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ロールプレイングゲーム | なお、初期のロールプレイングゲームは大半がファンタジーに題材を採った架空世界を舞台とし、モンスターとの戦闘を介して経験値を取得することでキャラクターが成長し、成長することで探索・行動範囲を広げるというものであったため、現在においてもRPGと言えばそういうものと思われがちである。この傾向はコンピューターRPGにおいて特に顕著なものとなっている。
実際には、SFやホラーをはじめとして多彩なジャンルが題材として選ばれている。システム面を見ても、特にテーブルトークRPGではキャラクターの成長はむしろ戦闘によらずミッションやクエストのクリアをもってもたらされるものが多いなど、キャラクターの成長方法一つを取っても作品により多彩である(さらには、『トラベラー』のようにキャラクターが成長しない作品もある)。このように、ロールプレイングゲームを形成する要素自体が初期のものに比べて様々に分化している。 | 799 |
ロールプレイングゲーム | ロールプレイング(role-playing)とは、想像上のある役柄を演じることである。ロールプレイング(roleplaying)を英和辞典で引くと、役割演技と翻訳される。また、ロールプレイング(roleplaying)を英語で説明すると、その意味は「pretending to be someone else(他の誰かのふりをする)」となる。ゲームデザイナーのゲイリー・ガイギャックスは、「ロールプレイとは、想像上のある役柄を演じること」「自分が現在(または未来永劫)決してなることができない何者かを演じること」であるとしている。テーブルトークRPGでは、プレイヤーは、単なる無名の「戦士」や「魔法使い」ではなく、名前や仮想の人格などが付与されたプレイヤーキャラクターを担当する。ゲームによっては、「ライフパス」(出自や人生の遍歴を示す要素)や「性格」「属性」(あるいはシステムによっては「癖」や「趣味」といったところまで)といったルールにより、仮想の人格にシステム的な裏付けを与える工夫がなされる。同じ「戦士」であっても、豪胆な人物、細心な人物、明朗快活な人物、謎めいた影のある人物といった千差万別な個性を表現することにより、キャラクターは差別化され、一層生き生きとし、仮想世界での冒険の楽しみを増加させるのである。またプレイヤーが温厚で慎重な性格であるのにも拘らず、向こう見ずな戦士を演じたり、狡猾な魔術師を演じたりすることは、それがキャラクターに合致している限り、「上手なロールプレイ」であると見なされる。
日本では、雑誌・新聞の「TRPG」はホビージャパンの(第4803260号)、玩具、ゲーム関係などの「ロールプレイング」はホビージャパンの(第1798172号)、菓子・パン関係の「ロールプレイング」はロッテの(第2155432号)、ゲーム関係などの「ロールプレイドラマ」はスパイク・チュンソフトの(第4794245号)、略称の「R.P.G」がおもちゃ関係でバンダイの(第1792020号)、「ロープレゲーム」はゲームおもちゃなどでセガ(以前のセガゲームス)の(第3046648号、第3046649号)登録商標である。
テーブルトークRPG(本来のロールプレイングゲーム)は、ジャンル的にはテーブルゲーム(あるいはアナログゲーム)に分類される。
というスタイルが一般的なプレイである。 | 799 |
ロールプレイングゲーム | テーブルトークRPG(本来のロールプレイングゲーム)は、ジャンル的にはテーブルゲーム(あるいはアナログゲーム)に分類される。
というスタイルが一般的なプレイである。
商業的には、1974年に米国でTSR社から発売された "Dungeons and Dragons" (通称、D&D)が、商品として広く販売された世界初の「テーブルトップRPG」ルールシステムである(その前身であるウォーゲーム『チェインメイル』は『D&D』の原型とみなされる )。
現実世界のプレイヤー達が会話や身体的行動で演技を行い、架空の人物と世界を表現することで物語を演出する。
まずロールプレイングゲームの遊び方や世界設定(例えば『D&D』などに登場する魔法やアイテムやゲーム目標など)を元に作られたアメリカ製のコンピュータRPGが1980年代前半に日本でもプレイされ始め、まもなく日本製の製品も登場し人気を博した。さらに、ロールプレイングゲームの入門的な存在であるゲームブックが邦訳・紹介され、一時ブームとなった。その後、ゲームブックはほぼ姿を消してしまうが、コンピューターRPGはパソコンやゲーム機の普及に伴い、売上の点でも内容の点でも大きく成長するに至った。
他方、テーブルトークRPGはそれまで一部のウォーゲーム愛好家が英文のままでプレイしていた程度で、広く知られるようになったのはコンピュータRPGやゲームブックを通してであった。日本語化されての販売も、コンピュータRPGの国産化より遅れていたのである。
そのため、ロールプレイングゲームまたはRPGと言えばコンピューターRPGのことを指すものだという認識が、日本では広く定着している。今やコンピューターRPGはコンピューターゲームの中でも特に人気の高いゲームジャンルである。
テーブルトークRPGを原作として、コンピュータゲーム化されたもの
コンピュータRPGを原作として、テーブルトークRPG化されたもの
共通の原作が存在したり、メディアミックス展開された結果として、双方が存在するもの | 799 |
ハンカチ落とし | ハンカチ落とし(ハンカチおとし)とは、ハンカチを用いた野外または屋内で行う遊び。
参加する人は鬼とそれ以外に分かれる。鬼以外の人は円になって内側を向いて座り、鬼はハンカチを持ってその円の外周を走る。鬼は気づかれないように一人の背後にハンカチを落とし、ハンカチを落とされた人は鬼が1周して自分の所に戻ってくる前に、鬼を追いかけなければならない。鬼がハンカチを落とした後、追いつかれることなくハンカチを落とされた人のところに座り込めば鬼の勝ちとなり、鬼を交代する。追いつかれた場合には、再び鬼とならなければならない。
また、鬼が一周してくるまでハンカチに気付かず、鬼にタッチされた人は円の中心に座らされて遊びに参加できなくなるというルールがある場合もある。この場所は「便所」などと呼ばれ、新たに「便所」に入る人が現れるまで出ることができないが、「便所」の人への配慮として、「鬼が5回変わるまで」などの時間制限が設けられることもある。
日本では、明治時代にはこの遊びが紹介されていることが確認出来る。
ハンカチ落としは一定の条件を付けてプログラミングの問題に応用される。具体的には全員が等速(鬼に追いつかれない)で鬼が一周回るまでに必ず気づくという条件を付けたうえで、円を最初の並び順と逆の並び順にするときの全員の総走行距離を求めるプログラムの作成などである(人数を増やしたり特定の順番の人間を座ったまま固定したりして、プログラミングの応用を図る)。 | 800 |
築山 | 築山(つきやま)とは、人工的に作られた山。測量の目的で作られる、または山を見立て庭をつくる観賞用として庭園や中庭に作られたり、子供の遊具として公園に作られたりしたものがある。 | 801 |
コンピュータRPG | コンピュータRPG(コンピュータ・アールピージー)は、コンピュータゲームのジャンルの一つで、コンピュータを用いたロールプレイングゲーム(RPG)群を指す。
元々RPGとは卓上で紙と鉛筆、サイコロ用いて行う、現在でいうテーブルトークRPGを指す。それをコンピュータで再現した物がコンピュータRPGとなった。しかし、RPG文化とコンピュータRPGが同時期に広まった日本では、初期からコンピュータRPGが席巻したため、「RPG」がそのままコンピュータRPGを指すことが多い。
日本の家庭用ゲーム市場では人気の高いジャンルで、特にドラゴンクエストシリーズ、ファイナルファンタジーシリーズ、女神転生、ポケットモンスターはコンピュータRPGのみならず、家庭用ゲームを代表するタイトルである。スマートフォン(スマホ)ゲーム市場においても同様で、Google Playの売上ランキングには多数のコンピュータRPGがランクインしている。
ゲームプレイの肝となる行為結果(戦闘など)を、ターンごとに攻撃をして、能力値計算を主とした処理で判定するため、アクションゲームやシューティングゲームに比べてプレイヤーの反射神経や操作技能に依存しないゲームバランスになっているのが特徴。
多く見られるのは、プレイヤーが主人公とその仲間を操作し、障害として立ちふさがるモンスターとの戦闘を繰り返しながら「経験値」を蓄積してパワーアップし、徐々に行動範囲を広げていき最終的に目標を達成するというものである。特に日本市場ではユーザーの意思をゲームに反映させる手段にコマンド選択式インターフェイスを採用しているものが多い。
ゲームメディアなどで「RPG的要素を持つ」と言われる場合は、大抵下記の要素がゲームプレイに含まれている。
また、日本では複数のプレイヤーキャラクター(パーティ)によって行われる戦闘をRPG要素として捉える場合もある。多くのRPGには全ての攻撃技の基本となる通常攻撃(素手や武器で攻撃するなど。名称は「たたかう」などがある。)が実装されている。 | 802 |
コンピュータRPG | ゲームメディアなどで「RPG的要素を持つ」と言われる場合は、大抵下記の要素がゲームプレイに含まれている。
また、日本では複数のプレイヤーキャラクター(パーティ)によって行われる戦闘をRPG要素として捉える場合もある。多くのRPGには全ての攻撃技の基本となる通常攻撃(素手や武器で攻撃するなど。名称は「たたかう」などがある。)が実装されている。
米国のテーブルトークRPGに触発されるかたちで、1970年代中盤にメインフレーム上で動作する、『ダンジョン』(1976年)や『pedit5』(1975年)、『dnd』(1975年)といった初期のコンピュータRPG群が登場した。これが後に『ウルティマ』といった作品の原型となっていく。
日本においては、1980年代初めに『ウルティマ』(1981年)や『ウィザードリィ』(1981年)など、パソコン用の作品が米国からもたらされることでRPGの存在が知られるようになり、その後日本国内のメーカーにより様々な作品が作り出された。当初は詳細なストーリーを持たず、ゲーム内に隠されたヒントを自力で探し出すと言った作品が多かった(『ザ・ブラックオニキス』(1984年)など)。
この「隠されたヒントを自力で探し出す」点がコンピュータRPGの面白さと認識され発達し、コンピュータRPGは難しいほど面白いゲームとされていた(『ザナドゥ』(1985年)など)一方で、限られたプレイヤーにしかクリアできないハードルの高いゲームであった。この傾向は、『イースI』(1987年)・『イースII』(1988年)の発売を機に一転した。
1990年代に入ると、1986年に第一作目が発売されたドラゴンクエストシリーズ、1987年に第一作目が発売された女神転生やファイナルファンタジーシリーズなどを筆頭とする、社会的なRPGブームが訪れた。
また、1989年6月30日に発売された、CD-ROMを媒体とする世界初のRPG『天外魔境 ZIRIA』が、CD-ROMの大容量を活かした演出・音楽・音声等を実現し、ストーリー重視の作品が主流となった。 | 802 |
コンピュータRPG | また、1989年6月30日に発売された、CD-ROMを媒体とする世界初のRPG『天外魔境 ZIRIA』が、CD-ROMの大容量を活かした演出・音楽・音声等を実現し、ストーリー重視の作品が主流となった。
近年ではファミコン世代もしくは、それ以前のコンピュータRPGを再評価しようとする傾向が見られる。中には、出荷本数が少なかったためにプレミアの付いているソフトも存在しており、中古品がオークションやオンラインショップで高額で取引されることもある。また、有名な作品であればゲームメーカー各社が行っている旧作のダウンロード配信サービス(バーチャルコンソール、PlayStation Storeなど)や携帯ゲーム機などへの移植が行われている。
ローグライクゲームと呼ばれるダンジョン自動生成型の「終わり無きRPG」に対する根強い人気も見られる。この種のゲームはグラフィックによる表示が難しかった時代の産物であるため、伝統にしたがって文字だけを使った画面表示、またはそれに類するシンプルな画面表示しか用いないのが通例である。なお、ローグライクゲームはフリーウェアとして提供されているものも多い。
欧米においては、独自の進化を遂げた日本製RPGを「JRPG(Japanese RPG)」「クラシックスタイルRPG(classic style RPG)」と表現するようになっている。PC市場をメインとし続けた欧米では、リアルタイム制やシームレス、オープンワールドを組み込んだRPGのスタイルが確立されている。そのため、ターン制やコマンド戦闘、エンカウント方式にとどまるなどスタイルの古い日本製のものは区別されていると考えている。
その他のJRPGの特徴して、登場人物のデザインやストーリーがアニメ的・マンガ的であること、個性的な性格でキャラが立っていること、などが挙げられる。 | 802 |
コンピュータRPG | その他のJRPGの特徴して、登場人物のデザインやストーリーがアニメ的・マンガ的であること、個性的な性格でキャラが立っていること、などが挙げられる。
ただし、売り上げにおいてはポケットモンスターシリーズが全世界で1億9300万本 、ファイナルファンタジーシリーズは全世界で9700万本という実績があり、『ドラゴンクエストVIII』はアメリカ大手ゲームサイトGameSpotにて2005年度最優秀RPGを受賞、2010年E3アワード全機種RPG部門にて『イース7』がベストRPG賞を受賞し『RPGFan Feature-E3 2010 Awards』を獲得するなど海外でも日本製RPGは一定の評価を受けている。
JRPGにハマった海外ユーザーが、「海外ではリアルなゲームしか企画が通らず、JRPGのような作品を作れない」という理由で、日本のゲーム会社に就職するという事例も存在する。 | 802 |
テーブルトークRPG | テーブルトークRPG、あるいはテーブルトップ・ロールプレイング・ゲーム(英: Tabletop role-playing game)とは、テーブルゲームのジャンルのひとつ。ゲーム機などのコンピュータを使わずに、紙や鉛筆、サイコロなどの道具を用いて、人間同士の会話とルールブックに記載されたルールに従って遊ぶ“対話型”のロールプレイングゲーム(RPG)を指す言葉。和製英語。
元々はミニチュアゲームから派生したもので、アメリカで考案された、テーブルトップゲームである。
TRPG、TTRPG、tRPGなどと略記されることがある。また、会話型RPGとも呼ばれる。なお、TRPGと会話型ロールプレイングゲームはホビージャパンの登録商標である。
「テーブルトークRPG」は日本での造語(和製英語)であり、日本と韓国以外では通用しない。英語圏では、ライブアクションRPGやコンピュータRPGと区別するため、Tabletop role-playing game(テーブルトップロールプレイングゲーム)やPen-and-paper role-playing game(ペンアンドペーパーロールプレイングゲーム)などと呼称する。
1974年に世界初のロールプレイングゲームである『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、『D&D』)が発売された。しかし、日本では『D&D』よりも先に『ウィザードリィ』などの海外製コンピュータRPGをはじめ、『ハイドライド』『ザ・ブラックオニキス』『夢幻の心臓』『ドラゴンスレイヤー』などの国産コンピュータRPGが人気となったこと、そして1986年にエニックス(現在のスクウェア・エニックス)からファミリーコンピュータ向けに発売された『ドラゴンクエスト』が大ヒットしたという経緯から、日本ではRPGと言えばコンピュータRPGを指すのが一般的であるため、 元来のRPGをコンピュータRPGと区別する呼称としてこの言葉が普及した。 | 803 |
テーブルトークRPG | 日本では、テーブルゲームとしてのウォー・シミュレーションゲームやRPGがアメリカなどに比べるとそれほど一般化せず、それに対して、元々は派生的な存在である「コンピュータを使ったシミュレーションゲームやRPG」が急速な普及を見せた。このような状況を背景に、日本では1980年代半ば以降、「RPG」はコンピュータRPGを指す言葉として普及した。本来の意味での「RPG」を愛好する人々は少数派であり、彼らの「RPG」を指し示す新しい用語が必要になったため、「テーブルトークRPG」という言葉が登場した。
1987年にゲームブック雑誌『ウォーロック』10号の記事において、近藤功司が「テーブル・トークのRPG」という表現をした後に「僕の造語ですから初めて聞く言葉でしょうが」と述べている。この語は『ウォーロック』誌上でたびたび近藤功司によって使用され、そのうちに安田均も積極的に使うようになった。安田均は多くのTRPG関連雑誌で執筆していたため、この語はゲーマーたちの間で広く知られるようになった。しかもこの時期は日本で一気にTRPG人口が増加していた時であったので、初めから「RPG」ではなく「テーブルトークRPG」と呼ぶ人々が大きな割合を占めるに至った。
ロールプレイング(role-playing)とは、想像上のある役柄を演じることである。
ロールプレイング(roleplaying)を英和辞典で引くと、役割演技と翻訳される。また、ロールプレイング(roleplaying)を英語で説明すると、その意味は「pretending to be someone else(他の誰かのふりをする)」となる。
ゲームデザイナーのゲイリー・ガイギャックスは、「ロールプレイとは、想像上のある役柄を演じること」「自分が現在(または未来永劫)決してなることができない何者かを演じること」であるとしている。つまり、役割とはキャラクターという役柄のことであり、社会的な役目のことではない(「医者のふりをする」ことと、「医者の役割を果たす」ことには、大きな違いがある)。ゲームデザイナーの小太刀右京は、「roleplay。演技の意。しばしばrole-play(役割を演じる)と解釈するものがいるが、誤訳である」としている。 | 803 |
テーブルトークRPG | かつて、このロールプレイの意味を「役割を果たす」と解釈して、仮想の人格を演じることは抑制的であるべきで、キャラクタークラスなどの任務分担を果たすのみで足りるとする主張がネット上にあらわれたことがある。しかし、これは単なる誤訳、ないしデマにすぎないものであった。
テーブルトークRPGでは、プレイヤーは、単なる無名の「戦士」や「魔法使い」ではなく、名前や仮想の人格などが付与されたプレイヤーキャラクターを担当する。ゲームによっては、「ライフパス」(出自や人生の遍歴を示す要素)や「性格」「属性」(あるいはシステムによっては「癖」や「趣味」といったところまで)といったルールにより、仮想の人格にシステム的な裏付けを与える工夫がなされる。同じ「戦士」であっても、豪胆な人物、細心な人物、明朗快活な人物、謎めいた影のある人物といった千差万別な個性を表現することにより、キャラクターは差別化され、一層生き生きとし、仮想世界での冒険の楽しみを増加させるのである。またプレイヤーが温厚で慎重な性格であるのにも拘らず、向こう見ずな戦士を演じたり、狡猾な魔術師を演じたりすることは、それがキャラクターに合致している限り、「上手なロールプレイ」であると見なされる。
まずゲームの参加者(英語でプレイヤーと呼ばれる)それぞれが自分の操るキャラクターを用意する(通常は一人ずつ)。これをプレイヤー・キャラクター(PC)という。一般にPCは「能力値」などの数値化されたデータによって表現され、これにたとえば、戦士や魔術師といったキャラクタークラスに代表されるような役割を表すデータやシンボルや肩書きが付随する。参加者はそれを専用のシートか何らかの記録媒体(通常のプレイでは紙)にメモしておく。
一人は通常、自分のプレイヤー・キャラクターを作らず使わず、一般にゲームマスター(GM)と呼ばれる役を受け持つ。ゲームマスターはゲームシステムによっては、ダンジョンマスター(DM、地下牢の主人の意)、審判員、ジャッジ(審判)、キーパー(維持者)、ストーリーテラー(語り部)などと呼ばれることがある。 | 803 |
テーブルトークRPG | 一人は通常、自分のプレイヤー・キャラクターを作らず使わず、一般にゲームマスター(GM)と呼ばれる役を受け持つ。ゲームマスターはゲームシステムによっては、ダンジョンマスター(DM、地下牢の主人の意)、審判員、ジャッジ(審判)、キーパー(維持者)、ストーリーテラー(語り部)などと呼ばれることがある。
ゲームマスターは他の参加者(プレイヤー)と対話しながらゲームの舞台となる世界とそこに登場するいろいろな事件や人物を説明し、決められたルールに従って、プレイヤーが考えたキャラクターの行動が実現したか否かを裁定することでゲームを進行させる。単純化して言えば、コンピュータで遊ぶRPGでの、コンピュータ役をゲームマスターという人間が担当するのがテーブルトークRPGだといえる。
しばしばテーブルトークRPGは「ルールのあるごっこ遊び」と説明されるように、プレイヤー・キャラクターの行う行動を、「何でも言っただけで認める」のではなく、各種のデータとルールに従って判定してその成否を決定する点が「ごっこ遊び」や「なりきりチャット」とは異なる。判定は、主に6から100面体までの様々な形状のサイコロ(ダイス)を乱数発生装置として用いて行われるが、トランプなど他の手段を用いる場合もある。
プレイヤー達は、ゲームの舞台となる世界において、プレイヤー・キャラクターを演じながら、行動をゲームマスターに対して宣言し、戦闘や謎解きといった課題に挑戦する。これを繰り返しつつ互いに協力または競争しながらストーリーを紡ぎ出し、最終的な目標の達成を目指すことが、ゲームの目的となっている。プレイヤーとは別個の架空人格であるキャラクターを演じることが特徴であることから、「演技ゲーム」という意味のロールプレイングゲームという呼称がゲームの総称として使われている。
1回のゲームにかかる時間はゲームマスターが用意するシナリオにより異なるが、少なくとも3、4時時間を要することが普通である。
キャラクターや架空世界それ自体を表現するために、様々な世界設定やテイストやルールを持つゲームシステムが数多く発表・発売されている。 | 803 |
テーブルトークRPG | 1回のゲームにかかる時間はゲームマスターが用意するシナリオにより異なるが、少なくとも3、4時時間を要することが普通である。
キャラクターや架空世界それ自体を表現するために、様々な世界設定やテイストやルールを持つゲームシステムが数多く発表・発売されている。
ゲームマスターを除く参加者、すなわちプレイヤーは、さまざまな種族、人格、性質、能力、技術をもったキャラクターを演じる。それらの要素は、ゲームのルールや世界において、重要な指針となるものである。ゲームのシステムは大抵、そのゲームの世界においてどのようなキャラクターを演じることができ、世界の中でどのようなことができるのか、を定めたルールや設定がある。例えば、ファンタジー世界の設定では、種族には、エルフ、人間、ドワーフなど、キャラクタークラスには、戦士、僧侶、盗賊などがある。これらのルールや設定やデータは、プレイヤーが自分のキャラクターに与えられた役割を果たし、与えられた課題に取り組んで目的を達するための、行動と判断の基盤となるものである。
ミニチュア・ウォーゲームという体裁を取っていた初期のRPGにもストーリー性はあったが、物語性や世界設定を重視する風潮とともに、キャラクターの人格や会話および各世界で展開されるストーリーを重視するプレイスタイルも登場し、それに適したルールシステムも作られるようになった。
テーブルトークRPGでは、基本となるゲームシステムを集約した「ルールブック」のほか、特定のテーマに沿ったデータのみを集めたデータ集やプレイを補助する小物類などが頒布されることがある。以下に主な種類を挙げる。
コンピュータRPGはテーブルトークRPGより派生したもので、ゲームマスターの役割をコンピュータに肩代わりさせ、1人で遊べるようにしたものであった。当初、コンピュータRPGは『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、『D&D』)に代表される「迷宮・秘境探検と魔物退治のゲーム」を再現するゲームであった。こういったゲームはTRPGの遊び方の中でもボードゲームやウォーゲームに近いもので、機械的な処理に向いており、コンピュータRPGは高いレベルでこれを再現している。また、この頃はテーブルトークRPG自体、この種の製品や遊び方がほとんどであった。 | 803 |
テーブルトークRPG | テーブルトークRPGは、コンピュータRPGにあるような強力な演出とは縁遠いが、早い段階でさまざまなジャンルを可能にしてきた。「迷宮・秘境探検と魔物退治のゲーム」以外にも「恒星間宇宙での冒険」「邪神の復活を阻止するホラーもの」「犯罪事件の推理やアクション」などのジャンルは80年代にはすでに誕生している。
コンピュータRPGではプレイヤーはあらかじめプログラムされた行動しかとれないが、テーブルトークRPGでは原則的にはプレイヤーはいかなる行動宣言を行うこともできるため、無限の自由度があるとも言える。
「ロールプレイングゲーム」という呼称は、職業訓練や精神医学の臨床において行われるロールプレイングが由来である。また、テーブルトークRPGの元になった、戦争シミュレーションのミニチュアゲームや政治闘争などのボードゲームでは、プレイヤーが自分の受け持った軍の将軍・指導者の立場にたって、この将軍・指導者が得られたであろう限定された情報を元に駒を動かす遊び方などのように、プレイヤーが指導者という一個人の視点を通して軍や団体を操る遊び方もロールプレイングと呼ばれていた。「ロールプレイングゲーム」の呼称は最初のテーブルトークRPGが登場した時点ではまだ使われておらず、1970年代後半になってから、先に挙げたボードゲームも含めて各個プレイヤーが一人の個人を担当するゲーム全般の意味で用いられた。 | 803 |
テーブルトークRPG | テーブルトークRPGが最初に登場したのは1970年代前半のアメリカである。ロールプレイングゲームの元祖とされるのは1974年の『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、『D&D』)である。『D&D』はゲイリー・ガイギャックスによってデザインされ、TSR社から発売されたが、これはガイギャックスとジェフ・ペレンが作ったミニチュア・ウォーゲーム『チェインメイル』(1971年、ガイドン・ゲームズより発売)から発展したものであった(そのため、『チェインメイル』は『D&D』の原型とみなされる )。『D&D』の内容は、ドラゴンなどの魔物が住み危険な罠の仕掛けられたダンジョン(迷宮)の中を、武器を使う戦士、魔法使いなど、異なる能力を持ったキャラクターを組み合わせたグループ(パーティ)を組んで探検し、様々な謎(リドル)を解き、ダンジョンの奥に眠る財宝や魔法の物品を獲得する、というものである。また、1970年代後半にはこのゲームの達成目的や進行方式を継承したコンピュータRPGも誕生した。なお、『D&D』黎明期には、この作品に対して数々の誤解や非難や陰謀論が飛び交っていた。詳細は「ダンジョンズ&ドラゴンズに関する論争」の項を参照。
安田均は、『D&D』はヒロイック・ファンタジー、『指輪物語』、マイケル・ムアコックの「エルリック・サーガ」といった作品の影響を受けていると指摘している。
1970年代後半になると、SF、歴史、近現代を舞台にするテーブルトークRPGが登場してくる。また、特定の小説や映画などの世界を再現するものも登場する。 | 803 |
テーブルトークRPG | 安田均は、『D&D』はヒロイック・ファンタジー、『指輪物語』、マイケル・ムアコックの「エルリック・サーガ」といった作品の影響を受けていると指摘している。
1970年代後半になると、SF、歴史、近現代を舞台にするテーブルトークRPGが登場してくる。また、特定の小説や映画などの世界を再現するものも登場する。
背景世界の多様化により、「ダンジョン探索」や「怪物退治」をゲームの目的にしないものも登場してきた。例えば1977年に発売された『トラベラー』は、科学技術が発達して自在に宇宙旅行できるようになった世界を舞台に、さまざまな文明をもった惑星を旅することを目的にしている。1979年に発売された『ルーンクエスト』はファンタジー世界ながら、文化人類学を背景にした緻密なカルト(祭祀集団)を設定し、詳細な設定をもった背景世界(グローランサ)と物語を提示したことに特徴があった。このゲームではプレイヤーキャラクターが所属するカルトによって全く異なる行動規範が定められており、従来の「プレイヤーキャラクターは同じ目的を持った仲間(パーティー)である」という概念とは異なるプレイスタイルを持っていた。
これらのゲームは「ある役割を課せられた仮想の人物を操演して、司会・審判役を交えて会話で進行するゲーム」という部分では『D&D』と共通するものの、背景世界のみならず達成目的や進行方式が『D&D』とはまったく異なるゲームとなっている。このようなゲームの登場は、テーブルトークRPGの多様性を示すことになった。
また、最初期の『D&D』をはじめ黎明期のゲームは背景世界に緻密な設定をもたなかったが、『トラベラー』や『ルーンクエスト』のような緻密な世界設定を持つゲームの登場により、後のゲームでは「ゲームシステム」と「世界背景・物語」という二分化された制作がなされるようになる。
英語圏だけの現象であったテーブルトークRPGは、やがて他の言語圏にも紹介され、初めは英語のゲームをそのまま遊ぶという形で伝播していくが、やがて、各言語独自のゲームが作られるようになる。テーブルトークRPGが多く発表されている非英語圏の国として、フランス、イタリア、ドイツ、日本などがあり、その中からはNephilimのように逆に英語に翻訳されるものも出てきた。 | 803 |
テーブルトークRPG | 英語圏だけの現象であったテーブルトークRPGは、やがて他の言語圏にも紹介され、初めは英語のゲームをそのまま遊ぶという形で伝播していくが、やがて、各言語独自のゲームが作られるようになる。テーブルトークRPGが多く発表されている非英語圏の国として、フランス、イタリア、ドイツ、日本などがあり、その中からはNephilimのように逆に英語に翻訳されるものも出てきた。
日本におけるテーブルトークRPGの始まりは、1970年代後半に求められる。原宿キディランドなどの玩具店や模型店で、日本国外製の原語のTRPGが輸入販売されるようになり、それをプレイする人々が初期のユーザーとなった。元々はアメリカの大学生の遊びから生まれたゲームであるため、ルールは全て英語で書かれており、それを読めなければゲームを始めることすらできなかった。しかし、彼らは次第にゲームの翻訳・翻案、さらには自作まで行うようになる。
日本ではテーブルトークRPGよりも一足先にボードシミュレーションゲームが紹介されており、1980年代前半にはファン層も確立され、日本語のゲームや日本語の専門誌もいくつか出版されていた。『TACTICS』『シミュレイター』などの当時のボードシミュレーションゲーム雑誌では、「ボードシミュレーションゲームの兄弟のようなゲーム」として日本国外のRPGならびにその周辺の状況がたびたび紹介されている。1982年5月1日発売の『TACTICS』3号にロールプレイングゲーム『ドンキーコマンド』が掲載される。『ドンキーコマンド』はコマンド隊員をキャラクターとして作成し、秘密基地に潜入。爆破や奪取任務を行う1人プレイ用のルールであった。 | 803 |
テーブルトークRPG | 日本語で書かれたTRPG製品が商業ベースで発売されるようになったのは1983年で、この年に多摩豊により『エンタープライズ』がツクダホビーから発売されている。また、同年にはツクダホビーやバンダイから、ロールプレイングゲームの要素を持つボードゲームが日本人のゲームデザイナーにより多数発売された(ツクダホビー『クラッシャージョウ』、バンダイ『元禄忍者伝』など)。1984年には日本人作による初の本格的なテーブルトークRPGである『ローズ・トゥ・ロード』(門倉直人著、ツクダホビー発売)が発売された。また、同年には日本国外製TRPGの初の日本語翻訳製品となる『トラベラー』がホビージャパンより発売されている。その後、1985年には『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(新和)、1986年には『クトゥルフの呼び声』(ホビージャパン)と、著名な日本国外作品の日本語翻訳版発売の流れが続き、後のブーム(繁盛期)の端緒を開いた。
日本語のTRPG製品が発売されていった1980年代前半は、コンピュータRPGが日本のパソコンゲームファンに注目されだした時期でもある。『ログイン』『Beep』などのコンピューターゲーム誌では「『ウィザードリィ』や『ウルティマ』の元となったゲーム」として、『D&D』等の紹介が始まり、コンピュータゲームをきっかけにテーブルトークRPGに興味を持つ、という流れを作り出した。なお、コンピューターゲーム誌では、コンピューターRPGに対しての「ボードRPG」という造語が盛んに用いられていた。
1980年代後半に入ると、パソコンゲーム雑誌『コンプティーク』(角川書店)誌上に、『D&D』のシステムを用いた『ロードス島戦記』のリプレイが掲載された。その後、リプレイを原案とした小説版『ロードス島戦記』が発表され大きな反響を呼び、漫画やOVA、パソコン用ゲームなど、いわゆるマルチメディア展開を見せ、日本におけるテーブルトークRPG普及に一役買うことになる。
1989年に『ソード・ワールドRPG』が富士見書房から発売されると、特に中高生を中心とした低年齢層にも広く普及した。
『ソード・ワールドRPG』が大きく普及した理由は、
などが挙げられる。 | 803 |
テーブルトークRPG | 1989年に『ソード・ワールドRPG』が富士見書房から発売されると、特に中高生を中心とした低年齢層にも広く普及した。
『ソード・ワールドRPG』が大きく普及した理由は、
などが挙げられる。
こうして、テーブルトークRPGの一大ブームが訪れた。角川書店、富士見書房からはRPG関連書籍が数多く出版された。RPGを元にした小説作品である『ドラゴンランス戦記』(富士見書房より翻訳刊行)や『ロードス島戦記』(角川書店)は日本のファンタジー小説の裾野を広げた。
ところが、こうしたブームは、1990年代半ばに落ち込んでしまうこととなる。これを俗に、「TRPG冬の時代」と呼ぶ。停滞していった原因は、ブームに乗じた粗製濫造と作品の質の低下、『マジック:ザ・ギャザリング』を初めとするトレーディングカードゲームの台頭、主要なファン年齢層の就職・進学に伴う離脱などが、よく挙げられている。
2001年、長らく冬眠状態だった『ソード・ワールドRPG』リプレイの新シリーズがスタートし、翌2002年には、『ナイトウィザード』の初版、『アルシャード』の初版、『ダンジョンズ&ドラゴンズ第3版』といった、その後も展開が継続していった人気システムが相次いで出版され、本格的に復調傾向を見せ始める。
2000年代後半以降は、ルールブック、サプリメント、リプレイ、アクセサリなどのTRPG関連製品が毎月10点程度は発売されるような状況となり(関連小説や定期刊行物を含めればさらに増える)、回復・安定したとみられる。しかし、TRPGは「冬の時代」を挟んで、他のサブカルチャーメディアへの露出・連携が弱まったため、この時点では若い世代への広範な普及が見られたかつての状況にまでは至っていなかった。未経験者への普及再拡大が起こるのは2010年代後半の第二次ブーム以降となる。 | 803 |
テーブルトークRPG | 2000年代終盤から2010年代初頭にかけて、ニコニコ動画などの動画サイトに『アイドルマスターシリーズ』や『東方Project』のキャラクターを用いた初心者向け解説動画やリプレイ動画などが投稿されるようになり、中でも2012年頃から『クトゥルフ神話TRPG』関連動画の投稿数が急増した。これに伴い『クトゥルフ神話TRPG』基本ルールブックの増版ペースも上がり、2015年6月で第20刷となっている。『クトゥルフ神話TRPG』関連動画の急増は、2012年4月よりテレビアニメが放送された『這いよれ! ニャル子さん』の影響と見る向きもある。
『クトゥルフ神話TRPG』の知名度の増加に伴い、2010年代後半になると既存のキャラクターを使うのではなく、純粋にオリジナルのキャラクターでオリジナルのシナリオをプレイしたリプレイ動画が活性化する。 さらに、動画を見た視聴者がリそこで使われたシナリオを使用して自分たちでもプレイを行い、それをゲーム実況動画の体裁で配信する、という繰り返しが起こるようになり、ゲーム実況界隈から若い世代のテーブルトークRPG参入が加速した。 この要因には、オンラインセッションに用いられるツールが2010年代後半頃から高度に整備され、SNSアカウントとの連携やスマートフォンからのプレイが行えるようになり、実際のプレイを体験するためのハードルが下がったこともある。
このような経緯から日本において動画サイトに投稿されているテーブルトークRPG動画は『クトゥルフ神話TRPG』を扱うものが主流となっている。2020年頃には『クトゥルフ神話TRPG』は日本国内において最も遊ばれているTRPGだという認識が波及しており、この認識は米国のケイオシアム社も共有している。このことは、『クトゥルフ神話TRPG』の関連動画をきっかけにそれを遊ぶようになった人口が、それ以前までの日本のテーブルトークRPGのコミュニティの規模を上回っていることを示してもいる。 | 803 |
テーブルトークRPG | 日本においては黎明期より、制作者・企画者が海外製品の翻訳やオリジナル作品の制作を行い、彼らと契約した玩具メーカーや出版社が流通販売を担う、という形態が多くを占める。しかし採算が取れず市場から撤退した玩具メーカーや出版社も少なくない。そのため、同一または同系統のルールブックが別の出版社から販売されたり、絶版作品が権利がらみで販売不可となる事例も少なからず見られる。
日本独特の出版形態が「文庫(本)型」である。『ソード・ワールドRPG』や『GURPS』(ガープス)、『MAGIUS』(マギウス)が代表的である。それらをデザインしたグループSNEは、その前に『トンネルズ&トロールズ』の日本語版を文庫で出版し、ゲームブックファン層にテーブルトークRPGをアピールすることに成功している。
1990年代前半のテーブルトークRPGのブーム期にはビッグネームからマイナー製品まで数多くのタイトルが文庫で次々と発売され、文庫本という形態はテーブルトークRPGのデファクトスタンダードになっていった。1990年代後半以降の日本では、A4判もしくはB5判の書籍タイプ の製品が主流を占めることになる(情報量も多いがその分厚くなり、文庫タイプに比べて高価格 という特徴を持つ)。過去にも、大判の書籍タイプのRPGルールブックはあった(『パワープレイ』など)。ところが、文庫タイプの代表格『ソード・ワールドRPG』『GURPS』ですら、この時期に『完全版』としてA4判の書籍タイプで出版された(これは日本のみの現象ではなく、アメリカでも一足早く、ボックス型よりも大判の書籍タイプが主流となっていた)。
しかし、2004年に発売された『アリアンロッドRPG』は、久しぶりに文庫タイプで出版された。この作品は基本ルールやリプレイ、入門者向けのサプリメントは文庫で出版し、追加データなどの記述量が多くなるパワーユーザー向けのサプリメントはB5判書籍で出版するというスタイルをとった。こうした、両方の利点を活かす展開手法は、2006年発売の『アルシャードガイア』、2008年発売の『ソード・ワールド2.0』、2009年発売の『ダブルクロス The 3rd Edition』などにも引き継がれている。
日本のテーブルトークRPG市場において特徴的なものに、「リプレイ本」といわれる商品の存在がある。 | 803 |
テーブルトークRPG | 日本のテーブルトークRPG市場において特徴的なものに、「リプレイ本」といわれる商品の存在がある。
リプレイとはテーブルトークRPGのプレイ風景を記録したものである。一般的にはプレイヤーキャラクターとゲームマスターの発言の羅列という戯曲形式で記述される。リプレイは元々は、ゲームのルールをわかりやすく説明するためにルールブックに10数行程度で書かれるものでしかなかった。これは行為判定などが行われている様子を戯曲形式にして抜き出したものにすぎなかったが、日本のテーブルトークRPGの黎明期では全く未知の遊びであったテーブルトークRPGの紹介を行うためにこのリプレイという形式が好んで使われた。ウォー・シミュレーションゲーム雑誌やパソコンゲーム雑誌では1回のゲームプレイの最初から最後までを数ページにわたるリプレイとして掲載することで、テーブルトークRPGの実態を紹介していった。さらには、コンプティーク誌で1986年に連載された『ロードス島戦記』など、数回のセッションにわたるキャンペーンプレイを全てリプレイとして掲載するという試みも行なわれた。リプレイが長文化するに従い、書き手は読み手に対して飽きさせないようにする工夫や単なる記録以上の「読み物」が求められるようになり、リプレイの文章には様々な演出や編集が行われるようになった。こうして日本独自の文化が誕生したのである。
リプレイ文化はテーブルトークRPGの黎明期こそゲーム雑誌上の記事でしか見られなかったが、『ロードス島戦記』や『ソードワールドRPG』がメディアミックス展開していくのと同時にリプレイも単品の商品として文庫本の形式で売り出されるようになる。その結果、「リプレイ本」はテーブルトークRPGをプレイしていない人の中にもライトノベルの一種として受け入れられるようになり、様々なリプレイ本が出版されていくようになっていったのである。ここに至り、ゲームの紹介として始まったリプレイが独立した一個の作品として売り出されるようになった。結果、ゲームはプレイしないがリプレイ本は読んでいるリプレイ読者という層が生み出されるようにもなった。リプレイ本は2011年現在においてもライトノベルの一つとして出版され続けており、ライトノベル市場において独自の地位を築いている。 | 803 |
テーブルトークRPG | 日本のテーブルトークRPGの文化として二次創作活動が盛んである。それに伴い二次創作に関するガイドラインが2021年10月から制定された。
下記は、各社から出版されたTRPG専門誌、サポート誌(休刊・廃刊されたものを含む)。 | 803 |
庭師 | 庭師(にわし)とは、庭を造る人のこと。古くは園丁(えんてい)やガーデナーと呼ばれる。庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人、またその樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。
日本語圏では例えば小川治兵衛のように庭に関する事項全般、施工から手入れなどを行うほか、設計も行うことになるため、庭師が造園家や作庭家と言われる場合がある。しかし重森三玲のような庭園の研究者や官庁に勤める造園技師が名園を作庭する場合も多く、造園家や作庭家はそうした人物らを含めた総称である。
イギリスのランスロット・ブラウンは庭師でもあったが作庭家でもある。英語では「gardener()」と「garden architect()」は異なる。
すでに古代において造園技術は発達し、バビロンの空中庭園やローマのドムス・アエリアやハドリアヌス庭園(ヴィラ・アドリアーナ)など、大規模な庭園が造営されたことが知られている。しかし機械的技芸一般を軽視した古代社会においては、庭を造る者の地位は一般に低かったとされる。オスマン帝国の宮廷庭師は、首切り役人も兼任していたほか、身分の高い者が裁判で死罪の判決が下された際、死刑の判決が出た被告と徒競走を行い、被告がその競争に負けた場合は即刻死刑執行、被告が勝った場合は国外追放といった職務にも従事していた。
トルコではほか16世紀半ばチューリップの交配が盛んになり改良新種が次々と生まれた時代にはチューリップ専門の庭師も誕生しているが、当時のイスラム長官エブスード・エフェンディまでもが「楽園の光」と名づけた新しいチューリップを作っていることがしられている。トルコはまたインドを侵略した際パプリカを持ち帰るが、そうした蔬菜を宮廷庭師に栽培させていたことがハンガリーに伝わる唐辛子にまつわる言い伝えから知られる。 | 805 |
庭師 | 中世ヨーロッパでもスペインなどで造営されたイスラム庭園、特に水を弾きれ、噴水などを駆使したアルハンブラ宮殿やヘネラリフェの庭園は有名であるが、同時代の修道院や宮廷では菜園と庭園の区別はあまり発達せず、むしろ蔬菜園を兼ねた中庭が主流であった。ただしこの時代に関して残されている史料からは宮廷庭師たちが国王や貴族の下で働いていた記録があり、実用的かつ美しさにも配慮した園芸作業に従事していたことがわかっている。フランク王国のカール(シャルルマーニュ)大帝の邸宅庭園に用いられた植物リストにはりんごやセイヨウナシなどの果樹のほか、ユリやバラ、アイリス、セージなどが植えられていたことが記載され、視覚的なことだけでなく芳香植物など香りも重視していたとされる。
宮廷庭師の蔬菜栽培に関する記録はほかにも多く、フランスで13世紀頃に食されていたアスパラガスは貴族の野菜と称されるほど高価なものとされるが、特にルイ14世は宮廷庭師に、一年中食べられるように温室栽培を命じたというし、1593年にイベリア半島を旅行したマクシミリアン2世の宮廷植物学者シャルル・ド・レクリューズがカスティリア(スペイン)で、庭師や主婦までもがカプシクム(唐辛子)を丁寧に栽培していると報告。またイタリアでトマト栽培が裕福層の観賞用としてものから食用に移行するのは、ナポリの宮廷庭師が苗を自分の家に持ち帰り食用にしたからといわれている。宮廷庭師ミヒャエル・ハンフらは16世紀に果樹や野菜を栽培する実用園として造られていたルストガルテンを1647年にブランデンブルク選帝侯のフリードリヒ・ヴィルヘルムの命によりオランダ庭園に改造したことが知られる。17世紀にはジャガイモやトマトなどが観賞用から食糧としての経済的有用性が認められるようになり、イギリスなどは食糧を大量生産するという目的で、それら蔬菜の苗木を植民地で栽培し始める。 | 805 |
庭師 | ルネサンス期からバロックに入ると水利技術を駆使した庭園が発達し、メディチ荘の建設にコジモ1世が依頼した水利技術者であり建築家そして彫刻家として知られるニッコロ・トリボロのような人物が作庭に当たり、また庭園設計の理論も盛んに著述されるようになっていくが、このことはヨーロッパにおける庭園の発達に大きな変革をもたらし、ヴェルサイユ宮殿に見られる大規模な庭園の造営において、造園家は農芸の専門師という立場から、芸術家としての扱いを受けていき、厚遇されるようになっていく。ラファエロは『美しき女庭師』を描き、モーツァルトの歌劇「偽の女庭師」は1775年1月、ドイツミュンヘンで初演される。アンドレ・ル・ノートルの家はパリにある王室所有のテュイルリー庭園で代々働いていた造園家の家柄として知られるし、ドイツマクデブルクのフリードリッヒ・ウィルヘルムスパルクを手がけたペーター・ヨセフ・レンネも宮廷庭師の家柄出身である。
ジョン・トラデスカント親子はチャールズ1世お抱えの庭師となり、17世紀中ごろから18世紀にかけてヨーロッパ大陸・アルジェリア・アメリカから珍しい植物を採集してくる「プラントハンター」と呼ばれる職能として活躍する。彼らはサクランボ・オレンジ・チューリップなどをイギリスに持ち込んだ。また同じく諸国を回ったロバート・フォーチュンもエジンバラ王立植物園(英語版)で園芸を修め、ロンドン園芸協会の庭師であった。イギリスではほかにハンプトンコートなどの庭師ジョージ・ロンドン(英語版)やヘンリー・ワイズや彼らのもとで働いていたスティーヴン・スウィツァーやアン女王のお抱え庭師ロジャー・ルッカーらが知られる。彼らは庭園の維持管理や修景を担当する王室園芸官として活躍する。
日本では古くは苑池を管理する園池司などの管制や明治の開拓使が園芸師として外国人を雇っていることが知られるが、庭を施工する者の意味での「庭師」という意味と語は江戸時代に定着したものである。
ほかに庭を造る者の呼び名は他に平安時代末期からの「石立僧」、室町時代の善阿弥など「山水河原者」があり、実際に庭を造る人物の身分が呼び名に現れている。 | 805 |
庭師 | 日本では古くは苑池を管理する園池司などの管制や明治の開拓使が園芸師として外国人を雇っていることが知られるが、庭を施工する者の意味での「庭師」という意味と語は江戸時代に定着したものである。
ほかに庭を造る者の呼び名は他に平安時代末期からの「石立僧」、室町時代の善阿弥など「山水河原者」があり、実際に庭を造る人物の身分が呼び名に現れている。
室町以降の枯山水などの試みは広く行われるようになっていくが、これは禅宗の影響を受け雪舟、夢窓疎石のような「石立僧」が台頭していったことがあるが、現在でも深谷光軌、枡野俊明など僧侶が作庭家となるケースはある。
江戸期は回遊式庭園の形式が発達し、時の徳川幕府は作庭責任者の将軍家御庭師とともに御用庭師にあたる御庭掛などを定め、庭園管理に務めさせている。江戸期には、貞観園改修に参画した幕府のお抱え庭師であった九段仁右衛門や藤井友之進、縮景園築造に呼ばれた京都からの庭師清水七郎右衛門、清水園(新発田藩)に関わった幕府お抱え庭師縣宗知、宮良殿内の和風枯山水庭園を作庭した首里の庭師城間親雲上などがいた。駒込村枝郷染井村には江戸城内の庭師もつとめた植木屋伊藤家などがあった。
近代からは植木職人や樹木・園芸種を育てる農家が屋号をもって建設業、造園業や石材業を営むようになっていくが、この中で小川治兵衛の植治など、今日にも残る老舗といわれる植木商や造園業者に発展したものや出入り業で家業を継いで発展したものが多く、また戦前ごろから大学卒の学士などが修行し独立するケースもみられていく。近代期では、大河内山荘を築造した広瀬利兵衛、殿ヶ谷戸庭園を築造した仙石、自らの手で合浦公園造成を開始した旧弘前藩庭師の水原衛作、迎賓館を築造した佐野藤右衛門、岩城亘太郎、柴又帝釈天邃渓園を築造した向島の庭師永井楽山などがいる。
現在では幾多の名園は企業や公共団体が管理するものが主流を占め、中根金作のように京都府など自治体の技師や文化庁や環境省など国の技官として任用されるケースもある。 | 805 |
小堀政一 | 小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。伏見奉行、上方郡代と江戸幕府成立期の京都伏見にて、畿内近国支配に重要な役目を果たした。官位は従五位下遠江守。遠州流の祖。
一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
小堀氏の本姓は藤原氏で、光道の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住して村名を姓として名乗った。光道から6代の後の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となった。
天正7年(1579年)、小堀正次の長男として誕生。母は磯野員昌娘。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和郡山城に移封されると、父・正次は家老となり、政一も共に大和郡山に移った。
この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、大和郡山は京・堺・南都(奈良)と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出会い、長い親交を深めていった。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。
秀長の死後を嗣いだ秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶の湯を学ぶことになる。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。
慶長4年(1599年)3月6日には、古田織部に従い、金森可重、石川貞通などの武士、津田宗凡などの堺・京の町衆たち30人とともに吉野で花見を催した。その時、織部は荷(にない)茶屋に「利休妄魂」の額を掲げた。
父・正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。浅井郡小峰邑主。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下 遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。 | 806 |
小堀政一 | 父・正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。浅井郡小峰邑主。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下 遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
居所としては、正次の頃から伏見城下の六地蔵西町に屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和5年9月(1619年10月)、近江小室藩に移封され、さらに元和8年8月(1622年9月)に近江国奉行に任ぜられる。
元和9年12月(1624年1月)、伏見奉行に任ぜられる。寛永9年(1632年)、伏見城南方清水谷にあった奉行所と六地蔵西町の自邸を、伏見城西方常磐町の富田信濃守屋敷跡に移転新築する。
寛永11年(1634年)、畿内近国八か国を総監する上方郡代に任ぜられる。
晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎(忠興)らの口添えにより不問とされた。
その後も伏見奉行を務めながら、3つの茶室「松翠亭」「転合庵」「成趣庵」や、数奇屋「松翠亭」、伏見城の礎石などを利用した庭園を擁する伏見奉行屋敷にて茶の湯三昧に過ごし、正保4年2月6日(1647年3月12日)69歳で死去した。
なお、子孫の政方は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢い、大名家としての小堀家は断絶することになったが、文政11年(1828年)に正優が300俵を与えられ、御家人として再興を許された。
政一の公儀作事に関する主な業績としては備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられる。 | 806 |
小堀政一 | なお、子孫の政方は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢い、大名家としての小堀家は断絶することになったが、文政11年(1828年)に正優が300俵を与えられ、御家人として再興を許された。
政一の公儀作事に関する主な業績としては備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられる。
宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の際の休泊所である水口御殿(滋賀県甲賀市水口町水口)、永原御殿(滋賀県野洲市永原)、伊庭御殿(滋賀県東近江市伊庭町)、柏原御殿(滋賀県米原市柏原)、大坂城内御茶屋などが知られている。また京都の寺では将軍の側近・以心崇伝の住坊である南禅寺塔頭金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など準公儀の作事に参画しているが、政一の書状の文面から推察できるように、彼は江戸にある幕府からの愛顧を気にしていた関係から公儀の作事(幕府の対皇室政策)以外は公家への出入りは極力避けていた。師・古田織部のような非業の死を避けるためとも思われる。
政一が奉行として参画したと思われる遺構は建築としては妙心寺塔頭麟祥院の春日局霊屋(慶長年間、うち溜りを移建)、氷室神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室(重文)、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺塔頭龍光院の密庵席(国宝)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。京都の金工師で加賀藩前田家の家臣の後藤覚乗の茶室擁翠亭は、「十三窓席」といわれた多窓茶室である。また札幌市にある草庵茶室八窓庵(旧舎那院忘筌、重文)、加賀大聖寺藩の長流亭も手がけていると言われる。 | 806 |
小堀政一 | 庭園の作風については政一は師である織部の作風を受け継ぎ発展させたとされるが、特徴は庭園に直線を導入したことである。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされるが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻である。また樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘される。
政一の茶の湯は現在では「きれいさび」と称され、遠州流として続いている。政一は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。
また、秀吉の時代以前に名物とされた茶道具の多くが秘蔵の品として入手困難となっていたため、新たにこれはという茶道具に銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていった。その際、彼は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘を用い、同じようなデザインのものを「○○手」として類型化した上で特定の固体を「本歌」とし、同じ手のものには本歌にちなんだ銘を与えることで、茶道具のデザインを系統立てて把握できるような仕組みを考案した。
こうして小堀が有名にした茶道具群は、後世中興名物と呼ばれることとなり、所持した道具目録は遠州蔵帳といわれた。
茶室においては、織部のものより窓を増やして明るくした13の窓を持つ茶室「擁翠亭」がある。これは前田利常に依頼されて設計したものである。政一は生涯で約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及ぶと言われる。彼の著名な門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭、武士には松平正信、加賀爪直澄、前田光高、神尾元勝などがいる。
小堀遠州がもたらした美意識は華道の世界にも反映され、それがひとつの流儀として確立、江戸時代の後期に特に栄えた。遠州の茶の流れを汲む春秋軒一葉は挿花の「天地人の三才」を確立し、茶の花から独自の花形へと展開していった。
その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立された。時代が下って、昭和の初期にかけては既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、明治の末期をピークとして遠州の名を冠した流派は大幅に増えることになった。 | 806 |
小堀政一 | その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立された。時代が下って、昭和の初期にかけては既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、明治の末期をピークとして遠州の名を冠した流派は大幅に増えることになった。
これらの流派は一般に、花枝に大胆で大袈裟な曲をつける手法という共通した特徴がある。華道でこうした曲生けは、技術的に習得するのが至難な技法として知られている。
小堀遠州は、茶室などの空間設計の一環に七宝細工による色彩や装飾を本格的に取り入れた(伝承上の)最初の人物である。遠州は、豊臣秀吉に仕えていた金工師の嘉長を登用し、戸袋や襖の引き手など七宝細工の製作にあたらせたと伝えられている。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいた。
桂離宮の松琴亭の二の間戸袋の巻貝形七宝引手は遠州の指導により意匠をさずけられた嘉長の作という。 京都の桂離宮、曼殊院、修学院離宮、大徳寺などの七宝引手や釘隠しは、今でも建屋の中で使われている状態を見ることができる。千利休や古田織部好みの茶室などと比較すると、七宝による装飾は遠州好みの書院風の空間によくなじむ。
なお、小堀家の家紋「花輪違紋」は「七宝花菱」とも呼ばれているが、これは、輪違い連続文様における一つの輪が四方へと無限に広がる様子、「四方」が「七宝」に転じたものという説や、「花輪違」は四個の輪からできており「四方襷(しほうたすき)」あるいは「十方」などとも呼ばれたことから、「十方」がなまって「七宝」に転じたという説がある。
ところで、七宝細工を意味する「七宝瑠璃」という語は、室町時代、足利義政が将軍の頃から使われているが、七宝瑠璃と七宝紋の関係については不明である。遠州以前の室町時代、利休の茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に受け入れられるようになったのは、遠州や琳派の時代(桃山時代以降)を迎えてからのことであった。 | 806 |
人生ゲーム | 人生ゲーム(じんせいゲーム、The Game of Life)は、1960年にアメリカMilton Bradley社(現・ハズブロ)から発売されたボードゲーム。すごろく形式で、学校生活や職業など人生の出来事に関連したイベントマスを進めながら、お金や資産を集め、最終的に億万長者を目指す。
日本でも1968年9月にタカラから発売されるなど、各国で今なお多くの子供達に愛されている。
ゲームシステムは、双六の発展形。ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の人生が左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。現在でも改良版が発売されているという、息の長いゲームである。
ボードゲーム製品以外にも、ビデオゲーム版や携帯ゲーム版、イベントとしての展開も行われている。
原型は1860年ごろ、米国マサチューセッツ州・スプリングフィールドで印刷業を営むミルトン・ブラッドリー(en:Milton Bradley)という24歳の若者によって考案された「The Checkered Game of Life」。1960年に同社100周年を記念してこのゲームのエッセンスを加えた「The Game of Life」が発売。当時アメリカで人気を博したテレビキャスター、アート・リンクレター(en:Art Linkletter)をパッケージに印刷している。
日本版は「人生ゲーム」の名称で1968年9月に株式会社タカラ(現・タカラトミー)から「タカラのアメリカンゲーム」シリーズの一つとしてライセンス契約発売された。発売前時点では「パーティーゲームは日本人に馴染まない」「内容が日本とかけ離れている」といった反対意見や、「子供が金儲けの話をすることや金持ちになることが一番という考えがはしたない」といった社会的風潮から日本で受け入れられないという意見があったものの、当時のタカラ社長佐藤安太は「アメリカの自立精神が盛り込まれており、これを日本の子供達に伝えたい」という思いから発売に踏み切った。 | 807 |
人生ゲーム | 内容は当初原版を和訳する形でアメリカ文化が色濃く反映された内容だったものの、1983年発売の3代目以降は日本独自のイベントを取り入れた内容となりその後も各時代の世相を反映した内容でシリーズ展開を続けている。この「人生ゲーム」は日本に於ける同社の登録商標(第919585号)で、タカラトミーの発表によると日本での発売開始から50周年を迎えた2018年3月時点で日本版の累計出荷数は1500万個を超える。
各プレイヤーの駒となる物。色は赤・青・黄・緑・白・橙が基本色となっており、最大8人で遊べる平成版では黒・桃・紫・水などが追加されている。
自動車ゴマには貫通していない穴が6個所あり、そこに水・桃(8代目では赤・黄・白・緑を追加)の「人物ピン」を差し込むことで各プレイヤーの分身としてあらわす。この人物ピンは結婚・出産・養子縁組などのマスに止まることでさらに該当の色の人物ピンを乗せる。また、一部作品では状況を表すためのピンを差す場合もある。
なお、中央には貫通している穴が2つあり、それらは誤飲時の窒息防止用に開けられているため、ゲーム中は人物ピンを差さないよう注意されている(シリーズによっては穴が開いていない物も存在する)。
また、自動車ゴマはメインシリーズに適用されており、3代目まではテールフィンのついたアメリカ車をモチーフとした形としていたが4代目以降は丸いヘッドライトが特徴的なスポーツカーをモチーフとしたデザインとしている。作品とのコラボでは筋肉番付版「金剛くん」、ハローキティ版「キティちゃん」など各キャラクターを象ったコマを代わりに使用する場合もある。「昭和おもひで劇場」ではゲームスタート時は自転車となり、ゲーム途中で任意の車に乗り換えるイベントが発生する。
プレイヤーの職業を表すカード。カードには職業を表すイラストと給料日1回あたりの給料、その他ステータスなどが記載される。このカードを所持していない場合は「フリーター(プーちゃん)」とみなされる。 | 807 |
人生ゲーム | プレイヤーの職業を表すカード。カードには職業を表すイラストと給料日1回あたりの給料、その他ステータスなどが記載される。このカードを所持していない場合は「フリーター(プーちゃん)」とみなされる。
プレイヤーが就ける職業はビジネスマン、先生、タレント、医者、スポーツ選手、政治家など身近なものであったり、その時々の憧れの職業が選ばれている。各バージョン発売時の時世によって種類も変わり、ショップ店員や弁護士、漫画家といった物も追加されている。平成版では現代情勢を皮肉るためか、サラリーマンが「一般企業」「電力会社」、スポーツ選手が「野球選手」「力士」「騎手」と細分化されていたり、「ビデオ女優」「ヤッちゃん」といったアングラな職業も入っている。
職業は所定のマスやイベントによって「ランクアップ」となり、ビジネスマンであれば「部長」、先生であれば「校長先生」のように格が上がり、その分給料も増額される。平成版では別途「ランクボード」が用意されており、職業ごとに5~50段階に分かれて給料が決められている。
また、コラボ版では登場するキャラクターや人物が職業代わりとなったり、その作品内に登場する職業が登場する場合がある(ポケットモンスター版では「ポケモン博士」「ロケット団」など)。
人生ゲームは、マスにその時代を反映させたものや、企業やキャラクターのタイアップなど種類が多い。1989年(平成元年)に発売された「平成版」は、シリーズ化されるほどの人気商品となった。歴代のベーシック版については番数を太字表記とする。
グリコとの共同企画商品で、イオングループの店舗で限定発売。
近年では、コンピュータゲーム版を発売しているほか、BSデジタル放送のBS朝日では、毎週土曜日午後8時から双方向対応クイズ番組として、『クイズ!人生ゲーム 〜THE QUIZ OF LIFE〜』を放送していた。
司会は、人生案内人役として進行している宇梶剛士と、助手役として進行している野村真季アナウンサーの2人である。また、2005年の夏から『女優開発プロジェクト ××プロ』から、甲斐美花と山岸愛梨の2人が参加。この2人はUN(うん)ガールズとして進行した。
同番組は、同年の11月をもっていったん終了するが、2006年にはリターンズとして、以前の放送の一部を再放送し、同年春で完全終了。後番組は『みんなの脳ドリル』。 | 807 |
人生ゲーム | 同番組は、同年の11月をもっていったん終了するが、2006年にはリターンズとして、以前の放送の一部を再放送し、同年春で完全終了。後番組は『みんなの脳ドリル』。
モンスターメーカー系カードゲームの人気で、平成版を中心にカードゲーム化された。
特に表記がないものについてはタカラから発売。
FC=ファミリーコンピュータ、PCE=PCエンジン、GB/GBA=ゲームボーイ/ゲームボーイアドバンス、SFC=スーパーファミコン、PS/PS2=PlayStation/PlayStation 2、DC=ドリームキャスト、N64=NINTENDO64、GC=ニンテンドーゲームキューブ、DS=ニンテンドーDS、Wii=Wii、iOS=iOS、Android=Android、Switch=Nintendo Switch
携帯液晶ゲームとして2005年に発売され、のちに追加要素を増やした人生ゲームキャンディ120%も発売された。ボードゲームの人生ゲームが、複数人数で遊ぶゲームだったのに対して、基本的に1人用の育成タイプのゲームである。(通信機能により、他人のものと交流は可能。)「1週間で人生を体験しちゃお」をコンセプトに、女性向けとして作られている。ルーレットによって運命が決まるという人生ゲームらしさはあるものの、キャラクターを育てるという点において、既存の人生ゲームよりもたまごっちに近いゲームといえる。形は5.5センチほどの円形で、ボールキーチェーンがついている。カラーバリエーションが多く、いずれもキャンディの味を思わせる名前がついており、カラフルなものになっている。
両作とも公式ゲーム。
SEモバイル・アンド・オンラインが開発を担当。
、他
現在ハズブロから発売されている『The Game of Life』も、ゲーム内容はほぼ同じながら、日本とは別展開で販売されている。 | 807 |
野球盤 | 野球盤(やきゅうばん)は、野球を題材としたボードゲーム。同様のものは戦前から存在していたが、エポック社が1958年(昭和33年)に発売したものなどがよく知られている。ここでは特に断りのない限り、エポック社製のものを中心に記述する。
長期間に渡り、徐々に機能が追加された新製品が発売されている。以下はその代表的なものの説明である。
ボードの上に野球のグラウンドがしつらえてある。球はパチンコ玉に似ており、ピッチャーの位置にある装置に装填し、バックスクリーンの裏にあるレバーで投球する。投球は盤上を転がる。ホームベース手前には磁石が仕込まれており、カーブ・シュートを投げ分けられる。2015年(平成27年)以降は投球が空中を飛ぶ「3Dピッチング」が追加された(3Dエース)。2018年(平成30年)には9コースへの投げ分けが可能になった。
攻撃側は、左右どちらかの打席の穴にバット又はバッター人形をはめ込んだ後、捻って構えに入る(ばねがあり、いっぱいにまわすと固定される仕掛け)。球が投げられたら、スイッチ(ボタン及びレバー)を操作してばねを開放して回転させる。タイミングが合えば球は内外野に転がって行くか飛んで行く。打球が野手の位置に設けられた穴に落ちればアウト、穴に落ちることなくフェアゾーン内で打球が止まればヒットとなる。また、外野フェンス際にも各種の穴(アウト・一塁打・二塁打・三塁打・本塁打)があり、打球が一塁打の穴に入ると1ベースヒット、二塁打の穴に入ると2ベースヒット、三塁打の穴に入ると3ベースヒット、そして、本塁打の穴に入ったり、実際の野球と同様に打球がノーバウンドでフェンスや観客席を超えて当たったり、フェンススタンドに入ったり、場外に出れば当然、ホームランとなる。更に、バウンドして観客席や場外に達すると、エンタイトル・ツーベース(二塁打)となる事もある。
2010年(平成22年)以降はジャストミートすると放物線を描いてスタンドに入るモデルが発売されている。 | 810 |
野球盤 | 2010年(平成22年)以降はジャストミートすると放物線を描いてスタンドに入るモデルが発売されている。
追加された機能の代表的なものとして、消える魔球がある。1971年(昭和46年)、漫画『巨人の星』の人気に合わせ、ホームプレート直前にある部分が下がって穴が開くことにより「消える魔球」を再現できる機能が追加された「B型」が発売された。しかし、守備側に消える魔球を使われると、攻撃側は絶対に打てないため、取扱説明書では消える魔球は「ボール球」として扱われ、打者が見送ればボールになると定められている。タイミングによっては穴に落ちる直前にバットの先に引っ掛かるように当たることがあり、跳ね上がって柵越えになることも多かった。稀に、ボールが穴とバットに挟まれることもあった。当時のCMキャラクターは大村崑で消える魔球を面白楽しく宣伝していた。また、野茂英雄がメジャーリーグで活躍するようになった1996年(平成8年)前後に発売されたシリーズでは「フォークボール機能」という名称が使われている。近年では消える魔球とは反対の、ホームプレートが盛り上がってボールを飛び跳ねさせ空振りさせる「雷神球」が搭載されたこともあった。
この後、実際の野球場が変化するにしたがって、グリーン部分に人工芝が張られた「人工芝」、全体に透明カバーがはめられた「ドーム球場」と仕様が変更されて発売されている。また、この野球盤ゲームの成功がその後開発されたサッカー、アイスホッケーなどのスポーツボードゲームにも活かされている。
ボールが鉄製のものとそうでないものの2種類あり、前述の変化球が不可能であるボールも存在した。そちらのほうが軽いため、球速は速くなる。
2009年以降は実況音声や電飾機能を搭載した「電光掲示板」が付属したモデルが発売されている。実況音声にはフリーアナウンサーの松本秀夫を起用している。(ライブスタジアム-メガスラッガー)。
2007年には、ホープによりアーケード版が発売された。エレメカとしてアナログのギミックをそのままに楽しめる。1人プレイでは攻撃のみをプレイし、投球はCPUが行う。2人プレイ時は、チェンジの際にダイヤモンド部分が半回転し、常に正しい方向を向くようになっている。消える魔球も使用可能(回数制限あり)。ゲーム中の操作はすべてボタンで行える。 | 810 |
野球盤 | 2007年には、ホープによりアーケード版が発売された。エレメカとしてアナログのギミックをそのままに楽しめる。1人プレイでは攻撃のみをプレイし、投球はCPUが行う。2人プレイ時は、チェンジの際にダイヤモンド部分が半回転し、常に正しい方向を向くようになっている。消える魔球も使用可能(回数制限あり)。ゲーム中の操作はすべてボタンで行える。
通常の投球方法は、レバーを引いてから離すことにより行われるが、離すと同時に押えていない方の手でレバーを弾くことにより、(スケールスピードで時速150キロ超え相当の)豪速球を投げられる。これをされると、攻撃側は投げたと同時にバットのボタンを押さないとスイングが間に合わない。また、レバーを離すのでなく、押し出すことで、弾く球と比較してチェンジアップ的な速度の投球も可能である。
エポック社のビッグエッグ野球盤と野球盤PROについてはバッティングがレバー方式となっており通常はレバーを引くことによりバッティングが出来るが、打つときに力を入れてレバーを前に押し返すと会心の当たりが打てる。
消える魔球機能でボールが坂を下りかけたところで、レバーを弾いて勢いよく戻すとホップする。ホップが高過ぎるとバックネット側を飛び越えてしまうが、この場合はボールやワイルドピッチとして扱うローカルルールが存在する。逆にホップが低いとバットに当てられてしまうが、打球が浮くため当たりによってはスタンド入りや場外ホームランになってしまうことがある。また、ボールをとても遅くカーブさせながら投げると、ボールが壁に当たりはねかえってくる。これを応用すればストライクゾーンに投げられる。
公式ルールとしては扱えないが、極めて遅い投球をした後、変化球動作のためのマグネットを小刻みに動かすことで1塁/3塁へ玉を弾くことで、牽制球ができる。
過去に、実在の日本の球団・球場・あるいは選手とのコラボレーションによる野球盤が実在した。 | 810 |
2月10日 | 2月10日(にがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から41日目にあたり、年末まであと324日(閏年では325日)ある。 | 811 |
魚雷戦ゲーム | 魚雷戦ゲーム(ぎょらいせんゲーム)は、エポック社から発売された対戦型のボードゲーム。海戦をモチーフとしたゲームの一種であるが、海戦ゲームとは別物である。
まず、自分の側の戦艦(的)を3つセットする。その後、自分の側の魚雷発射管に魚雷(直径8mm程のパチンコの玉のようなもの)をセットする。準備ができたら相手側の戦艦を照準器(鏡)で狙い、魚雷を発射する。ただし、'67年版、'68年版、'74年版には照準器が搭載されていない。魚雷は盤上を転がり、狙いが良ければ相手の戦艦に当たる。ミニチュアの戦艦の底部にはヨットのバラスト・キールのような部分が有り、この部分に魚雷が当たると容易に沈没する(落ちる)。分配される魚雷は6発で、双方がそれを撃ち尽くすまで戦い、成績の良かった方が勝者となる。1967年から2009年5月までに7つのバージョンがエポック社により制作発売されてきた。最新バージョンは現在でも入手可能である。(2009年5月現在) | 812 |
2001年 | 2001年(2001 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。平成13年。21世紀最初の年である。
この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。
以下の発売日は、その商品が世界で最初にリリースされた日付(日本のメーカーのソフトでは日本が最初の場合が多い)を記している。 | 813 |
9月11日 | 9月11日(くがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から254日目(閏年では255日目)にあたり、年末まであと111日ある。 | 814 |
大阪近鉄バファローズ | 大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、英語: Osaka Kintetsu Buffaloes)は、かつて存在した日本のプロ野球球団である。1949年から2004年まで活動し、1950年から解散までパシフィック・リーグに加盟していた。現在のオリックス・バファローズの前身球団の一つである。
球団消滅時点では大阪府を保護地域とし、一軍は大阪市西区にある大阪ドーム、二軍(ウエスタン・リーグ所属)はかつて一軍の本拠地だった藤井寺球場を本拠地にしていた。
球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。ただし、三原脩の監督時代のサインなど、球団及び近鉄グループ関係者が誤用した例がある。
1999年3月末までの球団名は「近鉄バファローズ」で、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。
2004年、球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、2005年3月末に解散。職員の大半はオリックス野球クラブ、一部は新規に創設された楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトにより、オリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。
オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれていない。球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ以来となった。
合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。
1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリングとの球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。
1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリングとの球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。
球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中で「55年の球団史上1度も日本シリーズに4回出場した上で日本一になれなかった唯一の球団」となった。セ・リーグの内、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ、合併で1953年にチーム消滅した松竹ロビンスとは日本シリーズで対戦したことはない。
設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」とも揶揄(やゆ)された。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 設立当初より低迷が続き、万年Bクラス、最下位の近鉄は「地下鉄球団」とも揶揄(やゆ)された。
近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社)が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。「パール(真珠)」は賞金5万円の公募によって決められ、近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなこともあって命名された。近鉄にとっては、南海鉄道合併当時の1944年 - 1947年(近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現:近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる。しかし、毎日新聞側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。加盟申請は早かったものの、チーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かったため、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は黒尾重明(東急フライヤーズ)、森下重好、田川豊(いずれも太陽ロビンス)ら数えるほどで、選手層が薄く、設立より4年連続最下位となる。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し、2対6で敗戦。翌13日の対南海ホークス戦で沢藤光郎が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる(その2選手も翌年には退団)。
この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。
5月から6月にかけて13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に30勝78敗、3割に満たない勝率で3年連続最下位に終わる。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫が就任。 小玉明利、鈴木武ら後に中心となる新人補強に加え、独特の練習スタイルで結果を出す。
開幕直後には9連勝するなど、5月8日に一時期ながら首位に立つが、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える。
8月7日に新人の山下登が対高橋ユニオンズ戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成している。74勝63敗5分で、創立以来初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄が最多勝、鈴木武が盗塁王を獲得しており、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった。
序盤から投手陣が大不振。6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる。
4月後半の10連勝で勢いをつけたが、終盤に失速し5位。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 序盤から投手陣が大不振。6月19日には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる。
4月後半の10連勝で勢いをつけたが、終盤に失速し5位。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった。
この年パ・リーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三は「大映オーナーの永田雅一による近鉄潰しだ」と述べている。6月22日、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている。加藤春雄はオフに監督就任。
開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久の33勝を下回り、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘し、チーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。なお、同年はパ・リーグの他球団から名古屋への進出を持ちかけられたがこれを拒否している。
5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。
43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツから移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。
43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。
日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった。新人の徳久利明が15勝を挙げ球団初の新人王を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている。シーズン終了後、千葉茂が監督を更迭、別当薫が就任。
後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車だった列車での移動を西鉄並の二等車にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている。
「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。
チーム名を近鉄バファローズに改名。ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を、28勝を挙げた久保征弘が最多勝を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。
5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。
この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。球団結成時から在籍している関根潤三に対して球団の中には「監督をやれ」と言う人もいたが、関根にそのつもりはなく、近鉄を退団し、巨人に移籍した。
優勝した南海と42.5ゲーム差で2年連続の最下位。この年第1回プロ野球ドラフト会議が行われ、2位指名で鈴木啓示が入団している。
48勝82敗で3年連続最下位。シーズン終了後、岩本義行が監督を辞任、後任には当時31歳の小玉明利が選手を兼任のまま監督就任。
4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社(2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり4年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し選手として阪神に移籍した。後任には三原脩が就任した。
西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし、監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。
5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司を獲得。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 5月14日に黒い霧事件に関連し、球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆、吉沢岳男、高木喬の4名に八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まったが、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日、対南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任を鶴岡一人に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭が監督に昇格した。
鈴木啓示、清俊彦、佐々木宏一郎、神部年男の投手4本柱が防御率7位以内に入る安定感を見せ、3位を確保。
序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている。
パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井が唯一打率ベスト10入り(3位)しただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し、島田光二が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている。二軍がウエスタン・リーグを初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄が監督就任。
西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った。
監督に就任した西本は羽田耕一、栗橋茂、佐々木恭介、平野光泰、梨田昌崇ら若手選手を鍛えてチーム力の強化を図ったが1年目は5位に終わり、オフにチームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードで放出する。
初めて「優勝」(ペナント2期制度での後期優勝)を果たすが、プレーオフで前期優勝の阪急に1勝3敗で敗れる。なお通期での貯金は「21」(71勝50敗9分)であり、優勝の阪急の貯金「5」を大きく上回っていた。(+8ゲーム差相当)
4月26日、対ロッテ戦で鈴木啓示が球団初の通算200勝を達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。南海と日本ハムファイターズに勝ち越し、ロッテ、クラウンライターライオンズに10勝以上あげているが、首位の阪急に6勝18敗2分と大きく負け越し前期は3位としたものの、後期は最下位でシーズン通しては4位に終わる。チーム盗塁数120はリーグトップだったが、チーム打率は5位、チーム本塁打92本はリーグ最下位に終わっている。
前期は阪急に次いで2位、後期は8月まで阪急が首位を独走していたものの、9月に近鉄が猛追し一時は首位に立つなど両チームのマッチレースとなり、後期最終戦となる9月23日に阪急との後期優勝をかけた直接対決を迎えた。近鉄は勝てば後期優勝、阪急はこの試合に勝ち、さらに残り2試合中1試合を引き分け以上が優勝の条件だった。近鉄はこの年25勝で最多勝の鈴木啓示を先発に立てたが、山田久志とのエース対決に敗れ、逆転で首位に立った阪急が次の試合にも勝って前期に続き優勝を決め、近鉄は2位に終わっている。この年近鉄は全球団に勝ち越したものの、阪急は近鉄以外の4球団に大きく勝ち越していたのが差となった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 前期は5月までに2位阪急に5ゲーム差をつけ独走していたが、6月9日の対ロッテ戦でチャーリー・マニエルがアゴに死球を受け、戦線離脱、阪急の追い上げもあり、一時は阪急にマジックが点灯するが、最終戦の対南海戦に引き分け前期優勝を決めた。後期は2位となり、後期優勝の阪急とのプレーオフとなるが、この年防御率1位の山口哲治の3連投の活躍で3連勝し、球団創設30年目にして初のリーグ優勝を遂げる。当時の12球団最後の初リーグ優勝として近鉄初のリーグ優勝で当時の12球団において1度はリーグ優勝を経験することとなった。74勝45敗11分、勝率.622は球団記録。ただし、阪急は年間勝率1位なのに対し、近鉄は年間勝率2位通過だったことから、年間勝率1位通過を経験することなく、初リーグ優勝を成し遂げた最初で最後の球団となった(2005年に発足した東北楽天ゴールデンイーグルスは2013年に初リーグ優勝を達成したが、年間勝率1位を通過しており、2023年現在も近鉄が唯一となっているが、現行のプレーオフは勝率1位を競うリーグ戦とは区別されているため、勝率2位通過以下でのリーグ優勝のケースは現在のルール上では現れない)。しかし、広島東洋カープとの日本シリーズでは第7戦の9回裏1点ビハインドの場面で、無死満塁の一打逆転サヨナラの好機をつかむが、江夏豊の前に阻まれ、3勝4敗で敗退(江夏の21球参照)。
反発力を高めた飛ぶボールの効果もあり、この年本塁打・打点の二冠のマニエルをはじめチームから二桁本塁打10人を出す日本プロ野球新記録のシーズンチーム本塁打239本し、前年5月19日から9月29日まで日本プロ野球記録を更新する215試合連続で得点を記録する。チームは前期2位、後期は残り3節の時点で5位と追い込まれるがそこから巻き返し、10月7日には後楽園球場で、マジック1で引き分けでも優勝決定という日本ハムとの直接対決を6-5で勝利し、続く8日、11日の対西武ライオンズ2連戦にも勝利し逆転で後期優勝、ロッテオリオンズとのプレーオフも3勝0敗で制し2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたしても広島に3勝4敗で敗退。オフにマニエルが契約更改で球団と決裂し、退団。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 1980年10月7日に行われた後楽園球場における日本ハムと近鉄の後期最終戦。この試合は開始30分前に満員札止めとなった。日本ハムはこの試合で引き分けでも後期優勝が決まるが、近鉄が優勝するにはこの試合に勝ち、対西武戦も連勝する必要があるという日本ハムに非常に有利な試合であった。両チームの先発投手は近鉄は鈴木啓示、日本ハムは高橋一三のベテラン左腕。2回裏に日本ハムが1点を先取。打たれながらも何とか抑えていた高橋が3回表に無死二塁とすると、早くも木田勇がリリーフした。しかし佐々木恭介に打たれて同点とされる。4回表には3本の安打を連ねられて3点を失った。木田はカーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。5回裏に日本ハムが1点を返せば、近鉄もクリス・アーノルドがソロ本塁打を放つ。しかし7回裏に日本ハムは代打、富田勝の二塁打を皮切りに4連打を浴びせて2点を返し、1点差にまで迫る。8回表に有田修三がソロ本塁打を放った後に木田はマウンドに座り込んでしまい、ついに降板した。その裏に日本ハムも一死三塁から富田が近鉄2人目の投手の井本隆の頭をワンバウンドで越えるゴロを放ち、これを遊撃手の吹石徳一がギリギリ追い付いて捕球。三塁走者の大宮龍男はこの場面で生還することができなかった。二死から高代延博の安打でようやく生還して1点差に迫った。日本ハムは9回表の近鉄の攻撃を間柴茂有と宇田東植のリレーで凌いだ。9回裏の日本ハムはクリーンナップの好打順。一番手の柏原純一の右翼への痛烈なライナーがフェンス一杯で捕球された。近鉄はこの後に3番手の村田辰美に替えた。トミー・クルーズも右翼正面へのライナーで二死。トニー・ソレイタは三振に終わり、5-6と近鉄の勝利で試合終了。自力優勝の機を逸した日本ハムを尻目に、近鉄は西武にも連勝して逆転優勝を果たした。監督の西本は「あそこまで鍛えに鍛えて、全員が全力を尽くして戦えば、お客さんの期待に応える、あれだけのゲームが出来るのです」とのちに振り返り、当日に新聞紙記者の一人は「かつてプロ野球は巨人一辺倒だったが、時代は変わった」と書いた。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | マニエルの抜けた穴はあまりにも大きく、前年4人いた3割打者が1人も出ず、本塁打もビクター・ハリスの22本がチーム最高であるなど打線が低下。また鈴木啓示も5勝しかできず負け越すなど投手陣が振るわず前期6位、後期4位の最下位に終わる。シーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、後任に関口清治が就任。
序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。
4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は一度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督を辞任、後任は岡本伊三美。広島から加藤英司がトレードで加入。
このシーズンでは、藤井寺球場のナイター設備が完成し、4月6日にナイター開きが行われた。5月5日には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネーが待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。
7月10日に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、二桁勝利投手もストッパーの石本貴昭だけであったが、この時期は1979年、1980年の優勝メンバーと、後の1989年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎、投手では石本の他に小野和義、吉井理人、佐々木修、山崎慎太郎などの獲得や台頭が見られる。オフに有田、加藤英が巨人・淡口憲治らとトレード成立。
後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点灯と消滅を繰り返す展開となる。9月終了時で西武と1ゲーム差の2位だが、残り試合の関係でマジック10が点灯していた。10月5日のロッテ戦で9回裏に2点差を追い付き、引き分けで同率首位に並ぶと、翌日はロッテに勝って単独首位に立つ。両チーム残り3試合の時点でマジック3としたが、10月8日から阪急に3連敗。ロッテにホームで連勝し逆転優勝を果たした西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 移籍2年目の新井宏昌が首位打者、ルーキー阿波野秀幸が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越したこともあり、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、コーチだった仰木彬が就任、権藤博が投手コーチ。
終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げることとなった。開幕から西武が独走、6月に入ると貯金20で2位近鉄は8ゲームをつけられ、7日には主砲のリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕され解雇というアクシデントに見舞われ、同月28日に急遽中日ドラゴンズから金銭トレードでラルフ・ブライアントを獲得した。ブライアントはこの後、74試合の出場ながら34本塁打を記録するなど大活躍をした。9月に入っても西武が独走状態は続き、15日の時点では西武に6ゲーム差をつけられるが西武が一時後退して29日の時点では1.5ゲーム差、10月に入り5日にはゲーム差無しで一時近鉄が首位に立つなど、以降シーズン終了まで、首位の西武と近鉄がともに譲らずハイペースで勝ち続けるという展開となり、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合のうち3勝すれば優勝だったが、17日の対阪急戦に敗れ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となり、川崎球場へ移動しての18日の対ロッテ戦に勝利し、10月19日のロッテとのダブルヘッダーでは第1試合を9回に逆転勝利するが、第2試合延長10回時間切れで4対4の引き分けに終わり、130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19を参照)。この試合でも活躍の梨田、吹石が引退。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、近鉄は当時のパ・リーグ全球団の中で日本ハムと共に「昭和時代に本拠地で1度も年間勝率1位によるリーグ優勝ができなかった球団」となった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | この年は昭和最後のペナントレースだったので、近鉄は当時のパ・リーグ全球団の中で日本ハムと共に「昭和時代に本拠地で1度も年間勝率1位によるリーグ優勝ができなかった球団」となった。
開幕前は西武と近鉄が優勝争いになると見られたが、ペナントに入ると開幕戦で近鉄に大勝したオリックス・ブレーブスが開幕から8連勝と抜け出し、近鉄や西武は勝率5割前後と出遅れる。近鉄はエースの阿波野秀幸が開幕から6連勝や、いてまえ打線の復調もあり、7月から8月にかけて2度の4連勝などで8月に一時首位に立つが、9月に入ると連敗を重ねて9月25日の時点で3位に後退していた。近鉄に後がない状況で迎えた10月12日、対西武戦(西武球場)ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日4打数連続本塁打が出て西武に連勝。近鉄がマジック2を点灯させる(詳細は10.19#1989年10月12日のダブルヘッダーと近鉄1年越しの優勝を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦に勝利し、129試合目で9年ぶり3度目の優勝達成となった。これが近鉄にとって初の1シーズン制度上での初優勝となり、当時のパ・リーグ全球団が本拠地でリーグ優勝を果たした。初めての本拠地球場での日本シリーズ開催となったが、初戦から巨人に3連勝するものの、加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言問題もありその後4連敗を喫し、巨人に敗れる。栗橋、淡口、羽田が引退し、村田が移籍、権藤コーチが退団した。ドラフトにおいて、8球団競合による抽選の上、新日鉄堺の野茂英雄の交渉権を獲得し、入団している。
この年は平成最初のペナントレースだったので、近鉄は「平成最初のパ・リーグ優勝球団」となった。
野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得する活躍で新人王&MVPとなり、沢村賞も獲得。また同じく新人の石井浩郎も6月以降にレギュラーに定着し規定打席不足ながら打率.300、22本塁打と活躍。しかしチームは開幕2戦目から9連敗を喫し大きく出遅れ、阿波野の不振や小野の故障など野茂以外の投手陣が軒並み成績を落としたこともあり、西武との大差を縮められず3位に終わる。オフには中西太ヘッドコーチが退団した。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 西武が開幕から抜け出すが、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。野茂は2年連続最多勝、トレーバーは打点王獲得も退団した。ブライアントの故障、長期離脱も響いた。
前年とは逆に近鉄が序盤は首位を走るが、6月になると西武に逆転され、その後は西武の独走を許し2位に終わる。赤堀元之が最優秀救援とともに防御率1.80を記録し最優秀防御率を獲得したが、規定投球回数達成者としては球団唯一の防御率1点台投手となった。野茂は入団から3年連続最多勝、高村祐は新人王。シーズン終了後、仰木彬が監督辞任。後任には小玉明利以来26年ぶりとなる生え抜きの鈴木啓示が監督に就任する。
監督の鈴木啓示と野茂英雄や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。野茂は4年連続で最多勝を挙げるが四球や自責点もリーグ最多で安定感に欠き、野茂以外に10勝以上投手が出なかったものの、抑えの赤堀元之と、石井浩郎、ブライアントなどのいてまえ打線が好調で、開幕から好スタートの直後に連敗が続き、最下位に転落するも、最終的には首位の西武と7ゲーム差の4位に終わる。
開幕の対西武戦で赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤からチームは低迷。6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により、夏場から調子を上げ、7月26日から8月10日にかけて球団新記録となる13連勝を記録し、一時は首位に立つなど、約1カ月半で32勝6敗、勝率.842の驚異的な成績を残す。しかし、野茂が離脱した8月以降は後退、最終的に首位西武と7.5ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後、野茂が契約のこじれから退団、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍。金村義明がFA権を行使し、中日に移籍。阿波野が香田勲男との交換トレードで巨人へ移籍。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 開幕直前、吉井が西村龍次との1対1の交換トレードによりヤクルトに移籍。開幕から2年目のリー・スティーブンスが13試合で10本塁打と打ちまくるが、ブライアント、石井浩郎の故障離脱があり投手陣も高村が怪我で離脱、ストッパー赤堀が絶不調もあってチームは低迷。8月8日夜、鈴木は遠征先を訪ねてきた球団社長に「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」、3季目途中の解任通告、退任会見もせず、ひっそりグラウンドを去った。8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園の福留孝介の交渉権を獲得するが、福留は入団拒否。ダイエーを自由契約となった山本和範が15年ぶりに復帰。
テスト入団の山本が開幕から活躍しオールスターにも選ばれたが、投手陣の調子の波が激しく勝率5割付近を行き来する展開となる。翌年から本拠地が新たに大阪ドームに移転するため、Aクラス入りし、開幕カードを新本拠地で迎えたかったが、終盤戦Aクラス入りをかけた対西武2連戦に破れ、4位でシーズンを終える。オフ、大幅減俸提示を拒否した石井が巨人に移籍。
本拠地を大阪ドームに移転するも、選手の年俸が高騰したことや、球場使用料が藤井寺球場(グループ会社の近鉄興業が保有)本拠地時代より大幅に上昇したこと、移転2年目である1998年以降は観客動員数が伸び悩んだこともあり、赤字額が年々膨れ上がった。また、大阪ドームも最寄り駅が近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となり、観客が近鉄を利用しなくなったため、その分の運賃収入も途絶えるといった影響も出た。
開幕カードのグリーンスタジアム神戸での対オリックス2連戦がともに雨で中止となったため、4月8日の大阪ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦が開幕試合となり、大阪ドームでの初試合を4対2で勝利している。借金が最大14になるなど、夏場までロッテと5位を争う状況だったが、8月24日の対ロッテ戦(大阪ドーム)でパ・リーグ史上初(プロ野球通算3度目)の10点差逆転勝利(延長12回)を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。この年の観客動員は186万6千人に達し、球団の年間最多観客動員記録となった。この年限りで大石大二郎が引退。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げ、日本ハムの失速もあり一時0.5ゲーム差まで詰め寄るが、直後に連敗し、西武、ダイエーを含めた4チームの混戦となる。先発投手陣が安定せず1952年以来となる2桁勝利投手が出ず、ロブ・マットソンの9勝がチーム最高の勝ち星となった。最終的には借金1の5位に終わる。
4月に地元企業との提携と地元密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズに改称し、9月に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」を設立。4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず(2年連続して2桁勝利投手が皆無だった)、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど、低迷して4年ぶりに最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任、後任は近鉄最後の監督となる梨田昌孝。
就任した梨田に「選手層が薄いが、ケガ人さえいなければ」と言われた状況において、オープン戦で吉岡雄二が骨折こそ免れたものの手首に重傷のけが、シーズンに入って礒部公一が顔面死球で、フィル・クラークが手首骨折で次々に離脱する状況で、中村紀洋が本塁打王と打点王の二冠を獲得するが、チームは33年ぶりの2年連続最下位に終わる。投手陣では3年連続二桁勝利投手は現れず、野手陣でも規定打席到達で3割を超えたのは武藤孝司だけであった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 開幕戦の3月24日の対日本ハム戦は一時は1対6で5点差をつけられるものの、両軍合わせて8本塁打の打ちあいとなり最後は10対9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、逆転勝利が多く(78勝のうち41勝が逆転勝ち)、7月17日の対ロッテ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、前半戦終了時には、5位のロッテとは5ゲーム、最下位の日本ハム以外が勝率5割以上という状況ながら、10年ぶりに首位で折り返す。この年からロサンゼルス・ドジャースと業務提携を結び、シーズン途中にドジャース元監督のトミー・ラソーダの紹介でショーン・バーグマンとジェレミー・パウエルの2投手、ショーン・ギルバート内野手を獲得。この補強も功を奏した。終盤9月3日から5連敗し、9月5日の段階でもダイエーと同率首位、1厘差で西武が追い、5位まで6.5ゲーム差という混戦となるが、9月9日からの11試合を10勝1敗とした。9月24日の対西武戦ではタフィ・ローズが当時の本塁打シーズン日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打を達成し、試合も9回裏松坂大輔から中村紀洋のサヨナラ2ラン本塁打で勝利し、優勝マジックを1とした。9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム)で2対5とリードされた9回裏、無死満塁から代打北川博敏が日本プロ野球初となる『代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打』で12年ぶり4度目のパ・リーグ優勝を決めている。同一監督での前年最下位からの優勝は1976年の巨人の長嶋茂雄に次いで2人目で、パ・リーグでは初。ロッテには20勝8敗と大きく勝ち越したが、防御率リーグ最下位(4.98)での優勝と2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズではヤクルトスワローズに自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗で敗退。シーズン78勝は球団記録。オフに球団初(唯一)のFA移籍で加藤伸一を獲得。
21世紀最初のパ・リーグ優勝球団となったが、この年の優勝が近鉄としての最後のリーグ優勝となった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 21世紀最初のパ・リーグ優勝球団となったが、この年の優勝が近鉄としての最後のリーグ優勝となった。
5月28日から6月15日にかけて8年ぶりの10連勝を記録し、首位西武に一時2ゲーム差に詰め寄る。しかし、その後は西武の独走を許すと、8月16日の直接対決で9点差を逆転負けし、西武に優勝マジック34が点灯。最終的に優勝した西武から16.5ゲーム差の2位に終わる。この年限りで古久保健二が現役を引退した。古久保の引退により、日生球場時代に在籍した選手が全員引退した。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリーグを含めて1カ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び、残留した。大塚晶文はメジャーリーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。打撃陣では中村とローズが本塁打を量産したものの、規定打席到達で3割を超えた選手が一人もいなかった。
1月に会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。開幕5連勝と好調な滑り出しを見せ、首位ダイエーと1.5ゲーム差の2位で前半戦を終える。しかし、後半戦に入ると、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在や4番中村の負傷・不振が響き、3位に後退、そのままシーズンを終える。シーズン終了後、長年主砲として活躍し、この年も本塁打王を獲得しているローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。
この年が近鉄球団としての最後の年となった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | この年が近鉄球団としての最後の年となった。
1月31日、ネーミングライツの構想を表明するも、巨人が猛反対したことで、他球団も多くがこれに追随し、結局失敗に終わる。6月13日、日本経済新聞が1面で「近畿日本鉄道がプロ野球球団『大阪近鉄バファローズ』をオリックスに譲渡する方向で交渉を進めている」というスクープ記事を掲載したことで、世間が大騒ぎとなる。のち球団側もこれを認め、オリックス・ブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。6月30日にライブドアが球団を買収する動きを見せたものの、近鉄は買収には応じず(ライブドアの動きについてはこちらも参照)、8月10日に合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日のオーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日から19日にかけて、この問題に反発するプロ野球選手会による日本プロ野球初となるストライキが行われ、12球団全ての試合が中止となった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | オープン戦で吉岡雄二がアキレス腱断裂で離脱。ローズに代わる主砲と期待されたラリー・バーンズが開幕3戦目で離脱、同じくストッパーとして期待されたヘクター・カラスコも、4月に4連敗で防御率20.00となり登録抹消。4月7日に4位となって以降このシーズンはAクラスになることはなく、4月は最下位で終える。岩隈久志が開幕から球団記録となる12連勝もあり、一時は4位となるが、6月13日の球団合併発表の翌試合から4連敗するなど、5位となり、7月は4位で終わるものの、アテネオリンピックで岩隈、中村が抜けた8月7日から7連敗で、以降は5位となる。梨田は合併発表時の時点では「借金4で手ごたえはあった」としているが、7月7日のオーナー会議の時点では選手は放心し、最後は立ち上がれなかったとも述べている。9月24日、大阪ドームでの最終戦となる対西武戦が行われ、この年ここまで出場のなかった吉岡が代打で出場、この試合が引退登板となった赤堀元之や加藤伸一などが登板した。試合は延長11回裏、1死二塁で星野おさむの右翼線へのサヨナラ安打で3対2で勝利、これが球団公式戦最後の勝利となった。9月27日のYahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が共に合併する球団同士の公式戦最終戦となったが、2対7で敗れた。チームは61勝70敗で4年ぶりのBクラスの5位で終え、消滅後の2007年から始まったクライマックスシリーズを含む13球団で唯一同年以降の現行のプレーオフシーズンに参戦せずに消滅した。岩隈は15勝を挙げ、最多勝を獲得するなど計算できた投手陣に比べ、打撃陣はローズが抜けたことや吉岡などの故障もあり、前年より本塁打、得点が激減した。二軍は前期優勝で、9月30日、藤井寺球場で最後の二軍公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われたが、後期優勝の中日に敗れている。
11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之がソフトバンクにFA移籍。中村紀洋がポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースに移籍。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之がソフトバンクにFA移籍。中村紀洋がポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースに移籍。
以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、球団合併反対運動では選手も署名活動に参加するなど、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。そして、11月30日をもってプロ野球チームとしての大阪近鉄バファローズは55年の歴史に幕を降ろした。
2005年1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所を閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村紀洋のポスティング申請など、残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズは解散となる。6月20日付で清算結了となり、法人格が消滅した。なお、近鉄はこの後、球団合併後の暫定処置として2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、同年シーズン終了と同時に完全撤退した。ただ、球団経営から撤退後も、「近鉄沿線デー」と銘打って優待企画を実施するなどしているほか、オリックスが優勝時には近鉄百貨店で優勝セールを実施するなど、間接的に関わりは持ち続けている。
2013年から2019年にかけてオリックスがOSAKAクラシックと銘打って、昭和時代に同じく大阪の球団であったソフトバンク(旧南海)との、復刻ユニフォームでの試合を行い、近鉄(大阪近鉄)各時代のユニフォームを使用した。
2014年10月3日にDeNAに所属していた中村紀洋が戦力外通告を受け、その後現役を引退したことにより、藤井寺球場時代に在籍した選手が全員引退した。また、独立リーグも含めれば、他にも信濃グランセローズに所属していた大塚晶文と、新潟アルビレックスBCの選手兼野手総合コーチの高須洋介が現役を引退したことにより、球団名に「大阪」がつく前の近鉄バファローズに所属した選手が全員引退した。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 2014年10月3日にDeNAに所属していた中村紀洋が戦力外通告を受け、その後現役を引退したことにより、藤井寺球場時代に在籍した選手が全員引退した。また、独立リーグも含めれば、他にも信濃グランセローズに所属していた大塚晶文と、新潟アルビレックスBCの選手兼野手総合コーチの高須洋介が現役を引退したことにより、球団名に「大阪」がつく前の近鉄バファローズに所属した選手が全員引退した。
2022年10月3日に明治神宮球場で行われた最終戦を最後にヤクルトに所属していた坂口智隆、12月27日に香川オリーブガイナーズの選手兼任コーチの近藤一樹が現役を引退したことにより、大阪近鉄バファローズに所属した選手が全員引退した。
これをもって近鉄球団に在籍経験のある選手は全員NPBから姿を消すこととなった。しかしそれと引き換えに同年10月30日、オリックスが日本シリーズ第7戦でヤクルトを4勝2敗1分で下したことにより、前身球団こそ異なるものの球団愛称「バファローズ」としては6度目の正直で悲願の日本一を達成した。この日本一で球団唯一の永久欠番の選手だった鈴木啓示は多くの祝電をもらったという。
なおバファローズの日本一達成により、2005年に誕生した楽天を含む日本プロ野球13球団全てが現在の球団愛称になって以降、特殊ルール込みで1度は日本一を経験することとなった。
タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。
※ 1981年制定、1989年から廃止
タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。
タイトル制定以前の該当者は以下の通り。
※ 2001年で廃止され、翌年からは最優秀投手となった。
※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。
なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。
※ 1972年 - 1985年はダイヤモンドグラブ賞
近鉄在籍時代に記録したもののみ(他球団在籍時での記録は数字に含まれない)
太字は優勝達成監督
なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
日生球場・大阪球場
藤井寺球場
#1 鈴木啓示 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。
※ 1972年 - 1985年はダイヤモンドグラブ賞
近鉄在籍時代に記録したもののみ(他球団在籍時での記録は数字に含まれない)
太字は優勝達成監督
なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
日生球場・大阪球場
藤井寺球場
#1 鈴木啓示
また、近鉄として最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような言葉が残されている。
野茂英雄がパシフィック・リーグ初の沢村栄治賞受賞を達成。1990年に沢村賞を受賞した野茂より前の時代だと、鈴木啓示が投手三冠王を達成するなど活躍をしたが、当時、パ・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、鈴木は受賞出来なかった。
近鉄での投手三冠王の達成者は2人。
達成者はいない。
複数回受賞の達成者はいない。
複数回受賞の達成者はいない。
1967年8月、近鉄は、これまでの1・2軍とは別に、若手育成の観点から将来3軍を結成することを念頭においた新人オーディション(入団テスト)を実施した。まず面接・書類審査に98人が応募。その中から24人に絞り、実技による2次審査を4日間にわたり藤井寺球場で実施。3軍のチーム化を念頭に、十数名程度の獲得を目指そうとした。
しかし、実際に実技テストを合格したのは4人のみで、3軍を結成するとした目標には遠く及ばず、その4名のうち3人は投手で野手は1名だけだった。しかも彼らは全員結果を出せず、2人は2年、もう1人は3年で引退。残り1名についても1972年に南海へ移籍したため、3軍制構想は失敗に終わった。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | しかし、実際に実技テストを合格したのは4人のみで、3軍を結成するとした目標には遠く及ばず、その4名のうち3人は投手で野手は1名だけだった。しかも彼らは全員結果を出せず、2人は2年、もう1人は3年で引退。残り1名についても1972年に南海へ移籍したため、3軍制構想は失敗に終わった。
2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第三者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。
ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に大映が親会社で永田雅一がオーナー、中村長芳がオーナー代行だった。1971年大映からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融のアコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由のひとつに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。 | 815 |
大阪近鉄バファローズ | 2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇が広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では、
と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。
本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。
また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している。
放映権に関しては、朝日放送(現:朝日放送テレビ及び朝日放送ラジオ)に優先権があるなど、阪神タイガースとほぼ同じである。 | 815 |
ラマダーン | ラマダーンまたはラマダン(アラビア語: رمضان、フスハー発音:[ra.ma.dʕaːn]、ペルシア語: رمضان、ウルドゥー語: رمضان、発音:[ra.ma.zaːn]、トルコ語: Ramazan、インドネシア語: Ramadan)は「暑い月」の意味で、ヒジュラ暦(イスラム暦)での第9月を指す。この月の日の出から日没までの間、ムスリムの義務の一つ「断食(サウム)」として、飲食を絶つことが行われる。
「ラマダーン」を、断食のことと誤って捉える人も少なくないが、ラマダーンとは、あくまでもヒジュラ暦における月の名である。ただし、ラマダーンという言葉が断食を今日では意味することも増えてきている。
ヒジュラ暦で9月を意味するラマダーンに、コーランが預言者ムハンマドに啓示され、イスラム教徒にとって、ラマダンは「聖なる月」となった。
この月において、ムスリムは日の出から日没にかけて、一切の飲食を断つことにより、空腹や自己犠牲を経験し、飢えた人や平等への共感を育むことを重視する。また親族や友人らと共に苦しい体験を分かち合うことで、ムスリム同士の連帯感は強まり、多くの寄付(ザカート)や施し(イフタール)が行われる。
断食中は、飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などの忌避されるべきことや、喫煙や性交渉などの欲も断つことにより、自身を清めてイスラム教の信仰心を強める。
ラマダーン明けの祭りは「イド・アル=フィトル」と呼ばれ、盛大なものである。
アラビア語における3文字の語根は「رمض」(R-M-Ḍ)で、「猛暑・灼熱」を意味する。
ペルシア語など、非アラビア語圏における発音に基づけば、ラマザーンないしラマザンとも書ける。ラマダーンのダの音ض(現代標準アラビア語音dʕ)はダードと呼ばれるが、これは他の言語において、近似の難しい音韻である。古典アラビア語の段階(少なくともシーバワイヒが記述・規範両面にまたがる文法を書いたころは)には、ザとダとラの混じったような咽頭化音であった(有声咽頭化側面破裂~破擦~摩擦音)。
そのため、ペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語など西アジア、南アジア、中央アジアの諸言語のように、比較的古い時代に、アラビア語から借用した言語では、ダードをzの音で取り入れる例が多いため、「ラマザン」「ラマザーン」となる言語が多い。 | 816 |
ラマダーン | そのため、ペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語など西アジア、南アジア、中央アジアの諸言語のように、比較的古い時代に、アラビア語から借用した言語では、ダードをzの音で取り入れる例が多いため、「ラマザン」「ラマザーン」となる言語が多い。
インドネシア語など東南アジアの諸言語のように比較的新しい時代にアラビア語から借用した言語では、ダードをdの音で取り入れて「ラマダン」となる例が多い。スワヒリ語ではダードを摩擦子音dh(ð)で取り入れている語が多く、ラマダーンはramadhani(ラマザニ)と呼ばれている。ハウサ語では、dとlのそれぞれで取り入れた語形が共存する。それぞれ古典アラビア語や現代標準アラビア語の発音を各言語なりに借用した結果である。
ヒジュラ暦は、純粋な太陰暦で閏月による補正を行わないため、太陽暦のグレゴリオ暦では毎年11日ほど早まり、およそ33年で季節が一巡する。そのため「ムスリムは、同じ季節のラマダーンを人生で2度経験する」と言われる。
ラマダーン月の開始と終了はほとんどの国において宗教家らによる新月の観測によって行われるが、トルコなどでは計算に基づいた暦通りに決定される。目視によるラマダーン月突入方式においては、雲などで新月が確認できなかった場合は1日ずれる。夏に白夜になる北極圏や南極圏の極地地方にあっては、近隣国の日の出・日没時間に合わせるなどの調整も図られる。
ラマダーン中には、世界中のイスラム教徒が、同じ試練を共有することから、ラマダーンは、ある種の神聖さを持つ時期であるとみなされている。
ラマダーンの期間中は、رمضان كريم(Ramadan Kareem、ラマダーン・カリーム。「恵み多い月ラマダーンおめでとう」)という挨拶が使われる。
以下は、2014年までのラマダーン期間と、2015年以降のラマダーンの予定日である。グレゴリオ暦年、ヒジュラ暦年、グレゴリオ暦開始日、グレゴリオ暦最終日の順で示す。
断食といっても期間中完全に絶食するわけではなく、日没から日の出までの間(=夕方以降から翌未明まで)に、一日分の食事を摂る。この食事は普段よりも水分を多くした大麦粥であったり、ヤギのミルクを飲んだりする。 | 816 |
ラマダーン | 以下は、2014年までのラマダーン期間と、2015年以降のラマダーンの予定日である。グレゴリオ暦年、ヒジュラ暦年、グレゴリオ暦開始日、グレゴリオ暦最終日の順で示す。
断食といっても期間中完全に絶食するわけではなく、日没から日の出までの間(=夕方以降から翌未明まで)に、一日分の食事を摂る。この食事は普段よりも水分を多くした大麦粥であったり、ヤギのミルクを飲んだりする。
旅行者や重労働者、妊婦、産婦、病人、乳幼児、高齢者、精神的な問題を抱える人など、断食できない事情のある場合は免除され、その適用範囲にはある程度の柔軟性と幅を持つ。また、免除される者にも、後で断食をやり直す必要のある者(旅行者や妊婦、月経中の者など)と、必要の無い者(高齢者や乳幼児、回復する見込みの無い重病人など)の2つに分けられる。
すなわち、断食をするかどうかは、原則として宗教的モラルの問題である。旅行者は断食を免除されるというのを拡大解釈して、富豪の一部には、ラマダーンに旅行に出かけ、断食逃れと呼ばれるようなことをする者もいる(ただし、その場合別の日に断食をやり直さなければならない)。また、基本的に異教徒には適用されない。
断食は、ヒジュラの道中の苦難を追体験するために行われるものである。したがって、飲食物の摂取量を減らすことや、苦痛を得ること自体が目的ではない。あくまで宗教的な試練として課される。また、食べ物に対する有難みを感じさせるためとも言われている。
日没になれば、すぐに食事を摂り、日が昇るぎりぎりまで食事を摂っている事が良いとされ、日没後も念のために、しばらく飲食を控えたり、日が昇る遥か前から飲食を止めたりする事はふさわしくないと看做される。
苦しみを和らげるために、あらゆる方法を取ることは全く問題がない。例えば、仕事の無い日は、日中は礼拝をする時などを除いて、寝ていてもかまわない。日中の空腹を和らげるために、日の出前に多めに食事を取っても全く問題はなく、脱水症状にならないように日中に水を飲むなどの対策を採ることも全く禁じられていない。 | 816 |
ラマダーン | 苦しみを和らげるために、あらゆる方法を取ることは全く問題がない。例えば、仕事の無い日は、日中は礼拝をする時などを除いて、寝ていてもかまわない。日中の空腹を和らげるために、日の出前に多めに食事を取っても全く問題はなく、脱水症状にならないように日中に水を飲むなどの対策を採ることも全く禁じられていない。
また、一年を通して断食をすることは完全に禁止され、昼夜を通して断食することも禁じられている(ただし、預言者ムーサー(モーセ)やイーサー(イエス)は、例外的に昼夜を通して断食を行ったことがあるとされている)。慣例的に、ラマダーンの前日は、断食を行わないこととなっている。
断食の成立には、当人の意思が大きくかかわっている。例えば、断食をしているのを忘れうっかり飲食してしまっても、無効にはならない。一方、たとえ飲食を行っていなくても、断食をしているという意思が本人になければ、それは無効になるとされている。例えば、あまりの苦しさに断食をやめ、飲食物を探したが、日没まで見つからなかったとしても、それは断食を行ったことにはならない。
むしろラマダーン中は、日が落ちている間に食い溜めをするため(そのために日が出ていない時刻に人を起こす者が巡回していることさえある)、夜食が盛大になり、通常より食糧品の売れ行きが良くなったり、肥満になる人が多くなるといわれる。
断食期間中に禁止されている行為は、飲食・喫煙・性行為・投薬(ただし健康上支障をきたす者は、断食が免除されるので、認められる)、故意に物を吐く事などである。唾を飲み込む事や、うがい、歯磨き、入浴、昼寝などは許されている(イスラーム文化センター 断食ガイド他、参照)。
日没後も、イスラームで禁止されている物は言うに及ばないが、禁止か否か明確でないような物を食べることも避けるべきだとされている。なお、イスラーム過激派の中には、ラマダーン中、支配地域の電気を止めるなど、市民生活に重大な影響を与える措置を取る場合もある。 | 816 |
ラマダーン | 日没後も、イスラームで禁止されている物は言うに及ばないが、禁止か否か明確でないような物を食べることも避けるべきだとされている。なお、イスラーム過激派の中には、ラマダーン中、支配地域の電気を止めるなど、市民生活に重大な影響を与える措置を取る場合もある。
イスラム教徒が多数派となっている国家や地域において、非ムスリムには強要されないものの、外での飲食など自粛が求められる場合もある(ただし、ムスリムが断食によって得られる利益は、非ムスリムが断食を行っても一切無いとされている)。飲食店が営業を控えるなどの影響が出てくる。酒が入手できた地域でも、ラマダーン期間は入手が困難になることがよくある。
また、イスラム教を侮辱したととられかねない言動は、なおさら慎むことを要求される。ラマダーンでの断食を実行しないムスリムも最近は増えているものの、ムスリムと思われる人たちとの共同作業において、ラマダーンについての配慮が求められてくる。ラマダーン中に、ムスリムが多く居るイスラム国家に滞在するときは、注意が必要との指摘がある。
株式相場などでオイルマネーの影響を考えると、ラマダーン期間は、少し低調の方に動くとされている。また、イスラム勢力が関与する地域紛争においては、ラマダーン期間の戦闘行為が自粛される傾向にあったが、最近のアフガニスタンのタリバーン、シリアのISILなどは、ラマダーン期間にもかかわらず、積極的に攻勢に出ることもある。
断食が行えない高齢の者は、断食が免除されるため、イスラム教徒が多数派の国においては、当然高齢者よりも若年者のほうが積極的に断食を行うのが普通である。ところが、ムスリムが少数派の国家では、社会的制約の多い若年者よりも、退職して社会的制約が少ない高齢者のほうが、むしろ積極的に断食を行っている場合がある。つまり高齢者と若年者の立場が逆になっている。イスラム国家なら、もう断食が免除されるような超高齢者が、非イスラム国家では普通に断食を行っていることも珍しい事ではない。
厳格なイスラム法を採用しているサウジアラビアでは、ラマダーンの期間中、非ムスリムの外国人が公共の場で飲食や喫煙をした場合、国外追放すると発表している。 | 816 |
ラマダーン | 厳格なイスラム法を採用しているサウジアラビアでは、ラマダーンの期間中、非ムスリムの外国人が公共の場で飲食や喫煙をした場合、国外追放すると発表している。
一方、無宗教の立場を取る中華人民共和国(社会主義国)においては、ラマダーンの断食は懲罰の対象である(懲罰である点に関しては証拠が不十分であるため、事実確認が必要である)。
2012年のロンドンオリンピックと2014 FIFAワールドカップがそれぞれ開催期間とラマダーンが、たまたま同じ期間に重なった(建前上、ラマダーンは長老の確認をもって始まるため事前に確定できないが、月の運行によって決まることから、ラマダーンがいつ頃になるかは事前に把握できる)。この二つの大会がラマダーンと重なることは当初からわかっており、イスラム圏の国は日程のスライドを要望したが、その要望は聞き入れられなかった。 また、2014 FIFAワールドカップでは、イスラム圏の国の選手が、ボトル状の容器に口をつけていた。
日本の大相撲では、エジプト生まれでイスラム世界の出身者では初の関取である大砂嵐が注目を集めた。ムスリムである大砂嵐は、本場所の開催期間とラマダーンの期間が重なった場合、日中の断食を励行していた。
2020年2月27日-3月1日にかけてマレーシアで行われたイスラム教の大規模集会で、2019新型コロナウイルスの感染が拡大。結果的に東南アジア各地にウイルスを拡散させる契機の一つとなった。ムヒディン・ヤシン首相は、ラマダーンを前にして「モスクに行くことなく、家族と一緒に家で礼拝を行ってほしい」と国民に呼びかけた。
アラブ首長国連邦では、「医療従事者や症状悪化の危険性がある感染者は断食しなくてもよい」との見解が示された。サウジアラビアでは、3月4日の時点で聖地巡礼を停止しており、ラマダーンの礼拝についてもモスクでなく自宅で行うよう求めた。 | 816 |
ヒジュラ暦 | ヒジュラ暦(ヒジュラれき、阿: التقويم الهجري at-taqwīm al-hijrīy、英: Hijri calendar)またはヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、阿: التقويم الهجري القمري at-taqwīm al-hijrīy al-qamrīy、英: Lunar Hijri calendar)は、主にイスラム教社会で使われている暦法である。イスラム暦(イスラムれき、阿: التقويم الإسلامي、英: Islamic calendar, Muslim calendar)とも呼ばれる。
太陰暦であって、閏月を設ける太陰太陽暦とは異なる。このため、季節または太陽暦とのズレを、毎年約11日ずつ、積み重ねていくこととなる。
紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパでは、ラテン語: anno Hegiraeを略して、A.H.と表記する。
第2代正統代理人ウマル・イブン・ハッターブが、預言者ムハンマドがマッカからマディーナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年を「ヒジュラの年」と定めヒジュラ暦元年とする新たな暦を制定した。なお、ヒジュラがあったとされる正確な日付は同622年7月15日(ユリウス通日では1 948 439日)である。
以上の「制定」はクルアーンにおける規定に則ったものであり、それは次の通りである。
太陰暦は約29.5日である朔望月を基準としているため、月には「29日の小の月」と「30日の大の月」とが存在する(月の大小)。これらがおおむね交互に繰り返され、ちょうど12暦月分そろったところで1暦年ができる。そうしてできた1暦年は約354暦日であるから、毎年約11日ずつ、季節や太陽暦とズレていく。このように季節を反映しないので、農事暦や財務暦としては不向きで、ルーミー暦(ユリウス暦をベースにした暦)などによって補われることもあった。現代ではイスラーム圏でもグレゴリオ暦が併用されていることが多く、イラン、アフガニスタンなど、紀元をヒジュラ暦元年に置く太陽暦であるヒジュラ太陽暦(主にイラン暦と呼称される)を併用する地域もある。
グレゴリオ暦 (CE) とヒジュラ暦 (AH) の簡易換算式は以下の通りである。
グレゴリオ暦 (CE) → ヒジュラ暦 (AH) | 818 |
ヒジュラ暦 | グレゴリオ暦 (CE) とヒジュラ暦 (AH) の簡易換算式は以下の通りである。
グレゴリオ暦 (CE) → ヒジュラ暦 (AH)
ヒジュラ暦 (AH) → グレゴリオ暦 (CE)
グレゴリオ暦の2000年はヒジュラ暦では1421年に相当する。
サウジアラビアなどヒジュラ暦を公式の暦としている国では特許や著作権など法制度上の有効期限がグレゴリオ暦で数えた場合よりも短くなる。たとえば特許が15年間有効とした場合、グレゴリオ暦のそれよりも特許の有効期限が165日ほど短くなる。
なお、太陰太陽暦の多くが朔(さく;空の月が最も欠けた状態)を月の初めとするのに対し、ヒジュラ暦は三日月状の細い月が最初に見える日を月の初めとする。
上記のような複雑な計算を必要とするため、ヒジュラ歴のカレンダーを搭載した機械式時計は非常に少ない。スイスのパルミジャーニ・フルリエは、ヒジュラ歴の永久カレンダー搭載の腕時計を製作する希少なメーカーである。
以下に、月名とその意味、および祭礼を示す。カタカナ表記は、ここに挙げたものに限らず、さまざまな方式がある。アラビア語のラテン文字転写は DMG / ALA-LC の両方を示しておく。1つだけ記載のものは両者に共通。
月と季節の関係は、預言者ムハンマドが断ち切った。そこで行われたのが、閏調整を禁じることであり、純粋に天体の月に頼ること、そして信頼できる目撃者が夜空に新しい月を観測したときに月を始めることであった。
しかし、予測不可能な観測に基づいた暦が天文学には無益であるため、1つの理論モデルが考え出された。それは奇数の月を30日、偶数の月を29日とし、全部で354日とするものである。朔望月は実際は29日と半日よりも少し長いため、このモデルにおける1年は12の月期分に0.36708日分、つまり8時間48分36秒よりもちょっと少ない値分、足りない。それを補うために、年によっては最後の月を29日ではなく30日としている。この追加日は現時点、30年周期で11回、すなわち2, 5, 7, 10, 13, 16, 18, 21, 24, 26, 29年目に置かれている。追加日のお陰で不足分は0.0124日=17分51.36秒までに縮まっているが、イスラムの歴史を通じこれが統一的な習慣になったことはない。 | 818 |
ヒジュラ暦 | t {\displaystyle t} を「(ヒジュラ暦元年からの)追加日(閏日)の累計回数」とし、 y t {\displaystyle y_{t}} を「追加日が挿入される年」(閏年)とすると、床関数と天井関数を用いることで、以下の数式が成り立つ(オンライン整数列大辞典の数列 A057347)。
y t = ⌊ 30 t − 4 11 ⌋ = ⌈ 30 t − 14 11 ⌉ {\displaystyle y_{t}=\left\lfloor {\frac {30t-4}{11}}\right\rfloor =\left\lceil {\frac {30t-14}{11}}\right\rceil }
実際、 t {\displaystyle t} を1から順に11まで増加させると、 y t {\displaystyle y_{t}} の値は上記と同じく、
2, 5, 7, 10, 13, 16, 18, 21, 24, 26, 29
となる。
一方、「ヒジュラ暦での年数」を基に「(ヒジュラ暦元年からの)追加日(閏日)の累計回数」を求めるには、前者を y {\displaystyle y} 、後者を t y {\displaystyle t_{y}} と置いた時、床関数と天井関数を用いた、
t y = ⌊ 11 y + 14 30 ⌋ = ⌈ 11 y − 15 30 ⌉ {\displaystyle t_{y}=\left\lfloor {\frac {11y+14}{30}}\right\rfloor =\left\lceil {\frac {11y-15}{30}}\right\rceil }
という数式を使えばよい。
以下に、ヒジュラ暦と西暦(グレゴリオ暦)の対応表を示す。
ただし、次の2点に注意すること。
[キャッシュを破棄]
[キャッシュを破棄]
ヒジュラ暦での曜日名は専らアラビア語による。
古典アラビア語では、現代のものとは異なる、別の日付の数え方も存在した。それは以下の通りである。 | 818 |
太陰暦 | 太陰暦(たいいんれき、英: lunar calendar、阿: تقويم قمري)は、月の満ち欠けの周期を基にした暦(暦法)である。その周期を朔望月(さくぼうげつ)といい、1朔望月を1月とする。なお、「太陰」は「月(天体)」の意味である。陰暦(いんれき)とも言われる。「太陽暦」(陽暦)の対義語である。
閏月(うるうづき)などを入れて季節のずれを調整する太陰太陽暦と、季節のずれを調整しない純粋太陰暦がある。単に「太陰暦」と言った場合、日本や中国などの東アジアでは通常は太陰太陽暦を指し、イスラム圏などでは純粋太陰暦を指す。
本稿では、特に断らない限り純粋太陰暦について述べるが、純粋太陰暦を採用している暦はほぼヒジュラ暦(イスラム暦やヒジュラ太陰暦とも)に限定されることに留意されたい。
月は地球に対して公転し、その周期はほぼ一定である。その周期平均は平均朔望月といい、2015年時点では、29.530589日である。太陰暦では、1朔望月を1月(ひとつき)とし、さらに12月を1年(1太陰年)とする。1太陰年は、29.530589日×12 = 354.36707日である。1月(ひとつき)が29日の月(小の月)と、30日の月(大の月)をそれぞれ6回ずつ設け、1太陰年を354日とすると、1年につき0.36707日の誤差が出るので、3年に1回程度、小の月の日数を1日増やして1太陰年を355日とする必要がある。太陰暦では、この1太陰年が355日となる年が閏年であり、ヒジュラ暦では30年間に11回、閏年を設けている(0.36707日×30=11.0121日)。
一方、1太陰年は1太陽年(365.242189日)に比べて約11日短く、季節に対して3年で1月以上の誤差が出る。純粋太陰暦では、この誤差に対する調整は行われず、同じ日付でも年ごとに季節は次第に変わっていき、おおよそ33年で元の季節に戻ることになる。後述するように太陰太陽暦では閏月を設けてこれを調整し、閏月を設けた年が閏年と呼ばれる。
歴史的に使われてきた純粋太陰暦は、ほぼヒジュラ暦に限定される。そのヒジュラ暦もイスラム以前の太陰太陽暦から派生したものであり、一部の月名が季節に由来していること(ラビー・ウル・アッワル月=第1の春の月、など)にその名残りを留めている。 | 819 |
太陰暦 | 歴史的に使われてきた純粋太陰暦は、ほぼヒジュラ暦に限定される。そのヒジュラ暦もイスラム以前の太陰太陽暦から派生したものであり、一部の月名が季節に由来していること(ラビー・ウル・アッワル月=第1の春の月、など)にその名残りを留めている。
1太陰年(太陰暦の1年)は、354.36707日であり、これは、地球の公転周期(回帰年)である365.24219日より約11日短い。一方、季節の周期は、地球の公転周期と関連する。したがって、太陰暦では、特定の月日の季節は、年により変動し、約8年で四季1つぶん(約88日)早くなり、約33年で季節を一周する。一例を挙げれば、北半球を基準とすると、ヒジュラ暦1428年のラマダーン(9月)は西暦2008年9月ごろで初秋だが、ヒジュラ暦1410年のそれは西暦1990年4月ごろで中春であった。
このように、十数年以上の時間スケールで見た場合、月日と季節はまったく無関係である。しかし短い時間スケールなら、たとえば去年と今年のラマダーンの季節はほぼ等しい。これは、太陽暦において長い時間スケールでは日と月相は無関係だが、先月と今月の同じ日の月相ならほぼ等しいことと対応している。逆に、太陰暦では同じ日なら月相はほぼ同じである。太陽暦では、同じ月日なら季節はほぼ同じである。
太陰暦の特定の月日の季節が年ごとにずれる欠点を補うため、閏月を設け季節のずれを調節したものが、太陰太陽暦である(一方、閏月を設けない太陰暦のことを純太陰暦・純粋太陰暦とよぶ場合もある)。太陰太陽暦は、月相の一致と季節の一致を両立させている(ただし季節が一致する精度は高くない)。東アジアで単に太陰暦・陰暦といった場合、かつての太陰太陽暦である中国暦や和暦など意味することが多い。これらが廃止された中国や日本では、旧暦とほぼ同義である。
太陰暦は朔望月で1か月を定めているが、12か月で1年としているのは1回帰年(1太陽年)も起源に影響している。逆に、太陽暦は太陽年で1年を定めているが、それを約30日ずつの暦月で12か月に分けているのは朔望月も起源に影響している。 | 819 |
閏月 | 閏月(うるうづき、じゅんげつ)とは、太陰太陽暦において加えられる「月」のこと。これによって一年が13か月となる。
太陰暦は、空の月の欠けているのが満ちそして再び欠けるまでを「一か月」とし、それを12回繰り返すことで12か月すなわち「一年」としている。しかしこの月の満ち欠け(平均朔望月=約29.530 589日)による12か月は約354.3671日であり、太陽暦の一年(約365.2422日)とくらべて約11日ほど短いので、この太陰暦をこのまま使い続けると暦と実際の季節が大幅にずれてしまう。このずれは11×3 = 33日つまり3年間で1か月分ほどになる。
そこで太陰太陽暦ではこの太陰暦の12か月に、約3年に一度、1か月を加え13か月とし、季節とのずれをなるべく少なくする調整をする。この挿入された月を「閏月」という。閏月の挿入の仕方は、まず二十四節気の節気と中気を、立春は一月の節気、雨水は一月の中気とするなど、以下のように一年12か月それぞれの月に割り当てる。
そして暦をそのまま使い続けると、各月の日付と二十四節気とは次第にずれが重なってくる。そのずれで中気が本来割り当てられた月のうちに含まれなくなったとき、その月を閏月としたものである。ただし同じ二十四節気を用いた太陰太陽暦でも、暦法によっては閏月を置く方法はこれとは異なる場合がある。閏月の挿入の有無が太陰太陽暦と太陰暦との違いである。閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称する。例えば「四月」の次に挿入される閏月は「閏四月」と呼ぶ。また閏月が加わることにより、年末に立春を迎えることがある(年内立春)。太陰太陽暦では閏月を挿入した年のことを閏年という。時折「十三月」という月が存在するものと考えられていることがあるが、それは誤解である。 | 820 |
閏月 | 閏月を19年のあいだに7回加えると、ほぼ誤差なく暦を運用できることは古代から知られていた。これは太陽暦の19年が、太陰暦の19年と7か月の日数にほぼ等しいことによるもので、この周期をメトン周期(中国では「章」)という。中国では殷の時代から暦に閏月を入れることが行われていたが、それは天体を観測して季節と暦のずれに注意し、閏月が必要なときには、十二月の次にひと月足して13か月にするという方法であった。その後、春秋時代のころにはメトン周期の原理が使われており、さらに太初暦以来、二十四節気の中気を基準とした置閏法によって閏月が暦に入れられている。日本で最初に使われた太陰太陽暦は、中国で元嘉10年(442年)から行われた元嘉暦であったとされており、その後幾度か改暦が行われたが、閏月の入る太陰太陽暦は明治時代の政府による改暦まで使い続けられた。
しかしながら閏月をどの時期に入れるかについては、同じ時代でも地域によって食い違うことがあった。例えば日本では古来より西日本では伊勢暦、東日本では三島暦が主に用いられたが、時として閏月を挿入する時期が異なっていたので、日本国内で日付の異なる暦を使っていた事がある。
なおユダヤ暦も閏月の入る太陰太陽暦だが、日本や中国の太陰太陽暦とは異なり常に年末に閏月(第13月)が挿入される。インドでも太陰太陽暦が使われているが、インドの太陰太陽暦は黄道十二宮によって閏月を暦に入れている。イスラム暦は完全な太陰暦なので、太陰太陽暦のような閏月は存在しない。2020年はグレゴリオ暦5月23日から閏4月となる。
以下は太陰太陽暦における閏月の加わり方について、明治3年(1870年 - 1871年)を例とし表を用いて解説する。日本の暦は明治5年に太陰太陽暦(天保暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に切替わったが、その二年前の明治3年は閏月のある最後の年であった。表は国立国会図書館デジタルコレクションの『明治三庚午暦』、『明治四辛未頒暦』、『明治五壬申頒暦』をもとに作成した。
太陰太陽暦の詳細については他項に譲るが、ごく簡単に触れておくと以下の通りである。 | 820 |
閏月 | 太陰太陽暦の詳細については他項に譲るが、ごく簡単に触れておくと以下の通りである。
現在の太陽暦の「月」の日数は「31日」、「30日」、「28日」または「29日」の四つだが、太陰太陽暦では月の満ち欠けに基づく「30日」と「29日」の二つであり、「30日」を「大の月」、「29日」を「小の月」とする。しかもこの月の大小は、月の満ち欠けの仕方などによってその順番が年ごとに変わる。以下の明治3年の例では小・大・大・小・大・小・大・小・大・小・小・大・小の順となっている。そこに、約15日おきに定められる二十四節気の節気と中気を月ごとに割り振って暦を用いている。
上の表で見られるように、ひと月の内にそれぞれ節気と中気が割り当てられており、1月から10月までの節気と中気は本来割り当てられた通りの組合せとなっている。しかし10月の次は「閏10月」となり、閏10月には本来11月の節気である「大雪」だけが入る。
10月の次をそのまま11月にすると、11月の中気である「冬至」がその次の12月に来る。つまり日付よりも二十四節気のほうが遅れることになる。そこで本来割り振られた中気が来ない月は閏月とする太陰太陽暦の決まりに従い、11月になるところを閏10月とし、「冬至」が12月に来ないようにした。
閏10月の次の11月は、「冬至」のほかに12月の節気と中気である「小寒」と「大寒」を含み、12月には1月の節気である「立春」が15日にきている(年内立春)。節気と中気が本来割り振られた月に無く、二十四節気が日付から見て半月ほど先に進んでいるが、太陰太陽暦は中気を暦の基準とし、中気が本来割り振られた月の内に来る事を肝心とする。閏月を入れたことによって、次の年の明治4年では中気がその通りにおさまっている。
また節気と中気の来る月々の日付は次第に遅れている。上の明治4年の表では「雨水」が1月1日、「春分」が2月1日、「穀雨」が3月1日に来ているが、「小満」は4月3日、「夏至」は5月5日、「大暑」は6月6日、「処暑」は7月9日...と、次第に日にちのずれが大きくなっている。 | 820 |
閏月 | また節気と中気の来る月々の日付は次第に遅れている。上の明治4年の表では「雨水」が1月1日、「春分」が2月1日、「穀雨」が3月1日に来ているが、「小満」は4月3日、「夏至」は5月5日、「大暑」は6月6日、「処暑」は7月9日...と、次第に日にちのずれが大きくなっている。
これは上でも述べたように、約十五日おきに定められる二十四節気が一巡する日数よりも、月の満ち欠けの繰り返しによる一年のほうが短いからで、このまま暦を使えば日付と二十四節気はずれを積み重ね、本来割り振られた月に節気と中気が戻る。ただしこの明治4年では、まだ各々の節気が本来より一つ前の月に来ており、年末に「立春」がある。次の明治5年では日付と二十四節気のずれはさらに重なり、6月からは本来の節気と中気の組合せに戻っている。閏月の入る太陰太陽暦は、おおよそこうした流れの繰り返しで成り立っている。
明治5年11月9日(1872年12月9日)、太陰太陽暦を廃止し太陽暦に改める旨の詔書が政府より発せられ、同年12月3日にはこの日が太陽暦に基づき明治6年(1873年)1月1日と定められた。よって本来大の月である明治5年12月は公式には2日しかないことになった。
閏月は一年の内ではあるが、一月から十二月までの本来の12か月からは外れた存在であり、また同じ月がたとえば「八月」「閏八月」と2か月連続することになる。このことから、閏月を異端になぞらえ、或る程度の期間並立した複数の王朝のうちで、どれが正統でどれが異端であるかを論じる議論を「正閏論」(せいじゅんろん)と呼ぶようになった。
「天に二日なく、地に二王なし」との『礼記』の記述から中国及びその影響を受けた諸国では、「本来皇帝はただ一人であるから、過去の複数の皇帝が居た時代においてもどれか一つの皇帝を正統として歴史書を記すべきである」という思想が支配的であった。中国では三国時代の魏と蜀の正閏論、日本では南北朝正閏論が有名である。 | 820 |
太陽暦 | 太陽暦(たいようれき、英: solar calendar)とは、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にして作られた暦(暦法)である。1年の日数を1太陽年に近似させている。ユリウス暦や、現在、世界の多くの地域で使用されているグレゴリオ暦は、太陽暦の1種である。似ている言葉として、太陰暦があるがこれとは異なる。
簡単に説明すると、太陽を基準にして1年を基本的に365日とし、12か月に分けることである。
太陽暦は、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にしている。太陽年の周期は、約365.242 189 44日(2015年 年央値)であり、1年を単純に365日とすると4年でほぼ1日(より正確には、約0.968 758 日)のずれが生じる。このずれを補正するために閏日が設けられる。
エジプトでは、太陽暦は歴史が始まってから使われてきた。ローマ共和国(ローマ帝国の前身)では、紀元前46年に従来の太陰太陽暦であるローマ暦に代えて導入された。そのとき導入したカエサルの名をとってユリウス暦と呼ばれる。その後、1582年に、ユリウス暦の補正の仕方(置閏法)を改良したグレゴリオ暦がローマ教皇グレゴリウス13世により制定され、その後世界中に普及した。
日本では、明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)まで太陰太陽暦(天保暦)が使用されていたが、その翌日にあたる西暦1873年1月1日より太陽暦であるグレゴリオ暦を導入し、この日を明治6年1月1日とした(詳細は明治改暦を参照)。
この布告を明治5年11月9日に行った明治天皇は、太政大臣三条実美に改暦を行う理由を記した詔を与えた。その中で天皇が指摘した改暦を行う理由は次の通りだった。太陽の軌道に合わせるため、二、三年ごとに閏月を挿入しなければならない太陰暦は極めて不便であること、それに比べて太陽暦ははるかに正確で四年ごとに一日を加えるだけで済むこと、しかもそこから生じる誤差は七千年に一日の割合に過ぎない。この比類なき精密さこと太陽暦採用を決断した理由であるとしている。 | 822 |
太陽暦 | ちなみに、それ以前にも太陽暦は、古くは戦国時代の末頃よりキリシタンの人々の間で使われてきた。江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いている。中井履軒や山片蟠桃は、太陽暦の見本を作った。蘭学医の大槻玄沢は、寛政6年閏11月11日(西暦1795年1月1日)にオランダ正月を開催した。安政元年(西暦1854年)以降、天文方の渋川景祐によって日本最初の本格的な太陽暦「万国普通暦」が刊行された。 | 822 |
グレゴリオ暦 | グレゴリオ暦(グレゴリオれき、羅: Calendarium Gregorianum、伊: Calendario gregoriano、英: Gregorian calendar)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。
グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。
グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日 = 365.2425日(365日5時間49分12秒)とすることである。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した。
キリスト教徒にとって復活祭は特に重要な祝祭日である。新約聖書において、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日はユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日(ヨハネによる福音書)または過越祭第一日目の同月15日(共観福音書)とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。
ローマ帝国領では紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された太陽暦であるユリウス暦を採用していたため、ローマ帝国領に住むキリスト教徒には復活祭をいつ祝うかが問題となった。初期の教会ではさまざまな方法が採用されており、ユダヤ暦に従ってニサン月15日に祝う教会や、曜日を重視してニサン月14日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。 | 823 |
グレゴリオ暦 | ローマ帝国領では紀元前45年にユリウス・カエサルによって制定された太陽暦であるユリウス暦を採用していたため、ローマ帝国領に住むキリスト教徒には復活祭をいつ祝うかが問題となった。初期の教会ではさまざまな方法が採用されており、ユダヤ暦に従ってニサン月15日に祝う教会や、曜日を重視してニサン月14日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。
他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるのである。この方法をコンプトゥスという。ユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月であるから、春分日を基準とし、アレクサンドリア教会では春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とした。
しかし、初期からユリウス暦と実際の太陽年のずれが問題になった。ユリウス歴は暦年の平均日数を365.25日するが、実際の太陽年は約365.24219日であるから、春分日が毎年ずれていくのである。実際、ローマ帝国ではユリウス暦施行間もない頃から3月25日を春分日とする慣習があったが、4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、第一次ニケーア公会議では「ユリウス歴3月21日の後、最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日」を復活祭期日とした。
このような経緯で復活祭日が定められたが、結局後年にはユリウス歴と太陽年のずれが問題視された。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、このずれは今後拡大すると指摘している。
さらにメトン周期もわずかに朔望月(太陰月)とずれているため、310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。 | 823 |
グレゴリオ暦 | さらにメトン周期もわずかに朔望月(太陰月)とずれているため、310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。
また、復活祭日が太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められていると、ユリウス暦3月21日の月齢次第で、復活祭日の季節が1ヶ月前後してしまうという問題が生じた。
16世紀後半になると3月21日の春分日は実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。ローマ・カトリック教会は改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。
1582年10月4日まで用いられていたユリウス暦では、平年は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。
しかし、平均太陽年、つまり実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数は、365日5時間48分45.179秒 = 31556925.179秒 = 約365.242189572日(2013年年央)である。したがって、ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 − 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このずれは下記の計算のとおり、約128年で1日になる。
ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなり、16世紀末に10日ものずれが生じていた。
なお、上記の計算は2013年時点でのものであり、グレゴリオ改暦が議論された16世紀半ばの計算とは差異がある。 | 823 |
グレゴリオ暦 | ユリウス暦は、その制定当時の天文観測水準を考えればかなりの精度だったが、千数百年も暦の運用が続くと、天文現象の発生日時と暦の上の日付の乖離は無視できないものとなり、16世紀末に10日ものずれが生じていた。
なお、上記の計算は2013年時点でのものであり、グレゴリオ改暦が議論された16世紀半ばの計算とは差異がある。
ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり、第5ラテラン公会議(1512-1517)において改暦が検討された。このときフォッソンブローネ司教のミデルブルフのパウル(en:Paul of Middelburg)(1446-1534)は、コペルニクスを含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した。コペルニクスは彼の主著「天球の回転について」の序文でこのことを明記している。
次に、トリエント公会議(1545年 - 1563年)において、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日(つまり修正すべきユリウス暦のずれの蓄積は公会議開催の325年からの約1240年間分にあたる約9.6日間で、これを10日のずれと見做した)に戻すため、教皇庁に暦法改正を委託した。時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする改暦委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスの弟であるアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)や数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。 | 823 |
グレゴリオ暦 | アロイシウス・リリウスの提出した原稿そのものは残されていない。委員会は1577年にCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子を刊行した。この冊子も長い間、失われたと考えられていた。しかし、1981年10月に歴史家のゴードン・モイアー (Gordon Moyer) が発見した。モイアーは最初、Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze(フィレンツェ国立中央図書館)で発見し、その後、バチカン図書館、シエーナのイントロナティ市立図書館(Biblioteca Comunale degli Intronati de Siena)でも発見した。さらに、Polytechnic Institute of New YorkのThomas B. Settle も1975年に フィレンツェのBiblioteca Marucelliana とフィレンツェ国立中央図書館で同じ冊子を発見していたことが分かり、少なくとも7冊が現存していることが明らかになった
この冊子によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し、改暦案を考案した。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウス・リリウス(Antonio Lilio)である。
ユリウス暦の約1240年間の運用により蓄積された約10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。
結局、委員会は、第2案を採用したのである。
10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、「単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだ」と説明している。 | 823 |
グレゴリオ暦 | ユリウス暦の約1240年間の運用により蓄積された約10日間のずれをどのように修正するかについては、次の2案が委員会に提出された。
結局、委員会は、第2案を採用したのである。
10日間を省く月を1582年の10月にしたことについて、クラヴィウスは、「単に10月が宗教典礼日(religious observance)が最も少ない月であり、教会への影響が最小だからだ」と説明している。
改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日にグレゴリウス13世の教皇勅書として発布された。この勅書は、"Inter gravissimas"の語(「最も重要な関心事の中でも」の意)から始まるので、“en:Inter gravissimas”と称される。
この勅書はユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。
ただし、上記の日付通りに改暦を実施したのは、イタリア、スペイン、ポルトガルなどごく少数の国に過ぎず、その他のヨーロッパの国々での導入は遅れた。
グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年ごろには、平均太陽年は、約365.2422日であることが知られていた。(365.25日 − 365.2422日)× 400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けば、かなりよい近似となることが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回 (= 100 − 3) の閏年を置くこととして、1年の平均日数を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に31556952秒 とした。
なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146097 ÷ 7 = 20871週)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期の暦である。 | 823 |
グレゴリオ暦 | なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146097 ÷ 7 = 20871週)ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期の暦である。
400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得るが、3回の平年がなるべく均等に分布すること、わかりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が、100で割り切れるが400では割り切れない年は、平年とする。これ以外の年では、西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。
100で割り切れる年は400年間に4回あるが、400で割り切れる年は400年間に1回だけである。以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年を、グレゴリオ暦では平年とすることができるのである。
100で割り切れる年のうち、西暦1600年・2000年・2400年は400で割り切れるので、これらの年は閏年のままである。しかし、西暦1700年・1800年・1900年・2100年・2200年・2300年・2500年・2600年・2700年は400で割り切れないので、これらの年は平年となる。
平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦でもユリウス暦と同じである。すなわち、1月・3月・5月・7月・8月・10月・12月は31日、4月・6月・9月・11月は30日、2月は平年が28日、閏年は29日である。
上記の暦法(グレゴリオ暦)を1582年以前に遡って適用すると、200年3月1日から300年2月28日までは、ユリウス暦と同じ日付となる(ユリウス通日も参照)。これは以下の経緯による。
下記のようにグレゴリオ暦での平均の1年(365.2425日)は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて約26.821秒(= 約0.000310428日)だけ長い。このずれは約3221年かけて1日に達する。
以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。
デイヴィッド・E・ダンカン(英語版)によると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる。 | 823 |
グレゴリオ暦 | 以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度が高まった。
デイヴィッド・E・ダンカン(英語版)によると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる。
なお、上記の計算は平均太陽年が不変であるとした場合のものである。実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化、平均太陽年の計算式(英語版))。
また、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日、日本で明治改暦が行われた1873年の時点で7200年に1日となる。 | 823 |
グレゴリオ暦 | また、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で7700年に1日、日本で明治改暦が行われた1873年の時点で7200年に1日となる。
月日を導く暦法そのものと年数を数える紀元(紀年法)は別の概念であるが、上述のように、グレゴリオ暦はその置閏法をキリスト紀元の年数に基づいて定めるものとして制定されているので、キリスト紀元と不可分一体の関係にある。ところで、キリスト紀元の正式名称は、グレゴリオ暦改暦勅書(Inter Gravissimas)末尾の日付にもある通り、"anno incarnationis dominicae" すなわち「主(イエス・キリスト)の受肉(受胎)から数えた年数」である。この点からすれば、キリスト紀元年を1つ繰り上げるべき日すなわち新年は、イエスが受胎した日すなわち受胎告知日の3月25日が正当となるはずである。実際、改暦直前のローマ教皇庁自身が、3月25日を年初とするユリウス暦を使用していた。しかしグレゴリオ暦は、ユリウス・カエサルがユリウス暦を制定した当時の新年すなわち1月1日をその年初とする方法を採用した。したがってグレゴリオ暦では常に1月1日にキリスト紀元年数が1つ増える。なお、グレゴリオ暦月日の年数として記されていても、ローマ教皇庁の公文書に記されていた教皇在位年数や、イギリスおよび英連邦王国諸国の公文書で近年まで使われていた国王在位年数(regnal year)などは、日本の元号と異なり即位日をもって年数が一つ増加する。
ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、1873年の日本の明治改暦を皮切りに、徐々にグレゴリオ暦を導入する国家が増加していった。 | 823 |
グレゴリオ暦 | グレゴリオ暦の制定後、実施日である1582年10月15日に即座にこの暦を導入したのは、カトリックを奉じるイタリア諸国、スペイン、スペインに併合されていたポルトガル、ポーランドである。フランスは2か月ほど遅れたものの、1582年中に導入を果たした。1583年には神聖ローマ帝国のカトリック諸邦で、1584年にはスイスのカトリック諸州で導入され、カトリック諸国の改暦は数年を経ずして完了した。
プロテスタント諸国は、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった。その理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったのである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。したがって、グレゴリオ暦はプロテスタントにも徐々に浸透した。
最も早くグレゴリオ暦を導入したのは、ドイツのプロテスタント諸国であった。1699年のレーゲンスブルク帝国議会において、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良帝国暦と呼ばれた。しかし、ケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたので、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、1700年に実施された際には隣国デンマークもこれに倣い、周辺のプロテスタント諸国も徐々にこれに追随していった。
1752年にはイギリスが帝国全域においてグレゴリオ暦を導入、1753年にはスウェーデンが独自暦だったスウェーデン暦を廃止してグレゴリオ暦に完全移行し、全てのプロテスタント諸国がグレゴリオ暦を導入することになった。
正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀に、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。 | 823 |
グレゴリオ暦 | 正教会が優勢な東欧では、導入までにより長い時間がかかった。16世紀に、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。
グレゴリオ暦を使用するフィンランド正教会を除き、エルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会を含む正教会は、現在でもユリウス暦を使用している。
ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属しており、現在でもユリウス暦を使用している。同国で1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、ロシア革命が起きた1918年までユリウス暦を使用していたからである。 ロシア革命後のコンスタンディヌーポリ教会が1923年に採用した暦は修正ユリウス暦(通称:ロシア暦/英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている。なお、2800年以降は再びずれが生じる。 現在ロシア国内では、正教会を除きグレゴリオ暦を使用している。したがって、ユリウス暦12月25日の降誕祭は、ロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。
他方、復活大祭の算出にはすべての正教会がユリウス暦を使用するので、復活祭およびそれに伴う祭日・斎日はフィンランド正教会以外の正教会が一致して祝っている。ただし、これはユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという、初期のキリスト教の祭日決定法に従っているからであり、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するので、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。
アルメニア使徒教会では、1923年以来グレゴリオ暦が採用されている。ただし、エルサレムのアルメニア総主教区に関しては例外的にユリウス暦を使用している。
シリア正教会においては地域により、あるいは各信徒内での伝統の差異により、ユリウス暦とグレゴリオ暦が併用されている。 | 823 |
グレゴリオ暦 | アルメニア使徒教会では、1923年以来グレゴリオ暦が採用されている。ただし、エルサレムのアルメニア総主教区に関しては例外的にユリウス暦を使用している。
シリア正教会においては地域により、あるいは各信徒内での伝統の差異により、ユリウス暦とグレゴリオ暦が併用されている。
コプト正教においてはグレゴリオ暦は採用されておらず、独自のコプト暦が用いられている。
アッシリア東方教会では1964年に当時のアッシリア総主教マル・エシャイ・シムン23世(英語版)が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は古代東方教会(英語版)として分離独立している。
詳細なリストは、en:List of adoption dates of the Gregorian calendar by countryを参照。
グレゴリオ暦は、ユリウス暦に比べはるかに精度が高くなっているが、それでも上記の通り誤差は完全に解消されたわけではない。そもそも地球の自転周期と公転周期の比は整数の比になっていない以上、この誤差は必然的に生ずるものである。
また年初の日付が、天文学的な現象とは関係がない日付であることや、各月の日数が不規則であること、1年の日数が週の倍数になっていないため、暦日と曜日が一致しないことなどの問題点が指摘され、しばしば改暦運動が盛り上がった。こうした改暦運動で実施されたものは、1793年にフランスで施行されたフランス革命暦のみであるが、合理性に徹するあまりそれまでの週や七曜の廃止を行うなどして大混乱を招き、1806年にはグレゴリオ暦に復帰した。しかしその後も、世界暦への改暦提案などがしばしばなされている。 | 823 |
閏年 | 閏年(うるうどし、じゅんねん、英語: leap year、intercalary year)とは、閏のある年である。これに対し、閏年ではない年を平年(へいねん、英語: common year)と呼ぶ。
閏年は、太陰太陽暦では、月の運行を基準にしていることで生じる季節(太陽の運行)とのずれを補正するために、平年より暦月が一つ多く、太陽暦では季節(天動説では太陽の運行)と暦のずれとを、太陰暦では月の運行とのずれを補正するために、平年より暦日が一つ多い。その追加された日や月を閏月・閏日、総称して閏と呼ぶ。閏の挿入規則を置閏法(ちじゅんほう)と呼ぶ。
太陽暦では、季節に暦を一致させるため、暦年の平均の長さを平均回帰年(365.242 189 44日≒365日5時間48分45.168秒)になるべく一致させる。
太陽暦では、平年は365日であり、閏年は閏日が挿入されて366日である。現在広く採用されているグレゴリオ暦では、閏年は400年間に97回ある。
古代エジプトの暦には閏年はなく、1暦年は常に365日であった。そのため、4.129年に1日の割合で暦と季節がずれた。当時すでに回帰年は365.25日という観測値が得られていたが、暦に反映されることはなかった。農民は暦ではなく恒星・シリウスの動きを頼りに農作業のスケジュールを決めた。
ユリウス暦は、紀元前46年に古代ローマで採用され、4年に1回を閏年としていた。但し、導入直後は混乱が見られ、3年に1回を閏年としたり、暫く閏年を置かない期間があった(詳細はユリウス暦を参照)。
ユリウス暦では、閏年には2月の日数を1日増やして29日とする。閏日を2月に挿入したのは、ローマ暦の初期にはMartius(後の3月)が年初でFebruarius(後の2月)が年末だったからである。厳密には共和政初期にIanuarius(後の1月)を年初とするように変更されたが、まだ古い慣習が残っていた。 | 824 |
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