福岡丹波が中心となり、藩政改革が行われた。具体的には、領内の山林の伐採に農民を動員し(料木役)、伐採した檜などを大坂へ送って売却し、借財の返却に充てた。ほかに、緊縮政策による経費節約、家臣からの上米・借上(俸禄カット)、米の販売統制などをあわせて実施し、寛永2年(1625年)に借財の返済は完了した。 同時に、安定した年貢収入を得るべく、改めて検地を行うとともに、農民による土地の所有関係を明確化した。国内の田畑については、山間部を中心に、一領具足が同時に本百姓(名主)として土地を支配し、下層農民が被官としてこれに隷属していたのであるが、長曾我部氏の失脚によって一領具足、さらにその被官の地位が不安定化すると、被官たちが土地を捨てて逃げ出す事例(走り者)が多発した。藩当局は走り者の罪を赦して農地への復帰を進めるとともに、土地を公平に分けて耕作させる田地割替制度を始めたり、さらに年貢徴収の制度を定免法に改めることにより、年貢収入の安定化を図った。 寛永8年(1631年)、山内家の近親である野中兼山が奉行職に就任し、以降30年間にわたり、藩政改革をリードした。 兼山は藩収入の根幹である年貢米の収入を増加させるべく、新田開発、それに伴う灌漑開発や用水路の建設、そして港湾整備などの土木事業を主導した。 同時に、いまだに不平分子として燻っていた一領具足を救済すべく、新田開発や原野の開墾に功績のあったものを郷士として取り立てて知行を与え、才覚のあるものは奉行に取り立てるなど、国内の融和に努めた。
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兼山は藩収入の根幹である年貢米の収入を増加させるべく、新田開発、それに伴う灌漑開発や用水路の建設、そして港湾整備などの土木事業を主導した。 同時に、いまだに不平分子として燻っていた一領具足を救済すべく、新田開発や原野の開墾に功績のあったものを郷士として取り立てて知行を与え、才覚のあるものは奉行に取り立てるなど、国内の融和に努めた。 しかし、これらの兼山の施策は、農民の労働力の徴発を伴うものであったため農民の不満を招き、さらに百姓に対する生活指導や国産品の専売による経済統制、さらには飲酒に対する罰金制度まで出されたため、国内の反感を招いた。さらに、郷士を取り立てる方針が譜代の上士たちの不平を招いた。 寛文3年(1663年)、家臣より3代藩主忠豊に対して、兼山の弾劾状が出され、兼山は失脚する。兼山は程なく死去、一族は永く幽閉され、野中家は絶えた。 兼山失脚の後、藩政の方針は兼山時代から逆方向へ舵を切った。専売制をはじめとする経済統制を廃し、民衆の生活への介入なども留めたため、藩内は旧来の活気が戻った。これらの施策を「寛文の改替」という。 一方で、藩の基礎収入が年貢だよりであることには変わりなかったため、藩としては、民力の回復を待って、年貢収入を増加させることを想定していた。そのため、新田開発を引き続き奨励し、新田の年貢の負担を軽くするなどの措置をとった。 しかし、経済統制が解除されたことによって、商業経済がさらに発展し、相対的に武士の暮らし向きは悪くなった。さらに、新田開発によって本田の荒廃や移動を招き、山林開発も衰退するなど、藩財政は悪化した。藩はこの状態を改めるべく、「留物条例」を出して、牛馬・毛皮・漆など一部商品の移出を禁止するなど、新興の商業資本の発展に制限を加えた。同時に有力商人に運上銀を上納させるなどして、藩財政の安定を図った。 更に、年貢収入の不安定性を取り除くべく、貢租額を、年々の額を平均した値を定める"平等免"(ならしめん)に定め、さらに藩士の年貢収入を地方知行から蔵米知行に改めるなど、租税体系の整備が進んだ。しかし一方で、農民に対する生活統制が新たに定められるなど、兼山時代の生活統制の一部が復活したのもこの時期である。 4代藩主豊昌時代の元禄3年(1690年)、これらの土佐藩歴代の法令が集大成され、「元禄大定目」と名付けられた。
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4代藩主豊昌時代の元禄3年(1690年)、これらの土佐藩歴代の法令が集大成され、「元禄大定目」と名付けられた。 これ以降も、収入安定のため商業・生活への介入を行う藩庁と、それに対して抵抗する百姓との間の緊張的な対立関係は続いた。8代藩主豊敷時代の宝暦2年(1752年)、藩庁は国産方役所を設置した。これは藩内の生産商品を藩庁が指定した問屋が買い上げる制度で、藩庁は指定問屋から運上金を得ることで利益を得ていた。この時、一部の指定問屋の購入価格が安価であり、不当な利益を収奪しているとして、津野山の義民・中平善之丞を指導者に、一揆が起こった(津野山騒動)。結局、問屋制度は廃止された。 その後、明和3年(1766年)に再び問屋制度が定められたが、天明7年(1787年)、凶作に困窮した製糸業者らが伊予まで逃亡するという事件が起こった(池川紙一揆)。さらに同年、高知城下で米騒動が起こったのをはじめ、藩内各所で騒動が起こった。これらの騒動を受けて、問屋制度は再び廃止された。 天保14年(1843年)、13代藩主豊熈は進んで人材登用を行い、登用されたものはおこぜ組と呼ばれた。しかしこの流れは旧門閥らの反発を招き、1年足らずで頓挫することとなった。 幕末、土佐藩は15代藩主豊信(容堂)のもとで、土佐一国の大藩として深く関与する。 幕末維新の政局における土佐藩の態度については、変遷や対立はありつつも、容堂ら藩上層部は一貫して公武合体論の立場を堅持する。容堂は幕府大老井伊直弼と対立、安政の大獄で隠居に追い込まれるが、井伊大老が桜田門外の変で暗殺されると程なく復権し、参預会議・四侯会議・王政復古の大号令などで雄藩の一員としていずれもメンバーに含まれた。容堂の藩政を支えたのが馬廻格の吉田東洋で、藩論の策定や幕府への意見書の起草、軍備増強を行うにあたっての資金の用立てなどを推し進める。 一方で、藩内にあって、幕府と距離を置くことを主張する尊王攘夷派は、安政の大獄を機に顕在化し、文久元年(1861年)、武市瑞山を盟主に土佐勤皇党を結成。次第に藩上層部との間の階級対立の様相を呈し、翌文久2年(1862年)、東洋は勤皇党員によって暗殺された。
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一方で、藩内にあって、幕府と距離を置くことを主張する尊王攘夷派は、安政の大獄を機に顕在化し、文久元年(1861年)、武市瑞山を盟主に土佐勤皇党を結成。次第に藩上層部との間の階級対立の様相を呈し、翌文久2年(1862年)、東洋は勤皇党員によって暗殺された。 勤皇党は他藩の同志らと連携して広範に活動を行い、脱藩して京都や長州に赴く者も後を絶たなかった。「人斬り以蔵」と恐れられた岡田以蔵、天誅組の変を起こした吉村虎太郎などがいる。 しかし、文久3年(1863年)、八月十八日の政変をきっかけに尊王攘夷派の動きは頭打ちになり、土佐勤皇党も瑞山が投獄、切腹するなど、壊滅的な打撃を受けた。 その後、坂本龍馬らの活躍により薩長同盟が成立、第二次長州征伐で幕府軍が敗北するにつれ、藩内でも板垣退助らが積極的な討幕を訴え、幕府の大政奉還による安定的な政権交代を模索する後藤象二郎らと対立した。 王政復古の大号令後、小御所会議においても容堂は幕府を擁護していたが、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発。板垣が容堂の制止を無視して幕府軍に砲撃を加えたことで、土佐藩はなし崩し的に討幕の立場をとることになった。 戊辰戦争では、土佐藩は四国内の親藩である高松藩(水戸徳川家一門)・松山藩(久松松平家)の征討を命じられるが、両藩ともに戦わずして開城したため、高松へ出征した板垣が軍を率いてそのまま京都で編成中の東征軍に合流する。土佐藩兵2700余は征討軍参謀となった板垣とともに東国へ転戦し、最終的に会津若松城の攻城戦にまで従った。一連の戦闘で、土佐藩兵の戦死者は106、負傷者は168であった。 明治新政府成立後、土佐藩は板垣、後藤らを筆頭に多くの人材を送り込み、「薩長土肥」と通称されるように、新政府の一角を占めるにいたった。しかし、このころの土佐藩の負債は金100万両、銀345貫目におよび、封建制を維持することは不可能になっていた。 明治2年(1869年)、版籍奉還。16代藩主豊範が新たに藩知事に就任、大参事の板垣の下で藩政改革が試みられたものの、根本的な改革は困難であった。明治4年(1871年)、廃藩置県により藩は正式に配され、行政機構としての高知県が誕生した。 なお、明治9年(1876年)に名東県(旧阿波国)が高知県に編入されたが、明治13年(1880年)、徳島県として再度分離している。
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明治2年(1869年)、版籍奉還。16代藩主豊範が新たに藩知事に就任、大参事の板垣の下で藩政改革が試みられたものの、根本的な改革は困難であった。明治4年(1871年)、廃藩置県により藩は正式に配され、行政機構としての高知県が誕生した。 なお、明治9年(1876年)に名東県(旧阿波国)が高知県に編入されたが、明治13年(1880年)、徳島県として再度分離している。 明治維新におもなって急速な国内改革が推し進められることにより、県内各所では混乱が起こった。特に、生活の糧を失った士族は、官吏や軍人として登用されたもののほかは、自力で生計を立てねばならなかった。少なくない者はいわゆる士族の商法に手を出したが、多くは程なく行き詰まることとなった。旧藩主山内家も物流業界に手を出して"山一商会"を創業したが、うまくゆかなかった。 また、農民層にも動揺を巻き起こした。年貢米の減免や手放した田地の回復を求めて一揆が起こったほか、外国由来の風習(徴兵制など)に対する誤解に基づく反対運動も行われた。 明治6年(1873年)、明治六年政変にともない、板垣、後藤らは政府を離れた。板垣らは高知へ帰り、片岡健吉、林有造らとともに立志社を設立する。士族授産による没落士族の救済、学校設立などによる民生の安定を標榜、さらに、民選議院の設立を求めていた。 一方で、これらに対抗する団体として、静倹社(原茂胤社長)、嶺南社、猶興社などが設立された。 立志社の方針は政府と対立し、明治11年(1878年)、林、片岡らが拘束される。板垣や植木枝盛らはこれに対抗して独自の議会「土佐国州会」を設立、選挙を行い、政府の地方自治の方針を質すなどした。 明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、一旦政府に戻っていた板垣は再び下野すると、自由党を結成。高知県人は党役員の多くを占めるなど、自由党の活動を指導する立場を占めた。
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立志社の方針は政府と対立し、明治11年(1878年)、林、片岡らが拘束される。板垣や植木枝盛らはこれに対抗して独自の議会「土佐国州会」を設立、選挙を行い、政府の地方自治の方針を質すなどした。 明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、一旦政府に戻っていた板垣は再び下野すると、自由党を結成。高知県人は党役員の多くを占めるなど、自由党の活動を指導する立場を占めた。 幕末から明治初期にかけて、土佐藩は藩の産物を独占販売する「土佐商会」を運営しており、利益を上げようとしていた。しかし、明治2年(1869年)、政府は府県藩による商会所の経営を禁止した。そこで、解散した土佐商会の事実上の後継組織として「九十九商会」が設立され、社長には土佐商会の経営に携わっていた藩の地下浪人出身の岩崎弥太郎が就任した。岩崎は東京・大阪・神戸と高知を回漕する運輸業を経営することにより藩財政の立て直しに寄与したあと、藩債のうち4万両の肩代わりと引き換えに旧藩船2隻を譲り受け、後に三菱財閥へと至る民間経営者としてのあゆみを始めた。 また、立志社が目指した士族授産についても、政府からの貸付金をもとに民立会社が続々と創業され、士族の雇用創出に貢献した。 農業については、明治以降は年貢米の納入が金納に改まったこともあり、米の品質が一時的に落ちた。これに対して、篤農家の吉川類次と式地亀七の研究によって、古来から行われていた二期作に適した品種衣笠早稲、相川が開発、明治末期から二期作の作付面積が増加した。 交通インフラについては、まず明治19年(1886年)、田辺良顕知事の主導で県内の主要な道路の整備が開始された。明治36年(1903年)には土佐電気鉄道が創業する。国鉄は、大正13年(1924年)に土讃線が県内(高知-須崎間)で開業し、昭和10年(1935年)に至ってようやく高松まで全通、県外と直接の連絡が成立した。 1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風による暴風雨。9月26日の新聞報道時点の県内の被害は死者114人、負傷398人、家屋全壊・流失1203戸(1958棟)など。特に被害の大きかった室戸、吉良川、羽根、奈半利、田野、安田の海岸付近の集落は全て廃墟と化し、漁船の流失も約1100隻と、長期間にわたり地域経済に大きな打撃を与えることとなった。
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1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風による暴風雨。9月26日の新聞報道時点の県内の被害は死者114人、負傷398人、家屋全壊・流失1203戸(1958棟)など。特に被害の大きかった室戸、吉良川、羽根、奈半利、田野、安田の海岸付近の集落は全て廃墟と化し、漁船の流失も約1100隻と、長期間にわたり地域経済に大きな打撃を与えることとなった。 アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)下では、昭和20年(1945年)7月4日、高知市は米軍の空襲を受け、市街地が全焼した。さらに翌昭和21年(1946年)、昭和南海地震によって沿岸部を中心に被災した。 昭和30年(1955年)、県下人口は史上最高の88万3000人に達したが、この時をピークとして以降は減少を続けている。 地方債残高 衆議院の小選挙区が2だが、2012年(平成24年)第46回衆議院議員総選挙以前は3だった。参議院では高知県選挙区として全県で1区を構成していたが、2016年(平成28年)の第24回参議院議員通常選挙より徳島県選挙区と合区され、徳島県とともに1区を構成する合同選挙区として徳島県・高知県選挙区が創設された。 平成21年度(2009年度)の県内総生産額は2兆1408億円(全国第46位)、1人当たり県民所得は約201.7万円で、全国最下位である(全国第47位)。経済規模の小さな自治体であり、財政力指数も全国最下位である。 温暖な気候を利用した早場米の産地で、大半の田が8月には刈り入れを終わる。特に早期なのはとさぴか、南国そだちなどの品種で7月20日ごろには収穫できる。ビニールハウスによる野菜や花木の栽培も盛んで「園芸王国」と称されることもある。昭和後期に栽培され始めた花きの「グロリオサ」は世界最大の花き品評会で金賞に輝くなど、園芸業界におけるブランドの価値が高まっている。近年では土佐赤牛や土佐ジローなどのブランドで知られる畜産も見られる。古くから愛玩鶏の産地として知られ、長尾鶏・東天紅鶏・土佐矮鶏などが挙げられる。 カツオの一本釣りが行われている。そうだがつお類の漁獲量は日本国内で1位である。カツオの他に、びんながまぐろやかじき類の漁獲量も上位を占めている。
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カツオの一本釣りが行われている。そうだがつお類の漁獲量は日本国内で1位である。カツオの他に、びんながまぐろやかじき類の漁獲量も上位を占めている。 日本三大美林の一つ魚梁瀬杉が有名で、森林率 (84%) は日本国内1位であるが林業従事者の減少により山地の荒廃が進んでいる。そのため、法定外目的税として森林環境税を導入し保全政策を行っているほか、企業との協働による環境先進企業との協働の森づくり事業を展開し県内外の27社と森づくりに取り組んでいる。 高知県は全般的に集積度が低いのが特徴であり、大規模な工業地帯などは皆無である。 高知県は「陸の孤島」と称されるほど長年にわたり交通機関が不便な土地であり、高速道路の整備が1990年代にまで遅れたことからその小売業者は県域で循環する性格が強い傾向にあった。 高知自動車道南国インターチェンジの開通後は、1994年(平成6年)のフジグラン高知、1999年(平成11年)のイオン高知ショッピングセンター(現・イオンモール高知)の出店やコンビニエンスストア(それまで県内にはSPARなどのコンビニエンスストアしかなかったが、1996年にサンクス (コンビニエンスストア)、1997年にローソン、1998年にサークルK、2015年にセブンイレブンが進出。)の急激な増加が見られるようになり、2003年(平成15年)ごろからは帯屋町をはじめとする中心市街地の衰退傾向が明らかとなりつつある。 2002年(平成14年)には、目抜き通りのはりまや交差点に接する高知西武が撤退し、2005年(平成17年)11月にはダイエーも撤退した。その後2009年(平成21年)をめどに高知西武跡地については商業系ビルの建設が予定され、2006年(平成18年)6月中旬までに解体作業も完了していた。しかし計画は個人消費低迷や原油高における資材高騰の影響により担当企業が白紙撤回を発表して撤退。その後敷地は2009年(平成21年)11月に大阪の不動産業者に転売され、パチンコ店が建設された。 なお、ダイエーショッパーズ高知店の跡地は長らく有料駐車場となっていたが2014年7月に跡地東端に装飾雑貨の「ほにや」及び「サークルK帯屋町2丁目店」がオープン、翌年の2015年7月31日には複合施設「帯屋町チェントロ」が完成した。
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なお、ダイエーショッパーズ高知店の跡地は長らく有料駐車場となっていたが2014年7月に跡地東端に装飾雑貨の「ほにや」及び「サークルK帯屋町2丁目店」がオープン、翌年の2015年7月31日には複合施設「帯屋町チェントロ」が完成した。 日中の普通列車の本数は高知市近郊区間を除いて毎時1本以下である。また、普通列車の運用は臨時列車を除いてすべて当日中に終了する。 とさでん交通は全線電化されている。残りの鉄道路線は非電化。 県内に本社、営業所を置く主な事業者 高知港からは、最近まで大阪高知特急フェリー(大阪南港行き)やマリンエキスプレス(川崎 / 宮崎)などの運航があった。原油価格の高騰に加えて、明石海峡大橋や高知自動車道などの開通の影響に伴う乗船者数の減少により、相次いで廃止。2018年10月には唯一運航していた宿毛フェリーが休止したため、現在県内に発着するフェリーは存在しない。 ※デジタルテレビの親局送信所はRKC・KUTVが烏帽子山、NHK・KSSが近接する柏尾山。エフエム高知の親局とRKCのFM補完放送のメイン中継局も烏帽子山であるが、NHK-FMの親局は高知港を挟んだ五台山である。なお五台山にはデジタルテレビ各局の中継局もおかれている。 ※ エフエム高知は、中継局の少なさから山間部では放送を受信できない地域が多い。また高知さんさんテレビも、これまでのアナログ放送においては山間部ではやはり中継局の少なさから放送を受信できない地域が多かった。デジタル新局で中継局を順次開局して2010年(平成22年)に先発局と並んで事実上県内全域カバーを果たしたことから、受信できない地域も大幅に減少した。 ※ 高知県にはANN及びTXN系列が存在しない。ANNに関しては四万十町、宿毛市、四万十市、大月町、黒潮町を除く全域を取材拠点として、大阪・朝日放送テレビ(ABC)が高知支局を設置しており、四万十町、宿毛市、四万十市、大月町、黒潮町に関しては愛媛朝日テレビが取材を担当している。 ※ 2019年ごろから高知県内全民放テレビ局において通常時終夜放送を行っている。 2022年現在下記のケーブルテレビに加入できる地域ではケーブルテレビを通じて高知県外のラジオ、テレビ放送が受信可能である。
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高知県
2022年現在下記のケーブルテレビに加入できる地域ではケーブルテレビを通じて高知県外のラジオ、テレビ放送が受信可能である。 日本アマチュア無線連盟 (JARL) を免許人とするアマチュア無線用中継局が県内各所に設置されている。高知県のレピータは山地率が高く、また、太平洋に向かって県土が開けている地形から、標高の高い箇所や海沿いの都市・集落間の通信確保のため設置されているところに特徴がある。 1949年から1961年まで、公立高校で高校全入が行われていた。1949年から1956年は無試験。また、1949年から1962年まで高知市内の3校で抽選を行なっていた。 私立中学校への進学率は高く、2020年度に行なわれた『私立中学に通う子どもの割合が多い都道府県ランキング』において第2位を記録している。 国立 公立 私立 私立 私立 国立 高知県では日本最後の清流として知られる四万十川や龍河洞、ホエールウォッチングなど自然を売り物にしたものが多く、近年はエコツーリズムにも力を入れつつある。 一方で大型の集客施設に乏しく、観光客数も年間約500万人(県外客のみ)とやや低位であるが重要文化財・高知城や古社寺の名所旧跡、室戸岬や足摺岬といった自然景勝地をはじめ、高知県立牧野植物園や高知県立坂本龍馬記念館などの充実した博物館群、黒潮本陣(中土佐町)やオーベルジュ土佐山(高知市)など小規模の特徴を生かした宿泊施設が多いのも特徴である。なお、全国へと波及したよさこい祭りは毎年2万人余りの踊り子が高知市内各地を乱舞する一大イベントとなっている。 ※発表年順 高知県名誉県民は、2011年(平成23年)10月11日に制定された高知県名誉県民顕彰要綱に基づき、「学芸、芸術、文化、スポーツ等の分野において輝かしい活躍をし、県民の誇りとふるさと意識を高め、県民に夢と希望、勇気、感動のすべてを与えた」個人や団体を顕彰する制度である(要綱第1条)。名誉県民に選定された者には、表彰状と高知県名誉県民章(副賞)が贈呈される。 名誉高知県人は、高知県名誉県民顕彰要綱が制定される前に運用されていた名誉称号で、高知県を日本全国に紹介する功績を挙げた者に対して高知県知事が贈呈していた。
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佐賀県
佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は佐賀市。 お茶や唐津・伊万里・有田などの古くからの陶磁器の産地として有名で、玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。九州地方の中では最も面積、経済規模が小さい県であり、人口は隣接する福岡県の2割以下であり、福岡市の半分程度に過ぎない。一方、人口密度は全国で16番目に高く、広島県の人口密度を上回っている。 佐賀県は、日本の中では西部(西日本)あるいは南部(南日本)に位置しており、九州地方の中では北部(北部九州)または西部(西九州)に位置している。人口・面積共に九州7県の中では最も少なく、また人口・面積ともに全47都道府県中42番目であるが、人口密度は全47都道府県中16番目と上から1/3であり、九州の中でも2番目に高い。 県内の地域区分は佐賀藩と唐津藩に二分されていた歴史的経緯から、唐津市を中心とした北部(北西部)と佐賀市を中心とした南部(南東部)に分ける2区分が最もよく用いられる。より細かく分ける場合は、北部・東部・西部の3区分や三神・佐城・杵藤・唐松・伊西の5区分が用いられる。 県名の認知度調査においては2002年(平成14年)の調査結果では(小学校4年生~小学6年生対象)第44位、2004年(平成16年)の調査結果では(中学生対象)で第30位となっている。 佐賀県の形は、凹凸のある逆三角形に近い。北西部はリアス式海岸と砂浜の玄界灘、南東部は干潟と干拓地の有明海という、海岸の様子が全く異なる2つの海に接している。有明海沿岸から筑後川沿いには県の面積の3割を占める佐賀平野が広がり、玄界灘から佐賀平野西部までは杵島丘陵などの丘陵地帯である。北東部に脊振山地、南西部に多良岳山系といういずれも1,000m級の山地があって丘陵地帯を挟んでいる。耕地が県面積の39%に上り、国内平均の2倍と高い割合である一方、森林・荒地は同49%と国内平均の7割に留まっている。
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佐賀県
県の北東部を東西に連ねる脊振山地は唐津市浜玉町から鳥栖市までその稜線が福岡県との県境になっている。鳥栖市で山脈は途切れるが、その延長線上には福岡県の耳納山地が延びている。鳥栖市・基山町は隣接する久留米市とともに山地の合間にあり、北の福岡平野と南の筑紫平野を結ぶ道路網・鉄道網の分岐点となっている。交通の要所かつ工業地域で福岡都市圏のベッドタウンでもあるため、住宅開発が進んでおり人口減少が続く県内では例外的に人口増加率が高い。福岡、佐賀の両県に広がる筑紫平野を中心に有明海や筑後川を囲む筑後佐賀エリアの人口は100万人を超え、域内の総生産は北九州都市圏に迫る規模がある。山地は平野部の北側に広がっていて、県中央部に位置する天山まで連なっている。 脊振山地の南麓は緩やかな洪積台地からなる細長い丘陵地帯で、それより南側には幅の広い平坦な沖積平野である佐賀平野が東西に広がっていて県の東部から中央部を占める。佐賀平野は筑紫平野の西半分を指す別名で、古くより穀類の生産が多い穀倉地帯である。筑紫平野の中央を縦断する筑後川が福岡県筑後地方(筑後平野)との境である。平坦な低地が内陸まで広がり大小多数の河川が流れるため20世紀半ばまで洪水被害が頻発していたが、治水が進んだことにより現在は被害が大きく抑えられている。佐賀平野の南には有明海があり、遠浅の広い干潟が広がり干潟独特の生物相がみられる。沿岸には江戸時代以降の干拓により造成された地域が分布している。県内の干拓面積は江戸時代から累計100km前後に達しており、佐賀平野の1割・県面積の4%に達する。 北西部は、日本海と東シナ海の接続水域である玄界灘に面する。海に突き出た東松浦半島(上場台地)や北松浦半島は玄武岩で構成された溶岩台地であり、温暖で部分的に照葉樹林も分布する。リアス式海岸で半島や離島が点在、唐津湾や伊万里湾には砂浜が分布する。この一帯の海岸沿いは玄海国定公園に指定され、唐津城や呼子などの観光地がある。
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佐賀県
北西部は、日本海と東シナ海の接続水域である玄界灘に面する。海に突き出た東松浦半島(上場台地)や北松浦半島は玄武岩で構成された溶岩台地であり、温暖で部分的に照葉樹林も分布する。リアス式海岸で半島や離島が点在、唐津湾や伊万里湾には砂浜が分布する。この一帯の海岸沿いは玄海国定公園に指定され、唐津城や呼子などの観光地がある。 玄界灘沿岸の河口低地より南側、県南西部には杵島丘陵が広がり、長崎県との県境をなす多良岳山系へと続く。杵島丘陵には芳ノ谷層(始新世)や佐世保層群(漸新世後期)の石炭を含む層(挟炭層)があり、かつて炭鉱として栄えたが閉山により急速な地域衰退と人口減少を経験した。また有田泉山で陶石が採れたことをきっかけに創始された伊万里焼(有田焼)は、佐賀県を代表するブランドである。武雄温泉や嬉野温泉などの温泉街も点在する。 活動していない火山の多良岳以外は、佐賀県内に火山はない。地震の被害を受けることは少ないが、梅雨などの大雨による洪水、台風の被害は多い。一方で、森林面積の3割強を占める自然林・二次林のほとんどが常緑広葉樹林で、玄界灘沿岸部には照葉樹林も見られる。残りの7割弱はスギとヒノキを中心とする人工林で、森林面積に占める人工林率66%(2002年)は日本の都道府県の中で最も高い。 佐賀県は、日本の中では比較的気候が温暖であるが、冬の寒さは緯度の割りには厳しく東京よりも寒い。2016年1月25日には、県内全観測地点で真冬日を観測した。日本を広域的に見た場合、県内全域が太平洋側気候に入る、北部の玄界灘沿岸部は曇が多いが、降水量の面で日本海側気候とは明確に異なる。台風の通過・被害が多いが、九州のほかの県と比べると少ない方である。県内の気候は、大きく3つに分かれている。 現在、佐賀県内には10市6郡10町、併せて20市町がある。2004年(平成16年)12月時点では7市8郡38町4村の計49市町村だったが、市町村合併により、最後の合併が行われた2007年(平成19年)10月1日に現在の数となって市町村数は半分以下に減少した。合併で廃止された市町村については、佐賀県の廃止市町村一覧を参照されたい。 なお、2006年(平成18年)3月20日に脊振村が神埼市になったのを最後に佐賀県内の村は全て消滅した。佐賀県では、江北町が「まち」としている他は「町」はすべて「ちょう」と読む。
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佐賀県
なお、2006年(平成18年)3月20日に脊振村が神埼市になったのを最後に佐賀県内の村は全て消滅した。佐賀県では、江北町が「まち」としている他は「町」はすべて「ちょう」と読む。 都道府県別の面積順位が42位と小さな県であり県全体を一つの地域とすることも多いが、大きく分ければ佐賀平野を中心とした南部と東松浦半島を中心にした北部に分けられる。また、さらに細かい区分では佐城(佐賀市・小城市・多久市)三神(鳥栖市・神埼市・三養基郡・神埼郡)杵藤(武雄市・鹿島市・嬉野市・杵島郡・藤津郡)唐松(唐津市・東松浦郡)伊西(伊万里市・西松浦郡)の5地区に分けることが多い。 県内の都市を中心市とする都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷 県名である「佐賀」は、1871年(明治4年)の廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。古来は「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。古い「佐嘉」の表記は佐嘉神社などに残されている。 佐賀郡の由来は諸説あり、奈良時代の『肥前国風土記』における楠樹にまつわる「栄の国」伝説や、同じく風土記の賢女(さかしめ)伝説によるものがしばしば挙げられる。朝廷に服従してなかった土蜘蛛の「大山田女」と「狭山田女」の2人の女性が、暴れ川の佐嘉川(嘉瀬川)を鎮めて崇められたことから賢女と呼ばれたことが地名に由来する。また、傾斜地を指す「坂(さか)」、潮汐作用などで水が逆流する「逆(さか)」、砂丘地を指す「洲処(すが)」の転訛説などもある。 クスノキは、県内各地に名木が所在し「県の木」に指定されるなど縁が深い。 旧石器時代の遺構がいくつか発見されている。多久市の三年山遺跡や茶園原遺跡などでは、近くの鬼ノ鼻山産のサヌカイトを用いた狩猟に特化した尖頭型の石器が出土している。伊万里市の腰岳遺跡群は黒曜石の産地で、ここから旧石器時代後期 - 縄文時代に産出された黒曜石が本州 - 沖縄 - 朝鮮半島南部にまで広がっていることが確認されている。また佐賀市の東名遺跡では縄文時代前期にあたる7,000年前の網籠、木製装身具、貝塚などの生活遺構がまとまって出土している。
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佐賀県
県北西部の玄界灘に面した地域は、福岡県の北西部と並んで大陸方面から伝来した稲作の日本における発祥地域とされ、宇木汲田遺跡では縄文時代晩期の炭化籾、菜畑遺跡では縄文時代晩期の炭化米や水田跡が見つかっている。 『魏志倭人伝』に見える「末廬国(まつらのくに)」が現在の唐津地方にあったとされ、大陸由来の青銅器や銅器が多数出土する遺跡が点在する。また、吉野ヶ里町・神埼市の丘陵地帯には弥生時代の大規模環濠集落である吉野ヶ里遺跡があり、その近辺にも九州北部に特徴的な甕棺墓が多く見つかっている。 さらには、古墳時代初期の建造の前方後円墳である唐津市の久里双水古墳をはじめ、東松浦地区や佐賀平野北部には幅広い年代の古墳が分布している。665年には基山町と福岡県筑紫野市の境に古代山城の一つである基肄城が築かれ、防人を招集して大宰府防衛線の一角を担った。また同じころ、武雄市のおつぼ山神籠石や帯隈山神籠石などの山城と考えられる遺構も成立している。このころ(7世紀末まで)までには令制国として、今の長崎県本土と佐賀県全域を領域とする肥前国が成立し、現在、佐賀県内には基肄郡、養父郡、三根郡、神埼郡、佐賀郡、小城郡、松浦郡、杵島郡、藤津郡が存在した。 平安時代後期には神埼荘・長島荘などの荘園が形成されるようになる。 鎌倉時代から室町時代にかけて、百以上の氏族が地頭として配置されていたと考えられている。その中でも規模が大きかったのが、肥前守護の少弐氏、小城郡の九州千葉氏、佐賀郡の高木氏、杵島郡の後藤氏などであった。また、玄界灘沿岸は松浦党の一族の松浦氏、波多氏の影響力も強かった。この時代の代表的な山城は、鳥栖の勝尾城。また佐賀平野では、環濠集落が発展したに建造された大きな環濠(クリーク)を特徴とする平城があり、代表的遺構として現存するのは、神埼の姉川城がある。 戦国時代に入ると、龍造寺隆信が一気に勢力を伸ばし肥前を統一する。龍造寺隆信は最盛期には、肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。このころ、戦国末期には島津氏の攻勢が強まり、沖田畷の戦いによって龍造寺隆信が戦死すると、その勢いを失い領地を少しずつ狭めていく。ただ、豊臣政権による1587年(天正15年)の九州国分によって、現在の佐賀県内のほとんどが龍造寺氏の領下に入り版図が決まる。
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戦国時代に入ると、龍造寺隆信が一気に勢力を伸ばし肥前を統一する。龍造寺隆信は最盛期には、肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。このころ、戦国末期には島津氏の攻勢が強まり、沖田畷の戦いによって龍造寺隆信が戦死すると、その勢いを失い領地を少しずつ狭めていく。ただ、豊臣政権による1587年(天正15年)の九州国分によって、現在の佐賀県内のほとんどが龍造寺氏の領下に入り版図が決まる。 1591年(天正19年)には東松浦半島に名護屋城が築かれ、文禄・慶長の役の拠点とされた。同城は両戦役の後役目を終え、一部が唐津城築城時に利用されるなどして数年で解体された。一方龍造寺領内では隆信の没後、義弟の鍋島直茂が国政の代行を行うようになって徐々に勢力を増し1607年(慶長12年)には、龍造寺氏の支配領をほぼすべて鍋島氏が継承して佐賀藩主となった。この前後に両一族の確執があり、鍋島藩の化け猫騒動の話を生み出したともいわれている。 一方、唐津藩では波多氏が改易されて寺沢氏に換わり、唐津藩の初代藩主となった。 江戸時代には、佐賀藩、その支藩である蓮池藩、鹿島藩、小城藩の3藩、および、唐津藩が置かれていた。そのほか、現在の鳥栖市・基山町付近に対馬府中藩の田代領、唐津市浜玉町付近に同藩浜崎領があり、それぞれ対馬府中藩の飛地となっていた。また、現在の唐津市浜玉町海岸部や唐津市南東部などが幕府直轄領となっていた。 佐賀藩およびその支藩は鍋島氏とその庶流家、龍造寺氏の分家などによる支配が続き、政治的には比較的安定していた。しかし、長崎の警備費用がかさむなどして財政は当初から厳しく、享保の大飢饉や1828年(文政11年)のシーボルト台風による甚大な被害はそれに拍車を掛けた。ただ、広大な有明海の干拓によって農地を拡大できるという地の利を生かして江戸時代初期から盛んに干拓を行ったことで、1840年代には約67万石と、200年前の2倍近くにまで石高を伸ばすことに成功している。また、19世紀中ごろに入って鍋島直正は財政の建て直しに努め、役人の削減、伊万里焼や茶・石炭といった特産品の保護育成に努めた。また、地理的に長崎に近いことや長崎警備を担当していた関係などから海外の情報の入手が比較的容易であったため、反射炉や蒸気機関車模型といった先進的な科学技術の実験・研究も進んでいた。
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一方の唐津藩は寺沢氏が島原の乱の影響を受けて改易され、その後も領主が大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と目まぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。寺沢広高は松浦川の改修を行うなどしたが、その後水野忠任の代の1771年(明和8年)には虹の松原一揆が起こるなどした。 佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治維新期に活躍した大隈重信・副島種臣・大木喬任・江藤新平・佐野常民・島義勇の6人に、彼らを育てつつ幕末期に活躍した鍋島直正を加えて『佐賀の七賢人』と称することがある。幕末時に薩長土の志士たちが中心であった明治新政府は、戊辰戦争半ばから肥前有志を仲間入りさせ「薩長土肥」体制としたため肥前出身者も明治政府の主要官職を占め続けていたが、藩閥打倒を叫ぶ民権派の影響などもあり大正以降は薩長土同様に藩閥的な勢力ではなくなった。 1871年の大規模府県統合時、旧肥前国の範囲は伊万里県(のちの佐賀県)と長崎県に二分された。このような処分は全国でも2例だけで、他は旧武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県北東部)や旧摂津国(大阪府北西部・兵庫県南東部)である。これには、日米修好通商条約で開港の対象となった5港を管轄する県の領域をできるだけ狭く収める目的があったとされている。現在の佐賀県が成立するまで、明治初期には統廃合が繰り返され、1876年(明治9年)には全県が他県に併合される事態も起きた。全県併合の背景には、1874年の佐賀の乱への処分の意味があったと言われている。併合後の根強い復県運動によって、7年後の1883年(明治16年)に佐賀県が復活する。
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明治時代には殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押しした。1889年(明治22年)12月11日に現在の鹿児島本線にあたり県内区間を含む博多 - 千歳川(現在は廃止)間が開業。1891年(明治24年)8月20日には鳥栖 - 佐賀間、1895年(明治28年)5月5日には武雄まで、1897年(明治30年)7月10日に長崎県佐世保市早岐までそれぞれ延伸して現在の長崎本線・佐世保線に当たるルートができた。また1898年(明治31年)8月7日に九州鉄道西九州線有田 - 伊万里間に当たるルートが開業、1898年12月1日から1903年(明治36年)12月14日にかけて順次現在の唐津線に当たるルートが開業した。1916年(大正15年)には佐賀市に佐賀紡績(後の大和紡績佐賀工場)が設立、1920年には従業員1,500の工場へと拡大するなど、近代化により製造業が発展した。一方では、各地で労働環境の問題なども生じるようになった。 農村では近代化は顕著ではなかったが、1922年の電気灌漑導入をきっかけとして品種改良や肥料導入が急速に普及したことで米は大幅な増産となり、1933年(昭和8年) - 1935年(昭和10年)には1反(10a)当たり収量日本一を記録、「佐賀段階」と呼ばれ、主産業であった農業の発展とともに人口も増加した。 県内の都市は工業集積が進んでおらず、アメリカ軍の攻撃の優先順位が低かった上に太平洋戦争末期の空襲の被害は、県内最大の攻撃目標である県都佐賀市への誤爆も重なり近県に比べて少なかったが、戦災を免れた故に都市基盤が旧態依然で戦後の発展も著しいものではなかった。商業の発展があったものの、従事者や生産額ともに依然として第一次産業の比率が比較的高い農業県であった。このころ災害復旧費などの財政支出増加から県財政が悪化し1956年度から財政再建団体に転落、財政再建策としての大規模な教職員削減を背景に佐教組事件が発生するなどしている。1960年代には、治水・灌漑の進展と集落協働による農法改善を原動力とした「新佐賀段階」が起こり、1967年に10a当り収量542kg(全国平均403kg)を記録するなど農業は発展を見たのである。
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だが、1960年代後半より減反が進んだことで米中心の農業は打撃を受け、加えて炭鉱の閉鎖が加速し多久・杵島・東松浦などの旧炭鉱地域を中心として、高度経済成長期に急速な過疎化が進んだ。これに対して1970年代以降、農業は米だけではない野菜や果実などへの多品目化に移行し、また佐賀平野では二毛作による麦の生産が浸透して農業の維持を図った。工業では高速道路の整備以降は高速周辺での工場誘致が各地で起こった。これによって、鳥栖市を中心とした県北東部では集積した製造業が基幹産業へと成長した。1990年代からは半導体や自動車部品産業が割合を高めている。 佐賀県の人口は2023年1月現在、約79万9千人で全都道府県中42位であり、九州・沖縄地方では最も人口が少ない。県人口は戦前の60万人台から第一次ベビーブームを経て1954年(昭和29年)ごろに977,000人とピークを迎えたが、高度経済成長の進展とともに急速に減少して1973年(昭和48年)には82万2,000人と底を打った。その後は緩やかに増加して80万人台の半ばを推移し、1990年代後半以降は減少し続けている。人口減少と少子高齢化が進行しているものの、合計特殊出生率は1.61(2020年)、年少人口(0 - 14歳)比率は13.45%(2020年)といずれも全国平均と比較してかなり高い。これに伴って、今後もその進行速度は非大都市圏の県としては比較的緩やかと予想される。 人口が多いのは佐賀市(約23万人)、唐津市(約13万人)、鳥栖市(約7万人)などであるが、中小規模の都市が多く点在し経済的・人口的に求心力の強い都市が無いという特徴がある。県面積の3分の1を占める南東部の佐賀平野に県人口の半数である40万人が暮らし、玄界灘沿岸や杵島丘陵の盆地にも人口集積がある。平地に偏っていることを除けば人口分布に大きな偏りはなく、2005年の国勢調査によれば総人口に占めるDID(人口集中地区)人口の比率が28.4%と島根県に次いで47都道府県中2番目に低く、人口が都市に偏らず比較的分散していることが読み取れる。 1920年~2010年の県人口の推移 総計 [単位 人] 山口祥義(やまぐち よしのり) 衆議院の小選挙区は第47回衆議院議員総選挙から1つ減らされ県全体で2に減らされた。参議院では、全県で1区を構成する。
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1920年~2010年の県人口の推移 総計 [単位 人] 山口祥義(やまぐち よしのり) 衆議院の小選挙区は第47回衆議院議員総選挙から1つ減らされ県全体で2に減らされた。参議院では、全県で1区を構成する。 2007年度(平成19年度)の県内総生産は、3兆115億円である。47都道府県では第43位であり、世界で85位前後の「国」に相当する経済規模を有している。 産業別就業者数では、他の都道府県に比べて第一次産業の割合が多いことから佐賀県は農業県と言われることも多い。 佐賀平野を中心に穀類を中心とした農業が、入り江の多い玄界灘に面する北西部では果樹農業や畜産、沿岸漁業が盛んである。有明海に面した県南地域では海苔の養殖が盛んである。 佐賀県は、県の面積に対する耕地の割合(耕地率)が24%、後述する二毛作の影響で耕地面積に対する作付面積の割合(耕地利用率)が133%(1986年(昭和61年)から20年以上連続で全国1位)と、ともに日本全国の中でも高く、農業が盛んな県である。 主要農産物の米は古くより、特に力が入れられている。1930年代には、耕地整理と電気による機械灌漑の導入によって1反当たりの収量(反収)が日本一となり、その原動力となった効率的な農業手法の改良は「佐賀段階」と呼ばれた。1953年(昭和28年)の大水害などを受けて治水と平行して利水が展開されたことで1950年代に大規模灌漑施設が整備され、さらに佐賀平野で古くから根付いていた集落共同を生かして農法の改良や統一を行ったことで、1960年代にも反収日本一となった。1970年代ごろまで米が県の農業生産額の半分以上を占めていたが、減反の流れなどから米を取り巻く環境は一変した。県などによる大規模な耕地整理により効率化が図られたものの、転作と多品目化が進み、2000年代には25%程度に減少した。一方で、野菜・果実・畜産物の占める割合は約6割に上昇した。また、米の生産額の割合は減っているが、依然佐賀県の耕地の4分の3は水田であり、米作りは盛んである。品種別ではヒノヒカリ、コシヒカリ、夢しずくなどが多い。近年は高温登熟障害による減収が頻発しているため、高温に強い「さがびより」の生産が拡大されている。また、ヒヨクモチを中心としたもち米の生産は非常に多く、生産量では全国1位(2002年(平成14年))となっている。
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佐賀平野は、米だけではなく大豆や大麦など農産品に占める穀類の比率が高い穀倉地帯である。佐賀平野では、夏の表作として稲を栽培する一方、温暖なため冬でも早い生育が見込め、冬の適度な乾燥があることから、冬の裏作として小麦や大麦を栽培する二毛作を行っている。ビールや焼酎の原料などになる二条大麦の年間収穫量は34,000トン(2006年(平成18年))で全国最多。 近郊や西日本を中心とした大都市向けの野菜類の生産も多い。野菜では、タマネギ、レンコン、アスパラガスの生産が多い。塩害に強いため干拓地で多く栽培されるたまねぎの年間収穫量は162,400トン(2006年(平成18年))で全国2位。脊振山地(筑紫山地)では、標高が高いため降水量が多く冷涼な気候を生かして小規模ながら高原野菜の栽培も行われている。 果実ではイチゴ(主要品種は、さがほのか、とよのかなど)、ミカン、ナシなどの生産が多い。ミカンの収穫量は年々減少傾向にあるが、温室栽培で出荷期間が長いハウスみかんの年間収穫量は多い。 畜産では、九州の他県と同じように、鶏、肉牛、豚の飼育頭数は多い。肉牛に関しては、伊万里市を中心に生産される『佐賀牛』(「伊万里牛」)ブランドが近年広くPRされている。 嬉野市など県内各地で茶の生産も多い。嬉野茶ブランドで販売されている。 国内の農産物消費の頭打ちなどを考慮し、米や果実、牛肉などを「佐賀ブランド」で輸出する試みも行われている。 北西部の玄界灘(日本海)と南部の有明海とで、特徴が大きく異なる。 有明海では海苔の生産が特に多く、貝類の漁獲量も多い。板のりの生産も多く、特に贈答品として特化しており最高級品を『佐賀海苔 有明海一番』として販売している。ガザミという有明海でよく獲れるカニのうち太良町近海で獲れるものは『竹崎カニ』と呼ばれている。また、筑後川の下流域では初夏にエツ漁が行われ、本県南東部は福岡県筑後地方と並ぶ産地として知られる。 近年有明海は多くの海産物で収獲量変動が激しくなっており、就業者の減少も加わり、水産業の衰退が深刻化している。また1990年代以降、海苔の不作や魚介類の不漁が増加しており、諫早湾干拓事業の影響が指摘されていることから漁業者が反対運動を起こしている。
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近年有明海は多くの海産物で収獲量変動が激しくなっており、就業者の減少も加わり、水産業の衰退が深刻化している。また1990年代以降、海苔の不作や魚介類の不漁が増加しており、諫早湾干拓事業の影響が指摘されていることから漁業者が反対運動を起こしている。 玄界灘では、アジ、サバなどの魚類やイカ、タコ、エビなどの漁獲量が多く、以上でこの海域の漁獲量の9割以上を占めている。呼子漁港、仮屋漁港、唐津港などで水揚げ量が多い。 県内では明治時代から本格的な石炭の採掘が始まった。杵島炭鉱や古賀山炭鉱、唐津炭田の諸炭鉱など、炭鉱は県中部や北西部に集中しており、最盛期には賑わいを見せた。しかし1950年代以降、埋蔵量・採掘量の減少やエネルギー政策の転換により規模は縮小し、1970年代までにすべての炭鉱は閉山した。 有田町の泉山では磁器の原料として、李参平が発見した陶石の採掘が行われていた。だが、明治中期から使用が始まった天草産の陶石に押され需要が低迷したため1992年(平成4年)で採掘は終了し、現在は一部で在庫が使用されているのみになっている。 佐賀県では日本全体の傾向と同様に重化学工業の比率も高いが、特に食品の出荷額が多い。また、窯業の出荷額が占める割合が大きい(下の項目参照)。 地域的には九州の交通の要衝である鳥栖市や、県庁所在地の佐賀市周辺で工業が盛ん。鳥栖市・基山町などには、特に多くの企業の工場が進出している。伊万里湾では、造船・半導体を軸として水産加工・食品・木材などの工場が並ぶ臨海工業地域が形成されている。 自動車部品、機械、半導体部品などの製造は比較的盛んであり、シリコンウェハーについては大規模工場が立地する関係で年間生産額が全国最多の1,320億円(2010年(平成22年))となっている。 雇用創出や税収増加、人口流出の抑制を狙って1980年代ごろから工場団地への工場誘致が盛んになった。現在も市町村や県が中心となって工場誘致を行っている。
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自動車部品、機械、半導体部品などの製造は比較的盛んであり、シリコンウェハーについては大規模工場が立地する関係で年間生産額が全国最多の1,320億円(2010年(平成22年))となっている。 雇用創出や税収増加、人口流出の抑制を狙って1980年代ごろから工場団地への工場誘致が盛んになった。現在も市町村や県が中心となって工場誘致を行っている。 有田町など県西部では陶磁器関係の産業が特に盛んで、有田焼(伊万里焼)、唐津焼などのブランドも多い。有田では17世紀に朝鮮から渡来した陶工の李参平が泉山で良質な陶石を発見したことで有田焼(近世には伊万里焼と呼ばれた)を創始し、古くは輸出もされたブランド品が生産され、近年は日用品も含めて様々なジャンルの陶磁器が生産されている。有田町は陶磁器の生産量で県の6割を占め、年間出荷額でも200億円-300億円を数える。このほか伊万里市などでも盛んである。 江戸時代に長崎街道(別名シュガーロード)を伝って砂糖が豊富に流通したため製菓業が盛ん。小城市の羊羹、佐賀市の丸ぼうろ、唐津市の松露饅頭など、各地に伝統的な菓子が残っているほか、江崎グリコの創業者の江崎利一、森永製菓の創業者の森永太一郎も共に佐賀県出身であるなど人材も輩出している。 全国でも有数の米どころであることもあり清酒の醸造が盛んで、鎌倉時代には「肥前酒」として幕府に献上していた。製造、消費共に清酒より焼酎が多い傾向が強い九州においては異色となっている。 佐賀県の商業は、人口規模や県民所得からして特に盛んという訳ではない。2000年代初頭から、郊外型の大規模ショッピングセンターの建設が相次ぐ一方で市街地の商店街の衰退が各地で進んでいる。他方では、交通の便がよく県内よりも大規模な福岡市の商業街へも客は流出しており、この傾向は現在も強い。 サービス業人口は多いが、他県と比べて大きな特徴は見られない。観光業については観光資源に乏しいとされることがあるが、その活用やPRがうまく進んでいないだけとも言われている。2005年(平成17年)からは知事が「ファミリーツーリズム」という考え方を提唱し、親・子・孫の三世代旅行を誘致する施策を展開している。 福岡や長崎といった運輸・貿易の集中地帯の中継地としての役割もあり、鳥栖ジャンクションを中心として高速道路沿いや幹線道路沿いに運輸業や倉庫業の事業所が多い。
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福岡や長崎といった運輸・貿易の集中地帯の中継地としての役割もあり、鳥栖ジャンクションを中心として高速道路沿いや幹線道路沿いに運輸業や倉庫業の事業所が多い。 なお、サガテレビが県内唯一の地上波民間テレビ放送局であり、地域(特に県西部の伊万里市・武雄市・嬉野市など)によっては同局とNHK(総合・教育(Eテレ))だけしか受信できない。それゆえ、ケーブルテレビを使う世帯が圧倒的に多い。 県東端部は国道・高速道路・鉄道が集まる九州の交通の分岐点であり、その利便性のため東部には物流や製造業の拠点が多い。県内道路は福岡県と長崎県を結ぶ北東-南西方向の幹線上にあって佐賀市や唐津市を基点としつつ網状に広がっている。 九州の道路交通の大動脈である国道3号が県東端部の基山町・鳥栖市東側を南北に通っている。そのさらに東側を福岡県との県境に並行して九州自動車道が南北に通っている。 県南部の平野部を北東から南西へ斜めに横断する国道34号は鳥栖市から佐賀市・神埼市・武雄市・嬉野市などを経由し長崎市に至る幹線で概して交通量が多い。これと並行して長崎自動車道が走っている。鳥栖市で国道34号と国道3号が接続、また長崎自動車道と九州自動車道・大分自動車道が鳥栖ジャンクションで接続している。 武雄市から佐世保市へ至る国道35号、福岡市方面から唐津市や伊万里市を経由して佐世保市へ至る国道202号、佐賀市と唐津市を結ぶ国道203号、佐賀市から佐賀平野・筑後平野を南東に進み大牟田市を経由して熊本市へ至る国道208号も主要幹線である。山地を越えて佐賀市と福岡市を結ぶ主要路線として川上峡や三瀬峠・三瀬トンネルを経由する国道263号があり、また国道385号は神埼市を経由して柳川市と福岡市を結ぶ国道で、国道34号などと併せて佐賀市と福岡市を結ぶルートを構成しており、山地を越えるが、2006年に東脊振トンネルが開通し利便性が向上した。
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有料道路では、福岡市から国道202号と平行し平戸方面へ迂回して佐世保市を経由し武雄ジャンクションへ繋がる西九州自動車道が整備中で、武雄方面と唐津市東部の一部が開通している。国道203号のバイパスとして佐賀唐津道路が計画されており一部が厳木多久道路や厳木バイパスとして使用されている。また地域高規格道路として、大牟田から国道208号と平行して佐賀市を経由し、有明海沿岸を周回して鹿島へ至る有明海沿岸道路が整備・計画中で、県内の一部の区間が開通している。 県内の主なバスターミナルは佐賀駅バスセンター、唐津大手口バスセンター、鹿島バスセンター、嬉野バスセンターなど。 佐賀市営・昭和・西鉄・祐徳・西肥でnimocaをはじめとする交通系ICカードが利用できる。 ほか、自治体が貸し切りバス業者やタクシー会社に運行を委託するコミュニティバスが各地で運行されている。 佐賀平野と有明海沿岸の鳥栖・佐賀・鹿島の各都市を通るJR長崎本線、武雄や有田を経由し西部を横断する佐世保線は、特急リレーかもめ・かささぎ・みどり・ハウステンボスが運行し、幹線として利用されている。また短い距離であるが東端部を九州の大動脈である鹿児島本線と九州新幹線が南北に走る。そのほか、佐賀と唐津を結ぶ唐津線、福岡市方面から唐津を経由し伊万里へ至る筑肥線、有田から伊万里を経由し松浦方面へ至る松浦鉄道西九州線、基山と朝倉市甘木を結ぶ甘木鉄道甘木線がある。2022年9月には、武雄温泉駅から長崎駅方面へ西九州新幹線が開業した。 1998年に開港した佐賀空港は、全日本空輸による1日5往復の羽田便のほか、LCCの春秋航空が上海浦東便、ティーウェイ航空がソウル便、スプリング・ジャパンが成田便を運航している。旅客数は年間約66万人(2016年度) となっている。夜間貨物便の運行や、福岡・北九州とのマルチエアポート設定などが行われている。便数面や就航航空会社の選択性などの理由、また距離が近い地域では福岡空港(福岡市)や長崎空港(長崎県大村市)も利用される。
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大型港湾は玄界灘沿岸に集中している。唐津港と伊万里港が重要港湾である。唐津港はセメント・砂利・砂・石油などの原材料系の受け入れ量が高い特徴がある。伊万里港は大連・青島航路(中国・民生輪船有限公司)、上海航路(日本・神原汽船株式会社)、華南ラウンド航路(韓国・興亜海運株式会社)など複数の海外航路がありコンテナ貨物の割合が高く、大型船に対応した水深13mの新岸壁・ガントリークレーンを備えた国際コンテナターミナルとして重点的に整備が進められている。地方港湾は、玄界灘側の呼子港(避難港)・仮屋港・星賀港、有明海側の住ノ江港・諸富港・鹿島港・大浦港の計7港である。 玄界灘では、離島と本土を結ぶ定期旅客航路が運航している。唐津東 - 印通寺港便(九州郵船)は唐津と壱岐と結ぶ。唐津港からは高島便(唐津市漁業協同組合高島支所)、湊港からは神集島便(唐津市漁業協同組合神集島支所・ユージングボート宇野)、呼子港からは小川島便(川口汽船)、加唐島便(加唐島汽船)、松島便 (新栄)、馬渡島便(郵正丸)の計4航路、星賀港からは向島便(向島丸)、浦ノ崎港からは福島港便(金子廻漕店)がある。有明海では定期航路はない。 佐賀県の大学進学率は43.6%(2020年(令和2年)高校卒業者)である。 佐賀県を放送対象地域としているテレビ局は2局であり、民放は1局のみとなっている(NHKと民放1局の都道府県は佐賀県と徳島県のみ)。親局送信所は鳥栖市の九千部山に置かれている。 しかし、県境付近では隣接する福岡・熊本の2県の県域テレビ局の放送エリアのめやすとなっている。直接受信が困難な地帯 向けにケーブルテレビ局も各地で整備されており、県内大半の地域ではサガテレビと同じフジテレビ系列であるテレビ西日本を含めた、福岡県の民放を視聴できる環境がある。FNN・FNS系列局のテレビ西日本(TNC)以外の福岡県の民放が佐賀県分の報道取材などを行っている。 地上デジタル放送の開始も遅れ、全国最後発となる2006年(平成18年)12月1日開始であった。佐賀県が音頭を取って事業者を組織し、佐賀デジタルネットワーク社を設立。デジタル放送の県内事業者向け配信を一手に担うとともに、インターネット接続プロバイダ業務も行うこととなった。ただ、県外民放の再配信は福岡県分に限られ、熊本放送については各事業者が個別に許可を得る方式とした。
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地上デジタル放送の開始も遅れ、全国最後発となる2006年(平成18年)12月1日開始であった。佐賀県が音頭を取って事業者を組織し、佐賀デジタルネットワーク社を設立。デジタル放送の県内事業者向け配信を一手に担うとともに、インターネット接続プロバイダ業務も行うこととなった。ただ、県外民放の再配信は福岡県分に限られ、熊本放送については各事業者が個別に許可を得る方式とした。 県内でサービスを提供している(許可施設を有する)ケーブルテレビ事業者は2021年7月時点で15である。主な放送局は佐賀県のケーブルテレビ局を参照のこと。世帯普及率は2021年3月末時点で54.1%。 県域FM放送の親局送信所とNBCラジオ佐賀のFM補完放送のメイン中継局はいずれも唐津市の八幡岳。また、九千部山にも中継局を置いている。 放送対象地域外のRKBラジオKBCラジオ の放送エリアになっており、2021年12月6日から両局のradikoの配信エリアにもなった。。 外国語放送のラブエフエム国際放送(LOVE FM)が佐賀市のみ放送対象地域に、その他県内のほとんどの地域が放送エリアに、放送対象地域外のエフエム福岡、CROSS FM、エフエム熊本、エフエム長崎、が県内の一部の地域で放送エリアとなる。 県域局でもあるNBCラジオ佐賀及びエフエム佐賀の何れもが長らくradikoでの配信を実施しておらず、佐賀市を正式な放送対象地域としているLOVE FMも県内での基本サービス配信を行っていないため、県内でのradiko実施局はNHKラジオと全国放送のラジオNIKKEI及び放送大学のみという状態が続いていたが、2020年4月15日にエフエム佐賀がradikoの配信を開始したため、現在は解消している。2021年10月1日に長崎放送(NBCラジオ長崎本局)がradikoの配信エリアを佐賀県に拡大し、同日から長崎本局と佐賀局で異なっていた番組編成(地域向け番組・CMなど)を長崎本局に統合・集約するなどの大幅な改編を行った。 佐賀県は、地域区分局に当たる郵便局が県内に存在しない唯一の都道府県である。県内全域を指す郵便番号84(上2桁)の地域区分局は、福岡県の久留米東郵便局となっている。 震度4以上の記録が残っている地震の回数は、92年間でわずか7回と日本一地震が少ない県でもある。
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