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配当
生命保険・損害保険において配当とは、契約者が支払った保険料のうち、実際の保険運営において生じた余剰を契約者に返還するものを言う。保険株式会社では契約者配当と呼ぶのに対し、保険相互会社では社員配当と呼ぶ。 生命保険の場合、配当は以下の5つに区分できる。 ただし、1990年代〜2000年代には予定利率(当初見積もった資金の運用利率)を下回る運用環境が続いたことから、配当金がほとんど支払われない場合も多かった。そのため当初より配当を支払わない事にし、その分保険料額を引き下げた「無配当保険」や、利差配当に関してのみ配当を支払う「利差配当保険(準有配当保険)」も現れている。 なお、本来は配当金が支払われるべきはずである契約であったにもかかわらず、不当に支払われなかった事案が一部の保険会社で明らかになっている。 ギャンブルにおける的中に対しての払戻を配当と呼ぶ。払戻金の事を配当金とも呼ぶ。 配当金を決める方式には2通りあり、それぞれ と呼ばれる。 日本の公営競技における投票券およびスポーツ振興くじではパリミュチュエル方式が採用され、配当金(払戻金)は、的中券100円分に対する金額で表現される。 破産手続きにおける配当とは、破産者の財団を換価して得られた金銭を、破産債権者にその債権の額に応じて分配することをいう。 民事執行手続きにおける配当とは、債務者の財産を換価した後、その売却代金を各債権者に対し分配することをいう。債権者が2人以上で、かつ売却代金で各債権者の債権及び執行費用の全部を弁済することができない場合に実施される(民事執行法84条1項)。
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株券
株券(かぶけん)は株式会社の株主が持つ株式を表章する有価証券のことである。 株券の作成方法としては、証券印刷会社に委託して作成する方法と、市販の株券用紙にチェックライター等で株数その他の必要的記載事項を記載する方法がある。大企業では前者の方法を採るが、小さな企業ではコスト面から後者を選択することも多い。さらに、実際は株券不所持制度を利用し、実体としての株券を発行しないことがほとんどである。また、株式の譲渡を定款で制限しているような会社については違法を承知で株券自体を発行しないこともあったといわれる。 2009年の株券電子化までは、証券取引所において株式が取引される、即ち上場の条件として、偽造変造防止の観点から、発行される株券(但し、証券取引所における流通単位である1株券または1単元株券のみ)が、各証券取引所において十分な管理組織を有していると確認された印刷会社において印刷され、かつ各取引所において定める様式に適合する株券(適合株券)であることを要していた。そのため、高度な印刷技術と厳しい管理体制を有する一部の印刷会社において株券を印刷することが義務づけられていた。 株券を証券という観点から見た場合、「物的証券」・「利潤証券」・「支配証券」という三つの異なる側面を持つと言える。 会社法について以下では、条名のみ記載する。 2003年(平成15年)9月、法制審議会で全面的な「株券不発行制度」を導入するための商法等の改正案の要綱がまとめられた。2004年(平成16年)6月には「株式等の取引に係る決済の合理化を図るための社債等の振替に関する法律等の一部を改正する法律」(この改正法の中において「商法」「社債等の振替に関する法律」(改正後の名称は「社債、株式等の振替に関する法律」)などの法律が改正された)の改正が成立し、証券取引所に上場している株式会社は、2009年(平成21年)1月1日に一斉に「株券不発行制度」に移行した(株券の電子化と呼ばれる)。
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株券
「ほふり」(株式会社証券保管振替機構)に株券が預託され、登録された株券については、そのまま新しい振替制度に移行された。株券を「ほふり」に預託しなくとも株主名簿において、名義が本人名義に書き換えられていれば権利を失うことはないが、株券が手元にあり、かつ株主名簿の書換えをしないまま2009年1月1日を迎えた場合、株券に係る権利を失った。 2005年(平成17年)に成立した会社法においては、全ての株式会社につき、定款で株券を発行する旨の記載がない限り、株券を発行しなくてもよいこととされた(214条)。株券を発行すると定款で定めている株式会社のことを特に株券発行会社とよぶ。ただし、経過措置として、会社法施行時(2006年5月1日)に株券不発行の定めをしていない会社については、その会社の定款において株券を発行する旨の定めがあるものとみなされた(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律76条4項)。 株券発行会社は、株式を発行した日以後遅滞なく、当該株式に係る株券を発行しなければならない(215条1項)、また、株式の併合、分割をしたときは、その効力を生ずる日以後遅滞なく、併合、分割した株式に係る株券を発行しなければならない(215条2項3項)。 公開会社でない株券発行会社は、株主から請求がある時までは、これらの規定の株券を発行しないことができる(215条4項)。 会社の商号、株数、株券の番号、株式の内容(普通株式か、種類株式であるか)、代表取締役の署名、などを記載することが要求される(216条)。 株主権の移転(株式の譲渡)は株券の交付のみにより、株券の占有者は適法の所持人と推定される(131条第2項)。会社は、株券を提示され名義書き換えを求められた場合、正当な理由のない限り、これを拒否することはできない。また、株券を紛失または盗取され、それが第三者に善意取得される可能性があり(旧商法229条)、善意取得されると、株主名簿の記載有無にかかわらず当該株券記載の権利を失うこととなる。即ち、株券は、有価証券法理の支配する証券流通の領域では完全な無記名証券である(竹内昭夫「会社法講義」参照)。
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株券
株券を購入したり譲り受けたりしただけでは株主権を行使するにおいて、発行会社に対抗することはできない。名義書換の手続きを行い、発行会社の株主名簿に氏名、住所、持ち株数を記載する必要がある。この手続きを忘れていた株式は失念株と呼ばれ、旧株主と新株主の間で新たに割り当てられた新株の所有権等をめぐって、トラブルになることがあったが、株券電子化により2009年1月1日以降の譲渡については問題は生じない。また2008年までも株券保管振替制度を利用すれば、名義書換の必要はなかった。 商法施行来、株券を紛失または盗取された株主は他の有価証券の権利者と同様、非訟事件手続法に定められた公示催告手続の下、除権判決により権利の回復を図らざるをえなかったが、善意取得を阻止できないなどその実効性が薄かったため、2002年(平成14年)改正商法において、株券失効制度が導入された。しかしながら、株券失効制度によっても、(1)株主が確定的に権利を回復するまで1年を要する (2)株券の移転による善意取得を阻止することが困難である、等の不備は、株式の譲渡を株券による限り回避しえず、抜本的な解決策が求められた。 このため。2005年に成立した会社法において株券喪失登録簿制度が規定されている(221条~232条)。
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株価指数
株価指数(かぶかしすう、英: stock market index)は、株式の相場の状況を示すために、個々の株価を一定の計算方法で総合し、数値化したものである。狭義には基準値を100または1000とした指数化されたもののみを指すが、広義には平均株価などの指数でない数値のものも含む場合があり、また、株価指数は株式取引の指標として用いられるだけでなく、投資信託のベンチマークや、先物取引やオプション取引の際の原資産としても用いられる。
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東証株価指数
東証株価指数(とうしょうかぶかしすう)、TOPIX(トピックス、英: TOkyo stock Price IndeX)は、東京証券取引所プライム市場上場株式銘柄や旧:第一部に上場していたスタンダード市場上場株式銘柄を対象として、日本取引所グループ(JPX)の子会社である株式会社JPX総研が1秒毎に、算出・公表している株価指数である。日本経済新聞社が算出している日経平均株価と共に日本株の代表的なベンチマークとして普及している。 「東証株価指数」「TOPIX」ともJPX総研の登録商標(第3031964号)である。 東証株価指数は、東証第一部に上場する株式の時価総額の合計を終値ベースで評価し、基準日である1968年1月4日の時価総額を100として、新規上場・上場廃止・増減資・企業分割などにより修正され、指数化したものである。 日経平均株価に比べ、特定業種と企業の値嵩株の動きによる株価影響を受けない利点を持つ反面、株券の持ち合いにより、時価総額のダブルカウントが起きやすい欠点も有していた。このため、東京証券取引所は、2004年7月に時価総額加重平均型株価指数から浮動株基準株価指数への変更を示唆した。その後、2005年10月31日、2006年2月28日、2006年6月30日の3段階に分けて、東証REIT指数を除く全ての株価指数を、浮動株基準株価指数へ移行させた。 2021年12月21日、JPXは、取引所の運営会社ではない新たな子会社として、金融商品市場に関係するデータ・インデックスサービス及びシステム関連サービスを提供する「株式会社JPX総研」を設立した。翌年4月1日には、株式会社東京証券取引所と株式会社大阪取引所のデータ、デジタル関係事業をJPX総研に承継する会社分割が行われ、東証のシステム開発などを担ってきた東証システムサービスがJPX総研に吸収合併された。これらの組織再編によりJPXのデータ、デジタル関係事業がJPX総研に集約されたため、TOPIXを含む指数の算出サービスはJPX総研のインデックスビジネス部が担当している。
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東証株価指数
2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(新市場への上場区分は不問、特設注意市場銘柄に指定された銘柄を除く)、同年4月4日以降に東京証券取引所プライム市場へ新規上場もしくは東京証券取引所スタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ市場変更を行った銘柄(特設注意市場銘柄に指定された銘柄を除く)並びに東証株価指数を構成している企業を吸収合併したスタンダード市場上場企業・グロース上場企業で構成される。 銘柄の追加・除外は、以下のルールにのっとって行われる。 (銘柄の追加) (銘柄の除外) 2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(テクニカル上場を行った銘柄や東証株価指数を構成していない企業が東証株価指数構成銘柄を吸収合併した場合も含む、2020年11月1日以降に市場第一部へ新規上場申請を行った銘柄並びに市場第二部・マザーズ・JASDAQから第一部へ上場市場の変更申請を行った銘柄、新市場移行後にプライム市場へ新規上場申請を行った銘柄並びにスタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ上場市場の変更申請を行った銘柄は除く)は、段階的ウエイト低減銘柄の審査対象となり、流通株式時価総額や年間売買代金回転率が段階的ウエイト低減銘柄に抵触した場合は、2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される。 2021年7月9日に、「新市場区分における上場維持基準への適合状況の通知」における1次判定の結果が各上場企業へ通知され、市場第一部上場企業の約3割に当たる664社が、プライム市場に不適合である事が明らかとなった。2022年10月7日に段階的ウエイト低減銘柄が発表され、2168銘柄(プライム1835銘柄、スタンダード333銘柄)中、493銘柄(プライム206銘柄、スタンダード288銘柄)が段階的ウエイト低減銘柄に指定された。指定された上場企業は、2022年10月以降段階的にウエイト低減を行い、2023年10月に実施される再評価において流通株式時価総額が100億円以上で、かつ年間売買代金回転率が0.2回転以上の場合は段階的ウエイト低減銘柄から除外されるが、流通株式時価総額が100億円未満の場合は段階的ウエイト低減銘柄継続となる。
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東証株価指数
第1回判定は、原則として新市場区分の選択手続における適合状況の二次判定時(ただし、書類の提出が行われなかった場合は一次判定時)の流通株式時価総額を採用し、一律2021年4月から6月までの株価平均を用いて計算する。第2回判定は、各上場企業の事業年度の末日(新市場区分への適合状況の一次判定に用いた決算期の翌期)の流通株式数に事業年度の末日以前3か月間の株価平均を乗じて計算する。 2023年10月6日に段階的ウエイト低減銘柄継続となる銘柄が発表となり、482銘柄中43銘柄が段階的ウエイト低減銘柄から除外されたが、残る439銘柄(プライム166銘柄、スタンダード272銘柄、グロース1銘柄)は2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される。 段階的ウエイト低減銘柄の指定を受けない残りの銘柄は、2025年1月最終営業日以降もそのまま東証株価指数構成銘柄となる。 2023年12月6日現在。下表の銘柄は2025年1月最終営業日に東証株価指数から除外される。段階的ウェイト低減銘柄に指定されている一部の東証プライム市場上場企業は、2023年10月20日に東証スタンダード市場へ市場変更された。 東京証券取引所に上場している全銘柄からプライム・スタンダード・グロース関係なく、選定方法は別途コンサルテーションを実施して決定する。金融庁の金融審議会は流動性の乏しい小型株が大量に TOPIX に含まれていることを問題視している。400社のJPX日経インデックス400と約2200社の TOPIX の値動きはほぼ同一であり、この事は TOPIX に含まれている小型株は指数の値付けにほぼ影響を及ぼしていないことを意味している。 TOPIX に連動するETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 レバレッジ型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 日本の投資信託としては下記がある。下記以外にも多数ある。 先物は下記に上場している。 店頭CFDとして取り扱っている証券会社もある。日本の取引所CFDのくりっく株365には上場していない。
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東証株価指数
TOPIX に連動するETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 レバレッジ型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 日本の投資信託としては下記がある。下記以外にも多数ある。 先物は下記に上場している。 店頭CFDとして取り扱っている証券会社もある。日本の取引所CFDのくりっく株365には上場していない。 日経平均株価をTOPIXで割った値はNT倍率と呼ばれている。2000年以降のNT倍率は、概ね 9.5 - 12.5前後で推移している。日経平均株価の変動は輸出関連・ハイテク株や、ファーストリテイリング・KDDI・ファナック・ソフトバンクグループ・京セラ・東京エレクトロンなどの値がさ株による影響が大きいのに対し、TOPIXは時価総額の大きい企業の株や内需関連株による影響が大きく、特に大手銀行株の構成比が、両者で大きく異なっている。 したがって、NT倍率が大きく上昇したり、逆に下降したりするときは、多くの投資家が売買している銘柄の種類が遷移していることが分かる。
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トランプ
トランプ(Trump)は、日本ではカードを使用した室内用の玩具を指すために用いられている用語で、もっぱら4種各13枚の計52枚 (+α) を1セットとするタイプのものを指して言うことが多い。「プレイング・カード」(英語: Playing card)「西洋かるた」とも。多種多様なゲームに用いられるほか、占いの道具としても手品(マジック)の小道具としてもよく用いられる。 起源についてははっきりしておらず諸説あるが、中国など東方で発生したものがイスラーム圏に、そしてヨーロッパに伝えられた、とするのが、ひとつの有力な説である(→#歴史)。日本では16世紀にポルトガルからラテン・スートのタイプが伝来し普及したが、明治以降の日本では英米式のカードが普及している(→#日本で一般的なカード)。 日本語では「トランプ」と呼ぶ習慣になっている。英語の trump は本来は幾種類かのゲームのルールにある切り札の意味で、なぜそれがカードを指して使われるようになったかはあまりはっきりしない。また切り札の意味で「トランプ」という語をゲーム中で使うコントラクトブリッジなどでは注意が必要である。16世紀にポルトガルから伝来したので、ポルトガル語 carta を音写して以前には「かるた」とも言った。 世界の各地域によって呼び方は異なる。南欧各地では、スペイン語の “baraja・naipes” のようにトランプを意味する専用の語がある。一方で、フランス語 ‹ carte à jouer キャルト・ア・ジュエ›、英語 “playing cards” はともに「遊戯用カード」という意の一般的な表現にもなっている。 日本語の場合のような捻れ現象は珍しくなく、特定のゲームの名前がトランプを指すようになった言語もある。例えばギリシャ語の「τράπουλα()」は、ベネチアの古いゲームの名であるトラッポラに由来し、中国語の「撲克(プーコー)牌」やタイ語の「ไพ่ป๊อก()」はポーカーに由来し、またベトナム北部で「tú lơ khơ()」と呼ぶのは、ロシアで人気のあるドゥラークというゲームの名前が中国語経由で伝わったものである。インドネシア語の「kartu remi」は、ラミーに由来する。 日本語の「トランプ」の他、マレーシアの「daun terup」の「terup」も英語の「trump」由来である。
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トランプ
日本語の「トランプ」の他、マレーシアの「daun terup」の「terup」も英語の「trump」由来である。 起源は諸説あり、古くは古代エジプトに由来するとする説などが存在していたが、現在は中国説が最も有力であり、また、全て東方に発生したものが欧州に移入されたとする点では一致している。これら東方に発生したものが西アジア方面から復員した十字軍やサラセン人などの手によって欧州に伝えられた可能性が高い。 12世紀以前の中国に「葉子(馬弔・マーディアオ)」というトランプの一種があったことから、これが欧州に伝わったとする説。「馬弔(マーディアオ)」は、今日の「麻雀(マージャン)」の元となった遊戯である。 明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。
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トランプ
トプカプ博物館所蔵の15世紀ごろのマムルーク朝のカードは、偶像崇拝に抵触しないように、絵札には人物は書かれておらず、かわりに文字で説明がされている。このためスート名と絵札の名前が判明している。完全な形で残っているわけではないが、ダラーヒム(=貨幣)、トゥーマーン(=カップ)、スユーフ(=刀剣)、ジャウカーン(=ポロ競技用のスティック)の4つのスートがあり、各スートには1から10までの数札とマリク(=王)、ナーイブ(=総督)、ナーイブ・サーニー(=第二総督)の3種類の絵札があったと考えられている。カップのスート名「トゥーマーン」はトルコ語で「万」を意味する語であり、中国の紙牌のスートである「萬子」との関連性が考えられる。ウィリアム・ヘンリー・ウィルキンソンは、漢字の「万」を上下逆さまにした形がカップになったと推測している。 起源が定まっていないことから欧州への伝来についても諸説あるが、少なくとも14世紀には欧州各地に記録が見られることから相当数広まっていたと考えられる。欧州に最初にトランプが出現したのは14世紀前半のイタリアとされているが、スペイン説も有力。カードの構成は当時のアラブのカードのデザインを襲用している。ただし、スートのうち「ポロ用スティック」は、欧州においてはポロ競技に馴染みがなかったことから、イタリアでは儀式用の杖、スペインでは棍棒に変化した。 15世紀も後半になると、フランスではスートがダイヤ(♢)、スペード(♤)、ハート(♡)、クラブ(♧)に変わり、絵札の騎士が女王と差し替えられた。valet, dame, roi となった。 このフランススタイルがイギリスに渡り、valet が jack に、dame が queen に、roi が king になり、英語圏に広がってゆくことになった。 フランスにおいて、フランス革命期には、王は守護神 (Génie)、女王は自由 (Liberté)、ジャックは平等 (Égalité) に置き換わった。これは王政復古くらいまで続いた。 プレイング・カードを「トランプ」と呼ぶのは日本だけで欧米では「プレイング・カード」と呼ぶのが普通である。トランプとは"切り札"という意味があり明治時代、入国した欧米人がゲームをしながら「トランプ」という言葉を何度も発していた為、日本人はそれをカードの名称だと勘違いしたものと言われる。
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トランプ
プレイング・カードを「トランプ」と呼ぶのは日本だけで欧米では「プレイング・カード」と呼ぶのが普通である。トランプとは"切り札"という意味があり明治時代、入国した欧米人がゲームをしながら「トランプ」という言葉を何度も発していた為、日本人はそれをカードの名称だと勘違いしたものと言われる。 日本では16世紀に、ポルトガルからラテンスートのトランプが伝来した。48枚の札からなっており、ポルトガル語のcarta(カルタ) がそのまま日本語になり、ひらがなで「かるた」と書かれたり、漢字では「賀留多」「歌留多」「紙牌」などと書かれた。1597年に長宗我部元親が「博奕かるた諸勝負」を禁止していることから、この頃には既にカルタが相当流行したものと考えられる。また1634年の角倉船の絵馬にはトランプをしている男女の絵がある。 ポルトガルから伝わったカルタをもとに日本で作られたカルタは天正かるたと呼ばれる。天正かるたはその最初の札に「天正金入極上仕上」と記してあったことから、後世そのように呼ばれた。天正かるたの枚数を増やしたうんすんカルタの名前は17世紀後半の『雍州府志』や大田南畝の『半日閑話』などに見ることができる。これら西洋カルタ系統のものは早くから賭け事に使われ、江戸幕府でもかるたの賭け事をしばしば禁じた。株札・花札などは、いずれもこの系統のカルタから変化したものである。 また、日本古来より存在した歌貝(貝あわせ)などを発展させ、札を西洋かるたの様式にして作られた百人一首などのカルタは系統が異なるものである。 なお、江戸時代にはフランス式(英米式)のスートも一部の学者には知られていた。 トランプが再び盛んに行われるようになるのは明治時代になってからである。トランプの名は1885年に出た桜城酔士の「西洋遊戯かるた使用法」に見られ、カードのゲームと奇術(マジック)が紹介されている。明治では最初、米国やイギリスから輸入されていたが、やがて(英米式で)国産品もつくられるようになった。
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トランプ
なお、江戸時代にはフランス式(英米式)のスートも一部の学者には知られていた。 トランプが再び盛んに行われるようになるのは明治時代になってからである。トランプの名は1885年に出た桜城酔士の「西洋遊戯かるた使用法」に見られ、カードのゲームと奇術(マジック)が紹介されている。明治では最初、米国やイギリスから輸入されていたが、やがて(英米式で)国産品もつくられるようになった。 山内任天堂(任天堂の前身)は、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけての日露戦争時に、愛媛県松山市内に開設されたロシア軍捕虜の収容所で捕虜の無聯を慰めるため、政府からの依頼を受けてトランプの製造を開始したという伝説が存在する。 しかし、 アメリカオハイオ州シンシナティにあるUSプレイング・カード社本社の付属博物館の展示物から1903年(明治36年)にはすでに山内任天堂のトランプが制作されていることが確認でき、事実と矛盾する。なお、任天堂の公式ホームページには1902年(明治35年)に日本初のトランプ製造に着手したとある。 1953年には任天堂がプラスチック素材を取り入れたトランプを開発・販売。現在ではプラスチック素材が取り入れられたトランプが大きく普及している。現在日本国内にて普通に見られるのは、国産品、欧州、アメリカ、中国、台湾からの輸入品が多い。プラスチックのトランプは従来ポリ塩化ビニルが多く使われていたが、環境問題への対応のため、最近はPETなどへの置き換えが進みつつある。 世界各地のカードは様々である。 イタリア、スペイン及びラテンアメリカ諸国で使われているスートで、剣、カップ、貨幣、杖(もしくは棍棒)よりなる。剣がスペード、カップがハート、貨幣がダイヤ、杖がクラブに対応する。ヨーロッパにカードが現れた当初の形式を保っており、16世紀の日本に伝えられたカードもこの形式であった。
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トランプ
世界各地のカードは様々である。 イタリア、スペイン及びラテンアメリカ諸国で使われているスートで、剣、カップ、貨幣、杖(もしくは棍棒)よりなる。剣がスペード、カップがハート、貨幣がダイヤ、杖がクラブに対応する。ヨーロッパにカードが現れた当初の形式を保っており、16世紀の日本に伝えられたカードもこの形式であった。 各スートはそれぞれ、騎士(刀剣)、僧職(聖杯)、農民(棍棒)、商人(金貨)を表すとも言われる。ただしこれに特別な根拠はなく、俗説のひとつと見た方がよい。プレイングカードをベースに、『トランプ』と呼ばれる絵札を加えてタロットへと発展する際、小アルカナに付加された、いわゆるこじ付けの一つと思われる。このため、「占いに使われるタロットカードの小アルカナに愚者(フール)の札を加えてトランプが発生した」という説も間違いとされている。タロットはもともとは遊戯用のカードで、占いに転用されるようになったのは18世紀になってからである。近年ではタロットの方が、ゲームをより複雑で面白くするためにトランプに絵札を加えていったのではないか、とされており、逆にトランプからタロットが派生したと考えられている。 カードは全体的に細長い。 スペインのカードには数札の10がなく、絵札が10からはじまる。多くのゲームでは8や9も使用しない。絵札は sota(ナイトの従者、10)・caballo(ナイト、文字通りには「馬」、11)・rey(王、12)からなる。 イタリアのカードは8・9・10がなく、絵札は fante(歩兵、ジャック相当)・cavallo(ナイト、「馬」)・re(王)からなる。ただし、イタリア北西部(ミラノ・ジェノヴァ・ピエモンテ州)およびフィレンツェのトランプはフランスタイプのスートを持つ。とくにジェノヴァ・ピエモンテ州のものは枚数も36枚(数札が6から10まで)で、他のイタリアのトランプと異なる。 下はスペイン式カードの絵札である。王のインデックスが13でなく12になっていることに注意。
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トランプ
下はスペイン式カードの絵札である。王のインデックスが13でなく12になっていることに注意。 ポルトガルでも、かつてはラテンタイプのカードを使用していた。現在はフランスタイプを使用しているが、スートの名前はラテンタイプのものをそのまま流用している。また、ブリスコラというゲームはポルトガルではジャックがクイーンより強いが、これはジャックの絵柄がかつての騎士に、クイーンが従者に似ているためである。 ドイツのスートは鈴・心臓・木の葉・ドングリよりなる。木の葉とドングリは、絵札以外では中央に生えた木の枝からはえているように描かれる。9と10のカードは鈴と心臓では縦3列にマークを配置するが、木の葉とドングリは中央に木があるために2列にならざるを得ず、配置の仕方が異なる。ドイツのゲームでは、低位のカードを使用しないことが多い。たとえばスカートでは2から6までを使用しない。Aに相当するカードは「ダウス」と呼ばれるが、これは実は2のことである。絵札は「ウンター(低ジャック)・オーバー(高ジャック)・ケーニヒ(王)」よりなる。 スイスのスートは鈴・盾・野バラ・ドングリよりなる。やはり2から5までを使用しないのが普通である。10には旗の絵が描かれており、バナーと呼ばれる。 15世紀の後半にフランスで現在日本で見る形のスートが生まれた。当時は多色刷りの技術がなく、色はステンシルを使って手で塗っていたため、製造を容易にするためにドイツタイプのスートを単色に変更し、スートのシンボルの形を極端に単純化したものである。 フランス語 のカードは「1」から始まる。あくまで「1」であって「A」ではない。 「1」〜「10」の次は valet ヴァレ(=侍者、従者)、dame ダーム(=女王)、roi ロワ(=王) であり、インデックスにも通常「V・D・R」の文字が記されている。 フランスでは、一般に、トランプの絵札に実在もしくは伝説の人物を当てはめられていて、人物の絵が1枚1枚異なっている。16世紀にフランスのパリで作られたものは、以下の通りの人物に当てはめられていた。これが、現在のフランスのカードのデザインに継承されている。
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トランプ
フランスでは、一般に、トランプの絵札に実在もしくは伝説の人物を当てはめられていて、人物の絵が1枚1枚異なっている。16世紀にフランスのパリで作られたものは、以下の通りの人物に当てはめられていた。これが、現在のフランスのカードのデザインに継承されている。 これに対して、ルーアンではスペード、ハート、ダイヤ、クラブの順に、Roi(王)をダビデ、アレキサンダー、カエサル、カール、Dame(婦人)をパラス、ユディト、ラケル、アルジーヌ、Valet(侍者)はヘクトル、ラ・イル、オジェ、ランスロ、とされている。 パリの組み合わせがフランスで広まって現在に至っている。現在でも一般的に使われている。 上記のフランスタイプ(特にパリのデザイン)は現在でも、フランスで一般的、ごく当たり前であり、フランスおよびフランスの(旧)植民地や海外県などで用いられている。このフランス式デザインは日本でも輸入玩具のショップなどで買うことができる(フランスではあくまでフランス語を使い、基本的に英語の使用を嫌うので、一般に「A」「J」「Q」「K」などと書かれた英米式のカードは使わない)。 フランス・ルーアンタイプのカードが16世紀の英国に伝わった。 なお英語圏では、スートのデザインはフランスと同じであるが、名称の “spade” はイタリア語の spada スパーダ (=剣)に由来し、クラブは「棍棒」の意味であるなど、ラテンタイプに由来する名前がついている。 フランスのカードでは、スートごとに特定の英雄などが割り当てられていて人物のデザインもひとりひとり異なっていたが、イギリスのカードでは、特定のモデルはいなくなった。 この英国式のカードがイギリスの植民地(米国を含む)や明治以降の日本で普及した。
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トランプ
フランスのカードでは、スートごとに特定の英雄などが割り当てられていて人物のデザインもひとりひとり異なっていたが、イギリスのカードでは、特定のモデルはいなくなった。 この英国式のカードがイギリスの植民地(米国を含む)や明治以降の日本で普及した。 明治時代以降に日本で一般的に使われるようになったトランプは(もともとは「フランスタイプ」を変化させた)「英米(アングロアメリカン)タイプ」と呼ばれるものである。英語圏では、英米式が最も一般的に用いられていて、日本ではかつてポルトガルなどの影響下にあった時にはそちらの様式が日本に入ってきていた。その結果、イギリスやアメリカで行われているゲームや英語の用語をカタカナに置き換えるなどして導入する、ということが行われている。(なお、日本で仮にスペインやイタリアで一般的なタイプやドイツのものを大々的に導入していた場合でも、そちらのタイプのカードで一般的なゲームや用語を導入すれば済んだわけなので、それはそれで問題はない。) 52枚のカードから構成されるが、通常はジョーカー1〜2枚を含んだ53〜54枚の形で市販されている。ジョーカーが2枚含まれる場合は1枚はエキストラ・ジョーカー(準札)としてもう1枚よりも色を抑えて印刷されることが多い。また、コマーシャルカードと呼ばれるコントラクトブリッジの点数表(ラバー方式)や広告などがもう1枚つく製品もあり、これをエキストラ・ジョーカーと同じ扱いとする場合もある。なお、そのような用途で用いられたコマーシャルカードは日本国内では俗にジジと呼ばれている。 ジョーカー以外の52枚の札は、スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種のスート(絵柄マーク)に分かれており、各スートには13の「ランク」(番号)の札がある。
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トランプ
ジョーカー以外の52枚の札は、スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種のスート(絵柄マーク)に分かれており、各スートには13の「ランク」(番号)の札がある。 13のランクは、A(エース)、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)となっている。J・Q・Kの3つのランクには通常人物の画像が描かれており、まとめて「絵札(コート・カード、court cards、またはフェイス・カード、face card)」と呼ばれ、それ以外は数札(スポット・カード、spot card)と呼ばれる。上下逆に持ったときにひっくり返す手間を省くため、絵札には上下に2つの半身像が描かれていることが多い。この形式を「ダブルヘッド」と呼ぶ。多くのゲームではエースは単なる1ではなく、Kよりも強いカードとして扱われることが多い。2をデュースと呼ぶ事もある。エースおよびデュースは元々それぞれダイスの1および2を表す言葉である。以前は3〜6はそれに倣って順にトレイ、ケイト、シンク、サイスと呼んでいた事もある。A・K・Q・J・10の5枚を「オナー・カード(またはアナー・カード、英: honor card)」と呼ぶことがある。 カードの左上と右下の端には通常「Q♥」「K♦」のようにインデックスが記されている。 以上の1揃えで、デッキ(deck、デックとも)またはパックと呼ぶ。 スートの種類と数マークが左上と右下のみで、中央部の絵柄が数に対応した花札の月になっているもの(株札の筋が背景に併記されている場合もある)。花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使える。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種(13月が稲穂に朱鷺、0月が雷)、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 通常のトランプではスペードのエース(オールマイティ)にあることが多い商標は、ダイヤモンドのクイーン(桐の第二札)にある。
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トランプ
通常のトランプではスペードのエース(オールマイティ)にあることが多い商標は、ダイヤモンドのクイーン(桐の第二札)にある。 絵札がJ(ジャック)・Q(クイーン)・K(キング)ではなく、B(ブロンズ)・S(シルバー)・G(ゴールド)になっているもの。カードの序列を人で決めていること、特にQよりKのランクを上にしてることが女性より男性の方が格が上としておりジェンダーバイナリーに縛られていてふさわしくないこと、白人だけが登場するのも人類平等に反しているということで、人ではなくかつメダルの順位にも使われ世界的に馴染みのあるB・S・Gを採用している。 標準的なトランプのカードの大きさには、ブリッジサイズとポーカーサイズの二種類がある。 ただし、「ブリッジ」「ポーカー」という名称は便宜的なものであり、ブリッジサイズのトランプでポーカーをプレイしても、なんの問題もないどころか、アメリカのカジノの大部分はポーカーをするのにブリッジサイズのカードを使用している。 トランプ以外のカードゲームやトレーディングカードでも、これらのサイズを踏襲しているものが多い。 トランプを使ったゲームの数は、あるゲームを別のゲームの変種とするかどうかで大きく違ってくるが、数百種類があることは確かである。ここではそのすべてを羅列することはしない。より詳しい一覧は、カードゲームおよびCategory:トランプを見られたい。また日本独自のトランプゲームの一覧はCategory:日本のトランプゲームにまとめられている。 トランプゲームの分類方法にはさまざまのものがあるが、ここではデビッド・パーレットの新しい分類による。 なお、パーレットの古い分類ではクライミングゲーム・ゴーイングアウトゲームは「シェディングゲーム」、ラミーは「コレクティングゲーム」にまとめていた。ペイシェンスゲームはオーダリングゲームと呼んでいた。 日本の漫画、アニメ、特撮等では、主人公らの名前や服装の一部がトランプモチーフの作品がある。 トランプは世界的に見ても古くから課税の対象とされてきた。
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トランプ
なお、パーレットの古い分類ではクライミングゲーム・ゴーイングアウトゲームは「シェディングゲーム」、ラミーは「コレクティングゲーム」にまとめていた。ペイシェンスゲームはオーダリングゲームと呼んでいた。 日本の漫画、アニメ、特撮等では、主人公らの名前や服装の一部がトランプモチーフの作品がある。 トランプは世界的に見ても古くから課税の対象とされてきた。 日本では、1902年に施行された骨牌税(こっぱいぜい。骨牌とは源義は骨で作られた《麻雀用のような》牌のことだが、ここではトランプや花札などギャンブルに用いられるカードのこと。特にトランプのカードを指すこともある)法、1957年にはこれが改正されたトランプ類税法で課税されていた。この規定により、パッケージに証紙を貼る事が義務化されていた。ただし、いわゆる児童用トランプなどと呼ばれる裏面にカードを識別できる印などを付けてゲームで使えない物は課税されなかった。1989年の一般消費税導入時に、消費税法に統合廃止されている。 英国のカードとそれに倣っているカードでは、スペードのエースのカードに製作者が書かれ、その中央のスペードマークのみダイヤ・クラブ・ハートのそれと比べて大きく、また凝った模様が施されているものも多い。この由来は、イングランド王ジェームズ1世の時代まで遡る。トランプのカードに、1パッケージあたり幾らという形で税金が掛けられたため、その支払いの証拠として、出荷時にパックの一番表側に置かれる慣習であるスペードのエースに、偽造防止の目的で複雑な模様の納税証明印が押された。これがデザインとしてカードの側に転移したものである。英国ではその後、1960年8月4日まで1765年印紙法 (Stamp Act 1765) によりトランプは課税されていた(なお、日本では明治の頃から、このスペードのエースを指して「スペキュレーション」(英: speculation)、もしくは「ゴッド」「オールマイティ」と呼んでいたが、これは日本以外には見られない呼び方で、由来は不明である)。 トランプに対する課税と印紙・証紙類も歴史的にみて深いつながりがあるといわれている。印紙・証紙類にはタバコなど物品に貼付するタイプのものがあり、その多くは物品を封印する形で貼り付けられ、開封によって印紙・証紙類が無効となり消印される機能を持っていた。
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トランプ
トランプに対する課税と印紙・証紙類も歴史的にみて深いつながりがあるといわれている。印紙・証紙類にはタバコなど物品に貼付するタイプのものがあり、その多くは物品を封印する形で貼り付けられ、開封によって印紙・証紙類が無効となり消印される機能を持っていた。 トランプに課税される場合にも箱に封印タイプの印紙・証紙類が貼られることが多く、ここからカードマジックで新品のトランプであることを示すために証紙の封を切って見せる習慣が生まれたといわれている。 トランプに限らず、ゲームに関する歴史は一般的に記録されにくい。また、トランプは手品や占いの小道具として用いられることが多く、それらは神秘性を求めるため多くの俗説が生まれた。 以下は明確な証拠が無い為間違いとされている。 Unicodeバージョン6.0(2010年)で、追加多言語面にトランプのためのブロック(U+1F0A0 - 1F0FF)が追加され、トランプの裏面・52枚のカードと騎士4枚、ジョーカー2種類の59の符号が定義された。バージョン7.0(2014年)では3種類めのジョーカーと、22枚の切り札(タロットゲーム用、占い用の大アルカナと枚数は同じだがデザインが異なる)が追加された。 ほかに基本多言語面のU+2660 - U+2667にスートが定義されている。
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スペードの女王
『スペードの女王』(スペードのじょおう、ロシア語:Пиковая дама)は、ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンの短編小説。1834年に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した。『大尉の娘』とも比せられるプーシキンの代表的な散文作品であり、引き締まった文体とホフマンを思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作。また1830年前後の幻想と現実とが交差する都市ペテルブルクを舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり、長編小説『未成年』に〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉がでてくるが、ドストエフスキーもこの作品を激賞したことで有名である。 その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬままナポレオンのごとき野望を持てあまし、二つの固着観念のせめぎあいのなかで(ヴィノグラードフ)ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている。 1890年には本作を元にチャイコフスキーが同名のオペラを作曲している。また1916年(監督ヤーコフ・プロタザノフ)、1948年(監督:ソロルド・ディキンソン)には映画化もされた。日本では神西清による訳で知られ、宝塚歌劇団でも2度の舞台化がされている。 工兵士官であるゲルマンは、騎兵士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。
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スペードの女王
しかし思索にふけりながら歩き、ふと顔を上げた先は伯爵夫人の屋敷だった。ゲルマンは覚悟を決める。伯爵夫人にいいように使われるみじめな娘リザヴェータをかどわかし、逢い引きの風を装って館に忍び込み、伯爵夫人の寝室に滑り落ちた。ゲルマンは勝つための手を自分にも教えろと迫るが、しかし伯爵夫人は「あれは笑談だった」と言ったぎり無言のままであった。ついにゲルマンは懐から拳銃をとりだして突きつける、と伯爵夫人は恐怖に戦き、そのままこと切れた。 リザヴェータの手引で館を脱出し、その後の伯爵夫人の葬式にも顔を出したゲルマンはある夜にたまさか目を覚ました。誰かが訪ねてきたと気をやる彼の枕元に、あの伯爵夫人が姿を現した。驚くゲルマンに、老女は「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」の順でカルタを張れば勝てると告げたのだった。必勝の策を得たゲルマンは、カルタで大金持ちとなったチェカリンスキイのテーブルについた。「三」に有るだけの金を賭け、ゲルマンは見事に勝ちをおさめた。次の日は「七」に有るだけの金を賭け、やはり鮮やかに勝った。三度目の勝負の日には、噂を聞きつけてたくさんの観衆が集まっていた。 ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。― そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。...... ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」、「三トロイカ」「七セミョルカ」「女王ダーマ」と呟くだけになったのだという。
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スペードの女王
ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」、「三トロイカ」「七セミョルカ」「女王ダーマ」と呟くだけになったのだという。 『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこのアネクドートをもとにした作品を肉付けしていった。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地であるオレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになって時間が生まれる。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである。そして「読書文庫」紙上で発表され、後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐにベリンスキーやドストエフスキー、フランスではメリメやジイドといった人々に絶賛を受け、現在ではプーシキンの、つまりロシア文学における最高傑作の1つに数えられるようになった。 帰化したドイツ人を父に持つ平民出の青年で、計算高さだけでなく立身への野心もそなえている。モデルと考えられているのは、南方結社を組織しデカブリストの乱を率いたパーヴェル・ペステリである。ゲルマン同様にこのペステリも帰化ドイツ人の子で、やはりナポレオンに似ていたと伝わっている。また『スペードの女王』を書いていた頃の日記には、ある公爵とペステリの話をしたことを記してもいる。ペステリと交際のあったプーシキンは、敗れ去ったデカブリストたちへの「痛恨」を詩的形象としてゲルマンにことよせたのである。ゲルマンと比較される主人公を描く他作品としてドストエフスキー『罪と罰』(ラスコーリニコフ)、スタンダール『赤と黒』(ジュリヤン・ソレル)、バルザック『あら皮』(ラファエル)などの名が挙がる。
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スペードの女王
かつては美貌を誇ったが、いまでは醜く老い、うら若いリザヴェータを「殉教者のように」こき使っている。モデルとしてきわめて有力なのは、プーシキンが手紙で触れるN・P公爵夫人ことナターリヤ・ペトロヴナ・ゴリツィナ公爵夫人である。これはモスクワ特別市長ドミートリー・ゴリツィン公爵の妻であり、エカチェリーナ2世にも仕えたことのある女官である。プーシキンは実際に面識があったわけではなかったが、公爵夫人はマダム・ムスタッシュとも呼ばれ、『スペードの女王』の老伯爵夫人のようにかつてはパリの花形だった。そうしたゴリツィナ夫人の噂話を取り込む形で、フェドトブナ伯爵夫人という人物をつくりあげたと考えられている。一方で人となりや容貌などで矛盾する点もあり、伯爵夫人のモデルは実はエカテリーナ・アプラクシナという女性であったか、もしくはディテールに使用されていたとする説もある。 トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である。ゲルマンにカルタで勝つチェカリンスキイのプロトタイプにはアゴーニ=ドガノフスキーという人物がいる。プーシキンはよくこの人物の家で賭博をし、カルタで数万ルーブリの借金まで負っている。 この作品におけるひと揃いの数字三、七、一はたいへん重要なモチーフであり、賭博の場面だけでなく小説全体を貫いている。つまりトランプの数字としてだけはなく、登場人物の思考や時間、金銭、さらには数字に由来する動詞や音韻、図像として読み込まれてきた。ネイサン・ローゼンは三、七、一という数字が持つ魔術的な意味に注目し、それらがこの小説における超自然的な力を生み出す源泉だとしている。またこの数字の組み合わせの触発源として、グリンカの1828年の詩『トビアの結婚披露宴(Брачный пир Товия)』やカール・ホインの小説『オランダのユダ(Der holländische Jude)』、賭けトランプの『ファロ』などが考えられる。
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スペードの女王
「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「メフィストフェレス」じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」を生きなければならなくなるのである。 『スペードの女王』において真に謎めいているのは、亡霊が現れて予言をすることではなく、その予言を聞いたはずのゲルマンが『一』の代わりに『女王』を張ったことである。この不思議な現象を説明するためにいくつもの論文が書かれており、ゲルマンの負けを「純粋な偶然」や「見間違い」とする見方も存在してきた。ダヴィドフは、伯爵夫人とスペードの女王の間の図像的な連関や、ジェンダーの混乱、伯爵夫人の夫(つまり『一』)への優位などを指摘し、こういった見方にも論拠があるとしている。ヴィノグラードフによる終局の解釈は有名であり、これは『女王』の出現を、ゲルマンの内面に抑圧された殺人への罪の意識の物象化とみなすものである。いずれにせよ多くの研究者はこの謎めいたクライマックスを超自然的な力と現実的な力の融合によって説明しようとしている。
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スペードの女王
この小説への評価と同様、オペラ化も最初に行ったのはロシア人でなくフランス人だった。1850年のパリで、ウジェーヌ・スクリーブの台本、ジャック・アレヴィの作曲による3幕物がオペラ=コミック座で上演されたが、これは失敗したといわれている。しかし1890年にチャイコフスキー作曲(モデスト・チャイコフスキー作詞)の3幕のオペラがペテルブルクで初演され、大成功をおさめる。そもそもチャイコフスキーはオペラ化に対して積極的でなく、『スペードの女王』は「ぼくの心を動かさない」とまで手紙に書いていた。だが1889年に、帝室劇場の支配人であるイワン・フセヴォロシュスキイに依頼されて、翌年1月にはフィレンツェで作曲にとりくんだ。熱がこもっていたのは明らかで、わずか44日ほどで完成をみている。その後もマーラーの指揮による1902年、ウィーンでの上演を皮切りに、ミラノ、ベルリンなどでも好評を博した。ストーリーは原作と大きく異なり、結末においては最後の札で『女王』を出して負けたゲルマンの前に伯爵夫人が亡霊となって現れ、ゲルマンは自らの運命をさとり死を選ぶ、といった内容だった。大きな相違点はそれだけでなく、オペラの『スペードの女王』は「ペテルブルクもの」ではあっても、ゴーゴリやドストエフスキーの作品がそうであるように暗鬱な「楽屋裏の」街ではなく、女帝エカテリーナの時代の輝かしいペテルブルクなのである。そこには同時代のロシアに絶望していたチャイコフスキーとプーシキンの確かな人間賛歌が響き合っている。
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かごめかごめ
かごめかごめは、こどもの遊びの一つ。または、その時に歌う歌。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う。 「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。 鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市の歌が全国へと伝わり現在に至った。野田市が発祥地といわれることから、東武野田線の清水公園駅の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。 被差別部落を扱っている歌だとされるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている。 地方により歌詞が異なる。 文献史料では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。 なお京都には「かごめかごめ」と同じ遊び方の(中央に座った鬼が、自分の真後ろが誰かを当てる)、「京の大仏つぁん」という遊び歌がある。歌詞は「京の京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた」で、当時日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)は、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまったが、隣りにあった三十三間堂は奇跡的に類焼を免れたことを歌っている。 この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。 姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがある。
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かごめかごめ
この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。 姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがある。 解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。以下に一部を紹介する。 天の岩戸に閉じ込められた神(天照主日大御神)を岩戸より出てきていただくことを願う歌。かごめかごめ : 2次元で描いた場合は、六芒星で描かれる。実際は3次元(3D)の編み籠目(あみかごめ)になる。「かごの中のとりは」: 籠の中の鳥は点を表すしている。キリストが天の父と呼んだ「主」の王の上につく点。これが籠目の中の鳥に値する。いついつでやる : いつ神は出てこられるのか。夜明けの晩に : 暗い日の欠けた世から日の照らす明るい世になる時を表す。神が出てくるために明るくなるし、私たちが世を明るくしようと努力するこの2つの事柄が交差した時を表す。鶴と亀がすーべった : 鶴と亀は神と仏を意味する。神は7次元ある神霊界の第7次元、第6次元に坐り、神が5次元より下の次元に移動する時に仏に変化する。神も仏の元は同じである。そりため鶴、亀を同列にしている。すーべったは統べる、統一する働きを表す。真の神が現れ、この世を統一運営することを指している。後ろの正面だあれ : 後ろ、つまり背後、見えないところを表す。人の目には認識できない、だが必ず居るという意味。だあれはその神はだれなのかを問う意味。天照主日大御神になる。
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杉浦茂
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。その後、仕事の休止を挟んで1968年からの第三期では、シュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。 1908年(明治41年)、東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれる。湯島尋常小學校(今の文京区立湯島小学校)時代は友人に恵まれ、押川春浪から田山花袋、上田秋成などの多様な小説や、『猿飛佐助』を初めとする立川文庫(立川文明堂刊)などで講談趣味を教わった。また、週末には本郷の第五福寶館や、長じてからは新宿の武蔵野館などの映画館に通い、アメリカ製の喜劇物や西部劇などをたびたび鑑賞した。20歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)にも親しみ、これらの文物が後の漫画創作の下地となった。 郁文館中學校(旧制・現在の郁文館中学校・高等学校)時代に、当時の人気漫画家北沢楽天とその一門に影響され、初めての漫画(ポンチ絵)を描く。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は、後の漫画家人生の原点になった。しかし、その後も継続して漫画を描いていたわけではなく、杉浦によると、漫画家になるまでは漫画への興味、知識は特に無かったという。父親は杉浦を眼科医にさせたかったが、杉浦の夢はプロの西洋画家になることであった。中学時代に上級生から教えられた藤田嗣治に憧れ、また、趣味で日本画を描いていた父と文展(文部省美術展覽会、後の帝展、日展)に通うことで、その思いを募らせた。
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杉浦茂
1924年(大正13年)、父が、過労によって当時流行していた嗜眠性脳炎(眠り病)を患い急死。二人の兄が医学校に進学したこともあって家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)への進学の道を絶たれる。その後、医者になった兄の金銭援助を受け、1926年から1930年まで太平洋畫會研究所に入所。西洋画の制作に取り組む。人物画のモデルを雇うには金がかかるいうこともあり、杉浦は、好んで西洋建築のある風景画を描いた。外出して写生をしている内に、野獣派の長谷川利行や横山潤之助と知り合うことにもなった。また、研究所とは別に1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで洋画家の高橋虎之助にも師事。1930年には、日展(日本美術展覧会)の前身である第11回帝展(帝国美術展覧会)洋画部に、油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選している。 全ての生活の糧を二人の兄に頼っていた杉浦は、一念発起して洋画家とは別の道を目指すことにする。知人から田河水泡への紹介状をもらい、その後3カ月、勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩んだ末、1932年(昭和7年)4月1日、小石川の高級アパート・久世山ハウスを訪ね、田河の門下となった。田河はこの時、すでに『のらくろ』により売れっ子作家となっており、杉浦もその名前は知っていた。入門の数日後には、山梨から上京してきた倉金虎雄(後の倉金章介)も門下になり、それまで弟子がいなかった田河に、二人の門下生ができた。田河の妻、高見澤潤子によれば、「弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。」という。ただし、杉浦は戦後の1947年にも、その頃荻窪にあった田河の家を訪れており、親交が全く途絶えたわけではなかった。
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杉浦茂
田河は「制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだ」という考えから、指導を特に行わなかった。杉浦は、倉金とともに原稿のベタ塗りなどを手伝いつつ、東京朝日新聞(1932年12月18日付)に一枚ものの『どうも近ごろ物騒でいけねえ』を執筆、デビューを果たす。その後もいくつかの短中篇作品が少年誌に掲載された。しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり、この傾向はその後も続いた。また、戦前の作品からは、描線や登場人物の表情に横井福次郎の影響も見受けられる。杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男(堅山南風門下)という同い年の2人の親友がアシスタントに入った。 1933年(昭和8年)には、家から独立。杉並区高円寺のアパートに移り住んだのち、翌1934年に音羽の小石川アパートへ引っ越し、同アパートに住んでいた挿絵画家の霜野二一彦、漫画家の広瀬しん平と親交を得る。その後、1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。 1937年(昭和12年)、田河を顧問に昭和漫畫會が結成され、杉浦もその一員となる。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、その5月より田河が創刊した『小學漫畫新聞』は、発行停止を余儀なくされる。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長に日本兒童漫畫家協會が結成され、昭和漫畫會同人全員とともに杉浦も参加。この後も、1940年に新日本漫畫家協會、1942年に少年文學作家畫家協會が発足し、1943年には、新日本漫画家協会が発展解消、大政翼贊會肝煎で日本に居た全漫画家が入会した日本漫畫奉公會(会長北沢楽天)が結成され、杉浦もそれらに参加した。 戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し、雑誌の仕事が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を単行本へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に國華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。
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杉浦茂
戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し、雑誌の仕事が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を単行本へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に國華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。 1943年(昭和18年)に結婚し、横浜市港北区妙蓮寺から江戸川区小岩町へ移り住む。しかし、結婚披露宴の費用で貯金を費やし、単行本の仕事も無くなり、漫画家生活を諦める寸前にまで陥ってしまう。前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りで、仕事机や本棚、結婚祝いの柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった。そんな時、電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家岡田晟(倉金と同郷で親友)と偶然出会い、そのまま勤め先である映画会社の茂原映画研究所に同行し、就職させてもらう。杉浦の後に、仕事に困っていた旧知の漫画家の帷子進もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を担当した。 元来病弱な杉浦は、徴兵検査で丙種とされていたたが、1945年(昭和20年)7月に召集を受け、世田谷の砲兵連隊に入隊、熊本県へ派兵される。アメリカ軍の有明海上陸に備え、玉名郡梅林村の梅林國民學校に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱えて人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが、急な環境の変化と栄養失調により下痢を起こし、半病人となった。 終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料(さつまいも)の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、日本映画社(日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる福井英一と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる。
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終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料(さつまいも)の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、日本映画社(日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる福井英一と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる。 1946年(昭和21年)、杉浦は、帷子宅で出版社新生閣の社長鈴木省三に紹介される。小学館出身の鈴木は、新生閣で当時大流行していたこども漫画に注力していた。杉浦は、単行本『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、これが戦後初の漫画仕事となった。その後、新生閣では西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』には『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。
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鈴木は、経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰し、同じ一ツ橋グループの集英社出版部長を兼任。集英社で『おもしろ漫画文庫』を創刊した。杉浦の代表作となる『猿飛佐助』は、その21巻目として描かれた。同作は12万4千部刷られ、同文庫の中で一番の売上を記録。この大好評を受け、『猿飛佐助』は雑誌『おもしろブック』(集英社)に連載となる(1954年3月 - 1955年12月)。また、これをきっかけに杉浦の仕事は大幅に増え、1958年までの 5年間の間(46歳 - 50歳)に、後の代表作となる様々な長編漫画が生み出された。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、完全オリジナルの『ドロンちび丸』。西部劇では、背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、コミカライズ作品では『モヒカン族の最後』、『ゴジラ』、『大あばれゴジラ』がある。この時期の作品テーマは、冒険物(1950年まで)から西部劇(1953年まで)に移り、さらに時代物へと変わっていったが、それぞれの作品に、戦前の小説や映画を盛んに見た経験が活かされている。1958年には、集英社から、描下ろし作品『杉浦茂傑作漫画全集』が全 8巻で刊行された。しかし、対応しきれないほどの仕事が殺到し、昼も夜も仕事をし続けた杉浦は体調を崩してしまう。1959年という年は『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)の二つの漫画誌が創刊され、有力漫画家の仕事が月刊誌から週刊誌へ移行していった時期だが、杉浦は、とてもやりきれないと週刊誌の依頼を断っている。 この子供向け漫画を中心とした第 2期の活動は1966年(昭和41年)まで続いた。 1960年代以降は、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになる。慣れぬ持ち込み行い、時流に乗る様な大人漫画も描いた。
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この子供向け漫画を中心とした第 2期の活動は1966年(昭和41年)まで続いた。 1960年代以降は、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになる。慣れぬ持ち込み行い、時流に乗る様な大人漫画も描いた。 1968年(杉浦60歳)から漫画の仕事を再開(第3期)。この時期は「とにかく漫画は面白さが大切」という考えから、さらに作風が奔放になり、アートの様な、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。また、1969年の虫コミックス(虫プロ商事)での『猿飛佐助』の再単行本化以降、自身の手で過去の作品をよりはちゃめちゃに改稿するようになるが、このことに対する読者から抗議の投書が来たことにより、改稿をやめている。 70歳に入ってからも精力的に活動を続けた。名作を杉浦流に改変した『日本名作劇場』を『太陽 (平凡社)』(1980年1月号 - 1981年6月号)に執筆。単行本『まんが聊斎志異』(上巻 1989年刊、中巻 1990年刊)を描き下ろす。また、1980年代から、杉浦のナンセンスでシュールな作風がサブカルチャーの興隆と共に再評価されると、1989年の第29回児童文化功労者に選出された。さらに、杉浦の作品集が何度か編まれている。また、この他にイラストの仕事も手掛けている。森永製菓「ぼうチョコ」のパッケージイラストや、有楽町西武の開店を宣伝するポスターと、CM のキャラクターのデザイン(1984年)、ソニー、日立、横浜ドリームランド、ニコンへのイラスト提供、筒井康隆『お助け・三丁目が戦争です』金の星社(1986年)と、糸井重里『私は嘘が嫌いだ』ちくま文庫(1993年)の挿絵などである。 1996年(平成8年)、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第5巻のために「2901年宇宙の旅」を描下ろし、64年に及んだ長い長い画業を終えた。 1999年(平成11年)、杉浦は交通事故で腰の骨を折って寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには回復したものの、2000年(平成12年)4月23日、入院先の病院で腹膜炎により死去した。92歳だった。
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1996年(平成8年)、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第5巻のために「2901年宇宙の旅」を描下ろし、64年に及んだ長い長い画業を終えた。 1999年(平成11年)、杉浦は交通事故で腰の骨を折って寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには回復したものの、2000年(平成12年)4月23日、入院先の病院で腹膜炎により死去した。92歳だった。 杉浦の原稿は散逸がひどく、死後も作品の発掘が進められている。2007年から中野書店のものと同名の『杉浦茂傑作選集』が青林工藝舎より刊行され、これまでに未収録だった改稿版が単行本化された。2013年には、1958年に刊行された『杉浦茂傑作漫画全集』(集英社)全8巻の内、 4巻(2, 5, 6, 7)が選ばれ、BOX入り『杉浦茂傑作漫画選集 0人間』として小学館クリエイティブから刊行された。また、2002年に、東京都三鷹市の三鷹市美術ギャラリーにて「杉浦茂 - なんじゃらほい - の世界展」、2009年に、京都市中京区の京都国際マンガミュージアムで「冒険と奇想の漫画家・杉浦茂101年祭」展、2012年には、東京都江東区の森下文化センター(田河水泡・のらくろ館と同じ建物)で「びっくりどんぐり奇想天外 杉浦茂のとと? 展」と、画業を紹介する展覧会も開催された。四方田犬彦は、著書『日本の漫画への感謝』(潮出版社、2013年)の中で、杉浦茂を最初に取り上げている。
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杉浦作品は、その独自色の強い強烈な作風から漫画の歴史では語りづらく異端である。同時代に活躍した手塚治虫も、戦前から杉浦のことをユニークな作品を描く漫画家として注目していたが「田河水泡門下とはつゆ知らず、倉金良行(章介)さんとは一線を劃した独立独歩の作家だと思っていた」と語っている。呉智英は、杉浦作品を「戦後復興期から高度成長開始期という現代マンガ成立期でも特筆すべき存在」とし、全盛期の1950年代でさえ、様式的でないギャグや超現実的な物が横溢する作風は異質であり、時代を先取りするものであったと評する。米沢嘉博は、杉浦茂の世界を「メタモルフォセスと奇人変人と食い物にあふれかえった、マンガ故のでたらめで自由な世界」と表現した。山口昌男は杉浦を「へたうまのはしり」と目しており、杉浦が影響を受けた映画や歌舞伎などの世界がコラージュの技法も使って、時間や空間、論理の制約を受けず、登場人物が飛躍する様を「カーニバルのそれに近いイメージの祝祭空間」と評している。 杉浦作品の大胆な筋運びは、杉浦の漫画に対する独特な姿勢が大きく影響している。普通は、構想をまとめた後にネームや下書きなどを経てペン入れに至るが、杉浦は頭の中で、大体の構想をまとめた後、下書きをせずに一発でペンを入れ、執筆途中でも「こちらの方が面白い」と思い至ったら話の筋を曲げるようなことを頻繁に行っていた。弟子の斉藤によれば、杉浦は「ぼくはね、話が前とつながってなくてもいいんだよ」と語っていたという。こうした奔放さは、杉浦作品の大ゴマでよく見る、物語の筋と関係ない群衆が、主要登場人物を埋没させるほどにてんでバラバラに行動し、おしゃべりしたり歌ったりするお祭り騒ぎのような賑やかさにも表れている。また、画家時代の腕を活かしたリアル調の絵でギャグをしたり、デフォルメの絵とリアルの絵を交互に挟んだりする奇抜なセンスも見られる。また、杉浦作品に欠かせないものの一つに、気味の悪い怪物がある。カンブリア紀の生き物さながらのものや、文化や時代性に捕らわれないぶっ飛んだデザインの数々の怪物が現れ、忍術物では登場人物の忍者たちがそういったものに変化(へんげ)している。
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杉浦は登場人物の名づけ方も独特である。代表作の『猿飛佐助』を例にとると、食べ物に由来した「うどんこプップのすけ」や「コロッケ五えんのすけ」、「おおそうじでんじろう」(大河内傳次郎)や「たんげ五ぜん」(丹下左膳)などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といった何とも言えないものなど、独自の言語センスを発揮した。斉藤は、杉浦が読者の子供の覚えやすさと親しみやすさを重視してのことだという。こうした言語センスは登場人物の台詞回しにも表れている。例えば、杉浦のプロレスマニアぶりが発揮された『拳斗けん太』や『プロレスの助』では、「えーい」と兇器も辞さない激しい挌闘、暴力で倒された相手が、「ぱ」や「パ」、「て」などの一言悲鳴をあげたり、「ふわ」、「ホワッ」、「ふういてえ」などと笑顔で断末魔をあげたりするところは読者に牧歌的な印象を与える効果が出ている。また、唐沢俊一は登場人物がよく本筋と関係なくとりとめもない無駄口を叩くことを指摘し、登場人物への名づけセンスや台詞回しに落語からの影響を指摘している。歌を歌う群衆について前述したが、主要人物もよく歌を歌っている。『猿飛佐助』では真田十勇士の一人三好青海入道が、「しらないまーに食べちゃった♪」と他人の食べ物をテンポよく歌って歌詞で状況説明してつまみ食いをするギャグを披露している。
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戦後の黄金期(第二期)、杉浦には3人のアシスタントがいた。戦前から引き続き、友人加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去。この加藤以外の2人が杉浦の弟子で、1人は斉藤あきら、もう1人は藤巻悟郎である。藤巻は数年で引退したため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけだった。戦前の杉浦は漫画の素人だったにも関らず、師匠の田河から漫画について直接教わらなかったが、斉藤も1954年の入門当時、印刷工場勤務の傍ら定時制の高校に通う10代の少年であり、漫画については高校の新聞部で1コマ漫画を描いた経験がある程度だった。斉藤は杉浦が近くに住んでいることを知って親しみをもち、ファンレターを出した。すると、杉浦から地図付きの返信が届き、江戸川区小岩町の自宅に招かれた。訪問当日、杉浦と談笑した後、急に杉浦が描きかけの原稿の余白に絵を描くことを指示した。この時斉藤は自分が絵を描くことを伝えていなかったし、また、漫画は好きだったものの、漫画家になるつもりは全くなかった。斉藤本人は手伝いはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦から手伝いの依頼が来て、ついに入門することになったという。杉浦と斉藤は、漫画のアイデアの出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話し合わなかった。ただ、田河がそうだったように、杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は、長じて漫画技術を習得して杉浦以外にも高野よしてるや手塚治虫、横山光輝の元でもアシスタントを経験し、独立して「ジャガープロ」を設立した。その後、ジャガープロは赤塚不二夫のフジオ・プロダクション「斉藤班」となり、斉藤は赤塚のアシスタントも務めたが、他の漫画家のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという。
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杉浦への弟子入り後にフジオ・プロに入った斉藤が語るように、赤塚不二夫は杉浦茂のファンで、登場人物の「レレレのおじさん」の「レレレ」は杉浦作品から来ているし、それ以外にも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」等の定番の台詞にも影響も与えた。また、杉浦作品の登場人物が頻繁に見せる手のポーズに、広げた指のうち中指と薬指を曲げるポーズがあるが(アメリカ手話の「I Love You」の形。読者に向かって手の甲を向けるか平を向けるかは一定しない)、このポーズは手塚治虫『鉄腕アトム』や赤塚不二夫『天才バカボン』、いしいひさいち『ののちゃん』でも確認できる。もう一つ、有名なポーズがあり、腕とつながっていない拳が頭を掻くものだが、手塚治虫が『七色いんこ』や『旋風Z』(SUGIURA SHIGERU の手書き註釈あり)などでギャグポーズとして活用している。また、手塚の『おれは猿飛だ!』は杉浦の『猿飛佐助』の自己流解釈であると語っている。 また、漫画家の日野日出志、みうらじゅん、本秀康やいしかわじゅん、みなもと太郎、花輪和一、タイガー立石など、グラフィックデザイナーの田名網敬一、SF作家のかんべむさし、横田順彌、ミュージシャンの細野晴臣が杉浦から影響を受けたことを語っている。ギャグ漫画家の唐沢なをきは、杉浦への追悼と表し、自作『カスミ伝』にて一話まるまる作風と絵柄を杉浦に似せて描いている。 アニメ監督の宮﨑駿も影響を受けた一人であり、宮﨑によって読売新聞のテレビCMとして、杉浦作品のアニメ化が企画され、『猿飛佐助』、『太閤記』、『八百八狸』などを原作に、駿の長男である宮﨑吾朗が演出を担当し、スタジオジブリによって制作された。このテレビCMは『ふうせんガムすけ』編と題され、2009年より放送された。 主要作品のみ掲載とし、例えば新聞雑誌掲載作品は特筆すべきもの以外割愛した。杉浦茂『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第5巻巻末収録の「杉浦茂・全作品リスト」を主に参考に、ペップ出版編集部編『杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』』ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>別巻収録の小野寺正巳編「完璧作品リスト」で補足して作成した。
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特殊相対性理論
特殊相対性理論(とくしゅそうたいせいりろん、独: Spezielle Relativitätstheorie、英: Special relativity)は、あらゆる慣性系間の等価性を公理とした物理学の理論である。特殊相対論(とくしゅそうたいろん)とも訳される。特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される理論であるが、一般相対論と特殊相対論を特に区別せずに、相対性理論と呼称されることもある。光速に近い速度で相対移動する観測者対について古典力学 (ニュートン力学)は一般に実験事実と整合しないが、特殊相対性理論においては、観測者に固有の(あるいは観測者間の互いの)時間と空間の測量について定式化することで、これらの関係・法則を捉える。 力学において、電磁気学の説くところによれば、観測者あるいは観測対象の慣性運動を伴う実験において、その結果には従来のニュートン力学の示すところと不整合が生じ得る (#特殊相対性理論に至るまでの背景)。アルベルト・アインシュタインは1905年に発表した論文において特殊相対性理論を発表し、電磁気学的現象まで含めた慣性系間の等価性を公理として、以下の帰結を示した。 特殊相対性理論はニュートン力学では説明できなかった事柄をことごとく説明しており、とりわけ、ニュートン力学が矛盾をきたす光速度に近い速度で運動する物体の力学的挙動に対して、その実験事実によく整合する。こういった経緯から、特殊相対性理論を含む相対性理論は、現代物理学において重要な一体系として支持されている。定性的には、物体に対するエネルギーの放出・吸収にともなったその質量の減少・増加などが確認されている。 その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される特殊論である。一般相対性理論が重力をはじめとする外力(あるいは慣性力)のある非慣性系等の定式化を含むものであるのに対して、特殊相対性理論では慣性力のはたらかない状況(たとえば加減速のない状況)、すなわち慣性系を主眼に据えて扱う。慣性系は非慣性系を含むあらゆる座標系の特殊・特別な場合のひとつであるので、本理論はこれを指すために「特殊」の語を冠して特殊相対論と呼称している。 ニュートンは力学を記述するに当たって以下のような、「絶対時間と絶対空間」を定義した。
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特殊相対性理論
ニュートンは力学を記述するに当たって以下のような、「絶対時間と絶対空間」を定義した。 すなわち、時間と空間は、そこにある物体の存在や運動に影響を受けないと仮定した。これをもって、我々が日常的直観として抱いている時間や空間に対する根本的感覚を表そうとした。この絶対時間をかかげるニュートン力学においても、あらゆる慣性系は本質的に等価(すなわち相対的)でもある。ニュートン力学では、2つの慣性座標系(慣性系Aおよび慣性系B)における同一点A = (t, x)とB = (t′, x′)を示す関係は、次に示すガリレイ変換によって結ばれている。 (t′, x′) = (t, x − v t) 狭義の例を示すならば、ある座標系Aに対して等速直線運動する別の座標系Bがあるとして、これら二つの座標系は本質的に等価(相対的)である。すべての基準となる静止座標系といった概念は、上式では規定されておらず、力学の法則はあらゆる慣性系からの観測について本質的に同一である。すなわち、ガリレイ変換によって形式が変わらない。ガリレイ変換におけるニュートンの運動方程式の不変性、すなわち、この変換でつながる座標系間の等価性は、 ガリレオの相対性原理 (Galilean invariance) と呼ばれる。ニュートン力学は、少なくとも当時に再現し得た諸実験事実と整合し、その矛盾があらわになる時代を迎えるまで(以下節)、力学の普遍的法則とも捉えられた。 19世紀後半になると、当時既に知られていた電磁気学に関するいくつかの基礎方程式群が、ジェームズ・クラーク・マクスウェルにより系統化され、マクスウェル方程式としてあらわされた。マクスウェル方程式の自由空間における解のひとつは電磁波である。この解が示す電磁波の伝播速度は、当時知られていた精度での光速度 c とよく一致した。このため、光と電磁波が同一のものと捉えられ、マクスウェル方程式は、電磁気学の基礎方程式であるのみならず、光の挙動を記述する支配方程式とみなされるようになった。
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同時期において光学分野では、光の回折現象が知られていた。これを説明するために、光を波の伝播と見做す光の波動説が見出され、その支持が広まった。光の波動説では、光も空間を伝播する「もの」であるため、光が伝わる媒質であるエーテルなるものが宇宙に満たされているという仮説が、ホイヘンスにより提案された。 光の波動説およびエーテルを前提とした議論では、エーテルに対して静止している理想的な座標系においてマクスウェル方程式は実験事実をよく支持し、有用な基礎物理方程式とみなされた。その一方で、エーテルに対して運動する基準系から見た状況について、次第に関心が寄せられるようになっていった。 ニュートン力学の基礎方程式であるニュートンの運動方程式は、ガリレイ変換による座標変換のもとで本質的には形を変えない。しかし、電磁気学の基礎方程式であるマクスウェル方程式は、ガリレイ変換のもとで形式が本質的に変化してしまう。この数式上の変化は、マクスウェル方程式が真に成り立つ慣性系がこの世界のどこかにあり、(形式を変化させずに)マクスウェル方程式が別の慣性系においても成立できる「ガリレイ変換でない新たな座標変換」が必要だと予想された。 ヘルツはこの変形された方程式を運動座標系における電磁場の支配方程式として導出したが、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験によって否定された。当時の電磁気学についての問題提起として、たとえば以下のようなものが挙げられる。 このような光の速度と観測者・光源の運動(運動する座標間の変換)に関して混迷した状況があり、なんらかの新たな実験及び理論が求められる状況であった。そのようななか、「ガリレイの相対性原理を是とし、光の速度が慣性系に依存するのであれば、様々な異なる慣性系(運動座標系)から光の速度を計測すれば、マクスウェル方程式と一致する"ただ一つの静止基準系"が見つかるであろう」との発想からマイケルソン・モーリーの実験が行われた。
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マイケルソン・モーリーの実験 (Michelson–Morley experiment)にて、両氏は、地球の公転移動に着目した。実験空間の環境下において、公転運動の進行方向の前後に対してエーテルの「風」が吹くことを想定して、そこで伝播する2経路の光の干渉縞を見ることを通じて、光のエーテル中の伝播速度を精密に測定しようと試みた。これにより、エーテル中における観測者の移動速度(ここでは地球の公転速度)の影響を調べられると考えたのである。これは当時の技術で十分に機能できる手法であった。しかしながら、光の速度に有意の差異は認められず、両氏の期待した観測者移動速度の影響(「エーテルの風」の効果)は実験的に支持されなかった。この当時は「観測者の運動の光速度に及ぼす影響について、”予想されていた水準”よりは、無に近いか全く無いものであろう」と結論された。 一方で、上記の実験を支持できる物理体系を見出す試みとして、ヘルツ、フィッツジェラルド、ローレンツ、ポアンカレなどの学者は、エーテル説に付け加えて、辻褄合わせのための仮定を付与することで実験事実と理論を整合させようと試みた。例えばローレンツとフィッツジェラルドは各々独立に、運動する物体が「エーテルの風」を受けて収縮するフィッツジェラルド=ローレンツ収縮(ローレンツのエーテル理論(英語版))を提示した。フィッツジェラルド=ローレンツ収縮によって、マイケルソン・モーリーの実験では「エーテルの風」の効果がキャンセルされたと説明しており、その際の収縮の度合いを説明する座標変換式(ローレンツ変換、Lorentz transformation)を定式化した。しかしながら、この座標変換の理解のみでは検証可能性を欠いていた。他方で、ローレンツとポアンカレは、時間の流れが観測者によって異なるとする「局所時間」という相対性理論の萌芽ともいえる思索を提起し、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験に合致できる電磁場の方程式を導出していた。
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以上の理論はいずれも数式上は実験事実と合致しており、現代物理学が支持するアインシュタインの理論とも整合する。すなわち、このような数式を持ち込みさえすれば、従来の物理理論との実験上の矛盾はひとまず解消されるということは、一定の成果ではあった。しかしこれらの理論は、あくまでもエーテル仮説(絶対空間の存在)と光速度不変則(実験事実)の食い違う部分のみを解消する為に導出された解決策に過ぎず、たとえば下記のような疑問について、理論上・実験上の不満を残した。 ガリレイ等価原理に則るならば、マイケルソンらの実験結果を整合するように解釈するには、物体の移動速度と位置と時刻の関係について、まったくの未知の法則の発見が必要であることを示すのみである。 結局、以上までの一連の経緯を経て当時の物理学が得たものは、光速は不変という実験事実が分かったこと、および、時間や空間の絶対的均質性といった前提が揺らいだことであった。前提の思想として「絶対空間」や「絶対時間」に拘泥しがちな一方で、「絶対空間」ではないはずの実験環境下で精密測定される光の速度はどれも一定値(有意の差のない範囲で同一・不変)であり、それに整合する一応の理論は構築可能であった。このように、時間・空間に対する思想と実験結果に対する(いわば応急措置的な)理論の間に、ある種の不調和ともとれる状況があった。そういった従来の疑わしい前提を排除したうえで、新たに基礎的な物理法則体系を提唱・検証する必要が生じていた。これを成し遂げたのが、当時アマチュアの物理研究家であったアインシュタインであった。 アインシュタインは、自身のいくつかの(主に3つの)論文 を通して、「特殊相対性理論」を確立した。その大部分は、1つ目の論文「運動物体の電気力学について ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING BODIES」に記されている。本節では、アインシュタインの「運動物体の電気力学について」を軸に据えつつ、後世の補足・解釈も踏まえながら、特殊相対性理論の基礎となる部分(公理と数学的準備)について説明する。
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アインシュタインによる著作「運動物体の電気力学について」は、序文と10個の節からなる。第5節までは「力学」、第6節以降は「電気力学」とそれぞれ題されている。序文の中で「相対性原理」と「光源の運動と無関係に光速は一定である」という2つの前提が示されている。この2条件をもって、”静止物体のためのマクスウェル理論に基づいて運動物体を論ずるのに十分”と述べられている。 アインシュタインの原論文における特殊相対性理論では、以下の二つの事柄を指導原理(前提条件、公理)として、その物理学的枠組みが展開されている。#特殊相対性理論に至るまでの背景に述べた「エーテルに対して動いていない”特別なひとつの慣性系”が存在するはず」という思想からの脱却である。 特殊相対性原理は運動方程式がある種の座標変換に関して共変であるべき、との原理である。なお、アインシュタインの最初の論文では単に「相対性原理」と呼ばれていた。のちに一般相対性理論が世に出てから、それと区別するために「特殊相対性原理」と呼ばれるようになった。 光速度不変の原理は相対性理論構築に必要な最低限の要請をマクスウェル理論から抽出したものであり、物理的に新しい主張を含むのは特殊相対性原理のみである。 なお、現代では光速度不変の原理として以下のような表現を採用する流儀も多い。 しかし、これは本来、特殊相対性原理と(原論文の)光速度不変の原理から、次に記すように演繹される内容である。 以上の指導原理に加えて、主に次の2つの要請を満たすことを要求としたうえで、特殊相対性理論は構築されている。 なお、これら指導原理や諸要請の他にも、従来の物理学から継承される「空間の等質性」や「空間の等方性」といった暗黙の前提は、特殊相対性理論においても基礎とされている。 以上の指導原理と諸要請・前提を満たすべく、特殊相対性理論においては、2つの慣性系の間の座標変換則を次のように導入する(実際に特殊相対性理論で用いられる座標変換「ローレンツ変換」を導く)。以下では、c を不変の光速度とし、時刻 t の代わりにc を乗じた ct を用いることとして、時間軸と空間軸を統一的に扱って述べる。
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以上の指導原理と諸要請・前提を満たすべく、特殊相対性理論においては、2つの慣性系の間の座標変換則を次のように導入する(実際に特殊相対性理論で用いられる座標変換「ローレンツ変換」を導く)。以下では、c を不変の光速度とし、時刻 t の代わりにc を乗じた ct を用いることとして、時間軸と空間軸を統一的に扱って述べる。 今、慣性運動する2人の観測者(すなわち何ら外力のかかっていない観測者)A、Bがある一点ですれ違ったとする。A の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct, x) 、B の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct′, x′) とする。ここで、2つの時刻 ct、ct′ は各観測者に独立なものである。すなわち、特殊相対性理論においてここでまさに、絶対時間が放棄されている(二人の観測者に共通の「絶対時間」はどこにも存在しない)。もちろん、位置座標軸も各観測者に独立固有の存在であり、二人の観測者に共通の空間的尺度「絶対空間」もない。なお、以降では便宜上、二人の観測者がすれ違った際に、位置と時刻の起点(一般に原点・ゼロ点)を規定することが多いが、位置と時刻の起点は再現性のある然るべき手段によって適宜取り直してもよい。また、二人の観測者に共通の絶対時間も絶対空間も存在せず不可知である一方で、それぞれの観測者が(何らかの手段で)もう一方の観測者が観測した時刻・位置の値を知ることは一般に妨げられない。 ここで、2つの座標系の間の一般的な変換規則の数学表現として、テイラー展開による座標変換規則をまず考える。(ct, x)あるいは (ct′, x′) という表現から示唆されるように、各慣性系での時刻・空間座標の数値の組は4次元の行ベクトル・列ベクトルとして扱える(時刻(1次元)と空間(3次元)をあわせた4次元。下記では縦ベクトル(列ベクトル)の表記を用いる)。一般に座標変換規則は、何らかの定数ベクトル b→ と行列 Λ (この場合では4行4列の行列)とを用いて、次のように記述できる。
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AとB が最も接近してすれ違った際において、位置と時刻を双方の座標系の原点と定めると、 b→ = 0→ と簡略化することができる。また、特殊相対性理論においては、外力の無い慣性系を前提とする。このことから、上式の二次以上の項はゼロとできる(二次以上の項があると、AとB が相互に加速度運動していることとなり、慣性系であるという要請から外れる)。以上の諸仮定をもとに、次に示す線形変換の形態として、特殊相対性理論に則った座標変換則を得ることができる。 すなわち、特殊相対性理論においては、物理現象は4次元のベクトル空間で記述される。慣性系はその4次元ベクトル空間の基底であり、各慣性系の間の座標変換は行列Λによる線形写像である。 上記であつかった空間の3次元に時刻(1次元)を加えた4次元の時空間における点を世界点と呼ぶ。 ある慣性座標系から見て、ある時刻 t1 に、3次元空間上のある位置 x1 を光が通過したとする。その後、この光が時刻 t2 に位置 x2 まで伝播したとする。光速度は不変量 c であるので、これは すなわち、 である事を意味する。 世界点 1 と世界点 2 の間に定義される量 を世界間隔もしくは世界距離と呼ぶことにする。ある慣性系において s12 = 0 が成り立つならば、特殊相対性原理から、他の任意の慣性系でも s′12 = 0 が成り立つことになる。ここで、微分表現を採用して、これらの微小世界間隔を次のように表記する。 これらは同次微小量であることから、 という関係式が成り立つ。ここで、この係数 aは時間と空間の一様性から時間と座標に依存せず、空間の等方性から慣性系間の相対速度の方向に依存しないことが要請される。したがって、慣性系間の相対速度の絶対値にのみ依存する。特殊相対性理論において、微小世界間隔の不変性、すなわち、a(|V|) ≡ 1であることを示す手法は、たとえば以下の2つが存在する。 2つの慣性系 K1, K2 の間の相対速度を Vとすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2および係数 a(|V|) についての関係式として、逆変換に対する要請から
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2つの慣性系 K1, K2 の間の相対速度を Vとすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2および係数 a(|V|) についての関係式として、逆変換に対する要請から が得られ、代入して a ( | V | ) 2 = 1 {\displaystyle a(|{\boldsymbol {V}}|)^{2}=1} が得られる。a(|V|) > 0よりa(|V|) ≡ 1が得られる。 三つの慣性系 K1, K2, K3 の間の相対速度を V12, V23, V31 とすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2, ds3 および係数 a(|V|) についての関係式として が得られる。後者の左辺は V12, V23 の絶対値にのみ依存するのに対し、右辺のV31は V12, V23間の角度にも依存すると考えられるため、 a(|V|) はVによらず、定数であることがわかる。(ここで、ニュートン力学とは異なり、相対性理論ではガリレイ変換は成立せず、 V 31 ≠ − V 12 − V 23 {\displaystyle {\boldsymbol {V}}_{31}\neq -{\boldsymbol {V}}_{12}-{\boldsymbol {V}}_{23}} であることに注意せよ。)さらに、関係式から a(|V|) ≡ 1 が得られる。 以上二つのいずれを採用するにせよ、微小世界間隔はあらゆる慣性系間で保存されることになる(座標変換に関して不変)。したがって、このような微分の集積である有限の世界間隔についても、慣性系間の座標変換を経ても不変の保存量となる。 世界距離の定義から、以下の内積風の二項演算子 を考えると、世界距離の二乗は η((ct,x,y,z),(ct,x,y,z)) に一致する。このような二項演算子 η をミンコフスキー内積もしくはミンコフスキー計量と呼び、ミンコフスキー内積の定義されたベクトル空間をミンコフスキー空間と呼ぶ。ミンコフスキー空間上の点を世界点もしくは事象と呼び、ミンコフスキー空間のベクトルは通常の3次元のベクトルと区別する為、4元ベクトルという。
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を考えると、世界距離の二乗は η((ct,x,y,z),(ct,x,y,z)) に一致する。このような二項演算子 η をミンコフスキー内積もしくはミンコフスキー計量と呼び、ミンコフスキー内積の定義されたベクトル空間をミンコフスキー空間と呼ぶ。ミンコフスキー空間上の点を世界点もしくは事象と呼び、ミンコフスキー空間のベクトルは通常の3次元のベクトルと区別する為、4元ベクトルという。 なお、世界点 P は、P と原点 O とを結ぶ4元ベクトル O P → {\displaystyle {\overrightarrow {\mathrm {OP} }}} と自然に同一視できるので、以下、表現に紛れがなければ世界点を4元ベクトルとして表現する。 特殊相対性理論では、時空間をミンコフスキー空間として記述する。 4元ベクトル a→ に対し η(a→, a→) が非負であれば ‖ a → ‖ := η ( a → , a → ) {\displaystyle \|{\vec {a}}\|:={\sqrt {\eta ({\vec {a}},{\vec {a}})}}} をミンコフスキー・ノルムといい、世界点 a→、b→ に対し、η(a→ − b→, a→ − b→) が非負であれば η(a→ − b→, a→ − b→) の平方根を a→、b→ の世界距離という。 なお、世界「距離」という名称ではあるが、 といった点から数学的な距離の公理を満たさない。 また、||a→|| は常に定義できるとは限らないばかりかミンコフスキー・ノルムが定義できる値に対しても三角不等式の逆向きの不等式 ‖ a → + b → ‖ ≥ ‖ a → ‖ + ‖ b → ‖ {\displaystyle \|{\vec {a}}+{\vec {b}}\|\geq \|{\vec {a}}\|+\|{\vec {b}}\|} が成り立つ事から、ミンコフスキー・ノルムも数学で通常使われるノルムの定義を満たさない。 本項では、ミンコフスキー内積を としたが、書籍によっては符号を逆にした をミンコフスキー内積としているものもあるので注意が必要である。 本項と同じ符号づけを時間的規約、本項とは反対の符号づけを空間的規約と呼んで両者を区別する。
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が成り立つ事から、ミンコフスキー・ノルムも数学で通常使われるノルムの定義を満たさない。 本項では、ミンコフスキー内積を としたが、書籍によっては符号を逆にした をミンコフスキー内積としているものもあるので注意が必要である。 本項と同じ符号づけを時間的規約、本項とは反対の符号づけを空間的規約と呼んで両者を区別する。 また本項ではミンコフスキー内積を η で表したが、g で表したり、両者を混用することもある。例えば佐藤 (1994)は、特殊相対性理論には η を用いる一方で一般相対性理論では g を用いている。またシュッツ (2010)ではミンコフスキー内積には g を用いてその行列表示は η としている。 V を n 次元実ベクトル空間とし、 を V 上の対称二次形式とする。このとき、V の基底 e→1, ..., e→n と非負整数 p、q が存在し、 が成立する事が知られている。しかも p、q は (V, η) のみに依存し、基底 e→1, ..., e→n には依存しない(シルヴェスターの慣性法則)。 p = 1、q = n − 1 となる二次形式 η をミンコフスキー計量と呼び、組 (V, η) を n次元ミンコフスキー空間という。 特殊相対性理論で用いるのは、次元 n が4の場合なので、以下特に断りがない限り、n = 4とする。 空間方向の次元を2に落としたミンコフスキー空間を図示した。図では何らかの慣性系から見たミンコフスキー空間が描かれており、この慣性系に対して静止している観測者 (observer) が原点にいる。この観測系における座標の成分表示を (ct, x, y) とする。 この観測者にとっての時間軸 (ct, 0, 0) は図で「時間」と書かれた軸であり、この観測者にとって時間は時間軸にそって流れる。従って図の上方が未来であり、下方が過去である。観測者が慣性系に対して静止している事を仮定したので、時間が t 秒経つと、観測者のミンコフスキー空間上の位置は (ct, 0, 0) に移る。 一方、この観測者にとって現在にある世界点の集まり(すなわちこの観測者にとっての空間方向)は図の「現在」と書かれた平面であり、この観測者からみた空間方向の座標軸 (0, x, 0), (0, 0, y) が「空間」と書かれた二本の軸である。
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一方、この観測者にとって現在にある世界点の集まり(すなわちこの観測者にとっての空間方向)は図の「現在」と書かれた平面であり、この観測者からみた空間方向の座標軸 (0, x, 0), (0, 0, y) が「空間」と書かれた二本の軸である。 世界距離の定義から、原点を通る光の軌跡は を満たす。この方程式を満たす世界点の集合は2つの円錐として描かれ、これを光円錐という。図の上にある逆さまの円錐が未来の光円錐 (future light cone) であり、図の下にある円錐が過去の光円錐 (past light cone) である。 原点を通る光の軌跡は、光円錐上にある直線である。観測者は光を使って物をみるので、過去の光円錐の上にある世界点が観測者に見える(もちろん、他の物体に遮られなければ)。 ミンコフスキー空間上の4元ベクトル x→ の終点が(未来もしくは過去の)光円錐の内側にあるとき x→ は時間的であるといい、終点が光円錐の外側にあるとき x→ は空間的であるといい、光円錐上にあるとき x→ は光的であるという。定義より明らかに、以下が成り立つ:x→ が時間的、空間的、光的であるのは、η(x→, x→) がそれぞれ正、負、0のときである。 光円錐上の点 x→ は η(x→, x→) という座標系と無関係な値の符号で特徴づけられるので、4元ベクトルが時間的か、空間的か、光的かは原点を起点するどの慣性座標系からみても不変である事がわかる。特に、光円錐は原点を起点するどの慣性座標系からみても同一である。 原点Oを通る観測者から見た慣性座標系を一つ固定すると、前述のようにその慣性座標系における二つの位置ベクトル間のミンコフスキー内積は と書ける。このような座標系で、 と定義すると、e→0、e→1、e→2、e→3 はあきらかにミンコフスキー空間の基底であり、しかも を満たす。 ユークリッド空間の類似から(M2)式を満たす基底 e→0、e→1、e→2、e→3 を正規直交基底と呼ぶ事にすると、慣性座標系から正規直交基底が1つ定まった事になる。e→0 をこの基底の時間成分といい、e→1、e→2、e→3 をこの基底の空間成分という。
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と書ける。このような座標系で、 と定義すると、e→0、e→1、e→2、e→3 はあきらかにミンコフスキー空間の基底であり、しかも を満たす。 ユークリッド空間の類似から(M2)式を満たす基底 e→0、e→1、e→2、e→3 を正規直交基底と呼ぶ事にすると、慣性座標系から正規直交基底が1つ定まった事になる。e→0 をこの基底の時間成分といい、e→1、e→2、e→3 をこの基底の空間成分という。 逆に(M2)式の意味で正規直交基底である e→0、e→1、e→2、e→3 を一つ任意に選び、この基底における座標の成分表示を (ct, x, y, z) と書くことにすると、ミンコフスキー内積が(M1)式を満たすことを簡単に確認できる。 以上の議論から、原点にいる観測者の慣性座標系と正規直交基底は1対1に対応する事がわかる。従って以下両者を同一視する。 ただし、正規直交基底の中には、e→0 が過去の方向を向いていたり、e→1、e→2、e→3 が左手系だったりするものもあるので、このようなものは以下除外して考えるものとする。 運動している質点がミンコフスキー空間内に描く軌跡を世界線と言う。今、世界線が原点を通る直線となる質点の運動があるとし、その直線の(4元)方向ベクトルを u→ とする(長さは問わない)。 この質点の運動を慣性座標系 e→0、e→1、e→2、e→3 にいる観測者 A が原点で眺めるとする。この慣性座標系における u→ の成分表示を (ct, x, y, z) とすると、3次元ベクトル (x/t, y/t, z/t) は A から見た質点の速度ベクトルであると解釈できる。 次に u→ の速度を光速と比較してみる。u→ の速度が光を下回る必要十分条件は、√x + y + z / t < c となることであるので、これを書き換えると、(ct) − x − y − z > 0 となる。ミンコフスキー計量の定義より、この式は η(u→, u→) > 0 と慣性座標系によらない形で表現できる。従って、η(u→, u→) > 0 であれば、どの慣性系から見ても光速度を下回り、逆に η(u→,u→) < 0 であれば どの慣性系から見ても光速度を上回る。 前述のように η(u→, u→) の正負によって、u→ を時間的もしくは空間的と呼ぶので、まとめると以下が結論づけられる:
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前述のように η(u→, u→) の正負によって、u→ を時間的もしくは空間的と呼ぶので、まとめると以下が結論づけられる: 最後のものは光速度不変の原理からの直接の帰結でもある。 なお、上の議論では、質点の世界線が直線である事を仮定したが、そうでない場合も原点での接線を u→ として同様の議論をする事で同じ結論が得られる。 ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間 V 上の線形変換 φ : V → V でミンコフスキー計量を変えないもの、すなわち任意の4元ベクトル a→、b→ に対し、 が成立するものの事である。 ユークリッド空間で内積を変えない線形変換は合同変換であるので、ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間における合同変換の対応物である。 ただし正規直交基底の場合と同様、ローレンツ変換にも が存在するのでこのようなものは以下除外して考える。 なお、空間方向の向き、時間方向の向きの両方を保つローレンツ変換を正規ローレンツ変換という事があるが、本項では以下、特に断りがない限り、単にローレンツ変換と言ったならば正規ローレンツ変換を指すものとする。 ローレンツ変換 φ と4元ベクトル b→ を使って の形に書ける線形変換をポアンカレ変換という。特殊相対性理論では、2人の観測者が原点で出会ったケースにおいてローレンツ変換に関して議論する事が多いが、これは出会った場所を原点に平行移動した上で議論しているという事なので、実質的にはポアンカレ変換に関する議論である事が多い。 4次元ミンコフスキー空間 (V, η) では、 次の定理が成立する事が知られている。 定理 ― (e→0, e→1, e→2, e→3)、(e′→0, e′→1, e′→2, e′→3)を V の2組の正規直交基底とする。 このとき、V 上の線形変換 φ で を満たすものがただ一つ存在し、しかも φ はローレンツ変換である。 この定理はユークリッド空間における2つの正規直交基底が直交変換により写りあう事の類似である。 前述のように、正規直交基底は慣性座標系と対応している。よって上の定理は、以下を意味する:慣性座標系から別の慣性座標系への座標変換はローレンツ変換である。 ローレンツ変換の具体的な形を求める為、まずは基底をより解析がしやすいものに置き換える。
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この定理はユークリッド空間における2つの正規直交基底が直交変換により写りあう事の類似である。 前述のように、正規直交基底は慣性座標系と対応している。よって上の定理は、以下を意味する:慣性座標系から別の慣性座標系への座標変換はローレンツ変換である。 ローレンツ変換の具体的な形を求める為、まずは基底をより解析がしやすいものに置き換える。 基底 e→0, e→1, e→2, e→3 の「空間部分」である e→1, e→2, e→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E とし、同様に基底 e′→0, e′→1, e′→2, e′→3 の空間部分である e′→1, e′→2, e′→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E′ とする。これらはそれぞれの慣性座標系における空間方向を表している。 e→1, e→2, e→3 を E 内で回転した別の正規直交基底に取り替えても、e→0, e→1, e→2, e→3 と実質的に同じ慣性系を表しているとみなしてよい。そこで (e→1, e→2, e→3), (e′→1, e′→2, e′→3) をそれぞれ E 内、E′ 内で回転することで、ローレンツ変換 φ の行列表示 Λ を簡単な形で表すことを試みる。 E と E′ の共通部分 E ∩ E′ を U とすると、U は4次元ベクトル空間上の2つの3次元部分ベクトル空間の共通部分なので、U は2次元(以上)のベクトル空間である。従って E 内で (e→1, e→2, e→3) を回転することで、e→2, e→3 ∈ U としてよく、同様に E′ 内の回転により e′→2, e′→3 ∈ U とできる。最後に U 内で e→'1, e→'2 を回転することで e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 としてよい。 これらの基底に対し、(L1)式を満たすローレンツ変換 φ の行列表現を Λ = (Λν)μν とする。これはすなわち、 を満たすという事であり、これら2つの基底における座標の成分表示をそれぞれ (ct, x, y, z)、(ct′, x′, y′, z′)とすると が成立するという事でもある。 e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 であったので、ローレンツ変換の行列表示は、
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これらの基底に対し、(L1)式を満たすローレンツ変換 φ の行列表現を Λ = (Λν)μν とする。これはすなわち、 を満たすという事であり、これら2つの基底における座標の成分表示をそれぞれ (ct, x, y, z)、(ct′, x′, y′, z′)とすると が成立するという事でもある。 e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 であったので、ローレンツ変換の行列表示は、 という形であり、ローレンツ変換がミンコフスキー空間における「回転」であったことを利用すれば、上の行列の(*)の部分が、 という形であることがわかる。これを導く厳密な方法はいくつかあるが、簡便な方法としては虚数単位 i を用いて時間軸を τ = ict と置く事で通常のユークリッド空間の回転とみなせる(ウィック回転)という事実を使うものがある。 最終的に2つの基底における座標の成分表示の関係(L2)式は以下のように書ける事がわかる。 定理(ローレンツ変換の具体的な形) ― 必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は と表示できる。 この値 ζ は正規直交基底の取り方に依存せず、ローレンツ変換 φ の固有値のみによって決まることが知られており、ζ を φ のラピディティという。なお、ζ は と具体的に求めることもできる。 慣性座標系 (ct, x, y ,z) にいる観測者 A は、原点を通過した後、(ct, 0, 0, 0) という直線(世界線)にそって進んでいく。この様子を別の観測者 B の慣性座標系 (ct′, x′, y′, z′) で記述した式は(L3)式に (x, y, z) = (0, 0, 0) を代入した によって表現できる。この世界線の「傾き」 は2人の観測者の相対速度と解釈できるので、観測者 A から見た観測者 B の相対速度を v とすると、 となる。よって、 である。そこでローレンツ因子 γ を γ := 1 1 − ( v / c ) 2 {\displaystyle \gamma :={\frac {1}{\sqrt {1-(v/c)^{2}}}}} と定義すると、以下が導かれる: 相対速度を用いたローレンツ変換の表示 ― 観測者Aから見た観測者Bの相対速度を v とするとき、必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は と書ける。
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である。そこでローレンツ因子 γ を γ := 1 1 − ( v / c ) 2 {\displaystyle \gamma :={\frac {1}{\sqrt {1-(v/c)^{2}}}}} と定義すると、以下が導かれる: 相対速度を用いたローレンツ変換の表示 ― 観測者Aから見た観測者Bの相対速度を v とするとき、必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は と書ける。 我々は(L4)式やそれと同値な(L3)式を導くとき、空間方向の座標変換をおこなった。これは別の見方をすると、ローレンツ変換から空間方向の回転成分を取り除いたものが(L3)式や(L4)式であるということである。 (L3)式や(L4)式のように書けるローレンツ変換、すなわち空間方向に回転しないローレンツ変換の事をローレンツ・ブーストと呼ぶ。 ローレンツ変換の式(L4)式において、v/c ≈ 0 (0に近似) とすると、(L4)式は、 となり、ガリレイ変換に一致する。すなわち、「ニュートン力学近似」とは、慣性座標系間の相対速度 v が光速 c と比べて十分小さい場合の理論であるということが言える。 このことからニュートン力学はガリレイ変換に不変であるというガリレイの相対性原理は、特殊相対性理論では以下の形で成立していると考えられる: 全ての物理法則はローレンツ変換に対して不変でなければならない。 本節では光速を超えずに移動する観測者 A の感じる時間の長さ(観測者の固有時間)s が、A の世界線の(ミンコフスキー計量で測った)「長さ」に一致することを示す。 固有時間について述べる前に、まず慣性系から見た時間についての公式を与える。 x→ を世界点とし、(e→0, e→1, e→2, e→3) を原点における慣性座標系とする。このとき、以下が成立する: 慣性座標系 (e→0, e→1, e→2, e→3) における x→ の起こる時刻は η(x→, e→0)である。 ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さの場合は右辺を c で割る必要がある。
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x→ を世界点とし、(e→0, e→1, e→2, e→3) を原点における慣性座標系とする。このとき、以下が成立する: 慣性座標系 (e→0, e→1, e→2, e→3) における x→ の起こる時刻は η(x→, e→0)である。 ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さの場合は右辺を c で割る必要がある。 実際、(e→0, e→1, e→2, e→3) における成分表示を (ct, x, y, z) とすると、x→ の起こる時刻は x→ を時間軸方向へ射影したものに一致するが、x→ を時間軸方向へ射影した値は η(x→,e→0) である。 本節では以下を示す:時間的もしくは光的な4元ベクトル u→ に沿って原点から u→ の終点まで直線的に動く観測者の固有時間 s は u→ のミンコフスキー・ノルム ‖ u → ‖ = η ( u → , u → ) {\displaystyle \|{\vec {u}}\|={\sqrt {\eta ({\vec {u}},{\vec {u}})}}} に一致する。 なお、u→ が時間的もしくは光的な4元ベクトルであることから η(u→, u→) > 0 であるので、上式の平方根は意味を持つ。 ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さは τ = s/c である。 上の事実を示すため、O から u→ に沿って移動する観測者を考えると、この観測者の慣性座標系は、e→0 = u→ / ||u→|| を時間方向の単位(4元)ベクトルとする正規直交基底 (e→0, e→1, e→2, e→3) により表せる。この座標系に前述の公式を適用すれば、この座標系で観測者が原点から u→ の終点まで世界線を移動するのにかかる固有時間は η ( u → , e → 0 ) = ‖ u → ‖ η ( e → 0 , e → 0 ) = ‖ u → ‖ {\displaystyle \eta ({\vec {u}},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|\eta ({\vec {e}}_{0},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|} となり、最初の公式が示された。
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η ( u → , e → 0 ) = ‖ u → ‖ η ( e → 0 , e → 0 ) = ‖ u → ‖ {\displaystyle \eta ({\vec {u}},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|\eta ({\vec {e}}_{0},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|} となり、最初の公式が示された。 上では観測者が原点を通る世界線に沿って移動する場合について述べたが、原点を通らない世界線に関しても、観測者が上を u→ から w→ まで直線的に動く間に ||u→ - w→|| の固有時間が流れる事を同様の議論により証明できる。 本節では光速を超えずに移動する観測者 A の世界線 C が曲線である場合に対して A の固有時間を求める方法を述べる。 観測者 A の時空間上の位置 x→ が実数 r によってパラメトライズされて x→ = x→(r) と書けているとすると、観測者が x→(r0) から x→(r0 + Δr) まで移動する間に、 の固有時間が流れることになる。したがって観測者 A が C に沿って動いた際に流れる固有時間 s は以下のように求まる: s = ∫ C d s = ∫ C ‖ d x → d r ‖ d r . {\displaystyle s=\int _{\mathrm {C} }\mathrm {d} s=\int _{\mathrm {C} }\left\|{\frac {\mathrm {d} {\vec {x}}}{\mathrm {d} r}}\right\|\mathrm {d} r.} これはユークリッド空間において曲線の長さを求める弧長積分のミンコフスキー空間版であるので、上の公式は、観測者 A の固有時間が A の描く世界線 C の「長さ」に一致することを意味している。 次に上で示した式を慣性座標で表す。A とは別の観測者 B が慣性運動しており、B の慣性座標系 (ct, x, y, z) における A の位置 x→(r) が と書けていたとすると、以下が言える:
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これはユークリッド空間において曲線の長さを求める弧長積分のミンコフスキー空間版であるので、上の公式は、観測者 A の固有時間が A の描く世界線 C の「長さ」に一致することを意味している。 次に上で示した式を慣性座標で表す。A とは別の観測者 B が慣性運動しており、B の慣性座標系 (ct, x, y, z) における A の位置 x→(r) が と書けていたとすると、以下が言える: d s 2 = ‖ d x → d r ‖ 2 d r 2 = ‖ d x → ‖ 2 = c 2 d t 2 − d x 2 − d y 2 − d z 2 . {\displaystyle {\begin{aligned}\mathrm {d} s^{2}&=\left\|{\frac {\mathrm {d} {\vec {x}}}{\mathrm {d} r}}\right\|^{2}\mathrm {d} r^{2}=\|\mathrm {d} {\vec {x}}\|^{2}\\&=c^{2}\mathrm {d} t^{2}-\mathrm {d} x^{2}-\mathrm {d} y^{2}-\mathrm {d} z^{2}.\end{aligned}}} 以上の議論では変数 r で世界線 C をパラメトライズしたが、物理学的に自然な値である秒を単位とした固有時 τ そのものを使って、x→ = x→(τ) とパラメトライズするのが一般的である。このようにパラメトライズしたとき、質点 x→ の4元速度(英語版) u→ と4元加速度(英語版) a→ を以下のように定義する: すなわち、x→ のミンコフスキー空間上の位置の変化率を固有時間 τ で測ったものが4元速度で、4元速度の変化率を τ で測ったものが4元加速度である。 4元速度のミンコフスキー・ノルムは を満たす。このことから、4元速度は x の世界線の接線で長さが c であるものである事がわかる。この事実は、ユークリッド空間の曲線を弧長で微分したときの長さが1になることと対応している。長さが1でなく c なのは時間の単位が c 秒でなく1秒だからである。 以上の事から4元速度のミンコフスキー・ノルムの2乗が定数 c なので、これを微分する事で
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4元速度のミンコフスキー・ノルムは を満たす。このことから、4元速度は x の世界線の接線で長さが c であるものである事がわかる。この事実は、ユークリッド空間の曲線を弧長で微分したときの長さが1になることと対応している。長さが1でなく c なのは時間の単位が c 秒でなく1秒だからである。 以上の事から4元速度のミンコフスキー・ノルムの2乗が定数 c なので、これを微分する事で η ( u → , a → ) = 0 {\displaystyle \eta ({\vec {u}},{\vec {a}})=0} である事がわかる。すなわち4元速度と4元加速度は「直交」している。 変分法を用いる事で、以下の事実を示せる:ミンコフスキー空間上の2つの世界点 x→, y→ を結ぶ世界線(で光速度未満のもの)のうち、最も固有時間が長くなるのは、x→ と y→ を直線的に結ぶ世界線である。 x→ から y→ へと直線的に動く観測者は慣性系にいることになるので、これは慣性運動している場合が最も固有時間が長くなる事を意味する。 固有時間が世界線の「長さ」であった事に着目すると、上述した事実は、ユークリッド空間上の二点を結ぶ最短線が直線であることに対応している事がわかる。なお、ユークリッド空間では「最短」であったはずの直線がミンコフスキー空間上では「最大」に変わっているのは、ミンコフスキーノルムの2乗 (ct) − x − y − z の空間部分がユークリッドノルムの2乗 x + y + z とは符号が反対である事に起因する。 ニュートン力学では、3次元空間のガリレイ変換に対して不変になるように理論が構築されている。それに対し特殊相対性理論では、4次元時空間のローレンツ変換に対して不変になるように理論を構築する必要があるので、ニュートン力学の概念をそのまま用いることはできない。本節では、ニュートン力学の諸概念を「4次元化」し、それがローレンツ変換(と平行移動)に対して不変になることを示すことで特殊相対性理論における力学を構築する。 以下、記法を簡単にするため、4元ベクトルの成分を ( x 0 , x 1 , x 2 , x 3 ) := ( c t , x , y , z ) {\displaystyle (x^{0},x^{1},x^{2},x^{3}):=(ct,x,y,z)}
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以下、記法を簡単にするため、4元ベクトルの成分を ( x 0 , x 1 , x 2 , x 3 ) := ( c t , x , y , z ) {\displaystyle (x^{0},x^{1},x^{2},x^{3}):=(ct,x,y,z)} などと書くことにする。 光速を超えないで運動する質点 x→ の世界線を x→ = x→(τ) と秒を単位とした固有時 τ でパラメトライズする。このとき、質点 x→ の4元運動量を と定義する。ここで m は質点 x→ の慣性座標における質量(静止質量と呼ぶ)である。すなわち、4元運動量は、4元速度に静止質量を掛けたものである。 4元運動量の物理学的意味を見るため、慣性座標系 (x, x, x, x) を固定し、p→ をこの座標系に関して p→ = (p, p, p, p) と成分表示する。 i = 1, 2, 3 に対し、4元運動量の定義より、 である。ここで v = (v, v, v) はこの慣性座標系における質点の速度ベクトルであり、v = |v|である。 v / c → 0 の極限において p は mv に漸近するので、4元運動量の空間部分 (p, p, p) はニュートン力学の運動量 (mv, mv, mv) をローレンツ変換で不変にしたものであるとみなす事ができる。 また、(p, p, p) は質点の「見かけ上の重さ」が である場合の運動量とみなすこともできる。 4元運動量の時間成分 p に c を掛けたものをテイラー展開すると、 である。 第二項はニュートン力学における運動エネルギーであるので cp はエネルギーに相当していると考えられる。 従って第一項の E := m c 2 {\displaystyle E:=mc^{2}} もエネルギーを表していると解釈できる。この値は質点が例え慣性系に対して静止していて v = 0 であっても持つエネルギーであることから、この値を質点の静止質量エネルギーと呼ぶ。 質量 m を持つこととエネルギー mc2 を持つことは等価であり、質量欠損や核反応・対消滅に伴うエネルギー放出・吸収から確かめられている。 4元運動量のミンコフスキー・ノルムは
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もエネルギーを表していると解釈できる。この値は質点が例え慣性系に対して静止していて v = 0 であっても持つエネルギーであることから、この値を質点の静止質量エネルギーと呼ぶ。 質量 m を持つこととエネルギー mc2 を持つことは等価であり、質量欠損や核反応・対消滅に伴うエネルギー放出・吸収から確かめられている。 4元運動量のミンコフスキー・ノルムは である。一方、慣性座標系を1つ固定して4元運動量を成分表示したとき、前に示したように、E = cp はエネルギーを表し、p = (p, p, p) は運動量に対応していた。運動量の大きさを p = |p| とすると、E と p は以下の関係式を満たす: 左辺は慣性系によらないので、E − (cp) は慣性系によらず一定値 (mc) になることを意味する。 p ≪ mc であれば上の式は となり、静止質量エネルギー mc を無視すれば、p / 2m が質点の運動エネルギーに相当するというニュートン力学の式に対応していることがわかる。 光速で移動する有限のエネルギーを持った粒子を考える。この時、mγc2 の γ が無限大に発散してしまうので、m = 0 でなければならない。この逆も成立するため、質量を持たずに有限のエネルギーを持つ物質は常に光速で走り続けねばならず、また光速で移動するエネルギーを持つ物質はすべて質量が0であることが分かる。 特殊相対性理論以前の電磁気学において、J.J.トムソンやワルター・カウフマン(英語版)によって電子の質量の速さ依存性が指摘されていた。それを説明する理論としてマックス・アブラハムは、電子の慣性質量の起源を全て電磁場に求めるという電磁質量概念 (Electromagnetic mass) を提唱したが、電子以外の物質の構成要素に対して一般化することができなかった。 一方、特殊相対性理論はその物質の質量の速さ依存性についての一般的な説明と慣性質量とエネルギーに関する普遍的な関係を与える。 すでに運動量の概念を4元ベクトル化したので、力の概念を4元ベクトル化した4元力 f→ が定義できれば、 ニュートンによる質点の運動方程式 f = dp / dt をローレンツ変換に不変にした特殊相対性理論の運動方程式 が定式化できる。
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一方、特殊相対性理論はその物質の質量の速さ依存性についての一般的な説明と慣性質量とエネルギーに関する普遍的な関係を与える。 すでに運動量の概念を4元ベクトル化したので、力の概念を4元ベクトル化した4元力 f→ が定義できれば、 ニュートンによる質点の運動方程式 f = dp / dt をローレンツ変換に不変にした特殊相対性理論の運動方程式 が定式化できる。 現在知られている4種類の力のうち、電磁気力、強い力、弱い力の3つは4元力として表現可能な事が知られている。このうち電磁気力を4元力として表現する方法は後の節で述べる。 一方、重力は特殊相対性理論の範囲で4元ベクトル化しようとしてもローレンツ変換に対して不変にならないためうまくいかない。重力を扱うには一般相対性理論が必要となる。 特殊相対性理論から導かれる帰結として、たとえば、主に以下の事項を挙げることができる。項目ごとの詳細は後述する。 次の事柄は、特殊相対性理論の前提あるいは理論展開(#特殊相対性理論の基礎)するところそのものである。特殊相対論によって座標変換に関して対称な簡潔な数式系にまとめられることができたこと、さらに、後に実験事実として得た諸結果が特殊相対性理論によく整合したことから、物理の基本原理として、これらはより支持されるようになった(#特殊相対性理論の実験的検証)。 以下では話を簡単にするため時間1次元+空間1次元の計2次元の場合について述べる。 ある慣性系 (ct′, x′) において静止している剛体について、この慣性系 (ct′, x′) で測った剛体の長さをこの剛体の固有長さと呼ぶ。 今、固有長さ l の棒が慣性系 (ct′, x′) に対して静止しており、これを別の慣性系 (ct, x) から眺めたとする。話を簡単にするため、2つの慣性系の原点はいずれも棒の1つの端点 O に一致しているものとする。 棒は慣性系 (ct′, x′) に対して静止しているので、棒の他方の端点が描く世界線 C は (ct′, l) と t′ でパラメトライズできる。 慣性系 (ct, x) における現在 (0, x) と世界線 C との交わりはローレンツ変換により なので、棒の長さは x = l / γ {\displaystyle x=l/\gamma }
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棒は慣性系 (ct′, x′) に対して静止しているので、棒の他方の端点が描く世界線 C は (ct′, l) と t′ でパラメトライズできる。 慣性系 (ct, x) における現在 (0, x) と世界線 C との交わりはローレンツ変換により なので、棒の長さは x = l / γ {\displaystyle x=l/\gamma } となる。ここで γ > 1 はローレンツ因子 1/√1 − (v/c) である。 これにしたがうと、棒に対して長さ方向に運動している座標系からみると、棒の長さは 1/γ 倍に縮んだかのように見える。この現象を ローレンツ収縮もしくはフィッツジェラルド=ローレンツ収縮という。 地上で(地面に対して)静止している観測者からみて、高速で飛んでいるロケットは(地上に)停まっているときよりも短く見える(進行方向に収縮している)。 地上から上空へ向かうロケットを地上から観測したとき、ロケットの後端に設置した時計は、ロケットの先端に設置した時計よりずれが大きい。このとき、ロケットに乗る観測者からすれば、ロケットの速度での運動座標系において、ロケットの後端と先端の時計が刻む時刻は同時に見える。 なお、実際にはロケットが観測者にどのように見えるかという点については、特殊相対性理論による時刻・座標のずれに加えて、ロケット各部からの光の到達時刻を加味する必要がある(これを考慮に入れた場合、さらに歪んだ見え方となりうる) ローレンツ収縮は、アインシュタインが特殊相対性理論を提案する以前に、ローレンツとフィッツジェラルドが独立に提案したものである。彼らの提案は、数式上は特殊相対性理論のそれと同一であるが、彼らの理論はエーテル仮説を前提としており、物体は「エーテルの風」を受けて3次元空間内で実際に縮むとするものであった。すなわち、あくまでも彼らは「エーテルが静止している絶対空間がある」という考えのもとに立っていた。 それに対して、特殊相対性理論では、ローレンツ収縮を4次元時空間の各観測者ごとの座標系において解釈したものであり、絶対空間や絶対時間の存在を前提としない。前述のように慣性系によって測っている場所が違う事が収縮の起こる原因である。
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それに対して、特殊相対性理論では、ローレンツ収縮を4次元時空間の各観測者ごとの座標系において解釈したものであり、絶対空間や絶対時間の存在を前提としない。前述のように慣性系によって測っている場所が違う事が収縮の起こる原因である。 運動する観測者 A があり、A とは別の観測者 B が慣性運動し、A 側の座標系 (ct, x, y, z) にて B の位置が、 と書けるとき、 というローレンツ変換について不変な量 s をとり、A側の固有時刻を τ = s / c とする。 であることより d τ d t = 1 − ( v / c ) 2 {\displaystyle {\frac {\mathrm {d} \tau }{\mathrm {d} t}}={\sqrt {1-(v/c)^{2}}}} である。右辺はローレンツ因子 γ の逆数である。これを観測者 A の世界線 C に沿って積分すると T = ∫ C 1 − ( v ( t ) / c ) 2 d t {\displaystyle T=\int _{\mathrm {C} }{\sqrt {1-(v(t)/c)^{2}}}\mathrm {d} t} により、A 側の固有時間 T が得られる。ここで v(t) は時刻 t における A と B の相対速度である。 v < c ゆえ、積分内は常に1未満であり、慣性系B側の時間 T′ との関係は次式となる: T < T ′ . {\displaystyle T<T'.} これはすなわち、ある慣性系でみたときの時間は固有時間よりも長い事を意味する。 特に観測者 A も慣性運動しているときは、相対速度 v は常に一定であり、次式となる: T = T ′ 1 − ( v / c ) 2 . {\displaystyle T=T'{\sqrt {1-(v/c)^{2}}}.} 観測者 A、B が慣性運動しており、さらに質点 C が運動しているとする(慣性運動とは限らない)。 観測者 A の座標系を (ct, x, y, z) とし、観測者 B の座標系を (ct′, x′, y′, z′) とし、A から見た B の相対速度の大きさを V とし、 をローレンツ因子とする。
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観測者 A、B が慣性運動しており、さらに質点 C が運動しているとする(慣性運動とは限らない)。 観測者 A の座標系を (ct, x, y, z) とし、観測者 B の座標系を (ct′, x′, y′, z′) とし、A から見た B の相対速度の大きさを V とし、 をローレンツ因子とする。 必要ならミンコフスキー空間の原点を取り替えることで C は原点を通っているとしてよく、さらに C の運動方向は y軸、z軸と直交しているとし、y'軸、z'軸がy軸、z軸と一致しているとしても一般性を失わない。 観測者 A、B から見た C の速度をそれぞれ (vx,vy,vz)、(v′x,v′y,v′z) とするとき、B の座標系から A の座標系への速度変換則は、ローレンツ変換の(L4)式より以下のようになる: 本節では、質点の速度が光速を越えない限り、特殊相対性理論においても因果律が成り立つことを示す。以下、特に断りがない限り、質点、観測者の双方とも光速度以下であるものとする。 x→, y→ をミンコフスキー空間上の2つの世界点とする。y→ − x→ が未来の光円錐の内部にあるとき、x→ は y→ の因果的過去 (causally precede) といい、x→ < y→ と書く。同様に y→ − x→ が未来の光円錐の内部もしくは未来の光円錐上にあるとき、x→ は y→ の年代的過去 (chronologically precede) といい、x→ ≦ y→ と書く。 因果的過去は以下のように特長づけられる: ミンコフスキー空間上の点 x→ にある質点が光速未満(resp. 以下)で y→ に到達できる ⇔ x→ < y→ (resp. x→ ≦ y→)。 よって特に以下が成立する: x→ ≦ y→ かつ y→ ≦ z→ ⇒ x→ ≦ z→。 従って「≦」は数学的な(半)順序の公理を満たす。 以下の事実は、質点の速度が光速を越えない限り座標系の取り替えで因果律が破綻しない事を意味している: x→ ≦ y→ かつ x→ ≠ y→ ⇔ 全ての慣性座標系で、y→ は x→ より時間的に後に起こる。
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特殊相対性理論
よって特に以下が成立する: x→ ≦ y→ かつ y→ ≦ z→ ⇒ x→ ≦ z→。 従って「≦」は数学的な(半)順序の公理を満たす。 以下の事実は、質点の速度が光速を越えない限り座標系の取り替えで因果律が破綻しない事を意味している: x→ ≦ y→ かつ x→ ≠ y→ ⇔ 全ての慣性座標系で、y→ は x→ より時間的に後に起こる。 実際、どのような慣性座標系を選んでも、その時間軸 e→0 は未来の光円錐内または未来の光円錐上にあるので、x→ ≦ y→ であれば、x→ から y→ までに流れる時間 η(y→ - x→, e→0) は正である。 一方、x→ ≦ y→ でも y→ ≦ x→ でもないとき、すなわち y→ − x→ が空間的なときはこのような関係は成り立たない。y→ − x→ が空間的なとき、以下の3種類の慣性座標系が存在する: すなわち空間的な関係にある2点 x→、y→ の時間的な順序関係は慣性系に依存してしまう。これはニュートン力学的な直観に反するが、x→ と y→ には因果関係がないので、どちらが先に起ころうとも因果律が破綻することはない。 今、ここに一組の双子がおり、二人は慣性運動しながら次第に離れているとする。このとき兄から見ると、弟の時計は遅れてみえ、逆に弟から見ると兄の時計は遅れてみえる事が特殊相対性理論から帰結される。 これは一見奇妙に見えるため、時計のパラドックスと呼ばれることもあるが、実は特に矛盾している訳ではない。なぜなら慣性運動している二人は二度と出会うことがないので、もう一度再会してどちらの時計が遅れているのかを確認するすべはないからである。 では次の状況はどうだろうか。やはり一組の双子がいて、弟は慣性運動している。一方、兄はロケットに乗って遠方まで行き、その後ロケットで弟のもとに帰ってきたとする。前述のように弟からみれば兄の時計は遅れるはずで、兄の時計からみれば弟の時計は遅れるはずなので、ふたりが再会したときに矛盾が生じるはずである。 結論からいえば、特殊相対性理論から示されるのは、ロケットに乗った兄より慣性運動していた弟の方が再会時に時計が進んでいるという事である。すなわち再会時に兄が弟よりも若い。
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結論からいえば、特殊相対性理論から示されるのは、ロケットに乗った兄より慣性運動していた弟の方が再会時に時計が進んでいるという事である。すなわち再会時に兄が弟よりも若い。 なぜならミンコフスキー空間上で、兄がロケットで飛び立ったときの世界点を x→ とし、兄が再び弟に再会したときの世界点を y→ とすると、x→ と y→ を結ぶ世界線のうち最も固有時間が長くなるのは慣性運動する世界線であることをすでに示したからである。従って慣性運動していた弟はロケットに乗った兄より多くの固有時間を費やした事になるのである。 では逆に弟のほうが兄より若くなったとする主張のどこが間違っていたのかというと、我々が時間の縮みの公式を導いたとき、慣性系である事を仮定していたのであるが、兄の座標系はロケットが行きと帰りで向きを変える際加速度運動しているので慣性系ではない。従って兄の座標系に対して単純に時間の縮みの公式を適応したのが間違いだったのである。 今、長さ l のハシゴ と奥行き L < l のガレージがあるとし、ハシゴは高速でガレージに近づいてきたとする。ガレージが静止して見える慣性系から見ると、ハシゴがローレンツ収縮するので、ハシゴはガレージに入ってしまう。一方、ハシゴが静止して見える慣性系からみると、逆にガレージの方がローレンツ収縮してしまうので、ハシゴはガレージに入らないはずである。正しいのはどちらであろうか。 結論からいうと、どちらも正しく、ガレージの系から見た場合は、ハシゴはガレージに入るように見え、ハシゴの系から見るとハシゴはガレージに入らないように見える。すなわち、ハシゴの前端と後端に関する事象を区別して述べれば、ガレージの静止系ではハシゴの後端がガレージに入りきった後、ハシゴの前端がガレージの裏の壁にぶつかるのに対し、ハシゴの静止系ではハシゴがガレージに入り切らず、ハシゴの後端がガレージに入る前にハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる。ハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる事象とハシゴの後端がガレージに入りきる事象には因果関係がないので、どちらが先に起こるのかは慣性系によって変化するのである。 先に進む前に、特殊相対性理論で頻繁に用いられるテンソル代数の知識について述べる。 特殊相対性理論では、
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先に進む前に、特殊相対性理論で頻繁に用いられるテンソル代数の知識について述べる。 特殊相対性理論では、 のように上つきと下つきで同じ添え字(この場合は μ)が使われているときは、Σ 記号を省略し、 と書き表す慣用的な記法が用いられることが多い。この記法をアインシュタインの縮約記法という。 この縮約記法は行列の積や3項以上の場合にも同様に用いられ、例えば は と略す。 一方、たとえ2箇所の添え字が共通していても、 のように添え字が両方下つき、もしくは両方上つきの場合は Σ を省略しない。 (V, η) を4次元ミンコフスキー空間とし、e→0, e→1, e→2, e→3 を (V, η) 上の(正規直交とは限らない)基底とする。このとき、以下の性質を満たす V の基底 e→, e→, e→, e→ が一意に存在する事が知られており、この基底を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底という: ここで δ μ ν {\displaystyle \delta ^{\mu }{}_{\nu }} はクロネッカーのデルタである。 正規直交基底の場合は双対基底は非常に簡単に書くことができる: 上でも分かるように、双対基底は元の基底と空間方向の向きが反対である。 本項では正規直交の場合にしか双対基底の概念を用いないが、一般相対性理論を定式化する際には一般の基底に対する相対基底が必要となる為、以下基底は正規直交とは限らない場合について述べる。 双対基底はミンコフスキー計量の成分表示を使って具体的に求めることができる。 とするとき、(ημν)μν の逆行列を ((η))μν とすれば、 である。実際、 である。 双対基底の定義から、次が成立する: e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底の双対基底は e→0, e→1, e→2, e→3 自身である。 以下の議論では、「通常の」基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を一組固定し、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。しかし上の定理でもわかるように、どちらの基底を「通常の」基底とみなし、どちらを双対基底とみなすのかは任意である。本項では、空間方向が右手系のものを通常の基底とみなし、左手系のものをその双対基底とみなすことにする。
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以下の議論では、「通常の」基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を一組固定し、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。しかし上の定理でもわかるように、どちらの基底を「通常の」基底とみなし、どちらを双対基底とみなすのかは任意である。本項では、空間方向が右手系のものを通常の基底とみなし、左手系のものをその双対基底とみなすことにする。 V の元 a→ を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表す場合、a→ の各成分の添え字を のように上つきに書く(アインシュタインの縮約で表記)。一方、a→ を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底 e→, e→, e→, e→ を用いて表す場合、a→ の各成分の添え字を のように下つきに書く。明らかに である。また正規直交基底の場合は明らかに が成立する。 V の2つの元 a→、b→ のミンコフスキー内積をとるとき、一方を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表し、他方をその双対基底で表すと、 と通常の内積のように書け、ミンコフスキー内積特有の符号の煩わしさから解放されるので便利である。 基底を一つ指定したとき、a は添え字 μ に対し反変、aμ は添え字 μ に対し共変であるという。これらの名称は、基底を取り替えた際の成分の変化に由来する。すなわち、ミンコフスキー空間上にもう1組の基底 (e′→0, e′→1, e′→2, e′→3) を用意し、基底の間の座標変換が成分表示で と書けていたとすると4元ベクトル a→ の反変成分 a→ = a′e′→ν = ae→μ は、 という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底とは反対に Λν の逆行列で結ばれる。それゆえ、「反対の変化」、すなわち反変と呼ばれる。 一方、基底の変更に対する共変成分の変化を見るため、双対基底が基底の変更でどのような影響を受けるか調べる。 とすると、 すなわち、Γμ は Λμ の逆行列 (Λ)ν であるので、双対基底は という変換規則に従うことがわかる。よって4元ベクトル a→ の共変成分 a→ = a′νe′→ = aμe→ は、 という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底と共通の行列 Λν で結ばれる。それゆえ、「共通の変化」、すなわち共変と呼ばれる。
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とすると、 すなわち、Γμ は Λμ の逆行列 (Λ)ν であるので、双対基底は という変換規則に従うことがわかる。よって4元ベクトル a→ の共変成分 a→ = a′νe′→ = aμe→ は、 という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底と共通の行列 Λν で結ばれる。それゆえ、「共通の変化」、すなわち共変と呼ばれる。 本節ではテンソルに関する基本的な知識を紹介する。ただし本節での解説はミンコフスキー空間 V 上に限定したものであるので、一般の空間で成り立つとは限らない。 n を自然数とする。写像 T : V n → R {\displaystyle T\colon V^{n}\to \mathbb {R} } が以下の性質(多重線形性)を満たすとき、T をn次のテンソルという: 特殊相対性理論で重要なのは主に2次のテンソルであるので、以下2次のテンソルに話を限定するが、一般の場合も同様である。なお、2次のテンソルは数学で二次形式と呼ばれるものと同一である。 2次のテンソル T に対し、 が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を対称テンソルという。また が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を反対称テンソルという。 T をミンコフスキー空間上の2次のテンソルとし、e→0, e→1, e→2, e→3 をミンコフスキー空間の基底とし、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。このとき、上述の基底や相対基底を使って T を4通りに成分表示する事が可能である: 4元ベクトル a→, b→ を と成分表示する(アインシュタインの縮約で表記)と、 T ( a → , b → ) = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν {\displaystyle T({\vec {a}},{\vec {b}})=T_{\mu \nu }a^{\mu }b^{\nu }=T^{\mu }{}_{\nu }a_{\mu }b^{\nu }=T_{\mu }{}^{\nu }a^{\mu }b_{\nu }=T^{\mu \nu }a_{\mu }b_{\nu }} が成立する。
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が成立する。 上述の4通りの成分表示において、T は上付きの添え字に対し反変、下付きの添え字に対し共変であるという。 4元ベクトルの場合と同様、基底を別のものに取り替えたとき T の各成分は、反変の添え字に関しては基底変換行列の逆行列が、共変の添え字に関しては基底変換行列そのものが作用する。例えば とすると なので、ダッシュつきの基底に関する成分 T′ν は と、上付きの添え字には反変、下付の添え字には共変に変化する。 ミンコフスキー計量 η も二次の対称テンソルであるので、上述のように成分表示できる。 基底が正規直交であれば、ミンコフスキー計量の成分表示は非常に簡単になり、 のように書くことができる。 ミンコフスキー空間上の線形写像 f : V → V が与えられたとき、2次のテンソルを と定義できる。 逆にミンコフスキー空間上の2次のテンソル T が任意に与えられたとき、(T1)式を満たす線形写像 f が一意に存在する事が知られている。従って2次のテンソルと線形写像を自然に同一視できる。 2次のテンソル T に対応する線形写像は基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を用いると、下記のように具体的に書き表す事もできる: ミンコフスキー空間上の各世界点 P にテンソル TP を割り振ったもの(すなわちミンコフスキー空間からテンソルの集合への写像 P ⤅ TP)をテンソル場という。 相対性理論でテンソル場は中核に位置する概念であり、電磁場を初めとして様々なものをテンソル場として表現する。 本節では、電磁気学の基本的な概念や方程式を特殊相対性理論に合致する形に書き換える。 以下、慣性系 を1つ固定し、この慣性系において電磁気学を記述する。詳細は省くが、本節の記述は、他の慣性系で電磁気学を記述したものとローレンツ変換で移りあう事を確認できるので、特殊相対性理論に合致している。 なお、本項では国際単位系を用いる場合に対して記述したが、Landau, Lifshitz (3rd ed.) (1971)などガウス単位系(英語版)を用いている書籍における定義とは光速度 c のかかる位置が違うなどの差があるので注意が必要である。 電荷密度 ρ と電流密度 j = (jx, jy, jz) を使って、4元電流密度を、 によって定義する。 すると連続の方程式
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特殊相対性理論
なお、本項では国際単位系を用いる場合に対して記述したが、Landau, Lifshitz (3rd ed.) (1971)などガウス単位系(英語版)を用いている書籍における定義とは光速度 c のかかる位置が違うなどの差があるので注意が必要である。 電荷密度 ρ と電流密度 j = (jx, jy, jz) を使って、4元電流密度を、 によって定義する。 すると連続の方程式 は、4元電流密度と4元勾配(英語版) (4–gradient) (∂0, ∂1, ∂2, ∂3) を用いて と表現できる。ここで ∂ν は ∂ / ∂x の略記である。 真空の誘電率、透磁率をそれぞれ ε0, μ0 とすると、マクスウェル方程式により導かれる電磁波の速度 1 / √μ0ε0 が真空中の光速度と一致する事が実験・観測により確かめられたので、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。この事実から、 である。 さらに電場 E = (Ex, Ey, Ez) と磁束密度 B = (Bx, By, Bz) を用いて電磁テンソルを により定義する。 電磁場を別の慣性系から見た場合、電場と磁束密度がそれぞれ E′ = (E′x, E′y, E′z) と B′ = (B′x, B′y, B′z) であったとし、これらから作った電磁テンソルを F′ とする。 F′ と F がローレンツ・ブースト(L4)式で移りあう為の必要十分条件は、 が成立する事である事を簡単な計算で確認できる。ここで v は2つの慣性系の間の相対速度で、γ = 1 / √1 − (|v|/c) はローレンツ因子である。 非相対論的極限 v / c ≈ 0 では γ ≈ 1 なので、上述の条件式は、古典電磁気学で知られている慣性系間の変換公式 に一致する。 よって電磁テンソルはローレンツ変換に対して共変であると結論づけられる。
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特殊相対性理論
が成立する事である事を簡単な計算で確認できる。ここで v は2つの慣性系の間の相対速度で、γ = 1 / √1 − (|v|/c) はローレンツ因子である。 非相対論的極限 v / c ≈ 0 では γ ≈ 1 なので、上述の条件式は、古典電磁気学で知られている慣性系間の変換公式 に一致する。 よって電磁テンソルはローレンツ変換に対して共変であると結論づけられる。 特殊相対性理論以前のマックスウェル方程式の解釈には非対称性があった。例えば磁石を固定されたコイルに近づけた場合は電磁誘導により電流が流れると解釈されるが、逆にコイルを固定された磁石に近づけた場合はローレンツ力で電子が動かされることにより電流が流れると解釈された。今日的な視点から見れば、これら2つのケースは単なる慣性系の取り替えに過ぎないにも関わらず、両者の解釈が異なるのは不自然である。事実、流れる電流の量はどちらのケースであっても同一であり、磁石とコイルの相対速度だけで決まる。 このような非対称な解釈になったのは、当時は電場と磁束密度は完全に別概念であったことによる。(E1)式も、今日の目から見ると電場と磁束密度を電磁テンソルという同一のテンソルとしてまとめるべき事を示唆しているように見えるが、当時は(E1)式の第二項はあくまでも「仮想的な」電場や磁束密度の効果であるとみなされた。 上述したような理論の非対称性の解消に関心のあったアインシュタインは、特殊相対性理論によりこの非対称性を解消した。 すでに電磁テンソルがローレンツ変換に対して共変であることを示したので、マクスウェル方程式を電磁場テンソルで表せば、マクスウェル方程式もローレンツ変換に対して共変であることを示せる。 電磁テンソルと4元電流密度を使うとマクスウェル方程式の2式 はいずれも と同一の形で表現でき、残りの2式 はいずれも と同一の形で表現できる。なお、リッチ計算の記法を用いると、上の式は とも表記できる。 マクスウェル方程式は微分形式と外微分を用いるとさらに簡潔に表現できる事が知られているが、微分形式に関する予備知識を必要とするので本節では述べない(マクスウェル方程式#微分形式による表現を参照)。 電磁場には必ず以下の条件をみたす組 φ, A(電磁ポテンシャル)が存在する事が知られている
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特殊相対性理論
はいずれも と同一の形で表現できる。なお、リッチ計算の記法を用いると、上の式は とも表記できる。 マクスウェル方程式は微分形式と外微分を用いるとさらに簡潔に表現できる事が知られているが、微分形式に関する予備知識を必要とするので本節では述べない(マクスウェル方程式#微分形式による表現を参照)。 電磁場には必ず以下の条件をみたす組 φ, A(電磁ポテンシャル)が存在する事が知られている 本節では、電磁ポテンシャルの4元ベクトル版である4元ポテンシャル A → = ( A 0 , A 1 , A 2 , A 3 ) := ( φ / c , A ) {\displaystyle {\vec {A}}=(A^{0},A^{1},A^{2},A^{3}):=(\phi /c,{\boldsymbol {A}})} を用いる事で、マクスウェル方程式を表現する。 1つの電磁場に対し(E2)式を満たす電磁ポテンシャルは一意ではない事が知られている。そこでローレンツ共変性を損ねない形で電磁ポテンシャルを制限するため、4元勾配を使った以下の条件(ローレンツ・ゲージ)を課す: ∂ A α ∂ x α = 0. {\displaystyle {\frac {\partial A^{\alpha }}{\partial x^{\alpha }}}=0.} このとき、マクスウェル方程式は4元電流密度を用いて ◻ A → = μ 0 j → {\displaystyle \Box {\vec {A}}=\mu _{0}{\vec {j}}} という一本の式で書き表せる。ここで はダランベルシアンである。 今、電荷 q を持った質点があるとし、この質点の4元速度を u→ とし、u→ の反変成分を (u0, u1, u2, u3) とする。このとき、この質点が電磁場から受ける4元力を、電磁場テンソル F を用いて f α = q F α β u β {\displaystyle f^{\alpha }=qF^{\alpha \beta }u_{\beta }} によって定義すると、この4元力からできる質点の運動方程式は である。ここで p は質点の4元運動量の β 成分で、τ は質点の固有時間である。
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特殊相対性理論
f α = q F α β u β {\displaystyle f^{\alpha }=qF^{\alpha \beta }u_{\beta }} によって定義すると、この4元力からできる質点の運動方程式は である。ここで p は質点の4元運動量の β 成分で、τ は質点の固有時間である。 上の運動方程式は α = 0, 1, 2, 3 に対して定義されているが、4元運動量と4元速度の空間成分(の共変表現)p = (p, p, p), v = (u, u, u) に着目すると、電磁場テンソルの定義より、運動方程式の空間成分は となることがわかる。ここで γ はローレンツ因子 1 / √1 − (|v|/c) である。 すなわち相対論における運動方程式の空間成分は、ローレンツ力に関する運動方程式 と完全に一致する。 運動方程式の時間成分に関しては、cp が質点のエネルギー E を表していた事に着目すると、 なので、下記の式が従う: 右辺は単位時間当たりに電磁場のローレンツ力が質点に対してした仕事なので、この式はローレンツ力による仕事がエネルギーに変わる事を意味している。すなわちこれは、エネルギー保存則にあたる式である。 特殊相対性理論は、次のような事象からも検証されている。 特殊相対性理論すなわち慣性力のない慣性系を対象とする理論体系が一通り出来上がった後、アインシュタインは、非慣性系と重力場へ対象を広げる仕事に取り組み、より一般的な理論である一般相対性理論を導いた。 特殊相対性理論では「あらゆる慣性系どうしが等価である」ことを原理としたが、さらに「慣性力と重力は本質的に区別がなく等価である」との視点に立ち、一般相対性理論を展開した。一般相対性理論によると、離れた観測者には光は速さが変化し曲線を描いて見える。この理論は、ニュートンの万有引力論による物理事象の捉え方を、全面的かつ発展的に書き換える内容である。 一般相対性理論では思索の対象を慣性系以外にも広げており、その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論の「特殊な場合」に相当し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する理論である。これらの2つの相対性理論を総称して(あるいは、両者を区別をせずに)相対性理論と呼ぶこともある。
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冬季ねあ
冬季 ねあ(ふゆき ねあ)は、日本の漫画家。主に、『月刊ガンガンWING』(スクウェア・エニックス)で活動。
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別天荒人
別天 荒人(べってん こうと、1973年6月25日 - )は、日本の漫画家、イラストレイター。島根県出身。東京都国分寺市在住。男性。 1997年、漫画家デビュー(イラストレーターとしてはそれ以前から活動)。「源平伝NEO」以降は原作者を付けて掲載している。
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青年漫画
青年漫画(せいねんまんが)は、日本における漫画のジャンルのひとつであり、少年漫画よりも上の年齢層を対象とした漫画。 かつては成人の男性をおもな対象としていたが、現在では若年層や女性の読者も増え、少年漫画・少女漫画もしくは女性漫画との境界も薄れつつある。幅広い作風の作品を取り扱う事により広範な読者を獲得し、漫画業界においては掲載雑誌数および対象読者層の観点から市場の大きなジャンルとなっている。 扱われるテーマはビジネス、賭博、グルメなど多岐にわたるが、少年漫画や少女漫画ではあまり扱われない大学生、社会人の生活、社会人向けの実践的な知識、本格的なミステリー、社会問題、経済関連のテーマなどが扱われることも多く、思想的・政治的な表現を盛り込んだ作品もある。老若男女、様々な人物たちを成人男性の視点で傍観する作品もある為、少年漫画に近い作品、少女漫画に近い作品を生み出すこともできる(実際に、青年漫画の用法を使った「マニア向け少年漫画」「男性向け少女漫画」を名乗っている雑誌もある)。概ね高校生以上の年代層をターゲットとしており、少年漫画と比べてが読者層の年齢が高いことから、ホラー漫画や格闘漫画の傾向による性的・暴力的な描写への制約も薄い。性的・暴力的な描写、喫煙・飲酒シーンなどがなく、それに関する概念・問題点のみを描写している全年齢対象の青年漫画もある。 少年漫画・少女漫画もしくは女性漫画に近べて表現の制約が少なく、作者の自由度が高いジャンルであり、少年漫画や少女漫画から移籍してきた作家も多い。掲載作品のメディアミックスに関してはテレビドラマ化・映画化の割合が多く、アニメ(TVアニメ作品・OVA作品)化もしくはゲーム化される機会が多い少年漫画・少女漫画・メディアミックス系の漫画雑誌と対比すれば、より広範な読者層の支持が期待される。ただし、少年漫画にも言える事だが、女性キャラクターは男性キャラクターと比べるとエロティックさ、目に見える行動といった外見的な魅力、役割が重視されており、男性キャラクターと同じぐらい登場頻度を増やすと背景画と一続きのような絵柄になり、読者の感情移入を促す人物として描写する分には限度がある。少年漫画と同様に男性キャラクター、男性が抱える社会問題を描くのに向いている。
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青年漫画
成人向け漫画(漫画によるポルノグラフィ)の通称である「成年漫画」とは全く異なるジャンルであり、出版・流通の段階では厳密に区別される。しかし、成人向け漫画業界から青年漫画業界への作家の流入もあり、一部の雑誌では実質的に成人向け漫画雑誌に近い誌面になっている(作品において「成年向け青年漫画」となっている)場合もある。他方、成人向け漫画雑誌にも「マークなし」と呼ばれるソフト路線の作品を扱う雑誌が存在し、グレーゾーンの存在が両者の区別を困難にしている場合がある。 出版・流通・販売の段階では、マニアックな漫画雑誌や、月刊コミック電撃大王などメディアミックスに重点を置いた漫画雑誌に掲載された作品も青年漫画に含まれるが、マーケティングの手法や消費者の立場からは青年漫画と区別されることもある。 昭和30年代から漫画サンデー誌が存在したとみられるが、これは大人向け(18禁の意味ではない)つまり教養のある人向けの色気を含んだ内容の雑誌であり、青年漫画誌として見られていたわけではない。 昭和39年に週刊漫画ゴラクが発売され、昭和40年代初めには漫画サニーなどの青年向けのエロと危険と暴力の匂いのする雑誌があり、昭和42年の週刊漫画アクション誌でルパン三世などがヒットして市場と分野が成長した。 おりから、日本の高度成長の結果、貿易黒字が続き、紙パルプが入手しやすくなって各分野の漫画雑誌が次々に増えていった時代である。またカウンターカルチャーが盛んだった時代でもある。 女性の青年層向けマンガの雑誌としては、経済的に自立しづらい高校生も青年に含めるならば、1968年創刊のセブンティーン誌など(当時はハイティーン誌と呼ばれた)があるが、若い大人に似た意味の青年であれば、1970年代末創刊のBE・LOVE(1979)、YOU(1980)などの雑誌から明確な分野が始まる。 その後、女性の18歳以上を対象とした分野は、レディースコミックと呼ばれるようになる。
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SF漫画
SF漫画(エスエフまんが)とは科学、もしくは空想(擬似)科学をテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いた漫画を指す。ここでいう「SF」とは小説のサイエンス・フィクション(science fiction)のことであり、そういう小説に書かれるような内容を描いた漫画をSF漫画という。 アメリカ合衆国では1930年代初めごろ、新聞に連載される形で始まった。その後世界各国で書かれているが、アメリカと日本で特に盛んである。 アメリカ合衆国でのSF漫画(コミック)のはじまりは、1938年の『スーパーマン』である。その後、SF的設定のスーパーヒーローもの、『フラッシュ・ゴードン』や『バック・ロジャーズ(英語版)』のように宇宙を舞台にしたもの等、様々なSF漫画が登場した。 1950年代、ECコミックはSF漫画を洗練させていくことで大きな成功を収めたが、フレデリック・ワーサムの著書 Seduction of the Innocent を端緒として漫画排斥の機運が子を持つ親や教育者の間で高まり、漫画出版を続けられなくなった。そのような中でも、子どもや若者向けのSF漫画は1960年代を通して出版され続けた。60年代末にはヒッピー運動の中でアンダーグラウンド・コミックスが生まれ、大人向けSF漫画が復活する。 それ以前にもSFと見なされる漫画はあったが、日本におけるSFを題材にした漫画の主要な流れは、第2次世界大戦以後、手塚治虫による『火星博士』(1947年)や『鉄腕アトム』(1952年-)を発端として、横山光輝、松本零士、藤子不二雄、永井豪、石ノ森章太郎などの少年漫画から始まった。その後、萩尾望都や竹宮惠子などが少女漫画においてSFを描き始めるようになると、内容的にも一層の多様性と発展が見られるようになった。大友克洋の『AKIRA』や士郎正宗の『アップルシード』等の作品は海外でもよく知られている。
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SF漫画
イギリスでは、コミック誌 Eagle に『ダン・デア(英語版)』が1950年から連載された。60年代半ばには教育雑誌 Look and Learn にドン・ローレンス(英語版)の描いた The Trigan Empire が連載され、その後彼は Storm を生み出した。1970年代になるとコミック誌 2000 AD でスポーツや戦争といった一般的テーマを扱ったSF漫画が定期的に掲載され、ジャッジ・ドレッドなどのキャラクターも生み出した。その成功を受けて Tornado、Starlord、Crisis といった類似のコミック誌が登場したが、いずれも数年しか続かなかった。 フランス初のSF漫画は、1925年から新聞に連載された Zig et Puce au XXIème Siècle(21世紀のZigとPuce)で、1935年に単行本化された。十代のキャラクター Zig と Puce の冒険物語である。大人向けのSF漫画としては Futuropolis (1937-38) が最初であり、続編的な Electropolis (1940) が続いた。第二次世界大戦中、ナチスの占領によって『フラッシュ・ゴードン』の輸入が禁止されたため、連載していた雑誌の穴埋めのために Le Rayon U が描かれることになった。フランス初のSF漫画専門誌は1947年創刊の Radar だが、長くは続かなかった。長く続いたSF漫画誌としては Meteor があり、1953年から1964年まで続いた。その後の有名な作品としては『バーバレラ』(1962)、雑誌としてはメタル・ユルラン (1974) がある。漫画家としては、エンキ・ビラルやジャン・ジロー(メビウス〈Moebius〉)が知られている。 インターネットの普及により、ネット上でSF漫画を発表することが増えている。SFウェブコミックの草分けとしては、Polymer City Chronicles (1994) がある。他にも Schlock Mercenary (2000) や Starslip Crisis (2005) といったSFウェブコミックがある。 SF作家の小松左京、筒井康隆は漫画を描いていた時期がある。それぞれの項目を参照のこと。
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ホラー漫画
ホラー漫画(ホラーまんが)は、漫画のジャンルのひとつ。怪奇漫画・恐怖漫画とも言う。 主に恐怖感を煽ることを目的として構成された作品を指す。精神的・生理的恐怖に訴えるもの、目に見えない存在・理解できない存在(主に幽霊を題材とする)による超常現象等をテーマにしたものや、死や痛みを直接的にテーマにしたブルータルなもの(残酷描写を主眼に置いた作品)等もあり、これらの作品においては「被害者の視点」を重視したものが多い。楳図かずお、日野日出志、伊藤潤二、古賀新一などが、このジャンルを中心として数多くの作品を発表している代表的な作家である。 広義には、シュールなユーモアやナンセンスなギャグ表現を盛り込んでコメディを目指したもの、妖怪や異世界を描くことを中心としたもの(「妖怪漫画」など)、非日常的な存在と対決するいわゆる「退魔もの」(オカルト的な要素を持ち、「バトルもの」の性質も含む)、等も含まれることがある。ただしこれらの作品は、本来の主題である「恐怖感」の要素とは不可分ではあるものの、直接それを目的としたものではない。 1960年代の貸本劇画、1960年代から1980年代にかけて、ひばり書房・立風書房・曙出版などから出版された描き下ろし単行本、1980年代から1990年代にかけて朝日ソノラマの『ハロウィン』・ぶんか社の『ホラーM』などのレディース・少女向けの専門漫画雑誌などに発表されたホラー漫画作品は、アングラ的サブカルチャーとしての性質が強く、その方面での愛好者も存在する。 アメリカ合衆国では、1930年代ごろからホラー漫画が登場し始め、この当時はユニバーサル・ホラーに影響を受けたものが多かった。 1940年代にはホラー要素のある推理物や犯罪ものが増えた。 1960年代半ばに行われた表現規制の緩和に伴う 殺人鬼映画やスプラッター映画の大ブームが来るまで、映画では成しえなかったおぞましい描写はテイルズ・フロム・ザ・クリプト(英語版)等で知られるECコミックをはじめとする漫画雑誌が担っていた。 この当時のホラー漫画の描写はあまりにも過激であるため、賛否両論が巻き起こり、しばしば検閲にかけられた。 20世紀末期から21世紀にかけてはDCコミックスの『ヘルブレイザー』や、ダークホースコミックの『ヘルボーイ』などが登場し、映画化を果たした作品も出てきている。
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ホラー漫画
主にホラー漫画を多く執筆している漫画家を記述。
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篳篥
篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ(現在では安価なプラスチック製のものも作られている)、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした蘆舌(ろぜつ)を用いる。 乾燥した蘆(葦、あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ。 音域は、双調(西洋音階のソ・G4)から1オクターブと全音(長2度)上の黄鐘(ラ・A5)が基本である。しかし、息の吹き込み方の強弱や蘆舌のくわえ方の深さによってかなり音高が変化する。これを利用した奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ。塩梅を使うことによって、音高の変化が連続的になり、旋律の進行が滑らかになる。例えば、指遣いはそのままに、一旦塩梅で音を下げ、それから高音に移る、といったことができる。 雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する。 雅楽における篳篥の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側に小さく書かれている漢字が運指を表す。 篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)、源俊頼などがいる。特に大石峯良を「篳篥の楽祖」としている。
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篳篥
篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)、源俊頼などがいる。特に大石峯良を「篳篥の楽祖」としている。 西洋の楽曲を演奏するために篳篥を演奏するとき、その音はサックスに似ている。 篳篥のリードは伝統的には鵜殿のヨシ原で採取されたヨシを使ってきたが、高速道路計画の影響や、毎年行われる蘆原焼きが新型コロナパンデミックの影響で2年連続で実行されなかった影響などで、このままだと篳篥に適したヨシが全滅してしまうと言われており、雅楽の歴史的危機とも言われている。 亀茲が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った蘆舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、中国の楽師によって伝来されたが、正倉院には当時の遺物はない。 大篳篥は現行の篳篥(小篳篥)に比べて音域が完全4度低いとされる。また古文献には大篳篥・小篳篥の他に「中篳篥」が紹介されていることもある。 大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。大篳篥も平安時代の廃絶以前の当時の遺物は現存しておらず、記録上でのみその存在を知られるものとなっていた。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。1878年(明治11年)、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いた。大篳篥の伝承曲も現存しておらず、現代では記録を元に復元された大篳篥が西洋音楽系の楽曲の編曲や邦楽の新作曲、現代音楽等に利用されている。 篳篥の指孔は、表側の7つは吹き口に近い順に、「丁」「一」「四」「六」「凢」「工」「五」、裏側の2つは「丄」「ム」と名づけられている。運指の形もそれぞれの孔名と同じ名称を用いるが、その場合は孔名の指孔を開け、その直前までの指孔を閉じた形を基本とする。全ての指孔を閉じた形は「舌」という。
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篳篥
篳篥の指孔は、表側の7つは吹き口に近い順に、「丁」「一」「四」「六」「凢」「工」「五」、裏側の2つは「丄」「ム」と名づけられている。運指の形もそれぞれの孔名と同じ名称を用いるが、その場合は孔名の指孔を開け、その直前までの指孔を閉じた形を基本とする。全ての指孔を閉じた形は「舌」という。 裏側の「丄」「ム」はそれぞれ左手親指と右手親指が担当する指孔だが、このうち右手親指の「ム」を開けた時の音は構造上は出すことができるが、実際の曲(少なくとも現行の古典曲)では用いられず、右手親指の「ム」の指孔は実際の曲では常に閉じたままであり、その「ム」の音は「出すと国が滅びる亡国の音」という言い伝えがあるという。そのため実際の楽譜では「ム」以外の9つの譜字が用いられる。 「丄」は「上」の異体字である。「丁」は古くは「丅」(げ、「下」の異体字)であったが、篳篥の最高音なのに「下」なのはおかしいということで、のちに「丁」に改められた。 篳篥の音程には寺院の鐘の音が使われる。京都の妙心寺、知恩院の梵鐘の音とそれぞれ決められている。 楽器の音階を決める穴配りと穴開けには高度の製作技術が必要とされる。 穴開けには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の囲炉裏の天井で 300年 - 350年、日々の生活の中で燻(いぶ)された煤竹であるため非常に堅く割れやすい。 紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた火熾しの「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。 素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。
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篳篥
漆を中に塗って音階を調整する。 製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の 6 ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。 木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。 篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。漆は湿度が高いと急激に固まり(乾き)湿度が低いと固まらない(乾かない)ため、昔の京都でこの作業ができた時期は春は3月末から5月末、秋はさらに短い期間であった。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう、とされた。 篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。 管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。 舌の材料に用いられる葦は琵琶湖、淀川から採取されることが多い。なかでも淀川右岸の鵜殿で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている。 採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、拉鋏という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。 舌を磨く際にはムクノキの葉が用いられる。
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三線
三線(さんしん)は、弦楽器の一種。日本の沖縄県と鹿児島県の奄美群島で主に用いられる。 中国福建省で生まれた弦楽器「三弦」を原型とする撥弦楽器である。 戦国時代の永禄年間、琉球王国や堺を経由して日本本土に伝わり、三味線の起源の一つとなった。三線と比べて、本土の三味線は棹が長く、中国の三弦は棹の長さの割には胴が小さい。またオリジナルの中国の三弦も、江戸時代に長崎に来舶した中国人がもたらした清楽(しんがく)とともに、あらためて日本本土で定着した。三味線は猫や犬の皮を使ったので、中国の三弦は日本本土では俗称で「蛇皮線」とも呼ばれた。蛇皮線は、1894年に勃発した日清戦争をきっかけに清楽が衰退したことで、日本本土では姿を消した。 15世紀以降、琉球王国(現在の大東諸島を除いた沖縄県および鹿児島県奄美群島)で独自に発展した。福建省からは閩人三十六姓の来琉(1392年~)によりもたらされたとの見方もある。 三線は音を出す胴の部分に蛇(ニシキヘビ)の皮を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の弦を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。主に単音でメロディ部分を演奏する。助数詞には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。 沖縄県では楽譜は「工工四(くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。これは、中国の三弦楽譜「工六四」(くるるんしー、と沖縄で呼ばれる)が原点とみられる。 沖縄文化(琉球文化)を象徴する存在の一つとして知られる。かつては琉球王国領内において、宮中での琉球舞踊に用いる琉球古典音楽や、士族や農民たちが歌う民謡(沖縄民謡や奄美民謡)のために男性が三線を弾いた。琉球王府は、美術工芸品を製作する貝摺(かいずり)奉の下に三線職人を抱えていた。 今日では古典音楽や民謡の他、ポップスやクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらない。
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今日では古典音楽や民謡の他、ポップスやクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらない。 沖縄県は近代以降移民が盛んになったため、日本本土に移り住む人やハワイ、南米のブラジルやボリビアなど海外移民先の沖縄人コミュニティーを通して、琉球文化圏外にも広まった。日本の音楽界では長く注目されなかったが、第二次世界大戦前に「安里屋ユンタ」(1934年録音、歌詞は日本語標準語の「新民謡」)がラジオ放送で人気を博したり、1970年代に竹中労らが沖縄音楽を紹介したりした後、1990年代の「沖縄ブーム」の到来により全国的に知られるようになった。三線を前面に押し出した楽曲として初めてのミリオンセラーはロックバンド・THE BOOMの「島唄」(1992年全国発売)である。 2018年11月に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。 沖縄以外の南西諸島にも、それぞれ独自の三線が存在する。 例えば奄美群島の「奄美三線」(あまみさんしん)は、弦や撥(ばち)が沖縄三線と違うだけでなく、使用楽譜は横三つの線で番号を使う奄美独特の楽譜だったり(沖縄は工工四)、奏法もアップストロークが主で(沖縄三線はダウンストローク)左手の抑え指は中指を使わずに行う(沖縄三線は薬指を使わない)など、現地の演奏者から見ると大きな違いがある。 沖縄県では一般に「さんしん」という。奄美群島においては「三味線」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。三弦は福建語でsamhian(サムヒエン)、北京官話ではsānxiàn(サンシエン)と読む。山内盛彬はサンセン(三線)からサミセンへ変化していったという説を唱えている。三線の胴の太鼓部分に蛇の皮を張るため、三味線(猫や犬の皮を張る)と区別するために、日本本土を含めて「ジャビセン(蛇皮線)」「ジャミセン(蛇味線)」と呼ばれることも多い。ただし、この呼称は沖縄では嫌われるという。 小さな島が点在する南西諸島では島ごとに方言が大きく異なるため、数多くの異称がある。統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。
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小さな島が点在する南西諸島では島ごとに方言が大きく異なるため、数多くの異称がある。統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。 琉球処分後の明治時代、沖縄の伝統的な地名・人名を「日本風に」2文字で表記する方法が流行した(汀志良次→汀良、古波蔵→古蔵、神里原→神原など)。三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある。 三線は元々中国発祥で三線を琉球時代の沖縄に持って行ったところ沖縄の文化になったと言える。 中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「三弦」を直接のルーツとする。琉球王国は統一(1429年)後、中国大陸や東南アジアとの交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では久米三十六姓帰化(14世紀末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという。15世紀後半には尚真王が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう永禄年間初頭(1558年または1559年)に泉州(現在の大阪府南部)堺へと伝わり、日本本土の三味線の起源となった。 福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した。 17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国摂政・羽地朝秀(任期1666年 - 1673年)の影響が窺える。 琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。そのため、調弦は男性用になっている。
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琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。そのため、調弦は男性用になっている。 蛇皮は中国との貿易でもたらされた。乾隆32年(1767年)の輸入品の中には5張の蛇皮が見える。王国時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。 那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。 19世紀後半、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降には、様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。 第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ(沖縄戦)、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。 沖縄戦後、沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれた。米軍基地内のバーやコザの繁華街などではアメリカ兵相手に、三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした登川誠仁の『ペストパーキンママ』(1948年。原曲はアル・デクスター『ピストル・パッキン・ママ』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。 南米ボリビアに移民した沖縄県出身地の街・オキナワ移住地(コロニア・オキナワ)や同じく南米のブラジル、米国ハワイの沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。
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南米ボリビアに移民した沖縄県出身地の街・オキナワ移住地(コロニア・オキナワ)や同じく南米のブラジル、米国ハワイの沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。 1972年に沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された後、知名定男率いるネーネーズやりんけんバンドなど一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは1990年代の沖縄ブーム以降である。1992年には山梨県出身の宮沢和史らのバンド・THE BOOMが三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『島唄』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。1999年公開の映画『ナビィの恋』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、2001年に放映されたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。 2010年3月、沖縄県内の三線職人の有志が集い、三線製作の技術向上と地域ブランド化、後進の育成、品質の保全を目的とした沖縄県三線製作事業協同組合が発足した。 2021年現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。鹿児島県では伝統工芸品奄美のサンシン(奄美地方)として指定されている。 沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。 沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。 三線には様々な改良楽器が存在する。
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三線には様々な改良楽器が存在する。 三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としてはカリン、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、黒檀などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では台湾やフィリピン産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。 棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。 音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀、ガラス、アルミ、樹脂を用いた棹も実際に存在する。 胴の部材には主にイヌマキ(チャーギ)やクスノキ、リュウガンが用いられる。高価な三線にはケヤキ、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には東南アジア産のゴムノキなども用いられる。この胴部材にインドニシキヘビの蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。 胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。 第二次世界大戦直後、アメリカ合衆国による沖縄統治下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いたカンカラ三線や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも米軍の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、金武村(当時)の日本兵捕虜収容所で作られた楽曲「屋嘉節」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、20世紀末頃からは学校教育でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。
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野生の蛇からの蛇皮採取はワシントン条約に抵触する可能性があるため、現在ではビルマニシキヘビやアミメニシキヘビが養殖され、三線に使用されている。1954年(昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』や戦前の演奏風景を収めた写真からは、ボールパイソンやボア、クサリヘビ科(ハブやマムシが属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も窺える。 本張りと呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が沖縄県の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。 古謝美佐子のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。特に海外公演もする者の場合は蛇皮製品は出入国時に税関で手続きに苦労したり、本皮は気候の違いで調子が悪くなりやすいため避けられる。なお札幌市豊平川さけ科学館にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。 三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には絹糸を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色したナイロン製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。
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ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。大正時代頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。 弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里、梅、菊、カンプー、歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に黒檀や紫檀、黒柿である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨、ラクト材、象牙、プラスチックなどで装飾したものが多い。 駒(ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は竹(モウソウチク)や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。 義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は水牛の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。 形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。 必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。よなは徹など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。
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必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。よなは徹など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。 元来、棹の表面は黒く漆塗りされる。近年ではウレタンの吹き付け塗装が主流である。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。 棹がやや細く、短く、皮が緩めに張られた型。弦は絹糸を使う。太い低音が響くため、琉球王朝時に城門を開ける合図の鐘の音に似ていたことからこう呼ばれた。後述のように「盛嶋開鐘」が現存しているほか、2000年代に復刻された。 開鐘の名の由来となった、明け方に突かれる鐘の音は「開静鐘」と呼ばれた。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。尚家に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて開鐘と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は第二次世界大戦により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、1982年に尚裕より沖縄県立博物館に寄贈された。現在は沖縄県立博物館・美術館にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。 準開鐘に属するもの
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