title
stringlengths 1
208
| text
stringlengths 1
32.1k
| passage_id
int64 5
4.87M
|
---|---|---|
梶原一騎 | 今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』「あしたのジョーの、あの時代」(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。
アメリカでかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。
1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)の3年間、大山道場で空手修行もしていた。指導をした渡邊一久は「週に1, 2回は稽古に来ていた。左半身に構え、ワンツーの殴打技を主にし、蹴り技はあまりなかった。巨体と柔道経験を活かして組んで投げようとするが、足捌きが速い大山道場の強豪を捉えられなかった。相手の突きを身体で受け、前に出て突きで攻める熱闘型の組手スタイルだった。昭和33年(1958年)頃、昇級審査を受け、緑帯を允許された。大山倍達先生は、作家としてまだ無名だった梶原一騎氏を『将来、大山道場を宣伝してくれる人だから』と語り、空手の達人が活躍する主人公の小説を書いてほしかったようだが、その先見の明は10数年後に証明されることとなった。」と述べている。
1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。 | 506 |
梶原一騎 | 1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。
1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。
しかし1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というのがその理由。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気は高かった。当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して連載終了の気配を示しにくい状況ではあったが、つのだ自身が以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定していた、などの要因が重なったことで最終的にはつのだの意見を容れ、降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れすることはなく、すぐに「うしろの百太郎」の連載が始まっている。 | 506 |
梶原一騎 | その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされた。苦肉の策として弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり盛り返したが、それが極真会館内部の人間関係や、大山との関係に大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも、大山は「(あの漫画は)大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは各エピソードが散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。
結果として、芦原英幸を中心にした新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。」と不満を持つ弟子もいたという。やがて空手家でもない梶原の勢力が、極真内部で拡大していくことに対する反発が起き、同時に彼を重用する大山への批判にも及んでいく。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。
そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している。事実、映画業界は徹底した配給会社優位のトップオフ方式であり、製作会社には相当なヒットでないと収益が出ない仕組みとなっている。1円も回収できないこともごく普通である)。 | 506 |
梶原一騎 | 当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた。そんな時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることで、つのだが矢面に立たないよう配慮して再度お願いした。大山の熱心な申し出もあり、最終的にはつのだも引き受けることとなったが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、平岡正明の件は断り、一人で引き受けることとなった。
しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』は、内容について梶原の大きな不興を買うこととなった。タイトルにもなっている呼称「ゴッドハンド」は、確かに元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなかったのも一因である。この頃からつのだ本人及び編集サイドに梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、恐れたつのだは『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に、梶原一騎及び真樹日佐夫を中傷する内容のセリフをアナグラムで書いてしまう。それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。
その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1980年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。 | 506 |
梶原一騎 | その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。
1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。
没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた高木薫によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので」とだけ語ったという。もっとも墓参りはしていたという。
斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。 | 506 |
梶原一騎 | 梶原一騎の原作において頻繁に他著からの引用が見られるが、その多くが梶原自身の創作であることが知られる。「水上で優雅に見える白鳥も水面の下では激しく足をばたつかせている」などのよく知られる知識なども事実とは異なる。
太字はテレビアニメ化した作品。斜線はテレビドラマ化した作品。 ○はアニメ映画化した作品。◎は実写映画化した作品。 ●はプログラムピクチャーとして公開された作品。△はラジオドラマ化した作品。 ▲は舞台化した作品。□はVシネマ及びOVA化した作品。×は未刊行作品。 | 506 |
黒田硫黄 | 黒田 硫黄(くろだ いおう、男性、1971年1月5日 - )は、日本の漫画家。ペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から。愛称は「大王」。
男女の双子で誕生。東日本出身。一橋大学法学部・社会学部卒業。
1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。『月刊アフタヌーン』『月刊IKKI』『COMIC CUE』などに筆による作品を発表している。2002年、『セクシーボイスアンドロボ』により第6回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞文部科学大臣賞を受賞。
生まれは札幌市であるが、幼少期は10回を超える引越しで東日本を転々としたため、「東日本出身」としばしば表現している。麻布高校時代にアニメ研究会に所属、2分ほどの紙製アニメやリレーマンガを他の部員たちと制作していた。一橋大学では漫画研究会に所属。教養課程野崎歓ゼミナール(映画論)、法学部村井敏邦ゼミナール(刑事法)、社会学部湊博昭ゼミナール(精神医学)などに参加。大学の同じゼミナールに、後に漫画家となった倉田真由美がいた。出版社への数度の持ち込みを経て、在学中の1993年にアフタヌーン四季賞秋のコンテストにて「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」の4編により四季大賞を受賞し、漫画家としてデビューする。
翌年より『月刊アフタヌーン』にて『大日本天狗党絵詞』を連載。連載終了後の1998年、この作品に注目していたよしもとよしともから合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『COMIC CUE』に掲載。これを端緒として同誌に短編作品を発表していく。1999年に作品集『大王』を刊行、帯に大友克洋、寺田克也、よしもとよしとも3名からの推薦文が寄せられた。
2000年から2003年にかけて『月刊アフタヌーン』にて『茄子』を連載、平行して『月刊IKKI』に『セクシーボイスアンドロボ』を連載する。『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて宮崎駿に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に高坂希太郎監督により劇場アニメ化。また、2007年には続編である「スーツケースの渡り鳥」が同監督によりOVA化された。また『セクシーボイスアンドロボ』は2007年に日本テレビにてテレビドラマ化されている。 | 507 |
黒田硫黄 | 2003年以降しばらく目立った活動がなかったが、2005年より『月刊アフタヌーン』に復帰し、2006年より同誌で『あたらしい朝』の連載を開始。しかし急病により同誌2007年6月号より中断し、1年の長期休載を経て2008年9月号より再開したが、たびたび休載となっていた。最終的には、不定期な掲載を経て2010年12月号にて完結した。
上記のようにコマ割りのセンスが評価されている黒田だが、デビュー前の持ち込みの時には編集者からコマ割りを酷評されたことがあり、これをきっかけに1年ほどコマ割りの研究をしたのだと語っている。また大学の漫画研究会では、大島渚の『忍者武芸帳』を題材に「コマ割りと時間の関係」について分析し、コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例するのではないか、という仮説を立てたという。もっともその後のインタビューではキャラクターを中心に読まれる漫画への憧れも語り、「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」とのコメントも寄せている。
しばしば黒田の特徴とされる筆の使用は、もともとは早く描けるからという理由で使い始めたもの。石神井の職人によるものを愛用しており、墨は自分で磨って使っているが、忙しいときには筆ペンも使っている。また「筆で描く漫画家」のように間口を狭めるのが嫌で作品によってはペンも使用している。連載作品の中では『茄子』の大部分がペンによって描かれている。
黒田はデビュー時から作品にスター・システムを取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。なかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった。
黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。『Quick Japan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。南信長は、直系子孫たる作家のいない諸星大二郎の「遺伝子」を「そこはかとなく」感じさせる最たる一人として、黒田を挙げている。 | 507 |
黒田硫黄 | 黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。『Quick Japan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。南信長は、直系子孫たる作家のいない諸星大二郎の「遺伝子」を「そこはかとなく」感じさせる最たる一人として、黒田を挙げている。
ここでは「黒田硫黄キーワード事典」を参考に、黒田の作品に特徴的ないくつかのモチーフを解説する。 | 507 |
ウェブブラウザ | 2021年12月時点のブラウザシェア- StatCounter
ウェブブラウザ(インターネットブラウザ、web browser)とは、パソコンやスマートフォン等を利用してWebサーバに接続するためのソフトウェアであり、ウェブページを表示したり、ハイパーリンクをたどったりするなどの機能がある。単にブラウザ(ブラウザー)とも呼ばれる。
主なウェブブラウザとして、Google Chrome、Safari、Microsoft Edge、Mozilla Firefox、Opera、Internet Explorer、Vivaldi等がある。Windows 7など古いOSではサポートが終了しているものがある。
大まかに言うと、ウェブブラウザには3つの機能がある。
取得したHTMLは、ウェブブラウザのレイアウトエンジンに渡され、マークアップからインタラクティブな文書に変換される。Flashアプリケーションや Javaアプレットに対応するプラグインが用意されている場合は、それらを表示・実行することができる。未対応の種類のファイルに遭遇した場合は、ダウンロードして保存するか、他のプログラムを起動して開こうとする。
HTMLには、他のコンテンツへのハイパーリンクを記載することができる。リンクにはURIが含まれており、リンクをクリックすると、ウェブブラウザはそのURIで示されるコンテンツを取得する。
例えば、ブラウザのロケーションバーに http://en.wikipedia.org/ と入力したとする。Uniform Resource Locator (URL) のプレフィックスであるURIスキームによってURLをどう解釈するかは決まっている。古典的なURLは定義名 http: で始まり、Hypertext Transfer Protocol (HTTP) を使用してサーバに接続する。必須要件ではないが、多くのウェブブラウザは様々な定義名に対応しており、HTTPS用の https:、File Transfer Protocol 用の ftp:、内部ファイル用の file: などとも接続できる。 | 509 |
ウェブブラウザ | ウェブブラウザが直接扱えない定義名は、ブラウザ内部で定義された、他のアプリケーションにそのまま渡されることが多い。例えばmailto: で始まるURIは既定の電子メールクライアントに渡され、news:で始まるURIは既定のニュースグループリーダに渡される。OSのシェルがURIスキームを解釈しウェブブラウザなど適切なアプリケーションに渡される場合もある。
ウェブブラウザの機能は、最小限の文字を用いたユーザインタフェース (UI) から、多様なファイル形式やプロトコルに対応する高機能なものまで幅広い。電子メール、ネットニュース、Internet Relay Chat (IRC) 等に対応するコンポーネントを含むウェブブラウザは「インターネットスイート」と呼ばれることもある。
主要なウェブブラウザは同時に複数の情報リソースを扱うことができ、別窓で表示したり、タブを使って同じウィンドウ内に表示したりする(タブブラウザ)。また、表示したくないポップアップ広告を自動的にブロックする機能もある 。
ユーザがブックマークしたウェブページの一覧を表示する機能があり、素早くそれらのウェブページに戻ることができる。ブックマークはInternet Explorerでは「お気に入り」と呼ぶ。さらに、フィードリーダが組み込まれているウェブブラウザも多い。Firefoxではフィードは "live bookmarks" という形式で扱われ、フィードにおける最近の項目と対応するブックマークのフォルダのように機能する。Operaではフィードの内容を格納し表示する従来型のフィードリーダを採用している。
多くの主要ウェブブラウザのUIには、以下のような共通の要素がある。
主要なウェブブラウザはウェブページ内のインクリメンタル検索機能も持っている。
多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。
2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低いネットブックの普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。 | 509 |
ウェブブラウザ | 主要なウェブブラウザはウェブページ内のインクリメンタル検索機能も持っている。
多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。
2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低いネットブックの普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。
初期のウェブブラウザが対応していたHTMLは非常に単純なものだった。ウェブブラウザの発展によりHTMLの標準でない方言が生まれ、互換性問題が大きくなっていった。最近のウェブブラウザは標準および事実上標準のHTMLとXHTML 、それらに高度な表現や機能を付加するCSS・JavaScriptなどに対応している。
表示したときの見た目はどのブラウザでも同じであるべきだが、そうでない場合もある。
ウェブブラウザが標準では持たない機能を追加するアドオン。
多くのウェブブラウザはHTTPSに対応しており、ウェブキャッシュやCookieや閲覧履歴を素早く簡単に消去する機能もある。しかしそれだけでは対処できないセキュリティのリスクに晒され、マルウェアに悪用されたり、(現在は死語になったが)ブラウザクラッシャーなどでブラウザのみならずオペレーティングシステムをフリーズさせられる場合がある。ブラウザ自体にもブラックリストで悪質なサイトへのアクセスを防止する・自動アップデートなどのセキュリティ向上機能が追加されているが、アンチウイルスソフトウェアなどでオペレーティングシステム (OS) 全体を保護するのが望ましい。
コンピュータセキュリティ、ネットワーク・セキュリティも参照。
ウェブブラウザの歴史は1980年代末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、WorldWideWebがティム・バーナーズ=リーによって1991年に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWebは後にNexusへと改称されている。 | 509 |
ウェブブラウザ | ウェブブラウザの歴史は1980年代末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、WorldWideWebがティム・バーナーズ=リーによって1991年に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWebは後にNexusへと改称されている。
テッド・ネルソンとダグラス・エンゲルバートはバーナーズ=リーのずっと前にハイパーテキストの概念を開発していた。この核となる部分は World Wide Web に合うのではないか、というエンゲルバートの提案にバーナーズ=リーは賛同した。
1993年にNCSA Mosaicが登場した。Mosaic は画像が扱える最初のウェブブラウザの一つであり、これによってウェブの利用者が激増するきっかけとなった。米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) の Mosaic チームのリーダーであったマーク・アンドリーセンはその後まもなくネットスケープを設立し、Mosaicを汲むNetscape Navigatorを1994年にリリースした。このブラウザは瞬く間に世界中のもっとも主流なウェブブラウザとなり、最盛期には全てのウェブにおいて9割もの利用率を占めた。
これにマイクロソフトが反応し、1995年にNCSAからMosaicのライセンスを引き継ぎInternet Explorerを開発した。このことが最初のブラウザ戦争の引き金にもなった。マイクロソフトはInternet ExplorerをWindowsに同梱させることでOS市場の優位性をウェブブラウザ市場にも引き継がせ、Internet Explorerにも力を持たせることができた。これによって2002年にはInternet Explorerの利用率はピーク時で95%を超えた。2011年2月現在ではNet Applicationsによると利用率が57%程度とされており、Internet Explorerのシェア減少が示されていた。 | 509 |
ウェブブラウザ | 1996年にOperaが登場したが利用者を大きく獲得することはなく、2011年2月現在で2%と常にその前後の利用率となっていた。ただし携帯電話のウェブブラウザ市場では最も占有率を伸ばしており、4000万台を超える端末に導入されていた。また、いくつかの組み込みシステム向けにも登場しており任天堂の家庭用ゲーム機であるWiiやDSiなどがある。
1998年にNetscapeはMozilla Foundationを旗揚げし、オープンソースとして自由な競争力のあるブラウザを提供しようと計画した。このブラウザは最終的にMozilla Firefoxとして展開された。公開されたFirefoxはベータ版段階だったがそれなりの愛好者を獲得し、Firefox 1.0が2004年末期にリリースされてから間もなくFirefoxの全バージョン合計で7.4%の利用率を獲得した。2011年2月現在では22%の利用率となっていた。
2003年1月にAppleのSafariが登場した。Appleの製品での占有率は独占的で、2011年2月現在の利用率は6.3%となっており、緩やかな上昇傾向を見せていた。KDEプロジェクトのKHTMLを基に開発したWebKitと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。WebKitはAppleのiOS、GoogleのAndroid、ノキアのS60、Palm(2010年、ヒューレット・パッカードにより買収)のHP webOSなどいくつかの携帯電話のプラットフォームでも採用されていた。 | 509 |
ウェブブラウザ | 2008年9月にGoogleのGoogle Chromeが登場した。これはWebKitを基に開発したBlinkと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。ウェブブラウザのシェアは1990年代後半以降のWindowsの普及に伴いInternet Explorerの占有が続いていたが、Google Chromeが2010年代に入って著しくシェアを伸ばし、2011年2月時点で11%の利用率に成長した。この増加傾向はInternet ExplorerやFirefoxの減少傾向と同期していた。そして2011年12月、Google ChromeはInternet Explorer 8を越えて最も広く使われているウェブブラウザとなった。ただし、Internet Explorerの全バージョンを合計すると、IEが最も広く使われているウェブブラウザであった。
2015年時点ではGoogle Chromeの世界シェアはInternet Explorerを抑えて1位となっており、過半数を占めるようになった。Internet ExplorerおよびFirefoxのシェア減少は著しく、それぞれ2位 (19.9%) および3位 (17.87%) となりGoogle Chromeとの差が急激に広がっていた。一方で日本国内に限ると、依然としてInternet Explorerのシェアは高く過半数を占めていた。
2015年7月にマイクロソフトのEdgeが登場した。EdgeHTMLと呼ばれるレンダリングエンジンを採用していたが、後にBlinkへ変更された。Windows 10に合わせてリリースされシェアを伸ばし、2020年には7.9%の利用率となりFirefox (7.2%) をやや上回ったが、Google Chrome (69.8%) には遠く及んでいない。
なお、成長著しいスマートフォンや非PCのタブレットの分野では、オペレーティングシステム (OS) 付属のウェブブラウザが利用されることがほとんどであり、AndroidではAndroidのAndroid標準ブラウザと後継のChrome、iOSのSafariがOSの占有率にほぼ比例して普及している。PCとのデータ同期も可能である。FirefoxやOperaなどはブラウザをスマートフォン・タブレット対応アプリとしてリリースして対抗している。 | 509 |
ウェブブラウザ | 本来ウェブサイトは様々なOS環境・ウェブブラウザで見られるようにウェブ標準などに則し、アクセシビリティ等を考慮した形で作成される必要がある。しかしウェブサイトによっては種々の都合からサイトの閲覧に必要な環境として特定の推奨ブラウザを明記していることがあり、閲覧者は技術上の理由から推奨ブラウザに合わせたウェブブラウザの選択が必要となることもある。また、推奨ブラウザの記述内容によってはユーザが安全上の不利益を被る場合もある。 | 509 |
Mozilla Application Suite | Mozilla Application Suite(モジラ・アプリケーション・スイート)またはMozilla Suite(モジラ・スイート)はMozilla Foundationによりプロジェクトを組んでオープンソースで開発されていたインターネットスイートであり、ウェブブラウザ、電子メールクライアント、ニュースクライアント、HTMLエディタおよびIRCクライアントの機能が含まれている。ウェブ標準とみなされるW3Cなどで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。
レンダリングエンジンはGeckoと呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、Mozilla FirefoxやCamino、Galeonなど幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。
2005年3月10日にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名をSeaMonkeyに変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。
タブブラウザ形式のウェブブラウザの他、電子メールクライアント、ニュースクライアント(ニュースリーダー)、WYSIWYG型HTMLエディタ、アドレス帳、IRCクライアントChatzillaも実装されている。XULというXMLをベースにした言語を使い、機能を拡張することができる。
また、標準機能としては利用できないが、拡張機能でカレンダー機能なども追加する事ができる。このカレンダーはvCal形式を採用しており、macOSのiCalとも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。 | 510 |
Mozilla Application Suite | また、標準機能としては利用できないが、拡張機能でカレンダー機能なども追加する事ができる。このカレンダーはvCal形式を採用しており、macOSのiCalとも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。
現在のオープンソースとなったMozillaは、Netscape 5.0としてリリース予定だった開発中のソースコードをベースにして機能改良を施していくという方向性で開発が始まった。しかし、既存のソースコードをそのまま使っていては問題が多かった為にレンダリングエンジンを全面的に書き直す事となった。こうして出来上がった全く新しいレンダリングエンジンがGeckoであり、それを用いてNetscape 6、7などがリリースされた。
以前、Mozilla自体は完成した製品/ソフトウェアというより、他のプロジェクト(主にNetscape)にリリースしてもらうための開発、デバッグのためのブラウザという位置づけであった。そのためサポート体制などは整っているとは言い難かった。
しかし、2003年5月末に起こったAOLとマイクロソフトの和解により、AOL傘下であったネットスケープ・コミュニケーションズとマイクロソフトの間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、マイクロソフトのウェブブラウザであるInternet Explorerを数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープ・コミュニケーションズの存在価値が危ういものとなった。これは、NetscapeのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体であるMozilla Foundationを設立した。ファウンデーションの設立により、ネットスケープ・コミュニケーションズが担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がファウンデーションにも覆い被さることとなった。これによりファウンデーションはMozillaの入ったCDの販売や、電話でのサポート等の業務も行うようになった。 | 510 |
Mozilla Application Suite | 「Mozilla」はNetscapeやInternet Explorerの「User-Agent:」フィールドのキーワードにもなっている。ネットスケープ・コミュニケーションズの初期の社名はMosaic Communicationsといい、Mozillaという名称は、同社がブラウザ「Mosaic」(NCSA Mosaicとは異なる)を開発中に、Mosaicと日本の怪獣映画ゴジラを合成してコードネームとしてつけられたのが起源である。NCSA Mosaicで知られる NCSA の圧力により、社名も製品名もMosaicからNetscapeに改名を迫られた経緯との関係なのか、Netscapeの初期のバージョンのREADMEには「N-e-t-s-c-a-p-eと書いてMozillaと読む」との記述があった。開発者などの間ではNetscapeをMozillaと呼ぶ場合もあり、User-Agent:フィールドやドキュメントの表記はそのまま残されているものもある。
Internet Explorerが User-Agent: フィールドでMozillaを名乗っている事情は、リリース当時Netscapeが普及しており、ウェブサイトもほとんどがNetscape用につくられていたことによる。後発でリリースされたInternet ExplorerはNetscape用につくられたウェブサイトのJavaScriptやCGIなどが動作するよう、類似のUser-Agent:フィールドを名乗るようにした。現在もInternet Explorerをはじめとする多くのグラフィカルなブラウザは「Mozilla」という名前を含んだUser-Agent:フィールドを利用したままであり、そのため、ブラウザ判定は別の部分で行わなければならない。
担当地域におけるMozillaの普及促進をおこなう支部として、2004年2月にMozilla Europeが設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内におけるMozilla製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国Mozilla Foundationの公式支部として設立された非営利法人(有限責任中間法人)「Mozilla Japan」が2004年8月19日から活動を開始した。 | 510 |
Mozilla Application Suite | 担当地域におけるMozillaの普及促進をおこなう支部として、2004年2月にMozilla Europeが設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内におけるMozilla製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国Mozilla Foundationの公式支部として設立された非営利法人(有限責任中間法人)「Mozilla Japan」が2004年8月19日から活動を開始した。
Mozillaは、国際化されたソフトウェアであり、日本語を含む多くの言語が利用可能である。ただし、mozilla.org自体はメニューなどのGUIを各国語に地域化したパッケージは作成しておらず、地域化モジュールおよびパッケージの作成は有志によって行われている。日本語圏では、1999年中盤(M9)頃から谷口悠太氏、2000年(M13)から2002年中盤頃迄「もじら組」にて日本語パック「JLP」がリリースされていたが、バージョン1.0.1で終了している。その後、有志による日本語化作業と配布が分散した形で行われたが、正式な日本語版が用意されない場合もあった。現在はMozilla Japanのローカライズセンターにて有志による作業とその成果物であるリソースの調整が行われ、正式な日本語版がリリースされている。
2005年3月10日、完全版であるMozilla Application Suiteの開発は 1.7 系列で打ち切られることが発表された。それに伴い、開発中だったバージョン1.8もα6で開発中止となった。今後は、Mozilla Application Suiteに含まれるブラウザ部分のMozilla Firefoxや電子メールソフト部分のMozilla Thunderbirdの開発に軸足を据える事となった。その後の2006年4月リリースのバージョン 1.7.13 をもっての開発・アップデート終了が発表された。
2006年6月以降、Mozilla 1.7系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、MozillaファウンデーションではFirefoxまたはThunderbirdの最新版へ移行するよう推奨している。 | 510 |
Mozilla Application Suite | 2006年6月以降、Mozilla 1.7系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、MozillaファウンデーションではFirefoxまたはThunderbirdの最新版へ移行するよう推奨している。
2005年7月2日、開発中止となっていたMozilla Application SuiteをSeaMonkeyとしてSeaMonkey Councilが引き継ぐ事が決定。SeaMonkey Projectで生まれた改良点はMozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdにフィードバックされることとなる。また、その後2006年1月30日には初の正式版となるSeaMonkey 1.0 がリリースされた。 | 510 |
相原コージ | 相原 コージ(あいはら コージ、本名:相原 弘治、1963年(昭和38年)5月3日 - )は、日本の漫画家。北海道登別市出身。
妻の両角ともえも漫画家で、現在は相原のアシスタント(元・いしかわじゅんのアシスタント)。兄はミュージシャンの相原ピリカ。
北海道室蘭東高等学校(現・北海道室蘭東翔高等学校)を卒業後、日本デザイナー学院に入学。まんが専攻科卒業だが、相原自身は「専門学校の漫画コースは、行っても役に立ちません」と、この最終学歴を拒絶している(『サルでもやれる編集者教室』などで言及)。また『文化人類ぎゃぐ』の著者紹介でも同校に関して記載し、「恥ずかしい経歴」と書いている。
ほどなく『ガロ』に作品を投稿するも落選。その後『Weekly漫画アクション』(現・漫画アクション)に持ち込み掲載された『8月の濡れたパンツ』で1983年(昭和58年)にデビュー。この作品は上記学校の授業で描いたものだったため、持ち込みであるにもかかわらずカラー原稿が入っており、編集部を驚か(笑わ)せた。
いがらしみきおに強い影響を受け、ギャグ漫画を多く執筆。出世作・初単行本作品『ぎゃぐまげどん』では枠にとらわれない先鋭的・実験的なギャグ漫画を描き、漫画情報誌「ぱふ」における編集部のレビューでは「邪道まんが家」という誉め言葉を貰った。
その後は代表作として『コージ苑』、『かってにシロクマ』など。また、竹熊健太郎との合作『サルでも描けるまんが教室』は、漫画家の人生および漫画創作法自体をパロディ化した傑作となった。その後も、ギャグ漫画・ストーリー漫画で、従来の漫画家が描かなかった「極端な描写・物語」を追求し続けている。
『コージ苑』絶頂期に東京電力から広告依頼を受けるが、原発の広告は描けないと断った。
格闘技・プロレスに造詣が深く、自身もブラジリアン柔術を習っている。この経験はその後の彼の作品「真・異種格闘大戦」にて「ブラジリアン柔術を習得したゴリラ」が登場するシーンに生かされている。
大変な遅筆である(by『フロムK』いしかわじゅん)
1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて、『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で全5回開催された、新人漫画家の賞(ただし、プロ作家でも参加可能)。 | 512 |
相原コージ | 大変な遅筆である(by『フロムK』いしかわじゅん)
1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて、『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で全5回開催された、新人漫画家の賞(ただし、プロ作家でも参加可能)。
審査員は竹熊健太郎と相原コージ。「グランプリ」「金のアイハラ賞」「銀のアイハラ賞」「残念賞(佳作)」があった。
元来はある作家が原稿を落としてしまい、スピリッツのページが空いてしまった事により穴埋め企画として「従来の漫画賞のパロディ」として始まったが、予想を超えた多数の応募があり、多くの人気作家を生んだ。2001年(平成13年)から掲載雑誌の『週刊ビッグコミックスピリッツ』で「スピリッツ賞」が始まったため、消滅した。 | 512 |
あおきてつお | あおき てつおは、日本の漫画家。日本古代史研究者。東京都出身、千葉県千葉市在住。
1980年に『少年ビッグコミック』(小学館)掲載の「10月のメモリー」でデビュー。代表作に『緋が走る』『島根の弁護士』『赤い靴はいた』などがある。近年は主に集英社やリイド社、小学館の青年誌などで執筆活動をしながら、日本古代史をテーマにしたエッセイ作品も残している。
18歳の頃より同人漫画家としてマンガ研究会を設立して同人活動を行っており、1980年、小学館の『少年ビッグコミック』にて「10月のメモリー」でデビューした。
少年誌や少女誌などでの短編読み切り作品やオムニバス形式での短期シリーズ連載などを経て、1982年から『少年ビッグコミック』で連載された『気ままにウルフ』が初の長期連載作品(単行本全8巻)となる。以降、1990年頃までは少年誌を中心に、1992年以降は主に青年誌などで執筆活動をしている。また、企業や組合・業界誌コミックの企画制作する有限会社「ピエゾコミックコーポレーション」を設立し、『法律の抜け穴』シリーズなどを始め、企業コミックやイラスト・挿絵などを執筆した。1993年からは三省堂の中学英語教科書「New Crown」の編集委員として10年間イラストを担当し、漫画形式の教科書の先駆けとして話題になる。
代表作の1つである『緋が走る』は、1999年にNHKにて田中美里主演でテレビドラマ化され、全6回放映された。また、『島根の弁護士』は2007年にフジテレビ系列の「土曜プレミアム」枠にて、仲間由紀恵主演の2時間ドラマが放映された。2019年には『赤い靴はいた』より短編「アゲハがとんだ」が東映にて教育アニメ化された。
2022年より日本大学芸術学部文芸学科の非常勤講師に着任。 | 513 |
青沼貴子 | 青沼 貴子(あおぬま たかこ、1960年(昭和35年)1月1日 - )は、日本の漫画家。北海道函館市出身。函館東高等学校卒業。本名は鈴木 貴子(旧姓:青沼)。東京都板橋区在住。
高校卒業後上京し、1981年に集英社『週刊マーガレット』の増刊号にて『ブルース・ブルース』でデビュー。
1984年、『週刊マーガレット』にて連載されていた『ペルシャがすき!』を原案としたスタジオぴえろ製作のテレビアニメ、『魔法の妖精ペルシャ』の放映が日本テレビ系にて開始された(全48話)。
1995年、婦人生活社の育児雑誌に連載されていた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』がTBS系列(毎日放送制作)にてアニメ化され、全52話放映された。また1999年にはそのスピンオフ作品の『板橋マダムス』がフジテレビ系列にて櫻井淳子の主演でドラマ化されている。
2011年5月、芳文社や竹書房のいくつかの4コマ漫画誌にてエッセー漫画を中心とした連載をしているほか、2006年に『北海道新聞』の金曜日夕刊にて『たんぽぽちゃん 昭和ダイアリー』(『たんぽぽちゃん』のスピンオフ作品。 2010年に終了)をはじめ、2017年4月より『中日新聞』など各ブロック紙に『ねえ、ぴよちゃん』などを連載している。また、実録系の4コマ漫画雑誌などにも読み切りとしてゲスト掲載されることもある。
初期は『ペルシャがすき!』や『おどろんエンジェル』などに代表されるように、ほのぼのとしながら多少ユーモアを交えた作品がメインであった。
結婚し出産後、主な執筆の場を育児向けの雑誌に移し、テレビアニメ化もされた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』に代表されるように自身の子育て体験などを元にしたエッセイ風の作品を得意としている。『ママはぽよぽよザウルスがお好き』のモデルキャラクターとなった自身の息子と娘の現在を描いたエッセイ漫画作品として『かわいいころを過ぎたら』シリーズなどがある。 | 514 |
秋月りす | 秋月 りす(あきづき りす、1957年9月16日 - )は、日本の女性漫画家。福岡県生まれ、大阪府育ち。「秋月りす」はペンネームで本名は非公開(「秋月」は福岡県朝倉市に実在する地域名である)。血液型A型。
小学生の頃に家族と大阪府に移住した。妹がいる。
関西大学文学部国文学科卒。現在はインテリアコーディネータの夫と奈良県奈良市に在住する。ただし、秋月には子供はいない。下戸であり、ペットに猫の「みりん」(♀)と「ちび」(♂)がいて、エッセイ漫画に頻繁に登場していたが、「みりん」は21歳、「ちび」は18歳で他界。現在は「とらぴー」(♀)を飼っている。
1988年にアフタヌーン四季賞にて『奥さま進化論』でデビュー。この時は既に30歳で既婚だった。OL、主婦を題材にした4コマ漫画を多く執筆。素朴で穏やかな作風だが、デビュー当初の彼女の作風は現在と多少異なっていた。当時、流行していた不条理系(いわゆる“毒”のある作品)の4コマを描こうと担当編集に相談した際に反対されたというエピソードもある。
それまで男性の多かった4コマ漫画に女性作家が増えた発端となった作家であり、日本の4コマ漫画シーンにおいて重要な存在で、2004年第8回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。 | 516 |
朝基まさし | 朝基 まさし(あさき まさし、1970年3月2日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。旧ペンネームに越智辺昌義(おちべ まさよし)がある。
主に講談社の少年漫画誌で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『サイコメトラーEIJI』『クニミツの政』『シバトラ』『でぶせん』(4作品ともに安童夕馬原作)などがある。
『クニミツの政』で2003年(平成15年度第27回)講談社漫画賞少年部門受賞。
以前、大島司のもとでアシスタントをしていた。 | 517 |
あしべゆうほ | あしべ ゆうほ(1949年7月12日 - )は、日本の漫画家。女性。青森県三沢市出身。
1970年、『別冊少女コミック』(小学館)に掲載された「マドモアゼルにご用心」にてデビュー。
以後『月刊プリンセス』や、『ボニータ』・『ミステリーボニータ』(いずれも秋田書店)を中心に活躍。
代表作は『悪魔の花嫁』(原作:池田悦子)、『クリスタル☆ドラゴン』、『ダークサイド・ブルース』(原作:菊地秀行)など。
『ダークサイド・ブルース』は1994年に劇場版アニメとなり、『悪魔の花嫁』は、1988年にOVA化されている。
『月刊プリンセス』創刊期において大きく貢献し、1975年創刊号から連載開始した『悪魔の花嫁』は累計発行部数は1000万部突破の大ヒット作となった。
その後の1970年代から1980年代「月刊プリンセス黄金期」においても『悪魔の花嫁』は『王家の紋章』(細川智栄子あんど芙〜みん))、『エロイカより愛をこめて』、『イブの息子たち』(青池保子)、『妖精国の騎士』(中山星香)、『オリンポスのポロン』(吾妻ひでお)、『アンジェリク』(原作:セルジュ・ゴロン&アン・ゴロン、作画:木原敏江)などの作品と共に同誌においてなくてはならない存在であった。
2021年9月1日から10月31日まで、あしべの画業50周年を記念して京都にあるガーデンミュージアム比叡のギャラリーsoRaとロテルド比叡の2会場で、原画展「夢の世界 幻想の軌跡」を開催。 | 518 |
あだちつよし | あだち つよし(1964年 - )は、日本の漫画家。新潟県上越市有間川出身、東京都西東京市在住。 | 519 |
安達哲 | 安達 哲(あだち てつ、昭和43年、1968年2月10日 - )は、日本の男性漫画家。東京都出身。
画塾に通い、高校卒業後は美術専門学校に顔を出すもすぐに行かなくなった。1986年、『卒業アルバム』が、第39回少年マガジン新人漫画賞にて特別入選。2003年、『バカ姉弟』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。
代表作に『お天気お姉さん』など。車はアウディ、趣味は相撲錦絵鑑賞(1992年当時)。 | 520 |
あだち充 | あだち 充(あだち みつる、本名:安達 充、1951年2月9日 - )は、日本の漫画家。群馬県伊勢崎市出身。男性。群馬県立前橋商業高等学校卒。血液型はAB型。
群馬県伊勢崎市に生まれる。三男一女の末っ子であり、直近の兄で3歳半年上のあだち勉から甚だしい影響を受ける。少年時代はあだち勉とともに貸本漫画の読者投稿コーナーの常連だった。また、勉は高校在学中から貸本漫画で原稿料を得ており、充はその手伝いをしていたことから、貸本漫画業界で「群馬の天才兄弟」として知られる存在となる。
絵を仕事にする希望を持ち、地元では一番商業美術に力を入れていた群馬県立前橋商業高等学校の商業美術部に入部する。しかし、明確な展望はなく、両親の勧める通りに安定した職業へ就く可能性もあったという。在学中に『COM』の新人賞で「虫と少年」が佳作2位に選ばれ、以後『COM』の新人投稿ページにしばしば掲載されるようになる。当時は『COM』や『週刊少年マガジン』、貸本漫画などを愛読しており、永島慎二、樹村みのり、さいとう・たかをらのファンだった。
野球にはまだ人並みの関心しか持っておらず、スポーツ経験も中学時代の体操部としての活動程度しかなかった。野球に深く関わるようになったのは、『週刊少年サンデー』で水島新司と『男どアホウ甲子園』を連載していた佐々木守と組んで、商業漫画家として野球漫画を手掛けてからである。後に熱心な野球ファンとなり、勉とともにビタミンAという草野球チームを主宰するが、多忙のためあまり試合に参加できなかった。
プロの漫画家を目指す踏ん切りをつけられたのは、勉が永島慎二に会い、充をアシスタントに採用してもらう内定を取り付けてくれたことによる。東京のデザイン会社に就職していた勉は、自身が会社員を続けているのだから、弟が漫画家となることは認めるように両親を説得する(しかし、ほどなく会社を辞めて漫画家へ復帰。フジオ・プロ在籍を経て、後年は充のマネージャーとなる)。ところが、充が高校3年生の1968年に、永島慎二が突然の渡米。1969年初春、どうにか『COM』のツテで同誌にイラストを連載していた石井いさみのアシスタントに就職する。 | 521 |
あだち充 | 上京しての面接当日、石井いさみが『くたばれ!!涙くん』を『週刊少年サンデー』で連載していることを知って読み、これが『週刊少年サンデー』との出会いとなった。同年に一時帰郷して高校を卒業。1970年に『デラックス少年サンデー』で、原作付きの『消えた爆音』でデビュー。以降しばらくは佐々木守、やまさき十三などの漫画原作者と組んだ作品を中心に発表し、当時のブームであった劇画調の少年漫画を執筆。石井と石井の担当編集者だった武居俊樹の薦めもあり、2年間勤務した石井プロから独立するも、ヒットには恵まれず、幼年誌でのコミカライズや少女誌などに活躍の場を移していく。このこともあって、1975年の『牙戦』を最後に劇画調の作風には見切りをつけ、ソフトタッチな作風へ変化していく。少女誌では花の24年組の影響を受ける。
1978年、再び少年誌へ戻り、高校野球を題材とした『ナイン』を発表。初の原作無しでの本格連載であり、少女漫画の雰囲気を少年漫画に持ち込んだこの作品が高い評価を得る。続く『みゆき』『タッチ』が大ヒット。ラブコメ漫画の代表的作家として高橋留美子とともに『週刊少年サンデー』を牽引し、人気漫画家としての地位を確立する。1982年、上記2作で第28回小学館漫画賞少年少女部門を受賞<。80年代は『ナイン』『みゆき』『タッチ』に加え、少女漫画誌連載の『陽あたり良好!』もテレビアニメ化された。
以降も『週刊少年サンデー』で野球漫画を中心に執筆。コミックスの発行部数は、1990年4月に『スローステップ』第5巻にて、累計1億部を達成しており、2008年5月『クロスゲーム』第12巻にて、単行本のみの累計で小学館連載作家として初めて2億部を突破した。2009年、『クロスゲーム』で第54回(平成20年度)小学館漫画賞少年向け部門を受賞。前後して、長い間主戦場だった『週刊少年サンデー』を離れ、2009年に創刊した月刊誌『ゲッサン』へ活躍の場を移している。
スポーツ漫画を多く描いているが、デビュー当初の経験から、熱血スポ根ものではなく、青春ラブコメディを得意としている。その一方で人間ドラマ志向が強く、劇画的な過剰さを避けつつも、シリアスな展開も多い。 | 521 |
あだち充 | スポーツ漫画を多く描いているが、デビュー当初の経験から、熱血スポ根ものではなく、青春ラブコメディを得意としている。その一方で人間ドラマ志向が強く、劇画的な過剰さを避けつつも、シリアスな展開も多い。
高校野球をよく題材に取り上げており、『いつも美空』連載時のインタビューによると「原作のあるもの以外、ほぼ全作品が同じ世界観を持ち合わせている」という。南 (2013, p. 96) は、あだちの描くキャラクターは「何事にもガツガツしない」ことが特徴であるとし、『タッチ』の野球部員らを指し「元祖草食系男子」と形容している。
しばしば用いる技法としては、場面転換や時間経過を現すシーンで擬音も何もないサイレント映画のような風景で繋げていく、というものが挙げられる。また作中にはしばしばあだち自身が登場し、平然と作品に対する弁解や宣伝を行なう(メタフィクション)のも作品の特徴の一つである。
直前まで元気であった登場人物が突然死ぬような「死ネタ」を多用するのも特徴。
設定変更を何事もなかったかのように行うのではなく、連載途中に堂々とそれを明示する形で行う割り切りの良さもあだちの作風であり、作中でメタ表現として設定変更を公表する方針を取っている。『ラフ』のライバルキャラである仲西弘樹の家族構成の変更、『H2』の主要キャラである木根竜太郎の右打ちから両打ちへの変更(作者の作画ミスの辻褄合わせのギャグを契機に設定変更)などが主な例である。
2017年8月15日のフジテレビ系列『めざましテレビ』において、絵は生き物ゆえ何十年も同一人物を描いていることで微妙に顔は変わろうとも、作品に登場するキャラクターの絵のデザインの特徴が似ているのにも(そっくりなことにも)こだわりがあり、「あだち劇団」の劇団員がいろいろな役をしている考えがあるという内容が、11年半あだちを担当していた当時の「週刊少年サンデー」編集長・市原武法のコメントとして放送された。本人曰く「あだち一座」ともされる。
2017年にweb漫画サービス「サンデーうぇぶり」にて公開された「前代未聞の超難問・あだち充キャラクタークイズ」をあだち本人が挑戦したところ、100点満点中の76点だった。コメントでは、「これは76点満点の問題です。(※本当は100点満点です)それ以上の点数を取ってしまった人は再検査の必要があります。」と語っている。 | 521 |
あだち充 | 2017年にweb漫画サービス「サンデーうぇぶり」にて公開された「前代未聞の超難問・あだち充キャラクタークイズ」をあだち本人が挑戦したところ、100点満点中の76点だった。コメントでは、「これは76点満点の問題です。(※本当は100点満点です)それ以上の点数を取ってしまった人は再検査の必要があります。」と語っている。
幼少期から大の落語好きで、人間描写やコメディ描写に色濃く影響を受けている。そのため、スポーツ漫画以外では落語風SF時代劇『虹色とうがらし』なども描いている。
1975年の『牙戦』までの初期作品で用いていた劇画調の画風は、アシスタントを務めていた石井いさみの『くたばれ!!涙くん』の絵柄に近いが、石井もインタビューで「最後のほうは彼(あだち充)にほとんど描かせたくらい、それくらいキャラクターもそっくりに描いてくれました」と述べていた。また、石井も1975年連載開始の『750ライダー』以降、それまでの劇画調の絵柄からソフトタッチな作風へ変化しており、師匠と弟子が同時期に作風を大きく変えている。 | 521 |
新井理恵 | 新井 理恵(あらい りえ、1971年9月14日 - )は、日本の漫画家。栃木県宇都宮市出身。栃木県立宇都宮南高等学校卒業。血液型はO型。
1990年、『別冊少女コミック』(小学館)11月号増刊に掲載の『ご笑覧ください』でデビュー。
作品中に登場するキャラクターが、しばしばシュールな長台詞でツッコミを入れるのが特徴的。
アマチュア時代、東田正美の名で投稿するほどの車田正美のファンで、それ故か一時期少年誌で作品を発表していた時期もあったが、型にはまった女性キャラを描かないといけないのが嫌で少女向けの雑誌へ戻ったとコメントしている。
オムニバスの4コマ漫画 | 524 |
荒木飛呂彦 | 荒木 飛呂彦(あらき ひろひこ、本名:荒木利之、1960年〈昭和35年〉6月7日 - )は、日本の漫画家。宮城県仙台市宮城野区出身。仙台市立小松島小学校卒業、仙台市立台原中学校卒業、東北学院榴ケ岡高等学校卒業、仙台デザイン専門学校卒業。宮城教育大学中退。既婚者で二女の父。
1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」でデビュー(荒木利之名義)。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2合併号から連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』。同作はシリーズごとに主人公や舞台を変えながら長年にわたって連載されており、全世界のシリーズ累計発行部数は1億2000万部を突破している。
幼少期から「ひとりの世界」に浸るのが好きで、早くから漫画も描いていた。
中学時代には剣道部に所属。この頃には、漠然と漫画家になりたいと思っていたという。当時は梶原一騎の漫画作品『巨人の星』(川崎のぼる画)、『あしたのジョー』(ちばてつや画)などを愛読、また白土三平の忍者・歴史漫画『サスケ』と『カムイ伝』の理論的な作風に影響を受けた。小説では江戸川乱歩や『シャーロック・ホームズ』シリーズをよく読んでいたという。
なお、荒木には4つ下に双子の妹がおり、この2人の仲が良かったことから、「家族の中で疎外感を抱いたため、ひとりで何かを楽しむことが余計に好きになったのだと思う」とインタビューで語っている。
高校時代はロードレース部に所属。この頃に横山光輝のサスペンス作品を愛読する。
荒木曰く、子供の頃に流行した漫画作品はほとんど読んでおり、「ジャンプ」は週刊も月刊も隅から隅まで読んでいた。当時好きだった作品は『リングにかけろ』、『コブラ』、『サーキットの狼』、『荒野の少年イサム』、『包丁人味平』など。
16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことで、「同い年なのにプロでやっている人がいるのか、これはのんびりしていられないな」と焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことで、「同い年なのにプロでやっている人がいるのか、これはのんびりしていられないな」と焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。
初めて『週刊少年ジャンプ』編集部を訪れたのは高校卒業の直前頃である。当時荒木は手塚賞に投稿しており選外佳作は受賞していたものの、佳作では一行ほどの選評しか得られず自らの作品の欠点が分からずにいたという。そのため、そこを直接はっきり聞きたいと考え上京した。当時はまだ東京・仙台間に新幹線が開通しておらず、片道4、5時間かけて通っていた。
その際のことについて、当時荒木は原稿をホワイトで修正するということを知らなかったために描いた線がはみ出ており、いきなり「おい、ホワイトしてないだろ」と怒られたと語っている。また、編集者が扉絵だけ見て「読みたくない」と言い出すこともあったという。
デビュー後は仙台在住のまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。『魔少年ビーティー』は連載候補に挙がってから実際に連載開始するまで1年半ほど間が空いたが、その間にも様々な作品を描き溜めており不安はなかったという。しかし、当時は一人で描いていたため技術的に週間連載ができるか自信がなく、その方が不安だったとのこと。
当時の担当編集者であった椛島良介とは、よく映画や漫画以外の本についての話をしていた。当時の荒木はそういうことを全く知らず、「えっ、それって何ですか?」と聞くと、「なんだよ、あの本読んでないの?今日、買って読みなさいよ。読まなきゃプロになれないよ?」とプレッシャーをかけられ、とにかく本を読まなければだめだ、という雰囲気があったという。すすめられた本を読んだ後、それを椛島と批評し合っていた。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 当時の担当編集者であった椛島良介とは、よく映画や漫画以外の本についての話をしていた。当時の荒木はそういうことを全く知らず、「えっ、それって何ですか?」と聞くと、「なんだよ、あの本読んでないの?今日、買って読みなさいよ。読まなきゃプロになれないよ?」とプレッシャーをかけられ、とにかく本を読まなければだめだ、という雰囲気があったという。すすめられた本を読んだ後、それを椛島と批評し合っていた。
また、荒木は当時の状況について、「ぼくの作品はかならずしも健全な内容じゃないので、ひどく否定されることもありました。たとえば『魔少年ビーティー』のときは、タイトルに「魔少年」と付いているだけでダメだと言われました」と語っている他、後に連載する『ジョジョの奇妙な冒険』についても「少年マンガで外国の主人公はありえない」と言われたという。一方で、「やったことないんだから、ひとまずやってみようじゃないか」と考えてくれる人もいたという。
上京後は『バオー来訪者』を短期連載。この頃から、多種多様なキャラクターが互いの強さを競い合う、バトル系の作品を中心に描くようになる。荒木は「筋肉ムキムキのヒーローだけが強いわけではないだろう」「貧弱な肉体の持ち主でも、自身の弱さを突きぬければ、ヒーローに勝てるかも知れない」と思っていたという。現実的な理由としては、先輩漫画家たちが描いていた表現の隙間を狙わなければ生き残れないという状況も影響していた。
1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。この期に確立した能力バトルという作風は、その後の『週刊少年ジャンプ』の主流となっている他、「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されるなど、その後の漫画界に多大な影響を及ぼすことになる。
2003年には自身初となる個展「JOJO IN PARIS」をフランス・パリで開催した。
2004年(平成16年)からは『ジョジョの奇妙な冒険』Part7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 2003年には自身初となる個展「JOJO IN PARIS」をフランス・パリで開催した。
2004年(平成16年)からは『ジョジョの奇妙な冒険』Part7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。
荒木は月刊ペースでの連載について、ページ数の制限によるストレスが無くなり物語のリズムも良くなったと語っている。1話当たりのページ数を増やした理由は「ダイナミックな画面表現と、繊細な心理描写をかねそなえた作品を描こう、と思ったから」であり、週刊連載ペースのコンパクトな起承転結の繰り返しではなく、もっと大きな物語を描きたくなったという。
また移籍により倫理性に関わる描写も変化した。荒木は「40歳をこえて、倫理性にまつわる表現も描かなくちゃダメだろう」「ターゲットを若い読者だけに限定していたら、作品が窮屈になるんじゃないかな」と思ったと述べている。
2007年、日本人漫画家として初めてアメリカの生物科学誌『Cell』の表紙を飾った。
2009年、フランス・ルーヴル美術館「模型の展示室」で開催された企画展「小さなデッサン展 漫画の世界でルーブルを」に、荒木の原画が展示された。本展を記念して、「Rohan au Louvre(岸辺露伴 ルーヴルへ行く)」が発表され、2010年3月19日発売の『ウルトラジャンプ』4月号より3号連続で連載された。
また、『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)3月4日発売の『スティール・ボール・ラン』20巻にて、通算100巻を達成した。同年11月15日より京都国際マンガミュージアムで開催された「マンガ・ミーツ・ルーヴル――美術館に迷い込んだ5人の作家たち」にて、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』のカラー原画約20枚が展示され、好評により横浜・BankART Studio NYKでの巡回展も行われた。
2011年(平成22年)、荒木は画業30周年を迎えた。また翌2012年に『ジョジョ』シリーズが連載開始25周年を迎えることもあり、4月1日に荒木の公式サイト「JOJO.com」がオープンした。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 2011年(平成22年)、荒木は画業30周年を迎えた。また翌2012年に『ジョジョ』シリーズが連載開始25周年を迎えることもあり、4月1日に荒木の公式サイト「JOJO.com」がオープンした。
4月19日発売の『ウルトラジャンプ』5月号にて『スティール・ボール・ラン』が完結した。5月19日発売の同誌6月号より、『ジョジョ』シリーズのPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始した。
8月23日発売の『SPUR』10月号にて、グッチとコラボした漫画『岸辺露伴 グッチへ行く』が掲載された。荒木が女性ファッション誌で作品を発表するのはこれが初であり、同誌には荒木のスペシャルインタビューも収録された。また9月17日よりグッチ新宿で、『岸辺露伴 グッチへ行く』の原画展「岸辺露伴 新宿へ行く」が開催された。
2012年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より25周年を迎えた。
シリーズ25周年を記念して、せんだいメディアテーク6階にて7月28日から8月14日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」が、六本木・森アーツセンターギャラリーにて10月6日から11月4日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 東京」がそれぞれ開催された。また、7月5日に行われた「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会では、『ジョジョの奇妙な冒険』のテレビアニメ化が発表されるなど、25周年を記念した企画が続々と実施された。
同年、荒木が表紙を描き下ろしたモードファッション誌『SPUR』2011年10月号が第3回雑誌大賞グランプリを獲得した。また12月22日発売の『SPUR』2013年2月号にて、『岸辺露伴 グッチへ行く』に続くグッチとのコラボ漫画第2弾となる『徐倫、GUCCIで飛ぶ』が別冊付録として封入された。
また10月15日に発売されたAERA10月22日号の表紙を荒木が飾った他、フェリシモが主催する「サンタクロース大賞 2012」にノミネートされた。 | 525 |
荒木飛呂彦 | また10月15日に発売されたAERA10月22日号の表紙を荒木が飾った他、フェリシモが主催する「サンタクロース大賞 2012」にノミネートされた。
2013年、1月初旬から2月中旬にかけて、グッチのクリエイティブディレクターであるフリーダ・ジャンニーニとのコラボが全世界70店舗を超えるGUCCI直営ショップのウィンドウにて展開された。また6月28日から7月14日の日程で、イタリア・フィレンツェのGUCCI Show roomにて「荒木飛呂彦原画展 in フィレンツェ」が開催された。
10月12日に東北大学で行われた交流イベント「ホームカミングデー」の仙台セミナーで講演を行った他、11月2日に東京大学本郷キャンパスにて「漫画のセリフについて」の公開講座を実施した。
12月5日、第17回文化庁メディア芸術祭のマンガ部門大賞に『ジョジョリオン』が選出された。
2014年、9月19日発売の『ウルトラジャンプ』10月号に『魔少年ビーティー』の復刻版が付属された。刊行30周年を記念し、絶版となっていたジャンプコミックス版が再現された。
2015年、4月17日には荒木による『荒木飛呂彦の漫画術』が発売された。絵を描く際に必要な「美の黄金比」やヘミングウェイに学んだストーリー作りなど、具体的な方法論を交えながら創作術を解説した作品となっている。また同年には短編『死刑執行中脱獄進行中』が森山未來主演で舞台化された。
2016年、7月22日から9月25日の日程で六本木にて開催された「ルーヴル美術館総監修 特別展」に参加した他、10月より岩手各地で開催された「希望郷いわて国体(第71回国民体育大会)」と「希望郷いわて大会(第16回全国障害者スポーツ大会)」を記念したイラスト「いわて人間讃歌」を描き下ろした。同年には、ジョジョシリーズ第4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化も決定し、翌2017年に公開された。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 2016年、7月22日から9月25日の日程で六本木にて開催された「ルーヴル美術館総監修 特別展」に参加した他、10月より岩手各地で開催された「希望郷いわて国体(第71回国民体育大会)」と「希望郷いわて大会(第16回全国障害者スポーツ大会)」を記念したイラスト「いわて人間讃歌」を描き下ろした。同年には、ジョジョシリーズ第4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化も決定し、翌2017年に公開された。
また、同年12月19日発売の『ジョジョリオン』14巻をもって『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの累計発行部数が1億部を突破した。荒木は「『ジョジョ』の連載が始まったのが1987年。それから30年をまさに迎えようかというタイミングで1億冊を突破したということは誠に嬉しい事です。そして、30年の間にこの作品とキャラクターたちを、手にとってきてくれた読者の方々には感謝しかありません。けど、これがゴールではなく、30周年となる2017年も様々な企画が盛り沢山なので、これから先も『ジョジョ』を楽しんでもらえればと願っています。」とのコメントを発表した。
2017年、8月12日から9月10日までの30日間にわたり、『ジョジョ』シリーズ30周年を記念して「ジョジョフェス in S市杜王町」が宮城県仙台市で開催された。イベントのメインコンテンツとして「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017」が実施され、第1部から第8部まで200枚以上のカラー原画と180枚以上のモノクロ原稿などが展示された。
2018年、『ジョジョ』シリーズ30周年の集大成として、8月24日から10月1日の日程で東京・国立新美術館にて展覧会「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」が開催された。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 2018年、『ジョジョ』シリーズ30周年の集大成として、8月24日から10月1日の日程で東京・国立新美術館にて展覧会「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」が開催された。
国立美術館で漫画家の個展が開催されるのは手塚治虫以来28年ぶり2人目であり、現役の漫画家としては史上初の快挙であった。同館の主任研究員・教育普及室長の真住貴子は、「国立の美術館で展覧会をやるにふさわしい実力をお持ちだということは申し上げる必要もないと思うが、これまでの荒木先生の展覧会とは違った切り口で漫画の新しい可能性をお見せできる展覧会になるというのが最終的な開催の決め手」とコメントした他、当時の館長・青木保は「日本のアニメやゲーム、漫画というと世界から引きがあり、ヨーロッパやアジア、南米、ロシアなどからも来てほしいと要望があり、大変ありがたいことだと思っています。そういう状況の中で『荒木飛呂彦原画展』を催すことができて本当に嬉しく、光栄に感じております」と述べた。
6月21日には国立新美術館にて記者発表会が行われ、荒木も登壇した。舞台上では「『ジョジョ』の原画展については、漫画界に感謝をしたいと思います。手塚(治虫)先生をはじめ、先輩方の作品や助言がなければ『ジョジョの奇妙な冒険』は影も形もなかったと思います。また私より年下の漫画家のみなさんが盛り上げていただいているので、今回の国立新美術館での開催があると思います。みなさまありがとうございます」と感謝を述べた他、自らの口で『ジョジョ』シリーズPart5にあたる『黄金の風』のテレビアニメ化を発表した。
また、11月25日から2019年1月14日までの日程で大阪文化館・天保山にて、2020年1月25日から3月29日の日程で長崎・長崎県美術館にて、2020年4月25日から5月23日の日程で石川県・金沢21世紀美術館にて巡回展がそれぞれ開催された。
2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピック競技大会では、公式アートポスターの制作を担当。荒木はパラリンピックをテーマとした「神奈川沖浪裏上空」という作品を発表した。
同年、「荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!」と銘打たれた、荒木自らが審査員を務める『ウルトラジャンプ』(集英社)のマンガ賞「荒木飛呂彦漫画賞」が開催された。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピック競技大会では、公式アートポスターの制作を担当。荒木はパラリンピックをテーマとした「神奈川沖浪裏上空」という作品を発表した。
同年、「荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!」と銘打たれた、荒木自らが審査員を務める『ウルトラジャンプ』(集英社)のマンガ賞「荒木飛呂彦漫画賞」が開催された。
8月19日発売の『ウルトラジャンプ』9月号にて『ジョジョ』シリーズPart8の『ジョジョリオン』が完結した。
2022年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より35周年を迎えた。
3月19日には、35周年を記念して1冊全てが『ジョジョ』で構成された「JOJO magazine(ジョジョマガジン)」が刊行。荒木が自らカバーを書き下ろした他、「岸辺露伴は動かない」の71ページにおよぶ新作読切、新作小説、最新作までを網羅したアニメ特集、スピンオフドラマ「岸辺露伴は動かない」シリーズで岸辺露伴役を務めた高橋一生のインタビューなどが収録された。12月19日には2号目となる「JOJO magazine 2022 WINTER」が発売された他、『ジョジョ』シリーズのテレビアニメが10周年を迎えたこともあり、様々な記念企画が実施された。
同年、朝日新聞社主催の第26回手塚治虫文化賞・マンガ大賞最終候補9作品に『ジョジョリオン』がノミネートされた。
また12月19日に発売された『ウルトラジャンプ』2023年1月号にて、『ジョジョ』シリーズPart9にあたる『The JOJOLands』が発表された。翌2023年2月17日発売の同誌3月号より連載開始。
荒木は白土三平、横山光輝、梶原一騎を自身の選ぶ3大漫画家として挙げている。中でも横山については、特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 荒木は白土三平、横山光輝、梶原一騎を自身の選ぶ3大漫画家として挙げている。中でも横山については、特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。
同世代であり、自身が漫画家を本気で目指すきっかけにもなったゆでたまごについて、バトルの作り方や世界観、戦っていく構図などで影響を受けているという。また、「同世代ということで、すごく目標というか励みになっている。それって漫画家として幸運だなって。目標がないまま漫画を描いていないという意味で、幸せなことだと思います」と感謝の気持ちも述べている。
他には手塚治虫、藤子不二雄、ちばてつや、大友克洋などの作品を読んでいる。自身の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズについて、荒木は「彼らと似ていないもの」を描くという発想で生まれたものだと語っており、「今思えば、70〜80年代の漫画家は天才たちだらけ。また、音楽やファッションでも新しいものがどんどん生まれて、刺激的でした。あの時代にデビューし『ジョジョ』を描き始めることができたのは、よかったかもしれない」と振り返っている。
「良い作品には順位はつけられないが」と前置きしつつ、「とにかく次が読みたくて本屋に走った(または何があろうと家に帰り、テレビの前に座った)作品ベスト10」として、『ゴルゴ13 芹沢家殺人事件』、『虹をよぶ拳』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ドラゴンボール』、『荒野の少年イサム』、『どろろ(アニメ)』、『賭博黙示録カイジ』、『バビル2世』、『ナニワ金融道』、『北斗の拳』を挙げている。
サスペンスの教科書として、ロアルド・ダール作『チョコレート工場の秘密』を挙げている。荒木は「ワクワク感とスリルと語り口が大好きで、マンガ家になる時は“こういうマンガを描きたい”と思ってましたね。とにかく読んでいる最中ドキドキしっぱなしで、“次どうなるんだよ!”っていう」と語り、デビュー前の荒木にとっての目標であり基本だったとしている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | サスペンスの教科書として、ロアルド・ダール作『チョコレート工場の秘密』を挙げている。荒木は「ワクワク感とスリルと語り口が大好きで、マンガ家になる時は“こういうマンガを描きたい”と思ってましたね。とにかく読んでいる最中ドキドキしっぱなしで、“次どうなるんだよ!”っていう」と語り、デビュー前の荒木にとっての目標であり基本だったとしている。
スティーヴン・キング作『ミザリー』も同じくサスペンスの教科書だとしている。荒木は「作家が熱狂的なファンに監禁され、小説を書かされるという話なんですけど、主人公がどんどんどんどん追いつめられていく過程が本当に面白い。こういうパターンの場合、“逃げればいいじゃん”って読者に思わせちゃダメなんですよね。そう思わせないための演出というか手続きが、絶妙なんですよ」と語っており、「僕が思うサスペンスの、完璧な形ですね。好きだからというより、勉強のために今でも読み返しています」と絶賛している。
また、アーサー・コナン・ドイル作『シャーロック・ホームズ』シリーズからの影響も大きい。荒木も少年時代に読んでいなければ漫画家になっていたか分からないし、『ジョジョの奇妙な冒険』は描けていなかったと思うと語っており、「魅力的なキャラクターを作り上げることの重要性」「物語の作り方」などを学んだとしている。
特にホラー映画から影響を受け、2011年には自身初となる映画評論集『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を、2013年には『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』を刊行している。
映画俳優で監督であるクリント・イーストウッドの大ファンを公言し、自身の作品に多大な影響を与えたと明かしている。具体的は、『ジョジョ』シリーズに登場する空条承太郎のモデルとなっており、「イーストウッドのように立っているだけで絵になることを目指したキャラクターなんです」と語っている。イーストウッド作品の特徴については「社会からはみだす男の美学」があることだとしており、「はみだし者が孤独を抱えながら戦う」というのは『ジョジョ』シリーズ全体を通じた要素になっている。2012年には対談を果たした。
また『ジョジョ』シリーズに登場するディオ・ブランドーを生み出す際に、『ブレードランナー』に登場するレプリカントのロイ・バッティ(演:ルトガー・ハウアー)から影響を受けたとしている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | また『ジョジョ』シリーズに登場するディオ・ブランドーを生み出す際に、『ブレードランナー』に登場するレプリカントのロイ・バッティ(演:ルトガー・ハウアー)から影響を受けたとしている。
荒木は自身の絵柄についてルネッサンス美術、特にミケランジェロに影響を受けたと公言しており、「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。また『ヴォーグ』などのファッション雑誌が好きで、1980年代のベルサーチやフランコ・モスキーノ(英語版)などが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている。色は紫を好み、カラーイラストでも多用される。絵柄についてはファッション・イラストレーターのアントニオ・ロペス (イラストレーター)(例)やSF・ファンタジー画家のフランク・フラゼッタ、ヨーロッパの漫画家エンキ・ビラルやユーゴ・プラット(英語版)などからの影響も指摘されている。また、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、車田正美のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている。
また、独特のカラーリングについては「ポール・ゴーギャンが砂浜の色をピンクに塗っていたのが、子供のころから魅力的だと思っていた。何色で塗ってもいいんだ、と」と語っている。
荒木はいつも仕事中に洋楽を聴いているという大の洋楽好きとして知られ、洋楽ならばジャンルを問わず何でも聴くと発言している。また、代表作『ジョジョの奇妙な冒険』内ではキャラクター名やスタンド名などの大半を洋楽の楽曲名から引用している。音楽を聴きながら作品を描く理由としては「音楽をかけるのはミュージシャンの考えやファッション、時代に対する姿勢だとかを隣において、感じるためでもあるんです」「ミュージシャンやアーティストたちが、苦しさとかトラブルを抱えながら創作した音楽を届けてくれているんだと思うと、励みになるんですよ」と述べている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | なお、生涯のベストアルバム5選には『危機(イエス)』『レイト・フォー・ザ・スカイ(ジャクソン・ブラウン)』『ヒステリア(デフ・レパード)』『フィジカル・グラフィティ(レッド・ツェッペリン)』『ビヨンド・ザ・ミズーリ・スカイ(チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー)』を、好きなジャケットデザイン5選には『危機(イエス)』『不死蝶(サンタナ)』『ブラインド・フェイス(ブラインド・フェイス)』『ブレックファスト・イン・アメリカ(スーパートランプ)』『アンダーカレント(ビル・エヴァンス&ジム・ホール)』をそれぞれ挙げている。
荒木は洋楽アーティストの中でも特にプリンスのファンであることを公言しており、好きな理由として、「動かせない運命の流れみたいなものがアルバムの中にあり、聴いていて完璧な世界に浸れる」という点を挙げている。他にも「プリンスにはセクシーさを出している曲がありますけど、『前向きに生きていこう』っていう生命力のメッセージがあるんですよね。ちょっとしたゲスさも入ったりもするけど、それがまたいいんです」、「いつも創作に勇気を与えてくれる人です。心強いですよ。過去の作品を聞くと、いつも迷った時に『プリンスだったら、つまんないことにこだわらないだろうな』とか『そこを突破していくだろうな』っていうことを思い出すんです」とも語る。
荒木の作風は、哲学や経済そして自然科学などを上手い具合に取り入れながら、今われわれが生きる世界に通じる“同時代性”や“現実感”を加えてきた、とも評される。荒木自身も「絵を描くことは、ある種、化学実験。絵を描きながら学んでいる部分もあると思います。自然科学や物理学、そして哲学や経済、そういったものが全部一体化した思想や理論の中で『ジョジョ』の世界を描いていくことが理想です」と語っている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 荒木の作風は、哲学や経済そして自然科学などを上手い具合に取り入れながら、今われわれが生きる世界に通じる“同時代性”や“現実感”を加えてきた、とも評される。荒木自身も「絵を描くことは、ある種、化学実験。絵を描きながら学んでいる部分もあると思います。自然科学や物理学、そして哲学や経済、そういったものが全部一体化した思想や理論の中で『ジョジョ』の世界を描いていくことが理想です」と語っている。
評論家の加藤幹郎は、高度な技術で過去の作品の引用を行うその作風から荒木をマニエリスムの作家と評している。美術史学者の辻惟雄は荒木の画風について、「マンガ特有の誇張というものは、日本の絵巻物の頃からあって、今も変わらない傾向があります。その中でも『ジョジョの奇妙な冒険』は極点まで行った観があるね。最初はマッチョな肉体を描くアメコミの影響が強いように見えたけど、巻を追うごとに奇想になってきますね。空想力が豊かで、密度が凄い」と評している他、「バラエティの豊富さは北斎を思わせますが、それだけともちょっと違う。『ジョジョの奇妙な冒険』は形を極端に歪めたり、誇張したり、マニエリスムのようでもある。立体的で幻想的な描き方は、曾我蕭白に近いものを感じますね」とも指摘している。
一方で連載開始時から「人間讃歌」をメインテーマとして掲げる『ジョジョの奇妙な冒険』は「ある意味で少年漫画の王道」と評されており、荒木自身「昔からある少年漫画の伝統を受け継いでいるつもり」と話している。しかし、荒木は「子ども向けに描いたつもりはない」とも発言している。
また荒木が影響を受けた横山光輝と梶原一騎から、梶原的なマッチョイズムと、横山の歴史マンガなどにみられる盤上の駒を淡々と眺めているような冷めた視線という、相反する成分が共存した作風であると指摘する意見もある。 | 525 |
荒木飛呂彦 | また荒木が影響を受けた横山光輝と梶原一騎から、梶原的なマッチョイズムと、横山の歴史マンガなどにみられる盤上の駒を淡々と眺めているような冷めた視線という、相反する成分が共存した作風であると指摘する意見もある。
荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない。この変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている。
台詞回しはしばしば翻訳調と言われており、荒木も「本を読んだ影響が残っているんじゃあないか」と話している。また、この「じゃあないか」という口調も「じゃないか」に「あ」を加えた荒木独特のものであり、「じゃあない」、「じゃあないぜ」、「じゃあないのォ?」といったパターンも確認されており、作中の人物の特徴的な言い回しはネット上で改変されて使われることも多い。また、緊迫シーンなどで「ゴゴゴゴゴゴ・・・」「ドドドドドド・・・」や「ドォーン」といった(物理的ではなく)心理的な状態を表現する独特の擬音が使われており、これらはサスペンス映画で使われるような効果音を漫画にも欲しいと思ったことが発想の元になったと述べている。荒木の音楽好きは広く知られており、「ズギュウン」や「ズッギャーン」など、楽器の音をイメージした擬音が多い。なお、登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは車田正美の影響である。
荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書 」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。また、悪役は「前向きな性格にする」と決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書 」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。また、悪役は「前向きな性格にする」と決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている。
『ジョジョの奇妙な冒険』には登場人物に腰の極端なひねりや捻転、奇矯な手足の動きなどを加えた独特のポージングが頻出する。これらのポーズは、荒木が20代のときに『北斗の拳』『リングにかけろ』『キャプテン翼』などの強い個性を持つ当時の『ジャンプ』連載陣の中で自分の独創性を模索していた頃、イタリアの彫刻芸術からヒントを得て作り上げられたものだという。2013年に行われた第88回箱根駅伝では、順天堂大学アンカーの選手が、ゴールの際ジョジョ立ちをして話題になった。エゴン・シーレやグスタフ・クリムトなどの、敬愛する画家が描いた人物そのままのポーズや顔を描くことも少なくない。
作中の「波紋」(呼吸を中心とする特殊な身体技法)や「スタンド」の能力表現は、同郷の先輩である大友克洋が超能力の表現に使っていた「歪む背景」が、不可視であることに不満を持ったことが発想の元となったという(また「スタンド」に関してはつのだじろう『うしろの百太郎』にも言及している)。なお大友の作品に関しては、空間表現や緻密な描写などが大いに作画の勉強になったとも語っている。
荒木は漫画家を始めた当初は、若さゆえほかの漫画家に闘争心を燃やすあまり徹夜することも多かったというが、「結局最後は自分との闘いになる」との理由で考えを変え、『ジョジョ』連載くらいからは、基本的に徹夜をせずに毎朝10時に起床して23時まで執筆する生活とし、日曜日はネーム、月から木まで作画、金、土は休養(取材)というサイクルの執筆を続けている。荒木のこのような規則正しい生活は『週刊少年ジャンプ』で『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を長寿連載していた秋本治を見習ってのことで、締め切りも今まで破ったことがないという。
愛用している画材はカートリッジ式の筆ペン。仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 愛用している画材はカートリッジ式の筆ペン。仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという。
2012年時点でも荒木は手書きにこだわっており、机の上にはパソコンやモニタなどは置いていないが、画材には強いこだわりはなく、ぺんてるの筆ペンとゼブラのGペン、シャープペンシル、下書き用に青鉛筆(キャラクターを描く際のアタリを描くことに用いる)があれば十分だという。またペン入れには開明書液を使っているほか、30年前に父親が製作した卓上製図板を現在でも使い続けている。下書き前には、青鉛筆をカッターナイフで削ることから始める。これは漫画家デビューの時から行なっている行為らしく、「儀式」のようなものであると語る。この行為から、執筆作業に対しての気持ちが入っていく面もあるという。
手書きについては、「例えば料理をしているときに『この味なんだろう』っていう、驚きがあったりするじゃないですか。あれが絵の中にあるんですよ。手で描いてるとね、『おお〜!』って思う時があって、あれが好きなんですよ。その連続というのが手描きの魅力で」と語っている。デジタルツールを用いたこともあるが、下手なせいか時間がかかってしまい手で描いた方が速いという。
荒木は月刊連載に移行した理由について、「週刊連載が量的にきつくなった」と語っており、「若いころは一晩寝れば治っていたんですけど、治らなくなったりしていますし。関節とかを悪くして、それを我慢してやっていると、どんどん悪化していくんですよ」と身体が衰えてきていることを明かしている。
単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『ユリイカ』で10年越しにインタビューを行った斎藤環は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか......」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている。
体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。 | 525 |
荒木飛呂彦 | 体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。
太字は連載作品。●:『ゴージャス☆アイリン』収録、○:『死刑執行中脱獄進行中』収録、◎:『岸辺露伴は動かない』収録、☆:単行本未収録。
発行は注記のない限り全て集英社。 | 525 |
あろひろし | あろ ひろし(1959年5月15日 - )は、東京都出身の日本の漫画家、同人活動家。
東京都立小岩高等学校およびデザイン学校を卒業、自画像は眼鏡をかけたワニで、初期の作品群『アリゲーター』シリーズの主人公としても使用されている。
20歳の時に初めて漫画家を志し、絵を描き始める。1980年、『スタートラブルスペコマE-1』で第13回赤塚賞に準入選する。デビュー後、秋本治のアシスタントを1年半務める。
独立後は人気が伸び悩み、加藤唯史のアシスタントとなる。桂正和の代原として『とっても少年探検隊』でタッチを変えて復活し、『月刊少年ジャンプ』に移行して『優&魅衣』の連載を開始。「スタヂオぱらのい屋」開設後は、集英社を含む複数の出版社で作品を発表しつつ、今日に至る。
1995-1996年頃、『ヤングアニマル』(白泉社)での代理原稿掲載時にばたぁ健(ばたぁけん)、片今羅人(かたいまらひと)といった別名義を使用したことがある。
上記以外の代表作として『ふたば君チェンジ♡』『ハンター・キャッツ』などが挙げられる。また、ライトノベル『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』(秋津透著)の挿絵も第9巻まで担当している。
作風としてはSF色の強いギャグ漫画が持ち味だが、シニカルでブラックな笑いや、ほのぼのとしたユーモアなどバラエティに富む作品が多い。『優&魅衣』の完結と共に「ギャグ漫画家」を卒業し「ギャグも描く漫画家」となったと宣言し、以降はシリアスなSFやホラーなども積極的に手がけるようになる。強い影響を受けた作家として、星新一の名を挙げている。
自らを「比較的短い作品」向きのタイプと評し、それを裏付けるように読み切り作品の発表が多く、連載も長く続くことは比較的少ない。連載期間の最長記録は、長らく『ふたば君チェンジ♡』の6年4ヶ月であったが、『ボクの社長サマ』の連載が8年10ヶ月続いた事によって更新された。
執筆の際は、ネームを作らずに白紙に直接描き進めていくため、物語の流れや新登場するキャラクターの設定が当初の予定から大きく変化することがあるという。作者自身が単行本などで直接言及した例として、『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』の「加世」、『ソリャナイゼみるきぃライフ』の下着ドロボウ、『桃色物件』の「実輪音子」などが挙げられる。 | 526 |
あろひろし | 執筆の際は、ネームを作らずに白紙に直接描き進めていくため、物語の流れや新登場するキャラクターの設定が当初の予定から大きく変化することがあるという。作者自身が単行本などで直接言及した例として、『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』の「加世」、『ソリャナイゼみるきぃライフ』の下着ドロボウ、『桃色物件』の「実輪音子」などが挙げられる。
巨漢として知られ、各方面でしばしばネタにされる(自らネタにすることもある)。また師匠の秋本曰く、本名は珍しい名前とのこと。
デビュー当時からコミックマーケットにも積極的に参加しており、第28回コミックマーケットにおいてはカタログの表紙イラストを手がけている。本業の漫画作品に見られる独創的な発想力は、同人活動においても、同人誌の内容はもちろんグッズや販売形態にまでも遺憾なく発揮されている。
現在は、デジタルアーツ東京で講師を務めている。2006年頃に眼の病気を患い、それ以来は片眼に近い状態で漫画を描いている。長らく独身であったが、2007年ごろに結婚した。
日付は初版発行日。
なお、芳文社発行の『ボクの社長サマ』『よめヨメかなたさん』『妖こそ!うつつの分校』以外の単行本はすべて既に絶版となっているが、Amazon Kindle、クリーク・アンド・リバー、ビーグリーより電子書籍が再版されているものもある。 | 526 |
飯森広一 | 飯森 広一(いいもり こういち、1949年7月4日 - 2008年5月14日)は、日本の漫画家。鎌倉学園高等学校、専修大学卒業。
宮崎県児湯郡西米良村生まれ。都城市育ち。動物漫画を主に描く漫画家で、代表作は『レース鳩0777』など。晩年は活動をほぼ休止していた。
2008年5月14日、脳血栓のため58歳で死去。 | 527 |
五十嵐浩一 | 五十嵐 浩一(いがらし こういち、1956年8月9日 - )は、日本の漫画家。石川県金沢市出身。明治大学卒業。代表作として『ペリカンロード』や『めいわく荘の人々』などがある。 | 528 |
池上遼一 | 池上 遼一(いけがみ りょういち、男性、1944年5月29日 - )は、日本の漫画家。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務めており、劇画家と紹介される事もある。
福井県越前市(旧:武生市)出身。小学生の頃から貸本漫画に慣れ親しむ。中学卒業後、大阪に移り看板屋の仕事をしながら漫画を描き始める。1962年、漫画短編誌『魔像』(日の丸文庫)に掲載された「魔剣小太刀」で貸本漫画家デビュー。岩井しげおらのアシスタントをしながら漫画を描くが生活苦で断念、看板屋の仕事に戻る。1966年、投稿した読切作品「罪の意識」が『ガロ』に掲載され、これを読んだ水木しげるが青林堂の長井勝一にスカウトを依頼。水木のアシスタントになるべく上京する。一年半ほど水木のアシスタントとして働いた後メジャーデビューし、以降、劇画漫画の第一線で活躍中。
代表作に『男組』など。貸本時代や『ガロ』に寄稿していた頃はオリジナル作品を描いていたが、メジャーデビュー後は作品のほとんどが原作者付きである。『HEAT -灼熱-』で2001年度、第47回小学館漫画賞受賞。
2023年、第50回アングレーム国際漫画祭で、特別栄誉賞を受賞。
※ 武論尊と史村翔は同一人物のペンネーム | 529 |
池田理代子 | 池田 理代子(いけだ りよこ、1947年12月18日 - )は、日本の漫画家・劇画家、声楽家・オペラ歌手、歌人。大阪府出身、千葉県柏市育ち、東京都渋谷区在住を経て現在は静岡県熱海市在住。血液型はAB型。
大阪府大阪市東淀川区上新庄生まれ。大阪市立新庄小学校、柏市立柏第二中学校、都立白鷗高校卒。東京教育大学文学部哲学科中退。
武家の出身で職業軍人の娘だった母と、離婚歴のある父との間に長女として生まれた。教師になりたかった母の教育熱のお陰で、多くの習い事(歌、書道、琴、ピアノ、声楽、茶道、絵画、そろばん、華道、英語など)をさせてもらった。一方で、空想癖と動作の緩慢、加えて容貌へのコンプレックスもあって自分独りの世界にこもった。自己主張に目覚めるのは、言葉も気候も景色も違う関東に転居してからという。中学生になって日記を書き始めると「物語」を書くことにのめり込み、創作民話、童話、恋愛小説などを節操なく書いた。大学は哲学科に進んだが、物語をかくことは終生やめられそうになかった。
学者を志し勉強していたが、1年で父親からの金銭的援助が打ち切られてしまうために、生活の糧として漫画を描き始める。この間、日本共産党系の日本民主青年同盟(民青同盟)に加盟して学生運動も経験する。出版社へ持ち込むが、技術の未熟さを指摘され、貸本屋向けの出版社で執筆を始めた。この下積み時代に、原稿料をもらうまで1個5円の麩(圧縮麩)を2つ買って3日間過ごした事もあった。2〜3年の下積み生活の後、出版社からスカウトがかかり、1967年に『バラ屋敷の少女』でデビュー。
1972年に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』が空前のヒット。石膏デッサンや油絵など本格的な絵の勉強をしながら連載を続けた。執筆のきっかけとなったのは、高校2年生の夏に読んだツヴァイクの『マリー・アントワネット』で彼女の魅力を知り、書きたいと思っていたことにある。多忙のため大学に戻れず、入学から7年で中退を余儀なくされたが、2年間連載された同作品で少女漫画家としての人気は不動のものとなった。1975年からは『オルフェウスの窓』の連載を開始。1980年、同作品で第9回日本漫画家協会賞優秀賞受賞。 | 530 |
池田理代子 | 1984年に、不倫相手の松谷蒼一郎との会話のテープを報道社に送り付け、スキャンダルに。この不倫スキャンダルは当時、週刊誌やテレビで大々的に取り上げられる。
40歳から更年期障害に悩まされ、残りの人生について考える機会が増えた池田は、音楽への道に進むかどうか5年間の思案の後、45歳で音大受験を決意。1995年、東京音楽大学声楽科に入学。ピアニスターHIROSHIとコンサートを開くなど活動した。同年、当時は日本銀行考査局長で後に大和総研副理事長になった賀来景英と再々婚して話題となった。1998年にはNHK「課外授業 ようこそ先輩」に出演し、母校の大阪市立新庄小学校にて聖徳太子をテーマに授業を行った。1999年に大学卒業。
以降、コンサート出演や講演などの活動を行う。2005年には、世界初録音9曲を含むマリー・アントワネット作曲の歌曲12曲を歌ったCDを発売した。また、同年より『朝日新聞』土曜日朝刊別冊「be on sunday・エンターテインメント」4コマ漫画と、コラム『ベルばらKids』を連載する。
2009年3月11日、フランス政府から、多くの日本人が『ベルサイユのばら』を通じてフランスの歴史、言葉、食文化などに関心を持ったとし、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章が授与された。
2009年からオペラ歌手の村田孝高と同居。2013年から共同でブログを運営している。
短歌にも親しんでおり、2016年8月20日、岡山市で開催された塔短歌会全国大会にゲストとして参加した際、同会への入会を表明した。2020年には第一歌集『寂しき骨』を出版。太平洋戦争に出征して奇跡的な生還を果たした父が大きなテーマとなっている。
20代の頃に自身の著作権管理会社を設立。実妹が社長を務め、自身は社員として給与を受け取っていた。音大に入学する際も、在学中の4年間は執筆活動が出来ないにもかかわらず、実妹が後押ししたために実現し、東敦子に師事した。その後、東京で借りていた自宅兼アトリエのマンションの家賃が大幅に値上がりするのを機に、先述の管理会社の退職金を用いて2017年に熱海のマンションに移住した。 | 530 |
池田理代子 | 20代の頃に自身の著作権管理会社を設立。実妹が社長を務め、自身は社員として給与を受け取っていた。音大に入学する際も、在学中の4年間は執筆活動が出来ないにもかかわらず、実妹が後押ししたために実現し、東敦子に師事した。その後、東京で借りていた自宅兼アトリエのマンションの家賃が大幅に値上がりするのを機に、先述の管理会社の退職金を用いて2017年に熱海のマンションに移住した。
2007年、池田は「ある漫画家」の作品で聖徳太子と蘇我毛人の「霊的恋愛」が描かれていることに違和感を覚えたと発言した。一方で自分は〔1991年 - 1994年連載の作品で〕「史実に忠実な聖徳太子を描いた」とも述べており、テーマも四天王寺から依頼されたもので、正史に沿うよう努めたという。この記事に対してインターネットを中心に反応があり、それがマスコミにも取りあげられた。『週刊新潮』は山岸凉子の『日出処の天子』(1980年 - 1984年連載)と比較し、類似点を確認する論者として唐沢俊一を挙げている。 | 530 |
池野恋 | 池野 恋(いけの こい、本名:玉山智恵美 1959年4月16日 - )は、日本の漫画家。岩手県稗貫郡石鳥谷町(現:花巻市石鳥谷町)出身・在住。代表作の『ときめきトゥナイト』はシリーズ累計で3000万部を超えるヒット作、他に『ナースエンジェルりりかSOS』など。1980年代から90年代にかけて少女漫画雑誌『りぼん』を代表する漫画家の一人として活躍、2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。血液型はB型。
祖父の影響で絵を描くことが好きになり、小学校1年生のときに手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んで漫画の面白さに衝撃を受ける。1972年、町立石鳥谷中学校に進学、2年生のときにコックリさんに似た大明神様という占いで「十九歳で漫画家デビューする」という答えが出たことを友達から聞き、意識する。1975年、県立花巻南高校に進学。高校2年のとき、漫画仲間の従姉妹が使っていた「樋口愛」というペンネームをもじってダジャレで「池野恋」というペンネームを決める。高校を卒業後は盛岡にある専門学校に1年間通い、簿記や和文タイプを習得する。専門学校の夏休みのときに8月31日締め切りの『りぼん』新人賞の募集要項をみて、はじめて漫画の投稿をしたところ準入選となり、1978年12月刊の『りぼん お正月大増刊』に掲載された「HAPPY END ものがたり」で19歳で漫画家としてデビューする。受賞の知らせを受けたときには既に就職が内定しており、1979年4月に岩手県連共済にタイピストとして就職、漫画家と兼業することを決める。しかし漫画のほうが忙しくなり、県連共済は3年勤めたところで辞めて漫画専業となる。
1982年、初の長編『ときめきトゥナイト』の連載を開始、ほぼ同時にテレビアニメ化もされ大ヒットとなる。1986年にお見合い結婚をし、翌年に子供が生まれたことを機に『ときめきトゥナイト』第1部の連載を終了する。その後、第2部、第3部と続き、1994年まで続く長期連載となった。
1995年からは秋元康原作による『ナースエンジェルりりかSOS』の連載を開始、テレビアニメ化もされた。
2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。2002年からは『ときめきトゥナイト』のセルフカバー作品『ときめきミッドナイト』の連載を開始、2009年に完結した。 | 531 |
池野恋 | 1995年からは秋元康原作による『ナースエンジェルりりかSOS』の連載を開始、テレビアニメ化もされた。
2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。2002年からは『ときめきトゥナイト』のセルフカバー作品『ときめきミッドナイト』の連載を開始、2009年に完結した。
2022年には『ときめきトゥナイト』の連載開始から40周年を迎え、2023年夏に新宿高島屋で「ときめきトゥナイト展」の開催が決定した。
漫画以外では、エフエム岩手のキャラクター「けんたくん」、岩手県警察で使用されていた雉の「ケイ太郎君」、地域安全イメージキャラクターの「安全のぞみちゃん」のデザインを担当した。
注記がないものはすべて集英社刊 | 531 |
日本の交通 | 旅客輸送シェア(2008年, 人キロ別)
貨物輸送シェア(2008年, トンキロ)
日本の交通(にほんのこうつう)では、日本の交通の歴史や状況などを述べる。現代日本は鉄道旅客輸送の比率が高く、旅客輸送キロ数は中国に次いで世界2位である。
蒸気機関や内燃機関が導入される以前において、日本の支配層は伝統・秩序の保持や、軍事的な理由などから交通を活発にすることにあまり好意的ではなかった。『日本書紀』においても、人々の往来を妨害する神(「荒神」)や地元の人々の存在が多数登場しており、大化の改新直後においても旅人がその地域の慣習を知らずに禁忌を犯したために地元の人々に処罰されていることが問題視されているなどの記載がある。
国家としての形態を成すために、日本においても都と諸国の国府を結ぶ主要道路は整備された。しかし、地方間の交通は農民の逃亡を助けることになるとして、主要官道を除いてほとんど整備されず、地方の川には年貢を都へ運ぶときだけ舟橋で渡せばよいと考えられていた(『日本紀略』の延暦20年5月甲戌条)。
江戸時代においても軍事的・政治的理由から、大きな河川には橋が架けられず、鎖国(海禁政策)や大船建造の禁(武家諸法度の一部)が出されたほか、江戸防衛を理由に街道筋で牛馬車など車両を使用した物流を禁じる方針を採った。このため日本の道路は鋪装されることがほとんどなく、車輪を用いた車は大八車といった荷物運搬用以外に用いられることは、牛車などしかなかった。馬の使用についても制限が加えられていた。物資の輸送には川舟や小型の商船が用いられており、大都市では水路が発達していた。
明治維新を経て、近代国家へと変貌していくにあたり、鉄道網を構築することが優先された。道路については後回しとなったが、第二次世界大戦後に本格的な整備が始まった。高度経済成長期には本格的な自動車専用道路である高速道路が、日本で初めて登場した(名神高速道路)。その後は1964年東京オリンピックや1970年大阪万博などを契機に新幹線や都市高速道路の整備がはじまり、現在では総延長14000kmの高速道路網が整備されており、新幹線についても整備が進んだ。しかしモータリゼーションの進展による中心市街地の衰退、老朽化など、さまざまな面でひずみも抱えている。 | 532 |
日本の交通 | 高度成長期までは日本の道路は劣悪であったが、1960年代以降盛んに道路建設が行われ、全国に高水準の道路整備が行き渡っている。高速道路の建設も進み、ほぼ全国に高速道路網が整備されている。安全対策の進展により交通事故による死者数は減少しているが、大都市圏を除けば一人一台の時代となり交通量が増え、高齢化や道路の老朽化も進み、新たな問題も生まれている。
バブル崩壊後の財政状況から道路整備予算は圧縮される傾向にあり、道路公団民営化や道路特定財源の一般財源化など制度面での変化が起こっている。
日本では都市部を中心に鉄道の需要が非常に大きく、大都市では地下鉄や通勤鉄道路線の整備が続いているが、地方では高度経済成長とモータリゼーションの進展以降、鉄道の利用割合は減少を続けており、廃止される路線が多い。一方で、地方部でも新幹線が整備されていない地域を中心に、新幹線を求める声は依然として大きい。
JR東海はリニアモーターカー方式である中央新幹線の整備を行うことを決定しており、日本の鉄道網の高速化はさらに進むことになる。
全国に空港の建設が行われ、空港の無い府県のほうが少数となっている。しかし地方の中小規模空港では多額の建設費をかけて開港にはこぎつけたものの需要不足に苦しむ空港も少なくない。21世紀になると成田国際空港は着陸料が高いために旅客需要を香港国際空港や仁川国際空港(韓国)などに奪われ、ハブ空港としての地位が低下した。
四方を海に囲まれ、日本には欠かせない運送手段であり、沿岸部に工業地域・工業地帯や人口が集中する理由でもある。2020年現在、日本には994の港湾があり、中でも重要度の高い港湾は国際戦略港湾(5港)国際拠点港湾(18港)に指定されている。また漁港は2790あり、中でも漁業の中心地かつ漁業の振興に欠かすことの出来ない漁港13港は特定第3種漁港に指定されている。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に貨物船や旅客船を運航してきた。現在、中東や東南アジアから石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航される。また、造船分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。 | 532 |
日本の交通 | 古代は律令制の整備に伴い、駅制が敷かれて都(畿内)と地方の間に道路が整備され、駅家が置かれた。これを古代官道というが、古代官道は地方広域区分である五畿七道に沿って整備された。
中世には都市の発達に伴い、年貢や物資の輸送の必要性から陸上交通が整備され、定期市なども開かれた。これに伴い、港や廻船も整備され、海上交通や海上輸送も行われるようになる。交通の要所には、幕府や戦国大名や有力寺社などが関を設置して、関銭が徴収された。
江戸を新たな中心として、日本各地で街道の整備が進められた。経済発展に伴って水上交通が盛んになり、海上航路の開発や運河の整備が行われた。
明治に入ると近代国家になるために交通網を整備する必要があった。整備を進めやすいために道路よりも鉄道を優先して建設された。鉄道の建設には多くの問題や妨害があったが、品川・横浜間で仮営業が始められた後、新橋・横浜間の営業が始められた。これを契機として、官民による鉄道の建設が進められた。都市内においては路面電車や地下鉄が整備され、馬車の走行のためにガス灯の設置や舗装が進められた。しかし、地方の道路整備は遅々として進まず、幹線道路でも自動車の通行に適さない区間が大量にあった。
第二次世界大戦中まで自動車用の道路の整備があまり進まず、国道にあっても舗装率は非常に低かった。経済復興のため、名古屋と神戸を結ぶ名古屋・神戸高速道路(現在の名神高速道路)が計画されたが、高速道路の計画をたてられる交通工学の技術者が日本にはいなかったために国際連合に要請して計画書が策定された。それが1956年に出されたワトキンス・レポートである。その中で「日本の道路は信じがたいほどに悪い。工業国にして、これほど道路を無視してきた国は日本の他にない」と述べられた。この報告書も後押しとなり、日本の道路整備は飛躍的に進んでいく。
鉄道においては高速化のために蒸気機関車から気動車(ディーゼルカー)への転換や電化が進められていった。
敗戦の影響で、航空機の開発を制限された日本では航空機製造の分野では振るわなかったが、戦前に活躍した技術者の多くが鞍替えすることで日本の自動車産業の成長を支えることとなった。 | 532 |
日本の交通 | 鉄道においては高速化のために蒸気機関車から気動車(ディーゼルカー)への転換や電化が進められていった。
敗戦の影響で、航空機の開発を制限された日本では航空機製造の分野では振るわなかったが、戦前に活躍した技術者の多くが鞍替えすることで日本の自動車産業の成長を支えることとなった。
1964年の東京オリンピックに合わせて、東名高速道路の建設や東海道新幹線の開通などが相次いだ。東京の首都高速道路も1962年に一部開通し、これは日本初の都市高速道路でもあった。1960年代後半頃からマイカーの普及が本格化し、自動車の台数が大幅に増加した(モータリゼーション)。その一方で、道路や自動車の利用環境の整備の遅れなどから交通事故も激増し、交通戦争と称された。暴走族の出現も問題となった。交通事故防止の対策として、横断歩道橋などの設置による歩車分離を実施していった。乗用車の保有台数は1971年(昭和46年)には1000万台に達した。
在来鉄道がモータリゼーション進展の波に押されて停滞する一方で、高速旅客鉄道である新幹線は日本の大動脈へと成長していく。自動車と航空旅客輸送の間を埋める日本の新幹線の成功により、停滞傾向にあった鉄道を見直す機運が高まり、ヨーロッパやアジアの国々にも高速旅客鉄道を登場させる動機となった。
資源の多くを海外に頼る日本では、戦前から造船技術が発達し、戦後も大型タンカーなどの建造が活発に行われ、鉄鋼業とともに日本の経済と物流の一翼を担った。空港の整備が進められ、航空輸送が徐々に拡大した。円の価値が一段と上昇した1980年代以降は、海外へのビジネスや旅行の渡航も活発になった。
交通体系や道路地図などでは地形的条件に則り、律令時代の五畿七道や、江戸時代の五街道などを目安として、地方を区分することが多い。 | 532 |
オペレーティングシステム | オペレーティングシステム(英: operating system、略称:OS、オーエス)とは、コンピュータのオペレーション(操作・運用・運転)を司るシステムソフトウェアである。
オペレーティングシステムは通常、ユーザーやアプリケーションプログラムとハードウェアの中間に位置し、ユーザーやアプリケーションプログラムに対して標準的なインタフェースを提供すると同時に、ハードウェアなどの各リソースに対して効率的な管理を行う。現代のOSの主な機能は、ファイルシステムなどの補助記憶装置管理、仮想記憶などのメモリ管理、マルチタスクなどのプロセス管理、更にはGUIなどのユーザインタフェース、TCP/IPなどのネットワーク、などがある。パーソナルコンピュータからスーパーコンピュータまでの各種のコンピュータや、スマートフォンやゲーム機などを含む各種の組み込みシステムで、内部的に使用されている。
商品として(ないし製品として)のOSには、デスクトップ環境やウィンドウシステムなど、あるいはデータベース管理システム (DBMS) などのミドルウェア、ファイル管理ソフトウェアやエディタや各種設定ツールなどのユーティリティ、ウェブブラウザや時計などのアクセサリが、マーケティング上の理由などから一緒に含められていることもある。
スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点でAndroidが約72%、iOSが約27%である。Androidは広い意味でのLinuxの一種であり、Linuxのカーネルを一部改編し他のオープンソース・ソフトウェアを組み合わせたものである。
ノートPCやデスクトップPCのOSおよびそのシェアは、2021年時点でWindows 75.4%、macOS 15.93%、ChromeOS 2.59%、Linux 2.33%となっている。macOSはFreeBSDを基にしたUnix系のOSである。
スーパーコンピュータのOSは、2000年ころはUNIXが9割ほどを占めていたが、その後の10年間でそのほぼ全てがLinuxに置き換わり、2021年現在では世界のスーパーコンピュータのTOP500のほぼ100%がLinuxである。 | 536 |
オペレーティングシステム | スーパーコンピュータのOSは、2000年ころはUNIXが9割ほどを占めていたが、その後の10年間でそのほぼ全てがLinuxに置き換わり、2021年現在では世界のスーパーコンピュータのTOP500のほぼ100%がLinuxである。
組み込みシステムでは組み込みオペレーティングシステムと呼ばれるOSを用いる。小規模な組み込みシステムのなかには明確なOSを内蔵していないものもあるので曖昧な面もあるが、組み込みOSを搭載しているものに関しては2019年時点でのシェアでTRON(トロン)系がおよそ60%であり、24年連続トップを占める。TRON系のなかでもITRON(アイトロン)が最も普及している。TRON以外では、次いでPOSIX系つまりUNIX系、Linux類などである。米リナックスワークスのLynxOS(リンクスオーエス)、米ウィンドリバーのVxWorks(ヴイエックスワークスト)、米シンビアンのSymbian OS(シンビアン・オーエス)など。
オペレーティングシステムの主な目的は、ハードウェアの抽象化、リソースの管理、そしてコンピュータ利用効率の向上である。
オペレーティングシステムはアプリケーションソフトウェアを動作させるのが第一の目的である。このためのインタフェースがアプリケーションプログラミングインタフェース (API) とアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) である。カーネルはシステムコールによってアプリケーションにサービスを提供する。さらに基本ライブラリも含めた形でアプリケーションに対してAPI/ABIを提供する。アプリケーションによってはオペレーティングシステム上のミドルウェアやアプリケーションフレームワークなどをAPIとして使用する場合もある。
APIはプログラミングのためのインタフェースであり、プログラムを作成する際の規則を構成する。例えば、C言語での関数やFORTRAN/Pascalなどのライブラリ呼び出しの仕様といったものがそれにあたる。 | 536 |
オペレーティングシステム | APIはプログラミングのためのインタフェースであり、プログラムを作成する際の規則を構成する。例えば、C言語での関数やFORTRAN/Pascalなどのライブラリ呼び出しの仕様といったものがそれにあたる。
一方、ABIはコンパイルされたソフトウェアがオペレーティングシステムの機能を呼び出す際のインタフェースであり、プロセスが動作する際の規則を構成する。例えば、Unix系のオペレーティングシステムはAPIがほとんど共通だが、ABIはオペレーティングシステムによって異なる。したがって、同じCPUを使ったシステムであっても、ABIが異なれば実行ファイルが異なる。ABIには、呼出規約、システムコールの方法などが含まれる。
なお、オペレーティングシステムの垣根を越えたABIもいくつか存在する。例えば、OCMP (Open Computing Environment for MIPS Platform) というMIPS系チップを使用したUNIX機によるバイナリ共通インタフェースが日本電気やソニー、住友電気工業、日本タンデムコンピューターズなどにより定義され、その定義に沿ったUNIXオペレーティングシステムが複数販売された。
ファームウェアとデバイスドライバの助けを借り、カーネルはコンピュータの全ハードウェアデバイスの基本的制御を提供する。RAM上のプログラムのメモリアクセスを管理し、どのプログラムがどのハードウェア資源へのアクセスを得るかを決定し、常に運用が最適化されるようCPUの状態を設定し、ファイルシステムと共にディスク、磁気テープ、フラッシュメモリといった長期的不揮発性記憶装置でのデータの編成を行う。 | 536 |
オペレーティングシステム | ファームウェアとデバイスドライバの助けを借り、カーネルはコンピュータの全ハードウェアデバイスの基本的制御を提供する。RAM上のプログラムのメモリアクセスを管理し、どのプログラムがどのハードウェア資源へのアクセスを得るかを決定し、常に運用が最適化されるようCPUの状態を設定し、ファイルシステムと共にディスク、磁気テープ、フラッシュメモリといった長期的不揮発性記憶装置でのデータの編成を行う。
オペレーティングシステムはアプリケーションプログラムとコンピュータハードウェアの間のインタフェースを提供し、オペレーティングシステムに組み込まれた規則や手続きに従うことによってアプリケーションプログラムはハードウェアとやりとりできる。オペレーティングシステムはまた、アプリケーションプログラムの開発と実行を簡素化するサービス群も提供する。アプリケーションプログラムの実行にあたって、オペレーティングシステムのカーネルがプロセスを生成する。プロセスの生成には、メモリ空間などの資源の割り当て、マルチタスクシステムでのプロセスへの優先度の割り当て、プログラムのバイナリコードのメモリへのロード、アプリケーションプログラムの実行開始といった仕事が含まれる。そうして初めてユーザーやハードウェアデバイスとやりとりを開始できる。
割り込みはオペレーティングシステムの要であり、オペレーティングシステムが周囲の環境と相互作用し反応するための効率的手段となっている。非常に小さなスタック(50バイトや60バイト)しか持たない古いシステムでは、オペレーティングシステムが対応しなければならないイベントの発生源を「監視」するポーリング方式を採用していたが、現代の大きなスタックを持つシステムでは一般的ではない。現代の多くのCPUは、割り込みをベースとしたプログラミングを直接サポートしている。割り込みが発生すると、その時点のレジスタコンテキストを退避し、そのイベントに対応した特定のコードを実行する。非常に基本的なコンピュータにもハードウェア割り込み機能があり、プログラマは特定の割り込みが発生したときに実行すべきコードを設定することができる。 | 536 |
オペレーティングシステム | 割り込みを受信すると、コンピュータのハードウェアは実行中のプログラムを自動的に一時停止させ、状態を退避させ、その割り込みに事前に割り当てられているコードを実行する。これは例えば読書中に電話が鳴ったとき、本にしおりを挟み、電話に出るのに似ている。現代的なオペレーティングシステムでは、割り込みはオペレーティングシステムのカーネルが扱う。割り込みはコンピュータのハードウェアが発生させる場合もあるし、実行中のプログラムが発生させる場合もある。
ハードウェアから割り込みが発生した場合、オペレーティングシステムのカーネルがそのイベントにどう対応するかを一般に何らかの処理コードを実行して決定する。割り込みには優先順位があり、それに従って実行するコードが決定される。再び人間にたとえれば、電話が鳴ると同時に火災を知らせる火災報知器の非常ベルも鳴ったら、電話には出ずに避難するだろう。ハードウェア割り込みの処理は通常、デバイスドライバと呼ばれるソフトウェアに委任される。デバイスドライバはオペレーティングシステムのカーネルの一部という場合もあるし、別のプログラムという場合もあるし、混在する場合もある。デバイスドライバは割り込みによって得た情報を各種手段を通じて動作中のプログラムに中継する。
実行中のプログラムがオペレーティングシステムに対して割り込みを発生させる場合もある。例えば、あるプログラムがハードウェアにアクセスしたい場合、オペレーティングシステムのカーネルに対して割り込みを発生させ、結果として制御をカーネルに移す。するとカーネルは必要な処理を行う。また、プログラムがメモリなどの資源を追加で要求する場合、割り込みを発生させてカーネルに知らせる。ただし、それらは一般にシステムコールと呼ばれ、ハードウェア割り込みとは実装が異なることもある。 | 536 |
オペレーティングシステム | 現代的CPUには複数の運用モードがある。その場合、少なくともユーザーモードとスーパーバイザモードの2つが存在する。スーパーバイザモードはオペレーティングシステムのカーネルが使用するモードで、ハードウェアに無制限にアクセスでき、メモリの読み書きの方法を制御したり、グラフィックスカードなどのデバイスとやりとりしたりできる。一方ユーザーモードはカーネル以外のほぼ全てが使用する。アプリケーションはユーザーモードで動作し、ハードウェアとのやりとりはカーネルを通す必要がある。CPUは2つ以上のモードを持つこともあり、古いプロセッサをエミュレートするのに使ったりする。
コンピュータが起動した際は、自動的にスーパーバイザモードで動作する。BIOSやEFI、ブートローダー、オペレーティングシステムのカーネルといったごく一部のプログラムがスーパーバイザモードで動作する。このようになっているのは、ユーザーモードの環境の初期化はその外側にあるプログラムでないと行えないためである。しかし、オペレーティングシステムが他のプログラムに制御を渡す際には、CPUをユーザーモードに設定できる。
ユーザーモードでは、プログラムが使用できるCPUの命令セットが制限されている。ユーザープログラムでユーザーモードを抜け出すには、割り込みを発生させ、カーネルに制御を戻す。そのようにしてハードウェアやメモリへのアクセスといったことへの独占的制御をオペレーティングシステムが保持している。
パーキンソンの法則によると、「メモリを拡張するとプログラムはそれに伴って拡大する」という。プログラマーは無限の容量と無限の速度のメモリを理想としている。コンピュータのメモリは階層構造になっていて、最も高速なレジスタから、キャッシュメモリ、RAM、最も低速なディスク装置がある。オペレーティングシステム内のメモリ管理部はこのようなメモリを管理するもので、利用可能な部分、割り当てと解放、主記憶と二次記憶との間でのスワップなどを制御する。 | 536 |
オペレーティングシステム | マルチプログラミング・オペレーティングシステムのカーネルはプログラムが使用中の全システムメモリの管理責任を負っている。それによってあるプログラムが既に別のプログラムが使用しているメモリを誤って使用しないようにしている。プログラム群は時分割で動作するので、それぞれのプログラムの独立したメモリアクセスが可能となっている。
協調的メモリ管理は初期のオペレーティングシステムでよく使われた方式で、全プログラムが自発的にカーネルのメモリ管理機構を使い、割り当てられたメモリをはみ出さないように動作することを前提としている。プログラムにはバグがつきもので、そのために割り当てられたメモリからはみ出すこともあるため、このようなメモリ管理は今では見られない。プログラムが異常動作すると、他のプログラムが使用中のメモリを書き換えることもあった。悪意あるプログラムやウイルスが意図的に他のプログラムのメモリを書き換えたり、オペレーティングシステム自体の動作を妨げたりすることも可能である。協調的メモリ管理では、たった1つのプログラムがおかしな動作をするだけでシステム全体がクラッシュする。
カーネルによるメモリ保護により、プロセスのメモリへのアクセスが制限される。メモリ保護には様々な技法があり、セグメント方式とページング方式が代表的である。どの技法でも何らかのハードウェアサポートが必要であり(例えば、80286のMMUなど)、あらゆるコンピュータがそのようなハードウェア機構を備えているわけではない。
セグメント方式でもページング方式でも、CPU内のユーザーがアクセスできないレジスタ群でユーザープログラムがアクセス可能なメモリアドレスの範囲を設定している。その範囲外のアドレスにアクセスしようとすると割り込みが発生してCPUがスーパーバイザモードに遷移し、カーネルがその状況に対処する。これをセグメンテーション違反と呼ぶ。セグメンテーション違反は一般にプログラムの間違いから発生するので、実行を継続するような対処は困難であり、カーネルは問題のプログラムを強制終了させ、エラーを報告するのが一般的である。 | 536 |
オペレーティングシステム | Windows 3.1からWindows Meまでは何らかのメモリ保護機構を備えていたものの、それを回避するのも容易だった。そのためセグメンテーション違反の発生を知らせる一般保護違反(英語版)が考案されたが、それでもシステムがクラッシュすることが多かった。
ページングやセグメントによる仮想記憶を使用することで、カーネルは任意の時点で各プログラムが使用するメモリを選択でき、同じメモリ位置を複数タスクで使用させることも可能となる。
あるプログラムが使用可能な現在のメモリ範囲だが物理メモリが割り当てられていない位置にアクセスしようとしたとき、セグメンテーション違反のように割り込みによってカーネルに遷移する。このような割り込みをUnix系ではページフォールトと呼ぶ。
カーネルがページフォールトを受け付けると、そのプログラムに割り当てられた仮想メモリ空間の調整を行い、要求されたメモリアクセスが可能になるよう物理メモリを割り当てる。これにより、カーネルはそれぞれのアプリケーションへのメモリ割り当てを自由に決定でき、さらには実際には割り当てないでおくことも可能となる。
現代的オペレーティングシステムでは、相対的にアクセス頻度が低いメモリを一時的にディスクなどの二次記憶装置に退避させ、主記憶を他のプログラムのために空けることができる。これをスワッピングと呼び、限られたメモリを複数のプログラムで使用可能にし、メモリの内容を必要に応じて退避させたり復帰させたりできる。
仮想記憶により、実際に搭載しているよりも多くのRAMを使用しているかのような感覚でコンピュータを使用することができる。 | 536 |
オペレーティングシステム | 仮想記憶により、実際に搭載しているよりも多くのRAMを使用しているかのような感覚でコンピュータを使用することができる。
コンピュータ上の各動作はバックグラウンドであっても一般のアプリケーションであっても、内部的にはプロセスとして動作する。DOSのような機能の限定されたオペレーティングシステムは一度に1つのプロセスしか実行できない。近代的なオペレーティングシステムは一度に複数のプロセスを動作させることができる(マルチタスク)。プロセス管理は複数のプロセスを実行するためにオペレーティングシステムが行う処理である。プロセッサを1つだけ持つ一般的なコンピュータでは、マルチタスクは高速にプロセスからプロセスへ切り替えを行うことで実現される。ユーザーがより多くのプロセスを実行すれば、個々のプロセスに割り当てられる時間は少なくなっていく。多くのシステムでは、これが音声の途切れやマウスカーソルの奇妙な動作などを引き起こす。一般的なプロセス管理は、プロセスごとに優先度を与え、それによって配分される時間を決めている。
オペレーティングシステムのカーネルにはスケジューラと呼ばれるソフトウェアが含まれており、プロセッサが実行すべきプロセスの順序と一度に実行する期間を決定している。スケジューラが選択したプロセスにカーネルが制御を渡し、それによってそのプログラムがCPUとメモリにアクセス可能になる。その後何らかの機構で制御がカーネルに戻され、スケジューラが再び新たなプロセスを選択する。このようなカーネルとアプリケーション間の制御の切り替えをコンテキストスイッチと呼ぶ。
プログラム群へのCPU時間の割当方法の初期のモデルとして協調的マルチタスクがある。このモデルでは、カーネルがあるプログラムに制御を渡すと、そのプログラムは時間を制限されることなく処理を行え、カーネルには自発的に制御を戻すことになっている。したがって、悪意あるプログラムやバグのあるプログラムがあると他のプログラムにCPU時間が割り当てられなくなり、無限ループに陥っている場合はシステム全体がハングアップする。 | 536 |
オペレーティングシステム | プリエンプティブ・マルチタスクでは、動作中のプロセスから任意の時点で制御を奪うことができ、全プログラムに所定のCPU時間を割り当てることが可能である。これを実現するためオペレーティングシステムはタイマ割り込みを使用し、所定の時間が経過したら割り込みを発生させてスーパーバイザモードに制御を戻させ、カーネルがスケジューラを呼び出す。
現代的オペレーティングシステムでは、プリエンプションの考え方をユーザーモード(アプリケーション)だけでなくデバイスドライバやカーネルコードに対しても適用し、リアルタイム性を向上させている。
ホームコンピュータなどのシングルユーザー・オペレーティングシステムでは、少数のよく評価されたプログラムしか使わないことが多く、協調的マルチタスクで全く問題ない。例外として AmigaOS は初期のバージョンからプリエンプティブ・マルチタスクを実現していた。Microsoft Windows で初めてプリエンプティブ・マルチタスクを実装したのは Windows NT だが、それが一般家庭向けに発売されるのは Windows XP からだった。
ディスクに格納したデータへのアクセスは、あらゆるオペレーティングシステムの中心的機能である。コンピュータはファイルという形でディスクにデータを格納する。ディスクの内容は高速アクセス、高信頼性、ディスク領域の利用効率などを考慮して編成される。このファイルをディスクに格納する方式をファイルシステムと呼び、それによってファイルに名前と属性が付与される。また、ディレクトリあるいはフォルダと呼ばれる構造を使い、ファイル群を階層構造(木構造)内に格納できる。
初期のオペレーティングシステムは一種類のディスク装置しかサポートしておらず、ファイルシステムも一種類ということが多かった。初期のファイルシステムは容量や性能が低く、ファイル名やディレクトリ構造の面で制約が多かった。そういった制約はオペレーティングシステム自体の設計上の制約を反映していることが多く、複数のファイルシステムをサポートするのもオペレーティングシステムの制約の観点から非常に困難だった。 | 536 |
オペレーティングシステム | 初期のオペレーティングシステムは一種類のディスク装置しかサポートしておらず、ファイルシステムも一種類ということが多かった。初期のファイルシステムは容量や性能が低く、ファイル名やディレクトリ構造の面で制約が多かった。そういった制約はオペレーティングシステム自体の設計上の制約を反映していることが多く、複数のファイルシステムをサポートするのもオペレーティングシステムの制約の観点から非常に困難だった。
より単純なオペレーティングシステムではストレージへのアクセス手段が限られているが、UNIXやLinuxなどのオペレーティングシステムでは仮想ファイルシステム (VFS) という機構をサポートしている。UNIXなどのオペレーティングシステムは様々なストレージデバイスをサポートしており、それらの仕様やファイルシステムとは独立した共通のアプリケーションプログラミングインタフェース (API) でアクセスできるようにしている。そのためプログラムはアクセスしようとしているデバイスに関する知識を持つ必要がない。VFS機構により、プログラムはデバイスドライバとファイルシステムドライバを経由してシステム上のあらゆるデバイスと様々なファイルシステムにアクセス可能となる。
ハードディスクドライブなどの補助記憶装置には、デバイスドライバを通してアクセスする。デバイスドライバは担当するデバイスのインタフェースをよく理解しており、それをオペレーティングシステムが全ディスクドライブに共通で用意しているインタフェースに変換する。UNIXでは、それがブロックデバイスのインタフェースである。
Linuxを元プラットフォームとして開発されたものにはext2、ext3、ReiserFSなどがある。また、他のプラットフォームからXFS、JFS、FATファイルシステムなどが移植され、NTFSも不十分ながら読み書きが可能である。 | 536 |
オペレーティングシステム | Linuxを元プラットフォームとして開発されたものにはext2、ext3、ReiserFSなどがある。また、他のプラットフォームからXFS、JFS、FATファイルシステムなどが移植され、NTFSも不十分ながら読み書きが可能である。
Macintoshではまず最初にMacintosh File System (MFS) が実装されたが、ディレクトリ機能を備えていなかったためファイルブラウザFinderでフォルダをエミュレーションしていた。その後Hierarchical File System (HFS) でディレクトリ機能を実装し、現在は改良を加えたHFS+が採用されている。現在macOSで読み書きが可能なものはHFS、HFS+、UNIX File System (UFS)、FATとなる。なおUFSの使用は一般でなく、FATへの対応は他プラットフォームとのデータ交換に用いられる。NTFSは読み込みのみが可能であり、書き込みについてはCommon Internet File System (CIFS) によるネットワークを介したものに限られる。
Windowsが標準で扱えるファイルシステムは、FAT、FAT32、NTFSである。NT系のWindowsではNT3.51まではOS/2標準のHPFSにアクセス可能だった。現在Windows上ではNTFSが最も信頼性と効率が高いものとして一般的に利用される。FATはMS-DOSから採用される古いファイルシステムであるが、パーティションやファイルサイズに制限があり、大容量化したハードディスクではあまり用いられない。このためファイルサイズの制限をなくしたexFATが新たに開発された。なお、exFATはVistaや7では標準で使えるが、XPでexFATを使うためには専用のプログラムを新たにインストールする必要がある。
FATはその仕様の制限から大容量のハードディスクには向かないが、その一方構造が単純でデジタルカメラや携帯電話などの組み込みシステム向けを含むさまざまなオペレーティングシステムで読み書き可能なことから、各種メモリカードやUSBメモリなどプラットフォームを跨ぐ用途においては主流である。なお、それらフラッシュディスクの大容量化に対応するため、マイクロソフトはFATを拡張したexFATというファイルシステムを発表している。 | 536 |
オペレーティングシステム | MacintoshからWindows等へファイルを転送すると、転送先のWindows側に本体とは別のファイルが出現することがある。これはHFSやHFS+のみがサポートするリソースフォークと呼ばれるデータ構造によるもので、Macintoshではそれらを一元的に管理を行うため一つの書類に見える。このように幾つものフォークを一つのデータに格納することをマルチフォークと呼び、もとのデータを改変することなくオペレーティングシステム独自の管理情報を容易に付与できる機能だが、実質的にMacintoshでしか利用できない。
ファイルシステムには、急な電源切断などによる障害へ対応する機構を持つものがある。 ジャーナルファイルシステムが最もよく採用される機構であり、その他にもZFSのように書き込み操作をトランザクションとして扱うものもある。これらを用いることで、障害復旧時のチェックを大幅に短縮する、または完全に不要にする。一方これらの機構を持たないファイルシステムでは、ファイルシステムの整合性を保つためストレージ全体を検査する必要がある。
デバイスドライバはハードウェアとのやり取りをするためのソフトウェアである。一般にハードウェアとの通信を行うインタフェースを持ち、ハードウェアの接続される何らかの通信サブシステムやバスを経由して通信を行う。コマンドをハードウェアに送り、データの送受信を行う。また、一方でオペレーティングシステムやアプリケーションに対するインタフェースも提供する。ハードウェアに強く依存するプログラムであり、オペレーティングシステムにも依存している。これによって、オペレーティングシステムやアプリケーションがハードウェアを使って動作することが容易になっている。ハードウェアの非同期的な割り込みの処理もデバイスドライバの役割である。 | 536 |
オペレーティングシステム | デバイスドライバの主たる設計目標は抽象化である。ハードウェアは用途が同種のものであっても、機種によって動作や性能などがそれぞれ異なる。新たな機能や性能を提供するハードウェアが登場したとき、それらは従来とは異なった制御方式を採用していることが多い。オペレーティングシステムを将来にわたってあらゆるハードウェアを制御できるように設計するのは困難である。従って、個別のハードウェアの制御をオペレーティングシステムから切り離す必要がある。デバイスドライバはオペレーティングシステムとのインタフェース(関数呼び出し)をデバイス固有の処理に変換することが主たる機能となる。理論的には、新たな制御方法の新しいハードウェアが登場しても、そのハードウェア用のドライバが古いオペレーティングシステムに対応していれば、古いオペレーティングシステムでもドライバだけ置き換えればハードウェアを制御可能となる。
Vista以前のWindowsやバージョン2.6より以前のLinuxカーネルでは、ドライバ実行は協調的だった。すなわち、あるドライバが無限ループに陥ると、システム全体がフリーズした。その後のバージョンではプリエンプションが可能となり、カーネルがドライバを中断させることができるようになった。
多くのオペレーティングシステムはTCP/IPプロトコルをサポートしている。歴史的に見れば、初期のコンピュータネットワークはモデムを使って電話回線で行われていた(BSC手順など)。その後、パケット通信が使われるようになり、IBMのSNAなどの各社独自のネットワークアーキテクチャが登場した。現在では、TCP/IPを中心とした通信が主流となっている。
通信プロトコルは、トランスポート層まではカーネル内モジュールとして実装し、プレゼンテーション層より上はシステムプロセスとして実装されるのが一般的である。セッション層の実装はシステムによって異なる。 | 536 |
オペレーティングシステム | 通信プロトコルは、トランスポート層まではカーネル内モジュールとして実装し、プレゼンテーション層より上はシステムプロセスとして実装されるのが一般的である。セッション層の実装はシステムによって異なる。
このようなネットワーク機能により、異なるオペレーティングシステム間でネットワークを形成し、計算能力 (RPC)、ファイル、プリンター、スキャナーなどのリソースを共有できる。ネットワークにより、あるコンピュータのオペレーティングシステムが遠隔のコンピュータにあるリソースをあたかも自身に直接接続されているかのように透過的に利用できる。単純な通信に始まり、分散ファイルシステム、グラフィックスやサウンドといった機能の共有まで様々な応用がある。透過的アクセスの例としては、SSHによるコマンドラインの直接使用などもある。
オペレーティングシステムが関係するセキュリティ機能は、ユーザーがリソースへの何らかのアクセスを行う際に前もって認証し、そのユーザーのアクセスレベルを決定し、管理者の方針に基づいてアクセスを制限することである。
オペレーティングシステムは、処理を許可すべき要求と処理すべきでない要求を識別できなければならない。一部のシステムは単にユーザー名などで要求者を識別し、それによって特権の有無を判断する。要求者を識別する過程を「認証」(authentication) と呼ぶ。ユーザー名を示さなければならないことが多く、ユーザー名に続いてパスワードも必要な場合がある。別の認証方法として、磁気カードや生体データを使った「認証」(certification) を行うこともある。ネットワーク経由に接続などの場合、認証を全く行わずにリソースにアクセスさせることもある(ネットワーク上で共有されたファイルを読む場合など)。
さらに高度なセキュリティを備えたシステムでは、監査証跡 (auditing) オプションも提供している。これは、リソースへのアクセス要求を監視し記録するものである(「このファイルは誰が読もうとしたか?」など)。プログラムが何らかのリソースを要求すれば割り込みによってカーネルに制御が渡るので、そこでセキュリティの確認が可能である。プログラムがハードウェアやリソースに直接アクセスできる場合、セキュリティは確保されない。 | 536 |
オペレーティングシステム | 何者かがコンソールやネットワーク接続経由でログインしようとする際にもセキュリティの確保が必要である。このような要求は一般にデバイスドライバ経由でカーネルに渡され、それから必要ならアプリケーションに渡される。ログインにまつわるセキュリティは、企業や軍などで機密情報を保持しているコンピュータでは長年の課題だった。アメリカ国防総省 (DoD) はセキュリティ評価に関する基本要件を定めた標準 Trusted Computer System Evaluation Criteria (TCSEC) を策定した。TCSECはセキュリティを要求されるシステムの調達条件とされるようになったため、オペレーティングシステムのメーカーはこれを重視するようになった。
個人が使用するコンピュータにはユーザインタフェースが必要とされる。ユーザインタフェースは必ずしもオペレーティングシステムの一部とは限らない。通常はシェルなどのプログラムが実装しているが、人間とのやりとりが必要なプログラムは基本的にユーザインタフェースを備えている。ユーザインタフェースは、キーボードやマウスやクレジットカード読み取り機といった入力デバイスからのデータを取得するのにオペレーティングシステムを介する必要があり、モニターやプリンターといった出力機器にプロンプトやメッセージを出力するのにもオペレーティングシステムを介する必要がある。主なユーザインタフェースは、古くからあるキャラクタユーザインタフェース(コマンドラインインタフェース)と視覚的なグラフィカルユーザインタフェースに大別される。
最近のオペレーティングシステムは一般にGUIを持っている。多くのプロプライエタリなシステム(WindowsやMac OS)はカーネルとGUIが密接に関係している。他のオペレーティングシステムではユーザインタフェースはモジュール化されていて、任意のGUIをインストールしたり、新たなGUIを作成したりできる(Linux、FreeBSD、OpenSolaris)。
Windowsでは新たなバージョンが登場するたびにGUIを変更してきた。初期のWindowsからWindows Vistaまでを比べてみると、その変化は大きいし、MacintoshのGUIは1999年のMac OS Xの登場で劇的に変化した。 | 536 |
オペレーティングシステム | Windowsでは新たなバージョンが登場するたびにGUIを変更してきた。初期のWindowsからWindows Vistaまでを比べてみると、その変化は大きいし、MacintoshのGUIは1999年のMac OS Xの登場で劇的に変化した。
Macでは初期からSystem 6.0.xまでが白黒のGUIで、System 7以降もカラー化されたのみで、Mac OS 8でプラチナアピアランスが採用されても、Mac OS 9.2.2までは基本要素はほぼ変わらなかった。しかしMac OS Xになって完全に刷新され、AquaベースのGUIになった。Mac OS X v10.3以降ではメタルアピアランスが導入され、その後もバージョンアップのたびに少しずつ手が加えられている。また、Aquaとは別にX11も用意されている。
Mac OS Xの前身のNEXTSTEPは様々な独創的なGUI要素で知られ、他のオペレーティングシステムやデスクトップ環境に大きな影響を与えた。グレースケールのシステムだったころよりアルファチャンネルを備えていたのは特筆すべき点である。
LinuxではGUIを提供するデスクトップ環境がいくつか存在する。Linuxで使えるGUIとして有名なものは、GNOMEとKDEがある。
1950年代、オペレーティングシステムという概念が登場し始めた。初期のコンピュータはオペレーティングシステムを持たなかった。しかし、システム管理用ソフトウェアツールやハードウェアの使用を簡素化するツールはすぐに出現し、徐々にその利用範囲を拡大していった。最初のオペレーティングシステムは、IBM 701用にゼネラルモーターズが開発したもの、IBM 704用にゼネラルモーターズとノースアメリカン航空が共同開発したもの等、多くの候補があるが、どういった機能が搭載された時点でオペレーティングシステムと呼ぶかによる。この時代のものをオペレーティングシステムとは呼ばない場合もある。 | 536 |
オペレーティングシステム | 当時は、パンチカード等から入力されたプログラムを磁気テープに一旦保存し、その磁気テープを大型コンピュータに接続後、プログラムをロードして実行していた。そのため、入出力装置のドライバに当たるものが作成されていた。また、アセンブラやコンパイラが登場し始めた時代なので、まずコンパイラをロードしてからプログラム(ソースコード)をロードし、コンパイル結果として出力されたアセンブリ言語をアセンブルするために、さらにアセンブラをロードするといった手続きが必要だった。こうした作業を自動化するバッチ処理がオペレーティングシステムの機能として実現されていた。また、プロセスの状態を監視するモニタも実装されていた。
1960年代前半には、オペレーティングシステム機能の増強が進められた。スプール、ジョブ管理、記憶保護、マルチプログラミング、タイムシェアリングシステム、そして、仮想記憶の概念が登場し始めた。これらの概念を複数搭載するオペレーティングシステムも登場していた。また、マルチプロセッシングシステムに対応するオペレーティングシステムもあった。
1960年代後半には、オペレーティングシステムは著しい進化を遂げた。現在のオペレーティングシステムの概念や基本部分(カーネル)の技術の大半は、この時期に完成された。
1962年、ゼネラル・エレクトリックがGECOS(後のGCOS)の開発を開始した。
1964年発表のIBM System/360シリーズに搭載されたOS/360およびDOS/360は世界初の商用オペレーティングシステムとされ、単一のOSシリーズで幅広いモデル(性能、容量、価格帯)と周辺機器を稼働させ、更にハードディスクドライブをサポートし、本格的な(プリエンプティブな)マルチタスクを実現した。「オペレーティングシステム」という用語が一般化したのもOS/360からである。従来は機種ごとに専用の制御ソフトが付属し「機種が変わればプログラムは書き直し、周辺機器は買い直し」が常識だったが、オペレーティングシステムがアプリケーションに一貫した上位互換のAPIを提供する事で、OS/360用に書かれたプログラムは、40年以上経過した現在のz/OS上でもバイナリ互換で動作する。このOS/360はNASAが使っていた | 536 |
オペレーティングシステム | この頃のもう1つの重要な進歩としてタイムシェアリングシステムの本格的な実用化がある。コンピュータの資源を複数のユーザーが並行的に使えるようにすることで、システムを有効利用するものである。タイムシェアリングは、各ユーザーに高価なマシンを独占しているかのような幻想を抱かせた。1965年のMulticsのタイムシェアリングシステムは特に有名である。更に1967年にはSystem/360用に、商用初の仮想化オペレーティングシステム(仮想機械)であるCP-40とCP-67が登場し、1台のコンピュータで同時に複数のオペレーティングシステムを稼働できるようになったが、これもタイムシェアリングの応用である。
また仮想記憶は1961年のバロース B5000が商用初とされ、1970年のIBM System/370シリーズ用のOS/VSで広く普及した。コンピュータの利用形態としてオンライントランザクション処理やデータベース処理が普及したのもこの頃である。
1970年代 - 1980年代前半は、多種多様な分散システムが普及した。ミニコンピュータ用オペレーティングシステムとしては、VMSが有名である。Multicsは1970年代の様々なオペレーティングシステム、UNIXなどに影響を与えた。UNIXはオープンシステムと呼ばれ、ミニコンピュータからメインフレームまで広く普及した。 | 536 |
オペレーティングシステム | 1970年代 - 1980年代前半は、多種多様な分散システムが普及した。ミニコンピュータ用オペレーティングシステムとしては、VMSが有名である。Multicsは1970年代の様々なオペレーティングシステム、UNIXなどに影響を与えた。UNIXはオープンシステムと呼ばれ、ミニコンピュータからメインフレームまで広く普及した。
また1970年代には低価格なマイクロプロセッサが登場したが、初期のマイクロコンピュータは、メインフレームやミニコンピュータのような大規模なオペレーティングシステムを搭載する容量もなかったため、ディスク管理程度の必要最低限の機能しか持たないオペレーティングシステムが開発された。初期の特筆すべきオペレーティングシステムとしてCP/Mがあり、8ビットのマイクロコンピュータで良く使われた。その大雑把なクローン(複製)として16ビットのIBM PC用にPC DOSが生まれ、そのOEM版であるMS-DOSが普及した。これらはオペレーティングシステムの提供する機能が少なく、画面制御など多くの機能は、アプリケーションが直接ハードウェアを操作する必要があったため、同じCPUを使用していても、ハードウェア(機種)が異なると互換性も失われた。このMS-DOSと後継のMicrosoft Windowsによって、マイクロソフトは世界有数のソフトウェア企業となった。
なお、1980年代の別の特筆すべき流れとして、GUIを標準装備したApple Computer(現:Apple)のMacintoshがある。Macintoshのオペレーティングシステム (Mac OS) は、当時の性能的制約から、多くの部分がファームウェアの状態でハードウェアに組み込まれてはいたが、現在でいうウィジェット・ツールキットを含むToolboxと呼ばれるAPI群を持ち、アプリケーションにおけるGUIのデザイン開発をある程度まで標準化した。 | 536 |
オペレーティングシステム | マイクロプロセッサの高性能化と低価格化が進むと、業務用途のシステムでは、高機能な端末を大量に用意することが可能になり、UNIXをベースとしたクライアントサーバモデルが普及した。クライアント機であるワークステーションのオペレーティングシステムとしてSunOS、IBM AIX、IRIXなどのUnix系オペレーティングシステムが用いられた。この時期には肥大化したUNIXの再設計の機運が高まり、マイクロカーネルという新しい設計手法が生まれ、成果としてMachなどのカーネルが作られた。しかし、UNIXの権利を持つAT&Tがライセンスに厳しい条件をつけるようになり、UNIXを自由に改変したり、改変した機能を外部に公開することができなくなった。このため、オープンシステムとしてのUNIXのオープンな文化は一時衰退に追い込まれた。さらにUNIXの標準規格を巡ってUNIX戦争が勃発し、UNIX市場は大きなダメージを受けた。
1980年代後半には、パソコンにも32ビット時代が到来し、1990年代に入ると、低価格なAT互換機でもメモリを十分に搭載すればPC-UNIXの利用が可能になりはじめた。当時のパソコンでは、オペレーティングシステムとして最低限の機能しか持たないDOSが依然として使われており、GUIやネットワーク、マルチメディアに対応させるため、ベンダがDOSを様々な形で拡張したシステムソフトウェアや、ウィンドウシステムを搭載するようにもなったが、これは互換性や信頼性など様々な点で問題を発生させていた。こうした問題を解決するため、堅牢な(プリエンプティブな)マルチタスク機能、高度なネットワーク機能など、従来のUNIX(互換)ワークステーション並みの機能がパソコンにも求められるようになってきた。さらに、肥大化したソフトウェア開発の効率を改善するためにオブジェクト指向APIを導入し、Macintoshのように標準化されたGUIを備えることも求められた。これらの機能を備えたオペレーティングシステムは「次世代オペレーティングシステム」、「モダン・オペレーティングシステム」などと呼ばれた。 | 536 |
オペレーティングシステム | 1987年にはIBMとマイクロソフトが、パーソナルコンピュータ用に堅牢なマルチタスク機能・GUI(同年末の1.1より)・ネットワーク機能(拡張版)を装備したOS/2を発表した。1988年に登場したNEXTSTEPは、業務用途に耐える堅牢性・全面的なオブジェクト指向導入による柔軟性・高度なグラフィック機能・一貫したGUIといった、新世代のデスクトップオペレーティングシステムで求められる機能を全て実現した。しかしこれらは当時のハードウェア性能では負荷が大きかったため広くは普及せず、代わりに、軽量だが堅牢なメモリ管理やマルチタスク機能は持たないMac OSや、Windows 3.x などのGUI環境が徐々に普及していった。これらは当時の限られたハードウェアでも快適に動作したが、安定性や機能では劣っていた。
UNIX(互換)系オペレーティングシステムの流れでは、UNIXの権利を持つAT&T(1992年からはノベル)がソースコードの自由な改変を禁じていたことから、オープンソースのUNIX互換オペレーティングシステムが開発されはじめる。1990年にHurdの開発が開始され、1991年に、Linuxがフリーソフトウェアとして公開された。マイクロカーネルなどの新しい設計手法を採用し、トレンドに合わせたびたび設計が変更されたHurdの開発が停滞する一方、Linuxは保守的な設計とバザール方式という不特定多数の担い手による開発手法を採用し、迅速な開発が進められ、PC-UNIXのデファクトスタンダードとなった。ただしLinuxはオペレーティングシステムの心臓部であるカーネルのみのため、カーネル以外のオペレーティングシステムを構成するソフトウェアを揃えて自ら環境を整える必要があり、初期段階においては技術者などのごく一部の人たちにのみ使われていた。386BSDを皮切りにフリーのBSD系UNIXも登場したが、UNIXの権利者だったノベルとBSDを開発したカリフォルニア大学バークレー校との訴訟に巻き込まれ、開発中止を余儀なくされた(1994年からFreeBSDとNetBSDの開発が再開される)。 | 536 |
オペレーティングシステム | 1994年には、Windowsとしては初めて、32ビットに本格対応(カーネルの32ビット化)し、堅牢なマルチタスク機能を備えたWindows NTが登場した。ただこれも負荷や互換性の問題などから個人用途にはあまり普及せず、かわって急速に普及したのはWindows 3.xを拡張しつつ、Windows NTの機能を限定的に取り入れたWindows 95であった。以降、Windows NT系とWindows 9x系との並存が続き、WindowsがWindows NTベースに一本化されたのは2001年のWindows XPからである。
また、Appleも同年、NEXTSTEPを発展させたMac OS Xを新たにリリース、従来の Mac OS の後継となった。このころには低価格なパーソナルコンピュータでも、これらのオペレーティングシステムの負荷を問題としないほどに高性能化しており、オープンで低価格な分散コンピューティングを広めた(ダウンサイジング)。
2003年にはパソコンにも64ビット時代が到来し、オペレーティングシステムも64ビット化が進んだが、16ビット化や32ビット化の際と比較するとオペレーティングシステムの機能や役割に大きな変化はなかった。商用のパソコン用オペレーティングシステムのWindowsとMac OS Xのいずれもが64ビットへの移行を徐々に進めていった。Windowsは同一バージョンのオペレーティングシステムで32ビット版と64ビット版の双方を提供して、Mac OS Xは32ビットカーネルを維持したまま、一般プロセスに64ビット機能を持たせる道を選んだ。2000年代中頃まではパソコンの性能向上が著しかったため、デスクトップ用途の新しいオペレーティングシステムは同時代における高性能なパソコンを必要としていたが、2006年を境にしてCPUの性能向上の限界が顕著に現れ始めると、高効率化を目指した開発にシフト。Windows Vista・Windows 7やmacOSなどの新しいオペレーティングシステムにおいて、高機能のマルチコアCPUやプログラマブルシェーダを搭載したビデオチップへの対応が進められた。 | 536 |
オペレーティングシステム | オープンソースの流れでは、従来よりGNUがUNIX向けのツール群を開発していたが、これらをLinuxカーネルと組み合わせたGNU/Linuxが、2000年頃よりUnix系オペレーティングシステムの主流となった。またBSD系オペレーティングシステムもUnix系オペレーティングシステムのシェアの大きな部分を占めている。
一方、組み込みシステムにもより複雑な機能が求められるようになり、NetBSD、VxWorks、LynxOS、QNX、Enea OSE、Symbian OSなど汎用オペレーティングシステムをベースとしリアルタイム性能を持たせた組み込みオペレーティングシステムが幅広い用途に使われている、中でもオープンソースのTOPPERSのITRONを含むTRON系オペレーティングシステム・APIが、2020年現在、組み込みオペレーティングシステムの60%のシェアを持っている。
1990年代以降はダウンサイジングの流れにより、業務用途でもオープンシステムやWindowsへと主流が移行している中、信頼性・可用性を重視する用途には、現在でも専用オペレーティングシステム(z/OS、MSP/XSP、VOS3、ACOSなど)を搭載したメインフレームが採用され、使い分けられている。
2000年代末以降、パーソナルコンピュータ市場が成熟化する一方で、スマートフォンやタブレットに代表される、デスクトップ・オペレーティングシステムから派生した組み込みプラットフォームが普及し、モバイルコンピューティングが一般化した。
これらはカメラ、GPS、加速度センサー、ジャイロスコープ、無線LAN、Bluetooth、狭い画面に最適化されたタッチパネルなどのインタフェースを組み込み、携帯機器の低消費電力の要求に応えたiOS、Androidなどのモバイルプラットフォームを採用している。 | 536 |
鉄道 | 鉄道(てつどう、英: railway 米: railroad 独: Eisenbahn)とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関である。
鉄道とは平行に2本のレールを敷き、その上で列車などを走らせ、人や貨物を運ぶ交通機関、交通システムである。線路、旅客や貨物を載せて走る列車、停車場、駅などの施設、運行管理や信号保安まで様々な要素で構成される一連の体系である。
「鉄道」は狭義には(その交通システム全体ではなく)レールを敷いた道「線路」(鉄路)だけを指すことがある。
鉄道は歴史的に見て、まずイギリスやヨーロッパで発展した。フランス語では「chemin de fer(シュマン・ドゥ・フェール)」と言い、これは直訳すると「鉄の道」である。日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」と言う。なお鉄製のレールだけでなく、例えばコンクリート製の案内軌道などを用いるものもある。また、鋼索(鋼でできた太いロープ)で車両を支持し運転するもの(索道。ロープウェイ)も鉄道の一種としている。広い意味では、懸垂式・跨座式のモノレール、案内軌条式のAGT(新交通システム)、浮上式鉄道を含む。
なお、『日本大百科全書』は定義文の冒頭部「専用の用地にレールを敷設した線路上を動力を用いた車両を運転し」としている。専用の用地でなく道路に敷設された路面電車は、日本の法制上は「軌道」とよんで「鉄道」とは区別している。つまり、用地のありかたにも着目して線引きしている。
次にレールの素材に着目して線引きができるかについて検討してみると、英語では railroad(アメリカ)または railway(イギリス)と呼び、これは単に「レールの道」という意味で、語自体には「レールの材質」に関する意味が含まれていない語で造語して呼ぶようになった。だがイギリス同様に鉄道が早期から発展した欧州の大陸側のフランスでは chemin de fer(訳:鉄の道)、ドイツでも「Eisenbahn」(訳:鉄の道)と呼び、日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」 等々、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をする。鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであったので、レールの素材(材質)に焦点を当てて造語した。 | 537 |
鉄道 | なお、素材ばかりに着目しても、先に説明したようにコンクリートのレール(案内路)を用いたシステム(素材以外は駅や列車などシステム全体が同じようなシステム)を含められなくなってしまうので、レールの素材にこだわりすぎて線引きするのにも無理がある。このように交通システムはさまざまな変則的なものを開発することができる、という面もあり、また各国で法制度が異なっており、さらにトロリーバスまで含めるのか含めないのかなど、どこまでを法制上「鉄道」に含めて扱うかについても国ごとにかなりの差異があり、「鉄道」と「鉄道でないもの」の線引きのしかたはさまざまあり、世界的に見てかなり曖昧である。
よって本項では(焦点がぼけてしまわぬよう、周辺あたりの曖昧な領域は避け)できるだけ、この記事の意味の中心部、つまり専用の用地に敷いた鉄製レールを有するものについて解説することにし、鉄道に含めてよいかどうか曖昧な形態のものについては脚注などで軽く触れるにとどめる。
技術、経済、法制などの観点から分類可能である。
鉄道は、技術的には、軌道・車両の構造、軌道の敷設面、軌間、車両の動力源などに基づいて分類できる。
経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。
世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)株式会社の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い国有・国営の形態をとるものが多くなっていった。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。 | 537 |
鉄道 | 経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。
世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)株式会社の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い国有・国営の形態をとるものが多くなっていった。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。
欧州を見てみると、イギリスの鉄道は1947年の法律によって国有化され、その後、1963年から公共企業体として運営されていたが、1994年に分割・民営化された。フランスの鉄道は、1937年の「公私混合株式会社」の発足以来、国有化の道を歩み始め、1983年からは全額政府出資の事業体として運営されていたが、1997年1月フランス国鉄 (SNCF) は、鉄道線路の建設と維持管理とを行うフランス鉄道線路事業公社 (RFF) を分離独立させ、フランス国鉄 (SNCF) 自体は鉄道輸送に専念する事業体となった。ドイツの鉄道は、1920年のドイツ国有鉄道の設立により国有化されたが、第二次世界大戦後の1951年の東西ドイツの分裂により、西ドイツは「ドイツ連邦鉄道」、東ドイツは「東ドイツ国鉄」として国有国営の事業体となった。1990年の東西ドイツ統一以降、1994年に東西両国鉄が「連邦鉄道財産機構」として統合され、その後業務別に三つの組織に分割されていった。 | 537 |
鉄道 | アメリカの鉄道は、第一次世界大戦中に一時期、国の管理下に置かれたことがあるが、基本的には民間の運営であった。しかし、自動車や航空機に比べ鉄道による旅客・貨物輸送の需要は伸びず、1971年には国が管理・運営する鉄道として都市間の旅客輸送を行うアムトラック (Amtrak)(正式名:全米鉄道旅客輸送公社National Railroad PassengerCorporation。その通称である「Americantrack」の略称がAmtrak)が、1976年には連邦政府の援助・監督下に経営される株式会社形態の貨物輸送鉄道コンレール (Conrail)(統合鉄道会社Consolidated Rail Corporationの略称)が設立された。その後、アメリカでは1980 - 1990年代に規制緩和政策が推進されるとともに鉄道会社の統廃合が進み、コンレールも「ノーフォーク・サザン鉄道」と「CSX鉄道」に分割・買収される形で1999年に姿を消した。
日本の鉄道は、1906年(明治39年)に(特定地方限定の地方鉄道を除いて)国有化され、第二次世界大戦後、1949年(昭和24年)に公社(公共企業体)「日本国有鉄道」として新たに発足したが、1987年(昭和62年)4月分割・民営化が行われ、「国鉄」は「JR」となり、6つの旅客鉄道会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)の合計7つの会社として再出発した。日本の鉄道体系は、株式会社形態をとる私鉄(民鉄)の役割が比較的大きいことが、世界的に見て特徴となっている。特に旅客に関しては大きな割合を分担し、1984年(昭和59年)時点での年間輸送量は、国鉄68億人、私鉄118億人で、私鉄が国鉄を上回っていた(その後国鉄もJRとなりすべて国有ではなくなったが、1997年(平成9年)の年間輸送量は、JR旅客会社88億5919万人、私鉄133億8582万人で、やはり旅客では私鉄の役割が大きい)。なお貨物に関しては、さほどではなく、1997年の貨物輸送量がJR貨物が4729万トン、私鉄2194万トンであった。
業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある。 | 537 |
鉄道 | 業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある。
軌道に関しては、16世紀ごろにドイツのハルツ鉱山で板の上にレール状の木材を取り付けて、その上に石炭運搬の車両を通したのが始まり、ともされる。木製のレールは激しく摩耗するのでその後に鉄製にかえられた。(ここで「鉄道」になった)。初期の鉄製レールはL字型で、底辺(水平面)が外側になるように敷設し、外側の底辺の上を車輪が転がるようになっていた。その後、車輪外周の内側につば状の輪縁(フランジ)をつけることでレールのほうのL字型は止め、レールの頭部の内側を走る、現在と同様の方式となった。この段階で、車両の動力源は人力や馬の力(馬力)であったが、18世紀の後半にワットが改良した蒸気機関をさらに改良利用する方法が多くの人によって研究され、1804年にイギリスのリチャード・トレビシック(1771―1833)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作し、馬にかわって、石炭の運搬車を引かせることに一応は成功した。そして、1825年にイギリスダラム州にストックトン&ダーリントン鉄道が開業し、鉄道会社が予め作成した運行スケジュールに従って列車が運行される、現代の鉄道とほぼ同様の形態が採用された。
線路は地上に敷設されていることが多いが、都市部や地形に制約のある場所、また高速走行を行うための路線では地下や高架に線路を敷設している。特に地下に敷設される路線は地下鉄と呼ぶ。
軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。 | 537 |
鉄道 | 軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。
2本のレールの間隔を軌間(ゲージ)という。軌間は世界で規格が異なる。三線軌条などの混合軌間、軌間可変車両、ロールボックなどのテクノロジーで異なる軌間の路線でも車両の直通が可能だが、通常の車両では直通で旅客や貨物が輸送できない問題がある。規格が異なる理由は、戦争時に自国内の鉄道インフラをそのまま使わせない、もしくは初期の鉄道関連会社の慣習上の理由による。ただ利便性が悪いのも確かで国ごとに規格争い(鉄道ゲージ戦争)も発生する(日本の改軌論争、ブリティッシュの改軌論争(英語版)、エリーの改軌論争(英語版))。
鉄道の車両を動力源によって分類した場合、蒸気機関を動力として用いる蒸気機関車、その他の内燃機関を動力とする気動車・ディーゼル機関車、電気モーターを動力とする電車・電気機関車がある。鉄道車両は1両でも用いることができるが、多数の車両を連結でき、その利点を活用して旅客や貨物を一編成(ひとつらなりの形)で大量に輸送することが可能である。
鉄道車両は、異なる軌間の区間に乗り入れることが困難である。軌間を切り替える手法としては、まず境界駅で台車を交換する方法がある。この方法は、広軌の旧ソ連圏と、これに接する標準軌の中国や東ヨーロッパを直通する列車などで採用されている。しかし、この方法では、電車や機関車など、モーターを持つ台車の取替はできず、また作業のため、国境駅で3時間以上待たなくてはいけないなどの問題がある。また、スペインの「タルゴ」「Alvia」で特殊な設備を用いて乗客を乗せたまま自国の1668 mmと周辺他国の1435 mmを切り替える方法が実用化されている。また、日本では、乗客を乗せたまま軌間切り替え可能なフリーゲージトレインの実用化試験が行われている。 | 537 |
鉄道 | 他にも、異なる路線の鉄道車両の乗り入れが困難である場合が存在する。建築限界や車両限界が路線によって異なる場合も、乗り入れの障害となる。例としては車両限界の大きい新幹線と、車両限界の小さい在来線を改軌した区間を直通するミニ新幹線のように、在来線の車両サイズで作らざるを得なくなる。直流、交流といった電気方式が区間によって異なる場合には、直通するためには製作コストの高い双方の電気方式に対応した車両を使用するか、機関車を付け替えるなどの必要が生じるが、電気方式が同じでも、電圧が区間によって異なる場合は、複電圧方式の車両が必要となる。
鉄道駅は、列車が止まり、人が列車に乗り降りしたり、貨物を積み降ろしする場所である。基本的には線路とプラットホームから構成され、中程度以上であれば駅舎やさまざまな関連施設がある。貨物駅であればさらに貨物ターミナルから構成される。さまざまな分類法がある。
鉄道と道路が平面的に交差する場所には踏切が設置される。
日本では、踏切の通行は鉄道に優先権があり、道路交通を遮断することとなる。列車運行本数が多い場合は遮断時間が長くなり、交通渋滞の原因となり、甚だしい場合には「開かずの踏切」が生まれる。踏切を解消するため連続立体交差事業が進められている。
鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所 や指令所 などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して電線路が敷設され、それに伴い、鉄道変電所や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密なダイヤや突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。 | 537 |
鉄道 | 鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所 や指令所 などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して電線路が敷設され、それに伴い、鉄道変電所や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密なダイヤや突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。
鉄道の運営を行う鉄道事業者は、民間企業によるものと、国や特殊法人・地方公共団体が行うものなどがある。なお、日本においては日本国有鉄道の分割民営化と、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の特殊会社化に伴い、いわゆる「国営の鉄道事業者」は現存しない。ただし、日本国有鉄道の事業を継承したJRグループのうち、北海道旅客鉄道(JR北海道)、四国旅客鉄道(JR四国)、日本貨物鉄道(JR貨物)、および帝都高速度交通営団の事業を継承した東京地下鉄(東京メトロ)については、国や独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が一部または全部の株式を保有している。したがって、現在の日本国政府が、鉄道事業の経営にまったく関与していないわけではない。
鉄道は、線路・駅などのインフラストラクチャーに対する投資コストが大きく、固定費率が大きいことから損益分岐点が高く、黒字となるには一定以上の輸送量、利用客数が必要となる。このため、欧米では「鉄道は公共財であり、また一度無くなると元に戻すことは難しいことから、赤字は基本である」(日本政策投資銀行 浅井康次)という認識であるとの紹介がある。また、相当な利益を上げないと既存路線の高速化や自動列車保安装置設置、駅のバリアフリー化やホームドア設置、パークアンドライド用駐車場設置などの鉄道サービスや安全性向上も困難である。 | 537 |
鉄道 | 日本では、1990年代から鉄道の利用者数が減少している。減少の背景には、日本の人口構成が関わっている。鉄道利用者の中心は通学利用者と、通勤利用者であるが、人口構成上、学生は卒業する年代の人口よりも入学する年代の人口が少なく、社会人も退職する年代の人口よりも新規に就職する世代の人口が少ない状況にあるため、両者は今後長期間にわたり減少する仕組みになっている。減少の要因として他には、鉄道事業者の経営努力不足、モータリゼーション(列車から自動車へのシフト)や、変わったところでは、地球温暖化(冬の気温が上がることで降雪が少なくなり、車が使用しやすくなる)といったものもある。
上述した内容は日本全体の話であるが、ローカル線の利用者数を巡る環境は特に厳しい。採算が取れない場合、路線や駅の存続問題が発生する。対応策として、赤字が続く鉄道を廃止したり、第三セクター鉄道に転換することがある。しかし、第三セクター鉄道にしても赤字が解消されるとは限らず、赤字の第三セクター鉄道は、地方公共団体の不良債権として問題になっている。
鉄道の乗車には切符などの乗車券、または乗車カードを必要とする。運賃を支払うことでこれらを入手することができ、乗車権を得られるが、車内で精算する仕組みを取っている鉄道もある。
鉄道車両や鉄道施設に関しての学問として、鉄道工学がある。
新たな技術として、デュアル・モード・ビークル (DMV) などがある。
鉄道は、レールの上しか通行できない半面、他の陸上輸送機関に比べて自然環境への負荷が比較的少なく、大量輸送に向き、定時性や安全性に優れるという特徴を有する。
鉄道は、専用の鉄軌道上で案内されて運転される特性上、多数の車両を連結して一括運転できる。このため、一度に大量の旅客や貨物を運送できる。
軌道や車輪に鉄を使用しているため、走行時に鉄同士が触れ合うことになるが、この際の走行抵抗は、きわめて小さい。鉄製の車輪は、自動車に用いられるゴムタイヤと比べると変形量が小さいためである。また、一般的な自動車と比べ細長く体積の割りに前面投影面積が小さいため、空気抵抗も小さい。車列が長いほど体積当たりの空気抵抗は少なくなる。 | 537 |
Subsets and Splits
No community queries yet
The top public SQL queries from the community will appear here once available.