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三線
準開鐘に属するもの 沖縄県では基本的に撥を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれる。奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、撥で胴を叩かない。奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四(クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。 最も一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りの時は奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。 三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は当て字。現在、赤犬子神社(赤犬子宮 (アカナクー) )が読谷村楚辺にある。 湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。両派の主な違いは、主にかぎやで風に代表される。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。 主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。
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三線
主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。 音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。
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ガムラン
ガムラン(インドネシア語: gamelan)は、東南アジアのインドネシアで行われている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の民族音楽の総称である。広義では、インドネシア周辺のマレーシア、フィリピン南部スールー諸島などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。欧米や日本などでは、ガムラン音楽 (Gamelan music) とも呼ばれる。 2021年12月15日、インドネシアのガムランは国連教育科学文化機関(UNESCO)無形文化遺産の代表リストに登録された。 「ガムラン」とは古代ジャワ語の「たたく、打つ、つかむ」等の意味を持つ、動詞ガムル (gamel) に由来する。 元来はインドネシア、ジャワ島中部の伝統芸能であるカラウィタンで使われるサロン (saron) やゴン (gong) などの伝統楽器のことであった。 また、打楽器以外にも、古代詩を朗詠する歌もガムランの重要な要素となっている。 ガムランは二極対立的なインドネシアの宇宙観を反映した音楽構造をもっている。例えば、AのパートとBのパートを組み合わせると、Cという本来の旋律が浮かび上がる。このガムランの基本的な演奏技法をコテカン(kotekan)といい、ほぼすべての楽器に及んでいる。ヤープ・クンストはこうした二元論的なインドネシア音楽の基本構造を指して「コロトミー構造の音楽」と名付けた。ガムランは16もしくは32ビートで上記のように対になって演奏されるが、調律されていない2つの楽器の微妙なずれによって生まれる音のうねりをオンバ(ombak)といい、ガムランの聴きどころとされている。 ジャワ島のガムランの打楽器に使われる素材は青銅が主であり、鉄製のものもあるが、青銅製のものが最も音が美しいとされている。インドネシアでは青銅の原料となる錫はほとんど産出されず、ほとんどがマレーシアから運ばれたものであり、かつての青銅文化であるドンソン文化がマレー半島を経由してインドネシアに伝わったことを物語っている。 現在では、ジャワ島隣のバリ島の銅鑼、鍵盤打楽器の音楽もガムランと呼ばれるが、バリ島には金属打楽器の代わりに竹を使ったガムランも存在する。
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ガムラン
現在では、ジャワ島隣のバリ島の銅鑼、鍵盤打楽器の音楽もガムランと呼ばれるが、バリ島には金属打楽器の代わりに竹を使ったガムランも存在する。 青銅楽器は、鍵盤打楽器(鉄琴のようなもの)と銅鑼の二つのタイプに分かれる。さらに、鍵盤打楽器は、鍵盤が木枠の上に釘と緩衝材を用いて直接置かれるサロンと、鍵盤の穴に紐を通し、木枠の両端に吊り橋状にぶら下げたグンデルとに分かれる。サロンは重厚な響きが特徴で、それに対してグンデルは重厚感はないものの長い残響を得ることができる。 銅鑼は、楽曲の節目を示す「節目楽器」であるゴンと、旋律、リズムを刻んだり、旋律装飾を行ったりするボナンに分かれる。 竹製楽器の種類には、打ち付けたり、吹いて音を出す竹の閉管であるブンブン、その発展型であるティンクリック、竹琴、グンタン(竹の一弦琴)、スリン(竹笛)、西ジャワより広まったと言われるゆすってカラカラと音を出すアンクルンなどがある。 カチャピやシトゥル、チェレンプンが有名である。スンダのカチャピ・スリンは、日本の尺八と琴の二重奏とほぼ同一の演奏形態であり青銅楽器は存在しないが、これもガムランである。 中部ジャワのガムランは、単にジャワ・ガムランと呼ばれるもので、以下のような種類がある(ジャワ語の発音をカタカナで表し難いため、楽器名のカタカナ表記には揺れがある)。もっとも古い楽曲にモンガン (Monggang)がある。 西部ジャワのガムランは、いわゆるスンダ・ガムランと呼ばれるものである。ガムラン・ドゥグン、ジャイポンガン、ガムラン・サレンドロ、カチャピ・スリン(楽器の名前が様式に転じた)、トゥンバン・スンダなどがある。 北西部ジャワのチルボンなどのガムランは、チルボン・ガムランと呼ばれる。 バリ島のガムラン、いわゆるバリ・ガムランには、以下のような楽器がある。 そのほかには以下のような楽器がある。
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ガムラン
西部ジャワのガムランは、いわゆるスンダ・ガムランと呼ばれるものである。ガムラン・ドゥグン、ジャイポンガン、ガムラン・サレンドロ、カチャピ・スリン(楽器の名前が様式に転じた)、トゥンバン・スンダなどがある。 北西部ジャワのチルボンなどのガムランは、チルボン・ガムランと呼ばれる。 バリ島のガムラン、いわゆるバリ・ガムランには、以下のような楽器がある。 そのほかには以下のような楽器がある。 バリ島のガムラン音楽は、その時期によって、古楽、中世音楽、近代音楽とに分けることができる。マジャパヒト王国の崩壊に伴って、その貴族や僧がバリ島への移住を始める16世紀以前からバリ島にすでにあったと考えられている音楽。基本的に宗教的な性格を強く帯びており、儀式の際に奏でられる。音階の種類の多彩さが、その特徴である。その後、マジャパヒト王国の末裔によって中部ジャワに開花した16世紀来の宮廷文化から、20世紀のオランダ植民地支配が実効化するまでの期間の音楽。レゴンなどの舞踊や舞踏劇などの宮廷芸能と結びついた音楽で、ガムラン・ガンブー、ブバロンガンなどがこれにあたる。20世紀以降の観光、娯楽と結びついた民衆音楽で、ゴン・クビヤール、ガムラン・アルジャ、ジェゴグなどがこれにあたる。 インドネシアでは伝統的なペロッグ音階 (インドネシア語: pelog) とスレンドロ音階 (インドネシア語: slendro) の二つの五音音階(一オクターブを五分割した音階)が演奏目的別に使い分けられる。バリでは、前者がサイ・ゴン、後者がサイ・グンデル・ワヤンと呼ばれる。 単純に2の倍数だけでは説明のつかない、加速や減速を伴うリズムがジャワにある。 近年は観光客に合わせ、演奏時間の短縮が行われているものの、伝統音楽を保持していた時代は、演奏時間の長さが指摘された。影絵芝居のために一昼夜を要する曲もある。 以下に挙げた国のみならず、楽器が国外に流出したためにガムラン演奏は世界中で盛んにおこなわれている。サルヴァトーレ・シャリーノ、ジョン・ケージ、ウィル・エイスマ、ホセ・マセダのようにガムランアンサンブルに刺激されて作曲する者も少なくない。
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ガムラン
近年は観光客に合わせ、演奏時間の短縮が行われているものの、伝統音楽を保持していた時代は、演奏時間の長さが指摘された。影絵芝居のために一昼夜を要する曲もある。 以下に挙げた国のみならず、楽器が国外に流出したためにガムラン演奏は世界中で盛んにおこなわれている。サルヴァトーレ・シャリーノ、ジョン・ケージ、ウィル・エイスマ、ホセ・マセダのようにガムランアンサンブルに刺激されて作曲する者も少なくない。 アメリカの作曲家ルー・ハリソンはこれらの楽器を調律しなおして自分の作曲に用いており、インドネシアの伝統美とは一風変わったオリジナリティが漂う。アメリカのいくつかの大学では、ガムランのサークルが大変に盛り上がりを見せており、大変高い水準を維持するサークルも見られる。 インドネシアはかつての宗主国だった経緯もあり(「オランダ領東インド」を参照)、ガムランの楽器がオランダで使われる例も見られた。松平頼則のオーケストラ作品「舞楽」の初演の際、打楽器の種類は特に指定していない部分を、ブルーノ・マデルナがガムランの楽器を用いて1963年にアムステルダムで指揮した。 ガムラン演奏家・音楽学者エリシェ・プラントゥマ(Elsje Plantema)が1993年に設立したガムラングループがアムステルダムを拠点にオランダ国内、ヨーロッパ各地で演奏活動、ワークショップを行っている。 かつてインドネシアと共にオランダの植民地であったスリナムには、ジャワ島からの移民が居住しており、複数のガムラングループが存在する。2020年に移民130周年を迎えるにあたり、これらのスリナム・ガムラングループがオランダの無形文化遺産に登録される計画がある。 1889年のパリ万国博覧会でガムランが紹介され、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルら近代フランスの作曲家に大きな影響を与えた。オリヴィエ・メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の第1楽章には「ガムラン」と題された部分が登場する。 1937年6月19日にはパリでオランダ公使館の催しとしてジャワ舞踊家レイデン・マス・ジョジャナ Raden Mas Jodjanaの公演が行われた。
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ガムラン
1889年のパリ万国博覧会でガムランが紹介され、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルら近代フランスの作曲家に大きな影響を与えた。オリヴィエ・メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の第1楽章には「ガムラン」と題された部分が登場する。 1937年6月19日にはパリでオランダ公使館の催しとしてジャワ舞踊家レイデン・マス・ジョジャナ Raden Mas Jodjanaの公演が行われた。 阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店などの阪急東宝グループの創始者、小林一三(逸翁)商工大臣として1940年にジャワ島を訪問した際、ジョグジャカルタの王家筋に伝えられていたガムランの楽器が寄贈されたのが日本へ運ばれたガムランの最初とされる。しかし、その後その楽器はしまいこまれ、演奏は行われていなかったが、インドネシアでの修復を経て1998年に披露コンサートが行われていた。2007年には宝塚歌劇『MAHOROBA』でも使用されている。 これとは別に東京芸術大学の楽理科の教授であった小泉文夫が、東洋音楽の研究等のために一式購入してアンサンブルを組織し始めた。現在では、バリ、ジャワ、スンダのいずれのスタイルのガムラン・アンサンブルも組織されている。伝統に回帰するグループが存在する一方、ガムランによる即興や、ガムランによる新曲委嘱といった可能性を追求するグループもある。 目下、大学での正式なカリキュラムで学べるように環境を整えていくことが課題となっているが、西洋音楽偏重で始まった日本の常識を超えることはなかなか難しい。現在ガムラン演奏芸術では日本の大学の学位は取れないため、インドネシアへの留学が必要になる。なかでも沖縄県立芸術大学ではバリ、ジャワ双方のアンサンブルがあり、いずれも専門課程としては組み込まれてはいないものの、活動を続けている。特にバリ・ガムランのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と目される梅田英春准教授(音楽民族学、人類学)の指導の下、意欲的な活動が行われている。さらに、東京音楽大学付属民族音楽研究所では学生に限らず、広く一般にも門戸を広げこの「青銅のシンフォニー」を紹介している。
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ガムラン
ポピュラー音楽では、坂本龍一が、ガムランのサンプリング音や音階などを作品に積極的に取り入れている。また、現代音楽のフィールドでも評価されるなど、世界的にも評価の高い日本のプログレッシブロックバンドKENSOが、スレンドロ音階とペログ音階の両方を用いた「Tjandi Bentar」(アルバム「天鳶絨症綺譚」収録。2002年)を発表し、NEARfest 2005など海外で演奏し、高い評価を受けている。 現在、野村誠、三輪眞弘、松永通温、會田瑞樹などが、ガムランアンサンブルへの新作を多く手掛けている。
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ウード
ウード(アラビア語: عود(ˁūd)、トルコ語: ud、ペルシア語: بربط(barbat)、英語: oud、スペイン語: laúd)は、リュート属に分類される撥弦楽器。 プレクトラムを用いて演奏する。中東から(アラビア、イラクなど)北アフリカのモロッコにかけてのアラブ音楽文化圏、そしてギリシャで使われる。リュートや琵琶と近縁であり、半卵形状の共鳴胴を持ち、ネックの先が大きく反っている。ただし、リュートや琵琶と違いフレットを持たない。弦は一般に6コース11弦で、10本の弦を5対の複弦とし最低音の弦のみ単弦である。 楽器の「ウード」(ならびに語源的に近縁なリュート)の語源ははっきりしないが、アラビア語のالعود (al-ʿūd) は文字通りには藁のような形状の薄い木片を指す。よってウードの演奏に伝統的に用いられていた木製のプレクトラムや、背面に使われる薄い木片や、類似の皮張りの楽器とは異なる木製の共鳴板を指しているのかもしれない。en:Eckhard Neubauerの近年の研究によれば、ウードという単語は、糸や弦楽器やリュートを指すペルシャ語の単語 rud の単なる借用語である可能性がある。 ファーラービーによると、ウードはアダムの六世孫であるレメクによって発明されたという。この伝説では、息子の死を悲しむレメクがその死体を木に架けたという。そして息子の漂白された骨の形から、最初のウードの着想を得たという。 リュート系の楽器の最古の図像的記録は、ウルク期の南部メソポタミア(現在のナーシリーヤ市)にさかのぼる。これはDominique Collon博士により発見された5000年以上前の円筒印章上のもので、現在大英博物館に所蔵されている。 テュルク系民族の同系の楽器に、「コプズ(コムズ)」(en:komuz)という楽器がある。かつてこの楽器には魔力があると信じられ、戦場の軍楽隊で使用された。このことは突厥碑文に記録され、軍楽隊は後代に他のテュルク系国家やヨーロッパ人によって使用された。音楽学者のジヌチェン・タンルコルルen:Çinuçen Tanrıkorurは、今日のウードは中央アジア付近のテュルク系民族のコプズから派生したものであり、追加弦は彼らによって追加されたものだとしている。
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ウード
ウードはイラクで特に長い伝統を有しており、イラクでは「その音楽には国の魂が宿る」と言われている。 9世紀のバグダードの法学者は楽器の持つ癒しの力を称賛し、19世紀の作家のムハンマド・シハーブ・アッ=ディーンは「情緒を平静に置き」「心を落ち着けよみがえらせる」と述べた。2003年のイラク進攻en:2003 invasion of Iraqと世俗派のバアス党の崩壊に伴い、世俗的音楽を「ハラーム」(禁止)とみなすイスラーム過激派の増加によって、多くのウード演奏者と教師は潜伏や亡命を余儀なくさせられた。 1923年に起きたギリシャとトルコの住民交換により現在のトルコからギリシャに移住してきた人たちにより、ギリシャ本土でもウードがポピュラーな楽器となり、現在ではレベティコなどギリシャの伝統音楽において重要な楽器の一つとなっている。また、2022年にウードの製作と演奏はシリアとイランの推薦により、UNESCOの無形文化遺産に登録されている。 ネック:ウードはその他の多くの撥弦楽器と異なり、ネック(棹)(en:Neck (music))にフレット(柱)を持たない。それにより奏者はグリッサンドやトリル(en:Trill (music))の技法をより良く表現できる。またフレットがないことによりマカームに見られる微分音を演奏できる。 ウードにフレットがないのは後代の改良の結果である。1100年ごろのウードにはフレットが存在したが、1300年にはフレットは消失した。ウードからフレットが除かれたことは、中東音楽の発展が装飾音を重視していたことを反映している。 弦:多くのウードは11本の弦を持つ。10本の弦は、5コースの複弦であり、11本目の弦は最低音の1本で、単弦である。ウードの演奏に用いる力は現代のギターに比べると軽い。 ペグボックス:ウードのペグボックス(糸蔵)(en:Pegbox)はネックから45度から90度曲がっている。 胴:ウードの胴の背面は半卵形状に膨らんでおり、ギターの背面のように平らではない。この設計によってウードは共鳴を生み出し、複雑な音色を作る。 サウンドホール:ウードには1から3のサウンドホールがある(en:Sound hole)。
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ウード
ペグボックス:ウードのペグボックス(糸蔵)(en:Pegbox)はネックから45度から90度曲がっている。 胴:ウードの胴の背面は半卵形状に膨らんでおり、ギターの背面のように平らではない。この設計によってウードは共鳴を生み出し、複雑な音色を作る。 サウンドホール:ウードには1から3のサウンドホールがある(en:Sound hole)。 ウードのプレクトラムの長さは人差し指よりも少し長い。アラビア語ではこのプレクトラムを「リーシャ」(reesheまたはrisha)といい、トルコではmızrapという。伝統的には、ウードのプレクトラムはタカの羽軸や亀の甲羅を使って作る。しかし今日では安いプラスチック製のプレクトラムが一般的である。 ウード奏者はプレクトラムの質への要求が厳しく、通常はプラスチック製品から自作する。ウード奏者は、サンドペーパーでプレクトラムのへりをとがらせて、最高の音色が出せるように気を付ける。 以下は各地のウードの種類であり、こうしたウードは形状や調律に大きな差がある。 トルコ語:“ud”、ギリシアやアルメニアで使用される類型を含み、ギリシアでは“outi”という。大きさはより小さく、ネックがより短く、音がより高く、音色がより明亮である。 アラブ・ウードより小型で、アラブ・ウードと音調が異なり、音高がより高い。トルコ・ウードと似るが、より小さい。 北アフリカのウードだが、すでに使用する人がいない。 ギリシアの楽器のen:Laoutoとen:Lavtaは、その形はウードに似るが、奏法が大いに異なり、フレットを持つ。その源流はビザンティン・リュート(Byzantine lutes)にさかのぼる。Laoutoはクレタ島で使用される。 ウードには各種の調律法がある。以下に述べる調律は、最下部の単弦から最上部の双弦への順の配列である。
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ドラゴンクエストモンスターズ
ドラゴンクエストモンスターズ(DRAGON QUEST MONSTERS)は、スクウェア・エニックス(旧・エニックス)から発売されているRPGのシリーズ作品。『ドラゴンクエストシリーズ』の派生作品。 略称は「DQM」。開発はナンバリング作品を制作していたトーセが担当しており、3DSリメイクとDQMJ3のみスクウェア・エニックスが担当している。 ゲーム中に登場するさまざまなモンスターを主人公の仲間にして育成しながら冒険を進めるロールプレイングゲームである。モンスターを仲間にするシステムは『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』のホイミンが初出で、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』から本格的に始まったが、本シリーズはそれをメインとしたゲームである。後に『スライムもりもりドラゴンクエスト』などの各種派生作品を生むことになる。また、ウェブサイトとアプリを連携させた携帯電話コンテンツもある。 主人公となっているキャラクターは戦闘に直接参加せず、基本的に仲間にしたモンスターが戦いの中心となる。『ジョーカー2P』まで、直接戦闘に参加できるモンスターのパーティは敵味方互いに3体までとなっている(残りは控えの交代制で参加。『テリー3D』以降は4体に増加)。 一度ストーリーをクリアした後もモンスター図鑑を完成させることなど、それまでの物語を追っていくドラゴンクエストとは別に目的が置かれていた。通信機能を利用して他のプレイヤーと対戦したり、他のプレイヤーが育てたモンスターと自分のモンスターを「おみあい」させて子供を作ることもできるようになっている。 各機種対応の携帯電話コンテンツ。 中心となるウェブサイト(街)と、ダウンロードして使用する4つのアプリケーション「牧場アプリ」「森アプリ」「塔アプリ」「闘技場アプリ」から構成される。 ルールが若干異なり、モンスターを「牧場」から旅に出すことによってモンスターを成長させるシステム。ローグライクゲーム形式の「森」や「塔」でアイテムやゴールドを入手する、鍛えたモンスターを市場で売買する、「闘技場」で他のユーザのモンスターと対決させるといったこともできる。また、2005年より、他の2人のユーザのモンスターとパーティを組んでの旅に出すこともできるようになった(当初はiアプリ版のみであったが後にEZ版とS版にも対応)。
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ドラゴンクエストモンスターズ
iアプリ版とS!アプリ版では、パスワード(「認証キー」と「転送の呪文」)の使用による、プレイステーションソフト『ドラゴンクエストモンスターズ1・2 星降りの勇者と牧場の仲間たち』とのモンスターの受け渡しも可能である。 携帯電話版ドラゴンクエストモンスターズの新バージョン。 ダンジョンでの宝探しやモンスターを旅に出す、闘技場での他ユーザのモンスターとの対決など、『i/S/EZ』のシステムを継承しているが、電話機の性能にあわせてグラフィックが強化されている。「フレンド登録」により、他ユーザとの手紙の交換も可能。 旧バージョン『i/EZ/S』からのモンスターやゴールドの転送を行うことも可能である。モンスターは1ヶ月につき1回可能で、転送元のモンスターは消えない。ゴールドは計1回のみ転送可能で、転送元のゴールドは転送した分減少する。 携帯電話向けの完全新作。一部アイテム課金。 2013年9月1日より、月額利用料金が不要となった。 スマートフォン版はワイド画面に対応し、グラフィックも強化されている。フィーチャーフォン版からのデータを移行させることも可能。 『MOBILE』と本作のグラフィックと図鑑は『モンスターズ1・2』をベースにしている。 ジョーカーシリーズよりも後に出た作品ではあるが、配合方法はジョーカー以前のルールが採用されている。 2017年4月26日にサービスを終了した。 iOS、Android向け作品。一部アイテム課金。開発はCygames。 2014年1月23日配信開始、2月17日には300万ダウンロードを突破した。
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しげの秀一
しげの 秀一(しげの しゅういち、本名:重野 秀一、1958年〈昭和33年〉3月8日 - )は、日本の漫画家・同人作家。新潟県十日町市松之山出身。新潟県立十日町高等学校卒業。血液型はA型。星座はうお座。 代表作に『バリバリ伝説』、『頭文字D』などがある。 中高時代より同人活動を行っており、その作品を見た漫画家よりひおあきらを紹介されアシスタントとなる(時期としては『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』執筆時)。『増刊少年サンデー』に投稿しデビュー。数作描いたところで1981年(昭和56年)、『増刊少年マガジン』(講談社)に掲載の『おれたち絶好調』で再デビュー。アシスタント歴では石渡治、小林まことなど。 1985年(昭和60年)、第9回講談社漫画賞少年部門受賞(『バリバリ伝説』)。 2022年、画業40周年を記念し原画展が東京にて開催、2023年には広島・新潟・宮城にて開催された。 ※ 発行は注記のない限り全て講談社。
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河合克敏
河合 克敏(かわい かつとし、1964年5月2日 - )は日本の漫画家。血液型はO型。静岡県浜松市北区(旧・引佐郡引佐町)出身。 上條淳士のアシスタントを経て、1987年『爆風ガールズ』(週刊少年サンデー8月増刊号)でデビュー。 1988年に第1回コミックグランプリ受賞作として連載が開始された柔道漫画『帯をギュッとね!』(週刊少年サンデー)が初の連載作品となる。この作品が全30巻を数える長期連載となり、一気に人気漫画家となった。 1996年より競艇を題材とした漫画『モンキーターン』(週刊少年サンデー)を連載、こちらも全30巻というヒット作となり、同作品にて1999年度第45回小学館漫画賞を受賞している。また2004年にはアニメ化もされた。 2006年12月より『週刊ヤングサンデー』にて書道を題材にした漫画『とめはねっ! 鈴里高校書道部』を連載開始、同誌の休刊により『ビッグコミックスピリッツ』に掲載の場を移し、2015年16号まで隔週連載した。同作はNHKでドラマ化され、2010年1月から2月にかけて全6回放映された。
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チェンバロ
チェンバロ(独: Cembalo, 伊: clavicembalo)は、弦をプレクトラムで弾いて発音する鍵盤楽器である。英語ではハープシコード (harpsichord)、フランス語ではクラヴサン (clavecin) という。 狭義にはグランド・ピアノのような翼形の楽器を指すが、広義には同様の発音機構を持つヴァージナルやスピネット等を含めた撥弦鍵盤楽器を広く指す。 チェンバロはルネサンス音楽やバロック音楽で広く使用されたが、18世紀後半からピアノの興隆と共に徐々に音楽演奏の場から姿を消した。しかし20世紀には古楽の歴史考証的な演奏のために復興され、現代音楽やポピュラー音楽でも用いられている。 撥弦鍵盤楽器の大きさや外形は多様であるが、発音機構の基本は共通している。 鍵を押し下げると、鍵の他端に立てられているジャックと呼ばれる板状の棒が持ち上がり、ジャックの側面に装着されたプレクトラムが弦を下から上に弾いて音を出す。 鍵から手を放すとジャックが下がる。このときプレクトラムは回転するタングに取り付けられているため弦を回り込んで下に戻る。ジャックが元の位置に戻るとジャック上部のダンパーによって弦の振動が止められる。 以下では上記の基本原理をより詳細に説明する。 鍵(1)は単純な梃子で、鍵にあけられた穴に差し込まれたバランスピン(24)を支点として動く。 ジャック(17)は、木製の平たく細長い棒で、鍵の端に垂直に立てられ、上下のジャックガイド(7・22、レジスターとも)で支えられている。ジャックガイドは、スパイン(左側の長い側板)側からチーク(鍵盤右の短いまっすぐな側板部分)側まで走るギャップの中に設置される、ほぞ穴のある細長い2枚の板で、このほぞ穴の中をジャックが上下に動く。アッパー・ガイドはしばしば可動である(#レジスターを参照)。 イタリアのチェンバロでは、ボックス・スライドと呼ばれる厚みのある単一のジャックガイドが用いられる。
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チェンバロ
ジャックにはタング(図2-3)という木製の可動の部品が取り付けられており、タングにはプレクトラム(図2-4)が取り付けられる。タングはプレクトラムに上から力がかかる場合は動かないが、下から力がかかる場合は回転してプレクトラムをそらすように動作する。これによってプレクトラムが下から上に弦を弾いた後、上から下へは弦を弾かずに戻ることができる。タングはイノシシの毛や薄い真鍮板などで作られたバネによって保持されており、動いた後はバネの弾力により元の位置に戻る。 プレクトラムは通常ごく僅かに上方向に角度をつけて取り付けられ、弦の下ぎりぎりの位置に設置される。歴史的にはプレクトラムはワタリガラス (raven) などの鳥の羽軸で作られていたが、現代では保守が容易なデルリン製のプレクトラムを用いる場合も多い。 プレクトラムが弾く弦の箇所(プラッキング・ポイント)は音質を決定する重要な要素であり、ナット(図1-5、手前側にあるブリッジと共に弦の振動長を決定する構造)からの距離で示される。ナットに近い位置で弦を弾くと倍音が強調され、「鼻にかかった」音色となる。一般にプラッキング・ポイントの距離は低音域に向かって漸増するが、弦の振動長(ナット-ブリッジ間距離)に対する比率は減少する。 ジャックの上部にはフェルト製のダンパーが付けられており、ジャックが持ち上がっていないときにはダンパーが弦の上に乗り消音するようになっている。 (A) 操作されていない状態のジャック。ジャックの一番上にはフェルト製のダンパー(図3-3)が突き出ており、鍵が押されていないときには弦の振動を止めている。 (B) 鍵を押すことでジャックが上がり始めた状態。ジャックが上昇するにつれ弦に押し当てられたプレクトラムは徐々にたわんでいく。 (C) プレクトラムは湾曲の限界点を超えて、弦を弾き、振動を起こす(音の発生)。ジャックの垂直に跳ね上がる動きはジャックレール(図3-1)によって止められる。ジャックレールの内側はジャックの衝撃を和らげるために柔らかいフェルト(図3-2)がつけられている。
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チェンバロ
(B) 鍵を押すことでジャックが上がり始めた状態。ジャックが上昇するにつれ弦に押し当てられたプレクトラムは徐々にたわんでいく。 (C) プレクトラムは湾曲の限界点を超えて、弦を弾き、振動を起こす(音の発生)。ジャックの垂直に跳ね上がる動きはジャックレール(図3-1)によって止められる。ジャックレールの内側はジャックの衝撃を和らげるために柔らかいフェルト(図3-2)がつけられている。 (D) 鍵から手を離すと、鍵のもう一方の端は自重で元の位置に戻り、それに従ってジャックも下に降りる。この際プレクトラムは再び弦に接触するが、タング(図3-6)の働きによって、ほとんど音を生じさせることなく弦の下に戻る。ジャックが元の位置まで降りるとダンパーが弦の上に乗り消音する。 弦の素材には真鍮、鉄、丹銅などが使われる。一般にスケールの短いタイプの楽器では全域で真鍮弦が用いられるが、長いスケールの楽器では高音域に鉄弦を用い、低音域に真鍮弦、さらに最低音域では丹銅弦が用いられる。 弦の一端(鍵盤から遠い側)は小さな輪を作りねじって止めたものを、ヒッチピン(図1-10)にかける。ヒッチピンはライナー(11)に打ち込まれている。もう一方はチューニングピン(図1-4)に巻き取り、適切な音高となるように調整する。チューニングピンは堅い木で作られたレストプランク(ピンブロックとも、図1-23)にねじ込まれている。近代的なピアノのような金属フレームを持たないチェンバロは、湿度の変化に弱く、調律が変動しやすいため、演奏者は演奏のみならず、自ら調律する技術も要求される。 弦はブリッジ(図1-9)を介して響板(サウンドボードとも、図1-14)を振動させる。響板とケースの構造体は、弦の振動を効率良く空気の振動へ変換し、音量を拡大する。 響板は一般的にトウヒやモミあるいはイトスギなどの針葉樹の木材の2~4mm程度の薄い板である。 イタリアのチェンバロの響板は、裏側全体がリブで補強されている物が多くあるが、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロの響板は、リブがあるのは低音側手前の領域のみで、ブリッジの下にはリブを持たない。 通常、響板の低音側の手前の部分には、リュートやギターのように穴が開けられ、木や羊皮紙、または金属の装飾が嵌め込まれる、これをローズと呼ぶ。
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イタリアのチェンバロのケースは、底板を基礎とした構造で側板は薄い。製作は底板に次々に部品を取り付けていく方法で行われる。まず底板が用意され、その上に縁に沿って側板やライナーを支えるための三角形の板(ニー)が数枚立てた形で取り付けられる。数本の補強材(ボトム・ブレース)とローワー・ベリーレールが底板を横切って取り付けられ、アッパー・ベリーレールがローワー・ベリーレールの上に取り付けられる。ニーの上部にライナーが取り付けられ、ベントサイド側のライナーは、さらに底板にかけて斜めに補強材(アッパー・ブレース)が数本取り付けられる。そうしてできた骨格の周囲に側板が貼られる。 これに対し、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロでは、厚い側板の枠組みがケースの構造の基礎となっている。まず側板とレストプランク、ベリーレール、ブレースを組んで外枠が作られ、響板を取り付けた後、最後に底板が取り付けられる。 以下の画像の楽器は18世紀フランス様式のものであり、後者に属する。 チェンバロの音量は打鍵の強弱には殆ど依存しない。しかしチェンバロは音量、音色を段階的に切り替える仕組みを備えているものが多い。音色の選択機構および音色単位そのものを、オルガンの用語と同様に、レジスター、もしくはストップと呼ぶ。 音量の増加と音色の変化を得る方法として、複数の弦列を備えて、それらを共に鳴らすことが挙げられる。ピッチの異なる弦列を共に鳴らすことも行われる。 8フィート弦は通常のピッチの弦であり、これに対して4フィート弦はオクターヴ高く調律される。同様に、稀に用いられる16フィート弦はオクターヴ低く、2フィート弦は2オクターヴ高く鳴る。なお、これらの「フィート」という用語はオルガンの用語から来ており、実際の弦の長さとは関係ない。異なるピッチの音を共に鳴らすことで音色の変化を得るという方法はオルガンと共通のものである。 複数の弦列を共に用いる場合、プレクトラムが同時に弦を弾くようになっていると、タッチが重くなり演奏に支障を生じる。そのため各弦列の間で発音に僅かな時差が生じるように調節される、これをスタガリングと呼ぶ。またスタガリングにより、鍵盤を押す速さによって発音の集中の度合いが変化するため、タッチによる表現がより豊かになる。
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複数の弦列を共に用いる場合、プレクトラムが同時に弦を弾くようになっていると、タッチが重くなり演奏に支障を生じる。そのため各弦列の間で発音に僅かな時差が生じるように調節される、これをスタガリングと呼ぶ。またスタガリングにより、鍵盤を押す速さによって発音の集中の度合いが変化するため、タッチによる表現がより豊かになる。 音色の違いは、プラッキング・ポイントの違いによっても得られる。ナットに近い位置で弾くほど、倍音が強調され、鼻にかかった、明るく細い音になる。同じピッチでプラッキング・ポイントの異なるレジスターを持つ場合、相対的にナットに近いところを弾くものを「フロント」と呼び、ナットから遠いところを弾くものを「バック」と呼ぶ。特にナットに近い位置を弾くレジスターとしてナザールがある。 その他、弦のナット近くに革やフェルトを接触させて振動を抑えることでピッツィカート的な音にするバフ・ストップ、プレクトラムに揉み革を用いて柔らかい音を出すポー・ド・ビュフル などがある。 レジスターの選択は、上のジャックガイドを少し横に動かし、プレクトラムが弦に触らないようにして、「除音」の状態にすることで実現される。バフ・ストップの場合は、革やフェルトの小片の並んだレールを横に動かして接触を切り替える。 レジスターの操作は、一般に直接あるいはレバーを介してジャックガイドを手で動かして行うため、レジスターを切り替えるためには鍵盤から手を移動させなければならないが、18世紀後期には膝レバーやペダルでレジスターを操作する機構を持つ楽器も作られた。 楽器に複数の鍵盤を備えることで、鍵盤ごとに異なる音量、音色を持たせ、それらを対比して用いる演奏が可能となる。 複数の鍵盤を持つ場合、上下鍵盤のレジスターを結合する機構を備えることが一般的である。これには主に2種類あり、一つは、引き出し型カプラーで、上鍵盤が前後にスライドするようになっている。上鍵盤を奥に入れることによって、下の段の鍵盤に取り付けられた垂直方向のクサビ状の突起が上の段の鍵盤の端の下に入る。この状態で下段鍵盤を操作すると同時に対応する上段鍵盤が連動する(逆に上段を操作しても下段鍵盤は連動しない)。鍵盤とカプラーの位置の選択によって、奏者は図5におけるジャックA、BとC、および3つ全てという選択肢を得る。
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もう一つは、ドッグレッグ・ジャック(英:dogleg jack)と呼ばれるもので、上鍵盤は「犬の足」(ドッグレッグ)型のジャック(図6-A)のくぼみにもぐりこんでおり、下鍵盤を操作しても上鍵盤を操作してもジャックAは動く。カプラー式のように下鍵盤からジャックAを使用する際に上鍵盤を介する必要がないが、ジャックAの使用を上鍵盤に限定することは出来ない。 これらの機構により、下鍵盤の強音と上鍵盤の弱音の対比を効果的に行うことができる。 ルッカース一族の楽器にみられる二段鍵盤は、上述のような対比型二段鍵盤とは異なり、上下鍵盤が四度ずれた配置で同一の弦を弾くもので、移調に使われたと考えられている。 イタリアやフランドルのチェンバロの鍵盤は、現代のピアノと同じくナチュラル・キーが白ないし明るい木材の色でシャープ・キーが黒いが、フランスでは逆にナチュラル・キーが黒くシャープ・キーが白い鍵盤が好まれた。ドイツのチェンバロやモダン・チェンバロにも白黒の逆転した配色の鍵盤が見られる。 チェンバロの鍵盤は一般に現代のピアノの鍵盤よりも奥行きが短い。これは当時の親指をくぐらせない運指に関係している。鍵の横幅はイタリアやフランドルのチェンバロでは3オクターヴで約500mm程度で現代のピアノに近いが、フランスのチェンバロの鍵は横幅が狭く、18世紀フランスの典型例は3オクターヴで約477mmである。 16世紀のイタリアのチェンバロはC/E-f3かC/E-c3(ショート・オクターヴを参照)の音域のものが一般的で、前者のほうが優勢であった。その後17世紀には逆にC/E-c3が主流となる。これはC/E-f3の最高音域は元々通常の演奏には要求されず、演奏に変化を与えるために用いていたものが、後にその演奏習慣が廃れたためと考えられる。17世紀半ばから最低音がGGのものが普及し、18世紀には再び最高音がf3に達して、FF,GG,AA-f3やGG,AA-f3のものが見られるようになった。しかしながらC/E-c3のものも依然として製作された。エンハーモニック鍵盤と呼ばれる、異名同音を弾き分けるための分割されたシャープ・キーを持つチェンバロは、特に16世紀から17世紀初期のイタリアで多く作られた。
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ルッカースの一段鍵盤のチェンバロの音域は殆どがC/E-c3であるが、ショート・オクターヴではない半音階の低音を持つものもわずかながら製作された。二段鍵盤の楽器は一般に下鍵盤にC/E-f3、上鍵盤にC/E-c3の鍵盤を有し、両鍵盤は最高音で揃えられて同一の弦を共有している。したがって上鍵盤に対して下鍵盤のピッチは四度低い。より音域の広い、下鍵盤がGG-c3、上鍵盤がF-f3で、同様に両鍵盤を最高音で揃えた二段鍵盤の楽器も作られた。この場合は逆に下鍵盤に対し上鍵盤のピッチが四度低い。 17世紀のフランスのチェンバロの音域はGG/BB-c3が一般的である。ショート・オクターヴによって欠ける変化音のために、最低音域の鍵のいくつかを前後に分割したものもある。 18世紀の前半にはGG-e3やFF-e3が普及し、1760年頃から18世紀末のチェンバロの衰退に至るまでFF-f3(61鍵)がフランスのチェンバロの標準となった。後期の楽器の中には、おそらく視覚的なバランスを取るためにさらにEEを加えたものもある。 18世紀のイギリスのカークマンとシュディのチェンバロの音域はFF,GG-f3が一般的であり、おそらく視覚的に左右対称にするためにFF#を欠いている。1780年頃以降は通常通りFF#が含まれるようになった。カークマンの5オクターヴより広い音域の楽器は、1772年のFF-c4の二段鍵盤の楽器1台のみが知られるが、シュディはCC-f3の楽器を定期的に製作し、 1765年から1782年までの日付を持つ12台が現存している。 ヴァージナル、スピネットなども、チェンバロと同様の発音原理による鍵盤楽器である。ただし、チェンバロ、ヴァージナル、スピネットといった名称は、歴史的には曖昧に用いられており、厳密に区別することは難しい。 ヴァージナル(英: virginal [virginals], 独: Virginal)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が楽器の長辺および鍵盤と平行に張られているものを指す 。 特に長方形の楽器を指すこともある。一般に弦は一組のみで、手前に低音、奥に高音の弦が張られる。そのため鍵の全長は低音で短く、高音で長い。 ヴァージナルという語は1460年頃のプラハのパウルス・パウリリヌスによる記述に最初に見られる。語源に関しては様々な説があるが確かなことはわからない。
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ヴァージナルという語は1460年頃のプラハのパウルス・パウリリヌスによる記述に最初に見られる。語源に関しては様々な説があるが確かなことはわからない。 ヴァージナルという語の指し示す範囲はしばしば曖昧である。エリザベス朝の頃のイギリスでは virginal という語は撥弦鍵盤楽器全般を指していた。イタリアの多角形のヴァージナルはスピネットと呼ぶことが多い。イタリア語には本来ヴァージナルという語は存在せず、spinetta や arpicordo と呼ばれていた。 イタリアのヴァージナル(あるいはスピネット)は、長方形、あるいは多角形のケースで、突き出た形の鍵盤を持つものが多い。 フランドルのヴァージナルは、鍵盤が本体の左側に位置するスピネット型と、右側に位置するミュゼラー型(muselar, muselaar)に分けられる。どちらも一般に長方形で鍵盤が窪んだ場所に位置し本体から突き出ない。 イタリアのヴァージナルやフランドルのスピネット型のヴァージナルでは弦を弾く位置が通常のチェンバロに近いが、ミュゼラーでは全域で弦の中央に近い所で弾かれる。このことにより、基音が強く倍音の弱い、独特の太くて暖かい音質を持つ。しばしば倍音を補うためにアルピコルドゥムという金属片によってざわざわした音を付加する装置がテノールからバスの音域に付けられる。ミュゼラーでは中低音域のアクションは楽器の響板の真ん中に置かれるため、この音域を弾くときの打鍵音が増幅される問題がある。加えて、弦の中央付近で弾くために、まだ響いている弦の動きがプレクトラムが再度弦に触れることを難しくしてしまい、低音部の連打が難しい。このようなことから、ミュゼラーは複雑な左手のパートを持たない、旋律と和声の組合わせのような曲に向いているとされる。ミュゼラーは16、17世紀には人気があったが、18世紀にはあまり使われなくなった。18世紀のある評論家は、ミュゼラーは「低音部では若い豚のようにブーブー言う」と評している (Van Blankenberg, 1739)。 フランドルでは大小2台のヴァージナルを組み合わせたダブル・ヴァージナルも作られた。
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フランドルでは大小2台のヴァージナルを組み合わせたダブル・ヴァージナルも作られた。 スピネット(英: spinet, 仏: épinette, 独: Spinett, 伊: spinetta, 西: espineta)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が鍵盤に対して斜めに張られているものを指す 。一般に弦は一組のみで鍵盤も一段のみである。典型的にはおおよそ三角形の形状で右側板が湾曲している「ベントサイド・スピネット」を指す。ベントサイド・スピネットは特に18世紀のイギリスでヴァージナルに代わる家庭用鍵盤楽器として普及した。 ヴァージナルと同じくスピネットという語の指し示す範囲もしばしば曖昧である。イタリアでは小型の撥弦鍵盤楽器全般を指して spinetta という語が使われた。フランスでは épinette という語はイギリスにおける virginal と同様に撥弦鍵盤楽器全般に対して用いられた。 クラヴィツィテリウム (clavicytherium) は響板と弦が垂直に、奏者の顔の前にくるように立てられた楽器である。同様の省スペース原理は、後のアップライトピアノでも用いられることとなった。興味深いことに、現存最古のチェンバロはクラヴィツィテリウムである。クラヴィツィテリウムはチェンバロの主流とはならなかったが、その後も散発的に製作され続けており、18世紀にはフランドルのアルベルトゥス・ドゥランによって優れたクラヴィツィテリウムが製作されている。 4フィート弦のみを持つ、1オクターヴ高いピッチの小型の楽器もあり、オッタヴィーノ (ottavino) と呼ばれる。 クラヴィオルガヌム (claviorganum) はチェンバロやヴァージナルをオルガンと組み合わせ、両方の音を同時に鳴らすことのできる複合楽器であり、ヨーロッパ各地で製作された。
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4フィート弦のみを持つ、1オクターヴ高いピッチの小型の楽器もあり、オッタヴィーノ (ottavino) と呼ばれる。 クラヴィオルガヌム (claviorganum) はチェンバロやヴァージナルをオルガンと組み合わせ、両方の音を同時に鳴らすことのできる複合楽器であり、ヨーロッパ各地で製作された。 1397年のパドヴァの法律家による、ヘルマン・ポールという人物がクラヴィチェンバルムと呼ばれる楽器を発明したと主張している、という記述がチェンバロについての最古の記述である。 1425年のドイツのミンデンの大聖堂の祭壇の彫刻にはチェンバロとこれを奏する人が確認できる。 1440年頃にはアンリ・アルノー・ド・ズヴォレがチェンバロとその発音機構の詳細な図面を残している。 現存する最古のチェンバロは、1480年頃おそらくドイツのウルムで作られたクラヴィツィテリウムで、ロンドンの王立音楽大学に保存されている。 製作者名と製作年代の分かる最古のチェンバロは、1515年から1516年にフィレンツェのヴィンチェンティウスによって作られたものであり、次に1521年のボローニャのヒエロニムスによるものが続く。イタリアのチェンバロの側板は薄く、ケースの外形は細長い。イタリアでは多少の変化がありながらも、18世紀末まで独自の様式のチェンバロ製作の伝統が維持された。1700年頃イタリアのバルトロメオ・クリストフォリがピアノを発明したが、ピアノは当時のイタリアでは大きな影響を与えることがなかった。 アルプスから北では1537年にライプツィヒのミュラーによる作例が存在する。薄い側板のケースはイタリアの楽器と同様であるが、ずんぐりとした外形や、ボックス・スライドではない2枚構成のジャックガイドはイタリアの楽器に見られない特徴である。 このような北ヨーロッパの初期のチェンバロは、かつてはイタリアの楽器から派生したものと考えられたが、現在はむしろイタリアのチェンバロ製作の伝統が北ヨーロッパに起源を持つ可能性が高いと考えられている。
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フランドルでは16世紀末から17世紀前半にかけてアントウェルペンのルッカース一族がチェンバロの製作において成功を収めた。ルッカースのチェンバロはイタリアのものより厚い側板が用いられている。 ルッカースの楽器は高く評価され、後にしばしば改造を施されながらも各地で使われ続けた。そして他の地域のチェンバロ製作にも大きな影響を与えた。 ルッカースのチェンバロが各地に輸出される一方で、北ヨーロッパの他の地域ではルッカース以前からの北ヨーロッパの在来の様式によるチェンバロが製作されていたが、 その後、18世紀のフランスでは、ルッカースに倣ったチェンバロが作られるようになり、18世紀フランス様式のチェンバロはフランドル様式の構造を受け継ぎながら、より広い音域と優美な音色を持つことになった。有名な製作者としてはブランシェ一族やパスカル・タスカンなどが挙げられる。 18世紀のイギリスでもカークマンやシュディの工房においてルッカースの影響を受けたチェンバロが製作された。カークマンとシュディのチェンバロの音はフランスの楽器に比べ繊細さに欠けるが華麗で力強い。 チェンバロは18世紀後半から、より強弱表現に長けるピアノに徐々に人気を奪われ、19世紀中は殆ど演奏されることがなくなり、楽器製作の伝統も途絶えた。 19世紀末から古楽演奏のためにチェンバロが復興され、当時のピアノ製作の技術を応用してチェンバロの改良が試みられた。このような楽器は現在ではモダン・チェンバロと呼ばれ、伝統的な製法のチェンバロとは区別される。 1860年代半ばにフランスのピアニスト、ルイ・ディエメがリサイタルにチェンバロの演奏を取り入れた。彼は1769年製のパスカル・タスカンのチェンバロを主に用いた。 1882年にこの楽器は修復され、その後パリのエラール社が借り受けて研究した。 プレイエル社もタスカンの楽器を研究し、両社とも1889年のパリ万国博覧会にチェンバロを出品した。 ドイツでは通称「バッハ・チェンバロ」と呼ばれる楽器 がチェンバロ復興の参考にされた。この楽器の、下鍵盤に16′と8′、上鍵盤に8′と4′という歴史的なチェンバロでは特殊なレジスター構成が理想的なものとされ、モダン・チェンバロに大きな影響を与えた。 1899年にベルリンのヴィルヘルム・ヒールによってこの楽器に基づいたチェンバロが製作されている。
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ドイツでは通称「バッハ・チェンバロ」と呼ばれる楽器 がチェンバロ復興の参考にされた。この楽器の、下鍵盤に16′と8′、上鍵盤に8′と4′という歴史的なチェンバロでは特殊なレジスター構成が理想的なものとされ、モダン・チェンバロに大きな影響を与えた。 1899年にベルリンのヴィルヘルム・ヒールによってこの楽器に基づいたチェンバロが製作されている。 1912年にワンダ・ランドフスカの構想によりプレイエル社が近代的なコンサートホールでの演奏に向けた新型のチェンバロを開発した。 この楽器は、鉄製のフレームを持ち、太い弦が高い張力で張られ、響板の補強法はグランド・ピアノとほぼ同じで、ケースも頑丈に作られていた。下鍵盤に16′、8′、4′、上鍵盤に8′の構成で、レジスターは7本のペダルで操作された。プレイエル社の楽器はドイツのチェンバロ製作にも影響を及ぼし、幾つかのメーカーはプレイエル型のレジスター構成や鉄製フレームを採用した。 1930年ごろからドイツのチェンバロ製作は再び「バッハ」型のレジスター構成に戻り、鉄製フレームは用いられなくなったが、依然としてそれは歴史的な楽器とは大きく異なるものであった。 ノイペルト、ヴィトマイヤー、シュペアハーケ、アンマー、ザスマンなどのメーカーにより製造されたモダン・チェンバロは世界各地に輸出され、演奏家や聴衆の一般的なチェンバロのイメージとなった 一方で20世紀半ば頃からフランク・ハバード、ウィリアム・ダウド、マルティン・スコヴロネックなどの製作家により歴史的なチェンバロの研究がなされ、伝統的製法の再現が試みられた。彼らの作る楽器は高い人気を博し、他の多くの製作家たちも歴史考証的な楽器の製作に転じた。現在では歴史考証的な楽器が主流となり、ルネサンス・バロック期の音楽を演奏する際に、モダン・チェンバロを用いることは殆ど無い。一方、モダン・チェンバロを前提とした音楽作品、例えば、フランシス・プーランクの「クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール」などはモダン・チェンバロで演奏するのが妥当とされる。
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イタリアのチェンバロは、底板を基礎として支持材を組み、約4~6mm程度の薄い側板を貼り合わせた構造をとっている。ケースの素材には主にイトスギ材が用いられた。一般にこの薄手の本体は、より頑丈なアウターケースに収納された。後に単一の厚手のケースを持つ楽器も現れたが、外見上は従来通りアウターケースの中にインナーケースが納められているかのように装飾がほどこされた。これを「フォルス・インナー・アウター」(偽インナー・アウター)と呼ぶ。 弦長は全音域の5/6程度までオクターヴごとに倍になる自然な比率に従っている。そのためベントサイドは深く窪み、外形は細長い。鍵盤は一段鍵盤が一般的である。弦列は16世紀には1×8′または1×8′、1×4′の構成が一般的であったが、17世紀以降は2×8′が主流となった。これは通奏低音の演奏に適応したものと考えられる。16世紀の楽器や文献は、高音域で鉄弦が使用されたことを示唆しているが、17世紀以降は全域で真鍮弦を使用することが一般的となった。ジャックガイドは上下2枚構成ではなく、ボックス・スライドと呼ばれる単一の厚みのあるものが用いられる。レストプランクの幅は高音域で狭く、ジャックの列は斜めに並ぶ。響板の裏側は、数本のリブがブリッジの下を横切って取り付けられることが多い。イタリアのチェンバロの音質は、減衰が早く、歯切れの良い音が特徴である。 フランドルのチェンバロ製作では、アントウェルペンのルッカース一族が重要な役割を果たした。ルッカース一族の工房は、ハンス・ルッカースが1579年にアントウェルペンの聖ルカのギルドに加入してから、約1世紀に渡ってアントウェルペンのチェンバロ製作を支配した。
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フランドルのチェンバロ製作では、アントウェルペンのルッカース一族が重要な役割を果たした。ルッカース一族の工房は、ハンス・ルッカースが1579年にアントウェルペンの聖ルカのギルドに加入してから、約1世紀に渡ってアントウェルペンのチェンバロ製作を支配した。 ルッカースのチェンバロは、厚い側板を上下の内部補強材によって連結した枠組が構造の基礎となっており、底板は後から取り付けられた。ケースの素材にはポプラ材が用いられ、側板は約14mm程度の厚さを持っている。高音域の弦長が長めで、低音域の弦長は抑えられており、イタリアのチェンバロよりもずんぐりとした外形をしている。高音域は鉄弦、低音域は真鍮弦が使われた。標準的な弦列構成は1×8′、1×4′で、8′にはバフ・ストップを備える。音域は通常ショート・オクターヴのC/Eからc3までの4オクターヴである。プラッキング・ポイントはナットに近く、一段鍵盤のルッカースのチェンバロの8′のプラッキング・ポイントは、ほぼ18世紀フランスのチェンバロのフロント8′に相当する。ブリッジはイタリアの楽器のものよりも大きく、響板のブリッジの下にはリブを持たない。8′のブリッジと4′のブリッジの間の響板の裏側には4′のヒッチピンにかかる張力に耐えるための補強として4′ヒッチピン・レールがある。4′のブリッジの手前の裏側には斜めにカットオフ・バーと呼ばれる細長い棒が取り付けられ、カットオフ・バーによって区切られた三角形の領域がリブで補強されている。ルッカースのチェンバロの音質は、イタリアのものとは明らかに異なり、響きが長く持続する。 ルッカースは二段鍵盤のチェンバロも製作したが、これは上下で四度ずれた配置の鍵盤で同一の弦を弾くものであり、四度の移調を容易にするためのものであったと考えられている。通常C/E-f3の下鍵盤がC/E-c3の上鍵盤と最高音で揃えられており、下鍵盤では上鍵盤より四度低い音が鳴る。また下鍵盤のプラッキング・ポイントは上鍵盤よりナットから遠い。
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ルッカースは二段鍵盤のチェンバロも製作したが、これは上下で四度ずれた配置の鍵盤で同一の弦を弾くものであり、四度の移調を容易にするためのものであったと考えられている。通常C/E-f3の下鍵盤がC/E-c3の上鍵盤と最高音で揃えられており、下鍵盤では上鍵盤より四度低い音が鳴る。また下鍵盤のプラッキング・ポイントは上鍵盤よりナットから遠い。 ルッカースのチェンバロは規格化された幾つかのサイズで製作され、装飾も規格化されている。外装は大理石を模した柄や鉄帯模様が描かれ、内装は文様を印刷した紙が貼られた。響板およびレストプランク表面は、花や果物、鳥、昆虫、エビなどがテンペラ画によって描かれた。このような響板装飾はイタリアの楽器には見られない特徴である。ローズは鉛と錫の合金で鋳造され金箔が貼られた。ローズの意匠はハープを弾く天使で、製作者のイニシャルが左右に配される。蓋の内側は文様紙が貼られ、ラテン語の格言が書かれるのが標準的だが、高級なものは画家により絵画が描かれた。 ルッカースのチェンバロは合理的な製法により量産され、近隣諸国に大量に輸出されたが、後に時代の要請に従って多くのルッカースのチェンバロは改造され、現存する楽器でオリジナルの状態にあるものは極めて少ない。音域の拡大、弦の増設、一段鍵盤や移調二段鍵盤の楽器の対比二段鍵盤化などが行われ、時には響板及びケースを拡張する大規模な改造も行われた。このような改造はフランス語でラヴァルマン ravalement と呼ばれる。改造が盛んに行われた背景にはルッカースの楽器が高額で取引されたことがある。改造されたルッカースの楽器は他の新しい楽器の数倍の値段で取引されたため、ルッカースの改造楽器を装った贋作も作られた。 18世紀のフランドルの有力なチェンバロ製作者としてはドゥルケン一族が知られている。ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの製作した楽器は少なくとも8台が知られている。彼の楽器の多くは5オクターヴの音域で、2×8′、1×4′の弦列を備える。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、しばしば上鍵盤にナザールのレジスターを備えている。 ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1745年の楽器をモデルとして、現代の製作家マルティン・スコヴロネックが1962年に製作したチェンバロは、グスタフ・レオンハルトが多くの録音に使用したことで有名である。
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ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1745年の楽器をモデルとして、現代の製作家マルティン・スコヴロネックが1962年に製作したチェンバロは、グスタフ・レオンハルトが多くの録音に使用したことで有名である。 17世紀のフランスのチェンバロの構造はイタリアとフランドルの中間的な特徴を示し、音質的にも両者の中間に位置する。この様な特徴を持つチェンバロは北ヨーロッパの広い地域で製作されていた。 フランスでは、17世紀半ばから2組の8′弦を独立して演奏できるカプラー式二段鍵盤のチェンバロが発達していた。フランスに典型的な技法である右手と左手で同じ音域を重ねて弾くピエス・クロワゼはこれによって可能となる。17世紀には下鍵盤をスライドさせる形式のカプラーが用いられていたが、18世紀になるまでには上鍵盤をスライドさせるようになった。 18世紀のフランスのチェンバロはルッカースに大きく影響を受けている。フランスの製作家たちはルッカースの楽器の改造を通じてその設計を学んだものと考えられる。標準的な18世紀フランスのチェンバロの構造はルッカースの設計を踏襲しつつ、より大型化したものであり、カプラー式二段鍵盤を備え、上鍵盤が1×8′、下鍵盤が1×8′、1×4′で、音域は5オクターヴに達する。このような18世紀フランス様式のチェンバロは、現代のチェンバロ製作のモデルの主流となっている。 ドイツでは古くからチェンバロの存在が確認できるが、17世紀までのドイツで製作されたチェンバロは僅かな数しか現存していない。18世紀のチェンバロもイタリア、フランス、イギリスなどに比べると現存するものは少ない。18世紀ドイツのチェンバロ製作には幾つかの流派が存在したが、その中でハンブルクの楽器が比較的多く現存している。ハンブルクで活躍したチェンバロ製作者としてはフライシャー一族とハス一族が有名である。ハンブルクのチェンバロの構造は、フランドルの楽器の様に底板の上面に側板が接合されているが、アッパー・ブレースは無く、底板からライナーまでの深さがあるブレースがベントサイドからスパインにかけて横切っている。外見はS字型のベントサイドが特徴的である。ハス一族のチェンバロには16′や2′のレジスターを備えたものも現存している。
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チェンバロ
ベルリンのミヒャエル・ミートケのチェンバロは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがケーテン宮廷で使用したチェンバロがミートケのものであることから、現代のチェンバロ製作のモデル楽器として人気が高い。 16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、多くのチェンバロのための楽曲が生み出されたが、現存する当時のイギリス製の楽器は少ない。現在知られるイギリスのチェンバロは主に18世紀以降のもので、ジェイコブ・カークマンと、バーカット・シュディの2人の製作家が有名である。彼らの楽器はルッカースの流れをくむ設計で、華麗で力強い音質が特徴であるが、現代のチェンバロ製作のモデルとしてはあまり用いられていない。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、上鍵盤にナザールのレジスターを備える。18世紀後半には音量を変化させる仕組みとして、マシン・ストップと呼ばれるペダルによってレジスターを操作する機構や、オルガンのようなスウェル・シャッター(よろい戸)をペダルで開閉する機構を持つチェンバロも作られた。 20世紀初頭のチェンバロ復興と共に、チェンバロを近代化するべく様々な改良を試みた重構造のチェンバロが製作されるようになった。現在ではこのようなチェンバロは、歴史的なチェンバロや、それらに準じて製作されたチェンバロとは区別して、モダン・チェンバロと呼ばれる。モダン・チェンバロは20世紀半ば過ぎまでチェンバロの主流であったが、歴史的なチェンバロが見直されるようになったため、現在では用いられることは少ない。 一般にモダン・チェンバロは、近代的なピアノのように底が開放された構造をとっている。ケースや響板は厚く頑丈に作られており、中には金属製のフレームを用いるものもある。プレクトラムには主に革が用いられ、ジャックには調整用のネジが備えられている。レジスターはペダルにより操作され、演奏中に自在に切り替えることが可能である。また歴史的なチェンバロでは稀な16′の弦列を備えているものが多い。 初期の鍵盤楽器音楽は楽器の指定が無いことが普通で、チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどで演奏される。現存する最古の鍵盤楽器音楽とされるのは、14世紀のロバーツブリッジ写本(英語: Robertsbridge_Codex)である。
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チェンバロ
初期の鍵盤楽器音楽は楽器の指定が無いことが普通で、チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどで演奏される。現存する最古の鍵盤楽器音楽とされるのは、14世紀のロバーツブリッジ写本(英語: Robertsbridge_Codex)である。 ルネサンス時代には、イベリア半島でアントニオ・デ・カベソンをはじめとする作曲家により、ティエントやディフェレンシアスなどの鍵盤楽器音楽が栄えた。ディエゴ・オルティスは『変奏論』 Trattado de Glossas (1553) でヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロの合奏について述べている。イギリスではウィリアム・バードやジョン・ブルなどの作曲家達により多くのチェンバロ曲が書かれ、『フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック』などの手稿で残されている。 バロック時代には、イタリアで劇的な感情の表出を重視したモノディ様式が生まれ、チェンバロは通奏低音のための楽器として重要な役割を担った。鍵盤楽器音楽においても劇的な表現が追求され、ジローラモ・フレスコバルディは、『トッカータ集 第1巻』 (1615) の序文において、厳格な拍子にとらわれない、情感に応じた自由な演奏を要求している。 18世紀にはナポリ出身のドメニコ・スカルラッティが、ポルトガル王女のバルバラ・デ・ブラガンサに音楽教師として仕え、555のソナタとして知られる個性的なチェンバロ曲を残している。 一方、ルイ14世時代のフランスではジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエールやルイ・クープランをはじめとする作曲家によって、リュート音楽の延長上にチェンバロ(クラヴサン)音楽が栄え、スティル・ブリゼと呼ばれる分散奏法や、繊細な装飾音を多用した、優美な作品が多く生み出された。中心となるのはアルマンドやクーラントといった舞曲であり、これらを組み合わせた組曲はバロック時代のチェンバロ音楽を代表するジャンルの一つとなった。 フランスのクラヴサン音楽は18世紀前半、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーらの時代に繁栄の頂点に達する。彼らの作品においては、古典的な舞曲に代わって、描写的な標題を持つ作品が主体となっていった。その後、ジャック・デュフリやクロード=ベニーニュ・バルバトルらを輩出するものの、フランス革命の勃発により打撃を受けて、フランスのクラヴサン音楽は終焉を迎える。
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チェンバロ
フランスのクラヴサン音楽は18世紀前半、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーらの時代に繁栄の頂点に達する。彼らの作品においては、古典的な舞曲に代わって、描写的な標題を持つ作品が主体となっていった。その後、ジャック・デュフリやクロード=ベニーニュ・バルバトルらを輩出するものの、フランス革命の勃発により打撃を受けて、フランスのクラヴサン音楽は終焉を迎える。 ドイツのチェンバロ音楽は、イタリアとフランス双方の影響を受け、さらに北ドイツ・オルガン楽派の伝統が加わる。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品には、それらの様式の高度な総合が見られる。バッハの息子や弟子の時代にはクラヴィコードが流行し、さらにピアノがそれに取って代わっていった。 通奏低音にチェンバロを用いることはオペラにおいては19世紀まで残存したが、19世紀を通じて、チェンバロは実質的にピアノに地位を奪われていた。しかし20世紀に入って、古楽復興運動により、再びチェンバロが演奏されるようになると、さまざまな音色を求めるなかで、チェンバロに目を向ける作曲家も登場した。アーノルド・ドルメッチの影響の下、ヴァイオレット・ゴードン=ウッドハウス(1872-1951)、およびフランスではワンダ・ランドフスカがチェンバロ再興の最前線で演奏を行った。 チェンバロ協奏曲がプーランク、ファリャ、ベルトルト・フンメル、グレツキ、グラス、ロベルト・カルネヴァーレなどによって作曲され、マルティヌーはチェンバロのために協奏曲とソナタを作曲し、カーターの二重協奏曲はチェンバロ、ピアノと2つの室内オーケストラのために書かれている。 室内楽の分野では、リゲティがいくつかの独奏曲(『コンティヌウム』など)を作曲しているほか、デュティユーの "Les Citations" (1991年)はチェンバロ、オーボエ、タブルバスとパーカッションのために書かれている。 その他、ショスタコーヴィチは『ハムレット』(1964年)でチェンバロを用いている。シュニトケはオーケストラ用作品でしばしばチェンバロを用いている。 日本の作曲家が取り組みはじめたのは戦後になってからであり、その数も多いとはいえないが、武満徹の「夢見る雨」(独奏曲)などが生まれている。
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チェンバロ
日本の作曲家が取り組みはじめたのは戦後になってからであり、その数も多いとはいえないが、武満徹の「夢見る雨」(独奏曲)などが生まれている。 チェンバロ奏者でもあるヘンドリク・ボウマンは17世紀、18世紀の様式に基づいたチェンバロ独奏曲、チェンバロ協奏曲などを作曲している。 現代では、チェンバロ、もしくはシンセサイザーによる類似の音色がポピュラー音楽でも用いられている。代表的な例としては、ビージーズ、ローリング・ストーンズの「イエスタデイズ・ペイパー」やR.E.M.の "Half a World Away" (アルバム「アウト・オブ・タイム」1991年、収録)、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タンク」があげられる。 また、イージー・リスニングにおいては、ポール・モーリアがチェンバロ(の音色)を好んで用いたことで知られる(「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」が代表的)。
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東京スカパラダイスオーケストラ
東京スカパラダイスオーケストラ(とうきょうスカパラダイスオーケストラ、英: Tokyo Ska Paradise Orchestra)は、日本のスカバンド。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。レーベルはcutting edge。略称は「スカパラ」。 1985年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2005年 2008年 2014年 2015年 2018年 2019年 2020年 2021年 2022年 2023年 ここではメジャー・デビュー当時及びそれ以降に在籍し、既に脱退した過去のメンバーについて記載する。脱退順。 ※プロモーション及びインタビュー出演除く ※インタビュー出演及びDJ出演を除く ※ホーンズ3=NARGO、北原、GAMO
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加倉井ミサイル
加倉井 ミサイル(かくらい みさいる、女性、2月1日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都在住。『ミミまん』連載初期はnobody.というペンネームで活動していた。
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かたおか徹治
かたおか 徹治(かたおか てつじ、1952年9月4日 - )は、大阪府出身の漫画家。別名義:片岡徹治、西井とおる、あにま健児。 高校1年時から、当時大阪在住だった山上たつひこ宅に自作原稿を頻繁に持ち寄り親交を持つ。1971年、浪速短期大学のデザイン美術専攻科第1部入学と同時に山上に師事。翌年春に独立し、『ミラーマン』でデビュー。短期大学は後に中退している。 1977年、小池一夫が主宰した劇画村塾の第一期生となる。 2010年4月から2018年3月まで、日本デザイナー学院 M(マンガ)科の非常勤講師を勤めた。 ウルトラマンを始め特撮関連の作品を多く手掛けており、過去に特集記事掲載の依頼は何本もあったという。ウルトラマン関連では、2013年に初の取材を受けている。
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片山まさゆき
片山 まさゆき(かたやま まさゆき、1959年4月20日 - )は、日本の漫画家。本名、片山 政幸。千葉県旭市出身。明治大学文学部中退。血液型B型。麻雀漫画を数多く発表しており、同ジャンルの第一人者と目される。愛称は「片チン」。 明治大学漫画研究会に在籍し、在学中から漫画を描いて収入を得ていた。ただし漫研内ではほとんど描いておらず、麻雀ばかりしていたと語っている。1981年、『週刊ヤングマガジン』に掲載された『平和(ピンフ)警察』でデビュー。その後同誌で連載された麻雀漫画『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、強運を持つ主人公・持杉ドラ夫を始めとする個性的なキャラクターが登場して話題となり、片山の出世作となった。 一方で、とことんツキのないキャラクターを主人公に据えた『スーパーヅガン』を『近代麻雀オリジナル』誌上に連載。こちらは『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の1年前から掲載が開始されていた。こちらは、駆け出しこそ今ひとつであったが、半年後ぐらいには同誌の看板漫画にまで成長し、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』とともに若者の麻雀人口拡大に寄与した。また、この『スーパーヅガン』は連載終了後の1992年にフジテレビ系列でテレビアニメ化されており、同氏で唯一のアニメ作品である。アニメ版では他作品の主人公爆岡やドラ夫が雀荘の客としてカメオ出演しており、また、本編終了後にファミコンソフト『ぎゅわんぶらあ自己中心派』のコマーシャルを流す演出となっていた。 『ぎゅわんぶらあ自己中心派』『スーパーヅガン』の終了後、明大前に雀荘「ミスチョイス」を開店。店名の由来は『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の舞台だった同名の雀荘。しばしば作中にも登場させたが、経営が行き詰って閉店した。その後2002年に吉祥寺駅前に雀荘「ミスチョイスR」を開店。2007年には高円寺駅前に2号店となる雀荘「ミスチョイスQ」を開店している。
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片山まさゆき
『ぎゅわんぶらあ自己中心派』『スーパーヅガン』の終了後、明大前に雀荘「ミスチョイス」を開店。店名の由来は『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の舞台だった同名の雀荘。しばしば作中にも登場させたが、経営が行き詰って閉店した。その後2002年に吉祥寺駅前に雀荘「ミスチョイスR」を開店。2007年には高円寺駅前に2号店となる雀荘「ミスチョイスQ」を開店している。 上記ギャグ漫画2作品終了後はストーリー漫画に路線を転換。その代表作として『ノーマーク爆牌党』があり、片山が持つ麻雀ノウハウと理論を生かした闘牌シーンを描いた本格派の作品である(ただし、同作は当初からシリアスだったわけではなく当初はギャグ寄りの内容だった)。自身の麻雀の実力も高く、第1回麻雀最強戦では並み居るプロを押しのけて第1期最強位の座に就いており、麻雀界での人脈を生かしてプロの闘牌協力を得ている作品もある。 作風として、麻雀漫画としては異例なほど「裏社会(やくざ)との絡み」「暴力」といった面をストーリーに取り入れず、極力排除している。先述の『スーパーヅガン』や『ミリオンシャンテンさだめだ!!』のように、「麻雀の腕・知識はそれなり以上にあるのに、ツキがないために弱い」キャラクターを主人公に据えることが他作家より多いのも特徴。 2004年から2010年まで連載された『打姫オバカミーコ』は、初心者同然の主人公に一流プロが手ほどきする内容を通して、読者の麻雀学習にも役立つ作品となっている。この作品は同氏の作品で最も巻数が多く、自身も代表作と位置付けている。 一方、画力に難があることは本人も自認しており、キャラクターが上手く描けないでスランプに陥った時、たまたま入手した自作品のパロディ同人誌を参考にしてキャラクターのデザインを修正したというエピソードがあったり、一時期アシスタントとして修行していた時に「片山くんは一生懸命線を引く練習をしている(そこから勉強しなければならなかった)」と報告されたという逸話も持っている。明大の先輩である漫画家のいしかわじゅんの元へデザインのアシスタントに行ったこともある。『BSマンガ夜話』にいしかわが出演した際その時のことについて触れ、「昔、片山がウチに1日だけデザインで来たことがあるが、アシスタントとしてはまったく役に立たなかったので1日でクビにして、二度と呼ばなかった」と語っている。
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片山まさゆき
麻雀以外の題材を扱った作品も何点か発表している。ファミコン漫画『大トロ倶楽部』や、三国志をモチーフにした『SWEET三国志』など、いずれもギャグタッチの作品となっている。また青木裕司との共著で、国際関係史をモチーフにした『サクサク現代史!』、続刊『中国がわからない!、サクサク現代史!・アジア激闘編』を「ナレッジエンタ読本」メディアファクトリーから出版している。
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克・亜樹
克・亜樹(かつ・あき、本名:中村 克明、男性、1961年9月19日 - )は、日本の漫画家。福岡県福岡市西区出身。大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業。 大学在学中の1983年、小学館の第12回小学館新人コミック大賞少年部門で佳作を、白泉社の『花とゆめ』で第88回HMC(花とゆめまんが家コース)トップ賞を受賞。受賞作の『メアリー♥ララバイ』が同年5月発売の『花とゆめ 大増刊』に、『ルピア!』が同年7月発売の『週刊少年サンデー 夏休み増刊号』に掲載されてデビュー。 以後しばらくは、『月刊コミコミ』や『週刊少年サンデー増刊号』などで読み切り作品と短期集中連載作品の執筆を担当。後に、それと並行して『週刊少年サンデー』で連載を持つようになる。 1993年以降は青年誌での執筆が中心となり、現在『ヤングアニマル』および『ヤングアニマル嵐』で『ふたりエッチ』を連載中。 既婚者。 5年制の高等専門学校に通っていた関係から、大学に入学したのは高校卒業・現役入学者の2年遅れであり、年齢が同じ島本和彦は大学の先輩に当たる。また、MEIMUは大学の同級生、樹崎聖は後輩である。元アシスタントに吉崎観音などがいる。 克が小学館で世話になった編集者が島本和彦の担当者でもあったことから、デビュー後しばらく島本のアシスタントをしていたことがある。 影響を受けた作家は高橋葉介。ホラー漫画やホラー映画が好きで『ふたりエッチ』の小野田優良がホラー映画好きという設定は自分の好みを反映させている。投稿作の1本目はホラー漫画であったが、投稿先の『花とゆめ』にも『サンデー』にも没にされた。
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かどたひろし
かどた ひろし(生年非公表、5月22日生)は、日本の漫画家・キャラクターデザイナー。宮城県仙台市出身。 様々な職種を経て、23歳に「かどたひろし」としてデビューする。数年後、ペンネームを富子 海に改名するが、周囲から分かりづらいという意見があり、約1年でかどたひろしに戻す。同県出身の少女漫画家安孫子三和とは、専門学校日本ビジネススクール仙台校(現・日本デザイナー芸術学院仙台校)在学中に同じクラスであり、友人でもある。『BLUE CITY』『アヒル真昼に翔びしゃんせ』は「富子海」時代に描かれた作品であるが、現在は「かどたひろし」名義となっている。コーエーの競馬シミュレーションゲーム、ウイニングポストシリーズのキャラクターデザイナーも務めている。
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金井たつお
金井 たつお(かない たつお、1955年10月7日 - )は、日本の漫画家。山形県山形市出身。血液型B型。本名は金井龍郎。 山形県立山形中央高等学校卒業後、上京。約2年間の本宮ひろ志のアシスタントを経て1977年に代表作『ホールインワン』でデビュー。『ホールインワン』において、漫画におけるパンチラ描写をほぼ完成させた人物として、『サルまん』などで高く評価されている。 文芸評論家の池上冬樹は高校の同級生。
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鎌田洋次
鎌田 洋次(かまた ようじ、1957年7月3日 - )は、日本の漫画家。男性、宮城県登米市中田町浅水出身。 1979年、週刊少年マガジンSPECIAL増刊掲載の『俺たちの三遊間』 でデビュー 1981年、『こんちきちん』で週刊ヤングマガジンに初の連載。 主に青年漫画雑誌を舞台としていて、スポーツ漫画を数多く描いている。漫画でも野球、サッカーだけでなく、体操や自転車などのジャンルのスポーツ漫画も手がけている。 また、登山・山岳漫画の数少ない描き手でもある。 2010年現在、つりコミックにて『Match the Hatch』を連載中。
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神矢みのる
神矢 みのる(かみや みのる、6月8日 - )は、日本の漫画家。神奈川県鎌倉市出身。多摩美術大学卒業、漫画研究会の二年後輩にしりあがり寿がいた。
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かわぐちかいじ
かわぐち かいじ(本名:川口 開治、1948年7月27日 - )は、日本の漫画家。 広島県御調郡向東町(現・尾道市)出身。広島県立尾道北高校、明治大学文学部日本文学科卒業。東京都小金井市在住。血液型AB型。 1968年に『ヤングコミック』(少年画報社)にて掲載された「夜が明けたら」でデビュー。 代表作に『沈黙の艦隊』、『ジパング』、『太陽の黙示録』、『空母いぶき』など。 1990年代以降、壮大な舞台で男達が活躍する大河ストーリーを得意としている。 マンガジャパン会員となっている。イラストレーター・漫画家のカワグチニラコは娘。シテ方観世流能楽師の川口晃平は息子。 御調郡向東町(現・尾道市)生まれ。 父親は戦時中に掃海艇の乗組員をつとめ、戦後は小型タンカーの船長となっていた。子供時代のかわぐちは、瀬戸内海を航行する父親の船によく乗せてもらっていた。一卵性双生児の弟と幼少時からプラモデル造りに熱中。戦闘機、軍艦、戦車などの実物の性能を詳しく調べていくうち、兄弟2人だけのオタク的な世界を形成していく。同級生の友達が入ってきても、兄弟のあまりのマニアぶりについていけず、一緒に遊ぶことは出来なかったという。他に誰も入れない兄弟2人だけの世界は、この後東京に行ってからも続く。 子供のころ、よく木を削って潜水艦を作って遊んでいた。水面から位相を移動して海中に潜るという感覚がおもしろかったという。また小学生のころ、小澤さとるの潜水艦漫画『サブマリン707』に夢中になり、その作品に出てきたアスロックという自動追尾魚雷を、自分でも描いてみたいと思っていた。のちの『沈黙の艦隊』では、そうした潜水艦の、描きたかった絵を描けたという。 中学時代に見た黒澤明監督の映画『用心棒』に大きなショックを受け、兄弟2人でシナリオを擦り切れる程読む。脚本家志望だったが、貸本屋で永島慎二の漫画『漫画家残酷物語』に影響を受け漫画を描き始める。明治大学に入学し上京。明治大学漫画研究会に入り、初めて見る欧米の漫画に驚嘆したという。当時活発だった学生運動に背を向け、在学中の1968年、21歳の時に「夜が明けたら」(『ヤングコミック』掲載)で漫画家デビュー。 デビュー後、実家の家業を兄弟どちらかが継がなければならないことになったが、弟はミュージシャンの道を諦めてかいじに漫画家を続けさせた。
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かわぐちかいじ
デビュー後、実家の家業を兄弟どちらかが継がなければならないことになったが、弟はミュージシャンの道を諦めてかいじに漫画家を続けさせた。 その後は漫画原作者とタッグを組んで作品を描くものの、10年ほど鳴かず飛ばずが続き、気付くとスタッフがたった1人になっていた。しかし麻雀を題材にした漫画を描き始めると次第に売れるようになり、『近代麻雀オリジナル』(竹書房)で1980年代前半に連載した『プロ マージャン界の光と影』では、得意の「リアルな世界観で価値観がぶつかり合う」ストーリーを見せる。これによりほぼ同時に連載されていた片山まさゆきの漫画『スーパーヅガン』と共に、麻雀漫画の世界に、多彩な表現方法を持ち込む原動力となった。その後、初の時代劇作品『意気に感ず』で画風を変更(キャラクターの目を大きくする)し、これをきっかけに人気が出始めて人気作家となる。 1980年代中ごろ以降は、『モーニング』(講談社)や『ビッグコミック』(小学館)等で人気作・話題作を多数生み出し、現在に至る。
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川三番地
川 三番地(かわ さんばんち、1957年1月15日 - )は、日本の漫画家。青森県三戸郡田子町出身。本名:田中敬三。 高校卒業後に印刷会社に就職するも漫画家を志し退職。上京し、ちばてつやのアシスタントとなった。 1980年、講談社新人漫画賞に本名である田中敬三名義にて「武道半人前」にて特別入選し、同年より『週刊少年マガジン』にて『男ぞ!硬介』の連載を開始した。初期のペンネームは「川 三番地」(かわ みつばち)。以降、講談社や秋田書店の少年誌を中心に執筆し、双葉社の『週刊漫画アクション』や日本文華社の青年誌でも執筆していた。 キャリア初期は下ネタ系のドタバタギャグが多かったが、1986年に連載開始した『4P田中くん』以降は、師匠ちばてつやの末弟である漫画原作者・七三太朗と組んだ少年誌での仕事が中心となり、その大半が高校野球を題材とした大長編野球漫画である。代表作は『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載された『4P田中くん』と、『月刊少年マガジン』(講談社)に連載された『風光る』(どちらも七三原作)。 2009年3月頃から病気療養のために一時活動を休止、連載中の漫画も休載したが、同年7月頃から活動を再開している。
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川原正敏
川原 正敏(かわはら まさとし、1960年8月17日 - )は、日本の漫画家。広島県三原市出身。国立広島商船高等専門学校航海科出身。血液型はA型。『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』においては自身の筆と挿絵による小説も手がけており、全1巻が刊行されている。 2009年、広島県三原市のふるさと大使の1人に任命される。
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川原由美子
川原 由美子(かわはら ゆみこ、1960年4月20日 - )は、日本の漫画家。北海道北斗市生まれ、東京都育ち。血液型はO型。 小学生の頃から漫画を書き始め、中学生の頃から投稿を始める。中学の頃から登校拒否をするなど学校が嫌いで、高校に進学するも1か月で辞めてしまった。原稿を持って『週刊少女コミック』(小学館)編集部へ見学に行ってアシスタントになりたいと訴えたところ河野やす子を紹介してもらい、8月から約1年半、アシスタントを務めた。アシスタント中も『週刊少女コミック』や『花とゆめ』などに持ち込みを続けた。 デビュー以前はSFっぽい作品を描いていたが、河野やす子の担当者に見せたところ、「マニアックな方面へ行きたいんだったらいらない」と言われ、路線変更。『週刊少女コミック』の「まんが研究生」に応募し、努力賞に選ばれた。もう1作描いた後、1978年、『週刊少女コミック』10号に掲載の「こっちむいてマリー!!」でデビュー。 1979年、『週刊少女コミック』に「風のおとしもの」を初連載。以後、同誌には『KNOCK!』『すくらんぶるゲーム』を連載。 1983年から『別冊少女コミック』(小学館)に『前略・ミルクハウス』を連載。1985年、同作で第31回小学館漫画賞少女部門を受賞した。 1990年代以降は『月刊ASUKA』(角川書店)や『ネムキ』(朝日新聞出版)などに作品を発表する。 1983年までは「川原由美子作品リスト」(『ぱふ』1984年3月号)参照
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神崎将臣
神崎 将臣(かんざき まさおみ、1964年8月17日 - )は、日本の漫画家。代表作は「KAZE」「重機甲兵ゼノン」シリーズなど。 1985年、少年ビッグコミック2号掲載の「HUNTER」でデビュー。
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神戸さくみ
神戸 さくみ(かんべ さくみ、1月1日 - )は、日本の漫画家。埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1980年、少年画報社『週刊少年キング』で「9ヶ月年上」(原作:さとう和久)にてデビュー。同年同誌にて初連載開始となった『龍一くんライブ』が7巻まで発行され著者の代表作の1つとなった。以降、1988年頃まで、同社や小学館の『ビッグコミック』などの少年誌を中心に連載や読み切りを執筆していた。 1989年頃より、主な執筆の場をこれまでの少年誌から女性をターゲットとした雑誌に切り替え、小学館の少女漫画誌や祥伝社の女性向け漫画雑誌『FEEL YOUNG』などにて1994年頃まで執筆していた。
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きくち正太
きくち 正太(きくち しょうた、1961年1月8日 - )は、日本の漫画家。秋田県平鹿郡大森町(現・横手市)出身。 大学卒業後から1988年4月に、『獣王バイオ』にて『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)よりデビュー。 漫画家の中でも非常に珍しいガラスペン愛用者。デフォルメされた特徴的な絵により、色気とギャグ(時代遅れの親父ギャグを含む)、最近は「和」に対する傾倒と蘊蓄を前面に押し出した作風が特徴(ガラスペンを用いるようになったのはこの作画に適した描線を描くためである)。根底には「義理、人情、努力」などの古よりある価値観の存在が感じられる。釣りに対する思い入れが大きい。 2008年、『おせん』が蒼井優主演により日本テレビ系でテレビドラマ化された。きくちはそのあまりの出来の悪さにショックを受け、一時活動を休止したことを後に語っている。(作者にとって作品(ここでは「おせん」)は子供でありその子供が嫁に行き、幸せになれると思っていたらそれが実は身売りだった。と述べている。) 作者の嗜好のせいか、作品中に眼鏡をかけた大人の女性や少女が登場することが多い。『ブラック・ジャック』のカバー作品では、ヒロインのピノコまで眼鏡をかけている。 ギタリストとしても音楽活動を行なっており、Acoustic Instrumental Trio「あらかぷ」を結成し、東京都内のライブハウスに出演している。 きくちは美味しんぼや、美味しんぼの登場人物、海原雄山のモデルとなった北大路魯山人の影響を受けていて、「おせん」では丸のままではなくパック詰めされた鰹節の削り節を買う人がいるから売っているとおせんに言わせたり、調味料についても食べたい物の選択肢を用意し、ハンバーガーを選択した場合「異常です。」とし調味料はすべて処分した方が舌が正常になり味がわかるようになるとおせんの巻末のおまけページに書いている。 また、実生活では調理家電についてミキサーや電子レンジを処分した事をおまけページで明かしている。
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菊池としを
菊池 としを(きくち としを、1960年〈昭和35年〉7月23日 - )は、日本の漫画家。愛知県東海市出身。本名は菊池 俊夫 政岡としやのアシスタントを経て、1983年講談社『週刊少年マガジン』に「スリー・シックスティ」が掲載されデビュー。 初連載作品は1985年より同社の『マガジンSPECIAL』にて連載開始された『蓮華伝説アスラ』。以降1995年ごろまでは同社の『週刊少年マガジン』やその増刊号である『マガジンSPECIAL』など少年誌を中心に執筆。当時としては珍しく、PCを駆使した作画もしていた。 1995年より執筆の場を集英社の青年誌である『ビジネスジャンプ』に移し約2年間『天空の門』を連載。 新宗教幸福の科学に入会したことを公表しており、1992年から幸福の科学のグループ会社、幸福の科学出版発行の雑誌『ザ・リバティ』などに現在も作品を発表している。 蓮華伝説アスラや天空の門では少年漫画のような画風だったが現在は写実的な画風が多い。
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喜国雅彦
喜国 雅彦(きくに まさひこ、1958年10月17日 - )は、日本の漫画家。香川県高松市出身。香川県立坂出高等学校を経て多摩美術大学油絵学科卒業。妻は同じく漫画家の国樹由香。 高校時代に、萩尾望都やガロ系の漫画を読み、漫画家を志望する。多摩美術大学在学中、漫画研究会でしりあがり寿、祖父江慎、しゅりんぷ小林らと知り合う。 1981年風雅名義にて、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に「ふぉ~てぃん」が掲載されデビュー。しかしその後は作品が雑誌に掲載されることはなく、しりあがりらと多摩美OB何名かで同人誌を刊行したところ、他の漫画家の作品と間違われて編集者に評価され、本人はまったく描いたことがなかったギャグ4コマを描き、『ビッグコミックスピリッツ』増刊号に読み切り作品「大人は分かってくれない」で再デビューする。翌1987年より『週刊ヤングサンデー』(小学館)にて4コマ漫画『傷だらけの天使たち』を連載。一躍人気ギャグ漫画家となる(後にジャパンホームビデオよりアニメ化18話+実写化13話から成るビデオが発売される)。 1980年代末から1990年代初頭にかけて、『別冊近代麻雀』(竹書房)にて名作漫画をパロディにした麻雀漫画を多数発表。これもまた評判を呼び、『mahjong まんが王』『mahjong まんが大王』として出版された。 1989年にみうらじゅんなどと組んだバンド大島渚で、ベーシストとしてイカすバンド天国(TBS)に出場。その後、同バンドによる「カリフォルニアの青いバカ」でベストソング賞を受賞する。 1990年に竹書房から月刊誌風の単行本『YOUNGキクニ』が発売されて話題となった。 1994年に初の非ギャグ作品である『月光の囁き』が連載開始に。この作品は1999年に塩田明彦監督により実写映画化された。 以降、現在までギャグ漫画を中心に活動。近年は探偵小説の古書収集の趣味を生かしたマニアなエッセイも手がける。その趣味もあってか、新本格派ミステリー作家に友人が多く、本格ミステリ作家クラブ及び日本推理作家協会の会員でもある。綾辻行人、竹本健治、我孫子武丸など、ミステリ作品の装画や挿絵を多数手がけている。 2023年秋、自身の視力低下及び体調の衰えを原因とし、漫画家を引退することを発表。但し、BURRN!連載中の『ROCKOMANGA!2』のみ連載を継続。
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北崎拓
北崎 拓(きたざき たく、本名同じ、1966年7月27日 - )は、日本の漫画家。兵庫県芦屋市出身。男性。血液型はAB型。 漫画家としてデビューする前は、「北崎ひろみ」「北崎拓美」のペンネームで、『月刊ホビージャパン』『模型情報』の読者投稿欄にイラストを投稿していた。
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衣谷遊
衣谷 遊(きぬたに ゆう、本名:池本裕治、1962年 - )は、日本の漫画家。愛媛県北宇和郡松野町出身。
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九月乃梨子
九月 乃梨子(くがつ のりこ、1964年9月5日 - )は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。主に少女漫画などを執筆していた。 水樹和佳のアシスタントを経て、1987年集英社の少女向け漫画誌『ぶ〜け』の「Monotone」にてデビュー。以降、1993年まで同誌を中心に執筆していた。1995年頃より、祥伝社の女性向け雑誌である『FEEL YOUNG』に移籍し作品を執筆していた。代表作は、『ぶ〜け』にて6年連載されたマイペースで天真爛漫な短大生(のちにOL)庭子とそのボーイフレンド山本くんとのコメディー「まぬけんぼう庭子の記録『...点点点』」。九月っちゃんの愛称で作品内にて本人もしばしば登場し、担当者との旅行エッセイ記録漫画も多数収録されている。
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くじらいいく子
くじらい いく子(くじらい いくこ、1958年3月20日 - )は、日本の漫画家。東京都新宿区出身。女性。青年漫画誌を中心に作品を発表している。 中学のときから漫画を描き始める。その後、OLとして会社に勤めていたが、1978年『タナーのねこのたなた』(『ちゃお』)でデビュー。ペンネームは漢字だったが、雑誌掲載時にひらがなにされていたという。
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楠桂
楠 桂(くすのき けい、本名:大橋真弓、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。愛知県丹羽郡岩倉町(現・岩倉市)出身・在住。同じく漫画家の大橋薫とは一卵性双生児の姉妹で、自身はその妹。代表作に『八神くんの家庭の事情』、『鬼切丸』など。 小学3年生の頃より漫画を描き始め、中学3年生の頃よりペンを使いはじめる。1981年に15歳で集英社の第14回りぼん新人漫画賞で準入選を受賞する。その後「何かが彼女にとりついた?」でデビュー。集英社、新書館、ラポートなどで活躍するが、徐々に活動ジャンルを少年誌・ヤング誌に移す。 既婚で娘と息子がいる。これら家族のエピソードはエッセイ本として刊行されている。
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紅林直
紅林 直(くればやし なお、1971年11月18日 - )は日本の漫画家。男性。 静岡県出身。妻は漫画家の仙道ますみ。公益社団法人日本漫画家協会所属。『週刊少年サンデー』(小学館)でデビュー。代表作の『嬢王』は2005年、続編『嬢王Virgin』も2009年にテレビドラマ化されている。 2016年7月公開の短編映画『風のように』のトークイベントが、同月に東京都の下北沢トリウッドにて開催。イベントで紅林も登壇し、トークを行った。 2019年6月4日、実写映画『アルキメデスの大戦』を上映する「漫画家特別試写会」が開催。原作者の三田紀房が漫画家仲間を試写に案内し、紅林も参加。
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黒岩よしひろ
黒岩 よしひろ(くろいわ よしひろ、1962年9月9日 - 2018年5月8日)は、日本の漫画家。男性。長野県上水内郡信州新町(現・長野市)出身、血液型O型。代表作に『鬼神童子ZENKI』(谷菊秀原作)など。 桂正和の下でアシスタントを務めながら自身の作品を投稿し、1983年に『ビューティビースト』で第26回手塚賞佳作、『舞子ミステリアス』でフレッシュジャンプ賞入選を受賞。『週刊少年ジャンプ』(集英社)でデビューを果たす。 作風や絵柄については桂の他、永井豪などの影響を受けている事を単行本の後書きなどで自ら語っている。テーマとしてはオカルト物、演出的には特撮的なテイストが入っている作品が多い。 後に『ジャンプ』専属を離れて児童漫画から成年コミックまで幅広いジャンルを手がけるようになる。 2018年5月8日、心筋梗塞のため死去。55歳没。同月16日にブログにおいて黒岩の妻から公表された。
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現代洋子
現代 洋子(げんだい ようこ、1964年11月3日 - )は、日本の漫画家。三重県四日市市出身。 三重県立四日市南高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。在学中は早稲田大学漫画研究会に所属。元々は漫画家希望ではなく、一条ゆかりに会えるという子供の頃からの夢もあり、雑誌編集者希望で、大学時代に1年間『漫画サンデー』編集部でアルバイトをしていた。編集者になるためにアピールするという目的で漫画を描いて投稿したところ、デビューが決まってしまったとインタビューで答えている。ペンネームの由来は投稿時、ペンネームを決める際に、そばに就職活動で希望であった出版社の受験向けに勉強していた際に利用していた、現代用語の基礎知識という本があったことからとされる。 1986年集英社「オールマーガレット新人まんが大賞」にて、準グランプリを受賞。同年、『ザ・マーガレット』で『19 1/2(ナインティーン・ハーフ)』でデビュー。集英社の女性向け漫画雑誌での連載が多いが、『コーラス』で「ともだちなんにんなくすかな♪」を連載していた際、小学館の編集者八巻和弘の誘いにより、男性向け漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』に、著名人のインタビューを漫画にした「おごってジャンケン隊」を連載したことで、男性にも有名になった。 1998年「ともだちなんにんなくすかな♪」を通じて知り合った夫と結婚。現在、二女の母。夫の従妹が声優の倖月美和で、結婚式では司会を務めたとのこと。けらえいこは大学の先輩に当たる。 中日ドラゴンズ、水戸泉の大ファン。 容姿が光浦靖子に似ており、かつて「おごってジャンケン隊」に光浦がゲストでやってきた際には、光浦から借りた眼鏡をかけた現代の写真が掲載され、そのそっくり度合いがアピールされたこともある。
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郷田マモラ
郷田 マモラ(ごうだ マモラ、本名:上之郷 守(かみのごう まもる)、1962年 - )は、日本の漫画家である。 三重県伊勢市出身、東京都在住。血液型B型。大阪総合デザイン専門学校でグラフィックデザインを学び、卒業。フリーのイラストレーターとして活動した後、1993年に『虎の子がゆく!』がちばてつや賞一般部門大賞を受賞、『花の咲く庭』がミスターマガジンの新人漫画賞入選を受賞し、二誌同時デビューとなった。 1998年、女性監察医の活躍を描いた『きらきらひかる』がフジテレビ系にて深津絵里主演によりドラマ化。2005年、『MAKOTO』が君塚良一監督、松竹配給のもと映画化。 2007年には拘置所の新人刑務官と死刑囚の友情を描いた『モリのアサガオ』で、平成19年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞。2008年、生野慈朗監督、ギャガ・コミュニケーションズ配給による映画化されたのに続き、2010年にはテレビ東京系にて伊藤淳史主演・テレパック制作によりドラマ化される。 2013年4月から5月にかけて、自身の事務所で女性アシスタントに陰茎を手淫させるなどの猥褻な行為をしたり、野球の硬球を投げつけ、突き飛ばして後頭部を蹴るなどの暴行をしたとして、強制猥褻や傷害により6月5日に逮捕された。8月27日、東京地裁立川支部により懲役3年・執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。判決直後は被害者への謝罪と、今後はペンネームを変えてやり直すとしていたが、判決が公告された翌年、原作者として『ニコラオスの嘲笑 警部補・森村つぐみ』を週刊女性8/26号より連載を開始し、わずか1年と経たない内に前言を撤回する行動をとった。 2017年よりcomicoにて原作者として『「卒業」ぼくらと、ことりの物語』を連載するが2018年7月9日を以て連載終了となり、2018年より『[poor] (プア)ゼラニウムの誘惑』を連載、2021年完結。 2021年、『モリのアサガオ2』が執筆され、『モリのアサガオ』の続編として描かれている。 趣味は音楽鑑賞。好きなアーティストにさねよしいさ子、モーツァルト、スコット・ジョプリンを挙げている。スポーツ観戦も趣味。いとこにドールハウス作家の工藤和代がいる。
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郷田マモラ
2021年、『モリのアサガオ2』が執筆され、『モリのアサガオ』の続編として描かれている。 趣味は音楽鑑賞。好きなアーティストにさねよしいさ子、モーツァルト、スコット・ジョプリンを挙げている。スポーツ観戦も趣味。いとこにドールハウス作家の工藤和代がいる。 物語は大阪の町を舞台に展開し、大半の人物のセリフは関西弁となっている。作中に登場する「根古田区」は架空の町。作画には穂先が1cmの面相筆を使用している。
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コージィ城倉
コージィ 城倉(コージィ じょうくら、1963年 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。長野県出身。初期のペンネームはコージィ♡城倉(『おれはキャプテン』開始時に♡を外す)。漫画原作者としてのペンネームは森高 夕次(もりたか ゆうじ)。 長野県赤穂高等学校卒業後、デザイン系専門学校に2年間通う。卒業後はグラフィックデザイナーとして働くが、勤務先の経営不振に危機感を感じて出版各社へ漫画を持ち込み、25歳でスピリッツ賞の佳作となる。1989年に『男と女のおかしなストーリー』でプロデビュー。初期はヤングサンデー、ヤングマガジンなどの青年誌で執筆していたが、週刊少年サンデー連載の『砂漠の野球部』で異彩を放ち、以後、野球漫画を多く手掛けている。2023年現在は、グランドジャンプにて『キャプテン2』を連載中。 その一方、漫画原作者としても『おさなづま』がヒットし、漫画家活動とほぼ並行する形で現在まで続いている。 代表作は『砂漠の野球部』『おれはキャプテン』『ももえのひっぷ』、漫画原作の代表作に『グラゼニ』、『おさなづま』などがある。 東京ヤクルトスワローズのファンで、TBSラジオとヤクルト戦中継が多いニッポン放送を聴いており、『鶴光の噂のゴールデンアワー』のアシスタントだった田中美和子の大ファンで、2013年9月15日の『ニッポン放送ショウアップナイター』にゲスト出演して神宮球場で田中と対面した。 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)2007年第34号において、森高夕次名義でイラストを描いている。
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こしたてつひろ
こした てつひろ(1965年3月8日 - )は、日本の漫画家。岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里出身、埼玉県蓮田市在住。 1985年、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)誌上にて、『拝啓サラダボーイ』でデビュー。少年誌から児童誌へ活動の場を移し、『炎の闘球児 ドッジ弾平』で第37回(平成3年度)小学館漫画賞受賞。作品に『炎の闘球児 ドッジ弾平』、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』などがある。 『ドッジ弾平』でドッジボールブームを、『レッツ&ゴー』でミニ四駆ブームを起こすなど、特に1990年代に第一線で活躍した漫画家である。
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こせきこうじ
こせき こうじ(1959年2月5日 - )は、日本の漫画家。千葉県八街市出身。 1978年、『ああ一郎』が第16回手塚賞準入選(同期受賞者に門馬もとき)、1980年より同作品でデビュー。 代表作に『ペナントレース やまだたいちの奇蹟』、『県立海空高校野球部員山下たろーくん』など。
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小谷憲一
小谷 憲一(こたに けんいち、1954年2月10日 - )は、日本の漫画家。京都府宮津市出身。血液型はAB型。 宮津市で生まれ、小学生の頃までは漫画らしい絵を描く程度で中学・高校の頃も漫画を時々読む程度であり、漫画執筆とはおよそ縁の遠い少年時代だった。高校卒業後、絵を描くことが好きだったことから京都市のデザインスタジオに就職する。しかし講師の指導内容に納得が行かず、従わない事がしばしばあった。結果、19歳の時に講師と喧嘩になり「東京へ行って勉強して来い」と言われ、スタジオを追い出される。 追い出された当初は漫画の道に進む事も考えていたが、親の反対と親戚が清水焼の職人をしていた事もあって一時は陶芸の道に進む。だが、どうしてもデザイン(描く仕事)がしたかった小谷は、全財産の8万円を持って東京へ飛び出す。親の支援も無く、小谷は背水の陣の思いの中での決意だった。 東京に出てきた当初は、銀座のクラブで働きながら漫画を描き、時に投稿などを行うという生活を送っていた。そんな生活を送る中、22歳の時に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に掲載されていた手塚プロダクションのアシスタント募集の広告を目にし応募、採用されアシスタントの一員となる。手塚プロには1年ほど在籍しており、小谷にとっては実り多い時期であったが、「自分の目指す絵の方向性と異なるのではないか」という考えと、「保障された生活では甘えが出るため自分を追い込みたい」との考えにより手塚プロを離れ、再び銀座のクラブで働きながら、他の漫画家のアシスタントや漫画の投稿などを行う生活に戻る。 編集者との縁もあって、小谷が23歳の時に『週刊少年ジャンプ』(集英社)1977年20号にて読切作品「山犬狩り」が掲載されデビュー。翌1978年には『週刊少年ジャンプ』37号に読切作品「黒獅子魂」を掲載し、同年同誌43号から1979年2号まで掲載された『渡り教師』(原作:高山芳紀)での連載デビューを経て、『週刊少年ジャンプ』1979年31号より代表作『テニスボーイ』(原作:寺島優)の連載を始める。以後、『週刊少年ジャンプ』や『月刊少年ジャンプ』、『スーパージャンプ』等の集英社の漫画雑誌を中心に執筆活動を続けている。
758
小手川ゆあ
小手川 ゆあ(こてがわ ゆあ、1月12日 - )は、日本の女性漫画家である。大分県出身、熊本県熊本市育ち。血液型はO型。代表作に『おっとり捜査』、『死刑囚042』、『ARCANA』など。 1995年、「週刊ヤングジャンプ増刊・漫革」9/5号に『おっとり捜査』を初掲載。その後何回かの読み切りを掲載した後、1996年の「週刊ヤングジャンプ」33号にて連載開始。「漫革」1997年9/26号より増刊不定期連載へ移行し、「別冊ヤングジャンプ」2000年8/15号にて最終回を迎える。同年「月刊少年エース」9月号で『Anne・Freaks』を連載開始。また、同時期に「週刊ヤングジャンプ」にて月イチ連載として『ARCANA』を連載開始。その後、2002年から「週刊ヤングジャンプ」にて『死刑囚042』を単発的に連載し、2004年に完結する。2007年には歌人・枡野浩一の小説が原作の『ショートソング』を「スーパージャンプ」にて連載。2009年から2013年にかけて「スーパージャンプ」、後「グランドジャンプPREMIUM」にて『君のナイフ』を連載。 デビュー作である『おっとり捜査』は今も根強い人気を誇る。また『死刑囚042』は死刑囚を通じて生と死を描いた彼女の新たな代表作となった。 漫画家の仙道ますみ、竹田エリと交友がある。竹田エリには『おっとり捜査』や『ARCANA』の巻末に四コマ漫画を描いてもらっている。
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小林まこと
小林 まこと(こばやし まこと、1958年〈昭和33年〉5月13日 - )は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。本名:小林誠。主に講談社の漫画雑誌にて執筆。プロレス、格闘技好きで知られる。 郷里では小ん林(こんばやし)と呼ばれる。歌手の小林幸子とは親戚に当たる。 小学生の頃から漫画を200ページほどペン入れしていたが、楳図かずおの影響が濃い少女漫画風恐怖漫画ばかりだった。作品タイトルには野山の遊び相手の一人であるヘビの名ばかりを使い、作品の主題歌まで作っていた。 黒埼町立(現:新潟市立)黒埼中学校時代も続けてヘビの名を使った作品を描き、その作品で『りぼん』の新人賞に応募して努力賞に入賞、その賞金5千円で学生服を買う。 新潟県立新潟商業高等学校時代は柔道部に入り、その経験が『格闘三兄弟』『柔道部物語』など後の作品に生きた。柔道を続けながら、やはりヘビの名を使った144ページの怪奇物の大作『シロマダラ』を描き、高校2年生の時小学館に持ち込む。この作品はプロデビュー後に編集者の栗原良幸に見込まれ、描き直しを経て「月刊少年マガジン」で大々的に連載したが、無理なスケジュールが祟って中断となった。 高校卒業後には上京し、望月三起也に頭を下げてアシスタントにしてもらったものの、本人曰く仕事が「きつい」とのことから2か月で退職した。漫画以外のアルバイトを1か月続けてはきつくて辞めるを繰り返す間に描きあげた怪奇物の作品を各誌に持ち込むが、どこにも採用されなかったため、小学生時代から描き続けてきた恐怖漫画を断念する。 そこで開き直って、音楽バンドをテーマにしたコメディ漫画『格闘三兄弟』を、子供の頃から好きだった「週刊少年マガジン」に持ち込むと、編集者の工富保にそのキャラクターを見込まれる。そして、工富に話した「高校時代、柔道部の試合でブレーンバスターをかけられて負けた」という実体験をヒントに、格闘技をテーマにして新たに描き直した『格闘三兄弟』で第20回週刊少年マガジン新人漫画賞に応募する。この時の「週刊少年マガジン」は創刊1000号記念で、賞金が普段の30万円から、100万円+ステレオセットというビッグプライズになっていた。当初小野新二が有利と見られていたが、小林の応募で受賞者選びは難航した。最後は決選投票で小林の入選(1位)が決まり、1978年に同誌でデビューを果たした。
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小林まこと
『格闘三兄弟』掲載後、引き続き同誌でこの作品の主要キャラクター達を登場人物とした『1・2の三四郎』の連載を始める。この作品で、1982年に第5回講談社漫画賞少年部門を、『週刊少年マガジン』連載の漫画家としては史上最年少の23歳で受賞した。1995年には、市川徹監督、佐竹雅昭主演により映画化されている。 『What's Michael?』は、アニメ化・CM・テレビドラマ化されるだけでなく、日本国外にも輸出されるほどのヒット作となり、1987年に第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。 体力的な問題で一時期漫画家を引退していたが、『JJM 女子柔道部物語』の執筆のために復帰した。
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小山ゆう
小山 ゆう(こやま ゆう、本名:大竹 由次(おおたけ よしじ)、男性、1948年2月20日 - )は、日本の漫画家。静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)出身。 代表作は『がんばれ元気』『お〜い!竜馬』『あずみ』など。『がんばれ元気』『おれは直角』『お〜い!竜馬』はテレビアニメ化され、『あずみ』は上戸彩主演で映画化された。 ペンネームの「小山ゆう」は、恩人である小池一夫の「小」、友人の山本又一朗の「山」、そして自身の本名である由次(よしじ)の「ゆう」を組み合わせたものである。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)で専業農家の長男として出生。静岡県立島田商業高等学校卒業後、作曲家を目指して上京した。上京まで漫画はほとんど読まず、興味も薄かったという。 上京後、新聞広告で見て入ったアニメ制作会社のテレビ動画株式会社でアニメーターのアルバイトを1年ほどする。休憩時間中にさいとう・たかをの『無用ノ牙』の模写をしていたのがきっかけで、1968年にさいとう主宰の「さいとう・プロダクション」を紹介され。アシスタントとして漫画の世界へ入り、漫画家を目指す決意をする。3年半後、さいとうプロの友人だった山本又一朗とやまさき拓味と3人でオリオンプロを設立し、キャラクター商品のデザインや挿絵やカットの仕事を請け負うも1年半で廃業。1971年、漫画の仕事をするため、先にさいとうプロを独立していた小池一夫のスタジオシップ(現・小池書院)へ3人で移籍した。 1973年、『週刊少年サンデー』に掲載の『おれは直角』でデビュー。ペーソス溢れる作中のギャグ調の描写で人気作となる。同作連載終了後の1976年にスタジオシップを退社。 1976年から『週刊少年サンデー』誌上で連載開始した、ボクシング漫画『がんばれ元気』では一転してギャグを使わず、少年の成長物語を描いた。同作は5年間の長期連載作となり、1977年には第22回小学館漫画賞少年少女部門を受賞。そして、1980年に自身初のテレビアニメ化作品になった。このころ、『週刊少年ジャンプ』の西村繁男編集長や本宮ひろ志に見込まれ、手塚賞の審査員を務めたが、引き抜きには応じなかった。
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小山ゆう
1976年から『週刊少年サンデー』誌上で連載開始した、ボクシング漫画『がんばれ元気』では一転してギャグを使わず、少年の成長物語を描いた。同作は5年間の長期連載作となり、1977年には第22回小学館漫画賞少年少女部門を受賞。そして、1980年に自身初のテレビアニメ化作品になった。このころ、『週刊少年ジャンプ』の西村繁男編集長や本宮ひろ志に見込まれ、手塚賞の審査員を務めたが、引き抜きには応じなかった。 1980年代はディストピアSF漫画『愛がゆく』、スピリチュアル陸上漫画『スプリンター』、青春ファンタジー漫画『チェンジ』などで異彩を放っていたが、『少年ビッグコミック』が青年漫画誌『ヤングサンデー』へリニューアルし、久々に『週刊少年サンデー』で連載した『少年』が不可解な打ち切りになるなど、少年漫画誌の地殻変動を受けたこともあり、1990年代に入ると『ビッグコミック』系の青年漫画誌へホームグラウンドを移していく。 1986年から1996年にかけて、大好きだという坂本龍馬を主人公とした『お〜い!竜馬』を武田鉄矢を原作担当に迎えて連載。 1991年には『おれは直角』が、1992年には『お〜い!竜馬』がそれぞれテレビアニメ化された。 1994年から『ビッグコミックスペリオール』誌上で連載開始した『あずみ』は、長年の念願だったというチャンバラの時代劇漫画だった。同作で1998年に、第43回小学館漫画賞青年一般部門と第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。さらに2003年と2005年には旧友の山本又一朗のプロデュースにより映画化されるなど、続編も含めてシリーズ合計66巻の大長編となった。
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近藤和久
近藤 和久(こんどう かずひさ、1959年4月2日 - )は、日本の漫画家。愛知県豊田市出身。男性。 1983年、講談社の第8回ちばてつや賞ヤング部門で佳作賞を受賞。翌1984年にSF作品『THE マシーン』(雑誌未掲載)でコミックボンボン新人賞の大賞を受賞後、ホラー漫画『血を吸うマンション』(コミックボンボン1984年10月号)でデビュー。1984年11月号から『機動戦士ガンダム MS戦記』を全4回で連載、続く1985年3月号からは『機動戦士Ζガンダム』を1年間連載。以降、主にアニメ『機動戦士ガンダム』シリーズを題材にした漫画作品を手がけ、アニメ『機動戦士Ζガンダム』にはメカニックデザイナーとしても参加している(「ジムII」原案、「Ζガンダム」変形修正案など)。 大友克洋や小林源文などに強い影響を受けた画風で、ミリタリー色の強い描写と独自の解釈によるアレンジされた兵器が特徴。特に『機動戦士ガンダム MS戦記』で発表したハードディテール版ザクIIの意匠は当時の読者に衝撃を与え、ガンダムシリーズの漫画作品における独自にアレンジされたモビルスーツは「近藤版」と呼ばれ、ガレージキット化もされている(なお、近藤の後発作品に登場するザクIIは、この「近藤版」よりかなり線が減らされている)。
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さいとう・たかを
さいとう・たかを(本名:齊藤 隆夫〈さいとう たかお〉、1936年〈昭和11年〉11月3日 - 2021年〈令和3年〉9月24日)は、日本の漫画家。和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。東京都中野区、岩手県花巻市在住。 貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、劇画界の代表的人物である。また「さいとう・プロダクション」を設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立した。 1936年(昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山市に生まれるが、生後まもなく転居し、のちに大阪府堺市に移り住む。さいとう自身は43歳になるまで和歌山で生まれたことを知らなかった。 父親はさいとうが幼い時に家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで子供5人を育てた。小さい頃は図画工作(美術)科目とケンカが得意の、いわゆる不良少年であり、将来の夢はボクサーか画家になることであった。中学時代には府の絵画展で金賞を獲得している。 1950年に堺市立福泉中学校を卒業し、実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく将来の夢は挿絵画家だったが、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感 から、当時はまっていた映画や進駐軍が持ち込んだ「10セント・コミックス」に影響を受け、ストーリー漫画を志す。 同時期に手塚治虫(同じ誕生日でもある)の『新寶島』を見て衝撃を受け、「紙で映画が作れる!」と興奮したという。当時のさいとうは手塚の影響を受け、柔らかなタッチの絵を描いていた。 1952年には家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を、大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。
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さいとう・たかを
1952年には家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を、大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。 1956年には漫画に専念するために家業の理髪店を辞めるが、母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになった。さいとうによれば、自身が漫画家として大成した後も「母親は漫画家という職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった」と述べている。 同年には、辰巳ヨシヒロや松本正彦らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始めた。当時、さいとうは高校生だった川崎のぼるをアシスタントとして働かせていたが、さいとうの人使いが荒かったことから、川崎は早々に逃げ出している。 1958年(昭和33年)先輩漫画家の久呂田まさみに連れられて上京、東京都国分寺市のアパートに居を構える。1959年、国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家のさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、松本正彦ら8人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して多数の貸本劇画短編集を出版するが、組織論や仕事配分、ギャラの分配などで揉め、翌年1960年春に劇画工房は短期で分裂した。 「劇画工房」の分裂後、佐藤まさあきや川崎のぼる、南波健二、ありかわ栄一ら、ガンアクション系の劇画家5人で新・劇画工房の設立を計画するが、頓挫。その計画を元に1960年(昭和35年)、東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立した。さいとうの組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、さいとうの兄の斉藤發司がマネージャーを務めることになる。以後、多数の貸本劇画を出版する。中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博した。
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さいとう・たかを
1962年(昭和37年)、貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。メンバーはさいとう・たかを、横山まさみち、永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志、都島京弥、いばら美喜、山田節子、武本サブロー、影丸譲也、他。もっとも、この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違い劇画家の親睦のための団体であり、一般読者会員にも会報などを発行していた。 貸本業界が傾き始めた1963年、ボーイズライフ連載の『007』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。1967年には時代劇アクション劇画『無用ノ介』(『週刊少年マガジン』)を連載。劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作となった。 その後、1968年(昭和43年)10月より連載開始の『ゴルゴ13』(『ビッグコミック』)は、さいとうにとっての代表作であり、日本の「劇画」の代名詞となる。『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、1976年(昭和51年)1月に1975年度小学館漫画賞の青年一般部門、2005年(平成17年)1月に2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞し、2021年(令和3年)7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定された。 21世紀に入ると『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の3作の長期連載を軸に活動、大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開した。 しかし、2008年に武本サブロー、2014年に石川フミヤスと、長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去したこともあって、さいとうの作業量が増加した。そのため2015年2月、体力的な負担を理由に『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定した。残り2作品の連載執筆に専念しつつ(これらもページ数を減らしている)、『梅安』再開も模索したが、結局体力の限界を理由に2016年3月『梅安』連載終了を告知した。 そうした状況であったが、最晩年の2021年7月から『ビッグコミック増刊号』(元は『ビッグコミック』本誌と並行して『ゴルゴ13』を連載していたが、上述の事情で新作を休止していた)にて、『ゴルゴ13』のスピンオフ作品である『銃器職人・デイブ』の連載を開始している。
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さいとう・たかを
そうした状況であったが、最晩年の2021年7月から『ビッグコミック増刊号』(元は『ビッグコミック』本誌と並行して『ゴルゴ13』を連載していたが、上述の事情で新作を休止していた)にて、『ゴルゴ13』のスピンオフ作品である『銃器職人・デイブ』の連載を開始している。 2021年9月24日、膵臓がんのため死去。84歳没。連載中の『ゴルゴ13』については「自分抜きでも続いていってほしい」とのさいとうの遺志に沿い、さいとう・プロダクションと脚本スタッフ、連載元の『ビッグコミック』編集部の協力体制で連載を継続させていくという。 もう一つの連載作品である『鬼平犯科帳』も同年9月30日に連載の継続がリイド社公式サイトで発表された。さいとうが確立した漫画制作の分業制は、自身の死をもって究極の形となった。 2021年10月26日、日本国政府は正六位に叙することを閣議決定した。 株式会社さいとう・プロダクションは、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた漫画制作プロダクションである。 漫画アシスタントは低賃金長時間労働が一般的であるが、さいとう・プロダクションは雇用条件に気を配っており、スタッフの待遇の良さには定評がある。分業で漫画制作することによって、無理なく長期連載を請け負うことが出来ているゆえに可能なビジネスモデルである。 例えば、手塚治虫が手塚プロダクションで漫画作品を描いた場合には、手塚治虫個人の名前だけが作家名として表記されるのが常であったが、さいとう・プロダクションの作品の場合は、最後のページでスタッフ一覧のクレジットタイトルが映画作品と同様に示されている。ただし、単行本ではこれらのクレジットは削除されており、単なる余白となっている。 さいとうが亡くなった現状、作画スタッフがキャラの顔を似せて描こうとすると1時間近くかかるため、大量にストックされている顔をトレースして描いているという。 下記に、鬼平犯科帳の制作工程を挙げる。 さいとう・プロには作画スタッフが総勢10名いて、それとは別に下書きを担当するひきの・しんじが鬼平の脚本を読んで、鉛筆で下書きを描くという。それを作画チーフのふじわら・よしひでと、双子の兄である藤原輝美がチェックし、構図を鬼平流にアレンジする。
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さいとう・たかを
下記に、鬼平犯科帳の制作工程を挙げる。 さいとう・プロには作画スタッフが総勢10名いて、それとは別に下書きを担当するひきの・しんじが鬼平の脚本を読んで、鉛筆で下書きを描くという。それを作画チーフのふじわら・よしひでと、双子の兄である藤原輝美がチェックし、構図を鬼平流にアレンジする。 構図が決まると、「背景」担当の白川修司、「主要キャラ」担当の木村周司、「脇役キャラ」担当の宇良尚子に原稿を渡す。白川と宇良が中心になり、作画をそれぞれ別のスタッフに割り振る。 キャラが描かれて背景がすべて入ったら、最後は仕上げとなり、スタッフ全員でトーン貼り・ベタ塗り・修正を施していく。下書きから原稿完成まで、だいたい7日くらいかかるという。 余談だがさいとうたかをは主人公の目しかかかないと称されることもあるが、これは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で登場する漫画家と作者である秋本治がさいとうの熱心なファンであることから結びついた都市伝説の類である。 以下はさいとう・プロダクション公式サイト内、制作スタッフ(2021年3月 閲覧)を参照にして記述、このページでの紹介順、さいとう自身と物故者の石川フミヤスは除く リイド社はさいとう・プロダクションの出版部門が分社化されたものであり、さいとうの兄の斉藤發司がリイド社およびさいとう・プロダクションの代表取締役社長を務めてきた。2016年に發司が死去したことを受け、發司の長男で専務取締役(当時)だった斉藤哲人が社長を引き継いでいる。 設立当時、大手出版社では漫画雑誌の出版がメインで、単行本を出版するということをあまりしていなかったため、その当時からの慣例で、さいとうの漫画は他社の雑誌に連載されている作品であっても単行本はリイド社から出版されている(『ゴルゴ13』は、小学館『ビッグコミック』連載で、単行本はリイド社、小学館でも一部再刊)。
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斉藤富士夫
斉藤 富士夫(さいとう ふじお、1961年5月21日 - )は、日本のギャグ漫画家。新潟県白根市(現在の新潟県新潟市南区)出身。新潟県立新潟江南高等学校→法政大学文学部卒業。 1984年、『俺はドラマティック』(マガジンSPECIAL)でデビュー。 1992年、『激烈バカ』のVシネマ『吉本軍団激烈バカ』に出演した。
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三枝義浩
三枝 義浩(さえぐさ よしひろ、1967年 - )は、日本の漫画家。代表作に『キムンカムイ』。 2008年よりペンネームを奥井 義浩(おくい よしひろ)に変更しネット配信漫画を執筆している。 1989年、講談社の漫画雑誌『マガジンSPECIAL』掲載の『毎度ラーメン屋です』でデビュー。『毎度ラーメン屋です』はコメディタッチの作品だった。長期連載作品として『毎度ラーメン屋です』と『キムンカムイ』のほか、1~2話完結の実話をもとに描いたドキュメントシリーズを『週刊少年マガジン』上で定期的に執筆しており、その内容は反戦運動を主体とした戦争作品と医療・福祉・環境系をテーマにした作品などである。 全作品「三枝義浩」名義で執筆している。
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酒井美羽
酒井 美羽(さかい みわ、1956年2月23日 - )は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。女性。本名・来栖涼 東京デザイナー学院卒業後、山田ミネコ、忠津陽子、田中雅子らのアシスタントを経験。1977年、「ロリオン」で第2回白泉社アテナ大賞第2席に入賞。1978年、『花とゆめ』(白泉社)9号に掲載の「2年の春」でデビュー。以後、『花とゆめ』などに少女漫画作品を掲載。後に『Silky』(白泉社)、『YOU』(集英社)などでレディースコミック作品を描く。恋愛をテーマとした作品を得意とする。『ミステリーボニータ』(秋田書店)2020年12月号より「酒井美羽の少女まんが戦記」をスタートした。 酒井が定番としている設定の一つに「年の差カップル」の存在が挙げられる。この年の差カップル設定は、酒井が中学生の頃に読んで夢中となったシャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』が原点となっているという。年の差カップルをメインに掲げた初期作品としては、2年近く連載された『ミルクタイムにささやいて』を含む「ミミと州青のラブコメディ」シリーズ(年齢差は12歳)が挙げられる。より後期の作品としては『抱いて抱いて抱いて♥ダーリン』(年齢差は18歳)が挙げられ、この作品を作成したきっかけは年の差カップルの決定版を描きたかったからだと酒井は語っている。
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坂口いく
坂口 いく(さかぐち いく、12月31日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。神奈川県出身。代表作に『闇狩人』など。 1982年、第23回手塚賞佳作(『BREAK A ROAD』)。 集英社の子会社。冊子の編集・出版を請け負い、販売は集英社から行われる。 東京三世社の子会社。倒産後、親会社に統合。
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坂田靖子
坂田 靖子(さかた やすこ、1953年2月25日 - )は、日本の漫画家。女性。 ポスト24年組の一人に数えられる。短編が多く、コメディからシリアスまで多岐にわたる。ユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ナンセンス性、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図など評価が高い。同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた。現在も石川県金沢市在住。 大阪府高槻市出身。幼児の頃から本が好きで、保育園に入る前にマンガを読み始めていたという。小学校に入る2年ほど前に、水野英子の少女漫画『星のたてごと』を読み感動。中学3年生の時に初めてマンガ友達ができ、漫画を描いて見せあうようになる。石ノ森章太郎の本で手書きの原稿を綴じて回し読みする「肉筆回覧誌」を知り、雑誌の読書コーナーでメンバーを募り20人ほどで活動を始め、中学3年生の時に漫画研究会ラヴリを創設。高校生の時16歳で初の肉筆回覧誌を発行。漫画の描き手を探し回り、17歳で花郁悠紀子と出会い大親友となる。
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坂田靖子
萩尾望都の熱烈なファンで、1971年(当時高校生18歳)の冬に、萩尾ら24年組の少女漫画家が集まって住んでいた通称・大泉サロン(大泉学園)を花郁悠紀子と共に訪問、その後夏に花郁と共に長期で滞在し食事や原稿の手伝いをする。漫画研究会ラヴリには、花郁悠紀子、橋本多佳子 (漫画家)、小沢真理、岡野史佳といったのちのプロ作家が参加し、地方都市金沢で活動しながら70年代後半には同人界で全国的に知られるレジェンド的存在となった。1975年、『花とゆめ』掲載の「再婚狂騒曲」でデビュー。デビュー時の編集長・小長井信昌は漫画界のベテランであったが、坂田のマンガはよくわからないが、読者は面白いと言っているので好きなように描くようにと言い、一般受けする学園ラブコメなどを描くよう強制することも全くなかった。坂田は深く尊敬する編集長のもとで自由に創作し、小長井が1976年に創刊した新雑誌『LaLa』に創刊メンバーとして参加。1979年から、ラヴリの同人誌が肉筆回覧誌からオフセット印刷になり、同人誌「ラヴリ」は1990年代初頭までに50冊弱刊行された。(ラヴリから「やおい」という言葉が生まれた。参考:やおい#やおいという言葉の誕生)白泉社との専属契約がおわると、1980年代から小学館『プチフラワー』、マガジン・マガジン『JUNE』、新書館『グレープフルーツ』、ペヨトル工房『銀星倶楽部』、朝日ソノラマ『DUO』、早川書房『SFマガジン』、潮出版社『コミックトム』、白泉社『MOE』など幅広い雑誌で活動。 2016年時点で金沢在住。2016年3月に銀座で初の個展を行う。 デビュー前は今と異なり、少し悲しい話の方が多かった。『バジル氏の優雅な生活』の頃から、ユーモアのある、ウィットに富んだ作品が増える。坂田はこの変遷について、「最初の頃はよくわからなかったせいもありまして、しっとりした話だとか悲しい話とかにも惹かれたんですけど、だんだん年を取ってきますと、人生はけっこう楽しいなって(笑)。開き直ってきまして。」と語っている。
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坂田靖子
デビュー前は今と異なり、少し悲しい話の方が多かった。『バジル氏の優雅な生活』の頃から、ユーモアのある、ウィットに富んだ作品が増える。坂田はこの変遷について、「最初の頃はよくわからなかったせいもありまして、しっとりした話だとか悲しい話とかにも惹かれたんですけど、だんだん年を取ってきますと、人生はけっこう楽しいなって(笑)。開き直ってきまして。」と語っている。 坂田曰く、依頼を貰う時に内容についての指定はほとんどなく、事前の打ち合わせも滅多になく、それぞれの雑誌の読者の好みに合わせて自由に描いているという。しかし、坂田の中では商業作品と同人作品は分かれており、あえて描き分けていた。『アモンとアスラエール』『ベル デアボリカ』のように自主的な制限もせず趣味で描いた作品は、最初自費出版や同人誌の形で本になり、その後単行本に収録されている。 イギリスを舞台にした小品が多く、また、無国籍なファンタジーから日本の怪談・説話を素地にした作品を描く。代表作にヴィクトリア朝イギリスが舞台の『バジル氏の優雅な生活』、『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』などがある。海外が舞台の作品も多いが、海外旅行には全く行ったことがなく、想像だけで作品を作っている。主にコメディタッチの作風で知られるが、人間の複雑な心理面に迫る深刻な主題の作品も見られ、多種多様な作品を描く多才な作家である。(本人によると、シリアスな作品が少ないのは単純に依頼が少ないからとのこと。そのため、同人誌や自費出版の作品にはシリアスな物が多い)。シリアスな作品としては、『誇り高き戦場』(アラン・シリトー原作)、『パエトーン』、『桃の村』などがある。全体としては悲惨な結末や退廃的なラストは少なく、ユーモア・ナンセンス性があり、児童文学史研究家の土井安子は、坂田作品は失敗続きでも生きることを肯定しており、その点は児童文学と共通で、両方を好きな人も多いと述べている。萩尾望都は、坂田のユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図を高く評価しており、『ベル デアボリカ』を究極のラブストーリーと評してる。
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坂田靖子
「少年」という存在が好きで、『D班レポート』のような少年たちが活躍するコメディや、雑誌『JUNE』で連載したやおいテイストのあるショートショートもある。名画や芸術、テレビCMなど、現実のネタを作品に埋め込むのが好きで、今だったら編集部の許可が必要になるだろうが、東洋の伝統的な「以前にある素晴らしい完成度のものを下に敷いて、さらに二次的、三次的に膨らませて創作物を作っていく」という「本歌取り」の感覚を好んでいると述べている。 深く影響を受けた漫画家は手塚治虫、水野英子、萩尾望都。ファンタジーでは、『メアリー・ポピンズ』と『ナルニア国物語』に特に大きな影響を受けた。映画好きで、中学生くらいから映画ばかり見ていた。ミュージカル映画が好きで、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどの「ザッツ・エンタテインメント」系の作品群、当時の封切映画では「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」「メリー・ポピンズ」などを好む。アルフレッド・ヒッチコック、ウィリアム・ワイラー、デビッド・リーンも好きで、フェデリコ・フェリーニの映画にも一時期はまっていた。アジアものに関しては、NHKで放送された『遠野物語』のドキュメンタリー風の紹介番組や、当時のアジアブームでメディアで紹介された文化や物語の数々、手塚治虫『西遊記』、上田としこ『フイチンさん』の影響を受けているようだと述べている。また、落語や狂言のような笑いを好んでいる。RPGゲーマーとしても知られ、RPGの魔法使いから『ベル デアボリカ』が生まれた。
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桜沢エリカ
桜沢 エリカ(さくらざわ エリカ、1963年7月8日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。女性。既婚。 テレビ番組のコメンテーターも務める。 東京都文京区出身。早くに両親が離婚したため、小学3年生まで祖父母の家で育つ。少女時代は母の買ってくる一条ゆかり、竹宮惠子、山岸凉子らの作品に親しみ、絵を真似て描くようになった。 東京都立向丘高等学校2年の頃に自販機本『少女アリス』に興味を持ち、出版社を訪れたことをきっかけに文章と漫画を雑誌掲載するようになる。19歳で漫画家としてデビュー。 同時期にデビューした岡崎京子、内田春菊らと共に、性的な内容を描く女性漫画家として「女の子エッチ漫画家」として知られるようになる。特に岡崎京子とは同年生まれであり、初期は作風や発表媒体も近かったため、比較されることが多かった(2人とも伝説的漫画雑誌『漫画ブリッコ』にも執筆している)。 セツ・モードセミナー中退。 1985年に初の単行本『ウーくんのソフト屋さん Special』を出版後、1985年短編集『かわいいもの』、1987年『フールズ・パラダイス』、同年『チェリーにおまかせ!』など、思春期の少女を主人公とした作品を発表。1991年から1993年にかけて発表した『メイキン・ハッピィ』で人気を得る。 1999年、35歳のときに4歳年下の西麻布のクラブ店長兼DJだった青木武紀と結婚。一男一女をもうける。出産後は自身の経験を元にした『今日もお天気』シリーズを発表している。なお、自身の妊娠が分かった際、当時DJの仕事をしていた夫に対し、「子育てして欲しいから、仕事をやめてくれる?」と専業主夫になるよう要望し、夫は快諾したとのことである。 2006年には『贅沢なお産』が水野真紀主演でドラマ化、また『天使』が深田恭子主演で映画化された。 2009年、映画化を前提に書き下ろした新作『プール』を発表。
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桜多吾作
桜多 吾作(おうた ごさく、1948年3月16日 - 2022年12月12日)は、日本の漫画家。山形県上山市出身。本名は太田順一(おおた じゅんいち)。 石ノ森章太郎のアシスタントを経た後、「ボーイフレンドや~い」で少女漫画家・山上純一郎としてデビュー。単独名義のほか、萩尾望都との合作なども発表する。 少年誌に活躍の場を移行後、北川寛、本名の太田順一などのペンネームを経て「桜多吾作」名となる。一時、石森プロの先輩でもある永井豪が率いるダイナミックプロにも合流、同プロ原作アニメ作品のコミック化を数多く手がける。一方で、「桜多吾作とプロダクション・アドベンチャー」としても独立した作品を発表した。児童誌のコミックボンボンで執筆する際には、おうたごさくと平仮名表記で執筆している。 代表作の『釣りバカ大将』を始めとして、趣味である釣りをテーマにした釣り漫画を多く執筆しており、スポーツニッポン釣り面では1981年から2019年までイラストエッセイを連載していた。ほか、釣り関係の入門書や学習漫画の執筆にも数多く携わっていた。 2022年11月末、新型コロナウイルスに感染して救急搬送され、一時状態は安定していたものの同年12月12日、肺炎のため死去した。74歳没。桜多の訃報は、作家の高千穂遙のTwitter投稿で翌2023年1月1日に明らかになった。 桜多吾作版『マジンガーZ』は、初期は『別冊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された後、『冒険王』(秋田書店)に連載された。また続編の『グレートマジンガー』『UFOロボ グレンダイザー』も同誌で引き続き連載された。そのベースとなったアニメ版は登場人物や世界設定を共有するゆるやかな連作だったのに対し、桜多版コミックではシリーズとしての継続性をさらに強めている。 第1作目の『マジンガーZ』序盤までは、一般的な「TVアニメのコミカライズ」の範疇だったが、徐々に桜多自身のオリジナリティを発揮した。ペシミスティックな社会的視点、TVアニメでは語られなかった部分への言及・補完などが盛りこまれ、大河ドラマ的な一大SFストーリーへと変貌していった。
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さくらももこ
さくら ももこ(1965年〈昭和40年〉5月8日 - 2018年〈平成30年〉8月15日)は、日本の漫画家、エッセイスト、作詞家、脚本家。また、自身の少女時代をモデルとした代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前でもある(詳細は「ちびまる子ちゃんの登場人物#さくら ももこ(まる子)」を参照)。 静岡県清水市(現・静岡市清水区)の旧入江町地域出身。身長159 cm。血液型A型。二男の母。 代表作のコミック『ちびまる子ちゃん』の単行本の売上は累計3000万部を超える。また、エッセイストとしても独特の視点と語り口で人気が高く、初期エッセイ集三部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』はいずれもミリオンセラーを記録。「平成の清少納言」と称されたこともある。 愛称は「ももちゃん」。エッセイの販促用の帯などでは、『ちびまる子ちゃん』の「まる子」と同一人物として扱われることもある。 漫画は、「ヘタウマ」とも評される素朴なタッチで描かれる場合が多い。これは、投稿時代にエッセイ漫画に舵を切った際、戦略として少女漫画のタッチから変更したことに起因している。人物の場合は、身体のラインを極力出さない作画にしている。なお、少女漫画風のタッチを用いることもあり、特に漫画版『ひとりずもう』では多く用いられている。一方で、一時期の『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』の扉絵は、絵画風の凝ったデザインで描かれた。これは、さくらが敬愛するシンガポール生まれの絵本作家、エロール・ル・カインに影響を受けたものである。 初期はエッセイ漫画を軸に描いていたが、徐々にブラックユーモアな作風も取り入れていった。後年~晩年にかけて発表した『4コマちびまる子ちゃん』『ちびしかくちゃん』ではその傾向が強く、読者の評価もはっきり割れる形となった。さくらと交友のあった尾田栄一郎は、「さくらさんは少しいじわるな笑いが大好き。人が持っているムズがゆい部分をつつく。これができるのは、人間が大好きで鋭く見ていて、正直な人。」と彼女の没後に語っている。エッセイも含めて、「〇〇って一体...(例:私って一体...)」「あたしゃ情けないよ」など、自虐的なフレーズもよく用いている。
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さくらももこ
『神のちから』『神のちからっ子新聞』では、『ちびまる子ちゃん』とは別系統の笑い、ナンセンスさを追求した作風となった。ナンセンスな部分は、漫画・アニメの『コジコジ』にも受け継がれている。 エッセイでは、家族や親しい友人相手でも、歯に衣着せぬ物言いで綴っているほか、初期のエッセイでは独特の比喩表現も多く用いている。祖父の死を扱った「メルヘン翁」を『青春と読書』で発表した後に批判が寄せられた際、「私は自分の感想や事実に基づいた出来事をばからしくデフォルメする事はあるが美化して書く技術は持っていない。それを嫌う人がいても仕方ないし、好いてくれる人がいるのもありがたい事である。」と自著で述べている。2000年代以降のエッセイは、過去の体験談よりも、直近の体験や仕事を基にしたものが主流となったほか、絵日記型式の割合も増えていった。初期のエッセイは自嘲的な表現もしばしば用いられたが、後年のエッセイでは家族や他者に対しての恨み節が混ざった表現も見られるようになった。 ペンネームの由来は、花の「さくら」と「もも」から。経緯は、高校3年生の夏に漫才師か落語家を目指そうと考えていた時期に(最初の漫画投稿が不発だったため)、同時に芸名も考えていたことによる。自身の好きな花から候補を挙げ、最終的に残った「すみれ」「さくら」「もも」の中から、「さくら」と「もも」を繋いで「さくらももこ」とした。後に漫画の投稿活動を再開したときから、このペンネームを使用している。「すみれ」は、後に『ちびまる子ちゃん』での母親の名前に使用している。 漫画家の夢については、高校3年生の夏に親友の穂波珠絵に明かすまでは誰にも語っていなかったが、一部の教師や友人にはそれ以前に気付かれていた。また、最終的にはエッセイストになりたい、という夢を中学・高校以降の友人(浜崎憲孝が『ちびまる子ちゃん』の花輪和彦のモデルと評した女性)には明かしていた。 デビュー以降の自画像は、デビュー当初はおかっぱ頭、もしくはまる子そっくりな姿で描かれていた。『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』の制作レポート(1992年)では二つ結びに変化、1993年ごろからは、顔と前髪はまる子と同一・髪型は三つ編み、で定着するようになった。晩年は、三つ編み以外の自画像も使われた。
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さくらももこ
デビュー以降の自画像は、デビュー当初はおかっぱ頭、もしくはまる子そっくりな姿で描かれていた。『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』の制作レポート(1992年)では二つ結びに変化、1993年ごろからは、顔と前髪はまる子と同一・髪型は三つ編み、で定着するようになった。晩年は、三つ編み以外の自画像も使われた。 活動初期(1990年代初期まで)はメディアに顔を出すこともあったが、長男出産後あたりからは素顔がはっきり分かる状態での露出を避けるようになり、雑誌『富士山』や『おめでとう』などで写真に写る際も、横顔や後ろからのカットなどで対処していた(変装時は除く)。なお、これらの誌面では自画像とは異なり、三つ編み以外の髪型になっていた。 小学校(「まる子」だった)時代は、『ちびまる子ちゃん』で描かれていたように怠け者かつ勉強に真面目に取り組まなかったことから、しょっちゅう母親に怒られていたという。怒られること自体への煩わしさは感じていたが、作者曰く「居眠りで他人に迷惑をかけているわけではない」「万引きや、家庭内暴力みたいに人や物を傷付けたりはしてないので、怒られる筋合いは無い」と、反省はしなかったと語っている。17歳までは怠け者な生活習慣が直らず、母親に「苦労して産んだのに」と泣かれたこともある。一方で、漫画・アニメで怠け者だった過去の自分を描いているため、息子が怠けていてもきつく叱れなくなった、とも自著で述べている。 課外活動は、小学校ではそろばん塾、中学校では学習塾に通っていたが、いずれも先生が怖くて苦痛だったと語っている。塾とは別に、小学校ではバトントワリングの教室や部活動にも参加していた。 姉とは、幼少期は『ちびまる子ちゃん』などで描かれているようにケンカが絶えず(友人と遊んでいるときでも、ひょんなことからケンカを始めてしまうほど)、母親を困らせていたという。成人後は、姉の厄年(1995年ごろ)に姉妹始まって以来の大ゲンカをして2年間絶縁状態に陥ったが、その後関係を持ち直したほか、2002年には姉妹共同でゲームソフトの制作にも携わった(後述)。姉も絵が好きだったこともあり、短大時代に高額な絵画を購入して親から咎められた際、姉がかばってくれたこともある、と自著で述べている。
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さくらももこ
同級生として元サッカー日本代表の長谷川健太や放送作家の平岡秀章がいる。「はまじ」のモデルとなった浜崎憲孝が自伝を出版した際にはさくらが表紙のイラストを書き下ろした。浜崎によると、小学生時代はかなり内気な性格であり、穂波たまえのモデルとなった友人の方がより「まる子」に近いキャラクターだったと語っている。さくら自身も、自著において自身を内向的な性格で、華のないタイプであったと評している。前述の長谷川健太もさくらの小学生時代の事を「覚えていない」と語っている。『ひとりずもう』には未登場だが、元サッカー選手の半田悦子も高校時代の同級生である。なお、半田に関しては、親友の穂波珠絵の方が親交が深いとも述べている。 子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったが、父親に「青島幸男は国会議員だ、無理に決まっている」と一蹴された。そのさくらが青島を目標とし大人になって作詞した歌が「おどるポンポコリン」である。また学生時代、春風亭小朝に弟子入りしようとしたこともある。 『仮面ライダー』で一文字隼人=仮面ライダー2号を演じた佐々木剛のファンだった。一文字のカード欲しさに仮面ライダースナックを買ったこともある。中高生時代は、『ドカベン』に傾倒しており、中でも里中智の大ファンであった。当時、単行本の購入費を工面するために親戚から贈られた『ベルサイユのばら』の単行本を勝手に売り捌いてしまい家庭内で問題になったほか、前述の怠け癖に怒った母親に単行本を窓から投げ捨てられ、泣きながら回収する羽目になったとも自著で述べている。 西城秀樹のファンで、『ちびまる子ちゃん』の作中では、まる子の姉がファンという設定で何度か登場させており、西城は1991年から1992年にかけて使われたエンディングテーマ曲「走れ正直者」の歌唱も担当した。2018年5月に西城が死去した際には、さくらは自身のブログで追悼のコメントを述べた。
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さくらももこ
西城秀樹のファンで、『ちびまる子ちゃん』の作中では、まる子の姉がファンという設定で何度か登場させており、西城は1991年から1992年にかけて使われたエンディングテーマ曲「走れ正直者」の歌唱も担当した。2018年5月に西城が死去した際には、さくらは自身のブログで追悼のコメントを述べた。 高校時代にアマチュア無線技士の免許を取得しており、アマチュア無線家の月刊誌『CQ ham radio』1998年1月号の表紙では、ちびまる子ちゃんのイラストを寄稿したこともある。自伝的エッセイの「ひとりずもう」によると、さくらは高校に入学して部活を決める際に、なるべく早く家に帰りたいという理由で最も楽そうな物理部を選んだが、この物理部ではアマチュア無線の免許を取得することが義務付けられており、そのために彼女は1回2時間・週2回の講習会へ2か月間通わなければならず、それについて非常に煩わしい思いをしたと語っている。高校時代には、一部の後輩から「米虫の先輩」との異名が付けられていた。 健康の研究を日々行い、飲尿療法や茶葉による水虫治療など多くの民間療法を実践していた。30代の時には『ももこのおもしろ健康手帖』(幻冬舎刊)と題するエッセイ本を出版したこともある。その一方で大のヘビースモーカーでもあり、自著では「私は大の愛煙家だ。朝起きてまずタバコを吸い、昼間から夕方まで仕事をしている間もずっと吸い、夜眠る直前までタバコを吸う」「タバコが健康をもたらしてくれる。タバコをガンガンに吸っているからこそ、吸っていない人の20倍は、健康に気をつける」「タバコは私に健康の大切さを考えさせ、吸うからにはまず健康を確保しろということに気づかせてくれた」などと語っていた。しかし、そのような健康論を唱えていたさくら自身は前述の通り若くして乳がんを患い、53歳で死去する結果となった。エッセイ等の挿絵では、自身が喫煙する姿は基本的に描かれていないが、ごく稀に喫煙する姿が描かれたこともある。 さくらと交流があった和田アキ子は芸能界でも有名な酒豪として知られるが、その和田がさくらの死後に語った証言によると、さくらは和田を上回る酒豪であったという。さくら自身は、父と祖父が酒豪だったのを見て育っており、その影響で酒に興味を持つようになったと述べている。妊娠時において一瞥体験のような経験を自著に残している。
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さくらももこ
さくらと交流があった和田アキ子は芸能界でも有名な酒豪として知られるが、その和田がさくらの死後に語った証言によると、さくらは和田を上回る酒豪であったという。さくら自身は、父と祖父が酒豪だったのを見て育っており、その影響で酒に興味を持つようになったと述べている。妊娠時において一瞥体験のような経験を自著に残している。 少女時代から作文が得意で、短大の模擬試験の作文課題では採点者から「清少納言が現代に来て書いたようだ」と評価されるほどであった。このことが、エッセイ漫画へと舵を切るきっかけの一つとなった。投稿時代は、何度も編集側からストーリーギャグ漫画への路線変更を提言されていたが、無視してエッセイ漫画での勝負を続けた。最終的には編集側も折れ、エッセイ漫画でのデビューを認めた。 さくらの書籍の装丁を多数手がけたデザイナーの祖父江慎は、彼女の没後のインタビューにおいて「まる子がそのまま大人になったような人物」「面倒臭がり」と評していた。祖父江曰く「楽しいことにはノリノリだが、義務っぽい雰囲気が出るとすぐ消極的になる」とのことで、彼女を乗り気にさせるための作戦を考えるのが大変であり、一方で楽しみでもあったと語っている。友人の吉本ばななは、普段はまる子そのものな人物である一方、時折全ての感情を超越して俯瞰しているような、コジコジにも通じるような状態を見せることがあった、と評している。長男の陽一郎は、理屈よりも直感で動くタイプの人で、それが作品にも現れているのではないか、と評している。 宝石商の岡本憲将が記した『宝石の常識』を読んで以降、宝石に興味を持つようになり、彼を頼って宝石の収集を行ったこともある。そのときの経験をもとに、『ももこの宝石物語』『ももこのおもしろ宝石手帖』を出版している。 「はまじ」とあだ名される人物とは、同級生の浜崎憲孝だけでなく、モデルの浜島直子とも接点がある。浜島直子とは、『MOMOKO TIMES』の仕事で同行したこともある。このとき、さくらプロダクションのスタッフが浜崎憲孝と勘違いして少し混乱したという。 絶滅危惧種であるビルマホシガメのメス「カメミ」を飼っていた。さくらの没後は伊豆にある体感型動物園iZooに引き取られ、現在も飼育展示されている。 ※表記はジャケットデザインも担当。 1992年NHKドラマ『さくら家の人びと』ももこ役
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さくらももこ
絶滅危惧種であるビルマホシガメのメス「カメミ」を飼っていた。さくらの没後は伊豆にある体感型動物園iZooに引き取られ、現在も飼育展示されている。 ※表記はジャケットデザインも担当。 1992年NHKドラマ『さくら家の人びと』ももこ役 『ちびまる子ちゃん』関連作品で演じた人物。
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佐々木淳子
佐々木 淳子(ささき じゅんこ、1955年6月23日 - )は、日本の漫画家。血液型はAB型。 東京都目黒区出身。実家はだんご店。東京デザイナー学院アニメーション科を卒業しており、学院在籍中は漫画研究会に所属していた。アシスタントを経て、1977年、『週刊少女コミック増刊号』掲載の『キムのゆうれい』でデビュー。小学館、新書館、角川書店、あおば出版など、活動の場は幅広い。 漫画家の酒井美羽とは東京デザイナー学院で同じ科にいた。一時期は美内すずえ、樹村みのりのアシスタントを経験している。 異世界を舞台とするSFジャンルの作品を得意とし、また夢、時間がテーマの作品が多い。代表作に『ダークグリーン』など。 2007年4月より、講談社の運営するウェブコミック閲覧サイト『MiChao!』において、『ダークグリーン』の続編となる『ディープグリーン』を連載。2009年12月の『MiChao!』の更新終了とともに連載も終了した(単行本全4巻)。 さらに、『ディープグリーン』の続編・『ディメンショングリーン』が、現在同人誌として刊行されている。
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1988年
1988年(1988 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。昭和63年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。 ※ 主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
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