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Q11348562 |
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リリコ・オガサワラ
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人物
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最初は61kg級の選手だったが、1990年に階級を66kg級に上げると、1993年の世界選手権では決勝で韓国の曺敏仙に大内刈で敗れたものの2位となった。1995年の世界選手権では3位になった。しかし翌年のアトランタオリンピックでは7位に終わってメダルを獲得できなかった。2012年現在は、父親が主宰する国士道場で指導者として活動している。 | 6731116680670507708 |
Q1367518 |
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リー・ハーライン
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略歴
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ユタ州ソルトレイクシティ出身。ユタ大学を卒業後、ロサンゼルスでラジオ局の音楽ディレクターを務め、1932年から1941年までウォルト・ディズニー・カンパニーに所属。『シリー・シンフォニー』の音楽を手掛けた。その後の作品にはボブ・ホープとビング・クロスビー主演の『アラスカ珍道中』(1945年)などがある。 | 12490103490088550671 |
Q779631 |
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ルイ・ガンヌ
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略歴
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オーヴェルニュ地方アリエ県のビュクシエール=レ=ミーヌに生まれ、パリ郊外のイシ=レ=ムリノーに育つ。パリ音楽院においてセザール・フランクとジュール・マスネに師事。リュー・ブランシュ新劇場(Nouveau Théâtre de la Rue Blanche)やフォリー=ベルジェール劇場、モンテカルロ・カジノの指揮者を歴任した。_NEWLINE_今日では愛国的な行進曲《勝利の父(Le père la victoire)》や《ロレーヌ行進曲(La marche Lorraine)》で名を残すのみである。舞台音楽の作曲家としては、フランス以外の国では有名ではないが、1902年のバレエ音楽《日本にて》のほかに、数多くのオペレッタを手懸けた。最も成功した歌劇は、サーカスを題材とした1899年の《軽業師たち(フランス語: Les saltimbanques)》である。 | 16405480532199134829 |
Q2259038 |
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ルイ=エミール・ベルタン
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ルイ=エミール・ベルタン(Louis-Émile Bertin 、1840年3月23日 - 1924年10月22日)はフランスの海軍技術者。当時最も有名な人物の一人で、青年学派の支持者だった。
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青年期
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ベルタンはフランス・ナンシーで1840年に生まれた。1858年にパリのエコール・ポリテクニークに入学し、海軍技術者(ジェニエ・マリタイム、Génie maritime「海の天才」の意味)の道を選んだ。ベルタンの手本はアンリ・デュピュイ・ド・ロームであった。ベルタンは従来の常識からしばしば逸脱したその革新的な設計で知られるようになり、艦艇設計技師の第一人者として国際的に認識されるようになった。また1871年には法律の博士号を取り、彼の多才な才能を示した。
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その後
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フランスへ帰国し、ベルタンは海軍機関学校(Ecole du Génie Maritime )の校長に昇進した。1895年に造機大将(ingénieur général )の地位を手に入れ、海軍艦政本部長(Directeur des Construction Navales )になった。彼が本部長に在任中、フランス海軍は総トン数で世界2位の海軍になった。しかしフランスに戻ると皮肉にも、ヤサント・オーブ提督の青年学派支持者との関係が悪化し、彼は同僚の設計を何度も批判した。後の1915年に戦艦「ブーヴェ」が無残に沈没すると、彼の批判の正当性が証明された。1903年に有名なフランス学士院に入会した。 | 1491090312151488734 |
Q4399809 |
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ルジノ駅
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駅構造
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島式ホーム1面2線に単式ホーム1面が隣接する形の合計2面2線の地上駅。ホームは全て低床式。互いのホームは線路上を直接渡って行き来することができる。ホーム西側に操車場がある。_NEWLINE_駅舎は単式ホームに隣接している。駅舎を介さずとも駅舎南側にある跨線橋付近からホームに入ることができる。
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駅周辺
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駅舎から出た駅東側はレソザヴォーツクの市街地が広がる。駅西側に行く場合、駅舎南側にある跨線橋を介して行くことができる。駅西側は民家がまばらにあるのみである。 | 13364761688292712062 |
Q6140549 |
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ルドラヴァルマン1世
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生涯
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マノラタヴァルマンの外孫。バラモンの子であったが、ヴィジャヤヴァルマンの死後に即位した。_NEWLINE_530年7月26日、南朝梁に遣使して武帝より持節・都督縁海諸軍事・綏南将軍に任じられ、林邑王に封じられた。534年8月18日と542年にもまた梁に遣使した。543年4月に李賁の支配する徳州に侵攻したが、その部将の范修に九徳郡で撃退された。_NEWLINE_その治世にバドラヴァルマン1世が建てたシュリーシャーナヴァドレーシュヴァラのヴァドレーシュヴァラ廟が焼失している。ルドラヴァルマン1世の死後、王位は子のシャンブヴァルマンが継承した。 | 3237573395865696142 |
Q697189 |
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ルドルフ・シャドウ
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ルドルフ・シャドウ(Karl Zeno Rudolf (Ridolfo) Schadow、1786年7月9日 - 1822年1月31日)はドイツの彫刻家である。彫刻家、ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(1764-1850)の息子である。
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略歴
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ローマで、ベルリン出身の彫刻家、ヨハン・ゴットフリート・シャドウの長男に生まれた。弟にフリードリッヒ・ヴィルヘルム・シャドウ、異母弟にフェリックス・シャドウがいる。ベルリンで育ち父親から美術教育を受けた。1810年に弟のフリードリッヒ・ヴィルヘルムとローマに修行に出て、ドイツ出身の彫刻家クリスチアン・ダニエル・ラウフ(Christian Daniel Rauch)のスタジオで学んだ。弟たちのフリードリッヒ・ヴィルヘルムとフェリックスは彫刻から絵画に転じたが、ルドルフは彫刻の道を進んだ。1812年に最初の彫刻作品、「パリスの像」をベルリンのアカデミーに出展した。この作品にはローマ在住のデンマークの彫刻家ベルテル・トルバルセンの影響が見られる。ベルリンにしばらく戻った後、1812年にラウフと再びローマに移った。1814年にはカソリックに改宗した。1818年にはデュッセルドルフ美術アカデミーの教授となることを要請されたが、辞退してローマに残ることを選んだ。_NEWLINE_1822年にローマで没した。36歳であった。 | 15801500188783513412 |
Q2173092 |
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ルドルフ・ヨルダン (画家)
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ルドルフ・ヨルダン(Wilhelm Rudolph Jordan、1810年5月4日 - 1887年3月20日)はドイツの画家である。
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略歴
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ベルリンで生まれた。フランスから亡命したユグノーの子孫である。はじめベルリンに美術学校を開いたヴァック(Karl Wilhelm Wach:1787-1845)に学んだ後、デュッセルドルフ美術アカデミーで、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シャドーやカール・フェルディナンド・ゾーンに学んだ。_NEWLINE_1830年に初めて、バルト海に浮かぶ島、リューゲン島で風景を描き、漁師の家族を描いた。デュッセルドルフの画家として、地方で働く人々を題材にした先駆者となり、北海の海辺の人々の生活を描いた。1820年代の後半に詩人のハインリヒ・ハイネが、北海の旅の旅行記を出版しており、北海への世間の関心も高まっていた。1843年に描いた『ヘルゴラント島の求婚』が好評を得た。その後もオランダ、ベルギー、フランスを旅して、人々の生活を描いた。ヨルダンの作品は版画にされて出版された。_NEWLINE_1848年デュッセルドルフに工房を作り、多くの画家を育てた。教えた学生にはスイス生まれの、ヴォーチェ(Benjamin Vautier:1829- 1898)らがいる。1848年にデュッセルドルフ芸術家協会、「マルカステン」に所属した。_NEWLINE_1869年にプロイセン国王から赤鷲章を受勲し、没する1年前の1886年に王冠勲章(Königlicher Kronen-Orden)を受勲した。 | 1588474426244093698 |
Q76432 |
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ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ
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生涯
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プロイセン王国・ポンメルンのシフェルバイン(現:ポーランド・西ポモージェ県シフィドビン)生まれ。ベルリンにあったプロイセン陸軍士官学校で医学を学び、1843年にベルリン大学で博士号を取得して、1847年にプロイセン陸軍士官学校の教授に就任した。2年後に政治上の理由によりヴュルツブルク大学の教授に就任して、そこで解剖学を研究した。1856年からベルリン大学で病理学の教授を務めた。_NEWLINE_彼の法則でもっとも有名な物は「全ての細胞は細胞から生じる」という物である(ラテン語のモットー、"omnis cellula e cellula"として知られている)。これは、全ての生命でなく、特定の細胞やその細胞のグループしか病気にならないという彼の発見とつながる。彼は細胞病理学、比較病理学(人間と動物に共通する疾患の比較)、人類学の基礎を作った。また、彼の死後になって確立された、静脈血栓症の形成に関する三つの要因(血管の障害・血流のうっ滞・血液性状の変化)は、彼の名を冠して「ウィルヒョーの3要素」(3徴、3原則、3条件などとも、Virchow's triad)と呼ばれている。_NEWLINE_晩年は保守化し、ベルリンで「病理学の法王」として君臨した。ことに、センメルヴェイス・イグナーツ(ゼンメルワイス)の消毒法(産褥熱の研究)に対する、初期の反対者の一人でもあった。当時最大の病理学者であるフィルヒョーの反対は影響力が大きく、センメルヴェイスがウィーンからハンガリーへ去る原因の一つを作ったと思われる(その後、センメルヴェイスは自身の学説が受け入れられないまま、悲惨な死を遂げた)。_NEWLINE_彼はまた「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」と宣言し、公衆衛生の改善を強く訴え、ベルリンに近代的な上・下水道を作るために政治家として働いた(ベルリン市議会議員(1859年 - 1902年)、プロイセン王国下院議員(1862年 - 1902年)、ライヒ議会議員(1880年 - 1893年))。ベルリン大学付属病院のシャリテーのメンバーでもあった。リベラル政党進歩党の共同創設者兼メンバーとして、ビスマルクの政治的な敵対者であった。_NEWLINE_医学教育に関しては、「医学教育は、生計を立てる方法を医学生に提供するためのものではなく、地域社会の健康を確保するためのものです」と述べている。_NEWLINE_1869年、彼は人類学、民俗学、先史学の学会を設立した。このことは、ドイツの考古学調査を調整し、発達させることに非常に役立った。_NEWLINE_1884年、彼はロンドン王立協会の外国人会員に選出され、1892年には王立協会よりコプリ・メダルを授与された。_NEWLINE_1902年9月25日、ベルリンで死去。80歳没。 | 10158090258407693704 |
Q3207324 |
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ルネ王の暖炉
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編成
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フルート(第6曲でピッコロに持ち替え)、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット | 16375374199416554265 |
Q22725 |
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ルーティング
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ルーティング(英: routing)あるいは経路制御(けいろせいぎょ)とは、データを目的地まで送信するために、コンピュータネットワーク上のデータ配送経路を決定する制御の事である。
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概要
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OSI参照モデルのネットワーク層(第3層)の中継機器がこの制御を担っている。_NEWLINE_ルーティングを行うための通信プロトコルを「ルーティングプロトコル」という。_NEWLINE_経路が判明すれば、その経路に沿って、発信元から最終的な受取先へ、結節点またはノード(ここではルータと呼ばれる)を経由しながら転送を繰り返して情報が送られる。情報はパケット(小包の意。データをある程度の量ずつに小分けして送信する、その一単位)として送られ、各パケットには論理的なアドレスが付加してある。各ルータはルーティングテーブルという表を保持しており、この表に従ってパケットの転送先を決定する。_NEWLINE_ルーティングテーブルとはネットワーク上の様々な宛先に対する最も良い経路が記録されたものである。ルーティングの目的は、ルーティングテーブルを構築・維持・管理することである。ルーティングでは、似たアドレスはネットワークの近傍に存在するようにアドレスが構造化されていることを想定している。_NEWLINE__NEWLINE_(例えばjp.example.orgから見ると、us.example.orgはtw.example.orgより遠く、ru.example.orgより近い。全て架空のアドレス)_NEWLINE_また、ネットワーク的に近傍にある複数のアドレスを、ルーティングテーブル内の一つの項目にまとめることができる。_NEWLINE__NEWLINE_(例えば、***.example.orgから転送する場合、ルーティングテーブルで example.org を参照する)_NEWLINE__NEWLINE_この点がネットワークのブリッジと異なる点であり、インターネットにおける経路決定の主要な方法になっている理由である。_NEWLINE_ルーティングには、スタティック(静的)ルーティングとダイナミック(動的)ルーティングとがある。_NEWLINE_小規模なネットワークでは、手動でルーティングテーブルを構成してもよい (静的ルーティング)。ネットワークが大規模になると複雑なトポロジーを持ち、しかも間断なく変更される。そのためルーティングテーブルの構築は大きな問題となりがちである。それでもなお、公衆交換電話網は、ルーティングテーブルをあらかじめ計算し用意した上で、最も短い経路が使えなくなった場合に備えて予備回線も用意する方法をとっている。動的ルーティングは自動的にルーティングテーブルを構築する方法によって、この問題を解決しようというものである。ルーティングテーブルの構築はルーティング・プロトコルによって伝えられる情報に基づいて行われる。この手法によって、通信の断絶が起きないように、自律的といっていいほどのルーティング能力が得られる。だが、プロトコルの構成には技術が要求され、現時点ではルーティングが完全に自動的に行われるというわけではない。_NEWLINE_インターネットのようなパケット交換(packet switching)方式ではデータはパケットに分解される。パケットには個々に完全な宛先がラベルされ、独立してルーティングされる。対照的な方法である公衆交換電話網のような回線交換方式(circuit switching: 回路を実際に接続するなどの方法で持続的な回線を用意する方式)でも、電話の発呼のように、回線への経路を探すためにルーティングが行われる。しかし一旦接続が成立すれば、完全な宛先をラベルとして貼らなくても連続的に大量のデータを送ることができる。_NEWLINE_ルーティングを行う装置としては、レイヤ3スイッチ、ルーターなどがあるが、一般的にルーティングと言う場合にはレイヤ3以上のアドレス(ここではIPアドレス)に関する経路制御を指す。
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動的ルーティングの基礎
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指示された経路が有効でなくなっている場合、現存するノードを使った別の経路を決めなければならない。これは通常ルーティングプロトコルと経路決定アルゴリズムによってなされる。経路決定アルゴリズムには二種類あって、一つは距離ベクトルアルゴリズム (distance vector algorithm, 以下DVA)、もう一つはリンク状態アルゴリズム (link state algorithm, 以下LSA) である。この内どちらか一方が用いられるが、この二つがわかれば、インターネット上の経路決定問題はほとんど理解できることになろう。 _NEWLINE_以下用いられる「コスト」ないし「距離」は経由するルータの数(「ホップ数」)や回線速度を数値化したもので、「メトリック metric」と呼ばれる。メトリックの決定法はプロトコルによって異なる。
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DVA
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DVAは Bellman-Fordアルゴリズムを用いている。この方法では、各ノード間に「コスト」と呼ばれる数値が割り振られる。二点間を結ぶ経路のコストは、その間に経由するノード間のコストの総和であり、その情報はノードから得られる。_NEWLINE_アルゴリズムは極めて単純である。最初の段階では、各ノードは直近のノードがどれかという情報と、それらの間とのコストだけを知っている(このような、「行き先リスト」とそれぞれの総コスト、やりとりするべき「次の相手(next hop)」を集めたものがルーティングテーブルないし、ディスタンステーブルである)。定期的にノード間でやりとりがなされ、互いにルーティングテーブルのデータを交換する。もし隣から渡されたデータに、自分のルーティングテーブルより優れたもの(同じ行き先に到達するのに、コストが少ない)があれば、それを用いてテーブルを更新する。自分のテーブルにない相手への情報が入っていた場合も同様である。時間をかけると、全てのノードがあらゆる宛先についての最良の「次の相手」と最良の「コスト」を見つけだす。_NEWLINE_あるノードが脱落した場合は、そこを「次の相手」としていたノード全てにおいて、ルーティングテーブルの破棄と再構築が行われる。この情報は隣のノードに次々伝えられて行き、最終的には到達可能な全てのノードについて最良の経路が発見されることになる。_NEWLINE_経路収束が遅いため、現在はあまり用いられていない。
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LSA
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LSAでは、各ノードが用いるのはネットワークのマップであり、それはグラフの形で格納されている。このマップをつくるために、全てのノードがネットワーク全体に「自分が接続しているノード」をブロードキャストする。各ノードはそのデータをもとに、個々独立してマップを計算し生成する。自分で生成したマップをもとに、各ノードは他のノードへの最短経路を決定する。_NEWLINE_最短経路の計算にはダイクストラのアルゴリズムが用いられる。このアルゴリズムはネットワーク全体を木構造で表現する。木の根(最初の要素)は各ノードそれ自体である。次いで、ノードの集合から未登録のノードを一つずつ木に加えていく。加えるノードは既に木に存在するノードのどれかから到達できるノードのうち、最も少ないコストで到達できるものである。ネットワーク上の全てのノードを登録するまでこれを繰り返す。_NEWLINE_木構造ができあがったら、それを用いて、ルーティングテーブルをつくる。最良の「次の相手」等がそこに登録される。 | 7353160743648835518 |
Q79169 |
_START_ARTICLE_
ルートヴィヒ・ラントグレーベ
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ルートヴィヒ・ラントグレーベ(Ludwig Landgrebe, ウィーン、1902年3月9日 - ケルン、1991年8月24日)は、オーストリアの現象学者、哲学教授。ドイツの俳優マックス・ラントグレーベの祖父。
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生涯
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ラントグレーベはウィーン大学で哲学、歴史、地理学を学んだ。マックス・シェーラーの影響を受け、フライブルクで研究を続けた。1923年、ラントグレーベはエトムント・フッサール(1859-1938年)の助手になった。博士号を取得後、プラハに移りオスカー・クラウスのもとでポスドク研究を行った。1939年から、ルーヴァン・カトリック大学のフッサール文庫にてオイゲン・フィンクと協働した。ラントグレーベの妻イルセ・マリア・ゴルトシュミットはユダヤ系で、著述家のジョルジュ=アルトゥル・ゴルトシュミットとは姉妹である。1940年、ラントグレーベはベルギーに追放された。また、ハンブルクで商人の手伝いのアルバイトを行っていた。_NEWLINE_1945年、ラントグレーベは再度ハンブルク大学でポスドク研究を行うことを許可され、1947年にはキール大学で正教授に就任した。ハンス・ブルーメンベルクはキール大学での教え子である。1954年、ケルンに移り、フッサール文庫の所長になった。ラントグレーベはフッサールの最も近くにいた哲学者として知られるが、歴史、宗教、政治については実存主義哲学や形而上学の観点から考察し、独自の見解を持っていた。 | 6875823531138214018 |
Q326781 |
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ルー・ブードロー
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経歴
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イリノイ大学から1938年にインディアンスに入団し、9月9日メジャーデビュー。1940年は9本塁打ながら101打点を記録し、MVP投票で5位となる。1941年オフにチームの会長に手紙で監督就任を願い出て、翌1942年史上最年少(24歳)の兼任監督となった。チャンスに抜群の強さを見せる打撃と共に、堅実な遊撃守備でも知られた。1940年から1948年までの9年間でリーグ守備率1位を8回記録した。ブードローの好守備で最も有名なのは1941年7月17日、ヤンキース戦の8回表、ジョー・ディマジオの打った痛烈な二遊間のゴロを横っ跳びで押さえ、併殺を完成させたことだろう。これにより、この試合無安打に終わったディマジオは連続試合安打記録を56試合で途切れさせている。_NEWLINE_1944年は打率.327で首位打者を獲得。1948年は監督としてはニューヨーク・ヤンキース、ボストン・レッドソックスとの激しい三つ巴の末、レッドソックス相手の1試合プレーオフに勝利してリーグ優勝。さらにボストン・ブレーブスとのワールドシリーズを4勝2敗で制してチーム28年ぶりの世界一を達成。打者としても打率.355、18本塁打、106打点の活躍で、ア・リーグMVPを受賞した。_NEWLINE_1951年に兼任監督としてレッドソックスに移籍。1952年に34歳で現役を引退。1954年のオフに監督からも退いた。1955年から1957年途中にかけてカンザスシティ・アスレチックス、1960年にはシカゴ・カブスでも監督を務めた。監督としての成績は16年間で1162勝1224敗、勝率.487。1948年の世界一以外は3位が2回だけだったが、ボブ・レモンを三塁手から投手に転向させ、殿堂入りさせるなど多くの選手を育て上げた。_NEWLINE_監督退任後はシカゴ・カブスの専属解説者として、1987年まで活動したが、その間の1966年から1968年の2シーズン、NBAシカゴ・ブルズのアナウンサーも兼任していた。_NEWLINE_1970年にアメリカ野球殿堂入りを果たし、殿堂入りを記念して古巣インディアンスは在籍時の背番号『5』を永久欠番に指定した。_NEWLINE_2001年8月10日、イリノイ州の自宅で死去。
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ブードロー・シフト
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1946年7月14日、レッドソックスとのダブルヘッダー第2試合、テッド・ウィリアムズの第2打席にて、インディアンス守備陣は投手と捕手を除いた野手7人のほぼ全員がフィールドの右側に移動するという変則守備シフトを取った。内野は一塁手、二塁手、そして遊撃手のブードローまでもが一二塁間に寄り、三塁手は三遊間に1人だけ。外野は全員右に寄り、左翼手が極端に前進するシフトだった。このシフトは後に「ブードロー・シフト」と呼ばれるようになる。_NEWLINE_ウィリアムズはその前の第1試合で3本塁打を放っており、プルヒッターであった彼をどうにかして抑え込もうとしたブードロー苦心の作戦だった。日本でも対王貞治守備シフトとされる王シフトの原型は、このブードロー・シフトとされる。_NEWLINE_他球団も追随したため、ウィリアムズは一時は三塁線にセーフティバントを試みたりがら空きの左翼を狙ったりしたが、ファンからブーイングを浴び、すぐに引っ張りの打撃に戻したという。 | 5301700927052430906 |
Q945143 |
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レオ・セクストン
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経歴
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セクストンがオリンピックに出場した1932年、砲丸投の世界記録は16.04mで、チェコスロバキアのフランチシェク・ドウダとアメリカのハーマン・ブリックス(1928年銀メダル)、ドイツのエミール・ヒルシュフェルト(1928年銅メダル)の3人が世界記録保持者であった。オリンピックを前にブリックスとセクストンは16.07mの投てきで世界記録を更新するが、この記録は直ちに公認されなかった。_NEWLINE_この後、ロサンゼルスオリンピック出場を決める選考会が開催され、アメリカ代表として、セクストンが1位で通過、ネルソン・グレイ、ハーロウ・ロサートがセクストンに続き、セクストンより評価の高かったブリックスは5位に終わり出場することができなかった。その間に、ポーランドのジグムント・ヘルジャスが16.05mの公認の世界記録を樹立した。_NEWLINE_1932年ロサンゼルスオリンピックの砲丸投はアメリカとヨーロッパの対決に注目が集まっていた。しかし、ロサートが1投目に15.67mの投擲を見せると、この記録に届くヨーロッパの選手はいなかった。唯一、チェコスロバキアのドウダが銅メダルを獲得した。しかし、セクストンは、最終投てきで16.00mのビッグスローを見せロサートを逆転。金メダルに輝いた。_NEWLINE_オリンピックの後、セクストンは16.13m、16.16mと立て続けに世界新記録を更新。しかしその1ヵ月後には、ドウダが16.20mを記録し、セクストンは世界記録を奪われた。 | 5169505883376864552 |
Q5937460 |
_START_ARTICLE_
レッド・バスチェン
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来歴
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ハイスクール時代よりレスリングのトレーニングを開始し、サーカスに出場するカーニバル・レスラーを経て、朝鮮戦争従軍後にプロに転向。その特徴的な赤毛とアクロバティックな空中技を得意とすることから、"フライング" レッド・バスチェン("Flying" Red Bastien)をリングネームに、異父兄弟のルー・バスチェン(ルー・クライン)とのバスチェン・ブラザーズで活動。1960年にはWWWFの前身であるNWAノースイースト地区のキャピトル・レスリング・コーポレーションにて、偽兄弟チームであるジェリーとエディのグラハム・ブラザーズやアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンのファビュラス・カンガルーズを相手に、USタッグ王座を巡る抗争を展開した。_NEWLINE_ルー・バスチェンとのコンビ解消後はサンフランシスコやカナダのバンクーバーを経て、1967年にオーストラリア(ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。マリオ・ミラノをパートナーに、キラー・コワルスキー&スカル・マーフィーの凶悪コンビと世界タッグ王座を争った。翌1968年4月30日にはフロリダにてジョニー・バレンタインからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している。同年9月、日本プロレスに初来日。10月10日に福山にてバディ・モレノと組み、吉村道明&大木金太郎のアジアタッグ王座に挑戦した。_NEWLINE_1970年代前半はバーン・ガニアのAWAを主戦場に、1971年5月15日、ヘラクレス・コルテス(コーテッツ)と組んでマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションからAWA世界タッグ王座を奪取。同年7月23日にコルテスが自動車事故で死去してからは、8月よりクラッシャー・リソワスキーを新パートナーに防衛戦を続け、翌1972年1月20日にニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスに敗れるまでタイトルを保持した。_NEWLINE_その間の1971年9月、AWAとの提携ルートで国際プロレスに来日。9月13日に大阪府立体育館、9月20日に福岡市九電記念体育館にて、ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している。タッグではビル・ハワードをパートナーに、シリーズ開幕戦の9月7日に大田区体育館にてサンダー杉山&ラッシャー木村を破り、空位となっていたIWA世界タッグ王座を獲得するなど外国人エースとして活躍した。_NEWLINE_AWAを離れてからは、フリッツ・フォン・エリックが運営していたテキサス東部のダラス地区で活動し、1972年3月8日にホセ・ロザリオからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取。6月24日にスタン・スタージャックに敗れてタイトルを失うも、同地区ではビリー・レッド・ライオンとのタッグチーム、フライング・レッドヘッズ(The Flying Redheads)でも活躍した。_NEWLINE_同年11月には国際プロレスに再来日し、11月7日に宮城県スポーツセンターにて小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。11月29日には東京体育館にて豪州での盟友マリオ・ミラノと組み、国際プロレスに友情参戦していたジャイアント馬場とタッグマッチで対戦した。1973年10月には国際プロレスへの3度目の来日を果たし、11月2日に前年と同じ宮城県スポーツセンターで小林に再挑戦。木村&グレート草津が新王者となっていたIWA世界タッグ王座にも、11月22日に福生にてワフー・マクダニエルと組んで挑戦した。_NEWLINE_1975年1月には全日本プロレスに初参戦。全日本のリングでのタイトル挑戦機会はなかったものの、1976年2月5日にテキサス西部のアマリロにてロード・アル・ヘイズと組み、アメリカ遠征中だった馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。アマリロ地区では、当時ジャック・ブリスコやテリー・ファンクが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した。_NEWLINE_1977年6月より、ロサンゼルス地区で覆面レスラーのテキサス・レッド(Texas Red)に変身。ヒールのポジションに回り、7月1日にマンド・ゲレロ、9月7日にチャボ・ゲレロを破り、NWAアメリカス・ヘビー級王座を2回獲得。12月にはザ・デストロイヤーとの覆面コンビで全日本プロレスの世界オープンタッグ選手権に出場した。WWFにもテキサス・レッドのギミックで登場し、1978年12月18日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてアントニオ猪木の世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座に挑戦している。_NEWLINE_現役引退後はカリフォルニアに居住して、トレーナーとしてシオネ・ヴァイラヒ、スティーブ・ボーデン、ジム・ヘルウィッグ、タイラー・メインらを指導。1980年代後半はWWFのロード・エージェントを担当していた。_NEWLINE_1989年にはFMWの大仁田厚と共にWIN(レスリング・インターナショナル・ネットワーク)なるインディー団体の連合組織を結成。翌1990年1月7日、後楽園ホールにてFMWが開催した第1回総合格闘技オープントーナメントに立会人として来日した。ブッカーとしても、コナン・エル・バルバロなどをFMWに来日させている。_NEWLINE_近年は2000年から2007年にかけて、プロレスラーのOB会 "Cauliflower Alley Club" の会長を務めていた。_NEWLINE_2012年8月11日、81歳で死去。晩年はアルツハイマー病を患っていた。 | 476122333596504170 |
Q2298294 |
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ログネダ・ログヴォロドヴナ
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ログネダ・ログヴォロドヴナ(ベラルーシ語: Рагне́да Рагвалодаўна、960年頃 - 1000年頃)は、ポロツク公国の公女である。ポロツク公ログヴォロドの娘で、ウラジーミル1世の妻の1人となり、ポロツク・イジャスラフ朝(ru)の祖・イジャスラフを生んだ。また、『原初年代記』の記述によれば、キエフ大公ヤロスラフ1世や、ヴォルィーニ公国の初代ヴォルィーニ公フセヴォロドらの母でもある。
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他の年代記のログネダ
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他のルーシの年代記には、ログネダとウラジーミルにまつわる話が所収されている。それは以下のような内容である。_NEWLINE_ウラジーミルには多くの妻と妾がいたが、989年にビザンツの皇女アンナと結婚し、キリスト教(正教)をルーシの国教とした。このためログネダはウラジーミルに捨てられてしまう。ログネダはウラジーミルを殺害することを決意した。しかしその企ては失敗し、激昂したウラジーミルはログネダに剣を向けたが、ログネダとウラジーミルの間の第一子であるイジャスラフが駆け寄り、剣を手に母を庇った。ウラジーミルは息子の前でログネダを殺すことができず、ログネダとイジャスラフは、ウラジーミルによってポロツクの地である、シヴィスラチ川上流の街に幽閉された。この街はイジャスラフの名にちなみ、イジャスラヴリと名づけられた。イジャスラフは後にポロツク公となり、幽閉された母を救おうとするが果たせず、1000年、ログネダはイジャスラヴリで亡くなった。_NEWLINE_この物語はポロツク公国とキエフ大公国との間の対立を描いたものの1つとされている。
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出身地について
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一部の歴史学者の意見では、ログヴォロドやログネダなどのポロツクの支配者層は他国の(あるいはヴァリャーグの)出身であるという。『原初年代記』には、ログネダの父のログヴォロドは海を越えてきて、ポロツクに自分の政権を有していたと記述されている。この記述から、ログヴォロドは、同時代にトゥーロフの支配者であったトゥルィと共に、キエフの公家であるリューリク朝や、他の東スラブ人の土地の出身ではなかったとする説である。_NEWLINE_「ログネダ」という名についても研究されている。すでに19世紀初めには、ドイツ人のロシア史学者であるA.L.シュローザー(de)が、ログネダはラグンヒリト、ログヴォロドはリョーグンバリトという名であったとみなしている。また、北欧の権威ある歴史学者であるE.A.リぜフスカヤとT.H.ジャクソン(注:両名ともロシア語表記の日本語音写)も、ログネダとログヴォロドの名前について研究している。一方、T.P.ティマフェーイヴァ(ru)によれは、ログネダの名はスラヴ起源であるという。また、ログネダがウラジーミルの求婚に対して言った、「奴隷の履物を取るのはいやです」という発言を、スラヴの習慣を熟知していたことの証明だとみなす説がある。
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埋葬地について
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ログネダの埋葬場所は不明である。『トヴェリ年代記』によれば、1000年に、死を前にしたログネダは修道院で剃髪し、アナスタシヤという洗礼名を得たというが、他の資料に同様の記述がないことから、歴史学者はこの記述を事実とするのは難しいとしている。1866年、チェルニツァ村で華麗な装飾品と共に墓穴が発見された。A.M.セメントフスキー(ru)は、これをログネダの墓と推定している。
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評価
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ログネダの子イジャスラフは、ウラジーミルに破壊されたポロツク公国を再建し、彼の子孫は代々のポロツク公となった。ベラルーシにおいては、ログヴォロド・ログネダ・イジャスラフの三代から始まるポロツク公国とイジャスラフ朝を、ベラルーシ国家の根源たる王朝と位置づけている。またログネダの物語は、ベラルーシ史の代表的な説話として親しまれている。
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ログネダを題材とした作品
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ログネダはその悲劇的な生涯から、コンドラチイ・ルイレーエフの詩(1821年)、アレクサンドル・セローフのオペラ(1865年)など、近現代の複数の芸術家によって作品のモチーフに取り上げられている。また絵画・小説・バレエなどでもログネダを題材とした作品がある。_NEWLINE_芸術作品以外では、ウクライナのキエフにはログネダの名を冠した通りがある。ベラルーシではミンスク州・ザスラーウエの記念碑(1993年)、切手(1993年)、コイン(2006年)などが作られている。 | 15160518368408309442 |
Q11350262 |
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ロシアのすたるじい
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『ロシアのすたるじい』は、1994年12月19日に発表された加藤登紀子のオリジナルアルバムである。
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解説
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本来は、ポピュラー音楽の曲も多い「ロシア民謡」は、日本ではクラシック系の歌手によって歌われる場合が多い。そのロシア民謡を、ロシア料理店「スンガリー」経営者の娘として育った歌手の加藤登紀子が歌うアルバムが実現した。レーベルはポリドールである。1971年にLPレコードで、「ロシアのすたるじい」の名前でリリースされたとの情報がある。「カチューシャ」や「ともしび」のような有名な曲から、「フブリチキ」や「サラベイ」のようにあまり知られない曲まで、合計14曲が収録されている。_NEWLINE_「カチューシャ」「満州の丘に立ちて」「モスクワ郊外の夕べ」などは、歌詞の一部をロシア語で歌っている。_NEWLINE_なお、加藤登紀子のヒット曲になり、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』の歌唱曲になったロシア歌謡の「百万本のバラ」は含まれていない。_NEWLINE_AmazonやiTUNE で、「ロシアのすたるじい」の有料音楽配信サービスを行っている。 | 14930117356039339349 |
Q193342 |
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ロストフ
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歴史
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ロストフの町ができる以前、ネロ湖周辺にはサルスコエ=ゴロディシシェ(Сарское городище, 「サラ川の砦」)という要塞の町があった。学者の中にはこれをフィン・ウゴル語族のメリャ人の首都と考える者もいれば、ヴォルガ川とバルト海を結ぶ河川交易路の途中にあるヴァイキング(ヴァリャーグ)の重要な要塞・交易都市と考える者もいる。ロストフは862年の記録ではすでに重要な都市であり、1949年の発掘では木片で舗装された道も見つかり、年輪年代学調査から963年にさかのぼるとされた。この時期にロストフはサルスコエに代わりこの地方の主要都市となった。_NEWLINE_988年には、キエフ大公ウラジーミル1世の息子ヤロスラフ(ヤロスラフ賢公)が父によりロストフに配置された。北東ルーシの町ロストフは、ロストフ公家の祖であるウラジーミル大公コンスタンチン(1185年-1218年)の時代には強国・「ロストフ公国」の中心地としてキエフ・ルーシの中でも最も重要な都市の一つとなるに至った。やがてロストフ公国は「ロストフ・スーズダリ公国」、「ウラジーミル・スーズダリ大公国」となり、中心はより新しいスーズダリやウラジーミルに移っていった。1238年にはモンゴル帝国により略奪・破壊され、1474年にはウラジーミル・スーズダリ大公国もモスクワ公国に吸収された。_NEWLINE_政治的重要性を失った後もロストフには宗教的重要性が残った。988年にはロシア最初期の主教座のあったロストフでは、14世紀にロストフ主教が大主教に格上げされ、16世紀にはロストフ府主教に格上げされた。現在もロストフのランドマークとなっているクレムリン(城塞)は、17世紀の府主教イオナ・シソエヴィチが築いた府主教の邸宅であり、モスクワ以外のクレムリンの中でも美しさの際立つものとなっている。_NEWLINE_ロストフは13世紀後半のモンゴル帝国による略奪以後、ノガイ・オルダの創始者エディゲによる1408年の襲撃まで様々な軍団の略奪を受け、大動乱期には1608年にポーランド王国軍による略奪を受けた。18世紀に府主教がヤロスラヴリに移転すると、ロストフは静かな田舎町となり、現在はクレムリ(城塞)や多くの修道院を擁する観光地になっている。 | 11451132028474393748 |
Q768596 |
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ロゼッタ (イタリアのパン)
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ロゼッタ (Rosetta) は、イタリア・ローマの伝統的なパンである。_NEWLINE_薔薇(Rosa)の形をしているため、ロゼッタ(Rosetta)と言われる。中が空洞で、外皮がカリカリして香ばしいパン。甲羅のような模様の専用の抜き型を使い、この模様が作られる。イタリア北部ではミケッタ(Michetta)と言われているが、本来は別のレシピで作られる。_NEWLINE_ロゼッタと同様にタルタルーガという亀の甲羅の模様をしたパンもある。
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食べ方
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オリーブオイルなどに浸して食べると小麦の味をしっかりと味わえる。_NEWLINE_中心部分の空洞に他の食材を詰めオードブルとする食べ方もある。 | 671592127269117279 |
Q61210 |
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ロックフェラーセンター・クリスマスツリー
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ロックフェラーセンター・クリスマスツリーは、ニューヨーク市ミッドタウンマンハッタンのロックフェラーセンターに毎年冬に飾られる大きなクリスマスツリーである。このツリーは11月下旬または12月初旬、サンクスギビングデーの翌週の水曜日に設置・点灯される。近年ではこの点灯式がアメリカ全土に渡ってNBCの番組Christmas in Rockefeller Centerでライブ放送される。このツリーは通常は高さ69から100フィート (21から30m)のオウシュウトウヒで、この行事は1993年から毎年行われている。このクリスマスツリーは翌年1月6日の公現祭まで飾りと明かりが付けられたまま設置される。ツリーの設置期間が終わると、建築木材などの様々な用途にリサイクルされる。
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選別と飾り付け
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多くのツリー候補は、篤志家によってロックフェラーセンターに寄贈される。ロックフェラーセンターの庭園部門のマネージャーだった故David Murbachはヘリコプターでコネチカット州、バーモント州、オハイオ州、アップステート・ニューヨーク、ニュージャージー州、さらにはオタワの上空からふさわしい木の探索を行っていた。現在、ツリーの探索はロックフェラーセンターの主任造園家のErik Pauzéによって行われている。ふさわしい木が見つかると、クレーンでその木を支えながら根元を切り離し、クレーンで大型望遠鏡用のトレーラーに積んでから、ロックフェラーセンターまで運ばれる。ロックフェラーセンター前の道を走ることのできるトレーラーの積み荷の長さの通常の制限は110フィート (34 m)であるが、この大型トレーラーは125フィート (38 m)の長さのものまで搭載することができるタイプのものである。_NEWLINE_ロックフェラーセンターに設置する際は、4本の支線が木の中央に結びつけられ、支線の反対側はそれぞれ四方の地面に鉄のスパイクで打ち込まれる。装飾の取り付けの際は、足場が木の周りに設置され、作業者たちが全長5マイル (8.0 km)に付いた30,000の電飾を設置する。_NEWLINE_2004年から使用されている木の頂上の星("スワロフスキー・スター")は直径9.5フィート (2.9 m)、重さ550ポンド (250 kg)のものである。これはドイツ人アーティストのMichael Hammersによって製作されたもので、彼は2009年に自身の星形照明アクセサリー製作会社を立ち上げている 。 | 14477463287730303137 |
Q11350472 |
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ロック座
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ロック座(ロックざ)は、東京都台東区浅草二丁目にあるストリップ劇場。1947年8月15日創立。客席数129席。運営は東興業株式会社。現存するストリップ劇場では最大手にして最古参である。全国に同名のストリップ劇場が存在していたが、当劇場の系列店がほとんどであった。そのため、当劇場も浅草ロック座と称している。
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概要
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東宝の副社長であった秦豊吉にストリップショウの有望性を説かれた宇都宮の実業家・草野稲穂と三友館の支配人であった松倉宇七が1947年に国華興業株式会社を設立し、秦を顧問に迎えて開業。翌年、松倉が草野から経営の全般を引き継ぎ社長に就任して東洋興業株式会社の経営になる。第二次世界大戦後の浅草の中心的存在となり、特に浅草のストリップ興行は東洋興業と中映がしのぎを削って発展させた。_NEWLINE_1960年代半ばより、ストリップ興行は関西発祥の猥雑なショーが主流となり、東洋興業はストリップ興行からの撤退を決意。浅草・新宿・池袋の各フランス座を閉館し、ロック座も1971年にストリッパー・東八千代こと斎藤智恵子と歩興行の契約を結んで事実上手放す。翌1972年に正式に斎藤に譲渡された。_NEWLINE_以降、斎藤の設立した東興業が経営に当たり、斎藤が築いたロック座チェーンの旗艦劇場として現在に至る。なお、1984年に改築のため一旦閉館し、1985年に新築ビルとして再開場した。_NEWLINE_劇場のステージ・客席の広さ、清潔さ、照明や音響などどれをとっても非常に素晴らしいものがあり、ストリップ業界最大手の旗艦劇場として偉容を保っている。また、アダルトビデオ女優出身者及び現役アダルトビデオ女優の踊り子が数多く在籍することでも知られる。_NEWLINE_映画やテレビドラマなどのロケにも幾度か使われたことがあり、TBS系列ドラマ「セーラー服と機関銃」の第2話で浅草ロック座が登場する(ドラマ中、劇場外の立て看板には「まな板ショー」と表示されているが当然ながら実際は行われていない)。 | 4315612418838329361 |
Q11270753 |
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ロット管理
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概要
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ロット管理は商品や製品の仕入れから販売ないし出荷までを製品単位ごとに管理する方法で、特に商品流通で量が多かったりサイクルが短い場合に行われる簡便的な在庫管理の手法である。単位ごとに「ロット番号」を付与して管理するのが一般的で、発注も商品の梱包状態といった単位で行われる。また同一ロットには同じロット番号が製品に印刷されている場合もある(→製造番号)。_NEWLINE_よく使われる単位には1ダース(12個)ないし1カートン(一つの段ボール箱やケースなどに収められた単位)など輸送の都合が良い状態で、商品によっては輸送パレット一つ分などとでも勘定される。_NEWLINE_かつては流通の過程では商品単位でひとまとめにして輸送されることが多かった関係で台帳を使った在庫管理では大雑把なロット管理も広く用いられたが、情報化社会によりPOSシステムで商品管理を行うようになり、細かい単位(単品ごと)でも在庫の管理が可能となったため、コンビニエンスストアのように末端の小売店でも単品発注が可能な業態も見られる。
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ロット管理と不良品
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医薬品などでは安全性の面からロット毎にメーカー側に商品サンプルが取り置かれており、品質の不具合などが報告された場合にサンプルを調査して、不良品がどのロットに発生したか・どの販路に向け出荷されたかを追跡できるような体制を整えている所も見られる。工業製品のリコールでも同様に、特定ロットに不具合が発見された場合には時期を同じくして製造されたロット毎に割り振られたロット番号を元に、消費者へ注意を呼びかけると共に、製品の回収が行われる。_NEWLINE_一方の製造過程では、製品ごとに「どのロットで入ってきた部品(または材料)を利用したか」が管理されており、こちらも製品に不具合が発生した場合に、問題の部品と同ロットの部品を使った製品がどれかを特定することにも利用される。 | 16781179825710254808 |
Q59630 |
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ロディ・パイパー
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NWA時代
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ジュニアハイスクール時代はボクシングとアマチュアレスリングで活躍し、本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート、デビュー戦の相手だったラリー・ヘニングには秒殺されたという。_NEWLINE_AWAのカナダでの拠点であったウィニペグにてジョブ・ボーイとしてキャリアを積み、1970年代前半よりアメリカのNWA圏に進出。1975年にはテキサスのダラス地区にて、マッドドッグ・バション、キム・ドク、スーパースター・ビリー・グラハムなどと対戦した。_NEWLINE_1976年にロサンゼルス地区のNWAハリウッド・レスリングに参戦して、ラフファイトを主体とするヒールのスコッチ・ギミックを確立。フラッグシップ・タイトルのアメリカス・ヘビー級王座を巡るチャボ・ゲレロとの抗争で注目を浴びる。同年12月12日にはサンバーナーディーノにて、ミル・マスカラスとのシングルマッチも行われた。_NEWLINE_1977年8月、新日本プロレスに初来日。入場時にはバグパイプを吹き、外国人エース格のスタン・ハンセンやブラックジャック・マリガンのパートナーに起用されてメインイベントにも出場、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している。その後、一時的に覆面レスラーのマスクド・カナディアン(The Masked Canadian)に変身し、1978年1月27日にロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、その4日前にニューヨークでホセ・エストラーダを破りWWFジュニアヘビー級王者となった藤波辰巳の初防衛戦の挑戦者を務めた。同年3月にはマスクド・カナディアンとして新日本プロレスに再来日、シリーズ開幕戦である3月3日の高崎市大会にて、藤波の凱旋帰国試合の相手も務めている。翌1979年1月11日には本拠地のロサンゼルスでも、藤波のWWFジュニアヘビー級王座に素顔で再挑戦した。_NEWLINE_その間も、アメリカでは太平洋岸を活動拠点に、1978年6月24日にはサンフランシスコ地区にてムーンドッグ・ロニー・メインからUSヘビー級王座を奪取。その後はオレゴンおよびワシントン地区のパシフィック・ノースウエスト・レスリングで活動、リック・マーテルと組んでザ・シープハーダーズとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を争い、シングルではバディ・ローズやスタン・スタージャックと抗争した。_NEWLINE_1980年10月より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングに登場。11月1日にトーナメントの決勝にてポール・ジョーンズを破り、空位となっていたTV王座を獲得。翌1981年1月27日にはリック・フレアーからNWA・US王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を奪取、保持していたTV王座を返上してフレアーにプレゼントするなどの挑発を行い、以降もフレアーとは抗争を繰り広げ、両者は生涯の宿敵・親友ともなった。ミッドアトランティックではグレッグ・バレンタイン、リッキー・スティムボート、ジャック・ブリスコ、ワフー・マクダニエルなどのトップスターとも抗争を展開、同地区認定のタイトルを再三獲得した。_NEWLINE_1983年5月には全日本プロレスへの参戦で5年ぶりの来日が実現。6月3日に旭川市総合体育館にて、同じくミッドアトランティックでの抗争相手だったディック・スレーターと組み、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。来日中は馬場や鶴田、天龍源一郎とのシングルマッチも組まれた。_NEWLINE_1980年代初頭にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてカラー・コメンテーターやインタビュアーも兼任、トークの才能を発揮した。ジョージアではトミー・リッチやダスティ・ローデスと抗争し、ザ・グレート・カブキとも共闘していたが、一時的にベビーフェイスのポジションにも回り、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マスクド・スーパースター、イワン・コロフらと対戦した。
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WWF時代
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1984年、前年に死去したグラン・ウィザードに代わるヒールのマネージャーとしてWWFにスカウトされ、ポール・オーンドーフとデビッド・シュルツを担当するが、ほどなくしてレスラーとして試合にも出場するようになる。パイパーズ・ピット(Piper's Pit)なるインタビューコーナーも受け持ち、ジミー・スヌーカとの抗争で一気にブレイク。オーンドーフ&カウボーイ・ボブ・オートンと悪のユニットを結成し、WWF世界ヘビー級王者のハルク・ホーガンをはじめ、スヌーカ、ティト・サンタナ、ロッキー・ジョンソン、トニー・アトラス、イワン・プトスキー、ジャンクヤード・ドッグ、さらにはアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノなどのスーパースターを敵に回して、トップ・ヒールとしての地位を築き上げた。_NEWLINE_1985年3月31日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたレッスルマニアの記念すべき第1回大会では、パートナーにオーンドーフ、セコンドにオートンを従え、映画『ロッキー3』に出演したアクション俳優ミスター・Tとホーガンのチームとメインイベントで対戦。翌1986年4月7日のレッスルマニア2ではミスター・Tとのボクシング・マッチが行われた。_NEWLINE_ヒールでありながら、そのキャラクターが徐々に観客の支持を集めるようになり、1986年下期からはベビーフェイス化していき、同じく「フラワー・ショップ」なるインタビューコーナーを持っていたアドリアン・アドニスとの確執も発生。同年8月にフラワー・ショップに殴り込みをかけた際、盟友だったオートンがアドニス側についたことで仲間割れし、本格的にベビーフェイスに転向する。以降、フラワー・ショップに再三乱入して、アドニス、オートン、マネージャーのジミー・ハートと舌戦を繰り広げた。アドニスとの抗争を開始しつつ、パイパーズ・ピットにてオーンドーフやボビー・ヒーナンとも舌戦を展開、オーンドーフと抗争中だった旧敵ホーガンのタッグ・パートナーとしても活躍した。_NEWLINE_1987年3月29日のレッスルマニアIIIでのアドニス戦を最後に一時リングから離れ、映画俳優としての活動を開始、1988年公開の『ゼイリブ』では主演を務めた。翌1989年5月よりWWFに復帰し、テッド・デビアス、リック・ルード、バッドニュース・ブラウン、ランディ・サベージらと抗争。その後、再び現役を離れ、実況席でカラー・コメンテーターとして活躍していたが、1991年下期、NWA時代のライバルだったリック・フレアーのWWF移籍に伴いリングに復帰。フレアーとの抗争を各地で繰り広げた。1992年1月19日にはザ・マウンティーを破ってインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得、同年4月5日のレッスルマニアVIIIにてブレット・ハートにタイトルを明け渡したものの、WWFでの初戴冠を果たした。_NEWLINE_その後も単発的にWWFに出場し、1994年にはジェリー・ローラー、1996年にはゴールダストとの抗争が行われた。
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WCW時代
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1996年10月、WCWに移籍。当時nWoを率いていた "ハリウッド" ハルク・ホーガンとの抗争を再開させ、同年12月29日のスターケード、翌1997年2月23日のSuperBrawlにおいて、ホーガンとシングルマッチを行った。nWoと敵対していた旧敵リック・フレアーともタッグを組み、1997年6月15日のグレート・アメリカン・バッシュではケビン・ナッシュ&スコット・ホールが保持していたWCW世界タッグ王座に挑戦。1998年9月13日のFall Brawlではダイヤモンド・ダラス・ペイジ&ザ・ウォリアーと「チームWCW」を結成して、ホーガン&ブレット・ハート&スティービー・レイの「nWoハリウッド」、ナッシュ&スティング&レックス・ルガーの「nWoウルフパック」とウォー・ゲーム形式のケージ・マッチで対戦。1999年2月8日にはブレット・ハートを破り、NWAミッドアトランティック時代から数えて16年ぶりにWCW・USヘビー級王座を獲得した。_NEWLINE_1999年12月13日のカート・ヘニング戦を最後にWCWを離脱。2001年のWCW崩壊後は、元WCW勢が主宰していたXWFに参加したが、レスラーとしてはセミリタイア状態となった。
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WWE復帰
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2003年にWWEでハルク・ホーガンとビンス・マクマホンが抗争を開始すると、双方に遺恨を持つ人物としてインタビューに登場、3月30日開催のレッスルマニア19でのホーガンvsマクマホン戦に乱入してWWEに復帰。パイパーズ・ピットを再開し、ショーン・オヘアのマネージャーを務めたが、6月24日に薬物使用で解雇される。_NEWLINE_その後はTNA参戦を経て、2005年にWWE殿堂(インダクターはリック・フレアー)に迎えられてからはレジェンドとしてWWEに度々スポット出場し、パイパーズ・ピットを開催した。2005年4月3日のレッスルマニア21では、パイパーズ・ピットのゲストにストーンコールド・スティーブ・オースチンを招待、新旧のWWEを代表する饒舌家同士の舌戦を繰り広げた後、カリートが乱入して両者を挑発したが、パイパーとオースチンに迎撃され退散した。その後、両者は祝杯をあげるが、最後はお約束としてパイパーがオースチンのスタナーをもらい受けた。2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、インターネット投票によりフレアーのパートナーに選出され世界タッグ王座を獲得。これが生涯初の「世界王座」の獲得となった。_NEWLINE_その直後に行われた選手活動のための健康診断でホジキンリンパ腫が発見され、11月27日のWWE.com上でファンにも報告されたが、順調に体調を回復。翌2007年2月12日のRAWにて久々にファンの前に登場し、ウマガの急襲を受けるというアングルも見られた。_NEWLINE_以降もWWEへのスポット出場を続け、2008年10月26日のサイバー・サンデーでは、サンティーノ・マレラのIC王座に挑戦したホンキー・トンク・マンをゴールダストと共に援護射撃。2009年にはクリス・ジェリコとの遺恨が勃発、旧友リッキー・スティムボート&ジミー・スヌーカとレジェンド軍を結成し、4月5日のレッスルマニア25にてジェリコとの1対3のハンディキャップ形式によるエリミネーション・マッチが行われた。同年11月16日にマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたRAWにゲストホストとして登場、7年ぶりにミスター・マクマホンと絡み、全盛期に劣らぬ舌戦をみせた。その後、ランディ・オートンとのストリート・ファイト・マッチが組まれ、オートンのパントキックを受けそうになるも、間一髪のところでコフィ・キングストンに救出された。_NEWLINE_2010年3月27日には、レッスルマニア第1回大会の成功に共に貢献したウェンディ・リヒターのWWE殿堂入りのインダクターを務めた。同年11月15日に行われたRAWの "Old School Edition" にもレジェンドの一人として出演し、ジョン・シナにWWE王座を獲得できなかった自身の想いや、過去にWWE王者となったレジェンド達の権威を説いた。_NEWLINE_2015年7月30日、肺血栓塞栓症に起因する心臓発作のため、カリフォルニア州ハリウッドの自宅にて死去。61歳没。WWEのビンス・マクマホン会長はパイパーの訃報に「"ラウディ" ロディ・パイパーは物議を醸す言動や大胆なパフォーマンスで、世界中のファンに愛された。ご家族に心よりお悔やみ申し上げたい」とコメントを発表した。
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パイパーズ・ピット
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パイパーがホストを務めるインタビューコーナー。1984年に開始。絨毯の敷かれたリング上またはスコットランド風の装飾が施されたバックステージのセット内で行われる。大抵が対象となるレスラーに何かと因縁を吹っ掛け、乱闘になった挙句、抗争に発展するパターンである。特に第1回レッスルマニアへのプロローグとなった、ジミー・スヌーカの頭でココナッツを叩き割ったシーンは有名。このコーナーがパイパーのヒールとしての人気を決定付け、レスラーとしては体格に恵まれなかったパイパーを一躍スーパースターの仲間入りさせた(パイパーはNWAミッドアトランティック時代から、本やラジオなどをチェックしてインタビューに使えそうなフレーズを書き留めていたという)。_NEWLINE_以降、パイパーと同じくマイクパフォーマンスに優れたレスラーがスターダムに上がるようになり、その後のアメリカンプロレスに与えた影響は非常に大きい。ザ・ロックも「ハルク・ホーガンよりもそれに唾を吐くロディ・パイパーになりたかった」と、尊敬するレスラーの一人として名前を挙げている。パイパーズ・ピット以降、WWEではジェリー・ローラー(キングス・コート)、ショーン・マイケルズ(ハートブレイク・ホテル)、クリス・ジェリコ(ハイライト・リール)、カリート(カリートス・カバナ)、レネ・デュプリー(カフェ・ド・レネ)、エッジ(カッティング・エッジ)、MVP(VIPラウンジ)、ザ・ミズ(ミズTV)などが同様のインタビューコーナーを行なっている。_NEWLINE_引退後も、パイパーがWWEの番組にゲスト出演した際に、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ミスター・マクマホン、ジョン・シナ、ランディ・オートン、ウェイド・バレット、ザ・シールド、CMパンク、ルセフ、ライバックらを招いて行われたことがある。近年では、ヒールのレスラーとパイパーが舌戦を展開した後、ベビーフェイスのレスラーが登場してヒールとの乱闘の末に必殺技を決め、パイパーがそれをたたえるというパターンが定番化していた。
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日本での評価
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パイパーと同世代の選手では、たとえばラリー・ズビスコやドン・ムラコなど、マイクアピールによる観客との駆け引きを得意とするレスラーは英語の通じない日本では真価を発揮することが難しかった。しかしパイパーはマイクを通さずとも、彼のもう一つの持ち味である「向こうっ気の強さ」を全面に出したイキのいいラフファイトと抜群のレスリングセンスで、日本でも若手時代から高い評価を獲得している。アメリカマットで超売れっ子だったため、来日回数は1977年から1983年まで通算3回と少なく日本では大きな実績を残せなかったものの、当時のファンや関係者の間では来日を望む声が多く聞かれた。_NEWLINE_なお、日本には1977年に新日本プロレスへ初来日しているが、前年にモハメド・アリとの異種格闘技戦のプロモーションでロサンゼルスを訪れたアントニオ猪木がテレビのインタビューに応えた際、同地区を主戦場としていたパイパーが乱入して猪木に喧嘩を売るというアングルが組まれたこともある。 | 1386421126538311573 |
Q500700 |
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ロナルド・サール
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生涯
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イギリスのケンブリッジ生まれ。父親は有能なボクサーでケンブリッジでジムを経営。彼の祖父(William Hunt)もまたサイクリングの世界王者と、スポーツ一家で育つ。_NEWLINE_幼少期から画家を目指し、5歳から絵を描きはじめ、16歳でCambridge College of Arts and Technologyに入学。しかし在学中の19歳の時に第二次世界大戦が始まり、ロイヤルエンジニアとして兵役に服しシンガポールに出征。マラヤにて1ヶ月戦ったが、日本軍に敗戦し日本軍捕虜となり、終戦までクワイ川流域のチャンギ刑務所で、いまわしいビルマ-タイ泰緬鉄道で重労働を続けさせられる。監禁されている間彼は、脚気、熱帯性潰瘍、マラリアに罹ったうえ、幾度と無く暴行を受け、体重は40kg以下になったが、1945年日本軍が敗戦し解放される。_NEWLINE_1947年ジャーナリストのKaye Webbと結婚。双子の子供に恵まれるが、1961年に家族の元を離れ、ドイツ人翻訳家のMonica Koenigとパリで再婚。1975年フランスのプロヴァンス地方の山村に移住し、死亡する1ヶ月前までそこで作品を作り続け、2011年12月30日、91歳で逝去。
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戦争中の作品
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彼の初版漫画"St Trinian's Schoolgirls"は1974年Lilliputマガジンに掲載されたが、彼の実際のキャリアが始まったのは第二次世界大戦中、日本軍捕虜収容所で残忍な経験をしながら、それらを描いたことである。それらの作品はコレラに侵された捕虜仲間の布団の下に隠していた。彼は「もし自分が死んでもこの状況が、チャンスは少ないかもしれないが、後でこれらを見つけ出し、真実を知ってもらうことが出来ると思ったから、私はどうしてもこの状況を描いて残したかった。」と話した。しかし彼は無事生還し、彼のおよそ300点の作品もまた無事であった。_NEWLINE_彼の捕虜仲間は当時を振り返り、「やせ細り、死ぬ間際になっても人間としての何の尊厳も与えられず、それでも安らかに鉛筆を持って横になり描き続けている姿を想像することが出来たら、彼が他の誰とも違う気質を持っているということがわかるだろう。」と話した。_NEWLINE_これらのほとんどの作品は、イギリスのロンドン帝国戦争博物館に彼自らによって寄贈され、現在もなお展示されている。またこれらの作品のほとんどは1986年に出版された"Ronald Searle:To the Kwai and Back,War Drawings 1939-1945"でも見ることが出来る。彼は「もしあなたがこの経験をしたなら、これからの人生に影響されずにはいられないでしょう。だから多分、私は頭の中では捕虜収容所から逃れられたことがなく、これが私の人生における基準値となった。それはその時共に過ごした自分の愛した人たちが死んで最も近い竹の肥料となったからだ。」と話した。
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雑誌、本、映画
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1945年にイギリスに帰還した彼は、一人目の妻であるジャーナリストでありLiliputのピクチャー編集者であったKaye Webbに出会う。彼女が彼の最初の作品を出版したことにより、彼のキャリアは始まった。彼らは二人でPerpetua Ltdを設立し、様々な代表作を出版する。その中に"Looking at London"や"The Paris Sketchbook"、"The Rake's Progress"がある。彼のその独特なグラフィックスタイルが、イギリスとアメリカで話題となり、新しいジャンルを確立し現在も多くのアーティストに影響を与えている。_NEWLINE_そのKaye Webbの指導のもと、彼は1950年代に様々な代表作を残している。雑誌はLife、Holiday、Punch、The New Yorker、the Sunday Express、Le Mondeなど、多くから依頼を受けイラストを描いた。"St Trinian's Schoolgirl"シリーズや、Geoffery Williansとの合作である"Molesworth"シリーズ"Down With Skool!,1953"、"How to be Topp,1954"、またAlex Atkinsonとの合作であるトラベルブックシリーズを出版。それに加えCM、広告、ポスターなども制作。そして彼の有名なルポ作品といえば、アメリカのケネディ大統領の選挙キャンペーン取材と、アイヒマン裁判の法廷画家として依頼を受け描いたことだ。また世界国際連合から依頼を受け、妻と共にヨーロッパ中を周り、第二次世界大戦の難民キャンプを描き"REFUGEES1960"を出版した。_NEWLINE_1961年にパリに移住してから、彼は本、アニメーション、メダルの彫刻、フランスの硬貨などといった幅広い範囲で作品を創り続ける。彼はたくさんの映画や、シアターのためのデザインも行った。1965年には"Those Magnificant Men in Their Flying Machines"のクレジットタイトルのアニメーションを作製。その10年後には、自身の作品を元にして作られたアニメ映画の"Dick Deadeye"が上映されたが、その出来栄えに落胆した。
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受賞
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彼の独特な作品は特にアメリカで幅広く認知され、1959年と1965年にthe National Cartoonists Society's Advertising and illustration Awardを受賞。1960年にReuben Award、1980年にillustration Award、1986年と1987年にAdvertising Awardを受賞。2004年に大英帝国勲章(CBE)を与えられた。また2007年にはフランスで最も名誉のあるthe Chevalier de la Legion d'honneurを、2009年にドイツのVerdienstorden Bundesrepublik Deutschlandを受賞した。 | 13554620188587652712 |
Q525109 |
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ロニー・ユー
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略歴
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香港生まれ。オハイオ大学を卒業。1979年に『牆外牆內』で監督デビューし、香港ニューウェーブの監督の一人とみなされた。1993年には『キラーウルフ 白髪魔女伝』で金馬奨脚本賞を受賞した。1990年代以降はアメリカ合衆国と香港の両方で活躍している。_NEWLINE_かつて彼が監督した映画『ケミカル51』に出演したサミュエル・L・ジャクソンが『スネーク・フライト』に出演する際、ロニー・ユーは監督として参加する予定だったが、デイヴィッド・R・エリスにとってかわった。 | 654880807109286627 |
Q2655531 |
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ロビイストの陰謀
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製作と公開
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撮影は2009年6月よりカナダオンタリオ州ハミルトンで行われた。2010年12月公開およびトロント国際映画祭でのプレミア上映が予定された。_NEWLINE_ジョージ・ヒッケンルーパーは公開日の7週前の2012年10月29日に亡くなり、本映画が遺作となった。
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評価
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Rotten Tomatoesでは91件のレビュー中、支持率は36%となった。ロジャー・イーバートは4ツ星満点で3ツ星を与え、「『ロビイストの陰謀』はとても率直であり、それは素晴らしい」と評した。_NEWLINE_ケヴィン・スペイシーはゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。 | 8165875604920805061 |
Q515901 |
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ロベルト・プルッツォ
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クラブ
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ジェノヴァ県のクロチェフィエスキ出身で、1973年にジェノアCFCでプロデビューした。6シーズン在籍したジェノアでは、143試合57得点を記録し、1975-76シーズンにはセリエBで優勝し、そのシーズンのセリエBの得点王に輝いた。_NEWLINE_1979年、当時のイタリア最高額となる移籍金3億リラでASローマに移籍した。プルッツォは1980年代のイタリアで最も優秀なストライカーとなり、1982-83シーズンにセリエA制覇し、コッパ・イタリアも4度優勝を経験した。セリエA得点王に3度輝き、コッパ・イタリアでも得点王になった。ホームのオリンピコで行われたリヴァプールFCとのUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝では、ゴールを挙げたがチームはPK戦で敗れた。_NEWLINE_1986年のセリエA・USアヴェッリーノ1912戦において、イタリア人としては唯一となる1試合5得点を記録した。_NEWLINE_1989年にACFフィオレンティーナに移籍した。チームのセリエA7位に貢献し、来シーズンのUEFAカップ出場権をかけた古巣ローマとのプレーオフでは、ロベルト・バッジョのアシストから決勝点を記録し、フィオレンティーナのUEFAカップ出場権獲得に貢献した。
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代表
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クラブでの実績にも関わらず、イタリア代表では1978年から1982年に6試合に出場したのみとなっている。イタリアで開催されたEURO1980のメンバーに選出され、イタリアは4位となり、1980 ムンディアリートにも出場した。1982 FIFAワールドカップは代表メンバーから外れ、出場できなかった。
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指導者経歴
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1990年代後半から指導者としてのキャリアをスタートさせ、ヴィアレッジョ、テーラモ、アレッサンドリアの監督を務め、フランコ・センシから新たにマウリツィオ・ザンパリーニがオーナーになったばかりのパレルモ でも監督を務めた。その後、フォッジャ、サンベネデッテーゼでアシスタントコーチを務めた。_NEWLINE_2008年12月から2009年3月まで、セリエDのアマチュアクラブのSSDチェントブキで監督を務めた。 | 8127156207036522372 |
Q4386168 |
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ロレント (ファイナルファイト)
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キャラクターの設定
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犯罪組織マッドギアの元幹部。爆薬や銃火器の扱いに精通した白兵戦のプロで、かつては特殊部隊レッドベレーに所属していた傭兵であった。カーキ色の軍服と赤いベレー帽姿で、顔には斜めに大きな傷跡があるのが特徴。一人称が「吾輩(我が輩)」など、口調も軍人然としたものである。フルネームはロレント・F・シュゲルグで、出生は西ドイツ。現在はアメリカ・ニューヨークを拠点にしている。_NEWLINE_マッドギア壊滅後には、アメリカの国民全てを軍人とすることで、究極の国防と完璧な平和を実現するという理想を持つ。その実現のために新生マッドギアを樹立することを目標とし、元構成員のエルガドやハリウッドと共に世界中を回り部下集めに奔走している。_NEWLINE_「勝利のためには手段は問わない」という信条があり、手持ちのロッドや手榴弾、ナイフなど武器の類を多く用いている。そのやり口が卑怯と取られることがあり、『ストリートファイターZERO3』(以下『ZERO3』と表記)では春麗から「ベガと思想が同じ」、フェイロンから「狡猾だ」と言われている。本人は『ストリートファイターZERO2』(以下『ZERO2』と表記)の勝利メッセージで「卑怯者という言葉は負け犬から聞ける最高の賛辞である」としている。_NEWLINE_『ZERO3』では、かつて敵対していたコーディーの実力に目を付けて勧誘しようとしたが、彼の堕落ぶりに落胆して諦めている。その後シャドルーのサイコドライブを奪うためベガと戦うが、エンディングでは「やすやすと潜入できる基地はいらない」「洗脳による統治など愚の骨頂」としてサイコドライブとシャドルー基地を破壊した。その後、マッドギア時代の同僚・ソドムが現れて「ロレントの夢である完璧な平和をどうやって果たすのか見てみたい」と言い、ロレントは彼を「同志」と呼び、理想の国家、完璧なる平和を築くと宣言した。一方ソドムのエンディングでは、ベガのサイコドライブに命をかけて突撃したソドムの生存を信じた。_NEWLINE_『ZERO』のソドムのエンディングにて、ブレッド、J、ワン・フー、ポイズン、アンドレ、ダムドらとともに登場している。なお、彼とワン・フー以外のキャラクターは『ZERO2』のガイステージの背景にも登場。『ZERO2』のホームステージはニューヨークで、『ファイナルファイト』の彼の登場ステージと似たゴンドラになっている。このステージはエレベーター式になっていて、2ラウンド目以降は上昇して行く。また、背景には富士通の広告がある。BGMは『ファイナルファイト』において彼が登場するステージ4ではなく、ステージ5前半のBGMをアレンジしたものになっている。『ZERO3』のホームステージは迷彩塗装を施した地下鉄。背景では戦車などが輸送されている。_NEWLINE_また、『ZERO2』や『ZERO3』でのナッシュのアーケードモードでは、CPU戦で乱入キャラクターや固定キャラクターとして登場し戦いを挑む。_NEWLINE_『ファイナルファイトリベンジ』(以下『リベンジ』と表記)では部下であるエルガドの家族を殺害したと設定されており、エルガドのエンディングにおいて隙を見せたために彼の復讐の刃を受けるところで終わる。なお、同作のマイク・ハガーのエンディングは『ZERO2』のロレントのエンディングに近い内容になっている。_NEWLINE_『ストリートファイターEX』シリーズのドクトリン・ダークのストーリーでは、ロレントの部隊はダークの所属していたガイル直属の部隊を壊滅させ、ダークに重傷を負わせている。これによりダークの性格が一変し、ガイルとロレントに対し復讐を目論むようになった。_NEWLINE_『ウルトラストリートファイターIV』(以下『ウルIV』と表記)ではS.I.N.が開発した能力強化装置の情報を得て、軍備拡張のために強奪を計画している。テーマ曲は『ファイナルファイト』のステージ4-2のアレンジである。『ウルIV』のオープニングとエンディングのアニメシーンではこれまでに確認できなかったロレントの部下は数多くいるが、ハリウッドとエルガドの姿は確認できない。部下は全員、赤いベレー帽と黄色の軍服と、ロレントと同じ格好だが軍服の下に着る服の色は黒で、大きなゴーグルを装着している。_NEWLINE_『ZERO2』と『ウルIV』でロレントの考えた新国家の国旗のデザインは長剣と長銃をクロスさせたものである。
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他社とのクロスオーバー
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『CAPCOM VS. SNK 2 MILLIONAIRE FIGHTING 2001』(以下『CvS2』と表記)では八神庵から「狂信者」呼ばわりされ、チャン・コーハン&チョイ・ボンゲからは「キム・カッファンより危険な目をしている」と言われている。また、『CvS2』ではハイデルンが率いる特殊部隊を自身の配下にするために接触を目論むが失敗に終わる(なお、『CvS2』のナイロビステージの背景にはハイデルンの特殊部隊のメンバーが登場する)。_NEWLINE_『SNK VS. CAPCOM 激突カードファイターズ』全シリーズ(トレーディングカードゲーム版も含む)ではプレイヤーキャラクターカードとして登場している。_NEWLINE_『ストリートファイター X 鉄拳』(以下『ストクロ』と表記)では「パンドラの箱」を破壊するために、いぶきに協力を要請する。
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『ファイナルファイト』でのロレント
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ステージ4のボスとして登場。エレベーター内で決戦を挑む。序盤は部下のエルガドに加えて、ポイズンやアンドレなどが攻撃し、自身もエレベーターの外にある梯子を上りながら手榴弾で攻撃してくる(その一方で回復アイテムや武器がゴンドラの上から落ちてくる)。エレベーターが頂上まで着くと、ロレント自身もエレベーターの中に降り、プレイヤーキャラクターと直接の勝負となる。_NEWLINE_残像がつくほどの素早い動きが特徴で、プレイヤーが油断していると棒による攻撃や飛び蹴り、投げによって体力を一瞬で削られてしまう。また、体力が少なくなると縦横無尽に駆け回りながら大量の手榴弾で攻撃してくる。倒された時には自らに向かって投げた手榴弾によって自爆するが、この時の爆風に当たり判定は無いため、プレイヤーキャラクターが近くに居てもダメージを受けない。_NEWLINE_ロレントの出現するステージ4は容量の問題によりスーパーファミコン移植版(同じく容量の問題から移植版で削除されていたガイを主人公に据えた同作のマイナーチェンジ版『ファイナルファイト・ガイ』も同様)では削除されている。作中の設定では「近道を選んだ」ということとされている(後述)が、同ステージの曲は『ファイナルファイト・ガイ』のオプションで聴くことができる。_NEWLINE_『ファイナルファイト2』にもステージ5(イタリアステージ)のボスとして登場。絶えず高速移動をしながら手榴弾を大量に足元にばら撒き、回転ジャンプで背景の手すりに飛び乗っては手榴弾を投げてくる。今作品は前作で壊滅させられたマッドギア残党による復讐という物語だが、続投したのはアンドレとロレントのみである。_NEWLINE_ゲームボーイアドバンス移植版である『ファイナルファイト ONE』ではステージ4が移植されており、ロレントも登場する。ソドムと同様に『ZERO3』と同じ顔グラフィック、口調で主人公との会話デモがある。隠しキャラクターである『ZERO3』バージョンのコーディーとのデモでは、スーパーファミコン版でステージ4がカットされていたことに関して「警察官(ステージ3のボス、エディ.E)をぶっ倒した後、そのまま海沿いを歩いた」とコーディーが言及し、ロレント自身は彼に全く話を聞いてもらえないという一幕もあった。
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キャラクターの特徴(『ZERO』シリーズ以降)
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ロッドを使ったパンチ攻撃はリーチこそ長いが、総じて大振りでスキが多い。連打キャンセル可能な技がなく、もっともスキの少ない弱パンチでもシリーズによっては連続ヒットすることはない。防御力(体力)が低いうえ、反撃に有効な無敵技などが少ないため、相手と直接殴り合うのは苦手。また、通常のジャンプも緩慢なため単調な飛び込みは迎撃されやすい。必殺技には普通に攻撃するものよりも、通常より高く遠くへ飛ぶハイジャンプ(スカウタージャンプ)や、「メコンデルタアタック」のような移動も兼ねた奇襲的な性質のものが多い。そのため、とくに空中での機動力は高い。_NEWLINE_攻撃力は低くなく、連続入力形式の多段ヒット技「パトリオットサークル」はコンボに組み込むことで威力を発揮する(ただし、ヒット数が多いため相手のスーパーコンボゲージを貯めさせやすいという欠点はある)。自身のスーパーコンボ「テイクノープリズナー」や「マインスイーパー」は、クリーンヒットさせれば大ダメージを与えることができる。とくにLv.3の「テイクノープリズナー」は引き上げるワイヤーの移動距離が長くスピードも速いうえ、単発攻撃ゆえにダメージのコンボ補正がかからない。そのため、遠距離で不用意に飛び道具を出した相手に使うことで絶大な効果を発揮する。_NEWLINE_『ウルIV』では『ZERO』シリーズに比べると全体的に動きが遅くなり、組み込めるコンボもタイミングがかなり重要なものとなった。_NEWLINE_『ウルIV』のオメガエディションでは『ZERO』シリーズのように素早い動きに戻り、「スカウタージャンプ」の復活、弱攻撃から繋げられるほどの「パトリオットサークル」の発生の速さ、相手の足元に手榴弾を投げつける「スネアマイン」、カウンター技の「インドミタブルリベンジャー」などが揃い、スピードと攻撃力が非常に優れたキャラクターとなった。 | 953072139758508866 |
Q430843 |
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ロンゲール男爵
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ロンゲール男爵(ロンゲールだんしゃく、仏: Baron de Longueuil)は、フランス王家創設の爵位にして19世紀末に英国王家の承認を受けたカナダ、ケベック州を領地に持つ貴族、爵位。カナダにおけるフランス貴族の現存例は本男爵家が唯一である。_NEWLINE_ヌベールフランス(現: カナダ)生まれの軍人シャルル・ル=モイネが、ルイ14世の治世期である1700年に男爵に叙されたのが始まりであったが、七年戦争の講和条約であるパリ条約によってカナダがイギリスに譲渡されて以降は、在カナダのフランス系貴族の地位は留保されていた。_NEWLINE_爵位は初代男爵の系統で現在まで続いており、現当主第12代ロンゲール男爵マイケル・グラントはその子孫である。
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歴史
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ル=モイネ家は元来、ノルマンディー地方シャトーゲーに住まう一族であったが、初代男爵の父シャルル・ル=モイネの代にカナダ、ロンゲイ(Longueuil)に移住したのち、彼が1672年にロンゲイ領主に任ぜられた。_NEWLINE_その長男でモントリオール州知事を務めたシャルルが1700年にルイ14世より、ロンゲール男爵(Barond de Longueuil)に叙された。_NEWLINE_その後10年で男爵領は拡大し、セントローレンス川からリシュリュー川にかけて、及び河岸のデレリーまでを含む規模となり、1854年に封建制度が解体された際にはその領地には多くの人口を擁しており、制度解体後も1969年までは男爵領としての歳入が確認されている。_NEWLINE_初代男爵の孫にあたる3代男爵が七年戦争に従軍して戦死したため、3代男爵夫人がスコットランド、マレー地方の領主ウィリアム・グラントと再婚してもうけた娘であるマリー・シャルル・ル=モインが男爵を襲った。ウィリアムは娘をおいで軍人のデイビッド・アレクサンダー・グラントに嫁がせて、その息子が5代男爵となった。_NEWLINE_その後ヌベールフランスが陥落して、パリ条約により英国領となった際に、英国が古くからの土地所有権を同条約で承認したのだから、ロンゲールの土地を男爵領として認める義務があったという主張を一族は行った。_NEWLINE_この要求は英国女王ヴィクトリアが1880年に当時の男爵家当主であった第7代男爵チャールズ・コルモア・グラントに対して、ロンゲール男爵位の追認を行った勅許状のが発出されたことでようやく解決された。_NEWLINE_なお、この時点でロンゲール男爵家と同様の貴族はすべて断絶していたため、英国貴族の枠組みへの取り込みや請求はなされていない。 | 634182966515169530 |
Q1583868 |
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ロンドン旅客運輸公社
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歴史
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ロンドン旅客運輸公社は、1933年4月13日に制定された1933年ロンドン旅客運輸法によって設立された。法案は1931年まで労働党政権の運輸大臣を務めていたハーバート・モリソンにより提出された。この法案はハイブリッド・ビル(公私混合法案、特定の個人や組織の財産に影響を与える法案)であるとして、次の政権下の新しい議会まで議決を延期することができた。しかし新政権でも、保守党が多数を占めていた上に私有の事業を公的部門に大規模に移管する法案であったにも関わらず、大きな変更を加えないことが決定された。1933年7月1日に、ロンドン旅客運輸地域を担当するロンドン旅客運輸公社が発足した。_NEWLINE_法律により、チャリング・クロスから半径約40キロメートルの範囲はロンドン旅客運輸地域と設定され、この地域内の幹線鉄道とタクシー以外のすべての旅客運輸事業が国有化され、ロンドン旅客運輸公社が独占的に旅客輸送を行うことになった。
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責務
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法に従い、ロンドン旅客運輸公社は以下の事業体を買収した。
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その後の歴史
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ロンドン旅客運輸公社は、幹線鉄道の会社と郊外輸送サービスに関する協定を結ぶ権限を与えられていた。_NEWLINE_92の交通および関連企業体、資本にして約1億2000万ポンドがロンドン旅客運輸公社の傘下に入った。_NEWLINE_LPTBは彼らの郊外のサービスに関する幹線鉄道会社と協調契約を締結する権限を与えられていた。都心のバス、トロリーバス、地下鉄の車両、路面電車は、地下鉄およびロンドンゼネラルの赤色に塗られ、コーチと郊外バスは緑に塗られて、コーチはグリーン・ラインのブランドとなった。多くの地下鉄で既に使われていた"UNDERGROUND"のブランドは全駅全路線に拡大された。この名前は、地下鉄グループのマネージャーであったアシュフィールド卿が1908年に発案したと言われている。_NEWLINE_ロンドン旅客運輸公社は、サービスを拡張し既存のインフラストラクチャーを改築する大規模な投資に着手したが、この大半は1935年から1940年にかけてのニュー・ワーク・プログラムという計画によるものであった。この中には、セントラル線、ベーカールー線、ノーザン線、メトロポリタン線の延伸、新しい車両と保守設備、市街中心部の多くの駅の大規模な改築、ほとんどの路面電車網を後に世界最大級となるトロリーバス網で置き換え、などが含まれた。この時期、ロンドン・トランスポートの最初の象徴となったのが、ロンドン地下鉄1938形電車およびRT型のバスであった。第二次世界大戦の勃発により計画は削減され、遅れたものの、こんにちのロンドンの地下鉄網はこの計画によって造られた。_NEWLINE_ロンドン旅客運輸公社は、地下鉄グループによって始められた高い水準の企業の理念、デザイン、宣伝といったものを発展させ続けた。これには、チャールズ・ホールデン設計による駅、ウォリス・ギルバート・アンド・パートナーズといった建築家によるバスの車庫、その他バス停や上屋といったものが含まれた。ロンドン旅客輸送公社のポスターや宣伝はしばしば他の模範となりうるもので、かなりの人気となった。_NEWLINE_ロンドン旅客運輸公社は、1947年運輸法によりロンドン・トランスポート経営委員会に置き換えられた。ロンドン・トランスポート経営委員会の下でも、かなりの自主権が与えられていた。ロンドン旅客運輸公社は、1949年12月23日に清算されるまで、法的には存続していた。 | 15195805527802100747 |
Q193258 |
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ローザンヌ条約
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概要
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1920年にオスマン帝国のスルタンメフメト6世が連合国と締結したセーヴル条約で東トラキアおよびイズミル地方を得たギリシャは、さらにその領土を拡大しようと小アジアに侵攻した(希土戦争)。ムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるトルコ軍はこれを撃退し、イズミルを実力で奪還した。ケマルはつづいてアルメニアを平定した。ケマルはソ連と平和条約を、フランスとは休戦条約を締結した。また1922年にはスルタン制を廃止した。_NEWLINE_そこで連合国はセーヴル条約にかわる新たな講和条約を結ぶことにした。スイスのローザンヌでヴェルサイユ体制が7か月もかけて調整され、トルコ(アンカラ政府)とイギリス、フランス、イタリア、日本、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア王国(当時の国号は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」)の間で条約が調印された。_NEWLINE_ローザンヌ条約によって連合国は原則として賠償請求権を放棄した。その代わり、ヴェルサイユ条約第259条第1項およびサン=ジェルマン条約第210条第1項により既に連合国で管理している500万トルコポンドを譲り受けた。そして1923年11月23日パリにおいて連合国間の分配に関する協定が成立したが、譲り受けた500万トルコポンドに加え、戦前オスマン帝国が軍艦購入資金としてイギリスで発行した五分利付国庫証券で、イギリス政府の保管している84万6100スターリング・ポンドを、各連合国へトルコからの被害額に按分比例のうえ分配することとなった。_NEWLINE_条約は1923年8月23日にトルコに批准され、以降ギリシャが1923年8月25日に、イタリアが1924年3月12日に、日本が1924年5月15日に、イギリスが1924年7月16日に批准した。批准書が正式にパリで寄託された1924年8月6日、条約が発効した。 | 12419824418038692388 |
Q319396 |
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ロージャ・ミクローシュ
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略歴
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ブダペストに生まれ、ライプツィヒ音楽院に学ぶ。1927年に同地で《弦楽三重奏曲 作品1》を作曲。1931年にパリに移住し、《管弦楽のための主題と変奏、終曲 作品13》《小オーケストラのためのセレナーデ 作品10》を上演する。1937年にロンドンに渡り、最初の映画音楽を作曲。_NEWLINE_その後アメリカ合衆国で映画音楽の作曲家として活躍し、『深夜の告白』(1944年)、『白い恐怖』(1945年)や『二重生活』(1947年)、『クォ・ヴァディス』(1951年)、『緑の火・エメラルド』(1954年)、『ベン・ハー』(1959年)などで名声を博した。『白い恐怖』はロマン派的な、どことなくシューマンやラフマニノフを思わせるピアノ協奏曲の様式で作曲されており、またテルミンが利用されていることで有名。『ベン・ハー』の音楽は、後に管弦楽組曲としても編み直された。1970年にはビリー・ワイルダー監督の『シャーロック・ホームズの冒険』にも楽曲を提供し、1970年代の終わりまで映画音楽の作曲を続けた。_NEWLINE_この間にも芸術音楽の作曲を止めてはおらず、1956年にハイフェッツの依嘱により《ヴァイオリン協奏曲 作品24》を、また1962年にハイフェッツとピアティゴルスキーのために《ヴァイオリンとチェロ、管弦楽のための主題と変奏 作品29a》などを作曲。これらの作品は、よりロマン派的な映画音楽とは異なり、新古典主義音楽とハンガリーの民族音楽を独自に折衷した作風となっている。室内楽は初期に数多く手懸けた。_NEWLINE_1943年に結婚して2児をもうけた。 | 5942042324353385761 |
Q706662 |
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ロータル=ギュンター・ブーフハイム
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経歴
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ヴァイマル生まれ。少年時代から画才を発揮し、新聞や雑誌への寄稿も行っていた。1937年にアビトゥーアを取得、1939年よりドレスデン造形美術大学およびミュンヘン芸術アカデミーで絵画などを学んだ。第二次世界大戦中の1940年9月20日、ドイツ海軍報道部隊の報道画家(Pressezeichner)として採用され、9月25日にフランス大西洋岸地域の部隊に配属された。Uボートなどの艦艇に搭乗取材するなどして多数の記事や写真を発表し、最終階級は中尉として軍歴を終えた。戦後は美術出版社「ブーフハイム出版(Buchheim Verlag)」を経営し、マックス・ベックマンやパブロ・ピカソの作品集を刊行、絵画コレクターとしても著名だった。_NEWLINE_1973年に代表作となったUボート乗組員の極限状態を描いた小説『Uボート』(原題:Das Boot)を発表。同作品は1981年にウォルフガング・ペーターゼン監督によって映画化された。2007年、心不全のため89歳でミュンヘン近郊のフェルダフィンクで死去。 | 7570658599770148870 |
Q70251 |
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ワルター・ギラー
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来歴
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ノルトライン=ヴェストファーレン州のレックリングハウゼン(Recklinghausen)で小児科医の息子として生まれる。医学を学んだが俳優を志し、劇場の照明技師などを経て、1949年に映画デビュー。俳優のエデュアルト・マルクスの下でも演技を学んだ。その後、1950年代から1960年代にかけて旧西ドイツ映画界で数々の映画に出演し活躍。フランス映画、イタリア映画など外国作品への出演もある。1970年代からは主にテレビドラマを中心に出演。2009年も映画とテレビドラマに出演。_NEWLINE_1956年に出演した旧西ドイツ映画『ケペニックの大尉』(カラー作品。英語題名は『The Captain of Kopenick』)は、第29回米国アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。_NEWLINE_1958年(昭和33年)8月15日、旧西ドイツ映画『Peter Voss, der Millionendieb』(日本未公開。カラー作品)の日本ロケのため、O・W・フィッシャー、イングリッド・アンドレら共演者とスタッフ達と総勢19人で来日。東京国際空港(羽田空港)、椿山荘、上野東照宮などでロケを行った。同8月19日、離日。_NEWLINE_第17回カンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞を受賞した旧西ドイツ映画『Die Tote von Beverly Hills』(1964年。日本未公開)にも出演している。_NEWLINE_2000年、ドイツ連邦共和国功労勲章を受章。_NEWLINE_1956年に結婚した女優のナージャ・ティラーとはドイツ芸能界きってのおしどり夫婦だったのが有名で、2006年に結婚生活50年(金婚式。ドイツ語:Die Goldene Hochzeit)を迎えている。そして、同年に夫婦でバンビ賞の功労賞を受賞した。彼女との間に子供が2人いる。日本公開作では映画『火刑の部屋』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1962年)と映画『女と男のある限り』(1963年)の2作に夫婦で一緒に出演している。_NEWLINE_2011年12月15日、死去。 | 6336431747638992235 |
Q11351521 |
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ワンセグ2サービス
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概要
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本来ワンセグとは地上デジタル放送で13の帯域(セグメント)があるうちの1つを利用した放送サービスであるが、それをMPEG2のストリームレベルで統計多重化し、2番組を同時に放送するものである。画質・音質に違いはなく、またそれぞれが別々の番組情報やデータ放送画面などを持つことができる仕組みとなっている。
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TOKYO MXの場合
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TOKYO MXは、2006年7月の移転とともに本格的なデジタル放送設備が整って以降、1つの放送局が複数のチャンネルを運用できるマルチチャンネル編成に意欲的に取り組んできた。かつて19時から2時間のみの放送だった『東京シティ競馬中継』は、同年同月よりサブ2チャンネル(通称S2、092ch)で15時から21時まで6時間連続の生中継を行い、またバラエティ番組やヘッドラインニュースなど翌年には1日の多くの時間帯で実施されるようになった。_NEWLINE_この際、ワンセグは基本的にS1の番組を放送するが、『東京シティ競馬中継』に限り昼夜続けてS2の方を放送していた。つまりマルチチャンネル編成のどちらかの番組しか視聴できず、「もう片方」で放送の『5時に夢中!』や『TOKYO MX NEWS』などはワンセグで見られなくなっていた。これらの視聴者や、提供番組やテレビショッピングが流れなくなるスポンサーなどからの意見・苦情に応えるように、MX社内でも開発が進められていた。_NEWLINE_2007年11月16日に実証実験が成功したと発表され、翌年2008年6月23日より、正式サービスが日本のテレビジョン放送局として初めて開始された。_NEWLINE_各チャンネル(放送サービス)の名称は、それぞれ「MXワンセグ1」、「MXワンセグ2」となる。チャンネル番号の表記は機種により異なるが、691ch・692chと分けるか、9-1ch・9-2chと枝番にする場合が多いようである。_NEWLINE_放送内容は、(ワンセグでない)地上デジタル放送のS2と全く同じ番組が流れている。番組情報やEPG電子番組表(一部機種のみ対応)も同じである。データ放送は基本的にワンセグ1と同様であり、ストックボイスの経済番組や『東京シティ競馬中継』では番組内容に連動した専用のものが流される。_NEWLINE_また、地上デジタル放送でマルチチャンネル編成を行わず、S2がS1と同じ番組を放送している際は、ワンセグもこれと同様に動作する。「MXワンセグ2」のサービス自体が消滅する訳ではなく、機種により通常通り選局できるかスキップされる。_NEWLINE_なお2014年4月より、TOKYO MXはフルセグメント放送でも終日マルチチャンネル編成を行うようになったため、現在のワンセグ2での放送はフルセグメントのS2と同じ内容が放送されている。
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主な番組
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前述したように、以下すべての番組はマルチ編成 (S2) とワンセグ2共通のものである。
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奈良テレビの場合
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2009年12月1日に全国の民放で最後にワンセグ放送を開始した奈良テレビ放送は、「ならセグ」の名称で、TOKYO MXと同じ技術を使い、ワンセグでの691・692chのマルチチャンネル編成を行っていた。_NEWLINE_リモコンキーIDが同じ「9」のTOKYO MXと同様にマルチチャンネル編成を実施し、一部の時間帯で独自番組やフルセグ放送との時差編成を行なっていた。ワンセグ1chがフルセグと同内容の放送、ワンセグ2chが独自編成「ならセグ」となっていた。「MXワンセグ1」、「MXワンセグ2」ともに共通編成の時間が多いTOKYO MXとは違い、平日の『ゆうドキッ!』、土日夕方の『TVNニュース』など一部の番組を除き完全に独立した編成を行っていた。_NEWLINE_「ならセグ」(S2、692ch)では、『わんせぐのうた』などの音楽番組、奈良の風景や年中行事などを紹介する『映像なら百景』をほぼループして放送する(毎週1回更新)。 こちらもチャンネル番号の表記は機種により異なるが、691ch・692chと分けるか、9-1ch・9-2chと枝番にする場合が多いようである。_NEWLINE_もう一方のチャンネル(S1、691ch)は、通常のデジタルフルセグ放送のサイマルとなっている。_NEWLINE_原則としてワンセグマルチチャンネル編成の2チャンネル(奈良県北部と周辺地域)で午前7時から翌日午前1:30の間(『ゆうドキッ!』=平日夕方と、週末のTVNニュース・夕刊版、『気ままに歩こーく!』、『千客万来!ならCoCo』(毎月第1土曜日のみ)、『NEXT-輝け!アスリートたち-』のみフルセグ同時)放送する。_NEWLINE_2016年3月31日をもって「ならセグ」(S2、692ch)が終了した。
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「ならセグ」の問題点
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ならセグの開始当初は、サブチャンネル(692ch)を独自放送のチャンネルとしているTOKYO MXとは逆に、メインチャンネルである691chを独自放送のチャンネルと位置づけ、地デジ・アナログのサイマル放送はサブチャンネルで放送していた。そのため、サブチャンネルを視聴できない一部機種(上記の表参照)では奈良テレビの番組の大半が視聴できない状況となっていた。この事への対策からか、固定テレビ向けに特に重要度の高い番組(選挙開票特番や災害特番・高校野球中継など)が放送される場合には、臨時に独自編成チャンネルとサイマルチャンネルを入れ替え、全ての機種でサイマルチャンネルを視聴できるように対応する場合があった。この問題はその後2013年4月に691chをサイマル放送、692chを独自放送に変更することで解決した。_NEWLINE_前述されているが、「ならセグ」におけるレギュラー放送の独自番組が5分から10分程度のミニ番組を含めた再放送、および固定テレビ向けに放送された番組の再編集番組のみで、それを30分または1時間の枠内で繰り返し放送する形式をとっていた。奈良テレビ主催イベントや高校野球県予選の生中継が特別番組として放送される事もあったものの、実施例が少なかったことからTOKYO MXの同サービスやNHK教育テレビのマルチチャンネル編成やワンセグ独自放送とは対照的に、「ならセグ」の番組表が掲載されていた新聞はなく、どうしても放送内容を確認したい場合は奈良テレビのパソコン用公式サイトにアクセスする必要があった。_NEWLINE_また、奈良テレビの地デジ中継局は当該頁記述にもあるとおり、主に奈良市・生駒市など北部を中心とした地域(奈良盆地)に偏っており、南部では一部地域を除き、ケーブルテレビ局の再配信での補完によって中継局が設置されていない事から、実質的に南部の多くの地域ではこれが利用できず、放送エリアもフルセグより狭く、北部地域のみに限られていた。
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南海放送の場合
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2019年10月22日からは同局のラジオをスタジオと県内ライブカメラ中継をしている「ウィットチャンネル」のサイマル放送を「第2ワンセグ」として実施。
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NHKワンセグ2との名称重複
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2009年2月18日にNHKが『NHKワンセグ2』を発表したが、それに先駆け2008年6月に東京メトロポリタンテレビジョンはサービスを開始していた。しかしその時点でMX側はワンセグ2の商標登録をしていなかったため、名称が同じでありながらサービスの異なるワンセグ2が存在することとなった。 | 9958665492321161267 |
Q27204179 |
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ワンダー・ウーマンとマーストン教授の秘密
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ストーリー
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1928年、ハーバード大学で心理学の研究をしていたマーストン夫妻(ウィリアムとエリザベス)は、オリーヴ・バーンを助手に採用した。オリーヴはフェミニストの活動家として有名なエセル・バーンの娘であった。オリーヴは嘘発見器の開発やDISC理論の研究を大いに助けた。一緒に仕事をしているうちに、3人はどんどん親密な関係になっていった。その関係はやがてポリアモリーに至った。_NEWLINE_3人の特殊な関係が大学内で噂になったため、マーストン夫妻は教授職をクビになってしまった。その直後、オリーヴの妊娠が判明したため、彼女はマーストン夫妻と同居することになった。3人はポリアモリーの続行を決めたが、周囲にそれがバレないような振る舞いを心がけた。3人はニューヨーク郊外で幸せに暮らしていた。エリザベスとオリーヴが同時に妊娠するというハプニングも起きたが、「オリーヴは未亡人なのです」と近所の人たちに釈明して難を逃れた。やがて、ウィリアムは作家としてのキャリアを歩み始めたが、一家の生計を支えたのは秘書として働くエリザベスであった。オリーヴは子供たちの面倒を見る傍ら、小説を執筆してそれを出版社に送付していた。3人は4人の子供を育てることになり、エリザベスは娘の一人にオリーヴにちなんだ名前を付けた。_NEWLINE_ウィリアムは偶然立ち寄った画廊に展示されていた作品に衝撃を受けた。店主のチャールズ・ギエットが集めたフェティッシュ・アートがウィリアムのDISC理論を実証するようなものだったからである。当初、エリザベスはそうした作品を拒絶していたが、作品にインスパイアされた衣装を身につけたオリーヴの美しさに心を打たれ、徐々に態度が軟化していった。この衣装は後にダイアナのコスチュームに反映されることになった。_NEWLINE_作家としての仕事の依頼が来るようになったウィリアムは、アマゾーンをモデルにしたヒロインを主人公にした漫画を執筆し始めた。漫画の執筆に当たっては、ウィリアムの心理学者としての知見と3人のポリアモリー生活が大いに役立った。また、ウィリアムには男女同権を目指すフェミニスト運動を支援したいという思いもあった。彼はナショナル・ペリオディカル出版のマックス・ゲインズに企画を持ち込んだ。ゲインズは漫画の出来映えに驚嘆し、同社から出版する決断を下した。その際、ゲインズはウィリアムに「主人公の名前をもっと単純にしてはどうでしょう。例えば、ワンダーウーマンとか。」と提案し、ウィリアムはそれに同意した。それが功を奏したのか、『ワンダーウーマン』は大ベストセラーとなった。その印税収入でマーストン一家の家計は一気に潤った。_NEWLINE_しかし、予期せぬ事態が発生したために、マーストン一家の人間関係は急激に悪化していくこととなった。
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製作
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本作の主要撮影は2016年10月上旬に始まった。
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公開・興行収入
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2017年9月9日、本作はスペシャル・プレゼンテーションに出品されていた第42回トロント国際映画祭でプレミア上映された。_NEWLINE_2017年6月に公開された『ワンダーウーマン』がヒットしたこともあって、原作漫画誕生の経緯を描き出した本作のヒットも期待されたが、期待通りの結果にはならなかった。本作は『ハッピー・デス・デイ』及び『ザ・フォーリナー/復讐者』、『マーシャル 法廷を変えた男』と同じ週に公開され、公開初週末に300万ドル前後を稼ぎ出すと予想されていたが、実際の数字はそれを下回るものであった。2017年10月13日、本作は全米1229館で封切られ、公開初週末に73万ドルを稼ぎ出し、週末興行収入ランキング初登場14位となった。
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評価
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本作は批評家から高く評価されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには150件のレビューがあり、批評家支持率は86%、平均点は10点満点で7.2点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「主役3人の名演のお陰で、『ワンダー・ウーマンとマーストン教授の秘密』はファクトベースの魅力的な物語に、映画的な真実味という名の投げ縄を巻き付けている。」となっている。また、Metacriticには38件のレビューがあり、加重平均値は68/100となっている。 | 6852135845068126979 |
Q313762 |
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ワールド・ワイド・ライヴ
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解説
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1984年から1985年にかけて、スコーピオンズは大がかりなワールド・ツアーを行った。初日は1984年1月23日のバーミンガム公演、最終日は1985年2月7日の東京公演(リマスターCDのブックレットには、全公演日程が記載されている)。本作ではロサンゼルス、サンディエゴ、コスタメサ、パリ、ケルンでのライヴ音源を使用。収録曲は『ラヴドライヴ』(1979年)以降の楽曲と、オープニング用のインストゥルメンタル「カウントダウン」、マティアス・ヤプスのソロをフィーチャーした「シックス・ストリング・スティング」から成り、ウルリッヒ・ロート在籍時の楽曲は含まれていない。_NEWLINE_オリジナルLPは2枚組。初CD化された際は1枚にまとめられ、収録時間の関係から一部の楽曲が外された。2001年に東芝EMIから発売されたリマスターCDでは、CDの収録時間向上に伴い、オリジナルLPと同じ曲数となった。 | 12693891124283228751 |
Q11351802 |
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ワ号事件 (連続窃盗事件)
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ワ号事件(わごうじけん)とは、1948年(昭和23年)末頃より東北地方を股に掛けた朝鮮人窃盗団による連続窃盗事件である。国家地方警察宮城県本部涌谷地区警察署が捜査したことから、涌谷(わくや)の「ワ」をとって名づけられた。
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事件の概要
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1948年末頃より、宮城県・岩手県・山形県の3県内で土蔵破りや店舗荒らしによる窃盗事件が多発していた。国家地方警察宮城県本部涌谷地区警察署は、管内の被害を機に捜査本部を設置した。_NEWLINE_1949年5月7日、盗品の一部である腰巻の真綿を発見した。真綿には胡桃の葉と鋸屑が付着していた。また、近くに犯人が排泄したと思われる糞が発見された。糞を鑑定した結果、トウガラシを刻んだものが混じっていた。_NEWLINE_これらの証拠から、「犯人は犯行前にトウガラシを食べており、近くに胡桃の木がある新築家屋に住んでいる」という仮説が浮かび上がってきた。この仮説に基づいて捜査を進めた結果、胡桃の木がある民家を発見し、最近増築された納屋に住み込んでいる朝鮮人夫婦がいることを突き止めた。そして、その妻が盗品の衣服を着用していたことが判明した。_NEWLINE_9月13日警察はその夫を逮捕して取り調べた結果、構成員約60人に及ぶ窃盗団の存在が明らかになった。これ以降、芋づる式に窃盗団のメンバーが検挙されていった。_NEWLINE_捜査は1950年2月10日まで続けられ、宮城県・岩手県・山形県・福島県の4県内で窃盗罪130件、贓物罪40件、横領罪2件、被害総額1000万円にのぼる犯行が明らかになった。
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犯行の手口
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犯人は3人前後のグループを組んで、店舗や倉庫に侵入し、衣類や米穀や自転車を中心に盗んでいた。盗品は北海道や大阪の古物商に売りさばき、その犯罪収益は組織の地位や「功労」に応じて分配された。
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裁判
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この事件で40人近くが起訴され、裁判の結果それぞれに懲役6ヶ月~6年の刑が言い渡された。 | 1936236094288852149 |
Q2579463 |
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ヴァイキング 〜海の覇者たち〜
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概要
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製作総指揮は『THE TUDORS〜背徳の王冠〜』などで知られるマイケル・ハースト。その関係でジョナサン・リース=マイヤーズなども出演している。
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シーズン1
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デンマークのカテガットで農業を営みながらヴァイキングとして各地を遠征していた戦士ラグナル・ロズブロークは、海を西へ渡っていくと肥沃な大地があると信じ、西への航海を夢見ていた。しかし首長ハラルドソンはそのような大地は存在しないと西への航海を認めず、毎年東への遠征を指示して僅かな略奪品を持ち帰ってくるのみであった。_NEWLINE_しびれを切らしたラグナルは密かに船を造らせ、仲間を集めて、単独で西への航海に乗り出した。西にあると信じる大地は中々見つからず、仲間からも不信感を向けられるようになったその時、ついに新たな大地を発見することに成功した。到達したのはノーサンブリア王国のリンディスファーン修道院で、ラグナルたちは無抵抗の修道士たちを虐殺し、宝物を略奪し、一部の修道士を奴隷として意気揚々とカテガットへ帰還した。_NEWLINE_西への航海を成功させて大量の宝物を略奪してきたラグナルを人々は称賛したが、首長ハラルドソンはそんな彼に危機感を覚えて排除に乗り出す・・・。
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シーズン2
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首長となったラグナルは、デンマーク王ホリックの要請に応じて王とイェータランド首長ボルグとの領土紛争の仲介に乗り出したが決裂し、戦闘状態に陥った。そんな最中、ラグナルの兄であるロロはボルグに籠絡されてラグナルを裏切り、兄弟同士で戦うこととなってしまった。戦闘はラグナルとホリック王が勝利し、ボルグとは講和を結んで共に西へ遠征に向かうこととなった。_NEWLINE_ラグナル、ホリック王、ボルグは年月をかけて戦力を整え、再び西の海を越えて遠征に向かうためにカテガットに集結した。しかしホリック王は出発直前になって、かつて争ったボルグはやはり信用できないとして、遠征軍にボルグは加えずラグナルとホリック王のみ遠征することとなった。_NEWLINE_今回の航海は嵐に襲われたため、いつもとは違うウェセックス王国にたどり着いた。ウェセックス王国のエグバート王はノーサンブリア王国を襲撃した「北の民(ヴァイキング)」の噂を聞いて、ウェセックス王国にも来るに違いないと戦力を整えて待ち構えていた・・・。
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シーズン3
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王となったラグナルは、エグバート王との和平協定に則って定住地を受け取るため、ウェセックス王国へ再び大軍を率いて赴いた。和平協定は、ラグナルたちがウェセックス王国内に定住地を受け取る代わりに、傭兵としてエグバート王のために戦うという内容だった。_NEWLINE_ウェセックス王国の隣国であるマーシア王国では王族間で王位を争う内戦状態にあり、エグバート王はマーシア王国のクウェンスリス王女に肩入れしてマーシア王国に対する影響力を拡大しようと画策していた。そこで、ラグナルたちをクウェンスリス王女の傭兵部隊としてマーシア王国の内戦に介入させることにした。_NEWLINE_ラグナルはクウェンスリス王女を擁し、エグバート王の息子エセルウルフの部隊と共にマーシア王国へ侵攻を開始した。
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シーズン4
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西フランク王国の王都パリへの襲撃を、多大な被害を出しながらも何とか成功させたラグナルだったが、襲撃時に負った傷に苦しんでいた。その間に、以前アセルスタンを殺害したフロキをビヨルンが処罰し、互いに険悪な関係となってしまった。_NEWLINE_一方、ラグナルたちの撤退に同行せず西フランク王国に残ったロロはヴァイキングと西フランク王国の和睦の証としてシャルル3世の娘ジゼルと結婚しノルマンディー公を授爵された。野心に目覚めたロロはすぐにヴァイキングを裏切って共に残っていた仲間を殺害し、再び襲来するであろうラグナルたちに対する防衛策をパリ伯オドと共に練り始めた。_NEWLINE_マーシア王国では女王となったクウェンスリスが反対派によってラグナルとの間に授かった息子マグヌス共々幽閉されていた。マーシア王国での影響力喪失を恐れたウェセックス王国のエグバート王は、息子のエセルウルフにクウェンスリス救出を命じた。 | 13933090089157714715 |
Q11351899 |
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ヴァルキュリアの機甲
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ストーリー
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体内に原爆並みの破壊力を秘めた爆核を有するG・O(ジャイアント・オーガニック)。こう総称される謎の生物は2035年に初めて確認された。アメーバのようなそのG・Oは地中海で発見され、船上での調査を経てマルセイユに送られることになった。だがその数時間後、G・Oは大爆発を起こし、マルセイユは消滅。150万人の命が 失われるという大惨事となった。2037年、アメーバ状の巨大生物がテキサス州南部の港湾都市ガルベストンに出現、二日後、前回と同じようにしてガルベストンは消滅した。今回の場合、政府によりG・O確保のため州兵が派遣されており、爆発の一部始終が記録され、NASA職員はリアルタイムでそれを確認していた。アメリカはバイオテロの可能性を説き、それから半年の間に同様の事件が無差別に起こってもその立場を変えなかった。やがて大国による新兵器の実験説がささやかれるようになり、各国は疑心暗鬼に駆られ世界戦争勃発まで危ぶまれた。その時、世界トップのバイオテクノロジー研究機関ワイズリーが人類の技術ではどうやっても実現不可能であり、よって自然災害でしかありえないと発表した。各国は冷静さを取り戻し国連で対策が講じられるようになった。あらゆる兵器が試され、核まで用いられたもののこの巨大生物を駆除することはできなかったが、ヨートゥンハイメン(en:Jotunheimen)の遺跡で発見された七本の巨大な槍にG・Oの細胞を崩壊させる力があることが判明。国連でこれらの槍を用いる計画C.O.V Project(ヴァルキュリア騎兵計画)が持ち上がり承認される。こうして人類はG・Oへの対抗手段を手にした。_NEWLINE_しかしこの計画にはある秘密があった。槍を振るいG・Oを倒す「ヴァルキュリア」たち、 その正体は機械ではなく、平均身長16メートルの巨人の少女たちだったのだ。人類を守るため戦わさせられる彼女たちだが、その待遇は非人道的なものだった。新しくヴァルキュリア国連騎兵隊(UNCOV)に配属された二等海尉・天宮竜一郎は、前任者にかわって「ヴァルキュリア」たちを指揮する立場を与えられる。_NEWLINE_上からの「ヴァルキュリアを女の子扱いせよ」という注文のもと、竜一郎は試行錯誤しながら彼女たちと歩み寄り、共にG・Oの脅威と戦っていく。 | 1280605998508203145 |
Q152120 |
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ヴァンゼー会議
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ヴァンゼー会議(ヴァンゼーかいぎ、独: Wannseekonferenz、英: Wannsee Conference)は、15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議は1942年1月20日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。
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ヴァンゼー・プロトコル
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会議の公式な議事録(独:Protokoll,プロトコル)では、会議の目的は「最終解決」を実行するために関係省庁の業務を調整することであると述べられている。プロトコルは親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーの筆頭副官で国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒの指示を受けたアドルフ・アイヒマンによって作成された。会議の要約には、ドイツからユダヤ人を排除する方法が国外移住の促進から移送と強制収容と強制労働と計画的殺害に変更されたことが特記されている。_NEWLINE_様々な方策(移送、強制収容、強制労働、計画的殺害)の組み合わせがプロトコルに詳述されている。これら方策の組み合わせがナチスのヨーロッパユダヤ人絶滅政策と相互に関連していた。移送はそれだけで終わりというわけではなかった。ドイツや同盟国からユダヤ人を強制的に移送することは単にユダヤ人を排除するのではなく、彼らを強制労働者として利用することであった。_NEWLINE_強制労働者は同時に2つの主要目的を満たした。強制労働は特に道路建設のような大規模な社会基盤の整備に当てられたが、同時にそれは奴隷的重労働であった。労働は極度の疲労を伴い、結果として多数の労働者が死亡することが期待されていた。過酷な条件を生き抜いた者は殺されることになっていた。(「最後まで何とか切り抜けた者は、適切な処置を受けなければならない…」)。プロトコルによれば「特別処置」とは「殺害」と同義語であることは明らかである。アイヒマンは後にイスラエルでの裁判でこれを認めた。また、イスラエル政府によってアイヒマンが自白を強要された証拠は発見されていない。会議から一年以内にホロコーストは加速し、ユダヤ人の多くは絶滅収容所に到着すると同時に強制労働者に選別されることなく殺害されることとなった。
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会議議事録に関する論議
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ヴァンゼー会議の存在を裏付ける会議の議事録「ヴァンゼー文書」はアドルフ・アイヒマンが作成したとされ、1947年にアメリカ軍が外務省の文書の中から発見したものである。ドイツ国内でそれが原本であるかどうかの議論が存在する。_NEWLINE_しかし会議が開催された時期の前後に、議長であるラインハルト・ハイドリヒと、出席者であるオット・ホフマンやマルティン・ルターの間に複数の書簡が交わされ、いくつかは現存している。それらにはヴァンゼーで開催される会議の予定と、会議の議題が「ユダヤ人問題」であることが明記されており、歴史学的には会議関係者の残した記録(手紙やレポート、日記帳などの一次史料)から明白であり、ヴァンゼーでユダヤ人問題を討議する会議が行われたことに疑問の余地は無い。
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1942年2月26日ルター宛書簡
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親愛なる党同志ルター!_NEWLINE_1942年1月20日に行われた手続きに関する会議の議事録を同封する。_NEWLINE__NEWLINE_ユダヤ人問題の最終的解決の実行に関する基本的立場が幸運にもこれまでに確立され、関係省庁全ての方面で完全な同意があることから、企画された解決の開始段階における組織的・技術的・物質的必要条件を示す草案の完成に関わる詳細についての必要な討論に貴殿の専門官の1人を派遣されることを、ゲーリング帝国元帥の要請により依頼するものである。_NEWLINE__NEWLINE_この方針に沿った最初の会議を1942年3月6日午前10:30にベルリンのクーアフュルステン街116番地にて開催する予定である。よって貴殿に対しては、貴殿の専門官が当地における私の部下である親衛隊中佐アイヒマンにこの件で連絡するように依頼するものである。_NEWLINE__NEWLINE_ハイル・ヒトラー!_NEWLINE__NEWLINE_敬具(手書き署名)ハイドリヒ_NEWLINE__NEWLINE_同封物 1部(ヴァンゼー・プロトコル)_NEWLINE_ — ラインハルト・ハイドリヒのマルティン・ルター宛て書簡、ヴァンゼー会議博物館による当書簡の英訳を試訳
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懐疑派の立場
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元ドイツ国防軍の将校で著名なホロコースト否認論者のヴィルヘルム・シュテークリヒはこのヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルク裁判の国際検察局のロベルト・ケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張している。_NEWLINE_歴史修正主義者のゲルマー・ルドルフは、ヴァンゼー会議録には、ユダヤ人の絶滅についての内容がはっきり書いておらず、ユダヤ人が絶滅されるとしても、いつ、どのようにしてか、などについても一言も触れられていない。などとして、ユダヤ人絶滅が決定されたという根拠が不十分としている。_NEWLINE_ドイツ近代史研究者のエルンスト・ノルテらが歴史修正主義の立場から議事録の改竄の可能性や信憑性に疑問を表明している。
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記念館
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ヴァンゼー会議が開かれたヴァンゼー別荘は1943年にノルトハフ財団からRSHAに売却された。戦後はアメリカ軍が使用した後、しばらくホステルとして使われていた。1965年から1972年まで歴史家ヨーゼフ・ヴルフが記念館の設立を計画したが実現せず、1992年になってヴァンゼー会議記念館として開館した。
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会議にまつわる誤解
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ヒトラー自身はヴァンゼー会議に出席していないが、デンマーク放送協会が1992年に作成された放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』ではヒトラーがヴァンゼー会議の主催者であるとするなど、出席者にまつわる錯誤もある。 | 3584184417794168403 |
Q11351950 |
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ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ
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概要
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旧JFLに所属していた甲府サッカークラブは親会社を持たない市民クラブチームであるが、Jリーグ参入にあたりクラブの法人が義務付けられていたため、山梨県内の地方公共団体と個人・法人の共同出資によって1997年に設立された。_NEWLINE_オフィスが山梨文化会館別館に入居する、歴代の代表取締役や複数名の非常勤取締役をグループ内から送り込むなど、リソースの面で山日YBSグループ(山梨日日新聞や山梨放送などから成る企業グループ)との関わりが深いが、山日YBSグループはヴァンフォーレ山梨スポーツクラブをグループ企業の一員としてカウントしておらず、一定の独立性を保っている。また、地方公共団体が共同出資していることから第三セクターとも捉えられるが、非常勤取締役に前甲府市長の宮島雅展が名を連ねる程度で、行政による経営への直接的関与はほとんど見られない。収益は純粋にクラブ運営にかかる収入のみで成り立っており(実業団発祥のクラブに見られるような親会社等による損失補填がない)、海野一幸が代表取締役に就いた2001年以降は基本的に単年度黒字を計上し続けている。
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商標権に関する問題
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1997年(平成9年)2月、当時アマチュアチームだったヴァンフォーレ甲府(旧・甲府サッカークラブ)がプロリーグ参入を目指し、運営会社を「ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ」として法人化するに当たり、旧クラブの代表者である元監督が運営会社の初代社長となったに深澤孟雄に対し「営業権の買い取り」を申し入れた。この際、商標権の名義人が元監督にあったことから、運営会社は旧クラブの債務の年間利息に相当する年1000万円を商標使用料として元監督に支払う契約を締結。このときに「将来、運営会社に商標権を買う余力ができたら、運営会社が商標権を2億4800万円で購入するように努力する」旨の一文が盛り込まれた。_NEWLINE_運営会社は商標権使用料について支払いを続けてきたが、社内で商標権買い取りについて議論されたことはなく、これに業を煮やした元監督が2009年(平成21年)12月に元監督が「商標権を違法使用している」として、商標の使用差し止めと営業権の売買代金の支払いまたは損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴した。運営会社側はこの一件が報じられた2011年(平成23年)1月22日にプレスリリースを発表。「契約した営業権料からこれまで支払ってきた使用料を差し引いた残額を提示したが元監督側が受け入れなかった」「ロゴは支援する会が作成したもので、当時(1995年、平成7年)は法人化されていなかったので会長だった元監督の名義で登録したに過ぎない」「そもそも元監督は契約の時点で当社の取締役であり、商法に規定されている取締役会で承諾されていないので契約書は無効」と反論している。_NEWLINE_報道から約8ヶ月後の2011年(平成23年)8月に元監督は逝去したが、裁判は継続された。_NEWLINE_2012年(平成24年)7月4日の弁論準備手続きで東京地方裁判所は両者に対し「商標権の譲渡代金及び今後元監督(旧クラブ)が一切の権利を主張しない事の和解金として運営会社が1億2000万円を支払う」旨の和解勧告を出した。2014年(平成24年)2月18日に正式に和解されたことが公式で発表されている。_NEWLINE_なお、これに関して甲府側の弁理士が2009年(平成21年)に元監督が名義人として保有していたロゴやエンブレムの商標権を無断で抹消、元監督がそれに気づいて2010年(平成22年)に運営会社と弁理士に対して提訴していたことも発覚した。弁理士は「実質チームの所有と考え、自分の一存で消した」と認め、同年10月に和解したため元監督は無断抹消に関しての提訴は取り下げている。 | 8825754893765896642 |
Q11351957 |
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ヴァンプローズ
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主催イベント
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ROSE NIGHT_NEWLINE_HOWLING BIRTHDAY | 15401973547585479781 |
Q9374030 |
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ヴィクトル・アルブレヒト・フォン・ラティボル
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ヴィクトル(4世)・フォン・ラティボル・ウント・コルヴァイ(Viktor (IV.) Prinz von Ratibor und Corvey, 1916年2月12日 ラウデン(現在のポーランド領シロンスク県ルディ) - 1939年9月18日 ポチェハ(ポーランド領ウッチ県))は、ドイツの旧諸侯ホーエンローエ=シリングスフュルスト家の一員で、シュレージエンのラティボル公爵家の家督相続人。全名はヴィクトル・アルブレヒト・ヨハンネス・ヨーゼフ・ミヒャエル・マリア(Viktor Albrecht Johannes Josef Michael Maria)。_NEWLINE_ラティボル公爵およびコルヴァイ侯ヴィクトル3世と、その妻でエッティンゲン=エッティンゲンおよびエッティンゲン=シュピールベルク侯フランツ・アルブレヒトの娘であるエリーザベト(1886年 - 1976年)の間の第4子、長男として生まれた。父が1923年に公爵家の当主になるに伴い、その継嗣として公世子(Erbprinz)の称号で呼ばれた。_NEWLINE_1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻作戦に、国防軍第1軽機甲師団(1. leichten Division, 1939年10月より第6戦車師団(6. Panzer-Division)に改称)第11戦車部隊所属の少尉として参加した。_NEWLINE_侵攻作戦が始まって間もない9月18日、ウッチ県の小村ポチェハにおいて、LT-35軽戦車3台で走行中に、ポーランド軍のTKS豆戦車1台と戦闘になった。TKSに搭乗していたのはヴィエルコポルスカ騎兵師団所属の戦車エース、ロマン・エドムント・オルリク(Roman Edmund Orlik, 1918年 - 1982年)であり、ヴィクトルの率いる小隊の戦車3台は全て破壊された。ヴィクトルは他の乗員たちとともに全身に火傷を負い、数分後に息絶えた。_NEWLINE_家督は、親戚のメッテルニヒ=ヴィンネブルク侯爵家に養子に入っていた実弟フランツ・アルブレヒトが継ぐことになった。 | 3787361453502262744 |
Q3560784 |
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ヴィジニー・ヴィニョン
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人物・来歴
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1947年1月5日に生まれる。_NEWLINE_1966年、19歳で、アラン・ロブ=グリエ監督の『ヨーロッパ横断特急』で映画界にデビューする。同年、ジャン・ベッケル監督の『タヒチの男』、翌1967年にはジャン=リュック・ゴダール監督の『ウイークエンド』に出演する。_NEWLINE_1970年代からは、エロティック路線に転向、サンドラ・ジュリアン主演もの等に出演、それらは『サンドラ・ジュリアン/変態白書』(1973年)、『ウーマン・ゼリー/満熟』(1973年)等のタイトルで、日本でもニューセレクトが配給して公開されている。1975年には、ふたたびアラン・ロブ=グリエが起用し、『危険な戯れ』に出演している。_NEWLINE_1970年代後半からは、テレビドラマ界に転身した。1983年には、ふたたびジャン・ベッケルがイザベル・アジャーニ主演の『殺意の夏』に起用した。現在も多くのテレビ映画に出演しつづけている。2001年には、従来ポルノグラフィックだと評価されていたジョルジュ・クレール監督の『クロド』が再評価され、パリ市内で再上映された。 | 16987671813233645781 |
Q92743 |
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ヴィントン・サーフ
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経歴
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コネチカット州ニュー・ヘイブン生まれ。父は航空宇宙企業の重役だった。バン・ナイズ・ハイ・スクール卒。同級生にジョン・ポステルやスティーブ・クロッカーがおり、どちらもサーフと同じくインターネットの誕生に関わっている。早くからコンピュータに興味を持ち、スタンフォード大学に入学して夏休みにはノースアメリカンやロケットダインといった企業で働いた。1965年、数学の学士号を取得し、卒業後IBMに就職。IBMではQUIKTRAN(FORTRANの一種)の開発に関わった。もっとコンピュータについて学ぶことを決意して1967年には大学に戻り、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) で計算機科学を学んだ。1970年に修士号、1972年に博士号を取得。_NEWLINE_UCLA時代にはジェラルド・エストリン教授の下で学び、レナード・クラインロック教授の下で世界初のパケット通信コンピュータネットワークであるARPANETにも関わり、ARPANETでのホスト間通信プロトコル開発に貢献した。同時期にARPANETのハードウェアアーキテクチャについて仕事していたロバート・カーンにも出会っている。そのころからサーフはいくつものRFCを執筆している。博士号取得後1972年にスタンフォード大学の教授となってからもコンピュータネットワークに関わり続け、カーンと共同でTCP/IPの設計を行った。1976年、サーフは国防高等研究計画局(DARPA)に招かれ、1982年までその分野の研究開発計画に関わることとなった。_NEWLINE_その後、1982年から1986年まで通信企業MCIの副社長を務め、世界初のインターネット接続された商用電子メールサービスMCI Mailの開発などを指導した。1994年にも再びMCIに戻り、技術戦略担当上級副社長を務めた。_NEWLINE_さらにサーフは1986年にカーンが設立したCorporation for National Research Initiatives(CNRI)に参加し、1994年までとどまった。そこで彼は電子図書館やKnowbotなどのプロジェクトを指導した。_NEWLINE_サーフは1992年、ロバート・カーンと共にインターネット協会(ISOC)を設立した。ISOCはインターネットの一般ユーザーへの普及促進を図るとともに、各種関連技術団体(IETFなど)のまとめ役にもなっている。サーフはISOCの初代会長を1999年まで務めた。_NEWLINE_彼は聴覚障害者であり、1997年に聴覚障害者のための大学であるギャローデット大学の評議会のメンバーとなった。_NEWLINE_2005年9月8日、Googleはサーフを副社長兼チーフ・インターネット・エバンジェリストとして雇った。_NEWLINE_1999年から2007年まで、ICANNの理事を務めている。_NEWLINE_2002年3月8日、ブルガリアの大統領ゲオルギ・パルヴァノフのIT諮問委員会のメンバーとなった(2012年1月まで)。サーフは国際的リスクコンサルタント会社 Eurasia Group の諮問委員会のメンバーでもある。_NEWLINE_サーフはアメリカ航空宇宙局のジェット推進研究所と共に惑星間インターネット構想にも関与している。これは惑星から惑星への通信の標準規格となるもので、無線またはレーザー通信を使用して信号減衰への高度な耐性を目指している。_NEWLINE_2006年2月、サーフは上院商務科学運輸委員会で「ネットワーク中立性」について証言した。Googleのチーフ・インターネット・エバンジェリストとして証言したもので、消費者の約半数はブロードバンドプロバイダーの選択肢がなく、インターネット中立性についての政府による規制がなければプロバイダーが独占状態からさらに消費者の選択肢を狭め、Googleなどの企業に帯域幅使用について課金する可能性があるとした。_NEWLINE_2008年、IETFの国際化ドメイン名ワーキンググループの議長を務めた。_NEWLINE_2010年から、国連のデジタル開発のためのブロードバンド委員会の委員を務めている。_NEWLINE_北米などを担当する地域インターネットレジストリであるARINの理事を務めている。_NEWLINE_反マルウェアの非営利団体 StopBadware の取締役も務めている。Googleはハーバード大学のBerkman Center for Internet & Societyのプロジェクトとして始まった当初からこれを支援している。_NEWLINE_バラク・オバマ大統領によるアメリカ初の最高技術責任者(CTO)の候補者としてサーフの名も挙げられていた。_NEWLINE_2012年5月24日、Association for Computing Machinery (ACM) はサーフが会長に選ばれ、2012年7月1日から2年間務めることを発表した。 | 8497603637150218271 |
Q6529315 |
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ヴェルフ・ハインリヒ・フォン・ハノーファー
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ヴェルフ・ハインリヒ・プリンツ・フォン・ハノーファー(Welf Heinrich Prinz von Hannover, 1923年3月11日 グムンデン - 1997年7月12日 フランクフルト・アム・マイン)は、ドイツのハノーファー王国およびブラウンシュヴァイク公国の王族の子孫。_NEWLINE_全名はヴェルフ・ハインリヒ・エルンスト・アウグスト・ゲオルク・クリスティアン・ベルトルト・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルイ・フェルディナント(Welf Heinrich Ernst August Georg Christian Berthold Friedrich Wilhelm Louis Ferdinand Prinz von Hannover)。
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生涯
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ブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグスト(3世)とその妻のプロイセン王女ヴィクトリア・ルイーゼの間の第5子、四男として生まれた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の外孫にあたり、皇帝の20人の孫の中で最後に誕生した。家族からは「ヴェルフィ(Welfi)」の愛称で呼ばれた。第二次世界大戦後に法学博士号を取得した後、銀行員として働いた。_NEWLINE_父が1918年のドイツ革命に際してブラウンシュヴァイク公爵位を退いたため、伝統的に一族の成員に認められていたハノーファー王子(Prinz von Hannover)およびブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(Herzog zu Braunschweig-Lüneburg)の称号は法的に無意味なものとなっていた。また1917年11月30日付けのイギリス王ジョージ5世の開封勅許状により、グレートブリテンおよびアイルランド王子(Prince of Great Britain and Ireland)の称号を名乗る有資格者から除外されたが、1931年に父がハノーファー王家家長として自身の子孫が同称号を保持すると主張したため、この称号も名乗った。_NEWLINE_1960年にイーゼンブルク=ビューディンゲン侯家家長オットー・フリードリヒの娘アレクサンドラ(1937年 - 2015年)と結婚した。1960年9月20日にビューディンゲンにおいて民事婚が、翌日の9月21日に同市のマリア教会(Marienkirche)において宗教婚が行われた。夫妻の間に子供は無かった。ヴェルフ・ハインリヒは妻がキリスト教民主同盟所属の市議会議員を務めたフランクフルト・アム・マインで暮らした。長く患った後、1997年に64歳で死去した。 | 40290958954265373 |
Q11352171 |
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ヴェロニカ (歌手)
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私生活
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2005年に結婚した。 | 18148804322484213942 |
Q2981117 |
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一つ目小僧
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一つ目小僧(ひとつめこぞう)は日本の妖怪で、額の真ん中に目が一つだけある坊主頭の子供の姿をしている。
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概要
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一般にこれといって危害を加えるようなことはなく、突然現れて驚かすという、妖怪の中でも比較的無害な部類に含まれる。そうした意味では性格的にも行動的にもからかさ小僧に通じていると言える。特に悪さを働かない故か、絵として描かれるときも、多くの場合はかわいらしい、もしくはユーモラスなデザインになる。_NEWLINE_妖怪かるたには一つ目小僧が豆腐を持っている絵の描かれているものがあるが、これは妖怪研究家・多田克己によれば、「豆粒(まめつぶ)」が「魔滅(まめつ)」に通じることから、一つ目小僧が豆を嫌うと伝承されていたはずが、いつしか一つ目小僧の好物が豆腐だという伝承にすり替わってしまったものとされる。また、これが豆腐小僧の伝承に繋がったともいう。_NEWLINE_小僧(修行中の僧)の姿であるのは、第18代天台座主・良源の化身とされる比叡山の妖怪・一眼一足法師に由来するとの説がある(一つ目入道を参照)。
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古典の一つ目小僧
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江戸時代の怪談、随筆、近代の民俗資料には一つ目小僧の名が多く見られるが、特に平秼東作による『怪談老の杖』にある以下の話がよく知られる。江戸の四谷に住んでいた小嶋弥喜右衛門という男が、所用で麻布の武家の屋敷へ赴き、部屋で待たされていたところ、10歳ほどの小僧が現れて、床の間の掛け軸を巻き上げたり下ろしたりを繰り返し始めた。弥喜右衛門が悪戯を注意したところ、小僧が「黙っていよ」と振り返り、その顔には目が一つしかなかった。弥喜右衛門は悲鳴を上げて倒れ、声に驚いた屋敷の者により自宅へ運ばれた。その後に屋敷の者が言うには、その屋敷ではそのような怪異が年に4、5回はあるが、特に悪さはしないとのことだった。弥喜右衛門も20日ほど寝込んでいたものの、その後は元気を取り戻したという。_NEWLINE_一つ目小僧は屋内より屋外に現れることが多いという。『会津怪談集』によれば、会津若松の本四ノ丁付近である少女が8、9歳ほどの子供に出会い、「お姉さん、お金欲しい?」と聞かれて「欲しい」と答えると、子供の顔には目が一つしかなく、一つ目に睨まれた少女はそのまま気絶してしまったという。また『岡山の怪談』によれば、岡山県久米郡久米南町上籾今井谷に一口坂という坂道があるが、かつて夜にそこを歩くと青白い光とともに一つ目小僧が現れ、腰を抜かした者を長い舌で一口嘗めたといい、これが一口坂の名の由来とされる。_NEWLINE_『百怪図巻』『化物づくし』『化物絵巻』などの江戸時代の妖怪画には、「目一つ坊」の名で描かれている。また、奥州では、「一つまなぐ」と呼ばれていたとされる。_NEWLINE_落語にも一つ目の人々(子供も含む)の語りは登場し、『一眼国(いちがんこく)』の演目では、江戸から120、130里ほど北の原っぱに一つ目の人を目撃したと聞いた香具師が、捕まえて見世物に出せば、儲けになると出発し、一つ目の子を見つけ、連れて帰ろうとするも、騒がれ、大勢の人々に取り囲まれ、逆に捕まってしまう。全て一つ目の人々であり、「こいつ不思議だねぇ、眼が二つある」、「早速、見世物に出せ」といった落ちで終わる(なお、地理上、江戸から北に120里=約470キロは、岩手か秋田県にあたる)。
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民間信仰の一つ目小僧
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関東地方では旧暦2月8日と12月8日の事八日の夜に箕借り婆と共に山里から出てくるという言い伝えがあり、目籠を軒先に掲げて追い払う行事をする。また地方によっては籠にヒイラギを刺すが、これは一つ目を突き刺す意味とされる。この事八日はかつては物忌として仕事をせず、家に籠もっている地方が多かったが、この祭事の家籠もりがいつしか、化け物が現れるから家に籠もると解釈されるようになり、その化け物が一つ目小僧や箕借り婆だという説もある。_NEWLINE_また関東地方の伝承では、一つ目小僧は事八日に毎年帳面を持って家々を回り、戸締りが悪い、行儀が悪いなどの家の落ち度を調べ、家族の運勢を決める、または疫病神へ報告して災難をもたらすともいう。この際、一つ目小僧は12月8日に家の落ち度を帳面に記入して道祖神に一旦預け、2月8日にそれを受け取りに来るとされることから、この帳面を焼き払う行事として、神奈川県横浜市瀬谷区では道祖神の仮の祠を作って1月14日のどんど焼きで燃やし、静岡県の伊豆地方では正月15日の道祖神祭で道祖神像を火の中に入れて焼くなどの風習がある。こうすることで、一つ目小僧が2月8日に道祖神のもとへ帳面を受け取りに行くと、預けてあったはずの帳面がなくなっているので、災難から逃れられるのだという。
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異形の神
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民俗学の泰斗、柳田國男は「妖怪とは神が零落したもの」という考えをベースに、一つ目小僧は山の神の零落した姿であると説いた。「山の神は眇(すがめ=斜視、やぶにらみの意)である」という伝承を持つ地域があり、眇は俗に「目が一つ」という言い方をされることから、これも山の神霊を起源とするものであるという。また、古の神祭の生贄として供された片目片足を損じられた者の存在も示唆しており、猟師やきこりによって山中に祀られた自然神にまつわる伝承には一つ目一本足の異形の神の姿形が垣間見える。他に、たたら製鉄に従事する者に、炉を見続けることによって片目を失った者が多くいたことから、製鉄従事者が信仰する単眼神、天目一箇神との関連を指摘する説もある。
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単眼症
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先天的な奇形に単眼症と呼ばれるものがある。母胎のビタミンA欠損などにより、大脳が左右に分離することができず、これに伴い眼球も1つとなる。脳や神経系、呼吸器などの異常により胎内もしくは生まれてまもなく死亡する症状である。ビタミンAは緑黄色野菜のほか、動物性の食物に多く含まれ、もともと食肉文化の少なかった日本ではビタミンAの不足は珍しいことではなかったのかもしれない。こうした背景にくわえて、一つ目小僧が子供の姿であることや小坊主の衣装であることなどから、単眼で生まれた赤子をこう呼んだものが始まりとも考えられる。_NEWLINE_神奈川県座間市では、1932年(昭和7年)に市内の墓地から、眼窩が一つしかない頭蓋骨が掘り出されたことがあり、行き倒れの末に野犬の襲撃などで命を落としたものと推定され、供養のために「一つ目小僧地蔵」が建造され、一つ目小僧の伝承と結び付けられて後に伝えられている。この頭蓋骨の主も、同様に単眼症の者とする見方もある。 | 14193685346419474988 |
Q60986647 |
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一の瀬ファミリースキー場
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スキー
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多くの宿泊施設を抱える一の瀬地区の中心地区にあり、多種多様なスキーヤーやスノーボーダーで活況を呈している。_NEWLINE_メインとなるのは一の瀬ファミリー正面ゲレンデで、その脇に林間コースが複数本配置されている。これらのコースを正面ゲレンデ両脇に配置された二つの高速クワッドリフトを使って滑り降りる単純なコース設計になっている。_NEWLINE_リフト5路線、コース5本、標高1620〜1940m(標高差320m)。各コースは独立性が高いので、始めて訪れる場合でも迷うことはない。_NEWLINE_営業期間は11月下旬〜5月の大型連休まで。
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コース・ゲレンデ
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東館山北東麓斜面を生かしたコースで、メインとなるコースは横幅が十分に広い一般的にゲレンデと称される滑走面で、ゲレンデを迂回するように針葉樹に囲まれた林間コースが配置されている。_NEWLINE_コースからの景観は、右から、焼額山(標高2009m)とその麓に広がる焼額山スキー場、その左隣の小高い丘に一の瀬ダイヤモンドスキー場、更に左側には西館山スキー場を望むことができる。また、天気のいい日には遠く北アルプスの峰々を眺めることができる。_NEWLINE_一の瀬エリアの中心地にあることから、周辺のスキー場との往来が可能である。メインのリフトとなる一の瀬クワッドリフト降車場からは寺小屋スキー場への連絡コースがあるほか、一の瀬第3クワッドリフト降車場からは高天ヶ原マンモススキー場や東館山スキー場にアクセスできる。また、隣接するタンネの森オコジョスキー場にある一の瀬第8クワッドリフト降車場からも高天ヶ原スキー場に滑り込むことができる。麓からは、跨線橋を通じて一の瀬ダイヤモンドスキー場に通じる。逆に、寺小屋スキー場および東館山スキー場からも一の瀬ファミリー正面ゲレンデ上部にアクセスできる。
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リフト
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リフトの運営主体は、志賀高原リゾート開発。
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道路
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国道252号線から奥志賀林道に入り5km余り進むと一の瀬地区に到達できる。奥志賀林道沿いの左側には「パノラマパーキング」、その手前300mの三叉路を右に入る(これは旧奥志賀林道)と左側に一の瀬地区の宿泊施設利用者専用の「一の瀬駐車場」、右の坂を登ると日帰り客用の「スポーツランド駐車場」がある。一の瀬ファミリースキー場へのアクセスはパノラマパーキングが近く、タンネの森オコジョゲレンデへのアクセスはスポーツランド駐車場が便利。
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公共交通機関
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長野電鉄長野線の湯田中駅前から長電バス奥志賀高原線で「一の瀬スキー場」停留所下車。_NEWLINE_東日本旅客鉄道北陸新幹線および信越本線の長野駅東口バス広場、或いは東日本旅客鉄道北陸新幹線および飯山線の飯山駅千曲川口バス広場から長電バス急行志賀高原線で「一の瀬スキー場」停留所下車。 | 14134192566983406950 |
Q55076890 |
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一ノ矢八坂神社
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歴史
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清和天皇の治世、貞観元年(859年)に創建されたとされる。この説では、山城国愛宕郡(現・京都市)の八坂神社から勧請されたとする。ただし『大穂町史』では、確証があるのは神社に残る宝鏡の制作年代から南北朝時代までであり、それ以前に存在したかどうかについては「なんともいいがたい」としている。天慶年間(938年 - 947年)には藤原秀郷が参拝に訪れ、平将門討伐のための戦勝祈願として矢を納めたと伝えられる。_NEWLINE_小田氏が権勢を誇っていた頃には、同氏の崇敬を受け「玉取の里御花園」と呼ばれ、同氏がたびたび来遊したほか、弓矢の奉納を受けている。そのため小田城の落城に伴い、天正年間(1573年 - 1593年)に兵火に遭い、社殿を焼失した。(神社のある玉取村は小田城への侵攻路上にあった。)また常陸国にありながら下総国に勢力を持った結城氏の崇敬をも集め、同氏の寄進状の中に八坂神社の祠官とみられる「六郎大夫」の名が見られる。_NEWLINE_その後、地域住民によって文禄年間(1593年 - 1596年)に社殿が再建され、玉取藩主の堀通周が延宝4年4月(グレゴリオ暦:1676年5月)に本殿の造営を行った。また堀利寿が宝永8年3月(グレゴリオ暦:1711年4月)に拝殿を造営した。江戸時代の一ノ矢八坂神社は一般に天王社と呼ばれ、別当の天台宗薬王院の支配下に置かれていた時期があり、禰宜ではなく半僧半俗の別当職が祭祀を行っていた。享保年間(1716年 - 1736年)の届書によれば、境内地の面積は2,552坪(≒8436m²)で、馬草場・御手洗(池)・御旅所林・天王免田畑を所有し、税を免除されていた。また祭礼に集う人々を目当てに茶店が建ち、周辺に門前町(鳥居前町)が形成された。こうして町が発達したことから一ノ矢の村人30人は玉取村からの分離独立を企図して分村願を提出するに至ったが、評定所は分村を認めず一ノ矢は玉取村に残留した。_NEWLINE_明治時代になると、近代社格制度に基づき郷社に列せられた。1994年(平成6年)時点の境内地の面積は3,746坪(≒12,383m²)、社有地は5反5畝12歩(≒5,494m²)であった。
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信仰・祭礼
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祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、除災厄病・海上安全のご利益があるとして信仰されてきた。このため海から離れた内陸部に鎮座するものの、漁業関係者の参拝も多い。茨城県における牛頭天王信仰(祇園信仰)の中心であり、一ノ矢八坂神社の天王様(ニンニク祭り)が終わらないうちはほかの神社で天王様(祇園祭)はしないと言われており、当社の祭りの後から旧暦6月の月末までの間に茨城県の多くの神社で天王様(祇園祭)が行われる。一方で、地元・玉取地区の産土神としての信仰もある。1990年(平成2年)の朝日新聞による取材によれば、当時の参拝者は元からの地域住民よりも筑波研究学園都市にある研究所の職員や大学教員が多かったといい、大学院生が結婚式を挙げることもあった。_NEWLINE_御朱印の授与は行っておらず、参拝者が各自授与所の前に掲げているQRコードを読み取って保存するという形式を採っている。_NEWLINE_祭礼としては下記のニンニク祭りのほか、元旦祭、節分祭、五六祭(5月6日)、九六祭(9月6日)、新穀感謝祭(12月21日)がある。
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ニンニク祭り
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一ノ矢八坂神社の例祭は旧暦の6月7日に催行される祇園祭であるが、一般に「ニンニク祭り」と呼ばれている。これは天明年間(1781年 - 1789年)に大飢饉が発生し、疫病も流行したため領主の堀田正英がニンニクの常食を勧めたのが始まりであるとされる。別の説では素戔嗚尊が朝鮮半島へ征伐に向かうときに少彦名命からニンニクの効用を教えたことによるとする。本来は14日間続く祭りであるが、一般に中間の7日を大祭とする。この大祭当日は神輿が出るが、担ぎ手の8人は紙をくわえて無言で担ぎ、10数人が警護する。_NEWLINE_境内には露天商が隙間なく出店し、ニンニクを売る露店が出店する。宝永元年(1704年)に町立場が認められ、15人の地元百姓や他国の商人が出店したという記録がある。ここで買い求めたニンニクを家の門口に吊るしておくと病気や災難から逃れられるという信仰があり、近所の人にも配る。_NEWLINE_「高田五兵衛家文書」の中にある「一ノ矢牛頭天王祭礼役人覚書」には、文安2年(1445年)時点の祭りの奉仕者について記載があり、神輿を中心に別当、幣帛持、長刀持、鉾持、御腰懸持、幣帛頭戴サセ役が行列をなして巡行する祭りであったことが窺える。ただしこの文書は近世に作成されたものであり、文安2年当時の情勢を正確に伝えているかは不明である。徒歩が主な移動手段であった頃には、夕刻の神輿渡御の際に大変な人出があったという。 | 7627010705489227738 |
Q40034064 |
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一色義子
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一色 義子(いっしき よしこ、1928年3月8日- )は、日本の新教神学者、元恵泉女学園理事長。_NEWLINE_東京出身。河井道の弟子・一色ゆりの娘。恵泉女学園高等学校、学習院大学文学部卒、東京神学大学卒、同大学院修了。ボストン大学神学部フルブライト留学生。サンフランシスコ神学大学で博士号取得。恵泉女学園大学講師、助教授、教授、理事、理事長を務めた。日本キリスト教婦人矯風会会長。日本基督教団経堂緑岡教会協力牧師。日本聖書協会、アジア学院、興望館など各理事。2009年キリスト教文化功労者。夫は一色尚次(旧姓・馬杉)。 | 10449405266505797144 |
Q11354283 |
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三井楽町
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地理
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五島列島福江島の北西部に位置する。 | 7942208108286126947 |
Q17213053 |
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三井由美子
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略歴
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平尾昌晃の一番弟子として、1972年(昭和47年)10月にビクターレコード(現・ビクターエンタテインメント)より「さよなら・あなた・おんな町」(B面:霧がわたしを歩かせた)でデビューするが揮わず。1973年4月より放映のテレビドラマ必殺シリーズの第2弾「必殺仕置人」のエンディング主題歌「やがて愛の日が」(作詞:茜まさお / 作曲:平尾昌晃 / 編曲:竜崎孝路)が12.6万枚を超えるヒット(オリコンチャート最高29位)となった。その後ポリドールへ移籍。「やがて愛の日が」で将来ビクターを背負って立つ歌手とまで言われるようになり、その後平尾昌晃、なかにし礼など有名な作詞・作曲家に多くの曲を書いてもらい歌うも、二年先までスケジュールが入るという多忙さのため体調を崩してしまい、温泉療養のため大分県別府市へ移り夫と共に別府市を中心に音楽活動を再開した。新転地での歌「別府ラプソディ」は、作詞・作曲家であり指揮者でもありブルー・コメッツの結成にも関わった事のある夫・登内紀夫による曲である。 | 17072867404656750315 |
Q6883239 |
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三井E&Sホールディングス
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船舶用エンジン
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三井造船のエンジン生産拠点は玉野事業所に集約されている。大型船舶用エンジンでは国内シェア5割を担い2015年度には貨物船向けを中心に181基のエンジンを製造した。過去には1基10万馬力級の船舶用ディーゼルエンジンも製造していた時期もあるが、2016年時点で主力となっているエンジンは、シリンダー直径50cm、5-6気筒の1万5000-2万馬力のディーゼルエンジンである。2017-2019年に今治造船向けの11気筒10万馬力のエンジンを生産するために、35億円をかけて玉野事業所の5面加工機や自動溶接ラインやエンジンの試験運転設備を増強する。 | 13660136503531867489 |
Q24873105 |
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三宅玲奈
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三宅 玲奈(みやけ れいな、1995年12月2日 - )は、岡山県玉野市出身の女子競輪選手。日本競輪学校第108期生。姉の愛梨は、競輪学校第104期生の女子競輪選手。師匠は大前寛則(競輪学校第57期生)。
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来歴
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岡山県立岡山工業高等学校出身。_NEWLINE_2012年、全国高等学校選抜自転車競技大会のケイリンで優勝。_NEWLINE_日本競輪学校の在校競走成績は4位(18勝)。卒業記念レース3位。_NEWLINE_2015年7月6日、大垣競輪場でデビュー(6着)。初勝利は同年9月6日の佐世保競輪場。 | 1317013908953239214 |
Q700717 |
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三式戦闘機
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概要
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三式戦闘機は太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン機である。当時、同盟国であったドイツ国のダイムラー・ベンツ社製DB 601エンジンは、Bf 109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンであった。日本陸軍はこのDB 601をライセンス生産し、ハ40として三式戦闘機に搭載した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の細身なデザインを持つ。開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6%向上するなど空力的にも優位な形状であった。ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。_NEWLINE_搭載エンジンと機体形状から「和製メッサー」とも呼ばれたが、機体設計は川崎設計陣が独自に行ったものであり、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエーター配置、主脚構造などがBf 109と大きく異なり、共通点はエンジンと後に本機の一部が装備したMG 151/20機関砲程度である。_NEWLINE_1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示。キ60は1940年2月から、キ61は12月から設計が開始された。キ60は不採用となったものの、1941年(昭和16年)12月に初飛行したキ61試作機は最高速度591km/hを発揮し、総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。この数値は設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。しかし、先行して試作され不採用となったキ60の経緯と同様、水冷エンジンに対する日本の生産能力と整備には問題があった。DB 601は日本の基礎工業力や材料の乏しさから生産が難しい精密な構造のエンジンであったこと、日本の整備兵は複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいなど運用側にも負担となったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼした。海軍ではDB 601のライセンス生産品であるアツタを採用し彗星艦上爆撃機を量産化していたが、同様にエンジンの不調による稼働率の低迷に悩まされた。さらに、陸軍で採用されたハ40系のエンジンは、量産開始後に陸軍からニッケルを使用材料から外す決定が下されるなどしたため、部品強度が落ちた。そのため本機の量産と運用にはなお紆余曲折が存在した。
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愛称・呼称
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試作名称であるキ番号はキ61であった。制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年(昭和18年)に制式採用されたことに由来する。制式制定は1943年10月9日。実際には1942年(昭和17年)中に量産を開始しているが、「二式」には「二式単座戦闘機」(鍾馗)と「二式複座戦闘機」(屠龍)がすでにあり、煩雑となるため1943年制式化とされたとされる。_NEWLINE_愛称は飛燕(ひえん)、部隊での呼称・略称は三式戦、ロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦」などがある。川崎社内では「ろくいち」と呼ばれたが、二型登場後は「いちがた」「にがた」と呼ばれるようになった。_NEWLINE_愛称の「飛燕」は1944年後半に発表されたとする文献もあるが、1945年1月16日付の朝日新聞において本土防空に当たっていた飛行第244戦隊(後述)の活躍を報じる記事で発表されている。その記事では「その軽妙俊敏さは、あたかも青空を截って飛ぶ燕にも似ているところから「飛燕」と呼ぶことになった」としている。なお碇(2006)の資料によれば、1945年1月の時点で川崎航空機の年表に愛称が見られるともされる。また『世界の傑作機 陸軍3式戦闘機 飛燕』(1989年) では、高アスペクト比を持つ細長い主翼を持つ、独特のスタイルに由来すると解説している。_NEWLINE_連合軍におけるコードネームはTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、アメリカ軍がさしたる根拠なく本機を日本の同盟国であるイタリア空軍のマッキ MC.202のコピー機と誤認したことに因んで名づけられた。_NEWLINE_本機の印象、特にファストバック型キャノピーがBf109に類似すること、および同系統のエンジンを搭載していたことから日本でも『和製メッサー』と呼ぶあだ名があった。
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開発の経緯と機体内部構造
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1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。_NEWLINE_キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論で発生した語ともされる。しかし碇(2006年)の文献では、副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もあるなど、川崎側が発祥であるともされる。_NEWLINE_土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べているまた、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える降着装置を引き込み式とし最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある。_NEWLINE_木型審査は1941年6月に行われ、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた。
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エンジン
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1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用するなど先進的な機構を備えたエンジンであった。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった。_NEWLINE_川崎の鋳谷社長が土井に語った談として、アドルフ・ヒトラーはこの購入に関し「日本政府として購入すれば50万円で済むのに」なる旨の言を発し、また日本の陸海軍は敵同士かと笑ったともされる。渡辺 (2006年)などによれば当時の陸海軍の反目がエスカレートしており、別々の購入に至った。また林(1994年)の文献によれば、海軍と陸軍は購入に関して別々に交渉を続けており、在ベルリン海軍事務所から在ベルリン日本大使館陸軍航空補佐官加藤敏雄中佐に、既に海軍側が制作権購入の交渉を始めたので手を引いてくれとの電話が有ったとの逸話が紹介されている。また碇 (2006年)の文献では、ダイムラーベンツ社が、道徳上同じ国に二度もライセンス料を払わせる訳にはいかないと一旦辞退を申し出たことが記述されている。_NEWLINE_以上はライセンス購入に際し陸海軍の対立の定説として語られている顛末であるが、軍事史家である古峰文三は以下のような説を著述している。DB 600(601ではない)は、愛知がライセンスを購入したものの、愛知が陸軍にエンジンを供給することが許されていた。またDB 601については愛知・川崎とも1社のみで全軍に供給できるだけの生産力が期待できず、2社で生産に当たるのはやむを得なかった。2社で生産する以上ライセンス生産料も2社分支払うのが契約上当然であり、また他の発動機も陸海軍で共用している状況から、DB 601の経緯のみに注目して対立の根拠とすることはし難いとしている。_NEWLINE_ライセンス生産にあたり、ドイツから日本に輸入されたのは離昇出力1,175馬力のDB 601Aaで、燃料噴射装置の特許を持つボッシュ社がライセンス生産を認めないなどのトラブルがあったものの、1940年12月、ハ40は完成を見た。量産型の完成は1941年7月、書類上では同9月である。_NEWLINE_なお、川崎側の資料など、一般には試作機には最初からハ40が搭載されていたと言われているが、審査を担当した荒蒔義次らは、3号機までは輸入したDB 601Aaを搭載していたと証言している。また、ハ40を搭載した4号機からは過給器の不調が多かった。量産型第一号機は1942年8月に完成した。_NEWLINE_液冷エンジンを搭載したため機首が長く、地上での前方視界は良いものではなかったとする文献もある。
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主翼
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主翼は全幅12m、面積20m²、アスペクト比7.2という高い比率の翼形を採用した。当時の戦闘機はアメリカ軍の戦闘機[[P-51 (航空機)_NEWLINE_|P-51]]B型でアスペクト比は5.9、Bf109Eで6.0、零式艦上戦闘機は6.4であり、日本陸軍が運用していた他の戦闘機、一式戦闘機、二式単座戦闘機、四式戦闘機も6.0 - 6.08程度となっている。これらと比較して三式戦闘機の主翼はアスペクト比が高い。これは翼面荷重を低めるよりも翼幅荷重を低めた方が、高速性能・運動性能、および高々度性能を確保できるという土井の設計思想によるものである。長大な翼幅からくるロール性能の低下は、補助翼(エルロン)の設計でカバーした。なお翼面荷重は147kg/m²で、一式戦闘機(隼)の100kg/m²よりは大きいが、二式単座戦闘機(鍾馗)の171kg/m²よりは小さい値である。_NEWLINE_またこの主翼の主桁は左右一体構造で作られた頑丈なものであった。当時、主桁はI型断面のものが多く用いられていたが、三式戦闘機のものは凵型のアルミ合金を二重にしたものを前後のウェブで上下に組み合わせ箱形としたもので、フランジ部は結合された主翼小骨のものも合わせて3重となっており、その上内部にもトラスが組み込まれると言う頑丈なもので、荷重試験では総重量2,950kgと仮定して主翼に15Gをかけても破壊されず、それ以降の試験を中止した。強度過大であることから性能向上のために主翼の軽量化が検討されたが、キ61は既に十分な性能を示していたために見送られた。三式戦闘機は当初計画の2,950kgから、最大で二型の3,800kgにまで総重量が増加しているが、この面での主翼の設計変更は必要が無く、生産が滞ることはなかった。なお、後方にはT型またはL型をした補助桁も設置されている。_NEWLINE_全幅の広い主翼を用いたことから、主脚のスパンは4.05mと降着に際して十分に安定したものであり、荒地での運用に耐えられるものであった。そのため胴体下部は引き込まれた主脚のタイヤと降着装置で占拠されることなく、燃料タンクやラジエーターの艤装が容易となっている。主翼は片側6本のボルトで胴体に取り付けられているが、これはFw190やP-51と類似した取り付け方法である。またこの部分は平らに整形され、将来機体に改造が行われて重心が変わっても、主翼位置の前後修正による重心位置調整が容易である。_NEWLINE_なお開発時に、土井技師の不適切な対応もあり、急降下時に補助翼がフラッターによる振動で千切れ飛ぶと言う事故が発生しているが、無事着陸に成功し事なきを得ている。
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胴体
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三式戦闘機の胴体および機首は、日本では一般的かつ大直径の空冷星型エンジンを搭載した各種戦闘機と比べ、液冷エンジン搭載の利点が出たものとなった。全幅は840mmである。キ60より全高は100mm抑えられ、1360mmであった。こうした小型化は空気抵抗を減らして高速化に効果がある。機体の分割部分を減らし、生産性の向上とともに強度と軽量化の両立を図ったのも特長である。_NEWLINE_胴体は4本の縦貫通材を骨組みの主材とした。ただしこれらは尾翼直前の第12円框で分離されており、一体構造ではない。この構造は生産性向上に役立ったとされる。本機は量産性にも配慮がなされ、主翼取り付け法も生産性を高めた他、飛行機の外形を作ってから工員が中に入り内装を行う従来の手順を改め、各モジュールを内部まである程度作り上げてから最終的に組み立てるシステムが取られた。これはP-51の生産手法と同等のものである。機体構造はセミ・モノコック構造となっており、また発動機架は通常の鋼管で組み上げたものでなく、前方で胴体と一体構造、言わばモノコック形状ととなっている。これは一体構造の主翼と相まり、降下限界速度が850km/hまで許容されるなど、機体強度は非常に頑丈なものであり、また重量軽減にも貢献している。。土井によれば速度計は700km/hまでのものが採用された。ただし780km/hまで計測できたとの証言や、のちに1,000km/hまでの速度計に変えられたとの証言もある。この構造は重量軽減にも非常に有効だったともいわれる。設計主務の土井によれば、三式戦闘機が空中分解を起こした事例は一度もなかった。また真偽不明であるが、土井は同じ文献で、三式戦闘機が音速を突破したケースがあると耳にしたと著している。機体が頑強なことから、不時着も比較的行いやすかったと証言したパイロットもいる。_NEWLINE_液冷エンジンに不可欠なラジエーターについては、#ラジエーターで詳述する。_NEWLINE_視界が得られる涙滴型風防が中心の日本軍機として珍しく、キャノピー後部と胴体が一体化したファストバック方式が採られている。この型式は空力学的に有利であるが後方視界が制限され、空戦時に不利となる懸念があった。視界に関し、実戦部隊からとりたてて指摘はなかったとする文献と、あったとする文献がある。また前下方をのぞき見るための窓が設けられたが、土井によればこのキャノピー形状と前下方をのぞき見るための窓はBf109からの流用である。なお大戦末期、おおよそ1944年12月以降に作られた機体、あるいは五式戦闘機に改造された機体については、日本で一般的な涙滴型風防に改められている。
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航続距離
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三式戦闘機の航続距離は8時間以上、3,200kmを飛行可能であった。長大な航続距離を有する零式艦上戦闘機に匹敵する飛行能力を持つ。燃料は、胴体内タンク、および左右各2つの翼内タンクに820リットルの燃料を収容し、さらに両主翼に200リットルの増槽を懸吊して総計1,220リットルの燃料を確保した。ただしこれは量産型では機体に755リットル、増槽を合わせて1155リットル搭載、航続距離は7時間40分または3070kmと、若干低下している。和泉(1994)では一型初期の燃料搭載量は増槽を含め935リットルとしている。増槽を懸吊すると最高速度が80km/hほど低下したという。_NEWLINE_しかし1943年、当時ウエワクに在った実戦部隊・第14飛行団では、侵攻行動半径を550km(往復1100kmに一定の戦闘行動分を足したもの)と判断しており、実戦レベルでは航続力が低下していた傾向がある。詳しい原因は不明だが、エンジンの不調や整備不良が想定される。また、第14飛行団では被弾炎上の危険性を避ける観点から、胴体内増設タンクを降ろしていたともされる。
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武装・その他
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日本陸軍では20mm機関砲の開発が遅れたために、武装は12.7mm機関砲ホ103を採用した。しかしホ103とて制式採用は1941年であり、この時期のホ103の信頼性には懸念が持たれており、採用は機首の2門にとどめ、主翼の2門は7.7mm八九式固定機関銃を装備している。_NEWLINE_防御に関しては燃料タンクは被弾に対して若干の防弾能力が付与されている。308機目までは3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで防漏しており、388機目までは上面9mm、側面6mm厚のゴムで覆われた。。_NEWLINE_量産機は1942年末までに34機、エンジンは65台が完成した。
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飛行性能
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試作時、三式戦闘機は最高速度・上昇力・旋回性の全ての比較領域においてBf109-Eを凌駕した。特に最高速度は30km/h優速であった。_NEWLINE_1942年秋頃、福生で「戦闘機研究会」という名称の比較試験が行われた。内容は日本陸軍戦闘機および月光、雷電などの日本海軍戦闘機と、P-40E、ハリケーン、Bf-109Eなど諸外国機を集めて性能比較を行うものであった。キ61は速度の優勢のほか旋回半径の小ささで外国機に比べて勝り、格闘戦では有利と考え得るものであった。海軍側は三式戦闘機に関し、座席よし、舵やや重きも釣り合いよし、安定性よし、前方視界悪し、上昇悪し、急降下時は舵が非常に重いが座り・出足ともによし、と評価している。_NEWLINE_三式戦闘機の操縦性には特筆すべき癖や問題はなかった。補助翼・昇降舵の操作にはロッド式が採用され、方向舵には操縦索(ワイヤー)式が採用されている。_NEWLINE_1942年12月21日の「戦闘機研究会」、または秋に福生の陸軍航空審査部で行われた陸海軍試作機の互乗研究会では、本機に試乗した海軍パイロットの一人が操舵系統の良好さに驚き、こんなに良くできた舵を持った飛行機に乗ったのは初めてだと、陸軍にその秘密を質問した。陸軍側はそれに答えられなかったが、同席していた土井の答えは、液冷戦闘機独特の縦に細長い長方形状の胴体形状が一番大きく影響しているのでは、というものであった。_NEWLINE_本機の降下制限速度は850km/hと、非常に頑丈な機体である。軽量化を強く追求した零戦52型以前の機体は降下制限速度が670km/hであり、零戦52型甲でも740km/hである。_NEWLINE_三式戦闘機は離昇出力1175馬力のハ40を搭載する戦闘機であり、1型甲の全備重量は3,170kgである。同質のエンジンを搭載するBf109Eを上昇力で凌駕すると説明する資料があるものの、大塚(2007)の文献中の表では、三式戦闘機は全備重量3,170kgで6,000mまでの上昇時間が8分30秒、Bf109E-7は2,540kgで7分30秒、Bf109Fは2,780kgで6分30秒となっている。出力不足は特に上昇力の不足となって性能に現れた。特に燃料満載状態では護衛するはずの爆撃機に劣る上昇力しか持たなかった。また上昇力の不足は、前述の「戦闘機研究会」で海軍側の指摘にも表れている。_NEWLINE_三式戦闘機が配備された頃にはアメリカ軍機も高速・重武装化しており必ずしも有利なものではなかった。ウエワクの第14飛行団のパイロットの証言によれば、P-40とは互角またはそれ以上に戦えた。しかしP-38と対戦した場合、速度はP-38が有利で機動性は三式戦闘機が有利とであり、空戦性能で互角だが、火力面で不利があった。さらにP-38相手には劣速であり、格闘戦に持ち込めば勝てるにせよ、アメリカ軍機の一撃離脱戦法は格闘戦そのものを発生させず持ち込みようがなかった。したがって三式戦が勝つ手段は奇襲以外に打つ手が無い状況であり、多少弾を当ててもアメリカ軍機は防弾性能が高く落とせない、また搭載する無線機が使い物にならず隊内での連携に円滑を欠いて大きなハンディがあると、相当な苦戦をみていた。また米軍の捕虜となった飛行第77戦隊のパイロットが語ったところによれば(尋問記録第600号)、単独空戦であれば(P-38の)すきを突くこともできるが編隊空戦では全く勝ち目がないと感じていたと言う(これは一式戦闘機も含めた話)。_NEWLINE_陸士第55期、後年の統合幕僚会議議長となった竹田五郎大尉は飛行第244戦隊で三式戦に搭乗した。彼は本機の欠点を「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。
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アメリカ軍から見た三式戦闘機
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当初アメリカ軍は本機がBf109である可能性を推測したが、Bf109のラジエーターは主翼に設置されており形状が異なるために、何の根拠もなく日本の同盟国であったイタリアのマッキ202のコピーと判断していた。このため、三式戦闘機にはイタリア系移民に多い「Tony」というコードネームがつけられた。その後の調査で日本のオリジナル機とわかり、1943年11月の「航空機識別帳」に修正して記載された。_NEWLINE_アメリカ軍のパイロットには、三式戦闘機とは戦いやすかったとし、あるいは対決を好んだ。火力と降下性能は従来の日本機より優秀だが、上昇性能・速度性能共に優れてはおらず、旋回性もP-40に対して互角であり、総じてP-40Nと互角と判断していた。_NEWLINE_またP-38から見れば、三式戦闘機は他の日本戦闘機に比べて多少優速だが、P-38の最高速度に及ぶものではなく、さらに格闘戦も他の日本機より苦手であるために対戦しやすかった。そして特に高度6000m以上ではP-38の方がずっと高速だった。なおP-38は常に4機または2機編隊を崩さずに戦闘を行うことを旨としており、また12.7mm機関砲4門に20mm機関砲1門と言う強力な武装を備えていたことから、日本陸軍の主力である一式戦闘機「隼」相手には、その貧弱な武装(12.7mm機関砲2門)から、そして日本軍機の機動力を無視して雌雄を決せられる、真正面から向き合い攻撃しあう対進攻撃を好んで用いていたが、三式戦闘機は一式戦闘機に比べて格段に強力な武装を持っており、さらに液冷戦闘機特有の比較的小さな前方投影面積もあり、この戦法の有効性は損なわれていた。_NEWLINE_ただし三式戦闘機は、敵機が他の日本機、例とすれば零式艦上戦闘機や一式戦闘機に対して取った戦術同様、降下で離脱しようとした時、特に比較的低高度では、これに食い付くことができた。_NEWLINE_1944年のフィリピン戦で三式戦闘機を相手としたF6Fのパイロットも、他の日本機より戦いやすかったとしているようだ。ニューギニアで三式戦闘機と戦ったアメリカの第35戦闘飛行隊、P-40Nのパイロットらも、P-40Nに勝る機体ではない、運動性の高い一式戦闘機の方が怖い、火力と降下速度は従来の日本機より上だが上昇性能と運動性能は劣っており加速性能も良くない、などと証言したという。_NEWLINE_だが前線のパイロットからの評価と対照的に、アメリカ軍が1943年に鹵獲機体を用いた評価・試験の結果「陸海軍合同識別帳」がまとめられ、この資料の中では三式戦闘機を「重武装と良好な防弾性能を備えた素晴らしい機体」と高評価している。また日本本土での迎撃戦において最も活動したのはTonyであったと評している。この識別帳の1943年11月版では、最高速度584km/h、武装を12.7mm機関銃2門、7.7mm機関銃2門と、日本側の数値と矛盾しないデータが示されている。また1944年8月版では武装を20mm機関砲2門、12.7mm機関銃2門とし同時に最高速度を573km/hに減じて収録されている。なお1945年のレポートでは、ハ140を搭載した三式戦闘機二型 - TonyIIについて、高度8,500mで最大速度680km/hなどと過大な表記がみられている。_NEWLINE_一方で米海軍航空情報部の評価は辛辣で「米軍戦闘機と比べ、FM-2より水平速度で優る以外はほとんどの面で劣っている。特にP-51に比べると大きく劣る。」とされている。
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ハ40の故障と整備
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三式戦闘機は日本ではまだ技術の成熟していない液冷エンジン、それも比較的先進的なものを採用したため、その生産不備や故障、整備の困難性についての指摘が多くなされている。渡辺(2002年)などでは三式戦闘機を大歓迎した部隊は一つも無いとまでされており、同じく渡辺 (2010年) によれば、エンジントラブルは前線部隊の三式戦闘機の代名詞であるとまで言われている。このため前線では多少性能が劣っても確実に飛ぶ一式戦闘機や二式戦闘機を装備し、運用することを望む声もあった。_NEWLINE_新機材の初期不良は多くの場合に存在する。また当時の滑油、機械油は低温での粘性が高く、滑油冷却器まわりでは必要なところにオイルが供給されないという問題が発生したが、これは冷却器の能力を抑えることで解決した。初の実戦部隊である第14飛行団でも燃料噴射装置の圧力調整弁、過給器の故障、冷却器や滑油の漏れなどトラブルが続出した。特に油圧系統と燃料噴射ポンプには故障が続出していた。_NEWLINE_和泉 (1994年)では流体継手の調整不良による出力低下、燃料噴射ポンプの故障、冷却器等からの油漏れが主な故障とされ、さらに燃料噴射装置の調整に対する整備兵の教育不足などが挙げられている。流体継手によるスーパーチャージャーの無段階変速がDB601の特徴であるが、これの調整が適切でないと、全くパワーが出ない。これを地上で調整するには、機体を杭で固定し、オーバーヒートに留意しつつ、ホースでラジエータに水をかけて冷却しながら整備作業を行った。_NEWLINE_また本来DB 601では、クランク軸をはじめとした重要な部品はニッケル入りのクロムモリブデン鋼で作られていた。しかし、陸軍はハ40エンジン生産にあたり川崎にニッケル不使用を指示した。当時、冶金学の遅れていた日本では、ニッケルを加えないクロムモリムデン鋼は表面に微細なヒビが入り、品質は悪化、クランク軸折損事故を起こした。鈴木 (2012年)によれば、当初は表面硬化のために高周波焼入れが行われていたが、これは硬度不足で100時間以内に表面が剥離してしまうため滲炭処理に変更されたが、これの不良のため表面が剥離する事例が多かったとみられ、またクランク軸の真円度自体も、トラブルを回避するためには1000分の3mm程度の精度が要求されるが、これについても基準に至っていなかったのではないかとしている。ハ140への生産転換を迎える頃に至ってもハ40の気筒部分の生産歩留まりは50%程度であり、クランク軸の生産もはかどらなかった。さらに歴史群像編集部 (2010)によれば、このハ40は一般的な1000馬力級の空冷エンジンに比べて、生産に3倍の工程数を要したとする。_NEWLINE_またクランク軸のコンロッド接続部のローラーベアリング(ころ軸受け)はローラーが14mm程度の径のものを3列にして用いていたが(複列円筒ころ軸受)、それに用いられた72個のローラーもドイツ製のものと比べて相当に精度が低く、クランク軸の破損に繋がった。当時の日本の基礎工業力は、ボールベアリングのボールの精度でも表面の凹凸がヨーロッパのSKF社製のものは0.001mm以内に収まっていたものが日本製のものは0.012 - 0.015mmと桁違いに悪く、(ハ40ではないが)愛知のアツタでは、ローラーについては真円度0.002 - 0.003mmのものを選別して利用していた。同様の選別が川崎でも行われていたと仮定しても、ほぼ素人である勤労動員の多かった当時の労働者の質を考慮すると、適切な選別が行われたかには疑問が残る。_NEWLINE_1998年に現存していたハ40の部品を測定してみたところ、ベアリングケージなど他の箇所については精度は悪くなかったものの、やはりローラーの真円度はよくなく、10 - 22マイクロメートルであった言う。また鈴木 (2012年)は、生産上の主要なネックはこのクランク軸ピンの表面剥離であるとし、ローラーの形状自体にも(ベアリングのローラーは単純な円筒形をとってはいない)技術的蓄積が足りなかったのであろうと指摘する。ローラーの形状の不均一性については、愛知のアツタでも問題となっていたようだ。なお、鈴木(2012年)では、ベンツ製と川崎製クランク軸の断面顕微鏡写真が比較掲載されている。ベンツ製のクランク軸の結晶構造は均質なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭部の組織が完全なマルテンサイトではなく、焼きが入りきらずにトルースタイトが析出している。また滲炭深さにも問題があり、クランクとベアリングが局所的に噛み合うため、硬化の深度は1.5mm以上が必要であるが、データでは1mm程度の深さから硬度が大きく落ちている。また、川崎がこれまで製作していた水冷エンジンと比べ、技術的飛躍が大きかった点も無視できないとする。_NEWLINE_碇(2006)によれば基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。例えば鹵獲した外国機などはエンジンの油漏れを起こすことは滅多になく、しかし日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。_NEWLINE_なお、陸軍へ引き渡す前の川崎での試験飛行では軽量状態であるためそれほど悪いものではなく、引き渡し後武装をはじめとする艤装で重量が増加したことがエンジンに負担をかけトラブルの多発の原因の一つになったようで、ある時期からは艤装に相当するバラストを積載した状態で試験飛行を行っていた。また1944年の晩秋頃にはバラストではなく、実際の艤装をほどこした「全装備」状態でテストを行うことが常態化していた。なお陸軍側の受領テストでは担当であった佐々木康軍曹(最終階級)は200機ほどの受領時テストを担当したが、至極快調と言い得るものは一割にも満たなかったと回想している。_NEWLINE_その他材料、工作、点火プラグなどの部品はもとより、当時の日本は電線までもビニール被覆などではなく、糸や紙を巻いて絶縁したもので湿気に弱く漏電も頻発した。さらに戦争後期には熟練工が減少し、動員学徒や女子挺身隊が採用されて生産作業に当たった。このような質的な労働力の低下と無理な増産も部品の劣質化につながった。整備に関し、手鏡を芸術的に扱わねば点検できない箇所などもあり、1943年の暮れには航空審査部飛行実験部長今川一策大佐は、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を進言した。_NEWLINE_ラバウルまで三式戦闘機を空輸した飛行第78戦隊(後述)は1943年5月18日「キ61の実用状況」で18項目にわたり各種の故障を報告しているが、その内訳は4月13日から5月10日までに冷却器修理61回、G型冷却器修理98回、E型冷却器修理43回である。特にオイルクーラーの油漏れがひどく、40分から50分の空戦で空になる、などといった記述が見られ、作動油800リットルを使い尽くしたともされる。第78戦隊と68戦隊はその後ニューギニアに進出するが、発動機の不調は続いた。現地の第4航空軍が1943年10月に中央に提出した意見報告書では、三式戦闘機の稼働率の低さを嘆き、空冷エンジンを装備する二式単座戦闘機鍾馗の配備を求めるほどだった。飛行第56戦隊では訓練時に事故が続発したことから「殺人機」と呼ばれた。_NEWLINE_1944年10月からのフィリピン決戦では多くの航空機が空輸されたが、九州・沖縄・台湾と飛行した一式戦闘機の落伍率が4%であったのに対して、三式戦闘機は13%にのぼった。空冷エンジンの不調の例としては誉 (エンジン) を搭載した最新鋭機・四式戦闘機の脱落率が20%である。この時期にはハ40の生産と整備の技術が進歩しており、正規の潤滑油でなくヒマシ油で稼働させる様なこともできたらしい。油漏れは多いが、確実な整備をすれば十分に扱えるとの証言もあり、特に故障が多い印象はないとするパイロットもいる。また、1944年7月頃のデータによれば、十分な整備環境があれば70%程度の稼働率が維持されていた。この時点での二式単座戦闘機および四式戦闘機の稼働率は6割から9割とされている。_NEWLINE_しかし帝都・東京防空を任務とする飛行第244戦隊の戦隊長であった小林照彦少佐は、故障の多いエンジンではあるものの、内地での戦闘であったため、修理もエンジンの交換も容易であったと回想している。しかしそれでも、1945年1月3日の迎撃戦では、当日一回目の出撃こそ40機全機が行えたものの、二回目には25 - 26機、三回目にはたった3機しか出撃できなかった。なおこの日の飛燕の損害は8機にすぎず、すなわち残りは全て故障という情けなさであった。同じく第244戦隊第1中隊長生野文介大尉は、第244戦隊は整備員も慣れているし部品もどんどん供給されるため十分に性能を発揮できたとする。また同様に第244戦隊に所属していた前述の竹田五郎大尉も、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している。ただし同じく調布に展開する第18戦隊では1944年春頃には、50機中可動機は5機と言った日もあった、との証言もある。一方、航空審査部実行試験部(以下、航空審査部)でも1944年、粗製化の傾向はあるものの十分な整備を行えば動作に支障はなく、問題は整備力の低さであると判断している。_NEWLINE_上記のように本土もしくは審査部ではある程度の整備が行えたものの、最前線や実戦部隊での整備・運用は過酷な作業であった。さらに撤退の際、時間をかけて液冷エンジンに習熟した整備兵を最前線に残置したことも、稼働率を下げた要因の一つである。さらに日本の整備マニュアルは欧米のものに比較して難解で、当時必ずしも学力が高いとは言えず自動車などの機械類にも馴染みのなかった一般的な新任整備兵にとって少々荷が重かったとの指摘もある。また本機は日本陸軍では一式戦闘機、四式戦闘機、九七式戦闘機に次ぐ3000機以上が生産されたのであるが、軍事評論家の中には発動機に以上のような大きな問題を抱えつつもそれをこれだけの機数生産し続けねばならなかったところに当時の日本陸軍航空の苦悩が見て取れると評するものもいる。_NEWLINE_1944年には油漏れに対する生産工程レベルでの抜本的改造が講じられた。この処置で一時的に生産量が落ちており、エンジン無しの機体が工場に並ぶことが多くなった。これについては#二型(キ61-II改)で後述する。
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ハ140
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1942年春から開発されたハ40改良型のハ140は、吸気圧をあげてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmに高め、離昇出力を1,175馬力から1,500馬力に高めるものだった。過給器の大型化とその冷却のために水メタノール噴射装置が導入された。三式戦闘機の場合は95リットルの水メタノールを搭載予定であった。80kg程度の重量増加のほか基本構造はハ40と大差はなかった。航空審査部では、ハ40と比較してさして整備困難と見ておらず、1944年7月の航空審査部による報告ではハ40より信頼性があるとされている。また航空審査部の2名の士官および下士官も少々の問題は有ったが整備しにくいと言うほどでもなく、大体もしくは十分に動いたと回想している。ただし川崎が航空審査部に精度良好な個体を回すのは当然であるし、ハ40の審査に加わった人物が目を光らせている状態であるのであるから、航空審査部で良く回るのはむしろ当然であろうとの見方もある。なお歴史群像編集部 (2010) では、量産性はハ40より更に悪化し、通常の1000馬力級空冷エンジンの5倍の工程数が必要だったという。この生産性の悪さが「首無し機体」の一因になったのではないかとしている。_NEWLINE_実際の所は、好調なものは良く回ったのであるが、やはり従来よりのベアリングの焼き付き、マグネットギアの摩耗、点火栓側極の溶解、冷却水ポンプの不良、排気弁焼損などトラブルは多発、開発は行き詰まりを見せていた。弁の焼損は、隣接するシリンダー同士の熱膨張や歪みの干渉により弁座が歪み、特に排気弁を損傷させたものだという。ハ140は三式戦闘機二型に搭載される予定であったが、エンジンの完成台数は低調であった。このため二型の多くはのちに空冷エンジンを積んで五式戦闘機に改造されることとなった。ちなみにドイツでは、DB601は改良を重ね、DB603では離昇出力2000馬力を突破、1945年にはやはり水メタノール噴射を併用して2850馬力を出している。_NEWLINE_なお日本陸軍は1944年以降、燃料不足のため、代用燃料として松根油などから抽出したアルコールをガソリンに混合するか単体で利用し軍用機を飛ばそうとしていた。通常の星型空冷エンジンにはあまりよいものではなかったが、航空審査部でのテストによれば、ハ140を搭載した三式戦闘機二型は、これを用いることでむしろ通常のガソリンよりも高い性能を示したという。_NEWLINE_愛知で作られていたアツタ21型もDB601を基とするエンジンである。これはハ40と異なる独自の発展を遂げ、離昇出力1,400馬力を発揮するアツタ32型が開発されていた。両社が独自に原型を発展させたために互換性は全くないが、1943年11月に軍需省が設立されるとこの発動機にも統一の目が向けられた。なお品質的には川崎のハ40系より愛知のアツタ系の方が良好であったとされる。エンジン統一にあたり、プロペラ取り付け位置や排気管の位置、重心の位置など問題点が列挙され、標準型エンジンは基本をアツタ32型とし、プロペラ軸や過給器をハ140に合わせ、水メタノール噴射装置を加えたものとなった。
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ラジエーター
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液冷エンジンに不可欠なラジエーターは幅約800mm、高さ約480mm、アンドレー式のものである。このラジエーターは胴体下部中央、すなわちパイロットのやや後方あたりに半埋め込み式として配置された。機体から外には250mmが露出している。キ60では上下式としたがこれは重量が嵩むため、三式戦闘機では固定式に改められた。ラジエーターは前方から見て、エンジン冷却水冷却部、潤滑油冷却部、エンジン冷却水冷却部と3つに分かれている。使用された冷却液は化学物質を混合しない通常の淡水であり、冷却するに際して約3.8kg/cm²に液を加圧し、沸点を125度として使用した。_NEWLINE_土井は戦後、同じ箇所にラジエーターを配したP-51を見た時、その気流の処理の見事さに、さすがにアメリカの方が進んでいるとの感想を抱いた。また同時に、このアメリカ軍最優秀機と三式戦闘機のラジエーター処理がほぼ同様であったことは感無量であったともしているが、実際類似しているのは設置した場所だけで、構造や形状などは全く異なっている。なお、三式戦闘機における全空気抵抗の内、ラジエーターのそれは14%を占めていた。_NEWLINE_飛行第78戦隊ではラジエーターの修理を多く報告しており、中でも油漏れが大きな問題とされた。まず前述のとおり水冷却器と油冷却器が一体構成であり、これを機外に降ろす作業が容易ではなかった。またオイルタンクはパイロットの足下にあり、これは寒冷地やそれなりの高々度では良い暖房になったが、南方の低高度ではコクピット内が相当に暑くなったようである。またこの水油同居形式のラジエーターは、空気取り入れシャッターで各冷却機構の能力を調整するものであったが、調整が難しく、油温の上昇、水漏れなどの不具合が続出した。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった。なお、水冷方式である本機は地上待機状態であまりエンジンを回すと、すぐに水温が上がり冷却水が沸騰、圧力逃がし弁が開き、蒸気が排出される。これは「お湯を沸かした」などと言われた。またこの状態はオーバーヒートを起こしている状態であり、離陸は困難である。また飛行中に蒸気を通り越して冷却水そのものまで吹き出すようなトラブルも見られた。
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ニューギニア進出
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現地の作戦領域の分担としては、海軍がソロモン諸島方面を、陸軍がニューギニア方面を担当した。なおこの方面には三式戦闘機2個戦隊の他に、一式戦闘機8個戦隊が配備されていた。_NEWLINE_当初は爆撃機の護衛などを行ったが、やはり稼働率は低く、搭乗員は故障知らずの海軍の零式艦上戦闘機をうらやんだとされる。第14飛行団は内地へ引き返す第12飛行団と入れ替わり、7月15日には東部ニューギニアのウエワクへ転進した。ここで本格的な作戦が開始される。7月17日時点で、68戦隊が13機、78戦隊が22機、合計35機の可動機が在った。8月10日には新編された第4航空軍の第7飛行師団隷下となった。なおイギリスの文献『週刊Aircarft』によれば、本機はP-40相手には優勢に戦い、連合軍は一時的に制空権を失い、ヨーロッパに配備予定であったP-38をこの戦線に回すよう、ヘンリー・アーノルドに直訴が行われたという。_NEWLINE_なお1943年半ばには日本陸軍航空隊も前線でロッテ戦術を採用しているが、無線電話の性能が悪いためにアメリカ軍機のような連携はとれなかった。古峰(2007)によればこの頃、1943年10月9日、キ61は制式制定され「三式戦闘機」となる。事実上の制定である仮制式制定時期は不詳であるが、渡辺(2006)では制式呼称の通達を1943年6月としているのは前述の通りである。_NEWLINE_第14飛行団は主にP-38を敵として対戦したが、1943年8月17日には連合軍のB-25 32機、P-38 85機の戦爆連合による奇襲的な空襲を受けた。この結果、第4航空軍の保有する130機の戦力は40機へ低下した。14飛行団も68戦隊が可動機6機、68戦隊は可動機0機と、壊滅的な損害を受けた。_NEWLINE_その後もマニラで新機材を受領し、空輸を行って戦力の補充に努めた。敵はP-40、P-38および新鋭P-47、B-24爆撃機、B-25爆撃機であり、戦隊は激しい戦闘に従事した。新鋭のP-47はP-38ほど一撃離脱に徹しなかったため、むしろ戦いやすかったともされるが、性能自体は高く、一撃離脱に徹されると脅威であったとの証言もある。_NEWLINE_1943年12月にはドイツから輸入した20mmマウザー砲を翼内に装備した三式戦闘機が到着し、火力面では格段の向上が見られた。しかしこの時期には戦隊の人員・機材とも消耗しており、三式戦闘機の代替として旧式の一式戦闘機を受領、また多くの期間両戦隊を合わせて可動機が20機を越えることが滅多に無い状況であった。さらにアメーバ赤痢やマラリアが蔓延しており、例え機体が補充されたとしても兵員の質の面で戦力の発揮には大きな問題があった。_NEWLINE_1944年2月にはウエワクの維持が不可能となりホランジアへ後退、3月には敵空襲により第14飛行団の可動機は合計5機にまで減少した。4月22日にはホランジアに米軍が上陸を開始し、7月25日には第14飛行団は解散した。三式戦闘機のニューギニアでの過酷な戦いは約1年間で幕を閉じた。
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フィリピン戦線
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ニューギニアを制圧した米軍の次の目標はフィリピンであった。一説にはこの頃になると、三式戦闘機は対戦闘機戦闘に不向きと見なされる様になり、敵爆撃機の迎撃任務に回され、制空戦闘については新型の四式戦闘機の方に期待がかけられはじめた。_NEWLINE_1944年2月には第22飛行団として愛知県小牧で第17戦隊、明野で第19戦隊が編成された。第17戦隊長は開発時より三式戦闘機に携わってきた荒蒔義次少佐である。飛行団は5月内にマニラに進出し、南方軍直轄の第2飛行師団に編入された。ただし7月5日には、第4航空軍隷下に移動している。機材の受領と錬成が順調に進まないものの、6月下旬までには35機を揃えてマニラへの進出を完了した。8月末の時点で可動機は第17戦隊が14機、第19戦隊が18機であった。なお、第4航空軍第7錬成飛行隊の10機程度も戦力として使用が可能で、三式戦闘機の他には第4航空軍全体で318機、海軍は第一航空艦隊241機の航空機を用意している。_NEWLINE_1944年9月21日、第17戦隊(機数不明)と第19戦隊(20機)、大塚の文献によれば合計約40機がアメリカ第38任務部隊の新鋭艦上戦闘機であるF6Fと交戦した。圧倒的多数の敵機との空戦により約25機から少なくとも22機が失われ、第17戦隊はパイロット12名を失う大損害を受けた。第19戦隊も6名、第7錬成飛行隊も2名を失った。米軍側の損害は対空砲火によるもの以外皆無もしくは僅少であった。翌22日も7機で迎撃を行ったが、さらに2名の戦死者を出し機体3機を失うも、戦果を得なかった。_NEWLINE_なお10月10日には台湾に対し第38任務部隊による空襲が行われ、ここに駐屯していた飛行第8師団隷下独立飛行第23中隊の、一式戦闘機2機を含む16機または17機(パイロット15名)が爆装で出撃し、薄暮攻撃で敵艦隊への反撃を企図した。_NEWLINE_また三式戦闘機の可動機10機による全力攻撃が行われようとしたが、離陸直後を20機のF6Fに襲われ、5機撃墜、3機不時着大破、1機炎上と、壊滅的な損害を受けた。ただし田形の文献ではこの戦いは制空戦闘であり、敵機は240機が投入されていた。戦闘高度は3,500mとされ、戦闘状況は離陸直後ではない。やはり中隊は全滅するも、敵機10数機を撃墜・撃破したとする。台湾にはこのほか一式戦闘機8機、三式戦闘機7機の集成防空第一隊があり、10月12日に行われた飛行第8師団(主力54機、その他27機)による総反撃にも加わっている。その内、操縦歴8年のベテランパイロット田形竹雄准尉は初陣の僚機と2機で敵機36機を迎撃し、有利な体勢から攻撃を開始した。僚機は真戸原忠志軍曹が搭乗しており、22歳の彼は初陣であっても操縦歴4年、飛行時間1,500時間を数えるパイロットだった。また彼は田形の僚機を1年半務めており、田形によれば相当な実力をもっていた。何度かの一撃離脱のあと乱戦に移行し、20数分の戦闘を経て力尽き僚機共に撃墜されるも、両者共不時着に成功し生還した。戦果は撃墜6、撃破5を報告した。なお、田形はその手記で、三式戦闘機がF6Fに比べ40km/h優速であった(p.59)ことを敢闘できた要因のひとつとしている。これは三式戦闘機がF6Fに勝利を収めた希有な例である。_NEWLINE_フィリピン方面では10月10日までに、第17戦隊の可動機は22機に、第19戦隊は25機にまで回復していた。飛行団は戦闘を続け、10月18日に捷一号作戦が発令、20日には敵はレイテ島に上陸した。敵艦船への攻撃に参加した結果、10月22日までに飛行団の可動機は完全に尽きた。24日には苦心して2機から3機の可動機を揃えたが、この段階で既に戦闘の大勢は決していた。11月1日には、第19戦隊の生き残りである10名程度のパイロットに本土帰還が命じられた。しかし荒蒔戦隊長らを含む第17戦隊は戦闘を続行した。11月頃には第2飛行師団全体で40機程度の戦闘機しか保有しないという過酷な戦況の中で戦闘を続け、内地帰還命令が出たのは12月8日である。荒蒔戦隊長がフィリピンを離れたのは翌1945年1月9日のことであった。_NEWLINE_また日本本土侵攻への大きな一歩であるフィリピン作戦には、本土防空任務に当たっていたいくつかの飛行戦隊も投入されている。そのうち、第18飛行戦隊と第55飛行戦隊も三式戦闘機装備部隊であった。_NEWLINE_第18戦隊の1型丙は、現地での弾薬補給が困難な20mmマウザー砲の代わりに12.7mm機関砲を装備し、11月11日に35機が出立した。この戦隊は那覇・台湾経由で進出し、18日までに31機がアンヘレス西飛行場に到着した。当初は四式重爆撃機で編成された特攻隊の護衛任務に従事した。ところが11月25日にはF6Fとの空戦に敗れ、可動機は5機にまで減少し、1945年1月には本土に帰還を余儀なくされた。_NEWLINE_第55戦隊は11月10日に本土を出発した。18日までに約30機または38機がアンヘレス西飛行場に到着した。しかし11月25日には敵P-38の奇襲を受けて7機の損失を出すなど苦戦が続く。明けて昭和20年1月9日、アメリカ軍はルソン島に上陸を開始した。1月15日には戦隊に帰還命令が出され、5名の搭乗員は内地へ帰還できたほかいくらかの人員は台湾への後退に成功したが、地上勤務者の大半は地上部隊に編入され、アメリカ軍との交戦の末に戦死するものが大半を占めた。_NEWLINE_また19戦隊は本土での戦力回復後台湾へ移動、1945年1月5日頃、1個中隊がフィリピンに再進出した。なお一部は台湾に残置された。彼らは艦船攻撃や特攻機の援護などを行い、12日までにその戦いの幕を下ろした。
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北九州防空戦
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1944年6月15日、成都飛行場を離陸した62機のB-29は、九州福岡県の八幡製鉄所を爆撃した。この時、第59戦隊は練度不足であり出撃が行えなかった。その後、7月7日の夜間空襲に5機が迎撃に上がるが会敵できずに終わる。8月20日、アメリカ第58爆撃航空団の75機に対する迎撃戦で三式戦闘機はB-29と初めて交戦した。59戦隊の出撃可動機は21機であった。迎撃戦は16時半頃より小倉・八幡周辺で行われ、二式複戦(屠龍)を装備する第4戦隊と海軍機も迎撃戦に参加した。米軍は事故機を含め14機を失った。この戦闘で第59戦隊は撃墜確実1、撃墜不確実3、撃破5を報告した。日本軍全体では撃墜確実24、撃墜不確実13、撃破47と報告している。第59戦隊の損害は機材4機、パイロット喪失1名であった。_NEWLINE_この空襲後、第56戦隊も戦力の一部である17機を済州島に移し空襲に備えるが、アメリカ軍は目標を鞍山の昭和製鋼所に移した。この攻撃は南京の第5錬成飛行団が迎撃を試みた。しばらく北九州での迎撃戦の機会は無かったが、1944年10月25日に長崎県大村の第21海軍航空廠が爆撃目標となり、その帰路を迎撃した56戦隊は撃墜1、撃破6機以上の戦果を報告している。成都からのB-29に対する北九州での迎撃戦は、1945年1月6日まで続けられた。
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本土防空戦
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従来、日本本土には97式戦闘機など旧式機が配備されていたが、性能の不足した機材では敵新型爆撃機の迎撃が不可能だった。東京調布飛行場に新鋭・三式戦闘機が配備されたのは第14飛行団78戦隊がラバウルへ進出しようとする1943年6月以降であった。これが第三の三式戦闘機部隊、後に帝都の第10飛行師団配下となる、調布飛行場の飛行第244戦隊である。やはり配備初期であったため、多くの故障に悩まされたが、11月には機種改変を終え、一時期には40機全てにマウザー20mm機関砲を装備した。1944年2月には調布で第18戦隊も三式戦闘機での編成を完了した。また台湾には独立飛行第23中隊が置かれた(前述)。3月には第18飛行団配下に第56戦隊が発足し、この時点で本土・台湾にはフィリピンに送られる予定の第17戦隊・第19戦隊(前述)を含め、5個飛行団と1個独立飛行中隊が揃えられ、さらに4月末からは第59戦隊が三式戦闘機に機種改変を行った。_NEWLINE_1944年7月7日にサイパンが陥落、その後日本本土は本格的な空襲にさらされた。この時期のB-29による空襲は高高度で行われていたが、ターボチャージャー(排気タービン)を装備し高度10,000mを飛ぶB-29に攻撃を実施するのは非常に困難だった。排気タービンを装備しない日本機のエンジンは高空で出力の低下が著しく、陸軍が持つ戦闘機で唯一高度10,000mで戦闘ができたとされる本機においてもその空域では浮いているだけで限界といった状況であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯であった。B-29に対し、一撃をかければ数千mの高度を失い、高度を回復して追いつくことはできなかった。飛行第244戦隊戦隊長小林照彦少佐もその手記で、通常の装備では高度7500-8000mがせいいっぱいであり、高度10000mで侵入するB-29に接敵するためには、防弾鋼板や大部分の武装、蓄電池などを取り外し、必要とあらば機体の塗装さえも剥がして機体を軽くする必要があったとしている。さらには機体の電熱服を用いると電圧が下がり機銃が発射できず、無線も使えないと言った始末であったと回想している。また別の文献では、完全装備の三式戦闘機の上昇限度は好調な機体でもおおよそ9,000m程度であったとされている。また元搭乗員によれば、搭乗員の訓練と研究次第である程度上昇限度を上げることができたと回想している。_NEWLINE_11月に行われた偵察型B-29(F-13)の迎撃には全て失敗、高度12000mで離脱する敵を捕えることは全くかなわなかった。1944年11月7日、陸軍は航空機による体当たり部隊を編成、これは震天制空隊と呼ばれた。三式戦闘機の場合は「はがくれ隊」「小林防空戦隊」「つばくろ隊」こと飛行第244戦隊で4機が編成されている。この機体からは前述の通り防弾鋼板、機銃、防漏タンクなどが取り外された。武装が積まれる際にも機銃弾まで削減し、少しでも軽量化して上昇力を上げ、体当たりを行うのである。一部の武装はそのままにし射撃しながら突入する戦術も採られた。なお、軽量化を行った状態の三式戦闘機をしても、10,000mまで上昇するのに45分から55分かかり、機首を上げた姿勢で何とか浮いていられるといった状態でしかなかった。また小林手記によれば、当方の10,000までの上昇に一時間かかるが、日本は調布、銚子、伊豆大島などにしか警戒レーダーを設置しておらず、しかしB-29は伊豆大島から40 - 50分で東京に到達してしまう。これでは迎撃は敵の第一波には間に合わず、やむを得ず浜松にも機体を置き、偏西風を利用しての接敵も試みられた。_NEWLINE_はがくれ隊は11月24日の迎撃戦が初陣であった。その後規模を8機に拡大し、12月3日、隊長の四宮徹中尉が体当たりに成功、左翼のピトー管から先を失い主翼付け根のリベットのほとんどが抜け落ちた機体を見事に操って基地に着陸を果たした。板垣政雄伍長も体当たりに成功、落下傘降下で生還したが、敵機の撃墜には至らなかった。中野松美伍長はB-29の胴体下に潜り込み、プロペラで敵機の水平尾翼をもぎ取り、一説にはさらに上部に馬乗りになり、自身は不時着・生還する離れ技を見せた。他の迎撃機も活躍し、この日は6機の損失に対してB-29、6機撃墜、6機被弾(86機出撃)の戦果を上げた。こうした撃墜報告は新聞で宣伝され、第244戦隊の体当たり部隊は第5震天隊と改称された。なお1944年末から1945年初頭にかけて、第244戦隊は50機前後の三式戦闘機を運用していた。_NEWLINE_1945年1月27日にも大規模な体当たり迎撃が行われ、62機のB-29に体当たりが行われた。第244戦隊の小林戦隊長は震天隊ではないが高度9200mのB-29に体当たりを決行、激突時に意識を失うも地上3000 - 4000mで意識を取り戻し、きりもみ状態の愛機から落下傘で生還、他2機が体当たり、1名戦死、1名重傷。第5震天隊は1機が突入・戦死したほか、板垣政雄軍曹(先の軍功で進級)は今回の迎撃戦でもまたしても体当たり後落下傘降下で生還。中野松美軍曹(同じく進級)も同様にB-29への肉薄に成功し、胴体と水平尾翼をプロペラで破壊し自らは不時着・帰還した。この日のB-29の損害は9機であった。ちなみに震天制空隊の隊員が体当たりで戦死した場合二階級特進となるが、そうでないパイロットが体当たりを行ってもこれは適用されず、戦隊長である小林は憮然としたという。_NEWLINE_この後、B-29は命中精度の低い高々度爆撃を停止し、比較的低高度での夜間爆撃を多用したため、体当たり攻撃の機会は激減した。三式戦闘機部隊の体当たりは第244戦隊で20回、全体で30回に及ぶ。_NEWLINE_1944年12月13日には名古屋が初空襲される。三式戦闘機装備部隊としてはこの地区には第56戦隊が配置されていたが、フィリピン方面で戦力を消耗し内地に帰還していた第19戦隊や、第55戦隊の残置部隊などもこれの迎撃に当たった。_NEWLINE_フィリピンでの敗北後、三式戦闘機の主戦場は本土防空戦のほか、沖縄戦に移った。だが1944年から型式変更を予定した三式戦闘機二型は、新型1,500馬力級液冷エンジンのハ140の不調のため生産が全く進まず、わずか99機で生産を停止、空冷エンジンであるハ112-IIに換装した五式戦闘機へと主力が移っていった。_NEWLINE_1945年3月からの沖縄戦では、本土に在ったほぼ全ての三式戦闘機、ないし五式戦闘機部隊が投入された。九州には第六航空軍の4個飛行戦隊、台湾には第8飛行師団の3個戦隊と、1個独立飛行中隊が存在した。また航続距離の関係上、一部は奄美群島喜界島に進出し特攻機の護衛を行った。_NEWLINE_これらは当初、天一号作戦の特攻機の護衛として用いられるとされたが、結局は4月1日には第17戦隊の7機が特攻に投入されたのを皮切りに、沖縄戦全体では計97機が特攻を行った。これは陸軍の全特攻機の約一割の数字である。
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原型機 キ61
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1941年12月製造、初飛行。試作3機、増加試作9機。以降は特記無き限り川崎航空機岐阜工場での製造。
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一型甲 (キ61-I 甲)
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1942年8月から1943年9月生産。最初の量産型である。_NEWLINE_日本陸軍は航空機関砲の開発で遅れを取っており、1940年または1941年まで12.7mm航空機関砲を、また事実上1944年まで20mm航空機関砲を持たなかった。12.7mm航空機関砲の試作が決定したのは、1940年になってからのことである。このため1941年に制式化された12.7mm機関砲(ホ103 一式十二・七粍固定機関砲)は1940年に100門、1941年度に439門が生産されたがこの時点では数が不足しており、また信頼性もまだ高い物ではなかった、このため、機首に12.7mm機関砲2門と翼内に7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)2挺と言う装備になっている。_NEWLINE_燃料タンクは防漏仕様で、初期には3mm厚のゴムと10mm厚のフェルトで覆っていたものが、421号機からは上面9mm、側面6mmのゴムに改められている。機体番号113から500まで、388機生産。
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一型乙 (キ61-I 乙)
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1943年9月から1944年4月生産。一型甲の翼内銃を12.7mm機関砲に換装、計4門に強化した型。当初計画ではこの砲の装備が正規状態である。514号機以降には操縦席後方、ラジエーターの上部に厚さ8mm、重量22kgの着脱式の防弾鋼板を追加した。一部燃料タンクには被弾時の危険性が指摘され、現場レベルでは撤去される例があった。空となった当該タンクにはさらに欠陥があり、飛行中に弁の不良で他タンクから燃料が流れ込み、機体の重量バランスを大きく狂わせた。また離陸直後の墜落事故についても、このタンクによる重量バランスの狂いが指摘された。よって乙型の14機目(514号機)からはこれを廃止し、燃料搭載量は755リットルから555リットルに減少。また、150機目(650号機)からは翼内タンクに12mm厚ゴムによる防弾が行われている。このため燃料搭載量は更に、500リットルに減少した。また引き込み式だった尾輪は生産性向上の為、途中から固定式に改められた。_NEWLINE_生産数は約600機、或いは592機または603機、592機などと言われている。片渕(2007)によれば、『軍需省熊倉少佐資料』中の『陸軍機装備現況表』では機体番号は501から1092であるとされるが、『三式戦闘機取扱法』では翼内銃を12.7mmにしたのは514号機以降であると明記されていると(ただし、513号機(401機目)からの可能性もあると)している。ちなみに昭和18年度、陸軍による生産内示機数は6,760機と言う実情を鑑みない数値であったという。
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一型丙 (キ61-I 丙)
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1943年9月から1944年7月生産。翼内銃砲をドイツから輸入したマウザー砲(モーゼルとも呼ばれる)(MG151/20)に換装し、20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門の重武装にした型。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。陸軍では航空用20mm機関砲の開発が遅れていたため、ドイツから20mm機関砲を輸入した。数量は800門、弾丸40万発である。川崎内では「キ61マ式」とも呼ばれた。ただし重量増で飛行性能は低下している。_NEWLINE_定説では既存の一型甲、一型乙からの改造機を含めて388機が一型丙となった。だが川崎において1943年に234機、1944年に153機、合計387機が生産され、現地改修機は存在しないとする資料もみられている。しかし前線の搭乗員の手記でも、現地改修が実際に行われたふしがあるとする証言もみられているほか、碇(2006)の文献では235機が新規生産で、400からそれを引いた百数十機が現地改造であろうとしている。その他にも改修機とは別に400機が川崎で生産されたとの資料もみられる。_NEWLINE_なお一型乙の機体番号は514から1092が振られているが、一型丙には3001から3400が振られている。
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一型丁 (キ61-I 丁)
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1944年1月から1945年1月生産。武装を機首にホ5 20mm機関砲2門(弾数各120発)、翼内に12.7mm機関砲2門とした型。_NEWLINE_輸入マウザー砲を全て使用した後も20mm機関砲の搭載が望まれたため、ようやく実用化の成ったホ103の拡大版である国産20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)を搭載した。弾丸の威力はマウザー砲に及ぶものではなかったが、全長が短いため機首に搭載でき、命中率はあがった。和泉(1994)p.39では発射速度と初速は遜色なかったものの、故障は多かったとしている。1943年11月頃、杉山元元帥が川崎の岐阜工場を訪れ20mm機関砲の搭載を要請したとする資料もある。_NEWLINE_渡辺(2006)は、ホ5の搭載に関し、重量物を重心に近づけて機動性を確保し、また命中精度を確保する観点から(翼は捩れるなどするため命中率が劣る))、サイズの大きなマウザー砲では望めなかった機首に搭載したとしている。_NEWLINE_しかし他の文献では、本来マウザー砲と同様に翼内装備としたかったものが翼内に収まりきらず、やむを得ず半年をかけてホ5用の同調装置を開発し、機首に搭載したとされている。この同調装置とは、プロペラ圏内に装備された機関銃を発砲するに際し、自機のプロペラに弾頭が命中しないよう、プロペラが安全な位置にある時にだけ発射機構を機械的に連結する装置である。航空機黎明時代にはプロペラを強化し、多少弾丸が当たってもこれを弾き飛ばすなどしていたが、機銃が強力になるとこの方法は廃れた。20mm機関砲弾では弾頭内部の炸薬によりプロペラが吹き飛ぶ威力があった。20mm弾薬は海軍も危険としてプロペラ圏内への機関砲装備を容認しなかったし、世界的にも稀な部類ではある。1942年6月5日には土井により、翼厚の関係上主翼への搭載は不可能で、この部分の翼厚を100mm程度に再設計する必要があるとの報告がなされている。再設計と生産設備の転換自体は1週間で完了できる比較的容易なものであった。_NEWLINE_武装変更に伴い機首の20cmの延長、榴弾の信管過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部にバラストを搭載し、主翼を4cm前方に移動している。また、胴体内タンクを95リットルで復活させた。このため燃料搭載量は595リットルとなった。_NEWLINE_翼内から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率向上と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による自重にして約250kgの重量増加により飛行性能全般が低下している。高度6000mでの最高速度は590km/hから560km/hへ、上昇力は5000mまで5分31秒から7分程度へと低下している。なお、351機目から増槽架を100kg爆弾搭載可能なものにしたとする文献もある。_NEWLINE_本型は機体に大改修を加えているため当初「三式戦闘機一型改(キ61-I改)」と称されたが、のちに「三式戦闘機一型丁(キ61-I 丁)」となった。計画では機体番号4001から4900までの900機の生産であったが、後継の二型が間に合わず、機体番号5354機までが生産された。生産機数は1,358機、または1,354機と最多である。_NEWLINE_なお、「首無し」の機体は後述するハ140搭載の二型のものが有名だが、ハ40の徹底的な改良という要因により供給が不足し、I型についても1944年秋から首無しの機体が増えており、11月には最大の190機を数えていた。
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キ61-II
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1942年4月頃より計画され、エンジンはハ40の改良型であるハ140(離昇出力1,400馬力)に換装、主翼をホ5を内蔵できるように再設計、翼面積22m²のものとした。さらに垂直安定板を若干増積、胴体を42cm延長した。土井(2002b)によれば、機能の確実化と整備の容易化にも配慮がなされた。_NEWLINE_武装はホ5 20mm機関砲を4門、またはホ5 2門に12.7mmホ103 2門を装備、最大速度640km/hを目指し、上昇限度は13,500mとなるはずであった。さらに30mm機関砲ホ155の搭載も検討されている。渡辺(1999)によれば、キ61とキ61-IIは遠目にはよく似ているが、近づいてみるといたる部分が異なっており、同一部分を探すのが困難な程だと言う。_NEWLINE_1943年8月に試作器が完成・初飛行したが、エンジン、特に水ポンプの故障の頻発で実用化は遅延した。1943年9月から1944年1月までに試作機を8機生産したものの、空戦性能もあまり芳しくなく、8号機も完成こそ1944年1月とされているが、6月に至ってもやっと発動機空中試験を始める状況で、最終的に計画は中止された。なおエンジン出力の強化に伴いラジエーターも管長を250mmから300mmとし、冷却力を20%強化している。_NEWLINE_武装によって、従来の20mm機関砲を2門・12.7mm機関銃を2門搭載したものを二型甲(キ-61Ⅱ甲)、20mm機関砲を4門搭載したものを二型乙(キ-61Ⅱ乙)と称し区別することもあるが、あくまでも後世に名づけられた非公式の名称に過ぎない。
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二型(キ61-II改)
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1944年2月頃より計画が開始された。キ61-IIの主翼を一型丁のものに戻したもので、このため翼内武装も一型丁と同等のものに戻っている。なお、大型主翼を採用した理由とそれを元に戻した理由は資料が無く、よくわかっていない。従来の主翼にはサイズの問題で20mm機関砲ホ5が搭載できなかったが、これの搭載のために新たな主翼を用意した可能性のほか、飛行性能の向上のためとする説もある。碇(2006)は、大型主翼の飛行性能が悪く、速度向上の意味から元のものに戻したとし、渡辺(1999年)は、主翼大型化の効果があまり見られなかったためとする。歴史群像編集部 (2011) では、理由は明確に言及されていない。そのほか、主翼を元に戻した理由は古峰文三が以下の様な考察を行っている。当時の二型はエンジンの問題により全力を発揮した飛行試験が充分に行える状態ではないと推測され、比較により性能上の問題が露呈したとは推察しにくい。よって、単にホ5の供給不足により、新型主翼に生産を切り替えてこれを搭載する必要がなかったから元の主翼に戻したのではないか、とする説である。また秋本(1989)では、単に一型丁にハ140を載せて各部を改修した方が良いとのことになっただけとしている。_NEWLINE_全備重量は355kg増加した。しかし速度は高度6,000mで610km/h、高度8,000mでも591km/hと向上しており、上昇性能も一型丁より改善を見た。また武装は一型丁と同等だが、機首の20mm機関砲ホ5の弾数が、各120発から200発へと増加した。また燃料タンクの防弾能力を強化したため、翼内タンクが合計265リットルから210リットルへ低下した。ハ140を搭載したこの機体は従来のものとは異なり、完全武装状態でも10,000mまで楽に上昇できた。なお二型機体は、航空審査部飛行実験部に所属する機体のほか、1944年11月ごろより、片岡載三郎掛長(かけちょうまたはかかりちょう。現在で言うところの係長)を隊長とし、川崎航空機のテストパイロットで編成された川崎防空戦闘隊によっても一線部隊に先行して運用された。後者は一型機体と合わせ、1944年12月13日、1945年1月3日あわせB-29、B-25合計3機または4機の撃破を報告し、航空本部長から感謝状を贈られている。そのうちB-29 3機は片岡掛長による戦果である。_NEWLINE_増加試作機が30機または36機生産された後、1944年9月より「キ61-II改」として量産が開始された。ハ140が順調に量産され、所期の性能を発揮すれば機体が高性能をあらわすことも可能であったが、機体こそ374機が完成したものの、ハ140に大きな問題が生じていた。生産は遅延し品質も悪かった。生産台数は44年7月に20台納入の予定が8台、8月には40台納入予定が5台、9月には1台のみが完成したに過ぎない。こうした生産状況からは本機を実用機として戦力化することが極めて困難であった。航空審査部の担当名取智男大尉はハ140を生産している川崎の明石工場に通い詰め不具合を調査したが、性能の維持は不可能であり、これに乗って飛んでくれとは整備屋としてとても言えないと言った惨状であった。したがってキ61-II改の生産は100機程度で打ちきられた。これは整備条件の良い、内地の防空部隊に限って配備される予定であったという。ちなみに二型の制式化は、生産の打ち切りが決定した後、間もない頃のことである。_NEWLINE_結局、エンジンを搭載し完成機となったものは99機であったが、B-29による爆撃で機体が破壊され、最終的に軍に納入されたのは約60機程度という状況であった。この後、川崎はキ61-II改の生産を縮小し、四式重爆撃機を生産するよう指示された。結論としてエンジンの不調および生産遅延が三式戦闘機の大量生産を阻害した。製造番号について秋本 (1989)は5001以降が振られたとしたが、1945年1月4日付の川崎航空機作成の飛行機生産実績並予定表によれば、10000番代が岐阜工場製、15000番代が一宮工場製、18000番台が都城工場製となっている。_NEWLINE_半完成品となった三式戦闘機の残余である275機は「首無し」の状態で放置された。これらは後に空冷エンジンを搭載し、後述の五式戦闘機に改造された。定説では二型の機体の生産機数は374機、完成機が99機、5式戦闘機への改造機が275機である。だがこの数字には試作機の39機が入っておらず、また374機という数量には新工場である都城工場で製造された分が計上されていない。古峰によれば川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』「機体之部」では「374+」とされており、実数はやや多く機体生産がなされたのではないかとする説もみられる。また昭和20年3月26日及び27日に陸軍が川崎に対し実施した機体側現地指導記録によれば、この時点での「首無し」状態の三式戦闘機は一型及び二型合わせて421機となっており、うち135機を五式戦闘機、14機を三式戦闘機二型に改造し、三式戦闘機の生産については当分の間月産50機とする旨の指導を行なっている。_NEWLINE_三式戦闘機二型は、エンジンが完調であれば性能自体は良好だった。土井によれば高度10,000mにおいても容易に編隊飛行が行えたと評価される。また本土でB-29の迎撃に当たった第55戦隊の隊員らも、古川戦隊長が故障は見受けられるが同条件ならP-51にも引けを取らないのではないかと評価したほか、旋回性能だけは一型に劣るが全体的に二型が上である、高度11,000mでも確実に飛行ができる、さらにはエンジンの故障も少ないと証言している。また明野の飛行学校で行なわれたテストでは、急降下性能は四式戦闘機、五式戦闘機を凌駕していた。五式戦闘機の登場後も二型が完全に捨てられたわけではなく、五式戦闘機で当座を凌ぎながら信頼性の向上を目指し、1945年6月に40機、7月に40機、8月に10機という補給計画が残されている。同じく、機体を五式戦闘機に取られながらも、終戦直前まで少なくとも2個戦隊の充足・戦力化を目指し細々と生産が続けられていたとする文献もある。しかし同時に1945年7月には生産の完全打ち切りと五式戦闘機への完全移行が決定したともされる。_NEWLINE_さらなる発展型として、キ61-IIに大口径砲を搭載する、すなわち、ハ140特エンジンに37mm機関砲をモーターカノンとして搭載する計画が存在した。これは古峰(2007)にキ61-II武強として紹介されているが、現在までのところ、ウィキペディア編集者には、他の文献ではII型についてこの呼称は確認できない。ただし三式戦闘機一型については、「陸軍現用試作機称呼名称一覧表」(1945年2月25日、陸軍航空本部)において、丙型と丁型の「区分」を「武強」としている例が有る。この機体の翼内武装は廃止され、他の武装は機首に20mmホ5が2門のみ装備された。のちにこれはキ88と呼ばれるものとなり、1943年6月には組み立ての開始が行える状態になったようだが、1943年9月、計画は中止された。後期になると陸軍からの要請を受けて、パイロット視界向上を図るために水滴型風防に変更された。この処置は中島の四式戦闘機を参考にして行われたが、九七式戦闘機以来水滴型風防を用いてきた中島と異なり、川崎では技術の蓄積が浅く、機体と風防の接着をきちんと行うことが出来なかったため、パイロットは騒音に悩まされたという。従来のファストバック型風防のものを二型甲(キ-61Ⅱ改甲)、水滴型風防のものを二型乙(キ-61Ⅱ改乙)とするものや、従来のファストバック型風防を二型とし、水滴型風防のものを三型(キ-61Ⅲ)称し区別することもあるが、どちらも後世に名づけられた非公式の名称に過ぎない。また正式名称不明であるものの、性能向上型である三型には離昇出力1800馬力のハ240の装備が計画されていた。
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五式戦闘機 (キ100)
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五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを星形空冷エンジンに換装した戦闘機である。1945年(昭和20年)に制式採用された(制式採用されたか否かには諸説あり。詳しくは当該項目を参照)。_NEWLINE_前述のとおりハ140の生産は遅延し、エンジン未装着の三式戦闘機が多数放置された。早急な戦力化のため、陸軍ではハ140に換えてハ112-IIを搭載することを計画した(日本海軍も同じく艦上爆撃機彗星のアツタエンジンに換えて金星62型エンジンを搭載している)。金星62型エンジン、陸軍名称ハ112-IIは星型空冷であるため、直径こそ121.8cmと大きいが、離昇出力1,500馬力を発揮するものであった。これは広く部隊に配備されている三式戦闘機一型丁のハ40が発揮する1175馬力より強力で、ハ140の1500馬力に匹敵した。またハ112-IIには水メタノール噴射装置も装備されていた。航空本部や土井技師は三式戦闘機の空冷換装を前向きに検討開始した。軍需省の意向や川崎航空機のエンジン部門の実戦化への努力等、空冷化に対して考慮すべき点があったものの、戦局と生産の観点から、1944年4月、航空審査部は川崎に対し内々に三式戦闘機の空冷化を依頼した。また上記二型の戦力化の失敗により、10月1日には正式に空冷化三式戦闘機・キ100の試作が命じられた。_NEWLINE_三式戦闘機の840mmの胴体に直径1218mm、カウリングなども含めれば外径1280mmのハ112-IIをいかに収めるかは、ドイツより輸入されていたFw190 A-5の機首まわりの処理を参考とした。エンジンと機体の接続部に生じる段差は渦流を生じ大きな空気抵抗となるが、この部分にエンジンの推力式単排気管を設置し渦流を吹き飛ばし、最小限の整形のみで空気抵抗を低減する処理を施した。_NEWLINE_1944年の12月末には換装のための設計を終え、試作一号機は翌1945年2月1日(または11日)に初飛行を行った。空冷化により前面投影量が増え、空気抵抗の増加により最高速度が580km/hとなった。これはキ61-II改より30km/hほど低下していた。しかし、空冷化による水冷装置の撤去など軽量化に伴い、上昇力は四式戦闘機を上回るものとなった。空戦性能は三式戦闘機を上回ると判定され、三式戦闘機一型丁と比較すれば最高速度においても凌駕した。窮余の策の空冷エンジンへの換装は大成功であった。_NEWLINE_第59戦隊のパイロットたちも、三式戦闘機を装備運用した時期に比較し、五式戦闘機は敵新鋭戦闘機とも相当に善戦できると評価した。また何より、稼働率が大きく向上した。取り敢えずの戦力化・稼働率の向上に加え予想外の高性能を発揮したキ100は、2月には五式戦闘機として制式採用された。量産機第一号は2月に完成し、3月には36機、4月には89機、5月には131機が生産された。生産の停止した三式戦闘機二型に代わって陸軍の主力戦闘機となり、陸軍航空隊はこれを大歓迎する。だが米軍の空襲のため6月は88機、7月は23機にまで生産が落ち込んだ。8月に生産された10機をもって生産完了し、試作機3機を含め総生産数は390機または393機程度であった。ほか、生産機数は文献により諸説が存在する。_NEWLINE_ただしハ112-IIはハ140より良く稼動したとされるが、やはり新型エンジンであり、信頼性が抜群であったと言うわけではなかった。1945年7月に五式戦闘機を装備した第59戦隊の稼働率が48パーセント、三式戦を装備した第55戦隊の稼働率が62パーセントとのデータもある。
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郵便切手
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終戦間際の1945年7月1日、文献によっては8月1日、逓信院が発行した5銭の普通切手に三式戦闘機「飛燕」が登場している。逓信院とは、戦時統合により発足した運輸通信省から5月19日に分離し再発足した組織である。_NEWLINE_同切手は「戦意発揚」を目的に公募が行われた入選作品のひとつを改作して採用された図案で、太陽をバックに飛行する本機が描かれているため「旭日と飛燕」と俗称されている。ただし印刷は物資の欠乏により比較的簡素な平版印刷で、目打も糊も省かれた状態で発行された。また用紙も白紙や灰白紙と異なるもので印刷されたほか、緑色だけでなく青色で印刷されたものがある。_NEWLINE_この切手はGHQから「軍国主義的」であるとして1947年(昭和22年)8月31日付で使用禁止となった、いわゆる「追放切手」となった。もっとも発行当初は第三種便一般料金用であったが、戦後はインフレーションのため、使用禁止された時点では実際に郵便で使用できないほど額面が無価値になっていた。
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現存する機体
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本機の完全な現存機は、現在日本国内に1機、三式戦闘機二型(キ61-II改、製造番号:川崎6117)が存在するのみである。この機体は1944年に川崎航空機岐阜工場で製造された二型の試作17号機である。戦争中、この機体は陸軍航空審査部所属であり、終戦直後に福生飛行場でアメリカ軍に接収され、のちに日本航空協会に譲渡返還されたものである。同機は戦後に大規模な修復を受け、現在良好な状態で保存されている三式戦闘機としては世界で唯一である。この機体は、遊園地での展示や航空自衛隊岐阜基地での23年間の保管ののち、1986年からは鹿児島県知覧町に貸与され知覧特攻平和会館に展示されていたが、2015年9月に岐阜県各務原市にある川崎重工岐阜工場に搬入されて修復を受け、神戸市での展示を経て、2016年11月に再び各務原市へ戻り、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館の増改築が終わるのを倉庫で待ち2018年3月24日より本館内で展示されている。機体番号は従来、"5017"あるいは"61217"と推測されていたが、2015年~2016年にかけて行われた修復の中で発見された機体各部に残るステンシル跡から、"6117"であることが判明した。_NEWLINE_日本にはこのほか高知県沖の海中から引き上げられた機体が京都嵐山美術館にて、胴体前部と主翼桁のみと言う不完全な状態のものが展示されていたこともある。_NEWLINE_また、海外ではオーストリア南部のワンガラッタ市の航空機復元会社に、川崎重工業の現役及びOB社員によるボランティア・グループが協力して飛行可能なように復元中のI型がある_NEWLINE_アメリカでは、フロリダ州のファンタジー・オブ・フライトで修復待ちのII型(製造番号:川崎379、飛行第68戦隊または78戦隊所属)を見ることができる他、ヴァージニア州ではジェリー・イェイゲン氏(Jerry Yagen)所有のII型(製造番号:川崎640、飛行第64戦隊所属機)があり、同氏運営の軍事航空博物館倉庫で修復中である。_NEWLINE_他にも、ニューギニア島のチェンデラワシ湾海底に残る機体と主翼の一部が水中写真家の戸村裕行によって撮影され、それが飛燕であると潮書房「丸」編集部の鑑定により発表されるなど、未だに太平洋の各地に残骸が存在する。_NEWLINE_2017年に入り、1970年台にパプアニューギニアのジャングルで発見されオーストラリアのコレクターが保有していた残骸がヤフーオークションに出品された。この機体は倉敷市の会社経営者が1500万円で落札し、11月30日に倉敷市にて引き渡された。 | 4048173269479471593 |
Q17210187 |
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三戸町コミュニティバス
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三戸町コミュニティバス(さんのへまちコミュニティバス)は、青森県三戸郡三戸町内を運行するコミュニティバス。 | 6635155476736974831 |
Q7409073 |
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三本松駅 (奈良県)
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駅構造
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相対式2面2線のホームを持つ地上駅。ホーム有効長は6両分。改札口は上り線側にあり、反対側の下りホームとは構内踏切で連絡している。_NEWLINE_榛原駅管理の無人駅で、PiTaPa・ICOCA対応の自動改札機および自動精算機(回数券カードおよびICカードのチャージに対応)が設置されている。 | 12520005751936463477 |
Q21654750 |
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三笠市立三笠中学校
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学区
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岡山・萱野小中一貫教育特区外の三笠市 | 7218852965633721630 |
Q65247919 |
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三菱・コルトEV
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コルトEV (COLT EV)は、三菱自動車工業が製造した小型自動車である。
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概要
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三菱自動車が独自で掲げた「MIEV」コンセプトに基づき、自社製のコンパクトカー『コルト』Sport-X (1.5L、4WD)をベースに、エンジン、燃料タンク、トランスミッションなどを取り外して、代わりに独自開発の2基のインホイールモーターを後輪に搭載し、主電源としてリチウムイオン電池を搭載した実験車がコルトEVである。 | 1050719958119874188 |
Q6883089 |
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三菱倉庫
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歴史
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三菱倉庫の前身である東京倉庫が1887年(明治20年)に創設されてから、1918年(大正7年)に今の「三菱倉庫」への社名変更を経て、2007年(平成19年)で創設120周年を迎えた。_NEWLINE_三菱財閥の中では、日本郵船、三菱商事、三菱重工、三菱UFJ銀行に次いで創設された伝統と歴史のある企業である。_NEWLINE_1930年(昭和5年)に竣工し本店があった江戸橋倉庫ビルは、船体を連想させる特徴的な外観を持ち、表現派風建築の代表的作品として東京都選定歴史的建造物の選定を受けている。本店は同ビルの建て替えのため中央区新川に一時移転したものの、平成26年9月に竣工した日本橋ダイヤビルディングに再び戻った。日本橋ダイヤビルディングは旧江戸橋倉庫ビルの外壁を随所に保存した高層建築であり、東京都選定歴史的建造物に選定されている。
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事業内容
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大きく分けると「物流」と「不動産業」の2つに分類される。 「倉庫事業」をはじめ「港湾運送」「国際輸送」、そして「不動産事業」が主な事業内容である。 _NEWLINE_物流事業は、120年の伝統を誇り世界中に関連会社を持ち、実績は日本の倉庫業界では首位である。日本最大の倉庫も保有している。 各国子会社との連携も強く、医薬品・化学品取り扱いでは実績が高い。神戸・六甲アイランド、東京大井と、東西2箇所で合計訳63千冷蔵トンの冷蔵倉庫を持つ。_NEWLINE_また不動産事業での収益も大きく、ビル・商業施設・住宅と活発に展開している。ビル事業では、東京ダイヤビルディングをはじめとする“データセンタ対応ビル”を多く手がけており、賃貸ビルでありながら、非常用発電機や高い耐震性能、マルチキャリア等を兼ね備えたビルの分野では、パイオニアであり、日本最大規模のシェアを持っている(ちなみに東京ダイヤビルディングは日本最大の免震ビルである)。_NEWLINE_商業施設は、関西で複合商業施設である神戸ハーバーランド等がある。また、関東では2006年8月24日に横浜駅東口に横浜ベイクォーターが開業した。_NEWLINE_住宅事業としては、ナビューレ横浜タワーレジデンスやM.M.TOWERS FORESISをはじめとする分譲マンションの開発も手掛けている。_NEWLINE_横浜駅東口の同社敷地の再開発のしめくくりとして、同駅周辺では最大規模であり、統一された意匠とガラスカーテンウォールの外装が特徴の横浜ダイヤビルディングを2009年12月16日に竣工させた。_NEWLINE_横浜ダイヤビルディングは、地上31階・地下2階・塔屋2階、高さ157.7m(横浜ではランドマークタワー、クィーンズタワーA棟に次ぐ、3番目に高い)、延床面積69,977㎡であり、3~6階までは商業施設として隣接する横浜ベイクォーターと各フロアで接続して一体化、7~30階の低・中・高層部は賃貸オフィスで構成される。_NEWLINE_横浜ダイヤビルディングは、1990年代以降、大規模オフィスビルの開発が滞っていた横浜において、久々に建設された大規模オフィスビルであり、東京都内にて相次いで建設されている2000年代のオフィスビルに伍する高品質なオフィスビルである。同時に建設されたペデストリアンデッキ(ベイクォーターウォーク)にて横浜駅と直結し、雨に濡れずに駅まで行くことができる。_NEWLINE_三菱倉庫の所有ビルには、「横浜ダイヤビルディング 港北館」も存在するので、注意が必要である。なおポートサイド地区にある「ポートサイドダイヤビル」の所有者は、三菱重工業(株)系列企業の菱重ファシリティー&プロパティーズ(株)である。 | 1957629057131205045 |
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三角法
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三角関数
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三角関数は、人類が最初に出会った超越的な関数である。
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歴史
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直角三角形の3辺の長さの比は、測量や天文学の要請によって古代から研究されてきた。イエール大学のバビロニア・コレクション No.7289(前2000年頃)には、正方形と2本の対角線が描かれていて、それぞれの長さが楔形文字により60進法で記されている。これに基づく2の平方根の近似値の精度は、10進法で小数点以下5桁まで、現代知られている近似値と一致するほど正確なものであった。前1800年〜前1650年の間のある時期に作られた粘土板(コロンビア大学のプリムプトン・コレクション No.322)には、ピュタゴラスの三ツ組数が記されているとも解せる。メソポタミアにおいては新バビロニア時代に入ると、天文観測上の必要から角度を数値化するという概念も発展し、円の一周を360°に分割する度数法が始まった。_NEWLINE_バビロニアの天文観測の記録は紀元前1世紀まで続いた。ヘレニズム時代のアレクサンドリアの数学者は、おそらくは上述のような精緻な観測記録を利用して、円における円周角とそれによって定義される弦の長さとの関係に関する体系的な研究を始めた。プトレマイオスによると、前2世紀、ニカイアのヒッパルコスが7・1/2°刻みの円周角と弦の長さの表を作成したという。ヒッパルコスは作成した数表を用いて、球面を平面にステレオ投影し、球面上の幾何学的な問題を解こうとしたとみられる。これに対して、1世紀のアレクサンドリアのメネラオスは、球面三角法を概念化した。2世紀のプトレマイオスはメネラオスの球面三角法の考え方を天文学に応用した。プトレマイオスは、大著『アルマゲスト』の第1巻11章に詳細な三角法に関する表を示した。これは本質的にはヒッパルコスのものと同じく、円周角とその弦長の関係を示したものであるが、より正確であり、また、はるかに使いやすかった。_NEWLINE_古代インドの数学にメソポタミアやギリシアの影響は比較的少ないが、三角法に関しては例外で、用語や無理数の近似値の類似などの観点から、ギリシアに由来すると推測されている。しかしながら、古代インドに伝わったギリシア天文学及びそれに付随する三角法はヒッパルコスの時代までのものであり、メネラオスやプトレマイオスの球面三角法は伝わらなかった。5世紀の天文学者アーリヤバタが著した『アーリヤバティーヤ』は、著者が確実に判明しているインド最古の天文学書である。同書は2行一連のサンスクリット語による韻文の形式で書かれ、単位円における円周角の半分と弦の半分(すわなち正弦)との関係についての言及がある。ギリシア数学的な円周角と弦長の関係に着目する視点から、円周角と正弦との関係に注目する視点へとパラダイムが転換した。その後、インドにおける三角法はバースカラ2世やケーララ学派により研究が進められ、16世紀ごろまで独自の展開をしたが、他地域への影響という点では7世紀の天文学者ブラフマグプタが著した『ブラーフマ・スプタ・シッダーンタ』が大きな役割を演じた。同書は記憶しやすい韻文の形式で書かれ、単位円における複数の円周角に対する正弦の長さを歌った部分を含む。ブラーフマグプタが亡くなった後、シンド地方がアッバース朝の支配下に入り、同地にいた占星術師が『ブラーフマスプタ・シッダーンタ』をアラビアに伝えた。同書のアラビア語への翻訳は、ファザーリー父子のどちらかとヤアクーブ・イブン・ターリクにより行われ、770年に『シンドヒンド』の名でアッバース朝のカリフ・マンスールの宮廷に献上された。_NEWLINE_三角法に関する理論は、8世紀から13世紀にかけて、アラビア語を共通の学術言語とする中世イスラーム世界において、さらなる発展と洗練がなされた。アラビア科学には、アレクサンドリアからシリアのアンティオキアやエデッサ、ペルシアのジュンディーシャープールへ拠点を移したヘレニズムの学術を承継するのみならず、ペルシアやインドからも積極的に文化を受容し、それらを融合したという特徴がある。9世紀のフワーリズミーは前述の『シンドヒンド』を利用して天文表を作成した。インドには伝わらなかった『アルマゲスト』も8世紀ごろアラビア語へ翻訳された。中世イスラーム世界の天文・数学者たちは『アルマゲスト』に注釈を付したり、精緻な天文観測に基づいて同書中の天文常数に修正を加えたり精緻化したりした結果、同書に記載されている球面三角法の理論を発展させた。このように『アルマゲスト』を出発点にして球面三角法を研究した学者としては、アブル・ワファー、ビールーニー、トゥースィーなどがいる。9世紀に上部メソポタミアで詳細な天文観測を行った天文学者バッターニーは、プトレマイオスの占星術書『テトラビブロス』の注釈を著した占星家でもあったが、独自の天文表も作成し、三角関数の概念化と記号化に寄与した。バッターニーの天文表の中には球面における余弦を求める方法の記載が含まれる。また、バッターニーはインド由来の正弦を『アルマゲスト』の弦よりも優れているという確信を持って使い、余接と正接を導入した。_NEWLINE_中世イスラーム世界は9世紀ごろから複数の政治権力が地方で自立する動き(ウンマの分裂)が進行したが、それはバグダード以外にも学術センターが並び立つ結果も生んだ。カイロでは10世紀後半、ファーティマ朝のカリフ・ハーキムが天文観測所を建て、イブン・ユーヌスがそこの観測記録に基づいて新たな天文表を作成した。その中には三角関数の積和の公式に相当する計算を行っている記載がある。コルドバやトレドの宮廷はマジリーティーやビトルージーといった学者を召抱え、三角法を含む天文学を研究させた。13世紀のイルハン朝の君主フレグはマラーガに巨大な天文台を建て、トゥースィーやマグリビーにより正確な天文観測に基づく天文表を作成させた。アラビア科学において、10世紀には6つの三角関数すべてが出揃い、イブン・ハイサムが三角法の光学への応用を始めるなど、三角法が天文学から独立した学問として成立した。_NEWLINE_ラテン語を共通の学術言語とする中世ラテン世界は、529年にユスティニアヌス帝がアテネの哲学学校を閉鎖するなど「異教徒」の学術の抑圧を行ったため、三角法を含むヘレニズムの天文学や占星術の承継をしなかった。12世紀ごろから、イベリア半島やシチリア島のイスラーム教国の宮廷に集められたアラビア語写本のラテン語への翻訳が始まった(12世紀ルネサンス)。フワーリズミーの天文表はバースのアデラードがラテン語に翻訳してヨーロッパ世界に伝わった。バッターニーの著作はチェスターのロバートやチボリのプラトが翻訳し、15世紀のレギオモンタヌス(ヨハンネス・ミュラー)も翻訳し、16世紀ごろまでヨーロッパ世界の学術に影響を与えた。熱心な天動説及びアリストテレス的宇宙観の支持者であったレギオモンタヌスは『アルマゲスト』や『テトラビブロス』理解のために、1464年に三角法の入門書『普遍的な三角形について』(De triangulus omnimodis)を著した。彼が1490年に作成した三角関数表(Tabula directionum)はヨーロッパで最初に刊行された三角関数表である。1542年にはコペルニクスの弟子だったレティクスがヴィッテンベルクで『三角形の辺と角について』(De lateribus et angulis triangulorum)を著した。同書はルター派の牙城であったヴィッテンベルク大学での出版を可能にするためにコペルニクスの『天球の回転について』から三角法に関する部分だけを抜粋したものである。したがって太陽を中心とするモデルを提示した宇宙論を含まない。レティクスはのちの1400ページを越える三角関数表も作成した。三角関数を直角三角形の辺の長さの比として捉える三角比の概念化もレティクスの業績に帰せられている。_NEWLINE_レティクスの三角関数表をさらに改善したバルトロマイウス・ピティスクスは、1595年に『三角法、あるいは、三角形の解法に関する小論と証明』(Trigonometria: sive de solutione triangulorum tractatus brevis et perspicuus)を著し、現在、西洋の諸語で三角法を意味する言葉(例えば、英: trigonometry、露: Тригонометрияなど)の直接の語源となるラテン語の言葉、Trigonometriaを造語した。17世紀に入ると、パリでシャルル9世やアンリ4世に仕えた弁護士のヴィエトがレギオモンタヌスやレティクスの著作に基づいて三角法を研究した。sinθ, cosθ といった現代的な記法を整えたのはヴィエトの業績に帰せられている。ヴィエトは球面三角法に関して、バッターニーに基づいて立体角を研究し、極三角形とそうでない三角形との関係について研究した。_NEWLINE_16-17世紀のヨーロッパ世界においては、地理的に広大な領域の正確な地図を製作する必要性が高まり、航海技術上の需要も高まったため、数学における一大研究分野となった。16世紀前半の1533年に、ゲンマ・フリシウスが三角測量の方法を紹介する地図製作に関する書物を著した。16世紀には地理学者メルカトルがメルカトル図法を考案して、大航海時代に始まった地図学の発展に大きな功績を残したが、メルカトルの時代には積分法は知られていなかったので「正割関数の積分」が中心的な問題となった。17世紀に研究が進められた微積分学によって、三角関数の理論は大きく発展した。17世紀後半にはアイザック・バローとジェームス・グレゴリーによって独立に正割関数の積分が解決され、緯線距離はランベルト関数(逆グーデルマン関数)に相当することが明らかになった。また、余弦を co-sine と呼んだり、sin, cos という記号が使われるようになったりしたのは 17世紀になってからであり、それが定着するのは 18世紀オイラーの頃である。一般角に対する三角関数を定義したのはオイラーである。1748年にオイラーによって、指数関数と三角関数の間に等式が成り立つことが再発見された(オイラーの公式)。フランスの数学者ジョゼフ・フーリエによって金属板の中での熱伝導に関する研究の中でフーリエ級数が導入され、複雑な周期函数による波動の数学的表現が単純な「正弦函数や余弦函数の和」として表されるようになった(フーリエ解析)。1835年にはジェームズ・インマンが半正矢関数(haversine)を導入し、球面三角法での半正矢関数の公式を航海用として導入した。_NEWLINE_三角法に複素数を最初に用いたのはレオンハルト・オイラーである。17世紀のジェームス・グレゴリーや18世紀のコリン・マクローリンによる仕事は三角級数の発展に影響を与えた。18世紀のブルック・テイラーはテイラー展開を定義した。
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応用分野
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三角法が応用/利用される分野はきわめて多様である。測量の技術分野で用いられる三角測量は、2地点を結ぶ線分(「基線」(base line)と呼ばれる)とそれを挟む2角の角度に基づいて他の諸量を、三角法の計算により求める。通常は、基線の長さが既知であり、両端角の角度を計測する。天文学の分野では三角測量と同じ原理で地球から地球外の天体までの距離を測ることがあるが、三角測量とは呼ばず「三角視差法」(trigonometric parallax)と呼ぶ。太陽系外の恒星までの距離を測る場合は、地球の公転軌道の長径を基線とする。_NEWLINE_歴史的な観点に立つと、古代ギリシア~アラビア科学~啓蒙期ごろまでのヨーロッパ科学にとって三角法、特に球面三角法は、占星術の天文計算に必要な技術であった。例えば『テトラビブロス』によると、人間の運命に影響を与える獣帯の一つの宮が地平線上に姿を現すまでにかかる時間の長さは、獣帯に連れ回り上昇する天の赤道の長さで測るのであるが、その測定に球面三角法が要請された。_NEWLINE_上述の測量術や天文計算のほかには、航海術における利用がよく知られている。14-15世紀地中海の船乗りは、風に流されて船が本来の航路から外れた際、航路に復帰するために初歩的な平面三角法を利用していた。「マルテロイオの方法」と呼ばれる、この目視可能な島などの地文と羅針盤に頼る航海術は、大洋における自船の位置を正確に知るには誤差が大きくなる。大西洋に進出し始めたヨーロッパ西部の国々の帆船においては、16世紀末ごろから徐々に球面三角法を利用する天測航法が使われ始めた。17世紀には、エドマンド・ガンターによる容易に三角法が解ける目盛りがついた二つの定規を連結した器具など、球面三角法の計算を簡単にするツール類が開発され、18世紀には天測航法が一般的な方法として普及した。_NEWLINE_歴史的に重要であった測量術、天文計算、航海術の分野においては、光学的測距技術精度の飛躍的向上や、双曲線の交点を自船の位置と認識する電波航法や全地球測位システムの普及により、三角法の直接的利用は後退した。古代の天文学者が三角法を駆使して推測した地球と惑星の間の距離についても結局は信頼できる情報を得るには至らなかった。しかしながら、例えば、機械工学の分野に用いられる工業力学においては三角関数の知識が重要であり、電磁波や音波のような波動を数学的に表現するのに三角関数が適している。三角法ないし、そこから派生した概念の応用分野は幅広く、現代文明の存立に欠かせない存在となっている。_NEWLINE_アメリカ合衆国では、銃器による発砲事件へ対処するため、音響センサーで発砲音を探知し、三角法により銃撃発生地点を特定する警備システムが実用化している。既に、ワシントンにある大学にて稼働しているほか、2017年にはホワイトハウスにて導入に向けた試験が行われた。 | 3990873527543858317 |
Q11357920 |
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三重県道32号伊勢磯部線
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概要
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三重県道32号伊勢磯部線は三重県道37号鳥羽松阪線と三重県道22号伊勢南島線の交差点付近の伊勢神宮外宮前伊勢市本町を起点とし、勢田町、宇治浦田町までの市街地の約3.1 kmの区間の御木本道路と、宇治館町から志摩市磯部町恵利原までの山中と磯部町恵利原の水田地帯を通り、志摩市磯部町の市街地の磯部町川辺で国道167号に接続する約15.2 kmの区間の伊勢道路を統合した三重県道である。御木本道路と伊勢道路は一本の道として繋がっているが、宇治浦田町から宇治館町までの区間に特別な別称がないため、御木本道路と伊勢道路の延長を合計した約18.3 kmは三重県道32号伊勢磯部線の総延長よりも短い。_NEWLINE_伊勢道路の料金所に併設されていた売店は料金所廃止後に拡大され、2006年現在も伊勢道路を通過する前後の休息場所として利用されている。磯部町には売店などは作られなかったが、沿線が民有地であるため土産物屋やガソリンスタンドなどが出店している。_NEWLINE_1995年(平成7年)に国道167号鵜方-磯部バイパスの恵利原-穴川間が伊勢道路と接続され、接続するT字路にトイレのある休息所アメニティ道路磯部ステーションが作られた。_NEWLINE_平成17年度の国土交通省の調査によると、伊勢磯部線の志摩市磯部町恵利原での平日24時間交通量は14,189台で、開通当初の8倍以上の交通量になっている。
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沿革
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この道路は御木本道路と伊勢道路を統合して認定された県道であり、県道に認定されるまでの沿革を記す。
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御木本道路
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御木本道路は伊勢神宮外宮前と内宮鳥居前町の宇治浦田町を結ぶ、延長3,110m幅員16mの道路である。_NEWLINE_1945年(昭和20年)に米寿を迎えた真珠王御木本幸吉が、外宮から内宮までの近道を整備する資金を提供したことからこの道路の計画が具体化され、のちに御木本道路と呼ばれることになる。伊勢神宮の外宮前の伊勢市豊川町から内宮前の伊勢市宇治浦田町までの豊川-浦田線が一般都市計画事業とされ、資金の不足分を国と三重県が補助することとなり、幅を4.5m、1949年度(昭和24年度)に1,320m、1950年度(昭和25年度)に1,052mの区間を整備する計画が立てられたが、実際には昭和24年度に460m、昭和25年度に477mが整備されたに留まり、完成は昭和26年度まで持ち越された。当初の計画では歩行者と自転車のみの道路で、自動車の通行は禁止することになっていたが、自動車が増加した場合のバイパス機能を与えるために自動車が通行可能な道路として作られた。_NEWLINE_御木本道路は昭和50年ころより順次拡幅工事が行なわれ中央分離帯を持つ両側4車線道路となり、1993年(平成5年)3月29日に伊勢自動車道伊勢西インターチェンジが作られ、伊勢市内の重要幹線となった。_NEWLINE_初詣で伊勢市内が混雑する大晦日から正月には伊勢西インターチェンジは自家用車の出入りが禁止され、御木本道路はバス専用道路となる。
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伊勢道路
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伊勢道路は伊勢市宇治館町から志摩市磯部町川辺までの15.2 kmを整備し、有料道路とした伊勢道路が無料開放された道路である。
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伊勢道路以前
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志摩市磯部町恵利原から標高約240mの逢坂峠を越え、伊勢神宮神域の島路山を流れる島路川に沿って伊勢市宇治館町に至る道は、江戸時代には逢坂越えと呼ばれていた。志摩半島を縦断するこの道は旧志摩国から旧伊勢国への最短距離になる道であったが、磯部町側は急勾配であり、九十九折りの道の形状から「ナナマガリ」、同じような景色が続き狐に化かされたように感じることから「狐坂」とも呼ばれた。明治中ごろまでは志摩地方で水揚された魚類を伊勢市河崎町の市場まで担い棒を用いて徒歩で運ぶ「徒荷持(かちにもち)」で賑わったが、一人で一度に運べる量が限られるだけでなく、早朝に河崎町に到着するには磯部を夕方に出て、山道を徹夜で歩く必要があった。_NEWLINE_1891年(明治24年)から1893年(明治26年)にかけて逢坂峠を約30m切り崩す大改修が行なわれ、大八車が通行可能となり、県道一等道路山田波切線に指定され、「磯部街道」と呼ばれるようになった。この道は人力車も通行するようになり、逢坂峠付近には大八車や人力車を押す手伝いをする業者が現れ、人力による大量輸送が始まった。この1893年(明治26年)は伊勢市西部を横切る宮川手前の宮川駅まで参宮鉄道(のちの参宮線)が開通した年であり、平野部では人力輸送が衰退し始めた時期と言える。_NEWLINE_1903年(明治36年)に逢坂峠に隧道を作る計画が立てられ調査が開始されたが、1904年(明治37年)2月6日日露戦争が勃発し計画が頓挫してしまう。_NEWLINE_1911年(明治44年)に参宮線が鳥羽駅まで延長されてからは、磯部から伊勢市までは、鳥羽駅から山田駅(現在の伊勢市駅)まで参宮鉄道を利用して鳥羽市を経由することが一般化した。1914年(大正3年)には志摩市と鳥羽市の境にある五知峠の開削工事が行なわれ鳥羽道(伊勢市-鳥羽市間の街道も鳥羽道と呼ばれた)と呼ばれるようになり、1919年(大正8年)には磯部村の作田久治らによる志摩自動車会社が鵜方-鳥羽間の乗合自動車運行が始まった。1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現在の近鉄志摩線)が鳥羽 - 賢島間を結んだため、磯部道は寂れることになった。1935年(昭和10年)に再び隧道の計画が立てられたが、今度は1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、計画は再び頓挫した。_NEWLINE_第二次世界大戦が終戦し、1949年(昭和24年)に磯部町から鳥羽市まで国道167号が整備された。
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無料開放
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開通より20年後の1985年(昭和60年)には三重県道路公社から三重県に引き継がれ、1973年(昭和48年)8月に予定されていた1995年(平成7年)の料金徴収期間より10年前に無料開放となり、文字通り伊勢道路になった。_NEWLINE_その後伊勢道路と御木本道路が統合され、三重県道32号伊勢磯部線となった。 | 13175022168513777600 |
Q56703094 |
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上月拓也
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上月 拓也(こうづき たくや、1971年5月19日 - )は、日本の実業家。コナミホールディングスの代表取締役社長を務める。実父は上月景正。
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人物
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兵庫県出身。上月景正の次男として生まれる。1990年芦屋大学附属高等学校を卒業し芦屋大学入学も途中で退学している。原因は不明。のち日本大学文理学部編入するも中退、コナミ入社。2009年取締役に昇格。2011年代表取締役。2012年から代表取締役社長を務め、グローバル化にあたった。2014年コナミデジタルエンタテインメント代表取締役社長。 | 17390230054951169074 |
Q11359442 |
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上條誠
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来歴
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2001年、オリジナルビデオ『ウルトラマンティガ外伝 古代に蘇る巨人』に出演。当時13歳であり、ウルトラマンに変身する役を演じた俳優としては歴代最年少を記録した。_NEWLINE_現在は後に『劇場版 ウルトラマンX きたぞ!われらのウルトラマン』の玉城ユウト役で演じた高木星来が11歳で記録更新した。_NEWLINE_現在は美容師になり渋谷の美容室の店長を務める。 | 16907085987102326286 |
Q55526772 |
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上田祖峯
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上田 祖峯(うえだ そほう、1920年(大正9年)- 1996年)は、日本の仏教学者。第2代駒沢女子短期大学学長。駒澤学園理事長・学園長。
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来歴
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熊本県生まれ。1944年、駒澤大学仏教学部仏教学科卒業。1971年、駒沢女子短期大学教授。_NEWLINE_1974年、駒沢女子短期大学学長に就任(小川弘貫の後任)。駒澤学園理事長・学園長を歴任。_NEWLINE_著書に『修証義入門: 道元禅師の教え』『新釈修証義:「正法眼蔵」の教え・仏たちの生きざま』『新釈典座教訓: 調理と禅の心』『禅と食事』『禅と心』など。 | 13003918267624769606 |
Q22117978 |
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上野の森さくらテラス
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歴史
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1951年(昭和26年)、上野恩賜公園の一角の都有地を映画館として使用する許可が下り、松竹が進出することとなった。施工には大阪劇場や浅草国際劇場の実績がある矢島建設があたり、管理は大東興業が担当することになった。1953年に「上野公園デパート」(建物名 上野大東ビル)が竣工、2階に「上野松竹映画劇場」が開業し、こけら落しとして『君の名は(第二部)』が上映された。その後地下1階に「上野映画劇場」と「上野名画座」、2階の上野松竹映画劇場の隣には「上野セントラル」が新設され、特に『男はつらいよ』シリーズのファンから人気を集める。出稼ぎ者が東北や北陸に帰省する際にオールナイト上映を観て始発列車を待っていた時代もあったが、東北・上越新幹線の東京駅延伸や、シネマコンプレックスの台頭に加え施設の老朽化のため、映画館は2006年に閉館した。上野公園デパートは、昭和30年代には「上野松竹デパート」と呼ばれるようになり、その頃に開店した上野囲碁センターは、一時期は定期乗車券を買って通うファンがいるほど賑わった。映画館閉館後も囲碁センターや古書店、100円ショップなどが営業を続けていたが、2012年8月に完全閉館、同年9月より解体された。_NEWLINE_新たなビルは矢島建設が事業主体となり、竹中工務店の設計・施工により2013年1月に着工。2014年4月10日に竣工し、同4月26日にオープンした。開業後の管理運営は、三菱地所プロパティマネジメント(開業時の名称は三菱地所ビルマネジメント)が担当する。
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建築
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地下1階・地上3階建てで、建物中央部は1階から地上3階までキャニオン(渓谷)をコンセプトとした吹き抜けになっており、屋上は上野恩賜公園に直結している。吹き抜け部の天井はガラス張りで、エスカレーターを使って上野駅不忍口から上野恩賜公園に通り抜けることができる。内装の壁面はコンクリート、床面は木材で仕上げられ、外観は武蔵野台地の地層を想起させる、横ラインでまとめられている。飲食店19店舗が入居し、上野駅側の通りに面した店舗にはテラス席が設けられた。_NEWLINE_北隣にあった上野東宝ビルは2005年に「上野バンブーガーデン」に、南側の西郷会館は2012年に「UENO3153」に建て替えられており、上野公園下の一帯の再開発としては最後発となる。 | 7307455627038261355 |
Q7496937 |
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下諏訪駅
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概要
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諏訪湖の北に位置する当駅は諏訪大社下社、下諏訪温泉といった観光地の拠点である。標高は767.5メートルで、諏訪湖を取り巻く上諏訪駅、下諏訪駅、岡谷駅の中では最も高い位置にある。駅前には、2本の御柱が建ち、諏訪大社下社の最寄り駅にふさわしい構えである。この御柱は、1998年(平成10年)の長野オリンピック開会式の際、「長野オリンピックスタジアム」の選手入場口に建てられたものである。_NEWLINE_2019年3月16日時点で、上下計4本のあずさが停車している。
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駅構造
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駅舎に接して単式ホーム1面1線、その奥に島式ホーム1面2線とあわせて2面3線をもつ地上駅である。2つのホームは駅の岡谷駅方に1本ある跨線橋によって連絡されている。跨線橋にはエレベーターが設置され、車椅子などでの利用も可能であり、好天の日には遠く富士山を望む事が出来る。1、2番線は12両編成の特急列車に対応したホームを持つ。また1番線脇には男女兼用のトイレ及び多目的トイレ(オストメイト対応)がある。上諏訪駅寄りには注連縄が飾ってある。島式ホームには待合所が独立して設けられている。_NEWLINE_改札口は駅舎にある1箇所のみであるが、諏訪市で諏訪湖祭湖上花火大会や全国新作花火競技大会が行われるときには臨時的に1番線岡谷方に下り専用の改札を設け、客の分散をはかるほか、臨時特急が停車することもある。駅舎は和風の鉄筋コンクリート1階建てで1998年(平成10年)3月に外装を施したものである。駅舎の1階部分が駅本屋としての機能を有しておりその内部には独立した待合所やコンコースのほか出札口(みどりの窓口)・自動券売機・指定席券売機・自動改札機(Suica利用可)3通路、_NEWLINE_改札外待合所から利用できるキヨスクなどがある。駅舎1階にはこのほか下諏訪町の観光案内所や下諏訪町で行われる祭りに関する物品と鉄道部品を展示した「駅・祭り資料館」も設けられており駅舎2階にはジェイアールバス関東中央道支店諏訪営業所が入居している。
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駅自動放送・発車メロディー
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接近放送・発車放送はカンノD型放送を使用している。発車メロディーはカンノ製作所製で、曲名はなく、整理番号でいう「長野1番」が使用されている。 | 1879434836657099741 |
Q11361501 |
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下馬福音教会
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日本同盟基督教団 下馬福音教会(にほんどうめいきりすときょうだん しもうまふくいんきょうかい)は東京都世田谷区下馬にあるキリスト教の教会。日本同盟基督教団に属しておりFEBCの支援教会。
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歴史
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1951年10月、在日スウェーデン福音宣教団のフォルケ・ピアソン宣教師が開拓に着手し、1952年1月より聖書研究会が始められた。その後、約半世紀にわたり同宣教団によって開拓された国内十数教会とともに日本聖書福音教団を形成し活動してきたが、1997年からフランソン宣教理念で一致する日本同盟基督教団との交流が始まり、2004年に正式に日本同盟基督教団へ加入して現在に至っている。 | 14719410496274969034 |
Q3548491 |
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不完全なふたり
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あらすじ
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マリー(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)とニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)という1組の夫婦が友人の結婚式への参加のためにパリを訪れる。彼らは間もなく離婚するつもりでいることを友人たちに告げる。
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評価
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雑誌『Variety』のLeslie Felperinは、同じ主題を扱ったヴァレリア・ブルーニ=テデスキ主演の『ふたりの5つの分かれ路』を想起させる、と指摘した。_NEWLINE_第58回ロカルノ国際映画祭にて、審査員特別賞と国際芸術映画評論連盟賞を受賞した。_NEWLINE_フランスでは3万人以上の動員を記録した。 | 11746425034268934814 |
Q846671 |
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世代 (素粒子)
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素粒子物理学において、世代 (generation) は、素粒子の区分である。ファミリー (family) とも言う。
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質量階層
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世代が高い粒子は、それより前の世代の対応する粒子よりも大きな質量を持つ。例えば、第一世代の電子は0.511 MeV/c²の質量しか持たないが、第二世代のミュー粒子は106 MeV/c²の質量を持ち、第三世代のタウ粒子は1777 MeV/c²(陽子のほぼ二倍)の質量を持つ。この質量階層は、高い世代の粒子が第一世代の粒子に崩壊する原因となり、このことは通常の物質(原子)が第一世代の粒子だけで構成されている理由を説明する。第一世代のレプトンである電子は、第一世代のクォークであるアップおよびダウンクォークから成る陽子および中性子で構成される原子核を周回している。荷電粒子の第二および第三世代は、通常の物質中には現れない。これは宇宙線や粒子加速器のような極限的な高エネルギー環境においてのみ見られる。_NEWLINE_全ての世代のニュートリノは宇宙を広く飛び交っているが、通常の物質とはめったに相互作用しない。レプトンの世代間の関係を包括的に理解することによって、基本粒子の質量の比や質量の一般的な性質に対する量子力学的な解明につながることが期待されている。
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第四世代
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標準模型の枠組みにおいて、四番目またはそれより大きい世代の存在は理論的考察によって排除されている。第四世代の可能性に対するいくつかの議論は、正確な電弱相互作用の観測結果を微修正することで余剰世代を導入する余地があるという考えに基づいている。しかし、観測精度から考えて、そのような修正が正しい可能性は非常に低い。その上、"軽い"ニュートリノ(質量が約45 GeV/c²以下)を持つ第四世代は、CERNの大型電子陽電子コライダー (LEP) におけるZボソンのエネルギー幅の測定によって排除されている。それでもなお、第四世代の粒子を探索する高エネルギー衝突実験が続けられている。しかし、その存在の証拠は未だ観測されていない。これらの研究では、第四世代の粒子は、b′やt′のように、第三世代の粒子にプライムを付けた記号を用いて表記されている。 | 8022583851489496336 |
Q11362300 |
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世界一受けたい授業
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概要
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各界の著名人を先生(講師)として招き、世の中の仕組みやその人の考え方などをわかりやすく講義してもらう。講義内容は大まかに「国語」「算数」「理科」「社会」「保健体育」といった、小学校で学習するような授業にあてはめられているが、なかには「食育」や「能力開発」といった特殊な分類の講義もある。初期は紹介前に講師に対しての推薦人がコメントをしていた。_NEWLINE_番組開始以来安定して高視聴率を獲得している。2010年4月24日と2014年7月5日放送分では番組史上最高となる19.3%を記録している。_NEWLINE_国際的著名人が特別講師として招かれるケースも少なくない。2005年12月24日放送分では元ソビエト連邦大統領のミハイル・ゴルバチョフが、2006年2月4日放送分では当時ニューヨーク・ヤンキース選手の松井秀喜が、2006年3月18日放送分ではケニアのノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイが、2007年2月3日放送分ではアメリカ元副大統領アルバート・ゴアが、11月3日放送分ではビリー・ブランクス(ビリー隊長)が、2009年1月10日放送分ではオノ・ヨーコが講義を担当した。他にも海外NPOなどのメンバーが活動にまつわる最新の国際情勢などを講義することも多い。_NEWLINE_この番組がきっかけでテレビ出演が増えた人物も多く、米村でんじろうは今や子供向けの科学番組に欠かせない存在になりつつある。また、秋山仁、唐沢俊一、茂木健一郎はそれぞれ番組で題材にしたものをニンテンドーDSやPlayStation Portableなどでゲーム化している。_NEWLINE_なお、有田学級委員長および司会者以外のゲストパネリストは、全て君付けで呼ばれているのが特徴(テロップでも表示される)。_NEWLINE_この番組では、ディレクターやカメラマンなどのスタッフは全員、スーツを着て収録に臨んでいる。_NEWLINE_文字多重放送(字幕放送)。なお、堺の声は黄色、上田の声は水色、講義毎の講師の声は緑色で表示される(2010年3月まではリアルタイム字幕放送。後述の番組対抗3時間半スペシャルでは、その後もリアルタイム字幕での放送となっている)。_NEWLINE_2010年4月から、地上デジタル放送への完全移行を前提に、地上アナログ放送では画角16:9のレターボックス放送での放送に移行した。_NEWLINE_2011年3月12日は、 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による報道特別番組のため休止(授業取りやめ)。その日に予定していた放送分は3月26日に再編集した上で振替放送された。_NEWLINE_提供読みはナレーターの奥田民義が特番を含め担当している。また、提供クレジットは社名読み上げの企業のみ『世界の果てまでイッテQ!』と同様に絨毯つきのカラー表示をしている。また、前述の東日本大震災後の3月26日は提供クレジット自体はなかったが、4月9日 - 4月23日の3回の提供読みは局アナが担当した。稀に企業の事情で局アナが担当する場合もある。なお、当初は全社カラー表示・社名読み上げのみだったが、現在はこれらではない白字表記・「ご覧のスポンサー」読みの企業も追加されている。_NEWLINE_2013年9月21日は、プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)のセントラル・リーグ優勝決定の可能性が出てきたことにより、巨人×広島戦を緊急生中継したため、当番組のスペシャル版『人は短期間でどこまで変われるかスペシャルII』は同年10月12日に延期となった。_NEWLINE_番組開始の合図として、堺が冒頭に「Let'sホニャララ!」とコールするのが恒例となっている。コールはその日の気分で節回しや声の強弱、溜めの間などがアレンジされる。_NEWLINE_選曲を佳夢音が担当しているため、VTR内などでは洋楽・邦楽を問わず内容にひっかけた洒落の楽曲や日テレ系で放送された番組のテーマ曲が使われることが多い。
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世界一当てたいテスト
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2011年12月17日に第1弾が行われ、以後2012年3月17日・7月28日に放送。_NEWLINE_最強講師陣が出題するクイズに生徒役ゲストが筆記で解答する。全ての問題において1問でも単独で正解した場合、その解答者に100万円が贈呈される(実際は出演者の母校に、最強教師陣がセレクトした100万円分の図書が寄贈される)。第2回からは単独で不正解だった場合、自腹で100万円分の図書を寄贈するルールも追加された。_NEWLINE_第3回は単独で正解した問題が出なかった。
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主題歌
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1978年に同局で放送されたテレビドラマ『熱中時代』の主題歌で、原田潤が歌った「ぼくの先生はフィーバー」を採用している。番組でかかっているのは「世界一バージョン」というもので、バック演奏のみをリメイクしたものである(2005年1月19日にCD発売)。
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舞台
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2018年7月〜8月にかけて『世界一受けたい授業・タイムマシンに乗って恐竜に会いに行こう』が全国5都市のアリーナツアーとして上演されることが決定した。上演中に観客参加コーナーとして番組内のコンテンツを体感することができる。 | 12519158429971812239 |
Q28689031 |
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世界一周 魅惑の鉄道紀行
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概要
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「世界夢列車に乗って」の後継番組として放送開始した。_NEWLINE_世界各地の鉄道路線から、沿線の名所・温泉・グルメなどと共に紹介する。_NEWLINE_コンシェルジュと称して案内人濱田マリの他に別のナレーターが入る場合がある。_NEWLINE_スペシャル版は2回分を同日放映する場合と、放送枠を拡大する場合の両方がある。_NEWLINE_2017年10月より(第198回~)、7人の旅人が週替わりで案内する形が中心に変更された。 | 7237071161118183878 |
Q5099556 |
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中国運載火箭技術研究院
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中国運載火箭技術研究院(中: 中国运载火箭技术研究院、英: China Academy of Launch Vehicle Technology; CALT)は中国最大のロケット製造業者。中国航天科技集団公司(CASC)の下部組織。日本語では中国キャリアロケット技術研究院とも訳される。
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概要
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1957年銭学森によって設立された。1958年ロシアのR-2ミサイルの製造が第1研究院(Academy 1)で始まり、これが後にBWYIC(Beijing Wan Yuan Industry Corp., 北京万源工業公司)となり、CALTとなった。_NEWLINE_中国の液体燃料弾道ミサイルの研究・開発を行い、また長征ロケットの設計・製造も担当し、1970年から70機以上の宇宙機を宇宙に打ち上げた。また中国国外の商業衛星打上げも行っている。本部は北京の南部郊外に位置する。 | 12229838032598491698 |
Q2944404 |
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中央映画認証委員会
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概要
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1913年、ダーダーサーハバ・パールケーによって最初のインド映画『ラジャ・ハリシュチャンドラ』が製作され、その後1918年に映画映写法が制定され、イギリス領インド帝国における映画検閲制度が敷かれた。検閲委員会(Censor Board)はマドラス、ボンベイ、カルカッタ、ラホール、ラングーンに支部が置かれ、同地の警察署長の管轄下に置かれた。各地の検閲委員会はそれぞれ独立して言語映画の検閲を行っていたが、インド独立以後はボンベイ映画検閲委員会が各地の検閲委員会を統括するようになった。1952年に映画映写法が改正され、各地の検閲委員会を統合した中央映画検閲委員会(Central Board of Film Censors)が発足し、インド映画の検閲を集権的に担う機関に再編された。1983年に再び映画映写法が改正され、中央映画検閲委員会は中央映画認証委員会(Central Board of Film Certification)に改組された。_NEWLINE_中央映画認証委員会は委員長1名と非公開の委員25名で構成され、全員がインド共和国政府によって任命される。委員会本部はムンバイに置かれており、ティルヴァナンタプラム、チェンナイ、ハイデラバード、バンガロール、カタック、グワーハーティー、コルカタ、ニューデリーに支部が置かれている。
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トラブル
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中央映画認証委員会は映画製作者から多額の賄賂を受け取っていると批判されている(「U」認証されれば娯楽税の30%が免除されるため、認証されるための便宜を図っているとされている)。_NEWLINE_2002年、アナンド・パトワルダンが製作した『戦争と平和 非暴力から問う核ナショナリズム』は核実験や9・11テロを題材にしていたが、中央映画認証委員会は21シーンのカットを要求した。パトワルダンは要求に対して「非常に馬鹿げた要求であり、法廷に提訴する」「このカット要求が認められれば、インドの表現の自由は終わりだ」と反論している。裁判の結果、パトワルダンは勝訴し、映画はカットされずに上映が認められた。同年、中央映画認証委員長ヴィジャイ・アナンドは「インドのいたる場所でポルノ映画が違法上映されており、これに対抗する最善の方法は法的に認めた場所で公然と上映することである」として特定の映画館でX認証作品の鑑賞を合法化するべきと提唱して論争を巻き起こした。これにより彼は全国的な批判にさらされ、委員長を辞任に追い込まれた。_NEWLINE_2014年、中央映画認証委員会CEOラケーシュ・クマールが映画認証に際して、賄賂を受け取っていたことが発覚して逮捕された。_NEWLINE_2015年、中央映画認証委員長リーラー・サムソンは『MSG: The Messenger』の認証拒否に関し、政府からの干渉があったとして抗議のために委員長を辞任した。インド政府はパフラージ・ニハラーニーを後任に指名したが、彼が与党に近い人物であることを理由に委員会メンバーの半数が辞任した。ニハラーニーは2017年8月に委員長を退任したが、その際にインド政府から少なくとも2本の映画について上映を拒否または延期させるように指示されたことを公表した。 | 4090190824435873564 |
Q11363800 |
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中央通り (盛岡市)
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特徴
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毎年8月1日から4日までは東北五大夏祭りの一つ「さんさ踊り」が市役所前T字路から中央通り二丁目十字路(岩手県道2号盛岡停車場線、岩手県道132号上盛岡停車場線分岐点)間で繰り広げられている(この区間は排水性舗装に切替)。また夕顔瀬橋までの区間は2003年(平成15年)までに無電柱化(共同溝整備)と歩道消雪装置の整備が完了。冬場でも快適に歩けるようになった。朝夕は夕顔瀬橋から盛岡市役所前までの東行き(市役所方向)車線でバスレーン(路線バス・タクシー・ハイヤー以外通行禁止とする)規制を朝は7:30 - 9:00時まで、夕方は17:00時 - 18:30までそれぞれ実施している(以前は歩道側の車線がバスレーンであることを示す赤で舗装されていたが、排水性舗装切替と共に通常色へと戻されている)。また梨木町・中央通り二丁目両十字路は朝夕のバスレーン規制実施時間帯において路線バス・タクシーが太田橋・盛岡駅方向からそれぞれ市役所方向へ右折する場合に限り、歩道寄り(左)車線からも右折できる。_NEWLINE_なお本来は都市計画道路として梨木町を超え館向町(国道4号(盛岡バイパス)との交点)まで片側2車線で整備されるはずだったが、JR山田線の線路に阻まれていることと地権者交渉の難航により、バイパスへの直接接続は絶望的である。 | 12563144098650115046 |
Q11363867 |
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中安信夫
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人物
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初期統合失調症(旧・初期分裂病)の臨床研究を行っている。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では精神鑑定を務めた。村上靖彦、永田俊彦、市橋秀夫らと共に日本における精神病理学第3世代を代表する人物である。著書は専門書多数。 | 15915310916013524267 |
Q1064418 |
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中性子捕獲
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原子核物理学における中性子捕獲(ちゅうせいしほかく、英: neutron capture)とは、核反応の一種で、中性子が原子核に吸収されたのちにガンマ線を放出する現象〔(n, γ)反応〕を言う。
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応用
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中性子捕獲反応は、物質の化学組成を間接的に知る手段として用いられる。これは、元素が中性子を吸収すると元素ごとに異なる特有の放射線を出す性質を利用するものである。この手法は地下資源の探査やセキュリティなど多くの分野で活用されている。_NEWLINE_また、高速増殖炉においてウラン238に中性子を照射してプルトニウムを得るのも有名な応用分野である。近年はありふれた元素や核廃棄物に中性子を照射してレア元素に変換する研究も始まっている。また、学者が地球上に存在しない超ウラン元素を人造合成するのにもこの反応が使用されている。 | 316173857856772296 |
Q4386469 |
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中本修平
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中本 修平(なかもと しゅうへい、1957年4月29日 - )は、日本の自動車技術者。ホンダの2輪・4輪レース活動において技術責任者を務める。現ホンダ・レーシング (HRC) 副社長兼レプソル・ホンダチーム代表。
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プロフィール
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鳥取県出身。市立醇風小学校では野球をして過ごす。その後、サッカー、ラグビーなども経験し、中学時代は学校からいじめをなくすほどの人望があった。友人の死から医者を目指すが失敗、浪人生活を経て、東京理科大学理工学部機械工学科に入学。_NEWLINE_大学卒業後の1983年、本田技研工業に入社し、ホンダ・レーシング(HRC)に配属される。以後17年間に渡って2輪レース部門の車体開発などに携わり、プロジェクトリーダーを歴任して、チームに数多くの勝利をもたらした。_NEWLINE_その功績を買われ、2000年からホンダの第3期F1プロジェクトに参加。現場監督という役目を任され、レースは勿論、ほとんどのマシンテストにも同行し開発、指揮を執る。2002年にホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD) のレース・テストチーム・マネージャーに就任する。_NEWLINE_2003年にはHRDのエンジニアリング・ディレクターに就任。しかし、2004年にエンジントラブルが目立ち、技術開発の責任者的立場として批判を受けるが、これに耐えながらエンジン開発を進める。当時B・A・RでF1に参戦していた佐藤琢磨が同年のアメリカGPで3位初表彰台に立った時には、「ヤツ(佐藤)にはこれまでフラストレーションの溜まるレースをさせてしまっていたから…」と余りの嬉しさに涙を流しながらインタビューに答えた。_NEWLINE_2006年にB・A・Rがホンダ・レーシング・F1チームとなり、HRDのテクニカル・ディレクターに就任。成績不振により6月にジェフ・ウィリスが解任されるとシニア・テクニカル・ディレクターに就任し、技術部門の総責任者となる。ハンガリーGPではホンダの復帰後初勝利(通算3勝目)を体験する。_NEWLINE_2007年、責任者となって初めて手掛けたRA107では、前任者のウィリスの下での比較的保守的な設計思想を改め、斬新なデザインを採用したが、極度の成績不振に終わった。2008年は前年の技術的なつまづきに伴い体制変更が行なわれ、ホンダ・レーシング・F1チーム ディピュティ・マネージング・ディレクターの肩書きに変わったが、これまでと同様に技術部門を統括した。_NEWLINE_ホンダは2008年限りでF1撤退を発表。中本は12月1日付で本田技術研究所二輪開発センター執行役員兼HRC副社長に就任し、8年間のF1生活を終える。すべてのレースに同行し、目にポリオができるほどの勤務をした。HRC副社長就任後には、motoGPに参戦するレプソル・ホンダのチーム代表も兼任しており、F1時代と同様に全てのレースに同行すると同時に、RC212Vのエンジン及びエンジンマネジメント開発の為に自身の下でF1エンジンの開発を行っていたエンジニアを招聘するなど手腕を振るっている。_NEWLINE_エンジン開発には滅法厳しく、寝る間も惜しんで研究、開発をする努力家。妻は東京薬大卒業の元薬剤師、息子二人。 | 18325412917406605095 |
Q11365414 |
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中村吉兵衛
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来歴
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1994年国立劇場第十二期歌舞伎俳優研修修了。 同年4月歌舞伎座『双蝶々曲輪日記・角力場』の見物人、『御存鈴ヶ森』の雲助で松榮忠志の名で初舞台。 同年12月中村吉右衛門に入門し、南座『盲長屋梅加賀鳶』の鳶の者ほかで中村吉六を名のる。 2015年9月歌舞伎座『競伊勢物語』の桂の源太、『伽羅先代萩』の笹野才蔵で中村吉兵衛を名のり名題昇進披露。 立役。キビキビした切れのいい動きで、立廻りの花四天や捕手でも目立つ存在だった。勉強会で『菅原伝授手習鑑』寺子屋の武部源蔵を真摯に勤めていたのが印象に残る。芸の虫といってもいいほどの芸熱心だけに、名題昇進を果たした今後も活躍が期待される。 | 13970880231876027666 |
Q11365563 |
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中村幸彦 (化学者)
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来歴
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1922年北海道帝国大学農学部農芸化学科卒。同農学部助手を経て、1926年同農学部助教授(生物化学を担当)。1935年ドイツ・アメリカ合衆国に生物化学研究のため留学。_NEWLINE_1942年北海道帝国大学農学部教授。1962年北海道大学停年退官。同名誉教授。北海学園大学教養部教授(物質科学・物質環境科学を担当)。1969年市立名寄短期大学3代学長に就任。1973年市立名寄短期大学学長退任。_NEWLINE_1942年 北海道帝国大学農学博士。論文は「澱粉より分離せられる新複糖類及びその構造並びにそれより導かれる澱粉分子の構成に対する考察」。 | 620369798268438306 |
Q984641 |
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中村悠一
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来歴
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高校卒業後、声優になるために上京。当時は映画の吹き替えを志望していた。代々木アニメーション学院に入学し、寮生活を始める。代々木アニメーション学院を卒業後、東京ドラマハウス、トリトリオフィスを経て、現在はシグマ・セブンに所属。_NEWLINE_2001年、『電脳冒険記ウェブダイバー』のグリフィオン、ライガオン役で声優デビュー。デビュー当初はナレーターとして活躍する一方で、アニメ・ゲームなどでは名前のある役柄を演じることは少なかった。2006年にゲーム『ヴァルキリープロファイル2 シルメリア』のルーファス役を獲得する。翌年には『おおきく振りかぶって』の阿部隆也役を獲得。同年テレビアニメ『CLANNAD』の岡崎朋也役で主演。この年以降は他作品の主要キャラクターを次々と演じ、徐々に名前を知られるようになった。2008年には、ノン子とのび太のアニメスクランブルにて第18回最優秀男性声優賞を受賞した。_NEWLINE_2016年、第3回Yahoo!検索大賞 パーソンカテゴリ 声優部門賞を受賞。
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活動の傾向
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主に演じる役は10代の少年から30代の男性。ナレーションの実績が豊富だが、アニメや吹き替えでも多数の作品に出演するなど活躍している。_NEWLINE_『うたの☆プリンスさまっ♪』の月宮林檎では女性的なキャラクターを演じた他、『最強銀河 究極ゼロ 〜バトルスピリッツ〜』ではバトルの際に6つの性格に切り替わる主人公を演じ分けている。_NEWLINE_主演作やヒロインの相手役では、あまり素直でない天邪鬼な性格をしたキャラクターを演じる機会が多く、本人もそのような役が多いことを発言をしている。_NEWLINE_2011年公開の『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』以降、マーベル・シネマティック・ユニバースにおいてキャプテン・アメリカ(演:クリス・エヴァンス)の吹き替えを一貫して務めている。_NEWLINE_香川県の観光PRキャラクターである「うどん県観光課係長 うどん健」の声を担当。
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人物
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磯部勉を尊敬している。映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』(1993年のテレビ放映時に磯部が主役の日本語吹替を担当)を見て憧れ、それをきっかけに声優を志し始めた。『BLACK LAGOON』にて共演を果たし、その後『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』でも磯部と共演した。_NEWLINE_仕事への姿勢として大木民夫の姿勢が好きだったと自身のTwitterでツイートしている。_NEWLINE_デビュー当時からの愛称「ゆうきゃん」は、鈴村健一による命名。鈴村の同級生の「ゆういち」という人物の愛称が「ゆうきゃん」であったことから、同名の中村を同じように呼び始めたことが由来である。その後、中村を「ゆうきゃん」と呼ぶ声優仲間が他にも増えていった。ローマ字表記の「You-Kyan」と書かれる場合もある。
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交友関係
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杉田智和とはアニメデビュー作『電脳冒険記ウェブダイバー』で共演以降交友関係が続いており、よく食事に行ったりゲームで遊ぶ。AT-Xのゲーム番組東京エンカウントでは2人の息のあったプレイが話題である。_NEWLINE_また杉田智和との縁でマフィア梶田とも仲が良く、ゲームをプレイしたり、一緒に外出したりという仲である。スターラジオーシャンでは息の合ったトークをみせている。_NEWLINE_同じ事務所の先輩声優である吉野裕行、保村真、安元洋貴などとはゲーマー仲間。中村を含めたシグマ・セブン所属の男性声優陣は仲が良く、集団での小旅行などが年に2回ほどの恒例行事となっている。_NEWLINE_アニメーションでの目立った活躍がそれほどない頃から鈴村健一や福山潤などにより注目の若手声優として推されており、しばしばメディア上で話題に出されていた。
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出演
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太字はメインキャラクター。 | 12724795937449106348 |
Q6123912 |
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中村祐人
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来歴
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父の影響で、5歳でサッカーを始める。_NEWLINE_柏レイソルジュニア6年時に全国少年サッカー大会8強。浦和ジュニアユースに進み、3年時に日本クラブユース選手権優勝。_NEWLINE_西武台高校に進学し、浦和レッズユースに昇格。1、2年時には、日本クラブユース選手権準優勝を果たすが、浦和レッズユースでは、スーパーサブとしての起用が多かったため、高校2年生の9月に浦和ユースを退団し、西武台高校サッカー部に入部。規定により、6ヶ月公式戦への出場が認められなかったが、ラストチャンスで臨んだ第83回全国高等学校サッカー選手権大会に西武台の主力として出場を果たす。青学大時代は関東大学2部リーグで17得点を挙げ、得点王とベストイレブンに選出されるなど活躍した。_NEWLINE_2009年1月に香港リーグ1部のTSWペガサスに入団し、移籍4日後のデビュー戦(アウェイの傑志戦)でいきなりゴールを決めると安定した活躍を見せ、結局チーム2位となる公式戦12ゴールを記録してプロ1年目のシーズンを終えた。_NEWLINE_2009年7月に当時ポルトガル2部のポルティモネンセからオファーを受けていることが判明。「欧州は夢だったので本当に嬉しい。2部から1部、そして欧州主要リーグにステップアップしたい」と語り、移籍に前向きだと報じられていたが、同年9月1日、ポルティモネンセと正式契約した事が明らかになった。_NEWLINE_2010年7月、ポルティモネンセから契約延長の打診を受けるも、古巣からの熱烈オファーを受け、出場機会を優先して香港リーグ1部のTSWペガサスに復帰するも、2010年11月に退団。_NEWLINE_2011年6月、香港リーグ1部の公民入団が決定。_NEWLINE_2014年、南華足球隊に移籍。_NEWLINE_2016年、和富大埔に移籍。_NEWLINE_2018年、傑志に移籍。同年10月、中国国籍を取得し香港代表に選出され、10月16日に行われた親善試合・インドネシア戦で先発出場し代表デビューを果たした。_NEWLINE_2019年9月、2020年5月までの期限付き移籍で和富大埔へ。 | 9438673965578841110 |
Q11366783 |
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中町 (会津若松市)
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概要
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会津若松市市街地のほぼ中部に位置しており、神明通り南部の西側を町域とする。また、前述のように町内西部を神明通りが通っており、神明通りはアーケードなどを備えた商店街となっている。神明通り東側は栄町で、神明通り北部は大町(西側)、中央(東側)である。_NEWLINE_町名は、住民の要望からとされる。
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地理
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会津盆地南東部に位置する会津地方の中心都市、会津若松市の北西部に位置する。周囲の地域とともに阿賀川の支流、湯川、溷川やその支流(不動川など)により形成された扇状地に発達した会津若松市の中心市街地の一部を形成する。東は栄町、西は日新町、南は西栄町、東栄町、北は大町(大町一丁目)、七日町に接する。
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近世
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江戸時代、会津藩により周辺の地域が治められていた時代、現在の中町周辺に中町という地名はなく、老町(おとなまち)など若松城(鶴ヶ城)城下の一部だった。老町は城下内の下町に属しており、商人や職人などが主に住んでいたとされる。
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近代
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明治に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編されたが、老町は存続した(ただし、1889年(明治22年)までは若松老町)。しかしこの際、あとに中町の一部となる栄町などが再編により誕生している。_NEWLINE_1889年(明治22年)に町村制の施行により周辺の町は若松町の町となり、それぞれ若松を冠しない老町などの町名となった。そして、1899年(明治32年)には若松町の市制施行により若松市の町名となる。。
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現代
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1944年(昭和19年)の神明通り開通などを経て、1955年(昭和30年)には当時の若松市と高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が合併し、会津若松市となる。これより、以後老町など周辺の町は同市の町となる。その後、1960年代に入ると現在の中町周辺などを含め、会津若松市の住居表示が実施される。これにより、現在の中町のなど多数の町が誕生した。よって、従来からの町名、町域は変更され、一部の町名は消滅した。中町は、1965年(昭和40年)に旧来の老町に加えて、大町竪町、栄町、北小路町、桂林寺町のそれぞれ一部が合併して誕生した。_NEWLINE_中町成立後、町域西部を通る神明通りを中心に商業が発達するが、近年は商店街の空洞化などが進んでいる。このため、中心市街地活性化を図る動きが見られ、神明通りなどにおいては、テナントミックス事業、ベンチ等の設置、イルミネーションの実施などが行われている。
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バス
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神明通りに加えて、町域西側を通る福島県道59号会津若松三島線で会津乗合自動車によるバスが運行されている。また、観光向けのバスとして、「ハイカラさん」、「あかべぇ」も町域内を通る野口英世青春通りなどを経由して運行されている。 | 2062100176673723001 |
Q11366866 |
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中等学校令
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概要
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1943年(昭和18年)1月21日公布、同年4月1日に施行された。これにより、中学校令、高等女学校令、実業学校令は廃止された。_NEWLINE_「皇国の道に則って高等普通教育または実業教育を施し国民の錬成を行うこと」を目的とし(第1条)、それまで別々の法令で規定されていた中学校(旧制)・高等女学校・実業学校を中等教育学校としてひとまとめにした。_NEWLINE_関連して、1943年(昭和18年)3月2日に「中学校規程」、「高等女学校規程」、「実業学校規程」が制定された。 | 13461395471056143740 |
Q3150586 |
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中華人民共和国の航空
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中華人民共和国の航空について記述する。 | 17043785377345725365 |
Q11367069 |
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中西真智子
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人物
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16歳の時に「大空の少年コウ」で『週刊少年ジャンプ』(集英社)の月例賞である天下一漫画賞の編集部特別賞を受賞。その後、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された「Mosquito Panic!」でデビュー。『少年サンデー超』(小学館)に掲載された『紅蓮のタクティクス』で初連載。 | 7851784835441126146 |
Q17226371 |
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中谷進之介
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プロ入り前
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小学校1年生の時に間野台サッカークラブでサッカーを始め、4年時から柏レイソルの下部組織に加入。高校2年時の2012年には、チームで唯一の2年生レギュラーとして第36回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会を勝ち抜き、クラブ史上初の優勝を達成したほか、第92回天皇杯2回戦で大会史上初となるトップチームと下部組織の「兄弟対決」を実現させた。翌年は柏レイソルU-18の主将に就任し、7月にはトップチームに2種登録された。
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柏レイソル
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2014年、トップチームに昇格。AFC U-19選手権2014の遠征から帰国直後の10月22日、J1第29節ガンバ大阪戦で初出場を果たすと、第31節徳島ヴォルティス戦から4試合連続でスターティングメンバーに抜擢され、シーズン終盤の7連勝に貢献した。_NEWLINE_翌年はリーグ戦3試合の出場に留まったが、2016年は開幕からレギュラーに定着し、5月8日のJ1 1stステージ第11節川崎フロンターレ戦でプロ初得点を決めた。シーズン中盤以降は同じ下部組織出身で1学年後輩の中山雄太とセンターバックのコンビを組み、ディフェンスリーダーとして守備陣を統率し、同年のJリーグ優秀選手賞を受賞した。
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名古屋グランパス
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2018年6月20日、名古屋グランパスに完全移籍で加入することが発表された。
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日本代表
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2011年、U-15日本代表に初選出され、AFC U-16選手権2012 (予選)に参加した。翌年の本大会でもアンカーのポジションで2試合に出場したが、2013 FIFA U-17ワールドカップのメンバーからは落選した。_NEWLINE_2014年10月に開催されたAFC U-19選手権2014では、初戦を落とし後がない状況で迎えたグループリーグ第2節ベトナム戦の後半アディショナルタイムに劇的な勝ち越しゴールを挙げ、「死の組」と言われたグループCの首位通過に貢献したものの、準々決勝北朝鮮戦でPK戦の末敗退し、2015 FIFA U-20ワールドカップの出場権は獲得出来なかった。_NEWLINE_2016年のリオデジャネイロオリンピックでも本登録メンバーには入れなかったが、メンバー発表会見では監督の手倉森誠からメンバー入りを最後まで悩んだ選手として名前を挙げられ、バックアップメンバーとしてブラジルに帯同した。 | 13889641225394020150 |
Q11369922 |
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乙子城
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概要と沿革
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岡山市南東部の吉井川河口にある標高40m程度の丘陵に位置する。この地に城が構えられていた時代は、丘陵は河口に突き出していた。その丘陵に連郭式に曲輪が構えられていた。_NEWLINE_戦国時代に備前国に覇を唱えた浦上宗景が、児島湾への睨みを利かせる為に構えたが、築城年については不明である。宇喜多直家が天文13年(1544年)、備前の守護大名赤松晴政との合戦に初陣し武功をたて、宗景より最初に任された城であると伝えられており、この年が築城年とされている。この時に、300貫の知行と足軽30人が与えられた。_NEWLINE_しかし、『吉備前秘録』によれば直家の祖父・能家が在城していたとも、『戸川記』によれば父・興家が守将となっていたとも伝えられている。_NEWLINE_祖父・能家が暗殺されて後、没落していた宇喜多家の再興が成り各地に散っていた旧臣も直家のもとに集まったといわれる。しかし、家臣の割に知行が少ないため困窮を極め、家臣団は近隣で盗賊行為を行っていたと『戸川記』などは伝えている。_NEWLINE_直家は弘治2年~3年(1556年~1557年)頃、武功により宗景より奈良部城(新庄山城)を与えられた。『備前軍記』によれば、その後、乙子城は弟の忠家が預かったと伝えられている。さらに、永禄2年(1559年)直家は沼城に本拠を移し忠家も移った。その後は、児島湾の押さえとして天正10年(1582年)頃まで機能していたと思われる。直家の子、秀家の時代になると備前国は平定され、その役割を終えたようである。 | 8314617292657934733 |
Q905031 |
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乙巳
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乙巳の月
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西暦年の下1桁が2・7(十干が壬・丁)の年の4月が乙巳の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(立夏から芒種の前日まで)を適用する場合もある。
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選日
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乙巳の日は天一天上の13日目である。 | 18301344892076611759 |
Q403668 |
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九九式艦上爆撃機
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十一試艦上爆撃機から一一型
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当初海軍から試作の下命を受けたのは、中島飛行機・三菱航空機・愛知航空機であったが、三菱は早期に開発を断念し、中島と愛知が開発競争を行った。十一試艦上爆撃機では実用化に向けて堅実な設計が求められ、エンジンは既存の九六式艦上爆撃機搭載の中島「光」一型の改良型を用いることとされた。_NEWLINE_愛知は、ドイツのハインケル He 70(海軍が民間型を1機輸入)を参考に、全金属製・固定脚、主翼両側下面に急降下制動ブレーキ板(ダイブブレーキ)を配置し、主翼は低翼式を採用、主翼・尾翼の端を楕円形とした。_NEWLINE_昭和13年(1938年)に初飛行に成功。開発当初の本機の挙動は不安定で、何度も改良を余儀なくされた。特に問題であったのは翼端失速による不意自転である。これを主翼の捩じり下げの増加、および垂直尾翼前方のヒレを追加して解決した。本機は中島社製の十一試艦爆と競争試作されたものであるが、中島十一試艦爆は海軍側の要求変更に対し、設計が間に合わず納期遅れで失格となった。これにより本機は昭和14年12月16日、「九九式艦上爆撃機一一型」として海軍に正式採用された。試作機は中島製の光一型エンジンであったが、量産機では三菱の金星四四型(または四三型)が搭載された。
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二二型
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太平洋戦争の中期になると一一型では性能面で物足りない部分も増えてきたため、1942年(昭和17年)8月に仮称九九式艦上爆撃機一二型と呼ばれた改良型が試作された。そして、1943年(昭和18年)1月に九九式艦上爆撃機二二型(D3A2)として制式採用された。_NEWLINE_二二型はエンジンを金星五四型(1300hp)に換装した他、プロペラスピナーの追加や風防の後部延長等の変更およびエンジンカウリングや尾翼前縁の形状変更などが施された。これらの改造により速度性能や上昇力は向上したが航続性能は低下した。二二型は1943年初めから部隊配備が開始された。
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生産
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生産は1939年(昭和14年)から開始され、愛知において一一型が476機(増加試作機を含む)、二二型が816機生産された。この他、昭和飛行機でも二二型の後期生産型が220機生産された。この内、終戦時に残存していたのは135機だった。
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派生型
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二二型の一部の機体は、後部席に操縦装置を付けた練習機に改造された。これらの機体は仮称九九式練習用爆撃機一二型(D3A2-K)と呼ばれていた。また、機体を全木製化した明星(D3Y)は、終戦時にテスト中であった。
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戦歴
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九九艦爆は、零式艦上戦闘機・九七式艦上攻撃機と共に、太平洋戦争前期の日本海軍の快進撃を支え、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などで高い急降下爆撃命中率を示した。_NEWLINE_ハワイ海戦において九九艦爆は78機が艦船攻撃に参加し78発を投弾、うち命中確実なものは47.7%と算定された。アメリカ側の判定による250kg爆弾の命中状況は、戦艦ネバダに6発以上、戦艦メリーランドとペンシルベニアに各1発、軽巡ヘレナとローリーに各1発、駆逐艦カッシン、ダウンズ、ショーに各1発となっている。_NEWLINE_続いて、九九艦爆は南方攻略作戦に投入される。昭和17年1月下旬、空母機動部隊はラバウル、カビエン、ラエ、サラモア、マダン、アンボンを攻撃した。2月19日、ポートダーウィンを空爆、飛行場施設と在泊艦船に大打撃を与えた。ポートダーウィンでは在泊46隻中、21隻を撃沈、湾外で2隻撃沈、米軍水上機母艦「ウィリアム・B・プレストン」、大型貨物船9隻が大破、合計4万3429トンを海に沈めた。同月27日にチラチャップを攻撃。3月1日にはクリスマス島沖にて給油艦ペコスを撃沈、ほかに駆逐艦エドソールを撃沈した。ペコスを攻撃した「加賀」艦爆9機は、命中弾1発だけだったという。3月5日のジャワ島チラチャップ港空襲では、商船3隻を撃沈、商船14隻を撃破し、のちに日本軍占領の際に14隻は自沈した。洋上では商船「ブーラウ・ブラス」、「ウールガー」が九九艦爆によって撃沈された。_NEWLINE_セイロン沖海戦でも高い爆撃命中率を示し、4月5日イギリス海軍重巡洋艦コーンウォールとドーセットシャーを、攻撃開始からわずか二十分足らずで撃沈。攻撃に参加した九九艦爆は赤城、蒼龍、飛龍から発進した53機である。_NEWLINE_同9日、バッティカロア沖にて空母ハーミーズと駆逐艦ヴァンパイア、コルベット ホリホック、給油船アセルステーン、ブリティッシュ・サージャントが、赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴から発艦した九九艦爆85機による攻撃で撃沈した。ハーミーズは45機に爆撃され、爆弾37発を被弾、平均命中率は82%である。_NEWLINE_九九艦爆はこの後も戦場に投入され続け、戦歴は珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、ソロモン海戦、南太平洋海戦、「い」号作戦、「ろ」号作戦、マリアナ沖海戦、フィリピン島決戦、沖縄決戦に至る。_NEWLINE_珊瑚海海戦では翔鶴と瑞鶴の艦爆隊が投入された。昭和17年5月7日、駆逐艦シムスを撃沈しタンカー1隻を撃破した。翌8日には決戦が行われ、33機の九九艦爆が攻撃に参加、空母レキシントンに250kg爆弾2発、ヨークタウンに1発の命中弾を浴びせ撃破した。レキシントンはこの攻撃で大破炎上し、アメリカ軍の駆逐艦によって雷撃処分された。艦爆隊の損失は9機である。_NEWLINE_ミッドウェイ海戦では赤城、加賀、蒼龍が沈没する中、飛龍は2度にわたって反撃を行い、ヨークタウンを撃破炎上させた。第一次攻撃に参加した九九艦爆は18機である。九九艦爆は250kg爆弾3発の命中弾を与えたものの、18機中13機を失った。ヨークタウンは大破し、翌日に日本軍の潜水艦伊一六八の雷撃を受け、沈没した。_NEWLINE_昭和17年8月24日における第二次ソロモン海戦で、翔鶴と瑞鶴の艦爆隊は空母エンタープライズを攻撃、27機の九九艦爆が出撃し急降下爆撃を敢行した。これによりエンタープライズは3発の命中弾を受けた。エンタープライズは中破して後退、しかし艦爆隊は23機を失った。_NEWLINE_南太平洋海戦では、昭和17年10月26日、瑞鶴の艦爆隊21機が出撃し、空母ホーネットに命中弾5発を与えた。翔鶴艦爆隊の19機はエンタープライズを攻撃し3発が命中。また隼鷹艦爆隊17機が出撃、軽巡サン・ジュアンと戦艦サウスダコタに命中弾1発を与えた。さらに4機が漂流状態のホーネットを攻撃して1発を命中させた。放棄されたホーネットはこの後日本軍の駆逐艦秋雲と巻雲により雷撃処分された。この戦果の代償として艦爆隊は40機を喪失した。_NEWLINE_「い」号作戦以降は艦爆隊が陸上基地へ進出して戦うようになった。また、陸上基地航空隊に配備された九九艦爆が作戦参加の主体となっていく。_NEWLINE_「い」号作戦ではラバウルにおいて航空戦力460機が投入され、航空撃滅戦を企図した。この作戦に参加した九九艦爆は78機である。ガダルカナル島方面作戦、オロ湾攻撃、ミルン湾攻撃に投入された。多数の輸送船を撃破・撃沈したものの21機を喪失した。_NEWLINE_九九艦爆の、空母からの作戦参加はマリアナ沖海戦によって終了した。昭和19年6月19日と20日に行われた同海戦において、九九艦爆は空母大鳳、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹、瑞鳳に配備されていた。機数は合計38機である。このうち第六五二海軍航空隊は彗星艦上爆撃機36機で編成するはずが、彗星は9機しか配備されず、急遽九九艦爆で定数を埋めた部隊である。19日の第二次攻撃では、六五二空(隼鷹、飛鷹)から九九艦爆27機、零戦20機、天山艦攻3機が出撃する。しかし敵を発見できず、グアム島上空でF6Fヘルキャット戦闘機30機に襲われて九九艦爆9機、零戦14機、天山3機が撃墜された。_NEWLINE_続くフィリピン島決戦、沖縄決戦では特攻機として突入した。フィリピンの戦いでは基地航空隊(701空)が艦船攻撃、飛行場爆撃を行った。さらに701空の九九艦爆は20機が特攻機となり、突入した。この攻撃は数日にわたり他の機体と共同で行われ、商船1隻と軽巡デンバーが損傷し、駆逐艦アブナー・リードが撃沈された。沖縄決戦時には、旧式化した九九艦爆に戦術的な用法の選択肢は少なく、特攻に主用された。計103機が突入。突入した部隊はほとんどが艦爆や艦攻の練習隊から編成されていた。うち九九艦爆の戦果と確認できるものは駆逐艦トウイッグス(損傷)、リトル(沈没)、アーロン・ワード(大破)である。_NEWLINE_九九艦爆はこのほか、各基地で哨戒・索敵・攻撃に従事した。
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栄光と悲劇
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太平洋戦争前期に活躍したアメリカ海軍のSBD ドーントレス急降下爆撃機は、同時代の九九艦爆を性能面で上回っており、搭載爆弾は545kg(1200lbs)_NEWLINE_、最高速度は時速30kmほど優速で防弾装甲を施してあった機体の生存率は高かった。日本海軍も九九艦爆開発中であった昭和13年には「十三試艦上爆撃機」の試作を海軍航空技術廠で始めており、後に艦上爆撃機「彗星」として採用された。_NEWLINE_しかし、愛知航空機での本格的な量産と前線配備は日本の敗色が濃厚となった戦争末期で、さらに彗星が採用した液冷エンジンはその機構の複雑さから生産の遅延と前線整備の効率を下げるものだった。また正規空母の運用数が減少、小型空母では滑走距離を必要とする新型艦上爆撃機を艦上で運用する事は難しい状況になっていた。それ故に、日本海軍は性能的には旧式となった九九艦爆に代わって後継機の必要数を用意できず、零戦21型に250kg爆弾を装備させた戦闘爆撃機を配備していった。_NEWLINE_それでも九九艦爆の運用は続けられたが、米軍においては新鋭戦闘機F6Fの大量投入や近接信管(VT信管)の開発がなされ、反攻体制が整いだしたソロモン諸島の戦いからは、低速で防弾装甲も貧弱な本機は多大な消耗を重ねてパイロットの犠牲者は膨大な数に及んだ。エンジン出力と速度を改良した二二型も十分な性能とは言えず、その生存性の低さから「九九式棺箱(かんばこ)」「窮窮式艦爆」というあだ名もつけられている。_NEWLINE_昭和19年10月にフィリピン戦が始まると、10月27日に実施された第二神風特別攻撃隊を皮切りに、多くの九九艦爆が特攻に使用された。また沖縄戦の特攻でも艦爆専修の練習航空隊から選抜された隊で数十機単位の九九艦爆が使われている。_NEWLINE_太平洋戦争(大東亜戦争)の初期における九九艦爆の活躍は、航空決戦思想の有用性を証明するものであった。ハワイ海戦(真珠湾攻撃)ではアメリカ海軍の太平洋艦隊をほぼ一方的に撃破、日本の南方進出においても東南アジアの各地にあった連合軍の拠点を空爆することで日本軍の迅速な進撃を実現した。連合艦隊の空母に艦載機として史上初の空母同士の海戦においても投入され、持ち前の急降下爆撃能力を発揮してアメリカ海軍の空母部隊に大きな打撃を与えている。_NEWLINE_しかし戦局が進むにつれて当初の高性能も陳腐化していき、馬力向上などの改良が加えられるも損害は目に見えて増大。それでも完全に旧式化していた戦争末期まで運用が続けられ、最終的には艦載機としてではなく陸上基地から特別攻撃隊として飛び立っていった本機の軌跡は栄光と悲劇に満ちたもので、軍用機としてはまさに歴史的な一機であるといえるだろう。 | 610548018228298630 |
Q30934872 |
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二宮洸三
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二宮 洸三(にのみや こうぞう、1935年8月1日 - )は、日本の気象学者、元気象庁長官。_NEWLINE_新潟県柏崎市出身。1958年東京大学理学部物理学科卒。68年理学博士。58年気象庁に入り、74年気象研究所予報研究部第一研究室長、78年電子計算室予報官、80年同数値予報班長、83年仙台管区気象台技術部長、85年気象庁予報部数値予報課長、札幌管区気象台長、気象庁海洋気象部長、予報部長。1993年気象庁長官。1997年東京大学気候システム研究センター客員教授。2000年海洋研究開発機構特任上席研究員。2012年同退職。 | 10782498798604184068 |
Q11265479 |
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二期作
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日本における米の二期作
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米の二期作については、高知県や宮崎県、鹿児島県、沖縄県など年間を通じて平均気温が16℃以上の温暖な太平洋側の地方で多く見られる。台風の影響を避け、多くの収穫を上げる目的で行われてきた。1970年代以降は、米の生産量がその需要に対して過剰となり生産調整(減反政策)が行われている状況から、それほど盛んに行われなくなっている。_NEWLINE_稲の二期作の始まりは刈り取った後の切り株からの再生茎(ひこばえ)が大きく成長し、稲穂を付けるのを農民がみて始まったという説がある、当初は再生茎に肥料をやったりもしていたが、収量が少ないため、後に田植えを行なう方法が主流になった。しかし二期作は、稲刈りと田植えをほぼ同時に行なうため農家に過重な労力がかかる。このため再び再生茎を利用した二期作栽培技術が見直されて戦後に実用化され、一部に普及した。この方法では10aあたり200kg~300kgの収量があげられる。_NEWLINE_高知平野は二期作で知られていた。たとえば、1回目は3月中に籾蒔きをし7月中に収穫され、2回目は7月中に籾蒔きし11月ごろに収穫されることになる。現在では、沖縄県において二期作が行われているが、高知県内ではごく一部で飼料稲などを目的に篤農家による試験栽培が行われている。八重山列島では三期作もごく一部で行われている。_NEWLINE_平成5年大冷害の際、岩手県では翌平成6年の田植えに使用する種籾すらも不足する事態となったため、平成5年に収穫された稲を石垣島へ送り発芽させ、平成6年の一期作を2ヶ月前倒しして田植えを行い、5月に収穫された稲を岩手県で種籾として発芽させ同月中に田植えを始める、という緊急増殖プロジェクトが行われた。 | 3844108143672853020 |
Q27920508 |
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二木重吉
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生涯
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当初は小笠原長時に仕えていたが、長時が長尾景虎を頼って越後国に亡命すると、父の二木重高とともに武田晴信の家臣となった。_NEWLINE_天正10年(1582年)の天正壬午の乱において、同族の二木盛正と共に、徳川家康の支援を受けていた小笠原貞慶に仕官した。そして上杉景勝が小笠原貞種を深志城に入城させると、重吉らは貞慶や犬甘久知などとともに、貞種を深志城から退却させ、旧主を本城に復帰させたことで家名再興がなった。天正12年(1583年)貞慶が西牧城主の西牧信道を攻撃し、勝利したことで、重吉はその遺領の代官に任じられた。天正14年(1584年)、麻績城の戦いでは深志城の留守役を務めた。_NEWLINE_天正13年(1585年)、貞慶が小牧・長久手の戦い後に、羽柴秀吉に寝返ると、これに従う。しかし天正18年(1590年)に貞慶が改易されると、再び徳川氏の陪臣に復帰した。_NEWLINE_慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、主君小笠原秀政が東軍に従い、譜代大名として信濃飯田藩5万石を領すると、その家老になった。ついで松本藩でも家老を務める。_NEWLINE_慶長16年(1611年)、秀政の要請に応じ、「二木家記」を著した。 | 356164267210364941 |
Q48964 |
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二重否定 (言語学)
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概要
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肯定の意味で二重否定を用いる修辞技法は緩叙法と呼ばれる。本項では主に、単純否定を意味するのに二重否定を用いる用法、すなわち二つの否定語が対応してひとつの否定表現を作る否定呼応を中心に述べる。_NEWLINE_一般に否定呼応を用いる言語で、緩叙法は用いられないか、あっても用例は少ない。逆に緩叙法を用いる言語では否定呼応は用いられないか、非文法的とされる。これは緩叙法を用いる言語はひとつの否定表現をひとつの否定語と対応させるため、否定語を重ねることは否定を否定(-×-は+という論理)して肯定を意味することになるためであり、逆に否定呼応を用いる言語では、否定語を複数用いることは否定の否定(-×-)ではなく、否定の強調または否定の成立条件(-+-)であるとされるからである。両者をひとつの言語の中で認めると、論理的な混乱を招くことになる。
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英語
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このような用法は、特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる。_NEWLINE_このような言い方は2つの否定を意味する語句が対応しあって1つの否定表現を形作るもので、英語は本来はこのように否定文では否定形の語を一貫して使う否定呼応を用いる言語であった。すなわち、否定呼応を用いる言語では、二重に否定語を用いても単純にひとつの否定表現を作るだけであり、論理学的に見た場合は単なる否定である。しかし、否定呼応を用いない言語では、二重に否定語を用いることは論理学的に見るところの「否定」の否定であり、肯定である。_NEWLINE_しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。とりわけ聖職者ロバート・ラウスが 1762 年に出版した文法書 A Short Introduction to English Grammar with Critical Notes は否定呼応を否定の否定であるとみなし(今日の言語学的観点からすれば『誤解』し)、この表現を非文法的な言い方の最たるものとしている。これにより英語は否定呼応を用いる言語から緩叙法を用いる言語へと半ば強制的に変換させられた。_NEWLINE_現在各国の標準英語でも上記の見解が踏襲されており、否定語を二回使用することは肯定であるとされている。ただし、正確にどのような「肯定」の意味になるのかは不明である。I don't know nothing. の場合、「知らないものはなにもない=I know everything. 」の意味であるとも言うし、「何も知らないというわけではない=I know something.」の意味であるとも言う。_NEWLINE_このような文法の半ば強制的な導入により、上述した、ひとつの言語体系の中で緩叙法と否定呼応が存在する場合の混乱に近いものが現代の英語に持ち込まれることになった。緩叙法をルールとした場合否定呼応は非論理的であり、逆に否定呼応をルールとした場合緩叙法という思考そのものが成り立たないが、否定呼応の廃止は民衆レベルには浸透せず、結果として緩叙法をルールとする「標準英語」と、黒人英語のように否定呼応をルールとし、3つや4つの否定語を対応させることさえある多くの民衆英語(例、「I couldn't get none nowhere.」で、私はどこで誰にも会わなかったとなる)の間での言語規範の不一致による混乱が起こった。学校で標準英語を学んでいる児童が、家庭での民衆英語の規範との混同から二重否定を否定呼応として用いてしまうことなどがその一例である。_NEWLINE_ただし複数の否定語を呼応させることで単純否定を意味する否定呼応の表現を理解したうえで、この現象を非能率的であるとみなし、上記の文法家達による標準英語での否定呼応の廃止ルールを擁護するものもいる。彼らによれば、否定呼応を用いて単純否定を表す言語と否定呼応なしで否定語一つで単純否定を表す言語では、同じ意味を表すのに否定語の使用回数が少なく、肯定文からの文の変換が容易な後者のほうが単純で能率がよいのであり、標準英語が否定呼応を廃止したことは簡潔でわかりやすい発話・文章を達成するために有益だったとしている。
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否定呼応を用いる言語
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一方、他の言語においては正式な表現として否定呼応を用いるものもある。
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日本語
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現代標準日本語では一部の表現に否定呼応、もしくはそう捉えられることのあるものが見られる。例として「何も」「あまり」「全く」「ほとんど」「全然」などが文末の否定語と呼応して用いられる表現があげられる。しかし単独で否定を意味する単語はごく少なく(助動詞「ない」「まい」、形容詞「ない」、補助動詞「かねる」)、名詞を否定する表現(「ない袖は振れぬ」など)も滅多に用いられない。そのため上掲のように異なる否定語が組となってひとつの否定表現を形作る、否定呼応は極めて少ない。_NEWLINE_また、現代の標準日本語では上述した「全く」「ほとんど」「全然」などは文末の否定語との対応関係を失い、肯定文でも用いられるようになっており、否定呼応は更に廃れていく傾向にある。_NEWLINE_そのため現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。_NEWLINE_また、「満更でもない(全く嫌というわけではない)」のように、慣用句として扱われる表現もある。この場合は肯定を強調しているのではなく、否定の緩和、つまり部分的な肯定を表すが、厳密には緩叙法に含めないこともある。 | 1842134850705810555 |
Q11372014 |
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五代富文
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経歴
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1932年東京生まれ。東京都立日比谷高等学校卒、1957年東京大学工学部航空学科卒、1964年カリフォルニア工科大学修士卒、工学博士。_NEWLINE_富士精密工業で観測ロケットの研究・開発を行い、航空宇宙技術研究所でロケットの設計・研究・開発に従事した。宇宙開発事業団(NASDA/現・宇宙航空研究開発機構=JAXA)に転じた後は、初の国産大型ロケットH-IIロケット開発を主導し、_NEWLINE_大型国産ロケット路線を確立した。1988年に理事、1996年からは副理事長に就任し、2000年10月24日にNASDAを退職。元文部科学省宇宙開発委員会参与。_NEWLINE_日本国内では日本航空宇宙学会会長、日本ロケット協会会長を、国際的には国際宇宙航行連盟(IAF)会長、アメリカ航空宇宙学会(AIAA)理事を務めた。_NEWLINE_五代友厚は曾祖父にあたる。 | 14751324634112288938 |
Q11372141 |
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五十嵐浜村
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地理
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北西側は日本海に面する。 | 3799750791550743978 |
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五龍城
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概要
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五龍城は可愛川と本村川の合流地点に突き出したような半島状の丘陵に築かれた城で、尾根を堀切で断ち切った連郭式の山城である。本の丸は石垣が現存しており、搦手となる西には大きく深い堀切を設け、背後を固めている。現在でも石垣や井戸、土塁等が存在しており、標高も高くないため、中世の山城としては探索しやすい場所である。現在は宍戸神社が建っており、その五龍城の真下を国道54号線が通過している。
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沿革
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五龍城を築城した宍戸氏は源頼朝の御家人である八田知家の子孫である。八田知家は鎌倉幕府で要職を務め、常陸国や下野国、安芸国に所領を得た。その八田知家の四男・八田家政が常陸国宍戸を本拠としたため、宍戸を名字とする。_NEWLINE_統治初期は代官による安芸国支配を行っていたが、宍戸朝家は鎌倉時代末期に安芸国甲立荘に下向して土着し、ここに安芸宍戸氏が始まった。安芸に下向した直後は近隣にある柳ヶ城を居城としていたが、南北朝時代に五龍城を築いて移った。この時、水が不足したため、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧きだした。これを大いに喜んだ宍戸朝家は城を五龍城と名付け、五龍城は宍戸氏の居城となる。_NEWLINE_戦国時代になると近隣との勢力争いが起こり、宍戸氏はこの城を中心に勢力を拡大していった。やがて毛利氏とも争うようになったが、天文2年(1533年)、当主宍戸隆家は毛利元就と和睦し、元就の長女(五龍局)と結婚した。これ以後、宍戸氏は毛利氏の重臣として活躍し、毛利氏の勢力拡大に一助をなした。_NEWLINE_慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、当主宍戸元続も毛利氏の防長移封に従い、萩へと去った。そして五龍城は廃城となり、安芸宍戸氏と五龍城の歴史は終わりを迎えた。 | 17422835190805409153 |
Q16264267 |
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井上晴哉
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プロ入り前
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出生時の体重は、約5,200グラムとビッグサイズであった。3歳から野球を始め、小学校は軟式野球「温品ヤングウルフクラブ」、広島市立福木中学校時には「広島スターズ」に所属。_NEWLINE_崇徳高校では1年秋から4番を務め、2006年2年夏の広島県予選では、準決勝で吉川光夫、野村祐輔、小林誠司らを擁する広陵高校を下すが準優勝に終わった。高校通算31本塁打も甲子園出場はなし。_NEWLINE_中央大学に進学後、東都大学野球リーグで活躍し2年秋に打率.359で首位打者を獲得、ベストナインに選出される。3年春は最多打点(15打点)を叩きだしベストナインに選ばれた。また2年春から3年秋までは3シーズン連続で打率4割を超え、3年秋には5割を記録。この活躍により2010年夏に開催された第5回世界大学野球選手権大会の代表選手に選出され、3試合に出場。東都大学野球一部リーグでの通算成績は、88試合出場で打率.285、本塁打9本。_NEWLINE_中央大学卒業後は日本生命に入社、1年目は主に5番を任され第38回社会人野球日本選手権大会では打率.545と活躍し、指名打者の優秀選手にも選出された。社会人2年目の2013年は、4番を任されるようになり、都市対抗近畿予選では13打数7安打8打点で打率.538とその仕事を全うしたが、チームも本戦1回戦の対三菱日立パワーシステムズ戦で敗退した。_NEWLINE_2013年10月に中国の天津で開催された東アジア競技大会では日本代表に選出、打線の中軸として主に5番を任された。決勝戦の対韓国戦では3安打を放ち、全7試合に出場して打率.429をマークして日本の金メダル獲得に貢献する活躍をみせた。_NEWLINE_第39回社会人野球日本選手権大会では1回戦の対セガサミー戦で内野安打を含む4打数2安打1打点、2回戦・JFE東日本戦で右中間への本塁打や適時打を放つなどの活躍も見せたが、チームはこの2回戦で敗退となりこれが社会人野球の最後の大会となった。_NEWLINE_「2013年度社会人野球表彰」では、一塁手部門のベストナインに選出(初受賞)、19試合出場25打点の成績で最多打点賞を受賞、「大阪府野球連盟ベストナイン」にも一塁手部門で選出された。_NEWLINE_2013年のドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから5位指名され、11月25日に大阪市内の日本生命にて仮契約を結び、「とにかく日本一になりたいです。そのために1年目から一軍戦力として活躍して、日本一に貢献したいです」と抱負を語った。契約金5000万円、年俸1200万円(推定)、背番号は「44」。
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プロ入り後
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2014年、ドラフト時に公称110kgとしていた体重が、入寮時には115kgになっていた。これは一年目の元中日・中田亮二とならぶ日本人選手の最重量である。2月12日、キャンプ後初の紅白戦において、白組の4番一塁としてスタメン出場し、3打数2安打2打点のデビュー。7回に右中間へ放った打球が守備の乱れで返球が遅れ、井上いわくフェンスのある球場では人生初、同時にプロ初本塁打となるランニングホームランを記録。オープン戦を通じて好調を維持し、15試合で46打数20安打、打率.435、2本塁打の成績を残し、ドラフト制導入後は初となる新人でのオープン戦首位打者になった。3月28日に行われた福岡ソフトバンクホークスとの開幕戦では、球団では毎日時代の1950年、戸倉勝城が記録して以来64年ぶりの新人による開幕四番として指名打者で先発出場。プロ初打席は、攝津正から三ゴロに終わり、またこの試合では無安打に終わっている。4月4日の対北海道日本ハムファイターズ戦の第2打席に左中間へ適時二塁打を放ち、開幕から12打席目でプロ入り初安打と初打点を記録。2014年4月11日に、本拠地QVCマリンフィールドの飲食店にて「井上晴哉満腹丼」が発売された。4月12日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(QVCマリンフィールド)の2回裏に塩見貴洋からバックスクリーン直撃のプロ入り初本塁打を記録。しかし、開幕から成績は低迷、出場機会も減らされ、5月1日の対楽天戦後に二軍降格を通告されている。7月17日のフレッシュオールスターゲームでは20年ぶりとなる1試合2本塁打など、3安打3打点の活躍でMVPを獲得している_NEWLINE_2016年、開幕一軍入りし、開幕戦(対北海道日本ハムファイターズ戦)では6番・一塁手として先発出場も果たした。しかし、その後、打撃好調とはいかず、4月25日に一軍登録抹消。5月20日、イースタン・リーグの対北海道日本ハムファイターズ戦で、イースタン・リーグ史上8人目となるサイクルヒットを達成。この年、イースタン・リーグでは規定打席に45不足するも打率.342をマーク、例外規定により首位打者となった。_NEWLINE_2018年、3月30日にZOZOマリンスタジアムで行われた楽天との開幕戦では、ルーキーだった2014年以来4年ぶりの「開幕4番」として出場を果たした。当日は1安打のみで打点はなくチームは敗れたが、翌3月31日には2本の本塁打を放つ2安打2打点の活躍で井口資仁新監督に初勝利をもたらした。4番のレギュラーに定着し、自己最多の133試合に出場した。
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選手としての特徴
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恵まれた体格を活かしたパワフルな長打力と広角に打ち分ける技術を兼ね備えており、日本生命時代に磨きを掛けた右方向への柔らかさのある打撃は特に評価されている。バットは重さ930グラム、長さ87センチと、プロ野球界でも巨大とされるものを使用している。_NEWLINE_中央大学時代は高橋善正監督からのアドバイスもあり三塁手にも挑戦したが、守備の負担増からの打撃不振もあって一塁手に専念。社会人時代は指名打者で出場することも多かったが、ハンドリングの良いグラブさばきと大柄な体格でもしっかりと動ける守備には定評があった。_NEWLINE_遠投95メートル、50メートル走6秒8、ベース1周16秒、握力=右70キロ・左56キロ、背筋力=200キロ。走力が課題で2014年2月、新人合同自主トレのメニューの一つ、強化走「150メートルを30秒以内で5セット」のメニューを5セットすべてタイムオーバーとなっている。_NEWLINE_本塁打を放った後、ロッテのお菓子である乳酸菌ショコラを受け取るパフォーマンスを行っている。_NEWLINE_元ロッテの落合博満の打撃スタイルに憧れている。 | 13404067070250226028 |
Subsets and Splits
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