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Q529400
_START_ARTICLE_ ケンメルン _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ ケンメルンは、バンベルクの北約7km、ハース山地末端の麓でマイン川に面した、平均高度236-250mに位置する。オーバーフランケン行政管区のバンベルク郡に属し、マイン渓谷上流部のオーバーフランケン西部に位置する。中世盛期には、交易路ネット上の文化先進地域にあった。ケンメルンからは多くの遊歩道やサイクリング道路が周辺の興味深い場所(たとえば、マイン渓谷、ハース山地、シュタイガーヴァルト、フレンキシェ・シュヴァイツ、世界遺産の街バンベルク)につながっている。_NEWLINE_ケンメルンは、現在も重要な道路(連邦道B4、B173)に面した大変に交通の便の良い位置にある。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ ケンメルンの居住地区としての歴史は大変に古い。最初に人が住み始めたのは紀元前1000年位にまで遡る。ゼムベルクのヘーレン礼拝堂の起源は、ケルト時代の神殿にあるとされている。中世初期には、現在のケンメルンの地域はゲルマン人居住区とスラヴ人居住区の境界付近にあたっていた。ゲルマン=フランク人の入植地跡はデルトハイムやシルディングで、スラブ人が暮らしたのがマイン川沿いのBürgと呼ばれた隠れ家や神殿であったと推測される。_NEWLINE_ケンメルンは、1017年10月26日に、当時の封領ラーデンツガウの集落 "Camerin"として初めて言及されている。この文書で、皇帝ハインリヒ2世は交易協定の確認をしている。_NEWLINE_その後、1803年の世俗化までの数世紀の間、ケンメルンはバンベルクの司教座聖堂参事会員の所領として重要な村であった。こうした土地ではかなり早い時期から、限定的ではあるものの、自立的であったことは疑いない。ケンメルンでは、村の少数の有力者達による認可によってコントロールされた独自の規律の下に、村の運営がなされていた。ケンメルンは防衛のため、水堀と3つの門衛を築いた。1525年のドイツ農民戦争では、ケンメルンは叛徒側についた。1631年から1632年にかけての冬にこの町はスウェーデン軍の襲撃を受けた。三十年戦争による被害がいかに甚大であったかは、1638年には68人の司教座聖堂参事会員のうち26人しか残っていなかったという事実から推測できる。_NEWLINE_1756年から1763年の七年戦争でケンメルンは、バンベルクの司教領主がオーストリアと結んだため、幾たびも、帝国軍に属するさまざまな軍隊の宿営になったり、プロイセン軍の進入を赦してその宿営地になったりした。_NEWLINE_1803年の帝国代表者会議主要決議で、この町はバイエルン選帝侯領となった。バイエルン王国の行政改革の時代、1818年の自治体令により現在の自治体が成立した。当時の人口は2,700人でケンメルンは重要な地位を占めていた。_NEWLINE_ケンメルンには、1710年に独自の小教区が創設された。カトリックの聖ペテロ=パウロ教会は、1978年から1980年にかけ拡張された。_NEWLINE_ケンメルンはマイン川に面したその地形から、たびたび洪水に襲われ、特に1909年2月と1967年12月には甚大な被害を受けた。1978年から1980年に大規模な洪水対策工事が行われた。1995年以降、州の助成を受け、EUの経済援助を受けた都市計画の枠組みで町の中心部の衛生化が進められている。
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Q11301863
_START_ARTICLE_ コウノトリファンクラブ _START_PARAGRAPH_ コウノトリファンクラブ(こうのとりふぁんくらぶ)は兵庫県を拠点に人と自然が共生する地域社会の実現をめざす「コウノトリの野生復帰」を支援する市民グループ。兵庫県但馬県民局に事務局を置く。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2004年12月、俳優で日本野鳥の会の会長を務める柳生博を会長とするコウノトリファンクラブが発足した。2005年9月に第3回コウノトリ未来・国際かいぎとともに兵庫県立コウノトリの郷公園で行われたコウノトリ自然放鳥式典では山階鳥類研究所総裁等を務める秋篠宮文仁親王・紀子妃、井戸敏三兵庫県知事、河合隼雄文化庁長官とともに柳生博も出席し、飼育してきた5羽のコウノトリを放鳥した。_NEWLINE_2006年に豊岡市大磯の円山川河川敷で実施された放鳥1周年記念フォーラムでのコウノトリの放鳥式典や、2009年に但東町唐川地区で兵庫県立コウノトリの郷公園10周年記念として行われた自然放鳥式典においても、柳生博の手によって放鳥が行われた。人工巣塔の整備にも取り組んでおり、兵庫県豊岡市百合地、河谷(こうだに)地区、出石町三木(みつぎ)に人工巣塔を寄贈している。_NEWLINE_主な活動内容としては放棄田の復田化、ビオトープ化や水田魚道、人工巣塔の整備など自然環境の保全及び再生活動。また、水田や河川で暮らす生きもの調査および再生などのボランティア活動。コウノトリの目撃情報の収集および情報発信などである。_NEWLINE_2006年2月現在、会員数1060人、40団体から構成されている。
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Q1781135
_START_ARTICLE_ コナ国際空港 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1970年にすぐ南にある旧飛行場(現在は「旧コナ空港州立リクリエーションエリア」)から移転し、現在の空港が開設した。ケアホレ岬の近くなので、ケアホレ・コナ国際空港と呼ばれた時期もあった。 _START_SECTION_ オニヅカ・スペースセンター _START_PARAGRAPH_ 空港内には乗客ターミナルに隣接してオニヅカ・スペースセンターが建てられている。ハワイ島コナ出身で、1986年のチャレンジャー号爆発事故で亡くなった宇宙飛行士、エリソン・オニヅカの記念館である。2016年3月に閉館。
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Q166594
_START_ARTICLE_ コリーン駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 6面11線の地上駅。
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Q33111
_START_ARTICLE_ コルシカ語 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ コルシカ語の起源についての論争は、そのままコルシカ島の歴史的経緯についての論争となる。_NEWLINE_コルシカ島は中世時代の長きにわたってイタリア文化圏に属していた。これは828年のトスカーナによる占領以来、中世イタリアの有力国の領土に編入されていたためである。イタリア半島部のトスカーナ、1077年から1282年にかけてのピサ共和国支配、そして1282年から支配を始めた大陸部(北イタリア)のジェノヴァ共和国の支配は1282年から1768年と、実に千年近くに及んでいる。古代の終わりから近代直前までイタリア諸文化の影響と住民の往来を続けていたコルシカ島の文化は、必然的にそれらと近隣性を持つ事になる。_NEWLINE_言語的には最初に占領したトスカーナ地方の俗語がベースになっており、同じくトスカーナ地方の俗語を基にした標準イタリア語とは、ある意味でナポリ語などの地方言語より近似した要素を持つ。よって言語学的には同一領土内にある南部や北部の話し言葉よりも確実に「言語とその方言」という関係性を持つと考えられる。_NEWLINE_フランスからの独立だけでなく、全ての国々からの独立を望む民族主義者はそれを否定する為にさまざまな学説を考えたが、学術的な支持を得られるには至っていない。
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Q69245
_START_ARTICLE_ コロニー (ジュネーヴ州) _START_PARAGRAPH_ コロニー Colognyはスイス連邦、ジュネーヴ州のレマン湖左岸に位置する基礎自治体(コミューンcommune)。ジュネーヴ州のシェヌ=ブジュリー、コロンジュ・ベルリヴ、ジュネーヴ、ヴァンドゥーヴルのコミューンに囲まれている。_NEWLINE_ジュネーヴ州でも最も裕福な階層が住むと言われ、世界経済フォーラムWorld Economic Forum本部や、マルタン・ボドマー財団Fondation Martin Bodmerがある。
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Q83513
_START_ARTICLE_ コントラファゴット _START_SECTION_ 特徴・音域など _START_PARAGRAPH_ コントラファゴットは、ファゴットの倍の管長を持ち、1オクターブ低い音を出し、一般的にオーケストラ、吹奏楽で使用される管楽器の中で最も低い音が出せる木管楽器である。弦楽器ではコントラバスや5弦ベース、金管楽器ではB♭管チューバに相当する音域で、パイプオルガンの重低音のように深くてより豊かな響きを持つ。管長は6メートル近くに及ぶため、4回管を折り曲げている。重いため、ストラップではなくエンドピンで楽器を支えることが多く、指と首(あるいは肩)の負担を軽減するためにこれらを併用する場合もある。全長は当項目の写真のようにベルが楽器の中ほどにあるもので約140cmあり、ベルが上部に来るものや最低音が拡張されたものになるとさらに長くなる。楽器本体重量は約6kgである。_NEWLINE_リードはファゴットのリードより一回り大きなものを使用する。形状はファゴットのリードとほぼ同じで、振動面が広い。_NEWLINE_音域は、一般的なピアノの最低音より半音高い変ロ音から上方に3オクターブほどである。ファゴット奏者が演奏し、中低音域に関してはファゴットとほぼ同じ指使いでちょうど1オクターブ低い音が出るため、一般に1オクターブの移調楽器として記譜する。ただしリヒャルト・ワーグナーの『パルジファル』、ワーグナーの管弦楽法を学んだクロード・ドビュッシーの『イベリア』や『海』では一部を除いて実音表記されている。楽器によっては、最低音が半音あるいは全音拡張されてイ音、変イ音まで出るものもある。_NEWLINE_木管楽器の最低音を担い、中規模以上のオーケストラの編成で用いられることが多く、近現代の大規模な管弦楽曲では日常的に見ることが出来る楽器である。また、大規模な吹奏楽の楽曲でも編成に組み入れられる場合がある。日本国内においては、かつてはその高額な価格ゆえ、アマチュアでは所有者・所有団体も少なかったが、近年は一部のメーカーから日本円換算で100万円台という比較的安価で品質の良いものも出回っていることから所有者も増えてきている。一方で、500万円超もしくは時価という高級機も存在し、依然「特殊楽器」の色合いが濃いとも言える。_NEWLINE_演奏には、比較的必要な息が少ない通常のファゴットよりも多くの息が必要である。ブラームスの交響曲第1番は低音を効果的に使っている。_NEWLINE_古くから楽器自体が稀少であったわけではなく、ベートーヴェンの交響曲第8番の初演の際には、同時に演奏された交響曲第7番を含め、スコアに指定がないにもかかわらずコントラファゴット奏者が2人参加した記録がある。_NEWLINE_室内楽では古典派時代のハルモニームジーク(管楽セレナードなど)で指定のあるなしにかかわらず日常的に使用された。モーツァルトの『グラン・パルティータ』ではコントラバスが指定されているにもかかわらず、音色の統一を目的にこの楽器が使われることがある(モーツァルトがこの曲でコントラバスを指定した意図が明確でないため、一概にこの代用が誤りとは言えない)。_NEWLINE_同系統の楽器にドイツのヴォルフ社が開発したコントラファゴットの改良型、コントラフォルテ(Kontraforte)がある。最低音は通常のコントラファゴットよりも半音低いイ音、音域は4オクターヴ半に及び、高音域が痩せる傾向にある通常のコントラファゴットに対して全音域通してほぼ一様の音質になる。また、ダイナミクスレンジが通常のコントラファゴットよりも広い。_NEWLINE_またコントラフォルテはベネディクト・エッペルスハイム管楽器でも製造している。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 17世紀中ごろに開発され、当初は長大なファゴットの姿をしていた。現存する最古のものは、1714年製で、3鍵である。_NEWLINE_バッハの楽曲や、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」、ハイドンの「天地創造」「四季」、モーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」などでも用いられているが、交響曲での初出はベートーヴェンの交響曲第5番の終楽章である。_NEWLINE_その後、様々な楽曲の編成に登場するが音量が小さく、表現力も乏しかったため、コントラバス・サリュソフォーンなどの代用楽器に押されていたが、ヘッケルが19世紀後半にキーの追加やチューニングスライドの追加等の改良を行った結果、音量や表現の幅などが改善され、形状もほぼ現在のものとなった。_NEWLINE_2001年にフォックスがオクターブキー等をさらに改良したシステムを導入、2004年に当国で特許を取得した。2005年に作曲されたカレヴィ・アホのコントラファゴット協奏曲は、このシステムを念頭において作曲されたため、それ以前の楽器で演奏することは非常に困難である。_NEWLINE_コントラファゴットのために書かれた作品も、この楽器を専門とする演奏家も非常に少ないが、後者ではスーザン・ニグロ(Susan Nigro)が複数のCDを出すなどの活動をしている。
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Q156767
_START_ARTICLE_ ゴジュウカラ _START_SECTION_ 分布 _START_PARAGRAPH_ アゼルバイジャン、アルバニア、アルメニア、アンドラ、イギリス、イタリア、イラク、イラン、ウクライナ、エストニア、オーストリア、オランダ、カザフスタン、ギリシア、キルギス、グルジア、クロアチア、シリア、スイス、スウェーデン、スペイン、スロバキア、スロベニア、セルビア、大韓民国、チェコ、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ドイツ、トルクメニスタン、トルコ、日本、ネパール、ノルウェー、パキスタン、ハンガリー、フィンランド、フランス、ブルガリア、ベラルーシ、ベルギー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ポーランド、ポルトガル、マケドニア共和国、モルドバ、モンゴル、モンテネグロ、ラトビア、リトアニア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、ルーマニア、ロシア_NEWLINE_寒帯と山岳地帯を除くユーラシアに広く分布する。生息地では基本的には留鳥で、渡りは行わない。_NEWLINE_日本には3亜種が周年生息する。九州から北海道にかけて分布するが、高地で繁殖した個体は冬季には低地に移動する。 _START_SECTION_ 生態 _START_PARAGRAPH_ 平地から山地にかけての落葉広葉樹林に生息する。木の幹に垂直にとまり、頭部を下にして幹を回りながら降りる習性がある(キツツキ類やキバシリは幹に垂直にとまることはできるが、体を逆さまにして降りることはできない)。_NEWLINE_食性は雑食で、昆虫類、節足動物、果実、種子などを食べる。夏季は昆虫類、冬季は種子等を主に食べる。樹皮の隙間にいる獲物を探したり、逆に樹皮の隙間に食物を蓄えることもある。_NEWLINE_繁殖形態は卵生。樹洞やキツツキの古巣に樹皮を敷き営巣する。巣穴の入り口や内壁、隙間に泥を塗る習性がある。日本では3-6月に1回に5-7個の卵を産む。メスのみが抱卵を行い、抱卵期間は18-20日。雛は孵化してから20-25日で巣立つ。_NEWLINE_繁殖期にはつがいで縄張りを持つ。非繁殖期は、シジュウカラなどの他のカラ類やコゲラと混群を形成することがある。 _START_SECTION_ 人間との関係 _START_PARAGRAPH_ 生息地によっては、開発による生息環境の破壊や獲物の減少に伴い生息数が減少している場所がある。_NEWLINE_樹洞に巣を作るので巣箱を利用することもある。
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Q606250
_START_ARTICLE_ ゴールドフラップ _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ イギリスのバースで生まれたアリソン・ゴールドフラップ(Allison Elizabeth Margarett Goldfrapp)は、女子修道院で堅苦しい子供時代を送る。日々の退屈から逃れるために、電車でロンドンまで出かけては都会の喧騒に刺激を受ける。15歳の頃、ヒッピーがケイト・ブッシュを聴きながらドラッグを使用していたのを見て衝撃を受けた。後に、アリソン自らもケイトの「Hounds Of Love」を聴きながらドラッグを使用していたことを告白している。その後、気づいた時には、ベルギーのコンテンポラリー・ダンス集団に所属することになり、人前でパフォーマンスすることの面白さを初めて体感した。_NEWLINE_ミドルエセックス大学に進学し、美術を専攻していた彼女は、インスタレーション作品を作る研究の一環として音楽を制作し始める。その才能に気づいた友人のトリッキーが彼女を誘い、トリッキーのデビューアルバムにボーカリストとして起用。その後も、オービタルやトリッキーの作品にボーカリストとして参加。最終的に現在のメンバーであるウィルと出会う。_NEWLINE_ちなみに彼女は、デビュー当時から正式な生年月日を公表せずに活動を続けてきたが、2006年のQ Magazineによるインタビューで、37歳(1966/5/13生まれ)だと告白した。_NEWLINE_一方、コンポーザーのウィル・グレゴリー(ウィリアム・グレゴリー / William Owen "Will" Gregory)は、ブリストル出身で、コーラスの仕事をしていた母親の影響か、幼少時代から音楽を聴いて育つ。ロンドンの音楽学校を卒業後、サックス奏者としてサンフランシスコに移住。映画『ザ・フーリガン』などのサウンドトラックを手がける。英国に帰国後、80年代はティアーズ・フォー・フィアーズのツアー・メンバーとして活動。90年代以降は、ザ・キュアー、トーリ・エイモス、ポーティスヘッド、ピーター・ガブリエルなどのアルバムに参加し、演奏者・アレンジャーとして活躍した。_NEWLINE_その名が知られるようになって来た頃、友人からアリソンの「ヒューマン」のデモテープを聴かせてもらう。アリソンの歌声に惚れ込んだウィルは彼女に直接交渉し、ゴールドフラップを結成。作曲に加えて、サックスよりもキーボードの演奏とプロデュース・ワークに重点を置くようになる。_NEWLINE_99年にミュート・レコードと契約し、2000年にポーティスヘッドのギタリスト、エイドリアン・アトリーを迎えて製作したシングル「ラヴリー・ ヘッド」でデビュー。同年発売した『フェルト・マウンテン』が10万枚を越すセールスを記録し、その年のマーキューリー・プライズにもノミネートされた。_NEWLINE_この『フェルト・マウンテン』発売後のライブツアーでアリソンは「とても張りつめた雰囲気の中で生まれる繊細な音楽もいいのだけど、物を思いっきり破壊したり爆発したりするようなライブパフォーマンスのほうが開放感を得ることができた」と語った。_NEWLINE_続くセカンドアルバム『ブラック・チェリー』は前作から一変、80年代のディスコ・サウンドを彷彿とさせる様で歌詞もセクシーなダンスナンバーとなった。_NEWLINE_このアルバムリリース後、2003年のフジ・ロック・フェスティバルで初来日を果たす。_NEWLINE_2005年リリースの『スーパーネイチャー』は話題を集め、アメリカやオーストラリアのセールスチャートベスト5に食い込むほどの人気(日本では未だヒットしていない)。シングル収録のリミックスに、アイスランドのムームを起用するなど驚きを与えた。
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Q271753
_START_ARTICLE_ サッカーミャンマー代表 _START_SECTION_ 2018 FIFAワールドカップアジア予選参加について _START_PARAGRAPH_ 2011年7月に行われた2014 FIFAワールドカップ・アジア2次予選のオマーン戦の際、ミャンマー代表のサポーターが暴動を起こしたため試合は即打ち切りとなった。結果は打ち切り時のまま確定しミャンマーは0-2で敗北、2次予選で敗退した。さらに9月30日、FIFAは処罰として2018 FIFAワールドカップ・アジア予選からミャンマーを除外すると発表した。その後処罰は緩和され、ホームゲームを中立地開催(タイ)とすることを条件に参加が認められた。
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Q42320
_START_ARTICLE_ サバナ (植生) _START_PARAGRAPH_ サバナ(Savanna、サヴァナまたはサバンナとも)とは乾季と雨季のある熱帯に分布する、疎林と低木を交えた熱帯長草草原地帯である。アフリカではバオバブ樹などが見られる。熱帯草原を一般的にサバナと呼んでいるが、これはスーダン先住民が使用した呼称に由来し、地域によりリャノ(オリノコ川流域)、カンポ(ブラジル高原)、グランチャコ(パラグアイ)などの名称もある。大型の草食動物が群れをなして多く生活している。
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Q1475243
_START_ARTICLE_ サボ島沖海戦 _START_SECTION_ 経緯 _START_PARAGRAPH_ 1942年(昭和17年)8月7日よりはじまったガダルカナル島の戦いで、連合国軍は制空権を掌握して日中に輸送船団をおくりこみ、日本海軍は駆逐艦による高速輸送作戦(鼠輸送)を用いて夜間に活動した。日本軍はアメリカ軍との戦闘が続くガダルカナル島に対する重火器の輸送を企図し、その支援のため第六戦隊を基幹とする艦隊をガダルカナル島近海に送り込み、ヘンダーソン飛行場の砲撃を計画した。輸送部隊は城島高次海軍少将指揮下の水上機母艦2隻(日進、千歳)と駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦1番艦《秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》)。支援部隊は第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする5隻(第六戦隊《青葉、衣笠、古鷹》、第11駆逐隊第2小隊《吹雪、初雪》)であった。10月11日0600(日本時間、以下同)、輸送部隊は重火器・糧食・人員等を満載ししてショートランドから出撃。支援部隊も同日1000に出撃した。支援部隊の計画では日没頃にガダルカナル島飛行場200海里の地点に到達、30ノットでサボ島南方から侵入して26ノットに減速して砲撃を行う。その後、サボ島南方から輸送部隊とほぼ同一の航路をとって日の出近くに敵空襲圏内から撤退するというものであった。_NEWLINE_同時期、アメリカ軍もガダルカナル島で苦戦するアメリカ軍海兵隊を増強すべく輸送船団を編制し、同島へ派遣していた。10月11日1147、航空偵察によって巡洋艦2、駆逐艦6からなる日本艦隊(支援部隊)の出現を確認したアメリカ軍は、輸送船団の露払いとして以前から日本艦隊の攻勢任務にあたっていたノーマン・スコット少将を指揮官とする巡洋艦部隊を先行させる。この部隊はサンフランシスコ、ソルトレイクシティー、ボイシ、ヘレナ、そして駆逐艦5隻からなる第64.2任務部隊であった。スコット少将は1400に全艦に向けてサボ島周辺へ向かうよう指示。1610に先ほどと同兵力の日本艦隊を発見したという航空偵察の報告を受け、1615の日没とともに戦闘配置を指示し、日本艦隊を待ち構えていた。 _START_SECTION_ 接近 _START_PARAGRAPH_ 10月11日2010、日本艦隊の輸送部隊はガダルカナル島のタサファロング泊地に到達、2020から物資の揚陸を開始した。一方、外南洋部隊の命令により支援部隊は飛行場砲撃の準備を整え、サボ島の沖合に進撃した。「青葉」は地上攻撃用の特殊砲弾を装填しており、今作戦そのものが米軍基地飛行場射撃の効果を確認する意味合いがあった。_NEWLINE_アメリカ艦隊は「巡洋艦2隻、駆逐艦6隻」という日本艦隊を迎撃するために駆逐艦3-巡洋艦4-駆逐艦3という布陣でサボ島近海を哨戒していた。スコット少将は2000、艦隊の水上偵察機を投入して接近してくる日本艦隊の動向を探ろうと命令を下した。しかし、ソルトレイクシティーとヘレナの偵察機が発艦前に事故で炎上して失われるアクシデントがあり、無事に発艦したのはサンフランシスコとボイシの偵察機だけだった。ソルトレイクシティー偵察機の炎上は、北西に50海里離れた場所にいた日本艦隊の見張員にも発見されていた。当時日本艦隊は26ノットから30ノットでガダルカナル島へ向かっていたが(ガ島の北西約20浬)、日本艦隊はこの光をガダルカナル島か輸送隊からの発光信号と誤認して発光信号で応答し返すミスをしてしまった。しかし、この発光信号はアメリカ艦隊には察知されることはなかった。 _START_SECTION_ アメリカ艦隊の捕捉と混乱 _START_PARAGRAPH_ スコット少将は2028に針路東北東を指示し、2035には全艦が単縦陣となって新しい航路に向かっていた。そんな中、2050にサンフランシスコから発艦した偵察機から「大型艦1、小型艦2、サボ島沖合北16海里にあり。調査のために接近する」という連絡が入った。スコット少将は以前の報告と兵力が違ったために新艦隊かどうかの判断に悩んだが、既出の艦隊である可能性も踏まえて北東に針路を変更し、サボ島沿岸水域を進ませた。だがこの時偵察機が発見した日本艦隊の正体は、水上機母艦2隻(日進、千歳)からなる輸送部隊であった。そんな中、2125にヘレナのSGレーダーが日本艦隊を捉え、ヘレナは「日本艦隊はアメリカ艦隊より方位315度、距離2万7,700ヤード(約2万5,300m)の場所にあり、速度20ノット、針路120度で進行中」と報告した。直後にソルトレイクシティーのレーダーも日本艦隊を捉えたが、両艦の報告は旗艦であるサンフランシスコに届いておらず、この時点でスコット少将は日本艦隊が接近していることを知らなかった。なお、旗艦のサンフランシスコは最新型のSGレーダーを装備していなかった。_NEWLINE_2130、日本艦隊に接近していた偵察機が「大型艦1、小型艦2はガダルカナル島へ東に16海里進んだ」と続報を飛ばした。スコット少将は迎撃するか否か悩んだが、以前の報告にあった巡洋艦2隻からなる日本艦隊がサボ島を抜けてルンガ泊地に突入する可能性も踏まえ、哨戒を継続することを選んだ。そして、2132に全艦隊へ「取舵、針路南西」と指示して左方向へ大回頭を行った。回頭直後、ヘレナのレーダーが再び方位315度(北北西)、距離1万8,500ヤード(約1万6,900m)の位置に日本艦隊を捉えた。また2138にはボイシもレーダーにて方位295度(西北西)、距離1万4,000ヤード(約1万2,800m)にて正体不明の目標を発見し、ボイシ艦長のモラン大佐は旗艦へ報告すると共に右砲戦の命令を下した。しかしこの際、ボイシは「(自艦を基準とした目標方位として)方位65度」を伝えた。これをスコット少将は「(真)方位65度」として敵艦位置が北東と解釈したため、敵艦位置が報告があった両艦で正反対であることに悩み、敵か味方か判断を付けかねた。_NEWLINE_この時もう一つの事態が生じた。前衛の駆逐艦3隻の内2隻(ファーレンホルト、ラフィー)は巡洋艦部隊の右側から先頭に出るべく速度を増したが、もう1隻のダンカンがレーダーで日本艦隊を探知し、独断で向かったのである。スコット少将は確認のため、前衛駆逐艦部隊の指揮を執るトビン大佐に「貴官は前方に進出中なのか?」と連絡したところ、「そうです。巡洋艦部隊の右舷を進みつつあります」という応答が帰ってきた。2142には旗艦であるサンフランシスコのレーダーが右舷方向の距離9,000ヤード(約8,200m)に目標をとらえたが、スコット少将はこれまでの情報を判断して、目標を分離した前衛の駆逐艦と判断し、後方につくよう命令した。_NEWLINE_刻々と時間が過ぎる中、2145にヘレナのレーダーは距離5,000ヤード(約4,600m)に味方駆逐艦を捉えたが、同時刻にヘレナの見張員も肉眼で正体不明の艦隊を確認していた。ヘレナのレーダー士官はこの時、「どうしようというんだ、横付けにでもするつもりか!」と叫んだという。フーバー艦長は旗艦であるサンフランシスコに状況報告を行い、射撃許可を求めた。しかしスコット少将はこの通信に対して、「(質問を受信したという意味で)Roger」と返信した。フーバー艦長はこれを射撃許可が下りたものと誤解。ヘレナは2146、照明弾を打ち上げた後に距離3,800ヤード(約3,475m)の目標へ射撃を開始した。これを発砲開始の合図だと誤解した他のアメリカ艦は一斉に砲門を開き、戦端が開かれることとなった。なおこの時、アメリカ艦隊と日本艦隊の間にはアメリカ艦隊前衛の駆逐艦部隊がいたが、幸運なことに多くの砲弾はそれを飛び越えて日本艦隊へと降り注いだ。また、この時のアメリカ艦隊はレーダー射撃を行っておらず、目標を目視で確認した上で射撃を行っていたが、隊列は理想的なT字形で日本艦隊を迎え撃つ体勢にあった。 _START_SECTION_ 日本艦隊の誤認 _START_PARAGRAPH_ 一方、ガダルカナル島へ向かっていた日本艦隊は道中大規模なスコールに遭遇し、之字運動(ジグザグ運動)を中止した。この時まだ戦闘配置命令は出ておらず、「煙草盆引け」が出たにすぎなかった。2133、日本艦隊はスコールを抜けてサボ島西10海里の地点に達する。そしてガダルカナル島飛行場を砲撃するため戦闘配置についた2143、青葉の見張員がガダルカナル島手前に「左十五度、艦影3、針路南西、距離100(1万m)」と報告した。_NEWLINE_これに対し哨戒長(この時点で青葉水雷長)は輸送隊(日進、千歳)と判断、第六戦隊司令部も同判断だった。この時、基地航空隊(第十一航空艦隊)の索敵機や先行した輸送隊からは敵に関する報告はなく、発見した艦影の中に輸送隊日進などに類似した艦影があったため味方である可能性が生じていた。また輸送隊の針路が目的地とは違う南西に向かっているという問題もあったが、何らかの都合で針路が変わった可能性も考えられた。これらの理由もあって、五藤少将は同士討ちを懸念したとされる。_NEWLINE_哨戒長を青葉航海長に交代後、五藤少将は味方識別信号(オルジス信号)を送るよう命じる。すぐさま「ワレアオバ」の発光信号(指向性発光信号)が送られたが、目標から応答はなかった。数分後、青葉見張り員が更に約7,000mの距離で「前方の艦影は敵艦」と報告する。しかし上記の疑念を持っていた五藤少将は艦隊を直進させつつ、2145頃に「左10度、味方識別10秒」を下令、敵味方確認の為に発光信号で確認を取らせた。一方で目標が敵である場合に備え、砲撃戦となった際に同航戦を行うため右回頭を命じた。_NEWLINE_直後、艦橋最右端の18センチ双眼鏡を覗いていた掌航海長は最初に「味方」と報告、続いて「敵」と報告を修正した。この報告を聞き、青葉艦長久宗米次郎大佐は総員配置命令を出した。 _START_SECTION_ 青葉被弾 _START_PARAGRAPH_ アメリカ艦隊が照明弾を上空に撃ち出した頃、青葉は「ワレアオバ」の発光信号を明滅させていた(ちょうど信号を終えた直後とも)。戦闘開始直後、青葉は艦橋に直撃弾を受ける。この砲弾は不発だったものの艦橋正面から後方へ貫通した一弾が艦橋を跳ね回り、戦隊司令部は一瞬で壊滅。五藤少将も左足切断の瀕死の重傷を負い、主砲射撃方位盤及び通信装置は破損。艦橋へ上がるラッタルも吹き飛ばされ、そこにいた青葉副長を含む乗組員は全員戦死した。一方で、後続の古鷹とは無線電話の連絡が取れたという記録もある。さらに4分後の2150まで青葉は集中砲火を浴び、主砲射撃所や第2・第3砲塔も命中弾を受け使用不能となり、戦闘能力を喪失した。特に地上砲撃準備の整っていた第3砲塔は装填中の零式弾及び装薬が誘爆し大火災が発生。この際、掌砲長が弾薬庫への緊急注水に成功。爆沈は免れたが、被弾と誘爆により弾庫員は全員戦死した。この間の砲撃は、一番砲塔の砲側照準によって主砲7発を発射したのみであった。この砲撃により青葉側では「敵巡洋艦一に大火災」を報じたが、アメリカ軍側の記録ではこの時点で被弾した艦はなく、アメリカ艦隊の発砲炎を命中弾による炎上と見間違えたという推測がなされている。_NEWLINE_青葉艦橋はパニック状態になっていたが、第六戦隊先任参謀貴嶋掬徳中佐(当時、非番のため作戦室で待機中)が艦橋に上がりこみ、瀕死の五藤少将に歩み寄ると、「司令官、反転して再挙を図ります」と反転と艦長への指揮権委譲の許可を要請した。貴嶋中佐の機転で指揮権を引き継いだ久宗大佐(青葉艦長)は不利な態勢からの脱却を図る為、それまで取舵をとっていたところを逆に面舵をとって右反転、最大戦速での一時離脱を図った。上部構造物は大破しながらも、喫水線下と機関は無事だった青葉は煙幕を展張して全速で避退に移った。_NEWLINE_スコット少将はアメリカ艦隊がダンカンを射撃していると不安になって射撃開始から1分後の2147に射撃中止を命じたが、興奮した部下たちを制止することは不可能だった。スコット少将が駆逐艦部隊を指揮するトビン大佐と状況確認の交信をする間も、ヘレナ等は射撃中止命令を無視して敵艦を砲撃していた。2151、同士討ちではないことを確認したスコット少将は、駆逐艦に識別信号を点滅させる命令を告げた上で砲撃再開を下令した。しかしこの時点で青葉は第3砲塔の火災を鎮火させ、煙幕を張りながらアメリカ艦隊の視界から消えつつあり、唯一青葉を砲撃していたヘレナも砲撃を中断した。2153には再度砲撃を行うものの、視界が不良であったため追撃を断念せざるを得なかった。青葉は無事に戦場を離脱した。 _START_SECTION_ 古鷹被弾、沈没 _START_PARAGRAPH_ 青葉の後方1,500m離れて続いていた古鷹は、2146・30秒、前方に十数隻の発砲を視認する。これに対して古鷹艦長荒木伝大佐は形勢不利と判断し、「取舵、戦闘魚雷戦、右砲戦用意」と素早く命令を下した。しかし主砲旋回が終わらず高角砲を一斉射のみを行った時点で旗艦青葉に敵弾が集中するのを確認。救援をするために面舵を取り直し、形としては敵艦隊と青葉の間に古鷹を割り込ませた体勢となった古鷹は、2148に高角砲と主砲で応戦を開始した。この時、青葉からは古鷹が探照灯を照射したのを認めた。_NEWLINE_しかし、古鷹は離脱を図る青葉の代わりに巡洋艦ソルトレイクシティー、ボイシ、駆逐艦ダンカン、マッカラ、ブキャナンの計5隻から格好の目標となり集中砲撃を浴びた。2150には魚雷発射管に命中弾の破片を浴び、装填中の九三式酸素魚雷から酸素が漏れて大火災となる。さらに2154から2155には右舷前部機関室と左舷後部機関室、2205には左舷前部機関室が被弾して浸水、全砲塔が機能を停止するなど、戦闘開始から約17分で戦闘不能状態になってしまった。なおこの時、古鷹とアメリカ艦隊の間に居たファーレンホルトは、味方であるアメリカ艦隊の砲撃を受けて大破し戦場を離脱している。_NEWLINE_戦闘不能に陥った古鷹だったが、後述の衣笠によるアメリカ艦隊への反撃にて攻撃を受けずにすむようになり、2214には追撃から離脱することが出来た。しかし古鷹は水面上だけで大小90発以上の被弾箇所があり、水面下にも少なくない被害を受けていた。この水面下の被弾による浸水が致命傷となり、2240には航行不能に陥る。その後翌12日の0008には救援の為に初雪が到着したが、浸水による傾斜がひどいために横付けが出来ず短艇での救助となった。0020、総員退去。0028に沈没。初雪の救助作業はアメリカ軍からの空襲を避けるため0200に打ち切られ、日本側は戦死者33名、行方不明者225名と記録した。生存者は518名であった。_NEWLINE_古鷹はこの海戦で主砲20発または36発、高角砲26発を発射し、戦果として「敵巡洋艦一撃沈」を報告した。加えて旗艦(青葉)を救援したことを評価され、サボ島沖海戦における勲功は「甲(特)」と評されている。ボイシは古鷹の砲弾が4発命中したという記録の一方で、アメリカ軍側の記録では古鷹による損害はボイシが2153に20.3cm弾1発、2154に機関砲弾2発受けたのみとされ、これによりボイシが軽微な損害を受けたという報告が残っている。 _START_SECTION_ 吹雪被弾、沈没 _START_PARAGRAPH_ 戦闘開始前、吹雪は青葉の前方を進んでいたが2146にアメリカ艦隊が砲撃を開始した直後、青葉の右反転に従って同じく右反転を行っていた。だがこの時、吹雪はアメリカ艦隊に最も近い距離に接近していたため、サンフランシスコから1,400ヤード(約1,300m)の至近距離による砲撃を受け、その後アメリカ艦隊の集中砲火を浴びた。アメリカ軍側の記録では2153に爆発炎上して轟沈したという記録がある。一方で日本軍側の記録では、2153に青葉の左140度500mの距離を同航中に敵艦からの砲撃を受け火災発生、2213に大火災となって大爆発を起こし沈没したという記録が残っている。_NEWLINE_これについて軍事史研究家の大塚好古が、2151からアメリカ艦隊が射撃を再開した以降の記録と比べるとサンフランシスコ、ボイシ、ヘレナの射撃記録に該当する記録があることから、吹雪の沈没時の状況は日本側の記録が実際の状況に近いのではと考察している。 _START_SECTION_ 衣笠反撃と戦闘終了 _START_PARAGRAPH_ 単縦陣(青葉-古鷹-衣笠)最後尾の衣笠は初雪と共に取舵をとって左反転し、アメリカ艦隊の砲撃から抜け出しつつ反撃を行った。この理由について衣笠側は、「敵艦の先制攻撃が第一小隊である青葉と古鷹に集中しており、これ動きに続いた場合、敵艦の集中砲撃を受ける可能性が大きかったため反転を決意した」との行動調書に残している。2隻(衣笠、初雪)が左回頭を行う直前にアメリカの駆逐艦ダンカンが接近して砲撃を加えたが、衣笠は主砲と高角砲にて反撃を行った。ダンカンはこの砲撃を切り抜け古鷹への雷撃を成功させたが、味方であるアメリカ艦隊の誤射を受けて沈没してしまっている。_NEWLINE_衣笠が左反転をしている中、アメリカ艦隊は2153から2158の間に針路を230度(南西)から300度(西北)に変針し、青葉と古鷹を追撃しようとした。しかし、目標を捉えることが出来なかったため、スコット少将は2200に「撃ち方止め」の命令を下した。ほぼ同時刻、衣笠は北西に進路をとってアメリカ艦隊と同航状態となり攻撃を開始した。_NEWLINE_まず2203、衣笠は目標の「ロンドン型大巡1隻」に雷撃を行った。この目標となったボイシは2206に雷跡を発見して右急回頭を行い、50ヤード(約45m)の距離で回避した。この際、衣笠から敵巡洋艦の姿が見えなくなったため、衣笠側では目標が轟沈したと認識していた。続いて衣笠はボイシと砲撃戦を行い、ボイシに20.3cm砲弾4発とその他砲弾を命中させた。1発は3番砲の装甲によって破砕したものの、もう1発は1番砲に命中し旋回不能の損害を与え、残り2発は水面下に損害を与えた。この内1発は2番砲塔装薬室で炸裂して火災が発生したものの、浸水が消火の役目を果たした。この水面下命中弾による被害により、ボイシは前部主砲が射撃不能となり浸水による速度低下が発生した。さらに火災が発生したこともあって、ボイシは2213に左へ回頭し戦線を離脱した。_NEWLINE_その後、衣笠は2213からソルトレイクシティーと断続的に砲撃戦を行い、20.3cm砲弾2発を命中させたがこれによる損害は軽微であった。2217に両艦はお互いを見失い砲撃を中止、衣笠は青葉とともに戦場を離脱した。この海戦で衣笠は主砲80発、高角砲11発、魚雷16本を発射したという記録が残っている。_NEWLINE_一方のアメリカ艦隊側はこの戦闘で衣笠を撃沈したと認識しており、後に日本艦隊を発見できなかったことから、2227にスコット少将は戦闘を中断。針路を220度(南西)に向けて戦場を離脱し、戦闘は終了した。 _START_SECTION_ 日本側の救助による損害 _START_PARAGRAPH_ 一方輸送隊は0050、揚陸作業を完了した。日進輸送隊はラッセル諸島西側を通過して戦闘海域を離脱。この時、日進輸送隊から駆逐艦4隻(朝雲、夏雲、白雪、叢雲)が分派される。第11駆逐隊第1小隊(白雪、叢雲)は古鷹救援を、第9駆逐隊(朝雲、夏雲)は衣笠と合流して米艦隊の撃滅を、それぞれ下令された。これをボイシから発進した水上偵察機が発見、連絡を受けたガダルカナル島ヘンダーソン基地から攻撃隊が発進する。_NEWLINE_古鷹は既に沈没しており、生存者救出後、引き揚げが遅れた2隻(白雪、叢雲)はニュージョージア島沖で米軍機約20機の波状攻撃を受けて叢雲が大破炎上、航行不能となった。_NEWLINE_第9駆逐隊(朝雲、夏雲)は叢雲の航行不能を知り救援のためかけつけたが、ドーントレス11機の空襲により夏雲は至近弾複数発を受ける。浸水が進み、佐藤康夫司令は夏雲乗組員を朝雲に収容した。夏雲は14時27分に沈没、塚本艦長以下19名が戦死した。また第11駆逐隊司令杉野修一大佐は叢雲生存者を乗艦(白雪)に収容した。残存2隻(朝雲、白雪)は叢雲を放棄して一旦避退したが、救援のためガ島へ進撃中の増援部隊(川内、由良、時雨、白露、天霧)等と合流したのち、夜陰に乗じて叢雲の元に戻る。叢雲の曳航を試みたものの手の施し様がなく、叢雲は白雪によって雷撃処分された。 _START_SECTION_ 海戦後 _START_PARAGRAPH_ 五藤少将は翌0600、退却途上の艦上にて出血多量により戦死したが最後まで同士討ちを受けたと信じていたと言われている。この海戦について、10月15日に連合艦隊参謀長宇垣纒少将は自身の日誌、「戦藻録」で第六戦隊司令部は警戒心が無さすぎ、この戦いは「衣笠」一隻で戦ったようなものだと、判断ミスを犯した第六戦隊司令部に対して手厳しい批判を書き記している。_NEWLINE_当時の戦況を仄聞(そくぶん)するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、夜間に於(おい)て物を見たら敵と思へと考へなく、一、二番艦集中攻撃を蒙(かうむ _NEWLINE_)るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。_NEWLINE_ — 宇垣纒、戦藻録_NEWLINE_「戦藻録」の10月16日の日誌では、久宗(青葉艦長)、荒木(古鷹艦長)、参謀長から聞き取りを行い、いくつかの所見を書いており、そこでは夜戦失敗は事前の偵察不十分に在るとしている。_NEWLINE_日本軍は手痛い敗北を喫し、飛行場砲撃という目的は達せられなかったが、輸送作戦そのものは成功したとも言える。日本軍は「米重巡洋艦1、駆逐艦1撃沈、重巡洋艦1大破」という戦果を挙げたと誤認していた。大本営発表では日本軍巡洋艦1隻沈没、連合軍巡洋艦2隻沈没・駆逐艦1隻沈没・巡洋艦1隻大破となっている。_NEWLINE_また、アメリカ軍は海戦に勝利をおさめた上にアメリカル師団第164歩兵連隊の揚陸に成功したものの大小の損害を受けてガダルカナル島海域から避退、戦力の空白地帯を作ってしまう。この間、第二次飛行場砲撃部隊/挺身艦隊(第三戦隊、司令官栗田健男少将/戦艦金剛・榛名)がルンガ泊地に突入、ヘンダーソン基地に艦砲射撃を行った(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。10月14日-15日にも重巡鳥海(第八艦隊旗艦)および本海戦を生き延びた衣笠がヘンダーソン基地に艦砲射撃を実施した。一方、アメリカ軍は日本軍巡洋艦4隻・駆逐艦4隻を撃沈したと報告した。 _START_SECTION_ 影響 _START_PARAGRAPH_ この戦いは、日本軍が得意とした夜戦でアメリカ軍が勝利した初めての戦いであったがアメリカ軍の混乱も大きく、日本軍側の航空偵察不徹底、指揮官の不手際、命令伝達ミス、ガダルカナル島砲撃という目的に捉われて注意力が散漫になっていたこと等の不手際が重なり、さらに偶然にも絶妙のタイミングでの先制攻撃となったこと等がアメリカ軍側に僥倖となった。_NEWLINE_日本側は艦隊司令部(連合艦隊、第十一航空艦隊、第八艦隊)が「敵艦隊は行動していない」という前提で自艦隊を動かすなど敵情判断が甘く、それが原因でアメリカ艦隊の奇襲を許すなど作戦面の失敗が目立った。加えて戦術面でも損失が大きく、特に得意としていた夜戦でアメリカ軍に先手を取られた事態は日本側にとって大きな衝撃となった。_NEWLINE_一方アメリカ側では1942年7月以降から索敵にレーダーを用いて夜戦を行う訓練方式について、依然人的な戦闘力では問題があるものの、この方式が間違っていなかったことが証明される形となった。またサボ島沖海戦による勝利は、日本側に与えた損害を過大に評価した結果、第一次ソロモン海戦の敗北によって信頼を失っていたアメリカ艦隊の士気を回復させることになった。以後ソロモン方面で戦闘するアメリカ艦隊にとって「アメリカ艦隊が夜戦に於いて日本艦隊より優位に立つことが出来る」という証明にもなり、アメリカ艦隊が自信を持って夜戦を行う要因ともなった。この後、アメリカ艦隊は第三次ソロモン海戦やルンガ沖夜戦で日本艦隊に夜戦を挑み、手痛い打撃を受けた。チェスター・ニミッツ太平洋艦隊長官は、「ガダルカナル島の戦いでアメリカ艦隊がレーダーを活用できたといっても、夜戦に対する準備は整っておらず、また得意ともいえなかった」と評している。 _START_SECTION_ 注意点 _START_PARAGRAPH_ なお戦史叢書では呉鎮守府警備駆逐艦(豊田副武司令長官指揮下)の吹雪型駆逐艦8番艦白雲が、10月11日-12日に生起した水上機母艦「日進」護衛および『サボ島沖海戦』に参加し、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に所属する第11駆逐隊(白雪、叢雲、初雪、吹雪)の司令駆逐艦(第11駆逐隊司令杉野修一大佐)として、第11駆逐隊第1小隊2番艦の駆逐艦叢雲救援と雷撃処分を実施したことになっている。だが「白雲」は8月28日の空襲で大破、第20駆逐隊の解隊にともない警備駆逐艦となって外南洋部隊(第八艦隊)から除かれ、サボ島沖海戦時は日本本土に戻っていた(10月8日着)。さらに大修理が必要な状態であり、最前線で戦闘に参加できる状態ではなかった。_NEWLINE_水上機母艦日進の護衛および叢雲の処分を実施したのは、白雲と名前が似ている白雪である。2隻(白雪、白雲)は字体が似ているため郵便物の誤着等に悩まされ、日本海軍も注意を促している。
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_START_ARTICLE_ サミュエル・ウォードウェル _START_PARAGRAPH_ サミュエル・ウォードウェル(Samuel Wardwell、1643年5月16日 - 1692年9月22日)は1692年のセイラム魔女裁判で魔法使いとして告訴された1人。アンドーヴァー在住で、1692年9月22日にアリス・パーカーらと共に絞首刑にされた。_NEWLINE_マサチューセッツ州ボストンで、トーマス・ウォードウェルとエリザベス・フーパーの息子として1643年5月16日に生まれた。父トーマスはジョン・ホイールライトとアン・ハッチンソンの弟子であった。告白を強制させられ、処刑された。_NEWLINE_彼の家族も苦しみ、サミュエルの妻サラと娘マーシー・ウォードウェルも告発されたが、処刑はされなかった。当局は彼の残した財産を押収した。当時は幼かったサミュエルの息子は、後にこの事件について訴え、補償を勝ち取った。
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Q2328749
_START_ARTICLE_ サングレ・デ・クリスト山脈 _START_PARAGRAPH_ サングレ・デ・クリスト山脈(Sangre de Cristo Mountains, スペイン語で"キリストの血")は、ロッキー山脈最南端にある一山脈である。アメリカ合衆国のニューメキシコ州北部とコロラド州南部に位置している。山脈はコロラド中南部のポンチャ峠から、南東と南に向かって伸び、ニューメキシコ州サンタフェの南東の地点で終わる。山脈はコロラド州の部分に多くのフォーティナー(14000フィート級の峰)があり、ニューメキシコ部分には13000フィート以上のニューメキシコ州のすべての峰で構成されている。_NEWLINE_スペイン語で「キリストの血」という名前は、日の出と日没時の、特に雪で覆われたときの山肌の赤い色に由来していると言われている。しかしはっきりした名前の由来は分かっておらず、実際この名前も19世紀初めから使われた。それ以前は「ラ・シエラ・ネバダ」、「ラ・シエラ・マドレ」、「ラ・シエラ」、「スノウィーズ」(英語使用者による名前)などが使われた。昔のスペイン語のスペル「Christo」がしばしば使われる。_NEWLINE_サングレ・デ・クリスト山脈は、北から南にかけて、さらにさまざまな山脈(Mountains)・山地(Range)・峠(Pass)に分割されている。山脈の最北端は、コロラド州のポンチャ峠とラ・ベタ峠の間のサングレ・デ・クリスト山地として知られている(山脈(Mountains)・山地(Range)の用法に一貫性がないが、ここでは山地は山脈の一部として解釈される)。ラ・ベタ峠とコスティリャクリーク(川)の間には、コロラド州とニューメキシコ州の州境をまたいで、クレブラ山地がある。この他の山脈はすべてニューメキシコにある。コスティリャクリークとパロ・フレチャド峠の間には、タオス山脈が横たわる。タオス山脈の東へモレノ谷を渡るとそこはシマロン山地である。パロ・フレチャド峠とペコス荒野の間には、小さな山脈であるフェルナンド山脈とリンコン山脈がある。この山脈の最南端のサンタフェに近い部分は、通常サングレ・デ・クリスト山脈と呼ばれ、固有の名前はない。 _START_SECTION_ 主な山脈および山地 _START_PARAGRAPH_ サングレ・デ・クリスト山脈は北から南までさまざまな山脈と山地に分割される。 _START_SECTION_ サングレ・デ・クリスト山地 _START_PARAGRAPH_ サングレ・デ・クリスト山脈の中で最大で最も北寄りの山地であるサングレ・デ・クリスト山地は、直接リオグランデ地溝の東側に沿って走り、ポンチャ峠から南東にコロラド中南部を通り、ウォルセンバーグの西32km(20マイル)のラベタ峠までおよそ120km(75マイル)伸びている。西のサンルイスヴァレーと東のアーカンザス川の分水嶺を分ける高い尾根を成している。 _START_SECTION_ キュレブラ山地 _START_PARAGRAPH_ キュレブラ山地は北限をコロラド州のラベタ峠、南限をニューメキシコ州ビッグ・コスティリャ峰のすぐ南のコスティリャ・クリークとして、ほぼ南北に走る。最高点はキュレブラ峰 (14,047 feet/4,282 m)で、私有地にあるコロラド州の唯一の14000フィート級の山として注目に値する。キュレブラへの登山者は、現在一人当たり100USドルの入山料を支払わなければならず、年間の登山者は制限されている。その所有権とレクリエーションやその他の活動をする時の立ち入りの制限は、長年議論の的となっており、複数の訴訟と時折暴力さえも生じている。東側の主な頂はふたつの際立ったスパニッシュ峰である(西: 13,626 feet/4,153 m; 東: 12,860 feet/3,920 m)。サングレ・デ・クリスト山脈の他の山と異なり、これらは火山で、円錐形とその外側に広がる岩脈に特徴がある。これらの峰は、サンタフェ・トレイルの山間部分の重要なランドマークであった。 _START_SECTION_ タオス山脈 _START_PARAGRAPH_ タオス山脈は、北のコスティリャ・クリークから南のトレス・リトスまで、山脈の西側の山襞を成している 。ニューメキシコ州最高峰のホイーラー峰(13,161 feet/4,012 m)を擁しており、それは小さなホイーラー峰原生林の一部である。他の目立った山には、タオス・プエブロ上に劇的にそびえたつプエブロ峰 (12,305 feet/3,751 m)や、ラティル峰 (12,708 feet/3,873 m)がある。タオス・スキー・ヴァレーはホイーラー峰のちょうど西側に位置する。タオス山脈の中央部分のほとんどは、タオス・プエブロの土地である。_NEWLINE_パロ・フラチャド峠とトレス・リトス (USルート64とNMルート518)の間のタオス山脈の南部分は、北の部分より低くなだらかで、その最高地点はセロ・ビスタで11,939フィート(3,639m)である。フェルナンド山脈はこの部分にある小さな山脈で、USルート64のちょうど南にある。 _START_SECTION_ シマロン山地 _START_PARAGRAPH_ シマロン山地は、東のタオス山脈から西へモレノ・ヴァレーを横切っている。低い山々で、最高点はバルディ山(12,441 feet/3,792 m)である。フィルモント・スカウト牧場はシマロン山地の東側に位置している。 _START_SECTION_ リンコン山脈 _START_PARAGRAPH_ これは小さな山並みで、他のサングレ・デ・クリスト山脈と比べても特に低い。タオス山脈の南端部分の東に位置している。 _START_SECTION_ サンタフェ山脈 _START_PARAGRAPH_ 最後にサングレ・デ・クリスト山脈を構成するのは、NMルート518以南のすべての山を含むサンタフェ山脈である。サンタフェ近くに位置し、ペコス川の水源を保全しているペコス原生林を囲んでいる。最も高い山としてトルチャス峰 (13,102 feet/3,994 m)を含んでいる。他の目立った山にはサンタフェ・バルディ (12,622 feet/3,847 m)とイカリタ峰 (12,835 feet/3,912 m)がある。多くの道がペコス原生林を横切り、高山の湖でバックパッカーや釣りを楽しむ人々に人気がある。
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Q7200931
_START_ARTICLE_ サンディエゴ計画 _START_PARAGRAPH_ サンディエゴ計画 (Plan of San Diego, Plan de San Diego) とは、1915年から1916年に米国テキサス州を中心に南部一帯で発生した一連の騒乱事件またはその計画自体を指す。
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Q530193
_START_ARTICLE_ サン=ジェルマン=デ=ヴォー _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ ラ・アーグ岬の先端部に位置し、西はオーデルヴィル、東はオモンヴィル=ラ=プティット、南はジョブールである。サン=ジェルマン=デ=ヴォーは、オーデルヴィルとともに地域圏最北部のコミューンである。_NEWLINE_コミューンはヴィラージュ地区とダンヌヴィル地区の2つから構成されている。_NEWLINE_コミューンは複数の環境イニシアティブによって保護されている。EUのナテュラ2000(fr)のプログラムのもと、『ラ・アーグの荒地と砂丘』鳥類特別保護区となっている他、EUの指令である『ラ・アーグの海岸と荒地』EU生息地指令(en)の登録地である。
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Q1386708
_START_ARTICLE_ サン=フィルベール=アン=モージュ _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ モージュ地方にあるアンジューのコミューンである。サン=マケール=アン=モージュの北に位置し、ヴィルデュー=ラ=ブルエールとアンドルゼの間を走る県道246号線、ラ・ルノーディエールとラ・シャペル=デュ=ジュネの間を走る県道146号線がコミューンを通っている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 中世そしてアンシャン・レジーム時代、教区は最初ボープレオに所在した公爵管轄権限内、アンジェのセネシャル管区、アンジェ徴税区、ショレの塩貯蔵蔵に属した。
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Q532781
_START_ARTICLE_ サービスデザイン _START_SECTION_ サービスデザインの歴史 _START_PARAGRAPH_ サービスデザインの初期(Shostak 1982; Shostack 1984)には、サービスをデザインする活動はマーケティングや経営の領域の一部だと考えられていた。例えば、Shostack(1982)は有形(製品)と無形(サービス)を1つにしたデザインを提案した。Shostackによれば、このデザインプロセスはサービスの一連のイベントと欠かせない機能をマップ化した「サービスブループリント」を使って客観的かつ明示的な方法で成文化し、ドキュメント化することができる。
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Q420807
_START_ARTICLE_ サーブ・9-3 _START_PARAGRAPH_ 9-3 (ナイン・スリー)は、サーブが製造・販売していた自動車である。 _START_SECTION_ 日本への正規輸入 _START_PARAGRAPH_ 初代の発売当初はヤナセによって輸入販売されていた。その後ゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン(GMAPJ)が輸入元となり、全国のヤナセやGMAPJによる独自ディーラー(キャデラック・シボレー・ハマー併売店)で販売された。スパイカー・カーズへのブランド売却後は、GMAPJでの輸入販売を終了することになった。そこで2010年7月15日にVTホールディングスのグループ会社「ピーシーアイ株式会社」が正規輸入権を取得し、同年9月1日より輸入販売業務を開始した。なお、従前の販売網はそのまま継続されている。_NEWLINE_9-3がデビューした1998年には上級の9-5と合わせて2,328台あったサーブ車の新規登録は、2008年にはその一割の238台にまで縮小している。
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Q110407
_START_ARTICLE_ ザバラ郡 (テキサス州) _START_SECTION_ インディアン _START_PARAGRAPH_ 放射性炭素年代測定によって、ザバラ郡のトーチュガ・フラット遺跡が15世紀と16世紀にパクアチェ族が使われていたことを示している。クリスタルシティの考古学者T・C・ヒルが1972年から1973年にこの遺跡の発掘を行い、人工物を発見した。チャパロサ牧場では、テキサス大学サンアントニオ校の研究者によって100以上の古代遺跡が確認されている。パクアチェ族の後は、コアウイルテク族、トンカワ族、リパン・アパッチ族、メスカレロ・アパッチ族、コマンチ族などのインディアン部族が入ってきた。 _START_SECTION_ 野生馬の砂漠 _START_PARAGRAPH_ ザバラ郡に含まれるリオ・グランデ川とニュエセス川の間の地域は、「野生馬の砂漠」(Wild Horse Desert)と呼ばれる境界論争があった地域であり、テキサス共和国もメキシコ政府もはっきりと統治したことは無かった。米墨戦争が終わるまで領有権の論争が続いた。その後のこの地域は無法者で溢れるようになり、開拓者を怖がらせた。1930年代にメキシコとアメリカ合衆国の間で合意が形成され、むかしメキシコ政府が与えた土地特許の継承者に損害賠償を行った。 _START_SECTION_ 郡の成立と成長 _START_PARAGRAPH_ 1846年、ザバラ郡が設立され、メキシコの開拓者でテキサス独立宣言の署名者でもあるロレンソ・デ・ザバラに因んで名付けられた。郡は1858年に組織化されたが、郡名に誤って“L”が2つ入り、"Zavalla" となっていた。綴りを修正したのは1929年になってからだった。ベイツビルの町が郡庁所在地になった。1928年の郡民投票で、クリスタルシティが新しい郡庁所在地になった。1867年頃、グレイ・ホワイトとビビアンの家族がコメタに入植した。1870年にはラモン・サンチェスとガルバンの家族が、1871年にはJ・フィッシャーが加わった。ほぼ同じころにマーロの開拓地ができた。当初は牧畜業が盛んだったが、過放牧によって草地がだめになった。その後のザバラ郡は商業的に亜麻を育てる州内最初の郡になった。郡内最大の牧場であるアイク・T・ラプライアが、農業用に土地を売り出した。そこに出現した町はラプライアと名付けられた。開発業者のE・J・バッキンガムとカール・グロースが1905年にクロス・S牧場の96,101 エーカー (384 km²) 全てを買収し、クリスタルシティの町の区割りを決め、残った土地を10エーカー (40,000 m²) 単位の農場に分割して販売した。 _START_SECTION_ 冬の庭園 _START_PARAGRAPH_ ザバラ郡、ディミット郡、フリオ郡、ラサール郡はテキサス州の冬の庭園地域と見なされている。灌漑施設と穏やかな冬の気候が、この地域で一年中植物の栽培を可能にしている。1917年から1918年の冬にほうれん草が導入された。毎年開催されているほうれん草祭の第1回は1936年に開催され、第二次世界大戦中は止まったが、1982年に再開された。ほうれん草を食べるポパイを案出した漫画家のE・C・シーガーは、ウィンター・ガーデン商工会議所からアメリカの食卓にほうれん草を奨励した功績に対して感謝状を受け取った。シーガーの返書は2つの新聞に掲載され、シーガーの好きな野菜をどこでも子供達が楽しめるように奨励した。シーガーは後の1937年に「世界中の子供達全て」に捧げたポパイの彫像を建てることを認めた。バミューダ・タマネギも主要産品になった。ほうれん草、ソルガム、綿花が三大作物だった。1989年時点の主要産品はほうれん草、綿花、ピーカン、トウモロコシおよびタマネギだった。 _START_SECTION_ 強制収容所 _START_PARAGRAPH_ クリスタルシティのテキサス家族収容所は1930年代に移民労働者の宿営地として始まった。それが閉鎖されるまでにドイツ人と日本人の戦闘員とその家族、ラテンアメリカ人と少なくとも1つのイタリア系ラテンアメリカ人家族、さらにドイツ系と日系アメリカ人の家族を収容した。家屋と保安手段のために100エーカー (0.4 km²) の広さがあった。さらに190エーカー (0.76 km²) が農業と個人住宅に当てられた。ドイツ系だった最初の収容者は1942年12月12日に到着し、建設業務にあたることが期待され、1時間10セントが支払われた。1943年に70床の病院が建設され、収容者の子供達のために学校も建てられた。収容者は保育園と幼稚園を運営した。運営開始から1945年6月30日までに4,751人を収容し、新たに153人が生まれた。この収容所は1948年に閉鎖された。 _START_SECTION_ メキシコ系アメリカ人 _START_PARAGRAPH_ 1910年のメキシコ革命から大量の移民労働者が国境を越えて郡内に入り、農作物を生産するようになった。1917年と1918年にはメキシコの革命家パンチョ・ビリャがリオ・グランデ川を越えて無法者を送り続けた。クリスタルシティでは自警団を組織し、ビラから来た者に対する防衛を図った。1930年までにクリスタルシティは圧倒的にメキシコ系アメリカ人で構成されるようになっていた。同年、南テキサスの郡では最大となる労働者率(100の農園に対して1,430人の労働者)と最低の借地農率(100の農園に対して33の借地農家)となっていた。農園経営者はイギリス系アメリカ人であり、小作農や農園労働者はヒスパニックだった。1950年代末までに、郡内の高校を卒業する者の過半数はメキシコ系アメリカ人になった。1990年、郡人口12,162人の89.4%はヒスパニックだった。 _START_SECTION_ テハーノの政治 _START_PARAGRAPH_ 1962年から1963年、御者組合のフアン・コルネホとスペイン語話者政治協力機構が、郡内の缶詰工場労働者と農園労働者のヒスパニック系を組織化し、市政委員会の委員を全てラテン系住民で占めることに成功した。この出来事はクリスタルシティ革命と呼ばれるようになった。_NEWLINE_1970年にクリスタルシティとザバラ郡で結成されたラザ・ウニダ党がテハーノの間に大きな自己決済能力をもたらした。 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は1,302平方マイル (3,372 km²)であり、このうち陸地1,298平方マイル (3,362 km²)、水域は3平方マイル (8 km²)で水域率は0.25%である。
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Q11307085
_START_ARTICLE_ シクラメン (グループ) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 東京都大田区蒲田で結成された3MC+1トラックメイカーのポップグループ。 聴けば聴くほど味が出る「スルメサウンド」をテーマに、ストレートな歌詞と心のど真ん中に届くメロディーを歌う。 笑いあり涙ありのライブは老若男女問わず、_NEWLINE_暖かい一体感を生み出している。リーダーのDEppa、肉だんご、桃紅茶、電球、3MC+トラックメーカーの4人で構成された蒲田出身の自称三流ポップアーティスト。DEppaと肉だんごは兄弟。桃紅茶と肉だんごは幼馴染。メジャーデビューを目指しデモテープを贈るが、どこにも相手にされず挫折。そこで、自主でCD 制作を開始するが手順が分からず再び挫折。挫折と挑戦を繰り返す中、独自のスタイルを確立。_NEWLINE_スルメサウンドは、歌メロラップの新機軸。公式サイトや同グループの話題を扱う掲示板などではファンのことを「シクラ族」「ラ族」と表される。1stインディーズアルバム『スルメ』は40,000セールスを超え(2010年3月現在)、2009年、FM大阪40周年イメージソングとして『MUSIC』がO.A.された。同FM大阪にて、2010年4月レギュラー番組も始まり、2011年6月念願の武道館でのライブが開催された。2011年9月28日、シングル「僕の宝物」でメジャーデビュー。_NEWLINE_出待ちファン達に対し、順に話しかけに回ったりするなど、ライブやイベント後のファン交流は欠かさない。その後メジャーデビュー後、ワンマンツアーやインストライブ終了時に、グッズ購入特典での握手会など行われている。
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Q1887138
_START_ARTICLE_ シコルスキー S-42 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ S-42は旅客をのせた実用的な渡洋飛行をおこなった最初の飛行艇である。4発単葉で主翼は胴体から離れた高い位置にセットされ、主翼と胴体の間は支柱で支えたパラソル方式を採用。4基のエンジンは主翼の前縁に並べている。パンアメリカン航空のために10機がユナイテッド・エアクラフトのヴォート・シコルスキー部門で製作された。初飛行は1934年の3月30日である。_NEWLINE_S-42は、前作シコルスキー S-40(1930年就航の4発大型飛行艇:乗員6乗客38)の運用で飛行艇による航空輸送に自信を持ったパンアメリカン航空が、さらに長距離路線への拡大を狙って発注された機体であり、同時に発注されたマーチンM-130チャイナクリッパーとともにパンナムの海外路線に活躍した。太平洋・大西洋横断路線は本機が開拓し、最初の北大西洋横断定期便となった飛行艇である。太平洋横断路線の実就航は航続距離の長いマーチンに譲り、アメリカと中南米を結ぶルートで多用された。また1937年にホノルル-アメリカ本土間に就航した。
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Q419343
_START_ARTICLE_ システインプロテアーゼ _START_PARAGRAPH_ システインプロテアーゼとは、触媒部位において、システインのチオール基を求核基として用いるタンパク質分解酵素である。
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Q2917860
_START_ARTICLE_ シットスキー _START_PARAGRAPH_ シットスキー(英語: sit-ski)は、障害者スポーツのうち、座位で行うスキー競技またはその用具のこと。 _START_SECTION_ 概略 _START_PARAGRAPH_ 主に下肢に障害のあるスキーヤーがレジャーとして、または競技として、座席にスキー板を固定し、滑降やクロスカントリーなどを行う。斜面を滑降するものと平地を走破するものは、いずれも正式名称は「シットスキー」であるが、日本においては主にクロスカントリースキーで使用されるものを、シットスキーと呼ぶ。クロスカントリーのシットスキーにおいて、スキー板は2本であり、スプリング等を介さずに座席に固定されている。また健常者と同様のストックを使用する。なお、滑降で使用するサスペンション機構の付いた用具は日本においてはチェアスキーと呼ばれる。 _START_SECTION_ クロスカントリースキー _START_PARAGRAPH_ 整地されたコースを腕の力だけで走破するもので、雪原のマラソンとも言われる。レジャーとしても行われ、ジュニア教室等も開催されている。 _START_SECTION_ バイアスロン _START_PARAGRAPH_ クロスカントリースキーのなかに、射撃を組み入れたレースであり、パラリンピックの正式種目となっている。
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Q4418771
_START_ARTICLE_ シドニー国際ピアノコンクール _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 世界各地で催されるオーディションで選ばれた36名の参加者が、10日間にわたる4回のステージで最終的に6名に絞られ、ファイナルがシドニー・オペラハウスで行われる。参加年齢は17歳から30歳まで。
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Q495560
_START_ARTICLE_ シャイラ・スタイルズ _START_PARAGRAPH_ シャイラ・スタイルズ(Shyla Stylez, 1982年9月23日 - 2017年11月10日)は、カナダのポルノ女優。ブリティッシュコロンビア州アームストロング出身。2017年11月10日、ブリティッシュコロンビア州の実家で睡眠中に死去。
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Q11307986
_START_ARTICLE_ シュクール _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 番組名の「シュクール」とは、スクール(学校)が転じたものである。 毎回、何かに頑張っている人をゲストに迎えて、白河理子が応援するという番組スタイルであったが、徐々にバラエティ指向が強まってきており、ゲストの無い回が発生し、「川柳コーナー」という定番コーナーも出現している。 _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ 30分間という短時間で、ゲストを迎え、曲をかけている。 _START_SECTION_ Podcast _START_PARAGRAPH_ 本放送以外にも生放送終了後に収録された音声・映像をPodcastで配信を行っている。
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Q1073526
_START_ARTICLE_ ショットガン・シークエンシング法 _START_PARAGRAPH_ ショットガン・シークエンシング法 は長いDNAの塩基配列の決定に対して適用される配列決定手法。_NEWLINE_まず長い配列を短いランダムな断片としてクローニングし、最初にそれらの配列を決定する。 このとき一本の長いDNA鎖から沢山のコピーを取り、断片同士がオーバーラップするようにしておく。 最終的に、これらのオーバーラップ部分についてコンピュータ上でアライメントを行い、元の長い塩基配列を決定する。_NEWLINE_簡略化した例として2本の断片の場合を以下に示す。_NEWLINE__NEWLINE_元の配列 : XXXAGCATGCTGCAGTCATGCTTAGGCTAXXXX_NEWLINE__NEWLINE_第1回のショットガン配列 : XXXAGCATGCTGCAG_NEWLINE_ TCATGCTTAGGCTAXXXX_NEWLINE__NEWLINE_第2回のショットガン配列 : TTAGGCTAXXXX_NEWLINE_ XXXAGCATGCTGCAGTCATGC_NEWLINE__NEWLINE_再構築された配列 : XXXAGCATGCTGCAGTCATGCTTAGGCTAXXXX_NEWLINE_実際に適用する際は数千から数百万件の配列を扱うことになり、またデータ中には転写やシークエンシングなどのエラーも入ってくる。 このため実際のプロジェクトでこれらのアライメントの計算を行うには膨大な計算機資源が要求される。_NEWLINE_2000年にはショットガン・シークエンシング法は、セレラ・ジェノミクス社によって ヒトのゲノム(ヒトゲノム計画)にも適用されており、そこではヒトのDNAを正確に アライメントするために幾つものスーパーコンピュータが数ヶ月にも亘ってフル稼働したとされる。
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Q11308232
_START_ARTICLE_ ショートショートフィルムフェスティバル _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1999年に別所哲也らが発起人となり、「アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル」として東京・表参道で誕生。初年度はジョージ・ルーカス監督が南カリフォルニア大学時代に制作した短編映画『電子的迷宮/THX 1138 4EB』などを上映し注目を集め、2001年より「ショートショート フィルムフェスティバル (SSFF)」として開催されるようになった。コンペティションでは25分以内の短編映画を対象とし、国際短編映画祭としてはアジア最大級である。_NEWLINE_2004年より、アジア発の新しい映像文化の発信、新進若手映像作家の育成目的から東京都との共催による「ショートショート フィルムフェスティバル アジア (SSFF ASIA)」が誕生。アジア地域の作品を上映するジャパン部門及びアジア インターナショナル部門の最高賞には優秀賞と東京都知事賞が授与される。同年に米国アカデミー賞の公認映画祭として認定された。現在では「ショートショート フィルムフェスティバル」と「ショートショート フィルムフェスティバル アジア」が、「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)」として同時開催されている。_NEWLINE_オフィシャルコンペティション(インターナショナル部門、アジア インターナショナル部門、ジャパン部門)の各優秀賞受賞作品から選ばれた1作品がグランプリに選出され、グランプリ受賞作品は翌年の米国アカデミー賞短編部門のノミネート候補作品となる。_NEWLINE__NEWLINE_開催期間中は、関連したプログラムやシンポジウム、ワークショップが行われる。_NEWLINE_アワードセレモニーではレッドカーペットが敷かれ、各界から著名人を集めた授賞式が開催される。また、6月4日は初年度である1999年の開催日にちなんで「ショートフィルムの日」に制定されている(日本記念日協会登録)。_NEWLINE_2001年の観客賞受賞監督には、若き日のジェイソン・ライトマン監督も名を連ねており、その後、ディアブロ・コーディとタッグを組んだ長編映画『JUNO/ジュノ』や『マイレージ、マイライフ』(主演:ジョージ・クルーニー)がアカデミー賞にノミネートされている。2014年のカンヌ映画祭“シネフォンダシオン部門”では、SSFF & ASIA 2012でグランプリを受賞した平柳敦子監督による『Oh Lucy!』(主演:桃井かおり)が日本人初の2位という快挙を果たした。_NEWLINE_SSFF & ASIA 2014では映画コメンテーターのLiLiCoが同映画祭初のアンバサダーとして就任。_NEWLINE_2014年8月からは、映像以外のコンテンツを初めて公募するプロジェクト「Book Shorts」をスタートさせた。大賞には、賞金100万円のほか、ショートフィルム化やラジオ番組化などの副賞がつく。_NEWLINE_SSFF & ASIA 2016では写真家のレスリー・キーが同映画祭オフィシャルフォトグラファーを務めた。_NEWLINE_2016年、国内外の企業がブランディングを目的として制作したブランデッドムービーをセレクトし、特集上映する「Branded Shorts」が設立された。上映作品のうち優れた作品には「Branded Shorts of the Year」が授与される。_NEWLINE_2017年にはEXILE TRIBEの楽曲を、河瀨直美監督をはじめ、A.T. 萩原健太郎 齋藤俊道 常盤司郎 落合賢の6人の映画監督たちがショートフィルム化するプロジェクトCINEMA FIGHTERSも公開される。_NEWLINE_2018年には映画祭開催20周年を迎えたのを機に、オフィシャルコンペティションのグランプリ名称を、ジョージ・ルーカスの名を冠した「ジョージ・ルーカス アワード」に改称する。上述の通り第1回ではルーカスの短編映画を上映、以来毎年ルーカスからの応援メッセージが届くなど、ルーカスとSSFFとは長年の関係があったからこそ実現したもので、ルーカスの名を冠した賞ができるのは世界初となる。 _START_SECTION_ 会場 _START_PARAGRAPH_ 東京表参道のラフォーレミュージアム原宿、表参道ヒルズ スペース オーがメイン会場。2010年は、二子玉川ライズのiTSCOM STUDIO & HALLも会場となった。また、地方開催としてこれまでに大阪・名古屋・広島・沖縄など、関東地方以外の7都市で開催。また、ロサンゼルス、シンガポール、ミャンマーにおいて国際特別上映も行った。2013年には、東京スカイツリーでも映画祭が開催された。なお、当映画祭の代表を務める別所哲也は横浜みなとみらいにショートフィルム専門映画館「ブリリア ショートショート シアター」を開設しており、映画祭の会場の一つにもなっている他、映画祭期間外でも様々なショートフィルムを観ることができる。
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Q73627
_START_ARTICLE_ シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 田舎町にサーカス団「マーベラス・サーカス」がやってきた。_NEWLINE_主人公の女性ミアは独りでサーカスへとやってきたが、ピエロに半ば押し付けられるように空中ブランコ(エアリアル)の青年(エアリアリスト)が描かれたチラシをもらい、サーカスのテントに入って行く。さまざまな大道芸が繰り広げられた後、リングマスターの紹介でいよいよ空中ブランコの演技が始まる。_NEWLINE_空中ブランコ乗りの青年はミアと視線を合わせるが、ブランコを握り損ねて下に落ちてしまう。ミアは客席から駆け寄るが、エアリアリストは地面に吸い込まれてしまう。ミアも後を追い地面に吸い込まれてゆく。_NEWLINE_やがて目を覚ましたミアは、月夜の砂漠に無数のサーカステントが立っている世界にいることに気付く。その後ミアは、消えてしまったエアリアリストを捜すため、チラシを片手に大きなテントに入って行く。一方、エアリアリストは何者かに捕えられていた。_NEWLINE_数々のサーカステントとその中で繰り広げられる演技を経て、ミアとエアリアリストは再会し、互いの体に手足を絡ませて空中で喜び(エアリアルのパフォーマンス)を体現するのだった。
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Q11308465
_START_ARTICLE_ シロクマ/ビギナー _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 「春の歌/テクテク」以来およそ5年ぶりの両A面シングル。「シロクマ」は、メナード『イルネージュ』CMソングである。「ビギナー」は、『ゆうちょ銀行』TVCMソングであり、レコチョクにて着うた・着うたフルにて一週間先行配信された。_NEWLINE_また、その際「ビギナー」はデジタルシングルとしてリリースされた。_NEWLINE_前作「つぐみ」と同様にカップリングにはライブテイクが収録されているが、前回同様、いつのライブのテイクなのかが公表されなかった。_NEWLINE_ジャケットは、「若葉」、「君は太陽」、「つぐみ」に引き続きかくたみほの写真が使われた。写真に写っている車(イセッタ)のナンバープレートは46-90(シロ-クマ)である。_NEWLINE_「ビギナー」の間奏ギターソロではタッピング奏法(ライトハンド奏法)が用いられている。
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Q689863
_START_ARTICLE_ シンクロトロン _START_PARAGRAPH_ シンクロトロンとは、円形加速器の一種。粒子の加速にあわせて、磁場と加速電場の周波数をコントロールする事によって、加速粒子の軌道半径を一定に保ちながら加速をおこなう。 _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ 2011年現在、もっとも高いエネルギーまで粒子を加速できるシンクロトロンは、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)であり、陽子を7TeVまで加速する事ができる。_NEWLINE_一般にシンクロトロンのみで粒子を加速する事はなく、前段の加速器によって適当なエネルギーまで加速された粒子を入射した上で、さらに高いエネルギーへと加速するような形態で運用される。前段加速器としては、線型加速器、サイクロトロン、小型のシンクロトロンなどが用いられる。_NEWLINE_加速粒子の比電荷によって最適な設計は異なり、特に電子シンクロトロンと陽子・重イオンシンクロトロンの間には大きな違いがある。よって一つの加速器で両方の用途に使用することは、加速エネルギーが大きくなるほど困難である。特にエネルギーフロンティア探索に用いられるような大規模なシンクロトロンでは、どちらか一方の専用設計とすることが通例である。_NEWLINE_電子の場合、比較的小さな磁場でも容易に軌道を曲げる事ができるので、用いる電磁石(ベンディングマグネット)は小規模のもので間に合う一方、比較的低いエネルギーでも速度が速く、シンクロトロン放射によるエネルギー損失が大きいため常に大きな力で加速しなければ電子のエネルギーを保つ事が出来ない。一方、陽子や重イオンを加速する場合、シンクロトロン放射の影響が比較的小さく、比較的小さな加速でも粒子のエネルギーを維持できるが、粒子の軌道を曲げるためには大きな磁場を必要とし、大掛かりな超伝導電磁石などを使用する必要がある。 _START_SECTION_ 高エネルギー衝突実験 _START_PARAGRAPH_ シンクロトロンは従来の線型加速器やサイクロトロンでは実現が困難な高エネルギーの粒子ビームを実現できる事から、素粒子実験等の高エネルギー物理学実験で広く用いられてきた。2007年現在で稼動している高エネルギー衝突実験用加速器はすべてシンクロトロンである。運転を終了したものも含め、代表的な高エネルギー実験用加速器としてはCERNのLEPおよびLHC、米国フェルミ研究所のテバトロン、米国ブルックヘブン国立研究所のRHIC、高エネルギー加速器研究機構のトリスタン/Bファクトリーなど。_NEWLINE__NEWLINE_ただし、電子シンクロトロンに関してはシンクロトロン放射が大きいため、より高エネルギーの加速器を設計する事が難しく、次世代の高エネルギー電子コライダーとして、大型の線型加速器を建設する事となった。 _START_SECTION_ 放射光 _START_PARAGRAPH_ 電子シンクロトロンに伴う大きなシンクロトロン放射を積極的に利用することができる。高強度で強い指向性を持つ均一な白色光を特徴とし、この光を放射光とも呼ぶ。日本国内における代表的な施設に、兵庫県にあるSPring-8、茨城県のフォトンファクトリーが挙げられる。 _START_SECTION_ 医療用陽子・重粒子線源 _START_PARAGRAPH_ 悪性腫瘍の放射線療法に用いる放射線として、陽子やさらに重い重粒子を用いる方法がある。このための陽子線、重粒子線を供給するための加速器としてシンクロトロンが用いられている。日本国内で代表的な施設としては、放射線医学総合研究所のHIMACなど。 _START_SECTION_ 粒子ビームの蓄積 _START_PARAGRAPH_ シンクロトロンは加速粒子にエネルギーを供給し続けることで、一定の円軌道に沿うように周回させる事ができることから、蓄積リング、またはストレージリング (Storage Ring) とも呼ばれている。上記の放射光施設の場合で言えば加速器自体は電子ストレージリングである。
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Q512950
_START_ARTICLE_ ジェラール・ルノルマン _START_PARAGRAPH_ ジェラール・ルノルマン(Gérard Lenorman)は、フランスの歌手。カルヴァドス県ベヌヴィル出身。1945年2月9日生まれ。本名、Gérard Christian Éric Lenormand 。作詞作曲も行う。 _START_SECTION_ 生い立ち _START_PARAGRAPH_ ジェラール・ルノルマンは、ベヌヴィル城に付設の産院で産まれた。この施設は修道女らが、困難な状況にある若い女性を迎え入れるための施設である。ジェラールの母、マドレーヌ・ルノルマン(Madeleine Lenormand)は当時16歳、父親が誰なのかは明かせない事情があった。ジェラールは35歳のとき、自分の実の父親が、エーリヒ(Erich)という名の、1944年当時、ノルマンディを占領していたドイツ軍の一兵士であったことを知る。父エーリヒは、とある市民オーケストラの主席バイオリニストでもあった。ジェラールは父親のことを自分の胸だけにしまっておこうと考えたが、後日、コンサートに出演するためベルリンへ向かう飛行機の中で、この件に関する思いのたけを、歌詞に書いて曲をつけ、歌にした。このとき作曲されたシャンソンが、"Warum mein Vater "(僕の親父だから)である。_NEWLINE_ジェラール・ルノルマンは、知的ではあるものの愛情の希薄な環境で子供時代を過ごした。最初はパリ、その後オヴェルニュのイソワールに移り住んだ。5歳のときには、こっそり教会に忍び込んでハルモニウム・オルガンを弾いていた。ジェラール少年が母方の祖母に歌手になりたいという夢を打ち明けたところ、祖母はその思いに水を差すようなことは言わなかった。ジェラールの母親は、ジェラールを9歳の頃からサン=ヴァンサン=ド=ポール(Saint-Vincent-de-Paul)の孤児院に一年のうち数ヶ月を預け、10歳になったときに結婚した。_NEWLINE_ジェラールは12歳のときに初めてシャンソンを作った。このときの歌は数年後に Le Vagabond として世に出ることになる。14歳ごろのときジェラールは地方の管弦楽団をバックに歌を歌った。16歳のとき母親の親権下から離れ、昼間は工場で働き、夕方から地元のダンスクラブに出演した。特に「地中海クラブ」において、ジェラールの名前が知られるようになり始めた。_NEWLINE_ジェラールは18歳のとき、ノルマンディの祖母に会いに行った折、自動車事故に遭った。後遺症も多く、1年間、移動の自由が利かず、安静にする必要があった。ジェラールはこの期間にたくさんのシャンソンを制作した。 _START_SECTION_ 歌手デビュー _START_PARAGRAPH_ 1968年にジェラール・ルノルマンは45回のワンマンショーを行った。この年、ルノルマンはブリジット・バルドーと出会い、彼女のために2曲のシャンソンを書いた。La Fille de paille と Je voudrais perdre la mémoire がそれである。1969年にはいくつかの曲を確実に自分のものにして、ジョニー・ハリデイやシルヴィ・ヴァルタンのコンサートにゲスト歌手として参加した。_NEWLINE_ルノルマンの歌手としてのキャリアは、1970年からいよいよ調子づいてくる。ポルトサンマルタン劇場で公演中のミュージカル「ヘアー」の主役を、それまで演じていたジュリアン・クレルクに代わって演じた。1971年4月には CBS Disques と契約して Il を吹き込んだ。この曲は彼の少ししゃがれた高い歌声を始めて録音した曲になる。_NEWLINE_続いて De toi を発表し、フランスで売上2位に入る。さらに、1972年には Les Matins d’hiver を、1973年には Si tu ne me laisses pas tomber, Les Jours heureux, Le Petit Prince, La Fête des fleurs を、1974年には Quelque chose et moi を、1975年には La Ballade des gens heureux を、1976年には Michèle, Gentil dauphin triste, Voici les clésを、1977年には Un ami, L’Enfant des cathédrales を、1980年には Si j'étais président と楽曲を発表する。_NEWLINE_1978年に発表したアルバム Nostalgies はディスク・ドー(金賞)を得た。La Ballade des gens heureux は最もすぐれたシャンソンのリストに載り、各メディアはジェラールをシャンソン界の「星の王子様」ともてはやした。_NEWLINE_ジェラール・ルノルマンの楽曲は、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語でも歌われ、録音された。人気はフランス国内に留まらなくなった。その後、Boulevard de l'océan (1979), La Clairière de l'enfance (1980), D'amour ! (1981), Le Soleil des tropiques (1983), Fière et nippone (1985), Heureux qui communique (1988) et Il y a (1993) とアルバムを発表していく。 _START_SECTION_ 歌手活動の一時的休止とその後 _START_PARAGRAPH_ 1983年に5週間にわたりパレ・デ・コングレ・ド・パリに聴衆をいっぱいに満たしたコンサートが絶頂期であるとされる。1986年に映画の Top Gun の主題歌をフランス語に訳した歌 Le Bleu des regrets を歌う。しかしその翌年に、レコード会社との契約の問題や、ディスコ=ファンクの流行に彼の端正なシャンソンが負けることなど、さまざまな事情が絡み合って、ルノルマンはしばらくの間、歌手活動を休止することにした。_NEWLINE_その後、新アルバムHeureux qui communique の発表で復帰を期待したが、比較的目立たない売れ行きであった。同年にルノルマンはユーロヴィジョン歌唱コンクールにフランス代表として選ばれる。このコンクールは一般的には売り出し中のアーティストが参加するものであるが、ベテランのルノルマンが選ばれたのは SACEM の意向が大きく働いていた。ルノルマンは開催地のダブリンで、作詞作曲を手がけた Chanteur de charme (作詞はクロード・レメルとの共同)を歌い、全20人の参加者中、10位という控えめな順位で終わった。コンクール後、ルノルマンはプレスに、票が国別に分散してしまうのがユーロヴィジョンの問題だと語った。_NEWLINE_その後ルノルマンは、コンピレーション・アルバムを制作したりイベントに参加したりしたほか、ロックバンドのアンドシーヌやイマジネーションのプロデュースに関わった。_NEWLINE_1995年に出したコンピレーション・アルバム Vos plus belles chansons は、過去の楽曲の再録である。このころルノルマンはフランスとケベックを往復して活動し、2000年には新アルバム La Raison de l'autre avec を発表したり、新曲 La Force d'aimer を歌ったりした。_NEWLINE_ルノルマンは、2010年よりあとは定期的に舞台に上がらなくなった。_NEWLINE_2011年10月に、ルノルマンを尊敬する歌手と一緒にデュオを歌うという企画のアルバム Duo de mes chansons を発表する。集まった複数の歌手の世代はさまざまで、中には Si j'étais président をフラメンコのアレンジで歌った Chico et les Gypsies もいる。アルバムは、2012年1月までに30万枚を売り上げた。なお、同様の企画アルバムをミシェル・デルペシュが2004年に出し、ヒットしており、本アルバムはそれに倣ったものである。_NEWLINE_2011年末には女性歌手のアングンとコラボして Il を歌った。この歌唱はアングンのアルバム Echoes の限定版に収録されている。_NEWLINE_2012年には慈善活動として Je reprends ma route というシングル曲の制作に参加した。_NEWLINE_2016年11月にはラトゥルネ・アジュ・タンドルにシェイラやユグ・オフレらとともに参加した。この音楽イベントは往年の名歌手が出演するもので、ルノルマンは長年出演を辞退していたものであった。
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Q59552341
_START_ARTICLE_ ジェームスほたて _START_PARAGRAPH_ ジェームス ほたては日本の漫画家。過去に高橋 くるみ(たかはし くるみ)名義を使用し、小暮 マリコ(こぐれ マリコ)名義でも作品を発表している。 _START_SECTION_ 経歴・特徴 _START_PARAGRAPH_ かつては、「ジェームスほたて」名義で、『漫画ばんがいち』などに成人向けの作品も発表していた。2004年以降はティーアイネット発行の成人向け単行本は「小暮マリコ」、一般向けは「ジェームスほたて」といった使い分けをしている。_NEWLINE_瞳の大きい、下ぶくれの顔をした登場人物を描くことが多い。女性の可愛らしさとけなげさを伝えることに留意している。
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Q6131052
_START_ARTICLE_ ジェームズ・カーネギー (第5代サウスエスク伯爵) _START_PARAGRAPH_ 第5代サウスエスク伯爵ジェームズ・カーネギー(英語: James Carnegie, 5th Earl of Southesk、1691年以降 – 1730年2月10日)は、スコットランド貴族。1715年に私権剥奪され爵位を失った。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 第4代サウスエスク伯爵チャールズ・カーネギーとメアリー・メイトランド(Mary Maitland、第3代ローダーデイル伯爵チャールズ・メイトランドの娘)の一人息子として生まれた。1699年8月に父が死去すると、サウスエスク伯爵の爵位を継承した。_NEWLINE_1713年、マーガレット・ステュアート(Margaret Stewart、1750年11月2日没、第5代ギャロウェイ伯爵ジェームズ・ステュアートの娘)と結婚、1男1女を儲けたが、いずれも早世した。_NEWLINE_1715年ジャコバイト蜂起に参加した廉で庶民院に私権剥奪を議決され、毎年3,271ポンドの収入を得られる財産を失った。これによりサウスエスク伯爵の爵位も剥奪されたが、同時に私権剥奪されたほかの貴族と違い、第5代サウスエスク伯爵は以降サウスエスク伯爵を名乗らなくなった。_NEWLINE_1730年2月10日にフランスで死去、親族の第3代準男爵サー・ジェームズ・カーネギー(初代サウスエスク伯爵デイヴィッド・カーネギーの四男アレクサンダーの子孫)が家長になった。
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Q41429
_START_ARTICLE_ ジブラルタル・ポンド _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1704年のジブラルタル占領以後もスペインの貨幣が通用していたが、交換比率がスペインと異なったり、イギリス本国から輸入された貨幣が通用したりと混乱した状況であった。1872年にスペイン貨幣が単独の法定通貨となったが、1889年に米西戦争のためスペイン・ペセタが暴落したため、イギリス本国のスターリング・ポンドに切り替えられた。このときもポンドが単独の法定通貨となったが、スペイン内戦まではスペイン貨幣も引き続き通用していた。1971年、本国に合わせて10進化(1ポンド=100ペンス)が実施された。1927年からジブラルタル独自の紙幣が発行され、1988年からは硬貨も鋳造されている。 _START_SECTION_ イギリス本国での地位 _START_PARAGRAPH_ ジブラルタルのポンド紙幣はイギリス本国では法的な強制通用力を持たない。理論上は等価交換が可能であるが、イギリス本国の銀行では交換を行わないか、外貨両替の取り扱いとなる。硬貨はデザインが異なるものの、重量、サイズ、材質など全て本国と同一であり、イギリス本国でもまれに流通していることがある。 _START_SECTION_ 紙幣 _START_PARAGRAPH_ 1914年、第一次世界大戦のため、ジブラルタルは金の流出を防ぐために戦時布告による臨時紙幣を発行した。1927年正式に10シリング、1、5ポンド紙幣が発行され、1975年に10、20ポンド、1986年に50ポンド紙幣が発行された。このうち10シリング紙幣(1971年)と1ポンド紙幣(1988年)は廃止され硬貨に置き換えられている。1995年紙幣のデザインが一新され、pounds sterlingの表記は単なるpoundsとなった。2010年から2011年にかけて再びデザインが改められ、現在は5、10、20、50、100ポンドの5種が発行されている。 _START_SECTION_ 硬貨 _START_PARAGRAPH_ 1988年より1、2、5、10、20、50ペンスおよび1ポンド硬貨が、1999年には2ポンド硬貨が、2010年には5ポンド硬貨が導入された。これらは大きさや組成が本国スターリングポンドと同じであるが、デザインが異なりまたジブラルタルと記載されている。2ポンド硬貨は毎年ヘラクレスの12の功業に因んだ異なるデザインで鋳造されている。2004年に英領300年を記念した硬貨が鋳造された。
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Q313297
_START_ARTICLE_ ジム・ヨン・キム _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 5歳の頃、アメリカ合衆国アイオワ州に移住。マスカティーン高校では、学級委員長、フットボールチームのクォーターバック、バスケットボールチームのポイントガードとして活躍、首席で卒業する。最初にアイオワ大学に進んだが、すぐにアイビーリーグの一校であるロードアイランド州のブラウン大学に編入、同大を1982年に卒業する。その後、ハーバード大学の医学大学院(メディカルスクール)にて医学を修めM.D.を1991年に取得。同時期に人類学部にも在籍し、1993年に人類学の博士号(Ph.D.)を取得した。_NEWLINE_2012年、ナイジェリアのンゴジ・オコンジョ・イウェアラ財相、コロンビア出身のホセ・アントニオ・オカンポ元財相などと共に、世界銀行の総裁候補に名が挙がった。2012年4月16日に開催された世界銀行理事会において、新興国・途上国が主に推すイウェアラを破り、次期(第12代)総裁に選出された。キムの選出により、これまでの「世銀総裁は最大出資者であるアメリカから選ぶ」という慣例は守られたことになる。2012年6月末に、退任するロバート・ゼーリック前総裁の後任として正式に就任した。これまでにも世界保健機関(WHO)のエイズ局長を務めるなど公職の経験はあるが、これまでは政界や金融界の有力者が就いてきた世銀総裁のポストに医学者が就くのは異例のことである。_NEWLINE_2019年1月7日に任期を3年以上残して辞任表明(2月1日退任)。辞任の理由は明らかにされていないが、自身の突然の辞任を「予想できなかったこと」としており、外部からの圧力などの憶測を呼ぶ結果となった。
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Q475753
_START_ARTICLE_ ジャガー・Xタイプ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2001年2月のジュネーブ・モーターショーでデビューした。ボディタイプは4ドアセダンとステーションワゴンの2種類である。フォード・モンデオとはプラットフォームを始めとする構成部品を共有する。共用部品は20%とされ、最大の違いはジャガーとしては初めてのフルタイム4輪駆動になっていることである。(後に前輪駆動モデルも追加された。)_NEWLINE_ジャガーは、アメリカでは3万ドルほどで買えるこのXタイプによって年間20万台を売るメーカーを目指した。しかし期待に反して、Xタイプの販売不振によって経営不振に陥ることになった。2007年、主市場であるアメリカ合衆国での販売台数は、前年比44.2%減の2,599台(2006年11月-2007年10月)であり、同国におけるセダン及びステーションワゴン型の乗用車として「最も年間販売台数が少なかった自動車」となった。同年、2008年型を最後にモデル廃止となることが発表され、以降、2015年にXEが登場するまでこのクラスのモデルは空白となった。
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Q4382896
_START_ARTICLE_ ジャコモ・ブリケット _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 長く下部リーグでプレーしてきた。2005年、4部のサンメレーゼで初めて継続的に出場機会を得ることに成功し、07/08シーズンに移籍した3部のノヴァーラ・カルチョでも正GKとしてプレーした。2010年1月にサミル・ウイカニと入れ替わる形でセリエAのUSチッタ・ディ・パレルモに移籍。シーズン終了後にウイカニのローン期間延長に伴い完全移籍した。第3GKとして影からチームを支えていたが、2011年12月14日のコッパ・イタリア一回戦、シエナ戦でアレクサンドロス・ツォルヴァスが負傷した事を受け40分に途中出場、パレルモでのデビューを果たした。
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Q1350489
_START_ARTICLE_ ジャック・キャシディ _START_SECTION_ プロフィール _START_PARAGRAPH_ ニューヨーク州リッチモンド・ヒルで、アイルランド系の父とドイツ系の母の間に生まれる。ブロードウェイでのミュージカルを皮切りに数多くのテレビ番組や映画に出演。それからはテレビドラマに引っ切り無しにゲスト出演し『刑事コロンボ』シリーズでは3度も犯人役を務めたが、その3度目の出演となる「魔術師の幻想」が放映された1976年に、寝タバコが原因の自宅マンションの火災により49歳で焼死した。遺体は損傷が激しく、歯型と指輪から本人と確認された。 _START_SECTION_ 私生活 _START_PARAGRAPH_ 結婚は2回経験しており、最初の妻との間に息子のデヴィッド・キャシディを授かったが後に離婚。2回目の結婚では歌手で女優のシャーリー・ジョーンズとの間に3人の子供を授かるも再び離婚。3人の子供のうちショーン(Shaun Cassidy)とパトリックの2人は俳優となった。最初の妻との間の息子デイヴィッドも10代で『パートリッジ・ファミリー』への出演等により人気歌手となり、その娘のケイティも女優である。_NEWLINE_後年に息子デイヴィッドが書いた自叙伝によるとキャシディは強度のアルコール使用障害で、1974年には精神病院に一時的であるが入ったことがあり、その時に彼は双極性障害と診断されたという。余談ではあるが、そのデイヴィッド本人も、2010年に酒気帯び運転で起訴され、2013年と2014年にも酒気帯び運転で逮捕されている。
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Q46636
_START_ARTICLE_ ジャック・ケヴォーキアン _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ ケヴォーキアンは、1928年にミシガン州ポンティアックで、アルメニア移民の子として生まれた。ミシガン大学を卒業後、デトロイトの病院などで病理担当の医師として活動。1980年代から安楽死についての研究を進め、1987年から「死亡カウンセリング」のための「医学コンサルタント」として活動を始める。1989年に自作の自殺装置を開発して末期病患者の自殺幇助の活動を開始し、世界的に議論を呼んだ。その後、総計130人に及ぶ患者を自殺装置で尊厳死させ、「殺人医師」「死の医師」などと呼ばれた。_NEWLINE_1998年9月17日にALS患者を自殺装置で死亡させたことを記録したビデオテープが、1998年11月22日に放映されたCBSの番組「60 Minutes」で公開され、激しい議論を呼んだ。自殺装置は、通常患者自身が装置を作動させるが、このケースでは患者が自力で装置を作動させることが不可能なため、ケヴォーキアンが装置を作動させた。このため放映直後に第一級殺人罪(その後第二級殺人罪に変更)で告訴された。_NEWLINE_1999年4月13日、ケヴォーキアンに対して10-25年の不定期刑とする有罪判決が下され、2007年6月1日に健康状態の悪化のため仮釈放されるまで収監された。釈放後は、自殺幇助は行わず、積極的安楽死についての啓蒙活動を行っていた。_NEWLINE_2008年、下院選挙にミシガン州9区から自然法党公認で立候補したが、大差で落選した。_NEWLINE_2011年6月3日、腎臓疾患の治療で入院していたミシガン州の病院で死去。83歳没。 _START_SECTION_ ケヴォーキアンの自殺装置 _START_PARAGRAPH_ ケヴォーキアンが考案した自殺装置は、タナトロン(Thanatron)とマーシトロン(Mercitron)の二つがある。最初に作られたのはタナトロンである。この二つはしばしば混同されるが、薬物を利用するものはタナトロンである。 _START_SECTION_ マーシトロン _START_PARAGRAPH_ マーシトロンはギリシャ語で「慈悲の機械」と言う意味である。これは一酸化炭素中毒を利用して、死に至らしめるものである。一酸化炭素が入ったシリンダに接続された、マスクを患者にかぶせる方法で、バルブを開くことによって一酸化炭素が吸入されるものである。
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Q2579854
_START_ARTICLE_ ジャック・ド・サヴォワ=ヌムール _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 初代ヌムール公及びジュネーヴ伯フィリップ(サヴォイア公フィリッポ2世の息子、ルイーズ・ド・サヴォワの異母弟)と、妃シャルロット・ドルレアン=ロングヴィルの長男として、ヴォーリュイサンで生まれた。_NEWLINE_ジャックはギーズ公の支持者であった。フランスでユグノーと戦い、ドーフィネとリヨネーで戦功を挙げた。ユグノー戦争で名をはせたが、晩年は所領のアヌシーに引退し、芸術の庇護者として暮らした。
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Q11309978
_START_ARTICLE_ ジャパンゲートウェイ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2006年創業。シャンプーなどのヘアケア製品、ボディウォッシュなどのボディケア製品の販売を主力とし、特に【ノンシリコン】や【石油系ゼロ】などの特徴を持つシャンプー「Reveur」などが主力商品。商品の製造は他社に委託し、自らは商品のブランディング・流通に特化することにより2010年前後に業界内で一定の地位を築いた。_NEWLINE_2010年《Reveur》発売をきっかけに、有名タレントを起用したCMを大量出稿し各種商品の拡販に努めた結果、2013年5月期の売り上げは約217億円に達した。_NEWLINE_また、RigaosのFIFAクラブワールドカップ2012およびFIFA U-17 ワールドカップ2013への協賛、Reveurの2012フィギュアスケートGP FINALおよび2013フィギュアスケートGP FINALへの協賛も実行し、ブランド名でのパネル広告掲載にも意欲的に参加していた。2013年1月13日付 日本経済新聞にて「ヒット商品、デフレ回避」というタイトルで"デフレ回避に貢献した商品"として紹介される。_NEWLINE_しかし、大手化粧品メーカーがノンシリコンシャンプーに進出したことから売り上げも減少に転じ、2014年9月に企業再生ファンドの支援を仰ぐも、2016年5月期の売り上げは約80億円まで急低下。2016年にはファンド主導による新会社へ商標権および商品管理業務を譲渡。一方で、旧会社は社名を「株式会社ジャパンゲートウェイ販売」に変更し、営業委託に特化する会社になった。_NEWLINE_2017年12月、カラーコンタクトを除く全事業をRIZAPグループの完全子会社・株式会社ジャパンゲートウェイ(新法人)へ譲渡。なお、営業会社の「株式会社ジャパンゲートウェイ販売」は2018年4月に社名を「株式会社室町販売委託」に変更、6月27日に東京地方裁判所から破産手続開始決定を受けている。_NEWLINE_RIZAPグループは2018年11月から実施している事業構造改革の一環として、ジャパンゲートウェイの全株式をオークローンマーケティングの創業者が会長を務める株式会社萬楽庵へ譲渡することを発表。ジャパンゲートウェイ全株式は2019年1月25日付で萬楽庵へ譲渡された。
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Q11309985
_START_ARTICLE_ ジャパンタイムズウィークリー _START_PARAGRAPH_ ジャパンタイムズウィークリー(The Japan Times Weekly)は、ジャパンタイムズ社が刊行している英語学習者向けの週刊紙。同社発行の週刊STが英語初学者を対象にしているのに対し、中級者向けの内容と位置づけられている。毎週土曜日発行、定価は290円。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1897年、前身となるジャパン・ウィークリータイムズが The Japan Times と同時創刊。その後、日刊紙の合併に伴って統合された。_NEWLINE_1956年、日刊紙が「The Japan Times」へと題号を改めたのに続いて、1961年9月8日、現在も続く「The Japan Times Weekly」が創刊した。当初は、週刊のニュースダイジェストとして外国人読者も想定されており、1990年には、The Japan Times Weekly International Editionのロサンゼルス印刷が開始されたが、後に撤退している。現在は、上述の通り、英語学習中級者をターゲットとした紙面作りが行われている。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ ネイティブ話者に通用する実用英語を英語学習者に提供することを目的としており、政治経済、文化、科学、スポーツ、エンターテイメント、論評など、The Japan Timesに掲載された記事を中心に、通信社の記事も加えた記事選択が行われている。また、オンラインでの記事朗読音声の配信や、QRコードを用いた論説記事の連携などが実験的に行われている。The Japan Times本紙では同様のサービスは未実施である。
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Q258348
_START_ARTICLE_ ジャマ・エル・フナ広場 _START_PARAGRAPH_ ジャマ・エル・フナ広場(英: Jemaa el-Fnaa)は、モロッコ・マラケシュ旧市街地にある広場。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心となっていた広場。かつては公開処刑なども行われていた。現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せる。_NEWLINE_屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるが、屋台によっては衛生面に問題があり、腹を下すという話もたまにある。_NEWLINE_古くからモロッコの観光名所の一つとなっているが、近年、治安が極端に悪化。観光客への安全を考慮し、広場に面したレストランなどから風景を眺める形式を採るツアーも増えつつある。 _START_SECTION_ 国際的な評価 _START_PARAGRAPH_ 2001年、広場の文化的空間が国際的に評価され、無形文化遺産保護条約の発効以前にユネスコの「傑作の宣言」(第1回)がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の初の登録で正式に登録された。 _START_SECTION_ 爆弾テロ _START_PARAGRAPH_ 2011年4月28日正午前にフナ広場で爆発事故が発生し、フランス人8名を含む17名が死亡、20名以上が負傷した。当初は屋台が用いていたガスボンベの爆発によるものと思われていたが、その後の捜査により遠隔操作の爆弾によるテロであることが判明した。目撃者の証言によって作成されたモンタージュ写真などにより犯人の指名手配が行われた。同年5月5日、モロッコ内務省は3名の容疑者を逮捕したことを発表した。3名の男はいずれもモロッコ人で、少なくとも1名は国際テロ組織アル・カーイダとの関係が疑われているが、アル・カーイダは関与を否定している。
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_START_ARTICLE_ ジャンモンド _START_SECTION_ 少年時代〜「TROIS(トロワ)」結成 _START_PARAGRAPH_ 1956年、新潟県新潟市出身。不動産会社経営の父、小学校教員の母の間の一人子。小学生時代合唱団に所属し、中学校時代ギターを始め、高校時代にフォークグループ「アワー・ハウス」を結成し地元ラジオ局に出演した音楽活動歴がある。_NEWLINE_1975年、新潟県立新潟高等学校を卒業後、同年に慶應義塾大学文学部フランス文学科に進学。竹内まりや等が在籍した音楽サークル「リアル・マッコイズ」に所属。リーダーは杉真理だった。同サークルを通じ、「ザ・ビーチ・ボーイズ」「クロスビー、スティルス&ナッシュ」風のウェストコーストミュージックを志す男性コーラスグループ「TROIS(トロワ)」を結成。メンバーは大場佳文(ジャンモンド)、白石嘉彦、竹市克己の3人で、ギター、ピアノと作詞作曲・ボーカルを担当していた。_NEWLINE_1976年、東京都、名古屋市、大阪府などでライブハウス活動や、銀座「灯」(ともしび)などの歌声喫茶で下積みを送り、横浜市・関内の音楽事務所・スタジオ「ファーストベース」(元寺内タケシとブルージーンズの山本進一社長)でオリジナル曲のレコーディングを開始。 _START_SECTION_ デビュー _START_PARAGRAPH_ 1977年、「ポプコン東京大会」(ヤマハ主催)で自作曲『夕暮れの街』が受賞し、竹内まりやのRCAレコード担当プロデューサー宮田茂樹に見出され、小坂忠プロデュースにより、当時英国で話題の実話をもとにした小説、同名テレビ特番の主題歌『私は13歳〜なぜママになってはいけないの』でデビュー。元「ザ・フィンガーズ」の高橋信之が編曲し、レコーディングは、新宿・曙橋にあったトラスタジオで行われ、高橋幸宏、鈴木茂等が参加した。_NEWLINE_1978年、「後楽園音楽祭」(日本コロムビア主催)で自作曲『緑の丘』がグランプリを受賞し、”第二の「ガロ」”と評判になり、日本コロムビアに移籍。「ガロ」のディレクターのもと、大ヒット曲『学生街の喫茶店』の名コンビ、詞/山上路夫、曲/すぎやまこういちのペンによる、ヨハネス・ブラームス作交響曲第3番 をモチーフにした『美しきひと夏』で本格デビューを飾った。レコーディングには、斉藤ノブ、徳竹弘文、高橋幸宏らが参加し、東京・赤坂の日本コロムビア本社内スタジオでレコーディングされた。_NEWLINE_1979年3月、ガロの『学生街の喫茶店』ライクな卒業讃歌『ブレンドコーヒー』と『BYE BYE LOVE』をカップリングしたシングルを発売。TBS系列夕方の番組「ぎんざNOW!」等にも出演し歌っていた。_NEWLINE_1979年、アルバム制作を開始する一方、NHK「空の音楽祭」で自作曲『風に乗ったあの日から』が受賞し、人気兄弟デュオ「狩人」が歌唱する。舟木一夫のライブツアー、レコーディングでコーラス、伴奏を担当。「ロッテリア」「三本コーヒー」「三菱カラーテレビ」「クノールカップスープ」等のCMソングのコーラスで起用された。 _START_SECTION_ 「ビッグバン」時代 _START_PARAGRAPH_ 1980年7月、「トライアングル・プロダクション」(東京都港区青山、藤田浩一社長)に移籍。「レイジー」のキーボード井上俊次(現バンダイナムコアーツ副社長)と「ビッグバン(BIG BANG)」を結成。_NEWLINE_1981年3月、クインシー・ジョーンズの曲『愛のコリーダ』の日本語版を西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』のコンビあまがいりゅうじと元「SHOGUN」の大谷和夫の訳詞、アレンジによりレコーディング。B面にはエリック・カルメンの『I NEED YOU』をカップリングしRVCレコードから発売された。村上ポンタ、鈴木茂らがレコーディングに参加。関西のバラエティ番組「ヤングおー!おー!」等に出演。同プロダクションでは、「レイジー」の他、角松敏生、杉山清貴、菊池桃子らが一緒だった。 _START_SECTION_ 大学卒業〜独立起業 _START_PARAGRAPH_ 1981年3月、慶應義塾大学卒業後も、「TROIS(トロワ)」および「BIG BANG:のメンバーとして音楽活動を継続していたが、1981年9月解散し、コンピュータ・メーカー等で会社員生活を20年送った。その間モンドは、企業の宣伝部でフランク・シナトラ、「シカゴ (バンド)」等の内外アーティストの招聘、CMソングの担当をし音楽には関わっていたが、自身の音楽活動からは遠ざかっていたと言う。2002年に不動産業を経営していた父を亡くし、その志を継ぎ不動産の世界に転身。2005年、都市再開発、不動産有効活用などのコンサルティング企業、株式会社レサンサジェス(フランス語でLes Cinq Sagesses 「五つの知恵」の意味)を東京都港区で開業した。_NEWLINE_2011年3月、東日本大震災直後、現地にボランティア活動に入った後、渡米し、米国ネット小売ベンチャーで急成長のZappos.com社CEOトニー・シェイとの対談を通し、国際的な人材・文化・知的資産交流の必要性を痛感し、幸福を届ける“Delivering Happiness”をコンセプトに掲げるベンチャー企業 Deliver WOW LLC.(デリバーワウ合同会社)をネバダ州ヘンダーソン(ラスベガス隣接の市)に設立した。_NEWLINE_2011年12月、Zappos.com社Tony CEOがアイビー・リーグのハーバード大学出身者で、出身大学を超えて繋がる日本版アイビー・リーグが必要と考え、東京六大学の経営者、OB、学生を繋ぐ「六大学メンバーシップ機構=ASUMO:All Six Universities Membership Organization」を立ち上げた。ビジネスやスポーツだけでなく文化で国境を越えた草の根活動を展開する目的で、地球規模の諸問題の解決に向け具体的な活動を行う「行動するシンクタンク」を目指している。 _START_SECTION_ ロンドン五輪〜「サクラガールズ」のプロデュース _START_PARAGRAPH_ 2012年4月、25年振りに音楽活動を再開。ロンドン五輪(2012年7月開催)に向け応援ソングを提供したいと考え、『君とロンドン/YOU & I LONDON』を作曲し、人気ロックグループ、「センチメンタル・シティ・ロマンス」のベース瀬川信二のアレンジを基にレコーディングされた。シンガーには日本文化を発信するプロジェクトとして相応しい、日本舞踊や琴、書道、茶道等の素養を有する少女ユニットを募集し、「ハロー!プロジェクト」出身の長澤若菜(オフィス斬所属)、吉永彩華(JMO所属)、鈴木麻比(JMO所属)の3人が選ばれた。桜の花の思いを日本から世界に届けるという意味で「サクラガールズ/SAKURA GIRLS」のユニット名が命名された。_NEWLINE_2012年6月27日、東京・秋葉原「シックスティーン」で「サクラガールズ・デビュー・ライブ」が開かれた。3人が主人公の漫画『桜少女』も制作され、日本茶メーカーのスポンサードを得て、群馬県太田市でブラジル系の子供達40人と一緒に撮影されたシルクロードの終点日本から平和のシンボル桜をメッセージするコンセプト映像『文化の花道』をバックに、「ざまあみろ。アニメは元気だ! Anisong Crazy Power Night」の柿崎俊道のMCとDJにより大喝采のライブとなった。一般社団法人日本文化海外普及協会「COOL JAPAN」の会合に「サクラガールズ」が出席し、世界的な書道家小林芙蓉がユニット名を漢字で「桜少女」と書いた縁から、『君とロンドン/YOU & I LONDON』が日本文化発信の曲としてロンドン五輪「ジャパン・フェスティバル」の前夜祭テープカットソングに採用され、ロサンゼルス、ロンドン、東京の3大都市でプロモーション展開された。 米国企業ニッケイグローバル社(本社:ロサンゼルス、代表:皆見友紀子)のコーディネイトにより、「サクラガールズ」の海外デビューイベントがロサンゼルス市「2nd Street」で開催され、西海岸ブログで話題になり、センセーショナルな海外デビューとなった。_NEWLINE_2012年6月29日から7月2日にかけロサンゼルス・コンベンション・センターで開催されたアニメ・エキスポ「Anime Expo 2012LA」において、全米800万人が視聴する「Crunchyroll(クランチロール)」の公開放送番組に出演。和服を洋風にアレンジしたコスプレルックが人気を集め、カメラの放列を浴びた。地元FMラジオ番組にも生出演し、日本人の多いガーデナ市、Ronald Ikejiri(ロナルド・イケジリ)副市長から市庁舎で親善表彰の賞状が授与された。訪米中、風力発電地帯として世界的に有名なカリフォルニア州パームスプリングスでプロデューサー・モンドの映像がカメラマンのシンヤ・ケイタにより撮影された。その撮影中、モンドの代表曲となる『風のワルツ/The Wind Waltz』が台風並みの激しい熱風の中、大自然讃歌として生まれた。帰国後、「サクラガールズ」は、「汐留博」(日本テレビ)等に出演し、ファンを増やしていった。スポーツ紙で「海外発日本再上陸のド派手な大和撫子」と報道された。 _START_SECTION_ モンドミュージック創設〜「レモンド」(Les Mondes)結成 _START_PARAGRAPH_ 2012年11月、東京・吉祥寺の路上で演奏していたミュージシャンとの出会いから、5人組のバンド「レモンド/Les Mondes」(フランス語で「地球人」の意味)を結成。メンバーは、縄文土(ギター・ボーカル)、乾英明(ギター・ボーカル)、松野 恭平(ギター・ボーカル)、小谷明(ベース、ボーカル)、石井“チャーリー”千智(キーボード、ボーカル)で、路上で頑張る大道芸人、画家、ダンサー、漫画家等とコラボし、彼らを支援する総合芸術集団として、音楽とアートの融合を目指す活動を開始した。_NEWLINE_2012年12月8日、ジョン・レノンの32回目の命日、東京・武道館で開催された「ジョン・レノン・スーパーライブ」のステージでのオノ・ヨーコの「DREAM POWER、夢を持とう!」の言葉に、「ジョン・レノンの思いを後世に継承するミッションを感じ、対立や争いの無い世界の為に音楽で世界を変えて行く」決意をしたと語る。そして、国境やジャンルを超えた「世界音楽」を旗印とするフランス語で世界(Monde=モンド)の音楽(Musique=ムジーク)を目指す意味の「MONDE MUSIQUE(モンド・ミュージック)合同会社」(本社東京、代表縄文土)が設立され、「レモンド」のデビューアルバムが吉祥寺とロサンゼルスで製作された。テーマ曲『風のワルツ』のイメージ映像は、ラスベガス、グランドキャニオンで撮影され、2013年2月グラミー賞公式イベントに出品された。_NEWLINE_2013年1月、慶應義塾大学先輩にあたるロサンゼルス在住の音楽プロデューサーOsamu Kitajima(喜多嶋修)(元加山雄三と「ザ・ランチャーズ」)のレコーディング・スタジオ East Quest Recordsでレコーディングがスタートした。カーペンターズ、リンダ・ロンシュタットのセッションにも参加したミュージシャン、エンジニアが参加。Osamu Kitajima(喜多嶋修)は雅楽のサウンドを光や色と共に伝える「ミュージック・カラー」に取り組んでおり、雅楽風の味付けが施され独特なモンド・サウンドに仕上がっていった。海外でも日系人少女ユニットとして、「SAKURA GIRLS USA/FRANCE/CHINA・・・」などが企画され、実際に2013年1月、米国在住の日系二世の女性3人による「SAKURA GIRLS USA」が結成された。メンバーは、いずれもロサンゼルス在住のMAKO WILLIAMS(ウイリアムス真瑚、小学6年生、フィギュア・スケート選手、2012年全米ジュニアフィギュスケートチャンピオン)、ROXIE SAKURA(ロクシーサクラ、女性起業家、スピリチュアリスト)、KIRINA AWAMOTO(キリナアワモト、Texas Christian University学生)。全員ボーカルをとり、絶妙なコーラスワークで、ジャンモンドの代表曲『風のワルツ/The Wind Waltz』がロサンゼルスの喜多嶋修のスタジオでレコーディングされた。_NEWLINE_2013年2月14日、ロサンゼルスで開催の「第56回グラミー賞」公式イベントに「レモンド」「SAKURA GIRLS USA」と共に参加。「日本文化を世界に発信していこう」というコンセプトの「SAKURA PROJECT JAPAN」のプレス発表がなされた。その後ロング・ビーチで開催の「ビューティショー」会場でプロモーションが始まった。_NEWLINE_このプロジェクト第一弾として、2016年、2020年開催の五輪に向けた応援ソング『The World Samba』、『The Wind Waltz』等を「SAKURA GIRLS USA」の歌でレコーディング。ロサンゼルス近郊バーバンク (カリフォルニア州)のアイススケート場を借りきってメンバーのMAKO WILLIAMS自身の滑りでイメージ映像が撮影された。さらに、グランド・キャニオンやベンチュラ (カリフォルニア州)ビーチから、タイ・アユタヤ遺跡、パッタヤービーチに飛び、雄大で悠久の美しく且つ過酷でもある悠久の山と海をバックにした自然と人の共生を願う「地球再生=RE:MONDE」と題したメッセージ映像を制作。グランド・キャニオンでは、実際に3000mの絶壁の岩の上でモンドがギターを弾く映像が撮影された。_NEWLINE_2013年3月、イタリア・ヴェローナ、ミラノ、ローマ、ヴァチカンと撮影は続き、フランス・マルセイユで開催の「ジャパン・エキスポJapan Expo」会場内において、日仏文化交流として「SAKURA PROJECT JAPAN」のプロモーションを行い、市内各所で撮影を行うとともに、市内レコーディング・スタジオでモンドのテーマである環境問題を考える『地球の詩』が録音された。_NEWLINE_2013年3月11日〜14日、東日本大震災の復興支援チャリティー・ミュージカルとして、ウィリアム・シェイクスピア原作の『ロミオとジュリエット』の続編創作ミュージカル『ロミオとジュリエットその後/After Romeo & Juliet』を岩手県陸前高田、東京、大阪の3ケ所で公演(主演:川﨑麻世、紫とも、朗読:杉浦幸、原作:ジャンモンド、企画:六大学メンバーシップ機構、主催:SAKURA PROJECT JAPAN、制作:モンドミュージック、後援:Nikkei Global)。オリジナル・サウンド・トラックとしてモンド作の楽曲『風のワルツ』『星のバロック』『ロミオとジュリエットその後』などが収録された(歌:レモンド)。陸前高田「伝承館」での公演後、チャリティとして桜の植樹式が会場横の海を見下ろす丘の斜面で行われ、地元で生育した桜の苗木が「伝承館」佐藤文雄館長、出演者全員の手により植えられた。その場で、詩人石牟礼道子が東日本大震災翌月に書いた『花を奉る』にモンドが曲をつけ歌を捧げた。_NEWLINE_2013年4月12日、ロサンゼルスで開催の「MTVミュージック・ビデオ・アワード」公式イベントに出展。各地でのロケ映像を収録したDVD『RE:MONDE』を出品。多くの映画スターや監督、地元紙の記者が視聴し、喝采を浴び、「SAKURA PROJECT JAPAN」についてインタビューを受け、以下の記事コメントが各紙記者により報道された。_NEWLINE_【Los Angels Free Press】 「Japanese producer MONDO knows how to tug at a listener’s heartstrings. MONDO knows how to wring the emotion out of the briefest melody.(日本のプロデューサー・モンドは、どのように聴取者の心の琴線を強く引くかを、どのように最も短いメロディーで感情を絞るかを知っている)」_NEWLINE_【LA's The Place (Online Magazine)】 「MONDO delivers a modern romance addressing relatable relationship obstacles between east & west.(モンドは東洋と西洋の関係諸問題を融合調和する現代のロマンスの使者だ)」_NEWLINE_【LA Daily News】 「One Japanese genius artist are starting campaign of connection the world. The cherry blossoms remained in the area of east Japan will be the key of global resolution. This is one music revolution for help the earth !(一人の日本人天才による音楽を超えた世界を繋ぐ運動が始まった。大震災の被災地、東北の海岸に咲き残った桜がグローバルな問題解決の今、鍵になるだろう。これは世界を救う一種の音楽による革命だ!)」 _START_SECTION_ 「ジャン・レコード」発足 _START_PARAGRAPH_ 2013年7月、人と人の関係を大切にするコンセプトの人間関係創造プロジェクト「ジャン・マーケティング/Gens Marketing」の音楽分野として、レコード・レーベル「ジャン・レコード/Gens Record」発足。_NEWLINE_2013年8月、2020年オリンピックの東京誘致実現と夢に挑戦するアスリートに向けた応援ソング『美しき人』『ラブイズオール』の2曲を制作。東京・駒沢オリンピック公園で『ラブイズオール』のミュージック映像がオリンピック応援ソングとして撮影され、動画公開された。_NEWLINE_2013年9月7日、ブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた第125次IOC総会で、イスタンブール(トルコ)、マドリード(スペイン)を抑えて、東京が前回の東京オリンピック(1964年)以来56年ぶり2回目となる2020年の第32回夏季オリンピック開催都市に決定し、その報告会が東京都庁で開催され、モンドも参加。新聞記者に「2012年のロンドン五輪に続き、日本を世界に紹介し、スポーツや様々な分野で挑戦する人を音楽で応援する活動をしていきたい」と語った。_NEWLINE_2014年2月、新東京都知事誕生と共に、2020年に向け東京を世界に紹介する『東京わっしょい!』と、日本の美しさ、素晴らしさを発信する歌『ハローニッポン!』の2曲を制作。東京・浅草寺、上野、皇居前、丸の内など歴史と現代を象徴するスポットでプロモーション映像が撮影された。_NEWLINE_2014年3月25日、小児癌や難病、教育格差にある世界の子供達に笑顔を送り、母親と家庭を支援する「マザーラブ・プロジェクト」のライブコンサートが東京・恵比寿で開催され、イタリアからカルテットとオペラ歌手を招聘し、モンド作の同プロジェクトの主題歌『マザーラブ』『ホワイ・ベイビー・クライ?』『縄文ライフ』などが初披露された。ゲストの在日イタリア商工会議所(ICCJ)Davide Fantoni代表が祝辞を述べ、モンドは「イタリアと日本はシルクロードで繋がっていた歴史があり、ロミオとジュリエットの愛の発祥地で、音楽を通し親善を深めていきたい」と舞台挨拶で語った。 _START_SECTION_ 「ジェニオ」誕生 _START_PARAGRAPH_ 2014年5月、前年公演のミュージカル『ロミオとジュリエットその後』の次回作品の主題歌および、2020年オリンピックの応援ソングを歌う男女2人組の本格派ツインボーカル・ユニットがオーディションで募集され、「ジェニオ」(イタリア語でGenio=才能・天才)の二人、志野(シノ・Shino)と神音(ジェオン・Geon)に決定し、テーマ曲『シンプル・ライフ』などのレコーディングがスタートした。_NEWLINE_2014年6月、ブラジルで開催のW杯サッカー応援ソング『胸いっぱいの愛を』を作曲し、「ジェニオ」によりレコーディングされた。夢に挑戦する人を応援し、世界を「愛と平和」の輪で結ぶ『ゴーリング/Go Ring』プロジェクトのテーマソング。「世界が一つの輪になり繋がろう!」というメッセージで、2016年のリオデジャネイロ五輪に向け発表された。_NEWLINE_2014年10月9日、ジョン・レノン、そしてショーン・レノンの誕生日。対立や争いの無い「愛と平和」に満ちた世界を目指し、日本発グローバル・コンテンツとして「愛と平和」をテーマにしたミュージカル『ジョンとヨーコの物語』と、「和魂洋才」をテーマにした和歌と音楽、芝居を融合したミュージカル『源氏物語』用の楽曲のレコーディングが開始された。_NEWLINE_2014年11月3日、原宿もみのきハウスで、プロデューサー、モンドのバースデイ・イベントが開かれ、ミュージカル『ジョンとヨーコの物語』の制作発表がなされた。主題歌『ジョンとヨーコの物語』『ラブラブラブ』『ハッピー・トゥゲザー』の3曲が生バンドをバックに「ジェニオ」の歌で初披露された。モンドもギターで参加し、モンドの母ヤエもタンバリンで参加。アットホームな雰囲気の中でミュージカルの制作がスタートした。_NEWLINE_2014年11月22日、小説『ジョンとヨーコの物語』の出版企画のもと、長野県・軽井沢にジョン・レノンとオノ・ヨーコが1975年から1979年まで毎年夏家族で滞在した「万平ホテル」「離山房」「フランスベーカリー」「碓氷峠」などを訪ね、関係者に取材。ミュージカル、映画化に向けた企画と執筆が始まった。_NEWLINE_2014年12月8日、ジョン・レノンの命日に渡米し、ニューヨーク・セントラルパークでの追悼集会に参加。ジョン・レノンが凶弾に倒れた、自宅ダコタハウス前で事務所からイエローキャブで帰宅した、サングラスに黒ずくめ姿のオノ・ヨーコに遭遇し、日本から持参してきたモンドのメッセージとCDと共に献花。翌日から、ロサンゼルスのOsamu Kitajima(喜多嶋修)のEast Quest Studioで「ジェニオ」のデビュー・アルバムのミックス・ダウンが、「ザ・ビーチ・ボーイズ」等を手がけた巨匠バン・ダイク・パークスの音楽監修により開始された。_NEWLINE_2015年3月31日、卒業・入学シーズン向けに『卒業〜想い出のフォトグラフ』をiTunes配信により作者モンド自身の歌で発表。プロデューサー、モンドのソロデビュー曲となるこの歌は、作者モンド自身の体験談で書かれた。「人生50年を過ぎ、2月の寒い朝、前日まで元気だった友人が心不全で急死した。学生時代の友人で亡くなった友や、卒業式を最後に別れたままの仲間、恋人のことを思うと、今頃どうしているか、この季節になると染み染み懐かしくなり涙が出た。そんな思いがメロディとなった」と曲の由来を作者モンドは語る。「人生はカブトムシ。七転び八起き」とビートルズで育ち、勇気付けられた人生を比喩。「Graduation Day、あの日別れた友・・・」のコーラスには、女性ゴスペル・チームの「ディア・デスティニー」のメンバーが参加し、圧倒的な歌唱力で盛り上げている。_NEWLINE_2015年5月3日、『永遠のビートルズ』をモンド自身の歌でリリース。1970年4月10日、ポールマッカートニーの「ビートルズ」脱退宣言、そして1966年武道館での「ビートルズ」来日から49年目の2015年4月28日、ポールマッカートニーが武道館公演が開催。モンドは「武道館の楽屋入口に入る黒塗りの車から手を振るポールを1mの距離で出迎え、野外ビューイングで約1000人と共に武道館の正面入口で最後まで聞き、1曲目『キャント・バイ・ミー・ラブ』のシャウトの時、ジョン・レノンの声が聞こえた気がする。1960年代リアルタイムで「ビートルズ」の光を浴びて育った一人として、輝いていた1960年代のあの息吹を今の時代にまた吹かせたい。」と感想を述べた。モンド自身が歌うこの曲は『ヘイ・ジュード』を思わせる「ビートルズ」サウンドの香りが漂う構成で、1960年代を感じさせてくれる。 _START_SECTION_ 原作小説「ジョンとヨーコの物語」舞台・映画化スタート _START_PARAGRAPH_ 2016年11月23日 中東カタール国ドーハで開催の日本の伝統文化、ポップカルチャー、映画、音楽、産業技術、食文化、スポーツ文化交流などを目的とし開催の日本と世界を繋ぐPEACEプロジェクト「サムライフェスティバルinカタール」に、ランティス所属のアニソンシンガー米倉千尋、佐咲紗花を招聘。ドーハ市内市場スークや、ドーハ「イスラム芸術ミュージアム」(Museum of Islamic Art, Doha)などで、モンドの原作小説の映画化に向けてのトレイラー映像の撮影が開始された。_NEWLINE_2016年12月8日 ニューヨーク・セントラルパーク「イマジン・サークル」で開催のジョン・レノンの命日に例年開催の追悼式典に現地のラップ・ダンスユニットと共にモンドが参加。クリスマス装飾華やかなロックフェラーセンター、自由の女神を望むバッテリーパーク、9.11の惨状の跡地に完成した1 ワールドトレードセンター、エンパイア・ステート・ビルディングそして、ジョン・レノンが住んでいたダコタ・ハウス前など市内各地で、モンドの原作小説の映像撮影が行われた。_NEWLINE_2016年12月22日 東北大震災復興支援アイドルグループ、みちのく仙台ORI☆姫隊のボランティア活動「サンタガールズプロジェクト」のテーマソングとして、♪『Happy Holidays! 〜みんなとクリスマス!〜』と♪『Lover's Pageant ラバーズペイジェント〜愛の煌めき』の2曲を楽曲提供。仙台「音屋」でレコーディングした音源に、マレイシア在住の日本人サウンドクリエイター鶴貝卓哉のアレンジを加え、ミックスダウン後、みちのく仙台ORI☆姫隊の公式サイトおよび動画投稿サイトでこの日公開。クリスマスイブには地元仙台市内で例年開催の「SENDAI光のページェント」などで歌われた。『Lover's Pageant ラバーズペイジェント〜愛の煌めき』は、全編英語で、ORI☆姫隊のNODOCA & KAREN & SEIKAの3人のボーカルで世界配信された。_NEWLINE_2018年3月20日、ジョンとヨーコの49回目の結婚記念日に、2020年東京五輪応援ソングとして次の時代のヒーローを目指す『ヒーロー/HERO』と『ラヴイズオール/LOVE  IS  ALL』(作詞作曲:縄文土)を吉祥寺GOKスタジオでレコーディング。一曲目『ヒーロー』はジョン・レノンやフレディ・マーキュリーなど1960年代、70年代のヒーローたちが訴えたラブ&ピースのテーマを今の時代に改めて継承し「次の時代のヒーローは君だ!」というメッセージを託した曲。二曲目『ラヴイズオール』は、ビートルズが1967年6月25日、24ケ国を世界初衛星で結び4億人に同時中継したテレビ番組「OUR WORLD〜われらの世界〜」で歌った曲「愛こそはすべて/ALL YOU NEED IS LOVE」を現代に蘇らす曲。いずれも縄文土の作詞作曲・プロデュースで、演奏は日野賢二/"JINO"がベースで参加。今また脚光を浴びつつあるアナログレコード盤で、東京五輪まで1年のタイミングで世界配信予定されている。 _START_SECTION_ ジョンレノンのメッセージを継承する財団設立 _START_PARAGRAPH_ 2018年10月9日 ジョンレノンのイマジンした「愛と平和」に満ちた世界を実現していく「一般財団法人未来想像財団」(英文:IMAGINE FUTURE FOUNDATION、本部東京、代表縄文土)をジョンレノン、ショーンレノンの誕生日に設立登記。名誉理事長は、オノヨーコの従兄弟にあたる外交評論家加瀬英明。「地球人(Earthian=アーシアン)」として生きたジョンとヨーコのフィランソロピーを受け継ぎ、「社会的、文化的、教育的」プロジェクトを恒久的な支援がテーマ。ジョンレノンが命がけで戦い、世界にもたらした「愛と平和」のメッセージを地球と未来の子供達の為に継承する趣旨で、ミュージカル、映画、「ジョンとヨーコのミュージアム」の実現を目指す目的。ロゴマークはデザイナーの浅葉克己(代表作:西武百貨店「おいしい生活」、長野冬季五輪公式ポスターなど)が制作し、ルネサンス以来の「芸術と技術」という人間の叡智の両輪を轍(わだち)とし、1万年以上平和の続いた縄文時代の調査・研究を通し、人間社会と自然との高度で永続的な共生を目指し、先人達の残した「芸術と技術」を世界に伝承、承継する理念を表すシンプルな黒墨の線で描かれている。ミュージアムはジョンとヨーコの作品の恒久的保存、展示を目指し建築家迫慶一郎(SAKO建築設計公社代表、代表作:「北京モザイク」など)が設計中。 _START_SECTION_ 音楽劇・映画の制作・上演 _START_PARAGRAPH_ 2018年12月24日、 音楽と映像そして芝居をシンクロさせた音楽劇『ダディとマザーの軽井沢物語 ヌ・ソム・ル・モンド~僕ら地球人~』を公演。一般財団法人未来想像財団、総合術劇団「ジェニオ」(代表縄文土)の旗揚げ公演として東京都港区南青山の「銕仙会(てっせんかい)」能舞台で上演。配役は、ダディ役小野口基、マザー役金子あい、ボーイ役小川さやか。この音楽劇は前述の小説『ジョンとヨーコの物語』を下敷きにした縄文土の脚本、笠井賢一の演出により、海面上昇で都市が水没してしまった500年後、標高の高さで水没を免れた軽井沢を主舞台に展開するダディとマザーの物語である。ダディはジョン・レノン、マザーはオノ・ヨーコ、ボーイはショーン・レノンをモデルとし、500年後の3人の家族の時空を超えたコミュニケーションを通し絶滅危惧種となった人類の危機に瀕し立ち上がる姿が、音楽(全曲縄文土作)と芝居で展開される。映像には、原作者の縄文土自身が、2018年9月から12月にかけ、ジョンとヨーコの出会いと生活の地ロンドン、リバプール、ニューヨークや、ハネムーンの地パリ、アムステルダム、そしてジョンがヨガの修行をしたインドのリシケシ、さらに京都、軽井沢などを巡って取材・撮影した素材が使われている。_NEWLINE_[プレスリリース]https://www.atpress.ne.jp/news/173595_NEWLINE_[公式サイト] https://noussommeslemonde.com_NEWLINE__NEWLINE_2019年5月17日、青山学院大学アスタジオ(東京都渋谷区神宮前)で初公開の浜野安宏監督作品・日台合作映画「カントリー・ドリーマー〜私の道生きる」の主題歌として「Country Dreamer」(作詞:浜野安宏、作曲:縄文土、歌:11歳の天才少女歌手・東亜樹)を提供した。映画は、一双麻希(いっそうまき)、廖苡喬(りょういっきょう)の日本人と台湾人の2人の女性のロードムービーで、人生に悩む女性2人が出会い、富士山、四国遍路、能登を同行二人旅して生き方を見つけていく姿を描いている。人生という道がテーマの人間愛、自然愛に満ち溢れた映画のオープニングとラストシーンで縄文土の曲が印象的に流れている。5月24日台湾台北で試写会があり、世界の映画祭に参加が予定されている(全国「上映巡礼上映会」後、2020年早々劇場公開)。 _START_SECTION_ 音楽・小説・舞台・映画制作 _START_PARAGRAPH_ 『シンプルライフ』をテーマに、世界の子供達と地球の未来の為の音楽=「モンドミュージック」を制作し、発信することで、「LOVE & PEACE(愛と平和)」の思いを後世に継承していき、「UNIVERSAL LOVE(普遍愛)」に満ちた世界を築くことをミッションとしている。表現方法として、「音楽+小説+芝居+踊り=舞台・映画」という五感に響く総合芸術で、言語、地域を超えた作品を制作している。 _START_SECTION_ ジャンレコード _START_PARAGRAPH_ 人と人の関係を大切にするコンセプトの人間関係創造プロジェクト「ジャンマーケティング/Gens Marketing」の音楽分野のレコード・レーベル「ジャンレコード/Gens Record」は、”セブン・デイズ・ミュージック〜いつもあなたのそばに音楽を”と題し、春夏秋冬、月曜から週末まで、起きてから寝るまで、様々な年代、好みやライフスタイルに合った音楽を提供し、ミュージック・ライフに溢れた生活を提案する」趣旨で、プロデューサー・ジャンモンドの作品を配信するインディーズ・レーベルである。所属アーティスト、ジェニオ、ジャンモンド。_NEWLINE_コンセプトについて、モンドは、「人間一生の間で出会える音楽の選択肢は意外に少ないもの。本当はもっと世の中には自分に合う音楽がきっとあるはずだ。しかし、多くの人はそれを知らないままでいる。今の時代にビートルズのように、全ての音楽を融合し、国境を越え世界中で親しまれる音楽が無い。”世界共通音楽”=コスモポリタン・ミュージックがコンセプトだ。月曜の朝聞く音楽と、金曜の夜聞きたい音楽、日曜の午後の音楽は違うはず。春の桜の下、夏の浜辺、秋の銀杏並木、冬のスキー場での音楽。朝起きる時、通勤電車で、ランチを食べながら、アフターファイブの移動中、ランニングの時、そして寝る前のひと時、など生活のそれぞれのシーンで聞きたい音楽を世界の全ての人に届けたい」と、語っている。
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Q445386
_START_ARTICLE_ ジュエルズ・サンタナ _START_PARAGRAPH_ ジュエルズ・サンタナ(Juelz Santana、本名:LaRon Louis James 1983年2月18日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク・ハーレム出身のヒップホップMC。_NEWLINE_ディプロマッツのメンバー。
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Q11310459
_START_ARTICLE_ ジュレイモン _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 初登場はデジモンワールド。デジモンペンデュラム4では異なったデザインで登場し、以降定着した。 _START_SECTION_ 種族としてのジュレイモン _START_PARAGRAPH_ 樹海の主と呼ばれ長い年月を生き知識を貯えた植物型デジモン。その知性は高いが性格は凶悪で、幻覚で誘い込んだデジモンを栄養分にしてしまう。
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Q737020
_START_ARTICLE_ ジョルジュ・ビュルー _START_PARAGRAPH_ ジョルジュ・ビュルー(Georges Burou, 1910年 - 1987年)はモロッコに在住したフランス国籍の産婦人科医である。トランスウーマンのための陰茎陰嚢皮膚翻転法(性別適合手術)を確立したことで知られる。_NEWLINE_ジョルジュ・ビュルーは1910年に当時フランス領であったアルジェリアに生まれ、1940年に、モロッコのカサブランカに移住し、現地に「パルク診療所」(Clinique du Parc)を設けた。そして、アメリカ人医師との協力や研究を重ねて、1950年代後半に彼独自の陰茎陰嚢皮膚翻転法の基礎を確立した。その後フランスをはじめとして世界各国から、性別適合手術を希望するトランスウーマンがカサブランカの「パルク診療所」を訪れるようになる。_NEWLINE_1973年にはスタンフォード大学医学部にて、その術法を公開し陰茎陰嚢皮膚翻転法がアメリカをはじめとして世界的に普及することとなった。しかしその時点で彼は600名以上のトランスウーマンのために性別適合手術を実施していた。彼は「私は男性を女性にするのではない、ただ外性器の形状を修正するのだ、大切なことは当事者の心の内にある。」という言葉を残している。
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Q180008
_START_ARTICLE_ ジョン・キャンディの大進撃 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ カナダとの国境沿いにあるアメリカ中西部の町ナイアガラはかつて軍需産業で栄えていたが、冷戦終結後は不況にあえいでいた。_NEWLINE_そんなある日、アメリカとカナダのアイスホッケーの試合中、「カナダのビールはまずい!」と野次った地元保安官ブーマーの一言でファン同士の乱闘が発生。それを偶然目にした合衆国安全保障顧問ステューはこれをヒントに、礼儀正しく人がいいカナダに戦争を仕掛ける事を思いつく。_NEWLINE_ステューは大統領を説得、マスコミを操って反カナダの一大キャンペーンを開始する。それに乗せられたブーマーは、ハニーとロイらを誘って義勇軍を結成して勝手にカナダに侵入、トロントに進撃するが、政府とつながりのある軍需産業の大物ハッカーが秘密兵器をカナダに勝手に仕掛けて作動させていた事から事態は急変する。
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Q16850458
_START_ARTICLE_ ジョン・セシル (第7代エクセター伯爵) _START_PARAGRAPH_ 第7代エクセター伯爵ジョン・セシル(英語: John Cecil, 7th Earl of Exeter、1700年8月11日(洗礼日) – 1722年4月9日)は、イギリスの貴族。1721年までバーリー卿の儀礼称号を使用した。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 第6代エクセター伯爵ジョン・セシルとエリザベス・ブラウンロー(Elizabeth Brownlow、第3代準男爵サー・ジョン・ブラウンローの娘)の長男として生まれ、1700年8月11日に洗礼を受けた。1713年から1714年までウィンチェスター・カレッジで教育を受けた。_NEWLINE_1721年12月31日に父が死去すると、エクセター伯爵の爵位を継承したが、4か月後の1722年4月9日に死去、22日に埋葬された。生涯未婚だったため、弟ブラウンローが爵位を継承した。
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Q173549
_START_ARTICLE_ ジョン・バーナード _START_PARAGRAPH_ ジョン・バーナード(John Barnard、1946年9月26日 - )はイギリス・イングランド(ロンドン)出身のレーシングカーデザイナー。_NEWLINE_F1における偉大な技術的先駆者として広く認知されており、車体後部の絞り込みコークボトルラインなどの新しいデザイン、セミオートマチック・ギアボックス、車体製作におけるカーボンファイバーなどを導入したとして評価されている。 _START_SECTION_ 初期の経歴 _START_PARAGRAPH_ バーナードは1960年代にワトフォード工科大学を卒業したが、同期の人間とは違ってその後の長い学術生活を過ごすことなく、英国GECに入社した。_NEWLINE_1968年、バーナードは英国ハンチンドンにあるローラ社に下級デザイナーとして採用され、フォーミュラ・ヴィーなど様々なスポーツカーを含む、多くの車体製作プロジェクトで働き始めた。この時期、バーナードは後にウィリアムズF1チームの創設に関わることになるパトリック・ヘッドにも紹介された。この2人のエンジニアは良き友人となり、ヘッドは1970年初期にバーナードが結婚した際には花婿付添人にもなった。_NEWLINE_1972年、バーナードはマクラーレンに加入し、ゴードン・コパックとともに3年間働いた。この間、チャンピオンマシンとなったM23シャシーやインディカー用シャシーなど、マクラーレンの様々なプロジェクトの設計に携わった。_NEWLINE_1975年までにはバーナードはパーネリ・ジョーンズに引き抜かれ、立ち上げたばかりのチームのためにF1マシンを製作することを求められたが、その後チームがインディカーに転向することを決めたために結局インディカー用シャシーを設計した。その後もインディカーの設計を続け、1980年にバーナードの設計したシャパラル製シャシーはジョニー・ラザフォードによってインディ500とチャンプカーの年間ドライバーズタイトルを獲得した。_NEWLINE_米国での成功によって、バーナードは新たにマクラーレンの総帥となったロン・デニスの興味を惹くこととなり、1980年には同チームに加入してF1初のカーボンファイバー・コンポジット製シャーシであるMP4/1の設計を始めた。MP4/1シャーシは米国のハーキュリーズ・エアロスペース社で製作され、その新次元の頑健さとドライバー保護の観点から、すぐさまF1の車体デザインに革命を起こすことになった。数ヶ月の間にデザインは多くのライバルたちにコピーされた。1983年にバーナードは、現在でも見られるようなサイドポッドのボトルネック形状(コカ・コーラのボトル形状に似ていることから、俗に「コークボトル」形状と呼ばれる)を初めて導入した。また、TAG・ポルシェのターボエンジン搭載に当たっては開発段階から仔細なリクエストを送り、シャーシとエンジンをトータルパッケージで開発する現在のトレンドを先取りした。_NEWLINE_彼の在籍時にマクラーレンはF1におけるトップチームとなり、1984年、1985年、1986年と続けてドライバーズチャンピオンを獲得した。また、1984年と1985年にはコンストラクターズチャンピオンとなるが、1986年にはウィリアムズに敗れた。バーナードは1987年シーズンのためにMP4/3の設計を終えた後、マクラーレンを離れてフェラーリに移籍したが、結局彼がデザインした車はマクラーレンにグランプリ31勝を与えることになった。_NEWLINE_1986年、デニスとの間に確執が生まれたため、バーナードは引退やBMWへの移籍を模索したが、結局同年末にはフェラーリの誘いに応じることになった。バーナードが加入する前の2シーズンで、フェラーリはグランプリ2勝しか挙げることが出来ていなかったため、彼は望みの条件を指定することができた。故郷イングランドにデザインオフィスを準備するための巨額の資金を得て、彼はフェラーリ・ギルドフォード・テクニカルオフィス(GTO)を設立し、フェラーリが再び常勝チームに返り咲くための活動を始めた。これは彼自身がイングランドを離れたくなかったことに加え、高度化するレース用部品を確保するためにはイングランドに技術的拠点を置くべきだという信念によるものである。GTOではグスタフ・ブルナーが残した1987年シーズン向けのF187シャシーを製作・改良する一方で、1988年シーズンを見越した自然吸気エンジン搭載のF188(639)の基礎開発も行われた。イタリアに送られたF187シャシーは、さらにハーベイ・ポスルスウェイトによる改良も加えられ、シーズン最後の2戦で優勝を飾った。_NEWLINE_1988年にはバーナード加入の効果が現れると期待され、フェラーリの前評判は上々だった。しかし実際にはチーム内部が二分され、バーナードが推進していた自然吸気エンジン搭載車ではなく、ターボエンジン搭載のF187をポスルスウェイトが改良する形でシーズンを迎えることになった。しかし、バーナードの後任であったゴードン・マレーが設計したMP4/4シャシーによって、マクラーレンがシーズンを席巻した。7月にはポスルスウェイトがフェラーリを追われ、バーナードが現場をも含めた技術責任者となった。シーズンの終盤、フェラーリは9月のイタリアグランプリで幸運な勝利を挙げた。_NEWLINE_1989年、バーナードは電子制御式ギアシフト機構(現在、セミオートマチック・ギアボックスとして知られる)をフェラーリ・640で初めて実戦導入した。これはステアリングホイールの裏にある2つのパドルで操作するものであった。この革新的なシステムはレースに使用するにはあまりにも脆弱であると考えられ、ほとんど期待されていなかったが、ナイジェル・マンセルはリオで行われた同年の開幕戦で優勝を遂げた。バーナードは2度目の技術革新を先導することとなり、1995年までにはすべてのチームがフェラーリのギアボックスをコピーした。1989年シーズンにさらに2勝を追加し、チームには勢いがあるように思われた。 _START_SECTION_ 1990年代 _START_PARAGRAPH_ 1990年、フェラーリのお気に入りであったゲルハルト・ベルガーとの事実上の交換トレードの形で、アラン・プロストが加入した。すべてがうまく動いているように見え、またバーナードがデザインした640を元に、スティーブ・ニコルズらが改良した641/2シャシーはプロストに5勝をもたらしたものの、ドライバーズ・コンストラクターズの両タイトルはまたしてもマクラーレンに奪わた。バーナードは、当初認められていたイングランドでの作業ではなく、レースへの帯同やイタリアを拠点とした活動を求められたこともあり、1989年シーズン閉幕を待たずにフェラーリを離れてベネトンに加入した。ちなみにバーナードの離脱と同時にGTOもマクラーレンに売却され、マクラーレン・F1を製造するファクトリーとして転用された後、同車のデザイナーであるゴードン・マレーの手に渡っている。_NEWLINE_バーナードの設計したB191は、ネルソン・ピケの手によってわずか1勝を挙げるに留まったが、彼はまたしても新たな革新をもたらすことになった。1991年のベネトンは、吊り下げ型ハイノーズを導入した最初のF1マシンであったのだ(ハイノーズを初めて採用したのは、前述の内紛で先にフェラーリを放出されたポスルスウェイトによる1990年のティレル・019であり、吊り下げ型フロントウィングはB191が初となる)。セミオートマチック・ギアボックスやカーボンファイバーに比べると緩やかではあったが、1996年までにはすべてのF1マシンがハイノーズデザインを採用した。しかしバーナードはチーム監督であったフラビオ・ブリアトーレとの間で金銭面の論争を起こして、1991年半ばにベネトンを去ることとなった。_NEWLINE_日の目を見なかった(最初の)トヨタF1プロジェクト(正確にはトムスによるプロジェクト。詳しくはプロスト・グランプリを参照)で短期間働いた後、バーナードは1992年中ごろにフェラーリに戻った。当時、フェラーリは再びスランプに陥っていて、彼が一旦去ってから2年の間に1勝さえ挙げることができていなかった。バーナードは再び望む条件を示し、前述の通りGTOが既に売却されていたため、英国サリーに新たなテクニカルオフィスであるフェラーリ・デザイン・アンド・デベロップメント(FDD)を設立した。このオフィスにおいてバーナードは、かつてフェラーリお抱えドライバーであったゲルハルト・ベルガーによってついにフェラーリを表彰台の中央に戻すこととなる、412T1シャシーの設計を始めた。(なお、ベルガーが優勝したマシンは412T1Bでグスタフ・ブルナーによって改良され、シーズン途中のフランスGPから投入されたマシンである)_NEWLINE_バーナードは4シーズンにわたって、フェラーリのF1マシンのデザインを続けた。しかし、90年代中盤からはエアロダイナミクスが重視されるようになった時代であり、バーナードは時代についていけなくなりつつあった。ジャン・アレジが唯一の勝利を挙げ、またグランプリにおいて最後に勝利したローノーズマシン(ウィリアムズ・ベネトンはハイノーズであり、トレンドに反していた)、412T2シャシーも含まれている。1996年には、フェラーリ内部で大きな変化が起きつつあった。ベルガーとアレジを解雇し、現役チャンピオンであったミハエル・シューマッハをファースト・ドライバーとして引き入れ、さらにチームマネージャのジャン・トッドはマラネロにデザインオフィスの建設を始めた。しかも、1996年のマシンF310は、他のチームがハイノーズの中、アリクイ型のローノーズ、失敗作F92のようなサイドの形状、巨大なヘッドウォールなど空力に大きなハンデを抱え、信頼性も欠如していたことからシーズン当初から不振が続き、グスタフ・ブルナーによる大幅な改造が施された。3勝を挙げたがシューマッハとチーム戦略によるものであり、シーズン終了後、シューマッハは「見るのも嫌なマシンだった」と述べている。イタリアへの転居を望まなかったため、1997年のF310Bがバーナードのフェラーリにおける最後の仕事となり、ロリー・バーンが後任に就いた。1997年夏にはFDDをフェラーリから買収してB3テクノロジーズと名称変更し、これでバーナードとフェラーリの関係は終わりを告げた。もはやチームの一員ではなかったにせよ、バーナードの設計したF310Bシャシーはミハエル・シューマッハによってチャンピオンの座にじわじわと近づく活躍を見せ、同年の日本グランプリにおける勝利がバーナードの設計したシャシーによる最後の勝利となった。一方で同年途中にアロウズF1チームへ加入・開幕戦あわや予選落ちの危機にさえあったマシンを改良し、デイモン・ヒルがハンガリーGPであと一歩で優勝の2位になるほどの開発力を見せた。_NEWLINE_1998年、B3テクノロジーズはアロウズF1チームの仕事を開始したが、プロストチームもまた研究開発を同社に委託する契約を結んでいたため、議論が勃発した。結局、バーナードは2002年にプロストチームが消滅するまで技術コンサルタントとして働いた。その後、彼はオートバイレースの分野に転向し、モトGPに参戦するケニー・ロバーツ率いるチームプロトンKRのテクニカル・ディレクターに就任。しかしKRチームが資金面の問題でモトGPからの撤退を余儀なくされたため、以後はレースの実戦の場からは離れている。_NEWLINE_現在はイギリスとスイスを往復しながらの隠居生活に入っている。
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Q337638
_START_ARTICLE_ ジョン・マナーズ (第2代ラトランド公爵) _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 1676年9月18日、初代ラトランド公爵ジョン・マナーズとキャサリン・リズリー・ノエル(第3代カンプデン子爵バプティスト・ノエルの娘)の次男(長男は夭折)として生まれた。_NEWLINE_1711年1月10日、父の死去に伴いラトランド公爵の爵位を継承した。1712年から1715年ラトランド知事を、1714年から1721年までレスターシャー知事およびレスターシャー首席治安判事を務めたほか、1714年10月16日にガーター勲章を授与された。_NEWLINE_ホイッグ党の一員としてダービーシャー選挙区(1701年)、レスターシャー選挙区(1701年 – 1702年、1710年 – 1711年)、グランサム選挙区(1705年 – 1710年)選出の庶民院議員を務めた。
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Q848601
_START_ARTICLE_ ジョーイ・クレイマー (ドラマー) _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 1950年、ニューヨーク市ブロンクス区で、父・ミッキー、母・ドリスの夫婦の下で、4人兄妹の長男として誕生、唯一の息子となる。少年時代は、自らの民族的出自に関して頻繁にからかわれ、その度ケンカに明け暮れていた。_NEWLINE_ひょんなことから音楽活動に関心を持ち始め、趣味でドラムやギターを始めたが、当初は両親から強く反対されていた。ヴォーカルのスティーヴン・タイラーとは、少年時代に趣味で音楽活動に係わっていた時からの幼馴染みである。バークリー音楽大学に進学後、スティーヴンに誘われて、エアロスミスの前身となるグループに参加。これに伴い、通っていた大学を1年ほどで中退した。_NEWLINE_エアロスミスとしての活動を開始してから長らく、ジョーやブラッドの離脱など苦難が続いた時代でも、スティーブンやトムと共に活動を続けてきたが、1995年に父親のミッキーが死去。そのショックで重度のうつ病状態に陥り、体調を崩してしまう。そのため、当初、フロリダで行われた『ナイン・ライヴズ』のレコーディングには参加できなかった。このため、そのレコーディングでは、代役を立てざるをえなかった。その後、カウンセラーなどのリハビリを経て、メンバーとも和解し、無事に復帰。一同はニューヨークでレコーディングを再開し、アルバムを何とか完成させた。_NEWLINE_2009年に、長年交際していた女性・リンダと結婚、連れ子の一男一女の父親である。同年には、自叙伝の『Hit Hard: A Story Of Hitting Rock Bottom At The Top』を出版。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 同バンドの名付け親としても知られている。元々は、高校時代によく教科書やノートの隅っこに書いていた架空のバンド名の落書きで、ジョーイが当時傾倒していたハリー・ニルソンの楽曲『空中バレー』に触発されて、何となく思いついたフレーズである。なお、本人によると、シンクレア・ルイスの小説・『ドクターアロースミス(アロウスミスの生涯)』とは無関係であり、「ただ響きがカッコ良かったんだよ」とのこと。_NEWLINE_パワフルなドラミングが特徴で、ライブではしばしばソロ演奏で、手足や肘、つま先、前頭部を用いたパフォーマンスを披露し、観客を賑わせている。_NEWLINE_1991年、『シンプソンズ』にバンド一同がゲストキャラクターで登場したが、シーズン22の最終話(第486話)にてバンドのメンバーで唯一再登場している。
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Q51570
_START_ARTICLE_ ジョージ・ロイ・ヒル _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ イェール大学で音楽を学び、第二次世界大戦中はアメリカ海兵隊においてパイロットとして従軍した。_NEWLINE_俳優や舞台監督、またテレビ監督として活動。1962年、テネシー・ウィリアムズの戯曲を原作とした『Period of Adjustment』で映画監督デビューを果たした。_NEWLINE_1969年の『明日に向って撃て!』ではアカデミー監督賞にノミネート、1973年の『スティング』では同賞を受賞した。また1972年の『スローターハウス5』ではカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞している。_NEWLINE_時代から過ぎ去ったものや取り残されたもの、滅び去ったものの哀愁を優しい視線で描くのが特徴。_NEWLINE_1990年頃から、パーキンソン病を発病し、映画の製作の場から離れた。
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Q122922
_START_ARTICLE_ スウェーデン・クローナ _START_SECTION_ 硬貨 _START_PARAGRAPH_ 1クローナ(銅めっき鋼鉄)、2クローナ(銅めっき鋼鉄)、5クローナ(ノルディック・ゴールド)、10クローナ(ノルディック・ゴールド)の4種の硬貨(10クローナは1991年から発行、5クローナ以下は2016年から発行)が流通している。硬貨の図案は国王の肖像やモノグラムが中心になっている。50オーレの青銅貨は2010年10月1日に流通停止となり、2011年3月末で交換も停止され、現在は失効しているため、現在スウェーデン・クローナの補助単位としてのオーレは現金の単位としては使われていない。1クローナ白銅貨・5クローナ白銅貨の旧硬貨も2017年6月末に失効した。 _START_SECTION_ ユーロ問題 _START_PARAGRAPH_ 2003年9月にユーロ参加の是非について国民投票が行われたが、デンマークと同様に否決された。これは主に北部などユーロへの参加に保守的な立場の人々の票が影響したと思われる。実際に首都ストックホルムなど比較的大きい都市では賛成派が反対派を上回った。_NEWLINE_またこの投票の前にユーロ参加に積極的な立場を取っていた外務大臣・アンナ・リンドがストックホルム市内のデパートで刺殺される事件が起き、一時は過激な反対派の仕業かと思われたが、実際は精神病患者の突発的な行動であった。_NEWLINE_2006年9月にスウェーデンにおいて選挙が行われ、ユーロ導入に肯定的な穏健党が勝利したが、導入については、未だ白紙の状態である。
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Q305072
_START_ARTICLE_ スカシバガ科 _START_SECTION_ 形態・生態 _START_PARAGRAPH_ 成虫の前翅、後翅に鱗粉がなく、透明な部分を有する種が多い。_NEWLINE_幼虫の多くは、様々な草本植物、つる植物、樹木の茎に穿孔して、内部で成長する。 _START_SECTION_ スズメガ科の「スカシバ」 _START_PARAGRAPH_ また、スズメガ科に属すガでも、オオスカシバなど前翅、後翅ともに鱗粉のないもので、この名で呼ぶものもある。スズメガ科の昼行性の種の多くは、ホウジャクと呼ばれるものが多く、この中に、スカシバガ科と同様に翅に透明部分を持つものも少なくないが、「スカシバ」の名をもつのは、日本産のスズメガ科では、翅がほとんど完全に鱗粉を失い透明になる、ホウジャク亜科のオオスカシバとリュウキュウオオスカシバのみである。
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Q11311439
_START_ARTICLE_ スキーパラダイス _START_SECTION_ 生い立ち _START_PARAGRAPH_ 父リファールは大種牡馬。母スキーゴーグルは社台ファームがかつてアメリカ合衆国で所有していたフォンテンブローファームの生産でエイコーンステークス優勝馬。スキーゴーグルは社台ファームが売却した後もフォンテンブローファームに残り、スキーパラダイスや半弟のスキーキャプテンを産んだ。他の兄弟も半兄スキーチャンプは5月25日大賞典(亜G1)優勝馬、半兄スキーチーフはプティクヴェール賞(仏G3)優勝馬、さらにはスキーワールド、バーボンカントリー、コールドビッドなどの兄弟がいる名繁殖牝馬である。馬主は社台ファームの吉田照哉。 _START_SECTION_ 戦績 _START_PARAGRAPH_ フランスの名調教師アンドレ・ファーブルの元でデビュー。1992年の2歳時は2戦未勝利。_NEWLINE_明けて3歳時は緒戦の準重賞で初勝利。次走のプール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏G1)で2着に健闘すると、サンドリンガム賞(仏G3)、アスタルテ賞(仏G3)と連勝。その後はマイルG1路線を進むもジャック・ル・マロワ賞(仏G1)、ムーラン・ド・ロンシャン賞(仏G1)、フォレ賞(仏G1)といずれも2着、アメリカに遠征してのブリーダーズカップ・マイル(米G1)も2着でシーズンを終える。この年は8戦3勝。_NEWLINE_古馬となった1994年の4歳時は緒戦に中央競馬の京王杯スプリングカップ(JRAGII、安田記念の前哨戦)を選択。これ以降中央競馬の武豊が主戦騎手となる。京王杯は1番人気に応え優勝、4着まで外国馬が独占したものの、本番の安田記念 (JRAGI) ではスキーパラダイスは16kgの体重増での出走で5着に終わり、他の外国馬も3着が最高であった。その後はフランスに戻るも武が続けて騎乗。アスタルテ賞(仏G3)2着、ジャックルマロワ賞(仏G1)5着ののち、ムーランドロンシャン賞(仏G1)で初のG1競走優勝。日本人騎手による海外G1競走初優勝でもあった。その後もクイーンエリザベス2世ステークス(英G1)4着、フォレ賞(仏G1、ティエリ・ジャルネ騎乗)5着、ブリーダーズカップ・マイル(米G1)10着を最後に引退。この年8戦2勝。 _START_SECTION_ 繁殖成績 _START_PARAGRAPH_ 引退後は日本に輸入され、繁殖牝馬として阪神牝馬ステークス (JRAGII) 優勝のエアトゥーレ、フローラステークス (JRAGII) 3着のアスピリンスノーなどを輩出している。またエアトゥーレは皐月賞(JpnI)優勝のキャプテントゥーレ、セントウルステークス (JRAGII) ・シルクロードステークス (JRAGIII) 優勝のアルティマトゥーレを産んでいる。また、第一子のアグネスショコラ(父:サンデーサイレンス)からは孫のゴールデンチケットが兵庫チャンピオンシップ(統一JpnII)を勝っている。
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Q159884
_START_ARTICLE_ スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ FIFAワールドカップ(1990年)で使用するために半透明の楕円形屋根が付けられるなど改修され現在に至る。また、改修前の1987年世界陸上競技選手権大会のメインスタジアムにも使用された。_NEWLINE_UEFAチャンピオンズリーグ決勝を1977年、1984年、1996年、2009年に開催した。_NEWLINE_2007-08シーズン以降、本競技場がコッパ・イタリア決勝会場となっている。_NEWLINE_またコンサートの開催やRed Bull X-Fightersの大会も行われている。
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Q373633
_START_ARTICLE_ スタニスラス・ジュリアン _START_PARAGRAPH_ エニャン=スタニスラス・ジュリアン(Aignan-Stanislas Julien、1797年 - 1873年2月14日)は、フランスの東洋学者。アベル・レミュザをついで19世紀フランスの代表的な中国学者として活躍した。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ ジュリアンはオルレアンに生まれた。本来の名はノエルだったが、アメリカで死んだ弟の名を引きついだ。3歳のときに父を失った。オルレアンの神学校で教育を受けた後、1819年か1820年ごろにパリに出て、コレージュ・ド・フランスで古典を学んだ。1821年から同校でギリシア語の助手をつとめた。中国語はアベル・レミュザに学び、早くも1824年に『孟子』の一部をラテン語に翻訳している。1827年にはフランス学士院図書館に職を得た。_NEWLINE_1832年にレミュザが没すると、ジュリアンはその後を継いでコレージュ・ド・フランスの中国学教授に就任し、没するまでその地位にあった。翌1833年には碑文文芸アカデミーの会員に選ばれた。1845年に王立図書館の漢籍の管理者をつとめ、1852年にコレージュ・ド・フランスの学長に就任した。_NEWLINE_1863年にレジオン・ドヌールのコマンドゥールに叙勲された。同年アントワーヌ・バザンが没したため、バザンがつとめていた東洋言語特別学校の中国語教授を兼任した(1871年まで)。_NEWLINE_1873年に没したときに、中国語の表現を集めたカード25万枚を残した。 _START_SECTION_ ジュリアン賞 _START_PARAGRAPH_ 碑文・文芸アカデミーは、1875年以来、中国学に優れた功績をあげた人物に対してスタニスラス・ジュリアン賞(Prix Stanislas Julien)を授与している。第1回はジェームズ・レッグが受賞した。当初は受賞者は主に西洋人だったが、最近は中国人自身の研究が受賞することが多くなっている。日本人も関野貞(1916)、高楠順次郎(1929)、羽田亨(1952)、吉川幸次郎(1969)、藤枝晃(1972)、宮崎市定(1975)らが受賞している。
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Q2789783
_START_ARTICLE_ スターブレード _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 「戦闘機に乗り込んで戦う」という一人称視点を採用したゲームである。ただし、プレイヤーはその操縦には触れず、パイロットではなく砲手を担当する。つまり、実際は決められた進路と視野運動に沿って現れる敵を、両手で持つ大きな火砲型コントローラ(ガンシューティングとしては非常に取り回しの難しい大きさ)で狙い撃ち落す、オーソドックスなガンシューティングゲームである。_NEWLINE_映画『スター・ウォーズ・シリーズ』等で見られるような宇宙戦闘を体感できる。内容は視覚、聴覚、触覚を刺激する“スター・ウォーズ・シミュレーター”と言えるものだった。事実、敵(及び味方)艦隊やアステロイドの間をすり抜けながらの飛行や敵勢力の惑星型最終兵器「レッド・アイ」への侵入突撃や、整列した建造物群の溝状の合間に上空から急降下で入り込んだりするなど、演出面で『スター・ウォーズ』を意識したような所が多くみられる。_NEWLINE_システム基板には、同社のSYSTEM21(ポリゴナイザー)を採用している。本作では画面に登場する全てのオブジェクトが合計5基のDSPによってリアルタイムに生成・描画されている。本作に関連する『ギャラクシアン³』でも、国際花と緑の博覧会のパビリオンに出展したバージョンではリアルタイムレンダリングを行っている。_NEWLINE_SYSTEM21ではテクスチャマッピングを施すことができず、すべてをポリゴンによる造型で表現する必要があったため、シーンによっては極端に精密なモデリングが行なわれており、その上に細かなビットマップによる文字情報やワイヤーフレームを組み合わせ、豊かな表現力を見せていた。_NEWLINE_リアルタイムレンダリングポリゴンによるソリッド感と、ブリーフィングを除きゲームスタートからエンディングまでワンカットで進行する継ぎ目のないゲーム進行、乗り込み形の半開放式大型筐体によるダイナミックな宇宙空間の表現が臨場感を強調させた。_NEWLINE_BGMについても、冒頭のブリーフィング以降の本編進行中にBGMは存在せず、高品質な爆発音やビームの発射音や音声通信の演出などがアンプ基板上のサラウンド処理ICによる4chステレオで聞こえる、ストイックで臨場感の高い内容だった。最終ボスと遭遇し、最終決戦からエンディングへと至る時になって初めてBGMが流れるという演出は、ゲーム業界では極めて新鮮で高い評価を受けた。なお、実際はサウンドメモリの容量が足りなかったためにBGMが載せられなかった、との事である。
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Q24893651
_START_ARTICLE_ スターボード艇優先の原則 _START_PARAGRAPH_ スターボード艇優先の原則(スターボードていゆうせんのげんそく)とは、二隻の帆船が互いに接近し、衝突するおそれがあり、二隻の帆船の風を受ける舷が異なるとき、左舷に風を受ける帆船は、右舷に風を受ける帆船の進路を避けなければならないとする原則である(海上衝突予防法12条1項1号)。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 右舷にステアリングボードを装備していた時代、左舷に風を受けて走行している場合に較べ、右舷に風を受けて走行している帆船は、船体を左に傾斜した常態で進行し、ステアリングボードは機能しづらい状況となる。したがって、左舷に風を受けて走行している帆船のほうが、より衝突を回避する能力の高い状況にあることになるため、右舷に風を受ける帆船の進路を避けることとされたことが起源とされる。_NEWLINE_大航海時代に由来するこの原則は、海上における衝突予防を目的とする国際条約であるCOLREG条約に規定され、海上衝突予防法として継承されている。_NEWLINE_左舷側には紅灯、右舷側には緑灯の装備が法定されている(海上衝突予防法21条2項)のは、紅灯が視界にある船舶は回避義務があり、緑灯が視界にあるスターボード艇が優先であることに由来する。_NEWLINE_帆船に由来する原則であるが、動力船の衝突予防にも適用される。帆船のなかでも特にセーリング競技においては、競技の性質上適用されることの多い重要なルールの一つである。_NEWLINE_この法律により、海上では全世界共通で右側通行となっている。 _START_SECTION_ スターボード艇 _START_PARAGRAPH_ この原則にいうスターボード艇とは、スターボードサイド(右舷)に風を受ける船舶のことである。 _START_SECTION_ 右舷 _START_PARAGRAPH_ 右舷とは、船体において船尾から船首に向かって右側の端であり、スターボードサイド(starboard side)とも言う。スターボード(starboard)とは、ステアリングボード(steering board)すなわち舵取り板のことであり、舵取り板を右舷船尾に装備していた時代から現代に由来した呼称である。_NEWLINE_このため船長が操舵員を兼ねる小型帆船では右側に座った方が都合が良いため、船長はブリッジの右寄りの席となっている。 _START_SECTION_ 左舷 _START_PARAGRAPH_ 左舷とは、船体において船尾から船首に向かって左側の端であり、ポートサイド(port side)とも言う。港に係留する際、舵取り板が装備された右舷側は陸付けに適さなかったことから、左舷側をもって係留したことに由来する。 _START_SECTION_ 航空機 _START_PARAGRAPH_ 航空機にとって帆船のルールは科学的意味をなさないが、航空法は船舶の法律を元に策定されているため、空中では海上と類似したルールが適用されており、右側通行である。_NEWLINE_航空機には進行方向と位置を表示する位置灯の装備が法定されている。左翼端に赤灯、右翼端に緑灯、垂直尾翼端に白灯を装備する。また上下にも衝突防止灯として赤色の閃光灯が装備されており、船舶と同じく赤灯が視界にある側に回避義務がある。_NEWLINE_なお法律で規定されていないが、飛行機の機長はすれ違う際に相手がよく見える左側の席に座る(ヘリコプターでは右)。
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Q235920
_START_ARTICLE_ ステファヌス8世 (ローマ教皇) _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 出身はローマ。司祭を務めていた。928年12月に先代のレオ6世が殺害されたため、新教皇に選出された。しかしセルギウス3世の愛人であったマロツィアの傀儡だったという。931年3月に死去した。
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Q3477564
_START_ARTICLE_ ストラテセック _START_PARAGRAPH_ ストラテセック(Stratesec、前 Securacom、 Burns and Roe Securacom) は、安全保障会社
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_START_ARTICLE_ ストーミー・シックス _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ ストーミー・シックスは、1966年にポップ/サイケデリック・ロック・バンドとしてスタートし、1967年に行われたローリング・ストーンズの最初のイタリア・ツアーではオープニングを担当した。何度かのラインナップの変更の後に、ストーミー・シックスは左翼/プロテスト・フォークロックへと音楽性を切り替え、最初の3枚のアルバムを発表した。1960年代後半から1970年代初頭にかけては、このスタイルが反映されていた。1970年代半ばに彼らの音楽はより複雑になり、プログレッシブ・ロックに移行しながら実験的な音づくりを始めた。_NEWLINE_1974年末、ストーミー・シックスをはじめとしたミラノのミュージシャンたちで「L'Orchestra」と呼ばれる音楽協同組合を結成した。それは「あらゆる種類の非コマーシャル音楽、そしてアヴァンギャルド、ジャズ、政治、プロテストおよびポピュラー音楽をプロモートする」ことを目的としていた。それはまた、ミュージシャンが自ら管理し、ストーミー・シックスが自身のシングルやアルバムを数多くリリースする独立したレコード・レーベルとなった。ストーミー・シックスは「L'Orchestra」の業務において主導的な役割を果たした。_NEWLINE_ストーミー・シックスと外国人アーティストとの出会いとコラボレーションは、1975年にイングランドのアヴァン・ロック・グループ、ヘンリー・カウが初めてイタリアをツアーしたときに始まった。ストーミー・シックスはヘンリー・カウを「L'Orchestra」に招き入れ、2つのバンドは関係を深めていった。その後、1978年に、ヘンリー・カウはロンドンのRIO(ロック・イン・オポジション)フェスティバルに出演するため、ストーミー・シックスに加え3組のヨーロッパのグループを招待した。オリジナルとなった5組のRIOメンバーの1組として、ストーミー・シックスは、組織としてのRIOの形成に積極的に参加した。1979年、ストーミー・シックスは、ミラノで2回目のRIOフェスティバルを開催した。ここでは7組のRIOメンバーが1週間にわたるイベントを行った。_NEWLINE_ストーミー・シックスの6枚目のアルバム『ラップレンディスタ』(1977年)は、プログレッシブ・ロック・ファンの間で好評を博し、次のアルバム『マッキーナ・マッケロニカ』(1980年)は「RIOジャンル」の代表作の座を勝ち得ている。ヘンリー・カウのジョージー・ボーンは、アルバム『マッキーナ・マッケロニカ』にゲスト参加し、その時期に行われたいくつかのコンサートでストーミー・シックスと共演した。_NEWLINE_もう1枚、アルバム『Al Volo』(1982年)をレコーディングした後、ストーミー・シックスは1983年に解散した。_NEWLINE_1983年7月、3人の元ストーミー・シックス・メンバー(Franco Fabbri、Umberto Fiori、Pino Martini)は、ドイツの前衛的なロック・グループ、カシーバー(元ヘンリー・カウのクリス・カトラー、ハイナー・ゲッベルス、アルフレッド・ハルト)と共同で、公開ワークショップとレコーディング・プロジェクトをモンテプルチャーノのカンティエレ・インテルナツィオナーレ・ダルテ(Cantiere Internazionale d´Arte)にて行った。その後、その録音はイタリアのラジオ「RAI Radio3」によって放送され、そのうち7曲はカシックス(Cassix = Cassiber / Stormy Six)の名義で、レコメンデッド・レコードのサウンド・マガジン『Rē Records Quarterly Vol.1 No.3』(1986年)に収録され発表された。_NEWLINE_1993年5月10日に、ストーミー・シックスの再結成がミラノのオルフェオ・シアター(Orfeo Theatre)での公演のために行われた。コンサートはレコーディングされ、後に『ウン・コンチェルト』(1995年)というライブ・アルバムとなってリリースされた。
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_START_ARTICLE_ スパイダーマン (1967年のテレビアニメ) _START_PARAGRAPH_ スパイダーマン(Spider-man:1967 TV series)は、1967年(昭和42年)9月9日から1970年(昭和45年)6月14日までアメリカ合衆国のABCネットワークで放送されたマーベルのテレビアニメシリーズ。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 本作はカナダとの共同制作によって、1967年(昭和42年)9月9日から1970年(昭和45年)6月14日までアメリカ合衆国のABCで全3シーズン全52話が放送された。この番組では1963年(昭和38年)の漫画(コミカルタッチ)を元に作られている。後に何度もシリーズ作品が作られているため、ここでは旧アニメシリーズとして扱う。現在の配給はディズニー・エービーシー・共同テレビジョンが行っており、ライセンスはディズニー・エンタプライズが所有している。1990年代には1990年代のアニメシリーズが製作された。ただし、本作の著作権であるマーベルが2010年代まで本作と東映版を配信していた。 _START_SECTION_ 本作による製作事情 _START_PARAGRAPH_ 適当な台本や演技、そして極端な低予算で知られる。低予算であったため、予算を倹約するためスパイダーマンのコスチュームの蜘蛛の巣柄は顔、腕とブーツだけになり、残りは無地になっていた(胸と背中のクモは残された)。また、前の放送分で使ったアニメーションを別の回で使い回すのを多用しており、ニューヨーク市上空を飛ぶシーン、ピーターが白いシャツを脱ぎ捨て下に着ていたスパイダースーツに着替えるところ、マスクを着用して変身するところなどは、すべて使い回しだった。登場人物の動きも最小限とされた。第1期は初回放送予定の日にちの3か月前の時点で完成しておらず、たとえば、"Farewell Performance"という回は1967年(昭和42年)8月の時点ではまだ収録中で、 アメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領(当時)の59歳の誕生日を新聞が報じている場面までしかできてなかった。第1期の制作元であるグラントレー=ロレンス社が倒産した後、2期・3期分はラルフ・バクシ監督のもとクランツ社で制作されたが、予算はさらに劇的に減らされ、第3期に入るも予算の削減が激しくなり、第3期中2話分(『Phantom from the Depths of Time』『Revolt in the Fifth Dimension』)は『ロケット・ロビンフッド』2話分(『From Menace to Menace』『Dementia Five』) の動画をまるまる再利用し、登場人物のロビンフッドをスパイダーマンに差し替えただけで制作された。また、放映済みの分を最小限の変更だけ加えて再利用することも行われた。 _START_SECTION_ テーマソング _START_PARAGRAPH_ 本作のテーマソング『スパイダーマンのテーマ』は映画でも使われ、カバーもされた人気曲である。歌詞はアカデミー賞受賞者ポール・フランシス・ウェブスターによるもので、作曲はボブ・ハリスである。オリジナル版はトロントのRCAスタジオ(動画の制作と同じ場所)でカナダ放送協会所属の歌手12人(ビリー・ヴァン・シンガーズとローリー・ボウワー)を使って収録された。音楽はニューヨークのRCAスタジオで別撮りのものを合成した。歌手には収録分だけが支払われ、それ以降の再放送出演料は支払われてなかった。 _START_SECTION_ 本作による吹替事情 _START_PARAGRAPH_ 第1期ではレイ・エリス作曲による「オリジナル・サウンドトラック」が使用されたが、第2期・3期ではKPM(NFL等)、Capitol、Conroy、Josef Weinbergerといった音楽ライブラリを使用している。_NEWLINE_第1期のサウンドトラックは未収録であり、後者では不完全な状態で第2期の音楽ライブラリを流用している。_NEWLINE_当時の日本語吹き替え版は邦訳ミスが多かった、本作の現行吹替版での放送は現在のところ未定である。 _START_SECTION_ 日本での放送 _START_PARAGRAPH_ 日本の放送では『快傑くも人間』のタイトルで1971年にテレビ放送が開始、初回放送時は富山敬が担当された。1974年7月に東京12チャンネル⇒テレビ東京(現在)で中断置きながら1975年3月まで放送されてからは"スパイダーマン"に変更されている。1980年代には田中秀幸による吹替版がテレビ東京でアニメランドの第2部で放送された。再放送は1990年代まで断続的に続いた。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ 2014年から2015年にかけて発表された漫画『スパイダーバース』と2018年公開の映画『スパイダーマン: スパイダーバース』に本作のスパイダーマンが登場し、いずれも本作の作画が再現されている。アース67の声はヨーマ・タコンヌが担当し、日本語吹き替え版では稲田徹が担当した。
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_START_ARTICLE_ スペシャにチャレンジ 音知連 _START_PARAGRAPH_ 『スペシャにチャレンジ 音知連』(スペシャにチャレンジ おんちれん)はスペースシャワーTVで放送されていた音楽クイズ番組。2007年4月5日放送開始。2008年3月27日放送終了。全46回。_NEWLINE_また、過去に放送していた、『梁山泊』(音楽クイズ番組)、『熱血!スペシャ中学』の延長線的番組である。 _START_SECTION_ グランドチャンピオン大会 2008 _START_PARAGRAPH_ 以前から番組内にてせいちゃんJr.が優勝者を集めて真の優勝者を決めようと豪語し、見事に実現。北沢タウンホールにて2月29日に公開収録を行った。
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_START_ARTICLE_ スポーツ・ミュージアム山田コレクション _START_PARAGRAPH_ スポーツ・ミュージアム山田コレクションは、福井県福井市勝見にあった私営の博物館。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 福井県の実業家・山田勝三が自身の邸宅を改造し、スポーツ・カフェ山田コレクションとして2007年4月25日に開館。_NEWLINE_入館料は大人1人1,000円であったが、ホームページにあった割引券をプリントアウトして持参するか、入口で入館料を払う際にセブン-イレブンのキャッチコピー言えば半額の500円となった。_NEWLINE_自身が大ファンであった長嶋茂雄関連の収集物を中心に、各スポーツ界のスーパースターの実使用品などを始め、三重交通のバス停、ドラマの台本、古い家電製品やテレビ、セブン-イレブンの販促用景品、不二家の店頭に置かれていたペコちゃんの人形(『展示目的であり、転売はしません』と書かれた誓約書付き)など、ありとあらゆるものが展示、公開されていた。_NEWLINE_展示品には、2004年に長嶋茂雄が脳梗塞で倒れた際に、長嶋家より売却された長嶋茂雄ゆかりの品々も含まれていた。この他、福井市内に在住していた経験のある小林繁や、山田と交友のある金本知憲に関するコレクションも多く、開館していた当時は正面入口に『ミスター&アニキ金本の聖地』と書かれた大きな看板が掲げられていた(当時の画像)。_NEWLINE_この他、掛布雅之の愛車であったジャガーXJR-S、阪神甲子園球場で使用された掛布のネームボード、グラブ、自身の新聞記事のスクラップ台帳なども展示されていた。_NEWLINE_2013年4月、同年初めに看板が外され、門が固く閉ざされていると報じられた。その後、館長の山田が同年8月に死去したこともあり、ミュージアムはそのまま再開されることなく閉館した。 _START_SECTION_ 閉館後 _START_PARAGRAPH_ 2014年10月1日より2015年8月31日まで、スポーツミュージアム・山田コレクションのアイテムは、特設サイト『Yokocho Premium Auction -山田コレクション-』にて、プロ野球選手のサイングッズ関連を中心に、MLB、サッカー、ゴルフ、F1、プロレス、音楽関連、昭和レトロ、おもちゃ、フィギュア等が10,000点以上オークション形式で販売された。_NEWLINE_その後、山田コレクションであった建物は改装され、2016年4月より建物向かいの医療法人が運営する老人福祉施設「いちごの森」となっている。
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_START_ARTICLE_ スモールボール _START_PARAGRAPH_ スモールボール (small ball) は、野球における戦略の一つである。機動力や小技(バントなど)を特に重視する。スモール・ベースボール (small baseball) とも呼ばれる。対語は、ビッグボール。MLBのロサンゼルス・ドジャースの名スカウト、アル・キャンパニスが『ドジャースの戦法』を著して定型化した。かつてはドジャース戦法と呼ばれ、スモールボールと言われるようになったのはごく最近のことである。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ MLBのロサンゼルス・ドジャースのように、伝統的にこの戦略をとり続けるチームも存在する。スモールボールの歴史は古く、1890年代の最強チームであるボルチモア・オリオールズ(※現存するボルチモア・オリオールズとは全くの別物)がヒットエンドランやボルチモア・チョップなど新しいスタイルを完成させ、1910年代まではボール反発力が低く粗悪なものであったため、極めて長打が出にくい状況(デッドボール時代)だったので、全てのチームが基本戦術として採用していた。当時の主力選手ジョン・マグローは、このようなスタイルをインサイド・ボール(頭脳的野球)と呼んでいた。_NEWLINE_1920年代に入ると、ボール反発力が上がったことによりホームラン時代が幕開けし、それ以降、2008年現在に至るまでビッグボールがMLB全体の主流になったわけであるが、「ステロイド時代の終焉」と歩調を合わせるかのように、かつてのドジャース戦法が最近になってスモールボールと名を変えて、一躍脚光を浴びることになった。ロサンゼルス・エンゼルスは2002年に球団史上初のワールド・シリーズを制覇したのみならず、2004年から2007年までの4年間に3度の地区優勝を果たし、今やスモールボールの代名詞的存在となっている。なお、エンゼルスが「現在最もスモールボールを効果的に活用している」と言われるようになった背景には、首脳陣の存在の大きさがある。マイク・ソーシア監督は現役時代及び指導者として通算22年間をドジャースで過ごし、他に当時のコーチ陣もディノ・イーベル三塁コーチが17年、ミッキー・ハッチャー打撃コーチとロン・レニキーベンチコーチが13年、アルフレッド・グリフィン一塁コーチが4年、それぞれドジャースの組織内に所属していた経験がある。彼らが選手・指導者として学んで来たスタイルは、ドジャース戦法 = スモールボールである。また、2005年にはシカゴ・ホワイトソックスが本塁打の出やすい本拠地球場ながらこの戦略に方針転換し、ワールドシリーズを制した(ただし、MLB全体で5位となる200発もの本塁打を放ったこの年のホワイトソックスが、純粋な意味でスモールボールの実践例と見られるかは、後述のV9時代の巨人同様賛否両論ある)。_NEWLINE_ただし、以前ほどではないにせよ、打高投低・打撃戦傾向が続いている2008年時点のMLBにあってはビッグボールの有効性が依然として高く、八・九番打者ですらパワー・ヒッターがざらにいる現代のMLBにはスモールボールはフィットしない、とも言われている。実際、2007年度シーズンの統計では、本塁打が出た試合では30チーム中27チームが勝ち越しており、逆に本塁打なしでは全チーム負け越している。その点については、スモールボールの総本山と見なされるエンゼルスで指揮を執るソーシア監督も、「スピードを積極的に駆使して来たのはパワー不足に一つの要因があるからで、スラッガーが揃っているならその必要性は薄まる」とスモールボールの限界を認めている。
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_START_ARTICLE_ スワーヴドライヴァー _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1991年9月にクリエイションから1stアルバムRaiseを発表し、シューゲイザームーブメントの時流に乗ってバンドは注目を集める。その後3枚のアルバムを発表し1998年に解散。_NEWLINE_バンドは2008年に再結成し活動を継続している。
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Q644516
_START_ARTICLE_ スーパーヒーロータイム _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1997年4月6日より『電磁戦隊メガレンジャー』(スーパー戦隊シリーズ)の放送時間が日曜7:30からに変更され、同8:00より放送の『ビーロボカブタック』(メタルヒーローシリーズ)と東映特撮作品が連続する形となった。2000年1月30日からは8:00より放送の『燃えろ!!ロボコン』の後番組として『仮面ライダークウガ』(平成仮面ライダーシリーズ)が開始され、日曜朝にスーパー戦隊・仮面ライダー作品を連続放送するヒーロー枠が形成された。翌年の『仮面ライダーアギト』以降は『百獣戦隊ガオレンジャー』と共に両作品の劇場版を併映するなど、東映2大ヒーロー(作品)の協力体制が従来よりも強化されるようになる。_NEWLINE_2003年9月28日以降、(当時は『爆竜戦隊アバレンジャー』と『仮面ライダー555』を放映中)東映とテレビ朝日は両番組の枠を1つのヒーロー番組総合枠として位置づけ、それに伴い『スーパーヒーロータイム』(ロゴ表記は「SUPERヒーロータイム」)の呼称が初めて用いられるようになった。これは同年10月に放送開始となる東宝・テレビ東京制作の特撮テレビ番組『超星神グランセイザー』に対抗するための措置で、2004年以降もレギュラー枠に設定され、2005年度からはロゴ表記をすべてカナ文字に統一すると共に、地球儀をバックにしたロゴを導入、いずれも2019年現在まで踏襲されている。また2007年3月から2011年までの間、前後に放送されるアニメ枠をも含めた『ニチアサキッズタイム』に、本枠が内包されていた時期もあった。_NEWLINE_2008年2月から2010年8月まで、地上デジタル放送では「スーパーヒーロータイム」として同枠の2番組で番組連動データ放送を実施した(各番組を視聴する方式で、内容は2番組とも同じ内容)。2010年9月5日放送開始の『仮面ライダーオーズ/OOO』と2011年2月13日放送開始の『海賊戦隊ゴーカイジャー』以降は、各番組独自のデータ放送に変更となった。_NEWLINE_2017年10月1日より、本時間帯にて情報番組『サンデーLIVE!!』(テレビ朝日・朝日放送→朝日放送テレビ・メ〜テレ共同制作)が開始するのに伴い、本枠を構成する2番組もそれぞれ放送時間を変更。さらに本枠自体も同月以降それまでと放送順を入れ替える形で継続することが、同年9月10日 - 24日放送分の本枠内並びに「東映特撮YouTube Official」にてアナウンスされた。 _START_SECTION_ ネット局 _START_PARAGRAPH_ ※2018年5月現在。 _START_SECTION_ タイトルバックと「スーパーヒーロータイム・エンディング」 _START_PARAGRAPH_ 本枠の成立に伴い、スーパー戦隊の冒頭部と仮面ライダーの終了後にそれぞれ10秒程度のタイトルバックと、「スーパーヒーロータイム・エンディング」と呼ばれるミニコーナーが挿入されるようになった。ただし夏場や年末年始など本枠に含まれる作品の劇場版が公開される時期や、後述の通り放送休止によって枠自体が成立しない場合などにはこれらが省略されることもあり、特に劇場版の制作回数が増えた2008年から2017年にかけては、より顕著にその傾向が見られるようになっていた。現行放送枠への移動後の2018年からは劇場版の制作回数が減少したこともあり、エンディングについては改編期でない限り挿入されている。_NEWLINE_タイトルコールは基本的に各作品の出演者やナレーション担当者によって行われるが、2005年度から3期にわたってタイトルコールを手掛けたレニー・ハートのように、必ずしもそれに当てはまらないケースもある。「スーパーヒーロータイム・エンディング」は戦隊・ライダーのPRを目的としたコーナーであり、演出は主に柴崎貴行などライダー側の助監督が手掛けることが多い。これらのタイトルバックやスーパーヒーロータイム・エンディングは視聴者から戦隊・ライダーの映像ソフトへの収録を要望する声も多く寄せられているものの、権利関係が複雑になることから収録の予定はないことが制作側よりアナウンスされている。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ 2015年10月より、東映が開設したスマートフォン向け映像アプリ「東映特撮ファンクラブ」において、当日放送分の見逃し配信を実施している。配信は各番組の放送終了後となる10:00(枠移動前は8:30)からの実施となる。
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_START_ARTICLE_ スーパーファンタジー文庫 _START_PARAGRAPH_ スーパーファンタジー文庫(スーパーファンタジーぶんこ、Super Fantasy Bunko)は、集英社が1991年3月から2001年4月まで刊行していたファンタジー・ライトノベル系の文庫レーベル。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ コンピュータRPG全盛の時代を反映して、創刊時はいわゆる「剣と魔法」のファンタジー世界を舞台にしたオリジナル作品がラインナップの中心を占めていた。しかし中・後期には和風ファンタジーやSF作品・ミステリなども刊行された。_NEWLINE_少数であるが、「孔雀王」や「プリンセス・ミネルバ」など、漫画やアニメ・コンピュータゲームの小説化作品もある。_NEWLINE_2000年7月、ファンタジー路線中心の本レーベルに対して、学園小説やスラップスティック系の作品を中心とするスーパーダッシュ文庫が創刊される。以降、両レーベルの併存が模索されたが、本レーベルは2001年4月に休止され、本レーベルが請けもっていたオリジナル・ファンタジー路線もスーパーダッシュ文庫が継承することになった。両レーベルにまたがって継続したオリジナル作品は、一条理希の「サイケデリック・レスキュー」とその続編「D/dレスキュー」のみである。 _START_SECTION_ 主な作品 _START_PARAGRAPH_ 2巻以上刊行された作品を中心に挙げる。
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_START_ARTICLE_ スーパー・サーヴァント3 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 本船は1982年3月31日に大島造船所で竣工した。 荷役はRORO方式、またはバラストタンク注水により甲板を水面下に没して(半潜水艇)のFOFO方式が可能である。 1990年には湾岸戦争に参加したアメリカ海軍の掃海艦「アヴェンジャー」と掃海艇3隻を中東まで運搬し、1992年にはジェノヴァ国際博覧会でフローティングパビリオンとなった元青函連絡船「羊蹄丸」をジェノヴァまで運搬した。 2011年現在、船主はワイスマラー社の後身であるドックワイズ(Dockwise)社となっている。
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Q1351653
_START_ARTICLE_ セネガル民主党 _START_PARAGRAPH_ セネガル民主党(セネガルみんしゅとう、Parti Démocratique Sénégalais、略称:PDS)は、1974年に創設されたセネガル共和国の政党。リベラル政党を自認しており、自由主義インターナショナルのメンバーである。_NEWLINE_2001年4月29日の立法議会選挙で同党は政党連合「変革」(Coalition Sopi)の中核となった。得票率49.6%、120議席中89議席を得て圧勝し、少数政党と連立政権を組んだ。_NEWLINE_同国大統領アブドゥライ・ワッドと首相マッキー・サルはもともと同党の出身であったが、2008年にサルが分離独立し共和国同盟を結成した。ワッドとサルは2012年の大統領選挙で激突し、サルが当選した。
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_START_ARTICLE_ セミヤドリガ _START_SECTION_ 発見と記載 _START_PARAGRAPH_ 1898年(明治31年)、民間の昆虫研究家、名和靖(なわ やすし)は岐阜県養老山でヒグラシに付いた奇妙な幼虫を発見し、養子の名和梅吉がこれを飼育したところ、繭から黒っぽい地味な蛾を羽化させることができた。この蛾はすでに1892年(明治25年)に岐阜県金華山で採集していたが、無論それがセミに寄生する種類であることは飼育で初めて判明したのであった。そして1903年(明治36年)、名和昆虫研究所発行の雑誌『昆虫世界』に「セミノヤドリガ」という名前で、彩色図版とともに掲載した。この報告を見た米国の H.G.Dyar という学者から標本希望があったため送ったところ、Dyar は1904年に Epipyrops nawai の名で新種として記載した。この当時米国留学中だった梅吉も、この珍蛾を新種として発表する準備をしていたというが、Dyar の論文の方が早かったため機を失った。また上記のように、梅吉は和名をセミノヤドリガと名づけたが、現在は松村松年(1905)の『日本昆虫總目録(蝶蛾之部)』に始まるセミヤドリガという和名が使われている。_NEWLINE_属名は epi+Pomponia で、「epi-」はギリシャ語で上・外・表面などの意だが、この場合は外部寄生epiparasiteであることを示しており、「Pomponia」は当時ヒグラシが分類されていたタイワンヒグラシ属の学名である。種名の nawai は、本種の最初の発見者である名和靖を記念して献名された。 _START_SECTION_ 分布 _START_PARAGRAPH_ 本州(ほぼ栃木県から新潟県を結ぶ線より西)、四国、九州(南部を除く)、韓国、台湾。平地から低山地にかけて多く分布し、1000mを超えるような標高の高い場所には見られない。日中でもやや暗いような、年を経たスギ・ヒノキの植林内で幼虫がヒグラシに寄生しているのが多く見られ、成虫も同様の環境を飛び回りながら産卵するものと考えられている。 _START_SECTION_ 卵 _START_PARAGRAPH_ ナスの上の方を切り落とした下半分のような形で、長さ0.5mm、直径0.3mmほどの小さな淡黄色の卵である。"切り落とし"の部分の周囲には白っぽく目立つビーズのような縁飾りが環状に並んでおり、孵化の際はこの部分から蓋が開くようになっている。1個体の雌の産卵数は10数個から1000個まで幅があり、平均で300個程度とされる。卵数に大きな差が生ずるのは、寄生生活での栄養状態の差に起因すると推定される。卵は1個ずつ、あちこちの樹皮下などにバラバラに産み付けられる。時を経た卵は、近くに来たセミの翅の振動などを感じて孵化し、取り付いて寄生生活に入ると言われる。 _START_SECTION_ 幼虫 _START_PARAGRAPH_ 幼虫は5齢まであり、スマートな1齢幼虫に対し、それ以降の幼虫は太っている。口には咀嚼型の大腮と絹糸を吐くための吐糸管がやや後方に向かって針状に出ているが、セミの体液を吸うための特別な構造は確認されておらず、どのようにして吸っているかの詳細はよくわかっていない。眼は6個の単眼が環状に集まって並んでいる。3対の胸脚、4対の腹脚、1対の尾脚を持つが、腹脚と尾脚には微小な鉤爪がやや横長の歪んだリング状に並んでいる。一つ一つの鉤爪はリングの外側に向かってフック状に曲がっており、脚全体を強く押し当てればセミの体表に網状に張られた足場糸によく引っかかり、脚を縮めて持ち上げれば自然にそこから抜けるような構造とみることが出来る。脱皮の時は、外皮が腹側で縦に裂け、新しい脚ですぐに足場糸を掴めるようになっている。_NEWLINE_孵化した1齢幼虫は細長い体形で、全長0.7mm、幅0.1mm前後で伸び縮みする。胸脚と腹脚は2齢以降の幼虫に比べ発達が良く、動き回るのに適している。小さいこともあり、普通はセミの胸や腹部の節の隙間などに入り込んで体液を吸っている。_NEWLINE_2齢 - 4齢幼虫は腹面が平たく、背面が膨らんだ太った芋虫状で、脚の数は1齢と変わらないもののずっと短くなり、最初のうちは淡黄色だが、徐々に赤みを増して全体が薄い赤褐色になる。体が大きくなるため、1齢幼虫のように隙間に隠れていることはなく、セミの腹部背面に張り拡げた足場糸に掴まって体節の間の膜付近から体液を吸っているとされる。_NEWLINE_5齢幼虫になると、純白の蝋状物質でできた綿毛で背面が被われるようになり、腹脚の爪は更に横長楕円に並ぶようになる。白色の綿毛は非常に目立ち、寄生されたセミは遠目からも分かるようになる。セミの成虫自体の寿命がさほど長くないので、寄生者であるセミヤドリガの幼虫期間も自ずと制限される。約2週間あまりで1齢から5齢に育つとされ、この短期間に一生分の栄養を摂り、実質的な成長を成し遂げる。 _START_SECTION_ 繭・蛹 _START_PARAGRAPH_ 5齢幼虫は機を窺ってセミの腹部から糸を吐きながら脱落し、宙を揺れるにまかせて繭作りのための場所を探す。枝葉などに垂れ糸が偶然引っかかったり、自分の体が樹幹や何かに触れたりすると、糸を手繰ったり切ったりしながらそれに取り付く。しばらくはその周辺をうろうろするが、やがて木や草葉の表面に最適な位置を定めて繭作りに入る。脱落の契機は必ずしも明らかではないが、人が掴んでセミが暴れたりすると即座に脱落することが多いことから、寄主が鳥などに捕食されそうになった場合などが脱落契機の一つになると考えられる。_NEWLINE_最初は体表の綿毛を束で抜き取って体の周囲に置いて行き、頭を8の字を描くように振りながら糸を吐き交えていき、体全体を覆う楕円ドーム型に仕上げる。その大きさは、長さ7 - 9mm、幅4 - 7mm、高さ3 - 5mm程度であるが、綿毛のために繭の形はよく見えないことが多い。内部の絹糸の内張りは非常に丈夫で、人の手でも簡単に破けるようなものではないが、前方にはガマグチ状に開き易くなった部分があり、羽化の際はここから脱出する。出来たばかりの繭は純白で派手な綿毛で被われるため、暗い林内では非常に目立ち、わざわざ捕食者に見つかり易くしているようで不思議だが、一旦雨に濡れたものは鳥の糞によく似た外観となる。_NEWLINE_繭造りの場所はスギの樹幹などの垂直の場所から、下草の表面、裏面、枯れ木の枝まで様々で、時には地面に直接作られたものもある。樹幹に作る場合は頭を上方に向けて作るのが普通だが、葉の表面などではあまり方向性はなく、同一の葉で複数の繭が逆向きに作られたりもする。蛹は1週間程度で羽化する。羽化の際、普通は蛹の殻が繭の口から半分ほどせり出すので、羽化した繭かどうかが分かる。 _START_SECTION_ 成虫 _START_PARAGRAPH_ 成虫は開翅長20mm、体長7 - 8mmほどの小型の蛾である。翅はやや丸みを帯びた暗黒色で、光の方向によって暗青色に反射する胡麻斑があるが、鱗粉は落ち易い。口器は退化的で、口吻や小腮鬚を欠き、下唇鬚も微小であることなど、他のセミヤドリガ科の蛾と共通した特徴を持つ。これは成虫が餌を摂らないことを意味し、幼虫の期間に得た栄養のみで次世代を残しながら、おそらくは数日間で一生を終える。単眼がないこと、触角はあまり長くなく櫛歯状になること、肢が細くて距(きょ:けづめ様の付属突起)がないことなども科全体の特徴である。_NEWLINE_羽化は未明から午前中に行われることが多いようで、昼頃に羽化したての成虫が見られることもある。羽化した成虫は繭の上やすぐそばにとまって羽が伸びきるのを待ち、翅が固まるとかなり勢いよく飛びたっていく。本種は処女生殖をすると考えられ、確認される成虫はほとんど全てが雌で、羽化した雌の成虫は交尾をせず産卵し、その卵からは翌年幼虫が孵化する。ただし極く少数ながら雄の記録もある。 _START_SECTION_ 天敵 _START_PARAGRAPH_ 具体的な記録はほとんど存在しないが、鳥などによって寄主のセミごと捕食されている可能性がある。主たる寄主のヒグラシの雌は、セミヤドリガが多く生息するような暗い林内では比較的目立たない存在だが、幼虫の白い綿毛は非常に目立つため、寄生されたセミはより襲撃を受け易くなる可能性がある。また、本来の前方の口ではなく背面に別の脱出口が開いた空の繭があるが、これは他の昆虫同様に寄生蜂や寄生蝿に寄生された例である。 _START_SECTION_ 寄主の種類 _START_PARAGRAPH_ 寄主(ホスト)はその大部分(一説には99%)がヒグラシに寄生し、他に極くわずかな寄生例が、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミ、ヒメハルゼミ、Oncotympana fuscata(ミンミンゼミに極く近縁なもので韓国での寄生例)などで知られる。ヒグラシが寄主となる理由については、セミヤドリガの生息環境にヒグラシが多いことや(ヒグラシが多い場所に本種が生息するとは限らないが)、ヒグラシの前胸の構造が1齢幼虫の潜伏に都合が良いことなどが挙げられたことがあるが、必ずしもよく分かってはいない。更にヒグラシでも、特に雌への寄生が多いことが知られているが、その理由も不明である。雌のヒグラシに特有の行動が関係する可能性もあるが、このことから少なくとも啼き声などを頼りに寄生が行われるものではないことがわかる。1匹のセミへの寄生数は1個体から数個体の場合が多いが、時には10個体ほども寄生している場合があり、寄生数が多い場合は色々な成長段階の幼虫たちが混然と寄生している。 _START_SECTION_ 寄生による害 _START_PARAGRAPH_ 寄生されたセミが死んだり産卵ができなくなったりすることはないと言われる。しかし盗られた栄養分が損害になるほか、セミにとってはセミヤドリガの幼虫は相対的にかなり大きいため、多くの幼虫の寄生を受けて重くなったセミは飛翔速度などがやや遅くなる。また真っ白な大福餅のような幼虫を背負ったセミはよく目立ち、それによって襲われる機会が増えるならばセミにとっては非常な損害となる。一般には毒や不味を持つ昆虫が目立つ外見で捕食者の忌避行動を誘発することが知られており、もし本種にもそのような要素があれば白い幼虫はわざと目立っていると考えることもできるが、目立つ原因となる純白の綿毛は、少なくともヒトには無味無臭で、口に入れてもすぐに溶けて何の感覚もなくなるようなものである。あるいは目立つことで捕食者を誘い、高所からの脱落の契機を作る作用があるかも知れないが、寄生個体と非寄生個体に対する捕食者の反応や捕食率の違いなどは調べられていない。 _START_SECTION_ 近縁種 _START_PARAGRAPH_ セミヤドリガは世界の熱帯から温帯までで40種ほどが知られ、そのうち日本にはセミヤドリガのほか、ハゴロモ類に寄生する別属のハゴロモヤドリガ Epiricania hagoromo Kato, 1939が本州、四国、九州、八重山諸島などに分布する。_NEWLINE_さらに日本からはもう一種、ニイニイゼミに寄生するとされるニイニイヤドリガが記録されているが、これは幻の昆虫とも言うべき存在となっている。いわゆる未記載種で、正式な学名は付けられておらず、標本も残っていない。これはセミやセミヤドリガの研究で知られる加藤正世(かとう まさよ)が1954年、東京の石神井で採集したニイニイゼミの雌に寄生していた幼虫1個体を見つけて報告したもので、大きさは体長2.3mm、幅1.0mmほどで、セミヤドリガの幼虫より小型である。体は光沢のある肉色で、白い蝋物質は分泌していなかったが、それでも終齢に近いものだと思われるものであったとされる。寄生部位はセミヤドリガとは異なり、付け根近くの翅表面に付いており、その辺りにあるニイニイゼミ特有の体毛を食べていたが、寄主のセミが死んでしまい、本種もその3日後に死んでしまったという。この報告以降ニイニイヤドリガは再発見されておらず、正体も不明のままである。
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Q762926
_START_ARTICLE_ セント・アイブス (映画) _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 新聞記者から小説家に転向したものの、一向にうだつの上がらないレイモンド・セント・アイブスのもとにある日、知り合いの弁護士マイロン・グリーンから驚くべき依頼が舞い込む。大富豪アブナー・プロケインが日記を盗まれ、犯人から現金10万ドルと引き換えに返すという要求がきたのだが、その現金の持参人になぜか彼を指定してきたというのだ。_NEWLINE_1万ドルの仲介料でそれを引き受けたセント・アイブスは指定の場所に向かうが、そこには男の死体が転がっており、そこへ駆けつけた刑事に逮捕されてしまう。知り合いの刑事の口添えで釈放された彼に、プロケインの使いと名乗るジャネットという謎のありそうな美女が近づいてくる。セント・アイブスはこの事件の裏には何かがあるとにらむ。_NEWLINE_やがて、犯人から再び日記と現金との引き換え要求が来る。セント・アイブスは再び現金の持参人となり、今度は引き換えに成功する。しかし、プロケインによると、中の4ページが抜きとられているという。実はその日記はプロケインが計画して実行された盗みの全記録で、問題の4ページには新たに彼が計画中の盗みのプランの詳細が記されていたらしいのだ。_NEWLINE_セント・アイブスにプロケインは奇想天外な話を持ちかけた。彼が今計画中の盗みを目撃して、それを基に小説を書いてみないかというのだ。そして、その新たな計画が実行に移されるのだが…。
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Q553224
_START_ARTICLE_ ゼッカハ _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ この町は、アーデルスハイムとブーヒェンの間のオーデンヴァルトおよびバウラントの斜面に位置する。この町はネッカータール=オーデンヴァルト自然公園に含まれる。_NEWLINE_この町は、グロースアイクホルツハイム、ゼッカハ、ツィンメルンの3地区とクリンゲ青少年村からなる。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ ゼッカハは、788年のロルシュ文書に記録されている。ゼーリゲンタール修道院が1236年にこの村を獲得した。この修道院が廃止されるとゼッカハは1568年にマインツ選帝侯領となった。その後は、1803年に帝国代表者会議主要決議に基づく世俗化によりライニンゲン侯領となるまで、マインツ選帝侯領にとどまった。さらに3年後の1806年にライン同盟によりライニンゲン侯領が廃止され、バーデン大公領となった。1972年にゼッカハは、グロースアイクホルツハイムおよびツィンメルンと合併し、新しい自治体ゼッカハが発足した。 _START_SECTION_ グロースアイクホルツハイム _START_PARAGRAPH_ グロースアイクホルツハイムは、775年のロルシュ文書に記載がある。1561年にプファルツ選帝侯領となった。ライニンゲン侯領を経て、1806年バーデン大公領となった。 _START_SECTION_ ツィンメルン _START_PARAGRAPH_ ツィンメルンは782年のロルシュ文書が初出である。1236年にゼーリゲンタール修道院の所領となった。それ以後はゼッカハと同様の経緯をたどった。 _START_SECTION_ 宗教 _START_PARAGRAPH_ グロースアイクホルツハイムは16世紀前半に宗教改革がなされたが、ゼッカハおよびツィンメルンはローマ・カトリックにとどまった。 _START_SECTION_ 議会 _START_PARAGRAPH_ この町の議会は18議席からなる。 _START_SECTION_ 紋章 _START_PARAGRAPH_ 基部から緩やかな弧を描く赤い三角図形により左右に分割。三角図形の中は5本スポークの輪。向かって左は、銀(白)地に黒いシュタインボックの角。向かって右は、直立する黒い戦斧。紋章の意匠は、1803年以前の領主を示している。シュタインボックの角はゼッカハ家の紋章、戦斧はシュテッテン家の紋章のモチーフである。5本スポークの輪は、アイクホルツハイム家の新しい家系の紋章で、配色はマインツ大司教の紋章に倣っている。 _START_SECTION_ 芸術 _START_PARAGRAPH_ ゼッカハは「彫刻の町」であり、7つのブロンズ彫刻、5つの石材彫刻、10のコンクリート彫刻作品がある。 1987年から町の森に「彫刻公園」が設けられ、82の石、コンクリート、木の彫刻作品が展示されている。ベルリンの彫刻家夫妻マリアンネとパウル・アウグスト・ヴァグナーが仲間に彫刻制作を呼びかけた。できあがった彫刻が公園内に保存されている。町は、森(約2 ha)を自由に使ってもらい、散策路を設けた。彫刻公園の一角は「狂気のアリーナ」と呼ばれ、定期的に野外コンサートが開催されている。 _START_SECTION_ スポーツと余暇 _START_PARAGRAPH_ SCクリンゲ・ゼッカハは、1981年に創設された女子サッカークラブで、1990年から1998年まで8シーズン、ブンデスリーグでプレイした。 ゼッカハには、サウナや蒸し風呂を備えた屋内プールがあり、一年中利用できる。 _START_SECTION_ 経済と社会資本 _START_PARAGRAPH_ 町内には、クリンゲ青少年村がある。この施設は、戦後の混乱で家族を亡くした子供や若者たちに新しい家庭を提供することを目的に、1946年に司祭ハインリヒ・マグナーニによって創設された。現在は、それぞれの事情で元の家族と暮らせない子供や若者180人が暮らしている。 _START_SECTION_ 交通 _START_PARAGRAPH_ 鉄道ネッカーエルツ – オスターブルケン線には、ゼッカハ駅およびツィンメルン駅が設けられている。これらの駅では、ラインネッカーSバーンのS1系統の列車が1時間毎に発着している。_NEWLINE_ゼッカハ駅は乗換駅であり、ミルテンベルクへ向かうマドンネンラント鉄道に乗り換えることができる。
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Q1050075
_START_ARTICLE_ ゼルミーラ _START_SECTION_ 作曲の経緯 _START_PARAGRAPH_ 1815年にナポリ・サン・カルロ劇場の支配人であるドメニコ・バルバイアの招きでオペラセリアを作曲していたロッシーニであるが、1821年の終わりにバルバイアがウィーンのケルントナートーア劇場の支配人も兼任し、1822年の4月から6月までロッシーニ・フェスティバルを企画していた。その最初を飾るオペラとしてロッシーニに提供された題材はドルモン・ド・ベロワの「ゼルミーラ」だった。_NEWLINE_その頃、ロッシーニはサンカルロ劇場のプリマ・ドンナ、イザベラ・コルブランと恋仲にあり、彼女と結婚する前提でこの作品を書き上げた。そして1822年2月16日のナポリ初演の1ヵ月後にめでたく結婚することとなる。そして同年のウィーンでのロッシーニ・フェスティバルでもコルブランの名歌唱で大成功を収めることとなる。そして、ウィーンから帰ったロッシーニは二度とナポリの地を踏むことは無かった。 _START_SECTION_ 作品の特徴 _START_PARAGRAPH_ この作品は、本編の始まる前の前置きが長く、ギリシャ神話に通じていない人が見るとわけが分からない展開となっている(例えば、ミティレーネの支配者アゾールがレスボス島侵略をした後に敵対者のアンテノレに殺されることや、どうしてレスボスの王ポリドーロが身を隠しているのか、といったことが挙げられよう)。_NEWLINE_ _NEWLINE_しかし、そのような複雑な前置きを無視してみると、全体として、ロッシーニの結婚相手であるイザベラ・コルブランの歌唱をモデルに、アンサンブルではなくアリアや重唱に重点を置いた構成となっている(更にはこの作品がウィーン向けに作曲されたことも背景にあると考えられる)。_NEWLINE_この作品も、ロッシーニのほかのオペラと共に一時忘れ去られていたが、20世紀の復活上演は1989年7月、ヴィチェンツァのオリンピコ劇場において、クラウディオ・シモーネの指揮、イ・ソリスティ・ヴェネティの演奏で行われた。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 舞台は古代のレスボス島 _START_SECTION_ 本編に入る前のお話 _START_PARAGRAPH_ レスボス島では、長い間ポリドーロ王によって支配されていた。王は国民の人気が高かっただけではなく、娘のゼルミーラとその夫でトロイアの王子イーロ愛情にも支えられていた。しかし、イーロが出征した時に王国の防備が手薄になった隙を狙って隣のミティレーネの支配者アゾールが攻め込み王位を簒奪する。そのときアゾールはポリドーロの娘ゼルミーラを妻とすることを要求するが、ポリドーロが拒んだため、ポリドーロを殺そうと考える。そこでゼルミーラは、父親を、歴代レスボス王の墓の中に隠し、自分が父親を憎んでいたと皆に信じ込ませ、ケレースの神殿にポリドーロが逃げ込んだという噂を流す。アゾールはケレースの神殿を焼き討ちし、皆は、ポリドーロが死んだものと考える。しばらくして、ミティレーネの王位を狙っていたアンテノレが仲間のレウチッポの協力を得てアゾールを殺害してしまう。 _START_SECTION_ 第1幕 _START_PARAGRAPH_ ナポリ時代のほかの作品同様、この作品も序曲無しで物語が始まる。 _START_SECTION_ 第1場 _START_PARAGRAPH_ 始まりはレスボスの城壁の前。兵士たちが、アゾールの暗殺を聞いて騒いでいる(導入部「ああ、惨事が!」)所へレウチッポとアンテノレが登場するので、彼らに事件を告げる。人々は犯人は誰か知らないのだが、レウチッポは、こうなったからにはアンテノレが後継者になるべきだと人々に宣言する。アンテノレたちは自分たちの計画の実行に障害となるのは、ゼルミーラとその息子と考え、前王のアゾールの死はゼルミーラによるものだとして、告訴する旨を皆に知らせることにする。(アリア「何を見たと思う、友等よ!」)_NEWLINE_2人が退場した後、ゼルミーラとその友人エンマが登場、ポリドーロの様子を見るために歴代の王の墓へと入っていく。 _START_SECTION_ 第2場 _START_PARAGRAPH_ 舞台は歴代レスボス王の墓の中。_NEWLINE_ポリドーロは中で一人悲しみにくれている。(アリア「ああ、すでに一日が過ぎ」)そこへ中に入って来たゼルミーラたちと感激の再会を果たし、運命の過酷さとこれからの希望を語り合う。(三重唱「嘆き悲しむ父親の」)そこへ軍楽隊の帰還を知らせる行進曲が聞こえてくる。 _START_SECTION_ 第3場 _START_PARAGRAPH_ 舞台はゼウスの神殿の前。_NEWLINE_集まった人々が、凱旋してきたイーロを喜びと共に迎える。イーロは愛する妻ゼルミーラと息子に早く会いたいと思うが、ようやくそれが実現し彼らはひしと抱き合う。(アリア「懐かしい土地よ」)しかし、ゼルミーラはこのレスボスで起こった状況をありのままに話そうかためらう。lその後アンテノレとレウチッポと会ったイーロは、彼らからゼルミーラがポリドーロを裏切りイーロも裏切っているのだと偽りの言葉を聞かされ、信じ込まされる。一方ゼルミーラは、エンマから、アンテノレがゼルミーラをアゾール殺害の罪で告発した聞かされる _START_SECTION_ 第4場 _START_PARAGRAPH_ 舞台は王宮の広間。_NEWLINE_アンテノレは、アゾールに変わって王となり、戴冠式を挙行する。その後無実の罪で告発されたぜルミーラが現れ、自分は無実だと叫ぶが、聞き入れてもらえず逆に投獄されてしまう。(フィナーレ「土手を打ち破ってあふれ出る川」) _START_SECTION_ 第1場 _START_PARAGRAPH_ 舞台は王宮の一室。ゼルミーラがイーロに宛てた手紙を奪い取ったアンテノレは、その手紙に、彼女が父親殺しに関わっていないこと、またポリドーロが生きていることを暗示したことが書かれているのを知り、ゼルミーラへの監視を強化させる。_NEWLINE_ _NEWLINE_その頃エンマは、ゼルミーラの息子を連れて安全な場所へと避難させる。(アリア「さあ、この子を、あなた方に預けます」) _START_SECTION_ 第2場 _START_PARAGRAPH_ 舞台は城壁の外。ゼルミーラへの愛を失ったことを悲しんでいるイーロは、墓の中からポリドーロが現れるので驚く。2人は再会を喜び合い、イーロはこれまでの出来事を説明して、ゼルミーラへの中傷に反論する。_NEWLINE_イーロがポリドーロを逃がすことを企てていることを知ったアンテノレは、ポリドーロを捕らえて投獄する。ゼルミーラは父の命と引き換えに自分の命をと訴え、人々はゼルミーラを擁護する者と責める者とに分裂する。_NEWLINE_エンマが、アンテノレとレウチッポによって、ポリドーロとゼルミーラを殺害する計画が立てられていることを知り、イーロに助けを求めに行く。 _START_SECTION_ 第3場 _START_PARAGRAPH_ 最後は牢獄の中。ゼルミーラとポリドーロはが不運を嘆いている。ちょうど幸運にも、そこへ軍勢を率いたイーロが現れ、2人を助け出し、代わりにアンテノレとレウチッポを逮捕投獄する。こうしてレスボスに平和が戻り、それを喜ぶゼルミーラの歌で幕となる。(アリアフィナーレ「神々よ、真なのでしょうか」)
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Q11314992
_START_ARTICLE_ ゼロの世界 _START_PARAGRAPH_ ゼロの世界(-せかい)は、ニッポン放送の制作で、かつて同局の夜の時間帯で放送されていたラジオ番組である。
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Q11315089
_START_ARTICLE_ ソウル・アンダーテイカー _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ ソウル・アンダーテイカー――それは彷徨える魂を月に還す「魂の葬儀屋」。_NEWLINE_自他共に認める"馬鹿"である江藤比呂緒は、十二歳の誕生日に父親から大型リボルバーのモデルガンをプレゼントされる。しかし、実はそのリボルバーは死を招く猫が取りついた本物以上に危険な武器だった。しかも、比呂緒にはたぐいまれな霊的な素質があり、リボルバーにとりつく猫の姿をした"死霊の目"ハンニバルを見ることができてしまう。さらに、同年代の少年でありソウル・アンダーテイカーの三嶋蒼儀と出会い、比呂緒はソウル・アンダーテイカーになることを決めるのだが……。
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Q781529
_START_ARTICLE_ ソプタン山 _START_SECTION_ 噴火 _START_PARAGRAPH_ 歴史的に記録されてきた噴火は、頂上火口や、北東の山腹に1906年に形成されたアエセプット (Aeseput) 噴火口で起こっている。これまでの噴火は、1450年、1785年、1819年、1833年、1845年、1890年、1901年、1906年、1907年、1908-2009年、1910年、2011-12年、1913年、1915年、1917年、1923–24年、1947年、1953年、1966–67年、1968年、1970年、1971年、1973年、1982年、1984年、1985年、1989年、1991-96年、2000–03年、2004年、2005年、2005–06年、2006年、2007年、2008年、2011年、2012年、2015年、2016年、2018年に記録されている。_NEWLINE_2008年6月6日の朝、ソプタン山は噴火し、火砕流は斜面を4 km down流れ下り、火山灰は上空2 kmまで噴き上げられた。_NEWLINE_2011年7月2日、21:03 UTC における噴火では、噴煙が上空 5,000mに達した。_NEWLINE_2015年1月6日には、爆発によって頂上部の溶岩円頂丘の一部が崩壊して噴火が始まり、火砕流が西側斜面を流れ下った。_NEWLINE_2016年1月4日の爆発では、火山灰が上空2000mに達し、当局は、火山から 4 km の範囲を立ち入り禁止とした。資料によっては噴煙の高さは上空12km以上に達したともいう。_NEWLINE_2018年10月3日の噴火では、上空6,000m (19,700ft) に及ぶ巨大な噴煙柱が形成された。この噴火は、大きな津波被害をともなった2018年スラウェシ島地震から1週間足らずで発生した。
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Q915362
_START_ARTICLE_ ソユーズ32号 _START_SECTION_ 打上げとステーションの起動 _START_PARAGRAPH_ ソユーズ32号は2人の乗組員を乗せて1979年2月25日に打ち上げられた。主な目的は、今後の長期滞在のためにサリュート6号のシステムをオーバーホールすることであった。また宇宙滞在記録の更新にも挑戦した。ソユーズ32号は翌日サリュート6号とドッキングし、3度目の長期滞在者となったリャホフとリューミンは、11月以来無人であったステーションを再起動した。ステーションに続くハッチが開くと、彼らは焼けた鉄の匂いを感じ、リューミンはこれを「宇宙の匂い」と呼んだ。_NEWLINE_乗組員は日々の業務に加え、2種類の医学実験を行った。1つは毎日の気分、任務、食事を記録するもので、もう1つは彼らの頻繁なコミュニケーションを観察して精神状態を記録するものであった。また、循環器の検査を8-10日毎に行い、体重も測定した。2週目まで毎日2.5時間の運動を行い、2.5lの水とともに平均3100calの食物を摂取した。_NEWLINE_3月1日には、ソユーズ宇宙船の推進システムを用いてステーションの軌道を上昇させた。当時ソビエト連邦は公表していなかったが、サリュート6号の推進システムは問題が生じていた。_NEWLINE_ウズラの卵を孵化させる実験も行われたが、成長は地上よりもずっと遅く、頭が欠けていた。3月6日にははんだごてを用いてビデオテープレコーダーが固定された。これは、この種の修理器具が宇宙で用いられた初めての事例だった。 _START_SECTION_ プログレス5号の到着 _START_PARAGRAPH_ 3月12日日に無人補給船プログレス5号が打ち上げられ、2日後にステーションとドッキングした。4日間かかって降ろした補給品の中には、ステーション修理の部品、予備の蓄電池、テレビモニター、壊れたものと交換するための新しいクリスタル炉、ガンマ線望遠鏡、食料等があった。合計300個1300kgの補給品の他、ステーションの推進剤1000kgも運ばれた。_NEWLINE_ソビエト連邦は、3月16日に推進システムの問題を明らかにした。彼らは、サリュートの燃料タンクが燃料を加圧する窒素ふいごに燃料を漏らしていると語った。エンジンシステムは影響を受けなかったが、バルブと加圧システムの調節器にはリスクがあった。そのため、乗組員はこのタンクを閉じて予備タンクを用いた。彼らはステーションを回転させることで漏れたタンクを空にすることを試み、3月23日までに成功して、タンクを窒素で満たし、蓋をした。_NEWLINE_同日、彼らはタンクを片付け、ステーションのシャワーを初めて用いた。スキューバ用のマスクを着けて目に水が入らないようにした。_NEWLINE_3月24日に地上管制と2経路のテレビリンクが可能なテレビモニターを設置し、マイルストーンに達した。これで初めて、宇宙飛行士が宇宙でテレビ画像を受け取ることができる用意になった。家族の声を聴くだけではなく画像を見ることは、特に長期滞在においては心理学的に重要であった。_NEWLINE_3月20日、プログレス5号がステーションの軌道を押し上げ、その後4月6日に、将来のソユーズ33号のため、ソユーズ32号が再び軌道を押し上げた。プログレス5号は4月3日にドッキング解除し、その2日後に軌道離脱した。 _START_SECTION_ ソユーズ33号の失敗 _START_PARAGRAPH_ ソユーズ33号は4月10日に4度目のインターコスモスプログラムの乗組員を乗せて打ち上げられた。ブルガリア人宇宙飛行士のギオルギー・イワノフは船長のニコライ・ルカビシュニコフとともに宇宙ステーションを訪れた。しかし、宇宙船が1000mまで近づくと、予定された6秒間のうち3秒間の噴射を行ったところでエンジンが停止した。ルカビシュニコフは、機体が強い衝撃を受けないように、計器パネルを抑えていなければならなかった。エンジンの点火が再度試みられたが、また失敗した。ステーションから見ていたリューミンは、燃焼中、ソユーズの後方に異常な横方向の輝きがあったと報告した。地上管制員はミッションを中止し、乗組員に地球帰還の準備をするように告げた。これは、ソユーズの推進システムが軌道上で故障した初の事例となった。_NEWLINE_ソビエト連邦がこの事態の深刻さを明らかにしたのは、1983年になってからだった。宇宙船は予備のエンジンを供えていたが、メインエンジンにより損傷されていた可能性もあり、乗組員は5日分の補給品で軌道離脱まで10日間を過ごさなければならなかったかもしれない。宇宙ステーションは、ドッキングが可能な1,000mまで近づくことができたが、両機は毎秒28mの速度で離れて行くため、手動操縦の計算をする時間が必要だった。いずれにしても、(サリュート6号に既にドッキングしている、ソユーズ33号と同型のエンジンを持つソユーズ32号を含め)ソユーズのエンジンは信頼できるものではなく、最良の選択だとは考えられなかった。_NEWLINE_結局、予備のエンジンは、予定よりも25秒長く点火したため、ソユーズは異常に鋭い弾道軌道を描き、乗組員は10Gもの加速に耐えなければならなかったが、ルカビシュニコフとイワノフは安全に帰還できた。 _START_SECTION_ プログレス6号と無人ソユーズの打上げ _START_PARAGRAPH_ 輝かしい国際ミッションの中止はソビエト連邦のメンツをつぶし、また訪問者の受入れを楽しみにしていたリューミンとリャホフの士気を下げるものであった。ソユーズ33号の飛行中止のニュースは驚きをもって迎えられ、その後サリュート6号乗組員からの全ての音声通信が途絶えた。彼らの悪いムードは数日続いた。ソユーズ33号の失敗後、ステーションの乗組員は、疑いのある宇宙船内に閉じ込められた。ソユーズ33号宇宙船はソユーズ32号と交換される予定だったが、この失敗によってソユーズ32号のメインエンジンの信頼性にも疑問が生じた。設計が正されて新しい機体が打ち上げられるまで、緊急時にはソユーズを利用可能な状態で、サリュートで安全に過ごした。6月5日に予定されていた5度目の国際フライトは延期された。_NEWLINE_リューミンとリャホフは、訪問する乗組員とともに行う予定だった実験(プログレス5号で運ばれていた)も含め、ステーションでの活動を継続した。実験には、Pirinと呼ばれた亜鉛結晶上での金属ウィスカーの形成観察や日中の大気のマルチスペクトル測定等が含まれていた。彼らは、メーデーには5日間の休暇を取った。_NEWLINE_プログレス6号は、約100個の物品を積み、5月13日に打ち上げられた。補給船のエンジンの設計はソユーズ33号とは異なっていたため、エンジン事故の影響は受けなかった。積み荷を降ろすのに2日かかり、新しい航行ユニットが設置され、5月22日に補給船によりステーションの軌道を押し上げた。燃料の補給は5月28日に完了し、6月4日から5日に軌道の調整が行われ、プログレス6号は6月8日にドッキング解除した。_NEWLINE_ソユーズ34号は無人で6月6日に打ち上げられ、6月9日に空いていた後方ポートとドッキングした。このソユーズは新しい設計のエンジンを積んでおり、試験飛行にも成功し、サリュート6号の乗組員は信頼できる帰還機を入手することができた。無人飛行であったため、いくつかの生物実験サンプルが搭載された。_NEWLINE_ソユーズ32号には、交換した機器、処理した材料、露光フィルム、その他が2人分の宇宙飛行士の体重と同じ合計130kg分になるように乗せられた。6月13日にドッキング解除し、無人のままジェスカスガン北西295kmの地点に着陸した。翌日、ソユーズ34号は前方ポートに移され、プログレス7号のために後方ポートを空けた。 _START_SECTION_ プログレス7号、電波望遠鏡の展開、地球への帰還 _START_PARAGRAPH_ プログレス7号は6月28日に打ち上げられ、2日後にサリュート6号とドッキングした。食品、植物、手紙、直径10mの電波望遠鏡を含む1230kgの補給品を運んだ。ステーションの軌道は7月3日から4日に399-411kmまで押し上げられ、サリュートの運用史上最高の高度となった。これは、1979年にこれ以上のプログレスの飛行が予定されておらず、またサリュートの推進システムに懸念があったため、乗組員の地球帰還前に軌道をできるだけ高くしておくという決定がなされたためである。燃料は7月17日に移された。プログレスがドッキング解除すると、ワイヤーメッシュのパラボラ望遠鏡が広げられた。補給船に搭載されたカメラがその模様を地球に送信した。_NEWLINE_電波望遠鏡は後方のドッキングポートに配置されたが、その結果は期待を裏切るものであり、乗組員は8月9日にこれを放出した。アンテナがポートにひっかかるトラブルが起き、疲れ切った宇宙飛行士は絡まりを解くために8月15日に予定にない宇宙遊泳を行う必要に迫られた。命綱をつけたリューミンは、ハンドレールを使ってアンテナを捕獲し、切断した。その後彼とリャホフは、ステーションの外部に設置された実験材料を回収した。ミッションの最終盤に宇宙遊泳が行われたため、最良の体調ではないことが懸念となり、彼らは万一生き残れなかった場合のためにソユーズ帰還機の中に遺書を残した。_NEWLINE_彼らは様々な実験結果をソユーズ34号に詰め、8月19日に宇宙ステーションを離れ、2日後に大気圏再突入してジェスカスガン南東170kmの地点に着陸した。無重力環境に6か月も滞在してかなり弱っていたため(贈られた花束が「1トンのレンガ」のように感じられたと報じられている)、ソユーズ効果モジュールから脱出するために滑り台が用意された。リャホフは飛行中に5.5kg痩せ(リューミンの体重は同じだった)、二人とも下肢の体積が20%減っていたが、予想されていたよりも数日早く、7日間で回復した。_NEWLINE_このミッションは175日間続き、1978年にソユーズ29号が打ち立てた139日間の記録を上回った。
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Q11315377
_START_ARTICLE_ ソランジュ・クリンカ _START_PARAGRAPH_ ソランジュ・アンヌ・クリンカ(Solange Anne Koulinka、1958年-)は、コンゴ共和国の女子ハンドボール選手。現役時代は赤い悪魔('Diables rouges')と呼ばれた。_NEWLINE_1980年に開催されたモスクワオリンピックにコンゴ共和国から初のオリンピック出場となったハンドボールチームを率いて出場した。ソビエト連邦、ユーゴスラビア、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアといった当時のヨーロッパの強豪に勝ち星を挙げることはできなかったものの、クリンカはチームのエースとして総得点の46点のうち19点を得点した。_NEWLINE_現在はコンゴ共和国の隣国であるガボンにおいて女子ハンドボール代表チームのコーチを務めている。
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Q1307876
_START_ARTICLE_ タイコンデロガ砦包囲戦 _START_SECTION_ 背景 _START_PARAGRAPH_ アメリカ独立戦争の初期にあたる1775年9月、大陸軍はカナダ侵攻作戦を開始した。この侵攻は1776年5月にケベックに到着したイギリス軍の大部隊によってタイコンデロガ砦まで追い返され、7月には悲惨な結末で終了していた。1776年10月に起こったバルカー島の戦いでは大陸海軍の小艦隊がシャンプレーン湖で敗北した。しかしイギリス軍はシャンプレーン湖で艦隊を建造するために時間を費やしたために、ガイ・カールトン将軍は1776年中にタイコンデロガ砦を襲う目論見を中断した。その前衛隊は砦まで3マイル (5 km) の所まで迫っていたが、作戦行動を行うには季節的に遅かったことと、冬季に湖岸の兵站線を維持することが難しかったことのために、その軍隊をケベックまで引き返させた。 _START_SECTION_ イギリス軍 _START_PARAGRAPH_ ジョン・バーゴイン将軍は1777年5月にケベックに到着し、そこに結集したイギリス軍を率いてタイコンデロガとハドソン川流域の支配権を獲得し、反乱軍の領域を2分することを目指して南に侵攻する準備をした。その軍隊は第9、第20、第21、第24、第47、第53および第62歩兵連隊で構成された。さらにケベックに守備隊として残されていた他の連隊の一部中隊も帯同した。軽歩兵と中隊が前衛隊を形成し、サイモン・フレーザー准将が指揮した。残りの正規兵はウィリアム・フィリップス少将の指揮で軍の右翼を、リーデゼル男爵の指揮するドイツ人傭兵部隊が左翼になった。リーデゼルの部隊はレッツ、リーデゼル、シュペヒト、バーナーおよびヘッセン=ハナウの連隊で構成され、その他に擲弾兵1個連隊と馬の無い竜騎兵1個連隊があった。これらの部隊の大半は1776年に到着しており、大陸軍をケベックから追い出す作戦に参加していた。_NEWLINE_バーゴイン軍の正規兵総数は約7,000名だった。これに加えて約800名のインディアン戦士と比較的少数のカナダ人とロイヤリストがおり、これらは主に斥候と遮蔽偵察に使われた。さらに1,000名以上の文民も帯同しており、その中には妊娠中のリーデゼル男爵夫人とその幼い子供達3人も含まれていた。これら非軍人も含めると、バーゴイン軍の総勢は1万人を超えていた。_NEWLINE_バーゴインとカールトン将軍は6月14日にシャンプレーン湖北端に近いサンジャン砦で軍隊を査閲した。6月21日にはこの軍隊を運ぶ艦隊が湖上に揃い、6月30日には南の守備隊が居ないクラウンポイント砦に到着した。インディアンや前衛隊が効果的な遮蔽を行っていたので、タイコンデロガ砦に駐屯する大陸軍守備隊は湖を進んでくる敵軍の正確な位置も勢力も分かっていなかった。バーゴインはその途上で大仰でもったいぶった文体のアメリカ人に宛てた宣言書を書いていたが、その文章でバーゴインは有名になり、かつ批判やパロディー化されることが多い。 _START_SECTION_ 大陸軍の守備隊 _START_PARAGRAPH_ 大陸軍は1775年5月にタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦をそこにいた小さな守備隊から奪って以来占領していた。1776年と1777年、タイコンデロガ砦周辺の防御陣地を強化する努力を続けていた。東のインデペンデンス山にはインデペンデンス砦を構築し、北西のホープ山も防御が施された。タイコンデロガとインデペンデンス両砦の連絡を図るためにラシュート川の河口近くに湖を渡す舟橋が建設された。_NEWLINE_タイコンデロガ砦の指揮官は1777年初期に何度か変更された。1777年までフィリップ・スカイラー将軍が大陸軍北部方面軍の指揮を執っており、ホレイショ・ゲイツ将軍がタイコンデロガ砦の指揮官を務めていた。1777年3月、大陸会議は北部方面軍全軍の指揮権をゲイツに与えた。スカイラーがこれに抗議したので大陸会議は5月に命令を取り消し、このときゲイツはスカイラーの下で仕える気が無かったのでフィラデルフィアに戻っていた。砦の指揮はバーゴイン軍が到着する僅か3週間前に砦に来ていたアーサー・セントクレア将軍に渡された。_NEWLINE_砦の全体は大陸軍の少勢力の数個連隊とニューヨークなど近在の植民地から来た民兵隊が守っていた。6月20日にセントクレアおよびスカイラー将軍が作戦会議を開き、「砦の現勢力は士卒合わせて有効数で2,500を下回っており、守るには大きく不足していること」、および「撤退の準備をするのが賢明であること」という判断がなされた。その結果2つの経路を通って撤退する作戦が立てられた。最初の経路は水路によって湖の航行可能な南端であるスキーンスボロに向かうものだった。2つ目の経路は陸路東のニューハンプシャー勅許地(現在のバーモント州)ハバードトンへの険しい道を進むものだった。 _START_SECTION_ シュガーローフ _START_PARAGRAPH_ シュガーローフと呼ばれた高地(現在はデファイアンス山と呼ばれている)がタイコンデロガとインデペンデンス両砦を見下ろす位置にあり、そこに大型の大砲を据えれば両砦は守ることができなくなるものだった。この戦術的難点は、ゲイツが指揮官のときにジョン・トランブルが指摘していた。トランブルとアンソニー・ウェインおよび負傷していたベネディクト・アーノルドがその頂上に登り、砲架を引き上げることは可能だろうとコメントしていたのだが、イギリス軍がその高みに大砲を据えるのは不可能だと信じられていた。_NEWLINE_シュガーローフの守りあるいはそれが無いことは、タイコンデロガ砦が「北のジブラルタル」と呼ばれ、死守されなければならないという多くの認識によって複雑にされていた。砦を放棄することも、小部隊でそれを守ることも(陽動行動に反応するには十分だが力攻めには十分でない)政治的には可能な選択肢と見られてはいなかった。砦と関連する外部工作物を守ることがそこに駐屯する全軍の使命であり、シュガーローフを守る部隊はいなかった。さらにジョージ・ワシントンと大陸会議は、ケベックにいることが分かっていたバーゴイン軍が海路ニューヨーク市に向い南から攻撃してくる可能性が強いという見解だった。_NEWLINE_6月20日の作戦会議の後、スカイラーはセントクレアに出来る限り砦を死守し、かつ退路を塞がれないようにしておくことと命令していた。スカイラーはオールバニにいた予備隊700名の指揮を執り、ワシントンはハドソン川のさらに下流、ピークスキルで4個連隊に出撃準備して待機するよう命令していた。 _START_SECTION_ イギリス軍の進軍 _START_PARAGRAPH_ 7月1日、セントクレア将軍はこの時も4マイル (6.4 km) 向こうで陣を布いたバーゴイン軍の勢力を知らなかった。バーゴインはフレイザーの前衛隊と右翼部隊を湖の西岸に進ませホープ山の守備隊を遮断しようとしていた。リーデゼルとドイツ人傭兵の部隊は湖の東岸を進み、インデペンデンス山とハバードトンへの道路を目指すこととした。バーゴインは7月2日に前進を命じた。_NEWLINE_7月2日朝、セントクレアはホープ山の防衛拠点にある守備隊が突出しており、捕獲される怖れがあったので、これを撤退させることにした。そこの分遣隊は工作物に火をつけ、フランス防御線(1758年のカリヨンの戦いでフランス軍守備隊が陣取ったのでこう呼ばれていた)まで後退したが、バーゴイン軍前衛が到着する時点よりそれほど前ではなかった。その日の午後、イギリス兵1個中隊とインディアンがその前線に向かったが、損傷を与えられるほど近づかないままに発砲を始めた。セントクレアはその配下の兵士達に敵が近づくまで発砲しないよう命令していたが、ジェイムズ・ウィルキンソンが先ず1人のイギリス兵に発砲し、訓練の足りない守備兵が一斉にそれに続いた。ウィルキンソンの一撃でそのイギリス兵を倒し、イギリス部隊が逃亡した。倒した兵士を捕まえると無傷であることが分かり、しかも酒を飲んでいたので倒れたことが分かった。セントクレアは捕獲されたロイヤリストの振りをする男とその兵士を置き換える策略を通じて敵軍の性格を知った。_NEWLINE_フレイザーの前衛部隊は7月3日にホープ山を占領した。バーゴインは幾らかの斥候とインディアンに湖の東岸に行ってドイツ人部隊の前衛偵察を命じ、ドイツ兵の幾らかを西岸に向かわせるようにした。イギリス軍の宿営地は大陸軍の前線近くにあるものがあったので、大陸軍の銃火の洗礼を受けた。このことがあってもタイコンデロガとジョージ湖の間の陸路に架かる橋をイギリス軍が修繕をすることを妨げなかった。_NEWLINE_イギリス軍の工兵がシュガーローフの戦略的位置づけを見出し、ホープ山から大陸軍が撤退したことでそこへ行く道が開けたことを認識した。7月2日から工兵部隊がシュガーローフ頂上を切り開き大砲を据える作業を始めた。その作業は大陸軍兵に気付かれないよう慎重に進められた。彼らは数日を使って大型大砲数門を斜面の上に引き上げた。バーゴインの目標はリーデゼルのドイツ人部隊が大陸軍の退路を塞ぐ配置に就いたときにその罠を弾けさせることだった。 _START_SECTION_ 大陸軍の撤退 _START_PARAGRAPH_ 7月4日、大陸軍は前年のアメリカ独立宣言から1周年を祝すために幾らかの乾杯をして静かな祝宴をもった。その夜、インディアンがシュガーローフの上で火を灯したために大陸軍に居場所をしらせたので、急襲の可能性が無くなった。7月5日朝、セントクレアが作戦会議を招集し、撤退の決断が下された。砦の状態は完全に監視されていたので、動きを知られないように出発は夜半まで遅らされた。セントクレアは補給係将校との会話の中で、砦を守ることで「自分の性格は守るが軍隊を失う」か、撤退することで「軍を救うが自分の性格を失う」ことになると言って、その決断に対して予測される政治的反応にはっきりとした示唆を与えていた。_NEWLINE_積み込むことのできるあらゆる武器に加えて、負傷兵、宿営地に付き従った者達、および物資が200隻以上の船からなる艦隊に積まれ、スキーンスボロに向けて湖上を動き始めた。これにはピアース・ロング大佐の連隊が付き従った。船の数が足りなかったので、4人の負傷兵が後に残され、また大型の大砲と、テントから牛まであらゆる種類の物資も残された。軍隊の残りはインデペンデンス山に渡り、ハバードトン道路を下った。リーデゼルの部隊はまだ到着していなかった。一握りの兵士が舟橋の所に残り、イギリス軍が近づけばその上の大砲を発砲することになっていたが、翌朝実際にイギリス軍が到着した時にその兵士達は酒で酔っ払っていた。_NEWLINE_イギリス軍は1発の銃弾も放つことなく砦を占領し、フレイザーとリーデゼルの部隊から分遣隊が出て、ハバードトン道路を撤退する大陸軍の追跡に出発した。一方バーゴインは部隊の幾らかを急ぎ湖を渡ってスキーンスボロに向かわせた。 _START_SECTION_ 戦いの後 _START_PARAGRAPH_ 大陸軍が撤退する前の小競り合いで少なくとも大陸軍兵7名が戦死し、11名が負傷した。イギリス軍の損失は集計されていないが、小競り合いで少なくとも5名が戦死していた。_NEWLINE_大陸軍はハバードトン道路をうまく進んだ。部隊の大半は7月6日の夜に30マイル (50 km) の行程にあるキャッスルトンに到着した。7月7日にイギリス軍追跡部隊が大陸軍後衛に追いついてハバードトンの戦いがおこったが、このことで大陸軍主力の逃亡を可能にし、最後はエドワード砦でスカイラーの部隊と合流できた。船でスキーンスボロに逃げた大陸軍の小部隊はバーゴイン軍前衛とアン砦の戦いを行ったが、スキーンスボロの小競り合いで装備や多くの病人および負傷兵を放棄するしかなかった。_NEWLINE_タイコンデロガ砦の対戦はバーゴイン軍の進行速度を実質的に遅らせることができなかったが、バーゴインはタイコンデロガ地域の守りのために900名以上を残し、スキーンスボロでは散らばっていた部隊が再集合するのを待つために7月11日まで留まった。その後、スキーンスボロとエドワード砦の間では材木で埋まった道路を進むために遅らせられた。これはスカイラー軍が樹木を切り倒して道に転がし、湿地では橋を破壊していったためだった。バーゴインのこの作戦は最終的に失敗し、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。ゲイツ将軍は11月20日にジョージ・クリントン知事に当てた報告書で、タイコンデロガとインデペンデンスの砦は退却するイギリス兵によって放棄され焼かれたと告げていた。 _START_SECTION_ 政界と大衆の非難 _START_PARAGRAPH_ タイコンデロガ砦からの撤退後に政界と大衆の非難が凄まじかった。大陸会議は衝撃を受けて、スカイラーとセントクレアの責任を問うて批判した。ジョン・アダムズは「我々は1人の将軍を射撃するまで基地を守ることはできないと思う」と記し、ジョージ・ワシントンはそれが「悔しさと驚きの出来事であり、私の理性の範囲内では理解できない」と語った。セントクレアとスカイラーは退却と引き換えに賄賂を受け取った裏切り者という噂まで広まった。_NEWLINE_スカイラーは最終的に北方方面軍の指揮官を外され、ゲイツ将軍に挿げ替えられた。タイコンデロガ砦の陥落がその理由に挙げられた。セントクレアは指揮官を外され、審問のために作戦本部に送られた。セントクレアはその行動が名誉あるものであると主張し、軍法会議での査問を要求した。その軍法会議はワシントンに対する政治的陰謀が露見したために1778年9月まで開かれなかった。セントクレアは完全に無罪が証明されたが、その後は野戦指揮官の任務を与えられなかった。スカイラーも軍法会議で如何なる悪事も証明されなかった。_NEWLINE_このタイコンデロガ陥落の報せはヨーロッパの新聞のヘッドラインを飾った。イギリス国王ジョージ3世は薄着の女王の部屋に飛び込み、「私はやつらを叩いた!私は全てのアメリカ人を叩いたのだ」と叫んだと伝えられている。フランスとスペインの宮廷は、アメリカ人を支持し、彼らにその港を使うことを認め、貿易も行っていたので、その報せに不満だった。この結果はイギリスを大胆にさせ、フランスとスペインにアメリカに対する港を閉じるよう要求させた。この要求は拒否され、ヨーロッパ列強の間の緊張を高まらせた。
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Q11315690
_START_ARTICLE_ タイシノブクニ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 本店は東京都港区南青山。 1998年、ロンドンファッションウィーク期間中にランウェイショーを行ったのが起源。_NEWLINE_2005年から東京コレクションに参加。_NEWLINE_2007年、ブランドネームをボタニカに改名すると共に活動を休止するが、2009年A/Wから再開し現在に至る。 _START_SECTION_ デザイナー _START_PARAGRAPH_ 信國太志
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Q11316174
_START_ARTICLE_ タッチ・キム・シー _START_PARAGRAPH_ タッチ・キム・シー(Touch Kim Sy、1940年8月13日)はカンボジアの男子セーリング選手。_NEWLINE_1964年の東京オリンピックに出場しており、フィン級で出場33人中最下位の33位になっている。
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_START_ARTICLE_ タミー・テレル _START_SECTION_ 幼少期 _START_PARAGRAPH_ タミーは1945年、フィラデルフィアでトーマス・モンゴメリーとジェニー・モンゴメリーの間に産まれた。父トーマスは床屋のオーナーかつ地方政治家、母ジェニーは女優であった。_NEWLINE_両親は男の子が生まれると思っていたため父親の名前をつける予定であったが、女の子だったためトーマシナ(Thomasina)と名付けられた。彼女はトミーという愛称で呼ばれたが、12歳の時に映画「タミーと独身者」(Tammy and the Bachelor)とそのテーマ曲「タミー」からタミーと改称する。_NEWLINE_タミーはその頃より偏頭痛に悩まされていた。当時は特に気にされることはなかったが、後にこれが脳腫瘍の兆候だったのではないかと家族は考えた。 _START_SECTION_ 活動初期 _START_PARAGRAPH_ 1960年、タミーはセプター・レコーズのサブ・レーベル、ワンドと契約し、タミー・モンゴメリー(Tammy Montgomery)名義でデビューする。_NEWLINE_1961年と1962年に「イフ・ユー・シー・ビル」(If You See Bill) と「ヴォイス・オブ・エクスペリエンス」(Voice of Experience)の2枚のシングル及びデモ・レコーディングを残した後レーベルを離れ、ジェームス・ブラウン・レヴューのバックアップ・シンガーとして契約。ジェームス・ブラウンのトライ・ミー・レコーズで1963年、「アイ・クライド」(I Cried)をリリース。ビルボード・ホット100で99位と初のチャート入りを果たす。_NEWLINE_しかしこの頃タミーとブラウンは虐待的性関係を持つようになる。ある夜ブラウンはタミーがショーの全体を観ていなかったことに激昂、路上でタミーに激しく暴力を振るい、タミーは流血する事態となった。この事件後タミーはブラウンの元を去った。_NEWLINE_その後チェッカー・レコーズと契約するものの成功は得られず、音楽業界から半ば引退しペンシルヴァニア大学の医大予科に進学、2年間在学した。_NEWLINE_在学中ジェリー・バトラーにナイトクラブでのショーで共に歌うように要請され、学業との並行を約束された上でツアーに参加。1965年4月のデトロイトでのツアー公演後にモータウン社長ベリー・ゴーディにスカウトされ、彼女の20歳の誕生日にモータウンと契約した。_NEWLINE_ゴーディはタミー・モンゴメリー(Tammy Montgomery)という名が長過ぎると思い、タミー・テレル(Tammi Terrell)と改名することを提案、受け入れられた。ゴーディはこちらの方がセックス・アピールがあると感じた。_NEWLINE_タミーは1965年に「アイ・キャント・ビリーヴ・ユー・ラヴ・ミー」(I Can’t Believe You Love Me)、翌1966年に「カモン・アンド・シー・ミー」(Come On And See Me)をリリース。共にR&Bチャートでトップ40に入った。その他スティーヴィー・ワンダーやアイズレー・ブラザーズの楽曲もレコーディング。_NEWLINE_最初のシングル・リリース後モータウン・レヴューに加わりテンプテーションズの前座としてツアーを巡る。ツアー中にテンプテーションズのスター、デイヴィッド・ラフィンと恋仲になり結婚を申し込まれるが、タミーはデイヴィッドが妻帯者でその上デトロイトに別の愛人もいることを知ってしまう。それを原因にして公然と喧嘩をするようになった二人だが、デイヴィッドがオートバイのヘルメットで彼女の頭を打ったことで破局した。デイヴィッドはハンマーで頭を打ったという噂も流れた。 _START_SECTION_ マーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーとして成功 _START_PARAGRAPH_ 1967年早々に、タミーはモータウンによりマーヴィン・ゲイのデュエット・パートナーに選ばれる。マーヴィンは過去にメリー・ウェルズ、キム・ウェストンとのデュエットをリリースしていた。_NEWLINE_マーヴィンはタミーと共にレコーディングするまで彼女がどの程度の実力か知らなかったようである。最初のレコーディングはアシュフォード&シンプソン作の「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(Ain’t No Mountain High Enough)で、二人の歌は別々に録られ、デュエットのようにミックスされた。_NEWLINE_この曲はビルボード・ホット100の19位、R&Bチャートの3位を記録。タミーは一躍スターの仲間入りを果たした。次作「ユア・プレシャス・ラヴ」(Your Precious Love)も同様にビルボード5位、R&Bチャート2位のヒットとなった。_NEWLINE_1967年夏には彼らの最初の3枚のシングルも含まれたアルバム「ユナイテッド」(United)がリリースされ、R&Bアルバム・チャート7位を記録。_NEWLINE_元来ステージ恐怖症であったマーヴィンであるが、タミーに触発され共にライヴ・パフォーマンスをするようにもなった。 _START_SECTION_ 癌の発見 _START_PARAGRAPH_ タミーはスターとしての地位を確立する一方、幼少期からの頭痛が継続的に発症するようになっていった。彼女は痛みを訴えたが、周囲は充分に活動できると思っていた。_NEWLINE_しかし1967年10月14日、ヴァージニア州のハンプデン・シドニー大学での公演中タミーは倒れてしまう。マーヴィンに支えられステージを降りたタミーだが、後に医者はタミーの脳の右側に悪性腫瘍を発見する。_NEWLINE_最初の手術後、タミーはマーヴィンとのデュエットで「エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアル・シング」(Ain’t Nothing Like The Real Thing)「ユーアー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ」(You’re All I Need To Get By)をレコーディング。両作ともR&Bチャート1位の大ヒットとなった。1968年8月には両作を収めたアルバム「ユーアー・オール・アイ・ニード」(You’re All I Need)がリリースされ、ヒットした。_NEWLINE_しかしタミーの楽観視に反し病状は悪化、更なる手術が必要となる。病気が原因で1969年までに彼女はステージでの演奏活動から引退することとなった。_NEWLINE_1969年1月には最初で最後のソロ・アルバム「イレジスティブル」(Irresistible)が発表されたが、タミーの病状では新しい録音が出来なかったため、このアルバムは1965年から1968年に録られた音源で構成されている。_NEWLINE_1969年9月にはマーヴィンとのデュエット3作目、「イージー」(Easy)がリリースされるが、後年マーヴィンは本作の新録にはタミーが参加していないと暴露している。タミーの代わりを作曲兼プロデュース・チーム、アシュフォード&シンプソンのヴァレリー・シンプソンが歌っているとし、「ベリー・ゴーディがタミーの病気で商売した」と言っている。_NEWLINE_ヴァレリー・シンプソンはマーヴィンの発言を否定した上でマーヴィンの歌入れ時にタミーの代役をしたことは認め、後にタミーの歌に差し替えたと主張。真相は不明である。(但し僅かではあるが数曲はタミーの過去のソロ音源にマーヴィンが歌を重ねているため、アルバムすべてが疑わしい訳ではない。)_NEWLINE_1969年の終わり、マーヴィンのアポロ・シアター公演にタミーは車椅子で訪れた。タミーを見つけたマーヴィンはタミーの元に駆けつけ、共に「ユーアー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ」を歌う。これがタミーにとって最後のパフォーマンスとなった。 _START_SECTION_ 死去 _START_PARAGRAPH_ 1970年早々にはタミーは車椅子に固定され、視力と髪を失う。体重は42kgまで落ちた。1月21日、8回目の手術後タミーは昏睡状態に落ち入り、3月16日、脳腫瘍による合併症で死亡。25歳の誕生日まであとひと月ほどであった。_NEWLINE_タミーの葬儀はフィラデルフィアのジェーンズ・メソジスト教会で行われた。タミーの婚約者によると、タミーの母は怒りからモータウン関係者の参列を一切させなかったが、唯一、マーヴィン・ゲイのみが許された。マーヴィンは「ユーアー・オール・アイ・ニード・トゥ・ゲット・バイ」が流れる中、追悼の言葉を述べた。_NEWLINE_マーヴィンの伝記作者数人は、マーヴィンはタミーの死を完全に乗り越えることは無く、それが彼の鬱病と薬物乱用を招いた、と語っている。また彼の1971年の傑作「ホワッツ・ゴーイン・オン」(What’s Going On)もタミーの死に対する反応のひとつとしている。
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_START_ARTICLE_ タン紫棋 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 上海出身で、4歳のころに香港へ移住。7歳のころにテレビ出演したことがあった。2008年に「GEM」で音楽業界にデビューした。2009年には映画にも出演。2014年に湖南衛視で放送された『我是歌手』第2シーズンで準優勝。2015年からはワールドツアーを展開。北京工人体育館でライブを行った。
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_START_ARTICLE_ ダイナマイト・キッド _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 元プロレスラーのテッド・ベトレーに師事し、彼の紹介でビリー・ライレー・ジムにも出稽古に行くなどしてシュート・レスリングを学び、1975年に17歳でデビュー。ビッグ・ダディらクラブトリー3兄弟の主宰するジョイント・プロモーションズを活動拠点に、1977年はローラーボール・マーク・ロコと抗争、1978年1月25日にはジム・ブリークスからブリティッシュ・ウェルター級王座を奪取した。同年4月にカナダのカルガリーへ渡り、スチュ・ハートのスタンピード・レスリングに定着、7月に英連邦ミッドヘビー級王座の初代王者に認定されている。以降ブレット・ハートと同王座を争い、元NWA世界ジュニアヘビー級王者のネルソン・ロイヤルとも対戦した。_NEWLINE_1979年7月、「英連邦ジュニアヘビー級王者」として国際プロレスの「'79ビッグ・サマー・シリーズ」に初来日。7月19日の北海道木古内町大会での初戦では、寺西勇を相手に30分時間切れ引き分け。7月20日には秋田県大館市で阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦してダブル・カウントアウト、翌7月21日には新潟県村上市で原と国際プロレス初のラウンド制のダブル・タイトルマッチを行い、4分7ラウンドの時間切れで引き分けている(この3試合は東京12チャンネル『国際プロレスアワー』で録画中継された)。国際プロレス来日時のギャラは、カルガリーにおけるギャラの週400ドルを上回る週1000ドルだったとされる。_NEWLINE_しかし、同時期に国際プロレスと提携していた新日本プロレスもスタンピード・レスリングに急接近し、初来日直後の同年8月にアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳のカルガリー遠征を実施、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の90分特番において、8月18日に行われた藤波VSキッドのWWFジュニアヘビー級王座戦を録画中継した。翌1980年1月、国際プロレスはキッドの再来日を予定していたものの(国際プロレスの吉原功社長はキッドを日本陣営に入れて、同時参加のキラー・カール・クラップやジプシー・ジョーと対戦させる予定だったという)、最終的には新日本プロレスへの移籍が決定する。以降、新日本のジュニアヘビー級戦線にて、藤波や初代タイガーマスクのライバルとなって活躍。1984年1月に開催されたWWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦では、従兄弟のデイビーボーイ・スミスおよびザ・コブラとの三つ巴決勝戦を制してチャンピオンに輝いている。_NEWLINE_この間、北米ではカルガリーを主戦場にしつつアメリカ合衆国本土にも進出。1982年8月30日には新日本のブッキングでニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初登場し、初代タイガーマスクと対戦している。1983年はオレゴン州ポートランドを拠点とする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)で活動、9月7日にカート・ヘニングを破りNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得し、11月12日にはジ・アサシン(デビッド・シェラ)と組んでヘニング&バディ・ローズから同タッグ王座を奪取した。本拠地のスタンピード・レスリングでは、1984年3月9日にキラー・カーンを破りフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得している。_NEWLINE_1984年11月、全日本プロレスへデイビーボーイ・スミスと共に移籍。新日本の「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に出場が予定されていたキッド&スミスが全日本の「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦するという衝撃的な移籍劇だった。キッド&スミスは、この移籍は当時新日本が提携していたWWFのカルガリー侵攻に対する反発であり、全日本サイドもアメリカでのNWA対WWFのレスリング・ウォーが原因であるとして、引き抜きではないことを主張していた。この事態を受け、MSGタッグ・リーグ戦の立会人として来日していたWWFの総帥ビンス・マクマホン・ジュニアは、新日本の坂口征二副社長の橋渡しでジャイアント馬場とトップ会談。選手引き抜き問題に関して話し合ったとされるが、翌1985年もキッド&スミスは日本では全日本プロレス、アメリカではWWFを主戦場に活動しており、実際は単なる表敬訪問に終わっている。なお、この時期よりキッドはウエイトアップを図り、スミス共々ヘビー級へ転向した(当時の公称として108kgまでビルドアップしたとされている)。移籍当時はテレビ朝日との契約問題がクリアされておらず、キッドの「'84世界最強タッグ決定リーグ戦」における試合は日本テレビ『全日本プロレス中継』では放送されなかった。_NEWLINE_1985年3月よりWWFに本格参戦して、スミスとのタッグチーム「ブリティッシュ・ブルドッグス」で活躍。1986年4月7日にはレッスルマニア2のシカゴ大会において、ドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)からWWF世界タッグ王座を奪取した。シングルでは、 1985年11月7日のPPV「ザ・レスリング・クラシック」で行われた16人参加のワンナイト・トーナメントに出場、1回戦でニコライ・ボルコフ、2回戦でアドリアン・アドニスを破り勝ち進んだが、準決勝でランディ・サベージに敗退した。また、ブリティッシュ・ブルドッグスのライバルチームだったルージョー・ブラザーズのジャック・ルージョーとは犬猿の仲で、バックステージでの私闘騒ぎを起こしている。_NEWLINE_1986年12月13日、カナダのハミルトンでのタッグマッチ(ブリティッシュ・ブルドッグスvsカウボーイ・ボブ・オートン&マグニフィセント・ムラコ)において、試合中のアクシデントにより椎間板に重傷を負った。この負傷は、キッドのその後の選手生命に大きな影響を与えることとなった。 _NEWLINE_1988年末にWWFを離脱して、1989年からは再びスタンピード・レスリングおよび全日本プロレスへ復帰。1990年にデイビーボーイ・スミスとのコンビを解散してからはジョニー・スミスとニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス(ブリティッシュ・ブルーザーズ)を結成、1991年4月6日に小橋健太&菊地毅を破りアジアタッグ王座を獲得した。スタンピード・レスリングではブッカー業務も手掛け、スモー・ハラこと北原光騎をカルガリーにブッキングしている。_NEWLINE_1991年の世界最強タッグ決定リーグ戦最終日に現役引退を表明したが、1993年7月に復帰。1996年10月にはみちのくプロレスの両国国技館大会に来日。ドス・カラス&小林邦昭とタッグを組み、初代タイガーマスク、ミル・マスカラス、ザ・グレート・サスケ組との対戦で久々に日本のファンの前へ姿を現したが、かつて誇った肉体美は面影もなく痩せ細り、体調の悪化が歴然としていた。 _START_SECTION_ 私生活、および引退後、エピソード _START_PARAGRAPH_ 現役時代に結婚した夫人とはキッドの家庭内暴力を理由に離婚。元夫人は自分の喉元へショットガンを突きつけられたと主張しており、キッド本人もこれを認めていた。その一方でキッドは「当時自宅には弾丸が無く、弾が入っていない銃で脅してみせただけ」と弁明しており、真相は明らかになっていない。_NEWLINE_晩年は現役時代のステロイド剤を始めとする多種の薬物群の投与や、1986年に負った椎間板の大怪我(上述)等の影響で車椅子生活を余儀なくされていた。_NEWLINE_キッドの影響下にあったクリス・ベノワが死去した2007年には、CNNの取材で現役時代のステロイドと鎮痛剤の使用について語った。_NEWLINE_2013年、ドキュメンタリー映画 "Dynamite Kid - A Matter of Pride" が完成。2月24日にマンチェスターのヒルトン・ホテルで行われたイベント試写会において、公の場へ久々に姿を見せた。_NEWLINE_2016年10月5日、NHK BSプレミアムで放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』に出演。脳卒中に倒れ介護施設に入所中であったが、タイガーマスク(佐山聡)のことなら話したいと特別に取材を受け入れた。_NEWLINE_60歳の誕生日を迎えた2018年12月5日、死去したことが複数のメディアにより報じられた。訃報を受けた佐山は「偉大なライバルだったトミーが亡くなり、悲しみに暮れています」とコメント。翌12月6日、自身が主宰するリアルジャパンプロレスの後楽園ホール大会において、追悼の10カウントセレモニーが行われた。_NEWLINE_現役当時は気難しいイメージで知られ、ファンサービスをほとんどしなかった。82年1月1日の新日本プロレス後楽園ホール大会でのサインボール投げで、不機嫌そうな顔で客席にビュンビュンボールを投げ込む姿はアメトーークのプロレス特集でも紹介された。また、少年時代の小橋建太がサインをお願いしようと色紙を差し出すと、やはり不機嫌そうに色紙を投げ捨ててしまった。それを反面教師として小橋はファンサービスに手を抜かないと誓った。80年代には当たり前だった花束嬢からの花束贈呈も不機嫌そうに受け取らないのもしばしばだった。実際には自身を日本人レスラーに対する外国人レスラー、すなわちヒールと捉えていたので、ファンに対しても優しくしなかった側面がある。佐山聡曰く本来は礼儀正しい性格で、英国マットではバックステージで大変慕われていたとのこと。_NEWLINE_タイガーマスクの負傷により空位となったベルトを賭けて小林邦昭と王座決定戦を行う際、試合前に女性アナウンサーから小林の印象を問われ「コバヤシなんか知らない。顔も見たこと無い。俺がチャンピオンだ」といかにもヒールらしい返答をしたが、アナウンサーの「サンキューベリーマッチ」という挨拶に対しては「ドーモ」と日本語で返す茶目っ気も見せた。_NEWLINE_前述の通り、日本マットでは一貫してヒールとしての姿勢を崩さなかったが、新日本時代のザ・コブラ戦や全日本時代の鶴田、天龍戦などではむしろキッドの方が圧倒的に声援を浴びた。小さな体で真っ向から勝負するキッドのファイトスタイルを、日本の目の肥えたファンはちゃんと評価していた。
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Q20041062
_START_ARTICLE_ ダイモス (漫画) _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ 古代の火星ではダイモス人とフォボス人の二つの種族が超科学文明を築いていた。だが両種族は「どちらが優れているか」を理由に戦争を繰り返していた。ついには核戦争を起こし、火星は死の星となってしまう。その際、脱出に成功した一部のダイモス人とフォボス人は地球へと移り住んだ。やがてフォボス人は「最も優れた種族である我々は、地球を支配して当然である」と度々地球支配を目論むが、ダイモス人によって妨害されてきた。数千年の時代が移って現代。ダイモス人が隠れ住む山村はフォボス人の奇襲を受け、主人公の真介(しんすけ)少年を除いてダイモス人は皆殺しにされてしまう。ただ一人生き延びた真介は、ダイモス人の守り神とも言える巨大ロボット『ダイモス』を発見して復活させ、フォボス人に対して反撃を開始した。
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Q839004
_START_ARTICLE_ ダッシュ!四駆郎 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『月刊コロコロコミック』(小学館)1987年12月号から連載され、同時期の『別冊コロコロコミック』や『コロコロコミック増刊号』にも掲載されている。1991年5月号からは連載時のタイトルに2が付いた。作者急病のため、1992年3月号を以て本誌連載は中断。回復後、完結編が『別冊コロコロコミック』に掲載された。単行本はてんとう虫コミックスより発刊、全14巻。2になった後の回も続けて収録されている。_NEWLINE_1989年10月3日よりテレビ東京系全国ネットでテレビアニメを放映開始。製作はテレビ東京およびアウベック / スタッフ21、企画は東急エージェンシー。『月刊コロコロコミック』や田宮模型は2クール放送終了後も続行の意志を持っていたが、東急エージェンシーの都合により1990年3月27日をもって終了した。それに伴い、玩具や模型の問屋が、このことをミニ四駆市場の縮小と受け取り(誤解し)、タミヤへのミニ四駆の発注を縮小。小売店でもミニ四駆の取り扱いが少なくなった。同時期、子供たちは『SDガンダム』など、他の娯楽に関心が向かっていたこともあり、第一次ミニ四駆ブームは終焉を迎える。しかしタミヤと『コロコロ』は展開を続け、1990年7月にはテレビスペシャル版「ダッシュ軍団VSホライゾン軍団」が放送された。この作品の後、数年を経て『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』で再びミニ四駆の大ブームが起きることとなる。_NEWLINE_1990年代後半より模型店などで掲示されるポスターやミニ四駆キットに同梱されるチラシでの展開として『真ダッシュ!四駆郎』が連載された(ただし未完のまま終了している)。_NEWLINE_2015年3月14日発売の『コロコロアニキ』第2号から新たに武井宏之の作による『ハイパーダッシュ!四駆郎』の連載が開始される。2006年に他界した徳田は原作者として名を連ねる。その武井は「ダッシュ3号 シューティングスター」の生みの親でもある(後述)。_NEWLINE_本項では原作者である徳田について、原作やアニメに登場する本人のキャラクターとして記す場合は「ザウルス」と表記する。 _START_SECTION_ ミニ四駆選手権編 _START_PARAGRAPH_ 幼き少年の日。少年・四駆郎の前からレーサーの父・源駆郎が究極のレース「地獄ラリー」に出走するため旅立った。別れを拒む息子に、父は一台のミニ四駆を託す。いつか息子が自らのことを解ってくれる日を信じて。_NEWLINE_父の旅立ちから数年の後、四駆郎はわんぱくな小学生に成長していた。地元で開催されたミニ四駆レースに出走した四駆郎は、あるトラブルに巻き込まれ、同じレース出走者であるタンクローという少年の怒りを買う。そこに皇と名乗る男が仲裁に入った。皇はレースによって決着をつけることを提案。四駆郎はレースに勝ち、タンクローと仲直りする。_NEWLINE_後日、皇は自らの住むクルーザーに四駆郎たちを招待。そこで四駆郎の持つマシンが自らの作ったものであることを明かす。と、同時に四駆郎たちに自分の妹である輪子と大きな屋敷に住む進駆郎、パンクローに引き合わせる。皇はこの5人でチームを作り、本格的なミニ四駆のチーム全国大会とその制覇を目指す心づもりだった。_NEWLINE_紆余曲折を経てチームは結成。皇の手によるニューマシンを手にして四駆郎たちは「ダッシュ軍団(ダッシュ・ウォリアーズ)」のチーム名で大会に挑むことになる。しかし戦いの中、ダッシュ軍団は自分たちのルーツとなる幻のマシン「地平線(ホライゾン)」の存在を知らされ、その後継を巡る争いに巻き込まれることとなる。_NEWLINE_伝説のマシン・ホライゾン。そして、ホライゾンの後継を狙う者たちと、一方でホライゾンの流れを組む者を倒そうと狙う者たち。それら全てを巻き込みながら、物語はホライゾンの謎と、そのマシン製作者である四駆郎の父・源駆郎の消息の謎をはらんで盛り上がっていく。 _START_SECTION_ 黒い風編 _START_PARAGRAPH_ (単行本12巻以降。タイトルに2が付く部分)_NEWLINE_ミニ四駆選手権終了を期にダッシュ軍団は解散する。四駆郎は燃えるものを失い、ただ日々を過ごしていた。_NEWLINE_ある時、黒い風(ブラックミストラル)と呼ばれる謎のレーサーが現れる。四磨、大道、三皇帝ら、選手権で戦ったライバルが悉く敗退していく。鬼堂院も例外ではなかった。_NEWLINE_四駆郎の家を訪れた鬼堂院は、桃太郎が黒い風から挑戦を受けていることを知り、四駆郎、源太と共に桃太郎を訪ねる。そこで四駆郎たちはフロントミッドシップマシン・ソリチュードを持つ砂布欽二郎と出会う。 _START_SECTION_ ハイパーダッシュ! 四駆郎 _START_PARAGRAPH_ ミニ四駆を使って大規模テロを起こす国際テロリスト集団「ダーク・ドミニオンズ(D・D)」が活動を開始し、ついに日本に上陸した。皇快男児は彼らに対抗すべくかつてのダッシュ軍団を招集、新たに開発したハイパーダッシュマシンを与え「ハイパーダッシュ軍団」を結成し、D・Dの野望を防ぐために立ち上がるのだった。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ この作品の連載当初は、ミニ四駆の概念がまだ曖昧だった。現在では、「ミニ四駆」は田宮模型の登録商標であり、それ以外の品やユーザーが個人で作り上げたものは、ミニ四駆とは言えないこととなる。しかし当時はそうした製品も一部でそれと同様の扱いを受けていたため、本来の定義ではミニ四駆たらないものもそれとして扱われていた。ミニ四駆が田宮模型の登録商標として認識され、その概念が確立されるのは、当作連載後期あたりになる。_NEWLINE_当作には現実のミニ四駆では無理のある描写や設定が多い。主人公たちの扱うダッシュ軍団の標準シャーシがその代表格で、本来の素材は通常のプラスチックだが、ダッシュ軍団のシャーシ素材は皇の独自開発品である軽量の炭素繊維強化プラスチックが使われている。この他にもボールデフを搭載したマシンや「スーパーVシステム」なる自動変速装置搭載のマシンなども登場した。これらの技術はそれ自体としては実在するものも多い。ただし、田宮模型の主催する実際のミニ四駆の一般公式大会では、田宮模型発売ではない独自のミニ四駆本体やシャーシ、パーツなどを搭載したマシンの参加は認められておらず、そのため同時期『コロコロコミック』に連載されていた『GO!GO!ミニ四ファイター』では「(『四駆郎』にあるような)独自開発品のシステムやシャーシでは公式レースには出られないのでご注意ください」と幾度となくアナウンスされている。シャーシに関してはのちに炭素繊維強化ナイロン樹脂製のスーパーX・XX・II・FMそしてMSシャーシにて実現した。_NEWLINE_アニメが放映していた時期は、田宮模型と並んでスポンサーとなっていたトミー(現・タカラトミー)から、同社のトミカとほぼ同じサイズにミニ四駆をミニカー化した玩具が発売されていた。モーターが搭載されておらず、自走はしない。_NEWLINE_この作品の特徴として、コース壁面の存在しないオフロード系の野外レースでは、本来は直線にのみ走るミニ四駆の方向転換を目的としたアイテムである、ガイドスティックが多用される。これはホッケーのスティックに近い形状を持つ棒で、打撃面にあたる部分をミニ四駆に当てることで方向転換をしていた。同様のことは非公認の競技で実施されていた例はあるものの、実際のレーサーミニ四駆の速度は子供の足では追いつけないほどのスピードを持っていたため、前述のようなガイドスティックでミニ四駆を操作することは現実的でない。
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Q1172038
_START_ARTICLE_ ダッソー・システムズ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ ダッソー・システムズ(Dassault Systèmes S.E.)(Euronext Paris: #13065, DSY.PA; Nasdaq: DASTY)は、フランスで最大、EUでもトップ2に入る規模のソフトウェア会社。2012年の売上高は世界のソフトウェア業界で15位。_NEWLINE_戦闘機ミラージュで知られるダッソー・アビアシオン(Dassault Aviation)が自社の設計用に開発した3D-CADであるCATIAの開発部門を母体に、1981年に設立された。_NEWLINE_PLM(Product Lifecycle Management)のコンセプトを提唱して積極的なM&Aを実施した結果、CAD/CAMツールだけでなく、PDMを含めた製造業における上流から下流までの業務を統合してカヴァーする製品ポートフォリオを持つ。エアロ・スペースの分野はもとよりそれ以外の民生需要も多く、世界中の製造業、特に主要自動車メーカーや、重工業、電器メーカーなどを顧客としている。また近年は、3D-CADの開発で培った3D技術を、3DVIAのブランド名で、iPhone向けのアプリケーションやゲーム機などPLM以外の領域に展開しようとしている。_NEWLINE_創設以来、製品の販売活動やサポート・サービスについてはIBMが分担するアライアンス体制でビジネスをしていたが、2010年4月、IBMのソフトウェア事業部門の中でダッソー・システムズ製品を取扱う事業であったPLM事業部を約6億USドルで従業員ごと買収した。_NEWLINE_2013年、雑誌フォーブスが選ぶ世界で最もイノベイティブな企業の31位に選ばれる。_NEWLINE_2014年、カナダの雑誌コーポレートナイツが選ぶ世界で最も持続可能性のある企業の5位に選ばれる。
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_START_ARTICLE_ ダニエル・カンブロネロ _START_SECTION_ クラブ _START_PARAGRAPH_ デポルティーボ・サプリサを経てプンタレナスFCでプロデビュー。以来、国内のクラブでプレーを続けている。 _START_SECTION_ 代表 _START_PARAGRAPH_ 2009年5月に開催された親善試合・ベネズエラ代表戦でA代表初キャップ。試合は1-1のドローに終わった。同年、2009 CONCACAFゴールドカップ参加メンバーに登録されたが、出場機会は無かった。
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_START_ARTICLE_ ダルシム _START_SECTION_ キャラクターの設定 _START_PARAGRAPH_ インド出身の僧侶で、ヨーガ(ヨガ)の達人。首には髑髏の首飾りをぶら下げている。寡黙で心優しい聖者で、自身の技を戦いの道具として使うことに迷いを感じながらも、自分を必要とする家族や村人たちのために戦う。『ストリートファイターII』(以降『ストII』と表記)シリーズに登場したキャラクターの中では、年齢不詳とされるベガや豪鬼を除くと最年長(『ストII』の世界格闘大会開催当時、約40歳)。『ストリートファイターV』(以後『ストV』と表記)ではターバンを巻き、白髭を生やした姿になっている。_NEWLINE_厳しい修行と信仰心によって火神アグニの力を借りた炎を操るほか、両肘や両膝の関節を自由に外して手足を伸ばすことが可能。これにより戦いでは遠距離からの攻撃を得意とし、非戦闘時にも川で溺れた人の救助などに活用する(『スーパーストリートファイターIIX』(以後『IIX』と表記)エンディング)。後の作品では空中浮遊や瞬間移動(テレポート)などの秘術も会得し、これらの技を駆使して相手を翻弄しながら戦う。_NEWLINE_若くて美人の妻サリーと幼い息子ダッタがいるほか、ペットにゾウも飼っている。妻と共にヨーガの一環として「空腹を忘れる方法」を習得、托鉢のみで生活できるようになるが、そのような修行のできない息子が生まれたことで状況が一変。ヨーガは人を傷つける技術ではないと知りながらも、生活費を得るためにストリートファイトをしている。時間軸が『ストII』以前となる『ストリートファイターZERO2』(以後『ZERO2』と表記)では、村を襲った疫病の薬を手に入れるためにストリートファイトで金を稼いでいる。_NEWLINE_『ストリートファイターIV』(以後『ストIV』と表記)においては、ある日、村の水源を謎の武装集団に占拠されてしまったことから物語が始まる。以前からダッタとクリスの手紙のやり取りから悪の組織シャドルーの復活を感じ取っていたダルシムは、水を取り戻すために再び旅に出る。_NEWLINE_『ストV』では「一人で道を極めるのではなく、世のもの全てが調和することを目指す」とし、自身の力を地元の警察官たちに教えている。『ストリートファイターIII』シリーズに登場するオロを「仙術を極めた仙人」として尊敬している。_NEWLINE_リュウが「頼みがある」と言い構えを取ると、すぐさま承諾して自身も構えを取ったり、殺意の波動を込めた拳をネカリへ振った際には、自身が受け止め殺意の波動に呑みこまれてはいけないと警告したり自分の力をありのままに受け入れることが大切だと教えるなど、リュウを導く重要な人物にもなっている。_NEWLINE_また、ニューヨークのアレックスのもとへ行くと強盗と勘違いされるが、試合後には和解し、アレックスの未来を読み「迷ったら世界に目を向けろ」と助言する。_NEWLINE_ドラマCD『ストリートファイターII -魔人の肖像-』では、初代『ストリートファイター』に登場する破戒僧の烈とは知人となっている。_NEWLINE_『マーヴルスーパーヒーローズvsストリートファイター』では、エンディングでシュマゴラスと語り合う。メカ豪鬼を倒した後の会話では、相方にカレーを食べることを勧める。_NEWLINE_『ストリートファイター X 鉄拳』(以下『ストクロ』と表記)では、行方不明となった村の子供を探すため、サガットに協力を依頼しタッグを組んでいる。タッグ名は「堅忍不抜タッグ」。_NEWLINE_なお『ストII』には黒目があったが、『ストリートファイターII'』(以後『ダッシュ』と表記)以降は黒目が描かれなくなっている。 _START_SECTION_ アニメ映画 _START_PARAGRAPH_ 1994年のアニメ映画『ストリートファイターII MOVIE』ではインドでの賭け試合でエドモンド本田と対戦する。金縛りの術で本田を追い詰めるが、背後から強い闘気(観戦していたリュウのもの)を感じ取った隙に反撃されて形勢が逆転。止めを刺される前にギブアップした。 _START_SECTION_ 実写映画 _START_PARAGRAPH_ ハリウッド映画『ストリートファイター』では、ヨガや格闘とは関係ない科学者として登場。無理矢理バイソン将軍(ゲームでのベガ)に協力させられ、人間兵器の研究を進めつつカルロス・ブランカ中尉(愛称チャーリー)を洗脳・改造した。バイソン軍基地の崩壊時、バイソン兵に突き飛ばされた際に浴びた突然変異誘発剤のためにゲーム中と似た姿になる。自らの死をもって罪を償うと、救助に来たガイルとの脱出を拒み、自我を取り戻したブランカや基地と命運を共にした。_NEWLINE_実写映画を基にした格闘ゲーム2作品では操作キャラクターとしては登場しないが、『ストリートファイター リアルバトル オン フィルム』のブランカステージの背景などで登場している。 _START_SECTION_ テレビアニメ _START_PARAGRAPH_ 1995年のテレビアニメ『ストリートファイターII V』では、インド・カルカッタ近郊の村アヒチャトラの僧侶として登場。リュウとケンは波動を教えてもらうためにダルシムの元を訪れる。人を傷つける格闘家を良く思っておらず、最初は2人を「獣」と呼び、全く相手にしなかった。
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Q1331965
_START_ARTICLE_ ダンヒル (たばこ) _START_PARAGRAPH_ 煙草ダンヒルは、ブリティッシュ・アメリカン・タバコが発売しているタバコ製品である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 日本ではブリティッシュ・アメリカン・タバコ社から紙巻3銘柄他の製品を販売している。_NEWLINE_1999年6月以前は日本での輸入販売はRothmansJapanが行っていたが6月以降現在のBATJapanが輸入・販売を行っている。_NEWLINE_パイプ煙草と葉巻は、2006年にBATJが撤退したため、現在はインターコンチネンタル商事が輸入・販売を行っている。_NEWLINE_日本国内で販売されている紙巻煙草は、2011年8月下旬頃にアメリカからアジアに製造移管され、キングサイズ2種は韓国製になり、パッケージもリニューアルされた(その際に、箱の内部を密閉できる「リロック」が導入された)。ライト100'sはマレーシア製になり、形状がラウンド形状から一般的な角型になった。その後2012年1月中旬に、ライト100'sは「ダンヒル・ライト・ファインカット」に喫味を含めてリニューアルされ、スイス製になり、長さも94mmになり、箱の内部を密閉できる「リロック」が導入された。
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_START_ARTICLE_ ダ・カーポ 〜第2ボタンの誓い〜 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 本曲は、パソコンゲーム『D.C. 〜ダ・カーポ〜』のオープニングテーマに起用された。一方2曲目の「Dream 〜The ally of〜」と3曲目の「Dream 〜The other side〜」はそれぞれrinoとみとせのりこが歌っており、2曲共PCゲーム『D.C. 〜ダ・カーポ〜』のエンディングテーマに起用された。_NEWLINE_ジャケットには朝倉音夢と芳乃さくらが描かれている。
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Q1218172
_START_ARTICLE_ ダークサマー (2000年の映画) _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 精神病院から退院したエイドリアンは、担当医であるトンプソン医師の勧めもあって東海岸にある高級リゾートクラブで働くことになった。彼女はそこで裕福な家庭に育ったティーンエイジャーのグループと出会い、そのリーダー格であるブリタニーに気に入られ、パーティーに誘われた。華やかな世界に生きるブリタニーの心優しさに惹かれるエイドリアンだった。_NEWLINE_しかし、ブリタニーが気に入っていた少年マシューがエイドリアンに興味を持ったため、嫉妬したブリタニーはトンプソン医師のオフィスに忍び込みエイドリアンの過去を記したファイルを盗んで事実を知り、エイドリアンをグループを外そうと企む。_NEWLINE_エイドリアンもブリタニーの姉がかつてそのティーンエイジャーグループのリーダー格だということを知り、ブリタニーに疑いを持つ。_NEWLINE_あるとき、ブリタニーは親友のケリーがエイドリアンに対して行方不明になったブリタニーの姉について話しているのを聞き、怒りを抱く。ブリタニーはまずケリーを殺し、つぎにトンプソン医師を殺し、エイドリアンを再び入院させようと企むが、ボビーの助けもあってその企みは失敗した。_NEWLINE_夏の終わりにエイドリアンがリゾートクラブに復帰した際、エイドリアンはパーティーに再び誘われるが、ブリタニーが周囲から白い目で見られていることに気づき、姉殺しの真犯人を悟った。_NEWLINE_ブリタニーは森へ向かい、地面を掘って、姉の遺体と対面した。そこへエイドリアンが居合わせ、あやうくブリタニーに殺されそうになるが、屋外にいた人々がその現場を目撃したため、ブリタニーの狂気が皆の知るところとなり、最終的に精神病院へ送られた。_NEWLINE_一方のエイドリアンはリゾートクラブを辞め、どこかへ引っ越した。 _START_SECTION_ 評価 _START_PARAGRAPH_ この映画には否定的な評価が寄せられた。_NEWLINE_批評家たちは、サスペンスに満ちたシーンと何気なく笑えるシーンがたくさんあるとしながらも、この映画のストーリー展開がありきたりだとしている 。_NEWLINE_2011年10月現在Rotten Tomatoesでの評価も2%である 。
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_START_ARTICLE_ チアントレン _START_SECTION_ 構造と合成 _START_PARAGRAPH_ 他の1,4-ジチインと同様に、しかしその酸素アナログであるジベンゾジオキシンとは異なり、チアントレンの形は平面状ではない。2つのベンゾ基の間は128°の角度で曲がっている。_NEWLINE_チアントレンは、塩化アルミニウムの存在下でベンゼンを二塩化二硫黄で処理することにより生成する。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ チアントレンはジョン・ステンハウスによって、ベンゼンスルホン酸ナトリウムを乾留することで初めて得られた。チアントレンは硫酸により酸化され、赤色のラジカルカチオンを形成する。チアントレンイオンは電子スピン共鳴により特徴付けられている。4つの異なる論文で、チアントレン塩の結晶構造が述べられている。
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Q486
_START_ARTICLE_ チェルノブイリ原子力発電所事故 _START_SECTION_ 死者数 _START_PARAGRAPH_ ソ連政府の発表による死者数は、運転員や消防士などを合わせた33名だが、事故の処理にあたった軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人ともいわれるが、事故の放射線被曝と癌や白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。_NEWLINE_事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。_NEWLINE_1986年8月、ウィーンでプレスとオブザーバーなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者のヴァレリー・レガソフが当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字にすぎないとして会議では4,000人と結論され、この数字がIAEAの公式見解となった。ミハイル・ゴルバチョフはレガソフにIAEAにすべてを報告するように命じていたが、彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4,000人という数字が踏襲され、公式発表された。報告書はベラルーシやウクライナの専門家、ベラルーシ政府などからの抗議を受け、表現を変えた修正版を出すことになった。_NEWLINE_事故から20年後の2006年を迎え、癌死亡者数の見積もりは調査機関によっても変動し、世界保健機関(WHO)はリクビダートルと呼ばれる事故処理の従事者と最汚染地域および避難住民を対象にした4,000件に、その他の汚染地域住民を対象にした5,000件を加えた9,000件との推計を発表した。これはウクライナ、ロシア、ベラルーシの3か国のみによる値で、WHOのM.Repacholiによれば、前回4000件としたのは低汚染地域を含めてまで推定するのは科学的ではないと判断したためとしており、事実上の閾値を設けていたことが分かった。WHOの国際がん研究機関(IARC)は、ヨーロッパ諸国全体(40か国)の住民も含めて、1万6,000件との推計を示し、米国科学アカデミー傘下の米国学術研究会議(National Research Council)による「電離放射線の生物学的影響」第7次報告書(BEIR-VII) に基づき全体の致死リスク係数を10パーセント/Svから5.1パーセント/Svに引き下げられたが、対象範囲を広げたために死亡予測数の増加となった。WHOは、1959年にIAEAと世界保健総会決議(World Health Assembly:WHA)においてWHA_12-40という協定に署名しており、IAEAの合意なしには核の健康被害についての研究結果等を発表できないとする批判もあり、核戦争防止国際医師会議のドイツ支部がまとめた報告書には、WHOの独立性と信頼性に対する疑問が呈示されている。_NEWLINE_欧州緑の党による要請を受けて報告されたTORCH reportによると、事故による全世界の集団線量は約60万[人・Sv]、過剰癌死亡数を約3万から6万件と推定している。環境団体グリーンピースは9万3,000件を推計し、さらに将来的には追加で14万件が加算されると予測している。ロシア医科学アカデミーでは、21万2,000件という値を推計している。2007年にはロシアのアレクセイ・ヤブロコフ(Alexey V. Yablokov)らが、英語に限らずロシア語などのスラブ系の諸言語の文献をまとめた総説の中で1986年から2004年の間で98万5,000件を推計、2009年にはロシア語から英訳されてChernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environmentというタイトルで出版された。ウクライナのチェルノブイリ連合(NGO)は、現在までの事故による死亡者数を約73万4,000件と見積もっている。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教授の話によれば、チェルノブイリ事故の被曝の影響による全世界の癌死者数の見積りとして2万件から6万件が妥当なところとの見解を示しているが、たとえ直接の被曝を受けなくとも避難などにともなう心理面・物理面での間接的な健康被害への影響に対する責任が免責されるわけではないと指摘している。_NEWLINE_ウクライナ国立科学アカデミー(National Academy of Sciences of Ukraine)のイワン・ゴドレフスキ(Ivan Godlevsky)らの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるルジニー(Lugyny)地区の平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで低下しており、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった。これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる。1991年に独立した当時のウクライナの人口は約5,200万人だったが、2010年には約4,500万人にまで減少している。 _START_SECTION_ 1986年報告書 _START_PARAGRAPH_ 1986年8月にソ連政府が国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書によれば、事故の原因は運転員による「きわめて信じ難いような規則違反の数々の組み合わせ」であった。_NEWLINE_4月25日1時、4号炉は予定されていた点検修理のため、定格出力から出力降下を開始した。運転停止の機会を使って、タービン発電機の慣性回転を利用して所内用電源を確保する実験を行うことになっていた。計画では、この試験は熱出力が100万キロワットないし70万キロワットに下ったところで行うことになっていた。13時5分、熱出力160万キロワットのとき、2台あるタービンのうち1台を送電線から切り離した。14時、計画に従って、ECCSを解除した(1)。そのまま出力降下を続ける予定であったが、ここでキエフ給電指令所の要請により、160万キロワットでの運転を継続した。23時10分、指令所が出力降下を認めたので、作業を再開した。低出力での運転を続けたので、炉心には中性子を吸収する性質が強いキセノンが蓄積し、制御が困難な状態になっていた。4月26日0時28分、高出力領域での制御方式から低出力領域での制御方式に切り替えたが、目標値の設定を忘れたため、熱出力が3万キロワットまで低下した。出力再上昇の努力の結果、4月26日1時、20万キロワットまで上昇した。予定以下の出力だったが、実験を実施することにした(2)。1時3分と7分、運転中の6台の循環ポンプに加えて、2台の予備ポンプが追加され、8台のポンプが運転に入った。炉心への流量が増加し、規定流量を越えたポンプもあった(3)。循環ポンプの流量増にともなって、気水分離タンク内の水位が低下し、非常レベルまで下がったが、運転員は原子炉の停止を避けるため、水位と圧力に関するスクラム信号を無効化した(4)。1時19分、気水分離タンクの水位低下を防ぐため、運転員は給水流量を増加させた。炉心の流量が増加していたことと、低温の水が供給されたことで、炉心での蒸気発生はさらに低下した。出力維持のため、自動制御棒に加え、手動制御棒も引き抜かれた。1時22分30秒、中央計算機の打ち出しによって、運転員は、反応度操作余裕の値が、ただちに炉の停止を要するレベルにまで減少していることを知ったが、実験を強行することにした(5)。1時23分4秒、運転員は第8タービンへの蒸気弁を閉じ、実験が始まった。2台のタービンを切り離したことで、原子炉を停止するスクラム信号が出るはずであったが、実験が不調だった場合に再び実験ができるようにするため、この信号は運転員によって解除されていた(6)。_NEWLINE_実験の開始後、炉心の流量は、4台の循環ポンプが慣性発電による運転に入ったことで、ゆっくりと低下を始めた。流量の減少や蒸気発生の増加などで、炉の出力が徐々に増加を始めた。1時23分40秒、異常に気付いた運転員は原子炉の制御棒を一斉に挿入する緊急停止スクラムボタン(AZ-5)を押したが、とき既に遅く、炉心では暴走が始まっていた。AZ-5を押した数秒後に衝撃があり、制御棒は下端まで入らなかった。建屋の外にいた目撃者によると、1時24分ころ2回の爆発が続いて起き、花火のような吹き上げがあったという。後の計算によると、1時23分44秒、原子炉出力は定格の100倍に達したと推定されている。_NEWLINE_報告書では、特に上記の(1)から(6)を規則違反の事例として示し、これによって事故が起きたとしている。 _START_SECTION_ 1991年報告書 _START_PARAGRAPH_ 1991年1月、ソ連原子力産業安全監視委員会の特別委員会は、ソ連最高会議の要請で行った再調査に関する報告書を発表した。その中で、事故の原因は制御棒の欠陥と当局の怠慢であると指摘した。RBMKの制御棒は、その本体の下に減速材である黒鉛棒が付属している。制御棒を完全に引き抜くと、制御棒チャンネルの下部では、黒鉛棒の下に1.25メートルほどの水柱ができる。この状態でスクラムがかかると、炉心上部では制御棒本体が入りマイナスの反応度が加わるが、炉心下部では、中性子を吸収していた水柱が、ほとんど中性子を吸収しない黒鉛棒と置き変わるため、最初にプラスの反応度が加わる。出力密度分布などの条件によっては、「ポジティブスクラム」が発生し、炉の出力が上昇する。_NEWLINE_実験の開始後、4台の循環ポンプの流量が若干低下し、炉心での蒸気発生がいくらか増えたが、その効果は、若干の圧力上昇と自動制御棒の挿入で相殺された。実験中、出力は安定しており、運転員の操作や警報の作動をうながすような兆候は何もなかった。1時23分40秒、運転員がAZ-5を押したことが、事故の発端となった。このときの出力分布は、後の解析によると、炉心中央がへこみ、上部と下部に山がある形で、不安定な状態であった。制御棒の一斉挿入によりポジティブスクラムが発生し、停止するはずの原子炉が、逆に暴走を始めた。急激な出力上昇により、燃料棒、さらには圧力チャンネル管が破壊され、大量の蒸気発生にともなう正のボイド係数の出現により、さらなる暴走がもたらされた。原子炉容器内の圧力上昇は、上部構造物を持ち上げて大量のチャンネルを破壊し、制御棒を固着させ、万事休すとなった。_NEWLINE_86年の報告書が指摘した運転員の規則違反については、以下のように反論している。_NEWLINE_(1)ECCSを解除したのは規則違反であったが、実験の計画書に従ったのであって運転員の違反ではない。ECCSが有効でも事故の進展には関係ない。_NEWLINE_(2)運転規則では低出力での運転を禁止していない。_NEWLINE_(3)すべての循環ポンプを運転することは、運転規則を含めいかなる文書でも禁止していない。流量が制限値を超えたことは規則違反だが、これはポンプの故障を防ぐためのものである。_NEWLINE_(4)どちらの信号も有効だった。事故の進展には関係ない。_NEWLINE_(5)規則違反であるが、反応度操作余裕の値が緊急防護系の有効性に影響を及ぼすということは、運転員には知らされていなかった。_NEWLINE_(6)運転規則と実験の計画書に従ったもので、規則違反ではない。_NEWLINE_また、当局がRBMKの安全性に問題があることを認識していながら、対策を怠ったことも明らかになった。1975年11月、レニングラード原子力発電所で圧力管が破損する事故があった。原因は圧力管を製造した時の欠陥とされたが、実際には反応度操作余裕が15本以下の時に発生したものであり、原子炉の構造的な欠陥が関係していた。また、1983年11月から12月、イグナリナ1号炉とチェルノブイリ4号炉の試運転では、上端から制御棒を挿入すると、下部では水を押し出して正の反応度を与え、場合によっては炉心下部で部分臨界を引き起こす現象を観測している。低出力で運転するとキセノンオーバーライドが発生して反応度余裕が低下し、出力分布の歪も大きくなること、この時緊急防護系が働くと、正の反応度が現れることがこの時に報告されている。当局の責任者たちは、こうした危険性を知りながら、原子炉を改善することも、運転員を教育することもしなかった。_NEWLINE__NEWLINE_報告書は、運転員がなぜAZ-5を押したかは明らかにできなかった。これに関してディアトロフ副技師長は、自身の著書 で次のように述べている。_NEWLINE_01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。_NEWLINE_1992年、IAEAは報告書を発表し、ポジティブスクラムについての判断は避けつつ、全体として「安全文化の欠如」が事故の原因と指摘した。 _START_SECTION_ 初期対応と住民の避難まで _START_PARAGRAPH_ 4号炉の原子炉建屋に設置された線量計のうち、2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、1つは爆発のために接近できず、もう1つは故障のために利用できず、それ以外の線量計は1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。そのため、運転員は原子炉建屋の大部分の放射線が4レントゲン毎時(約1.1ミリレントゲン毎秒)より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量は、もっとも高い場所で2万レントゲン毎時であった。このような不完全な情報に基づき、制御室当直班長のアキーモフは原子炉が無事であると判断した。このとき、周辺には核燃料と黒鉛が散乱していたが、原子炉破損の判断には至らなかった。また、民間防衛隊が持ち込んだ線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。所長のブリュハノフは、共産党中央委員会原子力発電部長のマリインに、事故が起こったが原子炉は無事であると電話で報告した。原子炉そのものが破壊されたという事実が公認されるのは、モスクワから専門家が到着してからである。_NEWLINE_26日午後、モスクワから専門家が到着し、副首相のボリス・シチェルビナを議長として政府委員会の活動が始まった。会議の結果、住民の避難については、27日にプリピャチの住民を避難させることになった。27日14時、プリピャチの住民の避難が始まった。当局が心配していたパニックは起きず、数時間で完了した。市内の放射線量は、避難が完了した時点で360から1,000ミリレントゲン毎時だった。原発から30キロ圏内にあるプリピャチ以外の地域からの避難は、5月2日に決定し、6日に完了した。報告書によれば、避難した住民の総数は約11万6,000人である。また、原子炉の消火については、上空からヘリコプターで砂や鉛を投下して封じ込めることになった。作業は27日から始まり、5月2日まで続いた。後の調査では、投下した資材の多くは炉心に届かず、その多くは周囲に散乱し、炉心の封じ込めには失敗していたことが判明している。 _START_SECTION_ 石棺の建設 _START_PARAGRAPH_ 破壊された4号炉は、構造物で囲って封じ込めることになった。この構造物は「石棺」と呼ばれ、工事は6月に始まった。現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠を作り、それをトレーラーで原子炉建屋まで運び、コンクリートを流し込んで建設した。最初の壁が出来ると、それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなり進めやすくなった。8月、地上の除染はかなり進み、石棺の建設も屋根を乗せる段階に入っていたが、3号炉の屋上と排気塔の周辺には、原子炉から飛び出した強い放射線を出す破片が事故当時のまま散乱していた。屋根を乗せる前に、こうした破片を石棺の中に戻す必要があった。まずロボットを使って、破片の除去を試みた。しかし現場にはパイプや段差があって操作が難しく、電子回路が強い放射線で破壊され、ロボットは動かなくなった。結局、政府委員会は人間を使って除去することにした。まず現場の放射線量を測定し、さらに上空からの写真を分析した結果、屋上に散乱している破片の量は140から150トンと判明した。作業は9月19日に始まった。作業の様子をテレビカメラでモニターし、ストップウオッチで時間を測り、時間になるとサイレンで知らせた。一人当たりの作業時間は90秒で、その間に黒鉛で50キロか核燃料で15キロを石棺に投げ込むことが目標とされた。10月1日に破片の除去が完了すると、屋根を乗せる作業も再開し、11月に石棺は完成した。_NEWLINE_石棺の建設など、事故の処理作業に従事した人々を「リクビダートル」と言う。その数は60万人で、4分の1が正規軍、残りが予備役や民間人だったと報告されている。 _START_SECTION_ 直後の結果 _START_PARAGRAPH_ 4月25日から26日の夜、発電所内の2つの原子炉建屋には運転員や技術者など160名が勤務しており、建設現場では労働者300名あまりがいたが、事故直後の爆発により原子炉建屋で勤務していた主循環ポンプオペレーターのヴァレリー・コデムチュクと、自動システム調整員のウラジミール・シャセノクの2名が死亡した。コデムチュクは建屋の崩壊に巻き込まれて行方知れずとなり、現在に至るまで遺体は回収できておらず、現地に建立された記念碑のモデルともなっている。シャセノクは脊椎損傷、肋骨の開放骨折、全身の放射線熱傷により意識を回復することなく死亡した。26日の午前3時ごろから、運転員や消防士達の間に急性放射線障害により激しく嘔吐して動けなくなる者が続出した。_NEWLINE_5月に入ると運転員のアキーモフらをはじめ、消防士や技師達が次々に放射線障害で倒れていった。作業員の中で最初に急性放射線障害を発症し、5月21日に死亡したタービン技師のヴォロディームィル・サヴェンコフは遺体の放射能汚染があまりにもひどかったため、鉛製の棺で埋葬をしなければならないほどであった。即入院した203人のうち死亡したのは31人で、28人が急性放射線障害だった。彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の隊員だったが、彼らには煙などからの放射線被曝がどれくらい危険であるかは知らされていなかった。_NEWLINE_ソ連当局がプリピャチなどチェルノブイリ原発から10キロ圏内の地域に住む人々の避難を開始したのは事故発生の36時間後であり、その間それらの地域の住民には事故についての正確な情報が与えられなかった。結果としてプリピャチの約4万7,000人の住民は、4月27日13時に避難の実施がアナウンスされるまで、放射能汚染の事実を知らされぬまま通常の生活を送ることとなった。原発から30キロ圏内の地域で避難が開始されたのはそれから1週間後のことだった。最終的に、プリピャチ周辺からの5万人を含む合計13万5,000人が原発事故によって避難させられることになった。_NEWLINE_ソ連の科学者により、チェルノブイリ4号炉に装填された二酸化ウラン燃料および核分裂生成物(燃料棒の総量)は約190トンと推測されているが、このうち大気放出総量の評価は13 - 70パーセントの範囲でばらつきがある。_NEWLINE_チェルノブイリ事故による汚染は周辺の地方全体に均一ではなく、風向きや天候により不規則に広がった。ソ連および西側各国の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60パーセントを受けたと述べている。しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。_NEWLINE_この事故は当初、国内外問わず秘匿されていた。原発事故の発生に最初に気づいたのは、チェルノブイリ原発からおよそ1,100キロにある、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所であり、4月28日の午前8時30分に出勤した職員の靴から、アラームが鳴るほど高線量の放射性物質が検出されたのがきっかけだった。当初、フォルスマルク原発の技術者は自原発所内からの漏洩を疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかとも考えたという。フォルスマルク原発はすぐに事態をスウェーデン当局に通報し、その後当局へはほかの発電所からも高度放射能汚染の報告が寄せられた。検討の末、スウェーデン当局はこれらの放射性物質が遠方から飛来したものであり、風向きから見て南東方向(チェルノブイリの方向)がその発生源であると判断した。28日にスウェーデン政府外交官から、ソ連内で原子力災害が発生した可能性について追及されたソ連政府は、最終的にチェルノブイリ原発での事故発生を認めるに至った。 _START_SECTION_ 関係者の賞罰 _START_PARAGRAPH_ 操作員のシフト班長で、ディアトロフに炉の異常な挙動と実験の中止を進言し、制御棒の操作とスクラムの操作を行ったアキーモフは事故の15日後の5月10日に死亡した。彼は最期まで「私は指示の通りすべての操作を正しく行った。何も間違ってはいなかったはずなのに」と言い続けていた。アキーモフとともに操作にあたっていたトゥプトノフも5月14日に死亡した。彼ら2人をはじめ、事故直後から数か月以内に殉職した運転員や建屋作業員には勇気の勲章 (ロシア) や十月革命勲章が授与された。_NEWLINE_事故直後に消火作業に従事したレオニード・ティラトニコフやウラジミール・プラビクを筆頭とする生還・死亡した消防士たち、あるいはリクビダートルの中でも特に危険なヘリコプターによる建屋への砂の投下作業に従事したパイロットのニコライ・アントシュキンやミコラ・メルニクなどのソ連軍人たちにはソ連邦英雄 やレーニン勲章、赤旗勲章といった栄誉称号が授与された。_NEWLINE_一方、現場責任者であったブリュハーノフ所長、フォーミン技師長、ディアトロフ副技師長は、1986年8月にすべての役職を剥奪されて失脚、安全規則違反で刑事裁判にかけられ禁固10年を宣告、労働収容所に収監された。ブリュハーノフはこれに加えて権力濫用の廉(罪)でさらに5年の刑期を追加されている。フォーミンは裁判前に精神衰弱を起こし自殺未遂を図ったため、発狂としてまもなく釈放された。残る2人はソ連崩壊により刑期の半分の約5年で釈放されたが、ディアトロフは5.5シーベルトの線量を浴びて晩年まで放射線障害に苦しみながら1995年に心不全により死去した。_NEWLINE_RBMK-1000型の設計者や党中央委員会の原子力政策関係者らの責任が追究されることはなく、ソ連政府は事故はあくまでも彼ら3人の怠慢が招いた個人単位の犯罪であると断じたのである。3人は専門知識における過失は認めていたが、刑事責任については否認した。特にディアトロフは、著書を通じて事故の原因は現場作業員の知識の稚拙さよりも、プラントの設計上の欠陥、ソ連の閉鎖的な体制の方が要因として大であることを終生主張し続けた。フォーミンの釈放後の消息は不明であるが、ブリュハーノフはソ連崩壊後にウクライナの国営企業であるウクライナ・エネルギー会社に技術者として再雇用され、2006年と2010年にロシア系メディアの事故当時の状況に関するインタビューに応じている。_NEWLINE_この3名以外では、4号炉管理責任者で事故翌日より終息作業にあたったアレクサンドル・P・コワレンコが安全規則違反で懲役3年、同じく事故翌日より終息作業にあたったシフト班長のボリス・ロゴーシキンが安全規則違反と職務怠慢で懲役7年、シニアエンジニアのユーリ・ラウシキンが職務怠慢で懲役2年を宣告されているが、3名はいずれも事故の責任について無罪を主張した。_NEWLINE_2018年4月、ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は新安全閉じ込め構造物前の式典にて、事故当時下部水槽からの排水を成功させたものの、その後のソ連の報道では混乱の中で忘れられた存在となっていたアナネンコ、ベスパロフ、バラノフの3名に「勇気の勲章」の栄誉称号を直接授与した。3名は致死的な被曝を受けたにも関わらず、事故後も生存してロシアやウクライナの原子力産業に技術者として従事し続けていたのである。3名のうち、バラノフのみは2005年に心臓発作で死去しており、死後追贈となった。後年、ベラルーシの核物理学者であるワシリー・ネステレンコは、「彼ら3名の功績がなければ推定でTNT換算3 - 5メガトンにも達する巨大な水蒸気爆発が二次災害として発生し、欧州全域が数十万年にわたって居住不可能となる事態が避けられなかっただろう」と述べた。米国の著述家、パーカー・モロイは、「アナネンコ、ベスパロフ、バラノフの3名は、チェルノブイリの悲劇を防げなかった。しかし、『もっとも恐ろしい事態』の発生を命懸けで阻止し、結果として数十万の欧州市民の命を救ったのだ」と記述した。 _START_SECTION_ 直後の影響 _START_PARAGRAPH_ 爆発時、炉心内部の放射性物質は量にして推定10トン前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出され、北半球全域に拡散した。 _START_SECTION_ 日本での反応 _START_PARAGRAPH_ 日本では事故直後の社会現象として、たとえば欧州産パスタの販売量が一時的に急減した。「放射線障害に効く」というデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。_NEWLINE_この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため政府は、「日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない」という説明を行った。_NEWLINE_また、この事故について、広河隆一が直接現場を訪れて取材した。しかし、スリーマイル島原子力発電所事故によってアメリカ型原発もメルトダウン事故を起こしていること、日本の東京電力・東北電力・中部電力・北陸電力・中国電力が採用しているGE(ゼネラル・エレクトリック)製MARK‐Ⅰ型原発の格納容器に欠点があることがアメリカ本国で認識されていることなどは周知されず、最終的に福島第一原子力発電所事故を起こすことになる。 _START_SECTION_ 放射性物質の長期的動向 _START_PARAGRAPH_ 事故の直後においては健康への影響はおもに半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム90とセシウム137による土壌汚染が問題になっている。もっとも高いレベルのセシウム137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、キノコなどに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年ごろ)によると、この区域内の木の中のセシウム137のレベルは上がり続けている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているため、消滅のおもな原因は、セシウム137がバリウム137へ自然崩壊したことによるものと予想されている。 _START_SECTION_ 労働者と解体作業者 _START_PARAGRAPH_ 事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は、高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。_NEWLINE_一部の労働者たちは他の者よりも大量の放射線量を受けたと推定された。ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30キロの退避区域のクリーンアップに従事したが、その多くは事故から2年後にその区域に入った(解体作業者"liquidators"とは事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者を言うが、その推定人数はまちまちである。例えば、世界保健機関(WHO)は約80万人とし、ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は約21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。 _START_SECTION_ 避難 _START_PARAGRAPH_ ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30キロ以内に居住するすべての人間(約11万6,000人)が移転させられ、ゴーストタウンと化した。そのほか、当該プラントから半径350キロ以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果としてさらに数十万人がホットスポット外に移転した。チェルノブイリから北東に約50キロの汚染が少ない地区にスラブチチという町を建設した。_NEWLINE_ソ連の科学者の報告によると、2万8,000平方キロメートルが185kBq/m²を超えるセシウム137に汚染した。当時、約83万人がこの区域に住んでいた。約1万500平方キロメートルが555kBq/m²を越えるセシウム137に汚染した。このうち、ベラルーシに7,000平方キロメートル、ロシア連邦に2,000平方キロメートル、ウクライナに1,500平方キロメートルが属する。当時、約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。 _START_SECTION_ 健康被害 _START_PARAGRAPH_ 民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。この事故で生活に影響が出た人の数はきわめて多く、原発から半径30キロ圏内の住民約11万6,000人が即時に強制避難、ついで線量ホットスポットである北西約100キロ圏内も避難対象となり、計40万人超が移住を余儀なくされた。また約60 - 80万人が事故後の処理に従事した(リクビダートル)。1991年 - 1995年の集計データでも約656万7,000人の人々が汚染区域 に住み続けている。その一方で、これらの人々の大部分は、比較的に低線量の被曝であると言われる。_NEWLINE_汚染区域の子供は甲状腺に、最大で累積50グレイの高線量を被曝した。これは汚染された地産の牛乳を通じ、甲状腺に蓄積される性質を持ち、半減期の短い、つまり単位時間あたりでは高線量である放射性ヨウ素を多量に摂取したためであり、また子どもは身体および器官が小さいため、大人よりも累積線量が高くなるためでもある。IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子どもで、1,800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されている。発生した小児甲状腺癌は大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていれば処置することができた。処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。_NEWLINE_1995年、世界保健機関(WHO)は、子どもと若年層に発生した700件近い甲状腺癌をこの事故と関連づけ、10件の死亡が放射線に原因があるとした。しかし、検出される甲状腺癌が急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。放射線により誘起される甲状腺癌の典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺癌の増加は1987年から観測されている。しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていないとIAEAは主張している。_NEWLINE_資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソ連では疫学的調査が遅々として進んでいない。適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系立てて行うことが遅れている。_NEWLINE_ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。国際機関と外国政府は広範囲にわたる物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会(EC)と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。_NEWLINE_住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。 _START_SECTION_ 癌の症例 _START_PARAGRAPH_ いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子どもでの甲状腺癌の発生が増えていることが分かった。_NEWLINE_国際連合人道問題調整事務所の立ち上げた「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受けており、そのうちの150万人が子供であった。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となった。_NEWLINE_ベラルーシでは放射性降下物の70パーセントが国土の4分の1に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けた。ベラルーシ政府は15歳未満の子どもの甲状腺癌の発生率が2001年には1990年の2,000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定している。_NEWLINE_ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加しており、それぞれ、乳癌が121パーセント、肺癌が58パーセント、食道癌が112パーセント、子宮癌が88パーセント、リンパ腺と造血組織で59パーセントの増加を示した。ベラルーシとウクライナの汚染地域でも、乳癌の増加は報告されている。_NEWLINE_2011年、アメリカ国立衛生研究所の一機関であるアメリカ国立癌研究所による国際的な研究チームは、子どもの被曝は、大人が被曝した場合に比べて甲状腺癌にかかるリスクが高く、さらに依然として甲状腺癌の発症リスクが減少傾向に転じていないことを報告した。 _START_SECTION_ 白血病 _START_PARAGRAPH_ アメリカ国立癌研究所の調査結果によると、慢性被曝による癌リスクは日本の原爆被爆者が受けた急性被曝によるリスクに匹敵し、放射能汚染は、白血病全体のリスク増加に加え、チェルノブイリ事故前には放射能被曝との関連性が知られていなかった慢性リンパ性白血病に影響を及ぼしていることが分かった。_NEWLINE_過去の被曝者の健康調査の結果、白血病は被曝から発病まで平均12年、固形癌については平均20 - 25年以上かかることが分かっている。このことから、白血病および固形癌が通常に比べてどれだけ増加するのかは継続的な調査によって判明すると予想される。 _START_SECTION_ 自然界への影響 _START_PARAGRAPH_ 第1回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10キロ区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/m²であった。大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10キロ区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は事故後、きわめて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4平方キロメートルの森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界でもっとも汚染された地域のひとつである。_NEWLINE_この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかはいまだ分かっていない。動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあり、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠のない噂がいくつか生まれている。また、植物に限らず動物や昆虫の奇形化・巨大化も一部で起こった。_NEWLINE_しかしながら、その場所から人間がいなくなったことが自然の復活をもたらしつつあるようで、たとえば事故後およそ20年後現地に入ったウクライナ系米国人ジャーナリストによれば、イノシシを主として、いくつかの希少な動植物が数を増やしているという。テレビ番組「Life After People(人類滅亡後の世界)」では、人類滅亡後の地球の姿を想像するサンプルとして、チェルノブイリが取り上げられている。 _START_SECTION_ 運転 _START_PARAGRAPH_ チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った3つの原子炉を運転させ続けた。このときのウクライナ政府は財政難で新規の発電所の建設が困難であったため、チェルノブイリ原子力発電所をそのまま使わざるを得なかった。_NEWLINE_1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として、1996年11月に退役した。_NEWLINE_2000年11月に当時のウクライナ大統領・レオニード・クチマ本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。 _START_SECTION_ 石棺 _START_PARAGRAPH_ 4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し、「石棺」と呼ばれるコンクリートの建造物に覆われた。建設は6月に開始され、11月に完成した。耐用年数は30年とされており、老朽化への対策が望まれている。_NEWLINE_事故後、放射能汚染により人が立ち入ることができなかったことから、原発事故の直撃を受けた職員の遺体が搬出されなかった。事故直後に無防備のまま炉の中に入った数名の作業者の行方がいまだに分からず、現在も石棺の中に数名の職員の遺体が残っているものと考えられるが、彼らの遺体を搬出できるようになるまでには数世紀に及ぶ長い年月を要するとみられている。_NEWLINE_石棺の中では放射性物質拡散防止のために特殊な薬剤が散布されているが、大半が外部に流出しているとみられている。_NEWLINE_なお、「10日間で収束した」という曖昧な俗説が見受けられるが、実際は簡易的に線源放出量を下げる応急処置が功を奏するまでの期間にすぎない。石棺の完成までは事故発生から7か月を要している。時系列的には、4月27日にホウ酸、石灰、鉛、粘土、砂など5000トンを炉内へ散布し放射線源放出量が3分の1、5月1日までには6分の1に低下。翌2日、核燃料の崩壊熱と制御棒黒鉛棒の火災熱により温度上昇し線量が再び増加、翌3日にはこの高温化した炉内と水分との接触を回避するためにサプレッションプールから水抜き作業を開始(再度水蒸気爆発の回避)、翌4日には放出線量が事故当日の半分にまで増加、翌5日には液体窒素注入を開始し急激な線量低下を達成した、という流れである。 _START_SECTION_ 将来の補修の必要性 _START_PARAGRAPH_ 石棺はこの場合効果的な封印手段ではなく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、杜撰な管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。_NEWLINE_現在も年間4,000キロリットル近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食し続けている。_NEWLINE_そのうえ、事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95パーセントがいまだ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質(FCM)」からなる。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4トンの放射性物質が石棺内に留まっている。 _START_SECTION_ シェルター構築計画 _START_PARAGRAPH_ シェルター構築計画(SIP)は、現在4号炉を覆っている石棺の上に、新安全閉じ込め設備(NSC)と呼ばれる、石棺を覆うようにして滑らせる可動式のアーチを建設し、それを使用して石棺内にあるとされる放射性物質や汚染された瓦礫などを排除し、4号炉の中にある放射能をゼロにするという計画である。放射能や水の汚染などの問題解決が期待されるが、建設に莫大な費用(推定コストは7億6,800万ドル)や労力がかかるという問題がある。NSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから取りつける方式をとる。NSCは史上最大級の可動式構造物になることが想定される。_NEWLINE_チェルノブイリシェルター基金は、1997年のデンバーG7サミット(主要国首脳会議)でシェルター構築計画に資金を提供するために設立された。_NEWLINE_シェルターはベクテル、バッテル記念研究所、フランス電力公社によって管理される予定である。_NEWLINE_NSCは最終的に全幅257メートル、全長162メートル、全高108メートル、総重量3万6,000トンで史上最大の可動式地上構造物となった。NSCは2016年11月14日までに完成し、同日から4号炉上にスライドさせる作業が開始された。建設現場から224本の油圧ジャッキを用いて60センチずつ動かし、327メートルスライドさせるのに5日ほどかかる予定である。 _START_SECTION_ 訪問 _START_PARAGRAPH_ 2010年12月21日より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所付近への立ち入りを許可した。本来は発電所から半径30キロ以内はそれまで立入禁止であった。ウクライナ政府が正式にこのような許可を発表したのは、現在は発電所付近の放射線レベルが低くなったとの発表があったためである。キエフからはツアーが催行されている。無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫となっている。_NEWLINE_インターファクス通信によると、30キロ圏内への観光客が近年増えており、2018年には約7万人が訪れた。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は2019年7月10日、チェルノブイリ原発を観光地化するための大統領令に署名した。 _START_SECTION_ 大衆の認識の中のチェルノブイリ _START_PARAGRAPH_ チェルノブイリ事故は国際的な注目を集めた。その結果として「チェルノブイリ」は、大衆の認識に多くの異なった姿で刻み込まれることとなった。 _START_SECTION_ 政治的余波 _START_PARAGRAPH_ チェルノブイリ事故は明らかに大規模災害であったため、世界中のメディアの注目を集めた。原子力のリスクに対する大衆の認識は大幅に上がった。_NEWLINE_原子力推進側と反対側の団体が、大衆の意見を動かすために多くの努力を払った。死傷者の数、炉の安全性の評価、およびほかの炉でのリスク評価は、著者がどちらの立場に近いかによって大きく異なる。例えば、原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、国連人道問題調整事務所(UN OCHA)の刊行物に関して、公に批判した。このように、この問題の真実を明らかにすることはかなり困難である。_NEWLINE_実際の事故の原因や経過に関しては、ソ連首脳部に対しても、より現場に近い組織、人間が事実を隠蔽しようとする動きがあった。これは、スターリン体制以来の恐怖政治から、当事者が懲罰を恐れ自らの保身を第一に考えたためである。この体質に対して最高指導者のミハイル・ゴルバチョフはいらだち、グラスノスチ(情報公開)の徹底を指導した。事故は改革派としてのゴルバチョフのイメージに傷をつけることとなった。 _START_SECTION_ チェルノブイリと聖書 _START_PARAGRAPH_ 「チェルノブイリ」が「ニガヨモギ」と翻訳されることがある事実から(この翻訳が正しいかどうかは議論の余地があるが)、英語圏のキリスト教徒の間で、チェルノブイリ事故は聖書の中に記されているという都市伝説が生まれた。_NEWLINE_この話の発祥(少なくとも西側に広まることになった最初の起源)は、ウクライナ語で「ニガヨモギ」を「チェルノブイリ」というのだという氏名不詳の「著名なロシア人作家」の主張を引用した、サージ・シュメマンによるニューヨーク・タイムズ紙の記事だとされている。_NEWLINE_この都市の名前は、ウクライナ語でニガヨモギの近縁種のmugwort(Artemisia vulgaris)を意味する「チョルノブイリ(чорнобиль/chornobilʹ)」から来ている。この語は、「チョールヌイ(chornyi、黒い)」と「ブイリヤ(byllia、草の葉または茎)」を組み合わせたもので、直訳すれば「黒い草」、または「黒い茎」という意味になる。_NEWLINE_『黙示録』のニガヨモギは、Artemisia vulgarisでもArtemisia absinthium (現在のニガヨモギ)でもなく、Artemisia judaicaだとする説が有力である。_NEWLINE_また、キリスト教神学上の通説においてはこのような聖書解釈は一切なされていない。 _START_SECTION_ チェルノブイリの首飾り _START_PARAGRAPH_ 被曝児の喉に残っている赤い傷痕で、甲状腺癌摘出による手術跡を首飾りに見立てている。なお、甲状腺を摘出した場合、代謝を司る甲状腺ホルモンを体内で作ることができなくなるため、生涯甲状腺ホルモンの必要量を毎日経口摂取しなければならない。 _START_SECTION_ チェルノブイリ・ウイルス _START_PARAGRAPH_ CIHコンピュータウイルスは多くのメディアにより、「チェルノブイリ・ウイルス」という名前をつけられた。変種v1.2が毎年4月26日、すなわちチェルノブイリ事故の日に発症することにちなんでいる。しかし、これはウイルスの作成者・陳盈豪(チェン・インハウ)の誕生日がたまたまその日だったというだけで、ただの偶然の一致である。
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_START_ARTICLE_ チャコちゃん社長 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『チャコちゃんシリーズ』の第2作。前作『パパの育児手帳』で好評を得た四方晴美が主演となり、タイトルに初めて『チャコちゃん』が付いた。そして終了して3ヶ月後の1965年2月4日開始の『チャコちゃんハーイ!』より、いよいよ木曜19:30枠に移動する事となる。_NEWLINE_なお放送回数12回というのは、『チャコちゃんシリーズ』や後身の『ケンちゃんシリーズ』の中でも、一番少ない。
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