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秘密戦隊ゴレンジャー | 新堀和男によると大野剣友会時代のベストメンバーは「アカ・新堀、アオ・中屋敷、キ・前田、モモ・栗原、ミド・中村」とのことであるが、実際にこの組み合わせが実現したのは1,2回程度だという。
アカレンジャー役を務めたJACの大葉健二(高橋健二)は、JAC担当になった当初は誠直也から要望を出されたが、誠がアフレコでスタントの様子を見てからは何も言われなくなり、大葉は自分たちが認められたと感じたという。
サブタイトルはいずれも「○○! ××」(第64話から「○○!! ××」)というフォーマットで統一。また色名が必ず入れられている。
1975年12月13日に第14話、1976年1月24日に第20話、2月21日に第25話、3月6日に第26話、8月14日に第53話、8月21日に第54話、1977年3月5日に第1話、3月19日に第2話を再放送。
1976年6月26日は、「アントニオ猪木対モハメド・アリ」中継を始めとしたスポーツ特別番組『格闘技世界一決定戦』(19:30 - 21:21)のため放送休止。「猪木対アリ」戦では本番組よりモモレンジャー役の小牧リサと、同局で放映中の『ベルサイユのトラック姐ちゃん』より山本由香利(ゆか里)が、劇中の衣装で登場し花束贈呈を担当。その模様は試合中継映像のDVD「燃えろ! 新日本プロレス エクストラ 猪木VSアリ 伝説の異種格闘技戦」にて確認できる。
いずれも東映まんがまつりの一編として公開された。
これらの作品は2003年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE BOX』および、単品では2004年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE VOl.1』に収録されている。2011年11月21日発売の「復刻!東映まんがまつり 1976春」には「真赤な猛進撃!」のみ収録されている。
2020年11月2日、第33回東京国際映画祭ジャパニーズ・アニメーション部門で『真っ赤な猛進撃!』、『爆弾ハリケーン』に加えて『ジャッカー電撃隊VS秘密戦隊ゴレンジャー』を上映。
特記のない限り、いずれも発売元は東映ビデオ。
各作品での詳細はそれぞれのリンク先を参照。 | 580 |
日本の伝統芸能 | 日本の伝統芸能(にほんのでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事などで行われてきたものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているわけではない。
詳細な分類はそれぞれの項目を参照のこと。 | 581 |
古典楽器 | 古典楽器(こてんがっき)は、比較的古い時代に使われた楽器の総称である。地域や音楽のジャンルによって定義や呼び名は異なる。
日本の古典楽器の詳細は和楽器を参照。 | 582 |
1984年 | 1984年(1984 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。昭和59年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。
※ 主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
世界のできごとのみ記載。 | 583 |
超電子バイオマン | 『超電子バイオマン』(ちょうでんしバイオマン)は、1984年2月4日から1985年1月26日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全51話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
本作品では視聴者層の拡大を図り、様々な新機軸が導入された。
マンネリ打破を掲げた本作品では、「戦隊」という語句が含まれない冠名の使用や、戦隊シリーズで多数見られる「戦隊名の一部+色」に代わり「色+ナンバー(例:レッドワン)」を各戦士の呼び名とするなどといった様々な試みがなされており、スーパー戦隊シリーズ自体の転機(ターニングポイント)となった作品でもあった。
その一環として、企画当初は「男性5人のみの戦隊」という案も出ていたが、5人全員を男性にしてしまうとドラマの展開が難しくなることから見送られ、自然なキャラクター造形のため、代わって東映プロデューサーの鈴木武幸による「女性戦士が2人」という要素が導入された。この要素には、女性1人ではメンバーの飾り物になりがちなところを、2人だと女の子同士の会話というドラマ造りができるなどの利点があった。一般的には男児向け作品での女性戦士はあまり受けが良くないものであり、スタッフからは反対意見も出たが、実施してみると好評だったため、翌年には一転して「女性5人でもいいのでは」という意見まで出たという。
さらに本作品では等身大の怪人が一話限りで退場せず幹部と同じくレギュラーとして登場し、その帰結として毎回の巨大戦では敵方の異なる巨大ロボットが登場するという初の試みもなされている。敵組織が巨大ロボットを繰り出す展開は過去のシリーズ作品でも幾度か試みられていたが、等身大の怪人をレギュラー化させたり、等身大の怪人と巨大ロボットとは形態上での関連性を一切持たせないなど、本作品では先行するそれらの作品ともオリジナリティーの面で大きな差別化が図られた。従来の巨大戦はセットでの撮影のみであったが、本作品では屋外での撮影も多用され、クレーンによる吊りなどアクション自体も特徴的なものとなった。 | 584 |
超電子バイオマン | 企画当初は物語と設定におとぎ話の要素を盛り込んでおり、過去にバイオロボと邂逅しバイオ粒子を浴びたおとぎ話の主人公たち(桃太郎、金太郎、一寸法師、かぐや姫)が現代へとタイムリープしてきて現代人の女性とともに戦うという構想が考えられていた。この設定は早い時期に「子供が皆おとぎ話を知っているかどうかが疑問」ということで没となったが、郷の動物との意思疎通能力や、メンバーのキャラクター設定などにその名残が見られる。昔話の要素を切り捨ててからの企画はハイテク寄りになり、当時世に出始めた生命工学を表す専門用語「バイオテクノロジー」を題名に取り入れ、なおかつ「超電子」を冠するということでマスクには点滅する発光ダイオードが施された。このバイオテクノロジーという単語から想起される「生体改造」というイメージから、サイボーグ的なヒーローを登場させる案もあったが、こうした「負の要素」を背負ったヒーローは、スーパー戦隊シリーズが掲げる「明るさ」「にぎやかさ」といった統一コンセプトからかけ離れてしまうことからこちらも没とされた。その後も5人全員が異星人という案や、500年前に理想郷を求めて旅をしていた5人がバイオ粒子を浴び、その子孫が戦うといった感じで設定が二転三転。5人の名前も数回にわたって変更されている。
この当時、勧善懲悪の1話完結というスタイルでは、1年という長期間に亘って視聴者の関心を引き付け続けるのは難しいという東映側の判断や、鈴木がかつて関わっていた長浜ロマンロボシリーズの影響もあり、本作品では従来の1話完結という基本を踏まえながらも、敵首領・ドクターマンこと蔭山秀夫とその息子である秀一、そして秀一に似せて作られたアンドロイドのプリンスをめぐる親子の愛憎劇、さらにリーダーである郷史朗と肉親との再会劇といったドラマが用意されるなど、年間を通して大河ドラマとしても楽しめる連続性をもたせた構成が取られている。他には、前出の長浜ロマンロボシリーズのひとつである『闘将ダイモス』を意識する形で恋愛ドラマの要素を盛り込むことも検討されていたが、アニメとは異なり生身の人間が演じる実写作品では生々しい映像になり過ぎ、保護者層からの反感を買う恐れもあったことから時期尚早ということで見送られ、結果としてこの要素は『鳥人戦隊ジェットマン』まで持ち越されることとなった。 | 584 |
超電子バイオマン | 技術的な面でも、ヒーローのスーツの素材が本作品より変更されており、それまで多用されてきた綿とナイロンによるものから、新たに伸縮性・耐熱性に優れた「オペコット」と呼ばれる合成繊維による生地が使用されるようになった。また既にメタルヒーローシリーズでは『宇宙刑事ギャバン』から使われていた「東通ecgシステム」が、本作品よりスーパー戦隊シリーズにも本格的に導入され、以降『超力戦隊オーレンジャー』まで使用されることとなった。
また本作品から、主に敵の初登場時に名前のテロップが下に挿入されるようになった。
スーパー戦隊シリーズのDX超合金を手がけたポピーが、前作『科学戦隊ダイナマン』放映中にバンダイへ吸収合併されたため、本作品では当初より超合金(DX 電子合体バイオロボ)などの関連玩具商品もバンダイブランドで発売された。詳細はポピーからバンダイへの移行も参照。
また超合金だけでなくプラモデルも、バンダイホビー事業部(現在のBANDAI SPIRITS)よりいろプラ黎明期に、いろプラとして、ベストメカコレクションサイズでバイオロボが発売され、同事業部最後のスーパー戦隊ロボのスケールモデル商品となった。一応の合体変形を有していたが、いろプラ黎明期の簡易な製品化のため主にバイオジェット2号(下半身部)は脚部などの変形がオミットされている。他方でカプセルトイ(ガシャポン)、食玩の平行販売で発売されたプラ組立てキット(後のミニプラ)は簡易ながらも、劇中設定を踏襲した変形合体を実現していた。こちらはスーパー戦隊シリーズ#食玩ならびにミニプラ#1984年を参照。
かつて高度な文明によって栄えたバイオ星は、その超科学によって生み出された物質活性化を促進させるバイオ粒子をめぐって引き起こったバイオ平和連合と反バイオ同盟の戦争により滅んでしまう。バイオ粒子の平和利用を目指していたバイオ平和連合の科学者たちは滅亡は避けられないと悟り、宇宙一美しい地球では将来自分たちのような科学をめぐっての悲劇を繰り返させてはならないと、1484年に自我とバイオ粒子を持つ巨大ロボットバイオロボとそのサポートロボピーボを地球に送りこむ。 | 584 |
超電子バイオマン | それから500年経った1984年。ドクターマンと名乗る狂気の天才科学者が、自らが作り出したメカ人間による新帝国ギアを率いて世界征服を開始した。科学による地球の危機に目覚めたピーボは5人の若者をバイオベースに召喚する。彼らは500年前、バイオロボによって肉体と精神を強靱にするバイオ粒子を浴びせられた5人の若者の子孫だった。
宿命の糸で結ばれた5人の若者は超電子頭脳の戦闘マニュアルに従って、バイオマンとしてギアに立ち向かうことになるが、ギアの猛攻は凄まじくイエローフォー / 小泉ミカが倒れた。残された4人は、同じバイオ粒子を受け継いだ矢吹ジュンを戦列に加え、心新たにギアとの宿命的な戦いに身を投じていく。
500年前に地球に飛来したバイオロボが放出したバイオ粒子を浴びた地球人の子孫たちによって結成されたスーパー戦隊。特徴として、バイオ粒子の影響により身体能力を高められる。
名乗りの際には各人毎に「ワン」「ツー」「スリー」「フォー」「ファイブ」を発した後、レッドの「超電子」と全員での「バイオマン」を発する。劇場版では個人名乗りを終えた後に行った。
飛躍的にエネルギー効率を高めるバイオ粒子によって、超電子頭脳が発展し、バイオロボやビーボのように自我を持つようになっている。
「メカこそ優秀、メカこそ絶対、メカこそ永遠」と考える総統ドクターマンが率いるメカ人間の帝国。南極の奥地にある機械の都市要塞ネオグラードを拠点とする。人間を下等な存在だと断定し、メカ人間こそが地球を支配すべきという考えの下、人類への攻撃を開始した。メカ人間たちは「フォア・ザ・マン!」、「オブ・ザ・マン!」、「バイ・ザ・マン!」とドクターマンへの尊称を連呼し、巨大ロボ・メカジャイガン(後にネオメカジャイガン)とメラージュ戦闘機で日本を狙う。スーパー戦隊シリーズにおいて、人間が悪の組織の首領である初のケースとなっている。バイオマンのメンバーを変身後でなく、変身前のフルネームで呼んでいる。
メカ人間はアンドロイドとほぼ同義であるが、ドクターマンのように元々人間でサイボーグの概念で語るべきものも含んでいる。ただしドクターマンに関しては、自分が人間だったことを隠していた。
ジューノイド5獣士以外の各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。
ギアの大幹部で、メカジャイガンやジューノイドを使い実際の作戦を指揮する。 | 584 |
超電子バイオマン | メカ人間はアンドロイドとほぼ同義であるが、ドクターマンのように元々人間でサイボーグの概念で語るべきものも含んでいる。ただしドクターマンに関しては、自分が人間だったことを隠していた。
ジューノイド5獣士以外の各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。
ギアの大幹部で、メカジャイガンやジューノイドを使い実際の作戦を指揮する。
ドクターマンが生体部品とメカを合成して作り出した戦闘用メカ獣士たちで、ジューノイド5獣士と呼ばれる。後半はサイゴーン、メッツラー、ジュウオウのジューノイド3獣士となる。
第28話、第31話、劇場版は5人全員で出撃。劇場版では、ジュウオウ、メッサージュウ、サイゴーン、メッツラー、アクアイガーの順にバイオマンの名乗りを模した名乗り口上を行い、それぞれの必殺技を一斉に仕掛けて相手を攻撃する連携技 ジューノイドスクラムアタックを披露した。
第32話以降、生き残って再生された3獣士はビッグスリー同様に武装だけでなく、防御力に於いても、全身をドクターマンによって生み出された新金属 超合金ミラクルG-Xで覆い、バイオエレクトロンを寄せ付けなかった。
3獣士は強化された力を存分に振るってバイオマンを苦戦させたが、新必殺技スーパーエレクトロンの威力の前には勝てず、最終的に3人ともスーパーエレクトロンによって最期を遂げた。
新帝国ギアが誇る数々のメカニックも、すべてドクターマンの手で作り上げられたものである。ドクターマンの専門分野はロボット工学であるが、電子工学や材料工学の分野でも既存の技術を遥かに凌駕する製品を開発しており、果てはタンパク質合成で生体コンピューターを作り上げるなど、世界一の天才の自称に恥じない優秀な技術力を有している。
1984年2月ごろ、第7話以降のアフレコを前にして矢島由紀(ミカ役)が突然失踪。このような状況下で制作された第10話では、ミカは終始イエローフォーのスーツ姿のまま戦死扱いになり、埋葬シーンでも採石場にてスーツ状態のまま遺影も飾られずに弔いが行われるという展開になった。 | 584 |
超電子バイオマン | 1984年2月ごろ、第7話以降のアフレコを前にして矢島由紀(ミカ役)が突然失踪。このような状況下で制作された第10話では、ミカは終始イエローフォーのスーツ姿のまま戦死扱いになり、埋葬シーンでも採石場にてスーツ状態のまま遺影も飾られずに弔いが行われるという展開になった。
当初降板理由は不明であり、JAC側からも正式な発表・説明はされなかったが、その後牧野美千子(ひかる役)と太田直人(真吾役)がバラエティ番組において、矢島が番組途中で失踪していたこと、千葉でいわゆるオナベとして働いているところに出くわしたことを語っている。なお、第7話から10話では「日本一声にうるさいマネージャー」が推薦した、矢島と声質が似ている声優の田中真弓が代役としてアフレコを行った。諸般の事情から実現には至らなかったものの、当時JACに所属していた声優富沢美智恵も矢吹ジュン役のオーディションを受ける予定だった。
戦隊側のキャストは当初、阪本良介(郷役)と矢島以外は芸歴の浅い新人で構成されていたが、この矢島の降板に伴い前年デビューしたばかり田中澄子(ジュン役)が加わったことで、レッド以外は全員新人俳優が担当することとなった。
また、この件が起因して鈴木武幸は矢島の所属事務所JACのエースである真田広之を出すように依頼し、当時アイドル的人気が高かった真田が異例のゲスト出演を果たした。真田は驚くほど礼儀正しく現場に一番早く来ていて、鈴木は「さすがトップスターだ」と思ったという。
それまでの俳協中心のキャスティングに代わり、仮面ライダーシリーズなど幾多の東映作品に参加したテアトル・エコー所属の声優が多数起用されている。この影響により、それまで戦隊シリーズでナレーションを務めて来た大平透に代わり村越が起用された。また、本作品からレギュラーの登場人物の声を担当する声優の名前が、OPクレジットに表記されている。
参照ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 2004
イエローフォー役の辻井は、本作品で初めて女性キャラクターを担当した。ピンクファイブ役の竹田は、本作品を最後にスーツアクターとして引退し、アクションコーディネーターへ転向した。 | 584 |
超電子バイオマン | 参照ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 2004
イエローフォー役の辻井は、本作品で初めて女性キャラクターを担当した。ピンクファイブ役の竹田は、本作品を最後にスーツアクターとして引退し、アクションコーディネーターへ転向した。
メインライターは前作から引き続き曽田博久。曽田はそれまでも常に新しくすることを考えていたため、本作品で特別に革新を狙ってはいなかったが、しっかりした縦糸を作らないと持たない気がしたと述べている。本作品からは藤井邦夫がサブライターとして新たに参加し、多彩なストーリーを執筆した。元々助監督として東映テレビプロダクションに入社し、『特捜最前線』でも演出陣に名を連ねていたこともあり、藤井には本作品への参加に際して監督としてもオファーがあったが、特撮作品の演出は自信がないとの理由で依頼を断っている。
メイン監督は前年より特撮作品の演出に参入した堀長文がパイロットを担当。スーパー戦隊シリーズに初めてビデオ合成を導入したり、長回しのカットを多用したりと演出に新風を吹き込ませた。堀はその後3作品連続でパイロット作品を手掛けた。
また東映の鈴木武幸プロデューサーが本作品の途中からチーフプロデューサーに昇格、シリーズの数多の作品で辣腕を振るい続けることになる。
シャープなデザインが特徴のギアの各キャラクターは、前作より引き続き参加の出渕裕が担当した。デザインだけでなくプロットも手掛けるなど制作に深く関わっており、後年にも自身の肌にあった作品であったと述懐している。
後のスーパー戦隊シリーズで特撮監督を務める佛田洋の初参加作品である。
『電子戦隊デンジマン』以来となる単独の劇伴を収録したLP『超電子バイオマン 音楽集』が発売され、本作品より歌曲中心の「ヒット曲集」と劇伴による「音楽集」の二本立てによるリリース形式が確立された。
マンネリ化打破と野心的な新機軸が多く盛り込まれた結果、視聴者層を幼児・児童層から10代全般にまで拡大し、女子層の獲得にも成功したとされる。 | 584 |
超電子バイオマン | 『電子戦隊デンジマン』以来となる単独の劇伴を収録したLP『超電子バイオマン 音楽集』が発売され、本作品より歌曲中心の「ヒット曲集」と劇伴による「音楽集」の二本立てによるリリース形式が確立された。
マンネリ化打破と野心的な新機軸が多く盛り込まれた結果、視聴者層を幼児・児童層から10代全般にまで拡大し、女子層の獲得にも成功したとされる。
玩具展開でも当時の戦隊シリーズで「シリーズ最高」の売上を達成した作品であり、戦隊シリーズを玩具業界で「定番」と位置づけた。ただしバンダイの見込みでは本作品は前作『ダイナマン』対比で130%の売上を期待されていたが、110%の売上に留まった。バンダイのデザイン部プレックスに在籍していた大石一雄は、本作品の販売成績について苦戦していたと述べており、バイオロボの合体方法が2機合体だったことが苦戦した要因ではないかと推測している。
またテレビ局に入る本作品のキャラクター使用料は、1984年度における全テレビ局のキャラクターの中で『キン肉マン』に次ぐ2位である。
系列は放送当時のもの。
いずれも発売元は東映ビデオ。
『テレビマガジン』、『てれびくん』、『テレビランド』の各雑誌は2月号より本作品の掲載が始まっているが、『TVアニメマガジン』では他の競合雑誌からは1か月遅れの番組開始の3月号からの掲載となった。また同誌が1984年6月号をもって休刊したため、第23話以降のクレジットは前述の3雑誌のみに変更された。
フランスで吹替版が放送され、高い人気を得た。
アメリカ合衆国では1985年にサバン・プロダクションズが1話につき1万ドルで国際放映権を取得し、本作品をベースにアメリカで撮影した映像を組み合わせた作品『Bio-Man』(監督・脚本 - シュキ・レヴィ)を制作するが、放送には至らなかった。1990年代初頭にFoxチルドレンネットワーク社長のマーガレット・ローシュが『Bio-Man』を見たことがパワーレンジャーシリーズ制作のきっかけとなっている。 | 584 |
加瀬邦彦 | 加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日)は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。
東京府(現東京都)生まれ。幼稚舎から慶應義塾に通う。
1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。
慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した。
1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した。
所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロダクションに移籍する。得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。
1981年1月、日本劇場取り壊しに伴う最後の日劇ウエスタンカーニバルにザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚繁樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。一時期、渡辺と共にタイガース・メモリアル・クラブバンドにも在籍した。
“ケネディハウス銀座”のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズの音楽プロデューサーとしても活躍した。 | 585 |
加瀬邦彦 | “ケネディハウス銀座”のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズの音楽プロデューサーとしても活躍した。
1994年に食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた。
2012年4月21日、ももいろクローバーZの横浜アリーナでのライブ公演『ももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』の1日目に百田夏菜子 with ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田の為のソロ曲として作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。
2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した。74歳没。呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された。通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー、中村あゆみ、モト冬樹、エド山口、江木俊夫らが参列した。翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、つのだ☆ひろなど関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した。戒名は常樂院悠照清邦居士。同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。
日本のエレキ・バンドが日本語の歌詞で歌ったものとしては草分け的存在であるオリジナル楽曲「ユア・ベイビー」は、加瀬がブルージーンズ時代に作曲してシングルでも発売されたが、ワイルドワンズ時代においても新たにレコーディングし、「想い出の渚」と共に両A面扱いで発売された。 | 585 |
セイントフォー | セイントフォー(Saint Four)とは、加瀬邦彦が音楽プロデュースをしていた1980年代のアイドルグループである。2018年3月から濱田・岩間・鈴木の元メンバー3人で本格的に再始動している(2021年8月からコロナ禍の影響により、グループ活動を一時的に休止している)。
1982年「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。デビューするまでの間は、歌唱、体操、アクロバット、ジャズダンス、ローラースケートや日々のジョギング等、そのトレーニング期間は2年にまで及んだ。結成当初は岩間、鈴木、他2名(幻のメンバー)による通称「四人組」としてレッスンをスタートしたが、他2名がグループ活動を辞退したため、浜田、板谷が加入し、オリジナルメンバーとしてデビューを果たした。レコードデビュー前にはテレビ朝日「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」に「ツールーズ・エンジェル」としてアシスタント出演をしていた。正式なグループ名として「ルナリアンズ」(意味:月よりの使者)に決まりそうだったものを「もっと私たちに合う名前があるはず!」と「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」番組内で一般募集した中から「セイントフォー」(意味:聖なる4人)に決定した。グループは板谷・浜田・鈴木・岩間の立ち位置順で構成、「100%女の子のままデビュー!」というキャッチコピーでデビューを果たした。後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙などを取り入れたアクロバティックなパフォーマンスが話題になった。また、ステージでの衣装のほとんどを日本の老舗バレエ・ダンス用品企業「チャコット」から提供を受けていた。
1985年10月、同グループの振付師である一の宮はじめが主催した『ダンシングミュージカル フィナーレには花束を』に出演。
同年、西ドイツの音楽番組に日本人歌手代表して『不思議Tokyoシンデレラ』、『ロマンチックの向こう側(2ndアルバム収録曲)』の2曲を披露。
デビューからのシングル、アルバムは共に好セールス、また賞レースへの出場や受賞を獲得するなど、順風満帆な活動であった。 | 586 |
セイントフォー | 1985年10月、同グループの振付師である一の宮はじめが主催した『ダンシングミュージカル フィナーレには花束を』に出演。
同年、西ドイツの音楽番組に日本人歌手代表して『不思議Tokyoシンデレラ』、『ロマンチックの向こう側(2ndアルバム収録曲)』の2曲を披露。
デビューからのシングル、アルバムは共に好セールス、また賞レースへの出場や受賞を獲得するなど、順風満帆な活動であった。
しかしセイントフォーを巡って、所属事務所「日芸プロジェクト」と所属レコード会社「リバスター音産」との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを発表した後は新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2か月後、本人たちの意思という形で解散。
1987年、東宝が救済に立ち上がり、再出発に向けて準備をしていた映画『やるときゃやるぜ! 〜COME BACK HERO〜』の公開、テレビ放映(テレビ朝日)、ビデオ発売を発表し実現させた。このことを受け、岩間は「セイントフォーは不滅です!」と、涙ながらに語った。
また、解散直後に日本テレビ『酒井広のうわさのスタジオ』にて、浜田と鈴木の二人が解散の経緯についてインタビューに答えている。
セイントフォー解散後、浜田範子・鈴木幸恵はロック系ボーカルデュオ「ピンクジャガー」として再デビュー。解散後、浜田は濱田のり子としてセクシー系の女優として活躍。岩間沙織も現在は女優として活動している。いわお潤は本名の岩男潤子に芸名を戻して、主に声優として活動するようになった。
2012年1月、「ザ・追跡スクープ劇場」(日本テレビ)の2月放送回には、解散から初めてオリジナルメンバーの4人が勢揃いしテレビ出演が予定されていたが、収録間近になり諸般の都合で急遽取りやめになったことについて、濱田はブログで「タイミングって本当に大事で、いつか良きタイミングで必ずその日が訪れると信じている」と、今後の活動においても「大きく前進したのも事実です」と報告した。 | 586 |
セイントフォー | 2012年1月、「ザ・追跡スクープ劇場」(日本テレビ)の2月放送回には、解散から初めてオリジナルメンバーの4人が勢揃いしテレビ出演が予定されていたが、収録間近になり諸般の都合で急遽取りやめになったことについて、濱田はブログで「タイミングって本当に大事で、いつか良きタイミングで必ずその日が訪れると信じている」と、今後の活動においても「大きく前進したのも事実です」と報告した。
2013年3月17日、当グループのプロデュースをしていたザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏が運営する東京「ケネディーハウス銀座」にて、当グループのボーカルレッスン指導と楽曲提供をしていた上田司氏のバースデーライブに、濱田・岩間・鈴木の元メンバーがグループ解散以来、初のステージライブパフォーマンスを26年振りに披露。濱田のオフィシャルブログでの告知から広がり、チケットは即日完売しゲスト出演ライブは大成功となった。
10月、日刊スポーツには、一夜限りのワンマン復活ライブ!!の開催情報が、芸能欄で大きな記事として掲載された。
11月3日、ケネディーハウス銀座にて濱田・岩間・鈴木の3人で一夜限りのワンマン〜復活ライブ!!〜が開催された。2回公演のチケットは、即日完売した。その後、日刊スポーツ、FLASHなどでは復活ライブの記事が掲載される。このライブ以降、今後のセイントフォーとしての活動については検討中としていたが、板谷祐三子とは連絡がつかないことが2015年4月10日放送のTBS『爆報! THE フライデー』にて公表された。
2015年12月、『爆報! THE フライデー』に、解散以来28年振りに岩間、濱田、鈴木の三人が揃ってテレビ出演をした。
2018年3月12日、濱田・岩間・鈴木による3人で本格的に再始動することを表明。5月にはベスト盤と最新アルバムの2タイトルを同時発売し、また6月には再始動&CDリリース記念ライブも開催されることが本人たちのブログで報告された。その後の詳細は、週刊雑誌「FLASH」にも掲載され、濱田・岩間がインタビューに答えている。 | 586 |
セイントフォー | 2018年3月12日、濱田・岩間・鈴木による3人で本格的に再始動することを表明。5月にはベスト盤と最新アルバムの2タイトルを同時発売し、また6月には再始動&CDリリース記念ライブも開催されることが本人たちのブログで報告された。その後の詳細は、週刊雑誌「FLASH」にも掲載され、濱田・岩間がインタビューに答えている。
また、同グループには橋幸夫がプロデュースしていたとされているが、本人たちは「1,2度しかお会いしたことがない」と雑誌の取材で答えており、実際のプロデュースには関わっておらず、当時、単に彼女たちが籍をおいていた所属レコード会社の副社長を橋が務めていただけににすぎなかった事が報告されている。
3月29日、テレビ朝日『スマートフォンデュ』に生出演。デビュー曲「不思議Tokyoシンデレラ」を当時のダンスとともにフルコーラスで披露。曲間に宙返りはなかったものの、現在も舞台やマラソンで身体を鍛えているメンバーの岩間が側転を披露した。
6月に開催される再始動&CDリリース記念ライブの予約は、受け付け開始から1時間で完売となった。その為、多くのファンが記念すべきライブへの参加ができない事情を考慮し、急遽7月8日に追加ライブが決定したが、既に予約が完売しており、さらに再追加ライブを同月15日に行うことが発表された。
5月16日、再始動CDリリース記念としてタワーレコード、ディスクユニオン、HMVなどのショップにて「セイントフォー が帰って来た!奇跡の再始動記念キャンペーン!!」を展開。
5月31日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで1位を獲得。「不思議Tokyoシンデレラ」と「太陽を抱きしめろ」の2曲を披露。
6月3日、タワーレコード新宿店イベントスペースにて、インストア・イベント(ミニライブ、特典手渡し&握手会&サイン会)を開催。
6月28日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで2度目の1位を獲得。2ndアルバム収録曲からの名曲「ファイアー~灼熱物語~」をテレビで初歌唱した。
7月6日からは、Radio NEOにてレギュラー番組「セイントフォーのミッドナイト・トーク」がスタートした。 | 586 |
セイントフォー | 6月28日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで2度目の1位を獲得。2ndアルバム収録曲からの名曲「ファイアー~灼熱物語~」をテレビで初歌唱した。
7月6日からは、Radio NEOにてレギュラー番組「セイントフォーのミッドナイト・トーク」がスタートした。
7月27日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで3度目の1位を獲得。第4弾シングル「ハートジャックWAR」をテレビで歌唱した。
8月24日、東京歌謡曲ナイト(CLUB CITTA'川崎)のライブアクトにゲスト出演。シングル曲、映画でのライブシーンをバックスクリーンに映しだしながら「COME BACK HERO」を歌唱。ほかメドレーを披露。会場では、グッズやCDの販売も行われた。
2021年8月26日、コロナ禍のもと、岩間はメンバーとしての活動と並行して介護職も行っていることやメンバーの時間調整など、グループとしての活動が厳しくなり、セイントフォーとしての活動をストップしたままでは「応援してくれているファンに申し訳がない」という気持ちが一致し、一旦「それぞれに充実した時間を大切に過ごして行こう」というメンバー間での話し合いが持たれ「解散ではなく一時活動を休止する」ということをファンにむけて各メンバーのSNSなどで報告された。
2022年6月、ULTRA-VYBEpresents~名鑑シリーズ(邦楽ロック編)~にて「セイントフォー・コンプリートコレクション1984-1986」のCDが7月6日に期間限定で再販され、先着として缶バッジ、特製カードサイズカレンダーの特典が発表された。
過去に濱田・鈴木に対してインタビューを行っているプロインタビュアーの吉田豪は、セイントフォーは事務所による「オーディション詐欺」であったと断じている。無差別にダイレクトメールを送り、応募してきた者から30〜40万円の登録料を取るというもので、月3万円の給料も未払いだったという。彼女たちの主演映画「ザ・オーディション」も、セイントフォーの妹分を募集して同様に登録料を取るためのもので、それに応募して追加メンバーになった岩男は彼女の知らない間に両親がさらに大金を支払っていたという。 | 586 |
セイントフォー | 事務所の方針により、グループのマンネリ化を防ぐため結成から2年ごとにリーダーを変えていく方針だった。グループ結成からデビューまでの2年間は岩間がリーダーを務め、1985年3月に行ったデビューコンサート(芝郵便貯金ホール)にてリーダーが鈴木にバトンタッチされた。
デビュー直後に出演した『ザ・トップテン』(日本テレビ)の「もうすぐトップテン」というコーナーでは、結成当時から「え〜」「うっそ〜」「やだ〜」などのいわゆる「ぶりっ子言葉」を使ったら1回100円の罰金という決まりがあり、結構貯まっていると浜田が語った。このとき浜田は、緊張のあまり大きく息つぎをしながらのコメントに、司会の堺正章に「あんた、(一言一言)しゃべると疲れるんですか?」と、突っ込まれていた。
1985年1月5日、『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」(フジテレビ)に出演した。
コーナー司会の山村美智子(当時フジテレビアナウンサー)から「TOKYO不思議シンデレラ」と誤って紹介されて登場した。冒頭では、覇気がない言動のためか、島田紳助を相当困惑させていた。肝心の歌の部分は「西川のりお扮するレオタードオバQ(他は書き割り)とヒップアップ&コント赤信号のすもうダンサーズ」のコラボレーションで終わっている。また板谷も、本番中に西川のりおからセクハラを受け、終盤にはとうとう泣き出してしまうというハプニングがあった。なお、当コーナーへの出演は、この回だけだった。
少年サンデー連載『炎の転校生』第8巻では著者の島本和彦が当時、彼女達に熱を上げていたことから「戦闘フォー」というキャラクターが登場している。また、セイントフォーのビデオ『FIRE KISS 〜シークレット・メッセージ〜』には、彼の描き下ろしブックが予約特典として配布された。
この頃からは浜田と鈴木は作詞も勉強し、それぞれにサードアルバムにて自身のソロ曲の作詞で歌唱もしている。事務所の後輩で後に新メンバーとなった潤は加入前のレッスン生時代に、浜田が作詞した楽曲「愛の為に」の提供を受けて、セイントフォーのライブでは妹分と紹介され歌唱していた。 | 586 |
セイントフォー | この頃からは浜田と鈴木は作詞も勉強し、それぞれにサードアルバムにて自身のソロ曲の作詞で歌唱もしている。事務所の後輩で後に新メンバーとなった潤は加入前のレッスン生時代に、浜田が作詞した楽曲「愛の為に」の提供を受けて、セイントフォーのライブでは妹分と紹介され歌唱していた。
2009年11月16日、「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP(フジテレビ)」放送回は、当時ファンだったという松村邦洋やキャイ~ンの天野ひろゆきらが伝説のアイドルグループとして「不思議Tokyoシンデレラ」を当時の貴重映像とともに歌と踊りを織り交ぜながら紹介していた。
2010年2月14日、「5時に夢中!」(TOKYO MX)放送回、司会の逸見太郎が「今日はセイント・バレンタインデー!」というと、すかさずマツコ・デラックスが「セイントって言っていいのはセイント・フォーの時だけ!!」と言い放った。
2012年9月8日、「にじいろジーン」(フジテレビ)放送回、鈴木砂羽と山口智充が昭和のアイドルイベントで盛り上がりたいという中で「不思議Tokyoシンデレラ」が流された。
2013年5月1日、「ヒルナンデス!」(日本テレビ)放送回、アウトドアグッツの紹介コーナーで森山直太朗とミッツ・マングローブがヘッドライトを装着。するとミッツ・マングローブが「セイントフォーか光GENJIみたいに見える」と森山直太朗にツッコミを受けていた。
2013年7月18日放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のワンシーンで、同局で放送されていた『レッツゴーヤング』に出演して『太陽を抱きしめろ』を歌唱した時の映像が使用されたことが濱田のブログで報告されている。また同ドラマでは、この放送回の他にも、本グループの曲が流れたり、映像にレコードジャケットが映し出されたことで、根強いファンの間では話題となった。
鈴木は取材に対して、そして岩間は自身のブログで、オリジナル・メンバーになる前の「幻のメンバー」2名とは、今でも親交があることを明かしている。
2015年11月18日、「NHK歌謡コンサート」で司会の高山哲哉が、ゲストで登場した「フォー・セインツ」のグループ名を間違えて「セイントフォー」と紹介してしまう。 | 586 |
セイントフォー | 鈴木は取材に対して、そして岩間は自身のブログで、オリジナル・メンバーになる前の「幻のメンバー」2名とは、今でも親交があることを明かしている。
2015年11月18日、「NHK歌謡コンサート」で司会の高山哲哉が、ゲストで登場した「フォー・セインツ」のグループ名を間違えて「セイントフォー」と紹介してしまう。
2018年3月、濱田・岩間・鈴木の三人で本格的に再始動することを正式に発表。一年前からレッスンや再始動に向けての準備をしていたことが明かされた。
同月、再始動発表直後に緊急生出演が決定した「スマートフォンデュ歌謡祭」(テレビ朝日)では、およそ30年振りにデビュー曲を歌唱し、その直後からはセイントフォー がYahoo!検索トレンドやツイッタ―で1位にランクインし、その状態は翌日のお昼過ぎまで続いて、番組は神回とまで言われた。
4月、再結成に伴う2タイトルCD同時リリース発表後、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」は、Amazon新着予約ランキングの歌謡部門、歌謡/演歌、各部門でベストセラー1位、新作「時の旅人」は2位にランクインした。
5月、2タイトルCD同時リリース後もAmazonランキング歌謡部門、歌謡/演歌各部門で、新作「時の旅人」は2位に、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」はベストセラー1位にランクインした。
またオリコンでは「時の旅人」は週間アルバムランキング225位、「コンプリート・コレクション1984-1986」はデイリーアルバムランキング49位、週間アルバムランキング120位にランクインした。
12月、東京神保町タクト(CDショップ)では、昭和歌謡新譜CD年間売上で「コンプリート・コレクション1984-1986」が3位を獲得。
2019年1月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ 」2018年歌謡曲/芸能部門を獲得。
同年9月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ」歌謡曲・芸能特集にて10位を獲得。
上記4曲は、2018年5月16日発売CD「時の旅人」に初音盤化収録されている。
以下、メンバーチェンジにより潤加入後 | 586 |
セイントフォー | 2019年1月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ 」2018年歌謡曲/芸能部門を獲得。
同年9月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ」歌謡曲・芸能特集にて10位を獲得。
上記4曲は、2018年5月16日発売CD「時の旅人」に初音盤化収録されている。
以下、メンバーチェンジにより潤加入後
以上4曲は、『セイントフォーの“みんな起きてる!?”』( アール・エフ・ラジオ日本)の最終回および「解散ライブ~旅立ち~」で披露された。
上記4曲は、2018年5月16日発売CD「コンプリートコレクション」に初音盤化収録されている。
【キャスト】
【スタッフ】
【収録楽曲】
※ 他に、ファンクラブ会員限定で販売された「セイントフォー旅立ちコンサート1部・2部(日仏会館)」がある。 | 586 |
アース・ウィンド・アンド・ファイアー | アース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire)は、アフリカ系アメリカ人によるファンクミュージック・バンドである。R&B、ファンク、ソウル、ジャズなどのジャンルを融合させ、新たなポップミュージックの世界を開拓した。ファンクやディスコが全盛だった1970年代を象徴するバンドとして知られる。略称はEWF、EW&F。
1970年代半ば以降の全盛期は、ファンキーなサウンドとモーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカル、重厚なホーンセクション(英語版)が特徴であった。1980年代前半には、コンピューターを利用した電子音を採り入れたが、人気を復活させるのは困難だった。アメリカ合衆国国内だけでなく日本をはじめ世界的な人気も高く、1970年代から何度か活動停止と再開を繰り返しつつも定期的にヒット曲を放ち、世界でのCD・レコード総売上は9000万枚以上。グラミー賞を6回受賞し、2000年にロックの殿堂入りを果たしている。
モーリス・ホワイトは、初期はジャズ・ドラマーとしてラムゼイ・ルイスのバンドに参加していた。彼のバンドを離れた後、1969年にシカゴにて、ソルティ・ペパーズを結成、キャピトルからシングル"La La Time"を残す。
1970年には、活動拠点をロサンゼルスに変え、バンド名もアース・ウィンド・アンド・ファイアーと改名。占星術によると、モーリスの占星図にはEarth, Air & Fire(土と空気と火)の3つの要素があることから、Earth, Wind & Fire(土と風と火)と名づけた(当時の人気バンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの模倣という説もある)。ワーナーと契約、モーリスの弟のヴァーダイン・ホワイト(後にフレッド・ホワイト(英語版)も加入)を含めた10人の大所帯バンドとなる。2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。 | 589 |
アース・ウィンド・アンド・ファイアー | 1972年にコロムビア・レコードに移籍、フィリップ・ベイリーとラルフ・ジョンソン(英語版)やラリー・ダン(英語版)が加入。コロムビアには、以後1990年まで在籍する。1973年に、Head To The Sky(『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』)をリリースし、ゴールド・ディスクを獲得する。1975年には、That's the Way of the World(『暗黒への挑戦』)を、同名の映画のサウンドトラックとしてリリースし全米アルバム・チャート第1位を獲得。この映画にはモーリスも出演しており、彼らの貴重なライヴ映像も観ることができる。75年に「シャイニング・スター」がポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットした頃から、アースの人気が急上昇した。76年には「ゲッタウェイ」を発表し、同曲もヒットした。この2曲はファンクの傑作曲とされている。77年から79年には「太陽の戦士」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」などがヒットしたが、ファンク度は後退し、ポップ・ソウル色が濃くなっていった。79年にはディスコ「ブギー・ワンダーランド」やバラード曲がヒットしたが、ファンクのアースがディスコやAORをやるなんて、という失望や批判の声も少なからず聞かれた。
1976年に、モーリスは自己プロダクション、カリンバ・エンタテインメントを設立。モーリスは、"Boogie Wonderland"に参加している「エモーションズ」などをプロデュースしている。1978年には、CBS/コロムビアの元、ARCレコード(英語版)を設立。レーベルの第一弾としてベスト盤『The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1』をリリース。ヒット曲"September"の初収録アルバムがこれになる。
1980年に、2枚組の大作Faces(『フェイセス』)を発表。しかし、このアルバムは不評で、これといったヒットも出なかった。挽回を目指し81年に発表したのがアルバムRaise!(『天空の女神』)である。このアルバムからは「レッツ・グルーブ」などのヒット曲が生まれ、アース健在を印象づけた。 | 589 |
アース・ウィンド・アンド・ファイアー | 1980年に、2枚組の大作Faces(『フェイセス』)を発表。しかし、このアルバムは不評で、これといったヒットも出なかった。挽回を目指し81年に発表したのがアルバムRaise!(『天空の女神』)である。このアルバムからは「レッツ・グルーブ」などのヒット曲が生まれ、アース健在を印象づけた。
1983年に発表した『エレクトリック・ユニヴァース』ではトレードマークであったホーンセクション(英語版)の使用を中止し、電子楽器中心のサウンドを展開させるが、活動を一時停止、各メンバーはそれぞれソロ活動に移る。この間、フィリップ・ベイリーは1984年にフィル・コリンズのプロデュースでChinese Wallをリリースし、"Easy Lover"をヒットさせる。彼は以後も不定期ながらソロ活動をしている。モーリスも1985年に唯一のソロ・アルバムとなるMaurice Whiteをリリースし、"I Need You"をヒットさせる。
1987年に『タッチ・ザ・ワールド(英語版)』をリリースし、活動を再開。1990年発売の『ヘリテッジ』を最後にコロムビアより離れ、ワーナーへと戻り、1993年に『千年伝説』をリリース。その頃よりモーリスはプロデューサー業を強化するようになり、1994年の全米ツアーには参加せず。モーリスは1995年のライヴ活動もリタイア。1996年に自主レーベル、カリンバ・レコードよりアルバムが制作され、avex traxより『アヴェタ』のタイトルで日本先行発売された。海外版としては、このアルバムは翌年にIn the Name of Loveとリタイトルと再構成され、ライノより翌年にリリースされる。モーリスはこのアルバムを最後にプロデューサー業に専念するようになり、以後の活動はフィリップが中心となっている。 | 589 |
アース・ウィンド・アンド・ファイアー | 1997年にモーリスは神経性障害と診断される。「パーキンソン病ではなく、元々神経質であることと、度重なるストレスから、震えが伴うことがある」とモーリスは発言していたが、2000年ロックの殿堂入りの際、式典前にパーキンソン病と診断されたことを明らかにし、ステージ活動から退いた。2004年の来日公演には同行する。2007年にはスタックス・レコード(コンコード・レコードにより復活)より、EWFのトリビュート・アルバムInterpetationsをリリース。モーリスは、エグゼクティヴ・プロデューサーとしてこのプロジェクトに参加。
2009年12月、4年ぶりの来日公演が東京と大阪、札幌で行われた。この時、翌2010年は結成40周年目の記念としてモーリスを加えての記念ライヴが行われるとアナウンスされたが、バンドでのライヴは叶わず、日本ではフィリップ・ベイリーのソロライヴのみが行われた。
2013年には22年ぶりにソニー・ミュージック(コロムビア)に戻り、9月にフォーエバー(英語版)(Now, Then & Forever)をリリース。ラリー・ダンが復帰し、原点回帰をテーマにしたサウンドとなる。限定版にはボーナスCDが付録する。
2016年2月3日、モーリス・ホワイトが死去。同年、第58回グラミー賞特別功労賞生涯業績賞を受賞。
2019年12月11日、日本の女性ボーカルグループLittle Glee MonsterとコラボレーションしたEP「I Feel The Light」をリリースした。
1970年
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1997年
2003年
2005年
日本での人気は非常に高く、 幾度となく来日公演を行っている。また、DREAMS COME TRUE(特にベーシストの中村正人)が強く影響を受けており、『WHEREVER YOU ARE』ではモーリス・ホワイトがバックボーカルに参加している。 | 589 |
魚戸おさむ | 魚戸 おさむ(うおと おさむ、本名:魚戸 修、1957年5月9日 - )は、日本の漫画家。北海道函館市出身。
上京後、星野之宣・村上もとかのアシスタントを経て、1985年の『わんぱっくコミック』(徳間書店)に『忍者じゃじゃ丸くん』を執筆、商業誌デビューを果たす。漫画雑誌での初連載作品は1987年に『月刊コロコロコミック』(小学館)にて開始された『熱拳カンフークラブ』。代表作にテレビドラマ化された『家栽の人』(原作:毛利甚八)、『イリヤッド-入矢堂見聞録-』(原作:東周斎雅楽)などがある。
生活クラブの組合員であり、クラブが提携する特産品を紹介するコーナーのイラストをクラブの情報誌で担当している。
「ビッグコミック」2017年1月10日号から、終末医療をテーマにした作品『はっぴーえんど』の連載を開始した。数年前から構想を練って在宅医療に携わる医師らから取材を重ねて現場を歩き、生まれ育った函館市を舞台に、「都会過ぎず、田舎過ぎない場所」として函館の街も描いている。 | 590 |
うたたねひろゆき | うたたね ひろゆき(1966年6月15日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター、同人作家。新潟県長岡市出身。妻は同じく漫画家の蘭宮涼。宇宙作家クラブ会員。
10代の頃から漫画を投稿し始めるも、漫画家になる気はなかった。大学卒業後は就職し、友人の同人誌の手伝いをする。これがきっかけで、漫画の仕事の依頼が来るようになった。
初期は成人誌で活動していたが、作品集『COUNT DOWN』刊行後は青年誌に活動の場を移している。青年誌での作品は、『セラフィック・フェザー』や『天獄』など。デビュー以来、少女の肢体をエロティックに描く作家として評価されている。
また、人気同人サークル「UROBOROS」を主宰し、成人向け同人誌を多数執筆していることでも知られる。オタクを自認しており、掲載誌の近況コメントなども、自身の参加した同人誌即売会やフィギュアなどの話題が多い。
『コンプティーク』(角川書店)で「リスティス」を連載していた当時はわたぬきほづみのペンネームを使用していたが、『電撃王』(アスキー・メディアワークス)へ移籍した後は、うたたねひろゆき名義に統一。名義変更の際には、「わたぬきほづみ失踪」のジョーク記事が誌面に掲載された。
ペンネームの「うたたねひろゆき」「わたぬきほづみ」はそれぞれ漢字で「一二三四五」「四月一日八月一日」と書き、当初は漢字の表記を用いていた。初作品集『COUNT DOWN』の表題は「一二三四五」→「5・4・3・2・1」→「カウントダウン」の連想で付けられている。近年、目の焦点が合いにくくなる眼病を患い、ペン入れ自体が難しくなり、作品数を絞ってはいるが、その美しい筆致は健在である。
影響を受けたイラストレーターに安彦良和、いのまたむつみを挙げている。 | 592 |
内山まもる | 内山 まもる(うちやま まもる、1949年1月16日 - 2011年12月1日)は、日本の漫画家。男性。茨城県鹿島郡(現在は合併により鉾田市)出身。本名は内山守。趣味はゴルフ、釣り、オートバイ、カメラ、アウトドア。
代表作に『ザ・ウルトラマン』、『リトル巨人くん』など。
農家の長男で跡継ぎを期待されていたこともあり、漫画家になるつもりはなかった。だが、中学卒業時に自分の漫画を姉が勝手にタツノコプロへ応募したのがきっかけで採用され、2年間という約束で親に許しをもらって上京し入社する。タツノコではアニメ部門に配属され、当時の九里一平(第3代社長)のもとで作画スタッフとして2年間働く。
在籍中に『希望の友』を出版していた潮出版社から、漫画を描かないかと誘われる。当時のタツノコはアルバイト禁止だったことから迷うも、知人女性の「やるべき」との助言により、内緒でタツノコのメンバーに手伝ってもらいながら32ページを描き上げ、『希望の友』誌に発表した『チェ・ゲバラ』で1968年にデビューする。その後、小学館からの誘いで『ジャンボーグA』の連載を開始。本人はこれが漫画家としてのデビューであると語っている。
小学館からは再度誘われ、「ウルトラマンを描かないか」と言われる。タツノコのライバルである円谷プロダクションの作品だったこともあり、連載開始と同時にタツノコを退社して独立する。当時は20歳になっており、約束の2年間を過ぎたので親が連れ戻しに来たが、結局はそのまま東京に残ったという。
小学館の学年別学習雑誌などで『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』などを描き、『レオ』終了後の1975年、『小学三年生』4月号から『さよならウルトラ兄弟』の連載を開始する。この作品は後年に『ザ・ウルトラマン』と改題されて『コロコロコミック』に再掲載され、第三次ウルトラブームの一翼を担うことになり、内山も一気にブレイクする。 | 596 |
内山まもる | 小学館の学年別学習雑誌などで『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』などを描き、『レオ』終了後の1975年、『小学三年生』4月号から『さよならウルトラ兄弟』の連載を開始する。この作品は後年に『ザ・ウルトラマン』と改題されて『コロコロコミック』に再掲載され、第三次ウルトラブームの一翼を担うことになり、内山も一気にブレイクする。
ウルトラ漫画の連載後は「人間を描きたい」と思うようになり、1976年から『コロコロコミック』でプロ野球漫画『リトル巨人くん』の連載を開始。これも同誌のみならず『小学館の学習雑誌』でも連載され、単行本15巻を数えるヒット作となる。1979年から『リトル巨人くん』に引き続いて『コロコロコミック』にて『燃えろ!クロパン』、『週刊少年サンデー』にて『番外甲子園』、『冒険王』にて『ひょうたん』『燃えよ甲子園!鷲と鷹』といった野球漫画を連載している。
1983年頃からは『漫画アクション』に発表した野球漫画『いごっそう甲子園』などで青年誌に進出し、作家の高橋三千綱と『こんな女と暮らしてみたい』『風と剣』『おれは女が嫌いだ』『プロゴルファー』などのコンビ作を発表した。それ以後も、ゴルフ漫画などを多く連載した。
2007年から2010年まで『てれびくん』にて新作ウルトラ漫画を連載し、2009年12月12日公開の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』には『ザ・ウルトラマン』のファンだった監督の坂本浩一の要望により、光の国の住人役としてゲスト出演した。
晩年は『デッドにピンを!』(『GOLFコミック』)や『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』(『週刊大衆』)などを連載していた。
2011年12月1日朝、自宅にて62歳で死去した。
2021年6月22日、『ウルトラマン』シリーズ55周年、『ウルトラマンメビウス』15周年、内山の没後10年に合わせ、単行本未収録作品も収録された『完全版 ウルトラマンメビウス外伝 プラス平成ウルトラマン作品集』が刊行。 | 596 |
宇野亜由美 | 宇野 亜由美(うの あゆみ)は、日本の漫画家。山口県萩市出身。
兄はセガ・インタラクティブの宇野薫。
1993年、『LaLa DX』(白泉社)10月10日号に掲載された「風呂上がりの情事」でデビュー。
代表作は1996年から2005年まで『LaLa』などで連載された『オコジョさん』シリーズ。この作品はアニメ化され、『しあわせソウのオコジョさん』のタイトルで2001年10月よりテレビ東京系にて放映(全51話)された。 | 597 |
宇野比呂士 | 宇野 比呂士(うの ひろし、1962年4月6日 - 2018年)は、日本の漫画家。
大分県出身。男性。故人。代表作は「キャプテンキッド」、「天空の覇者Z」。
アニメ化などがされていないことから知名度はやや低いものの、「マガジンSPECIAL」の看板作家として長年活躍するなど、高い画力と熱血感あふれるストーリー展開から、ファンの間では評価の高い作家の一人である。
九州大学の工学部に入学。専攻は電子工学であり、「天空の覇者Z」は綿密な科学的考証のもとに描かれているという。卒論のテーマは「磁界が生体に及ぼす影響について」で、アフリカツノガエルの受精卵を強力な電磁界下に置き、細胞分裂の活発な状態でどのような影響を受けるのかを研究していた。
22歳当時はマンガ家になろうとは露ほども思っておらず、研究に没頭していたという。逆算すると、そこから方向転換して、わずか1年ほどで漫画家としてデビューしている。
1985年、「見上げてごらん 夜の星を」でデビュー。1986年から週刊少年マガジンで連載された「名探偵Mr.カタギリ」は、短期連載ながら好評となる。
1990年よりマガジンSPECIALで連載スタートした「キャプテンキッド」が人気となり、約3年間の長期連載となる。1995年に週刊少年マガジンで連載開始された「秘石戦記ストーンバスター!」は、全4巻で打ち切りとなってしまう。
1997年よりマガジンSPECIALで連載された「天空の覇者Z」が大きな人気を得て、2002年まで長期連載される。「歴史もの」「剣術アクション」「怪異とのバトル」「超兵器同士による戦闘シーン」という空想科学冒険マンガ作品であり、宇野にとってそれまでの集大成とも言える作品であった。
2003年よりマガジンSPECIALにて「魔法戦記LUNALUNA」、2006年よりコミックボンボンにて「恐竜世紀ダイナクロア」を連載するが、いづれも短期連載で終わった。以降は、「マンガでよめる! 十五少年漂流記」などの名作の漫画化に取り込む。
2018年3月26日、公式サイトの元運営者より死去したと発表された。詳細な日時は非公開で、死因は脳溢血。公式サイトの元運営者よると、亡くなる前の著者はアシスタントを使わず、独りで毎日原稿に向かっていたという。 | 598 |
宇野比呂士 | 2018年3月26日、公式サイトの元運営者より死去したと発表された。詳細な日時は非公開で、死因は脳溢血。公式サイトの元運営者よると、亡くなる前の著者はアシスタントを使わず、独りで毎日原稿に向かっていたという。
シャーロック・ホームズ原作の 「バスカビル家の犬」 が遺作となるが、2022年現在でまだ発売されていない。脱稿済であるが、表紙を描いていなかったとのこと。次回作予定は、同じくシャーロック・ホームズの「緋色の研究」であったが、ネームの途中だったという。 | 598 |
楳図かずお | 楳図 かずお(うめず かずお、本名:楳図一雄、1936年9月3日 あるいは9月25日 - )は、日本の漫画家・タレント・作詞家・作曲家。血液型はO型。初期には山路 一雄やウメヅ カズヲの名義による作品もある。
和歌山県伊都郡高野町に生まれ、奈良県五條市に育つ。1955年に貸本漫画家としてデビュー、『週刊少年サンデー』などに作品を発表。代表作に『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』など。作品は恐怖ものからSF、ギャグもの、時代劇まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般にはホラー漫画の第一人者として知られる。
1995年以降、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中で、現在はタレント活動を精力的に行っている。東京都武蔵野市吉祥寺南町に住居兼オフィスを構える。
1936年9月3日 あるいは9月25日、和歌山県伊都郡高野町に生まれる。本籍地は奈良県五條市だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。なお、父は囲碁が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、高島忠夫の父とは囲碁友達だった。尚、楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない。
3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説や民話を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳(1963年)までそこで過ごす。ちなみに、五條市に隣接する和歌山県橋本市は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、橋本駅前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と、縁がある。 | 599 |
楳図かずお | 3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説や民話を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳(1963年)までそこで過ごす。ちなみに、五條市に隣接する和歌山県橋本市は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、橋本駅前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と、縁がある。
1947年、小学5年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読み、漫画家になることを決意する。初めは手塚を模倣して描いていたが、プロを意識しはじめた中学生時代に手塚調を廃し、初山滋や武井武雄など童画家の影響による作風で漫画を描きはじめ、神戸の「改漫クラブ」、青森の「少年少女漫画ルーム」など複数の同人サークルで積極的に活動する。中学時代は『漫画少年』にたびたび投稿していたがなかなか採用されず、往復マンガが一度載ったのを最後に同誌への投稿をやめ、『譚海』や『漫画と読物』などに作品を発表していた。奈良県立五條高等学校在学中は音楽と美術以外に好きな学科は全くなく、授業中には漫画を描いていた。
1955年、五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩的SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。 | 599 |
楳図かずお | 1955年、五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩的SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。
1961年、貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉を作った。1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあきに誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、『兵隊やくざ』(大映、1965年)や太田博之の映画やNHKの朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した。また、当時俳優志望だった久保新二と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という。
1966年、講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した「ねこ目の少女」「へび女(英語版)」等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年キング』(少年画報社)等などでは少年向けのSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。
1971年、主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年、『漂流教室』ほか一連の作品で第20回小学館漫画賞受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、ギャグ作品「まことちゃん」の連載とあいまって、バンド活動を展開する。作詞家として、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたこともある。
1982年、「わたしは真悟」を小学館『ビッグコミックスピリッツ』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。 | 599 |
楳図かずお | 1982年、「わたしは真悟」を小学館『ビッグコミックスピリッツ』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。
1995年に完結した『14歳』以後、漫画は休筆中。理由には、長年の執筆による腱鞘炎が悪化したことの他、「14歳」連載時、小学館の新任編集者にゲンコツの絵を持って来られ、「手はこう描くんですよ」と言われるなど精神的に憔悴したことが挙げられる。小学館との関係は、その後、かつてスピリッツでの担当編集者であった江上英樹が編集長である『月刊IKKI』等が代表作を復刻刊行する等にとどまっている。
休筆以降、現在まで、テレビ・雑誌等で活発なタレント活動を行っており、その明るくサービス精神にあふれたキャラクターを元気一杯に披露している。20代前半の頃より好んで着ている赤白のボーダー柄の服がトレードマークである。2005年の映画『楳図かずお恐怖劇場』シリーズの公開に伴い、絶版作品の復刻もあいまって、若い女性ファンを中心に現在もファンを増やし続けている。
2014年9月17日公開の長編ホラー映画「マザー」は、楳図初の監督作品となる。脚本も楳図で出演もしている。自叙伝の出版が決まった楳図と編集者の周辺に怪奇現象が続出するが、亡き母の怨念がそこにあったことを知るというストーリーで、片岡愛之助が楳図を演じる。母親役の真行寺君枝、編集者役に舞羽美海なども出演。
映画の完成披露会見では、前年の2013年に転倒して頭部を打ったことから慢性硬膜下血腫で8月と9月の2回にわたり手術を受け、右頭部で190cc、左頭部で250ccの血を抜き、その直後に撮影をしたことなどを明らかにした。
2018年1月、「わたしは真悟」が、フランス・アングレームで開催された「第45回アングレーム国際漫画フェスティバル」にて遺産部門(LA SELECTION patrimoine)に選ばれた。
2019年、文化庁長官表彰。
2021年8月、公式サイトにて、1995年の『14歳』以来26年ぶりとなる新作漫画を発表することを告知。
2022年1月から楳図かずお大美術展を開催。
2023年、第27回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。
ほか多数 | 599 |
うるし原智志 | うるし原 智志(うるしはら さとし、1966年2月9日 - )は、広島県出身の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。オフィス・アースワーク所属。本名は漆原 智志(読みは同じ)。
1983年、広島県立宮島工業高等学校3年在学中によしもときんじと出会い、意気投合。その後、角川映画のアニメ『少年ケニヤ』のアニメーター一般公募に応募して合格。劇中のサイとカバの格闘シーンの一部を描く。
1984年、高校卒業後に『少年ケニヤ』の制作を担当していた東映動画へ入社。動画経験を積んだ後、日米合作作品のTVアニメ『トランスフォーマー』で原画に昇格。
1985年、東映動画を退社後にフリーランスとなった以降はOVA作品を中心に活躍。『メガゾーン23 PART II 秘密く・だ・さ・い』の原画でAICのプロデューサーの三浦亨に注目され、アダルトアニメ『ホワイトシャドウ』でキャラクターデザイン・作画監督を務めた。
1989年、ヒロイック・ファンタジーに材を取った『極黒の翼バルキサス』でキャラクターデザイン・作画監督を務め、監督のよしもとと協力。よしもととは以降もコンビを組み、『プラスチックリトル』『校内写生2』などで共に活躍することとなる。特に、原作・キャラクターデザイン・作画監督・演出として参加した『プラスチックリトル』の入浴シーンでは、並々ならぬ乳揺れへの執着を見せた。
1990年、よしもときんじや桜美勝志らとオフィス・アースワークを設立、現在に至る。
女性キャラクターのヌード、特に大きく形の良い乳房や、乳首と乳輪の写実的なディテール(皺やモントゴメリー腺など)を描くことを得意とし、自身も女性のイラストを手がけることが好きと公言する。また、ヌードイラストを描く際には陰毛を濃密に描写することが多い。
それぞれの作品でのクレジット表記や、アースワーク公式サイトで公表していた一覧より記述。
他、読み切り作品多数 | 601 |
漆原友紀 | 漆原 友紀(うるしばら ゆき、1974年1月23日 - )は、日本の漫画家。山口県出身。女性。別のペンネームに、志摩 冬青(しま そよご)がある。
『ぶ〜け』(集英社)に吉山友紀名義で投稿を始め、後に志摩冬青名義で『ファンロード』(ラポート)にて活動。大学中退後、漆原友紀名義の投稿作『蟲師』(単行本では『瞼の光』に改題)が1998年、アフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞し、商業誌デビュー。『蟲師』は2005年にアニメ化された。その後は『アフタヌーンシーズン増刊』や『月刊アフタヌーン』(共に講談社)などで活動。
ノスタルジックでどこか切ない世界と、そこを舞台に不可思議なことをあくまで日常的に繊細に描く叙情的な作風を特徴とする。
作中では蟲を含め昆虫全般も描かれているが作者本人はゴキブリが大の苦手。
代表作に、デビュー作が連載化された、妖怪に似た不思議な生命体「蟲」(むし)とそれを知る専門家「蟲師」を描いた『蟲師』がある。2007年3月24日には監督大友克洋・主演オダギリジョーによる実写映画版が公開。 | 602 |
永福一成 | 永福 一成(えいふく いっせい、1965年1月1日 - )は、日本の漫画家、僧侶。東京都出身。
代表作に『チャイルド★プラネット』など。
和光大学文学部芸術学科卒、東京仏教学院修了。大学時代は漫画研究会に所属しており、卒業後に後輩であった松本大洋の『STRAIGHT』でアシスタントを務める。
1991年、第24回ちばてつや賞優秀新人賞受賞作「カラード・ブルー」でデビュー。実家は浄土真宗本願寺派永福寺。諸星大二郎のファン。『竹光侍』では初の原作を担当している。 | 603 |
江川達也 | 江川 達也(えがわ たつや、1961年3月8日 - )は、日本の漫画家、テレビタレント。
愛知県名古屋市千種区出身。愛知教育大学教育学部卒業。男性。旧姓: 野々村。
小学生の時からノートに漫画を描き始め、中学時代で投稿作品を描き上げるが、その後は漫画からは離れる。1978年12月、江川家の養子に入る。名古屋市立北高等学校を経て愛知教育大学教育学部数学科に入学、人形劇サークル・漫画研究会・アニメ研究会などに在籍し、漫画以外の創作活動も行う。大学卒業後は1983年4月から8月までの約5ヶ月間、公立学校教諭(地方公務員)となり名古屋市立東陵中学校の数学科講師をしたのち退職、本宮ひろ志のアシスタントを4ヶ月間務める。
アシスタントの傍ら描いた習作『Don't Give Up』が『コミックモーニング』編集部の目に止まり、1984年、「BE FREE!」(『モーニング』)でデビュー。その後『まじかる☆タルるートくん』を始めとする少年誌向けのギャグ漫画や、『東京大学物語』『GOLDEN BOY』などの青年誌向けのストーリー漫画まで幅広い分野で執筆し、作品がアニメ化されるなど、立て続けにヒット作を生み出す。
21世紀に入ってからは、ネームバリューが高い作品(『源氏物語』、『日露戦争物語』、『家畜人ヤプー』など)を漫画化。また、携帯サイトや新雑誌などのニッチな場での漫画作品の発表を行う。
漫画以外にもテレビ出演(ホリプロとタレント契約)、ヌード画集執筆など幅広く活動。2005年から2020年まで続いた『ビーバップ!ハイヒール』にレギュラー出演。
2021年11月には江川の還暦を祝し、『まじかる☆タルるートくん』をメインにした展示イベント「まじかる☆タルるートくん展」を開催。
教師を経験していたことから、作品内に学校や教育をテーマとして取り入れることが多く、現在の学校教育や学歴社会・受験戦争を批判している。その一方で受験参考書(中経出版「センター試験の点数が面白いほどとれる本」シリーズ)の表紙を手掛けている。
大学時代の専攻は数学であり、作品内に数学が登場することもある。また、洗脳や妄想など心理学にも興味を持っており、これらの言葉が作品内に登場し、作品のテーマとなることも多い。 | 604 |
江川達也 | 大学時代の専攻は数学であり、作品内に数学が登場することもある。また、洗脳や妄想など心理学にも興味を持っており、これらの言葉が作品内に登場し、作品のテーマとなることも多い。
1980年代後半から1990年代前半の『週刊少年ジャンプ』誌上において、人気作家の一人だった江川は、その時「売れる漫画の理論」を作り出し、その後も多くのヒット作を生み出した(読者アンケートの人気結果を分析し、「どういう展開をすれば人気が出る(人気が下がる)」かを研究していたという)。その傍らで、『源氏物語』等の日本古典文学、日本近代国家の形成史に傾倒。これらを主題とする作品『源氏物語』、『日露戦争物語』、『BOCCHAN 坊っちゃん』を執筆した。
『家庭教師神宮山美佳』の連載と前後して作画をデジタル化。背景は手描きでなく、作画ソフトで加工した画像データを使用している。
東京都の高級住宅地にある建設費6億円強の豪邸に住んでおり、自宅には5775万円のメルセデス・ベンツ・SLRマクラーレンを所有する。書籍やテレビ等で、この車を購入したことに触れていることが多い。本人曰く「車の事はよくわからないのでベンツを買った」。だが、おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!に出演するほどの車好きであり、番組内で車とは「親父の思い出」であると発言している。
私生活では既婚者であり、妻との間に一男一女をもうけている。
かつて、アシスタントの態度に「責任感が無い」と怒り、現在はアシスタントを一切使わずに1人で漫画を描いている。また、「(うまいアシスタントを除いて)アシスタントを置かない方が仕事を速く処理できる」、若しくは「アシスタントを置かない方が好きな時に仕事ができるのでよい」という趣旨の説明をしていたこともある(『パソコンテレビ GyaO』内『PRO FILE #6 江川達也 【仕事】』参照、2006年3月20日まで配信)。ただし、アシスタントは現在でも募集している。 | 604 |
江川達也 | 『ドラえもん』の原作者である藤子・F・不二雄が亡くなった後、雑誌やラジオにおいて『ドラえもん』を「人の欲望を際限なく肥大化させる」という趣旨の主張を繰り返し行った。藤子・F・不二雄個人についても、「子供を食い物にするハラ黒い大人だ」と批判している。その『ドラえもん』の悪所(と江川がみなす)部分を徹底分析し、アンチテーゼとして構築したのが『まじかる☆タルるートくん』であると江川は主張したが、結局は模倣に終わったと後に語る。後に『ドラえもん』の掲載誌である『月刊コロコロコミック』にて、『ドラえもん』と同じようなコンセプトを持つ『魔動天使うんポコ』を連載した。近年は、宮崎駿やコンピュータゲーム批判をよく行っているが、その反面、江川はいくつかのゲームソフトでキャラクターデザインを担当している。(後述)
著作『現実はマイナーの中に』で、水木しげるを最も尊敬する漫画家に挙げる一方で、手塚治虫に対しては藤子・F・不二雄のケース同様に、激しい批判を行っている。その他の影響を受けた漫画家に石ノ森章太郎、永井豪、松本零士、川崎のぼる、池上遼一、しげの秀一、大友克洋、本宮ひろ志、白土三平、松苗あけみ、一条ゆかりを挙げている。好きなアニメーション監督に、ユーリ・ノルシュテインをあげており、来日した際にサインを貰っている。
恋愛論を語ることが夢で、「恋愛論を語るなら『an・an』誌上で」→「ならばドラマ化されるほどの恋愛漫画の巨匠に」→「ドラマ化がよくされている漫画雑誌は『ビッグコミックスピリッツ』」と、その夢を逆算していって生まれたのが『東京大学物語』であると、江川はTV番組「アイデアの鍵貸します」で語った。その後、着実にそれらは実現し、最終的には『an・an』に取材を受けて、恋愛論を語ることも実現した。そのテレビドラマ版『東京大学物語』の脚本チェックに参加したことがきっかけで、後に『コーリュー』で脚本家デビュー、「江口達大」名義で、AV監督(アダルトビデオ『全編モザイク無し!全編声優吹き替え!全編主観映像! 全編淫語満載!!女教師と女生徒がペニバンで犯し合い、 男優は一切出てこない学園ドラマ。~ボクの初体験~』<ソフト・オン・デマンド>など)をそれぞれ経験したことがある。 | 604 |
江川達也 | 『日露戦争物語』で、軍用の古地図を調べたことから、古地図マニアとなり、テレビ番組『タモリ倶楽部』の古地図企画でのレギュラーを務めたほか、巨大構造物(高速道路のジャンクションなど)の回によく出演していた。2012年4月2日放送「ビートたけしのTVタックル」3時間SPで卒業した三宅久之に、江川達也が色紙に描いた三宅久之の似顔絵が額縁入りで番組最後にビートたけしから贈られた。
準レギュラー、不定期出演を含む。 | 604 |
江口寿史 | 江口 寿史(えぐち ひさし、1956年3月29日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。妻は元アイドルの水谷麻里。血液型O型。代表作に『ストップ!! ひばりくん!』、『すすめ!!パイレーツ』、『江口寿史の爆発ディナーショー』など。女性画に定評がある。
熊本県水俣市生まれ。1963年に放映が始まったTVアニメーション『鉄腕アトム』で漫画の存在を知り、さらに雑誌『少年』の『鉄腕アトム』の連載により漫画に夢中になる。読み始めの頃、一番好きだったのは同誌連載の関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』だったという。少しのちにちばてつやの大ファンとなる。
中学2年生の終わりに父親の転勤で千葉県野田市に転居。千葉県立柏高等学校卒業。浪人後、デザイン専門学校に入学するが、漫画を描くための勉強という名目で、名画座で映画ばかり見ていた。
1977年、映画『狼たちの午後』から、子供が銀行を襲うストーリーを思いつき、約3か月かけて描いた『恐るべき子どもたち』を集英社に送ったところ、ヤングジャンプ賞(月例新人賞)に入選。同年、『8時半の決闘』が第6回赤塚賞準入選。
「週刊少年ジャンプ」1977年5月23日号に『恐るべき子どもたち』が掲載され、デビューを飾る。『8時半の決闘』も同年7月11日号に掲載され、10月9日号から『すすめ!!パイレーツ』の連載を開始する。『パイレーツ』の後期より扉絵の構図などにイラストレーションとして見せる為の工夫が見られ始める。
初期のころは山上たつひこの影響を大いに受けていたようで、「すすめ!!パイレーツ」では、「がきデカ」のオマージュのようなシーンが随所にみられる。
1978年、『名探偵はいつもスランプ』で第6回愛読者賞を受賞。1979年、大友克洋の初単行本『ショート・ピース』が刊行。同作品に衝撃を受ける。「自分の絵があまりに古臭く思え」、そこから絵に対する関心が強くなり、同年創刊の雑誌『イラストレーション』を愛読するようになる。 | 605 |
江口寿史 | 1978年、『名探偵はいつもスランプ』で第6回愛読者賞を受賞。1979年、大友克洋の初単行本『ショート・ピース』が刊行。同作品に衝撃を受ける。「自分の絵があまりに古臭く思え」、そこから絵に対する関心が強くなり、同年創刊の雑誌『イラストレーション』を愛読するようになる。
1981年、「週刊少年ジャンプ」1月26日号から『ひのまる劇場』を連載。同年10月19日号から、自身の最大のヒット作となる『ストップ!! ひばりくん!』の連載を開始。この頃より筆の遅さが目立ち始め、また「白いワニ」に比喩される「真っ白な原稿」=「ネタ切れ」にも悩まされる様になる。結果、漫画家に厳しい「ジャンプ」としては異様な観すらある破格な優遇を受けながらも『ひばりくん』を中断し、未完のまま放り出してしまう。
以降、作品の発表の場を「フレッシュジャンプ」に移し、『江口寿史の日の丸劇場』(単行本は『寿五郎ショウ』として発売)の連載を始める。この作品によって以降の江口漫画の主流となる「一話完結のショートギャグ」というスタイルを確立する。『日の丸劇場』の連載終了の翌月より同誌において、作者唯一のストーリー物の連載作品『「エイジ」』の連載を開始。第一部が終了した時点で一旦筆を休め、5年後の1990年にその後を描いた『「エイジ85」』および『「エイジ2」』の連載を始めるが3回で中断。
この頃より集英社との専属契約を終了し、フリーに。「weekly漫画アクション」(双葉社)で『エリカの星』、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で『パパリンコ物語』と他社での連載を始めるが、いずれも途中で投げ出す。その中にあって、1986年から『日の丸劇場』と同じ形式で「月刊ASUKA」(角川書店)で連載された『江口寿史のなんとかなるでショ!』だけは、落稿も1回に止め、円満終了を迎える。
1988年より「アクション」において、『日の丸劇場』、『なんとかなるでショ!』と同様のスタイルで『江口寿史の爆発ディナーショー』を連載。1992年に本作の単行本によって文藝春秋漫画賞を受賞する。なお、この受賞の際に選評で選考委員長の加藤芳郎に“久々の大型新人”扱いされたという逸話がある。
1989年4月~9月には、FM東京系の深夜放送番組スーパーFMマガジン「NORU SORU」のパーソナリティーを務める。 | 605 |
江口寿史 | 1989年4月~9月には、FM東京系の深夜放送番組スーパーFMマガジン「NORU SORU」のパーソナリティーを務める。
1990年、交際を続けていた元アイドルの水谷麻里と結婚(江口は2度目)。この頃より、イラストレーターとしての仕事が増え、徐々に仕事の中心がイラストの方へと移って行く。
1992年、『江口寿史の爆発ディナーショー』で文藝春秋漫画賞を受賞。1995年には自ら編集長となって「COMIC CUE」を創刊。松本大洋、望月峯太郎、よしもとよしとも、魚喃キリコ、古屋兎丸などの意欲的な作家を集めるとともに、「テーマを決めての競作」「名作漫画のカバー」などの企画も行った。
1995年は「COMIC CUE」の編集の仕事があったとはいえ、発表された漫画は合計でわずか14ページであり、漫画家として事実上廃業状態となる。
しかし、1998年より「アクション」誌上において『キャラ者』の連載を開始し、連載漫画家としての復帰を果たす。毎週1ページと短く休載も多いながらも、途中で投げ出される事なく続き、掲載誌を「weelkyぴあ・関東版」(ぴあ)に移した後2008年6月まで連載され、江口にとって最長の連載期間となった。
2003年より放映を開始したテレビアニメ『無人惑星サヴァイヴ』にキャラクター原案で参加。
2008年7月より「A-ZERO」にて『ゼロの笑点』を連載。月刊誌でなおかつオールカラー4ページ漫画ではあったが休載なく続き、2009年6月の本誌の休刊により終了。
2018年4月、金沢21世紀美術館にてイラストレーション展 『彼女』を開催。翌2019年より明石、しもだて(筑西市)、青森、旭川、長野、盛岡、千葉を巡回。2023年3月まで行われ、8会場あわせて12万人を越える動員を記録した。2023年3月14日から4月23日まで東京ミッドタウン日比谷にて、東京の風景に溶け込んだ“彼女”を描いた展示会『江口寿史イラストレーション展「東京彼女」』を開催した。
2021年11月13日、水俣市より観光大使第1号に任命された。 | 605 |
江口寿史 | 2021年11月13日、水俣市より観光大使第1号に任命された。
2022年3月31日発売の雑誌「昭和45年女・1970年女」vol.6より、音楽ライターの鈴木ダイスケと音楽対談『ヒサシ★ダイスケの「回転違いのズル休み」』連載開始。2023年9月より、兄弟誌の「昭和40年男」(2023年10月号 Vol.8)に移籍し、連載を続行する。
江口は遅筆な事で有名であるが、遅筆のエピソードとしては、「ジャンプ」の愛読者賞用の作品『POCKY』が、途中からネーム状態のまま掲載されるというものがある。そして遅筆の結果、印刷に間に合わずに落稿する事も多く、当初から不定期掲載を謳った連載も多い。
また「(連載作品)未完の帝王」との異名の通り、無事に連載が終了されている作品の多くが一話完結方式で連載されていたもので、いつでも最終回とする事ができた作品が多いのに対し、連載による継続したストーリー展開を必要とした作品については円満に終了された作品はほぼ皆無である。
1996年、『週刊ヤングジャンプ』で連載した『ラッキーストライク』にいたっては僅か3回で放棄した。
代表作の1つである『ストップ!! ひばりくん!』は長期の中断を経て、『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』(小学館クリエイティブ刊 全3巻)において、27年越しで完結した。
ワイド版、文庫版などの同一内容の再版本は割愛 | 605 |
枝松克幸 | 枝松 克幸(えだまつ かつゆき)は、日本の漫画家。代表作に『じゃりガキ9』など。三重県立津工業高等学校卒業。
天才科学者の祖父、鳴海神兵衛が発明した「パラメット(パラサイコ・ヘルメット)」という、被った人の精神力を身体能力に変換し、大幅にパワーアップさせるヘルメットを手にした小学生の少年・鳴海神児が、パ・リーグ万年最下位のお荷物球団、武蔵野ワイルドキャッツ(架空。オーナー企業はやはり架空の「武蔵野乳業」)に入団。周りのプロ選手たちに対して、持って生まれた闘争心、集中力を身をもって示し、パラメットボール(球速は120km程度だが、バットを通り抜ける)やニューパラメットボール(前述パラメットボールのパワーアップ版、球速が増している上に、人体などの分厚いものすら通りぬけることが可能)などの魔球を駆使して、リーグ初優勝を目指す。
また、優勝することにより、事故によって片足が不自由な少女・陽子にも勇気を伝え、陽子はリハビリに励むようになる、というストーリー。単行本内のカットには成長し、白いパラメットを被って、同じように成長した神児とキャッチボールしているという、ファン感涙物のカットがある。
単行本は集英社ジャンプ・コミックスより全3巻が当時発売されていた。 | 606 |
大迫純一 | 大迫 純一(おおさこ じゅんいち、1962年〈昭和37年〉7月21日 - 2010年〈平成22年〉5月25日)は、日本の小説家、シナリオライター、漫画家。
大阪市天王寺区生まれ、大阪貿易学院高等学校卒業。
大阪芸術大学芸術学部映像計画学科を2年次で中退 後、キャラクターデザイン、ゲーム原案、脚本、アトラクション俳優、造形助手などの仕事をする。
1984年(昭和59年)徳間書店『ハイパーゾーン』から『デストマン』でデビューし、漫画家としても活動していたが、作品の多くは単行本化しておらず『魔諭邏 MAYURA』が唯一の単行本である。
1996年(平成8年)青心社から『魔法探偵まぁリン1 バビロン・ゲート』にて、小説家としてデビュー。
2007年4月より放送のTVアニメ『神曲奏界ポリフォニカ』では、初のアニメの脚本を手掛けた。
2010年5月25日、癌により逝去。享年47。
かなりの速筆家であり、『神曲奏界ポリフォニカ』のシェアードワールドで執筆を行なっている1人の高殿円からは、“優等生”と評されていた。生前、3日で1冊というトップ・スピードを「意識的に」やり遂げたことがある。
血液型はA型。蟹座。好きな色は黒と銀。好きな酒はカンパリソーダ、タバコはマルボロ、好きな食べ物は卵料理、ソフトドリンクはコカコーラを好んで飲んだ。趣味は玩具と打撃系武器の蒐集。親指シフター。
アメコミのスポーンをこよなく愛し、その思い入れは大きく、スポーンのリングを嵌める事が多かった。
熱い漢の物語を描く、人呼んで「限りなく体育会系に近い文系」だったという。ホラー小説やミステリー小説、時代小説なども執筆していた。
日本推理作家協会所属。
携帯電話用ゲームの新作プロモーションを兼ねた、ゲームノベライズ本。コンシューマーの期待値を高める策として、“期待の新人・緋樫いつき”が設定された。 | 607 |
大島司 | 大島 司(おおしま つかさ、1970年1月30日 - )は、日本の漫画家。女性。血液型はO型。掛川市ふるさと親善大使。
代表作はデビュー作でもある『シュート!』シリーズで、1994年に第18回講談社漫画賞を受賞。
静岡県掛川市出身。掛川東高校卒業、東京デザイナー学院アニメーション科卒業。
学生時代から漫画を書き始め、講談社に投稿して入賞していたが、無理やりアクションシーンを盛り込むなどアクションへのこだわりが強かった。
その後少年誌へと移り、『週刊少年マガジン』新人賞に投稿したバレーボール漫画が選外佳作に選ばれ、その後『シュート!』でデビュー。「シュート!」は長期連載作品となり、アニメ化・実写映画化されるなど大ヒット作となった。大島は「『シュート!』は大島司を確立させた作品」と語っている。 | 608 |
大島やすいち | 大島 やすいち(おおしま やすいち、本名:大島 矢須一(読み同じ)、1954年3月24日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。平安高等学校卒業。東京都練馬区在住。男性。
高校時代は沼田清のアシスタントを務め、1971年、『週刊少年サンデー』(小学館)掲載の「青春の土」(新人漫画賞入選)でデビュー。
主に少年漫画・青年漫画を執筆している。
代表作に『おやこ刑事(でか)』(原作:林律雄)、『バツ&テリー』等。
妻の川島れいこも漫画家で、川島との間に生まれた娘の大島永遠と三島弥生もそれぞれ漫画家として活躍中。お笑い芸人の小林アナは遠戚にあたる。 | 609 |
大友克洋 | 大友 克洋(おおとも かつひろ、1954年4月14日 - )は、日本の漫画家・映画監督。宮城県登米郡迫町出身。血液型はA型。息子はイラストレーターの大友昇平(SHOHEI)。
ペンタッチに頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑なパースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。
1988年、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は日本国外でも高い評価を得て、「ジャパニメーション」と呼ばれる、日本国外における日本アニメムーブメントのさきがけとなった。
近年は主に映画監督として活動している。日本SF作家クラブ会員だったが2023年2月時点では退会している。
東北の田舎に生まれ、何もすることが無かったので、幼少の頃より漫画をたくさん読んで育った。絵を描くのが好きだったので、小学生の頃は『鉄腕アトム』や『鉄人28号』をよく模写していた。
中学時代に石ノ森章太郎のマンガ家入門を読んだのをきっかけに、本格的に漫画家を志すようになる。
宮城県佐沼高等学校に入学。その頃から映画に興味を持ち始め、一時漫画から離れて映画漬けの日々を送る。またイラストにも興味を持つようになり、将来はプロのイラストレーターか映画監督になりたいと思うようになる。しかし、一人立ちを考えて漫画を描き始め、1971年末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆。手塚治虫の雑誌『COM』や『りぼん』に数度投稿を行う。高校を卒業すると上京し、以前友人に紹介されて漫画を見せたことのある双葉社の編集者に連絡を取り、採用される。
1973年、『漫画アクション』(双葉社)にて「銃声」でプロの漫画家としてデビュー。以後、『漫画アクション』の本誌・増刊で若者の日常を描いた短編作品を発表。次第にニューウェーブの作家として一部の漫画読者からは知られた存在になって行く。
1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌やSF雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる。
1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行。一般に名前が知られるようになり、他の「ニューウェーブ」作家らとも交流を持つようになる。 | 610 |
大友克洋 | 1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌やSF雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる。
1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行。一般に名前が知られるようになり、他の「ニューウェーブ」作家らとも交流を持つようになる。
1980年、『アクションデラックス』に『童夢』、『漫画アクション』に『気分はもう戦争』(原作:矢作俊彦)を連載開始。
1982年、『週刊ヤングマガジン』にて『AKIRA』( - 1993年)の連載を開始。この作品で一気にメジャー作家となる。漫画のヒットにより、約500万円の予算で1時間ほどの16mmフィルムの実写映画『じゆうを我等に』を自主制作。プライベートムービーを作ることで、映画制作のプロセスを自分なりに勉強した。
1983年公開のアニメ映画『幻魔大戦』(りんたろう監督)で、キャラクターデザイナーとして初めてアニメーション作品に参加。漫画とアニメとの違いを肌で感じ、この経験をきっかけにアニメ制作に興味を持つ。
1986年公開のオムニバス映画『迷宮物語』の中の一編「工事中止命令」で、初めて監督を務める。『幻魔大戦』の後、アニメ制作会社マッドハウスの丸山正雄プロデューサー(当時)から「短編を1本作ってみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けた。
1988年、自身の漫画をアニメ化した劇場アニメーション映画『AKIRA』で長編作品を初監督。1991年には『ワールド・アパートメント・ホラー』で商業実写映画を初監督する。以降、漫画よりも映画の分野に活動の軸足を移し、オムニバス映画『 MEMORIES』(1995年)、長編アニメ『スチームボーイ』(2004年)、実写映画『蟲師』(2007年)などの監督作品を発表する。
2012年、自らプロデューサーとなって、東日本大震災の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した。 | 610 |
大友克洋 | 2012年、自らプロデューサーとなって、東日本大震災の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した。
2013年公開のオムニバス映画『SHORT PEACE』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。
2015年、アングレーム国際漫画祭で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて。
2019年、Anime Expo 2019にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される。
2022年1月より、講談社からデビュー以来の単行本未収録作品を含む全作品を雑誌掲載時の状態のまま収録する大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」の刊行が開始される。
大友の初期の作品はアメリカン・ニューシネマの影響が強く、ロックやジャズ、ドラッグといった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった。
コマ割りなどには敬愛する黒澤明やサム・ペキンパーの影響が強い。
緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された。 | 610 |
大友克洋 | 大友の初期の作品はアメリカン・ニューシネマの影響が強く、ロックやジャズ、ドラッグといった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった。
コマ割りなどには敬愛する黒澤明やサム・ペキンパーの影響が強い。
緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された。
大友は、戦後に漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した。『ショート・ピース』刊行以後、日本の漫画全体の画風、手法が大きく変わったため、漫画の表現史を画するものとして「大友以前、大友以後」という言葉がしばしば用いられる。この言葉を用いた一人である米澤嘉博は、手塚治虫によって体系化された、記号化された絵を用いて意味のあるコマの連続で物語を表現するという漫画の手法に対して、事態をリアルに一枚の風景として描き出し、自在に変化するカメラワークによる画面の連続で作品を構成する大友の手法を、「非手塚的手法」と呼んだ。 なお手塚本人は、劇画ブーム終焉の要因を大友作品に帰するなど、大友を極めて高く評価していた。 大友の作品ではしばしばキャラクターのいない、風景だけが大写しにされたコマが続けて描かれるが、風景を物語の説明的な背景として使うのではなく「風景だけで何かを語らせる」というやり方は、それ以前の漫画にはない新しい手法であった | 610 |
大友克洋 | ササキバラ・ゴウは、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している。このことは一面では、箱庭的な物語世界のなかにディテールを描き込むことへの欲求を作家に与え、70年代以降のSFブーム・アニメブームと連動して、作品に細かな世界設定を描きこむ傾向を育てた。このような傾向はのちに士郎正宗らによって徹底的に追究されていくことになる。他面、人物の立体的な造形は80年代以降の士郎正宗や桂正和、遊人などの描く美少女像を変化させ、「記号的な顔」と「写実的な肉体」を併せ持つ、日本の漫画表現独特の美少女キャラクターを生み出す一因ともなった。上記に加え、老人を口元に皺を一本入れるというような記号的な方法でなく、骨格から皮膚のたるみまで老人として表現するような大友のデッサン力、建物を様々な角度から正確な遠近法で描き出す描写力、写真や映画などから影響を受けた光学的な表現方法などは、以後の漫画界全体の画力を底上げすることになった。この他にも、効果音を描き文字ではなくフキダシを使って描く方法や、超能力などの大きな力によって地面が割れたり、球状にへこんだりするといった表現方法など、大友が始めたことでスタンダードとなった手法は数多い。
大友は、それまでは平面的だったマンガやアニメの世界を、生身の骨格を持ったキャラクターたちや、構造を理解した上で描いた高層ビル群などの奥行きのある背景によって、リアルに立体化してみせた。物事をテンプレに沿って描いたり漫画的表現をしたりすることを避け、物も人も現実に即した表現で描写、キャラクターも全く美化せず、見たままのアジア人的な容姿(細い目、低い鼻、短い足、小さい乳房)で描いた。そうすることにより、例え荒唐無稽なストーリーであっても本当にあるかもしれないと読者に思わせることが可能となっている。 | 610 |
大友克洋 | このような大友のスタイルの斬新さは有名無名を問わず、多くの漫画家に多大な影響を与えた。『ショートピース』刊行前後よりその手法を模倣する漫画家が多数出現。その影響は浦沢直樹、守村大、東本昌平などの当時の新人だけでなく、福山庸治、谷口ジローといった既存の作家にも表れ、作風の変化をもたらした。とり・みき、みやすのんきらは大友風のSFX描写を積極的に取り入れた。貞本義行は衝撃のあまり、大友の単行本を仕事場に置いて、横で見て手本にしながら、大友の「人間の顔を真っ正面から劇画としてアプローチし、且つ漫画的なデザインセンス」を研究していった。そしてそれは少年誌・青年誌の漫画家だけでなく、吉田秋生などの少女漫画家にも及んだ。
大友は漫画界のみならず、アニメの世界にも革命をもたらし、その先進性によって世界中から注目されるようになった。大友の長編監督デビュー作となった劇場アニメ『AKIRA』(1988年)は、日本だけでなく世界中のカルチャーに影響を与え続けている。アメリカ映画『クロニクル』(2012年)は監督のジョシュ・トランクが『AKIRA』の影響を口にし、カニエ・ウェストの「Stronger」のMVは映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたものになっている。また日本の映画の音響面も大友作品以降、大きく進化することになった。
アニメーション監督としては安彦良和のファンで、『機動戦士ガンダム』ではなく、それ以降の『巨神ゴーグ』『ヴイナス戦記』などのアニメ作品が好き。また、安彦とは以前は彼のスタジオによく遊びに行っていた仲でもある。
デビュー以降、ATG映画のような若者の日常のバカバカしさを漫画にしていたが、1978年頃にメビウスやフランスのSF・ホラー漫画雑誌「メタル・ユルラン」の作家たちの存在を知ったことでバンド・デシネやヨーロッパのコミックに傾倒、いったんSFや西洋モノの作品に引き寄せられた。そして、彼らの様にきちんと絵を描くならストーリーもしっかり作らないといけないと考えるようになり、ストーリー作りにも力を入れるようになった。その後、軌道修正して自分なりの作風を確立する。 | 610 |
大友克洋 | 当時、日本の漫画業界は、劇画は『ゴルゴ13』のようなハードボイルド、一般漫画はスポーツ漫画と似たようなジャンルの作品ばかりだった。同じことをやりたくなかった大友は、若者のどうしようもなさを描くような漫画には飽きていたこともあり、子供のころから好きだったSFというジャンルを選んだという。
初めて描いたSF作品は、1979年発表の「Fire-Ball」。それまでロングショットだけで作中人物を描いてきた大友が初めてアップを使った作品でもあり、『童夢』『AKIRA』と続く80年代のSF作品への前触れとなった。1981年の「武器よさらば」は、SFというだけでなく、それまで実験的で渋めの作品が多かった大友がエンタメ志向でアクションを描いたことで驚かれた。
1980年代半ばからは漫画制作からアニメ映画や実写映画などの映像制作に活動の場を移していく。実写とアニメの制作については、分担作業である実写に対し、アニメは自分の頭の中でイメージが出来てしまう分、思い通りにならない現実とのギャップに悩まされるという。また日本のアニメは、実写同様にスタッフの枠が細分化されているアメリカと違って監督の影響力が強く、作品のすべてにその色が出てくるので、どれくらい物事を勉強しているか、あるいは世界に目を向けているかが重要になってくると述べている。
アニメの場合、実写のフレームとレンズの選定に相当するレイアウトは、常に自分で決めるようにしている。
大友は写実的な作風を持つ一方で、作品において漫画作品を始めとする過去の他の作品のパロディ、引用も数多くなされている。 | 610 |
大友克洋 | アニメの場合、実写のフレームとレンズの選定に相当するレイアウトは、常に自分で決めるようにしている。
大友は写実的な作風を持つ一方で、作品において漫画作品を始めとする過去の他の作品のパロディ、引用も数多くなされている。
大友本人は、子供の頃に触れた好きな作品へのオマージュを作品にするというのが制作における基本だと語っている。特に、手塚治虫、石ノ森章太郎、横山光輝という3人の漫画家を尊敬しており、自身の漫画でそれぞれオマージュを捧げている。手塚へのオマージュは、『FIRE BALL』において、メインコンピューターが"ATOM"(『鉄腕アトム』)と呼ばれているところ。石ノ森については、超能力をテーマにした『童夢』において、主人公の名前エッちゃん(悦子)を、同じく超能力を持つ少女が主人公の『さるとびエッちゃん』から引用している。横山は、代表作『AKIRA』の作品全体が横山のロボット漫画『鉄人28号』へのオマージュとなっている。作品タイトルにもなっている登場人物アキラの「実験番号28」は『鉄人28号』にちなんでつけており、主役を含む主要キャラクターの名前も同作の登場人物から引用している。また「戦時中に開発された究極の兵器が戦後の平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という物語の大筋も『鉄人28号』と同じであり、そのことは大友自身が語っている。
キャラクターデザイナーとして最初にオファーを受けたのは、アニメ映画『幻魔大戦』。
子供の頃は鉄腕アトムなどを真似して、非常に伝統的な漫画のような絵を描こうとしていた。しかし、高校生の時に流行った横尾忠則や伊坂芳太良といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。それ以来、漫画の登場人物は、従来の古典的なスタイルではなく、そういった新しいアプローチで描くようになった。 | 610 |
大友克洋 | 子供の頃は鉄腕アトムなどを真似して、非常に伝統的な漫画のような絵を描こうとしていた。しかし、高校生の時に流行った横尾忠則や伊坂芳太良といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。それ以来、漫画の登場人物は、従来の古典的なスタイルではなく、そういった新しいアプローチで描くようになった。
『幻魔大戦』の際、プロデューサーの丸山正雄に「ヒロインのルナ姫が可愛くない」と指摘されて何度も描き直したが、どうしても可愛く描けず、監督のりんたろうが間に入って可愛くないままのデザインでOKとなった。その後、『AKIRA』以降の作品では、初期に比べて登場人物の目が大きくなり、造形をかっこよく・可愛らしく描くようになっている。過去のインタビューでは、「そういった(一般的なアニメらしい可愛さの)絵柄も簡単に描けるが、描く理由もない。描かないと生き残れないなら描く」と語っている。
メカデザイナーとしては、「武器よさらば」で名を知られるようになった。作中のパワードスーツのデザインのアイデアは、その後、様々なジャンルの多数の作品に引用されている。
『幻魔大戦』に登場するサイボーグ戦士ベガのデザインは、当時のロボットデザインとは一線を画すオリジナリティを感じさせるものになっている。
『AKIRA』に登場する金田のバイクの未来的デザインは画期的で、世間に衝撃を与えた。アニメの世界以外でも、モーターショーでコンセプトモデルとして展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりしている。 | 610 |
大友克洋 | 『AKIRA』に登場する金田のバイクの未来的デザインは画期的で、世間に衝撃を与えた。アニメの世界以外でも、モーターショーでコンセプトモデルとして展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりしている。
影響については、特に一つを選ぶのが難しいくらい様々な人や作品に受けている。自身が見て経験してきたもの全ての影響がごちゃごちゃになって混在していて、その中から作品が生まれてくるという。小説『宇宙の戦士』のパワードスーツのデザインを手がけた宮武一貴や加藤直之のいたスタジオぬえの存在はもちろん大きいが、影響されたものには『2001年宇宙の旅』のようなSF映画も含まれている。『スターウォーズ』のデザインはあまり好きではなく、『エイリアン』やクリス・フォスやメビウス、H・R・ギーガーたちを集めてアレハンドロ・ホドロフスキーが制作しようとしていた『デューン』の方を好む。
シド・ミードの作品には大いに影響を受けている。金田のバイクも、シド・ミードがデザインした映画『トロン』に登場するバイク、ライトサイクルの楕円形の大きなフォルムから着想を得ている。
日本人では、自身の作品にも参加している渡部隆のほか、小林誠や『新世紀エヴァンゲリオン』のメカデザインも好き。 | 610 |
大橋薫 | 大橋 薫(おおはし かおる、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。
「狼のエンブレム」(原作:平井和正&ウルフガイプロジェクト)でデビューする。
一卵性双生児の妹に漫画家の楠桂がおり、姉妹での合同作品も多数発表している。
『ファンロード』(ラポート)出身作家で、一本木蛮、児嶋都、ながいけんらと共に一時代を築いた。 | 612 |
大森葵 | 大森 葵(おおもり あおい、11月6日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。ファンタジー作品を描く傍ら、PlayStation 2用ゲームソフト『サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼』ではいるも晴章名義でキャラクターデザインを務めた。 | 613 |
大山和栄 | 大山 和栄(おおやま かずえ、生年不詳(2月16日生) - 2010年4月)は、日本の女性漫画家。長崎県平戸市出身。血液型はO型。
1973年、小学館の少女向け漫画雑誌『週刊少女コミック』にて「おむこさん志願」でデビュー。以降同誌や、同社の一般女性向けの漫画雑誌『プチセブン』などを中心に多数の連載作品を執筆していた。また講談社、秋田書店などの少女向け漫画誌でも主に短編作品を発表していた。
2002年、乳がんに罹患していることが分かり、摘出手術を受けた。以降、乳がんの撲滅運動であるピンクリボン運動にもかかわっていた。また、その闘病体験を生かした作品である『未来暦』やエッセイ作品『明日への伝言』、『乳がんと闘う!!ピンクのリボン』なども発行された。
2009年10月頃より癌が再発した事実を自らのブログに公表し、闘病の記録を綴っていたが、2010年4月初旬自身のブログにて体調が急変したことを伝える記事を執筆していたのが最後の記事となった。その後、同月に亡くなっていたことが判明し、同年6月に故郷である平戸市にてお別れの会が執り行われた。
長崎県平戸の風土をこよなく愛し、作品の中にも数多く登場させていた。例えば『姉妹坂』における茜の出生地が長崎の平戸であり、後に息を引き取る場所も平戸であった。平戸の復興とイメージアップに対し、ピンクリボン運動の講演会などで熱く情熱的に語り、ピンクリボン運動を通して自らも行動を起こしていた。
大学の教壇に立ち、新たな可能性を秘めた若い才能を育てつつ、心に傷を持つ若者達(不登校児童)との交流にも力を注いでいた。
後進の女性漫画家のみならず、漫画を中心とした文化に対して与えた影響には多大なものがあり、画力とストーリーを兼ね備えた本格派の女性漫画家として道を開いた人物であり、作中のキャラクターに対し、個性ではなくシュールな人物としての性格を取り込ませ表現する手法を用いた作家でもあった。
1982年、歌手・女優である小泉今日子のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず、大山が描いた彼女の似顔絵のイラストが使用された。この縁で、小泉のアルバム『詩色の季節』(LP盤、レーベル:ビクターエンタテインメント)のうち、B面に収録された曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山のイラストがちりばめられている。 | 614 |
大山和栄 | 1982年、歌手・女優である小泉今日子のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず、大山が描いた彼女の似顔絵のイラストが使用された。この縁で、小泉のアルバム『詩色の季節』(LP盤、レーベル:ビクターエンタテインメント)のうち、B面に収録された曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山のイラストがちりばめられている。
1984年、『週刊少女コミック』主催の『ザ・スカウトオーディション』において大山の代表作の1つである『シューティングスター』の主人公の名をグランプリとして冠した『浅香唯賞』に川崎亜紀が受賞。これを機に、川崎亜紀は芸名「浅香唯」として芸能界入りし、アイドルタレントとして活躍することとなる。
代表作の1つである『姉妹坂』は1985年に東宝より映画化された。また『未来暦』と『典子、点、テン』は中国でも発売されている。 | 614 |
岡崎京子 | 岡崎 京子(おかざき きょうこ、1963年〈昭和38年〉12月13日 - )は、日本の漫画家。
1980年代から1990年代にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた。しかし作家活動の頂点にあった1996年(平成8年)に交通事故で重傷を負い、後遺症で作家生命を事実上絶たれた。
休筆後20年以上を経てもなお、過去作品が断続的に復刊され、また映画化されている。
東京都世田谷区下北沢の理髪店の娘として生まれる。
東京都立松原高等学校時代から橘川幸夫編集の投稿雑誌『ポンプ』等にイラストや漫画を頻繁に投稿。妹とともに表紙を飾ったこともある。
他、ミニコミ誌「リサイクル・サークル」内にイラストを提供。モチーフの多くはNew Age Steppersなどニューウェイブバンドであった。この頃、音楽家集団京浜兄弟社の加藤賢崇、常盤響、岸野雄一らと交流。跡見学園女子大学短期大学部在学中、友人の同人誌への投稿作品が、メジャーミニコミ誌『東京おとなクラブ』に転載されたものが、雑誌 『漫画ブリッコ』編集者・大塚英志に評価され、 1983年(昭和58年)、『漫画ブリッコ』(白夜書房)6月号にてデビュー。
1980年代から1990年代にかけて、サブカル誌、漫画誌、ファッション誌などに作品が掲載され、また新しいタイプの女性漫画家として内田春菊、桜沢エリカ、原律子らとともに、一般誌にも紹介される。岡崎の作品では、映画、小説、音楽、現代思想書などからの引用が多用され、また同時に岡崎の漫画表現を考察する本や雑誌も多く出版されている。岡崎の作品 『ヘルタースケルター』は2003年(平成15年)度文化庁メディア芸術祭・マンガ部門優秀賞、2004年(平成16年)第8回手塚治虫文化賞・マンガ大賞を受賞。
岡崎のアシスタントを務めていたことがあるのは安野モヨコ、よしもとよしとも、マユタン、千里唱子、坂本大三郎らの漫画家。また後のアートライター工藤キキもアシスタントだったことがある。
結婚後の1996年(平成8年)5月19日18時半頃、自宅付近にて夫と共に散歩中、飲酒運転の大型四輪駆動車にひき逃げされ、自力で呼吸できないほどの重傷を負ったうえ、意識障害が続き創作休止と長期療養を余儀なくされる。 | 615 |
岡崎京子 | 岡崎のアシスタントを務めていたことがあるのは安野モヨコ、よしもとよしとも、マユタン、千里唱子、坂本大三郎らの漫画家。また後のアートライター工藤キキもアシスタントだったことがある。
結婚後の1996年(平成8年)5月19日18時半頃、自宅付近にて夫と共に散歩中、飲酒運転の大型四輪駆動車にひき逃げされ、自力で呼吸できないほどの重傷を負ったうえ、意識障害が続き創作休止と長期療養を余儀なくされる。
岡崎の家族の了解をとって角川書店が1998年(平成10年)に『UNTITLED』を刊行。題名は編集部と家族が話し合い決定している。
以前からファンであり親交がある小沢健二のコンサートに事故の14年後(2010年(平成22年)5月)に車椅子に乗り訪れる。
『ヘルタースケルター』の映画化に際して事故後初の岡崎本人の発言が2012年1月に発表される。
初の大規模個展「戦場のガールズ・ライフ」が2015年に東京・世田谷文学館で開かれ、その後、兵庫と福岡へも巡回した。 | 615 |
岡崎つぐお | 岡崎 つぐお(おかざき つぐお、1960年4月23日 - )は日本の漫画家。東京都出身。
1980年に『2年A組星子先生』でデビュー。デビュー後しばらくは『週刊少年サンデー』(小学館)で活躍した。代表作は『ただいま授業中!』『ジャスティ』『ラグナロック・ガイ』『あそびじゃないの』など。
その後、デジタルコミックも手掛け、1998年刊行の『ウェブコミックス』vol.1(ソフトバンク)に「カイン11」が掲載された。2011年、「Web Magazine KATANA」で『ジャスティ~ネオランビス編』が始まった。
女優の清水まゆみは叔母(母の妹)。 | 616 |
岡村賢二 | 岡村 賢二(おかむら けんじ、1963年3月30日 - )は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。男性。
1984年、『増刊少年サンデー』に『一年女帝』が掲載され、デビュー。格闘漫画や歴史漫画(「戦国武将列伝」シリーズ等)を多く描いており、激しいバイオレンス描写や、敵役を徹底的に悪人顔に描くなどの特徴がある。
他多数 | 619 |
荻野真 | 荻野 真(おぎの まこと、1959年5月26日 - 2019年4月29日)は、日本の漫画家。男性。岐阜県出身。
岐阜県立恵那高等学校卒業、名古屋大学理学部中退。在学中は漫画研究会に所属しており、先輩に森博嗣がいた。
大学では落ちこぼれてしまい、仲の良かった同人誌仲間も当時の大手出版社による「青田買い」により疎遠となってしまい、ほぼ八方ふさがりの状態になってしまっていたという。半ばやけくそで漫画の原稿を持ちこむ。最初に持ち込んだ小学館ではボロクソに叩かれ、「いったい何しに来たの?」とまで言われたという。その隣のビルであったヤングジャンプ編集部に持ち込んだ際、応対してくれた田中純に評価され、知己を得たことがその後の大きな手助けになったと後に回顧している。
その後は政岡としや、釋英勝、もりたじゅんなどのアシスタントを渡り歩き、様々な出会いと経験を積む。
デビュー作で長期連載となった『孔雀王』は「宗教漫画ブームのはしり」と称された。
2019年4月29日、腎不全のため死去。59歳没。同年5月10日にヤングジャンプの公式サイト上で公表された。
『孔雀王』を筆頭に密教、神道などをモチーフとしたオカルト風アクション漫画家として知られている一方で、『ALGO!』『小類人』などSF作品も手がけている。 孔雀王退魔聖伝以降の作品では、中盤から話が広がりすぎたり、散らばったりしてうまくまとめられない、といった作風になることも多かった。 孔雀王曲神紀においては、その例が顕著となり、終盤の神との対決でカラオケの歌でチーム戦をするといった話で遂に集英社から苦言と打ち切りを宣告されている。
曲神紀最終話では、伏線もなく登場した孔雀の究極形態、ゼロの超神と伊邪那岐神が刃を交えるシーンでラストを迎えている。 この描写は当時のネットで話題にもなっている。 その後は比較的、纏まった作風になっている。
『孔雀王』の連載時、夢枕獏が自作の小説『サイコダイバー・シリーズ』からの盗用を指摘して問題になった。当事者間で話し合いが持たれ、荻野と担当編集者が謝罪、さらに『孔雀王』の単行本に「参考文献」として同作の名を挙げることで事態は沈静化した。この経緯については、『サイコダイバー・シリーズ』の後書きでも言及されている。 | 620 |
奥田ひとし | 奥田 ひとし(おくだ ひとし、男性、1963年8月15日 - )は、日本の漫画家。代表作は『天地無用!』、『でたとこプリンセス』など。
秋田県仙北郡協和町(現:大仙市)出身。秋田県立秋田高等学校、駒澤大学経済学部卒業。在学中に「LEO」のペンネームで、徳間書店の季刊誌「ハイパーゾーン」に連載された『カナミ - 時の瘡痕』でデビュー。
大学卒業後は大手ハムメーカーに営業マンとして就職し断筆したが、漫画家への夢を捨てきれず1989年の手塚治虫逝去をきっかけに退社、出渕裕・結城信輝らの下でアシスタントとして修行を積む。当時の実績から、ゼネラルプロダクツが発刊したゼネプロカタログでは「日本の二大トップアニメーターの元で修行した漫画家」と紹介されている。翌1990年、白夜書房の「コミッククラフト」創刊号『ラジカルガーディアン』にて、ペンネームを「奥田ひとし」に改名し再デビュー。このペンネームは、高校時代の同級生であり漫画の技術へ大きな影響を受けた今野仁に敬意を表したものである。
コミッククラフトは7号で廃刊になったが、富士見書房からラジカルガーディアン単行本化の話があり(白夜からも単行本化の話はあった)、連載分1巻に書き下ろし2巻を加えた全3巻を発売。以後は富士見書房の雑誌「ドラゴンマガジン」「コミックドラゴン」などに連載を持ち、『天地無用!』『でたとこプリンセス』などの代表作を出す。
デビュー以来、長らく東京都内に住んでいたが、2004年に「どうしても秋田弁でしゃべりたい」という思いが抑えられなくなり、出身地の秋田に戻った。帰郷後は『超神ネイガー』の企画に賛同し、コミカライズ(富士見書房「月刊ドラゴンエイジ」読み切り→単行本化)をはじめ、様々な商品へのイラスト提供を行う。
実家は秋田県大仙市協和境の蔵元、奥田酒造店。銘柄の「千代緑」「重右衛門の酒」を、自身の作品中に度々登場させている。
その他、アンソロジーやイラスト、パンフレット類の4コマ掲載など多数。 | 623 |
尾瀬あきら | 尾瀬 あきら(おぜ あきら、1947年(昭和22年)7月26日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。別名松本 めぐむ。
高校生時代に石森章太郎の『マンガ家入門』を読み、漫画家を志す。
高校卒業後、あさのりじ、久松文雄のアシスタントを経て、石森プロに入る。当時の石森プロの先輩アシスタントに永井豪、後輩に小山田つとむがいた。石森プロ時代も久松やあさのりじの手伝いをしていた。
松本めぐむというペンネームで貸本漫画の描き下ろし単行本を手掛けた後、『空飛ぶゆうれい船』のコミカライズでデビュー。
初期はアニメや特撮番組のコミカライズ作品を手がけていた。その後、新聞や少女漫画雑誌の連載を経て、『マッチポイント!』からペンネームを現行の尾瀬あきらに変更。『少年ビッグコミック』にて連載された自身初の長期連載作『初恋スキャンダル』は連載5年、単行本全18巻の人気作品となった。
1985年(昭和60年)に『初恋スキャンダル』『とべ!人類II』で第31回(昭和60年度)小学館漫画賞を受賞している。
1988年(昭和63年)の春から『夏子の酒』(モーニング)の連載が始まる。日本酒造りとそのために必要な酒米造りについて、田舎や農業の抱える問題と共に描いた作品で広く人気を博し代表作となり、1994年(平成6年)にフジテレビ系列で連続ドラマ化された。
『夏子の酒』完結後、1年余りの取材を経て、三里塚闘争に奔走される地元農民の生き様を描いた『ぼくの村の話』を1992年(平成4年)春から1993年(平成5年)末にかけて『モーニング』にて連載。「ヒットこそしなかったものの、この作品で多くのものを得た」と公式サイトにて発言している。
これ以降、2 - 3年程度の連載作品を青年漫画雑誌で発表している。
基本的に社会派的な問題提起型の話が多く、日本社会の中に内在する、日の当たらない問題・人間を主題に扱う。漫画作品以外にも、漫画の描き方や、趣味である酒に関してつづった著書などがある。 | 624 |
尾瀬あきら | これ以降、2 - 3年程度の連載作品を青年漫画雑誌で発表している。
基本的に社会派的な問題提起型の話が多く、日本社会の中に内在する、日の当たらない問題・人間を主題に扱う。漫画作品以外にも、漫画の描き方や、趣味である酒に関してつづった著書などがある。
コミカライズを担当していた時代は、既存の物語を組み立て直すことに空虚さを感じていたが、アシスタントではなく漫画を描き続けられただけで喜びを感じていたと語っている。『仮面ライダーV3』では必要最低限の部分を抑えれば自由にやって良いという体制であったため、結城丈二 / ライダーマンについて掘り下げるなどのオリジナル要素を盛り込んだ。『鋼鉄ジーグ』や『大空魔竜ガイキング』では、物語をパターンに納める作業をつまらなく感じたため、自身が好む「人間的な弱さのあるヒーローらしくないヒーロー」というコンセプトで執筆した。『ガイキング』で自身のヒーロー像を描き切ったと感じ、コミカライズの仕事を絶った。
『鋼鉄ジーグ』では女子高校生によるファンクラブが存在した。
※ 全て松本めぐむ名義で執筆。
※内部リンクは大元のテレビ作品へリンクしている
※ 松本めぐむ名義 | 624 |
落合尚之 | 落合 尚之(おちあい なおゆき、1968年1月6日 - )は、日本の男性漫画家。福岡県福岡市出身。代表作に『黒い羊は迷わない』『罪と罰 A Falsified Romance』など。
1991年に「どすこい!!タコ花田イカ花田」でデビュー。その後いくつかの短編を経て、小学館の『週刊ヤングサンデー』に『黒い羊は迷わない』の第一部、第二部を連載。再び数篇の短編を経て同じく小学館の『月刊サンデージェネックス』に「ダンデライオン」「鉄人」(原作:矢作俊彦)を、『ビッグコミックビジネス』に「派遣社員お銀」(原作:神尾龍)を連載。
2011年双葉社の『漫画アクション』にて「罪と罰 A Falsified Romance」を連載終了。 | 625 |
小野弥夢 | 小野 弥夢(おの ひろむ、9月13日 - )は、漫画家。猫水彩画家。広島県呉市出身。
大和和紀のアシスタントを経て、1977年に『ロックンロールペテン師』でデビュー。 以後、「少女フレンド」を中心に活躍し、現在は女性誌に発表の場を移している。 代表作に『Lady Love』『DIVA』『Pony Tail』など。 特に『DIVA』は、少女漫画では初めて、本格的にオペラの世界を扱った作品として知られる。 1984年、『Lady Love』で第8回講談社漫画賞を受賞。
現在は猫水彩画家として活動しており、都内のギャラリーで作品展に参加している。 | 626 |
小山田いく | 小山田 いく(おやまだ いく、1956年6月10日 - 2016年3月23日)は、日本の漫画家。代表作に『すくらっぷ・ブック』など。本名は田上 勝久(たがみ かつひさ)。同じく漫画家のたがみよしひさは実弟。
長野県小諸市生まれ。小諸市立坂の上小学校、小諸市立芦原中学校、長野工業高等専門学校機械工学科卒業。卒業後の1979年、本名で描いた『五百羅漢』(『別冊ビッグコミック』12月1日号)で漫画家デビュー(これ以前にも“幻のデビュー作”として、第4回小学館新人コミック大賞を受賞した「菩薩」がある)。同年、「12月の唯」(第13回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」佳作)で小山田いく名義に変更し『週刊少年チャンピオン』にてデビューした(同期の受賞者は、入選の神矢みのる、佳作の木村和昭など)。その後、『春雨みら〜じゅ』『三角定規ぷらす1』といった読切短編を発表する。
1980年、故郷の小諸市を舞台とした青春ラブコメディ『すくらっぷ・ブック』で連載デビューする。この作品は前3作の短編から『春雨みら〜じゅ』の柏木晴(かしわぎ はる)を主人公とし、これら3作全ての登場人物を含めた「市立芦ノ原中学校」での学園生活(2学年進級から中学校卒業まで)を描くというもので、一躍人気を獲得する。
『すくらっぷ・ブック』以降しばらくは、短編『シューティング・ザ・ムーン』『ぶるうピーター』『ウッド・ノート』など、同様の恋愛青春群像を中心に描いていたが、1987年発表の『マリオネット師』ではマリオネットを操る若きスリ師の目を通して様々な人生劇を描く手法で、その人気を不動のものとする。以降、環境問題や社会問題を取り上げた作品を得意とするようになる。
民話や神話、古典文学、自然科学といった分野に造詣が深く、特に初期作品には民話や神話をモチーフにした作品やエピソードが多い。登場人物のセリフ中にも古典詩や俳句などがよく引用される。また鉄道にまつわる作品も多数発表している。工業高専卒ながら工学理数系はあまり得意ではなかったとしているが、作品には機械いじりが趣味というキャラクターも多く登場する。過去作品のキャラクターが成長ないし過去の人物として再登場することも多く、読者にとっては楽しみの一つでもあった。「大山田博士」や「寿司ごん店長」など、一部のキャラクターはスター・システムとして登場している。 | 628 |
小山田いく | 1994年以降は『少年チャンピオン』発行元の秋田書店や、ぶんか社発行のミステリー・ホラー誌に執筆の場を移して活動した。
2016年3月23日、小諸市の自宅にて倒れているのが発見され、死亡が確認された。享年59。
執筆予定だった雑誌には弟のたがみよしひさが代わって、家族の想い出を描いたその短編「欠片の記憶」を描いた。「欠片の記憶」には「小山田いくこと田上勝久も肝硬変で死んだ......」と記されている。 | 628 |
Gnutella | Gnutella(グヌーテラ、ニューテラ)はP2Pプロトコルおよびファイル共有クライアント。
ナップスターなどのP2Pクライアントの場合は、中央サーバが存在し、ファイルのメタデータの管理や検索サービスを提供することにより、P2Pネットワークが機能している。それに対し、グヌーテラはサーバに依存せず、純粋にピア間の通信のみでファイルの送受信などの機能を実現している。
P2Pのしくみの分類中、このようなピア間の通信のみによって機能するものをピュアP2P、ナップスターのようにサーバの仲介を必要とするものを、ハイブリッドP2Pと呼んでいる。
その他には、KaZaA や Skypeに使われているスーパーノード型ハイブリッドP2Pがある。
ナップスターに代表される第一世代P2P(ハイブリッドP2P)は、中央サーバに依存する為、ネットワークへのトラフィックは少ないが、耐障害性が低く、サーバがダウンしたらネットワークが形成できないという弱点があった。それに対してグヌーテラに代表される第二世代P2P(ピュアP2P)は、各クライアントがサーバを兼ねる(サーバント)為、耐障害性が高い。
製作者の「核戦争でも生き残れるように設計されたもの(Gnutella is designed to survive nuclear war)」や、「万一、ニューヨークに核爆弾が投下されたとしても、(それ自体はたいへんなことだが)ニューヨーク以外の『グヌーテラ友達』によってグヌーテラネットは維持されるだろう」といった言葉が、グヌーテラネットワークの特徴をよく表している。
グヌーテラネットワーク上で交わされているメッセージは、PING、PONG、PUSH、QUERY、QUERY_HITの以上である。
中央サーバが存在しないグヌーテラにおいて、最初に接続するときに何処に問い合わせるのか?という問題が出てくる。 グヌーテラ第一世代では、ノード情報を掲示板などで入手する方法が採られていたが、グヌーテラ第二世代になって、GWC(GWebCache)というブートストラップサーバーにより各ノードと接続する方法がとられた。
接続においては、グヌーテラサーバントはまずPINGという接続要求を出す。それに対して、接続相手はPONGという信号を返して、ハンドシェイクを行い接続が完了する。 | 630 |
Gnutella | 接続においては、グヌーテラサーバントはまずPINGという接続要求を出す。それに対して、接続相手はPONGという信号を返して、ハンドシェイクを行い接続が完了する。
検索はグヌーテラネットワークで行っており、ファイルを求めるサーバントは、QUERYをグヌーテラネットワークに送信し、ヒットしたクエリがQUERY_HITとして検索結果に表示される。
グヌーテラでの、ファイルの転送はHTTPプロトコルで行われている。 ファイルの転送は、QUERY_HIT識別子に含まれる、IPアドレスやポート番号などによってファイルの所有者にHTTPでの転送命令を出す。 また、ファイル所有者がファイアウォール下にいるサーバントの場合は、PUSH識別子を出し、相手サーバントがHTTPでの転送命令を出す。
2000年、AOL社の一部門であるNullsoftで、当時社員だった Justin FrankelとTom Pepperの二人が、最初のグヌーテラクライアントを開発した。
2000年3月14日、二人はNullsoftのサーバー上にプログラムをダウンロードできる形でアップロードした。この出来事はスラッシュドットで告知されたため、その日の内に数千人がソフトをダウンロードした。ソースコードについては、後ほどGPLライセンスの元で提供する予定だった。
翌日、AOLは法的問題を理由にプログラムの提供を中止し、さらにNullsoft部門にプロジェクトを中止させた。しかしこの措置によっても、グヌーテラを止めることはできなかった。
数日後には、リバースエンジニアリングによってプロトコルは解析され、それを元にグヌーテラ互換のオープンソースクローンが登場した。現在でも、様々なグループが グヌーテラ 互換クライアントの開発を続けている。
シャットダウンから間もなくして、Brian MaylandがNullsoftのプログラムを入手して、グヌーテラプロトコルの動作原理を理解するためにリバースエンジニアリングした。彼の仕事のおかげでテキストベースのUNIXプログラムを作ったJosh Pieperや、より使いやすいGUIをもったプログラムを作ろうとしたGene KanやSpencer Kimballのような人々によってソフトウェア開発がなされることになった。 | 630 |
Gnutella | ユーザの裾野が広がるにつれ、システムの重大な問題が取り沙汰されはじめた。ネットワークはPINGリクエストで溢れかえり、同時に非常に多くの検索クエリーで高負荷になった。より高速なハブとしての役割を果たすコンピュータに接続した低速のモデムといった形でネットワークのトポロジーは非効率的だった。第一世代のソフトウェアの深刻なバグによってパケットがネットワーク上を不明確にさまよっていた。ネットワークは“本来は少数のユーザのために設計されたもので”100人単位から10,000 単位のユーザに膨張しトラブルに見まわれた。「ただ乗り」や「何も提供していないのにファイルを取り出すだけの人々」によってもユーザが探し物をするのを難しくした。
もう一度、情熱的なコミュニティーが救済に乗り出した。Bob Schmidtが初めてのホストキャッシングシステムを開発した。プログラマー達はGnutella 0.56のコードを修正し、パケットが適切に運ばれるようにTTLのバグを取り除こうとした。そして、Jorge Gonzalesはネットワークをダメにするスパマーたちからネットワークを守る行動に出た。
この時点で、物事は個人の開発者が全てをまかなうにはあまりにも複雑になっていた。彼らはコードを書き、報道やユーザやお金の工面をしなければならなかった。 こういった事情で、早急に商業的な努力が介入し、「救済に乗り出す」必要が出てきた。Clip2はgnutellahosts.comを開発し、より良いホストキャッシュの実装し、いくらかナップスターのようなトポロジーをグヌーテラネットワークに組み入れて合体させるようなやり方で動く小さなサーバリフレクターを開発した。 | 630 |
市東亮子 | 市東 亮子(しとう りょうこ、6月30日 - )は、日本の漫画家。千葉県出身。女性。
1981年、『ボニータ』(秋田書店)7月号に掲載の『さりげなくラブ・ミー』でデビュー。以後、同誌や『月刊プリンセス』(秋田書店)など少女誌を中心に執筆活動を行っている。代表作は『やじきた学園道中記』、『BUD BOY』など。 | 631 |
一節切 | 一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。
尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの手孔がある。音域は尺八よりも狭く、約1オクターヴ半ほどである。
前野良沢や一休宗純、雪舟、北条幻庵なども一節切の奏者として知られている。織田信長に仕えた大森宗勲も名手である。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。現在、残された楽譜は存在するが、音価(音の長さ)の指定がなくどのような演奏だったのかを再現するのは難しく、専ら好事家の研究対象となっている。
最も有名な一節切としては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に受け継がれた『乃可勢(のかぜ)』という名笛がある。
薩摩には、『天吹(てんぷく)』と呼ばれる一節切に似た小型の縦笛が伝わっている。
2012年5月15日、テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に安土桃山時代の一節切が登場し、150万円の鑑定額がついた。 | 633 |
パンパイプ | パンパイプ (panpipes) あるいはパンフルート (pan flute) は木管楽器の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に筏状に束ねて作られた縦笛である。
古代から知られており、多くの場合5つかそれ以上の管を束ねて作られる。長い間民族楽器として親しまれており、パイプオルガンやハーモニカの原型とも考えられている。管は主として葦、竹やダンチクで作られるが、木やプラスチック、金属なども用いられる。
パンパイプの管は一端が塞がれた閉管であり、同じ長さで両端が開いた開管より1オクターヴ低い音が出る。フルートや篠笛のような笛は、1本の管で低音から高音まで出さねばならないので、実はかなり無理のある構造なのだが、パンパイプは低音を出しやすい太い管と高音を出しやすい細い管を使い分けて作ることができ、その意味では合理的な楽器である。発音自体は比較的容易であるが、肺活量を必要とし、演奏は必ずしも容易ではない。
ルーマニアに伝わるパンパイプは「ナイ」、南米アンデス地方に伝わるものは「サンポーニャ」として知られている。ラオスやタイには管を円筒状に並べたタイプがあり、「Wot」と呼ばれてイーサーン地方の民族音楽に使われている。
ギリシア神話の牧神パーンが吹いたということからパンパイプ、パンフルートと呼ばれる。 パンパイプは、パーンにまつわる物語からシュリンクス(シランクス)という名称でも知られる。
パンパイプは古代ギリシャの時代から存在が知られているが、ヨーロッパの多くの国々では忘れ去られていた時期がある。モーツァルトの歌劇「魔笛」に登場するパパゲーノが手にする笛はパンパイプの事である。
しかし、そのヨーロッパでも小国ルーマニアでは、民族楽器「NAI」ナイとして演奏されてきた。20世紀になってから、ルーマニアでこの楽器を見直す動きが起こり、管の本数が増やされたり、材料を中国産の女竹に変更するなどの改良が加えられていった。ルーマニアの国立音楽大学で正課として取り上げられるようになったことで、多くの名人が生まれた。
第二次世界大戦後、ルーマニア出身のナイ奏者ゲオルゲ・ザンフィルが演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。 | 634 |
パンパイプ | 第二次世界大戦後、ルーマニア出身のナイ奏者ゲオルゲ・ザンフィルが演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。
ゲオルゲ・ザンフィルの一番弟子にラドゥ・ネキフォル (Radu Nechifor) がいる。ザンフィルのオーケストラソリストを始めとし、世界中で演奏活動を行っている。民族音楽のみならず、クラシック、ジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽を演奏し、パンフルートの可能性を広げた。ルーマニアのシビウ市で開催される国際パンフルートマスタークラスの主催者である。2018年に初来日を果たす。
ザンフィルの演奏に衝撃を受けた一人にスイスのヨリ・ムルクがいる。ザンフィルは彼に演奏法だけでなく、改良されたナイの製法も伝授した。
パンパイプはシルクロードを通って中国にも伝わり、奈良時代に日本に伝来し、排簫(はいしょう)と呼ばれていた。正倉院宝物墨絵弾弓に描かれた散楽図には排簫を演奏する楽人が描かれている。しかし、近年になって正倉院に残されていた残骸を参考に復元されるまで、雅楽の世界からはいつしか姿を消していた。
日本では、2017年より日本パンフルートフェスティバルが開催されている。世界のパンフルート奏者が来日し、コンサートやワークショップを行うなど、パンフルートを通じた文化交流も深めている。
2019年より東京音楽大学付属民族音楽研究所に、日本初大学でパンフルート入門講座が開講された。
2019年5月、駐日ルーマニア大使館公認日本ルーマニアパンフルート協会が設立され、ゲオルゲ・ザンフィルが名誉会長に就任した。
2020年3月、成蹊大学ルーマニアプロジェクトパンフルートグループの活動を開始する。
2020年4月より東京音楽大学付属民族音楽研究所主催社会人特別講座にパンフルート講座が開講された。
管が上下方向になるように構え、管の開端に水平方向に息を吹きかけると音が出る。息の圧力と唇の張りを高めると奇数倍音を出すことができる。閉管構造なので、偶数倍音は出せない。管を傾けたり、顎を動かすことによって半音(♯や♭の付いた音)を出すことが出来る。楽器を持つ手を揺り動かしたり、息の圧力を変えることによってビブラートをかけることもできる。 | 634 |
チェッカーズ | チェッカーズ(THE CHECKERS)は、男性7人組のロックバンド。1980年代から1990年代前半にかけて活動した。福岡県久留米市にて結成。デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」であった。
他に、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、パーカッションのアンディ檜山(桧山正利)がいた。
チェッカーズ解散後、郁弥、武内、大土井、尚之は所属事務所を退社、それぞれソロ活動を行なう。武内は本人主催のイベントや音楽プロデュース、鶴久と高杢は同じ事務所に所属、音楽以外の活動をしていたが、高杢が2005年個人事務所設立に伴い独立。鶴久、徳永も所属事務所から退社し、徳永は別のバンドで活動。武内・大土井・徳永・尚之の楽器陣4人はアブラーズを結成、活動していたが、徳永が2004年8月17日に舌がんのため40歳で死去したため、現在は3人で活動。
メンバーが集まりバンド名を決める際に、当時良く聞いていたバンド『COOLS』『CHANELS』が「C」で始まり「S」で終わることから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代から親交のある武内の同級生でベーシストの武田圭治(現THE TRAVELLERS)。ヤマハのコンテスト出場時には「ザ・チェッカーズ」としてエントリーしている。
デビュー当初はチェック柄の衣装を着ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが誤りで、バンド名が先にあった。チェック柄の衣装のアイディアは、当時のヤマハのマネージャーが考案した。
表記についてはシングル、アルバムのジャケット等については初期はカタカナ表記「チェッカーズ」及び英語表記「THE CHECKERS」(または「The Checkers」)、中期以降は後者の英語表記で記され、「歌のトップテン」については一時期(1988年頃)英語の大文字表記、「突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100」については英語の小文字表記で記されていたが、正式表記は一貫してカタカナ表記。 | 635 |
チェッカーズ | デビュー前から、秋山道男が総合プロデューサーとして「バンドとしてのコンセプト」を考え、メンバーの髪型(当初はリーゼントだった)、ファッションなどを決めた。また、映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』のシノプシスを考案した。
立ち位置はボーカルは左から、鶴久、郁弥、高杢。楽器陣は左から大土井、尚之、徳永、武内が基本(ボーカルの関係で入れ替わることもある)。郁弥がメインでボーカルを務める曲がほとんど(シングル曲全て)。楽器陣4人にも各人メインボーカル担当曲がある。コーラスはメインボーカルと徳永を除いた5人ですることが多い。
後期は、鶴久がキーボードを使用するにあたり、前列が左から尚之、郁弥、高杢。後列が鶴久、大土井、徳永、武内となることもあったが、アシスタントとしてツアーにキーボードとパーカッションに八木橋カンペー、アンディ檜山が着いてからは元の位置に戻った。
「ギザギザハートの子守唄」から「Song for U.S.A.」までの初期シングルA面10曲は一貫して芹澤廣明が作曲・編曲。作詞は主に売野雅勇、「ギザギザハートの子守唄」「神様ヘルプ!」の2曲が康珍化。初期のB面曲やアルバム曲は芹澤・売野コンビによるものとメンバーによるものとで半々。12枚目のシングル「NANA」以降はシングル・アルバム共に全てメンバーによる作詞・作曲。メンバーの作詞は、ほぼ郁弥だが、高杢の作詞も見受けられる。
作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「ひらけ!ポンキッキ」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、ひこねのりおによるアニメーション映像ともども人気が高い。鶴久はグループ在籍時からゆうゆに楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価され、尚之と合わせメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がける。 シングルA面曲の作曲は尚之が8曲、鶴久が7曲手掛けていて、他に大土井と武内が2曲ずつ手掛けている。 | 635 |
チェッカーズ | 「オリジナル曲が作れるアイドルグループ」の先駆者として人気を博していたが、4thアルバム『FLOWER』を発売した頃から、収録曲の10曲中5曲がメンバーが制作した楽曲になり、「チェッカーズは、脱アイドル宣言を行うのではないか」との噂が絶えなかった。しかし本人達は後日「自分達は脱アイドルを宣言したことは無いし、現在でもアイドルである」と発言、解散するまで自分達はアイドルであることの姿勢を崩さなかった。
鑑賞マナーについて、ファンに対し言及した。
呼びかけたマナーの内容としては、以下のものがあった。
ふとした事から、英国のロックバンド『The George Springhill Band(ジョージ・スプリングヒル・バンド)』の事を知り感銘したメンバーが、彼らの事を知って貰うためのコピーバンドとして1985年と1987年、チェッカーズとは別に「キュート・ビート・クラブ・バンド」(Cute Beat Club Band。以下、C.B.C.Bと記載)としても活動した。バンド名は自分達のファンクラブの名から取ったもの。1985年には企画アルバム、1987年には12インチシングル、ライブアルバム、写真集を発売している。また、C.B.C.Bでは作詞家に秋元康を起用している。尚、C.B.C.B.として活動するときのメンバーの名前は、以下の通り。だが、これはネタである。ジョージ・スプリングヒル・バンド名義の3曲もメンバーのオリジナルで、演奏もメンバーによるもの。郁弥曰く「本業はチェッカーズ、C.B.C.B.は趣味」。
番外:まんてんワイドのテーマ(TBSラジオ「エド山口のまんてんワイド」のために作詞作曲されたオリジナルでシングル化されておらず、アルバムにも収録されていない。)
※ Blu-ray発売日の出典
『とんねるずのみなさんのおかげです』に準レギュラーとして出演。
また、「チェッカーズンズン」、「NOT CHECKERS TV」などの単独番組でもコント等を行なった。 | 635 |
バンドネオン | バンドネオン(英: bandoneon、西: bandoneón)はコンサーティーナ族の蛇腹楽器である。
蛇腹楽器の中では中型のサイズの楽器である(重さは5キログラムから7キログラムくらいの機種が多い)。アコーディオンが蛇腹の押し引きを左手で行うのに対して、バンドネオンは左右の両手の力で蛇腹の押し引きを行うため、楽器のサイズの割りに大音量を出すことが可能で、鋭い明快なスタッカートなど音のメリハリもつけやすい(これはコンサーティーナ族共通の特長である)。
日本ではタンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、海外ではタンゴ以外のジャンルの音楽の演奏でも使われ、また独奏楽器としても高い演奏能力をもつ楽器である。
蛇腹楽器の一種であるが、いわゆる「アコーディオン」とは違う楽器であり、バンドネオン奏者に「アコーディオン奏者の○○さん」と声をかける事はタブーとされる。
アコーディオンは左右非相称で、左右の筐体は形も機能も異なり、右手側の筐体をバンドで演奏者の体に固定することが多い。これに対して、バンドネオン(および、バンドネオンの原型であるコンサーティーナ)は左右相称であり、左右の筐体は音域が違うものの形や機能は同じで、筐体をバンドで体に固定することはない。詳しくは蛇腹楽器のバンドの説明を参照。
以下に蛇腹楽器の分類におけるバンドネオンの位置を示す。
バンドネオンはボタン式の鍵盤楽器である。蛇腹の左右に、ボタン鍵盤をそなえた筐体(きょうたい。器械を内蔵した箱)がついており、蛇腹を押し引きすることで空気の流れを作り、ボタン鍵盤と連動したフリーリードを鳴らして音を出す。
ケムニッツァ・コンサーティーナと非常に似ている。以下、アルゼンチン・タンゴで最も普通に使われている「ライニッシュ式配列」のバンドネオンの写真を示す。
調律などのメンテナンスは、専門の技術が必要である。
バンドネオンの演奏家や愛好者は世界各地に存在する。本項では、発明国であるドイツと、タンゴと結びついたアルゼンチン、そして日本の状況を述べる。
バンドネオンは、ドイツのコンサーティーナ(ドイツ語ではコンツェルティーナ)を土台として1847年に開発された楽器である。
1829年、ウィーンの楽器製作家シリル・デミアンはアコーディオンを発明した。 | 636 |
バンドネオン | 調律などのメンテナンスは、専門の技術が必要である。
バンドネオンの演奏家や愛好者は世界各地に存在する。本項では、発明国であるドイツと、タンゴと結びついたアルゼンチン、そして日本の状況を述べる。
バンドネオンは、ドイツのコンサーティーナ(ドイツ語ではコンツェルティーナ)を土台として1847年に開発された楽器である。
1829年、ウィーンの楽器製作家シリル・デミアンはアコーディオンを発明した。
ドイツのケムニッツ市の楽器製作家カール・フリードリヒ・ウーリヒ(Carl Friedrich Uhlig)は、ウィーンに旅したときにデミアンのアコーディオンを購入し、それをヒントに、バンドネオンの原型も含むさまざまなタイプのドイツ式コンサーティーナを開発した。
その後、同じドイツの楽器製作家ハインリヒ・バンドは、ケムニッツ市へ旅した際にウーリッヒのコンサーティーナを購入し、低音域を拡張するなどボタン配列に変更を加えて、1847年にバンドネオンを考案した。ただしバンド自身は当初、自分の楽器を「アコーディオン」と呼び、「バンドネオン」とは呼ばなかった。後に、バンドの名前と、アコーディオンの「イオン」を組み合わせて「Bandonion」(バンドニオン)という楽器名が生まれた。Bandonionの綴りが現在のBandoneonに変更された正確な時期や経緯は、不明である。今日のドイツでも一般的には「バンドネオン」と呼ばれるが、ドイツの「生粋の」バンドネオン愛好家や業界関係者にはいまだに「バンドネオンではなくバンドニオンだ」と主張する人が多い(小松2021,p.195)。
バンドネオンの発明者はハインリヒ・バンドであるが、バンドネオンの基本原理を開発した始祖はウーリッヒであると言える。また、現代の演奏者が弾いている大型の現代的なバンドネオンを確立したのは、ハインリヒの息子アルフレッド・バンド(Alfred Band, 1855年-1923年)である(小松2021,pp.204-209)。
バンドネオンは野外での教会の儀式でパイプオルガンの代用として使われたり、クラシック音楽や民俗音楽の演奏で使用された。
ドイツはバンドオネンの故郷であるが、他の蛇腹楽器との競合などさまざまな理由で、20世紀半ば以降は演奏人口が激減し、今日に至っている。 | 636 |
バンドネオン | バンドネオンは野外での教会の儀式でパイプオルガンの代用として使われたり、クラシック音楽や民俗音楽の演奏で使用された。
ドイツはバンドオネンの故郷であるが、他の蛇腹楽器との競合などさまざまな理由で、20世紀半ば以降は演奏人口が激減し、今日に至っている。
今日、バンドネオンと言えばアルゼンチン・タンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、この楽器がドイツからアルゼンチンへ移入された経緯や時期については諸説紛々として明確ではない。最大公約数的な説明としては、1890年ごろにアルゼンチンに持ち込まれ(1880年代、アフリカ系アルゼンチン人のセバスティアン・パルドがタンゴで用いたとする文献もある)、1900年ごろからタンゴの楽器として使われ始め、1910年ごろにはタンゴに欠かせない楽器になっていた、ということである。
アルゼンチンのタンゴ楽団は、最初はギター・フルート・ヴァイオリンという編成であり、バンドネオンの応用が徐々に広まったものの、しばらくバンドネオンなしが主流だった。20世紀になり、ドイツから大量のバンドネオンが輸出され、タンゴでよく用いられる楽器となった。
バンドネオンの使用で、「タンゴ」の音楽の性質は大きく変化した。フルート時代のタンゴは人々がひたすら歌い踊り生活の憂さを忘れようとするものだったが、バンドネオンのタンゴは人生や恋の苦しみを吐露して悲しみをつのらせたり慰めを求めるものになった。バンドネオンのせつない音色は心の痛みを表現するのにうってつけであった。
バンドネオンは長いあいだタンゴの伴奏楽器であったが、バンドネオン奏者で作曲家でもあったアストル・ピアソラはダンスから独立した純粋器楽としてのバンドネオンの可能性を追求した。当初、ピアソラのバンドネオンは不評であったが、1995年にギドン・クレーメルがピアソラをオマージュしたCDを発表したことで評価は一変し、バンドネオンはタンゴファンのみならず、世界中のクラシックファンのあいだでも見直されるようになった。
日本にバンドネオンが初めて渡来した時期は不明である。板東俘虜収容所(1917年-1920年)のドイツ兵捕虜の楽隊の写真には中型のバンドネオンが映っている(小松2021,p.214)。 | 636 |
バンドネオン | 日本にバンドネオンが初めて渡来した時期は不明である。板東俘虜収容所(1917年-1920年)のドイツ兵捕虜の楽隊の写真には中型のバンドネオンが映っている(小松2021,p.214)。
タンゴの伴奏楽器として、クロマティック式とダイアトニック式の両方が伝わった。日本人のプロ奏者の活躍は昭和期からで、オルケスタ・ティピカ東京のバンド・リーダー早川真平(1914年 - 1984年)、16歳でバンドネオンを始め晩年まで演奏活動を続けた佐川峯(1919年 - 2018年3月6日)、タンゴの本場アルゼンチンで認められ現地のタンゴ楽団代表にまでなった米山義則(1955年 - 2006年)などが有名。その後のプロ奏者については「日本の主なバンドネオン奏者」を参照。
戦前の日本のタンゴ演奏者にとって、中国の上海や大連などが好景気の稼ぎ場だった。当時、ドイツのAA社はフランス向けにクロマティック式バンドネオンを作ったが、思いのほか売れなかった。楽器商はそれを上海、天津、奉天、香港などで売りさばいた。このため日本の古い世代のバンドネオン奏者は、戦前から戦後にかけて、少数の例外を除きクロマティック派であった。ただしクロマティック式の音色は、楽器の構造上、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンの音色とどうしても違う。そのため日本人のクロマティック式バンドネオン奏者で、ディアトニック式バンドネオンへの転向という回り道を余技なくされる者もいた(小松2021,pp.417-421)。
比較的早くから国産品が普及したアコーディオンと違い、バンドネオンの国産品はない(日本国内でレストアした中古品は多い)。日本でもタンゴ以外の音楽でバンドネオンが使われる場面は増えつつあるが、今もタンゴの伴奏楽器というイメージが強い。また奏法の難しさもあり、日本での演奏者人口はピアノやギターなどと比べると今も少なく「絶滅危惧楽器」と揶揄されることもある。とは言え、バンドネオンの音色は根強い人気があり、バンドネオンのプロ奏者や学習者は今も一定数存在している。
サンバやミロンガなどのフォルクローレで使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたるバルス・タンゴのバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「黄金の心」 などで聴ける。 | 636 |
バンドネオン | サンバやミロンガなどのフォルクローレで使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたるバルス・タンゴのバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「黄金の心」 などで聴ける。
また、バンドネオン独奏にこだわる演奏家もいる。映画『サンチャゴに雨が降る』でのアストル・ピアソラのバンドネオン独奏の録音は有名である。
日本の叙情歌を演奏したレコードやアニメソングを収録したCDもあり、武満徹作曲の作品にバンドネオンが使われるものがある。また、バッハなどのクラシック音楽の曲を演奏する演奏家もいる。
蛇腹楽器の常として、バンドネオンもモデルによってボタン配列の方式が全く異なるため、楽器の購入や習得にあたっては注意を要する。主な方式は以下の通りである。
上記以外にも、プロ奏者が楽器職人に特注して一部のボタン鍵の音高を変えたり、ボタン鍵を増やしたバンドネオンもある。ピアノ式鍵盤と同様のボタン鍵配列を採用した機種や、もはやバンドネオンとは言えない変わった設計の機種も存在し、まれに中古品市場で出回ることもある。
蛇腹楽器の常として、バンドネオンも、さまざまな鍵盤配列方式が考案されて乱立し、それぞれの方式は特定の音楽ジャンルと結びつくなどして、いまだ統一されていない。最も規則的で合理的なヴイッキ・ヘイデン式鍵盤配列(英語版)(押引同音)はまったく普及せず、逆に、規則はずれが多く非合理的なライニッシュ式配列がアルゼンチンを中心に広く世界に普及している。
バンドネオンを含む蛇腹楽器の演奏技術は、鍵盤配列の不規則性を逆手に取って生かしたものも少なくない。また現行の鍵盤配列は、演奏者が現地の個性的な音楽を演奏しやすいよう、規則はずれのボタン鍵を追加するなど、試行錯誤の歴史の積み重ねの末に確立したものである。鍵盤配列の各方式の優劣や適否は、机上の合理性のみで判断できるものではない。
アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である。
日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。 | 636 |
バンドネオン | アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である。
日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。
20世紀前半、アルゼンチンのバンドネオン奏者たちは、ドイツのメーカーに新品を発注する際、タンゴを弾きやすいようボタン鍵の増設を特注した。タンゴ形成の発展途上の試行錯誤の積み重ねから生まれたのが、ライニッシュ式配列である。ライニッシュ式配列の中央のボタン配列はドイツ本国のアインハイツ式とよく似ている。隣同士の特定のボタンを同時に押すと、ダイアトニック・コンサーティーナあるいはアコーディオンの左手と同じように、和音が鳴るようになっている。しかし、周辺部の音階配置は、アルゼンチンの奏者からのオーダーに応じてその都度増設を繰り返したという歴史的な経緯もあり、ほぼ不規則である。
アルゼンチン・タンゴの象徴的な楽器であるライニッシュ式バンドネオンは、習得が非常に難しいことから「悪魔が発明した楽器」とも呼ばれる。ただし小松亮太は「演奏の巧拙はともかく、バンドネオンのボタン配列を記憶すること自体は特別な才能を要することではない」と反論したうえで、自分は「悪魔の楽器」云々は「自分の商売道具に勿体をつけているようで、どうも僕には人前で口にする勇気がない」と述べている(小松2021,pp.101-103)。
タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。 | 636 |
バンドネオン | タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。
小松亮太によれば、ライニッシュ式バンドネオンであることは、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンであることの必要条件ではあっても、十分条件ではない。(1)ボタン数は右手38個、左手33個ていどのライニッシュ式、(2)ボタンの音階配列が不規則で押し引き異音式、(3)通称AA社または通称ELA社の製品、(4)およそ1920年代から第二次世界大戦前までに(3)のメーカーがアルゼンチンへの輸出用に製造した仕様である、という4つの条件のうちの1つでも逸脱した楽器は、アルゼンチン・タンゴでのバンドネオンと違う音色であると述べる(小松2021,p.110)。
バンドネオンのボタン配列を、ヨーロッパで普及しているクロマティック・ボタン・アコーディオンのCシステム(イタリア式配列)にあわせて並べ変えた方式で、73ボタン(左 33、右40)、146音が基本。1925年にフランスのアコーディオン奏者 Charles Peguriが考案した。
配列は規則的なので、習得は比較的容易である。日本のタンゴ楽団も含め、アルゼンチン以外のタンゴ楽団で広く使用されてきた。ただし日本でも、1950年代ぐらいからアルゼンチン本国と同様のライニッシュ式バンドネオンの使用が広まり、今日に至っている。
ヴィッキ式配列は、カスパー・ヴィッキ(Kasper Wicki)がバンドネオンのために考案した鍵盤配列で、1896年にスイスで特許を取得した。これとは別個に、コンサーティーナ奏者のブライアン・ヘイデン(Brian Hayden)も同様のコンセプトの鍵盤配列を考案し、1986年に特許を取得したので、今日では両者をあわせて「ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列」と呼ばれる。
鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式デュエット・コンサーティーナや、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。 | 636 |
バンドネオン | 鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式デュエット・コンサーティーナや、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。
蛇腹を引いたときの方が音が響く。蛇腹によく共鳴するためだと言われる。従って、バンドネオン奏者は蛇腹を引く音を多用し、蛇腹を引いて演奏しては空気抜きレバーを押しながら蛇腹を戻す、ということを繰り返すことが多い。特に、タンゴの鋭いスタッカートは、膝を使いながら蛇腹を瞬時に引くことによって出される。
標準的なバンドネオンの演奏としては、座ってバンドネオンを膝に置いて弾くのがごく一般的であるが、アストル・ピアソラは立ち膝で演奏することもあった。伝統的な演奏法は両足を閉じて弾くスタイルであり 、1920年代の細身の音色はこの奏法でしか出すことができない。現代の奏法は、楽器を片足のみに載せて弾くため、分厚く大きな音量が出るので、グランドピアノの蓋を全開にした音量とも互角で張り合える。
初期のオルケスタ・ティピカはコントラバスとバイオリンが全て立奏の後列、バンドネオン5人がぎっしり隙間なく詰められて横に座り、ピアノがダンススポット袖近くの左というのが一般的であった。上下関係も厳しく、バンドネオン第1が一番偉くマスターに近い。
バンドネオンの製造は今も昔も、職人が経営する工房で家内制手工業的に行われることが多い。オートメーション化が難しい職人の手仕事が多く必要である上、演奏人口もギターやピアノ、バイオリンなどに比べれば少ないため、大規模な楽器工場での大量生産には向いていない。そのため、高名な製造元であっても、職人の名人芸の技術継承がうまくゆかなかったり、諸般の事情で廃業することもある。逆に、バンドネオンの製造を新規に始める職人や工房も存在する。 | 636 |
バンドネオン | 製作元については、第二次世界大戦前のドイツのアルフレッド・アーノルド(アルフレート・アルノルト(ドイツ語版))社製のバンドネオンにこだわる演奏家が今もかなり多い。同社は1911年にザクセン王国(現ザクセン州)南部のカールスフェルト(ドイツ語版)に設立されたが、第二次世界大戦後の1948年に収用により消滅した。同社が製作したバンドネオンの評価は今も非常に高く、楽器市場では今も高価なビンテージ・モデルとして流通している。 アルフレッド・アーノルド社製のバンドネオンは、「AA」の商標からはドブレ・アー(Doble A)とも呼ばれている。ちなみに、戦後の東ドイツのクリンゲンタールで作られた「AA」ブランドのバンドネオンや、アルフレッドの甥でイニシャルは同じくA.Aになるアルノ・アーノルドが戦後に製造したバンドネオンは、アルフレッド・アーノルドのバンドネオンとは全く別物なので、要注意である。下記の写真を参照のこと。
1861年に同じカールスフェルトで設立されたELA社、すなわちエルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold)社のバンドネオンも、演奏に用いられる。ELAブランドとして知られている。ちなみに、エルンスト・ルイス・アルノルトの妻は、ドイツ式コンサーティーナの発明者カール・フリードリヒ・ウーリヒの娘であり、この夫婦のあいだに生まれた三男がアルフレッド・アーノルドである。。
同じくザクセンのクリンゲンタール(ドイツ語版)に所在するマイネル&ヘロルト(Meinel & Herold)社製造のバンドネオンを、レオポルド・フェデリコは愛用している。3Bブランド(Tres B)で知られている。クリンゲンタールにはいくつかのバンドネオン・メーカー、博物館がある。
アコーディオン・メーカーで知られるホーナー社も、バンドネオンを製造していた。また、ベルリンのプレミア(Premier)社も、新品のバンドネオンを製造している。その他、製造元が10社ぐらいある。
バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカといった機種を再生産する方向へ変わっている。
今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。 | 636 |
バンドネオン | バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカといった機種を再生産する方向へ変わっている。
今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。
現在、新品のバンドネオンを製作あるいは販売している主な業者は以下のとおり。戦前のAA(Alfred Arnold社)のクオリティに近い再現品を新品として製作する業者もいる。
ドイツ
ベルギー
スペイン
イタリア
アルゼンチン
ブラジル
バンドネオンではないのに外見が似ているためバンドネオンと混同されがちな蛇腹楽器もある。またMIDI楽器もある。
蛇腹の無いバンドネオン型の自作MIDIキーボードキットで、電子楽器の一種。
タンゴ楽団の代表が、バンドネオン奏者とは限らない。 | 636 |
クセノポン | クセノポン(クセノポーン、古希: Ξενοφῶν、英: Xenophon、紀元前427年? - 紀元前355年?)は、古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。
クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。
クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、ディオゲネス・ラエルティオス著の『ギリシャ哲学者列伝』(第2巻第6章)に書かれている。
青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。
クセノポンは若いころ、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年~紀元前399年)。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。 | 638 |
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