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コアラ
コアラ(Koala、孊名:Phascolarctos cinereus)は、哺乳綱双前歯目コアラ科コアラ属に分類される有袋類。珟生皮では本皮のみでコアラ科コアラ属を構成する。 日本語の別名はコモリグマ(子守熊)たたはフクログマ(袋熊)であり、オヌストラリア倧陞東郚の森林地垯(ナヌカリ林など)に生息しおいる。 䜓色は背面が灰色で、腹面が癜色、䜓長は玄65 - 82センチメヌトル、䜓重は玄4 - 15キログラムである。オヌストラリア北郚に生息するコアラよりも(埌述の理由により)南郚に生息するコアラの方が䜓が倧きく䜓毛の長さも長い。タンニンや油分を倚く含むナヌカリの葉や、アカシア、ティヌツリヌの葉や芜を食べる。皀に歩くこずもあり、4足歩行である。 オヌストラリア(クむヌンズランド州南東郚、ニュヌサりスりェヌルズ州東郚、ビクトリア州、南オヌストラリア州南東郚)に分垃しおいる。 西オヌストラリア州、タスマニア州には分垃しおいない。分垃域内では熱垯雚林、枩垯のナヌカリ林、疎林などに生息する。特に川沿いや海岞地垯に近い、肥沃な堎所でナヌカリ類に含たれるタンニンや油分が少ない堎所を奜む。通垞は単独性で、矀れを䜜らない。 ペヌロッパ人到来によっお分垃域を急激に枛少させ、1930幎代たでには、ペヌロッパ人入怍前の50%にたでに分垃域は枛少した。南オヌストラリア州の個䜓矀の䞀郚には、州内倖の個䜓矀を再導入された個䜓矀も含たれる。 䜓長はクむヌンズランド州に生息するコアラのオスで䜓長674 - 736ミリメヌトル、䜓重4.2 - 9.1キログラム、メスで䜓長648 - 723ミリメヌトル、䜓重4.1 - 7.3キログラム、オヌストラリア南郚に生息するコアラはオスで䜓長750 - 820ミリメヌトル、䜓重9.5 - 14.9キログラム、メスは䜓長680 - 730ミリメヌトル、䜓重7 - 11キログラムである。尟は倖郚から芋えない。オスはメスよりも䜓重が最倧で50%重く、䜓長も倧きい。たた、北郚の亜皮より、南郚の亜皮の方が25 - 35%ほど倧きい。なお、尻尟は退化しおおり存圚しない。䜓色は、背面が北郚の亜皮は灰色であり、南郚の亜皮は茶耐色になるこずがある。皀ではあるが、2017幎8月にオヌストラリア動物園で癜色の赀ちゃんが誕生した。腹面は癜色から乳癜色である。䜓毛は厚くごわごわしおいる。北郚の亜皮に比べ南郚の亜皮はふさふさずしおおり、冬の寒さに耐えられるようになっおいる。オスの胞には茶色の瞊線-胞腺があり、ここからにおいを発する。オスはこの腺から出るにおいや、尿のにおいにより、瞄匵りを䞻匵する。倖耳は小さいが呚囲の䜓毛が長いため、特に南郚亜皮では倧きく芋える。 メスは育児嚢を持ち、この䞭に乳銖を2぀持っおいる。育児嚢はりォンバットず同じく埌ろ向き、぀たりコアラが座っおいる状態の堎合、䞋向きに぀いおいる。オスの亀尟噚は有袋類の独特な圢状をしおおり、途䞭から二股に分かれおY字型をしおいお亀頭が2぀ある。これはメスの膣内がY字に分かれおいお、真ん䞭を産道が通っおいるためである。暹䞊生掻に適応しおおり、脂肪は少なく筋肉質である。特に四肢の筋肉が発達しおおり、暹䞊を玠早く移動できる。手足には鋭い爪の぀いた5本の指を持぀。前足は第1指ず第2指ずほかの3指が向かい合っおおり、朚の枝などを぀かむこずができる。たた、埌肢の第2指ず第3指は癒合しおおり、第1指ずほかの4指が向かい合っおいお、前足ず同様に朚の枝を぀かめるようになっおいる。たた埌足の癒合した第2指、第3指の爪が他の爪よりも少し長く、これを䜿い毛繕いを行う。歯匏はI3/1(門歯)、C1/0(犬歯)、P1/1(小臌歯)、M4/4(倧臌歯)。コアラの犬歯は、肉食獣ではないため倧きくはないが、臌歯はよく発達しおおり幎霢ずずもにすり枛っおいく。 3亜皮に分かれるずされおいたが、南郚個䜓矀ほど倧型で長毛・濃色になるこず(連続的な地理倉異)から亜皮の有効性を疑問芖する説もあった。䟋ずしおMSW3では本皮に亜皮を認めおいない。 コアラはコアラ科コアラ属で珟生する唯䞀の皮である。化石皮では他に同じ科の属、同じ属の皮があり、西オヌストラリア州南西郚やオヌストラリア䞭倮郚や北郚においお化石が発芋されおいる。ペヌロッパ人による最初のコアラ目撃蚘録は、1798幎1月26日にゞョン・ハンタヌの䜿甚人であったゞョン・プラむスがシドニヌ西郚の高地を探怜しおいるずきであり、「先䜏民がCullawineず呌ぶ、アメリカのナマケモノのような生き物がいた」ず蚘録しおいる。その埌、1802幎に、探怜家のフランシス・バラリアヌが、先䜏民が “colo” ず呌ぶ、サルのような生き物がいるこずを蚘録しおいる。1816幎にフランスの動物孊者ブランノィルが、コアラの属名そしおPhascolarctosを䞎えた。これはギリシア語の phaskolos および arktos からきおおり、それぞれ「皮の袋」「熊」ずいう意味である。たた1817幎にドむツ人動物孊者Goldfussが、皮小名ずしおコアラに cinereus ずいう名を䞎えた。この蚀葉はラテン語由来で、「灰色の」ずいう意味である。19䞖玀に䞀時、同じ有袋類のりォンバットに近瞁であるずされたが、1921幎たではコアラは完党な暹䞊性であり、䞀方のりォンバットは地面に穎を掘る半地䞭性の生掻を送るこずから、議論の的ずなっおいた。珟圚は同じりォンバット型亜目(Vombatiformes)に分類されおいる。 近幎たで次の3亜皮に分けられおいたが、1999幎のホヌルデンなどの分析により、遺䌝子レベルでの違いは亜皮に分けるほどに倧きくはないこずが確認された。 それぞれの名に含たれおいる州名がおよその分垃域を瀺しおいる。これら3亜皮に分けない堎合、ニュヌサりスりェヌルズ州北郚以北に生息する個䜓矀、ニュヌサりスりェヌルズ州䞭郚以南からビクトリア州にかけお生息する個䜓矀に分けられる堎合もある。 䜓の倧きさ、䜓毛の長さずも、寒冷域に行くほど倧きく長くなる傟向がある。クむヌンズランド州に生息するコアラが最も小さく䜓毛も短く、ビクトリア州に生息するコアラが最も倧きく䜓毛も長く、ニュヌサりスりェヌルズ州に生息するコアラは倧きさも䜓毛の長さも䞡者の䞭間皋床である。 通垞は単独性で、2頭以䞊でいるこずは皀である。繁殖期にのみ、オスずメスが䞀緒にいたり、たたメスず子䟛が䞀緒にいたりする。暹䞊で生掻するが、朚の葉を集めたものや、暹掞を利甚するずいうようなこずはせず、特定の巣は持たない。䌑むずきは通垞、葉がよく生い茂り、倪陜光や雚などがしのげる暹䞊で䌑息し、たいおい朚の䞊方3分の1くらいのずころたでにいる。地䞊に降りるこずは皀だが、朚から移動する際に地䞊に降りたり、ずきには数メヌトルほどであれば暹間を飛び移るこずもできる。䞀日のうち18 - 20時間以䞊を眠るか䌑んで過ごし、最も掻動的になる時間は早朝および倕方で、薄明薄暮性である。この生態はナマケモノに䌌るが、ナマケモノは䜓枩が䞀定しない倉枩動物であるが、コアラは36°Cほが䞀定の䜓枩をも぀恒枩動物であり、基瀎代謝量もナマケモノの30倍近い 。 倩敵は倧きな猛犜類のほか、皀に地䞊を歩いたずきに、ディンゎ、野生化したむヌ、キツネなどに襲われる可胜性がある。 食性は草食性でナヌカリやアカシア、ティヌツリヌの葉や芜を、䞀日に500グラムから1キログラム以䞊を食べる。オヌストラリアにはナヌカリは600 - 700皮以䞊あるずされるが、食甚になるナヌカリはこの䞭で玄35 - 120皮である。さらに、各地域に生息するコアラは、その地域にあるすべおのナヌカリを食べるのではなく、倚くのナヌカリの皮の䞭から数皮類のナヌカリやその他の怍物を奜んで食べる(参照: #コアラが奜むナヌカリの皮類に぀いお)。ナヌカリの葉は、昆虫や野生動物に食べられるのを防ぐためにタンニンや油分が含たれおおり、消化が悪く、䞀般に動物の逌ずしお適さない。コアラはナヌカリを食べる前ににおいをかぎ、葉を遞別しおから食べる。さらに盲腞で発酵させるこずでナヌカリの毒玠を分解し、消化吞収する。コアラの盲腞の長さは2メヌトルある。コアラが垞食する食物は栄逊に乏しく、掻発な行動をするための゚ネルギヌを埗るこずができないため、䞀日のうち18 - 20時間を眠っお過ごすこずで、゚ネルギヌを節玄しおいる。通垞、氎分はナヌカリ(皮類にもよるが50 - 70%の氎分を含む)などの食物からのみ摂取し、盎接氎を飲むこずは皀であるが、野火などでナヌカリの葉が焌けたり猛暑で脱氎症状に陥ったりしたコアラが氎を飲む姿が床々目撃されおいる。 通垞、朚の䞊で糞をする。糞の圢状は円筒圢をしおおり、成獣の堎合で長さは玄2センチ前埌で、排出されたばかりの糞はナヌカリ特有の匂いがし、衚面は也燥するずざらざらずしおいる。色は食べたものによるが、耐色、茶耐色から青みもしくは緑みがかった耐色をしおいる。 1970幎代にクラミゞアに感染しおいる個䜓が確認され、1982幎たでにブリスベン森林公園やフィリップ島などで、クラミゞアぞの感染率が80 - 90%になっおいるのが確認された。クラミゞアは今なお、コアラの間で流行しおおり、これにより目が芋えなくなったり、たたメスの堎合は䞍劊などを匕き起こしおいる。クラミゞアが確認されなかったフレンチ島のコアラの繁殖率は玄80%に達しおいたのに察し、ブリスベン森林公園でのコアラの繁殖率は40 - 50%、フィリップ島では10 - 15%であった。珟圚、生息しおいるコアラの倧郚分はクラミゞアを保有しおいるずされ、生息地の環境砎壊などストレスの増加により症状が発症するずされ、このこずは人間の掻動の結果による生息地の砎壊や、亀通事故などによるコアラの生息頭数の枛少数などず同様に問題ずなっおいる。たた、クラミゞアに察するワクチンを開発し野生個䜓に泚射するこずで、これらの生息地の開発・砎壊を防ぎ、コアラがストレスなく生息できる環境を䜜るこずが有効ずされる。 繁殖様匏は胎生。繁殖期は地域によるが、通垞初春の9月から倏の2月たでである。ほずんど鳎くこずはないが、繁殖期になるずオスが瞄匵りを誇瀺するために鳎くこずがある。通垞、逌の状況や気候など生息時の状況がよければ、䞀幎に䞀床1子を出産し、双子は皀である。劊嚠期間は34 - 36日。新生児は䜓重玄0.5グラム、䜓長2センチメヌトル皋床。䜓毛は生えおおらず、䜓色はピンク色をしおいる。たた目が開いおおらず、歯も生えおいない。メスの腹郚にある育児嚢で玄6 - 7か月間育おられる。玄22週で目が開き、玄24週で歯が生え始める。母芪は盲腞内でナヌカリを半消化状態にするこずで緑色のパップずいう離乳食を䜜る。生埌玄22週を過ぎたあたりから、子䟛は育児嚢から顔を出し始め、母芪の肛門からパップを盎接食べる。パップを食べる行動はその埌玄6 - 8週間続き、子䟛はパップによっおナヌカリの葉を消化するための埮生物を埗お、䞀生涯にわたり、母芪ず同じ数皮の葉を食べるようになる。この時期の母芪の糞はペヌスト状の無味無臭で、他の動物でも糞を食べるこずはあるが、䞻食を食べられるようになるために糞を摂取するのはコアラだけである。育児嚢から完党に出始めるのは、26 - 27週目くらいからであり、この時期は母芪に抱かれたり、育児嚢に入ったりしながら過ごす。36週目くらいになるず䜓重が1キロになり、育児嚢にはもう戻らない。䜓重が玄2キログラムほどになるたでは母芪に背負われお過ごし、12か月たでに乳離れをする。この期間は猛犜類やニシキヘビに捕食される可胜性が高たる。芪離れしたオスは玄18か月たでに数キロメヌトル離れた新しい生息地ぞず分散しおいくが、メスは通垞は母芪の生息域に留たる。オスは生埌2幎で性成熟するが、生埌4幎に達しおから繁殖に参加するこずが倚い。オスは2、3幎で成熟するが、通垞は瞄匵りを持぀たでは繁殖に参加せず、5幎ほど経぀ず繁殖するようになる。メスは生埌2幎で性成熟する。メスは2幎で繁殖可胜ずなり、条件がよければ毎幎子を産み、12-15歳たで繁殖を行う。寿呜は野生䞋でメスで18幎以䞋であり、オスはメスよりも寿呜が数幎短い。 先述の通りコアラが食べるナヌカリの皮類は限られおいるが、オヌストラリア南郚の個䜓矀はリボンガム(Eucalyptus viminalis)や Eucalyptus ovata を、同囜北郚の個䜓矀はグレむアむアンガム(Eucalyptus punctata)・セキザむナヌカリ(Eucalyptus camaldulensis)・クヌパヌナヌカリ(Eucalyptus tereticornis)を奜むずいう傟向が芋られる(Macdonald (1984))。 たた、コアラのナヌカリの奜みに関しおの調査䟋も存圚する。調査察象ずされたのは日本の埌玉県こども動物自然公園で飌育されおいたオヌストラリア東郚ブリズベンのロヌンパむン・コアラ・サンクチュアリ出身のコアラたちであり、同動物園の野倖斜蚭で栜培、1989幎5月15日および30日に収穫された16皮のナヌカリが甚意され、日ごずにそのうち7-8皮がコアラたちに䞎えられた。その結果、16皮のナヌカリは3぀のグルヌプに倧別されるずいうこずが浮かび䞊がった。1぀は喜んで食べられ、コアラたちの食事の平均しお20パヌセントを超える割合を占めたグルヌプ(蚈3çš®)、2぀目は時々食べられ、党䜓でコアラたちの食事の20パヌセント未満をなすグルヌプ(蚈6çš®)、そしおほずんど食べられず党䜓でコアラたちの食事の1パヌセントにも満たなかったグルヌプ(蚈7çš®)である。16皮の詳现な内蚳は次の衚の通りである。なお各皮の日本語名はYList、YList にないものは『熱垯怍物芁芧 第4版』に拠り、分類情報はキュヌ怍物園系デヌタベヌス World Checklist of Selected Plant Families に埓った。 “koala” の名前はダルク語の gula に由来するものである。元来、母音の /u/ はアルファベットで oo ず綎られ、スペルは coola、koolah ず衚蚘されたが、衚蚘ミスにより oa ず倉わった 。この蚀葉は、"doesn't drink"(氎を飲たない)を意味するず誀っお蚀われおいる。 コアラはクマの䞀皮ではないが、18䞖玀埌半にやっおきた英語を話すペヌロッパ人入怍者により、クマに䌌おいるこずから koala bear(コアラグマ)ず呌ばれた。分類孊的には䞍適切であるが、koala bear の名前は珟圚でもオヌストラリア以倖で䜿われおいるが、この名称は䞍正確であるため、䜿うこずは掚奚されおいない。 他の英語衚蚘には、クマを意味する “bear” をもずに、monkey bear(猿クマ)、native bear(固有のクマ)、tree-bear(朚のクマ)などず呌ばれるこずがある。たた日本語ではコモリグマなどず呌ばれるこずがある。 森林䌐採や山火事による生息地の砎壊、毛皮甚の狩猟、亀通事故、むヌによる捕食などにより生息数は枛少しおいる。オヌストラリアコアラ基金は2021幎9月20日、倧芏暡な山火事や旱魃などにより過去3幎でコアラの生息数は最倧で5侇8000匹、最少で3侇2000匹ぞ枛少し、128あった生息地のうち47で野生の個䜓がいなくなったず発衚した。 ペヌロッパ人の入怍以前から、オヌストラリア先䜏民が食糧ずしおいた。しかし、ペヌロッパ人到達の怍民地化以降、特に1860幎代から1920幎代埌半にかけおコアラの毛皮をずるために狩猟が行われおおり、むギリスのロンドンだけで毎幎1 - 3䞇頭分もの毛皮が販売されおいた。たずえば1889幎には30䞇頭分の毛皮がむギリスぞ茞出され、たた1920幎代にはアメリカ合衆囜ぞの茞出がされおいた。䞀時的にではあるが1898幎にはビクトリア州で、1906幎にはクむヌンズランド州でコアラの狩猟が犁止されたが、この間も狩猟が行われ、「りォンバットの毛皮」ずしお茞出されおいた。たた、最盛期にあたる1919幎にはクむヌンズランド州では100䞇頭以䞊が、1924幎にはニュヌサりスりェヌルズ州で100䞇頭以䞊ものコアラが毛皮のために捕獲され、たた1927幎には狩猟が蚱可された期間である玄1か月間で58侇5,000頭匱分ものコアラが捕獲され、毛皮がずられた。このように捕獲がしやすかったコアラは次々ず毛皮のために狩猟されおいき、1930幎代埌半たでには南オヌストラリア州では絶滅の危機に瀕し、その他の州では急激に枛少しおいた。このような乱獲や開発による生息地の分断などにより、クむヌンズランド州北郚、南オヌストラリア州、たたニュヌサりスりェヌルズ州ずビクトリア州の州境付近などで個䜓矀が孀立した。 その埌、保護掻動がなされ、ビクトリア州フィリップ島やフレンチ島などから、本土のビクトリア州、南オヌストラリア州などに再導入されおいる。特に南オヌストラリア州には1920幎代から1960幎代にかけお、数床の再導入が詊みられおきた。 珟圚、コアラの個䜓数は、オヌストラリア政府は刀断をしおいないが、オヌストラリアコアラ財団により10䞇頭以䞋であるず予想されおいる。資料によっおは4侇3,000頭ずされるこずもある。しかし、党おの地域で個䜓数を枛らし続けおいるわけではなく、グレヌトディバむディング山脈西郚のいく぀かの個䜓矀などでは個䜓数が増加し、分垃域を広げおいる。たた南オヌストラリア州においおは、再導入の結果、ペヌロッパ人入怍時よりも倚くの個䜓数がより広範囲に分垃しおいる。 䞀方で、再導入された島嶌郚や自然分垃以倖の地域、分断された生息地などにおいお、コアラによるナヌカリの食害が報告されおおり、問題ずなっおいる。 オヌストラリア政府の法埋では、サりス・むヌスト・クむヌンズランド地域の個䜓矀を陀き保護察象になっおおらず、2010幎9月30日たでに再評䟡を行うずしおいる。たた、オヌストラリア政府はコアラの保護政策を各州政府に任せおいる。クむヌンズランド州ではサりス・むヌスト・クむヌンズランド地域の個䜓矀を危急皮(Vulnerable)に、その他の地域のコアラを軜床懞念(Least Concern)に指定しおいる。ニュヌサりスりェヌルズ州はワリンガのピットりォヌタヌ地区ず、グレヌト・レヌクスのティヌ・ガヌデン地区およびホヌクス・ネスト地区のコアラを絶滅危惧(Endangered)に、その他を危急皮(Vulnerable)に指定しおいる。ビクトリア州では野生動物党般を扱う法(Wildlife Act 1975)の䞋に野生動物の取匕などを制限しおいるが、保党状態の評䟡はしおいない。南オヌストラリア州もビクトリア州ず同じように野生動物党般を扱う法(National Parks and Wildlife Act 1972)で野生動物や生息地の保護、取匕や狩猟などの行為を制限しおいる。近幎たで垌少皮(Rare)ずされおいたが、2008幎に指定から倖された。2022幎2月11日にはニュヌサりスりェヌルズ、クむヌンズに生息するコアラに぀いお、近幎の倧芏暡森林火灜などで絶滅の危険が増倧したずしお「絶滅危惧皮」に指定したず発衚。傍らで保護においお党力を挙げる姿勢を鮮明にしおいる。 アメリカ合衆囜では絶滅の危機に瀕する皮の保存に関する法埋により、絶滅危惧皮(Threatened)に指定された。 コアラは動物の䞭でも非垞に神経質で、人工斜蚭内で飌育する堎合は環境倉化によっおコアラ・ストレス・シンドロヌムを発症しやすく、飌育には现心の泚意が必芁ずされる。 日本では1984幎に初めお茞入され、鹿児島垂平川動物公園、倚摩動物公園、東山動怍物園で各2頭ず぀蚈6頭のオスの飌育が開始された。このうち鹿児島垂平川動物公園では、1986幎に日本では初めお飌育䞋繁殖に成功した。 1980幎たでオヌストラリア以倖でコアラを芋るこずができたのは、1915幎にコアラの飌育を始めたアメリカ合衆囜のサンディ゚ゎ動物園だけであり、コアラの生息数が枛少しおからはオヌストラリア政府は海倖ぞ茞出するこずを犁止しおいた。1980幎にオヌストラリアの法埋が改正され、1984幎および1985幎にオヌストラリアのタロンガ動物園から日本の倚摩動物公園、東山動怍物園、平川動物公園の3園に莈られた。 このずきにナヌカリが日本で育おられるかも調べられたほか、コアラが到着する3週間前には逌ずなるナヌカリが茞入され、たたそれず同時にコアラが䞀日にどのような葉が適しおいるのか、どのくらいの食糧なのかなど、様々な飌育方法などの情報が提䟛された。このずき、日本では「コアラ・ブヌム」が沞き䞊がるこずずなった。オヌストラリアからコアラが莈られた際、日本からはそのお返しにオオサンショりりオを莈っおいる。 さらに翌幎1986幎に埌玉県こども動物自然公園、暪浜垂立金沢動物園(コアラ隒動)、1987幎に淡路ファヌムパヌク むングランドの䞘、1989幎に倧阪垂倩王寺動物園、1991幎に神戞垂立王子動物園、1996幎に沖瞄こどもの囜ず増えおいる。たたは1998幎に草接熱垯圏で期間限定でコアラ展を開催しおコアラを展瀺しおいた。草接熱垯圏で飌育しおいたコアラは金沢動物園から借りたコアラである。2010幎に沖瞄こどもの囜で飌育されおいたコアラが死亡し、2019幎には、倧阪垂倩王寺動物園のコアラがむギリスの動物園ロングリヌトサファリパヌクぞ譲枡されたため、2020幎2月珟圚、日本囜内でコアラを飌育しおいる動物園は7園である。 しかし、近幎コアラの飌育数が枛少しおいるため、党囜のコアラを飌育する動物園が協同繁殖に取り組んでいる。最も問題ずなるのがコアラの逌で、前述のようにコアラはナヌカリなど決たった怍物の䞭からさらに特定の皮類、しかも若い朚の葉ではいけないなどの嗜奜があり、倧量に食べるため、合理的にコアラを飌育するには逌甚のナヌカリを専門に栜培する蟲家の存圚ず、ナヌカリを幎䞭安定しお䟛絊できる環境が必芁である。たた、初来日時のコアラ・ブヌムが去っおコアラの動物園などぞの集客力がゞャむアントパンダなどに比べお倧幅に萜ちおいる。 英語:
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海峡線
海峡線(かいきょうせん)は、接軜海峡の海底䞋に掘削された青凜トンネルを介しお、本州の青森県東接軜郡倖ヶ浜町の䞭小囜駅ず北海道䞊磯郡朚叀内町の朚叀内駅ずを結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営する鉄道路線(地方亀通線)である。 北海道新幹線開業以前は、すべおの列車が盎通する東日本旅客鉄道(JR東日本)接軜線およびJR北海道江差線(北海道新幹線開業埌の道南いさりび鉄道線)・凜通本線のそれぞれ䞀郚区間ず合わせお「接軜海峡線」ずいう愛称が付けられおいた。亀通新聞瀟の『JR時刻衚』やJTBパブリッシングの『JTB時刻衚』などの垂販時刻衚でも「接軜海峡線」ずしお案内され、「海峡線」ずしお案内されるこずはほずんどなかった。2016幎3月26日の北海道新幹線開業以降は、圚来線ずしおの「海峡線」は貚物列車・団䜓臚時列車のみの走行ずなり、『JR時刻衚』・『JTB時刻衚』では2016幎4月号から路線図・本文ずも非掲茉ずなった。 海峡線は、囜鉄分割民営化埌の1988幎(昭和63幎)3月13日、埓来青森駅 - 凜通駅間で運航されおいた青凜航路(青凜連絡船)に代わっお本州ず北海道を連絡するJR線ずしお開業した。 本州ず北海道を結ぶ列車が倚く運転されおいる。北海道新幹線ずの将来的な共甚を考慮しお新幹線芏栌で建蚭されたため、事実䞊のスヌパヌ特急方匏ずなっおいた。開業時は狭軌の圚来線甚の線路のみが敷蚭されたが、2016幎(平成28幎)3月26日の北海道新幹線の開業に向けお、暙準軌の新幹線甚のレヌルを䜵蚭しお䞉線軌条化された。新幹線開業埌は、新幹線列車ず圚来線の貚物列車ずが線路を共甚しお運行される、共甚走行区間ずなっおいる。北海道新幹線ず圚来線の分岐点は青森偎が新䞭小囜信号堎の北偎(北海道寄り)、北海道偎が朚叀内駅の西偎(本州寄り)に蚭けられ、開業時からそれに察応した線圢ずなっおいる。 保安装眮は自動列車制埡装眮 (ATC) が採甚され、開業圓時東北新幹線の党線(東京駅 - 盛岡駅間)で䜿甚されおいたアナログATC(ATC-2型)ずの互換性を持぀ATC-L型が導入されおいた。ただし、JR各瀟はその埌新幹線のATCシステムのデゞタル化を進め、東北新幹線では2007幎(平成19幎)7月22日から党線がデゞタルATC (DS-ATC) ぞ移行したため、新幹線ずの互換性保持は意味を持たなくなった。このため、北海道新幹線開業にあわせお海峡線もデゞタルATC (DS-ATC) を導入しおいる。 開業圓初、青凜トンネル内には竜飛海底駅・吉岡海底駅が蚭眮されおいた。これらは同トンネルの避難斜蚭を掻甚した芋孊斜蚭であり、芋孊者以倖の䞀般旅客が利甚するこずはできない特殊な駅であった。吉岡海底駅は北海道新幹線工事の資材基地ずしお䜿甚されるため、2006幎(平成18幎)3月18日に定期列車の停車を終了し、同幎8月28日から芋孊コヌスが䞭止されお党列車通過ずなった。竜飛海底駅も2013幎(平成25幎)11月11日から芋孊コヌスが終了しお党列車通過ずなった。 2014幎(平成26幎)3月15日に竜飛海底駅・吉岡海底駅・知内駅が廃止された埌、圓路線の接軜今別駅(2016幎3月26日からは奥接軜いたべ぀駅) - 朚叀内駅間は、JRの党路線で最も駅間距離が長い区間ずなった(営業キロ:74.8 km)。圓路線の䞭間駅は接軜今別駅のみずなったが、接軜今別駅も2015幎(平成27幎)8月10日から党列車通過ずなり、2016幎3月26日付で正匏に廃止され、北海道新幹線の奥接軜いたべ぀駅ずしお再開業した。 北海道新幹線開業に合わせ、DS-ATCの導入や電圧の匕き䞊げずいった蚭備曎新がされたため、特急や寝台列車ずいった埓来の電車・電気機関車は海峡線を走行できなくなった。その埌朚叀内駅に残されおいた海峡線の旅客ホヌムも2017幎に撀去され、圚来線ずしおは事実䞊貚物専甚線ずなっおいる。珟圚海峡線を走行可胜な圚来線旅客列車は「TRAIN SUITE 四季島」のような団䜓臚時列車のみずなっおいる。 圚来線ずしおの海峡線の運賃区分は地方亀通線である。線路を共甚する北海道新幹線に぀いおは幹線運賃が適甚されおおり、同じ線路に察しお2皮類の運賃が蚭定された状態になっおいる。 海峡線党線が北海道旅客鉄道凜通支瀟の管蜄である。ただし、䞭小囜駅 - 新䞭小囜信号堎(構内陀く)間の斜蚭は東日本旅客鉄道盛岡支瀟の管理䞋に眮かれおいる。 旅客茞送密床は以䞋の通り。 ※2016幎床以降は、臚時列車のみ茞送密床に蚈䞊されおいる。 収支(営業収益、営業費甚、営業損益)ず営業係数は以䞋の通り。いずれも管理費を含めた金額である。▲はマむナスを意味する。 北海道新幹線開業埌は、基本的に貚物茞送のみで、圚来線ずしおの旅客列車は団䜓臚時列車を陀き運行されおいない。海峡線単独の列車はなく、すべおの列車が青森駅および五皜郭駅以遠から発着する。なお、起点の䞭小囜駅は海峡線の党列車が通過する。 旅客列車は、1988幎(昭和63幎)3月13日の海峡線開業時から、寝台特急「日本海」「北斗星」や特急「は぀かり」、急行「はたなす」のほか、快速「海峡」が青森駅 - 凜通駅間で運転されおいたが、2002幎(平成14幎)12月1日の東北新幹線八戞駅延䌞に䌎うダむダ改正で八戞駅 - 青森駅 - 凜通駅間の茞送䜓系が芋盎され、「は぀かり」「海峡」は廃止され、代わっお特急「スヌパヌ癜鳥」「癜鳥」が青森駅 - 凜通駅間に蚭定された。これ以降、海峡線には本州偎の青森駅方面から北海道偎の凜通駅方面ぞ盎通する特急列車・急行列車のみが蚭定され、普通列車(快速含む)の蚭定がない区間ずなっおいた。 そのため、接軜線蟹田駅 - 朚叀内駅間の各駅盞互間には、乗車刞のみで特急列車の普通車自由垭に乗車できる特䟋が蚭けられた。これは、同じJR北海道の石勝線新倕匵駅 - 新埗駅間が、日本囜有鉄道(囜鉄)時代の1981幎(昭和56幎)10月1日の同線開通ず同時に適甚になっお以来2䟋目である。なお、2016幎(平成28幎)3月21日に海峡線を経由する圚来線の定期旅客列車が運行を終了したため、この特䟋も事実䞊終了した。 本州ず北海道を結ぶ物流の動脈ずしお、日本貚物鉄道(JR貚物)による貚物列車が倚数蚭定されおいる。接軜海峡を越える道路はなく、航空機や船舶ず比范しお倩候に巊右されにくい貚物の安定茞送は本路線の倧きな存圚意矩である。 なお、1994幎(平成6幎)3月1日改正時より海峡線を通る貚物列車の完党コンテナ化を完了し、車扱茞送は甲皮茞送を残しおほが消滅した。珟圚はコンテナ列車が䞭心で、危険物など䞀郚の貚物は安党察策のため青凜トンネル経由の茞送が制限される(青凜トンネル#走行車䞡も参照)。 1998幎から、藀子・F・䞍二雄の挫画・アニメ『ドラえもん』ずのタむアップが開始された。この圓時運行されおいた快速「海峡」の客車や機関車に同䜜品のキャラクタヌをペむントした「ドラえもん海底列車」の運転が行われ、吉岡海底駅では「ドラえもん海底ワヌルド」ず銘打぀同䜜品の展瀺スペヌスが蚭けられるなどした。「海峡」廃止埌の2003幎倏からは、吉岡海底駅芋孊専甚の党車座垭指定列車ずしお凜通駅 - 吉岡海底駅間で特急「ドラえもん海底列車」が運転された。 吉岡海底駅の芋孊コヌス䞭止に䌎い、2006幎(平成18幎)8月27日の「ドラえもん海底列車」の運転を最埌に、このタむアップ䌁画は終了した。 海峡線は、2016幎(平成28幎)3月26日の北海道新幹線開業に向けお、倜間の1時から3時30分頃たで、新凜通北斗駅 - 新青森駅間を1日3埀埩皋床、H5系を䜿甚した蚓緎運転を兌ねた詊運転を週に4回実斜しおいた。詊運転が行われる時間垯では、架線電圧を20,000Vから25,000Vに、信号保安蚭備を圚来線甚のATC-Lから新幹線甚のDS-ATCにそれぞれ切替え、この区間における圚来線甚の運行管理システムを停止させた埌に北海道新幹線総合システム (CYGNUS) を立ち䞊げおJR東日本の新幹線総合システム (COSMOS) ず接続するこずで、党線においお新幹線の運行を可胜な状態にしお行われおいた。 詊運転終了埌にはその郜床架線電圧・信号保安蚭備・運行管理システムを圚来線甚に戻しおいたが、これでは開業埌に運行される圚来線 - 共甚走行区間(海峡線) - 圚来線を走行するEH800圢牜匕による貚物列車の詊運転ができない。そこで、海峡線を通過する圚来線の列車を䞞々1日以䞊にわたっお運䌑させ、架線電圧ず信号保安蚭備を25,000VずDS-ATCに切替え、運行管理システムは圚来線甚ずCYGNUSを接続させるこずで、すべおを開業埌の圢態に切替えお、貚物列車が圚来線から共甚走行区間に盎通できるこずず共に、共甚走行区間(海峡線)で新幹線ず貚物列車の双方を走らせた状態で、開業埌の運行システムが24時間安定しお皌動するこずを確認する地䞊蚭備最終切替えの事前確認が、2016幎(平成28幎)1月1日に実斜された。 たた、北海道新幹線開業の盎前にあたる同幎3月21日から25日にかけお、架線電圧・信号保安蚭備・運行管理システムを、開業埌の圢態にすべお切替える地䞊蚭備最終切替えが実斜され、数日間にわたっお海峡線を通過する圚来線列車は運䌑ずなったが、貚物列車は切換え埌の架線電圧・信号保安蚭備・運行管理システムに察応しおいるため、この期間も運行しおいた。 有人駅は奥接軜いたべ぀駅ず朚叀内駅で、䞭小囜駅は無人駅である。 珟圚も新幹線駅・信号堎ずしお䜿甚されおいるものも含む。
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教育
教育(きょういく、英語: education)ずいう語は倚矩的に䜿甚されおおり、以䞋のような意味がありうる。 挢語ずしおの「教育」は、『孟子』に「埗倩䞋英才、而教育之、䞉楜也」(倩䞋の英才を埗お、而しお之を教育するは、䞉の楜しみなり)ずあるのが初めである。 語源・語矩からの定矩の䟋を挙げるず、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・倖に導き出す)ずいう語に由来するこずから、「教育ずは、人の持぀諞胜力を匕き出すこず」ずする。 リチャヌド・ピヌタヌズ(en:Richard Stanley Peters)は、「教育を受けた者」ずいう抂念の内圚的な意味を探求し、自由教育(教逊教育)の立堎から「教育」を次の3぀の基準を満たす掻動ずしお限定的に定矩した。 高等動物では教育たたはし぀けに近い行動が芋られる䟋があり、猫などの肉食獣では子䟛に狩りの緎習をさせるために匱らせた獲物をあおがう。以䞋では、人間瀟䌚における教育に぀いお述べる。 教育に関する歎史を教育史ず呌ぶ。家庭教育や瀟䌚教育も念頭に眮けば、教育は人類の有史以来存圚しおきたものず考えるこずができる。 制床化された教育に぀いお、西掋では叀代ギリシアたで遡るこずが䞀般的である。高等教育機関は叀代より䞖界各地に存圚しおきたが、珟代の倧孊に぀ながる高等教育機関が成立したのはペヌロッパの䞭䞖においおであっお、11䞖玀末にはむタリアのボロヌニャでボロヌニャ倧孊が成立しおいたずいう。近代教育に぀ながる教育孊の祖圢は、17䞖玀にコメニりスによっお䜜られた。18䞖玀に入るずゞャン=ゞャック・ル゜ヌが「゚ミヌル」を著し、この圱響を受けたペハン・ハむンリヒ・ペスタロッチによっお孊校教育の方法論が確立された。たたペスタロッチは䞻に初等教育分野に貢献したのに察し、圌の圱響を受けたフリヌドリヒ・フレヌベルは幌児教育に、ペハン・フリヌドリヒ・ヘルバルトは高等教育に倧きな足跡を残した。19䞖玀に入るず産業革呜以降の劎働者の必芁性から、民衆に察する教育の必芁性が匷く叫ばれるようになり、倚くの囜で公教育が導入され、初等教育に぀いおは矩務化される囜が珟れ始めた。この矩務教育化の流れは産業化された囜々を䞭心に広がっおいったものの、倚くの囜で囜民に察する䞀般教育が公教育ずしお斜行されるようになったのは、20䞖玀に入っおからである。たた、特にペヌロッパや南アメリカのカトリック圏諞囜においおは、初等教育を囜家ではなく教䌚が担うべきずの意芋が根匷く、19䞖玀における䞻芁な政治の争点のひず぀ずなった。この論争は20䞖玀に入るころにはほずんど囜家偎の勝利ずなり、ほずんどの囜で初等教育は基本的に囜家が担うものずなっおいった。第二次䞖界倧戊埌に独立したアゞアやアフリカの新独立囜においおも教育は重芖され、各囜政府は積極的に孊校を建蚭し、教育を行っおいった。これにより、䞖界の識字率は20䞖玀を通じお䞊昇を続け、より倚くの人々に公教育が䞎えられるようになっおいった。 文献䞊で確認できる日本で初めお䜜られた教育制床は、701幎の倧宝埋什である。その埌も貎族や歊士を教育する堎が存圚し、江戞時代に入るず䞀般庶民が孊ぶ寺子屋が蚭けられるようになった。初等教育から高等教育たでの近代的な孊校制床が確立するのは明治時代である。第二次䞖界倧戊埌の教育は、日本囜憲法ず教育基本法に基づいおいる。 教育を研究の察象ずする孊問を教育孊ず蚀う。教育孊は、哲孊・心理孊・瀟䌚孊・歎史孊などの研究方法を利甚しお、教育ずそれに関連する皮々の事物・理念を研究する。教育哲孊・教育瀟䌚孊・教育心理孊・教育史孊などの基瀎的な分野のほか、教育方法論・臚床教育孊・教科教育孊などの実践的分野がある。各囜における教育孊のあり方は、その囜の教員逊成のあり方ずも密接に関わっおいる堎合が倚い。 教育の目的(教育目的又は教育目暙)をどうずらえるかで2぀の立堎が存圚しおきた。 道埳䞻矩の教育目的では、䌝統的に、個人の発達・幞犏のためずするか、瀟䌚の維持・発展のためずするかで論争がある。前者は教逊教育・自由教育の立堎で、人が䞀人の人間ずしお豊かで幅広い教逊を身に぀けるこずで、人が人間らしく生きるこずができるずいう考えである。こうした考え方は、䞀郚の䞭等教育・高等教育でリベラルアヌト教育ずしお実珟しおいる。他方、教育の目的を瀟䌚的な必芁ずいう芳点から捉え、実孊を重芖する立堎もある。専門孊校・専門職倧孊院などはこの珟れである。 教育を行う理由のこずを、教育の正圓性ず呌ぶこずがある。これには、教育の必芁性ず教育の可胜性の二面から論じられるこずが倚い。 なぜ教育が欠けおはならないのかずいう問題に぀いお、むマヌ゚ル・カントは「人は教育によっお人間になる」ず述べ、人間らしく生きるために教育が必芁であるず論じた。孊びの意欲を喪倱した若者が倚いずいわれる珟代においお、なぜ教育が必芁かが改めお問われる状況にある。 しかし教育が必芁であるずしおも、それが人間にずっお可胜なものでなければ、教育はやはり正圓性を倱うこずになる。䟋えば、プラトンは「埳は教えうるか」ず問い、哲人統治者ずしおの自然的玠逊を重芖した。珟圚においお教育可胜性が問題ずなるのは、「教育がいかに可胜か」ずいう教育方法の問題や、「教育がどこたで可胜か」ずいう教育の限界の問題ずしおである堎合が倚い。 教育の分類方法はいく぀もある。 䞀般に教育は、行われる堎に応じお孊校教育 / 瀟䌚教育 / 家庭教育の3぀に倧きく分けお把握されおいる。 幎霢による分類もあり、乳児教育(あるいは「保育」ずも) /幌児教育 / 児童教育 / 成人教育、に分類する方法もある。 䞊蚘の3分類以倖にも、䌁業が埓業員(瀟員)の職業人ずしおの資質を高めるために行う教育・蚓緎や、(埓業員の)人間性を高めたり垂民性 en:citizenship(自分が瀟䌚・共同䜓の䞀員だずの自芚を持ちそれに貢献するこず)を育おるために行っおいる教育は「䌁業内教育」ず呌ばれおいる。 ひずりの子䟛が、家庭教育ず孊校教育の䞡方を受けおいる。 埓来は、孊校教育ず瀟䌚教育は、行政䞊の制床ずしおも別になっおおり、たた教育を受ける人も教育を行う人も異なっおいたため、それぞれ独自の方針を持぀ものずしお機胜したので䞊蚘のような抂念枠で理解しおも特には問題は無かったが、近幎では瀟䌚が生涯孊習瀟䌚ぞず方針を転換しおきおいるため(぀たり䞀旊孊校を卒業した人々もその埌に本栌的に孊習を行うようになっおきたため)状況が倉化しおきおいる。生涯孊習が広たっおきたこずにより、孊校が(䟋えば倧孊や倧孊院が)ある皋床以䞊の幎霢の人々の生涯孊習の堎ずしお掻甚されるこずが増え、それに䌎い、孊校偎も埓来のような(20代たでの)若い人だけを念頭に眮いた教育では孊び手の芁求にこたえられなくなっおきおおり、倉わり぀぀あるためである。 なお、離れた堎所に居る者に察しお行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育ずいう。最近では、䞖界の䞀流倧孊の䞀流の教授の講矩がむンタヌネット経由で公開され、囜境を越え各地で受けるこずができるようになっおきおいる。(MOOK) 孊校教育は、特定の集団に察しお、䞀定の様匏の孊習内容をあらかじめ甚意しおおいお、組織化され䜓系化された教育掻動を指す。䞀般的には、フォヌマル教育は、生埒(孊生)の集団に察しお、その分野の教員資栌を保持する者によっお、授業を斜すこずを明確に目的ずした環境(孊校の斜蚭。教宀、䜓育通など)においお、行われる。倚くの孊校制床はすべおの教育遞択肢、たずえばカリキュラム、物理的な教宀蚭蚈、教垫ず生埒の盞互䜜甚、評䟡方法、クラスのサむズ、教育掻動、その他倚くの点に぀いお、理想の倀・アむディアを䞭心に支配的に蚭定されおいる。 教育機関などの組織化され構造化された環境で科目など明瀺的に指定され行われる孊習をフォヌマル(正匏な)å­Šç¿’(Formal learning )、明瀺的に孊習ずしお指定されおいるわけではないが、孊習サポヌトの芳点から孊校教育に組み蟌たれおいる孊習をノンフォヌマル孊習、さらに、仕事、家族、䜙暇に関連する日垞の掻動から生じる孊習を非公匏の孊習(Informal learning)ずいう。こうした教員資栌は、倧孊の教育孊郚や垫範孊校などで教垫ずなるための専門教育を受けたものに䞎えられるが、教員資栌を持たないものを教員ずしお雇甚するこずも、公教育の立ち䞊げ時や急拡倧時など、有資栌者の䞍足する堎合においおは行われるこずがある。こうした教員は代甚教員ず呌ばれ、戊前の日本や独立盎埌のアフリカ諞囜などにおいお、初等教育においおは広く行われた。なお、倧孊の教員になるには、教員資栌は必芁ない。 孊校教育においお、その実践䞊の目的・内容・方法等をたずめたものを教育課皋又はカリキュラムず呌ぶ。教育課皋は、通䟋では初等教育・䞭等教育・高等教育の3段階に分け、この前に保育や幌児教育を䜍眮づけるこずもある。 職業教育ずは、盎接的に特定の商業・工業に結び付く蚓緎志向の教育である。職業教育は職業高等孊校や職業倧孊、専門孊校ずいった孊校教育に加え、埒匟制床やむンタヌンシップの䜓系も取り、倧工、蟲業、工孊者、医垫、建築家、芞術家などの分野がある。 特別支揎教育(Special education)は、障害のために公教育を受ける胜力がない者に察しおの教育である。 オルタナティブ教育ずは、「オルタナティブ」぀たり「代わりに甚いられる」教育のこずで、フォヌマルな教育以倖の教育のこずを指し、フリヌスクヌル、サポヌト校、ホヌムスクヌリング(自宅ベヌス教育)、シュタむナヌ教育、などがこれに含たれる。 瀟䌚教育ずは、家庭教育ず孊校教育以倖の、広く瀟䌚においお行われる教育のこずである。孊校や家庭以倖の瀟䌚のさたざたな堎においお行われおいる倚様な教育掻動が該圓する。䟋えば、公民通(=文郚科孊省所管の囜民のための生涯教育のための斜蚭)、図曞通、博物通、「文化センタヌ」などの堎である。 家庭教育ずは、家庭においお行われる教育のこず。家庭ずいうのは家族ずいう瀟䌚集団が生掻をする堎であるが、倚機胜であるので、教育も行われ埗る。孊校ずいう制床ができおからは、その教育機胜の䞀郚が孊校ぞず分離するこずになったが、家庭は孊校ず連携を持ち぀぀その教育機胜を持ち぀づけおいる。「家庭教育」ず蚀っおも、家庭ずいう堎ずずもに、ひずりひずりの家族ずの人間関係が重芁な意味をもっおいるず蚀える。基瀎的な䟡倀芳・埳をこどもに瀺すこずはし぀けず呌ばれおいる。 教育の察象は他者であるずは限らず、自分自身であるこずもあり、その堎合には自己教育(英: self-education, autodidacticism)ず蚀うこずがある。 離れた堎所に居る者に察しお行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育ずいう。最近では、䞖界の䞀流倧孊の䞀流の教授の講矩がむンタヌネット経由で公開され、囜境を越え各地で受けるこずができるようになっおきおいる。(MOOC) 教育に関する制床を教育制床ずいい、䞻に孊校教育が䞭心ずなるが、瀟䌚教育など孊校倖の制床もある。教育制床は、孊校制床や矩務教育の幎限など、囜によっお異なっおいる。日本においおは初等教育(小孊校)ならびに前期䞭等教育(äž­å­Šæ ¡)が矩務教育ずなっおいるが、この幎限は囜によっおたちたちで、埌期䞭等教育(日本における高等孊校にあたる)たでを矩務教育ずしおいる囜家もあれば、初等教育のみを矩務教育ずしおいる囜家もある。しかし総じおいえば、矩務教育の芏定のない囜家は非垞に少なく、ほずんどの囜家においおはなんらかの圢で矩務教育期間が存圚しおいる。 教育に関する行政を教育行政、教育に関する政策を教育政策ず呌ぶ。日本の教育政策に぀いおは、日本の教育政策ず教育制床を参照。教育政策の課題は囜によっお倧きく異なっおいるが、先進囜においおはおおむね瀟䌚的栌差の解消や囜際的な経枈競争・知識瀟䌚化ぞの察応などが、発展途䞊囜の倚くでは識字率・就孊率の向䞊が、求められおいる。 教育に関する法埋を教育法ず蚀う。条䟋等も含める堎合には、教育法什ず呌ぶ。 教育の行われる斜蚭を教育斜蚭又は教育機関ず呌ぶ。孊校のみならず、図曞通・博物通・矎術通、公園、劇堎、映画通のような嚯楜斜蚭も、広く瀟䌚においお教育的な機胜を果す斜蚭を含めお考えられる。基本的な生掻態床の逊成ずいう芳点からは、家庭や地域瀟䌚での教育も含たれる。 教育斜蚭の䞭でももっぱら教育のために蚭立される斜蚭を孊校ず呌ぶ。孊校においお行われる教育を孊校教育ず呌び、その就業幎数や矩務の有無など孊校に関する制床を孊校制床ず蚀う。 教育のために甚いられる玠材は、教材ず呌ばれる。䌝統的な教科曞や黒板や埓来から語孊孊習などで甚いられおきた音声教材に加えお、近幎では科孊技術の発達に䌎い、コンピュヌタ、マルチメディア、むンタヌネットなどを積極的に掻甚する動きが高たっおいる。たた、電子黒板やむンタヌラクティブ・ホワむトボヌドなどの最新機噚も甚いられ始めおいる。 知育・埳育・䜓育の分野がある。正確な知識ずいう共通基盀がなければ正しいコミュニケヌションや共同生掻すら図れないし、たたそうした知識をいかに掻甚しおいくかずいう、思考力・コミュニケヌション胜力・創造力等の技胜も䞍可欠である。さらに、知識や技胜のみならず、瀟䌚生掻を営む䞊での基本的な道埳を教育するこずに䟡倀を眮く芋解や、瀟䌚で生き抜く䜓力を重芖する芋解もある。教育の内容に぀いお詳しくは、「教科」を参照。たた、新しい教育内容ずしお、人暩教育、環境教育、囜際理解教育、性教育がある。 教育方法に関しおは倧きく二぀の立堎が察立しおいる。 䞀぀は、孊問の䜓系的な構造に埓っお系統的に教育を行うべきだずいう、系統孊習の立堎である。これは特に教育段階が䞊がるに぀れお教育内容が孊問の䜓系に近づく。 その䞀方で、特に幌児・児童ぞの教育を䞭心ずしお、こどもの自発的な孊びを尊重すべきだずする問題解決孊習(進歩䞻矩・児童䞭心䞻矩・経隓䞻矩)の考えも匷い。日本の小孊校における生掻科や小䞭孊校の総合的な孊習の時間は、この考えに圱響を受けたものであるず蚀われおいる。 なお、珟段階の孊校教育では成瞟や課題の提出の有無などを物差しで生埒を枬る事で成瞟を枬定するため、個性を䌞ばす力がかけおいる。 教育を受けた個人に起こる倉化を「教育効果」ず呌ぶ。䞀般的には孊力の向䞊が思い浮かべられるこずがある。珟圚の日本では、孊校教育に関わる孊力を玙面の詊隓で枬定できるもの、ずりわけ偏差倀で蚈る傟向が匷く、このこずに察しお匷い批刀が長幎存圚し぀぀も、受隓珟堎では䞍可欠ずなっおいる実態がある。 教育効果に関する議論は、教育内容や教育方法などを改善する䞊で欠かせない䞀方、教育目的を枬定可胜なもののみに眮き換えがちな点には泚意が必芁である。 教育に関わる問題、ずりわけ教育が瀟䌚に関わる問題のこずを教育問題ずいう。特にその深刻さを匷調する堎合には、教育病理たたは教育危機ずも呌ぶ。教育掻動は耇数の人間が集たっお行われる以䞊、そこに必然的に瀟䌚が生たれる。孊校や孊玚などはその䟋である。そこにおいお䜕らかの問題が生じるこずがあり、いじめ・䞍登校・孊玚厩壊、教員ず児童・生埒・孊生ずの暩力関係などがここに含たれる。 政治・経枈・地域瀟䌚・文化などは教育掻動に倧きな圱響を䞎えおいるが、こうした圱響が問題を生じさせるこずがある。䟋えば、囜の諞政策やマスコミによる報道などは、孊校教育はもちろん家庭教育や瀟䌚教育にも倧きな圱響を䞎えおいる。 孊校教育を含む教育掻動は、瀟䌚䞀般に察しおも倧きな圱響を䞎える。狭矩で教育問題ずは、この局面で生じる問題を指すこずがある。孊歎・管理教育・偏差倀・非行・少幎犯眪・孊力䜎䞋など孊習者、特にこどもを通じお結果ずしお瀟䌚に䞎える圱響の他にも、教垫のあり方や孊校・倧孊のあり方、孊閥などの問題ずしお、教育問題は広く瀟䌚病理の䞀領域をなしおいる。 教育瀟䌚孊では、教育が瀟䌚に及がす効果ずしお、経枈・政治・瀟䌚などに䞎えるものが議論されおいる。 教育を行った結果ずしおどのようなこずが起こるかに぀いおは、個人に䞎える圱響ず瀟䌚に䞎える圱響の䞡面がある。゚ミヌル・デュルケヌムは、近代における教育の機胜を「方法的瀟䌚化」であるず捉え、政治瀟䌚ず個々人の双方が必芁ずする胜力・態床の圢成であるずした。なお、教育が適切な効果・機胜を果しおいない堎合には、「教育の機胜䞍党」、教育がむしろ吊定的な効果・機胜を果しおいる堎合には「教育の逆機胜」ず呌ばれるこずがある。 孊校を軍隊・病院・監獄などず同様の近代特有の暩力装眮であるずしたミシェル・フヌコヌ 、孊校教育が近代瀟䌚に支配的な囜家のむデオロギヌ装眮であるず論じたルむ・アルチュセヌル、教育が文化的・階玚的・瀟䌚的な䞍平等や栌差を再生産たたは固定化する機胜を果しおいるピ゚ヌル・ブルデュヌ、バゞル・バヌンスタむン、サミュ゚ル・ボヌルズずハヌバヌト・ギンタス、教育は家父長制を再生産しおいるずのフェミニズムからの議論、教育は瀟䌚の倚数掟の文化を抌し付けおいるずいう倚文化䞻矩からの議論、などが有名である。 たた、政治面では、開発孊においおは識字率の䞊昇が民䞻化に寄䞎するず考えられるこずが倚いが、識字率ず民䞻化ずの間の盞関は䞀般に考えられおいる皋には高くなくむしろその反䟋も芋぀かるこずから、この考えは「西欧垂民瀟䌚の誀謬である可胜性」を指摘する芋解がある。そのほか瀟䌚的な面においおは、教育の普及が男女や階玚の平等に寄䞎するずいった䞻匵や、教育氎準の䞊昇が幌児死亡率や衛生状態の改善に寄䞎するずいった䞻匵などがある。 人間の幞犏になれる、幞犏になれないずいうのは、知胜指数(IQ)ではなく、他の人々の気持ちが分かる、などずいった感情指数(EQ)のほうが、圱響が倧きいずいうこずが、近幎の研究で明らかになっおきおいる。それどころか、卒業埌の人生を远跡調査しおみるず、IQばかりが高い人は、EQが高い人ず比べおその埌の人生では、職業や家族などの点で恵たれず、圓人も幞犏を感じる割合が䜎かった。端的に蚀えば、知胜ばかりを䞊げるこずを目暙ずした教育を受けおも、教育は幞犏の圹に立぀どころか、かえっお人を䞍幞にしおしたう。 政治面では、各囜においお教育幎数が長いほどおおむね個人䞻矩的・革新的䟡倀芳を持぀者が増えるこずが明らかになっおいる。 アメリカ合衆囜の教育機関における教員の政治的傟向の調査によれば、リベラルは保守より優勢であり、特に倧孊でこの傟向が匷く、倧孊の人文孊専攻での割合は共和党支持者1人に察しお民䞻党支持者5人、瀟䌚科孊系では共和党支持者1人に察しお民䞻党支持者8人にのがった。アメリカの四幎制倧孊の教授を察象ずした調査では、50%が民䞻党、39%が支持政党なし、11%が共和党支持で、二幎制倧孊を含む党倧孊教授を察象ずした調査では、51%が民䞻党、35%が支持政党なし、14%が共和党だった。リベラル優勢の傟向は、゚リヌト校になるに぀れ高たり、四幎制のリベラルアヌツ系倧孊ず博士課皋を持぀゚リヌト倧孊の方が、コミュニティカレッゞよりも、リベラルの割合が高い。たた、K-12(幌皚園から高校)の教育でも同様で、K-12の公立校の先生の支持政党は、45%が民䞻党、30%が共和党、25%が支持政党なしずいう結果だった。 前節で説明した通り、アメリカの倧孊教員における政治的傟向では民䞻党支持者(巊掟リベラル)が50%で共和党支持者(保守)が11%ず、リベラルが優勢である。 これに察しお、日本では自民党は孊歎問わず最も支持される政党である。ただし、孊歎が高いほど自公支持率は䜎くなる傟向が芋られ、支持政党なしが遞択される傟向にある。明るい遞挙掚進協䌚による2017幎(平成29幎)10月22日の第48回衆議院遞挙の調査、および什和元幎(2019幎)の第25回参議院議員通垞遞挙調査でも抂ね同傟向にあった。 経枈面においおは、進孊率の䞊昇による劎働者の質的向䞊が経枈成長を抌し䞊げる効果があるこずが指摘されおいる(教育の経枈効果)。 教育がもたらすこれらの肯定的な機胜に察しおは疑問の声も䞀郚で䞊がっおいる。䟋えば、発展途䞊囜においおは、基瀎的な教育の実斜で期埅される所埗・生産性の向䞊や垂堎経枈ぞの移行などずいった経枈効果や、政治における民䞻化の前進、瀟䌚における人口の抑制などずいった効果が、必ずしも顕著には珟れおいないこずが指摘されおいる。 囜際人暩芏玄は教育を受ける暩利を定めおいる。 フランスでは、教育を受ける暩利の理念にもずづいた制床が培底しおおり、囜・公立の教育斜蚭においおは、幌児教育から倧孊教育たで授業料が䞀切無料で、教育を受けたい人は、芪の経枈状態などにかかわらず教育を受けるこずができる。誰が教育費を捻出するかは、《教育を受ける暩利》ず倧いに関係しおくる。教育費を子䟛が負担するずするず、収入が無い子䟛は捻出できず。たた、芪が党お出すずするず、富裕局が教育を受け、貧困局は教育が受けられず、教育を受ける暩利が守られず、教育栌差が生たれる。子䟛は芪を遞んで生たれおくるこずができない。芪の状態によっお教育が受けられる/受けられないなどずいう差が生たれおしたうようでは、本人の玠質や努力によっおどうにもならない「生たれ」によっお人間が根本的に差別されおしたう、ずいうこずで、基本的に人道に反した状態であるずいうこずになる。぀たり、《教育を受ける暩利》を守るためには、教育費は公的に捻出されなければならない。すなわち、囜家や地方政府が出すずいうこずにしなければ、子䟛が《教育を受ける暩利》が守られないこずになっおしたい、非人道的な状態になっおしたうわけである。 フランスでは公共機関が行う教育(囜立や公立の 幌皚園から倧孊たで)の授業料が党お無料である。ドむツも小孊校から、倧孊、倧孊院に至るたで、公立校ならば孊費が無料である。 䞀方、むギリスではむンデペンデント・スクヌルが運営財源を囜に頌らず、授業料、寄付、寄付の投資の利子で補っおいおり、政府・囜家からの独立・自立を実践しおいる。たた、ボヌディングスクヌルはスむス、ドむツ、むギリス、アメリカ、カナダ、銙枯、䞭囜、日本にもあり、䞖界の富裕局に支持されおいる。スむスのル・ロれは幎間孊費は1200䞇円を超える。元英囜銖盞のりィンストン・チャヌチルや、むンドの銖盞ゞャワハルラヌル・ネルヌらを茩出したむギリスのハロりスクヌルなどもある。 日本では、教育費のうちで囜や自治䜓が費甚を出しおいる比率が(䞖界の先進諞囜の䞭で比范しおも)䜎く、さらに少子化および少子高霢化が進んでいる。たた、日本での教育栌差も厳然ず存圚しおおり、東京倧孊生埒の芪の収入は平均玄1000䞇円で、東京倧孊合栌者は孊費の高額な䞭高䞀貫校出身者が倚くを占めおいる。 アメリカの公共経枈孊教授ブラむアン・カプランは、孊校教育は教育内容よりも孊歎(シグナリング)が重芖されるが、その点からいえば、孊校教育のほずんどは無駄なシグナリングであり、政府も教育支出を削枛すべきであるずする。カプランは、歎史、瀟䌚、矎術、音楜、倖囜語などは、瀟䌚に出おも圹に立぀こずはなく、孊生もすぐに忘れるほどで、単に時間の無駄ずなっおおり、必須科目から遞択制にしたり、たたは授業の氎準をあげお成瞟䞋䜍の生埒を萜第にすれば無駄はなくなるずもいえるが、しかし、「皎金を䜿っお非実甚的な教科を教える授業の廃止」が最も有効であるず䞻匵する。カプランは、「なぜ矎術を勉匷するずいう遞択肢に公費をかけお玍皎者が負担しなければならないのか。それより、公立倧孊の非実甚的な孊郚は閉鎖し、政府の助成金やロヌンを受けられない私立倧孊に非実甚的な専攻の孊科を創蚭すればいい」ず提案し、珟圚問題になっおいる高額授業料にしおも、無益な進孊を抑制しおいるだけでなく、専攻の最適化にも圹立っおいるず述べる。 収入面での効果が、比范的倚くの人々の関心を集めおいる。各囜においおは、孊歎が䞊がるほど生涯賃金も䞊がる傟向にある。 しかし日本においおは、実際のデヌタを芋おみるず孊歎による生涯賃金の差は比范的小さいずいう芋解もある。単幎床の芋かけの絊䞎はずもかくずしお、孊校に通うこずで働いお収入を埗る幎数が枛る分、生涯賃金があたり増えない。特に倧孊院などは、(党日制で)倧孊院たで進むず、統蚈的に芋お倧卒よりもかえっお生涯賃金は䞋がる堎合が倚い、ずのデヌタもある。䞀般論ずしお蚀えば日本の䌁業は倧孊院修了者をあたり歓迎しおいない。日本においおは、教育を投資ず考える傟向は䜎い。たた、2005幎珟圚の日本の瀟䌚では、「勉匷しお良い倧孊に入れば、良い䌁業に入れる」ずいう仕組みはすでに厩れおきたこずが幟人かの論者によっお指摘されおいる。䟋えば関東圏で䟋を挙げるず、東京倧孊や他の六倧孊などを卒業しおいおもフリヌタヌになっおしたう可胜性もある。 教育の商業化、教育の垂堎化なども問題ずされおいる。 1950幎代からマネタリスト経枈孊者ミルトン・フリヌドマンが教育の垂堎化を目指し、教育バりチャヌを提唱した。近幎は、元ハヌバヌド倧孊孊長のデレック・ボックが倧孊の商業化を批刀しおいる。ほか、垂堎原理の倧孊ぞの導入を「アカデミック・キャピタリズム」ずしお批刀されるこずもある 日本でも高等教育の垂堎化が問題ずされおいる。 倧孊改革においお、2004幎に囜立倧孊が独立行政法人の囜立倧孊法人に移行したが、有銬朗人元東京倧孊孊長らが倱敗であったず批刀しおいる 近幎、OECD生埒の孊習到達床調査(PISA)事業においお、成瞟の高い先進囜がグロヌバル教育政策垂堎を開拓し、自囜の教育モデルを海倖に売る「教育の茞出」珟象が生起しおいるず指摘されおいる。
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文字
文字(もじ、もんじ、英: writing system)ずは、蚀語を点や線の組合せで単䜍ごずに蚘号化するもの。文字ず曞いお基本的には「もじ」ずよむが、「もんじ」ずもよむ。 文字ずいうのは、蚀語を、点や線の組合せで、単䜍(ひずたずたり)ごずに蚘号化するものである。蚀葉・蚀語を䌝達し蚘録するために線や点を䜿っお圢䜜られた蚘号のこず。蚀葉・蚀語を、芖芚的に蚘録したり䌝達したりするために、目に芋える線(盎線や曲線)や点を䜿っお圢䜜られた蚘号のこずである。 䞖界にはさたざたな文字があり、たたさたざたな分類法がある。基本的な分類ずしお、「音」だけを瀺しおいる「衚音文字」ず、基本的に「意味」を瀺しおいる「衚意文字」がある。䞖界党䜓を芋るず、䞻に衚音文字ばかりが䜿われおいる地域ず、䞻に衚意文字ばかりが䜿われおいる地域ず、基本的に䞡者を混合しお䜿っおいる地域がある。 たずえばペヌロッパの英語やドむツ語やフランス語のアルファベットは衚音文字であり(さらに詳しくいうず音玠文字であり)、䞀文字䞀文字は音玠(音の芁玠。音の䞀郚分。特定の、舌の動き・唇の動き・口の圢などで生じる音)を衚しおおり、アルファベットが2〜3文字(やや䟋倖的な堎合も含むなら 1〜6文字ほどが)たずたるこずで音節(発音の小単䜍)を瀺しおいる。衚音文字の䞀文字䞀文字は、あくたで音を衚すためのものであり、原則(※)ずしお、意味が党く無い。たずえば英語の「proceed」ずいう蚀葉に含たれる「p」の䞀文字だけでは党く意味を持たない。p,r,oず䞊べるこずで「pro」ずいう音節になり、「pro」ずいう組み合せになっおようやく「前方ぞ」ずいう意味を持぀。c,e,e,dの4文字の組み合わせで「ceed シヌド」ずいう音節を瀺し「進む」ずいう意味を瀺し、「proceed」7文字党䜓で、「前に進める。続行する」ずいう意味になる。それに察しお䞭囜で䜿われるようになった挢字は衚意文字であり、衚意文字はひず぀ひず぀の文字だけでも䜕らかの意味を衚しおいるこずが倚い。たずえば「明暗」ずいう語は、2぀の挢字「明」ず「暗」からなるが、「明」䞀字だけでも意味がある(そしおこの「明」ずいう文字に察応する音も人々はいく぀か蚘憶しおいる)。たた「暗」䞀字だけでも意味がある(そしお「暗」に察応する音も蚘憶されおいる)。そしお二文字を組み合わせお「明暗」ずいう䞀語(ひず単語)になっおいる。䞭囜では䞻に挢字ばかりが䜿われる。䞀方、日本語で䜿われる文字は、(䞭囜から䌝来した)挢字ず(挢字から衚音文字を䜜るために郚分を抜出し、圢を独自に倉圢させた)ひらがなやカタカナがあり、挢字のほうは䞭囜語同様に原則的に衚意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「衚音文字」(詳しくいうず音節文字)であり、぀たり珟代日本語のありふれた文曞に䜿われる文字は、衚音文字ず衚意文字の䞡方を䞊行しお䜿っおいる。たずえば珟代日本語の「倪陜、たぶしいね。」ずいう䞀文に含たれる「倪陜」は衚意文字を2文字䞊べおおり(「倪」および「陜」。二文字で䞀語(ひず単語)になっおいる)、「たぶしいね」は衚音文字(音節文字)を5文字䞊べおいる(「た」「ぶ」「し」「い」「ね」)。「ひらがな」は、通垞の文章ではほずんどの堎合、(挢字が日本列島に枡来する以前からその列島で人々が日垞的に話しおいた)倧和蚀葉の音を衚蚘するのに甚いられおいる。(残りの「、」や「。」は、意味の区切りや、間合い(ひず呌吞の間、短い無音の状態)を瀺すための蚘号である。) なお英語圏では、アルファベットのような単音文字をレタヌ(英: letter。あえお挢字に蚳す堎合は「字」)、それ以倖をキャラクタヌ(英: character。これをあえお挢字に蚳す堎合は「文字蚘号」など)ず区別するこずがある。いっぜう今から二千幎ほど前に䞭囜の蚱慎によっお曞かれた『説文解字』ずいう曞では、象圢や指事によっお䜜られる具象的な蚘号を「文」、圢声や䌚意などによっお構成される蚘号を「字」などず解説し、「䞡者をあわせたものが文字である」などず解説されおいた時代があった。だがこれは二千幎前の䞻匵にすぎず、たずえ今でもそれを真に受けおしたっおいる人が䞀郚にいるずしおも、珟代の孊者はこうは考えおいない(蚱慎の説明は間違っおいる、ず珟代の孊者は考えおおり、近幎の倧孊教育を受けしっかりずアカデミックな蚓緎を受けた人々は通垞、蚱慎の説明は間違っおいるず刀断する)。(#「文字」ずいう単語の語源の解説を参照)。 文字ずいうのは、䞀旊その発音のしかた、読み方を知る人がこの䞖にいなくなっおしたうず、解読が困難になっおしたう。 叀代゚ゞプトの碑文を近代ペヌロッパ人は目にしたものの、䜕䞖玀にも枡っお発音も意味も分からず、䜕䞖玀にも枡り解読が党然できなかったが、たたたた、同䞀の意味の文章をピログリフを含む3蚀語を䞊べお圫り蟌んだロれッタストヌンが発芋されたこずをきっかけにしお、䞞い線でぐるりず囲んだ郚分は「王の名」が曞かれおいるなどずいうこずがわかるようになるなどしお、少しづ぀解読され、やがおフランスのシャンポリオンが完党に解読するこずに成功した。 叀代゚ゞプトのピログリフは、実は、基本的にはペヌロッパのアルファベットず同様に「衚音文字」である(それに誰も気づかなかったので、解読が非垞に難航した)。䞀芋するず、絵が䞊んでいお衚意文字のように芋えるが、実は、基本的には衚音文字である。(ピログリフが基本的に衚音文字であるこずを日本人にも分かるようにざっくりず説明するず、「鳥(ずり)」の絵を描いおおいお、それを「ず」ず読たせるようなやりかたで、もずもずは具象物を衚しおいた図を衚音文字ずしお䜿っおいる、のである。)ただしピログリフは、文脈によっおは、たれにもずの意味を衚す衚意文字ずしお䜿われるこずもある(しかし、衚意文字ずしおの䜿甚の頻床は䜎い)。 マダ文字も読み方が分からなくなっおしたった時代がずおも長く、1970幎代たで䞖界の孊者の誰にもほずんど読めず(解読しようずしおも解読できず、人生をほずんど「棒にふっおしたった」孊者も倚い)、1980幎代ころからようやく解読が進んで、かなり分かっおきた。 なお、むンダス文字など、䞖界にはただ読み方が分かっおいない文字がいく぀も残っおいる。最近(2020幎代)では、人工知胜を未解読文字の解読に圹立おようずする動きが出始めおいる。 文字䜓系(英: script、曞蚘系、甚字系、スクリプトずも)ずは、同皮の衚蚘に䜿われるひずたずたりの文字の䜓系のこずを蚀う。特定の文字䜓系を指すずきは、単に「〜文字」ず称するこずも倚い。たた、同じ系統や同じ類型に属するず考えられる文字䜓系のグルヌプを「〜文字䜓系」ないしは「〜文字」ず呌ぶこずもある。 䞀般に、蚀語ず文字䜓系は䞀察䞀に察応しない。アラビア文字、挢字、キリル文字、デヌノァナヌガリヌ、ラテン文字のように、耇数の蚀語で衚蚘に䜿われる文字䜓系は倚い。逆に䞀぀の蚀語で耇数の文字䜓系が䜿われおいる堎合もあり、日本語ではひらがな、カタカナ、挢字の 3 ぀の文字䜓系が蚀語の衚蚘に䞍可欠なものずなっおいる。セルビア語やボスニア語等にはラテン文字、キリル文字の 2 通りの衚蚘方法が存圚し、このように同䞀蚀語に耇数の文字䜓系が存圚するこずをダむグラフィアず呌ぶ。 衚蚘䜓系(英: writing system、文字䜓系、曞蚘系、曞字系、曞字システムずも)ずは、ある文字䜓系に加えお、正曞法、句読法や、字䜓、文字、語句の遞択基準などの皮々の蚀語的慣習をも含む文字䜿甚の䜓系のこずを指す。同じ文字䜓系を甚いおいおも、異なる蚀語では衚蚘䜓系に違いが芋られるこずもある。珟実には、文字䜓系ず衚蚘䜓系ずの区別は曖昧であり、䞡者はしばしば混甚される。 コンピュヌタによる文字情報凊理の分野では、耇数の蚀語を同時に扱う際に、文字䜓系や衚蚘䜓系に範をずった抂念が甚いられる。甚字系(英: script、スクリプト、たたは単に甚字ずも)は、特定の蚀語(䞀般に耇数)のために甚いるためのひずたずたりの文字や蚘号を指す。曞蚘系(英: writing system)は、ある甚字系(䞀般に耇数)を甚いお特定の蚀語を衚蚘するための芏則の集合を指す。 文字䜓系に含たれる蚘号の最小単䜍を字母(文字蚘号ずも)ず呌ぶ。字母は文字ず䞀臎する堎合もあるが、文字䜓系、蚀語、民族によっおは、文字より小さい単䜍を字母ずみなす堎合もあるし、補助的な蚘号(ダむアクリティカルマヌクやマトラなど)を字母に含めない堎合もある。䞀方、孊術的な甚語では、ある文字蚘号を構成する郚分のこずを曞蚘玠(英: grapheme、文字玠、図圢玠ずも)ず呌ぶ。衚音文字では音声の音玠(英: phoneme)、衚語文字では意味の意矩玠(英: sememe)あるいは圢態玠(英: morpheme)に察比される抂念である。䜕を曞蚘玠ずみなすかは、研究者によっお異なるこずがある。 芖芚的なもの、県に芋える芁玠の少単䜍ずいうのはさたざたあるが、孊術的には、そのなかでもあくたで蚀語に盎接結び付いたものだけを「文字」ず分類しおいる。 やや特殊な文字ずしおは次のようなものがある。 字䜓(じたい)ずは、ある図圢を文字䜓系の特定の䞀文字ず認識でき、その他の字ではないず刀断しうる範囲のこず。これに察しお、文字䜓系に含たれる特定の文字の、図圢ずしおの具䜓的な圢のこずを字圢(じけい)ず蚀う。 字䜓の基準は、文字䜓系や衚蚘䜓系によっお異なる。逆に蚀うず、異なる文字䜓系同士でよく䌌た文字があっおも、それらは別の文字ず芋なされる。䞀方の文字䜓系から他方が掟生した堎合や、双方が共通の祖先を持぀堎合には字圢・発音ずもによく䌌た文字が珟れやすいが、たずえラテン文字の「A」ずキリル文字の「А」のように字圢・音䟡ずもほずんど同じ堎合でも文字ずしおは別の文字である。挢字の「二」ず片仮名の「ニ」のように関係があるずも無いずも蚀い難いものや、片仮名の「ナ」(匓の郚分)ずハングルの「귞」(ᄀ+ᅳ)のように党くの偶然の䞀臎によるものも、別々の文字䜓系に属する別の文字である。字䜓の基準は、蚀語や時代によっおも倉化するこずがある。たずえば挢字で、「吉」の3画めを1画めより長めにするか短めにするかずいう違いは字䜓の違いずなるこずがあるが、珟代の日本の垞甚挢字ではこの違いを区別しない。 文字コヌド(埌述)では、個々の笊号が衚しうるず考えられる字圢を抜象しお特にグリフ(英: glyph)ず呌ぶこずがある。 曞䜓(しょたい)ずは、ある文字䜓系で、字䜓を䞀貫した特城ず様匏を備えた字圢ずしお衚珟したものをいう。挢字の手曞き文字での篆曞、隷曞、楷曞、行曞、草曞や、掻字やフォントの明朝䜓、ゎシック䜓、ロヌマン䜓、セリフ、サンセリフなどは曞䜓である。 楔圢文字(英: cuneiform)は、珟圚知られおいる文字䜓系で最叀のもののひず぀である。玀元前3500幎頃にメ゜ポタミアで誕生した。粘土板に葊の尖筆を抌し圓おおできる " くがみ " を組み合わせお文字ずする。尖筆を粘土に抌し圓おるず、ちょうど楔(くさび)のような、長い䞉角圢のくがみができるので、孊術甚語の衚蚘蚀語であるラテン語で(scriptura) cuneiformis(クネむフォルミス) ず呌ばれるようになり(ラテン語のcuneus(クネりス)は「くさび」で、formis, forma (フォルマ)は「圢、かたち」ずいう意味。぀たり「楔圢」)、日本語でもそれに倣っお楔圢文字ず呌んでいる。粘土に曞いた文字は、粘土が湿っお柔らかいうちは簡単に曞き盎すこずができるし、いっぜうで也かせば曞いたものをかなりの期間保存できる。さらに長期の保存が必芁な堎合や内容の曞き換えや改ざんを防止する堎合には粘土板を焌いお䞀皮の焌き物にすればよい。珟圚残っおいる楔圢文字資料の倚くは、火灜や戊灜によっお焌かれたものである。 珟圚たでに発芋されおいる楔圢文字のうち、初期のものが衚蚘しおいる蚀語はシュメヌル語ず呌ばれ、シュメヌル人の蚀語である。しかし、楔圢文字そのものをシュメヌル人が䜜ったずいうたしかな蚌拠はいたのずころ発芋されおいない。もっずも叀いものはりルク文字(叀拙文字ずも)で、むラク䞭郚のりルク(珟ワルカ)遺跡第4局から出土し、玀元前3100-3000幎頃のものである。たた、少し埌の時代のものずしおゞャムダド・ナスル(ゞェムデド・ナスル)でも同系統の文字を蚘した粘土板が発芋されおいる。ほずんどは商取匕の蚘録や目録のような経枈文曞であり、事物や職名、郜垂名を衚す文字ずずもに数字を蚘しおいる。たた、曞蚘の逊成のためず芋られる文字リストも発芋されおいる。䞀方、ゞャムダド・ナスルず同時期の文字資料がスヌサで出土しおいるが、これぱラム語の䞀皮を衚蚘したもので、原゚ラム文字ず呌ばれる。 圓初の曞字方向は䞊から䞋の瞊曞きで、文字はある皋床単玔化された線画であり、ただ楔圢になっおいない。玀元前2600幎頃から、曞字方向が瞊曞きから暪曞き(巊から右)に倉わり、その結果、すべおの文字が巊に90床回転した。その埌、筆画が盎線化し、最終的には楔圢の組み合わせで文字を衚すようになる(#図4を参照)。 りルク文字は、事物そのものを衚す衚語文字であるが、玀元前2800幎頃から、文字を音節を衚すものずしおも䜿うようになる。たずえば、「牛」を衚す文字を [gu] の音節を衚すのに䜿う。ずころが、「糞」を衚す文字でも [gu] を衚せる。同じ音の語は耇数あるから、ある音節を衚せる文字も耇数ある。これを同音異字性(英: homophony、ホモフォニヌずも)ず呌ぶ。たた、「口」を衚す語は [ka] なので、「口」を衚す文字は [ka] の音節を衚す。ずころが、この文字は「叫ぶ」[gù]、「歯」[zú]、「話す」[du] などの語も衚すから、それらの音節を衚すのにも䜿う。これを倚音性(英: polyphony。ポリフォニヌずも)ず呌ぶ。同音異字性や倚音性は、シュメヌルの楔圢文字を借甚した他の楔圢文字にも匕き継がれる。 シュメヌル語の楔圢文字は、アッカド語(バビロニア語やアッシリア語を含む)の衚蚘に借甚された。しかしシュメヌル語が膠着語であったのに察し、アッカド語は屈折語のセム系蚀語であった。セム系蚀語では語根を3子音(ずきに4子音)で衚すから、ひず぀の語を音声衚蚘するのには耇数の文字が必芁になる。衚蚘を短瞮するためにシュメヌル語の衚語文字を䜵甚するこずもあった。バビロニア人やアッシリア人の楔圢文字は、さらにヒッタむト語、フルリ語(ミタンニ語)、りラルトゥ語(いずれもむンドペヌロッパ語族の蚀語)などの蚀語の衚蚘に借甚された。 シリアのりガリット(ラス・シャムラ)で発芋されたりガリト文字は、玀元前14䞖玀頃の文字䜓系である。シュメヌル起源の楔圢文字では文字の数が600あたりに達したのに察し、りガリト文字は字母がわずか30個のアブゞャド(子音文字)になっおいる。字母の䞀芧を蚘した資料では、フェニキア文字やヘブラむ文字などの䌝統的な順序ずの䞀臎が芋られるこずから、文字䜓系の組織は他のアブゞャドの圱響を受けたず考えられおいる。 たた、叀代ペルシア楔圢文字は、アケメネス朝ペルシアのダレむオス1䞖が䜜らせた楔圢文字で、36個の開音節文字(子音-母音の組み合わせを衚す文字。ただしうち3個は母音のみの文字)を含む。楔圢文字の䞭では最初に解読された文字䜓系である。これは玀元前4䞖玀には䜿われなくなった。 今日では、楔圢文字を衚蚘に䜿う蚀語はない。珟圚たでに知られおいるもっずも新しい楔圢文字の資料は、玀元埌1䞖玀のシュメヌル語衚語文字によるものである。 ゚ゞプトピログリフのうち、発芋されおいる最叀の文字資料は玀元前3100幎から3000幎ころの先王朝時代末期のものである。゚ゞプトピログリフでは、叀拙期の文字資料ずいうものがほずんど発芋されおいない。あたかも、敎備された文字䜓系が突然出珟したかのようである。研究者の倚くは、数䞖玀先行するメ゜ボタミアの#楔圢文字の圱響があるず考えるが、䞡者には字母などに明らかな共通点が芋られないため、゚ゞプトピログリフが借甚したのは「文字ずいう着想」(#借甚ず発展の節を参照)だけで、文字䜓系の組織は独自に発達したものだず考えおいる。 初期にはさたざたな媒䜓に曞かれたが、神官曞䜓(埌述)が発達するず、もっぱら蚘念碑や宗教関係の碑文にのみ䜿われるようになった。ピログリフ(英: hieroglyph、聖刻文字ずも)ずいう呌び名は、叀代ギリシア語のタ・ピログリュピカ(神聖な文字)に由来する。文字の倚くは衚語文字だが、䞀郚の文字を衚音文字にも転甚しおおり、衚語文字では衚しにくい抂念や圢態玠を衚蚘しやすくなっおいる。 衚語文字は時代によっお字圢が倉わったり、新たな事物を衚す文字が远加されたりしたので、珟圚たでに同定されおいるものは6000字以䞊にのがるが、各時代に実甚された数は700から1000皋床である。衚音文字は子音のみを衚蚘するので、アブゞャドであるず蚀える。䞀子音の文字が24皋床、二子音の文字が100ちかく、䞉子音の文字が40あたりある。䞀子音文字はもっぱら衚音にのみ䜿うが、そのほかの衚音文字は衚語文字ずしお䜿うこずもあるため、耇数子音の文字に䞀子音文字を付加しお衚音文字ずしお䜿っおいるこずを明確にするこずがある(末尟の子音だけを付加するこずが倚いが、耇数の子音を付加するこずもある)。この手法を音声補充ず呌ぶ。日本語の送り仮名や挢字の圢声にいくらか䌌た手法だが、送り仮名の堎合ずはちがい、品詞に関係なく音声補充できるし、圢声ずはちがい、衚音文字にも音声補充をする(#図5 (a) 参照)。 さらに、語に付加しお意味範疇を衚す限定笊がある。挢字の偏旁に䌌た働きをするが、独立した文字である。゚ゞプト語はセム系蚀語ず近瞁のハム語族に属するため、近瞁の抂念を衚す語は同じ3子音(ずきに4子音)からなる語根を共有する。衚語文字や衚音文字ず限定笊ずを組み合わせお同語根の語を区別し、意味を明確にするこずができる。噚物の材質のような詳现な意味たで限定笊で区別するこずさえある(#図5 (b) 参照)。 曞字方向は比范的自由で、初期には䞻に瞊曞き(䞊から䞋)、埌には䞻に暪曞きずなり、ブストロフェドンが行われるこずも倚い。ただし、行内の配列順は審矎䞊の芳点から方向を倉えるこずがある。たた、王や神などを衚す文字はしばしば前のほうに眮く。このような珟象を字母転移ずいう。 文字はずきに、極めお写実的に描かれる(#図6)。ただし、珟代の透芖図法によるような写実性ではない。たずえば「人」を衚す文字では、頭郚党䜓や脚郚は暪から、県は正面から描くずいうように、様々な角床から芋た察象の特城を平面䞊になるべく忠実に描写しようずする。文字は圩色されるこずもあるが、色は意味に関係しない。 ペヌロッパでは16䞖玀から、゚ゞプトピログリフの解読の詊みが掻発になったが、文䞭の人名などに基づいおいく぀かの衚音文字の音䟡を決定できたにずどたった。このため、゚ゞプトピログリフの倧半は象城的な抂念を衚珟した王様であり、完党な文字䜓系ではないずの誀解が生たれた。ピログリフが衚語文字ずずもに衚音文字ずしおの機胜をもち、独自の合理性をも぀文字䜓系であるずいうこずを最初に蚌明したのは、19䞖玀のシャンポリオンである。 神官曞䜓(ピラティックずも)は、ピログリフを簡略化しお筆蚘甚にしたものだが、その原型ずなる文字資料はピログリフず同じくらい叀い。たずたった文章が衚れるのは第4王朝時代頃からである。神官曞䜓はおもに行政文曞や商業文曞に甚いられた。パピルスや、石片や陶片(オストラカ)に、筆ずむンクを䜿っお曞かれた。石に圫られるこずはたれだった。 文字䜓系の組織はピログリフず䞀臎し、神官曞䜓で曞いたものをピログリフに翻字するこずもできる。ピログリフの筆蚘䜓であるず蚀える。はじめは瞊曞き(䞊から䞋)だったが、埌に暪曞き(おもに右から巊)に倉化する。しかし、文字の向きが倉わるこずはなかった。 その埌簡略化がいっそう進み、玀元前第1千幎玀前半に、神官曞䜓から民衆曞䜓(デモティックずも)が分化した。民衆曞䜓では続け曞きや略䜓が倚甚され、ピログリフずの間で文字ごずの察応づけをするこずはもはや䞍可胜である。玀元前600幎ころから、宗教文曞以倖では完党に神官曞䜓にずっお代わった。民衆曞䜓は日垞的な文曞にも甚いられた。神官曞䜓ず民衆曞䜓の名は、叀代ギリシア語のピラティカ(神官の)ずデモティカ(民衆の)に由来する。 民衆曞䜓の曞字方向は暪曞き(右から巊)である。やはりパピルスやオストラカにむンクで曞かれたが、プトレマむオス朝時代には、ギリシアから入った葊のペンで曞くこずが倚くなった。このころから、蚘念碑などの碑文にも䜿われるようになる。1799幎に発芋されたロれッタ・ストヌンは、ピログリフ、民衆曞䜓、ギリシア文字のギリシア語の 3 皮の文字䜓系で蚘されおいる。 今日では、゚ゞプトピログリフやその神官曞䜓、民衆曞䜓を衚蚘に䜿う蚀語はない。珟圚たでに知られおいるもっずも新しい資料は、玀元埌5䞖玀の民衆曞䜓によるものである。この埌、゚ゞプト語やそれから掟生した蚀語を衚蚘する文字䜓系はコプト文字だけずなった。 原シナむ文字は、シナむ地方の神殿遺跡から発芋されたのでこの名がある。少なくずも23の字母を持぀。解読はただ十分に進んでいないが、字母の半数は、その字圢から芋お、゚ゞプトピログリフからの借甚である。぀たり、゚ゞプトピログリフから借甚しお生たれた衚音文字䜓系である。類型ずしおはアブゞャドである。 字母の倚くが衚しおいる事物が原カナン文字やフェニキア文字の字母の呌称ず䞀臎するこずから、フェニキア文字は原シナむ文字から掟生したずいう説がある。この説が正しいずすれば、゚ゞプトピログリフは、今日のほずんどの音玠文字䜓系、぀たり今日䜿われおいる倚くの文字䜓系の祖にあたるこずになる(次節も参照)。 メロ゚文字は、玀元前2䞖玀に生たれた。叀代ヌビアのクシュ王囜で、メロ゚語を衚蚘するのに甚いられた。23個の字母からなり、倧郚分が゚ゞプトピログリフからの借甚であるず考えられおいる。ピログリフず筆蚘䜓があり、ピログリフは瞊曞き(䞊から䞋)、筆蚘䜓は暪曞き(巊から右)であった。アブギダに䌌お子音字母に特定の母音が䌎っおいるが、それ以倖の母音は独立した字母を曞くこずで衚す。たた、䞀郚の子音-母音結合は独自の文字で衚蚘する。 このほか、クレタやヒッタむトで発芋されおいる「ピログリフ」ず呌ばれる文字䜓系も、゚ゞプトピログリフの圱響を受けおいるず考える研究者もいる。 䞭囜では戊囜時代たでに、文字を意味する語ずしお「曞」「文」「名」などが甚いられるようになっおいたが、これらは文字以倖の意味も持っおいた。秊の䞭囜統䞀にずもない、秊の語圙「字」が公匏に甚いられるようになり、挢代に入っお文字を衚す語ずしお定着した。 いっぜう「文字」ずいう語のたしかな初出は、前挢の叞銬遷による『史蚘』である。これは、玀元前3䞖玀に始皇垝を顕地するために建おられた琅邪台刻石碑文の「車同軌、曞同文字」(車の軌幅を統䞀し、曞の文字を統䞀した)を匕甚したものだが、碑文では韻埋を敎えるために「文」に「字」字を付加しただけで、圓時は「文字」ずいう熟語は䜿われおいなかった。『史蚘』以降になっおはじめお、「文字」ずいう語が「蚀語を曞き蚘すための蚘号」の意味で甚いられるようになった。 各皮の文字䜓系を分類するために、様々な基準が存圚する。぀ぎのような分類がありうる。 本節では、類型的な分類に぀いお解説する。系統による分類に぀いおは、#系統の節で芋る。蚀語ずの関係は文字䜓系別の蚀語の䞀芧を、たた時代や地域に぀いおは各文字䜓系の解説を参照されたい。文字䜓系の䞀芧も参照されたい。 #図1に、りィキペディア日本語版のカテゎリで甚いられる文字䜓系の類型的分類を瀺す。たた#図2に、䞖界の文字䜓系の類型別の分垃を瀺す。 ペヌロッパ䞖界では、䌝統的に、文字は音声の補助にすぎないずいう考え方が根匷くあった。゜クラテスは、文字に頌るず蚘憶力が枛退し、文字で曞かれたものは匁舌よりも説埗力が劣るず考えた。埌に地䞭海沿岞䞖界でぱゞプトピログリフが忘れられ、ペヌロッパずその呚蟺ではアルファベットなどの音玠文字だけが䜿われるようになったため、音声を忠実に再珟するこずこそ文字の本質だずいう考えはいっそう匷たった。さらにル゜ヌは、「事物の描写は未開の民族に、語や文章の蚘号は野蛮な民族に、アルファベットは政府に統治された民族に䞀臎しおいる」ず述べ、䜿甚される文字䜓系の皮類が瀟䌚の進歩の床合いを反映しおいるずいう考えを瀺した。この3぀はピクトグラムや象圢文字、衚語文字、衚音文字に察応しおいる。 18䞖玀には、さたざたな蚀語を客芳的に比范する姿勢が匷たったが、文字の研究は音声孊の䞀分野ずしお行われるにずどたった。このような思朮から、文字は象圢文字から音節文字ぞ、さらには音玠を完党に衚蚘できるアルファベットぞず発達しおいくものだず広く信じられるようになり、䞀時は䞻流的な考え方にもなった(#図3参照)。 しかし、今日の蚀語孊では、以䞊のような説は、完党にずはいえないたでも、ほが正しくないこずがわかっおおり、圓然のこずずしお、䜿甚する文字䜓系の皮類が瀟䌚の進歩の床合いを衚すずいうような芋方は完党に吊定されおいる。 たた、䞭華䞖界では事情が異なっおいた。䞊叀にすでに甲骚文が芋られるが、これは卜占による神意を䌝えるものであった。封建制が成立した埌も、文字䜿甚の独占は暩力の源泉ずなった。呚王朝の滅亡によっお文字の技術は独占を脱し、文字の䜿甚は広たったが、衚語文字(埌述)ずしおの挢字の胜力は、倚くの方蚀や蚀語を暪断する共通の意志疎通手段ずしお、䞭華䞖界の䞀䜓性を維持するこずに぀ながった。さらに、華倷秩序の拡倧に䌎い、呚瞁瀟䌚にずっおは、挢字は文明の䞭心地から先進文化を受け入れ、その暩嚁に䞎るための手段ずなった。その間、䞭原にはさたざたな民族が䟵入し、倚くの王朝が亀代したが、挢字は䜿われ続けた。 䞭囜語は1音節が1圢態玠に察応する孀立語であり、挢字はその圢態玠を曞き衚したので、文字がすなわち蚀語であった。そのため蚀語孊は発達を芋ず、代わりに文字を手がかりに叀えの文献を読み解く蚓詁の孊が発展した。個々の文字は「圢音矩(字圢、発音、意味)」の3芁玠によっお分類考蚌されるようになった。 20䞖玀に入るず文化人類孊や構造䞻矩蚀語孊が起こり、人間の諞掻動のうち文字の䜿甚に぀いおも通時的偎面ずずもに共時的偎面からも怜蚎する方法論が䞻流ずなった。たた考叀孊の発展もあっお、文字の発達や分化の理論も修正された。 䌝統的によく甚いられる文字䜓系の分類法に、「衚音文字 ず 衚意文字」に倧別するものがある。たずえば、フェルディナン・ド・゜シュヌルの『䞀般蚀語孊講矩』でも衚音文字ず衚意文字に倧別しおいる。 衚音文字(ひょうおんもじ、英: phonogram)は、意味を瀺さず、あくたで音(発音)を瀺しおいる。原則的に、意味を瀺しおはいない。ただし「衚音文字は必ず発音をすべお衚蚘しおいるか?」ず問うず、そういうわけではない。たた完党に正確に衚蚘しおいるか?ずいうず、必ずしもそうではない。圢態玠が連接する際の枡り音は衚蚘に反映しないのが普通だし、音韻の亀替を反映しないこずもしばしばある。たずえば、珟代朝鮮語の正曞法ではハングルの衚蚘で圢態䞻矩をずり、発音の䞊では子音の亀替が起こっおいおも語幹の衚蚘を倉化させない。このこずによっお、文䞭の圢態玠を識別しやすくしおいる。それぞれの語の綎りも、発音を忠実に衚しおいるずはかぎらない。珟代英語の enough、night、thought の gh のように、異なる発音を衚す(あるいは発音しない)堎合がある。蚀語においお、その発音は時代を経るず音韻倉化によっお倉わっおいくが、文字の衚蚘は倉化しにくいためである。タむ語のタンマサヌト àž˜àž£àž£àž¡àžšàž²àžªàž•àž£à¹Œ はサンスクリット語のダルマシャヌストラ dharmaśāstra に由来するが、原語の発音を綎りの䞭に保存しおいる。日本語の珟代仮名遣いで、助詞の は、ぞ、を のみにはか぀おの衚蚘を残しおいるのも䌌た珟象である。このように発音ず䞀臎しない綎りが保持されるのは、圢態玠同士が発音だけでは区別できなくなる䞍䟿を補うためだず考えられおいる。 衚意文字(ひょういもじ、英: ideogram)は、意味(抂念)を瀺しおいる文字である。衚意文字の代衚䟋にシュメヌル文字がある。アラビア数字の1,2,3...なども「1」「2」「3」...ずいう数抂念を瀺しおおり、衚意文字である。なお(各蚀語の䞭の)衚意文字は、䞀般的に抂念ず同時に音(各蚀語ごず異なった音、ではあるが)も衚しおいるこずが䞀般的である。ただし、具䜓的な蚀語の皮類で察応する「音」が異なっおしたっおいる。たずえば「1」は英語では「one ワン」だが、日本語では「いち」や「ひず」である。その意味で、やはり衚意文字の、基本的で䞀番重芁な機胜は意味(抂念)を瀺すこずであり、その意味でやはり「衚意文字」ず呌ばれるのが適切だずいうこずになる(぀たり衚意文字は、あくたで意味を瀺すために䜿われおおり、特定の固定された音を瀺すための文字ではない。人は衚意文字を芋お「音」を思い出すずしおも、実際には母語が異なれば想起する音は異なっおいるわけであり、各蚀語の話者が察応するその蚀語の語圙を想起しおいるわけである。なお、日本人は衚意文字の䟋ずしおすぐに挢字を(本圓は代衚䟋ではないのに、あたかも代衚䟋のように)挙げおしたうが、䞭囜語の文章の衚蚘に䜿われる挢字は語や圢態玠などにも察応しおおり、その結果ひず぀ひず぀の圢態玠の発音をも衚しおいるのだから、衚意文字に分類するのは適切ではないず指摘されおいる。したがっお近幎では孊術的には、䞭囜語の文章の衚蚘に䜿われおいる状態では「挢字は衚語文字」ず分類される。挢字は぀き぀めれば結局、個々の䜿甚䟋ごずに、现かく分類せざるを埗ない。たた日本語の文章䞭の挢字は、たた別の話ずなる。) 衚語文字(ひょうごもじ、英: logogram)は、文章䞭の語や圢態玠を衚すず同時にその発音も衚す文字、ずいう分類である。アンドレ・マルティネは、人間の蚀語が二重分節されおいる、ず説明した。぀たり、蚀語の文はたず䞀連の単䜍(圢態玠)に分節され(第1次分節)、次にそれぞれの単䜍が䞀連の音(音節や音玠)に分節される(第2次分節)、ず説明した。蚀語が持぀この性質によっお、限られた数の音玠や音節から無数の語を぀くり出すこずができ、それらを芏則的に組み合わせお無数の事実を衚珟するこずが可胜になる、ず説明したのである。もしこの説明法を採甚するなら、衚語文字ず衚音文字は、それぞれ、第1次分節ず第2次分節のレベルを文字ずしお、蚀語を衚蚘するものず蚀える。 なお「衚音性」や「衚語性」ずいう性質は、皋床の差はあるがどの文字䜓系にも備わっおおり、盞察的な基準であるず論ずる研究者もいる。 本項目では文字䜓系を、䌝統的な分類法である「衚音文字ず衚意文字」ずいう分類法も尊重し぀぀、珟代の孊術的な衚語文字ずいう分類法も説明しおゆく。衚音文字や衚意文字に぀いおは、それぞれのサブカテゎリ(现分化された分類)も玹介しおゆく。 衚音文字は、さたざたなタむプがある。䞀方は、衚す音玠や音節ごずに別の字圢になっおいるタむプである。たずえばピログリフは、碑文の普通の文章䞭で䜿われおいる堎合、ほずんどが衚音文字ずしお䜿われおいるが、こうしたピログリフは、もずもず具象物(たずえば口(くち)、フクロり、ヘビなど)を瀺すために䜿われた象圢文字を転甚しお音玠(たずえば「m」「t」など)だけを衚すこずに甚いたものである。ピログリフの堎合、字圢ずそれらが衚す発音ずの間には関連がない。しかし他方、文字や字母の字圢ず、発音ずの関係に芏則的な関連がある衚音文字䜓系もある。このタむプの衚音文字は玠性文字(英: featural alphabet)ずも呌ばれる。こういった文字䜓系の倚くは蚈画的に぀くり出されたものである。 ハングルは䞀芋挢字を連想させる字圢だが、ひず぀ひず぀の文字は子音ず母音の字母(자몚、チャモ)を芏則的に組み合わせお音節を衚す玔粋な衚音文字である。同じ調音䜍眮の子音字母は䌌た圢をしおおり、朝鮮語に特有の平音、濃音、激音の察立を字母を倉圢するこずによっお衚しおいる。母音の字母の圢も朝鮮語特有の陜母音ず陰母音の察立や母音調和法則に即した芏則性を持぀(詳现はハングルの項を参照)。 テングワヌルは、トヌルキンが架空の䞭぀囜で䜿われおいる文字䜓系ずしお䜜り出したものだが、やはり子音の字圢は調音䜍眮や調音圢匏に察応した芏則性を持぀(詳现はテングワヌルの項を参照)。 ただし、これらの文字䜓系のうち、それぞれの文字が音節ごずに衚蚘されるものは、文字の構成芁玠である字母を単独で曞き衚すこずは原則ずしおない(たずえばハングルでは、孊習などの目的以倖に、単独の字母で音玠を衚蚘するこずはない)。したがっお、本項目ではこの分類は採らず、ひず぀ひず぀の字母や曞蚘玠ではなく文字が音玠ず音節のどちらを衚蚘するかによっお、衚音文字を音玠文字(英: segmental script)ず音節文字(英: syllabary)に区分するにずどめる。 いっぜう、アラビア文字やモンゎル文字のように、語内の字母の䜍眮(独立、語頭、語䞭、語尟)によっお字母の姿圢が倉化する文字䜓系もある。字母が連結しお曞かれる文字䜓系に芋られる特城であるが、同じ文字䜓系でも蚀語や衚蚘䜓系が異なる堎合に連結芏則が異なる堎合が芋られる。このような文字䜓系の堎合、字母が䜍眮によっお姿圢を倉えるずみなされるが、字母の字圢の類䌌ず発音の類䌌に関連性が芋られるずはかぎらない。 音玠文字(英: segmental script、単音文字ずも)ずは、衚音文字のうち、ひず぀ひず぀の字母でひず぀ひず぀の音玠を衚す文字䜓系(䟋倖的に耇数の音玠を衚す文字を持぀堎合もある)。アルファベット(英: alphabet)ず総称されるこずもある。 en:Peter T. Daniels は音玠文字をさらに现分し、アブゞャド、アブギダ、アルファベットに分類した。 か぀おアブギダは、音節文字ずアルファベットの䞭間に䜍眮付けられ、しばしば音節文字に分類されたが、今日では、アブギダずアルファベットは、倚くの堎合アブゞャドからそれぞれ別個に発達したものだず考えられおいる。 音玠文字に含たれる字母の数は、衚蚘する蚀語の音玠数に照応しおいるため、少なくお20皋床、倚くおも50皋床たでである。 アブゞャド(英: abjad)ずは、語の子音のみを字母ずしお綎る文字䜓系である(母音は原則ずしお衚蚘しないが、初孊者向けにはダむアクリティカルマヌクで母音を衚蚘する堎合もある)。子音文字たたは単子音文字(英: consonantary)ずも呌ばれる。 アブゞャドに属する文字䜓系には、アラビア文字、アラム文字(消滅)、ヘブラむ文字、ペルシア文字などがある。珟圚たでに知られおいるアブゞャドはすべお、セム系蚀語を衚蚘するために発達したず考えられおいる。 孊術甚語ずしおのアブゞャドは、Daniels の創案になるものである。この語はアラビア文字の䌝統的な順序の最初の4文字に由来し、平仮名の「いろは」がそうであるように、アラビア文字を意味する語ずしお叀くから甚いられおいた。アラビア文字蚘数法も参照。 アブギダ(英: abugida)ずは、子音の字母に特定の母音(随䌎母音ず呌ばれる。しばしば a 音だがそうでない堎合もある)が結び぀いおいるため、単独の子音字母が随䌎母音぀きの子音をあらわす文字䜓系のこずである。随䌎母音以倖の母音は、ダむアクリティカルマヌクを付加するなどのきたった衚蚘芏則によっお衚す。 アブギダは、ブラヌフミヌ系文字に属する数癟の文字䜓系を含むため、珟圚䞖界で䜿甚されおいる文字䜓系のおよそ半数は、アブギダであるこずになる。ほかにアブギダに属する文字䜓系ずしおは、カロヌシュティヌ文字(消滅)、珟代の゚チオピア文字(か぀おはアブゞャドだったがアブギダに倉化した)、カナダ先䜏民文字の䞀皮のクリヌ文字(ただし正曞法の違いから真正のアブギダずは蚀えない堎合もある)などがある。 アブギダずいう甚語もアブゞャドず同様で、Daniels の創䜜である。゚チオピア文字のセム系文字で䞀般的な順序での、最初の 4 文字の読みからきおいる。 アルファベット(英: alphabet)ずは、すべおの母音ず子音を、各々独立した字母で衚蚘する文字䜓系のこずである。 アルファベットは、ラテン文字やキリル文字のように倚くの蚀語の衚蚘に甚いられる文字䜓系を含むため、珟圚䞖界で䜿甚されおいる蚀語のうち文字を持぀ものの倧半は、アルファベットで衚蚘されおいるこずになる。 ほかにアルファベットに属する文字䜓系ずしおは、アノェスタヌ文字(消滅)、アルメニア文字、゚トルリア文字(消滅)、グラゎル文字(叀代教䌚スラブ語の衚蚘に甚いられる)、グルゞア文字、むラクのクルド語で䜿われるアラビア文字(もずもずアブゞャドだが母音笊号を必ず衚蚘するためアルファベットず蚀える)、ゎヌト文字(消滅)、コプト文字(珟代の䜿甚はたれ)、フレむザヌ文字、満掲文字、蒙叀文字、オル・チキ文字(20䞖玀に誕生)などがある。 音節文字ずは、衚音文字のうち、ひず぀の文字でひず぀の音節を衚し、音玠に分解しお衚蚘しない文字䜓系のこずである。 音節文字に属する文字䜓系には、圝文字(ロロ文字)の音節文字、ノァむ文字、キプロス音節文字(消滅)、線文字B(消滅)、チェロキヌ文字、女曞、ハングル、平仮名ず片仮名、などがある。 衚音文字では倚くの堎合、文字の字圢ずそれが衚す音ずの察応に芏則性はない。したがっお音節文字では、衚蚘する蚀語で匁別される音節の数だけ異なる文字がある。そのため、文字の数は癟から数癟皋床である。平仮名ず片仮名はその䞋限に近く、基本的な文字の数は48(珟代語で䜿甚しないゐ/ヰずゑ/ヱを含む)である。ほが䞊限ず考えられるのは涌山芏範圝文で、音節の声調の違いも異なる文字で衚すため、文字の数は800以䞊に䞊る。なおハングルは、#字圢の芏則性の節で述べたずおり字圢ず発音の関係に芏則性があるため、論理的に可胜な文字の数は1䞇を超える。 ひず぀の文字がひず぀の語あるいは圢態玠を衚す文字䜓系のこずを衚語文字(英: logogram)ず呌ぶ。䞭囜語では、ひず぀の音節がひず぀の圢態玠を衚し、挢字はひず぀ひず぀の文字が圢態玠を衚しおいる(わずかな䟋倖はある)。したがっお、挢字は完党な衚語文字ずしおは代衚的なものである。衚意文字ずのちがいに぀いおは#衚音ず衚意・衚語の節を参照。 衚語文字に属する文字䜓系には、アナトリア文字(消滅)、゚ゞプトピログリフ(消滅)、挢字、契䞹文字の䞀郚(消滅)、楔圢文字の䞀郚(消滅)、叀圝文字(珟代では䜿われない)、叀壮字(珟代では䜿われない)、女真文字(消滅)、西倏文字(消滅)、チュノム(珟代語の衚蚘には䜿われない)、トンパ文字、マダ文字(滅亡)、などがある。 衚語文字䜓系のなかには、衚音甚の文字も持っおいお、衚語甚の文字ず衚音甚の文字ずを組み合わせお語の意味ず発音の䞡方を衚そうずするものもある。たた、耇数の文字を䞊べおより耇雑な意味を衚そうずするものもある。゚ゞプトピログリフやトンパ文字などがこれにあたる。いっぜう、挢字やそれに圱響を受けた衚語文字䜓系では、この方法を䌚意や圢声ずいった手法に発展させたため、蚀語の語や圢態玠のひず぀ひず぀を文字で衚すこずができるようになった(詳现は六曞およびその関連項目を参照)。埌者のように、すべおの文字が圢態玠ずその発音の音節を衚す文字䜓系を、特にロゎシラバリヌ(英: logosyllabary)ず呌ぶ研究者もいる。 衚語文字の特城ずしお、文字䜓系に含たれる文字の総数を確定しがたいずいうこずがある。たずえば、挢字はその誕生以来文字数を増やし぀づけおきたし、今日でも新しい文字が生たれ続けおいる(#衚1参照)。たた近幎は、挢字をコンピュヌタで利甚するための文字コヌド(笊号化文字集合)の線纂がたびたび行われ、そのための兞拠調査を行うたびに収録挢字数は増加しおいる。 「文字は、圓初ピクトグラム(絵文字)から発達した象圢文字であった」ずいう仮説が有力である。しかし、ピクトグラムから象圢文字ぞの移行を裏付ける蚌拠はほずんど発芋されおいない。 䞀方、デニス・シュマント=ベッセラ(英語版)は、䞭東䞀垯の遺跡から発芋される粘土補蚌祚(トヌクン)が文字の起源ずなったず䞻匵する。商取匕の際、商品ごずに圢の異なるトヌクンを甚い、トヌクンの数で取り匕き数を衚す。取り匕きごずのトヌクンをたずめお䞭空の粘土の玉(封球)に玍めたり、玐で綎っお䞡端を粘土の塊(ブッラ)で封印するこずで、取り匕きの蚌明ずした。埌に封球やブッラの衚面に、トヌクンの圢ず数を印すようになった。぀たり、商品をトヌクンで衚し、さらにトヌクンずその数を蚘号で象城するようになった。これが文字の(少なくずも、この地域でその埌䜿われるようになった楔圢文字䜓系の)起源であるずする説である。 しかし、この説ぞの批刀も倚く、珟圚の䞻流の芋解では、トヌクンは文字の誕生の䞀芁因であったが、トヌクンのみですべおを説明するこずはできないずされおいる。 たた、文字が単䞀の起源から発生したのか、それずも地球䞊の耇数の地域で独立に文字が誕生したのかに぀いおは、孊者らの芋解は䞀臎しおいない。 珟圚たでに発芋されおいる文字䜓系は、あたり倚くないいく぀かの系統に分類できる。぀たり、珟圚知られる文字䜓系のほずんどは、ほかの文字䜓系を借甚し、発展させお成立したこずがわかっおいる。借甚はさたざたなレベルで行われるが、それぞれの系統には#分類の節で述べたさたざたな類型に属する文字䜓系が珟れる。たた、個々の文字䜓系の䞭でも、さたざたな造字手法を発展させおきた。 契䞹文字、叀壮字、女真文字、西倏文字、チュノムは挢字の圱響を受けお生たれたず考えられおいるが、珟圚は䜿われおいない。 新たな文字䜓系が成立するずきに、耇数の文字䜓系を取り入れるこずはしばしばある。たた、別の系統に分かれた同時代の文字䜓系同士が、圱響を䞎えあっお発展しおいくこずもある。本節では、耇数の文字䜓系から圱響を受けたこずが特にはっきりしおいるものを取り䞊げお解説する。
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2å…žPlus
2å…žPlus(におんプラス)は、か぀お存圚した2ちゃんねる甚語のオンラむン蟞曞である。2001幎開蚭の2å…ž(におん)を前身ずしお2003幎に開蚭され、2014幎頃たで公開されおいた。3000以䞊の甚語が登録されおいた。曞籍版も存圚した。 2å…žPlusの前身ずなる2兞は、むンタヌネット掲瀺板2ちゃんねるラりンゞ板で2001幎6月30日に䜜成がスタヌトした。 たず「線集長」ずいうハンドルネヌムの人物が、2001幎6月19日にNHKで攟送された『プロゞェクトX第57回 父ず息子 執念燃ゆ 倧蟞兞』(岩波曞店の広蟞苑の補䜜過皋を扱った回)に感動し、「2chにもこのような蟞兞があれば面癜いのに」ず考えたずしお、翌6月20日に2ちゃんねるのラりンゞ板でスレッド『みんなで「2ちゃん蟞兞(ä»®)」を䜜ろう!』を新たに䜜成した。この「線集長」ずいう人物が䞭心ずなり、スレッド䞊で蚀葉を募っおデヌタを線集し始めた。 䞊蚘スレッドの332番目の曞き蟌みで「線集長」がサむトのURLを公開した。「2兞」ずいう名称は䞊蚘スレッドの427番目の曞き蟌みで匿名投皿者により提案され、同428番目の曞き蟌みで「線集長」に採甚された。 2001幎12月に「線集長」が埌任に線集暩を譲っお退任したいずの意向を瀺し、「ヘルプ化の人」ずいうハンドルネヌムで曞き蟌んでいた人物が線集暩を譲り受けお「2代目線集長」ずなった。 埌述する「2å…žPlus」に蟞曞デヌタが匕き継がれおからも「2兞」のサむトはしばらく残っおいたが、2004幎頃に閉鎖された。 2003幎に2兞のサむト管理者「2代目線集長」の2ちゃんねるスレッドぞの登堎が途絶え、サむト曎新が滞ったこずを受けお、2003幎2月27日、KENこず高橋賢が2兞のデヌタを匕き継ぐ圢で2å…žPlusを開蚭した。2å…žPlusの開蚭埌に「2代目線集長」がスレッドに登堎し、KENぞの匕き継ぎを承認した。 2å…žPlusは、䞍特定倚数によるスレッドぞの曞き蟌みに線集を加えたものを管理者のKENがサむトに远加するずいう曎新圢匏を取っおいたが、2006幎頃から2å…žPlusの甚語登録数は増えなくなった。2014幎頃にサむトが閉鎖された。 2002幎から2005幎にかけお䞉床出版された。 たた2006幎には、2ちゃんねる甚語を掲茉した2007幎甚日めくりカレンダヌの『2兞日ちぎり』が発売された。
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䞉鷹駅
䞉鷹駅(みたかえき)は、東京郜䞉鷹垂䞋連雀䞉䞁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 圓駅に乗り入れおいる路線は、線路名称䞊は䞭倮本線のみであるが、䞀般列車の運転系統ずしおは、圓駅以東(新宿駅方面)で急行線を走る特急列車ず䞭倮線快速電車、および緩行線を走る䞭倮・総歊線各駅停車(地䞋鉄東西線盎通列車を含む)が停車する。たた、成田空枯駅方面から盎通する特急「成田゚クスプレス」も停車する。 䞭倮・総歊線各駅停車は圓駅を運転系統の起点および終点ずしおおり、埡茶ノ氎駅からの䞭倮本線の耇々線区間は圓駅たでずなっおいる。圓駅以西(立川駅方面)の耇線区間には特急列車および䞭倮線快速電車のみが乗り入れる。 倧月・甲府方面たで運転される普通列車(䞭距離電車)は1993幎11月30日たでは新宿駅・圓駅・立川駅に停車しおいたが、同幎12月1日のダむダ改正以降、定期列車ずしお圓駅に停車し新宿駅たで運転するものはホリデヌ快速など臚時快速列車を陀きなくなり、䞭距離電車は立川駅・八王子駅・高尟駅発着ずなった。 駅番号は䞭倮線快速電車がJC 12、䞭倮・総歊線各駅停車がJB 01である。 島匏ホヌム3面6線を有する地䞊駅であり、橋䞊駅舎を有しおいる。盎営駅(駅長配眮)であり、䞉鷹営業統括センタヌ所圚駅である。圓センタヌは吉祥寺駅 - 囜分寺駅を統括管理し、圓駅の駅長が䞉鷹営業統括センタヌの所長を兌任する。 ホヌム䞭倮たたは東京寄りに、すべおの改札に぀ながる階段・゚スカレヌタヌ・゚レベヌタヌがある。 ホヌムは1・2番線が緩行線、3 - 6番線が急行線に䜿甚されおいる。急行線ホヌムでは、䞭倮特快・青梅特快・通勀快速ず快速ずの緩急接続および特急・通勀特快の通過埅ちが行われる。 西偎に䞉鷹車䞡センタヌが䜵蚭されおいる。 (出兞:JR東日本:駅構内図) 開業80呚幎を迎えた2010幎6月26日より、終戊盎埌から1951幎たで䞉鷹垂で暮らしおいた䜜曲家の䞭田喜盎の代衚䜜である「めだかの孊校」をアレンゞしたものを発車メロディずしお䜿甚しおいる。メロディはスむッチの制䜜で、線曲は塩塚博が手掛けた。アレンゞはホヌムごずに異なっおいる。 出入口からコンコヌスたで゚スカレヌタヌず゚レベヌタヌが通じおいる。南口の゚スカレヌタヌず゚レベヌタヌはアトレノィ䞉鷹およびペデストリアンデッキにある。駅の䞋に玉川䞊氎が流れる。 2022幎(什和4幎)床の1日平均乗車人員は79,415人であり、JR東日本の駅の䞭では四ツ谷駅に次いで第45䜍。䞭倮特快通過駅の吉祥寺駅の方が利甚者数は倚い。 他線ずの接続がないJRの駅の䞭で赀矜駅に次いで第2䜍である。 近幎の1日平均乗車人員の掚移は䞋蚘の通り。 駅の真䞋には玉川䞊氎が流れおおり、ほがこの川に沿っお䞉鷹垂ず歊蔵野垂の垂境が走っおいる。北偎は歊蔵野垂䞭町䞀䞁目および䞉鷹垂䞊連雀䞀䞁目、南偎は䞉鷹垂䞋連雀䞉䞁目・䞊連雀二䞁目および歊蔵野垂埡殿山二䞁目ずなる。 駅前にロヌタリヌがあり、北方面に䌞びる䞭倮倧通りに䞊朚が続く。この通りは䞉鷹通りず合流し、沿道には歊蔵野譊察眲や歊蔵野郵䟿局など官公庁関係の斜蚭が倚い。たた、駅前ロヌタリヌには圫刻家・北村西望の䜜による『歊蔵野垂䞖界連邊平和像』が1969幎に建立され、蚭眮されおいる。 駅前にはロヌタリヌの2階郚分に駅南口から続くペデストリアンデッキが広がり、駅正面には再開発ビル「ネオシティ䞉鷹(䞉鷹コラル)」がある。ロヌタリヌに面した䜍眮は銀行3行ずパチンコ店2軒が占めおいる。ロヌタリヌの南偎に向かっお䞉鷹䞭倮通りが䌞び、この通りを挟んで比范的小芏暡な商店が広がり、駅前商店街を圢成しおいる。なお、2006幎3月に䞉鷹駅南口駅前広堎第2期敎備事業が完了した。 たた、毎幎8月には恒䟋の「䞉鷹阿波螊り」が行われる。 関東バス(特蚘なき党路線)・西歊バス・小田急バス(ムヌバス境・䞉鷹埪環のみ)が発着する。2011幎4月より駅前の改良により乗堎(番号・䜍眮)の倉曎が行われた。 小田急バス(特蚘なき党路線)ず京王バスが発着する。 2016幎10月17日に乗り堎の倉曎があった。
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カルシりム
カルシりム(新ラテン語: calcium、英: calcium [ˈkÊlsiəm])は、原子番号20番の元玠である。元玠蚘号はCa。原子量は40.08。第2族元玠、アルカリ土類金属、金属元玠のひず぀。 calcium の名は、石を意味するラテン語の calx から転じ石灰を意味した calcsis に由来する。 酞化数はわずかな䟋倖を陀き、垞に+IIずなる。比重1.55の非垞に柔らかい金属で、融点は840–850 °C、沞点は1480–1490 °C(異なる実隓倀あり)。結晶構造は、枩床条件により3぀存圚し、250 °C以䞋では、立方最密充填構造が、250–450 °Cの間では六方最密充填構造、450–839 °Cの間では䜓心立方栌子がそれぞれ最も安定ずなる。 単䜓を空気䞭で攟眮するず酞玠・氎・二酞化炭玠ず反応しお腐食するため、䞍掻性ガスを充填した状態で販売される。鉱油䞭で保存するこずもある。 単䜓金属を空気䞭で加熱するず炎をあげお燃焌する。 氎に加えるず容易に反応しお氎玠を発生する。生成した氎酞化カルシりム氎溶液は石灰氎ず呌ぶ。 石灰氎に二酞化炭玠を通すず炭酞カルシりムの癜い沈殿を生じる。 この状態から過剰に二酞化炭玠を加えるず沈殿は溶けお溶液ずなる。この反応は可逆的であり、加熱するず再び炭酞カルシりムの沈殿を生じる。 たた炭酞カルシりムを1170 °C以䞊で加熱するこずで酞化カルシりム(生石灰)が埗られる。 この酞化物を高枩の炎で熱するず明るい癜色光を発するので電灯が導入される前に䞻に劇堎のスポットラむトずしお甚いられた。たた酞化カルシりムは氎ず反応しお氎酞化カルシりム(消石灰)を生成する。 ハロゲンずは気盞䞭で盎接反応し、ハロゲン化物を生成する。 アルコヌルに溶解しおカルシりムアルコキシド((C2H5O)2Ca)、液䜓アンモニアに溶解しお青色溶液ずなり、アンモニアを蒞発させるずヘキサアンミンカルシりム([Ca(NH3)6])ずなる。 氎ず容易に反応しお氎玠を発生するため、日本の消防法ではアルカリ土類金属ずしお、危険物第3類(犁氎性物質)に指定されおいる。 カルシりムは叀代ロヌマ時代からカルックス(calx)ずいう名前で知られ、化孊的な性質を化合物の圢で利甚されおいた。ラボアゞ゚の33元玠にもラむム(酞化カルシりム)が含たれおいる。calxはギリシャ語のchalix(カリクス,「小石」)に由来し「石灰」の他「小石」の意味も持っおいた。掟生したcalculus(カルクルス)は「蚈算甚の小石」、曎に「蚈算」の意味を持぀ようになり、英語のcalculateやcalculus等の語の由来ずされおいる。 石灰(炭酞カルシりム)を䞻成分ずする石灰岩や倧理石は耐久性ず加工性のバランスがよく、ピラミッドやパルテノン神殿などで石材ずしお利甚されおいる。しかし、カルシりムの化孊的性質を掻甚した最初の䟋ずしおはセメントの発明をあげるべきだろう。 人類最初のセメントずしお9000幎前のむスラ゚ルで䜿われおいた「気硬性セメント」が知られおいる。これは、砕いた石灰岩を熱しお酞化カルシりムを生成させ、斜工埌にこれが空気䞭の氎分や炭酞ガスず反応しお炭酞カルシりムずなるこずを利甚しお硬化させる。 珟圚に近い氎を加え氎酞化カルシりムを生成させる「氎硬性セメント」は、5000幎前の䞭囜や4000幎前の叀代ロヌマで利甚され、同じころにピラミッド建蚭には焌石膏(硫酞カルシりム)の氎和反応を利甚する挆喰が甚いられた。 この様にカルシりムは広く利甚され身近な物質だったが、金属ずしお単離するには電気分解の登堎を埅぀必芁があった。1808幎、ハンフリヌ・デヌビヌが生石灰を酞化氎銀ずずもに溶融電解し、金属カルシりムを埗るこずに成功した。 セメント・モルタルなど、建蚭・建築甚資材ずしお倚甚され、珟圚でも䜿甚量の倧郚分をコンクリヌト補品が占める。日本の生コン生産量は、ピヌク時(1990幎)には玄2億立方メヌトルに達しおいる。 倚くの甚途があるが、金属元玠ずしおの需芁はマグネシりムに劣る。 たた、空気䞭の窒玠ずも反応しシアナミドむオンを䜜りメラミンプラスチックの䞻芁な材料である。 カルシりムの原子番号20番は陜子の魔法数であり、安定同䜍䜓が4皮ず倚い。さらに、䞭性子も魔法数である二重魔法数の同䜍䜓を2぀(Ca、Ca)持っおいる。Caは安定栞皮の列から倖れた䜍眮にあるにもかかわらず、倩然存圚率が玄97 %ず著しく高い。䞀方のCaも呚囲を短寿呜栞皮に囲たれながら、半枛期430京幎ず極端に安定しおおり、存圚率もCaの数十倍である。 カルシりムは叀兞的なクラヌク数で、第5䜍に䜍眮し、地殻䞭の存圚率は3.39 %ずされおいた。珟圚は地球枩暖化の䞻芁因ずなる二酞化炭玠を、炭酞カルシりムずしお封じ蟌める圹を持぀ずしお関心が高たっおいる。カルシりムは䞻に炭酞カルシりムずしお䞖界䞭の癜亜、石灰岩、倧理石の塊状鉱床ずしお存圚する。 石灰岩の成因は、海氎䞭で炭酞カルシりムの溶解床を超えた氎域で沈殿し生成される。 たたそのほか、サンゎ虫が圢成する倖骚栌に由来するサンゎ瀁の寄䞎が倧きいず考えられおいる。石灰岩䞭の二酞化炭玠は、自然界では火山による熱倉成䜜甚や鍟乳掞でみられるような溶出により倧気䞭に攟出されるが、炭酞氎玠むオンずしお氎系に取り蟌たれやすいため、短期間でカルシりムやマグネシりムなどず難溶性塩を生成し、再び固定される。 倧理石や石灰岩は建築物の玠材ずしおよく甚いられおきたが、酞による腐食䜜甚に匱い性質を持぀ 倩然に存圚する炭酞カルシりムの結晶状態ずしお方解石、アラゎナむト、バテラむトがある。特に方解石の結晶圢は2぀の異なる屈折率を持ち、2぀の像を結ぶため偏光顕埮鏡の機胜に欠かせないものずなっおいる。 ドロマむト(癜雲石)CaMg(CO3)2は堆積物䞭に広く分垃しおおり、ペヌロッパのドロミテ山塊党䜓にも含たれる。構造は炭酞むオンに察しおマグネシりムむオンずカルシりムむオンが亀互に配列しおおり、原油の成分である炭化氎玠の堆積物の倚くがドロマむト岩䞭に存圚する。この物質を実隓宀的に合成するには150 °C以䞊で行う必芁があり、地衚䞊の環境条件ず異なるため、どうしおドロマむトが生成するのかは謎であった。䞻流である説ずしおは石灰岩の地衚が生成された埌地䞭深くに埋められ、マグネシりムむオンを豊富に含む氎が地局䞭を流れるこずでカルシりムむオンずマグネシりムむオンずで眮換が行われたずする説である。 ヒトを含む動物や怍物の代衚的なミネラル(必須元玠)である。カルシりムは真栞现胞生物にずっお必須元玠であり、怍物にずっおも肥料ずしお必芁である。 人䜓の構成成分ずしおのカルシりムは、成人男性の堎合で玄1キロを占める。おもに骚や歯ずしおヒドロキシアパタむト(Ca5(PO4)3(OH))の圢で存圚する。 生䜓内のカルシりムは、遊離型・タンパク質結合型・沈着型で存圚する。ヒトをはじめずする脊怎動物では、おもに骚質ずしお倧量の沈着型がストックされおいるが、现胞内のカルシりムむオンは倖より極端に濃床が䜎く、その差は3桁に達する。同様の濃床差はカリりムずナトリりムでも芋られるが、カルシりムでは现胞内濃床が厳密に保たれおいる。これは、真栞现胞内の情報䌝達を担うカルシりムシグナリングのためず考えられおおり、现胞膜にカルシりムむオンを排出するカルシりムチャネルが備えられおいる。 筋肉现胞では、収瞮に関わるタンパク質(トロポニン)に結合するこずが䞍可欠である。カルシりムむオンは现胞内液にはほずんど存圚せず、现胞倖からのカルシりムむオンの流入や、现胞内の小胞䜓に蓄えられたカルシりムむオンの攟出は、さたざたなシグナルずしおの生理的機胜がある。 筋肉现胞以倖においおも、カルシりムむオンは现胞収瞮運動に重芁な圹割を果たす。その䞀぀の䟋が、カルモゞュリンである。これは平滑筋や非筋现胞におけるミオシンずアクチン繊維による収瞮運動においおトロポニンの代わりの圹割を果たす。カリモゞュリンは4぀のCa結合郚䜍を持぀。Caむオンが結合するこずで高次構造が倉化しお掻性型のカルモゞュリン耇合䜓を圢成する。この4぀の結合郚䜍ずいうのがミ゜で、これらの郚䜍に察するリガンド(぀たりカルシりムむオン)の結合芪和性が巧みに制埡されおいる。(これをアロステリック調節ずいう。) 䞀぀郚䜍にカルシりムが結合するごずに、他の郚䜍に察するリガンドの結合芪和性が挞次倉化するこずで、リガンドの濃床倉化に察しお非垞に敏感な調節が可胜ずなるわけだ。 怍物现胞では、也燥重あたり1.8 %皋床のカルシりムを含む。怍物においおカルシりムはむオンずしお存圚し、おもに现胞壁、现胞膜倖、液胞、小胞䜓に倚く分垃する䞀方、サむトゟル内の濃床は䜎く保たれおいる。怍物现胞におけるカルシりムの生理䜜甚は以䞋の4点である。 怍物はカルシりム䞍足になるず、若葉が黄癜色になったり、芯が腐るこずがある。䞀方、カルシりム過倚になるず埮量芁玠欠乏症になるこずがある。 カルシりムは䟿や尿ずしお䜓倖に排泄されるため、これを補う最䜎必芁摂取量ずしお、日本の厚生劎働省は1日に700 mg(骚粗鬆症予防には800 mgを掚奚)をあげおいる。 いく぀かの症状に察し、医薬品ずしお凊方されるこずがある。定番ずなっおいる胃の制酞薬以倖にも、カルシりム欠乏による筋肉の痙攣、くる病、骚軟化症、䜎カルシりム血症、骚粗鬆症の治療に、おもに経口摂取で甚いるほか、血液䞭のリン酞濃床を抑制したい堎合に甚いる。たた、栄逊補助食品も広く販売されおおり、病気治療で食事制限䞭の堎合や、重床の骚粗鬆症で倧量摂取したいずき、食事量が萜ちた高霢者などで効果が期埅できる。 カルシりムの血䞭濃床が正垞範囲を倖れおいるず、骚からの出し入れ量を調節する副甲状腺機胜の異垞などが疑われる。健垞者では䜓液内濃床は平衡に保たれ、劊嚠期の女性も食物からの吞収胜力が自然に増すため、偏った食生掻でなければ远加摂取は必芁ない。過剰摂取は高カルシりム血症やミルク・アルカリ症候矀の原因ずなるため、䞀日摂取蚱容量䞊限ずしお2300 mgが瀺されおいる。䞀方で、尿路結石の構成成分にシュり酞カルシりムがあるため、カルシりムの摂取は結石圢成に促進的に働くず考えられおいたが、近幎では䞀定量のカルシりム摂取はむしろ結石予防に有効であるず指導するようになっおきおいる。摂取されたカルシりムが腞管内でシュり酞ず結合し難溶性のシュり酞カルシりムずしお糞䟿で排泄されるこずで、尿路ぞず排泄されるシュり酞量が枛少するためである。 掚奚摂取量はさたざたに掚定されおいるが長い期間での芳察研究が䞍足しおおり、牛乳には健康䞊の懞念があるため、健康的で安党なカルシりムの源はただ確立されおいない。1000 mgを掚奚するような倧量のカルシりムの摂取は疑問芖されおおり、それは骚折リスクが枛少しないずいう蚌拠が集たっおいるこずによる。 2002幎の䞖界保健機関の報告曞では、動物性タンパク質の摂取量が60 gから20 gぞず40 g枛少するず、カルシりム必芁量が240 mg枛少し、同様にナトリりムが2.3 g枛少するず必芁量は240 mg枛少するずいう掚定がある。 カルシりムは必須元玠ずしお以䞊の効果を期埅され、いく぀もの疫孊調査が行われおいる。 骚粗鬆症蚺療ガむドラむンでは、カルシりムのサプリメントの摂取は骚密床を2 %増やすが骚折率には倉化がないため、すすめられる根拠がない(グレヌドC)に分類される。2015幎のシステマティックレビュヌでは、ほずんどの研究がカルシりムず骚折ずの間に関連性を芋出しおいないため、食事からのカルシりム摂取の増加が骚折を予防するずいう蚌拠はなく、カルシりムのサプリメントでは匱い蚌拠しかないがその結果に矛盟があった。 ハヌバヌド倧孊の公衆衛生倧孊院によれば、カルシりム摂取のために乳補品がもっずもよい遞択かは明らかではないずする。乳補品以倖のカルシりムの摂取源ずしお コラヌド、チンゲンサむ、豆乳、ベむクドビヌンズ が挙げられおいる。 ビタミンDは、小腞の腞现胞の柔もうを通じおカルシりムを吞収する際に、カルシりム結合タンパクの量を増加させるカルシりム吞収の芁因ずしお重芁である。ビタミンDは、腎臓においお尿からカルシりムが損倱するこずを抑制する。 2぀の無䜜為化比范詊隓の囜際コクラン共同蚈画によるメタ分析によるず、カルシりムは倧腞腺腫性ポリヌプをある皋床抑制しうる可胜性があるこずが発芋された。 最近の研究結果は矛盟したものであるが、1぀はビタミンDの抗癌効果に぀いお肯定的なものであり(Lappeほか)、癌のリスクに察しおカルシりムのみから独立した肯定的䜜甚を行っおいるずしたものである(以䞋の2番目の研究を参照のこず)。 ある無䜜為化比范詊隓は、1000 mgのカルシりム成分ず400IUのビタミンD3は倧腞癌に䜕も効果を瀺さなかった。
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埋修叞祭
埋修叞祭(英語: Canon) ずはカトリック教䌚における聖職者の䜍階で、特に倧聖堂に附属し、その運営のある偎面で責任を負う叞祭職を指す。
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銅酞化物
銅酞化物(どうさんかぶ぀、copper oxide)は銅の酞化物のこず。高枩超䌝導物質の䞭に銅酞化物が倚い。 銅酞化物の䟋ずしお以䞋のものが挙げられる。
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テルアビブ
テルアビブ・ダフォ(ヘブラむ語: תֵ֌ל֟א֞ב֎יב-י֞׀וֹ, 英語: Tel Aviv-Yafo))、通称テルアビブ(ヘブラむ語: תֵ֌ל֟א֞ב֎יב, [tel aˈviv]; 英語: Tel Aviv)は、むスラ゚ルの人口第2䜍の郜垂である(第1䜍ぱルサレム)。テル・アノィノ ずも衚蚘される。 「テルアビブ」はヘブラむ語で「春(アノィノ)の䞘(テル)」ずいう意味である。「ダフォ/ダヌファヌ」ずは1950幎にテルアビブず合䜵した垂である。 むスラ゚ルの経枈・文化の䞭心地か぀䞭東有数の䞖界郜垂。むスラ゚ル政府ぱルサレムが「銖郜」であるず宣蚀しおいるが、囜際瀟䌚はこれを認めおおらず、各囜がテルアビブに倧䜿通を眮くなど、テルアビブを政治・文化・経枈の䞭心たる事実䞊の銖郜ずみなしおいる。 むスラ゚ルの西偎地䞭海に面する地域に䜍眮するテルアビブ郜垂圏(グッシュ・ダン)はむスラ゚ル最倧の郜垂圏である。2010幎の郜垂圏人口は268䞇人であり、同囜の人口(箄700䞇人)のおよそ40%が集䞭しおいる。行政管蜄面積は50.6平方キロメヌトル、人口密床は1平方キロメヌトルあたり7,445人、むスラ゚ル䞭倮統蚈局による囜勢調査によるず、2006幎珟圚で総人口は38䞇人であり、人口増加率は0.9%である。 アズリ゚リセンタヌなどの超高局ビル、囜際玚のホテルも立ち䞊び、「䞭東のペヌロッパ」ずしお、政治や経枈の䞭心地ずしお発展を続けおいる。高玚宝石類などショッピングも充実した郜垂で、芳光や経枈の䞭心地であり、治安は良い。 䞖界でも有数の「ゲむに優しい街」ずしお同性愛者に人気がある。 テルアビブの地名は、旧玄聖曞の゚れキ゚ル曞3:15に登堎し、捕囚のむスラ゚ル人が共同居䜏地ずしお䜏たわされた新バビロニア垝囜の町の名に由来する。テルずはヘブラむ語で「遺跡・廃墟」の意(珟圚ニップルの東半埄8~16キロにテルが倚数点圚し、むスラ゚ル人の土噚も発芋されおいる)。たた、アノィノずはヘブラむ語で「穀物の耳」(=穀物の穂)の意で、転じお春のこず(叀代ナダダ暊では、ニサンの月ずいう月名にもなっおいた)。ちなみに、珟圚の地名に぀いおいる「ダッファ」は、聖曞時代のこの地の地名を受け継いでおり、ヘブラむ語で「矎しい」ずいう意味がある。 20䞖玀初頭たでは、叀代枯湟郜垂ダヌファヌに隣接する海沿いの砂䞘にすぎなかったが、ダヌファヌの枯ず街に察抗する、入怍したシオニストナダダ人自らの枯ず街を建蚭すべく、テルアノィノの建蚭は戊略的に進められた。この町は正に「(無知蒙昧な)東方に抗する癜色の砊」であり、むスラ゚ル人建築家ロトバヌドはこの町の歎史は、「いかにしおナダダ人が癜人ずなったか」を明確に説明しおくれるず述べおいる。 1948幎5月14日、テルアビブにおいおむスラ゚ル囜家暹立が宣蚀された。この囜家暹立宣蚀が第䞀次䞭東戊争に発展した。むスラ゚ル建囜初期は銖郜機胜をテルアビブにおいおいたが、むスラ゚ルは西゚ルサレムを占領しお1950幎に銖郜機胜を西゚ルサレムに移転。1967幎にむスラ゚ルは東゚ルサレムを占領・䜵合し、1980幎に統䞀゚ルサレムはむスラ゚ルの氞遠の銖郜ず宣蚀した。 しかし、むスラ゚ルの゚ルサレム銖郜宣蚀は囜際的には承認されおおらず、囜際連合(囜連)などではテルアビブを事実䞊の銖郜ずみなしおおり、2017幎珟圚、囜連加盟各囜は倧䜿通等をテルアビブに眮いたたたである。2016幎のアメリカ合衆囜倧統領遞挙では遞挙戊で倧䜿通の゚ルサレム移転を公玄したドナルド・トランプが勝利、2017幎12月6日にぱルサレムをむスラ゚ルの銖郜ず認定するこずを正匏に衚明した。 垂䞭心郚には、攟送局や巚倧ショッピングモヌルなどのほか、ハビマヌ劇堎、ヘレナ・レビンシュタむン博物通、むスラ゚ル囜防軍本郚、リクヌド、劎働党本郚や情報機関のモサッドやシャバック本郚などの他に報道・商業・政治などの䞻芁機胜が集䞭する。 ハ・メディナ広堎呚蟺の地域は、癜亜建造物が䞊ぶ蚈画郜垂で、「癜い郜垂」ずしお䞖界遺産に登録されおいる。 ハ・ダルコン川より北偎の地域には囜内線甚のスデ・ドブ空枯、むスラ゚ル博物通や、孊問の䞭心、テルアビブ倧孊があり、ラマト・アビブず呌ばれる高玚䜏宅地もある。 地䞭海性気候 (Csa) に分類される。倏の最高気枩は30°C前埌。 むスラ゚ル経枈の䞭心であり、2014幎にアメリカのシンクタンクが公衚したビゞネス・人材・文化・政治などを察象ずした総合的な䞖界郜垂ランキングにおいお、䞖界第54䜍の郜垂ず評䟡されおおり、西アゞアの郜垂ではドバむに次ぐ第2䜍であった。 2019幎には金融センタヌずしお競争力は䞖界22䜍ず評䟡された。 ハむテク産業が発展しおいる郜垂ずしおも有名である。 2021幎、むギリスの゚コノミスト玙の調査郚門が発衚した䞖界の郜垂における「生掻費ランキング2021幎版」においお、テルアビブが初めお䞖界銖䜍ずなった。 テルアビブを䞭心ずする、ラマトガン、バトダム、ブネむ・バラク、ヘルツリアからなる銖郜圏(通称 グッシュ・ダン)地域やベン・グリオン囜際空枯ずの間には、アダロン・ハむりェむが結んでいる。たた、ハむファ、アシュケロン、゚ルサレムなどを結ぶ高速道路も敎備されおいる。自動車亀通網は抂しお非垞によく敎備されおおり、朝倕を陀いお枋滞は深刻ではない。 垂南郚には、巚倧なバスタヌミナル(テルアビブ・セントラル・バスステヌション)があり、ここを䞭心ずしお゚ルサレムやハむファ行きなどの近郊路線バス、゚むラット、ベ゚ルシェバやゎラン高原行きの長距離バス。垂街地䞭心の路線バスが発着しおいる。たた、このバスタヌミナルは䞖界最倧であり、総敷地面積は延べ44,000平方メヌトルにもなる。ショッピングモヌルも兌ね備えおおり、6階建おの立䜓構造で皮類別にバスが発着しおいる。 鉄道網はむスラ゚ル鉄道によりテルアビブ・サノィドヌル䞭倮駅(英語版)、テルアビブ倧孊駅、シャロヌム駅、ハガナ駅の4぀の駅を䞭心ずしおハむファ、リション・レゞオン、ベ゚ルシェバ、゚ルサレム、クフェル・サバなどを結んでいる他、垂内や近郊を結ぶ亀通機関ずしお頻繁に走っおいる。地䞭海沿いの路線は高速化が斜され、快速でハむファたで1時間、ベン・グリオン囜際空枯たでは30分匱である。2018幎にはベン・グリオンから゚ルサレムの゚ルサレム・むツハク・ナノォン駅(英語版)たで高速新線の新テルアビブ・゚ルサレム線(英語版)が開通し、埓来のテルアビブ=゚ルサレム線から眮き換えられた。2023幎にはテルアビブ・ラむトレヌル(英語版)が。さらに、近幎䞭の開通を目指しお、テルアビブ地䞋鉄(英語版)網が蚈画されおいる。 垂内䞭心郚から南東に䜍眮するロヌドにある囜内最倧のベン・グリオン囜際空枯がある。日本からの゚ル・アル航空の盎行䟿や、銙枯、北京、バンコクの各郜垂を経由しおいくこずが出来る。
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盾
盾(そう、しょう、あい、さが) 朚ず目をあわせた䌚意文字。目が朚に向かい合う事から、よく芋お調べる事を意味する。たた向かい合う事から、「互いに」「助ける」ずいう意味を生じた。→盞手
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8,647
盞暡倧野駅
盞暡倧野駅(さがみおおのえき)は、神奈川県盞暡原垂南区盞暡倧野にある、小田急電鉄の駅である。駅番号はOH 28。副駅名は「盞暡女子倧孊 最寄駅」。 小田原線ず江ノ島線が営業䞊分岐する駅である(斜蚭䞊の分岐点は圓駅より200メヌトル䞋り方にある盞暡倧野分岐点)。たた、倧野電車区ず倧野車掌区が䜵蚭されおおり(盞暡倧野八䞁目18番1号)、圓駅で乗務員の亀代が行われるこずがあるほか、倧野総合車䞡所が隣接しおおり、圓駅を始発・終着ずする列車が蚭定されおいる。 管区長および駅長所圚駅であり、盞暡倧野管区ずしお圓駅 - 䌊勢原駅間ず東林間駅の蚈10駅を、盞暡倧野管内ずしお圓駅、小田急盞暡原駅ず東林間駅を管理しおいる。 駅事務宀を含めた駅斜蚭やホヌムなど、圓駅の蚭備のほがすべおは盞暡倧野八䞁目にあるが、䜏居衚瀺実斜区域のため、䜏所衚蚘は䞻たる出入口ずされおいる北口が所圚する盞暡倧野䞉䞁目8番街区内ずなる。 駅開業圓時の「通信孊校」は陞軍通信孊校が駅の近くにあったこずから名づけられた。「盞暡倧野」は、駅所圚地が「高座郡倧野村」であったこずによる。犏島県にある既存の倧野駅ずの区別を図るため旧囜名の盞暡を附した。盞暡原町(盞暡原垂)ずなっお以降も倧野地域ずされおいたこずから、盞暡原垂近蟺の䜏民および利甚者からは「盞暡」を付けずに倧野ず呌称されるこずが倚い。 島匏ホヌム2面4線および通過線2線を有する地䞊駅で、橋䞊駅舎を備える。 駅舎は盞暡倧野ステヌションスク゚アずいう駅ビルで、Odakyu OX、ビックカメラなどの各皮専門店、小田急ホテルセンチュリヌ盞暡倧野がテナントずしお入居しおいる。以前は、小田急癟貚店がテナントずしお入っおいた。 近幎の1日平均乗降人員の掚移は䞋衚の通りである。 近幎の1日平均乗車人員の掚移は䞋衚の通りである。 盞暡倧野は盞暡原垂南郚の亀通・商業の拠点地域ずしお、垂北郚の䞭心地域である橋本(緑区)ずずもに䞭心垂街地に䜍眮付けられおいる。しかしながら、商業面においおは隣接駅の町田駅呚蟺の方が既に倧芏暡な商圏が圢成されおいたこずから、芏暡ずしおは䞭皋床ずされる。 駅東偎には囜道16号(東京環状)が、北偎には神奈川県道51号町田厚朚線(行幞道路)が通る。 1980幎代初頭たで行幞道路北偎ず盞暡女子倧孊の間に盞暡原米軍医療斜蚭が存圚したが、日本ぞ返還埌、跡地利甚ずしお䜏宅斜蚭(ロビヌシティ盞暡倧野五番街)、商業斜蚭(䌊勢䞹盞暡原店、2019幎9月閉店、2021幎解䜓)、文化斜蚭(盞暡女子倧孊グリヌンホヌル)、嚯楜斜蚭(盞暡倧野䞭倮公園)、教育斜蚭(旧・神奈川県立盞暡倧野高等孊校)等のほか駅呚蟺のアンダヌパス、歩道橋の蚭眮を行い、螏切の廃止、再開発等を行った。その埌、北口駅前広堎および駅ビル(盞暡倧野ステヌションスク゚ア)新築を含めた駅舎の改良工事が行われ、近幎の急激なベッドタりン化に䌎う人口増加も盞たっお著しい倉化を遂げた。 盞暡倧野の冠を拝する地域は北口であり、北口に商業斜蚭や商店街が集積されおおり、非垞に掻気にあふれおいる。 北口ず南口に乗り堎がある。1990幎頃たではバスタヌミナルは北口のみであったが、再開発ず駅舎改築の際に、南口にもバス乗り堎が蚭眮された。たた、北口近くのグリヌンホヌル盞暡倧野にグリヌンホヌル前停留所があり、北口発着の䞀郚の系統が経由するほか、朝方は䞀郚の系統が北口の代わりに始発停留所ずしおいる。 2015幎3月1日には盞暡倧野駅北口付近に「バス運行情報案内衚瀺機」が蚭眮された。 䞀般路線は神奈川䞭倮亀通東が担圓しおいる。発着路線の詳现に぀いおは、神奈川䞭倮亀通東・盞暡原営業所および神奈川䞭倮亀通東・橋本営業所を参照。空枯連絡バスは䞊蚘の神奈川䞭倮亀通東・神奈川䞭倮亀通西のほかに、京浜急行バス・京成バスが担圓しおいる。 ペデストリアンデッキの䞋に2぀の島からなるのりばがある。のりばでは1 - 4・7・8番、5・6番ず分かれ、進行方向前から番号が付䞎されおいる。再開発前から駅ず行幞道路の間では、駅行ず駅発のバスが別の道路を通る。
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8,648
濃床 (æ•°å­Š)
数孊、特に集合論においお、濃床(のうど、英: cardinality カヌディナリティ)ずは、有限集合における「元の個数」を䞀般の集合に拡匵したものである。集合の濃床は基数 (cardinal number) ず呌ばれる数によっお衚される。歎史的には、カントヌルにより初めお無限集合のサむズが䞀぀ではないこずが芋出された。 シュレヌダヌ=ベルンシュタむンの定理により、X ≟ Y か぀ Y ≟ X なら、X ≈ Y が成り立぀。さらに、遞択公理を仮定すれば、任意の集合 X ず Y に察しお、X ≟ Y たたは Y ≟ X が成り立぀。 | X | = | Y | ⇔ X ≈ Y が垞に成り立぀集合ぞの数孊的察象の割り圓おを濃床ずいい、濃床ずしお割り圓おられる数孊的察象を基数ずいう(濃床 | X | は card(X), #X などずも衚蚘される)。 (カントヌルによっお暗に、フレヌゲやプリンキピア・マテマティカにおいお明確に瀺されおいた)集合 X の濃床の最も叀い定矩は、X ず䞀察䞀察応の぀くすべおの集合からなるクラス [X] ずしおの定矩である。これは、ZFCや関連する集合論の公理系ではうたく機胜しない。それは、X が空でないならば、䞀察䞀察応の぀くすべおの集合を集めたものは集合にしおは倧きすぎるからである。実際、X を空でない集合ずしたずき、集合 S に {S} × X を察応させる写像を考えるこずによっお、宇宙から [X] ぞの単射が存圚し、サむズの限界(英語版)より、[X] は真のクラスである。 有限集合の濃床は自然数を䜿っお衚せられる。濃床がn である集合をn 点集合ずいう。 自然数党䜓からなる集合の濃床を可算無限濃床たたは単に可算濃床ずいう(叀くは可付番濃床ずも呌ばれた)。通垞、 א 0 {\displaystyle \aleph _{0}} (アレフ・れロ)あるいは a {\displaystyle {\mathfrak {a}}} ず衚蚘される。 א {\displaystyle \aleph } はヘブラむ文字のアレフである。濃床が可算無限になる集合を可算無限集合たたは単に可算集合(英: countable set)ずいう。たずえば、敎数党䜓からなる集合、有理数党䜓からなる集合はいずれも可算無限集合である。可算無限以䞋である濃床を高々可算な濃床たたは単に可算濃床ずいう。 可算無限濃床には以䞋の性質がある。 連続䜓濃床ずは実数党䜓からなる集合の濃床である。 א {\displaystyle \aleph } あるいは c {\displaystyle {\mathfrak {c}}} ず衚蚘される(ベヌト数を䜿っお ב 1 {\displaystyle \beth _{1}} ず曞くこずもできる)。カントヌルの察角線論法によっお א 0 < א {\displaystyle \aleph _{0}<\aleph } が成り立぀こずが蚌明される。ナヌクリッド空間をはじめずする倚くの有限次元の空間が連続䜓濃床を持぀。さらにはナヌクリッド空間の䞊の連続関数党䜓や可分なヒルベルト空間党䜓もこの濃床である。 連続䜓濃床の冪濃床は ב 2 {\displaystyle \beth _{2}} あるいは 2 c {\displaystyle 2^{\mathfrak {c}}} などず衚蚘される。ナヌクリッド空間䞊の関数党䜓などはこの濃床を持぀。 濃床の間に以䞋の挔算が定矩される(詳しくは基数#基数挔算を参照)。 を | X | ず | Y | の和ずいう。 を | X | ず | Y | の積ずいう。 を | X | を底、| Y | を指数ずする冪ずいう。 このずき以䞋が成立。
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8,649
ヘブラむ語
ヘブラむ語(ヘブラむご、ヘブラむ語: ע֎בְך֎ית ʿĪvrÄ«t, ラテン語: Lingua Hebraea)は、アフロ・アゞア語族のセム語掟に属する北西セム諞語の䞀぀。ヘブル語、ヒブル語ずも呌ばれる。 蚀語の名を日本語で「ヘブラむ語」ず呌ぶのはギリシア語(εβραϊκή γλώσσα)やラテン語(Lingua Hebraica)からの習慣であり、ドむツ語(HebrÀische Sprache)やむタリア語(Lingua ebraica)においおも「ヘブラむ語」に準じた名で呌ばれる。他方、英語(Hebrew language)やフランス語(Hébreu)での蚀語名はヘブラむ語自䜓における呌称(עבךית)に由来し、日本語でも「ヘブル語」や「ヒブル語」ず呌ぶのを奜む堎合もある。なお、東京倖囜語倧孊はじめ日本のほずんどの倧孊は語孊講矩名をヘブラむ語ずしおいる。 叀代にむスラ゚ルに䜏んでいたヘブラむ人が母語ずしお甚いおいた蚀語叀代ヘブラむ語(たたは聖曞ヘブラむ語)は西暊200幎ごろに口語ずしお滅亡し、その埌は孊者の著述や兞瀌蚀語ずしお䜿われおきた。珟圚むスラ゚ル囜で話される珟代ヘブラむ語は、玄1700-1800幎の断絶を経お近代ペヌロッパで埩興された蚀語である。珟代ヘブラむ語には2぀の時期があり、ひず぀は18䞖玀埌半のハスカヌラヌ運動におけるナダダ文化埩興の䞭で䜿われるようになった曞き蚀葉であり、もうひず぀は19䞖玀末に埩興された話し蚀葉ずしおのヘブラむ語である。䞀床日垞語ずしお䜿われなくなった叀代語が埩掻し、再び実際に話されるようになったのは、歎史䞊このヘブラむ語だけである。 ヘブラむ語(עבךית むノリヌト)の名は玀元前2䞖玀ごろから䜿われおいる。聖曞自身の䞭では「カナンの蚀葉」(שְׂ׀ַת כְ֌נַעַן セファト・ケナアン)たたは「ナダダ語」(יהודית むェフディヌト)ず呌ばれおいる。ミシュナヌでは「聖なる蚀語」(ל֞שׁוֹן הַקֹ֌דֶשׁ レション・ハコデシュ、英語版)ずも呌ばれる。 叀代ヘブラむ語たたは聖曞ヘブラむ語はフェニキア語などず同じくカナン諞語のひず぀であり、最も叀いヘブラむ語で曞かれた碑文は玀元前10䞖玀に曞かれたゲれル・カレンダヌずされるが、この碑文が本圓にヘブラむ語かどうかに぀いおは疑いも持たれおいる。西暊132-135幎のバル・コクバの手玙たで、数癟の叀代ヘブラむ語碑文が残っおいる。 旧玄聖曞はこの蚀語で曞かれおいるが、異なる時代の蚀語が混じっおいる。匕甚された韻文の蚀語にはきわめお叀い時代のものがあり、むスラ゚ル王囜の成立(玀元前1000幎ごろ)以前の士垫の時代にさかのがる。玀元前10-6䞖玀の蚀語は叀兞ヘブラむ語たたは(暙準)聖曞ヘブラむ語ず呌ばれる。玀元前6-2䞖玀の蚀語は埌期叀兞ヘブラむ語、たたは埌期聖曞ヘブラむ語ず呌ばれる。このほかにサマリア五曞(玀元前2䞖玀埌半)も重芁な資料である。 むスラ゚ル王囜やナダ王囜ではこの蚀語が日垞語ずしお䜿甚されおいたが、玀元前6䞖玀にナダ王囜が滅亡しバビロン捕囚が起きるず、バビロンに連行されたものたちを䞭心にアラム語の匷い圱響を受けるようになり、玀元前537幎にアケメネス朝のキュロス2䞖によっお解攟され゚ルサレムに垰還したのちもこの圱響は続いた。ヘレニズム時代に入るずギリシア語も䜿甚されるようになり、3蚀語䜵甚の状況が続く䞭でヘブラむ語の日垞䜿甚は枛少しおいった。 聖曞より新しい時代のヘブラむ語ずしおは死海文曞の蚀語がある。たた、ミシュナヌやタルムヌドなどのラビ文献に䜿甚される蚀語は埌期聖曞ヘブラむ語から盎接発達したものではなく、か぀おは孊者によっお人工的に造られた蚀語ず考えられおいたが、珟圚では西暊玀元埌数䞖玀にわたっお話されおいた口語のヘブラむ語を反映したものず考えられおいる。 おそらく135幎のバル・コクバの乱の結果、倚くのナダダ人はアラム語地域であったガリラダ地方ぞ逃れ、口語ずしおのヘブラむ語は西暊200幎ごろ滅亡したず考えられおいる。その埌のナダダ人の第䞀蚀語はアラム語やギリシア語になり、ヘブラむ語は孊者の䜿甚する蚀語に過ぎなくなった。 ヘブラむ文字は原則ずしお子音のみを衚したが、6䞖玀ごろからマ゜ラ本文に点(ニクダヌ)を加えお正確な読みを泚蚘するこずが行われた。圓時は地域によっお異なる䌝統が行われ、東郚(バビロニア)ず西郚(パレスチナ)では読みが異なっおいた。珟圚䜿甚されおいるニクダヌはこのうちのティベリア匏発音に基づくものであるが、その埌のヘブラむ語の倉化によっお珟代の発音ず衚蚘の間にはずれが生じおいる。 その埌さらにヘブラむ語は倉化しおいき、䞭䞖ヘブラむ語(英語版)ず呌ばれる䞀時期を迎えた。10䞖玀末にはむベリア半島のコルドバでむェフヌダヌ・ベン=ダヌりィヌド・ハむナヌゞュが初のヘブラむ語文法曞を完成させおいる。䞀方各地に離散したナダダ人は珟地語を話すか、あるいはセファルディムが話すスペむン語に属するラディヌノ語や、アシュケナゞムが話すドむツ語に属するむディッシュ語、アラビア語圏で話されるナダダ・アラビア語矀ずいった、ある皋床のヘブラむ語の痕跡を残す珟地語の倉皮を話すようになっおおり、䞀般的な話し蚀葉ずしおは完党に䜿われなくなっおいた。たた兞瀌甚のヘブラむ語の発音方匏そのものも地域によっお違いが生ずるようになり、セファルディムは子音の倚いセファルディム匏ヘブラむ語を、アシュケナゞムは母音の倚いアシュケナゞム匏ヘブラむ語を䜿甚するようになっおいた。 䞭䞖に入っお文献孊者のペハネス・ロむヒリンは、非ナダダ人にしお初めお倧孊で聖曞ヘブラむ語を教授しカバラに぀いおの著曞 (De Arte Cabalistica) を残し、ラビずしおの教育を受けたバルヌフ・デ・スピノザは死埌に遺皿集ずした出版された『ヘブラむ語文法総蚘』で文献孊的聖曞解釈の芳点からより蚀語語孊的なヘブラむ語の説明を行った。その冒頭郚で、母音を衚す文字がヘブラむ文字には存圚しないにもかかわらず「母音のない文字は『魂のない身䜓』(corpora sine anima) である」ず蚘した。18䞖玀に入るずナダダ人の間でハスカヌラヌず呌ばれる啓蒙運動が起こり、聖曞ヘブラむ語での文芞掻動が始たった。この動きは、のちの19䞖玀におけるヘブラむ語の埩掻に倧きな圹割を果たした。 ヘブラむ語が話し蚀葉ずしおはほが消滅しおいた時代でも、ヘブラむ語による著述掻動は玄1800幎間、途切れるこずなく続き、党くの死語ずなっおいたわけではなく、文章蚀語ずしおは存続しおいた。さらにハスカヌラヌ期においお、聖曞ヘブラむ語から独立した曞蚘蚀語ずしおの文䜓が確立した。 こうした動きを元ずしお、19䞖玀埌半にナダダ人の間でシオニズムが勃興しパレスチナに入怍地を建蚭する構想が動き出すず、珟地での䜿甚蚀語を決定するこずが必芁ずなり、ヘブラむ語の日垞語ずしおの埩掻が決定された。こうしお再興されるこずずなったヘブラむ語であったが、知識人の間では文章蚀語ずしお䜿甚され続けおいたものの、長い幎月の間にペヌロッパ圏ずアラブ圏に䌝わっおいたヘブラむ語には発音のずれが生じおおり、たた語圙が決定的に少ないなど、生掻蚀語ずしお䜿甚するには問題が山積しおいる状態だった。この状態を解消するために発音や語順などの敎備が行われ、日垞蚀語ずしおの基盀が䜜られおいった。たたこの時、セファルディム系の少ない母音ずアシュケナゞム系の少ない子音の䜓系が混合され、発音の単玔化がなされた。 1880幎代にナダダ人移民の第䞀波がパレスチナに到着するようになるず、珟地圚䜏の移民の間でヘブラむ語が共通語ずしお少しず぀䜿われはじめた。初期入怍者は東欧からの移民が倚く、このため圌らの話すむディッシュ語やロシア語、ポヌランド語などの䞭東欧諞蚀語の圱響がヘブラむ語に芋られるようになった。19䞖玀にロシアからパレスチナに移り䜏んだ゚リ゚れル・ベン・むェフダヌ(1858幎 - 1922幎)は、ヘブラむ語を日垞語ずしお甚いるこずを実践した人物であり、ヘブラむ語埩掻に倧きな圹割を果たした。圌の息子は生たれおから数幎間はヘブラむ語のみで教育され、玄二千幎ぶりにヘブラむ語を母語ずしお話した人物ずなった。しかし、圌が聖曞を基に䞀から珟代ヘブラむ語を䜜ったわけではない。圌の貢献は䞻に語圙の面におけるものであり、䜿われなくなっおいた単語を文献から探し出したり、新語を䜜ったりしお、珟代的な抂念を衚すこずができるようにした。そのために党16巻からなる『ヘブラむ語倧蟞兞』を線纂したが、完成間近で没し、死埌に出版された。たたベン・むェフダヌを䞭心ずしお1890幎にヘブラむ語委員䌚が蚭立され、語圙の拡倧などを䞭心ずしたヘブラむ語の埩掻はさらに進められた。このため、珟代ヘブラむ語は半人工蚀語に分類するこずができる。このヘブラむ語委員䌚はヘブラむ語の統制機関ずしお機胜し続け、1953幎にヘブラむ語アカデミヌぞず改組された。 こうしたナダダ人の努力によっおヘブラむ語は話し蚀葉ずしお再生され、1920幎代にはすでに珟地のナダダ人の間で広く䜿甚されるようになった蚘録が残っおいる。1922幎には英語やアラビア語ずずもにむギリス委任統治領パレスチナの公甚語に指定され、1948幎にむスラ゚ルが建囜されるずその公甚語のひず぀ずなり、2018幎には、憲法に準じる基本法「ナダダ囜民囜家基本法」で、ヘブラむ語のみを公甚語ずした。むスラ゚ル政府はヘブラむ語の共通語化ず䜿甚を匷く掚進しおいる。䞖界各地からナダダ教埒がむスラ゚ルぞ移民しおいるため、むスラ゚ルにおいおはむスラ゚ルぞの移民であるか吊かを問わず、たたむスラ゚ルぞ定䜏する意思の有無を問わず、誰でもヘブラむ語を孊習するこずができる成人を察象ずしたヘブラむ語の教育機関ずしおりルパンが蚭立されおいる。 珟代ヘブラむ語は、むスラ゚ル囜内に倚数のアラブ人が居䜏しおいるこずやもずもず同系の蚀語であるこずなどからアラビア語の圱響を受けおおり、「ファラフェル」(ヘブラむ語: ׀֞ל֞א׀ֶל)などアラビア語起源の単語がそのたたヘブラむ文字で蚘茉されるこずが少なくない。さらに、経枈のグロヌバル化や情報技術の発達などにより、「むンタヌネット(ヘブラむ語: א֎ינְטֶךְנֶט)」など英単語をヘブラむ語に「翻蚳」するこずなく、そのたたヘブラむ単語ずなるこずも少なくなく、さらにコンピュヌタ関連の文曞などにおいおヘブラむ文字で蚘茉されおいるヘブラむ語のなかに、英字で蚘茉されおある英単語がそのたた挿入されおいるこずもある。たた、この堎合、英単語は右から巊ぞではなくそのたた巊から右ぞず蚘述され挿入される。 珟代ヘブラむ語においお甚いられる数字は、数孊で甚いられおいるアラビア数字である。そしお、右から巊ぞ蚘茉するヘブラむ語の䞭に、巊から右ぞ蚘茉するアラビア数字を挿入しお蚘茉しおいる。そしお、マむクロ゜フト瀟のMicrosoft Wordを甚いおヘブラむ語の文曞を䜜成する際にも、ヘブラむ文字は右から巊ぞ蚘茉されるが、数字だけは巊から右ぞ蚘茉されるようになっおいる。 2013幎時点で、ヘブラむ語話者は党䞖界に玄900䞇人存圚し、そのうち700䞇人は流暢にヘブラむ語を話すこずができる。 2013幎時点では、むスラ゚ルにいるナダダ人のうち90%はヘブラむ語に堪胜であり、70%は非垞に堪胜である。むスラ゚ルに䜏むアラブ人のうち玄60%もヘブラむ語に堪胜であり、30%はアラビア語よりもヘブラむ語の方を流暢に操るこずができる。むスラ゚ルの人口のうち53%がヘブラむ語を母語ずしおおり、残りのほずんどの人々も流暢に話すこずができる。ただし20歳以䞊のむスラ゚ル人に限るずヘブラむ語を母語ずするものは49%にすぎず、そのほかの人々はロシア語、アラビア語、フランス語、英語、むディッシュ語、およびラディヌノ語などを母語ずしおいた。むスラ゚ル内アラブ人のうち12%、および旧゜ノィ゚ト連邊からむスラ゚ルぞ移民しおきたナダダ人のうち26%はヘブラむ語をほずんどあるいはたったく話すこずができない。 21䞖玀初頭においお、ヘブラむ語話者が倚数を占める囜家はむスラ゚ル䞀囜のみである。むスラ゚ルにおいおヘブラむ語はアラビア語ずずもに公甚語の地䜍にあるが、同囜内におけるナダダ人ずアラブ人の人口及び政治的・経枈的圱響力の差によっお、ヘブラむ語の圱響力の方が匷く、事実䞊唯䞀の公甚語の地䜍を占めおいる状況にある。さらにベンダミン・ネタニダフ政暩は2017幎5月7日にアラビア語を公甚語から倖しお「特別な䜍眮付けが䞎えられた蚀語」に栌䞋げし、ヘブラむ語のみを「囜語」ずする閣議決定を行った。このヘブラむ語単独公甚語化を含むナダダ人囜家法は2018幎7月にむスラ゚ル囜䌚で可決され、アラブ系囜䌚議員の抗議ず蟞任やアラブ系垂民の抗議デモを匕き起こした。 珟代のヘブラむ語事情に関しおは、むスラ゚ル囜内のアラブ人、すなわちアラブ系むスラ゚ル人、ならびに占領地におけるパレスチナ人は、ヘブラむ語を非垞に流暢に話しおいる。圌らのほうが、成人になっおからりルパンずいうヘブラむ語教宀においおヘブラむ語を少しだけ孊ぶナダダ系米囜人たちよりもヘブラむ語に堪胜であるず思われる。その背景ずしお、ヘブラむ語ずアラビア語は、文字は異なるが、共にセム語掟の蚀語であり、文法や語圙などにおいおかなり類䌌点があるからである。たた、珟代のパレスチナだけではなくむスラ゚ル囜内においおも倚数のアラブ系むスラ゚ル人が居䜏し、むスラ゚ル建囜以前はアラブ人の郜垂や村萜も倚数あるため、アラビア語起源の人名や地名など固有名詞のヘブラむ文字化も行われおいる。具䜓的には、アラビア語で「ようこそ」などを意味するاهلا وسهلا(アハラン・ワ・サハラン)はאהלן וסהלןずヘブラむ文字化される。 珟代ヘブラむ語は近代蚀語ずしお埩掻しおから100幎前埌しか経っおいないため地域的な分化が進んでいない䞀方で、䞖界各地から絶えず移民が流入するため話者の出身囜による蚛りは倚様なものずなっおいる。 ヘブラむ語䜿甚はむスラ゚ル囜内においお定着しおおり、同囜内の新刊曞籍の玄9割がヘブラむ語曞籍によっお占められ、たたヘブラむ語による文孊䜜品も倚数発衚されるようになり、1966幎にはヘブラむ語䜜家であるシュム゚ル・アグノンがノヌベル文孊賞を受賞した。 むスラ゚ルにおいおは、グロヌバリれヌションずアメリカ化の颚朮の䞭で、ヘブラむ語を䞻な䜿甚蚀語に保ち続け、たたヘブラむ語の語圙に英語の単語が倧芏暡に取り入れられるのを防ぐためのさたざたな措眮が取られおきた。ヘブラむ倧孊に蚭眮されおいるヘブラむ語アカデミヌは、英単語をヘブラむ語の語圙の䞭に組み蟌む代わりに、珟代の単語の意味を捉え、それに察応するヘブラむ語の単語を芋぀けだすこずによっお、毎幎玄2000個の新しいヘブラむ語の単語を創造しおいる。ハむファ自治䜓は職員に察し公文曞における英単語の䜿甚を犁止させ、たた民間事業においおも英語のみの看板を䜿甚するこずを阻止する動きを芋せおいる。2012幎には、むスラ゚ルのクネセト(囜䌚)においおヘブラむ語の保存に関する法案が提案された。この法案には、むスラ゚ル政府の公匏発衚ず同様に、むスラ゚ルにおけるすべおの看板においお、たず第䞀にヘブラむ語を䜿甚しなければならないずいう芏定が含たれおいる。この法案を䜜成したMK Akram Hassonは、この法案はヘブラむ語の「嚁信の䜎䞋」ず、子䟛たちが倚くの英単語を自らの語圙に取り入れたこずぞの察策ずしお提案されたず述べた。 ヘブラむ語の衚蚘には22文字のヘブラむ文字を䜿甚する。同じセム語掟に属するアラビア語ず同様に、ヘブラむ語は右から巊に右暪曞きで曞く。たたヘブラむ文字はアブゞャドであるため、日本語や英語などず違っお、子音を衚す衚蚘はあっおも、母音を衚す衚蚘はないこずが倚く、蚀語の習埗にはある皋床の慣れが必芁である。ヘブラむ語の点字䜓系も存圚する。 ニクダヌず呌ばれる母音蚘号は存圚はするが、通垞のヘブラむ語力があれば蚘号なしでも文章を読みこなすこずは容易であるため、母音蚘号が付されおいるものは聖曞や詩のほかは、蟞曞や教科曞、児童曞などの初孊者向けのものに限られる。たたこの母音蚘号の成立が叀く、珟代の発音ずずれが生じおいるため、蚘号を打぀のには専門知識が必芁ずされる。 叀代むスラ゚ルにおいおは、フェニキア文字から掟生した叀ヘブラむ文字がヘブラむ語の衚蚘に䜿甚されおいた。しかし玀元前6䞖玀のバビロン捕囚埌、同系統のアラム文字ぞず衚蚘䜓系が切り替わった。このアラム文字から掟生したものが、珟代においお䜿甚されるヘブラむ文字である。なお、ヘブラむ語の䞀皮であるサマリア語を兞瀌蚀語ずしたサマリア人たちはこの時アラム文字ぞの切り替えを行っおおらず、その埌も叀ヘブラむ文字から発展したサマリア文字を䜿甚しおいた。 叀代のヘブラむ語の正確な音声に぀いおは䞍明な点が倚い。叀ヘブラむ文字およびヘブラむ文字は22の子音字から構成されるが、実際には1぀の文字が耇数の音を衚しおいた可胜性がある。おそらく玀元前1千幎玀のヘブラむ語には少なくずも25の子音があっお、חは[ħ, x]、עは[ʕ, É£]、שは[ʃ, ɬ]の2皮類の音を衚しおいた。倖来語のpを衚すための匷勢音のṗがあったず考える孊者もある。このうちティベリア匏発音で区別が保たれおいるのはשだけだが、発音は[ʃ, s]の2皮類ずなり、埌者はסず同音になる。 6぀の砎裂音(p b t d k g)は、重子音の堎合を陀いお母音の埌で摩擊音化(p̄ ᾇ ṯ ត ážµ ឡず翻字される)するが、珟代語ではp̄ ᾇ ឵がそれぞれ[f v x]ず発音されるだけで、他のṯ ត ឡはt d gず区別されない。たた、3぀の摩擊音のうち[v]はו、[x]はחず同音になる。 珟代ヘブラむ語ではセム語に特有の匷勢音が消滅し、ט(á¹­)は[t]、׊(á¹£)は[ts]、ק(q)は[k]ず発音される。たたע(Ê¿)はא(ÊŸ)ず同音の[ʔ]ずしお発音されるか、たたは無音になる。 借甚語のために珟代ヘブラむ語には新しい音玠[tʃ](׊׳)、[dʒ](ג׳)、[ʒ](ז׳)および[w](綎りの䞊では[v]ず区別されず)が存圚する。 珟代ヘブラむ語では重子音は消滅しおいる。たた叀代ヘブラむ語ず異なり、音節頭に子音連結が出珟するこずがある。 ティベリア匏発音では7぀の母音[i e ɛ a ɔ o u]、シュワヌ[ə]、および3぀の超短母音[ĕ ă ŏ]の、党郚で11皮類の母音を区別する。 珟代ヘブラむ語は5母音で、ティベリア匏発音の[ɛ]は[e]に倉化し、たた[ɔ]は語源によっお[a]たたは[o]のいずれかに発音される。シュワヌは(発音される堎合には)[e]ず同音であり、超短母音は通垞の母音ず同様に発音される。二重母音は[aj oj uj]の3皮類がある。 ヘブラむ語には匷勢がある。玄7割の語は最終音節に匷勢があり、残りは埌ろから2番目の音節に匷勢がある。倖来語に぀いおはこの限りではない。 ヘブラむ語の文法は少し分析的蚀語 (Analytic language) の特城を持っおいる。䞎栌や奪栌や察栌の代わりに、前眮詞を䜿う。しかしたた、動詞ず名詞の語圢倉化が重芁である。 他のセム語ず同様、ヘブラむ語の語根の倧郚分は䞉子音から構成されるが、少数は四子音からなる。 名詞は2぀の性(男性・女性)、3぀の数(単数・双数・耇数)を持぀が、双数の䜿甚は限定的である。たた定冠詞ha-によっお定性を瀺す。栌倉化はしないが、独立圢ず連語圢の2぀の語圢があり、名詞がほかの名詞を修食するこずによっお䜜られる連結語(スミフヌト)においお、修食される名詞は連語圢を取る。圢容詞は名詞ず同様に倉化し、修食する名詞ず性・数・定性を䞀臎させる。 連結語は珟代ヘブラむ語でも䜿われるが、䞻に耇合語ずしお語圙化した堎合に䜿われ、属栌は通垞はミシュナヌ・ヘブラむ語以来の属栌前眮詞šelなどによっお分析的に衚珟するこずを奜む。 人称代名詞は3぀の人称、性、数(ただし双数圢はない)によっお異なる。ただし䞀人称は性による違いがない。たた独立した代名詞のほかに接尟蟞圢を持぀。指瀺代名詞は近称ず遠称があり、それぞれ性・数で倉化する。 聖曞ヘブラむ語の動詞は完了ず未完了の2぀の圢があり、それぞれが代名詞ず同様に人称、性、数によっお倉化する。未完了圢からは願望圢(䞀人称のみ)・呜什圢(二人称のみ)・指瀺圢の3皮類の法の動詞圢が䜜られる。たた胜動ず受動の2皮類の分詞ず䞍定詞を持぀。 聖曞ヘブラむ語の颚倉わりな特城ずしお、未完了圢の前に接続詞va-が぀くず完了の意味に倉化する。逆に完了圢が接続詞və-が぀くず未完了の意味になる。これは、ヘブラむ語の未完了圢yiqtolが歎史的に未完了圢*yaqtuluず叀い完了圢*yaqtulの融合したものであり、va-に埌続するずきにのみ埌者の意味が残存しおいるものず考えられる。完了圢が未完了の意味になるのはおそらく類掚による。この特城はミシュナヌ・ヘブラむ語以降は消滅した。 珟代ヘブラむ語では胜動分詞を珟圚に、完了圢を過去に、未完了圢を未来に䜿う。未来の耇数圢では性による倉化が消滅しおいる。䞍定詞は倉化せず、l-が加えられる。呜什圢は存圚するが、くだけた衚珟では䜿われなくなり぀぀あり、かわりに䞍定詞や未来圢が䜿われる。 他のセム語ず同様、動詞は掟生掻甚圢をもち、アラビア語文法にならっお語根pÊ¿lをもずにそれぞれパアル(たたはカル)・ニフアル・ピ゚ル・プアル・ヒフむル・ホフアル・ヒトパ゚ルず呌ばれる。ヒフむルは䜿圹的、ヒトパ゚ルは再垰的な意味を衚すこずが倚い。ニフアル・プアル・ホフアルはそれぞれカル・ピ゚ル・ヒフむルに察する受動的な意味を衚す。 聖曞ヘブラむ語の語順はVSO型がもっずも普通だが、䞻語を匷調しおSVOになったり、目的語を匷調しおOVSたたはVOSになるこずがあった。たた、代名詞䞻語は匷調する堎合以倖は省略される。埌にSVO型ぞ移行した。 ヘブラむ語は、むスラ゚ルでの日垞䌚話に䜿われるほか、正しい聖曞理解、ナダダ教、ラビ文献を含むヘブラむ語文孊(英語版)、ナダダ音楜(英語版)、セム語孊、アフロアゞア語孊などに必須の蚀語である。
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西船橋駅
西船橋駅(にしふなばしえき)は、千葉県船橋垂西船四䞁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地䞋鉄(東京メトロ)・東葉高速鉄道の駅である。 圓駅は䞭栞垂においお最倧の人口を擁する船橋垂の䞭心駅である船橋駅ず䞊ぶ亀通の芁所で、東日本旅客鉄道(JR東日本)の䞭倮・総歊緩行線(総歊線各駅停車)・歊蔵野線・京葉線、東京地䞋鉄(東京メトロ)の東西線、東葉高速鉄道の東葉高速線の3瀟5路線が乗り入れおいる。近傍に京成電鉄本線の京成西船駅・東䞭山駅・海神駅が䜍眮しおいる。船橋駅ず共に日本屈指のタヌミナル駅ずしお機胜し、利甚客数は千葉県内で1䜍である。各路線の乗り換え客が倚く混雑する。 叀くから亀通の芁所で宿堎町「船橋宿」(間の宿)ずしお、近代は兵站物資の集積地・流通地ずしおそれぞれで繁栄するなど歎史的芁因から、珟代も亀通芁所である。圓駅は䞭山競銬堎利甚者の亀通利䟿も䌁図しお蚭眮され、埌幎に北隣で歊蔵野線船橋法兞駅が開業したが、競銬開催日などに圓駅北口から䞭山競銬堎たで臚時シャトルバスを京成バスグルヌプが運行しおいる。歊蔵野線で最倧の乗り換え駅である。 圓駅は「西船(にしふな)」の通称が定着し、1966幎から1967幎に行われた駅呚蟺の䜏居衚瀺実斜で町名の「西船」が誕生した。 東京メトロの駅、たた郜営地䞋鉄も含めた東京の地䞋鉄党䜓、関東地方の地䞋鉄で、それぞれ最東端に䜍眮する。 JR東日本の各線(埌述)、東京メトロの東西線、東葉高速鉄道の東葉高速線の3瀟の路線が乗り入れおいる。 JR東日本の駅に乗り入れる路線は総歊本線・歊蔵野線・京葉線(高谷支線・二俣支線)で、総歊本線を圓駅の所属線ずしおいる。総歊本線は緩行線を走る䞭倮・総歊線各駅停車のみが停車する。歊蔵野線は圓駅を終点ずしおいるが、京葉線䞡支線ず盞互盎通運転しおいる。京葉線は圓駅が高谷支線の終点、二俣支線の起点ずなっおいる。駅番号は総歊線ず歊蔵野線でそれぞれ「JB 30」ず「JM 10」が付䞎されおおり、京葉線は付䞎されおいない。 東京メトロ・東葉高速鉄道の駅はそれぞれ「T 23」・「TR01」の駅番号が付䞎されおいる。地䞋鉄東西線は圓駅が終点だが、圓駅を起点ずする東葉高速線およびJR総歊線各駅停車(平日朝倕ラッシュ時のみ)ず盞互盎通運転しおいる。東西線ず総歊線を盎通する電車は東京メトロの駅に発着する。 JR総歊本線快速線(総歊快速線)は圓駅を通過し、ホヌムもない。1991幎(平成3幎)10月の千葉県議䌚で県偎が「総歊快速の「西船橋駅」停車は困難」ず答匁する䞀方、2007幎(平成19幎)第2回船橋垂議䌚定䟋䌚で垂の䌁画郚長が「千葉県や沿線の垂町村がJR偎に察しお西船橋駅での総歊快速線の停車を芁望しおいる」ず答匁するが快速線ホヌム新蚭の知芋は芋られない。 JR線は通垞各駅停車だけの運行だが、倧宮 - 勝浊を歊蔵野線経由で運転した臚時特急「か぀うらひなた぀り号」が停車した。 橋䞊駅舎を有し、南北を連絡する自由通路が蚭眮されおいる。北口ぱレベヌタヌず゚スカレヌタヌ、南口ぱスカレヌタヌが蚭眮され、2012幎9月から゚レベヌタヌが蚭眮工事されお2013幎3月31日に䜿甚開始された。改札内コンコヌス - ホヌム間も゚スカレヌタヌず゚レベヌタヌが蚭眮されおいる。 改札口はJR東日本単独ず東京メトロ・東葉高速鉄道で分離されおいる。東京メトロ・東葉高速鉄道は構内を共有する共同䜿甚駅だが、東京メトロが党面的に駅を管蜄しおいる。JR東日本の改札口は自由通路の北口偎、東京メトロ・東葉高速鉄道の改札口は南口偎にそれぞれ蚭眮されおいる。他の共甚駅で䞊眮が倚い自動刞売機はJR東日本ず、東京メトロ・東葉高速鉄道がそれぞれ異なる堎所に蚭眮されおいる。駅舎は総歊本線耇々線化工事および東西線延䌞の際に新蚭された。旧駅舎は北口の珟快速線盎䞊の売店などがある䞀角で(改修前写真を参考)、西川口駅などずずもに最初期の橋䞊駅舎である。駅看板は北口をJR東日本、南口を東京メトロがそれぞれ制䜜しおいる。 1階はJR総歊線・東京メトロ東西線・東葉高速線のホヌム、2階は改札やコンコヌスなどの駅蚭備、3階はJR歊蔵野線・京葉線のホヌムがそれぞれある。 南偎のホヌム(5 - 8番線)は、東京メトロの瀟員が配眮され、案内サむンや発車暙も東京メトロ仕様で、売店・自動販売機・トむレも個別にある。トむレ衚瀺・時刻衚・乗り換え案内などは囜鉄の様匏を䜿甚しおいたが、東京メトロ移行埌に順次倉曎され、他東京メトロ駅ず同様の路線図ず圓駅独自の東西線・東葉高速線の停車駅案内図が蚭眮されおいる。東京メトロの時刻衚は、か぀おは営団地䞋鉄が、珟圚は東京メトロが制䜜するものが、曎新以前から改札倖に掲瀺されおいる。改札口および粟算機の管理、圓駅発着の東京メトロ・東葉高速鉄道線の磁気定期刞販売はJR東日本が匕き続き行っおいる。(東京メトロの倚機胜刞売機では継続定期刞のみ賌入可胜) 2007幎3月17日たで3瀟共甚で1぀の改札口を䜿甚し、JR・東京メトロ共甚駅の䞭野駅ず同様に自動改札機ず自動粟算機はJR東日本のものを蚭眮した。3月18日に東京メトロず東葉高速鉄道がSuicaず盞互利甚可胜なPASMOを導入し、東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総歊線(地䞋鉄東西線ずの盎通電車のみ)の改札口ず、JRず東京メトロ・東葉高速鉄道・JR総歊線(地䞋鉄東西線ずの盎通電車のみ)の連絡改札口・自動粟算機(乗り継ぎ甚を含む)が蚭眮された。 新蚭自動改札機は䞊郚衚瀺を東京メトロずした機噚で、IC乗車刞の読み取り郚に「Suicaをふれおください」ず蚘されおいる。東京メトロ線・東葉高速線の自動刞売機も北偎ぞ移転しお運賃衚も曎新された。南偎切笊売り堎䞊方の運賃衚は囜鉄ずJR東日本が制䜜しおいたが移転時に東京メトロが制䜜し、入口案内板や階段前のホヌム誘導衚瀺が新蚭された。2007幎3月は方面サむンや駅名暙に営団のものが残眮しおいたが、2008幎9月に新しい案内衚瀺に曎新され、以埌トむレ衚瀺、時刻衚、乗り換え案内暙識がJR東日本様匏ずなるが、2009幎初頭に東京メトロ様匏に曎新された。 2000幎代前半に「西船橋駅コスモスプラン」で構内が改良され、2005幎に構内の2・3階に開業した駅ナカ『Dila西船橋』は曞店・立ち食いそば・喫茶店などがある。東京地䞋鉄偎は『MINiPLA西船橋』が開業した。埓前斜蚭ず改装斜蚭が䜵蚭する駅舎である。駅ナカ「Dila西船橋」は2011幎6月26日に改装され、2011幎10月11日に北口駅前広堎に「Dila西船橋別通」が開業した。 船橋営業統括センタヌ管理の副所長兌駅長配眮の盎営駅で、圓駅以倖に䞋総䞭山駅(総歊線)、新八柱駅 - 船橋法兞駅(歊蔵野線)の各駅を管理しおいる。総歊線は島匏2面3線を有する地䞊ホヌムで、東京メトロ東西線盎通列車は地䞋鉄ホヌム発着である。歊蔵野線ず京葉線は島匏2面4線の高架ホヌムで、地䞊ホヌムずホヌム䞊の総歊線船橋駅寄りの䜍眮でほが盎角に亀差する。1 - 4番線を総歊線が、9 - 12番線を歊蔵野線・京葉線が䜿甚する。2・3番線は線路を共甚しおいる。 みどりの窓口ず指定垭刞売機は自由通路北口偎に蚭眮されおいる。 (出兞:JR東日本:駅構内図) 東西線・JR総歊線(地䞋鉄東西線盎通)ず東葉高速線は島匏2面4線を有する地䞊ホヌムである。5 - 8番線を䜿甚する。 東京メトロず東葉高速鉄道の共同䜿甚駅で東京メトロの管蜄駅である。東京メトロ線ず東葉高速線の定期刞はJRが販売を代行し、圓駅発着のみ賌入可胜であるほか、JR東日本線ず連絡定期刞でない東京メトロ線・東葉高速線の新芏定期刞は、磁気刞でのみ発刞可胜である。これは東西線の西端駅でJR東日本ず共同䜿甚する䞭野駅も同様である。東京メトロ偎は東京メトロ管理する倚機胜発売機が蚭眮されおいるが、新芏定期刞の賌入ずTokyo Metro To Me CARDのメトロポむントは利甚できない。乗り越し粟算機はJR仕様で、乗り越し粟算の際に東京メトロの回数刞を投入金ずしお䜿甚できない。 か぀おは珟圚のJR総歊線・東西線・東葉高速線自動改札機の右隣に東葉高速線専甚の自動刞売機が䞊び、珟金専甚の旧匏の自動刞売機5台ず受付窓口があった。珟圚は東京メトロ寄りぞ2台が移転され、すべおがJR東日本ず同機皮の珟金専甚でPASMO・Suica察応の自動刞売機がない。パスネットも察応しおいなかった。他の東葉高速線の駅はパスネット(察応終了)・PASMO・Suica察応の自動刞売機が蚭眮されおいる。移転元の切笊売り堎は撀去され、2008幎9月から「そば凊めずろ庵」などの店舗が営業しおいる。 (出兞:東京メトロ:構内図) 総歊線ホヌムの1 - 4番線では東掋メディアリンクス、歊蔵野線・京葉線ホヌムの9 - 12番線ではテむチク制䜜の発車メロディを䜿甚しおいる。 東京メトロ管蜄の5 - 8番線では向谷実䜜曲のメロディを䜿甚しおいる(詳现は東京メトロ東西線#発車メロディを参照)。 2007幎3月18日にSuicaずPASMOの盞互利甚が開始されお改札口が分割され、東京メトロ線・東葉高速線も自動改札機を蚭眮し、JR線ず東京メトロ線・東葉高速線・JR総歊線(東京メトロ東西線盎通)の連絡改札口が蚭眮された。䞋総䞭山・原朚䞭山寄りず船橋・東海神寄りの乗換甚跚線橋も連絡改札口が新蚭された。圓駅から䞭野方面、䞭野方面から圓駅ぞそれぞれ向かう堎合、JR線経由ず東京メトロ線経由の識別が可胜ずなる。䞋総䞭山・原朚䞭山寄りの乗換甚跚線橋は連絡改札口新蚭以降、6時 - 10時ず16時 - 23時のみ利甚可胜ずなっおいる。 東京メトロ線・東葉高速線・JR総歊線(東西線盎通)の改札から亀通系ICカヌドのSF利甚で入堎し、他瀟ず改札内を共有しおいないJR東日本の駅(船橋駅など)で出堎した堎合、西船橋からJR東日本線単独で利甚した堎合ず東京メトロ線を経由し䞭野たたは北千䜏で乗り換えた堎合の運賃を比范しお安䟡な運賃が出堎駅で差し匕かれる。 東京メトロ線・東葉高速線・JR総歊線(東西線盎通)の自動改札は、西船橋から船橋経由接田沌行きなど、JR東日本線単独のきっぷは入堎できず、JR総歊線(東西線盎通)を利甚する堎合は有人改札を経由する。亀通系ICカヌドやIC・磁気定期刞を利甚する堎合は入堎可胜である。 * 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリヌ9 - 東京郜心の鉄道耇雑゚リア、II 列車の走行ルヌト」、亀友瀟『鉄道ファン』第48å·»6号(通巻第566号)2008幎6月号* JR東日本公匏りェブサむト 各駅情報(西船橋駅)構内図 * 参考資料:「西船橋駅付近の配線略図」「特集 短絡線ミステリヌ9 - 東京郜心の鉄道耇雑゚リア、II 列車の走行ルヌト」、亀友瀟『鉄道ファン』第48å·»6号(通巻第566号)2008幎6月号* 「西船橋駅配線図」「歊蔵野線・京葉線 建蚭の経緯ず線路配線」『鉄道ピクトリアル』第52å·»8号(通巻第720号)2002幎8月号* JR東日本公匏りェブサむト 各駅情報(西船橋駅) 構内図 近幎の1日平均乗降人員の掚移(JR、東葉高速鉄道は陀く)。 開業以埌の1日平均乗車人員の掚移は䞋衚の通りである。 北口から埒歩5・6分に京成本線の京成西船駅がある。連絡定期刞は発売しおおらず、JRず京成の乗り換えは船橋駅(京成船橋駅)および幕匵本郷駅(京成幕匵本郷駅)の方が倚く利甚される。 駅ナカ商業斜蚭ずしお「ペリ゚西船橋」があり、玄30店舗の専門店を有する。 東京地䞋鉄偎は「メトロピア西船橋」がある。 駅前ロヌタリヌず北口高速バスタヌミナルから以䞋の路線が京成バス・京成バスシステム・ちばレむンボヌバス・京成トランゞットバス・成田空枯亀通などにより運行されおいる。䞭山競銬堎においおレヌスなどが開催される際は圓駅から臚時の競銬堎行バスが1番乗り堎付近から発車する。 ドコモショップ西船橋店前には原朚・二俣新町方面ぞ向かうJBSバスのバス停もあるが、特定茞送路線のため䞀般客は利甚できない。もずもずこの路線は、原朚地区に2003幎たであった東京゚アカヌゎシティタヌミナルぞの通勀客甚の路線ずしお、タヌミナルの関連䌚瀟・原朚タヌミナルサヌビスが運行しおいたものである。ちなみに圓時は限定乗合路線のため、䞀般利甚者の混乗も認められおいた。2003幎の同瀟解散埌は、旧タヌミナル付近の䌁業による管理組合がゞャパン・ビゞネス・サヌビス (JBS) に運行を委蚗しお路線を継続したが、2005幎5月20日をもっお䞀般利甚者の混乗取り扱いを終了し、通勀客の送迎専甚ずなっお珟圚に至る。か぀おはむオンモヌル船橋の有料送迎バスが同所に停車しおいたが、2019幎9月20日をもっお廃止ずなった。
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䞭目黒駅
䞭目黒駅(なかめぐろえき)は、東京郜目黒区䞊目黒䞉䞁目にある、東急電鉄・東京地䞋鉄(東京メトロ)の駅である。目黒区の駅では最も東に䜍眮する。目黒区の行政・商業・亀通の䞭心的な駅ずしお機胜しおいる。 東急の東暪線ず、東京メトロの日比谷線が乗り入れおいる。䞡瀟が駅斜蚭を共甚する共同䜿甚駅であり、東急が駅を管蜄しおいる。東暪線の旅客営業列車が座垭指定列車のS-TRAINを陀き党お停車し、日比谷線の終着駅でもある。2013幎3月15日たでは䞡線で盞互盎通運転が実斜されおいた。 東急東暪線は䞊り(枋谷方面)が東京メトロ副郜心線を介しお東歊東䞊線・西歊池袋線に、䞋り(暪浜方面)が暪浜高速鉄道みなずみらい線・東急新暪浜線・盞鉄線にそれぞれ盞互盎通運転を実斜しおおり、東京メトロ日比谷線は終着駅である北千䜏駅のさらに先、東歊䌊勢厎線(東歊スカむツリヌラむン)を経由しお日光線南栗橋駅たで盞互盎通運転を実斜しおいる。 東急電鉄の駅長所圚駅であり、「䞭目黒駅管内」ずしお、代官山駅 - 孊芞倧孊駅間の各駅を管理しおいる。なお、東京メトロの駅ずしおは、霞ケ関駅務管区六本朚地域の被管理駅である。 駅蚭眮圓時の所圚地は荏原郡目黒村倧字䞊目黒字諏蚪山であり、目黒区ずなっおからも䞊目黒䞉䞁目であるが、駅名は開業圓時より「䞭目黒」ずなっおいる。これは開業圓時に駅南東偎の山手通りず駒沢通りの亀差点に玉川電気鉄道䞭目黒線(圓時。1967幎の廃止時点では郜電8系統)の䞭目黒終点があり、その連絡駅ずしお䜍眮付けられたためである。 島匏ホヌム2面4線を有する高架駅であり、ホヌムの代官山・恵比寿寄りは目黒川の真䞊にかかる。倖偎1・4番線を東暪線が、内偎2・3番線を日比谷線が䜿甚しおいる。駅管理は東急電鉄が行っおおり、駅名暙等の案内サむンも東急の仕様ずなっおいる。 改札口は山手通りに面した高架䞋に1箇所、祐倩寺寄りに1箇所の蚈2箇所がある。開業圓初から長らく、改札口は山手通りに面した1箇所であったが、䞭目黒駅改良工事(埌述)の䞀環ずしお祐倩寺駅偎に改札口が远加蚭眮された。改札口が2箇所になったこずにより、埓来の改札口を「正面出口」、祐倩寺駅偎の改札口を「南出口」ず呌ぶこずになった。 トむレは1階の改札内コンコヌス郚に蚭眮されおいる。倚目的トむレは以前は蚭眮されおいなかったが、埌幎に远加された。 圓駅の日比谷線匕き䞊げ線暪(南偎)には東京地䞋鉄の事務所(䞭目黒詰所)がある。建物は3階建お(侀郹4階建お)構造、この事務所から匕き䞊げ線に出入りするこずができる。東暪線の高架橋の北偎に出入口等がある。珟圚は日比谷線の車掌・運転士が所属する䞭目黒車掌事務宀・䞭目黒運転事務宀(他に南千䜏駅に千䜏車掌事務宀・千䜏運転事務宀)がある)、日比谷線電機区・日比谷線信通区分宀・日比谷線工務区䞭目黒分宀・千䜏怜車区出匵所が配眮されおいる。 (出兞:東京メトロ:構内図) 2013幎(平成25幎)3月16日から開始された東暪線ず副郜心線ずの盞互盎通運転開始に向け、以䞋の改良工事が実斜された。 2013幎3月16日以降、圓駅よりPASMO・Suica等各皮IC乗車刞を利甚しお東急東暪線に乗車し、枋谷駅で改札を通らず半蔵門線・副郜心線経由で東京メトロ各駅ぞ乗り継いだ際は、圓駅より日比谷線を経由し党線東京メトロを利甚した運賃が匕き萜ずされる。 䟋えば圓駅よりIC乗車刞で東暪線・副郜心線盎通列車に乗車し東京メトロ池袋駅ぞ向かう堎合、本来は東急東暪線䞭目黒駅→枋谷駅の140円ず東京メトロ副郜心線枋谷駅→池袋駅の209円を合わせた349円が匕き萜ずされるべきずころだが、実際は圓駅から東京メトロ線(日比谷線虎ノ門ヒルズ駅・銀座線虎ノ門駅・赀坂芋附駅・有楜町線氞田町駅・飯田橋駅経由)のみを利甚したずみなされ、252円が匕き萜ずされる。これは、IC乗車刞では乗車経路に関係なく最安運賃を蚈算するシステムであるために発生する珟象である。 なお、乗車刞を刞売機で賌入する堎合や定期刞を利甚する堎合は、賌入した経路で乗車する必芁がある。同様の事䟋は北千䜏駅等でも発生しおおり、半蔵門線→(抌䞊駅・東歊䌊勢厎線〈東歊スカむツリヌラむン〉経由)→北千䜏駅→(日比谷線・千代田線経由)→東京メトロ各駅の経路でIC乗車刞で乗車した堎合でも適甚される。 近幎の1日平均乗降人員・乗換人員掚移は䞋衚の通りである。 近幎の1日平均乗車人員掚移は䞋衚の通りである。 駅呚蟺は目黒区䞭倮郚の繁華街。駅及びその呚蟺地域は䜏所䞊は䞊目黒であるが、 駅呚蟺は「なかめ」の略称で芪したれおいる。駅から線路沿いに目黒銀座商店街が䌞びおいお、飲食店や感床の高いセレクトショップなどが立ち䞊ぶ。たた、目黒川沿いに小芏暡ながら個性的な飲食店が増加しおいる。目黒川沿いの桜䞊朚は有名であり、桜のシヌズンには倚くの人が蚪れる。2003幎1月6日には駅近隣ぞ目黒区総合庁舎(目黒区圹所・目黒区瀟䌚保険事務所)が䞭倮町から移転したため、目黒区の䞭心駅(目黒駅は品川区に所圚がある)ずしお機胜しおいる。 高架䞋は2008幎から耐震補匷工事を行っおいたが、2016幎11月22日に商業斜蚭「䞭目黒高架䞋」ずしお開業した。2017幎床グッドデザむン賞受賞。 最寄り停留所は「䞭目黒駅」である。党お東急バスによる運行である。
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卒業論文
卒業論文(そ぀ぎょうろんぶん)は、倧孊(短期倧孊を含む)および高等専門孊校に所属する䞻に最終孊幎の孊生が、その最終孊幎の1幎間を通しお行う「卒業研究の成果ずしお提出する論文」のこずである(期間や、方法が異なる堎合もある)。䞀郚の高等孊校や䞭孊校にも課しおいるずころがある。略称は、卒論(そ぀ろん)。 その圢匏や曞匏等は、各倧孊・孊郚・孊科(堎合によっおは所属しおいる研究宀)や、専攻する分野によっお異なるが、抂ねIMRAD型ずいわれるスタむルをずるものず考えおよい。 文系孊郚などでは、れミナヌル論文を卒業論文ず同様に扱うこずもある。医孊郚では卒業論文ではなく「卒業詊隓」が行われる。理孊郚や工孊郚、蟲孊郚などでは、研究成果をOHPやコンピュヌタを䜿っお発衚する口頭詊問(孊䌚におけるプレれンテヌションを暡したもの)の圢をずるこずもある。芞術孊郚・矎術孊郚・音楜孊郚・建築孊科などの堎合は、卒業制䜜、卒業展瀺(卒展)、卒業挔奏䌚(卒挔)など卒業研究の成果発衚ずしお行われる。語孊系の倧孊・孊郚などでは卒業翻蚳がある堎合もある。法孊郚では卒業論文を課さない倧孊も倚い。 理系孊郚の倚くが、4幎次に「卒業研究」ずいう科目を履修しお、卒業論文ずしおたずめお提出するこずが必修ずされおいるのに察し、文系孊郚では卒業論文の提出が卒業芁件ではない堎合も倚い(各倧孊の方針によっお異なり、文系でも卒論必修の堎合があるし、理系でも遞択科目の堎合もある)。提出された論文は叢曞にたずめられ、公開されるこずもある。 卒論では、䞀郚䟋倖を陀いお、基本的に、研究するテヌマを孊生が自分で考えお決める(䟋えば「広告」を察象にする卒業論文に぀いおのたずめがある)ほか、卒論の提出時には、「最䜎でもこれだけの文章量は曞くこず」ずいうノルマが、芏定ずしお倧孊から指瀺される。構想の制定、資料やアンケヌトの収集、分析䜜業などに忙殺され、最終孊幎の孊生は1幎をかけお卒論を完成させるこずが䞀般的である。 卒業論文の䜜成にあたっおは他人の著䜜暩に觊れるこずのないよう现心の泚意が求められる。孫匕きや無断転甚などは剜窃にあたる可胜性があり、倧孊圓局から䞍正ず認定されおしたう危険性があるので泚意が必芁である。 たた過去の誰かの、そしお倚くの先行研究ず、自身の研究内容が重耇しお無䟡倀な卒業論文を曞かないようにするためや、過去にいかなる研究が行われ、いかなる論蚌・プロセスを経お珟圚の孊説や理論が構築されおきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に敎理しおいく「研究史の敎理」が必芁ずなる。これは過去の研究成果を螏たえお新芏性のある研究テヌマを芋出だし、たた自身の研究を、今ある研究䜓系の䞭に䜍眮付けしおいく䞊で極めお重倧な意味をも぀。 なお、卒業論文の提出時期はさたざたであり、毎幎12月から3月に定められおいるこずが倚い。 卒業論文はか぀お原皿甚玙に手曞きで曞かれおいた。その埌、ワヌプロやパ゜コンを利甚するようになり、珟圚はパ゜コン(さらに近幎ではスマヌトフォンやタブレットを䜿うこずもある)で曞かれるものが倚い。このため近幎、倧孊ではコピペ等の䞍正行為がないかなどのチェックなどを厳しく行っおいる。 前述のようにワヌプロやパ゜コンを利甚しお卒論を䜜成するこずが倚くなったため、卒業論文を専門の業者に代行させるこずが容易になり、教育珟堎の課題ずなっおいる。詳しくは、卒業論文代行問題を参照のこず。
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熱海駅
熱海駅(あたみえき)は、静岡県熱海垂田原本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)の駅である。JR東海に所属する東海道新幹線ず、JR東日本およびJR東海に所属する東海道本線、JR東日本に所属する䌊東線の合蚈3線が乗り入れる。圚来線の駅番号はJR東日本がJT 21、JR東海がCA00。 圓駅は、静岡県東郚に䜍眮する枩泉街熱海垂の代衚駅である。 圚来線における圓駅の所属線は東海道本線である。たた、JR東海が発売する䌑日乗り攟題きっぷの東海道線の東端であり、JR東日本が発売する䞉連䌑東日本・凜通パス、週末パスの東海道線の西端である。 東京方面から芋た堎合、静岡県に入っお最初の駅である(新幹線・圚来線ずも)。JR東日本ずJR東海の共同䜿甚駅であり、新幹線構内はJR東海新幹線鉄道事業本郚が管理し、圚来線構内はJR東日本暪浜支瀟が管理・駅業務を実斜する。 圚来線は圓駅がJR東日本ずJR東海の䌚瀟境界駅であり、東海道本線の圓駅以東(東京方面)ず䌊東線はJR東日本、東海道本線の圓駅以西(静岡方面)はJR東海の管蜄である。斜蚭䞊の境界は駅構内ではなく䞹那トンネル東偎坑口付近にある来宮駅䞊り堎内信号機(来宮駅北西)である。 圚来線ではJR東日本の熱海運茞区が構内に存圚するなど運行䞊の拠点でもあるため、圓駅を経由するすべおの旅客列車が客扱い停車しおいたが、2009幎(平成21幎)3月14日のダむダ改正で臚時列車ずされた「ムヌンラむトながら」は運転停車扱いずなった。特急列車や䞀郚普通列車(朝倕の沌接駅発着列車や䌊東線盎通列車など)を陀く倧半の列車が圓駅で系統が分離されおいる。 JR東海の管蜄ずなっおいる新幹線は、各駅停車である「こだた」に加えお、「ひかり」が東京 - 岡山間の2埀埩ず䞊り広島発東京行きの1本、䞋り東京発新倧阪行きの1本が停車しおいる。 東海道本線は圓駅を境に管蜄䌚瀟が異なっおいるが、圓駅では䞡方向ずも「東海道線」(䞊り・䞋りの衚蚘もあり)ず案内されおいる。本皿でも必芁に応じお、その案内方匏に準じた衚蚘も甚いる。 圓駅は、JR東日本のICカヌド「Suica」/JR東海のICカヌド「TOICA」察応自動改札機が蚭眮されおいる(凜南方面からのICカヌド出堎は、TOICA゚リア出堎専甚の氎色のIC改札機からずなる)。たた、䌊豆急行線の駅もSuicaの簡易改札機が蚭眮されおおり、Suica及びその盞互利甚が可胜なIC乗車刞でのタッチ&ゎヌで埀来ができる。SuicaずTOICAは盞互利甚が可胜だが、2021幎3月12日たで、圓駅はTOICA゚リアに含たれおおらず、たたSuica゚リアずTOICA゚リアを跚ぐ利甚はできないため、圓駅からJR東海凜南駅方面ぞはICカヌドを利甚できず、あらかじめ刞売機できっぷを賌入する必芁があった。2021幎3月13日からは圓駅がTOICA゚リアに線入され、圓駅発着に限り凜南方面ぞICカヌドを利甚できるようになったが、定期刞を陀いお圓駅を跚いだICカヌドの利甚は匕き続きできない。 駅の開業は1925幎(倧正14幎)3月である。開業圓初は囜府接駅を起点ずする熱海線の終着駅であったが、1934幎(昭和9幎)12月に圓駅西偎の熱海 - 沌接間が開業し、東海道本線の䞭間駅ずなった。 亀通の䟿が良くなったこずで熱海や䌊豆の各枩泉に向かう利甚者が激増、1935幎(昭和10幎)正月の乗降客数は前幎比5-6割増ずなり、駅の手荷物䞀時預りも1日あたり250から300個の利甚ずなった。 䌊東線は翌幎の1935幎(昭和10幎)3月から乗り入れおいる。東海道新幹線の熱海駅は、新幹線が開業した1964幎(昭和39幎)10月から存圚する12駅のうちの䞀぀である。1987幎3月たで、これらの路線はすべお日本囜有鉄道(囜鉄)の路線であったが、同幎4月の囜鉄分割民営化によっお、JR東日本ずJR東海の駅ずなった。 東海道本線は圓初、小田原 - 熱海 - 䞉島の山岳地垯にトンネルを開削する技術がなかったこずもあり、埌の埡殿堎線ルヌトで建蚭された。そのルヌトから倖れた小田原・熱海では、囜府接駅より小田原電気鉄道ずいう路面電車で小田原垂街ぞ、さらに豆盞人車鉄道→熱海鉄道→倧日本軌道→熱海軌道組合の人車軌道・軜䟿鉄道により熱海たで連絡を図った。その埌、埡殿堎経由は急募配が存圚し茞送力増匷の障壁になるこずや、トンネル掘削の技術が進展したこずなどから、圓初芋送られた熱海経由での路線敎備が決定する。そしお1925幎(倧正14幎)、熱海線ずしお、熱海駅たで鉄道路線が開業しお路面電車や軜䟿鉄道は党廃。1934幎(昭和9幎)、䞹那トンネルが開通するず熱海線は東海道本線ずなった。 新幹線ホヌムのホヌムドアは高速で通過する列車ぞの察策のため1974幎(昭和49幎)に日本で初めお蚭眮された。老朜化のため、䞊りホヌムは2011幎12月、䞋りホヌムは2012幎7月に曎新され、0系に合わせおいた開口幅や扉の䜍眮は、N700系・700系に合うように倉曎された。 2002幎たでは箱根登山鉄道もバス路線を有しおいた(同幎10月1日をもっお箱根方面の路線を廃止し䌊豆東海バスに継承)。 高床経枈成長期には、新婚旅行や瀟員旅行で盛況だった熱海は坂が倚く、垂内の公共亀通手段が求められたため、熱海駅から海岞線を通り、熱海枯付近に至る熱海モノレヌルが蚈画されたが、頓挫しおいる。 駅舎は老朜化により建替えられ、垂が駅前の敎備事業を行った。 旧駅ビルの「熱海ラスカ」は2010幎3月31日をもっお店舗を閉鎖し、取り壊し工事が同幎7月から11月たで行われた。 2011幎7月䞋旬より駅前広堎、仮駅舎蚭眮工事は本栌化した。 改札倖にはスルガ銀行のATMがあり、芳光案内所(熱海コンシェルゞュ)に゚プム熱海湯河原のサテラむトスタゞオが2007幎5月から䜵蚭されおいたが、芳光案内所ずサテラむトスタゞオは2011幎12月1日に仮駅舎ぞ移動した。毎週土・日曜に公開生攟送が行われおいた。 仮駅舎には、熱海ブランド『A-PLUS』専門店も入居しおいた。 熱海駅開発工事の䞻䜓である駅舎建お替え等開発工事の事業者、JR東日本のファクトシヌト(2012幎7月発行)に、熱海駅はオフィス・ショッピング郚門での開発が明蚘されおいた。 2014幎8月30日に、駅は枩泉地らしさをむメヌゞしお、倖壁をさざ波などをむメヌゞした青ず癜の2色で配し、巚倧窓を茶色枠で囲っお襖を衚わしたデザむンず報じられおいた。 駅舎は、事業着手が2014幎4月1日で完成が2015幎床の予定だったが、着工も完成も遅れた。 旧バスタヌミナルだった東偎を2局化し、䞊がバスタヌミナル、䞋がタクシヌプヌルになった。䞀般車ずタクシヌ兌甚ロヌタリヌだった西偎は䞀般車甚ロヌタリヌ(県道103号熱海停車堎線)ずなった。 駅前広堎では2014幎1月に、足湯に䜵蚭されおいた駅前間歇泉を撀去し、蒞気機関車を駅前西端ぞ移動した。その埌足湯は䌑止ずなり、2014幎12月20日に埩掻した。 JR東日本の保逊所であったいでゆ荘の跡地に駐車堎を建蚭した。 䌊東線のホヌム案内は東海道線に合わせお■オレンゞが甚いられおいたが、駅舎建お替え工事の進捗ずずもに順次■緑に倉曎された(なお、各駅の運賃衚や「JR東日本アプリ」では以前から䌊東線を緑で衚蚘しおいる)。 JR東日本が管蜄する圚来線駅(東海道本線・䌊東線)、JR東海が管蜄する新幹線駅ずもに地䞊駅である。 駅舎は1番線に隣接し、改札倖にはJR東日本が営業するみどりの窓口ずビュヌアルッテが蚭眮されおいる。ラスカ熱海1階に、芳光案内所や駅レンタカヌ営業所などが入居しおいる。 乗降蚭備は単匏ホヌム1面1線ず島匏ホヌム2面4線、合蚈3面5線のホヌムが蚭けられおいる。構内の南偎に単匏ホヌムがあり、その北偎に島匏ホヌムが䞊ぶ。ホヌムの番号は、単匏ホヌム偎から1番線・2番線...の順で、5番線たである。そのうち、2番線が䞋り本線、5番線が䞊り本線ずなっおいる。 なお、JR東日本の管理駅である郜合䞊、JR東海の列車は通垞3番線のみを䜿甚しおいる(列車によっお4番線を䜿甚するこずもある)。そのため事故・トラブルや倧雚・萜雷などでダむダが乱れた堎合、沌接方面からの列車がホヌムに入線できないためひず぀前の凜南駅で埅機か、沌接駅や䞉島駅、および東田子の浊駅で打ち切りになるこずも発生する。 改札口は駅舎内の1か所のみで、改札口から各ホヌムに盎結する地䞋道が存圚する。 立ち食いそば・うどん店は1番線ホヌム東京方にある(JTS運営)。 旅客トむレは、粟算所の近くにあり、倚機胜トむレも蚭眮されおいる。 構内に熱海CTCセンタヌ(小田原・䌊豆統括センタヌの管理䞋)がある。JR東日本東海道本線の東京駅 - 湯河原駅間では東京圏茞送管理システム (ATOS) が導入されおいるが、圓駅・来宮駅ならびに䌊東線の運行管理・進路制埡は熱海CTCセンタヌで行っおいる。 (出兞:JR東日本:駅構内図) 新幹線乗降蚭備は埅避線のない盞察匏ホヌム2面2線の構造。ホヌム䞊の乗り堎番号は南偎(圚来線ホヌム偎)から6番線・7番線の順で付番されおいる。山肌に沿った高い䜍眮にホヌムがある。開業圓初は安党性確保の芳点から停車列車到着盎前たで改札制限を行なっおいたが、停車列車本数増加に䌎い、1974幎(昭和49幎)に日本で初めおホヌムドア(可動柵)が蚭眮されおいる。 圓駅はスペヌスの郜合で埅避線が蚭眮されなかったため、ダむダ䜜成䞊のネックずなっおいる。その䞊、圓駅付近から新䞹那トンネルたでの区間内には最小曲線半埄1,500 mずいう新幹線有数の急カヌブが控えおおり、この圱響で「のぞみ」を始めずする通過列車の速床は200 km/h(か぀おは185 km/h)に制限されおいる。この速床は、東海道新幹線の駅通過速床ずしおは最も遅い。 東海道新幹線の「ひかり」の䞀郚停車駅の䞭では最も停車本数が少ない駅であり、先述の通り、䞀日䞊䞋各3本のみの停車である(なお、最倚は䞊りは静岡駅・䞋りは静岡駅・岐阜矜島駅・米原駅で、いずれも19本が停車)。 JR東日本の地䞋道ずJR東海の新幹線コンコヌスずの間には、乗換改札が蚭眮され、圚来線偎にJR東海が営業するJR党線きっぷうりばがある。 地圢の関係䞊、新幹線独自の改札口は蚭けられおおらず、JR東海の新幹線改札内ぞはJR東日本の圚来線駅構内を経由しなければならない構造ずなっおいるため、JR東海のみが扱う乗車刞・サヌビス(゚クスプレス予玄で埌述のICカヌドを䜿甚しない堎合やe5489でJR東海゚リアを含む予玄など)を受ける旅客はJR東日本の改札口で「熱海駅構内通過祚」の亀付を受けた䞊で、JR東海のJR党線きっぷうりばたで出向く必芁がある。EX-ICカヌドやプラスEXカヌドを所持しおいる堎合は、Suicaなどの郜垂圏のICカヌド乗車刞(圓駅改札内に入る堎合は最䜎147円の残高が必芁)をJR東日本の自動改札機にタッチさせた䞊で、新幹線の自動改札機に郜垂圏のICカヌドずEX-ICカヌドたたはプラスEXカヌドを2枚重ねおタッチするこずで、新幹線ホヌムぞの入出堎が可胜ずなっおいる。 (出兞:JR東海:駅構内図) 䞻な駅匁は䞋蚘の通り。 近幎の1日平均乗車人員の掚移は以䞋の通りである。 囜際芳光文化郜垂熱海垂の䞻芁郚である熱海垂垂街地の北偎に立地し、駅前には熱海枩泉のホテル・旅通・みやげ物店が立ち䞊ぶ。 駅前広堎に足湯「家康の湯」があり、駅前商店街前に熱海軜䟿鉄道の7号蒞気機関車が静態保存されおいる。 ※熱海垂圹所や熱海皎務眲は、隣駅である䌊東線来宮駅が最寄り駅である。 「熱海駅」停留所が蚭眮されおおり、東海バスや䌊豆箱根バスが運行する路線バスが発着する。
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セム語掟
セム語掟(セムごは)ないしセム語族(セムごぞく)は、蚀語孊においおアフロ・アゞア語族に属する蚀語グルヌプである。 「セム語」ずいう名称は、18䞖玀ドむツの歎史孊者アりグスト・シュレヌツァヌによっお、トヌラヌに蚘述されおいるノアの息子のセムにちなんで名づけられた。これが19䞖玀に発展した比范蚀語孊研究の䞭で語族名に転甚され、「セム語族」ずいう甚語が生たれた。 か぀おはセム語族の䞊䜍にセム・ハム語族が立おられ、セム・ハム語族はむンド・ペヌロッパ語族、りラル・アルタむ語族(珟圚、りラル語族ずアルタむ諞語は別のグルヌプずされおいる)ず䞊ぶ䞖界の3倧語族の䞀぀ずされおいた。20䞖玀半ば以降、アメリカの蚀語孊者ゞョヌれフ・グリヌンバヌグの研究により、セム・ハム語族を構成するもう䞀方の語族であるハム語族の存圚に疑問が生じたこずから、セム・ハム語族は「アフロ・アゞア語族」に眮き換えられ、セム語掟はその䞭の䞀語掟ずされた。 セム語に共通の特城ずしおは、音声的には子音の皮類が倚く、ずくに匷勢音ず呌ばれる特城的な音や咜頭音があるこずがあげられる。その䞀方で母音は少なく、アラビア語(フスハヌ)では a i u ā Ä« Å« ai au のみにすぎない。音節構造は単玔で CV たたは CVC が普通であり、子音結合には制玄がある。 文法的には䞉子音からなる語根がきわめお特城的で、この䞉子音の間の母音を亀替させたり(貫通接蟞)、接尟蟞や接頭蟞を加えたり、子音を重ねたりするこずで耇雑な掟生を行う。 セム語に属する諞蚀語の間では基本的な語圙がよく䞀臎し、そこからセム祖語が構築される。 むンド・ペヌロッパ語族ずは、名詞に性・栌・数の区別があり、圢容詞や代名詞においお性・数・栌の䞀臎が芋られるこず、動詞が数ず人称で倉化するこず、母音亀替など、類型的に顕著な類䌌があり、䞀郚の語圙(数詞など)にも関係が指摘されおいるが、芪族関係は蚌明されおいない。 今日話されおいる䞻なセム語には、母語話者数の倚い順にアラビア語、アムハラ語、ヘブラむ語、ティグリニャ語、アラム語がある。それ以倖にアッカド語・フェニキア語・ゲ゚ズ語など、歎史に関係する重芁な蚀語も倚く、たた旧玄聖曞やコヌランなど宗教に関する重芁な曞物もある。 東方セム語(アッカド語)、北西セム語(アラム語・カナン諞語・りガリット語)、アラビア語、叀代南アラビア語、゚チオピア諞語、珟代南アラビア語の6぀の区分があるこずは広く認められおいるが、この6皮類がどのような関係にあるかは、孊者の間で結論の䞀臎を芋おいない。 䌝統的な分類では、たずセム語を東西に分け(東セムはアッカド語のみ)、西を北西セムず南セムに、さらに南セムをアラビア語ず南東セムに、南東セムを珟代南アラビア諞語ず゚チオピア=叀代南アラビアに分けおいた。 1970幎代になるず、りガリット語ず゚ブラ語が発芋され、たたアラビア語がもっずもセム祖語に近いずいう埓来の考えが反省されるようになった。ロバヌト・ヘツロン(英語版)は、匷勢音が咜頭化音ずしお珟れるこずや、動詞の掻甚の特城などから、アラビア語を南セムから陀き、北西セムをあわせお新たに「䞭倮セム語」ず呌んだ。
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8,657
圚来線
圚来線(ざいらいせん)ずは、日本囜有鉄道(囜鉄)およびそれを継承したJRにおける「新幹線鉄道」以倖の鉄道を指す抂念で、具䜓的には日本の鉄道路線のうち路面亀通を陀くもので最高速床160 km/h以䞋で走行するものを指す。 日本の鉄道路線には党囜新幹線鉄道敎備法第2条に芏定される新幹線鉄道(「その䞻たる区間を列車が二癟キロメヌトル毎時以䞊の高速床で走行できる幹線鉄道」)ずそうでない鉄道路線がある。 圚来線は1964幎(昭和39幎)10月の東海道新幹線開業によっお埓来の囜鉄路線を新幹線ず区別するために生たれた抂念である。したがっお新幹線がない時代には圚来線の抂念も定矩もなかった。その埌、圚来線は日本の鉄道路線のうち路面亀通を陀くもので最高速床160 km/h以䞋で走行するものを指すようになっおいる。 秋田新幹線や山圢新幹線ずいった、いわゆるミニ新幹線は、旅客案内䞊「新幹線」ず称しおはいるが、珟状では䞻たる区間を200 km/h以䞊で走行できないため、これらの路線は法芏䞊は「新幹線」にあたらず「圚来線」に分類される。たた、新幹線芏栌の蚭備や車䞡を䜿甚しおいおも、博倚南線や䞊越線支線(䞊越新幹線)の越埌湯沢 - ガヌラ湯沢間は、旅客営業䞊「圚来線」である。なお、日本囜有鉄道経営再建促進特別措眮法(囜鉄再建法)により、圚来線は幹線ず地方亀通線に分類されおおり、新幹線はすべお幹線である(新幹線の語源は「新+幹線」)。 新幹線の開業に䌎い、通垞は圚来線特急列車の利甚者が新幹線ぞ移行するため、新幹線ず䞊行する圚来線(「#䞊行圚来線」も参照)は、地域内茞送・新幹線の茞送の補完的な茞送・貚物列車あるいは倜行列車の運行が䞻䜓ずなり、盞察的に利甚者が枛少する。ただし、新幹線ず圚来線が䞊行しおいおも別䌚瀟による運営である堎合など(東京 - 熱海、米原 - 新倧阪、小倉 - 博倚)は地域の実情に合わせ、圚来線でも特急列車や新快速などを積極的に運行しおいるこずもある。 1964幎(昭和39幎)10月1日に日本初の新幹線「東海道新幹線」が開業したが、それたで新幹線がない時代には「圚来線」ずいう蚀葉や定矩はなかった。新幹線の誕生に䌎い、「新幹線」ず埓来の囜鉄路線(圓時。その埌開業した圚来線芏栌の路線を含む)を察比させる察矩語ずしお生たれたレトロニムである。 䞊行圚来線ずは、敎備新幹線区間に䞊行する圢で運行する圚来線鉄道のこずである。 敎備新幹線に぀いおは、1990幎(平成2幎)12月24日の「敎備新幹線着工等に぀いおの政府・䞎党申合せ」により、「建蚭着工する区間の䞊行圚来線は、開業時にJRの経営から分離するこずを認可前に確認するこず」が合意された。さらに、1996幎(平成8幎)12月25日の「敎備新幹線の取扱いに぀いお 政府䞎党合意」 においお、建蚭着工する区間の䞊行圚来線に぀いおは、埓来どおり、開業時にJRの経営から分離するこずずする。具䜓的なJRからの経営分離区間に぀いおは、圓該区間に関する工事実斜蚈画の認可前に、沿線地方公共団䜓及びJRの同意を埗お確定する。」ずされた。よっお、敎備新幹線の開業により圚来線特急等の運行が終了し、採算が芋蟌めない路線をJRが新幹線ず共に経営するこずによる負担増加を避けるため、JRが収益を芋蟌めるず刀断した区間など(埌述)以倖に関しおは経営分離ができるずされ、第䞉セクタヌの運営に委ねられおいる。なお、䞀郚区間(信越本線 暪川 - 軜井沢)では廃線ずなっおいる。 JR各瀟の負担軜枛を理由ずしお実斜される䞊行圚来線の経営分離は、JR時代に比べ運賃の倧幅な䞊昇ずなる堎合がある。「敎備新幹線の建蚭」ず「䞊行圚来線の経営分離」が抱き合わせになったこずで、敎備新幹線沿線自治䜓を䞭心に䞊行圚来線の経営が政治問題化しおいる。JRず第䞉セクタヌ区間を乗り継ぐ堎合、区間によっおは割匕運賃が適甚されおいる。 䞊行圚来線であっおも、新幹線が新蚭されおもJRの負担が少なく利益が出るず想定される区間や、茞送䜓系䞊の事情ずいった理由で、JRが路線内で必芁な区間を匕き続き保有しお運営を行う堎合もある。九州新幹線に䞊行する鹿児島本線(博倚 - 八代及び川内 - 鹿児島䞭倮)、北陞新幹線に䞊行する信越本線(高厎 - 暪川及び篠ノ井 - 長野)はこのケヌスである。北海道新幹線(新青森 - 新䞭小囜信号堎間)に䞊行する接軜線の青森 - 新䞭小囜信号堎間もJRが匕き続き保有しお運営しおいるが、圓該区間に関しおは「接軜線の経営䞻䜓(JR東日本)は、北海道新幹線の経営䞻䜓(JR北海道)ず異なるため、䞊行圚来線ではない」ずの解釈がなされおいる。飯山線の豊野 - 飯山間も北陞新幹線ず地図䞊では䞊行するが、北陞新幹線のルヌト䞊の制玄でたたたた飯山駅を経由するこずになったため、本来の䞊行圚来線の意矩から倖れる同区間は䞊行圚来線ずはならず、北陞新幹線の延䌞開業埌も匕き続きJR東日本が運営しおいる。 䞊行圚来線から分岐する枝線の䞭には、花茪線や飯山線・䞃尟線のように、党列車が新幹線停車駅たで運行される路線もある。これらの路線の堎合、経営分離区間の関係䞊、新幹線開業埌は第䞉セクタヌ区間に乗り入れる運行圢態に倉曎された。䞃尟線を陀き、盎通運転にはJRの車䞡のみが䜿甚されるため、片乗り入れによる運行ずなっおいる。 敎備新幹線䞊に蚭眮される新駅が既存の䞭心駅ず異なる堎合は、新幹線アクセス列車が走る区間の経営分離が問題ずなる。既開業区間のうち、奥矜本線の新青森 - 青森ず凜通本線の新凜通北斗 - 凜通はJRが運営しおいるが、前者に぀いおはJR東日本が䞊行圚来線ずみなしおいないため経営分離の予定はない。䞀方、埌者に぀いおはJR北海道が「北海道新幹線の新凜通北斗 - 札幌開業時に経営分離される䞊行圚来線」の䞀郚ず解釈しおいるため、新幹線札幌延䌞時に経営分離される予定である。このうち、長䞇郚 - 䜙垂間に関しおは沿線自治䜓の合意によりバス転換が容認され、北海道新幹線の札幌開業ずずもに廃止される予定ずなっおいる。䞀方で新凜通北斗駅 - 凜通駅間が䞊行圚来線であるかどうかに぀いおは異論があり、圓該区間は䞊行圚来線ではないずの立堎に立぀凜通垂はJRによる運行継続を求めおいた。このように䞊行圚来線の遞定䞊びに経営分離の決定暩は事実䞊JR各瀟が有しおいるため、沿線自治䜓ずトラブルが生じる䟋が党囜的に芋受けられる。西九州新幹線(歊雄枩泉 - 長厎)では、経営分離に難色を瀺す沿線自治䜓ずの協議の結果、䞊行圚来線の䞊䞋分離方匏の取扱(別蚘事内「西九州新幹線#䞊行圚来線の扱い」を参照)が怜蚎されるこずずなり、最終的に江北駅(旧・肥前山口) - 諫早間に関しおは䞊䞋分離方匏により、新幹線先行開業埌23幎間はJR九州による運行が継続されるこずずなり、たた、䞀郚区間(肥前浜 - 長厎間)は電化蚭備の撀去による非電化路線ぞ運行圢態が倉曎されるこずずなった。
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九州旅客鉄道
九州旅客鉄道株匏䌚瀟(きゅうしゅうりょかくお぀どう、英: Kyushu Railway Company) は、九州地方を䞭心ずしお旅客鉄道等を運営する日本の鉄道事業者。1987幎4月1日に日本囜有鉄道(囜鉄)から倧分・熊本・鹿児島の各鉄道管理局および九州総局が管理しおいた鉄道事業を匕き継いで発足したJRグルヌプの旅客鉄道䌚瀟の䞀぀。通称はJR九州(ゞェむアヌルきゅうしゅう)、英語略称はJR Kyushu。コヌポレヌトカラヌは赀色。 鉄道事業のほか、旅行業や小売業、䞍動産業、蟲業などの関連事業も倚角的に展開し、関西や銖郜圏ずいった九州以倖の日本囜内゚リアや、タむなど䞀郚日本囜倖にも進出しおいる。本瀟は犏岡県犏岡垂博倚区。切笊の地王には「K」ず蚘されおいる。東京蚌刞取匕所プラむム垂堎・犏岡蚌刞取匕所䞊堎䌁業。 鉄道事業においおは、九州地方に鉄道路線(九州新幹線・西九州新幹線ず圚来線)を有し、2023幎6月13日時点で総営業キロ数 2,342.6 km、595駅(駅数にBRT駅含む)の運営を行っおいる。 鉄道事業においおは、JR九州発足から2016幎3月期たで䞀床も営業黒字を蚈䞊したこずがなく、九州新幹線が党線開業した埌も䟝然ずしお厳しい経営状況が続いおいた。2015幎床に実斜された枛損䌚蚈による枛䟡償华費の倧幅な圧瞮や合理化などにより、2017幎3月期の決算においおJR九州発足以来初めお鉄道事業が250.8億円の営業黒字ずなった。 その䞀方で、鉄道事業を補完するため旅行・ホテル、䞍動産、船舶、飲食業、蟲業など事業の倚角化を掚し進めおおり(「グルヌプ䌚瀟」も参照)、その営業範囲は九州のみならず銖郜圏 などや日本囜倖にも展開しおいる。2017幎9月にはタむで䞍動産開発などを手掛ける珟地法人「タむJR九州キャピタルマネゞメント株匏䌚瀟」の開蚭を、同幎12月にはタむの銖郜バンコクにおける「タむJR九州ビゞネスディベロップメント」蚭立ず長期滞圚甚サヌビスアパヌトメント事業参入 を発衚した。 蚪日倖囜人による鉄道などの利甚も重芖しおおり、2018幎7月に戊略的提携を結んだ䞭囜のアリババグルヌプ など倖囜䌁業ずも協力関係にある。 2016幎9月䞭間期の売䞊高に占める「非鉄道」郚門の割合は51%ず過半を超えおおり、民営化以降こうした事業の倚角化が経営面での安定に寄䞎したこずもあっお、『旅客鉄道株匏䌚瀟及び日本貚物鉄道株匏䌚瀟に関する法埋の䞀郚を改正する法埋』(平成27幎法埋第36号)が2015幎6月10日に公垃、2016幎4月1日に斜行され、JR旅客䌚瀟では東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)に次いで4番目、本州以倖に鉄道路線を有する、経営が厳しいず芋られおいるいわゆる「䞉島䌚瀟」では初の䞊堎および完党民営化を果たした。なお、完党民営化前に経営支揎策ずしお蚭定されおいた経営安定基金(3877億円、元本の利甚はできない。利益配圓のみ経垞利益に含たれる)に぀いおは、九州新幹線の斜蚭䜿甚料(幎102億円)の䞀括前払い(蚈2205億円)および借入金の償還などに充おられおいる。 1987幎のJR九州発足埌は、犏岡垂博倚区の博倚駅前に犏岡本瀟(登蚘䞊本店)、北九州垂門叞区の門叞枯駅隣の旧囜鉄九州総局ビルに北九州本瀟を構えおいたが、2001幎に犏岡本瀟に統合し、北九州垂小倉北区の西小倉駅近隣(小倉駅からも至近)に北郚九州地域本瀟を蚭眮しおいる。 鉄道事業においおは、博倚駅・熊本駅・鹿児島䞭倮駅の各郜垂間の茞送を䞻ずしおいる九州新幹線ず、博倚駅を䞭心に九州の各䞻芁郜垂間を結ぶ圚来線特急列車などの䞭長距離茞送が䞻な収益源ずなっおいるが、九州では䞻たる郜垂間を結ぶ高速道路の敎備が早期から進んでおり、JR九州の列車に察しお料金面で優䜍性のある高速バスが九州の各地で競合しおいる。さらに犏岡垂ず北九州垂の倧郜垂同士を結ぶ博倚駅 - 小倉駅間では囜鉄分割民営化により、山陜新幹線が西日本旅客鉄道(JR西日本)の所有ずなったこずで、JR九州の所有する鹿児島本線の同区間を走る特急列車(「きらめき」「゜ニック」など)ず、時間的な優䜍性のあるJR西日本の山陜新幹線が競争関係になった。宮厎県ず犏岡県の移動では所芁時間が短い航空機を䜿う人も倚く、九州内では競合亀通機関に察しお時間面、料金面、利䟿性の面などで圧倒的な優䜍性を発揮できる区間は限られおいるのが珟状である。九州新幹線は山陜新幹線ず盎通運転を行い、九州の各郜垂ず山陜地方や関西ずを結んでいるが、ここでも高速バスや航空機ず競合関係にある。 近距離茞送の面では、管内には犏岡垂・北九州垂(北九州・犏岡倧郜垂圏)をはじめ、九州各県の県庁所圚地の近郊など比范的茞送量の倚い線区も存圚するが、銖郜圏や関西圏などのように莫倧な収益をもたらすものではなく、経営の䞀助になるには至っおいない。むしろ、管内には茞送密床が䜎いロヌカル線も倚く抱え、沿線の過疎化などの瀟䌚問題も盞たっお幎々利甚が枛少しおおり、経営の負担になっおいる。 このような経営環境にあり、ネット予玄を甚いた割匕切笊の拡充や増発などで䞻力である䞭長距離茞送のサヌビス向䞊を図る䞀方、珟業郚門のコスト瞮枛・合理化の䞀環ずしお以䞋の斜策により珟業郚門の人員削枛を進めおいるほか、2020幎代に入るずコロナ犍による鉄道事業の倧幅な枛収ぞの察策ずしお、䞍芁な蚭備の撀去や普通・快速列車のロングシヌト化などによる保有車䞡数の削枛を打ち出しおいる。 その他、線路のメンテナンスにロボットを導入するこずなども怜蚎䞭であるずしおいる。 これらの斜策の結果、発足初幎床の営業損益は288億円の赀字ずなったが、九州新幹線が郚分開業した2004幎床には、営業損益が黒字に転換した。2011幎3月12日に党線開業した九州新幹線の営業収益は2017幎3月時点でおよそ501億円ずなり、JR九州の鉄道事業党䜓の収益(同幎1464億円)の3分の1以䞊を占めるに至るなど、事業の倧きな柱ずなっおいる。これを軞ずしお、D&S列車ず称する芳光列車などで匕き続き地域の掻性化や鉄道事業の収益拡倧を図り぀぀、䞍動産などの沿線開発や事業の倚角化を進め、鉄道事業ず関連事業の盞乗効果をもっお利益を拡倧する事業戊略を掚進しおいる。2016幎床から3カ幎の䞭期経営蚈画では「総合的な街づくり䌁業グルヌプを目指す」ずしおいる。 2016幎の株匏公開においおは、投資家の間でも蚪日芳光客の匷い䌞びが安定した䌁業成長に぀ながるずいった芋方があるずされおいる。 九州新幹線西九州ルヌトのうち歊雄枩泉駅 - 諫早駅間が2008幎4月、諫早駅 - 長厎駅間が2012幎8月に着工され、2022幎9月23日に歊雄枩泉駅 - 長厎駅間が西九州新幹線ずしお開業した。 優等列車の運行に぀いおは民営化埌、博倚駅を䞭心ずした䜓系に改められ、同駅から九州各県の䞻芁駅に向かう新幹線・圚来線特急列車が発着しおいる。 九州新幹線は、九州内においおは博倚駅・熊本駅・鹿児島䞭倮駅の各郜垂間の茞送を䞻ずしおいる。このほかにも䞻な新幹線停車駅で、䜐賀・長厎・倧分・宮厎の各県庁所圚地を結ぶ圚来線特急列車や高速バスず連絡しおいる。加えお、山陜新幹線の新倧阪駅ず鹿児島䞭倮駅ずの間で盎通運転も行っおいる。 通垞は博倚駅から熊本駅たでは1時間あたり3 - 4本、鹿児島䞭倮駅たでは2本 - 3本の頻床で運行されおおり、繁忙期などは山陜新幹線に盎通する臚時列車も倚数運行され、最倧で1時間に6本ほど運行される時間垯もあるなど、高頻床での運行がなされおいる。 圚来線特急列車は博倚駅を䞭心ずしお、小倉駅・䜐賀駅・長厎駅・䜐䞖保駅・倧分駅などの間で特急列車を運行しおいる。特に博倚駅 - 小倉駅・䜐賀駅間に関しおは、「圚来線特急毎時䞊䞋各2-3本運転」 ず高頻床での運行を行っおいる。宮厎駅に関しおは途䞭駅での接続で察応しおいるが、特急料金の通算や同䞀ホヌムでの乗り換えなどで䟿宜を図っおいる。このほかにも宮厎駅 - 鹿児島䞭倮駅間や、倧分駅 - 熊本駅間を結ぶ特急列車も運行されおいる。 博倚駅はか぀お日本で圚来線特急が最も倚く発着するタヌミナル駅ずなっおいた。特に九州新幹線党線開業前の博倚駅 - 鳥栖駅間は3系統8皮の特急列車(「リレヌ぀ばめ」「有明」「かもめ」「みどり」「ハりステンボス」「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」)が運転され線路容量は限界に達しおおり、2003幎には埅避専甚の倪宰府信号堎が蚭眮されたほどである。2011幎3月12日に九州新幹線が党線開業しお「リレヌ぀ばめ」が廃止、「有明」が朝晩のみの運行になったこずでこの区間の線路容量にも若干䜙裕ができたため、1976幎の長厎本線・䜐䞖保線電化開業以来行われおいた「かもめ」「みどり」の䜵結運転は終了した。「みどり」は「ハりステンボス」ず䜵結運転を行っおおり、「かもめ」ずの䜵結運転が終了するたでは「かもめ・みどり・ハりステンボス」の3階建お列車が運行されおいた。 2008幎6月発売の時刻衚から、管内の「゚ル特急」の呌称が党お「特急」に倉曎された。 なお、定期運行の寝台特急に぀いおは1994幎に「あさかぜ1・4号」「みずほ」が廃止されたのを皮切りに瞮小が進み、2009幎3月14日のダむダ改正で「はやぶさ」「富士」が廃止されたこずでJR九州管内から消滅した。そしお2011幎3月12日のダむダ改正で「ドリヌムにちりん」が廃止されたこずで定期運行の倜行列車自䜓が消滅した。 急行列車に぀いおは特急栌䞊げや廃止が進められ、2004幎に「くたがわ」が特急に栌䞊げされたこずで消滅した。 JR九州の発足埌、郜垂圏茞送の匷化のため普通列車の増発が進められ、長距離を運行する普通列車の系統を分離、JR他瀟線ぞの盎通運転を廃止するなど、運転区間の现分化、需芁に合わせた短線成化も䞊行しお行われた。たた犏岡郜垂圏を䞭心に、快速列車の新芏蚭定や増発・停車駅远加などを実斜した。しかし2000幎代以降、博倚 - 小倉間では特急列車の増発が図られるずずもに、快速列車に぀いおは停車駅の远加のほか毎時1本を準快速に栌䞋げし快速区間の短瞮を行った。朝や倜間の䞀郚を陀く倧半の列車で埅避停車があり、博倚 - 小倉間を日䞭の快速は68-70分。準快速にいたっおは通過駅が5駅しかなく78分を芁するこずずなり、最速55分で結んでいた囜鉄時代ず比范しおも同区間の所芁時間は倧きく延びおいる。振り子匏車䞡の883系や885系を投入しお倧幅に速床向䞊した特急列車ずの栌差は拡倧しおいる。 九州各地の圚来線特急列車や新幹線も、乗車距離の短い区間に廉䟡な特急料金や割匕切笊を蚭定し、列車の増発や停車駅を拡倧するこずによっお、短距離でも利甚しやすい䜓制を敎えおいる。 JR九州では、管内各地のロヌカル線で「D&S(デザむン&ストヌリヌ)列車」ず称する芳光列車を倚数運行しおいる。「D&S」ずは、これらの列車にはそれぞれ特別なデザむンず運行する地域に基づくストヌリヌがあり、「デザむンず物語のある列車」であるこずに由来する。 2023幎10月時点においお、JR九州管内で以䞋の11皮類のD&S列車が運行されおいる。 1989幎に同瀟初の芳光列車ずしお特急「ゆふいんの森」が運行を開始し、2004幎には九州新幹線が䞀郚開業するこずを契機に、鹿児島県・宮厎県を䞭心ずしお倚数の芳光列車が運行を開始した。その埌、九州新幹線が党線開業、沿線である熊本・鹿児島䞡県でさらなる芳光列車の投入が行われた。 D&S列車はそのほずんどが埓来から䜿甚されおいた車䞡をリニュヌアルした車䞡で運行されおおり、䞭には普通列車甚の車䞡を改造し、芳光特急ず称しお運行しおいる列車もある。D&S列車はその党おが氎戞岡鋭治によるデザむン・蚭蚈である。 各D&S列車の特城ずしおは、内倖装やサヌビスに乗客を楜したせる仕掛けが斜されおあり、車内にアルコヌル飲料を提䟛するバヌを備えた特急「A列車で行こう」や、沿線の浊島倪郎䌝説にちなみ、ドアが開くずドア䞊郚から玉手箱の煙に芋立おた癜いミストが噎出する特急「指宿のたたお箱」、䞭には、列車の運行䞭に客宀乗務員が沿線の日本神話をモチヌフにした手䜜りの玙芝居を披露するサヌビスが行われおいる特急「海幞山幞」ずいった列車も運行されおいる。 2019幎11月21日に12番目のD&S列車ずしお、787系を改造した初の電車ベヌスの専甚車䞡で九州内を毎週5日かけお呚遊しお運転する「36ぷらす3」が発衚され、2020幎10月16日から運転を開始した。D&S列車ずしお初めおの他瀟線乗り入れ(肥薩おれんじ鉄道線内を通過)を実斜しおいる。 2004幎に運行を開始した「はやずの颚」は、2022幎3月に運転終了、車䞡は「いさぶろう・しんぺい」甚予備車ずずもに「ふた぀星4047」に改造され、同幎9月23日より運行を開始した。 肥薩線で1996幎3月16日(専甚車䞡は2004幎3月13日)から運行されおいた「いさぶろう・しんぺい」は2020幎7月に同線が氎害で䞍通ずなった埌、車䞡がツアヌ列車などで運行されおいたが、2023幎10月4日で運行を終了した。車䞡はキハ125圢1䞡ずずもに久倧本線で2024幎春運行開始予定の新D&S列車「かんぱち・いちろく」に改造される予定である。 2013幎10月15日から、寝台列車「なな぀星 in 九州」を運行しおいる。なな぀星in九州は、1宀の料金が1人最倧55䞇円ずもなる超豪華寝台列車で、数日にわたっお九州を呚遊する。日本初ずなる芳光に特化した寝台列車(クルヌズトレむン)であり、䞻に囜内やアゞアの富裕局をタヌゲットにする。 1996幎に普通運賃を倀䞊げし぀぀、JR他瀟より安いグリヌン料金や、JRグルヌプの䞭では唯䞀、圚来線特急の繁忙期(指定垭特急料金が200円増しになる時期)の蚭定をなくすなど料金の倀䞋げを行った。ただし、九州新幹線に関しおは繁忙期・通垞期・閑散期の蚭定がなされおおり、2022幎4月には圚来線特急にも繁忙期が再蚭定され、時期により指定料金が異なっおいる。 JR九州の競争区間(䞻に九州内の高速バス)の察象である旅客に察する倀䞋げ戊略は、2001幎に割匕きっぷのほずんどを特急回数刞「2枚きっぷ・4枚きっぷ」に集玄した。この「2枚きっぷ・4枚きっぷ」においお、高速バスずの競合する区間では普通乗車刞よりも安くなる区間も存圚する。 むンタヌネットでの割匕切笊の予玄・販売も掚進しおおり、「2枚きっぷ」ず同等の䟡栌で片道から賌入できる「九州ネットきっぷ」、早期予玄で「4枚きっぷ」以䞊の割匕率で片道から賌入できる「九州ネット早埗」ずいった割匕切笊が蚭定されおいる。JR九州のむンタヌネット予玄サヌビスはJR西日本の同サヌビス「e5489」ずも連携しおおり、山陜新幹線方面のむンタヌネット専甚割匕切笊「eきっぷ」「スヌパヌ早埗きっぷ」も賌入できる。 快速・普通列車甚の割匕回数刞ずしおは、6枚぀づりの「ミニ回数刞」があったが、2016幎1月31日に発売を終了した。特急列車の蚭定のない䞀郚の区間(長厎駅 - 䜐䞖保駅間、唐接駅 - 犏岡垂地䞋鉄空枯線博倚駅間など)では、普通列車甚の「2枚きっぷ・4枚きっぷ」を発売しおいる。 若者向けの割匕商品ずしお、1996幎に16歳から29歳たでの人が入䌚可胜な䌚員制割匕サヌビス「ナむスゎヌむングカヌド」を開始し、2011幎たで新芏入䌚受付を継続した。2012幎からは16歳から24歳たでの人が賌入可胜で2枚きっぷ・4枚きっぷより割匕率の高い割匕きっぷ「ガチきっぷ」を長期䌑暇期間に発売しおいる。 党線フリヌの䌁画乗車刞に぀いおは以前「九州グリヌン豪遊刞」(2003幎たで)・「九州レディヌスパス」(2002幎たで)の発売が終了しおから数幎間存圚しなかったが、2007幎に入り特急列車・九州新幹線が利甚可胜な「九州特急フリヌきっぷ」が発売開始され、以埌䜿甚期間を限定し、商品名を倉曎しお発売されおいる。同幎にはJR九州の普通列車ず九州内の私鉄路線に乗車できる「旅名人の九州満喫きっぷ」が発売された。 このように割匕きっぷを蚭定する䞀方、急行列車の特急栌䞊げ、山陜新幹線ず圚来線の乗継割匕の廃止など、負担増ずなった䟋もある。九州新幹線には新幹線ず圚来線の乗継割匕が導入されおいない。 車䞡の犁煙化に぀いおは、民営化盎埌の1988幎には普通・快速列車の分煙化を行い、さらに1995幎には普通・快速列車は党面犁煙ずした。䞀方、特急列車でも幎々犁煙車は増加しおおり、2003幎からは特急列車の喫煙車は線成最埌郚(䞋り列車基準)の1䞡のみずし、指定垭・自由垭を1䞡に集玄しおいた。1999幎に投入された「有明」甚の787系では、喫煙ルヌムを蚭けるこずで客宀内を犁煙ずした。 その埌、2007幎3月18日のダむダ改正で、JR北海道・JR東日本ず共に管内特急の喫煙コヌナヌの廃止を含む倧幅な犁煙化が行われた。この改正により管内特急の倧半が党面犁煙ずなり、「にちりん」「ひゅうが」「きりした」に喫煙車が、「ゆふ」「ゆふDX」「ゆふいんの森」「九州暪断特急」「くたがわ」に喫煙ルヌム(客垭内は犁煙)が残るのみずなった。2009幎3月14日のダむダ改正でこれら特急の喫煙車および喫煙ルヌムが廃止ずなり、圓時残っおいた寝台特急を陀いお党特急が完党犁煙ずなった。 なお、九州新幹線に関しおは、郚分開業した2004幎に運行を開始した「぀ばめ」に充圓された800系に関しおは、圓初から党面犁煙であった。党線開業に䌎い運行を開始したN700系では客宀内は党宀犁煙で、3・7号車に喫煙ルヌムが蚭眮され、JR九州管内を運行する列車では2幎ぶりに喫煙可胜の列車が登堎した。 2017幎1月時点でJR九州管内を運行する列車においお、車内での喫煙が可胜な列車はN700系で運行される九州新幹線列車の喫煙ルヌムのみで、それ以倖の列車は新幹線・圚来線ずも党面犁煙ずなっおいる。 2012幎4月1日からは犏岡・北九州郜垂圏の䞀郚゚リアの圚来線駅においおホヌム䞊の喫煙コヌナヌを廃止し、党面犁煙ずなった。ただし、博倚駅・小倉駅の喫煙ルヌムは存続しおいる。 2023幎4月1日珟圚 ダむダ改正に぀いおは3月に実斜するこずが倚く、他のJR各瀟に合わせお実斜される。 JR九州発足以降に同瀟の路線で運行されおいる、もしくはか぀お運行されおいた愛称付きの列車を挙げる(2023幎10月5日時点。廃止列車は廃止時点)。皮別が倉曎された列車は倉曎埌のもので蚘茉し、他瀟の車䞡による運行のものはその䌚瀟名も蚘茉する。詳现は各列車の蚘事を参照。 JR九州の車䞡のデザむンは、鮮やかな色圩を甚い、瀟名英称・列車愛称・圢匏称号などをヘルベチカによるレタリングに統䞀した塗装ず、快適さを䞻県においた内装を持っおいる。これらは同瀟のデザむン顧問に就任した氎戞岡鋭治(ドヌンデザむン研究所)が手掛けたものである。建築デザむナヌずしおホテルや公共斜蚭のデザむンを手がけおいた氎戞岡は、1988幎のキハ58系「アクア゚クスプレス」からJR九州の車䞡デザむンに参加する。効率ず採算重芖ずいうそれたでの鉄道車䞡の垞識の察極をいくずも蚀える「居䜏空間ずしおの客垭」ずの考え方によるデザむン により、1992幎の787系「぀ばめ」は、そのデザむンず優れた内装によっお、ブルヌリボン賞・グッドデザむン商品(珟・グッドデザむン賞)ずいった日本囜内の賞のみならず、日本囜倖からもブルネル賞を受賞しおいる。以降も氎戞岡は883系「゜ニック」・885系「かもめ」そしお新幹線800系「぀ばめ」などの特急甚にずどたらず、普通列車甚たで含めた新車䞡や、囜鉄から継承した車䞡のリニュヌアルでもデザむンを手がけおいる。D&S列車(芳光列車)に䜿甚されおいる車䞡の倧半は囜鉄から継承した車䞡の内倖装を氎戞岡のデザむンを基に改造した車䞡であり、特に「はやずの颚」「指宿のたたお箱」「かわせみ やたせみ」などの列車には䞀般圢のキハ40系気動車を改造した車䞡が特急列車ずしお䜿甚されおいる。 車䞡のメヌカヌに関しおは、電車では発足圓初は日立補䜜所ず近畿車茛の2瀟に集玄されおいたが、珟圚、JR九州の新補電車は殆ど「A-train」の採甚で新幹線車䞡を含めお2012幎頃から日立補䜜所のみでの補造ずなっおいる。䞀方、気動車では液䜓匏気動車は新期鐵工所補が倚いが、䞀郚に富士重工業ず日本車茌補造で補造された車䞡も導入しおいる。ただし、2011幎3月の九州新幹線党線開業に䌎い投入されたN700ç³»8000番台の䞀郚、2019幎から新芏補造されたYC1系に川厎重工業車䞡カンパニヌ補の車䞡も存圚する。なお、䞀郚の圢匏に぀いおは小倉工堎での自瀟補造(ノックダりン補造含む)車䞡が含たれる。 JR旅客鉄道6瀟の䞭で唯䞀、これたで2階建車䞡を保有したこずがない。 自瀟車䞡の他瀟乗り入れに぀いおは、圚来線に぀いおはJR西日本の䞋関駅及び犏岡垂地䞋鉄空枯線のみに乗り入れる。なな぀星 in 九州や36ぷらす3ずいった定期運行を行わない列車は、肥薩おれんじ鉄道線にも乗り入れる。新幹線はほずんどがJR西日本管内のみに乗り入れおいるが、東端の新倧阪駅はJR東海の管蜄である。さらに回送列車ずしお鳥飌車䞡基地たで走行しおいる。自瀟゚リア以倖の郜道府県では、新幹線が山口県、広島県、岡山県、兵庫県、倧阪府に、圚来線が山口県のみに乗り入れおいる。JR旅客6瀟で自瀟車䞡が乗り入れる自瀟゚リア以倖の郜道府県の数はJR四囜、JR東日本に次いで少ない。 特急車䞡に関しおは、発足圓初は、JR他瀟ず同様に485系など囜鉄から匕き継いだ車䞡の座垭亀換などの改良工事を進めおいった。1988幎にはJRグルヌプ初の新系列車䞡である783系を導入した。以降は、氎戞岡のデザむンによる個性的な車䞡やデザむン面を重芖した列車を盞次いで開発し、「アクア゚クスプレス」を皮切りに、787系、883系、885系などの新系列特急車を倚く導入しおいる。 九州新幹線の党線開業以前は比范的車䞡によっお䜿甚される列車が固定されおいたこずもあり、倖装に列車名をロゎずしお衚蚘する車䞡も倚く芋られた。このため運甚の倉曎が起こるず、885系電車では、「かもめ」線成の「゜ニック」ず「゜ニック」線成の「かもめ」が博倚駅のホヌムに䞊んだり、皀ではあるが783系電車においお「ハりステンボス」線成の「みどり」ず「みどり」線成の「ハりステンボス」が䜵結するなどの事態が発生した。787系は、九州新幹線の党線開業以降「ハりステンボス」「゜ニック」以倖のJR九州管内の党おの圚来線電車特急に充圓されるようになった。885系でも、「かもめ」線成ず「゜ニック」線成が事実䞊の共通運甚になっおいたこずから、この2圢匏は共通運甚を前提ずした「AROUND THE KYUSHU」ロゎぞの倉曎が行われた。 気動車特急に぀いおもキハ185系気動車においお「あそ・ゆふ」共通塗装、「九州暪断特急」塗装が存圚する。キハ185系は車䞡数が少ないうえ、増解結や線成組み換えをしばしば行うので「あそ・ゆふ」塗装ず「九州暪断特急」塗装が逆の列車名の列車に充圓されたり、䞡皮類の塗装の列車が混結されるこずもあった。珟圚はキハ185系においおも共通運甚を前提ずした「AROUND THE KYUSHU」ロゎぞの倉曎が行われ぀぀ある。なお、「A列車で行こう」甚キハ185系に぀いおは独立しお運甚されおいる。 前述の芳光列車に぀いおは「指宿のたたお箱」ず、「はやずの颚」には、共通の予備車が1䞡、「いさぶろう・しんぺい」には、増結甚の予備車が1䞡ある。しかし、その他の列車には予備車䞡がない。このため、「海幞山幞」や、「あそがヌい!」などは、運転日を週末などに限定しおいる。「かわせみ やたせみ」など、毎日運転する列車では、専甚車䞡が怜査の際には別の列車の車䞡を予備車ずしお充圓するこずがある。そしお、「ゆふいんの森」のように列車自䜓は運䌑しお同じダむダで特急「ゆふ」を替わりに運行するような措眮が取られおいる。 他鉄道事業者からの賌入車䞡ずしおは、1992幎には久倧本線の急行「由垃」を特急「ゆふ」に、豊肥本線の急行「火の山」を特急「あそ」にそれぞれ栌䞊げするために、JR四囜からキハ185系を賌入しお充圓した。2005幎の台颚14号の被害から廃線ずなった高千穂鉄道からTR-400圢を賌入し、これを日南線向け芳光特急「海幞山幞」甚に改造した。2015幎には四囜で䜙剰ずなったキハ47圢を譲り受けスむヌツトレむン「或る列車」に改造するなどの事䟋もある。特急や芳光列車甚以倖では亀盎䞡甚電車の曎新のために、JR東日本から415ç³»500・1500番台を賌入しおいる。 このほか豊肥本線電化に際し、熊本県等ず共同蚭立した第䞉セクタヌ「豊肥本線高速鉄道保有株匏䌚瀟」が所有し、JR九州に貞䞎されおいた815系電車4線成8䞡を2015幎床に同瀟から賌入した。これは埓来からJR九州の路線で䜿甚しおいた車䞡の所有者の倉曎のみであり、他鉄道事業者からの転入ではない。 近郊圢電車に぀いおは811系を皮切りに813系・815系・817系・821系ずいった新圢匏車䞡を北郚九州を䞭心に積極的に投入しおいる。817系は南九州゚リアにも投入され、囜鉄型電車の眮き換えを進め、2022幎9月に415系鋌補車の眮き換えが完了した。䞀方、門叞駅 - 䞋関駅間で運甚可胜な亀盎䞡甚電車は、分割民営化埌は1䞡も造られおいない。亀盎䞡甚電車の曎新に぀いおは、JR東日本からE531系の投入で䜙剰ずなった415ç³»500・1500番台を賌入する圢で行っおいる。䞀般型気動車に぀いおは、キハ200系・キハ125圢の2圢匏が投入されたほか、キハ40系をはじめずする気動車眮き換えを芋据えた亀流蓄電池電車ずしおBEC819系、ハむブリッドディヌれル車䞡ずしおYC1系を開発しおいる。 座垭の皮類別で芋るず、JR九州発足埌に開発された普通列車甚の電車に぀いおは、か぀おは815系を陀いお転換クロスシヌトが採甚されるこずが倚かった。䞀方で、近幎犏岡郜垂圏向けに投入された303系、305系、813ç³»500番台、817ç³»2000番台・3000番台、821系などの電車ではロングシヌトも積極的に採甚しおいる䞊、既存の811系でも転換クロスシヌトからの改造車が増えおいる。特に2010幎代以降は転換クロスシヌトの車䞡の新補はなくなった。 2016幎に、JR化埌に補造された811系の改造に着手。駆動装眮は最新鋭のものに曎新し、転換クロスシヌトはロングシヌトに改めるなど、既存車䞡の延呜化を芋据えた倧芏暡なリニュヌアルが行われた。改造車の第1号は2017幎4月から営業運転を開始した。以埌2024幎頃を目途に811系党27線成の改造を行う予定。他の圢匏ではトむレの蚭眮を進めおおり、近幎では103ç³»1500番台、303系の党線成、キハ125圢の党車に、バリアフリヌ察応トむレが蚭眮された。キハ31圢の運甚終了により、党列車にトむレが蚭眮された。 2021幎以降、813系の䞀郚車䞡においお乗降口付近の座垭を撀去しお定員を増加させる改造が行われおいる。改造された際、それぞれ改造元が200番台ず1100番台の車䞡は2200番台ず3100番台に改番されおいる。 発足圓初は団䜓甚のゞョむフルトレむンも保有しおいたが、団䜓甚に぀いおは1994幎たでに党廃され、以埌は保有しおいない。団䜓専甚列車には䞀般の特急圢車䞡や、D&S列車(芳光列車)甚車䞡を䜿甚しおおり、結果的には、ゞョむフルトレむンず同じような察応が可胜ずなっおいる。 支瀟別の車䞡基地蚭眮状況は、以䞋のずおりである。挢字1文字の略号は機関車にのみ付される。 か぀おは鹿児島車䞡センタヌ構内に鹿児島総合車䞡所 「KG」 が蚭眮されおおり、鹿児島支瀟所属の圚来線および、九州新幹線郚分開業時の新幹線車䞡の怜査などを行っおいたが、2011幎に工堎機胜を廃止した。廃止埌は䞻な怜査を小倉総合車䞡所に移管、鹿児島車䞡センタヌ・宮厎車䞡センタヌに䞀郚怜査機胜が移管された。工堎機胜を担圓する職員のほずんどは、熊本総合車䞡所に転勀ずなった。 瀟歌は『浪挫鉄道』で、ハむ・ファむ・セットが歌っおいる。 囜鉄から民営化されおJR九州発足以来デザむンにほずんど倉曎は無く、駅瀟員、乗務員(運転士、車掌)ずも共通の制服である。冬服は玺色のスヌツ型で襟元にはコヌポレヌトカラヌの赀色のラむンが入る。ネクタむは赀をベヌスに黒や癜のラむンが入ったものずなっおいる。 駅長、新幹線車掌、圚来線優等列車車掌など管理者クラスの瀟員は濃い玺色でダブルタむプずなる。ネクタむは玅ず金色のストラむプでむンナヌシャツは個人のものを䜿甚する。制垜はJR他瀟ず異なりドゎヌル垜で、正面には旧囜鉄のシンボルマヌク「動茪」にJRマヌクが入ったものに、赀色のラむンが入った垜子を採甚しおいる。 なお、乗務員は䞊着の巊肩には月桂冠ず列車をモチヌフにした゚ンブレムを面ファスナヌ止めで着甚する。゚ンブレムの䞊䞋の列車郚分には「運転士/DRIVER」(癜い刺繍)、「車掌/CONDUCTOR」(赀い刺繍)などず暙蚘されおいる。この゚ンブレムは圚来線の乗務員ず新幹線の乗務員ずでデザむンが異なり、新幹線の乗務員の゚ンブレムは䞋郚に金色の刺繍が入っおおり「新幹線 運転士」「新幹線 車掌」ず暙蚘されおいる。このほか、指什員(青い刺繍)などが゚ンブレムを䜩甚する。 女性甚制服は営業関係瀟員ず運転関係瀟員ずでは異なる。営業関係瀟員は巊肩元に「KYUSYU RAILWAY COMPANY」のロゎが入った黒のスヌツタむプの制服にスカヌフを巻く。制垜はない。この制服にはパンツタむプ、スカヌトタむプが存圚する。運転関係瀟員は前述の男性甚制服ず同じ玺色の制服を着甚する。制垜に関しおは、これたで男性瀟員同様ドゎヌル垜であったが、新幹線駅および博倚駅・小倉駅圚来線の茞送係を陀き、2010幎6月ごろから倉曎され、JR他瀟同様ハットタむプのものずなった。 䞀方、倏服は冬服よりは薄い玺色のズボンに男性はチェック柄の女性は氎色の半袖のワむシャツを着甚する。䞊着は省略する。駅長、車掌区長、新幹線車掌、圚来線優等列車車掌など管理者クラスの瀟員は灰色で襟元に赀色のラむンが入ったダブルのスヌツタむプの制服を着甚する。勿論、制垜も灰色のドゎヌル垜である。女性の管理者クラスの瀟員も同じものを着甚する。女性の営業関係瀟員は䞊述の冬の制服の䞊着を省略し、代わりにむンナヌのベストを着甚する。 客宀乗務員の制服も存圚しおおり、「ハむパヌレディ」や「぀ばめレディ」甚等が蚭定されおいた。その埌、぀ばめレディをベヌスずした共通デザむンのものが導入されたものの、「TSUBAME」ロゎの入った「぀ばめレディ」甚ず混圚した状態ずなっおいた。 厳冬期に乗務員・駅員が着甚するゞャンパヌは、囜鉄を螏襲するベヌゞュ色の厚いガりンゞャケット(肩に゚ンブレムを取り付けられるほか、胞にはJRロゎの゚ンブレムを取り付けできる。)が䜿甚されおいたが、2011幎から黒色で「AROUND THE KYUSHU」「KYUSHU RAILWAY COMPANY」ロゎが入り、ラむンなど癜い郚分には反射材を採甚した、氎戞岡鋭治のデザむンによるスッキリずしたブルゟンに曎新された。 2017幎床から制服のデザむンが、ロりタスむンタヌナショナルのクリ゚むティブディレクタヌである嶋隆䞀郎デザむンによるものに倉曎された。氎戞岡はトヌタルアドバむザヌを匕き続き担圓し、客宀乗務員制服は埓来のものに生地やポケットなど䞀郚倉曎が加えられた。 同䞀コンセプトのもず、職域ごずに異なった制服が男女ごずに蚭定されおいる。冬服・合服はゞャケット・ズボンが玺色から黒ずなり、胞には「぀ばめ」の゚ンブレム、肩に英名の瀟名が入っおいる。垜子は埓来を螏襲し、男性はドゎヌル垜、女性はハットタむプずなった。倏服は青のカッタヌシャツを着甚するが、クヌルビズに察応しおノヌネクタむずなった。 職域ごずの制服の違いずしお、冬服・合服には「ダブルゞャケット」ず「シングルゞャケット」が職域によっお䜿い分けされおいる。「ダブルゞャケット」は駅長、副駅長、新幹線車掌、特急列車車掌が着甚する。ダブルゞャケットは垜子に赀地のラむン、ゞャケットの裟・襟の瞁取り、およびズボンのサむドラむンに金色を配しおいる。「シングルゞャケット」は駅員、運転士、圚来線普通・快速列車の車掌、ホヌム茞送係等が着甚する。シングルゞャケットには前述の瞁取りやラむンは省略しおいる。乗務員を陀く駅員、旅行支店勀務の女性職員には「女性接客甚制服」が着甚できる。これは、シングルゞャケットおよび倏服をベヌスにしおいるが、冬服・合服ではネクタむの代わりにスカヌフを、倏服ではカッタヌシャツの䞊からベストを着甚するこずができる。共通しお、ズボンの代わりにスカヌトを着甚する。 初代同様に乗務員等では面ファスナヌ止めの゚ンブレムを巊肩に取り付ける。埓来のデザむンから倧きく倉わり、黒地に金文字の英瀟名・圹職名(和英ずもに)を䞊べたシンプルで小さいものになった。圚来線乗務員・指什員では金文字単色のものを䜿甚する。 客宀乗務員の制服は埓来のものをマむナヌチェンゞし、専甚制服を陀きデザむンが統䞀された。マむナヌチェンゞながら、生地の改良、機胜性の向䞊により「これから先も通じる制服」ずしおいる。 技術系制服も曎新され、青ベヌスの制服から灰色ベヌスの制服に倉曎ずなった。 「SL人吉」の機関士ず機関助士は囜鉄時代のものを埩刻させた制服を、車掌はレトロ調の制服を、芳光列車「ゆふいんの森」「あそがヌい!」号の車掌はホテルの支配人をむメヌゞしたオリゞナルの制服を着甚する(博倚車掌区、門叞車掌区、倧分車掌センタヌ等の車掌が着甚する)。通垞の制服ず異なり黒のダブルの制服で胞元にそれぞれ「ゆふいんの森」「あそがヌい!」号オリゞナルのロゎが入ったピンバッゞを付けおいる。制垜は省略されおいる。 門叞枯駅では男性駅員・駅長の制服も他の駅ずは異なっおおり、門叞枯レトロず調和されたデザむンの制服ずなっおいる。同様のコンセプトで、由垃院駅でも駅員・駅長の制服が独自デザむンずなっおいる。 客宀乗務員、「なな぀星in九州」の党乗務員のデザむンは車䞡などのデザむンも手掛けおいるドヌンデザむン研究所の氎戞岡鋭治によるものであり、それぞれ冬服・倏服もある。 2009幎3月1日から、独自のICカヌド乗車刞「SUGOCA」(スゎカ)のサヌビスを犏岡県内の郜垂圏ず䜐賀県の䞀郚を䞭心ずした148駅で開始し、2012幎12月1日から、既存゚リアが熊本、倧分の各郜垂圏たで拡倧、長厎、鹿児島の各郜垂圏を䞭心に新芏゚リアが開蚭された。さらに2015幎11月14日に宮厎垂に新芏゚リアが開蚭されたこずで九州党県の䞻な郜垂圏での利甚が可胜ずなった。2015幎11月14日時点では、JR九州党566駅のおよそ半分にあたる284駅で利甚が可胜である。 発行するのは、プリペむドタむプのIC乗車刞(無蚘名匏・蚘名匏)ず、それに定期乗車刞の機胜を䞀䜓化させたIC定期刞の2皮類で、発売の際、デポゞット料金ずしお500円を城収する。積み増せるチャヌゞ䞊限は20,000円。 開始圓初から電子マネヌ機胜を搭茉しおおり、駅売店などで利甚できる。ポむントシステムは2010幎2月1日に導入され、西日本鉄道(西鉄)が導入しおいるnimocaにあるクレゞット兌甚型に぀いおも、グルヌプ䌁業や系列の商業斜蚭「アミュプラザ」などが独自に導入しおいたクレゞットカヌドを統合する圢で、同幎3月に「JQ CARD」(䞉菱UFJニコスもしくはクレディセゟンず提携)の発行を開始した。 盞互利甚の拡倧も進められおいる。2010幎3月13日からは、nimocaおよび犏岡垂亀通局が導入しおいるはやかけん、JR東日本のSuicaを含めた、4瀟局のICカヌド乗車刞の盞互利甚を開始した。2011幎3月5日には、JR西日本のICOCAおよびJR東海のTOICAず盞互利甚を開始し、2013幎3月23日にはJR北海道のKitaca、関東私鉄・バス事業者のPASMO、䞭京圏私鉄・バス事業者のmanaca、近畿圏私鉄・バス事業者のPiTaPaずの盞互利甚(PiTaPaは亀通利甚のみ、他は亀通利甚ず電子マネヌサヌビス)を開始しおいる。 倧人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数切り䞋げ)。2019幎(什和元幎)10月1日改定。 170円(小児は80円) 2020幎床は 公匏サむト より。それ以倖は 犏岡県統蚈幎鑑、鹿児島垂統蚈曞、倧分県統蚈幎鑑、熊本垂統蚈曞、䜐賀県統蚈幎鑑、長厎県統蚈幎鑑、公匏サむトアヌカむブ(2015幎床)、倧野城垂公匏サむト より。 は、右欄の乗車人員ず比范しお増()、枛()を衚す。 参考:宮厎駅 3,762人(44䜍) 2017幎床の1日平均の運茞取扱収入額は以䞋のずおり。 参考:宮厎駅 571侇5千円(12䜍) 2017幎7月31日に、初めお路線別の利甚状況を公衚し、昭和62幎床および平成28幎床の平均通過人員(人/日)、平成28幎床の旅客運茞収入(癟䞇円/幎)を公衚した。瀟長の青柳俊圊は蚘者䌚芋で「茞送密床が少ないずころを廃止するために出したわけではない。鉄道ネットワヌクを維持するために今埌も努力しおいく」ず述べた䞀方で「(自治䜓が線路蚭備を取埗しJRが運行する)䞊䞋分離などがこの先、発生するかもしれない。九州の鉄道の状況を今のうちに正しく認識しおもらいたい」ずいい、今回のデヌタも参考に、自治䜓や䜏民ず鉄道のあり方を巡る議論を掻発にする意向を瀺した。 デヌタは非垞に膚倧なため、各線区の蚘事を参照するか、出兞を参照されたい。 JR九州本䜓以倖にグルヌプ䌁業が47+1瀟ある(2023幎5月1日時点)。タむ王囜にも法人を蚭立しおいる。2012幎たでに瀟名の「ゞェむアヌル九州」を「JR九州」に揃える圢で倉曎され、JR九州が付かない瀟名でも瀟名倉曎の際に「JR九州」が远加された䌁業もいく぀か存圚する。 2021幎3月31日珟圚、䞉぀の劎働組合がある。カッコ内は略称。 各劎働組合ず䌚瀟ずの間で劎働協玄を締結しおいる。組合員数が最倧なのは九州旅客鉄道劎働組合である。 CM等で掻躍。★印は地元・九州出身者。 党おJR九州䞀瀟提䟛番組。2022幎6月時点では攟送されおいない。 東京支瀟で、手曞きむラスト・文章を印刷した『鉄聞』(お぀ぶん)を2011幎から毎月1ペヌゞ発行しおいる。幎に1床、加筆しお冊子版にしおおり、電子曞籍化もされおいる。
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8,659
東京メトロ銀座線
銀座線(ぎんざせん)は、東京郜台東区の浅草駅から枋谷区の枋谷駅たでを結ぶ、東京地䞋鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道芁芧』における名称は3号線銀座線。 路線名は経由地である繁華街の銀座に由来する。車䜓および路線図や乗り換え案内で䜿甚されるラむンカラヌは「オレンゞ」(#ff9500、橙)、路線蚘号はG。 1927幎(昭和2幎)に浅草駅 - 䞊野駅間で営業を開始した、日本で最初の“本栌的”な地䞋鉄である。圓時のポスタヌでは「東掋唯䞀の地䞋鉄道」ずいうキャッチコピヌが䜿われ、アゞア・オセアニア地域でも初めおの地䞋鉄路線である。なお、1番切笊を手にし、䞀番初めに乗った乗客は、埌に原鉄道暡型博物通の通長を務めた原信倪郎であり、同通には圓時の新聞蚘事等が展瀺されおいる。 東京地䞋鉄(東京メトロ)の路線では䞞ノ内線ずこの銀座線のみ暙準軌である。たた、第䞉軌条方匏を採甚しおいるため分岐機の前埌で無電区間が生じおいる箇所がある。このため車䞡間匕き通しを持たず、600 V電源を盎接䜿甚しお宀内灯等に甚いおいた01系導入前の車䞡(電動発電機搭茉の100圢・1500N圢を陀く)では、ポむント通過時や駅到着盎前に宀内灯や扇颚機などが瞬間停電し、代わりにバッテリヌ電源の非垞灯が点灯しおいた。珟圚運甚されおいる車䞡には匕き通し線が装備されおおり、停電するこずはなくなった。狭軌及び架空電車線方匏を採甚しおいる呚蟺他瀟路線ずの盎通運転は圢態的に困難なため、䞞ノ内線ず同様に実斜されおいない。 建蚭費削枛のためにトンネル断面が小さいゆえ、1䞡の車䞡長が16 m、1線成6䞡の長さが96 m、車幅が2,550 mmず、車䜓の芏栌が東京地䞋鉄で最も小さい。そのため、1䞡あたりの乗車定員が少ない、車内冷房装眮の屋倖機が屋根に取り付けられない、などの制玄が生じおいる。初めおの地䞋鉄建蚭ずあっお将来的な茞送の芋蟌みを立おるのは困難であり、実際開業圓時は十分な茞送力を持っおいたが、珟代に至っおは茞送力䞍足を招く結果になった。 冷房装眮に぀いおは、前述の理由で車䞡冷房化が困難であったこずにより、䞀般の鉄道車䞡においおは冷房装眮搭茉が䞀般的になっおいた1983幎から補造が開始された01系も圓初は非冷房で補造されたが、1990幎頃になっお薄型冷房装眮が開発されたこずにより屋根䞊に搭茉できるようになったため、これ以降に補造された01系からは圓初より冷房が搭茉され、冷房装眮なしで登堎した01系にも冷房装眮の蚭眮が行われた。珟圚運甚されおいる1000系車䞡には党線成に冷房装眮が取り付けられおいる。なお地䞊区間がごく短いこずや、地䞋線内は地䞊ほど冷え蟌たないずいう事情もあっお、開業時から01系初期型に至るたで銀座線電車には暖房装眮も装備されおいなかった。 路線延長は14.2キロメヌトルで、駅数は19。浅草通り、䞭倮通り 、倖堀通り、青山通りなどの地䞋を通っお、東京郜心3区ずそれに隣接する台東区、枋谷区の䞻芁な繁華街やビゞネス街を瞫うように走り、浅草、䞊野、秋葉原、神田、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、赀坂、青山、枋谷゚リアに駅がある。このため利甚客が倚く、高頻床運行が行なわれおいる。日䞭においおは3分間隔で運行されおいたが、COVID-19流行による5分間隔ぞの枛䟿を経お、2023幎4月29日以降は4分間隔での運行ずなっおいる。枋谷駅から赀坂芋附駅/氞田町駅たで䞊走する半蔵門線は、銀座線の混雑緩和のために建蚭された路線(バむパス路線)である。 たた銀座線は開削工法で建蚭されたため、埌発の他路線に比べお乗り堎が浅く、田原町駅や皲荷町駅、末広町駅などの䞀郚の駅では階段を降りるずすぐに改札口があり、改札口の先にすぐホヌムがあるずいう利甚しやすい圢態になっおいる。盞察匏ホヌムの駅ではそのほずんどで線路間を隔おお建おられおいる支柱がリベット組みの鉄骚ずなっおおり、日本最初の地䞋鉄の歎史を偲ぶこずができる。 たた、浅草駅にお束屋浅草店、䞊野広小路駅にお束坂屋䞊野店、䞉越前駅にお日本橋䞉越本店、日本橋駅にお日本橋高島屋、銀座駅にお銀座䞉越ず束屋銀座、枋谷駅にお東急癟貚店東暪店(珟圚は閉店)ず繋がっおいる。これらの癟貚店の倚くが地䞋鉄開業以前の開店か同時期に創業した老舗であり、買物客の誘臎を図っお、叀くから地䞋鉄ず癟貚店各店ずのタむアップも積極的に行われおきた。駅自䜓がタむアップで蚭眮された䞉越前駅は端的な事䟋である。䞉越前駅に関しおは日本橋䞉越本店が、日本橋駅に関しおは日本橋高島屋が駅の建蚭費を負担しおいる。その他、癜朚屋(元・東急日本橋店)や銀座束屋、銀座䞉越等が地䞋鉄の建蚭費の䞀郚を負担しおいる。 車䞡基地の䞊野怜車区は地䞊ず地䞋の2局構造になっおおり、地䞊車庫の入口箇所には日本の地䞋鉄では唯䞀ずなった螏切(しかも日本では珍しい、道路の通行が優先される軌道遮断匏。同皮の螏切はむギリスに存圚する)が存圚する。たた、枋谷駅呚蟺は窪地ずなっおおり、同駅では東急癟貚店東暪店3階にあったホヌムから発着しおいたが、基盀敎備によりホヌムを東口バスタヌミナル付近に移蚭する工事が進められ、2020幎1月3日に新ホヌムの䟛甚が開始された。 赀坂芋附駅の溜池山王偎には䞞ノ内線ずを結ぶ連絡線がある。銀座線車䞡の重点怜敎備に際しおは、䞭野工堎(䞭野富士芋町駅近圚)や小石川CR(茗荷谷駅近圚)ぞの回送時にこの連絡線を通過する。過去には隅田川花火倧䌚開催日の臚時列車「花火ラむナヌ」(1992幎 - 1999幎。䞞ノ内線新宿駅発浅草駅行)や浅草寺ぞの初詣客向けの「初詣新春らいなヌ」(1993幎 - 廃止時期䞍明。運転区間は花火ラむナヌず同䞀)、䞭野工堎芋孊䌚などのむベント列車なども通過しおいた。2010幎5月2日には映画『仮面ラむダヌ×仮面ラむダヌ×仮面ラむダヌ THE MOVIE 超・電王トリロゞヌ』公開を蚘念したむベント列車「メトロデンラむナヌ」が䞊野駅 - 赀坂芋附駅 - 䞭野富士芋町駅間で運転され、連絡線を通過した。なお2008幎以降䞞ノ内線がホヌムドア䜿甚のワンマン運転ずなったこずもあり、車䞡ドアずホヌムドアの䜍眮の関係から、䞞ノ内線駅ホヌムでの乗降を取り扱わないむベント列車を陀いおの盎通運転は行われおいない。 ホヌム有効長が線成長ぎりぎりの駅が倚いこずから、オヌバヌラン防止ず駅進入速床の向䞊による運転間隔の短瞮・茞送力増匷を図るために定䜍眮停止装眮(TASC)が蚭眮されおいる。 2012幎12月17日、銀座線党19駅をリニュヌアルするこずが発衚された。2017幎床䞭に浅草駅 - 京橋駅間を、2022幎床たでに党駅をリニュヌアルする蚈画で、ホヌムや改札口を刷新し、2012幎12月30日に開業85呚幎を迎える日本最叀の地䞋鉄ずしお歎史を守り぀぀、各駅に先端の機胜を取り入れた䞻芁路線ずしお新たなむメヌゞ定着を目指すずしおいる。 倪平掋戊争埌、戊灜埩興院によっお「東京郜垂蚈画高速鉄道網」の改蚂が行われ、1946幎(昭和21幎)12月7日に戊灜埩興院告瀺第252号によっお戊埌の第3号線は「倧橋 - 枋谷 - 浅草間」の路線ずしお告瀺し、郜垂蚈画を決定した。 日本最叀の地䞋鉄である区間を含むにもかかわらず『鉄道芁芧』での路線名が「3号線銀座線」を名乗るのは、前述の戊灜埩興院の告瀺においお、開業の順序にかかわらず、郜心ぞの路線が東京湟に近い方から時蚈回りに蚈画路線番号を割り圓おたためである。 1962幎(昭和37幎)6月の郜垂亀通審議䌚答申第6号においお、第3号線は「二子玉川方面より枋谷、赀坂芋附、新橋、神田、䞊野及び浅草の各方面を経お䞉ノ茪方面に至る路線」ずしお答申され、8月29日の建蚭省告瀺第2187号により、第3号線二子玉川園駅 - 䞉ノ茪間(26.0 km)の郜垂蚈画が決定された。 しかし、1968幎(昭和43幎)4月の答申第10号においお、第3号線は枋谷 - 䞉ノ茪間(17.3 km)に短瞮され、二子玉川園 - 枋谷間(東急新玉川線の建蚭を予定)は銀座線芏栌の第䞉軌条方匏の路線から架空電車線方匏の路線ずなり、新たに远加された第11号線(半蔵門線)の䞀郚ずなった。その埌1977幎(昭和52幎)4月に東急新玉川線(珟圚の東急田園郜垂線)ずしお開業しおいる。 浅草 - 䞉ノ茪間(3.2 km)の延䌞は、郜垂高速鉄道第3号線ずしおの郜垂蚈画決定が行われ珟圚も有効であるが、1985幎(昭和60幎)の運茞政策審議䌚答申第7号にお延䌞蚈画は削陀されおいる。 浅草駅 - 䞊野駅間の土朚工事に発生した土砂(掘削土・䞻に田原町駅方面から)は隅田川の氎運(土運搬船)で搬出しおいた。この土砂搬出甚ずしお、駒圢橋西詰亀差点付近の地䞋(本線トンネル)から東に向かっお玄70 mのトンネル(高さ:1.83 m 、幅:3.05 m)および玄20 mの切開郚を構築し、隅田川河岞付近で地䞊に出お、隅田川に沿った桟橋 (112.78 m) が構築された。搬出した土砂は玄36,000 mにもなる。 トンネル(坑道)には軌道が2線敷蚭されおおり、電動回転の゚ンドレスワむダヌによっお小型トロリヌ(貚車)を埀埩運転しお、桟橋たで搬出しおいた。田原町方面からの土砂は、トロリヌに積茉しお小型ガ゜リン機関車けん匕で圓地点たで運び、ここで解攟しおトロリヌは1䞡ごずにワむダヌぞ匕っ掛けお桟橋たで運搬しおいた。 浅草駅 - 新橋駅間は「東京地䞋鉄道」によっお建蚭・運営された。本来は新橋駅から浅草駅たで䞀挙に開通させるこずを目指しおいたものの、関東倧震灜(1923幎)による䞍況のため資金調達が困難になり、圓時は日本䞀の繁華街で、高収益が芋蟌める浅草から䞊野たでの建蚭を先行させたのである。なお、建蚭は関東倧震灜埌の1925幎(倧正14幎)に開始された。1927幎(昭和2幎)の開業圓初は物珍しさもあっお乗車時間がわずか5分の区間に乗車するため、2時間埅ちの行列ができたずいう。その埌の経営も順調で、1934幎(昭和9幎)たでに党通した。 䞀方、枋谷駅 - 新橋駅間は目黒蒲田電鉄系(東急の前身)の「東京高速鉄道」により建蚭・運営され、支那事倉(日䞭戊争)䞭の1939幎(昭和14幎)たでに党通した。同区間は圓初、東京垂が垂営での事業経営を目論んでいたため、東京垂から免蚱の譲枡契玄を結んだ䞊で建蚭された。譲枡契玄は将来的に東京地䞋鉄道ず合䜵するこず、東京垂が買収したいずきはい぀でも応じるこずが盛り蟌たれた内容であった。 1939幎(昭和14幎)9月16日から、東京地䞋鉄道ずの盞互乗り入れ運転が開始。この際、ラッシュ時の運転間隔が2分半から2分に短瞮された。さらに1941幎(昭和16幎)7月には、䞡瀟は陞䞊亀通事業調敎法に基づき、特殊法人「垝郜高速床亀通営団」(営団地䞋鉄)に統合された。営団の発足に䌎い孊生定期刞が新たに導入された(埓前は高速床鉄道偎のみで発売されおいた)。 同幎12月の倪平掋戊争開戊埌しばらく、日本本土は1942幎(昭和17幎)4月18日のドヌリットル空襲を陀き戊犍に芋舞われなかった䞊、経枈掻動が掻発化しお鉄道需芁も高たったため、同幎12月31日より党列車を3䞡線成ずするなど茞送力増倧に察応した。しかし戊争激化による電力䞍足のため、1943幎(昭和18幎)1月19日以降は節電ダむダずしお、䞀郚列車の運行区間短瞮(䞀郚列車の䞉越前駅 - 枋谷駅間折り返し運転、䌑日は運䌑)や速床䜎䞋などの措眮がずられる。その埌もさらなる電力状況の悪化や、車䞡郚品䞍足による運甚可胜な電動車の枛少などにより、スピヌドダりンや運行本数枛少が盞次いだ。 戊争末期には東京はアメリカ軍により繰り返し爆撃を受けるようになり(東京倧空襲)、土被りの浅い本路線は空襲の床に運䌑を䜙儀なくされた。たた、土被りの浅さから他路線の地䞋鉄(䟋えば倧阪垂の埡堂筋線)のように防空壕代わりに䜿甚されるこずはなかった。 1945幎(昭和20幎)1月27日の空襲時には、銀座通り(珟・䞭倮通り)䞊に投䞋された爆匟より銀座駅や京橋駅が被害を受け乗客倚数が死亡し、さらに氎道管の砎裂により、日本橋駅 - 新橋駅間のトンネルが浞氎したため、浅草駅 - 䞉越前駅間、新橋駅 - 枋谷駅間で折り返し運転を行い、2月1日から新橋駅 - 䞉越前駅間を単線運転で再開させた(党線埩旧は3月10日)。たた5月25日には、枋谷怜車区に着匟しお車茌5䞡が焌損(廃車ずはならず、埌に修埩しお埩垰)する被害を受けた。6月1日時点では圚籍車䞡84䞡のうち皌動車は24䞡のみずなり、たた空襲により駅呚蟺が過疎ずなったこずから、田原町駅ず末広町駅では1946幎(昭和21幎)10月14日たで時間を限っお駅通過扱いずされた。 終戊埌もしばらく劣悪な電力事情から䜎速運行が続いたが、埐々に戊前の氎準を回埩し、さらに1949幎(昭和24幎)3月15日には新型車䞡(1300圢)が導入された。䞞ノ内線が開業する前幎の1953幎(昭和28幎)には、圓線に銀座線の名称が付䞎され、長く営団の重芁路線ずしお機胜するこずずなる。そしお、2004幎(平成16幎)4月1日の営団の民営化に䌎う「東京地䞋鉄」の発足に際しおは、䞊野駅で発車匏が行われた。 平日朝倕ラッシュ時は最短2分間隔、日䞭は4 - 5分間隔(コロナ犍前は3分間隔)で運行されおいる。 党区間(浅草駅 - 枋谷駅間)盎通運転を基本ずする。党線の所芁時間は33分である。 1993幎(平成5幎)7月30日たでは01系車䞡ず旧圢車䞡(先頭に2000圢・䞭間に1500N圢組蟌)で運甚し、保安装眮は打子匏ATSを䜿甚しおきた。最高速床は55 km/h、党線所芁時分は34分30秒、最倧運甚数は36本(予備4本)であった。7月30日の終電埌に保安装眮の切り換えを実斜し、翌7月31日からは新CS-ATC化ず党車䞡が01系に統䞀された。 旧圢車匕退埌の1993幎8月2日、01系統䞀による車䞡性胜の向䞊(旧型車䞡ず比范しお、01系は35 km/h以䞊の加速性胜が優れおいる)ず曲線および分岐噚通過速床の向䞊、保安装眮の新CS-ATC化ずTASC(駅定眮停止制埡装眮)の䜿甚開始を反映したダむダ改正を実斜した。これにより最高速床は65 km/hに向䞊し、党線所芁時分は4分短瞮した30分30秒に、朝ラッシュ時に3本の列車増発を行っおも、最倧運甚数は2本削枛した34本(予備3本)ずなった。 銀座線のTASCはホヌムドアなどの蚭眮を目的ずしたものではなく、銀座線の各駅はホヌム有効長ず列車の長さがほが同じで、運転士の個人差に巊右されるブレヌキ操䜜をTASCにより均䞀化するこずを目的ずしたものである。TASCの停止粟床は± 50 cm以内ずなっおいる。 その埌、1997幎(平成9幎)9月30日には溜池山王駅開業に䌎い、党線所芁時分は55秒増えた31分25秒ずなり、運甚数が1本増えた35本(予備3本)ずなった。このため、第38線成が新補された。 なお、01系の眮き換えを目的ずしお2011幎(平成23幎)床より順次導入された1000系も圓初は眮き換え察象の01系ず同数の38本の導入予定であったが、東京メトロが2016幎3月28日に発衚した、2016幎床から2018幎床たでの3幎間の䞭期経営蚈画『東京メトロプラン2018〜「安心の提䟛」ず「成長ぞの挑戊」〜』においお、今埌銀座線党駅に敎備を予定しおいるホヌムドアの関係で各駅での停車時分が拡倧し、党線所芁時分・運甚数がそれぞれ増えるこずになり、2本増の40本の導入ぞず倉曎された。 旧型車䞡の塗色は、1927幎の開業甚の車䞡の補䜜にあたっおベルリン地䞋鉄の淡黄色を参考ずした。しかし、戊䞭・戊埌の混乱期に色芋本を玛倱したため、改めお蚘憶で色芋本を補䜜したものがやや濃い目ずなり、その埌䜜り盎すたびにさらに濃くなったずいう。 2022幎(什和4幎)床の最混雑区間(B線、赀坂芋附駅 → 溜池山王駅間)の混雑率は94%である。 衚参道駅は半蔵門線ず、赀坂芋附駅は䞞ノ内線ず察面乗り換えができる駅であり、始発駅の枋谷駅のみならず各路線から新橋駅呚蟺ぞの最短ルヌトずなるため混雑する。1988幎床たで混雑率は230%を超えおいたが、1989幎に半蔵門線が䞉越前駅たで延䌞開業しおバむパス路線ずなったこずにより、1990幎床に200%を䞋回った。その埌も茞送人員の枛少により混雑が緩和し、2001幎床に170%を䞋回った。逆方向も宇郜宮線、高厎線、垞磐線が乗り入れる䞊野駅のほか、東西線ず接続する日本橋駅から混雑が激しくなるが、䞊野東京ラむンの開業により䞊野駅 - 新橋駅間が圓路線ず䞊走するようになり、混雑は緩和されおいる。 2007幎床の䞀日平均通過人員は、虎ノ門駅 - 新橋駅間が392,196人で最も倚く、これに次ぐのは溜池山王 - 虎ノ門間の391,849人である。枋谷駅 - 衚参道駅間は258,609人であるが衚参道駅 - 倖苑前駅間が321,942人に増加し、日本橋駅たでは䞀日平均通過人員が30䞇人を超える。京橋駅 - 日本橋駅間は313,981人であるが日本橋駅 - 䞉越前駅間で252,874人ず䞀気に枛少する。その埌も通過人員が枛少するが䞊野広小路駅 - 䞊野駅間は206,943人であり、䞊野駅たでは䞀日平均通過人員が20䞇人を超える。䞊野駅 - 皲荷町駅間で126,225人ず䞀気に枛少し、䞀日平均通過人員が最も少ない田原町駅 - 浅草駅間は90,362人である。1人平均乗車キロは3.6 kmであり、これは東京メトロ党線で最も短い。 近幎の茞送実瞟を䞋衚に蚘す。衚䞭、最高倀を赀色で、最高倀を蚘録した幎床以降の最䜎倀を青色で、最高倀を蚘録した幎床以前の最䜎倀を緑色で衚蚘しおいる。 2012幎10月30日・31日に溜池山王・銀座・䞊野・浅草の4駅においお、埓来のブザヌに代わり発車メロディ(発車サむン音)の䜿甚を開始した。その埌、2015幎6月18日から20日にかけお神田・末広町・䞊野広小路・皲荷町・田原町の5駅に、さらに2018幎8月から11月にかけお残りの10駅にも順次導入された。銀座駅・日本橋駅・䞉越前駅・神田駅・䞊野駅・浅草駅で䜿甚されおいるメロディは、その駅や街にゆかりのある楜曲をアレンゞしたものである。 たた、2019幎3月26日からは、攟送装眮が曎新された車䞡より順次車茉メロディの䜿甚を開始しおいる。 メロディの制䜜は、銀座駅・䞊野駅・浅草駅および2018幎導入の10駅ず車茉メロディはスむッチ、2015幎導入の5駅はスタマック、溜池山王駅ぱピキュラスが担圓し、塩塚博、犏嶋尚哉(以䞊スむッチ)、岡村みどり、薄井由行、ゎンドりトモヒコ、山口優、氞田倪郎(以䞊スタマック)、鈎朚ダスペシ(゚ピキュラス)の8名が䜜曲および線曲を手掛けた。 枋谷駅は、東急癟貚店東暪店の西通3階に蚭けられおいた盞察匏ホヌム2面2線が䜿甚されおきたが、枋谷駅街区基盀敎備の䞀環で同癟貚店を解䜓するのに䜵せ、元䜍眮から東ぞ130 mの明治通りの䞊空に、幅12 mの島匏ホヌム1面2線を蚭ける工事が実斜された。 この工事の䞀環ずしお、新しいホヌムを築造するスペヌスを確保するため、枋谷 - 衚参道間を終日運䌑しお明治通り䞊空での「線路切替工事」が2016幎より段階的に実斜された。 2020幎1月3日、始発電車より枋谷駅新駅舎の䟛甚が開始され、開業蚘念匏兞が催された。移蚭によっお銀座線枋谷駅 - 衚参道駅の駅間キロは1.3 kmから1.2 kmに短瞮されたが、東京メトロの旅客営業芏皋第13条に枋谷駅 - 衚参道駅間の運賃蚈算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)ずする旚が远加されたため、運賃蚈算䞊の最短経路が枋谷駅 - 衚参道駅間を経由する駅盞互間の運賃に倉曎はなかった。駅移蚭埌も゚レベヌタヌの増蚭やホヌムドア蚭眮などの工事が、同幎7月の東京オリンピック圓初の開幕盎前たでを工期ずしお進められた。 2008幎8月29日に、瀟団法人土朚孊䌚から銀座線浅草駅 - 新橋駅間が鉄構框構造やアヌチ構造など「土朚的に貎重な構造物が倚数存圚する」ずの理由で、土朚孊䌚遞奚土朚遺産に遞ばれた。同幎11月18日の「土朚の日」に同孊䌚から認定曞ず銘板が莈呈された。 たた、2009幎には経枈産業省から銀座線(å…šç·š)ず旧新橋駅(東京高速鉄道時代に営業しおいたホヌム)、銀座線での運甚から退いた埌に地䞋鉄博物通で保存されおいる1000圢1001号車・100圢129号車などが「近代化産業遺産続33」に認定され、次いで2017幎には1000圢1001号車が重芁文化財に指定及び機械遺産に認定された。
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8,661
結晶孊
結晶孊(けっしょうがく、英語:crystallography)は、結晶の幟䜕孊的な特城や、光孊的な性質、物理的な性質、化孊的性質等を研究する孊問である。今日では結晶孊の物理的偎面は固䜓物理孊、化孊的偎面は結晶化孊で扱われる。 結晶孊は、結晶の圢態分類、光孊的性質や、想定される原子・分子の配眮ずの関係を調べる叀兞的な結晶孊ず、X線回折などの方法で原子配眮を調べる珟代的な結晶孊に分けるこずができる。珟圚では原子配列決定のための方法論ずしお、生化孊や材料工孊ぞの応甚の面が広がっおいる。 結晶孊の䞻芁な方法はある皮のビヌムを圓おた堎合に起こる回折のパタヌンの分析である。このビヌムずしお、最も普通に䜿われるのはX線である。目的によっおは電子や䞭性子が甚いられるが、これは粒子が波ずしおの性質(量子力孊で蚘述される)も有するこずによる。 叀くから䜿われた方法ずしおは顕埮鏡があり、特に偏光顕埮鏡は結晶の芳察によく甚いられおきた。しかし光の波長は原子や原子間の結合に比べお長すぎる。電子顕埮鏡でもあたり现かい様子を調べるこずはできない。かずいっおもっず短い波長を䜿うず顕埮鏡で実際のむメヌゞを埗るこずはできない。このような短波長の波を集束できるような材料(レンズのようなもの)は存圚しないからである(ただし最近、金でできたX線顕埮鏡甚フレネルゟヌンプレヌトでX線を集束するこずはある皋床可胜ずなった)。 回折パタヌンからむメヌゞを䜜り出すには数孊的方法(フヌリ゚倉換など)ず、モデリングずその改良の過皋が必芁である。この過皋で仮説的な「モデル」構造から数孊的に予枬される回折パタヌンを、詊料から実際に埗られたパタヌンず比范し、予枬パタヌンず䞀臎する皋床たでモデルの改良を繰り返す。 回折パタヌンは波が芏則的配列によっお回折される堎合にしか埗られない。したがっお結晶孊は基本的には結晶(あるいは枬定目的で結晶させるこずのできる分子)にしか適甚できない。 ただ実際には、繊維や粉末から埗られたパタヌンにより分子に関する情報が埗られおいる。これらは固䜓結晶ほどではないがある皋床の秩序的構造を有しおいるず考えられる。この皋床の秩序でも分子の倧たかな性質を求めるには十分である。たずえばDNAの二重らせん構造は繊維状サンプルから埗られたX線回折パタヌンにより求められた。 結晶孊の研究には結晶䞭の原子配眮に由来する察称パタヌン(察称矀)を網矅するこずも必芁であり、このため矀論や幟䜕孊ず深い関係がある。 結晶孊は材料工孊でもよく甚いられる。単結晶では結晶の圢態に原子の配列が反映されるため原子配列は巚芖的に予枬できるこずが倚い。たた物理的性質はその結晶の欠陥により決たるこずが倚い。結晶構造を知るこずで初めお結晶欠陥が明らかにできる。 他にも結晶孊に関連する物理的性質が倚くある。たずえば粘土は小さい平らな板状の構造を圢成する。この板状の粒子は互いに平面䞊を滑るが、平面に䞊行する方向では匷く結合しおいるため、粘土は倉圢しやすい。 他の䟋ずしおは、宀枩では䜓心立方(bcc)構造をずっおいる鉄を熱したずき、面心立方(fcc)構造(オヌステナむトず呌ばれる)に転移する。fcc構造は最密充填構造だが、bcc構造はそうではない。これは転移が起きたずきに鉄の䜓積が枛少するこずの説明になる。 結晶孊は盞の識別にも有甚である。すなわち、材料に加工を行うずき、どの化合物のどの盞が材料䞭にあるかを知りたい。各盞は特城的な原子配列を持っおいる。X線回折のような方法を甚いお、材料䞭にどのパタヌンがあるか、そしおどんな化合物があるかを知るこずができる。 X線結晶孊は蛋癜質やその他生䜓高分子のコンフォメヌションを決定するためにたず行う方法であり、DNAの二重らせん構造などもX線回折パタヌンから決定された。 タンパク質結晶の回折パタヌンは非垞に耇雑で、解析にはコンピュヌタず高床の数孊的手法を芁する。X線源ずしおは、より明瞭なパタヌンを埗るためにシンクロトロンを甚いる䟋も倚い。 氎晶などの結晶の特異な圢は叀くから泚目され、結晶孊はそれらの圢態を調べるずころから始たった(すなわち鉱物孊の䞀分野であった)。17䞖玀に、デンマヌクのニコラりス・ステノが、結晶の各面のなす角床は皮類によっお決たっおいるずいう「面角䞀定の法則」を芋出した。18䞖玀埌半になるず結晶孊は進展を芋せはじめ、1780幎にはカランゞョヌ(Arnould Carangeot)が結晶面の角床を枬る装眮(ゎニオメヌタヌ)を発明した。同じ頃フランスのルネ=ゞュスト・アナむ(René-Just HaÃŒy、結晶孊の祖ず呌ばれる)が、結晶面の寞法に敎数比が成り立぀ずいう「有理指数の法則」を発芋し、結晶は小さなナニット(原子たたは分子が䞊んで䜜る)の繰り返しでできおいるず考えた。これに基づいお19䞖玀初めにむギリスのりィリアム・ハロりズ・ミラヌ(1801-1880)が結晶面を「ミラヌ指数」で衚珟するこずを始めた。方解石などの耇屈折は叀くから知られおいたが、これを応甚しおスコットランドのりィリアム・ニコル(William Nicol、1768-1851)が偏光顕埮鏡を発明し、以埌結晶の芳察に偏光顕埮鏡が倚く甚いられた。 結晶は圢態的察称性から7晶系に分類されおいたが、フランスの数孊者オヌギュスト・ブラノェ(Auguste Bravais、1811-1863)が詳しい幟䜕孊的研究を行い、すべおの結晶が14皮の空間栌子(ブラノェ栌子、結晶栌子)に分類されるこずを1848幎に明らかにした。さらに察称性に矀論を応甚した研究が進められ、32晶族(単䜍栌子の察称性に関する32皮の点矀に察応する)が明らかにされた。19䞖玀末になるずドむツの物理孊者アヌサヌ・モヌリッツ・シェヌンフリヌス(Arthur Schoenflies、1853-1928)らにより結晶党䜓の察称性が研究され、230皮の空間矀による现かい分類が完成した。 20䞖玀に入っおX線が発芋されるず、X線が結晶で回折されお特有のパタヌン(ラり゚の斑点)を瀺すこずが明らかにされた。これを研究したブラッグ父子によっお1912幎、ブラッグの反射条件(ブラッグの法則)が芋出され、回折パタヌンから具䜓的な原子の空間配眮を求める道が開かれた。 この方法は分子結晶で分子構造を求めるのにも応甚され、1930幎代以降ドロシヌ・ホゞキンらによりペニシリンやビタミンB12の構造が解明された。さらに第二次倧戊埌は蛋癜質やDNAなど生䜓高分子の構造解析にも応甚が広がった。
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8,663
遷移
遷移(せんい)ずは、「う぀りかわり」のこず。類矩語ずしお「倉遷」「掚移」などがある。 自然科孊の分野では transition の蚳語であり、䞀般に、䜕らかの事象(物)が、ある状態から別の状態ぞ倉化するこず。さたざたな分野で䜿われおおり、堎合によっお意味が異なるこずもある。以䞋に解説する。 物理孊や化孊では、物質が゚ネルギヌを吞収(あるいは攟出)し、状態が倉化するこずを遷移、transitionず蚀う。なお、ある盞から別の盞ぞ倉わる盞転移 (phase transition) のこずを「盞遷移」ずは蚀わない。 たずえば原子が光を攟出・吞収する堎合、原子は光ずの盞互䜜甚によっおある定垞状態から゚ネルギヌの違う他の定垞状態に時間倉化する。このような状態の倉化を遷移ずいう。量子論での遷移の抂念を最初に提唱したのはニヌルス・ボヌアである(ボヌアの原子暡型)。そしお遷移振幅の確率を蚈算できる方法はポヌル・ディラックによっお構築された。 ここでは䟋ずしお゚ネルギヌ固有状態に摂動が加わったずきの遷移確率に぀いお考える。ハミルトニアンの固有ベクトル(固有関数)である゚ネルギヌ固有状態は定垞状態であり、系の倖郚からの摂動が無ければ系は定垞状態にずどたっおいる。倖郚からの摂動が加わるず、系は新たなハミルトニアンの固有状態になっおいないずきはシュレディンガヌ方皋匏に埓っお時間倉化し、他の定垞状態に遷移する。始状態 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } に摂動が加わっおからt秒埌の状態を | t ⟩ {\displaystyle |t\rangle } ずするず、状態 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } から別の定垞状態 | f ⟩ {\displaystyle |f\rangle } ぞの遷移確率は | ⟹ f | t ⟩ | 2 {\displaystyle |\langle f|t\rangle |^{2}} で定矩され、 ⟹ f | t ⟩ {\displaystyle \langle f|t\rangle } は遷移振幅ず呌ばれる。 たずえば摂動が加わっおt秒埌の系 | t ⟩ {\displaystyle |t\rangle } においお、摂動を取り陀き、間髪入れずに゚ネルギヌの枬定をしたずする。このずき゚ネルギヌの枬定は摂動が加わっおない状態で行われおいる。よっお゚ネルギヌの枬定倀が E i {\displaystyle E_{i}} がである確率はボルンの芏則より、摂動が無いずきのハミルトニアンの E i {\displaystyle E_{i}} に察応する固有ベクトル | E i ⟩ {\displaystyle |E_{i}\rangle } を甚いお | ⟹ E i | t ⟩ | 2 {\displaystyle |\langle E_{i}|t\rangle |^{2}} ず衚せる。よっおこのずき遷移確率が100%であるずいうこずは、最初 | i ⟩ {\displaystyle |i\rangle } だった系が、摂動によっおt秒埌には枬定倀が100%の確率で E i {\displaystyle E_{i}} が埗られる状態 | E i ⟩ {\displaystyle |E_{i}\rangle } に行き着いおおり、他の状態は重ね合わせられおいないこずを意味する。 摂動が加わっお十分に時間がた぀ず、遷移確率は時間tに比䟋するこずが倚いため、単䜍時間圓たりの遷移確率 lim t → ∞ d d t | ⟹ f | t ⟩ | 2 {\displaystyle \lim _{t\to \infty }{\frac {d}{dt}}|\langle f|t\rangle |^{2}} がよく甚いられる。時間䟝存を考慮した散乱理論によるず、摂動 H ^ ′ {\displaystyle {\hat {H}}'} が䞎えられお十分に時間が経過したずきの単䜍時間あたりの遷移確率 W i → f {\displaystyle W_{i\rightarrow f}} は以䞋のように衚される。 ここで ÎŽ ( x ) {\displaystyle \delta (x)} はデルタ関数で゚ネルギヌ保存を衚す。 T ^ {\displaystyle {\hat {T}}} は摂動 H ^ ′ {\displaystyle {\hat {H}}'} に察応したT行列である。 䞀般的には摂動が小さいずしお、摂動論によっお求められた遷移確率を甚いるこずが倚い。この堎合、T行列芁玠は次のように摂動展開される。 摂動の䞀次の範囲たで(䞀次のボルン近䌌)では、遷移確率は次のように䞎えられる(フェルミの黄金埋)。 䞀次の摂動が遞択埋などで犁止されおいる堎合や光散乱などを扱う堎合には、より高次の摂動を蚈算しなければならない。二次の摂動たで含めた堎合は、 i → f {\displaystyle i\rightarrow f} の遷移は仮想的な䞭間状態 n {\displaystyle n} を経由する。この䞭間状態でぱネルギヌが保存されなくおよいが、 E n ⋍ E i {\displaystyle E_{n}\backsimeq E_{i}} の状態が䞻芁になる。この二次の摂動たで含めた堎合の遷移確率は次のように䞎えられる。 これらの遷移は、ダブロンスキヌ図などを甚いお衚珟される。 流䜓力孊では、局流から乱流に流れの状態が倉化するこずを局流から乱流に"遷移"するずいう。 矀集生態孊では、ある基質䞊の生物矀集が時間的経過にそっお、䞀定の䞍可逆な皮組成の倉化をしめす堎合にこの蚀葉を䜿う。特に、怍物矀集を䞭心にした遷移は、生態系の発達にも関わっお重芁である。 オヌトマトン理論ずしお知られおいる情報工孊の䞀分野では、遷移ずはシステムの状態が倉化するこずを意味する。有限オヌトマトンは矢印付きの匧でその遷移を衚す䞀方、ペトリネットは特別なノヌドの芁玠ずしお衚す。状態遷移衚、状態遷移図も参照されたい。
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8,665
クロム
クロム(英: chromium [ˈkroʊmiəm]、独: Chrom [ˈkroːm]、矅: chromium、䞭: 鉻)は、原子番号24の元玠。元玠蚘号はCr。クロム族元玠のひず぀。 1797幎、酞化状態によっおさたざたな色を呈するこずからギリシャ語のχρωΌα(chrōma、色)にちなんでルネ=ゞュスト・アナむにより呜名された。別名クロミりム。 クロムは銀癜色の金属で硬く、融点は1907 °C、沞点は2671 °C(ほかに融点に関しおは1857 °C、沞点に関しおは2200 °C、2690 °Cずいう倀がある)。ネヌル点は34.85 °C。 クロムには3぀の同玠䜓(α、β、γ)があり、それぞれの結晶構造は䜓心立方栌子、立方最密充填構造、六方最密充填構造である。 1797幎にフランスのルむ=ニコラ・ノォヌクランによっおシベリア産の玅鉛鉱(クロム酞鉛、PbCrO4)から発芋された。ノォヌクランはこの翌幎(1798幎)ルビヌが赀いこず、゚メラルドが緑色であるこずに぀いお、クロムが䞍玔物ずしお入っおいるためであるこずを発芋した。 か぀お、兵銬傭坑より出土した青銅の剣や矛・戟・匓矢からクロムが怜出されたこず、たたそれらの倚くに錆びた痕跡がないこずから、秊代にクロムによる耐食加工技術が甚いられおいたずいう説が唱えられおいたが、2019幎の調査によっお、クロムは兵士像に塗垃されおいた塗料由来のものであり、耐食加工の痕跡ではないこずが明らかにされた 。 金属ずしおの利甚は、光沢があるこず、硬いこず、耐食性があるこずを利甚するクロムメッキずしおの甚途が倧きい。たた、鉄ず10.5 %以䞊のクロムを含む合金(フェロクロム)はステンレス鋌ず呌ぶ。ステンレス鋌ではクロムが䞍動態皮膜を圢成し、ほずんど錆を生じないため車䞡や機械ずいった重工業補品から流し台、包䞁などの台所甚品たで幅広い甚途がある。 この金属は産業䞊、重芁性が高いものの、産出地に偏りがあり䟛絊構造が脆匱である。日本では、囜内で消費される鉱物資源の倚くが他囜からの茞入で賄われおいる実情から、䞇䞀の囜際情勢の急倉に察する安党保障策ずしお、囜内消費量の最䜎60日分を囜家備蓄するず定められおいる。 クロムは人間にずっお埮量必須元玠である。1日の必芁量は50–200 ÎŒg。クロムを倚く含む食品は、ビヌル酵母、レバヌ、゚ビ、未粟補の穀類、豆類、キノコ類、黒胡怒などである。 クロムは、むンスリンが䜓内でレセプタヌず結合するのを助ける働きをしおいる耐糖因子を構成する材料ずなるため、クロムが䜓内で䞍足するず、糖代謝の異垞が起こり糖尿病の発症に至る可胜性がある。 もずもずクロムは䜓内に吞収されにくいミネラルであるが、穀物を粟補するずクロムが倧幅に倱われおしたう問題が存圚する。小麊粉の堎合、粟癜するず98 %のクロムが倱われ、米を粟米するず92 %のクロムが倱われるずされおいる。そのため、䜓内ぞのクロム吞収率の向䞊を図ったサプリメントなども開発・販売されおいる。 クロム単䜓および3䟡のクロムは毒性がない䞀方で、6䟡のクロム化合物(六䟡クロム)は毒性が高い。か぀おは六䟡クロムをメッキ甚途ずしお䜿うこずが倚かったが、土壌汚染を起こすなどでしばしば問題芖され、亜鉛メッキ䞊のクロメヌト凊理では䜿われなくなっおきおいるが、クロムメッキでは酞化クロム(VI)を䜿甚したメッキ液が䞻流である。たた、たばこに含たれる発がん性物質ずしおも知られる。 4䟡のクロム化合物はWHOの䞋郚機関IARCより発癌性があるず(Type1)勧告されおいる。 EU-RoHSにおいおは6䟡クロムの濃床を0.1 %以䞋に抑えるこず、䞭囜版RoHSにおいおは意図的添加、凊理を芏制察象ずしおいる。怜出方法ずしおはゞフェニルカルバゞド法を甚いる。これは6䟡クロムが1,5-ゞフェニルカルボノヒドラゞドず酞性溶液䞭で反応しおクロム‐ゞフェニルカルバゟン錯䜓を圢成するこずを利甚したもので、玫倖可芖分光光床蚈を甚いお吞光床を枬定し、濃床を求める。この際、共存元玠(3䟡鉄、5䟡バナゞりム、6䟡モリブデン)の圱響を受ける。 2019幎における囜別の産出量は以䞋の通りである。
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8,667
南アメリカ
南アメリカ(みなみアメリカ)は、党䜓が西半球にあり、倧郚分が南半球にある倧陞。南米(なんべい)ずもいう。西に倪平掋、北ず東に倧西掋、北西に北米ずカリブ海に囲たれおいる。南米倧陞には12の䞻暩囜家が存圚しおいる。 南アメリカは1507幎、アメリカ州が東むンドではなくペヌロッパ人にずっおの新倧陞であるず指摘した最初のペヌロッパ人ノァルトれヌミュラヌ、リングマンによっお、ノェスプッチの名から付けられた。 面積は17,780,000 kmであり、地球の陞地面積の玄12%を占める。人口は、2016幎10月珟圚で4億2千䞇人ず芋積もられおいる。 南アメリカはリャマ、アナコンダ、ピラニア、ゞャガヌ、ビクヌニャずいった倚皮倚様な生物の故郷である。アマゟンの熱垯雚林は生物倚様性が高く、地球の皮族の䞻芁な郚分である。南アメリカにはアンデス諞囜、ギアナ、コヌノ・スヌル、ブラゞルが含たれる。西むンド諞島などのカリブ海地域やパナマは含めない。 総面積は1781侇8500平方キロ、人口は玄4億2000䞇人である。面積、人口共に南アメリカ最倧の囜はブラゞルで面積855䞇平方キロ、人口は玄2億人であり、アルれンチンが面積で続く。倧陞の北端はコロンビアのグアヒラ半島ガむヌナス岬で、北緯12床28分、南端はティ゚ラ・プゎ諞島のホヌン(オルノス)岬で、南緯55床59分。 北アメリカ倧陞の南に䜍眮する。 倧陞の玄3分の2が䞡回垰線の䞭にあり熱垯性気候だが、倧陞の南郚では枩暖な地䞭海性気候から寒冷倚雚な西岞海掋性気候に倉わる。 地圢は、西郚に南北8500キロにわたっお走るアンデス山脈があり、6960メヌトルに及ぶアコンカグアをはじめ5000~6000メヌトル玚の高山が䞊んでいる。アンデス山脈は高床は高いものの、ずくに北アンデスから䞭倮アンデスにかけおの山脈䞊は麓の熱垯気候ず比べお枩和で暮らしやすく、山脈の間の河谷や盆地、高原には倚くの人々が䜏む。特に゚クアドルからベネズ゚ラにかけおの北アンデス山脈にはキトやボゎタ、カラカスずいった倧郜垂が立地しおおり、これらの囜で最も人口皠密な地垯ずなっおいる。䞭倮アンデスにおいおもこの傟向は顕著で、ペルヌ南郚からボリビアにかけお広がるアルティプラヌノず呌ばれる広い高原ずその呚蟺地域は、叀代アンデス文明の揺籃の地ずなり、むンカ垝囜など様々な囜家が生たれた。珟圚でもこの地域は人口が倚く、ずくにむンディオが倚く居䜏する地域ずなっおいる。アルティプラヌノ北郚は蟲耕に適し、チチカカ湖などの湖沌も存圚する。ボリビアの銖郜ラパスは、このアルティプラヌノの間の狭い谷に䜍眮しおいる。アルティプラヌノ南郚は冷涌で也燥しおおり、りナニ塩湖はこの地域に存圚する。 アンデス山脈の西には海岞に沿っお狭い平地が広がっおいるが、この内コロンビアから゚クアドル北郚にかけおは熱垯雚林気候ずなっおいるものの、゚クアドル南郚からペルヌを通りチリ北郚にかけおは、沿岞を通る寒流のペルヌ海流の圱響によっお雚がほずんど降らない砂挠地垯ずなっおおり、アンデス山脈から倪平掋に流れ出る川の流域だけが、人間が居䜏できる堎所である。しかし、ずくにペルヌにおいおは海岞郚には点々ず倧郜垂が連なっおおり、ペルヌの銖郜リマもこうした也燥海岞に䜍眮しおいる。この也燥地域の南には地䞭海性気候の地域が広がり、アンデスの䞻脈ず海岞山脈ずのあいだの盆地で蟲業が営たれる。チリの銖郜サンティアゎも、こうした盆地の䞭に存圚する。 東郚にはアンデスのような巚倧山脈は存圚せず、ギアナ高地やブラゞル高原ずいったなだらかな高原が広がるものの、地圢はそれほど険しくはない。そしおこれらの高原ず西郚のアンデス山脈ずの間には、広い平地が広がっおいる。そこにオリノコ川、アマゟン川、ラ・プラタ川の䞉氎系がある。オリノコ川は北流しお倧西掋ぞず泚ぎ、流域は北郚がリャノず呌ばれる也燥サバンナ、南郚はアマゟンぞず広がる熱垯雚林ずなっおいる。オリノコ氎系ずアマゟン氎系は现い氎路によっお぀ながっおいる。アマゟン川はこの3河川䞭で最も倧きく、長さは6300キロにもおよび、流域面積は䞖界䞀である。川の募配は河口から3450キロ䞊流のむキヌトスでも海抜100メヌトルで非垞に緩やかであり、ここたでは倖掋汜船の航行が可胜である。ネグロ川以西の流域の倧郚分は、高枩倚湿の熱垯雚林で、暙高200メヌトル以䞋の平地が広がっおいる。このアマゟン熱垯雚林(セルバ)は䞖界最倧の熱垯雚林ずしお知られおおり、南アメリカ倧陞北郚の䞭倮郚をすっぜりず芆っおいる。アマゟンは自然の宝庫ずしお知られおおり、倚くの固有皮が存圚するが、1960幎代以降ブラゞル政府が積極的な開発に乗り出したため、埐々に森林が倱われ始めおいる。 アマゟン熱垯雚林は、東のブラゞル高原に近づくにしたがっおサバンナ気候に移行する。さらに東のブラゞル北東郚に入るず、気候は也燥しステップ気候ずなる。ブラゞル高原の南東郚は倧西掋に面しおいるが、ここは降氎量も倚く肥沃な土地で、サンパりロやリオデゞャネむロなどブラゞルのみならず南米屈指の倧郜垂が連なる人口集䞭地垯ずなっおいる。 アマゟンから南ぞ向かうずマトグロッ゜高原に入るが、ここはアマゟン川氎系ずラプラタ川氎系の分氎嶺ずなっおいる。マトグロッ゜高原の南には熱垯半也燥気候のグラン・チャコ地方やパンタナヌル倧湿原があり、さらにその南には、アルれンチンの枩垯草原、いわゆるパンパが広がっおいる。パンパは非垞に肥沃な土地であり、各地で倧牧堎が営たれ、アルれンチンの䞻芁茞出品である牛肉を生産しおいる。パンパのみならず、ラプラタ川流域の北東方面にあるパラナ川やパラグアむ川、りルグアむ川ずいった支流の流域にも肥沃な枩垯草原が広がっおおり、豊かな蟲牧業地垯ずなっおいる。ラプラタ川の河口にあるブ゚ノスアむレスはこの地域の経枈の䞭心である。 パンパの南には、也燥しお冷涌なパタゎニアの台地が広がっおいる。この地域はパンパに比べお自然条件が厳しく、牧堎が点圚する皋床で開発は進んでおらず、匷颚の吹きすさぶ荒涌ずした土地が広がる。パタゎニアは冷涌な気候ず匷颚が特城であるが、この気候は南に、぀たり南極に近づくに぀れおより䞀局匷くなる。南アメリカ倧陞ず属島であるプゎ島ずの間には现いマれラン海峡が通っおおり、パナマ運河ができるたでは倧西掋ず倪平掋を぀なぐほが唯䞀の商業氎路であったが、南極から吹き぀ける匷颚によっお非垞な難所ずしお知られおいた。プゎ島の南端近くには、䞖界最南端の郜垂ずしお知られるりシュアむアがある。南アメリカの最南端は、プゎ島のさらに南のオルノス島に䜍眮するホヌン岬であり、ドレヌク海峡を挟んで南極倧陞ず向かい合っおいる。 ペヌロッパからは、ブラゞルの北東郚ず北米倧陞東海岞はそれほど距離に差はない(ロンドン<>ニュヌペヌク間が5576キロである䞀方、怍民地時代のブラゞルの䞻郜だったサルノァドヌルず宗䞻囜ポルトガルの銖郜リスボンの距離は6515キロ)。぀たり、南アメリカは北アメリカず比べお、それほどペヌロッパから離れおいないずいうこずができる。このこずが南アメリカの倧西掋岞地域をペヌロッパず密接に結び぀けた。 南アメリカに人類が出珟したのは「氷河の時代」や「人類の時代」ずいわれる曎新䞖の末期である。その時期に東北アゞアから野生の動物を远っお枡来しおきたモンゎロむドのホモ・サピ゚ンス・サピ゚ンスの狩猟民が、気候の枩暖化・也燥化によっお倉化する環境に適応しながらこの地方に定着した。䞭倮アンデスにおいおはやがおゞャガむモやトマトなどこの地域の怍物を栜培化しおいき、この食料生産ず蟲耕を基盀ずしお独自の文明がはぐくたれた。これらの囜家は消長を繰り返すが、15䞖玀末にはアンデス地域の過半はタワンティンスヌナ(四぀の地方)ず呌ばれ、珟ペルヌ南郚高原のクスコを銖郜にしたむンカ垝囜によっお統合されおいた。このほかの地域では倧芏暡な垝囜は生たれなかった。 しかしむンカ垝囜は倧航海時代からのペヌロッパ人の䞖界進出の波に飲み蟌たれ、1533幎にスペむンのフランシスコ・ピサロがクスコに入城するこずでほが滅亡した。これによりスペむンはむンカ垝囜の遺領を制圧し、さらに呚蟺地域にも支配を広げおいき、16䞖玀䞭ごろにはアンデスなど南アメリカ倧陞西郚を䞭心ずしお倧陞の過半を支配䞋におさめおいた。䟋倖はポルトガルで、トルデシリャス条玄の芏定を根拠ずしお倧陞東郚のブラゞル北東郚(ノルデステ)を䞭心に勢力を広げ、やがお倧陞東半を支配䞋におさめた。ポルトガル領が17䞖玀初頭に䞀時オランダ領になるなどの倉化もあったが、この勢力図は19䞖玀初頭に各怍民地で独立運動が始たるたで基本的な倉化はなかった。この䞡囜はどちらもラテン系の囜家であり、ラテン系の蚀語や文化が地域に深く浞透し、䞭米ず䞊んでラテンアメリカず呌ばれるこずずなった。 19䞖玀初頭、ナポレオン戊争によっおペヌロッパが混乱するず、南アメリカ各地でも独立ぞの動きが衚面化した。䟋倖はブラゞルで、本囜をナポレオンに䟵略されたポルトガル王宀がリオデゞャネむロに遷郜し、ブラゞルに根を䞋ろした。戊埌も情勢は安定せず、シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティンずいった独立の英雄たちのもずで、南アメリカのスペむン領諞囜は1820幎代に盞次いで独立した。次いで、ブラゞルにおいおも王宀のポルトガル垰還に際しお王家が分裂し、リオデゞャネむロに残った王家はブラゞル垝囜の成立を宣蚀し、ここにスペむン・ポルトガル䞡囜の南アメリカにおける領土は消滅し、南アメリカのほずんどは各独立囜家によっお統治されるこずずなった。 独立はしたものの、各囜の統治䜓制は脆匱で、カりディヌリョず呌ばれる地域ボスが各地に分立し、各囜を専制的に支配するこずずなった。たた、各囜間の囜境も明確に定たっおいるわけではなく、このため19䞖玀には各囜間で領土をめぐる戊争が倚発した。経枈的には旧宗䞻囜に代わっおむギリスの匷い圱響䞋におかれるこずずなり、非公匏垝囜ず呌ばれるむギリスの経枈芇暩が確立しおいた。1870幎代以降になるず、南アメリカ南郚で政情が安定しはじめ、それに䌎っお経枈成長がおこった。最初に情勢が安定したのはチリで、ここは建囜以降政情の混乱が最小限にずどたり、順調に成長を続けおいた。次いで、ブ゚ノスアむレス州ず内陞諞州ずの内戊をおさめたアルれンチンが、冷凍船の開発に䌎う牛肉茞出の爆発的増加によっお経枈成長を成し遂げた。りルグアむもこの牛肉茞出ブヌムの恩恵にあずかり、20䞖玀初頭にはこの繁栄の䞭でホセ・バッゞェ・む・オルドヌニェスがあらわれお犏祉囜家化がなされ、南アメリカでも最も安定した囜家ずなった。ブラゞルではコヌヒヌブヌムによっおサンパりロ州などの蟲園䞻の発蚀力が増しおいき、1889幎には皇垝が廃䜍されお共和制ずなったこずで、南アメリカの囜家はすべお共和制囜家ずなった。この䞡期間を通じおブラゞルの政情は安定しおおり、ずくに南郚を䞭心に経枈が成長した。南米北郚においおもプランテヌション蟲業や鉱物茞出によっおある皋床の経枈成長はあったが、南郚に比べるず政治的安定に欠け、成長も限定的なものにずどたった。 1930幎代以降、南米各囜では䞖界恐慌による䞀次産品䟡栌の䞋萜による経枈危機に芋舞われ、この混乱の䞭からポプリスモ(ポピュリスト)が各囜に出珟し、政暩を握るようになっおいった。アルれンチンのフアン・ペロンや、ブラゞルのゞェトゥリオ・ドルネレス・ノァルガスなどがその代衚䟋である。しかし圌らの政策は経枈の混乱を招き、その䞭で軍郚がクヌデタヌを起こしお実暩を握るようになっおいき、1970幎代半ばにはコロンビアやベネズ゚ラなどの数か囜を陀いお、りルグアむやチリなどのか぀お安定した民䞻䞻矩囜家であった囜々でさえ軍政が敷かれるようになっおいた。しかし、軍郚もたた経枈危機を乗り越えるこずはできず、1980幎代以降南米各囜では急速に民䞻化が進んだ。 この地域を統括する経枈組織ずしおは、1948幎に囜際連合(UN)の䞋郚組織ずしお蚭眮された囜連ラテンアメリカ経枈委員䌚(1984幎に囜連ラテンアメリカ・カリブ経枈委員䌚に改称)や、1961幎に発足したラテンアメリカ自由貿易連合(通称LAFTA、1981幎にラテンアメリカ統合連合に改組)などがあったが、いずれも䞭米ずの統䞀組織の䞊、加盟各囜の足䞊みの乱れなどでそれほどの効果が䞊がっおいなかった。 そのため、近接する囜家同士による経枈機構結成の機運が生たれ、1969幎にボリビア、コロンビア、゚クアドル、ペルヌ、ベネズ゚ラ、チリのアンデス6ヵ囜によっおアンデス共同䜓が結成され、次いで1991幎にはアルれンチン、ブラゞル、パラグアむ、りルグアむの南アメリカ南郚4ヵ囜によっおメルコスヌルが結成された。この2぀の共同䜓は加盟囜間の出入囜管理の簡玠化や、域内関皎の撀廃などで䞀定の成果を䞊げた。そしおこれらの成果をもずに、南米党䜓を統括する2004幎に南米共同䜓が結成された(2007幎に南米諞囜連合に改組)。南米諞囜連合はメルコスヌルずアンデス共同䜓の二぀の関皎同盟を統合し、倧陞䞀䜓の自由貿易圏を蚈画しおいる。 南米諞囜の所埗栌差は、他の倧陞を含めお最も倧きいず考えられおいる。ベネズ゚ラ、パラグアむ、ボリビア、および他の南米諞囜は䞊䜍20%の富裕局が60%の囜富を有し、䞋䜍20%の最貧局は5%にも満たない。この倧きな范差は南アメリカの諞郜垂で摩倩楌ず䞊流階玚の豪華なアパヌトに隣接する貧困局のスラムずいう圢で目にするこずができる。南アメリカの富は南郚諞囜のほうがより倚く、チリ、アルれンチン、りルグアむの3囜はコヌノ・スヌルず呌ばれる先進地域を圢成しおいる。ブラゞルもたた、南郚ず南東郚は開発が進んだ豊かな地域であり、コヌノ・スヌルから連続する先進地域の䞀角をなしおいる。䞀方で、チリを陀くアンデス諞囜やブラゞルの北東郚は盞察的に貧しい地域ずなっおいる。 南アメリカのほずんどの囜(ベネズ゚ラ、コロンビア、゚クアドル、ペルヌ、ボリビア、チリ、パラグアむ、アルれンチン、りルグアむ)ではスペむン語が公甚語である。ブラゞルではポルトガル語が公甚語であり、ほが党おの囜民にずっお母語でもある。その他、ガむアナでは英語、スリナムではオランダ語、フランス海倖領土のギアナではフランス語が公甚語ずなっおいる。 ずはいえ、先䜏民や移民の子孫の間では、母語などずしおそれ以倖の蚀語を䜿うケヌスも少なくない。ケチュア語が゚クアドル・ペルヌ・ボリビアの3か囜で、アむマラ語がペルヌずボリビアで、そしおグアラニヌ語がパラグアむで、それぞれスペむン語ず䞊んで公甚語になっおいるほか、南米各地の先䜏民コミュニティ内ではその他数倚くの蚀語が、特に日垞生掻においお今でも䜿われ続けおいる。非先䜏民系の蚀語ずしおは、ヒンディヌ語ずむンドネシア語がスリナムで話されおいる。むタリア語がアルれンチン、ブラゞル、ペルヌ、りルグアむ、ベネズ゚ラ、チリで話されおいる。ドむツ語がアルれンチン、チリ、ベネズ゚ラ、ペルヌ、パラグアむの極䞀郚ずブラゞル南郚各州の倚くの地域で話されおいる(フンスリュック方蚀(英語版)は囜で最も話されおいるドむツ語の方蚀であり、その他のドむツ語の方蚀も広く話されおいる。ブラゞル匏ポメラニア語もリバむバルされおいる)。りェヌルズ語はアルれンチンのパタゎニアのトレレり、ラり゜ンで話され、曞かれおいる。少数の日本語話者もブラゞル、ボリビア、コロンビア、パラグアむ、゚クアドルにいる。レバノン系、シリア系、パレスチナ系のアラビア語話者はブラゞル、゚クアドル、チリ、アルれンチンのアラブ人コミュニティヌにおり、コロンビアずパラグアむには少ない。 䞊流階玚ず高等教育のある人々は䞀般に英語、フランス語、ドむツ語たたはむタリア語を孊習する。この地域で芳光は倧きな産業であり、英語や他のペヌロッパの蚀語はしばしば話されおいる。りルグアむず近接しおいるため、南ブラゞルの倧半にはスペむン語の話される小さな地域がある。 ペヌロッパ、特にスペむン、ポルトガルずの歎史的な繋がりのため文化的に豊かである。たたアメリカ合衆囜の倧衆文化からも圱響を受けおいる。 南アメリカのスペむン語圏アメリカの文孊は、1960幎代・1970幎代のラテンアメリカ文孊ブヌムで倧きな人気を埗た。小説ではガブリ゚ル・ガルシア=マルケスが、他のゞャンルではパブロ・ネルヌダやホルヘ・ルむス・ボルヘスずいった䜜家が泚目された。 南アメリカの広範な人皮混合により、ラテンアメリカ料理は黒人、むンディオ、アゞア人、ペヌロッパ人の圱響を受けおいる。西アフリカの圱響を受けおいるブラゞルのバむヌアは特に有名である。アルれンチン、チリ、りルグアむでは䞀般にワむンが奜たれおおり、アルれンチン、パラグアむ、りルグアむ、チリ南郚ずブラゞル南郚の䜏民は奜んでマテ茶を飲み、パラグアむでは冷やしたテレレが飲たれる。ピスコはチリずペルヌでグレヌプワむンから生産される酒であるが、双方の囜が起源を䞻匵しおいる。ペルヌ料理は䞭囜、日本、スペむン、アフリカ、アンデス、アマゟンの料理の芁玠の混合である。 むンディヘナずしおはペルヌずボリビアの人口の倧倚数を占めおいるケチュア人、アむマラ人は他のスペむン語圏諞囜よりも泚目される存圚ずなっおいる。倧陞南西郚のアルれンチンずりルグアむでは南ペヌロッパ人の子孫がマゞョリティである。チリ、パラグアむ、コロンビア、゚クアドル、ベネズ゚ラではメスティヌ゜が最倧の゚スニック・グルヌプである。スリナムはアゞア人が最倧の唯䞀の囜である。フランス領ギアナではクレオヌルが最倧の゚スニック・グルヌプだが、ガむアナ、ベネズ゚ラ、スリナム、コロンビア、ペルヌ、゚クアドルでもたた倧きな人皮集団である。ブラゞルは南アメリカで最も倚様な人皮構成の囜であり、倚くの黒人、癜人、ムラヌトず、泚目されるべき数のアゞア人、アメリカむンディアンの䜏人を抱えおいる。
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超倧陞
超倧陞(ちょうたいりく)は、地球衚面䞊においお倧陞ずみなされる陞塊を1぀以䞊含む非垞に広倧な陞のこずをいう。 䞀般に珟圚の倧陞のうちの1぀以䞊を含む陞塊を指すが、どのような陞塊を倧陞や亜倧陞ずするかの定矩に曖昧さがあるため、超倧陞の定矩も曖昧である。 珟圚の超倧陞は次の二぀である。 䞀般に超倧陞ずいう甚語は、珟圚存圚する倧陞から構成される広倧な陞地を参照するために䜿甚されおいる。そのような広倧な陞地は、倧陞移動説によるず、玄4億幎から5億幎ごずに圢成、あるいは砎壊されるこずになる。 超倧陞は地球内郚からの熱の流れを閉鎖するため、䞋局のアセノスフェア(岩流圏)を過熱させる。結局、䞊局のプレヌトを成すリ゜スフェア(岩石圏)は䞊向きに抌されお割れおゆく。マグマが䞊方ぞわき出お、超倧陞の砎片が別々の方向ぞ抌されるこずになる。 しかし、分裂した倧陞片はしばしば再び結合する。他の堎所で分裂しお反察方向に向かっおきた別の倧陞片ず衝突するこずもあるし、そうでなくずも地球衚面は球面であるので、反察方向に分裂した砎片同士はいずれどこかで出䌚う可胜性が高い。こうしお、超倧陞が再圢成される。 再圢成された超倧陞はしばらくするずたた分裂を始め、以䞊を繰り返す。これをりィル゜ン・サむクルず呌ぶ。 超倧陞 分裂した超倧陞 叀地磁気を䜿った研究(叀地磁気孊)により、過去の倧陞移動の様子は6億幎ほど前たで詳现に分かっおいる。たた、それ以前に぀いおも倧たかな倧陞移動の様子が掚定され、過去に䜕床か超倧陞が圢成されおいた。珟圚は、超倧陞パンゲアが分裂・四散しお、再び次の超倧陞の圢成に向けたずたり始めた時点であるず考えられおいる。 倧陞は珟圚も移動を続けおおり、過去に呚期的に超倧陞が圢成されおきたこずから、数億幎埌には再び超倧陞が出珟するず予枬されおいる。ただし、それがどのように圢成されるかに぀いおは諞説ある。
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8,671
ナヌクリッド空間
ナヌクリッド空間(ナヌクリッドくうかん、英: Euclidean space)ずは、数孊における抂念の1぀で、゚りクレむデス(ナヌクリッド)が研究したような幟䜕孊(ナヌクリッド幟䜕孊)の堎ずなる平面や空間、およびその高次元ぞの䞀般化である。゚りクレむデスが研究した平面や空間はそれぞれ、2次元ナヌクリッド空間、3次元ナヌクリッド空間に圓たり、これらは通垞、ナヌクリッド平面、ナヌクリッド空間などずも呌ばれる。「ナヌクリッド的」ずいう修食蟞は、これらの空間が非ナヌクリッド幟䜕やアむンシュタむンの盞察性理論に出おくるような曲がった空間ではないこずを瀺唆しおいる。 叀兞的なギリシャ数孊では、ナヌクリッド平面や(䞉次元)ナヌクリッド空間は所定の公準によっお定矩され、そこからほかの性質が定理ずしお挔繹されるものであった。珟代数孊では、デカルト座暙ず解析幟䜕孊の考え方にしたがっおナヌクリッド空間を定矩するほうが普通である。そうすれば、幟䜕孊の問題に代数孊や解析孊の道具を持ち蟌んで調べるこずができるようになるし、䞉次元以䞊のナヌクリッド空間ぞの䞀般化も容易になるずいった利点が生たれる。 珟代的な芳点では、ナヌクリッド空間は各次元に本質的に䞀぀だけ存圚するず考えられる。たずえば䞀次元なら実数盎線、二次元ならデカルト平面、より高次の堎合は実数の組を座暙にも぀実座暙空間である。぀たり、ナヌクリッド空間の「点」は実数からなる組であり、二点間の距離は二点間の距離の公匏に埓うものずしお定たる。n-次元ナヌクリッド空間は、(暙準的なモデルを䞎えるものずいう意味で)しばしば R ずかかれるが、(䜙分な構造を想起させない)ナヌクリッド空間固有の性質を備えたものずいうこずを匷調する意味で E ず曞かれるこずもある。ふ぀う、ナヌクリッド空間ずいえば有限次元であるものをいう。 ナヌクリッド平面を考える䞀぀の方法は、(距離や角床ずいったような蚀葉で衚される)ある皮の関係を満足する点集合ず芋なすこずである。䟋えば、平面䞊には二皮類の基本操䜜が存圚する。䞀぀は平行移動で、これは平面䞊の各点が同じ方向ぞ同じ距離だけ動くずいう平面のずらし操䜜である。いた䞀぀は平面䞊の決たった点に関する回転で、これは平面䞊の各点が決められた点のたわりに䞀貫しお同じ角床だけ曲がるずいう操䜜である。ナヌクリッド幟䜕孊の基本的教矩の䞀぀ずしお、二぀の図圢(぀たり点集合の郚分集合)が等䟡なもの(合同)であるずは、平行移動ず回転および鏡映の有限個の組合せ(ナヌクリッドの運動矀)で䞀方を他方に写すこずができるこずをいう。 これらのこずを数孊的にきちんず述べるには、距離や角床、平行移動や回転ずいった抂念をきちんず定矩せねばならない。暙準的な方法は、ナヌクリッド平面を内積を備えた二次元実ベクトル空間ずしお定矩するこずである。そうしお ずいったようなこずを考えるのである。こうやっおナヌクリッド平面が蚘述されおしたえば、これらの抂念を勝手な次元ぞ拡匵するこずは実に簡単である。次元が䞊がっおも倧郚分の語圙や公匏は難しくなったりはしない(ただし、高次元の回転に぀いおはやや泚意が必芁である。たた高次元空間の可芖化は、熟達した数孊者でさえ難しい)。 最埌に気を付けるべき点は、ナヌクリッド空間は技術的にはベクトル空間ではなくお、(ベクトル空間が䜜甚する)アフィン空間ず考えなければいけないこずである。盎芳的には、この差異はナヌクリッド空間には原点の䜍眮を暙準的に決めるこずはできない(平行移動でどこぞでも動かせるため)こずをいうものである。倧抵の堎合においおは、この差異を無芖しおもそれほど問題を生じるこずはないであろう。 非負敎数 n に察しお n-次元ナヌクリッド空間 E ずは、空でない集合 S ず n-次元実内積空間 V の組 (S, V) で、次をみたすものをいう: ある非負敎数 n に察する n-次元ナヌクリッド空間であるものを単にナヌクリッド空間ず呌ぶ。 数空間 R の各点 x, y に察しお x y → := y − x {\displaystyle {\overrightarrow {xy}}:=y-x} ず定矩すれば、R ず(暙準内積を持った内積空間ずしおの)R の組 (R, R) はナヌクリッド空間の䞀぀の䟋であり、これを n-次元の暙準的ナヌクリッド空間ず呌ぶ(蚘号の濫甚で、これをやはり単に R で衚す)。 (S, V) を n-次元ナヌクリッド空間ずするずき、S の点 O ず V の順序付けられた基底 B ≔ (e1, e2, ..., en) の組 (O; B) を (S, V) の座暙系ず呌び、点 O を座暙系の原点ず呌ぶ。特に (e1, e2, ..., en) が V の正芏盎亀基底であるような座暙系を盎亀座暙系ず呌ぶ。(S, V) の座暙系 (O; B) が䞀぀固定されるず、任意の P ∈ S に察しお、ただ䞀぀の x = (x1, x2, ..., xn) ∈ R が存圚しお、 が成り立぀。そこで、この x ∈ R を座暙系 (O; B) における P の座暙ず呌ぶ。 いったん盎亀座暙系が固定されるず、n-次元ナヌクリッド空間 (S, V) は n-次元の暙準的ナヌクリッド空間 (R, R) ず同䞀芖するこずができるので、ナヌクリッド空間ずいったら暙準的ナヌクリッド空間のこずを指す堎合も倚い。 なお、n-次元ナヌクリッド空間の定矩においお、「実内積空間」を「実ベクトル空間」に眮き換えお埗られる空間を n-次元アフィン空間ず呌ぶ。ナヌクリッド空間は蚈量(内積)をもった特別なアフィン空間であるずいうこずができる。蚈量をもたないアフィン空間においおは、二点間の距離や線分のなす角などは定矩されないが、ナヌクリッド空間においおはこれらの抂念を以䞋に述べる仕方で定矩するこずができる。 (S, V) を n次元ナヌクリッド空間ずする。二倉数の凜数 d: S × S → R を によっお定矩すればこの d は距離関数の条件を満たし、d(P, Q) を P ず Q の間の距離ず呌ぶ。したがっお (S, d) は距離空間である。堎合によっおは、この距離空間ず同盞な䜍盞空間もナヌクリッド空間ず呌び、E などで衚すこずもある。(O; B) が盎亀座暙系である堎合、この座暙系における S の点 P および Q の座暙をそれぞれ x = (x1, x2, ..., xn) および y = (y1, y2, ..., yn) ずすれば、P ず Q ずの距離は ず衚すこずができる。 (S, V) をナヌクリッド空間ずする。S の異なる2点 P, Q に察しお、S の郚分集合 を P ず Q を端点ずする線分、あるいは線分 PQ などず呌ぶ。線分 PQ の長さ(あるいは倧きさ)ずは距離 d(P, Q) のこずをいう。 たた、シュワルツの䞍等匏より、S の異なる3点 P, Q, R に察しお、 を満たす Ξ ∈ [0, π] がただ䞀぀存圚するので、これを線分 PQ ず線分 PR のなす角 ∠QPR ず蚀う。 以䞊のように定矩された盎線、平面、線分、角床などの抂念を甚いるこずによっお、ナヌクリッド空間の䞭でナヌクリッド幟䜕孊を展開するこずができる。 (S, V) を n-次元ナヌクリッド空間ずする。S の郚分集合 T が、S のある点 P ず V のある r-次元郚分空間 W を甚いお(r ≀ n)、 ず衚されるずき、T は (S, V) の r-次元郚分空間であるずいう。特に、1次元郚分空間を盎線(アフィン郚分盎線)、2次元郚分空間を平面(アフィン郚分平面)ず呌ぶ。(S, V) の郚分空間 T に察しお、䞊のような P ∈ S は䞀぀には決たらないが、W は䞀意的に定たる。そこで、この W を T に付随する内積空間ず呌ぶ。 ナヌクリッド空間は距離空間であるから、距離から誘導される自然な䜍盞を持った䜍盞空間でもある。E 䞊の距離䜍盞は、ナヌクリッド䜍盞あるいは通垞の䜍盞ず呌ばれる。すなわち、ナヌクリッド空間の郚分集合が開集合であるための必芁十分条件は、その郚分集合に属する各点に察しお、それを䞭心ずする適圓な倧きさの開球䜓をその郚分集合が必ず含むこずである。ナヌクリッド䜍盞は、R を(暙準䜍盞を備えた)実数盎線 R の n 個のコピヌの盎積ず芋たずきの盎積䜍盞ず同倀であるこずが確かめられる。 ナヌクリッド空間の䜍盞的性質に぀いお、「E の郚分集合は、それがある開集合に同盞ずなるものならばそれ自身が開集合である」ずいうブラりりェルの領域の䞍倉性定理(英語版)が知られおいる。たたその垰結ずしお、n ≠ m ならば E ず E は互いに同盞でないこずが瀺せる。これは明癜な事実のようであるが、それでいお蚌明するずなるずそれは容易ではない。 n 次元ナヌクリッド空間は n 次元䜍盞倚様䜓の原型的な䟋であり、可埮分倚様䜓の䟋ずもなっおいる。n ≠ 4 ならば n 次元ナヌクリッド空間に同盞な䜍盞倚様䜓は、可埮分構造たで蟌めお同盞(埮分同盞)である。しかし n = 4 のずきはそうならないずいう驚くべき事実が、1982幎にサむモン・ドナルド゜ンによっお蚌明された。この反䟋ずなる(すなわち 4 次元ナヌクリッド空間ず同盞だが埮分同盞でない)倚様䜓は異皮4次元空間 (exotic 4-spaces) ず呌ばれる。 珟代数孊においお、ナヌクリッド空間はほかのより耇雑な幟䜕孊的察象の原型を成しおいる。䟋えば、可埮分倚様䜓は局所的にナヌクリッド空間に埮分同盞であるようなハりスドルフ䜍盞空間である。埮分同盞写像は距離や角床ずいったものは考慮しないので、ナヌクリッド幟䜕孊で重芁な圹割であったこれらの抂念を可分倚様䜓の䞊で考えるこずは䞀般にはできない。それでも、倚様䜓の接空間䞊に滑らかに倉化する内積を入れるこずはできお、そのようなものをリヌマン倚様䜓ず呌ぶ。衚珟を倉えれば、リヌマン倚様䜓はナヌクリッド空間を倉圢し、貌り合わせお構成される空間である。そのような空間では距離や角床の抂念を取り扱うこずができるが、その振る舞いは曲率を䌎う非ナヌクリッド的なものずなる。最も単玔なリヌマン倚様䜓は、䞀定の内積を備えた R で、これは本質的に n-次元ナヌクリッド空間そのものず同䞀芖される。 内積が負の倀をずりうるものずしお埗られるナヌクリッド空間の類䌌物は擬ナヌクリッド空間(英語版)ず呌ばれ、そのような空間から構成した滑らかな倚様䜓は擬リヌマン倚様䜓ず呌ばれる。これらの空間の最もよく知られた応甚はおそらく盞察論で、そこでは質料を持たない空でない時空はミンコフスキヌ空間ず呌ばれる平坊擬ナヌクリッド空間によっお衚される。たた、質料を持぀時空は擬ナヌクリッドでない擬リヌマン倚様䜓を成し、重力はその倚様䜓の曲率に察応する。 盞察論の䞻題ずしおの我々の宇宙はナヌクリッド的でない。これは倩文孊ず宇宙論の理論的考察においお重芁であり、たた党地球枬䜍システムや航空管制などの実務的な問題でも重芁になる。それでも、宇宙のナヌクリッド的なモデルは、倚くの実甚䞊の問題においお十分な正確さを持っお解決するために利甚するこずができる。
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ロヌラシア倧陞
ロヌラシア倧陞(ロヌラシアたいりく、Laurasia)は、プレヌトテクトニクス理論で倪叀に存圚したずされる超倧陞である。1937幎に南アフリカの地質孊者アレクサンダヌ・デュ・トワによっお提瀺された。ロヌレンシア倧陞ずナヌラシア倧陞のかばん語から名付けられおいる。 超倧陞パンゲアが分裂し、テチス海を挟んでロヌラシア倧陞ずゎンドワナ倧陞が生成された。ロヌラシア倧陞は、さらに分裂しおいき、ナヌラシア倧陞ず北アメリカ倧陞が圢成されおいく。ロヌラシア倧陞は、か぀おパンゲア倧陞を圢成したロヌレンシア倧陞、バルティカ倧陞、シベリア倧陞、カザフスタニア及びシナ地塊から成る。
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8,677
阿蘇郡
阿蘇郡(あそぐん)は、熊本県(肥埌囜)の郡である。 人口32,956人、面積703.25km2、人口密床46.9人/km2。(2023幎7月1日、掚蚈人口) 以䞋の3町3村を含む。 1879幎(明治12幎)に行政区画ずしお発足した圓時の郡域は、䞋蚘の区域にあたる。 『筑玫颚土蚘』に閌宗県(あそ の あがた)ずいう県(あがた)ずしお蚘される。 たた、『日本曞玀』には阿蘇囜(あそ の くに)ずいう囜が蚘されおいる。「囜造本玀」によれば、阿蘇囜を支配したのは阿蘇囜造であるずいう。阿蘇氏はその子孫ずされる。 『日本曞玀』には阿蘇囜造の祖先でもある阿蘇郜圊(あそ぀ひこ)・阿蘇郜媛(あそ぀ひめ)の2神が登堎し、この2神がいたこずが「阿蘇」の地名の由来であるず蚘される。この2神は珟圚の阿蘇垂にある阿蘇神瀟の祭神ずなっおいる。 『延喜匏』神名垳に蚘される郡内の匏内瀟。
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8,678
712幎
712幎(712 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、閏幎。
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8,679
南アメリカ倧陞
南アメリカ倧陞(みなみアメリカたいりく)は、アメリカ倧陞のうち、パナマ地峡より南偎の郚分である。東は倧西掋、西は倪平掋に面しおいお、北は北アメリカ倧陞ずパナマ地峡で接する。南米倧陞(なんべいたいりく)ずも呌ばれる。 ゎンドワナ倧陞が分裂しお生成した。 箄3000䞇幎前に南極倧陞ず分離しおから、玄200䞇幎前にパナマ地峡ができるたで、孀立倧陞であったため、独特の動怍物が進化し、固有皮が倚い。たた、ギアナ高地やアマゟンなどの熱垯雚林も、皮の倚様性に倧きく貢献しおいる。 生物地理区的には、䞭倮アメリカ南郚ずずもに新熱垯区に区分される。
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8,681
北アメリカ倧陞
北アメリカ倧陞(きたアメリカたいりく、North American continent)、通称北米倧陞(ほくべいたいりく)は、珟圚においおは南北アメリカ倧陞のうち、パナマ地峡より北偎の郚分のこず。か぀おはロヌラシア倧陞から分かれ、ゎンドワナ倧陞から分かれた南アメリカ倧陞ずは別々に存圚しおいた倧陞であった。面積は玄2400䞇平方キロメヌトルである。 アメリカ合衆囜、カナダ、メキシコ、グアテマラ、ベリヌズ、゚ルサルバドル、ホンゞュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマが䜍眮する。地理的にも実質的にも広矩の北アメリカ地方の倧半を占めるずいっおよい。これはカリブ海地域においおは倧囜であるキュヌバを北アメリカ倧陞で最も囜内総生産が高い囜であるアメリカ合衆囜ず比范するず人口が玄26分の1、面積に至っおは玄87分の1であり、たたアメリカ合衆囜の囜内総生産はカリブ海地域で最倧であるプ゚ルトリコのそれの玄169倍である。 なお、北アメリカ地方ず称した堎合にはメキシコ以南を䞭倮アメリカ地方ずしお区別するこずがあるのに察し、「北アメリカ倧陞」ずいう語にはそのような甚法は存圚しない。 先䜏民は倧航海時代以前においおはモンゎロむドが䞭心であったが、クリストファヌ・コロンブスによる倧陞の発芋以降、ペヌロッパ人が北アメリカ倧陞に到達したこずから、圌らずの戊闘や持ち蟌たれた病原菌によっお、先䜏民の人口は劇的に枛少した。珟圚は、コヌカ゜むド、ネグロむドなどを含めた倚皮倚様な人皮の人々が䜏んでいる。
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8,683
め〜め〜る〜
『め〜め〜る〜』は、あゆみゆいによる日本の少女挫画䜜品。単行本はKCなかよし(講談瀟)から党1巻。䜜者の2000幎代の䜜品ずしおは珍しく原䜜がない。 講談瀟発行の『なかよし』2002幎8月号増刊、『な぀やすみランド』に掲茉された読み切り䜜品。 送信したはずのメヌルが戻っおきたずき、芋なれない゜フトを起動したこずから䞻人公の琎子が「コトハノクニ」に入っおしたうずいう物語。 単行本には、「デビピッピ」・「手のなかの宇宙」・「ヒトメボレ前線」も䜵録されおいる。
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8,685
ロシア語
ロシア語(ロシアご、русскОй язык、[ˈruskjɪj jɪˈzÉšk] ( 音声ファむル))は、むンド・ペヌロッパ語族のスラノ語掟東スラノ語矀に属する蚀語。露語(ろご)ずも略され、ロシア連邊の公甚語。ロシア連邊の囜語衚蚘には、キリル文字を䜿甚するこずが必芁である。 話し蚀葉ず文語ずしお、ロシア語は(りクラむナ語ずベラルヌシ語ずずもに)叀いロシア語から発展した。ロシア語の曞き方は、叀代スラノ語のキリル文字に基づいおいる。近瞁の蚀語にりクラむナ語ずベラルヌシ語がある。 ロシア語はペヌロッパで最も母語話者が倚い蚀語であり、母語話者数では䞖界で8番目に倚く、第二蚀語の話者数も含めるず䞖界で4番目に倚い。囜際連合においおは、英語、フランス語、䞭囜語、スペむン語、アラビア語ず䞊ぶ、6぀の公甚語の1぀である。 ロシア語の起源に぀いおは諞説あるが、東スラノ人が䜿っおいた叀東スラノ語(10侖简 - 15侖简)から発展したずいう説が最もよく知られおいる。13䞖玀にキ゚フ倧公囜が厩壊した埌、ルヌシの地はモンゎル垝囜に支配(タタヌルのくびき)されおおり、珟代ロシア語にも財政や金融に関わる単語を䞭心に、タタヌル語などのテュルク諞語やモンゎル語の圱響が残っおいる。その埌、北東ルヌシの蟺境(珟圚のペヌロッパ・ロシア)でモスクワ倧公囜が成立し、この囜の公甚語がロシア語ずしお独自に発展しおいった。 ロシア垝囜の時代には、1708幎にピョヌトル1䞖によっおアルファベットが単玔化されたのを皮切りに、ロシア語の改革が盛んずなった。18䞖玀埌半にはミハむル・ロモノヌ゜フが初めおロシア語の文法曞を著し、暙準語の圢成に倧きく寄䞎した。19䞖玀初頭にはアレクサンドル・プヌシキンによっお近代的な文語が確立した。たた、宮廷は西欧諞囜を暡範ずしお近代化を進めたこずから、倧量の専門語圙がオランダ語、フランス語、ドむツ語などから取り入れられた。その䞀方で、圓時の䞊流階玚はフランス語を日垞的に䜿甚しおおり、19䞖玀の小説(レフ・トルストむの『戊争ず平和』など)はフランス語を亀えお曞かれた䜜品が倚い。 ゜ビ゚ト連邊ではロシア語が事実䞊の公甚語であり、ロシア・゜ビ゚ト連邊瀟䌚䞻矩共和囜を陀く゜ビ゚ト連邊構成共和囜においお共通語ずしお機胜しおいたが、公匏には公甚語は存圚しなかった。テュルク系のチュノァシ人を祖先に持぀レヌニンがオヌストロ・マルキシズムやカりツキヌの圱響のもず、1914幎の論文『匷制的な囜家語は必芁か?』においお囜家語の制定を批刀した。たた、自身も少数民族グルゞア人の出自を持぀スタヌリンも民族問題の専門家ずしお民族語奚励政策を採甚した結果、゜連はその厩壊にいたるたで、ロシア語を正匏な公甚語の地䜍に぀けるこずは぀いになかった(ちなみに、オットヌ・バりアヌから借甚した「圢匏は民族的、内容は瀟䌚䞻矩的な文化の建蚭」ずいうスタヌリンのテヌれはたず蚀語問題にた぀わる1925幎の挔説『母語による教育』においお珟れた)。それゆえ、ロシア語が公的に囜家語化したのはロシア連邊成立埌である。 1918幎には、アレクセむ・シャフマトフ(ロシア語版)が準備しおいたアルファベット改革案がボリシェノィキによっお実行に移され、珟圚のロシア語の正曞法が成立した。ただし、Ёはこの時点でただ正匏なアルファベットずしお認められおおらず、正匏に組み入れられたのは1942幎のこずである。なお、1964幎にも゜連科孊アカデミヌによっお正曞法の改革案が䜜られたが、こちらは実斜されなかった。 1991幎末の゜ビ゚ト連邊の厩壊で、゜連を構成しおいた各共和囜はそれぞれ独立し、それたでロシア語ずの䜵甚ずいう圢を採っおいたそれぞれの民族語が第䞀の公甚語ぞず昇栌したが、その埌の蚀語状況に関しおは様々である。 バルト䞉囜ず呌ばれる゚ストニア・ラトビア・リトアニアでは、゜連からの独立以降急速に各民族語(゚ストニア語・ラトビア語・リトアニア語)が䜿甚される機䌚が増えおいる。もちろん゜連厩壊埌30幎皋しか経過しおおらず、たたロシア系䜏民が倚い地域などではロシア語が今でも䜿われるが、゜連時代ず比べるずロシア語はそれほど䜿われなくなっおいるず蚀える。特にこの3カ囜が2004幎にEUに加盟しおからは、英語やドむツ語がより広く孊ばれるようになっおいる。ただし、゜連時代埌期にロシア語人口がラトビア語人口を逆転するのではないかず蚀われたラトビアでは、独立回埩埌に制定した囜籍法で囜籍取埗芁件にラトビア語の習埗を矩務付けたずいう経緯がある。これによっお倚くのロシア系䜏民をロシアぞ移䜏させる事に成功したが、囜籍を䞎えられない残留ロシア人の暩利が阻害されおいるずするロシア政府からの抗議を受け、さらに欧州委員䌚からもこの蚀語芏定が垂民の平等を定める欧州憲法に違反しおいるずいう指摘を受けた。2018幎4月には、教育法が改正され、ロシア系䜏民が通う孊校であっおも、小孊校は50%以䞊、䞭孊校は80%、高校は100%の科目をラトビア語で教育するこずが矩務付けられた。 モルドバにおいおは、ロシア語が囜内共通語ず法定されおきたが、2018幎6月に倱効が確認された。 たた、ロシア圱響圏からの離脱を暡玢するりクラむナやゞョヌゞアでも、ロシア語ではなくりクラむナ語やグルゞア語がより広範に䜿われおいる。りクラむナでは、西郚を䞭心に埓来よりほずんどりクラむナ語のみが䜿甚されおいる地域がある䞀方で、りクラむナ語ずロシア語䞡方が䜿われおいる地域もあり、たた東郚やクリミア半島ではロシア語の䜿甚者が倧勢である地域もあり、地域によっおは将来的にもロシア語は圓分䜿われ続けるず掚定されおいる。䞀方で、郜垂郚を䞭心に䌝統的にりクラむナ語ずロシア語の混亀が起こっおいたが、゜連の厩壊以降、それたでロシア語が優勢であった地域を䞭心にりクラむナ語にロシア語の芁玠が混じった「スヌルゞク(混血)」ず呌ばれる混亀蚀語が広たりを芋せおいる。珟圚でも、りクラむナ西郚を陀く広範囲でロシア語は䜿甚、理解されおおり、ロシア語をりクラむナ語に次ぐ第二公甚語に加える動きもあるなど、今たでのロシア語排陀の動きから転換点を迎えようずしおいる。 ゞョヌゞアもたた長幎ロシア語による支配を受けおきた囜であった。ゞョヌゞア政府はロシア語教育を廃止し、ロシア語読みに基づいた囜名である日本語の「グルゞア」を英語読みの「ゞョヌゞア」に倉曎するこずを芁請しおおり(グルゞア語名では「サカルトノェロ」)、日本政府も承諟しおいる。たた、ロシアに倚くのゞョヌゞア人が䜏んでいるこずなどからロシア語は今でもよく䜿われおいる。 それ以倖の地域に関しおは、今でもロシア語が幅広く䜿われ続けおいる。ベラルヌシやカザフスタン・キルギス・りズベキスタン・トルクメニスタンなどでは非ロシア人でもロシア語しか喋れない人も倚く、たた倚民族が入り混じっお生掻する䞭倮アゞア諞囜では、ロシア語が民族を超えた共通語ずしお䜿われおいる。カフカヌス地域、及びモルドバでも、珟地人同士の日垞䌚話には珟地語が甚いられるこずが増えおきたものの、ロシア語で䌚話する人々は少なくない。なお、ロシアずの統合に積極的なアレクサンドル・ルカシェンコ倧統領の独裁䜓制が続くベラルヌシでは、ベラルヌシ語ずロシア語が公甚語に指定されおいるが、隣囜りクラむナずは逆にロシア語䜿甚が奚励され、本来の民族語であるベラルヌシ語が軜芖される傟向にある。 ポヌランドやブルガリアなど旧共産圏諞囜では、共産䞻矩䜓制ではロシア語が広く孊習されおいたが、民䞻化埌は英語やドむツ語(歎史的にはチェコやハンガリヌなど、オヌストリア垝囜の支配䞋にあった囜も少なくない)など西欧の蚀語に抌されお、ロシア語孊習は䞋火になった。たたバルト䞉囜や東偎諞囜はハンガリヌ動乱やプラハの春などで゜連軍による民䞻化匟圧などがあったために、か぀お第䞀倖囜語だったロシア語を䜿う事も拒んでいる者もいる。 䞀方、りラゞヌミル・プヌチン政暩で経枈の立お盎しに成功したロシアがBRICsず呌ばれる経枈成長地域の䞀぀に加わり、倩然資源を栞にした諞倖囜ずの経枈関係が再び拡倧するず共に、ロシア語の需芁は再び高たり぀぀ある。バルト䞉囜などでもロシア語に察するマむナスむメヌゞも゜連時代を経隓しおいない若い䞖代を䞭心に埐々に薄れおきおおり、ロシア語は英語やドむツ語などず共に、ビゞネスなどで必芁な蚀語ずずらえる人も増えおきおいる。たた、宇宙開発においおは囜際宇宙ステヌションの公甚語になるなど、英語ず䞊んで必芁䞍可欠な蚀語の1぀ずなっおいる。 ロシア囜内では急速な資本䞻矩化や新技術の導入に䌎い、今たで存圚しなかった抂念や甚語が倧量に導入された。これにロシア語の造語胜力が远い぀かず、特に英語を䞭心ずした倖来語がそのたたロシア語に導入される䟋が倚くなっおいる。 18䞖玀には、すでに「北槎聞略」ずいう曞物があり、「倧黒屋光倪倫」の口述による、キリル文字、䞀郚のロシア語の単語、文などの蚘茉も芋られる。本栌的なロシア語研究が始たるのは、1804幎から1811幎にロシア䜿節からもたらされた公文曞の翻蚳が必芁ずなった江戞幕府の呜により、蘭語通詞の銬堎貞由(巊十郎)らがゎロヌニン事件によっお束前藩に幜閉されおいたゎロヌニンから孊んだのが最初。 1868幎に成立した明治政府は文明開化政策の芏範を欧米諞囜に取り、むギリス・ドむツ・フランス・アメリカなどから倚くの技術や思想を導入した。西欧よりも産業発展が遅れおいたロシアはその察象から倖れたため、通垞の孊校教育での採甚では英語・ドむツ語・フランス語に次ぐものずしお扱われた。その䞭で東京倖囜語孊校では1873幎の第䞀次創蚭から魯(露)語孊科が蚭眮され、東京商業孊校ぞの統合を経お1899幎に再蚭眮されるず二葉亭四迷が露語孊科の教授ずしお就任しお、同校はロシア語やロシア文孊の研究拠点ずなっおいった。たた、開枯地ずしおロシア領事通が眮かれた凜通などから垃教が広がった日本ハリストス正教䌚もキリスト教(正教䌚)の聖職者育成ずずもにロシア語教育が重芖された。ゎロヌニンの『日本幜囚蚘』で日本に興味を持ったニコラむ(むノァン・カサヌトキン)が日本倧䞻教ずしおロシアから掟遣埌の1891幎に建蚭された東京埩掻倧聖堂(ニコラむ堂)に蚭けられた正教神孊校では昇曙倢が掻躍しお、自身を含んだロシア文孊研究者の育成に貢献した。 䞀方、南䞋政策をずるロシア垝囜は倧日本垝囜にずっお仮想敵囜の筆頭にあり、実際に1904幎からは日露戊争が勃発、1905幎からは暺倪の北緯50床線で陞䞊囜境で接するようになったため、日本軍にずっおロシア語を習埗する必芁は䞀貫しお高く、陞軍の教育機関である陞軍幌幎孊校や陞軍倧孊校、海軍の海軍倧孊校ではロシア語が科目に含たれた。陞軍の東郷正延や海軍の井桁貞敏らは第二次倧戊埌のロシア語教育でも倧きな圹割を担った。 1920幎には早皲田倧孊文孊郚に露文孊科が蚭眮され、1921幎蚭立の倧阪倖囜語孊校や1925幎蚭立の倩理倖囜語孊校でも圓初からロシア語の孊科が眮かれた。1917幎にロシア革呜が始たり、゜ビ゚ト連邊が成立、日本ずは新たな緊匵関係が生たれた。゜連の囜家むデオロギヌである瀟䌚䞻矩や共産䞻矩は倩皇制を奉じる日本では危険思想ずみなされ、その事実䞊の公甚語であるロシア語孊習者は「アカ」などの蔑称で呌ばれるこずが倚く、1937幎には早皲田倧孊の露文孊科が閉鎖された。たた正教䌚はロシア本囜では゜連政府による匟圧、日本では゜連(ロシア)ぞの利敵者ずみなされる偏芋ずいう二重の苊境に立ち、その圱響力ずずもにロシア語教育ぞの䜙力も枛退した。䞀方、日本が勢力を䌞ばした満州では実務面でもロシア語教育の必芁性が高く、1920幎にハルピン垂に蚭眮された日露協䌚孊校は埌にハルピン孊院ずなり、1940幎からは満州囜立倧孊ずなったが、1945幎8月の゜連察日参戊ずそれに続く第二次䞖界倧戊での日本の敗北で消滅した。赀軍(゜ビ゚ト連邊軍)に降䌏した日本軍の将兵はシベリア抑留の察象ずなっお゜連囜内の収容所に連行されお、赀軍が進駐した満州や朝鮮半島北郚、゜連が日本からの領土線入を宣蚀したサハリン南郚(南暺倪)や千島列島南郚では゜連軍人や䞀般囜民ず混䜏状態になった日本人が日垞的にロシア語を䜿う状況ずなったが、民間人は䞀郚の残留者を陀いお1948幎たでに日本ぞ垰囜し、シベリア抑留者の送還も1956幎に終了しお、この状態は短期間で終わった。 1946幎に早皲田倧孊の露文孊科は再開され、1949幎には゜連ずの友奜促進を目指す民間団䜓ずしお(旧)日゜芪善協䌚が蚭立されおロシア語教宀が開催されるなど、戊埌のロシア語教育は東西冷戊の圱響も受けながら埐々に拡倧された。1956幎10月に日゜共同宣蚀で䞡囜間の囜亀回埩が決たるず同幎11月からNHKラゞオでロシア語講座が開講され、1957幎には同幎に日゜芪善協䌚から改称した日゜協䌚系の日゜孊院によっおロシア語胜力怜定詊隓が開始された。同幎はスプヌトニク1号による史䞊初の宇宙飛行も行われ(スプヌトニク・ショック)、゜連の高い自然科孊力を背景にした理工系教員からの芁望を受けお1962幎には東京倧孊の教逊孊郚に圚籍する1幎生ず2幎生の䞀郚を察象にロシア語が第二倖囜語に加えられ、゜連政府からの独立性を維持した正教䌚系のニコラむ孊院を含め、高等・専門教育ではロシア語教育の機䌚が増えおいった。 1960幎代たでは䞊蚘のようにロシア語の研究論文を読む必芁がある自然科孊系の研究者、共産䞻矩を支持する人々を䞭心にロシア文化ぞの関心は比范的高かった。しかしながら、レオニヌド・ブレゞネフ䜓制䞋での゜連文化の硬盎化や科孊技術の停滞、䞭゜察立などにも圱響された日本共産党や日本瀟䌚党などの日本の巊掟(革新)政党ず゜連共産党の関係の混乱などを背景に゜連(ロシア)ぞの関心は䜎䞋した。1985幎に゜連で始たったペレストロむカによっお経枈亀流や文化的関心は高たり、ロシア語孊習者も䞀時的に増加したが、1991幎の゜連厩壊前埌の経枈混乱はその熱を冷たし、1996幎には19䞖玀からの䌝統を持぀ニコラむ孊院が閉校に远い蟌たれた。 その埌は日゜孊院が改称しおロシア語胜力怜定詊隓の䞻催を続ける東京ロシア語孊院や、こちらも改称しながら同孊院ずの友奜関係を維持する日本ナヌラシア協䌚の独自講座、ロシア連邊教育科孊省の認定詊隓ずしお日本察倖文化協䌚が窓口ずなっお行われおいるロシア語怜定詊隓(ТРКИ)、各倧孊で続けられるロシア語・ロシア文孊関係の講座、それにNHKの語孊番組改革の䞭で2017幎からEテレで始たった「ロシアゎスキヌ」やラゞオ第2攟送の「たいにちロシア語」の攟送などで日本におけるロシア語教育が継続されおいる。しかしながら、攟送倧孊におけるロシア語講座開蚭が2007幎床限りで終了するなど、その退朮傟向は続いおいる。ただ、䌝統的にロシアが匷囜であるフィギュアスケヌトでは浅田真倮や矜生結匊などの日本遞手もロシア人指導者のコヌチを受けおきた事もあり、ここからロシア語ぞの関心を持぀䟋も芋られる。あるいは埌述するアニメ・挫画などのサブカルチャヌ分野の人気䜜品内でロシア語が䜿甚される䟋もあり、2020幎4月に京郜倖囜語倧孊がロシア語孊科を新蚭するなど、䞀定の状況倉化も芋られる。 ロシアずの亀流は北海道や日本海偎の䞀郚の地域を陀くず盛んではなく、貿易額で瀺される経枈的な぀ながりもロシアず同様の近隣諞囜である䞭囜や韓囜、あるいは倚くの面で緊密な関係を維持しおいるアメリカ合衆囜より薄い。そのため、日本(特に西日本)においおロシア語の重芁性は䜎い。英語や䞭囜語、朝鮮語に比べお語孊教材も恵たれおおらず、改蚂も進たない結果、内容が゜連時代のたたである教材も少なくない。 しかし、䞊蚘のように第二次䞖界倧戊埌も日本ず゜連は軍事的察立が続き、冷戊終結ず゜連厩壊埌も日ロ間では領土問題などでの察立が残ったほか、持船操業や囜際協力などでの実務的必芁もある。したがっお海䞊保安庁では第二倖囜語ずしお䞭囜語・朝鮮語ず䞊びロシア語が孊ばれおおり、自衛隊でも第二倖囜語ずしお孊ばれおいるほか、北海道の䞀郚の高校では地理的に近いずいうこずもありロシア語の授業が行われおいる。さらに皚内や根宀、王別や新千歳空枯ではロシア語衚蚘の看板が芋られるなど、隣囜ずしおのロシアの姿が実感できる。同様に、新期東枯を通じおの察ロ貿易の日本海偎拠点である新期垂でも日本語の他英語ずロシア語を䜵蚘した看板を芋るこずができる。新期垂ではこれ以倖にもロシア語スピヌチコンテストを行うなどしおいる。同じく察露貿易の倚い富山県䌏朚富山枯呚蟺でもロシア語衚蚘の看板が芋られ、新期県や富山県でもロシア語の授業を開講する高校がある。たた、2010幎代に入り「ガヌルズ&パンツァヌ」「ゎヌルデンカムむ」などロシア語の台詞が倚い挫画・アニメヌションの人気䜜品が制䜜され、ここからロシア語に興味を持った人が若者が生たれたずいう指摘もある。䞊蚘のNHKテレビロシア語講座「ロシアゎスキヌ」では2013幎から攟送が始たった攟送シリヌズで「ガヌルズ&パンツァヌ」に出挔したロシア出身の声優であるJenyaを起甚しおいる。 江戞時代たで遡る日ロ䞡囜間の政治亀枉、ロシア文孊や共産䞻矩思想の受容、宇宙工孊を䞭心ずした倚くの自然科孊分野における重芁性の存圚などの様々な理由から、今でも日本の倚くの倧孊の第二倖囜語でロシア語を孊ぶこずができるものの、日本人(特に西日本圚䜏者)でロシア語を孊ぶ人々は少ない。その䞭で、近畿地方(関西圏)における日本海偎の最重芁枯湟郜垂ずしお゜連時代から貿易拠点ずなっおいた舞鶎垂では北陞地方の各郜垂ず類䌌したロシア語ぞの接觊環境があり、その舞鶎垂がある京郜府では2020幎4月に京郜倖囜語倧孊がロシア語孊科を新蚭しおいる。 たた、2022幎3月31日 、ロシアによるりクラむナぞの軍事䟵攻を受け、倖務省はりクラむナ囜内の地名をロシア語からりクラむナ語に合わせた日本語衚蚘に倉曎するず発衚した。 このほかに、JR東日本の恵比寿駅でもロシア語の看板を撀去するずいうような事案が発生しおいる。 ロシア語の孊科がある䞻な倧孊は以䞋の通りである。このうち1994幎に蚭立されたロシア極東連邊総合倧孊凜通校は他校ずは違っお日本の教育制床の䞭では専修孊校ずしお扱われ、倖囜倧孊の日本校ずしお指定されおいる。䞀方、ロシアではりラゞオストクにある極東連邊倧孊の正匏な分校ずしお扱われ、本校ぞの留孊も含んだロシア語教育が重点的に行われおいる。 りクラむナ東郚や南郚ではロシア語が広く䜿われおいる。たた、りクラむナ語ずロシア語の瀟䌚方蚀が混じった口語の混合蚀語であるスルゞク(суржОк)も䜿われおいる。りクラむナでは゜連厩壊埌、蚀語問題がしばしば発生しおいる。2014幎にはロシア語話者の倚いクリミア共和囜ずセノァストポリ特別垂が独立を宣蚀し、それらのロシアぞの線入の宣蚀に至った(クリミア危機)。それず同時に東郚のドンバスでも玛争が発生し、䞀郚地域がドネツク人民共和囜、ルガンスク人民共和囜ずしお事実䞊独立した。2022幎にロシアによるりクラむナ䟵攻に発展し、同幎9月30日にロシアはドネツク・ルガンスクの䞡共和囜及びザポロヌゞェ州ずヘル゜ン州の䜵合を宣蚀した。 東郚や南郚ずは察称にロシア語話者が少ない西郚のリノィり州では、議䌚が2018幎9月18日、ロシア語による歌曲を公共の堎で流したり、曞籍を出版したりするこずを犁じる条䟋を可決した 。 ゜連厩壊埌、1994幎にルカシェンコが倧統領に遞出された翌幎の1995幎にロシア語にベラルヌシ語ず同じ地䜍が䞎える囜民投祚が行われ、可決された。珟圚、これたでにない芏暡でロシア語化が掚し進められおいる。たた、2019幎の囜勢調査では、総人口9530.8䞇人䞭ベラルヌシ語の母語話者は53.2%、察しおロシア語の母語話者は41.5%ずなっおいる。総人口の4分の3に圓たる郜垂䜏民の間ではベラルヌシ語の母語話者は44.1%、家庭内での䜿甚割合は11.3%に過ぎず、ロシア語化が倧きく進行しおいる事が瀺されおいる。 ロシアずの歎史的な関係から゚ストニア囜内にぱストニア語を解さないロシア語話者が䞀定数存圚する。゚ストニア政府は床重なる「蚀語法」の改蚂によっお圌らの排陀、あるいは瀟䌚統合を䌁図し、その甲斐あっお若幎局のロシア人(英語版)ぱストニア語胜力に向䞊を芋せた。しかし、゚ストニア語胜力を有さない䜏民は北東郚むダ=ノィル県を䞭心に未だ倚く存圚し、その瀟䌚統合は課題ずしお残されおいる。 ロシアずの囜境に近い北東郚むダ=ノィル県ナルノァではロシア語話者の割合が95パヌセント以䞊を占め、その他むダ=ノィル県にはロシア語話者が過半数を占める郜垂が散芋される。 ゚ストニアの蚀語法第11条には、「党定䜏者のうち過半数の䜿甚する蚀語が゚ストニア語でない地方自治䜓においおは、自治䜓内の実務蚀語ずしお〔䞭略〕゚ストニア語に加えお党定䜏者のうち過半数を圢成する少数民族の蚀語を䜿甚するこずができる」ずの条文があり、ロシア人が95パヌセント以䞊を占めるナルノァ垂議䌚は、これに基づいお議䌚でのロシア語䜿甚蚱可を申請しおいる。政府は、同垂における゚ストニア語の䜿甚が未だ保障されおいない、ずしお申請を华䞋したが、ロシア人の偎は、非合法状態にはありながら公的領域においおもロシア語の䜿甚を続けおいる。 たた、過去には銖郜のタリンでもロシア系䜏民ず゚ストニア政府ずの間で倧芏暡な暎動が起きた。 カザフスタンでは゜連から独立した埌も他の䞭倮アゞア諞囜に比べおロシア語が䜿甚されるこずが倚く、カザフ語は囜家語、ロシア語は実質的な共通語ずしおの地䜍を確立し、郜垂郚ではカザフ語よりもロシア語を埗意ずするカザフ人は少なくない。こうした状況䞋で、カザフスタン政府はカザフ語の振興を掲げおいお、カザフ語の急速な台頭ずロシア語の重芁性の䜎䞋に察しお抵抗を感じる人間がいる䞀方で、マスメディアにおけるロシア語の支配的な地䜍を疑問芖する意芋も投げかけられおいる。 だが、近幎ではロシア語離れの動きがあるず報じられおいる。具䜓的には、カザフ語の衚蚘がキリル文字からラテン文字ぞ移行する草案が提出された。しかし、この移行は囜民の間では䞀般に普及しおいない。 たた、カザフ語自䜓もロシア語からの借甚語が倚い。 りズベキスタンでは独立以降しばらくはりズベク語ずロシア語が公的な文曞においお䜿甚されおいたが、1995幎12月に憲法が改正され、りズベキスタン憲法第四条及び「囜家蚀語法」によりりズベク語が公甚語の地䜍を獲埗するこずになった。 りズベク・゜ビ゚ト瀟䌚䞻矩共和囜時代はりズベク語ずロシア語が公甚語の地䜍を獲埗しおいた。珟圚、りズベキスタンではりズベク語ずロシア語の他に、䞻にりズベク人以倖の少数民族によっおタゞク語やキルギス語、トルクメン語、カザフ語、カラカルパク語、タタヌル語、ノガむ語などのテュルク諞語の他、アれルバむゞャン語、りむグル語などの蚀語が話されおいる。地方ではりズベク語を母語ずする者の割合が高いが、銖郜タシュケントでは人口の玄半数がロシア語話者であり、ロシア語が日垞的に䜿甚されおいる。たた、倧孊ではりズベク語ずロシア語による講矩が行われおおり、研究掻動を行う者はほがロシア語環境で研究を行なっおいる。䞀方で、英語が通じるこずは少なく、2005幎時点の調査では、英語を話すこずができるず答えた人々の割合は9%にすぎず、ロシア語を話すこずができるず答えた人々の割合は䞭倮アゞア党䜓で80%を超えおいる。 珟圚、ロシア語は党人口の14.2%に圓たる人々が第䞀蚀語ずしお䜿甚しおおり、その他の人々もその倚くがロシア語を第二蚀語ずしお䜿甚しおいるなど異民族間の共通語・準公甚語的な地䜍にある。 タゞキスタンではロシア語は垝政ロシア~゜ビ゚ト連邊時代の共通語であったため、珟圚でも第二蚀語ずしお教育・ビゞネス等で倚く䜿甚されおいる。ただし、2009幎10月から囜語法が成立し、公文曞や看板、新聞はタゞク語を甚いるこずを矩務づけられた。 たた、゜ビ゚ト連邊の厩壊埌に起きたタゞキスタン内戊によるロシア人の倧量囜倖流出によりロシア語の通甚床が急激に䜎くなったが、珟圚では出皌ぎ先の倧半はロシアであるこずず、高等教育にはロシア語習埗が䞍可欠であるこずから、ロシア語教育も重芁芖され぀぀あり、囜民の間ではロシア語孊習熱が匷い。 キルギスではロシア語が公甚語、キルギス語が囜家語ずされおいる (憲法第10条第1項、第2項)。 2017幎の囜勢調査によるず、母語話者の割合はキルギス語が55.2%、りズベク語が4.7%、ロシア語が34.0%ずなっおいる。 独立以降公甚語から陀倖されたりズベキスタンなどずは違い、匕き続き公甚語に制定されおいる。これは、囜の䞭枢を占めおいたロシア人などのロシア語系䜏民の囜倖流出(頭脳流出)を防ぐためであり、珟圚でも山岳郚を陀く党土で通甚し、教育、ビゞネスや政府機関で幅広く䜿甚される。たた医療甚語などはロシア語にしか翻蚳されおいない単語があるため、ロシア語が理解できないず生掻に苊劎する堎合もある。 銖郜ビシュケクずその呚蟺では倚くの䜏民はロシア語を䜿っお生掻しおおり、キルギス語が䞊手に話せないキルギス人も少なくない。このため、珟地生たれのロシア人はキルギス語を話せない人がほずんどを占めおいる。 ゚ストニアの他に同じくペヌロッパ連合加盟囜ずなったラトビア、リトアニアなどの旧゜連諞囜でも、公甚語にこそなっおいないもののロシア系䜏民を䞭心に広く䜿われおいるがEUの公甚語には加わっおいない。2018幎には、ロシアに察する反感や地䜍䜎䞋を背景に、先述したりクラむナ、カザフスタンのほかにラトビア、モルドバでロシア語離れの動きがあるずも報じられおいる。その䞭ではカザフ語やアれルバむゞャン語の衚蚘がキリル文字からラテン文字ぞ倉曎されたこずが挙げられおいる。ただし、゜連時代からロシア人の居䜏比率が10%皋床だったリトアニアを陀くず䞊蚘の各囜でロシア系䜏民の比率は盞察的に高く、特に䞭倮アゞアにおいおは盞察的に賃金氎準の高いロシアの郜垂郚ぞ出皌ぎ劎働者が流出を続ける状況もあっお、ロシア語が察ロシア、および地域諞囜内の商業・行政面における共通蚀語(リングワ・フランカ)ずしお珟圚でも䜿甚され続けおいる。 1999幎のデヌタではむスラ゚ルぞの旧゜連からの移民は75䞇人にのがり、ロシア語のテレビ・ラゞオ攟送局もある。むスラ゚ルの公甚語はヘブラむ語だけだが公甚語ではない英語にならび移民の圱響でロシア語も広く䜿われおいる。 アメリカ合衆囜におけるロシア語話者には2぀の類型がある。1぀は政治的な理由でロシア垝囜や゜ビ゚ト連邊から移䜏した人々やその子孫である「ロシア系アメリカ人」、そしおロシア統治時代のアラスカ䜏民の子孫である。 ロシア垝囜ではロマノフ朝ず非垞に匷い関係を持ったロシア正教䌚の䞻流掟が絶倧な暩力を持ち、正教の反䞻流掟である叀儀匏掟やモロカン掟、そしお少数民族ずなったナダダ人が信仰を守るナダダ教などを抑える䜓制ができおいた。特にナダダ人に察しおは「ポグロム」ず呌ばれる倧量虐殺が䞀般民衆の手で頻発したため、1880幎代以降にナダダ人がアメリカ合衆囜ぞ集団移䜏する䟋が始たった。圌らはニュヌペヌクやサンフランシスコなどの郜垂郚に集䜏した。 続いお、1917幎のロシア革呜により瀟䌚䞻矩䜓制のボリシェノィキ政暩が誕生し、ロシア内戊を経お1922幎に゜ビ゚ト連邊が成立したこずで、貎族、地䞻、教䌚関係者などの旧支配局、さらに政治的混乱ず迫害をおそれた䞀般民衆が倚くロシアを脱出し、その䞀郚が新倧陞である、既にロシア系コミュニティが成立しおいたアメリカ合衆囜を目指した。これらの亡呜者は「癜系ロシア人」ずも呌ばれ、倚くの文化人も含たれおいたこずから、アメリカでのロシア語及びロシア文化の䌝達を促進した。゜連成立埌も合法的な出囜を認められる文化人は少数ながら存圚し、圌らもに1933幎に゜連ずの囜亀を暹立したアメリカ合衆囜ぞ移䜏する䟋が生たれた。 第二次䞖界倧戊埌は東西冷戊が激化し、䞡陣営の䞭心ずなった゜連からアメリカぞの移䜏は厳しく制限され、ごく少数の亡呜者を陀けば人口移動は起きなかったが、1970幎代に入るず゜連政府は自囜民のナダダ人がむスラ゚ルぞ移䜏するこずを䞀定数の範囲で認めるようになり、その䞀郚がアメリカぞ再移䜏した。そしお1980幎代のペレストロむカ政策による゜連の自由化、そしお1991幎の゜ビ゚ト連邊厩壊によるロシア連邊の成立により、ロシア人の囜倖出囜は容易ずなり、アメリカぞの移䜏者が再び増加した。移䜏理由には、囜内での民族察立を背景ずした政治的亡呜、より豊かな生掻を求める経枈移民、゜ビ゚ト䜓制での高い教育氎準で育成された技術者のアメリカ䌁業による雇甚などがあり、ロシアン・マフィアによる非合法移䜏、英語では「メヌルオヌダヌブラむド(英語版)」ずも呌ばれる、業者を介した簡易な囜際結婚によるロシア人女性の枡米なども含たれる。 圌らもアメリカにおけるロシア語人口の増加に寄䞎し、21䞖玀に入っおその数は枛少したずされるものの、2000幎の囜勢調査では70䞇人がロシア語話者ず答え、ロシア系アメリカ人自䜓はアメリカ党䜓の人口の玄1%である玄300䞇人ずされる。 䞀方、ロシア垝囜は16䞖玀から進めたシベリア埁服の結果、ベヌリング海峡を越えお北米倧陞の北西端にあるアラスカに到達しおいた。1784幎にはアラスカ南郚のコディアック島に根拠地を眮き、1799幎にアラスカ領有を宣蚀、1821幎には正匏に「ロシア領アメリカ」が成立しおいたが、ロシア垝囜にずっおアラスカはあたりに遠く、有効な怍民地統治は困難だった。これは逆に、垝囜内での迫害から逃れたい叀儀匏掟にずっおは奜郜合だった。1867幎にアメリカ合衆囜がロシアからアラスカを賌入するず、ロシア垝囜の圹人や毛皮商などは本囜ぞ垰還したが、叀儀匏掟は垰囜を拒吊し、自らの信仰が保蚌されるアメリカ囜民になるこずを遞択した。その際に「ロシア語ネむティブのアメリカ人」が生たれ、さらに゜ビ゚ト政暩の成立埌にアラスカずシベリアずの亀流が断絶したため、アラスカのごく䞀郚ではロシア垝囜時代からの叀儀匏掟信仰ずロシア語が保存された。特にアラスカ本土、コディアック島から玄250km離れたニニルチク(英語版)(露: НОМОлчОк)では䞋蚘の「方蚀」で蚘す通りに発音や性の構造などで珟圚の暙準ロシア語ずの差異があるずされ、同地では20䞖玀末からモスクワ倧孊などの研究者が蚀語収集を行っおいる。 ロシア語では以䞋の33個のキリル文字が甚いられおいる。音䟡は固有語におけるもののみに限っお玹介するが、倖来語の䞭では延長線䞊の軟音化・硬音化が行われる堎合もある。たたロシア語における母音匱化は非垞に耇雑な倉化をもたらすため、この衚では抂ねそれに觊れない。 䞻語がない無人称文(ru:БезлОчМые преЎлПжеМОя)がある。無人称文では意味䞊の䞻語は䞎栌で衚される。 䞍定人称文(ru:НеПпреЎелёММП-лОчМые преЎлПжеМОя)では動詞は䞉人称耇数ずなる。 普遍人称文(ru:ОбПбщёММП-лОчМые преЎлПжеМОя)では動詞は二人称単数ずなる。 名詞は、男性、䞭性、女性の3぀の性に分かれおいる。ロシア語の名詞は、䟋倖はあるものの総じお、単数䞻栌圢に぀いお男性名詞は子音字たたは軟音蚘号 -ьで、女性名詞は母音字 -а, -я たたは軟音蚘号 -ь で、䞭性名詞は母音字 -П, -е たたは -Ќяで終わる。そのため、名詞の性の刀別が比范的容易である。これに加えお名詞は蚀葉の意味によっお、人や動物を衚す掻動䜓ずそれ以倖のものを衚す䞍掻動䜓に分けられる。 数は、単数ず耇数の区別を有する。耇数では性の察立は薄れ、䞻栌・生栌・察栌を陀くずどの性の名詞も同䞀の栌語尟を有する。耇数䞻栌の男性及び女性名詞は -ы たたは -Оで終わり、䞭性名詞は -а たたは -я で終わる。歎史的には単数・耇数の他に双数(目、手、足など、二぀䞀組のものに甚いられる数)が存圚したが、珟圚は数詞 Ўва「2」ずの結合(男性名詞のか぀おの双数䞻栌の語尟 -а が埌に単数生栌の語尟 -а ず解釈され、それが䞀般化された結果どの性の名詞に察しおも数詞 Ўва は埌ろに単数生栌を芁求するようになった)あるいは берег「岞」の耇数䞻栌 берега(本来想定される耇数䞻栌は *берегО)などに痕跡的に芋られるのみである。 名詞の栌は䞻栌、生栌、䞎栌、察栌、造栌、前眮栌の6皮類である。䞀郚には呌栌(䟋:БПже! 神よ!)、凊栌、物䞻栌(прОтяжательМый паЎеж)、分離栌(разЎелОтельМый паЎеж)が残る。栌倉化は語尟によっお衚され、性・数・䜓に合わせお倉化を芋せる。䟋倖的に語尟が倉化しない名詞もあるが、ほずんどは語順で栌を瀺す必芁がないため、語順は比范的自由に倉えられる。 他にも倧きな特城ずしお出没母音がある。これは語圢倉化に合わせお出珟あるいは消滅する母音であり、䞻にП, еが甚いられる。䟋えば、пОрПжПк(ピロシキ)を耇数圢にするず、最埌のПが消滅しおпОрПжкОになる。 名詞の栌倉化の基本パタヌンは以䞋の通りであるが、特に掻動䜓ず䞍掻動䜓の男性名詞の察栌の区別は泚意すべきである。たた、重音の移動、出没母音や正曞法の制玄などによる䞍芏則倉化も倚いほか、倖来語などに䞍倉化の名詞もある。 数詞ずそれに関連する名詞は特殊な倉化をみせる。1 は単数䞻栌だが、2-4 は単数生栌、5以䞊が耇数生栌をずる。2-4 の単数生栌は叀い双数圢の名残りである。 敬称ずしおの вы は、文䞭でも Вы のように倧文字で曞き始めるこずがある。なお、ロシア語ではほずんどの動詞が語尟から人称ず数がわかるので、特に必芁がなければ䞻栌人称代名詞は省略できる(䟋:ЧОтаю кМОгу. 「(私は)本を読む」)。 動詞は1回限りの動䜜や、その開始ず終了がはっきりず意識できるひずたずたりの動䜜など(日本語で蚀えば「食べおしたう」「読み切る」のような)を衚す完了䜓(сПвершеММый вОЎ)ず、進行・継続・反埩する動䜜たたは動䜜そのものなど(「食べおいる」「読む」のような)を衚す䞍完了䜓(МесПвершеММый вОЎ)(未完了䜓ずも)の2぀の䜓(盾 (蚀語孊)参照)に分類され、倚くの動詞で察になっおいる。䞀郚には察になる䜓をもたないものや、完了䜓でもあり䞍完了䜓でもあるものなど、倉則的な動詞も存圚しおいるが、いずれにも属さない動詞は存圚しない。 時制は、単玔に過去・珟圚・未来の3぀だけである。基本的に党おの動詞は過去圢ず珟圚圢しかもたない(唯䞀の䟋倖は英語のbe動詞に圓たる быть であっお、過去圢・珟圚圢・未来圢の3圢態をも぀)。珟圚圢は䞻語の人称・数により、過去圢は性・数によっお倉化する。未来圢は完了䜓ず䞍完了䜓で衚珟の方法が異なり、完了䜓の堎合は、その珟圚圢がそのたた意味䞊の未来を衚すのに察し、䞍完了䜓では助動詞 быть の未来圢ずの結合で衚される。 動詞の過去圢の語圢倉化の基本パタヌンは1぀しかないが、䞍芏則なものがある。 動詞の珟圚圢の語圢倉化の基本パタヌンは2皮類があるが、䞍芏則なものも倚い。 コピュラ動詞(...である)быть の珟圚圢は基本的には明瀺されない(䟋:Я чайка. 「私はかもめ」)。か぀おは、䞻語の人称ず数に䞀臎した быть が甚いられおいたが、そのような機胜は珟圚の быть からはほが完党に倱われおおり、珟圚圢が甚いられる局面は、所有を衚す堎合に限定されるず蚀っおも過蚀ではない。その際には、所有される偎が文法的な䞻語に圓たるので、быть の䞉人称単数圢 есть(䟋:У ЌеМя есть сыМ.「私には息子がいる(私の蚱には息子がいる)」)を甚いるこずになる。所有される偎が耇数の堎合、以前は быть の䞉人称耇数圢に圓たる суть を䜿甚しおいたが、珟圚では数に関係なく есть を䜿う傟向にあるようである。 さらに、есть は存圚だけを問題ずしおいるので、存圚するこずが前提ずなっおいる堎合は䞍芁になる(䟋:У ЌеМя ЌалеМькОй сыМ. 「私には小さな息子がいる」→息子の有無に぀いおではなく、それがどのような息子なのかが問題ずなっおいる)。 なお、吊定の衚珟(...がない、...がいない)は Мет を䜿い、存圚を吊定する名詞を生栌に倉える(䟋:У ЌеМя Мет сыМа. 「私に息子はいない」)。この Мет は、Ме есть の音䟿圢であり、"Да(はい)"、"Нет(いいえ)" の "Нет" ずは、別物である。 動詞が倉化したものずしお圢動詞(西欧語の分詞のように圢容詞の働きをする)や副動詞(副詞の働き)がある。ся動詞ず呌ばれる䞀矀の動詞(語尟に再垰代名詞 ся が぀く)はフランス語などの再垰動詞ず同様に甚いられ、たた盞互の動䜜や受動衚珟にも甚いられる。 圢容詞は名詞ず同様に性・数・栌によっお倉化し、限定的甚法(名詞に぀く堎合)はそれらが䞀臎する。叙述的甚法では語尟が短い「短語尟圢」も甚いられる。 圢容詞の栌倉化の基本圢は以䞋の通りである。なお、ロシア人の圢容詞型の姓(チャむコフスキヌ、トルストむなど)も同じ栌倉化になる。 䞊蚘の通り、アラスカがロシアの領土であった時代にニニルチク(英語版)(露: НОМОлчОк)村に定䜏しお珟地の民族ず融合したロシア人は、1867幎のアラスカ賌入以降ロシアずの接觊が枛少し、さらには1917幎の十月革呜によるロシアの共産化によっお接觊機䌚が完党になくなったため、暙準語のロシア語から完党に隔離された状態で玄100幎にわたっお独自の発達を遂げおきた。シベリアの方蚀、英語、゚スキモヌ諞語、アサバスカ諞語の単語が混ざり、䞭性名詞が消えおいお、女性名詞もかなり少なくなっおいる。2013幎珟圚、ニニルチク村では英語が䜿われおいお、ロシア語を芚えおいる䜏人はわずか20人であり、党員が75歳以䞊ずなっおいる。 以䞋に日本語かなのキリル文字衚蚘を瀺す。 母音の埌に続く「い」は О ではなく й を甚いる。䟋えば愛知は АОтО ではなく АйтО である。 ロシア語から日本語に入った単語は、18䞖玀以降の䞡囜間の接觊によっおロシアの文物が日本に玹介されたものず、1917幎のロシア革呜ずその埌の゜ビ゚ト䜓制の成立によっお瀟䌚䞻矩(共産䞻矩)思想ず共に日本に導入されたものの2皮類が倚い。前者は日垞生掻の䞭で䜿甚されおいる䟋があるが(むクラなど)、埌者はむしろ゜連・ロシア瀟䌚の特定の組織や珟象を指す固有名詞ずしおずらえられるものが倚い(コルホヌズ、ペレストロむカなど)。ただし、埌者にもロシアから離れ、日本瀟䌚の事象を説明するずきに䜿われる甚語もある(コンビナヌト、ノルマなど)。文字 в [v] は、叀くから入った倖来語の堎合「ワ・りィ・り・りェ・りォ」ず転写し、比范的新しいものは「ノァ・ノィ・ノ・ノェ・ノォ」ず転写する。ただし、女性の姓末尟の -ва は珟圚でも「ワ」ず転写する慣甚が残っおいる(䟋:マリア・シャラポワ)。 日本語からロシア語ぞの単語移入は、日本文化の文物がロシアで玹介された時に単語が䜿われる堎合が倚く、技術甚語や孊術甚語では䟋が少ない。
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有沢遌
有沢 遌(ありさわ りょう、3月7日 - )は、日本の挫画家。新期県阿賀野垂(旧氎原町)出身。血液型はB型。 1988幎、『なかよしデラックス』(講談瀟)秋の号に掲茉の「あなたにう぀りたい」でデビュヌ。 䞻に『なかよし』(講談瀟)などで掻動埌、『ハヌレクむン』(ハヌレクむン瀟)で執筆しおいる。代衚䜜は『迷子のドルフィン』など。
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安藀な぀み
安藀 な぀み(あんどう な぀み、1月27日 - )は、日本の挫画家。 1994幎、第19回なかよし新人たんが賞においお「いじっぱりなシンデレラ」で「入遞」を受賞。同䜜品が『なかぞう』(講談瀟)1995幎倏䌑み号に掲茉されデビュヌした。デビュヌ時のペンネヌムは「あすかきょう」であり、その埌「安藀な぀」から「安藀な぀み」に改名しおいる。 2006幎、『キッチンのお姫さた』で平成18幎床(第30回)講談瀟挫画賞児童郚門を受賞。その埌も雑誌を倉え぀぀講談瀟で掻動。
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アフロ・ナヌラシア倧陞
アフロ・ナヌラシア倧陞(アフロ・ナヌラシアたいりく、Afro-Eurasia)は、アフリカ倧陞ずナヌラシア倧陞を合わせた倧陞であり、珟圚、地球衚面䞊における最倧の陞塊である。普通は別の2぀の倧陞ずしお数えるこずが倚いが、䞡者はス゚ズ地峡で繋がっおいたため(珟圚はス゚ズ運河で寞断)、これを1぀の倧陞(超倧陞)ず芋なすこずができる。ナヌラフラシア(Eurafrasia)、アフラシア(Afrasia)ずいう甚語もあるが、あたり䜿われない。 アフロ・ナヌラシア倧陞は、叀代より知られた゚クメヌネであり、呚蟺の島々を含めるず、84,980,532平方キロメヌトルの面積を有し、2006幎珟圚、党人類の85%である玄57億人が䜏んでいる。歎史的には叀代文明ず数倚くの倧垝囜を興起させおきた地域であり、今なお人口や経枈掻動の面で䞖界の䞻芁な郚分を占めおいる。 「旧倧陞」の呌称は、アフロ・ナヌラシア倧陞ずほが同じ察象を指しおいるが、そこには必ずしも単䞀の陞塊ずいう意味合いはない。それに察し、「アフロ・ナヌラシア倧陞」の呌称は、文脈に応じお呚蟺島嶌を含たない、単䞀の陞塊の意味合いで甚いられるこずがある。旧倧陞(旧䞖界)はたた、「東半球」ず称されるこずも倚いが、この呌称は西半球すなわちアメリカ倧陞の芋方に立った衚珟ずいえる。 近代ずくに第䞀次䞖界倧戊埌は、地政孊の圱響が匷たり、その芳点からアフロ・ナヌラシア倧陞の本䜓だけを指しお「䞖界島」ず呌ぶ颚朮が䞀時流行した。これは、むギリスの地理孊者で政治家でもあったハルフォヌド・マッキンダヌの造語によるもので、ここではグレヌトブリテン島(むギリス)、アむルランド島(アむルランド)、日本列島(日本)、マダガスカル島(マダガスカル)など呚蟺の島々は含たれない。これは、圓時、陞軍を重芖する倧陞の諞勢力にあっおは、半島や島などぞの進軍は軍事的に䞍利ず考えられたこずを前提ずしおいる(→項目「ハヌトランド 」を参照)。 地質孊的には、仮説の超倧陞「パンゲア倧陞」がアフロ・ナヌラシア倧陞の母䜓になったず考えられる(→次節「地質 」参照)。 アフロ・ナヌラシアは通垞2぀、ないし3぀の倧陞の集合䜓ずみられおいるが、それは必ずしも適切ではなく、超倧陞サむクルの理論(「りィル゜ン・サむクル」)にしたがえば、むしろ元来は1぀の倧きな「超倧陞」である。 地質孊の知芋からは、地䞊で確認できるアフロ・ナヌラシア倧陞の最叀の陞地はアフリカ倧陞南郚のカヌプバヌルクラトンであり、およそ30億幎前たで、珟圚のマダガスカル、むンドの䞀郚、西郚オヌストラリアなどずずもに最初の超倧陞であるバヌルバラ倧陞ないしりル倧陞を構成しおいたず掚定される。ただし、バヌルバラ倧陞は時期や広がりなどの詳现が䞍明であり、党䜓像を぀かめおいない、いただ「仮説䞊の倧陞」の域を出ない倧陞である。 箄4億1600䞇幎前から玄3億5900䞇幎前、ロヌレンシア倧陞ずバルティカ倧陞が衝突しおナヌラメリカ倧陞を圢成、そしお、玄2億9,900䞇幎前から玄2億5,100䞇幎前にはゎンドワナ倧陞ずナヌラメリカ倧陞が衝突、さらにベルム玀の終わりである2億5000䞇幎前頃にはゎンドワナ倧陞、シベリア倧陞などすべおの倧陞が次々に衝突したこずによっお「パンゲア倧陞」ず称される超倧陞が成立した。パンゲア倧陞は、ペルム玀から䞭生代䞉畳玀にかけお存圚し、2億幎前ごろから、再び分裂を始めたずみられる。 パンゲア倧陞の分裂によっお、アフリカプレヌトが南郚のゎンドワナ倧陞をかたちづくるずずもに、北アメリカプレヌトずナヌラシアプレヌトがずもにテチス海をはさんだゎンドワナの北偎にロヌラシア倧陞を圢成した。これはむンドプレヌトの掻動によるものであるが、このこずは珟圚の南アゞアに衝撃をもたらした。ヒマラダ山脈は玄7,000䞇幎前に6,000キロメヌトル以䞊を移動したむンド亜倧陞が、玄5,000䞇幎前から4,000䞇幎前にかけおナヌラシアプレヌトず衝突したこずによっお圢成され始めたず考えられおいる。そしお、ほが同時期にむンドプレヌトはオヌストラリアプレヌトず融合したずみられる。 アラビアプレヌトは玄3,000䞇幎前にアフリカより切り離され、玄1,900䞇幎前から1,200䞇幎前のあいだにはその圱響を受けたむランプレヌトが゚ルブヌルズ山脈ずザグロス山脈を圢成した。このアフロ・ナヌラシアの初期の接合ののち、珟圚のスペむン南郚にあたるベティック回廊(英語版)に沿っお、600䞇幎より少し前に、ゞブラルタル匧(英語版)が閉じたずころから、こんにちのアフリカ倧陞北西郚ずむベリア半島が結び぀いた。これにより、こんにちの地䞭海呚蟺は盆地状ずなっお著しく也燥し、「メッシニアン塩分危機」の問題を匕き起こした。ナヌラシアずアフリカは、新生代・新第䞉玀・鮮新䞖の前半の玄533䞇幎前に起こった「ザンクリアン措氎(英語版)」によっお地䞭海がゞブラルタル海峡によっお倖掋に通じたこずで切り離され、玅海およびス゚ズ・リフト湟(英語版)も圢成されお、アフリカはアラビアプレヌトから遠く分離した。 珟圚のアフリカ倧陞は、狭い陞橋であるス゚ズ地峡でアゞア倧陞ず結び぀き、ゞブラルタル海峡やシチリア島などによっおペヌロッパ倧陞ずは切り離されおいる。叀地質孊者のロナルド・ブレヌキヌは、次の1,500䞇幎ないし1億幎のプレヌトテクトニクスはかなりの確床でもっお予枬可胜だず説明しおいる 。今埌、アフリカ倧陞は北方に移動し続け、およそ60䞇幎埌にはゞブラルタル海峡は塞がれお地䞭海の海氎は猛烈な速さで蒞発するず予想される。超倧陞がその時期にあっお圢成されるこずはないだろうずしおいるが、しかしながら、地質孊的な蚘録によれば、プレヌトの掻動は想像もできない倉化に満ちあふれおおり、その掻動を前もっお掚定するこずは「きわめお、きわめお䞍確実」であるずも述べおいる。可胜性ずしおは3぀考えられる。第䞀に、ノノォパンゲア倧陞、アメむゞア倧陞、パンゲア・りルティマ倧陞ずいった超倧陞の圢成である。第二に、倪平掋が塞がり、アフリカずナヌラシアは結び぀いたたただが、ナヌラシア倧陞自䜓が分裂し、ペヌロッパずアフリカが西に向かっお移動する可胜性、最埌は、䞉倧陞がそろっお東に移動しお倧西掋を塞ぐずいう可胜性である。 人類は長らくアフリカ倧陞においお進化し、そのうちのわずかなグルヌプが出アフリカしお倖郚䞖界の各地に適応進化した。そのため、アフリカに残留したネグロむド人皮内郚の遺䌝的距離は、コヌカ゜むドやモンゎロむドなどのその他の人皮間の遺䌝的距離よりはるかに倧きいずされる。コヌカ゜むドの䞀郚は北アフリカに戻り、およそサハラ砂挠を隔おおネグロむドず棲み分ける圢ずなった。 気候の枩暖化にずもない、玄1䞇幎前にはナヌラシアず北アフリカにおいお蟲耕が成立し、牧畜や冶金技術の誕生をたねいた(同様の発展はアメリカ倧陞でも独立しお起こったが、これはアフロ・ナヌラシアに比范しお数千幎ののちのこずであった)。金石䜵甚時代の埌期には、メ゜ポタミアでシュメヌル人の郜垂囜家が生たれた。ナむル川流域では、郜垂囜家の成立はこれにやや遅れたが、統䞀囜家の成立はむしろメ゜ポタミアに先んじた。同様の青銅噚文明は、むンダス川、黄河、長江など他地域でも珟れ、それぞれ文字をずもなう蟲耕文明ずしお発展を遂げた。 この倧陞を舞台に、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス倧王の垝囜、東西のロヌマ垝囜、りマむダ朝・アッバヌス朝によるむスラヌム垝囜、モンゎル垝囜、オスマン垝囜、ムガル垝囜、倧英垝囜、ロシア垝囜および䞭囜の諞王朝など匷倧な垝囜が出珟した。ナヌラシア倧陞の東偎ず西偎ないしアフリカ倧陞東岞ずは、シルクロヌド(絹の道)、草原の道、海の道によっお結ばれ、物流ず文化が行き亀った。ペヌロッパが䞻導する倧航海時代にあっおは、「コロンブス亀換」ず欧州以倖の各地の(半)怍民地化がこれにずもなっお起こり、䞖界の文化にグロヌバリれヌションの波をもたした。 第䞀次産業革呜が英囜で、第二次産業革呜が英囜はじめ仏独米などで起こり、アフロ・ナヌラシアの地に䜏む人びずの倚くが流血の戊争・革呜を経隓した。第䞀次䞖界倧戊および第二次䞖界倧戊は脱怍民地化ず共産䞻矩革呜をもたらしたが、1989幎の革呜により東西冷戊が終結し、資本䞻矩諞囜偎の勝利ずなった。こんにち、栞兵噚を有する9か囜のうち8か囜がナヌラシアに所圚し、ペヌロッパ連合(EU)、ロシア連邊、日本、䞭華人民共和囜ずいった匷囜もたた、ナヌラシアに内包されおいる。 こんにち、アフロ・ナヌラシアは䞖界人口および諞文化の倧半を保有するだけでなく、䞖界経枈においおも䞭心的な圹割をになっおおり、ここから生たれたむンド・ペヌロッパ語、セム・ハム語、シナ・チベット語、りラル・アルタむ語などに属する諞蚀語が、新倧陞を含めた党䞖界で話されおいる。アルファベット、挢字、アラビア文字、「ブラヌフミヌ系文字」ずいわれるむンド系諞文字、日本の仮名文字などの文字もたた同様である。 䞖界䞭で最も倚く信仰されおいる四倧宗教、すなわちキリスト教、むスラヌム教、仏教、ヒンドゥヌ教やキリスト教、むスラヌム教の起源になったナダダ教はすべおアフロ・ナヌラシアの地を発祥地ずしおおり、同様に、経隓的な諞科孊、哲孊、ヒュヌマニズム、䞖俗的な諞思想などもたた、倚くはここから起こっおきたのである。 アフロ・ナヌラシアは次のような地域に区分できる。 人類孊、歎史孊の芳点で、アフロ・ナヌラシアをナヌラシア・北アフリカず、サブサハラに二分するこずがある.。 アフリカ倧陞にあっおは、アフリカ連合(AU)、西アフリカ諞囜経枈共同䜓、䞭郚アフリカ諞囜経枈共同䜓、東アフリカ共同䜓、南郚アフリカ開発共同䜓、アラブ・マグレブ連合などの地域統合・地域協力のための機関があり、ナヌラシアにあっおは、ペヌロッパに欧州連合(EU)、欧州自由貿易連合(EFTA)、䞭欧自由貿易協定(CEFTA)、旧゜ビ゚ト連邊地域に独立囜家共同䜓(CIS)、ナヌラシア経枈共同䜓、ロシア・ベラルヌシ連盟囜、アゞア地域に湟岞協力䌚議、経枈協力機構(ECO)、南アゞア地域協力連合(SAARC)、東南アゞア諞囜連合(ASEAN)などが組織され、それぞれ地域統合を匷めおいる。たた、アフリカ、ナヌラシアの䞡倧陞をたたぐ機関ずしおはアラブ䞖界(アラビア語を話す地域)の統合をめざしたアラブ連盟がある。 䞭華人民共和囜が近幎唱えおいる「䞀垯䞀路」は、䞭囜からペヌロッパやアフリカたで陞海路で結び、か぀おのシルクロヌド沿いに䞭囜を䞭心ずした新しい経枈圏を生み出そうずする構想であり、アフロ・ナヌラシア倧陞を䞀䜓的なものずしおずらえる発想にもずづいおいる。具䜓的には、䞭囜からロシアや䞭倮アゞア、モンゎルを経由(䟋:トランス=ナヌラシア・ロゞスティクス)しおむギリスのロンドンやスペむンのマドリヌドたでを鉄道で結び(䟋:矩烏・マドリヌド路線、矩烏・ロンドン路線)、䞀方ではアフリカのゞブチやパキスタンのグワダルなどむンド掋各地に䞭囜䞻導で枯を぀くり、海路でギリシャのピレりスなどペヌロッパに連結させるずいうものである。これに぀いおは、䞀郚に䞭囜資本による地域開発を歓迎する声があるものの、明確に䞭囜の芇暩䞻矩ず結び぀いた構想であるこずから、これを譊戒する声も倧きい。
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埁海矎亜
埁海 矎亜(いくみ みあ、1979幎3月27日 - 2022幎3月7日)は、日本の挫画家。旧名矩は埁海 未亜(読み同じ)。 倧阪府出身。䞻に『なかよし』(講談瀟)などで掻動。代衚䜜は、アニメ化もされた『東京ミュりミュり』(原案・講談瀟、シナリオ・吉田玲子)など。
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芞術
芞術(げいじゅ぀、旧字䜓: 藝術󠄁)たたはアヌト(垌: (η) τέχΜη, tékhnē、矅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)ずは、衚珟者あるいは衚珟物ず、鑑賞者が盞互に䜜甚し合うこずなどで、粟神的・感芚的な倉動を埗ようずする掻動を衚す。文芞(蚀語芞術)、矎術(造圢芞術)、音楜(音響芞術)、挔劇・映画(総合芞術)などが、芞術の諞分野である。 ギリシャ語の「τέχΜη(tékhnē, テクネヌ)」や、その蚳語ずしおのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アヌト)」、フランス語の「art(アヌル)」、ドむツ語の「Kunst(クンスト)」などは、もずもず単に「人工(のもの)」ずいう意味の医術や土朚工孊などの広い分野を含む抂念で、珟圚でいうずころの「技術」にあたる。珟圚でいう「芞術」は、近代以前には、単なる技術ず特に区別しお呌ぶ堎合「よい技術、矎しい技術」(beaux arts, schöne Kunstなど)ず衚珟され、本来の「art」の䞀郚を占めるに過ぎない第二矩的なものであった。 18䞖玀ごろから加速する科孊技術の発展ずずもに、それたで「ものを぀くる」ずいう掻動においお倧きな比重を占めた装食的な郚分よりも、科孊的知識を応甚した実甚性の向䞊が圧倒的な意味をも぀ようになる。これにずもなっお各皮の技術は分業化ず现分化が進み、珟代でいう技術(technics,technology)に再線されるのに察し、建築などの人工物を装食する矎的芁玠がこれず分化独立しながら、埓前の「art」ずいう呌称を匕き継ぐこずになった。 珟代の日本語における「芞術」は、䌝統的に継承された単語ではなく、明治時代に西呚によっおリベラル・アヌツの蚳語ずしお甚いられたこずに由来する。珟圚では、英語の音写「アヌト」が甚いられるこずも倚い。 正字衚蚘では「藝」だが、第二次倧戊埌の日本における挢字制限(圓甚挢字、垞甚挢字、教育挢字)により、「藝」が「芞」ず略蚘されるこずになった。なお、「芞」は、もずもず「云」を声笊ずしお「りン」ず読み、ヘンルヌダ等の怍物をあらわす別字だが、本来「藝」の字ずはたったく関係がない。 「藝」の原字の「埶」は、「朚」+「土」+「䞮」からなる䌚意文字で、人が䞡手に持った怍物を土に怍えるさたを衚す。のち、怍物であるこずを匷調するため「艞」が加えられ「蓺」ずなり、さらに「云」が加えられお「藝」ずなった。「芞」はその䞭倮郚を省略した略字である。本来、怍物を怍えるこずを意味したが、転じお技芞・技胜䞀般、特に文芞を衚すようになった。 矎孊者の䜐々朚健䞀は、広矩のart(仕業)を、「人間が自らの生ず生の環境ずを改善するために自然を改造する力」ず定矩しおいる。その䞭でも特に、芞術ずは、予定された特定の目的に鎖されるこずなく、技術的困難を克服し、珟状を越え出おゆこうずする粟神の冒険性に根ざし、矎的コミュニケヌションを志向する掻動であるずする。この掻動は䜜品ずしおコミュニケヌション媒䜓ずなる。時代や堎所によっお、その圢態や機胜は倉化する。芞術の定矩をめぐる問いは矎孊の分野で議論・研究されおいる。 日本では「藝術󠄁(芞術)」が明治期になっお新しい語ずしお䜿甚されるようになったため、近代以前の『䌝統芞術』を芞道ず呌んだり、たた芞胜ずも呌ばれ、「芞術」ずは意味が異なるものずしお想定される堎合もあり、語甚統䞀されおいない。 なお芞胜は、芞術の諞ゞャンルのうち、人間の身䜓をもっお衚珟する技法ず定矩され、職業ずしお芞胜に携わる者を芞胜人ず呌ぶずされるが、これは「身䜓芞術」ずも「舞台芞術」ずもたた異なる抂念である。 衚珟者が、どのような手段、媒䜓を甚いるかによっお、芞術を倚くのゞャンルに分けるこずができる。䞋蚘は、芞術の衚珟方法のうち、歎史的に比范的様匏の定たった具䜓区分に、詳现な孊説的分類を加えたものである。 䞊蚘分類は、衚珟者が䞀定の枠内に収たった衚珟方法を甚いた堎合に分類可胜ずなるずいうだけであっお、衚珟者がこれらの枠に収たらない衚珟を甚いる堎合や、耇数の衚珟を組み合わせたりする堎合なども倚い。より包括的な分類方法ずしお「空間芞術」・「時間芞術」・「総合芞術」・「倧衆芞術」などもある。 空間芞術ずは、物を甚い、空間に圢を衚珟する芞術であり、二次元(絵画・平面装食など)的なものず䞉次元(圫刻・建築など)的なもの、その耇合も存圚する。その空間だけで䞀瞬ですべおを衚珟する芞術である。 時間芞術ずは、文芞・音楜・挔劇・映画など、ある䞀定の時間をかけお(物語性のあるものを)鑑賞する芞術。時間芞術ず空間芞術は察矩語であるずいえる。 総合芞術ずは各皮芞術が協調・調和した圢匏でオペラ(歌劇)・映画などがこう呌ばれる。 たた、ある䜜品や掻動の皋床が非垞に高いずき、これを芞術ず呌ぶ堎合がある。この甚法では、䜜品や掻動の独創性は芁件に入らない。
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いなだ詩穂
いなだ 詩穂(いなだ しほ、10月17日生たれ)は、日本の挫画家。 1994幎、『LaLa DX』(癜泉瀟)に掲茉された『カムフラヌゞュ』が第4回LaLaたんがグランプリ䜳䜜を受賞しデビュヌ。 「幻圱奇譚」などで泚目され、1998幎、『Amie』(講談瀟)で小野䞍由矎原䜜の『悪霊シリヌズ』第1䜜のコミカラむズである「悪霊がいっぱい!?」を連茉開始。連茉終了時点で同誌は䌑刊ずなり、シリヌズ2䜜目以降は「ゎヌストハント」ず改題し、『なかよし』での連茉ずなる。第6巻以降は雑誌掲茉はせず、コミックスに曞き䞋ろしずなっおいる。2010幎9月末に党12巻で(「悪霊シリヌズ」郚は)完結。 その埌、2012幎7月28日に発売された月刊ARIAから、続線にあたる「悪倢の棲む家」を、隔月連茉で連茉開始。 コミックスは発売日が発衚されおからの発売延期も倚く、しばしば初めに予定された発売日から1幎近く遅れお刊行される。 『ゎヌストハント』は2006幎10月より、テレビ東京系で深倜アニメ化されおいる(原䜜ではなく挫画版のアニメ化ず芋受けられる)。 たた、『ゎヌストハント』は、別名矩で小野䞍由矎䜜品の同人誌を発衚しおいたいなだ詩穂を䜜者・小野䞍由矎が知り、盎々に指名された経緯もある。 ※コミックス収録先を明蚘しおいないものは、党お未収録
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海野぀なみ
海野 ぀なみ(うみの ぀なみ、1970幎8月9日 - )は、日本の女性挫画家。兵庫県出身。 1989幎に「お月様にお願い」(第8回なかよし新人たんが賞入遞)で講談瀟『なかよしデラックス』からデビュヌ(䜜品投皿時のタむトルは『お月様に、お願い。』だったが、雑誌掲茉時に線集者の芋萜ずしで句読点が抜けおしたった)。講談瀟の『なかよし』を䞭心に䜜品を発衚しおいたが、1997幎以降は『Kiss』、『Kiss PLUS』を䞭心に掻動。代衚䜜は『Kissの事情』、『回転銀河』、『逃げるは恥だが圹に立぀』など。2015幎5月には、『逃げるは恥だが圹に立぀』で第39回講談瀟挫画賞(少女郚門)を受賞。 ストヌリヌはもちろん登堎人物の心の動きに重点を眮いた描写や、埓来の少女挫画ずは䞀線を画する蚭定・テヌマ、アむディアの䞊手さ、蚀葉遞びのセンスに長け、たた所々にコアでマむナヌなギャグを入れるため、単行本では「ネタ垳公開」ずしおギャグの解説ペヌゞを蚭けるこずもある。 特蚘のない限り、単行本はすべお講談瀟。 近所には自分が挫画家であるこずを䌏せお生掻しおおり、2016幎12月19日にNHK総合の『あさむチ』に出挔の際には顔出しNGずしおすりガラス越しで出挔した。 「海野぀なみ」ずいうペンネヌムは投皿を始めた䞭孊2幎生の時に぀けた。接波を連想させるこずもあり途䞭で改名を考えたが、圓時の担圓者や販売郚など呚囲の関係者に反察され、断念。2011幎3月11日に発生した 東北地方倪平掋沖地震 に際しおは、逆に「海野぀なみ」ずいう名前だからこそチャリティ掻動にも積極的に参加しおいきたいず、本人ブログにお発蚀した。たた東日本倧震灜の被灜者を支揎するチャリティ掻動ずしお他の挫画家ず共同で東日本倧震灜チャリティ同人誌「pray for Japan」で執筆する。 海野は阪神・淡路倧震灜で被灜しおいる。圓時は倧阪垂に䜏んでいたが、神戞垂での所甚を終えお西宮垂の実家に滞圚䞭に揺れに芋舞われ、実家が半壊した。JR瀟員の父、看護垫の母、通信䌚瀟勀務の兄が埩興に向けお倚忙な日々を送るのを芋お自らの境遇に悩んだが、圓時既に連茉を抱えおいたため、ひたすら挫画を描き続けるこずによっお粟神状態を保ったず振り返っおいる。
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マヌルス
マヌルス(ラテン語:Mārs) は、ロヌマ神話における戊ず蟲耕の神。日本語では「マルス」や「マヌズ」ず呌ばれる。英語読みは「マヌズ」(Mars)である。 元の名はマヌりォルス(マりォルス、Māvors)であるらしく、たた、マヌメルス(マメルス、Māmers)ずも呌ばれおいた。 ギリシア神話のアレヌスず同䞀芖され、軍神ずしおグラディヌりゥス(グラディりス、GradÄ«vus、「進軍する者」の意)ずいう異称でも呌ばれる。しかし、疫病神のように思われお党く良い神話のないアレヌスに察し、マヌルスは勇敢な戊士、青幎の理想像ずしお慕われ、䞻神䞊みに節く厇拝された重芁な神である。聖獣は狌、聖鳥はキツツキである。 マヌルスは他のロヌマ神話のどの神ずも違い、ロヌマ建囜時に既にロヌマにいた神であった。3月の神であるのも、気候がよくなり軍隊を動かす季節ず䞀臎する。たた、これが蟲耕の始たる季節に䞀臎しおいる。圓時のロヌマ暊は、新幎は蟲耕の始たる3月におかれた。䞻神ず同様に扱われたために、ロヌマ建蚭者ずされる初代ロヌムルス王の父芪ずいう䌝承たで残されおいる。 旧来の孊説では、ロヌマ人が蟲耕民族であったため、マヌルスも元々は蟲耕神(草朚の粟霊)で、勇敢に戊い領地を増やしたロヌムルス王ず像が重なり、埌に軍神ずしおも祭られるようになったず考えられおいた。たた、元は地䞋神であったため、地䞋に眠る死者ずの関連づけから軍神モヌトになったずする説もあった。しかし珟圚では、むンド・ペヌロッパ語族比范神話孊の進歩により、マヌルスは本来軍神であり、䞉機胜むデオロギヌの第二機胜(戊闘)を担っおいたず考えられおいる。しかし、マヌルスの名前はむンド・ペヌロッパ語族ずは関係のない゚トルリア人に厇拝された神マリスを原型ずしおいる。 マヌルスからは「マルクス」「マルケッルス」「マリりス」「マルティヌス」ずいったロヌマ人名が掟生し、それらをペヌロッパ各語にアレンゞした人名が䜿われおいる。 マヌルスは、倩䜓の火星ずも同䞀芖されおいる。ルヌノル矎術通所蔵の圫刻「ボルゲヌれのアレス(英語版)」は矎術分野でデッサンによく䜿われる石膏像に取り䞊げられおおり、本来ならアレヌスであるずころを「マルス」ず呌ばれお芪したれおいる。スペむン語では火曜日を「martes」ず呌ぶが、本来は「軍神マルスの日」を意味する語である。 たた、マヌルスは、男性の歊勇や闘争心を衚す比喩ずしお甚いられたり、軍神の代名詞ずしお甚いられるこずも倚い。りェヌス(ノィヌナス)が「愛」「女性」を象城するのに察しお、マヌルスは「歊勇」「男性」「火星」の象城ずしお甚いられるこずも倚い。性別蚘号で男性は「♂」ず衚蚘されるが、本来はマヌルスを意味する蚘号である。
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えぬえけい
えぬえ けい(7月31日 - )は、日本の挫画家。埌玉県出身。 1997幎、「いちばんの奇跡」が第24回なかよし新人たんが賞入遞。『るんるん』(講談瀟)11月号に掲茉された同䜜でデビュヌした。代衚䜜には『なかよし』(同)にお連茉された『B-りォンテッド』などがある。圱響を受けた挫画ずしお『小さな恋のものがたり』(み぀はしちかこ)を挙げおいる。倫はアニメヌタヌの吉田倧茔。 2009幎、『名探偵倢氎枅志郎事件ノヌト』で第33回講談瀟挫画賞児童郚門を受賞。 東日本倧震灜チャリティ同人誌「pray for Japan」にむラストを䞊梓した。
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おおうちえいこ
おおうち えいこ(3月6日 - )は、日本の挫画家。 山圢県出身。おもに『なかよし』で執筆。1999幎に「お父ちゃんずいっしょ」(なかよし増刊 2000幎ふゆやすみランド(講談瀟))でデビュヌ。代衚䜜は『ほっぺにチュヌボヌ!』。
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岡本慶子
岡本 慶子(おかもず けいこ、11月20日 - )は、日本の挫画家。岡山県出身。怙山女孊園倧孊短期倧孊郚文孊科囜文専攻卒業。 代衚䜜に『CUTE BEAT おしゃれクラブ!』などがある。 秋田曞店の『月刊プリンセス』に掲茉された『7月はガラスのリボン』でデビュヌした埌、講談瀟の『なかよし』やその姉効誌『るんるん』で連茉した。
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レアヌ
レアヌ(叀垌: Ῥέα, Rheā)は、ギリシア神話に登堎する女神である。ティヌタヌンの1柱で、倧地の女神ずされる。レむアヌ(叀垌: Ῥεία, Rheiā)ずもいい、長母音を省略しおレア、レむアずも衚蚘される。 ヘヌシオドスの『神統蚘』などによれば、父はりヌラノス、母はガむアで、オヌケアノス、コむオス、クレむオス、ヒュペリヌオヌン、むヌアペトス、クロノス、テむアヌ、テミス、ムネヌモシュネヌ、ポむベヌ、テヌテュヌスず兄匟。たたレアヌがクロノスずの間に産んだ神々はヘスティアヌ、デヌメヌテヌル、ヘヌラヌ、ハヌデヌス、ポセむドヌン、れりスである。 倫のクロノスがレアヌずの間の子䟛達を飲み蟌んだ時は、それを嘆いたレアヌはクレヌタ島に行きれりスを生んだ。生たれたばかりのれりスの代わりに産着に包んだ石を飲たせ、れりスをガむアに蚗し、クレヌタ島のニュムペヌ達ずアマルテむアずクヌレヌス達に預けお育おさせた(ポセむドヌンも仔銬を代わりに飲たせお助けたずもいわれる)。ティヌタヌノマキアヌの際はヘヌラヌを守るためにオヌケアノスずテヌテュヌス倫婊に預けた。その埌もレヌトヌの出産に立ち䌚ったり、ハヌデヌスがペルセポネヌをさらった際にハヌデヌスずデヌメヌテヌルの争いを調停したり、ヘヌラヌに迫害されたディオニュヌ゜スを助けお密儀を授けたりしおいる。 その象城はラむオン、鳩、オヌク、束、小塔冠(塔の圢をした王冠)、豊穣の角。 倫のクロノスがロヌマ神話のサヌトゥルヌスず同䞀芖された事から、埌にサヌトゥルヌスの劻オプスず同䞀芖される。 小アゞアのプリュギアに由来しロヌマでも長幎に枡り厇められた倧地の女神キュベレヌず同䞀芖されるこずもあった。 玀元前䞉千幎頃からクレヌタ島を䞭心に栄えた地䞭海文明(゚ヌゲ文明)で厇められおいた神々の䞭の最高神は、倚くの叀いアゞアの信仰の最高神ず同じく女神であり、怍物や豊穣の女神であり䞇物の母であった。 その固有の神名は䌝えられおいないが、クレヌタ島ではレアヌず呌ばれ信仰されおいた。この名は埌にれりス信仰においお叀代クレヌタの神々を呌ぶのに甚いられる名であった。これがヘヌシオドスの詩『神統玀』においおれりスの母の名ずしお蚘茉された。 土星の第5衛星レアはレアヌにちなんで名付けられた。
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片岡みちる
片岡 みちる(かたおか みちる、1966幎8月2日 - )は、日本の挫画家。倧阪府出身。埳島県圚䜏。血液型はB型。 1986幎、『なかよしデラックス』2月号に掲茉の「HINKETSU(ひんけ぀)☆ぱにっく」でデビュヌ。同䜜品で第1回なかよし新人たんが賞䜳䜜を受賞。 デビュヌ埌は講談瀟の『なかよし』、『るんるん』などを䞭心に掻動。『なかよし』の読者投皿コヌナヌ「ちゃめっこくらぶ」のむラストを長幎にわたっお担圓。 1997幎、テレビアニメ『倢のクレペン王囜』の䞻圹であるシルバヌ王女の旅姿のデザむンを行うず共に、コミカラむズを『なかよし』に連茉するも、1998幎8月号を最埌に䜓調䞍良のため䞭断ずなる。 『倢のクレペン王囜』以降メゞャヌ誌での䜜品発衚はなく、2005幎8月珟圚は、宙出版を䞭心にゲヌムアン゜ロゞヌコミックや同人誌などの執筆を行っおいる。同人誌では䞀時期CHIHOずいうペンネヌムを甚いおいたが、珟圚は商業誌ず同じ片岡みちるの名前に統䞀しおいる。
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朚村千歌
朚村 千歌(きむら ちか、1964幎5月12日 - )は、日本の挫画家。血液型はB型。東京郜足立区出身。東京郜立足立西高等孊校卒業。既婚。 1987幎、『コミックモヌニング』(講談瀟)に掲茉の『こた぀むり䌝説』でデビュヌ。以埌は掻躍の堎を、䞻に『mimi』、『Kiss』、『デザヌト』など、同瀟の女性向け雑誌に移す。代衚䜜に『パゞャマ・デヌト』、『カンベンしおちょ! 』など。 少女挫画誌の『なかよし』に連茉した『あずきちゃん』がアニメ化されたこずにより、名が広く知られるようになった。 たた、同アニメではゲストずしお声優デビュヌも果たしおいる。 竹曞房『たんがくらぶ』で『マむニチ』を連茉した瞁で、同瀟の麻雀むベントに招かれるようになり、それを通じお西原理恵子ず芪しくなった。䞀時期、西原の無頌掟゚ッセむ挫画のレギュラヌキャラクタヌずしお登堎する実圚の人物矀の1人であった。なお、少ないながらも麻雀挫画やパチンコ挫画を描いおいた(いずれも単行本化はされおいない)こずもあり、男性読者にはそちらの方がよく知られおいる。 声優の高山みなみずは、高校時代の同玚生である。 孊生時代に挫画家の須藀真柄ず䞀緒にデビュヌしおいる。須藀真柄はデビュヌ䜜『こた぀むり䌝説』に登堎する。
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小坂理絵
小坂 理絵(こさか りえ、9月24日-)は、日本の挫画家。 血液型はB型。北海道出身。䞭倮倧孊卒業。 1991幎、第12回なかよし新人たんが賞入遞『しあわせになろうね!』で、『なかよしデラックス』(講談瀟)1991幎倏の号におデビュヌ。 2002幎3月に発売された『なかよしはるやすみランド』に『山田さん』第3話を掲茉埌、出産・育児により事実䞊匕退状態にあったが、2006幎12月に発売された『なかよしラブリヌ』冬の号に『山田さん』の続線を発衚、埩垰を果たした。しかし、家事ず仕事の䞡立が時間的に䞍可胜ずなり、同䜜を最埌に挫画家掻動からの匕退を自身のホヌムペヌゞで発衚(自身のホヌムペヌゞでは「『なかよし』を去り、挫画家掻動を無期限䌑止」ず衚珟しおいた)、2007幎2月をもっおホヌムペヌゞを閉鎖した。 2011幎から、単行本が絶版ずなっおいた『セキホクゞャヌナル』、『ヒロむンをめざせ!』、『ずんでもナむト』の䞉䜜が『Jコミ』にお党線無料公開された。 Jコミを立ち䞊げた赀束健は、小坂が倧孊生の頃に圚籍しおいた挫画研究郚の埌茩にあたり、圚孊圓時は小坂がペン入れのアドバむス等を行ったずいう。同3䜜品は2020幎3月に『Jコミックテラス』より囜内電子曞籍ストアぞの配信も行われた。 『るんるん』にお代衚䜜『セキホクゞャヌナル』を連茉し、たた『なかよし』の䜜家陣の䞀員ずしお掻躍。さらに合䜜挫画などでは䞻に構成を担圓した。 䜜品がアニメ化されるこずはなかったが、コアなファンが倚く、男性ファンも倚数存圚し、90幎代のなかよしずるんるんを支えた。 かわいらしくすっきりずした絵柄ず小気味のいいギャグが特城で孊園もの、スポヌツもの、ホラヌず幅広く描く。 なかよし、るんるんずしおは比范的䞻人公の幎霢が高め(高校生)の䜜品が倚く、魔法少女ものが倚いなかよしの䞭でファンタゞヌものは手掛けおおらず、珟実的な䜜颚が倚かった。
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玀元前17侖简
玀元前17侖简(きげんぜんじゅうななせいき)は、西暊による玀元前1700幎から玀元前1601幎たでの100幎間を指す䞖玀。
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アフリカ倧陞
アフリカ倧陞(アフリカたいりく)は、アフロ・ナヌラシア倧陞のうちス゚ズ地峡の西偎の郚分を占める倧陞を指す。ナヌラシア倧陞ずは陞続きになり、むンド掋・倧西掋・地䞭海に囲たれおいる。単にアフリカずいうずきは、倧陞の呚蟺の島嶌(マダガスカル島など)や海域をも含んだ地域の総称になる。か぀おは、暗黒倧陞(英:Dark continent)ず呌ばれおいた。 倧陞北郚は非垞に也燥したサハラ砂挠で、赀道付近は広倧な熱垯雚林が広がる。その南偎もたた也燥しおおり、サバナず砂挠が広がる。倧陞東郚には南北に倧地溝垯があり倧陞を東西に匕き裂いおいお、ビクトリア湖などを経お䞀幎に数センチメヌトル単䜍で東西に分裂しおいっおいる。 アラビア半島やマダガスカル島もか぀おは倧陞ず䞀䜓であったが、この地溝垯によっお分裂した。倧陞自䜓は北ぞ移動しおおり、地䞭海をはさんだペヌロッパぞ接近しおいる。アルプス山脈はこのために造山運動が起こっおいるが、アフリカ倧陞自䜓も最北郚はアトラス山脈が連なっおいる。 ラむオン・アフリカゟり・キリンなど倧型哺乳類がよく知られおいる。ゟり・ラむオン・サむなどは熱垯アゞアに近瞁皮があるが、キリン・カバなどはアフリカだけに生息する。たた、クマが生息しおいないこずは意倖に知られおいない。これは、19䞖玀頃たでアフリカ倧陞北郚の地䞭海沿いのアトラス山脈呚蟺にアトラスヒグマ(英語版)(U. a. crowtheri)が生息しおいたが、絶滅した事による。ゎリラ・チンパンゞヌなど、特に人間に近瞁な類人猿がいる地域でもあり、人類の起源もたた、アフリカ䞭郚であるず考えられおいる。
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パンゲア倧陞
パンゲア倧陞(パンゲアたいりく)ずは、ペルム玀から䞉畳玀にかけお存圚した超倧陞である。パンゲア(Pangaea/Pangea)ずいう名前は叀代ギリシャ語のpan(π៶Μ, 党おの、党䜓の)Gaia(γαῖα、ガむア、倧地)から。挢名は盀叀倧陞(ばんこたいりく)である。 1912幎にアルフレヌト・ノェヌゲナヌは、自身の提唱する倧陞移動説の䞭で、珟圚の諞倧陞は分裂する前に䞀぀であったずの仮説を考え、この倧陞を「パンゲア倧陞」ず呜名した。 圓初、倧陞を動かす原動力が説明されおおらず、このような移動は物理的にありえないず亜流扱いされたが、ノェヌゲナヌの死埌、1950幎以降次々に新事実が芋぀かり、プレヌトテクトニクス理論ずしお再評䟡されおいる。 叀生代ペルム玀の終わりである2億5000䞇幎前頃に、ロヌレンシア倧陞、バルティカ倧陞(ロヌレンシア・バルティカ䞡倧陞は既にデボン玀には衝突し、ナヌラメリカ倧陞を圢成しおいた)、ゎンドワナ倧陞(ペルム玀初期にはナヌラメリカず衝突)、シベリア倧陞などすべおの倧陞が次々ず衝突したこずによっお誕生し、䞭生代䞉畳玀の2億幎前ごろから、再び分裂を始めた。 超倧陞の完成時、地球内郚からスヌパヌプルヌムが䞊昇しお䞖界各地の火山掻動が掻発になり、ペルム玀ず䞉畳玀ずの境界(P-T境界)に圓時生きおいた叀生代の海掋生物皮のうち、実に95%以䞊が絶滅した。 圓時の海氎準は高かったため、倧半の時代は、浅海によっお幟぀かの陞塊に分かれおいた。 パンゲア倧陞は、赀道をはさんで䞉日月型に広がっおいた。䞉日月内郚の浅く広倧な内海であるテチス海では倚くの海掋生物が繁殖した。その䞀方、内陞郚は海岞から遠いため也燥した砂挠が荒涌ず広がっおいた。ほが党おの倧地が地続きで動怍物の移動が促進されたため、生物倚様性は珟圚よりも乏しく均質だった。 1億8000䞇幎前のゞュラ玀になるず、南北に分裂し、北はロヌラシア倧陞、南はゎンドワナ倧陞ずなった。䞡倧陞は、曎に分裂しおいった。 パンゲア倧陞の圢状に぀いおは、䞉日月型ではなく、䞊蚘地図のナヌラシア倧陞の凹みずオヌストラリア倧陞の凞郚ずが䞁床぀ながり、䞞くなっおいたずいう説もある。
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8,709
アルフレヌト・ノェヌゲナヌ
アルフレヌト・ロヌタル・りェヌゲナヌ(Alfred Lothar Wegener、1880幎11月1日 - 1930幎11月2日もしくは11月3日)は、倧陞移動説を提唱したドむツの気象孊者。珟圚でいう地球物理孊者である。1908幎からマヌルブルク倧孊で教鞭を執り、1924幎にオヌストリアのグラヌツ倧孊の教授に就任した。 矩父(劻の父芪)は「ケッペンの気候区分」で有名なロシア出身のドむツ人気象孊者りラゞミヌル・ペヌタヌ・ケッペン。日本では英語読みでアルフレッド・りェゲナヌずも衚蚘される。 ノェヌゲナヌは、牧垫のリヒャルト・ノェヌゲナヌず劻アンナの間に生たれた5人の子の末っ子だった。5人のうち2人は子どものうちに亡くなっおいた。 圓初ハむデルベルグずむンスブルックの倧孊に孊び、倩文孊を専攻しおいたが、極地探怜にあこがれお気象孊も孊ぶ。ベルリン倧孊で倩文孊の博士号を取埗したあず、兄のいた航空気象台に助手ずしお雇われる。 そこで気球を甚いた高局気象芳枬や倩文芳枬の先駆的研究に携わった。1906幎には科孊者の兄クルトずずもに気球に乗っお滞空コンテストに参加し、圓時の最長滞空の䞖界最高蚘録である52.5時間を達成した。 同幎、デンマヌク探怜隊の遠埁に応募し、グリヌンランドに2幎間滞圚した。これがノェヌゲナヌの5床にわたるグリヌンランド探怜の最初である。滞圚䞭、北東岞の地図䜜りの手䌝いをしたり、倚くの極地気象のデヌタを収集した。ずくに極地での気球による䞊局倧気の調査はこれが初めおであったため、気象孊者の泚目を集めた(それをきっかけにケッペンず芪しくなり、のちに圌の嚘ず結婚する)。 1910幎、䞖界地図(むギリスが䞭心に描かれおいるもの)を芋お、南倧西掋を挟んで、南アメリカ倧陞の東海岞線ずアフリカ倧陞の西海岞線がよく䌌おいるこずに気づいた。これが倧陞移動のアむデアの元ずなった。 1912幎にフランクフルトで開かれたドむツ地質孊䌚で初めお倧陞移動説を発衚した。 1914幎、第䞀次䞖界倧戊が始たり陞軍䞭尉の任務に぀くが、二床目に負傷したずき心臓の悪いこずが刀ったため、埌方にたわっお気象調査の任務を䞎えられた。この間に倧陞移動説を研究し執筆をすすめる。 1915幎にその䞻著『倧陞ず海掋の起源』の䞭で、地質孊・叀生物孊・叀気候孊などの資料を元にしお、䞭生代には倧西掋は存圚せず、珟圚は倧西掋をはさむ四倧陞が分離しお移動を開始、倧西掋ができたずする「倧陞移動説」を䞻匵した。ノェヌゲナヌの専門は気象孊であり、地質孊は専門倖である䞊、圓時の地質孊は今日では叀兞的ずされる化石の研究や同䞀地点の地局の重なりを調べる局序孊を䞻流の手法ずしおおり、圌の䞻匵は党く認められなかった。1919幎に矩父ケッペンの埌任ずしおハンブルクの海掋芳枬所気象研究郚門長ずなり、『倧陞ず海掋の起源』第2版を出した。ケッペンも叀気候孊者ずしお協力し、1922幎には第3版が出版された。 1929幎には『倧陞ず海掋の起源』の第4版(最終版である第5版はノェヌゲナヌの死去により未出版)においお、南北アメリカ倧陞だけでなく、こんにち存圚するすべおの倧陞は1぀の巚倧倧陞「パンゲア」であったが、玄2億幎前に分裂しお別々に挂流し、珟圚の䜍眮および圢状に至ったずする説を発衚した。各倧陞の岩石の連続性や氷河の痕跡、石炭局や叀生物の分垃などから挂流前の北アメリカずナヌラシア倧陞が1぀のロヌラシア倧陞であったこず、南アメリカずアフリカがゎンドワナ倧陞であったこずを説いた。しかし圓時の地質孊者たちは化石に基づく研究から圌が䞻匵する倧陞移動の根拠を「陞橋説」で説明し、「倧陞は沈む事はあっおも動くこずはない」(珟圚では誀りず刀明)ずしお批刀した。特に倧陞移動の原動力をうたく説明できなかったノェヌゲナヌの説は、たたも完党に吊定された。第4版ではマントル察流に蚀及したが、倧陞移動の原動力ず圌自身が気づかなかったのである。 気象孊分野では倧気熱力孊で業瞟をあげたものの、圌はそれでは満足せず、倧陞移動説の根拠を探すために自身を隊長ずしお5床目のグリヌンランド探査を行なった。(圓時の幎代掚定の䞍確かさから、グリヌンランドが西に移動する速床は珟圚考えられおいる幎数センチメヌトルよりずっず倧きい30メヌトルずノェヌゲナヌは掚定しおおり、正確な経床枬定で移動が怜出できるず考えた) 1930幎11月1日、ちょうど50歳の誕生日に、ノェヌゲナヌはグリヌンランド人のビルムセン(Rasmus Villumsen)ず2人で、補絊物資を持っお400kmはなれた西岞基地ぞ戻るため、雪嵐の䞭を出発した。しかし悪倩候のために2人は遭難し、基地ぞ垰り぀くこずはできなかった。翌幎5月12日になっおから、捜玢隊が基地から190kmの地点で立おられたスキヌの䞋にりェゲナヌの遺䜓を発芋した。りェゲナヌは(おそらく過劎による)心臓発䜜か䜕かで死亡し、ビルムセンは圌の遺䜓を埋葬した埌に1人で基地に向かったず考えられおいる。しかしビルムセンもその埌遭難し、たた圌がりェゲナヌの日蚘を持ち去ったために遭難圓時の詳しい様子もわかっおいない。墓暙には「偉倧なる気象孊者であった」ず蚘されおいるが、倧陞移動説に぀いおは䜕も觊れられおいない。 ノェヌゲナヌがグリヌンランドの氷河に消えおから玄30幎埌の1950幎代 - 1960幎代に、倧陞移動の原動力をマントル察流であるずいう仮説が唱えられ、さらに岩石に残された過去の地磁気の調査(叀地磁気孊)によっお「倧陞が移動した」ず考えなければ説明できない事実が刀明したこずから、倧陞移動説は息を吹き返した。その埌、これを発展させる圢で地殻倉動を総合的に説明できる説ずしおプレヌトテクトニクス理論が提唱され、ノェヌゲナヌの倧陞移動は「叀くお最も新しい地質孊」ずしお再評䟡され、珟圚では高く評䟡されおいる。 日本での玹介は戊前からおこなわれおいた。ただし、この時代には「異端の説」ずいう扱いであった。その時期にこの説を取り䞊げたものの䞀぀に手塚治虫の挫画『ゞャングル倧垝』(1950幎 - 1954幎)がある。同䜜品のクラむマックスは、倧陞移動説の蚌拠ずなる石を発芋するための登山であった。 その埌、日本では1960幎代になっお、䞻に地球物理孊系の孊者によっお䞊蚘のマントル察流ずずもに玹介され、1970幎代には小孊生向けの科孊読み物にも取り䞊げられるなど、広く知られるようになった。特に1973幎に小束巊京が発衚した小説『日本沈没』ず同幎公開のその映画版は、この説を普及させる䞊で倧きな圹割を果たした。1980幎-2001幎には、光村図曞出版の小孊5幎生の囜語教科曞で、「倧陞は動いおいる」(竹内均)、「倧陞は動く」(倧竹政和)ずしお掲茉された。 ただし、地球物理孊系の孊者ず地質孊系の孊者の間でこの説の受容に差があり、1980幎代たでの高等孊校の地孊の教科曞では出版瀟によっお扱いに違いがあった。日本列島の圢成史ずいう地球芏暡ではミクロに属する領域たでも倧陞移動ずプレヌト説による説明が日本で定着したのは、付加䜓説が受容された1990幎前埌のこずである。
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倧陞移動説
倧陞移動説(たいりくいどうせ぀、英: continental drift theory, theory of continental drift)は、倧陞は地球衚面䞊を移動しおその䜍眮や圢状を倉えるずいう孊説。倧陞挂移説(たいりくひょういせ぀)ずもいう。 発想自䜓は叀くからあり様々な人物が述べおいるが、䞀般にはドむツの気象孊者アルフレヌト・ノェヌゲナヌが1912幎に提唱した説を指す。ノェヌゲナヌの倧陞移動説は発衚埌長く受容されなかったが、珟圚はプレヌトテクトニクス理論の垰結のひず぀ずしお実蚌され受け入れられおいる。 ノェヌゲナヌは倧陞移動を思い぀いたきっかけずしお、倧西掋䞡岞の倧陞の圢状(特にアフリカず南アメリカ)が䞀臎するこずをあげおいるが、これに぀いお蚀及しおいる人物は、もっずも叀くはフランドルの地図補䜜者アブラハム・オルテリりス (1596幎)がいる。フランシス・ベヌコンも1620幎に西アフリカず南アメリカの圢状の䞀臎に぀いお述べおおり、セオドア・クリストフ・リリ゚ンタヌル(Theodor Christoph Lilienthal、1756幎)は倧西掋にあったずされる倧陞アトランティスの沈降ず海氎準の倉動に絡めお考察しおいる。たた、アレクサンダヌ・フォン・フンボルト(1801幎, 1845幎)は、「倧西掋は䞀皮の巚倧な河底ずしお誕生した。そしおその河川氎がたわりの倧陞の海岞線を削り取っおいった」ず述べおおり、その理由ずしお南緯10床以北の海岞の䞊行性をあげおいる。アントニオ・スナむダヌ=ペレグリニ(英語版)は1858幎に『倩地創造ずそのあばかれた神秘』ずいう本の䞭で南北アメリカをペヌロッパずアフリカに結合した図を茉せおいる。 具䜓的に蚌拠をあげお、か぀お倧陞同士が぀ながり超倧陞を圢成しおいたず述べたのぱドアルト・ゞュヌス(1901幎)で、ペルム玀に栄えた裞子怍物グロッ゜プテリスの化石の分垃から、南アメリカ、アフリカ、むンドが䞀぀の倧陞だったず考え、ゎンドワナ倧陞ず名付けた。たた、アルプスの山から海底堆積物や海生生物の化石が芋぀かるこずから、か぀おそこは海の底であったず考え、地䞭海よりも広かったそれをテチス海ず名付けおいる。しかし、圌は倧陞自䜓が動いたずは考えおおらず、圓時の地球収瞮説を䜿っお説明しおいる。 たた、りィリアム・ヘンリヌ・ピッカリングは1907幎に、か぀お超倧陞ずしお1぀だった南北アメリカずペヌロッパ、アフリカが、月が倪平掋から分離したため分裂を始めたずいう考えを述べおいる。1909幎にはロベルト・マントノァヌニ(英語版)が地球膚匵説を提唱し、膚匵により倧陞間の盞察距離が増倧したずしおいる。さらに1910幎にフランク・バヌズリヌ・テむラヌ(英語版)が山脈の圢成システムを述べた本の䞭で、倧西掋䞭倮海嶺があるため倧西掋が広がっお倧陞が移動したずいう、埌の海掋底拡倧説に䌌た説を述べおいる。 1912幎1月6日に、フランクフルト・アム・マむンで行われた地質孊䌚の垭䞊で、ノェヌゲナヌは倪叀の時代に倧西掋䞡岞の倧陞が別々に挂流したずする「倧陞移動説」を発衚した。ノェヌゲナヌの倧陞移動説は、枬地孊、地質孊、叀生物孊、叀気候孊、地球物理孊など様々な圓時最新の資料を元にしお構築されたもので、圌以前の説ずは詳现床や孊術的正確性などがはっきり異なったものだった。たた、明確に「倧陞移動(独: Kontinentalverschiebung、英: continental drift)」ずいう蚀葉を䜿ったのもノェヌゲナヌが最初であった。 さらに1915幎に出版された著曞『倧陞ず海掋の起源』の䞭で、圌は、石炭玀埌期に存圚しおいた巚倧な陞塊(超倧陞)が分裂しお別々に挂流し、珟圚の䜍眮・圢状に至ったず発衚した。この本は1920幎(第2版)、1922幎(第3版)、1929幎(第4版・最終版)ず出版され、各版はそれぞれ初めから完党に曞き盎されおいる。このうち第3版が英語ぞ翻蚳され、䞻な議論はその版の内容で行われた。ノェヌゲナヌはこの分裂前の超倧陞を「パンゲア」ず名付けたこずで有名だが、じ぀は第3版の最終章でほんの軜く述べおいるだけで、第4版ではパンゲアずいう呌称は蚘述されおいない。 圌は、倧陞が移動したずいう刀断の根拠ずしお、以䞋のようなものをあげおいる。 広い海で隔おられた別々の倧陞に、同じ皮類の、あるいはごく近瞁な動怍物が隔離分垃しおいる䟋はその頃たでには広く知られおいた。この説明に䜿われおいたのが陞橋説だった。ベヌリング海峡のように、今は海になっおいるがか぀お陞地ずしお自由に動怍物が行き来できた堎所を沈降陞橋ずいうが、これを南アメリカずアフリカを倧西掋南郚で぀なぐ「南倧西掋陞橋」、南アフリカ・マダガスカルずむンドを぀なぐ「レムリア陞橋」ずいった具合に、海峡のような倧陞棚ではなく今は深い海掋底である堎所にもあったずする説である。 この説の前提ずしお、地球が珟圚も冷华しおいっおいるため地殻が収瞮しおいくずする地球収瞮説があった。収瞮掻動によっお高くなったずころが山になり、逆に沈降したずころが海になったずいうもので、ノェヌゲナヌの時代ではただ有力な説であった。陞橋説は倧陞が沈む理由をこの収瞮説を䜿っお説明しおいた。 この地球収瞮説をノェヌゲナヌは、山脈を圢成するのに必芁な収瞮量の蚈算結果が到底䞍可胜な倀を瀺しおいるこず、地殻のアむ゜スタシヌの存圚から倧陞が沈降しお海掋になるこずはほずんどありえないこず、地球内郚の攟射性元玠の厩壊熱の存圚(1898幎にラゞりムが発芋されおいた)などをあげお吊定しおいる。そしお、倧陞移動を考えれば、隔離分垃の説明に(地球物理孊的に䞍自然な)沈降陞橋の存圚を考えなくおすむず述べた。 倧陞が移動するだけでなく、地球の極もその絶察䜍眮が移動するこずをノェヌゲナヌは詳现に述べおいる。癜亜玀以来の南極点の移動を、圌の垫であるりラゞミヌル・ペヌタヌ・ケッペンずずもに化石の調査から割り出しおおり、南アメリカを基準ずした極移動ずアフリカを基準ずした極移動を図で瀺した。そしおその移動のずれを倧陞移動によるずれずみなした。 この極移動は、その埌1950幎代に、叀地磁気の枬定からむンドの北䞊を指摘したパトリック・ブラケットのもずで孊んだケむス・ランコヌン(英語版)、゚ドワヌド・A・アヌノィング(英語版)らによる岩石の残留磁気の詳现な調査により、北米倧陞ずペヌロッパ倧陞のそれぞれの磁北極移動軌跡が描かれ、それらが系統的にずれおいるこずが確認されおいる。これはその埌、倧陞移動の独立の蚌明ずみなされた。 ノェヌゲナヌによるず、叀生代には地球䞊に珟圚芋られる倧陞はすべおたずたっお互いに隣接した䜍眮にあった。それらの郚分はすべおが陞であったわけではなく、少なくずも䞀郚は浅い海になっおいた。そこから、たずゞュラ玀以降に南極・オヌストラリア・むンドがアフリカ南郚から切り離された。北アメリカずグリヌンランド、それにペヌロッパは第䞉玀、北郚では第四玀に分裂が始たった。 たた、分裂ず倧陞の移動は造山運動を匕き起こし、䟋えばむンドはアゞア南郚ずぶ぀かり、ここに巚倧な山脈が圢成された。南北アメリカは西に移動したために、その前面である西偎に長い山脈が圢成された。 ノェヌゲナヌの時代には地球䞊局郚は花厗岩質のシアル(SiAl)局ず玄歊岩質のシマ(SiMa)局に分かれるずされおいた。これは前述の゚ドアルト・ゞュヌスによる分類である。倧陞地殻が氷山のようにシマ局の䞊に浮かんでいるようなモデルが想像されおいた。ノェヌゲナヌは密床の小さいシアルからなる倧陞地殻が、密床の高いシマ局の䞊を滑るように抌し分けお進むむメヌゞを考えた。 そしお、移動の駆動力ずしお離極力(遠心力)ず月ず倪陜による朮汐力に求めた。地球が回転しおいる楕円䜓であるため、赀道方向ぞの遠心力が働き、むンド、オヌストラリアの離極運動がおこり、朮汐力により地球の自転速床が遅くなり、南北アメリカぞの西向きの力が生じおいるずした。 このモデルはすぐにハロルド・ゞェフリヌズ、ポヌル・゜フォス・゚プスタむン(英語版)など物理孊者らによっお、遠心力や朮汐力は倧陞のような巚倧な陞塊を動かし山脈を圢成できるほど匷力ではないこずが瀺されおいる。シマ局は流䜓ではなく頑䞈な固䜓であるので、倚くの地球物理孊者・地質孊者に玍埗のいくメカニズムずはみなされなかった。 その埌、アレクサンダヌ・デュ・トワによる倧陞呚蟺の地向斜による匕っ匵りによる分裂説(1937幎)や、アヌサヌ・ホヌムズによるシマ局の熱察流による移動説(1929幎, のちのマントル察流説、1944幎)などが唱えられたが、いずれも蚌拠に乏しく、定量的にも䞍十分なものだったため、次第に正統掟の地質孊者からかえりみられなくなっおいった。 倧陞移動説に察する評䟡は様々だった。ペヌロッパやその南半球の怍民地などでは圓初奜意的に評䟡する研究者も倚かった。倧耶曲山脈の圢成の説明に䜿われおいた地球収瞮説が説埗力を倱い぀぀あった時代に、倧陞移動説は山脈を生み出す別の原動力を䞎えるこずができたからである。たた、南半球では距離的にごく近いのに生物盞がたったく異なるりォレス線のように倧陞移動がなければどうしおも説明が぀かない事䟋がいく぀か発芋されおいた。倧陞移動説がたったく芋向きもされなくなった時代でも、南アフリカやオヌストラリアの研究者に倧陞移動を支持するものがいたのはこのためである。䞀方、吊定的に評䟡したのはアメリカの研究者たちだった。圓時知られおいた物理孊では、倧陞移動をおこすような駆動力は説明ができなかったためである。圌らはしばしば、ノェヌゲナヌを専門倖の孊者ずしお感情的に批刀した。日本では寺田寅圊が奜意的に玹介したが、1924幎のハロルド・ゞェフリヌズらによる批刀が知られるようになるず取り䞊げる研究者は少なくなっおいった。 1920幎代には倧陞移動説に関するシンポゞりムが開かれ、ノェヌゲナヌの著曞が各囜で出版されおいたが、1926幎にニュヌペヌクで開かれたシンポゞりムの報告曞(1928幎)は倚くの孊者の反察意芋で占められ、倧陞移動説の死亡報告曞ずみなされた。1930幎のノェヌゲナヌの死埌、倧半の科孊者たちは倧陞移動説をたじめに取り䞊げなくなり、数幎埌にはナチス政暩が誕生しおドむツの科孊界も倉貌しおいった。 珟代から芋るず䞍自然な陞橋説より、よっぜど説明力があるように思える倧陞移動説が受け入れられなかった理由の䞀぀に、倧陞を動かす原動力の説明ができなかったこずがよく取り䞊げられる。地圢、地質・叀生物・叀気候の数々の資料をノェヌゲナヌは蚌拠ずしお提瀺したが、いずれも状況蚌拠に過ぎず、圓時の䞀般抂念を芆すほどの蚌拠ずは芋なされなかった。S.J.グヌルドは「垞識で考えお"起こりえない"出来事はそれが起こったずいう蚌拠だけをいくら積み䞊げおも正圓に評䟡されない。いかにしおそれが起こりうるかを説明するメカニズムが必芁である」ず述べおいる。たた、圓時の物理孊では倧陞が動くこずを盎接的に蚌明する方法がなかった。ノェヌゲナヌも『倧陞ず海掋の起源』の䞭で「枬地孊的議論」の章を蚭け、「珟圚の倧陞の䜍眮倉化を実枬する定量的蚌明こそ倧郚分の研究者が最も厳密で信頌できる倧陞移動説の怜蚌である」ず述べおいる。 その埌、1950幎代から1960幎代にかけお、叀地磁気や倧西掋の海底などの研究によっお海掋底拡倧説が提唱され、それがプレヌトテクトニクス理論ぞず発展した。そしお、プレヌトの運動の結果ずしお倧陞移動が導きだされるこずから、ノェヌゲナヌの説も芋盎されるようになった。ただし、ノェヌゲナヌの説は、海底面を構成する地局の䞊を倧陞自らが滑り動くずするものであり、プレヌトがその衚面に露出する倧陞を䌎っお動くずするプレヌトテクトニクス理論ずはメカニズムが異なる。 倧陞移動説が嘲笑の察象ずなっおいた時代ずその埌の再評䟡を地質孊の分野で盎接経隓した叀生物孊者S.J.グヌルドはこう述べおいる。 なお倧陞移動の実枬は1980幎代埌半に電波星や衛星を甚いた枬量技術(VLBI)が発展しおから可胜になり、倚くの倧陞が1幎に数cmの速床で移動しおいるこずが明らかになった。
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沖ノ鳥島
沖ノ鳥島(おきのずりした)は、倪平掋(フィリピン海)䞊に䜍眮する小笠原諞島に属する孀立島。サンゎ瀁からなる島であり、東京郜小笠原村に属する。日本の領土ずしおもっずも南に䜍眮しおおり、日本最南端の島である。地名衚蚘は東京郜小笠原村沖ノ鳥島。 東京郜心郚から1,740キロメヌトル、硫黄島から720キロメヌトル、フィリピン海プレヌトのほが䞭倮、九州・パラオ海嶺䞊に䜍眮する、倪平掋の絶海に孀立しお圢成された南北玄1.7キロメヌトル、東西玄4.5キロメヌトル、呚囲玄11キロメヌトルほどの米粒圢をしたサンゎ瀁の島である。北回垰線の南に䜍眮するため、長らく日本で唯䞀熱垯に属しおいた。 干朮時には環瀁の倧郚分が海面䞊に姿を珟しおいるが、満朮時には瀁池内の東小島(旧称・東露岩)ず北小島(旧称・北露岩)を陀いお海面䞋ずなる。 沖ノ鳥島は過去100幎あたり1センチメヌトルずいう、地盀沈䞋が極めお小さいこずでも知られ、地球枩暖化に䌎う海面の氎䜍倉化を調べるのに圹立っおいる。1999幎から2002幎のGPS調査によるず、沈降こそないものの、N70°W5.0センチメヌトル/幎(1幎間に進む距離が、真北から西ぞ70床回った方向に5センチメヌトル)で西北西に移動しおいるこずが確認されおいる。 島呚蟺は海面ず海底の海氎の枩床差が幎間を通じお20°Cほどあり、海掋枩床差発電にふさわしい条件が揃っおいる。 なお、「沖ノ鳥島」ずしお公匏に蚘茉されたのは1929幎(昭和4幎)のこずであるが、沖ノ鳥島ずいう名前自䜓の由来は䞍明である。 沖ノ鳥島があるこずにより、日本の領海ず排他的経枈氎域が倧幅に拡倧されるため、日本政府は護岞工事などを行っお領土ずしお保護しようず尜力しおいる。 東京郜小笠原村沖ノ鳥島1番地。旧称は北露岩。北緯20床25分31秒 東経136床4分11秒 / 北緯20.42528床 東経136.06972床 / 20.42528; 136.06972 (北小島)に䜍眮する。面積7.86平方メヌトル。海抜は第二次䞖界倧戊以前の海図では2.8メヌトルず蚘茉されおいたが、2008幎3月時点で玄1メヌトル。高朮(満朮)時も玄16センチメヌトルが海面䞊に珟れる。䞉等䞉角点「北小島」が蚭眮されおいる。 東京郜小笠原村沖ノ鳥島2番地。旧称は東露岩。北緯20床25分32秒 東経136床4分52秒 / 北緯20.42556床 東経136.08111床 / 20.42556; 136.08111 (東小島)に䜍眮する。面積1.58平方メヌトル。海抜は第二次䞖界倧戊以前の海図では1.4メヌトルず蚘茉されおいたが、2008幎3月時点で玄0.9メヌトル。高朮(満朮)時も玄6センチメヌトルが海面䞊に珟れる。䞀等䞉角点「沖ノ鳥島」が蚭眮されおいる。 日本は1988幎から北小島および東小島に鉄補消波ブロックの蚭眮ずコンクリヌト護岞工事を斜し、東小島にはチタン補防護ネットを被せお保護しおいる(詳现は#浞食防止策を参照)。 第二次䞖界倧戊䞭の1940幎(昭和15幎)7月䞭旬、倧日本垝囜海軍は北露岩に無人灯台建蚭を蚈画した。その埌、䞭断しおいた灯台基盀跡に、人工島の芳枬所基盀が、海面䞊に倧芏暡な芳枬斜蚭(䜜業架台:60メヌトル×80メヌトル)が建築されおおり、無人の気象・海象芳枬が行われおいる(海掋研究開発機構)。 その他、船舶が沖ノ鳥島に座瀁するこずを防止するため、海䞊保安庁によっお領海内に「沖ノ鳥島灯台」が蚭眮されおいる。この無人灯台の灯火は海面䞊から26メヌトルの䜍眮にあり、発光ダむオヌドの光を沖合12海里たで届けるもので倪陜電池によっお皌働しおいる。 東小島には䞀等䞉角点「沖ノ鳥島」、北小島には䞉等䞉角点「北小島」、芳枬所基盀には氎準暙石が蚭けられおいる。たた、2005幎には電子基準点「沖ノ鳥島」が東小島に蚭眮されおいる。 第二次䞖界倧戊の前の1933幎の調査蚘録では、海抜最倧2.8メヌトルの北露岩、1.4メヌトルの東露岩、さらに北露岩の南偎に海抜2.25メヌトルの「南露岩」、それ以倖に60 - 90センチメヌトルの露岩があり、合蚈6぀の露岩が満朮時にも姿を珟しおいたこずが蚘されおいる。 これらのうち、南露岩は1938幎に消倱が確認された。1968幎に日本ぞ斜政暩が返還されたあずの1982幎以前は露岩の数は4぀ずされおいたため、1987幎たでに、珟圚の北小島、東小島を陀いたものは颚化や海食により消え倱せたず芋られおいる。 日本がアメリカ合衆囜やむギリスをはじめずする48か囜ず締結したサンフランシスコ平和条玄第3条では、日本は「北緯二十九床以南の南西諞島(琉球諞島及び倧東諞島を含む。)、孀婊岩の南の南方諞島(小笠原矀島、西之島及び火山列島を含む。)䞊びに沖の鳥島及び南鳥島」を、アメリカ合衆囜を斜政暩者ずする囜際連合の信蚗統治制床の䞋に眮くこずを承認し、さらには囜際連合がこの信蚗統治制床を可決するたでの間は、アメリカがこれらの島々に察する斜政暩を持぀こずを承認した。実際にはアメリカは囜際連合に察しおこれらの島を信蚗統治する提案をしなかったため、沖ノ鳥島は小笠原諞島ずずもにアメリカの斜政䞋に眮かれたものの、領土䞻暩は日本に残された。1968幎(昭和43幎)に日本囜ずアメリカ合衆囜が結んだ小笠原返還協定が発効したこずにより、小笠原諞島および沖ノ鳥島の斜政暩は日本に返還された。 日本では小笠原諞島の䞀郚ずしお東京郜小笠原村に属し、䜏所は郵䟿番号「100-2100」、東京郜小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)および、2番地(東小島)ずなっおいるが、無人島のため亀通困難地の䞀芧には掲茉されおいない。所属垂町村が未定である鳥島などず違い、所属垂町村が決たっおおり䜏所が蚭定されおいるため本籍を眮くこずが可胜である。 1987幎10月に東京郜によっお海岞保党区域に指定されたが、東京郜だけでは保守費甚を負担しきれないこずから、1999幎6月以降は、党額囜費による盎蜄管理(所管は囜土亀通省)ずなっおいる。2011幎6月、䞀郚が䜎朮線保党区域に指定されおいる。 電話の垂倖局番は小笠原村の04998だが、珟状では無人島であるこずから加入者は存圚しおいない。 沖ノ鳥島が日本囜の領土であり、その呚囲に日本の領海・領空を持぀こずは、どこの囜家からも異論が出おいない。ただし䞋蚘のように、沖ノ鳥島を基点ずする排他的経枈氎域(Exclusive Economic Zone、略称:EEZ)および倧陞棚の蚭定に぀いお、日本囜ず䞭華人民共和囜(䞭囜)、䞭華民囜(台湟)および倧韓民囜(韓囜)、朝鮮民䞻䞻矩人民共和囜(北朝鮮)の間で、䞻匵が異なっおいる。 1994幎11月16日に発効した、囜際海掋法の基瀎ずなっおいる海掋法に関する囜際連合条玄(囜連海掋法条玄)では、「島」ず「岩」に぀いお以䞋のように定矩されおいる。 第121条 第1項:島ずは、自然に圢成された陞地であっお、氎に囲たれ、高朮時においおも氎面䞊にあるものをいう。 第121条 第3項:人間の居䜏又は独自の経枈的生掻を維持するこずのできない岩は、排他的経枈氎域又は倧陞棚を有しない。 日本囜はこの第121条1項の定矩に埓っお沖ノ鳥島は「島」であるずし、囜連海掋法条玄発効に䜵せお制定した「排他的経枈氎域及び倧陞棚に関する法埋」(平成8幎法埋第74号)によっお、沖ノ鳥島を䞭心ずする排他的経枈氎域および倧陞棚を蚭定した。 しかし、沖ノ鳥島が同3項の「岩」に圓おはたるずすれば、沖ノ鳥島は領海は有するものの、排他的経枈氎域や倧陞棚を有しないずいうこずになる。海掋法専門家でハワむ倧孊マノア校教授のゞョン・ノァン・ダむクは、1988幎1月21日のニュヌペヌク・タむムズで「沖ノ鳥島――せいぜいキングサむズのベッドくらいの倧きさしかない、2぀の浞蝕された突起から構成される――」ず、独自の経枈的生掻を維持するこずのできない居䜏䞍可胜な岩ずいう蚘述に間違いなくあおはたるので、200海里の排他的経枈氎域を生み出す資栌を䞎えられない、ず䞻匵した。ダむクは同様の䞻匵を繰り返し、その意芋は2005幎2月16日のりォヌル・ストリヌト・ゞャヌナルで「日本の立堎は、むギリスが1990幎代にEEZの䞻匵を諊めた、倧西掋のロッコヌル島の䟋に酷䌌しおいる」「沖ノ鳥島のEEZをもっずもらしく䞻匵するこずはできない」ずしお玹介されおいる。こうした意芋に察しお日本囜政府は、「岩」の定矩が同条玄䞊に存圚しないこずを根拠に、沖ノ鳥島の排他的経枈氎域を䞻匵しおいる。 2003幎以降には、䞭囜および韓囜の2か囜が日本の䞻匵に察する異議を申し立おるようになった。䞡囜は、沖ノ鳥島が日本の領土であるこずは認めるものの、それは囜連海掋法条玄第121条第1項の「島」ではなく、同条第3項の「岩」であり、沖ノ鳥島呚蟺に日本囜が排他的経枈氎域を蚭定するこずはできないず䞻匵しおいる。 なお同条玄には、島に関する以䞋のような条文も定められおいる。沖ノ鳥島の北小島・東小島に蚭眮された鉄補消波ブロックやコンクリヌト補護岞・チタン補防護ネット、および芳枬所基盀・芳枬拠点斜蚭に぀いおは、この条文に蚘された人工の「構築物」に該圓する。ただし、沖ノ鳥島の本䜓は自然に圢成されたものであるため、この条文には該圓しない。 ロッコヌル島 海面から突出した塔状の岩(高さ玄23m、盎埄27m)。無䞻地であったため1955幎からむギリスが領有暩を䞻匵、1972幎にむギリスの領土ずしお正匏に線入された。排他的経枈氎域 (EEZ) を蚭定した堎合、豊富な海掋資源を埗るこずができるため、むギリスは線入埌にロッコヌルを基点ずするEEZの蚭定を怜蚎したが、アむルランド共和囜、デンマヌク(フェロヌ諞島の䞀郚ずしお)、アむスランドはこれに反察しおいた。 1982幎に採択、1994幎に発効した「海掋法に関する囜際連合条玄(囜連海掋法条玄)」には、121条3項に「人間の居䜏又は独自の経枈的生掻を維持するこずのできない岩は、排他的経枈氎域又は倧陞棚を有しない」ず芏定されおおり、むギリスは、ロッコヌル島は「条玄第121条3項に基づき持業氎域の限界のための有効な基点ではない」ず刀断しお政策転換を図り、ロッコヌル島の排他的経枈氎域ず倧陞棚に関する䞻匵を攟棄した。 倪平島 䞭華民囜(台湟)が実効支配。 䞭華民囜政府は2016幎3月23日、海倖メディアを初めお倪平島に招き、島には井戞氎が湧いおおり、人間の居䜏や蟲業が可胜であるこずをアピヌルした。島内にはこのほか原生林、倪陜光発電斜蚭、芳音堂、病院があり、病院では倖囜人に察しおも人道的芋地から医療掻動をしおいるず説明した。 しかし、2016幎7月12日、囜連海掋法条玄に基づくオランダ・ハヌグの仲裁裁刀所が、倪平島を含む南沙諞島(スプラトリヌ諞島)には法的に排他的経枈氎域(EEZ)を蚭けられる「島」はないず認定し、䞭華民囜(台湟)が実効支配する倪平島が「島」ではなく「岩」だずしお排他的経枈氎域を認めない刀断を䞋した(南シナ海刀決)。 これに察しお、䞭華民囜政府は匷く反発。蔡英文総統は「裁定は台湟の暩利を傷぀けるもの」ずしお軍艊(康定玚フリゲヌト「迪化」)を掟遣した。 2016幎(平成28幎)4月、台湟の銬英九䞭囜囜民党政暩(圓時)は、排他的経枈氎域を蚭定できない岩ずの認識を瀺しおいた。台湟持船「東聖吉16号」が4月25日午前、沖ノ鳥島の東南東150海里の海䞊で日本の海䞊保安庁に拿捕されたこずに぀いお、匵善政・行政院長は26日、沖ノ鳥はただの岩瀁であり、排他的経枈氎域(EEZ)は蚭定できないず指摘。持船は公海䞊で操業しおおり、日本に拿捕する暩利はないず語った。匵氏は、堂々たる倧囜である日本が、なぜこのような理䞍尜なこずをしたのか、ず批刀。蟲業委員䌚持業眲の蔡日耀眲長も25日、沖ノ鳥は岩瀁であるずしお、同様の䞻匵を行っおいた。しかし翌5月に発足した蔡英文民䞻進歩党政暩は、自由民䞻党囜䌚議員らずの察話埌、5月23日に「法埋䞊の特定の立堎を取らない」ずしお扱いを修正した。翌24日のフォヌカス台湟は、この方針転換に察し䞋野した囜民党はもちろん䞎党の民進党からも異論が盞次いだず報道した。民進党の黄偉哲・立法委員は方針転換は「速すぎるず蚀わざるを埗ない」ずした䞊で、台湟は沖ノ鳥を「岩」ず䞻匵するべきだず蚎えた。同党の蔡其昌・立法院副院長(囜䌚副議長)も、新政暩の決定に理解を瀺し぀぀も、個人的には「岩」だず認識しおいるず語った。囜民党の林埳犏・立法委員は新政暩を「匱腰」ず批刀し、「台湟の持民は今埌、公海で日本の船を芋たら逃げなければならないのか」ず皮肉った。同党の江啓臣・立法委員は、「囜の尊厳ず品栌を損なう発蚀だ」ず童報道官を非難した。たた、民進党、囜民党に次ぐ第䞉党の時代力量も、沖ノ鳥は「岩」であるずの立堎を瀺した。25日には行政院の童振源報道官が、囜連倧陞棚限界委員䌚は沖ノ鳥島の北偎の海域では倧陞棚の延長を認めたが、「南偎は結論が先送りされおいる」ず指摘し、沖ノ鳥呚蟺の排他的経枈氎域(EEZ)をめぐる囜際的論争はいたなお存圚するず匷調した。䞀方で、最も重芁なのは持業暩を守るこずであるずしお、日本偎ずの協議を進める姿勢を改めお瀺した。30日には葉俊栄内政郚長が立法院の質疑においお、沖ノ鳥島に぀いおの囜民党所属の立法委員からの質問に察し、「内政郚の業務ではない」ずしながらも、「基本的には岩」ずする認識を瀺し、呚蟺海域には排他的経枈氎域(EEZ)はないずした。2018幎5月23日の台湟立法院における野党ずの質疑の䞭で、海掋政策を担圓する海掋委員䌚の黄煌茝䞻任委員は沖ノ鳥島に぀いお、「沖ノ鳥は岩で、倪平島は島」だずする芋解を明らかにした。たた台湟は島の地䜍が確定するたで持業暩を認めるようにも䞻匵しおいる。 サンフランシスコ平和条玄においおは沖ノ鳥島の存圚に぀いお明蚘されおおり、日韓基本条玄ではサンフランシスコ平和条玄の関係芏定を想起し条玄を締結するこずに決定ず定められおいる。しかし、同囜の倖亀郚は沖ノ鳥島が島であるこずを吊定しおいる。 沖ノ鳥島は日本領土から数癟キロも離れた倪平掋の䞊に䜍眮した岩であり、囜連海掋法協玄で芏定された島の範疇に属しおもおらず、自らの経枈氎域を持぀こずができないず䞻匵しおいる。 2005幎5月20日、石原郜知事は沖ノ鳥島の芖察を行い、呚蟺海域ぞシマアゞの皚魚を攟流した。同幎6月17日には囜土亀通省が瞊1メヌトル、暪1.5メヌトルのチタン補銘板を蚭眮した。「東京郜小笠原村沖ノ鳥島䞀番地」「日本囜最南端の島」のほか、沖ノ鳥島の緯床・経床が刻たれおいる。 2005幎8月24日、海䞊保安庁は経枈掻動実蚌のため沖ノ鳥島に灯台を蚭眮するこずを決定し、2007幎3月16日に、呚蟺海域を航行する船舶や操業持船の安党ず運航胜率の増進を図るこずを目的ずしお「沖ノ鳥島灯台」を蚭眮しお運甚開始した(#地理を参照)。たた、同灯台を海図に蚘茉した。 2009幎11月6日、環瀁郚分に船舶が接岞できるような枯湟斜蚭を建蚭する方針を決めたず報道され、2013幎に建蚭を開始した(#浞食防止策を参照)。䞭囜の「『経枈的生掻の維持』ができない」ずする䞻匵に察抗する意図があるずされる。 2010幎7月23日には「排他的経枈氎域及び倧陞棚の保党及び利甚の促進のための䜎朮線の保党及び拠点斜蚭の敎備等に関する基本蚈画」を閣議決定し、沖ノ鳥島における特定離島枯湟斜蚭の建蚭に着手しおいる。 2020幎7月10日、老朜化した旧芳枬拠点斜蚭の撀去ず新芳枬拠点斜蚭ぞの曎新、及び砎損しおいた芳枬所基盀の船着き堎の灜害埩旧が行われたこずを公衚した。 2008幎11月12日、日本は倧陞棚限界委員䌚(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に察しお、沖ノ鳥島の呚蟺海域である九州・パラオ海嶺南郚海域、四囜海盆海域を含む7぀の海域に぀いお倧陞棚延長申請を提出した。その申請に察しおアメリカ合衆囜、䞭囜、韓囜およびパラオがそれぞれ、自囜の芋解を瀺す文曞を提出しおいる。アメリカ合衆囜ずパラオは日本に異議を唱えなかったが、䞭囜ず韓囜ずフィリピンは「沖ノ鳥島は、島に該圓せず、岩に圓たる」ずいう抗匁を2009幎2月に提出しお、倧東島、沖ノ鳥島より南西の日本の領海を「フィリピン海」ず定矩するずしお、沖ノ鳥島を「島」ずする採択が前進する。 2009幎9月に、倧陞棚限界委員䌚は日本の採択を審査するために、各海域の審査を行った。2011幎8月には倧陞棚限界委員䌚においお、「フィリピン海」ず定矩するずしお、沖ノ鳥島を「島」ず定矩する案を提出したが、䞭囜は改めお異議を提出ずなった。その埌、2012幎4月の党䜓䌚合においお、沖ノ鳥島の北偎に䜍眮する四囜海盆海域を含む4぀の海域に぀いお、日本の申請の倧郚分を認める案が採択された。 䞀方で、倧東島、沖ノ鳥島の南西偎に䜍眮する九州・パラオ海嶺南郚海域に぀いおは、委員䌚が勧告を出すための行動を取るべきか吊かの投祚においお、賛成5、反察8、棄暩3ずなり、可決に必芁な委員の3分の2以䞊の賛成が埗られず、倧陞棚限界委員䌚は「蚀及された事項が解決されるずきたで、本海域に関する勧告を出すための行動をずる状況にないず考える」ずの声明を出し、結論を先送りにした。 四囜海盆海域に぀いおの勧告採択を受け、倖務省は2012幎4月28日に「沖ノ鳥島を基点ずする我が囜の倧陞棚延長が認められおいるこずを評䟡したす」ずする談話を発衚したが、四囜海盆海域の倧陞棚延長は沖ノ鳥島以倖の陞地を基点ずしおも成立するものであるが、勧告の䞭に沖ノ鳥島が倧陞棚延長の基点であるずした趣旚の明確な蚘述はなく、勧告が沖ノ鳥島が倧陞棚延長の基点であるこずを認めおいるずは必ずしも断定できない。 たた、倧陞棚限界委員䌚はあくたでも科孊的・技術的な芳点から倧陞棚の延長に぀いお勧告をする囜際機関であっお、法的な問題に぀いお刀断する暩限はない。このこずは委員䌚自身が認めおいるずころであり、仮に倧陞棚限界委員䌚による勧告が沖ノ鳥島を倧陞棚延長の基点であるこずを認める趣旚のものであったずしおも、それは科孊的・技術的な芳点に関するものであり、囜連海掋法条玄䞊の「島」であるか「岩」であるかずいった法的地䜍に関する問題に぀いおは䜕ら圱響を䞎えるものではない。 沖ノ鳥島にある2぀の小島が颚化や海食で浞食され、満朮時に海面䞋に隠れおしたうず、定矩䞊の「島」ず認められなくなり、その堎合、日本の囜土面積(箄38䞇平方キロメヌトル)を䞊回る玄40䞇平方キロメヌトルの排他的経枈氎域が倱われおしたうため、1987幎から「灜害埩旧工事」ずしお2぀の島の呚りに鋳鉄補消波ブロックによる消波堀を蚭眮し、内郚に盎埄50メヌトルのコンクリヌト補護岞を蚭眮した。ずころが、護岞コンクリヌトの砎片が東小島を傷぀けるずいう事故が起こったため、東小島の䞊はチタン補の防護ネットで芆っおいる。これらの保党工事にかかった費甚は玄285億円である。 地球枩暖化にずもなう海面䞊昇により、島そのものが将来氎面䞋に没するこずが予想されおいる。そこで、自然の力により島を高くしようずの構想がある。具䜓的には、島の呚囲の珊瑚瀁を掻性化しお倧芏暡な珊瑚瀁を生成させる。これが砕けお砂ずなり堆積や波による集積を行うこずにより、自然の力により島の高さを䞊げおしたうずいう構想である。この構想の調査のために、氎産庁は実斜期間を2006幎床から2幎間ずする「生育環境が厳しい条件䞋における増逊殖技術開発調査事業」を創蚭、業務取りたずめ機関ずしお「サンゎ増逊殖技術怜蚎委員䌚」を蚭眮し、初幎床に3億円の予算を充おおいる。 2010幎、民䞻党政暩䞋においお囜土亀通省が750億円を投じ、沖ノ鳥島の西偎に枯湟蚭備、岞壁、泊地、臚枯道路などむンフラストラクチャヌを建蚭し、茞送や補絊が可胜な掻動拠点を䜜るこずを決定した。経枈的な掻動拠点が完成すれば、事実䞊の有人島ずなり「同島では経枈的生掻の維持ができない」ずする島の地䜍に関する批刀(前出の「#地䜍に関する論争」を参照)を退けるこずができるこずから蚈画されたものである。 この蚈画に埓っお、2011幎床に囜土亀通省が特定離島枯湟の建蚭に着手した。長さ160メヌトルの岞壁を䜜る工事で、130メヌトル玚の倧型海底調査船も停泊可胜な岞壁ずなる。枯湟敎備は2027幎床に完成する予定。囜土亀通省は「茞入頌みの資源を自前で開発する拠点。経枈的な安党保障に぀ながる」ず説明しおいる。2019幎7月珟圚、北偎桟橋、䞭倮桟橋、南偎桟橋ず荷捌斜蚭が建蚭されおいる。 沖ノ鳥島は気象条件が厳しくアクセスが難しいため、航空機や船舶による島や枯湟斜蚭の監芖・保党に支障が出おいる。 2021幎、沖ノ鳥島ず南鳥島ずその呚蟺の衛星画像を人工知胜で解析し、斜蚭の状況を早期に把握するシステムを囜土亀通省が2022幎床に導入するず報道された。
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南鳥島
南鳥島(みなみずりした)は、小笠原諞島の島。本州から1,800キロメヌトル離れた日本の最東端ずしお知られおいる。そのため、日本列島の東偎に南北に走る日本海溝を隔おた唯䞀の島である。行政䞊は東京郜小笠原村に属する。珟圚は䞀般䜏民はいないが海䞊自衛隊、気象庁、関東地方敎備局の人員が垞駐しおいる。䞀般人は立ち入り犁止ずされおおり、芳光目的で蚪問するこずはできず、垞駐職員以倖は調査、取材目的での立ち入りずなる。たた、島内に医垫も医療斜蚭も無く、食䞭毒を起こすず呜の危険があるため、魚を釣っお食べる事は犁止されおいる。 日本囜の島では唯䞀、他の島ず排他的経枈氎域を接しおいない島でもある。マヌカス島、マルカス島(-ずう、Marcus Island)ずも呌ばれる。本島ずトゥむシの間が、日本囜の斜政暩の及ぶ領土間で最長の倧圏距離を取るこずができる地点である(箄3,139キロメヌトル)。 ケッペンの気候区分でいうサバナ気候 (Aw) に属する。月平均気枩2月21.8°C - 7月28.5°C、幎間平均25.8°Cず枩暖。降氎量は日本囜内では少なめ。日本では南西諞島ず南鳥島を含む小笠原諞島のそれぞれ䞀郚が熱垯に属しおいるが、南西諞島はアゞア倧陞からの距離が近いため寒候期(10 - 3月)にはシベリア気団の倧きな圱響を受ける。同じ熱垯でも、南西諞島南郚(石垣島、西衚島、䞎那囜島、宮叀島など)は幎䞭降氎量が倚いので熱垯雚林気候 (Af) に属する。これに察しお、南鳥島は倧陞からの距離が遠いため幎間の気枩差が小さいが、日平均気枩幎范差が玄6.7°Cあり、寒候期には北極方面からの寒気の圱響があるこずを瀺しおいる。極倀は、最䜎気枩が1976幎2月10日 13.8°C、最高気枩が1951幎7月17日 35.6°C、積雪蚘録はない。たた、南鳥島はアメダス、気象官眲をあわせた気象庁の芳枬所における11月、12月、1月の囜内最高気枩蚘録を保持しおいる。(それぞれ1953幎11月4日の34.2°C、1952幎12月5日の31.6°C、1954幎1月7日及び2021幎1月9日の29.7°C) 䞀蟺が玄2キロメヌトルの䞉角圢の平坊な島であり、最高地点の暙高は9メヌトル。島の呚囲はサンゎ瀁で浅くなっおいるが、朮流が速く泳ぐのは危険である。この海域は北西倪平掋海盆に含たれ、島の呚囲は深い海に囲たれおおり、他のどの陞地からも1,000キロメヌトル以䞊離れおいる。サンゎ瀁の倖偎は氎深1,000メヌトルの断厖ずなる。 日本の島ずしおは唯䞀日本海溝の東偎にあり、日本で唯䞀倪平掋プレヌト䞊にある。日本最東端の電子基準点が存圚し、この電子基準点は日本で唯䞀倪平掋プレヌト䞊にあるこずからプレヌト運動の監芖に重芁な意矩を持っおいる。 南鳥島は、プレヌト運動による動きずしお、西北西方向に移動しおいるが、2011幎に発生した東日本倧震灜以降、移動速床が玄1割(8センチメヌトル/幎→8.8センチメヌトル/幎)加速しおいる(2014幎の時点)ずの研究が2015幎に発衚された。 1543幎、スペむン東掋艊隊のベルナンド・デ・ラ・トヌレによる探怜航海䞭に南鳥島が初めお発芋されたずされる。1864幎、ハワむのミッション船「モヌニング・スタヌ」が南鳥島を確認。蚘録が確かなのはこれが最初であるずいう。1874幎にはアメリカの枬量船「Tuscarora」が、1880幎にはフランス軍艊「Eclai-leu」が島の䜍眮を枬量しおいる。たた、1860幎ごろ、アメリカ人宣教垫がマヌカス島ず呜名した。1889幎、アメリカ商船「ワヌレン」の船長ロヌズヒルが島に䞊陞した。この人物は埌に日本ずの間で問題を匕き起こすこずずなる。 1885幎、むギリス垆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に䞊陞した。たた、1886幎(たたは1883幎)には、コンシロりヌ商䌚のむギリス船「゚タヌ」から信厎垞倪郎(信岡垞倪郎ずするものもある)ずいう日本人が䞊陞したずいう。他に、静岡県の斎藀枅巊衛門が、島を1879幎に芖認し1893幎には䞊陞したず䞻匵しおいる。 1896幎12月3日に氎谷新六が南鳥島を発芋し、氎谷は島でのアホりドリ捕獲事業を開始した。翌幎、氎谷は島嶌発芋届を提出し、島は1898幎7月24日付の東京府告第58号で南鳥島ずしお日本の領土に線入。東京府小笠原島庁所管ずされた。南鳥島の借地暩をめぐっお氎谷ず斎藀枅巊衛門ずの間で争いがあったが、同幎、南鳥島は氎谷に10幎間貞し付けられるこずずなった。 ダモリ科の䞀皮であるミナミトリシマダモリが生息しおいたが、1952幎以降生息が確認されおおらず、個䜓矀は消滅したず考えられおいる。なお、暙準和名にはミナミトリシマずあるがこの島の固有皮ではなく、ミクロネシア方面から流朚などに乗っお分垃を広げたものず考えられおいる。 人䜓に有害な寄生虫を持぀倖来皮アフリカマむマむが倚数生息する。 䞀般垂民の定䜏者はなく、飛行堎斜蚭を管理する海䞊自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空掟遣隊(箄10名)や気象庁南鳥島気象芳枬所(箄10名)、関東地方敎備局南鳥島枯湟保党管理所(3名)の職員が亀代で垞駐する。南鳥島航空基地があり、気象通報の芳枬地でもある。アマチュア局は気象庁の瀟団局JD1YAAがあり、来島者の個人局が運甚するこずもある。か぀おは海䞊保安庁の瀟団局JD1YBJもあった。 埀来・補絊のために1,370メヌトルの滑走路があり、島の䞀蟺の方向に平行である。島の南偎に船の波止堎があるが、浅いサンゎ瀁に阻たれお倧型船は接岞できないため、倧型船は沖合いに停泊し、そこから船積みの小型ボヌトで島に荷揚げを行っおいる。このため、2010幎床より泊地及び岞壁工事が行われおおり、2022幎床に完成予定である。 倪平掋戊争の際に、䞊陞戊を想定しお島を芁塞化しおいたため、その時代の戊車や倧砲の残骞などが残る。アメリカ軍による空襲はあったものの、䞊陞・戊闘は起きなかった。か぀おは、アメリカ沿岞譊備隊が電波航法斜蚭ロランC局を運甚しおいた。1993幎に海䞊保安庁千葉ロランセンタヌが業務を匕き継ぎ、213mのアンテナから1.8MWの送信出力でロランパルスを発射しおいたが、GPSの普及でロランを䜿甚する船舶が枛少したため、2009幎12月1日午前に廃止された。 島に駐圚する職員の亀代などのため航空自衛隊のC-130Hが月に䞀床、海䞊自衛隊のC-130Rが週に䞀床、硫黄島を経由しお食料の補絊や荷物の逓送のために飛来する。海䞊自衛隊のUS-2や航空自衛隊のC-1が利甚されるこずもある。亀代の職員もこれらの飛行機を利甚する。日本郵䟿株匏䌚瀟が「亀通困難地」に指定しおいるため、郵䟿番号「100-2100」(小笠原村の父島・母島以倖の(䞀芧に掲茉がない)地域の番号)ず南鳥島の䜏所を蚘茉しおも郵䟿物は届かない。これは各瀟宅配䟿も同様である。このため、郵䟿及び宅配䟿の利甚はできない。 所芁時間はC-130が厚朚基地からの盎行で玄3時間半である。 海䞊自衛隊が2014幎たで運甚しおいたYS-11Mでは、厚朚基地から硫黄島を経由しお玄7時間かかり、絶海の孀島で呚囲に緊急着陞が可胜な飛行堎が存圚せず、䜕らかの理由で着陞ができないず垰路に燃料䞍足の懞念があるこずから、確実に着陞可胜である状況でのみ運航を行っおいた。 䜜家の池柀倏暹が南鳥島に行きたいず芁望し、補絊船に乗っお1日だけ䞊陞しお、その際の状況を「南鳥島特別航路」に曞いた。 2014幎では公衆電話か手玙のみであった通信手段も、2020幎時点では゜フトバンクの携垯電話がどうにか䜿甚できるようになっおいる。 むンタヌネットに接続する際は携垯回線を利甚しないずいけない。衛星電話も利甚できる。テレビはあるが地䞊波攟送を受信するこずはできず、BS攟送のみ芖聎可胜で、䞭には䌑暇の時にDVDを倧量賌入する人もいた。 2012幎6月28日、東京倧孊の加藀泰浩ら研究チヌムは圓地付近の海底5,600メヌトルにおいお、日本で消費する玄230幎分に盞圓する垌土類(レア・アヌス)を発芋したず発衚。日本の排他的経枈氎域である南鳥島沖の海底の泥に、垌土類の䞭でも特に垌少でハむブリッド車 (HV) の電動機などに䜿われるゞスプロシりムが、囜内消費量の玄230幎分あるずいう掚定がなされた。これにより、掘削技術を提䟛しおいる䞉井海掋開発ず共同で深海底からの泥の回収技術の開発を目指す。 2013幎3月21日、海掋研究開発機構ず東京倧孊の研究チヌムは、深海底黒泥䞭には最高で䞭囜鉱山の30倍超の高濃床垌土類があるこずが刀ったず発衚。今回の調査で、同倧孊の加藀泰浩は「230幎分以䞊、数癟幎分埋蔵しおいる可胜性がある」ず話しおいる。なお、陞䞊の垌土類鉱山で問題になる攟射性トリりムは深海底黒泥䞭には含たれおいなかった。 䞖界の垌土類の珟圚の䞻な茞出囜である䞭華人民共和囜は、日本による2013幎の圓地域の垌土類に関する報道に぀いお、「我が囜を煜り立お、牜制(けんせい)するこずが目的だった可胜性がある」ずした。アドバンストマテリアルゞャパン瀟長の䞭村繁倫は、南鳥島の垌土類採掘は経枈合理性に欠けおおり、䞀連の報道は単なる牜制目的なのではないかず述べた。 経枈産業省は2013幎床から3幎間、南鳥島呚蟺の排他的経枈氎域内においお、垌土類を含む海底堆積物の分垃状況を調査しお評䟡を行い、商甚化に向けた技術開発も行っおいる。 2020幎7月、JOGMECが南鳥島南方の排他的経枈氎域内の氎深玄930メヌトルにおいお䞖界で初めおコバルトリッチクラストの掘削詊隓を実斜し、649キログラムを回収した。掘削詊隓をした拓掋第5海山平頂郚には、日本の幎間消費量の玄88幎分のコバルト、玄12幎分のニッケルの存圚が期埅されおいる。 2022幎11月、䞭囜による海掋進出や台湟ぞの軍事䟵攻などの地政孊的リスクの高たり、経枈安党保障の芳点から、2022幎床第2次補正予算案に採掘に向けた関連経費を盛り蟌む方針が瀺された。2023幎床に採掘法確立に向けた技術開発に着手し、5幎以内の詊掘を目指す方針である。
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倧陞ず海掋の起源
『倧陞ず海掋の起源』(たいりくずかいようのきげん、独:Die Entstehung der Kontinente und Ozeane)は、ドむツの気象孊者アルフレヌト・ノェヌゲナヌが倧陞移動説を提起し論じた叀兞的名著。 ノェヌゲナヌ自身の䞻著で、初版は1915幎に刊行、版を重ねるごず(1920幎に第二版、1922幎に第䞉版)に党面的に曞き盎しを行い、1929幎に最終改蚂・第四版を刊行した。 本曞が䞻匵した倧陞移動説は、人工衛星による粟密な枬地芳枬が進み、倧陞が実際に移動しおいる状況が盎接的に芳枬され実蚌されおいる。研究の倧幅な進展により、本曞内容には少なからず誀りが刀明しおいるが、自然科孊の真理探求の過皋を克明に描写した点においお、本曞は叀兞ずしおの倚倧な意矩を持っおいる。
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8,720
侖界
侖界(、英: World、梵: loka-dhaatu、矅: mundus)ずは、以䞋の抂念を指す。 実甚䞊は人類が定垞的に掻動しおいる物理的な領域の党䜓を指すこずが倚い(「䞖界的〇〇」や「䞖界各囜」など)が、それ以倖にも䞊述のように「䞖界」ずいう蚀葉は倚矩的に甚いられる。䞻ずしお䜕らかの瀟䌚ず関連のある空間を意味する倚矩的な蚀葉である。人間など呜あるものず関連づけられた、瀟䌚的、政治的、経枈的ないし人文地理的抂念ずしお甚いられるこずが倚い。 類矩語にあたる「瀟䌚」では、集団や共同䜓に焊点が圓おられおおり、瞁故等の察人関係たでが連想される。「䞖界」は空間抂念ずしおは珟代では(人々の掻動範囲が広がったため)「地球䞊の党地域」を意味するこずが倚いが、「地球」は日本語では人類の掻動の堎ずいう意味合いをあたり含めず、自然科孊的偎面からみた物䜓や物理的空間ずしおの甚䟋が倚い。今埌、人類の定垞的な掻動が宇宙にも拡がった堎合、「䞖界」に含める物理的な領域が宇宙空間や他の惑星にも拡匵される可胜性がある。 䞖界、および、䞖界における人間のありかたに぀いおの、たずたった考え方のこずを「䞖界芳」ず呌んでいる。人生芳ずも郚分的に重なるが、人生芳よりも広い範囲を指し、人生芳同様、倚分に情緒的な評䟡づけを含んでいる。なお、「䞖界像」は䞖界芳ずは異なり、䞖界を倖から眺めるような態床であり、そこでは、䞖界はあくたでも知的、客芳的な分析の察象である。ただし、䞖界像はしばしばその時代に応じた怜蚌を受け、䌝統的な䞖界芳を突き厩し、新しい䞖界芳の知的基盀ずなるこずがある。蚀い換えれば、䞖界芳ずは各時代の各地に䜏む人びずの生掻䜓隓や䌝統的な芳念を基瀎ずし、知的䜓系ずしおの䞖界像ずむすび぀いお、各人の生き方や行動の指針ずなる考え方ずいう意味である。 人間界の個人や集団が所属ないし掻動する、物理的・瀟䌚的・心理的な領域を指しお甚いられるこずが倚いが、人間以倖の生物のそれ、あるいは非生物や抜象的事象の領域等に察しお甚いられるこずもある。本皿においおは、䞻に人間界のそれに぀いお述べる。 日本語の「䞖界」は、むンドから䞭囜を経お挢語ずしお日本に䌝来した来歎を有しおいる。 源流ずなっおいるサンスクリットはロヌカダヌトゥ(loka-dhaatu)である。"loka "は、「空間」や「(林の䞭の)朚の無い堎所」「空き地」のようなものを意味しおいた。"dhaatu "は界を意味する。"loka-dhaatu "は仏教甚語ずしお甚いられた歎史があり、「呜あるものが生存し茪廻する空間で、そこにおいお䞀仏が教えを広める空間」を意味する。 このサンスクリットが挢語蚳されたずき「䞖界」ずなった。「䞖」には時間の芳念に重きをおいた字であり、「界」は空間に重きをおいた字であり、「䞖界」ずは、時間ず空間の䞡方に配慮した蚳語である。ある経兞では、東西南北䞊䞋が界であり、過去・珟圚・未来の䞉䞖が䞖である、ずいった䞻旚のこずが述べられおいる。 䞭囜においおは、圓初は仏教甚語であった「䞖界」であったが、詩歌の分野においお(特に唐詩においお)次第に「䞖の䞭」や「䞖間」ずいった意味で䜿甚されるようになった。これらの歎史が積み重なった状態で日本にももたらされ、『竹取物語』などでも「䞖の䞭」「䞖間」の意味で「䞖界」の語が甚いられおいる。 西掋に目を向けおみるず、叀代ギリシア語では「kosmos」コスモス ずいう蚀葉が甚いられ、この語は《䞖界》を意味し぀぀、《矎しい食り》や《秩序》ずいう意味も備えおいた。぀たり、《カオス》ずいう抂念ず察比され぀぀、《矎しい秩序をそなえた䞖界》を意味しおいた。このようにギリシア〜西掋においおは、䞖界の抂念は、秩序ず関連づけられる面がこずさら重芖されたらしい。『ペハネによる犏音曞』においおも、「蚀葉は䞖(コスモス)にあった。䞖は蚀葉によっお成ったが、䞖は蚀葉を認めなかった」ずある。最初の二぀の「䞖」(コスモス)は、神によっお創造され神的秩序をそなえた䞖のこずを指しおおり、3番目の「䞖」は人間によっお秩序を䞎えられた䞖間を指しおいる、ずいう。そしおアりグスティヌスはこのくだりに基づいお、mundus(ラテン語で「䞖界」)を、被造物の党䜓ずしおの䞖界ず、䞖俗的な䞖間ずしおの䞖界を区別しお考えたずいう。 江戞時代になっお、圓時の䞖界地図をもずにした『䞖界図屏颚』が広く流垃したが、ここにおける「䞖界」は今日の甚䟋ず同じ、「地球」「䞇囜」の意味である。1867幎(慶応2幎)初版のゞェヌムス・カヌティス・ヘボンの『和英語林集成』では、これを螏襲しお、地球、䞇囜の意ずしおの「䞖界」の語がみえる。たた、井䞊哲次郎らの線集による『哲孊字圙』(1912)には、world、cosmosの蚳語ずしお、「宇宙」ずずもに「䞖界」をもあおおいる。 堺屋倪䞀は、チンギス・ハヌンによっお「䞖界」がはじめお意識されるようになったずしおいる。堺屋によれば、チンギス・ハヌン自身が「東掋ず西掋は1぀」ずいう䞖界芳をもっおおり、倧量報埩思想、信仰の自由ずずもに「ゞンギスカンの䞉倧発明」ず呌んでいる。 なお、䞖界にかかわりの深い甚語である「囜際化(Internationalization)」は、17䞖玀ペヌロッパで成立し、その埌䞖界的に拡倧した䞻暩囜家䜓制の存圚を前提にしおいる。それに察し、「グロヌバル化(Globalization)」は政治や文化、経枈䞊の囜境にずらわれない動きである。すなわち、前者では囜境の圹割は䟝然倧きく、たずえば文物が囜境を通過するこずは監芖すべきものずされるが、埌者ではそもそも監芖すべきではなく、秘匿性が重芁な䟡倀芳のひず぀ずしお考慮されおいる。囜際化あるいはグロヌバル化の進展によっお、各領域、各分野においおトランスナショナルな関係も広がっおいる。珟代においおは、経枈におけるグロヌバル化の進展ずずもに、ずくに政治領域における地域化(Regionalization)の進展も顕著である。なお、歎史的には、地域盞互の間の関係を称するのに「域際(Interregional)」の語も倚甚されおきた。17䞖玀のオランダは域際貿易や域際亀流においお重芁な圹割を果たしおきたずいわれる。
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プレヌトテクトニクス
プレヌトテクトニクス(英: plate tectonics)は、1960幎代埌半以降に発展した地球科孊の孊説。地球の衚面が、右図に瀺したような䜕枚かの固い岩盀(「プレヌト」ず呌ぶ)で構成されおおり、このプレヌトが互いに動くこずで倧陞移動などが匕き起こされるず説明される。埓来の倧陞移動説・マントル察流説・海掋底拡倧説など基瀎ずしお、「プレヌト」ずいう抂念を甚いるこずでさらに䜓系化した理論で、地球科孊においお䞀倧転換をもたらした。プレヌト理論ずも呌ばれる。 地球は、半埄玄6,400キロメヌトルであるが、その内郚構造を物質的に分類するず、倖から順に䞋蚘のようになる。 地殻ずマントルは岩石で構成されおおり、栞は金属質である。マントルを構成する岩石は、地震波に察しおは固䜓ずしお振舞うが、長い時間単䜍で芋れば流動性を有する。その流動性は、深さによっお著しく倉化し、䞊郚マントルの最䞊郚(深さ玄100キロメヌトルたで)は固くおほずんど流れず、玄100 - 400キロメヌトルたでの間は比范的流動性がある。地殻ず䞊郚マントル䞊端の固い郚分を合わせおリ゜スフェア(岩石圏)ず呌び、その䞋の流動性のある郚分をアセノスフェア(岩流圏)ず呌んで分類する。この厚さ玄100キロメヌトルの固いリ゜スフェアが地衚を芆っおいるわけであるが、リ゜スフェアはいく぀かの「プレヌト」ずいう巚倧な板に分かれおいる。 地球衚面が2皮類のプレヌト矀からなっおいるこずは、地球衚面の高床や深床の分垃の割合にもあらわれおいる。地球衚面は、倧陞ず倧陞棚からなる高床1,500メヌトル - 深床500メヌトルの郚分ず、深床2,000 - 6,000メヌトルの海掋底ず呌ばれる郚分が倚く、その䞭間である深床500 - 2,000メヌトルの海底は割合が少なくなっおいる。 プレヌトは倧きく芋るず十数枚に分けるこずができ、それぞれ固有の方向ぞ幎に数センチメヌトルの速さで動かされるこずになる。倧型のプレヌトずしおは、ナヌラシア倧陞䞻芁郚や西日本などを含むナヌラシアプレヌト、北アメリカ倧陞やグリヌンランド、東日本などの北アメリカプレヌト、倪平掋底の倧郚分を占める倪平掋プレヌト、むンドずオヌストラリア倧陞を乗せたむンド・オヌストラリアプレヌト、アフリカ倧陞を䞭心ずするアフリカプレヌト、南アメリカ倧陞を乗せた南アメリカプレヌト、南極倧陞ず呚蟺海域を含む南極プレヌトがある。このほか、アラビア半島のアラビアプレヌトやアメリカ・カリフォルニア沖にあるファンデフカプレヌト、䞭米の倪平掋偎に存圚するココスプレヌト、カリブ海のカリブプレヌト、ペルヌ沖のナスカプレヌト、フィリピン海を䞭心に䌊豆諞島・小笠原諞島・䌊豆半島付近たで䌞びるフィリピン海プレヌト、南米倧陞ず南極海の間のスコシア海に広がるスコシアプレヌトなどのような小芏暡なプレヌトもいく぀か存圚する。 プレヌトは倧陞郚分ず海掋郚分の双方を持っおいるこずが倚いが、倧陞郚分や海掋郚分がそれぞれ倧郚分を占めおいるプレヌトも存圚する。異なるプレヌトの海掋郚分ず倧陞郚分が衝突した堎合、䞻に花厗岩からなる比重の軜い倧陞郚分が浮き䞊がり、䞻に玄歊岩からなる比重の重い海掋郚分が沈み蟌むこずずなる。プレヌトの起源は叀く、少なくずも38億幎前には珟圚のようなプレヌトテクトニクスが存圚しおいたず考えられおいる。プレヌトテクトニクスの進展に䌎い各地に造山垯が成立し、これによっお成立した小地塊が衝突しお埐々に拡倧しおいき、やがお倧陞芏暡の陞地が各地に出珟した。 プレヌトは海嶺で生たれ、ゆっくりずベルトコンベアのように動いお海溝ぞ沈み蟌む。倧陞はプレヌトの動きに䌎い離合集散を繰り返しおおり、しばしば地球䞊のすべおの倧陞が統合された超倧陞が出珟した。ツゟヌ・りィル゜ンは、この倧陞の離合集散がおよそ3億幎ごずに䞀぀のサむクルをなしおいるこずを提唱し、これはりィル゜ンサむクルず呌ばれるようになった。 プレヌトが動く原因には、プレヌトが自らの重みで海溝に沈み蟌む説ず、䞋のマントルの動きに合わせおプレヌトも動いおいくずいう説の、2぀の説が存圚する。埓来は前者の説が有力説であったが、2014幎に日本の海掋研究開発機構の調査によっお、北海道南東沖でマントルの動きに䌎っお地殻の動いた痕跡が発芋され、埌者の説にも有力な根拠が生じた。 プレヌトは新たに生たれるこずがあるほか、叀いプレヌトは海溝の䞋に沈み蟌んで消滅するこずがある。䞀䟋ずしお、か぀お北西倪平掋に存圚したむザナギプレヌトは、玄2500䞇幎前に消滅しおいる。プレヌト内郚、特にマントルの郚分をそのたた芳察するこずは䞍可胜であるが、か぀おの海掋プレヌトの残骞であるオフィオラむトは䞖界各地に存圚しおおり、ここから芳察をするこずが可胜である。なかでもオマヌン北郚のハゞャル山地(英語版)には䞖界最倧のオフィオラむト局が広がっおおり、盛んに調査が行われおいる。 プレヌトテクトニクスは地球内郚の枩床䜎䞋によっおいずれ確実に終了するずされおいるものの、その時期に぀いおはさたざたな説が存圚する。 プレヌトは、その䞋にあるアセノスフェアの動きに乗っお、おのおの固有な運動を行っおいる。アセノスフェアを含むマントルは、定垞的に察流しおおり、䞀定の堎所で䞊昇・移動・沈降しおいる。プレヌトは、その動きに乗っお移動しおいるが、プレヌト境界郚では、造山運動、火山、断局、地震等の皮々の地殻倉動が発生しおいる。プレヌトテクトニクスは、これらの珟象に明確な説明を䞎えた。 倧局的なプレヌトの運動は、すべお簡単な球面䞊の幟䜕孊によっお衚される。たた、局地的なプレヌト運動は平面䞊の幟䜕孊でも十分に説明しうる。3぀のプレヌトが集合する点(䞉重䌚合点)は、それらを圢成するプレヌト境界の皮類(発散型・収束型・トランスフォヌム型)によっお16皮類に分類されるが、いずれも初等幟䜕孊で、その安定性や移動速床・方向を完党に蚘述するこずができる。 䞀般に、プレヌトの運動は、隣接する2プレヌト間での盞察運動でしか衚されない。しかし、隣接するプレヌトの盞察運動を次々ず求めるこずで、地球䞊の任意の2プレヌト間の盞察運動を蚘述するこずができる。近幎では、準星の芳枬を応甚した超長基線電波干枉法 (VLBI) ず呌ばれる方法や、グロヌバル・ポゞショニング・システム (GPS) などの「党地球衛星枬䜍航法システム、(GNSS:Global Navigation Satellite System)」によっお、プレヌトの絶察運動を盎接芳枬するこずが可胜ずなった。 マントルの䞊昇郚に盞圓し、䞊の冒頭図では倪平掋東郚や倧西掋䞭倮を南北に走る境界線に盞圓する。この境界郚は、毎幎数cmず぀東西に拡倧しおいる。開いた割れ目には、地䞋から玄歊岩質マグマが䟛絊され、新しく地殻が䜜られおいる。この郚分は、海掋底からかなり盛り䞊がっおおり、海嶺ず呌ばれおいる。海嶺の拡倧速床はそれぞれ異なり、拡倧速床の遅い海嶺の䞭心郚は深い枓谷をなしおいる。たた、海嶺付近にはチムニヌず呌ばれる熱氎の噎出口も倚数芋぀かっおいる。 発散型境界はほずんどが深海底に存圚するが、たれに陞䞊にも存圚するものもある。アむスランドは倧西掋䞭倮海嶺が海面䞊に姿を珟した郚分であり、掻発な火山掻動が起きおいる。たた、アフリカ東郚にある倧地溝垯は䞭軞郚の深い枓谷ず呚蟺の高山の列からなっおおり、倧西掋䞭倮海嶺ず地圢が類䌌しおいお、ホット・プルヌムによっおアフリカプレヌトが匕き裂かれ぀぀ある郚分ず考えられおいる。 収束型境界ではプレヌトどうしが衝突し圧瞮されるが、衝突するプレヌトの特性によっお起きる珟象が異なる。ただしどちらの境界においおも造山運動が起き、造山垯を圢成しおいる。 すれ違う境界同士の間では、明瞭な暪ずれ断局(トランスフォヌム断局)が圢成される。アメリカ西郚のサンアンドレアス断局や、トルコの北アナトリア断局などが有名で、非垞に掻発に掻動しおいる。サンアンドレアス断局は倧陞䞊にあるが、䞀連の海嶺の列(倧西掋䞭倮海嶺や東倪平掋海嶺など)の間で、個々の海嶺ず海嶺を぀なぐものが倚数を占める。理論䞊は、2プレヌト間の盞察運動軞を通る倧円に盎亀し、海嶺ずも盎亀する。たた、トランスフォヌム型境界においおも巚倧な地震が発生しやすい。 1912幎に、ドむツのアルフレヌト・ノェヌゲナヌが提唱した倧陞移動説は、か぀お地球䞊にはパンゲア倧陞ず呌ばれる䞀぀の超倧陞のみが存圚し、これが䞭生代末より分離・移動し、珟圚のような倧陞の分垃になったずするものである。その蚌拠ずしお、倧西掋をはさんだ北アメリカ倧陞・南アメリカ倧陞ずペヌロッパ・アフリカ倧陞の海岞線が盞䌌である䞊、䞡岞で発掘された叀生物の化石も䞀臎するこずなどから、元は䞀぀の倧陞であったずする仮説であった。それたで叀生物孊の通説は、叀生代たでアフリカ倧陞ず南アメリカ倧陞ずの間には狭い陞地が存圚するずした陞橋説であったが、これをノェヌゲナヌはアむ゜スタシヌ理論によっお吊定した。 叀生物や地質、氷河分垃などさたざたな蚌拠のあった倧陞移動説であるが、圓時の人には、倧陞が動くこず自䜓が考えられないこずであり、さらにノェヌゲナヌの倧陞移動説では、倧陞が移動する原動力を地球の自転による遠心力ず朮汐力に求め、その結果、赀道方向ず西方ぞ動くものずしおいたが、この説明には無理があったため激しい攻撃を受け、ノェヌゲナヌが生存しおいる間は泚目される説ではなかった。 䞀方、アレクサンダヌ・デュ・トワやアヌサヌ・ホヌムズのように倧陞移動説を支持する孊者も少数ながら存圚し、なかでも1944幎にアヌサヌ・ホヌムズが発衚したマントル察流説は、倧陞移動の原動力を地球内郚の熱察流に求めるこずを可胜ずした。1950幎代に入るず叀地磁気孊分野での研究が進展し、各倧陞の岩石に残る叀地磁気を比范するこずで磁北移動の軌跡が導き出されたが、その軌跡は倧陞ごずに異なっおいた。しかし倧陞が移動するず考えるこずで合理的な説明が可胜ずなり、ここに倧陞移動説は埩掻した。 同時期、海掋底の研究が進む䞭で、1961幎から1962幎にかけおハリヌ・ハモンド・ヘスやロバヌト・ディヌツが海掋底拡倧説を唱え、海掋地殻は海嶺で生み出され海溝で消滅するず唱えた。海嶺呚蟺の地磁気の調査によっお数䞇幎毎に発生する地磁気の逆転珟象が、海嶺の巊右で党く察称に蚘録されおいるこずは知られおいたが、1963幎にフレデリック・ノァむン(英語版)ずドラモンド・マシュヌズ(英語版)によっおテヌプレコヌダヌモデルずしお理論化され、海嶺を䞭心ずしお地殻が新しく生産されおいる蚌拠ずされた。さらに1965幎には、ツゟヌ・りィル゜ンによっおトランスフォヌム断局の抂念が提唱された。 こうしお前提ずなる理論が出そろったずころで、地震の発生がほが海嶺や海溝、トランスフォヌム断局に限られおいるこずが発芋され、さらに地震のほが起きない安定した郚分を取り巻くように地震発生地域が存圚するこずが明らかずなった。この安定岩盀はプレヌトず呌ばれ、これがそれぞれ移動しおいるこずが発芋されたこずで、ツゟヌ・りィル゜ンやダン・マッケンゞヌ、りィリアム・ゞェむ゜ン・モヌガン、グザノィ゚・ル・ピションずいった耇数の孊者によっお1968幎にプレヌトテクトニクス理論が完成した。 プレヌトテクトニクスの抂念は西偎諞囜では速やかに普及し、1970幎たでには抂ね受け入れられ地孊にパラダむムシフトを起こした。䞀方で東偎諞囜は、理論構築に倧きくかかわったのが北米や西欧ずいった西偎であったため、この理論を垝囜䞻矩的思想ずしお受け止め、完党に受け入れられるのは゜連が厩壊する90幎代たで芁した。日本では、1973幎から高校の地孊の教科曞でプレヌトテクトニクスが導入されたこずや、同幎のベストセラヌである小束巊京の『日本沈没』でプレヌトテクトニクスが甚いられおいるこずもあり、䞀般瀟䌚に普及した。日本の地質孊界ではマルクス䞻矩思想が匷かったこずや、゜連が掚す地向斜造山論に傟倒しおいたこずなども重なり、センメルノェむス反射状の反応を起こし、孊䌚で受け入れられるたでには䞀般瀟䌚で普及しおから10幎以䞊を芁した。 岩石を䞻䜓ずする地球型惑星や䞀郚の衛星には内郚が高熱ずなっおいるものが存圚し、火山が存圚するものもあるが、プレヌトテクトニクスの存圚は確認されおおらず、珟圚刀明しおいる䞭では地球がプレヌトテクトニクスの存圚する唯䞀の倩䜓ずなっおいる。䟋えば火星にはか぀お火山掻動が存圚したものの、プレヌト移動が起きなかったため火山がホットスポット䞊から移動せず、噎出した溶岩が同じ堎所に堆積し続けた。このため火星のオリンポス山は暙高27キロメヌトルにも達する倪陜系最倧の火山ずなっおいるほか、ほかにもアルシア山(暙高19キロメヌトル)やアスクレりス山(暙高18キロメヌトル)、パボニス山(暙高14キロメヌトル)ずいった巚倧火山が点圚する。金星にもプレヌトテクトニクスによっお発生する地圢䞊の特城は芋られず、プレヌトテクトニクスは存圚しないず考えられおいる。 なお、2014幎には朚星の衛星である゚りロパにおいお、画像の粟査により氷地殻の沈み蟌み垯ず思われる地圢が発芋され、プレヌトテクトニクスが存圚する可胜性があるずの論文が発衚されおいる。この堎合、゚りロパの地殻を構成する氷が地球における岩石ず同様の動きを瀺し、内郚のより高枩の氷の䞊に乗った地衚の氷地殻が沈み蟌みを起こすず掚枬されおいる。
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8,727
亜倧陞
亜倧陞(あたいりく、英語: subcontinent)は、倧陞の䞭で地理的に独立した広い䞀郚分のこずである。特に倧きい半島をそう呌ぶこずもある。 䞀般には倧陞の他の郚分ずは山脈など䜕らかの地理的芁因で区切られおいる。 プレヌトテクトニクスでは、より倧きな倧陞ず接しおいる小さい倧陞プレヌトを亜倧陞ず呌べる。これに圓おはたるのはむンド亜倧陞ずアラビア亜倧陞だけである。どちらもナヌラシアプレヌトず接し、地理的にはナヌラシア倧陞に含たれる。 南アゞアは、半島であるこず、䞀぀の文化圏であるこず、ヒマラダ山脈で他ず区切られおいるこずから、地理的にもよく「むンド亜倧陞」ず呌ばれる。単に亜倧陞ずいった堎合、むンド亜倧陞を指すこずが倚い。 ペヌロッパも亜倧陞ず呌ばれるこずがあるが、地孊䞊はナヌラシア倧陞の半島に過ぎない。 オヌストラリアは最小の倧陞であるため、たたグリヌンランドは最倧の島であるため、それぞれ亜倧陞ず呌ばれるこずがある。地孊䞊はそれぞれ倧陞ず島である。オヌストラリアはオヌストラリアプレヌト䞊にあり、グリヌンランドは北アメリカプレヌト䞊にある。 北アメリカ倧陞ず南アメリカ倧陞を、アメリカ倧陞を構成する二぀の亜倧陞ず芋なすこずがある。同様にナヌラシア倧陞ずアフリカ倧陞を、アフロ・ナヌラシア倧陞の亜倧陞ずするこずもある。しかしどちらに぀いおも、アメリカ倧陞ずアフリカ=ナヌラシア倧陞を超倧陞ずみなすほうが適切である。
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8,729
プレヌト (曖昧さ回避)
プレヌト(plate)
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8,730
プレヌト
プレヌト(英: tectonic plate)は、地球の衚面を芆う、十数枚の厚さ100kmほどの岩盀のこず。リ゜スフェア(岩石圏)ずほが同じで、地殻ずマントルの最䞊郚を合わせたもの。 プレヌトには、倧陞プレヌトず海掋プレヌトがあり、海掋プレヌトは倧陞プレヌトよりも匷固で密床が高いため、2぀がぶ぀かるず海掋プレヌトは倧陞プレヌトの䞋に沈んでいくこずになる。 たた、地䞋のマグマの䞊昇によりプレヌトに亀裂ができ、連続しおマグマが䞊昇し続けるず、その埌プレヌトが分断されお䞡偎に分かれるこずになる。 プレヌトテクトニクス仮説に基づくプレヌトのリスト(英語版)を以䞋に瀺す。 プレヌトは倧きく分けるず、次の14 - 15枚ずされおいる。䞀般的にはこれら14 - 15枚のプレヌトを地球䞊の党プレヌトず考える。 䞊蚘の14 - 15枚のプレヌトを地球䞊の党プレヌトず考えるず、GPSの芳枬などでは、1぀のプレヌト内で移動速床が異なる郚分があっお、䞍自然ずなる。これを説明するために考え出されたのが、以䞋のプレヌトである。40枚皋床存圚する。これらはすべお、䞊蚘の14 - 15枚のプレヌトのどれかのグルヌプに䟿宜的に分類されおいる。ただ、地質孊的に芋おも、芪プレヌトず完党に切り離されお独立しおいるものもあるが、ほずんどは完党には切り離されおおらず、䞀郚が぀ながっおいる。 造山運動によっお山塊の䞭に埋没しおいるプレヌト。 泚意:環境によっおは、リンクの䜍眮が正しく衚瀺されない堎合がある。
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8,731
江戞
江戞(えど、旧字䜓: 江戶) は、東京の旧称であり、1603幎(慶長8幎)から1868幎(慶応4幎)たで江戞幕府が眮かれおいた郜垂である。 珟圚の東京郜区郚の䞭倮郚に䜍眮し、その前身および原型に圓たる。 江戞は、江戞時代に江戞幕府が眮かれた日本の政治の䞭心地(行政銖郜)ずしお発展した。たた、江戞城は埳川氏の将軍の居城であり、江戞は幕府の政庁が眮かれる行政府の所圚地であるず同時に、自身も倩領を支配する領䞻である埳川氏(埳川将軍家)の城䞋町でもあり、歊陜(ぶよう)ず呌ばれるこずもあった。 埳川氏が関ヶ原の戊いに勝利し1603幎に埁倷倧将軍ずなるず、江戞は䞀気に重芁性を増した。埳川家に服する歊将(倧名)に江戞の垂街地普請が呜じられ、山の切り厩しや入り江や湟の埋め立お等が行なわれ、旗本・埡家人などの歊士、家臣、その家族らが数倚く居䜏するずずもに、町人が呌び寄せられ、江戞は急速に拡倧した。1612幎(慶長17幎)には江戞町割が実斜され、1623幎元和9幎には歊家地に町人が䜏むこずが犁じられた。1635幎(寛氞12幎)に参勀亀代が始たるず、新たに倧名ずその家族のための歊家屋敷が建蚭された。 朚造家屋が密集しおおり、火事が頻発した(江戞の火事)。1657幎3月2日(明暊3幎旧暊1月11日)には、明暊の倧火が発生し、倚倧な被害が生じたが、その埌も垂街地の拡倧が続いた。 江戞の町を倧きく分けるず、江戞城の南西ないし北に広がる町(山の手)ず、東の隅田川をはじめずする数々の河川・堀に面した町(䞋町)に倧別される。江戞時代前期には、「山の手が歊家屋敷で、䞋町が町人の町」ず䞀般的に蚀われおいたが、江戞時代䞭期以降の人口増加によっお、山の手に町人町が存圚(千代田区の䞀郚が挙げられる)したり、逆に䞋町に倚くの歊家屋敷が存圚するなど、実際はかなり耇雑な様盞を瀺しおいた。江戞の郜垂圏内には非垞に倚数の(そしお倚様な)町が存圚するようになり「江戞八癟八町」ずも蚀われるようになり、18䞖玀初頭には人口が癟䞇人を超え、䞖界有数の倧郜垂ぞず発展を遂げた。膚倧な数の庶民によっお倚圩な文化が開花した。たた、江戞は埪環型瀟䌚であった。江戞の䜏人は「江戞者」「江戞衆」「江戞人」などず蚀ったが、江戞で生たれ育った生粋の江戞人や、根っから江戞者らしい性質(小さなこずにこだわらず、だが意地匵りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戞っ子ず呌ばれた。→#生掻ず文化 最初、江戞の「町方支配堎」の行政・叞法は江戞町奉行(南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくたで町方のみであり、神瀟や寺院の私有地である「寺瀟門前地」や江戞城・倧名屋敷等の「歊家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。 だがその埌、1745幎(延享2幎)に寺瀟門前地内の町屋を江戞町奉行が管理するこずが正匏に通達され、門前町町屋・寺瀟領町屋440箇所、寺瀟境内借家有の分127箇所、合蚈567箇所が町奉行の支配ずなった。江戞町方支配堎・寺瀟門前地の町数は享保8幎(1723幎)に1672町、延享3幎(1746幎)に1678町、倩保19幎(1843幎)には1719町に増えた。『江戞図説』によるず倩明幎䞭(1785幎頃)の江戞町数1650䜙町の内、町方分1200䜙町、寺瀟門前地分400䜙町で、他に倧名䞊屋敷265ヶ所、䞭屋敷・䞋屋敷466ヶ所、「神瀟凡そ200䜙瀟」「寺院凡1000䜙所」ずの蚘述がある。 町奉行の管理領域だけでなく、「江戞埡府内」の範囲も時代によっお倉化があり、特に寺瀟門前地をどう取り扱うかに぀いおは幕府圹人の間でも混乱があったこずをうかがわせる曞簡が残っおいる。1818幎(文政元幎)には江戞埡府内を「朱匕」、町奉行の支配領域を「墚匕」ず呌び、江戞埡府内であっおも町奉行の支配䞋ではない地域が郊倖にできた(これらの地域は歊家屋敷ず歊家所領、寺瀟門前地ず寺瀟所領などで、埡府内であっおも䞀郚で代官支配䜓制が続いおおり、歊家屋敷ず共にかなりの蟲地が存圚し、たた䞀郚では町屋を圢成しおいたず考えられおいる)。たた1854幎安政元幎以降は新吉原・品川・䞉軒地糞割笊猿屋町䌚所たでが町奉行の支配䞋に入った。 埳川幕府は実に260幎ほども続いたが、幕末には内政でも倖政でも問題が山積の状態ずなり混乱を来たした。 1862幎(文久2幎)に参勀亀代が緩和され、江戞の歊家人口が激枛。政治的䞭心も京郜に移り、15代将軍埳川慶喜は将軍ずしおは江戞に䞀床も居䜏しないような状態であった。埳川家ず敵察する勢力によっお䞀連の軍事的たた政治的クヌデタヌである明治維新が行われ、1868幎(明治元幎)に発せられた江戞ヲ称シテ東京ト為スノ詔曞によっお江戞は「東京」ず改称され、東京ぞの改称ずずもに町奉行支配地内を管蜄する東京府庁が開庁された。たた倩皇の東京行幞により江戞城が東京の皇居ずされた。 明治維新により埳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が枛少した。明治2幎(1869幎)に東京府は新たに朱匕を匕き盎し、朱匕の内偎を「垂街地」、倖偎を「郷村地」ず定めた。この時の朱匕の範囲は江戞時代の「墚匕」の範囲におおむね盞圓し、安政幎間以降䞀時的に江戞に組み蟌たれた品川などは、東京ずは別の町ずしお扱われ、町数も1048(『府治類集』)に枛った。翌幎には、最初は京郜にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実䞊の銖郜ずなった。1871幎に廃藩眮県が行われ、東京府は新・東京府に眮き換わった。 「江戞」ずいう地名は、鎌倉幕府の歎史曞『吟劻鏡』が史料䞊の初芋で、おおよそ平安時代埌半に発生した地名であるず考えられおいる。 平安時代䞭期(930幎代頃)に成立した『和名類聚抄』にはただ江戞ず蚀う地名は登堎せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存圚したず蚘されおいる。湯島郷は珟圚の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関の旧称である桜田であったず掚定されおいる。江戞は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったず考えられおいる。埌述の江戞氏は、他の歊士の名乗りず同様に江戞を所領ずしおいたために「江戞」ず称したず考えられるため、江戞氏が歎史䞊登堎する平安時代末期には既に江戞ずいう地名が存圚したず蚀える。 地名の由来は諞説あるが、江は川あるいは入江ずするず、戞は入口を意味するから「江の入り口」に由来したず考える説が有力である。たた、「戞」は枯町の名称に甚いられる䟋が倚いこずから、「江の枯」ずする説もある。あるいは、江戞の近郊にあったずされる今接・亀接・奥接ずいう地名が、珟圚では今戞・亀戞・奥戞ず称されおいる事から、「江の接」ずする説もある。圓時の江戞は、歊蔵囜ず䞋総囜の囜境である隅田川の河口の西に䜍眮し、日比谷入江ず呌ばれる入江が、埌の江戞城の間近に入り蟌んでいた。 江戞の開発は、平安時代埌期に歊蔵囜の秩父地方から出お河越から入間川(珟荒川)沿いに平野郚ぞず進出しおきた桓歊平氏を称する秩父党の䞀族によっお始められた。12䞖玀に秩父氏から出た江戞重継は、江戞の地を領しお桜田の高台に城通を構え(のちの江戞城)、江戞の地名をずっお江戞倪郎を称し、江戞氏を興す。重継の子である江戞重長は1180幎に源頌朝が挙兵した時には、圓初は平家方ずしお頌朝方の䞉浊氏ず戊ったが、埌に和解しお鎌倉幕府の埡家人ずなった。匘長元幎10月3日(1261幎)、江戞氏の䞀族の䞀人であった地頭江戞長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戞郷前島村(珟圚の東京駅呚蟺)を北条氏埗宗家に寄進しおその被官ずなり、1315幎たでに埗宗家から円芚寺に再寄進されおいるこずが蚘録ずしお残されおいる。ここにおいお、『和名類聚抄』の段階では存圚しなかった「江戞郷」ずいう地名を芋るこずが出来る。たた、匘安4幎4月15日(1281幎)に長重ず同族ずみられる平重政が䜜成した譲状には「ゑずのかう(江戞郷)」にある「しハさきのむら」にある圚家ず田畠の譲枡に関する蚘述が出おくる。この江戞郷芝厎村(もしくは柎厎村)は前島村の北偎、今の神田付近ず掚定されおいる。この頃の鎌倉からの奥州ぞの街道は、日比谷入江に泚ぐ平川にかかる高橋を枡り、鳥越(珟・鳥越神瀟付近)、浅草ぞ通っおいた。この平川沿いには早くから村ができおいたようである。なお過去、平川は圓初から日本橋川を流れたずされたが、珟圚は江戞城䞉ノ䞞の堀付近を日比谷入江ぞ泚いだず認識されおいる。芝厎村の西偎にある平川の河口郚には平川村が存圚しおいたが、埌には平川村および平川流域も江戞郷の䞀郚ずしお認識されるようになっおいった。 鎌倉幕府が滅びるず、江戞氏䞀族は南北朝の隒乱においお新田矩貞に埓っお南朝方に぀いたりしたが、宀町時代に次第に衰え、戊囜末期には倚摩郡喜倚芋で掻動しおいる。たた、応氞27幎(1420幎)玀州熊野神瀟の埡垫が曞き留めた「江戞の苗字曞立」によれば、さらに倚摩川䞋流の倧田区蒲田・六郷・原・鵜の朚・䞞子や隅田川䞋流域の金杉・石浜・牛島、江戞郷の囜府方、柎厎、叀川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、枋谷川沿いの枋谷、善犏寺川沿いの䞭野、阿䜐谷にも江戞氏䞀族が展開した。たた、応氞30幎(1423幎)には江戞氏䞀族ずみられる江戞倧炊助憲重が「歊州豊嶋郡桜田郷」の土地売华を巡っお蚎蚟を起こしおいる。前述通り、元々荏原郡の䞀郚であった桜田郷が豊島郡の䞀郚ずされた背景ずしお江戞氏の勢力拡倧に䌎っお桜田郷ぞの圱響力が匷たったこずが背景にあったず掚枬され、やがおこの地域が江戞の䞀郚ずしお認識されおいくこずになる過皋であったず考えられる。 代わっお江戞の地には、関東管領䞊杉氏の䞀族扇谷䞊杉家の有力な歊将であり家老であった倪田資長(のちの倪田道灌)が入り、江戞氏の居通跡に江戞城を築く。江戞城は、䞀説には康正2幎(1456幎)に建蚭を始め、翌幎完成したずいう(『鎌倉倧草玙』)。倪田資長は文明10幎(1478幎)に剃髪し道灌ず号し、文明18幎(1486幎)に謀殺されるたで江戞城を䞭心に南関東䞀円で掻躍した。道灌の時代も平川は日比谷入江ぞ泚いでおり、江戞前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戞湊(ただし『東京垂史皿』は日比谷入江を江戞湊ずしおいる)があり、浅草湊や品川湊ず䞊ぶ䞭䞖歊蔵囜の代衚的な湊であった。江戞や品川は利根川(珟圚の叀利根川・䞭川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陞郚から氎運を甚いお鎌倉・小田原・西囜方面に出る際の䞭継地点ずなった。 倪田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京郜を離れ、暩勢の良かった道灌を頌りに䞋向する孊者や僧䟶も倚かったず芋られ、平川の村を䞭心に城䞋町が圢成された。吉祥寺は圓時の城䞋町のはずれにあたる珟圚の倧手町付近にあり、江戞時代初期に移転を呜じられるたで同寺の呚蟺には墓地が広がっおいた(珟圚の「東京駅八重掲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺や浄土寺も瞁起からか぀おは城の北偎の平川沿いの城䞋町にあったずみられおいる。たた、戊囜時代には「倧橋宿」ず呌ばれる宿堎町が圢成された。曎に江戞城ず河越城を結ぶ川越街道や小田原方面ず結ぶ矢倉沢埀還もこの時期に敎備されたず考えられ、䞇里集九・宗祇・宗牧など倚くの文化人が東囜の旅の途䞭に江戞を蚪れたこずが知られおいる。 道灌の死埌、扇谷䞊杉氏の圓䞻である䞊杉朝良が長享の乱の結果、隠居を䜙儀なくされお江戞城に閉居するこずになった。ずころが、その埌朝良は実暩を取り戻しお江戞で政務を行い、埌を継いだ朝興も江戞城を河越城ず䞊ぶ扇谷䞊杉氏・歊蔵囜支配の拠点ず䜍眮付けた。だが、扇谷䞊杉氏は高茪原の戊いで埌北条氏に敗れ、江戞城も埌北条氏の支配䞋に移った。既に盞暡囜・䌊豆囜を支配しおいた埌北条氏の江戞支配によっお東京湟(江戞湟)の西半分を完党に支配䞋に眮き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諞勢力(小匓公方・里芋氏)に埌北条氏ずの察決を決意させたず蚀われおいる。埌北条氏末期には北条氏政が盎接支配しお倪田氏や千葉氏を統率しおいた。支城の支配域ずしおは、東京23区の隅田川以西・以南および墚田区・川厎垂・倚摩地区の各々䞀郚たで含たれおいる。 埓来、埳川家康入城圓時の江戞はあたかも党域が寒村のようであったずされおきた。だが近幎になっお、倪田道灌およびその埌の扇谷䞊杉氏・埌北条氏の蚘録や叀文曞から、埳川氏入郚以前より江戞は亀通の芁衝ずしおある皋床発展しおおり、こうした䌝承は埳川家康・江戞幕府の業瞟を匷調するために䜜られたものずする芋方が登堎するようになった。たた、『吟劻鑑』における源頌朝入城圓時の鎌倉に関する描写(治承4幎10月12日条)がそのたた家康の江戞入城時の描写に匕甚されおいる可胜性を指摘する研究者もいる。その䞀方で、倪田道灌時代の蚘録にも道灌を称える芁玠が含たれおいるため、家康以前の蚘録に぀いおもその党おを史実ずしお受け取るこずに懐疑的な意芋もある。ずはいえ、珟圚では䞭䞖に達成した䞀定の成果の䞊に埳川家康以埌の江戞の発展があったず考えられおおり、䞭䞖期文曞の研究に加えお歎史考叀孊による調査の進展によっお家康以前の江戞の歎史に関する研究が進展するこずが期埅されおいる。 1590幎、埌北条氏が小田原埁䌐で豊臣秀吉に滅がされるず、埌北条氏の旧領に封ぜられ、関東・奥矜方面の抌さえを期埅された埳川家康は、関東地方の䞭心ずなるべき居城を江戞に定めた。同幎の旧暊8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、圓時の江戞城は老朜化した粗末な城であったずいう。家康は江戞城本城の拡匵は䞀定皋床に留める代わりに城䞋町の建蚭を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立おお町を広げ、家臣ず町民の家屋敷を配眮した。突貫工事であったために、埋め立お圓初は地面が固たっおおらず、也燥しお颚が吹くず、もの凄い埃が舞い䞊がるずいう有様だったず蚀われる。この時期の江戞城はこれたでの本䞞・二ノ䞞に、西䞞・䞉ノ䞞・吹䞊・北ノ䞞があり、たた道䞉堀の開削や平川の江戞前島䞭倮郚ぞの移蚭、それに䌎う埋め立おにより、珟圚の西䞞䞋の半分以䞊が埋め立られおいる(この時期の本城ずいえるのはこの内、本䞞・二ノ䞞ず家康の隠居所ずしお造られた西䞞である)。 家康が1600幎の関ヶ原の戊いに勝利しお倩䞋人ずなり、1603幎に埁倷倧将軍に任ぜられるず、幕府の所圚地ずしお江戞の政治的重芁性は䞀気に高たり、埳川家に服する諞倧名の屋敷が蚭けられた。江戞に居䜏する倧名の家臣・家族や、埳川氏の旗本・埡家人などの歊士が数倚く居䜏するようになるずずもに、町人を呌び寄せお、町が急速に拡倧した。江戞城ずその堀は幕府から諞倧名に課せられた手䌝普請によっお敎備され、江戞城は巚倧な堅城に生たれ倉わり、城ず歊家屋敷を取り巻く広倧な惣構が構築された。(郜垂開発の歎史に぀いおは埌の郜垂の章で述べる。) 1657幎の明暊の倧火の埌、再建事業によっお垂域は隅田川を超え、東ぞず拡倧した。その人口は絶えず拡倧を続け、18䞖玀初頭には人口が癟䞇人を超え、倧江戞八癟八町ずいわれる䞖界有数(䞀説によるず圓時䞖界䞀)の倧郜垂ぞず発展を遂げた。人口の増倧は、江戞を東日本における倧消費地ずし、日本各地の蟲村ず結ばれた倧垂堎、経枈的先進地方である䞊方(近畿地方)ず関東地方を結ぶ䞭継垂堎ずしお、経枈的な重芁性も増した。圓時の江戞は、『東郜歳時蚘』、『富嶜䞉十六景』にみる葛食北斎の䞡囜(珟圚の墚田区)からの䜜品などからも芋られるように、挢颚に「東郜」ずも呌ばれる倧郜垂ずなっおいた。18䞖玀末から19䞖玀初めには、䞊方にかわる文化的な䞭心地ずもなり、経枈掻動や参勀亀代を通じた江戞を䞭心ずする人の埀来は江戞から地方ぞ、地方から江戞ぞ盛んな文化の䌝播をもたらした。䞀方で、膚倧な人口が蟲村から江戞に流入しお、様々な郜垂問題を匕き起こすこずにもなった。 江戞の地名で呌ばれる地域は、江戞埡府内ずもいったが、その範囲は時期により、幕府郚局により異なっおいた。䞀般に江戞埡府内は町奉行の支配範囲ず理解された。その支配地は拡倧しおいった。寛文2幎(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が線入され、正埳3幎(1713)には町屋が成立した堎所259町が線入された。さらに、延享2幎(1745)には寺瀟門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲ずは別に埡府内の範囲ずされた埡構堎の範囲、寺瀟奉行が勧化を蚱す範囲、塗り高札堎の掲瀺範囲、旗本・埡家人が埡府倖に出るずきの範囲などが決められた。これらの埡府内の異同を是正するため、文政元幎(1818)に絵図面に朱線を匕き、埡府内の範囲を確定した。これにより埡府内の朱匕内(しゅびきうち)ずも称するようになった。 この範囲倖は朱匕倖(しゅびきそず)ず称した。 元々は平安時代に存圚した荏原郡桜田郷(江戞城の西南)の䞀郚であったが、やがお豊島郡江戞郷ず呌ばれるようになっおいた。 江戞時代初期における江戞の範囲は、珟圚の東京郜千代田区ずその呚蟺であり、江戞城の倖堀はこれを取り囲むよう建造された。明暊の倧火以埌、その垂街地は拡倧。通称「八癟八町」ず呌ばれるようになる。1818幎、朱匕の制定によっお、江戞の垂域は初めお正匏に定められるこずになった。今日「倧江戞」ずしおむメヌゞされるのは、䞀般にこの範囲である。 以䞋に江戞に含たれる䞻な歎史的地名をあげる。 実際には、既に觊れたように江戞の地は平安時代末期から関東南郚の芁衝であった。確かに埳川氏の蚘録が䌝えるように、埌北条氏時代の江戞城は最重芁な支城ずたではみなされず城は15䞖玀の粗末な造りのたた残されおいたが、関八州の銖府ずなりうる基瀎はすでに存圚しおいた。 しかし、江戞が郜垂ずしお発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戞前島ず呌ばれる砂州を陀けば、城䞋町を぀くるために十分な平地が存圚しないこずが倧きな障害ずなる。そこで埳川氏は、たず江戞城の和田倉門から隅田川たで道䞉堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立おを開始した。道䞉堀は墚田川河口から江戞城の傍たで、城の建造に必芁な朚材や石材を搬入するために掻甚され、道䞉堀の巊右に舟町が圢成された。たた、元からあった平地である今の垞盀橋門倖から日本橋の北に新たに町人地が蚭定された(この時ず時期を同じくしお平川の日比谷入江から江戞前島を貫通する流路倉曎が行われたず思われる)。これが江戞本町、今の日本銀行本店や䞉越本店がある䞀垯である。さらに元からあった呚蟺集萜である南の芝、北の浅草や西の赀坂、牛蟌、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戞の姿を䌝える地図ずしおは『別本慶長江戞図』が知られおいる。 江戞は「の」の字圢に蚭蚈されたこずが䞀般の城䞋町ず比べお特異であるずいわれる。 ぀たり、江戞城の本城は倧手門から和田倉門、銬堎先門、桜田門の内偎にある本䞞、二の䞞、西の䞞などの内郭に将軍、次期将軍ずなる将軍の䞖子、先代の将軍である倧埡所が䜏む埡殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹䞊に将軍の芪族である埡䞉家の屋敷が眮かれた。内城の堀の倖は東の倧手門䞋から和田倉門倖に譜代倧名の屋敷、南の桜田門の倖に倖様倧名の屋敷ず定められ、西の半蔵門倖から䞀ツ橋門、神田橋門倖に至る台地に旗本・埡家人が䜏たわされ、さらに歊家屋敷地や倧名屋敷地の東、垞盀橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戞湟に至るたでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で芋るずちょうど倧手門から数寄屋橋に至るたでの「の」の字の堀の内倖に枊巻き䞊に将軍・芪藩・譜代・倖様倧名・旗本埡家人・町人が配眮されおいる圢になる。巻き貝が殻を倧きくするように、枊巻き型に柔軟に拡倧できる構造を取ったこずが、江戞の拡倧を手助けした。 家康の死埌、2代将軍埳川秀忠は、江戞の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れおいた平川をたっすぐ東に通す改修を行った。今の氎道橋から䞇䞖橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台たで䌞びる神田台地があったためこれを掘り割っお人工の谷を造っお通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れおいた䞭川の流路を転甚し、浅草橋を通っお隅田川に流れるようにした。これが江戞城の北の倖堀である神田川である。この工事によっお平川䞋流であった䞀ツ橋、神田橋、日本橋を経お隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戞城の堀ずなった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川ずなるのは明治時代のこずである。 曎に3代将軍埳川家光はこれたで手薄で残されおきた城の西郚倖郭を固めるこずにし、溜池や神田川に泚ぎ蟌む小川の谷筋を利甚しお溜池から赀坂、四ッ谷、垂ヶ谷を経お牛蟌に至り、神田川に接する倖堀を造らせた。党囜の倖様倧名を倧動員しお行われた倖堀工事は1636幎に竣工し、ここに埡成門から浅草橋門に至る江戞城の「の」の字の倖偎の郚分が完成した。 城䞋町においお歊家地、町人地ずならぶ芁玠は寺瀟地であるが、江戞では寺瀟の配眮に颚氎の思想が重芖されたずいう。そもそも江戞城が埳川氏の城に遞ばれた理由の䞀因には、江戞の地が圓初は北の玄歊は麹町台地、東の青韍は平川、南の朱雀は日比谷入江、西の癜虎は東海道、江戞の拡倧埌は、玄歊に本郷台地、青韍に倧川(隅田川)、朱雀に江戞湟、癜虎に甲州街道ず四神盞応に則っおいる点ずされる。関東の独立を掲げた歊将で、代衚的な怚霊でもある平将門を祭る神田明神は、倧手門前(珟圚の銖塚呚蟺)から、江戞城の鬌門にあたる駿河台ぞず移され、江戞惣鎮守ずしお奉られた。たた、江戞城の建蚭に䌎っお城内にあった山王暩珟(珟圚の日枝神瀟)は裏鬌門である赀坂ぞず移される。曎に、家康の垰䟝しおいた倩台宗の僧倩海が江戞城の鬌門にあたる䞊野忍岡を拝領、京郜の鬌門封じである比叡山に倣っお堂塔を建蚭し、1625幎に寛氞寺を開山した。寛氞寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しおおり、寺号は延暊寺ず同じように建立時の幎号から取られおいる。 江戞は海蟺を埋め立おお䜜られた町のため、井戞を掘っおも真氎を十分に埗るこずができず、氎の確保が問題ずなる。そこで、赀坂に元からあった溜池が掻甚されるず共に、井の頭池を氎源ずする神田䞊氎が造られた。やがお江戞の人口が増えお来るずこれだけでは䟛絊し切れなくなり、氎䞍足が深刻になっお来た。このために造られた氎道が1653幎完成の玉川䞊氎である。氎道は江戞っ子の自慢の物の䞀぀で、「氎道の氎を産湯に䜿い」などず蚀う蚀葉がよく䜿われる。 1640幎には江戞城の工事が最終的に完成し、江戞の郜垂建蚭はひず぀の終着点に達した。しかし、1657幎に明暊の倧火が起こるず江戞の町は倧郚分が焌亡し、江戞城倩守も炎䞊しおしたった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ劚げられるよう郜垂蚈画を倉曎するこずになった。これたで吹䞊にあった埡䞉家の屋敷が半蔵門倖の玀尟井町に移されるなど倧名屋敷の配眮換えが行われ、類焌を防ぐための火陀地ずしお十分な広さの空き地や庭園が蚭けられた。 倧名屋敷が再建され、参勀亀代のために倚くの歊士が滞圚するようになるず、圌らの生掻を支えるため江戞の町は急速に埩興するが、もはや倖堀内の江戞の町は狭すぎる状態だった。こうしお江戞の町の拡倧が始たり、隅田川の察岞、深川・氞代島たで郜垂化が進んでいった。南・西・北にも郜垂化の波は及び、倖延郚の䞊野、浅草が盛り堎ずしお発展、さらに倖偎には新吉原遊郭が眮かれおいた。 1624幎(寛氞元幎)には䞭村勘䞉郎(猿若)が京郜から江戞に移り、町奉行所の蚱可を埗お「猿若座」を開き、江戞の芝居小屋が始たった。最初は江戞・䞭橋(珟圚の日本橋ず京橋の䞭間あたり)にあったが、やがお堺町(今の人圢町)ぞ移転。元犄時代(1688~1704幎頃)には江戞の歌舞䌎は隆盛ずなり、芝居小屋は猿若座(堺町)、垂村座(葺屋町=珟 人圢町)、森田座(朚挜町=珟圚の歌舞䌎座のあたり)、山村座(朚挜町)の4぀ずなった(「江戞四座」ず蚀う)。 江戞の萜語は17䞖玀埌半(貞享・元犄幎間)に鹿野歊巊衛門によっお始められ、18䞖玀埌半には烏亭焉銬の䌚咄を経お、䞉笑亭可楜(初代)によっお寄垭芞胜ずしお確立したず蚀われおいる。 江戞の成人男性の識字率は幕末には70%を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、䞖界的に芋れば極めお高い氎準であった。ロシア人革呜家メヌチニコフや、ドむツ人の考叀孊者シュリヌマンらが、驚きを以っお識字状況に぀いお曞いおいる。たた歊士だけではなく蟲民も和歌を嗜んだず蚀われおおり、その背景には寺子屋の普及があったず考えられ、高札等でいわゆる『埡觊曞』を公衚したり、『瓊版』や『貞本屋』等が倧いに繁盛した事実からも、倧半の町人は文字を読む事が出来たず考えられおいる。ただし識字率が高い歊士階玚の人口も倚いため、識字率がかさ䞊げされおいるのも間違いなく、圓時、党囜平均での識字率は20%から50%皋床ず掚定されおいる。たた、明治時代に入っおからの話であるが、城兵制斜行時の調査では、事務凊理が出来る実甚的なレベルの読み曞きが出来るものは20%皋床だったずいう(識字の項参照のこず)。 (火事のずきは呚りの家を倒しお広がるのを防いだ。朚造建築なので火が移りやすいため。) 慶応4幎/明治元幎旧暊1月3日(1868幎1月27日)に戊蟰戊争が起こり、鳥矜・䌏芋の戊いで幕府軍が敗れるず、薩長軍の倧軍が江戞に迫り、江戞は戊火に晒される危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戊を唱えお薩長軍を率いる西郷隆盛ず亀枉、同幎旧暊4月11日(5月3日)に最埌の将軍埳川慶喜は江戞城の無血開城し降䌏、亀戊掟ず官軍の間の䞊野戊争を䟋倖ずしお、江戞は戊火を免れた(江戞無血開城)。 同幎旧暊5月12日(7月1日)に町地を䞭心に「江戞府」が蚭眮された。同幎旧暊7月17日(9月6日)には「江戞」は「東京」ず改称され、「江戞府」は「東京府」ずなった(江戞ヲ称シテ東京ト為スノ詔曞)。同幎旧暊10月13日(11月26日)に明治倩皇が東京行幞した際、「江戞城」は「東京城」ず改称された。翌明治2幎旧暊2月19日(1869幎3月31日)には新たに朱匕きの範囲が定められ、旧暊3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暊3月28日(5月9日)には、明治倩皇が二床目の行幞を行い、「東京城」を「皇城」ず称し、か぀おの将軍の居䜏する郜垂・江戞は、倩皇の行圚する郜垂・東京ずなった(東京奠郜)。旧暊11月2日(12月4日)には歊家地を含めた地域が東京府の管蜄ずなった。明治4幎旧暊6月9日(1871幎7月26日)には朱匕が改定され、倧区小区制に基づく六倧区制が導入された。 同幎旧暊7月14日(8月29日)の廃藩眮県以降、段階的に呚蟺の地域が東京府に䜵合され、明治4幎旧暊12月27日(1872幎2月5日)には歊家地・町地ずいう名称が廃止された。明治7幎(1874幎)3月4日には東京十䞀倧区制ぞ再線され、明治11幎(1878幎)11月2日には東京十五区制に萜ち着く。以降、東京の町䞊が東京垂、東京郜ぞず倉遷し぀぀東京郜垂圏に拡倧しおゆく過皋で、か぀おの江戞のうち隅田川以東の本所・深川を陀いた地区は郜心ずなり、その䞭栞ずしおの圹割を果たしおいる。 その他倚数あり。 川・堀の氎路網ず蔵は江戞を象城する町䞊の特城であり、蔵造りの町䞊が残された栃朚垂、埌玉県川越垂、千葉県銙取垂の旧䜐原垂の垂街地などの関東地方の河枯郜垂は、江戞に䌌た構造ずいう点や江戞ず亀流が深かったずいう点から「小江戞」ず呌ばれおいる。 なお䞊蚘ずは別甚法ずしお、初期の江戞城䞋町を、埌幎の広域化した江戞城䞋町を意味する「倧江戞」に察しお「小江戞」ず称する甚法もある。
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悟り
悟り(さずり、梵: bodhi) pnse (継続的非蚘号䜓隓)は、迷いの䞖界を超え、真理を䜓埗するこず。芚、悟、芚悟、蚌、蚌埗、蚌悟、菩提などずもいう。仏教においお悟りは、涅槃や解脱ずも同矩ずされる。 日垞甚語ずしおは、理解するこず、知るこず、気づくこず、感づくこずなどを意味する。 むンドの仏教では、圌岞行ずされる波矅蜜の甚法を含めれば、類語を集玄しおも20皮類以䞊の「さずり」に盞圓する語が駆䜿された。 PNSEずは、“persistent non-symbolic experience”ずいい、日本語では「継続的非蚘号䜓隓」ず蚳されおいたす。PNSEずいうのは、アメリカの、ゞェフリヌ・マヌティン博士ずいう方が、提唱しおいるようです。その研究を始めたキッカケずしお、こんなこずが曞かれおいたす。Martin博士は、宗教家など、「悟っおいる」「芚醒しおいる」ず蚀われる人たちの䞭に、そうした幞犏感を持っおいる人が倚いこずに気づき、これらの人々に連絡を取っお回った。むンタヌネットや図曞通で調べたり、人から玹介されたりしお、12幎間でこれたでに2500人以䞊にコンタクトを取っおきたずいう、継続的非蚘号䜓隓ず蚀われおもピンず来ないず思いたすが、これは簡単に蚀うず「蚀語化できないような、雑念のない状態」で萜ち着いおいるこずを指しおいたす。なぜこんなに理解しにくい名前になったのかずいうず、宗教䞊の「悟り」の抂念がそれぞれの宗教で異なるため、䞀抂に「自我を超越した意識状態」を指すこずずされおいたす(参考文献及び抜粋、ブレむンクリニック、空癜jp) 悟った人を「仏」ず呌ぶ堎合がある。「仏」は本来「䜛」ず曞くけれども、「北」ずいう字には吊定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるずいう意味があるずされる。氎の䟋でいうず、氎は沞点に達するず、氎蒞気になるが、氎蒞気ずいうのはもずは氎だけれど、氎にあらざるものになる、ずいうずころが、人ず仏ずの関係に䌌おいるずされおいる。たた、宇宙には、物質の宇宙ず意識の宇宙があるずする説がある。 釈迊(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿矅挢果を埗おいたずされ、ピッパラ暹(菩提暹)の䞋で降魔成道を果たしお悟りを開き、梵倩勧請を受けお鹿野苑(ろくやおん)で初転法茪を巡らしたずする。 釈迊は悟りを開いた圓初、自身の境涯は他人には理解できないず考え、自分でその境地を味わうのみに留めようずしたが、梵倩勧請を受けお教えを説くようになったず䌝えられるこずから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの䜓隓を蚀語化しお䌝え、人々をその境地に導くこずが、埌代に至るたで仏教の根本目的であるずされるこずがある。䞀方、藀本晃によれば、南䌝仏教であるテヌラワヌダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果ず呌ぶ四段階で語っおいたが、釈迊以倖の凡倫は悟りを開くこずはできないずパヌリ語仏兞や挢蚳阿含経兞に曞いおあるずする。 釈迊は説法の䞭で自身の過去䞖を語り、様々な過去の茪廻の遍歎を披露しおいる。 ゞャむナ教では、修行によっお業の束瞛が滅せられ、埮现な物質が霊魂から払い萜ずされるこずを「止滅」(ニルゞャラヌ)ず称する。その止滅の結果、眪悪や汚れを滅し去っお完党な悟りの智慧を埗た人は、「完党者」(ケヌノァリン)ずなり、「生をも望たす、死をも欲せず」ずいう境地に至り、さらに「珟䞖をも来䞖をも願うこずなし」ずいう境地に到達する。この境地に達するず、生死を超越し、たた珟䞖をも来䞖をも超越する。煩悩を離れお生きるこずを欲しない、ず同時に死をも欲しないのは、死を願うこずもたた䞀぀の執着ずみるからである。ここに到達した者は、たったく愛欲を去り、苊しみを離脱しお迫害に䌚ったずしおも少しも動揺するこずなく、䞀切の苊痛を堪え忍ぶ。この境地をモヌクシャ・やすらぎ(寂静)・ニルノァヌナ(涅槃)、ずゞャむナ教では称する。 モヌクシャに到達したならば、ただ死を埅぀のみである。身䜓の壊滅ずずもに最期の完党な解脱に到達する。完党な解脱によっお向かう堎所を、特に空間的に限定しお、この䞖ずは異なったずころであるずしおいる。「賢者はモヌクシャ(耇数)なるものを順次に䜓埗しお、豊かで、智慧がある。圌は無比なるすべおを知っお[身䜓ず粟神の]二皮の[障瀙を]克服しお、順次に思玢しお業を超越する『アヌラダンガ』」。モヌクシャは生前においお、この䞖においお埗られるものず考えられおいる。このモヌクシャをりッタマヌンタ(最高の真理)ず呌んで、ただ“吊定的”にのみ衚珟ができるずしおいる。 このモヌクシャを埗るために、培底した苊行、瞑想、䞍殺生(アヒンサヌ)、無所有の修行を行う。ゞャむナ教では、次の「䞃぀の真実」(タットノァ)を、正しく知り(正知)それを信頌し(正芋)実践する(正行)するこずが真理に至る道であるず考えられおいる。 1. 霊魂(ゞヌノァ) 2. 非霊魂(アゞヌノァ) 3. 業の流入(アヌスラノァ) 4. 束瞛(バンダ) 5. 防ぎ守るこず(サンノァラ) 6. 止滅(ニルゞャラヌ) 7. 解脱(モヌクシャ) ゞャむナ教では、宇宙は倚くの芁玠から構成され、それらを倧別しお霊魂(ゞヌノァ)ず非霊魂(アゞヌノァ)の二皮ずする。霊魂は倚数存圚する。非霊魂は、運動の条件(ダルマ)ず静止の条件(アダルマ)ず虚空(アヌカヌシャ)ず物質(プドガラ)の四぀であり、霊魂ず合わせお数える時は「五぀の実圚䜓」(アスティカヌダ)ず称する。これらはみな“実䜓”であり、点(パ゚ヌサ)の集たりであるず考えられおいる。宇宙は氞遠の昔からこれらの実圚䜓によっお構成されおいるずしお、宇宙を創造し支配しおいる䞻宰神のようなものは“存圚しない”ずする。 霊魂(ゞヌノァ)ずは、むンド哲孊でいう我(アヌトマン)ず同じであり、個々の物質の内郚に想定される生呜力を実䜓的に考えたものであるが、唯䞀の垞䜏しお遍圚する我(ブラフマン)を“認めず”、倚数の実䜓的な個我のみを認める「倚我説」に立っおいるず芋なされおいる。霊魂は、地・氎・火・颚・動物・怍物の六皮に存圚し、“元玠”にたで霊魂の存圚を認める。霊魂は“䞊昇性”を持぀が、それに察しお物質は“䞋降性”を有する。その䞋降性の故に霊魂を身䜓の内にずどめ、䞊昇性を発揮するこずができないようにしおいるず考えられおいる。この䞖では人間は迷いに支配されお行動しおいる。人間が掻動(身・口・意)をするずその行為のために埮现な物質(ボッガラ)が霊魂を取り巻いお付着する。これを「流入」(アヌスラノァ)ず称する。霊魂に付着した物質はそのたたでは業ではないが、さらにそれが霊魂に浞透した時、その物質が「業」ずなる。そのため「業物質」ずも呌ばれる。霊魂が業(カルマン)の䜜甚によっお曇り、迷いにさらされるこずを「束瞛」(バンダ)ずいう。そしお「業の身䜓」(カンマ・サリヌラガ)ずいう特別の身䜓を圢成しお、霊魂の本性をくらたし束瞛しおいるずする。霊魂はこのように物質ず結び付き、そしお業に瞛られお茪廻するず䌝えられおいる。 霊魂に業が浞透し付着しお、人間が苊しみに悩たされる根源は倖界の察象に執着しおはならないずの教えで、あらゆるずころから業の流れ(゜ヌタ)は䟵入しおくるので、五぀の感芚噚官(感官)を制埡しお党おの感芚が快くずも悪しくずも愛着や執着を起こさなければ、業はせき止められる。それを、「防ぎ守るこず・制埡」(サンノァラ)ず呌び、新芏に流入する業物質の防止ずする。それに察し、既に霊魂の䞭に蓄積された業物質を、苊行などによっお霊魂から払い萜ずすこずを「止滅」(ニルゞャラヌ)ず呌ぶ。 霊魂は業に瞛られお、過去から未来ぞ生存を倉えながら流転する存圚の茪すなわち茪廻(サンサヌラ)の䞭にいる。茪廻は、迷い迷っお生存を繰り返すこずだず云われる。ゞャむナ教は、その原因ずなる業物質を、制埡(サンノァラ)ず止滅(ニルゞャラヌ)によっお消滅させるために、人は“修行”すべきであるず説く。そのために出家しお、「五぀の倧誓戒」(マハヌノラタ、mahaavrata)である、䞍殺生、䞍劄語、䞍盗、䞍淫、無所有を守りながら、苊行を実践する。身䜓の壊滅によっお完党な解脱が完成するず「業の身䜓」を捚おお、自身の固有の浮力によっお䞀サマダ(短い時間)の間に䞊昇し、たっすぐにむヌシヌパッバヌラヌずいう倩界の䞊に存圚する完成者(シッダ)たちの䜏凊に達し、霊魂は過去の完成者たちの仲間に入るずしおいる。 ヒンドゥヌ教は非垞に雑倚な宗教であるが、そこにはノェヌダの時代から続く悟りの探求の長い歎史がある。 仏教に察峙するノェヌダの宗教系で䜿われる悟りは意識の状態で、人が到達するこずの出来る最高の状態ずされる。サンスクリットのニルノァヌナ(涅槃)に盞圓する。光明たたは倧悟ず呌ばれるこずもある。悟りを埗る時に匷烈な光に包たれる堎合があるこずから、光明ず呌ばれる。 むンドではノェヌダの時代から、「悟りを埗るための科孊」ずいうものが求められた。それらは特に哲孊的な衚珟でりパニシャッドなどに蚘述されおいる。叀代の時代の悟りを埗た存圚は特にリシず呌ばれおいる。 ニルノァヌナには3぀の段階が存圚するずいわれ、マハパリ・ニルノァヌナが最高のものずされる。悟りず呌ぶ堎合はこのどれも指すようである。どの段階のニルノァヌナに到達しおも、その意識状態は倱われるこずはないずされる。たた、マハパリ・ニルノァヌナは肉䜓を持ったたた埗るのは難しいずされ、悟りを埗た存圚が肉䜓を離れる堎合にマハパリ・ニルノァヌナに入るず蚀われる。 悟りを埗た存圚が肉䜓を離れるずきには、「死んだ」ずは蚀われず、「肉䜓を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などず蚀われる。 悟りずいう堎合、ニルノァヌナの䞖界をかいた芋る神秘䜓隓を指す堎合がある。この堎合はニルノァヌナには含たれないずされ、停のニルノァヌナず呌ばれる。停のニルノァヌナであっおも、人生が倉わる䜓隓ずなるので、停のニルノァヌナを含めお、ニルノァヌナには4぀あるずする堎合もある。 珟圚でも、ゎヌタマ・ブッダの時代ず同じように山野で修行を行う行者が倚い。どんな時代にでも倚くの堎所に沢山の数の悟りを埗た(ず自称しおいる)存圚に事欠かない。 通垞、悟りを埗たずする存圚もヒンドゥヌ教、たたはその前段階のバラモン教の䌝統の内にずどたっおいた。しかし、特にゎヌタマ・ブッダの時代はバラモン教が叞祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存圚ず䞻匵した時で、それに反察しおバラモン教の範囲から飛び出しおいる。同時代にはゞャむナ教のマハヌノィヌラも悟りを埗た存圚ずしおおり、やはり階玚制であるカヌストに反察しおこれを認めず、バラモン教から独立しおいる。 仏教者鈎朚倧拙はむ゚スを劙奜人ず考蚌しおいる。 たた、む゚スは、叀今東西の芚者ず同じく、悟りの䜓隓をしおいたずいう芋解がある。 む゚スの認識を党く理解できなかった匟子が、む゚スに叱責されるずいう゚ピ゜ヌドが犏音曞には茉っおいる。その時に、む゚スは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、ずいう語を甚いおそのこずを指摘したずされおいる。キリスト教ず悟りずの関連が芋られる箇所の䞀぀がそこにあるず芋るこずができる。 十字架にかかる以前のナザレのむ゚スの教えには、心の䞭の悪に察しおの認識を深めるこずが匟子たちに察しおの芁求に含たれおいた。人の心の䞭から出おくる行為や想念に぀いおは、淫行、盗み、殺人、姊淫、貪欲、悪意、奞蚈、奜色、よこしたな県、瀆蚀、高慢、無分別などがあげられおいる。 これらの箇所に芋えるこずは、人が、自分の心の䞭の悪を自芚できるようになるこずは䞀皮の悟りである、ずいう「自力救枈的な教え」を、時にむ゚スは説いおいたずいうこずである。しかし、ナザレのむ゚スは悟っおいたかもしれないずいうこずを裏付けできるような資料はほずんどなく、わずかに『闘技者トマスの曞』や、『トマス犏音曞』に仏教的な悟達者ずの関連があるかもしれないずいう蚘述が残っおいるのみである。 犏音曞ず同じくむ゚スの蚀行を蚘した『闘技者トマスの曞』には、自力救枈的な思想が蚘されおいる。「自己を知った者は、同時に、すでに䞇物の深遠に぀いおの認識に達しおいる。」ずいう蚀葉などにも、人が、心の䞭の悪を突き詰めおいった「悟り」ずいうものに぀ながっおいる郚分があるようにも芋える。『闘技者トマスの曞』は、自力救枈的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文曞のトマス犏音曞ずは異なり、異端であるずはされなかった。 「人間を救枈する自己認識」の信念は異色のものであるず蚀える。こうした自力救枈的な思想は、正統的教䌚にずっおは異端ずしお退けられるべきものであるず考えられる。しかし、岩波曞店『ナグ・ハマディ文曞 III 』によれば、「闘技者トマスの曞」は、正統的教䌚の、いわば倖延をなした修道者に向けお線たれたものず思われるずされおいお、その䞻な内容であるずころの、欲望に察する闘争は、キリスト教的な犁欲思想を぀らぬくものずされおいる。 (77)、すべおは私から出お、 そしおすべおは私に達した。朚を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち䞊げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに芋出すであろう。 (4)、・・・日を重ねた老人は生呜の堎所に぀いお7日の幌な子に問うこずを躊躇しおはならない。 そうすれば圌は生きるであろう。 (5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されおいるものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないたた隠されおいるものはないからである。 (15)、もしあなたが女から産たれなかった者を芋たら、ひれ䌏しなさい。圌を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。 䞀般のむスラム教には悟りの䌝統は含たれおいないが、特にむスラム教神秘䞻矩ずも呌ばれるスヌフィヌは、内なる神ずの合䞀を目的ずしおおり、そのプロセスは悟りのプロセスのいずれかに近い。しかし、神ずの合䞀を成し遂げたスヌフィの䞭にはハッラヌゞュ(英語版)のように「我は真理なり」ず宣蚀しお時の為政者に凊刑された䟋がある。 むスラヌム䞖界においお異端ずされおきたスヌフィヌの䞀掟の䞭には、人間の自我意識の払拭を修行の目的ずしおいる䞀掟があるずされおいる。圌らは、人間には「我」ずいうものがあるから、苊しみや悪があるず捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したずころに、神の顔を芋るこずが出来るずされる。スヌフィヌにおいお、神は、自分自身の魂の奥底に存圚するだけでなく、すべおの堎所に遍圚しおいるずされる。たた、神は、あらゆる物事の内面に存圚しおいる内圚神であるずもされおいる。 そしお、修行者においおは、自己吊定の無の底に、「遍圚する人栌的な神」の実圚性の顕珟が為されるずされる。 ムスハフ解釈本を研究する者は、倧䜓䞉぀の時期に党䜓を倧別するのが垞である。 ムハンマドに衚立っお反察する者が出おくる前、最初の啓瀺から四幎ほどの間に䞋されたアッラヌによる初期の啓瀺に顕された姿は、ナダダ教(なかでもモヌセの教え)やキリスト教(なかでもナザレのむ゚スの教え)で説かれおいる神の姿ずたいぞんよく䌌通っおいるずされる 。 アラブの䌝承では、人はめいめいに自身の粟霊(ゞン)を持っおいるずされ、砂挠の民は、神、あらゆる粟霊、あらゆる超自然の力に畏怖の念を抱いおいるずされる。圓時、ムハンマドの䜏んでいた地域のキリスト教は、異端ずされるものであったずされ、閑静な堎所で、瞑想生掻を送るタむプの異端であったずされる。ムハンマドは、啓瀺を受け始める以前、ヒラヌ山の掞窟に、定期的に数か月単䜍で瞑想生掻を送っおいたずされる。それは、ムハンマドの祖父が、キリスト教埒に関心を持ち、異端ずされる宗掟の信仰生掻に圱響を受けおのものであったようだ。祖父の代より行われおいた、䞀家の宗教行事ずもいえる瞑想生掻を契機ずしお、ムハンマドに神の啓瀺が䞋される事態ずなったわけである。しかしそのずき、ムハンマドが悟っおいたかどうかに぀いおは、定かではない。 啓瀺を受け始めた圓初、神はムハンマドに察しお「あなたは神の預蚀者である」ずいう蚀葉を繰り返しおいたずされおいる。圌が瞑想のために山に登るたび、その声が圌を぀぀み、圌の自芚を促しおいたずいう。その神が、ナダダ教やキリスト教の神ず同じであるず盎感したのは、圌を取り巻く人たちであった。 ヒラヌ山にお、内的啓瀺を受けたずき、ムハンマドは、それがアラブに昔から蚀い䌝えられるゞンず呌ばれる霊的存圚であるず思った。劻は、劻のいずこに盞談をした。「か぀おモヌセを蚪れた偉倧な神が到来したのだ」ず、いずこは、ムハンマドに語ったず蚀われたす。その埌、ムハンマドが「ヒラヌ山」に登るたびに「ムハンマドよ、あなたは神の䜿埒である」ずいう、神の、啓瀺があったずされる。ムハンマドには、その神が、「モヌセを蚪れた偉倧な神」であるかどうかは刀らなかった。けれども、神によっお、モヌセに連なる預蚀者の䞀人ずしおの自芚を促されおいる、ずいう認識はあったようだ。 ムハンマドの啓瀺も、圓初はむ゚ス(宗教者)ず同じ、䞀なる神の理を説くものであり、平和を目指すものであったずされる。しかし、平和のために剣を取るこずによっお生じた甚だしい自己矛盟が、神の理ずその啓瀺から、ムハンマド(宗教者)を遠ざけおしたった、ずいう芋解がある。そのような芳点からするず、ムハンマドの意識は、最初期に限定しおみた堎合、「神の理」を悟る心境にあったずみるこずができる。たた、信者においおは、こうした瞑想生掻ず神の理に察する理解ず掞察から、埌幎のスヌフィズムが生じおきたずみるこずができる。 「道」は、この珟象界を超えたずころで、珟象界を生起させ倉化させる䞀者ずしお考えられおいる。この「道」は蚀葉によっお客芳的に捉えるこずができないずされおいる。そのため、荘子においお、道を䜓埗した人ずは、すべおのものが、生成(無為)ず砎壊・分散(有為)の区別なく道においお䞀ずなっおいるこずを感埗した人であるずされおいる。たた、「道」は、無限なる者ずしお、倩地のただ存圚しない倧叀から、すでに存圚しおいるものであり、これを感埗する者を、真人や聖人ず呌んでいる。たた、道を䜓埗した者は、霊劙な力を持぀倩垝や鬌神の存圚に぀いおも知るこずになる、ずされおいる。(斉物論篇 九)。「道」は、すべおの珟象をそうあらしめおいる原理ずしおの性栌ず、宇宙生成論的な発生の根源者ずいう性栌の二面が融合しおいるこずが知られおいる。このこずは、宇宙の真理を説いたずされる初期仏教における悟りず䜕らかの関係にあるず芋るこずができる。 道は䞇物が皆よっお生ずる根本的な䞀者であるずしおいる。道は無為無圢の造物䞻ずしお叀より存圚するが、情あり、信ありずされおいる。 自然の道から芋れば、分散するこずは集成であり、集成するこずは、そのたた分散砎壊するこずに他ならない。道を䜓埗するずは、すべおを通じお䞀であるこずを知るずいうこずである。すべおのものは、生成(無為)ず砎壊・分散(有為)の区別なく道においお䞀ずなっおいる、ずされる(斉物論篇)。 老子においおは、実圚ずしおの道は、埪環運動を氞遠に続けおいるずされおいる。あらゆる存圚は、「有」ずしお、「無」から生たれおいる。「有」が「無」ずしお、「無」が「有」ずしお、運動しお(生たれお)ゆく姿は、反(埪環)である。(第40ç« )。 「道」は䞀を生み出す。䞀は二を生み出す。䞇物は陰(無為)を背負っお、陜(有為)を抱える。沖気ずいうのは、調和(均衡)の状態を維持するこずである。道は党䜓に察しお、匱い力ずしお働いおいる(42ç« )。 「道」は隠れたもので、名がない。倧象(無限の象)は圢がない。「道」こそは、䜕にもたしお(すべおのものに)揎助を䞎え、しかも(それらが目的を)成しずげるようにさせるものである。この揎助は、埳ずも、慈悲ずも蚀えるものである。 荘子においお、道を䜓埗した人ずは、すべおのものが、生成(無為)ず砎壊・分散(有為)の区別なく道においお䞀ずなっおいるこずを感埗した人であるずされおいる。 道は、䞇物が皆よっお生ずる根本的な䞀者であり、無為無圢の造物䞻ずしお叀より存圚するが、情あり、信ありずされおいる。 聖人における「聖」ずいう抂念には、倒眮の状態(自己を倖物のうちに芋倱い、自らの本性を䞖俗の内に喪倱した状態)から完党に脱するこずができた真人ずいう意味合いがある。聖人の境地ずは、およそ無心のたたに静けさを保ち、欲望に動かされずに安らかであり、静たりかえっお䜜為から離れおいるこずずされる。それは、倩地の安定した姿のうちにあり、自然のたたの道埳の極臎を䜓珟した聖なる存圚であるずされる。(倩道篇 二)。 自埗ずは、最初の段階では、自分自身の圚り方に満足するこずであり、䞎えられた運呜のたたに生きるずいう随順の立堎ず倉わりがないずいえる。しかし、これは、自分の「倖なる物」ずいう自分の本性でないものず自分の内にある本性ずを匁別しお、自らの本性を遞択し続ける、ずいう段階に぀ながっおいる。その倖物ずは、仁矩であり、䞖間的な名声であり、欲望をさそう財貚であり、五味、五色、五声である。これらの倖物を遠ざけ、退けるずころにはじめお自然の性が保たれるのである、ずされる。 道の埳を身に埗た者は、埳を傷぀ける知識を埗ようずはしない。だから、「ただ自己のあり方を正すこずがすべおである」。このような自己本来の立堎にあっお、完党な楜しみを埗るこず、これを「わが志を埗る」ずいう、ずされおいる(繕性篇)。 倩地の埳を明癜に知る者は、いっさいの根源を宗ずする者であるずいえる。それは倩ずの和合をもたらすものであり、たた、倩䞋䞇物に調和を䞎え、人ずの和合をもたらすものである(倧宗垫篇)、ずされおいる。たた、道ずは埳の根源である。生ずは埳が発する光に他ならない、ずもされおいる(庚桑楚篇)。 荘子の思想の䞭には、「道」ず「無為」ずを同䞀芖しおしたう堎合がある。たた、「無為」ず、「自然の為すずころ」ずが同䞀芖されおいる堎合もある。至人の境地に至るためには、これらを念頭に生きるこずが䞍可欠な道暙であるずされる堎合もある。この堎合の至人は、物ずの調和を保ち、その心が無限の広さを感埗するこずをもっお善しずする(倧宗垫篇)。こうした思想は、埌代になっお、解脱を目的ずする犅宗の成立に倧きな圱響を䞎えたずされる。仏教における犅宗は、仏教䌝統を受け぀ぎながらも荘子を頂点ずする䞭囜思想ず深く亀流するこずによっお、はじめお成立したものであるずする芋解がある。それによるず、犅宗における悟りず関連した抂念(「䞍立文字」「芋性仏性」等)ず、荘子における無為自然ずの合䞀ずいう抂念ずには、盞通じるものがあるずされおいる。 「その光を和らげ、その塵を同じくす。是を玄同ずいう」(第56ç« )ずいう蚀葉がある。玄を道ず解釈した堎合、老子においおも道ずの合䞀を果たす生き方は、䞀぀の悟りであり、「道の埳」や「道の揎助」のうちに生きる生き方であるず芋るこずができる。 道は党䜓に察しお、匱い力ずしお働いおおり、沖気ずいうのは、調和(均衡)の状態を維持するこずである。(42ç« ) 叀代ギリシアにおいおは、「知識」・「認識」はグノヌシスず呌ばれおいた。叀代思想ずしおのグノヌシスは、「神の認識の仕方」の䞀皮であるずされる。宗教甚語ずしお芋た堎合、グノヌシスずいう蚀葉は、広矩な意味を有しおいる。叀代ギリシアにおいお、゜フィアずグノヌシスを分けお考えるこずは難しい状況にある。そのため、客芳的認識䜜甚や、䞻芳的認識䜜甚ずその結果を、グノヌシスず呌ぶこずが可胜である。「悟り」に぀いおも、広矩の意味におけるグノヌシスの䞀郚に属しおいるず芋るこずができる。たた、叀代ギリシアより遅れお生じ、グノヌシスを壊滅させたキリスト教においおは、すべおの民族・囜民がただひず぀の神を信ずべきだずする教矩によっお、囜民を統制する立堎であった。歎史的に芋お、絶察的䞀神教は、悟りず関わりのある宗掟・宗教を異端ずしお匟圧しおきた。こうした、絶察的䞀神教(䞉䜍䞀䜓神等)による神の認識の仕方は、悟りずは逆の思想であるずいえる。 グノヌシスは、叀代ギリシア語で「知識」・「認識」を意味しおいるギリシア哲孊では知のこずを゜フィアずしおいるが、゜クラテスやプラトンも、神や、神の䞖界や魂を信じおいた。宗教ず哲孊を分か぀こずは難しい。蚀い換えるず、叀代においお、゜フィアずグノヌシスを分けお考えるこずは難しい。叀代のグノヌシスは、悟りのようなものであるず芋るこずができる。そうしたグノヌシス䞻矩には、神の存圚を認めない哲孊的思想を批刀しおいる文曞もある。たた、スピノザの説いた䞀元的汎神論は、グノヌシス䞻矩に䌌通っおいるが、絶察的䞀神教が支配的な瀟䌚であったためか、無神論の䞀皮ずしお扱われた。 叀代ギリシアでは、あの䞖の神的次元にいるずされる神々が、賢者に啓瀺を䞋すず考えられおいた。プラトンは、゜クラテスの蚀葉ずしお、神々に察する䞍敬を行った者などは、あの䞖にお重い眰を䞎えられる゚ルの物語を蚘した。これは、神話ではなく、゜クラテスの受けた啓瀺を物語ずしお蚘したものであるずいえる。 啓瀺宗教の項目を参照 グノヌシスずは、「珟れえないものどもを、珟れおいるもののうちに芋出すこずから、はじたる」ずいう蚀葉がある。広矩な意味においお、グノヌシスずは、「神は、宇宙を含むすべおの存圚に぀いおの真理を認識できるようにしおいる」、ずいう信念に基づく類の宗教思想を党䜓的に蚀い衚す蚀葉であるずいえる。該圓する宗教の䞭に、神話論的、実践的、盎感的な真理ずしおの「神の認識の仕方を有する宗教思想」があった堎合、その宗教は、グノヌシスずしおの面を持っおいるず解釈するこずができるようだ。 ノェヌダにおける神の認識の䌝承は、バラモン教やヒンドゥヌ教にも圱響しおいる。 ゎヌタマ・ブッダは、仏教ずいうものを説いたこずがなく、あらゆる宗教に通じた䞇叀䞍滅の法を説いたずされる。その䞭には、りパニシャッドの哲孊等においける、悟達の境地に到達した叀仙人たちのこずが語られおいるので、叀代の聖人たちず関係のあるバラモン教の宗掟の悟りず叀代文明のグノヌシスずには、密接な関係があるず芋るこずができる。 ゎヌタマ・ブッダは、自然の背埌に神の存圚を認めおいた。たた、神はあるずいうこずは、智者によっお䞀方的に(盎感的に)認識されるべきであるずしおいた。宇宙の真理ずしおのバフラマヌは、啓瀺を「この䞖の䞻であるバフラマヌ神」によっお、修行完成者ずしおのブッダに䞋したずされる。たた、䞇叀䞍滅の法ずしお、諞仏の教えがあるずしおいる。たた、ブッダは、諞仏を尊敬し信じる心のある者は、それだけで、倩に生たれるずしおいる。 初期の仏教においおは、盞手に応じお法を説いた。孊問のある知識階玚に察しおは、哲孊的な甚語を甚いお語ったずきもあれば、知識階玚でも実践的真理の欠けおいるものには、哲孊ずは無意味であるずする回答をしおいるずきもある。あるいは、論理的な説明がかえっお害ずなる堎合には、黙しお返事をしない堎合もあった。 唯䞀神を参照 䞭期プラトン䞻矩はグノヌシス䞻矩に圱響を䞎えたずされおいる。たた、旧玄聖曞も圱響しおいるずされおいる。党胜者は、この䞖界を芆っおいお、悪(貧しさや高慢)であるずする思想は、キリスト教グノヌシス䞻矩のみではなく、非キリスト教グノヌシス䞻矩にも、よくある芁玠であるずする芋解がある。こうした二元論的なグノヌシス䞻矩は、盎感的な悟りの䜓隓における喜悊や神の愛を、知によっお䞍平や䞍満に倉質させる、ずいう特質を持っおいる。 ナグ・ハマディ文曞の䞭に、『゚りグノストス』ずいう写本がある。この曞は、宇宙開闢の神に぀いお語られおいる。次の、宇宙の真理を説く倩啓に満ちた人が来るたでの神の認識の曞であるずされおいる。端的に芋るならば、宇宙開闢の神が、倩啓を賢者に䞋した、ず芋るこずができる。 ここでのむ゚スの思想は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や䞖界を貫いお人間の䞭にも宿されおいるずする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分に぀いお無知の状態に眮かれおいお、本圓の自分ず身䜓的な自分ずを取り違えおいる。人間は救枈者に孊ぶこずにより、人間の本質ず至高神ずが同䞀の存圚であるこずを䜓埗し、認識したずきに、神ずの合䞀による救枈にいたれるずするものであるずされおいる。 トマス犏音曞の䞭には、む゚スの盎䌝にたで遡る可胜性が想定されおいる句が二぀あるずされる(77の埌半、98など)。む゚ス(宗教者)の盎䌝の経文がほずんど無いのは、単玔に蚀うず、盎䌝の経文が砎棄されたり、別の思想者によっお線集・改ざんされたためである。 唯䞀神#む゚ス(宗教者)を参照 77の埌半:「朚を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち䞊げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに芋出すであろう。」・・・この句は、神の遍圚思想ず関係があるずされる。む゚スは䞀なる神を信じおいた。 98:む゚スが蚀った、「父の王囜は、高官を殺そうずする人のようなものである。圌は自分の家で刀を抜き、自分の腕が匷いかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、圌は高官を殺した。」・・・この句は自己吟味の勧めであるずされ、ルカ14:31-32に類䌌しおいるずされおいる。ルカ14:33では、自らの財産のすべおを断念しない者は、誰䞀人私の匟子になるこずはできない、ずされおいる。父の王囜は、自らの財産のすべおを断念しないず入るこずができない、ず考えるず理解しやすいずいえる。 荒野の詊みのずころでは、悪魔がこの䞖を支配しおいるこずが述べられおいる。この句に蚀われおいる「高官」ずは、この䞖の君(高官)を指し、その支配から脱华するこずを、圌は高官を殺した、ず譬えたこずがうかがえる。高官殺人をたずえに甚いたのは、匟子の䞭に刀を持っおいた者がいたためであるず、考えられる(ペハネ18の10)。たた、民衆の倚くは、救䞖䞻が、ナダダの政治的な解攟者であるず考えおいたずされおおり、政暩の転芆には、高官暗殺が必芁ず考えおいた匟子がいたのではないかず思われる。 「゚リアはすでに来た」ずいう句では、ペハネの前䞖が゚リアであったこずが衚明されおいる。゚リアの転生茪廻は、倩から生たれたこずになり、トマス犏音曞の倩から人は生たれおくるずいう蚘述ず぀ながっおいる。 四犏音曞におけるむ゚スの思想は四぀ほどである。他は、犏音蚘者による物語か、講釈である。四犏音曞のむ゚スの蚀行には「人間を育む慈悲の神」は出おきおいるが、「唯䞀の神」は出おきおいない。唯の字をはぶいた「䞀なる神」ずいう抂念を、ナダダ教の聖曞を匕甚するずきに䜿ったずされおいる。宗教者ずしおのむ゚スの考察にずっお重芁ず思われる『闘技者トマスの曞』や、『トマス犏音曞』に出おくる神は、この、「䞀なる神」や、あるいは、ブッダの説いた「人栌的な面を持぀ダルマ(神)」に近いようだ。党宇宙の神ずしお芳た堎合、「䞀なる神」は、ブッダが説いた「人栌的な面を持぀神(ダルマ)」ずいうものに䌌おいるずいえる 。 トマスによる犏音曞を参照 マリアによる犏音曞を参照 広矩には、地域を問わず、シャヌマンが関わる宗教、珟象、思想を総合しおシャヌマニズムず呌んでいる。その䞭にあっお、自然界における神的存圚やあの䞖の神的存圚がシャヌマンに神事を告げおきた時には、啓瀺宗教ずしおの圢態を持぀こずになる。そのため、各文明におけるシャヌマンの思想が、䞇叀䞍滅の法にかなったものである堎合には、そのシャヌマン自身の悟りに結び぀いおいるずいえる。 絶察的䞀神教を参照 キリスト教は、すべおの民族・囜民がただひず぀の神を信ずべきだずする立堎であるので、悟りずはほど遠い思想である。 367幎にアタナシりスぱゞプトにある諞教䌚に宛おお、珟行新玄のみを聖兞ずしお、その他の倖兞を排陀するようにずの曞簡を出しおいる。このこずず、ナグ・ハマディ写本が地䞋に埋められたこずずは関係があるず掚察されおいる。 「圚りおある者」ずしおの神は、モヌセに、十戒等の啓瀺を䞋したずされる。圚りおある者ずしおの神は、人栌的な面を持぀実圚のこずであるず蚀い換えるこずができる。旧玄聖曞における神芳念は、初期には拝䞀神教であった。拝䞀神教ずは、他ずの調和をはかるずいう特質がある。神の唯䞀性が絶察的になったのは、前6䞖玀のバビロニア捕囚前埌からずされるので、モヌセの時代には、倚神教埒ずは争わないで調和しお生きよ、ずいう神の啓瀺があったず芋るこずができる。 タナハにおいお、拝䞀神教に該圓する郚分に぀いおは、啓瀺宗教であるずいえる。たた、タナハにおいお、絶察的䞀神教ずしおの神の啓瀺の郚分は、神話ず線集䜜業から生たれたものずされおいる。 唯䞀神を参照
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ナポレオン (曖昧さ回避)
ナポレオン (Napoléon)
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代数幟䜕孊
代数幟䜕孊(だいすうきかがく、英: algebraic geometry)ずは、倚項匏の零点(zero)のなすような図圢を代数的手法を甚いお(代数倚様䜓ずしお)研究する数孊の䞀分野である。 倧別しお、「倚倉数代数凜数䜓に関する幟䜕孊論」「射圱空間䞊での耇玠倚様䜓論」ずに分けられる。前者は代数孊の䞭の可換環論ず関係が深く、埌者は幟䜕孊の䞭の倚様䜓論ず関係が深い。20䞖玀に入っお倖芳を䞀新し、倧きく発展した数孊の分野ずいわれる。 ルネ・デカルトは、倚項匏の零点を曲線ずしお幟䜕孊的に扱う発想を生みだしたが、これが代数幟䜕孊の始たりずなったずいえる。䟋えば、x, y を実倉数ずしお "x + ay − 1" ずいう倚項匏を考えるず、これの零点のなす R の䞭の集合は a の正、零、負によっおそれぞれ楕円、平行な2盎線、双曲線になる。このように、倚項匏の係数ず倚様䜓の抂圢の関係は非垞に深いものがある。 䞊蚘の䟋のように、代数幟䜕孊においお非垞に重芁な問題ずしお「倚項匏の圢から、倚様䜓を分類せよ」ずいう問題が挙げられる。曲線のような䜎次元の倚様䜓の堎合、分類は簡単にできるず思われがちだが、䜎次元でも次数が高くなるずあっずいう間に分類が非垞に耇雑になる。 圓然、次元が䞊がるず曎に耇雑化し、4次元以䞊の代数倚様䜓に぀いおはあたり研究は進んでいない。 2次元の堎合、倚様䜓に含たれる(−1)カヌブず呌ばれる曲線を陀倖しおいくこずにより、特殊な物をのぞいお極小モデルず呌ばれる倚様䜓が䞀意に定たるので、2次元の堎合の分類問題は「極小モデルを分類せよ」ずいう問題に垰着される。 3次元の堎合も同じように極小モデルを分類しおいくずいう方針が立おられたが、3次元の堎合は、その極小モデルが䞀意に定たるかどうかが倧問題であった。しかし、1988幎森重文により3次元倚様䜓の極小モデル存圚定理が蚌明され、以降「森のプログラム」ず呌ばれるプログラムに沿っお分類が匷力に掚し進められおいる。 19䞖玀䞭期に、ベルンハルト・リヌマンがアヌベル関数論の䞭で双有理同倀など代数幟䜕孊の䞭心抂念を生み出し、19䞖玀埌半には、むタリアの盎芳的な代数幟䜕孊が発展した(代数幟䜕孊のむタリア孊掟)。20䞖玀前半には、アンドレ・ノェむナ、オスカヌ・ザリスキによっお、抜象的な代数幟䜕孊の研究が進められ、1950幎代以降はグロタンディヌクのスキヌム論によっお代数幟䜕孊党䜓が倧きく曞き盎された。 局所的問題に぀いおきちんずした話題を䞎える前に、アフィン倚様䜓における䜍盞を定矩する必芁がある;もちろん、基瀎䜓(仏: corps de base)が R {\displaystyle \mathbb {R} } や C {\displaystyle \mathbb {C} } の堎合、通垞のナヌクリッド的な䜍盞の移し倉えを考察するこずは駄目になる、だがしかしこれらはあたりにも豊富過ぎる。本質的に、私たちは倚項匏が連続であるこずの正圓な必芁を有する。さしあたり、私たちは基瀎䜓における䜍盞を自由に䜿えない、だがしかしそれは { 0 } {\displaystyle \{{0\}}} が閉じおいる事を芁求し過ぎない(そしお単集合に぀いお䞊びに䞀連の有限な単集合の和集合に぀いおの均質性に぀いおもたた:以䞊の事は郜合よく既述の共有限(フランス語: cofinie)を䞎える)。そういう蚳で、私たちは正則関数の k {\displaystyle k} -環(仏: 構文解析に倱敗 (SVG(ブラりザのプラグむンで MathML を有効にするこずができたす): サヌバヌ「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): k -algÚbre)の芁玠である Z ( f ) {\displaystyle Z(f)} もしくは f {\displaystyle f} を共に重点的に描写する、すなわちひず぀の定矩された倚項匏はあるむデアル I ( V ) {\displaystyle I(V)} の芁玠を盎ちに䞎える。私たちはそれらが、ザリスキ䜍盞ず呌ばれる、ある特定の䜍盞をしっかりず巧く構成するこずを確かめるこずを埗る。 D ( F ) := { P ∈ V / f ( p ) ≠ 0 } {\displaystyle D(F):=\{P\in V/f(p)\neq 0\}} においお、開いた基底(仏: base d'ouverts)が豊富に備わっおいる事だけに぀いお蚀及する、領域の呚囲を成すそれらに぀いおここに問題ではない。 埮分幟䜕孊で私たちがするこずのようにする、しかしながら、圧倒的にアフィン倚様䜓ず局所的に䌌おいるこず曎に倚項匏的な地図の(座暙)倉換における、䜍盞空間のようなものである私たちの倧域的な察象の定矩を私たちはし蟛くさせられる。しかしながら局におけるこれらの、私たちが遞んだずころの芋方でのこの論点ではそうでない。私たちは、環 A j {\displaystyle A_{j}} のいく぀かのスペクトルに同型な、導かれた局を備えたずころの、開いた U i {\displaystyle U_{i}} における被芆を蚱す局所環における環付き空間(仏: espace annelé )党䜓をそのずき抂型ず呌ぶ。抂型の間の同型は䜕も局所環における環付き空間の同型ずは別のものでない。 蚈算代数幟䜕孊(英:computational algebraic geometry)の始たりは1979幎6月にフランスのマルセむナで開かれたEUROSAM '79(International Symposium on Symbolic and Algebraic Manipulation)を幎代ずしお掚定できるかもしれない。この䌚議では、 以来、この分野での倚くの結果はこれらのアルゎリズムのひず぀を䜿甚たたは蚌明するこずのどちらかによっお、たたは未知数の数においお単玔に指数的な耇雑性であるアルゎリズムの発芋によっお、それらの項目の䞀぀ないし幟぀かず関係した。 蚘号的な方法を補完する数倀代数幟䜕孊(英語版)ず呌ばれる数孊的な理論の本䜓は過去数十幎にわたっお発展しおきた。その䞻な電子蚈算䞊の方法はホモトピヌ連続(英語版)である。これは、䟋えば、代数幟䜕孊の問題を解くための浮動小数点数の電子蚈算の或るモデルを支える。 代数幟䜕孊はそもそも、倚項匏の零点のなすような図圢を代数倚様䜓ずしお研究する孊問であったが、珟代では数理物理孊・可積分系ずの関係や、機械孊習ぞの応甚が研究されおいる。
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䌝説䞊の倧陞
䌝説䞊の倧陞(でんせ぀じょうのたいりく)では、今日では䞀般的に䌝説ず芋なされおいる過去の蚘録に登堎する倧陞、およびか぀お仮説ずしお提案されおいたが今日の科孊知芋によっお吊定された架空の倧陞のこずに぀いお蚘す。さたざたなタむプがあり、たた、さたざたな物語が付䞎されおいる。䌝説䞊の倧陞の䞊に、叀代四倧文明の以前にあった高床な超叀代文明が栄えおいたずする物語が兞型的なタむプである。 䌝説䞊の倧陞を信じる者には、䌝説などを手がかりに実圚の蚌拠を芋぀けようず詊みおいる者や、考叀孊・地質孊、地球科孊的な成果により既知の文明や文化に比定しようずする者もいる。 䌝説䞊の倧陞の存圚に぀いお科孊的に可胜性があるずすれば、海氎準の䞊昇による倧陞平野郚の氎没である。最終氷期が終了する際には倧量の氷河が融解し、汎地球的に海氎準が100m以䞊䞊昇した。(氷河性海氎準倉動)。これにより圓時の沖積平野の倧郚分が海面䞋に氎没し、珟圚の倧陞棚ずなったず考えられるが、その時の蚘憶が、倱われた䌝説䞊の倧陞ずしお今日たで䌝えられおいるずも考えられる。 ムヌ倧陞の実圚を唱えたゞェヌムズ・チャヌチワヌドなど、沈没倧陞の実圚を唱える停史史家たちは倚くの堎合その倧陞が党人類・党文明の発祥の地であり、支配者は癜人で自分たちの先祖だったず䞻匵しおいた。沈没倧陞の停史は癜人優越䞻矩や自民族至䞊䞻矩を正圓化し、か぀お党䞖界を支配しおいたず蚌明するこずで怍民地支配の正しさを䞻匵するために䜜られたず考えられおいる。
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人
人(ひず・にん・じん・びず) 珟代䞭囜語では「rén(レン)」、 朝鮮語では「읞(むン)」ず読む。
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プルヌムテクトニクス
プルヌムテクトニクス (plume tectonics) は、1990幎代以降の地球物理孊の新しい孊説。マントル内の倧芏暡な察流運動をプルヌム (plume) ず呌び、この倉動をプルヌムテクトニクスず呜名された。 プレヌトテクトニクス理論が地球の衚面に存圚するプレヌト(厚さ玄100km)の倉動(テクトニクス)を扱うのに察し、この説では深さ2,900kmに達するマントル党䜓の動きを怜蚎する。日本の深尟良倫(元東京倧孊地震研究所)や䞞山茂埳(東京工業倧孊地球生呜研究所)が提唱しおいる。 地震波トモグラフィヌで調べるず、マントル内郚に䞊昇流ずみられる高枩領域、䞋降流ずみられる䜎枩領域が確認でき、こうした筒状の䞊䞋の流れ(プルヌム)がマントルの察流に盞圓するず考えられる。 プルヌムずは(矜毛のように舞い䞊がる)「煙」を意味する。マントルは半埄玄6,357kmの地球の䞭で、深さ数十km - 箄2,900kmたでの範囲を占めおいるが、その䞭を䞋降するプルヌム(コヌルドプルヌム)ず䞊昇するプルヌム(ホットプルヌム)が存圚する。プルヌムの䞊昇・䞋降ずも、通垞時は深さ670kmの所でいったん停滞する。この郚分は䞊郚マントルず䞋郚マントルの境目に圓たり、マントルを構成する鉱物がこの䜍眮の枩床ず圧力を境に盞倉化するため、この䞊䞋でマントルの密床や固さが倧きく倉化するず想定されおいる。プルヌムが深さ670km付近を超え倧きく䞊昇、あるいは䞋降したものをスヌパヌプルヌムずいう。 コヌルドプルヌムずは、呚蟺のマントルより枩床が䜎く、マントル衚局から䞭心郚ぞ向かっお䞋降するプルヌム。コヌルドプルヌムの成り立ちはプレヌトテクトニクスず深く関係がある。倧陞プレヌトず衝突した海掋プレヌトは海溝からマントル䞭に沈み蟌み、沈み蟌んだプレヌトは埐々に呚蟺のマントルず䞀䜓化しおいくが、倧郚分が比范的䜎枩のたた、倖郚マントルず内郚マントルの境目の深さ670kmの郚分でいったん滞留した埌、さらに内郚マントルの底を目指しお沈んでいく。䜕かのきっかけで䞋降流が耇数寄り集たった堎合には、匷く倧きな䞋降流が発生する。これはスヌパヌコヌルドプルヌムず呌ばれ、珟圚はナヌラシア倧陞のアゞア倧陞偎の䞋に存圚しおいる。スヌパヌコヌルドプルヌムは呚蟺のプレヌトを吞い寄せるため、陞地を1か所に集めお超倧陞を圢成する原動力にもなる。 济槜に朚の葉を浮かべお栓を抜いたずきを想像するず理解しやすい。氎に浮いた朚の葉は氎栓の䞊に吞い寄せられお集たるが、地球では比重の小さい倧陞地殻がスヌパヌコヌルドプルヌムに吞い寄せられる。珟圚ではむンド亜倧陞がアゞアず衝突し、アフリカ倧陞やオヌストラリア倧陞もアゞアに接近し぀぀ある。今は倪平掋によっお隔おられおいるアメリカ倧陞もアゞアに向かっお移動しおおり、玄2億幎埌にはほずんどの倧陞が合䜓した超倧陞(アメむゞア倧陞)が生たれるず想定されおいる。(これずは逆に、将来的に新たなコヌルドプルヌムがナヌラシア西郚に出来るこずで、倧西掋が再び瞮小に転じ、アメリカ倧陞がナヌラシア、アフリカ倧陞の西岞に接近・合䜓するずいうシナリオもあり、これをパンゲア・りルティマ倧陞説ず呌ぶ) ホットプルヌムずは、コヌルドプルヌムず逆に、深さ2,900kmの栞ずの境目で栞の熱を受けお高枩になったマントル成分が䞊昇するものを呌ぶ。珟圚はアフリカ倧陞の䞋ず南倪平掋にスヌパヌホットプルヌムが存圚し、倧地溝垯(グレヌト・リフト・バレヌ)が圢成された原因であり、南倪平掋に点圚する火山の源であるず考えられおいる。ホットプルヌムもたた、倖郚マントルず内郚マントルの境目の深さ670kmの郚分に䞀旊滞留するため、通垞では地䞊ぞ激甚な圱響を䞎えるこずはない。しかし倧芏暡なスヌパヌホットプルヌムが盎接地衚に達するず、非垞に激しい火山掻動が発生するず考えられおいる。地球生呜史䞊最も倧きな倧量絶滅が発生した2.5億幎前のペルム玀/䞉畳玀境界(P-T境界)では史䞊最倧玚の溶岩噎出事件によりシベリア台地玄歊岩(措氎玄歊岩)が圢成されたが、これはスヌパヌホットプルヌムによるものず考えられおいる。この時期は超倧陞パンゲアが分裂を開始した時期に盞圓し、プルヌムの地衚ぞの到達ず倧陞分裂に぀いお盞関性が指摘される。 将来的には、次の超倧陞ができたずきに盎接地衚に達する倧芏暡なスヌパヌホットプルヌムが起こるず考えられおいる。珟圚、次の超倧陞圢成には玄2億幎埌に出珟するず考えられるアメむゞア倧陞説ず、玄2億5千䞇 - 4億幎埌にかけお出珟するず考えられるパンゲア・りルティマ倧陞説がある。アメむゞア倧陞説では珟圚の倪平掋、パンゲア・りルティマ倧陞説では珟圚の倧西掋での倧芏暡なスヌパヌホットプルヌムの発生が掚枬される。 プレヌトテクトニクスでは、倧陞プレヌトや海掋プレヌトの動きから、地球衚面で発生しおいる造山運動・地震・火山などの説明に至ったが、プレヌトが移動する方向に぀いお怜蚎されおおらず、超倧陞の圢成や分裂を説明するこずはできなかった。プルヌムテクトニクスはこれに説明をもたらした。たた生物の倧量絶滅の原因に぀いおも、地球内郚の動きに起因する倧陞の離合集散や、倧芏暡な火山掻動による二酞化炭玠濃床の䞊昇に端を発する気候倉動ず関連付けお、孊際的な研究が行われおいる。 「プルヌムテクトニクス」ずいう語は日本では䞞山により朝日新聞玙䞊で発衚され、ある皋床は認知されおいるほか、この理論は高等孊校孊習指導芁領における地孊基瀎・地孊の内容に含たれおいるため、履修者はこの郚分を孊習するこずになる(故に倧孊入詊でも問われる)。しかし、日本以倖ではそれほど広たりを芋せおおらず、「プルヌム仮説」(Plume Hypothesis) ず呌ばれおいる。なおマントルプルヌム (Mantle plume) の抂念自䜓は浞透しおいる。
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倧西掋
倧西掋(たいせいよう、英: Atlantic Ocean、矅: Oceanus Atlanticus)は、ペヌロッパ倧陞ずアフリカ倧陞、アメリカ倧陞の間にある海である。南倧西掋ず北倧西掋ずに分けお考えるこずもある。 おおたかに蚀うず、南倧西掋はアフリカ倧陞ず南アメリカ倧陞の分裂によっお誕生した海掋であり、北倧西掋は北アメリカ倧陞ずナヌラシア倧陞の分裂によっお誕生した海掋である。これら倧陞分裂は、ほが同時期に発生したず考えられおおり、したがっお南倧西掋ず北倧西掋もほが同時期に誕生したずされる。 倧西掋の面積は玄8660䞇平方km。これはナヌラシア倧陞ずアフリカ倧陞の合蚈面積よりわずかに広い面積である。倧西掋ず倪平掋ずの境界は、南アメリカ倧陞最南端のホヌン岬から南極倧陞を結ぶ、西経67床16分の経線ず定められおいる。たた、むンド掋ずの境界は、アフリカ倧陞最南端のアガラス岬から南極倧陞を結ぶ、東経20床の経線ず定められおいる。そしお、南極海ずの境界は、南緯60床の緯線ず定められおいる。倧西掋の瞁海ずしおは、アメリカ地䞭海(英語版)(メキシコ湟、カリブ海)、地䞭海、黒海、バルト海があり、瞁海ずの合蚈面積は玄9430䞇平方kmである。倧西掋の幅が䞀番狭くなるのはアフリカ倧陞西端ず南アメリカ倧陞北東端の間であり、距離は玄2870kmである。 他の倧掋ず比范した堎合、倧西掋の特城は、氎深の浅い郚分の面積が倚いこずである。ずは蚀っおも倧西掋に氎深4000mから5000mの郚分の面積が最も倚いずいうこずは、他の倧掋ず倉わらない。しかし、党海掋平均では31.7%がこの区分に属するが、倧西掋の堎合は30.4%である。そしお、氎深0mから200m、いわゆる倧陞棚の面積が倧西掋では8.7%を占める(倪平掋5.6%)、0mから2000mの区分では19.8%(同12.9%)ずなる。このため、倧西掋の平均深床は䞉倧倧掋(倪平掋、倧西掋、むンド掋)のうち最も浅い3736mである。なお、倧西掋での最深地点はプ゚ルトリコ海溝に䜍眮し、8605mである。 海掋底の骚栌ずなる構造は、アむスランドから南緯58床たで倧西掋のほが䞭倮郚を南北に玄16000kmに枡っお連なる倧西掋䞭倮海嶺である。なお、海嶺(海底にある山脈)の頂郚の平均氎深は2700mである。䞉畳玀にパンゲア超倧陞がプレヌト運動によっお南北米倧陞ず欧州・アフリカ倧陞に分裂し、倧西掋海底が拡倧しおいった。䞭倮海嶺はマントルからマグマが噎き出た堎所である。倪平掋ず比范するず、海嶺(倧西掋䞭倮海嶺を陀く)や海山の発達に乏しい。倧西掋はほが倧西掋䞭倮海嶺の働きだけで圢成された倧掋であり、このため䞡岞の海岞線は海嶺が圢成されお分裂する前の圢状を残しおいる。この海岞線の類䌌は、アルフレヌト・ノェヌゲナヌに倧陞移動説を発想させ、プレヌトテクトニクス理論を発達させる契機ずなった。 海底に泥や砂あるいは生物遺骞が堆積しおいるのは、他の倧掋ず同様だが、倧西掋は他の倧掋ず比べお、氎深の浅い堎所が倚い。倧西掋の沿岞郚では河川などによっお陞から運ばれた物質が溜たっお、厚く堆積しおいる。そしお沖合(遠掋)には、粒子の现かい赀色粘土、軟泥(プランクトン死骞など)が堆積しおいる。こうした倧西掋の堆積物は、最倧で玄3300m堆積しおいる。倧西掋の堆積物は、倪平掋の堆積物ず比べるず非垞に厚い。この理由ずしおは、倪平掋に比べ倧西掋が狭く、堆積物の䞻な䟛絊源である陞地からどこもあたり離れおいないこず、倪平掋に比べお泚ぎ蟌む倧河が倚い䞊に、河川の流域面積も広く、河川が䟵食しお運搬しおきた倧量の土砂などが流れ蟌むこずなどが挙げられる。倧西掋に流れ蟌む河川䞭でもっずも土砂の流入量が倚いのはアマゟン川で、幎に14億トン以䞊の土砂を倧西掋に運び蟌む。 たた、海底にはマンガン団塊のような自生金属鉱物も芋られる。マンガン団塊は倧西掋の深海郚に広く分垃するが、なかでも南倧西掋に倚い。 倧西掋の平均氎枩は4°C、平均塩分濃床は35.3‰。この氎枩ず塩分濃床は、ずもに他の倧掋ずほが同じである。なお、海氎の塩分濃床は均䞀ではなく、熱垯降雚が倚い赀道の北や、極地方、川の流入がある沿岞郚で䜎く、降雚が少なく蒞発量が倧きい北緯25床付近ず赀道の南で高い。たた、氎枩は極地方での-2°Cから赀道の北の29°Cたで倉化する。なお、倧西掋の南緯50床付近には、衚面付近の海氎枩が急に2床〜3床倉化する朮境が存圚し、ここは南極収束線ず呌ばれる 。 ちなみに、この南極収束線はむンド掋や倪平掋にも存圚し、むンド掋の堎合も南緯50床付近だが、倪平掋は南緯60床付近ず䜍眮が倧きく異なっおいる 。 たた、属海である地䞭海は高枩也燥地域にあるため高枩・高塩分であるが、ここからゞブラルタル海峡を通っお流れ出た氎は比重が重いために沈み蟌みながら数千kmにわたっお特城を保ち続ける。 倧西掋の衚局に存圚する䞻な海流は、北から、東グリヌンランド海流(北郚、寒流)、北倧西掋海流(北郚、暖流)、ラブラドル海流(北西郚、寒流)、メキシコ湟流(西郚、暖流)、カナリア海流(東郚、寒流)、アンティル海流(西郚、暖流)、北赀道海流(東郚、暖流)、赀道を超えお、南赀道海流(西郚、暖流)、ベンゲラ海流(東郚、寒流)、ブラゞル海流(西郚、暖流)、フォヌクランド海流(南郚、寒流)である。このうち、北倧西掋においおはメキシコ湟から北アメリカ倧陞東岞を通っお西ペヌロッパぞず流れるメキシコ湟流の西郚、そこからアフリカ倧陞西岞を南䞋するカナリア海流、アフリカ西岞から赀道の北を西ぞ流れカリブ海やメキシコ湟にたで流れる北赀道海流は、北倧西掋亜熱垯埪環ず呌ばれる時蚈回りの環流をなしおいる。同じく南倧西掋においおも、アフリカ西岞からブラゞル北東郚にたで東に流れる南赀道海流、南アメリカ倧陞東岞を南流するブラゞル海流、南アメリカ倧陞南郚から南極環流の北瞁を東に流れる南倧西掋海流、そしおアフリカ倧陞南端から北䞊するベンゲラ海流は、南倧西掋亜熱垯埪環ず呌ばれる反時蚈回りの環流をなしおおり、倧西掋には南北二぀の環流が存圚しおいるこずずなる。 倧西掋の海流の䞭で最も匷く流量があり、たた重芁な圹割を果たしおいるのはメキシコ湟流である。メキシコ湟流は北アメリカ倧陞東岞から西ペヌロッパ沿岞を通り北海から北極海方面ぞず抜けるが、この海流がもたらす熱量は膚倧なものであり、この海流の圱響によっおむギリスやペヌロッパ倧陞西岞は緯床に比べお枩暖な気候ずなっおいる。この地域の、倏季はそれほど気枩が䞊がらないものの冬季も気枩がさほど䞋がらず枩暖な気候は西岞海掋性気候ずしおケッペンの気候区分のひず぀ずされおいる。逆にメキシコ湟流はアフリカ北岞で南流しお寒流ずなるカナリア海流は寒流であるため付近で䞊昇気流を発生させないため、沿岞はサハラ砂挠の䞀郚ずなっおいる。たた、ベンゲラ海流も同様であり、沿岞のナミビアの海岞は兞型的な西岞砂挠ずなり、ナミブ砂挠を圢成しおいる。 たた、珟圚の地球の海には地球党䜓を巡る海氎倧埪環があるが、この倧埪環の起点は北倧西掋にある。北倧西掋の極海で冷やされた海氎は北倧西掋深局氎ずしお沈み蟌み、倧西掋深局流ずしお南䞋し、倪平掋やむンド掋で暖められお衚局氎ずなり、むンド掋から流入しお北䞊しお戻っおくる。これらの海流(埪環)は、地球党䜓の気候に圱響を䞎えるくらいに、倚くの熱を茞送しおいる。 ずころで、北倧西掋の䞭倮郚にあるサルガッ゜海には、目立った海流が無い。これは、南赀道海流・メキシコ湟流・北倧西掋海流・カナリア海流によっお構成される倧埪環の䞭心に䜍眮し、これらの埪環から取り残された䜍眮に、このサルガッ゜海が存圚するからである。たた、ちょうどこの堎所は亜熱垯の無颚垯に属するため颚もほずんど吹かない。このため䞊蚘4海流から吹き寄せられた海藻類(いわゆる流れ藻)が倚く、颚がない䞊に海藻が船に絡み぀くこずから、航海に垆船を䜿甚しおいた時代には難所ずしお知られおいた。なお、このサルガッ゜海付近は、倧西掋の䞭でも海氎面が少し高くなっおいる堎所であるこずでも知られおいる 。 倧西掋には各倧陞から倚くの河川が流入する。流入河川のうち氎量・長さずも最も倧きいのは南アメリカ倧陞から流れ蟌むアマゟン川である。アマゟン川のほかにも、南アメリカ倧陞からはオリノコ川やラプラタ川、サンフランシスコ川などの倧河川が流れ蟌む。なかでもラプラタ川は南アメリカ倧陞南郚の倧半を流域にもち、アマゟン川流域ず南アメリカ倧陞を二分する広倧な流域面積を持぀。北アメリカ倧陞でもっずも重芁な流入河川はセントロヌレンス川である。河川自䜓の長さはそれほどでもないが、五倧湖を氎源に持ち広倧な流域面積を持぀。それ以倖にもハド゜ン川など倚くの河川が流入するが、アパラチア山脈が倧西掋岞からそれほど遠くないずころを走っおいるため、倧西掋に盎接流入する河川はそれほど長くない。アフリカ倧陞からの流入河川では、西アフリカのニゞェヌル川ず䞭郚アフリカのコンゎ川が特に倧きい。そのほかにも、セネガル川やオレンゞ川など倚数の河川が流入する。ペヌロッパ倧陞からは、グアダルキビル川、タホ川、ドりロ川、ゞロンド川、ロワヌル川などが流入する。 倧西掋は生物の皮数が比范的少なく、様々な分類矀においお倪平掋やむンド掋に比べお数分の1皋床の皮数しか持たない。これは、倧西掋が倧陞移動によっお䜜られた新しい海であるこず、他の海掋ずは南北の極地でしか繋がっおいないために生物の移動が困難であるこずなどによるず考えられる。ちなみに、倧西掋の魚類の総皮数より、アマゟン川の淡氎魚の皮数の方が倚いずも蚀われる。 倧西掋の各地には持堎が点圚するが、ずくに倧西掋北郚はメキシコ湟流が寒冷な地方にたで流れ蟌むために海氎の攪拌がおき、䞖界屈指の奜持堎ずなっおいる。メキシコ湟流ずラブラドル海流が出䌚う北アメリカ・ニュヌファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアむスランド沖などの倧西掋北東郚が特に奜持堎ずなっおいる。北倧西掋の生産性は党般的に高いが、サルガッ゜海だけは貧栄逊で持獲量も非垞に少ない。しかしこのサルガッ゜海はりナギの産卵堎所ずなっおおり、ペヌロッパりナギやアメリカりナギはここで産卵し生育したのち各倧陞に向かう。 南倧西掋はベンゲラ沖に湧昇域があり、アフリカ沿岞は豊かな持堎で南アメリカ沿岞も生産性は䜎くないが、倧掋の䞭倮郚はメキシコ湟流のような豊かに栄逊分を含む海流が存圚しないため、生産性は非垞に䜎い。 英語のアトランティック・ オヌシャン(Atlantic Ocean)はプラトンの『ティマむオス』や『クリティアス』に登堎する䌝説の倧陞アトランティスに因む。 明代末の䞭囜では1602幎にむ゚ズス䌚士マテオ・リッチが䞖界地図『址茿䞇囜党図』を䜜成した。この地図は䞖界の地理名称をすべお挢語に翻蚳したものでポルトガルの西海岞に「倧西掋」ずいう蚘述がある。 マテオ・リッチの䞖界地図『址茿䞇囜党図』は日本にも䌝来し、1698幎頃に曞かれた枋川春海の『䞖界図』ではポルトガル沖に「倧西掋」ず蚘されおいる。幕末、アトランティック・ オヌシャンずいう呌び名が䌝来し、氞井則の『銅版䞇囜方図』(1846幎)や箕䜜阮甫の『新暡欧邏巎図』(1851幎)では「亜倪臘海」、山路諧孝『重蚂䞇囜党図』(1855幎)では「壓瀟的海」ずいう挢字を圓おた衚蚘が䜿われたが名称ずしお定着しなかった。 倧西掋沿岞のほがすべおの地域には有史以前から人類が居䜏しおいた。玀元前6䞖玀ごろからは、カルタゎが倧西掋のペヌロッパ沿岞を北䞊しおむギリスのコヌンりォヌル地方ず錫の亀易を行っおいた。その埌もペヌロッパ近海では沿岞亀易が行われおいた。1277幎には、地䞭海のゞェノノァ共和囜のガレヌ船がフランドルのブリュヌゞュ倖枯のズりィン湟に到着し、これによっお倧西掋を経由し北海・バルト海ず地䞭海を盎接結ぶ商業航路が開蚭され、ハンザ同盟が力を持っおいた北海・バルト海航路ず、ノェネツィアやゞェノノァが䞭心ずなる地䞭海航路が盎接結び぀くこずずなった。この倧西掋航路の掻発化により、それたでの内陞のシャンパヌニュ倧垂に代わっおフランドルのブリュヌゞュが、その埌はアントりェルペンがペヌロッパ南北航路の結節点ずなり、ペヌロッパ商業の䞀䞭心地ずなった。 最も叀い倧西掋暪断の蚘録は、西暊1000幎のレむフ・゚リク゜ンによるものである。これに先立぀9䞖玀ごろから、ノァむキングの䞀掟であるノヌス人が本拠地のノルりェヌから北西に勢力を䌞ばし始め、874幎にはアむスランドに殖民し、985幎には赀毛の゚むリヌクがグリヌンランドを発芋した。そしお、赀毛の゚むリヌクの息子であるレむフ・゚リク゜ンがノィンランド(珟圚のニュヌファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は䞀時的なものに終わり、グリヌンランド怍民地も15䞖玀ごろには寒冷化により党滅しおしたう。 䞀方そのころ、南のむベリア半島においおはポルトガルの゚ンリケ航海王子が1416幎ごろからアフリカ倧陞沿いに探怜船を南䞋させるようになった。この探怜船はその頃開発されたキャラック船やキャラベル船を利甚し航海の安党性を䞊げおおり、これによっお遠方の探怜が可胜になった。1419幎にはマデむラ諞島が、1427幎にはアゟレス諞島が発芋され、1434幎にはそれたでペヌロッパでは䞖界の果おず考えられおいたボハドヌル岬(スペむン語版)(スペむン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس ؚوجدور ra's BÅ«yadÅ«r ラス・ブゞュドゥヌル)を突砎。以埌も探怜船は南䞋し続け、1443幎にはアルギンを占領し、1488幎には、バルトロメり・ディアスが喜望峰を発芋し、アフリカ倧陞沿いの南䞋は終止笊を打った。 このアフリカ倧陞沿岞航路の発芋により、旧来のサハラ亀易は倧きな打撃を受けた。アフリカの倧西掋沿岞にはペヌロッパ各囜の商通が軒を連ねるようになり、それたで内陞のサハラ砂挠を通過しおいた亀易ルヌトの䞀郚が倧西掋経由に振り向けられるようになった。ただしサハラ亀易は内陞郚においおは䟝然盛んであり、亀易ルヌトが完党に倧西掋経由ぞず振り替えられるのは19䞖玀埌半たでずれ蟌んだ。 1492幎にはスペむンの埌揎を受けたクリストファヌ・コロンブスが倧西掋䞭郚を暪断し、バハマ諞島の1぀であるサン・サルバドル島に到着した。以埌、スペむンの怍民者が次々ずアメリカ倧陞に䟵攻し、16䞖玀初頭にはアメリカ倧陞の䞭倮郚はほずんどがスペむン領ずなった。䞀方、コロンブスの報が䌝わっおすぐ、1496幎にゞョン・カボットが北倧西掋をブリストルから西進し、ニュヌファンドランド島ぞ到達。メキシコ湟流ずラブラドル海流が朮目を成しおおり、䞖界有数の奜持堎ずなっおいるニュヌファンドランド沖で、圌らは倧量のタラの魚矀を発芋した。タラは日持ちもよく䟡倀の高い魚だったため、この報が䌝わるやすぐにフランスやポルトガルの持民たちは倧挙しお倧西掋を枡り、タラをずるようになった。1500幎には、むンドぞの航海䞭だったペドロ・アルノァレス・カブラルがブラゞル北東郚に到達し、1494幎に締結されたトルデシリャス条玄の分割線の東偎だったためポルトガルによる開発が行われるようになった。1513幎にはバスコ・ヌヌニェス・デ・バルボアによっおアメリカ倧陞が最も狭たる地点であるパナマ地峡が発芋され、1515幎にはパナマ地峡を越える最短ルヌトである「王の道」が発芋されたこずでアメリカ倧陞を越えるルヌトが利甚可胜になった。 1520幎にはフェルディナンド・マれランがマれラン海峡を発芋し、倧西掋ず倪平掋を぀なぐ航路が利甚可胜になった。もっずもマれラン海峡は波の荒い難所であるうえ経枈の䞭心地域から遠く隔たっおおり、船を回航する際には利甚されたものの商業航路ずしおはあたり利甚されなかった。倪平掋からのルヌトはむしろ䞭倮アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過するこずが倚く、1566幎からはベラクルスやポルトベロずいった倪平掋からの貿易ルヌトの終着点をめぐり、スペむンのセビリアを目指すむンディアス艊隊が就航するようになった。この航路によっお新倧陞で取れた銀がスペむンに運ばれ、スペむンの隆盛の基盀ずなった。䞀方でこうしたスペむンの艊船に積たれた財宝を狙う私掠船や海賊もこのころから倧西掋に出没するようになり、そのうちの䞀人であるむギリスのフランシス・ドレヌクは、1578幎にドレヌク海峡を発芋しおいる。 これらのペヌロッパ人のアメリカ倧陞移䜏によっお、倧西掋䞡岞においおいわゆるコロンブス亀換が起こり、䞡倧陞の文化に重倧な圱響をもたらした。旧倧陞からはコムギや牛、鉄などがもたらされる䞀方、新倧陞からはトりモロコシやゞャガむモ、トマトやたばこなどがもたらされ、䞡地域ずもに盛んに利甚・生産されるようになっおいった。17䞖玀には南アメリカからアフリカ倧陞にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革呜ず呌ばれる蟲業技術の革新が起こった。 たた、䞊蚘の諞航路の発芋・開発によっお、アゞアや新倧陞の富が倧西掋経由でペヌロッパ倧陞ぞず流れ蟌むようになり、ペヌロッパ倧陞の経枈重心は倧きく倉化した。アゞア亀易の起点であるリスボンや、新倧陞亀易の拠点であるセビリアはいずれも倧西掋に面した枯町であり、それたでのペヌロッパ域内貿易に䟝存したバルト海・地䞭海地域から、域倖亀易を握る倧西掋地域、およびそれず盎結した北海地域がペヌロッパの新たな経枈の䞭心地域ずなった。 17䞖玀に入るずスペむンの勢力は衰え、オランダやむギリスなどの新興囜が倧西掋亀易を握るようになった。䞀時は各囜が競っお倧西掋亀易を担う西むンド䌚瀟を蚭立したもののうたくいかず、やがお倧西掋亀易は䞀般商人によるものが䞻流ずなった。たた、スペむンの勢力瞮小に䌎っお小アンティル諞島には空癜地域が点圚するようになり、そこにペヌロッパ諞囜が競っお怍民地を建蚭しおいった。北アメリカ倧陞においおは、1607幎にむギリスがゞェヌムズタりンを建蚭し、さらに1620幎にメむフラワヌ号に乗ったピルグリム・ファヌザヌズがプリマスを建蚭しお、以埌蟲業移民が続々ず倧西掋を枡っお北アメリカ倧陞東岞ぞず抌し寄せ、18䞖玀末にはアメリカ東郚13怍民地が成立しおいた。これらの怍民地はいずれも倧西掋岞から内陞ぞず進出しお建蚭されたもので、䞻芁郜垂はいずれも倧西掋岞にあり、本囜䞊びに西むンド諞島ずの倧西掋亀易を基盀ずしお発展しおいった。 18䞖玀には、ペヌロッパの工業補品をアフリカに運んで奎隷ず亀換し、その奎隷を西むンド諞島やアメリカ南郚に運んで砂糖や綿花ず亀換し、それをペヌロッパぞず運ぶ䞉角貿易が隆盛を極め、この貿易がむギリスが富を蓄える䞀因ずなった。䞀方で倧量の奎隷を流出させたアフリカの経枈は衰匱し、のちの怍民地化の遠因ずなった。奎隷ずしお運ばれた黒人たちは小アンティル諞島やアメリカ南郚、ブラゞル北東郚など各地に定着し、やがお独自の文化を圢成しおいった。この亀易はむギリス経枈の根幹の䞀぀ずなり、むギリス商業革呜の原動力になるずずもに、西むンド諞島やアメリカ怍民地ではむギリス文化の流入が進み、商人以倖にも官僚や宣教垫などの移動も掻発化しお、倧西掋はむギリス垝囜の内海になった。䞊蚘の䞉角貿易のほかに、英囜、北米、西むンドを結ぶ奎隷を商品ずしない䞉角貿易も存圚した。1763幎のパリ条玄によっお、むギリスは北アメリカ倧陞からフランスをほが撀退させ、北倧西掋の内海化をより進めた。しかし、やがお䞃幎戊争の戊費負担を求められたアメリカ怍民地が反発し、アメリカ独立戊争が勃発。1776幎にアメリカ合衆囜は独立するこずずなった。 19䞖玀に入り、アメリカ合衆囜が倧囜ずなるに぀れお、アメリカずペヌロッパを結ぶ北倧西掋航路は䞖界でもっずも重芁な航路ずなった。たた、独立を達成したラテンアメリカ諞囜も経枈的にはむギリスにほずんどの囜が埓属するこずずなり、察南米航路においおもむギリスは優䜍を占めるこずずなった。たた、19䞖玀にはペヌロッパ倧陞から移民が倧西掋を枡っお陞続ず南北アメリカ倧陞ぞず抌し寄せた。この時期には、茞送手段の革新ず高速化も進んだ。19䞖玀に入っお開発されたクリッパヌ船は垆船の頂点をなすもので、アメリカずむギリスが䞻な生産地であり、この䞡囜によっお䜿甚され、これによっお倧西掋䞡岞の時間的距離は倧きく瞮たった。1818幎には最初の垆船による定期航路がリノァプヌルずニュヌペヌクを結ぶようになり、1838幎には蒞気船による定期航路がリノァプヌルずブリストルからニュヌペヌクにそれぞれ開蚭された。1833幎には最速で倧西掋を暪断した船舶にブルヌリボン賞が莈られるようになっお、スピヌド競争が始たった。1858幎にはアむルランドのノァレンティア島ずカナダのニュヌファンドランド島ずの間に初の倧西掋暪断電信ケヌブルが敷蚭された。このケヌブルは倱敗したものの、1866幎に再敷蚭された際には成功し、以埌倧西掋の䞡岞を結ぶ海底ケヌブルが次々ず敷蚭され、䞡岞の情報䌝達は急激に改善された。1914幎には倧西掋ず倪平掋を結ぶパナマ運河が開通し、それたでマれラン海峡を回るしかなかった船舶が䞭米地峡を通過するこずができるようになったこずで䞡地域間のアクセスは飛躍的に向䞊した。 1919幎以降、技術の進歩によっお倧西掋を飛行機で暪断するこずが可胜ずなり、倧西掋暪断飛行蚘録に泚目が集たるようになった。1919幎5月には飛行艇が着氎しながらニュヌペヌク州ロングアむランドからポルトガルのリスボンたでの暪断に成功し、同幎6月にはニュヌファンドランド島からアむルランドたでの無着陞暪断が成功。1927幎5月20日にはチャヌルズ・リンドバヌグがニュヌペヌク~パリ間の単独無着陞飛行に成功した。 1949幎には北倧西掋条玄機構が蚭立され、北倧西掋の䞡岞(北アメリカず西ペヌロッパ)が軍事同盟を締結したこずによっお北倧西掋は巚倧な軍事同盟の傘の䞋におかれるこずずなった。 1970幎、むギリス人男性が単独で手挕ぎボヌト(党長玄6m)による倧西掋暪断を果たした。むギリスからカナリア諞島を経由し、アンティグア島に142日で至ったもの。 北倧西掋の䞡岞は、北アメリカず西ペヌロッパずいう䞖界でもっずも開発された地域ずなっおおり、政治的にも経枈的にも関係が深い。この䞡岞の協調関係を重芖する政治䞻匵は倧西掋䞻矩ず呌ばれる。北アメリカ倧陞のアメリカ・カナダ䞡囜はアングロアメリカずも呌ばれる通り、むギリスから独立した囜家であり䞡囜間の関係が匷い。これに察し、メキシコ以南の䞭倮アメリカ・南アメリカ地域はスペむンおよびポルトガルから独立した囜家が倚く、むベロアメリカずも呌ばれ、むベリア半島の䞡囜ずの関係が深い。1991幎からはこの䞡地域の銖脳が幎䞀回集結するむベロアメリカ銖脳䌚議が開催されおいる。 北倧西掋は、䞖界で最も開発された地域である西ペヌロッパず北アメリカを結ぶため、䞖界で最も重芁な航路の䞀぀ずなっおいる。資源ずしおは、アフリカのギニア湟沖に油田が数倚く存圚し、ナむゞェリア、赀道ギニア、ガボン、アンゎラ各囜の財政を最しおいる。 倧西掋に面する郜垂で最も重芁な郜垂は、北アメリカ倧陞のニュヌペヌクである。ニュヌペヌクはアメリカのみならず、䞖界で最も重芁な郜垂ずなっおいる。ニュヌペヌクが倧きく成長したのは、倧西掋岞の䞻芁枯であるこずのほかに、19䞖玀前半に゚リヌ運河によっお五倧湖ず連結し、内陞氎系ず倧西掋海運ずの結節点ずなったこずが爆発的発展の基盀ずなった。たた、アメリカ倧陞は南北ずもにペヌロッパ倧陞からの倧量の移民によっお建囜・開発され、長らく宗䞻囜ず密接に結び぀いおいたこずから、その窓口ずなった倧西掋岞の枯湟郜垂は倧きく成長し、その囜を代衚する倧郜垂になったものも倚い。重芁な枯湟郜垂ずしおは、北アメリカ倧陞のボストンやニュヌペヌク、マむアミ、南アメリカ倧陞のブラゞルにあるベレン、フォルタレザ、レシフェやサルバドヌル、サントスなどがある。リオデゞャネむロはブラゞルで最も重芁な枯湟郜垂であり、ナポレオン戊争時にポルトガル王家が疎開しおきたずきにはその銖郜ずなり、王家垰還の際に王家が分裂しおブラゞル垝囜が成立した時にはその銖郜ずなっお、1960幎に内陞郚のブラゞリアに移転するたではブラゞルの銖郜であった。アルれンチンのブ゚ノスアむレスはラプラタ川の河口にあり、ラプラタ川を利甚したボリビア地方からの銀の茞出によっお栄え、ラプラタ流域地方の䞭心ずしお長く栄えた。これに察抗すべく建蚭されたのがりルグアむのモンテビデオであり、䞡郜垂はしばらく察抗関係にあったが、やがおモンテビデオは自己の亀易圏を䞭心ずしおりルグアむずしお独立し、ブ゚ノスアむレスはアルれンチンの貿易や文化を䞀手に握る存圚ずなった。これに反察する内陞諞州ずの間で䜕床か内戊がおこったものの、察倖貿易ルヌトを唯䞀握るブ゚ノスアむレスの圱響力は圧倒的で、ブ゚ノスアむレス偎の優䜍でこの察立は終了した。珟圚でもブ゚ノスアむレスは囜内ほが唯䞀の倧芏暡枯であり、囜内の他地域からは懞絶した倧きな存圚感を保っおいる。 アフリカ倧陞においおは、ペヌロッパ諞囜によっお19䞖玀に怍民地化が進められたが、その際の拠点ずなるのが倧西掋岞の倧芏暡枯湟だった。本囜ずの連絡や開発の郜合もあり、怍民地の銖郜も倚くはその倧芏暡枯湟郜垂におかれた。1960幎代にその怍民地のほずんどは独立したが、独立埌の銖郜はそのたた倧芏暡枯湟郜垂におかれるこずが倚かった。珟圚でも、セネガルのダカヌル、ガンビアのバンゞュヌル、ギニアビサりのビサり、ギニアのコナクリ、シ゚ラレオネのフリヌタりン、リベリアのモンロビア、ガヌナのアクラ、トヌゎのロメ、ベナンのポルトノボ、アンゎラのルアンダずいった枯湟郜垂は銖郜ずなっおいる。䞀方で、コヌトゞボワヌルのアビゞャンやナむゞェリアのラゎスのように独立埌に銖郜が内陞郚に移転し、倧経枈郜垂ずしおの圹割のみ残っおいるずころや、モロッコのカサブランカやタンゞヌル、ベナンのコトヌヌやカメルヌンのドゥアラ、コンゎ共和囜のポワントノワヌル、南アフリカ共和囜のケヌプタりンのように、玔粋に枯湟郜垂ずしお成長しおきた倧郜垂も存圚する。モヌリタニアのヌアクショットも倧西掋岞の郜垂であるが、ここは独立盎前に行政を担うための郜垂ずしお建蚭された蚈画郜垂である。 ペヌロッパ倧陞においおは、倧西掋に面した倧郜垂はそれほど倚くない。これは、属海である地䞭海やバルト海、瞁海である北海内の経枈掻動のほうが埓来倧きかったこずによる。ポルトガルのリスボンやアむルランドのダブリンを陀けば、あずは銖郜は存圚せず、むギリスのリノァプヌル、ブリストル、プリマス、グラスゎヌ、アむルランドのコヌク、フランスのブレストやボルドヌ、ポルトガルのオポルト、スペむンのカディスなどの数十䞇人芏暡の枯湟郜垂が点圚する。これらの郜垂は18䞖玀から19䞖玀にアメリカ倧陞ずの貿易によっお繁栄した。 数幎に䞀床の頻床で発生する珟象で、倪平掋の゚ルニヌニョ珟象ほど氎枩偏差は倧きくない。呚蟺地域の南アメリカやアフリカの気候ぞの圱響は倧きく、熱垯域で措氎や干魃を発生させる芁因ずなっおいるほか、゚ルニヌニョにも圱響を䞎えおいるこずも瀺唆されおいる。発生のメカニズムぱルニヌニョ珟象ず同様に、「数幎に䞀床、匱たった貿易颚の圱響で、西偎の暖氎が東ぞず匵り出す」タむプず「赀道の北偎で海掋衚局の氎枩が通垞よりも暖められ、暖められた海氎が赀道域に茞送される」があるず考えられおいる。
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麻雀
麻雀(マヌゞャン、繁䜓字䞭囜語: 麻將、簡䜓字䞭囜語: 麻将、英語: Mahjong)は、テヌブルゲヌムの䞀皮。牌を䜿い、原則ずしお4人で行われる。䞭囜を起源ずし、䞖界䞭で芪したれおいる。 本蚘事では、麻雀ずいうゲヌム䞀般に぀いお説明するずずもに、その䞭でも特に「リヌチ麻雀(英語: Riichi Mahjong)」ずも称される日本匏麻雀に぀いお詳述する。 4人のプレむダヌがテヌブルを囲み、数十枚から癟枚あたりの牌を匕いお圹を揃えるこずを数回行い、埗点を重ねおいくゲヌム。勝敗はゲヌム終了時における埗点の倚寡ず順䜍で決定される。ゲヌムのルヌルは非垞に耇雑であるが発祥の地である䞭囜のほか、日本、東南アゞア、アメリカ合衆囜などの囜々で芪したれおいる。 珟圚の䞭囜語では麻雀のこずを䞀般に「麻將」(マヌゞアン 拌音: májiàng 泚音: ㄇㄚˊㄐㄧ㄀ˋ)ずいう。「麻雀」(マヌチュ゚ 拌音: máquÚ 泚音: ㄇㄚˊㄑㄩㄝˋ)は䞭囜語ではスズメを意味する。ちなみに麻雀をするずいうのは「打麻將」(ダヌ マヌゞアン dǎ má jiàng ㄉㄚˇㄇㄚˊㄐㄧ㄀ˋ)ずいう。麻雀発祥地の寧波で話される呉語では麻雀ず麻将が同音であったため、䞭囜の北方に䌝来した際に麻将の名前で広たり䞭囜語の呌称ずなったが、䞭囜北方を通さず寧波から盎接䌝来した日本語、広東語や台湟語では呉語ず同様に「麻雀」ずいうのが普通である(粀拌:maa4zoek3、癜話字:mÃŽa-chhiok/bâ-chhiok)。銙枯ではスズメず区別するために「蔎雀」ず曞くこずがある。戊前の日本では「魔雀(モヌゞャン)」ず衚蚘するこずもあった。 日本では34皮類136枚の牌を䜿うのが䞀般的で、麻雀卓ず呌ばれる麻雀専甚のテヌブルが甚いられる。麻雀卓などの専甚の道具がなくずもプレむできるように、カヌドにした簡易版の道具も垂販されおいる。䜿甚する道具や採甚するルヌルに぀いおは囜や地域によっお異なる点が倚く、日本囜内でも暙準的ずされるルヌルのほかに、様々なロヌカルルヌルが存圚する。 珟圚の日本では、家庭や麻雀店(雀荘)で遊ばれるほか、ゲヌムセンタヌや家庭甚コンピュヌタゲヌムやオンラむンゲヌムでもプレむするこずができる。昭和期における麻雀ブヌムの時期ず比范するず雀荘の数や麻雀専門誌の数は枛少傟向にあるが、コンピュヌタずの察戊やネットワヌクを通じた䞍特定の盞手ずの察戊が可胜になったこずで、圢を倉えお人気を保っおいる。たた、効率性を思考するこずや指先の運動により認知症の予防にも圹立぀ずいう説もある。 参加人口は日本では2019幎時点で510䞇人ず2016幎以降500䞇人台で掚移しおいたが、2020幎のコロナショックで400䞇人に急枛した。アゞア党䜓では3億5千䞇人を数える。 起源には諞説がある。玀元前6䞖玀頃、孔子が発明したずいう説もあるが有力ではない。 最も有力な説は、枅の同治幎間(1862 - 1874幎)に寧波の陳魚門が、12䞖玀以前に存圚した「葉子(銬匔・マヌディアオ)」ずいうカヌドゲヌムず明代(1368 - 1644幎)以前から存圚した「骚牌」ずいうドミノのような遊戯を合䜓させお「麻雀(マヌゞャン)」を完成させたずするものである。 なお、葉子は欧州に䌝わり、トランプずなったずもいわれる。 明の成化幎間の陞容 (1466-1494)『菜園雑蚘』の蚘すずころによるず、圓時の昆山で䞀皮のカヌドゲヌムが流行しおおり、カヌドの総数は38枚であっお、䞀銭から九銭・䞀癟から九癟・䞀䞇貫から九䞇貫・二十䞇貫から九十䞇貫・癟䞇貫・千䞇貫・䞇䞇貫からなっおいた。「糞巻き」の様に芋える図柄は、「銭の穎に糞を通した束」で、「サむコロの目」の様に芋える図は「銭を正面から芋た図」である。䞀䞇貫以䞊のカヌドには『氎滞䌝』䞭の二十人の絵が描かれおおり䞇䞇貫は宋江・千䞇貫は歊束等ずなっおいた(ただし「混江竜李進」ず「混江竜李海」が別人ずしお存圚するなど、珟行の氎滞䌝ずは名前が倚少異なっおいる)。圓時の人はこの皮のカヌドを「葉子」ず呌び、葉子を䜿ったカヌドゲヌム自身のこずは「葉子戯」ず呌んでいた。今では氎滞牌ず呌ぶこずが倚い。 語源に぀いおは、䞊蚘の「銬匔(マヌディアオ)」が日本で転蚛しお「麻雀(マヌゞャン)」ずなったずされる。 1949幎に䞭華人民共和囜政府によっお䞀旊、党おのギャンブルず共に犁止された。しかし、文化倧革呜終結埌の改革開攟に䌎っおギャンブルでない麻雀は蚱されるようになり、1985幎には犁止什が解陀された。 1895幎、アメリカ合衆囜の人類孊者スチュワヌト・キュヌリンは麻雀に蚀及した蚘事を曞いた。これは䞭囜語以倖の蚀語で曞かれた最初の麻雀に぀いおの蚘述であった。1910幎たでにはフランス語や日本語の文献も出揃った。1920幎、アバヌクロンビヌ・アンド・フィッチ瀟は初めお合衆囜に麻雀を茞入し販売を開始した。麻雀セットはニュヌペヌク垂を䞭心にヒット商品ずなり、合蚈で12000セットを売り䞊げた。たた、同時期にゞョセフ・パヌク・バブコックが䞖界初の麻雀本ずなる"Rules of Mah-Jongg"を出版した。 1920幎代の合衆囜で麻雀は党おの人皮の間で流行しアメリカ匏のルヌルや圹が生たれ、倚くの「マヌゞャン・ナむト」が開かれた。人々は䞭囜颚の装食が斜された郚屋に着食っお集たり、これに芪しんだ。゚ディ・カンタヌの"Since Ma is Playing Mah Jong"など、マヌゞャンを䞻題にした流行歌も幟぀か生たれた。 1937幎には初のルヌルブックずなる"Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game."が出版されるずずもに、党米麻雀リヌグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆囜における麻雀の流行は䞀過性のものに終わった。 1980幎代にコンピュヌタ甚ゲヌム『䞊海』が登堎しお以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」ずいう衚珟が再び䞀般的に䜿われるようになるが、それらは『䞊海』タむプのパズルゲヌムを指しおおり、䞭には麻雀牌以倖の絵柄を䜿っおいるものも存圚する 。 蚘録に残るうえで実際の麻雀牌が日本に䌝わったのは1909(明治42)幎に枅からこれを持ち垰った名川圊䜜によるものであり、倧正䞭期以降はルヌル面においお独自の倉化を遂げ぀぀各地に広たっおいったずもいうが、䞀般に認知されるようになったのは関東倧震灜の埌である。神楜坂のカフェヌ・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱䞭し、次第に雑誌等にも取り䞊げられるようになった。文藝春秋瀟では、みずから麻雀牌を販売しおいた。 なお、日本人で初めお麻雀に蚀及したのは倧正・昭和戊前期の䞭囜文孊・䞭囜文化研究者の井䞊玅梅であり、『支那颚俗』(1921幎、党3å·»)の䞭巻では麻雀の起源やルヌルに぀いお蚘述しおいる。異説ずしお倏目挱石が挙げられるこずもあるが、これは䞭村埳䞉郎が『麻雀競技法』(1924幎)においお、『満韓ずころどころ』(1909幎)内の倧連での芋聞である「四人で博奕を打っおいた。(略)厚みも倧きさも将棋の飛車角ぐらいに圓る札を五六十枚ほど四人で分けお、それをいろいろに䞊べかえお勝負を決しおいた。」ずいう蚘述を匕き合いにしたものである。ただし、䞭囜の麻雀牌にしおは厚みや倧きさがないこずや枚数が少なすぎるこずから別のゲヌムであった可胜性も指摘されおいる。 1929幎(昭和4幎)3月21日、東京で初の麻雀党囜倧䌚が開かれ、350人が参加した。1930幎7月10日、譊芖庁は麻雀屋の新蚭を犁止した(1930幎5月珟圚937店)。 1933幎(昭和8幎)、䞍良華族事件の捜査の過皋で、著名な文士や出版関係者らの垞習賭博が明らかになり逮捕者が盞次いだ。この逮捕を受けお、文士だけではないずの声が高たり、翌1934幎(昭和9幎)にも医垫や画家、音楜家、実業家、代議士など著名人の怜挙が盞次いだ。この頃、日本麻雀連盟の関係者が行っおいた賭けのレヌトは1000点10円ないし15円であった。 1937幎(昭和12幎)日䞭戊争開戊前の頃には東京郜内に玄2000軒の麻雀クラブがあったが、戊時色が濃くなるに぀れお麻雀も䞋火ずならざるを埗なくなり、1942幎(昭和17幎)の時点では230軒䜙ず激枛した。業者の団䜓は譊芖庁の指導に基づき同幎9月1日より「麻雀」を「卓技」ず名称を改め、東京卓技商業報囜䌚を結成。健党嚯楜化を目指した。 終戊埌再び麻雀は流行し始め、戊前から行われおいたアルシヌアル麻雀に「途䞭リヌチ」(珟圚の立盎)・ドラ・堎ゟロなどを加えた新ルヌルが取り入れられるようになり、アレンゞを加えられた日本匏の麻雀(リヌチ麻雀)が䞻流を占めるようになった。1952幎には倩野倧䞉が報知新聞(珟圚のスポヌツ報知)に日本で最初に立盎およびドラを成文化した「䞀九五䞉幎床リヌチ麻雀暙準芏皋」(通称:報知ルヌル)を発衚、同幎には競技麻雀団䜓の日本牌棋院を蚭立しリヌチ麻雀の原型を䜜った。 アルシヌアル麻雀は1947幎に再建された日本麻雀連盟などを䞭心に珟圚も行われおはいるが、次第に䞻流からは倖れおいった。 1969幎、阿䜐田哲也は『週刊倧衆』で『麻雀攟浪蚘』シリヌズの連茉を開始。1970幎には阿䜐田、小島歊倫、叀川凱章らが麻雀新撰組を結成。 同幎『週刊倧衆』で名人戊開始。1972幎に『近代麻雀』、1975幎に「プロ麻雀」が創刊され、麻雀ブヌムが起きた。1976幎には竹曞房䞻催で、プロのタむトル戊「最高䜍戊」が開始された。『レゞャヌ癜曞』によるずピヌク時の1982幎の参加人口は2140䞇人であり、この時期、倚くの倧孊生やサラリヌマンが手軜な小遣い皌ぎやコミュニケヌションツヌルずしお麻雀に芪しんだ。しかし、同時に賭博・喫煙・飲酒・培倜などの䞍健康なむメヌゞが広がったため、1988幎にはそれらを廃しお麻雀を楜しむこずを目的ずした日本健康麻将協䌚が蚭立された(#健康マヌゞャンも参照)。 麻雀におけるコンピュヌタゲヌムの普及は1975幎頃からであるが、業務甚(アヌケヌドゲヌム)で珟圚のものに近いゲヌムシステムが導入された最初の麻雀コンピュヌタゲヌムは1981幎3月のゞャンピュヌタヌ(アルファ電子)であった。このゲヌムは䞀䞖を颚靡し、ゲヌムセンタヌや喫茶店に数倚く芋るこずができた。その埌、察戊盞手のコンピュヌタの画像を女性をモチヌフずしプレむダヌが勝぀毎にその女性の衣服を脱がせるずいう、いわゆる「脱衣麻雀」のコンセプトが倧圓たりした。幎代ず共に映像技術も向䞊し、性胜や官胜性もアップした。ゲヌムセンタヌでは麻雀ゲヌムはアダルトゲヌムの代名詞でもあった。 1990幎代埌半から2000幎代にかけおのむンタヌネットの普及や通信察戊の発展により、自宅やゲヌムセンタヌなどで容易に察局が可胜になった。1997幎にはオンラむン察戊麻雀の先駆けずなる『東颚荘』がサヌビス開始、2002幎には通信機胜を持たせ党囜のプレヌダヌず察戊できる麻雀アヌケヌドゲヌム『セガネットワヌク察戊麻雀MJ』『麻雀栌闘倶楜郚』が皌動を開始し、2004幎には携垯麻雀ゲヌム『ゞャンナビ四人麻雀オンラむン』が皌動を開始した。2006幎にはオンラむン察戊麻雀『半熟荘(2007幎に倩鳳に改称)』がサヌビス開始した。2019幎にはオンラむン察戊麻雀『雀魂』が日本でサヌビス開始した。 こうしたオンラむン麻雀の普及に䌎い、次第に孊生競技麻雀やオヌプントヌナメントの予遞や倧䌚そのものがオンラむン麻雀を䌚堎ずしお行われるこずが増えおいき、競技団䜓所属のプロ雀士もゲヌムずの提携やむベント、あるいは䞀プレむダヌずしお参戊するこずが増えおいった。 1990幎、倩野晎倫が『リヌチ麻雀論改革掟』(南雲瀟)においお麻雀戊術論からの抜象の排陀を提唱した。その䞭で小島、田村光昭など圓時の有名麻雀プロや圚野の桜井章䞀らの麻雀論を「ツキ」「勘」「流れ」ずいった抜象論に支配されおいる非科孊的なものであるず批刀した。倩野は抜象的な芁因を考慮するこずは的確な情報刀断を鈍らせる原因にこそなれ、麻雀の䞊達には繋がらないず䞻匵した。これがいわゆる「デゞタル雀士」のさきがけである。 2004幎、ず぀げき東北の『科孊する麻雀』が講談瀟珟代新曞から出版された。ず぀げきは前の局の結果が次の局に圱響を及がすずするいわゆる「流れ論」を培底的に吊定しおおり、本著でも確率論を基瀎ずした統蚈孊的な麻雀戊略を提唱しおいる。「このような時にはこう打぀」ず明確にか぀論理的に堎面に応じた打ち方を指導しおいる点が特城である。これらデゞタル麻雀に察しお「ツキ」「勘」「流れ」を重芖する雀士も倚く、そのような戊術論はアナログやオカルト掟ず呌ばれおいる。 2018幎、Mリヌグの開始を機に察局の動画配信を楜しむスタむル、通称「芋る雀」がブヌムになる。2019幎には前幎に䞭華人民共和囜でサヌビスを開始しおいたオンラむン察戊麻雀『雀魂』の日本語版がサヌビス開始。バヌチャルYouTuberやプロ雀士などのYouTube配信によっお人気を博しおいる。 2002幎10月23日から27日にかけお、東京で「2002 䞖界麻雀遞手暩倧䌚」が開催される。日本の初音舞が優勝し、ゞョン・オコヌナヌが準優勝した。2006幎に䞖界麻雀機構 (WMO) が蚭立され、䞭囜の北京に本郚が眮かれた。翌2007幎には、11月3日から5日にかけお、䞭囜の成郜で「䞖界麻雀遞手暩倧䌚」が開催された。公匏にはこの倧䌚が「第1回」ずしお扱われる。 たた、WMO䞻催の倧䌚以倖にもマカオの䌁業ワヌルドマヌゞャン䞻催の賞金制(1䜍にはアメリカドルで50䞇ドル支払われる)の䞖界倧䌚である䞖界麻雀倧䌚の他、䞭囜北京で発足 し、スむスのロヌザンヌに本郚を眮く囜際麻雀連盟(英語版)による䞖界麻雀スポヌツゲヌム(英語版)も存圚する。 2008幎の北京オリンピックでは将棋類ずずもに公開競技ずしおの導入が図られたが、囜際オリンピック委員䌚から华䞋された。北京五茪埌に行われた第1回ワヌルドマむンドスポヌツゲヌムズでは䞭囜将棋(シャンチヌ)は競技になったものの麻雀は倖された。 ロシアでは、麻雀アニメをきっかけずしお2009幎ごろから孊生の間で日本匏麻雀が普及しはじめ、2012幎から党囜の愛奜者らによるトヌナメント匏のリヌチ麻雀倧䌚がモスクワで開催されおいる。 䞀般的には4人で行うゲヌムであるが、䞉人麻雀、二人麻雀もある。 各プレむダヌは13枚の牌を手牌ずしお察戊盞手に芋えないようにしお目前に配眮し、順に山から牌を1枚自摞しおは1枚捚おる行為を繰り返す。この手順を摞打ずいい、数回から十数回の摞打を通しお手牌13枚ずアガリ牌1枚を合わせた蚈14枚を定められた圢に揃えるこずを目指す。アガリ圢の組み合わせに応じお点棒のやりずりが行われ、最終的に最も倚くの埗点を保持しおいた者を勝者ずする。 前述のように採甚するルヌルに぀いおは囜や地域によっお異なる点が倚いが、日本においおは䞀般に花牌を䜿甚しないルヌル(枅麻雀)、立盎を圹ずしお採甚するルヌル(立盎麻雀)が採甚されおいる。 以䞋では日本においお麻雀で䜿われる道具類に぀いお説明する。 日本では、䞭囜で甚いられるものより小さめの34çš®136枚の牌を䜿甚するのが䞀般的である。牌の皮類には萬子(ワンズ/マンズ)・筒子(ピンズ)・玢子(゜ヌズ)・字牌(ツヌパむ)がある。萬子・筒子・玢子はそれぞれ䞀から九たでの9皮、字牌はさらに䞉元牌ず四颚牌に分かれ䞉元牌は癜癌䞭の3皮、四颚牌は東南西北の4皮である。これら34皮がそれぞれ4枚ず぀、蚈136枚である。 この他に花牌ず呌ばれる牌が4çš®1枚ず぀あるが、花牌は䞀般的なルヌルでは䜿甚されない。そのため日本で販売される麻雀牌では花牌をなくし、その代わりに赀牌を远加したセットが倚い。 麻雀牌などの麻雀甚具は、専門店、おもちゃ屋、リサむクルショップ、オヌクションなどで入手できる。 点棒(おんがう)は各プレむダヌの埗点を衚すために甚いる现い棒である。正匏にはチョヌマ(籌銬)ず呌ばれる。 特に棒でなければならない理由はなく、海倖ではカヌドやチップも䜿われる。 点数の最小単䜍は100点だが倧量の点棒を扱わなくおよいように、数皮類の点数が甚意されおいる。 点棒のタむプは軞色の皮類により癜点棒ずカラヌ点棒の二぀がある。珟圚の日本囜内の麻雀店では党自動麻雀卓が非垞に倚く、点箱内の点棒を自動的に蚈算し、点数を衚瀺するため、䞇点棒が赀、1000点棒が青のように点棒自䜓が色分けされお分かりやすくなっおいるカラヌ点棒が倚い。 たた、党自動麻雀卓甚(点数衚瀺枠甚)の点棒では自動読取りを行う圢匏によっお接觊型ず非接觊型に分けられる。 起家マヌク(チヌチャマヌク)は最初の芪が誰かを瀺す目印ずなる物。芪マヌクずもいう。 衚面に“東”、裏面には“南”ず曞かれおいる。䞀般的ではないが“南”のかわりに“北”ず曞かれおいるものやサむコロ状のものに東南西北が曞かれ、栌子にはめ蟌むタむプのものもある。これは堎颚の明瀺を兌ねるため䜿甚される。 最初の芪を決めるずき及び配牌時に取り始める山を決めるために、サむコロを䜿甚する。通垞は6面ダむス2個を䜿甚するが、12面サむコロ(パッコロ)を甚いる堎合もある。その堎合は1぀のサむコロは1から12が、もう1぀のサむコロには東西南北が曞かれおいる。 なおプレむ䞭のサむコロは芪を衚す目印ずしお、芪の垭の右隅に眮くこずずしおいる。 䞀床も和了しないたた競技単䜍を終えるずペナルティを受けるロヌカルルヌルがあり、その時にただ和了(アガリ)しおいないこずを瀺す目印ずなるずしお䜿われる。アガリ成立の時点で裏返しにする。 このロヌカルルヌルを焌き鳥ずも呌ぶ。たた、和了しおから䞀定時間内(次局開始たでなど)に目印を裏返さない堎合は焌き鳥状態が継続や、4人ずも焌き鳥を解消した時点で、たた4人党員が焌き鳥状態に戻るずいったロヌカルルヌルもある。 麻雀卓(マヌゞャンたく)たたは雀卓(ゞャンたく)は麻雀を行うための卓で、通垞60-70cm四方の正方圢のテヌブルである。 䞀般に麻雀卓は、麻雀牌が卓よりこがれないように卓の呚りに枠を蚭けおおり、麻雀牌の音を吞収するずずもに麻雀牌が痛たないように緑系統あるいは青系統の色を甚いたフェルト補の倩板マットが匵られおおり、掗牌(シヌパむ、牌をかき混ぜる䜜業)や打牌に向いおいる。たた、卓は点棒を収玍する匕き出しを備えおいる(関西向けには匕き出しではなく卓の枠郚分に固定され、党員に䞭身が芋えるように䜜られた点棒箱を備えおいるものもある)。 なお点棒箱は通垞党員分の点棒が入るサむズに䜜られるが関西では原点を超えた点棒を卓䞊に晒すルヌルが倚いため、原点1人分の点棒が入るサむズずなっおいる。 麻雀卓は卓の圢状により座卓タむプず立卓タむプに分かれる。家庭や旅通などの座敷甚には座卓タむプを、怅子に腰をかけながら麻雀を行う時には立卓タむプを䜿甚する。支柱郚分が取り倖し可胜になっおおり、䜿甚環境に応じお立卓か座卓かを遞択し組み立お盎すこずができる補品もある。 たた、麻雀卓は卓の機胜により党自動麻雀卓(掗牌ず山積みを電動で行う)、半自動麻雀卓(裏返し等を自動で行う)、手打卓に分かれる。 自動化された麻雀卓が出珟するたで麻雀卓は手打卓であった。最近の雀荘はすべおの卓を党自動麻雀卓で営業しおいるのが䞀般的であり、近幎は麻雀卓ずいえば党自動麻雀卓を指すこずが倚い。手打卓は新たに出珟した自動麻雀卓ず区別するために甚いられるようになった呌称であり、手打ち麻雀卓、手積卓などず呌ばれるこずもある。颚営法では党自動麻雀卓(テレゞャンも含む)ずそれ以倖の麻雀卓(マグゞャンなどの半自動卓を含む)が厳密に区別されおおり、城収可胜な料金の䞊限が異なっおいる。 こた぀やちょうど良い倧きさのちゃぶ台が眮いおある家庭等ではわざわざ麻雀専甚にしか䜿い道がない麻雀卓を賌入するのではなく、麻雀甚のマットを賌入しそれらの䞊で麻雀を行うこずもある。こた぀に぀いおは、最初から倩板の裏に緑のフェルトを匵ったものも以前はよく芋られた。 なお、埌述の䞉人麻雀専甚で甚いる正䞉角圢の卓もある。 雀荘(ゞャンそう)ずは、麻雀の蚭備を蚭けお客に麻雀を遊技させる店舗である。颚俗営業適正化法の条文では「たあじやん屋」ず蚘述される。 日本囜内の雀荘は、第二次䞖界倧戊以前から郜道府県の条䟋(京郜府の堎合は遊技堎営業取締芏則)などで芏制や制限を受けおいた。しばしば芏制は匷化され、京郜府では1936幎(昭和11幎)に孊生、未成幎者の出入を犁止しおいる。 戊埌は、颚俗営業適正化法が定矩する颚俗第四号営業に䜍眮づけられ、これを営むには、営業所ごずに圓該営業所の所圚地を管蜄する郜道府県公安委員䌚の蚱可を受けなければならないずされおいる。たた、同法により原則ずしお午前0時から午前6時たでの営業は犁止されおいる。しかし珟実にはフリヌ雀荘の倚くで深倜営業が行われおおり、店は窓にカヌテンを匕くなどしお音や光が倖郚に挏れないようにしおこっそりず営業されおいる。 営業の圢匏には、倧きく分けお2皮類ある。3人から4人あるいはそれ以䞊の人数で店舗に出向き、麻雀卓を借りる圢匏のセット雀荘ず、1人で行っお䞍特定の盞手ず察戊する圢匏のフリヌ雀荘である。セット雀荘には「貞卓専門」、フリヌ雀荘には「お䞀人様でも遊べたす」ずいった内容の看板などが掲げられおおり、それによっお営業圢態を察するこずができる。セット雀荘のほずんどは貞卓を専門ずしおいるが、フリヌ雀荘は貞卓営業を䜵行しお行っおいるこずが倚い。フリヌ雀荘の堎合、時間垯によっおは来客が䞭途半端で卓が成り立たない堎合があるほか、客が郜合で䞀時的に卓から抜ける際に進行を止めたくない等の事情もあり、その堎合は「メンバヌ」ず呌ばれる店員が加わるこずでゲヌムを成立させる。 遊技料は颚俗営業適正化法斜行芏則により定められおおり、珟圚は客1人圓たりの時間を基瀎ずしお蚈算する堎合1時間600円(党自動卓)、1卓に぀き時間を基瀎ずしお蚈算する堎合1時間2400円(党自動卓)を超えないこずずなっおいる。よっおフリヌ雀荘の倚くは1回○○円ずなっおいるが、1時間換算で料金が䞊蚘を超える堎合は違法である。 高玚なセット雀荘や、黙認される䞊限ギリギリのレヌトで営業するフリヌ雀荘では、䞊限いっぱいの料金を蚭定しおいる。 雀士の資栌・語矩は䞀矩的ではない。麻雀愛奜家ずいう皋床の意味(麻雀子ず同矩)に解されるこずも倚い。日本プロ麻雀棋士䌚のように棋士ず呌ぶ䟋もある。 日本の法埋では職業ずしお麻雀を行うのに資栌は必芁ないが、競技を開催する団䜓の認定が必芁である。競技麻雀のプロ団䜓は珟圚9団䜓である。プロ団䜓に所属しおいないフリヌプロも存圚する。 五十嵐毅などは「プロ」ずいう甚語を「プロフェッショナル」ではなく「プロパヌ」(生え抜き)の略ずしお解釈する。 ☆䞻芁プロ団䜓代衚(䌚長)は党員掲茉。 前節に挙げたプロ雀士には、耇数の麻雀戊術曞・指南曞を刊行しおいる者もいる。本節ではプロ雀士の他に、プロ雀士ではないが麻雀に関する耇数の著䜜物を䞖に出しおいる人物も列する。 麻雀から賭博芁玠を排陀し、ルヌルを調敎しおマむンドスポヌツずしお競技化した麻雀は「競技麻雀」ず呌ばれる。 昭和期の麻雀ブヌムの頃は専門誌が刊行されたが、珟圚では䞀般の曞店に䞊ぶ専門誌は存圚しない。 麻雀を題材ずした挫画のみを掲茉した雑誌。詳现は麻雀挫画参照。珟圚発行されおいるのは竹曞房から刊行されおいる1誌のみ。 麻雀は倜通しで行われるこずも倚い。こうした麻雀は培倜マヌゞャン、もしくは略しお「培マン」ず呌ばれる。 参加人数が4人しかいなければ、寝るこずもたたならず䜓力的にもかなりき぀い。それでも倧孊生など若者を䞭心に、麻雀愛奜家は培倜マヌゞャンを盛んに行う傟向にある。 参加人数が5人以䞊であれば、1人は競技に参加できない半荘が発生する。競技に参加できない者を「抜け番」ず蚀い、仮眠を取っお次の半荘に備えるこずができる。 麻雀の䞍健党なむメヌゞ(賭博ず酒、タバコ、培倜など)を排陀すべく、脳の機胜の維持などを目的ずしお起案された麻雀。健康麻将(けんこうマヌゞャン)ずも呌ばれ、脳のトレヌニングや老化防止にも掻甚されおいる。 映像䜜品に玉利祐助監督の長線蚘録映画「少子超高霢化する珟代瀟䌚における『健康マヌゞャン』の瀟䌚性の報告」がある。 䞀般に麻雀は賭博的な芁玠を持぀遊技ず認識されおおり、倧人に限らず未成幎者がプレヌする堎合でも金品のやりずりを䌎うこずが倚い。 日本においお、公営ギャンブル以倖のギャンブルは賭博であり、刑法䞊の犯眪である 。個人間での賭博が違法で無い囜では金銭をかけた麻雀が行われおいる。 麻雀は零和ゲヌム(党員の点数の合蚈が垞に䞀定:れロサムゲヌム)であるため点数のやりずりをそのたた賭け金のやりずりに換算しやすい。さらに思考ゲヌムであるず同時に偶然の芁玠も匷く、運・実力共に結果に反映されるこずからギャンブルずしお銎染みやすい。 結果に埓っおやりずりする金額は普通、りマ等を考慮した埗倱点1000点に぀き䜕円ずいうレヌトが蚭定される。1000点あたり10円なら「点1(テンむチ)」、50円なら「点5(テンゎ)」、100円なら「ピン」(たたは「テンピン」)、200円なら「リャンピン」、1000円なら「デカピン」、10000円なら「デカデカピン」ず蚀われる。日本の法埋および刀䟋では金銭に぀いおは額の倚少に関わらず䞀時の嚯楜に䟛するものずは芋なされない(倧審院倧正13幎2月9日、最刀昭和23幎10月7日など)ため、原理的にはこれらすべおのレヌトに察し賭博眪が成立する。2011幎には、比范的少額ずされる点5雀荘も摘発された。1000点あたり1000円を超えるような高レヌトの蚭定ずいった高額の金品等を賭けるケヌスは、人目を忍んでマンションの䞀宀で催されるずいう意味でマンション麻雀などず呌ばれる。 その他のギャンブル(カゞノなどで行われおいる倚くのものや公営競技など)ず異なる点ずしお点棒の移動によっお異なる負け金を勝負の埌に出すこずから控陀率の蚈算が難しいが、ギャンブルずしおは公営競技などず比しおも砎栌の高さで特に1000点20円以䞋の䜎レヌトでは控陀率が100%を超えるこずすらある。䟋ずしお1000点20円、2の2-4のレヌトで堎代が1人250円の堎合で30000点䞁床の䞀人浮きトップを取った堎合を䟋に取ればトップ者の収入(=敗者の支出合蚈)は800円であるがこれに察しハりスが城収するコミッション(控陀額)は1000円ずなる。したがっお、控陀率は125%ずなる。 なお負けた者の支払いが本人によっお行われない堎合(たずえば倧䌚においおスポンサヌがあり、勝者に賞金を提䟛するなど)、たたは勝った者の利益が本人の手に枡らない堎合は賭博眪には圓たらない。 雀荘で䞍特定の客同士が卓を囲む堎合は、レヌト蚭定で察立するこずのないように雀荘偎で公匏レヌトを定めおいるこずが倚い。この公匏レヌトはりマずあわせお店倖に掲瀺されおいるが、「颚速」などず婉曲衚珟されおいたり、サむコロの目のむラストで瀺されおいるこずが倚い。䟋えば「颚速0.5」ずあれば、それは1000点で50円のレヌトであるずいう意味である。 倚くの雀荘、預かり金ず称しお、5000円から1䞇円を客から預かるこずもあり、客が負けお手持ちがなくなっおも䞀定皋床払えるようにしおいる。たた、それでも足りなければ、「アりト」ず称しお店が䞍足分を立お替える雀荘もある。 賭博芁玠を排陀した麻雀は「ノヌレヌト麻雀」ず呌ばれる。
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313幎
313幎(313 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、平幎。
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ナポレオン・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794幎以前): ナポレオヌネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769幎8月15日 - 1821幎5月5日)は、フランス革呜期の軍人、革呜家で、フランス第䞀垝政の皇垝に即䜍しおナポレオン1侖(フランス語: Napoléon I、圚䜍:1804幎 - 1814幎、1815幎)ずなった。1䞖から3䞖たで存圚するが、単にナポレオンず蚀えばナポレオン1䞖を指す。 フランス革呜埌の混乱を収拟し、軍事独裁政暩を確立した。倧陞軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)ず名づけた軍隊を築き䞊げ、フランス革呜ぞの干枉を図る欧州諞囜ずのナポレオン戊争を戊い、幟倚の勝利ず婚姻政策によっお、むギリス、ロシア垝囜、オスマン垝囜の領土を陀いたペヌロッパ倧陞の倧半を勢力䞋に眮いた。察仏倧同盟ずの戊いに敗北し、癟日倩䞋による䞀時的埩暩を経お、51歳のずき南倧西掋の英領セントヘレナにお没した。 1769幎、むタリア半島の西に䜍眮するフランス領の島コルシカ島のアゞャクシオにおいお、父カルロ・マリア・ブオナパルテず母マリア・レティツィア・ラモリヌノの間に、12人の子ども(4人は倭折)のうち4番目ずしお生たれた。出生時の掗瀌名はナブリオヌネ・ブオナパルテ。島を远われ、フランスで䞀生を暮らすず決めお、25歳ずなる1794幎頃より、ナポレオヌネ・ディ・ブオナパルテずいうむタリア人名の綎りから、フランス颚のナポレオン・ボナパルトぞ改名し、眲名も改めた。 ブオナパルテ家の先祖は䞭郚むタリアのトスカヌナ州に起源を持぀、叀い血統貎族。それがゞェノノァ共和囜の傭兵隊長ずしおコルシカ島に枡り、16䞖玀頃に土着した。刀事であった父カルロは、1729幎に始たっおいたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めおいたが、ナポレオンが生たれる盎前にフランス偎に転向し、戊埌に寝返りぞの芋返りずしお報奚を受け、フランス貎族ず同等の暩利を埗た。旧ゞェノノァ共和囜領であるコルシカ島には貎族制床がなかったが、新貎族ずしおの身分を晎れお認められたこずで特暩を埗お、フランス本囜ぞの足がかりを埗た父カルロはやがおコルシカ総督ずも懇意になり、その揎助でナポレオンず兄のゞュれッペ(ゞョれフ)を教育を受けさせるためにフランス本囜ぞず送った。 ナポレオンは圓初、修道院付属孊校に短期間だけ入っおいたが、1779幎に貎族の子匟が孊ぶブリ゚ンヌ陞軍幌幎孊校(fr)ぞ囜費で入孊し、数孊で抜矀の成瞟を修めたずいう。1784幎にパリの陞軍士官孊校(fr)に入孊。士官孊校には階兵科、歩兵科、砲兵科の3぀があったが、圌が専門ずしお遞んだのは、䌝統もあり花圢で人気のあった階兵科ではなく、砲兵科であった。倧砲を甚いた戊術は、のちの圌の呜運を倧きく巊右するこずになる。卒業詊隓の成瞟は58人䞭42䜍であったものの、通垞の圚籍期間が4幎前埌であるずころを、わずか11か月で必芁な党課皋を修了したこずを考えれば、むしろ非垞に優秀な成瞟ず蚀える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短蚘録であった。 この時期の゚ピ゜ヌドずしお、クラスで雪合戊をした際にナポレオンの芋事な指揮ず陣地構築で快勝したずいう話が有名で、この頃から指揮官ずしおの才胜があったずされるが、実話かは定かではない。幌幎時のナポレオンは、節玄をかねお読曞に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄䌝』やル゜ヌの著䜜などを粟読し、無口で友達の少ない少幎であった。孊校ではコルシカなたりを銬鹿にされ、ナポレオヌネに近い音でラパむペネ(la paille au nez, 藁錻)ずあだ名された。裕犏な貎族子匟ず折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の䞀人が、のちに秘曞官を務めるルむ・アントワヌヌ・フォノレ・ド・ブヌリ゚ンヌであった。䞀方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な䞀面もあった。たた十代の埌半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文孊掻動もしおいた。 16歳のずき1785幎に砲兵士官ずしお任官。20歳を迎える1789幎、フランス革呜が勃発し、フランス囜内の情勢は䞍穏なものずなっおいくが、コルシカ民族䞻矩者であった圓時のナポレオンは革呜には無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島ぞず長期垰郷しおいる。 23歳ずなる1792幎、故郷アゞャクシオの囜民衛兵隊䞭䜐に遞ばれるが、ブオナパルテ家が芪仏掟であったこずから、英囜に逃れおいるコルシカ島独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンず遠い瞁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゎら芪英掟によっおブオナパルテ家匟功決議を䞋される。軍人ナポレオンず家族はコルシカ島から远攟され、船で脱出するずいう逃避行によっおコルシカ島に近い南仏マルセむナに移䜏した。マルセむナでは、ブオナパルテ家は裕犏な商家であるクラリヌ家ず芪亀を深め、ナポレオンの兄のゞョれフは、クラリヌ家の嚘・ゞュリヌず結婚した。ナポレオンもクラリヌ家の末嚘・デゞレず恋仲ずなり、婚玄する。この頃、ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボヌケヌルの晩逐』を著しお、圓時のフランス政府(革呜政府)の䞭心にいた有力者ロベスピ゚ヌルの匟・オヌギュスタンの知遇を埗おいた(この小冊子はのちに、ロベスピ゚ヌルずゞャコバン掟の独裁を支持するものであるずしお、埌述するナポレオン逮捕の口実ずもなった)。 24歳ずなる1793幎、原隊に埩垰するず、貎族士官の亡呜ずいう恩恵を埗お、特に䜕もせずに倧尉に昇進。ナポレオンはフランス軍の䞭でも䞻に王党掟蜂起の鎮圧を行っおいたカルトヌ将軍の南方軍に所属し、トゥヌロン攻囲戊に出埁。前任者の負傷を受けお、新たに砲兵叞什官ずなり、少䜐に昇栌する。圓時の欧州情勢ずしおは、「フランス革呜政府」察「反革呜偎反乱軍(およびそれに介入する第䞀次察仏倧同盟諞囜)」の図匏があり、近代的城郭を備えた枯湟郜垂トゥヌロンはフランス地䞭海艊隊の母枯で、むギリス・スペむン艊隊の支揎を受けた反革呜偎が鉄壁の防埡を築いおいた。革呜埌の混乱で人材の乏しいフランス偎は、元画家のカルトヌ将軍らの指揮で、芁塞郜垂ぞの無謀ずもいえる突撃を繰り返しお自ら倧損害を被っおいるような状況であった。ここでナポレオンは、たずは枯を芋䞋ろす二぀の高地を奪取しお、次にそこから倧砲で敵艊隊を狙い撃ちにする、ずいう䜜戊を進蚀する。次の次の叞什官であったデュゎミ゚将軍がこれを採甚し、豪雚を぀いお䜜戊は決行され成功、倖囜艊隊を远い払い反革呜軍を降䌏に远い蟌んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功瞟により囜民公䌚の議員の掚薊を受け、圓時24歳の圌は䞀挙に旅団将軍(少将盞圓)に昇進し、䞀躍フランス軍を代衚する若き英雄ぞず祭り䞊げられた。 1794幎、革呜政府内でロベスピ゚ヌルがテルミドヌル9日のクヌデタで倱脚しお凊刑された。ナポレオンはむタリア方面軍の砲兵叞什官ずなっおいたが、ロベスピ゚ヌルの匟オヌギュスタンず぀ながりがあったこず、およびむタリア戊線での方針察立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から倖され、降栌凊分ずなった。その埌も転属を拒吊するなどしお、公安委員のオヌブリず察立したために予備圹ずされおしたった。 しかし1795幎、パリにおいお王党掟の蜂起(ノァンデミ゚ヌルの反乱)が起こった。このずきに囜民公䌚軍叞什官ずなったポヌル・バラスは、トゥヌロン攻囲戊のずきの掟遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官ずしお登甚した。実際の鎮圧䜜戊をこの副官ずなったナポレオンにほが䞀任した結果、銖郜の垂街地で䞀般垂民に察しお倧砲(しかも広範囲に被害が及ぶぶどう匟)を撃぀ずいう倧胆な戊法をずっお鎮圧に成功した。これによっおナポレオンは垫団将軍(䞭将盞圓)に昇進。囜内軍副叞什官、぀いで囜内軍叞什官の圹職を手に入れ、「ノァンデミ゚ヌル(葡萄月)将軍」の異名をずった。月の呌称に぀いおは「フランス革呜暊」参照。 27歳を迎える1796幎には、デゞレ・クラリヌずの婚玄を反故にしお、恐怖政治の䞋で凊刑されたボアルネ子爵の未亡人でポヌル・バラスの愛人でもあったゞョれフィヌヌ・ド・ボアルネず結婚。同幎、総裁政府の総裁ずなっおいたバラスによっおナポレオンはむタリア方面軍の叞什官に抜擢された。フランス革呜ぞのオヌストリア垝囜の干枉に端を発したフランス革呜戊争が欧州各囜を巻き蟌んでいく䞭、総裁政府はドむツ偎の二方面ずむタリア偎の䞀方面をもっおオヌストリアを包囲攻略する䜜戊を䌁図しおおり、ナポレオンはこの内のむタリア偎からの攻撃を任されたのである。 ドむツ偎からの郚隊がオヌストリア軍の抵抗に苊戊したのに察し、ナポレオン軍は連戊連勝であった。 1797幎4月にはオヌストリアの垝郜りィヌンぞず迫り、同幎4月にはナポレオンは総裁政府に断るこずなく講和亀枉に入った。そしお10月にはオヌストリアずカンポ・フォルミオ条玄を結んだ。これによっお第䞀次察仏倧同盟は厩壊、フランスはむタリア北郚に広倧な領土を獲埗しお、いく぀もの衛星囜(姉効共和囜)を建蚭し、膚倧な戊利品を埗た。このむタリア遠埁をフランス革呜戊争からナポレオン戊争ぞの転換点ずみる芋方もある。フランスぞの垰囜途䞭、ナポレオンはラシュタット䌚議に儀瀌的に参加。12月、パリぞず垰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもっお迎えられた。 オヌストリアに察する陞での戊勝ずは裏腹に、察仏倧同盟の雄であり匷力な海軍を有し制海暩を握っおいるむギリスに察しおは、フランスは決定的な打撃を䞎えられなかった。そこでナポレオンは、むギリスにずっお最も重芁な怍民地であるむンドずの連携を絶぀こずを䌁図し、英印亀易の䞭継地点でありオスマン垝囜の支配䞋にあった゚ゞプトを抌さえるこず(゚ゞプト遠埁)を総裁政府に進蚀し、これを認められた。 1798幎7月、ナポレオン軍ぱゞプトに䞊陞し、ピラミッドの戊いで勝利しおカむロに入城した。しかしその盎埌、アブキヌル湟の海戊でネル゜ン率いるむギリス艊隊にフランス艊隊が倧敗し、ナポレオン軍ぱゞプトに孀立しおしたった。12月にはむギリスの呌びかけにより再び察仏倧同盟が結成され(第二次察仏倧同盟)、フランス本囜も危機に陥った。1799幎にはオヌストリアにむタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糟匟する声が高たっおいた。シリアのアッコンの砊での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレヌベルに蚗し、゚ゞプトに残したたた偎近のみを連れ単身フランス本土ぞ舞い戻った。 フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもっお迎えた。11月、ナポレオンはブルゞョワゞヌの意向を受けた゚マニュ゚ル=ゞョれフ・シ゚む゚スらずブリュメヌル18日のクヌデタを起こし、統領政府を暹立し自ら第䞀統領(第䞀執政)ずなり、実質的に独裁暩を握った。もしこのクヌデタが倱敗すれば、ナポレオンぱゞプトからの敵前逃亡眪および囜家反逆眪により凊刑される可胜性もあった。 統領政府の第䞀統領(第䞀執政)ずなり政暩の座に就いたナポレオンであるが、内倖に問題は山積しおいた。たずは第二次察仏倧同盟に包囲されたフランスの窮状を打砎するこずが急務であった。 たず、むタリアの再獲埗を目指した。圓時のむタリアぞの進入路は、盎接フランスからトリノに向かう峠道、地䞭海沿いリグヌリア州の2぀の有名な峠道、ゞェノノァ方面の4぀が䞻であったが、これらは既に1794幎、1795幎、1796幎の戊圹での䟵攻䜜戊で䜿甚しおいたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナヌル峠で越えお北むタリアに入る奇襲策をずった。これによっお䞻導暩を奪っお優䜍に戊争を進めたが、緒戊の倧勝のあず、メラス将軍率いるオヌストリア軍を䞀時芋倱っお兵力を分割したこずから、䞍意に倧軍ず遭遇しお苊戊を匷いられる。しかし別働隊が戻っおきお、1800幎6月14日のマレンゎの戊いにおいおオヌストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドれヌはこの戊闘で亡くなった。12月には、ドむツ方面のホヌ゚ンリンデンの戊いでモロヌ将軍の率いるフランス軍がオヌストリア軍に倧勝した。翌幎2月にオヌストリアはリュネノィルの和玄に応じお、ラむン川の巊岞をフランスに割譲し、北むタリアなどをフランスの保護囜ずした。この和玄をもっお第二次察仏倧同盟は厩壊し、フランスずなおも亀戊するのはむギリスのみずなったが、むギリス囜内の察仏匷硬掟の倱脚や宗教・劎働運動の問題、そしおナポレオン率いるフランスずしおも囜内統治の安定に力を泚ぐ必芁を感じおいたこずなどにより、1802幎3月にはアミアンの和玄で講和が成立した。 ナポレオンは内政面でも諞改革を行った。党囜的な皎制床、行政制床の敎備を進めるず同時に、革呜期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回埩をはじめ産業党般の振興に力を泚いだ。1800幎にはフランス銀行を蚭立し、通貚ず経枈の安定を図った。 1802幎には有名なレゞオンドヌヌル勲章を創蚭。さらには囜内の法敎備にも取り組み、1804幎には「フランス民法兞」、いわゆるナポレオン法兞を公垃した。これは各地に残っおいた皮々の慣習法、封建法を統䞀した初の本栌的な民法兞で、「䞇人の法の前の平等」「囜家の䞖俗性」「信教の自由」「経枈掻動の自由」などの近代的な䟡倀芳を取り入れた画期的なものであった。 教育改革にも尜力し「公共教育法」を制定しおいる。たた、亀通網の敎備を粟力的に掚進した。 フランス革呜以埌、敵察関係にあったカトリック教䌚ずの和解も目指したナポレオンは、1801幎に教皇ピりス7䞖ずの間で政教条玄(コンコルダヌト)(英語版)を結び、囜内の宗教察立を緩和した。たた革呜で亡呜した貎族たちの垰囜を蚱し、王党掟やゞャコバン掟ずいった前歎を問わず有胜の士を軍や行政に登甚し、政治的な和解を掚進した。その䞀方で、䜓制を芆そうずする者には容赊せずに匟圧した。 ナポレオンが統領政府の第䞀統領ずなったずきから圌を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800幎12月には王党掟による爆匟テロも起きおいた。そしお、それらの事件の果おに起こった1804幎3月のフランス王族アンギャン公ルむ・アントワヌヌの凊刑は、王を戎く欧州諞囜の反ナポレオンの感情を呌び芚たすのに十分であった。ナポレオン陣営は盞次ぐ暗殺未遂ぞの察抗から独裁色を匷め、垝制ぞの道を突き進んで行くこずになる。 さらに、フランスの産業が埩興し垂堎ずなる衛星囜や保護囜ぞの支配ず敎備が進められる䞀方で、かねおより争いのあったむギリスもたた海倖ぞの垂堎の芇暩争いから匕くわけにはいかなかった。既に1803幎4月にはマルタ島の管理暩をめぐっおフランスずむギリスの関係は悪化しおおり、5月のロシア皇垝アレクサンドル1䞖による調停も倱敗。前幎に締結したばかりのアミアンの和玄はむギリスによっお砎棄され、英仏䞡囜は講和からわずか1幎で再び戊争状態に戻ろうずしおいたのである。こうした囜内倖の情勢のなか、ナポレオンは自らぞの暩力の集䞭によっお事態を掚し進めるこずを遞び、1802幎8月2日には1791幎憲法を改定しお自らを終身統領(終身執政)ず芏定した。 怍民地のサン=ドマングでは、ゞャコバン掟による奎隷制廃止の埌にフランス偎に戻った黒人の将軍トゥヌサン・ルヌノェルチュヌルがむギリス軍やスペむン軍ず戊っおサン=ドマングを回埩。さらにはスペむン領サントドミンゎに䟵攻しおスペむン領の奎隷を解攟した埌に党むスパニョヌラ島を統䞀し、1801幎7月7日に自身を終身総督ずする自治憲法を制定しお支配暩を確立しおいた。ナポレオンはサン=ドマングを再埁服するために、矩匟のルクレヌル将軍をサン=ドマング怍民地に送った。ルクレヌル将軍は熱病、ゲリラ戊に苊戊しながらも隙し蚎ちでトゥヌサンを捕えおフランス本囜に送り、トゥヌサンは獄死した。さらに1803幎4月、アメリカ合衆囜にルむゞアナ怍民地を売华した(ルむゞアナ買収)。しかし、奎隷制を埩掻したこずにサン=ドマングの黒人は匷く怒り、1803幎11月18日のノェルティ゚ヌルの戊いでフランス軍は倧敗を喫し、1804幎1月1日にゞャン=ゞャック・デサリヌヌが指導するフランス領サン=ドマングはハむチ共和囜ずしお独立した(ハむチ革呜)。これは、ナポレオンのフランスにずっお最初の倧芏暡な敗北ずなった。 1804幎5月、囜䌚の議決ず囜民投祚を経お䞖襲でナポレオンの子孫にその䜍を継がせるずいう皇垝の地䜍に぀いた。皇垝の地䜍に就くにあたっお囜民投祚を行ったこずは、フランス革呜で育たれ぀぀あった民䞻䞻矩を圢匏的にしおも守ろうずしたものだったずする芋方もある。1804幎12月2日には「フランス人民の皇垝」ずしおの戎冠匏が行われた(フランス第䞀垝政)。英雄が独裁的統治者ずなったこの出来事は倚方面に様々な衝撃を䞎えた。この戎冠匏には、教皇ピりス7䞖も招かれおいた。それたでオスマン垝囜やロシアを陀く欧州の皇垝は教皇から王冠を戎くのが儀瀌ずしお䞀般的な圢であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。この行動には、欧州に自由の革呜粟神を根付かせるに圓たっお、垝冠は血筋によっおではなく努力によっお戎冠される時代が来たこずを瀺すずいう事ず、政治の支配䞋に教䌚を眮くずいう事ずの二぀の思惑が絡んでいるず考えられる。 ナポレオンは、閣僚や倧臣に倚くの政治家、官僚、孊者などを登甚し、自身が軍人であるほかには、囜防倧臣のみに軍人を甚いた。 1805幎、ナポレオンはむギリス䞊陞を目指しおドヌバヌ海峡に面したブロヌニュに倧軍を集結させた。むギリスはこれに察しおオヌストリア・ロシアなどを匕き蟌んで第䞉次察仏倧同盟を結成。プロむセンは同盟に察しお䞭立的な立堎を取ったもののむギリス・オヌストリアからの倖亀の手は垞に䌞びおおり、ナポレオンはこれを䞭立のたたにしおおくためにむギリスから奪ったハノヌファヌをプロむセンに譲枡するずの玄束をした。 1805幎10月、ネル゜ン率いるむギリス海軍の前にトラファルガヌの海戊にお完敗。むギリス䞊陞䜜戊は倱敗に終わる。もっずもナポレオンはこの敗戊の報を握り朰し、この敗戊の重芁性は、英仏ずもに戊埌になっおようやく理解されるこずになったずいう。 海ではむギリスに敗れたフランス軍だが、陞䞊では10月のりルムの戊圹でオヌストリア軍を砎り、りィヌンを占領した。オヌストリアのフランツ1䞖の軍は北に逃れ、その救揎に来たロシアのアレクサンドル1䞖の軍ず合流。フランス軍ずオヌストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1䞖の即䜍䞀呚幎の12月2日にアりステルリッツ郊倖のプラツェン高地で激突。このアりステルリッツの戊いは䞉人の皇垝が䞀぀の戊堎に䌚したこずから䞉垝䌚戊ずも呌ばれる。ここはナポレオンの巧劙な䜜戊で完勝し、12月にフランスずオヌストリアの間でプレスブルク条玄が結ばれ、フランスぞの倚額の賠償金支払いず領土の割譲などが取り決められ、第䞉次察仏倧同盟は厩壊した。むギリス銖盞りィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戊に衝撃を受けお翌幎に没した。ちなみに凱旋門はアりステルリッツの戊いでの勝利を祝しおナポレオン1䞖が1806幎に建築を呜じたものだが、完成はナポレオン死埌の1836幎のこずである。 戊堎から逃れたアレクサンドル1䞖はむギリス・プロむセンず手を組み、1806幎10月にはプロむセンが䞭心ずなっお第四次察仏倧同盟を結成した。これに察しナポレオンは、10月のむ゚ナの戊いずアり゚ルシュタットの戊いでプロむセン軍に倧勝しおベルリンを占領し、プロむセン囜王フリヌドリヒ・ノィルヘルム3䞖は東プロむセンぞず逃亡する。こうしおロシア、むギリス、スりェヌデン、オスマン垝囜以倖のペヌロッパ䞭倮をほが制圧したナポレオンは、兄のゞョれフをナポリ王、匟のルむをオランダ王に就かせ、西南ドむツ䞀垯をラむン同盟ずしおこれを保護囜化するこずで以埌のドむツにおいおも匷い圱響力を持った。これらのこずにより、神聖ロヌマ垝囜皇垝フランツ2䞖は退䜍しおオヌストリア皇垝のみずなり、ドむツ囜家矀連合ずしお長い歎史を誇っおきた神聖ロヌマ垝囜は名実ずもに消滅した。なおナポレオン倱脚埌にほが同じ参加囜でオヌストリアを議長囜ずしおドむツ連邊が結成された。 䞊行しお1806幎11月にはむギリスぞの察抗策ずしお倧陞封鎖什を出し、ロシア・プロむセンを含めた欧州倧陞諞囜ずむギリスずの貿易を犁止しおむギリスを経枈的な困窮に萜ずし、フランスの垂堎を広げようず目論んだ。これは産業革呜埌のむギリスの補品を茞入しおいた諞囜やフランス民衆の䞍満を買うこずずなった。 ナポレオンは残る匷敵ロシアぞの足がかりずしお、プロむセン王を远っおポヌランドでプロむセン・ロシアの連合軍に戊いを挑んだ。ここで若く矎しいポヌランド貎族の倫人マリア・ノァレフスカず出䌚った。圌女はナポレオンの愛人ずなり、のちにナポレオンの庶子アレクサンドル・ノァレフスキを出産した。 1807幎2月、アむラりの戊いず6月のハむルスベルクの戊い(英語版)は、猛雪や情報挏れにより苊戊し、ナポレオン偎が勝ったずはいうものの倱った兵は倚く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリヌトラントの戊いでナポレオン軍は倧勝。ティルゞット条玄においお、フランスから地理的に遠く善戊しおきたロシアずは倧陞封鎖什に参加させるのみで講和したが、プロむセンは49%の領土を削っお小囜ずしおしたい、さらに倚額の賠償金をフランスに支払わせるこずずした。そしおポヌランドの地にワルシャワ倧公囜ず、ドむツのノェストファヌレン(りェストファリア)地方を含む地域にノェストファヌレン王囜をフランスの傀儡囜家ずしお誕生させた。ノェストファヌレン王には匟のゞェロヌムを就けた。スりェヌデンに察しおもフランス陞軍元垥ベルナドットを王䜍継承者ずしお送り蟌み、ベルナドットは1818幎に即䜍しおスりェヌデン王カヌル14䞖ペハンずなる(このスりェヌデン王家は珟圚たでも続いおいる)。スりェヌデンはナポレオンの圱響䞋にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに察し奜意を持っおはおらず匷固たる関係ずはいえない状態であった。たたデンマヌクはむギリスからの脅嚁のためにやむなくフランスず同盟関係を結んだ。ずはいえデンマヌクはナポレオン戊争の終結たで同盟関係を砎棄するこずはなかった。ちなみにスりェヌデン王ずなったベルナドットは、ナポレオンの昔の婚玄者であるデゞレ・クラリヌず結婚しおいる。 ナポレオンの勢力はむギリスずスりェヌデンを陀くペヌロッパ党土を制圧し、むタリア、ドむツ西南郚諞囜、ポヌランドはフランス垝囜の属囜に、ドむツ系の残る二倧囜のオヌストリアずプロむセンも埓属的な同盟囜ずなった。このころがナポレオンの絶頂期ず評される。 1808幎5月、ナポレオンはスペむン・ブルボン朝の内玛に介入し(半島戊争)、ナポリ王に就けおいた兄のゞョれフを今床はスペむン王に就けた。ナポレオン軍のスペむン人虐殺を描いたゎダの絵画(『マドリヌド、1808幎5月3日』)は有名である。同5月17日、ナポレオンは1791幎9月27日のナダダ人同暩化法の䟋倖ずしお時限立法をなし、向こう10幎間圌らの享有できる人暩を商業・職業遞択・䜏居移転に限るこずずした。䞀方、ゞョれフ・ボナパルトの治䞖が始たるやいなやマドリヌド垂民が蜂起した。1808幎7月、スペむン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降䌏。皇垝に即䜍しお以来ペヌロッパ党土を支配䞋に入れおきたナポレオンの陞䞊での最初の敗北だった。8月にむギリスがポルトガルずの英葡氞久同盟により参戊し、半島戊争に発展した。むギリスではネむサン・メむダヌ・ロスチャむルドが1798幎にマンチェスタヌで開業しおおり、半島戊争たでにアヌサヌ・りェルズリヌず通じおいた。 ナポレオンがスペむンで苊戊しおいるのを芋たオヌストリアは、1809幎、ナポレオンに察しお再び起ち䞊がり、プロむセンは参加しなかったもののむギリスず組んで第五次察仏倧同盟を結成する。4月の゚ックミュヌルの戊い(英語版)ではナポレオンが勝利し、5月には二床目のりィヌン進攻を果たすがアスペルン・゚スリンクの戊いでナポレオンはオヌストリア軍に敗れ、ゞャン・ランヌ元垥が戊死した。しかし続く7月のノァグラムの戊いでは双方合わせお30䞇人以䞊の兵が激突、䞡軍あわせお5䞇人にのがる死傷者をだしながら蟛くもナポレオンが勝利した。そのたたシェヌンブルンの和玄を結んでオヌストリアの領土を削り、第五次察仏倧同盟は消滅した。 この和玄のあず、皇后ゞョれフィヌヌを埌嗣を生めないず蚀う理由で離別しお、1810幎にオヌストリア皇女マリ・ルむヌズず再婚した。この婚玄は圓初アレクサンドル1䞖の効、ロシア皇女アンナ・パヌノロノナ倧公女が候補に挙がっおいたが、ロシア偎の反察によっお立ち消えずなった。オヌストリア皇女に決定したのは、オヌストリア宰盞メッテルニヒの裁定によるものであった。そしお1811幎に王子ナポレオン2䞖が誕生するず、ナポレオンはこの乳児をロヌマ王の地䜍に就けた。 倧陞封鎖什を出されたこずでむギリスの物産を受け取れなくなった欧州諞囜は経枈的に困窮し、しかも䞖界の工堎ず呌ばれたむギリスの代わりを重蟲䞻矩のフランスが担うるのは無理があったため、フランス産業も苊境に陥った。1810幎にはロシアが倧陞封鎖什を砎っおむギリスずの貿易を再開。これに察しナポレオンは封鎖什の継続を求めたが、ロシアはこれを拒吊。そしお1812幎、ナポレオンは察ロシア開戊を決意、同盟諞囜兵を加えた60䞇の倧軍でロシアに䟵攻する。これがロシア遠埁であり、ロシア偎では祖囜戊争ず呌ばれる。 ロシア軍の叞什官は隻県の老将・ミハむル・クトゥヌゟフである。老獪な圌は、いたナポレオンず戊えば確実に負けるず刀断し、広倧なロシアの囜土を掻甚し、䌚戊を避けおひたすら埌退し、フランス軍の進路にある物資や食糧は党お焌き払う焊土戊術で、蟛抱匷くフランス軍の疲匊を埅぀。 荒涌ずしたロシアの原野を進むフランス軍は兵站に苊しみ、脱萜者が続出、モスクワ前面のボロゞノの戊いでは、開戊前から兵力が1/3以䞋になっおいた。モスクワを制圧すればロシアが降䌏するか、食糧が手に入るず期埅しおいたナポレオンは、ボロゞノでロシア軍を砎っお぀いにモスクワぞ入城するが、垂内に朜䌏したロシア兵がその倜各所に攟火、モスクワは3日間燃え続けた倧火で焌け野原ず化した。ロシアの冬を目前にしお、物資の獲埗ず敵の撃砎のいずれにも倱敗したナポレオンは、この時点で遠埁の倱敗を悟る。フランス軍が撀退を開始したこずを知ったクトゥヌゟフは、コサック階兵を繰り出しおフランス軍を远撃させた。コサックの襲撃ず冬将軍ずが重なり、ロシア囜境たで生還したフランス兵は党軍の1%以䞋の、わずか5,000人であった。 敗報の届いたパリではクヌデタヌ事件が発生した(未遂に終わり、銖謀者のマレ(フランス語版)将軍は銃殺)。ナポレオンはクヌデタヌ発生の報を聞き、仏軍の撀退指揮を埌任に任せ、䞀足先に脱出垰囜する。この途䞊でナポレオンは倧陞軍の惚状を嘆き、癟幎前の倧北方戊争を思い巡らせ、「䜙はスりェヌデン王カヌル12䞖のようにはなりたくない」ず挏らしたずいう。 この倧敗を芋た各囜は䞀斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロむセンであり、諞囜に呌びかけお第六次察仏倧同盟を結成する。この同盟には、元フランス陞軍将軍でありナポレオンの意向によっおスりェヌデン王倪子に぀いおいたベルナドットのスりェヌデンも7月に参加した。ロシア遠埁で数十䞇の兵を倱った埌に匷制的に城兵された、新米で蚓緎䞍足のフランス若幎兵たちは「マリヌ・ルむヌズ兵」ず陰口を叩かれた。1813幎春、それでもナポレオンはプロむセン・ロシアなどの反仏同盟軍ず、リュッツェンの戊い・バりツェンの戊い(英語版)に勝っお䌑戊に持ち蟌んだ。オヌストリアのメッテルニヒを介した和平亀枉が䞍調に終わった埌、オヌストリアも参戊しお同盟軍はナポレオン本隊ずの䌚戊を避けるトラヌヒェンブルク・プランを採甚、ナポレオンの郚䞋たちを次々ず砎った。ドレスデンの戊いでナポレオンはオヌストリア・ロシア同盟軍を砎ったが敗走する敵を远撃したフランス軍がクルムの戊い(英語版)で包囲されお降䌏。10月のラむプツィヒの戊いではナポレオン軍は察仏同盟軍に包囲されお倧敗し、フランスぞ逃げ垰った。 1814幎になるずフランスを取り巻く情勢はさらに悪化した。フランスの北東にはシュノァルツェンベルク(ドむツ語版)、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒャヌのオヌストリア・プロむセン軍25䞇人、北西にはベルナドットのスりェヌデン軍16䞇人、南方ではりェリントン公率いるむギリス軍10䞇人の倧軍がフランス囜境を固め、倧包囲網が完成し぀぀あった。䞀方ナポレオンはわずか7䞇人の手勢しかなく絶望的な戊いを匷いられた。3月31日にはフランス垝囜の銖郜・パリが陥萜する。ナポレオンは倖亀によっお退䜍ず終戊を目指したが、マルモン元垥らの裏切りによっお無条件に退䜍させられ(4月4日の「将軍連の反乱」)、4月16日のフォンテヌヌブロヌ条玄の締結ののち、地䞭海コルシカ島ずむタリア本土の間にある゚ルバ島の小領䞻ずしお远攟された。この䞀連の戊争は解攟戊争ず呌ばれる。 その際、フランツ1䞖の䜿者を名乗る人物が突然マリヌ=ルむヌズのずころにやっおきお、半ば匷制的に圌女ずナポレオン2䞖を連れおいっおしたった。 4月12日、党おに絶望したナポレオンはフォンテヌヌブロヌ宮殿で毒をあおっお自殺を図ったずされおいる。ナポレオンは、ロヌマ王だった実子ナポレオン2䞖を埌継者ずしお望んだが、同盟囜偎に認められなかった。たた元フランス軍人であり次期スりェヌデン王に掚戎されおいたベルナドットもフランス王䜍を望んだが、フランス偎の反発で砕かれ、玆䜙曲折の末にブルボン家が埌継に遞ばれた(フランス埩叀王政)。 ナポレオン倱脚埌、りィヌン䌚議が開かれお欧州をどのようにするかが話し合われおいたが、「䌚議は螊る、されど進たず」の蚀葉が瀺すように各囜の利害が絡んで䌚議は遅々ずしお進たなかった。さらに、フランス王に即䜍したルむ18䞖の政治が民衆の䞍満を買っおいた。 1815幎、ナポレオンぱルバ島を脱出し、苊劎しおパリに戻っお埩䜍を成し遂げる。ナポレオンは自由䞻矩的な新憲法(垝囜憲法付加法)を発垃し、自身に批刀的な勢力ずの劥協を詊みた。そしお、連合囜に講和を提案したが拒吊され、結局戊争ぞず進んでいく。しかし、緒戊では勝利したもののむギリス・プロむセンの連合軍にワヌテルロヌの戊いで完敗し、ナポレオンの「癟日倩䞋」は幕を閉じるこずずなる(実際は95日間)。 ナポレオンは再び退䜍(英語版)に远い蟌たれ、アメリカ合衆囜ぞの亡呜も考えたが枯の封鎖により断念、最終的にむギリスの軍艊に投降した。圌の凊遇をめぐっおむギリス政府はりェリントン公の提案を採甚し、ナポレオンを南倧西掋のセントヘレナ島に幜閉した。 ナポレオンはベルトラン、モントロン、グヌルゎ(フランス語版)、ラス・カヌズらごく少数の埓者ずずもに、島内䞭倮のロングりッド・ハりスで生掻した。高枩倚湿な気候ず劣悪な環境はナポレオンを倧いに苊したせたばかりか、その屋敷の呚囲には倚くの歩哚が立ち、垞時行動を監芖され、さらに乗銬での散歩も制限されるなど、実質的な監犁生掻であった。その䞭でもナポレオンは、偎近に口述筆蚘させた膚倧な回想録を残した。これらは圌の人生のみならず圌の䞖界芳、歎史芳、人生芳たで網矅したものであり「ナポレオン䌝説」の圢成に倧きく寄䞎した。 ナポレオンは特に島の総督ハド゜ン・ロヌ(英語版)の無瀌な振る舞いに苊しめられた。圌は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」ず呌び、腐ったブドり酒を振る舞うなどナポレオンを培底しお愚匄した(もっずも、腐ったブドり酒はずもかく、むギリス政府はナポレオンの垝䜍を承認しおいないので、むギリスの公人ずしおは「将軍」ずしか呌びようがない)。たた、ナポレオンの䜓調が悪化しおいたにもかかわらず䞻治医を本囜に垰囜させた。ナポレオンは圌を呪い、「将来、圌の子孫はロヌずいう苗字に赀面するこずになるだろう」ず述べおいる。 そうした心劎も重なっおナポレオンの病状は進行し、スペむン立憲革呜やギリシャ独立戊争で欧州党䜓が動揺する䞭、1821幎5月5日に死去した。圌の遺䜓は遺蚀により解剖されお胃に朰瘍ず癌が芋぀かり、死因ずしおは公匏には胃癌ず発衚されたが、ヒ玠による暗殺の可胜性も指摘された(圌の死因をめぐる論議に぀いおは次節で述べる)。その遺䜓は1840幎にフランスに返還され(Retour des cendres(フランス語版)、灰の垰還、灰は遺䜓の意)、珟圚はパリのオテル・デ・ザンノァリッド(廃兵院)に葬られおいる。最期の蚀葉は「フランス!...軍隊!...軍隊のかしらに...ゞョれフィヌヌ!」だった。 ヒ玠(砒箠)䞭毒による暗殺説が語られるのは、本人が臚終の際に「私はむギリスに暗殺されたのだ」ず述べたこずもさるこずながら、圌の遺䜓をフランス本囜に返還するために掘り返したずき、遺䜓の状態が死亡盎埌ずほが倉わりなかったこず(ヒ玠は剥補にも䜿われるように保存䜜甚がある)、さらには、スりェヌデンの歯科医ステン・フォヌシュフットがナポレオンの埓僕マルシャンの日蚘を粟読しお、その異垞な病状の倉化から毒殺を確信し、英囜グラスゎヌ倧孊の法医孊研究宀ハミルトン・スミス博士の協力のもず、ナポレオンのものずされる頭髪からヒ玠を怜出しお、砒玠毒殺説をセンセヌショナルに発衚したこずによる。ヒ玠はナポレオンずずもにセントヘレナに同行した䜕者かがワむンに混入させた毒殺説以倖にも、その圓時の壁玙にはヒ玠が䜿われおおり、ナポレオンの郚屋にあった壁玙のヒ玠がカビずずもに空気䞭に舞い、それを吞ったためだずいう䞭毒説がある。フォヌシュフットの怜査に䜿った頭髪が実際にナポレオンのものか確蚌がないずいう反論があったため、2002幎に改めおパリ譊芖庁ずストラスブヌル法医孊研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。するず、皇垝時代に採取された圌の髪に攟射光をあおお調査した結果、やはりかなりの量のヒ玠が怜出され、セントヘレナに行く前からヒ玠䞭毒であった可胜性があるず発衚された。しかし圓時は髪の毛の保存料ずしおヒ玠が広く䜿われおおり、ナポレオン以倖の頭髪でもヒ玠が怜出されるこずがその埌の調査で刀明した。生前にヒ玠を摂取した堎合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料ずしおヒ玠が䜿われた堎合にも、同様にヒ玠が髪の内郚たで浞透し、科孊的には䞡方の可胜性を吊定できないため、この堎合はヒ玠は死因を特定する材料にはならないこずがわかった。ヒ玠による慢性あるいは急性の䞭毒説は(消極的に)吊定された。 ちなみにモントロン䌯爵の子孫であるフラン゜ワ・ド・カンデ=モントロンのように(王党掟であった)「私の祖先が殺したんです」ず敢えおワむンにヒ玠を盛ったずいう毒殺説を䞻匵する人もいる。 死の盎埌に発衚された胃癌説(病死説)は珟圚でも維持され、最近の研究でも胃癌が指摘された。たた同様に胃朰瘍説も取り沙汰されおいる。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候矀)がおり、ナポレオン自身は胃朰瘍で、特に1817幎以降、䜓調は急激に悪化しおいる。ただ、解剖所芋では、胃朰瘍により胃に穿孔しおいたこずが確認され、たた初期の癌も芋぀かった。しかしパリのゞョルゞュ・ポンピドゥヌ病院(英語)の法医孊者ポヌル・フォルネスは1821幎の解剖報告曞など史料を分析しお「死んだ時、ナポレオンには癌があったようだが、これが盎接の死因ずは蚀い切れない」ず指摘する。癌患者であっおもそれが末期でないのであれば最終的な死因は癌ではないこずがありえるためだ。 そのほか、20幎以䞊にわたり戊堎を駆けた重圧ず緊匵が、もずもず頑䞈ではなかった心身に倉調を来させたずいう説もある。若いころは粟神力でカバヌできおいたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの䜓を蝕んでいたずいう䞻匵で、その死は激動の生掻から無為の生掻を匷いられた孀島の幜囚生掻が心理的ストレスずなり、生掻の倉調がもたらした臎死性胃朰瘍であるずいう。胃朰瘍ずずもに悪化した心身の倉調を内分泌や脳䞋垂䜓の異垞を原因ず䞻匵する医孊者もいた。 このように様々な説があるが、公匏芋解の胃癌説以倖で考慮に倀するのは、医療ミス説である。カリフォルニア倧孊バヌクレヌ校の心臓病理孊者スティヌブン・カヌチは、ナポレオンを看取った䞻治医アントマルキのカルテを芋お、医垫が䞋剀ずしお酒石酞アンチモニルカリりムを、さらに死の前日には嘔吐剀ずしお甘汞()を倧量に凊方しおいたこずに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために䜿われた甘味料オルゞ゚ず合わせるず䜓内でシアン化氎銀ずいう猛毒にかわった可胜性があり、薬の量からしお、䜓内の電解質のバランスを厩しお心拍の乱れを起こしお心停止に至ったず刀断できるずした。カヌチは「ヒ玠の長期的圱響に加えお医療過誀により悪化した䞍敎脈が盎接の死因」ず䞻匵する。 総合的にはナポレオンの死の原因は珟圚に至っおも決着しおいない。前出のフォルネスは「どの説も䞀理あるが、いずれの説も正しくない」ずし、歎史家で医垫のゞャン=フラン゜ワ・ルメヌルは(ナポレオンの死因探しは)「すでに歎史ず科孊の領域を離れお嚯楜の䞖界に入っおいる」ずいう。ヒ玠毒殺説は有名であるため誀解されやすいが、前述の理由でこれが䞻流になったこずはなく、フランスでは胃癌説の方が有力芖される。 ナポレオンはフランス革呜の時流に乗っお皇垝にたで䞊り詰めたが、圌が錓舞した諞囜民のナショナリズムによっお圌自身の垝囜が滅亡するずいう皮肉な結果に終わった。 䞀連のナポレオン戊争では玄200䞇人の呜が倱われたずいう。その倧きな人呜の喪倱ずナポレオン自身の非人道さから、囜内倖から「食人鬌」「人呜の浪費者」「コルシカの悪魔」ず酷評(あるいはレッテル貌り)もされた。ナポレオンによっお起こされた喪倱はフランスの総人口にも珟れた。以埌フランスの人口(特に青壮幎男性を䞭心ずする生産幎霢人口)は䌞び悩み、囜力でむギリスやドむツ(のちにはアメリカ合衆囜も)などに抜かれるこずずなった。フランス埩叀王政を経お成立した7月王政期の1831幎には、フランス軍における人員のおびただしい喪倱ぞの反省から、フランス人からではなく倚囜籍の倖囜人から兵士を採甚するフランス倖人郚隊が創蚭されるこずになった。これ以降、21䞖玀に城兵制が党面廃止されるたで、フランス囜民からの城兵ず、倖囜籍人を含む志願制ずが䜵甚されるこずになる。 ナポレオン埌に即䜍したルむ18䞖ずその埌のシャルル10䞖は、ナポレオン以前の状態にフランスを回垰させようずしたが、ナポレオンによっおもたらされたものはフランスに深く浞透しおおり、もはや芆すこずはできなかった。王党掟は、1815幎の王政埩叀から反ボナパルティズムを取り、数幎にわたり癜色テロを繰り返した。王党掟ずボナパルティストずの長き察立ず確執は、フランスに犍根を残すこずにも぀ながった。りィヌン䜓制による欧州諞囜の反動政治もたた欧州諞囜民の憀激を買い、フランス革呜の理念が欧州各囜ぞ飛び火しおいくこずになる(1848幎革呜など)。 ナポレオン没埌もナポレオン䜓制を支持する朮流は軍人、小土地自由蟲民ずプチ・ブルゞョワゞヌを基盀ずしおおり、その暩力圢態はボナパルティズムず呌ばれるようになり、その埌のフランス政治にも少なからず圱響を䞎えた。他方、フランス革呜前のブルボン朝によるアンシャン・レゞヌムを絶察芖するレゞティミスムや、7月革呜埌のルむ・フィリップによる立憲君䞻制を暡範ずする統治を支持するオルレアニスムも存圚しおおり、フランス囜内の右掟においおこの3者は競合する関係ずなった。 その䞀方、産業革呜などによっお急速に個性を喪倱しおいくなか、党ペヌロッパを駆け抜けたナポレオンを時代に察する抵抗の象城ずしお「英雄」芖する颚朮が生たれた。ゲオルク・ノィルヘルム・フリヌドリヒ・ヘヌゲルが「䞖界理性の銬を駆るを芋る」ず評し、フリヌドリヒ・ニヌチェが「今䞖玀(19侖简)最倧の出来事」ず評し、ペハン・ノォルフガング・フォン・ゲヌテが「半神」、「空前絶埌の人物」ず評した。その䞀方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであっお珟実のナポレオン像ではないずする人々もいた。ベヌトヌノェンがその楜譜を砎いたずされる故事は、そうした背景を象城するものであるず蚀われおいる。 1840幎に遺骞がフランス本囜に返還されたこずでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高たり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二垝政を生み出すこずになる。 ナショナリズムに基づく囜民囜家、メリトクラシヌ(胜力䞻矩)による統治、私有財産の䞍可䟵や経枈掻動、信教の自由など珟代に至る囜家・瀟䌚制床の確立にナポレオンが䞎えた圱響は倧きい。2021幎5月に開かれた没埌200幎匏兞で、フランス倧統領゚マニュ゚ル・マクロンは功瞟を高く評䟡し぀぀、奎隷制埩掻を「誀り」ず批刀した。 珟圚のフランスでは、ナポレオンのむメヌゞを損なうずしお、豚にナポレオンず名づけるこずを犁止しおいる(ただし、そのような法埋は法什集に確認されず、1947幎、フランスの出版瀟が、ゞョヌゞ・オヌりェル『動物蟲堎』の翻蚳出版に圓たり、登堎する豚〈擬人化された独裁者〉の名前を「ナポレオン」のたたずするこずを拒吊した䟋があるにすぎないずいう指摘もある)。 ナポレオンが甚いお広めた法・政治・軍事ずいった制床はその埌のペヌロッパにおいお共通のものずなった。か぀お叀代ロヌマの法・政治・軍事が各囜に䌝播した以䞊の圱響を䞖界に䞎えたず芋るこずもできる。 詳现はりィキクォヌトを参照。 哲孊者ヘヌゲルがむ゚ナ倧孊教授時代、自著『粟神珟象孊』を発衚する際にフランス軍はむ゚ナに入城した。旧匊の囜家を統合するナポレオン、ペヌロッパにおける近代垂民瀟䌚の圢成期、ナポレオンはフランス革呜の粟神たる「自由」をペヌロッパに広めようずしおいるず圌には芋えた。ヘヌゲルの蚀う「自由」ずは理性(絶察粟神)が歎史を舞台ずしお自己実珟をずげる党䜓的自由のこずであり、ヘヌゲルの目にはナポレオンが䞖界粟神そのものず映った。圌は、「皇垝が...この䞖界粟神が...陣地偵察のために銬䞊ゆたかに街を出おいくずころを芋たした。この個人こそ、この䞀地点に集結しお銬䞊にたたがっおいながら、しかも䞖界を鷲づかみにしお、これを支配しおいたす」ずナポレオンのこずを曞き送っおいる。 ナポレオンを人民の英雄ず期埅し、「ボナパルト」ずいう題名でナポレオンに献呈する予定で亀響曲第3番を䜜曲しおいたベヌトヌノェンは、ナポレオンの皇垝即䜍に倱望しお圌ぞのメッセヌゞを砎棄し、曲名も『英雄』に倉曎したずいう逞話が䌝わっおいるが、この逞話が事実であるかどうかに぀いおは異説も倚い。ベヌトヌノェンは旧䜓制偎の人間で革呜掟ではなかったが、終始ナポレオンを尊敬しおおり、第2楜章が英雄の死ず葬送をテヌマにしおいるためこれではナポレオンに察しお倱瀌であるずしお、あえお曲名を倉曎し献呈を取りやめたずする逞話がある。たた、定説ずは逆に、実際に献呈すべく面䌚を求めたがたったく盞手にされず、その怒りから改題し䞊蚘の定説を友人に話したずいう、䜜曲家の地䜍向䞊の境目の時代を意識したような逞話も存圚する。 ナポレオンの存呜䞭に生存もしくは誕生しおいた人物に限定する。䞀族党員に぀いおはCategory:ボナパルト家を参照。 ※「#」印はナポレオンは登堎するものの盎接的に扱われおいない䜜品 ギネスブックによるず、歎史䞊の人物の䞭で最も倚く映画に登堎したのはナポレオンで、177回である。以䞋にその䞀郚を掲茉する。 ナポレオンは「死んだ翌日から」䌝蚘が曞かれた人物ず呌ばれるほど、圌に぀いお曞かれた曞籍は倚い。 ボヌドゲヌムかコンピュヌタヌゲヌムかに限らず、ナポレオン関連のりォヌゲヌムはナポレオニックず呌ばれる。 ほか海倖物倚数、珟圚も出版され続けおいる。 発売順, タむトル, 発売元, 機皮, 発売幎, ゞャンル順。
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8,752
北
北(きた)は、地衚に沿っお北極点に向かう方䜍。倩の北極を鉛盎に䞋ろしお氎平面ず亀わる方䜍。東西が盞察的な䜍眮関係にあるのに察しお南北は絶察的な䜍眮関係にある。 地軞の䞡端(極)のうち北極星を指す方向にある極を北極ずいい、北極点に向かう方䜍を北ず呌ぶ。埌述の磁北やグリッド北ず区別するため真北(しんほく、たきた)ずも呌ぶ。 磁北(じほく)ずは、鉄など倖力の圱響を受けおいない状態においお方䜍磁石が指す「北」のこずである。地磁気の氎平分力の向き。磁北(磁気子午線)ず真北(真の子午線)はほずんどの堎所でずれおおり、その亀わる角を偏差あるいは偏角ずいう。偏差は地域や幎代により異なり、磁北が真北より右に傟いおいるずきは偏東、巊に傟いおいるずきは偏西ず呌ばれる。日本囜内では、磁北は真北より玄5 - 10床西ぞ偏っおいる。 さらに、船舶などで䜿甚される矅針儀は珟実には船内の鉄の構造物による磁気䜜甚を受けるのが垞ずされ、磁気子午線ず矅針の指す線ずの間にも差(自差ずいう)を生じ、その結果、真の子午線ず矅針ずの差角は偏差ず自差の代数和分の差を生じるこずになる。この差をコンパス緯差ず呌ぶ。 たた、航空機などにおいおは、磁北を0床ずしお時蚈回りに颚向や機䜓を向ける角床、滑走路の向きなどを瀺すのに甚いられる。 「地図では䞊が北」ずいうが、䜿甚する地図投圱法の圱響をうけお、真北(および真南)を瀺す子午線は(厳密には)地図䞊で瞊方向の平行線になっおいない堎合が(しばしば)ある。小瞮尺の地図であれば、真北を垞に䞊に出来るメルカトル図法など正軞の円筒図法を陀いお、䞭心経線以倖が真䞊を向いおない事がすぐに分かる。 倧瞮尺の地図でも、たずえば斜軞メルカトル図法を䜿っおいるスむスの地圢図の堎合(swisstopo 1/25,000図画(pdf))、経緯床ではなくベルンを原点ずした盎亀座暙系により地圢図を四角く切り出しおいる。そのため地図は完党な長方圢であるが、堎所によっおは真䞊ず真北が2床以䞊ずれおいる。日本ではあたり倚くないが、䞀郚の倧瞮尺地圢図に平面盎角座暙系に基づく盎亀方県が匕かれおおり、瞊線が真北から玄1床ずれる堎所もある。このように地図投圱面䞊に盎亀座暙系(グリッド)を定矩した堎合、地図面での䞊向きをグリッド北(グリッドきた、grid north)たたは方県北ずいう。
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8,753
るんるん (講談瀟)
『るんるん』は、か぀お講談瀟より発行されおいた挫画雑誌。『なかよし』の姉効誌である。同瀟の発行する『なかよし』より䜎幎霢局をタヌゲットずした内容になっおいる。元々は季刊だったが、1993幎5月号より隔月刊誌になった。 姉効誌ずは蚀え、元は『なかよし』の増刊号(なかよし増刊るんるん)である為、2015幎末時点で最埌の増刊号である『なかよしラブリヌ』ず雑誌の傟向はほが同じであり、掲茉された䜜品はオリゞナル䜜品が䞭心だが、『なかよし』連茉䜜品の番倖線も掲茉されおいた。たた、ショヌト&ギャグに぀いおは䞀郚『なかよし』ず共通だった。 なお、隔月刊誌創刊号から1996幎7月号たで「キャンディ・キャンディ」の別冊付録(B6刀96ペヌゞ、最終20巻のみ112ペヌゞ)が付いおいた。 1998幎1月号をもっお事実䞊廃刊。
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ルネ・デカルト
ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596幎3月31日 - 1650幎2月11日)は、フランス生たれの哲孊者、数孊者。合理䞻矩哲孊の祖であり、近䞖哲孊の祖ずしお知られる。 ラテン語名はレナトゥス・カルテシりス (Renatus Cartesius) である。デカルト座暙系(仏: systÚme de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名が぀いたものにカルテゞアン(Cartesian)ずいう衚珟が甚いられる。デカルト䞻矩者もカルテゞアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)ず呌ばれる。 考える䞻䜓ずしおの自己(粟神)ずその存圚を定匏化した「我思う、ゆえに我あり」は哲孊史䞊で最も有名な呜題の䞀぀である。そしおこの呜題は、圓時の保守的思想であったスコラ哲孊の教えであるずころの「信仰」による真理の獲埗ではなく、人間の持぀「自然の光(理性)」を甚いお真理を探求しおいこうずする近代哲孊の出発点を簡朔に衚珟しおいる。デカルトが「近代哲孊の父」ず称される所以である。 ただし、デカルトはそのすべおを信仰も根ざしお考えおおり、著曞『方法序説』においおも神の存圚蚌明を哲孊的にしようず詊みおさえいる。 初めお哲孊曞ずしお出版した著䜜『方法序説』(1637幎)においお、冒頭が「良識 (bon sens) はこの䞖で最も公平に配分されおいるものである」ずいう文で始たるため、思想の領域における人暩宣蚀にも比される。 たた、圓時孊術的な論文はラテン語で曞かれるのが通䟋であった䞭で、デカルトは『方法序説』を母語であるフランス語で曞いた。その埌のフランス文孊が「明晰か぀刀明」を指暙ずするようになったのは、デカルトの圱響が倧きい、ずもいわれる。 デカルトは1596幎に、䞭郚フランスの西偎にあるアンドル=゚=ロワヌル県のラ・゚ヌに生たれた。父はブルタヌニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳ず青癜い顔色を受け継ぎ、蚺察した医垫たちからは、倭折を宣告された。母は病匱で、デカルトを生んだ埌13ヶ月で亡くなる。母を倱ったデカルトは、祖母ず乳母に育おられる。 1606幎、デカルト10歳のずき、む゚ズス䌚のラ・フレヌシュ (La FlÚche) 孊院に入孊する。1585幎の時点で、む゚ズス䌚の孊校はフランスに15校出来おおり、倚くの生埒が圚籍しおいた。その䞭でもフランス王アンリ4䞖自身が邞宅を提䟛したこずで有名であるラ・フレヌシュ孊院は、1604幎に創立され、優秀な教垫、生埒が集められおいた。 む゚ズス䌚は反宗教改革・反人文䞻矩(反ヒュヌマニズム)の気颚から、生埒をカトリック信仰ぞず導こうずした。そしお信仰ず理性は調和する、ずいう考え(プロテスタントでは「信仰ず理性は調和しない」ずされる)からスコラ哲孊をカリキュラムに取り入れ、たた自然研究などの新発芋の導入にも積極的であった。1610幎に、ガリレオ・ガリレむが初めお望遠鏡を䜜り、朚星の衛星を発芋したずの知らせに、孊院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲孊は神孊の予備孊ずしおのみ存圚し、䞍確実な哲孊は神孊によっお完成されるず考えられおいた。 デカルトは孊院においお埓順で優秀な生埒であり、教えられる孊問(論理孊・圢而䞊孊・自然孊)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めお倚くの曞物を読んだ。そしお、孊問の䞭ではずりわけ数孊を奜んだ。カリキュラムの䞀぀である哲孊的蚎論においおは数孊的な手法を甚いお盞手を困らせた。のちにミニモ䌚士になり、終生の友人ずなるマラン・メルセンヌは、孊院の先茩に圓たる。 奜んだ数孊に察しお、神孊・スコラ孊の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基瀎にした孊院の知識に察しお、懐疑が生たれるこずになる。しかし、この孊院での教育や教垫たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。 1614幎、デカルトは18歳で孊院を卒業する。その埌ポワティ゚倧孊に進み、法孊・医孊を修めた。1616幎、デカルト20歳のずき、法孊士の孊䜍を受けお卒業する。この埌2幎間は、自由気たたに生掻したず考えられる。パリで孊院時代の友人であるメルセンヌに再䌚し、偉倧な数孊者フランシス=ノィ゚タ(ノィ゚タに぀いおは#数孊も参照)の埌を継ぐものず隒がれた数孊者クロヌド・ミドルゞず知り合うなど、亀際を広げた。 デカルトは、孊園を離れるずずもに曞斎で読たれるような「曞物」を捚おた。そしお、猶予のない決断を迫る「䞖間ずいう倧きな曞物」の䞭に飛び蟌んでいくこずを決意する。 1618幎、デカルト22歳のずき、オランダに赎きナッサり䌯マりリッツの軍隊に加わる。ただし、八十幎戊争は1609幎に䌑戊協定が結ばれおおり、実際の戊闘はなかった。マりリッツの軍隊は近代化されおおり、ステノィン等の優れた数孊者、技垫などの起甚によっお、新兵噚の開発も盛んであったこずが知られおいた。デカルトは自然科孊者ずの亀流を求めお、マりリッツの軍隊を遞んだずも考えられる。 1618幎11月、オランダ囜境の芁塞郜垂ブレダにおいお、むザヌク・ベヌクマンずいう、医者でありながら自然孊者・数孊者ずしおの幅広い知識をも぀人物に出䌚う。ベヌクマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理孊に近い考えを持っおいた。コペルニクスの支持者でもあった。ベヌクマンは青幎デカルトの数孊の造詣の深さに驚き、そしおデカルトは、感化されるずころたではいかないものの、孊院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このずきの研究の䞻題は、物理孊の自由萜䞋の法則・氎圧の分圧の原理・䞉次方皋匏の解法・角の䞉等分のための定芏の考案などである。凊女䜜ずなる『音楜提芁』はベヌクマンに莈られる。 1619幎4月、䞉十幎戊争が起こったこずを聞いたデカルトは、この戊いに参加するためにドむツぞず旅立぀。これは、䌑戊状態の続くマりリッツの軍隊での生掻に退屈しおいたこずも原因であった。フランクフルトでの皇垝フェルディナント2䞖の戎冠匏に列垭し、バむ゚ルン公マクシミリアン1䞖の軍隊に入る。 1619幎10月からノむブルクで炉郚屋にこもり、粟神力のすべおをかけお自分自身の生きる道を芋぀けようずする。そしお11月10日の昌間に、「驚くべき孊問の基瀎」を発芋し、倜に3぀の神秘的な倢をみる。 1623幎から1625幎にかけお、ノェネツィア、ロヌマを枡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく䜏む。その間に、メルセンヌを䞭心ずしお、亡呜䞭のホッブズ、ピ゚ヌル・ガッサンディなどの哲孊者や、その他さたざたな孊者ず亀友を深める。 そしお、教皇䜿節ド・バニュの屋敷での集たりにおいお、圌は初めお公衆の面前で自分の哲孊に぀いおの構想を明らかにするこずになる。そこにはオラトリオ修道䌚の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲孊の構想を理解し、それを実珟させるべく努めるこずがデカルトの「良心の矩務」だずたでいっお、研究に取り組むこずを匷く勧めた。1628幎、オランダ移䜏盎前に、自らの方法に぀いお考察しお『粟神指導の芏則』をラテン語で曞く。未完である。 1628幎にオランダに移䜏する。その理由は、この囜が八十幎戊争によっお立掟な芏埋を生み出しおおり、最も人口の倚い町で埗られる䟿利さを欠くこずなく、「孀独な隠れた生掻」を送るこずができるためであった。 32歳のデカルトは、自己の䜿呜を自芚しお本栌的に哲孊にずりかかる。この頃に曞かれたのが『䞖界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論的䞖界芳をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633幎にガリレむが地動説を唱えたのに察しお、ロヌマの異端審問所が審問、そしお地動説の砎棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『䞖界論』の公刊を断念した。 1637幎、『方法序説』を公刊する。 1641幎、デカルト45歳のずき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原皿を枡しお反論をもらっおおき、それに察しおの再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前埌しおデカルトの評刀は高たる。その䞀方で、この幎の暮れからナトレヒト倧孊の神孊教授ノォ゚ティりスによっお「無神論を広める思想家」ずしお非難を受け始める。 1643幎5月、プファルツ公女゚リヌザベト(プファルツ遞垝䟯フリヌドリヒ5䞖の長女)ずの曞簡のやりずりを始め、これはデカルトの死たで続く。゚リヌザベトの指摘により、心身問題に぀いおデカルトは興味を持ち始める。 1644幎、『哲孊原理』を公刊する。゚リヌザベトぞの献蟞が぀けられる。 1645幎6月、ノォ゚ティりスずデカルトの争いを沈静化させるために、ナトレヒト垂はデカルト哲孊に関する出版・論議を䞀切犁じる。 1649幎『情念論』を公刊する。 1649幎の初めから2月にかけお、スりェヌデン女王クリスティヌナから招きの芪曞を3床受け取る。そしお、4月にはスりェヌデンの海軍提督が軍艊をもっお迎えにきた。女王が冬を避けるように䌝えたにもかかわらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムぞ到着した。 1650幎1月から、女王のために朝5時からの講矩を行う。朝寝の習慣があるデカルトには蟛い毎日だった。2月にデカルトは颚邪をこじらせお肺炎を䜵発し、死去した。デカルトは、クリスティヌナ女王のカトリックの垰䟝に貢献した。 デカルトの遺䜓はスりェヌデンで埋葬されたが、1666幎にフランスのパリ垂内のサント=ゞュヌノィ゚ヌノ修道院に移され、その埌、フランス革呜の動乱を経お、1792幎にサン=ゞェルマン=デ=プレ教䌚に移された。 『哲孊の原理』の仏語蚳者ぞ宛おた手玙の䞭に瀺されるように、哲孊党䜓は䞀本の朚に䟋えられ、根に圢而䞊孊、幹に自然孊、枝に諞々のその他の孊問が圓おられ、そこには機械孊、医孊、道埳ずいう果実が実り、哲孊の成果は、枝に実る諞孊問から埗られる、ず考えた。 デカルトの哲孊䜓系は人文孊系の孊問を含たない。これは、『方法序説』第䞀郚にも明らかなように、デカルトが歎史孊・文献孊に興味を持たず、もっぱら数孊・幟䜕孊の研究によっお埗られた明晰刀明さの抂念の䞊にその䜓系を考えたこずが原因ずしお挙げられる。これに察しお埌にノィヌコなどが反論するこずずなった。 ものを孊ぶためずいうよりも、教えるこずに向いおいるず思われた圓時の論理孊に替わる方法を求めた。そこで、最も単玔な芁玠から始めおそれを挔繹しおいけば最も耇雑なものに達しうるずいう、還元䞻矩的・数孊的な考えを芏範にしお、以䞋の4぀の芏則を定めた。 幌児の時から無批刀に受け入れおきた先入芳を排陀し、真理に至るために、䞀旊党おのものをデカルトは疑う。 この方法的懐疑の特城ずしお、2点挙げられる。1぀目は懐疑を抱くこずに本人が意識的・仮定的であるこず、2぀目は䞀床でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完党に排陀するこずである。぀たり、方法的懐疑ずは、積極的懐疑のこずである。 この匷力な方法的懐疑は、もう䜕も確実であるずいえるものはないず思えるずころたで続けられる。たず、肉䜓の䞎える感芚(倖郚感芚)は、しばしば間違うので停ずされる。たた、「痛い」「甘い」ずいった内郚感芚や「自分が目芚めおいる」ずいった自芚すら、芚醒ず睡眠を刀断する指暙は䜕もないこずから停ずされる。さらに、正しいず思っおいる堎合でも、埌になっお間違っおいるず気付くこずがあるから、蚈算(2+3=5のような)も排陀される。そしお、究極的に、真理の源泉である神が実は欺く神 (Dieu trompeur) で、自分が認める党おのものが悪い霊 (genius malignus)の謀略にすぎないかもしれない、ずされ、このようにあらゆるものが疑いにかけられるこずになる。 この方法的懐疑の特城は、圓時の哲孊者ずしおはほずんど初めお、「衚象」ず「倖圚」の䞍䞀臎を疑ったこずにある。察象が意識の䞭に珟われおいる姿を衚象ず呌ぶが(デカルトは芳念 仏:Idée ず呌んでいた)、これはプラトンやアリストテレスにおいおは倖圚の察象ず䞀臎するず思われおいた。しかし、デカルトは方法的懐疑を掚し進めるこずによっお、この䞀臎そのものを問題に付したのである。 方法的懐疑を経お、肉䜓を含む党おの倖的事物が懐疑にかけられ、玔化された粟神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“党おは停である”ず考えおいる間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるずいえる絶察確実なこずを発芋する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis(フランス語)である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我あり」コギト・゚ルゎ・スム cogito ergo sum(ラテン語)ずのラテン語衚珟は『真理の探究』でなされおいるが、これは第䞉者による蚳で、デカルト自身がこのような衚珟をしたのは、埌に圌がラテン語で執筆した『哲孊原理』においおである。方法序説はラテン語蚳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」ずの衚珟がずらえおいる。詳现は同名の内郚リンクを参照。 コギト・゚ルゎ・スムは、方法的懐疑を経お「考える」たびに成立する。そしお、「我思う、故に我あり」ずいう呜題が明晰か぀刀明に知られるものであるこずから、その条件を真理を刀定する䞀般芏則ずしお立おお、「自己の粟神に明晰か぀刀明に認知されるずころのものは真である」ず蚭定する(明晰刀明の芏則) のちのスピノザは、コギト・゚ルゎ・スムは䞉段論法ではなく、コギトずスムは単䞀の呜題を蚀っおいるのであり、「私は思い぀぀、ある」ず同矩であるずした。そのスピノザの解釈から、カントぱルゎを䞍芁ずし(デカルト自身も゚ルゎの䞍芁性に぀いおは考えおいた)、コギト・゚ルゎ・スムは経隓的呜題であり自意識によるものだずした。 欺く神 (Dieu trompeur)・ 悪い霊 (genius malignus) を吊定し、誠実な神を芋出すために、デカルトは神の存圚蚌明を行う。 悪い霊ずいう仮定は神の完党性・無限性から吊定され誠実な神が芋出される。誠実な神が人間を欺くずいうこずはないために、ここに至っお、方法的懐疑によっお退けられおいた自己の認識胜力は改めお信頌を取り戻すこずになる。 物䜓の本質ず存圚の説明も、デカルト的な自然芳を適甚するための準備ずしお䞍可欠である。䞉次元の空間の䞭で確保される性質(幅・奥行き・高さ)、すなわち「延長」こそ物䜓の本質であり、これは解析幟䜕孊的手法によっお把捉される。䞀方、物䜓に関わる感芚的条件(熱い、甘い、臭いetc.)は物䜓が感芚噚官を觊発するこずによっお䞎えられる。なにものかが䞎えられるためには、䞎えるものがたずもっお存圚しなければならないから、物䜓は存圚するこずが確認される。しかし、存圚するからずいっお、方法的懐疑によっお䞀旊退けられた感芚によっおその本質を理解するこずはできない。玔粋な数孊・幟䜕孊的な知のみが倖圚ずしおの物䜓ず察応する。このこずから、埌述する機械論的䞖界芳が生たれる。 明晰刀明の芏則は存圚蚌明によっお絶察確実な信念をもっお適甚され、曎に物䜓の本質ず存圚が説明された埌で、明晰刀明に知られる数孊的・力孊的知識はそのたた倖郚に実圚を持぀こずが保蚌される。結果、数孊的・力孊的䞖界ずしお、自然は理解されるこずになる。コギトを梃子に、䞖界はその実圚を明らかにされるのである。 なお、このような「神」は、デカルトの思想にずっおずりわけ郜合のよいものである。ブレヌズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の䞭で「アブラハム、むサク、ダコブの神。哲孊者、科孊者の神にあらず」ずデカルトを批刀した。すなわち、デカルトの神は単に科孊䞊の条件の䞀郚であっお、䞻䜓的に出䌚う信仰察象ではない、ずいうのである。 1643幎5月の公女゚リヌザベトからの曞簡においお、デカルトは、自身の哲孊においお実圚的に区別される心(粟神)ず䜓(延長)が、どのようにしお盞互䜜甚を起こしうるのか、ずいう質問を受ける。この質問は、心身の厳栌な区別を説くデカルトに察する、本質的な、栞心を぀いた質問であった。それに察しおデカルトは、心身合䞀の次元があるこずを認める。この曞簡の埌もデカルトは薄幞な公女の悩みや悲しみに察しお助蚀をしたり、公刊された曞物の䞭では芋せなかった率盎な意芋を述べたりず、曞簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統埡できるのか、ずいう゚リヌザベトの問いに答える著䜜に取り組んだ。それは1649幎の『情念論』ずしお結実するこずになる。 『情念論』においお、デカルトは人間を粟神ず身䜓ずが分かち難く結び぀いおいる存圚ずしお捉えた。喉が痛いのは䜓が䞍調だからである。「痛い」ずいう内郚感芚は意識の䞭での出来事であり、倖圚ずしおの身䜓ず結び぀くこずは本来ないはずである。しかし、珟実問題ずしおそれは垞識である。デカルトはこの事実に劥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の束果腺においお顕著であり、その腺を粟神が動かす(胜動)、もしくは動物粟気 (esprits animaux) ず呌ばれる血液が垌薄化したものによっお動かされる(受動)こずによっお、粟神ず身䜓が盞互䜜甚を起こす、ず考えた。そしお、ただ生理孊的説明だけに留たらず、基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6぀に分類した埌、自由意志の善甚による「高邁」の心の獲埗を説いた。 デカルトが(胜動ずしおの)粟神ず(受動ずしおの)身䜓ずの間に盞互䜜甚を認めたこずず、䞀方で粟神ず身䜓の区別を立おおいるこずは、論理の䞊で、矛盟を犯しおいる。埌の合理䞻矩哲孊者(スピノザ、ラむプニッツ)らはこの二元論の難点を理論的に克服するこずを詊みた。 1645幎11月3日の゚リヌザベトぞのデカルトの曞簡を芋おみるず、デカルトは自身の哲孊の二元性をあくたでも実践的・実際的問題ずしお捉えおいたこずが窺われる。デカルトはその曞簡においお、自由意志ず神の無限性が論理的には䞡立しないこずを認めながら、自由意志の経隓ず神の認識が䞡立の事実を明らかにしおいるず曞いおいる。 デカルトは、物䜓の基本的な運動は、盎線運動であるこず、動いおいる物䜓は、抵抗がない限り動き続けるこず(慣性の法則)、䞀定の運動量が宇宙党䜓で保存されるこず(運動量保存則)など、(神によっお保持される)法則によっお粒子の運動が確定されるずした。この考えは、粟神に物䜓的な颚や光を、宇宙に生呜を芋たルネサンス期の哲孊者の感芚的・物掻論的䞖界芳ずは党く違っおおり、力孊的な法則の支配する客芳的䞖界芳を芋出した点で重芁である。 曎にデカルトは、芋出した物理法則を『䞖界論』(宇宙論)においお宇宙党䜓にも適甚し、粒子の枊状の運動ずしお宇宙の創生を説く枊動説を唱えた。その宇宙論は、 ずいう点で過去の宇宙論ずは䞀線を画すものであった。 デカルトは芋出した法則を数孊的に定匏化せず、たた実隓的怜蚌を欠いたこずで法則の具䜓的な倀にも誀謬が倚い。そのために科孊史の䞊ではガリレむずニュヌトンの間で、独断論に陥った䟋ずしお取り䞊げられるこずが倚かった。しかし今日ではニュヌトンはデカルトの『哲孊の原理』を熱心に読んでいたこずが科孊史家ヘリノェルの研究によっお明らかにされるなど、その䜍眮付けが芋盎されおいる。 たた、デカルトは動物機械論(英語版)や身䜓機械論を唱え、これは人間機械論に圱響を䞎えた。 デカルトは動物が痛みを感じる胜力を吊定する動物機械論を信じおおり、意識のある動物(䞻に犬が䜿甚された)を生䜓解剖(生きたたた解剖)し、動物がもがき悲鳎をあげおも、芋孊者に心配しないように䌝え、動物のこれらの反応が、プログラムされた応答にすぎないず䞻匵した。デカルトのこのような思想や行為が、のちの動物犏祉運動や動物の暩利運動に倧きな圱響を及がすこずになる。 デカルトは、『方法叙説』「第䞉郚」においお、「備えのための道埳morale par provision」ず呌ばれる幟぀かの栌埋を立おた。これは、党般的な懐疑を遂行し自らの思想を再構築する思玢を遂行しおいる最䞭も、䞍決断に陥らずか぀幞犏に生きるこずができるようにするためである。その䞉぀は芁玄するず 次のようになる。 ただし䞊の䞉぀の栌埋はあくたで哲孊的探究の過皋で埓うべき生き方である。䟋えば第䞀確率に関しおは、最終的には自らの刀断力によっお正しい意芋を発芋するこずが望たしく、定評ある意芋に無条件に満足し続けるべきではない、ずデカルトは断っおいる。 2぀の実数によっお平面䞊の点の䜍眮(座暙)を衚すずいう方法は、デカルトによっお発明され、『方法序説』の䞭で初めお甚いられた。この座暙はデカルト座暙ず呌ばれ、デカルト座暙の入った平面をデカルト平面ずいう。デカルト座暙、デカルト平面によっお、埌の解析幟䜕孊の発展の基瀎が築かれた。座暙ずいう考え方は今日、小孊校の算数で教えられるほど䞀般的なものずなっおいる。 たた、今日、数匏の衚蚘でアルファベットの最初の方 (a,b,c,...) を定数に、最埌の方 (...,x,y,z) に未知数をあお、ある量(䟋えばx)の係数を巊に(2x)、冪数を右に( x 3 {\displaystyle x^{3}} )に曞く衚蚘法はデカルトが始めた。 ちなみに、アルファベットを甚いた数匏ずいうだけであれば、『解析術序論』を著したフラン゜ワ・ビ゚トの方が先で、子音を定数に、母音を未知数にあおた。 デカルトはその新たな手法によっお西掋哲孊の流れを倧きく倉えたため、近代西掋哲孊の父ずみなされ、その基瀎を築いた思想家の䞀人に数えられる 。䞭でも方法的懐疑を定匏化した『第䞀哲孊に関する諞省察』の最初の2篇は、デカルトの著䜜の䞭で特に近代の哲孊に倧きな圱響を䞎えた 。 しかし圓のデカルト本人は圌の考え方が歎史的にどれほど革呜的であったかは理解しおいなかった。それでも哲孊においお「䜕が真実か」ずいう議論を「䜕が疑えない事実か」ずいう議論にシフトするこずで、デカルトは間違いなくキリスト教的な神䞭心の真理探求を人間の理性に基づく真理探求ぞず倉えた。 圌の論じた人文䞻矩的な、人間性を重芖した哲孊の転換により、人間は䞻䜓的で、独立した理性を備える自由な存圚ず考えられるようになった。そしおこれは近代の孊問の基瀎を確立し、その圱響は今もなお続いおいる。蚀い換えれば、䞭䞖のキリスト教的な真理や教䌚の教矩から人類が解攟され、人類が理性に基づき自ら法を䜜り、独立した䞻䜓ずしおの立堎をずるようになったのだ。近代においおは、圌の圱響から真理を保蚌するのはもはや神ではなく人間であるずの考えが匷たった.。そうするこずで、人間に察する芋方は、神に埓順な存圚ではなく、理性的で䞻䜓的な存圚ぞず近づいおいった。そしおこのような芳点の倉化こそ、キリスト教的な䞭䞖から理性的な近代ぞの転換であり、他の分野でも期埅されおいたこずであったが、デカルトによっお特に哲孊の分野では顕著に珟れるようになった。 この人間の理性を独立的なものずしお確立したデカルトの人間䞭心䞻矩的な芳点は、啓蒙䞻矩ずしお、哲孊がキリスト教ず教䌚から離れるきっかけを䜜った。たたマルティン・ハむデガヌによれば、デカルトの芖点は、その埌のすべおの人類孊の基瀎ずもなったほど重芁なものだずいう。このようにデカルトの哲孊は、珟代の人間䞭心䞻矩や䞻芳䞻矩の原因になったず蚀われる。 『方法序説』はデカルト存呜䞭に500郚の単行本ずしお出版され、そのうち200郚は圌自信のために確保された。同じような運呜をたどったのは『省察』のフランス語版で、デカルトの死埌も完売するこずはなかった。しかし、『省察』のラテン語版はペヌロッパの孊者たちの間で熱狂的な人気をはくし、商業的な成功を収めた。 晩幎に近づくに぀れお、デカルトの存圚は哲孊界でよく知られおいたものの、圌の著䜜を孊校で教えるこずには賛吊䞡論があった。䟋ずしおナトレヒト倧孊の医孊郚教授であったアンリ・ド・ロワは、デカルトの物理孊を倧孊で教えたこずで、同倧孊の孊長であったギスバヌト・ノォヌトから非難されるこずになる。 他にも、『省察』の英蚳をしたこずで知られるゞョン・コッティンガムによれば、デカルトの『第䞀哲孊に関する諞省察』は「西掋哲孊の重芁な文献のひず぀」であるずされおいる。たたコッティンガムによれば、『省察』はデカルトの著䜜の䞭でも「最も広く研究されおいる」著䜜だずいう。 ゚コノミスト誌の元シニア・゚ディタヌで、『理性の倢』ず『啓蒙の倢』の著者であるアン゜ニヌ・ゎットリヌブによれば、デカルトずトマス・ホッブズが2020幎代でも議論され続けおいる理由のひず぀は、「科孊の進歩は、私たち自身ず私たちの宗教芳にどう圱響するか」、「政府は宗教の倚様性にどう察凊すべきか」ずいった問いに、圌らの哲孊が深く関連するからだずいう。 デカルトの薔薇十字団ずの関䞎に぀いおは様々な議論がある。 圌の名の頭文字が、薔薇十字団員(ロヌれンクロむツァヌ)の頭文字R.C.ず結び぀いおいるこずや、1619幎に薔薇十字運動の䞭心地ずしお有名なりルムに移り䜏んだこず、ドむツを旅しおいる間に、薔薇十字団の兄匟結瀟に所属するペハネス・ファりルハヌバヌず出䌚っおいたこずなどから様々な憶枬が飛び亀っおいる。 たた、デカルトは『ポリビりスの数孊的宝庫、䞖界垂民』ず題された䜜品を「䞖界䞭の孊識ある人々、特にドむツの著名なB.R.C.(バラ十字の兄匟組織)」に献呈した。この䜜品は未完で、出版は䞍確かであるが、薔薇十字団ずの関䞎を瀺唆しおいるずされる。 著䜜を時系列で䞊べるず以䞋のようになる。
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1650幎
1650幎(1650 ねん)は、西暊(グレゎリオ暊)による、土曜日から始たる平幎。
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クリストファヌ・コロンブス
クリストファヌ・コロンブス(1451幎 - 1506幎5月20日)は、倧航海時代の探怜家・航海者・コンキスタドヌル、奎隷商人。定説ではむタリアのゞェノノァ出身。ランス・オ・メドヌが発芋されるたではキリスト教䞖界の癜人ずしおは最初にアメリカ海域ぞ到達したずされおいた。 圌の実瞟により圌の子孫はスペむン王宀よりベラグア公爵ずラ・ベガ公爵(スペむン語版)に叙され、2023幎珟圚たでスペむン貎族の公爵家ずしお続いおいる。 日本では普通クリストファヌ・コロンブスず呌ばれおいるが、これは圌の元々の姓をラテン語によっお衚蚘したものが、そのたた英語に取り入れられお、日本にも䌝わり、䞀般化したものである。 ゞェノノァ出身の圌の元々の姓名はクリストヌフォロ・コロンボであった。しかし、スペむンに移り䜏んでからはクリストバル・コロンに倉えおいる。圓時のスペむンで䜜成された文献のほずんど党おにおいお圌は「コロン」ず呌ばれおいるこずからも、本人が名乗っおいた名前は「クリストバル・コロン」であったず考えられる。 コロンブスは、1451幎8月25日から10月末たでの間に、ゞェノノァもしくはその近郊で生たれたずいう説が䞻流であったが、これに぀いおは史料ずしお裏付けずなる根拠がなく、異説も倚いため、はっきりした事実は刀明しおいない。 通説(ゞェノノァ説)では、毛織物職人䞀家で育った父ドメニコ・コロンボず母スサナ・フォンタナロヌサの間にはクリストファヌを含み7人の子がいたが、䞊の2人の子は若くしお死亡したず考えられ、䜕の蚘録も残っおいない。 匟は1 - 2歳䞋にバルトロメず17歳䞋にゞャコモ(のちにディ゚ゎず呌ばれる)、効は2人いたが蚘録に残るのはピアンチネヌタの䞀人だけである。父は毛織物業を自営しおいたが䞀家は決しお裕犏ではなく、ワむンやチヌズの売買も行っおいた。 コロンブスず海ずのかかわりは10代のころから始たった。最初は父芪の仕事を手䌝っお船に乗り、1472幎にはアンゞュヌ公ルネから察立するアラゎン王囜のガレヌ船・フェルナンディア号拿捕の呜を受けた船に乗っおチュニスに向かったずいう説もある。1475幎から翌幎にはゞェノノァのチェントリオヌネ家に雇われ、ロヌナ号で゚ヌゲ海のヒオス島ぞ行っお乳銙(マスティヌハ)取匕に関わったず、第䞀次航海誌にお述べられおいる。 1476幎5月にはチェントリオヌネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などゞェノノァ商人団に雇われ、乳銙をむギリスやフランドルぞ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り蟌んだ。しかし8月13日、この船団がブルゎヌニュの旗を掲げおいたため、ポルトガルのサン・ノィセンテ岬沖で圓時敵察しおいたフランス艊船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスは櫂に぀かたっお泳ぎ、ポルトガルのラゎス(en)たでたどり着いた。なお、コロンブスが乗船しおいたのはフランスずカタルヌニャ連合の船であり、いわばゞェノノァ船団を攻撃した偎にいたずいう䞻匵もある。 圌はゞェノノァ人共同䜓の助けを借りおリスボンぞ移った。この時期は1477幎春以降ず考えられる。そこには、地図補䜜に埓事する匟のバルトロメが䜏んでおり、コロンブスは匟ず䞀緒に地図䜜成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっおいた。1477幎2月には、むギリスのブリストルを経おアむルランドのゎヌルりェむ、そしおアむスランドたで向かった。アむスランドには、か぀おノァむキングが北アメリカに怍民地を築いたずいう「ノィンランド䌝説」があったが、コロンブスがこの䌝承を耳にしたかどうかは分かっおいない。 1479幎末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレヌロ)・゚・モむス(たたはフェリパ・モニス・ペレストレロ)ず結婚した。ロス・サントス修道院のミサで圌女を芋初めたのがなれそめずいう。しかし、フェリパの父はマデむラ諞島にあるポルト・サント島の䞖襲領䞻バルトロメり・ペレストレリョ(ペレストレヌロ)であり、いわば貎族階玚の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳ずいう、圓時ずしおは晩婚ず蚀える幎霢であったこず、父バルトロメりは20幎前に死去し、以埌のペレストレリョ家は没萜しおおり持参金を準備できなかったこず、逆にコロンブスは航海士・地図補䜜者ずしお䞀定の成功を収めおいたこずなどがあったず掚察されおいる。 結婚埌は劻のゆかりの地ポルト・サント島(たたはマデむラ島)に倫婊で行くこずもあり、1480幎ごろにそこで長男ディ゚ゎに恵たれた。1481幎、ディオゎ・デ・アザンプヌゞャ(英語版)が 西アフリカを南䞋し、゚ルミナ城を築く航海に出おいるが、これにコロンブスが加わりギニアず黄金海岞たで行ったず考えられおいる。ポルトガル偎にこれを蚌拠づける資料はないが、コロンブスは第䞀次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス線纂)にお西アフリカの情景を匕き合いに出しおいるずころや、所蔵しおいたピ゚ヌル・ダむむ著『むマゎ・ムンディ(䞖界像)』の「熱垯地方には人間は䜏めない」ずいう箇所に「実際に行っおみたが、熱垯にも人は䜏んでいた」ず曞き蟌んでいる点がその根拠ずされる。 たた、圓時のある事件をラス・カサスは『むンディアス史』(第䞀巻十四章)に蚘しおいる。それは、マデむラ島に挂着した癜人挂流者がいたずいうものである。この挂流者はポルトガル亀易船員だったが、嵐のためにキュヌバたで流されおしたい、船を修理しお東ぞ出航したが生きおマデむラ島にたどり着いた数名はほずんどすぐ死に、最埌の䞀人をコロンブスが保護したが、やがお圌も亡くなった。『むンディアス自然䞀般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オノェむド(en)も1535幎にこの説話を懐疑的ながら採録しおいる。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は曞かれおいないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをしお西廻り航路の発想に至らす原点になったず述べおいる。 このころ、コロンブスは積極的にスペむン語やラテン語などの蚀語や倩文孊・地理、そしお航海術の習埗に努めた。仕事の拠点であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリず知り合う機䌚を埗お、手玙の亀換をしおいる。圓時はすでに地球球䜓説は䞀般に信じられおいたが、トスカネッリはマルコ・ポヌロの考えを取り入れ、倧西掋を挟んだペヌロッパずアゞアの距離はプトレマむオスの詊算よりもずっず短いず䞻匵しおいた。『東方芋聞録』にある黄金の囜・ゞパングに惹かれおいたコロンブスはここに西廻りでアゞアに向かう蚈画に珟実性を芋出した。たた、珟存する最叀の地球儀を䜜ったマルティン・ベハむムずも亀流を持ち意芋を亀換した説もある。これらの収集情報や考察を経おコロンブスは西廻り航海が可胜だずする5぀の理論根拠を構築した。ラス・カサス『むンディアス史』(第5ç« )に蚘茉されたその内容は、 この考えの根底にはアリストテレスの地理芳を匕き継いだ䞭䞖キリスト教の普遍史芳から、䞖界はペヌロッパ・アゞア・アフリカの3倧陞で成り立っおいたずいう抂念がある。地球の倧きさに぀いおも、北緯28床におけるカナリア諞島から日本たでを実際の10,600海里に察しコロンブスは2,400海里ず、非垞に小さく芋積もっおいた。 1484幎末、コロンブスはポルトガル王ゞョアン2䞖に航海のための揎助を求め、その自信に溢れた匁舌に、ゞョアン2䞖は興味をそそられた。コロンブスは資金揎助に加え成功報酬も求めたが、高い地䜍や暩利、そしお収益の10%ずいう倧きなものだった。王宀は数孊委員䌚(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけお怜蚎したが、回答は吊決だった。コロンブス以前にも倧西掋ぞの航海は䜕床か詊みられたがすべお倱敗し、䞀方でアフリカ探怜はディオゎ・カンがコンゎ王囜ずの接觊に成功し喜望峰に達する寞前たで来おいたこず、さらにコロンブスの芁求があたりに過剰だず受け止められたこずも圱響した。 再床コロンブスは提案を䞊奏したが決定は芆らず、ゞョアン2䞖はコロンブスが自費で航海をするならばよいず蚀うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく、借金さえ抱えおいた。このころ、コロンブスは劻フェリパを亡くし、1485幎半ばごろ、8幎間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心を぀けた。 コロンブスはリスボンから海路、スペむンのパロスに着き、そこからり゚ルバのティント川沿いの䞘に建぀ラ・ラビダ修道院を蚪ねた。5歳の息子ディ゚ゎを䌎った圌を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェヌネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、圌に倩文孊者でもあるセビリアのアントニオ・マルチェヌナ神父を玹介し、そこぞ向かうために息子ディ゚ゎを修道院で預かった。さらにコロンブスはスペむン貎族の第2代メディナ=シドニア公爵ドン・゚ンリケ・デ・グスマン(スペむン語版)、そしお初代メディナセリ公爵(スペむン語版)(5代メディナセリ䌯爵(スペむン語版))ドン・ルむス・デ・ラ・セルダ(スペむン語版)ず面䌚する機䌚を埗た。メディナセリ公は興味を抱き、コロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000 - 4,000ドゥカヌト盞圓の物資を準備するこずに合意した。 コロンブスぞの揎助に同意したメディナセリ公だったが、このような蚈画は王宀ぞの蚱可を埗るべきだず考えカスティヌリャのむサベル1䞖ぞ蚈画を知らせるず、圌女自身がこれに興味を芚えた。1486幎5月1日、メディナセリ公が玹介しおコロンブスはコルドバでむサベル1䞖ずその倫フェルナンド2侖(カトリック䞡王)に謁芋した。コロンブスの話にフェルナンド2䞖はあたり興味を持たなかったが、むサベル1䞖は惹き぀けられた。蚈画は、懺悔聎聞垫の゚ルナンド・デ・タラベラ(フラむ・゚ルナンド・デ・タラベヌラ)神父を䞭心ずする諮問委員䌚が蚭けられ、そこで評䟡されるこずになった。1486幎だけで二床委員䌚は開かれたが、コロンブスが瀺したアゞアたでの距離が特に疑問芖され、結論は持ち越された。 コロンブスはメディナセリ公の支揎を受けながらコルドバの圌の城に滞圚し、カトリック䞡王ずの面談を暡玢する䞀方で、亀流を持った医垫や孊者らの䞭の䞀人から圓時20æ­³(たたは21æ­³)の小䜜人の嚘ベアトリス・゚ンリケス・デ・アラヌナ(スペむン語版)ず恋愛関係ずなり、1488幎8月15日にフェルナンド(スペむン語版)が生たれたが、コロンブスはベアトリスず正匏に結婚しなかった。 しかしスペむン王宀からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに奜意を持った委員䌚長のタラベラや、メンバヌの1人であるドミニコ䌚のディ゚ゎ・デ・デサらは、委員䌚が吊定的結論を出そうずするず匕き延ばしにかかっおいた。コロンブスはポルトガルのゞョアン2䞖に手玙を送ったが、バルトロメり・ディアスの喜望峰発芋もあっお話がたずたるこずはなかった。たた、匟バルトロメをむギリスのヘンリヌ7䞖やフランスのシャルル8䞖の䞋に差し向け、蚈画の宣䌝をさせた。いずれの王からも支持は埗られなかったが、シャルル8䞖の姉アンヌ・ド・ボヌゞュヌの歓埅を埗お、バルトロメはフォンテヌヌブロヌの宮殿に数幎間滞圚した。しかしこれらの行動も実を結ばなかった。 䞀方のスペむン王宀は、1489幎5月12日付でコロンブスが王宀に謁芋するずきに必芁な宿泊費を無料にする通達を出すなど、䞍完党ではあるが金銭的揎助を行い、決しお圌を邪険にしおいたわけではなかった。しかし1490幎、タラベラの委員䌚は提案に反察する結論を出したこずでコロンブスは諊め気味にパロスに戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、むサベル1䞖の偎近セバスチャン・ロドリゲスを頌り、王宀に再怜蚎を促した。このわずか2週間埌、コロンブスのもずに王宀の曞簡が届き、旅金を添えお出頭するよう勧告する内容があった。提案の怜蚎はカスティリャ枢機院に移された。 しかし1491幎、枢機院にも案を吊決されたために、䞇策尜きたコロンブスは匟バルトロメが滞圚するフランスぞ向かう決意を固めた。ここにルむス・デ・サンタンヘル(スペむン語版)が登堎する。財務長官であった圌は女王説埗に乗り出し、コロンブスが提瀺した条件は芋蟌める収入からすれば充分に折り合い、たた必芁な経費も自らが郜合を぀けるず申し出た。 1492幎1月2日に、ムヌア人の最埌の拠点であったグラナダが陥萜したこずで、スペむンに財政䞊の䜙裕ができたこずをサンタンヘルは指摘した。もずもず興味を持っおいたむサベル1䞖はこれで勢いを埗おフェルナンド2䞖を説き䌏せ、スペむンは぀いにコロンブスの蚈画を承認した。このずき、コロンブスはたさにフランスぞ向けおグラナダを出発したずころだった。女王の䌝什は圌を远いかけ、15キロほど先のピノス・プ゚ンテ村の橋の䞊でコロンブスに远い぀いた。この橋には、劇的ずもいえる出来事を解説する銅版がある。 1492幎4月17日、グラナダ郊倖のサンタ・フェにお、コロンブスは王宀ず「サンタフェ契玄」を締結した。その内容は、 ずいうものだった。 航海の経費は、ルむス・デ・サンタンヘルが䞭心ずなっお調達された。圌は、譊察機構サンタ・゚ルマンダヌの経理担圓であったゞェノノァ人フランチェスコ・ピネリず協力しお140䞇マラベディを、さらにアラゎン王囜の囜庫から35䞇マラベディを調達し、コロンブスに提䟛した。これは、むサベル1䞖が戎冠甚宝玉を担保に䟛出するこずを防ぐこずが目的だった。コロンブスは25䞇マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしおかき集めたものだった。 1492幎8月3日、スペむンりェルバのパロス枯からむンド(むンディア)を目指しお倧西掋ぞ出航した。このずきの線成はキャラベル船のニヌニャ号ずピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は玄90人(120人ずいう説も)。 いったんカナリア諞島ぞ寄り、倧航海の準備を敎えたあず、䞀気に西進した。倧西掋は極端に島の少ない倧掋であり、船員の間には次第に䞍安が募っおいった。圓時の最新科孊では地球が球䜓であるずいうこずはほが垞識ずなっおいたが、船員の間では地球を平面ずする旧来の考えも根匷く残っおいた。 コロンブス自身は平気なふりをしおいたが、蚈算を越えお長い航海ずなったこずに䞍安を感じるようになる。10月6日には小芏暡な暎動が起こり、3日埌には船員の䞍安は頂点に達し、コロンブスに迫っお「あず3日で陞地が芋぀からなかったら匕き返す」ず玄束させた。その埌、流朚などを発芋し陞が近くにあるず船員を説埗する。 そしお10月11日の日付が倉わろうずするずき、ピンタ号の氎倫が陞地を発芋した。翌朝、コロンブスはその島に䞊陞し、ここを占領しおサン・サルバドル島ず名づける。 最初に䞊陞した島でコロンブス䞀行は、アラワク族むンディアンたちから歓埅を受ける。アラワク族は船から䞊がったコロンブスたちに氎や食料を莈り、オりムや綿の玉、槍やその他芋たこずのないたくさんのものを持っおきた。コロンブス䞀行はそれをガラスのビヌズや鷹の鈎ず亀換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。圌はこう曞き残しおいる。 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に珟圚のキュヌバ島を発芋した。ここを「フアナ島」ず名づけたあず、ピンタ号船長であるマルティン・アロン゜・ピン゜ンの独断によりピンタ号が䞀時離脱しおしたうが、12月6日にはむスパニョヌラ島ず名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座瀁しおしたう。しかし、その残骞を利甚しお芁塞を䜜り、アメリカにおけるスペむン初の入怍地を䜜った。この入怍地には39名の男性が残った。 幎が明け、1493幎1月6日にピンタ号ず再び合流する。1月16日、スペむンぞの垰還を呜じ、3月15日にパロス枯ぞ垰還した。 垰還したコロンブスを歓迎しお宮殿では盛倧な匏兞が開かれた。コロンブスは航海に先んじお、発芋地の総督職、䞖襲提督の地䜍、発芋地から䞊がる収益の10分の1を貰う契玄を亀わしおいた。この取り決めに埓い、コロンブスはむンディアンから匷奪した金銀宝石、真珠などの戊利品の10分の1を手に入れた。たた陞地を発芋した者には賞金がカトリック䞡王から䞎えられるこずになっおいたが、コロンブスは自分が先に発芋したず蚀い匵り、これをせしめおいる。 囜王に調査報告を終え、少しばかりの揎助を求めたコロンブスは、次の航海目暙ずしおこう述べおいる。 1493幎5月4日、ロヌマ法王勅曞はアゟレス諞島の西100リヌグの分界線を定め、スペむンはこれによっお新倧陞を探怜し怍民する独占的な暩利を手にした。折からの関心の高たりによっお、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく䜜るこずができた。 1493幎の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2床目の航海は、その乗員の䞭に蟲民や坑倫を含み、怍民目的であった。11月にドミニカ島ず名づけた島に到着したが、前回䜜った怍民地に行っおみるず基地は原䜏民であるむンディアンにより砎壊されおおり、残した人間はすべお殺されおいた。コロンブスはここを攟棄しお新しく「むサベル怍民地」を築いた。しかし癜人入怍者の間では怍民地での生掻に䞍満の声が䞊がり、呚蟺諞島ではアラワク族、タむノ族、ルカダン族、カリブ族などのむンディアンの間で癜人の行為に察しお怒りが重積しおいた。 最終的に、コロンブスの率いるスペむン軍はむンディアンに察しお培底的な虐殺匟圧を行った。 1495幎3月、コロンブスは数癟人の装甲兵ず階兵隊、そしお蚓緎された軍甚犬からなる䞀倧軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペむン人の持ち蟌んだ病いに倒れたむンディアンの村々を培底的に攻撃し、数千人単䜍の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戊略は以埌10幎間、欧州人が繰り返した殺戮モデルずなった。 コロンブスは、むスパニョヌラ島のむンディアン郚族の指導者ず睚んでいた䞀人の酋長を殺さずに、匕き回しの刑ず投獄のあず、鎖に぀ないで船に乗せ、スペむンぞ連行しようずした。しかし他のむンディアンたちず同様に、この男性は劣悪な船内環境の䞭、セビリアに着く前に死んでいる。 怍民地の管理を匟に任せお、コロンブスは先䜏民の王ず共にスペむン本囜に垰囜し、旧玄聖曞に登堎する土地オフィヌル(英語版)を発芋したず報告した。 コロンブスがカリブ海諞島で指揮した行き圓たりばったりの倧虐殺は、「黄金探し」を䜿呜ずしたスペむン海軍によっお䜓系化され、 あらゆる郚族の子䟛以倖のむンディアンが、3か月以内に䞀定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたむンディアンには、「スペむン人に敬意を衚した」ずいう蚌しずしお、その男女に銖かけの暙章が莈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうず女だろうず手銖が斬り萜ずされた。 コロンブスらスペむン人の幻想よりも圓地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったむンディアンたちは、生掻を犠牲にしお金を捜さざるを埗なかった。むンディアンが逃亡を始めるず飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペむン人が運び蟌んだ疫病は、栄逊倱調ずなったむンディアンたちの匱められた身䜓をより激しく蝕んだ。そしおコロンブスたちず同じく、スペむン軍は面癜半分に男を殺し女を犯す楜しみを決しおやめなかった。 1498幎5月、6隻の船で3床目の航海に出る。今床は南よりの航路をずり、珟圚のベネズ゚ラのオリノコ川の河口に䞊陞した。その膚倧な量の河氎が海氎ではなく真氎であったこずから、それだけの倧河を蓄えるのは島ではなく倧陞であるずいうこずをコロンブスは認めざるを埗なかった。それず同時に、オリノコ川は䞊方の地䞊の楜園から流れお来おいるず考えおいた(圓時の䞖界芳でぱデンの園を氎源ずする4぀の川が東方を流れおいるず考えられおいた)。 その埌、北䞊しおサントドミンゎに着くず埌を任せおいた匟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きおいた。コロンブスは説埗を続けるが、入怍者たちはこれをなかなか受け入れず、1500幎8月に本囜から来た査察官により逮捕され、本囜ぞず送還された。眪に問われる事は免れたものの、すべおの地䜍を剥奪される。 それでもコロンブスは4床目ずなる航海を䌁画するが、王からの揎助は小型のボロ舟4隻ずいうものであった。1502幎に出航したが、むスパニョヌラ島ぞの寄枯は犁じられおおり、パナマ呚蟺を6か月さたよったが、最埌は難砎しお救助され、1504幎11月にスペむンぞ戻った。しかし1504幎末にむサベル女王が死去し、スペむン王宀はコロンブスに察しおさらに冷淡になった。 垰囜埌は病気になり、1506幎5月20日スペむンのバリャドリッドにお死去。その遺骚はセビリアの修道院に玍められたが1542幎にサントドミンゎの倧聖堂に移された。晩幎は金銭的には恵たれおいたが、最期たで自らが発芋した島をアゞアだず䞻匵し続けおいた。 コロンブスの死埌、ドむツの地理孊者マルティン・ノァルトれヌミュラヌが手がけた地図には、南米倧陞の「発芋者」ずしおコロンブスではなく、アメリゎ・ノェスプッチの名前が蚘された。この結果、ペヌロッパでは「新倧陞」党域を指す蚀葉ずしお「コロンビア」ではなく「アメリカ」が䜿われるようになった(ただし、18䞖玀以降アメリカの雅称ずしお「コロンビア」も甚いられる)。 コロンブスに関しおはその出自が明らかではないこず、たた倧航海の目的自䜓があたり明確に語り継がれおいないこずなどから、さたざたな異聞が流れおいる。たた、残されおいる肖像画はすべお本人の死埌に描かれたものであり、今ずなっおはコロンブスの真の玠顔を知るすべはない。 レオナルド・ダ・ノィンチの日蚘の䞭に「ゞェノノァ人の船乗りず地球に぀いお話す」ずいう興味深い蚘述があるこずから、䞡者の間に面識があったのではないかずいう説がある。 倚く語られおいるものずしおは、コロンブスはナダダ人の片芪から生たれたのではないかずする奇説である。 1492幎、スペむン王家は同囜内に䜏むナダダ人に察し8月2日を期限ずする囜倖远攟什を発垃したが、コロンブスがスペむン王家の支揎を受けお出航したのは翌8月3日である。このこずから、コロンブス出航の真の目的はナダダ人の移䜏地探しではないかずする説も存圚する。たた、教皇むンノケンティりス8䞖の萜胀ではないかずする説も存圚する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出おいない。 アメリカ、ノヌスカロラむナ州にあるデュヌク倧孊でITアナリストずしお働くアマチュア歎史家のマヌ゚ル・ロサは、2010幎10月にスペむンで出版した『コロンブス:語られなかったストヌリヌ』の䞭で、コロンブスがポヌランド王ノワディスワフ3侖(晩幎にかけおはりラヌスロヌ1䞖ずしおハンガリヌ王も兌䜍)の実の息子であるずの説を䞻匵しおいる。 新倧陞発芋を祝う凱旋匏兞で「誰でも西ぞ行けば陞地にぶ぀かる。造䜜もないこずだ」などずコロンブスの成功を劬む人々に察し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立おおみお䞋さい」ず蚀い、誰もできなかったあずでコロンブスは軜く卵の先を割っおから机に立おた。「そんな方法なら誰でもできる」ず蚀う人々に察し、コロンブスは「人のした埌では造䜜もないこずです」ず返した。これが『コロンブスの卵(Egg of Columbus)』の逞話であり、「誰でもできるこずでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必芁」「逆転の発想」ずいう意の故事成語ずしお今日䜿われおいる。 しかし、ノォルテヌルは『習俗論』(第145ç« )にお「これは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逞話が元になった創䜜だ」ず指摘し、䌚話の内容などもそのたた流甚されおいるず説明した。逞話の内容は1410幎代、『フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオヌレ倧聖堂のクヌポラ(ドヌム郚分)の蚭蚈にみな難儀しおいた際、ブルネレスキは蚭蚈図面も完成暡型も芋せないたた「私に建築させお䞋さい」ず立候補した。ほかの建築家たちが倧反察したずころ、ブルネレスキは「倧理石の䞊に卵を立おられる人に建築を任せおみおはどうか」ず提案。誰もできなかった䞭で、ブルネレスキは卵の底を朰しお立おた。圓然のごずく呚囲から批刀されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっずも難しい。もし先に図面を芋せたら、あなたたちは真䌌をするでしょう?」ず切り返した』ずいうものである。
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1662幎
1662幎(1662 ねん)は、西暊(グレゎリオ暊)による、日曜日から始たる平幎。
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1658幎
1658幎(1658 ねん)は、西暊(グレゎリオ暊)による、火曜日から始たる平幎。
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アリストテレス
アリストテレス(アリストテレヌス、叀垌: ገριστοτέλης、矅: Aristotelēs、前384幎 - 前322幎)は、叀代ギリシアの哲孊者である。 プラトンの匟子であり、゜クラテス、プラトンずずもに、しばしば西掋最倧の哲孊者の䞀人ずされる。知的探求぀たり科孊的な探求党般を指した圓時の哲孊を、倫理孊、自然科孊を始めずした孊問ずしお分類し、それらの䜓系を築いた業瞟から「䞇孊の祖」ずも呌ばれる。特に動物に関する䜓系的な研究は叀代䞖界では東西に類を芋ない。様々な著曞を残し、むスラヌム哲孊や䞭䞖スコラ孊、さらには近代哲孊・論理孊に倚倧な圱響を䞎えた。たた、マケドニア王アレクサンドロス3侖(通称アレクサンドロス倧王)の家庭教垫であったこずでも知られる。 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」こずにあるず考えた。ギリシャ語ではこれをフィロ゜フィアず呌ぶ。フィロは「愛する」、゜フィアは「知」を意味する。この蚀葉がペヌロッパの各囜の蚀語で「哲孊」を意味する蚀葉の語源ずなった。著䜜集は日本語版で17巻に及ぶが、内蚳は圢而䞊孊、倫理孊、論理孊ずいった哲孊関係のほか、政治孊、宇宙論、倩䜓孊、自然孊(物理孊)、気象孊、博物誌孊的なものから分析的なもの、その他、生物孊、詩孊、挔劇孊、および珟圚でいう心理孊なども含たれおおり倚岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべおフィロ゜フィアず呌んでいた。アリストテレスのいう「哲孊」ずは知的欲求を満たす知的行為そのものず、その行為の結果党䜓であり、珟圚の孊問のほずんどが圌の「哲孊」の範疇に含たれおいる。 名前の由来はギリシア語の「ገριστος」(最高の)ず「τελος 」(目的)から 。 玀元前384幎、トラキア地方のスタゲむロス(埌のスタゲむラ)にお出生。スタゲむロスはカルキディケ半島の小さなギリシア人怍民町で、圓時マケドニア王囜の支配䞋にあった。父はニコマコスずいい、マケドニア王アミュンタス3䞖の䟍医であったずいう。幌少にしお䞡芪を亡くし、矩兄プロクセノスを埌芋人ずしお少幎期を過ごす。このため、マケドニアの銖郜ペラから埌芋人の居䜏地である小アゞアのアタルネりスに移䜏したずも掚枬されおいるが、明確なこずは䌝わっおいない。 玀元前367幎、17-18歳にしお、「ギリシアの孊校」ずペリクレスの謳ったアテナむに䞊り、そこでプラトン䞻催の孊園、アカデメむアに入門した。修業時代のアリストテレスに぀いおは真停の定かならぬさたざたな話が䌝えられおいるが、䞀説には、芪の遺産を食い朰した挙句、食い扶持のために軍隊に入るも挫折し、陀隊埌に医垫(くすし)ずしお身を立おようずしたがうたく行かず、それでプラトンの門を叩いたのだず蚀う者もいた。いずれにせよ、かれはそこで勉孊に励み、プラトンが死去するたでの20幎近い幎月、孊埒ずしおアカデメむアの門に留たるこずになる。アリストテレスは垫プラトンから「孊校の粟神」ず評されたずも䌝えられ、時には教垫ずしお埌進を指導するこずもあったず想像されおいる。玀元前347幎にプラトンが亡くなるず、その甥に圓たるスペりシッポスが孊頭に遞ばれる。この時期、アリストテレスは孊園を蟞しおアテナむを去る。アリストテレスが孊園を去った理由には諞説あるが、デモステネスらの反マケドニア掟が勢いづいおいた圓時のアテナむは、マケドニアず瞁の深い圚留倖囜人にずっお困難な情況にあったこずも理由のひず぀ず蚀われおいる。その埌アカデメむアは、529幎に東ロヌマ垝囜皇垝ナスティニアヌス1侖(圚䜍 527幎 - 565幎)によっお閉鎖されるたで続いた。 アカデメむアを去ったアリストテレスは、アカデメむア時代の孊友で小アゞアのアッ゜スの僭䞻であるヘルミアスの招きに応じおアッ゜スの街ぞ移䜏し、ここでヘルミアスの姪にあたるピュティアスず結婚した。その埌玀元前345幎にヘルミアスがペルシア垝囜によっお捕瞛されるず難を逃れるためにアッ゜スの察岞に䜍眮するレスボス島のミュティレネに移䜏した。ここではアリストテレスは䞻に生物孊の研究に勀しんでいた。 玀元前342幎、42歳頃、マケドニア王フィリッポス2䞖の招聘により、圓時13歳であった王子アレクサンドロス(埌のアレクサンドロス倧王)の垫傅ずなった。アリストテレスは銖郜ペラから離れたずころにミ゚ザの孊園を䜜り、匁論術、文孊、科孊、医孊、そしお哲孊を教えた。ミ゚ザの孊園にはアレクサンドロスのほかにも貎族階玚の子匟が圌の孊友ずしお倚く孊んでおり、のちに圌らはマケドニア王囜の䞭栞を担う存圚ずなっおいった。 教え子アレクサンドロスが王に即䜍(玀元前336幎)した翌幎の玀元前335幎、49歳頃、アテナむに戻り、自身の指瀺によりアテナむ郊倖に孊園「リュケむオン」を開蚭した(リュケむオンずは、アテナむ東郚郊倖の、アポロン・リュケむオスの神域たる土地を指す)。匟子たちずは孊園の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を亀わしたため、かれの孊掟は逍遥孊掟(ペリパトス孊掟)ず呌ばれた。このリュケむオンもたた、529幎にナスティニアヌス1䞖によっお閉鎖されるたで、アカデメむアず察抗しながら存続した。 玀元前323幎にアレクサンドロス倧王が没するず、広倧なアレクサンドロス垝囜は政情䞍安に陥り、マケドニアの支配力は倧きく枛退した。これに䌎っおアテナむではマケドニア人に察する迫害が起こったため、玀元前323幎、61歳頃、母方の故郷である゚りボむア島のカルキスに身を寄せた。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったずも)、玀元前322幎、62歳で死去しおいる。 アリストテレスの著䜜は元々550巻ほどあったずもされるが、そのうち珟存しおいるのは玄3分の1である。ほずんどが講矩のためのノヌト、あるいは自分甚に認めた研究ノヌトであり、公開を想定しおいなかったため簡朔な文䜓で曞かれおいる。この著䜜はリュケむオンに残されおいたものの、アレクサンドリア図曞通が建蚭され資料を収集しはじめるず、その資料は小アゞアに隠され、そのたた忘れ去られた。この資料はおよそ2䞖玀埌の玀元前1䞖玀に再発芋され、リュケむオンに戻された。この資料はペリパトス孊掟の11代目孊頭であるロドス島のアンドロニコスによっお玀元前30幎頃に敎理・線集された。それが珟圚、『アリストテレス党集』ず呌称されおいる文献である。したがっお、われわれに残されおいる蚘述はアリストテレスが意図したものず異なっおいる可胜性が高い。 キケロらの蚌蚀によれば、垫プラトン同様、アリストテレスもいく぀か察話篇を曞いたようであるが、たずたった圢で䌝存しおいるものはない。 アリストテレスは、「論理孊」があらゆる孊問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であるこずを前提ずした䞊で、孊問䜓系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制䜜」(ポむ゚ヌシス)に䞉分し、理論孊を「自然孊」、「圢而䞊孊」、実践孊を「政治孊」、「倫理孊」、制䜜孊を「詩孊」に分類した。 アリストテレスの哲孊には珟圚では倚くの誀りがあるが、その誀謬の倚さにもかかわらずその知的巚人さゆえに、あるいはキリスト教ずの結び぀きにおいお宗教的暩嚁付けが埗られたため、圌の知的䜓系党䜓が䞭䞖を通じ疑われるこずなく厇拝の察象ずなった。これがのちにガリレオ・ガリレむの悲劇を生む芁因ずもなる。䞭䞖の知的䞖界はアリストテレスがあたりにも倧きな暩嚁を埗たがゆえに誀れる暩嚁䞻矩的な知の䜓系化が行われた。しかし、その埌これが厩壊するこずで近代科孊の基瀎確立ずいう圢で人間の歎史は倧きく進歩した。アリストテレスの総䜓的な哲孊の領域を構成しおいた個別の孊問がその倖に飛び出し、独立した孊問ずしお自埋し成立するこずで、巚芖的にはこれが䞭䞖以降の近䞖を経お珟代に至るたで続いおきた孊問の歎史ずなる。アリストテレスの誀りの原因は、もっぱら思匁に基づき頭で䜜り䞊げた理論の郚分で、事実に立脚しおおらずそれが原因で近代科孊によっお厩れたが、その埌「事実を芋出しおゆくこず(Fact finding)」が原理ずなったずする立花隆の芋解がある。 アリストテレスの垫プラトンは、察話によっお真実を远究しおいく問答法を哲孊の唯䞀の方法論ずしたが、アリストテレスは経隓的事象を元に挔繹的に真実を導き出す分析論を重芖した。このような手法は論理孊ずしお䞉段論法などの圢で䜓系化された。 アリストテレスの死去した埌、かれの論理孊の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻ずしお集倧成され、これを元に䞭䞖の孊埒が論理孊の研究を行った。 アリストテレスによる自然孊に関する論述は、物理孊、倩文孊、気象孊、動物孊、怍物孊等倚岐にわたる。 プラトンは「むデア」こそが真の実圚であるずした(実圚圢盞説)が、アリストテレスは、可感的か぀圢盞が質料ず䞍可分に結合した「個物」こそが基本的実圚(第䞀実䜓)であり、それらに適応される「類の抂念」を第二実䜓ずした(個物圢盞説)。さたざたな物䜓の特性を決定づけおいるのは、「枩」ず「冷」、「也」ず「湿」の察立する性質の組み合わせであり、これらの基瀎には火・空気・氎・土の四倧元玠が想定されおいる。これぱンペドクレスの4元玠論を基瀎ずしおいるが、より珟実事象、感芚知芋に根ざしたものずなっおいる。 アリストテレスの宇宙論は、同心円による諞球状の階局的重なりの無限倧的な倩球構造をしたものずしお論じおいる。䞖界の䞭心に地球があり、その倖偎に月、氎星、金星、倪陜、その他の惑星らの運行域にそれぞれ割り圓おられた各局倩球があるずした構成を呈瀺する。これらの倩球局は、前述の4元玠ずは異なる完党元玠である第5元玠「アむテヌル」(゚ヌテル)に垰属する元玠から成るずする。そしお「その倩球アむテヌル」䞭に存圚するがゆえに、倪陜を含めたそれらの諞倩䜓(諞惑星)は、それぞれの倩球内䞊を氞遠に円運動しおいるずした。加えおそれらの倩倖局の䞊には、さらに無数の星々、いわゆる諞々の恒星が匵り付いおいる別の倩球があり、他の諞倩球に被いかぶさるかたちで呚回転運動をしおいる。さらにたた、その最䞊䜍なる倩倖局䞊には「䞍動の動者」である䞖界党䜓に関わる「第䞀動者」が存圚し、すべおの運動の究極の原因(者)がたさにそれであるずする。(これは総じお、アリストテレスの倩界宇宙論ずもなるが、あずに続く『圢而䞊孊』(自然孊の埌の曞)においおは、その「第䞀動者」を 圌は、「神」ずも呌んでいる。) アリストテレスの自然孊研究の䞭で最も顕著な成果を䞊げおいるのは生物孊、特に動物孊の研究である。生物孊では、自然発生説をずっおいる。その研究の特城は系統的か぀網矅的な経隓事実の収集である。数癟皮にわたる生物を詳现に芳察し、かなり倚くの皮の解剖にも着手しおいる。特に、海掋に生息する生物の蚘述は詳现なものである。たた、鶏の受粟卵に穎を空け、発生の過皋を詳しく芳察しおいる。 䞀切の生物はプシュケヌ(垌: ψυχη、和蚳では霊魂ずする)を有しおおり、これを以お無生物ず区別されるずした。この堎合のプシュケヌは生物の圢盞であり(『ペリ・プシュケヌス』第2巻第1ç« )、栄逊摂取胜力、感芚胜力、運動胜力、思考胜力によっお芏定される(『ペリ・プシュケヌス』第2巻第2ç« )。たた、感芚ず運動胜力をも぀生物を動物、もたない生物を怍物に二分する生物の分類法を提瀺しおいる(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、怍物ず動物の䞭間にいるような生物の存圚を瀺唆しおいる)。 さらに、人間は理性(䜜甚する理性〔ヌヌス・ポむ゚ヌティコン〕、受動理性〔ヌヌス・パテヌティコン〕)によっお珟象を認識するので、他の動物ずは区別される、ずしおいる。 アリストテレス自然孊では、月䞋の䞖界は土・氎・空気・火の四元玠より成り、それらは盞互に移り倉わるこずが可胜ずしおいる。この月より䞋の垞に転化しお生成・倉化・消滅を繰り返す䞖界は「地䞊界」ず呌ばれる。それに察しお月ずそれより先の゚ヌテルよりなる䞖界では決しお転化するこずがなく、生成や消滅は芋られない。この䞍倉の䞖界は「倩䞊界」ず呌ばれる。アリストテレスはそれぞれの䞖界は別な法則に埓っおいるず考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)ず呌ばれおいる。 このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの珟象が「地䞊の物䜓に䜜甚する」ずいう考え方ず結び぀いお、「地䞊界の出来事には必然的に倩䞊界が䜜甚しおいる」ずいう考え方の基本ずなった。月霢による海の干満や曇りの日でも花が倪陜の方向を向く怍物などから、圓時の人々から芋ればこれは圓然であった。この考えは、地䞊界の出来事の原因を倩䞊界(぀たり星の動き)に求める占星術(å­Š)が隆盛するもずずもなった。プトレマむオスはこの法則性を綿密に探るために圌の著曞「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誀差は倧きかったが)蚈算しお予枬できる宇宙モデルを初めお構築した。そしお著曞「テトラビブロス」では、倩䞊界が及がす地䞊界ぞの圱響の法則性を探ろうずした。これは実蚌孊的な孊問だった。 ずころが、占星術は倩䞊界による地䞊界ぞの圱響がはっきりしないたた、星の動きを「未来を指し瀺す予兆」ず捉える星占い(ホロスコヌプ)ずしお、幅広く民衆に広がっおいった。他方、この人々に広がった星占いは、12䞖玀以降に゚フェメリス(倩䜓暊)やアルマナック(生掻暊)ずいう惑星を含む倩䜓の正確な運行ずいう匷い需芁を喚起し、埌に倩文孊が発展する動機ずもなった。 倩䞊界が及がす地䞊界ぞの圱響の法則性を探ろうずした䟋ずしお、16䞖玀のデンマヌクの倩文孊者チコ・ブラヌ゚がある。圌は占星孊の研究者でもあり、圌が粟巧な倩文芳枬装眮を䜜った動機の䞀぀ずしお、倩䞊界の地䞊界ぞの圱響の法則を正確に捉えられないのは芳枬粟床が足らないず考えたこずがある。そしお倩䞊界が及がす地䞊界ぞの圱響が最も珟れるものの䞀぀ずしお気象を取り䞊げた。圌は倩文芳枬しながら1582幎の10月から1597幎の4月たで、15幎間にわたっおノェヌン島で気象芳枬の蚘録を残しおいる。これは占星気象孊の怜蚌のためず思われおいる。 ペハネス・ケプラヌは占星術者ずしおも有名であり、圌の著曞『調停者』でも1592 幎から1609幎たでの16 幎間にわたっお気象芳枬を継続しお、その間に芳枬された星盞ず倩候異垞の関係の実䟋をいく぀も蚘しおいる。たた著曞『調和』の䞭でも「ひたすら倩候を芳察し、そういう倩候を匕き起こす星盞の考察をしたかからであった。すなわち、惑星が合になるか、䞀般に占星術垫が匘垃した星盞になるず、そのたびに決たっお倧気の状態が乱れるのを私は認めおきた。」ず述べおいる。 この「倩䞊界」ず「地䞊界」ずいう考え方が終焉するのは、ニュヌトンによる䞇有匕力の法則の発芋によっおである。この法則によっお倩䞊界ず地䞊界ずに同じ法則が適甚できるこずがわかった。この法則は倩䞊界ず地䞊界の区別を消し去り、これを圌は䞇有匕力(universal gravitation)ず名付けた。 このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、埌䞖に倧きな圱響を䞎えた。 アリストテレスの垫プラトンは、感芚界を超越したむデアが個物から離れお実圚するずいうむデア論を唱えたが、アリストテレスはむデア論を批刀しお、個物に内圚する゚むドス(圢盞)ずヒュレヌ(質料)の抂念を提唱した。 たた、アリストテレスは、䞖界に生起する珟象の原因には「質料因」ず「圢盞因」があるずし、埌者をさらに「動力因(䜜甚因)」、「圢盞因」、「目的因」の3぀に分けお、郜合4぀の原因(アむティア aitia)があるずした(四原因説)(『圢而䞊孊』A巻『自然孊』第2巻第3章等)。 事物が䜕でできおいるかが「質料因」、そのものの実䜓であり本質であるのが「圢盞因」、運動や倉化を匕き起こす始源(アルケヌ・キネヌセオヌス)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そしお、それが目指しおいる終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フヌ・ヘネカ)である。存圚者を動態的に芋たずき、朜圚的には可胜であるものが、玠材ずしおの可胜態(デュナミス)であり、それず、すでに生成したもので思考が具䜓化した珟実態(゚ネルゲむア)ずを区別した。 䞇物が可胜態から珟実態ぞの生成のうちにあり、質料をもたない玔粋圢盞ずしお最高の珟実性を備えたものは、「神」(䞍動の動者)ず呌ばれる。むブン・スィヌナヌら䞭䞖のむスラム哲孊者・神孊者や、トマス・アクィナス等の䞭䞖のキリスト教神孊者は、この「神」抂念に圱響を受け、圌らの宗教(キリスト教・むスラム教)の神(ダハりェ・アッラヌフ)ず同䞀芖した。 アリストテレスは、述語(AはBであるずいうずきのBにあたる)の皮類を、範疇ずしお䞋蚘のように区分する。すなわち「実䜓」「性質」「量」「関係」「胜動」「受動」「堎所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゎリヌ論』第4ç« )。ここでいう「実䜓」は普遍者であっお、皮や類をあらわし、述語ずしおも甚いられる(第二実䜓)。これに察しお、述語ずしおは甚いられない基䜓ずしおの第䞀実䜓があり、圢盞ず質料の䞡者からなる個物がこれに察応する。 アリストテレスは、倫理孊を創始した。 䞀定の䜏み凊で人々が暮らすためには慣習や道埳、芏範が生たれる。叀代ギリシャではそれぞれのポリスがその母䜓であったのだが、アリストテレスは、゚ヌトス(䜏み凊)の基底ずなるものが䜕かを問い、人間存圚にずっお求めるに倀するもの(善)が数ある䞭で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基瀎付ける哲孊を実践哲孊ずしお確立した。 アリストテレスによるず、人間の営為にはすべお目的(善)があり、それらの目的の最䞊䜍には、それ自身が目的である「最高善」があるずした。人間にずっお最高善ずは、幞犏、それも卓越性(アレテヌ)における掻動のもたらす満足のこずである。幞犏ずは、たんに快楜を埗るこずだけではなく、政治を実践し、たたは、人間の霊魂が、固有の圢盞である理性を発展させるこずが人間の幞犏であるず説いた(幞犏䞻矩)。 たた、理性的に生きるためには、䞭庞を守るこずが重芁であるずも説いた。䞭庞に圓たるのは、 である。ただし、矞恥は情念であっおも埳ではなく、矞恥は仮蚀的にだけよきものであり、埳においおは醜い行為そのものが蚱されないずした。 たた、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正矩(幟䜕孊的比䟋)ず、損なわれた均衡を回埩するための裁刀官的な矯正的正矩(算術的比䟋)、これに加えお〈等䟡〉亀換的正矩ずを区別した。 アリストテレスの倫理孊は、ダンテ・アリギ゚ヌリにも倧きな圱響を䞎えた。ダンテは『垝政論』においお『ニコマコス倫理孊』を継承しおおり、『神曲』地獄篇における地獄の階局構造も、この『倫理孊』の分類に拠っおいる。 なお、圌の著䜜である『ニコマコス倫理孊』の「ニコマコス」ずは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから呜名された。 アリストテレスは『政治孊』を著したが、政治孊を倫理孊の延長線䞊に考えた。「人間は政治的生物である」ずかれは定矩する。自足しお、共同の必芁のないものは神であり、共同できないものは野獣である。䞡者ずは異なっお、人間はあくたでも瀟䌚的存圚である。囜家のあり方は王制、貎族制、ポリティア、その逞脱ずしおの僭䞻制、寡頭制、民䞻制に区分される。王制は、父ず息子、貎族制は倫ず劻、ポリティアは兄ず匟の関係にその原型をも぀ず蚀われる(ニコマコス倫理孊)。 アリストテレス自身は、ひず目で芋枡せる小芏暡のポリスを理想ずしたが、アレクサンドロス倧王の登堎ず退堎の舞台ずなったこの時代、情勢は䞖界囜家の圢成ぞ向かっおおり、叀代ギリシアの䌝統的郜垂囜家䜓制は過去のものずなり぀぀あった。 アリストテレスによれば、芞術創䜜掻動の基本的原理は暡倣(ミメヌシス)である。文孊は蚀語を䜿甚しおの暡倣であり、理想像の暡倣が悲劇の成立には必芁䞍可欠である。䜜品受容の目的は心情の浄化ずしおのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテむア)ず、人物再認(アナグノヌリシス)ずの巧拙によるずいう。叀兞的䜜劇術の䞉䞀臎の法則は、かれの『詩孊』にその根拠を求めおいる。 アリストテレスは、玀元前4䞖玀に、アテナむに創建された孊園「リュケむオン」での教育甚のテキストず、専門家向けの論文の二皮類の著䜜を著したずされおいるが、前者はいずれも散逞したため、今日䌝承されおいるアリストテレスの著䜜はいずれも埌者の専門家向けに著述した論文である。 珟圚の『アリストテレス党集』は、ロドス島出身の孊者であり逍遥孊掟(ペリパトス掟)の第11代孊頭でもあったアンドロニコスが玀元前1䞖玀にロヌマで線纂した遺皿が原型ずなっおいる。ただし、プラトンの堎合ず同じく、この䞭にも(逍遙孊掟(ペリパトス掟)の埌茩達の䜜や、埌䞖の創䜜ずいった)アリストテレスの手によらない停曞がいく぀か混ざっおいる。 ルネサンス期に至り、15-16䞖玀頃から印刷術・印刷業が確立・発達するに䌎い、アリストテレスの著䜜も様々な印刷工房から出版され、䞀般に普及するようになった。 珟圚は、1831幎に出版された、ドむツの文献孊者むマヌ゚ル・ベッカヌ校蚂、プロむセン王立アカデミヌ刊行による『アリストテレス党集』、通称「ベッカヌ版」が、暙準的な底本ずなっおいる。これは各ペヌゞが巊右二段組み(二分割)になっおいるギリシャ語原文の曞籍である。珟圚でも、アリストテレス著䜜の蚳文には、「984a1」ずいった数字ずアルファベットが付蚘されるこずが倚いが、これは「ベッカヌ版」のペヌゞ数・巊右欄区別(巊欄はa、右欄はb)・行数を衚しおいる。 なお、珟圚『アリストテレス党集』に含たれおいる䜜品の内、『アテナむ人の囜制』だけは、1890幎に゚ゞプトで発芋され、倧英博物通に匕き取られたパピルス写本から埩元されたものであり、「ベッカヌ版」には含たれおおらず、その埌に远加されたものである。 3䞖玀のディオゲネス・ラ゚ルティオスの『哲孊者列䌝』ではアリストテレスの著䜜143曞名を挙げ、その䞭に『正矩に぀いお』『詩人に぀いお』『哲孊に぀いお』『政治家に぀いお』『グリュロス(匁論術に぀いお)』『ネリントス』『゜フィスト』『メネクセノス』『゚ロヌスに぀いお』『饗宎』など、おそらくプラトンの察話線に倣っお曞かれた公開的著䜜が存圚しおいた。それらは珟圚では殆ど倱われ、郚分的に他の著䜜者の匕甚などで断片が知られるのみである。 たた『哲孊者列䌝』では珟代たで䌝わっおいる『圢而䞊孊』や『トピカ』などの䞻著を欠いおいるが、5・6䞖玀頃ずされる䌝ヘシュキオス(英語版)の『オノマトロゎむ』ではそれらを含めた拡充された著䜜リストを挙げおいる。この事実はディオゲネスに知られた著䜜矀の系統ず、他の䌝来系統が存圚しおいるこずを瀺唆しおおり、『オノマトロゎむ』の時代にはそれらが䞀぀ずしお統合されおいたこずが考えられる。 ストラボンの『ゲオグラピカ』の䌝えるずころによれば、アリストテレスは自分の集めた文庫(ビブリオテヌケヌ)をテオプラストスに譲り、テオプラストスはコリスコスの子のネレりスに譲った。ネレりスは小アゞアのスケプシス(珟トルコ領クルシュンル・テペ)に持ち垰り、圌は埌継者たちに譲ったが、埌継者たちは孊問に通じおおらず文庫を封印したたたにしお手を着けるこずがなかった。ペルガモンのアッタロス朝の王たちが自分たちの文庫のために曞籍を収集しおいるこずを知り、奪われるこずを恐れた人たちはそれを地䞋倉に隠し、その砎損が進んでしたった。その埌に、前1䞖玀のアテナむの富豪・曞籍の収集家であったアペリコン(英語版)にそれらを売华した。アペリコンはそれを䜕ずか修埩しお公にしたが、十分な出来ずは蚀えずペリパトス掟の哲孊者たちはたずもに勉匷もできない状況であった。アペリコンの死埌、ロヌマのスッラがアテナむを占領し、アペリコンの文庫をロヌマぞず持ち垰り、それを専門家のテュラニオン(英語版)に委ねた。 プルタルコスの『察比列䌝・スッラ䌝』ではその続きの顛末が蚘されおいる。文庫にはアリストテレスずテオプラトスの曞物の倧郚分が含たれおいたが、テュラニオンがその倧郚分を敎理した。そしおロドスのアンドロニコスがそれを転写するこずを蚱され、公にし今に行われおいる著䜜目録の圢にでたずめ䞊げた。ここにおいおようやくペリパトス掟の哲孊者たちもアリストテレスやテオプラストスの著䜜を粟確に知るこずが出来るようになり、それ以前の同掟の哲孊者たちはその機䌚がなかった。 アンドロニコスは転写した資料を内容に応じお分類し、独自に配列しおこれを公刊した。この圢匏が䞭䞖においおアリストテレス党集の方匏においおも受け継がれおいる。ピロポノスは『自然孊蚻解』においお、シドンのポ゚トスは自然孊から孊問を始めるべきだず䞻匵したが、圌の垫であるアンドロニコスは論理孊をもっお始めるべきだずしたず䌝えおいる。珟圚のアリストテレス党集の圢匏においお、論理孊諞曞(オルガノン)が劈頭に眮かれるのはアンドロニコスに由来するずいうこずを考えるこずができる。 アリストテレス自身が倚数の人に芋せるこずを想定しお公開した著䜜が倚数あった。殆どが散逞しおしたったが、埌䞖に䌝わっおいる匕甚や蚌蚀などの断片から、ある皋床内容を知るこずが出来るものもある。 ほずんどはペリパトス掟(逍遙孊掟)の埌茩たちの手による著䜜である。 テオプラトスの没埌、アリストテレスの䞻芁テキストは早くも倱䌝し、ペリパトス掟の目立った研究者は珟れなかったが、ロヌマ時代に入るずテキストが再発芋され公刊された。ペリパトス掟では2䞖玀のアスパシオスが広範囲に泚解を斜したこずが知られ、ボ゚ティりスによりたびたび蚀及されおいるが、珟圚ではニコマコス倫理孊の䞀郚分しか残存しおいない。3䞖玀前半には孊頭であったアフロディシアスのアレクサンドロスが本栌的泚解を著した。その優れた内容から“泚解者”ず呌称されるようになったが、これがペリパトス掟盎系による最埌の䞻芁な研究成果ずいうものであった。それ以埌はテミスティオスのように独自の研究者もあったが、䞻にネオ・プラトニストによっおアリストテレスの研究は行われた。ポルピュリオスのアリストテレス論理孊の入門曞『゚むサゎヌゲヌ』は、ラテン語やアラビア語にも翻蚳されお東西䞖界に圱響を及がした。アテナむ孊掟ではシュリアノスが『圢而䞊孊』に぀いお(批刀的に)泚解し、キリキアのシンプリキオスは『自然孊』に぀いお浩瀚な泚解を残した。アカデメむア閉鎖を傍らにアレクサンドリア孊掟のアンモニオス、小オリュンピオドロスらが、プラトンに察するのず勝るずも劣らない熱意を以おアリストテレスを研究した。そこにはピロポノス、゚リアス(英語版)ずいったキリスト教埒の子匟もいた。アレクサンドリアの孊校の閉鎖の埌は、コンスタンティノヌプルがギリシャ語圏における哲孊の䞭心地ずなり、12䞖玀にぱフェ゜スのミカ゚ルや゚りストラティオスずいった蚻解者が珟れた。 埌䞖「䞇孊の祖」ず称されるように、アリストテレスのもたらした知識䜓系は網矅的であり、圓時ずしおは完成床が高く、偉倧なものであった。しかし、アリストテレスの孊説の倚くはロヌマ垝囜厩壊埌の混乱によっお、西ペヌロッパではいったんほずんどが忘れ去られた。ただし、6䞖玀にボ゚ティりスが『範疇論』ず『呜題論』をラテン語蚳しおおり、これによっおわずかにアリストテレスの孊説が䌝えられ、䞭䞖のアリストテレス研究の端緒ずなった。䞀方、西ペヌロッパで衰退したアリストテレスの孊説は、東方のビザンツ垝囜においおはよく維持された。12䞖玀の皇垝アレクシオス1䞖の皇女アンナ・コムネナは自身が蚘した歎史曞『アレクシアス(アレクシオス1䞖䌝)』の序文で自らに぀いお「アリストテレスの諞孊ずプラトンの察話䜜品を粟読」したず蚘しおいる。529幎にナスティニアヌス1䞖によっおリュケむオンが閉鎖された埌は、サヌサヌン朝ペルシアに移䜏したネストリりス掟のキリスト教埒によっお知識は保持され続けた。圌らはペルシア南西郚のゞュンディヌシャヌプヌルに移䜏し、囜王ホスロヌ1䞖の庇護のもずでこの時期にアリストテレスの著䜜のギリシア語からシリア語ぞの翻蚳が行われおいる。こうした文献は、830幎にアッバヌス朝の第7代カリフ・マヌムヌンが、バグダヌドに蚭立した知恵の通に収集され、シリア語やギリシア語からアラビア語ぞの翻蚳が行われた。この倧翻蚳事業によっお蚳されたアリストテレスの著䜜はむスラム文明に巚倧な圱響を䞎え、むスラム科孊の隆盛の瀎を築いた。なかでも、むブン・スィヌナヌはアリストテレスの圱響を倧きく受けおおり、アリストテレス哲孊ずむスラム科孊ずの橋枡しの圹割を果たした。 こうしお保持され進化したアリストテレス哲孊は、1150幎から1210幎にかけおアラビア語からラテン語にいく぀かのアリストテレスの著䜜が翻蚳されたこずにより、ペヌロッパに再導入された。アリストテレスの孊説はスコラ孊に倧きな圱響を䞎え、13䞖玀のトマス・アクィナスによる神孊ぞの導入を経お、䞭䞖ペヌロッパの孊者たちから支持されるこずになる。しかし、アリストテレスの諞説の劥圓な郚分だけでなく、混入した誀謬たでもが無批刀に支持されるこずになった。 䟋えば、珟代の物理孊、生物孊に関る説では、レりキッポスずデモクリトスの「原子論」や「脳が知的掻動の䞭心」ずいう説に察する、アリストテレスの「四元玠論」や「脳は血液を冷やす機関」ずいう説等も信奉され続けるこずになり、䞭䞖に至るたでこの孊説に異論を唱える者は出おこなかった。 さらに、ガリレオ・ガリレむは倪陜䞭心説(地動説)を巡っお生涯アリストテレス孊掟ず察立し、結果ずしお裁刀にたで巻き蟌たれるこずになった。圓時のアリストテレス孊掟は、望遠鏡を「アリストテレスを䟮蟱する悪魔の道具」ず芋なし、芗くこずすら拒んだずも蚀われる。叀代ギリシアにおいお倧いに科孊を進歩させたアリストテレスの説が、埌の時代には逆にそれを遅らせおしたったずいう皮肉な事態を招いたこずになる。たた近い時代、むンディオの奎隷化を正圓化する根拠ずしお『政治孊』が利甚された(バリャドリッド論争)。 ただ、その埌の哲孊におけるアリストテレスの圱響も忘れおはならない。䟋えば、゚ドムント・フッサヌルの垫であった哲孊者フランツ・ブレンタヌノは、志向性ずいう抂念は自分が発芋したものではなく、アリストテレスやスコラ哲孊がすでに知っおいたものであるこずを匷調しおいる。 りニ類の正圢類ずタコノマクラ類がもっおいる口噚をアリストテレスの提灯ず呌ぶ。アリストテレスがこの口噚の構造を調べお蚘録しおいるこずから、その名が぀けられた。 A・E・ノァン・ノォヌクトのSF䜜品『非Aの䞖界』のAはアリストテレスのこずで、䞀般意味論から出た蚀葉である。 1941幎からギリシャで発行されおいた旧1ドラクマ玙幣に肖像が䜿甚されおいた。
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8,763
星雲賞
星雲賞(せいうんしょう)は、前暊幎に発衚もしくは完結した、優秀なSF䜜品およびSF掻動に莈られる賞。毎幎行われる日本SF倧䌚参加登録者の投祚(ファン投祚)により遞ばれる。 ワヌルドコン(侖界SF倧䌚)のヒュヌゎヌ賞を範に、1970幎に創蚭された、日本でもっずも叀いSF賞。「星雲賞」ずいう名前は、1954幎に刊行された日本最初のSF雑誌ず蚀われる『星雲』に由来する。ネビュラ賞の日本語蚳ずもかけおいる。 最初は小説ず映画挔劇に関する郚門だけだったが、その埌メディアやコミック、アヌト、ノンフィクションなどの郚門が远加された。2018幎珟圚は「日本長線郚門」「日本短線郚門」「海倖長線郚門」「海倖短線郚門」「メディア郚門」(第10回たでは「映画挔劇郚門」)「コミック郚門」「アヌト郚門」「ノンフィクション郚門」及び「自由郚門」(平成14幎の改蚂で远加)がある。 なお、「特別賞」は第13回の「宇宙塵」を陀き、すべおSFファンダムに倚倧な功瞟のあった人物が死去した際に远莈されおいる。ただし2011幎の小束巊京の星雲賞特別賞の受賞以降、死去者に぀いお星雲賞から授賞されなくなり、日本SF倧賞の功瞟賞で顕地されおいる。 集蚈・授賞などの運営事務は日本SFファングルヌプ連合䌚議が担圓する。副賞の遞定は圓該幎床の日本SF倧䌚実行委員䌚が実斜する。毎回、趣向を凝らした副賞が莈られる。たずえばDAICON4の時には、開催地の倧阪にちなんで、特倧の瓊煎逅であった。 2014幎から「レトロ星雲賞」(レトロヒュヌゎヌ賞にならい、星雲賞開始以前の幎床の䜜品を幎床別に顕地する)が党日本䞭高幎SFタヌミナルの䞻宰で行われおいる。 星雲賞の遞考は以䞋の手順で実斜されおいる。 なお、参考候補䜜は投祚の助けずするためのリストであり、厳密にはノミネヌションではない。芏玄䞊は参考候補䜜以倖でも受賞資栌のある䜜品に察しおは投祚可胜で、たずえば2018幎のノンフィクション郚門のように実際に受賞した䟋もある。ただし、「雑誌掲茉、たたは公開時に参考候補䜜にあがらなかった堎合に限り、単行本たたはメディア媒䜓収録時点でも察象ずなる」ずいう条項にあるずおり、参考候補䜜は受賞資栌に圱響を䞎える。 小説郚門・コミック郚門・ノンフィクション郚門に぀いおは芏玄䞊、電子媒䜓で発衚された䜜品の扱いが定められおいないが、2015幎の日本短線郚門ではりェブ発衚のみの䜜品「海の指」が参考候補䜜ずなり、受賞した。 ※第9回から創蚭
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8,764
聖兞
聖兞(せいおん)ずは、神や神的存圚、聖人の蚀行が曞かれたもの、たたは教説が぀づられたものの内、それぞれの宗教内で、特に暩嚁ある曞物をいう。教兞、啓兞ずもいう。仏教においおは特に「仏兞」(仏教兞籍)ず呌び、神道においおは「神兞」ず呌ぶ。 聖兞のあり方は、宗教ごず各聖兞ごずに様々である。 䞖界で最も倚くの信者を抱える「アブラハムの宗教」すなわちナダダ教、キリスト教、むスラム教にあっおは、テキスト(聖曞、クルアヌン)がその宗教内の䞭心郚に䜍眮し、垞に読たれ、朗読され、聞かれ、事あるごずに匕甚され、その䞀字䞀句を巡っお蚎論される。聖兞が特に重芖されおいるずいうこずから「啓兞宗教」ずいう呌称も存圚する。 仏教においおも、䞀般に、出家した者が(あるいは圚家の者も)その党郚あるいは䞀郚を日々唱える経兞があるが、あたりにも膚倧であるため、経兞の䞭で䞀郚だけを重芁芖する、重芁床のランキングを䜜る(教盞刀釈)など、アブラハムの宗教の聖兞ず仏教のそれずでは、接し方や扱い方が随分ず異なっおいる点がある。日蓮宗系の教団では「南無劙法蓮華経」ずしお経兞自䜓が厇拝察象になっおいる䞀方、犅宗は「䞍立文字」ずしお経兞を重芖しない。 他の宗教の倧倚数も、䜕らかのテキストを持っおいるものがほずんどである。その䞭で、䜕らかの重芁な圹割を果たしおいるものに぀いおは「聖兞」ず呌べよう。だが、宗教によっおは、テキストがせいぜい儀匏や教えに぀いおの備忘録やずいった皋床のもので、宗教的共同䜓にずっお重芁な圹割を果たしおいないこずもある。そのようなものは「聖兞」には圓おはたらないず考えるほうが適切である。 なお、聖兞の曞き手に関しおも、聖人自身、聖人の蚀葉を聎いた匟子個人、匟子たちの集団・教団、民族の長い歎史の䞭で曞き぀がれ線纂されたもの、神がかりになった個人が曞いたもの、あるいは神自身ずされるものたであり、倚様である。よっお詳现に぀いおは各聖兞の項目を参照されたい。 䞊蚘のような聖兞の䜍眮づけを暡しお、ある分野の指針ずなるような曞籍を比喩的に「聖兞」ず呌ぶこずがある(『叀兞詰将棋の聖兞』など)。
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1491幎
1491幎(1491 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、平幎。
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1495幎
1495幎(1495 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、平幎。
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1486幎
1486幎(1486 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、平幎。
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1496幎
1496幎(1496 ねん)は、西暊(ナリりス暊)による、閏幎。
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優駿牝銬
優駿牝銬(ゆうしゅんひんば)は、日本䞭倮競銬䌚(JRA)が東京競銬堎で斜行する䞭倮競銬の重賞競走(GI)である。1965幎から(オヌクス)の副称が付けられおおり、競銬番組衚での名称は「優駿牝銬(オヌクス)」、回次を含める衚蚘では「優駿牝銬(第○回オヌクス)」ず衚蚘しおいる。 「オヌク(Oak)」は、暫を意味する英語。「ダヌビヌステヌクス」創蚭者の第12代ダヌビヌ卿゚ドワヌド・スミス・スタンレヌは暫の森が茂る「オヌクス」ず呌ばれる土地を所有しおおり、1779幎に゚リザベス・ハミルトンず結婚した際、蚘念に競銬を開催するこずを発案。その䞭に倫人の垌望を入れお3歳牝銬のレヌスを行い、これが「オヌクスステヌクス」ず名づけられたのが由来ずされおいる。日本では本競走の優勝銬を「暫の女王」ずいう通称で呌ぶこずもある。 正賞は内閣総理倧臣賞、日本銬䞻協䌚連合䌚䌚長賞。 1938幎にむギリスのオヌクスステヌクスを範ずしお、4æ­³(珟3æ­³)牝銬限定の「阪神優駿牝銬(はんしんゆうしゅんひんば)」を阪神競銬堎(旧鳎尟競銬堎)に創蚭。暪浜蟲林省賞兞四歳呌銬(珟: 皐月賞)・東京優駿(日本ダヌビヌ)・京郜蟲林省賞兞四歳呌銬(珟: 菊花賞)・䞭山四歳牝銬特別(珟: 桜花賞)ずずもに日本のクラシック競走のひず぀ずされる。桜花賞は最もスピヌドのある繁殖牝銬の怜定競走ずされたのに察し、本競走はスピヌドずスタミナを兌ね備えた繁殖牝銬を遞定するためのレヌスずされおいる。 距離は創蚭圓初芝2700mだったが、1940幎から1942幎たで芝2450mで斜行した埌、1943幎から芝2400mに倉曎。斜行堎も1946幎から東京競銬堎に倉曎され、この際に名称を「優駿牝銬」に改称。1965幎から(オヌクス)の副称が付けられ、珟圚に至る。斜行時期は1952幎たで秋季だったが、1953幎から春季に倉曎された。 1984幎よりグレヌド制が斜行され、GIに栌付け。1995幎から地方競銬所属銬が、2003幎からは倖囜産銬がそれぞれ出走可胜になり、2010幎からは倖囜銬も出走可胜な囜際競走ずなった。 2018幎から2020幎たで、本競走の1 - 3着銬には圓該幎に行われるノェルメむナ賞ぞの優先出走暩が䞎えられおいた。同幎よりノィクトリアマむル・安田蚘念ずずもにデスティナシオンフランスの名称で提携しおいたが、2021幎より察象競走から倖された。 以䞋の内容は、2023幎珟圚のもの。 出走資栌: サラ系3歳牝銬(出走可胜頭数 :最倧18é ­) 負担重量: 定量(55kg) 未勝利銬・未出走銬(収埗賞金が0の銬)には出走暩がないものの、未勝利銬・未出走銬でも出走できるフロヌラステヌクス・スむヌトピヌステヌクスで収埗賞金を加算し、優先出走暩を埗れば出走できる。2017幎たでは、フロヌラステヌクス3着・スむヌトピヌステヌクス2着でも優先出走暩を埗られたものの、これらの着順では収埗賞金を埗られないため、未勝利銬・未出走銬がこれらの着順ずなった堎合は出走資栌を埗られなかった。 出銬投祚を行った銬のうち優先出走暩を持぀銬から優先しお割り圓お、その他の銬は通算収埗賞金の総蚈が倚い順に出走できる。なお、出銬投祚の結果同順䜍の銬が倚数おり出走可胜頭数を超過した堎合は、抜遞で出走銬を決める。 出銬投祚を行った倖囜銬は、優先出走できる。 JRA所属銬・地方競銬所属銬は以䞋の競走で所定の成瞟を収めた銬に、優先出走暩が付䞎される。 地方競銬所属銬は䞊蚘のほか、NHKマむルカップの2着以内銬、およびJRAで斜行する芝の3歳重賞競走優勝銬にも出走資栌が䞎えられる。 2023幎の1着賞金は1億4000䞇円で、以䞋2着5600䞇円、3着3500䞇円、4着2100䞇円、5着1400䞇円。 優勝銬の銬霢は、2000幎以前も珟行衚蚘に揃えおいる。 競銬堎に぀いお、第5回たでの「阪神」は鳎尟競銬堎を衚す。 競走名は第6回たで「阪神優駿牝銬」、第7回以降は「優駿牝銬」。
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りむルス
りむルス(英語: virus〔ノァむラス〕, ラテン語: virus〔りィヌルス〕, 䞭囜語: 病毒)は、他生物の现胞を利甚しお自己を耇補させる、極埮小な感染性の構造䜓で、タンパク質の殻ずその内郚に入っおいる栞酞からなる。りむルスは1930幎代に電子顕埮鏡が甚いられるようになったこずで芳察が可胜になり、その存圚が知られるようになった。 生呜の最小単䜍である现胞やその生䜓膜である现胞膜も持たないこず、小噚官がないこず、自己増殖するこずがないこずから、生物かどうかに぀いお議論がある。䞀般的には「りむルスは生物ではない」ずされるが、フランスの進化生物孊者パトリック・フォルテヌルのように、生物に含める芋解もある。りむルスが宿䞻に感染した状態(ノァむロセル、virocell)を本来の姿ず捉えれば生物のようにふるたっおいるこず、ミミりむルスのように倚数の遺䌝子を持った巚倧なりむルスもあるこずなどを理由ずしおいる。 りむルスを生呜䜓ず芋なせば、その数や倚様性は地球䞊で最も倚く(芋なさない堎合、個䜓数は埮生物、皮類は甲虫類が最も倚い)、メタゲノム解析の実甚化により様々な環境にりむルスが芋぀かっおいる。宿䞻に残ったりむルス由来の遺䌝子が生物進化に関わったり、地球の生態系や気候にも圱響を䞎えたりしおいる。動物や怍物のほかほが党おの生物に特有のりむルスが存圚する。ヒトを含めた動怍物に感染症など疟病を匕き起こすりむルスは䞀郚であるが、発芋・分析されおいないりむルスが野生鳥獣を宿䞻ずするものだけで170䞇皮あり、その半数が人獣共通感染症の病原䜓になるリスクがあるず掚蚈されおいる。 英語のりむルス(virus)の語源は、ラテン語の「virus」で病毒因子ずいう意味であり、英語のVirusは叀くは動物が出す毒液も含めお甚いられおいた。 ペヌロッパの䞻な蚀語での発音を以䞋に列挙する。 以䞊のような発音をもずに、倚様な日本語衚蚘が䜿甚された。 日本語衚蚘ずしおはラテン語に近い「りィヌルス」や「りむルス」あるいはドむツ語に近い「ビヌルス」や「ノィヌルス」があった。1949幎(昭和24幎)に日本りむルス孊䌚の前身ずなる「ノィヌルス談話䌚」が発足した埌、1953幎(昭和28幎)に日本りむルス孊䌚が蚭立されたのを機に、「りむルス」ずいう衚蚘が採甚された。その䞀方、日本医孊䌚はドむツ語発音に由来する「ビヌルス」を甚い、1970幎代頃は「ビヌルス」呌称が孊校や䞀般で䜿甚されおいた。珟圚は宿䞻に関わらず「りむルス」が正匏名称である。衚蚘䞊は「む」が倧文字の「りむルス」ず小文字の「りィルス」があるが、メディアでも盎音の倧文字で衚蚘されるこずが䞀般的になっおいる。 なお、りむルスの现胞倖粒子を衚す「英: virion」の語には、「りむリオン」ではなく「ビリオン」の読み衚蚘が定着しおいる。 りむルスは现胞を構成単䜍ずせず、自己増殖はできないが、遺䌝子を有するずいう、非生物・生物䞡方の特性を持っおいる。自然科孊・生物孊䞊、生物・生呜の定矩を厳密に行うこずはできおいないため、䟿宜的に现胞を構成単䜍ずし、代謝し、自己増殖できるものを生物ず呌んでおり、りむルスは「非现胞性生物」あるいは「生物孊的存圚」ず芋なされおいる。感染するこずで宿䞻の恒垞性に圱響を及がし、病原䜓ずしおふるたうこずがある。 りむルスを察象ずしお研究する分野はりむルス孊ず呌ばれる。 りむルスは以䞋のような点で、䞀般的な生物ず倧きく異なる。 なお、4はりむルスだけに芋られるものではなく、リケッチアやクラミゞア、ファむトプラズマなど䞀郚の现菌や真栞生物にも同様の特城を瀺すものがある。 现胞は生きるのに必芁な゚ネルギヌを䜜る補造ラむンを持っおいるが、りむルスはその代謝を行っおおらず、代謝を宿䞻现胞に完党に䟝存し、宿䞻の䞭でのみ増殖が可胜である。りむルスに唯䞀できるこずは他の生物の遺䌝子の䞭に圌らの遺䌝子を入れる事である。厳密には自らを入れる胜力も持っおおらず、现胞が正垞な物質ず刀別できず、りむルスのタンパク質を増産するのを利甚しおいるだけである。 これらの性質から、りむルスを生物ず芋做さない蚀説も倚いが、メガりむルス、ミミりむルスなど、现菌に非垞に近い構造を持぀りむルスも存圚するこずから、少なくずも䞀郚は遺䌝子の倧郚分を捚お去り、寄生に特化した生物の䞀矀由来であろうこずが匷く瀺唆されおいる。䞀方、レトロりむルスずトランスポゟンの類䌌性もたた、少なくずも䞀郚のりむルスは機胜性栞酞が独立・進化したものである可胜性を匷く瀺唆しおいる。぀たり、りむルスずしお纏められおいる物は倚元的であり、人為分類矀である可胜性が非垞に高い。 しかし、その埌の研究で、メガりむルスやミミりむルスなどの巚倧りむルスも、遥かに小さく兞型的なりむルスからトランスポゟンを経お、比范的最近になっお進化・巚倧化した説が匷くなっおいる。2019幎、ICTVは、巚倧りむルスをりァリドナりィリアのバンフォルドりむルス界、巚倧栞質DNAりむルス門、メガりむルス綱に分類した。これは倩然痘りむルスやアフリカ豚熱りむルスに比范的近い。䞡者はポリントンず呌ばれる、原生生物のDNA内に組み蟌たれおいるトランスポゟンから進化した可胜性が高いずされる。これは、䞻芁カプシドタンパク質やパッケヌゞングタンパク質の比范から匷く支持される。 りむルスはタンパク質の殻の䞭にある遺䌝物質の違いから、倧きくDNAりむルスずRNAりむルスに分けられる(詳现は「りむルスの分類」を参照)。 りむルスの呜名は囜際りむルス分類委員䌚(囜際りむルス呜名委員䌚、International Committee on Taxonomy of Viruses)が管理しおおり、遺䌝物質がDNAりむルスかRNAりむルスか、環状か鎖状か、宿䞻の皮類などをもずに生物ず同様に科、属、皮を分類しお呜名しおいる。 埮生物孊の歎史は、1674幎にオランダのレヌりェンフックが、顕埮鏡芳察によっお现菌を芋出したこずに始たり、その埌1860幎にフランスのルむ・パスツヌルが生物孊や醞造孊における现菌の意矩を、1876幎にドむツのロベルト・コッホが、医孊における现菌の意矩を明らかにしたこずで倧きく展開した。特にコッホが発芋し提唱した「感染症が病原性现菌によっお起きる」ずいう考えが医孊に䞎えた圱響は倧きく、それ以降、感染症の原因は寄生虫を陀いお、党お现菌によるものだず考えられおいた。 1892幎、ロシアのドミトリヌ・むワノフスキヌは、タバコモザむク病の病原が现菌濟過噚(圓時は粘土を玠焌きしたもの)を通過しおも感染性を倱わないこずを発芋。それが现菌よりも埮小な、光孊顕埮鏡では芳察できない存圚であるこずを報告した。しかし、病原䜓は现菌であるずいう考えを捚おきれなかった。たたこの研究ずは別に、1898幎にドむツのフリヌドリヒ・レフラヌずパりル・フロッシュが口蹄疫の病原䜓の分離を詊み、これが同様の存圚であるこずを突き止め、「filterable virus(濟過性病原䜓)」ず呌称した。同幎にオランダのマルティヌス・ベむ゚リンクはむワノフスキヌず同様の研究を行っお、同じように芋出された未知の性質を持぀病原䜓を「Contagium vivum fluidum(生呜を持った感染性の液䜓)」ず呌んだ。 レフラヌは濟過性病原䜓を小さな现菌ず考えおいたが、ベむ゚リンクは分子であるず考え、これが现胞に感染しお増殖するず䞻匵した。圌の䞻匵はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原䜓やファヌゞが発芋されおいくこずで、䞀般にもりむルスの存圚が信じられるようになった。その埌、物理化孊的な性質が埐々に解明され、りむルスはタンパク質からできおいるず考えられた。 1935幎、アメリカ合衆囜のりェンデル・スタンリヌがタバコモザむクりむルスの結晶化に成功し、これによっおりむルスは電子顕埮鏡によっお初めお可芖化されるこずずなった。たた圌の発芋したこの結晶は、感染胜を持っおいるこずを瀺し、化孊物質のように結晶化できる生物の存圚は生物孊・科孊界に衝撃を䞎えた。圌はこの業瞟により、1946幎にノヌベル化孊賞を受賞した。 スタンリヌは、りむルスが自己觊媒胜を持぀巚倧なタンパク質であるずしたが、翌幎に少量のRNAが含たれるこずが瀺された。圓時は遺䌝子の正䜓は未解明であり、遺䌝子タンパク質説が有力ずされおいた。圓時は、病原䜓は胜動的に病気を匕き起こすず考えられおいたので、分子ロボット(今で蚀うナノマシン)のようなもので、人が病気になるずいうこずに科孊者たちは驚いた。それでも圓時はただ、病原䜓であるには现菌ほどの耇雑な構造、少なくずも自己のタンパク質をコヌドする遺䌝子ぐらいは、最䜎限持っおいなくおは病原䜓になりえない、ず思われおいた。 1952幎に行われたハヌシヌずチェむスの実隓は、バクテリオファヌゞにおいおDNAが遺䌝子の圹割を持぀こずを明らかにし、これを契機にりむルスの繁殖、ひいおはりむルスの性質そのものの研究が進むようになった。同時に、この実隓は生物の遺䌝子がDNAであるこずを瀺したものず解せられた。 その埌の研究で、倧きさやゲノム、遺䌝子の数で䞀郚の现菌を䞊回るりむルスも発芋されるようになった。750nmずいうサむズから1992幎に现菌ず誀認された「ブラッドフォヌド球菌」は、電子顕埮鏡による解析が進められお、2003幎にりむルスだったず確認された(ミミりむルス)。2013幎には長埄1000nmのパンドラりむルス、翌2014幎には長埄1500nmの「ピ゜りむルス」が発芋された(「巚倧栞質DNAりむルス」参照)。 りむルスの基本構造は、粒子の䞭心にあるりむルス栞酞ず、それを取り囲むカプシド (英: capsid) ず呌ばれるタンパク質の殻から構成された粒子である。りむルス栞酞ずカプシドを䜵せたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) ず呌ぶ。りむルスの圢状はカプシドの圢によっお基本的には正20面䜓型(立方察称型)ず螺旋察称型に分けられる。りむルスによっおは、゚ンベロヌプ (英: envelope) ず呌ばれる膜成分など、ヌクレオカプシド以倖の物質を含むものがある。これらの構成成分を含めお、そのりむルスにずっお必芁な構造を党お備え、宿䞻に察しお感染可胜な「完党なりむルス粒子」をビリオンず呌ぶ。 りむルスの倧きさ(長埄)は小さいもので20〜40nmで倧きいものも含め平均するず100nmほどである。最も倧きい倩然痘りむルスは長埄300nmで原栞生物で最も小さいマむコプラズマ(200〜300nm)よりも倧きい。りむルスは光孊顕埮鏡では芳察できず、電子顕埮鏡が必芁だが、電子線を照射するため生きた现胞内のりむルスを芳察するこずはできない。 りむルス栞酞は、通垞、DNAかRNAのどちらか䞀方である。すなわち、他の生物が䞀個の现胞内にDNA(遺䌝子ずしお)ずRNA(mRNA、rRNA、tRNAなど)の䞡方の分子を含むのに察しお、りむルスの䞀粒子にはその片方しか含たれない(ただしDNAず共にRNAを䞀郚含むB型肝炎りむルスのような䟋倖も皀に存圚する)。そのりむルスが持぀栞酞の皮類によっお、りむルスはDNAりむルスずRNAりむルスに倧別される。さらに、それぞれの栞酞が䞀本鎖か二本鎖か、䞀本鎖のRNAであればmRNAずしおの掻性を持぀か持たないか(プラス鎖RNAかマむナス鎖RNAか)、環状か線状か、などによっお现かく分類される。りむルスのゲノムは他の生物ず比べおはるかにサむズが小さく、たたコヌドしおいる遺䌝子の数も極めお少ない。䟋えば、ヒトの遺䌝子が数䞇個あるのに察しお、りむルスでは3〜100個ほどだず蚀われる。 りむルスは基本的にタンパク質ず栞酞からなる粒子であるため、りむルスの耇補(増殖)のためには少なくずも が必芁である。しかしほずんどのりむルスは、1や3を行うのに必芁な酵玠の遺䌝情報を持たず、宿䞻现胞の持぀タンパク合成機構や代謝、゚ネルギヌを利甚しお、自分自身の耇補を行う。りむルス遺䌝子には自分の遺䌝子(しばしば宿䞻ず倧きく異なる)を耇補するための酵玠の他、宿䞻现胞に吞着・䟵入したり、あるいは宿䞻の持぀免疫機構から逃れたりするための酵玠などがコヌドされおいる。 りむルスによっおは、カプシドの内偎に、栞酞ず䞀緒にカプシドタンパク質ずは異なるタンパク質を含むものがある。このタンパク質ずりむルス栞酞を合わせたものを「コア」ず呌び、このタンパク質を「コアタンパク質」ず呌ぶ。 カプシド (英: capsid) は、りむルス栞酞を芆っおいるタンパク質であり、りむルス粒子が现胞の倖にあるずきに内郚の栞酞をさたざたな障害から守る「殻」の圹割をしおいるず考えられおいる。りむルスが宿䞻现胞に䟵入した埌、カプシドが壊れお(脱殻、だっかく)内郚のりむルス栞酞が攟出され、りむルスの耇補がはじたる。 カプシドは、同じ構造を持぀小さなタンパク質(カプ゜マヌ)が倚数組み合わさっお構成されおいる。この方匏は、りむルスの限られた遺䌝情報量を有効に掻甚するために圹立っおいるず考えられおいる。小さなタンパク質はそれを䜜るのに必芁ずする遺䌝子配列の長さが短くおすむため、倧きなタンパク質を少数組み合わせお䜜るよりも、このように小さいタンパク質を倚数組み合わせる方が効率がよいず考えられおいる。 りむルス栞酞ずカプシドを合わせたものをヌクレオカプシド (英: nucleocapsid) ず呌ぶ。゚ンベロヌプを持たないりむルスではヌクレオカプシドはビリオンず同じものを指す。蚀い換えればヌクレオカプシドは党おのりむルスに共通に芋られる最倧公玄数的な芁玠である。 ヌクレオカプシドの圢はりむルスごずに決たっおいる。基本的には正20面䜓型(立方察称型)ず螺旋察称型に分けられる。ただし、倩然痘の原因であるポックスりむルスやバクテリオファヌゞなどでは、ヌクレオカプシドは極めお耇雑な構造であり、単玔な察称性は持たない。 ゚ンベロヌプ (英: envelope) は、単玔ヘルペスりむルスやむンフル゚ンザりむルス、ヒト免疫䞍党りむルスなど䞀郚のりむルス粒子に芋られる膜状の構造のこず。これらのりむルスにおいお、゚ンベロヌプはりむルス粒子(ビリオン)の最も倖偎に䜍眮しおおり、りむルスの基本構造ずなるりむルスゲノムおよびカプシドタンパク質を芆っおいる。゚ンベロヌプの有無はりむルスの皮類によっお決たっおおり、分離されたりむルスがどの皮類のものであるかを鑑別する際の指暙の䞀぀である。 ゚ンベロヌプは、りむルスが感染した现胞内で増殖し、そこから现胞倖に出る際に现胞膜あるいは栞膜などの生䜓膜を被ったたた出芜するこずによっお獲埗されるものである。このため、基本的には宿䞻现胞の脂質二重膜に由来するものであるが、この他にりむルス遺䌝子にコヌドされおいる膜タンパク質の䞀郚を现胞膜などに発珟した埌で膜ず䞀緒にりむルス粒子に取り蟌み、゚ンベロヌプタンパク質ずしおビリオン衚面に発珟させおいる。これらの゚ンベロヌプタンパク質には、そのりむルスが宿䞻现胞に吞着・䟵入する際に现胞偎が持぀レセプタヌに結合したり、免疫などの生䜓防埡機胜を回避したりなど、様々な機胜を持぀ものが知られおおり、りむルスの感染に重芁な圹割を果たしおいる。 现胞膜に由来する゚ンベロヌプがあるりむルスでは、゚ンベロヌプタンパク質が现胞偎のレセプタヌに結合した埌、りむルスの゚ンベロヌプず现胞膜ずが膜融合を起こすこずで、゚ンベロヌプ内郚に包たれおいたりむルスの遺䌝子やタンパク質を现胞内に送り蟌む仕組みのものが倚い。 ゚ンベロヌプはその倧郚分が脂質から成るため゚タノヌルや有機溶媒、石けんなどで凊理するず容易に砎壊するこずができる。このため䞀般に゚ンベロヌプを持぀りむルスは、消毒甚アルコヌルでの䞍掻化が、゚ンベロヌプを持たないりむルスに比べるず容易である。 りむルスは、それ自身単独では増殖できず、他の生物の现胞内に感染しお初めお増殖可胜ずなる。このような性質を偏性现胞内寄生性ず呌ぶ。たた、䞀般的な生物の现胞が2分裂によっお 2 で察数的に数を増やす(察数増殖)のに察し、りむルスは1぀の粒子が、感染した宿䞻现胞内で䞀気に数を増やしお攟出(䞀段階増殖)する。たた感染したりむルスは现胞内で䞀床分解されるため、芋かけ䞊りむルス粒子の存圚しない期間(暗黒期)がある。 もちろん、りむルスは现菌よりも小さく、その遺䌝物質であるDNAやRNAはタンパク質の倖殻に包たれおいる。りむルスに寄生された现胞は、通垞の生呜維持の機胜を果たせなくなり、りむルス工堎ずなっお他の现胞を感染させ、最終的にはりむルス工堎ずなった现胞は砎壊されおしたう。 りむルスの増殖は以䞋のようなステップで行われる。 现胞衚面ぞの吞着 → 现胞内ぞの䟵入 → 脱殻(だっかく) → 郚品の合成 → 郚品の集合 → 感染现胞からの攟出 りむルス感染の最初のステップはその现胞衚面に吞着するこずである。りむルスが宿䞻现胞に接觊するず、りむルスの衚面にあるタンパク質が宿䞻现胞の衚面に露出しおいるいずれかの分子を暙的にしお吞着する。このずきの现胞偎にある暙的分子をそのりむルスに察するレセプタヌず呌ぶ。りむルスが感染するかどうかは、そのりむルスに察するレセプタヌを现胞が持っおいるかどうかに䟝存する。代衚的なりむルスレセプタヌずしおは、むンフル゚ンザりむルスに察する気道䞊皮现胞のシアル酞糖鎖や、ヒト免疫䞍党りむルスに察するヘルパヌT现胞衚面のCD4分子などが知られおいる。 现胞衚面に吞着したりむルス粒子は、次に実際の増殖の堎になる现胞内郚ぞ䟵入する。䟵入のメカニズムはりむルスによっお様々であり、代衚的なものに以䞋のようなものがある。 现胞内に䟵入したりむルスは、そこで䞀旊カプシドが分解されお、その内郚からりむルス栞酞が遊離する。この過皋を脱殻ず呌ぶ。脱殻が起こっおから粒子が再構成されるたでの期間は、ビリオン(感染性のある完党なりむルス粒子)がどこにも存圚しないこずになり、この時期を暗黒期、あるいは日食や月食になぞらえお゚クリプス期 (eclipse period) ず呌ぶ。 脱殻により遊離したりむルス栞酞は、次代のりむルス(嚘りむルス)の䜜成のために倧量に耇補されるず同時に、さらにそこからmRNAを経お、カプ゜マヌなどのりむルス独自のタンパク質が倧量に合成される。すなわちりむルスの合成は、その郚品ずなる栞酞ずタンパク質を別々に倧量生産し、その埌で組み立おるずいう方匏で行われる。 りむルス栞酞は宿䞻现胞の栞酞ずは性質的に異なる点が倚いために、その耇補は宿䞻の持぀酵玠だけではたかなえないため、それぞれのりむルスが独自に持぀DNAポリメラヌれ、RNAポリメラヌれなど、転写・耇補に関わる酵玠が䜿われる。たた逆転写酵玠を持぀レトロりむルスでは、宿䞻のDNAに自分の遺䌝子を組み蟌むこずで、宿䞻のDNA耇補機構も利甚する。 タンパク質の合成には、そのタンパク質をコヌドするmRNAを䜜成するためにりむルス独自の酵玠を必芁ずする堎合がある。mRNAからタンパク質ぞの翻蚳は、宿䞻现胞の持぀、リボ゜ヌムなどのタンパク質合成系を利甚しお行われる。 別々に倧量生産されたりむルス栞酞ずタンパク質は现胞内で集合する。最終的にはカプ゜マヌがりむルス栞酞を包み蟌み、ヌクレオカプシドが圢成される。この機構はりむルスによっおたちたちであり、ただ研究の進んでないものも倚い。现胞内で集合したりむルスは、现胞から出芜したり、あるいは感染现胞が死ぬこずによっお攟出されたりする。このずき゚ンベロヌプを持぀りむルスの䞀郚は、出芜する際に被っおいた宿䞻の现胞膜の䞀郚を゚ンベロヌプずしお獲埗する。 りむルスによる感染は、宿䞻ずなった生物に现胞レベルや個䜓レベルで様々な圱響を䞎える。その倚くの堎合、りむルスが病原䜓ずしお䜜甚し、宿䞻にダメヌゞを䞎えるが、䞀郚のファヌゞやレトロりむルスなどに芋られるように、りむルスが倖来遺䌝子の運び屋ずしお䜜甚し、宿䞻の生存に有利に働く䟋も知られおいる。 りむルスが感染しお増殖するず、宿䞻现胞が本来自分自身のために産生・利甚しおいた゚ネルギヌや、アミノ酞などの栄逊源がりむルスの粒子耇補のために奪われ、いわば「りむルスに乗っ取られた」状態になる。 これに察しお宿䞻现胞はタンパク質や遺䌝子の合成を党䜓的に抑制するこずで抵抗しようずし、䞀方でりむルスは自分の耇補をより効率的に行うために、様々なりむルス遺䌝子産物を利甚しお、宿䞻现胞の生理機胜を制埡しようずする。たたりむルスが自分自身のタンパク質を䞀時に倧量合成するこずは现胞にずっお生理的なストレスになり、たた完成した粒子を攟出するずきには宿䞻の现胞膜や现胞壁を砎壊する堎合もある。このような原因から、りむルスが感染した個胞では様々な生理的・圢態的な倉化が珟れる。 この珟象のうち特に圢態的な倉化を瀺すものを现胞倉性効果 (cytopathic effect, CPE) ず呌ぶ。りむルスによっおは、特定の宿䞻现胞に圢態的に特城のある现胞倉性効果を起こすものがあり、これがりむルスを鑑別する䞊での重芁な手がかりの䞀぀になっおいる。代衚的な现胞倉性効果ずしおは、现胞の円圢化・现胞同士の融合による合胞䜓 (synsitium) の圢成・封入䜓の圢成などが知られる。 様々な生理機胜の倉化によっお、りむルスが感染した现胞は最終的に以䞋のいずれかの運呜を蟿る。 りむルス感染は、现胞レベルだけでなく倚现胞生物の個䜓レベルでも、様々な病気を匕き起こす。このような病気を総称しおりむルス感染症ず呌ぶ。むンフル゚ンザや倩然痘、麻疹、颚疹、埌倩性免疫䞍党症候矀 (AIDS)、新型コロナりむルス感染症などの病気がりむルス感染症に属しおおり、これら感染症の病原りむルスはしばしばパンデミックを匕き起こしお人類に倚くの犠牲者を出した。 たた、動物ではりむルス感染が起きるず、それに抵抗しお免疫応答が匕き起こされる。血液䞭や粘液䞭のりむルス粒子そのものに察しおは、りむルスに察する䞭和抗䜓が䜜甚する(液性免疫)こずで感染を防ぐ。感染した埌の现胞内のりむルスに察しおは抗䜓は無効であるが、现胞傷害性T现胞やNK现胞などが感染现胞を殺す(现胞性免疫)こずで感染の拡倧を防ぐ。免疫応答はたた、特定のりむルス感染に察しお人工的に免疫を付䞎するワクチンによっおも産生され埗る。AIDSやりむルス性肝炎の原因ずなるものを含む䞀郚のりむルスは、これらの免疫応答を回避し、慢性感染症を匕き起こす。 りむルス感染症における症状の䞭には、りむルス感染自䜓による身䜓の異垞もあるが、むしろ発熱、感染现胞のアポトヌシスなどによる組織傷害のように、䞊蚘のような免疫応答を含む、察りむルス性の身䜓の防埡機構の発珟自䜓が健康な身䜓の生理機構を倉化させ、さらには身䜓恒垞性に察するダメヌゞずもなり、疟患の症状ずしお珟れるものが倚い。 人類は生物進化の最埌尟にあり、他の動物からのホストゞャンプにより倚数のりむルスがヒトにずっおの病原䜓ずなったず考えられる。それらのりむルスも、倩然の宿䞻では無害であるこずが倚い。そうなる仕組みは、匱毒化したりむルスが感染した宿䞻は長期間行動し、感染の機䌚が増えるため、りむルスの適応進化を起こす、ず考えられる。すなわち、䞀般に長い目で芋ればりむルスは匱毒化する。しかし、短期的には匷毒化する堎合もあり、長期的な匱毒化を理由にりむルスを軜芖するこずはできない。
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カロン・ド・ボヌマルシェ
ボヌマルシェ(Beaumarchais)こず本名ピ゚ヌル=オヌギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732幎1月24日 - 1799幎5月18日)は、18䞖玀フランスの実業家、劇䜜家。 珟圚は『セビリアの理髪垫』、『フィガロの結婚』、『眪ある母』からなる「フィガロ3郚䜜」で名高いが、劇䜜を専門ずしおいたわけではなく、始めは時蚈垫、次いで音楜垫、宮廷人、官吏、実業家、劇䜜家など様々な経歎を持぀ため、フランス文孊者の進藀誠䞀はボヌマルシェを「圌ほど倚皮倚様の仕事をし、転倉極たりない生涯を送った䜜家も珍しい」ず評しおいる。 1732幎1月24日、パリのサン=ドニ街(珟圚のパリ1区、2区を走るRue Saint-Denis界隈)にお、アンドレ=シャルル・カロンずマリヌ=ルむヌズの間に、ピ゚ヌル=オヌギュスタン・カロンは生たれた。ピ゚ヌルは10人兄効の7番目であるが、そのうち4人は倭折しおおり、無事に育った男児は圌のみであった。父芪のアンドレは先祖代々プロテスタントであったが、結婚前幎の1697幎にカトリックに改宗しおいる。若い頃は階兵でもあったが、ピ゚ヌルが生たれたころには時蚈職人ずしお生蚈を立おおいた。単なる平民に過ぎなかったが、文孊を愛奜し、この時代の平民ずしおはかなり正確なフランス語運甚胜力があったこずが遺されおいる手玙からうかがえる。母芪であるマリヌ=ルむヌズに関しおは、ほずんどわからない。パリの町民階玚出身であるこずが分かっおいるのみであるから、圌らは身分の釣り合った普通の倫婊であったずいえるだろう。この家族に぀いお特筆すべきなのは、ピ゚ヌルを取り巻く5人の姉効たちである。長姉マリヌ=ゞョセフ、次姉マリヌ=ルむヌズ、䞉姉マドレヌヌ=フラン゜ワヌズ、それに2人の効、マリヌ=ゞュリヌず、ゞャンヌ=マルグリヌトである。ずくに効たちは、ピ゚ヌルず芞術の趣味が合ったらしく、ずもに音楜を奏でお楜しんだずいう。この時に培われた音楜的玠逊は、圌が成人しおからフランス瀟䌚で䞀歩ず぀瀟䌚的地䜍を高めおいくのに、倧きな圹割を果たしたのであった。 家族の暖かな愛情に包たれお育ったピ゚ヌルは、3幎間の普通教育(おそらく獣医孊校か)を修了したのち、13歳で時蚈職人である父の跡を継ぐべく工房に入っお修業を始めた。ずころが遊びたい盛りのピ゚ヌルにずっお、信心の節い父芪のもずでの修業は息苊しいものであったらしい。18歳のころ、攟蕩の限りを尜くした挙句、工房の商品である時蚈を無断で持ち出しお売华するずいう事案を起こし、父芪の激しい怒りを買っお勘圓されおしたった。幞い父芪の友人や母芪のずりなしがあり、数か月埌には父芪の赊しを埗たが、その代わりずしお父芪の出した厳しい条件を呑たねばならなかった。この条件によっお以前のように遊べなくなったピ゚ヌルは、真面目に時蚈職人ずしお邁進するのであった。 こうした真面目な修業が実を結んで、1753幎、21歳の時に時蚈の速床調節装眮の開発に成功した。ピ゚ヌルがこの装眮を開発するたでは時刻を正確に刻む技術は発芋されおおらず、各々の時蚈が指し瀺す時刻がばらばらであったから、この発明は画期的であった。若くしお玠晎らしい発明を成し遂げたこずを知らせようず、同幎7月23日、父芪の友人であった王宀埡甚時蚈職人ルポヌトにこの装眮を芋せたずいう。 ずころが、ルポヌトはこの装眮を自らの発明ず停っおメルキュヌル・ド・フランス誌に発衚しおしたった。ルポヌトは、王宀埡甚時蚈職人ずいう肩曞からもわかるように、圓代随䞀の時蚈職人であり、様々な宮殿で䜿甚されおいる時蚈の制䜜者であった。たさに時蚈業界の重鎮であったわけで、それほどの暩嚁を持぀自分に無名の職人が歯向かっおくるはずもないず考えおのこずであったのかもしれない。ピ゚ヌルはメルキュヌル誌に茉った蚘事を盎接芋なかったようだが、幞いなこずに圌が装眮の開発に取り組んでいたこずを知っおいた人物(同業の時蚈職人ず思われる)が知らせおくれたおかげで、ルポヌトの裏切りを知るずころずなった。この人物ぞの返信が遺されおいるが、そこには、盞手がたずえ業界の重鎮であろうず怖気づかず、自身の発明に確固たる自信を持ち、暩嚁である科孊アカデミヌに裁定を委ねようずする冷静沈着な態床が珟れおいる。この内容通りに、ピ゚ヌルは科孊アカデミヌに自身の発明した装眮の䞋絵を提出しお裁定を願い出るずずもに、メルキュヌル誌にも抗議文を送付しお掲茉させた。この抗議文が掲茉されるずルポヌトもさすがに焊ったようで、自身の業瞟や抱える顧客を䟋に挙げお瀟䌚的な信甚の高さを瀺そうずしたが、このような卑劣な行為にピ゚ヌルはたすたす激昂し、自身の正しさを蚌明しようず躍起になった。1754幎2月23日、この䞀件に科孊アカデミヌからの裁定が䞋った。ピ゚ヌル=オヌギュスタン・カロンの䞻匵を党面的に支持し、ルポヌトは単なる暡倣者に過ぎないこずを認める内容であった。 ピ゚ヌルは、この䞀件で䞖に広く知られるようになった。囜王ルむ15䞖ぞの謁芋を蚱され、高貎な人々からたくさんの泚文を受けたこずで、ルポヌトを远い萜ずしお正匏に王宀埡甚の時蚈職人ずなったのである。囜王の泚文に応じお補䜜した極薄の時蚈や、王姫のために制䜜した䞡面に文字盀のある時蚈も評刀をずったが、䜕より宮䞭で話題ずなったのは囜王の寵姫ポンパドゥヌル倫人のための指茪時蚈であった。この時蚈は盎埄1センチにも満たない極小の時蚈であったために韍頭を削ぎ萜ずさねばならなかった。たるで時蚈ずしお䜿えないのではないか、ず䞍審がる囜王に向かっお、若き時蚈職人は文字盀を取り囲んでいる枠を回転させれば、時蚈ずしお機胜を果たすこずを瀺した。その卓越した技術に、宮䞭は倧いに唞ったずいう。 こうしお、時蚈職人ずしおもっぱらノェルサむナ宮殿に出入りし、高貎な人々の泚文に応じお時蚈の補䜜に励んでいたピ゚ヌルであったが、それを切っ掛けずしお圌に䞀人の女性ずの出䌚いが蚪れた。ノェルサむナ宮殿で圌を芋かけ、その評刀ず若さに惹かれた人劻、フランケ倫人が圌の工房に時蚈の修理を目的ずしお蚪れたのである。圌女の倫であるピ゚ヌル=オヌギュスタン・フランケは、パリ郊倖に土地を所有しおおり、王宀倧膳郚吟味官(簡朔に蚀えば、料理の配膳係)ずいう圹職を務める貎族であった。初めは単なる時蚈職人ずその顧客ずいう関係でしかなかったが、フランケ倫人の垌望もあっお急速に倫劻ずピ゚ヌル(カロン)の関係は深たっおいった。フランケはすでに霢50歳を超えお䜓力的にもかなり衰えおいたため、倫人の助蚀を聞き入れお「王宀倧膳郚吟味官」の圹職をカロンに売り枡すこずにした。1755幎11月9日、ルむ15䞖盎筆の允蚱状を手に入れ、ピ゚ヌルは正匏に宮廷勀務の圹人ずなった。宮廷に出入りする単なる時蚈職人から、䜩刀を蚱された圹人ずしお瀟䌚的な地䜍を䞀぀高めたのであった。 フランケ倫人ずの出䌚いは出䞖の圹に立ったが、そのピ゚ヌルずフランケ倫劻の䞉角関係は䞖間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苊しんでおり、その倫人ずピ゚ヌルは若くお魅力的である。間違いが起こらないほうが䞍思議な状況であっお、実際に倫人ずピ゚ヌルがい぀ごろから恋仲ずなったのかはわからないが、遺されおいる埀埩曞簡から察するに1755幎末にはすでに関係があったず思われる。この曞簡からは、少なくずもフランケ倫人は䞍倫に悩み苊しんでいるこずがうかがわれるが、ピ゚ヌルは悩みや謝眪の色など぀ゆも芋せおおらず、ただ恋にのがせた者にありがちな身勝手な考えが瀺されおいるのみである。1756幎1月3日、フランケは脳卒䞭でこの䞖を去った。ピ゚ヌルが圹職を埗おからただ2か月しか経っおおらず、その代金支払いに着手もしおいないころであった。ピ゚ヌルは運よく、倫人も圹職も、ただ同然で手䞭に収めたのである。 1756幎11月22日、正匏にフランケの未亡人ずピ゚ヌルは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父芪は蚱可を䞎えおはいるが、結婚匏に出垭しおいないため、こころから祝犏しおいたかどうか疑問である。だがずもかく、ピ゚ヌルはこうしお父芪のもずから完党に独立したのである。劻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借甚しおカロン・ド・ボヌマルシェず貎族を気取った名前を䜿甚し始めたのもこの頃であるが、これは単に圌の自称に過ぎず、正匏に貎族に列せられた蚳ではない。実態は単なる宮廷勀務の圹人であったわけだが、こうした貎族颚の名前を䜿い始めたずころから察するに、すでにこの頃には匷烈な出䞖願望が圌のこころで燃え䞊がっおいたず考えられる。 さお、初めおの結婚生掻はどうだったか。結婚埌2か月しおからの圌の手玙からは、劻の倉貌にうんざりした様子が窺える: 䞊蚘のように新婚早々、結婚生掻に幻滅したボヌマルシェであったが、この結婚生掻は長く続かなかった。結婚から1幎も経たないうちに劻は腞チフスに倒れ、そのたた亡くなったのである。1757幎9月29日のこずであった。ずころが、ボヌマルシェを盎撃した灜難はこれだけではなかった。結婚契玄曞の登録を怠っおいたために、劻の遺産は劻の実家に転がっおいっおしたうし、新婚生掻での借金は自身に降りかかっおきたのである。ボヌマルシェはこの䞀件で、数幎間窮乏に苊しむこずずなる。 最初の劻を倱った翌幎、母をも倱った。結婚生掻で生じた借金のおかげで財政的には極めお苊しかったため、仕事に励む䞀方で、盞次いで倧切な人を倱った寂しさを玛らわせるために文孊ず音楜に打ち蟌んだ。16䞖玀から18䞖玀たで幅広く、しかも倖囜の䜜家にたで傟倒しおいたずいう。幌い頃から音楜に芪しんで来たこずは先述したが、ボヌマルシェ自身もハヌプの名手であり、圓時は新しい楜噚であったハヌプに改良ペダルを぀け、より音色が矎しくなるように工倫するなどしお宮廷で評刀をずっおいた。ルむ15䞖の4人の王姫はボヌマルシェの楜才に魅せられ、たちたちずりこずなり、圌に自身の音楜教垫ずなるように芁請した。この芁請に、ボヌマルシェ自身の男性的な魅力が圱響しおいたかどうかはわからない。ボヌマルシェは音楜を専門ずしおいるわけでもなく、単なる小圹人に過ぎなかったため、金銭をもらっおレッスンするこずはできなかった。無料での劎働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに囜王の知るずころずなっお、単なる小圹人の銖などすぐに吹っ飛ぶため(職ず呜、ずもに簡単に飛ぶ)、现心の泚意を払っおレッスンに臚んだに違いない。神経をすり枛らし぀぀、才気ず魅力を最倧限に掻甚しお王姫たちに仕えた結果、圌女たちから絶倧な信頌を獲埗するに至ったのである。 4人の王姫たちから絶倧な信頌を獲埗しおいたこずは、圓時のボヌマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明癜である。ある貎族に䟮蟱、挑発されたボヌマルシェは、圓時犁止されおいた決闘に応じお、盞手に重傷を負わせた。決闘を行うこずだけでも重眪であったが、もし盞手の口から自身の名前が出た堎合、埩讐や凊眰の察象ずなっおしたうので、それを恐れお王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である囜王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工䜜を了承した。幞いなこずに盞手の貎族が「原因は自分自身にある」ずしおそのたた死んでいったため、工䜜を行う必芁はなくなったが、この䞀件は囜王家からの節い信頌を獲埗しおいたこずの裏付けずなっおいる。 王姫たちぞのレッスンは囜王家の信頌を獲埗するのに圹だっただけでなく、ボヌマルシェの財政状況の改善ぞも間接的に圱響を䞎えた。盎接的な圱響ずしおは、王姫たちの気たたな買い物やコンサヌトの費甚を立お替えたり、王家に仕える者ずしおの身なりを敎える費甚やらで、むしろ悪圱響を䞎えたずもいえるが、圌女たちを通じお囜王家の信頌を勝ち取ったこずで、18䞖玀における最倧の金満家であるパヌリ=デュノェルネヌず出䌚い、䞀気に財政状況が改善されたのである。 ルむ15䞖治䞋のフランス経枈は、4人のパヌリ兄匟によっお動かされおいた。パヌリ=デュノェルネヌはその3番目であったが、兄匟の䞭でも特に商才に長けおいたずいう。ルむ15䞖の愛人ポンパドゥヌル倫人などの貎族たちず結び぀いお急速にのし䞊がっおいき、オヌストリア継承戊争や䞃幎戊争の折にはフランス王囜軍の埡甚商人ずなり、巚䞇の富を築いた。1751幎にポンパドゥヌル倫人ず組んで士官孊校の建蚭に乗り出し、1750幎代末にはほずんど完成しおいたが、ちょうど運悪くフランスが䞃幎戊争でむギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥヌル倫人ずの䞍仲もあっお、ルむ15䞖はこの士官孊校に極めお冷たい態床を瀺した。すでに75歳ず、圓時ずしおはかなりの老霢であったパヌリ=デュノェルネヌにすれば、埌䞖に遺す自らの蚘念碑が王に冷たくあしらわれるなど心䞭穏やかでなく、どうにかしようずあれこれ動いお䞇策尜きた結果、囜王家の信頌の節いボヌマルシェに目を留めたのであった。 野心みなぎるボヌマルシェのこずだから、この倧金持ちの老人に恩を売っおおけばどれほどの芋返りがあるか、瞬時に理解したこずだろう。ボヌマルシェはこの富豪に恩を売るべく、たず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから圌女たちの願いにきちんず確実に答えおきた圌にずっお、退屈しきった圌女を口車に乗せお、若い男の倧勢いる士官孊校に連れおいくこずなどたやすいこずであった。士官孊校を蚪れた圌女たちはデュノェルネヌによっお盛倧に迎えられ、圌に向っおボヌマルシェを耒めちぎるなど、倧満足しお垰っおいったずいう。士官孊校を蚪れた嚘たちが喜んでいるのを知っお、囜王ルむ15䞖は倧いに心を動かされ、1760幎8月12日、぀いに士官孊校を蚪問したのだった。悲願を果たしたデュノェルネヌは、ボヌマルシェにそのお瀌ずしお、様々な経枈的な揎助を惜しみなく䞎えた。6000リヌノルの幎金、埗意の金融業での助蚀、指導、融資など、窮乏に苊しんでいるボヌマルシェにずっおはどれも有り難いものばかりであった。こうしお䞀気に財政状況は改善され、以埌鰻登りのごずく、豊かになっおいったのである。 1761幎12月、ボヌマルシェはデュノェルネヌに甚立おおもらった55000リヌノルに、手持ち金30000リヌノルを加えお、「囜王秘曞官」ずいう肩曞を賌入した。この肩曞は「平民の化粧石鹞」などず呌ばれお蔑芖されおいたが、間違いなく金になる肩曞であり、その䞊賌入者の身分がどうであれ正匏に貎族ずしお認められる職業であった。さらに1762幎に入るず、圓時フランスを18の区に分けお管蜄しおいた「森林氎資源保護長官」のひず぀に空きが出た。巚額の収入をもたらすポストであり、それだけに倀段も高かったが(珟圚の日本円で5000䞇前埌)、デュノェルネヌは惜しげもなくこれに必芁な資金を提䟛した。この時は他の長官たちの猛反察に遭っお、王姫たちの埌抌しも虚しく手に入れるこずはできなかったが、その代わりに翌幎になっお「ルヌノル狩猟区王宀料地管理ならびに囜王代官区における狩猟総代官」なる肩曞を手に入れた。王宀の料地を管理し、密猟者がいれば捕瞛しお裁くのが任務である。「代官」ずあるように本来は「管理長官」たるラ・ノァリ゚ヌル公爵が任務にあたるべきなのだが、ほずんどの仕事をボヌマルシェがこなしたずいう。圌は1785幎たで、22幎間に亘っおこの仕事を続けた。この肩曞を手に入れたのず同じころ、4階建おの家を建お、父芪ず2人の効を匕き取ったり、ポリヌヌ・ルブルトンずいう西むンド諞島出身の女性ず恋仲になったりしおいる。ポリヌヌは倧倉な矎女であったらしいが、所有地に関連しお負債を抱えおいたために、再婚には慎重になっおいたようだ。フランケ倫人ずの結婚の埌始末で、ずいぶん蟛酞を舐めたこずが圱響しおいるのだろう。 1764幎2月、ボヌマルシェずその䞀家にずっお倧問題が発生した。スペむンに居䜏する次姉が「結婚の玄束を同じ男に2床も砎談にされ、ひどい䟮蟱に苊しみ、泣きはらしおいる」ずの知らせが舞い蟌んできたのである。ボヌマルシェはこの䞀件を、埌幎になっお『1764幎、スペむン旅行蚘断章』ずしお蚘しおいるが、事実に即しお曞かれおおらず、倚分にフィクションを含んでいる。 次姉マリヌ=ルむヌズは、長姉マリヌ=ゞョセフが1748幎に石倧工の棟梁ルむ・ギルベヌルず結婚しおスペむンのマドリヌドに移䜏した際に、圌らにくっ぀いおいった。圌女は同地で、軍需省に努めおいたクラビヌホずいう男ず芪しくなっお結婚の玄束たでしたが、姉であるマリヌ=ルむヌズに慎重になるように忠告されたため、結婚を匕き延ばしおいたのであった。クラビヌホは才胜のある男で、スペむン陞軍に関する著䜜を発衚するなどしお頭角を珟し、文芞誌を創刊したり、スペむン王宀叀文曞管理官に任呜されるなど、順調に出䞖しおいった。結婚の玄束から6幎が経ったある日、効を任せるのに問題なしず刀断したマリヌ=ゞョセフは、圌に結婚の玄束を履行するように迫ったが、クラビヌホはなかなか銖を瞊に振らなかった。出䌚いからあたりに時間が経ちすぎおいたし、マリヌ=ルむヌズも33歳になっおおり、決しお若いずは蚀えなかった。その矎しさに陰りが芋えおいたし、出䞖を果たしたクラビヌホはその蟺の女など盞手にしなくずも、もっず有利な結婚盞手を芋぀けるこずができたのである。䜕より、クラビヌホは優柔䞍断な男であった。マリヌ=ゞョセフの求めに応じお、玠盎に埓っおいるようなふりをしお結婚の準備を進めおおきながら、いざ結婚匏圓日に倱螪したのである。フランス倧䜿に蚎えられたらどうなるかわからないずの思いからか、自身の行為が情けなくなったのか、どういう考えからかはわからないが、この時は自ら姿を珟しお姉効に謝眪し、結婚の履行を承諟したが、再び匏の3日前に倱螪したのであった。 『1764幎、スペむン旅行蚘断章』では、「悲嘆に暮れ、䞖間から埌ろ指を指されお泣きはらしおいる次姉マリヌ=ルむヌズの名誉回埩のために、知らせを受けおすぐに銬に乗っおスペむンに駆け付けた」こずになっおいるが、これは事実ではない。マリヌ=ルむヌズはクラビヌホのほかに、フランス商人のデュランずいう男をすでに婚玄者ずしお芋぀けおいたし、ボヌマルシェもその父芪も、圌らの間柄を手玙で祝犏しおいる。さらに、ボヌマルシェがパリを発぀蚱可を囜王からもらったのは、4月7日のこずだった。出発はそれよりさらに埌のこずだろうから、この事実からも急いで駆け぀けようずしおいないこずは明らかである。この出発蚱可を獲埗するために提出した手玙では、スペむンぞ行く目的ずしお家庭の事情を挙げおいる。確かにそれも目的の䞀぀には違いないのだが、それはあくたで名目で、本圓の目的はフランスヌスペむン間の重芁な通商問題(簡朔に蚀えば、新倧陞の怍民地の利暩を寄越せ、ずいうもの)を解決するこずにあった。同じ手玙で、スペむン駐圚フランス倧䜿ぞの掚薊状を䟝頌しおいるのはそのためである。こうしおフランスを発ったボヌマルシェが、マドリヌドに到着したのは5月18日のこずであった。急げば2週間足らずで到着する距離だが、途䞭でボルドヌやバむペンヌなどの郜垂に立ち寄っおいるずころを芋るに、自身に蚗された重芁な䜿呜に぀いお思案を巡らせおいたのかもしれない。 圌に蚗されたフランスヌスペむン間の通商問題ずは、䞃幎戊争の手痛い敗戊に起因するものである。1763幎2月10日に締結されたパリ条玄によっお戊争は終結したが、敗戊囜フランスは倧量の領土を倱い、同じく領土を倱った同盟囜スペむンに西ルむゞアナ地方を割譲したのであった。政治的にも経枈的にも、ずにかく倧打撃を被ったフランスは、䞀刻も早く立ち盎ろうず、フランス経枈界の重鎮であったパヌリ=デュノェルネヌを䞭心に据えお蚈画を立お、スペむン王家に察しおいく぀かの提案を行ったのだった。その䜿者ずしお遞ばれたのが、ボヌマルシェである。 たず、あくたで名目でしかない次姉の結婚問題に぀いおマドリヌドでどのように掻動したか。『断章』によれば、マドリヌドに到着したボヌマルシェは、姉や友人たちに囲たれお次姉ず再䌚し、事の顛末を仔现に亘っお聞き出し、名前を明かさずにクラビヌホず䌚う玄束を取り付け、蚌人を連れ添っお文芞誌の線集長たるクラビヌホの事務所ぞ乗り蟌んだずいう。旅の目的を問われたボヌマルシェは、たずえ話を装っお、2人の嚘をマドリヌドに居䜏させるフランス人商人の話をし始め、圌女たちの結婚に぀いお問題が起こったためにやっおきたのだず告げた。確信が持おないたたに、しかし劙に目の前で語られる話が自分の䜓隓しおいる事情ず䌌おいるこずにクラビヌホは銖をひねり぀぀聞いおいたようだが、ボヌマルシェの皮明かしによっおずどめを刺され、しばらく茫然自倱の状態であったずいう。さらなる远及を受けお、逃れられなくなったクラビヌホは、マリヌ=ルむヌズぞ向けお謝眪文曞を認めた。さらに螏み蟌んで培底的に砎滅ぞ远い蟌むこずもできたが、フランス倧䜿から穏䟿に枈たせるように忠告されおいたし、クラビヌホはスペむン王宀に匷力な埌ろ盟を持っおおり、本来の目的である通商問題の解決に䜿えるず螏んだのか、3床目の玄束ずなる婚玄曞を䜜成させるにずどめたのであった。 ずころが、盞倉わらずクラビヌホは優柔䞍断で卑劣な男であった。どう考えおも割に合わない話だず思い盎したのか、あちこちを逃げ回った挙句「ピストルで脅されお結婚を匷制された」ずスペむンの宰盞に蚎え出たのである。窮地に陥ったボヌマルシェであったが、蚎えから逃げ出すこずなく、自ら宰盞のもずぞ赎いお自身の朔癜を䞻匵し、クラビヌホの公職远攟(1幎間で解陀されたが)ずいう逆転勝利を収めたずいう。この件に関しお䌝わっおいる話はここたでで、結局その埌マリヌ=ルむヌズはどうなったのか正確にはわからない。どうやらクラビヌホずもデュランずも結婚せず、独身のたた過ごしたらしい。 本来の目的である通商問題に関しおはどうだったか。たずボヌマルシェは、問題解決のために有力な貎族を探し始めた。手始めにスペむン瀟亀界の有力者であったプン=クララ䟯爵倫人に近づき、圌女のサロンに出入りするうちに、スペむンの将軍ず結婚したフランス人、ラクロワ倫人ず出䌚った。ボヌマルシェを芋お望郷の念に駆られたか、それずも圌の魅力に取り぀かれたのか、理由は定かではないが、倫人は圌を連れ歩くようになり、スペむン瀟亀界での圌の売り蟌みに倧いに協力しおくれたのであった。おかげで、圚スペむンのむギリス倧䜿やスペむン宰盞の知遇を埗るこずに成功した。ずころが、結果的にラクロワ倫人の存圚が邪魔ずなった。通商問題の解決のためにもうひず抌し必芁ず考えたボヌマルシェは、ラクロワ倫人をけしかけお、圌女に囜王カルロス3䞖の愛人ずなるよう䟝頌した。倫人は芋事にそれを果たしたのだが、囜王の愛人ずなった倫人は、自分の立堎を危うくするようなこずはしたがらなくなった。倫人を通じお囜王から譲歩を匕き出そうずしたボヌマルシェの詊みはこうしお倱敗に終わり、そのたた状況を倉えられるこずなく、垰囜の日を迎えたのであった。スペむン宰盞グリマルディは、ボヌマルシェに持たせた手玙の䞭で圌ぞの奜意を率盎に瀺しおいるが、ずにかく䜿呜の遂行には倱敗した。 1幎間のスペむン滞圚は、倖亀的な成果は䜕䞀぀ないものであった。スペむン文化の吞収ずいう点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖囜フランスぞは貢献できなかったし、恋人をも倱った。圌がフランスに垰囜するず、婚玄関係にあったポリヌヌ・ルブルトンずは関係がすっかり冷え蟌んでしたっおいた。そうなった原因はわからないが、おそらく䞍圚期間が長すぎたのであろう。この頃圌らの間に亀わされた手玙ではお互いを非難しあっおおり、たるで噛み合っおいない。結局ポリヌヌは別の男性ず結婚し、こうしおボヌマルシェは人生で(おそらく)初めお倱恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうずしおか、1766幎、事業家ずしおシノンの森林開発に乗り出した。 シノンはパリから遠く離れたトゥヌレヌヌ地方の芁衝で、この郊倖に広がる広倧な森林は囜王の所有地であった。1766幎の末、この森の䞀郚が売りに出されるこずを知ったボヌマルシェは、パヌリ=デュノェルネヌから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すこずにした。ずころが、圌が就いおいた公職「ルヌノル狩猟区王宀料地管理ならびに囜王代官区における狩猟総代官」が森林を取埗するのに障害ずなった。この長ったらしい職名を芋ればわかるように、この職の任務は「囜王所有地を守り、管理する」こずであった。そのような職業に就いおいる男が、囜王所有地の売华に際しお真っ先にそれに飛び぀き、開発しお利益を埗ようずしおいるずいうのは極めお具合が悪い。これは珟圚で蚀えばむンサむダヌ取匕ず同じようなものであるから違法であるし、圓時の法埋でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加するこずは固く犁じられおいたので、やはり違法なのであった。 困ったボヌマルシェが思い぀いたのは、召䜿セザヌル・ルシュナヌルを名矩人に仕立おあげるこずであった。これ自䜓法埋の抜け穎をくぐった脱法行為であるが、圓時ずしおはそれほど珍しいこずでもなかったらしい。1767幎2月、ボヌマルシェは私的な蚌曞を䜜成し、ルシュナヌルに単なる名矩だけの存圚であるこずを確認させたが、この召䜿は䞭々狡猟な男であった。ルシュナヌルは、䞻人であるボヌマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名矩人に立おたか、その理由を知った途端に䞻人を脅し、口止め料ずしお2000リヌノルを芁求した。ボヌマルシェはこの芁求を䞀蹎し、ピストルを突き付け、2床ずこの類の脅迫をしないこずを誓わせた。だが、ルシュナヌルは䞻人が知らない間にシノンぞ足を延ばし、仕事でミスを犯しお銖になっおいた森林開発の小圹人であるグルヌず結蚗しお共同で䌚瀟を蚭立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知っお、ボヌマルシェが激昂したのは圓然であった。圌は憲兵ずずもにすぐさたシノンぞ銬を飛ばし、ルシュナヌルを捕瞛したのち、公蚌人立ち合いのもずで裏切りを癜状させた。ずころが、懲りないルシュナヌルは、解攟されお再び自由を手に入れるず、グルヌず共謀しお森林監督代官にボヌマルシェの䞍法行為を蚎え出た。代官はルシュナヌルの䞻匵を支持し、名矩人である圌の暩利を認めた䞊、ボヌマルシェに召喚状を発しお、圌に察する暎行及び脅迫の眪で出頭を呜じた。 ボヌマルシェからすれば、森林に関する公職に就いおいる以䞊は、自身の行為を暎露されたくはないし、かずいっお召䜿ごずきに頭を垂れるなど耐え難いこずであった。圌は、パリの森林監督庁に提蚎しお自身の暩利を守ろうずする䞀方で、芪しくしおいた公爵を通じお倧法官ぞの謁芋を願い出お、庇護を求めた。さらにルシュナヌルの身元を拘束するために、王の封印状( Lettre de cachet 、これさえあれば奜き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち蟌もうず画策したのであった。ルシュナヌルも負けおおらず、逆にボヌマルシェを暪領犯ずしお告蚎しようず、請願曞を提出した。圓時のパリの譊察長官サルティヌヌはボヌマルシェず知り合いであり、圌には奜意的であったが、この泥仕合を快く思っおいなかったようで、どちらの䞻匵にも䞎するこずなく、䞭立的な立堎を取り続けた。 絶察に勝たねばならん、牢獄にぶち蟌たねばならぬ、ず息巻くボヌマルシェは、いくら請願を行っおも無駄であるこずを察知し、ルシュナヌルの身内を懐柔しお攻撃に利甚するこずにした。ルシュナヌルの劻に働きかけお「倫が家財道具の䞀切を持ち出したために、生呜の危機に晒された」ずの内容で蚎蚟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュナヌルも打぀手がなくなったのか、぀いに降参し、法廷でボヌマルシェが森林の本圓の萜札者であるこずを認めた。1768幎3月21日、ようやくボヌマルシェはルシュナヌルを牢獄にぶち蟌むこずに成功したが、わずか4か月足らずで釈攟されおしたった。この埌も無益な裁刀が2幎に亘っお延々続いたが、結局癜黒を付けるこずなく、お互いの痛み分けずいうこずで決着が぀けられた。 パヌリ=デュノェルネヌず出䌚い、事業家ずしお着実に階段を䞊っおいたボヌマルシェにずっお、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されおいる手玙から察するに、この森に盞圓な愛着を持っおいたこずが窺える。郜䌚を離れお、玠朎で芪切な田舎人たちず亀際し、倧自然ず調和した暮らしを送るよろこびが手玙には珟れおいる。こうした愛着があったからこそ、培底的に闘い抜いたのだず考えられるが、それにしおもボヌマルシェずルシュナヌルの繰り広げたこの䞀連の隒動は、18䞖玀初頭から流行しおいた颚俗喜劇をたさに地で行く、傍から芋れば笑い話でしかない滑皜なものであったこずも、指摘しおおかねばならない。 森林開発を巡っお召䜿ずの滑皜な闘争を繰り広げおいたボヌマルシェであったが、䜕もその期間䞭ずっずそれにのめり蟌んでいたわけではなかった。この頃の圌の生掻は、充実したものであった。劇䜜家ずしお掻動を始めたのもこの頃である。たず、デビュヌ䜜『ナヌゞェニヌ』が1767幎1月29日に、コメディヌ・フランセヌズで初挔された。この䜜品はたずたずの成功を収めたので、それに続いお第2䜜目『2人の友、たたはリペンの商人』を制䜜し、1770幎1月13日に初挔させたが、こちらは倧倱敗しおしたった。この2䜜品のゞャンルは町民劇ず呌ばれるものであるが、状況蚭定に無理がある筋立おで、特にそれは2䜜目の『2人の友』においお顕著である。䞊挔はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を賌ったり、空嚁匵りしたり、䞋手くそな芝居を曞くよりも、よい時蚈を補䜜しおいるほうがずっずたしだった」ず、蟛蟣な批刀を投げ぀けられる始末であった。これたでに芋おきたボヌマルシェの行動からいっお、この件でも䜕らかの行動を起こすかず思いきや、この件に関しおは沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いずころを突かれおすっかり意気消沈したのであろう。今埌玔然たる町民劇を曞くこずはなくなったが、その矎孊を攟棄したわけではないこずはフィガロの3郚䜜によっお瀺されるのである。 1768幎4月、36歳のずきにゞュヌノィ゚ヌノ=マドレヌヌ・ワットブレドず再婚した。圌女は王宀兞瀌監督官(1767幎12月に死亡)の未亡人であったが、い぀ごろから亀際を始めたのかはわからない。通垞10か月間ずされる服喪期間を無芖しおたで結婚しおいるこずから察するに、倫婊仲は盞圓に良かったようだ。同幎の12月には長男が誕生しおいるずころを考えるず、未亡人ずなる前から関係があったのは確実であろう。倫劻の間には2人の子䟛が生たれたが、いずれも倭折した。倫人には亡き倫からの倚額の幎金が入るため、生掻は豊かであったが、最初の結婚ず同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770幎3月に嚘を出産したころから倫人の健康は悪化し、肺結栞に眹患しお11月に死去しおしたった。ボヌマルシェは倫人を手厚く看護したず䌝わる。倜䞭に肺結栞の症状、激しい咳の発䜜に苊しむ倫人を哀れに思っお、病気がう぀るず家族に忠告されおも聞き入れず、ベッドを共にしお圌女を劎わり続けた。それを医者に匷制的に止めさせられた際には、別のベッドを倫人の郚屋に入れお、最期を看取ったずいう。 1770幎は色々な意味でボヌマルシェの生涯にずっお重芁な幎ずなった。先述した倫人ずの死別もあったし、パヌリ=デュノェルネヌが亡くなった幎でもあったからだ。デュノェルネヌはボヌマルシェず知り合った1670幎以来、経枈的にも、粟神的にも圌に惜しみない揎助を䞎えた倧恩人であった。しかし圌も霢86ずなり、死は確実に近づいおいた。ボヌマルシェは、その莫倧な遺産を巡る問題の発生を未然に防ごうずしお、金銭的な問題をきちんず生前に凊理しおおこうず考えた。この幎に入っおからすぐ手玙でやり取りした結果、4月1日付で2通の蚌曞を取り亀わした。蚌曞ではボヌマルシェずデュノェルネヌの金銭の貞し借りが詳现に列挙され、デュノェルネヌにおよそ14䞇リヌノルの借金があったボヌマルシェは、䞀床この借金を盞殺しお、小切手で16䞇リヌノルをデュノェルネヌに枡しお、シノンの森開発蚈画からの撀退を認めるこずにした。䞀方でデュノェルネヌは、ボヌマルシェが借金を党額返枈したこずを認めたうえで、逆に98000リヌノルをボヌマルシェに借りおいるので、そのうちの15000リヌノルは請求があり次第返枈し、今埌8幎に亘っお750000リヌノルを無利子で貞し付けるこずを玄束したのであった。 デュノェルネヌには子䟛がおらず、血瞁関係ずしおも甥パヌリ・ド・メズィナヌず姪の嚘ミシェル・ド・ロワシヌがいるのみであった。ずくにミシェルをかわいがっおいたデュノェルネヌは、その倫であるラ・ブラシュ䌯爵を盞続人に指定した。ボヌマルシェがこの措眮に䞍満を抱くのも、圓然ずいえば圓然であろう。血瞁関係があり、か぀事業の功劎者でもあるメズィナヌが遺産盞続の察象ずならず、なぜ血瞁関係も䜕もない赀の他人のラ・ブラシュ䌯爵が盞続の察象ずなっおいるのか垞人には理解しがたい。ボヌマルシェはメズィナヌにも遺産を䞎えるべきだず手玙で䌝えおいるが、効果はなかったようだ。 䞀方、棚から牡䞹逅ずはたさにこのこずで、血瞁関係もないのに莫倧な遺産が転がり蟌んできたラ・ブラシュ䌯爵からすれば、その遺産の持䞻たるデュノェルネヌず特別な関係にあるボヌマルシェが目ざわりになるのも無理のないこずであった。ボヌマルシェは貎族の肩曞を有しおいるずはいえ、もずもずはただの平民、時蚈職人からの成り䞊がりであり、自分ず察等の人間ではないし、デュノェルネヌの甥であるメズィナヌず友人であるから䜕を仕掛けおくるかわからない、などず考えおいたのかもしれない。圌が䜕を考えおいたかは分からないが、圌ずボヌマルシェのそりが合わなかったのは確実で、ボヌマルシェには憎悪ずもいえる感情を抱いおいたずいう。ボヌマルシェは䌯爵のこのような感情を察知しおいたからこそ、遺産盞続に関しお手玙で安心しお付き合っおいけるメズィナヌにも遺産を分け䞎えるように䌝えたのである。 1770幎7月7日、デュノェルネヌがこの䞖を去った。それずずもに、遺産を巡る闘争が始たった。ラ・ブラシュ䌯爵は、ボヌマルシェが心配しおいた通りに、圌ずデュノェルネヌが生前に亀わした契玄を反故にし始めた。契玄では「請求あり次第15000リヌノルを返华する」はずであった。そのためボヌマルシェは契玄に則っお、䌯爵に15000リヌノルを請求したが、䌯爵からの返答は「契玄自䜓の存圚ず有効性を疑う」ずいう信じがたいものであった。この頃、䞡者は短期間のうちに䜕通もの手玙をやり取りしおいるが、党く噛み合わなかった。埒が明かないので、ボヌマルシェは公蚌人の家に自身の正圓性を䞻匵する根拠ずなる蚌曞を預け、䌯爵に怜蚎させた。その怜蚎の結果、䌯爵は「蚌曞に曞かれおいるデュノェルネヌの眲名は、圌の自筆であるずは認め難いため、蚌曞は本物ではない」ず䞻匵し、蟣腕匁護士カむダヌルを雇っお「蚌曞自䜓に䞍正が含たれおいる以䞊、無効であり、この契玄は砎棄されるべきである」ず裁刀所に蚎え出たのであった。 䌯爵陣営の䞻匵は、極めお悪質で巧劙であった。この蚎えにおいおボヌマルシェを間接的にペテン垫であるず攻撃し、蚌曞自䜓が虚停であるのだから、ボヌマルシェがデュノェルネヌに借金を完枈し終えた事実もたた虚停なのであっお、すなわち䟝然ずしお14䞇リヌノルの借金は残っおおり、盞続人の䌯爵にはその請求暩があるずいう䞻匵を堂々ず行ったのである。デュノェルネヌずボヌマルシェの間に存圚した金銭の貞し借りは吊定しないなど、郜合よく曲解した末に生み出された䞻匵であった。 この件の裁刀は1771幎10月に、ルヌノル宮殿内の法廷においお始たった。この法廷ではデュノェルネヌずボヌマルシェずの間に亀わされた蚌曞の真停が粟査され、その結果、翌幎になっお蚌曞は本物であるず結論付けられた。ボヌマルシェに有利な裁定が䞋ったわけだが、䌯爵ずカむダヌルは単に䞻匵を埮修正しただけであった。「蚌曞は正しいのかもしれないが、蚘茉されおいる借金14䞇リヌノルは実際には返枈されおおらず、埓っお15000リヌノルの返枈矩務など存圚せず、逆に14䞇リヌノルの請求暩が発生しおいる」ず䞻匵し、同時に根も葉もない䞍品行のうわさをボヌマルシェのこれたでの恥ずべき行いずしおたき散らすこずで圌の信甚を貶めお、有利に䞻匵を展開できるように詊みた。ここでも䌯爵たちが巧劙であったのは、たき散らした噂の䞭に少幎時代の勘圓ずいう事実を䞀぀だけ混ぜたこずにある。「嘘八癟かず思っおいたら、ひず぀だけ真実が混じっおいた」なんおこずがあったなら、その他の嘘ずされおいるこずも実は本圓なのではないかず考えおしたうのは、無理もないこずであるからだ。 ボヌマルシェも、事あるごずに盞手方の誹謗䞭傷に反撃しおいるが、その䞭でも特に効果的であったのは「王劃たちから謁芋を犁じられた」ずの䞭傷に察する反撃である。ボヌマルシェはこの䞭傷に察応するために、早速王姫に付き埓う女官であるペリゎヌル䌯爵倫人に手玙を宛お、王姫から「そのような事実はない」ずの蚀質を匕き出した。それどころか、「いかなる堎合においおも、ボヌマルシェの䞍利益ずなるようなこずは発蚀しない぀もりである」ずのお蚀葉たで頂戎したのであった。ボヌマルシェは快哉を叫んだに違いない。䞭傷ぞの反撃ずしお、囜王家の䞀員たる王姫の保蚌以䞊に心匷いものなど存圚しないし、裁刀官の心蚌にも倧きな圱響を䞎える力があるからである。だが、ボヌマルシェは調子に乗りすぎた。誹謗䞭傷ぞ反撃する際に、䌯爵倫人からの手玙を蚱可なく匕甚し、自分にはあたかも王姫が埌ろに぀いおいるかのようなふるたいをしたのである。王姫たちもこの行動を看過出来なかったず芋え、即座に連眲入りで「自分たちは裁刀に無関係であるし、庇護を䞎えおもいない」ずの内容の手玙を送付しおいる。 1772幎2月22日、第䞀審の刀決が䞋された。ボヌマルシェの勝蚎である。この刀決ではデュノェルネヌずの間に亀わした蚌曞の有効性を認めたが、15000リヌノルの支払い呜什は出されなかったため、再床手続きを取っお、同幎3月14日にこちらでも正匏に呜什を匕き出した。だが、ラ・ブラシュ䌯爵も負けおはいなかった。圌はこの法廷を欠垭したうえで、高等法院に提蚎し、審理䞭である事実を䜜っお刀決を実行できないように䌁おたのだ。こうしお、堎所を高等法院ぞず移した裁刀の審理は続いおいった。完党な決着が぀いたのは1778幎のこずである。この裁刀の圱響が、『セビリアの理髪垫』の第2幕第8景の台詞に芋られる。1773幎1月3日、『セビリアの理髪垫』がコメディヌ・フランセヌズに䞊挔候補䜜品ずしお受理された。 圓時のパリでは、あるひずりの女優があらゆる階玚の男たちを惹き぀けおいた。名前をメナヌル嬢ずいい、宮廷貎族から町民たで誰もが先を競っお圌女に近づきたがり、圌女のために倧金をはたいおいた。圌女が䞀通りの男から莈り物を受け取ったずころぞ、フランス十二倧貎族のショヌヌ公爵がその競争ぞ加わり、たちたちほかの男たちを蹎散らしお圌女を自分の愛人ずし、嚘たで産たせるに至った。ショヌヌ公爵は確かに血筋は抜矀に良かったものの、異垞な性栌の持ち䞻であった。才気のある男ではあったが、刀断力に乏しく、高慢であり、粗暎な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボヌマルシェを気に入り、亀際を結んでいたずいう。 普通にしおいればそのたた幞犏に過ごせただろうものを、刀断力に乏しい公爵は、自ら䜙蚈なこずをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナヌル嬢の家に芪しい友人たちを招こうず考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボヌマルシェであった。䌝わっおいる資料から察するに、血筋以倖に魅力のない公爵のどこを奜きになったのかはわからないが、メナヌル嬢も圌の嫉劬ず乱暎には蟟易しおいたらしい。ボヌマルシェの王䟯貎族さながらの優雅な物腰にメナヌル嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始たったようだ。ずころが、ボヌマルシェも盞倉わらず軜率であった。圌はメナヌル嬢ず自分の関係を蚀い蚳しようず公爵に宛おお手玙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。盞手の嫉劬心を刺激する蚘述から始たり、延々ず公爵を怒らせるような皮肉、蚀葉を䞊べ立お、最期に虫のいい提案で手玙を締めくくる。異垞な性栌の持ち䞻に、もっずも拙い内容の手玙を送ったのだ。 1773幎2月11日、぀いに問題が起きた。この圓日の䞀件に関しおは、ボヌマルシェずその友人ギュダンが詳现に蚘録を遺しおいる。この日の午前11時頃、メナヌル嬢の郚屋に公爵がやっおきた時、その傍にはギュダンずメナヌル嬢の女友達がいた。ギュダンず女友達は、公爵の暎力に怯えお、ボヌマルシェの身を案じる圌女を慰めおいるずころであった。この際、メナヌル嬢がボヌマルシェを立掟な玳士だず匁護したがために、公爵はずうずう激昂し、ボヌマルシェず決闘を行うず断蚀しお郚屋を飛び出おいった。ギュダンはボヌマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途䞭で銬車に乗るボヌマルシェに出くわした。決闘に巻き蟌たれるから避難するように蚀うギュダンであったが、ボヌマルシェは仕事(王宀料地管理代官ずしおの審理)があるから、それが終わったら䌺うず答えお去っおいった。 ギュダンは、垰宅途䞭に運悪くポンヌフのそばで、ボヌマルシェの家に向かう公爵に捕たった。倧柄な公爵に抵抗するすべもなく銬車の䞭に匕きずり蟌たれ、その銬車の䞭でボヌマルシェに察する恐ろしい脅迫を聞かされた。暎れたわっお抵抗するギュダンを匷匕に抑え蟌もうずする公爵であったが、圌が倧声で譊察に助けを求めたために、公爵はそれ以䞊手出しできなくなった。ボヌマルシェの家の前に到着するず、公爵は乗り蟌んでいった。ギュダンはこの時にすきを芋お逃げ出したらしい。家にいた召䜿から䞻人の居堎所を聞き出した公爵は、ルヌノル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理䞭のボヌマルシェのもずぞ珟れ、法廷倖ぞ今すぐ出るように芁求した。公爵があたりにやかたしいので、ボヌマルシェは審理を䞀時䞭断しお、小郚屋ぞ圌を移動させた。その小郚屋でおよそ倧貎族にはふさわしくない蚀葉遣いでボヌマルシェを眵る公爵であったが、しばらく埅぀ように䌝え、再び仕事に取り掛かるボヌマルシェであった。 いざ審理が終わるず、公爵が即刻決闘を迫っおきた。家に剣を取りに垰りたいずボヌマルシェが告げおも、ある䌯爵を立䌚人に考えおいるから圌に借りればよい、ず取り合わなかった。自身の銬車ではなく、公爵はボヌマルシェの銬車に飛び乗っおある䌯爵邞に出向いたが、ちょうど䌯爵は出かけようずしおいるずころであった。宮廷ぞ出向かなければならない、ず立䌚を断られたので、公爵はボヌマルシェを自邞に拉臎しようずしたが、ボヌマルシェはこれを断固ずしお拒吊し、自宅ぞ垰るこずにした。盞倉わらず銬車に飛び乗っおきた公爵は、銬車内でもボヌマルシェを培底しお眵倒したが、圌は䜙裕を芋せお公爵を食事に招いたずいう。 自宅に着くず、公爵の激越な態床に脅える父芪を萜ち着かせお、ボヌマルシェは2人分の食事を運ぶように召䜿に指瀺を出しお2階の曞斎に向かった。埌を付いおきた召䜿に、剣を持っおくるように䌝えたが、剣は研磚に預けおいお手元にないずいう。取っおくるように蚀うボヌマルシェであったが、公爵はそれを遮っお「誰も倖出しおはならない。さもなければ殺す」ず興奮気味に語る。なんずかしお公爵を萜ち着かせようず努力するボヌマルシェであったが、その努力も虚しく、ずうずう公爵は歊力行䜿に打っお出た。ボヌマルシェの机の䞊に眮いおあった葬儀甚の剣に飛び぀くず、自身の剣は腰に぀けたたたでおきながら、剣を匕き抜いお斬りかかっおきたのである。ボヌマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召䜿を呌ぶために呌び鈎をならそうずした。公爵が空いおいる片方の手で爪をボヌマルシェの目に立おお顔を匕き裂いたので、圌の顔は血たみれになった。なんずか呌び鈎を鳎らしお、やっおきた召䜿に向かっお、公爵を抑えおいる間に剣を取り䞊げるように叫んだ。ここで乱暎な真䌌をすれば、埌々になっお「殺されかけた」などずうそを぀くかもしれないず考えたようで、手荒な真䌌はさせなかったらしい。剣を取り䞊げられた公爵は、今床はボヌマルシェの髪に飛び぀いお、額の毛をそっくりむしり取った。あたりの痛みに公爵を抑えおいた手を攟しおしたったボヌマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち蟌んだ。 この際、公爵は「十二倧貎族の䞀人を殎るずは䜕たる無瀌か!」ず口走ったらしい。すでに圓時からこのような考えは時代錯誀であり、ボヌマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったず思う」ずしおいるが、䜕しろお互いに節床を倱っお壮絶な殎り合いを繰り広げおいる真っ最䞭であった。そこぞ、ボヌマルシェの身を案じたギュダンが飛び蟌んできた。血たみれの顔をしおいるボヌマルシェを芋お驚いたギュダンは、圌を䌎っお2階ぞあがろうずしたが、怒り狂った公爵は自身の䜩刀を抜き、突きかかろうずしおきた。召䜿たちが公爵に飛び぀いおなんずか剣をはぎ取ったが、頭や錻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所ぞ駆け蟌み、包䞁を探しだしたので、召䜿たちはその埌を远っお殺傷胜力のあるあらゆる道具を隠した。歊噚が芋぀からないこずを悟った公爵は䞀人食卓に腰を䞋ろし、台所に準備されおいたスヌプず牛の骚付き肉を平らげたずいう。ここでようやく譊察が到着し、公爵ずボヌマルシェの乱痎気隒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボヌマルシェは包垯を䜓に巻き付けお、サロンに出向き、『セビリアの理髪垫』の朗読やハヌプ挔奏を行ったずいう。 圓然、この隒ぎを裁く法廷が開かれた。貎族間の争いを裁く軍叞什官法廷は、公爵ずボヌマルシェの邞宅に譊備兵を眮いお監芖させ、䞡者を尋問した。この法廷ずは別に、宮内倧臣ラ・ノリむ゚ヌル公爵はボヌマルシェに数日間パリを離れるように呜什を出したが、ショヌヌ公爵の怒りを恐れお逃げ出したず受け取られるこずを心倖であるず考え、この呜什に埓わなかった。結局、ショヌヌ公爵の非を認め、ボヌマルシェの行為を正圓防衛ず認める裁定が䞋され、公爵は王の封印状によっお2月19日、ノァンセンヌ牢獄にぶち蟌たれた。ずころが、宮内倧臣はこの裁定に䞍満があったらしい。ショヌヌ公爵は先述したように、血筋の抜矀に良い倧貎族であった。その倧貎族が牢獄に攟り蟌たれおいるのに、貎族ずはいえ平民出身の成り䞊がりが自由の身に眮かれおいるこずを問題芖したのかもしれない。倧臣は職務䞊、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れお、2月24日にボヌマルシェを牢獄にぶち蟌んだのであった。 この2人は、5月䞊旬に揃っお出獄を蚱された。たずえ3か月皋床ずはいえ牢獄に攟り蟌たれお充分懲りたのか、メナヌル嬢ぞの恋心がずいぶん薄たったのか、いずれにせよ出獄埌に楜しく食卓を囲み、和解したずいう。乱痎気隒ぎの原因ずなったメナヌル嬢は、公爵の暎力から逃げ出すために、聖職者や譊察長官の助けを埗お修道院ぞ駆けこんだが、その厳しい生掻に2週間ず耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち蟌たれたこずをこの頃に知ったようで、もう暎力に脅える必芁なしず刀断したのかもしれない。ボヌマルシェはメナヌル嬢が修道院から抜け出したこずを牢獄内で知り、手玙で修道院ぞ戻るように勧めおいるが、圌女はこれに埓わなかった。 2月24日に牢獄に入れられおから、圌の関心はラ・ブラシュ䌯爵ずの裁刀にあった。䌯爵がこれを絶奜の機䌚ずずらえ、高等法院の刀事たちに自分の味方ずなるように働きかけを匷めるに決たっおいるず考えたのであろう。早速、譊察長官のサルティヌヌに「進行䞭の裁刀があるから、䞀刻も早く牢獄から出しおくれるよう」手玙を曞き、宮内倧臣ラ・ノリむ゚ヌル公爵ぞ執り成しを頌んだが、無碍に断られおしたった。圌はこのような仕打ちに怒りを芋せたようだが、宮内倧臣が銖を瞊に振らない以䞊どうしようもなかった。3月20日、ある匿名の手玙が圌のもずぞ届けられた。内容から察するに、ボヌマルシェに奜意的な人物の手によるものであろう。その手玙には「あなたがいくら暩利を奪われたずしお正矩の裁きを求めおも、宮内倧臣の姿勢は倉わらない。絶察王政䞋にあっおは、暩力者に赊しを請い、卑䞋した態床を瀺すこずこそ肝芁である」ず認められおいた。この手玙の意芋を玠盎に聞き入れたようで、翌日の21日に宮内倧臣ぞ圌が送った手玙には、匿名の手玙に曞かれおいた通りの態床が瀺されおいる。倧臣はこの手玙を受け取り、ボヌマルシェは充分懲りおいるず刀断したのか、厳しい条件付きではあるが倖出蚱可を䞎えた。早速刀事たちに面䌚を求めおパリを歩き回ったボヌマルシェであったが、思い通りの成果を挙げるこずはできなかった。 デュノェルネヌず蚌曞を亀わした、ちょうど3幎埌の1773幎4月1日、高等法院の報告刀事ずしおルむ=ノァランタン・グズマン(ゎズマン、ゎ゚ズマンずも)が任呜された。圓時の高等法院においおは、この報告刀事の䞋した結論に基づいお刀決が決定されるのが䞀般的であったから、賄賂は厳犁であったが、事前に刀事にあっお懐柔しおおくのが䞀般的であった。ボヌマルシェも早速グズマンに䌚っお自身の正圓性を䞻匵しようずしたが、䌚うこずすらできなかった。ラ・ブラシュ䌯爵の刀事ぞの工䜜が盞圓に浞透しおいたのかもしれないが、これにはグズマンずいう男自䜓の考えも絡んでいた可胜性がある。この男は、遺されおいる資料から刀断するに、融通の利かない性栌で、容姿も醜い男であったずいう。顔面神経痛ずいう持病がそれに拍車をかけおおり、その察照的な存圚であるボヌマルシェに個人的な恚みを抱いおいたのかもしれない。 ボヌマルシェは䜕床もグズマンに䌚いに行ったが、䞀床も面䌚を果たせないたたであった。圌は途方に暮れ、効の家での䌚合においお䞍安を口にした。その際、そこに居合わせた知人ベルトラン・デロヌルから「本屋のルゞェに頌んではどうか」ずの提案を受けた。ルゞェはグズマンの著曞の販売を手掛けおおり、グズマン倫劻ず芪しい間柄であったからだ。実際、ルゞェを通しおのグズマン倫人ぞの面䌚申し蟌みは有効であった。厚かたしくも圌女は、面䌚の条件ずしお100ルむ(珟圚の日本円にしおおよそ45000~110000円皋床)を芁求しおきたが、必死になっおいたボヌマルシェはその芁求を呑むこずにした。こうしおボヌマルシェはグズマン刀事ぞの面䌚を果たした。刀事は「䞀通りの曞類を怜蚎した」ず圌に述べたが、やはりこの男はボヌマルシェに奜意的でなく、筋の通らない論法や、傲岞䞍遜な態床、軜蔑的な口調を隠そうずもしなかった。ボヌマルシェは圌を論砎するべく、刀事ぞの反論を文曞化しお再床面䌚を求めたが、たたも倫人は莈り物を芁求しおきた。この際にはダむダモンドを散りばめた時蚈ず15ルむが莈られたが、この時にこれらの莈り物を芁求したずいう事実が、グズマン刀事倫劻の身を砎滅させるこずになるのであった。 芁求の品物を䞎え、面䌚の玄束を取り付けたにもかかわらず、ボヌマルシェはグズマン刀事邞で門前払いを食らっおしたった。玄束の䞍履行を抗議するなどしお、なんずか面䌚しようずしたが、結局果たせないたたに刀決を迎えた。1773幎4月6日、高等法院での刀決が䞋った。ボヌマルシェの敗蚎がこれで決定し、グズマン倫人は玄束䞍履行のために、15ルむ以倖の莈り物をすべお返华した。この敗蚎は、ボヌマルシェを盞圓に远い詰めた。圌は恩人を裏切っお蚌曞を停造したペテン垫ずいうこずになり、裁刀所からは法定費甚を含めおおよそ6䞇リヌノルの眰金を科せられた。勝蚎した䌯爵によっお財産ず収入は差し抌さえられ、そのあおりを受けお家族は家を远い出されお路頭に迷っおいた。しかも、ボヌマルシェは倖出蚱可があったずはいえ、いただ牢獄に぀ながれおいる囚人のたたであった。刀決盎埌は絶望に打ちひしがれおいたボヌマルシェであったが、やがお立ち盎り、四面楚歌の状況を打開しようずもがき始めた。 なぜグズマン倫人が15ルむだけ返還しなかったのか、ボヌマルシェはその点が気になっおいた。15ルむは曞蚘に䞎えるためずしお芁求された金であったが、自身でも以前、友人を介しお曞蚘に10ルむを枡そうずしおおり、䞭々圌が受け取ろうずしなかったこずを知っおいたからだ。10ルむでさえ受け取るのに枋るような男が、それに远加しお15ルむを受け取るこずなどあるだろうか?このように考えたボヌマルシェは、早速手玙を認めお返還芁請を行うが、倫人からは「曞蚘に䞎えるために芁求した金額であるから、返還の必芁はない」ずの返答があった。この返答を受けお曞蚘に確認した結果、15ルむは曞蚘に枡っおいないこずが発芚した。 こうしおグズマン倫人の私利私欲から出た行為が明らかずなったわけだが、初めからこの点を利甚しお反撃しようず考えおいたわけではなかったらしい。15ルむずいえば粟々珟圚の日本円にしおもおよそ5、6000円皋床の少額であり、倫人はそれよりはるかに高額なダむダモンドを散りばめた時蚈などをしっかり返還しおいるのも事実なのであっお、この皋床の金額に執着するはずもないず考えおいたようだ。この件に関しお、どのように察凊すべきか本屋のルゞェに手玙を宛おおいるが、圌は無瀌なこずに返事をよこさなかった。それたでボヌマルシェは「15ルむ皋床の額なら諊めおも良いし、ルゞェの顔を立おた察応をしおも良い」ず考えおいたようだが、この䞀件で態床を䞀倉させ、培底的にこの件を利甚するこずにした。 1773幎5月8日、ボヌマルシェは぀いに釈攟された。いざ自由を手に入れるず、圌はパリのサロンを巡り歩いお、自身が䜓隓したグズマン刀事倫劻ずの䞀件を面癜おかしく話のネタにしお芋せた。寝耳に氎の反撃に驚いたグズマン倫劻は、ボヌマルシェを完党に瀟䌚的に抹殺すべく、止めを刺そうず動いた。虚停の陳述曞をでっちあげおルゞェに眲名させ、それを蚌拠ずしお高等法院に莈賄未遂眪でボヌマルシェを告蚎したのである。それだけでは䞍十分ず考えたのか、ルゞェの友人であった劇䜜家の蚌蚀曞を補匷ずしお提出するなどの培底ぶりであった。6月21日、審理が開始され、グズマン刀事倫劻を盞手にしたボヌマルシェの闘争が始たった。ルゞェはたしかに䞊埗意客であったグズマン刀事に圧されお虚停の陳述曞䜜成にかかわったが、良心の呵責からその䞍法行為に苊しんでいた。劻にすべおを打ち明けお盞談した結果、裁刀で真実を述べるべきず諭され、7月䞊旬になっお法廷で陳述曞が虚停であるこずを正匏に認めた。その結果、ルゞェは1か月近く身柄を拘束されお尋問に応じなければならなくなり、ボヌマルシェを初めずする関係者も床々召喚呜什を受けお、出頭する面倒をこなさなければならなくなった。 この圓時の高等法院の慣䟋では、莈賄眪の審刀は非公開で行われ、刀決理由の公衚も矩務ではなかった。しかも、死刑を陀くありずあらゆる刑眰の適甚が可胜であったから、法曹界がその䞀員であるグズマンを救おうず思えばそれが可胜であったし、ボヌマルシェの身柄などどうにでも片づけられるのであった。このように、ボヌマルシェが仕掛けた闘いは自身にかなり䞍利な立堎でのものであったわけだが、圌にはそれ以倖の方法は残されおいなかった。すでに控蚎審に眮いお敗蚎が決定した以䞊、䜕も手を打たなければ莫倧な眰金やら賠償金で立ち盎れないほどの打撃を被っおしたう。独り身ならただしも、圌は父芪や効などの家族を抱える䞀家の長であり、それだけに勝負に出るほかなかったのだ。 ずはいえ、正攻法でたずもに闘っおは勝ち目が薄い。そこでボヌマルシェが考え出した察抗策は、その文才を掻かしお䞖論を味方に぀けるこずであった。裁刀に䞖間の泚目を集めれば、秘密裏に審議を行うわけにもいかなくなるし、刀決理由も非公衚ずはいかなくなるからだ。こうした考えに則っお、1773幎9月5日、ボヌマルシェはこの事件に関する最初の著䜜『芚え曞』を出版した。この『芚え曞』は40ペヌゞに満たない小冊子で、内容はパヌリ=デュノェルネヌずの契玄にた぀わるこず、グズマン刀事倫劻ずの䞀件、裁刀でのルゞェの停蚌などの事実報告ず、敵察者たちぞの反論で構成されおおり、これらを喜劇ずしお面癜おかしくたずめたものであった。この著䜜はたちたち話題ずなり、宮廷貎族から町民に至るたで、あらゆるずころで評刀になったずいう。 これに勇気づけられたボヌマルシェは、同幎11月18日に『芚え曞補遺』を発衚した。この䜜品の出版目的は、グズマンが䞻匵する莈賄未遂の非難に察する自身の匁解を䞖間に広く知らしめるこずにあった。実際、この裁刀の争点は「100ルむずダむダモンドを散りばめた時蚈は、䜕の目的で莈られたのか」の䞀点のみであっお、ボヌマルシェずグズマン倫劻はこの点を巡っお激しく察立した。ボヌマルシェが『芚え曞』の公衚で䞖間に広く䞻匵を蚎えたのず同様に、グズマン倫人やその取り巻きたちも文曞を公衚し、激しい誹謗䞭傷を济びせた。ずころが、肝心のグズマン刀事は沈黙を守っおいた。遺された資料から刀断するに、グズマン倫人は考えの足りない愚かな女であった。倫を庇おうずするあたりに敵察者に有利な蚌蚀を行ったりしおいるわりに、圌女の名矩で発衚された文曞はやたらずラテン語や法埋甚語の出おくる内容で、明らかに教逊ある人物によっお認められたものであった。これはおそらく刀事が曞いたのであろう。これ以倖にも先述したように、ルゞェを䜿っお虚停の陳述曞を䜜成したり、黒幕ずしおうごめいおはいるが絶察に自分の手は汚さない。あくたで被害者ずしお同情を誘う戊略であったのか、他人を盟ずしお安党圏に身を眮く぀もりであったのか、真意はわからないが、結局この行為は無駄であった。12月23日、グズマンにも召喚呜什が発せられ、厳しい尋問が行われるこずずなったのである。 12月20日、ボヌマルシェはこの件に関する3䜜目の著䜜『芚え曞補遺远加』を発衚した。倫劻の取り巻きたちや、グズマン倫人名矩で発衚された文曞に詳现な反論ず嘲笑を加え、莈賄眪の疑いに察しお決定的な反駁を行った。以䞋はその抜粋である: この反論に加えお、ボヌマルシェはグズマン刀事の人間性を暎露する゚ピ゜ヌドを『芚え曞補遺远加』に加えお発衚した。高朔を自負するグズマンはか぀お、町民倫婊の嚘の掗瀌に名付け芪ずしお立ちあった際に、停名ず停䜏所を甚いお受掗蚌にサむンをしおいたのだった。それだけにずどたらず「名付け芪ずしお逊育費を揎助する玄束を党然履行しおくれない」ずの倫婊の蚎えたでもが、添えられおいた。カトリックの重芁な秘蹟である掗瀌に立ち䌚うずいう倧圹を果たしながら、虚停の事柄を甚いお掗瀌を穢したずいう事実は、䞖間がグズマンの人間性に厳しい目を向けるのに十分すぎる内容であった。 すでにボヌマルシェに圧倒的有利な状況が圢成されおいたが、圌は反撃の手を緩めず、1774幎2月10日に『第四の芚え曞』を発衚した。この芚え曞に、スペむン滞圚の際の䞀件を蚘した『1764幎、スペむン旅行蚘断章』を付しおいる。この䜜品では法廷描写をメむンに、グズマン倫劻の蚀動を培底しお滑皜に描き、嘲笑し、培底的にぶちのめす、䞖間に倧受けした冊子であった。3日で6000郚が完売し、ボヌマルシェは時の人ずなったのである。圌の人気は、町民の間だけにずどたらなかった。ルむ15䞖の愛人デュ・バリ倫人は、この䜜品のボヌマルシェずグズマン倫人の法廷でのやり取りを、滑皜な芝居に曞き換え、ノェルサむナ宮殿で䜕床も䞊挔させお楜しんだずいう。 第四の芚え曞は、文孊者や䜜家からも高い評䟡を獲埗した。ノォルテヌルはグズマン倫人の取り巻きず芪しかったこずもあっお、はじめのうちはボヌマルシェに奜意的でなかったが、発衚された『芚え曞』や圓事者たちの反応を自身で粟査するうちにボヌマルシェに傟いおいき、『第四の芚え曞』で完党に圌を支持するに至った。ゞャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピ゚ヌルはボヌマルシェをモリ゚ヌルに比肩する存圚であるず耒めちぎっおいるし、ゲヌテは『スペむン旅行蚘断章』に觊発され、戯曲『クラノィヌゎ』を制䜜したず『回想録』においお述べおいる。圌らだけでなく、特に女性たちはボヌマルシェを熱烈に支持した。こうしお、䞖論を味方に぀けるずいう圓初の目的は芋事に果たされたが、問題はこれが高等法院の連䞭に通じるかどうかであった。 1774幎2月26日、刀決の日を迎えた。この日の裁刀は朝6時から開廷された。これは異䟋の早さであったが、ボヌマルシェの策略によっおこの裁刀䞊びにその刀決に䞖間の泚目が集たっおしたったために、高等法院の担圓者たちは圌らからの非難を恐れたのだろう。ずころがパリ垂民たちは続々ず集たっおきた。すでに午前8時には高等法院の広間は人で埋め尜くされおいたらしいが、䞀向に刀決が䞋される気配がない。刀決圓日になっおも、刀事たちはいただに意芋を統䞀できおおらず、激しく議論しおいたのであった。12時間にわたる議論の末、぀いに刀決が䞋された。「グズマン刀事は高等法院出入り差し止め。グズマン倫人は譎責凊分、15ルむの返华。ボヌマルシェは譎責凊分ず『芚え曞』の焌华。」ずいう内容であった。痛み分けのように芋えお、実質ボヌマルシェの勝利であったが、この刀決を聞いた広間の垂民たちはすぐに怒りだした。刀事たちはそれを予想しおいたので、各々がこっそり法廷から逃げ垰ったずいう。ボヌマルシェは倧衆に枩かく迎え入れられ、コンチ倧公やシャルトル公爵は圌のために豪勢な宎を開催したずのこずである。 『芚え曞』の発衚は、勝利だけでなく、運呜の出䌚いをももたらした。この䜜品を読んで感動したスむス系フランス人女性マリヌ=テレヌズ・ノィレルモヌラスは、ボヌマルシェず面識はなかったが、圌に䌚うこずを熱望した。2人は音楜を通じお仲を深め、そしお恋に萜ちたずいう。圌らは子を儲けたが、ボヌマルシェは結婚に関しお極めお慎重になっおいたから、正匏に結婚したのは1786幎のこずであった。実に12幎埌のこずである。 この刀決によっおグズマン刀事は倱脚し、垂井に溶け蟌んで生掻しおいたが、20幎埌のフランス革呜の折に囜家反逆眪ずしお断頭台の露ず消えた。1794幎7月25日のこずである。マクシミリアン・ロベスピ゚ヌル倱脚の2日前のこずであった。アンドレ・シェニ゚ず同じ囚人護送車に乗せられ、同じ日に凊刑されたずいう。 刀決埌の興奮から芚めるず、ボヌマルシェは自身に䞋された「譎責凊分」の重さを実感せざるを埗なかった。この刀決で蚀う「譎責凊分」ずは、珟圚で蚀う公民暩剥奪に盞圓する重いものであった。この凊分によっお公職から远攟され、法的にもたずもな扱いを受けるこずはできなくなる。厳しい状況に眮かれたボヌマルシェに察する、譊察長官サルティヌヌの助蚀は有効であった。蚀動を慎むように忠告し、「囜王陛䞋がこの件に関しお、䜕も曞かないようお望みである」こずを䌝えたのである。ボヌマルシェはこの助蚀を守るべく、しばらくフランスを離れおむギリスぞ枡るこずにした。その道䞭、圌は友人である䟍埓長ラボルドに囜王ぞの執り成しを願うために手玙を送り、この目的は芋事に達せられた。ボヌマルシェの謹慎を評䟡した囜王は、圌をノェルサむナ宮殿に呌び戻し、グズマン刀事倫劻ずの闘争で芋せた亀枉胜力を自分が抱えおいるある問題の解決に利甚しようず考えた。 この頃、囜王ルむ15䞖は悩み事を抱えおいた。むギリス圚䜏のフランス人テノノヌ・ド・モランドに、愛人であるデュ・バリ䌯爵倫人の醜聞を皮に匷請られおいたのである。圓時、この手のあくどい行為は䞀皮の産業ずもいえるほどむギリスで盛んになっおおり、その曞き手はもっぱらフランス人亡呜者であった。ほずんど誹謗䞭傷に近い内容であったが、これらの冊子は金を払っお出版をやめさせるこずが可胜であり、曞き手もそれが目的であった。モランドは金になりそうな盞手を芋぀けおは䞭傷冊子を発行するずいう性質の悪い行為を繰り返しおおり、デュ・バリ倫人に目を぀けるず、圌女ずルむ15䞖の間柄を暎露する文曞を発行するず通知した䞊で、フランス王宀の出方を芋極めようずしおいたのであった。 ルむ15䞖も、䜕も手を打たなかったわけではない。むギリス王にモランドの身柄匕き枡しを求めたが、折悪く䞃幎戊争の圱響で、フランス-むギリスの二囜関係は極めお冷ややかな関係にあったために実珟しなかった。むギリス政府からは「モランドを保護する気はないため、フランス偎で圌の身柄を秘密裏に抑えるなら黙認する。ただし、囜民感情を逆なでするこずは避けおもらいたい」ずいう返答が垰っおきた。この返答の通りに、ルむ15䞖はモランドの身柄を抑えるべく譊吏をむギリスに掟遣したが、この動きがどこからかモランドに䌝わり、むギリスの新聞にすっぱ抜かれおしたった。察応に手間取っおいるうちに、モランドの甚意した暎露文曞が流通寞前たで来おいた。いよいよ焊った囜王は、亀枉圹ずしおボヌマルシェに癜矜の矢を立おたのである。 ボヌマルシェは、本名カロン( Caron )のアナグラムであるロナク( Ronac )ずいう停名を名乗り、王の密呜を垯びおロンドンぞ向かった。この仕事を成功させれば、囜王の感謝ず庇護ず蚀う、絶察王政化ではこれ以䞊ない匷力な歊噚を手に入れるこずができる。ボヌマルシェは、ロンドンに到着するず早速モランドずの亀枉に入った。亀枉はかなり円滑に銖尟よく進んだようで、文曞の砎棄ずこの件に関する完党な沈黙を条件ずしお、2䞇フランず幎金4000フランの提䟛で合意した。ボヌマルシェずモランドはずいぶん気が合ったようで、その埌も文通を亀わしおいる。芋事に任務を遂行しおフランスぞ垰囜したボヌマルシェであったが、運の悪いこずに垰囜したころには囜王ルむ15䞖の容態が悪化しおおり、この䞀倧事を前に怪文曞事件などはもはやどうでもいい扱いになっおいた。そのたた5月10日にルむ15䞖が亡くなるず、その死を玔粋に悌む気持ちもあっただろうが、期埅しおいた埩暩のきっかけを逃したボヌマルシェは気を萜ずしたずいう。 ルむ15䞖が亡くなったこずで埩暩の手がかりを倱い、気を萜ずしたボヌマルシェであったが、すぐに次の策を芋぀け出した。ナダダ系むタリア人のグリ゚ルモ・アンゞェルッチなる男が、むギリスでルむ16䞖倫劻を䞭傷する怪文曞を制䜜しおいるこずを聞き぀け、これを利甚しようず考えたのだ。ルむ16䞖に宛おお「自身が父王のためにむギリスに赎いお䜿呜を完遂したこず、その件に囜王陛䞋(ルむ16侖)も重芁な関係があるこず」を認めた手玙を送り、譊察長官のサルティヌヌにも同様の内容で手玙を送っお危機感を煜った。その結果ルむ16䞖に謁芋を蚱され、すぐに䞭傷文曞を闇に葬るように、モランドの時ず同様の呜什を受け、王の私蚭倖亀官ずなっお再びむギリスぞ枡ったのである。 ロンドンには、か぀おスペむン滞圚䞭に知己を埗たロシュフォヌド卿が政府高官ずしお健圚であった。ボヌマルシェは圌を通しおこの䜿呜を果たそうず考えたようだが、ロシュフォヌド卿の理解を埗られず、早速行き詰っおしたった。困ったボヌマルシェは、囜王の呜什曞の送付を芁請した。その文面たで提案しおいたり、サルティヌヌに同様の手玙を送り぀ける培底ぶりであった。サルティヌヌ宛おの手玙にはアンゞェルッチの怪文曞の調査報告も付されおいる。ボヌマルシェの報告が党郚事実であったかどうか疑問が残るが、若き囜王ルむ16䞖は「王劃の名誉が穢されようずしおいる」ずの報告を受けお冷静に思案を巡らせるほどの噚量の持ち䞻ではなかった。慌おた囜王は、ボヌマルシェの芁請に応えお、圌の提案した文面の呜什曞に眲名を行った。 こうしおボヌマルシェはアンゞェルッチずの亀枉に入ったが、モランドの時ずは違っおなかなか円滑には進たなかった。アンゞェルッチが高額な金銭を芁求しおきたため、あれこれ亀枉を重ね、およそ35000リヌノルの支払いで合意に至った。原皿ず印刷枈みの4000郚の文曞がロンドンで焌华され、぀いでもう䞀぀の怪文曞発行予定地であるアムステルダムに2人䞀緒に赎いお、同地でも出版予定の冊子を焌华するこずずなった。ずころが、突然アンゞェルッチが金ず怪文曞の原皿コピヌを持っおニュルンベルクに逃走し、そこで怪文曞を発行する動きを芋せた。ボヌマルシェはこの裏切りに激怒し、すぐさた埌を远った。 ここたでの経緯は事実ずしお考えおよいようだが、ここからの経過は資料䞍足もあっお、虚実織り亀じっおいるず考えられる。 8月14日の倕方、ニュルンベルクから遠くないノむシュタットの町圹堎に、䞍思議な客を乗せたずいう駅銬車の埡者ペハン・ドラツが珟れ、蚌蚀を残しおいった。それによれば、ロナクず名乗る男はノむシュタット近くの森を通過䞭、駅銬車から降りお剃刀ず手鏡を持ち、森を出たずころで埅぀ように蚀い残し、森の䞭ぞ消えおいった。その指瀺に埓っお埅っおいるず、斧を担いだ暵3人の埌ろから、ハンカチで手に応急凊眮を斜したロナク氏が珟れたずいう。ハンカチには手がたみれ、銖筋から血が流れおいるのが芋えたのでどうしたのか問うず、盗賊に撃たれたず答えた。銃声を聞いおいないドラツは、剃刀で自身を傷぀けたのだろうず刀断し、それ以䞊深入りしなかったずいう。 このロナク氏はなぜか近隣の自治䜓ではなく、翌日になっおニュルンベルクの圓局に出頭しお自身の被害を蚎え出た。その被害報告では盗賊の容姿が詳现に語られ、2人の盗賊の名前ずしおアンゞェルッチ、アトキン゜ンずいう名前を挙げられおいる。アトキン゜ンずは、怪文曞を発行しようずしおいたアンゞェルッチの甚いおいたむギリス名であるから、このロナク氏がボヌマルシェであるこずは間違いないし、この被害報告の提出動機も明らかである。アンゞェルッチの身柄を公暩力によっお抑え、あわよくばフランスぞ連行しようず考えたのだろうが、それはずもかく、1人の人間を2人に分割したこの被害報告には無理があった。なぜこのようなこずをしたのか、この件に関しおはドラツの蚌蚀ずボヌマルシェの手玙しか資料が存圚しないため、確かなこずはわからない。ボヌマルシェはこの件に぀いお、自身を英雄のごずく劇的に描いおいる。 8月21日、ボヌマルシェはシェヌンブルン宮殿に赎き、女垝マリア・テレゞアずの面䌚を求めたが、取次を拒吊されおしたった。仕方なくボヌマルシェは秘曞官に「ご什嬢のマリヌ・アントワネットの名誉が穢されようずしおいるから、その件をお䌝えしに参りたした」ずのメッセヌゞを蚗しお匕き䞊げた。このメッセヌゞに疑問を抱いた女垝は、偎近の䌯爵にボヌマルシェず接觊させ、その䌯爵の同垭のもずに翌日になっお謁芋を蚱した。この垭の様子はボヌマルシェがフランス垰囜埌にルむ16䞖に提出した報告曞で仔现に語られおおり、この垭でマリヌ・アントワネットぞの忠誠心、これたでの顛末、停名を甚いた理由を語り、逃走したアンゞェルッチから䞭傷文曞を奪い取ったこずを䌝え、この男の逮捕を匷く進蚀したずいう。 ずころが、女垝ずその偎近たちはボヌマルシェの話を党く信甚しおいなかった。圌らはそもそもアンゞェルッチなる男が存圚するのか、そこから疑いをかけおいたようだ。ボヌマルシェは軟犁状態に眮かれ、厳しい監芖䞋のもずで過ごさなければならなくなった。宰盞カりニッツは、ドラツの蚌蚀の調査を開始するずずもに、フランス駐圚オヌストリア倧䜿を通じお、フランス政府にボヌマルシェの瀟䌚的信甚を尋ねおいる。実際のずころ、アンゞェルッチずいう男の存圚は長らく蚌明できなかった。1887幎になっおようやく、ボヌマルシェの手玙䞭にこの男の名前があるのが確認されたため、今日においおは「ボヌマルシェ≠アンゞェルッチ」であるこずは確実である。女垝に謁芋を求めた目的ずしお「その感謝を獲埗しお、フランス瀟䌚での自身の埩暩に利甚したのではないか」ずの疑いもかけられたが、文曞差し止めには成功しおいるのだから、そのたた垰囜すれば埩暩のための蚈画は銖尟よく運ぶに違いないので、これも単なる疑いの域を出おいない。 このように考えるず、「アンゞェルッチがニュルンベルクに逃走し、それを知ったボヌマルシェが埌を远っお圌を捕たえ、持っおいた文曞のコピヌを奪い取った」ずいうこずは間違いないず思われる。ただ、ドラツの蚌蚀でも少し觊れられおいる「盗賊に襲われた」ずいう件に぀いおはかなりの疑問が残る。結局はっきりした事実はわからないのだが、研究者の䞭でもこの件に぀いおの芋解は割れおいる。党くの虚停、狂蚀ず断じる研究者もいるが、ボヌマルシェ自身の蚌蚀を党面的に支持する者もいる。おそらく、アンゞェルッチから怪文曞のコピヌを奪い取ったボヌマルシェが、自身の行為をもっず矎化しようずしおでっち䞊げたのだろう。女垝マリア=テレゞアに自身を売り蟌み、醜聞からブルボン王宀を救ったずしお箔を付ければ、自身の埩暩に倧いに圹立぀からだ。しかし、それが通甚しなかったこずは先述したずおりである。女垝ず宰盞カりニッツの疑いを受けお勧められおいた調査の結果、フランス政府からの身元保蚌もあっお、ボヌマルシェは軟犁状態から解攟され、10月2日に垰囜した。この件に関するカりニッツの曞簡が残されおいるが、それによれば、最埌たでボヌマルシェは信頌されおいなかったようだ。 1775幎、たたしおもボヌマルシェは王の密呜を受けお掻動しなければならなくなった。デオン・ド・ボヌモンずいう男が、倖亀䞊の曞類、故ルむ15䞖の曞簡を有しおいるこずが刀明したためである。この男が持っおいた文曞の䞭には、ルむ15䞖が密かに蚈画しおいたむギリス䞊陞䜜戊蚈画曞もあったらしく、フランス政府ずしおは絶察にこれらの文曞を流出させるわけにはいかなかった。 デオン・ド・ボヌモンずいう男は、1728幎生たれで、士爵の称号を持っおいた。若い時から女性ず間違えられるような矎貌の持ち䞻であったらしく、ルむ15䞖の呜什で女装しおロシア宮廷に仕え、゚カチェリヌナ2䞖の語孊教垫を務めたずいう。1763幎にはむギリスで特呜党暩公䜿ずしお囜王の密呜を垯びお工䜜を行ったが、圓時のむギリス駐圚フランス倧䜿ゲルシヌ䌯爵ず激しく察立し、圌を倱脚させる原因を䜜った。ゲルシヌ芪子の恚みを買ったため、デオンも特呜党暩公䜿の地䜍を剥奪されたが、囜王は圌の胜力を高く評䟡しおいたため、幎金を䞎えおそのたたむギリスに滞圚させおいたのであった。この頃から垞に女装し始めたらしく、その倉装は、圌の性別が賭けの察象ずなるほど完璧なものであったずいう。 ボヌマルシェは1775幎4月末、䞀時的にロンドンに滞圚しおいた。デオンはこの情報を掎み、ボヌマルシェに接觊しお、すでに受けおいる幎金に加えお30䞇リヌノルを芁求する意志があるこずを告げた。デオンは、ボヌマルシェが女性に優しいこころを持っおいるこずを看砎しおいたようで、そこに぀け蟌むこずに芋事に成功した。ボヌマルシェは、内務倧臣に昇進しおいたサルティヌヌにデオンの芁求を䌝え、サルティヌヌは倖務倧臣ノェルゞェンヌに話を通しお、ボヌマルシェ宛に亀枉䟝頌状を送付した。これが正匏な亀枉ずなるのは、8月末のこずであった。 デオンはそれたでのモランドやアンゞェルッチずは違っお、か぀おは特呜党暩公䜿を務めた貎族であるから、ボヌマルシェは特に泚意深く圌を扱った。金銭条件は圓然ずしお、特にデオンが拘ったのはフランスぞの安党な垰囜であった。デオンは、ゲルシヌ芪子ず察立した結果始たったむギリス滞圚にうんざりしおおり、囜王の垰囜蚱可ず身の安党保蚌を芁求したのだった。このこずを知らされた倖務倧臣は、ゲルシヌ芪子の恚みの深さを理由に難色を瀺したが、「デオンが女装する条件で」垰囜を容認するず返答しおきた。ボヌマルシェはこの奇策に乗っかっお亀枉を行い、11月4日、正匏にデオンずの合意に至った。その合意では、デオンに「所有する曞類の党おの匕き枡し、ゲルシヌ芪子ぞの法的远及の攟棄、女装の培底」を玄束させる代わりに「12000リヌノルの終身幎金ずロンドンでの負債の䌚蚈監査」を玄束しおいる。この奇劙な合意は、12月になっおルむ16䞖の承認を受けお正匏に発効された。合意成立埌、ボヌマルシェがデオンを䞀貫しお女性ずしお扱っおいるこずから、デオンを本圓に女性であるず思っおいたずか、デオンず関係を持ったずか掚枬する者もいるが、1775幎にデオンはすでに47歳であり、いくら昔はずびきりの矎貌を持っおいたずはいっおも、珟実的な考えであるずは蚀えないだろう。このデオンずの亀枉を最埌にボヌマルシェは王の私蚭倖亀官ずいう圹目から解攟された。 王の密呜を垯びおデオン・ド・ボヌモンず亀枉に圓たっおいた1775幎は、アメリカ独立戊争の勃発した幎でもあった。圓時のフランスは、䞃幎戊争での敗北をいただに匕きずっおいた。この戊争で100䞇人近い人員を倱い、倧量の領土を奪われた挙句、屈蟱的な譲歩を匷いられおいたためである。その結果、むギリス海軍は倪平掋の制海暩を掌握し、たさに䞖界最匷ずしお実力を誇瀺しおいたのだ。 むギリスに滞圚しおいたボヌマルシェは、デオンずの亀枉にのみ専念しおいたわけではなかった。亀枉に圓たり぀぀も、むギリスの倖務倧臣ロシュフォヌド卿や、銖盞であるフレデリック・ノヌスやロンドン垂長ゞョン・りィルクスの邞宅に出入りしお、反乱軍に共鳎する人間ず通じ合い、アメリカ独立戊争に関する情報を埗おいた。その結果、この独立戊争がどのようになろうが、いずれにしおも「フランスはアメリカを極秘に支揎するべき」ずの考えに達した。1775幎9月ごろから、ルむ16䞖ず倖務倧臣ノェルゞェンヌに宛おお、アメリカを支揎するように説埗する手玙を䜕通も送っおいる。 その内容を簡朔に芁玄するず、「フランスはアメリカを支揎するべきである。もし反乱軍が敗北したならば、圌らはただ傍芳しおいたフランスを恚みに思っお、むギリスず結蚗しお攻撃しおくるだろう。その結果、再び倧損害を被っお、たすたすむギリスずの囜力の差が広がるこずずなる。そうならないためにもフランスは反乱軍を支揎しなければならないが、正面切っおむギリスず戊う䜙裕はただないから、その準備をし぀぀アメリカを極秘に支揎しなければならない。そのためにむギリス本土で正確な情報を獲埗できる人間が必芁だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」ずなる。倖務倧臣ノェルゞェンヌもこの意芋に玍埗したようで、囜王ルむ16䞖に進蚀し、ボヌマルシェを正匏にその任に圓たらせるこずにした。こうしおボヌマルシェは、単なる王の私蚭倖亀官から、倖亀顧問ずなったのである。 ボヌマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、むギリスの政暩䞎党のみならず、野党など幅広い人物から情報を獲埗しようず努めた。フランスに垰囜するたびに囜王の偎近倧臣に情報を䌝え、米英の分断政策を展開するように進蚀したが、いくら倧臣ずはいえ、決裁暩を持たない人間盞手では䞀向に埒が明かなかった。そのため、やがお囜王に盎接手玙を送り、䞁寧に、しかしけしかける様にアメリカを支揎するよう提案を行ったが、囜王の態床は煮え切らなかった。だが、それも圓然ずいえば圓然であるだろう。いくら怍民地偎に反乱を起こす倧矩があったずしおも、他囜であるフランスがそれを公に認めお支揎を行えば、それはすなわちむギリスぞの宣戊垃告ず同様の意味を持぀。先述したように、この圓時はむギリスはたさに䞖界最匷であったし、フランスは囜力を匱めおいたから、攻撃されればひずたたりもなかったのである。ボヌマルシェもこの点は承知しおいたようで、1776幎2月29日の手玙ではむギリスの情勢を玹介し、反乱軍がフランスの支揎がないこずに絶望しかかっおいるず様子を䌝えた䞊で、火䞭の栗たるアメリカ支揎任務は自分が匕き受けるこずを䞻匵した。 こうしお、正匏にアメリカ支揎の任務に圓たるこずになったボヌマルシェであったが、やはり慎重な姿勢を厩さないフランス政府は条件を付けおきた。アメリカ反乱軍を支揎はしたいが、むギリスを刺激するのは囜家存亡に関わる。そのため政府ずしおの支揎ではなく、単なる個人的投機ずしお誰の目にも映るようにしおもらいたい、ずいうのがその条件であった。そのための方法も詳しく指定されおおり、それによれば「ブルボン王家ず芪しく、利害関係のあるスペむン王家ずフランス政府からの200䞇リヌノルず、それに民間から出資者を募っお集めた資金を基に商瀟を蚭立し、アメリカ反乱軍に必芁な歊噚匟薬などを提䟛する。フランス政府が歊噚を調達しお商瀟に売り枡すが、反乱軍には金ではなく、物を芁求しなければならない。」ずいうものだった。 1775幎9月6日、高等法院の刀決によっおボヌマルシェは正匏に瀟䌚的埩暩を果たした。商瀟蚭立のための障壁は完党に取り陀かれたが、その蚭立のために必芁な民間出資者がなかなか集たらなかった。それでもなんずか資金を集め、同幎10月に「ロドリヌグ・オルタレス商䌚」なる名前で商瀟を蚭立した。こうしお、ボヌマルシェは船や歊噚匟薬、矩勇軍集めに奔走するなど、商人ずしお動き始めたが、いささか掟手に掻動しすぎた。むギリス偎が圌の動きを察知し、倖務倧臣ノェルゞェンヌに猛抗議しおきたのである。いくら民間業者である(そのように装っおいるだけだが)ずはいっおも、倖亀関係があるむギリスからの猛抗議を無芖できなかったフランスは、沿岞の枯に船員の乗船ず出枯犁止を発什した。ボヌマルシェの甚意しおいた3隻の船のうち、2隻はこの呜什によっお足止めを食らったが、䞀番倚く支揎物資ず人員を積んだ1隻は発什の盎前に出枯しおいた。ずころが、この船に乗り蟌んだフランス矩勇軍の叞什官が、船の乗り心地の悪さを理由に他のフランスの枯に立ち寄るように船長に求めたため、結局他の2隻ず同じように足止めを食らった。この顛末を聞いたボヌマルシェは激怒し、この叞什官を船から降ろした䞊で、ノェルゞェンヌず亀枉を重ねた。その結果、この3隻の船は1777幎初頭、密かにアメリカ倧陞ぞ向けお出枯し、むギリスの軍艊に芋぀かるこずもなくアメリカぞ無事到着した。初めおの支揎物資が届いたこずを知ったアメリカ人たちは、熱狂したずいう。 ずころが、ボヌマルシェはミスを犯しおいた。歊噚匟薬の代わりずしお倧量の物産を積んで垰っおくるはずの3隻の船は、空っぜのたたで垰っおきたのである。これには、ボヌマルシェが関わったアメリカ人、アヌサヌ・リヌ、サむラス・ディヌン、アメリカ建囜の父ずしお高名なベンゞャミン・フランクリンが密接に絡んでいる。 最初にボヌマルシェず知り合ったのは、アヌサヌ・リヌであった。圌はノァヌゞニア州生たれであったが、むヌトン・カレッゞで孊び、゚ゞンバラ倧孊を出たのち、ロンドン垂長りィルクスの䞋に出入りしおいた。そこでボヌマルシェず出䌚い、アメリカの秘密䜿節ずしお圌ず亀枉するようになったのだ。亀枉の初期段階においおボヌマルシェに情報を流しおいたのはこの男であった。だが、いささかその性栌に難があった。嫉劬深い性栌で、恚みを根に持ち、猜疑心の匷い男であったらしい。 1776幎7月4日、独立を果たしたアメリカは、サむラス・ディヌンずベンゞャミン・フランクリンを代衚ずしおパリに掟遣した。遅れおリヌもパリに到着したが、その頃にはすでに圌らはボヌマルシェを通じおフランス政府ずの亀枉で実瞟を挙げ぀぀あった。このような状況を芋お、リヌは激しく焊り、嫉劬心に駆られた。1777幎1月3日付のアメリカ議䌚ぞ宛おた手玙で、ボヌマルシェの玄束䞍履行をなじり、歊噚匟薬に芋返りに䜕も支払う必芁はないずの報告を行っおいるこずでそれは裏付けられるだろう。だが、ボヌマルシェにも非はあった。圌はリヌをさほど信頌しおおらず、その亀枉も衚面的でしかなかったず手玙に認めおいる。ボヌマルシェが亀枉盞手ずしおサむラス・ディヌンを信頌し、圌を遞んだためにリヌは立堎を倱い、ボヌマルシェに恚みを抱いたのである。これだけで枈めばよかったのだが、今床はサむラス・ディヌンが原因になっお、他にも恚みを買うこずになった。ディヌンがフランスに立぀際、仕事を円滑に進めるために、ベンゞャミン・フランクリンはデュブヌル博士ずいう男に宛おた掚薊状を䞎えおいた。デュブヌルずいう男は、フランクリンずの関係を利甚しおボヌマルシェより前からアメリカに歊噚を提䟛しおいたが、圌の登堎によっおその商売が危うくなっおいた。ディヌンは、同じ商売を手掛けるボヌマルシェずデュブヌルを倩秀にかけた結果、ボヌマルシェの方が亀枉盞手ずしお有力であるずの刀断を䞋した。こうしおデュブヌルの恚みをも買うこずになったのである。この結果、ボヌマルシェはフランクリンずあたり良い関係を構築できなかった。デュブヌルが悪評を吹き蟌んでいたのかもしれない。 こうしお、ボヌマルシェはディヌンを盞手に亀枉を進め、1776幎7月䞋旬には亀枉をたずめた。「歊噚匟薬の代わりに、ノァヌゞニアなどの煙草を匕き枡す」ずいう内容であったが、ボヌマルシェは詰めが甘かった。この亀枉成立のおよそ1か月埌にフィラデルフィアの議䌚に手玙を送っおいるが、良い印象を怍え付けようずしたのか、アメリカ独立ぞの熱烈な共感を匷調したいあたりに、それだけが際立぀文面ずなっおしたい、肝心の商売の話をうやむやにしおしたったのである。議䌚がこれを誀解したのか、぀け蟌んで利甚したのかはわからないが、䜕にせよその結果は先述したずおりである。圓おが倖れたボヌマルシェは商瀟の経営に行き詰ったが、幞いなこずに倖務倧臣ノェルゞェンヌが100䞇リヌノルを远加融資しおくれたおかげで、䜕ずか砎滅せずに枈んだ。 1778幎2月6日、それたで慎重な姿勢を厩さなかったフランス政府も、ボヌマルシェの報告を分析したり、フランクリンなどずの亀枉の進展を芋お、パリにお仏米友奜通商条玄ず仏米同盟条玄を締結した。こうしおフランスずむギリスは戊争状態に突入し、ボヌマルシェの商瀟は玔粋な民間業者ずなった。圌は最初の倱敗を教蚓ずしお、助手であったデノノヌ・ド・フランシヌをアメリカに送り、貿易業者ずしおアメリカ新政府ず正匏に契玄を亀わすに至った。1779幎1月には、アメリカ議䌚の芁請によっお発せられた議長ゞョン・ゞェむ名矩の感謝状を手に入れるほどであった。この感謝状には「これたでに合衆囜支揎のために被った負債の支払いを速やかに行う」ず蚘されおいたが、その負債の巚額さもあっお、ボヌマルシェの生前はこの通りに履行されなかった。1835幎になっお、ボヌマルシェの盞続者たちに80䞇フランが莈られおようやく片付いたのであった。 アメリカ独立戊争に絡むこの貿易では、巚額の負債が足を匕っ匵っお、ほずんど利益を挙げられなかった。だが、アメリカの独立ず祖囜フランスの圹に立ったのは間違いない。アメリカ独立戊争に関わっおいたこの時期、1777幎1月にマリヌ=テレヌズ嬢ずの間に嚘をもうけ、ナヌゞェニヌず名付けた。 1770幎代埌半になっおも、ラ・ブラシュ䌯爵ずの裁刀は続いおいた。ボヌマルシェの倚忙を知った䌯爵は、刀決が䞋される予定地である゚クス=アン=プロノァンスに腰を据えお、自分に有利な刀決が出る様に工䜜掻動を進めおいた。誹謗䞭傷文曞のばらたきに勀しんだほか、朝早くから刀事を蚪れお自身の䞻匵を蚎えたほか、6人の匁護士を雇っお準備を重ねるなど、その掻動は抜かりのないものであった。 ロドリヌグ・オルタレス商䌚の仕事でマルセむナを蚪れたボヌマルシェは、䌯爵の䞊蚘のような掻動を知り、反論文曞を曞き䞊げお゚クス=アン=プロノァンスで出版した。この文曞は同地の䜏民たちに倧受けしたようで、圌の人気は䞀気に高たった。予期せぬ反撃に䌯爵は慌お、反論文曞を発衚した䞊で、ボヌマルシェの文曞の差し止めず焌华を求める請願曞を裁刀所に提出した。これにボヌマルシェが再反論を加えるなど、泥仕合の様盞を呈する論争で盛り䞊がる垂民たちを尻目に、゚クス=アン=プロノァンスの裁刀官たちは慎重にこの件に関する調査を行っおいた。ボヌマルシェは、すべおの刀事が同垭する䞊で䌯爵ずずもに陳述させる機䌚を䞎える様に裁刀所に請願し、認められた。この2人はずもに雄匁家であったから、倧いに街の人々の関心を惹き぀けたらしい。59回に及ぶ審理の結果、1778幎7月12日、゚クス=アン=プロノァンスの再審法廷は、裁刀官党員䞀臎でボヌマルシェの勝蚎ずいう刀決を䞋した。䌯爵の䞻匵は悉く退けられただけでなく、根拠のない誹謗䞭傷ず断じられ、ボヌマルシェの本来の暩利であった15000リヌノルに加えお、この裁刀に芁した費甚はすべお䌯爵が支払うこずになったのである。 この刀決に、町䞭が沞き返った。長幎の苊しみから解攟されたボヌマルシェは、涙を浮かべ、喜びのあたりに気を倱ったずいう。䌯爵もさすがに根負けしたようで、刀決に玠盎に埓ったようだ。こうしお、10幎近くに亘るラ・ブラシュ䌯爵ずの闘争は幕を閉じたのである。 『フィガロの結婚』は、ボヌマルシェの最倧の庇護者であったコンチ倧公の「『セビリアの理髪垫』以䞊に陜気な、フィガロ䞀家を舞台に登堎させおほしい」ずいう芁請に応えお制䜜された䜜品であった。その完成を目にするこずなく倧公は亡くなっおしたったが、ボヌマルシェは倧公ずの玄束を果たそうず必死になり、結局1778幎に完成させた。1781幎9月、オペラ・コミックに客足を奪われ、興行成瞟の䜎迷に苊しんでいたコメディヌ・フランセヌズの委員䌚は、同䜜品を䞊挔䜜品ずしお受理するこずを決めた。これに気を良くしたボヌマルシェは、譊察長官に怜閲申請を行い、そこでも問題なしず刀断されお、正匏に䞊挔蚱可を獲埗した。 『フィガロの結婚』を高く評䟡しおいた貎族たちからの芁請を受けお、囜王ルむ16䞖も刀断を䞋すために同䜜品を取り寄せた。これを朗読させ、王劃マリヌ・アントワネットずずもに耳を傟けたずいう。この時、朗読圹を任されたカンパン倫人の回想録に、この時の囜王倫劻の反応が蚘録されおいる: 今日においおは「凡庞そのもの」ずか「無胜」ずか評䟡されるこずも倚いルむ16䞖であるが、倧勢の貎族が『フィガロの結婚』を衚面的にしか理解しおいなかった(からこそ、䜜品䞊挔を支持した)のに察しお、その危険性を芋抜いお䞊挔犁止を蚀い枡したずいう事実は、結果論ではあるが囜王に先芋の明があったずも蚀える。この圓時のフランス瀟䌚においおは、垂民たちはアメリカ独立戊争に刺激されお着々ず力を蓄え぀぀あったし、貎族の間でも啓蒙思想が広く受け入れられおいた。たさか10幎もたたないうちに、自分たちが「フィガロ」のごずき垂民たちに攻撃されるずは考えもしおいなかったため、フィガロの暩嚁を恐れもしない陜気な䞍屈さを愛し、その蟛口な台詞の裏に隠された暩嚁吊定や身分制床批刀の意図に気づかなかったのである。 こうしお、䜜品の䞊挔ならびに出版は犁止されおしたった。だが囜王が自ら䞊挔犁止凊分を䞋したずいう事実が、华っおパリの人々の関心を刺激する結果ずなり、ボヌマルシェはあちこちで朗読をせがたれた。䜜品の䞊挔蚱可を取り付けるために、囜王ぞの抵抗ずしお、圌はこの朗読を利甚しようず考えた。毎日のように朗読䌚が開かれ、その巧みな朗読に倧勢の人々が倢䞭になったずいう。こうしお自信を深めたボヌマルシェは、2床目の怜閲申請を行った。この際の怜閲官には、ゞャン=バティスト=アントワヌヌ・シュアヌル( Jean-Baptiste-Antoine Suard )が遞ばれた。シュアヌルはアカデミヌ・フランセヌズ䌚員であった(垭次26番)が、平凡な劇䜜家であり、劇䜜家ずしお成功しおいるボヌマルシェを快く思っおいなかったらしい。このような人間が怜閲を審査するのだから、䞍道埳ずしお华䞋された。 1783幎になっおも䞊挔犁止措眮は続いたが、同幎6月13日、突然コメディヌ・フランセヌズの圹者たちにムニュ・プレゞヌル劇堎( HÃŽtel des Menus Plaisirs )で『フィガロの結婚』を䞊挔するように通達が届いた。正確にはわからないのだが、王匟アルトワ䌯爵が兄である囜王に迫っお、蚱可を出させたのだろうず掚枬されおいる。このこずは瞬く間に貎族たちの間に広がり、公挔のチケットは完売する熱狂ぶりであったが、幕が開く寞前で囜王の䜿者が珟れ、䞊挔犁止の決定を䌝えたのであった。優柔䞍断な性栌であったず䌝えられる王のこずだから、この件でもその性栌が出たのだろう。だが、たさに寞前でお預けを食らった貎族たちは黙っおいなかった。この決定には反発が倧きく、結局囜王は9月26日になっお、ノォドルむナ䌯爵の別荘で300人の貎族を前にした䞊挔を蚱したのであった。 これに勢いを぀けたボヌマルシェは、䜜品の健党性を蚌明しようず躍起になった。『フィガロの結婚』の怜閲申請をさらに4床にわたっお繰り返し、圌の味方であったブルトィナ男爵に請願しお「文孊法廷」なるものを開催しおもらうなど、培底しおいた。これらをすべおクリアしたこずで、同䜜品には有識者たちの信甚が䞎えられたのである。その結果、抵抗を続けおいたルむ16䞖もさすがに折れ、぀いに垂䞭での公挔蚱可を出し、1784幎4月27日に初挔が行われた。パリ垂民が党員抌しかけおきたのではないかず思うほどの倧成功であったずいう。 ずころが、1785幎3月にボヌマルシェは筆犍事件を起こした。この事件は、フランス発の日刊玙『ゞュルナル・ド・パリ』に匿名の蚘事が茉ったこずに端を発する。ボヌマルシェはこの蚘事に反応し、返答を同玙に掲茉させたが、䞡者のやり取りは次第に過激化しおいった。これに腹を立おたボヌマルシェは、3月6日付で同玙の線集局に手玙を送ったのだが、その䞭の衚珟に問題があった。この手玙の「劇公挔を実珟するためにラむオンや虎を打ち負かさなければならなかったわたしが...」ずいう蚘述の「ラむオンや虎」ずいう比喩を、囜王ルむ16䞖は自分たち倫劻のこずであるず解釈したのだ。元々日刊玙宛おに送られた手玙であったが、すぐにその内容は囜王の知るずころずなり、この蚘述が問題ずなっおボヌマルシェはサン=ラザヌル牢獄に入れられおしたった。この牢獄は、政治犯や貎族が収容されるずころではなく、攟蕩のあたり身を持ち厩した良家の子匟などが入れられる牢獄であった。53歳にもなっおこのような牢獄に入れられたずいう事実は、ボヌマルシェのプラむドをかなり傷぀けたようだ。 しばらく面癜がっお芋おいた䞖間も、さすがにこの王の行為を行き過ぎた暪暎ず芋るようになった。5日埌には釈攟呜什が出されたが、プラむドを傷぀けられお意固地になっおいるボヌマルシェは、䞭々その呜什に埓おうずしなかった。懞呜な呚囲の人々の説埗によっおしぶしぶ牢獄を出た圌は、王に名誉回埩のための条件を耇数突き぀けた。いく぀かの条件は党く無芖されたようだが、囜王はその代わりずしお、ノェルサむナ宮殿の離宮にボヌマルシェを招埅し、『セビリアの理髪垫』を王劃や王匟に挔じさせたり、アメリカ独立戊争で被った負債の補償ずしお80䞇リヌノルを䞋賜するなど、芁求を䞊回る賠償をしたず蚀えるだろう。 『フィガロの結婚』䞊挔に関しお䞀旊は囜王に犁止呜什を出されながらも、それを撀回させお芋事に䞊挔を成功させたボヌマルシェは、たさに人生の絶頂期にあった。だが氎道を巡る事業ず、顔さえも知らない女性の問題に矩䟠心から銖を突っ蟌んだこずで足をすくわれ、その栄光にも陰りが出始めた。これらの問題を契機ずしお陰り始めた圌の栄光は、フランス革呜の勃発で完党に止めを刺されるこずになる。 18䞖玀のパリが、ずにかく䞍朔で非衛生的な郜垂であったこずはよく知られおいるが、それは人間が生きる䞊で欠かせない氎においおも䟋倖ではなかった。井戞氎は排泄物やその他無数の汚物の混入によっお汚染され、それを甚いおパンやビヌルを䜜るものだから、健康にも悪圱響を䞎えおいた。圓時の人々がどのように枅朔な氎を手に入れおいたかずいえば、街を緎り歩く「氎売り」からのみであった。このような状況を解決しようず、1777幎に発明家のペリ゚兄匟はパリ氎道䌚瀟を蚭立した。シャむペの䞘に揚氎ポンプを蚭眮しおセヌヌ川の氎を汲み䞊げ、パむプを通しおその氎をパリ垂民に提䟛するのが目的であり、この圓時ずしおはたさに画期的な詊みであった。1780幎代になっお、ペリ゚兄匟の芁請を受けお、ボヌマルシェも経営に参加するようになった。 䌚瀟は資金集めのために株刞を発行したが、初めのうちは䞭々買い手がおらず、額面の2000リヌノルを割り蟌む始末であったが、1785幎になっお人気が沞隰し、結局4000リヌノルの倀を付けるたでになっおいた。銀行家のクラノィ゚ルずパンショヌはこれに目を付け、株䟡の䞋萜を狙っおあれこれ仕掛けたが倱敗し、倧損しおしたった。そのため、䌚瀟の信甚を傷぀けお株䟡の䞋萜を謀ろうず考え、ミラボヌ䌯爵をけしかけお、攻撃文曞を曞かせるこずにした。この目論みは芋事に成功し、攻撃された氎道䌚瀟の株䟡は半分近くたで䞋萜した。ミラボヌ䌯爵は、以前ボヌマルシェに借金を申し蟌んで断られたこずを根に持っおいたようだ。 ボヌマルシェもこれには黙っおいなかったが、これたでずは違った反応を芋せた。圌の公開した反論文曞は、盞手の非難より氎道䌚瀟蚭立の意矩やその業務の進行状況に倚くを割いた内容のものであった。ミラボヌ䌯爵ぞはたるで倧人が子䟛をたしなめるかのような回答を向けおおり、それは攻撃ずいうよりからかい皋床のものであった。䌯爵はこの回答に激怒し、本来の目的であった氎道䌚瀟の件を忘れお、ボヌマルシェぞの人身攻撃に躍起になったが、ボヌマルシェは盞手にしなかった。理由はわからないが、この手の論争に飜き飜きしおいたのかもしれない。この2人の関係は1790幎になっお、䌯爵からの和解の申し出によっお修埩されたが、この時のボヌマルシェの態床をパリ垂民たちは匱腰ず考えたようで、埌々この点に぀け蟌たれるこずになる。 1786幎12月、すでに同棲しお12幎以䞊になるマリヌ=テレヌズず正匏に結婚した。 1781幎10月、ボヌマルシェはあるナッサり倧公劃の邞宅に倧勢の人ずずもに食事に招かれ、その垭である女性の話を耳にした。その女性は倫にひどい扱いを受けおおり、邞宅に監犁されおいるずいう。倧公倫劻はこの女性を自由の身にしおやりたいず考えおいたため、ボヌマルシェに協力するように求めたが、これたで行動を起こすたびにトラブルになっおきたこずを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の倫が出した手玙を読むうちに次第に態床を倉え、女性の救出に協力する気になったようだ。 この女性は、名をコルヌマン倫人ずいう。スむスに生たれたが、13歳で䞡芪を倱った。15歳の時、芪族の勧めに埓い、持参金36䞇リヌノルを携えお銀行家であるコルヌマンず結婚した。次第にドヌデ・ド・ゞョサンずいう男を愛人にするようになったが、これは圌女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドヌデの裏には軍事倧臣モンバレヌ公爵がいるこずを知り、圌を通じお軍事倧臣に取り入っお私腹を肥やそうずしおいたのだ。この詊みは芋事に成功したが、1780幎12月に軍事倧臣が亀代するず、ドヌデの利甚䟡倀が無くなったために圌を切り捚おた。その䞀方で、銀行業の赀字を解消しようず倫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒吊されたため、囜王の封印状を手に入れお身重の倫人を牢獄ぞぶち蟌んだのであった。 早速救出に乗り出したボヌマルシェは、ノェルサむナに赎き、ナッサり倧公倫劻ずずもに手分けをしお関係者ぞ働きかけた。その結果、12月17日付で倫人を産科医の家に移しお看護せよずの王の呜什曞を獲埗した。こうしお倫人は産科医のもずで出産を枈たせ、コルヌマンの手の届かないずころで法による庇護を受けるこずができた。離婚が蚱されない時代であったから、コルヌマンは和解しようず考えたようだが、うたくいかず、結局別居状態のたた数幎間が経過した。 それから5幎以䞊が経過した1787幎2月、突然この件に関するコルヌマン倫人、ナッサり倧公倫劻、ドヌデ・ド・ゞョサン、譊察長官ルノワヌル、ボヌマルシェの5人を暙的ずした䞭傷文曞がパリに倧量にばらたかれた。この文曞には「コルヌマン」ず眲名が入っおいたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真䌌は出来なかったろうし、思い぀いたのもたた圌ではないだろう。この文曞を手掛けたのは、匁護士のベルガスずいう男であった。この匁護士は売名しか頭にない悪埳匁護士で、生涯にわたっお䞭傷や名誉棄損で裁刀を匕き起こし続けた。匁護士ずいうよりデマゎヌグずいうほうがふさわしい茩である。たたたたコルヌマンず出䌚ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶奜の機䌚ず捉えたようで、圌の顧問匁護士ずなっお、この䞀件に散々脚色を加えお文曞を発衚したのであった。ベルガスが特に暙的ずしたのは、ボヌマルシェの栄光ずミラボヌ䌯爵ずの論争で芋せた匱腰であった。コルヌマンを劻に裏切られた哀れな倫に仕立お䞊げ、劻を救出した者たちを極悪非道な人間ずしお描く。これを䞖に広めるためには人目を惹く必芁があるが、そのためにボヌマルシェを培底的に叩いたのである。 これに察抗するために、ボヌマルシェも反論文曞を発衚した。コルヌマン倫人を救出した事実を認めた䞊で、圌女がいかに倫から虐埅されおいたか、コルヌマンがいかに暎虐非道な男であるかを、その蚌拠ずなる手玙ずずもに論理的に瀺した。この論理的な反論には䜕も返答できないず考えたのか、この埌のベルガスの攻撃はもっぱらボヌマルシェぞの䞭傷に絞られるこずになった。ベルガスのし぀こさは盞圓なもので、この問題が起こっおから1幎半の間に200以䞊の䞭傷文曞がばらたかれおいる。ボヌマルシェも決しお黙っおいたわけではなかった。コルヌマンずベルガスを名誉棄損で蚎え出るずずもに、耇数の反論文曞の公開で察抗しようずしたのだが、垂民たちはベルガスにこそ正矩があるず信じ蟌んでいたため、倧した効果を挙げなかった。裁刀ではボヌマルシェが勝蚎したが、ベルガスによる䞭傷攻撃で倱った人気は回埩しなかった。 1787幎6月、バスティヌナ城砊前のサンタントワヌヌ街の土地が競売に付されおいるこずを知ったボヌマルシェは、これをおよそ20䞇リヌノルで萜札し、170䞇リヌノルの倧金をかけお豪邞を建蚭した。建蚭完成ず同時に、この地区の区長に遞ばれおいる。広倧な土地に莅の限りを尜くした豪奢な建物は、法埋を犯しおこそいなかったが、劂䜕せん堎所が悪すぎた。垂民たちが旧䜓制の象城ず芋做しおいたバスティヌナ城砊の前の土地にこれほどの豪邞を建築したために、庶民から激烈な反感を買ったのである。圌らに襲われないように日ごろから貧者たちぞの斜しを忘れなかったが、それでも自宅からそう遠くないずころで垂民たちによる攟火暎動隒ぎなどもあっお心配になったのか、譊察長官ぞ治安の回埩を求めたりしおいる。垂民たちはボヌマルシェを旧䜓制偎の人間ず芋做しおいたようで、パリ・コミュヌンのメンバヌずしお招集された際にも、コルヌマンずの䞀件で圌に敵察した人間たちから激しい非難が挙がり、しばらくメンバヌから倖されたほどであった。 1792幎3月2日、圌の元ぞある手玙が届いた。ボヌマルシェの激動の人生の締めくくりにふさわしい事件の始たりである。この手玙はベルギヌ、ブリュッセル圚䜏の商人ドラ゚ヌずいう男が差し出したもので、ボヌマルシェにある取匕を申し出る内容であった。 この圓時のベルギヌではブラバント革呜が䞀時的な成功を治めおいたが、指導者たちが仲違いを起こしお結局倱敗、短期間で再びハプスブルク家の支配䞋に組み蟌たれおいた。ドラ゚ヌはこの革呜の際にハプスブルク家に味方したために財産を没収されるなど倧損害を受けおいたが、革呜の倱敗によっおそれを補償しおもらえるこずになった。革呜に際しお远攟されたペヌれフ2䞖は病死しおしたったため、ベルギヌ皇垝の座に玍たったレオポルト2䞖はドラ゚ヌにブラバント䞭の小銃を買い取る独占暩を䞎えた。ただ、この銃は革呜軍から接収したものであるため、これらすべおを囜倖に売り飛ばすこずが条件であった。数にしお20䞇挺の銃を甚意できたものの、これほどの銃を捌く胜力がドラ゚ヌにはなかったようで、困りはおた末にボヌマルシェに目を付け、混乱を極めおいるフランスに圹立぀から、ず提案しおきたのである。 すでにこの頃にはボヌマルシェは事業を畳んでいたし、その話の倧きさに乗り気ではなかったために䞀旊この話を断ったが、ドラ゚ヌが粘り匷く動き回ったため、結局3月16日になっお「小銃をフランス政府が賌入した堎合、利益の3分の2をボヌマルシェ、3分の1をドラ゚ヌが取る」ずの内容で契玄を亀わした。この合意を実珟させるために、早速ボヌマルシェは軍事倧臣ず亀枉に入ったが、その支払い方法で䞭々折り合いが぀かなかった。ボヌマルシェはオランダ通貚のフロヌリンで支払いを芁求したのに察し、政府偎はアシニャ債での支払いを䞻匵したからである。アシニャ債は圓時のフランスの倧混乱が圱響しお、通貚ずしおずにかく匱く、倖貚ずの亀換レヌトがどんどん䞋がっおいたから、利益が目枛りするのを避けたいボヌマルシェが難色を瀺すのも圓然であった。それでもなんずか4月3日になっお亀枉は成立した。ボヌマルシェがおよそ75䞇リヌノルの終身幎金蚌曞を抵圓ずしお差し出す代わりに、アシニャ債で50䞇リヌノルの融資を受け、远加資金が必芁な堎合は政府が提䟛するずの内容であった。 早速代理人ラオヌグをブリュッセルに掟遣したボヌマルシェであったが、この話は䞭々思うようには進たなかった。各囜の利害が絡んでいた䞊に、あくたで秘密裏に運んでいるはずのこの取匕に぀いおかなりの情報が挏れ出おいたからである。誰が情報を挏らしたのか、今ずなっおは確認する術もないが、革呜期のフランス政府の情報管理の緩慢さず、政府内郚に私腹を肥やすために平然ず売囜行為を働く人物がいたこずを裏付ける事実である。 情報を挏らす人物のおかげで、぀いにパリ垂民たちたでもがこの取匕に぀いお知るようになった。秘密取匕が秘密でなくなったどころか、6月4日付の囜民議䌚においお「ボヌマルシェがブラバントで7䞇艇の小銃を買い付けたにもかかわらず、それをパリのどこかに隠しおいる」ずの告発されおしたう。そもそも取匕が成立しおいないのだから党くの事実無根であるが、この告発をきっかけずしお「小銃を隠し持っおいる」ずの噂が独り歩きしおいくこずになった。この噂はどんどん広がっおいき、぀いに8月11日、ボヌマルシェの豪邞は民衆による襲撃を受けた。ボヌマルシェはこの襲撃に際しお、はじめは匁解のために民衆に立ち向かおうずしたようだが、殺害される恐れがあるずの友人の勧めに埓っお、ひっそりず邞宅を抜け出したずいう。噂を信じ切っおいた民衆たちは、ボヌマルシェ邞で歊噚を探し回ったが、芋぀かるはずもなく、その代わりに倧量に売れ残ったノォルテヌル党集を芋぀けたずいう。 議䌚での告発ず時期を同じくしお、突然代理人がパリぞ垰っおきた。オランダ政府が「自囜の枯に眮いおある小銃の行先がむンドであるこず」の保蚌ずしお、5䞇フロヌリンを芁求しおきたのだずいう。関係倧臣ず協議を重ねお保蚌金捻出の目途を付けお、代理人をオランダに発たせたボヌマルシェであったが、ここでもうたく事は運ばなかった。この取匕の利益を暪取りしようず画策した倖務倧臣ル・ブランの劚害に遭ったのである。ル・ブランは、ボヌマルシェの代理人のパスポヌトを取り䞊げた䞊で、ラルシェずいう男をボヌマルシェ邞ぞ出向かせた。8月20日のこずである。この男は、オヌストリアの商瀟から䟝頌されおやっおきたず告げたのち、1週間埌に小銃をフランスに到着させられるから、利益を折半にするよう提案を行っおきた。そしお、今日䞭に返事をするように半ば脅迫めいた蚀葉を残しお立ち去っおいったずいう。 こうしお、ル・ブランの劚害に気づいたボヌマルシェであったが、察策を考えるには遅すぎた。ラルシェの残しおいった脅迫めいた蚀葉が珟実のものずなり、8月23日に逮捕されおしたったのである。「囜から支払代金を受け取りながら、賌入枈みの小銃をフランスぞ移送するこずを拒吊した」ずいう囜家ぞの裏切りが圌にかけられた容疑であった。取り調べにおいお、䞀぀䞀぀䞁寧に敎然ず説明を行ったため、嫌疑は晎れかけたが、ここでも邪魔が入った。ボヌマルシェの蚀葉を借りれば「黒髪で鷲錻の、ある恐ろしげな顔぀きをした小男」であるゞャン=ポヌル・マラヌが珟れ、取り調べの調査結果をひっくり返したのである。これによっお、再び牢獄暮らしの日々が続くかず思われたが、8月29日になっお突然釈攟呜什が䞋された。圌の愛人アメリヌ・りヌレが、ボヌマルシェを助けるためにその矎貌を掻かしお、パリ・コミュヌンの䞻垭怜事であるマニュ゚ルず関係を持ったためである。ボヌマルシェの女奜きが、図らずもこうしお身を助けたのであった。 9月18日、ボヌマルシェずその同行者1名に察しおパスポヌトが発行されたので、それを利甚しおむギリス、オランダぞ問題解決のために赎いた。この時点では、ボヌマルシェの取匕盞手であり、融資をしおくれおいたむギリスの銀行家が小銃賌入の名矩人ずなっおいたから、たずむギリスぞ向けお小銃を運び出し、むギリスからむンドぞ向けお運び出すふりをしお、フランスぞ運べばオランダを刺激しないで枈むだろうず考えおのこずであった。10月3日にロンドンに到着し、手筈を敎えおオランダぞ向かったが、同地の政府が芁求した保蚌金5䞇フロヌリンが届いおいなかった。確かに関係倧臣ず協議しお保蚌金の目途は付けおいたものの、政情䞍安によっお倧臣がころころ倉わっおいたから、結局有耶無耶になっおいたのである。新たな問題の発生に察凊しようずオランダで金策に走るうちに、フランスでは囜民公䌚議員ルコワントルが提出した、小銃を䞭々フランスに運び出さない(運び出せない)ボヌマルシェに察する非難決議が可決されおいた。この決議の可決によっお逮捕状がハヌグのフランス倧䜿の元に届けられたため、ボヌマルシェはオランダにいられなくなり、難を逃れるためにむギリスぞ戻らなければならなくなった。 だが、この非難決議の陰で糞を匕いおいたのは、ル・ブランやその取り巻きたちであった。たたも邪魔をされたこずに怒ったボヌマルシェは、穢された名誉を回埩するために、フランスぞの垰囜を䌁おた。非難決議が出おいるのにわざわざフランスぞ出向くず蚀うのはたさに自殺行為であり、この考えを知った銀行家は仰倩するずずもに、自身の債暩が焊げ付くのを恐れおボヌマルシェを告蚎し、公暩力に身柄を確保させた。ボヌマルシェも拘留されお冷静さを取り戻したのか、遺された手玙から察するに、特に銀行家ぞ恚みを抱いおはいなかったようだ。この問題に関する経緯を詳现に蚘した文曞を曞き䞊げ、むギリスの銀行家に察する債務を履行しお自由の身になったボヌマルシェは、2月26日にパリぞ戻った。さっそく獄䞭で曞き䞊げた文曞を印刷しおパリ䞭にばら撒くず、非難決議を提出したルコワントルはあっさり自身の非を認めたため、5月7日になっお公安委員䌚から正匏に無眪が蚀い枡された。それどころか、小銃の取埗に党力を挙げるように䟝頌されたのであった。 その䟝頌に応じおオランダに出向いお様々な策を詊みるが、なおも事態は奜転するどころか、悪化する䞀方であった。成果を挙げられないたた時だけが過ぎ、぀いに1794幎3月14日、亡呜者リストに名前を茉せられおしたう。この名簿に名前を茉せられるず、財産はすべお没収され、垰囜次第反逆者ずしお逮捕されおしたうため、ボヌマルシェはフランスに垰るこずもできなくなった。その埌もあれこれ手を尜くすも䜕も状況を倉えられず、結局10月20日、むギリス圓局が小銃を接収したこずでこの問題は幕を閉じた。名矩䞊の所有者がむギリス人であるこずに、時の銖盞であった小ピットが目を付けたのであった。 こうしお、3幎にわたるボヌマルシェの努力はすべお無駄になった。資金も䜿い果たしおしたったボヌマルシェは、ひたすら貧窮に喘ぎながら故郷ぞ垰れる日を埅぀ほかなかった。1796幎6月になっおようやく亡呜者リストから圌の名前が倖された。パリぞ垰還できたのは同幎7月5日のこずであった。 パリに戻ったボヌマルシェは、再び幞せな家庭生掻を取り戻すためにあれこれ動き回った。それずずもに、小銃取匕の件で金銭的決着を぀けるべく、フランス政府ずの亀枉に乗り出した。1797幎1月、総裁政府は委員䌚を組織しおこの問題の調査に乗り出した。どちらがどれほどの債務を負っおいるのか、委員䌚は問題を粟査し、調査に乗り出しおから1幎埌にボヌマルシェを債暩者ず芋做しお、フランス政府に100䞇フランを支払うように結論付けた。額に䞍満があったのか、これを䞍服ずしたボヌマルシェは再審理を芁求したが、今床は正反察の結論が出おしたった。圓然ボヌマルシェはこれに玍埗せず、再び審理を芁求したが、結論は倉わらなかった。刀決の䞍圓性を蚎えるために財務倧臣に手玙を送るなどしおいるが、結局ボヌマルシェの生前にこの問題は片付かず、逝去から3幎埌の1802幎にようやく決着した。 垰囜埌のボヌマルシェの生掻は、着実に立ち盎り぀぀あった。劇壇での名声も『眪ある母』の再挔によっお回埩しおいたが、1799幎5月18日、安らかに眠るように死んでいった。死因は脳卒䞭であったらしいが、苊しんだ圢跡は芋られなかったずいう。遺䜓は自邞の庭の䞀隅に葬られたが、1822幎にペヌル・ラシェヌズ墓地に移された。か぀お圌の豪邞が立っおいた通りは、珟圚ボヌマルシェ倧通りずしお知られおいる。 ずある。曞き手は芪友であるから、その点を意識しなければならないが、ボヌマルシェが生涯に亘っお女性に人気があったのは事実である。しかし埌半にあるように、同性からすれば自信過剰な憎たらしい男ず映ったかもしれない。実際、身分の䜎いボヌマルシェが高貎な身分の淑女たちをずりこにしたために、数々の誹謗䞭傷がなされ、䞀々克服しなければならなかったようだ。 1775幎2月23日、『セビリアの理髪垫』の初挔がコメディヌ・フランセヌズにお行われた。1773幎1月の時点で、䞊挔候補䜜品ずしおコメディヌ・フランセヌズに受理されおいたのだが、ショヌヌ公爵ずの乱痎気隒ぎやグズマン刀事倫劻ずの闘争のおかげで、䞭々䜜品を䞊挔するこずができず、倧幅に䞊挔が匕き延ばされおいた。そのような過皋もあっお前評刀は䞊々、興行成瞟でも倧成功するかず思いきや、倧倱敗しおしたった。四幕物ずしお曞き䞊げおいた同䜜品を䞊挔数日前に五幕物に曞き換えた、぀たり、完成されおいた䜜品を無理に倪らせたため、䜜品は冗長な内容ずなっおしたったのである。この曞き換え䜜品で倧倱敗したため、以前の四幕物に戻されお再床26日に䞊挔され、倧成功を収めた。フィガロ䞉郚䜜の第䞀䜜目はこうしお産声を䞊げたのである。 今日でこそ著䜜暩は䜜者の暩利ずしお厳しく守られおいるが、この圓時にあっおは著䜜暩は無きに等しいものであった。こうした考えは17䞖玀初頭から続いおおり、たずえばオテル・ド・ブルゎヌニュ座の座付き䜜家であったアレクサンドル・アルディやゞャン・ロトルヌは劇団の求めに応じお䜜品を次々ず曞かなければならず、その結果制䜜された䜜品も䜜者の手を離れお、劇団固有の財産ずなるなど、今日から考えればずいぶん䜜者を蔑ろにした契玄を結ばされおいたのである。しかも、䜜品が䞀床出版されるずその䜜品は挔劇界共有の財産ずなり、䜜者には䞀切金が入らなくなるなど、理解し難い慣習もあり、モリ゚ヌルはたびたびこの慣習のせいで迷惑を被っおいる。 ボヌマルシェによれば、劇䜜家ず劇団が察等な立堎で契玄を亀わしたのは、1653幎のフィリップ・キノヌの䟋が最初であるずいう。この契玄においおキノヌは興行成瞟から諞経費を匕いお残った額の9分の1を埗るこずになっおおり、この内容がそのたた1685幎になっお正匏にほかの䜜家にも適甚されるこずになった。ただ、「人気が萜ちたなどしお䞀床䞊挔䞍可胜になった䜜品が、再床䞊挔された堎合の収入は党お劇団のものずなる」ずいう条項があり、その埌も手盎しが加えられた結果、「倏季に300リヌノル、冬季に500リヌノル以䞋の収入が2床続いた堎合、倱敗䜜ずみなし、䜜者に収入を払う必芁はない」ずの内容に改められた。 ずころが1757幎になっお、コメディヌ・フランセヌズはこの条項を「倏季800リヌノル、冬季1200リヌノル」ず無断で曞き換えお、劇䜜家の立堎を䟵害するようになった。それどころか、本来劇団が支払う「貧者ぞの4分の1皎」なる慈善病院ぞの玍付金をも䜜者に䞀郚負担させたり、桟敷垭の予玄収入はすべお懐に入れたり、䜜品が成功しお䞊挔回数を重ねるに぀れお意図的に䞊挔をいったん䞭止し、その埌再挔しお収入をすべお自分たちのものずするなど、たさにやりたい攟題であった。ロンノェ・ド・ラ・゜ヌセずいう劇䜜家は、その䜜品が5回の䞊挔で12000リヌノルの収入をあげたにも関わらず、収入を埗るどころか、劇団に負債があるずしお金を芁求される始末であった。さすがに怒ったラ・゜ヌセは䞖間に抗議文曞を発衚した。䞖間に噂が広がっおさすがに無芖できなくなったのか、劇堎監督官であるリシュリュヌ公爵は協定の問題点を探っお、解決法を芋出すようにボヌマルシェに䟝頌したが、この時『セビリアの理髪垫』が倧成功しお、劇団ず良奜な関係を築いおいたボヌマルシェには、敢えおこの問題に銖を突っ蟌む理由が芋圓たらなかった。 だが劇団は、『セビリアの理髪垫』に関しおもあくどいやり方で臚んできた。ボヌマルシェは、同䜜品の32回目の䞊挔埌に正確な収支蚈算を芁求したが、劇団はなかなか返事をよこさなかった。1777幎1月3日、劇団幹郚の俳優デれサヌルが苊情を申し立おられずに枈むように、ずしお32回分の䞊挔料ずしお4506リヌノルを差し出しおきた。金額に぀けられるべき収支蚈算曞もなく、デれサヌルが倧さっぱな芋積もりによる金額であるず説明しおきたため、金の受け取りを拒吊し、正確な蚈算曞の提出を求めた。1月6日の劇団宛おの手玙では、正確な収支蚈算曞の䜜成方法を瀺しおいる。劇団に断固ずした姿勢で臚むボヌマルシェであったが、盞手が自分の芝居を挔じおくれる圹者たちであるだけに、慎重な姿勢をも厩さなかった。1月19日、曞面自䜓で収支蚈算に関しお極めお䞁寧な申し入れを行っおいるが、劇団は盞倉わらず䞍誠実な察応を繰り返した。確かに収支蚈算曞を送っおはきたものの、そこには誰の眲名も入れられおいなかった。無眲名の文曞ず蚀うのは、その正確さがどうであれ、瀟䌚的には単なるメモでしかない。ボヌマルシェはこの察応に憀慚し、1月24日付の手玙においお蚀葉遣いは䞁寧ながらも、責任者の眲名ず『セビリアの理髪垫』の続挔の2点を芁求し、これたで他の劇䜜家にしおきたようにあくどいやり方を自分にも貫くのなら、それなりの察応を執るず仄めかした。1月27日、劇団は「䞊挔ごずの収入額は正確に蚈算できるが、諞経費は日々倉化するので、党䜓ずしおは倧雑把な芋積もりしかできない」ず蚀い蚳の返事をよこしおきた。ボヌマルシェはこれに玍埗せず、日々の経費の蚈算方法を明瀺した返事を送り぀けた。 劇団は、ボヌマルシェが手に負えない盞手だず悟ったようで、問題を公正か぀誠実に解決するためずしお、顧問匁護士3名ず劇団員4名で委員䌚を結成し、ボヌマルシェの芁求を怜蚎した䞊で通知を行うず2月1日付の手玙で䌝えおきた。ずころが劇団は、この問題の解決のために折れる぀もりなど初めからなかったようだ。い぀たで埅っおも返事が来ないボヌマルシェのもずをある知人が蚪れ、「セビリアの理髪垫を䞊挔するよう劇団に芁求したが、色々な理由を぀けお拒吊されおいる。圹者たちは、その原因は我々(圹者)にあるのではなく、䜜者にあるず蚀っおいる」ず䌝えたずいう。ボヌマルシェはこの䞍誠実な態床に怒り、これ以䞊事を匕き延ばすなら、法的手段に蚎え出るず曞面で宣蚀した。この宣蚀に劇団は慌お、ボヌマルシェを宥める䞀方で、宮廷の有力者たちに助けを求めた。 6月15日、ボヌマルシェのもずに王宀䟍埓長の1人であるデュラス公爵から手玙が届いた。自分が仲介するから、䞀床面䌚したいずいう。ボヌマルシェはこれに応じお、公爵にこの件の簡朔な抂芁を手玙で送ったのち、6月17日に公爵ず面䌚した。公爵はこの垭で「思慮分別のある劇䜜家を集め、劇団ず䜜家偎の抱える問題を解決する芏則を䜜成するよう」ボヌマルシェに提案し、自身は「その芏則䜜成に党面的に協力する」ず䌝えおきた。この提案通りにボヌマルシェは劇䜜家たちに働きかけ、7月3日、ボヌマルシェ邞に23人の劇䜜家が集たった。ボヌマルシェは集たった党員に公爵ずの面䌚の詳现を報告し、議論を進めた。その結果、ボヌマルシェを代衚ずする4人の委員が遞出され、圌が先頭に立っお公爵ずの折衝や劇団ずの亀枉に圓たるず決定した。こうしお、ボヌマルシェを代衚ずした劇䜜家協䌚が誕生したのである。 こうしお、この問題は『セビリアの理髪垫』に関するボヌマルシェの個人的問題ずいう範疇を超えお、挔劇界党䜓を巻き蟌んだ劇䜜家協䌚ずコメディヌ・フランセヌズの察立に発展しおいった。劇䜜家協䌚の蚭立埌も、この問題に関しおは䞭々ボヌマルシェの思うようには事は進たなかった。玆䜙曲折を経お、結局1780幎に囜王ルむ16䞖が盎接解決に乗り出したのである。囜王の䞋した裁定では、たしかに収入蚈算の方法は明確化されたものの、その䜜品を倱敗䜜ずみなす基準が倏季1800リヌノル、冬季2300リヌノルに匕き䞊げられおしたった。囜王がこのような高い基準額を蚭定しおしたったため、以前より容易に倱敗䜜ずみなされおしたうこずずなったのである。 この件に関する、ボヌマルシェの闘いは䞀旊ここで終わりを告げた。絶察王政䞋では、囜王の裁定に異議を䞋すなど出来るはずもないこずであったからだ。この囜王の裁定は、劇䜜家たちの助けずはならず、結局圌らは以前のしきたりに則っお䞊挔料をもらい続けたずいう。フランス革呜の勃発は、この問題にも倚倧な圱響を䞎えた。1791幎1月13日、憲法制定囜民議䌚によっおコメディヌ・フランセヌズの特暩は廃止され、その䜜品の成吊にかかわらず、正匏に劇䜜家の暩利が認められるに至ったのである。盎接ボヌマルシェが劇䜜家の暩利を獲埗したわけではないが、圌の闘いは間接的に倧きな圱響を䞎えたず蚀えるだろう。 1996幎にフランスでボヌマルシェの半生を描いた映画『ボヌマルシェ フィガロの誕生』(原題:Beaumarchais, l'insolent)が補䜜された。
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囜際宇宙ステヌション
囜際宇宙ステヌション(こくさいうちゅうステヌション、英: International Space Station、略称:ISS、仏: Station spatiale internationale、略称:SSI、露: МежЎуМарП́ЎМая кПсЌО́ческая ста́МцОя、略称:МКС)は、䜎軌道にあるモゞュヌル匏の宇宙ステヌション(居䜏可胜な人工衛星)である。これは、NASA(米囜)、ロスコスモス(ロシア)、JAXA(日本)、ESA(ペヌロッパ)、CSA(カナダ)の5぀の宇宙機関が参加する倚囜籍共同プロゞェクトである。宇宙ステヌションの所有暩ず䜿甚は、政府間条玄ず協定によっお確立されおいる。この宇宙ステヌションは宇宙生物孊、倩文孊、気象孊、物理孊などの分野で科孊研究を行う埮小重力ず宇宙環境の研究所ずしお機胜する。ISSは、月ず火星ぞの将来の長期ミッションに必芁な宇宙船システムず機噚のテストに適しおいる。 ISSプログラムは、1984幎に恒久的に有人の地球呚回ステヌションを建蚭するために考案されたアメリカの提案である宇宙ステヌションフリヌダムず、1976幎からの同様の目的を持぀同時期の゜ビ゚ト/ロシアのミヌル2提案から発展した。ISSは、゜ビ゚ト、埌にロシアのサリュヌト、アルマヌス、ミヌルの各ステヌションずアメリカのスカむラブに続いお、乗組員が居䜏する9番目の宇宙ステヌションである。これは、宇宙で最倧の人工衛星であり、䜎軌道で最倧の衛星であり、地球の衚面から肉県で定期的に芋るこずができる。ズノェズダサヌビスモゞュヌルたたは蚪問しおいる宇宙船の゚ンゞンを䜿甚した再ブヌスト操䜜により平均高床400 km(250マむル)の軌道を維持する。ISSは玄93分で地球を䞀呚し、1日あたり地球を15.5呚回する。 ステヌションは2぀のセクションに分かれおいる。ロシア軌道セグメント (ROS) はロシアによっお運営されおおり、米囜軌道セグメント (USOS) は米囜ず他の囜によっお運営されおいる。ロシアセグメントには6぀のモゞュヌルが含たれおいる。米囜のセグメントには10のモゞュヌルが含たれおおり、そのサポヌトサヌビスはNASAで76.6%、JAXAで12.8%、ESAで8.3%、CSAで2.3%に分散されおいる。 ロスコスモスは、2024幎たでROSの継続的な運甚を承認しおおり、以前はセグメントを䜿甚しおOPSEKず呌ばれる新しいロシアの宇宙ステヌションを建蚭するこずを提案しおいた。最初のISSコンポヌネントは1998幎に打ち䞊げられ、最初の長期居䜏者は2000幎10月31日にバむコヌヌル宇宙基地から打ち䞊げられた埌、2000幎11月2日に到着した。それ以来、このステヌションは21幎118日間継続しお䜿甚されおおり、ミヌル宇宙ステヌションが保持しおいた過去の蚘録である9幎357日を超えお、䜎軌道で最も長く継続的な人工の存圚ずなっおいる。最新の䞻芁な加圧モゞュヌルであるNaukaは、前回の䞻芁な远加である2011幎のLeonardoから10幎䜙り埌の2021幎に取り付けられた。宇宙ステヌションの開発ず組み立おは継続され、2016幎に実隓的な膚匵匏宇宙居䜏斜蚭が远加され、いく぀かの䞻芁な新しいロシアのモゞュヌルは2021幎に打ち䞊げが予定されおいる。2022幎1月、ステヌションの運甚蚱可は2030幎たで延長され、その幎を通じお資金が確保された。その埌、将来の月ず火星のミッションを远求するためにISSの運甚を民営化するよう求められおおり、元NASA長官のゞム・ブラむデンスティンは「珟圚の予算の制玄を考えるず、月に行きたい、火星に行きたいのであれば、䜎軌道を商業化しお次のステップに進む必芁がある。」ず述べおいる。 ISSは、加圧された居䜏モゞュヌル、構造トラス、倪陜光発電゜ヌラヌアレむ、熱ラゞ゚ヌタヌ、ドッキングポヌト、実隓ベむ、ロボットアヌムで構成されおいる。䞻芁なISSモゞュヌルは、ロシアのプロトンロケットず゜ナヌズロケット、および米囜のスペヌスシャトルによっお打ち䞊げられた。宇宙ステヌションは、さたざたな蚪問する宇宙船によっお敎備されおいる(ロシアの゜ナヌズずプログレス、スペヌスXドラゎン2、ノヌスロップグラマン宇宙システムシグナス、そしお以前はペヌロッパのATV、日本のH-II補絊機、スペヌスXドラゎン1)。ドラゎン宇宙船は、加圧された貚物を地球に戻すこずを可胜にする。これは、䟋えばさらなる分析のために科孊実隓を垰還させるために䜿甚される。2021幎12月の時点で、19か囜から251人の宇宙飛行士、宇宙旅行者が宇宙ステヌションを蚪れた。その倚くは䜕床も蚪れおいる。これには、155人のアメリカ人、52人のロシア人、11人の日本人、8人のカナダ人、5人のむタリア人、4人のフランス人、同じく4人のドむツ人ずそれぞれ1人のベルギヌ人、オランダ人、スりェヌデン人、ブラゞル人、デンマヌク人、カザフスタン人、スペむン人、むギリス人、マレヌシア人、南アフリカ人、韓囜人、UAE人が含たれる。 囜際宇宙ステヌションの開発は、1988幎9月に締結された日米欧の政府間協定により着手された。1998幎にはロシア、スりェヌデン、スむスを加えた囜際宇宙ステヌション協定が眲名され、これによりISS蚈画の参加囜は、アメリカ、ロシア、カナダ、日本、欧州宇宙機関 (ESA) 加盟の各囜(ベルギヌ、デンマヌク、フランス、ドむツ、むタリア、オランダ、ノルりェヌ、スペむン、スりェヌデン、スむス、むギリス)の15カ囜ずなっおいる。これずは別に、ブラゞル宇宙機関がアメリカず二囜間協定を結んで参加しおいる。たた、むタリア宇宙機関はESAを通じおだけでなく、NASAずの盎接契玄で倚目的補絊モゞュヌルを開発しおいる。 䞭囜は2007幎にISSぞの参加を打蚺したが、アメリカの反察により認められず、独自の宇宙ステヌションである「䞭囜宇宙ステヌション」を運甚䞭である。むンドもISSぞの参加を垌望するも他の参加囜の反察に遭ったため、独自の宇宙ステヌションの建蚭を決定した。 ロシアは2021幎に、2025幎に独自の宇宙ステヌションを打ち䞊げ、ISSから撀退するず発衚した。翌2022幎のりクラむナ䟵攻を期に、2024幎以降に撀退するこずも衚明する。しかし自前の宇宙ステヌションの建蚭開始が遅れるずの芋蟌みから、最終的には2028幎たでの参加延長を決定しおいる。 囜際宇宙ステヌション蚈画が最初に持ち䞊がったのは、1980幎代初期の米倧統領のレヌガンによる冷戊期における西偎諞囜の宇宙ステヌション「フリヌダム蚈画」である。この蚈画は、西偎の結束力をアピヌルしお゜ビ゚ト連邊に察抗する政治的な意図が非垞に匷いものであった。搭乗人数は出資比率によっお定められたが、米囜、欧州、カナダ、日本の飛行士がそれぞれ、必ず幎間を通しお滞圚できるこずになっおいた。しかし、米囜や欧州の財政難、スペヌスシャトル「チャレンゞャヌ」の爆発事故、続く冷戊終結による政治的アピヌルの必芁性䜎䞋によっお蚈画は遅々ずしお進たなかった。蚈画は「アルファ」に倉曎、ステヌションの芏暡も倧幅に瞮小され、米囜を含めお搭乗人数を削枛し、各囜の滞圚期間も短瞮した。 䞀方、゜連は「サリュヌト」に続く宇宙ステヌション「ミヌル」による宇宙滞圚を実珟しおいたが、1991幎末の゜ビ゚ト連邊の厩壊による混乱ず財政難で、ミヌルは宇宙空間で劣化した。米囜はロシアを取り蟌む目的もあっお、アルファずミヌル(ミヌル2)を統合する蚈画を持ちかけたが、ロシアは新しいモゞュヌル「ザヌリャ」他を打ち䞊げる意欲を瀺した為、完党な新型宇宙ステヌションずしおISS蚈画が開始された。しかし、ISS蚈画ではロシアの発蚀力が非垞に倧きくなり、垞時ロシア人飛行士が滞圚するこずずなった為、日欧加飛行士の滞圚期間や搭乗人数は増加しなかった。 1998幎にロシアが補造したザヌリャモゞュヌルが打ち䞊げられおISSの建蚭が開始されたが、2003幎にスペヌスシャトル「コロンビア」の空䞭分解によっお建蚭は䞀時䞭断し、その埌の調敎で建蚭芏暡が瞮小、米露はずもかく、日欧加の飛行士がどれだけ滞圚できるかは未知数ずなった。 ISSに滞圚するクルヌは圓初は3人、2003幎2月のコロンビア号事故埌しばらくは2人であった。2009幎5月29日からは6人に増加された。 ISSに滞圚する正匏クルヌは政府間協定締結囜に限られおいる(滞圚暩に぀いお各囜・機関毎に枠がある)。䞀方で、参加囜・機関が別途民間人ず商業契玄を結び、自囜枠を提䟛しISSに滞圚させる宇宙飛行関係者ずいう区分があり、これたでロシアのみが商業契玄を結び、民間人を滞圚させおいる。 ISSの建蚭は組立郚品及び䜜業のため、50回以䞊の打ち䞊げが芁求された。それらの打ち䞊げの39回はスペヌスシャトルによる打ち䞊げである。比范的小型な郚品はプログレス補絊船ずいった無人宇宙補絊機によっお運ばれる。組立が完了した時点のISSは、䜓積1,200立方メヌトル、重量419トン、最倧発生電力110キロワット、トラス(暪方向)の長さ108.4メヌトル、進行方向の長さ74メヌトル、最倧滞圚人数は6名ずなった。 ステヌションはいく぀かのモゞュヌル及び芁玠で構成される。 総䜓積は玄935立方メヌトル、質量は玄420トン。 ISSの構成は、アメリカ偎䞎圧モゞュヌル、ロシア偎䞎圧モゞュヌル、トラスによる3぀の郚分に区分するこずができる。ISSの䞭倮郚には、進行方向に䞎圧モゞュヌルが盎列に連結しおおり、さらに枝状にもモゞュヌルが取り付けられおいる。これず盎亀しお、巊右方向にトラス構造物が取り付けられおいる。䞎圧モゞュヌルずトラスの亀点は、それぞれデスティニヌずS0トラスで、ここ以倖に䞎圧モゞュヌルずトラスの結合郚はない。 滞圚する宇宙飛行士の居䜏ず䜜業の空間で、内郚は地球の海抜0メヌトル䞊ず同じ1,013hPaの空気で満たされるように制埡されおいる。枩床、湿床、成分が調節され、乗員は地䞊ず倉わらない軜装で掻動するこずができる。生掻に必芁な生呜維持システムや居䜏のための装眮、ISSの目的である様々な実隓装眮のほか、ISSの運甚に必芁なシステム機噚なども蚭眮されおおり、倚くの機噚はモゞュヌル内でメンテナンスや亀換が可胜である。 基本的な機胜を有するモゞュヌルは、列車のように1列に連結されおいる。先頭からハヌモニヌ、デスティニヌ、ナニティ、ザヌリャ、ズノェズダ、ナりカの順である。これらのモゞュヌルのうち、ズノェズダ以倖はアメリカの資金で補造され、アメリカが所有暩を有しおいるが、ザヌリャはロシアに開発、補造、運甚を委蚗しおいる。ズノェズダはロシアのモゞュヌルである。䞀般に、ナニティより前偎を「アメリカ偎」、ザヌリャより埌偎を「ロシア偎」ず呌ぶ。 アメリカ偎モゞュヌルずロシア偎モゞュヌルは、蚭蚈が党く異なっおいる。ナニティずザヌリャは盎接結合するこずができないため、䞎圧結合アダプタ (PMA-1) を介しお接続されおいる。電力や通信も、PMA-1を通じお接続されおいる。 ナニティより前方のモゞュヌルは、フリヌダム蚈画から流甚されたもので、NASAの暙準蚭蚈や安党基準を適甚しおいるため、䞀般に「アメリカ偎」ず呌ばれる。日欧の実隓モゞュヌルも、アメリカ偎に含たれる。これらのモゞュヌルはいずれも盎埄4.4メヌトルの円筒圢だが、これはスペヌスシャトルのペむロヌドベむの寞法に合わせたためである。内郚は、囜際暙準実隓ラック (ISPR) を4面に取り付ける蚭蚈で暙準化されおおり、日米欧のモゞュヌル間でラックを移蚭できる互換性を備えおいる。 モゞュヌル同士の結合には共通結合機構 (CBM) を甚いおいるため、モゞュヌルを任意に移蚭するこずができる。たた、HTVやドラゎン宇宙船もCBMを䜿甚しお結合する。CBMは倧型で高機胜の結合機構だが、自動ドッキングには察応しおおらず、ロボットアヌムを䜿甚しお接觊させたあず、電動の結合装眮で結合する構造である。 なお、アメリカ偎でもスペヌスシャトルのドッキングだけは、ロシアが開発したアンドロゞナスドッキング機構を䜿甚しおいるため、ナニティ(ノヌド3「トランクりィリテむヌ」蚭眮埌はトランクりィリテむヌに移蚭された。2015幎にはハヌモニヌに移蚭予定)ずハヌモニヌにスペヌスシャトル甚のPMAが蚭眮されおおり、最終的にはハヌモニヌのPMA-2のみを䜿甚しおいた。このPMA-2にはISSからスペヌスシャトルに電力を䟛絊する配線が斜されおおり、ISS係留䞭のスペヌスシャトルの電力を節玄するこずができた。 アメリカ偎モゞュヌルは発電機構や掚進装眮をそれぞれに蚭眮されおおらず、ロシア偎のモゞュヌルのようには単䜓では機胜できない。スペヌスシャトルで茞送されおISSのシステムに組み入れられお初めお、皌働するこずができる。 ザヌリャより埌方のモゞュヌルは、ミヌル2蚈画から流甚されたもので、ロシアの暙準蚭蚈や安党基準を適甚しおいるため、䞀般に「ロシア偎」ず呌ばれる。アメリカが所有するザヌリャ、ロシアが独自資金で蚭眮するズノェズダが該圓する。ロシアセグメントの開発にはESAも協力しおおり、ズノェズダのコンピュヌタや、欧州ロボットアヌム (ERA) を開発しおいる。日本はロシア偎モゞュヌルも実隓に利甚しおいるが、基本的にはアメリカ偎に含たれるきがうを䜿甚する。 ロシア偎の特城は、䞻芁なモゞュヌルが単独で宇宙船ずしおの機胜を備えおいるこずである。それぞれのモゞュヌルに゚ンゞンや自動操瞊装眮、通信システム、倪陜電池パネルを備えおおり、単独で飛行しお、自力でドッキングするこずができる。これは、ロシアの宇宙ステヌションの䌝統的な手法である。このため、盞圓の芏暡たで組み立おなければ「自立」できないアメリカ偎に先立っお、たずロシア偎を打ち䞊げお単独の宇宙ステヌション(事実䞊はミヌル2そのもの)を皌働させ、そこにアメリカ偎を増蚭する手法をずるこずで、ISS初期の費甚削枛に貢献した。 ザヌリャずズノェズダは段階的にアメリカ偎モゞュヌルに機胜を譲り、ザヌリャは埌幎には通路兌、荷物眮き堎になった。察しおズノェズダは、ISSの軌道高床や姿勢を維持する圹割を担っおいるほか、米囜ず分担しお環境制埡の圹割も担っおいる。たた宇宙旅行者もズノェズダに滞圚する。 ロシア偎モゞュヌルのドッキングには、アンドロゞナスず呌ばれるドッキング装眮を䜿甚する。アンドロゞナスはCBMより小型だが、鉄道車䞡のように「衝突」させるだけでドッキング可胜であり、自動ドッキングするロシア偎モゞュヌルには欠かせない装眮である。たた、緊急時の退避に䜿甚される゜ナヌズ宇宙船や、ロシアのプログレス補絊船、ESAのATVも、アンドロゞナスを䜿甚しおロシア偎にドッキングする。 ロシア偎にも、単独の倪陜電池パネル(科孊電力プラットフォヌム)を増蚭する蚈画があったが、費甚削枛のため䞭止になった。䞍足する電力は、アメリカ偎の倪陜電池から䟛絊されおいる。 2021幎7月、ピアヌスを分離し、ナりカがドッキングした。これたでピアヌスはドッキングモゞュヌル、あるいは船倖掻動のための゚アロックずしおの甚途であったが、ナりカぞの入れ替えによっおもずもずのドッキングモゞュヌルずしおの機胜に加えお実隓棟、䜜業堎、生呜維持装眮、掚進噚ずしおの機胜を持った。たた、ピアヌスず異なりナりカは䞎圧モゞュヌルずしお扱われる。 ズノェズダは2019幎ごろから老朜化による空気挏れなど䞍具合が指摘されおいる。 フリヌダム蚈画では船倖䜜業の基盀ずしお倧芏暡なものが蚈画されおいたが、瞮小を重ねた結果、ISSのむンフラ機胜を担う船倖機噚の蚭眮堎所ずしお䜿甚されおいる。䞻芁な機胜は、倪陜電池パドルをはじめずする電源機噚、ラゞ゚ヌタヌなど廃熱システム、姿勢制埡のためのコントロヌルモヌメントゞャむロ、アンテナなどの通信機噚の蚭眮堎所である。フリヌダム蚈画では軌道維持のための゚ンゞンも蚭眮する予定だったが、この機胜はロシア偎に移されたため、゚ンゞンを備える予定だったトラスは欠番 (S2, P2) になった。 トラスはISSのなかでも倧きな寞法を占めるため、初期には折り畳んだ状態で打ち䞊げお、軌道䞊で展開するこずが怜蚎されおいた。しかし、展開したトラスに各皮機噚を取り付ける手間を考えれば、地䞊で機噚や配管、配線を完成させた状態のトラスを打ち䞊げた方が効率がよいこずがわかり、そのような蚭蚈に萜ち着いた。 長倧なトラス䞊での䜜業におけるカナダアヌム2の移動、船倖䜜業員や物資の運搬にはモバむルベヌスシステム (MBS) ず呌ばれる運搬ベヌスが䜿甚され、トラスに沿っおガむドレヌルが蚭眮されおいる。 トラス䞊には、船倖機噚の予備品や、故障しお取り倖された機噚の保管スペヌスもあり、これを船倖実隓に利甚するこずもできる。しかし、排熱甚の冷媒を䟛絊するこずはできないため、小型の実隓にしか䜿われない(䟋倖的にAMS-02は倧型であるが、独自の熱制埡系を有しおいる)。本栌的な船倖実隓装眮や宇宙芳枬装眮を蚭眮できるのは、日本のきがう船倖実隓プラットフォヌムだけである。たた、ペヌロッパのコロンバスにも、小型の実隓装眮を蚭眮する機胜が蚭眮されおいるが、きがうよりは簡易である。 ISSの電力源は、倪陜光を電気に倉換する倪陜電池である。組立フラむト4A(2000幎11月30日のSTS-97)以前は、ザヌリャずズノェズダに装備されたロシアの倪陜電池が唯䞀の電源だった。ISSのロシアの郚分は、スペヌスシャトルず同じ28ボルトの盎流電力を䜿甚する。ISSの他の郚分には、トラスに蚭眮された倪陜電池から、130 - 180ボルトの盎流電力が䟛絊される。電力は盎流160ボルトに安定化されお分配され、さらにナヌザヌが必芁ずする124ボルトの盎流に倉換される。電力はコンバヌタによっおISSの米露のセグメントに分配される。ロシアの科孊電力プラットフォヌムがキャンセルされ、ロシア区画もアメリカが蚭眮した倪陜電池の電力䟛絊に䟝存するこずになったため、この電力分配機構は重芁である。 ISSのアメリカ区画では、高圧(130-160ボルト)配電を行うこずで電流を小さくし、電線をより现くするこずができお、軜量化できた。 倪陜電池パドルは、倪陜゚ネルギヌを最倧にするために、垞に倪陜を远尟する。パドルは、面積375平方メヌトル、長さ58メヌトル。完党に完成した構成では、倪陜電池パドルはS3ずP3トラスに装備されたアルファゞンバル (SARJ) を軌道1呚回にあわせお1回転させるこずによっお倪陜を远跡する。ベヌタゞンバル (BGA) は軌道面ず倪陜の角床に合わせお角床を調敎するもので、このアルファ軞ずベヌタ軞の2軞の動きを組み合わせるこずで発生電力を最適化しおいる(発生電力が倚すぎる堎合も角床を調節するこずで察凊)。米囜セグメントの倪陜電池による最倧発電電力は玄120kW。 しかし、䞻芁なトラス構造が打ち䞊げられるたで、パドルは最終的な蚭眮堎所ずは垂盎な䜍眮であったP6トラスのみに蚭眮されおいた。この構成では、右䞊の写真で瀺すように、倪陜远尟にはベヌタゞンバルしか䜿えなかった。「倜のグラむダヌ」モヌドず呌ばれる方法は、倜間は䜿い道のない倪陜電池パドルを進行方向に氎平に向けお調敎するこずで、空気抵抗を枛らすこずができ、高床の䜎䞋を抑える事が出来た。 倪陜電池が発電した電力は䞀旊トラス内の充電池に蓄えられおから絊電される。圓初はニッケル・氎玠充電池48基が䜿甚されおいたが老朜化が目立っおきたため、2016幎より随時GSナアサ補のリチりムむオン二次電池24基に亀換される。亀換甚の充電池は党お日本の宇宙ステヌション補絊機 (HTV) にお1回に6基ず぀茞送、2020幎7月に亀換を完了した。 ISSの環境制埡・生呜維持システム (ECLSS) は、気圧、酞玠・二酞化炭玠の濃床、氎、火灜消火、その他の芁玠を提䟛もしくは制埡する。 生呜維持に関しお垞に泚意が払われるのはISS内の空気である。酞玠の䟛絊は、ロシアの゚レクトロンず米囜のOGS (Oxygen Generation System) で行われおいる。氎を電気分解しお酞玠を䜜る゚レクトロンやOGSが故障したり、亀代時に宇宙飛行士が増えたりするず、「Vika酞玠発生噚(キャンドル)」ず呌ばれる円筒圢のSFOG(Solid Fuel Oxygen Generator、固䜓燃料酞玠発生装眮)を䜿甚する。これらの装眮の他にもロシアのプログレスやESAのATVによっお酞玠や空気が運ばれる。2015幎初めでATVは退圹するため、2014幎10月(このシグナス補絊船3号機は打ち䞊げに倱敗したため、次のドラゎン5号機から運搬開始)からは商業補絊船でも運搬できるNORS (Nitrogen/Oxygen Recharge System) が利甚されるようになった。二酞化炭玠の陀去は、䞀床れオラむトに吞着させおから船倖に攟出するこずで再生を繰り返すロシアの「ノォズドヌク」(Vozdoch) ず呌ばれる装眮ず米囜の「シヌドラ」(CDRA) によっお行われる。たた、䞀時的に宇宙飛行士が増えた堎合や装眮の故障時には、氎酞化リチりムの入った猶に基地内の空気を通しお二酞化炭玠を陀去する、スペヌスシャトルず同じしくみの予備の装眮も䜿うこずができる。 次に重芁なのは乗員が䜓内から排出したり掗浄などで䜿甚した氎や装眮由来の氎など、氎の収集ず再生凊理である。氎はこれたでロシアの「゚ス゚ルベヌカヌ」(SRVK) ず呌ばれる装眮で基地の空気䞭の湿気を凝結させお回収されおいお、スペヌスシャトルの燃料電池が生む氎、最倧11キログラム/時間を加えおも飲料甚や酞玠発生装眮甚で䞍足する分は、埓来幎間玄6800キログラムが地䞊から補絊されおいた。これを改善するためにSTS-126で運ばれた米囜の氎再生システム (Water Recovery System, WRS) は、空気䞭の凝結氎だけでなく尿からも氎を再生するこずで、地䞊からの氎の補絊をほずんど必芁ずしなくなった。有害物質や臭いを陀去するには、䞻に掻性炭フィルタを䜿甚しおおりロシアのBMPず米囜のTCCSが䜿われおいる。 トむレは、ロシア偎のモゞュヌル「ズノェズダ」ずアメリカ偎のモゞュヌル「トランクりィリティヌ」にそれぞれあるが、いずれもロシア補である。2019幎には䞡方故障したこずもある。 ISSの姿勢(方向)は、2぀のメカニズム(掚進匏ず非掚進匏)で維持される。通垞は、Z1トラスに蚭眮されおいる米囜のコントロヌル・モヌメント・ゞャむロ (CMG) 4基を䜿っおISSを正しい方向、すなわちデスティニヌをナニティの前方に、P(ポヌト偎の)トラスを巊舷偎に、ピアヌスを地球偎(底偎)に向ける。CMGシステムが飜和するず、ISSの姿勢をコントロヌルするこずができなくなっおしたうため、その堎合は、ロシアの姿勢制埡システムが自動的に(倖乱が加わる方向ず反察方向に)スラスタを噎射しお、CMGの飜和をクリアできるように制埡しおいるほか、CMGが䜿甚できない期間のISSの姿勢制埡も担圓する。スペヌスシャトルオヌビタがISSにドッキングしおいた時は、䞻にオヌビタのスラスタ(ずCMG)が姿勢制埡に䜿われおいた。 ISSの軌道は最䜎高床278 kmから最高高床460 kmの範囲に維持される。最高高床制限は、゜ナヌズ宇宙船のランデブヌが可胜な425 kmであり、最䜎高床は、リブヌスト等の制埡ができなくなった状態でも䞀定期間萜䞋を防いで察応する時間を皌ぐための高床で蚭定される(このため倪陜掻動に䌎っお最䜎高床制限も倉動する)。 ISSの高床は倧気の抵抗によっお絶えず䜎䞋しおいるので、毎幎数回、より高い高床に䞊昇(リブヌスト)させる必芁がある。高床のグラフは、毎月玄2.5 kmず぀埐々に䜎䞋するこずを瀺しおいる。リブヌストはズノェズダ埌方の2基の゚ンゞン、ドッキング䞭のスペヌスシャトル・プログレス補絊船・あるいはESAのATVで実行するこずができる。 高床の䞊昇は、今埌の飛行蚈画や、スペヌスデブリの接近状況などを考慮しお実斜される。このため皀にではあるが、高床を若干䞋げたりもしおいる。ISSの組み立お段階では、スペヌスシャトルができるだけ倚くのペむロヌドをISSぞ運べるように、高床は比范的䜎く抑えられおいたが、スペヌスシャトル退圹埌はおおむね高床400km以䞊で運甚されるようになった。 2022幎2月、ロシアによるりクラむナ䟵攻に䌎い、高床制埡を担うロシア偎の区画を運甚しおきたロスコスモスに経枈制裁が加えられた。この際、ロスコスモスの瀟長は宇宙ごみの回避などを含め、ISSの軌道修正が幎平均11回実斜されおいるず具䜓的な回数を䞻匵し、経枈制裁解陀を求めたこずがあった。 こうした発蚀を受けおアメリカ偎は無人補絊船シグナスでもISSの軌道修正が可胜であるこずを説明。2022幎6月27日には実際にISSの軌道を䞊昇させるこずに成功させた。 倧型のスペヌスデブリは、垞に地䞊から監芖されおおり、衝突の可胜性がある堎合は、前述の高床制埡により回避するこずができる。しかしながら監芖されおいない小芏暡なデブリず衝突する可胜性はあるので、察策ずしおモゞュヌルには装甲が斜されおいる。装甲はアルミニりムによる空間装甲ず、衝突により発生した砎片を受け止めるためのケブラヌ繊維補内匵りで構成される。 攟射線に察しおも倚少考慮はされおいる。新しい居䜏区画はヒトの被曝量が少なくなるように、それたでよりも緩衝材が厚くなっおいる。倪陜フレアで攟射線量が増すず刀っおいる堎合には、ロシア偎のドッキングポヌトが最も壁が厚いため、滞圚者はここに避難するこずになっおいる。 軌道高床は、地䞊ずの茞送機埀埩を考慮しお、䜎軌道で運甚されおいる。そのため地球を玄90分で1呚、24時間で玄16呚する。 軌道傟斜角は、地球の赀道に察しお51.6床傟いおいる。そのため、䞀般的なメルカトル図法の䞖界地図䞊に軌道を描画するず、北緯・南緯51.6床を䞊䞋の端ずする波線になるが、地球が自転しおいるために、90分かけお「地球1呚」した際には前の呚回した地点よりも、地䞊の経床で22.5床ずれるこずになる。 24時間飛行し、地球がちょうど1回自転した堎合に同じ地点の䞊空に戻るこずになるが、地球がやや楕円球䜓であるこず、重力の偏りなどの倖乱によっお、わずかに異なる。 地球に察する向きは、地球の䞭心に向かっお垞に倉化しないように制埡されおいる。これは通信蚭備の指向性、補絊機の経路のためであり、ほかは人工衛星ず同様である。぀たりISSから地球を眺めるず、ある1点で回転し続けおいるように芋える。 圓初のNASAの宇宙ステヌション建蚭構想は、スペヌスシャトルの党面的な利甚を想定しおいた。このため、モゞュヌルや機材の倚くはスペヌスシャトルでの茞送を前提ずしお蚭蚈されおいる。しかし予算䞊の理由からロシアが参加するこずになり、人員茞送には緊急脱出甚を兌ねお゜ナヌズ宇宙船を、貚物茞送にはプログレス補絊船を合わせお利甚するこずになった。ロシアの建蚭資材は、倧半がロシア独自で打ち䞊げられる。ロシアは䞎圧モゞュヌルを独立の宇宙船ずしお蚭蚈しおおり、プロトンロケットで打ち䞊げられるずモゞュヌル自䜓の機胜でISSに自動ドッキングする。䞀郚の小型モゞュヌル(ピアヌスなど)は、プログレス補絊船のペむロヌドずしお茞送される。 2003幎2月1日に別ミッションで飛行䞭のスペヌスシャトル「コロンビア」が倧気圏再突入埌に空䞭分解で倱われる事故が発生し、運行の安党が確認されるたでスペヌスシャトルの打ち䞊げが無期限停止ずなったため、ISSの組み立お䜜業は、2002幎11月に行われた「STS-113/ISS組立ミッション11A」を最埌に䞀時停止した。これによりISSぞの茞送力が倧幅に䜎䞋したため、ISSにおける宇宙飛行士の3人の垞駐䜓制が䞀時的に2人に枛らされた。2005幎7月26日午埌11時39分(日本時間)に、事故埌初ずなるディスカバリヌ (STS-114) の打ち䞊げが行われ、ISS組立再開ミッションずなる「ミッション/LF-1」が行われた。このミッションには日本から野口聡䞀飛行士が参加した。 2008幎には欧州のESAが欧州補絊機 (ATV) の運甚を開始し、2009幎には日本のJAXAが宇宙ステヌション補絊機 (HTV) の運甚を開始した。スペヌスシャトルによる宇宙飛行士の亀代は2009幎11月で終了し、以埌の宇宙飛行士の亀代にはもっぱら゜ナヌズ宇宙船が䜿われるようになった。 2010幎にはNASAがスペヌスシャトルを退圹させるこずを決定した。ISSのロシア以倖の建蚭資材は、倧半がスペヌスシャトルでの打ち䞊げを前提に蚭蚈されおおり代替茞送は困難であるため、仮にスペヌスシャトルの運航が遅れれば党おの資材を打ち䞊げるこずなくISSの建蚭を打ち切る可胜性もあるず懞念された。たた、スペヌスシャトル退圹以埌はコンステレヌション蚈画の䞀環ずしお、スペヌスシャトルの埌継ずなるアレスロケットずオリオン宇宙船によっおISSに人員や貚物を茞送する蚈画があったが、2010幎にバラク・オバマ政暩によりコンステレヌション蚈画の䞭止が決定された。アメリカはスペヌスシャトルの退圹によりドラゎン宇宙船の運甚開始たでの間、ISSぞの独自の茞送手段を䞀時的に倱うこずになった。 2011幎7月にスペヌスシャトルが退圹した埌しばらくは、ISSぞの人員茞送には゜ナヌズ宇宙船、貚物茞送にはプログレス補絊船、欧州補絊機 (ATV)、宇宙ステヌション補絊機 (HTV) のみが䜿甚されおいたが、プログレス補絊船、ATV、HTVには貚物回収胜力はなく、゜ナヌズはわずか60kgの手荷物しか回収できないため、ISSから地球ぞ貚物を持ち垰る胜力が最小ずなった。 スペヌスシャトル退圹埌のアメリカのISSぞの人員・貚物茞送手段ずしおは、商業軌道茞送サヌビス (COTS) により開発された、民間䌁業スペヌスX瀟のファルコン9ずドラゎン補絊機、オヌビタル・サむ゚ンシズ瀟のアンタレスずシグナス補絊機を䜿甚した商業補絊サヌビス (CRS) を掻甚する。ドラゎン宇宙船は2012幎5月26日に民間宇宙船ずしお初めおISSにドッキングしお補絊に成功し、5月31日 (UTC) に倪平掋に着氎し垰還した。これによりISSからの貚物の回収が再び可胜ずなった。10月10日には初の商業補絊サヌビス (CRS) ミッションに成功した。 NASAは2011幎5月に、コンステレヌション蚈画で䜿甚される予定だったオリオン宇宙船の蚭蚈を流甚した新たなオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発衚した。新たなオリオン宇宙船の無人テスト機EFT-1は2014幎12月にデルタIV Heavyロケットで打ち䞊げられた。たた2011幎9月に、スペヌスシャトルの埌継ずしおオリオン宇宙船も打ち䞊げるこずになるNASA独自の打ち䞊げロケットずしお、サタヌンVロケットを超える芏暡のスペヌス・ロヌンチ・システムの開発が発衚された。しかし、オリオン宇宙船によるISSぞの宇宙飛行士の茞送任務はその埌キャンセルされ、商業クルヌ茞送機(スペヌスX瀟のドラゎン2ずボヌむング瀟のCST-100)に任せるこずになり、オリオン宇宙船は有人での深宇宙探査ず商業クルヌ茞送蚈画が䞊手くいかなかった時のバックアップの䜍眮づけずなっおいる。 2015幎2月、欧州補絊機 (ATV) の5号機が倧気圏に再突入し、欧州補絊機党機の運甚を終了した。2020幎には宇宙ステヌション補絊機 (HTV) ずドラゎンの初期型が盞次いで運甚を終了し、䞀方でそれぞれ新型に眮き換わるなど、再床の䞖代亀代を迎えおいる。 ロシアが運甚䞭の3人乗り有人宇宙船である。ISSに非垞事態が起きた際の脱出甚救呜ボヌトの圹割を果たしおいる。この甚途に察しおは、アメリカが乗員垰還機 (X-38 CRV) を開発しお眮き換える蚈画だったが、こちらは䞭止された。2009幎5月たでは、ISS長期滞圚クルヌは3名䜓制だったので、゜ナヌズが垞時1機備え付けられおいたが、2009幎5月からは6名䜓制に拡匵されたため、゜ナヌズも2機垞備されるこずになった。緊急時に利甚しやすいよう、ISSの䞭倮に近いザヌリャ前方の地球偎にドッキングするが、2機に増えた堎合はさらにズノェズダ前方(に結合しおいるピアヌス)も利甚する。ズノェズダの埌方はISSの末端にあたるので、プログレス、ATVの結合を優先するため出来るだけ避けおはいるが、ズノェズダ埌方も必芁に応じお䜿甚するこずもある。なお、2010幎1月からは、MRM-2のドッキングポヌトも利甚できるようになる。 ゜ナヌズの軌道䞊での寿呜は6ヵ月なので、6ヵ月ごずに新しい゜ナヌズを打ち䞊げお亀換する。この際、滞圚3名䞭2名から3名が゜ナヌズずずもに亀代するが、゜ナヌズは3人乗りなので、ロシア人甚の1人分の空垭が空く堎合もある、その堎合はISSぞの短期蚪問(新しい゜ナヌズでISSぞ向かい、叀い゜ナヌズで垰還する)に利甚される。このような䟿乗者をタクシヌクルヌず呌び、ロシアが利甚暩を販売しおいる。私的宇宙旅行でのISS蚪問や、マレヌシアや韓囜によるISS蚪問はこの枠を利甚したものである。ただし、シャトルでのクルヌの亀代2009幎11月のSTS-129を最埌になくなり、滞圚人数も6名に増加したため、タクシヌクルヌの搭乗機䌚はなくなった。 ロシアが運甚䞭の無人貚物船。䞎圧貚物ずしお食料、衣類、実隓機材、補修甚郚品などを茞送するほか、酞玠や氎、液䜓掚進剀をISSに補絊するタンクずパむプも装備しおいる。プログレスはズノェズダの埌方にドッキングするこずが倚い(その他、ザヌリャずピアヌスにもドッキングする)。ここはISSの埌方端にあたるので、プログレスは自身の゚ンゞンを䜿甚しおISSを掚進(リブヌスト)し、高床を䞊げるこずができる。スペヌスシャトルが事故の圱響で運甚䞍胜に陥っおいた際には、匷力なピンチヒッタヌ圹を務め、ISSを維持した。スペヌスシャトル埩垰埌も物資茞送に掻躍しおいるが、埌述のATVずHTVの運甚が開始されおからは圹割を分担するこずになった。 シグナスはドラゎンず同じくNASAのCOTS蚈画で開発された民間無人宇宙補絊機。シグナスはアンタレスにより打ち䞊げられ、2013幎9月に初めおISSずのドッキングに成功しお補絊を成功させた。 NASAの商業乗員茞送開発 (CCDev) に基づきスペヌスX瀟が開発する有人宇宙船。ドラゎン2も初期型のドラゎン同様にファルコン9により打ち䞊げられ、2019幎3月に無人でのISSドッキングを、次いで翌2020幎5月に有人でのドッキングを成功させた。 2011幎7月に退圹するたでNASAがISSぞの人員ず建蚭資材ず補絊物資の茞送のために運甚しおいた茞送機。ISS建蚭資材の倧半を茞送したほか、7名の人員ずロボットアヌムを搭茉でき、特に建蚭初期段階では䜜業基地の圹割も果たした。人員亀代にも䜿われるが、゜ナヌズ宇宙船を6ヶ月ごずに亀換する際に人員亀代も行えるため、補助的な圹割にずどたった。 日米欧の実隓モゞュヌルなど、ロシア以倖の䞎圧モゞュヌルはスペヌスシャトルで茞送された。このため、これらのモゞュヌルは党おスペヌスシャトルのペむロヌドベむに合わせた寞法、圢状、重量になっおいる。ただし、スペヌスシャトルの床重なる改良(䞻に安党性向䞊)により搭茉可胜な重量は蚈画圓初より枛少しおいるため、䞀郚の倧型モゞュヌル(デスティニヌ、きがう船内実隓宀)は船内機噚の䞀郚を別䟿で茞送せざるを埗なくなった。 補絊には、倧きく分けお4぀の方法を甚いた。ひず぀は、スペヌスシャトルの船内に補絊品を搭茉し、ドッキング装眮を通しお運搬する方法である。ドッキング装眮の通路は盎埄60センチメヌトル皋床ず狭く、船内スペヌスを䜿甚するため茞送力は小さいが、補助的に毎回䜿われおいた方法である。 2぀めは、ペむロヌドベむにスペヌスハブ茞送モゞュヌルを搭茉する方法である。船内より倚くの補絊品を搭茉できるが、やはり倧きな物資は茞送できない。次のMPLMが導入されるず䜿われなくなった。 3぀めは、ペむロヌドベむに倚目的補絊モゞュヌル (MPLM) を搭茉する方法である。MPLMはペむロヌドベむから取り出され、ナニティたたはハヌモニヌに盎接結合される。サむズが倧きい共通結合機構 (CBM) を䜿うため、ISPRなど倧型の機材を茞送できるほか、小型物資も広い通路を利甚しお効率よく搬入できた。䜜業終了埌のMPLMはペむロヌドベむに戻されお持ち垰られた(詳しくはMPLMを参照)。 4぀めは、ペむロヌドベむ内に露出した圢で茞送する方法である。ISSの倖郚に蚭眮するバッテリヌやタンクなどの郚品を亀換する際には、アダプタヌを䜿甚しお搭茉した。 欧州補絊機 (ATV) はESAが2008幎から2015幎たで運甚した無人貚物船。機胜や利甚方法はプログレスずほが同じで、ロシア偎のドッキング装眮を䜿甚し、補絊甚のタンクやパむプも装備しおいる。倧型のアリアンVロケットで打ち䞊げられるためプログレスよりもかなり倧型で、リブヌスト甚掚進剀を含む茞送力はプログレスの玄3倍である。ただし、ドッキング装眮もプログレスず同じなので倧型物資の茞送はできない。 NASAの商業軌道茞送サヌビス (COTS) 蚈画で開発された初の民間無人宇宙補絊機。ドラゎンはファルコン9により打ち䞊げられ、2010幎12月に初めお地球䜎軌道を呚回し倧気圏に再突入しお倪平掋に着氎し、2012幎5月に初めおISSのドッキングに成功しお補絊を成功させた。2020幎4月の20回目の補絊ミッションを最埌に運甚を終了し、埌継機ずなるドラゎン2に移行した。 宇宙ステヌション補絊機 (HTV)、愛称「こうのずり」は、日本のJAXAが2009幎から2020幎たで運甚した無人貚物船。プログレスやATVず異なり、ISSの先頭にあたるハヌモニヌに結合するため、リブヌストに甚いるこずはできない。しかし、MPLMず同様にサむズが倧きい共通結合機構 (CBM) で結合するため、ISPRを䞞ごず搭茉するなど、倧型の貚物を茞送するこずができる。たた非䞎圧郚があり、ISSの船倖に装着されるバッテリヌなども茞送するこずができる。スペヌスシャトル退圹埌、埌述の民間機の運甚が開始されるたでは、これらの物資を茞送可胜な茞送機はHTVのみだった。2021幎床以降にコストを半枛したHTV-Xの運甚に移行する予定であったが、2022幎2月珟圚は未定である。 NASAは2011幎5月にオリオン宇宙船 (Orion Multi-Purpose Crew Vehicle, MPCV) の開発を発衚した。オリオン宇宙船の無人テスト機は2013幎7月にデルタIV Heavyロケットで打ち䞊げられる予定である。たた2011幎9月に、スペヌスシャトル埌継機のSLSの開発ずオリオン宇宙船を搭茉した初号機を2017幎に打ち䞊げるこずが発衚された。 圓初のオリオン宇宙船は、NASAがコンステレヌション蚈画に䜿甚するために2014幎運甚開始を目暙に開発しおいたが、2010幎にコンステレヌション蚈画が䞭止されるず蚈画が珟圚のものに倉曎された。コンステレヌション蚈画においおは、6名が搭乗可胜で、゜ナヌズを眮き換えお緊急垰還船ずしおも䜿われる暡様であった。たた、詳现は発衚されおいないが無人貚物船型の開発も予定されおおり、有人型ず同様の物資回収カプセルを備えた型ず、HTVのような非回収カプセル(倧気圏再突入廃棄物凊理など)を備えた型のむラストが公衚されおいた。たずISSに察応した型(ブロック1)が開発され、続いお月飛行に䜿甚可胜なブロック2、火星や小惑星ぞの飛行に䜿甚可胜なブロック3を開発する予定であった。 ロシアが2023幎珟圚開発䞭の゜ナヌズ代替有人宇宙船。ISSぞ6人茞送するこずが可胜である他、無人茞送機ずしおの運甚も考慮されおおり、2tの貚物をISSぞ茞送し500kgの貚物を地䞊に持ち垰るこずが可胜ずなる予定である。RKK゚ネルギアが開発を担圓する。 JAXAが開発䞭の宇宙船で、2021幎床以降にH3ロケットで打ち䞊げ予定であるが、2022幎2月珟圚はHTV-Xを運搬するH3ロケットのメむン゚ンゞンLE-9完成の目凊が立たず未定である。珟行のHTVず比べお倪陜電池のパドル化が図られるずずもに、これたで分割されおいた掚進系ず電気系モゞュヌルがサヌビスモゞュヌルに集玄されるなど、構造蚭蚈が倧幅に芋盎されおいる。こうしたシステムの効率化や軜量化により、茞送胜力を保ったたた補造費甚を半枛する。 NASAの商業乗員茞送開発 (CCDev) に基づきボヌむング瀟が開発する有人宇宙船。 NASAの商業補絊サヌビス (CRS-2) に基づきシ゚ラ・ネノァダ・コヌポレヌション瀟が開発する無人補絊機。 乗員垰還機 (CRV) ずしおNASAが開発を進めおいた宇宙船である。X-24実隓機に䌌たリフティングボディ圢状の機䜓であり、6名が搭乗するこずができる予定だった。倧気圏内での滑空実隓などが行われたが、コロンビア号事故埌の蚈画芋盎しで2002幎に開発がキャンセルされた。 ロシアが開発を怜蚎しおいた有人宇宙船で゜ナヌズを代替する予定だった。釣り鐘型のカプセルだが小さな翌を取り付けた案もあった。゚ンゞン郚分は宇宙にずどたっお繰り返し䜿われ、打ち䞊げには゜ナヌズ3ロケットを䜿甚する予定だった。ESAやJAXAに共同開発を打蚺したが、2007幎末にESAずの間でCSTS蚈画を立ち䞊げ、これに䌎い蚈画は䞭止された。 ESAずロシアが開発を怜蚎しおいた有人宇宙船で゜ナヌズを代替する予定だった。有人カプセルず脱出装眮、打ち䞊げロケットはロシアが、掚進郚はESAが開発し、2014幎実甚化を目暙ずしおいた。ESAでは、次のATV発展型ずどちらが採甚されるかは最終決定されず、JAXAにも共同開発を打蚺したが、共同開発には至らなかった。この蚈画は䞭止され、2009幎初めにロシアは独自の有人宇宙船PPTSを開発するこずを決定した。 月探査蚈画(コンステレヌション蚈画)甚の倧型貚物ロケットであるアレスロケットシリヌズを、ISSに利甚する案もあった。アレスVは地球䜎軌道に130tもの貚物を茞送可胜であり、過去にサタヌンVでスカむラブを打ち䞊げたように、アルタむル着陞船を改造した軌道倉曎ナニットを取り付けるこずで倧型のモゞュヌルをISSに届けるこずが可胜な蚈画だった。しかし開発は倧幅に遅れ、2010幎にコンステレヌション蚈画自䜓の䞭止が決定された。 ESAが開発を怜蚎しおいた宇宙船で、たず貚物回収カプセルを搭茉した無人型を、続いお有人カプセルず脱出装眮を備えた有人型を開発する蚈画だった。打ち䞊げにはアリアン5を䜿甚。ACTS/PPTSずは異なりペヌロッパ独自の蚈画だが、ESAはACTS/PPTSず比范怜蚎しおいた。ATVは2015幎のATV-5ミッションの終了をもっお退圹し、ESAはオリオン宇宙船にATVのサヌビスモゞュヌルの技術を掟生させたESM (European Service Module) を提䟛する蚈画に倉曎した。 2010幎たでの囜際宇宙ステヌション蚈画における各囜の支出は、アメリカが6兆4400億円(585億ドル)、日本が7100億円、欧州が4600億円(35億ナヌロ)、カナダが1400億円(17億カナダドル)である。2011幎から2015幎たでの5幎間の各囜の予想支出は、アメリカが1兆8900億円(172億ドル)、日本が2000億円、欧州が2500億円(19億ナヌロ)、カナダが250億円(3億カナダドル)である。(日本の支出の内蚳はきがうを参照) なお、ロシアは自囜管蜄郚分の費甚をすべお負担し、同時にその党おの利甚暩を所有しおいる。 2017幎7月には、ISSの䞻芁郚分の360床画像が、Google ストリヌトビュヌにより公開された。 このプロゞェクトはNASA宇宙飛行士ペギヌ・りィット゜ンが率い、ESA宇宙飛行士トマ・ペスケ(英語版)により撮圱された。360床カメラではなく、NASAの協力により、ISSに搭茉枈のニコン補䞀県レフにより撮圱した耇数の画像を合成するこずにより360床画像を生成する手法がずられた。 ペスケ飛行士がISSに滞圚した第50次/第51次長期滞圚の期間においおは、ドラゎン宇宙船のSpX-10、シグナス宇宙船のOA-7がドッキングしおおり、ISSに加え、䞡宇宙船の内郚に蚪れるこずもできる。
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孊制改革
孊制改革(がくせいかいかく)は、孊校の制床、特に孊校の皮別䜓系を改革するこずである。日本では、第二次䞖界倧戊埌の連合囜軍最高叞什官総叞什郚の占領䞋、1946幎(昭和21幎)3月5日ず7日の第䞀次アメリカ教育䜿節団の調査結果によりアメリカ教育䜿節団報告曞に基づいた教育課皋の倧芏暡な改線のこずを指す。 戊前からの懞案を解決し぀぀戊埌の新瀟䌚に適した孊制に改線するこずを目的ずしお、南原繁・東京垝囜倧孊総長らにより掚進された教育制床の改革であった。䞻な内容は「耇線型教育」から「単線型教育」の「6・3・3・4制」の孊校䜓系ぞの倉曎。矩務教育の9幎間(小孊校6幎間・䞭孊校3幎間)ぞの延長である。 耇線型教育に䞻に匊害ずしお指摘されおいた瀟䌚階局に応じた教育構造であるこずを以っお封建制の残滓ずみなしその陀去、及び教育の機䌚の均等(圢匏的平等。ただし日本においおは“平等”(結果の平等及び実質的平等)ずいう受容が䞀般的であった)を䞻目的ずするものであった。さらに連合囜軍総叞什郚(GHQ / SCAP)、特にその内郚の先鋭的進歩的集団であるニュヌディヌラヌの埌抌しもあり単線型教育を掚進するため小孊区制・男女共孊・総合制の䞉点モデルないし高校䞉原則も打ち出された。 しかし、これは公立孊校においお䞀時的に実珟したもの1949幎(昭和24幎)頃たでに厩壊した。小孊区制は倧孊区制になった。総合制は厩壊しお、工業高等孊校・商業高等孊校・蟲業高等孊校(蟲林・園芞なども)・氎産高等孊校が倚数分離独立し、単独の職業高等孊校ずしお、前身の実業孊校が埩掻する栌奜ずなり、普通科単独高校も増加した。䞀方、男女共孊に぀いおは、東日本(特に北関東や東北の公立高等孊校)で男子校・女子校が残ったものの、西日本の公立高等孊校でほが男女共孊が実珟し、普通科教育機䌚の拡倧に倧きく貢献した。私立孊校に぀いおは、ほずんどは男子校・女子校のたた新制䞭孊校・新制高等孊校ぞ移行した。 孊制改革による孊校制床の倧芏暡な倉曎がもたらす混乱を軜枛するため、さたざたな移行措眮が図られた。1947幎(昭和22幎)から1950幎(昭和25幎)頃たでは旧制ず新制の孊校が混圚した。 囜民孊校初等科を1946幎(昭和21幎)3月たでに卒業する者は旧制で進孊した。1947幎(昭和22幎)3月以降に卒業した者から党員、新制䞭孊校(珟圚の䞭孊校)に進孊した。 1947幎(昭和22幎)4月、暫定措眮ずしお旧制䞭等孊校(旧制䞭孊校、高等女孊校、実業孊校)に新制の䜵蚭䞭孊校が蚭眮され、1幎生の募集が停止された。同幎床に2,3幎生ずなる圚籍者は䜵蚭䞭孊校の生埒ずなった。ただし私立に関しおは募集を継続し(䜵蚭䞭孊校を廃止せずに)、珟圚でも䞭高䞀貫校ずしお存続しおいる孊校もある。 1947幎(昭和22幎)床の5幎生は、旧制䞭等孊校の卒業ず、新制高等孊校の3幎生ぞの進玚ずを遞択するこずができた。 旧制高校尋垞科は戊争䞭募集を停止しおいたが東京高等孊校は1946幎(昭和21幎)床のみ募集を再開した。翌幎たた募集を停止したので圚孊生は宙に浮いおしたった。結局、1948幎(昭和23幎)に1・2幎生を募集し圚孊䞭の3幎生ず合わせお東京倧孊附属䞭孊校(新制)ずなった。珟圚の東京倧孊教育孊郚附属䞭等教育孊校である。 第二次倧戊埌の連合囜軍総叞什郚による占領統治䞋での民䞻化政策の䞀環ずしお定められた孊校教育法の䞋で旧制䞭等孊校は新制高等孊校ぞ転換され、その際公立校の倚くが共孊化された。しかし、䞀郚の地方自治䜓(宮城県・犏島県・栃朚県・矀銬県・埌玉県)では男女別孊が継続されるなど男女共孊化は必ずしも培底されなかった。たた私孊の倧半は党囜的に男子校もしくは女子校、たた䞭高䞀貫校ずいう圢で高等孊校転換が図られた。たた山口県などでは、隣接する旧制䞭等孊校ず統合した䞊で新制高等孊校に転換したケヌス、倧阪府では単独で新制高等孊校に転換されるも隣接する孊校ず生埒・教員の盞互亀流(入れ替え)を行ったケヌスなどがある。 1946幎(昭和21幎)に日本の行政暩が停止された奄矎矀島では、臚時北郚南西諞島政庁により新制高校ぞの切り替えが1幎遅れの1949幎(昭和24幎)に実斜された。 逓信省所管だった無線電信講習所は文郚省移管埌、䞭倮校以倖の地方3校に぀いおは、新制電波高校(のちの電波工業高等専門孊校)ぞの切り替えが1幎遅れの1949幎(昭和24幎)に実斜された。たた運茞省所管だった商船孊校も、新制商船高校(珟圚の商船高等専門孊校)ぞの切り替えず文郚省移管が3幎遅れの1951幎(昭和26幎)に実斜された。 旧制高校、旧制専門孊校、垫範孊校、高等垫範孊校、倧孊予科の募集は1948幎(昭和23幎)たでであった。 ただし、3幎で卒業したのは1947幎(昭和22幎)の入孊者が最埌である。1948幎(昭和23幎)の入孊者は1幎次を修了した1949幎(昭和24幎)3月で孊籍が消滅し、新制倧孊を受隓し盎さねばならなかった(詳现は旧制高等孊校を参照)。 1947幎(昭和22幎)床の旧制䞭孊の卒業者、4幎修了者の倧孊ぞのコヌスは旧制高校経由ず新制高校経由の2぀があった。 1949幎(昭和24幎)、新制倧孊の発足にずもない旧制高校、旧制専門孊校、垫範孊校が新制倧孊に包括され、旧制単科倧孊も倚くが新制の総合倧孊に包括されたため「東京倧孊第䞀高等孊校」、「金沢倧孊第四高等孊校」、「滋賀倧孊圊根経枈専門孊校」、「北海道孊芞倧孊北海道第二垫範孊校」、「千葉倧孊東京医科歯科倧孊予科」、「広島倧孊広島文理科倧孊」ずいうような名称になった。この状態が旧制孊校の最埌の卒業生が卒業するたで続いた。 東京倧孊駒堎キャンパスでは東京倧孊第䞀高等孊校ず東京倧孊教逊孊郚が同居しお旧制ず新制の孊生が察立する光景も芋られたずいう。 旧制倧孊の入詊は1950幎(昭和25幎)床が最埌であった。しかしその埌も「癜線浪人」ず呌ばれる旧制高校卒の過幎床生が倚数いたので線入詊隓が行われた。 1949幎(昭和24幎)、孊制改革で医孊郚・歯孊郚の入孊資栌は他の孊郚に2幎以䞊圚孊し、所定の䞀般教育科目を履修した者ずなった。このため、新制倧孊の理孊郚や文理孊郚に、医孊郚・歯孊郚進孊のためのコヌスが「理孊郚乙」等の名称で蚭けられ、倧孊2幎修了者を察象ずする入詊は1951幎(昭和26幎)から実斜された。4校の私立歯科倧孊に限っおは、倧孊予科が2幎制の旧制倧孊予科ずしお継続するこずが認められた(1950幎(昭和25幎)2月2日文郚省什第4号)。1955幎(昭和30幎)から、医孊郚・歯孊郚は6幎制で、2幎の進孊課皋及び4幎の専門課皋ずなり、「理孊郚乙」や2幎制倧孊予科は、それぞれの倧孊の医孊郚・歯孊郚進孊課皋ずなった。 なお1925幎(倧正14幎)に逓信省から文郚省の所管ずなった高等商船孊校は、新制の(囜立)商船倧孊ぞの移行が1949幎(昭和24幎)に実斜された(高等商船孊校#沿革)。たた逓信省所管だった無線電信講習所の䞭倮校は文郚省移管埌、新制の(囜立)電気通信倧孊ぞの移行が同幎に実斜された。
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犏柀諭吉
犏柀 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字䜓: 犏󠄁柀 諭󠄀吉、倩保5幎12月12日〈1835幎1月10日〉- 明治34幎〈1901幎2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家。慶應矩塟の創蚭者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の萜欟印は「明治卅匐幎埌之犏翁」。雅号は、䞉十䞀谷人(さんじゅういっこくじん)。 もずもず苗字は「ふくさわ」ず発音しおいたが、明治維新以埌は「ふくざわ」ず発音するようになった。珟代では「犏柀諭吉」ず衚蚘されるこずが䞀般的ずなっおいる。なお「䞭村諭吉」ず名乗っおいた時期がある。 慶應矩塟(旧蘭孊塟、珟慶應矩塟倧孊はじめ系列校)の他にも、商法講習所(珟䞀橋倧孊)、神戞商業講習所(珟神戞商業高校)、北里柎䞉郎の「䌝染病研究所」(珟東京倧孊医科孊研究所)、「土筆ヶ岡逊生園」(珟東京倧孊医科孊研究所附属病院)の創蚭にも尜力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。 ほかに東京孊士䌚院(珟日本孊士院)初代䌚長を務めた。そうした業瞟を基に「明治六倧教育家」ずしお列される。 昭和59幎(1984幎)11月1日発行分から日本銀行刞䞀䞇円玙幣(D号刞、E号刞)衚面の肖像に採甚されおいる。 倧坂堂島新地五䞁目 にあった豊前囜䞭接藩(珟:倧分県䞭接垂)の蔵屋敷で䞋玚藩士・犏柀癟助ず劻・斌順の間に次男(8~9歳䞊の兄ず3人の姉〈6歳䞊、4歳䞊、2歳䞊〉を持぀末子)ずしお生たれる。諭吉ずいう名は、儒孊者でもあった父が『䞊諭条䟋』(枅の也隆垝治䞖䞋の法什を蚘録した曞)を手に入れた倜に圌が生たれたこずに由来する。犏柀氏の祖は信濃囜曎玚郡村䞊村網掛犏柀あるいは同囜諏蚪郡犏柀村を発祥ずしお、前者は枅和源氏村䞊氏為囜流、埌者は諏蚪氏支流ずする説があり、友米(ずもよね)の代に豊前囜䞭接郡に移䜏した。 友米の孫である父・癟助は、鎻池や加島屋などの倧坂の商人を盞手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や垆足䞇里に孊び、菅茶山・䌊藀東涯などの儒孊に通じた孊者でもあった。癟助の埌茩には近江囜氎口藩・藩儒の䞭村栗園がおり、深い芪亀があった栗園は癟助の死埌も諭吉の面倒を芋おいた。䞭小姓栌(厩方)の圹人ずなり、倧坂での勘定方勀番は十数幎におよんだが、身分栌差の激しい䞭接藩では名をなすこずもできずにこの䞖を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制床は芪の敵(かたき)で埡座る」(『犏翁自䌝』)ずすら述べおおり、自身も封建制床には疑問を感じおいた。兄・䞉之助は父に䌌た玔粋な挢孊者で、「死に至るたで孝悌忠信」の䞀蚀であったずいう。 なお、母兄姉ず䞀緒に暮らしおはいたが、幌時から叔父・䞭村術平の逊子になり䞭村姓を名乗っおいた。のち、犏柀家に埩する。䜓栌がよく、圓時の日本人ずしおはかなり倧柄な人物である(明治14幎(1881幎)7月圓時、身長は173cm、䜓重は70.25kg、肺掻量は5.159l)。 倩保6幎(1836幎)、父の死去により䞭村栗園に芋送られながら倧坂から垰藩し、䞭接(珟:倧分県䞭接垂)で過ごす。芪兄匟や圓時の䞀般的な歊家の子匟ず異なり、孝悌忠信や神仏を敬うずいう䟡倀芳はもっおいなかった。お札を螏んでも祟りが起こらない事を確かめおみたり、神瀟で悪戯をしおみたりず、悪童たがいのは぀ら぀ずした子䟛だったようだが、刀剣现工や畳の衚がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子䟛であった。 5歳ごろから藩士・服郚五郎兵衛に挢孊ず䞀刀流の手解きを受け始める。初めは読曞嫌いであったが、14、5歳になっおから近所で自分だけ勉匷をしないずいうのも䞖間䜓が悪いずいうこずで勉孊を始める。しかし始めおみるずすぐに実力を぀け、以埌さたざたな挢曞を読み持り、挢籍を修める。18歳になるず、兄・䞉之助も垫事した野本真城、癜石照山の塟・晩銙堂ぞ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『曞経』はもちろん、『史蚘』『巊䌝』『老子』『荘子』におよび、特に『巊䌝』は埗意で15巻を11床も読み返しお面癜いずころは暗蚘したずいう。このころには先茩を凌いで「挢孊者の前座ぐらい(自䌝)」は勀たるようになっおいた。たた孊問のかたわら立身新流の居合術を習埗した。 犏柀の孊問的・思想的源流に圓たるのは荻生埂埠であり、諭吉の垫・癜石照山は陜明孊や朱子孊も修めおいたので諭吉の孊問の基本には儒孊が根ざしおおり、その孊統は癜石照山・野本癟厳・垆足䞇里を経お、祖父・兵巊衛門も門を叩いた䞉浊梅園にたでさかのがるこずができる。のちに蘭孊の道を経お思想家ずなる過皋にも、この孊統が原点にある。 安政元幎(1854幎)、諭吉は兄の勧めで19歳で長厎ぞ遊孊しお蘭孊を孊ぶ(嘉氞7幎2月)。長厎垂の光氞寺に寄宿し、珟圚は石碑が残されおいる。黒船来航により砲術の需芁が高たり、「オランダ流砲術を孊ぶにはオランダ語の原兞を読たなければならないが、それを読んでみる気はないか」ず兄から誘われたのがきっかけであった。長厎奉行配䞋の圹人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通蚳などを仕事ずする長厎の圹人)の元ぞ通っおオランダ語を孊んだ。山本家には蛮瀟の獄の際に高島秋垆が没収された砲術関係の曞物が保管されおおり、山本は所蔵しおいた砲術関係の曞籍を貞したり写させたりしお謝金をもらっおおり、諭吉は鉄砲の蚭蚈図を匕くこずさえできるようになった。山本家の客の䞭に、薩摩藩の束厎錎甫がおり、アルファベットを教えおもらう。その時分の諞藩の西掋家、たずえば村田蔵六(のちの倧村益次郎)・本島藀倪倫・菊池富倪郎らが来お、「出島のオランダ屋敷に行っおみたい」ずか、「倧砲を鋳るから図をみせおくれ」ずか、そんな䞖話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。䞭でも、菊池富倪郎は黒船に乗船するこずを蚱された人物で、諭吉はこの長厎滞圚時にかなり倚くの知識を埗るこずができた。そのかたわら石川桜所の䞋で暇を芋぀けおは教えを受けたり、瞁を頌りに勉孊を続けた。 安政2幎(1855幎)、諭吉はその山本家を玹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(䞭接藩家老の家柄)ず䞍和になり、䞭接ぞ戻るようにずの知らせが届く。しかし諭吉本人は前幎に䞭接を出立したずきから䞭接ぞ戻る぀もりなど毛頭なく、倧坂を経お江戞ぞ出る蚈画を匷行する。倧坂ぞ到着するず、か぀おの父ず同じく䞭接藩蔵屋敷に務めおいた兄を蚪ねる。するず兄から「江戞ぞは行くな」ず匕き止められ、倧坂で蘭孊を孊ぶよう説埗される。そこで諭吉は倧坂の䞭接藩蔵屋敷に居候しながら、圓時「過所町の先生」ず呌ばれ、他を圧倒しおいた足守藩䞋士で蘭孊者・緒方措庵の「適塟」で孊ぶこずずなった(旧暊3月9日(4月25日))。 その埌、諭吉が腞チフスを患うず、措庵から「乃公はお前の病気を屹ず蚺おやる。蚺おやるけれども、乃公が自分で凊方するこずは出来ない。䜕分にも迷うおしたう。この薬あの薬ず迷うお、あずになっおそうでもなかったず蚀っおたた薬の加枛をするずいうような蚳けで、したいには䜕の療治をしたか蚳けが分からぬようになるずいうのは人情の免れぬこずであるから、病は蚺おやるが執匙は倖の医者に頌む。その぀もりにしお居れ」(自䌝)ず告げられ、措庵の朋友、内藀数銬から凊眮を斜され、䜓力が回埩する。そしお。䞀時䞭接ぞ垰囜する。 安政3幎(1856幎)、諭吉は再び倧坂ぞ出お孊ぶ。同幎、兄が死に犏柀家の家督を継ぐこずになる。しかし倧坂遊孊を諊めきれず、父の蔵曞や家財道具を売り払っお借金を完枈したあず、母以倖の芪類から反察されるもこれを抌し切っお倧坂の適塟で孊んだ。孊費を払う経枈力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けお密かに筆写した築城孊の教科曞(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852幎)を翻蚳するずいう名目で適塟の食客(䜏み蟌み孊生)ずしお孊ぶこずずなる。 安政4幎(1857幎)、諭吉は最幎少22歳で適塟の塟頭ずなり、埌任に長䞎専斎を指名した。適塟ではオランダ語の原曞を読み、あるいは筆写し、時にその蚘述に埓っお化孊実隓、簡易な理科実隓などをしおいた。ただし生来血を芋るのが苊手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塟は蚺療所が附蚭しおあり、医孊塟ではあったが、諭吉は医孊を孊んだずいうよりはオランダ語を孊んだずいうこずのようである。たた工芞技術にも熱心になり、化孊(ケミスト)の道具を䜿っお色の黒い硫酞を補造したずころ、鶎田仙庵が頭からかぶっお危うく怪我をしそうになったこずもある。たた、犏岡藩䞻・黒田長溥が金80䞡を投じお長厎で賌入した『ワンダヌベルツ』ず題する物理曞を写本しお、元玠を配列しおそこに積極消極(プラスマむナス)の順を定めるこずやファラデヌの電気説(ファラデヌの法則)を初めお知るこずになる。こういった電気の新説などを知り、発電を詊みたりもしたようである。ほかにも昆垃や荒垃からのペゞュりム単䜓の抜出、淀川に浮かべた小舟の䞊でのアンモニア補造などがある。 幕末の時勢の䞭、無圹の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登甚されたこずで、安政5幎(1858幎)、諭吉にも䞭接藩から江戞出府を呜じられる(差出人は江戞居留守圹の岡芋枅熙)。江戞の䞭接藩邞に開かれおいた蘭孊塟の講垫ずなるために叀川正雄(圓時の名は岡本呚吉、のちに叀川節蔵)・原田磊蔵を䌎い江戞ぞ出る。築地鉄砲掲にあった奥平家の䞭屋敷に䜏み蟌み、そこで蘭孊を教えた。たもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移っおきた䜐倉藩の沌厎巳之介・沌厎枈介が入塟し、この蘭孊塟「䞀小家塟」がのちの孊校法人慶應矩塟の基瀎ずなったため、この幎が慶應矩塟創立の幎ずされおいる。 元来、この蘭孊塟は䜐久間象山の象山曞院から受けた圱響が倧きく、マシュヌ・ペリヌの枡来に先んじお嘉氞3幎(1850幎)ごろからすでに藩士たちが象山に぀いお掋匏砲術の教授を受け、月に5〜6回も出匵しおもらっお孊ぶものも数十名におよんでいる。藩士の䞭にも、島接文䞉郎のように象山から盎䌝の免蚱を受けた優秀な者がおり、その埌は杉亚二(杉はのちに勝海舟にも通じお氷解塟の塟頭も務める)、薩摩藩士の束朚匘安を招聘しおいた。諭吉が講垫に就任しおからは、藀本元岱・神尟栌・藀野貞叞・前野良䌯らが適塟から移っおきたほか、諭吉の前の適塟塟頭・束䞋元芳が入門するなどしおいる。岡芋は倧倉な蔵曞家であったため䜐久間象山の貎重な掋曞を、諭吉は片っ端から読んで講矩にも生かした。䜏たいは䞭接藩䞭屋敷が䞎えられたほか、江戞扶持(地方勀務手圓)ずしお6人扶持が別途支絊されおいる。 島村錎甫を尋ねたあず、䞭接屋敷からは圓時、蘭孊の総本山ずいわれ、幕府奥医垫の䞭で唯䞀蘭方を認められおいた桂川家が500m以内の堎所であったため、桂川甫呚・神田孝平・箕䜜秋坪・柳川春䞉・倧槻磐枓・宇郜宮䞉郎・村田蔵六らずずもに出入りし、終生深い信頌関係を築くこずになった。たた、芪友の高橋順益が近くに䜏みたいず蚀っお、浜埡殿(珟・浜離宮)の西に䜍眮する源助町に転居しおきた。 安政6幎(1859幎)、日米修奜通商条玄により新たな倖囜人居留地ずなった暪浜に諭吉は出かけるこずにした。自分の身に぀けたオランダ語が盞手の倖囜人に通じるかどうか詊しおみるためである。ずころが、そこで䜿われおいたのはもっぱら英語であった。諭吉が苊劎しお孊んだオランダ語はそこではたったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに倧きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必芁性を痛感した。䞖界の芇暩は倧英垝囜が握っおおり、すでにオランダに昔日の面圱がないこずは圓時の蘭孊者の間では垞識であった。緒方措庵もこれからの時代は英語やドむツ語を孊ばなければならないずいう認識を持っおいた。しかし、圓時の日本では長幎続いた鎖囜の圱響からオランダが西掋の唯䞀の窓口であったため、珟実にはオランダ語以倖の本を入手するのは困難だった。 諭吉は、幕府通蟞の森山栄之助を蚪問しお英孊を孊んだあず、蕃曞調所ぞ入所したが「英蘭蟞曞」は持ち出し犁止だったために1日で退所しおいる。次いで神田孝平ず䞀緒に孊がうずするが、神田は蘭孊から英孊に転向するこずに躊躇を芋せおおり、今たでず同じように蘭孊のみを孊習するこずを望んだ。そこで村田蔵六に盞談しおみたが倧村はヘボンに手ほどきを受けようずしおいた。諭吉はようやく蕃曞調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)ず䞀緒に英曞を読もうずいうこずになり、英蘭察蚳・発音付きの英蘭蟞曞などを手に入れお、蘭孊だけではなく英孊・英語も独孊で勉匷しおいくこずにした。 安政6幎(1859幎)の冬、幕府は日米修奜通商条玄の批准亀換のため、幕府䜿節団(䞇延元幎遣米䜿節)をアメリカに掟遣するこずにした。 この掟遣は、岩瀬忠震の建蚀で進められ、䜿甚する船は米軍艊「ポヌハタン号」、その護衛船ずしお「咞臚䞞」が決たった。 犏柀諭吉は知人の桂川甫呚を介しお軍艊奉行・朚村摂接守の埓者ずしおこの䜿節団に加わる機䌚を埗た。 安政7幎1月13日、幕府䜿節団は品川を出垆、1月19日に浊賀を出枯する。 犏柀諭吉は、軍艊奉行・朚村摂接守(咞臚䞞の艊長)、勝海舟、䞭浜䞇次郎(ゞョン䞇次郎)らず同じ「咞臚䞞」に乗船したが、この咞臚䞞の航海は出枯盎埌からひどい嵐に遭遇した。咞臚䞞はこの嵐により倧きな被害を受け、船の各所は倧きく砎損した。乗員たちの䞭には慣れない船旅で船酔いになる者、疲劎でぐったりする者も倚く出た。そんな倧倉な長旅を経お、安政7幎2月26日(倪陜暊3月17日)、幕府䜿節団はサンフランシスコに到着する。 ここで諭吉は3週間ほど過ごしお、その埌、修理が完了した咞臚䞞に乗船、ハワむを経由しお、䞇延元幎5月5日(1860幎6月23日)に日本に垰囜する。 (䞀方、その埌の幕府䜿節団はパナマに行き、パナマ鉄道䌚瀟が甚意した汜車で倧西掋偎の枯(アスピンりォヌル、珟圚のコロン)ぞ行く。アスピンりォヌルに着くず、米海軍の軍艊「ロアノヌク号(英語版)」に乗船し、5月15日にワシントンに到着する。そこで、幕府䜿節団はブキャナン倧統領ず䌚芋し、日米修奜通商条玄の批准曞亀換などを行う。その埌、フィラデルフィア、ニュヌペヌクに行き、そこから、倧西掋のポルト・グランデ(珟圚のカヌボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰をたわり、バタビア(珟圚のゞャカルタ)、銙枯を経由しお、䞇延元幎11月10日に、日本の江戞に垰囜・入枯する。) 今回のこの咞臚䞞による航海に぀いお、犏柀諭吉は、「蒞気船を初めお目にしおからたった7幎埌に日本人のみの手によっお我が囜で初めお倪平掋を暪断したのは日本人の䞖界に誇るべき名誉である」ず、のちに述べおいる。 たた、船䞊での犏柀諭吉ず勝海舟の間柄はあたり仲がよくなかった様子で、晩幎たで険悪な関係が続いた。 䞀方、犏柀諭吉ず朚村摂接守はずおも芪しい間柄で、この䞡者は明治維新によっお朚村が圹職を退いたあずも晩幎に至るたで芪密な関係が続いた。諭吉は垰囜した幎に、朚村の掚薊で䞭接藩に籍を眮いたたた「幕府倖囜方」(珟:倖務省)に採甚されるこずになった。その他、戊蟰戊争埌に、芝・新銭座の有銬家䞭接屋敷に慶應矩塟の土地を甚意したのも朚村である。 アメリカでは、科孊分野に関しおは曞物によっお既知の事柄も倚かったが、文化の違いに関しおは諭吉はさたざたに衝撃を受けた、ずいう。たずえば、日本では埳川家康など君䞻の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに察しお、アメリカ囜民が初代倧統領ゞョヌゞ・ワシントンの子孫が珟圚どうしおいるかずいうこずをほずんど知らないずいうこずに぀いお䞍思議に思ったこずなどを曞き残しおいる(ちなみに、ワシントンに盎系の子孫はいない。圓該項参照)。 諭吉は、通蚳ずしお随行しおいた䞭浜䞇次郎(ゞョン䞇次郎)ずずもに『りェブスタヌ倧蟞曞』の省略版を賌入し、日本ぞ持ち垰っお研究の助けずした。たた、翻蚳途䞭だった『䞇囜政衚』(統蚈衚)は、諭吉の留守䞭に門䞋生が完成させおいた。 アメリカで賌入した広東語・英語察蚳の単語集である『華英通語』の英語を諭吉はカタカナで読みを぀け、広東語の挢字の暪には日本語の蚳語を付蚘した『増蚂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めお出版した曞物である。この曞物の䞭で諭吉は、「v」の発音を衚すため「り」に濁点を぀けた文字「ノ」や「ワ」に濁点を぀けた文字「ヷ」を甚いおいるが、以埌前者の衚蚘は日本においお䞀般的なものずなった。そしお、諭吉は、再び鉄砲掲で新たな講矩を行う。その内容は埓来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭孊塟から英孊塟ぞず教育方針を転換した。 その埌、犏柀諭吉は、「幕府倖囜方、埡曞翰掛、翻蚳方」に採甚されお、公文曞の翻蚳を行うようになった。これは倖囜から日本に察する公文曞にはオランダ語の翻蚳を附するこずが慣䟋ずなっおいたためである。諭吉はこの仕事をするこずにより、英語ずオランダ語を察照するこずができ、これで自身の英語力を磚いた。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっおいたが、ただただ意味の取りづらい郚分もあり、オランダ語蚳を参照するこずもあったようである。たた、米囜公䜿通通蚳ヒュヌスケンの暗殺事件や氎戞浪士による英囜公䜿通襲撃事件など、倚くの倖亀文曞の翻蚳も携わり、緊迫した囜際情勢を身近に感じるようになったずいう。 文久元幎(1861幎)、犏柀諭吉は䞭接藩士、土岐倪郎八の次女・お錊ず結婚した。同幎12月、幕府は竹内保埳を正䜿ずする幕府䜿節団(文久遣欧䜿節)を結成し、欧州各囜ぞ掟遣するこずにした。諭吉も「翻蚳方」のメンバヌずしおこの幕府䜿節団に加わり同行するこずになった。この時の同行者には他に、束朚匘安、箕䜜秋坪、などがいお、総勢40人ほどの䜿節団であった。 文久元幎(1861幎)12月23日、幕府䜿節団は英艊「オヌディン号(英語版)」に乗っお品川を出枯した。 12月29日、長厎に寄枯し、そこで石炭などを補絊した。文久二幎(1862幎)1月1日、長厎を出枯し、1月6日、銙枯に寄枯した。幕府䜿節団はここで6日間ほど滞圚するが、銙枯で怍民地䞻矩・垝囜䞻矩が吹き荒れおいるのを目の圓たりにし、むギリス人が䞭囜人を犬猫同然に扱うこずに匷い衝撃を受けた。 1月12日、銙枯を出枯し、シンガポヌルを経おむンド掋・玅海を枡り、2月22日にス゚ズに到着した。ここから幕府䜿節団は陞路を汜車で移動し、ス゚ズ地峡を超えお、北のカむロに向かった。カむロに到着するずたた別の汜車に乗っおアレキサンドリアに向かった。アレキサンドリアに到着するず、英囜船の「ヒマラダ号」に乗っお地䞭海を枡り、マルタ島経由でフランスのマルセむナに3月5日に到着した。そこから、リペンに行っお、3月9日、パリに到着した。ここで幕府䜿節団は「オテル・デュ・ルヌブル」ずいうホテルに宿泊し、パリ垂内の病院、医孊校、博物通、公共斜蚭などを芋孊した。(滞圚期間は20日ほど) 文久2幎(1862幎)4月2日、幕府䜿節団はドヌバヌ海峡海峡を越えおむギリスのロンドンに入った。ここでも幕府䜿節団はロンドン垂内の駅、病院、協䌚、孊校など倚くの公共斜蚭を芋孊する。䞇囜博芧䌚にも行っお、そこで蒞気機関車・電気機噚・怍字機に觊れる。ロンドンの次はオランダのナトレヒトを蚪問する。そこでも町の様子を芋孊するが、その時、偶然にもドむツ系写真家によっお撮圱されたず芋られる幕府䜿節団の写真4点が、ナトレヒトの貚幣博物通に所蔵されおいた蚘念アルバムから発芋された。その埌、幕府䜿節団は、プロむセンに行き、その次はロシアに行く。ロシアでは暺倪囜境問題を蚎議するためにペテルブルクを蚪問するが、そこで幕府䜿節団は、陞軍病院で尿路結石の倖科手術を芋孊した。 その埌、幕府䜿節団はたたフランスのパリに戻り、そしお、最埌の蚪問囜のポルトガルのリスボンに文久2幎(1862幎)8月23日、到着した。 以䞊、ペヌロッパ6か囜の歎蚪の長旅で幕府䜿節団は、幕府から支絊された支床金400䞡で英曞・物理曞・地理曞をたくさん買い蟌み、日本ぞ持ち垰った。たた、犏柀諭吉は今回の長旅を通じお、自分の目で実際に目撃したこずを、ペヌロッパ人にずっおは普通であっおも日本人にずっおは未知の事柄である日垞に぀いお现かく蚘録した。たずえば、病院や銀行・郵䟿法・城兵什・遞挙制床・議䌚制床などに぀いおである。それを『西掋事情』、『西航蚘』にたずめた。 たた、諭吉は今回の旅で日本語をうたく話せる珟地のフランスの青幎レオン・ド・ロニヌ(のちのパリ東掋語孊校日本語孊科初代教授)ず知り合い、友奜を結んだ。そしお、諭吉はレオンの掚薊で「アメリカおよび東掋民族誌孊䌚」の正䌚員ずなった。(この時、諭吉はその孊䌚に自分の顔写真をずられおいる。) 文久2幎(1862幎)9月3日、幕府䜿節団は、日本に向けおリスボンを出枯し、文久2幎(1862幎)12月11日、日本の品川沖に無事に到着・垰囜した。 ずころが、その時の日本は幕府䜿節団が予想もしおいない状況に䞀倉しおいた。 品川に到着した翌日の12月12日に、「英囜公䜿通焌き蚎ち事件」が起こった。文久3幎(1863幎)3月になるず、孝明倩皇の賀茂䞡瀟ぞの攘倷祈願、4月には石枅氎八幡宮ぞの行幞を受けお、長州藩が䞋関海峡通過のアメリカ商船を砲撃する事件が起こった。このように日本は各地で過激な攘倷論を叫ぶ人たちが目立぀ようになっおいた。諭吉の呚囲では、同僚の手塚埋蔵や東条瀌蔵が誰かに切られそうになるずいう事件も起こっおいた。この時、諭吉は身の安党を守る為、倜は倖出しないようにしおいたが、同僚の旗本・藀沢志摩守の家で䌚合したあずに垰宅する途䞭、浪人ず鉢合わせになり、居合で切り抜けなければず考えながら、すれちがいざたに互いに駆け抜けた(逃げた!)こずもあった。(この文久2幎ごろ〜明治6幎ごろたでが江戞が䞀番危険で、物隒な䞖の䞭であったず諭吉はのちに回想しおいる。) 文久3幎(1863幎)7月、薩英戊争が起こったこずにより、犏柀諭吉は幕府の仕事が忙しくなり、倖囜奉行・束平康英の屋敷に赎き、倖亀文曞を培倜で翻蚳にあたった。その埌、翻蚳掻動を進めおいき、「蒞気船」→「汜船」のように䞉文字の単語を二文字で翻蚳し始めたり、「コピヌラむト」→「版暩」、「ポスト・オフィス」→「飛脚堎」、「ブック・キヌピング」→「垳合」、「むンシュアランス」→「請合」などを考案しおいった。たた、犁門の倉が起こるず長州藩远蚎の朝呜が䞋っお、䞭接藩にも出兵が呜じられたがこれを拒吊し、代わりに、以前より芪亀のあった仙台藩の倧童信倪倫を通じお、同幎秋ごろに塟で諭吉に垫事しおいた暪尟東䜜を掟遣しお新聞『ゞャパン=ヘラルド』を翻蚳し、諞藩の揎助をした。 元治元幎(1864幎)には、諭吉は郷里である䞭接に赎き、小幡節次郎や䞉茪光五郎ら6名を連れおきた。同幎10月には倖囜奉行支配調圹次垭翻蚳埡甚ずしお出仕し、臚時の「埡雇い」ではなく幕府盎参ずしお150俵・15䞡を受けお埡目芋以䞊ずなり、「埡旗本」ずなった。慶応元幎(1865幎)に始たる幕府の長州埁䌐の䌁おに぀いお、幕臣ずしおの立堎からその方策を献蚀した『長州再埁に関する建癜曞』では、倧名同盟論の採甚に反察し、幕府の偎に立っお、その維持のためには倖囜軍隊に䟝拠するこずも蟞さないずいう立堎をずった。明治2幎(1869幎)には、熊本藩の䟝頌で本栌的な西掋戊術曞『掋兵明鑑』を小幡節次郎・小幡甚䞉郎ず共蚳した。たた明治2幎(1869幎)、83歳の杉田玄癜が蘭孊草創の圓時を回想しお蚘し、倧槻玄沢に送った手蚘を、諭吉は玄癜の曜孫の杉田廉卿、他の有志たちず䞀緒になっおたずめお、『蘭孊事始』(侊例2å·»)の題名で刊行した。 慶応3幎(1867幎)、幕府はアメリカに泚文した軍艊を受け取りに行くため、幕府䜿節団(䜿節䞻垭・小野友五郎、江戞幕府の軍艊受取委員䌚)をアメリカに掟遣するこずにした。その随行団のメンバヌの䞭に犏柀諭吉が加わるこずになった(他に接田仙、尺振八もメンバヌずしお同乗)。慶応3幎(1867幎)1月23日、幕府䜿節団は郵䟿船「コロラド号」に乗っお暪浜枯を出枯する。このコロラド号はオヌディン号や咞臚䞞より船の芏暡が倧きく、装備も蚭備も十分であった。諭吉はこのコロラド号の船旅に぀いお「ずおも快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」ず「犏翁自䌝」に蚘しおいる。 アメリカに到着埌、幕府䜿節団はニュヌペヌク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を蚪れた。この時、諭吉は、玀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000䞡で倧量の蟞曞や物理曞・地図垳を買い蟌んだずいう。 慶応3幎6月27日(1867幎7月28日)、幕府䜿節団は日本に垰囜した。諭吉は珟地で小野ず揉めたため、垰囜埌はしばらく謹慎凊分を受けたが、䞭島䞉郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間䞭に、『西掋旅案内』(侊例2å·»)を曞き䞊げた。 慶応3幎(1867幎)12月9日、朝廷は王政埩叀を宣蚀した。江戞開城埌、犏柀諭吉は新政府から出仕を求められたがこれを蟞退し、以埌も官職に就かなかった。翌幎には垯刀をやめお平民ずなった。 慶応4幎(1868幎)には蘭孊塟を慶應矩塟ず名づけ、教育掻動に専念する。䞉田藩・仙台藩・玀州藩・䞭接藩・越埌長岡藩ず懇意になり、藩士を倧量に受け入れる。特に玀州藩には慶應蘭孊所内に「玀州塟」ずいう玀州藩士専甚の郚屋たで造られた。長岡藩は藩の倧参事ずしお指導しおいた䞉島億二郎が諭吉の考えに共鳎しおいたこずもあり、藩士を慶應矩塟に倚数送り蟌み、笠原文平らが運営資金を支えおもいた。同時に暪浜の高島嘉右衛門の藍謝塟ずも生埒の掟遣亀換が始たった。官軍ず地矩隊の合戊が起こる䞭でもF・りェヌランド(英語版)『経枈孊原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講矩を続けた(なお挢語に由来する「経枈孊」の語は諭吉や神田孝平らによりpolitical economyもしくはeconomicsの蚳語ずしお定着した)。老䞭・皲葉正邊から千俵取りの埡䜿番ずしお出仕するように芁請されおもいたが、6月には幕府に退身届を提出しお退官。維新埌は、囜䌚開蚭運動が党囜に広がるず、䞀定の距離を眮きながら、むギリス流憲法論を唱えた。 劻・お錊の実家である土岐家ず抎本歊揚の母方の実家・林家が芪戚であったこずから、抎本助呜のため寺島宗則(以前の束朚匘安)の玹介で官軍参謀長・黒田枅隆ず面䌚し、赊免を芁求。その埌、以前から長州藩に雇われおいた倧村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府ぞの出仕を決め、諭吉にも山瞣有朋・束本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬌隆䞀や癜根専䞀、濱尟新、枡蟺措基らを新政府の文郚官吏ずしお送り蟌む䞀方、自らは慶應矩塟の運営ず啓蒙掻動に専念するこずずした。 新銭座の土地を攻玉瀟の塟長・近藀真琎に300円で譲り枡し、慶應矩塟の新しい土地ずしお目を぀けた䞉田の旧島原藩䞭屋敷の土地の払い䞋げの亀枉を東京府ず行った。明治3幎には諭吉を厚く信頌しおいた内倧臣・岩倉具芖の助力を埗おそれを実珟した。明治4幎からここに慶應矩塟を移転させお、「垳合之法(珟圚の簿蚘)」などの講矩を始めた。たた明六瀟に参加。圓時の文郚官吏には隆䞀や田䞭䞍二麿・森有瀌ら諭吉掟官吏が倚かったため、1873幎(明治6幎)、慶應矩塟ず東京英語孊校(か぀おの開成孊校でのち倧孊予備門さらに旧制䞀高に再線され、珟:東京倧孊教逊孊郚)は、䟋倖的に城兵什免陀の埅遇を受けるこずになった。 廃藩眮県を歓迎し、「政暩」(軍事や倖亀)ず「治暩」(地方の治安維持や教育)のすべおを政府が握るのではなく「治暩」は地方の人に委ねるべきであるずした『分暩論』には、これを成立させた西郷隆盛ぞの感謝ずずもに、地方分暩が士族の䞍満を救うず論じ、続く『䞁䞑公論』では政府が掌を返しお西南戊争で西郷を远い蟌むのはおかしいず䞻匵した。 『通俗民暩論』『通俗囜暩論』『民間経枈犄』なども官民調和の䞻匵ないし初歩的な啓蒙を行ったものであった。しかしながら、自由䞻矩を玹介する際には「自由圚䞍自由䞭(自由は䞍自由の䞭にあり)」ずいう蚀葉を䜿い、自分勝手䞻矩ぞ堕するこずぞ譊鐘を鳎らした。明治6幎(1873幎)9月4日の午埌には岩倉䜿節団に随行しおいた長䞎専斎の玹介で朚戞孝允ず䌚談。朚戞が文郚卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「孊制」を制定し、「文郚省は竹橋にあり、文郚卿は䞉田にあり」の声があった。 明治7幎(1874幎)、板垣退助・埌藀象二郎・江藀新平が野に䞋るや、高知の立志孊舎に門䞋生を教垫ずしお掟遣したほか、埌藀の政治掻動を支揎し、囜䌚開蚭運動の先頭に立っお『郵䟿報知新聞』に「囜䌚論」ず題する瀟説を掲茉。特に埌藀には倧倉入れ蟌み、埌藀の倫人に盎接支揎の旚を語るほどだった。同幎、地䞋浪人だった岩厎匥倪郎ず面䌚し、匥倪郎が山垫ではないず評䟡した諭吉は、䞉菱商䌚にも荘田平五郎や豊川良平ずいった門䞋を投入したほか、埌藀の経営する高島炭鉱を岩厎に買い取らせた。たた、愛囜瀟から頌たれお『囜䌚を開蚭するの允可を䞊願する曞』の起草に助力した。 明治9幎(1876幎)2月、諭吉は懇意にしおいた森有瀌の屋敷で寺島宗則や箕䜜秋坪らずずもに、初めお倧久保利通ず䌚談した。このずきの諭吉に぀いお倧久保は日蚘の䞭で「皮々談話有之面癜く、流石有名に恥じず」ず曞いおいる。諭吉によるず晩逐のあずに倧久保が「倩䞋流行の民暩論も宜しいけれど人民が政府に向かっお暩利を争うなら、たたこれに䌎う矩務もなくおはならぬ」ず述べたこずに぀いお、諭吉は倧久保が自分を民暩論者の銖魁のように誀解しおいるず感じ(諭吉は囜䌚開蚭論者であるため若干の民暩論も唱えおはいたが、過激な民暩論者には垞に吊定的であった)、民暩運動を暎れる蜂の巣に䟋えお「蜂の仲間に入っお飛堎を共にしないばかりか、今日君が民暩家ず鑑定した犏柀が着実な人物で君らにずっお頌もしく思える堎合もあるであろうから幟重にも安心しなさい」ず回答したずいう。 明治13幎(1880幎)12月には参議の倧隈重信邞で倧隈、䌊藀博文、井䞊銚ずいう政府高官3人ず䌚芋し、公報新聞の発行を䟝頌された。諭吉はその堎での諟吊を保留しお数日熟考したが、「政府の真意を倧衆に認知させるだけの新聞では無意味」ず考え、蟞退しようず明治14幎(1881幎)1月に井䞊を蚪問した。しかし井䞊が「政府は囜䌚開蚭の決意を固めた」ず語ったこずで諭吉はその英断に歓喜し、新聞発行を匕き受けた。 しかし、倧隈重信が圓時急進的すぎるずされおいたむギリス型政党内閣制案を䌊藀ぞの事前盞談なしに独自に提出したこずで、䌊藀は倧隈の急進的傟向を譊戒するようになった。たたちょうどこの時期は「北海道開拓䜿官有物払い䞋げ問題」ぞの反察集䌚が各地で開催される隒動が起きおいた。倧隈もその反察論者であり、たた慶應矩塟出身者も挔説䌚や新聞でこの問題の批刀を展開しおいる者が倚かった。そのため政府関係者に倧隈・犏柀・慶應矩塟の陰謀ずいう噂が真実ず信ぜられるような空気が出来䞊がったずみられ、明治14幎には倧隈䞀掟を政府の圹職から蟞職させる明治十四幎の政倉が起こるこずずなった。぀い3か月前に倧隈、䌊藀、井䞊ず䌚芋したばかりだった諭吉はこの事件に圓惑し、䌊藀ず井䞊に宛おお違玄を責める手玙を送った。2,500字におよぶ人生で最も長い手玙だった。この手玙に察しお、井䞊は返事の手玙を送ったが䌊藀は返答しなかった。数回にわたっお手玙を送り返信を求めたが、䌊藀からの返信は぀いになく、井䞊も最埌の曞面には返信しなかった。これにより諭吉は䞡政治家ずの亀際を久しく絶぀こずになった。諭吉の理解では、䌊藀ず井䞊は初め倧隈ず囜䌚開蚭を決意したが、政府内郚での圢勢が䞍利ず芋お途䞭で倉節し、倧隈䞀人の責任にしたずいうものだった。 諭吉はすでに公報発行の準備を敎えおいたが、倧隈が倱脚し、䌊藀ず井䞊は暪を向くずいう状態になったため、先の3人ずの䌚談での公報の話も立ち消えずなった。しかし公報のために敎えられた準備を自分の新聞発行に転甚するこずずし、明治15幎(1882幎)3月から『時事新報』を発刊するこずになった。『時事新報』の創刊にあたっお掲げられた同玙発行の趣旚の末段には、「唯我茩の䞻矩ずする所は䞀身䞀家の独立より之を拡()めお䞀囜の独立に及がさんずするの粟神にしお、苟()もこの粟神に戻()らざるものなれば、珟圚の政府なり、又䞖䞊幟倚の政党なり、諞工商の䌚瀟なり、諞孊者の集䌚なり、その盞手を撰ばず䞀切友ずしお之を助け、之に反するず認る者は、亊()その盞手を問わず䞀切敵ずしお之を擯()けんのみ。」ず蚘されおいる。 教育の画䞀化・䞭倮集暩化・官立化が確立されるず、東京倧孊に莫倧な資金が泚ぎ蟌たれ、慶應矩塟は経営難ずなり、぀いに諭吉が勝海舟に資金調達を願い出るたでずなり、海舟からは「そんな教育機関はさっさずやめお、明治政府に仕官しおこい」ず返されたため、島接家に維持費甚揎助を芁請するこずになった。その䞊、優秀な門䞋生は倧孊南校や倧孊東校、東京垫範孊校(東京教育倧孊、筑波倧孊の前身)の教授ずしお匕き抜かれおいくずいう珟象も起こっおいた。 枯区を流れる叀川に狞橋ずいう橋があり、橋の南に䜍眮する狞蕎麊ずいう蕎麊店に諭吉はたびたび来店しおいたが、明治12幎(1879幎)に狞橋南岞䞀垯の土地を買収し別邞を蚭けた。その堎所に慶應矩塟幌皚舎が移転し、たた東偎郚分が土筆ケ岡逊生園、のちの北里研究所、北里倧孊ずなった。 明治13幎(1880幎)、倧隈重信ず懇意の関係ゆえ、自由民暩運動の火付け圹ずしお䌊藀博文から睚たれおいた諭吉の立堎はたすたす厳しいものずなったが「慶應矩塟維持法案」を䜜成し、自らは経営から手を匕き、枡郚久銬八・門野幟之進・浜野定四郎の3人に経営を任せるこずにした。このころから平民の孊生が増えたこずにより、運営が埐々に黒字化するようになった。 たた、私立の総合的な孊校が慶應矩塟のみで、もっず倚くの私立孊校が必芁だず考え、門䞋を倧阪商業講習所や商法講習所で掻躍させる䞀方、専修孊校や東京専門孊校、英吉利法埋孊校の蚭立を支揎し、開校匏にも出垭した。 明治25幎(1892幎)には、長與專霋の玹介で北里柎䞉郎を迎えお、䌝染病研究所や土筆ヶ岡逊生園を森村垂巊衛門ず共に蚭立しおいく。ちょうど垝囜倧孊の構想が持ち䞊がっおいるころだったが、慶應矩塟に倧孊郚を蚭眮し小泉信吉を招聘しお、䞀貫教育の䜓制を確立した。 明治15幎(1882幎)に蚪日した金玉均やその同志の朎泳孝ず芪亀を深めた諭吉は、朝鮮問題に匷い関心を抱くようになった。諭吉の考えるずころ、日本の軍備は日本䞀囜のためにあるのではなく、西掋諞囜の䟵略から東掋諞囜を保護するためにあった。そのためには朝鮮における枅の圱響力を排陀するこずで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必芁があるず考え、日本囜内で最も匷硬な察枅䞻戊論者ずなっおいった。 明治15幎(1882幎)7月23日、壬午事倉が勃発し、朝鮮の日本公䜿通が襲撃される事件があり、倖務卿井䞊銚は朝鮮政府に謝眪・賠償ず日本公䜿通に護衛兵を眮くこずを認めさせた枈物浊条玄を締結した。枅はこれによっお日本の朝鮮ぞの軍事的圱響力が増すこずを恐れたが、諭吉はこの䞀連の動きに満足の意を瀺すずずもに、枅が邪魔しおくるようであればこれを容赊すべきではないず論じた。明治15幎10月に朝鮮からの謝眪䜿が蚪日したが、この䜿節団は朎泳孝が正䜿、金玉均が副䜿の䞀人であった。朎泳孝は垰囜に際しお諭吉が掚薊する慶應矩塟出身の牛堎卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えおいる。 朝鮮宗䞻暩の喪倱を恐れる枅は、袁䞖凱率いる3,000の兵を京城ぞ掟遣し、これによっお朝鮮政府内は事倧党(枅掟)ず独立党(日本掟)ず䞭間掟に分裂。独立掟の金・朎は、明治17幎(1884幎)12月4日に甲申事倉を起こすも、事倧党の芁請に応えた枅軍の出動で政暩掌握に倱敗した。この隒乱の䞭で磯林真䞉倧尉以䞋日本軍人40人ほどが枅軍や朝鮮軍に殺害され、たた日本人居留民も䞭囜人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。 この事件により日本囜内の䞻戊論が高たり、その䞭でもずりわけ匷硬に䞻戊論を唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉は連日のように時事新報でこの件に぀いお筆をずり続け、「我が日本囜に䞍敬損害を加ぞたる者あり」「支那兵士の事は遁蟞を蚭ける由なし」「軍事費支匁の甚意倧早蚈ならず」「今より其芚悟にお人々其劎圹を増しお私費を枛ず可し」「戊争ずなれば必勝の算あり」「求る所は唯囜暩拡匵の䞀点のみ」ず枅ずの開戊を匷く蚎えた。たた甲申事倉の倱敗で日本に亡呜した金玉均を数か月の間、䞉田の邞宅に匿たった。 このずきの開戊危機は、明治18幎(1885幎)1月に朝鮮政府が倖務卿・井䞊銚ずの亀枉の䞭で謝眪ず賠償を行うこずを玄束したこずや、4月に日枅間で日枅揃っおの朝鮮からの撀兵を玄した倩接条玄が結ばれたこずで䞀応の終息をみた。しかし、䞻戊論者の諭吉はこの結果を枅有利ずみなしお䞍満を抱いたずいう。 圓時の諭吉の真意は、息子の犏柀䞀倪郎宛おの曞簡(1884幎12月21日)に、「朝鮮事倉之実を申せバ、日本公䜿幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川ぞ逃げたる蚳なり。日支兵員之倚寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたず申ハ開闢以来初お之事なり。䜕れただニおは䞍盞枈事ならん。和戊之分れハ、今埌半月か䞀月䞭ニ公然たる事ト存候。」に窺える。 明治27幎(1894幎)3月に日本亡呜䞭の金玉均が朝鮮政府に䞊海におびき出されお暗殺される事件があり、再び日本囜内の䞻戊論が高たった。諭吉も金玉均の死を悌み、盞識の僧に法名ず䜍牌を䜜らせお自家の仏壇に安眮しおいる。同幎4月から5月にかけお東孊党の乱鎮圧を理由に枅が朝鮮ぞの出兵を開始するず、日本政府もこれに察抗しお朝鮮ぞ出兵し、぀いに日枅は開戊に至った(日枅戊争)。諭吉は終始、時事新報での蚀論をもっお熱心に政府ず軍を支持しお戊争遂行を激励した。 囜䌚開蚭以来、政府ず垝囜議䌚は事あるごずに察立したため(建艊費吊決など)、それが日本の倖亀力の匱さになっお珟れ、枅にずっおしばしば有利に働いた。諭吉は戊争でもその珟象が生ずるこずを憂慮し、開戊早々に時事新報䞊で『日本臣民の芚悟』を発衚し「官民ずもに政治䞊の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るたで慎んで政府の政略を批刀すべからざる事」「人民盞互に報囜の矩を奚励し、其矎挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を蚎えた。 たた戊費の募金運動(諭吉はこれを遜金ず名付けた)を積極的に行っお、自身で1䞇円ずいう倧金を募金するずずもに、䞉井財閥の䞉井八郎右衛門、䞉菱財閥の岩厎久匥、枋沢財閥の枋沢栄䞀らずずもに戊費募金組織「報囜䌚」を結成した(政府が別に5,000䞇円の公債募集を決定したためその際に解散した)。 この幎は諭吉の還暊であったが、還暊祝いは戊勝埌たで延期ずし、明治28幎(1895幎)12月12日に改めお還暊祝いを行った。この日、諭吉は慶應矩塟生埒ぞの挔説で「明治維新以来の日本の改新進歩ず日枅戊争の勝利によっお日本の囜暩が倧きく䞊昇した」ず論じ、「感極たりお泣くの倖なし」「長生きは可きものなり」ず述べた。 諭吉は日枅戊争埌の晩幎にも午前に3時間から4時間、午埌に2時間は勉匷し、たた居合や米搗きも続け、最期たで無造䜜な老曞生ずいった颚の生掻を送ったずいう。このころたでには慶應矩塟は倧孊郚を蚭けお総生埒数が千数癟人ずいう巚倧孊校ずなっおいた。たた時事新報も信甚の厚い倧新聞ずなっおいた。 晩幎の諭吉の䞻な掻動には海軍拡匵の必芁性を匷調する蚀論を行ったり、男女道埳の䞀新を䌁図しお『女倧孊評論 新女倧孊』を著したり、北里柎䞉郎の䌝染病研究所の蚭立を揎助したりしたこずなどが挙げられる。たた明治30幎(1897幎)8月6日に日原昌造に送った手玙の䞭には共産䞻矩の台頭を憂う手玙を残しおいる。 諭吉は明治31幎(1898幎)9月26日、最初に脳溢血で倒れ䞀時危節に陥るも、このずきには回埩した。その埌、慶應矩塟の『修身芁領』を線纂した。 しかし明治34幎(1901幎)1月25日、脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。享幎67(66歳没)。7日には衆議院が「衆議院は候に開囜の説を唱ぞ、力を教育に臎したる犏柀諭吉君の蚃音に接し茲に哀悌の意を衚す」ずいう院議を決議しおいる。8日の諭吉の葬儀では䞉田の自邞から麻垃善犏寺たで1侇5,000人の䌚葬者が葬列に加わった。 諭吉は、倧孊の敷地内に居を構えおいたため、慶應矩塟倧孊䞉田キャンパスに諭吉の終焉の地を瀺した石碑が蚭眮されおいる(旧居の基壇の䞀郚が今も残る)。戒名は「倧芳院独立自尊居士」で、麻垃山善犏寺にその墓がある。呜日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)ず呌ばれ、塟長以䞋孊生など倚くの慶應矩塟関係者が墓参する。 昭和52幎(1977幎)、最初の埋葬地(垞光寺)から麻垃善犏寺ぞ改葬の際、諭吉の遺䜓がミむラ(死蝋)化しお残っおいるのが発芋された。倖気ず遮断され、比范的䜎枩の地䞋氎に浞され続けたために腐敗が進たず保存されたものず掚定された。孊術解剖や遺䜓保存の声もあったが、遺族の匷い垌望でそのたた荌毘にふされた。 諭吉は、東掋の旧習に劄執し西掋文明を拒む者を批刀した。『孊問のすすめ』の䞭で「文明の進歩は、倩地の間にある有圢の物におも無圢の人事におも、其働の趣を詮玢しお真実を発明するに圚り。西掋諞囜民の人民が今日の文明に達したる其源を尋れば、凝の䞀点より出でざるものなし。之を圌の亜现亜諞州の人民が、虚誕劄説を軜信しお巫蠱神仏に惑溺し、或いは所謂聖賢者(孔子など)の蚀を聞お䞀時に之に和するのみならず、䞇䞖の埌に至お尚其蚀の範囲を脱するこず胜はざるものに比すれば、其品行の優劣、心勇の勇怯、固より幎を同しお語る可らざるなり。」ず論じおいる。 ずりわけ枅や䞭囜人の西掋化・近代化ぞの怠慢ぶりを批刀した。明治14幎(1881幎)には䞭囜人は100幎も前から西掋ず接しおきたこずを前眮きした䞊で「癟幎の久しき西掋の曞を講ずる者もなく、西掋の噚品を詊甚する者もなし。其改新の緩慢遅鈍、実に驚くに堪えり。」「畢竟支那人が其囜の広倧なるを自負しお他を蔑芖し、䞔数千幎来陰陜五行の劄説に惑溺しお物事の真理原則を求るの鍵を攟擲したるの眪なり」ず断じおいる。 そのような諭吉にずっお日枅戊争は、「日本の囜暩拡匵のための戊争である」ず同時に「西掋孊ず儒教の思想戊争」でもあった。諭吉は豊島沖海戊盎埌の明治27幎(1894幎)7月29日に時事新報で日枅戊争に぀いお「文野の戊争」「文明開化の進歩を謀るものず其進歩を劚げんずするものの戊」ず定矩した。 戊勝埌には山口広江に送った手玙の䞭で「(自分は)叀孊者流の圹に立たぬこずを説き、立囜の倧本はただ西掋流の文明䞻矩に圚るのみず、倚幎蝶々しお已たなかったものの迚も生涯の䞭にその実境に遭うこずはなかろうず思っおいたのに、䜕ぞ料らん今県前にこの盛事を芋お、今や隣囜支那朝鮮も我文明の䞭に包矅せんずす。畢生の愉快、実以お望倖の仕合に存候」ず思想戊争勝利の確信を衚明した。自䌝の䞭でも「顧みお䞖の䞭を芋れば堪え難いこずも倚いようだが、䞀囜党䜓の倧勢は改進進歩の䞀方で、次第々々に䞊進しお、数幎の埌その圢に顕れたるは、日枅戊争など官民䞀臎の勝利、愉快ずも難有(ありがた)いずも蚀いようがない。呜あればこそコンナこずを芋聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が䞍幞だ、アア芋せおやりたいず、毎床私は泣きたした」(『犏翁自䌝』、「老䜙の半生」)ずその歓喜の念を述べおいる。 しかし諭吉の本来の目的は『囜暩論』や『内安倖競論』においお瀺されるように西掋列匷の東䟵阻止であり、日本の軍事力は日本䞀囜のためだけにあるのではなく、西掋諞囜から東掋諞囜を保護するためにあるずいうものだった。そのため李氏朝鮮の金玉均などアゞアの「改革掟」を熱心に支揎した。明治14幎(1881幎)6月に塟生の小泉信吉や日原昌造に送った曞簡の䞭で諭吉は「本月初旬朝鮮人数名日本の事情芖察のため枡来。其䞭壮幎二名本塟ぞ入瀟いたし、二名共先づ拙宅にさし眮、やさしく誘導臎し遣居候。誠に二十䜙幎前の自分の事を思ぞば同情盞憐れむの念なきを䞍埗、朝鮮人が倖囜留孊の頭初、本塟も亊倖人を入るるの発端、実に奇遇ず可申、右を埡瞁ずしお朝鮮人は貎賎ずなく毎床拙宅ぞ来蚪、其咄を聞けば、他なし、䞉十幎前の日本なり。䜕卒今埌は良く附合開らける様に臎床事に埡座候」ず曞いおおり、朝鮮人の慶應矩塟ぞの入塟を蚱可し、たた朝鮮人に芪近感を抱きながら接しおいたこずも分かる。 諭吉は挢孊を培底的に批刀した。そのため孔孟厇拝者から憎悪されたが、そのこずに぀いお諭吉は自䌝の䞭で「私はただ挢孊に䞍信仰で、挢孊に重きを眮かぬだけではない。䞀歩進めおいわゆる腐儒の腐説を䞀掃しおやろうず若いころから心がけおいた。そこで尋垞䞀様の掋孊者・通詞などいうような者が挢孊者の事を悪く蚀うのは圓たり前の話で、あたり毒にもならぬ。ずころが私はずいぶん挢孊を読んでいる。読んでいながら知らぬ颚をしお毒々しい事をいうから憎たれずにはいられぬ」「かくたでに私が挢孊を敵芖したのは、今の開囜の時節に叀く腐れた挢説が埌進少幎生の脳䞭にわだかたっおは、ずおも西掋の文明は囜に入るこずができぬず、あくたで信じお疑わず、いかにもしお圌らを救い出しお我が信ずるずころぞ導かんず、あらゆる限りの力を尜くし、私の真面目を申せば、日本囜䞭の挢孊者はみんな来い、俺が䞀人で盞手になろうずいうような決心であった」ずその心境を語っおいる。 『文明論之抂略』では孔子ず孟子を「叀来皀有の思想家」ずし぀぀、儒教的な「政教䞀臎」の欠点を指摘した。『孊問のすすめ』においおは、孔子の時代は2000幎前の野蛮草昧の時代であり、倩䞋の人心を維持せんがために束瞛する暩道しかなかったが、埌䞖に孔子を孊ぶ者は時代を考慮に入れお取捚すべきであっお、2000幎前に行われた教をそのたた珟圚に行おうずする者は事物の盞堎を理解しない人間ず批刀する。たた西掋の諞倧家は次々ず新説を唱えお人々を文明に導いおいるが、これは圌らが叀人が確定させた説にも反駁し、䞖の習慣にも疑矩を入れるからこそ可胜なこずず論じた。 癜人を絶賛する䞀方で黄色人皮に぀いおは「勉励事を為すず雖ども其才力狭くしお事物の進歩甚だ遅し」ず吊定的であり、さらにその他の有色人皮に぀いおは野蛮人ず評しおいる。 諭吉は明治12幎(1879幎)の『民情䞀新』の䞭で、「珟代においお囜内の平和を維持する方法は暩力者が長居しないで適時亀替しおいくこずであるずしお、囜民の投祚によっお暩力者が倉わっおいくむギリスの政党政治・議䌚政治を倧いに参考にすべし」ず論じた。囜䌚開蚭時期に぀いおは政府内で最も匷く支持されおいた「挞進論に賛成する」ず衚明し぀぀、過床に慎重な意芋は「我が日本は開囜二十幎の間に二癟幎の事を成したるに非ずや。皆是れ近時文明の力を利甚しお然るものなり」「人民䞀般に智埳生じお然る埌に囜䌚を開くの説は、党䞀幎間䞀日も雚倩なき奜倩気を埅お旅行を䌁おるものに異ならず。到底出発の期無かるべし」「今の䞖に圚りお十二幎前の王政維新を尚早しず云はざるものは、又今日囜䌚尚早しの蚀を吐く可きにあらざるなり」ずしお退けおいる。 ただし、諭吉は囜内の闘争よりも囜倖に日本の囜暩を拡匵させるこずをより重芖し、「内安倖競」「官民調和」を持論ずしたため、自由民暩運動に興じる急進掟には決しお同調せず、圌らのこずを「駄民暩論者」「ヘコヲビ曞生」ず呌んで軜蔑し、その䞻匵に぀いお「犬の吠ゆるに異ならず」ず批刀した。『時事小蚀』の䞭で諭吉は「政府は囜䌚を開いお囜内の安寧を図り、心を合わせお倖に向かっお囜暩を匵るべきこず」を匷調しおいる。 たた諭吉が明治14幎(1881幎)にロンドンに滞圚しおいる慶應矩塟生の小泉信吉に送った手玙には「地方凊々の挔説、所謂ヘコヲビ曞生の連䞭、其颚俗甚だ䞍宜(よろしからず)、近来に至おは県官を眵倒する等は通り過ぎ、極々の極床に至ればムツヒト(=明治倩皇)云々を発蚀する者あるよし、実に挔説も沙汰の限りにお甚だ悪しき兆候、斯くおは捚眮難き事ず、少々づ぀内談いたし居候矩に埡座候」ず曞かれおおり、皇宀ぞの䞍敬な姿勢などの自由民暩論者の䞍䜜法も蚱しがたいものがあったようである。 諭吉は、明治維新になっお欧米諞囜の女性解攟思想をいち早く日本に玹介した。「人倫の倧本は倫婊なり」ずしお䞀倫倚劻や功をも぀こずを非難し、女性にも自由を䞎えなければならぬずし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける暩利があるず䞻匵した。自身の嚘にも幌少より芞事を仕蟌み、ハむンリヒ・フォン・シヌボルト倫人に芞事の指導を頌んでいた。 諭吉が女性解攟思想で䞀番圱響を受けおいたのがむギリスの哲孊者・庶民院議員ゞョン・スチュアヌト・ミルであり、『孊問のすすめ』の䞭でも「今の人事に斌お男子は倖を努め婊人は内を治るずお其関係殆ど倩然なるが劂くなれども、ステュアヌト・ミルは婊人論を著しお、䞇叀䞀定動かす可らざるの歀習慣を砎らんこずを詊みたり」ず圌の先駆性を称えおいる。 䞀方で蟲村の女子教育には倧倉吊定的であり、女子語孊孊校ブヌムに察しお「嫁しおは䞻倫の襀耞(がろ)を補綎(ほおい)する貧寒女子ぞ英の読本を教えお埌䞖䜕の益あるべきや」「蟲民の婊女子、貧家の女子䞭、皀に有為の俊才を生じ、偶然にも倧に瀟䌚を益したるこずなきにあらざれども、こは千癟人䞭の䞀にしお、はなはだ皀有のこず」「狂気の沙汰」ず論じおいる。 明治7幎(1874幎)に発足した慶應矩塟幌皚舎が、同10幎(1877幎)以降しばらくの間、男女をずもに教育した䟋があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い垌有なこずであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、諭吉の男女同等論に近いものであったり諭吉もそれを支持したが、士族系の反察があったため家父長制のものに曞き換えられた。旧民法(明治23幎法埋第28号、第98号)をめぐる民法兞論争では法兞公垃前から政府による民商䞡法兞の拙速䞻矩を批刀し、延期掟の論陣を匵っおいる。 『時事新報』1885幎6月4日-6月12日、7月7日-7月17日に「日本婊人論」を発衚、埌線は8月刊、前線は圓時刊行されなかった。 䞖俗䞻矩であった芪鞞を参考に、「俗文䞻矩」ずしお圓時ずしおは平易な文章を䜿うように心がけおいた。 出版物の管理ず販売の暩利は䜜者に独占させるずいうむギリスの版暩思想を日本に持ち蟌み、明治元幎(1868幎)の10月に新政府ぞ海賊版の取り締たりを求める願曞を提出、翌幎の5月13日に、版暩思想に基づいた出版条䟋の公垃を実珟させた。これにより、それ以前は有識者の仲間内で刀断されおいた著䜜暩の最終刀断が叞法の堎に持ち蟌たれるこずになる。たた諭吉は䞊行しお明治2幎(1869幎)の11月に出版業界に参入し、「犏柀屋諭吉」ずいう出版瀟を自ら䜜り、明治6幎(1873幎)3月には、日柳政朔の著䜜『啓蒙倩地文』に自著の『啓蒙手習之文』からの無断匕甚があったずしお非難を行った。圓時は出版䌚瀟が著䜜物の暩利を握り、盗䜜が発生しおも䜜者ぞの金銭的被害が皆無であったこずから、東京日々新聞のように日柳を擁護するメディアが倚数であったが、諭吉のこうした掻動は、文章の無断匕甚は違法行為であるずの認識を瀟䌚に浞透させるきっかけの䞀぀ずなった。 文久元幎(1861幎)、䞭接藩士江戞定府の土岐倪郎八の次女・錊ず結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。束山棟庵によるず、諭吉は結婚前にも埌にも劻以倖の婊人に䞀床も接したこずがなかったずいう。 或時先生にお話するず「巊暣か、性䟆の健󠄁康の倖に別段人ず異぀た所󠄁もないが唯䞀぀の心當りず云ふのは、子䟛の前󠄁でも話されぬ事だが、私は劻を貰ふ前󠄁にも埌にも、未だ嘗お䞀床も婊󠄁人に接した事がない、隚分󠄁方々を流浪しお居るし、緖方塟に居た時は攟蕩者󠄁等を、匕ず぀お䟆るために䞍朔󠄁な所󠄁に行぀た事もあるが、金玉の身體をむざ/\汚す暣な機會を぀くらぬのだ」ず先生は噓を぀く方ではない、先生の埡倫婊󠄁ほど玔朔󠄁な結合が、今の䞖界に幟人あるだらう 諭吉は、若幎のころより立身新流居合の皜叀を積み、成人のころに免蚱皆䌝を埗た達人であった。ただし、諭吉は急速な欧米思想流入を嫌う者から幟床ずなく暗殺されそうになっおいるが、斬り合うこずなく逃げおいる。無論、逃げるこずは最も安党な護身術であるが、諭吉自身、居合はあくたでも求道の手段ずしお殺傷を目的ずしおいなかったようであり、同じく剣の達人ず蚀われながら生涯人を斬ったこずがなかった勝海舟や山岡鉄舟の思想ずの共通性が窺える。 晩幎たで健康のためず称し、居合の圢皜叀に明け暮れおいた。医孊者の土屋雅春は、諭吉の死因の䞀぀に「居合のやりすぎ」を挙げおいる。晩幎たで䞀日千本以䞊抜いお居合日蚘を぀けおおり、これでは逆に健康を害するず分析されおいる。 明治䞭期に歊術ブヌムが起こるず、人前で居合を語ったり剣技を芋せたりするこずは䞀切なくなり、䞀時期「居合刀はすっかり奥にしたいこんで」いた。流行り物に察しおシニカルな䞀面も窺える。 諭吉は、勝海舟の批刀者であり続けた。戊蟰戊争の折に枅氎枯に停泊䞭の脱走艊隊の1隻である咞臚䞞の船員が新政府軍ず亀戊し埳川方の戊死者が攟眮された件(枅氎次郎長が埋葬し男を䞊げた意味でも有名)で、明治になっおから戊死者の慰霊の石碑が枅氎の枅芋寺内に立おられるが、諭吉は家族旅行で枅氎に遊びこの石碑の碑文を曞いた男が抎本歊揚ず銘蚘され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(穄)を食む者は人の事に死す。即ち埳川に仕える者は埳川家のために死すずいう意味)」を芋るず激怒したずいう。 『瘠我慢の説』ずいう公開曞簡によっお、海舟ず抎本歊揚(ずもに旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路敎然ず、叀今の匕甚を匕きながら、盞手の立堎を理解しおいるず公平な立堎を匷調しながら、容赊なく批刀しおいる。なお諭吉は海舟に借金の申し入れをしおこれを断られたこずがある。圓時慶應矩塟の経営は西南戊争の圱響で旧薩摩藩孊生の退孊などもあり思わしくなく、旧幕臣に比范的簡単に分け隔おなく融通しおいた海舟に揎助を求めた。しかし海舟は諭吉が政府から払い䞋げられた1侇4000坪におよぶ広倧な䞉田の良地を保有しおいるこずを知っおいたため、土地を売华しおもなお(慶應矩塟の経営に)足りなかったら盞談に乗るず答えたが、諭吉は䞉田の土地を非垞に気に入っおいたため売华しおいない。瘠我慢の説発衚はこのあずのこずである。たた、『犏翁自䌝』で諭吉は借金に぀いお以䞋のように語っおいる。 「私の流儀にすれば金がなければ䜿わない、有っおも無駄に䜿わない、倚く䜿うも、少なく䜿うも、䞀切䞖間の人のお䞖話に盞成らぬ、䜿いたくなければ䜿わぬ、䜿いたければ䜿う、嘗(か぀)お人に盞談しようずも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようずも思わぬ、貧富苊楜共に独立独歩、ドンなこずがあっおも、䞀寞でも困ったなんお泣き蚀を蚀わずに䜕時も悠々ずしおいるから、凡俗䞖界ではその様子を芋お、コリャ䜕でも金持だず枬量する人もありたしょう。」 海舟も諭吉ず同様に身なりにはあたり気を遣わない方であったが、よく軜口を叩く癖があった。ある日、䞊野粟逊軒の明六瀟ぞ尻端折り姿に蝙蝠傘を぀いお珟れた海舟が「俺に軍艊3隻ほど貞さないか?日本が貧乏になっおきたからシナに匷盗でもしに行こうず思う。向こうからやかたしく蚀っおきたら、あい぀は頭がおかしいから構うなず蚀っおやればいい。思いっきり儲けおくるよ。ねえ犏柀さん、儲けたらちっずあげたす」ず蚀っおからかったずいう。 しかし、海舟は諭吉のこずを孊者ずしお䞀目眮いおおり、自分が孊んだ䜐久間象山の息子の䜐久間恪二郎や、埳川慶喜の十男で逊子の勝粟を慶應矩塟に入孊させるなど面倒芋のよい䞀面もあった。 土屋雅春の『医者のみた犏柀諭吉』(䞭倮公論瀟、䞭公新曞)や桜井邊朋の『犏沢諭吉の「科孞のススメ」』(祥䌝瀟)によれば、諭吉ず西掋医孊ずの関係は深く、以䞋のような業瞟が残されおいる。 杉田玄癜が蚘した『蘭東事始』の写本を、諭吉の友人・神田孝平が偶然に発芋した。そこで、杉田玄癜の4䞖の孫である杉田廉卿の蚱可を埗お、諭吉の序文を附しお、明治2幎(1869幎)に『蘭孊事始』ずしお出版した。さらに明治23幎(1890幎)4月1日には、再版を「蘭孊事始再版序」を附しお日本医孊䌚総䌚の機䌚に出版しおいる。 明治25幎(1892幎)10月、ドむツ留孊から垰囜した北里柎䞉郎のために、犏柀諭吉は東京柎山内に「䌝染病研究所」(䌝研)を蚭立し、北里を所長に迎えた。その埌、䌝研は同幎11月、倧日本私立衛生䌚に移管され、幎間3600円の支揎を受けた。明治27幎(1894幎)には、䌝研は芝愛宕町に移転したが、その時、近隣䜏民から反察運動が起こった。そこで、犏柀諭吉は次男・捚次郎の新居を䌝研の隣りに䜜り、䌝研が危険でないこずを瀺しお、北里柎䞉郎の研究をサポヌトした。明治32幎(1899幎)に䌝研が囜に移管されるず、北里は䌝研の所長を蟞任し、諭吉ず長與專霋ず森村垂巊衛門ずが創蚭した「土筆ヶ岡逊生園」に移った。 明治3幎(1870幎)、慶應矩塟の塟生前田政四郎のために、諭吉が英囜匏の医孊所の開蚭を決定した。そしお明治6幎(1873幎)、慶應矩塟内に「慶應矩塟医孊所」を開蚭した。所長は慶應矩塟出身の医垫束山棟庵が就任した。たた、杉田玄端を呌んで尊王舎を医孊蚓緎の堎所ずした。なお、明治13幎(1880幎)6月、慶應矩塟医孊所は経営䞊の理由により閉鎖されるこずになった。 しかし、諭吉の死埌15幎たった倧正5幎(1916幎)12月27日、慶應矩塟倧孊郚に医孊科の創蚭が蚱可され、倧正6幎(1917幎)3月、医孊科予科1幎生の募集を開始し、孊長ずしお北里柎䞉郎が就任するこずになった。 倪平掋戊争(倧東亜戊争)埌、歎史孊者の服郚之総や遠山茂暹らによっお諭吉の「脱亜論」が再発芋され、「犏柀諭吉はアゞア諞囜を蔑芖し、䟵略を肯定したアゞア蔑芖者である」ず批刀された。䞞山真男は服郚之総の諭吉解釈を「論敵」ずしおいたずいわれる。 平成13幎(2001幎)、朝日新聞に掲茉された安川寿之茔の論説「犏沢諭吉 アゞア蔑芖広めた思想家」に、慶應矩塟倧孊文孊郚卒の平山掋が反論「犏沢諭吉 アゞアを蔑芖しおいたか」を掲茉したこずで、いわゆる「安川・平山論争」が始たった。 平山は、井田進也の文献分析を基瀎に、諭吉のアゞア蔑芖を、『犏柀諭吉䌝』の著者で『時事新報』の䞻筆を務め、『犏柀党集』を線纂した石河幹明の䜜為にみる。平山によれば、諭吉は支那(䞭囜)や朝鮮政府を批刀しおも、民族そのものをおずしめたこずはなかった。しかし、たずえば枅の兵士を豚になぞらえた論説など、差別䞻矩的内容のものは石河の論説であり、党集線纂時に諭吉のものず停っお収録したのだずいう。 根本的にこの問題は、平山自身や郜倉歊之がいうように、無眲名論説の執筆者を文献孊(テキストクリティヌク)的に確定しないこずには決着が぀かない。「時事新報論説」執筆者に関する考察に぀いおは、井田進也「井田メ゜ッド」による執筆者怜蚌も参照。 このように犏柀肯定の動きは脱亜論ず犏柀の分離を目指しおいたが、2000幎代になるず、東アゞアのナショナリズムの高たりによりネット空間を䞭心に脱亜論が人気を埗お、逆の動きが起き始めた。さらに察立の悪化した2010幎代になるず右掟系出版瀟を䞭心に脱亜論本が続々ず出版され、犏柀の肯定的評䟡は党く別の圢で実珟された。 平山掋は、井田の分析を基に珟行党集の第䞃巻たでは眲名入りで公刊された著䜜であるのに察しお、八巻以降の『時事新報論集』はその倧郚分が無眲名であるこずを指摘した䞊で、倧正時代の『犏沢党集』(1925 - 26幎)ず昭和時代の『続犏沢党集』(1933 - 34幎)の線纂者であった匟子の石河幹明が『時事新報』から遞んだものを、そのたた匕き継いで収録しおいるずした。さらに珟行版『党集』(1958 - 64幎)の第䞀六巻には諭吉の没埌数か月しおから掲茉された論説が六線収められおいるこずも指摘しおいる。 2000幎(平成12幎)3月12日付で朝日新聞により「この1000幎・日本の政治リヌダヌ読者人気投祚」ずいう特別䌁画が組たれ、西暊1000幎から1999幎の間に登堎した歎史䞊の人物の䞭から、「あなたが䞀番奜きな政治リヌダヌ」を投祚しおもらう䌁画で、埗祚数7,863祚のうち、第6䜍の豊臣秀吉(382祚)に次ぐ第7䜍(330祚)にランクむンするなど、囜民的な人気がある。 䞭囜における評䟡は䞀般に悪いため慶應出身者からは憀りの声が聞かれる。 慶応文孊郚卒の平山掋は、「䞭囜人による犏柀批刀の声の倧きさに惑わされお、その䞻匵にほずんど倚様性がない」ず批刀した。 圌ら䞭囜の犏柀批刀者は、圌の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ䞭囜語蚳されおいる、日本の犏柀研究論文の骚子を、䞭囜語で叫んでいるだけなのである。圌らが䞋敷きにしおいるのは、服郚之総・遠山茂暹・安川寿之茔らの研究である。それ以倖の、犏柀を「垂民的自由䞻矩者」ずしお肯定的に評䟡する䞞山真男らの論文が出発点ずなるこずはない。 慶応法孊郚卒の小川原正道は、「平成22幎11月に北京倧孊で講挔し、犏柀の文化思想や宗教思想などに぀いお話した際、同倧孊の著名な教授から「犏柀には『脱亜論』以倖の偎面もあるんですね」ず玠盎に驚かれ、愕然ずした」ず述べる。 たた、最も犏柀の察倖思想ぞ批刀的な安川寿之茔の著曞が近幎䞭囜で盛んに翻蚳されおいる。 慶應矩塟犏柀研究センタヌ客員研究員区建英の研究によるず、以䞋のように評䟡できるずいう: 東倧卒の䞞山眞男は䞭囜における犏柀の人物像に察する䞻な反論ずしお以䞋の5点を挙げおいる: 李登茝は、講挔「孊問のすゝめず日本文化の特城」で諭吉に぀いお、欧米を日本に玹介するだけではなく、『孊問のすゝめ』を著すこずによっお、思想闘争を行い、日本文化の新しい䞀面を匷調しながらも日本文化の䌝統を倱わずに維持したず評䟡しおいる。 倧韓民囜で脱亜論を匕甚した研究論文が芋られるようになるのは1970幎以降であり、1980幎代に日本で歎史教科曞問題が起こり、日本の朝鮮䟵略の論理ずしお改めお認知され、珟圚は韓囜の高校䞖界史教科曞にも茉っおいる。 諭吉が揎助した李氏朝鮮の開化掟は、その䞭心にいた朎泳孝が日本統治時代の朝鮮においお爵䜍を埗るなどの厚遇を埗お、金玉均は死埌に莈䜍されたこずなどから、独立埌の韓囜では芪日掟ずみなされ、諭吉ぞの関心もほずんどなかったものず掚枬される。金に察する評䟡は北朝鮮の方が高く、それを受けた圢で、歎史研究家の姜圚圊が1974幎(昭和49幎)に「金玉均の日本亡呜」を発衚し、諭吉に觊れお「最近の研究で明らかにされおきおいるように、諭吉の思想における囜暩論的偎面」ずいう蚀葉が芋える。この圓時の日本においお、諭吉を自由䞻矩者ずしおではなく囜暩論者ずしおずらえ、䟵略性を匷調する傟向が高たっおいたわけだが、姜圚圊は諭吉に䞡面性を芋おおり、「日本を盟䞻ずする䟵略論に぀ながる危険性をはらむ」ずし぀぀も、開化掟ぞの揎助には䞀定の評䟡を䞎えおいる。 珟圚の韓囜におけるごく䞀般的な諭吉像は、日本における教科曞問題を受けお圢䜜られたため、極端に吊定的なものずなっおいる。䞀般的に、韓囜における諭吉は埀々にしお埁韓論者ずしお䜍眮づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が曞かれた圓時の状況は考慮されず、神功皇后䌝説や豊臣秀吉にたでさかのがるずされる日本人の䟵略思想の流れの䞭で捉えられおいる。1990幎代蟺りから、圚日孊者の著䜜にもそういった傟向が芋られるようになり、その䟋ずしおは、1996幎(平成8幎)の韓桂玉の『「埁韓論」の系譜』、2006幎の琎秉掞『日本人の朝鮮芳 その光ず圱』を挙げるこずができる。 1990幎代におけるこういった韓囜の状況が、諭吉に䟵略性を芋る日本偎の教科曞問題ず連動し続けおいるこずは、安川寿之茔が『犏沢諭吉のアゞア認識』の「あずがき」で詳现に述べおいる。高嶋䌞欣が1992幎(平成4幎)に執筆した教科曞においお、日本人のアゞア差別に関係するずしお脱亜論を匕甚し、怜定によっお䞍適切ずされ蚎蚟になった。日本の戊争責任を远及する垂民運動に身を投じおいた安川は、この蚎蚟を契機ずしお、諭吉を「我が囜の近代化の過皋を螏みにじり、砎綻ぞず远いやった、我が民族党䜓の敵」ずするような韓囜の論調に共鳎し、30幎ぶりに諭吉研究に取り組んだずいう。 杵淵信雄は安川ずは異なり、『犏沢諭吉ず朝鮮』の䞭で「脱亜論の宣蚀を泚芖するあたり、(諭吉は)アゞアずの連垯から䟵略ぞず以埌転じたずする誀解が生じた」ずしお、諭吉の䟵略性を匷調する立堎ではないが、1997幎(平成9幎)の時点においお、「李氏朝鮮の積匊を痛眵し、しばしば圓り障りの匷い衚珟を奜んだ諭吉の名が、隣囜では、䞍愉快な感情ず結び぀くのは自然な成行である」ず、韓囜における感情的な反発に理解を瀺しおいる。 䞀方、1990幎代の韓囜においお、諭吉研究に取り組む研究者が耇数珟れたこずを林宗元は述べおいる。林の玹介するずころによれば、その芳点も、日本における「自由䞻矩者か垝囜䞻矩者か」ずいう議論を匕き継ぐもの、朝鮮の開化䞻矩者ず諭吉を比范するもの、諭吉ず朝鮮開化掟ずの関係を远求するもの、諭吉の反儒教論を批刀分析するものなど倚岐にわたっおおり、吊定的なものばかりではないこずが泚目される。 2000幎代に入り、こういった孊問的取り組みず䞊行しお、近代化の旗手ずしおの諭吉ぞの䞀定の理解が新聞論調にも芋え始める。2004幎(平成16幎)前埌に登堎したニュヌラむトは、金玉均など朝鮮開化掟を高く評䟡し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立堎をずっおおり、埓来の被害者意識から離れた歎史芳を提唱するなど新しい颚を巻き起こした。同幎、林宗元によっお『犏翁自䌝』が韓囜語に翻蚳・出版されたこずも、韓囜における諭吉像に肯定的な圩りを加えた。韓囜䞻芁玙はのきなみ奜意的な曞評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが遞んだ今幎の本」の翻蚳曞の䞀぀ずしお玹介しおいる。 しかし、韓囜においお諭吉に䟵略性を芋る埓来の芋解は根匷く、たた日本においおも脱亜論が䞀人歩きする傟向が著しい。2005幎、ノリミツ・オオニシニュヌペヌク・タむムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」ずした。東京発のこういった報道を受けおか、䞭倮日報では再び諭吉を「アゞアを芋䞋しお䟵略を肯定した嫌韓の父であり右翌の元祖」ず評しおもいる。 たた、皲葉継雄は、韓囜で諭吉の䟵略性の認識が高たっおいるず論じおもいお、韓囜における諭吉像は、韓囜内の政治情勢ずずもに、日韓の倖亀関係、䞖論のキャッチボヌルによっおも倧きく揺れ動いおいる。 『犏柀諭吉著䜜集』(å…š12å·»)、慶應矩塟倧孊出版䌚で2002幎(平成14幎)- 2003幎(平成15幎)に刊行。 2009幎(平成21幎)に、著䜜集の䞀郚(遞曞 å…š5冊)が、コンパクト版で新装刊行。
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科孊者
科孊者(かがくしゃ、英語: scientist)ずは、科孊を専門ずする人・孊者のこずである。特に自然科孊を研究する人をこう呌ぶ傟向がある。 もずもず自然を察象ずした知の探求は「自然哲孊」(ラテン語: philosophia naturalis、英語: natural philosophy)ず呌ばれ、それに携わる人々は1800幎ごろでもnatural philosopher「自然哲孊者」やsavan「知者」などず呌ばれおいた。 だが、philosophyの名で呌ばれおいた知識䞀般の䞭から、独自の性質を持぀知が生たれたず認知され、その知を呌ぶのにラテン語scientia、英scienceの名称が甚いられるようになったこずや、その知を探求する専門家集団が自らの存圚を他の集団ず区別しお語り始めたこずを反映しお、1834幎にりィリアム・ヒュヌりェルがscientiaから掟生させる圢でscientistずいう語を造語、scienceに携わる人々をscientist(サむ゚ンティスト)ず呌ぶこずを提案した。それが定着し珟圚に至っおいる。 遡れば叀代ギリシャや叀代ロヌマ等においおも自然に関する探求(=自然哲孊philosophia naturalis)は行われおいた。だが圓時の哲孊の最重芁課題ず蚀えば、人間の生き方や集団のあり方に関する倫理的な思玢であり、自然哲孊はあくたでその哲孊䜓系のごく䞀郚ずいう䜍眮づけであり、自然哲孊だけが単独で行われるずいうこずは少なかった。したがっお自然哲孊に携わる哲孊者はどうしおも脇圹的な存圚ずなり、瀟䌚的に重芖されるこずはほずんどなかった。 16-17䞖玀、ペヌロッパで科孊革呜ず呌ばれる近代科孊成立の動きがあったこずや、自然哲孊研究のための孊䌚やアカデミヌが成立し、そこに集った人々が様々な掻動をしたこずで、初めお自然哲孊者には、他の哲孊者ずは䜕かしら異なった圹割があるこずが理解されるようになった。だが、その科孊革呜の埌でも自然哲孊者たちは自然哲孊そのもので収入を埗おいたわけではなく、他に生蚈の基盀があった。䟋えば、元々広倧な領地を持぀貎族の生たれであったり、倧商人であったり、聖職者等ずしおの生掻基盀を持っおいたりしおおり、぀たり珟圚で蚀うずころのアマチュア・サむ゚ンティストであり、圌らにずっお自然哲孊は知的奜奇心を満たす趣味ずしおの性質を持っおいた。 19䞖玀に入るず、自然哲孊ないし科孊の高床化ずずもに、倧孊等の教育機関に科孊の教育のための講座・コヌスが蚭けられ正芏の教育䜓系ずしお扱われるようになり、そのコヌスで指導教官の䞋、䜓系的に科孊を習埗した若者が生み出されるようになった。たた、研究所も蚭眮されるようになり、圌らの働く堎所が出珟した。このようにしお科孊者は専門的職業の䞀぀ずしお確立し、それを衚すかのようにヒュヌりェルによりサむ゚ンティストずいう名称の䜿甚が提唱されたのである。 珟代の科孊者のほずんどは、18䞖玀たでのアマチュア・サむ゚ンティストのように独りで趣味的に自然を探求しおいるのではなく、倧孊あるいは䜕らかの研究機関ず雇甚契玄を結び、絊料を支払われ、研究蚭備の䜿甚を蚱可され、研究費を割り圓おられおいる。 珟代の科孊者は、倧きな科孊共同䜓の䞭で生かされおいるような面がある。各人は専門化された孊䌚に所属したり、孊術誌等を講読するこずで他の科孊者の研究により明らかになった新しい科孊的知識を埗るこずができる。たた、科孊者は孊䌚や孊術誌で研究成果を発衚するこずで、他の科孊者からの評䟡を受ける必芁がある。 それらの堎で研究成果により高い評䟡を埗た者は、次第に優秀な科孊者ず認知されるようになり、それに䌎い高い地䜍、最沢な研究費、助手、瀟䌚からの賞賛などが結果ずしお䞎えられるこずが倚い。だがその逆に研究成果を瀺すこずができない者は䜎い評䟡が䞎えられ、研究費が削られ、瀟䌚的にも次第に䞍本意な状況に眮かれるこずが倚い。 研究成果の評䟡の基準のひず぀ずしお、研究成果に新しい科孊的発芋が含たれおいるかどうか、ずいう点がある。これを別の角床から芋れば、同じ内容の研究をし同皋床に努力しおいおも、䜕かを先に発芋した者、぀たりpriorityプラむオリティ(先取暩)を確保した者が高く評䟡され、遅れお発芋したずされる者はたずえ独自に発芋したずしおも倧抵の堎合評䟡されないずいう原理が働いおいるこずも意味する。䟋えばノヌベル賞などでも先取暩を持぀者に賞ず賞金が授䞎される。このような原理を背景ずしお、先取暩を巡っお科孊者(のグルヌプ)同士で激しい争いずなるこずがある。 この競争原理は、䞀方で科孊知識の進歩を促進しおきたずいう効果が認められおいる。他方、科孊者に察しおは他者に先駆けお研究成果を出さなければならないずいう心理的な圧力を感じさせるこずで、科孊者による様々な䞍正行為や病理的行動を生み出す原因ずもなっおいる。 䞊蚘の構図の䞭で心理的に远い詰められた科孊者の䞀郚が起こす䞀連の病理的な行動はpublish or perish syndrome「発衚するか死か 症候矀」などず呌ばれるこずがある。 科孊者が道埳的かどうか、たたは䞍道埳で䞍正行為を行う可胜性があるかどうかに぀いおの研究があった。この研究は、厳密なゞャヌナルであるPLOS ONEで発衚された。結論ずしおは、科孊者は本質的に䞍道埳ではないが、䞍道埳な行動を取る可胜性があるだけである。 科孊者の䞀郚には、功を焊るあたりに䞍正行為を行う者がいる。䞍正行為の内容ずしおは、実隓デヌタの改ざん・捏造、アむディアの盗甚、論文の盗甚、詊料の窃盗、実隓デヌタ蚘録媒䜓の窃盗などがある。このような䞍正行為は、内容によっおは科孊界を揺るがす事件ずなったり、さらにはマスコミを通じお広く䞀般の人々にも知られるこずもある。 たた論文の成立に䜕ら盎接貢献しおいない者が、ただ研究宀の責任者の立堎にいるずいうだけで論文の共同執筆者ずしお名を連ねるずいう䞍正行為がある。このように立堎の匷い者が陰に陜に政治的圱響力を行䜿しお名を連ねさせる堎合もあれば、逆に論文執筆者偎が、誰かから䜕らかの利益が䟛䞎されるこずを期埅しお共同執筆者ずしお名を衚瀺する機䌚を提䟛しおいる堎合もある。たた同䞀グルヌプ内の耇数の科孊者が共犯的に盞互の論文の共同執筆者ずしお名を連ね、互いの業瞟数を氎増しするようなこずも行われるこずがある。これらの共同執筆者に関わる䞍正行為は科孊者の間ではその䞍正な性質を隠蔜する圢でhonorary authorship「名誉のオヌサヌシップ」やgift authorship「ギフトオヌサヌシップ」などず呌ばれるこずがある、が名称は䜕であれ䞍正行為には倉わりないずいうのが公的機関の公匏芋解である。 たた、科孊者が既埗暩益者ずなっおしたった堎合、新しい研究成果に照らしお考えを倉えるこずは特に困難である。これは別に法的な䞍正行為ではないが、結果ずしお孊界に䞍利になる。科孊革呜によれば、科孊掻動党般が進歩する䞭で、研究手法や科孊党䜓の倧前提が倉わるずいうパラダむムシフトがしばしば起こる。そしお、この倧前提の倉化は、たいおい若者や他分野の専門家によっおもたらされる。このため、若手や他分野の専門家は特に有甚であるはずだ。 䟋えば各省庁や関連の公的機関に察しお提出する研究費申請曞類に䞊蚘のような䞍正を利甚し、それにより支絊された研究費を䜿った堎合などは、もはや科孊ずいう孊問内郚の芏範の問題では枈たず、公文曞停造および公金暪領ずいう重倧な違法行為、明らかな犯眪行為であるので、そのようなこずを行った者は逮捕・凊眰される可胜性がある。 最近の科孊者による䞍正行為の䟋ずしお、「ファン・り゜ク」や「ヘンドリック・シェヌン」、「小保方晎子」の項が参照可。 珟代では科孊ず技術が軍事、倖亀、政治、経枈、瀟䌚、個人生掻にたで及がす圱響が倧きく、そしお深刻になっおいる。䟋えば栞兵噚の開発により、第二次䞖界倧戊䞭に数十䞇人が呜を萜ずしただけでなく(原爆の項参照)、その埌の冷戊時代に䞀歩誀れば人類が滅亡しかねない状況も起きた。そのため、科孊者の個人ずしおの掻動であれ、集団ずしおの掻動であれ、その掻動の行為責任・瀟䌚的責任を問う声が、科孊者自身からも科孊者以倖の人々からも発せられ、広く議論ずなった。このような議論を螏たえ、1980幎に日本の科孊者達は「科孊者憲章」を発衚した。 この憲章の埌も、科孊者の瀟䌚的責任・行為責任ぞの人々の関心は高く、科孊者の掻動のあり方は今埌も問われ続けるこずであろう。 科孊者が基瀎的な研究を行う傟向があるのに察しお、゚ンゞニアのほうが抂しお時間的に限定された䞭で具䜓的な成果を出す掻動を行っおいる傟向があるず、倧たかに区別するこずは可胜だが、科孊者ずされる人が極めお゚ンゞニア的な掻動を行っおいるこずもあるし、逆に゚ンゞニアずされる人が高床に科孊的な発芋を孊䌚等で公衚するこずもあり、垞に境界がはっきりずあるわけではない。 珟代においお、科孊が人々から賞賛されおいるのは、必ずしも科孊者ず呌ばれる人々の掻動が評䟡されおいるからではなく、゚ンゞニア達が行っおいる掻動、すなわち人々の具䜓的な芁望や組織の芁求事項を理解しようずする努力を惜したず、その芁望に応えお成果を制限時間内に着実に出す掻動が、個人生掻や䌁業掻動の䞭で倧いに評䟡・賞賛されおいお、その波及効果で科孊者党䜓の評䟡も高められおいるずいう偎面があるこずも芋逃しおはならないだろう。 「゚ンゞニア」の項も参照のこず。 意倖なこずに、蚘憶力の良い科孊者は、自分の蚘憶力を過信しお、新しい研究成果を無芖する傟向がある。短期蚘憶が苊手な人は、䞀芋無関係な珟象に぀ながりを発芋する傟向がある。新しいこずを孊ぶのが遅い人は、新しいこずを孊ぶのが早い人よりも、その孊習過皋から思いがけない発芋をしやすい。創造性に぀いおは、倚くの研究がなされおいる。創造性は、新しい分野に挑戊したり倉化を求めたりする際に、無胜感に怯たないこずず関連しおいる。したがっお、瀟䌚的な協調性の欠劂や非集団性の傟向は、新しい経隓に察する開攟性ず同様に、高い創造性ず関連しおいる。信じられないこずに、内向的で内気な人々も比范的創造的である。 Category:科孊者を参照のこず。特筆に倀する科孊者が圓癟科事兞の蚘事ずなっおいる。 1914幎に心理孊者ゞェヌムズ・リュヌバ(英語版)が、米囜のおよそ1000人の科孊者に察しお信仰に぀いおのアンケヌト調査を行ったずころ、42%の科孊者が神を信じおいるず回答し、42%の科孊者が信じおいないず回答した、ずの結果が出た。 リュヌバの調査からおよそ80幎埌の1996幎に、科孊史研究者のEdward Larsonが、同調査ず同数の科孊者に察しお、たったく同じ質問内容で調査をおこなったずころ、40%の科孊者が神を信じおいるず回答し、45%の科孊者が信じおいないず回答した。 2009幎にピュヌ・リサヌチセンタヌ(英語版)が、党米科孊振興協䌚(AAAS)のメンバヌの科孊者に察しお(今床は䞊蚘ずは少し異なった 次のような質問文を甚いお)調査を行ったずころ、「(I) believe in God 神を信じる」ずした人が33%、「(I)don't believe in God, but do believe in a universal spirit or higher power 神は信じないが、ナニバヌサルなスピリットあるいは超越的な力を信じおいる」ずした人が18%、「(I)don't believe in either どちらも信じない」ずした人が41%、「(I)don't know / Refused “私には分からない”もしくは回答せず」が7%であった。この調査結果からするず、調査察象になった科孊者のちょうど半数ほど(51%)が、神あるいは䜕らかの超越的な力を信じおいる、ず回答したこずになる。(参考たでに比范察象ずしお、2006幎に同リサヌチセンタヌがアメリカ合衆囜人党般を察象ずしお調査を行った結果は、95%が䜕らかの神や超越的な力を信じおいる、ず回答したのであった。たた、41%の科孊者が「神を信じない」ず回答したわけだが、それず比范するずアメリカ人党般ではわずか4%がそう回答しただけであった。) 䞀方、『利己的な遺䌝子』での進化生物孊者リチャヌド・ドヌキンスによるず、砎壊的で危険な「ミヌム」の兞型䟋は宗教であり、 ずいう。ドヌキンスは、文化的自己耇補子「ミヌム」の理論に関しお ずも述べおいる。『利己的な遺䌝子』の邊蚳者の䞀員である進化生態孊者・岞由二は、40呚幎蚘念版(2018幎刊行)の埌曞きでこの本を「名著」ず呌び、次のように評䟡しおいる。 蚈算機科孊者(コンピュヌタ科孊者)・数理論理孊者・哲孊博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセヌンは、哲孊者たちによる数孊的な蚀及の倚くが ず批刀しおいる。フランセヌンによるず、“䞍完党性定理は数孊や理論の「䞍完党性」を蚌明した”ずいった誀解や、“数孊には「䞍完党」な郚分があるず蚌明枈みであり、数孊以倖の分野に「䞍完党」な郚分があっおもおかしくない”ずいった誀解が䞀般瀟䌚・哲孊・宗教・神孊等によっお広たり、誀甚されおいる。 なお、う぀病の有無を血液(血䞭PEA濃床)で蚈枬する怜査法を開発し、臚床珟堎でも甚いおいる心療内科医の川村則行は 等ず述べおいる。 尚、物理孊者のカヌル・セヌガンは、著曞の䞭で「䞀般的に科孊者ずは暩嚁ある地䜍ずみられがちであるが、単なる専門職であり、科孊においお暩嚁ずいうものは意味を成さず、かえっお邪魔(ハロヌ効果)になる」ず述べた。
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ディスプレむ
ディスプレむ(英: display) もずの英語では動詞的甚法ず名詞的甚法があり、以䞋のような意味がある。
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䜍盞同型
䜍盞同型 (いそうどうけい、英: homeomorphic)、あるいは同盞(どうそう)ずは、2぀の䜍盞空間が䜍盞空間ずしお等しいこずを衚す抂念である。 䟋えば、球の衚面ず湯飲みの衚面ずはある「連続」な双方向の移し方で互いに移し合うこずができるので同盞であり、たた穎が1぀開いたドヌナツの衚面 (トヌラス) ず持ち手がひず぀あるマグカップの衚面も同じく同盞である。よっお球の衚面ず湯のみの衚面は䜍盞幟䜕孊的に党く同䞀の性質を持ち、ドヌナツの衚面ずマグカップの衚面も同䞀の性質を持぀。しかし、球面ずトヌラスずはこのような写し方が存圚しないので同盞ずはならない。(盎芳的には、連続的な倉圢によっお穎の個数が倉化するこずはないずいうこずである。) ここで連続な写し方ずは、盎芳的には近いずころを近いずころに写すような写し方を意味する。 䜍盞空間 A, B の間の写像 f: A → B が連続か぀党単射で、その逆写像もたた連続であるずき、f を同盞写像 (homeomorphism)、あるいは単に同盞ずいう。同盞写像の逆写像は明らかに同盞である。A ず B ずの間に同盞写像が存圚するずき、A ず B は同盞、あるいは䜍盞同型であるずいう。
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8,781
デゞタル加入者線
デゞタル加入者線(でじたるかにゅうしゃせん、英: Digital Subscriber Line, DSL)ずはツむストペアケヌブル通信線路で高速デゞタルデヌタ通信を行う技術、もしくは電気通信圹務を指す。 䞊りず䞋りの速床の異なるADSL(Asymmetric DSL)、CDSL(Consumer DSL)、VDSL(Very high speed DSL)、長距離向きのReach DSL、同じ速床のHDSL(High-bit-rate DSL)、SDSL(Symmetric DSL)などがありxDSLずも総称する。 斜蚭構内のむンフラストラクチャヌずしお既存のメタルケヌブル加入者線を利甚、兌甚できるのが長所である。そのため、通信甚に光ケヌブルやLANケヌブルなどを新たに敷蚭する必芁が無い。ただし、xDSL察応のモデムが別途必芁ずなる。 100m皋床の距離で、䞻に建物内のメタル回線(アナログ電話回線)を䜿甚しおデヌタ通信をする甚途。集合䜏宅などの䞻配線盀でFTTxを倉換し既蚭の電話線で各加入者に分配するために䜿甚されおいるほか、ホテル客宀での高速むンタヌネットにも䜿われおいる。 VDSL(Very high speed Digital Subscriber Line、超高速ディゞタル加入者線)は1察のツむストペアケヌブルで、ADSLより高速な通信を行なう。100m - 1.5km皋床の通信を目的ずしおおり、それ以䞊の距離ではADSLの方が有利ずなる。ADSLよりも広い呚波数垯域(最高30MHz)や速床優先の技術を採甚しおおり、技術革新が倧きいADSLの2倍以䞊の転送胜力を持぀。 芏栌名はITU-T G.993.1。2001幎11月29日に芏栌化された。 䜿甚呚波数垯域は0.64 - 30MHzで、䞊り䞋りずも速床を出せるようにいく぀か垯域を区切り䞊り䞋りを亀互に割り圓おおいる。そのために最倧速床も2000幎代圓時の光ファむバヌの速床を基準に䞋りは100Mbps、䞊りは30Mbpsから100Mbpsずしおいるものが倚い。なお日本でも初期のFTTxサヌビス提䟛時はVDSLの代わりにHomePNAも䜿われおいたが、VDSLが広く普及するずずもにあたり䜿われなくなった。 NTT西日本では2002幎6月1日より、NTT東日本では2002幎12月16日より、Bフレッツ・マンションタむプにおVDSLの提䟛を開始した。サヌビス開始圓初は䞋り50Mbps、䞊り10Mbpsだった。NTT東日本では2004幎5月27日より䞋り100Mbpsに高速化した。NTTでは2020幎代になっおもG.fastなどの新しい技術に移行せずにこの叀い技術を䜿い続けおいる。 建物内での利甚が䞀般的であるが、䞀般向けのADSL回線の高速版ずいう䜍眮づけで2004幎8月よりJANISネット(株匏䌚瀟長野県協同電算)がVDSLを利甚したむンタヌネット回線を提䟛しおいた。理論通信速床は60Mbpsだが、実際にADSL以䞊の通信速床が期埅できるのはNTT局(たたは有線攟送局)から1km以内の信号枛衰の少ない電話回線のみずなる。それ以䞊の距離になるず䜿甚できる呚波数垯が狭くなり、通垞のADSLず同等たたはそれ以䞋にたで性胜が䜎䞋しおしたう。 VDSLの機胜拡匵版。芏栌名はITU-T G.993.2。2006幎2月17日に芏栌化された。プロファむル30aの堎合、30MHzの呚波数垯域で、䞊り・䞋り垯域合蚈で200Mbpsずなる。日本囜内導入䟋は少ない。 埓来のVDSLは、1Gbps前埌たで向䞊しおいる光ファむバヌ本線(局たで)の通信速床に比べ、䜎速でありボトルネックずなっおいたが、106MHzの呚波数垯域で、䞊り・䞋り垯域合蚈で最倧1Gbpsを実珟するG.fast(ITU-T G.9701)芏栌が2014幎12月5日に制定、実装モデムが開発され、auひかり等の䞀郚のISPで導入が進んでいる。既にVDSL等を導入枈の集合䜏宅等においお、集合装眮および個宅のモデムを入れ替える事で高速化を図るこずが可胜。 圓初は1GbpsのG.fast 106 MHz profileだけだったが、埌に、䞊り・䞋り垯域合蚈で2GbpsのG.fast 212 MHz profileが远加になった。 G.fastの埌継。芏栌名はITU-T G.9711で2021幎4月23日に芏栌化された。呚波数垯域は424MHzで、党二重モヌドの堎合は䞊り・䞋り垯域合蚈で8Gbps、時分割二重化の堎合は4Gbps。呚波数垯域を848MHzぞ拡倧するこずも蚈画されおいる。MGfastはMulti-Gigabit fastの略。 芏栌制定前はXG-FASTやG.mgFastなどの名称で、G.fastから速床を10Gbpsに向䞊させるのを目指しおいた。ノキアが2020幎商甚化を目指しおいた。 DSLの研究で知られるJohn Cioffi等によるず、理論䞊はメタル回線でも100mの距離でTbpsが実珟可胜であるず䞻匵しおいる。 数km皋床の距離で、䟋えば、基地局から建物たでのメタル回線(アナログ電話回線)を䜿甚しおデヌタ通信をする甚途。珟圚では光ファむバヌに眮き換わっおいお、あたり利甚されなくなっおいる。日本では2025幎1月31日にADSLは終了。 ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line、非察称デゞタル加入者線)は1察のツむストペアケヌブル通信線路で、䞊り・䞋りの速床が非察称な通信を行う。 技術にも皮類がありアメリカ合衆囜からそのたた技術を受け継いだ"AnnexA"、Euro-ISDNず倚重化可胜な"AnnexB"、日本方匏のTCM-ISDNの干枉を軜枛した"AnnexC"等がある。 ReachDSLは、米パラダむン瀟が開発した遠距離での接続の確保を優先したDSLである。速床は最倧でも䞊䞋ずもに960kbpsず遅いが、その分通信距離が5 - 12km皋床ず長い。遠距離で損倱が倧きくなる高呚波数の垯域を䜿甚せず、損倱が少ない䜎い呚波数の垯域のみを䜿う。そのためISDNずの干枉も䜎いずされおいる。その埌、速床を䞊䞋2.2Mbpsに向䞊させたRDSL2が発衚された。米パラダむン瀟では路線長が5kmの堎合1Mbpsの速床が出るずしおいる。 日本においおはJANISネット(株匏䌚瀟長野県協同電算)が日本初のサヌビスを開始し、以埌Yahoo! BB等様々な䌚瀟が提䟛しおいるがRDSL2方匏によるサヌビスを行っおいるのはNTT西日本-四囜ず関西ブロヌドバンドのみである。RDSL2は、発衚圓時既にブロヌドバンド接続の䞻流がADSLからケヌブルテレビやFTTxぞず移行しおいたために普及しなかった。 CDSL(Consumer Digital Subscriber Line)は1997幎10月28日にRockwell Semiconductor Systems瀟から発衚されたxDSL芏栌。䞊り最倧128kbps、䞋り最倧1Mbpsが簡易DSL。 ADSLず䌌た特城を持぀が、ADSLよりも安䟡でスプリッタが必芁ないずいう点が異なる。日本では初期からADSLが採甚されたため普及しなかった。埌に発衚されたADSLのG.lite芏栌ず類䌌しおいる。 HDSL(High-bit-rate Digital Subscriber Line)は、2察のツむストペアケヌブルを甚いる送信・受信ずも同じ速床の察称型DSLである。SDSLの2察版ずもいえるもので、1察で送信・もう1察で受信を行う。䜿甚垯域は200kHzず䜎いため最高速床は玄2Mbpsにずどたるほか、アナログ電話回線ずの倚重化はできない。しかし䜿甚可通信線路長は20kmに及ぶ。 業務甚に既蚭の構内電話線で甚いられおいる。ただし、珟圚は光ファむバヌの敷蚭が進み利甚されるこずは少なくなっおいる。 SDSL(Symmetric Digital Subscriber Line)は東京めたりっく通信などが提䟛しおいた䞊䞋速床察称の方匏。その技術はITU-Tで定矩されおいるADSL芏栌、ITU-T G.992.1 Annex Hで取り決められおいる。 ISDNの「INSネット1500」ず䞊ぶサヌビスずしお䌁業・業務甚に提䟛されたが、光ファむバヌの登堎・普及により䞋火になった。しかし普及床は䜎いものの、珟圚でもサヌビスを行っおいる業者もあり廉䟡な察称サヌビスずしお展開されおいる。 速床は䞊䞋共に160kbps - 2Mbpsが䞀般的で160kbps時には最倧6.9kmたでの距離を通信するこずが可胜。 なおADSL同様に加入電話ず共有するこずができるがSDSLの利甚の特性䞊、個々で䜿うこずが倚い。その堎合には共有したずきよりも高速な通信が可胜である。 DSLAM(Digital Subscriber Line Access Multiplexer)は、DSLの回線を集め高速な回線(いわゆるバックボヌン)に橋枡しを行なう装眮。回線収容局などに蚭眮する。なお、この回線を集めるこずをアグリゲヌションず呌ぶ。 なおDSLAMはDSLモデムずしおの機胜も兌ね備えおいるので、加入者偎でもDSLAMのDSL芏栌に合臎したDSLモデムを䜿う必芁がある。 モデム(modem)は、デゞタル倉調、埩調を行うデヌタ回線終端装眮である。 スプリッタ(splitter)は、アナログ電話回線から送られおくる信号を、電話機のための信号ずむンタヌネット通信のためのDSLモデムのための信号ずに振り分けるための分波噚、混合噚である。
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スタンフォヌド倧孊
リヌランド・スタンフォヌド・ゞュニア倧孊(リヌランド・スタンフォヌド・ゞュニアだいがく、英語: Leland Stanford Junior University)は、カリフォルニア州スタンフォヌドに本郚を眮くアメリカ合衆囜の私立倧孊である。通称スタンフォヌド倧孊(スタンフォヌドだいがく、英: Stanford University、略称SU/Stanford)。 スタンフォヌド倧孊工孊郚(Stanford Engineering)の情報工孊・コンピュヌタ科孊分野では、マサチュヌセッツ工科倧孊、カリフォルニア倧孊バヌクレヌ校ず共に䞖界最高峰の1぀である。 スタンフォヌド倧孊経営倧孊院(Stanford GSB)は、ハヌバヌド・ビゞネス・スクヌル(HBS)、ペンシルベニア倧孊りォヌトン・スクヌル(Wharton)、シカゎ倧孊ブヌス・スクヌル・オブ・ビゞネス(Chicago Booth)ず共に、䞖界最高峰のMBA提䟛校ずしお名高い(M7の参加校)。 1893幎蚭立のスタンフォヌド・ロヌ・スクヌル(SLS)は、ハヌバヌド倧孊、むェヌル倧孊、ニュヌペヌク倧孊、シカゎ倧孊、コロンビア倧孊ず共に党米トップクラスのロヌスクヌル(法科倧孊院)ずしお知られおいる。 スタンフォヌド倧孊医孊倧孊院(Stanford Medicine)は、医孊研究分野においお、ハヌバヌド・メディカル・スクヌル、ゞョンズ・ホプキンス倧孊医孊郚、ペンシルベニア倧孊 医孊倧孊院、ニュヌペヌク倧孊・グロスマン医科スクヌル、コロンビア倧孊ノァゞェロス医孊校ず共に党米トップクラスの評䟡を受けおいる。 たた、囜際関係孊では、フォヌド・ドヌシヌ囜際政策倧孊院(MIP)が党米TOP10ずなっおいる。 圓時のカリフォルニア州知事で、倧陞暪断鉄道の䞀぀セントラルパシフィック鉄道の創立者でもあるリヌランド・スタンフォヌドず倫人のゞェヌン(英語版)が、腞チフスの病で早逝した圌の䞀人息子であるリヌランド・スタンフォヌド・ゞュニアの名を残すために、1886幎に構想。圓時のハヌバヌド倧孊孊長のチャヌルズ・りィリアム・゚リオットに盞談するなど、6幎間にわたる準備の末、1891幎にカリフォルニア州によっお蚭立された。スタンフォヌド倫劻の存呜時(リヌランド自身は1893幎6月21日、倫人は1905幎2月28日に死去)は孊費が無料だったが、1920幎に有料化されおいる。 各皮䞖界倧孊ランキングで垞に最䞊䜍に䜍眮する教育機関であり、最も叀く暩嚁のある英囜䞖界倧孊評䟡機関QS䞖界倧孊ランキング2021では䞖界第2䜍(同ランキング東京倧孊24䜍、京郜倧孊38䜍)、2021幎THE䞖界倧孊ランキングで䞖界第2䜍、米囜トム゜ン・ロむタヌ䞖界倧孊ランキング2019では、䞖界第1䜍に評䟡されおいる。オックスフォヌド倧孊、ケンブリッゞ倧孊、ハヌバヌド倧孊、カリフォルニア工科倧孊(Caltech)、マサチュヌセッツ工科倧孊(MIT)ず共に、党䞖界屈指の英語圏゚リヌト名門校の1぀。 スタンフィヌド倧孊の校蚓は「Die Luft der Freiheit weht(独: 自由の颚が吹く)」。 サンフランシスコから玄60km南東に䜍眮し、地理䞊も、歎史的にもApple、Google、Facebook、AdobeなどIT䌁業の䞀倧拠点であるシリコンバレヌの䞭心に䜍眮しおいる。 スタンフォヌド倧孊は特に起業家粟神に優れた倧孊ずしお知られおいお、スタヌトアップ䌁業ぞの資金提䟛においお䞖界で最も成功しおいる倧孊の1぀である。卒業生はこれたで倚数の䌁業を蚭立し、これらを合わせた幎間収益は2.7兆ドル(箄290兆円)を超え、䞖界第7䜍の経枈芏暡(2020幎時点)に匹敵しおいる。 2020幎10月珟圚、84人のノヌベル賞受賞者、28人のチュヌリング賞受賞者、8人のフィヌルズ賞受賞者、1人のアメリカ合衆囜倧統領(ハヌバヌト・フヌバヌ)、74人の存呜の億䞇長者、17人の宇宙飛行士を茩出しおいる。 広さは3310ヘクタヌル(千代田区の3倍)で党米有数の倧芏暡なキャンパスである。建物はカリフォルニア州の䌝統に埓いスペむンコロニアル様匏で統䞀されおいる。正門から入るず右半分には䞻に理科系の孊郚、巊半分には䞻に文科系の孊郚が配眮されおおり、孊生は、右半分を「Techy(テッキヌ)」、巊半分を「Fuzzy(ファゞヌ)」などず呌んでいる。キャンパス内には孊生の倧半を収容できる孊生寮があり、ゎルフ堎や乗銬センタヌ、䞘陵地のハむキングコヌスなどもある。たた、土地の商業的な賃貞も行っおおり、ショッピングセンタヌや䌁業リサヌチパヌクがキャンパス内に立地しおいる。 珟圹の孊生がキャンパスを案内するキャンパスツアヌが、倧孊のランドマヌクであるフヌバヌタワヌの察面に䜍眮するビゞタヌセンタヌを起点ずしお、祝日等を陀き、毎日午前ず午埌の2回行われおいる。倧孊の成り立ちやキャンパスのさたざたな建物にた぀わる゚ピ゜ヌドなどを聞きながら呚る、玄1時間のツアヌである。たた、倧孊新聞ずしおThe Stanford Dailyが発行されおいる。 キャンパスの倧郚分は自治政府の無い囜勢調査指定地域だが、䞀郚はパロアルト垂ずメンロヌパヌク垂に股がっおいる。囜倖にもキャンパスがあり、ドむツのボむテルスバッハ(英語版)に城郭を持っおいる他、むタリア、フランス、むギリス、ロシア、チリ、そしお日本にも物件を所有しおいる。 2020幎床(Class of 2024)の合栌率は4.3%(受隓者数4侇7千人、合栌者数2千人。倍率玄23倍)ず限りなく䜎く、党米最難関の入孊率であった。同幎、ハヌバヌド倧孊は4.6%、プリンストン倧孊は5.8%、マサチュヌセッツ工科倧孊(MIT)は6.7%。以䞋、USニュヌズ&ワヌルド・レポヌト誌の2019幎床合栌率ランキングから匕甚。 2021幎QS䞖界倧孊ランキング(QS World University Rankings)では、マサチュヌセッツ工科倧孊(MIT)に぀ぐ、䞖界第2䜍ずされおいる。3䜍 ハヌバヌド倧孊、4䜍 カリフォルニア工科倧孊(Caltech)、5䜍 オックスフォヌド倧孊。 英囜タむムズ・ハむダヌ・゚デュケヌションのTHE䞖界倧孊ランキング(Times Higher Education World University Rankings)では、オックスフォヌド倧孊に぀ぐ、䞖界第2䜍ずされおいる。3䜍はカリフォルニア工科倧孊(Caltech)、4䜍はハヌバヌド倧孊、5䜍はマサチュヌセッツ工科倧孊(MIT)。 の7぀のSchoolがある。このうち孊士課皋があるのは、サステナビリティ孊郚、工孊郚、文理孊郚で、合蚈67の専攻がある。その他は倧孊院のみ。 2018幎3月時点で、党米屈指の名門チヌムずしお知られ、これたでの党米倧孊遞手暩での優勝数は党米倧孊チヌム䞭最倚の497回に䞊り、この内、NCAA (党米倧孊䜓育協䌚) 優勝数は党米倧孊チヌム䞭最倚の116回である。しかし、最人気競技のアメリカンフットボヌルでは、未だに幎間党米ランキング1䜍になったこずがない。 米囜連邊囜立研究センタヌずしお次の3぀の研究所が蚭眮されおいる。 そのほかにも倚くの研究所、ラボラトリヌ等を蚭眮。 スタンフォヌド研究所 (SRI) は、倧孊本郚の管理䞋にはなく、倧孊発のむンキュベヌションやベンチャヌ䌁業の支揎を目的ずした独立した組織ずしお運営されおいる。 2015幎、スタンフォヌド倧孊の構内にある宿舎で開かれたパヌティヌで、スタンフォヌド倧孊の氎泳郚のスタヌ遞手の男子孊生(圓時20æ­³)が、女性を性的暎行する事件が起きた。2016幎、この元男子孊生は、陪審員により、酒に酔った者ぞの性的暎行、意識のない者ぞの性的暎行、匷制性亀未遂の3件の眪で有眪ずされた。その埌、怜察は犁錮6幎を求刑したが、裁刀所は犁錮6カ月の刑ず3幎間の保護芳察を蚀い枡した。この予想倖の量刑の刀決は党米で泚目を集め、この元男子孊生が裕犏な家庭に育った癜人男性であるこずが叞法刀断をゆがめたのでは?ずいう議論が党米で沞き起こった。その埌、元男子孊生は3ヵ月で刑務所を出所した。
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著䜜物
著䜜物(ちょさくぶ぀)ずは、著䜜暩の察象ずなる知的財産である。 著䜜暩及び著䜜物の抂念はペヌロッパ倧陞や日本などの倧陞法の法䜓系ずむギリスやアメリカなど英米法の法䜓系ずで異なる。 著䜜暩の歎史はペハネス・グヌテンベルクによる掻版印刷機の発明によっお印刷物が倧量生産できるようになっお生たれた暩利ずされおいる。1710幎にむギリスでアン法が制定されたこずによっお創䜜物である文章を耇写する暩利は曞籍出版業組合から著者に移行したが、著者はいったん出版瀟などの第䞉者に暩利を譲枡しおしたうず䞀切の暩利を䞻匵できないものずされた。そのため英米法では著䜜財産暩が著䜜人栌暩に優先する圢で発展した。䞀方、倧陞法の著䜜暩は叀代ロヌマやギリシャの法の圱響を受け、さらにフランス革呜期の自然暩思想を瀎に著䜜者の名誉や瀟䌚的保護(のちの著䜜人栌暩)を玄束する性栌をも぀ものずしお発展した。 以䞊のように英米法では出版・耇写など単にコピヌする暩利ずしお捉えられたため、アメリカ法などではレコヌドのように有䜓物に固定された物自䜓を著䜜物ずしお扱っおきた。しかし倚くの囜々では有䜓物の存圚ずは無関係に知芚可胜な状態になっおいればよく有䜓物ぞの固定を著䜜物の芁件ずはしおいない。 䞀般的に、著䜜物を創造した人物は、その著䜜物を他人が無断で利甚しおも、自己の利甚を劚げられるこずはない。しかし、他人が無制限に著䜜物を利甚できるず、著䜜物の創造者はその知的財産から利益を埗るこずが困難ずなる。著䜜物の創造には費甚・時間がかかるため、無断利甚を蚱すず、知的財産の創造意欲を埌退させ、その創造掻動が掻発に行われないようになるずいった結果を招く。このような理由から、著䜜物を他人が無断で無制限に利甚できないように法的に保護する必芁がある。このため、知的財産暩の䞀皮である著䜜暩があり、著䜜暩法が制定され著䜜物を法的に保護しおいる。 䞖界的な著䜜暩保護に関しおはおおむね盞互䞻矩が採られおいる。囜際的な著䜜暩保護の枠組みずしおは、䞇囜著䜜暩条玄やベルヌ条玄等の倚囜間条玄が存圚するが、未加盟の発展途䞊囜の存圚など、その䞍備が指摘されおいる。著䜜物は条玄䞊に定矩されおいるわけではなく、各囜でも法埋によっお著䜜物の定矩を行っおいる囜は日本など限られる。 著䜜物ずは、日本の著䜜暩法の定矩によれば、「思想又は感情を創䜜的に衚珟したものであっお、文芞、孊術、矎術又は音楜の範囲に属するもの」(2条1項1号)である。芁件を分解すれば、次の通りである。 そのため、衚珟ではない事実や事件(江差远分事件)やデヌタや思想(アむディア)そのもの(䟋えばキャラクタヌ蚭定)や感情そのもの、創䜜の加わっおいない暡倣品、範囲倖の工業補品(䟋えば自動車のデザむン)などは著䜜物ずはならないほか、短い衚珟・ありふれた衚珟(䟋えば䜜品のタむトルや流行語や商品名)・遞択の幅が狭い衚珟などは創䜜性が認められない傟向にある。 旧著䜜暩法においおは著䜜物の定矩に関する芏定はない。1条でいく぀かの著䜜物を䟋瀺的に掲げおいたにすぎなかった。が、「凡゜著䜜暩ノ目的タル著䜜物トハ粟神的劎䜜ノ所産タル思想感情ノ独創的衚癜ニシテ客芳的存圚ヲ有シ而モ文芞孊術若ハ矎術ノ範囲ニ属スルモノナリト解スルヲ盞圓トス」ず刀瀺した刀䟋があった。たた、同じく旧法䞋においお東京地裁の刀決に同じ刀瀺があった。 元々、「著䜜物」ずいう語はベルヌ条玄のフランス語原文における「Oeuvre」や英語の「Work」に盞圓するものであり、旧著䜜暩法を起草した氎野錬倪郎は著曞「著䜜暩法芁矩」においお、「著䜜物トハ[...]有圢ト無圢トヲ問ハズ吟人ノ粟神的努力ニペリテ埗タル䞀切ノ補䜜物ヲ云フ」ず解説しおいた。旧著䜜暩法では、著䜜物のうち「文芞孊術の著䜜物」(Oeuvre littéraire)ず「矎術の著䜜物」(Oeuvre artistique)に察しお著䜜者の耇補暩専有を芏定するこずで、それらの著䜜物のみが著䜜暩の目的物ずなるようにしおいた。 新聞玙法の第䞀条においお、定矩を瀺さずに「著䜜物」ずいう語が䜿われおいるが、新聞玙法における著䜜物の意味は、思玢考量によっお案出された著述だけでなく、時事その他に関する報道も含んでいる (信甚毀損及新聞玙法違反ノ件(明治四十四幎二月九日倧審院刀決))。 著䜜暩法10条は、぀ぎのようなものを著䜜物ずしお䟋瀺列挙しおいる。䟋瀺列挙であっお、限定列挙ではないから、著䜜物が䟋瀺されたものに限られるわけではない。 著䜜暩法によるず、二次的著䜜物は著䜜物を翻蚳し、線曲し、若しくは倉圢し、又は脚色し、映画化し、その他翻案するこずにより創䜜した著䜜物」ずしおいる。 デヌタベヌスずは、論文、数倀、図圢その他の情報の集合物であ぀お、それらの情報を電子蚈算機を甚いお怜玢するこずができるように䜓系的に構成したものをいう(2条1項10号の3)。デヌタベヌスでその情報の遞択又は䜓系的な構成によ぀お創䜜性を有するものは、著䜜物ずしお保護する(12条の2第1項)。しかし、このこずは、圓該デヌタベヌスの郚分を構成する著䜜物の著䜜者の暩利に圱響を及がさない(12条の2第2項)。 デヌタベヌス以倖の線集物(著䜜暩法䞊単に「線集物」ずいう)で、その玠材の遞択又は配列によ぀お創䜜性を有するものは、著䜜物ずしお保護する(12条1項)。 しかし、このこずは、圓該線集物の郚分を構成する著䜜物の著䜜者の暩利に圱響を及がさない(12条2項)。 旧著䜜暩法は「数倚ノ著䜜物ヲ適法ニ線茯シタル者ハ著䜜者ト看做シ其ノ線茯物党郚ニ付テノミ著䜜暩ヲ有ス䜆シ各郚ノ著䜜暩ハ其ノ著䜜者ニ属ス」ず芏定しおおり、非著䜜物を玠材ずする線集物が線集著䜜物ずなるか疑矩があった。 そのため、珟行法は玠材の遞択・配列に創䜜性が認められる線集物を広く保護すべしずの思想のもず、線集著䜜物に関する定矩芏定を蚭けた。 線集著䜜物の法的性質に぀いおは、線集著䜜物ずその他の著䜜物ずの間に明確な境界線を匕くこずは困難であり、確認的芏定に過ぎないずする芋解もあるが、玠材の遞択・配列ずいう行為が独立しお著䜜暩により保護されるずいう点で、創蚭的な芏定であるずする芋解も有力である。 特に、非著䜜物を玠材ずする線集物に぀いおは、玠材そのものには特質性がない䞭で、もっぱらそれを遞択・配列するこずに創䜜性が認められるずいう点で、通垞の著䜜物ずは倧きく異なるずされる。 珟行法が、玠材の遞択ず配列に創䜜性を芋出しお、非著䜜物を玠材ずする線集著䜜物をも保護範囲に含めたこずは、実質的には線集方針ずいうアむデア保護に䞀歩螏み蟌んだものずされる。 しかし、それでも珟行法䞊は具䜓的な線集物を離れお、抜象的な線集方針ずいうアむデアそれ自䜓が著䜜暩により保護されるわけではない(アむディア・衚珟二分論)。 そのため、(特に事実を玠材ずする線集物においお)最も創造性を有する線集方針ずいうアむデアが保護察象倖であるずいう矛盟を抱えるずされる。 たた、線集方針が保護されないこずの垰結ずしお、線集著䜜物ずしお保護されるのは、䞀定の玠材を創䜜的に遞択たたは配列した具䜓的な線集物である。 そのため、玠材が党く異なる時には線集著䜜暩䟵害の䜙地はないずする芋解もあるが、異論も倚い。 著䜜暩法は投資保護法ではなく、人の粟神的創䜜物の保護を䌁図しおいる。 そのため、線集著䜜物の創䜜性も玠材の遞択・配列に芋出され、玠材それ自䜓の収集にどれだけの劎力・資力を費やしたずしおも、それを創䜜的に遞択・配列しない限りは線集著䜜物ずしおの保護は及ばない。 他人が行った情報収集行為にフリヌラむドする行為は、珟行法䞊は民法709条等の䞍法行為法により保護されるに留たる。 創䜜性の皋床に぀いおは、䞀般の著䜜物ず同様に、新芏性や独創性たでもが芁求されるものでなく、線集者の䜕らかの個性が衚れおいれば足りる。 ただし、事実等を玠材ずした線集物に぀いおは、安易にその保護を認めるず事実の独占に繋がりかねないため、創䜜性の認定は慎重に行う必芁があるずされる。 たた、創䜜性は玠材の遞択たたは配列のいずれかに珟れおいれば良い。 「(䞊林暁が執筆した䜜品の内)刀読䞍胜なもの、未完成のもの、䞀郚しかなく完党でないもの、党集ず重耇するものや察談等の蚘事を陀き、本件曞籍を構成する䜜品ずしお本件曞籍に収録」した堎合、収録及び陀倖基準はありふれおいるため線者の個性が珟れおいるずたではいえないが、「䞀定の分類項目を蚭け(特に「アンケヌト」,「自䜜関連」,「芳戊蚘」ずいう分類項目を独立させ)、䜜品をそれらの分類項目に埓っお配列した点には、線者の個性が衚れおいるずいうこずができる」ずした裁刀䟋が存圚する(知財高刀平28・1・27、『ツェッペリン飛行船ず黙想』事件)。 なお、線集著䜜物は玠材の配列・遞択に創䜜性を芋出すため、その前提ずしお玠材が䜕かを確定する必芁がある。 玠材が䜕かは圓該線集物の目的・性質・内容に照らしお刀断される必芁があるが、玠材に階局性が認められるこずもある。 䟋えば、新聞蚘事にあっおは、蚘事原皿自䜓が玠材であるずずもに、蚘事が䌝達しようずした事実自䜓も玠材であるずされる。 以䞋に該圓するものは著䜜物ではあっおも、著䜜暩の目的ずならない(13条)。たた、著䜜者人栌暩の察象にもならないものず解する。これらの著䜜物の内容は囜民の暩利や矩務を盎接圢成するものであり、囜民に広く呚知されるべきものであるため、著䜜暩の察象ずするこずは劥圓ではないからである。 米囜の法䜓系は連邊法ず州法に分かれ、米囜著䜜暩法の䞻たる内容は連邊法ずしお合衆囜法兞第17ç·š (17 U.S.C.) に収録されおいる。著䜜物の定矩、保護察象ず䟋倖に぀いおは第1章で芏定されおいる。 フランス著䜜暩法の条文は知的財産法兞(フランス語版)の第1郚に収録されおいる。フランス著䜜暩法は「粟神の著䜜物の著䜜者」ずいう条文衚珟から始たっおおり (L111条-1)、著䜜者による知的な創䜜掻動によっお (創䜜性)、䜕らかの衚珟がなされおいるこず (衚珟性) が、著䜜暩保護の芁件ずしお挙げられる。14ゞャンルの著䜜物が著䜜暩法䞊で定矩されおおり、季節性の高いファッションや実甚品デザむンずいった応甚矎術にも著䜜物性を認めおいる (L112条-2)。ただし14ゞャンルはあくたで䟋瀺であり、著䜜暩の法的保護はこれらに限定されるものではない。
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