title
stringlengths
1
208
text
stringlengths
1
32.1k
passage_id
int64
5
4.87M
劇画
労働者階級の若者がメインターゲットの読者であった劇画は、当時盛んであった学生運動の熱狂と同期し、社会的なブームを巻き起こすことになる。貸本劇画誌を前身として1964年に創刊された「ガロ」(青林堂)は全共闘世代の大学生の愛読誌であった。1970年(昭和45年)3月31日によど号ハイジャック事件を起こした赤軍派グループの宣言「われわれは明日のジョーである」は当時の劇画の若者に対する影響力を物語っている。 劇画ブームに対して反発もあり、劇画嫌いで知られる寺田ヒロオはさいとう・たかをに批判文書を送りつけた。 1972年(昭和47年)のあさま山荘事件などの左翼の過激化で学生運動が退潮したと同時に、若者らに支持されていた劇画業界も冷え込んでいった。劇画は「重く」「暑苦しい」ものとして若者らから敬遠されるようになり、それまで人気を誇っていた劇画雑誌は1970年代中頃より急激に部数を落としていった。ヤングコミックの編集者であった岡崎英生によると劇画雑誌の衰退は、三流劇画誌(エロ劇画誌)の流行や、1979年(昭和54年)6月に創刊された「週刊ヤングジャンプ」(集英社)や1980年7月に創刊の「週刊ヤングマガジン」(講談社)といった新しい青年漫画雑誌の影響が大きいとしている。 ニューウェーブ漫画を含む、劇画の手法を取り入れた新しい漫画の登場で、従来型の劇画は淘汰されていった。 劇画ブーム後も生き残ったベテランや、その後デビューした劇画家によって今も作品は描かれているが、「ジャンルとしての劇画」は低迷している。1995年(平成7年)には辰巳ヨシヒロが自伝漫画である『劇画漂流』を発表。自らの経歴を振り返ると共に、ブーム以降に誤解された劇画のイメージを回復させるべく活動した。現在の漫画の多くは少なからず劇画の影響下にあるが、漫画と劇画を分離して呼称するという提唱は未だに実現しておらず、包括的な呼称としてなお漫画が用いつづられている。
888
劇画
劇画の技術的な手法としては、カメラワークを使ったコマ割りが挙げられる。俯瞰や煽りで三人称視点を取り入れたダイナミックな視点からの描写(それまでの漫画の視点はほぼ正面固定だった)、人物のアップによる内面心理描写(それまでの漫画の世界では人物のアップは手抜きと見なされていた)などがある。また、太字で強調された擬音や、効果線、集中線を使った演出、同じシーンを連続的にコマに描くことによって時間経過を圧縮する演出なども劇画工房の開発によるものである。 劇画工房はハリウッド映画を参考にこれらを漫画技法として開発したのであり、このような革新的な表現が許されたのは、彼らが主に執筆していた日の丸文庫の「表紙以外は自由に描かせる」という放任主義の成果、日の丸文庫の専務で漫画編集をしていた山田喜一が映画に対して理解が深かったおかげとされる。 これらの技法はすぐに模倣されて漫画の一般的な技法として定着し、劇画の独自手法として見なされなくなってしまったため、世間一般には後の劇画雑誌ブームの際に流行した「描線の多いリアルタッチな画風の漫画が劇画である」というステレオタイプなイメージが残った。 さいとう・たかを曰く、「本来、絵は劇画の条件には含まれていない、デフォルメされた絵、少年・少女向けの絵でも構わないもの」であった。ところが「劇画黎明期を支えた面々が第一線から消え、さいとうのみが残ってしまったため、さいとう調の絵が「劇画」だと世間が誤解し、定着してしまった」という。事実、劇画黎明期を支えた代表的作家辰巳ヨシヒロや松本正彦の絵は一般的な「劇画調」のイメージとは異なるし、一般的には劇画家の範疇に含まれないつげ義春や水木しげるも若い頃には貸本劇画を手がけている。 概ね生年順
888
レースクイーン
レースクイーン(race queen)は、モータースポーツに参戦する各チームのスポンサーのコンパニオンであり職業美人である。「RQ」と略される場合もある。 レース前配置(グリッド)を案内するため、レーサーの名前と番号が書かれたプラカードを持っている係員は、主催者が雇ったグリッドガール(Grid-Girl)である。 元々はレース主催者などに雇われた(選ばれた)数名の女性(例えば鈴鹿サーキットクイーン等)で、優勝者の表彰などレース運営の中で一定のシンボル的役目を担う者を指す言葉だったが、現在ではそれらの女性をサーキットクイーンと呼び、チームに雇われたキャンペーンガール(キャンギャル)をレースクイーンと呼ぶようになっている。また「レースクイーン」という用語は元々英語のPromotional modelのサーキット版というニュアンスで作られた和製英語で、英語では上記の「Promotional model」に加え「Paddock girls」などの名称が用いられている。しかし昨今では性差別の観点から、先進国では廃止の方向性にある。 レースクイーンの分類としては、純粋にレースクイーンだけを生業とする者がいる一方で、学生やその企業の従業員が兼業で就業することもままある。また、タレントや俳優として名を成した者もしくはグラビアアイドルなどでデビューした後に年契約でレースクイーンを務める、コスプレイヤーやネットアイドルといった「アイドル予備軍」が参入する、など経歴や形態が多様化している。 1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。
893
レースクイーン
1960年代後半に小川ローザらがサーキットでモデルとして活躍したのが起源といわれている。以後その形態にあまり変化はなく、開会式や表彰式のアシスタントとして従事する程度であったが、1984年に開催された日本最高峰のオートバイ耐久レース「鈴鹿8時間耐久ロードレース」で、一部チームのキャンペーンガールがチーム名のロゴマークを入れた水着を着て応援し、話題となった。 1980年代後半のバブル経済絶頂期に入ると、チームやスポンサー企業のロゴが入った極めて布地面積が少ないハイレグ・レオタードを身に纏った女性たちがサーキットに多数出現し、人気を博した。それ以降、このようなスタイルがレースクイーンの主流として定着した。特にオートバイのレーシングチームでキャンペーンガールを務めた飯島直子と岡本夏生の大ブレイクで、レースクイーンはサーキットを飛び出して様々な舞台へと進出するようになっていった。日本のレースクイーンは芸能界、人気タレントやアイドル特に映画女優への登竜門的存在となっている。当時は日本以外の国では余り存在しておらず、レースクイーンは日本が発祥の地であると言われ、次第と海外のレースにも広がった。 現在はレースクイーンを多く輩出する芸能事務所が多数あり、レースが行われない週末のカメラ小僧向けのアマチュア撮影会に所属のレースクイーンをモデルとして出演させて収益を得る、といったことが行われている。そのため最近では、レースはスポンサーアピールだけでなく、撮影会の集客の宣伝の場ともなっている。また、ワンエイトプロモーション、フェスタソーレ、エモーションカンパニーなどレースクイーンに特化したタレントマネージメント・撮影会事業を展開する業者も登場している。 逆に「レースクイーン」の肩書き欲しさに、イベントコンパニオン関連の事務所(中でもパチンコ系のイベント会社)が自社の資金でレーシングチームのスポンサーとなり、自社のコンパニオンをレースクイーンに起用するといった例も見られる。過去にはAV女優をレースクイーンとしたソフト・オン・デマンドの例(2002年のフォーミュラ・ニッポンで山本清大をスポンサードした)もあるが、当時プレスのみならずレース関係者、一般の観客の間からも激しい批判が起こった。
893
レースクイーン
国内モータースポーツで一番動員力があるSUPER GT(旧全日本GT選手権)は注目度も高いため、年々レースクイーンの数も増加の一途をたどった。特に2003年には飽和状態に達し、1レースで200名以上、1台のマシンに10名以上が立つチームも現れたことから、翌2004年以降は競技の進行を円滑に行うため、1台に対する人数の規定が設けられた。しかし、1レースに立てるのが4人だけで、実際は2007年までは5人以上登録していたチームも存在したため、全体で160〜180人程度いた。2008年に正式に公式規則で登録できるのが1シーズン4名までと規定され、人数も100人程度に減少した。(2008年から2011年までは4名まで、2012年より6名まで、2016年から登録人数は8人に緩和、1レースに立てるのは6人で変わらず) そもそも日本で行われるレースが少ないことやレースクイーンとしてのギャランティーも下落している。岡本夏生・飯島直子らが人気レースクイーンとして活躍していたバブル期はレースウィークだけでも数十万円という時代はあったが、1990年代後半は所属事務所がレースクイーンになりたいモデルを無料で送り出すケースも出始め、ギャラのケタも一つ少なくなった。狭き門のオーデションを通過してレースクイーンになってもレースのない時期はイベントコンパニオン・撮影会モデルや、一般企業のOLなどの副業で生計を立てる者がほとんどである。 1990年代後半から、「レースクイーン・キャンギャル情報誌」を名乗る書籍(雑誌、ムック等)が雨後の筍のごとく次々と創刊されたが、大方ほんの数年で軒並み休刊・廃刊に追いやられている。しかし、『オートスポーツ』別冊として当初スタートした『ギャルズパラダイス』などはモーターショーや見本市のコンパニオンとして出演するモデル達も取りあげることで現在も発行を続けている。 欧米では「Paddock Girls」「Grid Girls」等の名称で、決勝レース時のダミーグリッドでの看板持ちなどに女性を起用することが多いが、これは基本的にレース主催者側が用意するもので、日本のレースクイーンのように各チームと契約して、胸を強調するような服を着てレース毎に帯同する形態とは異なる。
893
レースクイーン
欧米では「Paddock Girls」「Grid Girls」等の名称で、決勝レース時のダミーグリッドでの看板持ちなどに女性を起用することが多いが、これは基本的にレース主催者側が用意するもので、日本のレースクイーンのように各チームと契約して、胸を強調するような服を着てレース毎に帯同する形態とは異なる。 ただ欧米ではこれらの女性についても「性差別の象徴」とみなして批判する意見があり、実際にFIA 世界耐久選手権(WEC)では2015年よりグリッドガールを原則廃止している(ただし富士スピードウェイで行われる日本ラウンドでは、2017年現在もグリッドガールが存在している)。 F1でも2015年ブラジルグランプリでは「女性だけを起用するのは不公平」との意見から「Grid boy and girl」として男女混在形式が導入されたほか、2017年末にはWEC同様にグリッドガールを原則廃止すべきとの議論が巻き起こった(ただしドライバーやチーム関係者はこれに反対している)。 コスチュームのデザインは、同じチーム・スポンサーであっても毎年細部を含めて変更されており、その時代の流行が多く反映されている。 サーキットのイメージガールである、本来のレースクイーンの活躍が見られた時期。 コスチュームはTシャツかタンクトップとホットパンツの組み合わせに、足元はブーツといういでたちが一般的。季節によって、丈の短いジャケットが加わる場合もある。たすきは必携で、時代やサーキットによっては、ミニスカートやティアラも見られる。 まだロングヘアはあまり見られない。 当時のエアロビクスブームの影響から、足ぐりの角度を極端に上げたハイレッグカット(ハイレグ)のワンピース型レオタードが主流となり、これにスポンサー名を直接プリントするか、またはたすきが用いられる。下には海外製を中心とした、ジャズダンス用のマチの見えない光沢のあるストッキングが組み合わされた。また、Tバックタイプのレオタードを着用するレースクイーンも多く見られた。 ピンヒールと大きな傘、そして当時流行の髪形(初期はレイヤー、その後ワンレンやソバージュ)とともに、レースクイーンの象徴的なスタイルとして強い印象を与えた。フェイスメイクは色黒、太眉が主流であった。
893
レースクイーン
ピンヒールと大きな傘、そして当時流行の髪形(初期はレイヤー、その後ワンレンやソバージュ)とともに、レースクイーンの象徴的なスタイルとして強い印象を与えた。フェイスメイクは色黒、太眉が主流であった。 ハイレグ路線から転換し、極端なミニスカートのワンピースが主流となる。スパンデックス素材で作成された体のラインがそのままに出るものから、徐々にエナメル素材(PVC)のものへと変化していった。 ワンピースの利点は布地面積が広いことであり、スポンサーロゴが大きくプリントされ、企業やチームカラーで色とりどりにデザインされた。大きな襟が付いていることも特徴的だった。 ハイレグに代わるセクシーさを求め、大胆なスリットを設けたり、バストの部分をくり抜き、谷間を強調するデザインが現れた。 大きな変化としてはワンピースからセパレートタイプへの移行が挙げられる。ウエスト部分を露出したアンダーバストまでの上衣(ホルターネック・チューブトップ・ハーフトップやキャミソールが中心)とミニスカートに、ブーツ(夏季はサンダル)、春や秋には七分袖丈の上着を合わせるというスタイルが主流となった。ワンピース時代と比べスポンサーロゴは小さくなったが、カラーリングの組み合わせが容易になった。 またパンツスタイルも採用されるようになり、長ズボン(スラックス)と短いホットパンツに大別される。この場合もサイドを網状にしたりカッティングしたりするなど大胆な露出が施されていた。 引き続きセパレートタイプが主流となっているが、色や素材の違うパターンを織り込んで縫製された、細部にわたる複雑なデザインのものへと変化している。またショートパンツはローライズタイプが主流となっている。またアクセサリー・帽子・上着もチームによってさまざまに取り入れられている。さらにスポンサーによってはドレスやメイド服、セーラー服など、萌え系コスプレを意識したデザインも登場しており、露出一辺倒からの転換がうかがえる。 「Category:レースクイーン」「Yahoo 検索エンジン」も参照
893
1982年
1982年(1982 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和57年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1982年について記載する。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
897
1973年
1973年(1973 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和48年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1973年について記載する。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 1973年のスポーツも参照
898
2月11日
2月11日(にがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から42日目にあたり、年末まであと323日(閏年では324日)ある。
899
井上陽水
井上 陽水(いのうえ ようすい、1948年〈昭和23年〉8月30日 - )は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター。本名は、表記は同じで読みが「いのうえ あきみ」。旧芸名:アンドレ・カンドレ。福岡県嘉穂郡幸袋町(現:福岡県飯塚市幸袋)生まれ・福岡県田川郡糸田町育ち。血液型はAB型。身長180cm。 1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー。1971年に本名の井上陽水として再デビュー。1970年代には吉田拓郎と並んでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。その後も現在に至るまで第一線で活躍を続ける、日本を代表するシンガー・ソングライターの一人。2人目の妻・石川セリとの間に1男2女をもうける。長女は作詞家・歌手の依布サラサ(本名・井上ニサ)。 本名は『あきみ』と読むが、吉田拓郎を意識したレコード会社が『拓郎(たくろう)のように陽水(ようすい)にしよう』と言い出し、本人は『そうですか』と受け入れた。 1948年(昭和23年)8月30日、福岡県田川郡糸田町中糸田に生まれる。本籍地は高知県幡多郡佐賀町で、佐賀町町役場に提出された出生届には「陽水」の下に「あきみ」と振り仮名が付いている。 父は高知県幡多郡佐賀町(現:黒潮町)出身の元軍医井上 若水(いのうえ わかみ、-1972年6月) 。若水の幼少期の井上家は大きな網元で広い山林を持つ資産家であった。しかし不漁続きとなり、昭和初期には没落。若水は子供ながら一人神戸へ旅立ち、キリスト教の伝道関係の職に就き勉強を続ける。苦学の末に高等専門学校卒業の資格を得る。その後、神戸で金属工芸の技術者として働くが、やがて朝鮮総督府に勤務する兄から人手の足りない福祉・医療関係の仕事に誘われ、1940年に朝鮮(京城(現在のソウル))へ渡る。ここでの経験がのちに開業歯科医の免許取得に役立つ。間もなく、同じ歯科医を兄弟・親戚に持つ母・フジと知り合い結婚。南下してくるソ連軍から逃れるため、フジはやっとの思いで先に帰国。開業歯科医をしていたフジの兄の地元の福岡県直方市にたどり着く。追って父が引き揚げる。若水は引き揚げ後は炭鉱で働いていたが、陽水が生まれてまもなく、フジの兄の意見も参考に隣接する糸田町で歯科医院を開業する。兄弟姉妹は姉1人、妹1人。
900
井上陽水
1953年、糸田町に引っ越す。田川は何も縁のない土地で、ずっと"よそ者"意識があったという。糸田小学校、糸田中学校、西田川高校と進学。 小学校時代、子供会や婦人会の集まりで歌わせられることが多々あり、当時から歌がうまいと褒められていた。またこの頃から、8歳上の姉の影響でプラターズやエルヴィス・プレスリーなど洋楽を聴くようになり、ヒットパレード系のラジオに熱中するようになる。 1963年、中学3年の時に小島正雄のラジオ番組で紹介された「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受け、以降ビートルズに熱中する。高校時代はビートルズ狂いと周りから呼ばれ、数人の仲間と一日中歌いまくり、休日には(当時出始めの)オープンリールのテープレコーダーでその歌を録音するなど、ビートルズ漬けの生活を送っており、仲間内のみならず町内でも生粋の音楽狂として名が知られていた。 家業を継いで歯科医になることを期待されていたため、1967年、九州歯科大学を受験するも失敗し、予備校に通い始める。この年は小倉育英館に通ったが、翌年には九州英数学舘に変える。二浪目の1969年「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)を深夜放送で聞き、自らも高校時代に歌を録音する際に同じような早回しテクニックで遊んでいた経験 から、「これなら自分にもできる」「音楽でひとやま当てたい」と思ったのが曲を作り始めたきっかけ。ギターを見よう見まねで始める。1968年、再度の受験にも失敗する。1969年、3度目の受験に失敗し、大学進学を諦めた。その後「東京で勉強して大学入学を目指す。」と父に伝え上京するが歌手となるための活動に専念し、受験活動は行っていなかった。
900
井上陽水
1969年、RKB毎日放送のラジオ番組『スマッシュ!!11』が放送開始される。この番組には視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、それを知った陽水は12弦ギターを使って「カンドレ・マンドレ」を自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)し、4月16日、テープをRKB毎日に持ち込む。『スマッシュ!!11』のディレクターの野見山実は、録音を聴きすっかり興奮した。陽気だが何か寂しげなところがあり、その発想に驚嘆した。このとき陽水は「マンドレ」という芸名を考えていたが、野見山が難色を示し(「マン」が女性器を連想させるという理由で)芸名は「アンドレ・カンドレ」に決まる。「カンドレ・マンドレ」は『スマッシュ!!11』で放送され、数多くのリクエストを受け、中には「生の声を聴きたい」というものもあった。ただしリクエストの大半は、陽水が友人(主に浪人仲間)にはがきを配ってリクエストを出すよう指令したためのものだったという。野見山は彼らとの比較で、陽水の曲には非常に高度なものが内在していることに気付き、その将来性を買ってCBSソニーの中曽根晧二宛に手紙で送るとともに、新聞記者にも陽水に対する考えを隠すことなく話した。中曽根の反応は早く、当時としては異色な面白さだとして、発売を急いだ。当時、CBSソニーはカルメン・マキの「時には母のない子のように」のヒットの余勢をかって、さらなる一発を狙っていた。躊躇していては他社に取られる恐れがあったため、会社側は中曽根にすぐに福岡へ迎えに行くよう指示した。両親は陽水の上京には反対したが、陽水の強い信念に父は「1曲吹き込んだら帰ってくるんだな。音楽がダメでもお前には別の生きる道がある」と伝えた。
900
井上陽水
放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、1969年7月初旬にレコーディングのため福岡市から上京。「カンドレ・マンドレ」を改めてレコーディングし、同年9月1日、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)からアンドレ・カンドレとして同曲でデビュー。演奏は六文銭、編曲は小室等が担当したが、ほとんど注目されず、続く「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」も、松山猛と加藤和彦から楽曲提供を受けた「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振に終わり、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。以後、ポリドール移籍までの間は、本人も語ろうとしない空白の1年間となる。当時は、麻雀とパチンコに明け暮れており、仕事はあっても月2日位であったと後に語っている。 ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあうことがしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。 アンドレ・カンドレ時代に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)、星勝(モップスのギタリスト)、RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からボブ・ディランを薦められ、以降の作詞に強い影響を受けた。 当時の映像として1970年公開の、和田アキ子主演映画『女番長 野良猫ロック』にモップスなどホリプロのアーティストと共に出演。「カンドレ・マンドレ」を歌うシーンがある(ただし、レコード音源に合わせて歌う、いわゆる「リップシンク」)。 この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。彼の言葉はとても鋭く、近づけないような雰囲気だった。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えている」と語っている。
900
井上陽水
この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。彼の言葉はとても鋭く、近づけないような雰囲気だった。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えている」と語っている。 1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水」と書くという。奥田は吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。 吉田拓郎の生活派ソングというべきフォークがもてはやされるに至り、翌1972年3月1日、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に「傘がない」が収録された初アルバム『断絶』がリリースされる。陽水が売れ始めたのは、このアルバム『断絶』から。陽水自身は売れた理由について『陽水ライヴ もどり道』ジャケット内自筆年表で、「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」と書いている。「傘がない」は虚無的な当時の若者の真情を表現しているとして注目された。その年の12月には2ndアルバム『センチメンタル』をリリース。また陽水がお客の前で本格的なライブを演ったのはこの1972年の大晦日、「渋谷ジァン・ジァン」と「青い森」が初めてで、ライブ活動を主戦場にしていた他のフォークシンガーに比べると、先のCBSソニーという大手レコード会社で一旦デビュー後に、別の大手から再デビュー等と合わせ、当時としては異色の経歴だった。このライブの陽水のギャラは1ステージ5,000円だった。
900
井上陽水
翌1973年3月のシングルで東宝『放課後』の主題歌「夢の中へ」が初のヒット(オリコン17位、以下売り上げ順位はすべてオリコン)となり、同年7月には初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』がリリースに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。中川右介はこの曲がようやくヒットするまでの陽水は低迷していたと指摘している。そして、同年9月にはシングル「心もよう」をリリース。これもスマッシュ・ヒットとなる。 そして、同年12月にアルバム『氷の世界』をリリース。当アルバムは100週以上BEST10に留まるなどロングセールスを続け、発売から2年後の1975年8月に日本レコード史上初のLP販売100万枚突破の金字塔を打ち立てた。オリコンのLPチャートでは5度も1位に返り咲くという記録も持っており、陽水は第一期の黄金時代を迎える。 この間、『二色の独楽』や『断絶』などの過去アルバムもチャートの上位を独占するなど、それまでのシングル・レコードを寄せ集めたアルバムではなく、吉田拓郎や小椋佳などとともに、シンガーソングライターによる良質なアルバム中心の時代に移行する先駆けとなった。 ポリドール時代には理由は諸説あるが殆どテレビに出演せず、外見が一般の目に触れる機会はレコードのジャケット写真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」からアルバム『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで写っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある写真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの写真は1975年のシングル「御免」以降、著書『綺麗ごと』のために撮られたものなど少数の例外を除き見られなくなる。テレビ拒否の理由について多賀は、1975年1月22日付けの日刊スポーツの取材に答え、「拒否しているわけではありません。学芸会でないものが出来ればという条件付きでです」と述べ、当の陽水は「積極的に出ていけるような広い心を持ちたいです」などと話し、芸能週刊誌をたくさん読み漁って、「自分のことがどう書かれているか興味深い」などと話した。
900
井上陽水
1974年1月17日、熊本県出身の女性と結婚する。これを機に中野南台の四畳半アパートから、世田谷三軒茶屋の3DKのマンションに引っ越す。 1974年は5枚のアルバムだけで売り上げ150万枚、金額にして34億1,000万円(オリジナルコンフィデンス誌調べ)を売り上げ、年収は3~4億円と推定された。"テレビ嫌い"とも評され、歌謡番組からワイドショーから相当数の出演交渉を全て断っていたが、陽水名となって初めてのテレビ出演とされる1974年12月に東京12チャンネル(テレビ東京)で陽水、小椋佳、遠藤賢司の3人のコンサート実況がフィルム構成で放送されている。この年大晦日の第16回日本レコード大賞は、日本レコード大賞を森進一の「襟裳岬」が受賞したため、作曲者の吉田拓郎が授賞式にジーンズで登壇し物議を醸したが、陽水も企画賞を受賞していたが欠席した。 1975年、陽水・吉田拓郎・泉谷しげる・小室等が中心となって、フォーライフ・レコードを発起する。また、後に結婚する石川セリと出会う。 1976年2月、離婚。同年にフォーライフからリリースした『招待状のないショー』は9週連続1位を獲得。1977年、石川のアルバム『気まぐれ』に「ダンスはうまく踊れない」ほか2曲を提供する。「ダンスはうまく踊れない」は、陽水の部屋に遊びに来たセリの目の前で30分ほどで作られたという。
900
井上陽水
1976年2月、離婚。同年にフォーライフからリリースした『招待状のないショー』は9週連続1位を獲得。1977年、石川のアルバム『気まぐれ』に「ダンスはうまく踊れない」ほか2曲を提供する。「ダンスはうまく踊れない」は、陽水の部屋に遊びに来たセリの目の前で30分ほどで作られたという。 1977年9月10日、大麻所持容疑で逮捕され、「自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った」と自供した。9月22日に保釈され、10月11日には懲役8か月、執行猶予2年の判決を受ける。この逮捕に関して、当時朝日新聞記者だった筑紫哲也が、「マリファナは日本では違法であるが、これと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っている」と発言し、擁護を行っている。この時はまだ互いに親交こそなかったが、のちに筑紫がテレビに進出し、初のメインキャスターを務めた『日曜夕刊!こちらデスク』の最終回(1982年9月26日)では陽水がゲスト出演し持ち歌を3曲歌唱、報道番組では異例の全編生歌で番組を締めくくった。筑紫は初めて番組を持つことになった時、『傘がない』の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」というくだりが頭に浮かんだ、と回想している。その後、1989年に筑紫が新聞社を退社してスタートした『筑紫哲也 NEWS23』では、筑紫からの要請で初代のオープニングとエンディング曲(『最後のニュース』)を陽水が担当した。 1978年7月、上記の事件後(執行猶予中)にリリースされたアルバム『"white"』はオリコンチャートの3位を獲得した。 1978年8月30日、30歳の誕生日に石川と再婚、同年12月16日には長男が産まれている。
900
井上陽水
1978年7月、上記の事件後(執行猶予中)にリリースされたアルバム『"white"』はオリコンチャートの3位を獲得した。 1978年8月30日、30歳の誕生日に石川と再婚、同年12月16日には長男が産まれている。 1979年のアルバム『スニーカーダンサー』では高中正義が5曲の編曲を務め、1980年のアルバム『EVERY NIGHT』では星勝が編曲から外れるなど、この時期にはサウンドが大きな転換を遂げている。さらに1981年のアルバム『あやしい夜をまって』から編曲に加わった川島裕二、その後BANANAなどの名義で陽水の作品に多数携わり、星勝と並んで重要な位置を占めるようになる。上述の通りセールスは伸びなかったが、この時期の作品には「なぜか上海」「海へ来なさい」「ジェラシー」「とまどうペリカン」「カナリア」「リバーサイドホテル」など、その後のライブやコンピレーション作品で頻繁に取り上げられる楽曲が多数含まれている。 1981年1月、『ばらえてい テレビファソラシド』にゲスト出演。7月『夜のヒットスタジオ』に「ジェラシー」で出演。8月『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」コーナーに「ジェラシー」で出演。 1982年、バックバンドを務めていた安全地帯がデビューし、1983年には自身作詞による「ワインレッドの心」をヒットさせる。さらに1984年には安全地帯に歌詞を提供した「恋の予感」、中森明菜に歌詞と曲を提供した「飾りじゃないのよ涙は」、そして自身の「いっそセレナーデ」がヒットする。12月10日付のチャートでは「飾りじゃ〜」が2位、「恋の予感」が3位、「いっそ〜」が4位と、陽水の手がけた作品が上位を占める。同月21日にはこれらのヒット曲をはじめとする提供曲を、自身が自ら歌ったアルバム『9.5カラット』がリリースされ、翌1985年にかけてヒットする。『9.5カラット』は1985年のアルバム年間売り上げ1位を獲得し、陽水にとっては『氷の世界』以来自身2作目のミリオンセラーとなる。このヒットにより第27回日本レコード大賞で作曲賞とアルバム賞を獲得する。
900
井上陽水
1986年8月にはライブアルバム『クラムチャウダー』がリリースされ、9月には同じ題名のライブビデオも発売される。さらに8月20日から2日間、安全地帯とのジョイントで「STARDUST RENDEZ-VOUS」と題したコンサートを明治神宮野球場で行う。このコンサートで「夏の終りのハーモニー」を初披露、6万人の聴衆を動員しテレビ中継のほか、ライブアルバム、ライブビデオにも収録された。 1988年9月1日、日産自動車より新発売されたセフィーロ(初代・A31型)のCMに「今夜、私に」を提供。陽水自身も出演し、アドリブで「みなさん、お元気ですか?......失礼しまーす」と声を出す。ところがこのCMが公開されて間もなく、病床に臥した昭和天皇が危篤になったため、声はカットされた。いしいひさいちは団欒中の家族に、窓を開けた陽水が「皆さんお元気ですか」と言うと一気にしらける、イラク軍の捕虜にこのCMを見せた途端、それまで騒がしかった捕虜たちが脱力しておとなしくなる、という作品を描いている。それから間もない10月、フジテレビ系のドラマ『ニューヨーク恋物語』の主題歌に使われた「リバーサイドホテル」がヒットする(11位)。「リバーサイドホテル」は1982年に発表されていた作品だが、リリースから6年を隔ててのヒットとなった。 翌1990年から1991年にかけて、映画『少年時代』の主題歌として作られた「少年時代」(作曲は平井夏美との共作)がヒットする。リリース直後は穏やかなチャートアクションだったが、1991年、ソニーのビデオカメラ「ハンディカム・CCD-TR105」のCMに使われてから売上を伸ばし、ロングセラーとなった。当初は藤子不二雄Aの作詞という話であったが、出来上がってみると藤子の歌詞はまったく使われていなかった。陽水は「安孫子さん の心をもらった」とコメントしており、藤子不二雄Aもイメージ通りの曲だとして出来栄えに満足した。実際に使われなかったオリジナルの歌詞全文は藤子不二雄Aの著書に何度か記載されている。 1993年、フジテレビ系のドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌に使われた「Make-up Shadow」(2007年にはトヨタ・ブレイドのTVCFソングとしても使われた)がオリコン最高2位、売上80万枚超のヒットを記録。第35回日本レコード大賞の金賞を受賞する。
900
井上陽水
1993年、フジテレビ系のドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌に使われた「Make-up Shadow」(2007年にはトヨタ・ブレイドのTVCFソングとしても使われた)がオリコン最高2位、売上80万枚超のヒットを記録。第35回日本レコード大賞の金賞を受賞する。 このころからリリースのペースが落ち始める。1994年にアルバム『永遠のシュール』を発表してから、次のアルバム『九段』(1998年)までには3年半のブランクがある。また、この時期はコンサートも少なく、1994年末から1999年9月までのおよそ5年間は全国ツアーを一度も行っていない。 1996年、PUFFYのデビュー曲として歌詞を提供した「アジアの純真」がヒットする。「アジアの純真」の作曲は、以前から交流のあった奥田民生(1994年には「月ひとしずく」(小泉今日子)を共作している)。同じく陽水作詞、民生作曲でPUFFYに提供した「渚にまつわるエトセトラ」もヒットする。続いて「井上陽水奥田民生」というアーティスト名で1997年にリリースしたシングル「ありがとう」、アルバム『ショッピング』はこれらのヒットを受けたものといえよう。「ありがとう」はリリース同年にサッポロビール「黒ラベル」のCMに使われたことも手伝ってオリコン最高2位、売上約25万枚のヒットを記録。 1999年、アンドレ・カンドレとしてのデビューから30周年になることを記念して、2枚組のベスト・アルバム『GOLDEN BEST』がリリースされる。『GOLDEN BEST』は自身3作目のミリオンセラーとなった後も売上を伸ばし続ける。このヒットを受け、『GOLDEN BEST』のリリースからちょうど1年後には「裏ベスト」として『GOLDEN BAD』、『GOLDEN BEST』の売上が200万枚を突破した2003年にはその記念として『GOLDEN BEST SUPER』が発売される。 2001年、「コーヒー・ルンバ」「花の首飾り」のカバーがヒット。これに続いてリリースしたカバーアルバム『UNITED COVER』は80万枚を売るヒットとなり、その期間のライヴ映像はDVD『UNITED TOUR』として発売される。
900
井上陽水
2001年、「コーヒー・ルンバ」「花の首飾り」のカバーがヒット。これに続いてリリースしたカバーアルバム『UNITED COVER』は80万枚を売るヒットとなり、その期間のライヴ映像はDVD『UNITED TOUR』として発売される。 2002年には4年振りの新作『カシス』と、ジャズ・アレンジを施したセルフカバー・アルバム『Blue Selection』をリリース。1999年から2006年までに、2004年を除いて毎年全国ツアーを開催した。 2006年にはツアーの合間を縫って制作された4年振りの新作『LOVE COMPLEX』をリリース。翌年はツアーの他、「井上陽水奥田民生」としてシングル「パラレル・ラブ」、アルバム『ダブルドライブ』を発表。2008年もツアー活動を行いつつ、ベスト・アルバム『弾き語りパッション』と『BEST BALLADE』の2作を発表している。2009年にはデビュー40周年を迎え、12月には15年振りとなる日本武道館公演を行い、その模様を収録したDVD『40th Special Thanks Live in 武道館』をリリース。翌2010年には4年半振りとなるオリジナル・アルバム「魔力」をリリースしている。 2014〜2015年「井上陽水 氷の世界ツアー」を行う。40年前に発売されたアルバム「氷の世界」を全曲歌う、という内容のツアーだった。 2015年、40年ぶりにポリドールの流れを組むユニバーサル・ミュージックに復帰することが発表された。 2022年現在までにはユニバーサル・ミュージックからアルバム「UNITED COVER 2」とシングル「care」を発売している。 2019年に、歌手活動50周年記念ツアーを敢行して以降は、表立った音楽活動を行っておらず、代表を務めてきた個人事務所の「キャンプ」と「ファイヤー音楽出版」の代表取締役は2021年末に辞任し、長男に譲っている。
900
井上陽水
2019年に、歌手活動50周年記念ツアーを敢行して以降は、表立った音楽活動を行っておらず、代表を務めてきた個人事務所の「キャンプ」と「ファイヤー音楽出版」の代表取締役は2021年末に辞任し、長男に譲っている。 文壇との交際が広い。文壇を含む文化人との交流は麻雀がきっかけ。1976年に『青空ふたり旅』として出版された五木寛之との対談をきっかけに、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち、阿佐田哲也に会い、この後、長谷川和彦と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之、黒鉄ヒロシ、畑正憲らと知り合った。 世代的に上の人との付き合いが多い理由について、「吉田拓郎なんかは、自分がリーダーシップを取って周りの人間を引っ張っていくタイプでしょう。僕はそういうの不得意なんです。高校時代、タテ関係が希薄で女性も多い弓道部にいたせいかもしれないけど、下の世代に対する訓練ができていないんですよ」と、40代のころは話していた。同年代およびそれ以下との交流として、沢木耕太郎は歌詞集『ラインダンス』に、村上龍は『綺麗ごと』に寄稿し、町田康は「新しい恋」を作詞している。活動分野は違ってくるが、三谷幸喜は『You Are The Top〜今宵の君』の劇中歌である「You are the top」を作詞している。 また、同郷のタモリとはタモリのオールナイトニッポンにゲスト出演した事をきっかけに親しくなり、「テレフォンショッキング」には計11回、また「ミュージックステーション」、「タモリ倶楽部」、「ヨルタモリ」などにも、前述の通り殆どテレビに出演しないものの「タモリさんの番組なら」としてゲスト出演がある。さらに「ブラタモリ」のテーマ曲に「MAP」「女神」「瞬き」と書き下ろし曲を提供している。 水谷豊にも多くの楽曲を提供したが、初対面のレコーディングの際はほとんど会話が無かったという。それにもかかわらず「今日家に来ない?」と持ちかけ、水谷はその不思議な雰囲気に戸惑いながらも応諾する。翌日、水谷は勧められるまま、鰻丼を食べたり近所の公園でキャッチボールをしたという。
900
井上陽水
水谷豊にも多くの楽曲を提供したが、初対面のレコーディングの際はほとんど会話が無かったという。それにもかかわらず「今日家に来ない?」と持ちかけ、水谷はその不思議な雰囲気に戸惑いながらも応諾する。翌日、水谷は勧められるまま、鰻丼を食べたり近所の公園でキャッチボールをしたという。 1969年9月1日に『カンドレ・マンドレ』でデビューして以降、2010年頃までは継続的に作品を発表した。2010年以降は発表の間隔が長くなるが、2019年にデビュー50周年を記念したライブを収録した映像作品『井上陽水50周年記念ライブツアー『光陰矢の如し』〜少年老い易く 学成り難し〜』を2020年9月1日に発表した。 自らの作品のほか、多くの楽曲をほかの歌手に提供している。経歴で挙げた例のほかには、沢田研二のアルバム『Mis cast.』の全曲を作詞作曲した例がある。また一青窈は自ら陽水のファンと称しており、アルバム『一青想』のうち2曲は陽水の作曲による。 また、曲をカバーした歌手には、「夢の中へ」の斉藤由貴、TRICERATOPS、「心もよう」の中森明菜、南沙織、「氷の世界」の筋肉少女帯、工藤静香、「傘がない」の中森明菜、斉藤和義、「東へ西へ」の本木雅弘、中村あゆみ、「神無月にかこまれて」の香坂みゆき、「Make-up Shadow」の上原多香子、「いつのまにか少女は」の持田香織、「ジェラシー」の髙橋真梨子、「結詞」の高橋真梨子、中村あゆみ、「夏の終りのハーモニー」の中村あゆみ、MOOMIN、「最後のニュース」の奥田民生、「カナリア」に英語の歌詞を付けて歌ったジェーン・バーキン、「桜三月散歩道」をカヴァーしたキンモクセイなどがいる。 本職の歌手でないところでは、お笑い芸人の友近が「Tokyo」を、THE IDOLM@STER RADIOにおいて今井麻美・たかはし智秋が「少年時代」をカバー、また2019年発売の「井上陽水トリビュート」によっても多数の歌手がカバーした。 いくつかの曲でPVが制作されている。 以下が1991年「NO SELECTION 井上陽水全集」の特典VHSに収録された。その他にも、 などが制作されている。また、「傘がない」は2008年の『弾き語りパッション』発売時、新規に制作され、俳優のオダギリジョーが主演を務めた。陽水本人も一瞬だけ出演した。
900
井上陽水
いくつかの曲でPVが制作されている。 以下が1991年「NO SELECTION 井上陽水全集」の特典VHSに収録された。その他にも、 などが制作されている。また、「傘がない」は2008年の『弾き語りパッション』発売時、新規に制作され、俳優のオダギリジョーが主演を務めた。陽水本人も一瞬だけ出演した。 1969年のデビューから殆どテレビ•ラジオに出演する事は多くなく、親交が深いタモリや筑紫哲也などの冠番組、一部の音楽番組の出演等が大半を占める。
900
旭川市
旭川市(あさひかわし)は、北海道北中部(道北地方)に位置し、上川総合振興局に属する市。上川盆地に広がっている。振興局所在地であり、札幌市に次ぐ北海道第2位の人口(約32万人)を有する中核市である。 北海道中央部に位置し、道北の経済・産業・文化の中心都市。ユネスコの「デザイン都市」、そして「国際会議観光都市」に認定されている。交通面では国道や鉄道路線の終起点となり高速道路が整備されているなど道内物流の拠点となっており、旭川空港からは東京・名古屋・大阪などへ直行便が就航している。全国的に知名度の高い旭川市旭山動物園が存在し、年間500万人以上の観光入込客数があることから、札幌市・小樽市・函館市と並ぶ北海道の観光都市として知名度が高い都市である。北海道パウダーベルトに位置し、冬季はカムイスキーリンクスを中心としたスキーリゾート観光もメインとなっている。また、旭川にゆかりのある文学者や芸術家も多く、市内各所に野外彫刻作品が置かれているほか(旭川の野外彫刻)、旭川家具をはじめとした木工業が盛んである。 一般に、旭川の名が初めて登場したのは明治23年9月20日の開村告知の時とされているが、実際にはその7か月ほど前の明治23年2月9日付『北海道毎日新聞』に掲載された以下の記事がある。 この記事は、当時の北海道庁長官(兼屯田兵本部長)永山武四郎の直属の部下である岡部方幾(屯田兵司令部付曹長)が会見したもので、前年末に上川への離宮設置が山縣有朋内閣によって閣議決定されて以降、まだ村名すら決まっていない地の離宮の名称について語っている。現在確認できる資料としては開村前に「旭川」の名が登場する唯一のものである。 命名者の意図として『旧称(アイヌ地名)の意義を存し(有し)且つ大日本帝国等の意味に縁あり』と明確にしており、「旭川」の名は、アイヌ語に由来する「日」=「旭」の意と、大日本帝国の象徴としての「旭」の意を併せ持つ名として命名された事が読み取れる。 ただ、旭川開村を伝える同年9月23日付北海新聞記事などは、名の由来についてアイヌ語意訳部分しか伝えていない。
901
旭川市
なお、記事中の「忠別」とは従前からのこの地域の呼称で、岡部方幾が語ったアイヌ語源「チユプペト」の意訳は、翌年発刊の永田方正『北海道蝦夷語地名解』のチュプペツ項に記述された意訳とほとんど同じ意である。永田は函館県令・北海道庁の命を受けて全道のアイヌ語地名を調査した当時の権威学者であるが、空知・上川・樺戸3郡の調査は同年3月であるはずの永田の意訳が2月のこの時点で既に成されていたという事は、この意訳が調査以前に創作されていた疑いがある。 「旭川」の名の由来については、かなり以前からこの新聞記事の存在は市史編集会議や郷土史家など各方面で知られていたが、旭川市をはじめとしてその見解は長年アイヌ語意訳のみに固定化しており、地名とは直接関係のない忠別川語源説が諸説として混同されるなど種々誤解が多い。 旭川市は北海道内最大の盆地となる上川盆地にあり、石狩川、牛朱別川、忠別川、美瑛川などの河川合流部に位置している。市西部に幌内山地、天塩山地、嵐山丘陵が南北に連なっており、石狩川は幌内山地を侵食して神居古潭渓谷を形成している。大雪山系ではエゾナキウサギ、キタキツネ、エゾリスなどの動物が観られる。「神居古潭渓谷の変成岩」として「日本の地質百選」に選定されている。市北部に比布丘陵、市東部に米飯山地が分布している。突哨山(とっしょうざん)には日本最大級のカタクリ群落がある。 札幌市に次ぐ北海道内第2の人口規模を持つ都市であり、東北地方を含めても長らく札幌市、仙台市に次ぐ第3の人口を持つ都市であったが、2010年代に入ってから人口減少が加速化し、2016年にいわき市に抜かれている。昭和中期に周辺6町村を吸収合併したこと、および都市部への人口集中により1985年(昭和60年)頃まで人口増加傾向が続いてきたが、横ばいとなった後、2003年(平成15年)から減少傾向となっている。近年は、都市圏人口はそこまで減っていないにもかかわらず、東神楽町や東川町といった隣接する町がベッドタウンとして人口増加をみせているため(ドーナツ化現象)、市域人口の減少はペースを上げている。 2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている。
901
旭川市
2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている。 ケッペンの気候区分によると、旭川市は湿潤大陸性気候(または亜寒帯湿潤気候)に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。 1902年1月25日に日本の気象官署での観測史上最低気温となる-41.0°Cを記録、2021年8月7日には37.9°Cの観測史上最高気温を記録。旭川市郊外の江丹別では同年7月31日に最高気温38.4°Cを記録し、7月における道内の観測史上最高気温となっている。 春は移動性高気圧に覆われる日が多く、穏やかな天気の日が続くが、寒さが残る。夏になるとオホーツク海高気圧の影響により、肌寒い日もあるが、梅雨前線の北上と太平洋高気圧の勢力が強まることにより、気温も上昇する。時折、雷を伴った強い雨が降ることもある。秋は低気圧や秋雨前線が北海道付近を通るため、天気は周期的に変わる。昼と夜の気温の差が大きくなり、明け方頃に晴れていると放射冷却現象により、大きく気温が下がって霜が降りたり、水たまりに氷が張ることもある。冬はシベリア高気圧の勢力が強まり、オホーツク海に低気圧が進んで等圧線が南北に走る西高東低の冬型の気圧配置となり、気温は氷点下で雪の日が続く。 降雪量は市内各地区によって違いがあり、忠和地区や春光台地区では旭川気象台観測より約30%増の降雪量を観測する。降雪量の平年値は北海道内で倶知安町、岩見沢市に次ぐ数値を記録しているが、ドカ雪が比較的少ないため、最深積雪はあまり大きくならない。1年間に雪の降る日数は143.8日で、日本国内の都市で最も多い。 冬季の旭川市中心部はヒートアイランド現象により、最低気温の上昇が著しく、-25°Cを下回る気温が観測されることも少なくなった。一方、江丹別では近年でも-30°Cを下回る気温を観測することが珍しくなく、2020年2月6日に-31.6°C、2020年2月8日に-30.3°C、2020年2月9日に-36.0°C、2020年12月31日に-31.5°C、2021年1月24日に-31.8°C、2021年2月8日に-31.5°C、2023年1月30日に-31.3°C、2023年2月15日に-31.2°Cを観測している。 「旭川市の概要 あゆみ」参照 「日本歴代市長」参照
901
旭川市
「旭川市の概要 あゆみ」参照 「日本歴代市長」参照 市民憲章 都市宣言 内閣府 総務省 法務省 財務省 厚生労働省 農林水産省 国土交通省 防衛省 独立行政法人 地方独立行政法人 特殊法人等 集配郵便局 体育館 公園施設 旭川市は大日本帝国陸軍第七師団が移駐した影響により経済や産業基盤が成立していき、 農業をはじめ食料品、紙・パルプなどの製造業を基幹産業とし、地理的条件により北北海道(道北、オホーツク、北空知)の商業、物流の拠点になっている。 また、医療、教育、文化などの都市機能が集積している。 産業別の就業者では、第三次産業に従事している割合が全体の約80 %と最も高く、製造品出荷額等では食料品製造業の割合が最も高くなっている。 旭川市は多くの河川が市内を流れて大雪山系の雪解け水や伏流水の恩恵を受けているため、様々な産業で水資源を有効活用している。 水稲作付面積と収穫量ランキングは北海道内でともに岩見沢市に次ぐ2位となっており、ソバの作付面積は北海道内で幌加内町、深川市に次ぐ3位となっている。 また、豊富な水資源と良質な米によって酒造りが行われているほか、 旭川地域では家具や木材、木製品(木器)に関係する企業が集積している。 市の指定金融機関は、1998年11月より旭川信用金庫が指定されている。それ以前は北海道拓殖銀行が指定されていた。 銀行 協同組織金融機関 証券会社 50音順 業界紙・フリーペーパー・映像制作会社など 現存する旅客列車は全てJR北海道の路線である。毎時1本もしくは2本の頻度で、特急列車が札幌 - 旭川間を1時間半で結んでいる。 北海道運輸局による「一般乗用旅客自動車運送事業(タクシー)の自動認可運賃等」では「北海道B地区」に区分。営業区域は旭川交通圏。 市内を通る幹線道路は、シーニックバイウェイの「大雪・富良野ルート」、大雪 - 富良野 - 十勝を結ぶ「北海道ガーデン街道」になっている。 都道府県道
901
旭川市
北海道運輸局による「一般乗用旅客自動車運送事業(タクシー)の自動認可運賃等」では「北海道B地区」に区分。営業区域は旭川交通圏。 市内を通る幹線道路は、シーニックバイウェイの「大雪・富良野ルート」、大雪 - 富良野 - 十勝を結ぶ「北海道ガーデン街道」になっている。 都道府県道 北海道を代表する観光地「旭川市旭山動物園」を始め、北海道ガーデン街道の「上野ファーム」・北北海道エリア屈指の規模を誇る「カムイスキーリンクス」・大雪山連峰を一望できる展望地「就実の丘」等が存在する。また、全国的に有名な「旭川ラーメン」・「ジンギスカン」に加え「塩ホルモン」・「新子焼き」といった肉類の名物料理、さらに流通の拠点として北海道各地から新鮮な海産物が集まることから、ガイドブックではグルメが充実した都市と紹介されることも多く、近年では北海道有数の観光都市となっている。特に歓楽街である「3・6街」には、約800店の飲食店がひしめき合い、札幌市のすすきのに次ぐ規模の歓楽街として知られている。 上記に加え、近隣の美瑛町 (青い池・丘陵風景)・富良野市 (ラベンダー園)・東川町(大雪山国立公園)・上川町(層雲峡温泉・大雪高原温泉など)へのアクセスの拠点となっているため、旭川市内での宿泊者も多い。 「旭川市内の指定・登録文化財」参照 「旭川市勢要覧 ランキングで見る旭川」参照 1990年(平成2年)から3年おきに『国際家具デザインフェア旭川』(IFDA ASAHIKAWA)を開催し、2000年(平成12年)から『旭川彫刻フェスタ』も開催している。特に9月に開催される「北の恵み 食べマルシェ」は、北海道最大級のグルメイベントとして、多くの市民・観光客が来訪する一大イベントとなっている。
901
旭川市
「旭川市内の指定・登録文化財」参照 「旭川市勢要覧 ランキングで見る旭川」参照 1990年(平成2年)から3年おきに『国際家具デザインフェア旭川』(IFDA ASAHIKAWA)を開催し、2000年(平成12年)から『旭川彫刻フェスタ』も開催している。特に9月に開催される「北の恵み 食べマルシェ」は、北海道最大級のグルメイベントとして、多くの市民・観光客が来訪する一大イベントとなっている。 日本国内有数の米どころであり、郊外には大雪の山々を背景とした田園風景が広がっている。大雪山連峰に源を発している伏流水が田を潤し、盆地ならではの寒暖の差が米のおいしさを増している。さらに、冷涼な気候は病害虫の発生が少ないので農薬の散布量も比較的少なくて済む利点がある。1891年(明治24年)に屯田兵が入植した年から酒造りが始まっており、1996年(平成8年)には大雪地ビールが誕生した。江丹別地域を中心にソバの栽培が盛んで、江丹別そばが有名である。旭川ラーメンは北海道遺産「北海道のラーメン」の1つであり、加水率の低い麺を使用している。粉をこねるときに加える水が少ないことでスープをよく吸って小麦の香りを感じる歯触りの良い麺となる。米と同様に良い水に恵まれていることが麺の要因となっている。また、かつて養豚業が盛んであったことから塩ホルモン、豚トロは旭川が発祥の地とされている。 ご当地グルメとしては主に旭川や空知地方の一部で提供しているもつそば、おにぎりとホットドッグを足して2で割ったかのようなジュンドッグ、若鶏の半身を炭火などで素焼きした新子焼き、イカの足を片栗粉でまぶして揚げたゲソ丼がある。 旭川家具は100年以上ある歴史の中で機能性やデザイン性に優れた家具づくりをしており、日本国外の見本市にも出展している。 名誉市民 旭川市功労者 旭川市貢献賞 旭川市民栄誉賞 旭川市文化賞 旭川市新人奨励賞 栄誉をたたえて 旭川市特別表彰 旭川観光大使 ※太字は旭川観光大使 政治 行政 経済 軍事 学術 教育 文化 芸能 ポピュラー音楽 マスコミ 格闘技 陸上競技 球技 ウインタースポーツ その他 2010年(平成22年)の旭川市開村120年に合わせて誕生した。旭橋のベルトや旭川ラーメンのフリンジなど旭川の特徴を取り入れ、“旭川”の“ハッピー”を願うキャラクターとなっている。
901
旭川市
旭川市新人奨励賞 栄誉をたたえて 旭川市特別表彰 旭川観光大使 ※太字は旭川観光大使 政治 行政 経済 軍事 学術 教育 文化 芸能 ポピュラー音楽 マスコミ 格闘技 陸上競技 球技 ウインタースポーツ その他 2010年(平成22年)の旭川市開村120年に合わせて誕生した。旭橋のベルトや旭川ラーメンのフリンジなど旭川の特徴を取り入れ、“旭川”の“ハッピー”を願うキャラクターとなっている。 ロケーション撮影に関する窓口として「旭川地域フィルムコミッション」(旭川FC)を設立している。
901
1980年代
1980年代(せんきゅうひゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1980年から1989年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1980年代について記載する。
902
高口里純
高口 里純(たかぐち さとすみ、1957年9月30日 - )は、日本の女性漫画家、同人作家。血液型A型。 栃木県鹿沼市出身、在住。宇都宮女子商業高校(現・宇都宮文星女子高等学校)卒業。1977年、第2回白泉社アテナ新人大賞第2席を受賞。1979年、『花とゆめ』(白泉社)に掲載の「赤いシャッポ」でデビュー。 2006年から文星芸術大学講師、2007年から同大学准教授、2009年から同大学マンガ専攻客員教授を勤め、2013年に辞職した。 一時期使用した二次創作同人誌のペンネームは「かちとみさする」。 代表作に『花のあすか組!』『ロンタイBABY』『少年濡れやすく恋成りがたし』など。 1980年代末から1990年代末にかけて『花のあすか組!』『ロンタイBABY』のヒットを中心として一世を風靡した。角川書店より1988年から1992年にかけて「高口里純傑作集」がまとめられ、1997年には「コミック版 高口里純文庫」レーベルが作られた。 古本での転売に反対している。高口里純が作品を発表し続けるためには、読者による新刊の購入が不可欠と述べる(公式サイトTwitter 2019年7月8日、同人誌、他)。 1988年以前に発表されたほとんどの作品は、角川書店あすかコミックス「高口里純傑作集」(全22冊)として1988年から1992年にかけて再編集、再出版された。 #同人誌発表作品 #同人誌未単行本化作品 2000年から2006年にかけて同人誌で作品発表が行われた。「悪態 AQUA ROSE」シリーズ全16巻、「小説 悪態 AQUA ROSE」シリーズ全4巻、総集編「別冊 悪態 AQUA ROSE」シリーズ全6冊。素描集「SHARE」。 「著作権保護のため転売を禁止すること。不要になった場合捨てて処分するか人にただであげるように」と記載されている。 掲載されたのは以下のものである。 以下に、単行本未収録の作品を述べる。 かちとみさする名義。小林智美、ほたか乱、雁須磨子、かわかみじゅんこ、山田ユギ、浅田寅ヲ、菅野彰、などと共同執筆。 他。
903
高瀬由香
高瀬 由香(たかせ ゆか、1960年9月26日 - )は、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。 1979年、小学館の少女漫画誌『別冊少女コミック』8月号にて「ふたりぼっちのサイレントナイト」でデビュー。以降、同誌や『ちゃお』、女性向け漫画誌『プチコミック』、『Judy』(いずれも小学館より刊行)などで活動。2005年頃より秋田書店の女性向け雑誌などでも執筆活動を展開。2009年12月現在、同社のレディースコミック誌『Eleganceイブ』などで作品を発表している。 (出版社の記載がない作品の単行本は小学館発行)
906
高田裕三
高田 裕三(たかだ ゆうぞう、1963年3月21日 - )は、日本の漫画家。東京都江戸川区出身。明治大学付属明治高等学校卒業、明治大学文学部日本文学専攻中退。本名:高田裕次。代表作は、『3×3 EYES』や『万能文化猫娘』、『碧奇魂ブルーシード』など。 『3×3 EYES』で1993年度 第17回 講談社漫画賞受賞。 漫画家を志した高校時代は少女漫画を描いていたが、当時はまだ少女漫画は絵柄等の自由度が低く、そのことから作者の描く絵は少女漫画には向いていないと持ち込みの段階で編集部から拒絶され少年漫画などへと転向した。大学では明治大学漫画研究会に所属、4年留年し中退。当時は片山まさゆき、細野不二彦、五十嵐浩一のアシスタントをしていた。 本人の弁によると病弱であり、インスリン欠乏症(1型糖尿病)の持病を抱えているという。
907
高橋幸二
高橋幸二(たかはし こうじ)
908
高橋千鶴
高橋 千鶴(たかはし ちづる、3月18日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。大阪府出身。 1975年、講談社の少女漫画誌『なかよし』にて「ルーディの誕生日」でデビュー。以降『なかよし』を中心に少女誌にて執筆活動をしていた。また、1985年頃よりレディース誌にも執筆の場を広げ、同社の『mimi』、秋田書店の『COLLET』、株式会社スコラの女性向け雑誌などでも作品を発表していた。 少女誌に連載していた作品では、中高生の女の子を主人公として、クラブ活動や恋愛、家族をテーマとし、逆境を跳ね返していく姿などを描いた作品が多い。 1980年に『なかよし』で連載した『コクリコ坂から』(原作・佐山哲郎)は、2011年にスタジオジブリによってアニメ映画化された。 (特に出版社の記載がなければ講談社発行)
909
髙橋ツトム
髙橋 ツトム(たかはし ツトム、男性、1965年9月20日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。既婚。 1989年、『モーニング』(講談社)に掲載された『地雷震』の読み切りでデビュー。『月刊アフタヌーン』(同)、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)などで活動。代表作に『地雷震』『スカイハイ』『爆音列島』『SIDOOH/士道』など。 学生時代はパンクバンドを組んで音楽、並行して暴走族「ZERO」、それぞれで活動し、高校を1学年で中退する。一時は就職するも、交際する女性に振られてバンド活動を再開するとメンバーと意向が一致せず、「ひとりでできるものは何か」と考え、小学生の時に『ドカベン』の岩鬼正美を模写して他人から褒められたことを思い出して漫画を描き始める。漫画は8年ほど読んでいなかった。 講談社『モーニング』に掲載されていたかわぐちかいじ『アクター』に感銘をうけ、初めて描いた作品『GOTAVOICE』(アフタヌーン四季賞CHRONICLE掲載)を講談社に持ち込む。自信がある作品だが編集者から酷評を受けて「捨ててください」と原稿を置き去るも、1987年にアフタヌーン四季賞で準入選し、担当編集者の口添えでかわぐちのアシスタントとなる。1989年に読み切り『地雷震』が『モーニング』に掲載されて漫画家として活動を始める。『地雷震』は1992年から『月刊アフタヌーン』で8年間連載する。 2000年に連載を始めた『鉄腕ガール』を経て、2001年から『週刊ヤングジャンプ』で『スカイハイ』シリーズの連載を始めると、北村龍平監督、釈由美子主演でテレビドラマと映画が製作された。ほかに中編『ALIVE』、短編『69』は『LOVEDEATH』として、北村龍平が実写映画を製作した。原作を基にした映画は好まないが、北村と意気投合して映像化を承諾した。2004年に高橋自身がオリジナル映画『苺の破片』を中原俊と共同で監督した。 ギャグ漫画家のおおひなたごうと親交があり、バンドを組んで活動するほか、1998年に高橋が原作を書きおおひなたが作画した、読み切り『天使のわけまえ』を『COMIC CUE』(イーストプレス)に掲載した。
910
高橋陽子
高橋 陽子(たかはし ようこ)
912
高橋よしひろ
高橋 よしひろ(たかはし よしひろ、1953年9月18日 - )は、日本の漫画家。秋田県雄勝郡東成瀬村出身。血液型はB型。初期のペンネームに高橋義弘、高宮じゅん、結城剛など。犬漫画の第一人者。 秋田県雄勝郡東成瀬村の自然に囲まれた田舎で生まれ育つ。川崎のぼるや石川球太の影響を受け、小学6年生の頃より漫画を描き始める。中学卒業後、愛知県の自動車工場に就職。その後、職を転々としながら漫画家を目指す。名古屋市の理容店で働いている時に店主に勧められ、漫画家として1971年に上京、本宮ひろ志のアシスタントとなる。この年、『週刊少年ジャンプ』第3回手塚賞に『下町弁慶』を応募するが落選。しかし、編集者の目にとまり、1972年『週刊少年ジャンプ』に同作が掲載されて漫画家デビュー。 1973年、再び手塚賞に応募し、佳作を受賞(第5回『おれのアルプス』、高橋義広名義)。同年、本宮の紹介で『別冊少年ジャンプ』(後の『月刊少年ジャンプ』)に『あばれ次郎』を連載開始(高宮じゅん名義、高橋の「高」と師匠・本宮の「宮」、妻の名前「じゅん」を合わせたペンネーム)。1976年より『週刊少年ジャンプ』に『悪たれ巨人』、『月刊少年ジャンプ』に『白い戦士ヤマト』を同時連載する。 1983年、『週刊少年ジャンプ』に代表作となる『銀牙 -流れ星 銀-』を連載開始。1987年、同作品で第32回(昭和61年度)小学館漫画賞受賞。『銀牙』はフィンランドなど北欧でも人気が高く、フィンランドにたびたび招待されサイン会を行っている。 2012年にデビュー40周年を記念した原画展が横手市増田まんが美術館で開催された。 2021年、前年に亡くなった漫画家矢口高雄の後継として、横手市増田まんが美術館の2代目名誉館長に就任した。 2019年5月3日「高橋よしひろ×宮下あきら 子弟の絆トーク&サイン会イベント」(横手市増田まんが美術館リニューアル記念イベント)
913
高見まこ
高見 まこ(たかみ まこ、女性、12月6日生)は、日本の漫画家。長岡造形大学非常勤講師。 本名は渡部宣子。夫は漫画家のわたべ淳で、堀田あきお、石坂啓らとともに手塚治虫のアシスタントの同期の仲間であった。 東京都生まれ、千葉県育ち。血液型A型。千葉県立佐倉高等学校、武蔵野美術大学卒業。 手塚治虫に憧れ漫画家を志し、手塚プロダクションに就職した。なお、当該項目に「高見の同期に寺沢武一、三浦みつるなどがいた」との記述がかつてあったが、堀田あきお『手塚治虫アシスタントの食卓』(ぶんか社)の内容によると、寺沢・三浦は同期ではない(堀田、石坂らは1978年入社、寺沢は1976年入社)。 1980年に『みどりのラブ・ステップ』(「LaLa増刊号」)でデビュー、同時に手塚プロダクションを退職した。1984年には初の連載『いとしのエリー』(「週刊ヤングジャンプ」)がヒットした。 「年下男性と年上女性の恋愛」の描写は絶妙で、代表作の『いとしのエリー』や『ふたりの気持ち』、『愛 虹の始まる谷から』などでも同様の描写がある。
914
たがみよしひさ
たがみ よしひさ(本名:田上 喜久、1958年12月9日 - )は、日本の漫画家。代表作に『軽井沢シンドローム』など。同じく漫画家の小山田いくは実兄。 長野県小諸市出身。 1979年、『ビッグコミック』1月10日号(小学館)に掲載された「ざしきわらし」(昭和53年度上期小学館新人コミック大賞の佳作)でデビュー。 作風における最大の特徴は、8頭身のシリアスな絵柄と2 - 3頭身のギャグ調を混在させる作風にある(8頭身のシリアスのみ、2 - 3頭身でギャグのみの作品も存在)。前者は目鼻立ちが強調された欧米人風の絵柄が特徴。また、当て字を多用する独特の台詞回しと、ふきだし以外の部分や枠線外の書き込みが多い。台詞以外の字体は丸文字を使用するが、読解が難しい箇所も見受けられる。 作品の主題としては、青春群像劇、シリアスなSF、ミステリーおよびサスペンス、オカルト、伝奇、ミリタリーなど、様々なジャンルを幅広く手がける。作品の枠を超えてキャラクターのクロスオーバーがしばしばあり、なかでも『NERVOUS BREAKDOWN』においては、現代を舞台とする主要作品の登場人物のほとんどが登場している。また、出身地である長野県が舞台になる作品が多く(『我が名は狼』『軽井沢シンドローム』など)、個別エピソードでもよく舞台になる。また、作中の人物が通う架空の学校に「白鳳高校」「白鳳大学」がある。 同じく漫画家の小山田いくは実兄。小山田の初期作品では「おこちゃん」のペンネームで車や列車など背景を描いていた。 一時期「雪女を出すと連載が終わる」というジンクスを抱えていた事があり、自身も『NERVOUS BREAKDOWN』の単行本で言及している。ただしその『NERVOUS BREAKDOWN』自体は雪女を出した後も長期に渡って連載している。 近年は病気のため、自宅療養中。
915
田口雅之
田口 雅之(たぐち まさゆき、1966年 - )は、日本の漫画家。愛知県出身。 1990年、『象的人間』でアフタヌーン四季賞(1990年秋の四季賞)に入賞。1991年、講談社の『月刊アフタヌーン』にて「知的ボクサー」で連載デビューするが4話で終了する。1994年、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』で「イノセント・インカル」の連載を開始するが13話で終了する。その後約2年間新谷かおるのアシスタントを経験しそれ以降の作品から銃や車のアクション描写が増える。1997年、『週刊少年チャンピオン』で「バロン・ゴング・バトル」を連載開始。この作品は作者にとって初の単行本化作品であり初の長期連載作品となった。
917
竹内桜
竹内 桜(たけうち さくら)は、日本の漫画家。 1987年、読み切り作品『a.Long.Break』でデビュー。同年の読み切り作品『ぼくのマリー』は1994年に『週刊ヤングジャンプ』誌上で連載化され人気を博し、1996年にはOVA化もされた。 その後、『特命高校生』の連載や数度の読み切り掲載を経て、2002年から2007年にかけて『ヤングアニマル』で連載されていた『ちょこッとSister』(作画担当、原作は雑破業)は同誌の看板作品の一つとなり2006年にはテレビアニメ化された。
918
田島昭宇
田島 昭宇(たじま しょうう、Sho-U Tajima)は、日本の漫画家、イラストレーター。埼玉県出身。男性。 代表作に、『魍魎戦記MADARA』(魍魎戦記MADARAシリーズ)、『多重人格探偵サイコ』、『BROTHERS』など。キャラクターデザインに『キル・ビル』『お伽草子』『怪童丸』などを手がける。 名前の由来は「昭和は宇宙の時代だ」という父親の考えによるもの。幼少期は「しょぼん」と呼ばれていた。 本郷高校デザイン科卒業後、デザイン専門学校に入学するも中退。漫画家を目指し出版社などに持込をしていると、当時徳間書店にいた大塚英志と出会い、1985年に『アワ・タイム』(プチ・アップルパイ)でデビュー。その後、藤原カムイ、白倉由美、高橋葉介のアシスタントを務める。 そして、原作・大塚英志と組んで「魍魎戦記MADARA」の作画担当となる。当初は小学生から「僕の方が上手い」などと的確なファンレターが届いたが、それが後に彼の画力を劇的に向上させるきっかけとなった。 また、FC版「魍魎戦記MADARA」の雑誌広告においてはマダラのコスプレをする事になる。 「BROTHERS」においては自分でストーリーテリングも担当した。 細い線でリアルに描かれた人物や明暗のコントラストのはっきりした絵と、映画的な画面構成が作品の特徴。また、登場人物の服装や髪型のデザインセンスも評価が高く、ゲームのキャラクターデザインなども行っている。登場人物の服装はケルトアンドコブラなど、実在するブランドが多い。 浅田弘幸、小畑健の3人で「水瓶3」を結成(由来:3人が水瓶座である事から)。ロックミュージックファンで知られているが、洋楽はあまり聴かない。邦楽ではブランキージェットシティがお気に入りで、メンバーの照井利幸とは交友がある。 2016年7月8日より8月3日にかけて「多重人格探偵サイコ」の連載完結と田島の画業30周年を記念して「多重人格探偵サイコ完結記念&画業30周年記念 田島昭宇原画展『HUMAN 1/2 BABY DAYS』(読みはヒューマン ハーフ ベイビー デイズ)」(発表当初の企画名は「多重人格探偵サイコ完結記念&画業30周年記念 田島昭宇原画展『HUMAN GUS DAYS』」だったが後に現企画名へ変更された。)が東京・space caimanにて開催された。
919
田島昭宇
2017年12月から2018年8月にかけて「魍魎戦記MADARA」の連載30周年を記念して、KADOKAWAより限定愛蔵版『MADARA ARCHIVES』が全5巻で発売された。(5巻は当初2018年5月2日発売予定だったが後に諸般の事情により発売日が8月4日へと変更された。) また、これに併せる形で「魍魎戦記MADARA」連載30周年と「MADARA ARCHIVES」発売開始を記念して「MADARA30周年記念 田島昭宇原画展『GOD TIME FANTASTIC WORLD』」が、11月11日から12月10日まで東京・space caimanにて開催された。 2021年4月にはデビュー35周年を記念して、1990年代から2000年代にかけて描かれた単行本未収録の短編が収録された『田島昭宇画業35周年作品集「Baby Baby」』を発売。その刊行を記念して、同年7月27日から8月8日まで「田島昭宇画業35周年記念展 <Side: A>『Baby Baby』」、同年11月30日から12月12日まで「田島昭宇画業35周年記念展 <Side: B>『冬暮れの金星』」と題した原画展が東京・ヴァニラ画廊にて開催された。 下記のほとんどの作品が単行本未収録であったが2021年に発売された田島昭宇画業35周年作品集『Baby Baby』にて単行本初収録された。
919
田島みるく
田島 みるく(たじま みるく、1958年12月30日 - )は、日本の漫画家、小説家。熊本県熊本市武蔵ヶ丘出身、埼玉県所沢市在住。熊本県立第一高等学校卒、明治大学農学部農芸化学科卒。女性で既婚(1男2女の母)。 3歳から9歳の頃までは人吉市で過ごした。1986年、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)掲載の4コマ漫画でデビュー。『本当にあった愉快な話』(竹書房)などで読者投稿漫画やエッセイ漫画、育児コミックなどを描いているほか、講演やテレビ番組出演もこなしている。代表作に、自身の育児体験をもとに描いた『あたし天使あなた悪魔』など。2010年からは、小説家としても活動を始めている。
920
立原あゆみ
立原 あゆみ(たちはら あゆみ、1946年11月27日 - )は、日本の漫画家。千葉県出身。男性。日本大学芸術学部美術学科卒業。 ペンネームの由来は、立原道造と、彼の作品における「あゆ」より。 1970年、『ダブダブ』(集英社「週刊マーガレット」)でデビューし、講談社、小学館、白泉社、秋田書店、サンリオなどでリリカルな少女漫画を中心に執筆。1970年代後半より、大人の女性向け漫画を執筆し、YOU(集英社)・BE・LOVEなど女性向け漫画誌でも多くの作品を発表した。 1983年に週刊少年チャンピオンで少年誌での執筆を始めてからは、少年誌・青年誌での仕事が多くなった。『本気!』が開始された1986年以降は任侠(ヤクザ)ものの漫画を中心に描いている。任侠漫画がヒットした後も、「きらら16(セーズ)」(秋田書店)創刊時などに看板作家として少女漫画を手がけている。 代表作は『麦ちゃんのヰタ・セクスアリス』『本気!』・『弱虫』・『JINGI 仁義』・『あばよ白書』など。 世界観を共通とする作品が多く、特に任侠漫画ではその傾向が強い。 初期にはのなかのばら名義の作品もあり、また、原作者として積木爆のペンネームで執筆することもある。 過去には、講談社のゴルフコンペで出会ったことをきっかけに石ノ森章太郎の弟子となり、絵入りの手紙による指導を受けるなどしていた。 また、立原は、映像的にはあすなひろしのファンであり、「もうひとりの師匠といえる」「いろいろ美的感覚を学びました」とも語っている。
921
たなか亜希夫
たなか 亜希夫(たなか あきお、1956年1月6日 - )は、日本の漫画家。 宮城県石巻市出身。小池一夫の主宰した漫画・劇画製作者を養成する私塾「劇画村塾」出身。代表作は『軍鶏』など。
922
田辺節雄
田辺 節雄(たなべ せつお、本名同じ、1949年1月28日)は、日本の漫画家。大分県東国東郡出身、大分県立安岐高等学校卒。少年向け作品で「たなべせつを」表記が使われることがある。 高校卒業後、京都の電機会社に就職するが、望月三起也から誘いの手紙をもらい退職、その後上京して望月のアシスタントとなり、約2年半続けた。独立後、1971年に『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)にてサッカー劇画『どろんこシュート』でデビュー。少年画報社新人漫画賞佳作受賞。 以後、『戦国自衛隊』(原作・半村良)『地球0年』(原作・矢野徹)、『謀殺のチェス・ゲーム』(原作・山田正紀)、『滅びの笛』(原作・西村寿行)などを執筆。『週刊漫画TIMES』(芳文社)に『悪党貴族』(原作・間都聖史)、『悪玉志願』(原作・渡辺一雄/脚色・磯田健生)、『しぶとい男』(原作・伊東恒久)、「歴史と旅」に『武田信玄』を連載。 また、ゴルフレッスンもの等を10年余り連載し、少年向けのサッカー解説書『少年サッカー』やサッカー解説者として知られている湯浅健二の『サッカーを「観る」技術 スーパープレー5秒間のドラマ』(新潮社)においてイラストを担当するなどスポーツ漫画、イラストの作者としても知られる。 アシスタントからは佐佐木勝彦がデビューした。 月刊少年チャンピオンの「劇画ロードショー」枠に掲載された。後半では「たなべせつを」表記が使われた。
924
ちばあきお
ちば あきお(本名:千葉 亜喜生、1943年〈昭和18年〉1月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月13日)は、日本の漫画家。満洲国の奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)出身。4人兄弟の三男で、長兄は漫画家のちばてつや、次兄は千葉プロダクション社長の千葉研作(元漫画家)、弟は漫画原作者の七三太朗。 少年時代は手先が器用でラジオの修理なども出来たほど。高校は夜間学校で、昼間は玩具製造工場に勤めていたが、身体を壊し退社した。療養中にちばてつやのアシスタントとして漫画界に携わる。 ちばてつやのアシスタントをする中、1967年『なかよし』(講談社)掲載の『サブとチビ』でデビュー。代表作は『キャプテン』、『プレイボール』など。ひたむきで健全な少年たちを明朗に描いた作品で人気を得た。 躁鬱病を患った後に、1984年9月13日、仕事場2階にて首を吊り自殺した。41歳没。絶筆となった『チャンプ』の最終回(第8話)は、チーフアシスタントであった高橋広が、ちばあきおの下絵をもとに作品として仕上げ掲載された。 21世紀に入ってからも『プレイボール』がアニメ化されるなど、根強く評価されている。 2022年3月に長男である千葉一郎(ちばあきおプロダクション代表)による『ちばあきおを憶えていますか 昭和と漫画と千葉家の物語』が出版された。
926
ちば拓
ちば 拓(ちば たく、1959年12月12日 - 2016年2月27日)は、日本の漫画家。群馬県太田市出身。かつて『週刊少年ジャンプ』で活躍していた。 『週刊少年ジャンプ』誌上で1982年5号から2年近く続いた『キックオフ』の終了後、ラグビー漫画『ノーサイド』や『虹のランナー』など他のスポーツ漫画を同誌で連載するが、いずれも短期連載に終わった。後に『コミック・フィギュア王』(1999年12月発刊)にて、『キックオフ2』を発表した。 2016年2月27日、腎盂がんで死去。
928
ちばてつや
ちば てつや(本名:千葉 徹彌、1939年〈昭和14年〉1月11日 - )は、日本の漫画家。代表作に『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)、『ハリスの旋風』、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』など。 東京府(東京都の前身)出身。現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業。 2005年からは文星芸術大学教授を務める。2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から同協会会長。2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長に就任。 『キャプテン』『プレイボール』などが代表作の漫画家、ちばあきおは実弟。 1939年(昭和14年)1月11日、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)明石町の聖路加国際病院で生まれる。同年11月に日本を離れ、朝鮮半島を経て1941年1月、2歳の時に満州国奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた。 1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年家族共々葫芦島へ約200kmを移動、いわゆる葫芦島在留日本人大送還により舞鶴港に引き揚げ、父親の故郷である千葉県海上郡飯岡町(現:旭市)に住んだ後、東京都墨田区に移り住んだ。『ユカを呼ぶ海』を描いた時の浜辺のモチーフは、この飯岡町である。 道ばたに落ちていた豆本で初めて漫画を見る。『アラビアンナイト』を題材にした杉浦茂の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む。しかしちばの家は漫画に対して厳しく、一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた。 小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる。
929
ちばてつや
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる。 高校生だった16歳のちばは、新聞の三行広告で漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募。社長の石橋国松は、ちばにプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したため、ちばは本格的な執筆を始めた。約3か月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くとそのたびに続きを描くように言われていたちばは、これをテストだと思い込んでいたが、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として石橋から手渡された。 この時に執筆した『復讐のせむし男』は1956年(昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビュー。以降、高校に通いながら貸本の執筆を続けた。 高校卒業を前に先輩の漫画家である鳥海やすに付いて訪れた『少女クラブ』(講談社)の編集部で自身の原稿(江戸川乱歩原作の『魔法人形』)を見せて執筆依頼を受け、読み切り『リカちゃん』を執筆。また同時期に訪れた『少女ブック』(集英社)でも執筆依頼を取り付け、読み切り『舞踏会の少女』を執筆する。両作共に1958年(昭和33年)に発表されたが『少女ブック』が先に発売されたため、『舞踏会の少女』が雑誌デビュー作となった。ともに少女誌となったのは、当時執筆陣が固まっていた少年漫画に比べ、少女漫画の方が新人の入る隙があったためであった。 両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より『オデット城のにじ』(『少女ブック』)と『ママのバイオリン』(『少女クラブ』)を同時に連載開始する。しかし『少女ブック』がちばの了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、『オデット城のにじ』は連載途中で降板する。 1961年(昭和36年)には『週刊少年マガジン』(講談社)において野球漫画『ちかいの魔球』(原作:福本和也)の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。1962年(昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで『1・2・3と4・5・ロク』を連載開始し、同年に同作と『魚屋チャンピオン』で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。
929
ちばてつや
1961年(昭和36年)には『週刊少年マガジン』(講談社)において野球漫画『ちかいの魔球』(原作:福本和也)の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。1962年(昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで『1・2・3と4・5・ロク』を連載開始し、同年に同作と『魚屋チャンピオン』で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。 その後も『紫電改のタカ』、『ユキの太陽』などヒット作を手がけ、1965年(昭和40年)に発表された『ハリスの旋風』はテレビアニメ化され、注目を集めた。 1968年(昭和43年)には劇画作家である高森朝雄(梶原一騎)と組み、ボクシングを舞台とした『あしたのジョー』を発表。同作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『週刊少年マガジン』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象にもなった。 その後は、角界を舞台にした『のたり松太郎』や、プロゴルフを舞台にした『あした天気になあれ』などスポーツ漫画のロングランヒット作に加え、幅広い作品を発表。1980年(昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催のちばてつや賞が設立された。 1984年(昭和59年)の創刊時から『GOLFコミック』(秋田書店)の表紙イラストを担当し、2018年の休刊まで続いた。 『少年よラケットを抱け』の執筆中、心臓疾患と網膜剥離を患って手術を受けることになり、ちばの身を案じた妻がちばの入院中にスタッフを解散させた。このため、1994年(平成6年)に連載を終了した『少年よラケットを抱け』以降は短編作品の執筆を中心とし、大人数を雇うプロダクション形式での長期連載は行っていない。 1998年(平成10年)にはやなせたかしの後任として、社団法人日本漫画家協会の常任理事に就任。また、2002年(平成14年)に横浜市で開催された『第5回アジアMANGAサミット』実行委員長に就任し、漫画文化の担い手として活躍する一方、2005年(平成17年)からは文星芸術大学でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいる。 2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月から同協会会長となる。2019年4月1日より文星芸術大学学長に就任。 2021年10月29日、体調を崩し東京都内の病院へ入院した。持病の心臓疾患などの治療を受け、年内に退院予定。
929
ちばてつや
2012年、日本漫画家協会理事長に就任し、2018年6月から同協会会長となる。2019年4月1日より文星芸術大学学長に就任。 2021年10月29日、体調を崩し東京都内の病院へ入院した。持病の心臓疾患などの治療を受け、年内に退院予定。 2022年1月4日、自身のブログを更新し仮退院したことを報告した。 2022年2月22日、2022年3月1日付けで文部科学大臣が発令する予定の日本芸術院の新設分野「マンガ」の新会員候補として選出された。 2022年3月31日、文星芸術大学学長を退任。 四人兄弟の長男で、実弟に漫画家のちばあきお(三男)と漫画原作者の七三太朗(四男)がいる。妻は漫画家のチバユキコ。ちばの次男の千葉修平は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている。 連載作品のみを記載。詳細はちばてつやの漫画作品一覧を参照。
929
都築和彦
都築 和彦(つづき かずひこ、1962年5月19日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。元日本ファルコム社員。 1980年代後半、『ザナドゥ』など、日本ファルコムのいくつかのゲームで公式イラストを手がけていた。 カラーイラストは『IZUMO』連載時まではアナログ、現在はデジタル(2DCG)画を自ら作成した「きらきら筆」と呼ばれるソフトを使用している。また、水村かおるという名で、アダルト系のイラストも描いている。
930
つの丸
つの丸(つのまる、本名:津野 将昭〈つの まさあき〉、1970年5月27日 - )は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。千葉市立稲毛高等学校卒業。男性。血液型はA型。 1991年、『さる大使』で第2回GAGキング準キングを受賞。『週刊少年ジャンプ 1991年 Spring Special』(集英社)に『さる大使』『GOGOポチョムキン』の2作が掲載され、デビュー。その後『週刊少年ジャンプ』(集英社)1991年16号に『GOGOポチョムキン』が掲載。いくつかの読み切り掲載を経た後、『モンモンモン』で連載デビュー。以降、集英社の雑誌を中心に活動を続ける。 代表作はアニメ化もされた『みどりのマキバオー』。他に『モンモンモン』(猿)、『サバイビー』(ミツバチ)といった、動物が主人公の漫画を得意とする。またかなりディープな競馬ファンでもあり、競馬関連の作品も手掛けている。 同じ阪神ファンである森田まさのりと仲が良く、互いにコラボレーションを行ったこともある。パンク・ロック好きで登場人物の名前(ビッグ・ジョン、ウォッティ、キャル、ビアフラ、ベキ、スーパースナッズ、グラインドハウスなど)にもその影響が見られる。 第42回(平成8年度)小学館漫画賞児童部門受賞(『みどりのマキバオー』)。 雑誌掲載時にはペンネームの書体が定まっているのが特徴。写研の和文書体「イボテ」(輪郭が滑らかでなく角の丸い太字)が用いられている。 なお、少女漫画風ギャグ漫画を読み切りで掲載したときに「つのま・るみ」のペンネームを使ったことがある。 2018年に少年ジャンプ+の企画で行われた『ギャグマンガ家 人間ドックデスレース』では大脳に複数の虚血性白質病変が見つかり、監修した医師から寿命が10年と判定された。 漫画作品以外は阪神タイガースと共同で榎田大樹関連商品の描き下ろしを担当する。
931
出口竜正
出口 竜正(でぐち りゅうせい、1月22日 - )は、日本の漫画家。 石川県金沢市出身。石川県立金沢二水高等学校、大阪府立大学工学部航空宇宙工学科卒業。 現在は赤羽在住。 1987年、第33回手塚賞準入選(『荒鷲の伝説』、庵老竜正名義)、第26回赤塚賞佳作、第35回手塚賞佳作。 代表作に『命~紅の守護神~』など。 戦闘機マニアとしても知られ、航空宇宙系同人誌即売会東京とびもの学会で同人誌を販売している。2010年12月17日放送のタモリ倶楽部で「東京とびもの学会2010」が取り上げられた際に出演した。 2010年、赤松健と共に株式会社Jコミを立ち上げる。
933
イエスタデイをうたって
『イエスタデイをうたって』は、冬目景による日本の漫画。当初は『ビジネスジャンプ』(集英社)にて1998年1号から不定期連載され、同誌休刊後『グランドジャンプ』(集英社)に移籍し2015年13号まで連載された。単行本は全11巻。2020年1月時点でコミックスのシリーズ累計発行部数は140万部を突破している。 完結から約4年後の2019年4月17日にアニメ化が発表され、2020年4月から6月までテレビ朝日の深夜アニメ枠『NUMAnimation』ほかにて放送された。 これまで『羊のうた』や『黒鉄〈KUROGANE〉』などを発表していた冬目景による青春群像劇にして、自身最長連載作品。前述の2作品を連載する最中、集英社から熱心な電話が自宅にかかってきたことがきっかけとなり『ビジネスジャンプ』(集英社)1998年1号より連載を開始した。当初タイトル案はヒロインの名前から『ハル』とする予定だったが、編集部からの変更依頼によって忌野清志郎が率いたロックバンド・RCサクセションの曲より採用したという。2011年には『ビジネスジャンプ』の休刊に伴い、後継誌である『グランドジャンプ』(集英社)へ移籍している。 1年間の掲載が5回に満たないこともあり、単行本第3巻出版から第4巻までに2年以上、第4巻から第5巻まではほぼ3年かかるなど大きく間隔が開く刊行ペースとなり、2015年に完結。足掛け18年間という長期連載作品となった。これは当時の執筆スタンスが「描きたい作品は描ける場があれば描く」という方針を採っているためであり、実際に本作の連載中にも多数の連載・読切作品が発表されている。なお冬目自身は当初3巻ほどで終わるのではと考えていたが、連載を続けるにつれ描くのが楽しくなり、構想が膨らんでいったという。完結にあたって「辛抱強く待ってくれた読者が居たから完結できた」と、感謝の気持ちが述べられた。第6巻発売と同時に画集『イエスタデイをうたって画集 ―YESTERDAYS―』、完結に前後して画集『イエスタデイをうたって画集 ―YESTERDAYS―2』がそれぞれ発売。この画集第2弾発売と連載完結を記念し、2015年9月26日から10月26日にかけて東京日本橋にあるギャラリー・space caiman にて原画展『冬目景原画展 -YESTERDAY ONCE MORE-』が開催された。
934
イエスタデイをうたって
2020年のアニメ放送に合わせ、後日談の読み切り『イエスタデイをうたって特別編-11・S14-』が『グランドジャンプ』2020年9号に掲載された。 大卒のフリーターとして登場した後、物語の進展とともに写真スタジオで働きはじめる主人公を中心に、歳の離れているふたりのヒロインや、個性的で深みのあるサブキャラクターたちが、恋愛、仕事、(美大)受験、家族、夢といった日常的な問題に直面し、一進一退を繰り返しながら、じぶんたちの未来をほんの少しずつ手探りしてゆく人間ドラマ。物語の主な舞台となるのは「新宿にほど近い私鉄沿線の小さな街」とされているが、これは東京都世田谷区であるという。この他、横浜や金沢なども重要な舞台として登場する。後述する通り、冬目作の漫画『羊のうた』『ももんち』とは世界観を共有している。 当時『羊のうた』や『黒鉄〈KUROGANE〉』といった暗い漫画を執筆していたこともあり、本作の連載開始にあたっては明るい話・明るいキャラクターが良いなと思っていたという。また掲載誌が『ビジネスジャンプ』であったものの勤め経験が無かったため、逆にビジネスしていないフリーターの漫画となった。物語の主要人物があまり携帯電話を使わないという特徴があるが、これはなるべく時代風俗の表現を避けて描いていたことも関係している。 連載中期までは数話ごとに章立ての構成が採られており、それぞれ副題がつけられていたが、8巻からはそのようなスタイルではなくなっている。 大学を卒業したものの職に就くことなく、フリーターとして特に目標もないまま過ごしているリクオ。そんなある日、カラスを連れた黒ずくめの少女・ハルが現れる。彼女の破天荒な振る舞いに戸惑う中、リクオはかつての想い人・榀子が東京に戻ってきたことを知る。 主な登場人物には、男性キャラクターは水に関係する名前、女性キャラクターは植物に関係する名前が付けられている。
934
イエスタデイをうたって
大学を卒業したものの職に就くことなく、フリーターとして特に目標もないまま過ごしているリクオ。そんなある日、カラスを連れた黒ずくめの少女・ハルが現れる。彼女の破天荒な振る舞いに戸惑う中、リクオはかつての想い人・榀子が東京に戻ってきたことを知る。 主な登場人物には、男性キャラクターは水に関係する名前、女性キャラクターは植物に関係する名前が付けられている。 2020年4月から6月まで、テレビ朝日の土曜深夜アニメ枠『NUMAnimation』枠ほかにて放送された。インターネット配信版では、約1分の限定エピソードも展開される。監督を務める藤原佳幸は、高校生の時に原作漫画を表紙買いしてからの大ファンだという。全話においてOPがないのは、会話していていない間を丁寧に描きたいとの監督の強い希望があったため。EDが話数を追って変えたのは演出的な狙いもあったが、話題作りにもなるかと思ったためと語っている。放送の1クール前には全話の制作が終わっていた。 また、アニメ本編と連動した書き下ろしの特別編音声ドラマが同6月17日からSPINEARおよびApple Podcasts、Google Podcasts、Spotifyなどの主要なリスニングサービスで配信された。 同年8月5日に全12話(映像特典として配信版エピソード全6話も含む)を収録したBlu-ray BOX (CAXA-00001) およびDVD BOX (CABA-00001) が発売。
934
どおくまん
どおくまん(1950年1月1日 - )は、日本の漫画家。本名:鈴木和明。大阪市東淀川区出身。1960年代から活動している。漫画執筆にあたって同じ東淀川区出身の男性4人組の共同ペンネームとして「どおくまんプロ」(略称:どプロ)も名乗る。 当初、ペンネームを独漫としており、「孤独な漫画家」の意を込めていた。その後、独りでの漫画製作は厳しいと、実弟の「太地大介(たいち・だいすけ)(本名・鈴木信治)」、龍谷大学で知り合った「小池たかし(本名・小池隆)」、太地の友人であった「みわみわ(本名・宮勝彦)」に声を掛けた。この時にペンネームを漢字の独漫から、大阪の「お」を入れ、ひらがなにしたどおくまんとし、4人組の名前として「独立大阪漫人集団」の略からどおくまんプロとした。どおくまんプロは大阪府吹田市に活動拠点を置き、法人化もされている。 「どおくまん」が複数人による合作ペンネームであるとの勘違いも多いが、「どおくまん」は飽くまで鈴木本人だけである。 幼い頃は普通に漫画、貸本漫画を読んでいた。特にさいとう・たかをのヒット作『台風五郎』を気に入るが、特に漫画家を志すようなことはなく、成長するにつれ漫画とは離れてスポーツ一辺倒の高校時代を過ごす。大学時代になり、つげ義春、みやわき心太郎、山上たつひこらの漫画を読むようになり衝撃を受けるが、あくまでも読者、ファンとしてであり、漫画家を志すことはなかった。 転機は、『サンデー毎日』で大賞賞金1000万円の漫画賞を開催していることを知った1968年である。賞金目当てに発奮し、漫画の描き方もわからなかったが、画用紙に墨汁と筆で処女作『人形の疑惑』というサスペンス漫画を執筆し応募する。3次選考まで通過し、ベスト20には残るものの、大賞は逃す(ただし、大賞そのものが該当無しであった)。その後、「ちゃんとやれば、もうちょっと行けるんじゃないかな」と思い立ち大学の漫研へ行き、そこで小池と出会う。2作目を大手出版社の少年漫画誌の懸賞漫画に投稿し、これが佳作を受賞。本誌にも掲載され賞金も獲得する。どおくまんはここから本格的に漫画家を目指すことになる。
935
どおくまん
しかしながら、執筆した10作品、約300ページの原稿をトランクに詰め込んで上京し、大手出版社の編集に見せた際にはほとんど相手にされなかった。どおくまんは、その足で、創刊したばかりで新人を多く起用しているという集英社の『少年ジャンプ』編集部へ向かう。この時に『花田秀治郎』が編集の目に留まり、『別冊少年ジャンプ』での掲載がその場で決まった。『花田秀次郎くんシリーズ』は別冊少年ジャンプで隔月連載となる。また、同作を連載していた1974年には、非商業的漫画を掲載していた当時の青林堂の『ガロ』に「どく・まん」名義で「粗相」という作品を持込、掲載されている。この頃から、どおくまんプロも結成しているが、小池たかしは単独で漫画を執筆し『週刊少年ジャンプ』に読み切り掲載も行っており、締切間際に手伝いに来る程度であった。また、小池を除く3人は、漫画を描く傍ら、どおくまんの実兄が経営する工場で働いていた。 1975年に再び転機が訪れる。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の編集長・壁村耐三からの執筆依頼の電話がどおくまんたちが働いていた工場にかかってきた。これを機に『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)1975年4月号より『暴力大将』が連載されることになり、この連載は1985年まで続くことになる。同年10月には『週刊漫画アクション』(双葉社)でも『嗚呼!!花の応援団』の連載が始まる。『嗚呼!!花の応援団』は1976年に映画化もされ、その年の邦画配給収入ランキング第8位のヒット作となり、続編映画も製作された。 画はどおくまんが中心であるが、アイデア、ストーリー、キャラクターなどはどおくまんプロのメンバーでお互いに持ち寄りながら作品を製作していた。また、最盛期には、月産500ページを超し、雇っていたアシスタントも30人近い大所帯となっていた。 実弟である太地大介が亡くなった後は、何のために漫画を描くのかわからなくなり、モチベーションが低下。『週刊少年チャンピオン』で連載していた『怪人ヒイロ』の完結以降は、いったんペンを置き、どおくまんプロも小池たかしとみわみわに任せる形となった。 過去に一度だけ、クイズダービーに出演したことがある。
935
ときた洸一
ときた 洸一(ときた こういち、1961年(昭和36年)4月11日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。 代表作の『機動武闘伝Gガンダム』など『ガンダムシリーズ』のコミカライズを多数手がける。 千葉県千葉市出身。父親は挿絵画家の鴇田幹。 漫画家として活動する前は、ガンプラをはじめとしたバンダイのプラモデルのパッケージのレイアウトを担当。 日東科学教材『オモロイド』のデザインを担当した後、同社からナムコへ転職した社員の依頼で『ローリングサンダー』の製作に参加。以後、同社ゲームのキャラクターデザインや各種イラスト製作・仕上げを多数手がけた。 また、安井尚志の下で、安井がクラフト団名義で原作を担当していたやまと虹一の漫画『プラモ狂四郎』、『超戦士ガンダム野郎』、『SD武者ガンダム風雲録』などの登場メカのデザインも行っていた。 漫画家としては2002年頃まで『コミックボンボン』など講談社の雑誌を中心に活動していたが、近年では角川書店の『ガンダムエース』にて執筆活動を行っている。 一部のファンからはオーディオマニアとしても知られており、自身のブログ「ときた洸一のムダ話blog」で時々オーディオ関係にまつわるネタが取り上げられることがある。 模型・玩具 他多数
936
徳弘正也
徳弘 正也(とくひろ まさや、1959年3月1日 - )は、日本の漫画家。高知県長岡郡大豊町出身。男性。高知県立高知小津高等学校を経て、四国学院大学卒業。自称「土佐の暴れん坊」。代表作に『シェイプアップ乱』、『ジャングルの王者ターちゃん♡』、『狂四郎2030』など。 「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫に憧れ、漫画家を志す。 大学生になり、少年サンデーの漫画賞に度々応募し選考の最後の方まで残っていることもよくあったが、ある時『彼女の魅力は三角筋?』を送ったが、一次選考も通過しないまま原稿が戻ってきたため、フレッシュジャンプ賞に送ってみたところ入賞する。 1982年、第17回赤塚賞佳作(『美女は肉料理がお得意』)を経て、翌年1983年から集英社発行の『週刊少年ジャンプ』で連載された『シェイプアップ乱』で連載デビュー。 2作の連載を挟んで1988年から連載された『ジャングルの王者ターちゃん♡』(途中より『新ジャングルの王者ターちゃん♡』に改題)では、当初のギャグ漫画から当時の『週刊少年ジャンプ』の定番だった格闘漫画路線への変更を余儀なくされるが、従来のギャグ漫画路線に格闘漫画の要素を折り込んで高い人気を獲得し、7年間の長期連載となった。 当時アシスタントだった尾田栄一郎は徳弘を「本当のプロ」、「一生の恩人」と慕い、毎年お中元とお歳暮を贈っている。『ジャングルの王者ターちゃん♡』はアニメ化もされており、全50話が約一年かけて放送された。 『新ジャングルの王者ターちゃん♡』終了後は人気低迷により打ち切りが続き、活躍の場を青年漫画に絞る。 『週刊少年ジャンプ』の派生誌で青年漫画雑誌の『スーパージャンプ』に完全移籍し、1997年から2004年にかけて『狂四郎2030』を連載する。従来の持ち味の他に、人間の尊厳に入り込んだ内容に評判が集まった。2008年から2年間連載された『ふぐマン』では下ネタギャグを交えた人間ドラマ作品に原点回帰したが、打ち切られた。 『ふぐマン』終了後、デビューから長年執筆してきた集英社の雑誌から離れ、小学館発行の『ビッグコミックスペリオール』で2010年9月より2013年5月まで『亭主元気で犬がいい』を連載した。
937
徳弘正也
『ふぐマン』終了後、デビューから長年執筆してきた集英社の雑誌から離れ、小学館発行の『ビッグコミックスペリオール』で2010年9月より2013年5月まで『亭主元気で犬がいい』を連載した。 2013年7月からは再び集英社に戻り、『スーパージャンプ』後継誌の『グランドジャンプ』で『黄門さま〜助さんの憂鬱〜』を連載。その後は時系列的には『黄門さま〜』から17年後の江戸が舞台の作品『もっこり半兵衛』を『グランドジャンプPREMIUM』での短期集中連載(2015年11月号~2016年3月号)を経て、めちゃコミックで独占先行配信、誌上にも不定期で掲載されている。
937
所十三
所 十三(ところ じゅうぞう、1961年8月30日 - )は、日本の漫画家。静岡県掛川市出身。静岡県立掛川西高等学校、駒澤大学卒業。本名:岡田 信幸(おかだ のぶゆき)。 駒澤大学漫画クラブOBの芳井一味と高橋葉介のアシスタントを務め、在学中に『ピントはずれのかぞく式』で講談社新人漫画賞佳作を受賞(受賞式には学生服姿で臨んでいる)、1984年(昭和59年)『月刊少年マガジン』で読み切り『名門!多古西応援団』にてデビュー。これが好評だったことから連載となる。この他にも『週刊少年マガジン』で連載した『疾風伝説 特攻の拓』などのような、硬派な世界の少年達の漫画を数多く手掛ける。最近では『DINO2』『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』のような、かねてから興味を抱いていた恐竜をテーマにした漫画を中心に発表している。 ペンネームの「所」は大学時代に所ジョージに似ていたことから、漫画クラブの先輩がつけたニックネームに由来し、会員番号が3であることから当時は「所-03」のペンネームを使用していた。なお、「十三」は担当編集者による命名という。 恐竜の化石を所蔵しており、恐竜展で展示されることもある。
938
ともち
ともち(6月5日 - )は日本の女性漫画家。神奈川県横浜市出身。身長150cm、血液型はO型。現在は4コマ漫画で活躍中。 同じ「ともち」名義でBLを描いているのは全くの別人。 1984年、持ち込み作品であった「海ちゃんはLLサイズ」が認められ少年ジャンプ系列の少年誌で須賀知子名義デビューするも、「そんなに甘くはなかった」と本人談で語られる様にしばらくはボツ地獄と挫折という苦節の日々を経験しつつ腕を磨く。 1988年、講談社『モーニング』の第18回ちばてつや賞一般部門入選。入選作品は『3年目のさよなら』でこの作品からペンネームを使用、すがともこから現在のともちに変更したこともあって再デビューと位置づけられる。ちなみにこの時のヤング部門優秀新人賞は岡田和人である。 講談社の少女誌『mimi』(廃刊)で数本の短編読み切りを発表したのち、1990年代はスコラの『コミックバーガー』(のち『コミックバーズ』と改名)を活動の舞台とし、代表作『だいすき!』、『愛をあげよう』などが生まれた。 順調な活動を続けていたものの『バーガー』誌発行元であるスコラが倒産し、後を受けたソニー・マガジンズも短期間で撤退。幻冬舎による編集方針の大幅変更などに翻弄され活動が中断。2003年より芳文社の4コマ誌に移って執筆活動を再開している。 現在は二児の母であり、単行本や自身のサイトに育児漫画を書き下ろす事が多い。連載中の4コマ漫画『しあわせねっ』においても日々の育児を題材とした内容が中心となっている。 2016年、藤澤ともち名義で応募した児童文学作『とうちゃんと僕、そしてユーレイババちゃん』が第18回ちゅうでん児童文学賞大賞を受賞。翌2017年に『とうちゃんとユーレイババちゃん』と改題の上、講談社から出版された。なお本作では挿画は本人ではなく佐藤真紀子が担当している。 シリーズ別・掲載順
939
永井豪
永井 豪(ながい ごう、本名:永井 潔(ながい きよし)、1945年9月6日 - )は、日本の漫画家。石川県輪島市出身。血液型はO型。 石ノ森章太郎のアシスタントを経て、1967年『目明しポリ吉』でデビュー。代表作に『ハレンチ学園』『あばしり一家』『デビルマン』『マジンガーZ』『キューティーハニー』など。少年漫画の世界に性やバイオレンスの表現を大胆に取り入れ、後続の漫画家に大きな影響を与えた。ナンセンスなギャグマンガからシリアスな劇画までシームレスにこなすという点でも異色の存在である。また1972年の『デビルマン』以降、多数のテレビアニメ作品に共同企画者・原作者として関わっている。1980年、『凄ノ王』により第4回講談社漫画賞を受賞した。 1996年より1999年まで日本SF作家クラブ会長、2005年より大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務める。また、2009年より手塚治虫文化賞選考委員を務める。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。 現存する四大週刊少年誌(週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年チャンピオン)及び、休刊した週刊少年誌4誌(週刊ぼくらマガジン、週刊少年キング、週刊少年宝島、週刊少年アクション)全てに連載経験を持つ唯一の漫画家でもある。 石川県輪島市に生まれ、1952年から東京都豊島区に住む。豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)から西巣鴨中学校を経て東京都立板橋高等学校卒業。幼少期に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことをきっかけに漫画家を志すようになる。
941
永井豪
石川県輪島市に生まれ、1952年から東京都豊島区に住む。豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)から西巣鴨中学校を経て東京都立板橋高等学校卒業。幼少期に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことをきっかけに漫画家を志すようになる。 高校卒業後、早稲田ゼミ(予備校)に通っていたが、3週間止まらない下痢に悩まされて大腸癌と思い込み、自分がこの世に生きていた証として漫画作品を残そうと決意。のち大腸カタルに過ぎなかったことが判明して難なく完治したが、このときの決意をきっかけとして当初予定していた大学進学を断念した上で3ヶ月の浪人生活に終止符を打つ。その後1年半出版社へ原稿の持ち込みをするが掲載にいたらず、編集者から漫画家の先生に見てもらうよう勧められる。手塚プロダクションに赴くも手塚に会えず落胆していたが、石森章太郎(後に「石ノ森章太郎」)に原稿を見てもらうチャンスに恵まれ、すぐに石森の下で働くことになる。石森が持っていたSFテイストやキャラクターメイキングの方法論は非常に永井に近いものだったようで、石森も自分が世に出た時期が早いだけで「同じ感性の中でものを探している」と彼を評している。この時期の石森アシスタントには野口竜、桜多吾作がいた。 永井自身はストーリー漫画、特にSF志望だったが、石森のアシスタントが多忙を極めストーリー漫画を描いている時間がなく、デビューの早道として比較的ページ数の少ないギャグ作品に挑み、アシスタント業の傍ら持ち込みを続けていた。1967年、テレビアニメ『ちびっこ怪獣ヤダモン』(ピープロ)漫画化企画を担当する事となり、この腕慣らしとしてギャグ短編「目明しポリ吉」を『ぼくら』にてデビュー、続いて『〜ヤダモン』の連載とともにギャグ漫画をコンスタントに描く。
941
永井豪
この頃、『週刊少年マガジン』の依頼で執筆した『じん太郎三度笠』が、5週連載となり高い人気を獲得するが、これに赤塚不二夫が反発して編集長に抗議した結果、内定していた正式連載の企画が没となってしまう。さらに赤塚は永井を呼び出し、「ギャグの主人公は凄く健全でなきゃいけないのに、何で人殺すのやるんだ」と言って怒ったという。しかし、この経験から「赤塚先生が描かないようなものを突き詰めて描けばよい」と、永井はスラップスティック、エロ・グロ・ナンセンスを多分に織り込んだギャグ・コメディ作品を描き続けることを決意する。その後、デビュー間もない永井の才能を早くから高く評価していた秋田書店の名物編集者で当時『冒険王』の編集長であった壁村耐三は永井に働きかけ、『まんが王』にて初のオリジナル連載である『馬子っこきん太』を掲載する。この時に壁村がアシスタントとして紹介した青年が後に永井の右腕となる蛭田充であった。 デビューの翌年(1968年)、新創刊された『少年ジャンプ』(後の『週刊少年ジャンプ』)に『ハレンチ学園』を発表。奇妙な扮装に身を包んだ教師たちとイタズラを愛する生徒たちの破天荒な日常を描いたこの作品は、本宮ひろ志作品と両輪で同誌を牽引した。ただしこの作品のヒットによりさらにギャグ漫画のイメージが定着し、仕事の依頼もギャグものが多かったという。 この中で当時の小学生を中心とした流行風俗「スカートめくり」を扱った「モーレツごっこの巻」が、サブカルチャー一般に対し行われていたPTAの抗議活動に取り上げられ、子供に悪影響を及ぼすセクシュアルな作品の代表格として糾弾の対象となる。新聞紙上・テレビのワイドショーなどで名指しつつ、時に永井自身を目の前にして、本人曰く「人格否定まで」されるほどの糾弾活動だったという。ちなみに本人が出演していた番組収録が終わると、批判していたPTAの女性陣が、若くて童顔だった永井を見て印象が変わり、サインを貰いに来たという。
941
永井豪
しかしこのバッシングが結果的に、永井が時代を掴むきっかけとなる。『ハレンチ学園』で登場人物全てが戦争で殺し合う描写に始まり、『あばしり一家』(1969年 - 1973年)、『ガクエン退屈男』(1970年)などこの時期の発表作品の中で、その糾弾活動そのものをメタフィクション的にパロディ化、権力が奮う「正義」とは自由に生きる個人を押し潰すものとした上で、権力側も抵抗する個人の側も互いに奮うのは暴力だけという、永井作品の根幹を成す地獄絵図を描き出すことになる。 さらにこの時期、シリアスなストーリー作品も手がけ始め、差別とそれに対する復讐を描く『鬼-2889年の反乱-』(1970年)、アイデンティティ崩壊の危機を描く『くずれる』(1971年)、親と子の絆が崩壊する『ススムちゃん大ショック』(1971年)など、いずれも人間自身の存在意義を問い直すようなSFを発表した。その一方、常識を反転させて笑いに結ぶ永井ギャグ漫画としては最も先鋭化したものの一つ『オモライくん』(1972年)も描いている。それとともにSF作家の間で注目され、1970年のSF大会で筒井康隆を初代会長に永井豪ファンクラブが設立される。 永井の更なる飛躍となったのは、東映動画とNET(後のテレビ朝日)にてアニメ化された代表作『デビルマン』(1972年 - )である。前年発表の『魔王ダンテ』を基にした作品との依頼だった。この作品では「神」が必ずしも「絶対善」ではないという着想が描かれていたが、アニメ『デビルマン』は、悪魔と合体しながら苦悩しつつ人間であろうとする斬新な設定の主人公をベースに、ヒーロー作品としてリメイクすることを依頼され、企画したという。ただし、当時『魔王ダンテ』の掲載誌編集長であった内田勝の自著などによると、そもそもヒーローコミックとして位置付けていたという。 アニメと同時に漫画連載(『週刊少年マガジン』)されたこの作品では、悪魔による侵略・種族の存続を賭けたヒーローの戦いを描くゴシックホラー調から、連載中期以降は人間同士の信頼感という常識が崩れていく展開へと移っていく。同じ人間の手によるヒロイン殺害という、『ハレンチ学園』の時すら避けられていた衝撃的な結末をもって、後にSFマンガのスタンダードと数えられる作品となった。
941
永井豪
アニメと同時に漫画連載(『週刊少年マガジン』)されたこの作品では、悪魔による侵略・種族の存続を賭けたヒーローの戦いを描くゴシックホラー調から、連載中期以降は人間同士の信頼感という常識が崩れていく展開へと移っていく。同じ人間の手によるヒロイン殺害という、『ハレンチ学園』の時すら避けられていた衝撃的な結末をもって、後にSFマンガのスタンダードと数えられる作品となった。 以後、永井を中心としたダイナミックプロの企画陣は、東映動画とのタッグで本格的な操縦者搭乗型ロボット作品のパイオニア『マジンガーZ』(1972年 - )、妖怪モチーフの『ドロロンえん魔くん』(1973年 - )、戦うヒロインの草分け『キューティーハニー』(1973年 - )、初の合体ロボット作品『ゲッターロボ』(1974年 - 、石川賢と共作)などの作品群を生み出し、ヒットキャラクターメーカーとして1970年代を駆け抜ける。 ことに『マジンガーZ』では玩具メーカーバンダイ(ポピー)と出会い、玩具ブランド「超合金」をはじめとした商品展開と、マンガ・アニメ・グラフ記事など連動した講談社『テレビマガジン』の誌上企画として展開され、この分野の推進役としても重要な役割を果たした。ここで毎回の企画記事を構成していたのが、ダイナミックプロとともにアニメ企画・版権管理会社として設立されたダイナミック企画である。無敵の「超合金」や無尽蔵な夢の「光子力エネルギー」などは科学礼賛・成長幻想の産物だが、漫画もアニメも作品自体はそれに冷や水を浴びせるかのような描写がたびたびなされ、その超人的なパワーを敵を倒すために使うか、自分の欲望のために使うかは主人公の自由という、本質的には正義も悪も奮うのは暴力という一貫したテーマが見て取れる。 永井とダイナミックプロのアニメが次々と放送される中、永井自身の漫画作品はむしろ、それとは全く違う展開をしていた。1973年には、後に掲載雑誌を変えながら2005年まで発表され続けている、地震で崩壊した世界が再生の道を探りながら混沌の暴力の渦中にある『バイオレンスジャック』、それとは全く逆に個人の内面が現実世界に影響を与え、鬼の世界を現出させる『手天童子』などの伝奇SFを描く。
941
永井豪
永井とダイナミックプロのアニメが次々と放送される中、永井自身の漫画作品はむしろ、それとは全く違う展開をしていた。1973年には、後に掲載雑誌を変えながら2005年まで発表され続けている、地震で崩壊した世界が再生の道を探りながら混沌の暴力の渦中にある『バイオレンスジャック』、それとは全く逆に個人の内面が現実世界に影響を与え、鬼の世界を現出させる『手天童子』などの伝奇SFを描く。 その間にギャグ漫画としても、『オモライくん』の学園漫画版として始まりながら、エロチックなギャグと悪乗りで暴走した挙句『デビルマン』のような人類滅亡をまたも起こす『イヤハヤ南友』(1974年 - )や、体罰が日常茶飯事な学園で「顔を隠して体隠さず」とマスクとマフラー以外は全裸という常軌を逸した究極のヒロインが戦う『けっこう仮面』(1974年 - )、男子生徒が女子として学園生活を送って騒ぎを起こす『おいら女蛮』(1974年 - )など、常識をあっけらかんと覆す世界も展開した。 1979年には青年マンガ誌の誕生とともに、得意のエロチックギャグ作品『花平バズーカ』(原作:小池一夫)をいち早く連載する。少年誌では学園漫画という舞台で、初恋の相手がレイプという屈辱を受ける性表現の限界に挑みながら、一個人の内的世界が現実を破壊し尽くしてしまうという超能力漫画『凄ノ王』を発表する。この『凄ノ王』により1980年、講談社漫画賞少年部門を受賞する。しかしこの作品は、主人公の怒りと悲しみが世界を破壊したところで唐突に終了する。永井はそれをあらかじめ決めていた流れと語ったが、読者の間では必ずしもそう受け止めるばかりではなく、賛否両論であった。 このように読者の判断が賛否に分かれる例は、『デビルマン』とつながった『バイオレンスジャック』のラストや、講談社の企画主導で一種のパラレルワールドとして始まりながら、永井の悪魔モチーフ作品を大きく纏め上げた『デビルマンレディー』の展開でも繰り返され、自身の言うように「先を決めずに」連載しながらその後の展開を読者の反応とともに創っていく、永井の作風から生まれる特徴であった。 『プロレスの星 アステカイザー』(1976年)で関わりを持った新日本プロレスとは、1980年代後半にビッグバン・ベイダーのコスチュームデザイン、獣神サンダー・ライガーなどのタイアップを行った。
941
永井豪
『プロレスの星 アステカイザー』(1976年)で関わりを持った新日本プロレスとは、1980年代後半にビッグバン・ベイダーのコスチュームデザイン、獣神サンダー・ライガーなどのタイアップを行った。 1997年銀座にて「永井豪原画展」、続く1998年「永井豪と世紀末展」という企画展が催され、それまでの漫画家・アニメ企画者としての永井の業績が初めてまとまった形で再評価された。 またそれ以後、その卓抜したキャラクターを他作家の筆により展開させた『ネオデビルマン』(複数作家競作)、『AMON デビルマン黙示録』(衣谷遊)、『キューティーハニー a GO GO!』(伊藤伸平・庵野秀明)、『マジンガーエンジェル』(新名昭彦)などのプロデュース作品も生まれている。特に『ダイナミックヒーローズ』(越智一裕)は1970年代の永井ヒーロー作品があえて東映動画のタッチで描かれるという試みがなされており、往年の作品の影響力を窺わせた。 永井自身は21世紀に入って還暦を迎えても、少年誌から青年誌と広く作品を発表、それまでに描いてきたホラー調作品やギャグ漫画、ロボット作品などの他、『伊達政宗』『北条早雲』『前田利家』といった戦国時代に実在した人物の漫画化に挑むなど、旺盛な漫画家活動を続けている。 2010年5月からは『週刊漫画ゴラク』にて『デビルマン』執筆時のエピソードを多少の脚色を込めて描く『激マン!』の連載を開始、一時の休載をはさみ、2012年に完結した。基本的に永井は自画像をギャグタッチで描いており、自分自身をシリアスタッチの漫画に描く事には抵抗があったが、編集部より「不動明のようなハンサムに描いてくれ」と言われて承諾した。 2009年、故郷の輪島市に「永井豪記念館」が開館。当地に存在する「いしかわ景観総合条例」そのほか関係条例への適合が図られた町屋風の外観となっているが、中へ入ると雰囲気がガラッと変わり永井豪ワールド全開で来場者を迎え、毎年開館記念日には記念イベントを行っている。 2012年3月10日より、のと鉄道のNT211号車に永井キャラクターが描かれたラッピング車両が運行を開始した。3年間の運行予定だったが、それ以降も運行は継続しており、永井豪記念館の宣伝も兼ねている。 2016年、第25回日本映画批評家大賞・アニメ部門ダイヤモンド大賞を受賞する。
941
永井豪
2012年3月10日より、のと鉄道のNT211号車に永井キャラクターが描かれたラッピング車両が運行を開始した。3年間の運行予定だったが、それ以降も運行は継続しており、永井豪記念館の宣伝も兼ねている。 2016年、第25回日本映画批評家大賞・アニメ部門ダイヤモンド大賞を受賞する。 2018年、永井執筆の全作品が第47回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞する。 2018年から2019年にかけて「画業50年”突破”記念 永井GO展」が、上野の森美術館、大阪文化館・天保山、石川県立歴史博物館などで開かれた。 永井は一般に「手塚以後」といわれる戦後期に、新聞漫画、書店・貸本店作品といった様々な形態の漫画作品を読者として経験した上で送り手となった最初の世代の漫画家である。例えば自身も影響を受けたと語るように、手塚的なディズニーの影響下にある文法とともに、白土三平的な筋肉を持ち血の出るリアリティを持った形式も等価に受け取っている。永井のデビュー当時にあった他の漫画文法と比較すると、永井のタッチはリアルとギャグ両方の要素を持った独特のデフォルメである。また貸本・赤本時代の、単行本をまとめて「読ませる」タイプの作家とは異なり、主に週刊連載という形式で「引っ張る」作風をメインとしている。 コマ割りが大きく1ページ内のコマ数が少なく、コマ枠も登場人物も線が太い。時にはセリフや擬音ばかりか、登場人物までもがコマからはみ出す。1コマが見開き2ページにも及ぶこともある。ストーリー展開は速く、セリフも分かりやすく明快、メカや背景もリアルに描かれている。それでいて劇画ではない。こういった生産性を上げつつ画面を格好良く見せる手法は石ノ森のアシスタント時代に培われたとされ、永井が一般的にしたともいえる。このような作風に高橋留美子は大いに影響を受けたと後に述べている。
941
永井豪
また、永井はギャグ漫画から始めたせいか、シビアなストーリーの途中に、ユニークなキャラクター性を持った登場人物の行動や発言など、主人公すら巻き込んでしまうギャグのシーンを入れてしまうということを、初めて完成された形で持ち込んだ。また、逆にギャグ漫画を基調としながらもアクション的要素を織り込む初期の永井の作風は70年代の『けっこう仮面』などにも継承される一方、赤塚不二夫顔負けの純粋ギャグ漫画も短編を中心に少なくなく、長尺では『オモライくん』が存在する。このように、ギャグ、シリアスそれぞれを突き詰めつつも、混合化も並行してやってのけた作家は、少なくとも永井以前には存在しなかった。 昭和40年代に漫画の書き方として、「キャラクターを作り上げてそれが動き出してストーリーが本格展開する」という概念で説明し、それで自作の展開を説明した。これは一般ファンに向けて明快に語られたものとしてはおそらく初めてであろう。 また一時期の永井は非常に多作であり、さすがに5週で挫折し4本に減らしたものの、週刊連載を5本こなしていた時期もあった。これは永井自身、手塚治虫も石ノ森章太郎も成し遂げていない記録かもしれない、としている。『デビルマン』に重きを置き仕事量を減らした時期でも、月産400-500ページをこなしていた。 筆の速さはやはり多作であった石ノ森章太郎のアシスタント時代に養われたものであるようで、限界まで仕事を受けてしまうことについては、やはり石ノ森の「来た仕事を断らないのがプロだ」と言う矜持の影響と、7歳も年上の師匠に負けていられない、と言う思いがあったと言う。 手塚治虫が多くの原稿を抱えてしめ切りも迫った状況でアメリカのコミックイベントに参加するための旅行に永井も他の漫画家仲間と一緒に参加した時を振り返って。この時手塚は国際電話で日本のアシスタント達に口頭で指示をするという方法を使って無事原稿を間に合わせた。 -「当時 永井先生も相当お忙しかったんじゃないですか?」 永井「えぇ......少年誌だけでも4本抱えていました。でも僕は全部仕上げて行きましたから!!」 -「ええっ~~~!!?」 (インタビューシーン) 元・秋田書店 「あばしり一家」担当 河野 安廣 「豪ちゃん(永井)にしめ切りで苦労させられたことは一度もなかったな。手塚先生とはまた別のタイプの天才だったね。」
941
永井豪
-「当時 永井先生も相当お忙しかったんじゃないですか?」 永井「えぇ......少年誌だけでも4本抱えていました。でも僕は全部仕上げて行きましたから!!」 -「ええっ~~~!!?」 (インタビューシーン) 元・秋田書店 「あばしり一家」担当 河野 安廣 「豪ちゃん(永井)にしめ切りで苦労させられたことは一度もなかったな。手塚先生とはまた別のタイプの天才だったね。」 元・秋田書店 「キューティーハニー」担当 大和田 俊司(たかし) 「手塚番の番とは『見張り番』の番。『手塚番』『赤塚番』という言葉はあっても『永井番』はありませんでした。あれほど多作なのに必ずしめ切りを守ってくれましたから!!」 -「......豪先生は手塚先生と同じく多作なのにずいぶんちがいますよね。しめ切りを守れるのはどうしてですか.........?」 永井「う~~~ん...どうしてっていわれても...アシスタント時代のトラウマかなあ...僕は石ノ森(章太郎)先生のアシスタントだったんだけど...当時石ノ森先生は本当に忙しくてね...」 (回想シーン、 石ノ森が後ろに回した原稿を受け取るアシスタント時代の永井)「(......ヒッ!!)」 (原稿を待ってニラんでいる13人の編集者達の視線に気付き) 「(......26個の視線が痛い~~!!)」 永井「年末にしめ切りが重なってね、13人の編集者が怖い顔して待ってるんですよ。一つの雑誌の原稿を手に取ると、それ以外の雑誌の編集者たちがすごい目でニラんできてね.......他にも先生と2人だけで月産200枚を3ヶ月続けたこともありました。......僕が多作で早描きなのは石ノ森先生ゆずりかな。」 -「なるほど!!」 永井「あと、デビューがギャグ漫画だったことも関係あるかも...ページが少ないギャグなら、アシスタントで忙しい中でも描けたんですよ。」 (193ページ~197ページ)
941
永井豪
(193ページ~197ページ) 永井「ギャグ漫画から始まったおかげで、僕はしめ切りを守れるようになった気がします。ギャグって次のコマがどうなるか分からないところがおもしろいじゃないですか。だから僕は、描きながら考えるタイプになって...どうなるか分からないけどとにかく描き出して...自分もワクワクドキドキしながら一気に原稿を完成させるんです!!」 「描き終えておもしろくなかったらもう1本初めから描いたほうがいい。実際あんまり気に入らない作品ができて、時間までにもう1本完成させたこともありましたよ!!」 -「すごい!! そりゃ編集者からすればありがたいです!!」 (203ページ) — 講談社「ブラックジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~」『第7話 原稿を上げずに手塚先生はアメリカへ飛んだ(後編)』 だがこれだけ仕事をこなしても経費がかさみ、永井自身の収入は恐らく同年齢のサラリーマンよりも低かったとしている。一番の問題は人件費で、1972年頃のダイナミックプロには、マネージャー3名、経理2名、アシスタント15名がおり、さらに漫画家デビューしたアシスタントのアシスタントまで出入りしていたという。永井は漫画家で儲けようと思ったら小規模にコツコツこなした方が良いとしている。 70歳を迎えた2015年の時点では連載3本はつらくなり、2本に減らしている。 これらの他、短編が多数存在する。 これ以外に1990年代末期に制作された「デビルマンレディー」のテレビ放映を契機として、「ゲッターロボ・シリーズ」や「マジンガー・シリーズ」など漫画のアニメ化や、大人が見ても耐えうるOVA作品の制作も順次行われている。 他 1970年代から1980年代にかけての永井豪原作のアニメ作品の多くは、既に発表された漫画作品をアニメ化したものではない。まず、テレビアニメの企画が最初にあって、アニメ制作会社などからの依頼を受けた永井がストーリーや設定を考案し、原作者の役割を果たした。
941
永井豪
他 1970年代から1980年代にかけての永井豪原作のアニメ作品の多くは、既に発表された漫画作品をアニメ化したものではない。まず、テレビアニメの企画が最初にあって、アニメ制作会社などからの依頼を受けた永井がストーリーや設定を考案し、原作者の役割を果たした。 永井の作品のアニメは、明らかにロボットものを含めSF作品が多い。それらは子供向け作品であってもセクシュアルさや過激なバイオレンスの要素を充分に含んだものであり、若年層の抱く欲求を空想科学作品というオブラート付きで満たすものだった。『マジンガーZ』が当時スペインでの最高視聴率80%を、『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで放送された際には最高視聴率100%を記録した、という逸話もあるほど、当時日本で放映されたテレビアニメ作品ですら、諸外国にとっては新鮮で画期的で、かつセンセーショナルであった。 東映自体の企画なのか、永井やダイナミック・プロ側の発想なのかは不明ではあるが、映画版のみの特別編『マジンガーZ対デビルマン』『グレートマジンガー対ゲッターロボ』などといった一連の諸作品も、当時の子供心をくすぐる企画であった。こういった、異なった番組の主人公が同じドラマのストーリーの中でからむ、という発想は手塚治虫ゆずりであり、それ以上に自作のキャラクターを自在に弄ぶスターシステムは彼の売りとなった。
941
永井豪
永井の率いる漫画プロダクションが、1968年設立の株式会社ダイナミック・プロダクション(ダイナミックプロ)である。それまで漫画家による製作組織は、個人事業主である漫画家が外注としてのアシスタントを雇う方式や、徒弟制度としての師匠と弟子の関係のものが協力し合って製作する方式が一般的であった。しかし、ダイナミックプロでは一般の会社と同じように弟子の漫画家も社員として対等に扱い、雑誌社とのマネジメントも行って社員に自らの作品を発表するチャンスを与えるという、当時としては画期的なシステムであった。そのため、ダイナミックプロからは数多くの優れた漫画家が輩出される事になった。時期や作品により永井とダイナミックプロとの距離感は様々であるが、初期においては永井自身の志向で、最初の読者であり、作家性に激しく影響を与え合うプロ作家集団であり、アシスタントもするという位置づけだった。また、作品によっては永井名でありつつも、かなりシステマティックに互いの得意領分を担当しあいながら作られたものもある。極端な例では、「幻六郎」というプロ内の特定ユニットとしての集団ペンネームを用いた場合もある。 実際には、漫画家だけでなく文筆家としての作家もダイナミックプロには所属しており、例えば永井の実兄である永井泰宇(高円寺博)や、永井豪ファンクラブからプロとなった団龍彦も漫画原作者・作家としてダイナミックプロの一翼を担ってきた。 永井の多くの作品に「とダイナミックプロ」と付けられているのは、彼らプロ集団が全体として企画を形作り、作品を生み出す作家表現へと収斂してきたことを意味する。ただ、その関わり方としては、着想の1アイデアから場合によっては「原作」やペン入れ、通常のアシスタントなど多岐に渡り、一つのメソッドに基づいたものがあるというわけではない。
941
永久保貴一
永久保 貴一(ながくぼ たかかず、1960年6月22日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。神奈川県横浜市出身。 1984年、『宇宙船別冊 大冒険』(朝日ソノラマ)に掲載の「貸出しヒーロー レンタマン」でデビュー。以後、『ハロウィン』(朝日ソノラマ)や『サスペリア』『ミステリーボニータ』(秋田書店)などに作品を発表。代表作は『カルラ舞う!』シリーズ。
943
中崎タツヤ
中崎 タツヤ(なかざき タツヤ、1955年8月11日 - )は、日本の漫画家。愛媛県西予市生まれ、愛知県育ち。名古屋市立工芸高等学校卒業。 1978年、『無題』(『週刊漫画TIMES』)でデビュー。代表作に『身から出た鯖』『じみへん』など。いわゆる不条理漫画ブームの頃に登場したが、逆に条理を徹底的に詰めるスタイルを好み、登場人物が議論したり自問自答したりする描写が多い。代表作の『じみへん』というタイトルはジミ・ヘンドリックスの通称から取ったもの。 作品にスクリーントーンをほとんど使用せず、使用した際にコマ枠に「トーン初使用」と走り書きをしたこともある。 1992年、『問題サラリーMAN』で第38回文藝春秋漫画賞受賞。また、TBS系の単発特別番組枠「THE・プレゼンター」で『中崎タツヤスーパー ギャグシアター』として、作品の一部がオムニバス形式でアニメ化された。その際に、作者本人も後ろ姿だけではあるが登場した。キャストは三宅裕司や小倉久寛、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)が出演。ビデオ化もされている。 競輪が趣味と公言しており、作中人物の苗字に競輪選手のもの(吉岡、神山など)が使われることがある。スポーツ観戦も趣味で、日本プロサッカーリーグの湘南ベルマーレのファンである。 1995年に夫婦でお遍路を経験。この体験はその後の作品でも時折とりあげられている。 ミニマリストという語が生まれるはるか前から同様の生活スタイルを取っている。不要になるとすぐに物を捨てる性格で、仕事場にも物がほとんどない。そのためすぐに引っ越しができ、頻繁に引っ越すことでも知られる。 2000年より、『ビッグコミックスピリッツ』の公式サイトにて「中崎タツヤ日記」を連載していた。他の作家の日記更新が滞る中で、中崎の日記は更新が頻繁で長期の連載となった。しかし、2009年9月の日記のあとは、2010年に編集担当者が『じみへん』1000回記念プレゼントのお知らせを投稿したのが最後の日記となった。 2015年8月、還暦を機に断筆し、『じみへん』の連載も終了。前述した性格のため、執筆道具も廃棄する予定とのこと。 2016年、『じみへん』が第20回手塚治虫文化賞・短編賞を受賞。
944
中崎タツヤ
2015年8月、還暦を機に断筆し、『じみへん』の連載も終了。前述した性格のため、執筆道具も廃棄する予定とのこと。 2016年、『じみへん』が第20回手塚治虫文化賞・短編賞を受賞。 漫画家の浜岡賢次は中崎のギャグにおける間と作風を理想に挙げている。作品自体は少年漫画ということあり直接似た点は少ないが、単行本のフィルアップ4コマなどでオマージュが捧げられている。
944
永田トマト
永田 トマト(ながた トマト、1959年 - )は、日本の漫画家。静岡県静岡市出身。 デビュー作は『ガロ』(青林堂)の『街をきれいに』(1978年12月号、永田真人名義)。 その後、『ガロ』や『劇画ジャンプ』(サン出版)などに読切、また月刊グラビア誌であるDon't(サン出版)に解説マンガを掲載していたが、『モーニング』(講談社)にも短編作品が掲載されていた事がある。 代表作である『YOUNG BLOOD』は1987年より『ヤングサンデー』(小学館)にて連載された作品。 現在も『漫画ゴラク』(日本文芸社)などで随時活躍するほか、パチスロマンガ誌などに永田眞人名義で読切を掲載している。
946
中津賢也
中津 賢也(なかつ けんじ)は、日本の漫画家。「ふぁいてぃんぐ清掃人」で第11回小学館新人コミック大賞に入選し、デビュー。代表作に『黄門★じごく変』『徳川生徒会』、『桃色サバス』など。 オカルトネタやアニメ、時代劇のパロディを多用するハイテンションな学園コメディを得意としていたが、小学館『週刊少年サンデー』系統での初期作品は単行本2巻の連載終了が多く、「2巻漫画家」「2巻作家」とも呼ばれていた。このことは本人もだが、友人の漫画家である島本和彦が『燃えよペン』シリーズでよくネタにしていた。初期作品の特徴として、急に極端なディフォルメのとぼけたギャグを差し込んだり、モブキャラを非人間的キャラクターとして描く傾向があった。 角川書店『月刊コミックコンプ』を経由して、少年画報社『ヤングキング』にようやく定着するも、2007年から2023年までは休業状態だった。 自らは公言していないが、細野不二彦のアシスタント出身。『桃色サバス』文庫版1巻の巻末に細野が描き下ろしで寄稿しており、「最低2年ぐらいは頑張ってね」と声を掛けていたが、すぐに中津の連載が決定し、わずか数ヶ月でアシスタントを辞めたと描かれている。 妻は漫画家の浜田翔子。上條淳士は高校の先輩。
947
ながてゆか
ながて ゆか(7月16日 - )は、日本の漫画家。女性。愛知県出身。茨城大学教育学部美術科卒業。「凶刃」で講談社新人漫画賞に入選し、デビュー。代表作は『週刊少年マガジン』(講談社)に連載された「TENKAFUBU 信長」。劇画調の画風が特徴。 2015年3月連載開始の『ギフト±』よりナガテ ユカのペンネームを使用。以降、作風によってペンネームを使い分けるとしている。 大学在学中には約半年間、漫画家のアシスタントを務めていた。大学卒業直後に連載開始した「TENKAFUBU 信長」は、結果的に約2年間の連載となった。次の連載作品「PEAK」は短期で終了。 その後スランプに陥り、機会があって2003年からニューヨークに留学した。現地での漫画家活動のためのビザの取得が困難だったため、2006年に帰国。再び日本での漫画家活動を再開し、『週刊コミックバンチ』にて「北斗の拳」のトキを主人公にしたスピンオフ作品「銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝」(原案:武論尊・原哲夫)の連載を始めた。
948
中西やすひろ (漫画家)
中西 やすひろ(なかにし やすひろ、1957年4月13日 - )は、日本の漫画家。 脚本家の中西やすひろとは別人。 福岡県福岡市出身。本名、中西泰博。武蔵野美術大学卒業。 『僕の彼女はスーパービューティー』でデビュー。ハーレムものに近いラブコメディを描くのを得意とする。成年漫画スレスレの性描写を盛り込ませた作品が多いが、2004年の『幸せレストラン』以降、料理をメインテーマに据えた作品を発表している。代表作の『Oh!透明人間』は、2010年と2014年に実写映画(オリジナルビデオ)化された。 高校生の頃「りぼん」に感化され、少女漫画家を志す。恋愛漫画を描くつもりだったが、編集部から「透明人間もの」を提示され、更にお色気路線で行くことになった。 こうして始まった『Oh!透明人間』(1982年 - )は読者アンケートでは常時1位となり、月マガの表紙も度々飾った。月マガ初期の功労者的存在でもあった。『Oh!透明人間』がこの時代の金字塔マンガになった為、お色気ラブコメ漫画の巨匠と称されることがある。掲載誌の月刊少年マガジンは連載開始時の17万部が、5年後に120万部と大幅に部数を伸ばし、編集長は「透明人間の貢献が大」と述べた。しかし、過労で体調を崩し連載は中止となってしまった。 月刊少年マガジン創刊40周年記念特別企画(2017年8月号)として中西の『Oh!透明人間』と上村純子の『いけない!ルナ先生』のコラボ読み切り漫画が掲載され、大きな反響を呼んだ。 第1弾 坂本冬美物語 第2弾 水森かおり物語 第3弾 山内惠介物語 (少年画報社マンガDX+、連載中)
949
永野あかね
永野 あかね(ながの あかね、1969年2月11日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都出身、武蔵野美術短期大学卒業。血液型はA型。 1987年、ラポート社のファンロード誌でデビュー。1988年、『サティにぱにっく』が第40回週刊少年マガジン新人漫画賞で佳作、『トラブルTIMEトラベル』が第41回同漫画賞で佳作を受賞。講談社の『少年マガジンスペシャル』で『猫でごめん!』を初連載。 少年向け漫画から、次第に青年漫画に活動の場を移している。 熱心な阪神ファンとして知られている。無類の柴犬好き。運動好きでもあり2006年、ホノルルマラソンを完走した。
950
中原れい
中原 れい(なかはら れい、1964年3月17日 - )は、日本の漫画家、メカニックデザイナー、演出家。東京都出身。 プロデビューは模型雑誌「デュアルマガジン」の漫画「デロイアナナちゃん」から。当時はあむろ・れいというペンネームだった。 稀に絵コンテを書くこともある。
951
流水凜子
流水 凜子(ながみ りんこ、1962年4月17日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都練馬区出身・在住。血液型O型。身長167cm、靴のサイズ25cm。多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。趣味は、宝石研磨・鳥カメ昆虫飼育など。 1983年、『魍魎伝説』(廣済堂)で「柳野みずき」名義でデビュー、後に「流水凜子」に改名しホラー漫画を主に活動。代表作に『椰』『インドな日々』『インド夫婦茶碗』など。 バックパッカーとしてインドを旅行していた頃、バラナシの安宿のレストランのマネージャーとして出稼ぎで働いていたクーダトディ・サッシーと出会い、1995年に結婚。長男・長女の2児を儲ける。現在はホラーを描きつつもバックパッカー時代のインドでの経験、また国際結婚や育児を題材としたエッセイ漫画を主として執筆。これらの作品を描く際のペンネームは、ひらがな表記の「流水りんこ」である。 地元は練馬区練馬で豊島園駅がある。姉が1人おり、自伝漫画に母と共によく登場。母は集団疎開経験者で新しモノ好き。「戦争が終わっていい時代になったわね〜」が口癖。父(1993年他界)はサラリーマンで、芸術が趣味。 サッシーは南インド・ケーララ州のアダカプトゥール村で10人兄弟(そのうち4人は夭折)の末子として誕生。その時点で長兄は結婚しており、同い年の甥がいる。流水家に婿入りする形で来日し、日本語を流暢に話すがなぜかオネエ口調。現在は練馬区内で南インド料理店「ケララバワン」を経営しており、漫画を読んで店を訪れるファンも多いという。因みに、店名は「ケララの家」という意味である。 流水家ではパナマボウシインコ(2015年に42歳で他界)、インドホシガメ、ビルマホシガメ2頭、ニホンヤモリを飼育している。 なお、「恐怖体験」以外の過去の「流水凜子」名義作品は現在は絶版。但し、『輪廻男(リンネマン)』と『斬る!!』については「流水りんこ」名義に変更して文庫版が現在刊行されている。 少年画報社『MAYファミリア』が2006年9月号(発売:8月)をラストに休刊、連載「りんこちゃんハーイ!」が中断(単行本未収録)となった。また宙出版でのハーレクイン・コミックス化でも年2回ほど執筆している。
952
流水凜子
なお、「恐怖体験」以外の過去の「流水凜子」名義作品は現在は絶版。但し、『輪廻男(リンネマン)』と『斬る!!』については「流水りんこ」名義に変更して文庫版が現在刊行されている。 少年画報社『MAYファミリア』が2006年9月号(発売:8月)をラストに休刊、連載「りんこちゃんハーイ!」が中断(単行本未収録)となった。また宙出版でのハーレクイン・コミックス化でも年2回ほど執筆している。 朝日ソノラマ『ほんとにあった笑っちゃう話』が会社再編により2007年10月号(隔月誌・奇数月7日)をもって休刊。連載『働く!!インド人』は、出版権が引き継がれた朝日新聞出版の不定期発行・週刊朝日増刊『ふぁみドラ』『ほんとにあった爆家族の話』に続編が掲載され、2009年3月に単行本としてまとまった。なお、『ほんとにあった爆家族の話』には、引き続き『インドな日々』などのエッセイが掲載されている。 ブリティッシュ・ロックが好きで、特に元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズについては「殴り倒されたい」と言う程の熱狂的ファン。ライブに足を運んだ様子が漫画として単行本に記載されている。
952
西山優里子
西山 優里子(にしやま ゆりこ、1966年9月30日 - )は、日本の漫画家。女性。 作品にストリートバスケを題材にした『Harlem Beat』がある。 フランス・パリ生まれ。姉と弟がおり、3人姉弟の次女。大使館に勤める父親の仕事の関係で少女時代の大半を日本国外で過ごす。8歳の時はラオス王国のヴィエンチャンに家族と共に住んでいた。当時は冷戦の時代で、サイゴン陥落が起きるなど東南アジアが東西に分かれて揺れていた時期であった。そのような中、1975年に共産勢力であるパテート・ラーオがヴィエンチャンを制圧、同年夏、共産勢力から逃れるために家族ぐるみで日本に帰国する(なお父親は大使館員として在留邦人の保護などの仕事があるためこの時は帰らず、後に帰国している)。 小学生のころ、三原順や和田慎二、柴田昌弘らに憧れ、漠然と漫画家になりたいと思うようになる。中学2年生のときに再びフランスに引っ越して暮らした。桐朋女子高等学校を経て上智大学法学部国際関係法学科入学後、漫研で本格的に漫画を描き始め、その後アメリカにミニ留学をした。(後に日本に帰国して)在学中に『花とゆめ』(白泉社)に4回ほど投稿したがうまくいかなかった。そんな折、知り合いの原作者がついてくれるという話があり、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて読み切りでデビュー。 しかし連載には漕ぎ着けられず、大学卒業後は就職しOLになるが、大学時代の漫研の同人誌が『週刊少年マガジン』編集部の目に留まり、OLの仕事の傍ら漫画を執筆。1989年、「YUTA」で第43回週刊少年マガジン新人漫画賞に入選。その後漫画執筆に専念するため会社を退職。1991年、『マガジンSPECIAL』(講談社)にて「ノーハドル」で連載デビュー。以後、『週刊少年マガジン』などを中心に講談社の各漫画雑誌にて活動する。 2013年まで、講談社の女性向け漫画雑誌『Kiss』にて「家電の女」を、青年向け漫画雑誌『イブニング』にて「ジャポニカの歩き方」を連載。
955
二ノ宮知子
二ノ宮 知子(にのみや ともこ、1969年5月25日 - )は、日本の漫画家。埼玉県秩父郡皆野町出身、埼玉県在住。女性。血液型はB型。 1989年、『外国ロマンDX』(角川書店)に掲載の「London ダウト・ボーイズ」でデビュー。以後、『ヤングロゼ』(角川書店)、『Kiss』(講談社)などに作品を発表する。作品にテレビドラマ化・アニメ化・映画化された「のだめカンタービレ」があり、2004年の第28回講談社漫画賞少女部門を受賞。 板金加工会社経営者の娘として生まれ育つ。 1989年、ASUKA増刊『外国ロマンDX』(角川書店)に掲載された『London ダウト・ボーイズ』でデビュー。20代後半に、インディーズバンド「イエローダック」の元ドラマーの戸田敦夫(通称POM。現在は二ノ宮姓)と結婚する。ポンと同じイカ天へ出場した元マサ子さんのあつ子、かなんと漫画アシスタントを行っていたことを著作内で紹介している。 2001年から連載したクラシック音楽を題材とする『のだめカンタービレ』が大ヒットし、2004年に第28回(平成16年度)講談社漫画賞の少女部門を受賞。2005年、同作がきっかけとなり、東京都交響楽団常任指揮者であるジェームズ・デプリーストと対談した。2006年に月9ドラマとして実写化され、最終的には映画も制作された。 2008年8月、妊娠8ヶ月と自身のブログで告白し、同年10月24日男児を出産した。2011年6月、妊娠5ヶ月と自身のブログで告白し、同年11月24日男児を出産した。 酒豪として知られ、自身の飲酒にまつわる体験(多くは失敗談)を描いた『平成よっぱらい研究所』の中で、自身のことを「まんが家兼よっぱらい研究所・所長」と書いていたことから、二ノ宮のことを「所長」と呼ぶファンもいる。 サッカー日本代表選手・小野伸二の大ファン。Jリーグ・浦和レッズファン。
956
能條純一
能條 純一(のうじょう じゅんいち、本名同じ、1951年(昭和26年)1月22日 - )は、日本の漫画家。東京都墨田区出身。男性。血液型はB型。 クールでシャープな描線、タッチが特徴的な絵柄の作家である。見せ所は、主に男の美学。 1971年(昭和46年)、『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん」に『錯乱』で佳作入賞。漫画家としてのデビュー後、1980年代中期までは『漫画エロトピア』『エロトピアデラックス』(ワニマガジン社)を中心に、成人向けの劇画作品を発表していた。 1985年から『別冊近代麻雀』(竹書房)で連載した『哭きの竜』で注目され、1987年には『コミックモーニング』(講談社)で『翔丸』を連載。『近代麻雀オリジナル』連載の『プロ』で注目され、『コミックモーニング』で『アクター』を連載したかわぐちかいじと同じ経路でメジャー作家となった。 1996年(平成8年)、『月下の棋士』で第42回(平成8年度)小学館漫画賞受賞。 『月下の棋士』は2000年(平成12年)、森田剛主演によりテレビ朝日にてテレビドラマ化された。 『哭きの竜』や『翔丸』に代表される、クールな主人公が登場する乾いた雰囲気の作品から、『プリンス』『ずっこけ侍ミケランジロウ』などの軽妙な人情モノの両極な作風が特徴で、『月下の棋士』や『昭和天皇物語』はその中間の作風と言える。古屋兎丸が作画を担当した短編漫画『何を切る!?』では、『哭きの竜』のパロディーギャグ漫画の原作を担当した。 ネームは描かず、最初から原稿に描くので、ペン入れをした後でボツになることもあったという。
957
野口賢
野口 賢(のぐち たかし)は、日本の漫画家。拓殖大学出身。 1980年代後半、巻来功士のアシスタントとして『ザ・グリーンアイズ』などを手伝う。 1991年、『週刊少年ジャンプ』増刊に掲載された『リエカ』でデビュー。 『柳生烈風剣連也』『竜童のシグ』『BE TAKUTO!!〜野蛮なれ〜』といった格闘漫画(バトル漫画)を『週刊少年ジャンプ』に連載するが、いずれも短期で打ち切りに遭う。その後、活動場所を青年誌へ移し、『大空港』(原作: 城アラキ)や『傭兵ピエール』(原作: 佐藤賢一)といった原作付きの漫画を執筆するようになる。 劇画に近い独特な絵柄と横からの構図の多用が特徴。
958
野崎ふみこ
野崎 ふみこ(のざき ふみこ、1956年12月17日 - )は、漫画家。 代表作に『オリーブと3人ポパイ』など。1977年、「少女コミック」(小学館)でデビュー。
959
野中英次
野中 英次(のなか えいじ、1965年2月21日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。 1989年に投稿した『SUPER BASEBALL CLUB』が『ヤングマガジン増刊黒ブタルーキー号』に読み切りで掲載されデビュー。翌1990年から1991年まで『ヤングマガジン海賊版』において同作品を連載する。5年のブランクを経て1996年から『ミスターマガジン』において『課長バカ一代』の連載を開始。2000年に同誌が休刊するまで掲載される長期連載となった。同時期に『モーニング』で『ドリーム職人』、『しゃぼてん』を発表している。『課長バカ一代』終了後、『週刊少年マガジン』に異動した担当編集に誘われ『魁!!クロマティ高校』の連載を開始し、同作品で2002年に第26回講談社漫画賞を受賞。アニメ化や実写映画化といった各種メディアミックスが展開されるヒット作となった。その後2006年から2008年にかけて『週刊少年マガジン』で『未来町内会』を連載する。並行して『イブニング』で『ハタキ』、『good!アフタヌーン』で『赤い空 白い海』を発表するが、いずれも途中で長期休載となり未完状態である。2009年から『週刊少年マガジン』で原作のみを担当する形で『だぶるじぇい』の連載を開始(作画は亜桜まる)。2011年には『クロマティ高校』以来のアニメ化を果たすが同年内に連載を終了している。『赤い空 白い海』の長期休載以降は長らく作品を発表していなかったが、2018年に『マガジンポケット』にて『魁!!クロマティ高校』の続編『魁!!クロマティ高校職員室』を原作担当(作画は井野壱番)として7年ぶりの連載を開始した。 シュールなギャグや「あるある話」を用いることが多い。また、画風を池上遼一の絵柄に似せているのも意図的なものであり、ギャグの1つである。なお池上は野中の絵柄が自分の作品に酷似している事については認識しており容認している。 野中は自分の漫画に対し極端に無関心で、キャラクターにも愛着などないと言う態度を示している。これは自分自身もギャグの演出としていると見ることもでき、読者を逆に食ったような独特の魅力を放っている。以下に具体例を挙げる。
961