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閏年
ユリウス暦では、閏年には2月の日数を1日増やして29日とする。閏日を2月に挿入したのは、ローマ暦の初期にはMartius(後の3月)が年初でFebruarius(後の2月)が年末だったからである。厳密には共和政初期にIanuarius(後の1月)を年初とするように変更されたが、まだ古い慣習が残っていた。 ユリウス暦の置閏法では1暦年は平均365.25日となり、約128年に1日の割合で暦と季節がずれるが、これでも閏年を置かない場合に比べれば大きな進歩であった。しかし、1500年以上に亘って使われていくうちに、次第に暦と天文学上の現象がずれてきた。ローマ・カトリック教会では325年のニカイア公会議で春分を3月21日と定めてそれを基に復活祭の日付を決めることにしたが、日数が多いが故に、16世紀には天文学上の春分が暦の上では3月11日となってしまい、問題視されるようになった。 ユリウス暦では春分日がずれる問題を解決するため、ローマ教皇グレゴリウス13世は、当時を代表する学者たちを招集して委員会を作り、暦の研究を行わせた。こうして、1582年にグレゴリオ暦が制定された。グレゴリオ暦はその後数百年かけて各国で採用され、現在に至っている。 グレゴリオ暦では、次の規則に従って400年間に97回の閏年を設ける。 理解しづらければ閏年 § コンピュータシステムと閏年も参照するとよい この置閏法によると、400年間における平均1暦年は、365+97/400=365.2425日(365日5時間49分12秒ちょうど)となり、平均回帰年との差は、1年当たり26.832秒(2015年における値)となって、かなり誤差が小さくなる。この誤差による暦と季節とのずれは約3320年で1日となる。上記の但し書きを1回で表すと、「400年に3回、100で割り切れるが400で割り切れない年は、例外で平年とする」ということになる。 グレゴリオ暦では、ユリウス暦と同じく、閏年には2月が29日まである。従って、現在のグレゴリオ暦では2月29日が閏日である。しかし、西洋の古い伝統を引き継ぐ地域では、2月24日が閏日とみなされる。詳細は「閏日#欧州における歴史」(欧米で2月24日が閏日であることの由来)を参照。
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閏年
グレゴリオ暦では、ユリウス暦と同じく、閏年には2月が29日まである。従って、現在のグレゴリオ暦では2月29日が閏日である。しかし、西洋の古い伝統を引き継ぐ地域では、2月24日が閏日とみなされる。詳細は「閏日#欧州における歴史」(欧米で2月24日が閏日であることの由来)を参照。 日本においては、閏年の判定は西暦ではなく皇紀(神武天皇即位紀元)によって行うことが法令(明治31年勅令第90号(閏年ニ関スル件))により定められ、現在でも効力を有する。 明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件) 現代の表記に直すと次の通りである。 神武天皇即位紀元年数(皇紀年数)を4で割って、割り切れる年を閏年とする。ただし、皇紀年数から660を引くと100で割り切れる年で、かつ100で割った時の商が4で割り切れない年は平年とする。 これは、西暦年数から閏年を判定する方法と同値である。 なお、西暦何年が閏年であったかについては、 下2桁が4の倍数かつ400を割り切れない100の倍数を除いた年、 「[日・月・火・水・木・金・土]曜日から始まる閏年」の項目を参照。 近代オリンピックの夏季オリンピックは4年に1回、西暦年が4で割り切れる年に開催される(延期された2020年東京オリンピックは除く)。そして、1924年に開始された冬季オリンピックも、1992年のアルベールビルオリンピックまでは夏季と同じ西暦年が4で割り切れる年に開かれていた。このため、閏年はスポーツ関係を中心にしばしば「オリンピックイヤー」という名称で呼ばれている。しかし、第2回パリオリンピックが開催された西暦1900年は、閏年ではなく平年であった(100で割り切れるが400で割り切れない)ので、この呼称は正しいとは言えない。なお、西暦2100年も、100で割り切れるが400で割り切れない年数なので、夏季オリンピックが開かれる年であるが、平年である。 アメリカ合衆国大統領選挙も、最初の1789年の選挙を除き、西暦年が4で割り切れる年に実施されてきたが、それらの年は閏年とは限らない。 閏年の西暦年は必ず4で割り切れるので、閏年の十二支は子、辰、申のいずれかである。また、400年に3回の例外が来ない限り、同じ曜日の2月29日は28年周期で繰り返される(日→金→水→月→土→木→火→日)。
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閏年
アメリカ合衆国大統領選挙も、最初の1789年の選挙を除き、西暦年が4で割り切れる年に実施されてきたが、それらの年は閏年とは限らない。 閏年の西暦年は必ず4で割り切れるので、閏年の十二支は子、辰、申のいずれかである。また、400年に3回の例外が来ない限り、同じ曜日の2月29日は28年周期で繰り返される(日→金→水→月→土→木→火→日)。 西暦2000年は、3番目のルールに該当する400年に1回の閏年であった。しかし、2番目までのルールをもって、2000年を平年と誤解する者もいた。これは2000年問題の一因でもあった。次回の4で割り切れる平年は西暦2100年である。 グレゴリオ暦の閏年に関する規則より、グレゴリオ暦では400年周期で同一パターンが繰り返されることになる。この400年の総日数(365日×400+97日=146 097日)は7で割り切れるため、曜日も400年周期で繰り返すことになる。そのため、特定の日が特定の曜日(例えば3月1日が月曜日)になる割合は、厳密にいうと7分の1にはならない。また、3番目のルールに当てはまる400年に1回の閏年(いわゆる「世紀末閏年」)の2月29日の曜日は、必ず火曜日になる。この例の発生は、次回は2400年の予定である。 1582年のグレゴリオ暦への改暦後も正教会はユリウス暦を使用し続けていたが、1923年、ギリシャ正教会などいくつかの正教会は修正ユリウス暦と呼ばれる暦を採用した。この暦の導入にあたって、日付をグレゴリウス暦と合わせた上で、置閏法を以下の様に改めた。 規則の3番目がグレゴリオ暦と異なる。この置閏年では、1暦年は平均365.242 222日となり、暦と季節が1日ずれるまでに約4万3500年を要する。これはグレゴリオ暦より精度がいい。 100で割り切れる年のうち閏年となるのは、グレゴリオ暦では1600年、2000年、2400年、2800年、3200年、3600年...であるが、修正ユリウス暦では2000年、2400年、2900年、3300年、3800年...である。
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100で割り切れる年のうち閏年となるのは、グレゴリオ暦では1600年、2000年、2400年、2800年、3200年、3600年...であるが、修正ユリウス暦では2000年、2400年、2900年、3300年、3800年...である。 2800年2月28日までは両方の暦は一致している。しかし、2800年がグレゴリオ暦では閏年なのに対し、修正ユリウス暦では平年になり、そこで日付が1日ずれる。2900年は逆に修正ユリウス暦だけが閏年となり、日付は再び一致する。それ以後は断続的にこのようなずれが生まれ、5200年2月28日を最後に日付が一致することはなくなる。 太陽暦の置閏法には、閏週を挿入する方法もあり得る。 余日及び閏日を廃止し、1暦年を週の整数倍にする方法で平年は年52週(即ち364日)・閏年53週(即ち371日)とする方法である。ただし、現行のグレゴリオ暦よりも暦と季節のずれが大きくなる点が問題点としてあげられている。これまでに以下の方法が提案された。 約29年毎に閏年を設け、その年に1週間の閏週を挿入するという置閏法も可能であり、そのような暦が提案されたこともある(en:Leap week calendar)。この暦の根拠は次の通りである。 7日/(365.242 1892日 - 365日) = 28.903年 (365.242 1892日は2019年の太陽年) したがって、29年間ごとに7日の閏日(つまり1週間の閏週)を挿入すればよい。1235年につき1日の差が出る。 純粋な太陰暦では、そもそも暦と季節とを一致させないので、太陽暦のような閏日はない。その代わり、平均朔望月(29.530 589日)が1日の整数倍でないことで生じる、暦と月相とのずれを補正するための閏日がある。 ヒジュラ暦(イスラム暦)での置閏法(または、日付の付け方)には、観測に基づく方法と計算に基づく方法があるが、ここでは後者の方法(en:Tabular Islamic calendar)によるものを示す。 通常は小の月(29日)と大の月(30日)が交互に繰り返す。しかしこれでは1暦月は平均29.5日となり、月相とは少しずつずれていく。そこで、30暦年に11回、小の月に閏日を挿入して大の月とする。これにより1暦月は平均29.530 555日となり、朔望月とほぼ一致する。
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閏年
通常は小の月(29日)と大の月(30日)が交互に繰り返す。しかしこれでは1暦月は平均29.5日となり、月相とは少しずつずれていく。そこで、30暦年に11回、小の月に閏日を挿入して大の月とする。これにより1暦月は平均29.530 555日となり、朔望月とほぼ一致する。 閏日を含む年が閏年となり、暦年の長さは平年は354日、閏年は355日である。閏年はヒジュラ紀元の年数を30で割った余りが2、5、7、10、13、16、18、21、24、26、29となる年である。 この方法によるヒジュラ暦では、約2450年で暦と月相が1日ずれる。 太陰太陽暦では、暦を季節と月相の双方に一致させなければならない。そのため、理屈の上では2種類の閏がある。ただし、通常は暦と月相を一致させるシステムは閏とは呼ばれず、暦と季節を一致させるための閏のみが存在する。 太陰太陽暦では1暦年の長さは平均朔望月のほぼ整数倍でしか選べない。1平均回帰年は12.368平均朔望月なので、平年は12ヶ月(354日前後)、閏年は閏月が挿入されて13ヶ月(384日前後)となる。 閏年を2.715年に1回入れれば、平均暦年と平均回帰年が一致する。実際に行われた置閏法には、8年に3回、19年に7回(メトン周期)、76年に28回(カリポス周期)などがある。 中国暦ならびに派生した和暦(以下、まとめて中国暦と書く)では、太陽と月の運行を実際に観測し、季節と暦のずれが最小になるように閏月を入れる。具体的に述べると次のようになる。 暦月は朔日(月齢0を含む日)から次の朔日の前日までとする。冬至(太陽が黄経270°を通過する日)を含む暦月を11月とし、他の各中気(黄道上の太陽の位置が黄経30°の整数倍である日)を含む暦月を1月から12月とする。しかし、中気から中気までは平均すると30.437日で暦月の平均(=平均朔望月)より長いため、中気を含まず名前の付かない暦月が残ることがある。その暦月が閏月となる。例えば、閏月が7月と8月の間に生じたらその月は「閏7月」と呼ばれる。そして、閏月を含む年が閏年である。なお、中気の間隔は一定ではないため1暦月に複数の中気が含まれることがあるので、それに備え優先順位など細則が決められている。
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閏年
中国暦では、暦と月相の一致も実際の新月に暦月をスタートさせることで実現されている。そのため、29日の小の月と30日の大の月が不規則に出現する。ただしヒジュラ暦のような「平年」といえる状態がないため、これは閏とはいわない。 中国暦では閏年、閏月、月の大小のパターンに規則性はなく、遠い未来の暦は決定できない。その代わり、太陽と月の運行の観測を怠らず正しく運用されれば暦と月相は永久にずれることはない(ただし、太陰太陽暦である以上、暦と季節の間に最大±0.5朔望月=約15日の差はできる)。 閏年は季節と月相に対する暦のズレを補正するシステムだが、閏秒はこれとはまったく別の目的のためのもので暦とは無関係であり、原子時計により決められる協定世界時と地球の自転で決まる世界時との差を補正するためのシステムである。したがって、閏秒が実施される年であってもその年を閏年とはいわない。 コンピュータシステムにおいて閏年を判定するアルゴリズムの記述には誤りがある場合が多く、しばしばこれが原因でシステムは重大な障害を起こす。例えば、「西暦年が4の倍数である年」としかしていなかったり、year == 2000 || year == 2004のようにある程度先の閏年しかコードしていないなどが挙げられる。 この他、年数処理のバグにより、年自体を誤って判断することで閏年関係のシステムに重大な障害が発生したケースもある。2010年には二進化十進表現の問題から、2016年と認識されて「閏年である」と誤認したバグが多くみられた。→2010年問題#年数処理のバグ グレゴリオ暦の閏年は、次のどちらかで正しく判定できる。 まず、プログラムで処理しやすくするために閏年の規則を、次の4条件に読み替える。 Microsoft Excelでは、西暦年が記載されているセルをA1とすると、以下のように記述できる。 また、閏年の規則は次の1つだけの論理式に読み替えることもできる。 Microsoft Excelや他のプログラム言語では、以下のように記述できる。Microsoft Excelでは西暦年が記載されているセルをA1、他のプログラム言語では西暦年が格納されている変数をyear, YEARとする。
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閏年
Microsoft Excelでは、西暦年が記載されているセルをA1とすると、以下のように記述できる。 また、閏年の規則は次の1つだけの論理式に読み替えることもできる。 Microsoft Excelや他のプログラム言語では、以下のように記述できる。Microsoft Excelでは西暦年が記載されているセルをA1、他のプログラム言語では西暦年が格納されている変数をyear, YEARとする。 グレゴリオ暦の場合、2月29日生まれの者の誕生日は閏年に限り到来し、平年に誕生日は存在しない。このため、誕生日を基準に何かを行う場合は、平年ではその前後の日(2月28日か3月1日)を誕生日とみなす必要がある。 日本の法律では、誕生日を基準とした行政手続に限り「みなし誕生日」を2月28日としている。また、年齢計算については、もともと期間の満了は起算日応当日の前日であるところ、起算日を例外的に1日早く初日(出生日)とする関係で、1年間の満了(加齢)も1日早く誕生日の前日となる。このため、2月29日生まれの者は、平閏を問わず、毎年2月28日24時に加齢される(→満年齢、年齢計算ニ関スル法律)。
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内田有紀
内田 有紀(うちだ ゆき、1975年(昭和50年)11月16日 - )は、日本の女優、モデル、タレント、司会者、元歌手。東京都出身。本名同じ。★☆北区つかこうへい劇団第8期生。 所属レコード会社はキングレコード、所属事務所はバーニングプロダクション。 東京都広尾生まれ、裕福な家庭に育つ。小学6年生の頃に母親がモデルにスカウトされ一緒に撮影所へ向かう。その後、中学2年生からモデル活動を始め、CMにも出演していた。 1992年(平成4年)のテレビドラマ『その時、ハートは盗まれた』(フジテレビ)への出演で女優デビューし、同年冬には、ユニチカの1993年 水着キャンペーンモデルと『フジテレビビジュアルクイーン』に選出された。この頃、芸能活動に専念するために藤村女子高等学校を高2で中退。高校在学時代はフェンシングをしており、オリンピック出場を目指していた(東京都大会で3位入賞の実績がある)。映画『CAT'S EYE』では ケイン・コスギ演じる殺し屋にフェンシングで格闘し勝利するシーンがある。 1994年(平成6年)、『時をかける少女』(フジテレビ)で連続ドラマ初主演。同年10月には『TENCAを取ろう! -内田の野望- 』で歌手デビューし、オリコン史上初女性ソロ歌手のデビュー曲で初登場1位を記録。アイドル・女優として絶大な人気を得る。以降、女優業と歌を軸に活動した。 2000年(平成12年)1月、演技の勉強を基礎からやり直すとして、「北区つかこうへい劇団」に8期生として入団。それに伴って約3年間の予定で歌手業を休業、活動の場をテレビドラマ・映画から舞台へと移した。 2002年(平成14年)に同年11月28日を以て芸能界を引退することを示し、同年9月に放送されたテレビドラマ『北の国から 2002遺言』(フジテレビ)を最後に芸能界から一時引退した。その後、同年12月に『北の国から 2002遺言』で共演した俳優の吉岡秀隆と結婚。
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内田有紀
2002年(平成14年)に同年11月28日を以て芸能界を引退することを示し、同年9月に放送されたテレビドラマ『北の国から 2002遺言』(フジテレビ)を最後に芸能界から一時引退した。その後、同年12月に『北の国から 2002遺言』で共演した俳優の吉岡秀隆と結婚。 2005年(平成17年)12月に吉岡と離婚。ふたりの間には子どもはいなかった。「自分の居場所を見つけたい」として芸能界に復帰。翌2006年(平成18年)に放送されたテレビドラマ『誰よりもママを愛す』(TBS)に主演の田村正和演じる専業主夫の長女役で出演し、女優としての活動を再開した。芸能事務所もフリーの立場で独立・他所などへは移籍せず、古巣のバーニングプロダクションに復帰。 離婚後、『ビッグウイング』(TBS)で共演した柏原崇と長らく交際。その後、柏原は俳優業を引退し内田のマネージャーに転身した。このことは公にはしていなかったが、2022年放送の『A-Studio+』(TBS)において柏原の名前を伏せた上で初めて公表した。 2023年(令和5年)10月に、第19回クラリーノ美脚大賞2023 40代部門を受賞した。
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後藤久美子
後藤 久美子(ごとう くみこ、1974年3月26日 - )は、日本の女優、モデル、タレント。愛称はゴクミ。東京都杉並区出身。スイス・ジュネーブ在住。オスカープロモーション所属。 くまの幼稚園、区立大宮小学校、区立大宮中学校、多摩大学附属聖ヶ丘高等学校卒業。小学校5年生のときからモデルを始め、1986年、NHKの『テレビの国のアリス』のヒロイン役で女優デビューする。第24回ゴールデンアロー賞 放送・新人賞を受賞。以降、「国民的美少女」を謳い文句に、世に言う美少女ブームを巻き起こした。映画出演作に『男はつらいよ』(松竹)、『ラブストーリーを君に』、『ガラスの中の少女』、『シティーハンター』などがある。「男はつらいよ」シリーズには、6回に渡り同役で出演し、実現しなかった第49作『男はつらいよ 寅次郎花へんろ』にも出演が予定されていた。 1995年にフランス人F1レーサーのジャン・アレジと交際を始める。当時アレジには既に妻子があったが離婚調停中であり、その後前妻とは離婚が成立。96年には渡仏しアレジと同居を始める。2022年現在もアレジとの婚姻手続きはとっておらず、「事実婚」の夫婦である。ジャン・アレジは前妻との間に1人、後藤との間に3人の実子がいる。長男のジュリアーノ・アレジもレーシングドライバーで、2021年からは来日し、スーパーフォーミュラやSUPER GTなどに出場している。 渡仏後は妻としてまた子育てを重視しており、年に1〜2本のCM出演や女性ファッション誌の表紙モデルなどを中心に活動している。また女優業からは一線を退き、映画やドラマでの復帰はないとしている。子供の教育のためにフランスからスイス・ジュネーヴに豪邸を建築し移住し現在も在住しているが、パリやニューヨーク、モナコなどにも邸宅を所有している 。 クルマ好きでも知られ、かつてはクーペ・フィアットを自ら運転し、自身の20歳の誕生日には、150台のみ生産され現在は極めて希少価値が高いディーノ206GTを購入した。 2012年1月には事務所の後輩である武井咲と対面し話題を呼んだ(なお、武井自身はこの対面を“夢の対面”と感じたという)。 愛称の「ゴクミ」は1987年の新語・流行語大賞の流行語部門で銅賞に選ばれる。
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後藤久美子
クルマ好きでも知られ、かつてはクーペ・フィアットを自ら運転し、自身の20歳の誕生日には、150台のみ生産され現在は極めて希少価値が高いディーノ206GTを購入した。 2012年1月には事務所の後輩である武井咲と対面し話題を呼んだ(なお、武井自身はこの対面を“夢の対面”と感じたという)。 愛称の「ゴクミ」は1987年の新語・流行語大賞の流行語部門で銅賞に選ばれる。 2018年10月31日、23年ぶりに女優復帰を発表。2019年12月公開のシリーズ50作目になる『男はつらいよ お帰り 寅さん』でスクリーン復帰。当初はこの映画のみの特別な女優復帰とされていたが、2024年1月3日放送の『顔』にも出演を発表。テレビドラマ復帰を果たした。 サバサバした性格で落ち着きがあり、少女時代からハッキリとものを言うタイプであり、当時の記者会見などでも笑顔をみせず素っ気なく答える姿がたびたびバッシングの的にされていた。時折マスコミに対する発言で物議を醸すことも多かった。「ゴクミ語録」という書籍も出版されている。本人曰く「協調性がない分、孤独でも順応性が高い」。中学生当時はその協調性のなさから、共演者との軋轢や批判を生んだようだが、現在はそれが外国生活に活かされているとのこと。 芸歴は長く、前出のとおり小学校の頃からモデル活動を行っていた。同時期から活躍していたのは宮沢りえで、同学年ということもあって仲が良く、また良きライバル関係でもあった。りえとは11歳の頃、キットカットのCMで共演歴がある。 順調に芸歴を重ね、このままオスカープロの看板女優になると思われた矢先、妻子のあるアレジと交際が発覚した。交際時アレジは離婚調停中でありその後に離婚が成立、アレジの住むフランスへ渡った。以後の芸能活動は女優業を休止し、海外在住のまま行える雑誌グラビアやCMに出演する程度となっており、その他の仕事はどんなにギャラを積まれても受けないスタンスであった。
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後藤久美子
順調に芸歴を重ね、このままオスカープロの看板女優になると思われた矢先、妻子のあるアレジと交際が発覚した。交際時アレジは離婚調停中でありその後に離婚が成立、アレジの住むフランスへ渡った。以後の芸能活動は女優業を休止し、海外在住のまま行える雑誌グラビアやCMに出演する程度となっており、その他の仕事はどんなにギャラを積まれても受けないスタンスであった。 1996年に渡仏し、アレジとは実質的に結婚した。その後3人の子供(1996年に長女、1999年に長男、2007年に次男)を儲けた後、現在の居住であるスイス・ジュネーブへ移った。 現在はアレジと共にフランスにもある自宅で広大な土地を利用し、ワインの生産を行っている。このワインは、ヨーロッパでも高く評価されている。 F1引退後のアレジの現在の総資産は400億円以上と言われており、各国(パリ、モナコ、ロサンゼルス等)に別荘を持ち基本的には家事の一切をしないという生活をしていることが娘のTV出演時に語られている。 娘のエレナが2017年に世界的な名家の令嬢しか招待されないと言われている社交界にデビュー、後藤もアレジと共にパーティに参加したことがメディアで報道され、華やかなセレブ生活が話題となった。 小麦色の肌と引き締まったスレンダーな体格を特長にしており、かつては「国民的美少女」と呼ばれていた。 子役から10代前半のブレイク時は少女体型で華奢であったが、『週刊プレイボーイ』ではセミヌードを披露。「たかの友梨ビューティクリニック」のCMで披露した小麦色の肢体は、若い女性の注目を集めた。 1986年9月に刊行された『CAPA』ではだぶだぶのスーツにサスペンダーを着用するなど男性風の格好を披露している(撮影は篠山紀信)。また、1991年の大河ドラマ『太平記』では大河ドラマでは初めて、常時男装での出演となった。 2017年には娘のエレナの芸能界デビューに伴い久々に公の場に姿を見せ20歳の子供がいるようには見えないその美貌に再び各メディアに注目された。 2018年10月には約23年ぶりの女優復帰を発表し、映画の記者会見に出演した際にも「大人の女性になり、より美しくなった」等とネットで騒がれた。
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後藤久美子
2017年には娘のエレナの芸能界デビューに伴い久々に公の場に姿を見せ20歳の子供がいるようには見えないその美貌に再び各メディアに注目された。 2018年10月には約23年ぶりの女優復帰を発表し、映画の記者会見に出演した際にも「大人の女性になり、より美しくなった」等とネットで騒がれた。 2020年1月には映画のプロモーションを兼ねて滅多に出演することのないトーク番組「徹子の部屋」や「サワコの朝」出演での貴重なトークとその美貌が話題を呼んだ。中でも異例とも言える地方番組「おとな旅あるき旅」への出演は交友のあるナビゲーター三田村邦彦からのたっての願いで出演が実現した。2人は20年以上前にドラマで親子を演じておりその当時を知る視聴者から全く容姿が変わらないことや、ほとんど化粧をせずスッピンに近い状態で出演しておりそれも話題となった。 1987年3月18日にはレコードデビューも果たしている。デビュー曲の「teardrop」はオリコン最高3位を記録するが、彼女自身が歌手活動にあまり意欲を示さなかったためか、程なく女優業に専念することになった。1987年4月の「ザ・ベストテン延長戦」でランキング(11位)に登場するが、労働基準法(15歳未満の就労時間の問題)の関係で出演出来なかった。 フランス人のアレジと後藤の間に生まれた子供たちは混血児であることから、日本での差別やイジメの可能性を考慮し、外見を気にしないでのびのびと生活出来る環境で育ってもらいたいとのことで、スイスのジュネーブに邸宅を建築し移住した。また、子供の教育には非常に熱心であり厳しい面もある。長女はモデルをしている。
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後藤久美子
フランス人のアレジと後藤の間に生まれた子供たちは混血児であることから、日本での差別やイジメの可能性を考慮し、外見を気にしないでのびのびと生活出来る環境で育ってもらいたいとのことで、スイスのジュネーブに邸宅を建築し移住した。また、子供の教育には非常に熱心であり厳しい面もある。長女はモデルをしている。 過去に女優としての復帰はないとされていたが、2019年には23年ぶりに女優として映画出演することになる。その理由として「(スイスの)ジュネーブの自宅に山田洋次監督から長いお手紙が届き『新作を作りたい。どうしても君が必要だ。どうにか考えてもらえないだろうか』と書かれていた」と、熱烈な出演依頼があったことを明かした。手紙からは「山田監督の(『男はつらいよ』)シリーズに対する大きな愛情と、『新作を撮りたい』という情熱をひしひしと感じた」とし、「読み終える頃には、引き受けるか否かを私が考慮する権利すらないのではないかとの思いに至った」と出演を受け入れた心境を説明した。ただし女優としての復帰はこの映画のみの例外的なケースであり、今後もこれまで同様どれだけのギャラを積まれても女優としての出演は無いとされる。 一時期(約一年間)、アイドル歌手としても活躍していた。全て日本コロムビアより発売。
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ビビアン・スー
ビビアン・スー(Vivian Hsu、徐 若瑄〈シュー・ルオシュエン〉、1975年3月19日- )は、台湾出身のマルチタレント。歌手、女優だけでなく作詞活動など幅広く活動している。身長161cm、血液型A型。世新大学経営学修士(MBA)。 1990年代には日本のバラエティ番組に出演し、愛くるしいルックスと天真爛漫なキャラクターで人気を得た。 1975年(昭和50年)3月19日、台湾の台中県豊原市で生まれる。父親は広東省梅県区出身の客家人、母親はタイヤル族である。 1990年(平成2年)、台湾のCTSテレビ主催「台湾美少女芸能コンテスト」でグランプリを獲得。台湾の男性アイドルグループ「小虎隊」の妹分である「少女隊(中国語版)」という3人組の女性アイドルグループの一員として、シングル『Merry Christmas (P.S.I Love You)』でデビュー。 1991年(平成3年)、少女隊としてのファーストアルバム『我的心要去旅行』をリリース。 1994年(平成6年)4月、映画『ビビアン・スーの恋しくて...』に出演し、香港デビュー。 1995年(平成7年)1月、台湾で出版した写真集『天使心』の日本版『Angel』が発売され、週刊誌や月刊誌への掲載によって、日本のメディアへ登場。9月15日、大阪ギャラクシーホールで日本では初のイベント。10月、テレビアニメ『バーチャファイター』のエンディングテーマ『くちびるの神話』をリリース。 1996年(平成8年)、ゴールデンタイムのバラエティ番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)にレギュラー出演。 1997年(平成9年)、8月30日に、松竹シネマジャパネスク系の映画館にて『殺し屋&嘘つき娘』で日本映画初出演。12月、「ブラックビスケッツ」として『STAMINA』でデビュー。 1998年(平成10年)4月、ブラックビスケッツから『Timing』を発売する。オリコン、COUNT DOWN TVで初登場2位、出荷枚数は約200万枚の大ヒット。この年のCOUNT DOWN TV年間チャートでは第3位にランクイン。12月、第49回NHK紅白歌合戦に「ポケットビスケッツ&ブラックビスケッツスペシャルバンド」として初出場。日本レコードセールス大賞で新人ゴールド賞を受賞。
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ビビアン・スー
1998年(平成10年)4月、ブラックビスケッツから『Timing』を発売する。オリコン、COUNT DOWN TVで初登場2位、出荷枚数は約200万枚の大ヒット。この年のCOUNT DOWN TV年間チャートでは第3位にランクイン。12月、第49回NHK紅白歌合戦に「ポケットビスケッツ&ブラックビスケッツスペシャルバンド」として初出場。日本レコードセールス大賞で新人ゴールド賞を受賞。 2001年(平成13年)、佐久間正英を中心に土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太と「The d.e.p」を結成、ヴォーカルを担当する。5月9日、「The d.e.p」からアルバム『地球的病気』を発売。 2002年(平成14年)3月、最終回のウリナリ祭りで、ブラックビスケッツが特別復活し、ブラックビスケッツの楽曲4曲全てを熱唱した。8 - 10月、PCオンラインゲーム『エターナルカオス』のイメージガールを務める。 2003年(平成15年)、元SIAM SHADEの遠藤一馬とVivian or Kazumaとして毎日放送・TBS系TVアニメ『機動戦士ガンダムSEED』のオープニング曲を歌う。作中では、声優としてアイシャの声を当てた。 2006年(平成18年)2月、持病の外反母趾が悪化し、主演映画『靴に恋する人魚』の台湾上映PR直後に台湾の病院に入院、5時間の手術を済ませ、療養しながら仕事復帰。7月、『靴に恋する人魚』公開前プロモーションのため来日。また、療養中に作詞活動を行う。9月、新アルバム『Vivi and...』を台湾で発売。香港、シンガポール、マレーシアの各国をプロモーションで廻った。 2007年(平成19年)1月下旬、主演ドラマ『天使の約束』が日本で放送される。2月から約2か月間アメリカに留学し、英語、歌やダンスなどを学ぶ。3月15日、台湾の台北市で開かれた下着メーカーのモードマリエのファッションショーに出演し「前はBカップだったけど、今はCカップに成長した」と述べる。8月、ワーナーミュージックに移籍する。10月、第20回東京国際映画祭協賛企画・2007東京・中国映画週間オープニング映画として上映された『雲水謡』に出演。
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ビビアン・スー
2008年(平成20年)2月、旧正月(2月7日)前あたりから父親の看病に専念するために一時的に休業するが、3月に復帰する。4月、中国各地を代表する100人の1人として、オリンピック100日記念イベントの主題歌『北京歓迎你』を歌う。5月、張惠妹の応援で林志玲(リン・チーリン)と共に来日。 2009年(平成21年)3月20日、沖縄国際映画祭にて中国映画『狙った恋の落とし方。』(映画祭邦題:If You Are The One)の舞台あいさつをするために来日、秋以降に日本語のCDを発売すると発表。 2010年(平成22年)、テレビアニメ『くるねこ』のテーマソングをきっかけに日本での活動を本格的に再開する事が決定。また、ピーター・ホーと共に上海万博のテーマソング『微笑说你好』を歌う。シングル『Beautiful Day』、『NICE AND NAUGHTY』を発売。 2011年(平成23年)、アルバム『Natural Beauty』を発売。 2014年(平成26年)2月、シンガポールの大手海運業zh:馬可波羅海業の二代目CEOである李雲峰(Sean Lee)と入籍したことを発表。同年6月にバリ島で結婚式を挙げ、招待客に祝福された。その後、台湾でも式を挙げたという。 2015年(平成27年)8月、シンガポールの病院で男児を出産。 2020年(令和2年)7月、映画『コンフィデンスマンJP -プリンセス編-』に出演。 2021年(令和3年)11月、体調不良のため入院したことを公表。 2022年(令和4年)12月3日、音楽特別番組『日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト』に出演するため、先述の映画公開挨拶以来2年ぶりに訪日した。出演は歌手としてで、同局系で1999年までレギュラー出演していた先述の『ウリナリ!!』発のユニット・ブラックビスケッツの楽曲を同番組最終回の2002年(平成14年)3月以来、約20年半ぶりに歌唱。 2023年(令和5年)12月10日、instagramにて李雲峰(Sean Lee)と離婚したことを公表。
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森本さやか
森本 さやか(もりもと さやか)
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吉田里深
吉田 里深(よしだ さとみ、1979年8月5日 - )は、日本のグラビアアイドル。 1996年、現役女子高生水着アイドルとしてグラビアデビュー。同年10月、初の写真集である『Sixteen Revolution』を出版。 1998年、10月に日本旅行の「赤い風船」イメージガール」に選ばれる。また、ハウス食品のカレーのTVCMに出演。 時期不明だが一時期イエローキャブに所属していた。 1999年8月4日、east west japanからHAKUEIプロデュースでCDミニアルバム『Fairy Tale』を発売。 2001年3月、写真集『Sensational Skin』を発売。 2014年7月、芸能事務所GOLDSTARに所属。 2020年3月、株式会社 ENA ENTERTAINMENTに所属。
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暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、 となる。 「こよみ」の語源は、江戸時代の谷川士清の『和訓栞』では「日読み」(かよみ)であるとされ、定説となっており、一日・二日...と正しく数えることを意味する。ほかに、本居宣長の「一日一日とつぎつぎと来歴(きふ)るを数へゆく由(よし)の名」、新井白石は「古語にコといひしには、詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり」などの定義がある。 暦は、地球の自転を元にした日、月の公転を元にした月、地球の公転を元にした年など、いくつかの単位に細分化されている。 このうち古代の人々がまず最初に気づいたのは太陽の出没、すなわち1日であった。また、季節の推移と、それが一定の周期で一巡することにも気付き、年の概念が現れる。さらに周期的な月の満ち欠けに気付き、これが12回繰り返すと季節の一巡することに気づいた。こうして日・月・年の単位が成立した。暦月が月の満ち欠けと一致するのは太陰暦だけで、太陽暦と月の動きは全く関連付けられていないが、それでも多くの言語で暦月と月の名称に関連があり、また太陽暦でも通常1ヶ月が30日前後となっているのは太陰暦の名残であると考えられている。
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天体の運行に基づいた年月日とは異なり、週は自然現象に起源を持たない。月と日の間の計測単位は各文明によってさまざまで、例えば古代中国では月を3分し10日を1単位とした旬という単位を用いており、これは現代日本でも使用される。また、古代ローマでは7日制以前には8日を1周期とする週が使用されていたほか、4日や5日、6日、15日など、多くの周期が用いられていた。週と曜日の起源は古代メソポタミア文明にさかのぼる。メソポタミア文明では7が聖数であったため、当時判明していた7つの天体(月・火星・水星・木星・金星・土星・太陽)にそれぞれ1日を割り当て、7日で1周期となるようにした。ただし、7日周期に関しては古代エジプトが発祥であるとする文献もある。いずれにせよ古代オリエントにおいて1週間7日制が成立し、これが周辺文明に伝えられ、ヨーロッパではローマ帝国期に一般的に使用されるようになった。このため各曜日の名称は本来天体名に由来するが、周辺文明においてはあとから取り入れられた概念であるため天体と曜日の結びつきが薄く、例えばヨーロッパ諸言語においては太陽(日曜日)と月(月曜日)は天体由来名が残ったものの、惑星由来の5曜日については独自の名称が取り入れられ、天体との関係が消滅した。週は中国を経由して日本にも伝わり、10世紀末からは七曜として暦に記載されるようになったが、これは主に吉凶を判ずるためだった。その後、明治に入りグレゴリオ暦を採用すると、週は生活の上で重要な位置を占めるようになった。 古代の人々は生活の中で季節の存在やそれにともなう自然現象の推移に徐々に気づいていき、その体験を元にある程度の「月」を定めて農業や狩猟などの目安とするようになった。これが暦の起こりであると考えられている。その性質上、原始的な暦は1ヶ月の長さが不定であり、また後世の暦のように1年が正確に繰り返されるような性質のものでもなかった。こうした原始的な暦は自然暦と総称されている。こうした自然暦には、かつてイヌイットが周辺の環境変化に基づいて作成した暦や、オーストラリア・アボリジニのヨロンゴ人が風向に基づいて使用していた暦など、さまざまな種類が存在する。
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次いで、月の満ち欠けの周期が暦として使用されるようになった。太陰暦である。太陰暦では「何日」と月のみかけの形が一致するためわかりやすく、また月齢と潮の干満が対応しているため漁業には適しているものの、完全な太陰暦においては一年が約354日であり、太陽暦に比べ11日短くなるため、3年間で33日、つまり1か月ほどずれてしまい、実際の季節と大きく食い違ってしまう。このため太陰暦が使用されはじめたころは、1年の終わりと翌年の始まりの間に何日かの空白があったと考えられている。また季節がずれていく性質上、農業での使用には適していないため、完全太陰暦の使用例は歴史上極めて少ない。21世紀において完全太陰暦を使用しているのはイスラム教圏で採用されているヒジュラ暦のみである。ヒジュラ暦は閏月を排除し、完全に月の満ち欠けのみによった完全太陰暦であるが、このためイスラム暦は太陽暦に比べ毎年11日程度短く、33年でほぼ1年のずれを生じる。 やがて、月の運行と季節のずれを調整する方法として太陽暦を補助的に使用し、閏月を挿入することで実際の季節と暦とのずれを修正する方法がとられるようになった。これが太陰太陽暦である。閏月の挿入は、導入当初は社会の指導者たちが状況に応じ適宜挿入を決定したと考えられているが、やがて天文学の発達によって正確な置閏法が定められ、決められた時期に閏月が挿入されるようになった。置閏法としては、19年に7度の閏月を挿入するメトン周期がギリシアで使用されており、また中国でもこの方法で閏月が挿入されていた。太陰太陽暦は多くの世界で採用され、バビロニア暦、ユダヤ暦、ローマ暦、ヴィクラム暦、中国暦など多くの暦法が存在する。
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これに対し、太陽が黄道上のある点を出てその場所に戻ってくるまでの周期、いわゆる太陽年を暦として使用するのが太陽暦である。太陽暦は太陰暦に比べずれが非常に小さいものの、正確な太陽年は365.2422日であるため、適切な間隔で閏日をおかない限り、やがて季節とのずれが生じる。太陽暦が最初に制定されたのは古代エジプトで、ナイル川の氾濫の時期とシリウスの動きの周期が近似していることから考案されたとされる。これはシリウス暦と呼ばれ1年が365日となっていたが、閏日が制定されていなかったため長い年月のうちに季節と暦のずれが生じるようになった。このためプトレマイオス朝期に4年に1度の閏年が設けられるようになり、これがユリウス・カエサルによって共和政ローマに持ち込まれ、ユリウス暦として長く使用された。またイランにおいてはイスラム教伝来後も、ヒジュラ暦が季節を示す役割を持たなかったため、農業上や行事上の要請から旧来の太陽暦が存続・発展し、イラン暦として現代でも使用されている。このほかにも、エチオピア暦、シャカ暦やコッラム暦といったインドのいくつかの暦は太陽暦となっている。 ユリウス暦はかなり正確なものであり、暦と太陽年のずれは128年に1日に過ぎなかったものの、ユリウス暦施行から1000年以上経つとそのずれは無視できないほどにまで広がっていた。そこで1582年にローマ教皇グレゴリウス13世によって改暦が行われ、より正確なグレゴリオ暦が導入された。グレゴリオ暦はカトリック圏ではほぼ即座に採用され、プロテスタント圏では18世紀、ギリシア正教圏では20世紀に入ってから導入された。また1873年の日本を皮切りに非西欧諸国でも相次いでグレゴリオ暦が採用されるようになり、21世紀にはほとんどの国でグレゴリオ暦が使用されている。
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中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本書紀』には欽明天皇14年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。元岡古墳群(福岡県福岡市)出土の金錯銘大刀(庚寅銘大刀)には「庚寅正月六日庚寅」の銘文があるが、元嘉暦に基づけば570年1月6日と推定され、これが日本における最古の暦使用を示す考古資料となる可能性がある。また、推古天皇10年(602年)に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。 平安時代に編集された『政事要略』という本には推古天皇12年(604年)から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では持統天皇4年(690年)の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事が初めてであり、正式採用は持統天皇6年(692年)からという説がある。文武天皇元年(697年)8月からは元嘉暦が廃され、儀鳳暦が専用された。儀鳳暦は唐で施行された麟徳暦のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは朔日の決定方法と閏月の置き方である。朔日については、前者は平朔を、後者は定朔を使用していた。また、置閏法については、元嘉暦が19年7閏月という章法を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない破章法を用いていた。 儀鳳暦以降、天平宝字7年(763年)に大衍暦、天安2年(858年)に五紀暦、貞観4年(862年)に宣明暦と、唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行されたが、その後改暦は行われず、宣明暦は江戸時代の1684年まで823年間も施行された。実際の毎年の暦の作成・頒布は暦博士などの暦道の人々が行った。 江戸時代になると日本でも独自に天文暦学が発展した。長期にわたって改暦が行われなかったことから、置閏に必要な二十四節気測定に、誤差が累積してずれが目立ちはじめ、置閏に問題をきたすようになった(旧暦は朔日(新月)を1日とするルールだが、それは破綻していない)。このような中で、渋川春海が最初の日本独自の暦法である貞享暦を作るのに成功し、貞享元年(1684年)に改暦が行われた。
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江戸時代になると日本でも独自に天文暦学が発展した。長期にわたって改暦が行われなかったことから、置閏に必要な二十四節気測定に、誤差が累積してずれが目立ちはじめ、置閏に問題をきたすようになった(旧暦は朔日(新月)を1日とするルールだが、それは破綻していない)。このような中で、渋川春海が最初の日本独自の暦法である貞享暦を作るのに成功し、貞享元年(1684年)に改暦が行われた。 貞享暦以後、宝暦5年(1755年)宝暦暦が施行されたがあまり正確なものではなく、寛政10年(1798年)には高橋至時や間重富らによって寛政暦が作製され施行された。そして弘化元年(1844年)には日本で最後の太陰太陽暦となる天保暦が施行された。天保暦はこれまでに実施された太陰太陽暦の中で最も精密なものといわれ、当時中国で用いられていた時憲暦を上回ったと評されているが、当時の世界の流れに逆行して不定時法を導入するなどの問題点もあった。 幕末に開国が行われ欧米諸国との貿易が本格化すると、日付や年のずれからトラブルが発生し、またこれら諸国の採用する太陽暦が使いやすく世界中で広く使用されていることから、日本でも太陽暦採用を求める動きが出はじめ、明治5年11月に明治政府によってグレゴリオ暦施行が決定されて、翌明治6年(1873年)から導入された。 現在でも民間では太陰太陽暦は年中行事や占いのために用いることがあり、これを旧暦と呼んでいるが、これは閏月の置き方を天保暦に借りはしているものの数値や計算法は現代の理論に従っているので、厳密には天保暦と同義ではない。また、すでに公的には廃止された暦であるため公的機関によるメンテナンスが存在せず、2033年には旧暦の月が決定できない旧暦2033年問題が発生することが予想されているため、いくつかの解決案が提唱されている。現在の中国でも太陰太陽暦が農暦という名で使われており、基本的に日本の旧暦と同じであるが、1時間の時差のために日がずれることが少なからずある。 暦法によって定められた年の記し方を紀年法と呼び、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく紀元、君主や統治者、政体の統治期間などによって期限を区切られる元号、一定の期間で循環する周期によって年を表わす方法が存在する。
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暦法によって定められた年の記し方を紀年法と呼び、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく紀元、君主や統治者、政体の統治期間などによって期限を区切られる元号、一定の期間で循環する周期によって年を表わす方法が存在する。 紀年法についても、「西暦」「中華民国暦」「主体暦」のように接尾語として「暦」が用いられることがあるが、暦法と混同してはならない。 紀元の例としては、セレウコス朝ではセレウコス1世のメソポタミア占領を紀元とするセレウコス紀元を用いていた。キリスト教徒の間では、まずローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位した284年を紀元とするディオクレティアヌス紀元が広まり、さらに6世紀にはディオニュシウス・エクシグウスによってイエス・キリストが生誕したとされる年を紀元1年とするキリスト紀元(AD)が導入された。このキリスト紀元は世界で広く使われているが、その起源や名称から非キリスト教信者や世俗主義者の批判を浴びることがある。このほか日本の皇紀、中華民国(台湾)の中華民国暦、北朝鮮の主体暦などいくつかの紀元法が存在する。 古代ギリシアでは、当該年の統治者の名を用いて年を表わすことが広く行われていた。しかしギリシアは多数の都市が存在していたため、複数の都市にまたがる事柄を記録する際には、当該都市の氏名と統治者を全て列記する必要があった。この方法は古代ローマにおいても踏襲され、当該年のコンスル2名の名をもって年を表わしていた。 古代オリエントでは王の治世期間で年を表記する紀年法が広く使われた。この即位紀元は古代中国においても広く使用されたが、前漢の時代に在位中に紀元を改める改元が始まり、武帝の時代に入るとこれに名前をつけ、元号が創始された。改元は君主の代替わりだけではなく、吉事や天変地異などさまざまな理由で行われ、本来は君主の統治期間と連動しているわけではなかったが、明代に一世一元の制が始まって君主の統治期間と元号が一本化された。 周期を用いる紀年法としては、古代ギリシアでは4年に1度開催される古代オリンピックを1周期とし、「第○オリンピア紀第×年目」のように年を表わすオリンピアード(オリンピア紀元)が用いられた。また中国では、十干と十二支を組み合わせ60を1周期とする干支が紀年法に用いられ、日本でも長く使用された。
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周期を用いる紀年法としては、古代ギリシアでは4年に1度開催される古代オリンピックを1周期とし、「第○オリンピア紀第×年目」のように年を表わすオリンピアード(オリンピア紀元)が用いられた。また中国では、十干と十二支を組み合わせ60を1周期とする干支が紀年法に用いられ、日本でも長く使用された。 日本で暦が用いられだした当初は干支を年の表記として使用していたが、645年に日本最初の年号である大化が制定され、和暦がはじまった。その後は幾度かの空白を挟みながら断続的に年号が制定されていたが、701年に大宝の元号が定められ、あわせて以後の公文書には必ず元号表記を用いることが定められたため、以後元号制度は固定化され、中断することはなくなった。明治天皇の即位した1868年には一世一元の詔が発せられ、日本でも一世一元制が施行された。その後、旧皇室典範の失効により一時元号の法的根拠が不明確なものとなったが、1979年に元号法が定められて元号の法的根拠および改元の要綱が定まった。 21世紀においてはほとんどの国家でグレゴリオ暦が使用されており、イスラム圏のように元々はヒジュラ暦を用いる地域においても、公式にはグレゴリオ暦を用いる国がほとんどである。グレゴリオ暦使用はさらに拡大しており、2016年にはこれまでヒジュラ暦を公式の暦としていたサウジアラビアが、公式暦のグレゴリオ暦への変更を発表した。ただし旧来の暦が完全に廃棄されたわけではなく、新旧両暦の併記・併用は珍しくない。 紀年法についても、多くの国ではグレゴリオ暦と一体化しているキリスト紀元(AD)が使用されている。一方で、いくつかの国ではグレゴリオ暦を使用しつつ、紀年法においてはキリスト紀元のかわりに独自のものを採用している。例えばタイ王国では釈迦が入滅した翌年の紀元前543年を紀元とする仏滅紀元を採用しており、また中華民国では建国した1912年を紀元とする民国紀元が西暦と併用される。1997年には、北朝鮮において金日成の生誕年である1912年を紀元とする主体暦の使用が開始された。また、日本においては元号の使用が世界で唯一残存しており、2019年5月1日には令和への改元が行われた。
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世界の暦法はほとんどの地域でグレゴリオ暦へと切り替えられたが、旧暦によって行われていた年中行事や祭日が新暦へ直接移行するわけではないことが多い。例えば日本では、雛祭りのように完全に新暦へと移行したもの、新暦の8月13日から8月16日にかけて行われるお盆のように、旧暦に配慮して1ヶ月だけ行事を遅らせる月遅れ、そして十五夜のように完全に旧暦のまま行うものが存在する。中国や韓国、ベトナムでは新暦移行後も旧暦の正月である春節を盛大に祝っている。またロシア正教会やジョージア正教会、セルビア正教会など一部の正教会は祭日を従来のユリウス暦で行っているため、これらの国々ではクリスマスはユリウス暦の12月25日(グレゴリオ暦では1月7日)に行われる。イスラム圏の国々ではヒジュラ暦に基づいて行事や祭礼が行われるが、特にラマダーンの開始は目視による新月の観測から求められるため、実際には日取りがずれることが珍しくない。 現在世界の大部分で使用されているグレゴリオ暦は精度が高いものの、1ヶ月の日数が一定でないことや、1ヶ月が7の倍数でないため週とのかみ合わせが悪く日付と曜日が一致しないこと、そしてキリスト教色が強すぎるといった問題点が存在するため、それを改善するための改暦案が数多く提案されてきた。1793年にはフランスの国民公会がフランス革命暦を制定し、グレゴリオ暦からの脱却を図ったものの、週の廃止や時制の十進法への変更などといった急進的すぎる改革は大きな混乱を生み、1806年にはナポレオンによって廃止された。フランス革命暦の失敗後、1か月を28日で固定し1年を13か月とするオーギュスト・コントの実証暦(英語版)や国際固定暦のような13の月の暦、また暦日と曜日が固定できる世界暦といったさまざまな改暦案が提唱されたものの、実現せずに終わった。2012年には閏週の挿入によって曜日と日付を固定させるハンキ=ヘンリー・パーマネント・カレンダーが提唱されたものの、採用の見込みはほぼ存在しないと見なされている。
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この場合、暦とはいわずカレンダーということが多い (詳しくはカレンダーの項を参照)。主に予定管理などに使われる。形式は日めくり、月めくりなど様々なものがあり、月めくりのカレンダーの場合だけでも月曜始まりと日曜始まりの2種類がある(稀に土曜始まりもある)。そのほかにも、1日1日が分離されていてパズルのように組み立ててカレンダーにする、というものもある。 カレンダーの始まりは年初である1月であるものが多いが、日本の学校や会社などでは年度の始まりである4月を先頭とするカレンダーも存在する。カレンダーは印刷業者や出版業者によって生産され、おもに翌年に備えて年末に購入されることが多い。また、日本では宣伝などのために一般企業が生産業者に社名入りのカレンダーの制作を依頼し、粗品として配布されることも多い。カレンダーが各種企業や団体からの依頼で受注生産されることは世界でもほぼ共通で、宗教団体や公的機関、民間団体、企業といったさまざまな団体名義のカレンダーが世界中で発行されているほか、商品として販売されるものが存在することも同様である。 日本では大宝元年(701年)に陰陽寮が設置され、そこに置かれた暦博士が暦を制作し、御暦奏の後に官庁へと頒暦していた。ここで制作された暦は吉凶判断のための様々な暦注が漢文で記されたいわゆる具注暦だったが、平安時代後期には簡略化され仮名文字で書かれた仮名暦も広く発行されるようになり、また暦道が幸徳井家の家職化された。一方、鎌倉時代になると暦の需要が高まって具注暦や仮名暦の筆写では供給が追いつかなくなり、木版印刷による摺暦の生産が始まった。摺暦は伊豆国の三島で始まったと考えられており、三島暦をはじめとして京暦や大宮暦など日本各地で盛んに発行されるようになった。こうした暦は地方暦と総称される。江戸時代に入ると御師の手によって伊勢神宮信仰が全国に広まるが、彼らが御札を配布する際に土産として伊勢暦を配布したことから、伊勢暦が暦の代名詞となるまでに普及したが、各地方でも特色ある暦が作成・配布され続けた。なかには非識字者を対象に文字を使わず絵や記号で暦を表示した、南部絵暦に代表される盲暦や、大の月・小の月の順番のみを記し贈答品として流行した大小暦といった暦が作られたのもこの頃のことである。
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明治時代に入ると、従来の頒暦者たちを統合して明治5年に頒暦商社が設立されたが、同年にグレゴリオ暦への改暦が行われたため、すでに翌年分の旧暦で暦を作成していた頒暦商社は大損害を受けた。この救済として商社には10年間の専売権が与えられたが、新暦では従来の暦に記載されていた暦注の記載が禁じられたため使い勝手が非常に悪く、商社の専売権が終了した明治15年頃からは暦注を記載した違法のお化け暦が盛んに発行されるようになった。また明治16年からは神宮司庁により神宮暦の発行がはじまった。 中国の歴代王朝においては、天象を把握して正確な暦を策定し施行することは観象授時と呼ばれ、王朝の責務とされていた。このため、暦は強い政治性を持つようになり、王朝や支配者が交代した際にはしばしば改暦が行なわれた。また臣下や支配地域では王朝の定めた暦を施行することが義務づけられた。このため、暦を受けいれることを意味する「正朔を奉ずる」という言葉が、そのまま王朝の統治に服することを意味するようになった。この暦の使用は冊封体制下にある全ての国家でも義務づけられ、独自の暦を作成・使用することは禁じられていた。この元号強制により朝鮮半島では新羅中期以降は独自元号の使用は停止され中国元号が使用されたものの、日本では645年以降、ベトナムでは970年以降独自元号が制定され使用され続けた。 中国の暦は、月日の決定だけでなく日月食の予報や惑星運行の推算(天体暦)などを扱うものであった。過去に関する記録は「歴」、現在から未来に関する記録は「暦」であるが、これをともに扱う役職を史官といい、今でいう歴史学者と天文学者を兼ねていた。 また暦は未来を扱うものであるから、予言的な性格をもち、占星術と大きく関わる。これは東洋においても同様であり、旧暦にはさまざまな暦注が付くのが常であった。こうした暦注には二十四節気などの有用なものもあったが、大半は吉凶判断などに使用するものであったため、明治政府は新暦変更後に一切の暦注の表示を禁止した。しかし暦注が全くないのは不便だったためにまもなく暦注を記載した違法カレンダーであるおばけ暦が流行するようになり、旧来のものに加えて六曜や九星といった新たな暦注も暦に入り込むようになった。
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ニュートリノ天文学
ニュートリノ天文学(ニュートリノてんもんがく、英: neutrino astronomy)は、天文学の一分野。太陽や超新星爆発で生成されるニュートリノを観測し、天文現象の解明に役立てることを目的とする。ニュートリノ天文学はまだ発展途上の分野であり、確認されている地球外のニュートリノ源は太陽と超新星SN 1987Aのみである。 観測装置としてはカミオカンデ(解体済み)、スーパーカミオカンデ、カムランド、サドベリー・ニュートリノ天文台 (SNO)、ANTARES、BDUNT、 アイスキューブなどがある。 東京大学名誉教授の小柴昌俊、ペンシルベニア大学名誉教授のレイモンド・デービスがニュートリノ天文学のさきがけとなる成果をあげたとして、2002年にノーベル物理学賞を受賞した。 宇宙から飛来するニュートリノを検出する試みは1960年代から行われている。 1964年には、レイモンド・デービスらのグループが太陽ニュートリノを検出するために行われた予備実験の成果を報告している。 1967年から、デービスはアメリカ合衆国サウスダコタ州にあるホームステイク鉱山(英語版)に設置した装置で太陽ニュートリノの観測を行い、太陽が核融合反応を起こしている証拠をつかんだ。しかし同時に、観測されたニュートリノが理論値の3分の1しかないという問題が発見された。これは太陽ニュートリノ問題と呼ばれる。 一方、1983年からカミオカンデで陽子崩壊実験を行っていた小柴らのグループは、1985年からペンシルベニア大学のグループと共同で実験装置を太陽ニュートリノの検出に使えるよう改造し、1987年1月1日から運用を開始した。これによって1989年、デービスの提唱した太陽ニュートリノ問題の存在を確認した。 1987年2月23日、南半球に超新星 SN 1987A があらわれ、重力崩壊に伴うニュートリノバーストが日本のカミオカンデ、アメリカのIMB、ロシアのBaksan(英語版)の3箇所のニュートリノ検出器で検出された。観測成果はカミオカンデのグループによりまとめられ、同年4月に発表された。これにより、超新星爆発の理論モデルの正しさが検証された。一般にはこの出来事をもってニュートリノ天文学の幕開けとされる。
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ニュートリノ天文学
2002年、サドベリー・ニュートリノ天文台の研究チームによって、太陽由来とされるニュートリノからニュートリノ振動が検出され、太陽内部から放出されるニュートリノ減少に関する問題が解決された。 2006年現在、地球内部からの反電子ニュートリノを捉える実験等が進められている。また、アイスキューブ・プロジェクト等によって国際観測網の整備が進められている。
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兼六園
兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市に存在する日本庭園である。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタール。 17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』では、最高評価の3つ星に選ばれた。園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。 金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、国立工芸館、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館を肇めとした文化施設(兼六園周辺文化の森)などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。 兼六園の管理等に関しては石川県都市公園条例で定められており、石川県都市公園条例施行規則で開園時間や入園料、無料入園期間などが定められている。 1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で焼失した。それから15年後の1774年(安永3年)、10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興され、同年に翠滝と夕顔亭、1776年(安永5年)には内橋亭を造り、庭園が整備された。また、蓮池庭上部にある平坦な場所で当時は空き地になっていた千歳台に藩校である明倫堂と経武館を建てた。
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兼六園
11代藩主の前田斉広は、1819年(文政2年)に37歳で隠居を表明した後、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在のいしかわ四高記念公園の場所に移した。3年後の1822年(文政5年)には建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と命名された。斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されるが、斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた。 長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。 1874年(明治7年)5月7日から正式に一般公開され、1876年(明治9年)には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。24時間開放されていたが、石の持ち去りや灯籠の破壊などが後を絶たず、保存徹底の声が上がるようになり、維持・保存費用捻出も兼ねて1976年(昭和51年)から有料とし、時間を限って公開されるようになった。1985年(昭和60年)に特別名勝に指定された。 兼六園の名前は1822年(文政5年)、前田斉広の依頼に応じて白河藩主だった松平定信(白河落翁)が命名したとされることが多い。兼六の語源は宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』の中で中国洛陽の名園・湖園を「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳った文をもとに命名した。その文は以下の通り。 務宏大者少幽邃、人力勝者少蒼古、多水泉者艱眺望 兼此六者、惟湖園而已
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兼六園
兼六園の名前は1822年(文政5年)、前田斉広の依頼に応じて白河藩主だった松平定信(白河落翁)が命名したとされることが多い。兼六の語源は宋の詩人・李格非の『洛陽名園記』の中で中国洛陽の名園・湖園を「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」と謳った文をもとに命名した。その文は以下の通り。 務宏大者少幽邃、人力勝者少蒼古、多水泉者艱眺望 兼此六者、惟湖園而已 しかし、松平定信自筆「花月日記」文政5年(1822年)9月20日の記載には、「大塚へ行。秋色をミて、ただちにかへる。加賀の大守より額字をこふ。兼六園とて、たけ三尺ニ横九尺也。兎ぐの額にハいとけやけし、兼六とハいかがと、とひにやりぬ。」とあり、兼六園の額字を頼まれた松平定信が兼六園の意味を知らなかったことから、この時点ですでに兼六園という名前があったことがわかる。 また、「明治園芸史」220頁に「前田候第12世斉広朝臣、証金龍造園竣功の後に、此湖園記文より、兼六という文字を取りて、園名と為し、白河少将楽翁公の揮毫を請ひて、扁額を作り、之を園門に揚げられしと云ふ、」とあり、加賀藩主斉広が命名したことがわかる。 定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されている。 兼六園は、小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。 読みは「ことじとうろう」。霞ヶ池の北岸に位置する灯籠で、兼六園を代表する景観となっている。脚が二股になっており、琴糸を支える琴柱に似ていることから名付けられた。高さ2.7メートルの灯籠の脚は、長さが異なる。1863年(文久3年)の「兼六園絵巻」には、現在とは別の場所に両脚が同じ長さで立っている姿が見えることから、明治維新前後に何らかの理由により、片足が短い形で現在の場所に移されたと考えられる。現在の灯籠は昭和53年に設置された2代目。現在の2代目の灯籠を含め、昭和37年から54年までの間に池の中に6度倒され、破損されたため、初代灯籠は公園事務所に保管されている。
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兼六園
12代藩主前田斉泰が金沢城二の丸に噴水を上げるために試作したとされ、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。噴水のある場所より高い位置にある園内の水源・霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。そのため、水が噴き上がる最高点は、ほぼ霞が池の水面の高さに相当する。ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。 1880年(明治13年)に西南戦争で戦死した石川県戦士400人を慰霊するために建てられ、日本最初の屋外人物の銅像である。中央に日本武尊像(身長5.5m)、左に石川県戦士忠碑があり、両脇には京都の東本願寺・西本願寺の門跡から移された手向松が植えられている。明治記念之標の土台となっている石は、もともと金沢城玉泉院丸庭園にあったものである。西南戦争での戦死者を、九州の熊襲を平定したヤマトタケルになぞらえ建立された。 なお、この日本武尊像には、「ハトが寄り付かない」という逸話がある。金沢大学名誉教授の廣瀬幸雄は、このことを研究対象として、像の構成要素を調べることで「鳥を寄せ付けない合金」を開発し、2003年のイグノーベル賞を受賞した。 5代藩主前田綱紀の頃からあった建物で、明治時代に取り壊された。2000年(平成12年)に現在地に復元され、休憩処として来園者に開放されている。 霞ヶ池に面して立っているクロマツの木。13代藩主斉泰が、近江八景の一つである琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて育てたものである。 兼六園菊桜は300枚以上の花弁がつく兼六園発祥の桜の品種で、初代は慶應年間(1865~1868)に孝明天皇より前田斉泰に下賜されたという伝承があり「御所桜」とも呼ばれて1928年(昭和3年)に天然記念物に指定されたが1970年(昭和45年)に枯死した。ただし枯死した時点で樹齢250年以上と判定されているので下賜の件はあくまでも伝承に留まる。なお現在の菊桜は接ぎ木で増殖した2代目だが樹勢が弱い。これとは別に兼六園発祥の桜の品種としては、大輪で濃い目の淡紅色の花弁を付ける一重咲きの兼六園熊谷も存在し、こちらは樹勢が強く見栄えがする。
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兼六園
前田家12代前田斉広が建設した竹沢御殿は、同13代前田斉泰に取り壊され、竹沢庭の改修が行われた。1837年(天保8年)には、泉水の付け替え、掘り足しの工事が行われ、掘った排土を用いて、栄螺山が築かれた。1839年(天保10年)には、山頂に三重の石塔が建てられた。この石塔は、真龍院と栄操院が、斉広の供養のために建立したもので、戸室山から切り出した石で造られている。 雁行橋は、11枚の赤戸室石を、雁が夕空を飛んで行くように作られていることから名付けられている。1枚1枚の石が亀の甲の型をしているため、亀甲(きっこう)橋の別名がある。この橋を渡ると長生きができるということから、大勢の人が渡ったために、石がすり減ってしまい、今は渡ることができない。 など 成巽閣 園の東南側に位置し、1863年(文久3年)に前田斉泰が母親である眞龍院の隠居所として建てられた。金沢城から見て巽(東南)の方向にあること、京都の鷹司家が辰巳殿と呼ばれていたことから当時は巽御殿と呼ばれていた。1929年(昭和4年)に飛鶴庭が国の名勝に指定された。建物は1938年(昭和13年)に当時の国宝保存法に基づき旧国宝(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定され、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い重要文化財となっている。 石川県立美術館別館・石川県文化財保存修復工房 石川県立美術館別館・石川県文化財修復工房は、もともと石川県庁出羽町庁舎内にあった文化財修復工房を移転リニューアルしたもの。表具・漆芸品の各修復室と展示スペースなどからなり、展示スペースでは、実際に文化財を修復している現場を見学することが出来る。もともとは、1922年(大正11年)に陸軍第9師団長の官舎として建てられた木造2階建の洋館。戦後は家庭裁判所、児童会館、野鳥園などに使用され、2016年(平成28年)から現在の用途で使用されている。 その他の施設 2018年(平成30年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
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篠原とおる
篠原 とおる(しのはら とおる、1936年4月28日 - )は、日本の漫画家。男性。愛媛県新居浜市出身、現在は大阪府八尾市在住。愛媛県立新居浜工業高校卒業。 代表作に『さそり』『にっぽん競馬伝』『ワニ分署』『河内残侠伝 軍鶏』など。 1955年、愛媛県立新居浜工業高校卒業後、大阪の自動車部品工場を入社するも10ヶ月で退社し、マンガ芸術院で通信教育を受けながら雑誌に投稿する。 1958年、「覆面博士」が童心社より初出版される。 1962年、影丸穣也・さいとう・たかを・佐藤まさあき・辰巳ヨシヒロ・水島新司等が所属していた大阪の日の丸文庫で描き始める。 1967年、「女豹マコ」「人間昆虫記」「ズベ公探偵ラン」などの女性主人公が登場する漫画を描き始める。 1970年、女囚を主人公にした「さそり」を『ビッグコミック』(小学館)に連載。サスペンス・アクション主体の作風スタイルを確立する。 1972年、東映東京撮影所で「さそり」映画化。シリーズ化されるなど大人気を博す。1971年にはリイド社『リイドコミック』で連載した「0課の女」、1979年には集英社『週刊プレイボーイ』で連載した「ワニ分署」も映画化され、ピンキーバイオレンス映画の原作者として知られる。 1973年、『ビッグコミックオリジナル』創刊から主力作家として活躍するが、1979年10月20日号掲載の「夜光虫」第100話「児心音異常」の殺人描写が全障連から猛抗議を受け、打ち切りに。原作者の柿沼宏は絶筆した。 以後はリイド社を中心に活動。夕刊紙の『夕刊フジ』では「女仕置人ゼブラ」を連載した。1990年代以降は、「さそり」「0課の女」「ワニ分署」のリメイクを含め、過去のピンキーバイオレンス系作品の多くがVシネマ化されている。 ヒロイン・アクション劇画の第一人者にしてパイオニア的存在で、多くの作品が映像化されているが、アニメ化された作品は一本もない。映像化された作品は怨念が強調されたピンキーバイオレンスが多く、原作のほうも初期はそうした傾向があったが、前述の「夜光虫」事件以降は明るいお色気と娯楽色が前面に出たものが目立つ。 一貫して強く賢明な女性主人公を描き続け、男性はたいてい悪人か無能者、良くて若干抜けたところのある協力者というポジションで描かれる。 (五十音順)
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柴田亜美
柴田 亜美(しばた あみ、1967年5月24日 - )は、日本の女性漫画家・画家である。 1967年、長崎県生まれ。長崎大学教育学部附属小学校、長崎大学教育学部附属中学校、長崎県立長崎西高等学校、武蔵野美術大学短期大学美術科専攻科を卒業。 1990年、会社員時代に参加したエニックス(当時。現・スクウェア・エニックス)の『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』にて人気を集める。1991年より月刊少年ガンガンにて『南国少年パプワくん』を連載開始、アニメ化されるなどのヒット作となる。以降、エニックス(現スクウェア・エニックス)や集英社など、多数の雑誌に連載を持つ。 漫画家として活動する一方で美容方面にも興味を持ち始め、2012年2月19日より美容ブログ『女漫画家の極限美容!』を開設。2016年12月には、プライベート美容サロン『ボディオートクチュール ami』開店。(その後、2018年9月30日をもって、『ボディオートクチュール ami』閉店。) 2020年ごろから画家としての活動を開始。アートイベントや個展で、作品を継続的に発表している。。 1969年に父がマサチューセッツ工科大学に研究留学し、それを追う形で1970年に家族で渡米。その後、カナダのモントリオールに移り住む。1972年に家族で帰国。 小学校時代から絵画教室に通っていたが、中学校に入る直前あたりから本格的に漫画を書き始めるようになった。初めて完成させた作品は『邪鬼郎』というタイトルで、『柴田亜美のほん2』で「12-13歳の頃に初めて描いた漫画」として公開されている。 1982年、高校に入学。この頃には油絵の絵画教室に通い始め、1983年からは、美大の予備校(河合塾美術研究所)に通うため上京するようになる。この時期、音楽雑誌『音楽専科』の似顔絵コーナーで入選。1984年に、同誌の別冊であるロック漫画誌『8ビート・ギャグ』に漫画を掲載し商業誌デビュー。『8ビート・ギャグ』には多数の作品を掲載し、志摩あつこらと並び人気を得る。この他にも他社の洋楽雑誌でイラストなどを描いていたが、柴田自身は「コンサートのタダ券ほしさに描いていたため、プロのマンガ家になる気はなかった」と振り返っており、大学に入学する頃には漫画を描くこともなくなった。 1985年、大学に入学する。大学時代の同期には諏訪敦がいる。
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柴田亜美
1985年、大学に入学する。大学時代の同期には諏訪敦がいる。 1987年、同大学の専攻科に編入。1988年に卒業。 アートアドバイザーとして銀座の画廊に就職するも半年で退職。 1989年、リクルートの関連会社にイラストレーターとして就職。FromAやとらばーゆ等の求人広告のカットを描いていた。 1990年、知人の児嶋都に誘われる形で『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』に執筆を始め、「ニセ勇者」シリーズを執筆して人気を博す。同年6月には「ソードマスター剣王伝説」でエニックスファンタジーコミック大賞奨励賞を受賞。その後、創刊企画時の『月刊少年ガンガン』から執筆依頼が来るものの、当時はまだプロとしてやっていく気はなく断っていたという。しかし、私生活上で嫌なことがありヤケになっていた時に、当時会社があった渋谷の路上でエニックスの編集者から「漫画を描かないか」と声をかけられ、思わず頷いてしまったことからプロになる決意を固めた(この出来事を柴田は「エニックスナンパ事件」と呼んでいる)。 1991年に『月刊少年ガンガン』創刊号にて、『南国少年パプワくん』の連載を開始。2話目までは会社勤務と漫画連載を並行していたが、連載3話目以降は時間的に両立させるのが難しくなり会社を退職、漫画家の専業となる。『南国少年パプワくん』はアニメ化されるなどのヒット作となり、藤原カムイ、衛藤ヒロユキらと共に『月刊少年ガンガン』初期の牽引役となった。 その後エニックス(現スクウェア・エニックス)、集英社、講談社、徳間書店、小学館、アスキー(現エンターブレイン)、竹書房などでの連載経験を持つ。 2012年に『カミヨミ』の連載を終了して以降はストーリー漫画作品の制作は減少し、エッセイ漫画・レポート漫画を中心に作品を発表している。 2021年までAndroid/iOS用アプリゲーム『ファンタジーライフ オンライン』のゲーム内にて『FLO4コマ劇場』を連載。 2017年には一部報道で「柴田亜美が漫画家引退」というタイトルの記事が発表され、本人もインタビューで「私、美容家になります。漫画を辞めても悔いはない。」という旨の発言をしたものの、以降も継続して漫画作品を発表している。 2021年から画家の仕事を始め、そちらの活動が中心になりつつあるという。
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柴田亜美
2017年には一部報道で「柴田亜美が漫画家引退」というタイトルの記事が発表され、本人もインタビューで「私、美容家になります。漫画を辞めても悔いはない。」という旨の発言をしたものの、以降も継続して漫画作品を発表している。 2021年から画家の仕事を始め、そちらの活動が中心になりつつあるという。 保護団体「ALMA(アルマ)」に保護された犬の預かり、いわゆる保護活動をボランティアとして行っている。2005年のひろしまドッグぱーく事件を機に興味を持ったという。過去に伽羅という名前の犬を飼っていたが、2022年12月30日に急逝。さらに以前は茶壷、楽という名前の犬も飼っていたが、楽は2012年に他界した蛍と同じく、年齢によって引き取り手がいないと危惧されたことから柴田自身が引き取ることになり、その後2016年2月に他界、茶壷もまた2016年4月に他界した。一時預かりを含め、飼い犬たちとの日常をブログにて公開している。 2007年頃より体調を崩して、体重が10kg増加。これがきっかけで食事療法、筋トレ、エステ、レコーディングダイエットなどあらゆるダイエット方法で減量を試みるようになる。食事療法と筋トレを基本に継続したところ44歳になる頃には14kgの減量に成功。その後も筋トレは続けていたが、座り仕事の多い執筆業に多く見られがちな腰痛や肩こりは改善されずにいた。 2016年6月、通っていたジムでボディセラピストに受けたマッサージで体のバランスを整えることが大切であると開眼。同年9月にはサロンを開くことを決意し、12月に麻布十番にプライベートサロン『ボディオートクチュール ami』をオープン。施術は前述のボディセラピスト・柔道整復師の小林雄祐。オーナーである柴田はカウンセリングを行い、またサロンで提供する食事も自ら作っている。
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柴田昌弘
柴田 昌弘(しばた まさひろ、1949年12月26日 - )は、日本の元漫画家。 妻は漫画家の市川ジュン。2015年より京都精華大学ストーリーマンガコース教員。 三重県松阪市出身。成蹊大学卒業。 「別冊マーガレット」(集英社)1973年6月号に掲載された「白薔薇の散る海」でデビュー。和田慎二のアシスタントを一時期務める。少女漫画にメカニックやハードなSF・サスペンスの要素を大いに取り込み、人気を博した。少年漫画を経て、青年漫画を中心に活動していた。代表作に『紅い牙 ブルーソネット』など。 浅香晶原作の「スーパー★ノバ」シリーズなどライトノベルの挿絵も複数担当している。 フォア・ナインから発売されたアダルトゲーム『リリス』ではキャラクターデザインを担当している。 「サライ」の長期連載完結を迎え、公式サイトにて今後の予定を発表。以下本人言 2008年5月6日、公式サイト閉鎖。少年画報社「ヤングキング」誌での『サライ』がプロ漫画家としての最後の連載作品となった。 2009年6月30日発行の菊池秀行・著『ミーくんの番長日記』のイラストを担当。その後漫画家を引退。 主に超能力、メカニックなどのSF漫画を手がける。長編作品においては、超人的な能力を持つ十代半ばの少年少女が世界の命運をかけて戦うといったストーリーが多く見られ、ヒロインを中心とする女性たちのお色気シーンが頻繁に描かれるのも特徴。 1973年 1975年 1976年 1977年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1993年 1997年 1998年 2005年 2006年
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島崎譲
島崎 譲(しまざき ゆずる、本名・旧ペンネーム:竹之越 江津子、1962年8月20日 - )は、日本の女性漫画家。 神奈川県出身。幼少時にアニメ『サイボーグ009』に強い刺激を受け、漫画家を志す。1981年、専門学校在学中に「おやじの日曜日」(『デラックスマーガレット』掲載)でデビュー。専門学校卒業後は『増刊少年サンデー』に読み切りを多数発表する一方で、アニメーターとしても活動していた。 1985年に『週刊少年マガジン』にて『青竜の神話』で初連載する際にペンネームを現行に変更。その後20年近くは講談社の漫画雑誌で作品を発表し続けていたが、『MiChao!』での連載終了後は講談社から離れる。異世界歴史ファンタジーを得意としていたが、歴史漫画を軸に描くようになる。近年は松本零士作品のリメイク・続編も手掛ける。
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島本和彦
島本 和彦(しまもと かずひこ、1961年〈昭和36年〉4月26日 - )は、日本の漫画家・実業家。本名:手塚 秀彦(てづか ひでひこ)。北海道中川郡池田町出身、北海道札幌市在住。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表、株式会社アイビックおよび株式会社アカシヤ代表取締役社長。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。 池田町の木材業を営む家庭に生まれ、幼少期を豊頃町で過ごした後、小学校1年生のときに札幌へ。小学校のころから鉛筆でギャグ漫画を描き始める。札幌清田高校時代は陸上部と演劇部に所属する一方生徒会長も務め、アニメや特撮のパロディ漫画も執筆していた。 卒業と同時に北海道を離れ、伯父(父の兄)が大阪に住んでいたこともあり、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(映像学科)進学のため転居。在学中の1982年(昭和57年)、『週刊少年サンデー』2月増刊号にて「必殺の転校生」でデビュー。デビュー後の大学を4年に上がる手前で中退して大阪を離れ上京、プロの漫画家生活に入る。 「島本和彦」のペンネームを使ったのは「漫画の神様手塚治虫に遠慮して」とのことだが、後に自分の作品が「手塚漫画」と呼ばれることを避けるためでもある。デビュー当初『サンデー』誌上でも、読者に本名を聞かれた際に「謎である」と秘密にしていた。 1990年代前半からはまんが甲子園の審査員としても活動。 1994年(平成6年)にスーパーファミコンで発売されたRPG『ライブ・ア・ライブ』における『近未来編』のキャラクターデザインを担当。その本編中に出てくる巨大ロボット「ブリキ大王」には、主題歌「GO!GO!ブリキ大王」がある。ゲーム中では開発者達が考えた1番の歌詞しか出てこないが、製作サイドでは2番3番の歌詞を一般公募していた。そこに島本が「東京都在住、漫画家、島本和彦」の名前で、一般公募で応募したところ、2番の歌詞として即採用された。 1995年(平成7年)に東京から札幌に帰郷(後述)。それと前後して同人誌活動も行い、コミックマーケットにはほぼ毎回参加。 2001年(平成13年)から2008年(平成20年)にはラジオ番組『島本和彦のマンガチックにいこう!』(STVラジオ)のパーソナリティも務めた。
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島本和彦
1995年(平成7年)に東京から札幌に帰郷(後述)。それと前後して同人誌活動も行い、コミックマーケットにはほぼ毎回参加。 2001年(平成13年)から2008年(平成20年)にはラジオ番組『島本和彦のマンガチックにいこう!』(STVラジオ)のパーソナリティも務めた。 2015年(平成27年)に『アオイホノオ』で第60回小学館漫画賞一般向け部門、第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。 父は北海道でダスキンのフランチャイズ事業を手がけるアイビックの設立者で、TSUTAYAのフランチャイズ店舗を運営するアカシヤの会長も兼任する手塚幸夫。長男の島本は副社長を務めていた。母校の大阪芸術大学から教授就任の誘いもあったものの、母親の死去や父の高齢化を背景として父が「潰れそうな親の会社に戻ったからこそ今がある」と度々語っていた事から「何かを捨てて親の商売を手伝う事をしなければならない」との思いを強め、将来的な事業継承のために社業で経験を積むべく2014年(平成26年)末から会社に常駐するようになり、2019年(平成31年)4月には父親から業務を引き継いで両社の社長に就任した。社長業の影響で漫画の執筆に使える時間は一ヵ月あたり5日ほどとなり、連載は『アオイホノオ』のみに絞っている。2020年(令和2年)11月8日、島本がおよそ25年に渡り経営していた「TSUTAYA札幌インター店」が閉店した。 2021年(令和3年)6月19日、同年8月上旬より「復活!令和もお笑いマンガ道場」のタイトルで27年ぶりにYouTube配信番組として復活する「お笑いマンガ道場」に回答者として出演。 メディアミックス作品のコミカライズは、#メディアミックス作品も参照 映像作品の漫画(コミカライズ)を担当した作品。 審査員
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しもさか保
しもさか 保(しもさか たもつ)は、日本の漫画家。 愛称は「もっさん先生」。「~ってかい~?」「~ざんすよ」と言う語尾が特徴。 陸上競技をテーマにしたギャグ漫画『紫色のバカな風』が、「週刊少年マガジン」の第21回週刊少年マガジン新人漫画賞を受賞。前回の第20回に続いて入選賞金100万円となっており、小林まこと(今も大親友との事)に続く100万円ゲットとなった。 『紫色のバカな風』は『ぱ~ぷる呈介』とタイトルを変えて掲載されデビュー。続けて連載となったが、連載期間は比較的短いもので終わる。またこの作品では劇中の学校名に保谷や田無などの地名が使われており、西東京市にゆかりのある人物であることがわかる。 次いで『ガクラン八年組』が読切で掲載、好評につき連載となり、現在まで代表作である。また連載時に結婚、妻が食事を作ってくれると、体型が一気に太ってしまった。 パチンコ雑誌にて連載多数だが、かなりの確率で壮絶に負けている。「スロマンガ界の借金王」の呼び名も持つ。
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しろー大野
しろー大野(しろーおおの、1968年 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。福島県出身。ゲームのキャラデザインも手がけたことがある。男性。妻は同じく漫画家・イラストレーターの星野由美子。 このほかマルカツ、電撃系列ゲーム誌の挿絵を一部担当。
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新谷かおる
新谷 かおる(しんたに かおる、本名:新谷 薫(読み同じ)、1951年4月26日 - )は、日本の漫画家、同人活動家。男性。大阪府豊中市出身。大阪高等学校卒業。 妻は『緋の稜線』などの作品で知られる漫画家の佐伯かよの(2021年8月29日死別)。長女はナレーター・俳優の新谷摩乃。 代表作は『エリア88』・『ふたり鷹』など多数。 中学生から漫画を描いており、高校3年の時には篠原とおるのアシスタントを務めながら『少年キング』に投稿していた 。当初は飛行機の操縦士を目指していたが、色覚異常が確認され断念。高校卒業後は航空貨物関係の仕事を経て20歳で上京し、本格的に漫画の道を志す。 1972年にりぼん漫画賞佳作入選。『りぼん4月大増刊』に掲載された「吸血鬼はおいや!?」でデビュー。大和和紀、山岸凉子のアシスタントを経験。 1973年に、同じく『りぼん』にて受賞歴のある佐伯かよのと結婚。初詣帰りのバス車内で佐伯かよのが少年サンデーを拾い、その中にあった松本零士のアシスタント募集を見て同年3月より松本零士のプロダクション「零時社」に入りアシスタントを2年半務める。零時社を出てから半年程ブラブラして描きためた原稿を『月刊プレイコミック』に持ち込み、そのまま1977年より戦場ロマン・シリーズの連載を開始した。 1978年、『週刊少年サンデー増刊号』で史村翔原作「ファントム無頼」の連載を開始。 1979年、『少年ビッグコミック』で「エリア88」の連載を開始。本作と「ファントム無頼」のヒットにより注目を集めるようになる。 1981年、『週刊少年サンデー』で「ふたり鷹」の連載を開始。 1984年、『エリア88』と『ふたり鷹』で第30回小学館漫画賞受賞。 2017年4月26日、66歳の誕生日を迎えたことと『クリスティ・ロンドンマッシブ』最終回脱稿とを区切りとして一時休筆を公式Twitterアカウントで宣言した。 メカニックと人間を絡めたロマン、シリアスとギャグをミックスした作風が特徴。登場人物は時として人生・社会・戦争・テクノロジーなどに関する哲学的なセリフを話す。スター・システムも採用しており、同じ外見、同じ名前、同じような性格のキャラクターを複数の作品に別のキャラクターとして登場させることもある。
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新谷かおる
メカニックと人間を絡めたロマン、シリアスとギャグをミックスした作風が特徴。登場人物は時として人生・社会・戦争・テクノロジーなどに関する哲学的なセリフを話す。スター・システムも採用しており、同じ外見、同じ名前、同じような性格のキャラクターを複数の作品に別のキャラクターとして登場させることもある。 初期の作風は師匠である松本の影響が強く郷愁色と感傷を前面に出していたが、少女漫画家志望だったこともあり徐々に繊細なペンタッチで描くようになった。メカニックの描写も単純な写実第一ではなく独特のパースが松本から受け継がれ、さらに昇華されたものとなっている。このような過程を経て、新谷の作風は「少女漫画の感性と少年漫画の熱さを併せ持つ」極めて独自色の強い作風を確立した。 夫婦で互いの作品を手伝うことも多く、作品の一部キャラクターを妻の佐伯が描き、逆に佐伯作品中のメカニックを新谷が描くこともある。 『クレオパトラD.C.』や『砂の薔薇』など、主人公が海外のさまざまな場所で活躍する作品が多いが、これについて新谷は子供のころ見ていた世界を舞台にしたアメリカのテレビドラマなどの影響によるものと語っている。 趣味はバイク・カメラ・プラモデル・飛行機・スキーなどで、その知識が多分に作品へ活かされている。 趣味を生かして資料製作を行っており、松本の漫画作品「宇宙海賊キャプテンハーロック」に登場するヤッタラン副長のモデルとなった(ヤッタランが関西弁で話し、何事もない限り「今忙しいねん」といつもプラモデルで遊んでいる点が共通している)。 自他共に遅筆であることを認めており、「急いで締め切りに間に合わせいい加減な作品を描くよりも、何度頭を下げてでも納得のいく作品を描いたほうが良い」とも語っている。 近年取り上げられている児童ポルノ法改正案に対しては慎重な立場を示しており、創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志の賛同人として名を連ねている。 アニメーション監督の福田己津央は、業界では有名な新谷のファンとして知られており、自身が携わった作品では『エリア88』のオマージュとも取れる設定ネタを数多く登場させている。
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新谷かおる
近年取り上げられている児童ポルノ法改正案に対しては慎重な立場を示しており、創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志の賛同人として名を連ねている。 アニメーション監督の福田己津央は、業界では有名な新谷のファンとして知られており、自身が携わった作品では『エリア88』のオマージュとも取れる設定ネタを数多く登場させている。 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。表記はデフォルトでは大きく連載作品と短編を分け、それぞれ発表順とした。年にはソートを正しく行なうため便宜的に下付き文字で数字を加えている。 書名が同じ物は【】内の注記で区分をつけている。デフォルトでの表記は作品毎にまとめてオリジナルの発売順とした。判型にはソートを正しく行なうため便宜的に上付き文字で数字を加えている。月日にもソートを行うために二桁になるように数字を加えている。出版社については以下の略号を用いる。 自身主催の同人サークル「八十八夜」では、妻の佐伯や和田慎二、島本和彦との合作やコラボレーション作品の発表もある。 また、2015年8月開催のコミックマーケット88では、開催回数と『エリア88』にかける形で、コミケット準備会からの打診を受けコミケットカタログの表紙イラストを手がけている。 著名な元アシスタントに、蛭田充、ゆうきまさみ、島本和彦、田口雅之がいる。 ゆうきの作品『究極超人あ〜る』には新谷夫妻の子供の名前をネタとして出しているほか、逆に近年の新谷の作品に登場するキーパーソンキャラクターは「機動警察パトレイバー」に登場する内海がモデルとなっている。 また、島本が自著でたびたび手伝いに訪れていたと述べている。島本はその後、同人誌「新谷かおるになる方法」にてその経験や新谷の著作への分析と見解を語っている。島本の作品『ガレキの翔』には、「谷かおる」というキャラクターが登場。『アオイホノオ』にも新谷夫妻が実名で登場する。
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鈴宮和由
鈴宮 和由(すずみや わゆ、1963年1月27日 - )は、日本の女性漫画家。愛称は「和由りん」。福岡県北九州市出身。短大卒。1982年『恋してフリル』(『週刊少年サンデー増刊号』8月号)でデビュー。代表作に『とってもひじかた君』など。 著作『朱鷺色怪魔』のOVA版では、主題歌・イメージソングを自ら歌った。
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千之ナイフ
千之 ナイフ(せんの ナイフ(アルファベット表記:Senno Knife)、1960年9月5日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。 デビュー時(初期)のペンネームは山本 和都(やまもと かずと)。アルファベット表記は、秋田書店、ぶんか社刊行の単行本などではSenno Naiffと誤記されている。 松本零士と牧美也子の元アシスタントであり、かつて松本零士の元でアシスタントを務めていた新谷かおるとは入れ違いにアシスタント入りした。商業デビュー以前から同人作家として同人誌での活動もしており、2020年現在も継続中である。 1981年に『レモンピープル』(あまとりあ社)創刊号にて『雪姫』で商業誌デビュー。デビュー当時から初期にかけては主に成人向け漫画雑誌で活動し、1984年以降は一般誌、少年・少女誌でも執筆している。ホラー漫画、SF漫画、ファンタジー漫画、コミカライズ作品(有名童話・小説の翻案)など幅広いジャンルを手がけている。 妻は漫画家・イラストレーターの猫井るとと。猫井がヴォーカルを務めるポスト・ニューウェーブバンド・PSYDOLLのジャケットイラストはほとんど千之が描いている。 緻密かつ耽美的な絵柄や、独特の謎めいたストーリー展開がデビュー当時からの主な作風である。特に性、死、悪魔、人形、TSF、百合などをテーマとした幻想的な作品が多いが、中にはギャグ・パロディ要素も盛り込んだものもあり、作風の幅はかなり広い。 また、初期作品では「千スクリット文字」と呼ぶ謎の文字で綴った語句を漫画原稿の余白に書き込み、作品をミステリアスに演出していた。これは一部の熱心なファンに解読された後は、ファンとのコミュニケーションに使用されていた。
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曽田正人
曽田 正人(そだ まさひと、1968年6月18日 - )は日本の漫画家。東京都文京区出身。『ドカベン』、『サーキットの狼』に影響をうけて、小学校2年よりまんがを描き始める。高校在学中の先輩に三浦建太郎らがいる。日本大学藝術学部デザイン学科インダストリアルデザインコース中退後、アシスタントを経て「GET ROCK」(1990年、マガジンSPECIAL、講談社)でデビュー。以降、作品の掲載は講談社・秋田書店・小学館の3社にわたる。 『capeta』(2003年~2013年、月刊少年マガジン、講談社)以降の作品は「漫画製作におけるパートナー」である冨山玖呂との共著となっている。 五十音順。 ラリードライバーはカルロス・サインツが最も好きで、1994年1000湖ラリーで彼の走りを見にフィンランドまで行ったというほどであった。
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曽祢まさこ
曽祢 まさこ(そね まさこ、1951年4月21日 - )は、日本の漫画家。三重県伊勢市出身。妹は漫画家の志摩ようこ。 1970年、第4回講談社少年少女新人漫画賞において佳作を受賞した「手錠はおどる」でデビュー。 代表作は『呪いのシリーズ』『不思議の国の千一夜』など。フリーアナウンサーの楠田枝里子とは同郷であり、小学校から高校まで同級生であった。
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カミオカンデ
カミオカンデ(KAMIOKANDE)は、陽子崩壊ならびにニュートリノを観測するために、岐阜県神岡鉱山地下1000mに存在した観測装置。KAMIOKANDEという名称はKamioka Nucleon Decay Experiment(神岡核子崩壊実験)に由来し、2015年ノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章によれば「東大(理)が光電子増倍管とエレクトロニクスを担当、今の 高エネルギー加速器研究機構(当時、高エネルギー 物理学研究所)が3,000トンのタンクと純水装置 を担当、宇宙線研究所は空洞掘削を担当」など分担して建設された、。 1996年にスーパーカミオカンデが稼動したことによりその役目を終えた。跡地にはカムランドが建設され、2002年1月23日より稼動を始めている。 カミオカンデは、大統一理論の予言する陽子崩壊を実証するため1983年に完成した。 カミオカンデは3000トンの超純水を蓄えたタンクと、その壁面に設置した1000本の光電子増倍管からなる。ここで使用された光電子増倍管は研究グループと浜松ホトニクスが新規に共同開発した口径20インチのものである(一般に広く使われるのは口径2インチ型)。ガラスバルブには耐水性が高いHARIOの耐熱ガラス「ハリオ32」が使用された。 カミオカンデが地下に設けられたのは、陽子崩壊時に放出されるニュートリノ以外の粒子の影響を避けるためである。ニュートリノはものを貫通する能力が高く、他の物質と反応することなく簡単に地球を抜けていってしまう。しかし、まれに他の物質と衝突することがある。カミオカンデは、このまれに起こる衝突を検出することで間接的に陽子崩壊を実証することを目的とした。 カミオカンデはニュートリノの衝突を検出するため、超純水をつかう。カミオカンデの内部には超純水がためられており、ニュートリノが水の中の電子に衝突したあとに、高速で移動する電子より放出されるチェレンコフ光は青白く発光し、壁面に備え付けられた光電子増倍管で検出する。チェレンコフ光を検出した光電子増倍管がわかると、計算によりどの方角からきたニュートリノによる反応かがわかる仕組みになっている。
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カミオカンデ
カミオカンデはニュートリノの衝突を検出するため、超純水をつかう。カミオカンデの内部には超純水がためられており、ニュートリノが水の中の電子に衝突したあとに、高速で移動する電子より放出されるチェレンコフ光は青白く発光し、壁面に備え付けられた光電子増倍管で検出する。チェレンコフ光を検出した光電子増倍管がわかると、計算によりどの方角からきたニュートリノによる反応かがわかる仕組みになっている。 1987年2月23日、カミオカンデはこの仕組みによって、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発 (SN 1987A) で生じたニュートリノを偶発的に世界で初めて検出した。この功績により、2002年小柴昌俊は、ノーベル物理学賞を受賞した。 その後も、太陽ニュートリノやニュートリノ振動の検出、レプトンフレーバーの保存の破れの研究に活用された。 前述したとおりカミオカンデ建設の当初の目的は、大統一理論の候補の多くが予想する陽子崩壊を観測することであった。中でも最もシンプルで有力であったSU(5)理論が正しければ、少なくとも年に数回の陽子崩壊検出が可能なように、さらには外国でも同様の実験が行われていたが、複数予想される崩壊形式の分岐比も測定可能なように設計された。 予想される崩壊の中で主なものは、陽電子とパイ中間子(π)への崩壊で、πはすぐに2つの光子に崩壊し、光子はさらに電子等を散乱したりする。これらの陽電子や電子等の発するチェレンコフ光を観測することにより、陽子崩壊を検出しようとしたのである。 SU(5)理論では陽子の寿命は10から10年と予測されていたが、陽子崩壊は観測されず、陽子の寿命は10年以上であることが分った。これによりSU(5)理論は否定され、大統一理論に修正を迫ることになった。 修正理論でも寿命は長くなるものの陽子崩壊が予想されているが、実験を受け継いだスーパーカミオカンデにおいて2018年現在でも陽子崩壊は観測されておらず、陽子の寿命は少なくとも1.6×10年以上であるとみられている。
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スーパーカミオカンデ
スーパーカミオカンデ(英語: Super-Kamiokande)は、岐阜県飛騨市神岡町旧神岡鉱山内の地下1000mに設置された、東京大学宇宙線研究所が運用する世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置である。Super-Kと略されることもある。ニュートリノの性質の全容を解明することを目的として、1991年12月に着工され、1996年4月より運用を開始した。 スーパーカミオカンデの検出器は、小柴昌俊のノーベル賞受賞研究の元となったカミオカンデと原理は同じだが性能は大きく向上した。5万トンの超純水を蓄えた直径39.3m、高さ41.4mの円筒形タンクの内壁に光電子増倍管と呼ばれる約1万3千本の光センサーが設置されている。飛来したニュートリノが貯水槽内を通過する際に、ごくまれに水分子と衝突して電子や陽電子などの荷電粒子が叩き出される。これらの粒子が水中の光の速度よりも速く水中を走るときに現れるチェレンコフ光を、光電子増倍管により検出する仕組みである。 1998年、大気ニュートリノの観測により、ニュートリノが飛行する間にその種類が変化する現象(ニュートリノ振動)を発見した。2015年、この研究を率いた宇宙線研究所長梶田隆章が「ニュートリノが質量を持つ事を示す、ニュートリノ振動現象の発見」の成果によりノーベル物理学賞を受賞した。 2020年8月より、スーパーカミオカンデの純水中にガドリニウムを加え、新生スーパーカミオカンデとして観測を開始した。これによりニュートリノの観測感度向上、特に「超新星背景ニュートリノ」の観測を目指している。 ニュートリノの質量やそれらの混合行列に関する詳細な分析を、大気ニュートリノ、太陽ニュートリノ、人工ニュートリノなどを用いて研究している。
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スーパーカミオカンデ
2020年8月より、スーパーカミオカンデの純水中にガドリニウムを加え、新生スーパーカミオカンデとして観測を開始した。これによりニュートリノの観測感度向上、特に「超新星背景ニュートリノ」の観測を目指している。 ニュートリノの質量やそれらの混合行列に関する詳細な分析を、大気ニュートリノ、太陽ニュートリノ、人工ニュートリノなどを用いて研究している。 ニュートリノは、反応した際に放出する荷電レプトンによって電子ニュートリノ(νe)、ミューニュートリノ(νμ)、タウニュートリノ(ντ)に分けられる。ニュートリノが飛行する間に、量子力学的な効果でニュートリノの種類が入れ替わる現象をニュートリノ振動と呼ぶが、このような現象が生じるためには、ニュートリノが質量を持つことと、混合していることの両条件が必要である。旧カミオカンデにおいて、宇宙線が大気中で反応して発生する大気ニュートリノを観測した結果、理論値ではνμとνeの比はほぼ2となるはずであったが、得られた値はおよそ1.2と小さな値であった。これはニュートリノ振動によるものと考えられたが、サンプル数が277事象と少ないため十分な支持は得られなかった。 カミオカンデを大きく上回る規模と精度を持つスーパーカミオカンデは、運用開始当初からこのニュートリノ振動の検出に利用された。東京大学宇宙線研究所教授の梶田隆章率いるグループがスーパーカミオカンデにおける535日間の観測で4654事象を分析して得られた結果は、やはり理論値の63〜65%程度で有意に小さな値であった。さらにニュートリノが飛来してきた角度を分析し、上方向からのものはνμの数が予測値と合致した一方、長距離を飛来してきた下方向からのものはντに振動し、数が約半分に減っていることがわかった。これはニュートリノ振動を想定しなければ説明がつかない結果であり、ニュートリノ振動の最初の発見となった。1998年、梶田は岐阜県高山市で開催されたニュートリノ国際会議においてこの研究結果を報告した。この研究成果により梶田は2015年のノーベル物理学賞を受賞した。
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スーパーカミオカンデ
太陽における核融合反応の際、大量の電子ニュートリノが発生する。地球上でこの太陽ニュートリノを観測した結果は、標準太陽モデル(英語版)から得られる予想値に比べて3分の1から半分程度しかなく、長らく「太陽ニュートリノ問題」として議論されてきた。 2001年、カナダのサドベリー・ニュートリノ天文台(SNO)は、重水を使った実験により電子ニュートリノが重陽子と反応して電子を生む反応(荷電カレント反応)の観測結果を報告した。一方スーパーカミオカンデは、SNOよりも高精度の電子弾性散乱の検出により太陽ニュートリノ全体の観測を行っていた。この2つの観測結果には有意な違いがあり、太陽ニュートリノ問題の原因がニュートリノ振動であることの有力な根拠となった。SNOでの研究を率いたクイーンズ大学教授アーサー・B・マクドナルドは、2015年のノーベル物理学賞を梶田隆章とともに受賞した。 1999年、つくば市の高エネルギー加速器研究機構で作ったνμを、250km離れたスーパーカミオカンデで捉える実験(K2K実験)が開始された。これは世界初の人工ニュートリノによる実験であった。K2K実験は2004年まで行われ、観測の結果、大気ニュートリノで発見されたニュートリノ振動を99.9%以上の精度で確認することができた。 2009年には、茨城県東海村の大強度陽子加速器施設(J-PARC)で作られたニュートリノビームを295km離れたスーパーカミオカンデに打ち込むT2K実験が開始された。ニュートリノの混ざり具合を示す3つの混合角のうちθ13だけは未測定であり、この発見が期待されていた。2011年6月、ミューニュートリノから電子ニュートリノへ変化する「電子ニュートリノ出現事象」を示唆する観測結果を世界で初めてとらえ、混合角θ13が予想されていた値よりは大きい可能性を指摘した。2013年には実際にミューニュートリノから電子ニュートリノへの変化を世界で初めて観測し、ポンテコルボ・牧・中川・坂田行列が示唆するようにニュートリノが3世代間で混合していることを明らかにした。この業績により、高エネルギー加速器研究機構教授小林隆、京都大学教授中家剛が2014年度の仁科記念賞を受賞した。 太陽や超新星爆発によって生成されるニュートリノを観測することにより天文現象の解明を目指すニュートリノ天文学が発達しつつある。
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スーパーカミオカンデ
太陽や超新星爆発によって生成されるニュートリノを観測することにより天文現象の解明を目指すニュートリノ天文学が発達しつつある。 1987年2月23日、東京大学教授小柴昌俊らはカミオカンデによって大マゼラン雲で起こった超新星爆発SN 1987Aからのニュートリノバーストを観測し、同年4月に発表した。これは超新星爆発の理論モデルの妥当性を裏付けるものであり、一般にはこの出来事をもってニュートリノ天文学の幕開けとされる。小柴はこの業績により1989年に日本学士院賞を受賞、2002年にノーベル物理学賞を受賞した。 スーパーカミオカンデでは、超新星爆発が銀河中心で起こった場合、超新星ニュートリノを約8000例捕獲することが可能とされ、絶え間なく監視を続けている。超新星爆発からの光はニュートリノよりも遅れて星の外に放出されるため、スーパーカミオカンデは光を捉える天文台よりも前にその爆発を観測することができる。 宇宙が誕生してから現在までに、約10個の星が超新星爆発を起こしてきたと考えられている。宇宙空間にはこの超新星爆発によって放出された「超新星背景ニュートリノ」が存在するはずである。この検出に向けて、2020年8月より、スーパーカミオカンデの純水中にガドリニウムを加え、新生スーパーカミオカンデとして観測をスタートした。これにより、ニュートリノの観測感度向上、特に「超新星背景ニュートリノ」の世界初の観測が期待されている。 旧カミオカンデの建設は、大統一理論が予言する陽子崩壊の実証が主な目的であった。この理論の有力候補と考えられていたSU(5)モデルの予想する陽子の寿命は10-10年であったが、カミオカンデでは陽子崩壊は観測されず陽子の寿命は10年以上であることが示され、SU(5)モデルは否定された。なお、SO(10)理論等他のモデルも存在するため、大統一理論という考え方がすべて否定されたわけではない。観測期間が延びれば延びるほど、たとえ極小の確率であっても検出が可能になるため、スーパーカミオカンデでは引き続き陽子崩壊の観測を行っている。 陽子崩壊観測を主目的としたカミオカンデは、Kamioka Nucleon Decay Experiment(神岡核子崩壊実験)の略した名称だった。
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スーパーカミオカンデ
陽子崩壊観測を主目的としたカミオカンデは、Kamioka Nucleon Decay Experiment(神岡核子崩壊実験)の略した名称だった。 上記の目的に加え、ニュートリノによる天体観測を当初から目的のひとつとしていたスーパーカミオカンデは、Super-Kamioka Neutrino Detection Experiment(超神岡ニュートリノ検出実験)とSuper-Kamioka Nucleon Decay Experiment(超神岡核子崩壊実験)の双方を略した名称となっている。 スーパーカミオカンデを、東京大学宇宙線研究所附属神岡宇宙素粒子研究施設と紹介する文献もあるが、正確には東京大学宇宙線研究所附属神岡宇宙素粒子研究施設に存在する「装置の名前」がスーパーカミオカンデである。同施設はスーパーカミオカンデを中心に、ニュートリノや陽子の研究を行うための施設となっている。 1983年に運用が開始された旧カミオカンデの当初の目的は陽子崩壊の観測であった。地下深くに多量の水を蓄えてそれを常時四方八方から観測しつづけるというアイデアは小柴昌俊によるものであったが、米国でも同様のアイデアでアーバイン=ミシガン=ブルックヘブン(IMB)実験が計画されていた。IMBが深度610mに直径5インチの光電子増倍管を2048個設置したのに対し、カミオカンデはより深い地下1000mに20インチ光電子増倍管を1000本設置した。貯水槽の容量は7000トン対3000トンとIMBのほうが大きかったが、光の検出効率はカミオカンデが16倍も良好であった。 1987年の超新星爆発に伴うニュートリノの検出・分析はのちの小柴のノーベル賞受賞につながる一大業績であったが、太陽ニュートリノ検出の面では運用当初から貯水槽と検出器の規模の不足が実感されており、1983年末の時点で早くも小柴は新たな検出装置建造についての提案を行っていた。 実際にスーパーカミオカンデの建造が開始されるのは1991年のことであった。建造には民間企業が多く参加した。三井金属鉱業が掘削、三井造船が水槽を建造し、データ処理は富士通、超純水はオルガノ、大口径光電子倍増管は旧カミオカンデに引き続いて浜松ホトニクスが担当した。
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スーパーカミオカンデ
実際にスーパーカミオカンデの建造が開始されるのは1991年のことであった。建造には民間企業が多く参加した。三井金属鉱業が掘削、三井造船が水槽を建造し、データ処理は富士通、超純水はオルガノ、大口径光電子倍増管は旧カミオカンデに引き続いて浜松ホトニクスが担当した。 1994年7月、空洞掘削工事が完了。1995年中頃にタンクの建設が完了した。1995年6月から光電子増倍管の取り付け作業と電子回路への接続が行われ、同年12月に完了した。その後2か月以上を要して5万トンのタンクを超純水で満たし、1996年4月1日0時に完成した。 スーパーカミオカンデは当初から日米の研究者の共同研究という形で開始された。IMB試験が1991年初頭に終了し、その主力メンバーがスーパーカミオカンデに合流することとなったのである。 1996年4月1日0時から後述の破損事故までの時期を Super-Kamiokande I (SK-I) と呼称する。1998年には地球の反対側から飛来する大気ニュートリノの数が少ないことを示し、ニュートリノ振動の証拠として世界に発信した。これにより、スーパーカミオカンデ実験グループはこの年の朝日賞を受賞した。1999年には世界初の長基線ニュートリノ実験K2Kを開始し、大気ニュートリノで発見されたニュートリノ振動の検証に成功した。2001年にはカナダのSNO実験の結果と合わせ、太陽から来るニュートリノも振動していることを発見した。 2001年11月12日11時01分、光電子増倍管の70%を損失するという大規模な破損事故が発生した。光電管爆縮時の衝撃波による連鎖破壊で、原因は補修作業時の負荷で基部にクラックが入ったためとされた。破壊された数量の光電子増倍管の生産には約4年を要するため、2002年光電子増倍管にプラスチックカバーを被せる防爆措置を行った上で、予備を加えた5,200本の光電子増倍管を再配置し、部分復旧された。これを「Super-Kamiokande II」と呼称する。この破損事故の震動は、近くの高感度地震観測網 (Hi-net) 神岡観測点 (KOKH) において観測されている。
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2005年7月より、スーパーカミオカンデの完全再建計画が文部科学省によって承認された。同年10月から観測を中止して破損光電管の交換作業を開始、2006年4月にほぼ完了した。2006年7月11日に建造時と同数の光電管を備えた「Super-Kamiokande III」として観測を再開した。 2008年夏には、さらなる性能向上のために、信号読み出し回路の総入れ替えを行った。以降を「Super-Kamiokande IV」と呼ぶ。 2018年、反電子ニュートリノに加えて中性子による信号を捉えるため純水にガドリニウムを添加し新たな観測を行うための改修が行われた。この際12年ぶりにスーパーカミオカンデ内の水槽内部を報道陣に公開した。止水補強工事、タンク内配管の改良、不具合のある光電子増倍管の交換も実施した。 2019年1月より超純水による試運転を兼ねた観測が行われた。これ以降を「Super-Kamiokande V」と呼ぶ。2020年8月よりガドリニウム添加後の本格的な観測が始まった。 2009年11月、民主党が行った行政刷新会議事業仕分けにおいて「国立大学運営費交付金(2)特別教育研究経費」の交付額についての評定がなされ、「廃止6名、縮減6名、要求どおり2名」となり予算の縮減が決定した。この評議では研究の意義などは一切議論されず、ただ単純に予算全体を一括して縮減すべきであるという判断がなされた。実験代表者の鈴木洋一郎は、予算の縮減による影響で観測が止まってしまう可能性もあり、そうなると稀有なニュートリノの検出を逃してしまうこと、測定器の質を維持できなくなることなどによって、世界トップとなった日本のニュートリノの研究のはずが二流、三流となってしまうと主張した。 カミオカンデは、1983年から1996年まで東京大学宇宙線研究所により運用された。その後解体され、跡地に東北大学が反ニュートリノ検出器であるカムランドを設置し2002年より運用を開始した。カミオカンデとは異なり体シンチレータを用いた装置で、原子炉ニュートリノをはじめとした各種研究を行い成果を上げている。 スーパーカミオカンデをさらに上回る性能を持つ超大型地下実験装置ハイパーカミオカンデ計画が進行中である。2027年の実験開始を目指している。
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スーパーカミオカンデ
スーパーカミオカンデをさらに上回る性能を持つ超大型地下実験装置ハイパーカミオカンデ計画が進行中である。2027年の実験開始を目指している。 タンクの体積は26万トン、有効体積は19万トンでスーパーカミオカンデの約10倍となる。内水槽の側面には50cm径の超高感度光センサーが4万本取り付けられる予定である。ニュートリノと反ニュートリノの振動の違い(CP対称性の破れ)の発見と精密測定による宇宙の物質の起源の解明、ニュートリノ天文学のさらなる発展、陽子崩壊の発見による「素粒子の統一」と「電磁力・弱い力・強い力の統一」の証明を目的とする。 2015年1月に13カ国の研究機関や大学が参加する国際共同研究グループが正式発足した。 2020年1月、ハイパーカミオカンデ計画の初年度予算35億円を含む2019年度補正予算が成立し、2021年5月に着工した。 2022年6月現在、アルメニア、ブラジル、カナダ、チェコ、フランス、ドイツ、インド、イタリア、日本、韓国、メキシコ、モロッコ、ポーランド、ロシア、スペイン、スウェーデン、スイス、イギリス、ウクライナ、アメリカの20ヶ国の研究者が参加している。 スーパーカミオカンデ一般公開は年1回秋に行われてきた。2020年、2021年はオンラインで行われた。 2017年には広報と寄付募集のためにスーパーカミオカンデのジグソーパズルを制作し、東大柏キャンパス一般公開や東大生協などで販売した。
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カムランド
座標: 北緯36度25分21秒 東経137度18分55秒 / 北緯36.4225度 東経137.3153度 / 36.4225; 137.3153 カムランド(KamLAND)は、東北大学大学院理学研究科付属ニュートリノ科学研究センター(Research Center for Neutrino Science)による反ニュートリノ検出器である。KamLANDという名称はKamioka Liquid Scintillator Anti-Neutrino Detector(神岡液体シンチレータ反ニュートリノ検出器)の略である。カムランドは岐阜県飛騨市(旧神岡町)にある神岡鉱山の坑道内のカミオカンデ跡地につくられた。カミオカンデが水チェレンコフ検出器であったのに対し、液体シンチレータを用いることによって、より低いエネルギーのニュートリノを検出することができる。 カムランドの周辺には複数の原子力発電所が存在する。原子力発電所の原子炉では核燃料中の放射性核分裂生成物の崩壊により反電子ニュートリノ ( ν ̄ e {\displaystyle {\bar {\nu }}_{e}} ) が生成される。この検出器は原子炉で生成されるニュートリノの25%にあたる、1.8 メガ電子ボルト (MeV) の閾値エネルギー(英語版)を超えるニュートリノを検出することができる。 もしニュートリノが質量をもつならば、ニュートリノ振動によって反電子ニュートリノがカムランドでは検出できないフレーバーのニュートリノに変化し、反電子ニュートリノの減少あるいは「消失」に至る。カムランドは原子力発電所から平均180キロメートル (km)離れた位置にあり、これによって太陽ニュートリノ問題の解決策であるニュートリノの大混合角による混合を感度良く検出することができる。
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カムランド
もしニュートリノが質量をもつならば、ニュートリノ振動によって反電子ニュートリノがカムランドでは検出できないフレーバーのニュートリノに変化し、反電子ニュートリノの減少あるいは「消失」に至る。カムランドは原子力発電所から平均180キロメートル (km)離れた位置にあり、これによって太陽ニュートリノ問題の解決策であるニュートリノの大混合角による混合を感度良く検出することができる。 カムランド検出器の外層は、内側に1,879個の光電子増倍管(17インチのものが1,325個、20インチのものが554個)が設置された直径18メートル (m)のステンレス鋼製容器である。光電面が34%の領域を覆っている。この内側にある第2層は1,000トンの鉱油・ベンゼン・蛍光化学物質からなる液体シンチレータで満たされた、直径13メートル (m)のナイロン製バルーンである。シンチレータではない高純度の油がバルーンに浮力を与え、バルーンを光電子増倍管から離しておくための緩衝材として働く。この油は外部の放射線に対する遮蔽材の役割も持つ。3.2キロトン (=3.2x10 kg)の円柱状の水チェレンコフ検出器が容器を取り囲んでいる。これはミュー粒子に対するベトーカウンターとしての働きと宇宙線や周辺の岩盤からの放射能に対する遮蔽材としての役割を持つ。
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カムランド
反電子ニュートリノ (ν e)は逆ベータ崩壊反応 ν ̄ e + p → e + + n {\displaystyle {\bar {\nu }}_{e}+p\to e^{+}+n} によって検出される。この反応は ν ̄ e {\displaystyle {\bar {\nu }}_{e}} に対して1.8 MeVの閾値エネルギー(英語版)を持つ。陽電子 ( e + {\displaystyle e^{+}} )からの即発蛍光によって反ニュートリノのエネルギーを E ν = E p r o m p t + < E n > + 0.9 M e V {\displaystyle E_{\nu }=E_{prompt}+<E_{n}>+0.9MeV} と推定することができる。ここで、 E p r o m p t {\displaystyle E_{prompt}} は即発事象のエネルギーで、陽電子の運動エネルギーと e + e − {\displaystyle e^{+}e^{-}} 対消滅エネルギーを足し合わせたものである。 < E n {\displaystyle E_{n}} >は中性子反跳エネルギーの平均値で、わずか数十キロ電子ボルト (keV)である。中性子はおよそ200マイクロ秒 (μs)後に水素に捕獲され、2.2 MeVの特徴的なガンマ線を放出する。この信号の遅延同時計測は反ニュートリノの信号と他の粒子によるバックグラウンドを区別する上で強力な手段となる。 距離が離れていることによる ν ̄ e {\displaystyle {\bar {\nu }}_{e}} の減少を補うために、カムランドはそれまでの検出器よりも検出質量がはるかに大きい。カムランド検出器はBorexinoのような同様の検出器の2倍である、1,000トンの検出質量を持つ。しかしながら、体積が増えたことにより、宇宙線に対する遮蔽材もより多く必要となり、地下に検出器を設置することが必要となった。
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カムランド
カムランド禅の二重ベータ崩壊探索の一環として、2011年に320 kgのキセノンが溶かされたシンチレータのバルーンが検出器の中心に吊り下げられた。キセノンを追加したより汚染の少ない改良バルーンが計画されている。KamLAND-PICOはカムランドに暗黒物質探索のためのPICO-LON検出器を設置することを計画しているプロジェクトである。PICO-LONはWIMPと原子核の非弾性散乱を観測する、放射性不純物の少ないNaI (Tl)結晶である。より量子効率の高い光電子増倍管と集光ミラーを追加し、検出器の性能を向上することが計画されている。 カムランドは、2002年1月17日からデータ収集を開始した。最初の結果は約145日のデータを用いて報告された。ニュートリノ振動がなければ、86.8±5.6事象が期待されるにもかかわらず、54事象しか観測されなかった。この結果を検証するため、データサンプルを515日に増やしたところ、ニュートリノ振動がなければ、365.2事象が予想されるのに対し、258事象しか観測されなかった。これによって高い信頼度で反ニュートリノが消失していることが確認された。
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カムランド
カムランド検出器は、反ニュートリノの数だけでなく、エネルギーも測定している。エネルギースペクトルの形状はニュートリノ振動仮説の研究に活用することができるさらなる情報をもたらす。2005年の統計分析で、スペクトルの歪みは振動なし仮説そして2つの代替消失メカニズム、すなわちニュートリノ崩壊およびデコヒーレンス (decoherence)モデルと矛盾することが示された。2種類のニュートリノ間の振動を仮定すると矛盾がなく、Δmとθパラメータの最適値が導かれた。カムランドはΔmを最も精密に測定し、太陽ニュートリノ実験はθの測定能力でカムランドを上回っていたので、最も精密な振動パラメータは太陽ニュートリノの測定結果と組み合わせることによって得られた。これらのデータを組み合わせることで決定できる最適なニュートリノ振動パラメータとして、 Δ m 2 = 7.9 − 0.5 + 0.6 ⋅ 10 − 5 eV 2 {\displaystyle \Delta {m^{2}}=7.9_{-0.5}^{+0.6}\cdot 10^{-5}{\text{eV}}^{2}} と tan 2 θ = 0.40 − 0.07 + 0.10 {\displaystyle \tan ^{2}\theta =0.40_{-0.07}^{+0.10}} が得られた。 2008年と2011年に精度を向上させた結果が報告された。 既に他の検出器でも測定されていた太陽ニュートリノについても、カムランド検出器で測定が行われた。 2011年にBニュートリノのフラックスは 2.77 ± 0.26 ( s t a t ) ± 0.37 ( s y s t ) × 10 6 {\displaystyle 2.77\pm {0.26(\mathrm {stat} )}\pm {0.37(\mathrm {syst} )}\times 10^{6}} [個/(cm・s)]と見積もられた。これは他の検出器(スーパーカミオカンデ、サドベリー・ニュートリノ天文台、Borexino)の測定結果やニュートリノ振動を考慮した標準太陽モデルと矛盾しなかった。
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カムランド
2015年にBeニュートリノのフラックスは 3.26 ± 0.52 × 10 9 {\displaystyle 3.26\pm {0.52}\times 10^{9}} [個/(cm・s)]と見積もられた。これはBorexinoの測定結果やニュートリノ振動を考慮した標準太陽モデルと矛盾しなかった。Beニュートリノは862 keVとエネルギーが低く、これ以前にはBorexinoでしかこのような精度で測定できていなかった。 カムランドは地質学的に生成される反ニュートリノ(いわゆる地球ニュートリノ(英語版))の測定結果も2005年に公表した。このようなニュートリノは、地球の地殻とマントルにおけるトリウムとウランの放射性崩壊によって生成される。地球ニュートリノの測定結果により、ウランとトリウムの放射化熱による地熱への寄与の上限値として60TWが得られた。 Borexinoの測定値と組み合わせた結果が2011年に公表された。 2013年の新たな結果では、日本の原子炉が停止してバックグラウンドが低減されたため、116個の ν ̄ e {\displaystyle {\bar {\nu }}_{e}} 事象を用いて、ウランとトリウムの放射化熱生成量を 11.2 − 5.1 + 7.9 {\displaystyle 11.2_{-5.1}^{+7.9}} TWと限定することができた。これにより地球ケイ酸塩部分の構成モデルが限定されるが、既存のモデルと矛盾しなかった。 カムランドの検出器は2011年からは、キセノン136のニュートリノを放出しない二重ベータ崩壊 (0νββ)を探索するプロジェクト「カムランド禅 (KamLAND-Zen)」に使用されている。ニュートリノを放出する二重ベータ崩壊 (2νββ)は観測されたことがあるが、0νββは観測されたことがなく、観測されればニュートリノの質量を決定することができる。Zenは、Zero Neutrino Double Beta Decay Experimentの略である。
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カムランド
最初に公表された78日間の測定データに基づく結果は、キセノン136における0νββの半減期は90%の信頼度で5.7×10 年以上、2νββの半減期は 2.38 ± 0.02 ( s t a t ) ± 0.14 ( s y s t ) × 10 21 {\displaystyle 2.38\pm {0.02(\mathrm {stat} )}\pm {0.14(\mathrm {syst} )}\times 10^{21}} であり、他の実験結果と矛盾しないというものだった。 2011年10月から2012年6月の間に収集した第一期のデータと、キセノン純化後の2013年12月から2015年10月の第二期の間でデータを加え解析を行った結果、キセノン136における0νββの半減期の制限は90%の信頼度で1.07×10 年以上に改善された。 エネルギー分解能の向上、キセノン濃度の向上、バックグラウンドの低減などを行い、さらに精度を向上することを目指している。 バリオン数非保存現象の探索も行われた。中性子が複数のニュートリノに崩壊するモードおよび大統一理論で予測される陽子が反ニュートリノとK中間子に崩壊するモードの探索が行われたが、いずれの信号も観測されず、寿命の下限値が得られた。 2015年度のノーベル物理学賞はニュートリノに質量があることを示した研究に贈られたが、カムランド実験の貢献が同賞の受賞理由を説明する文書で言及された。 2016年、基礎物理学ブレイクスルー賞が鈴木厚人とカムランド共同研究チームに対して授与された。
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貸本漫画
貸本漫画(かしほんまんが)とは、かつて貸本用に制作されていた日本の漫画作品の総称。あるいは賃貸されている漫画の単行本を指す。 1948年(昭和23年)に神戸市開業の「ろまん文庫」が戦後型の貸本業の起源とされる。1953年(昭和28年)頃から貸本漫画も出回るようになり、店舗で販売されていた粗末な赤本漫画から豪華な装丁の貸本漫画に需要が移っていった。 終戦後の貸本屋にならんだ本は中小の取次店や特価本店から流れた一般流通の古本や古雑誌であったが、やがて、貸本出版社の出版する漫画単行本がほとんどとなる。1950年代末から1960年に最盛期を迎え、文具店・駄菓子店などとの兼業も含めて東京都で3000店、全国で3万店の店舗があったと推計されている。 料金は時代によって異なるが、1950年代後半の最盛期で入会金が20円、貸出料が2泊3日で10円から20円程だったと言われる。貸本漫画単行本の定価は100円から150円であり、基本的に書店では流通しなかった(ただし、小売や個人が出版社に代金を送れば通販は可能)。採算ラインは専業店で、1000人から1500人の会員をもち1日150人から200人の来客があることとされ、客は工場などではたらく労働者階級の青年男女が中心であった。書店流通の雑誌漫画の読者が児童中心であったのに対して明らかに高く、のちの劇画ブームに先行し、その下地を作り上げる形となっている。 初期の貸本漫画単行本の装丁は上製本のB6判とA5判が主流であったが、劇画短編集『影 11号』(日の丸文庫)が出版されたあたりからA5判並製本へと代わっていった。貸本漫画の作者は、戦前からのベテラン作家、赤本や紙芝居、絵描きからの転身、貸本からデビューした新人など様々である。
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貸本漫画
初期の貸本漫画単行本の装丁は上製本のB6判とA5判が主流であったが、劇画短編集『影 11号』(日の丸文庫)が出版されたあたりからA5判並製本へと代わっていった。貸本漫画の作者は、戦前からのベテラン作家、赤本や紙芝居、絵描きからの転身、貸本からデビューした新人など様々である。 多くの作家が多ジャンルの作品を描いた貸本漫画は劇画の台頭などもあり1960年頃にピークを迎えるが、その頃からTVが一般家庭にも普及し若者向け娯楽としての優位を失い、また、『週刊少年サンデー』、『週刊少年マガジン』などの週刊漫画雑誌が相次いで創刊されるとシェアを奪われた。こうしてピーク時以降は前時代的出版物となって出版社の倒産、廃業が続出し、1969年末に貸本出版社主導による貸本漫画は事実上の終焉を迎え、残った出版社も雑誌・単行本の出版やチラシ等の軽印刷請負に活路を見出し、雑誌連載に主軸を移して成功した貸本漫画作家も出現した。 1990年代以降、「ゲゲゲの女房」や「劇画漂流」といった当時の業界を描いた作品が注目されるようになり、貸本漫画作品の復刻出版が相次いている。 貸本出版社中心の旧来型の貸本漫画ビジネスは一度消滅したが、漫画雑誌やコミックスが大量に流通するようになった現在、レンタルビデオ店での漫画の貸し出しや漫画喫茶、電子書籍による電子貸本など、新しい形態に変化して存続している。 ほか 他
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医療漫画
医療漫画(いりょうまんが)は、日本における漫画作品のジャンルの1つ。医師や看護師をはじめとした医療従事者を主人公としていたり、病院や診療所などの医療現場を舞台とするなど、主に医療をテーマにした漫画作品を指す。 落合隆志は医療漫画の定義として 以上の3つを挙げた。 動物医療を題材とした漫画について中垣恒太郎は医療漫画とするべきなのかとしてから、グラフィック・メディスンや生存学が基本的に人間を対象とし、方や動物医療を題材とした漫画も1つのサブジャンルとなっているため、医療漫画の研究が発展していくと動物医療ものは別のジャンルとして形成する可能性を挙げている。 1962年にアメリカの医療ドラマ『ベン・ケーシー』が日本で放送され大ヒット、翌1963年に複数の漫画雑誌で医者ものの作品が登場、そのうち、ちばてつやが週刊少年マガジンで連載した『ハチのす大将』は医療漫画黎明期の一作である。ただ同作は先輩漫画家のつのだじろうから作中の医療描写が正しくないことを指摘する手紙が毛筆の巻紙で送られてきたことをちばが恥じて短期終了となった。表智之はこのエピソードに脚色が含まれる可能性に言及しながらも、外科医である主人公がコレラの論文を書くのは不正確だと同意、主人公が地元の支援のためにお金を得ようとバイクレースに参戦するなど方向性を模索したとみられるシーンを指摘した。
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医療漫画
『ハチのす大将』は『ベン・ケーシー』、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』から影響もみられるが、貧困のせいで医療から遠ざかってしまっている者たちにきちんと焦点が当てられ、それは1950年代から1960年代にかけて漫画でよくみられたことであった。白土三平の『消え行く少女』(日本漫画社、1959年)においては広島で被爆して原爆症になった少女が主人公でその頃の貸本少女漫画では「難病少女もの」といえる作品が人気ジャンルであり、異色作ながらその流れで描かれた一作だったとみられる。また、貸本少女漫画では「母子もの」という悲劇も人気で、主人公の少女の母は亡くなっているか行方不明、特に結核を患って闘病していることが多く、それは現実社会を反映したものだった。現実で結核患者が減少すると原爆症がよく登場するようになり、『愛と死を見つめて』が大ヒットしたことで行き届いた医療の受けて若く美しく清らかな死のイメージが広まり、貧困は遠景となり、1961年成立の国民皆保険制度により医療は全国民が平等に受けられるものとして医療と切り離されていた貧困者は建前上いなくなった。バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』(1961年-1971年)では『消え行く少女』で描かれたようなボロ屋に住んで病に臥せっている貧しい人がコントに登場、テレビでそういったことは笑いのネタにできる過去のものとなった。 手塚治虫が1970年にビッグコミックで連載した『きりひと讃歌』は本格的な医療漫画の始まりに挙げられ、同作は医療に情熱をかける医師による難病を解明、業界での権力争い、病気を理由とした差別など後の医療漫画で扱われることのほとんどが登場、そして手塚が1973年から週刊少年チャンピオン連載の『ブラック・ジャック』は医療漫画がまだ確立されていない中で単行本レーベル「恐怖コミックス」として刊行された同作は累計億超えの医療漫画最大のヒット作で、天才医師というパターンを誕生させ、図書館への蔵書も多く、同作をきっかけとして医師を目指した人も多くいほど影響を与え、『きりひと讃歌』とともに医療漫画のストーリーの枠組みをほぼ完成させた古典であり、今日に至るまで読み継がれている。
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医療漫画
1988年から真船一雄が週刊少年マガジンで連載の『スーパードクターK』は医療漫画でよくある現実味、万能感とは逆に最大限活かした長編、本ジャンルの極北とも評される。同作は医師を原案協力としてクレジットすることで主人公の技量に現実味と説得力を持たせ、そういった専門家監修は1980年以降の医療漫画でよくみられるようになり『ブラック・ジャック』で描かれた医師としての超人性は『スーパードクターK』では身体的なものとなり、現実と虚構のバランスをとった。 動物医療を題材とした漫画としたサブジャンルを決定付けたのは佐々木倫子が花とゆめで連載の『動物のお医者さん』で、21世紀の医療漫画はそれまであまり注目されることのなかった専門分野を題材にしていることも多いが、それの先駆けにも挙げられ、同作は医療漫画でよくある涙を誘うような話は全くなく、専門的な診療もないが、連載に当たって募集したエピソードを元に描かれた大学獣医学部で学ぶ学生にリアリティを感じさせた。また佐々木はビッグコミックスピリッツで1995年連載開始の『おたんこナース』で原案、取材として看護師をクレジットし、医療漫画でリアルな舞台設定の傾向が見られ始め、基本はコメディだが人間模様や心情の変化、病気や死との向き合いなどから看護師ものの標準作である。 1995年に連載開始した森本梢子の『研修医なな子』は女性向け医療漫画としてはおそらく最初の作品である。 2000年に始まった山本航暉の『ゴッドハンド輝』は医療漫画として少年向け及び週刊少年マガジン史上最多の全62巻のヒット作で、同作は世間ではあまり知られていない領域、スポットが当たり辛い業界人に注目、内科診断の重要性、麻酔科医の必要性、理学療法士、臨床薬剤師、栄養士、臨床工学技士、製薬会社の営業といったことが描かれ、また、日常に役立つ家庭の医学を取り扱った情報漫画の要素もあり、現実とフィクションをうまく織り交ぜ、ドラマチックな治療や凄い技、医療従事者の苦悩や患者のドラマ、医療情報に主人公の成長が詰まった同作は医療漫画の理想とも評される。
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医療漫画
2000年代は村上もとかの『JIN-仁-』、山田貴敏の『Dr.コトー診療所』のようなヒューマンドラマ作品、佐藤秀峰の『ブラックジャックによろしく』、乃木坂太郎の『医龍-Team Medical Dragon-』、くさか里樹の『ヘルプマン!』といった医療監修、綿密な取材をして描かれた作品が発表された。また『ヘルプマン!』は介護現場の問題を取り上げた先駆であった。 2006年出版された細川貂々の『ツレがうつになりまして。』は当事者による医療エッセイ漫画がまだ少ない中でその先駆けとして登場した。 2010年代になると現実のチーム医療が反映されたものや医療関係の職種、登場する病気などが多様化した。 病気をめぐる主観的で複雑な個々の経験を表現したコミックがふえており、それを「グラフィック・メディスン」と呼び、日本でも2018年に一般社団法人日本グラフィック・メディスン協会が設立されている。 2020年から新型コロナウイルスが流行するとそれを取り入れた、しりあがり寿がコミックビーム連載の『NEW NORMAL DAYS』、いがらしみきおの『ふつうのきもち』、複数の漫画家によるコロナ禍の日々を描く『MANGA Day to Day』などが発表された。 ブラック・ジャックに始まる数多くの病気や怪我に対応できるスーパードクターという類型が存在、同作では現実味よりフィクションとしての超人さを優先させた。『JIN-仁-』では主人公は名脳外科医だが超人というわけではなく医療が現代より発達していない幕末にタイムスリップしたことで相対的に超人になっており、スーパードクターのあり得なさを避けている。ただ特定の分野のスーパードクターは実在しても数多くの医療分野に対応できる人は実際には存在し得ず、2010年代以降の作品によくみられる高度に専門化された領域を扱うほど、リアリティを追い求めるほどスーパードクターを否定せざるを得なくなる。 作者やその家族の闘病、体験を描いたエッセイ漫画も多く、漫画をよく読む人だけではなく一般層にも開かれており、漫画文化の受容層の点からして特別な位置にある。 動物医療を題材とした漫画は人を対象の医療漫画と比べると少なく、現実社会では1970年代以降でもペットの関心は強いが、それぞれの動物の命を守る動物医療は重視されてこなかったからだとされる。
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4コマ漫画
4コマ漫画(よんコマまんが)は、4つのコマ(齣)によって短い物語を作る日本の漫画の形式の一つ。 最小限のストーリーを描くものとして、新聞や雑誌の一部に掲載され、古くから定着している形式である。 1980年代に登場した「4コマ漫画雑誌」や、1990年代に流行した「4コマ漫画アンソロジー」など、専門に取り扱う媒体も数多く存在する。 並べた4つのコマを起承転結の配置とし、4コマ目にはオチを配置するのが基本的な表現形式である。現代の日本ではコマの配列は縦が一般的であるが、歴史的には必ずしもそうではなく(後述)、日本以外の地域でも『ピーナッツ』のような横配列や2列構成(「田」の字)などが見られる。現代の日本でも、1列に2コマ、あるいは2列構成とした作品がある。また都合上、5コマ(2列で5コマ目が他のコマの4倍。作品によっては最終ページに組み込まれることもあるが、1ページ目に組み込まれることが多く、この場合通常5コマ目の大オチがタイトル表紙を兼ねている)、3コマ(序破急)、8コマなどにコマ数が変動することもある。最近は、3コマ目にもオチを配置した2段オチと呼ばれるものや、本来は内容の表題であった小見出し(サブタイトル)もオチの要素とするもの(4コマ目まで読んで初めて小見出しの意味がわかるもの)など、必ずしも起承転結に沿わない形で笑いを取るものも多い。 複数のコマを使用した短い漫画は日本以外にも見られるが、世界的には必ずしも4コマが主流ではなく、欧米では3コマも数多く存在し、東南アジアのタイでも3コマが一般的である。一方、東アジアの韓国や中国では4コマが定着したスタイルとなっている。 4コマ漫画にはサブタイトルが付くタイプと付かないタイプがある。サブタイトルが付くタイプのものは、そのサブタイトルの対象となる内容が概ね3コマ目か4コマ目に描かれていることが多い。「4コマ漫画」の名称が示す通り、4コマで話が完成する1話完結の作品が多いが、サブタイトルの有無に関係なく、時系列で物語が進む連続性のある作品も多く、それらは実質的にストーリー漫画と変わらない。 コマの配置形式は上述のように様々な手法が採用されているが、珍しいものとしては、1コマ目と4コマ目が通常で、2コマ目と3コマ目が縦長2コマ分かつ幅が半分で横並びになっている「II」のような形式で描かれる作品もある。
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4コマ漫画
コマの配置形式は上述のように様々な手法が採用されているが、珍しいものとしては、1コマ目と4コマ目が通常で、2コマ目と3コマ目が縦長2コマ分かつ幅が半分で横並びになっている「II」のような形式で描かれる作品もある。 日本では江戸時代に風刺画や戯画を集めた書籍が木版画で出版されていたが、それらの中にはコマのような形で連続したストーリーに仕立てたものが存在した。江戸時代後期に出された『北斎漫画』の中には、ページの中に4つの絵が配され、その最後で「オチ」をつけたものがあり、清水勲は「4コマ漫画の源流」と記している。 江戸時代末期から西欧のコマ漫画のスタイルがチャールズ・ワーグマンらによって日本に紹介された。日本で最初に紹介された欧米スタイルの4コマ漫画は、ワーグマンが刊行していた『ジャパン・パンチ』に1876年に掲載された作品とみられている。やがて、日本人の発行する新聞(時事新報など)や雑誌(『団団珍聞』など)でもこれに影響を受けたとみられるコマ漫画が描かれるようになった。一説には、岡本一平が映画のフィルムに触発されて描いた作品が起源とも言われる。しかし、この時代にはまだ4コマ漫画は主流ではなく、1枚絵の漫画が中心で、コマ漫画も2コマ、3コマ、6コマなど様々なスタイルのものが描かれていた。明治後期を代表する漫画家である北沢楽天が中心となっていた『時事新報』の漫画ページ「時事漫画」(1902年スタート)の明治期におけるコマ数別の分類では、1コマが最多で24%に対し、4コマは18%で次点にとどまっていた。また、この時代には4コマの配列も、縦4コマと2列(「田の字」)のものが混在する状況であった。
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4コマ漫画
大正時代にはアメリカやイギリスのコマ漫画が日本の新聞・雑誌に掲載され、それらに影響を受ける形で日本人漫画家の手になるコマ漫画が連載された。それらの中で、1923年にスタートした『正チャンの冒険』(文:織田小星、絵:椛島勝一)と『のんきな父さん』(麻生豊)は4コマ漫画のヒット作となった。『正チャンの冒険』は当時2列配置の「田の字」でスタートしたが、掲載先が『アサヒグラフ』から東京朝日新聞に移った1923年10月20日の回で縦4コマの配置を採用した。またこの『東京朝日新聞』での連載が、毎日連載する新聞4コマ漫画の最初とされている。一方、報知新聞に掲載された『のんきな父さん』は8コマでスタートし、6コマになったのち、1923年11月26日から4コマとなり、紙面の左上に掲載されるようになった(コマ配置は「田の字」形)。また、『正チャンの冒険』が吹き出しのセリフと欄外の説明文を併用していたのに対し、『のんきな父さん』は吹き出しのセリフだけでストーリーを展開した最初の4コマ漫画でもあった。 この2作のヒットにより、新聞各紙は4コマ漫画を競って載せるようになり、最初の「新聞4コマ漫画」ブームと呼べる状況が出現した。その中で、横山隆一が1936年から東京朝日新聞に連載を開始した『江戸っ子健ちゃん』は、『フクちゃん』へと発展し、ヒット作となる。戦争による漫画の減少(漫画家の報道班への徴用や疎開、夕刊廃止などの新聞紙面縮小による)を経て、太平洋戦争後には先に漫画の掲載が復活した地方紙から長谷川町子の『サザエさん』や南部正太郎の『ヤネウラ3ちゃん』といった人気作品が生まれ、第二次「新聞4コマ漫画ブーム」が起きる。また手塚治虫もそのデビュー作は1946年に開始した4コマ漫画『マァチャンの日記帳』だった。長谷川のほか、復帰した横山隆一や、読売新聞に『轟先生』を連載した秋好馨、1954年から毎日新聞に『まっぴら君』を連載した加藤芳郎らによって、戦後を代表する長寿の新聞4コマ漫画が1950年代前半には出揃った。
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4コマ漫画
その後、日本経済が高度成長すると、新聞連載の4コマ漫画は、家族の日常を描いたものから、経済活動と関わりを持つサラリーマンを主役としたものへと変遷していく(『フジ三太郎』『サンワリ君』『アサッテ君』他)。だが、高度成長がもたらした嗜好の拡散に対し、新聞には公序良俗や過激な表現への制約があり、表現がマンネリズムに陥ったり、キャラクターには「毒も個性も無い」という状況が現出した。こうした中で、より対象を絞りやすく、表現の制約が少ない雑誌において、新たなスタイルの4コマ漫画が登場する。その代表的な漫画家がいしいひさいちや植田まさしであった。いしいの『がんばれ!!タブチくん!!』のヒットは、第三次「4コマ漫画ブーム」を起こし、雑誌やスポーツ新聞・夕刊紙への4コマ作品掲載が増加した。1980年代には4コマ漫画専門の雑誌も相次いで創刊された。 1980年代後半から1990年代にかけて、ストーリー漫画とのボーダレス化が進み、普段はストーリー漫画を執筆している漫画家が、4コマ漫画の連載を持つことも多くなった。1985年に連載開始の相原コージ『コージ苑』や、1989年に連載開始の吉田戦車『伝染るんです。』により、「4コマ=起承転結」という前提が崩壊したことにより、従来のオチの面白さを追求した作品よりも、不条理ネタ、雑学、作家の身辺雑記などが題材とされる作品が増えていく。さらに2000年代にかけて、いわゆる「萌え4コマ」誌が次々に創刊されて、アニメ・ゲーム・同人誌などのサブカルチャーとの結びつきが強まり、絵柄、キャラクター、萌えなど他の要素に重点を置く作品などが主流となっていった。 長期連載作も多い。1967年に連載開始の『碧南一家』は、現在の日本のすべての連載漫画のうち、最長寿漫画である。また『小さな恋のものがたり』は連載期間が52年4か月にも及んだ。
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4コマ漫画
長期連載作も多い。1967年に連載開始の『碧南一家』は、現在の日本のすべての連載漫画のうち、最長寿漫画である。また『小さな恋のものがたり』は連載期間が52年4か月にも及んだ。 4コマ漫画は、日本ではかつては漫画の基本と言われた。例えば手塚治虫の『漫画の描き方』では、漫画の表現に関する説明の後、「案を作る」という章の中で4コマ漫画について触れ、これを「漫画のスジ立ての基本」であると言っている。また、多くの漫画家が4コマ漫画を描いてきたこと、自分自身も発表の場が無かった頃には4コマを多く描き、それが財産となっていることなどを説明している。その基本は起承転結であること、また4コマを発展させることで、長い漫画も描けることなどにも触れている。 漫画雑誌に連載で発表されている作品には、各4コマごとにオチをつけながら、物語としては完結させずに次の4コマに連続させ、複数本(作品にもよるが、おおむね10 - 15本前後の場合が多い)の4コマが総体として1つの物語をなしているような表現形式をとるものも多い。このような形式、あるいはこの形式をとっている作品は、ストーリー4コマと呼ばれている。 ストーリー4コマは、さらに以下のように大別できる。 ストーリー4コマと呼ばれる作品が増えたのは、4コマ漫画の普及に伴って若年の読者が増えてきたこと、漫画家の世代交代で幼少の頃にストーリー漫画に親しんだ漫画家が増えてきたことが原因として考えられる。元から比較的高い年齢を対象としており、基本的な関係はまったく変化せず4コマ作品1本で話をまとめることが好まれていたが、若年層が増えたことからストーリー性のある作品を好む傾向が出てきた。新聞4コマとは異なり、毎月数ページに渡って数本 - 十数本の4コマ漫画が掲載される月刊4コマ漫画誌という体裁も、ストーリー漫画の掲載に向いている媒体であったといえる。そのため、いしいひさいち、相原コージ、小池田マヤ、胡桃ちのなどの意欲的な作家により、ストーリー4コマというジャンルが確立され、『まんがタイムラブリー』や『まんがタイムジャンボ』など、若者向けの4コマ誌が誕生していったのである。
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4コマ漫画
それでもあくまで4コマ漫画であるため、作品全体としてストーリーを進めつつも4コマ作品1本にしっかりとした起承転結が存在しているものが多かった。しかし、2000年頃を境としてストーリー漫画である程度の経歴を持った作家が4コマ漫画家に転身することも多くなり、4コマ目が笑いを必要としない「ストーリー的な結果」で締めくくられる作品や、中には4コマ目であっても次の話へ続く展開だけが描かれる作品も増えている。このような作品は「単にコマが4つずつになっただけのストーリー漫画」とも見られており、このような作品を4コマ漫画と呼ぶことに違和感があるという声も多いが、元から戦前戦後の頃の漫画はコマ割が一定であることが多く、昭和後期以降の漫画のように複雑なコマ割になりすぎたストーリー漫画に対する原点回帰だとする見方もある。 なお、上記2-2.のように年齢が変化しないにもかかわらず季節や流行が移り変わる物語性を持った連載作品は、4コマ漫画でもストーリー漫画でも俗に「サザエさん方式やサザエさん時空、あるいは磯野時空になっている」などと表現されることがある。これは、長谷川町子の『サザエさん』の主な舞台である磯野()家を、長期連載にかかわらず年齢が変化しない空間(時空)であると捉えた語である。 あるいは、上記4.のような作品であれば、「この作品は途中からサザエさん時空に突入した」などのような表現も用いられる。もっとも、『サザエさん』も初期は加齢があったので、もっとも典型的な「サザエさん時空」が上記4.の例といえる。 1980年末から1990年代初頭によく見られた形式。榎本俊二の『GOLDEN LUCKY』や吉田戦車の『伝染るんです。』、相原コージの『コージ苑』、須賀原洋行の『気分は形而上』、小林銅蟲の『ねぎ姉さん』などの作品が代表的。青年誌など4コマ専門誌以外で掲載されることが多い。一見するとオチているのかオチていないのか不明瞭だったり、話のネタ自体が理解しづらいが、なにかしら笑える部分がある。このような不条理な展開の4コマは『G組のG』などのギャグ4コマや、『ゆるめいつ』などの萌え系4コマにも受け継がれている部分がある。
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4コマ漫画
1990年代末に萌えを重点とした4コマ漫画が増え始め、この様な作品は一般的に萌え4コマと呼ばれている。1999年に『電撃大王』で連載されたあずまきよひこの『あずまんが大王』が大ヒットし、また同じ年に成人向け美少女漫画誌の主力作家である後藤羽矢子が『まんがライフ』において初の一般向け作品でありストーリー4コマ漫画となる『どきどき姉弟ライフ』を発表、さらに『スポコミ』(前身は『月刊まんがパロ野球ニュース』)が休刊した後に、同じ雑誌コードを引き継いだ青年向け4コマ誌『まんがくらぶオリジナル』が創刊するなどの出来事が起こっている。このことから、1999年はいわゆる「おたく文化」の4コマ漫画界への流入が本格的に始まった年であり、後の萌え4コマ流行の礎の一つとなっていった。
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ここに分類される基準は萌え要素の有無である。原則的に従来の4コマ漫画よりも絵に重点が置かれていること、登場人物の大半が美少女でありなおかつ萌え絵に属する(=主に男性に好まれる)絵柄であることが特徴に挙げられる。それ以外は一概にくくれる要素を持っているわけではないが、萌え4コマというフォーマットの性格上、キャラクターの個性がネタにされることが多く、小ボケの連続により話が進んでいくことが多い。4コマ目でオチを付けることは必須条件ではないため、ストーリー4コマの特徴を含む作品も多い。総じて4コマ目のオチが淡白になる傾向があり、中には4コマ目でオチがなく次の4コマへ向けての「承」や「転」に当たる展開が延々と続くものすら存在する。これは、オチのインパクトよりも、萌えキャラのキャラクター性が重視されているからである。なお、いわゆる「脱力系4コマ漫画」(例:『らき☆すた』、『ゆるめいつ』など)も作品全体の雰囲気がゆるく脱力系で進行するという意味で前者と同様「ゆるい作品」と表現されることが多いが、後者は原則4コマ目で落とす展開の連続で作られているため、前者と後者の「オチ」の性質は似て非なるものと言える。萌え4コマやそれを原作としたアニメなどによくみられる、萌え系の表現を重視して日常生活の描写を中心とした作風のコンテンツをさす用語としては、空気系というタームもある。植田まさしは自身が「実体のあるものを仕掛けにしたアイデア」をオチに使うことを明かした上で、萌え4コマの「空気オチ」の傾向について「具体的なオチへの期待感がないんですよ。結局それはキャラクターに頼っているということで、キャラ頼りの漫画って長続きしないと思うんです」と厳しく批評している。 また、ストーリー漫画やライトノベル、美少女ゲームのイラストレーター出身の作家も多く、これらの分野から受けた影響から感動的な展開やいわゆる「泣き」の設定を取り入れる作品も少なくない。ドタバタラブコメディのような作品の手法を応用した終始ハイテンションで突っ走る作品も存在するが、画風などの特性においては萌え4コマと共通しており、同種として括られているのが通常である。
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4コマ漫画
また、ストーリー漫画やライトノベル、美少女ゲームのイラストレーター出身の作家も多く、これらの分野から受けた影響から感動的な展開やいわゆる「泣き」の設定を取り入れる作品も少なくない。ドタバタラブコメディのような作品の手法を応用した終始ハイテンションで突っ走る作品も存在するが、画風などの特性においては萌え4コマと共通しており、同種として括られているのが通常である。 萌え4コマの元祖を特定することは難しく、万人が納得する一つの作品に絞り込むことはできていない。萌えるかどうかは作品だけでなく読者側の問題でもあり、伝統的な4コマ作品でも受け手次第で萌えることは可能といえる。 萌え4コマ専門誌の先駆者は『まんがタイムきらら』(2002年創刊)だと言われるが、その母体は複数ある。 なお、同人誌界で活躍している作家が4コマ漫画業界に多数参入してくるようになったきっかけも萌え4コマの流行と『きらら』の創刊であると考えられているが、それ以前から4コマ漫画誌でデビューを果たしていた胡桃ちの・青木光恵・さんりようこらと言った作家も元々はと言えば同人誌活動をしていて、後に漫画家としてデビューした作家である。 萌え4コマ専門誌2000年代前半 - 半ばに相次いで創刊したが、上記の『まんがタイムきらら』シリーズを除いて長続きしないものが多かった。2004年には5誌が創刊したが、翌年までに『まんがタイムきららMAX』以外は休刊に追い込まれた(双葉社『もえよん』は13号まで発刊、『COMICぎゅっと!』は3号、『コミックメガミマガジン』は2号、『まんが学園4年生』は1号のみ)。その後、2006年9月に一迅社から『まんが4コマKINGSぱれっと』が創刊された。2008年には姉妹誌『まんがぱれっとLite』が創刊されたが、2011年4月より2誌体制をやめて両誌を統合(『Lite』を廃刊)、『まんが4コマぱれっと』と改題した。
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他にも、2003年には竹書房から一般誌と萌え4コマ誌の折衷型雑誌として『まんがライフMOMO』が創刊している。折衷型は永らく『MOMO』独自のポジションであったが、2000年代後期からは芳文社刊の『まんがタイムジャンボ』や『スペシャル』などの青年4コマ誌が追随するようになり、同じ竹書房刊の『まんがくらぶオリジナル』なども創刊当初の誌面構成に近い内容に回帰する形でこれに追随するようになっていった。同時に一般4コマ誌全体においても萌え4コマの掲載比率が年を追う毎に高まり、単に「萌え」というひとつのジャンルに留まらず「4コマ雑誌界全体における新人作家発掘の場」としての役割も担うこととなっていった。 2010年頃からは各社ともリスクの高い新雑誌の創刊を避け、既存4コマ誌の萌え系化やWeb4コマサイトによる公開といった方針が取られる傾向にある。そのような中で芳文社の『まんがタイムラブリー』も従来の女性向け4コマ誌からの脱却が図られ、2011年2月発行の3月号より従来の萌え4コマ世代と同じか、それよりもさらに若い漫画好き世代をターゲットとしたストーリー4コマ雑誌としてリニューアルされた。 作品自体の性質から、購読者層の男女比率は圧倒的に男性が多く、一般的な4コマ誌では概ね半々であるが『きらら』や『ぱれっと』系統では男女比が9:1〜8:2にものぼる。折衷タイプにおいても『MOMO』では7:3で男性読者の方が多く、『ジャンボ』でも同様の傾向が見られる。 萌え4コマは他ジャンルからの批判、偏見も少なくなく、『週刊少年ジャンプ』の連載作『バクマン。』作中で批判されたり、『ビッグコミックスピリッツ』の『気まぐれコンセプト』作中で批判されたこともあった。 主要な掲載媒体は、新聞、商業誌(通常の漫画雑誌、4コマ専門漫画雑誌(「4コマ誌」と略される))、アンソロジー形式の単行本、同人誌等である。近年はWebコミックによる発表も増えている。
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萌え4コマは他ジャンルからの批判、偏見も少なくなく、『週刊少年ジャンプ』の連載作『バクマン。』作中で批判されたり、『ビッグコミックスピリッツ』の『気まぐれコンセプト』作中で批判されたこともあった。 主要な掲載媒体は、新聞、商業誌(通常の漫画雑誌、4コマ専門漫画雑誌(「4コマ誌」と略される))、アンソロジー形式の単行本、同人誌等である。近年はWebコミックによる発表も増えている。 新聞での掲載個所は社会面左上隅が一般的であり、多くの一般紙に掲載されている(朝刊のみに掲載される場合、中面に掲載される場合もある)。あらかじめ作者が提示した掲載候補から担当記者による選別を経て、掲載作品が決定される。また、不測の事態に備えて、いわゆる「描き溜め」のストックも行われている。新聞紙上における一服の清涼剤としての役割が期待され、また幅広い読者層に対応するため、古典的な起承転結を基調とし、話題は季節ネタ・時節ネタが多い。但し、時節ネタも同様な理由から刺激の強いものは避けられる傾向が強い。それでも新聞というメディアの特性上、作者の意図しない解釈による批判を受ける(参照ページ「マスコミにおける女性蔑視を考える」)ことも多く、ますます現実と遊離した無難な内容の作品が掲載される結果を招いている。制約が多く、独占的・長期に連載されるため(作者の死によって連載終了となることも多い)マンネリ化に陥ることも多い。 一部の連載(『アサッテ君』の一時期や、『ひなちゃんの日常』、『フジ三太郎』など)では8コマや9コマ、中には3コマとなったものもある。 韓国の新聞では、政治、経済、社会、文化全般の時事的な問題や人物を風刺して描かれることが多く、特に「漫評」と呼ばれることがある。 なお、掲載紙がスポーツ紙のため参考扱いであるが、『いも虫ランド』(コジロー スポーツニッポン。1984年10月11日掲載開始)が2021年9月26日時点で13075回掲載となっている(同日付紙面にて確認)。
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韓国の新聞では、政治、経済、社会、文化全般の時事的な問題や人物を風刺して描かれることが多く、特に「漫評」と呼ばれることがある。 なお、掲載紙がスポーツ紙のため参考扱いであるが、『いも虫ランド』(コジロー スポーツニッポン。1984年10月11日掲載開始)が2021年9月26日時点で13075回掲載となっている(同日付紙面にて確認)。 4コマ漫画作品を主な内容として掲載している漫画雑誌(商業誌)を総称して4コマ誌(よんコマし)という。これは「4コマ漫画専門雑誌」の略で、芳文社、竹書房、双葉社、ぶんか社、などから発行されている。判型はB5判(182mm×257mm)のものが殆ど。綴じ方は中綴じのものが多いが、平綴じのものも増えつつある。ページ数は、中綴じのものは200ページ前後、平綴じのものは220ページ前後である。 1冊あたりの税込価格は概ね270円から350円程度であるが、2004年頃からは、『まんがタイムきららMAX』(2004年5月24日創刊)が450円、『もえよん』(2004年7月9日創刊)が420円にそれぞれ設定されるなど、例外的に400円を超えるものも現れつつある(価格はすべて創刊号のもの)。『まんがライフMOMO』を含む萌え4コマ誌は、基本的に自社広告以外の広告が掲載されていないこともあり(掲載される場合、ほとんどがとらのあな、メロンブックスなどの同人ショップやブロッコリーなどのゲーム・キャラクターグッズ企業である)、一般的に350円程度とおおむね通常よりも高めの価格設定をされることが多い。 「まんが○○○」などと、雑誌名の頭が平仮名で「まんが」と始まるものが多く、狭義にはこれに当てはまる雑誌のみが4コマ誌と称される。この中には(主として1人ないし少人数の漫画家を特集する)再録作品を中心とした、不定期または実質定期の増刊号=再録4コマ誌が含まれる。現在発行されている定期刊行(狭義)4コマ誌の中には、再録誌から出発した後に初出作品の分量を増やし、通常の4コマ誌にリニューアルして今に至っているものもある。
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また、「本当にあった○○○な話」など、雑誌名の頭が「本当にあった」で始まるものも広義には4コマ誌に含まれるが、前者は創作漫画作品(普通の漫画作品)を中心に掲載しているのに対し、後者は読者からの投稿を4コマ漫画化したものを中心としており、前者(狭義の4コマ誌)と区別するため特に実話系4コマ誌などと称されることがある。実話系4コマの元祖は田島みるくの『本当にあった愉快な話』(現・本当にあったゆかいな話)で、ここから派生してお色気系実話に特化した『愛のイトナミ』(現・愛のイトナミSP、後藤ユタカ作)、その他医療系実話の主力・安斎かなえや、自らの恋愛体験を赤裸々に描く桜木さゆみらといった作家が実話系4コマ漫画を中心に活動している。 萌え4コマ誌については萌え4コマの節を参照。 この他に、『みこすり半劇場』とその増刊・別冊など、成人向けの4コマ漫画作品を中心とするものはエロ4コマ誌、艶笑4コマ誌などと称される(実話系4コマ誌においても成人向けの内容を多く含むものがあるが、呼称は明確には区別されていない。また通常の成人向け4コマ誌は男性読者が中心であるのに対し、実話系は女性読者が多い傾向にあるという差異もある)。便宜上成人向け4コマと呼ばれているがあくまで下ネタや色気を題材として笑わせることが目的の作品であるため、いわゆる18禁漫画に指定されることはない。
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成人向け4コマ誌は『みこすり半劇場』の登場後密かなブームとなり、1990年代前半には創刊が相次ぎ一時的に乱立状態となった。しかし、ほとんどの雑誌が短命に終わり、『みこすり半劇場』のみが細々と残ることとなった。その『みこすり半劇場』自体も2010年のリニューアルでノンフィクション(実話系)4コマ中心へ、そして2013年のリニューアルでは4コマ誌の体裁を捨て成人向けストーリー漫画誌へと路線変更され、この時点で創作ものとしてのお色気・下ネタ4コマ漫画誌は出版業界から姿を消すこととなり、さらに翌2014年には雑誌自体が休刊することとなった。他にも『ビタマン』、『あべまん』→『えっち一本勝負』→『NAMAIKIッ!』(竹書房)や『まんが笑がっこう』→『SHOWGAKKO』(平和出版)のように、成人向け4コマ誌として創刊した後に成人向け漫画誌に路線変更したものもある。ちなみに現在休刊となった『SHOWGAKKO』からは、同誌で漫画を執筆していたかがみふみをと、同誌のハガキ投稿コーナーの常連であった荻野眞弓が後に4コマ漫画誌で活躍することになるという皮肉な結果も生まれている。同様に成人向け4コマから路線変更した雑誌に『まんがシャワー』(一水社)がある。この雑誌は成人向け4コマ誌から熟女系エロ劇画誌『漫画シャワー』になり、現在では『まんがシャワー』と誌名を戻したものの、漫画よりもヌードグラビアなどを重視したごく一般的なエロ本になって刊行されている。同じように現在エロ本化している元成年向け4コマ誌には『COMICび〜た』、『カルビPOWER』(いずれも若生出版)がある。市場の縮小により転身した作家も少なくなく、当時『イカしてソーロウ』を代表とする人気作品を次々と発表し、下ネタ4コマ業界で岩谷テンホーと人気を二分していた笑太郎はその後ジュニアアイドルのイメージビデオの制作業に転身し、『天使の絵日記』シリーズを制作・販売している(ちなみにかつて同シリーズに出演していた吉沢真由美は笑太郎の実娘である)。
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また、この時期にはファミリー向け・成人向け・スポーツ芸能4コマを一冊の雑誌にまとめて掲載した『まんが笑アップ』と、増刊『まんがポケット』(廣済堂出版)という変り種の4コマ誌もあった。両誌とも概ね一般向け作品5割:成人向け作品3割:スポーツ芸能、その他(不条理系など)2割程度の比率で掲載されており、『みこすり半劇場』掲載作と同様の性描写や性的行為をあからさまに描いた過激な作品から、家庭などを舞台とした暖かくほのぼのとした雰囲気の作品までが1冊の雑誌内で同居しているという異色の4コマ雑誌であった。しかし、このように作品相互間において読者層が相容れないものをごちゃ混ぜにした内容であったためか長続きせず、いずれも早々に休刊となった。なお2010年現在発行されている4コマ誌においては『主任がゆく!スペシャル』(ぶんか社刊、『無敵恋愛S*girl』増刊号→『みこすり半劇場』増刊号)が一般向け・成人向け・実話系4コマを一冊にまとめて掲載する形を取っておりこれに近いものとなっているが、成人向け作品の描写を比較的ソフトに抑えることで誌面全体のバランスを取るよう図られている。 4コマ誌においても、4コマ以外の形式の作品(区別のために、「ストーリー作品」(ストーリー形式の漫画作品)と呼ばれる)も数本程度掲載される。通常、4コマ形式の作品は1作品あたり4〜8ページ、ストーリー形式の作品は1作品あたり6〜10ページ程度で、1冊の4コマ誌には少なくとも20作品以上が掲載されている。 他に、各雑誌ごとに異なるが、読者投稿欄、アンケート、パズル、占い、文章作品(エッセイなど)なども掲載される。アンケートは懸賞付きで行われ、賞品には現金や金券類などが設定される。近年は作家の色紙やサイン入り単行本などを賞品とするものも現れている。
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他に、各雑誌ごとに異なるが、読者投稿欄、アンケート、パズル、占い、文章作品(エッセイなど)なども掲載される。アンケートは懸賞付きで行われ、賞品には現金や金券類などが設定される。近年は作家の色紙やサイン入り単行本などを賞品とするものも現れている。 また他の漫画雑誌と異なり、表紙が1名の作家によって複数月連続して担当される、という特徴がある。この理由としては、「複数の4コマ誌で同一作品が同時に連載されている例が多いため、表紙担当を毎号変えると読者が混乱するため」、「あまり熱心ではない読者(意識して4コマ誌を購読しているのではなく、暇潰しなどの目的で目に付いた雑誌を適当に買った読者)にとっては、各4コマ誌は雑誌名も似ており区別しづらいため、彼らに対して“前号と同一銘柄の雑誌であること”を印象付け、継続購読を促すため」、などの説があるが、定かではない。また、『まんがタイムきらら』系は他の4コマ誌と異なり「特定の作家・作品のファンとなった読者層を定期購読者として取り込む戦略を展開している(=熱心な読者を創り出しターゲットとする)」ため当初は表紙担当の固定制にはこだわっていなかったが、近年はアニメ化された看板作品に固定される時期もある。表紙作家は基本的に巻頭カラーも担当する(芳文社の一部雑誌は表紙作家以外が巻頭を担当することがある)。ページ数も毎回8ページ前後と多く、さらに竹書房の場合は連載に関連した企画連載も同時掲載されるなど、表紙作家は文字通り雑誌の看板として別格扱いとなっている。 2023年12月現在の4コマ誌の表紙作家と担当期間は次の通り。
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4コマ漫画
2023年12月現在の4コマ誌の表紙作家と担当期間は次の通り。 4コマ誌に連載された作品の単行本は、判型がA5判(148mm×210mm)のものが殆どで、他の形式の作品の単行本の多くがB6判(128mm×182mm)以下であることに比べると、やや大きめになっている。価格は各出版社・各レーベルごとに異なり、更にカラー印刷のページ数などによっても異なるため、概ね600円から900円程度とまちまちである。特に先述の萌え4コマは高値に設定されており、一般誌と併売している大手では別レーベル(芳文社=まんがタイムKRコミックス、竹書房=MOMO selection)を設けて他のコミックスとシリーズ・価格とも区別する形式を取っている。これらの書籍は1頁に2本(8コマ)を収録したものが多いが、一方でいしいひさいち作品などから増え始めた、1頁に1本を収録した新書サイズのものも見られ、こちらはやや安価である。 また、単行本のための描き足しが、巻頭・巻末や本文内だけでなく、カバー裏(カバーを外した状態の、単行本本体の表紙・裏表紙をこう呼ぶ)にも付されることが多く、単行本を購入した読者にとっては、カバーをめくることも楽しみのひとつとなっている。
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単行本化される作品は、連載である程度の人気を得たものに限られており、連載が長期にわたり続いても単行本が発売されない場合がある。また、単行本の第1巻が発売されても、その売れ行きが芳しくないと、連載が続いても第2巻以降が発売されないことが多い。4コマ誌掲載漫画の単行本で第2巻の出るタイトル数は第1巻のそれの約半分、と言われている。そのため、連載が完結しても、単行本上では永遠に未完となってしまう場合も珍しくない。また、単行本で完結しても、中長期連載の場合は相当数の未収録話が残るケースもみられる。単行本未収録分を同人誌として頒布したり、4コマ漫画単行本の読者プレゼントとする漫画家もいるが、これは稀な例である。主にストーリー4コマで単行本にきっちり収めて完結させるために途中から展開を早めるなどして調節される場合もあるが、このようなケースは連載が打ち切られることが前提であるとはいえ、前述のようなケースが多い実情に鑑みると恵まれている方である。単行本の発売に際しては、様々な拡販施策(フェア)が行われることがあるが、かつてのフェアは1社単独での既刊単行本や掲載誌との連動企画を中心に展開されるものだった。1999年には、竹書房・白泉社の合同企画として「みずしな&ももせコミックスフェア」が開催され、両社で主力作家であったみずしな孝之とももせたまみの対象コミックス購入者にオリジナル特製しおりがプレゼントされるなど、異なる出版社による2社合同フェアが行われるようになった。さらに、2000年頃からは、1名の作家の作品を複数の出版社で同日に発売し、合同フェアとして広告展開することによる拡販施策が行われるようになった(例:2003年、真右衛門、講談社・竹書房/2004年、森真理、竹書房・小学館)。特筆されるのは2004年10月の「重野なおきスリーランフェア」で、竹書房・双葉社・白泉社の3社から1冊ずつ計3冊の単行本が同日に発売された。これに続き、2005年1月から3月にかけて、芳文社・竹書房・メディアワークスの3社から、大井昌和の作品の単行本が毎月27日頃に各1冊ずつ発売された。いずれも、「3社合同企画」などと銘打ち、合同での懸賞が行われたり、雑誌上において他社刊行のものを含む複数冊をまとめて広告するなど、出版社ごとの垣根を越えた拡販施策が行われている。その後も胡桃ちのや小笠原朋子などについて同様の施策が行われ、4コマ誌に連載を持つ作家の単行本についての拡販施策の定石となった。
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コンピュータゲーム作品(特にテレビゲーム)の世界観や登場人物を、そのまま題材として二次創作した4コマ漫画作品をゲーパロという(「ゲームパロディ」の略か)。他の作品を題材とした二次創作作品は、本来は同人誌として発行されるものであるが、ゲーパロの分野においては、ゲームメーカーと無関係の出版社が発行するほかに、ゲームメーカーが自らゲーパロ作品の単行本を発行・発売しているケースもある。このような単行本の殆どは、複数名の作家によるアンソロジー形式を採っているため、コンピューターゲーム作品を題材とした4コマ漫画作品の単行本はゲームアンソロジーと総称されている(単に「アンソロ」とも略される)。 上述の4コマ誌とは異なり、ゲームアンソロジーに収録されている作品は、雑誌等への掲載を経ずに単行本上のみで発表されることが多い。 古参かつ代表的なレーベルには、エニックス(後のスクウェア・エニックス)より刊行されていた『4コママンガ劇場』がある。『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』の商業的成功は、少年漫画雑誌『月刊少年ガンガン』を生み出す原動力となった。 このことに端を発し、各社が競ってゲームアンソロジーを発行するようになった。このジャンルは以前から存在したが、現在の多くの作品は『4コママンガ劇場』を参考としたものであるといえる。また、プロの漫画家ではない素人(しかも、同人作家ですらない)が起用されることもあり、これがプロデビューのきっかけとなった漫画家も多いが、これもかつての『4コママンガ劇場』の基本方針の一つであった。このレーベルからプロデビューを果たした代表的な漫画家は、衛藤ヒロユキ、柴田亜美など。 『4コマまんが王国』は、双葉社が発行していた、主にテレビゲームに関するパロディー・ギャグ4コマ漫画やショートコミックのレーベルで、双葉社アクションコミックスのシリーズである。
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『4コマまんが王国』は、双葉社が発行していた、主にテレビゲームに関するパロディー・ギャグ4コマ漫画やショートコミックのレーベルで、双葉社アクションコミックスのシリーズである。 上述の『4コママンガ劇場』に次ぐ歴史を誇るが、既に双葉社は1986年頃にゲームソフトを題材にした漫画として「ファミコン冒険ゲームブック」のレーベルを立ち上げており、ゲームコミックの歴史としては『4コママンガ劇場』にも並ぶか、場合によっては最も古いレーベルではないかといわれている。1991年に『4コママンガ劇場』の成功に注目、『4コマまんが王国』としてシリーズ化するとともに、1993年には一雑誌の創刊を実現するまでに成長した。 表現上の規制が厳しいとされていた4コママンガ劇場よりも規制基準がかなり緩かったこともあり、質の高い数々の爆笑ネタや漫画家が誕生。4コママンガ劇場よりも多くのゲームソフトの漫画化も行われた。最盛期には任天堂のゲームを対象にしたものが多く出版されており、4コママンガ劇場のライバル的存在としてゲームコミックレーベルの中でもトップクラスの人気を誇った。このレーベルからプロデビューを果たした代表的な漫画家は佐々木亮など。 個人サイトや4コマ漫画誌の公式サイトにおけるものが主である。『livedoor デイリー4コマ』や『まんがタイムきららweb』、『ピクシブ通信』など、ポータルサイトやWebコミックサイト内の4コマ漫画用コンテンツとして設けられているものもある。 近年では竹書房が『デイリー4コマ』を縁としてライブドアとの関係を深めており、両社間での作者の交流や、新人賞の共同主催を行っており、2009年4月27日にはデイリー4コマのサイトの一部を間借りする形で新たにWeb4コマコミック『まんがライフWIN』をオープンした。『まんがライフ』系統で人気の作家を中心に起用されているが、インターネット媒体ということもあり、作品のラインナップは同社刊の雑誌系統のものよりも萌え系4コマにより比重を置いた構成となっている。 2010年2月23日には、芳文社も『まんがタイム』系、『きらら』系に続く第三の4コマ媒体として、上記と同じ『デイリー4コマ』との共同運営によるWeb4コマコミック『まんがタイムWAVE』をオープンしたが、2011年3月いっぱいで閉鎖した。
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4コマ漫画
2010年2月23日には、芳文社も『まんがタイム』系、『きらら』系に続く第三の4コマ媒体として、上記と同じ『デイリー4コマ』との共同運営によるWeb4コマコミック『まんがタイムWAVE』をオープンしたが、2011年3月いっぱいで閉鎖した。 2011年6月10日より一迅社が、廃刊した『まんがぱれっとLite』に代わるWeb4コマコミック『まんが4コマぱれっとOnline』をオープンしている。 各出版社ごとに、創刊の古い順に掲げる。●は休・廃刊。
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劇画
劇画(げきが)は、漫画の表現技法、もしくは漫画のジャンルの一つである。 「劇画」という名称は辰巳ヨシヒロの考案によるものであり、劇画工房の誕生以降の劇画ブームによって世間一般に名称が定着した。 劇画とは、それまでの漫画から一線を画した漫画表現の手法であり、青年向け漫画を子供向けの漫画と異化・区別させるために作られたジャンルでもある。従来の漫画はあくまで子供向けであり、辰巳らは自分たちの作品がそのような評価を受けることを極端に嫌っていた。貸本劇画の読者層は労働者階級の若者であり、また劇画工房のメンバーも同じような階層の若者であった。作風としてはハリウッド映画やハードボイルド小説の影響が大きい。 劇画という名称は1957年(昭和32年)末に、名古屋の貸本出版社「セントラル文庫」から出版された漫画短編集『街 12号』に掲載された辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」で初めてその扉ページに使用されたとされる。以降、辰巳は新しい漫画のジャンルとして「劇画」という名称を積極的に使い始める。 そのころ、大阪の「日の丸文庫」で貸本漫画を描いていた漫画家らは原稿料の不払いに悩んでいた。そこで漫画家同士で団結して出版社との交渉に当たる目的で石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、岩井しげお、鈴木洸史らの7人で漫画制作集団「関西漫画家同人」が結成された。 1959年(昭和34年)1月5日、辰巳ヨシヒロと「関西漫画家同人」所属のうち石川、元美津、桜井、山森、佐藤の5人が大阪の辰巳の実家で会合を持った(連絡が取れなかった岩井、鈴木は不参加)。その際、山森の「自分たちにも『劇画』という名称を使わせてほしい」との要望を受け、辰巳が個人的に使用していた「劇画」を日の丸文庫の漫画家仲間の間で共用することになった。 1959年、辰巳ヨシヒロが中心となり、石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、そしてさいとう・たかをら7人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。さいとう・たかをは当初「説画」という名称にこだわっていたが、辰巳の説得に折れて参加することになった。結成時の話し合いに同席していた松本正彦もまた、自らの付けた名称「駒画」にこだわり参加を渋っていたが、4月になってようやくに加入、後に8人体制となる。
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劇画
活動に先んじて「劇画工房ご案内」と題名された挨拶状(はがき)150枚が、新聞社、出版社や漫画家に向けて送付された。劇画宣言と呼ばれる。この宣言文の宣伝効果は絶大で、漫画業界に「劇画」という言葉が定着する。手塚治虫の元にも届けられ、手塚は後に自伝「ぼくはマンガ家」でこの挨拶状を取り上げている。 この新しいジャンル「劇画」は貸本漫画読者の間でたちまち人気となり、『影』(日の丸文庫)、『街』(セントラル文庫)、『摩天楼』(兎月書房)等、劇画短編集が多数出版され貸本漫画の黄金期が始まることになった。ところが、1959年8月、メンバーは辰巳ヨシヒロ宅に急遽招集され、そこで辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、松本正彦の3人が「劇画工房」からの脱退を表明、後に解散となる。 1965年(昭和40年)、当時のトップ漫画家であった手塚治虫がいわゆる「W3事件」で「週刊少年マガジン」の連載を降板するという事件が起こった。編集長の内田勝は手塚の抜けた穴を埋めるべく、貸本劇画で活躍していた劇画家に執筆を依頼。これらの劇画は読者の高い支持を得て、以降、マガジンは劇画路線を推進していくことになる。 劇画の人気を見てとった他の出版社からも次々と劇画雑誌が創刊される。1966年(昭和41年)創刊の「コミックmagazine」(芳文社)を皮切りに、1967年(昭和42年)創刊の「週刊漫画アクション」(双葉社)と「ヤングコミック」(少年画報社)、1968年(昭和43年)創刊の「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)などが挙げられる。それらの雑誌には、貸本から商業雑誌に移行後もヒットを飛ばした、さいとう・たかをや佐藤まさあき、彼らのスタッフだった川崎のぼるや、南波健二、小池一夫、劇画調に作風を変化させた永島慎二や白土三平、つげ義春、新世代の梶原一騎や宮谷一彦、バロン吉元、池上遼一、上村一夫らが執筆し人気を博した。
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