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Microsoft Windows Millennium Edition
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Microsoft Windows Millennium Edition(マイクロソフト ウィンドウズ ミレニアム エディション)または Windows Me(ウィンドウズ エムイー、ウィンドウズ ミー)はマイクロソフトが2000年に発売した、パーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム (OS) である。2000年6月19日(米国東部標準時)に製造工程向けリリース (RTM) が発表され、2000年9月14日に発売された。日本では2000年9月23日(日本標準時)に日本語版が発売された。
開発当初のコードネームは「Georgia(ジョージア)」であったが、その後、急遽「Millennium」に変更された。
Windows 9x系は Windows NT系への統合が計画されていたものの、 Windows 2000 がまだ一般ユーザ向きではないとの判断から、急遽 Windows 98 Second Edition(セカンド エディション/SE)の次版として Windows Me がリリースされた。そのため「Windows 98 Third Edition(サード エディション/TE)」と呼ばれることもある。 ちなみに名称の件においては、しばしば Windows 98 の後継は、2000ではなくMeと、それまでの9x系で用いられてきた数字による名称から、当OSが「Me」という数字ではないものに変わった事と、Windows NT 5.0 の名称に「2000」が使われたことによる混乱を避けるべく、強調されていた。
見た目が一新され、マルチメディア機能を全面に押し出された仕様になっており、USBメモリのようなUSB記憶デバイスやチップセットのドライバが充実しているため、 Windows 98 のように別途ドライバのインストールの必要がない簡便さが特徴である。起動ディスクが1枚に集約された上、98にあったFDISKのバグも解消されていることから、起動ディスクについての評価も高い。
しかし、もともと不安定な9x系に機能を追加したことで更に動作が不安定になり、2001年10月に Windows NT系と統合された次世代の家庭用向けOSである Windows XP Home Edition が発売されたため、 Windows Me の実質的な販売期間はおよそ1年2か月、ならびに実質的なサポート期間はおよそ5年10か月という異例の短さとなった。そのほとんどは2000年10月〜2001年10月までに出荷された家庭向けのPC製品にプリインストールの形で販売された。OSの性格上、法人向けのPC製品には全くといっていいほどプリインストールされておらず、 Windows XP が登場するまでは引き続き Windows 98 Second Edition がプリインストールされた。ただ、NECや富士通、東芝、シャープなど一部大手メーカーの法人向けBTOモデル(条件によっては個人でも購入が可能な場合もあり)では発注時に Windows Me と Windows 98 Second Edition の両方が選択可能となっていた。
マイクロソフトは、当初 Windows Me のサポートを2003年12月31日限りで打ち切る予定だったが、同年1月にこれを延長し、前身のWindows 98 や 98SE とともに2006年7月11日をもって修正モジュールの新規提供などのサポートを打ち切った。既存の修正モジュールの一部についてはオンラインセルフヘルプサポートとして2007年7月11日以降まで公開が続けられた(終了日は不明)。
2021年4月現在、Windows Me を含む9x系に対応する最新のソフトウェア・ハードウェア製品は、ほとんど発売されておらず、9x系からNT系(Windows XP/Vista/7/8(8.1含む)/10)に移行したと言える。もっとも、9x系OSをサポートしないのは、製品を発売するメーカーにとって製品の検証に要する負担を軽減できることや、ソフトウェアにNT系OSに依存したコードが記述可能になるなどのメリットがある。
しかし Windows Me は、Windows 95/98/98SE程ではないが Windows XP 以降の後継のOSよりも要求されるマシンスペックが低いこと、発売当時以前のソフトウェアを中心に対応ソフトウェアがまだ十分に実用性を保っているものも多く、9x系として唯一標準でUSBの大容量記憶装置をサポートしている(USB 1.0/1.1に限りドライバのインストールが不要)ことなどから、実使用において Windows 95/98/98SE に比較して幾分使い勝手がよく、中古パソコンやジャンクパソコンの有効活用、Virtual PCやVMwareなどのハイパーバイザ(仮想マシン)上でのゲストOSとしての需要もある等、現在でも一部で利用されているが、独立行政法人情報処理推進機構は、「(仮想マシン上であっても)サポートが終了したOSの利用は非常に危険な行為である」とアナウンスしており、使用する場合はネットに接続しない単独の専用システム(スタンドアローン)にしたうえ、なるべくUSBメモリやFD、MO、外付けHDD等の外部補助記憶装置でデータ交換しないことを呼びかけている。
2021年4月現在、Meを含む Windows 9x系ではすでに Windows Update を利用できなくなっているため、既出の修正ファイルの自動導入を行えない状況にある。ただし、修正ファイルの提供自体は続いているため、個別にダウンロードして手動で適用することは可能である。
Windows 9x系のOSであるため、 Windows 95 や Windows 98、98 Second Edition に対応するアプリケーションやドライバなどはほとんどそのまま動作する。しかし、ネイティブDOSサポートが削除されたため「MS-DOS モードで再起動する」コマンドが削除された。また、「MS-DOS プロンプト」におけるDOSプログラムの互換性も Windows 95 や Windows 98、Windows 98 SE と比べると低下している。
なお、PC-9800シリーズについては利用率の減少を理由に対応していない。
Windows Me には、 Windows 95 か Windows 98 (Second Editionも含む)からのみアップグレードできる。Windows 3.1、Windows NT、Windows 2000 からはアップグレードできない。また、Windows 95 からは Windows Me のアップグレード版の1つである「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」(Windows 98/98 SE からのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してアップグレードする事はできない。Windows 95 からアップグレードしたい場合は、それに対応した標準アップグレードパッケージを用意する必要があるが、手元に Windows 98 のインストールCDが1枚あれば(通常版・アップグレード版問わず。Second Edition アップデートCDからでも可能)、セットアップの途中でこれを挿入する事でアップグレード認証を通過して、「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」を用いて Windows 95 からいきなり Windows Me にアップグレードする事ができる(この方法により、Windows 95 から Windows 98 を経由して Windows Me にアップグレードするという手間が省ける)。 Windows 95 と Windows 98 のどちらからアップグレードしてもシステムファイルが保存されていれば、旧バージョンに戻す事(アンインストール)は可能。
Windows Me からは Windows 2000 Professional、Windows XP Home Edition、Windows XP Professional のいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows 2000 Professional へのアップグレードインストールはサポートされておらず、フォーマットしての新規インストールのみがサポートされている(Windows 2000も参照)。また、Windows 2000 にアップグレードした場合、Windows Me に備わっていた一部の機能が利用できなくなる(システムの復元など)。Windows Me からいきなり Windows Vista 以降の Windows にアップグレードする事はできない。また、Windows XP(バージョンを問わず)にアップグレードした場合のみ、Windows XP をアンインストールして、Windows Me に戻す事ができる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Windows_Millennium_Edition
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Delphi
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Delphi(デルファイ)は、コンソール (CUI)、デスクトップ (GUI)、Web、モバイルアプリケーション開発のための統合開発環境 (IDE) である。
DelphiのコンパイラはObject Pascalの独自拡張 (Delphi 言語) を用いて、プラットフォーム毎にネイティブコードを生成する。開発環境としてサポートされているのはMicrosoft Windowsのみだが、アプリケーション配置の対応プラットフォーム(ターゲット環境)はWindows (x86/x64)、macOS (x64/ARM64)、iOS (ARM64)、Android (ARM32/ARM64)、Linux (x64) となっている。
元々DelphiはボーランドがTurbo Pascal / Borland Pascalの後継として開発したWindows用のRADツールである。C++Builderとは多くのコアコンポーネント、特にIDEとVisual Component Library (VCL) を共有していたが、RAD Studioの前身となるBorland Developer Studio 2006の登場まではそれぞれ独立した製品だった。
2006年にボーランドの開発ツール部門がコードギアとして完全子会社化され、2008年にエンバカデロ・テクノロジーズに買収された。2015年10月に、上記エンバカデロ・テクノロジーズがアイデラにより買収される発表がなされた。
本項では Delphi Prism として開発されていた 「Embacardero Prism(エンバカデロ プリズム)」 についても述べる。
DelphiはWindows、macOS、iOS、Android、Linux向けアプリケーションを開発するための統合開発環境 (IDE) である。
「コンポーネント」と呼ばれるソフトウェア部品を 「フォーム」 や 「データモジュール」 に貼り付ける手法により、ユーザインタフェースやアプリケーションロジックの設計を視覚的に行え、ソフトウェアの開発を迅速に行える。またコンポーネント自体も Delphi で開発可能であり、その開発環境自身も利用者(開発者)のニーズに従って拡張可能である。コンポーネント指向プログラミングを体現した開発環境といえる。
Delphiで使われるコンポーネントのフレームワークには「Visual Component Library (VCL)」、「Component Library for Cross Platform (CLX)」、「FireMonkey(英語版) (FMX)」がある。このフレームワークを用いてC++言語でのWindows向けソフトウェア開発を実現したものが「C++Builder」である。
GUIプログラミングでは、オブジェクトのイベントの処理をイベントハンドラーに委譲 (delegation) するスタイルの設計パターン(Observer パターン)を採用することが多い。このような場合、例えばJavaでは継承(インターフェイスの実装)を使用するが、Delphiはメソッドポインタの機能によって委譲をサポートしている(メソッドポインタはのちにC#/VB.NETのデリゲートにも引き継がれた)。
Delphiではビジュアルエディター上でオブジェクトのイベントハンドラーを設定することもでき、変更はソースコードに反映される。逆にコードエディター上でイベントハンドラーを記述してメソッドポインタをバインドするとビジュアルエディターにも変更が反映される。この双方向の同期手法はTwo-Way-Toolsと呼ばれ、ボーランドの特許である(発明者はアンダース・ヘルスバーグ)。
Delphiはバージョン1から5までは順調にバージョンアップを繰り返し、それなりに人気もあったが、Delphi 6 / 7ではドキュメントの品質が明らかに低下し、Delphi 8以降.NET FrameworkやC#もサポートした巨大な開発ツール (RAD Studio) に発展したが、製品自体の品質が落ちてしまい、利用者を急速に失った。その後、Delphiはボーランドのツール部門買収などの混乱の中で低迷が続いていたが、エンバカデロ・テクノロジーズのもとでC#と.NET Frameworkのサポートを廃止しスリム化、Delphi 2009で再びWin32用のツールとして再出発を果たした。その後Unicodeサポートなど多くの機能拡張も行われ、macOS、iOS、Android、Linux向けのアプリケーション開発にも対応、品質も安定してきており、往年の実力を取り戻しつつある。
「Delphi」 とは、ギリシャの古代都市 「デルフォイ」 に由来する。デルフォイにあるアポロン神殿は、その託宣 (Oracle) を時の為政者だけではなく、一般人にも授けたことから人気が集まり、その門前町である都市国家デルフォイは古代の人気観光スポットだった。
当初はOracle Databaseサーバのフロントエンドとしての採用を目論んでおり、それにちなんだコードネームとしてDelphiが選ばれた。AppBuilderという製品名で発売しようとしたがノベル製品の名称 (Visual AppBuilder) と競合してしまい、議論と市場調査の結果、コードネームがそのまま製品名となった。
Delphi(製品名: Delphi for Windows、コードネーム: Delphi)は1995年9月に発売された。最初のバージョンはWindows 3.1用として開発された。Turbo Pascal譲りのオブジェクト指向をその土台に据えつつ、インタプリタ動作と錯覚してしまうほどの高速なコンパイラを備え、「コンポーネント」 と呼ばれる設計部材による視覚的(ビジュアル)開発手法を採用するというDelphiの基本的な性格は、この時既に定まっており、この画期的な製品はソフトウェア開発者から大きな注目を浴びた。Delphi 1はシリーズを通して唯一の16ビット開発環境としての側面も併せ持っている。なお、当初の日本語版には英語版で提供されていたDatabase DesktopやInterBaseなどが含まれておらず、価格も安価(29,800円)に設定されていた。その後、これらのツールを含む Delphi and Database Tools(68,000円)が発売された。
25 周年を迎えた 2020年2月15日に Delphi 1.0 Client/Server (英語版) がアンティークソフトウェアとして無償公開された。
「Delphi 2」(コードネーム: Polaris)は1996年に発売された。これ以降、Delphiは開発対象をWindows 95に代表される32ビットWindows (Win32) に移した。マイクロソフトのVisual BasicとVisual C++の長所を兼ね備えた開発環境として人気を博し、その後も順調にバージョンアップを繰り返した。
「Delphi 3」(コードネーム: Ivory)は1997年に発売された。Delphi 1 発売以来の様々な問題点をほぼ改修し、パッケージと呼ばれるDelphi独自のDLL形式をサポート、ActiveXコントロールの開発をサポートし、ウェブアプリケーション開発機能を提供した。完成度の高いバージョンであり、その後のDelphiの原型となった。
「Delphi 3.1」 はDelphi 3のマイナーバージョンアップ版で、Delphi 3ユーザーにはDelphi 3.1のCD-ROMが郵送された。このバージョンは日本でのみリリースされた。
「Delphi 4」(コードネーム: Allegro)は1998年に発売された。NT サービスアプリケーションの開発、CORBAをサポート。
「Delphi 5」(コードネーム: Argus)は1999年に発売された。ADO対応 (ADO Express)、COMオブジェクトコンポーネントラッパーを提供。
「Delphi 6」(コードネーム: Iliad)は2001年7月9日に発表された。
SOAPを利用するWebサービスの作成機能、コンポーネントベースでWeb画面が設計できるWebSnap、新しいデータベースフレームワークdbExpress (DBX)、Linux版Delphi (Kylix) と共通のComponent Library for Cross-Platform (CLX) などを搭載した意欲作。BDE (Borland Database Engine) は、このDelphi 6付属のバージョンである5.2が最終版となった。Windows 2000に対応。日本でも無償のPersonal版が提供された。
「Delphi 7」(コードネーム: Aurora)は2002年8月22日に発表された。
Delphi 1以来の伝統的なIDEを用いた最後の製品で、完成度の面で評価が高い。Windows XPに対応。
Professional版以上では「Delphi 7 Studio」の名称を使用。6で無償であったPersonal版は有償に変更になった。IntraWeb、RaveReportを搭載。Delphi for .NETのプレビュー版を添付。Professional版以上にはObject Pascal (Delphi) 版のKylix 3が付属した。ただし、Kylix 3は最後のKylixであり、CLXサポートもDelphi 7を最後に廃止されている。エンバカデロ・テクノロジーズによるDelphi 7の再販版が存在するが、こちらも「Borland Delphi 7」の名称を用いていた。ただし、"Studio" の文字は外された。 Win9xで動作するDelphiとしては最終版となる。そのため、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用であり、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 7.1」を入手する事が可能となっている(サポートは終了している)。
「Delphi 8 for the Microsoft .NET Framework」(コードネーム: Octane)は2003年11月3日に発表された。
.NET Frameworkに対応した「Delphi for the Microsoft .NET Framework (Delphi.NET)」の最初の製品だった。それ以前のDelphiの言語構文を殆ど変更する事なく.NETアプリケーションを開発できる。「Galileo」と呼ばれる新しいIDEになり、Microsoft Visual Studioと似たユーザインタフェースや外観が導入されたが、品質はお世辞にも良いとは言えなかった。.NET専用という点でDelphiの系譜の中ではやや異端のバージョンである。Win32の開発の為にDelphi 7.1が付属した。また、DelphiのIDEはDelphi (VCL) で書かれており、IDEを拡張するためのWin32コンパイラとして IDE Integration pack for Delphi 8 が用意された。
「Delphi 2005」(コードネーム: DiamondBack、内部バージョン: 9.0)は2004年11月4日に発表された。
ボーランドのC#言語開発環境である「C#Builder」とWin32開発用および.NET開発用の「Delphi for .NET」が統合された。より正確には、「Delphi 8 (Delphi for .NET)」と「C#Builder」を統合し、そこへWin32開発用である「Delphi for Win32」を追加したものがDelphi 2005である。Delphi 2005には無償版が用意されていたが、実際に提供されたのは欧州など限られた国のみだった。この製品ではIDEが大幅に強化された。UMLモデリング機能 (Borland Together) や構成管理機能 (Borland StarTeam)、リファクタリング機能の導入などである。また言語にもfor ... in構文(C#のforeach に相当)やinline命令などが追加された。
「Borland Developer Studio 2006」(コードネーム: DeXter)は2005年11月24日に発表された。
「Delphi 2006」という名称の製品は単体では存在しない。他言語との統合版 (Borland Developer Studio 2006) と単体製品 (Turbo Delphi) で名称が異なっている。
「Delphi 2005」の後継製品であり、Win32開発環境として「Delphi 2006 for Win32」(内部バージョン: 10.0)が、.NET開発用の環境として「Delphi 2006 for .NET」と「C#Builder」が提供された。さらにボーランドのC++言語によるVCL開発環境 「C++Builder」 が統合されている。
「Turbo Delphi」(内部バージョン: 10.0)は2006年9月6日(英語版は8月8日)に発表された。これは「Borland Developer Studio 2006」からWin32開発用のDelphi for Win32を単体として分離したものである。Delphi 2006 Update 2とほぼ同等の機能を持ち、エディションとしてはProfessionalに相当する。同様に「Delphi 2006 for .NET」、「C++Builder」、「C#Builder」も単体分離され、それぞれ 「Turbo Delphi for .NET」、「Turbo C++」、「Turbo C#」の名称で同時リリースされた。無償版 (Turbo Delphi Explorer / Turbo Delphi for .NET Explorer / Turbo C++ Explorer / Turbo C# Explorer) も提供された。Turboシリーズは他のパーソナリティ(言語)と同時にインストールする事はできず、「Borland Developer Studio 2006」とも共存できない。
FastMM相当のメモリマネージャに変更され、クラスヘルパー等の新しい言語機能も追加されている。
2007年2月21日に 「Delphi 2007 for Win32」(コードネーム: Spacely、内部バージョン: 11.0)が発表された。
製品名が示す通り、Win32開発用の環境である。Windows Vistaに対応。
2007年9月6日にはこの他に.NET開発用の「Delphi 2007 for .NET」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2007」(コードネーム: Highlander)が発表された。.NET 2.0に対応し、ジェネリクス(.NET)が導入されている。なおC#BuilderやDelphi for .NETにおけるWinformのサポートは打ち切られた。
その後、2007年10月10日に「Delphi 2007 for Win32 R2」が発表された。これは「Delphi 2007 for Win32 (Update 3)」に、「BlackFish SQL(旧JDataStore)」を追加した物である。
内部コード体系がShift_JIS (ANSI) であるDelphiとしては最終版となる。旧バージョンとの互換性も高く、Windows Vista対応が可能なため、マイグレーション先としても、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用なバージョンである。そのためか、2017年時点においてもサポートは継続されており、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 2007 for Win32 (R2)」を入手する事が可能である。
2008年8月26日に「Delphi 2009」(コードネーム: Tiburón、内部バージョン: 12.0)が発表された。
長年の懸案であった VCLとRTLのUnicode化、ジェネリクス(Win32)や匿名メソッドの導入など、Delphiにとって大きな転機といえるバージョンアップだった。"for Win32" の文字はないがWin32開発用である。
2008年12月2日には.NET開発用の「Delphi Prism」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2009」が発表された。旧来のDelphi for .NETは廃止になっている。Delphi Prism については後述する。
2009年8月25日に「Delphi 2010」(コードネーム: Weaver、内部バージョン: 14.0)が発表された。内部バージョン13.0は忌み番のためスキップされた。
Windows 7に正式対応。タッチインタフェースやマウスジェスチャーの制作支援機能、オープンソースDBであるFirebirdのサポート、RTTIの強化、IDEの改良(言語切り替え機能、Delphi 7以前のIDEにあったコンポーネントツールバーの復活など)が盛り込まれた。開発環境をインストールするOSとしてWindows 2000以前はサポートされなくなった。
2010年9月2日に「Delphi XE」(コードネーム: Fulcrum、内部バージョン: 15.0)が発表された。
XEは "Cross Platform Edition" の略である。名称通りクロスプラットフォーム開発環境を目指して開発が進められたものの、不完全であったため、クロスプラットフォーム機能の搭載は見送られている。結果、前バージョンとの機能差はあまりなくなってしまっているが、純粋なWin32アプリケーション開発環境としては最終版であるため、段階マイグレーションのためのチェックポイントとして有用である。
2011年2月1日にはStarterエディションが追加発表された。「Turbo Delphi」 以来のエントリー向けエディションであり、無償ではないがコンポーネントのインストールが可能、1,000 USドルを超えない範囲であれば商用利用可能など、制限は大幅に緩和されている。ただし、Starterには旧Delphiのライセンスは付属しない。また、同時利用は同一サブネット内において5ライセンスまでとされている。このため教室での利用は向かないとされており、アカデミック版の提供はない。Starter版には通常価格とアップグレード価格が用意されているが、同社または他社の開発ツールユーザーであれば「誰でも」アップグレード版を購入できる。C++Builder Starterとの共存はできず、RAD StudioにもStarterは提供されない。
Starter版とアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010のライセンスが付属する。
2011年9月1日に「Delphi XE2」(コードネーム: Pulsar、内部バージョン: 16.0)が発表された。
新たにFireMonkeyフレームワークを導入したことにより、HDや3Dに対応した高品質なユーザインタフェースの設計や、Windows 64bit、Mac OS X (Intel x86)、iOS向けのマルチプラットフォームアプリケーションの開発が可能になった。但し、iOS開発は実際にはFree Pascal (FPC) を使ったツールチェインであり、後述するXE4以降のiOS開発環境との互換性は乏しい。マルチプラットフォーム化によりVCL / FMX / RTLのユニットで、System.TypesやVcl.Stylesのような、ドットで接頭辞を連結する命名規則(ユニットスコープ)を使うようになったため、以前のバージョンにソースコードを移植する場合には注意が必要である。Windows以外のアプリケーションのデバッグ及びデプロイ(配置)には新しいリモートデバッガである 「プラットフォームアシスタントサーバー (PAServer)」 を利用する(デバッグ対象アプリケーションがWindowsであっても、リモートにあるPCのアプリケーションをデバッグするにはやはりPAServerが必要となる)。また、製品エディションとしてEnterpriseとArchitectの間にUltimateが追加された。
搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (Mac OS X) の3つとなった(ツールチェイン用のFPCを除く)。
Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XEのライセンスが付属する。
2012年9月4日に「Delphi XE3」(コードネーム: WaterDragon、内部バージョン: 17.0)が発表された。
新たに「Metropolis UI」を導入したことにより、タッチ対応、ライブタイルサポートなどを実装したWindows 8デスクトップアプリケーションの開発が可能になった。ただしWindowsランタイム (WinRT) には対応しない。OS X v10.8 (Mountain Lion) アプリケーション開発に対応。Visual LiveBindingが追加されてデータとユーザインタフェースの紐付けが容易になった。Enterprise版以上のエディションに新しいデータベースフレームワークである FireDAC が追加された(SQLite を標準サポート)。ProfessionalエディションでFireDACを利用するには、別途「FireDAC Client/Server Add-On Pack」を購入しなければならない。XE2にあったFPCツールチェインなiOS開発環境は廃止されている。開発環境をインストールするOSとしてWindows XP以前はサポートされなくなった。
Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE、XE2のライセンスが付属する。
2013年4月23日に「Delphi XE4」(コードネーム: Quintessence、内部バージョン: 18.0)が発表された。iOS開発機能が追加された。これはXE2のものとは異なり、コンパイルにFPCを必要としないが、デバッグ及びデプロイのためにOS X搭載のIntel Macが必要となる。Professional版でモバイル開発 (iOS) を行うには「Mobile Add-On Pack」を別途購入する必要がある。前バージョンのXE3から7ヶ月でのバージョンアップとなったため、XE3からのバージョンアップ料金はキャンペーン価格ながら格安の6,000円となった(モバイル開発環境を含まないProfessional 版の場合)。PAServer 実行環境としてのMac OS X v10.6 (Snow Leopard) はサポートされなくなった。
搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用)の5つとなった。
Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE3のライセンスが付属する。
2013年9月11日に「Delphi XE5」(コードネーム: Zephyr、内部バージョン: 19.0)が発表された。
OS X v10.9 (Mavericks)、iOS 7アプリケーション開発に対応。Android開発機能が追加された。AndroidアプリケーションのデバッグにはPAServerを必要としない。原則としてARM v7以降のNEON対応SoCを載せた端末であれば、Delphi製アプリケーションを実行できる。モバイル開発 (iOS / Android) を行う場合、Professional版ではMobile Add-On Packを別途購入する必要がある。Professional版にもローカル接続専用ではあるがFireDACが追加された。Professional版でFireDAC(リモート接続)を使うにはFireDAC Client/Server Add-On Packを別途購入する必要がある。
搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCAARM (Android) の6つとなった。
Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE4 のライセンスが付属する。
2014年3月1日にRAD StudioのFireMonkey専用開発環境である「Appmethod」が発表された。AppmethodにはObject Pascal (Delphi) 言語 / C++言語が含まれるが、VCLを用いたソースコードをコンパイルする事はできない。AppmethodはRAD Studio / Delphi / C++Builderとは異なり、プラットフォーム毎 / 年のサブスクリプション契約となっている。最初のリリースである「Appmethod 1.13」はXE5相当であり、以降RAD Studioの新版がリリースされるのとほぼ同時期にAppmethodもリリースされるようになった。Appmethodは同等バージョンのRAD Studio / Delphi / C++Builderとは同時にインストールできない。また、このAppmethodのリリースにより、ドキュメントなどで使われるDelphi の「言語の名称」が「Object Pascal言語」と記述される事が多くなった。
2014年4月16日に「Delphi XE6」(コードネーム: Proteus、内部バージョン: 20.0)が発表された。
Windows 8.1に対応。デザインおよびパフォーマンスを改善した「高品質リリース」。
Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE5のライセンスが付属する。
2014年9月2日に「Delphi XE7」(コードネーム: Carpathia、内部バージョン: 21.0)が発表された。
OS X v10.10 (Yosemite)、iOS 8アプリケーション開発に対応、FireMonkeyにFireUIと呼ばれる機能が追加された。これはフォームを各デバイス向けに最適化されたユーザインタフェースにカスタマイズするものである。開発環境をインストールするOSとしてWindows Vista以前はサポートされなくなり、PAServer実行環境としてのMac OS X v10.7 (Lion) もサポートされなくなった。OS XおよびiOS向けアプリケーションの開発を行うのにSDKが必要となったため、コンパイルや構文チェックを行うだけでもMacの実機が必要となっている。また、このバージョン以降、BDE (Borland Database Engine) はデフォルトでインストールされなくなった。
並列プログラミング ライブラリ (PPL) が追加されている。
Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE6 のライセンスが付属する。
2015年4月7日に「Delphi XE8」(コードネーム: Elbrus、内部バージョン: 22.0)が発表された。
作業実行支援ツール 「Castalia」 とパッケージマネージャ 「GetIt」 が統合された。にiOSデバイス用64ビットコンパイラも追加され、Android 5.x (Lolipop) アプリケーション開発に対応した。但しAndroid 2.3x (Gingerbread) には非対応となった。
搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android) の7つとなった。
Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE7のライセンスが付属する。
2015年9月1日に「Delphi 10 Seattle」(コードネーム: Aitana、内部バージョン: 23.0)が発表された。
Windows 10に対応。OS X v10.11 (El Capitan)、iOS 9 アプリケーション開発に対応、Androidのサービスアプリケーションも作成可能となった。IDEが利用可能なメモリが倍増したため、大規模なプロジェクトをビルドしてもメモリ不足エラーが発生しにくくなっている。前バージョンまで続いた XE ナンバリングが廃止されている。
Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8のライセンスが付属する。
2016年4月20日に「Delphi 10.1 Berlin」(コードネーム: BigBen、内部バージョン: 24.0)が発表された。
Android 6.0、iOS 10、macOS v10.12 (Sierra) アプリケーション開発に対応。FireMonkeyのフォームデザイナも独立表示可能になった(デフォルトでは埋め込みデザイナ)。クラスヘルパーの仕様変更が行われている。インストーラの改良により、インストールオプションによってはインストール時間が大幅に短縮されるようになった。このバージョンからUltimateエディションが廃止されている。
2016年8月22日以降、Starter Editionが無償で入手できるようになっている。2006年のTurbo Delphi Explorer以来、10年ぶりの無償版である。またStarter EditionはTurbo Explorerとは異なり、複数のパーソナリティ(言語)が共存できるため、DelphiとC++Builderを同じ環境で利用する事が可能となっている。コンポーネントのインストールにも制限がない。
Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattleのライセンスが付属する。
2017年3月22日に「Delphi 10.2 Tokyo」(コードネーム: Godzilla、内部バージョン: 25.0)が発表された。
Enterprise 以上の SKU に LLVM エンジンベースの Linux 64ビット コンパイラが追加された (Ubuntu 16.04 LTS / RedHat Enterprise Linux 7 対応)。また、インストーラの改良により、インストール時間が大幅に短縮されるようになった。
搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の8つとなった。
2017年12月13日にリリースされた Release 2 (10.2.2) において、Enterprise 以上の SKU で RAD Server の単一サイト/単一サーバー配置ライセンスが含まれるようになった。
2018年3月14日にリリースされた Release 3 (10.2.3) において、Professional Edition にモバイルサポートが追加された。従来、Mobile Add-On Packとして別売されていたものが統合された形になる。
2018年7月19日に、従来の Professional Edition 相当を無償化した「Delphi Community Edition」がリリースされた。Windows 64bit, macOS, iOS, Android 向けの開発が可能となっている。無償版 Starter Edition とは異なり、「C++Builder Community Edition」と同時にインストールする事はできない。
Starter / Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattle、10.1 Berlinのライセンスが付属する。
2018年11月22日に「Delphi 10.3 Rio」(コードネーム: Carnival、内部バージョン: 26.0)が発表された。同日、Community Edition も更新されている。
Starter Edition は廃止された。Professional Edition にあった別売の FireDAC Client/Server Add-on Pack も廃止され、フル機能の FireDAC を利用するためには Enterprise Edition 以上の SKU が必要となった。
型推論可能なインライン変数宣言が行えるようになっており、
従来このような記述をしなければならなかったものが、
このように var ブロックを使わずにシンプルに書けるようになった。
Linux コンパイラ (DCCLINUX64) では ARC (自動参照カウント) が廃止され、AnsiString / AnsiChar がサポートされるようになった。
2019年7月19日にリリースされた Release 2 (10.3.2) において、LLVM エンジンベースの macOS 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、Linuxデスクトップアプリを FireMonkey GUI で開発可能になる FMX Linux がバンドルされるようになった。
2019年11月21日にリリースされた Release 3 (10.3.3) において、LLVM エンジンベースの Android 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、データベース接続と同じように多様なエンタープライズアプリケーションに接続可能となる Enterprise Connectors がバンドルされるようになった。
搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (macOS 32bit), DCCOSX64 (macOS 64bit), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の10種類となった。
Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.2 のライセンスが付属する。
2020年5月27日に「Delphi 10.4 Sydney」(コードネーム: Denali、内部バージョン: 27.0)が発表された。 Community Edition に関してはライセンス違反の利用が増加しているとの分析から、有償版を先行させるという判断がなされたため、同日にはリリースされなかった。
Language Server Protocol (LSP) に対応し、コード補完 (Code Insight) の性能が向上した。モバイル開発用コンパイラにあった Automatic Reference Counting (ARC) は廃止された。10.3 Rio への実装が見送られていた カスタムマネージドレコードと呼ばれるコンストラクタとデストラクタを持つレコード型がこのバージョンで実装された。
macOS Catalina において32ビットアプリが動作しなくなったため、ターゲットプラットフォームから "macOS 32ビット" が選択できなくなっている。同様に "iOS デバイス 32ビット" も選択できない。ただし、これらのコマンドラインコンパイラ (DCCOSX, DCCIOSARM) は付属している。
2021年7月19日に 10.4.2 Community Edition がリリースされた。
Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.3 のライセンスが付属する。
2021年9月10日に「Delphi 11 Alexandria」(コードネーム: Olympus、内部バージョン: 28.0)が発表された。
IDE が高 DPI に対応。フォームデザイナが VCL スタイルを使用してレンダリングできるようになった。Apple M1 Mac 用の 64bit コンパイラが追加され、前バージョンでサポート外になっていた macOS 32bit 用コンパイラ / iOSシミュレータ 32bit 用コンパイラ / iOSデバイス 32bit 用コンパイラが付属しなくなった。Visual Studio Code との連携機能が追加され、Delphi LSP 機能拡張が用意されている。
Delphi 2009 以降、Windows 用コンパイラが生成する実行形式ファイルの PE ヘッダーには OS Version / Subsystem Version ともに 5.0 が設定されていたが、11 Alexandria では 6.0 が設定されている。このため、11 Alexandria で生成された実行形式ファイルは Windows XP 以前の OS では動作しない。
2022年9月8日にリリースされた Release 2 (11.2) において、iOSシミュレータ 64bit 用コンパイラが追加された。iOSシミュレータを動作させるためにはARM-64 (M1 または M2) 搭載Macが必要。
搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX64 (macOS Intel 64bit), DCCOSXARM64 (macOS Arm 64bit), DCCIOSARM64 (iOS デバイス 64bit), DCCIOSSIMARM64 (iOS シミュレータ 64bit), DCCAARM (Android 32bit), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の9種類となった。
2023年2月28日に製品の品質向上を目的とした Release 3 (11.3) がリリースされた。
2023年4月27日に 11.3 Community Edition がリリースされた。
Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.4 のライセンスが付属する。
今後、追加のARM用コンパイラやWASMコンパイラを盛り込む可能性があると、2020年のロードマップにてアナウンスされている。
10.2 Tokyo より完全無料版の Community Edition が提供されている。有料の Delphi Professional と同等の機能を持ち、従来の Win32 アプリケーションのみならず Windows 64bit, macOS, iOS, Android の開発が可能となっている。
DelphiのVCL / CLX / FMXは、コンポーネントと呼ばれるソフトウェア部品の集合で構成され、プログラマはこのコンポーネントを組み合わせて視覚的にアプリケーションを開発する方式となっているが、ユーザープログラマがコンポーネントを自由に作成して開発環境自体に組み込み、開発環境の拡張が可能となっている。
多くの有償/無償のコンポーネントが作成・公開され、開発環境を容易に拡張できるシステムはユーザープログラマからの支持も高いが、Delphiのバージョン毎に互換性が無い場合も多く、コンポーネントのソースコードが公開されている場合は使用している Delphiのバージョンに合わせて自分でコンポーネントのコードを修正する必要がある。
有償 / 無償の製品、シェアウェア、フリーウェアが多数作成されている。Delphi 自身も Delphi によって作られている。
かつてボーランドから提供されていたVCL Scannerというツールを使うと、DelphiまたはC++Builderで作成されたアプリケーションを調べられた。現在では実行ファイルをダウンロードできないが、Delphi 5 でコンパイル可能なソースコードが公開されているため、自前で実行ファイルを生成できる。
Embarcadero Prism(エンバカデロ プリズム)は、かつてエンバカデロ・テクノロジーズが.NET向けの新たなIDEとして販売していた製品である。以前はDelphi Prismと呼ばれていたが、XE2より名称からDelphiが外れEmbarcadero Prismとなった。
DelphiはPrism登場以前から、バージョン8以降において、Delphiの.NET開発用の環境 (Delphi for .NET) はWin32版のVCLと互換性を持つフレームワークVCL.NETと、マイクロソフトのフレームワークWindows Formsの両方をサポートしていた。しかし、Delphi 2007ではWindows Formsのサポートが打ち切られることとなった。
Delphi 2009よりエンバカデロ・テクノロジーズは方針転換を行い、それまでのDelphi for .NET (Delphi.NET) を置き換える決定を下した。こうして生まれたのがPrismである。誕生当初はDelphiの名を冠してはいたものの、実際はRem Objectsの言語コンパイラOxygene (以前はChromeと呼ばれていた) とマイクロソフトのIDEを使用する全く新しい製品であった。PrismではそれまでのVCL.NETはサポートされず、フレームワークのサポートはWindows Formsのみとなっていた。
Delphi for Win32 (Delphi Win32) とは異なり、Prismは更新が頻繁に行われた。単体製品版には初年度分の年間メンテナンス & サポートが付属しており、翌年度以降も契約更新が可能で、この契約期間中であればいつでも最新版を入手することができた。このため、バージョンアップ版の設定がなかった。また、一度契約が切れてしまうと新規での製品購入が必要であった。さらにRAD Studio版には初年度分の年間メンテナンス & サポートも付属していないため、購入年度から加入していないとメンテナンスリリースを入手できないので注意が必要であった。
Embarcadero Prism は XE3 (XE3.2) が最終バージョンとなり、RAD Studio XE4 以降に含まれず、スタンドアロン製品としても提供されなくなった。サポートとメンテナンスのアップデートも2013年8月で終了している。エンバカデロ・テクノロジーズは、今後のPrismの最新版はRem Objectsから購入するようにアナウンスしている。なおRem ObjectsはPrismの名称を用いず、Oxygeneとする方針を打ち出している。
PrismとDelphi for .NET のどちらも.NET開発環境ではあるが、VCL.NETを利用したDelphi for .NETのコードとはフレームワークとしての互換性がない。
PrismにはDelphi for Win32とある程度の互換性を保つためのオプションが存在するものの、ほぼ互換性がない。「Oxidizer」と呼ばれるRem Objects製のコードコンバーターがあり、Delphi for Win32のコードをPrismへコンバートする事ができる。
これらの他、メンテナンスリリースが存在する。
「Delphi Prism 2009」 は2008年12月2日に発表された。Prismの最初のバージョン。
「Delphi Prism 2010」 は2009年8月25日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能により、Linux用のアプリケーション開発をサポート。
「Delphi Prism 2011」 は2010年6月3日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能がさらに拡張され、Mac OS X、iOS向けのアプリケーション開発をサポート。
「Delphi Prism XE」 は2010年9月2日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011 のライセンスが付属する。
「Embacadero Prism XE2」 は2011年9月1日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011、XEのライセンスが付属する。
「Embacadero Prism XE3」 は2012年9月4日に「Embarcadero RAD Studio XE3」の一部として発表された。Delphi / Embacadero Prism 2009、2010、2011、XE、XE2のライセンスが付属する。最後のメジャーリリースとなった。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Delphi
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2,801 |
テレレ
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テレレ(Tereré)は冷水でいれるマテ茶(Yerba mate)の飲み方の一種。 グアラニー族伝統の飲み物。パラグアイでよく飲まれている。
木や動物の角などで作ったカップ(グアンパ)に茶葉(イエルバ)を入れ水を注ぎ、先に小さな穴がたくさん空いた特殊なストロー(ボンビーリャ)を使って飲む。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%AC
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2,802 |
マテ茶
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マテ茶(マテちゃ、スペイン語: mate [ˈmate], cimarrón [simaˈron]、ポルトガル語: mate [ˈmatʃi]、chimarrão [ʃimɐˈʁɐ̃w̃])は、南米のアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ等を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料である。
ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、「飲むサラダ」とも言われている。このため、コーヒーや茶と同様の嗜好品ではあるが、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では単なる嗜好品の枠を超え、重要な栄養摂取源の一つとなっている。
日本茶に緑茶とほうじ茶があるように、マテ茶の茶葉にもグリーン・マテ(緑マテ茶)とロースト・マテ(黒マテ茶)がある。味わいはグリーンの場合、多少の青臭みと強い苦味を持つ。ローストは焙煎により青臭みが消え、香ばしい風味が付加される。ローストした茶葉は水出し用に利用されることが多い。
マテ茶の茶葉は、以下のような工程を経て製造される。
伝統的な飲み方は茶器に容量の1/2ないし3/4程度の茶葉を直接入れ、水または60 - 80°C程度のお湯を注ぐ。ここに先端に茶漉しがついた専用のストローを差し込み、抽出液を飲む。容器はヒョウタン製のものはマテ、クイアまたはポロンゴなどといい、木製や角製のものはグアンパ(グァンパ、グァンポ)と呼ばれる。マテ用ストローはボンビーリャと呼ばれ、金属製で先端が膨らみ茶葉を漉し取るための無数の小穴が空いている。なお、現地での飲み方については、クロード・レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』のパンタナルの章で詳しく解説している。
近年では、ティーポットで淹れて抽出液のみをカップに注いで飲む場合も多い。ティーバッグも普及している。しかし、マテ茶の淹れ方としては伝統的な方法が最も理に適っている。ボンビーリャで飲む場合、細かい茶葉を漉しきれずに抽出液と一緒に口に入ってくる。このため茶葉の一部を食べることになり、マテ茶の栄養成分を最も効率よく取り込むことが可能となっている。湯が90°Cより熱い場合は、金属製のストローでは唇が熱く、飲むことができない。
気温が高い地域では水出しでマテ茶を飲むことが多く、パラグアイではマテ茶に薬草やハーブを混ぜて水出ししたテレレと呼ばれる飲み方が一般的である。単に「マテ茶」というと温かいものを指し、テレレと区別している人もいる。ポルトガル語圏においてはテレレは水出しあるいは茶葉にジュースを加えたマテ茶のことを指し、温かいものはChimarrãoと称される。
茶葉に湯を注ぎ、そのまま飲むのが伝統的な方法であるが、現地でも砂糖を入れ甘みを加える飲み方が一般的になっている。また、スパイスや薬草・ハーブ等を混ぜて風味を変えたり、牛乳を加えたりした飲み方も広く行われている。
パラグアイ・アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では、一組の茶器を使い複数人がマテ茶を回し飲みする習慣がある。ホスト役が茶器とボンビーリャを使いマテ茶をたて、一煎めは自分で飲む。二煎目からは順番に参加者に回していき、各人が満足するまで何杯でも回し続ける。客はホストから茶器を受け取り自分ですべて飲んでホストに返す。客から別の客に直接茶器を渡すことはせず、受け取った茶は自分ですべて飲みきりホストに返すのが作法である。茶器をホストに返すときにGracias(ありがとう)と言うと「もう満足しました」という意味になるので、次からは自分に茶は回ってこない。客から茶器を戻されたホストは湯を注ぎ、場合によってはボンビーリャの差している位置を調整したり茶葉を追加したりして味を調えた上で次の客に渡す。ボンビーリャの位置を動かすと茶漉し部分が目詰まりしたり、味の濃さが変化したりするので、客は勝手にボンビーリャを動かしてはならない。
アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では伝統的な茶器は、ひょうたんでできている。マテとは、現地の言葉でひょうたんを意味し、マテ茶の名前はこのカップに由来する。ひょうたん以外では牛の角や、パロサントという木で作られたものが一般的である。茶器の表面や補強のために付けられる口金、すわりを良くする為の台座には彫刻・彫金などの意匠が施される場合が多く工芸品的な美しさを持っている。茶器は陶器やガラス製のものも使われるが、多孔質の天然材料製でしばらく使った茶器でないと本来の味は出ないとされる。
ボンビーリャの材料は古くは葦などの植物の茎を利用したが、現在は金属(銀・洋銀・ステンレスなど)のものがほとんどである。
アルゼンチン・ウルグアイで使われる茶器はひょうたんの実の先端の膨らんだ部分を使い、補強された口は狭くなっているため、ボンビーリャの先の茶漉し部分は細長い。ブラジル南部で使われるそれはひょうたんの実の膨らんだ部分で切ってあり、その部分を口にするため、専用の架台なしでは立てることができない。またパラグアイで使われる茶器は牛角製にしろ木製にしろ口が広い。そのためパラグアイやブラジルで購入したボンビーリャはアルゼンチン製の茶器にはほとんど使えない。
ウルグアイでは持ち歩いて飲む習慣もあり、マテラというボンピージャ等のマテ茶を飲むための道具を持ち歩くための専用かばんを使う。
イェルバ・マテ (Ilex paraguariensis) は、モチノキ科モチノキ属に分類される常緑樹。この植物の葉や小枝からマテ茶が作られる。
カフェインとタンニンを含む。ドイツコミッションE(英語版)(ドイツ連邦保健省の下部委員会で、ハーブを医薬品として利用する場合の効果と安全性を協議している)にて精神および肉体の疲労に対しての使用が承認されている。一方、熱いマテ茶に限り、食道がんや喉頭がんなどの発がんリスクがあるとの説があり、IARCの発がん性評価では、Group2A(ヒトに対する発癌性がある可能性が高い)に分類されている。また、65°C以上の熱い飲み物自体がGroup2Aに分類されている。ただしマテ茶そのものはGroup3(ヒトに対する発癌性が確認できない)に分類される。一説にはこの発がんリスクは上述のボンビーリャと呼ばれるストローを使った飲用方法に原因があるとされ、高温のままのマテ茶をストローで吸引する行為が咽頭部に影響を与えているので、冷たいものであれば安全であるという見方が一般的である。また、カフェインが含まれているためコーヒーなどと同様に、妊娠中および授乳期の摂取は避けたほうがよいとされる。
ボリビアではマテと言う言葉は単にハーブティー全般を指し、必ずしもイェルバ・マテのみから作られていないためその成分には注意が必要である。
アルゼンチンにはマテ茶で意思を伝える文化がある。
1970年代、アントニオ猪木が「アントンマテ茶」として売り出し、日本に定着させようとしたが失敗した。 長い間、日本ではあまり知られていなかったものの、2012年から日本コカ・コーラにより「太陽のマテ茶」が販売されたことにより、徐々に認知度が高まっている。
シリアはマテ茶の世界最大の輸入国。
日本マテ茶協会がマテ茶の生産国であるアルゼンチンの収穫祭にちなみ9月1日を「マテ茶の日」に制定している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E8%8C%B6
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スポルティーフ
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スポルティーフ(スポルティフ、仏: sportif )は、自転車の種類の一つ。フランス語で「スポーツの」を意味する形容詞 sportif に由来しているが、単体で自転車の種類の呼称としては日本国内でしか通用しないものである(Vélo sportifと言う表現もあるが、単にロードバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ自転車を示す言葉であり、本項の自転車も含まれるが、それに限定される言葉ではない。)。
フランスでは第二次世界大戦前から、ディアゴナールまたはブルベと総称される規定距離を規定時間内に走るサイクリングが盛んで、スポルティーフは本来そのための自転車であった。これらのイベントは同時に使用車の美を競うコンクールを併催したため、1つの様式を生むに至った。
日本では1960年頃からオーダー車として製作され始め、1970年代から1980年代前半にかけてサイクリングが盛んだった時期には量産メーカーによって完成車が販売されるようになった。その後、世界的にロードバイクやその派生形がサイクリング愛好者にも広まった。ロードバイクやマウンテンバイクの隆盛とは対照的に、今日ではスポルティーフ完成車の販売は稀になっている。このためフレームオーダーから受け付ける老舗専門店での購入が一般的である。
一般的に、日本人にしか通用しない「スポルティーフ」という呼称の自転車は、英国流の「クラブモデル」と混同されている場合が少なくない。そのため、コンペティション仕様をベースに、英仏の様式の違いを区別しないまま以下のような構成をとっている。
またランドナーが「フル装備」と呼ばれる、フロントバッグ・前輪サイドバッグ・後輪サイドバッグの全てを装着出来る仕様になっているものがあるのに対し、スポルティーフはフロントバッグのほかサドルバックの装備などが限界になっている。
スポルティーフはフランスの自転車の形式を参考にしているため、フランス製の部品を使うことで雰囲気を楽しむという愛好家もいる。
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2,807 |
ランドナー
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ランドナー(フランス語: Randonneur、Randonneuse、ランドヌーズ)は、フランス発祥の自転車旅行用自転車。フランス語の「ランドネ」(小旅行)に由来する。
フランスではランドナーはランドヌーズという。650Bなど特有の太いホイールサイズが採用されている。このような太いホイールサイズが採用された理由はフランスにはパーヴェと呼ばれる石畳の道路が多く溝にはまってしまうことを防ぐ必要があったためである。
もともとランドナーは、ブルベという超長距離サイクリング・イベントに使われる自転車であった。これはスポルティーフに近い車種であり、当時のフランスの道路事情に合わせて、限られた時間内に規定のコースを走り切るという用途で作られていた。
フランスでは洒脱なデザインのランドナーが多く制作された。タイヤのほかハンドルバー、ブレーキシステム、ダイナモなどの備品に至るまで特徴的なデザインのものが多い。
日本への紹介は、第二次世界大戦後に、鳥山新一が持ち込んだルネ・エルス(仏: René Herse)の自転車が起源とされる。これを手本に研究が進められ、丸都自転車(現・東叡社)などのハンドメイド工房で作られ始めたのが日本版ランドナーの始まりである。当初、ランドナーはスポルティーフとともにフランス系のツーリング車として認知され、これが日本の制作者達の職人気質を刺激して、日本独自のランドナーの形へと発展していった。
日本では、当初イギリス式のクラブモデルがツーリングの用途に用いられていた。これは平地での高速移動を念頭に置いた設計であり、日本のような険しい山岳地帯が多い環境には不向きであった。また、当時は道路の舗装率も低かったなどの事情から、ギア比がワイドレシオ化され、かつ、太いタイヤを装着したランドナーがツーリング用に好まれるようになった。
日本では、1970年代から1980年代前半のいわゆる「サイクリングブーム」が後押しとなって、ランドナーが急速に普及し、かつては大手自転車メーカーからも各種のランドナーが販売され、現在より多く雑誌の広告を占めていた。ブリヂストンサイクル「ダイヤモンド(アトランティス)」・「ユーラシア」「トラベゾーン」、ミヤタ自転車「エディ・メルクス」「ジュネス」「ル・マン」、日米富士自転車の富士オリンピック「ニューエスト」・「ファイネスト」、パナソニック「ラ・スコルサ」、片倉自転車「シルク」、丸石自転車「エンペラー」、山口自転車(当時「丸紅山口」)「ベニックス」といった車種が有名であった。また、この時期には多くのサイクル・ショップ(プロ・ショップ)といわれる自転車店でも、ランドナーのオーダーやセミオーダーを受注するようになり、メーカー車に飽き足らない多くのユーザーが、こうした独自のランドナーを入手するようになった。
ランドナーの多くは、フロントバッグおよびサドルバッグ程度の荷物を積載することのできる「小旅行車」であったが、例えば大学サイクリング部の合宿や、いわゆる日本一周などの長距離サイクリングの際には、パニアバッグや前後のサイドバッグ、加えてキャリア上にもテント等を積載するなどの方法で重装備に対応した。ランドナーを改造する例が多かったが、キャンピング車として、重装備・長距離走行を前提にした専用の車種もオーダーされたほか、一時は大手自転車メーカーの製品も市場に出回っていた(ブリヂストンサイクル「ダイヤモンド・キャンピング」など)
さらに1970年代後半頃から、一般的な峠越えや林道だけでなく、自動車の走行困難な山道などを走行したり、さらには自転車を担いだりもする山岳サイクリングが盛んになると、ランドナーを改造したパスハンターも登場した。代表的なものは、ランドナーのドロップハンドルをオールラウンダー・バーなどフラットハンドルに付け替え、キャリアやマッドガード、トウクリップを外すなど、山岳の走破に対応していた(この場合、荷物はザックで背負い、足下はトレッキングシューズなどで固めることになる)。パスハンターは、MTBが一般化するまでの間、山岳志向のサイクリストの間でランドナーの改造やオーダーなどによって愛用されたほか、神田にあった自転車店「スポーツサイクル・アルプス」(現在廃業)からは「クライマー」として販売もされていた。
日本のランドナーは、おおよそ1980年代後半まで隆盛を極めたが、それ以降は、悪路や山道走行に特化したMTBと、一般道路の整備に伴い普及したロードバイクに両極化し、ランドナーは急激に衰退した。日本の自転車ツーリングのあり方が変化したこと(荷物を積載して悪路や林道などを含む長距離を走行するツーリングから、自家用車や公共交通機関に自転車を積載するなどしてスポット的に楽しむ方向)や、いわゆる「サイクリングブーム」の終焉などもあり、主要メーカーが市販していたランドナーはそのほとんどが姿を消した。
その後、近年になって、かつて学生時代にランドナーでサイクリングした40歳代後半から50歳代を中心に、再度ランドナーを入手する例も増え、メディアで取り上げられる機会もこともある。しかし、ツーリング用自転車をランドナーとして完成車の形で販売しているメーカーは、丸石自転車(エンペラーの名称で販売を継続)や、アラヤなど数社のみとなったため、ランドナーの入手はハンドメイド工房などにオーダーされることが多い。
ただし、自転車をオーダーメイドとして依頼することは専門知識が必要であると思われることもあり、ツーリングの目的では、ランドナーの代わりに、近代的なクロスバイクやシクロクロスが使われるようにもなっている。また、サスペンションを装備するマウンテンバイクをツーリングに用いることも多い。ロードバイクなどを主に販売をしているメーカーからは、FUJIやルイガノなどが、「ツーリング」の名称でランドナーに相当する車種を販売している。
ホイールには、650A(26in×1 3/8)または 650B の規格を用いることが多い。ランドナーは旅行用途であることから荷物積載量が比較的多いことや、日本では、舗装道路が少ない時代に発展したという時代背景から、やや径が小さく太目の車輪が採用され、初期には650×42Bが好まれた。タイヤ幅は32 - 44mm程であり、空気圧は300 - 600kPa程度とされる。舗装路、砂利などの未舗装路や山道など、オールラウンドな走行が可能なうえ、緊急時には軽快車のタイヤも使える。そのため、入手が容易であることが最大のメリットである。タイヤが太くなると重量が増える傾向にあるが、比較的軽量なオープンサイドのWO(ワイヤードオン)タイアもあり、また650AタイヤにはMTBのようなブロックパターンのパスハンティング用も存在する。
現行製品では、リジダ(650B リム)、ユッチンソン(650B タイヤ&チューブ)、ミシュラン(650B タイヤ&チューブ)、日本国内ではアラヤ(650A リム)、パナレーサー(650A・650B タイヤ&チューブ)などが有名である。
最近になって、実用的なランドナーとして、26インチHE(フックドエッジ)規格のホイールを使う例も現れた。マウンテンバイクが世界中に普及したことにより、世界一周用のキャンピング車には現在では26インチHE規格のホイールを使うことが標準となっている。一方で、現在 650Bのタイヤは、相当大きな自転車店でも在庫していることが少なく、旅先では非常に入手困難であることから、メーカーが新規にツーリング用自転車を企画製作する場合は、26インチHEやロードバイク用の700Cなどの規格を採用することが多くなった。
主に、軽量なアルミ合金製の泥除けが装備される。メーカー車では、保守上の理由から表面にアルマイト加工したものが主であるが、一部のマニアは未加工のものを布バフで磨き上げた「ミガキもの」(バフ仕上げ)を好んで使用することもある。後輪の泥除けは、輪行を考慮して、分割式になっていることも多い。デザインは一般的な半丸型、亀甲型、パオン型などが存在する。
ランドナーやスポルティーフといったフランス系ツーリング車の特徴として、フロントキャリアおよび一部リアキャリアの装備があげられる。これはフロントバッグやサドルバッグなどを装備するためのものである。またフロントキャリアに電装品を装備する場合もある。フレームへの取り付けの多くはエンドに設けられたダボにネジ止めされるが、カンチブレーキの台座に固定するタイプもある。
サイドキャリアまで補えば、4つのサイドにバッグを装備することが可能となる。サイドキャリアは、前輪または後輪の両脇にサイドバッグを固定するためのキャリアであり、方形の金属枠がその特徴となる。日本では、現在、日東ハンドル製作所のキャンピーや、VIVAの製品などが有名である。
長距離の旅行に使われるため、夜間走行を考慮して、ヘッドランプ、テールランプやリフレクター、ダイナモ(発電機)を装備する。これと併用してバッテリーランプや近年ではLED式のランプを利用することが多い。
外装のダイナモを用いる場合はシートステーに装備されることが多く、ヘッドランプへの電線をフレームやキャリアのチューブの内側に通したり、前フォークが回転するヘッド小物に電気ブラシを内蔵させて電線を隠蔽する意匠を電線内装という。構造の都合から自転車を分解して輪行する用途には向かないと言われていたが、電気ブラシ(カーボン・ブラシと呼称)の改良により、フォーク部分の引き抜きや再装着に障害が起きないものが開発されて輪行に対応している。旧モデルにはリアフェンダーにまで配線を伸ばしてテールランプを点灯させるものが多かった。
外装式ダイナモは走行抵抗が大きく疲労を増長させるため採用例が減り、シティサイクルのようにフロントハブダイナモを採用したモデルに代わりつつある。
ランドナー用に設計されたドロップハンドル(ランドナーバー)を使用する。これはハンドルを握った手がフロントバッグに干渉しないようにハの字状に下広がり・両肩上がりの形状をしたものである。またフラットバーやプロムナードバーを装着し、ランドナー派生車種として楽しむ場合もある。
ランドナーなどのツーリング車では、ペダルに足を固定するために、トークリップとストラップを装着することが多い。ツーリングが観光やキャンプなどをするという一面を持ち、一般的なスニーカーやスポーツ用シューズ、ツーリング専用シューズなどで乗車する場合が多いためであり、また、ランドナーの雰囲気を出すためという一面もある。趣味性もあり、ストラップに革が用いられる例も多いが、本格的にツーリングをすることを念頭にビンディングペダルを使用するケースも見られる。
フレームの素材としてはクロムモリブデン鋼、古いものではマンガンモリブデン鋼が伝統的に用いられている。これらはアルミ素材に比べて強度に勝るものの、3倍程度比重が大きく、フレームはアルミ系のものよりやや重くなる。しかし、金属疲労に強く振動吸収性が良好で、乗員も疲れにくい。かつてはイギリスのレイノルズ社のマンガンモリブデン鋼「531」などが好まれた。世界旅行などで未開発地域にまで出かけるものは、現地で故障しても溶接修理が可能であることを長所に上げることもある。
フレーム設計は荷物を積載して登坂することが考慮され、低速走行向きとなる。このためヘッド角やシート角が寝ており、ゆったりした設計になることが多い。またトップチューブは地面と平行(ホリゾンタル)となるモデルが多い。ランドナーは通常のロードモデルと比較するとチェーンステーのチューブが長く、ホイールベースが大きい。これは直進安定性を高めるためと、ロードバイクより太いタイヤを使用するため、フェンダーを装備するためなどの理由がある。フレームのベースがマウンテンバイクに近い車両もある。
キャンピング車では、強度を確保する目的でクロスドシートステイが採用される場合がある。これはシートステイをシートチューブと交差させ、さらにトップチューブに溶接するものである。
ラグはフレームを構成するチューブを接続する継ぎ手である。本来、ラグは溶接される結合面積を増やして強度を向上させる目的で用いられるものであるが、ラグをさまざまな形にカットして装飾的に用いられることも多い。そのカットの形状によって「イタリアンカット」、「フレンチカット」、「コンチネンタルカット」などの意匠がある。ランドナーでは特にコンチネンタルカットに見られるような複雑な意匠が好まれるほか、ラグを用いないラグレス工法において、ロウを盛り上げて滑らかな曲線に仕上げられるのも好まれる。
主にカンチレバーブレーキ(cantilever brake)が用いられるほか、センタープルブレーキ(center pull brake)も用いられる。
カンチレバーブレーキは、カンチレバー(片持ち梁)構造のブレーキである。ブレーキワイヤーを外すことが容易であることから輪行やメンテナンスが容易であり、かつ、機構が単純なために故障が少ない。また、タイヤとのクリアランスが大きいために泥や雪が詰まることが少なく、泥除けとの併用も容易である。
ブレーキレバーは、フロントバッグとの干渉防止や輪行時の取り外しを考慮して、ケーブルを上に出す形が一般的である。ハンドルにケーブルを内蔵したりバーテープに巻き込む方式は主流でなかったが、輪行時にハンドルを取り外すケースが少なくなったことなどから、現在はシフト一体型も増えている。
フランス系ツーリング車であるため、往時はフランス製の部品も多く使われた。
フランスの自転車専門誌であるLe Cycle誌の編集長であったダニエル・ルブール(Daniel Rebour)によってイラスト化された部品がその典型的である。例えばT.A.やストロングライト(STRONGLIGHT)のチェーンホイール、ユーレ(Huret)やサンプレックス(Simplex)の変速機、イデアル(Ideale)のサドルなどである。
しかし、1980年代頃からランドナーの生産が減少し、それらの部品メーカーは、倒産や廃業、方針転換を余儀なくされた。そのため現代ではロードバイクやMTB用に設計されたコンポーネントが用いられることが多い。
変速は、ダウンチューブに装着されたダブルレバーで行うことが多い。これは輪行の際の利便性にもつながっている。しかし最近では、ロードバイクやMTBに多いハンドルバー取付型のレバーを採用するランドナーも少しずつ増えている。
輪行についての詳細は該当項を参照。
輪行は、スポーツ用自転車であればおおよそ可能であるが、ランドナーは設計の段階から輪行を意識されたものが多い。後輪の泥除けを分割式にして取り外しやすいものがあるほか、ダブルレバーはハンドルにシフトケーブルを取り回ししないため、手間が省略されコンパクトにまとめやすい。
さらに、日本のランドナーを特徴づける仕様のひとつに、いわゆる「輪行用ヘッド」がある。ヘッド部の、ヘッド小物と呼ばれる部品は、通常の構造であれば外すとボールベアリングがむき出しになり、リテーナー付きでない場合、不用意に作業するとボールを飛散させてしまう危険がある。「輪行用ヘッド」は、メンテナンスを目的とした分解作業の一部としてではなく、移動時に実用的に取り外しができるよう、シールドベアリング状に工夫されたヘッド小物を使っている。
そのような仕様のランドナーであれば、前輪と泥避け、キャリアをフォークごと外してさらにコンパクトにまとめることができる。これは「フォーク抜き輪行」ともいわれる。「スポーツサイクル・アルプス」が発案したことから、「アルプス式輪行」の別名もある。また、通常はヘッドスパナが必要だが、片岡シルクは前述の仕様に加えてクイックレリーズ式を用いた部品を使用し、丸石エンペラー(2010年モデルからは通常のヘッド)は、アレンキーで外せるようなロックを工夫していた。輪行用ヘッド小物の部品は、2013年現在もタンゲが製造販売しているほか、パナソニックのツーリングモデルのフレームに付属のものや、アメリカの Velo Orange 社が日本向けに製造しているものなどがある。
手回り品のサイズ規制が緩和されたこともあってか、現在、フォーク抜き輪行は、主にフロントキャリアやマッドガードの装備があるランドナーまたはスポルティーフに限られ、対応する輪行袋も少ない。自転車を趣味とする者の間でも、この方式でコンパクトに輪行することはあまり知られていない。しかし、列車内などで他の乗客の邪魔になりにくいため、好んで行う者もいる。
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写真フィルム
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写真フィルム(しゃしんフィルム)とは、写真撮影(映画も含む)においてカメラによって得られた映像を記録する感光材料であり、現像することにより記録媒体となるフィルムのこと。かつては、家庭用カメラの感光材料として広く普及し、単に「フィルム」または「フイルム」と呼ばれた。
写真フィルムは、写真や映画などの映像を、感光剤の化学反応を利用して記録するメディアである。カメラ等を使用して、フィルムを実像に露出して感光させ、潜像を生成した後、現像・定着・焼き付けといったプロセスを経て「写真」を得ることができる。
一般的な銀塩写真のフィルムは、透明なフィルムのベース(支持体)に、「ゼラチン」と呼ばれる、銀塩を含む感光乳剤が塗布されている。ネガフィルムは焼き付けによってネガポジを反転することにより、ポジ像(元の映像を表現する写真)が得られる。ポジフィルム(リバーサルフィルム)は、リバーサル現像(反転現像)によってポジ像が得られるため、そのまま鑑賞できる。
銀塩方式の写真はカビなどによる劣化には注意する必要がある。また、警察の鑑識において使用するカメラは、かつては証拠能力の問題からフィルム式であったが、その後、ライトワンスのメモリーカードが開発され、デジタル化が進んでいる。
写真フィルムは、写真乾板から発展した感光材料である。脆いガラス製乾板に対し、取り扱いが容易で、保存性・即用性に優れ、かつ量産しやすい写真フィルムの発明は、写真の普及の原動力となった。ガラスでは不可能なロールフィルムの実現もフィルム化と同時であり、それは映画の発明へとつながっていった。
初期の写真フィルムは、ベース素材にセルロイドを使用した「ナイトレート・フィルム」が使用されていた。ニトロセルロースは燃えやすい特性をもっており、時に火災の原因となった。そのため映画館や写真館の火災保険が高価であった程で、危険物第5類に指定されていた。1950年代以降は燃えにくいアセテート・セルロースをベースとしたセーフティー・フィルムが発売され置き換わったが、セーフティー・フィルムは高温多湿下の環境において加水分解し、分解された酢酸がさらに劣化を早めることが問題(ビネガーシンドローム)となり、1990年代頃からポリエステル製に置換されていった。
1990年代後半は出荷本数が4億本を超え、1997年(平成9年)9月1日から1998年(平成10年)8月31日の統計ではロールフィルムにおいて日本国内で最多の約4億8283万本を出荷し、日本各地の写真用品店・スーパーマーケットなどに「スピード写真」「0〜10円プリント」などと謳った全自動カラー現像・プリント装置が設置されていたが、その後はデジタルカメラの普及で売り上げが激減しており、全盛期の10年後である2008年(平成20年)には10分の1近くの約5583万本にまで落ち込んだ。これにより、企業のフィルム事業からの撤退や、ラインナップの縮小が進んでいる。
主にモノクロフィルム。
カラーフィルムは特定の色温度下において正しいホワイトバランスが得られるように設計されている。プリント時の補正が出来ないリバーサルフィルムで主に問題となる。
ISO感度の高低により現在はほぼ以下のように分類されているが、技術の進歩によりだんだん高感度になっている。
特記しない限りロールフィルム。数字(昇順)、アルファベット順で記載。
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MSX
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MSX(エム・エス・エックス)とは、パソコンの共通規格の名称である。
1983年に最初の規格であるMSX(通称「MSX1」)が米マイクロソフトとアスキー(後のアスキー・メディアワークス)によって8ビットの規格として提唱された。元々は、アスキー・マイクロソフト側がメーカー独自のハードウェアに合わせたマイクロソフトBASICをカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーならびに機種単位の互換性がないという欠点があったため、共通規格としてMSXが誕生した。
1985年にはMSX2、1988年にはMSX2+、1990年には16ビットのMSXturboRが提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった西和彦によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている。その後、blueMSXの様なMSXエミュレーターや、MSX2+をFPGAで再構成した1チップMSXやSX1Mini+なども登場した。
2023年にはMSX0、MSX3、MSX turboがMSXの権利者である西和彦より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。
MSXはこれらの総称でもある。
規格の提唱元であるアスキーの創設者の一人である西和彦が2023年のインタビューの中で語ったところによると、NECや日立といった企業が自社製品向けのBASICの制作をアスキーに依頼する際、コマンドの追加や特定や周辺機器のサポートまで頼まれて大変だったため、統一した規格を制定してIBM PCと一緒に売ろうとしたことが、MSX誕生のきっかけだったという。とはいえ、16ビット機であるIBM PCは当時の価格で1000ドル以上もしたため、MSXはより安価なパソコンの決定版として位置づけられた。
1980年代初頭、日本国内におけるホビーユースのパーソナルコンピューター(ホビーパソコン)では主にマイクロソフト社のBASICインタープリタがROMで組み込まれ、システムの中心を担っていた。しかし、ハードウェアの設計は同じプロセッサーを用いても各々のシステムは大きく異なり、BASICレベルの互換性も、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、機種ごとにアプリケーションは作成・販売されていた。
当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、日本電気 (NEC) ・シャープ・富士通のパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーの大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「SV-318」と「SV-328」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは「ソフトウェアに専念すべき」との考えからMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。
MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータやセガ・エンタープライゼス(後のセガ)SC-3000等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。
発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてはMSXは“日本製で最も売れた8ビットパソコン”として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2(ソニーのHB-F1XDとパナソニックのFS-A1F)が22万台の売り上げを記録した。
そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒されたこともあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー3社のみとなった。
1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。
しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboR{{Efn|MSX3という名称にはならなかったが、MSX2が発表された1985年前後には、Z80互換の16bitCPUのZ280、VDPはV9948、音源はMSX-AUDIO(Y8950)という内容でMSX3が計画されていたという資料が存在している。別の証言では、コードネームはTryX、CPUはZ80互換の高速CPU、VDPにはV9978かV9998とナンバリングされたVDPが予定されていたが、VDPの開発の遅れから高速CPUであるR800のみがMSXturboRに搭載されたとされるがリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、サードパーティーによるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『MSX・FAN』 (徳間書店インターメディア) のみが形態を変えて発刊を続けた。
松下電器は1994年に家庭用ゲーム機3DO REALとIBM PC/AT互換機WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。
この時期にはMicrosoft Windows 95が登場し、PC市場を拡大してデファクトスタンダードとなりつつあった。MSX以外にもX68000やFM TOWNSといった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本のPC市場はWindows 95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていき、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の青井泰研が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行した。
1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。
2000年8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する。2002年には商標やシステムソフトウェアなどの管理を行う任意団体「MSXアソシエーション」が発足し、公式エミュレーター「MSXPLAYer」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「1chipMSX」が製品化されている。そのほかのエミュレーターとしてはfMSX、ルーMSX、NLMSX、blueMSX、openMSX、WebMSXなどがあり、Windowsやマッキントッシュのほか、PSPやニンテンドーDSやゲームボーイアドバンスといった携帯型ゲーム機や、Java、Pocket PCなどプラットフォーム上で動作させることができる。
2006年、Wiiの価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「バーチャルコンソール」へのMSXソフトの投入が発表された。i-revoなどで多くのMSXゲームの復刻実績を有するD4エンタープライズが参入したことによって実現した。
2007年、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか。
2011年、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表し、価格は2012年3月末まで4万2千5百円、以降は5万3000円(送料/税/手数料別)で販売していたが、2015年にはドメインが失効しており、国内での販売はされていない。
2000年代の別の動向として、日本でもチップチューン(ゲームボーイやファミリーコンピュータ等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半から1990年代前半頃に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、その後のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。
またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が昔に比べ多く発表されるようになった。
2022年9月3日、MSX DEVCON TOKYO 1が開催され、MSX0、MSX3、MSX turbo規格が西和彦及び同氏が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリー発表された。
2023年1月13日、IoT向けMSX0規格の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。
MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である。
MSXは日本国内のみならず、オランダ、ブラジル、韓国を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルのグラジエンテやオランダのフィリップスといった、Apple IIやZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。
MSXは、文字キャラクタをROMに記憶せずユーザが生成することができ、各国の言語の独特の文字に柔軟に対応でき、英語以外のマイナーな言語を使う国々向けにローカライゼーションをするうえで好都合なので、非英語圏を中心に高く評価された。用途は国ごとに異なり、主に教育用途で使われた国と、主にゲーム用に使われた国に分かれる。アルゼンチンやソヴィエト連邦諸国では主に教育用コンピュータとして用いられた。スペイン、ブラジル、韓国などでは主にゲーム用に使われ、MSXはグラフィックチップにTMS9918を搭載するなどハードウェア構成がゲーム機のコレコビジョンやマスターシステムとよく似ておりそれらのゲームが移植しやすかった点も評価され普及に繋がることとなった。一方で英語圏ではあまり普及しなかった。
北米のホームコンピューターのマーケットは既にコモドールなどが低価格競争を繰り広げていたため、スペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売されたがほとんどシェアを獲得できず、現地企業として唯一MSXに参加したスペクトラビデオも倒産の憂き目にあった。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4とコモドール16であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種のコモドール64やAtari 8ビット・コンピュータなどが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。
当時の欧州のマイコン(パソコン)の市場は、アメリカ系のコモドール64(略称 C64)とイギリス系シンクレアZX Spectrumがシェアを二分しており、1984年にはさらにイギリスのAmstrad社からCPC 464が発売され(300万台ほど売れ)先行するC64とZX Spectrumのシェアを少し奪うという状況だった。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方がMSXより人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではMSXはほとんど売れなかった。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインではMSXは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドールAmigaとAtari STにMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。
欧州での展開では、序盤からテクニカルサポート体制の不備が指摘されるなど、海外進出を念頭に置いた戦略が十分ではなく、一部正規品の互換性問題などで苦戦を強いられていた。
マイクロソフト社員として欧州でのMSX2の普及に携わったトム佐藤は、欧州における初代MSXの失敗の理由として「アスキーの世界戦略の欠如」「英語版のマニュアルの出来が悪いなどのサポートの悪さ」などを理由に挙げている。また、自身が中心となってソニー・フィリップス・アスキー・マイクロソフトの4社による共同普及体制をまとめ上げたはずのMSX2が失敗した理由として「プラザ合意による円高」「ビル・ゲイツと西和彦の関係悪化によるアスキーとマイクロソフトの提携解消」「アスキー上層部でも対立があった」などを理由に挙げており、1985年9月のベルリン・ファンケスターラング見本市(IFA)で大きな反響を呼んだMSX2の発表会がMSXのピークだったとしている。
1985年にはMSX1の後継規格・MSX2が誕生し、ヨーロッパのほか、共産圏や南米にも進出したが、まもなくプラザ合意による円高によって他の輸出産業とともに窮地に立たされる。 同時期、アスキーとマイクロソフトの対立が激化し、翌年1986年2月に両社の提携が解消されたほか、アスキーの上層部の間でもMSXの扱いで対立が起きていた。 その結果、MSXはヨーロッパ市場からの撤退を余儀なくされた。
イギリスではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業のドラゴンデータ(英語版)が参入を表明していたが、「ドラゴンMSX(英語版)」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植という形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではスロットの割り当てやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにVDPを介したVRAMという構造は同一のアルゴリズムでの描画処理には速度的に足かせとなった(MSX Video access methodを参照)。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio PV-7が現実に存在したことも悪い意味で大きかった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXを標榜しながら互換性問題が発生した。
オランダでは現地の家電大手フィリップスがMSX機を販売していた。1980年代のオランダではMSXはコモドール社のコモドール64やシンクレア社のZX Spectrumを抑え、最も人気のあるコンピューターであり、世界的にもユーザー数で考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center 」もオランダのサイトである。
スペインではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く、ソフトウェア販売数で考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。
韓国でMSXは三星電子、金星電子、大宇電子、と複数の現地大手メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。ゲームマシンとしても利用され、MSXソフトが動作するもののキーボードがないなどMSX仕様を満たさない大宇電子のZemmixという家庭用ゲーム機も発売されている。
1990年代には三星電子のメガドライブ互換機や金星電子の3DO互換機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機Zemmix Turboまでも発売している。 また、韓国のMSX2ではハングル表示用のSCREEN9があり、ゲーム雑誌編集者の前田尋之は、これが韓国内で普及した一番の理由ではないかと推測している。
ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した。Atari 2600の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にもかかわらず初代MSXしか販売されなかった。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。
初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティーからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。
アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。また、アルゼンチンではMSXを「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたており、学校教育の中でMSX-LOGO言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。
キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。
アラブ諸国ではクウェートの大手SIであるAl Alamiahが日本からヤマハや三洋などのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によってアラビア語用ローカライズを行い販売していた。このようにMSXは、韓国向けではハングル、アラブ諸国向けにアラビア文字を使えるなど、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機はテラドライブなど他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている。ソフトウェアは、ファーストパーティであるAl Alamiah/Sakhr社が本体にバンドルしていたもの以外にも、Methali社など複数の現地メーカーから供給されていたが、SakhrはMSXを「教育用コンピューター」と銘打って販売していたため、教育ソフトや教育ゲームが多い。珍しいソフトとしては、Al AlamiahがMSX版『コーラン』を販売していた。
ソ連などの共産圏ではMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。当時の東側諸国は政府によって市場が統制された社会主義の国家であり、『物資は全て、国家が人民に供給・配給する』という形態をとっていたので、資本主義経済のもとで市場競争によってホビーパソコンが大きな市場を築いた西側諸国とは違って、東側諸国のパソコンは国営企業が独占的に製造し、ほとんどが産業用途か教育用途に回された。一方で年収くらいする高価なパソコンを自分で購入したり、市場に存在する数百個のパーツを集めてパソコンを文字通り自作する方法を指南する無線マニア向け雑誌も存在した。当時、輸入パソコンは外貨で購入可能な公営ショップ(東ドイツのインターショップなど)で高価格で販売されるのが一般的で、一般人が購入するのは現実的ではなかったが、実際には多くの東側諸国に西側諸国のパソコン(日本製も含む)が政府の監視をかいくぐってこっそりと持ち込まれており、その流通には不明な点が多い。
「東側諸国」と言っても、必ずしも国営企業の製造したパソコンがメインで普及したというわけではなく、例えばチェコスロバキアでは、国営メーカーが製造販売したZX Spectrum互換機に次いで、輸入パソコンなのになぜか普通に電気店で販売されていたSharp MZ-800の人気が高かったりするなど、国によって特色がある。MSXは、ソ連で特に教育用として普及し、国営メーカーによる教育用MSX互換機製造の試みが続けられたり、宇宙開発用として宇宙ステーションミールに搭載されるなど、1985年ごろは大きな影響力を持った。ただしソ連でMSXは「学校で使う教育用パソコン」のイメージがあったのと、高価だったため、1986年以後に低価格化した国産機のエレクトロニカBKシリーズの方が家庭用としてはユーザー数はずっと多かった。
冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じて選別されていた。
これらの中にはMSXも含まれており、特にソ連やキューバでは国家の教育プログラムで導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある。
冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機のアーキテクチャなどとしても利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連で西側のパソコンが正式に発売されるのはゴルバチョフ政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。ソ連では他の東欧諸国より市場開放そのものが遅れたうえ、ZX Spectrumが4万ルーブル(年収の13年分)で販売されるなど、西側の旧型機を輸入して高価格で売る企業が多かったので、パソコンの普及も他の東欧諸国より遅れたが、1991年にZX Spectrum互換機「ペンタゴン」がZX Spectrumの心臓部であるゲートアレイの解析を完了すると、旧ソ連地域でもZX Spectrumの海賊版であるPentagonのさらに海賊版メーカーが乱立して市場を埋め尽くした。
ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「комплекс учебной вычислительной техники」、略称:КУВТ(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「YAMAHA KUVT」として各学校に構築された(そのため、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる)。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたКУВТと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたКУВТ2が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度のКУВТ-86では国産機のБК-0010Шが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『Поехал поезд в Бульзибар』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。
1985年当時、MSX機は一般には販売されておらず、国産機と言えども一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソ連の人民が触れることのできたコンピュータは、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、「YAMAHA」はパソコンの代名詞となった。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入された。
1980年代後半には国産機の展開が本格的に始まったこともあり、MSX機は家庭用ホビーパソコンとしてはあまり普及したわけではない。当時は月収が100-150ルーブルの中、パソコンは1000ルーブルくらいの高価格のためにほとんど普及していなかったが、1987年頃には国産機のエレクトロニカBKシリーズが650ルーブルまで低価格化したこともあって、ホビースト向けに7万8000台を売り上げる大ヒット機となり、MSXの家庭普及率を大きく上回った。BKシリーズは教育用パソコンとしてもYAMAHAと並ぶ勢いがあったが、一方でMSXのアーキテクチャ自体は政府に好評で、その後もソ連で教育用パソコン向けにMSX互換機の開発が行われた。
ペンザ州計算機工場が1987年にリリースしたПК8000は、MSXアーキテクチャをベースとして開発が行われたが、当時のソ連はMSXの心臓部であるZ80互換プロセッサ、TMS9918互換ビデオプロセッサ、PSG互換音源を自国内だけで開発することができず、MSX規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでもMSX-BASIC互換を目指し、GW-BASICを拡張したインタプリタを搭載した。64Kの大容量RAMなど良い点もあったが、場合によって非常に遅くなる、圧電スピーカー(ビープ1音)、1000ルーブルを超える高価格など、悪い点も多く、市場ではあまり受け入れられなかった。
1989年にリリースされた後継機の「ПК8002『エルフ』」は、MSX2アーキテクチャを目指して設計されたパソコンであり、PSG音源相当の3チャネルサウンドなどを搭載したが、V9938互換ビデオプロセッサを開発することができなかったため、MSX2規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでも教育用コンピュータとしての導入を目指して1000台から2000台が製造され、『ロードファイター』や『ボンバーマン』の移植なども行われたが、ソ連崩壊に伴う経済危機により以後の開発は中止された。なお、ПК8002には『PUT UP』(MSXマガジン87年10月号に掲載)が移植されており、1987年当時のソ連政府はMマガを購読していたとされる。
ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900APと見られる機材 が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。
音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフ(ロシア語版)はソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組が流行っており、体操用の音楽としてソビエト連邦文化省の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中ながら、ヤマハがソ連の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしている。こちらも教育用としてソ連文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)を手掛けたアレクセイ・ヴィシュニャ(ロシア語版)や、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンである。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。
ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したAmstrad CPCベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、特殊なハードもリリースされた。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造された製品をFPGAを利用してさらに進化させたハードがリリースされた。
MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として構想された。その一方で必要に応じてシステムを拡張することで本格的なプログラミングや実務処理にも使うことが可能な、総合的なホームコンピューターとしても設計されている。
MZ-700、ぴゅう太、M5、JR-100、PC-6001、RX-78、SC-3000など、他の当時の低価格入門機のパソコンと同じ様にテレビやカセットデッキをモニターや二次記憶装置として流用するようなシステムとなっている。
MSXは単なる入門型パソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「ニューメディア」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売されたが、それは主にゲーム機として利用された事情による。
またメーカーを越えてハードウェアおよびソフトウェア資産が利用できる統一規格であり、「オープンアーキテクチャ」のさきがけである。CPU、VDP、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、後述のようなスロット機構の採用とシステム(BASICおよびDOS)と密接に連携し、機能拡張の抽象化を担うBIOSを介することを前提に、柔軟性と互換性を維持する形となっている。
MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオのVHSを参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られ、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出した。
このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際にロイヤルティーは不要だった。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(後のソフトバンク)の孫正義と西和彦のトップ会談によって決定されたものである。
MSX0、MSX3、MSX turboでは従来のロゴマーク踏襲しつつ、やや細身となったMSXの文字と、ピクセル化された英数字の組み合わせとなっている。
後述のスロットによるアドレス空間の拡張や、BIOSによるリソース管理の仕組みの特徴は、後継製品でもモード切替に因らないシームレスな後方互換性の実現や、規格の拡張に寄与している。
MSX1, MSX2, MSX2+は8ビットCPUのZ80A相当のプロセッサを3.579545MHzで使用。MSXturboRはそれに加えて16ビットCPUのR800も搭載し、システムチップにより排他的にシステムを担うプロセッサを選択することが可能である。
MSX0、MSX3、MSX turboにおいては、MSX1、MSX2、MSX2+、及びMSXturboR(上位機種のみ)の下位互換機能が組み込まれたマイクロコントローラーやFPGAによる上位互換実装となっている。
互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXではZ80のメモリ空間(アドレス空間)を拡張したバンク切り替えと、メモリ管理ユニットの間の性質を持つスロットと呼ばれる仕組みが設けられた。
MSXではメモリ空間を四分割した「ページ」を単位として管理し、16KiBごとにリソースを割り当てるようになっている。さらに「スロット」1つ当たり64KiBの空間を持ち、標準で4つの「プライマリ・スロット」が設定され、任意のスロットの該当アドレスのページをメモリ空間に接続することが可能になっている。また、プライマリスロットはさらに4つのセカンダリスロットを拡張することができ、仕様上は最大で16のスロットシステムに接続できるようになっている。従って仕様上は16KiB×4ページ×4スロット×4セカンダリスロットで=1MiBのアドレス空間が確保され、その空間に対し、ROM、RAM、I/Oをページ単位で任意に割り当ててアクセスする形になっている。
プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。なお、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。
Z80のシステムでありながら、ハードウェアとの接続にI/O空間ではなく基本的にメモリーマップドI/O方式を用いることが推奨された。アクセスの際にはBIOSコール(BIOS割り込みルーチン)の時点でスロット切り換えによってメモリ空間が切り替えられ、同時にハードウェアへの割り当てリソースも変更されることで競合は回避された。I/Oアドレス空間は8ビットとして想定されており、一部のアドレスが規格として予約されている。外付けデバイスとして実装される場合は接続先のI/O空間の状態が不定であるため初期化時にチェックの上割り当てるようになっているため、直接ハードウェアを初期化するような場合には設計の差異を考慮する必要がある。
これらの仕組みを物理的に拡張する手段として、スロット機構に接続するコネクターが最低1基装備された。多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく手軽に増設機器の差し替えができた。電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入るようになっていた。
「スロット」の仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「1つのスロットに4ページ/64KiBを越える空間を配置できない」「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約があった。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、単純にRAMページをスロットに増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、ページの割り当てに対する制限を軽減することが出来た。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、これらは市販アプリケーションもしくはZ80バイナリによって直接実行するソフトに限られた話で、MSX-BASICではメモリ空間を前半にROM、後半にRAMを固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置していることもあり、これらのメモリをユーザーエリアとして有効活用する仕組みが無く、RAMDISKなどの形で活用するようになっている。
MSX1、MSX2及びMSX2+は一般家庭への普及を目指すため、標準の構成で家庭用テレビにRFを標準装備し、専用モニターを必須としない仕様となっていた。
これは他の低価格帯の入門機にも見られた仕様で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットもあったが、家庭用電気製品を流用できるようにすることでシステムのトータルコストを下げる効果があった。TMS9918Aの出力がそもそもNTSCであり、初代規格ではRGB出力を持つ製品は限られた。
初代規格のVDPがテキスト表示の拡張によってグラフィックス処理も実現していたこともあり、文字フォント(文字キャラクタ)は基本形状がシステムROMから初期化時に定義はされるものの、表示性能の制限の範囲で任意の形状、色に書き換えが可能なPCGとして利用することが可能である。SCREEN0,1,2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来、SCREEN1,2,4ではBASICのサポートは無いもののVDPの画面モードを変更することによって1ライン当たり任意の2色をフォントに割り当てることも可能である。
日本向けのMSXではPC-6000シリーズに近似したキャラクターコードを採用しており、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)や罫線が記号として定義されているほか、カタカナに加えてひらがなも標準で定義されていた。これらのコードは海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベットに割り当てられた。なおMSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在のSHIFT JISコードで使用されている。MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。初代規格の時点では漢字ROMの仕様がなく、ワープロなどの実装に伴うハードウェアが独自にアプリケーション依存で実装されていた。MSX2ではそれらのうち、第1水準のフォントを持つ東芝仕様のものが表示用のBIOSと共にオプションとして定義され、後にI/Oマップにも東芝仕様の物が割り当てられている。
コネクタ類に関しては、主にジョイパッドやマウスの接続用にアタリのAtari 2600相当の9ピンコネクター(アタリ仕様ジョイスティックのもの)が2ボタン仕様に拡張されて定義された。また、オプションでセントロニクス仕様の14ピンプリンターインターフェースも搭載された。 汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、電子部品を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。
キーボードはパラレル入力で同時押しも可能である。規格の上では、いくつかの特定の3つのキーの組み合わせは動作の整合性が図られた以外、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。なおセパレートタイプ(つまり本体と別の)キーボードは定義されておらず、キーボードのコネクタは機種によって異なる。なお日本向けキーボードの配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ワークエリアの設定で選択することもできた。
初期はROMカートリッジ、並びにカセットテープ。MSX2の後期からはフロッピーディスクにより様々なソフトウェアが提供された。規格にたいして特徴的な実装は下記のとおりである。
前述のようにBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、メインメモリなどのRAM、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)などのリソースは「スロット」に接続されているが、それを抽象化し、汎用的に利用できるようにしているのがBIOSである。基本的なBIOSのうち、主な機能はメモリの先頭部分からジャンプテーブルとして配置されており、システムがZ80の割り込みモード1で構成されているため、RST命令で呼び出せるエントリのうち、RST 00H~28HをBASICがサブルーチンコールに使用。RST 30Hがインタースロット・コール、RST 38Hがハードウェア割り込みに割り当てられている。基本機能に含まれない機能、ハードウェアには基本的に拡張BIOS並びに対応している場合は拡張BASICが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出すことで割り込みベクタがワークエリアに登録され、システムに組み込まれる。ユーザーは対応アプリケーションなどではほぼ無意識に、BASICなどでは必要に応じてコマンドによる初期化で有効化し、利用することができた。 基本仕様に組み込まれたハードウェアも含め、互換性をBIOSレベルでのみ保証することによってある程度の設計の自由度を確保しており、ワープロやテレビなど民生機器と同化したような各社の商品としての独自性を発揮するのに寄与し、設計の共通化により低コスト化を可能とした他、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りのプラグ&プレイを実現していた。 但し、基本仕様に含まれるBIOSの実装はハードウェアに強く依存する仕様になっており、PSGやVDPなどはBIOSが内部レジスタをラップするような実装になっているため後継製品などでも実際には仕様を包含したものを選択せざるを得ず、データレコーダの実装はZ80の実行クロックに強く依存した形でタイミングを取り波形を生成しているため、割り込みを禁止したうえ、規定のクロックでプロセッサが動作することを要求する仕様となっている。
これらスロットやBIOSなどによる特徴的な実装は柔軟性がある代わりに、ハードウェアの構成は規格として規定されたもの以外では固定されていることは期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなった。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、ハードウェアの相違を考えればかなり互換性が維持されているFDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。 またこれらの仕組みは、ハードウェアリソースに対するアクセス自体に演算リソースを必要とし、「スロット」の実装にともなうウェイト(wait)の挿入やBIOSコールを経由する等のオーバーヘッドは、3.579545MHz動作CPUのZ80に重くのしかかり、パフォーマンスを落とす原因ともなった。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている。
二次記憶装置から直接起動するソフトウェアや機種固有の内蔵ソフトを除けば、ユーザーの操作、利用を支えるのがMSX-BASICである。他の実装で見られたマシン語モニタは標準システムとしては用意されておらず、直接のメモリ操作や実行ではなくDOSないしは、BASICから呼び出す形となっている。 当時の多くのPCで採用されていたマイクロソフト系の命令セットを持っていたが、変数名は先頭から2文字のみでgoto命令などの飛び先は行番号のみなど初期の実装に近い形となっている反面、浮動小数点の演算では仮数部は6桁または14桁のBCDを仮想計算機として実装しており、システムの規模や速度に対して精度の高いものとなっている。この演算部分はBASIC以外からの呼び出しも可能なようにMath-Packとして外部からも呼び出せる手順が公開されているCITEREFMSX-Datapack11991。精度は高いものの相応に演算コストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するケースでは変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。
更にオプションでMSX-DOSと呼ばれるCP/Mシステムコール互換OSも導入可能で、これを導入すれば既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作し、CP/M環境で利用可能なアセンブリ言語、C言語、Pascal、COBOL、FORTRAN等も使え、またCP/Mで動く欧文ワープロや表計算等の実務アプリケーションも実行できた。 但し、本体が安価なMSXでは相対的にFDDは高価であり、活用されるようになるのはFDDを内蔵した本体が安価に提供されるようになったころからである。
初代規格ではその構成部品に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用し、基本仕様が安価に製造できるよう構築されていた。各メーカーから発売された機種はほぼローエンド(低価格帯)だった。 その代償で、仕様は平凡なものとなり、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった。
価格帯と汎用性に舵を切った実装は、日本ではファミリーコンピュータと比較されてしまい、ゲーム専用のファミリーコンピュータのグラフィック性能と比較して劣っていたので「中途半端な子供の玩具」として受け取られた。
MSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営したアスキーネットMSX、および松下グループ(後のパナソニックグループ)系のネットワーク企業・日本テレネットが運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。
アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。NHK学園のパソコンの通信講座で使われたこともあった。
対して、THE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとすることにより、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。
当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでもRS-232CカートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。
それ以外にもPC-VANやNIFTY-ServeにMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う草の根BBSが全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表されたフリーソフトウェアは、MSX専門誌のMSX・FANに付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機TAKERUで販売されたりもした。
その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。
通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、フリーソフトウェアのmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムはMSXマガジンが開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。
MSXは音源としてPSG(AY-3-8910相当品)を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。
MSXでMIDIを使用することができるハードウェアも開発された。
これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法ならびに実装がユーザによって行われている。
MSX規格のもの、MSX向けのもののみ
MSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。
1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する場合が多かった。MSXも数々のキャラクターでの宣伝を展開していた。
なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他にOh!FM・Oh!PASOPIAがあるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。
これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。
MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。
一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス(キャプテン)システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。
特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業ビデオパッケージ、解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。
日本で300万台、海外で100万台くらい売れたMSXは、1983年の日経優秀製品賞も受賞した一方で「失敗だった」と語られることがあり、これに関して西和彦は2つの理由を挙げている。1つ目はMSXの位置づけであり、上位機種である16ビット機はIBMが既に事実上の標準になっており、ゲーム機である任天堂のファミリーコンピュータは安かったことで、MSXは存在意義を発揮することができなかった点である。2つ目はネットワークが不十分であるがゆえに、電話やテレビのように一家に一台の必需品になれず、ペンや電卓などのアナログを代替することができなかった点である。
一方でMSXが発売されて10年以上過ぎたころ、西は「MSXが初めて出会ったコンピュータであり、この出会いがなければ、コンピュータの仕事をしていない」と語る人に出会ったことで、「MSXは使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思う」と語っている。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MSX
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戦闘潮流
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『ジョジョの奇妙な冒険 Part2 戦闘潮流』(ジョジョのきみょうなぼうけん パート2 せんとうちょうりゅう、JOJO'S BIZARRE ADVENTURE Part2 Battle Tendency)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart2(第2部)。波紋の戦士シリーズ・第2弾。単行本第5巻 - 第12巻に収録されている。
『戦闘潮流』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第二部 ジョセフ・ジョースター ―その誇り高き血統」。
2012年より放送されたテレビアニメ版『ジョジョの奇妙な冒険』において、第10話から第26話まで「戦闘潮流」編が放送された。詳細については「ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)」を参照。
舞台は、Part1『ファントムブラッド』から約50年後の1938年。今は亡きジョナサン・ジョースターの親友で後に石油王となりスピードワゴン財団を結成したロバート・E・O・スピードワゴンは、メキシコでの調査中に大量の石仮面とともに2千年もの時を眠り続ける「柱の男」を発見し、消息を絶つ。
ニューヨーク在住のジョナサンの孫であるジョセフ・ジョースター(通称「ジョジョ」)はスピードワゴンの行方を追ってメキシコに向かうが、そこで覚醒した「柱の男」サンタナと遭遇する。「柱の男」は吸血鬼をも凌駕する力と知性を持った地上最強の生物であり、圧倒的な力を持つサンタナとの交戦に際して、ジョセフはジョナサンから受け継いでいた太陽の力「波紋」と自身の巧妙な駆け引きを駆使し、これを制す。
スピードワゴンを救出し、ローマにも3体の「柱の男」がいることを知ったジョセフは、祖父であるジョナサンが師事したウィル・A・ツェペリの孫であるシーザー・A・ツェペリと合流し、復活した3体の「柱の男」であるワムウ、エシディシ、カーズと戦うが、サンタナを大きく上回る実力を持つ彼らに惨敗を喫し、30日経つと融解し毒が噴出し、付けたものを死に至らせる医学的に摘出不可能なリングを2つ取り付けられる。このリングを解除するには、30日以内にエシディシとワムウの2人から解毒剤を奪う必要がある。
「柱の男」たちは波紋や太陽を克服して地上を支配するために、「エイジャの赤石」と呼ばれる宝石の中でも最も強力な「スーパーエイジャ」を探していた。ジョセフは「『柱の男』たちの野望を阻止し、解毒剤を得る」という目標のために、シーザーと共に彼の師であるリサリサのもとで波紋の修行を積み、心身を鍛え上げられるとともに、リサリサがスーパーエイジャの所有者であることを知る。最終試練の日、ジョセフは襲ってきたエシディシを成長した波紋と知恵で撃破し解毒剤を得るが、彼はリサリサの使用人であるスージーQを操ってスーパーエイジャを自身らのアジトがあるサンモリッツへ郵送する。
シーザーが「柱の男」たちのアジトへ単身で乗り込むもワムウに敵わず息絶えたが、その時にシーザーはワムウの持つ解毒剤を奪い、ジョセフに解毒剤を波紋で渡す。そして赤石を賭けての直接対決が行われる。ジョセフがワムウを撃破してカーズを追い詰めるが、騙し討ちで赤石を奪ったカーズは石仮面に赤石を組み込んで被り、不死身の究極生物に進化する。
カーズの猛攻に遭って絶望するまで追い詰められたジョセフは、ヘリコプターをも利用した逃走の果てに火山の噴火を利用した捨て身の攻撃により、カーズを大気圏外へ追放する。カーズが永遠に宇宙空間をさまようこととなった一方、ジョセフも噴火に巻き込まれて死亡したと思われていたが、船に救助され奇跡的に生還しており、自分の葬儀の当日に、妻となったスージーQを伴い悲しむ一同の前に姿を現すのだった。
それから約50年後、老齢の域に入ったジョセフは日本人に嫁いだ娘とその孫に会うため、飛行機で日本へ向かう。新たな「JOJO(ジョジョ)」への世代交代を示唆しつつ、第2部は幕を下ろす。
登場人物の名称は他のPart同様、洋楽のバンド名やメンバー名などをアレンジしたものが多い。
担当声優はテレビアニメ版および、それに準拠した関連作品での配役。それ以外のものは別途記載する。
その他、カーズによって生み出された約100人もの吸血鬼(全員、元はごろつきの類)が登場している。そのいずれもワムウとカーズに制裁を下されたり、カーズにエネルギーを吸収されている。大半はシュトロハイムとナチス親衛隊、スピードワゴン財団特別科学戦闘隊に倒されている。またTVアニメ版では夜明けの太陽によって、それまで残っていた吸血鬼はこの時に全員消滅している。
2012年10月5日から2013年4月5日まで、TOKYO MX、MBS、CBC、東北放送、RKB毎日放送、BS11で放送。全26話で第1部と第2部が映像化されており、第10話から第26話までが第2部の映像化に相当する。また第2部の映像化はこのテレビアニメが初となる。
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たけしの挑戦状
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『たけしの挑戦状』(たけしのちょうせんじょう)は、1986年(昭和61年)12月10日にタイトーが発売した、ビートたけし監修のファミリーコンピュータ用ゲームソフト。会社員である主人公が南海の孤島に眠っているという財宝を探しに行くという内容で、パッケージや取扱説明書に書かれていないがゲーム内では「ポリネシアンキッド 南海の黄金」というサブタイトルが付けられていることが分かる。また、パッケージではタイトルロゴの上に「ビートたけし作」と記されており、任天堂の公式サイトでは『ビートたけし作 たけしの挑戦状』を正式タイトルとしている。
雑誌『ファミコン通信』でのクソゲーランキングでも1位を獲得するなど、攻略本なしではクリア困難なゲーム内容から、レトロゲームにおける「クソゲーの代名詞」として語られることが多い。
当時ファミコンに熱中していたビートたけしの「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され数々の斬新な内容が盛り込まれている。キャッチコピーは「謎を解けるか。一億人。」でソフトのパッケージ表面には「常識があぶない。」(販促用のポスターでは「あぶない」の「あ」の字が鏡文字になっている)と称し、裏面ではたけし本人が「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。広告には「成功確率 無限大数分の1」と書かれていた。
CMは、たけしが『雨の新開地』を歌うシーンと、たけしがIIコンのマイクに向かって「出ろ!!!」と言い、宝の地図が出てくるシーンの2パターンがあり、どちらのCMもゲーム攻略のささやかなヒントになっていた。
しかし、本作の発売前日の1986年12月9日に、たけし本人とたけし軍団の一部メンバーが講談社の『FRIDAY』編集部に殴り込みを行うという事件が起きた(フライデー襲撃事件)。このためたけしらは半年間芸能活動を自粛することになったが、本作は予定通り発売された。テレビCMは放映中止となったが、雑誌の攻略記事や広告は引き続き掲載された。再販分は1990年まで発売が延期されている。
パッケージには「ビートたけし、ファミコンソフト第1弾!」と書かれており、のちに第2弾の『たけしの戦国風雲児』(1988年)が同社より発売されている。
ゲームシステムはサイドビューのアクションゲームだが、ストーリーはアドベンチャーゲームのように選択肢によって進行していくため、ジャンルとしてはアクションアドベンチャーゲームと言える。また一部シーンにはシューティングゲームも含まれている。
日本の都市部、およびそこにある街が舞台らしいが、具体的な場所やそのモチーフはほとんどないうえ、雰囲気は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む貧しいサラリーマンである。台詞は汚く暴力的な言葉遣いが多く、店や事務所などの看板は極道的な内容である上、路上にはヤクザが彷徨き、さまざまな敵対的なキャラクターが主人公に攻撃してくる。
日本にいる時はバーでテキーラを飲むこと、ひんたぼ島では宿泊する(部屋を選ぶことができ、回復できる量も異なる)事によって体力が回復する。所持金は通行人を倒したり、特定の条件を満たすと手に入る。その他にコース中のある決まったところでしゃがめば、ハートが現れるのでそれでも回復できる。また、ライフがなくなってもすぐにAとBを3回同時に押せば復活できる裏技も存在する。
BGMの種類は少なく、メインテーマがエンディングまで含めたゲーム内のほぼ全編に渡って絶え間なく流れ続けている。
TAITO CLASSICS版は、画面が16:9対応となっている他(例として、ゲームオーバーの画面における献花が4:3対応のファミコン版並びにバーチャルコンソール版は4本に対し、TAITO CLASSICS版は8本に増加している。ただし、一部シーンは4:3のままであるためサイドカットとなる)、ファミコン版とバーチャルコンソール版に新ステージ「あめりか」などの新要素が加えられており、タイトーのサウンドチームであるZUNTATAによるゲームミュージックの新曲が追加されている。
ふとしたことから宝探しの情報を聞き出した主人公。本格的な宝探しに行くためには、まず身の周りのしがらみを取り払い、周到な準備をする必要があると思い立つ。「妻に離婚届を出す」「会社に退職届を出す」「地図を渡した老人を倒す」「カルチャーセンターで様々な技能を修得する」などがそれである。条件を満たさないでひんたぼ島に行くと、突然妻または社長が現れて日本に強制送還されたり、宝の山の前で尾行してきた老人に宝を横取りされて即ゲームオーバーになる。
このゲームは2Pコントローラのマイク機能を様々な場面で使う。主なものとして、カラオケをしたり、裏技として、
など通常では思い付き難い操作が要求される。また、住人に話しかけることもでき、稀にヒントを貰えることがある。
ただし声を判定しているわけではないため、「マイクに音が入力されている」状態なら同じように判定される。
ひんたぼ島より先の島に行く時にハンググライダーを使ってシューティングをする場面がある。しかし、途中で現れる潮風に操作を妨害されやすく、画面上に弾は1発しか出せない上、敵に当たると即ゲームオーバーと独特の操作性・ルールのため非常に難易度の高いものとなる(リゾートセンターでハンググライダー以外に飛行機・熱気球・船・スキューバダイビングといった他の手段も選べるが、着陸などが出来ないため結局クリア不可能である)。
スナックのカラオケで実際に2Pコントローラーのマイクを使って歌い高評価を得ないと進めないイベントがあるが、ニューファミコンではマイク機能が削除されている。マイク機能を使用した謎解きを入れた他のゲームでは、セレクトボタンを用いることでマイク機能の代用としたものが多いが、本作に関しては、IIコントローラーの下とAボタンを押す(バーチャルコンソール版ではWiiリモコン裏側についている「B」ボタンで代用できる)ことでマイク機能を使用しているのと同じ判定がなされる。これは旧型のファミコンでもマイク機能を使わずに同様の操作を行えばマイク機能を使用しているのと同じことになるためである。なお、マイクで音を判別しているとはいえ、後のゲームのように音声認識であったり、音程を判別する機能はないために、実際に歌唱力がなくともメロディの部分で息を吹きかけるだけで歌ったことになる。そのため、判定は曖昧であった。カラオケ曲のレパートリーは5ジャンル/計25曲あるが、実際に歌えるのは『えんか/あめのしんかいち』、『どうよう/はとぽっぽ』、『みんよう/おきなわゆんた』、『ぽっぷす/ねこにゃんたいけん』の4曲のみで、それ以外の曲は選択しても「その曲はありません」と断られる(『みんぞくおんがく』のジャンルに至っては、歌える曲が1曲も無い)。「はとぽっぽ」以外の3曲は、いずれもこのゲームのオリジナル曲である。「あめのしんかいち」はこのゲームのCMでたけしによって歌唱された。
このゲームはゲームオーバーの画面が主人公の葬式になっていることで知られている。ただし、ライフがなくなる以外にもゲームオーバーとなるイベントが非常に多い。以下にその例を示す。
このゲームはセーブ機能はないが、タイトル画面で右に進んだ先にある「こんてにゅうや」で平仮名・数字・記号で構成された20桁のパスワードを入力することで、ゲームをある程度進めた状態で始めることができる。また、ポーズ画面で「おわる」を選択して、そこに映っているパスワードを入力すれば、前回終了した時の状態からスタートできる。こうしたパスワード以外に、特定の文字のみで入力すると、あるステージからスタートできる。代表的なものとして「すきすきすきすきすき すきすきすきすきやき」があり、これを入力するとひんたぼ島から開始できるが、クリアに必要なハンググライダーの資格を持っていないためクリアすることができない。また厳密にはパスワードではないが、タイトル画面でパンチを約3万発程度繰り出すことで、ゲームクリア直前の状態から開始できる。
なお、パスワードを入力する以外に「おやじをなぐる」を選択すると、おやじが「ぎゃー ひとごろしーー」と叫び、ライフが突然ゼロになって気絶し、また間違ったパスワードを入力すると「ぱすわーどがちがいます」と言われたとたんに気絶してしまい、即ゲームオーバーとなる。
どこにでもいるごく普通のサラリーマンである男は、仕事を終わればパチンコをしたり、酒を飲んだりと好き勝手に楽しんでいた。ある日、常連のスナックでいつものように酒を飲んで、カラオケを歌っていると、ヤクザが絡んできたので追い払った。すると、怪しい老人が現れて宝の地図を男に渡す。宝の地図を手にした主人公は勤め先の会社を辞め、妻と離婚する。そしてあらゆる資格を取得し、遠い南の国へ。さらに主人公はハンググライダーで空を飛び、未開の島へとたどり着く。原住民や危険な地形を乗り越えて、冒険の末、男はついに宝を発見するのだった。
このゲームには、「ひんたぼ語」という独自の言語が登場する。ひんたぼ語とは、このゲームに登場するひんたぼ島の住民が操る言語で、例えば「あ→い」「そ→た」というように日本語の仮名を一文字ずつずらすというように、シーザー暗号をかけたような言語である。ただし、濁点および半濁点も一文字と数え、数字についても1ずつずらす。また「ん」以降は「ん→っ→ゃ→ゅ→ょ→?→ ゙→ ゚→×→ー→あ」の順になる。「ぁぃぅぇぉ」「ゎ」「ゐゑ」はゲーム中に文字が存在しない。インターネット上に存在するひんたぼ語変換ツールでは便宜上変換しないように処理されている。TAITO CLASSICS版は「ひんたぼ語検定」がある。
例4は仕様により、「ぃ」が変換しないようになっている。
カルチャーセンターでひんたぼ語を習ってからひんたぼ島に行くと普通の日本語で表示されるため、上記の文章は登場しない。
2009年3月31日よりWiiのバーチャルコンソールで配信されていた(2019年1月をもってWiiショッピングチャンネルのサービス自体が終了したことに伴い、現在は入手不可)。バーチャルコンソールにおいて実在タレントをモデルにしたタレントゲームを、タレント本人または芸能事務所より許諾を得たうえで配信するのは本作が初である。2017年8月15日よりTAITO CLASSICSの2作目ソフトとしてiOS並びにAndroidにて配信開始。TAITO CLASSICS版は、こんてにゅうやで課金により難易度変更が可能となっており、ファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度が異様に高い「はーどもーど」と、主人公がダメージを受けなくなり、かつファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度を下げた「むてきもーど」を選択できる。
他機種版のコピーライト表記は、バーチャルコンソール版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2009」、TAITO CLASSICS版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2017」となっている。
本作の企画経緯については、様々な経緯と説明が複数存在する。タイトー広報によれば、当時ゲームに興味を持っていたたけし側から企画が持ち込まれたことが発端となっている。一方別の説明では、タイトー側がたけしを題材としたタレントゲーム制作を企画し、『オレたちひょうきん族』(1981年 - 1989年)のキャラクターを生かした横スクロール型シューティングゲームを予定していたが、たけし側の了承を得るために話を持ち込んだところ、たけしが「作りたいゲームがある」と主張したとされる。タイトーで本作の販売に関与した中村栄の回想では、セタの社長であった富士本淳が「たけしがテレビ局をジャックしていく」企画書を持ち込み、その後タイトー側からオファーを行ったという。また外部発表では『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(1986年 - 1989年)のゲーム化作品とされており、ゲーム雑誌にも「(仮称)風雲!たけし城」と記載されていた。
制作中のたけしの関与についても記録はまちまちで、たけしが飲み屋で酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたもの、などとテレビ番組などでは解説される。またビートたけし司会のテレビ番組『ビートたけしのこんなはずでは!!』(2003年 - 2004年)2003年7月12日放送分では、たけしは「太田プロの近くの喫茶店で一時間話しただけのゲームだぜ」などといい加減な企画だったことを語り「どうも失礼致しました」などと述べている。また2016年4月24日に放送された『ビートたけしのいかがなもの会』においても、有野晋哉の「酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたというのは本当か」という質問にも、たけしは「全部本当の事」と述べている。一方で「(打ち合わせ当時の)詳細を全く覚えていない」と語っている。
ただし、ゲーム会社側の証言はたけしの証言とは異なり、たけしはゲームの内容に積極的に発言しており、何度も打ち合わせを重ねている。中村栄の回想では、タイトー側が持ち込んだ企画に対して「この企画じゃないとダメなのか?」と難色を示し、その後自分のアイデアを次々に伝えてきたという。チーフプログラマの森永英一郎も「ビートたけしと新宿の有名ホテルの最上階で何度も頭を突き合わせて作りました。大学ノート一杯にかかれた彼のアイディアはとても印象的でした」と自身のサイトで語っている。たけしは「高橋名人にギャフンと言わせるゲーム」を作るとしていたが、「こんなに難しくしたらゲームバランスが崩壊する」「ここまで難しいと誰も喜ばないですよ」と忠告はしたもののたけしはそれを受け入れなかったという。
セタのディレクターであった福津浩によれば、当時たけしが「ゲームにハマっていた」ということもあり、「たけしが作ったゲームだが、たけしが出てこない」などと、構想を熱く語っていたという。当時たけし軍団のメンバーであったキドカラー大道の回想では、グレート義太夫の影響で『ポートピア連続殺人事件』をプレイしていたたけしは、ゲームの作成に関するアイデアをメモしていたという。また開発初期の段階で「主人公のサラリーマンが社長を殴って会社を辞め、南の島に行く」というストーリーを固めていた。さらにたけしは「何があって、そこで何をやるか」を断片的に提示したという。福島はたけしの出すアイデアを統合するためには街を作る必要があると考えゲームデザインを行った。
また通常この様なタレント名義の企画では、名義を貸すだけで打ち合わせなど一回も行われないことも珍しくないが、たけしが参加した打ち合わせは3回行われている。最初の打ち合わせは、たけしが経営していた居酒屋『北の屋』で行われた。高田文夫やたけし軍団のメンバーも同席しており、たけしが出すアイデアに高田や軍団が茶々を入れ、福島も悪乗りしてアイデアを出していたが、タイトーの中村は全く口を出さなかったという。その後の主な打ち合わせは富士本が半年間契約していたヒルトン東京のセミスイートルームで行われた。ただしたけしは多忙であり、「休みグセ」もあったことで予定されていた打ち合わせに来ないこともしばしばあった。
ハードウェアの制約や子供向けのテレビゲームには向かないという理由で、不採用になったり当初の意図より無難に改変されたりしたものが多数あったものの、「とにかくビートたけしさんが言っているのだから」と許す限りのアイデアを片っ端から盛り込まれた。このため開発後期には容量が足りず、数バイト程度しかあまりがないという状況となった。しかしこの結果、仕上がったゲームは規格外のものとなった。発売後に福津は「とんでもないゲームを作ってしまった」と、悪い意味で感じていたという。開発陣としては、このまま発売してしまってはまずいことになるとの自覚もあったが、引くに引けない所に来ていた。
劇団東京ミルクホールは2012年に当ソフトにちなんだ『たけしの挑戦状』という公演を行った。ポスターは当ソフトのパッケージがモチーフとなっている。
またヨーロッパ企画は、2020年4月に演出:上田誠、主演:西野亮廣(キングコング)により「たけしの挑戦状 ビヨンド」のタイトルで上演を予定していたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で全公演中止となった。
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可変電圧可変周波数制御
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可変電圧可変周波数制御(かへんでんあつかへんしゅうはすうせいぎょ)英語Variable voltage variable frequency control(英語略称VVVF)とは、インバータ装置などの交流電力を出力する電力変換装置において、その出力交流電力の実効電圧と周波数を任意に制御する手法である。
日本では、鉄道車両の交流モータ駆動方式として、可変電圧可変周波数を英語に直訳した語 の頭文字をとって、VVVF制御(ブイブイブイエフせいぎょ、もしくは、スリーブイエフせいぎょ、トリプルブイエフ制御)と呼ぶが、鉄道分野以外で一般に「電動機の可変速駆動制御」などと呼ばれるものに含まれる。家電分野ではインバータ・エアコンなどに使われる。
なお、概要の項で示される通りVVVFは和製英語であり、英語圏では主にVFD(鉄道車両などではTraction inverter)などと呼称もしくは記述されることが多い。
をそれぞれ参照の事。
電力変換装置の出力電力手法には可変電圧可変周波数制御のほかに、定電圧定周波数制御(CVCF制御)、可変電圧定周波数制御(VVCF制御)、定電圧可変周波数制御(CVVF制御)がある。
電気鉄道では交流電圧波形の最大値が架線電圧に達するまでは周波数と電圧を比例させ(VVVF制御領域)、架線電圧に到達後は誘導電動機ではスベリを増やして定出力とし、スベリ限界以降はトルクが速度の2乗に反比例する特性が基準になる(CVVF制御領域)。このVVVF制御された出力特性は弱界磁制御を行う直流直巻モータの特性に酷似している。静止形インバータ(SIV)はCVCFとされるが、定電圧制御を行うものはVVCFに帰還制御を施したとも言える。
この制御で得られる可変電圧可変周波数の電力は、交流電動機を可変速駆動する目的で消費される。そのため、電力変換装置に接続された交流電動機を可変速駆動する制御方式を指すことがある。
このような出力や電動機制御を実現する鉄道用インバータ装置をVVVFインバータと呼ぶ。VVVFは和製英語である。台湾や韓国などでは、日本企業が名付けた呼称の影響を受けてこう呼ぶ場合もある。
この技術は鉄道車両(電車、電気機関車、トロリーバス)、自動車(電気自動車、燃料電池自動車、ハイブリッドカー、ホウルトラック)、エレベーターといった輸送用機器やファン、ポンプ、空調設備、圧延機などさまざまな産業用機器、さらには家庭用電気機械器具(家庭用エアコン、冷蔵庫、洗濯機他)などで広く搭載され活用している。
「PAM」、「PWM」というのは直流から任意の交流疑似正弦波波形を生成する方式に使用され、前者がパルス振幅を変えて交流波形を生成する(パルス振幅変調)もの、後者がパルス幅を変えて交流波形を生成する(パルス幅変調)方式でありPAMは電圧を昇圧(降圧)させる部分と交流に変換するインバータ部で構成される。 PAMは装置の構造がやや複雑になるため今は鉄道車両では採用および搭載されていない。PWMは多くのインバータ制御で使われており従来の多段合成変圧器を用いた正弦波インバータより小型高効率にすることが可能である。
大電力のVVVF制御に多用される方式である、「3レベルインバータ」は耐電圧の低い素子を使用するために電源の中間電圧レベルを供給する回路方式であるが、動作としてはPWMである。これに対して直流電源電圧をオン-オフする元々の単純な方式を「2レベルインバータ」と言う。高調波損失を抑えるという意味ではマルチレベルインバータの方が良いものの、高電圧用の半導体素子の開発に伴い2レベルインバータに回帰し始めた。
回生制動時には電力の通過方向が逆になり、実質コンバータとしての機能も持ちかねている。
交流での回生制動を可能にする交直変換回路として整流部にPWMコンバータが用いられるようになったが、その理由は力行・回生双方向性を持ち、力行時にはコンバータとして使用しつつ、回生時にはインバータとして使用する必要があるためである。
絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)の登場以前では2レベルがほとんどであった。例外として、黎明期のGTOサイリスタ素子は高耐圧対応の部品が無かったために敢えて3レベルとしたインバータもある。東急6000系電車 (初代)などが該当する。東日本旅客鉄道(JR東日本)の209系920番台(登場時は901系C編成)では従来の大電流の平型GTOサイリスタに代わり、冷却装置に取付ける際の絶縁を考慮しなくて済む低耐圧モジュール型GTOを使用して、制御装置の諸費用削減や整備性の向上を図っている。
一つのインバータで複数の非同期モーター (IM)を駆動することが行われているため、制御装置とモーターの関係が#C#Mで表記されている。例えば1つのインバータを持つ制御装置が4つの非同期モーターを駆動する場合、1C4Mとなる。永久磁石同期モーター (PMSM)などの同期モーター (SM)の場合は、一つのモーター毎に一つのインバータが必要となるため個別駆動 (1C1M)のみとなる が、4つのインバータを持ち4つの同期モーターを制御する制御装置も登場しており、これが1C4Mと表記されることもある。なお、非同期モーターの場合であってもインバータで空転再粘着制御が行われているため、粘着利用率だけを見る場合、軸毎に制御できる個別駆動の方が性能的に有利とされる。
VVVF制御は、交流電動機(誘導電動機、同期電動機)を可変速駆動するためのインバータの制御技術である。特にかご形誘導電動機は構造が簡単なため、保守費用が非常に安く、電動機自体の価格も安い、という利点があることが古くから知られていた。しかし、回転速度(回転数)が電源の周波数に依存するという特性があったため、長らく可変速度を必要とするものでの使用は困難であった。
かご形誘導電動機の速度制御には、インバータ開発以前にも極数変換によるものがあったが、これは連続的な速度制御はできなかった。インバータの出力電圧と周波数を連続的に変化させる可変電圧可変周波数制御が、交流電動機の連続的な速度制御を実現した。これは、近年の半導体技術、特にパワーエレクトロニクスの進歩に伴い、高速・高耐圧・大容量の制御素子が開発されて実現可能となったものである。
1960年代後半頃から、ファン・ポンプや抄紙機など産業用途での利用が始まり、1970年代後半から1980年代前半には鉄道やエレベータ、1990年代には冷蔵庫、エアコンなど家電機器でも利用されるようになった。
後に、汎用インバータの製品価格が安くなり、送風機などでは風量や静圧調整のためプーリー交換やモータ交換をするよりインバータ制御で調整した方が安価になっている。
なお、ブラシレスDCモータの可変速制御回路も回路的にはインバータと全く同じであるが、同期モータであるため『すべり』がなく、正確に回転子の位置を調整(フィードバック)しないと同期がずれる『脱調』を起こし、停止する。
主としてかご形三相誘導電動機や巻線形三相誘導電動機の制御に使用される。2000年代後半に入り、駆動周波数と回転周波数がほぼ正確に一致しオープンループ制御が可能となる高効率な永久磁石同期電動機(PMSM)や大容量な電磁石同期電動機が徐々に使用されつつある。ただしこれらは電動機1つにつき主制御器(インバータ)1台が必要な個別制御でなければ正常に駆動できず、重量、設置面積(この2点は、同期電動機に積極的な東芝が1つのパワーユニットに複数のインバータを収める2 in 1あるいは4 in 1と呼ばれる手法で軽減している)、価格、主制御器の保守などの面で課題が残る。対する誘導電動機は2つ以上の電動機を一括制御することも1つの電動機を個別に制御することもできる。
同期電動機の採用例を以下に挙げる。
単相誘導電動機は以下の点で可変速運転、特に低周波数での運転に適さないこと、また同出力であれば三相誘導電動機の方が安価であり費用面でも利点がないことから、基本的には使用されない。
もっとも、単相誘導電動機を用いた既設機器を可変速運転したい需要があることも事実であり、あまり低い回転数で使えないことを条件に、高回転もしくは常時回転が要求されるファン、ポンプ用途に限定して単相電源-単相出力のインバータが製造販売されている。
可変電圧可変周波数制御では、サイリスタやトランジスタといったスイッチング素子6個からなるブリッジ回路を用いて電流のON/OFFを繰り返し、キャリア三角波と基準電圧波形を比較してスイッチング素子のON/OFFを繰り返し、パルス波によるPWM(Pulse Width Modulation)方式により、位相差が120度の三相交流を作り出すことで、誘導電動機の固定子巻線に、6パターンの電力が供給される。電圧を可変するにはパルス波の幅を変化させ、周波数を変化させるにはスイッチング周期を変えることで行う。パルス波によって作られる制御波形には、1つのパルス波によって交流の正弦波に近い波形を作り出す2レベル制御波形、1つのパルス波の上にもう1つのパルス波を上積して2段階のパルス波にすることにより、波形をより正弦波に近い形を作り出す3レベル制御波形がある。
電気鉄道の主電動機駆動用のスイッチング素子としては初期には逆導通サイリスタ(RCT)が用いられていたが1990年代初頭からはスイッチング素子の駆動回路が簡素化できるゲートターンオフサイリスタ(GTOサイリスタ)が用いられるようになった。さらに1990年代終盤以降はスイッチング速度が速い絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)が主として用いられている。IGBTの採用により、より正弦波に近い出力が得られ、IGBTを2段直列に接続することで、電圧を2段階で加圧して、2段階のパルス波を発生させることにより、さらにより正弦波に近い出力を得ることができる3レベルインバータが開発され、電力変換器の低損失化や波形ひずみの軽減ができるようになった。また、キャリア周波数を人間にとって耳障りな周波数よりも高い領域にすることでインバータ装置や電動機の低騒音化が実現できるようになった。2010年代以降は、従来のケイ素(Si)より高耐圧でかつ高速動作も可能、高温下でも使用でき機器を小型化できる炭化ケイ素(SiC)を一部(ショットキーバリアダイオード)に使用したハイブリッド型ものや、さらにはSiCを全面的に用いたMOSFETが導入されつつある。SiCとはゲルマニウムやシリコンと同じ半導体の素材であって、当然SiC-IGBTなどもあり得る。従ってIGBTなどの半導体素子そのものを指すには不適切であるが、SiCというスイッチング素子があるかのような表現が広く用いられている。
SiC-MOSFETはSi-IGBTに比べゲート - ソース容量が低くなる ことからスイッチング損失が低く省電力である。損失が減って発熱が減ることで、回生ブレーキの使える範囲も広くなる。また、SiC-MOSFETはスイッチング速度が速く、時間当たり多くのオンオフが可能であり、これにより高速域でも高いパルスモードを使うことができ、モーターの高調波損失を低く抑えることが可能となる。
産業用や家電用のインバータに用いられることが多い素子であるバイポーラトランジスタは、電気鉄道用としては耐圧が不足する ことからほとんど使用されていない。実績を上げると、バイポーラトランジスタの一種であるパワートランジスタを利用した電車として、JR東日本901系A編成(後のJR東日本209系900番台)や同701系、西日本旅客鉄道(JR西日本)207系0番台が挙げられる。
VVVFインバータ制御は交流モーターである誘導電動機や同期電動機の基本特性に合わせ、その回転数・周波数にほぼ比例した電圧を加える制御方式である。
従前は供給電源の周波数を自由に変えられる装置が簡単には構成できなかったため、電圧を何段階かに切り換えたり、巻線の結線を変え、あるいは回転子のコイルにスベリ周波数に見合った直列起動抵抗を挿入して最大トルクを得る様に調整するなど、電気特性的にはイレギュラーな簡易的起動方法を採用して、起動後の定常運転状態では軽負荷で使っていた。商用周波数での起動の困難のために無用に大出力の電動機を採用していた。
しかし、大電力用半導体素子の発達でインバーターとして自由な周波数と電圧を生成できる様になったことで、モーター特性に合わせた電力供給が実現されて定常運転出力にあった小型のモータ-を採用できるようになった。
今、鉄心の磁気飽和による最大磁束以下の Φm に励磁された回転子が回転数 n で回転していた場合、固定子に巻かれたコイルには最大Φm のほぼ正弦波の磁束が鎖交する。コイル誘起電圧 e {\displaystyle e} は磁束の変化率( = 微分値)×巻数 N である。すなわち、 鎖交磁束を
とする時、(Φに付くe,mは添数 )
sin ( 2 π n t ) {\displaystyle \sin(2\pi nt)\,} の時間微分(変化率)は、 2 π n ⋅ cos ( 2 π n t ) {\displaystyle 2\pi n\cdot \cos(2\pi nt)} であるから、 誘起電圧eは
となって、一定磁束なら誘起起電力eは回転数 n ,周波数 f に比例することが分かる。「e/f が一定」とも言える。
モーターの端子電圧 = 供給電圧はこれ:誘起起電力eに巻線抵抗などのインピーダンス電圧降下分を加えたもので平衡するから、それをインバータで生成する方式がVVVFインバータ制御と言われるものである。常に最大トルク付近や最大効率を追えるので、使用する交流モーターを従前よりかなり小型化でき細かな制御ができるようになった。そのためエアコンなど家電製品でもインバータ方式( = VVVF制御方式)が主流になりつつある。
設定されているシークエンス(シーケンス)で電圧/周波数を連動させて制御する。
特徴
用途
回転部に回転数センサ(パルス発信器など)・回転子位置センサ(ホール素子など)を取り付け、その計測結果に基づいて電圧・周波数・位相などを適切に制御し、目的とする回転数・トルクを得る。
特徴
用途
回転部のセンサを省略し、代わりに各巻線の電流の大きさと位相で、トルクと回転数を推定し、それに基づいて電圧・周波数を変化させ、目的のトルク・回転数を得る。
特徴
用途
世界で初めて営業運転に投入されたインバータ制御車両は、電車では1973年に就役した、米Cleveland Transit System150型電車 "Airporter"のうち3両(ヘルシンキ地下鉄M100系電車は1977年試験開始であり、こちらより4年遅い)、機関車では1979年に就役した西ドイツ国鉄(現・ドイツ鉄道)120型電気機関車と言われている。この120型電気機関車は、電圧調整はチョッパ制御で行う電流型インバータ制御であり、「VVVF」ではない。誤表記がよく見られ、注意が必要である。 この電流型インバータは周波数の制御をするだけでよく、主にヨーロッパで普及した。
旧日本国有鉄道(国鉄)における無整流子電動機駆動方式の開発は、1972年(昭和47年)12月にクモヤ791形交流試験電車を用いて、同期電動機と(サイリスタモーター)とサイクロコンバータを用いての試験が実施されている。ただし、今日の自励式電圧形PWM-VVVFインバータとは異なり、サイリスタによる他励式に近い電流形サイクロコンバータによるものであって、回路構成や制御方法は大きく異なる。試験にあたっては勾配条件などを考慮して日豊本線の柳ヶ浦 - 杵築間約30kmの区間で行われた。日立製作所と富士電機の機器が使用され、試験結果は良好であったが機器の大きさや重量面において大きな問題が残された。
その後、1979年(昭和54年)から翌1980年(昭和55年)にかけて青函トンネル用電気機関車を想定した悪条件下における信頼性確保や保守性向上のため、サイリスタコンバータとPWMインバータ、大出力の650kW出力誘導電動機2台が試作製造され、試験台試験(台上試験)を実施している。装置は日立がインバータ装置と全体まとめ、三菱が変圧器と電源側変換装置・東芝が主電動機を担当した3社共同によるもので、素子には逆導通サイリスタ(RCT)が採用された。試験結果は良好であったが、青函トンネル開業時期の遅れと国鉄の財政悪化などから採用は見送られた。ここまでの試験は無整流子電動機への取り組みであり、厳密にはVVVFインバータ制御とは直接関係しない。
1984年(昭和59年)には将来の北陸新幹線など、整備新幹線への採用を想定したVVVFインバータ制御の試験として、在来線用のGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置と誘導電動機など機器一式を用意し、試験台試験(台上試験)を実施した。この試験結果を受け、実際に装置一式を車両に艤装して走行試験を実施することとなった。
試験車には廃車を控えた101系1両を使用し、装置一式(GTOサイリスタ素子(4,500 V - 2,000 A)を使用したVVVFインバータ装置(東芝製)など・1C4M制御)をクモハ101-60の床上に艤装し、1985年(昭和60年)12月から1986年(昭和61年)1月までの期間で2回に分けて試験を実施した(モハ100-35はT車代用、また測定用電源(静止形インバータ)を床上配置)。試験車は国鉄浜松工場で構内走行試験後、東海道本線静岡 - 豊橋間で本線走行試験を実施した。Aタイプ主電動機(後述)は構内走行が12月11 - 16日、本線走行は17 - 19日、Mタイプ主電動機は構内走行が1月10 - 16日、本線走行は20 - 22日に実施された。
試験を2回に分けたのは、国鉄では在来線用の通勤形電車から高速走行をする新幹線車両まで多様な車両が必要なことから、主電動機には特性の異なる4種類8台の誘導電動機(いずれも150kW出力)が用意され、これらの試験を実施するためであった。誘導電動機はMT993形、MT993A形、MT993B形、MT993C形の4種類があり、大きく分けて電気装荷重視形のAタイプ2種類と、磁気装荷重視形のMタイプ2種類を使用した。
その後、国鉄分割民営化を控えた1986年(昭和61年)秋に落成した207系900番台でVVVFインバータ制御(形式名SC20)を正式採用した試作車が完成した。その207系900番台はJR東日本に引き継がれたが、東日本を含むJR各社でのVVVFインバータ制御の本格的な採用は私鉄にやや遅れ、1990年以降となる。
新幹線では、1990年(平成2年)に東海道新幹線の300系の試作車9000番台(J0→J1編成)が作られ、1992年(平成4年)から量産が開始された。その後に登場した500系やE1系、E2系、E3系以降ではVVVFインバータ制御へ移行して、2013年(平成25年)に200系電車が引退したことにより、新幹線車両は全て民営化後に登場したVVVFインバータ車となった。
一方で、旧国鉄での開発と並行し、各電機企業で1975年(昭和50年)頃から大手私鉄・公営交通と手を組んだ開発が盛んとなり、特に日立製作所、東洋電機製造、東京芝浦電気、三菱電機が下記のとおり相次いで現車試験を実施している。
1978年(昭和53年)11月、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄 = 東京メトロ)千代田線において6000系1次試作車に日立製作所製のVVVFインバータ装置(2,500V - 400Aの逆導通サイリスタ素子を使用・1C4M制御)と130kWのかご形三相誘導電動機を搭載した現車走行試験が実施された。これが日本国内における最初のVVVFインバータ装置を搭載しての走行試験である。
1980年(昭和55年)5月から6月、東洋電機製造が相鉄6000系電車にVVVFインバータ装置(2,500V - 400A(他社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御×2台)を搭載して、かしわ台工機所構内ならびに本線かしわ台 - 相模大塚間で終電後に深夜走行試験を実施した。1次試作品の機器は客室内に艤装されたもので、室内を大きく占有するほどのものであり、実用化にはほど遠いものであった。相模鉄道で走行試験を行ったのは、当時東洋電機製造のVVVFインバータ装置の開発は相鉄相模大塚駅近くの相模工場で行っており(その後、横浜市内の横浜製作所に統合)、工場の近くに相鉄かしわ台工機所があったことが理由である。
同年11月には日立製作所水戸工場で東京急行電鉄から譲渡されたデハ3550形にVVVFインバータ装置(前述の営団地下鉄と同様のシステム)を搭載して構内走行試験が実施されている。試験に際しては、台車もインバーター駆動用として新たに開発されたKH-105台車に交換された。KH-105台車は軸箱支持にロールゴム式、車体支持をボルスタレス式、けん引装置として一本リンク式を採用した軽量台車で、その構造の多くが後の国鉄ボルスタレス振り子台車TR908、TR908Aに反映された。駆動装置は、中空軸たわみ継手式平行カルダンととWN継手式平行カルダンを各1台車づつ採用し、特性比較を行った。
1981年(昭和56年)9月から翌1982年(昭和57年)4月にかけて、大阪市交通局100形106号車にGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置(第三軌条方式)と160kW主電動機2台を装架して、森之宮検車場構内ならびに中央線において終電後に深夜走行試験が実施された。これは、当時大阪市交通局が導入を想定した小型地下鉄向けのシステムとして開発・試験を行ったものである。なお、同時に107号車が抵抗制御車のまま牽引車として使用された。装置は東京芝浦電気・日立製作所・三菱電機の順番で、1組ずつ試験が実施されたもので、最初に東京芝浦電気製の装置で行われた走行試験は、世界初のGTO-VVVFインバータ制御の本線走行である。
1982年(昭和57年)5月中旬、東洋電機製造が相模鉄道6000系を使用して再度のVVVFインバータ制御(2,500V-500A(自社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御)の深夜走行試験を実施、そして9月から10月に阪急電鉄1600系1601号車にこのVVVFインバータ装置(150kW主電動機4台制御)を搭載して、車庫内ならびに本線上で走行試験が実施された。相模鉄道での試験(2次試作)は、1次試作時から大幅に改良されたもので、床下に艤装できるほど小型化された(ただし、床下艤装作業を省略するため、機器は室内に艤装された)。阪急電鉄の試験では、国内では架線電圧1500Vにおいて初めて110km/hの高速運転、100km/hからの回生ブレーキ走行となった。
営業用車両としては、1982年(昭和57年)8月2日に投入された熊本市交通局8200形電車が日本初となる(1983年のローレル賞受賞)。このインバータは逆導通サイリスタ(RCT)を用いたもので、ほかに国内の営業用車両で用いたのは札幌市交通局8500形電車(同様に路面電車)だけである。最初に路面電車へ採用されたのは、架線電圧が低く高耐圧・高電流の素子が不要であること(直流1,500V用の半分で済む)、軌道回路が不要で誘導障害のおそれがないことがあげられる。
一般的なゲートターンオフサイリスタ(GTO)素子による初のVVVFインバータ搭載の新製車両は、1984年(昭和59年)3月28日に落成した大阪市交通局20系電車(2代目)となる(第三軌条方式・直流750V電化)。しかし、日本国内の高速鉄道として初めての実用化であり、車両性能や誘導障害などの試験が長引いたため、営業運転開始は12月24日まで遅れた。このため、営業開始日順となる下表では4番目にある。
架線電圧1,500Vでの日本初のVVVFインバータ制御車両は東急6000系電車 (初代)のVVVFインバータ改造車である。1983年(昭和58年)にデハ6202に日立製作所製2,500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータ2台(電気回路はそれぞれ直列つなぎ)を搭載して各種試験を経て、1984年7月25日から大井町線で営業運転が開始された。その後、1985年にはデハ6302に東芝製VVVFインバータを、デハ6002に東洋電機製造製VVVFインバータを、1983年に改造された6202に4500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータを同時に改造した。
引き続いて1984年(昭和59年)7月に東大阪生駒電鉄(→近畿日本鉄道に統合)7000系試作車が落成(近鉄東大阪線→けいはんな線は未開業・走行試験を実施(第三軌条方式・直流750V電化)。量産・営業開始は1986年10月)、さらに直流1,500V電化用の新製車両では日本初となる近鉄1250系電車1251編成(現・近鉄1420系電車1421編成)の製造が続いた。
本格的な量産車両は、1986年(昭和61年)の新京成電鉄8800形電車や東急9000系電車、近鉄3200系電車、東大阪生駒電鉄→近鉄7000系電車(前述。1987年のローレル賞受賞及び鉄道車両初のグッドデザイン賞受賞)あたりからで、これをきっかけに多くの私鉄や地下鉄での試験導入(東武10000系電車10080型、京阪6000系電車初代6014Fの一部など)を経て本格的な導入が開始された。1995年に登場した阪神5500系電車をもって、大手私鉄の全てがVVVFインバータ制御車を保有することとなった。
IGBT素子を使用したインバータ搭載車両は、1992年の営団(現在の東京メトロ)06系・07系電車が初めてとなる。また、JR西日本207系電車0番台とJR東日本701系電車、及びJR東日本901系電車A編成(後に209系電車900番台に改造され、後年にはGTOに取り替え)ではパワートランジスタ(PTr)素子を使用したインバータが採用されている。
1990年代以降、日本での新造電車は路面電車から新幹線に至るまでVVVFインバータ制御が主体となった。営団地下鉄6000系や東急初代7000系→7700系など、従来の走行機器をVVVFインバータに更新したり、果ては伊予鉄道3000系電車やえちぜん鉄道MC7000形、名古屋市交通局5000形電車のように中古車両の譲渡に際して、電気機器をVVVFインバータに交換・改造した例も出現している。一方で実用化から20-30年以上が経過したことから、初期の採用車では半導体素子の経年劣化による制御装置のASSY交換(京王1000系電車 (2代)、阪急8000系電車、Osaka Metroの66系、JR西日本223系電車0番台体質改善車など)が行われたり、JR東日本209系電車やE217系電車、東京都交通局5300形電車などのように後継車への置き換えが始まった車両も発生している。新幹線の旅客車両で初期のGTOサイリスタを使用した車両は山陽新幹線の500系を除いて全て廃車となっている。特殊な例としては複数の形式の間での編成替えにより、古い形式の走行機器を新しい車両に合わせたものに更新する事例がある。京阪10000系電車の7両化で車両を供出した7200系、9000系がこれに該当する。一方で山陽電気鉄道の5000系・5030系のように、従来の直流電動機を使用する制御装置とVVVFインバータ装置が1つの編成で混在する例もある。
これらの改造や新車の導入により、営業用車両が全てVVVFインバータ制御になった鉄道事業者も出てきており、2012年(平成24年)9月には京王電鉄が大手私鉄初となる全営業車両のVVVFインバータ制御統一を達成し、JRグループでも2019年9月にJR四国が全営業電車のVVVF制御統一を達成している。
2010年代では、SiCをダイオードやトランジスタに使用したVVVFインバータが開発・実用化され、従来のIGBT素子よりも小型軽量化、より省電力化されたVVVFインバータが登場している。新製車ではJR東日本E235系電車に初導入されたのを皮切りに、神戸電鉄6500系電車やJR西日本323系電車、西鉄9000形電車、新幹線N700S系電車で採用されたほか、既存車やPTr-VVVF車、さらには初期のGTOを使用した車両の更新工事が行われており、小田急1000形更新車、京都市交通局10系更新車、新京成電鉄8800形更新車など改造・更新が進められている。
日本初の熊本市交通局8200形電車(1982年【昭和57年】)から1986年(昭和61年)までに登場のVVVF制御車両一覧。
全車両がVVVF制御(車輌数に「*」が付いているもの)の形式には、両数に付随車を含む。一部車両がVVVF制御の形式には、両数に付随車を含まない。
VVVFインバータ制御車両最大の特徴ともいえる、発車時・停車時に発生する何度も高低が変化するような音(磁励音)は、パルスモードが変化しているために発生するものである。車両発進時には、「ピーー」というような音や「ビーー」や「キーーン」という音で起動するが、その後は自動車がトランスミッションで変速するときのエンジン音のような音がする。これらの音は主にモーターから発せられ、インバータ装置自体からも「ジーー」とモーター音に合わせてスイッチング音が聞こえる場合がある。
これらの音は多種多様であり、同じ製造企業・機種のインバータを搭載していても中のプログラムや設定が異なるとまったく違う音を立てる。GTOでは近鉄のほとんどのGTO-VVVFインバータ車やJR東日本901系電車B編成(→209系910番台)、小田急1000形電車(未リニューアル車)や新京成電鉄8800形電車(機器更新前)などが、IGBTではJR西日本223系2000番台1次車の東芝製制御装置車や223系1000番台体質改善車、また近鉄50000系「しまかぜ」や22600系「Ace」のようにプログラムの更新により音が以前と全く変わった車両も存在する。
GTO素子を使用したインバータでは発車時・停車時の音を耳障りと感じる人も多いが、IGBT素子では、スイッチング周波数を高くできるため、耳障りな音色を改善できるようになった。
なおシーメンス製のGTO素子を用いたインバータ制御装置(SIBAS32)を搭載した車両の一部では、音階のような音が主電動機とインバータ制御装置より発せられる。このことから、このタイプのインバータ制御装置を「ドレミファインバータ」、搭載した車両を「歌う電車」と呼ぶことがある。日本ではJR東日本E501系電車や京急2100形電車・新1000形電車、日本国外では韓国鉄道8200形電気機関車などが実例となっている。
現在、電車用の直接形交流電力変換器は大電力の製品が実用化されていないため、交流電化区間に用いられる電車であっても、一旦直流に変換(整流)を行ってから、VVVFインバータを用いる制御(コンバータ・インバータ方式)を行う必要がある。小電力であれば「マトリクスコンバータ」などとして製品化されている。
他
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2,813 |
ASA
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ASA
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2,816 |
Pulay補正
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Pulay 補正(英: Pulay correction)はバンド計算における波動関数の補正で、以下の3つがある。
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趣味
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趣味(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。
職業(プロフェッショナル)として成立している範囲の事柄を趣味(ホビー)でおこなう人は、アマチュアと呼ばれる。
英語のネイティブ・スピーカーの感覚では、"hobby"とは切手などのコレクションや園芸・美術などの活動を継続するような「向上心をもちながら、ひとりで長期にわたって打ち込んできた活動」というニュアンスがあり、自分が好きで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄として日本人が「趣味」としてあげる「読書」「映画鑑賞」「スポーツ」などは"hobby"に含まれない。
美学の文脈で「趣味」という場合、対応する英語は "hobby" ではなく "taste" である。
趣味者(英:hobbyist)とは、長きにわたり熱中度が高い趣味活動をする者に言われることが多い。特に鉄道趣味者や共産趣味者が趣味者と呼ばれることが多く、単に趣味者(英:The Hobbyist)と言われるといずれかの確率が高い。
趣味が多い人では、全循環器疾患(虚血性心疾患・脳卒中)の発症リスクが低い。
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2,819 |
株式公開
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株式公開(かぶしきこうかい)とは、株式会社が自社の発行する株式を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう。
株式を企業の外部から募った新たな出資者に譲渡することができ、株主が不特定多数かつ広範囲に分布する株式会社を一般に公開会社(Publicly held corporation)という。会社関係者のみの間で制限的に所有されていた株式を自由に譲渡できるようにすることを株式の公開といい、その株式の所有者は譲受希望者との相対取引によって株式の譲渡を実現することができる。しかし、複雑化した現代社会では取引コストの点から一般人による相対取引はほとんど行われておらず公開市場(open market)で取引されることが多い。株式などが取引所の設けた市場において売買取引の対象となることを上場という。
大規模な株式会社では証券取引所での取引などを通じて自社が発行した株式が自由に譲渡できることが多い。一方、小規模な株式会社では自社が発行している株式は創業時の出資者やその関係者など限られた者のみが所有しており、定款などで株式を自由に譲渡できないようになっていることが多い。
公開会社ではない会社の規律については、日本の会社法のように併せて定められている場合(公開会社でない株式会社を参照)と、アメリカの一部の州法のように特別法が置かれている場合がある。
日本の会社法では公開会社は「その発行する全部又は一部の株式の内容として譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう。」と定義されている(会社法第2条第5号)。
長く非公開だった大塚ホールディングス・大塚製薬や出光興産、コーセーなども株式公開し、ある程度知名度のある大企業で非公開会社はサントリーHDや竹中工務店、ヤンマーHD、矢崎総業などごく限られた存在になった。結果的に、放送局を除けばメディア系企業に非公開会社が多い。いわゆる大手出版社のうちKADOKAWAグループ以外はすべて非公開である。
なお諸法令により、放送・通信事業者の一部、証券市場開設者と航空会社には、外国人の出資比率が一定以下に制限(外資規制)されている企業がある(NTT=NTT法・電気通信事業法、スカパーJSATホールディングス・各テレビ局および放送持株会社=電波法・放送法、日本取引所グループ・東京証券取引所・大阪取引所=金融商品取引法、ANA・日本航空=航空法)。また、日刊新聞を発行する会社は、公開会社となることができない(日刊新聞法)。
米国法では公開会社は一般的に自社の株式を異なる投資家によって広く保有されている株式会社をいい、連邦証券取引委員会等の規定により一定の開示義務が適用される会社をいう。
新規株式公開あるいは単に株式公開(英: Initial Public Offering、通称IPO)とは、自由な株式譲渡が制限され少数株主に限定されている株式を株式市場に上場して株式市場での売買を可能にすることをいう。
その方法には新株を発行して株式市場から新規に資金調達する公募増資や、既存株主の保有株式を市場に放出する売出しがある。
IPO銘柄は、証券会社で抽選に申し込み、当選した人だけが購入できる。
株式公開には次のような目的がある。
株式の公開によって会社の資産価値は株価の市場価格で客観的に把握できるようになる。公開会社では企業活動の動静が報道される機会も多くなり、金融機関の与信態度にも変化を生じるなど企業の知名度や信用度が向上し、有用な人材の確保にも資すると言われている。ただし、これらは副次的な経済的効果として現れるものである。
株を保有している経営陣が創業者利得を得ることが目的のように見える上場など、本来の目的とは違ったように思われる上場のことを「上場ゴール」と呼ぶことがある。
株式の公開により、会社は証券市場からの多様かつ機動的な資金調達が可能になる。既存株主にとっても株式の市場売却によって投下資本の回収が容易になるなどの利点がある。また、企業の知名度の向上や相対的な社会的信用度の増大が図られ、事業の展開の円滑化や、優秀な人材の確保がしやすくなるなど副次的な利点もある。一方、株主にとっては、市場での売却が可能になり、投下した資本の回収がしやすくなるというメリットがある。
株式を公開した場合には市場の厳しい評価にさらされ、投資家への説明責任を求められることになる。これには事業の改革を通じた競争力の強化や企業の社会的責任(CSR)などへの積極的な取り組みにつながるなどのメリットがあるとも考えられている。一方で企業活動に関する情報の完全・正確・公正な開示が求められるようになるが、企業側が保持しておきたい企業秘密(トレードシークレット)と相容れなくなるような側面もある。
また、株式を公開した場合には特定の個人やライバル企業が市場を通して株式を買い占めることも可能となるため従来の経営陣の地位も脅かされる可能性がある。株式の公開により会社の所有と経営の分離は一層強くなり経営支配権を奪取されるおそれが生じる。同族企業の多くは一部を除き株式を公開していない。
新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、過去に売買されていた他社銘柄と比較して時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、同業他社と比較して公募価格が低く設定されることが一般的であり、上場後一定期間を経て同業他社並みの評価を得るようになる傾向が見られる。こうした株価形成のあり方をIPOディスカウントと称し、不透明な情報に関するリスクを株価に織り込むマーケットメカニズムの一端といえる。IPOディスカウントは一般的に主幹事がリテール向けサービスの一環として割安な価格で配分する狙いがある。このディスカウントの影響から、個人投資家をはじめとする一般投資家の間では、IPO銘柄を投資における「プラチナチケット」とする見解もある。
その一方で、企業価値が適正に評価されていなかったり、主幹事となる証券会社が合理的な根拠に基づかずに公募価格を低く設定しているとの批判もあり、公正取引委員会は「独占禁止法上問題となるおそれがある」との調査報告書を2022年1月に公表している。
新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、公募価格が設定されてなお株価が割高であったり、とても合理的と言えない初値が付くことがしばしばあり、上場後一定期間を経て財務諸表に見合った評価を得るようになる傾向が見られる。
上場は取引所で売買対象となることであり、上場を廃止して取引所の売買対象から除外されても、その会社の株式等の売買が一切できなくなるわけではない。非上場となった株式会社が株式の譲渡そのものを制限するためには定款変更といった一定の手続が必要になる。
一方、上場会社が定款変更により株式の譲渡につき制限を行うこととした場合には、不特定多数による市場での売買とは相容れないこととなるため上場規程等で原則として上場廃止の対象とされている。
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2,822 |
倒産
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倒産(とうさん)とは、明確な定義はないが、概ね、個人や法人などの経済主体が経済的に破綻して弁済期にある債務を一般的に弁済できなくなり、経済活動をそのまま続けることが不可能になること(あるいはそのような恐れが生じること)をいう。
法人の場合は、経営破綻(けいえいはたん)ともいう。なお、一社の企業が倒産することにより、関連会社や取引企業が連鎖的に倒産することを連鎖倒産(れんさとうさん)という。
また、日本においては「会社が潰れる」・「あの会社は潰れた」などの俗的な表現もある。
倒産状態になった経済主体による、債権者への弁済のための処理ないし手続を、倒産処理ないし倒産(処理)手続といい、私的・法的の区別と清算型・再建型の区別とがある。
法的倒産手続には、日本の場合、破産・会社更生・民事再生などがある。倒産手続は、債権者から申し立てられる場合と債務者(倒産者)自身が申し立てる場合のほか、特殊なケースとして監督当局の申立てによって開始することもある。
旧約聖書とユダヤ教聖典においては、モーセの律法が、聖年(ヨベルの年)が50年ごとに訪れ、天の命令により、ユダヤ人の間ですべての債務が除かれ、すべての債務奴隷は自由の身になると定めている。さらに、聖書の申命記15:1-2では、債務免除のヘブライ(ユダヤ)法を見ることができ、そこでは7年ごとに債務を免除することを命じている。
古代ギリシアでは、倒産(破産)というものは存在しなかった。もし父が債務を負い(都市で生まれた成年男子のみが市民となることができたので、法的に財産の所有者となるのは「父」であった。)、それを支払うことができなくなれば、彼の全家族(妻・子ども・使用人)は、債権者が彼らの労働によって損失を取り戻すまでの間、債務奴隷とされた。古代ギリシアの多くの都市国家では、債務奴隷となる期間を5年間に限っており、また債務奴隷は生命と手足については保護されていた。これは通常の奴隷には与えられていない保護であった。ただし、債務者の使用人については債権者がその一線を超えることもあり、新しい主人に死ぬまで仕えさせられることも多かった。そのような場合、労働条件は以前よりずっと過酷であるのが普通であった。
英語の bankruptcy という単語は、古代ラテン語のbancus(台、テーブル)とruptus(壊れた)から生成された。bank(銀行)はもともとは台のことを指している。昔の銀行家たちは、公の場所、市場や定期市などで、台を持ち、そこでお金を徴収したり為替手形を書いたりしていた。そのため、銀行家が破綻すると、彼はその台を壊し、公衆に、台の所有者はもはや事業を続ける状況にはなくなったということを知らせた。この慣行はイタリアでよく行われており、bankruptという単語はイタリア語のbanco rotto(broken bank)に由来すると言われている。しかし、フランス語のbanque(テーブル)とroute(痕跡・足跡)から来ているとする人もいる。これは、以前は地面に固定されていたが今はなくなってしまったテーブルの、地面に残った跡の隠喩である。このように考える人は、破産者の起源は、古代ローマの mensarii や argentarii に遡るとする。彼らは公の場所に tabernae や mensae という持ち場を持っており、夜逃げをするときや委託されたお金を持って逃げるときには、自分の持ち場の痕跡だけを跡に残して行った。
英米法上、債務の免除を伴う破産制度が導入されたのは、1705年のアン女王時代の制定法においてであり、そこでは、支払不能となった債務については、可能な限りの支払をするための資産を集めるのに協力した破産者に対する報奨として、免除が与えられた。
東アジアでも、破産についての記録が残っている。チンギス・ハーン法典には、3回破産をした者に死刑を科すとの規定があった。
現代の倒産法制や事業の債務整理は、清算及び支払不能になった者の排除よりも、経済的困窮に陥った債務者を財政的・組織的に再建し、事業の更生と継続を許すことに重点が置かれてきている。
法学上の文面でも破産や民事再生などのいわゆる法的倒産手続を総称する概念として「倒産」の文言を用いることがあるが、法令上に定義ある語ではない。明治時代に、フランス語の faillite の訳語として「破産」あるいは「倒産」の語が用いられたが、法令上「破産」の語が用いられるようになったとされている。
日常用語としては経営が行き詰まり会社がなくなる、といった限定的なニュアンスで使われる場合もあるが、倒産の対象となる経済主体は会社だけではなく個人(自然人)も含まれる。また、会社を含む法人が経済主体の場合であっても、再生型の倒産手続があることから、必ずしも法人がなくなるとは限らない。
1990年代後半以降、会社の倒産についての新聞などの報道では、「経営破綻」(または単に「破綻」)という言葉が使われることが多い。日常用語で「(会社が)つぶれる」というのも倒産とほぼ同じ意味で使われる。
どの時点で倒産と評価するかについて、明確な基準はないが、東京商工リサーチでは、次のような状況になった場合に企業の「倒産」と表現している。帝国データバンクでも同様の基準を用いている。
また、雇用保険の特定受給資格者の「倒産」等により離職した者の定義は
とある。上記 1. と 3. (任意整理)が東京商工リサーチや帝国データバンクでの倒産の定義に相当する。
毎月中頃、マスメディアを通じて前月倒産件数(4月は前年度倒産件数も)が発表されるが、これは東京商工リサーチと帝国データバンクがマスコミ各社に行ったプレスリリースを基にしている。帝国データバンクは、手形を使用しない商習慣の拡大や、個人情報保護法の施行などの理由により情報収集が困難になったとして、2005年に倒産集計の基準から「銀行取引停止処分」を削除した。東京商工リサーチは独自の情報網を通じての取材活動によれば、「銀行取引停止処分」の集計も可能として、これを維持した。このため、従来の統計との整合性を持つ倒産件数は、東京商工リサーチ発表によるもののみである。
なお、日本国内の地方公共団体において財政が行き詰まった場合、地方財政再建促進特別措置法(再建法)に基づき、自治体が財政再建団体の指定を申請し許可を受けることがある。これを指して「自治体の倒産」と表現することがある。
経済主体が企業である場合、 手形や小切手の1回目の不渡りから6か月以内に2回目の不渡りを出した場合、銀行取引停止処分となる。こうなると、すべての銀行において当座取引および貸付を受けることが不可能になるため、企業の資金繰りは断たれる。このような状態をして事実上の倒産と呼ぶ。
このような場合でも、法人の解散事由(破産手続の開始等)が生じたわけではないから、法人としての存続は否定されたものではないが、多くの場合、法的倒産処理手続または任意的倒産処理(私的整理)に移行することから、当該時点において「事実上」という言い方を用いる。また、帝国データバンクなどの信用調査会社では、企業が事業停止しかつ事後処理を弁護士に一任した時点で事実上の倒産(この時点で倒産集計には入らないが破産手続に入ることがほぼ確実なため)として倒産情報を出している。
なお、かつて新聞などでは、再建型の法的倒産処理手続(下節参照)に着手した場合でも「事実上の倒産」という言葉を使用していたが、近年では「事実上の倒産」ではなく、「経営破綻」という言葉を使用する場合が多くなっている(前述)。
裁判所の監督の下で行われる倒産処理手続であり、この文脈では、「倒産」は経済主体が経済的に完全に破綻した場合のみならず、破綻するおそれがある場合をも含めて理解するのが一般的である。大まかに分類すると、清算型と再建型に分かれる。
清算型は、倒産状態になった債務者の財産を換価して債権者に可能な限り弁済することを目的とする制度であり、債務者が法人である場合にはその存続・再建を予定しないのに対し、再建型は、倒産状態になった債務者の財産を直ちに換価・分配することは必ずしも予定されず、債権者らの権利を変更(債務の減免、期限の猶予=分割弁済など)したうえで、現有財産を基礎にして収益を上げ、権利変更後の債務について弁済すること等により、債務者の事業又は経済生活の経済的再生を目的とする制度であるとされている。
もっとも、両者の差異は相対的なものであることに注意が必要である。清算型に位置づけられる破産手続は、これに付随する免責手続の存在により、いわゆる個人破産(消費者破産)の場面では再建型として事実上機能していることがほとんどであり、再建型に位置づけられる民事再生手続又は会社更生手続において、清算を目的とした再生計画案又は更生計画案が作成されることもある。
また、金融機関等の特殊な業態については、法的倒産処理手続以外に、特別法(金融機関等の更生手続の特例等に関する法律)に基づく破綻処理が予定されているものがある。
カナダにおける倒産は、破産・支払不能法(Bankruptcy and Insolvency Act)という連邦法により定められており、企業と個人の双方に適用される。連邦政府の破産監督局(Superintendent of Bankruptcy)が、倒産手続が公正かつ秩序立って執行されるようにする責任を負っている。破産管財人が破産財団を管理する。
管財人は、次のような職務を負っている。
債権者は、債権者集会に出席することにより手続に参加する。管財人が招集する第1回債権者集会は、次のような目的を持っている。
カナダでは、個人は、破産の代わりに、消費者提案(consumer proposal)を申し立てることができる。消費者提案は、債務者と債権者らとの間での交渉による解決である。
典型的な消費者提案は、債務者が最長で5年間、毎月支払を行い、資金を債権者らに配分するというものである。ほとんどの提案は債務の総額よりも支払額を少なくすることを求めるものだが、ほとんどのケースで、債権者らは取引に応じる。なぜなら、そうしなければ、次の選択肢は個人破産であり、その場合債権者らの受け取る金額は更に少なくなるからである。債権者らは、消費者提案を受け入れるか拒否するかの選択に45日間の猶予期間がある。一度提案が受け入れられると、債務者は提案執行者に毎月支払を行い、債権者らはそれ以上の訴訟や執行を行うことができなくなる。提案が拒否された場合は、債務者は個人破産の宣言をするほか選択肢がないこともある。
消費者提案を行えるのは、債務額が5000ドルを超え、7万5000ドルまで(主たる居住地の抵当権を含まない)の場合に限られる。債務額が7万5000ドルを超える場合、破産・支払不能法第3編第1部の下に提案を申し立てなければならない。提案執行者の補助が必要である。提案執行者は、破産管財人の資格を持った者がなるのが一般的であるが、破産監督局が他の人を執行者に任命することもできる。
2006年において、カナダでは9万8450件の個人からの支払不能の申立てがあった。うち7万9218件が破産、1万9232件が消費者提案である。
2004年には、ヨーロッパ各国で倒産の増加率が今までにない高い数字に上った。フランスでは、会社の倒産率が4%以上増加し、オーストリアでは10%以上、ギリシアでは20%以上も増加した。しかし、公的な倒産件数の統計は実態を十分に説明するものではない。公的統計は倒産件数を示しているだけで、各倒産案件の重要度を示すものではない。したがって、倒産件数の増加は、必ずしも経済全体にとっての不良債権化率が増加したことを意味しない。
返済に問題が生じたり回収不能になったりするのと、企業が実際に破産を宣言するのには時間的なずれがある。多くの場合、信用で商品を納品してから、それに対する破産手続が始まるまでの間に数か月ないし数年かかることもある。
法的側面や、税金の関係、あるいは文化的側面によっても、上記の説明は更に歪められている。国際的な比較においては特にそうである。例えば、オーストリアでは、2004年における全倒産手続の半分以上は、未払額の一部を清算するための資金不足のため、手続が開始されない。スペインでは、一定の種類の事業に対して倒産手続を開始することは経済的に割に合わないため、倒産件数は非常に少ない。比較すると、フランスでは、2004年に4万件以上の倒産手続が開始されたが、スペインでは600件未満である。その一方で、フランスの不良債権化率は1.3%なのに対しスペインでは2.6%である。
個人の倒産件数も、全体像を示すものではない。倒産手続の申立てを決意するのは、負債額の膨らんだごく一部の世帯に限られる。これは、破産宣告の不名誉と、職業上不利益を被るおそれがあるためである。
オランダの倒産法制は、オランダ倒産法 (Faillissementswet) によって規律されている。同法は、三つの異なる法的手続を定めている。第一は破産 (Faillissement) であり、その目的は債務者の資産を清算することである。破産手続は個人と会社の双方に適用される。倒産法における第二の法的手続は、Surseanceというものである。これは会社にのみ適用され、その目的は会社の債権者らとの間の合意を実現することである。第三はSchuldsaneringというもので、これは個人のみを対象としている。
イギリスでは、狭義の法的意味における破産 (bankruptcy) は、個人とパートナーシップのみに関係する。会社やその他の企業は、違う名称の法的倒産手続が用いられる。清算 (liquidation) と財産管理(administration――財産管理命令 (administration order) 及び管財人財産管理 (administrative receivership))である。しかし、「破産 (bankruptcy)」という言葉がメディアや日常会話の中で会社について用いられることは多い。スコットランドにおける破産手続はSequestrationと呼ばれる。
破産管財人は、公務員である公的破産管財人 (Official Receiver) か、資格を持った倒産弁護士でなければならない。
2002年企業法 (Enterprise Act 2002) が制定されてからは、イギリスの破産手続は通常12か月もかからない。公的破産管財人が裁判所に、調査が完全に行われたことを保証した場合は、それより短いこともある。
イギリス政府による破産の枠組みの自由化により、破産件数が増加することが見込まれている。これは政府の当初の統計により裏付けられていると見られる。
イングランドとウェールズでは、2005年第4四半期に2万0461件の個人倒産があった(季節調整された値)。これは、前の四半期よりも15.0%の増加、前年同時期よりも36.8%の増加である。このうち、1万3501件が破産であり、前の四半期よりも15.9%の増加、前年同時期よりも37.6%の増加である。6960件は個人任意的債務整理手続 (IVA) であり、前四半期よりも23.9%増、前年同時期よりも117.1%増である。
アメリカ合衆国においては、アメリカ合衆国憲法1条8節4項により、倒産(bankruptcy)は連邦法の管轄とされており、同条項によれば、連邦議会は「合衆国全域における倒産に関する統一法」を制定することが認められている。bankruptcyとの用語であるが、ここでは再建型手続を含むものと解されている。連邦議会は、倒産に関する制定法として、倒産法(Bankruptcy Code, 合衆国法典第11編)を定めている。連邦法が規定していない点や、明示的に州法に譲っている点については、州法の定めにより連邦法が一部修正されている。
倒産事件は、必ず連邦倒産裁判所(連邦地方裁判所に付設される)に申し立てられるが、倒産事件は、特に債権の有効性や自由財産に関しては、州法によることが多い。したがって、多くの倒産事件においては州法が大きな役割を果たしており、州境を超えて倒産法を一般化することはできないことが多い。
合衆国法典第11編に置かれた倒産法の下では、次の6種類の手続がある。
個人の倒産に際して最もよく用いられるのが、清算型の第7章及び再建型の第13章である。アメリカの個人による全倒産申立て件数のうち実に65%が、第7章によるものである。会社その他の企業は第7章又は再建型では第11章に基づいて申立てをすることが多い。
第7章では、債務者は、自由財産となるもの以外の財産を破産管財人に引き渡し、破産管財人がそれを換価して、その売上金を無担保債権者に配当する。その代わりに、債務者は債務の一部の免責を得る。ただし、債務者が一定の類型の不適切な行動(財産状況に関する資料を隠すなど)をとった場合には、免責は与えられない。また、一定の債務(配偶者及び子の扶養料、学生ローン、一定の税金など)については、債務者が一般的な免責を得た場合であっても免責されない。経済的に破綻した個人は、多くの場合、自由財産(衣服、生活必需品、中古車など)しか所有しておらず、その場合は破産管財人に財産を引き渡す必要はない。自由財産とすることができる財産の額は、州によって異なる。第7章による救済は、8年間に1回だけしか使うことができない。一般的に、担保権者の担保物件に対する権利は、債務の免責が行われても存続する。例えば、債務者が自動車を引き渡すという合意や債務の「再確認」が行われなくても、債務者の自動車に対する担保物権を有する債権者は、債務者の債務が免責になったとしてもその自動車を引き揚げることができる。
第13章の手続では、債務者はすべての財産の所有権や占有権を失わないが、通常3年間から5年間にわたり、将来の収入の一部を債権者への返済に当てなければならない。返済額や返済計画の期間は、債務者の財産の価値や債務者の収入・支出などの要素によって変わる。担保権者は、無担保債権者よりも多く返済を受けることができる。
第11章の手続では、債務者は財産の所有権と占有権を失わず、債務者占有型 (DIP) 手続とも呼ばれる。占有を継続する債務者が、日々の事業の運営を行う一方、債権者らと債務者は、連邦倒産裁判所とともに、交渉を重ね、再建計画を完成させるべく共同作業を行う。一定の条件(債権者間の公正、一定の債権者の優先など)を満たすと、提案された再建計画に対する債権者らの投票を行うことができる。再建計画が承認されると、債務者は経営と、承認された再建計画に従った債務の弁済を続ける。もし一定以上の多数の債権者が承認の投票を行わなかった場合は、裁判所から、計画を承認するための追加的な条件が課されることがある。
2005年の破産濫用防止・消費者保護法(BAPCPA)は、連邦倒産法を大きく修正するものであった。BAPCPAの多くの規定は、消費者金融業者から強く支持され、同時に多くの消費者保護論者、倒産法学者、倒産事件を担当する裁判官・弁護士から強い反対を受けた。BAPCPAは、連邦議会における8年間にわたる議論の末に制定されたものである。同法の多くの規定は、2005年10月17日に施行された。法律への署名に当たり、ジョージ・W・ブッシュ大統領は次のように述べた。
個人破産法に加えられた多くの変更の中で、BAPCPAは、「資力基準」を導入した。これは、債務のほとんどが消費者負債である、多くの経済的に破綻した個人債務者にとって、連邦倒産法第7章の救済資格を得ることをより難しくしようとするものであった。しかし、その意図とは反対に、資力基準はしばしば債務者が免責を得ることを簡単にする結果を生んでいる。資力基準のため、又は連邦倒産法第7章では担保付き債権(抵当権や自動車ローン)の延滞に対する完全な解決ができないために、債務者が連邦倒産法第7章の救済資格を得られない場合であっても、債務者は依然として連邦倒産法第13章による救済を求めることができるのである。第13章による再建計画は一般の無担保債権(クレジットカード利用代金や医療費)に対する返済を要求しないことが多い。
また、BAPCPAは、破産の救済を求める個人に、破産の申立てをする前に、認可を受けた相談機関に債務内容の相談をすること、第7章又は第13章による免責を受ける前に、認可を受けた機関で家計のやり繰りについての教育を受けることを要求している。この債務相談要件の実施状況についての研究によれば、債務相談要件は、相談を受ける債務者にとってはほとんど実益がないことが示されている。多くの債務者にとって、唯一の現実的な選択肢は、倒産法による救済を求めることしかないからである。
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Internet Explorer
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Internet Explorer(インターネット エクスプローラー)は、マイクロソフトがかつて開発していたウェブブラウザである。以前の名称はMicrosoft Internet ExplorerやWindows Internet Explorerであった。一般的に、IEやMSIEと呼ばれる。
Windows 95からWindows 10に至るまでのWindows ファミリーに標準で含まれている。Windows Mobile(Windows CEの一部構成を含む)にはInternet Explorer Mobileが含まれていた。以前はMac用のInternet Explorer for Mac(IE:mac)や HP-UXとSolaris用のInternet Explorer for UNIX(英語版)も存在したが、これらは現在サポートされていない。
Windows 10から標準ブラウザはMicrosoft Edgeに置き換えられ、Internet Explorerの開発は終了し、マイクロソフトはInternet Explorerを利用しないことを呼びかけている。ただし互換性維持のため、Internet Explorer 11はWindows 10に引き続き搭載されていたが、2021年10月にリリースされたWindows 11では、Internet Explorerは搭載されていない。
2022年6月16日(JST アメリカ東部時間では6月15日)をもって、Internet Explorerのサポートが完全終了となり、今後はIEのセキュリティープログラムの更新が提供されなくなるため、そのリスクが高まることから、Microsoft Edgeへの移行を促すように画面が表示されているほか、業務用利用者に対しても、Edgeを含む、サポートが継続されている他のブラウザへの移行などを求めている。
IEは1994年にSpyglass(英語版)からライセンスを受けたNCSA Mosaicをもとに開発された。Internet Explorerは1995年8月24日に公開されたMicrosoft Plus! for Windows 95に含まれた。このバージョンは表組みに対応していないほど機能が低く、使用するユーザーはほとんどいなかった。1996年5月に公開されたIE1.5では簡単なテーブル要素に対応した。
Internet Explorer 2は1995年11月27日に公開された。日本語版を含むいくつかの多言語版が提供された。SSL 2.0やCookie、読み込み限定ではあるがネットニュースのクライアント機能も持っていた(ただし、日本語等への考慮は皆無)。
Internet Explorer 3は1996年8月13日に公開された。日本語版は8月16日に公開されている。約100人の開発者を3か月の間につぎ込み、Spyglassの技術を使用しているが、Spyglassからのソースコードは使用せずに開発された。Internet Mail and NewsやNetMeetingを含む。メジャーなブラウザとして部分的ではあるがCSS1に最初に対応したブラウザで、ActiveX コントロールやJavaアプレットなどに対応した。IE3は以前のIEと別にインストールできたため、アップグレードしたユーザーは互換性を保つことができた。このバージョンから青い「e」のロゴマークが使用された。主要な機能追加だったCSSの対応が不十分で不具合が多く、JavaScriptもNetscapeとの互換性が皆無だったため、ライバルのネットスケープコミュニケーションズのNetscape Navigatorから乗り換えるユーザーは少なくシェアは増加しなかった。また、HTTP/1.1プロトコルに対応した最初のInternet Explorerでもある。
Internet Explorer 4は1997年9月30日に公開された。Windowsと統合がはかられWindows 95やWindows NT 4.0は「Windows デスクトップのアップデート」を行った場合Windowsシェルが更新された(Active Desktopを参照)。またWindows 98に標準で搭載され、強力な市場シェアを築く要因となった。しかし、この統合は多くの批判を受け、裁判の原因になった(アメリカ合衆国の司法省とマイクロソフトとの裁判など)。
グループ ポリシーでの構成に対応した。Internet Mail and NewsはOutlook Expressに置き換えられた。レンダリング エンジンは新しく「Trident」に切り替わった。新しい試みとしてActive Channelと呼ばれるプッシュメディアが採用されたが、当初の期待に反して普及しなかった。当時は常時接続が一般的ではなかったのが原因だといわれている。当時としては高い先進性を持っていたブラウザであり初めてHTML 4.01に対応し、CSS1に完全対応した。また、現在では一般的になった「白地の背景に黒文字」のデフォルトスタイルを初めて採用した。同年12月4日に不具合を修正したIE4.01が公開された。
Internet Explorer 5は1999年3月18日に公開された。ルビ、MHTMLなどに対応した。同年12月8日に公開された IE5.01はバグの修正や暗号強度の強化、ウィンドウ再利用などの機能を備えたマイナー アップデートが行われた。CSS2やDOM Level 1、XMLに部分対応した。IE5は標準準拠を比較的重視した手堅い設計でIE4と同様当時のブラウザとしては完成度が高く、OSとバンドルの効果も相まって高いシェアを得た。IE5.01 SP3以降のIEのサービスパックはWindowsのサービスパックの一部としてのみ提供され、単独では公開されていない(Windows 2000 SP3がIE5.01 SP3を、Windows 2000 SP4がIE5.01 SP4を含む)。IE:macはレンダリングエンジン Tasmanを基に再設計された。IE5.xは Mac OSとUNIX用の最後の提供となった。Windows 2000の延長サポート期限である2010年7月13日にサポートが終了した。
Internet Explorer 5.5は2000年7月17日に公開された。印刷プレビュー機能を搭載しCSS2の対応強化やXSLTの対応、縦書き表示、背景色でグラデーションに対応するなどの機能追加を行ったアップグレードとして公開した。このバージョンは動作安定性には比較的優れていたもののCSSやXSLTの対応は非常にずさんであったため、標準に従ったページの作成を行った場合に表示の不具合が多発し、ウェブ製作現場を混乱に陥れた。この頃から新興のブラウザが台頭し、これらのブラウザベンダーは標準準拠の重要性を訴えたことから標準準拠度が低く不具合の多いIE5.5はやり玉に挙げられた。また、セキュリティホールの多さと対応の遅さもこの時期に表面化した。2000年11月1日に Service Pack1 が提供された。2005年12月31日にサポートが終了した。
なお、IPv6への対応も、5.5から行われている。しかし、実際には、WindowsのDNSクライアントサービス(リゾルバ)の仕様によって、ネットワークの動作環境によってはIPv6で使用できないことが多い。リゾルバの問題であるため、IPv6でインターネットにアクセスできる環境であれば、URLにIPv6のIPアドレスを直接記述すれば、IPv6で使用可能である。
Internet Explorer 6は2001年8月27日(日本語版は9月19日)に公開された。DHTMLの拡張、CSS2の対応強化、DOM Level 2とSMIL 2.0への部分的な対応、内容制限されたインラインフレーム、JavaScriptによる独自のマウスポインタ指定にも対応した。他にメディアバー(SP2で廃止)、Windows Messengerの統合、エラー報告、自動画像サイズ変更、P3PとWindows XP ビジュアルスタイルでの表示が新機能として含まれる。反面、XHTMLやIDNに未対応、PNGも完全対応はしておらずCSS2対応も強化はしたものの不十分であるなど、公開時点ですでに時代遅れになっている仕様も目立った。IE6 SP2ではセキュリティ向上を目的とした幾つかの仕様の変更と廃止、ポップアップブロックなどいくつかの機能が追加された。2003年にはスタンドアロン版の開発と提供を停止した。
2005年にWindows XPとWindows Server 2003のx64版がリリースされた。それ以降のx64版Windowsには32ビット版と64ビット版の2つのInternet Explorerがインストールされているが、デフォルトは32ビット版になっている。プラグインには32ビット版しか用意されていないものが多く、64ビット版IEで32ビット版のプラグインを使う仕組みがないためである。
Internet Explorer 7は2006年10月18日(日本語版は11月2日)に公開された。名称が変更され、タブブラウジングなど新しいユーザーインターフェイス機能を実装した。設計段階でセキュリティの問題に多くの対策が施された。既に他のブラウザでは標準的でありIEのみが未対応であったPNGのアルファ合成などの対応に加え、IE6に比べてよりCSSなどで標準準拠が行われた。Outlook Expressのバンドルはなくなった。元々IE7はWindows Vista/Windows Server 2008専用としていたが、開発方針の変更によりWindows XP/Windows Server 2003にも提供された。
Internet Explorer 8は2009年3月20日に公開された。IE8の第1の目標は既存のページの表示を崩すことなく標準規格に沿った優れた実装で対応すること、第2の目標としてIE7で起きた問題を避けることが挙がった。ウェブ標準準拠に加え、最優先事項の1つに含まれるセキュリティ強化やプライバシー保護対策、パフォーマンスや使い勝手も全般的に改善が行われた。Windowsと完全に分離したソフトウェアとなり、アンインストールが可能になった。また、このバージョンがWindows XPがアップグレードできる最後のバージョンである。
Internet Explorer 9は日本語版を除き2011年3月15日に公開された。日本語版は3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で日本時間4月26日0時に延期され、発表の通り公開された。IE9はIE8で実施されたウェブ標準準拠の流れを踏襲しHTML5やCSS3といった新しいウェブ標準の一部や、カラーマネージメントやJPEG XRなどのグラフィックス標準に対応する。GPUやマルチコアを活用したパフォーマンスの向上も行われる。ユーザーインターフェイスはサイト表示を中心としたデザインに一新された。
Internet Explorer 10は2012年8月15日に公開された。Windows 8にはWindows UI(Modern UI)版と従来のデスクトップ版の2つがあり、以前のWindowsに従来のデスクトップ版が提供された。IE10はパフォーマンスの向上や、より多くのウェブ標準への対応が行われる。Windows 8とWindows RTではAdobe Flash Playerを統合。トラッキング防止(Do Not Track)が標準で有効になる。
Internet Explorer 11は2013年10月17日(日本時間)に公開された。WebGL、HTML5 メディア要素の拡張と保護メディアの対応、SPDY、JavaScriptオブジェクトモデル拡張等の機能が追加された。JavaScriptの実行速度をSunSpiderの結果で比較するとInternet Explorer 10より9%速くなった。なおこれがIEとして事実上最後のバージョンであり、以後はMicrosoft Edgeに機能移譲される格好となった。
Internet Explorer Developer Channelは、次期Internet Explorer機能の一部を開発者向けに事前公開することを目的としている。2014年6月16日に公開されたバージョンでは、WebDriver API、F12開発ツール機能更新(デバッグ機能)、WebGL機能更新、GamePad APIなどが実装されている。App-Vクライアント仮想化技術により通常バージョンのInternet Explorer 11と独立して動作可能になっているが、次期バージョンを開発する前に追加しようとしている機能を確認する目的の実験的バージョンであるため、通常使用するためのものではなく、性能やセキュリティ面で問題がある可能性がある。
IEは、Microsoft Windowsに標準バンドルされたため、次第にウェブコンテンツを作成する側からは、事実上の標準とみなされるようになった。またNetscape Navigatorと比較すると、レンダリングエンジンの表示時間が速く、オペレーティングシステムとの関係も深いため、ブラウザの起動時間が速かった。これとは対照的にNetscape 4は標準準拠に遅れていたうえ、レンダリングエンジンの不具合が多く、IE独自機能を使っていないページでも、まともに表示できないページが多かった。それらの理由により、第一次ブラウザ戦争を経て、最盛時にはIEのシェアは95%以上となった。
その後、IEのレンダリングエンジンを利用した IEコンポーネントブラウザも多数登場し、独自の機能やカスタマイズ性で人気を博した。これにより、IEの占有率が底上げされた。
2005年頃からMozilla Firefoxに代表されるIE以外のウェブブラウザが登場し、これら新興ウェブブラウザのレンダリング速度やカスタマイズ性がIEよりも高かったことなどから一定の人気を博したため、第二次ブラウザ戦争と呼ばれるブラウザシェアの変動が発生した。Net Applicationsによる調査では、2010年4月の時点でIEのシェアは60%を割り込み独占状態ではなくなった。2013年時点ではFirefoxを凌ぐ勢いで成長したGoogle ChromeがIEを抜かす勢いで大きくシェアを伸ばしている。2020年時点ではChromeがシェア60%を超え、2位がEdge、3位がFirefoxとなり、IEはシェア4位に転落している。
また、Internet Explorer for MacはMac OS 8.1からMac OS X v10.2まではデフォルトのウェブブラウザであったため、Macにおけるシェアも高かった。現在ではMac OSの開発元AppleによるSafariの提供、さらにはマイクロソフトによるInternet Explorer for Macの開発とサポート・配布の終了ならびに代替としてSafariなど(他にFirefoxやOperaなど)の使用の推奨を受け、MacにおけるInternet Explorer for Macの占有率は、絶滅した。
マイクロソフトは2011年3月にIE6 Countdownにて各国のIE6の使用状況を公開し、より新しいブラウザへの移行のプロモーション活動を行っている。2015年2月現在でIE6の利用率が最も多い国は中国(3.1%)である。
GoogleはYouTubeでIE6など、古いブラウザの対応を2010年3月1日で打ち切った。そういった経緯から、2010年3月4日にはアメリカのWebデザイン会社が企画した「IE6の葬儀」がコロラド州デンバーで行われ、マイクロソフトのIEチームが花を贈り「素晴らしい時をありがとう」とメッセージを送った。
その後もWindowsに同梱されていることに支えられ、パソコン用ブラウザー市場で長年首位を保ってきたが、徐々にGoogleのGoogle Chromeに世界シェアを伸ばされ、2016年4月にはついに逆転を許した(ネット・アプリケーションズ調査)。
ブラウザの脆弱性を利用した攻撃に対して、ブラウザシェアが最大であるため標的にされやすい。以前はOSと密接に結びついた構造であったため、サイバー攻撃を受けた場合に、ユーザー権限によってはオペレーティングシステムへ損害を及ぼすこともあった。また修正パッチプログラムが未発表の脆弱性「ゼロデイ攻撃」も多く、IEの使用が『最大のセキュリティーホール』といわれたこともある。
マイクロソフトは対応策として、修正プログラムを早期に配布するようにしたため、未修正の脆弱性は少なくなっている。また、IE7以降はOSとの分離やセキュリティ強化を目的とする仕様変更が積極的に行われたため、攻撃しづらくなった。また、Enhanced Mitigation Experience ToolkitやMicrosoft Security Essentialsなどのセキュリティツールがマイクロソフトから無償で提供されており、未知の脆弱性を狙った攻撃も困難になりつつある。これらの要因から攻撃先が変化し、以前ほどは攻撃されなくなった。
その後サードパーティー製アドオン経由の攻撃が増えており、この攻撃は対応する全てのブラウザに影響があることから、IEだから危険という状況は少なくなったといわれている。2014年8月度公開のInternet Explorerの累積的なセキュリティ更新プログラムでは、古い ActiveX コントロールの動作をブロックする機能が追加され、予告通り2014年9月10日(日本時間)から機能を始めた。まずは脆弱性が発見されている Java ActiveX コントロールが対象となっており、以降ブロック対象となる ActiveX コントロールの数が増える計画であるとしている。
ただし、IE本体への攻撃が全くなくなったわけではなく(たとえば、2010年1月に中国からGoogleへのサイバー攻撃にはIEの一般的に知られていない脆弱性を使った攻撃が使われ、特にWindows XPとIE6の組み合わせで危険であると報告され問題となった)どのような環境であってもセキュリティ強化は必要であるため、迅速に修正プログラムなどを導入し保護された環境にしておくことは重要なことである。
2022年6月15日(太平洋時間)にInternet Explorerのサポートは終了した。
以前のInternet ExplorerのサポートライフサイクルはインストールしているWindowsと同一だったが、2014年8月にサポート方針が変更され、太平洋時間2016年1月12日から各Windowsにインストール可能な最新版のInternet Explorerのみサポートするという変更が発表された。対象となるのは同日付けでサポート期間中のWindows Vista SP2以降のクライアントとWindows Server 2008 SP2以降のサーバー(Windows Embedded 製品も対象に含まれる)、それにインストール可能な最新版のInternet Explorerとなる。
2016年1月12日までは各Windowsで使用可能な複数のバージョンのInternet Explorerの修正プログラムの新規開発が行われるが、同日からは各Windowsの最新版のInternet Explorer用の修正プログラムのみ公開される。例えば、Windows VistaではInternet Explorer 7とInternet Explorer 8のサポートが2016年1月11日を最後に終了し、翌日以降はInternet Explorer 9のみサポート継続となり、2017年4月11日にWindows Vista自体のサポートが終了した。
2019年4月16日より、R2にアップデートしていないWindows Server 2012やWindows Embedded 8 StandardでもInternet Explorer 11が利用可能になり、2020年1月14日にこれらのOSでのInternet Explorer 10のサポートを終了させた。
Windows 10ではOS標準ブラウザがMicrosoft Edgeへと正式に切り替わり、Internet Explorerの開発は終了した。一方、Windows 10には互換性維持のためにInternet Explorer 11が引き続きバンドルされている。Windows 10はサポートポリシーがこれまでより大きく変更され、アップデートを続ける限り半永久的な使用が可能である。したがってこれまでのサポートポリシーをそのまま適用するならば、Internet Explorer 11がバンドルされ続ける限りは半永久的にサポートが継続されることを意味するため、Internet Explorerの完全なサポート終了およびEdgeへの正式移行の時期は不明である。尚、Microsoft Edgeは、2018年12月6日に独自エンジンの開発を終了し、2020年1月15日にChromiumベースのエンジンに切り替えられた。
Windows 10 Enterprise 2015 LTSB のサポート期限の2025年10月14日までという話もあったが、米Microsoftは2021年5月19日(現地時間)、Internet Explorerのコンシューマー向けバージョンのサポートを2022年6月15日(日本時間6月16日)に終了すると発表した。
なお、サポート期限である2022年6月現在でも企業のシステムの中にはInternet Explorerの利用を前提として開発されたものも多数残されており、これらのシステムは改修などの対応が必要になることから情報処理推進機構(IPA)は利用者に対して早めの対応をとるように呼び掛けている。
Internet Explorer Mobile はマイクロソフト製のモバイルオペレーティングシステムに同梱されるウェブブラウザである。
当初の名称はPocket Internet Explorer(略称はそれぞれの頭文字をとった『PIE』)で、1996年にWindows CEの初期バージョンに搭載された。
元々はパソコン版のInternet Explorerとは別系統で開発されたものであったが、バージョン2.0以降はそれぞれパソコン版から機能を削減したものが採用され、後にパソコン版と同じくInternet Explorerに改称される。
2009年にはWindows Mobile 6.5に搭載されたInternet Explorer Mobile 6からさらに名称を変更。2011年にリリースされた Windows Phone 7にはInternet Explorer Mobile 9が同梱され、Internet Explorer 9のレンダリングエンジンをベースにしている。Windows Phone 8にはInternet Explorer Mobile 10が搭載。
当初は、マイクロソフト製の家庭用ゲーム機・Xbox 360にはウェブブラウザ機能が搭載されていなかったが、2012年10月16日のアップデートでInternet Explorer for Xboxを搭載。Kinectでのジェスチャー・音声操作や、Xbox SmartGlassプラットフォームによるスマートフォン等からの遠隔操作が可能になる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Explorer
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IP
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IP
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IP
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Internet Protocol
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Internet Protocol (インターネット・プロトコル、IP) はインターネットにおいて基本的に利用されている通信プロトコルである。
Internet Protocol は、インターネット上のホストへデータを送信するための通信プロトコルである。IPの利用により、各ネットワークごとの環境の違いを意識せずに宛先へデータを送信できる(#機能)。IPを用いて接続された世界規模の情報通信網がインターネット(the Internet)である。イントラネットでも利用される。他プロトコルとの関係性という観点では、OSI参照モデルのネットワーク層にほぼ対応する機能を持つ。またインターネット・プロトコル・スイートの中核をなしている。
IPでは各ホストコンピュータに一意の番号/番地であるIPアドレスを割り当て(アドレッシング)、伝達したいデータをパケットへ格納し(カプセル化)、IPアドレスで指定されたホストへパケットを送信する(#仕組み)。なお、パケット送出手順を指定するがその到達は保証しないため、その保証が必要な場合は上位のプロトコルとしてTCPなどを利用することになる(#信頼性)。
歴史的には、ヴィントン・サーフとロバート・カーンが1974年に発表した Transmission Control Program のコネクションレスのデータグラムサービス部分がIPである。コネクション指向の部分は Transmission Control Protocol (TCP) となった。現在広く利用されているIPは32ビットのアドレス空間を持つ「IPv4」と128ビットのアドレス空間を持つ「IPv6」である(#バージョンと歴史)。
誤解に基づく俗称としてIPアドレスを「IP」と呼ぶことがある。
IPは2つの側面から理解できる。1つはIP層でのデータ転送モデル、もう1つはプロトコルスタックの層を跨いだデータ転送手順である。
IPは、パケットのヘッダ部分に記された宛先アドレスに基づいてネットワーク内でパケットを転送することによってデータを送信する。
パケット(英: packet)はIPにおける送受信単位である。パケットはヘッダとペイロードからなり、ヘッダの情報に基づいて宛先アドレスの経路へと送られる。ヘッダ(英: header)はメタデータの集合であり、バージョン番号・送信元アドレス・宛先アドレスなど、送受信に必要な情報が含まれている。ペイロード(英: payload)はパケットのヘッダ以外の部分であり、IPで転送するコンテンツが主体で、場合によりメタデータも含んでいる。
パケットは送信元から宛先へ直接送られるのではなく、いくつものホスト (gateway) を経由する。Gatewayはヘッダの宛先アドレスを確認し、宛先への経路上にある次のGateway(あるいは宛先そのもの)へとパケットを転送する。これを繰り返すことでパケットは最終的に宛先アドレスに到達する。
経路上に転送可能サイズ上限があった場合はパケットが弾かれる可能性がある。IPではパケット長制限が無い代わりに、フラグメント化機能(パケットを小パケットへ分割する機能)を提供してこの制約を回避する。
IPはプロトコルスタックの1層をなす。すなわち上層から転送対象と宛先アドレスを受け取り、リンク層へパケットを渡す。
IPでは、各々のLANで通信可能な範囲をセグメントと呼び、セグメント内のコンピュータをホストと呼ぶ。同じセグメントに属するホスト同士はそのLANで使用されている通信プロトコルをデータリンク層とし、その上のネットワーク層で稼動する。
つまり同じセグメントに属するホスト同士は(IP以前からそうであったように)直接通信する。IPはセグメントの外と通信することが可能であり、そして何も変更せずに(全く同じ機器/ソフトウェア構成で)セグメント内とセグメント外との区別なく通信が可能となることである。そのため、LAN内の通信にあえてIPを使うイントラネットを採用することで、インターネット用のソフトウェア資産やノウハウをそのままLAN内通信に利用することができる。
同じセグメント内のホスト同士の通信では、そのLANで使われているプロトコルを使って通信する。そのためIPの各実装では、そのLANで使われているプロトコルから完全に独立することはできない。
まず、送信先となるIPアドレスを持つホストにデータリンク層のデータとして送信するために必要な情報を収集しなければならない。例えばイーサネットであれば、送信先のIPアドレスを持つホストのインターフェースが持っているMACアドレスが対象となる。そのためにブロードキャストもしくはマルチキャストによってその特定のIPアドレスを持つホストに返答を要求する。そのIPアドレスを持っているホストはそれに対してMACアドレスを返答する。
一般にブロードキャストは負荷が高くLAN内の通信を阻害するため、こうして得られたMACアドレスは今後同じIPアドレスに送信するときには再度ブロードキャストせずに、キャッシュに控えておく。
IPの実装では、こうしたアドレス解決と実際の送受信部分だけはデータリンク層のプロトコルに依存することになる。しかしこの依存部分は、実際にそのデータリンク層のプロトコル を使うホストでのみ必要になるため、世界中に存在する各セグメントとの通信の際には問題にならない。異なるデータリンク層のプロトコル を使うセグメントに分かれたホスト同士の通信の場合は、後述するゲートウェイがこれを解決する。
セグメントとセグメントの間、あるいはセグメントとWANの間にはルーティングを行なうための特別なホストであるルータ設置される。ルータにはあらかじめ、自身が繋がれているそれぞれのセグメントにいるホストのIPアドレスを教えてある。これはルーティングテーブルと呼ばれる。ルータは、一方のセグメントのホストから他方のセグメントのホストにパケットが送られようとしているとき、いったん受信側のホストの代わりにパケットを前者のLANのプロトコルで受け取る。ルーティングテーブルを参照してどのセグメントに送ればいいかを選択し、そのパケットを後者のLANのプロトコルで後者のホストに送る。ルータはルーティングテーブルにより、どのIPアドレスに送るにはどのセグメントに送ればよいかを把握している。経路の一部が破壊されても、このルーティングテーブルを書き換えるだけで破壊箇所を迂回することが可能になる。
ルータと似ているが、ルーティングテーブルを持たず、異なるLANのプロトコルを変換して互いに中継するブリッジと呼ばれるものがある。しかしブリッジはIPより下位の層(OSI参照モデルのデータリンク層)の機器であり、IPとは関係なく動作する。
また特に、異なるプロトコルを用いるセグメント同士の間をつなぐルータはゲートウェイ(門)と呼ばれる。本来、ゲートウェイはOSI参照モデルのネットワーク層におけるブリッジに相当するルータの基本機能の一部だが、セグメントのほとんどがイーサネットになっているため、特にセグメントとWANとの間にあるルータだけがゲートウェイであることが多い。またルータが把握していないIPアドレスは(ルーティング処理の一環として)全てデフォルトゲートウェイと呼ばれる特別なゲートウェイに送られる。デフォルトゲートウェイは通常WANとの接続部分にあるため、未知のIPアドレスへのパケットは全てWAN側(外の世界)のルータにパケットを送信することになる。そしてWANのルータが送信先となるIPアドレスの存在するセグメントのゲートウェイにパケットを送信し、ゲートウェイが送信先となるIPアドレスを持つホストにパケットを送信することで世界中のホストと通信が行なわれる。
Internet Protocol は、ホストのアドレッシングとデータグラム(パケット)の送信元ホストから宛先ホストまでの1つまたは複数のIPネットワークをまたいだルーティングを担当する。このために、ホストの識別と論理的位置サービスの提供という2つの機能を持つアドレッシング体系を定義している。これは、標準データグラムと標準アドレッシング体系を定義することでなされる。
データグラムはヘッダとペイロードで構成される。IPヘッダには、送信元IPアドレス、宛先IPアドレス、データグラムのルーティングや転送に必要なメタデータが含まれる。ペイロードは転送すべきデータである。このようにデータ・ペイロードにパケットのヘッダを付与して入れ子状に構成していくことをカプセル化と呼ぶ。
IPアドレッシングとは、各ホストにIPアドレスを割り当てる方法であり、IPホストアドレス群を分割・グループ化してサブネットワークを形成する方法である。IPルーティングは全てのホストが行うが、最も重要な部分はルータが担っており、経路を決定するのに Interior Gateway Protocol (IGP) または Exterior Gateway Protocol (EGP) を使用する。
IPは「独立した単一パケットを、送信元から宛先へ、ネットワークのネットワークを介して、送ること」のみを上手くシンプルに扱うよう設計されている。ゆえに意図時に提供しない機能がある。
すなわち、送出に焦点を合わせているのでACKチェックや再送をおこなわない。また単一パッケージ管理を扱うので複数パケットに跨る流量制御や順序制御には関与しない。
IPの設計原理は、ネットワーク基盤はどのネットワーク要素や伝送媒体をとっても本質的に信頼できないと仮定しており、また、リンクやノードの可用性の面でも一定でないと仮定している。ネットワークの状態を追跡し維持する集中監視機能や性能測定機能は存在しない。ネットワークを単純化するため、知的な部分は意図的に各データ転送の端点であるノードに担わせ、これをエンドツーエンド原理と呼ぶ。転送経路の途中に位置するルーターは、宛先アドレスのルーティングプレフィックスにマッチする最も近いゲートウェイにパケットを転送するだけである。
このような設計の結果、IPはベストエフォート式配送のみを提供し、「信頼できない」と見なされている。ネットワークアーキテクチャとしては「コネクションレス」プロトコルであり、コネクション指向の転送モードとは対照的である。信頼性がないため、データが壊れたり(英語版)、パケットを消失したり、パケットが複製されたり、パケットの順序が入れ替わって受信されたりする。ルーティングはパケット毎に動的に行われ、ネットワークは以前のパケットが通った経路についても状態情報を保持しない。そのため一部のパケットが他より長い経路を通ることがあり、受信側でパケットを受信する順序がおかしくなる可能性がある。
信頼性のないIPv4で唯一確かなのは、IPパケットのヘッダには誤りがないという点である。ルーティングするノードは、パケットのチェックサムを計算する。もしチェックサムが合わない場合、そのノードはそのパケットを捨てる。そのノードは送信元にも宛先にも捨てたことを通知しないが、Internet Control Message Protocol (ICMP) でそのような通知をすることも可能である。一方、IPv6ではルーティングの高速化を優先してチェックサム計算をやめた。
上位層プロトコルは、この信頼性問題への対処を担う。例えば、アプリケーションにデータを渡す前にデータをキャッシュして正しい順序に並べ替えたりする。
信頼性問題に加え、動的性質とインターネットおよびその構成要素の多様性に関連し、データ転送経路のうちどれが適当かは全く保証できない。技術的制約の1つとして、リンクごとにデータパケットのサイズ上限が異なる。アプリケーションは適切な伝送特性を使うことを保証しなければならない。この責任の一端は、IPとアプリケーションの中間に位置する上位層プロトコル群にもある。ローカルなリンクにおける Maximum Transmission Unit (MTU) のサイズを調べるファシリティがあり、IPv6の場合は宛先までの経路全体を考慮したMTUサイズを調べるファシリティもある。IPv4には元のデータグラムを自動的に断片化する機能がある。この場合、IPは断片化されたパケット群の到着順序を正しく保つ必要がある。
例えば Transmission Control Protocol (TCP) はセグメントサイズをMTUより小さく調整するプロトコルである。User Datagram Protocol (UDP) と Internet Control Message Protocol (ICMP) はMTUサイズを無視するので、必要ならIPが断片化を行う。
1974年5月、Institute of Electrical and Electronic Engineers (IEEE) が "A Protocol for Packet Network Intercommunication" と題した論文を公表した。この論文で筆者ヴィントン・サーフとロバート・カーンは、ノード間のパケット交換を使ってリソースを共有するインターネットワーキング・プロトコルを記述した。このモデルの中心となる制御コンポーネントが "Transmission Control Program" (TCP) で、コネクション指向のリンクとデータグラムサービスの両方を含んでいた。モノリシックな Transmission Control Program は後にモジュール化され、コネクション指向層の Transmission Control Protocol とインターネットワーキング(データグラム)層の Internet Protocol に分けられた。このモデルが一般に TCP/IP と呼ばれ、正式にはインターネット・プロトコル・スイートと呼ばれている。
Internet Protocol はインターネットを定義する要素の1つである。インターネット層におけるインターネットワーキング・プロトコルで2012年現在主に使われているのはIPv4である。この4という番号はプロトコルのバージョン番号で、全てのIPデータグラムの先頭に書かれている。IPv4は RFC 791 (1981) で記述されている。
IPアドレスの不足が発生することが予測されることから開発されたIPv4の後継がIPv6である。バージョン4からの最大の変更点はアドレッシング体系である。IPv4は32ビットのアドレス(約40億、4.3×10)を使っていたが、IPv6では128ビットのアドレス(約 3.4×10)を使っている。IPv6の採用はゆっくりとしていたが、2008年6月、アメリカ合衆国連邦政府がバックボーンレベルのみではあるが全システムでIPv6をサポートしてみせた。
IPのバージョン0から3まではIPv4の開発途中のバージョンで、1977年から1979年までに使われた。バージョン5は実験的なストリーミング用プロトコル Internet Stream Protocol(英語版) で使われた。バージョン6から9までは、IPv4の後継として提案された各種プロトコルである。このうちバージョン6とされた SIPP (Simple Internet Protocol Plus) が IPv6 として採用されることになった。7から9は IP/IX (RFC 1475)、PIP (RFC 1621)、TUBA (TCP and UDP with Bigger Addresses, RFC 1347) である。
他にも IPv9や IPv8 を名乗ったプロトコルが提案されたことがあるが、全く支持されていない。
1994年4月1日、IETFはエイプリルフールのジョークとしてIPv9を発表したことがある。
IPは様々な攻撃に対して脆弱である。網羅的な脆弱性アセスメントが対策の提案と共に2008年に公表され、その後IETF内で対策を検討中である。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Protocol
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2,830 |
11月11日
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11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。
数字がゾロ目で覚えやすく、多くの団体や企業がこの日を記念日にしている。特に形を数字の「1」に見立てた棒状の食品・日用品の記念日が多い。2022年11月時点で日本記念日協会が認定した11月11日の記念日は59件あり、一年の中で最も多い日となっていたが、翌2023年に8月8日の記念日が急増し、1位が8月8日、2位が10月10日、3位が11月11日となっている。
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6月4日
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6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。
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ピエール=オーギュスト・ルノワール
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ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→出生、職人時代)。
1861年(20歳)、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→画塾時代(1860年代初頭))。1864年(23歳)、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった(→サロンへの挑戦(1863年 - 1870年))。1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→普仏戦争(1870年 - 1871年))。
パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、1874年(33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→第1回印象派展まで(1871年 - 1874年))。1876年(35歳)には第2回展に参加、1877年(36歳)には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年))。
1878年(37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、1879年(38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→サロンへの復帰(1878年 - 1880年))。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、1881年(40歳)の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマでラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けた。画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭))。そして、1883年(42歳)頃から1888年(47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作した(→古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半))。
1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→評価の確立(1890年代))。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→南仏カーニュ(1903年 - 1919年))。
ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった。
1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃(9歳前後)、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会(英語版)の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。
1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった。ルノワールは、後に次のように回想している。
ルノワールは、次に扇子の装飾を仕事にし、アントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェの有名な名作を複製した扇子を繰り返し描いた。この時、ルノワールは、ブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールといった18世紀のロココ絵画に興味を持つようになったようである。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々手がけた。仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、1860年には、ルーヴル美術館で模写する許可を得た。特に、色彩派と言われるルーベンス、ブーシェ、フラゴナールを好んだ。
ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった。もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した。
また、1862年4月にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた。ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていた。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している。
1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生している。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった。
1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。
1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。
1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロット(英語版)に滞在した。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオ(英語版)と知り合い、交際するようになった。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している。
1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した。
1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した。この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した。
バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通り(フランス語版)にアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った。
1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、ルノワールや仲間の画家の多くは落選した。ルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベの影響を受けた、モデルを理想化しない肉付きの良すぎる描写が不評であったとも考えられる。この作品のモデルもリーズ・トレオである。この年、ルノワールは、『シャン=ゼリゼの眺め』、『ポンデザール(芸術橋)』など、パリの都市風景画を制作している。夏の間は、シャイイで制作し、シスレーも合流した。戸外で『日傘のリーズ』を制作した。
ルノワールは、1868年、バジールがバティニョール地区(英語版)のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通り(フランス語版)に改称)に借りたアトリエに一緒に移った。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。1868年のサロンには、『日傘のリーズ』が入選した。
1869年のサロンには、『夏・習作』が入選した。この年の夏には、ルーヴシエンヌに引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネも近くのブージヴァルに滞在していた。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパンを持っていってやったりした。ルノワールは、モネとともに、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、それぞれ作品を制作した。2人は、この頃を機に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派の誕生を告げる出来事と言われる。
1870年のサロンには、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャのアフロディテに似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される。もう1点入選した『アルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイ(英語版)も、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。
1870年7月、普仏戦争が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、1871年3月、動員が解除された。赤痢にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじがボルドーに引き取ってくれ、回復したようである。ルノワールがパリに戻ると、パリ・コミューンによる動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、第三共和政政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴー(フランス語版)が通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた。
普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロはロンドンに渡って画商ポール・デュラン=リュエルと知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。
第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した。ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。1873年のサロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた。
モネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている。
なお、以前ルノワールが交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家と結婚した。ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである。
少しずつ愛好家が増えてきたことで、1873年秋、パリ9区のサン=ジョルジュ通り(フランス語版)に広いアトリエ兼住居を借りることができた。すぐ近くにはドガのアトリエもあった。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し、財務省官吏ジョルジュ・リヴィエール、音楽家カバネル、画家志望のフレデリック・コルデー(フランス語版)、フラン=ラミ、ロートなど、ルノワールの友人たちもここを訪れた。ルノワールがポンヌフを通る群衆を描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人のスケッチをしやすいようにした。
また、モネは、1871年からアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出した。ルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。この時期、モネ、ルノワール、シスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出した。
この頃、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見を述べている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。
そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。展覧会カタログは、弟エドモンが制作した。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切った。
ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点であった。
しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされた。第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判している。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。
1874年の第1回印象派展終了後、モネ、ルノワール、マネ、シスレー、カイユボットは、アルジャントゥイユに集まり、共に制作した。モネとルノワールは、同じ構図・モチーフで『アルジャントゥイユの帆船』を制作しているが、モネが現実から抽出した要素をパターン化して表現しているのに対し、ルノワールは現実の情景をより忠実に描いており、また、人物が強調されており、2人の個性の違いを示している。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。
同年(1874年)12月17日、サン=ジョルジュ通りのルノワールのアトリエで、共同出資会社の総会が開かれ、債務清算のため共同出資会社を解散することが決まった。
ルノワールは、1875年初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場オテル・ドゥルオ(英語版)での競売会を思い付き、モネ、シスレー、ベルト・モリゾを誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、ルノワール3点を購入している。税官吏ヴィクトール・ショケも、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、ギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラといった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った。
並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した。
この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、モンマルトルのコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の制作に取り掛かった。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、エドモン・メートル(フランス語版)、テオドール・デュレ、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった。
1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、ギュスターヴ・カイユボットに宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展が開かれた。ルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点を出品した。
批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた。
これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している。他方、エミール・ゾラは、ルノワールの肖像画を賞賛した。
1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目を集めた。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画(歴史画)に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった。
第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家ウジェーヌ・ミュレ、医師ポール・ガシェ、作曲家エマニュエル・シャブリエなどの愛好家の支援が頼みであった。
マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた。
ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、1878年のサロンに応募した。「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選した。このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになるが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきた。当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題であった。
1878年5月、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。
1879年のサロンには、2点が入選した。そのうち女優ジャンヌ・サマリー(英語版)の立像は注目されなかったが、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられる。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦であった。一時的に戸外制作もやめていた。ピサロは、支援者ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)への手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いている。シャルパンティエ家でこの絵を見たマルセル・プルーストもその優美さを称賛した。その頃から、肖像画の注文が増えてきた。
その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌやアルマン・ギヨマンも同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた。
その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「ラ・ヴィ・モデルヌ(フランス語版)」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた。
1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールがディエップ近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性アリーヌ・シャリゴ(スペイン語版)と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた
1880年のサロンは、芸術アカデミーが主催する最後のサロンであった。ルノワールは、2点が入選した。この年には、ルノワールだけでなくモネも、印象派展(第5回展)を離脱してサロンに応募した。ルノワールは、サロンの門戸を広げる改革案を公表したが、注目されるには至らなかった。
1881年初頭から、経済的危機を脱したデュラン=リュエルが、ルノワールの作品を定期的に購入し始めた。ルノワールは、この年3月から4月にかけて、アルジェリアに旅行した。ここでドラクロワを魅了した色彩豊かなオリエントに惹かれ、ドラクロワに倣い、『モスク』を描いた。ルノワールは、旅行先のアルジェから、デュラン=リュエルに宛てて、サロンに応募する理由について次のように書いている。
同年(1881年)夏には、ヴァルジュモンにあるポール・ベラールの別荘で過ごし、近くのプールヴィル(英語版)、ヴァランジュヴィル=シュル=メール、ディエップを訪れた。1881年のサロンは、アカデミーからフランス芸術家協会に移管されて初めてのサロンであった。ルノワールは、『ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート』と肖像画1点を入選させた。第6回印象派展には参加していない。かつての印象派グループは、ピサロを中心としたグループ、ドガを中心としたグループ、そして今や印象派展を離脱してサロンに戻ったルノワール、モネ、シスレー、セザンヌらのグループの三つに分裂していた。
同年(1881年)10月、ルノワールは、突然イタリアに旅立ち、まずヴェネツィアに滞在した。その地から、シャルパンティエ夫人に、「私はラファエロの作品を見たいという願望に取り憑かれました。」と書いている。そして、11月21日には、ナポリからデュラン=リュエルに、「私はローマでラファエロの作品を見てきました。非常に素晴らしい。私はそれをもっと早く見ておくべきでした。......私は油彩画ならドミニク・アングルが好きです。しかしラファエロのフレスコ画には、驚くべき単純さと偉大さがあります。」と書き送っている。ルノワールは、当初は、ラファエロを模倣するアカデミズム絵画を侮蔑しており、冷やかしのために見に行ったようだが、ローマのバチカン宮殿「署名の間」やヴィラ・ファルネジーナの『ガラテアの勝利』を見て感動した。なお、この時のイタリア旅行には、アリーヌ・シャリゴも同行した。カプリでアリーヌをモデルにして制作した『ブロンドの浴女』の左手薬指には、指輪がはめられている。
1882年1月には、友人から紹介状をもらってパレルモで作曲家リヒャルト・ワーグナーに会い、短時間でその肖像画を描いた。その後、パリに戻る予定を変更し、マルセイユ郊外のエスタックにポール・セザンヌを訪ね、共に制作した。2月初め、エスタックで風邪を引いて肺炎を起こし、療養した。そのような折、カイユボットとデュラン=リュエルから、第7回印象派展への参加を促す手紙が届いた。ルノワールは、デュラン=リュエルに次のように回答している。
第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介して1882年3月に開催にこぎつけたが、出品作品の大半がデュラン=リュエルの所蔵品であった。ルノワールの出品作は、デュラン=リュエルが選定した25点で、うち9点がヴェネツィアやアルジェ、セーヌ川の風景画、5点が静物画、その他は風俗画である。批評家フィリップ・ビュルティは、ヴェネツィアとアルジェの太陽の光にあふれた風景画、そして『扇を持つ女性』を絶賛した。他方、大作『舟遊びをする人々の昼食』は、この展覧会ではそれほどの評価を得られなかった。『舟遊びをする人々の昼食』では、テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写は印象主義的であるが、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、この頃から古典主義への関心が強まったことを示している。
1882年のサロンには『青いリボンをつけたイヴォンヌ・グランレル』、1883年のサロンには『クラピソン夫人の肖像』を入選させた。1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。
ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、ニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れる。
1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『ブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンである。この当時、ルノワールは2人と二股の交際をしていたようで、1883年12月にシュザンヌが産んだ画家モーリス・ユトリロの父親は、ルノワールであるとする説がある。
1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、ロンドンのニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した。
同年(1883年)晩夏には、英領ジャージー、ガーンジーを訪れた。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった。
1885年3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男ピエール・ルノワール(英語版)が生まれた。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、ジヴェルニーに近いラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)に移った。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。......新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている。同年秋、妻アリーヌの故郷エソワ(英語版)を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている。
デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商ジョルジュ・プティの国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった。また、モネとともに、ブリュッセルの20人展にも参加した。
1886年頃から、ベルト・モリゾがパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親交を深めた。
1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。フィンセント・ファン・ゴッホもこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった。
1888年初めには、エクス=アン=プロヴァンスのジャス・ド・ブッファン別荘(英語版)にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家のロジェ・マルクス(フランス語版)に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、パリ万国博覧会への展示に難色を示している。
1890年には、レジオンドヌール勲章の授与を打診されたが、辞退している。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した。この年、アリーヌと正式に結婚した。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘のジラルドン通り(フランス語版)にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した。
1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた。
1892年、美術局長官アンリ・ルージョンから、リュクサンブール美術館で展示すべき作品の制作依頼を受け、『ピアノに寄る少女たち』の油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人ステファヌ・マラルメ、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者ポール・ガリマール(フランス語版)など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われてマドリードに旅行し、プラド美術館でディエゴ・ベラスケスの作品に感銘を受けた。
1894年、アリーヌとの間に、後に映画監督となる二男ジャン・ルノワールが生まれた。この年、アリーヌの遠縁の女性ガブリエル・ルナール(英語版)が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている。
1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その遺言で、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に、後にルーヴル美術館に収蔵すべく遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、1896年、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた。
1897年、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性関節リウマチを発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった。1899年、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、カーニュ=シュル=メールのサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった。そして、パリ、エソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった。
1900年、パリ万国博覧会の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した。これも同じ年、ベルネーム=ジューヌ画廊で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている。
1901年、エソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルのコーランクール通り(フランス語版)に移った。
1903年、南仏カーニュ=シュル=メールで、郵便局のある建物(ヴィラ・ド・ラ・ポスト)に住むようになった。子煩悩なルノワールは、これまでも、長男ピエール、二男ジャンをモデルに多くの作品を描いてきたが、三男クロード(愛称ココ)が生まれてからは、クロードの成長記録のように更に多くの作品のモデルとした。また、ルノワールは、晩年、リヨン出身の画家アルベール・アンドレ(英語版)を息子のように愛し、アンドレはエソワやカーニュのルノワール邸を頻繁に訪れた。彼は、晩年のルノワールの姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した。
ルノワールは、1904年のサロン・ドートンヌでは一室を与えられ、1905年には、サロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与された。1906年、メトロポリタン美術館がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した。
1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした。しかし、リューマチが悪化し、1910年夏にミュンヘンに旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、車椅子での生活となった。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、モーリス・ドニ、ポール・シニャック、ピエール・ボナール、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど、若い画家が毎日のように訪れてきていたという。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子リシャール・ギノ(英語版)が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した。
1911年10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した。1912年、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった。
1914年、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。1915年、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった。
1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章した。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた。
同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった。ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という。
ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている。
ルノワールのカタログ・レゾネ(作品総目録)は、編集作業が始まったところであるが、作品数は4000点を下らないだろうと言われている。
画家を志してシャルル・グレールの画塾に入った当初は、サロン風の絵を描く平凡な画学生にすぎなかった。しかし、「エスメラルダ」で初めてサロンに入選した頃から、モネたち友人や、ドラクロワの影響もあり、暗い色を払拭し、色彩画家としての本領を発揮するようになった。最初は、クールベの影響を受けた時期もあったが、1867年の『日傘のリーズ』や1868年の『婚約者たち(シスレー夫妻)』から、形態を肉付けのみで作り上げ、色彩を帯びた影を注意深く観察するなど、はっきりと個性を示すようになった。
1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作した頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していった。伝統的なアカデミズム絵画は、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視しており、色彩は物の固有色を表すものであって形態に従属するものにすぎないと考えていた。それに対し、モネを代表格とする印象派は、物の固有色という固定観念を否定し、目に映る色彩をそのままキャンバスに写し取ろうとした。そのため、パレットの上で絵具を混ぜず、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べることで(筆触分割)、臨場感を伝えるとともに、戸外の光の明るさを表現しようとした。それに伴って、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』に見られるように、思い切って輪郭線をぼかすという手法を選んだ。
もっとも、この時期においても、モネとは違い、ルノワールの作品には、人物への関心の深さが表れており、陽光に照らされた明るい風景画よりも、若々しい女性の肌の上に点々と落ちかかる木漏れ日を描写することに熱意を燃やした。この時期、室内の人物画も数多く制作しており、モネが否定した黒も積極的に利用している。純粋な風景画においても、ルノワールの作品は、単に目に映る光の描写ではなく、植物の旺盛な生命力や生々しい実体に関心が向けられている。同じ『ラ・グルヌイエール』でも、ルノワールの作品では白いドレスの女性が目立ち、人々のファッションや観光地の楽しさに焦点が当たっている。自由で気楽なボヘミアン的気質も投影されている。
印象派は、筆触分割の手法を用いて色彩の輝きを捉えようとしたが、この手法においては、はっきりした輪郭線に規定された形態を表現することは難しかった。実際、モネやシスレーは、草野や水面など、明確な形態を持たない自然の風景に主な関心を寄せ、建物を描く場合でも、ゆらめく影のように光の表現に溶け込んでおり、明確な形態は放棄されている。しかし、もともと人物、特に若い女性の健康な肉体の輝きに魅力を感じていたルノワールは、印象派のあまりに感覚主義的な態度には飽き足りなかった。ルノワールは、後に画商アンブロワーズ・ヴォラールに次のように語っている。
戸外制作では余りに光の効果に気を取られてしまい、構成がおろそかになってしまうことにも気が付き、アトリエでの仕上げの必要性を認識した。
印象主義からの脱却には、1881年から1882年にかけてのアルジェリア旅行・イタリア旅行で、地中海の明るい太陽とルネサンスの古典作品に触れたことが影響したと思われる。その際、画面に構成的秩序を求めたルノワールの拠り所となったのが、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルであった。1883年頃から1880年代後半まで続く「アングル風」時代の作品は、あまりにも冷たく、ぎこちない不自然さがあると評されるが、そのような犠牲を払ってでも、形態の確立によって印象主義の危機を克服することが必要であったと考えられる。
1881年頃から1886年頃にかけて制作された『雨傘』では、1881年頃に描かれた右側の2人の少女と2人の女性は、印象派風の軽快な筆触により表現されているのに対し、1885年頃描かれた左側の女性と男性は、明確な輪郭線が用いられており、印象主義の時代とアングル風の時代が混在している。そして、アングル風時代の総決算が、『大水浴図』である。この作品の表現は、アングルの『グランド・オダリスク』や『トルコ風呂』のように明確な形態を持っているが、反面、作り物のような冷たさがあることは否定できない。
1890年代以降のルノワールは、「アングル風」時代の冷たさがなくなり、珊瑚色の輝く色調で、女性の温かい肉体を描き出すようになった。肌のピンクがかった赤から、バラの紫がかった赤まで、様々な赤で生き生きとした表現をしている。絵具の表面は、かつての印象主義の時代のように大気の微妙な効果を伝えるものではなく、生命のイメージを作り出すものとなっている。1892年の『ピアノに寄る少女たち』は、その最初の成果といえ、豊麗な色彩によって、通俗的ではあるが平和で暖かな雰囲気を描き、第三共和政の泰平を楽しむパリ市民の生活を映し出している。ルノワールは、「私の好きな絵画は、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ。」と語っているとおり、見る人を喜ばせるような絵を描き続けた。
20世紀に入り、カーニュに住み始めてからは、伝統的な地中海文化への傾斜が見られる。19世紀後半にプロヴァンス地方に興った文学復興運動フェリブリージュと関わりがあるかもしれないと指摘されている。
ルノワールは、1908年、アメリカの画家ウォルター・パッチに対し、次のように語っている。
ルノワールは若い時貧窮に苦しみ、1875年には、1点100フランで肖像画を描かせてもらったが、それすら良い仕事であった。『桟敷席』は、1875年にようやく425フランで売れた。オテル・ドゥルオでの競売でも、『ポンヌフ』が300フランで売れたのが最高で、あとは最低額の50フランであった。
1892年にデュラン=リュエル画廊で開いた個展が成功するとともに、『ピアノに寄る少女たち』が4000フランで政府買上げになってから、ようやく経済的に安定するようになった。若い画家たちからも、大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールに対し、モーリス・ドニは、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なりの技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で、女性と花から成る見事な花束を作り出した。」と評した。アンリ・マティスは、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たちを、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、パブロ・ピカソは、ルノワールを「法王」と呼んだという。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた。
ルノワールは、晩年、レジオンドヌール勲章を授与されたり、1904年には大回顧展が開かれたりして、巨匠としての地位を確立した。1907年、メトロポリタン美術館が、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を3500ポンドという空前の高値で購入した。フランス国内だけでなく、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシアなどで、新作・旧作のルノワール展が次々開催された。1912年には、ドイツの批評家ユリウス・マイヤー=グラーフェによる図版付き研究書が出版された。1918年頃には、ルノワールらの印象派の作品が18世紀の額縁に入れられてパリの裕福な美術愛好家の書斎に飾られるなど、ブルジョワ的価値観を体現するものとして受け入れられるようになっていた。この頃、印象派はアメリカでも確固たる地位を築き、経済的に台頭するアメリカに多くの作品が渡り、モーガン・ラッセル(英語版)の『Still-Life Synchromy with Nude in Yellow』などシンクロミズム(英語版)の作品やガイ・ペン・デュボワ(英語版)による、現代生活を題材とする絵画はルノワールの影響を受けたものとされ、フレデリック・カール・フリージキーの『木漏れ日の中のヌード』(1915年)における光と影の表現にもルノワールの影響がみられる。第1次世界大戦でフランスと敵対したドイツでさえ印象派は深く浸透しており、フランスに進駐したドイツ軍兵士は、1917年に塹壕の中で書いた日記に、フランスの風景の美しさを表現する時に「運河と並木の景色はまるでルノワールの夏の絵のようだ」と記している。
もっとも、ルノワールは、アメリカ人が絵に物語性や感傷を持ち込みすぎることを苦々しく感じ、コレクターが絵に「物思い(ラ・パンセ)」という題名を付けたことを嘆いていた。
ルノワール死後も作品の高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった。この絵をデュラン=リュエル画廊で買ったアメリカのコレクター、ダンカン・フィリップス(英語版)は、「ルノワールの軽やかな陽気さは、18世紀のフランスの装飾画家たちを思わせる。この『舟遊びをする人々の昼食』の成熟した完璧さと、素晴らしい涼感の表現には、イタリア・ルネサンスの遅れてきた絶頂期を見ることができる。」と書いており、ルノワールを反逆者ではなく偉大な伝統に連なるものとして捉えている。アメリカでは1904年から1940年までの時期がルノワールの作品の影響が最も大きかった時期とされたが、以降は批評家の間の評判が下がり、以前ほどの影響力はなくなったという。2002年にサンディエゴ美術館(英語版)でルノワールの特別展が開かれたとき、ロサンゼルス・タイムズの記者リア・オルマン(Leah Ollman)はルノワールの絵画が「たびたびサッカリンの域に踏み入るほどの甘さ」と評し、批評家のジェームズ・ハネッカー(英語版)(1921年没)もルノワールをモダニズムの先駆者として評価したものの、「ルノワールは理解しにくい画家ではない」とも評した。
1950年代以降は、絵画取引としてオークションによる取引が一般的になるとともに、印象派絵画が高騰した時代である。モネやルノワールを競落することがステータスを意味するようになった。新富裕層が印象派に魅了されたのは、魅力的な色彩や親しみやすさのほかに、オールド・マスターの作品と比べ来歴がしっかりしているという理由もあった。1950年代には、ルノワール作品は概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、1968年、実業家ノートン・サイモン(英語版)によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、サザビーズやクリスティーズで数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。1990年5月15日には、大昭和製紙の齊藤了英がニューヨーク・クリスティーズでフィンセント・ファン・ゴッホの『医師ガシェの肖像』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった。
日本人で初めてルノワールの絵を買ったのは、パリで画商をしていた林忠正であった。しかし、林が購入した作品は、日本で知られることはなく、売却されてしまった。
日本で初めてルノワールに大きな影響を受けた画家は、梅原龍三郎であった。梅原は、1908年にパリのリュクサンブール美術館を訪れた時、ルノワールの作品に感動し、1909年2月、レ・コレットのルノワールに会いに行った。その年、山下新太郎や有島生馬を連れて再訪し、彼らはルノワールから『水浴の女』を譲り受け、日本に持ち帰った。
日本国内では、雑誌『白樺』などでルノワールが紹介され、中村彝、赤松麟作、土田麦僊などがその影響を受けた。山下が持ち帰った『水浴の女』が1912年の第4回白樺美術展で展示されたのが、日本の公衆がルノワールの絵画に触れた最初の機会であったが、この時はロダンが絶大な人気を博していたのに比べ、ルノワールへの反応は低調であった。第一次世界大戦後にルノワール人気が沸騰し、1919年にルノワールが死去すると、日本の新聞は大々的に関連記事を掲載した。中沢彦吉や岸本吉左衛門がフランスでロダンやルノワールの作品を買い集め、そのコレクションが1920年に東京と大阪の展覧会で公開されると、新聞でルノワールが熱心に取り上げられた。中村彝は、ルノワール作品に感動し、「どうしても人間を、裸体を、その生命を強調して、ナマナマしく表現し度い」と書き記し、『すわる水浴の女』の模写を制作した。一方、坂本繁二郎は物足りないと評し、岸田劉生は「ルノアルは甘いものだと思つた。画に惢がない。......中心へ行くと、綿をつかまされた様な気がする。」と批判した。この展覧会の頃が、ルノワール熱のピークとなった。また、この頃、松方幸次郎や大原孫三郎も膨大な西洋美術を収集し、その中にはルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』(松方コレクションから国立西洋美術館)、『泉による女』(大原美術館)なども含まれていた。こうして日本に紹介されたルノワール作品は、印象派時代のものよりも、後期の作品が中心であり、日本人にとってのルノワールのイメージは、後期の様式を基に形成されてきた。
第二次世界大戦後は、1970年代に、広島銀行がルノワールの『パリスの審判』を購入するなど、再び西洋美術熱が到来した。1985年頃から1990年頃までのバブル景気時代には、前述のような齊藤了英による『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の高額落札のほかにも、各地の県立美術館が競ってモネ、ルノワール、ピカソなどの作品を買い求めた。
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ジャン・ルノワール
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ジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894年9月15日 - 1979年2月12日)は、フランスの映画監督、脚本家、俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、ジャン・ルノアールと表記される場合もある。
1894年9月15日、パリのモンマルトルに父・ピエール=オーギュスト・ルノワールと母・アリーヌの次男として生まれる。幼いころに南フランスに移住し、父の絵のモデルを務めさせられていた。各地の学校を転々とし、ニースの大学で数学と哲学を学ぶ。第一次世界大戦には騎兵少尉として参戦し、後に偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、終生まで傷の痛みに悩まされていた。その療養中にD・W・グリフィスやチャールズ・チャップリンらの作品を観て、映画に興味を持つ。1920年、前年に亡くなった父の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚。大戦終結後は陶器を作っていたが、イワン・モジューヒンの『火花する恋』やエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』等の影響を受けて、映画監督を志す。
1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資し、脚本を執筆する。同年にカトリーヌ主演の『水の娘』で監督デビューを果たす。1926年、『女優ナナ』を監督。高い評価を得、彼のサイレント期の代表作としたが、興行的には失敗し負債を抱え、父の絵を売却して借金返済を行う。1934年、季節労働者の姿をドキュメンタリータッチで描いた『トニ』を発表。徹底したリアリズムで描き、のちのネオレアリズモに影響を与えた。1937年には反戦映画の名作『大いなる幻影』を監督。他にも『のらくら兵』(1928年)、『どん底』(1936年)、『ゲームの規則』(1939年)など、興行的には失敗が多いものの傑作と評価されるべき作品を発表していき、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネとともに戦前期のフランス映画界を代表する映画監督となった。
1939年、イタリアに渡って『トニ』『ピクニック』で助手を務めた当時32歳のルキノ・ヴィスコンティを助監督にして『トスカ』の撮影を行ったが、撮影中にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、製作を放棄してフランスに戻った。1940年にドイツがフランスに侵攻したため、戦火を避けるべく12月にマルセイユとポルトガルを経由して、シボニー号に乗ってアメリカに渡った。この船でサン=テグジュペリと相部屋になり、親交を結ぶ(『人間の土地』を製作しようとしたが、ハリウッド上層部の無理解で実現しなかった)。12月31日にアメリカに到着し、ロバート・フラハティに迎えられる。同じ頃、ルネ・クレールやジュリアン・デュヴィヴィエも渡米し、ジャック・フェデールはスイスに逃れていた。20世紀フォックスと契約を結び、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも『南部の人』や『自由への闘い』等の作品を創り上げた。1946年に市民権を獲得するが、フランス国籍は捨てなかった。
1949年にインドに渡り、1951年に彼の初のカラー映画『河』を撮る。父親譲りの美しい色彩感覚が評価され、ヴェネツィア国際映画祭国際賞を受賞した。1952年にイタリアで『黄金の馬車』を撮った後、フランスに戻り、『フレンチ・カンカン』を発表する。商業的な成功を収めることができたが、戦前のように作品は当たらず映画を撮る機会が次第になくなっていった。
1969年のテレビ映画『ジャン・ルノワールの小劇場』が最後の監督作品となり、その後は亡命時代の知己を訪ねアメリカで暮らし、終生フランスに戻ることはなかった。
1974年に『ジャン・ルノワール自伝』を出版。翌1975年にアカデミー賞名誉賞をハワード・ホークスとともに受賞。同年、レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。
1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で死去。アメリカで失意の底にあったルノワールを精神面で支えていたのは、ルノワールを師と仰ぐヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーだった。オーブ県エソイエ(フランス語版)のエソイエ墓地に、両親と共に埋葬されている。
ジャン=リュック・ゴダールやトリュフォーなどのヌーヴェルヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモ、他にロバート・アルトマンやダニエル・シュミットなど、多くの映画作家に影響を与えた。また、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、ヴィスコンティやロバート・アルドリッチなど、後に各国を代表する映画監督が、ルノワールの下で助監督を務めている。著名な写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンも、写真家としてデビューする前にジャン・ルノワールのもとで助監督を務めていたことがある。
ジャンの作品で編集を務めていたマルグリット・ウーレとは恋愛関係にあったが、1939年頃に関係が薄れている。
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LAN (曖昧さ回避)
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GNU General Public License
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GNU General Public License (GNU GPLもしくは単にGPLとも表記、呼称される) とは、GNUプロジェクトのためにリチャード・ストールマンにより作成されたフリーソフトウェアライセンスである。八田真行の日本語訳ではGNU 一般公衆利用許諾書と呼んでいる。現在、GNU公式サイト日本語ページでは GNU一般公衆ライセンスと表記されている。
GPLは、プログラム(日本国著作権法ではプログラムの著作物)の複製物を所持している者に対し、概ね以下のことを許諾するライセンスである。
GPLは二次的著作物についても上記4点の権利を保護しようとする。この仕組みはコピーレフトと呼ばれ、GPLでライセンスされた著作物は、その二次的著作物に関してもGPLでライセンスされなければならない。これはBSDライセンスをはじめとするパーミッシブ・ライセンスが、二次的著作物を独占的なものとして再頒布することを許しているのとは対照的である。GPLはコピーレフトのソフトウェアライセンスとしては初めてのものであり、そのもっとも代表的なものである。
GPLはフリーソフトウェア財団 (以下FSFと略称) によって公開され、その管理が行われている。GPLでライセンスされている傑出したフリーソフトウェアのプログラムには、LinuxカーネルやGNUコンパイラコレクション (GCC) がある。
FSFが公開、管理する他のライセンスには、GNU Lesser General Public License (GNU LGPL)、GNU Free Documentation License (GNU FDL、またはGFDL) そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) がある。
ストールマンは、ソフトウェアに対する自由とは何かという問題を提起し、そのひとつの答えを提示した。GPLは、「自由なソフトウェア」を、有償・無償に関係なく、頒布できるようにした、という単純な意味だけでなく、「ソフトウェアは自由であるべき」という思想が存在することを一般に認知させたという意味において極めて重要な意義がある。
GPLにより付与される強力なコピーレフトはGNU/Linuxの成功にとって重要な役割を果たしているとも言われる。なぜなら、コミュニティに全く還元しようとしないソフトウェア企業にただ搾取されるのではなく、著作物が世界全体に貢献し、自由であり続けるという確証をGPLはプログラマに与えたからである。
GPL誕生以前、Emacsの頒布条件となっていたライセンスが生まれたきっかけは、ジェームズ・ゴスリンが作成し、当初自由な利用が認められていたGosling Emacsのコードに突如ゴスリンが独占的な許諾条件を附してしまったことが契機となっている。この許諾条件の変更の影響により、ストールマンは自身のEmacsのコードを書き換えなければならなくなった。
またGPL、GNUプロジェクトの誕生について、次のような逸話もある。 当時、ストールマンはMIT人工知能研究所でSymbolics社製のLISPマシンで動くソフトウェアを開発していたが、ストールマンが作りSymbolics社に対して提供したパブリックドメイン版であるソースコードの改変版について、同社が著作権を根拠にソースコードを開示しなかったことに腹を立てGPLを考案したといわれる。いずれにせよ、これ以降いかにしてソースコードの自由な利用を保証するかということにストールマンは腐心するようになる。
GPLは1989年にリチャード・ストールマンによって、GNUプロジェクトのソフトウェアの配布を目的に作られた。オリジナルのGPLは、初期のGNU Emacs、GNUデバッガそしてGNU Cコンパイラの配布に利用していた類似のライセンスを基に、それらを組み合わせたものをベースとしている。前記3つのライセンスは、現在のGPLと似たような条文を含んでいる。しかし、それらは各プログラム固有のライセンスであり、似通っているとはいえ、互いの互換性は全くなかった。ストールマンの目標は、いかなるプロジェクトでも使用可能で、それゆえ多くのプロジェクトがコードを共有することを可能にさせる単一の汎用的なライセンスを作り出すことだった。
GPLは幾度か改訂されており、1991年にはバージョン2がリリースされている。バージョン3がリリースされるまで、それに従うこと15年間、FLOSSコミュニティの幾人かは、GPLでライセンスされているプログラムを、ライセンスの意図に反し、搾取する事につながる抜け道 (loopholes; 抜け穴、ループホール) に対し懸念を抱くようになった。これらの懸念の中には、TiVo化(Tivoization。GPLでライセンスされたプログラムが含まれているにも関わらず、改変版ソフトウェアの稼動を拒絶するハードウェアについての問題)、Webインタフェースの裏側に隠れ公開されることのない改変版GPLソフトウェアの利用、AGPLバージョン1と同等の互換性問題、GNU/Linuxコミュニティと敵対するための武器として特許を行使する企てと見なされる、マイクロソフトとGNU/Linuxディストリビュータとの特許契約などがある。
FSFならびにFLOSSコミュニティは、これら懸念に対し真剣に取り組むべく、バージョン3への改訂作業を始めた。2005年後半、FSFは、GPLバージョン3 (GPLv3) の策定に関するアナウンスを行った。2005年の時点でGPLは様々なFLOSSプロジェクトのソフトウェアに採用されていたこともあり、FSFが単独で改訂することにより起こりえる問題を回避するため、改訂プロセスは公開で行うことが同時に発表された。2006年1月16日、GPLv3の最初の議論用草稿 (discussion draft) が公開され、公開協議プロセスを開始した。当初公開協議は9ヶ月から15ヶ月を想定していたが、終わってみると、4つの草稿公開に延べ18ヶ月にまで要した。公式のGPLv3は2007年6月29日、FSFにより発表された。GPLv3は、リチャード・ストールマンにより起草され、エベン・モグレンならびにSoftware Freedom Law Center (SLFC) による法的助言を受けている。
公開協議プロセスは、FSFを調整役、SFLC・Free Software Foundation Europe (FSFE)その他フリーソフトウェア開発組織による支援のもと進められた。この間、gplv3.fsf.orgというウェブポータルサイトが立ち上げられ、ここを経由し多くの一般からのコメントが集められた。このポータルサイトは、策定プロセスのために開発されたstetというソフトウェア上で稼働している。これらコメントは、およそ130名ほどから成る4つの協議グループ (committee)に渡された。この130名はFSFの目標に対しそれを支持する人物並びにそれと対立する人物双方が含まれている。これら協議グループは一般から提示されたコメントを精査し、新しいライセンスがどうあるべきか決定するため、ストールマンにその要約を回付した。
公開協議プロセスを経て、初回の草稿には962ものコメントが提出された。終わってみると、延べ2,636ものコメントが提出されていた。
初版の草稿公開ののち、GPLv2とGPLv3の非公式な差分(但し、これはdiff出力による行単位ごとの単純な差分)が、FLOSSコミュニティ向け法律サイトGroklawにより公開された。
2006年7月27日、GPLv3の討議用第2次草稿が、LGPL第3版 (GNU LGPLv3) の初版草稿とともに公開された。初稿と第2稿の差分は、FSFとFSFEからそれぞれ提示されている。第2稿ではDRMに対抗する明確な目標が取り入れられている。
第3稿は2007年3月28日に公開された。この草稿は、かの物議を醸したマイクロソフトとノベルが締結したような特許相互ライセンス (patent cross-license)を排除する意図を持つ文言を含んでおり、反TiVo化条項 (anti-tivoization clauses) はユーザ製品 (User Product)・コンシューマ製品 (Consumer Product) といった一般家庭で使用される製品に限定する旨定めている。また、公開協議開始時点で削除が予告されていた地理的 (頒布) 制限 (Geographical Limitations)の項については、明白に削除されている。
最終稿となった第4の議論草稿は2007年5月31日に公開された。この草稿では、Apache Licenseとの組み合わせを可能にする条項が導入された他、外部契約者 (contractor) の役割を明確化し、マイクロソフト–ノベル間の契約のような明白な問題を回避する例外条項を加えている。この最後の例外条項は、第11項第7段落に次のように記載されている(条文は正式公開版と同一である)。
これは、そのような契約を将来に渡って無効化することを目的としている。また本ライセンスは、マイクロソフトが、あるGPLv3ソフトウェアを利用するノベルの顧客に許諾したような特許契約(特許ライセンス、特許許諾、パテントライセンス)を、まさにそのGPLv3ソフトウェアを利用するユーザーすべてにまで(ユーザーの行為如何に全く関わらず)自動的に拡大適用することを意味する。ただし、マイクロソフトが法的にGPLv3ソフトウェアの伝達者 (conveyor; 譲渡者) でもない限り、それは不可能である。これはある種、特許契約に対しそれを他者に無制限に提供してしまうことから、ポイズンピルのような働きを持つとの意見もある。ただし本条項導入の直接の契機となった、ノベルの行為そのものに対しては、本項第7段落最後に例外を設け、既得権条項(英語版)を適用している。
バージョン1は、1989年2月にリリースされた。このライセンスは、ソフトウェア頒布者が制限しようとする主に2つの手段から、フリーソフトウェアの定義たる自由を守る働きを持っていた。第一の問題は、頒布者がバイナリ、すなわち実行ファイルのみを公開するかもしれないということである。しかしながらバイナリは人間にとって読み取れる形式ではなく、また改変もできない。このことを防ぐため、GPLv1では、バイナリを頒布するいかなるベンダーも、同じライセンスの条項のもと、機械可読なソースコードの形で利用できるようにしなければならないとしている。
第二の問題は、ライセンスに追加の制限を加える、もしくは頒布において別の制限があるソフトウェアを組み合わせることのどちらかにより、頒布者が追加の制限を加える可能性があるということだった。もしこのことが成されれば、その時、制限の2つの集合の和は、組み合わされた著作物に適用されるだろうが、それはすなわち、受け入れられない制限が加えられたことに等しい。この様な事態を避けるため、GPLv1では、改変版は、全体として、GPLv1の条項の下頒布されなければならないと規定している。このため、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアは、それよりもパーミッシブ・ライセンスで保護されるソフトウェアと組み合わせて頒布することが可能となる。なぜなら、組み合わせによって全体を通して頒布に係るライセンス条項に変化はないからである。しかし、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアとそれよりも制限の厳しいライセンスで頒布されるソフトウェアを組み合わせることは、GPLv1の条項の下全体が頒布されるという要件と衝突するため、できない。
バージョン2は、1991年6月にリリースされた。 リチャード・ストールマンによれば、GPLv2で最大の変更は第7節、彼に言わせると、パトリック・ヘンリーの名文句「自由か然らずんば死を」("Liberty or Death") の一節である。他の利用者の自由を尊重するような方法で、GPLで保護されたソフトウェアの頒布が妨げられる場合(たとえば、法的規制によりソフトウェアをバイナリ形式でしか頒布できないとき)、この節に従えば、頒布は一切できない。GPLv3でも同様の条項が存在し、幾分簡素化されたうえ主旨が明確になっている。これは、フリーソフトウェア開発者や、フリーソフトウェアを単に使用する者から金を脅し取ろうと特許を行使する企業の企みをすこしでも減らすことを見込んでいる。
1990年までには、現存するプロプライエタリなライブラリと本質的には同等な機能を持つCライブラリや、その他のソフトウェア・ライブラリに対しては、制限の緩いライセンスのほうが戦略的に有効なことが明らかになってきた。1991年6月にGPL第2版がリリースされた際、Library General Public License (LGPL) が、初版にもかかわらずGPLと相補的なことを示すため第2版として同時に導入された。GNUの思想における位置づけを反映させるため、Lesser General Public Licenseと名を変え、1999年、LGPL2.1がリリースされた。
バージョン3は、2007年6月にリリースされた。GPLv3は、ソフトウェア(プログラム・ライブラリなど)を含む著作物に対し、著作物の著作者・著作権者やライセンス受諾者の権利や、プログラムの受領者のためにライセンス許諾者が与える権利、またソフトウェアの自由と衝突するような法や法的権利の制限(DRM、特許の利用、他者を差別するような特許ライセンスの排除)などに関する基本理念を以前のバージョンのライセンスより明文化している。
ストールマンによると、もっとも重要な改訂点は、ソフトウェア特許、他のフリーソフトウェア・ライセンスとの両立性(compatibility; 互換性)、「ソースコード」とは何を指すのかの定義、ソフトウェアの改変に関するハードウェアの制限(英語版)(TiVo化)そしてデジタル著作権管理 (Digital Rights Management, DRM) との関連がある。その他の改訂点は、国際化、ライセンス違反時の対処手段そして可能ならば著作権者により追加的条項(additional terms)を与える手段に関連している。
他注目に値する改訂点としては、GPLv3で保護された著作物の著作権者が、パッチなどを提供しそれに改変を加えた貢献者 (contributor) に対し、ある種の条件または要求を課すということを許諾する条項が加えられている。これらに加えて、新しく導入された要件の一つには、時折Affero条項 (Affero clause、Affero節) とも呼ばれるが、Software as a serviceのようなASPモデルによるGPLの条項を回避しようとする試み(ASP loophole; ASPの抜け道)に対し、これを封じようと意図しているものも含まれる。この条項が追加された結果、GNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) が作成されている。GPLv3とAGPLv3は互いに両立はしないが、リンクや結合のみを認める相補的な条項を共に持っている。
また、GPLv3で許諾されるソフトウェアは、米国のDMCAや日本の著作権法、不正競争防止法が規定している「技術的制限手段」(技術的保護手段、例: DRM)の「解除」を認める条項が追加されている(詳細はセクション"技術的保護手段回避を禁ずる法への対抗措置"を参照)。
「GPLが適用された著作物の複製を受け取る全ての者」(Recipients; 受領者)は、GPLの条項と条件 (terms and conditions; 利用条件) を遵守しなければならない。利用条件を遵守するライセンシー(the licensee; 被許諾者、ライセンシー)は著作物を改変する許諾を与えられるのと同時に著作物または二次的著作 (派生 derivative) 物の複製と頒布を許諾される。ライセンシーは、このようなサービスを提供するのに料金を課してもよいし、また無料で行ってもよい。この後者の許諾は、GPLと商用再頒布禁止のソフトウェアライセンスとの相違点である。FSFは、フリーソフトウェアは商用利用を制限するべきではないと主張している。また、GPLは、GPLが適用された著作物を如何なる値段で販売しても良い旨、明確に述べてある。
加えて、GPLは、頒布者がGPLにより許諾される以上のさらなる権利制限 (further restrictions on the rights granted by the GPL) を課してはならないと述べている(GPLv2第6節、GPLv3第10項)。これは(純粋に契約である)秘密保持契約 (non-disclosure agreement, non-disclosure contract) のもとソフトウェアを頒布するような手法を禁ずる。GPLのもと、頒布者はまた、GPLなソフトウェアにおける特許を行使するために、ソフトウェアにより行使されるいかなる特許をも「ライセンス」(特許ライセンス)として許諾する。
GPLv2の第3節とGPLv3の第6項によると、事前コンパイルされたバイナリとして頒布されるプログラムは次のいずれかを満たさなければならない。
また、GPLv2の第1節とGPLv3の第4項は、プログラムの受領者すべてにプログラムと共にGPLの複製を (all recipients a copy of this License along with the Program) 与えなければならないと規定している。GPLv3ではその第6項を満たす限りにおいて、ソースコードを利用可能な状態にするために、GPLv2で指定された物理媒体以外にも、明示的に追加の手段を講じても良いとする。コンパイル済みコードを取得する方法とソースコードのありかが明確に分かる場合、近くのネットワークサーバからまたはP2P送信によりソースコードをダウンロードさせる手段などもこの追加の手段に含まれる。
改変された著作物を頒布する権利は、GPLにより無制限に付与されるわけではない。頒布者自身による改変が加えられたGPLによる著作物を頒布する際に、著作物全体を頒布するための要件は、GPLよりも強い要件であってはならない。
その要件とは、コピーレフト (Copyleft) として知られている。これは、ソフトウェアプログラムに関し、著作権 (copyright) を利用した法的な権能をもたらす効果がある。GPLで保護される著作物もまた、著作権で保護されているため、改変された形態でなくとも、ライセンスで規定されている場合を除き、ライセンシーはその著作物の再頒布の権利を持たない(フェアユースを除く。ただし、その記事やGPL FAQで述べられている通り、フェアユースにworld-wide principle; 世界的な原則、統一見解などない)。再頒布のような、通常著作権法で制限される権利をある人物が行使しようと考える場合、その人物はGPLの条項をただ従う必要がある。逆に、GPLの条項を遵守せず(例えば、ソースコードを開示しない)著作物の複製を頒布すると、著作権法に基づき著作権者から頒布の差止め等で提訴される可能性がある。
コピーレフトは、著作権法を本来の使用目的と正反対の目的を実現するために利用する。すなわち制限を課す代わりに、コピーレフトは、権利がのちに消失しないような方法で、他者への権利を許諾する。コピーレフトはまた、ライセンシーに対し再頒布の権利を無制限に許諾するのではなく、コピーレフトが主張する点において発見されるのは法律上の任意の欠陥であるべきことを保証している。
コピーレフトライセンスで保護されるプログラムを頒布する多くの者は、ソースコードと共に実行ファイルを添付する。コピーレフトを満たす別の方法は、要求に応じて(CDのような)物理媒体を用いてソースコードを提供するという文書を提示することである。また事実としてコピーレフトライセンスで保護されるプログラムの多くは、インターネット上で頒布されており、ソースコードはFTPまたはHTTPなどを用いてソースコードを遣り取りできるようにしているものが多い。インターネット上での頒布は本ライセンスを満たしている。
コピーレフトが適用されるのは、ある人物がプログラムを再頒布しようと求める場合にのみである。改変したソフトウェアを他の誰にも頒布しない限り、改変箇所を公開しなければならない如何なる義務も免ぜられ、その改変版を私的な物とすることは許される。また、コピーレフトはソフトウェア自身のみに適用されるのであって、ソフトウェアの出力 (outputs, アウトプット) には適用されないことには注意しておきたい(ただし、そのアウトプット自身がプログラム自体の二次的著作物ではない場合)。例えば 、GPLで保護されたコンテンツ管理システム ("Contents Management Systems"; CMS) に対しその改変した派生版を動作させる一般ウェブポータル(ブログソフトウェアなど)は、その出力自体はプログラム自体の派生物ではないから、土台としたソフトウェアならびにその改変部分を頒布する必要はない。反例は、GPLで保護されたソフトウェア"GNU bison"である。この構文解析器の出力は、その派生物の一部をまさに含んでおり、そのため、この事実に対しGNU bisonにより許諾される特殊な例外条項 (a special exception) が仮に存在しないならば、出力結果はGPLで保護される派生物となっていたであろう。最新のGNU bisonでは、事実として、出力コードのヘッダにAs a special exception...という特殊例外条項が記述されている。
なお(GPLに従う著作物に限ったことではないが)、コピーレフトのもとで公開された著作物の著作権は、前述の通り譲渡しなければ個々のコードの著作権者が保有している。従ってコピーレフトを無視した再頒布に対して、頒布の差止めやコピーレフト違反是正(エンフォースメント)を求める権利があるのはプログラムの著作権者だけであり、一般のライセンシーにはない。ただ、大規模なFLOSS開発プロジェクトは一般的にワールドワイドであり、開発者の居住国が多岐に渡るため、多かれ少なかれ差異がある各国の著作権法にプロジェクト全体で合致させるのは困難を要す。このため一部のFLOSSプロジェクトでは各著作権者に代わり、コードの著作権を一括してプロジェクト(またはそれを統括する団体・法人組織)が引き受ける場合もある。GNUプロジェクトは、コードの受け入れに関し、米国著作権法の庇護を享受するため、ライセンス如何に関わらず、寄贈されたコードの著作権を原著作者より明示的にFSFに譲渡する場合にのみ受け入れている。CMSのPloneならびにPlone財団(Plone Foundation)も似たような形式を採用している。
FSFによると、「GPLは改変版、もしくは改変版の一部のリリースを要求することは述べていない。改変版を一切公開せず、改変を加えることや、私的に利用することは自由である。」と主張している。しかしながら、仮にある人物がGPLでライセンスされたオブジェクトを公開するならば、ライブラリリンクに関する問題が提起される。すなわち、もし、プロプライエタリなプログラムがGPLなライブラリを使用するならば、そのプロプライエタリなプログラムは(一般にプロプライエタリソフトウェアはソースコードが自由な許諾の下利用できない為)GPLに違反する、はたまたそうではないのか、という問題がある。
この重要な論点は、非GPLソフトウェアがライセンス的、すなわち著作権法的に、GPLなライブラリに静的リンクまたは動的リンク可能であるか否かという問題に行き着く。この問題に関して、異なるいくつかの見解が存在する。GPLのもとリリースされるコードの二次的著作物が全て、それら自身もまた、GPLに従わなければならないとの要求は明白である。しかし、GPLなライブラリを使用する、そして、GPLなソフトウェアをより巨大なパッケージと組み合わせる (bundle, バンドルする)(概ね静的リンクによりバイナリを混合する場合などを想定すればよい)点に関しては、曖昧さが惹起する。これは究極的には、GPLそれ自体 (per se, in itself) とは無関係の問題であるが、著作権法が二次的著作物をどう定義するかということと関連した問題である。この議論に関して、次のようないくつかの異なる見解が存在する。
GPLのライセンス条文自体の著作権を保持する法人組織でもあり、GPLでライセンスされる著名なソフトウェア製品を多数提供しているFSFは、動的リンクされたライブラリを利用する実行ファイルは、実際には二次的著作物である、と強く主張している。しかしながら、このことは、お互いを「結合する」(連携する、communicate) だけの分離された別個のプログラムには適用されないとしている。
FSFはまた、コピーレフトという点で、GPLとはほぼ同一であるが、「ライブラリ利用」という目的のために、リンクの許諾を追加的に与える、LGPLというライセンスも作成した。
リチャード・ストールマンとFSFは、プロプライエタリな世界と比較し、より豊富なツールを提供することによりフリーソフトウェアな世界を護持することを目的として、ライブラリ作者に対し、GPLの下でのライブラリのライセンシングを明確に促している。これは、ソースコードを公開しないならば、プロプライエタリ・プログラムがGPLで保護されたライブラリを一切使用できないようにすることを狙っている。
FSFは、プラグインの呼び出し方法についてはまた別であると認識している。もし、プラグインが動的リンクにより呼び出され、関数呼び出しをGPLプログラムに提供するならば、その時には、プラグインは、概ね二次的著作物であると見なされる。
静的リンクは二次的著作物を生じるが、他方、GPLコードに動的リンクされた実行ファイルが二次的著作物であると考慮されるべきか否かははっきりしないとする意見もある。詳細は (Weak copyleft) を参照せよ(ライセンス感染#相互運用性も参考になるかもしれない)。Linuxカーネルの著作権者リーナス・トーバルズは、状況により、動的リンクは派生物を生じ得るとの見解に同意する場合と同意しない場合があるとしている。
ノベルの弁護士は、動的リンクが二次的著作物でないのは「もっともらしい」が「断言」はできないとし、善意による動的リンクの証拠として、プロプライエタリなLinuxカーネルドライバの存在に見てとれる、と文書にて記載している。
ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟において、アメリカ合衆国第9連邦巡回区控訴裁判所(英語版)は、二次的著作物を「『形式』または永続性」を所持するものと定義し、「当件における侵害された著作物が、ある形式で著作権の適用された著作物の一部と協働しなければならない」と言い渡した。しかし、特にこの対立を解決する明白な法廷判断は出ていない。
Linux Journal誌の記事によれば、IP法の専門家でOSIの法務顧問 (General counsel) も務めるローレンス・ローゼンは、リンクの動的・静的を含む種別は、ある種のソフトウェアが二次的著作物であるか否かについての問題とは概ね関係がない、すなわち、そのソフトウェアが、クライアントソフトウェアとライブラリ、またはそれら個別とのインタフェースが意図されているか否かについての問題のほうがより重要である、と主張している。彼は、「新規のプログラムが二次的著作物であるか否かの主な指標は、原著作物のプログラムのソースコードが、『複製と添付(コピーアンドペースト)』する意図をもって利用され、新たなプログラムを作成する任意の手段において、改変、翻案またはその他の変更を加えたか否かに係っている。もしそうでないならば、私はその新規のプログラムは二次的著作物ではないと主張するだろう」と述べる。また、彼はこの記事の中で、ソフトウェアの組み合わせ・バンドリング、リンクのメカニズムなど、その他関連する多くの指摘意図を挙げている。さらに、彼は、彼の弁護士事務所のウェブサイトにて、このような「市場原理」的要素はライブラリリンクの原理といった技術的な要素よりも重要であると主張している。
プラグインまたはモジュール(例えば、フリーなドライバ"nouveau"とは別個に存在する、NVIDIAのプロプライエタリなデバイスドライバ、またATI FireGL RXなどのグラフィックカード用カーネルモジュールがその一例)が固有の著作物と合理的に見なされる際、それらライブラリがGPLに従わなければならないか否かという、別個の問題もある。これに対する見解は、著作物がGPLv2ならば、分離していると合理的に理解されるプラグインまたは、プラグインを利用するために設計されたソフトウェア用のプラグインは、任意のライセンスで許諾され得る。GPLv2の条文段落において特に注目される箇所は以下の条文である。
You may modify your copy or copies of the Program or any portion of it, thus forming a work based on the Program, and copy and distribute such modifications or work under the terms of Section 1 above, provided that you also meet all of these conditions:
...
b) You must cause any work that you distribute or publish, that in whole or in part contains or is derived from the Program or any part thereof, to be licensed as a whole at no charge to all third parties under the terms of this License.
...
These requirements apply to the modified work as a whole. If identifiable sections of that work are not derived from the Program, and can be reasonably considered independent and separate works in themselves, then this License, and its terms, do not apply to those sections when you distribute them as separate works. But when you distribute the same sections as part of a whole which is a work based on the Program, the distribution of the whole must be on the terms of this License, whose permissions for other licensees extend to the entire whole, and thus to each and every part regardless of who wrote it.
実際にはGPLv3でも同じであり、条項の文面は多少異なっているが、上記と同様の内容が、以下となる(詳しくはセクション"改変版ソースの伝達"を参照)。
You may convey a work based on the Program, or the modifications to produce it from the Program, in the form of source code under the terms of section 4, provided that you also meet all of these conditions:
...
c) You must license the entire work, as a whole, under this License to anyone who comes into possession of a copy. This License will therefore apply, along with any applicable section 7 additional terms, to the whole of the work, and all its parts, regardless of how they are packaged. This License gives no permission to license the work in any other way, but it does not invalidate such permission if you have separately received it.
...
A compilation of a covered work with other separate and independent works, which are not by their nature extensions of the covered work, and which are not combined with it such as to form a larger program, in or on a volume of a storage or distribution medium, is called an “aggregate” if the compilation and its resulting copyright are not used to limit the access or legal rights of the compilation's users beyond what the individual works permit. Inclusion of a covered work in an aggregate does not cause this License to apply to the other parts of the aggregate.
事例分析として挙げると、DrupalやWordPressのようなGPLv2でリリースされていたCMSに対し、それらに提供されていたプロプライエタリと想定されるプラグイン、テーマ(英語版)、スキンなどは、両プロジェクトサイドにて議論が巻き起こる共に、非難されるようになってしまった。
一方、Linuxカーネルではこのような結合の状況分析を行うことなく、カーネルの著作権の影響範囲とユーザ空間プログラムが派生物ではないことをライセンステキスト冒頭で述べている。
参考訳:
前述のセクションの実例を挙げる。GPLソフトウェアへのパッチを提供した場合は、そのパッチが「適用したGPLソフトウェアとは別の著作物」とみなされる可能性も含んでいる。これは、前述の通り、
や
に規定されている。即ちGPLソフトウェアを含む「集積物 (aggregate) の他の部分」と認められれば、GPLに反しない、言い換えればGPLよりパーミッシブ・ライセンスでパッチを公開しても良い。例えばパッチが単なる修正ではなく、単体で再利用可能な全く別種の機能強化と見なされればそれは集積物の別の部分と規定でき、そのパッチのみに対しGPLと矛盾せずかつGPL以外のライセンス(BSDライセンスやzlib Licenseなど)を適用する事も可能である。一例をあげると、MySQLは、「リンク例外条項付きGPLv2」と商用ライセンスとでデュアルライセンシングされている。これに対しGoogleはMySQL向けのパッチをBSDライセンスで提供していた。このパッチはオリジナルのMySQLに由来しないコードのため、GPLで保護されたMySQLの「集積物とは別の部分」となる。BSDライセンスは独占的なライセンスであろうとも両立するので、結果的にこのパッチは、MySQLをGPLで利用するライセンシーと共に商用ライセンスで利用する者も適用可能である。また同時にそのパッチからサブルーチンのみを取り出し、BSDライセンスされたソフトウェアにも同様のルーチンを導入する事も可能となる。
GPLなソフトウェアと別のプログラムが単に結合している場合は、本来、全てのソフトウェアをGPLにすることも要求されない、そしてGPLなソフトウェアを非GPLソフトウェアとともに頒布することも要求されない。しかし、稀な条件において、GPLの権利を保証することを妨げる障害が取り除かれるであろう。次の文は、GNU.org ウェブサイトに存在するGPL FAQからの引用である。これは、ソフトウェアが、バンドルされたGPLプログラムと結合を許される範囲がどこまでかを記述している。
'What is the difference between an “aggregate” and other kinds of “modified versions”?
An “aggregate” consists of a number of separate programs, distributed together on the same CD-ROM or other media. The GPL permits you to create and distribute an aggregate, even when the licenses of the other software are non-free or GPL-incompatible. The only condition is that you cannot release the aggregate under a license that prohibits users from exercising rights that each program's individual license would grant them.
Where's the line between two separate programs, and one program with two parts? This is a legal question, which ultimately judges will decide. We believe that a proper criterion depends both on the mechanism of communication (exec, pipes, rpc, function calls within a shared address space, etc.) and the semantics of the communication (what kinds of information are interchanged).
If the modules are included in the same executable file, they are definitely combined in one program. If modules are designed to run linked together in a shared address space, that almost surely means combining them into one program.
By contrast, pipes, sockets and command-line arguments are communication mechanisms normally used between two separate programs. So when they are used for communication, the modules normally are separate programs. But if the semantics of the communication are intimate enough, exchanging complex internal data structures, that too could be a basis to consider the two parts as combined into a larger program.
このように、FSFは「ライブラリ」と「その他のプログラム」とを、次の2つの観点双方を用いて線引きしている。
しかし、FSFは、この問題は明確な結論はなく、複雑さの条件について判例 ("case law") により決められる必要があるだろう、と譲歩している。
GPL FAQでは「結合メカニズム」(「コミュニケーションのメカニズム」)の例として、プロセス間通信、遠隔手続き呼出し (RPC)、カーネル空間・ユーザー空間の通信やシステムコール、パイプ、execによるプロセス起動などを挙げている。これら「結合メカニズム」を用いてGPLなソフトウェアと接続する場合は、個別のプログラムであるため結合ではないとも見なせるが、そのやり取りするデータの如何によって接続先が二次的著作物であると見なされる余地も残されている(「コミュニケーションのセマンティクス」)。これに対する明確な法廷判断はまだない。
GPLの条文自体はGFDLやGPLの下に自由に配布されているわけではなく、ライセンス著作者は条文の改変 (modifications) を許可していない(GPLの条文自体の著作権はフリーソフトウェア財団が持つ)。GPLはプログラムの受領者に(本ライセンスの直接の対象となる)本プログラムと共に本ライセンスの複製を (a copy of this License along with the Program) 得る権利を与えているため、未改変のライセンスの複製と頒布 (distribution; 配布) は許されている。GPL FAQによると、仮に改変する場合は、別の名前とし、「GNU」について言及せず、フリーソフトウェア財団から許諾を得ている場合を除いて改変版ライセンスからGPLの前文 (Preamble) を削除した場合に限り、GPLの改変版を利用して新たなライセンスを作成しても良い。そのようにして作成された派生ライセンスに対し、FSFは一切の法的異議申し立てを行うことはないが、そういったライセンスは一般にGPLと両立しない (互換性が無い、incompatible) ので、FSFは推奨していない 。
前述のとおり、GPLの条文自体は著作権で管理されており、その保持者はFSFである。しかしながら、FSFはGPLのもとリリースされた著作物の著作権は保持しない。これも前述したが、例外は、著作権者が明示的にFSFに著作権を譲渡した場合である。ただし、そのような事例はGNUプロジェクトに属するプログラムや寄贈されたプログラムを除いてあまりない。ライセンス違反が発生した場合、個々の著作権者のみが、訴訟を起こす権限を持つ。
FSFは、FSFの許可なくGPLの前文 (Preamble) を含めた、派生ライセンスを使用しない限り、GPLに基づいた新しいライセンスを作成することを許可する。しかしながら、このようなライセンスはGPLと両立しない (incompatible) 場合があるので、作成しないほうがよい。またそれは、明らかにライセンスの氾濫を生じさせる。翻訳も翻案権の行使であるため、ライセンスの翻訳は原則認められないが、その翻訳が非公式であることを明記し、FSFの求めに応じて翻訳をアップデートできるならば翻訳を許可される。
その他、GNUプロジェクトにより作成されたライセンスには、GNU Lesser General Public License、GNU Free Documentation Licenseが含まれる。
あるオープンソースソフトウェアでライセンス上考慮すべき点があるなどして、またはもっと極端な例では、GPLの思想的な面に反発があるなどして、GPLと両立性を欠くようなライセンスを著作物に敢えて採用するケースがあるかもしれない。しかし、GPLを採用するフリーソフトウェア、オープンソースソフトウェアが多数存在するため(セクション"採用実績"を参照)、現実問題としてそのような行為はコードの再利用性を著しく欠く結果につながる(記事"ライセンスの氾濫"を参照)。このため、自身の採用するライセンスをGPLと非互換にしないよう、GPLとのライセンス両立性を考慮することは重要である。
著作物全体として影響を受けるライセンスの持つ制限の組み合わせにより、GPLが許諾する事項を越えるいかなる追加的制限が課されない限り、他のライセンスで許諾されたコードは、GPLで許諾されたプログラムと衝突することなく組み合わせることも可能である。また二次的著作物の観点として、互換性のあるフリーソフトウェアライセンス/オープンソースソフトウェアライセンスで許諾されるコードを組み合わせる場合は、原則コードの組み合わせ全体に、そのコピーレフト性が最も強くなるライセンスの影響を受ける。GPLの正規の条項に加えて、追加的な制限や許諾を適用することができる組み合わせは以下の通りである。
上述1.について、よくある表明文の例は、"either version 2 of the License, or (at your option) any later version" (「本ライセンスのバージョン2、または(あなたの選択で)任意の以後のバージョン」) である。これと対照的な例はLinuxカーネルや、バージョン1.9.2までのプログラミング言語Rubyの処理系(インタプリタ)である。これらは"any later version" statementなしのGPLv2単独でライセンスもしくはGPLv2を内部的に参照する形式を採るRubyライセンスである(後者はデュアルライセンスに類似する)。従ってGPLv3のコードを組み合わせることはできないので注意を要する。しかし、Rubyの処理系はデュアルライセンスのGPLを、バージョン1.9.3より、GPLよりパーミッシブ・ライセンスである2条項BSDライセンスに変更したため、以後のバージョンのRubyの処理系ではGPLv3で保護されるプログラムを組み合わせることも可能である。このような許諾変更が許されるのは、デュアルライセンスの片方であるRubyライセンスには著作権者(Rubyの処理系の場合はまつもと)に許諾変更を一任する条項(2.(d))が存在する為である。一般的に、ソフトウェアのライセンスを非互換なライセンスに変更する場合は、コードの全著作権者からライセンス変更の同意を取り付けなければならない。LinuxカーネルのライセンスはGPLv2単独であり、Ruby処理系のような特殊な規定を持っているわけではないので、仮に変更する場合はそうせざるを得ない。GNUプロジェクトはこのような事態に陥ることを回避するため、前述の通り著作権者からコードの著作権をFSFに譲渡するよう勧め、またソフトウェアのライセンスほぼ全てに"any later version"表明文を付したGPLを適用している。
FSFは、GPLと両立するフリーソフトウェアライセンスのリストを維持管理している。そのようなライセンスは、もっとも広く利用されている、オリジナルのMIT/X license、(現行の3条項形式の)BSDライセンスそしてArtistic License 2.0などを対象としている。
デイヴィッド・A・ウィーラー(英語版)は、GPLと非互換なライセンスを利用すると、他者のフリーソフトウェア/オープンソースソフトウェアプロジェクトへの参加や、コードの貢献を困難にするため、フリー/オープンソース開発者はGPL互換なライセンスのみ採用するよう強く主張し続けている。
特筆すべきライセンス非互換の例として、旧サン・マイクロシステムズのZFSが、GPLでライセンスされたLinuxカーネルに組み込めないというものが挙げられる。なぜなら、ZFSはGPL非互換なライセンス、CDDLで許諾されているからである。これに加え、ZFSは特許で保護されており、ZFSの機能を持つソフトウェアをサンとは独立にGPLのもと実装し頒布しようとしたとしても、それでもなおサン(現在はオラクル)の許諾が必要となると予想される。
他の一部のフリーソフトウェア・プログラムは、複数のライセンスによりデュアルライセンスされているものがある。その中にはライセンスの一つにGPLが選択されていることもよくあり、「デュアルライセンスはもっと広まる」と独立ソフトウェア・コンサルタントのテッド・ロシュ (Ted Roche) は指摘している。この方法だと、GPLを適用しないまま二次的著作物を頒布することを認めることができる。これは、二次的著作物に有償の商用ライセンスを適用することも可能にする。MySQLなどはまさにこの例に当てはまる特筆すべき例である。
一般的にプロプライエタリソフトウェアはGPLソフトウェアと組み合わせることはできない。しかしこのような場合でも、マルチライセンスを利用することでGPLソフトウェアを組み合わせることも可能となる。
GPLのもとで頒布するとともに、静的リンクなどを使用する場合やそうではなく動的リンクを使用する場合においても、パッケージにプロプライエタリなコードを組み合わせたいと望む企業のため、二次的著作物を独占的な条件・ライセンスで頒布・販売可能にする商用ライセンスを同時に提供するマルチライセンシング・ビジネスモデルが多く存在する。このようなビジネスモデルを採用する企業と採用したソフトウェアには、Oracle社(MySQL AB社のMySQL)、Digia(英語版)社(旧Trolltech社のQtフレームワーク )、Namesys(英語版)社 (ReiserFS)、Red Hat社 (Cygwin)、Riverbank Computing社 (PyQt) などがある。 その他、Mozilla Application Suite、Mozilla ThunderbirdそしてMozilla Firefoxを製品に持つMozilla Foundation (Mozilla Corporation) のような企業はGPLだけではなく同時に他のオープンソースライセンスでも頒布可能なようにマルチライセンスを採用するケースがある。
GPLv3はGPLv2と比べ、条文の大幅な変更にも関わらず、内容自体には大きな変更はないとも言える。しかし全く無いわけではなく、とりわけGPLv3の特許関連条項と、(反DRM条項改め)反TiVo化条項などは、GPLv2の第6節にある「(GPLv2で認められた) これ以上他のいかなる制限」(further restriction、同様の条項がGPLv3の第10項のさらなる権利制限) に相当するため、原則GPLv3はGPLv2と両立しない。ただし、GPLv2で保護される著作物が“version 2 or later,”でリリースされていれば両立する。
GPLはフリーあるいはオープンソースソフトウェア用のライセンスとして圧倒的な人気がある。 きわめて大きいソフトウェア・アーカイブをもつMetalab(英語版)の1997年の調査では、約半数をGPLのソフトウェアが占めていた。 2001年の調査では、Red Hat Linux 7.1 に使われているソースコードの 50%がGPLでライセンスされている。 2006年1月の時点で、SourceForge.netにホスティングされているプロジェクトの約68%が、2007年8月の時点で、Freshmeatに掲載されている43,442のフリーソフトウェア・プロジェクトのうち65%近くが保護されるライセンスとしてGPLを使用している(両サイトを運営しているのはLinuxとGPLに造詣の深い企業Geeknet社である)。
Black Duck Software社により管理される"Open Source License Resource Center"によると、フリーソフトウェア/オープンソースライセンスでリリースされたソフトウェアパッケージ全体の約60%がGPLをライセンスに採用していると示されている。
コンピュータ・プログラムの代わりにテキスト文書、またはより一般的にはあらゆる種類のメディア全てにGPLを採用することは可能である。ただしその条件は、それらメディアが「ソースコード」(その定義としては、「それ自身を変更することを可能にさせる著作物の好ましい形態」)を構成できるか明らかである必要がある。マニュアルや教科書は、FSF自身はGNU Free Documentation License (GFDL)の利用を代わりに薦めるが、この目的において前述の要件を形成できる媒体である。しかしながら、FSFの勧告にも関わらず、Debian開発者らは(2006年に採択された決議に基づき)、彼らのプロジェクトにおける文書をGPLのもとライセンスする勧告を出した。なぜなら、プログラム・メディア双方の著作物における「ソースコード」という概念に対し、GFDLにはGPLの条項と非互換な取り扱いが存在するからである。すなわちGFDLのもとライセンスされたテキストはGPLで保護されるソフトウェアに組み込めないというのである。詳細については、記事"Debianフリーソフトウェアガイドライン#GFDL"を参照せよ。また、フリーソフトウェア用のマニュアルなどの作成に貢献している組織、FLOSS Manuals(英語版) Foundationは、2007年に、本組織のテキストにGFDLの採用を忌避しGPLの採用を決定した。
仮にGPLがフォントのライセンスに採用された場合、このようなフォントにより形成されるあらゆる文書、画像、PDFは、これまたGPLの条項に従って配布する必要があるかもしれない。このケースは、著作権法がフォントの書体 (appearance of fonts, typeface) には及ばない国々(アメリカ合衆国とカナダのような国)では問題とならない。日本の場合も同じく、フォントの書体は意匠権を持ち、意匠法により管掌されると同時に、独創性と美的特性のない書体に著作権はないとの考えは現状一般的である。しかし、フォントヒンティング・テクノロジーなどのフォントファイル内に存在するプログラムコードは(それが「プログラム」であるから、)猶も著作権法で保護され得るとの主張もある(詳細は記事"知的財産権#その他の権利" "タイプフェース"を参照)。また、セクション"リンクと派生物"で述べたことと同様に、フォント埋め込みは文書がフォントと「リンク」していると見なされるので、事態をより複雑にさせる。FSFはこの想定外の事態に対し、GPLでフォントをライセンスする際には著作権者は「例外条項」を設けるべきと勧告している。
GPLは契約ではなくライセンスとして設計されている。コモン・ローの法的な権限の及ぶ範囲において、契約は契約法により支配されるが、他方ライセンスは著作権法のもと行使されるため、ライセンスと契約の法的な区別はいくらか重要である。しかしながら、大陸法のような契約とライセンスの相違点がない多くの法体系ではこの区別は意味を成さない。
また、GPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはどの国の著作権法に従うかであるが、これは著作権やライセンスの一般論として定められており、すなわち著作権の準拠法は著作物の利用のあった国の法体系である(これを属地主義という)。よってGPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはその居住する国の著作権法のもと当該ソフトウェアを利用することとなる。
GPLの条項や条件に同意しない("do not agree to")、またはそれらを受け入れない("do no accept")人々は、著作権法のもと、GPLでライセンスされたソフトウェアまたはその二次的著作物 (派生物) を複製または頒布する許諾を得ることはない(GPLv2第5節、GPLv3第9項)。しかしながら、もし彼らがGPLで保護されたプログラムを再頒布しないならば、彼らは猶も彼らの組織内でそのソフトウェアを好きなように使用しても構わない。そして、プログラムの利用により作成された著作物(生成されたプログラムもこの中に当てはまる)はこのライセンスの影響範囲に含めることを要求されない。
アリソン・ランダルは、ライセンスとしてのGPLv3はその支持者を不必要に混乱させており、同一の条件や法的効力を維持しつつ、簡略化すべきだと主張した。
日本の独立行政法人、情報処理推進機構がSoftware Freedom Law Centerの協力の下作成した「GNU GPLv3 逐条解説書」によると、GPLが契約かライセンスかの論争は、GPLがエンフォーシブル(enforceable)か否かという問題と同値であると結論付けられている。すなわち、ライセンス違反が発生し、解決が法廷に持ち込まれた場合、GPLソフトウェアの作者に認められる要求が著作権侵害による違反者の頒布差止請求や損害賠償請求に留まるのか、はたまた、ライセンスをエンフォース(強制)し、ソースコードの開示にまで持っていけるのか、といった議論は、GPLが契約か否かという問題に帰着する。大陸法ではGPLを契約と見なせるので(とりわけGPLv2の第2節、GPLv3の第9項は申込と承諾の意思表示であると解釈できる)、仮に法廷に持ち込まれた場合、大陸法の法体系では、差止請求だけに留まらずソースコードの開示まで請求できるとの解釈が述べられている。ただし実際にそのような法的な判断、すなわち判決を下すのは裁判所と裁判官であり、状況によってはGPLが対象とする法的範囲が著作権法よりもさらに小さなものだと見なされ、ライセンサーの権利不行使を宣言するものである、民法の権利濫用の禁止や禁反言を始めとする信義則を述べているだけにすぎないという判決が下される可能性すらもある。
また、契約をもってライセンスを制限することも理論上は可能であるため、GPLでの再頒布時の権限を契約を持って押さえ込むことも可能である。ただしそれが有効と認めた判例は未だもってない。
2002年、MySQL ABは著作権侵害ならびに商標権侵害でProgress NuSphere社をアメリカ合衆国マサチューセッツ連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。伝えられる所では、NuSphereは、MySQLのGPLで保護されるコードを自社のGeminiテーブル型モジュールに静的リンクしたが、GPLの条項に従わず、Geminiのソースコードを一切公開しなかった。このためMySQLの著作権を侵害していたとされる。2002年2月27日、パティ・サリス(英語版)判事の予備審問ののち、当事者らは和解協議に入り、最終的に事実上合意に至った。審問終了後、FSFは「サリス判事は、GNU GPLが強制力と束縛力を持つライセンスであることが分かったことを表明した」とのコメントを発表した。
2003年8月、SCOグループは、「GPLに法的な有効性などない」と本気で考え、彼らはSCO UnixからLinuxカーネルへと不正に複製されたと疑わしいソースコードの断片を法廷で取り上げるつもりだと主張した。彼らは、当時GNU/Linuxディストリビューションを頒布しており、またそのディストリビューション、Caldera OpenLinuxディストリビューションに含まれていたその他GPLで保護されたコードも頒布していたため、これは問題のある行動であり、しかも、GPLの条項に従うことを除いてそのような問題行動をとる法的な権利などほとんど有って無いに等しかった。
ドイツのネットワーク機器メーカーSitecomは、GPLの条項に違反して、netfilter/iptables(英語版)プロジェクトのGPLで保護されたソフトウェアを頒布していたが、彼らは頒布停止を拒絶した。この後、事態は法廷に持ち込まれ、2004年4月、ミュンヘン地方裁判所はnetfilter/iptablesプロジェクトの訴えに対し、Sitecomドイツ法人の製品に対する予備的差止命令(英語版)(仮処分差止命令)を認める決定を下した。2004年7月、ドイツの法廷は、この差止命令がSitecomへの判決になると確定し、結審した。法廷で認められたのは次の内容である。
参考訳:
netfilter/iptablesの開発者でその著作権を持つもののひとりでもある、ハラルト・ヴェルテは、ドイツにあるFLOSS関連の法的係争を扱う組織、ifrOSS(英語版)の共同設立者、ティル・イェーガー(Till Jaeger)に自身の法的代理人を要請した。この判決文は当時FSFの顧問だったエベン・モグレンが以前予想した通りの内容を反映していた。これは、GPLの条項違反が著作権侵害に与える影響を法廷が初めて認めた重要な判決だった。
2005年5月、ダニエル・ウォレス (Daniel Wallace) は「GPLは価格を零にしようとする違法な企て、すなわち価格固定(英語版)やダンピングである」と主張し、FSFをアメリカ合衆国インディアナ南部連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。2006年3月、ウォレスはGPLが反トラスト法に違反する行為を促すとの正当な主張を法廷で証明することができなかったため、原告申立ては棄却された。「GPLは、自由競争、コンピュータ・オペレーティングシステム・ソフトウェアの頒布、消費者が直接得られる利点を阻害するというより、むしろ促進している」と、法廷は言い渡した。その後、ウォレスは、不服申立の控訴状も却下され、FSFへの訴訟費用の支払いを命じられた。
2005年9月8日、ソウル中央地方法院 (서울중앙지방법원, Seoul Central District Court, ソウル中央地方裁判所) は、GPLでライセンスされた著作物から派生した二次的著作物を企業秘密とする契約事項に対し、GPLは本件と関連なしとの判決を下した。判決主文の英文抄訳より事件のあらましを述べると、係争にあがった著作物は、GPLv2で保護されたソフトウェアVTun(英語版)である。被告の一人はVTunをベースとした二次的著作物であるソフトウェアを、原告である企業に雇用されている間作成した。彼が原告企業を退社後、そのソフトウェアのソースコードを個人的に複製しており、そのバグ修正を行ったうえ、そのソフトウェアを利用した商用サービスをもう一人の被告と立ち上げた。これに対し、原告はそのサービスが自社の企業秘密の漏洩であると主張した。 被告らは、GPLを遵守して著作物を頒布する限りは、企業秘密を維持することなど不可能であるので、守秘義務違反ではないと主張した。ソウル地裁はこの主張の法的根拠を認めず、「ライセンス如何にかかわらず、企業秘密の漏洩により公平な競争者に対抗し不公平な利益を得ることを守秘義務で縛ることは妥当である。また企業秘密は特許とは別であり、技術的である必要は無い(1998年大韓民国大法院判決による)。」と述べた。
2006年9月6日、gpl-violations.orgプロジェクトは、D-Link Germany GmbH(Dリンクのドイツ法人)を提訴し、これに勝訴した。原告は、被告が販売する(即ちこれ自体「対価を取って頒布する」ことであり、なんら問題ない)NAS機器に、Linuxカーネルの一部を利用していたが、GPLに違反した使用であり、著作権侵害である、と主張した。この判決により、GPLの有効性、法的拘束力がドイツの法廷で支持されたという判例が与えられたことになった。
2007年後半より、BusyBoxの開発者ならびにSoftware Freedom Law Center(SFLC)は、組み込みシステムに利用するBusyBoxの頒布者からGPLを遵守する旨の言質を得ることや、GPLを遵守しないものを提訴する計画に乗り出した。これら一連の訴訟は、アメリカ合衆国において、GPLの責務に対する強制力を法廷で争った初の機会であると述べられている。
2008年12月11日、FSFはシスコシステムズを提訴した。被告はそのLinksys部門にて、原告のFSFがGPLでライセンスした著作物である、
ソフトウェアパッケージを、Linksysの次に述べる製品のファームウェアにGNU/Linuxの形で組み込んで、対価を取って頒布、すなわち販売していたが、GPLの条項に違反していたためFSFの著作権を侵害している、と原告のFSFは主張した。該当する製品は、Linksysの有名な無線LANルーターWRT54Gやその他DSLモデム、ケーブルモデム、NAS機器、VoIPゲートウェイ、VPN機器そしてホームシアター、メディアプレーヤー機器などその他多くの機器にも及ぶ。
FSFがシスコを提訴するまでの6年間、FSFはシスコに何度も申立を行ったが、シスコは、「われわれは、(GPLで保護されたプログラムの全てのソースコードならびにその改変箇所を含む完全な複製を提供しなかったというGPLの)条項違反についての問題を修正する予定もしくは修正中である」と主張した。しかし、FSFはその後もより多くの製品から新たな違反が発覚したとの報告を受け、Linksysと多くの会談をとり行うこととなった。しかし、結局実りは少なかった。FSFのブログでは、この過程を「5年間にも及ぶモグラ叩きゲーム」("five-years-running game of Whack-a-Mole") と評している。この6年間の過程を経て、FSFは遂に本件を法廷に持ち込むことを決意した。
その後シスコは本訴訟の和解のテーブルに着き、6ヵ月後、
以上の和解内容に合意した。
2001年、マイクロソフトのCEO、スティーブ・バルマーは、Linuxを「知的財産権の意味において、触れるもの全てにくっつく癌である」と呼んだ。マイクロソフトがGPLを嫌う理由は「取り込み、拡張して、抹殺する」という独占的ベンダーの試みにGPLが抵抗するためであるとマイクロソフトの批判者らは主張する。
マイクロソフトは、以前、GPLでライセンスされたコードを含む製品である、Microsoft Windows Services for UNIXを販売(のちWindowsのEULAに従う者には無償ダウンロード可に)していたこともある。マイクロソフトのGPLに対する攻撃に対抗するため、幾人かの著名なフリーソフトウェア開発者とフリーソフトウェアの代弁者たちはライセンスを支持する旨の共同声明を発表した。しかしながら、この声明から7年以上たった、2009年7月、マイクロソフト自身が、GPLのもと本体が約20,000行程度となるLinuxカーネルのドライバコードをリリースした。ただし、提供されたコードの一部に相当するLinux用のHyper-Vドライバコードが、GPLのもとライセンスされているオープンソース・コンポーネントを利用しており、当初プロプライエタリなバイナリ部分と静的リンクしていた。後者はGPLソフトウェアに対するライセンス違反である。
また、これ以外にも、同社が提供するソフトウェアに意図せずGPLで保護されたコードが混入するケースもあった。
マイクロソフトのシニア・バイス・プレジデント、クレイグ・マンディは、GPLはプログラム全体を譲渡することしか許諾せず、これは、プログラマに、GPLと両立しないライセンスのライブラリとリンクするプログラムを譲渡することを許諾しないことを意味する故、GPLは「ウイルス的(viral)である」と評した。
このいわゆる「ウイルス的」効果とは、組み合わせることを考えているソフトウェアの、複数のライセンスのうち一つが変更されないならば、そのような状況下で、異なる別のライセンスで許諾されるソフトウェアと組み合わせることができないことを指す。ライセンスのいずれか一つは理論上変更することはできるけれども、「ウイルス的」なる考えの筋書きによれば、GPLは事実上撤回することはできない(なぜなら、GPLソフトウェアには通常極めて多くの貢献者(contributors)の存在があるが、彼らの幾人かはこの決定をおそらく拒絶するだろう)。他方、他のソフトウェアのライセンスは実際には可能なのである。
リチャード・ストールマンの見解によると、「ウイルス」というメタファーは誤りであり、また不親切な物言いである。GPLのもとリリースされるソフトウェアは、他のソフトウェアを、決して「攻撃」したり「感染」などしない。むしろ、GPLで保護されるソフトウェアは、オリヅルランのようなものである、と述べている。だれかが、GPLで保護されたソフトウェアのコード断片を持ち帰り、どこかよそへそれを組み込んだならば、GPLで保護されるソフトウェアもまた、そのどこかで成長するのである。このようにGPLのような二次的著作物にも適用を強制するという強い制約を持つライセンスは、独占的なソフトウェアを開発する企業や、他のライセンスを支持するソフトウェア開発者から批判されることがある。コピーレフトの考え方を支持する人々は、これは自由を守るために必要なことだと主張する。一方、二次的著作物への制限が少ないBSDスタイル・ライセンスを支持する人々はまた別の考え方を持っている。GPLの支持者が「フリーソフトウェアの自由が二次的著作物でも保護されることを、フリーソフトウェア自身が保証すべき」と確信する一方、そうでない人々は「フリーソフトウェアはその再頒布にあたって利用者に最大限の自由を与えるべきだ」と主張する。後者の考え方は、例えばBSDライセンスのように敢えて「ソフトウェアの自由を捨て去る」ことも可能という、ソフトウェア利用者の自由意志、選択の自由を述べている。
態度を鮮明にしている幾人かの有名なLinuxカーネル開発者は、マスメディアに対しコメントを出し、GPLv3の議論用の初稿ならびに第2稿の一部に反対する旨の声名を発表した。リーナス・トーバルズは、GPLv3の反DRM条項により、GPLv3でライセンスされたソフトウェアがDRMを利用したコンピュータ・セキュリティのメカニズムを享受できなくなるとして、LinuxカーネルのGPLv3への移行には明確に反対している。リチャード・ストールマンは、2007年初めにもこの動きは収束すると期待していた。
第3稿に関しては、(反TiVo化条項がいくらか緩められたため)トーバルズは「満足している」と語っていたが、最終稿が提出された後のコメントでは、GPLv3はGPLv2と比べ(両者のデュアルライセンスが可能か考慮に入れた上、コードの全著作者からライセンス移行の合意を得るという途方も無い手間を掛けたとしても)移行するメリットはないとトーバルズは述べた。
おおむね、これらの議論は本質的には全く同じ視点に立ってはいるが、主にソフトウェアのコードの自由を重視するオープンソース陣営と、それのみではなくソフトウェアを利用するユーザーの自由の最大化を目的とするフリーソフトウェア陣営の考え方の違いが浮き彫りになったに過ぎない。ソフトウェアの自由な利用のためには、GPLv3にはソフトウェアの範疇に留まらず、広く働きかけることを厭わ(いとわ)ないとする後者の考え方が色濃く出ている。
FreeBSDプロジェクトは、「GPLソフトウェアを公開しない、そして誤ってGPLソフトウェアを利用してしまったケースなどにより、これらの行為がソフトウェア企業の価値を下げたいと考えている巨大企業の格好の餌食になっている。言い換えれば、GPLは、潜在的に経済的利益の全体を低下させ、また寡占的行為を助長するゆえ、マーケティングの武器として利用されるのに、とてもふさわしい。」と主張し、GPLは「ソフトウェアの商用化やその利益を生み出そうと考えている人々にとって現実の問題として本当に邪魔になっている」と主張している。
FreeBSDの開発者で、Beerware(英語版)ライセンスの著作者でもある、ポール=ヘニング・カンプ(英語版)は、"GNUライセンス"を「ジョーク」であると見なしている。その理由は彼が気付く限りこのライセンスには曖昧な記述が存在するからだと述べている。
セクション"リンクと派生物"の通り、GPLで保護されたコードに由来する二次的著作物はGPLでなければならない、と明白に要求されているが、GPLのライブラリに動的にリンクしたプログラムが、二次的著作物と見なせるかどうかは、議論が分かれている。これに対しFSFとその他の人々の見解が異なることが新たな論争の種となっている。この点に関し、著作権法が二次的著作物をどう定義するかが問題になると述べたが、著作権の支分権の具体的内容についての問題が提起されている。アメリカ合衆国著作権法を収録した合衆国法典第17編の第101条 (各種用語の定義) によれば、著作物の改変・翻案を例にあげたうえで「既存の著作物を基礎とする」ことが二次的著作物の要素となっているため、動的リンクの場合でも既存の著作物を基礎としているのかが問題となり得る。これに対し、日本国著作権法第二条によれば、二次的著作物は原著作物の「翻案」を要素としているため、GPLのライブラリとGPLでないプログラムが動的にリンクするプログラムを作って頒布したところで、二次的著作物を作成したことにはならず、プログラムを実行したときに必然的に生じるメモリへの複製の段階で初めて問題になるに過ぎない。しかし、日本国著作権法ではプログラムを実行することそれ自体(これを使用権という)は著作権の支分権としては認められていない。 ちなみにGPLv3では"derivative work"という語が姿を消し、代わりに「改変されたバージョン」や「元プログラムに基づく作品」となっている。これらは「二次的著作物」を指している。
また、アメリカ合衆国著作権法においても、日本国著作権法においても、原著作物の著作権者は、二次的著作物に対して著作権行使をすることができるのは当然の前提なのだが、ソフトウェアが著作権の対象となるように法制度が確立する前は、改変したプログラムに対する権利範囲等が不明確であったこともあり、法の建前を前提として議論がされていない側面がある。
いずれにせよ、当該著作物が二次的著作物であるかの判断は、ライセンス如何の問題ではなく、最終的には法廷が個々の著作物毎に判断することとなる。しかし、現時点では明確な線引きを行った著作権法上の条文や判例は存在せず、その他法源となるものもない。ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟においても二次的著作物の範囲が明確に定められなかったのは前述の通りである。
GPLが持つ制約とは全く別の問題として、一部の批判者らは、GPL前文のイデオロギー的な響きが嫌だとか、ライセンスが長過ぎて分かりにくいと愚痴をこぼす。この「落とし所」には、ソースやバイナリの複製 (reproduction) を認めないが、個人や会社での使用で修正の自由を認めるようなライセンス群を含むことがある。こういった変種の一つには、 Open Public License (OPL)がある。これら批判の原因は、GPLの条文が一見理解しにくいがために起こる誤解によるところもある。しかし、このGPLの手の込んだ条項は一見理解に困難を伴うが、これによりコピーレフトが創出され、著作権法の枠組みを徹底してハックしている点も忘れてはならない。
GPLの条文そのものや、その要求、許可する事項(義務、権利)については、GPLに賛同している者ですらも誤解していることがあり、そのことがGPLの議論に関し混乱を招く原因のひとつともなっている。既に解説済みの項目も多いが、改めて述べる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_General_Public_License
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GNU Lesser General Public License
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GNU Lesser General Public License(以前は、GNU Library General Public Licenseだった)または GNU LGPL、単にLGPLは、フリーソフトウェア財団(Free Software Foundation、以下FSFと略称)が公開しているコピーレフト型のフリーソフトウェアライセンスである。八田真行による日本語訳ではGNU 劣等一般公衆利用許諾書と呼称している。
以前の名前から分かる通り、これは他のプログラムにリンクされることを前提としたライブラリのためのライセンスとして作成された。当ライセンスは、強いコピーレフト(strong copyleft)を持つライセンスであるGNU General Public LicenseすなわちGPLとBSDライセンス・MIT Licenseのようなパーミッシブ・ライセンスとの妥協の産物として設計されている。LGPLが最初にその略称を示していたGNU Library General Public Licenseは1991年に公開され、GPLv2との対等性を表すため同じバージョン2が付されることとなった。のちに小規模な改訂によりバージョン2.1という小数点リリース(ポイントリリース)となり、1999年に公開されたが、同時にライブラリにこのライセンスを利用すると限るべきではないというFSFの立ち位置を反映させるため、GNU Lesser General Public Licenseと改名された。LGPLv3は2007年に公開された。これは、GPLv3と完全な互換性があり、GPLv3にいくつか追加的(許諾)条項(Additional permissions。GPLv3第7項で許されている。)を加えた相補的形式を採用している。よって以前のバージョンよりも条文はかなり簡略化されており、GNU GPLv3への参照が条文に頻繁に現れる。しかしこれはGPLリンク例外を採用しているその他ソフトウェアよりも若干要件は多い。次のセクション"GPLとの違い"を参照。
LGPLはLGPLに従う限り、プログラム自身にコピーレフトの「保護」(立ち位置が異なるものからは、「制限」とも言われるが)を与えるが、単にLGPLで保護されたプログラムとリンクする、他のソフトウェアへこれら「制限」を適用することはない。しかしながら、当該ソフトウェアへ影響を与えるある種のその他の「制限」は存在する。
LGPLは主にソフトウェア・ライブラリに採用されるが、スタンドアローンなアプリケーションにも採用されるいくつかの例が存在した。もっとも有名な例は、かつてのMozillaとOpenOffice.orgである。
GPLとLGPLの主な相違点は、後者が、フリーソフトウェアかプロプライエタリソフトウェアかどうかに関わらず、非(L)GPLなプログラムにリンクされ得る(ライブラリの場合は「そのようなプログラムによって利用され得る」)というものである。この非(L)GPLプログラムはそれが二次的著作物(derivative work)ではない場合、任意の条項のもと頒布(英: distribution; 配布)してもよい。二次的著作物である場合は、LGPLv2.1第6節またはLGPLv3第4項の条項により、「顧客(カスタマー)自身の利用のための改変ならびにそのような改変をデバッグするためのリバースエンジニアリング」を許諾する必要がある。これは、GPLのように常に二次的著作物を同一の許諾条項に置くライセンスとは異なり、常に同一の許諾条件に置くとは限らないことを示している。LGPLなプログラムを利用する著作物が二次的著作物か否かは法的な問題である。ライブラリに動的リンク(すなわち共有ライブラリやダイナミックリンクライブラリなどによるリンク)する単体の実行ファイルは、法的に二次的著作物ではないと解釈される可能性がある。その場合、ライブラリにリンクするプログラムは、LGPLv2.1における第5パラグラフ(Section 5. 第5節)、または同等の内容のLGPLv3第4項(Section 4.)に定義されている「ライブラリを利用する著作物」に該当する。次の文はLGPLv2.1第5節の第1段落にある条文の引用である。
LGPL の一つの特徴は、(LGPLv2.1では第3節、LGPLv3では第2項の条項により)ソフトウェアのLGPLで保護された任意の部分をGPLで保護することも可能にさせる。この特徴により、GPLで保護されたライブラリやアプリケーションにおいて、LGPLで保護されたコードを直接再利用することや、また、プロプライエタリなソフトウェア製品に利用されないようにするコードのバージョンを作成したいと考える場合、有益となる。
以前の名前が"GNU Library General Public License"だったこともあり、FSFはライブラリはLGPLを採用することを望んでいるという印象を受ける人は多かった。1999年2月、リチャード・ストールマンは、Why you shouldn't use the Lesser GPL for your next library(なぜ次のライブラリには劣等GPLを利用するべきでないのか)という評論を執筆し、この中でなぜこのことが当てはまらないケースがあるのかということと、LGPLをライブラリに適用することは必ずしも適切とは限らないことを説明した。
このことは、LGPLが非推奨なのではなく、単に、LGPLを全てのライブラリに適用するべきではないと述べており、例えばGNU CライブラリはLGPLを利用するべきライブラリの一例として引き合いに出されるが、LGPLである理由は標準Cライブラリなどをはじめとするライブラリの実装が既に幾つか存在し、プロプライエタリソフトウェアからなる著作物が、GPLなライブラリを飛び越えて、競合するBSDライセンスなどのパーミッシブ・ライセンスにより許諾されるライブラリとリンクする可能性が単に存在するからである。— ストールマンは続けて次のことを主張している。
事実、ストールマンとFSFは時折、(利用者の自由を拡大するため、)戦略的事項として、意外なことだが、LGPLより制限の少ないライセンスの利用を強く主張している。有名な例は、Vorbis音声コーデックプロジェクトのライブラリにBSD形式のライセンスを採用したことをストールマンが支持したというケースである。
本ライセンスの条文は、C言語やその近縁言語により作成されたアプリケーションを主に意図している用語の使われ方が見られる。Franz Inc.は、Lispのコンテキストにおいて用語を明確化するため、当ライセンスに同社が独自に作成した前文(preamble)を加えた形で公開した。この独自の前文が付記されたLGPLは時折LLGPLと呼ばれる。
加えて別の事例として、Adaはジェネリクスという特別な性質を持つ言語であり、このことに対応するためGPLの改変版ライセンスMGPLが作成されている。
LGPLで保護されたソフトウェアが非(L)GPLコードにより継承する場合、オブジェクト指向クラスの適合性について若干の懸念が惹起している。明確な説明がGNUの公式ウェブサイト上に与えられている。
参考訳
以上をまとめると概ね次の内容になる。
LGPLは次のことを保証する。この内容はGPLでも保証されている権利の一部である(このことからGPLよりも弱いコピーレフト性を持つ)。
LGPLで頒布されたライブラリAについて、
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_Lesser_General_Public_License
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2,844 |
ファクシミリ
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ファクシミリ(英語: facsimile)は、文字や図形、写真などの静止画像を、電気信号に変換して送受信する通信方式、またはその用途で使用する機器である。通称はFAX(ファックスまたはファクス)。
一般的なFAXは、静止画像を電子データに変換するイメージスキャナ、電子データを送受信するための電気信号に変換するモデム、電子データを印字するためのプリンタが組み合わさった装置である。通信回線としては、有線と無線の両方が用いられるが、一般的には公衆交換電話網が利用される。
2000年代以降は電子メール、チャット、クラウドストレージの普及により世界的に利用者が減少しているが、日本ではデジタル・ディバイドによる格差をつけられた層(これらを使いこなせない高齢者や、IT導入の優先順位が低くデジタル化が遅れている職場など)や「情報を印刷物の形で記録したい」層からの需要があるため機器の製造が続けられている。特に中小企業の場合、ITの重要性を理解しない傾向が強く、8割の企業がFAXに頼る傾向がある。
ファクシミリが発明されたのは、1843年のことである。これは米国のサミュエル・モールスによる電信機の発明から7年後であり、ベルが電話機を発明する33年も前のことである。
1843年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの原型を発明し、特許を取得した。
送信側では、振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセットする。その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす。接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。
受信側でも同様な振り子と接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させる。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。
送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。
ベインの装置では同期が難しいという欠点を改良したのがイタリア人のジョヴァンニ・カゼッリである。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取るパンテレグラフを発明した。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。用紙は111mm×27mmで、約25文字程度が電送でき、主に銀行のサイン照合に利用された。
1848年、イギリス人ベイクウエル(Frederick Collier Bakewell)は、ベインの発明を大きく改良し、現在のファクシミリの基本形を発明した。
1851年のロンドン万国博覧会で展示された。送信側は、金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付ける。円筒の円周方向に固定して接触させた金属針(接触針)を設け、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査して受信側に送る。受信側も送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示される。受信側の円筒の回転速度やスタート・ストップを送信側の円筒と同期することが難しく実用化されなかった。
1898年、アメリカ人ハンメル(Ernest A. Hummel)はベイクウエルの欠点を改良した装置(Telediagraph)を発明した。8インチ径の円筒を用い、送信側の円筒が1周回転する毎に同期信号を発生し、その信号毎に接触針を軸方向に1/56インチ移動していく。受信側では送信側の同期信号を受けて同様な方法で円筒と接触針を制御して同期を取る。同時に送信原稿の信号を受けて記録する。送信原稿は薄い金属箔に非導通のワニスで記載し、受信側では2枚の白紙に挟まれたカーボン紙に記録する。原稿サイズは最大8×6インチ(203mm×152mm)で送信時間は20 - 30分、いくつかの米国新聞社で採用された。
その後、1876年にベル(Alexander Graham Bell)により電話が発明され、更に、1883年にエジソンにより真空管が発明、更に真空管から光電管が発明された。
1906年、ドイツ人コルン(Arthur Korn)とフランス人ベラン(Edouard Belin)がほぼ同時に、同様な方法で写真の電送に成功した。送信側の円筒に巻き付けていた金属箔を写真やイラスト、文字等が書かれた用紙に変え、接触針の代わりに光電管を使用した。回転するドラムに巻き付けた用紙の小さな一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させる。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分は光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変わり、その信号を電話回線で送る。受信側では送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させる。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。
コルン式もベラン式も、両方の円筒(ドラム)の回転を一致(同期)させるために、送受信それぞれ別の2個の音叉を使い、その振動に合わせて両方のモーターの回転数を同じにするという原理を使っていた。送信側と受信側の温度や湿度の違いで、音叉の周波数が微妙に変わるためにモーターの回転数に誤差が生じ、画像が乱れるという問題があった。
コルンのシステム(photoelectric telephotography)は1910年からパリ・ロンドン・ベルリン間を電話回線経由で結ばれて運用され、ベランのシステム(Belinograph)は1930年代・1940年代にニュースメディアで使用された。
その後、日本電気の丹羽保次郎と小林正次が画期的なFAXの技術を開発(後述)し、1920年代後半から実運用が開始された。
1929年、ドイツ人ヘル(Rudolf Hell)はテレプリンター方式をファクシミリに採用した新しい方式ヘルシュライバーを発明した。
タイプライタ型のキーボードで文字を入力する。その文字を7×7ドットのパターン(ピクセル)に分解して左側のドット列から順次ON-OFF信号として送信する。受信側ではカーボンコピー紙と記録紙を重ねたテープを円筒に接触させ、円筒の回転に合わせて移動させる。回転する円筒には螺旋状に等間隔な小さな突起が連なり、この突起列は円筒を2周している。円筒と記録用のテープが接する箇所にハンマーがセットされ、受信したON信号によりハンマーで円筒をヒットすると円筒の小さな突起部分がカーボン紙から記録紙に転写される。記録された文字は傾いているが充分可視、判読できる。有線、無線に対応できること、通信系のノイズや歪み、電文の漏洩(秘密の保持)に対して強いことで、1930年代の第2次世界大戦まではポータブルな装置(Feld-Hell)がドイツ軍に使用された。その後は1980年代までニュースの電送に使用された。
日本では1924年(大正13年)6月、大阪毎日新聞と東京日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入し試験したが不安定であった。次いで、朝日新聞が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入した。実験は成功したが、画像乱れの問題があり、実用化されなかった。
1928年、日本電気の丹羽保次郎とその部下、小林正次はベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良したNE式写真電送機を開発した。NE式は在野の発明家安藤博による「同期検定装置」を採用。送信側の回転ドラムを三相交流モーターで回し三相の波を単相にした波を電話回線で相手側に送り、受信機側で三相交流電流に戻して記録用の交流モーターを回して同期を取る、同期信号を受信側に送ることで送信側と受信側のモーターを完全に同じ回転数で回せる方式だった、この方式の利点は送信側が一回転ごとに同期信号を送ってくるため送信側の回転数がブレても受信側も同じ回転数になるため同期が崩れない。当時三相交流は強電系の技術であり直流モーターを使用することが普通だった弱電で使用する機械は珍しかった。写真の明暗の変化は光電管で電気信号に変換して電話回線の中では音の強弱に変換されて送られる、電話の音の周波数をモーターの回転数に、音量を明暗の濃さに変換することで画像に乱れなく写真を電送出来た。この同期検定装置は後にファクシミリだけでなく遠隔地のモーターの回転数を制御する技術として広範囲に活用されている。高い精度で送れる反面、データー圧縮が行えないので通信速度面では不利であった。
1928年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号であった。即位礼の時、速報を大阪毎日新聞社と朝日新聞社がかって出た。
しかし、同じ音叉などを送受信双方に組み込んで同期を取るベラン式やコルン式は気温や湿度の影響を受けやすく環境変化で同期が崩れる問題が克服できず画像が歪んでしまい、国は歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律を制定した。朝日新聞社にドイツのFAXの技術者が、大阪毎日新聞社に当時の日本電気の技術者が就き、両社とも試験時はまったく成功せず、NE式を採用した大阪毎日新聞社が本番のとき、初めて成功した。
朝日新聞社は、大阪毎日新聞社が速報を出した数時間後に、やっと成功した。
その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始した。昭和11年には甲乙丙丁の四種類があり、送れる用紙の大きさによって値段が異なった。普通の電報がカタカナ数字しか送れなかったのに対して写真電報は手書きの文字がそのまま送れたので漢字が使える利点が大きかった。
1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン - 東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていった。
1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道に使用された。NECの無線技術は高く評価され、後に日本陸軍の無線・通信設備を独占した。
戦後は、逓信省による東京 - 大阪間の公衆模写電信業務、電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報道の写真や記事伝送などに利用された。
FAXの普及が急速に進んだ理由は、CCITT(現 ITU-T)によるFAX画像データ伝送方式の標準化と、通信自由化による電話回線のデータ通信への開放である。
CCITT(現 ITU-T)において国際的なFAXの画像データ伝送方法(プロトコル)についての標準化が審議された。
最初に、1960年(昭和35年)に前述のコルンやベラン、小林らが開発した円筒・機械式走査の『写真電送装置の標準化』が行われた。
円筒の直径は66・70・88mmの3種が選定され、走査ピッチ(円筒軸方向の移動幅)は円筒直径を協約数(264または352)で除した数値(直径66mmで協約数264の場合の走査ピッチは0.25mm)とした。この規定により協約数が同一であれば、円筒径が異なる送受信機間でも画像乱れの無い通信が可能となる。その他、ドラムの回転速度(60・90・120・150rpmの4種)とその誤差、同期や位相、振幅変調や周波数変調等について勧告が出された。
1970年代までは、ファクシミリ通信というのは高価な装置を用いる通信手段で、使用するのは報道会社、鉄道会社、警察組織、軍の組織、特定の企業など限られていて、業務用であり、あくまでひとつの組織の内部の通信のために使われていた(基本的に、2つの異なる組織の間の通信には使われていなかった)。
平面走査タイプのスキャナや新しい記録方式の開発に対応して、1968年(昭和43年)G1規格(電話回線、データ圧縮無しでA4サイズ原稿を6分で送信)が勧告された。
G1規格は走査線密度は3.85本/mm、電話回線での走査線周波数は180本/分(3本/秒)、振幅変調(AM : Amplitude Modulation)と周波数変調(FM : Frequency Modulation)について規定している。スキャナで得られる画像信号はアナログで、振幅変調で送信する場合は、搬送周波数1,300 - 1,900Hzの範囲内で白を最大振幅、黒を最小振幅と定めている。周波数変調で送信する場合は、白が搬送周波数-400Hz、黒が搬送周波数+400Hzの範囲内と規定され、交換回線経由での搬送周波数は1,700Hzと規定されている。
1971年(昭和46年)の特定通信回線、1972年(昭和47年)の公衆通信回線を利用した通信の自由化(第1次通信回線開放)とともに、電話回線がデータ通信やFAX通信に広く利用され、東方電機(後の松下電送)・NEC・東芝・東京航空計器・日本無線等が競ってFAXのG1適用機を商品化した。
さらに、1976年(昭和51年)にA4サイズの原稿を3分で送信するG2規格が勧告された。
走査線密度はG1規格と同じ3.85本/mmで、走査線周波数を360本/分にし、2倍の速度の標準化をしている。
画像信号のデジタル化と伝送時間を短縮するデータ圧縮技術が実用化されて、1980年(昭和55年)にA4サイズの原稿を1分で送信するG3規格が勧告された(数回の改訂があり最新版は2003年7月)。対象とする用紙はA4・B4・A3・レターサイズ・リーガルサイズで、その短辺幅を考慮して、走査幅は215・255・303mmの3種を規定している。走査の送り方向の走査線密度(垂直方向)は3.85本/mm(G1・G2を踏襲)、オプションとして7.7本/mm・15.4本/mmを規格化している。走査方向(水平方向)の信号はG1・G2規格ではアナログであるが、G3規格では細かく分割した画素単位(8画素/mm)で白と黒の2値にデジタル化される。オプションとしてインチ系の規格もあり、走査の送り方向(垂直方向)は100・200・300・400・600・800・1,200本/1インチ(25.4mm)の7種が、走査方向(水平方向)は100・200・300・400・600・1,200画素/1インチ(25.4mm)の6種が規格化されている。画像データのデジタル化にともない、データ圧縮や誤り訂正の技術やFAXにメモリーを内蔵しての種々の機能(一斉同報、機密保護通信、ポーリング受信、時刻指定通信、マルチドロップ、メモリー間通信等)が開発された。
G3規格ではオプションとして1次元符号化と2次元符号化、拡張2次元符号化によるデータ圧縮やECM(Error Correction Mode)などを規定することにより、1分送信を実現している。
G3規格の登場により、ファクシミリの市場が一気に活性化。その結果日本の電機メーカー・通信機メーカー・事務機器メーカーなども開発・製造に乗り出し、特に、欧米と違い漢字といった象形文字の文化を持つ日本では図像電送へのさまざまなニーズがあり、ファクシミリの性能向上への要求も強く、それらの要求にこたえるための技術開発・商品開発に各社がしのぎを削り、質や機能や使い勝手の向上が図られ、そのおかげでファクシミリは同一企業内だけでなく不特定多数との交信にも使われる通信手段、情報通信の要(かなめ)として広く普及し、日本のメーカーのファクシミリは世界市場を席巻する情況になった。オフィス用途では高スピード、高解像度、大量送信、大量受信に対応できるファクシミリ機器が採用され、家庭用やスモールオフィス用には低価格で省スペースのファクシミリ機器が販売された。このような経緯で一般家庭にもFAX機の普及が進んだ。
1984年(昭和59年)にFAXデータを高速デジタル回線で送信するための標準化、G4規格が勧告された。
G4規格はG3規格を拡張して回線交換公衆データ網(CSPDN)、パケット交換公衆データ網(PSPDN)、ISDNに対応した規格である。
以上の規格の制定や回線開放と共に量産とコストダウンが進み、官庁や新聞社から大企業、さらに中小企業や個人へと使用が拡大した。
1981年には日本電信電話公社(電電公社)により、通信料金の安いファクシミリ通信網(Fネット)が開始された。同時に日本電気、日立製作所、富士通、松下電送、東芝が分担開発したミニファックスMF-1が電電公社から発売され、ヒット商品となった。1984年にはG3規格摘要の改良機MF-2を開発・販売を開始した,。
その間、現在の主力であるG3ファクスが開発され、また1985年に電話機を始めとする端末設備の接続が自由化(端末の自由化)されると、中小企業や商店などで急速にファクスが普及し始めるとともに、パーソナルコンピュータなどのFAX内蔵モデムが登場する。
1988年に開催されたソウルオリンピックを目前に高解像度のカラーイメージスキャナーが登場し、同時に日本の主要都市に光ファイバーが敷設され、デジタル通信回線により高解像度の電送された写真が地方新聞社に送られカラー写真が紙面を飾った。
1990年代に入ると、コードレス留守番電話機と結合された形で、一般家庭でも使われるようになった。また、ファクシミリの機能を活用しあらかじめ決められたコード番号を入力することで様々な情報を受信することが可能なFAXサービスの提供が主な企業より行われた。
日本では1990年代半ばまでファクシミリの通信網契約数は右肩上がりで増えつづけ、たとえば1984年に1万8千件ほどだった契約数は、5年後の1989年には36万9千件ほどになり、1994年には67万8千件ほどに達していた。
1990年代後半あたりから情報転送の技術としてインターネットの利用が普及し、2000年代に入ってからビジネスでも徐々に文字・図像情報の転送にインターネットを利用することも増え、それと連動してファクシミリの利用は徐々に減った。しかし、証拠を残す必要がある用途、パソコンを使わずに画像を即座に転送できるなどの有利な面があり、業務用では官公庁向け、家庭用では高齢者向けに需要が残っている。
2020年に新型コロナウイルスの流行が拡大した際、日本社会のファクシミリ依存が表面化した。日本の官公庁ではファクシミリに依存したシステムが使われ続けていることが業務の効率化を妨げているとして、2021年に河野太郎行政刷新担当大臣がファクシミリからの移行を提案しているが、事務方は国会対応のため議員とのやりとりに使うなどの理由から消極的である。例外的に外務省は外部とのやりとりが少ないため、裁判資料の送付などを除き電子メールへ移行している。
日本の芸能事務所などではファクシミリで情報のやり取りをすることが多く、特に有名人が結婚・離婚・妊娠などの重大事項を発表する際などは、本人もしくは所属事務所がテレビ局や新聞社にファクシミリで送信することが多い。これは、ファクシミリは文面の下に自筆で署名もできるほか、発信者の確認がしやすく、「怪文書」扱いになりにくい形で複数の報道会社に向けて一括で送信できるからとされる。
日本におけるファクシミリの世帯普及率は2017年(平成29年)に35.3%。世帯主年齢が20代で1.3%、30代で11.2%、40代では35.1%。2020年(令和2年)には20代は2.1%、30代は9.4%、40代は25.8%、50代は43.2%、60代は48%、70代は47.4%、80代以上は38.9%と高齢化傾向になっている。
ファクシミリ機器については、2000年代に入ってからはIP電話・LAN・インターネットなどの電話交換機を介さないIP通信網を利用したInternetFAXも利用されるようになった。市販されているファクシミリ機器は、電話機と一体になっているものがほとんどである。
2010年代にはスミソニアン博物館に産業遺産として収集されたファクシミリではあるが、2020年代においてもセキュリティーやプライバシーなどを理由にインターネット網に接続していない、デジタルな集計を行わない機関や分野(警察、医療関係)では使用され続けている。2020年に新型コロナウイルス感染症の集計が行なわれた際には、ファクシミリによる報告が少なからず行われ、現場が集計に手間取って恐慌をきたす場面もあった。
この種の伝送は最初から「ファクシミリ」という呼称で定まっていたわけではなく、様々な呼ばれ方をしてきた歴史があり、たとえば「telephotography テレフォトグラフィ」や「telecopy テレコピー」などと呼ばれていたこともある。
「ファクシミリ facsimile」という用語はラテン語のfac simile(=「同じものを作れ」)←{facere(為す)+simile(同一)}が語源である。「facsimile」は印欧語圏では、「(原版の)忠実なコピー」という意味が第一義的な意味であり、現在もそちらの意味でも広く使われており、たとえば「写本のファクシミリ(=忠実なコピー)」「肉筆の手紙のファクシミリ(=忠実なコピー)」などと日常的に言っており、「facsimile」という言葉のほうを中心に据えてみると、(この記事で説明している)図像の伝送装置は、実は、1番目ではなく、2番目に位置する用法として用いられている。
「FAX(ファックス)」は本来、ゼロックス社のファクシミリに附された登録商標であったが、商標の普通名称化により広く使われる言葉となっている。
いろいろな分類法があるが、ひとつには document facsimile 模写電送 / photograph facsimile 写真電送」と分類する方法がある(あった)。模写電送は、白か黒の2階調しかなく文字や線のようなものしか送れないものであり、写真電送とは中間調を含むも画像つまり白黒写真のようなものも送れるものである。
有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ(無線ファクシミリ) と分類することもある。 日本の電波法施行規則内で「ファクシミリ」と呼ばれているのは、後者のラジオファクシミリのことで、「電波を利用して、永久的な形に受信するために静止影像を送り、又は受けるための通信設備」と定義している(電波法施行規則2条1項23号)。
伝送経路の歴史的な変化、広がりを踏まえつつ、有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ / 電話線(電話網)ファクシミリ と分類することもある。
標準化をもとにG1 / G2 / G3 / G4などと分類することもある。
最終的に出力される紙(「記録紙」)を基準にして(FAX機を) 感熱紙FAX / 普通紙FAX などと分類することもある。
1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセット、その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす方式を発明した。振り子の先の接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。
1862年、カセルはベインの同期が難しいという欠点を改良した。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取ることを発明した(Pantelegraph)。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。
1848年、ベイクウエルは金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付け、金属針を接触させて、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査(スキャン)してその信号を送信した。
1906年、コルンとベランはイラスト、文字等が書かれた用紙を回転する円筒に巻き付け、用紙の一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させて全体を走査する。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分を光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変えて送信する。
ドラム回転式は原稿を1枚ずつセットするので操作が煩雑で多数の原稿に時間を要する等の問題があり、平面走査による操作性の改善が求められていた。
オプティカル・ファイバは極細に引き延ばした糸状のガラスである。そのガラス糸の端面に光を当てると光は直進し、ほとんどロス無く他端に到達する。そのファイバ約1,500本を横(原稿幅)一列に並べて、読み取りする原稿に接触させる。原稿に光を当てて白・黒の反射光を対応する1,500本のオプティカル・ファイバで反対側に送る。反対側の終端はセンサ側で、配列の順序はそのままで円形に固定し、その円形に対向して円盤を配置、モータで円盤を回転する。円盤にはファイバ終端の円形に相当する位置に1本のファイバがセットしてあり、円盤の回転により1,500本のファイバをスキャンする。ファイバの他端から出た光はフォト・マルチプライア(光電子増倍管)で電気信号に変換される。このオプティカル・ファイバは「ライン・サークル・コンバータ」と呼ばれ、オリンパス光学が開発した。
原稿に蛍光灯の光を当てレンズでフォト・ダイオード・アレイに焦点する。アレイはフォトダイオード512個を一列に並べてLSI化したものである。主走査方向256mm幅の原稿を4分割し4個のフォトダイオードアレイ面に焦点を合わせる。4×512個のフォトダイオードの出力を順次取り出すことにより1ラインの画像信号をスキャンする。8pel/mmの解像度を得る。
原稿に蛍光灯で光を当てレンズで一列に並べたフォトダイオードに焦点を合わせる。各フォトダイオードに対応してCCD(Charge Coupled Device Image Sensor)が配置されている。フォトダイオードが受けた光の強さを対応するCCDに伝えて記憶し、CCDを順次読み出すことによりスキャンする。
照明を蛍光ランプからLEDアレイに変えて長寿命化、屈折率分布型レンズアレイを使用して光路長を30cmから1cmに短縮、センサにCdSタイプを使用したスキャナが開発された。大幅な小型化が図られ、読み取り部のユニット化が実現した。
完全な密着イメージセンサは京セラが1996年に発売したのが最初で、その後各社が開発し、各社のファックスで広く採用された。
本や雑誌、薄い用紙や小さい用紙等の原稿をガラス面に伏せてセットしてスキャンする。現在のコピーマシーンで採用されている自動給紙機構を持つ高性能ファックスが出現した。
1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させた。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。
1848年ベイクウエルは金属円筒に送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示された。
1906年、コルンとベランは送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させた。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。
OFT(Optical Fiber Tube)は表示面にオプティカル・ファイバ(極細に引き延ばした糸状のガラス)を束にして板状にしたプレートを使用したCRT(ブラウン管)である。内面に塗布された蛍光体に電子が衝突して発光し、ファイバを直進して表示面に出てくる。表示面に記録紙を密着して感光させる。一般のCRTは光が発散するが、OFTではファイバの方向へ光が直進するので、レンズにより焦点を合わせる効果と同様な解像度の良い画質となる。FAXに使用するOFTは表示面が扁平な形状で、横幅は用紙の幅(A4の場合約210mm)、縦方向は約1cmである。
記録用紙(ZnO紙)を帯電器に通した後、OFTのファイバー・プレートに密着して少しずつ移動する。帯電した用紙はOFT表示面からの光に当たったところが放電(露光)して潜像をつくり、次工程で黒色微細粉をいれた液体で湿したローラと接触(液体現像 : ローラ現像)させることにより、記録紙の帯電していない箇所に黒色粉が付く(現像、定着)。
マルチスタイラスは32本の針状電極を微細間隔で一直線に並べてブロック化したものである。そのブロックを64個並べて1列2,048本とし、静電記録紙に密着させる。白・黒の信号により金属針の電圧をオンオフして記録紙に帯電させて潜像をつくる。記録紙を現像器に通すと帯電した箇所に黒色微細粉が付く。その記録紙をローラに通して圧力をかけ、黒色微細粉を紙の繊維間に押し込んで定着させる。
感熱記録紙は熱により黒色を発色する。FAXの場合は8個/mmの間隔で横一線に並べた発熱体(サーマルヘッド)を記録紙に密着させて画像を得る。多くの普及型FAXで採用されている。構造が簡単でコストが安いが、記録紙が長期保存により退色する短所がある。
感光ドラムを「帯電」させ、レーザーで照射すると、照射された箇所の電荷が放電して電荷像(潜像)を作る。帯電させた黒色の微細な粉末(トナー)を感光ドラムに近づけると電荷のない部分にのみトナーが付着する(「現像」)。感光ドラムに用紙を押しつけて、トナーを用紙に「転写」する。ドラムを通過した用紙に強いフラッシュ光を当てトナーを用紙に溶着させて「定着」をする。印字品質が良く印刷速度が速いが、複雑な構造で、コストが高い。現在ではレーザー・プリンタで使用されている。
普通紙の上にフィルム状の熱転写リボンを重ねて発熱体(サーマルヘッド)に接触させると、熱が加わった箇所にリボンの色(FAXの場合は黒)が転写される。初期のFAXはロール紙が使用されていたが、最近ではA4またはB4サイズのカット紙(市販のコピー用紙〈普通紙〉)が使用されている。また印刷はカット紙の普及に伴い、多くは各社純正品、ないしはそれを模した互換品のロール式インクリボンが用いられているが、メーカーによっては複合機(インクジェットプリンター)により、専用のインクカートリッジを用いる場合もある
1ラインごとに画像データを処理してデータを圧縮する符号化方式である。一般の文書の画素データ(pel)は黒または白の連続が多いことを利用したデータの圧縮方法である。黒(または白)画素の連続した数(ランレングスという)をコードに変換して送信し、受信側で元の画素に復元する。出現頻度の高いランレングスから順番に短いコードに変換して、画像データを符号化することにより、送信データを短く(圧縮)することができ、送信時間を短縮することができる。FAXでは従来の1/6になりA4原稿を約1分で電送できる。
1980年CCITTにおいて、G3規格の中でMH(Modified Huffman)符号化方式としてランレングスに対するコードが標準化され、「1次元符号化方式」として制定された。
文字や簡単な図形が中心の原稿は、画像データの上の行と下の行はほとんど同じで、変化は少ない。この性質を利用してデータ量の大幅な圧縮を図ったのがRAC(Relative Address Coding)である。RACは下の画像データを一段上のデータ(参照ライン)と比較して、変化している箇所を検出し、その位置を符号化してデータ圧縮をする方式である。
参照ラインのデータが圧縮なしの場合にMR(Modified Read)方式、参照ラインのデータがMH方式(上記「1次元符号化方式」)で圧縮されている場合はMMR(Modified Modified Read)方式という。1980年CCITTによるG3規格の中では上記「1次元符号化方式」のオプションとして「2次元符号化方式」として制定された。
1次元符号化方式(MH)は“白”と“黒”の2種の変化であるが、この方式は二ラインの“白・白”、“白・黒”、“黒・白”、“黒・黒”の4つの組み合わせがある。この組み合わせの変化とランレングスのデータを送信する。「2走査線一括ランレングス符号化方式」とも呼ばれている。
ファクシミリのG3規格には「標準モード」とオプションとして「ファインモード」がある。標準モードでは装置の縦方向(副走査)はmm当たり3.85ライン、ファインモードで7.7ラインであり解像度が良い。しかし、ファインモードはデータ量が2倍で、伝送時間が2倍長くなるという短所がある。ALDC(Adaptive Line Dencity Control)は、複雑な図や細かい文字かどうかを送信データのランレングスで判定してファインモードと標準モードに自動的に切り替える機能である。
FAXの送信データを蓄積交換装置に送ってメモリーし、後宛先FAXに送信する。1979年に商品化された蓄積交換装置は現在のFAXへ継承されている下記のように多数の機能を実現している。
上記の機能は1982年にはフロッピー・ディスク内蔵のファクシミリに受け継がれ、1986年にはRAMを画像メモリーとしたファクシミリ引き継がれた。
受信側のFAXから要求して送信側FAXのデータを送信させる機能である。受信側FAXのキー操作により、登録されたFAXに接続し、文書等を送信させて受信する。電話料金が安価になる遠距離・夜間等の通信に利用された。1980年に実用化された。その後、1984年以降では、メモリーを内蔵するFAXが商品化され、同報装置無しでこの機能を実現した。
FAXの画像データをメモリに蓄積し、宛先のFAXのメモリに高速で伝送する。1982年に世界で初めてフロッピーディスク内蔵のFAXが商品化され、A4サイズを世界最高速の9秒で電送(G3規格は1分)した。この方式を「スーパー伝送」と呼んだ。電話回線を利用してのファイル転送の先駆けとなった。
同報先の1台のFAXにデータを送信し、そのFAXから近隣のFAXに同報する。国際回線や東京・大阪間等の遠隔地の多数のFAXに同報する場合に効率が良く、低コストで伝送できるシステムである。1982年に商品化された。
FAXの画像データを圧縮して送信する際、途中の通信回線でノイズやひずみ等でデータが間違った場合、受信した画像が大きく乱れる。この対策として、受信データの間違いを修正する方法がECMである。FAXの画像データを分割して、その一つ一つの後に数ビットの補正データを附加して送信する。受信側では受信した画像データと補正データを照合して、正しく受信した場合はそのまま、エラーを起こしたデータに対しては補正データにより修正して印刷する。1987年(昭和62年)にCCITTがG3規格のオプションとして採用した。
電話回線経由の電気信号にはノイズや歪みがあり、送信したデータが正しく伝わらないことがある。FAXの画像データを送信した場合、データにエラーがあると画像が乱れ、ひどい場合には文字が読み取れない場合がある。高速伝送は送信時間を短縮できるがノイズや歪みの影響を受けやすい。低速での伝送は比較的にノイズや歪みの影響が少ない。モデムは伝送速度の切り替え機能があるが、当初は自動切り替えの機能を持っていなかった。モデムフォールバックは受信側で電話回線の状況を計測し(SQD : Signal Quality Detection)、品質が良くない場合には伝送速度を下げて品質を確保する機能である。この手法(フォールバック)は現在でもADSL等で採用されている。ステップアップはこの逆で、品質が良い場合に伝送速度を上げる方式である。
FAXは読取部、記録部、シーケンス制御部、データ圧縮・復元部、伝送制御部、モデム部で構成されている。自己診断プログラムにより各ユニットの機能の自動チェック、パターン発生器によるテスト、折り返し伝送テストができ、操作パネルにその結果を表示する。1979年に商品化されたFAXに採用された。
スキャナで読み込んだB4やA3サイズの原稿のデータを、宛先のFAXの記録紙のサイズに合わせて(A3→A4・B4、B4→A4)データ変換して送信する。
誤接続の防止をするために送信側のFAXに宛先FAXの電話番号を表示する。
自動受信待機時は主電源をOFFにし、受信の時点で自動的にONにすることで、大幅な省電力化が図られる。
陸上用では、2011年現在は、家庭用・業務用とも、一般の電話回線やIP電話を利用したG3 FAXがほとんどである。同一メーカー同士の通信の場合には、メーカー独自の手法でデータを圧縮して通信時間の短縮を行っていることが多い。
その他に、パーソナルコンピュータやサーバのFAXソフトウェアの発売企業や、InternetFAXとオンラインストレージとを組み合わせたASPがある。
設置時にFAX本体の設定をダイヤル回線かプッシュホン回線かISDNの何れか契約している回線に正しく設定しなければ正常な送受信が出来ない。また、ADSL等を使用している場合、干渉を避けるため、間にフィルタを取り付ける必要がある。収容される隣接する回線がADSLを使用している場合、影響を受ける場合がある。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA
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Request for Comments
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Request for Comments(リクエスト フォー コメンツ、略称:RFC)はIETF(Internet Engineering Task Force)による技術仕様の保存、公開形式である。内容には特に制限はないが、プロトコルやファイルフォーマットが主に扱われる。RFCとは「コメント募集」を意味する英語の略語であり、もともとは技術仕様を公開し、それについての意見を広く募集してより良いものにしていく観点から始められたようである。全てのRFCはインターネット上で公開されており、誰でも閲覧することができる。
なお、IETF以外の組織・コミュニティにおいても、同様の目的の文書群をRFCと呼称する事例が存在する。
RFCというコンセプトは、1969年にARPANETプロジェクトにおいて生まれた。今日では、Internet Engineering Task Force (IETF)やインターネットアーキテクチャ委員会 (IAB)、およびコンピュータネットワーク研究者の世界的なコミュニティの公式発表の場となっている。
初期のRFCはタイプライターで執筆され、DARPAの研究者にそれをコピーした紙が配布された。現在のRFCとは異なり、初期のRFCの多くは文字通り実際にコメントを求めるものであり、宣言のような響きを避け、議論を促すために"Request for comments"という名前が付けられた。初期のRFCには、特に決まったフォーマットはなかった。現在では、RFCになる前の段階であるインターネットドラフトの文書がこのような形式になっている。ARPANETが1969年12月に稼働し始めると、RFCの配布はARPANET上で行われるようになった。
RFC 1 は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のスティーブ・クロッカーが執筆し、1969年4月7日に発表された「ホスト・ソフトウェア」である。このRFCは、執筆したのはクロッカーであるが、クロッカーとスティーブ・カー、ジェフ・ルリフソンによる初期のワーキンググループでの議論により生まれたものである。
クロッカーが執筆した RFC 3 で「RFCとは何であるか」が最初に定義され、RFCはDARPAのネットワーク・ワーキンググループに帰属するものとされた。ただし、これは正式な委員会ではなく、ARPANETプロジェクトに関心のある研究者のゆるやかな集まりであり、誰でも参加できた。
UCLAにはARPANETの最初のIMP(Interface Message Processor)の一つが置かれていたため、1970年代のRFCの多くもUCLAから発信された。ダグラス・エンゲルバートが所長を務めたスタンフォード研究所のオーグメンテイション研究センター(ARC)は、ARPANETの最初の4つのノードのうちの1つであり、初期のRFCもここから発信された。ARCには最初のInterNICが置かれ、エリザベス・J・ファインラー(英語版)が管理し、他のネットワーク情報とともにRFCを配布した。1969年から1998年までは、ジョン・ポステルがRFCを管理した。1998年にポステルが亡くなると、彼の訃報が RFC 2468 として発表された。
アメリカ連邦政府とのARPANETの契約が切れた後、IETFを代表してインターネットソサエティが南カリフォルニア大学(USC)情報科学研究所(ISI)のネットワーク部門と契約し、IABの指示の下でRFCの発行を行うことになった。
RFCの歴史については RFC 2555 に30 Years of RFCsとしてまとめられている。
すべての RFC が標準というわけではない(RFC 1796 "Not All RFCs are Standards")。各 RFC には標準化プロセスにおける位置付け (status) が定められている。位置付けは「情報 (Informational)」、「実験的 (Experimental)」、「現状で最良の慣行 (Best Current Practice, BCP)」、「標準化過程 (Standards Track)」、「歴史的 (Historic)」のいずれかである。
「標準化過程」はさらに「標準への提唱 (Proposed Standard, PS)」、「インターネット標準 (Internet Standard, STD)」に分けられる(詳しくはインターネット標準を参照のこと)。
なお、非常に古い RFC には「不明 (unknown)」という位置付けのものがあり、もし同じ文書が現在公開されるとしたらどの位置付けになるかは明らかでない。
毎年、エイプリルフールには、ジョーク的な内容を含むRFC(Joke RFC、ジョークRFC)が公開される。また、インターネットに多大な貢献があった人への追悼のRFCが公開されたこともある。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Request_for_Comments
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RFC
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RFC
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https://ja.wikipedia.org/wiki/RFC
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メルコスール
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メルコスール(スペイン語: Mercosur; Mercado Común del Sur、ポルトガル語: Mercosul; Mercado Comum do Sul、英:Mercosur; Southern Common Market)は、1991年のアスンシオン条約と1994年のウロ・プレト議定書により設立された、南アメリカの貿易圏である。
日本語では、南米南部共同市場または南米共同市場と訳される。日本の外務省やJETRO、JICAなどは、前者を用いることが多い。
アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイが正加盟している。ベネズエラは正加盟国であったが、2016年から加盟資格を停止されている。準加盟国はボリビア、チリ、コロンビア、エクアドル、ガイアナ、ペルー、スリナム。
メルコスールの起源は、ラテンアメリカの地域経済市場の構成に関する議論に関連している。これは1960年のラテンアメリカ自由貿易連合条約にさかのぼり、1980年代にラテンアメリカ統合連合がそれを継承したことに由来する。当時、アルゼンチンとブラジルはイグアス宣言(1985年)に署名して二国間委員会を設置し、翌年には一連の貿易協定を締結するなど、この問題を進展させていた。1988年に両国間で調印された統合・協力・開発条約は、共通市場の確立を目標としており、他のラテンアメリカ諸国も参加できるようになっていた。パラグアイとウルグアイもこのプロセスに参加し、4カ国はアスンシオン条約(1991年)の調印国となった。この条約は南部共同市場を設立したもので、地域経済の活性化、物、人、労働力、資本の移動を目的とした貿易同盟である。当初は自由貿易圏が設定され、加盟国はお互いの輸入品に課税や制限をしないことになっていた。1995年1月1日からは、この地域は関税同盟となり、すべての加盟国が他国からの輸入品に同じ割当量を課すことができるようになった(共通対外関税)。翌年にはボリビアとチリが加盟国となった。他のラテンアメリカ諸国も加盟に関心を示している。
メルコスールの目的は、自由貿易とモノ・人・通貨の流動的な移動を促進することである。設立以来、メルコスールの機能は何度も更新され、修正されてきたが、現在は関税同盟限定されており、ゾーン内の自由な貿易と加盟国間の共通の貿易政策が存在する。2019年の名目国内総生産(GDP)は約4.6兆ドルで、世界で5位の経済圏となっている。この圏は人間開発指数でも上位に位置している。メルコスールは、イスラエル、エジプト、日本、欧州連合などと自由貿易協定を締結している。
欧州連合(EU)のような自由貿易市場の南米での創設、具体的には域内での関税撤廃と域外共通関税を実施することを目的として、1991年にパラグアイのアスンシオンでアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルの4カ国が調印。1994年12月には4ヵ国首脳がブラジルのオウロ・プレットに集まり最終議定書に調印し、1995年1月に発足した。
加盟国は2004年12月以降アンデス共同市場(アンデス共同体)と相互に準加盟の形で協力関係にある。
2005年発足予定であった米国主導の米州自由貿易地域 (FTAA) 計画に先行するものとみる期待もあったが、2005年11月4日、5日にマル・デル・プラタで開かれた第4回米州首脳会議で当時のメルコスール諸国とベネズエラの反対でFTAA計画は頓挫している。この後にベネズエラがメルコスールへの加盟を表明した。
ベネズエラを加えて、南米全体の人口の約7割に当たる2億6千万人、国内総生産全体の75%を占めることになった。ベネズエラと他の加盟国との間の貿易関税は2010年から2013年にかけて撤廃される予定である。
アルゼンチンのフェルナンデス大統領とブラジルのルラ大統領は、2008年2月22日、メルコスールを強化することを謳った共同声明を発表した。声明は、不干渉と国際法の尊重が両国の基本原則と位置づけている。
2010年8月3日、アルゼンチン西部のサンフアンで首脳会議を開いた。ベネズエラ・コロンビア間の危機を打開するために、南米諸国連合(UNASUR)の首脳会議をできるだけ早く開催するように呼びかけた。会議には加盟国のアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ・パラグアイと準加盟国のチリ・ボリビアの大統領が参加した。正式加盟手続途中のベネズエラのチャベス大統領に代わり、マドゥロ外相が参加した。
2011年12月20日、ウルグアイの首都モンテビデオで首脳会議が開かれた。最終宣言で4か国は、南米地域で起こった「重大な人権侵害について記憶、真実、正義を追求する」立場を再確認し、左翼政党や労組活動家を弾圧した「コンドル作戦」をはじめ南米南部における共同弾圧網に関して情報を得る専門グループを設立する、と述べた。
2019年6月28日、欧州連合(EU)と自由貿易協定(FTA)を締結することで合意。欧州自由貿易連合(EFTA)、カナダ、シンガポール、韓国ともFTA締結を交渉している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%AB
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ウルグアイ
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ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。
正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)。
国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、語源はチャルーア語で「ウル(という名前の鳥)の川」を意味する。また、正式名称の東方とは、ウルグアイ川の東岸にあることに由来し、独立前に同地を「東方州(バンダ・オリエンタル)」と呼んだことに因む。
現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア人とグアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。
1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。
平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争(英語版)で先住民グアラニー人がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。
フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス(英語版)はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ(英語版)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。
1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ(英語版)達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス(英語版)によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。
ブラジル帝国とラ・プラタ連合州とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。
しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ(英語版)がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ(英語版)の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。
独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ(英語版)がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。
しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。
20世紀に入り、最後となった内戦に勝利したコロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によってスイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去するころにはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。
バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦、朝鮮戦争のころまで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。
1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。
トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス(英語版)が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。
1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。
2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。
米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスール、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールは首都モンテビデオに事務局がある。
立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から、1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。
国会は二院制で、上院の定員は30名、下院は99名であり、任期は5年となっている。
トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位と、ラテンアメリカでは第1位である。
ブラジルとアルゼンチンという対立する二大国に挟まれた地政学的関係から、伝統的に民主的な政治体制を維持しており、政治的混乱の少なくないラテンアメリカの中で、ヨーロッパを参考とした高い教育水準と高度な福祉を維持し、その安定ぶりから「南米のスイス」とも呼ばれた。第二次世界大戦後は、そのスイスの連邦参事会制度を参考にバッジェが構想した、大統領制に代わる複数行政制度が1952年の憲法で施行され、9人の執政官からなる執政評議会制度が完成し、ウルグアイ人は自国を「民主主義の実験室」と呼んだ。しかし、1960年代より頻発した左翼ゲリラ「トゥパマロス」によるテロに対処することができず、1967年の憲法改正で大統領制が復活した。
1973年、戒厳令を敷いた軍によってトゥパマロスが鎮圧されると、その功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、事実上の軍政が敷かれた。これにより、ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的・権威主義的な軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は高く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票が否決され、1985年に民政移管されることになった。
2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙(スペイン語版)で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ候補を抑え当選した。これにより、1852年以来のコロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。
2009年10月末に実施された大統領選挙は、上位2人による決戦選挙にもつれ込んだ。その結果、11月29日に拡大戦線のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した。ムヒカは、バスケス前政権の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。
志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員がコンゴ民主共和国及びハイチを中心に合わせて12のPKOに従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。
ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。
国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。
ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない。そのため天然林は伐採禁止である。
国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカピバラやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。
ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は標高 513.66 m (1,685.2 ft) のカテドラル山である。
ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ(ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメントとの双子都市)の人々にはポルトゥニョール・リヴェレンセ (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。
6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。
平均気温:春:17°C、夏:23°C、秋:18°C、冬:12°C
1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。
IMFの推計によると、2013年のウルグアイのGDPは約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。 メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。
ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった重工業化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わるころから代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品モノカルチャー経済だったウルグアイはバッジェの福祉国家体制の支出を維持できずに破綻した。
農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。
ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品は「有機(オーガニック)食」「自然食」といった市場に適している。
牛肉はウルグアイの輸出総額の6分の1を占める主要輸出品である。
日本はウルグアイから、食肉の安全を守る技術を学ぶ研修員を1978年から受け入れており、東日本大震災の際にウルグアイ政府は、「日本の皆様が元気になりますように」との日本語のメッセージが書かれた特別包装のコンビーフ缶4600個を被災者に送っており、ウルグアイ食肉協会は「研修事業を通じて日本への愛着が培われた」と話している。
ウルグアイ産の牛肉は2000年に口蹄疫の発生から長らく日本に輸出されていなかったが、2019年に日本への輸出が解禁された。
東部のブラジルとの国境付近の県では米が栽培されている。北部は亜熱帯に近くなり、アルティーガス県では砂糖黍栽培が盛ん。
近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。
瑠璃、アメジスト、石灰岩などを産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。
前述のように森林資源に乏しい国である。天然林は伐採禁止でありユーカリや松類を主体として人工林が利用される。用途は薪炭用・建築用・パルプ用など多岐にわたっている。消費の場として国内市場は規模が小さいため主に輸出されているが、国内に加工技術や品質管理基準がないために、輸出先の一方的な条件で取引されがちな状況である。近年ユーカリによる林業の成長が期待され、そのためのサムライ債が発行された。
総人口のうちヨーロッパ系白人が87.7%、黒人が4.6%、インディヘナおよびメスティーソが2.4%を占める。極僅かながら日系人などのアジア系も存在する。
かつてバンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地の住人は、自らを「オリエンターレス(東方人)」と呼び、独自のアイデンティティを持っていた。19世紀まではスペイン植民地の中でもコスタリカと並んで特に辺境の地であったが、18世紀後半からの都市の発展により、黒人奴隷がポルトガルの奴隷商人によってアンゴラやコンゴ付近や赤道ギニアから移入された。先住民のグアラニー人は18世紀にパラグアイに撤退したが、地名にその影響を残している。一方独立戦争への参加により、1,000人ほどにまで数を減らしていたチャルーア人は、1831年のリベラ大統領の掃討作戦により虐殺され、絶滅した。この事件はウルグアイ人の心に大きなトラウマとなって残り、そのことを悔いてか、新聞のアンケート調査によれば、今でも約半数のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の事件の日が近くなると、モンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされる。2002年には、最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりに返還された。
ウルグアイの人口は、1828年の独立時には長年の戦争により74,000人程であり、パンパ開発のために他のラテンアメリカ諸国と同じように、ヨーロッパから大規模に移民を呼ぶようになった。こうしてスペイン人、特にガリシア出身者を中心とした移民がやってきた。他に多かった移民はイタリア人であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、フランス人と共にモンテビデオに定住した。また、独立直後の時期にイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込み、近代的地主となった。
その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。出生率はアルゼンチンより低く、ラテンアメリカでは最も低い部類に入る。
19世紀から20世紀にかけてウルグアイに移入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いのはスペインとイタリアで、次いでフランス、ドイツ、ポルトガル、イギリス、スイス、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、ウクライナ、リトアニア、エストニア、ラトビア、オランダ、ベルギー、クロアチア、ギリシア、スカンディナヴィア、アイルランド、そしてアルメニアとなる。
移民受け入れ国だったウルグアイも、軍政期の1963年から1985年にかけて、推定約33万人、国民の約10%が国外脱出した。ただし、こうして去っていった人々の中には民政に移管した1980年代以降に帰国した者もいた。
2014年12月7日、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者を受け入れる方針を示していたウルグアイ政府は、アメリカ軍機に輸送され、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者が到着したことを受けて、「ウルグアイは世界中から移民を受け入れて成り立ってきた国であり、また平和のための国際的手段の世界の前衛として、歴史的に多くの難民などを受け入れてきた。グアンタナモ収容者の受け入れは、このようなウルグアイの歴史の延長線上にあり、人道的な理由によるものである。ウルグアイ政府は難民申請に応じ、彼らに対し、国際的人権保護の基準を厳密に維持するものである。また、兄弟国キューバへの封鎖の解除、プエルトリコ独立の闘志で政治的囚人のオスカル・ロペス・リベラ及びキューバ人囚人アントニオ・ゲレロ、ラモン・ラバニーニョ、ヘラルド・エルナンデスの釈放を改めて要求する」という見解を表明した。
近年はシリア内戦に伴うシリアからの難民を受け入れている。
憲法上の明記はないものの、スペイン語(正確には一方言のリオプラテンセ・スペイン語)が事実上の公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはウルグアイポルトガル語(フロンテイリソ方言)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラビア語を話すアラブ人のコミュニティが存在する。
ウルグアイでは1918年憲法によって国家とカトリック教会が法的に分離した。国民の62%はカトリックを信仰し、少数派として4%がプロテスタント、3%がユダヤ教であり、残りの31%が無宗教である。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ系移民に無政府主義者が多かったことから、無信教の国民が多く、またカトリック教会の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。
2003年の推計では、15歳以上の国民の識字率は1996年の調査で98%であり、これはラテンアメリカではアルゼンチン、キューバ、チリと並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、共和国大学(スペイン語版)(1849年)、教員養成所であるアルティガス師範学校(スペイン語版)などが挙げられる。
ウルグアイの公立学校には、しばしば国の名前がついているものがあり、「日本」学校は4つある。
ウルグアイ唯一の総合国立大学である共和国大学(スペイン語版)では、日本からシニアボランティアが講師として派遣されており、アジア言語で唯一、日本語講座が正規の授業として開講されており、ウルグアイは日本への関心が高い国である。
2013年より、同性婚が法的に可能となった。
国連の調査によると、ウルグアイのジニ係数は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。
かつては中南米諸国の中で安全な国と言われてきたが、2012年8月に内務省が発表した同年7月までの犯罪統計は、前年同期に比べて殺人が56.7%増、強盗が5.3%増と、凶悪犯罪が急増している。特に人口の集中しているモンテビデオ県、カネローネス県、マルドナド県において犯罪が多発している。また、少年犯罪への処分が軽く、青少年向けの収容施設も十分に機能していないため、出所後の再犯率が高くなっている。
銃器の所持について規制はあるものの、比較的容易に入手する事ができる。また、不法な流通により、国民の3人に1人は銃器を所持していると推定されており、これを利用した凶悪犯罪も多発している。2013年、世界では初のマリファナなどの大麻を合法化した。密売価格を下落させるのが狙いという。
隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイではアサードやチュラスコ、チョリソなど肉を多く食べる。特に牛肉が好まれる。文化的な理由で馬肉は忌避されるが、輸出は行っている。
イタリア移民が多いためスパゲッティなどのパスタ類も広く食べられている。その他の料理にはエンパナーダ、ドゥルセ・デ・レチェなどがある。
ラ・プラタ諸国の中でも特にマテ茶を好む国であり、アルゼンチン人とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壺を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶をアマルゴ(砂糖なし)にして飲むことを好む。
1819年にアルティーガスに仕えた連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴ(スペイン語版)がガウチョ文学(英語版)を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。
また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学の中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドー(スペイン語版、英語版)の出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『アリエル(スペイン語版)』(1900)など。ホセ・マルティと同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚したころのウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。
20世紀以降の作家には、ノーベル文学賞に数回ノミネートされた女流詩人のフアナ・デ・イバルボウロウ(英語版)や、セルバンテス賞作家のフアン・カルロス・オネッティ、『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』(1971)で知られるジャーナリストのエドゥアルド・ガレアーノ、他にもマリオ・ベネデッティやフェリスベルト・エルナンデス、クリスティーナ・ペリ・ロッシ(スペイン語版、英語版)らが挙げられる。
タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサの名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「ラ・クンパルシータ」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身のヘラルド・マトス・ロドリゲスである。
多くのミュージシャンは市場規模の違いからブエノスアイレスやスペインに渡って活動する傾向があるため、古くはフランシスコ・カナロ、フリオ・ソーサ、ドナート・ラシアッティ、ルベン・ラダ、エドゥアルド・マテオから、ハイメ・ロース、スペイン語で初めてアカデミー賞を取った、ホルヘ・ドレクスレルに至るまで、アルゼンチンやスペインの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。また、ロックが盛んでウルグアイのロックはブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカではウルグアヤン・インベイジョンとも呼ばれる。
ウルグアイ出身の画家としては、歴史画のフアン・マヌエル・ブラネスやギジェルモ・ラボルデ、ペトローナ・ビエラなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画のホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。
ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「ウイスキー」(2004)のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは著名な映像作家として挙げられる。
ウルグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。
ウルグアイサッカー協会(AUF)によって構成されるサッカーウルグアイ代表は、1930年に行われたFIFAワールドカップの第1回大会で初代優勝国となり、ブラジルで開催された1950年の第4回大会でも、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムでブラジル代表を逆転で破り、2度目の優勝に輝いている。なお、この試合はブラジル側から見た「マラカナンの悲劇」である。さらにオリンピックでも、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪で大会連覇を達成している。
しかし、FIFAワールドカップの1970年大会でベスト4入りして以降は優勝候補から遠ざかっており、長らく古豪と呼ばれ低調が続いていたが、2010年大会では南米予選を5位となり、北中米カリブ海4位のコスタリカ代表との大陸間プレーオフに勝利し本大会出場を決め、その本大会では40年ぶりのベスト4入りを果たした。さらに翌年のコパ・アメリカ2011では、その勢いのまま6大会ぶり15回目の優勝を果たし、サッカー強豪国として復活を強く印象付けた。
1900年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設されており、リーグは120年以上の長い歴史を誇っている。主なクラブとしては、ペニャロール、ナシオナル、デフェンソール・スポルティングなどが挙げられる。さらにウルグアイ人の著名な選手として、ディエゴ・ゴディン、ディエゴ・フォルラン、ルイス・スアレス、エディンソン・カバーニ、フェデリコ・バルベルデなどが存在している。
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2,852 |
Network News Transfer Protocol
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Network News Transfer Protocol(ネットワーク ニュース トランスファー プロトコル、NNTP)は、インターネットアプリケーションプロトコルのひとつである。おもに、ネットニュース (Usenet) の記事を読むことと記事を投稿することのために使われる。記事はニュースサーバ間を相互に配送される。カリフォルニア大学サンディエゴ校のBrian Kantorとカリフォルニア大学バークレー校のPhil LapsleyがNetwork News Transfer Protocolの仕様であるRFC 977を1986年の5月に完成させた。他の貢献者として、Baylor College of MedicineのStan BarberとApple ComputerのErik Fairがいる。
UsenetはもともとはUUCPネットワーク上での使用を前提として設計された。つまり、ほとんどの記事は電話回線で直接コンピュータ同士を接続して配送されていた。読者と投稿者は同じニュースサーバにログインし、そのサーバのディスクにある記事を直接読んでいた。
LANとインターネットが一般に普及すると、パーソナルコンピュータ上で使用できるニュースリーダーと、インターネット上で記事を配送する手段が必要とされた。インターネットで互換性のあるファイルシステムがまだ広くは利用できなかったため、SMTP に類似した新しいプロトコルを作ることになった。
ウェルノウンTCPポート番号である119番はNNTPのために予約されている。クライアントがSSLでニュースサーバに接続するときはTCPのポート563番が使われる。これはNNTPSと呼ばれることがある。
最近では、Webで利用可能なBBSやその他インターネットコミュニティサイトが普及したことと、NNTPがボットネットの活動に利用されることが多くなったことが原因で、殆ど利用されなくなってきている。
1990年代のはじめにNNTP標準が策定されようとしていたとき、NNTPをクライアント側での使用に特化したもの (NNRP) が提案された。このプロトコルは決して完全には実装されていなかったが、INNに付属するnnrpdというプログラムでその名前が使われ続けている。結果として、クライアントにとって使いやすい標準的なNNTPコマンドのサブセットが、今もNNRPと呼ばれている。
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北大西洋条約機構
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北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋同盟(きたたいせいようどうめい)とも呼ばれ、北米2か国と欧州29か国の計31か国が加盟する、北大西洋両岸にまたがる集団防衛機構である。
NATOには超国家的な中央機構は存在しておらず、その盟主は「各加盟国の政府それぞれ」であり「各国政府の権利は平等」とされている。そのため中央機関であり、加盟国の政府代表が参加する北大西洋理事会(英: North Atlantic Council、NAC)においては、あらゆる議案が全会一致によって承認・決定されている。多数決の制度は採用されていない。
理事会ではNATOが抱えるあらゆる問題が協議され、各加盟国からの代表によって週1回行われる「常設理事会」と、慣例上年2回行われる外相・国防相など閣僚級の理事会、さらに臨時で行われる首脳会合などによって意思決定が行われる。この席上においてNATO事務総長は理事会の実施する各種会議の議長としての役職を担い、事務総局はその補佐を行う。
また一時期フランスがNATO軍事機構からの脱退、およびその理由として挙げられた「アメリカ合衆国連邦政府(アメリカ軍)主導による軍事計画の進行」という事由から、特に軍事関係の意思決定は理事会ではなく各国の国防相により構成される「防衛計画委員会」によって行われる。また核問題に関しては専門の「核計画グループ」も存在しており、核に関連する項目に関しては理事会と同等の権限が付与されている。
これら理事会・防衛計画委員会の下にはさらに、この2つの組織を支援するための常設委員会が設置されており、また必要にあわせて臨時の委員会も設置が可能となっている。
軍事機構に関しては、「軍事委員会」が理事会と防衛計画委員会の決定のもとでNATO軍の各級司令部を統制する。この軍事委員会は任期制の委員長と各加盟国軍の参謀総長クラスの将官によって構成され、下部組織として加盟国の大将・中将により構成される『常設軍事代表委員会』、各国軍の派遣幕僚による「国際参謀部」が付設されている。
当初は軍事計画の立案を実施する「常設グループ」(アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.に設置)と「地域計画グループ」(各地域に設置)のみが設置されており、本格的な軍事機構が設置されるのは旧西ドイツが加盟して以降であった。軍事機構の成立後、NATOの各級司令部は概してアメリカ方面と欧州方面とに分かれており、その組織機構の大半は欧州に集中している。
これらの組織は地域レベルの司令部や特定種類の部隊・集団の統括組織としての役割を持つが、平時において下部組織に対しては査察権限のみを有し、指揮統制権は戦時にのみ発生するものとされている。ただし、航空関係の各部隊は即応性を求められることもあり、その大半が既に各級司令部の指揮下に収められている。
歴史的背景から、米軍はNATO諸国に多くの部隊を配置している。以下各国ごとの米軍駐留状況を示す。
第二次世界大戦後に1949年4月4日にアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で調印された北大西洋条約に基づき設立された。略称は英語で NATO(ナトー、発音: [ˈneɪtoʊ] "ネイトウ"、North Atlantic Treaty Organization)、フランス語で OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)。NATOは集団安全保障のシステムであり、独立した加盟国は第三国(者)による攻撃から互いに防衛することに合意している。冷戦時代、NATOはソビエト連邦や東側諸国などで構成されるワルシャワ条約機構(1955年-1991年)の脅威に対する牽制の役割を果たし、ソ連崩壊後もバルカン半島、中東、南アジア、アフリカで軍事作戦を展開してきた。2022年ロシアのウクライナ侵攻に対しては、参戦はしていないもののウクライナへ軍事援助や情報を提供している(後述)。
NATOの本部はベルギーの首都ブリュッセルにあり、欧州連合軍最高司令部は同国のモンス近郊にある。NATOは東ヨーロッパにNATO即応部隊を配備しており、NATO加盟国の軍隊を合わせると、約350万人の兵士と職員を保有する。2020年時点の軍事費合計は、世界の名目総額の57%以上を占めている。加盟国は、2024年までにGDPの少なくとも2%という目標防衛支出を達成または維持することに合意している。
NATOは12か国の設立メンバーで結成され、これまでに8回新メンバーを加え、直近では2023年4月にフィンランドが加盟した。NATOは現在、スウェーデンの加盟申請を手続き中であり、このほかボスニア・ヘルツェゴビナ、ジョージア、ウクライナを加盟希望国として認めている。
旧ソ連の領土と軍事力の大半を継承したロシア連邦は、NATOの「平和のためのパートナーシップ」プログラムに参加しているNATO加盟国以外の20か国のうちの1か国であるが、一方で旧東欧諸国のNATO加盟を「NATOの東方拡大」と呼んで激しく反発している。2022年にロシアがウクライナに侵攻したことにより、それまで中立国だった北欧のフィンランドやスウェーデンもNATO加盟を申請する外交政策の歴史的転換を行った。
第二次世界大戦がナチス・ドイツなど枢軸国の敗北で終わり、アメリカ合衆国や西欧諸国は、東欧を影響圏に置いた共産主義国家であるソ連の脅威に直面し、東西冷戦が始まった。西欧では共同防衛条約として1948年にブリュッセル条約が結ばれた。これには、ドイツの再侵略に対する警戒が条約文に明記されていたが、実態としてはソ連に対抗する意図があった。アメリカ合衆国の外交姿勢には伝統的な孤立主義があったが、アメリカ合衆国上院において1948年6月11日にバンデンバーグ決議がなされ、集団防衛体制への参加が認められた。イギリス外相のアーネスト・ベヴィンらは、アメリカ合衆国も含めた共同防衛条約の成立に動き、1949年4月4日に北大西洋条約が調印された。
結成当初は、ソ連を中心とする共産圏に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカ合衆国を引き込み、ロシア(ソ連)を締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)という、初代事務総長であるヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように、欧州諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対する一つの回答でもあった。
当初はアメリカ合衆国などの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(「モーゲンソー・プラン」も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海艇部隊以外の国軍を持つことは許されず、アメリカ合衆国、フランス、イギリス、ソ連の4か国が治安に責任を担っていた。しかし、冷戦の開始とともに西ドイツ経済の復興が求められ、主権回復後の1950年には西ドイツの再軍備検討も解禁された。西ドイツは新たな「ドイツ連邦軍」の設立とNATOへの加盟準備を始めたが、フランスなどはドイツ再軍備とNATO加盟に反対し、欧州防衛共同体構想で対抗した。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、ド・ゴール主義者たちの反対によりフランス議会で否決され、批准に至らなかった。この結果、フランスもドイツ再軍備を認め、ドイツ連邦軍(ドイツ軍)が1955年11月12日に誕生し、西ドイツはNATOに加盟した。一方、この事態を受けてソ連を中心とする東側8か国はワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、ヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって東西に分割されることとなった。
1949年から1954年まで、パウル・ファン・ゼーラントがアメリカ合衆国連邦政府とNATO双方の経済顧問を務めた。
第二次世界大戦から冷戦を通じて、西欧諸国はNATOの枠組みによってアメリカ合衆国の強い影響下に置かれることとなったが、それは西欧諸国の望んだことでもあった。二度の世界大戦による甚大な被害と、1960年代にかけての主要植民地の独立による帝国主義の崩壊により、それぞれの西欧諸国は大きく弱体化した。そのため欧州各国は、アメリカ合衆国の核抑止力と強大な通常兵力による実質的な庇護の下、安定した経済成長を遂げる道を持とうとした。なお、1960年代にはそれまでフランスやイギリスの植民地として加盟していたアルジェリア、キプロス、マルタが独立後に脱退した。
東側との直接戦争に向け、アメリカによって核兵器搭載可能の中距離弾道ミサイルが西欧諸国に配備され、アメリカ合衆国製兵器が各国に供給された(ニュークリア・シェアリング)。途中、フランスは米英と外交歩調がずれ、独自戦略路線に踏み切って1966年に軍事機構から離脱、そのため、1967年にNATO本部がフランス首都のパリからブリュッセルに移転した。一方、戦闘機などの航空兵器分野では、開発費増大も伴って、欧州各国が共同で開発することが増えたが、これもNATO同盟の枠組みが貢献している。航空製造企業エアバス誕生も、NATOの枠組みによって西欧の一員となったフランスと西ドイツの蜜月関係が生んだものといえる。また、1975年にキプロス紛争が事実上終結、ここにギリシャとトルコが介入しており、結果はトルコ側の勝利で、ギリシャが支援していたキプロスからトルコの支援を受けた北キプロスが建国される。ギリシャはキプロス紛争に対してNATOが何ら役に立たなかったとして、NATOを1974年に一時脱退した(6年後の1980年に再加盟)。
西欧はアメリカ合衆国の庇護を利用することによって、ソ連を初めとする東欧の軍事的脅威から国を守ることに成功した。「冷戦」の名の通り、欧州を舞台とした三度目の大戦は阻止された。つまり、NATOは冷戦期間中を通じ、実戦を経験することはなかった。
西側諸国はNATOによる共同防衛と並行して、冷戦時代から冷戦後にかけて、中立国を含めた欧州統合や東側諸国との対話・協力も進めた。デタント期に設立された全欧安全保障協力会議(CSCE)は1995年に欧州安全保障協力機構(OSCE)へ改称された。東欧・旧ソ連諸国と軍事・安全保障について協議する北大西洋協力評議会(NACC)が1991年に発足し、1997年には欧州・大西洋パートナーシップ理事会へ発展した。
1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦が終焉し、続く東欧革命と1991年のワルシャワ条約機構解体、ソ連崩壊によりNATOは大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫られた。1991年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理(非5条任務)に重点を移した。
ユーゴスラビア解体の過程で1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、初めてこの項目が適用され、1995年より軍事介入と国連による停戦監視に参加した。続いて1999年のコソボ紛争ではセルビアに対し、NATO初の軍事行動となった空爆(アライド・フォース作戦)を行い、アメリカ空軍主導で行われた印象を国際社会に与えた。
一方で、ソ連の崩壊によりソ連の影響圏に置かれていた東欧諸国が相次いで欧州連合(EU)およびNATOへの加盟を申請するようになり、西側の外交的勝利を象徴するものとなった。一方これらの諸国の加盟によって問題も発生した。旧東側諸国の多くがソ連の支配を逃れてNATO加盟を希望する一方、ソ連崩壊により誕生した旧ソ連中枢国家だったロシアは「NATOの東方拡大」と称してこれに警戒・反発を表明しているためである。1991年にソ連も参加して発効されたドイツ最終規定条約では西ドイツを継承する統一ドイツにNATO加盟国としての地位を認める一方で旧東ドイツ領域での外国軍部隊駐留を禁止することが規定された。1994年、「平和のためのパートナーシップ」(PfP)によって、東欧諸国との軍事協力関係が進展。1997年5月にNATOとロシアはNATO・ロシア基本文書に署名し、NATOは新加盟国に対して外国軍部隊について大規模な部隊を恒久的配備しないとした。そのため、新加盟国ではNATO加盟国の外国軍部隊は短期間でローテーションで駐留する方法を取っている。1999年に3か国(ポーランド、チェコ、ハンガリー)、2004年に7か国(スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、旧ソ連バルト三国および旧ユーゴスラビア連邦のうちスロベニア)、2009年に2か国(アルバニアと旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア)が加盟。旧ユーゴスラビア連邦からは2017年にモンテネグロが、2020年には北マケドニアが続いた。
こうして旧ワルシャワ条約機構加盟国はソ連以外の加盟国がすべてNATOに参加することになった。旧ソ連各国のうちバルト三国を除くロシア、ウクライナ、モルドバ、ジョージア、ベラルーシなどは加盟していないが、ロシアがウクライナ紛争などで見られるように、東欧・北欧諸国に対して威嚇や挑発を強めているため(「新冷戦」参照)、他の国々にもNATO加盟を模索する動きがある。政府がNATO加盟を希望する国としてはウクライナ、ジョージアがある。
フィンランドやスウェーデンはNATO加盟を求める世論が台頭していたことを背景に、ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、2022年5月18日にNATO加盟を申請し、同年7月5日にブリュッセルで加盟議定書に署名した。なお、両国は加盟申請前からNATOの軍事演習に参加していた。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件への対応については、10月2日に北大西洋条約第5条を発動し、共同組織としては行動しなかったものの、アフガニスタン攻撃(アフガン侵攻、イスラム原理主義武装勢力のタリバンをアフガン政府から追放した作戦)やアメリカ本土防空、領空通過許可等の支援を実施している。その後の対テロ戦争には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。
しかし、2003年のイラク戦争にはフランスとドイツが強く反対したために足並みは乱れ、アメリカ合衆国に追従するポーランドなど東欧の新加盟国と、仏独など旧加盟国に内部分裂した。
2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006年7月にはアフガニスタンでの権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である国際治安支援部隊(ISAF)を率いることとなった。
2002年1月。1992年にワルシャワ条約機構に加盟していた国々との間で調印された「領空開放条約」が発効した。
2000年代後半に入り、アメリカ合衆国が推進する東欧ミサイル防衛問題や、ロシアの隣国であるウクライナ、ジョージア(グルジア)がNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興してプーチン政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった。2008年8月にはグルジア紛争が勃発、NATO諸国とロシアの関係は険悪化し、「新冷戦」と呼ばれるようになった。ロシアは2002年に設置されたNATO-ロシア理事会により準加盟国的存在であったが、2008年8月の時点ではNATOとの関係断絶も示唆していたが、2009年3月には関係を修復した。
しかしロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せ、ロシアの首相として実権を握り続けていたへのプーチンは2008年のNATO-ロシアサミットで、もしウクライナがNATOに加盟する場合ロシアはウクライナ東部(ロシア系住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意がある、と公然と述べた。そしてプーチンの言葉通り、ウクライナにおいて親米欧派政権が誕生したのを機に、クリミア半島およびウクライナ東部にロシアが軍事介入し、ウクライナ東部では紛争となった。
2017年にアメリカ合衆国で大統領選挙中からNATO不要論を掲げたドナルド・トランプが大統領に就任すると、アメリカ合衆国とそれ以外の軍事費負担の格差に不満を隠さなくなり、2017年7月にはトランプがNATO事務総長との朝食会の場で、ドイツなどに対して軍事費負担の少なさについて不満を展開。「こんな不適なことに我慢していくつもりはない」と主張するなど、アメリカ軍の関与を縮小する意向を示していた。2019年1月にはトランプがNATO離脱意向を漏らしたと報道された。
2020年、アメリカ合衆国が領空開放条約から離脱したことを受け、ロシア側も翌年に離脱した。
2021年12月、ロシアは新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、ウクライナ周辺の4か所にロシア軍の部隊を集結させ最大17万5000人規模にまで増強して威圧(ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年))。2022年2月24日にウクライナへの全面侵攻を開始した。
11月15日には加盟国のポーランド(ウクライナとの国境に近いプシェヴォドゥフ)にロシア製のミサイルが着弾し、2名が死亡した。NATO史上、加盟国にミサイルによる被害を受けたのは初である。ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは、ロシアからの攻撃と発言したが、アメリカ合衆国のバイデン大統領は、ロシアから攻撃された可能性は低いと発言した。その後、着弾したミサイルについてポーランド・ウクライナ国境近くにあるウクライナ側の電力施設を狙ったロシアのミサイル攻撃に対して、ウクライナ軍が迎撃のために発射したS-300ミサイルだったとの可能性が浮上し、ポーランドの大統領アンジェイ・ドゥダは、ロシアによる意図的な攻撃ではなく「不運な出来事」であったと発表し、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長は意図的な攻撃やロシアによるNATOへの軍事行動の兆候を否定したうえでウクライナの迎撃ミサイルの公算が大きいという認識を示しつつ、最終的な責任は戦争を始めたロシア側にあると強調した。
ソ連崩壊以降、西側志向と親ロシアの間で揺れてきたウクライナは、ロシアによる全面侵攻を受けてNATOとEUへの加盟を目指す路線を鮮明にし、NATOもロシアの膨張主義を食い止めるためウクライナへの支援を行なっている。2023年6月15~16日開催されたNATOの国防相会合では、ウクライナとの協議隊を「委員会」から対等の立場の「ウクライナ理事会」に昇格させることを決定するとともに、冷戦後では初となる、機密扱いの新地域防衛計画を協議した。
2023年4月4日、ウクライナ侵攻の影響を受けて、フィンランドはロシアからの攻撃を徹底的に防ぐため、1948年以来、75年間も続けていた中立政策も放棄し、NATOに加盟した。これによってNATO加盟国とロシアの国境線が1340キロメートル延びた。現在、フィンランド軍がNATO軍の一員として欧州北部に滞在するロシア軍に対する防衛工事を始めている。ロシアはフィンランドに対抗措置を講ずると反発した。。
NATOが介入したのはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、マケドニア紛争、アフガニスタン紛争、2011年リビア内戦である。
2011年リビア内戦においては、2011年3月17日にリビア上空の飛行禁止区域を設定した国連安保理決議1973が採択されたことを受け、3月19日よりNATO軍が空爆を開始し、反体制派のリビア国民評議会を支援。リビアのカダフィ政権が崩壊する最大の要因となった。
NATOには北米と欧州を中心に31か国が加盟している。これらの国々の中には、複数大陸に領土を持つ国もあり、南方は北大西洋条約第6条に基づくNATOの「責任領域」を定める大西洋の北回帰線までしかカバーすることができない。当初の条約交渉で、アメリカはベルギー領コンゴなどの植民地を条約から除外するよう主張した 。しかし、フランス領アルジェリアは、1962年7月3日の独立まで対象となった。この30か国のうち12か国は1949年に加盟した原加盟国であり、残りの18か国は8回の拡大ラウンドのうちのいずれか1回で加盟している。
国防費がGDPの2%を超える加盟国はほとんどなく、アメリカがNATOの防衛費(国防費)の4分の3を占めている。
NATOの設立メンバーとして加盟したデンマーク、アイスランド、ノルウェーの北欧3か国は、自国領土に平時の恒久的な基地、核弾頭、連合国の軍事活動を(招待しない限り)認めないという3つの分野で参加を制限することを選択した。しかし、デンマークはグリーンランドにある既存の基地、チューレ空軍基地の維持をアメリカ空軍に許可した。
1960年代半ばから1990年代半ばにかけて、フランスは「ド・ゴール=ミッテラン主義」と呼ばれる政策のもと、NATOから独立した軍事戦略を追求した。2009年にニコラ・サルコジが統合軍司令部と防衛計画委員会への復帰を交渉し、翌年には防衛計画委員会が解散した。フランスは依然として核計画グループから外れた唯一のNATO加盟国であり、アメリカやイギリスとは異なり、核武装した潜水艦を同盟に参加させることはない 。
NATOへの加盟は、個々の加盟行動計画によって管理され、現加盟国の承認を必要とする。例として、北マケドニアは、NATO加盟国になるための加盟議定書に2019年2月に署名し、2020年3月27日に加盟国となった 。その加盟は、マケドニア名称論争により、長年ギリシャに阻まれていたが、2018年にプレスパ協定により解決された。その過程で互いに支え合うために、この地域の新規加盟国と加盟候補国は2015年、両国の西にある海域の名を冠した「アドリア海憲章」を制定した。ジョージアも加盟希望国として名を連ね、2008年のルーマニアの首都ブカレストで開かれた首脳会議で「将来の加盟」を約束されたが、2014年にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、同国が加盟への「道筋を現在示していない」と述べている。
ウクライナと欧州やNATOとの関係は政治的に議論を呼んでおり、2014年に親露派大統領のヴィクトル・ヤヌコーヴィチを追放した「ユーロマイダン」抗議デモでは、こうした関係の改善が目標の一つとされた。ウクライナは、東欧で「個別パートナーシップ行動計画(IPAP)」を持つ8か国のうちの1つである。IPAPは2002年に始まり、NATOとの関係を深める政治的意思と能力を持つ国々に開かれている。2019年2月21日、ウクライナ憲法が改正され、EUとNATOへの加盟に向けたウクライナの戦略的方向性に関する規範が、基本法の前文、3つの条項、暫定規定に明記された。2021年6月のブリュッセル・サミットで、NATO首脳は、ウクライナが加盟行動計画(MAP)を不可欠のプロセスとして同盟の一員となり、ウクライナが自国の将来と外交政策を決定する権利を、もちろん外部の干渉を受けずに持つという2008年のブカレスト・サミットでの決定を改めて表明した。2021年11月30日、ロシア大統領のプーチン大統領は、ウクライナにおけるNATOのプレゼンスの拡大、特にロシアの都市を攻撃できる長距離ミサイルや、ルーマニアやポーランドと同様の(ロシアのミサイルに対する)ミサイル防衛システムの配備は、ロシアにとって「レッドライン」の問題であると表明している 。プーチンは、アメリカ大統領のジョー・バイデンに対し、NATOが東方へ拡大したり、「我々を脅かす兵器システムをロシア領土の近くに設置したりしない」という法的保証を求めた。NATO事務総長のイェンス・ストルテンベルグは、「ウクライナがいつNATOに加盟できるかを決めるのは、ウクライナとNATO30カ国だけだ。ロシアには拒否権も発言権もなく、ロシアには隣国を支配しようとする勢力圏を確立する権利もない」と答えた 。
ロシアは、ソ連指導者のミハイル・ゴルバチョフと米欧の交渉担当者の間で交わされた、ドイツの平和的統一を可能にする非公式な理解と矛盾すると考え、さらなる拡張に政治的に反対し続けた。NATOの拡張努力は、モスクワの指導者プーチンからはロシアを包囲し孤立させようとする冷戦時代の試みの継続と見られることが多いが、西側諸国からも批判されている。2016年6月のレバダ世論調査によると、ロシアに隣接する旧東欧圏の国々であるバルト三国とポーランドにNATO軍を配備することは、ロシアにとって脅威であると考えているロシア人が68%もいることが判明した。一方、2017年のピュー・リサーチ・センターのレポートで調査したポーランド人の65%がロシアを「大きな脅威」とし、NATO諸国全体で平均31%がそう答え、2018年に調査したポーランド人の67%が米軍のポーランド駐留に賛成している。
2016年にギャラップ社が調査した非CIS東欧諸国のうち、セルビアとモンテネグロ以外は、NATOを脅威ではなく保護同盟とみなす傾向が強かった。雑誌『セキュリティー・スタディーズ』の2006年の研究では、NATOの拡大は中東欧の民主主義の定着に貢献したと論じている。中国もまた、さらなる拡大に反対している。
2022年、ロシアがウクライナに侵攻した後、フィンランドとスウェーデンでは、NATO加盟を支持する世論が急速に高まった。 フィンランド放送協会(YLE)の2月末発表の世論調査では加盟への支持が53%、スウェーデンでも、大手日刊紙アフトンブラッドが委託した4日発表の世論調査で加盟支持は51%となり、ともに初めて過半数に達した。4月中旬、フィンランドとスウェーデンの両国政府は、 ウクライナ侵攻を受けた安全保障政策見直しの一環で、 NATO加盟の検討開始を明らかにした。北欧2か国が加わることで、北極圏、北欧、バルト海地域におけるNATOの能力が大幅に拡大する。これに対し、ロシア安全保障会議副議長のメドベージェフ前大統領はバルト海周辺への核兵器配備を示唆し、加盟を断念するよう牽制した。
2022年5月15日、フィンランド政府は加盟申請の政府方針を決定、スウェーデンも16日に決めた。 両国ともに首相が国会に報告した上で、17日に外相が加盟申請書に署名した。2022年5月18日、フィンランドとスウェーデンが正式にNATOへの加盟を申請。これに対し加盟国のトルコは、政府がテロ組織に指定しているクルディスタン労働者党(PKK)と人民防衛隊(YPG)を両国が支援しているとして、NATO加盟に反対。明確な安全保障上の確約をした上で、トルコに対する輸出禁止を撤回するべきと主張した。同年6月28日、マドリードで開催されたNATO首脳会議において、トルコはフィンランドとスウェーデンがPKKとYPGへの支援を取り止めることなどを条件に、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請を支持することで合意した 。
2022年7月5日、NATO加盟国はフィンランド、スウェーデンの「NATO加盟議定書」に署名した。 申請から1カ月余りでの承認は異例。全加盟国が国内での批准手続きを終えればNATOは32カ国体制となる。同日、カナダ、デンマーク、アイスランド、ノルウェーが、翌6日にエストニアと英国が、7月7日にアルバニアが、7月8日にドイツが、12日にオランダとルクセンブルクが、13日にブルガリアが、14日にラトビア、スロべニアが、15日にクロアチアが、20日にポーランド、リトアニア、ベルギーが、21日に羅が、27日に北マケドニアとモンテネグロが、8月2日にフランスが、8月3日に米国、イタリアが、8月27日にチェコが、9月15日にギリシャとスペインが、16日にポルトガルが、27日にスロバキアが北欧2カ国のNATO加盟を批准した。2022年9月までにハンガリーとトルコを除くNATO加盟国が異例の早さで北欧2カ国の加盟を批准することを完了した。2022年11月25日、ハンガリーは来年の早い時期に北欧2カ国の加盟を批准すると表明した。2022年9月30日、ウクライナのゼレンスキー大統領がロシアによる4州の一方的な併合宣言への対抗措置として、 NATOへの加盟申請を表明した。 米国のジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は「現在、ウクライナを支援する最善の方法は、実用的な支援を提供することだ。(NATO加盟を巡る)手続きは別の機会に検討すべきだ」と早期加盟に慎重な見方を示した。 またNATOのストルテンベルグ事務総長は「ウクライナには自身の将来を選択する権利があるとしたが、現在はウクライナ政府への支援に注力している」と述べた。 紛争中のウクライナを加盟させればNATO加盟国は集団的自衛権に基づいて紛争の当事国になるため、NATOもウクライナの加盟申請には慎重姿勢を取るとみられる。
2023年3月、ハンガリーは3月27日から始まる会期で北欧2カ国の加盟手続きを開始すると公式に発表した。同年3月18日、トルコのエルドアン大統領はフィンランドのニーニスト大統領との首脳会談で「加盟に必要な条件をフィンランドは履行した」としてフィンランドの加盟承認手続きを先行して始めると明らかにした。2023年3月28日、ハンガリー議会は圧倒的多数でフィンランドのNATO加盟を批准した。一方スウェーデンについては判断を保留とした。 同国とオルバン首相の与党が法の支配を巡り欧州連合(EU)と対立しているという背景もある。2023年3月30日、トルコ議会は全会一致でフィンランドのNATO加盟を批准した。これによりNATO全加盟国がフィンランドの加盟議定書を批准した。一方で、スウェーデンについてはテロ組織への対策が不十分であるとして批准を見送った 。
2023年4月4日、フィンランドがNATOに正式に加盟。これによりNATOは31カ国体制となった。
2023年7月10日、トルコのエルドアン大統領は3月の議会で先送りされていたスウェーデンのNATO加盟に同意し、議会が10月に再開された際に批准案を提出すると明らかにした。また、ハンガリーも加盟に同意する意向を示し、年内に議会で批准される可能性を示唆した。
欧米諸国及び旧ソ連構成国との軍事面を中心とした各種協力を目的として1997年に設立された枠組み。1997年にはPfPとNATO全加盟国で構成される欧州・大西洋パートナーシップ理事会が設立され、50の全参加国での政治上・安全保障上の協力、協議をするための会合が開かれている。
NATOと地中海諸国の相互理解、地中海地域の安全と安定を目的として1994年に創設された枠組み。
中東諸国との関係強化を目的として2004年に創設された協力枠組み。現加盟国に加え、オマーン及びサウジアラビアが参加に関心を示している。
他の枠組みに参加していないパートナー国を指し、共通の利益に基づくNATOとの個別の協力の枠組み。
特に東シナ海・南シナ海で力による一方的な現状変更の試みを続け、台湾周辺でも軍事活動を活発化させている中国にはNATOも警戒感を示しており、インド太平洋地域の国々との関係強化を進めている。日本、オーストラリア、韓国、ニュージーランドをアジア太平洋パートナー国(AP4)とし、2022年から2年連続でNATO首脳会議に招待しているほか、AP4各国と国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)から格上げとなる国別適合パートナーシップ計画(ITPP)を締結したか、締結を進めている。
自衛隊では在日米軍が使用する武器・弾薬の相互運用性を確保するために、小銃のNATO弾を使用しているほか、兵器に様々なNATOとの共通規格を採用している。
2005年にNATO事務総長が来日、また2007年には内閣総理大臣の安倍晋三が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問しており、協力関係が構築され始めた。このとき、安倍が来賓として演説を行った北大西洋理事会やNATO加盟各国の代表との会談の中で、加盟各国が軒並み日本との緊密な協力関係を構築することに賛意を表したことが注目された。これ以降、NACの下部組織である政治委員会と自衛隊との非公式協議の開催やローマにあるNATO国防大学への自衛官の留学、NATO災害派遣演習への自衛隊のオブザーバーとしての参加など、実務レベルでの提携も行われるようになった。
2014年5月6日にも、安倍総理が欧州歴訪の際にNATO事務総長のラスムセンと会談。海賊対策のためのNATOの訓練に自衛隊が参加することや、国際平和協力活動に参加した経験を持つ日本政府の女性職員をNATO本部に派遣することなどで合意。さらに日本とNATOとの間で具体的な協力項目を掲げた「国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)」に署名した。
2018年5月、北大西洋理事会は、ブリュッセルの在ベルギー日本大使館にNATO日本政府代表部を開設することに同意。2018年7月1日、NATO日本政府代表部を開設した。
2022年6月29日、スペインの首都マドリードで開催されたNATO首脳会議(北大西洋理事会)には日本の内閣総理大臣として初めて岸田文雄が、同じくグローバル・パートナー国のオーストラリア、ニュージーランド、韓国の首脳と共に出席した。
2023年5月9日、冨田浩司駐米大使はNATOが東京連絡事務所を開設する方向で検討を進めていると明らかにした。しかし、フランス大統領のエマニュエル・マクロンが「中国との緊張を高める」として、連絡事務所の開設に反対しているとフィナンシャル・タイムズが報じた。
2023年7月10日、リトアニアの首都ビリニュスで開かれたNATO首脳会議に出席した。首相とストルテンベルグ事務総長は会談後、サイバー防衛や宇宙安全保障、偽情報への対処など16分野での安全保障協力を明記した「国別適合パートナーシップ計画(ITPP)」を発表した。2014年に策定されたIPCPを発展させたもので、対象期間は2023年から2026年の4年間。
2023年時点で、日本は「グローバル・パートナー国」と位置付けられている。
韓国はNATOパートナーであり、またNATO以外の主要な同盟国として複数分野で協力してきた。近年の協力ではアフガニスタン戦争後の復興、ソマリア沖の海賊に対するアデン湾における商船護衛がある。
2022年、韓国はNATOの補助組織であるサイバー防衛協力センター(CCDCOE)に貢献国として参加した。
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グラミー賞
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グラミー賞(グラミーしょう、英語: Grammy Awards)は、ザ・レコーディング・アカデミーが主催する音楽賞。当初はグラモフォン・アウォード(Gramophone Award)と呼ばれており、現在は単にグラミー(Grammy)と呼ばれることが多い。アメリカ合衆国の音楽産業において優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃え、業界全体の振興と支援を目的とする賞だが、今日世界で最も権威ある音楽賞のひとつとみなされており、テレビにおけるエミー賞、舞台におけるトニー賞、映画におけるアカデミー賞と同列に扱われる。毎年2月に授賞式が行われ、著名なアーティストによるパフォーマンスや代表的な賞の授賞の模様が全米をはじめ世界の多くの国で放映される。
1959年5月4日、1958年の音楽業界での功績を称える第1回グラミー賞(英語版)授賞式が行われた。
1997年、ザ・レコーディング・アカデミーは当時のグラミー賞で十分にカバーできていなかったラテン・ミュージック部門の充実を目的とし、ザ・ラテン・レコーディング・アカデミー (旧ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)を新たに設立。それにより2000年からラテン・グラミー賞が始まる。
グラミー賞はハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム計画から始まった。ウォーク・オブ・フェーム委員会に選出されたレコード会社の重役達は、ハリウッド大通りに星を埋め込まれることのない音楽業界のリーダー達が数多く存在することを理解しており、ウォーク・オブ・フェームの星に値する音楽業界の重要な人々のリストを編集していた。音楽業界の重鎮達はアカデミー賞やエミー賞のような音楽業界の賞を創立することを決心。これがナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現ザ・レコーディング・アカデミー)の始まりである。名称には蓄音機を発明したトーマス・エジソンに敬意を表しエディー賞が候補に挙がったが、1958年、最終的にエミール・ベルリナーが発明した蓄音機に因みグラミー賞と名付けられた。
1960年代には「The Best on Record」というタイトルでNBCで放映されていたが、1971年にはABCにて生放映される。1973年からはCBSが放映権を取得している。
なお、日本では「グラミー賞」創設に啓発されるかたちで、翌1959年に日本レコード大賞が創設されている。また、1977年イギリスにおいて、音楽雑誌グラモフォン誌が主催するクラシック音楽の賞グラモフォン・アワード(英語版)と、英国レコード産業協会が主催するポピュラー音楽に関する賞ブリット・アワードが創設され、現在に至っている。
毎年、米国内でリリースされた楽曲とアーティストを対象に選考され、ザ・レコーディング・アカデミーの会員の投票によって選考され、第1回目でノミネート作品が選考され、第2回目で決定されている。
音楽業界で最も栄誉ある賞だとみなされ、受賞結果はセールスに多大な影響を与える。また、アメリカでは注目度の高い祭典の一つであり、2013年2月に行われた第55回グラミー賞の中継番組は2837万人の視聴者数を得た。これはスーパーボウルなどNFLの一部の試合中継やアカデミー賞授賞式中継などに次いで、全米で非常に視聴者数の多い番組の一つになっている。
売り上げが良くても確実にグラミー賞にノミネートするわけではなく、年間第1位の曲でも受賞を逃すことが多い。加えて、2000年に入ってから、その年に最多ノミネートした歌手が最多受賞を逃すケースが増えている。2009年は7部門ノミネートのコールドプレイを筆頭にイギリス出身アーティストが多くノミネートされている。この年の最優秀レコード賞は全てイギリス出身アーティストによる作品が候補に選ばれた。
金色の蓄音機を表現した金めっきのトロフィーはコロラド州リッジウェイ(英語版)のビリングス・アートワークスにより手作りされている。1990年、オリジナルのトロフィーのデザインは改訂され、損傷を防ぐためそれまでの軟鉛からより強い合金となり、トロフィーは以前より大きく壮大になった。受賞者の名前が刻まれたトロフィーは受賞者名の発表があるまで手にすることができないため、テレビで放送されるのは毎年同じ代用品である。
以下の4部門は「主要4部門」として特に衆目を集める。これらの賞はジャンルで制限されない。
主要4部門の受賞者はグラミー賞受賞者一覧を参照。
その他の賞はジャンルによってアートワークやビデオを含み演奏者や製作者に授与される。音楽業界へ長年貢献してきた者には特別賞が授与される。
2023年現在、84カテゴリーと膨大であり、様々なアーチストの演奏も行われることから、上記の主要4部門およびポップ・ミュージック、ロック、カントリー・ミュージック、ラップなど最も人気のあるジャンルから1から2カテゴリーの授賞式のみテレビ放送される。その他の賞は授賞式当日昼間からテレビ放送前に授与される。
2011年4月6日、NARASは2012年に行われる第54回グラミー賞のカテゴリーの多くの大幅な見直しを発表し、カテゴリー数は109から78に減少した。最も重要な変更点はラップ、ロック、リズム・アンド・ブルース、カントリー、ラップで男女、コラボレーションおよびデュオやグループの区別がなくなったことである。また、インストゥルメンタルのソロのいくつかのカテゴリーがなくなった。これらのカテゴリーは現在他のジャンルの最優秀ソロに含まれる。
ロック部門ではハードロックとメタルは一緒にされ、最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞は演奏者の減少により削除された。
リズム・アンド・ブルース部門ではコンテンポラリー・リズム・アンド・ブルースと他のリズム・アンド・ブルースとのアルバムの差異はなくなった。現在どちらも最優秀リズム・アンド・ブルース・アルバム賞として授与される。
ラップ部門ではソロとデュオおよびグループは合併され、最優秀ラップ・パフォーマンス賞となった。
アメリカン・ルーツ・ミュージック部門において大幅な削除が行われた。2011年まではハワイアン・ミュージック、ネイティブ・アメリカン・ミュージック、ザディコまたはケイジャン・ミュージックなどアメリカ国内の様々な地域の音楽のカテゴリーがあった。しかしこのカテゴリーでの演奏者の数が常に少なく、2009年に削除されたポルカと共に最優秀リージョナル・ルーツ・ミュージック・アルバム賞として統合された。
また同部門において、コンテンポラリー・フォークとアメリカーナ、コンテンポラリー・ブルースとトラディショナル・ブルースの区別がなくなってきたことから、ブルースのトラディショナルとコンテンポラリー、フォークのトラディショナルとコンテンポラリーがそれぞれ統合された。ワールドミュージック部門でもトラディショナルとコンテンポラリーが合併された。
クラシック音楽部門では最優秀クラシック・アルバム賞が広義すぎるため、この賞に受賞したアルバムがクラシック部門の他のアルバム賞でも受賞し重複することが多いため削除された。クラシックのアルバムも現在最優秀アルバム賞を受賞可能である。
その他にもより自然に近い名前に変更されるなど、小さな改変がいくつか加えられた。ゴスペル部門は「ゴスペル」という言葉がコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックとかけ離れた伝統的なソウル・ゴスペルを思い起こさせるため、ゴスペル/コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門となった。
1971年までグラミー賞授賞式は毎年違う会場で行われ、元々はニューヨーク市とロサンゼルスが主催地であった。1962年、シカゴが主催地に加わり、1965年、ナッシュビルが第4の主催地となった。
1971年、ロサンゼルスのハリウッド・パラディアム(英語版)で行われた第13回グラミー賞(英語版)が、1箇所で行われた最初の授賞式となった。その後ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンのフェルト・フォーラムに移動し、更にその後2年間はナッシュビルのテネシー・シアターで行われた。1974年から2003年、ニューヨーク市とロサンゼルスのいくつかの会場で行われた。主な会場はニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン、ラジオシティ・ミュージックホール、ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアム、ステイプルズ・センター、ハリウッド・パラディアムである。
2004年、ステイプルズ・センターが恒久的授賞式会場となった。グラミー賞の歴史を振り返るグラミー博物館がステイプルズ・センターの向かい側のL.A.ライブに創設された。博物館の歩道にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのように毎年の最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞の受賞者のブロンズ・ディスクが埋め込まれている。
ビヨンセが史上最多の32回の受賞者である。 グループでは22回受賞のU2が最多である。
グラミー賞はミュージシャンや音楽評論家から批判を受けることがある。
1991年、シネイド・オコナーは4部門でノミネート(1部門受賞)されたものの、商業的な祭典であることを理由に授賞式への参加を拒否した。これはグラミー賞史上初めての出来事となった。1996年、パール・ジャムが最優秀ハードロック・パフォーマンス賞を受賞した際には、リードボーカルのエディ・ヴェダーが「この賞に何の意味があるのか分からない。全く意味がないと思う」とスピーチし、物議を醸した。
同年、6部門にノミネートされていたマライア・キャリーが何も受賞できなかったことに論争が巻き起こった。彼女のアルバム『デイドリーム』は全米で1,000万枚以上を売り上げ、ボーイズIIメンと歌ったシングル『ワン・スウィート・デイ』が当時のビルボード Hot 100で史上最長となる16週連続1位を記録するなど、評論家たちは彼女の受賞は間違いないものと予想していた。受賞を完全に逃した瞬間の彼女の落胆した表情がテレビ画面に映し出され、話題となった。
2021年にドレイクがグラミー賞にノミネートされるも、ドレイクはこれを拒否し取り下げを要求した。また、en:Rap-A-Lot RecordsのCEOen:James Princeは、2022年のグラミー賞授賞式と同日にヒップホップのイベントを開催するよう呼び掛けるなど、ヒップホップカルチャーでグラミー賞ボイコットの動きが見られている。
秘密委員会は1989年に設置され、1995年から主要4部門の最終選考に関与していた。2019年にグラミー会長となったデボラ・ドゥーガンはノミネートの選考過程の見直しを唱えたところ、他の上層部からの猛反発を受け、2020年にグラミー協会から追放された。
2020年にザ・ウィークエンドのブラインディング・ライツが世界的に大ヒット。グラミー賞主要部門を独占すると予想されていたが、1部門もノミネートすらされなかったという事件が発生。これは、ザ・ウィークエンドが2021年スーパーボウルのハーフタイムショーに出演することが原因とも言われている。これを受けて、ザ・ウィークエンドはグラミー協会を猛批判し、今後のグラミー賞ボイコットを発表した。世論はザ・ウィークエンドを支持し、これを受けてグラミー協会は2021年以降の秘密委員会の廃止を決定した。
1989年の授賞式まではテレビ朝日系で放送され、翌1990年の授賞式からはテレビ東京系に移る。その後、1990年代後半よりWOWOWで放送されている。生中継は同時通訳を介して放送され、再放送は字幕スーパーによる放送となる。
1980年に、FM大阪が日本国内での独占放送権を獲得し、JFN系全国ネットで放送された。なお、一時期阪急グループがラジオ中継の冠スポンサーに付き、同グループと関係が深い高島忠夫がメインパーソナリティを担当したことがある。その後、InterFM、2008年はミュージックバードが生中継した。親会社のTOKYO FMでもその一部を放送した。2014年は新たにcross fmが時報、コマーシャル無しでの生中継を実施。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%BC%E8%B3%9E
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ハッシュテーブル
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ハッシュテーブル (英: hash table) は、キーと値の組(エントリと呼ぶ)を複数個格納し、キーに対応する値をすばやく参照するためのデータ構造。ハッシュ表ともいう。ハッシュテーブルは連想配列や集合の効率的な実装のうち1つである。
ハッシュテーブルはキーをもとに生成されたハッシュ値を添え字とした配列である。通常、配列の添え字には非負整数しか扱えない。そこで、キーを要約する値であるハッシュ値を添え字として値を管理することで、検索や追加を要素数によらず定数時間O(1)で実現する。しかしハッシュ関数の選び方(例えば、異なるキーから頻繁に同じハッシュ値が生成される場合)によっては、性能が劣化して最悪の場合O(n)となってしまう。
複数の異なるキーが同じハッシュ値になることを衝突 (collision) と呼ぶ。キーの分布が予めわからない場合、衝突を避けることはできない。同じハッシュ値となるキーを同族キーと呼ぶ。衝突が発生したときの対処の方法は、開番地法と連鎖法に大別される。
衝突を起こしたキー同士をポインタでつなぐ方式を連鎖法と呼ぶ。テーブルの各番地にはキーそのものではなく、同族キーを保持するリンクリストを格納する。
衝突が発生した際、テーブル中の空いている別の番地を探す方式を開番地法と呼ぶ。その方法としてハッシュ関数とは別の関数を用いて次の候補となる番地を求める。別の番地を探す関数は繰り返し適用することによってテーブル内の全ての番地を走査できるように選ぶ。
連鎖法の一つの実装例を示す。まず、ルート配列と呼ばれる要素数 N の配列を一つ用意する。ルート配列の各要素は、リスト(便宜上エントリリストと呼ぶ)とする。エントリリストには、少数のエントリを格納する。
エントリを格納する場合、エントリのキーをもとにハッシュ関数を用いてハッシュ値を生成する。ハッシュ関数は 0 から N - 1 までの整数値を生成するものであって、一様な分布と高速な計算が要求される。ハッシュ値を i とするとき、ルート配列上の i 番目のエントリリストにこのエントリを格納する。衝突が発生したとき、それらのエントリは同一のエントリリストに格納される。
あるキーをもつエントリを検索する場合、そのキーからハッシュ値を生成する。ハッシュ値を j とするとき、ルート配列上の j 番目のエントリリストに入っているエントリを一つずつ検索し、キーが一致しているものを取り出す。ルート配列上のエントリリストが高速でアクセスできる必要がある。
ハッシュテーブルはエントリの数が配列のサイズに近づくほど衝突の確率が高くなり、性能が悪化してしまう。この比率をload factor(座席利用率)と呼び、n/Nの形で表す。nはエントリの数、Nは配列のサイズを指す。
連鎖法の場合はload factorの増加に対して線形に性能が悪化する。しかし開番地法の場合は衝突したキーが配列の空いた番地に格納されるため、load factorが0.8を超える付近で性能が急激に悪化する。
この問題を回避するため、load factorが一定を超えた場合に、より大きいサイズのハッシュテーブルを用意して格納し直す操作が必要となる。これをリハッシュ (rehash) と呼ぶ。この操作はすべての要素のハッシュ値を再計算して新たなハッシュテーブルに格納するためO(n)であるが、配列のサイズを指数的に拡張する事で、動的配列の末尾追加操作と同様に償却解析によって計算量をO(1)とみなす事ができる。
より単純な回避方法として、あらかじめ想定されるエントリの数に対して十分に大きなサイズの配列を用意する方法もあるが、エントリの数を事前に想定できない場合には適用できない。
最も単純な実装として、ハッシュテーブルのルート配列上を 0 から N - 1 まで走査し、その中に存在するエントリを列挙する方法がある。連鎖法の場合は見つかったエントリリストをさらにたどる必要がある。しかしこの方法で列挙した場合、各エントリはハッシュ関数によって格納位置を決められているために、全く意味を持たない順序で要素が列挙される。これはランダムな順序という意味ではない。利用方法によっては列挙操作が追加した順序を保持しているかのように見えるため、ハッシュテーブルの利用者が誤解する場合がある。この実装による列挙の計算量はルート配列のサイズ N と連鎖法でのルート配列上にないエントリリストの数 m との合計O(N + m)となる。そのため、ルート配列をあらかじめ大きなサイズで確保しているとこの実装での列挙に時間がかかる。
追加した順序で要素を列挙する実装方法として、各エントリに追加順を保持するリンクリストのポインタを別に持たせ、列挙する際はそちらのポインタをたどる方法がある。検索・追加操作のみならば単方向リストで実現可能だが、削除操作もサポートする場合は双方向リストで実装しなければO(1)での操作を実現できない。JavaのLinkedHashMapはこの実装であり、その他言語でも利便性からハッシュテーブルが標準で追加順を保証している事がある。欠点として、各エントリに別のリンクリスト用ポインタが必要なためにメモリ消費量が増加する。
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AWK
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■カテゴリ / ■テンプレート
AWK(オーク)は、プログラミング言語の一つ。 テキストファイル、特に空白類(スペースの他、タブなど)やカンマなどで区切られたデータファイルの処理を念頭に置いた仕様となっているが、一般的なプログラミングに用いることも可能である。UNIX上で開発された。
AWKは、ベル研究所におけるUNIX開発の過程で、sedやgrepのようなテキスト処理ツールに演算機能を持たせた拡張ツールとして1977年に開発された。そのため、UNIX上のユーティリティである sort の存在を前提としている。
簡単なスクリプトを記述することで効率的にテキストファイルを処理することが目的であった。 当初はそれほど多くの機能は無かったが、普及するにつれ、さまざまな処理をAWKで実行したいと考えるユーザーが増え、その希望に応えて1985年に機能の拡張が行われた。その結果、汎用のプログラミング言語と比べても遜色が無いほどの機能を持つようになり、テキスト処理だけに留まらず、開発者も予想しなかったような大規模なプログラミングに使われるような例もあらわれた。一方、本来のテキスト処理用ツールとしても扱いやすく、現在でもCSV形式のファイルを簡易に処理する、などの目的で広く使用されている。
「AWK」という名称は、開発者であるアルフレッド・エイホ、ピーター・ワインバーガー、ブライアン・カーニハンの3人の苗字の頭文字を取って付けられたものであるが、AWKは「オーク」と読み、「エー・ダブリュー・ケー」と読んではならないと著者らはしている。 また、全て小文字でawkとした場合、Unix系OSないしPlan 9における、AWKのインタプリタ処理系プログラム自体(他の多くのコマンドと同じく全て小文字である)を指してそうしていることがある。
AWKのスクリプトは、パターンとアクションの組を並べた形になっている。 実行を開始すると、まずBEGINパターンのアクションを実行する。 以降、入力を読み込んでは、レコード分離文字(既定では改行)までを1レコードとし、ユニット分離文字(既定では連続するスペースまたは水平タブ)に従ってフィールドに分割してから、レコードがパターンにマッチするかを調べ、パターンにマッチしたらそのパターンに対応するアクションを実行する。 一致するパターンが複数ある時は、該当するアクションが上から順に全て実行される。これを入力が尽きるまで繰り返す。入力が尽きたら、ENDパターンのアクションを実行し、終了する。すなわち、テキストストリームをシーケンシャルに読み込み、入力されるテキストストリームをレコードセパレータ毎に区切り、1行毎にスクリプトに記述されたアクションを順次実行する。
ファーストクラスのデータ型は、数値(全て倍精度浮動小数点型で扱われる)と文字列である。
他に文字列をキーとした連想配列があるが、連想配列はファーストクラスではなく関数の返戻値にできないなどデータというよりは、配列変数という変種の変数があるといったような扱いである。連想配列の中身(要素)を連想配列にすることはできないため、ループするようなデータ構造を作ることは不可能。連想配列のキーに数値を使うと、文字列に変換したものがキーとなる。 arr[x, y]のようにして多次元配列のように見えるアクセスもできるが、実際には各次元を必要であればまず文字列化した後に、グローバル変数SUBSEPの文字列(デフォルトではU+001C <control-001C>)をセパレータとして連結した文字列をキーとしてアクセスする。
スクリプトの基本構成は次のようになる。
BEGIN,ENDアクションは必須ではない。
例として、テキストファイル内の全ての行のうち、空行の数と「林檎」・「りんご」または「リンゴ」という文字列を含む行の数をそれぞれ出力するAWKプログラムを示す。
なお、AWKでは、まだ代入されていない変数は暗黙のうちに0または""で初期化されると仮定してよいので、上の例でのBEGINブロックは必須ではない。
パターンには以下のように開始と終了を定義するパターンもある。
例えば、以下のようなプログラムは、「<script>」を含む行から「</script>」を含む行まで(その行自身を含む)の間、指定されたアクションが実行する(この場合は単に行全体を出力する)。
AWKの特徴の一つとして変数が型を持たないことが挙げられる。変数宣言が不要で、プログラム中で使用される変数は暗黙のうちに初期化される。このため、未定義変数や未初期化変数を参照することによるエラーはAWKには存在しない。
AWKは算術演算のような数値を必要とする文脈では暗黙に値を数値に変換し、逆に文字列を必要とする場合には文字列に変換する。 例えば、
のような例では、dおよびeの値は3になる。
こうした暗黙の変換は便利であると同時に、利用者の意図しない結果を生むこともある。
また、変数に入っているのがどちらかわからないが、必ず数値が必要という場合などにx + 0のように0を足したり、逆に必ず文字列が必要という場合などにx ""のように""を結合させたりする、という常套手段がある。
AWKでは、関数を定義して使用することが可能である。
関数の定義は次のようになる。
AWKの変数は、引数を除いて全て大域変数であり、局所のスコープを持つのは引数として宣言された変数だけである。このため、技法として、関数定義で余分な引数を宣言し、それを局所変数として使う、ということが行なわれる。AWKでは、関数の呼び出し時に、実引数の個数が仮引数の個数より少なくても、省略とみなしエラーとしない。これを利用して、余分な引数を局所変数として使うのである。
このように関数を定義した上で,呼び出すときに引数を3つしか使わなければ、局所変数1以降は局所変数として扱える。構文上の区別は無いが、判読性を向上させるために両者の間に十分な空白を挿入するのが慣例になっている。
また、関数は再帰呼び出しもできる。
AWKの制御構造には以下のようなものがある。
また、制御構造の他に、以下の文がある。
連想配列の全部ないし一部の要素を削除
もともとのAWKは、UNIXに付属していたものであったが、 様々なプラットフォームに移植された他、GNU AWK(gawk)を代表に、他の実装も多い。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/AWK
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ヱビスビール
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ヱビスビール (エビス)(恵比寿ビール、YEBISUとも)は、サッポロビールが製造・販売する麦芽100%ビールの商標。プレミアムビールに分類される。
サッポロビールの前身である日本麦酒醸造會社に、ドイツ人技師カール・カイザーを招聘して醸造されたビール。当時の名称は「恵比寿麦酒」だった。当初は「大黒天」から命名しようとしていたが、横浜に既に「大黒ビール」が存在したために「えびす」(恵比寿) を採用したという経緯が見られる資料が2000年代に発見されている。
恵比寿麦酒は、1900年代には既に世界的な評価を獲得している。
1943年(昭和18年)にビールが配給制になり、名称が「麦酒」に統一されたことで一旦消滅するが、1971年(昭和46年)に戦後初の麦芽100%使用のビール(熱処理)として復活した。1980年代前半に低迷期に陥ったが、1986年(昭和61年)にパッケージデザインの変更と中味の生ビール化、1988年(昭和63年)に漫画「美味しんぼ」の「五十年目の味覚(後編)」(単行本第16巻)で取り上げられたことなどが契機となり、売上が回復し伸びていった。長期間に亘りプレミアムビール市場の首位銘柄となっていたが、2000年代中盤にサントリーのザ・プレミアム・モルツが急成長した影響を受け、サッポロビールは2006年(平成18年)からヱビスブランドのテコ入れに着手し、同年10月にはヱビスブランド戦略部を立ち上げて「ヱビス」の名を冠した商品を複数販売する展開を始めた。
恵比寿のマークそのものがブランド表示とされ、サッポロビールのビール類商品には(他社ライセンス商品を除き)必ずあしらわれるシンボルの「星(★)」が、ヱビスビールには付されない。
「ビールはござりまっせん」 「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情ない所だ」 「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶をする。 「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」 「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B1%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB
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2,860 |
モンテビデオ
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モンテビデオ(スペイン語: Montevideo [monteβiˈðe.o])は、ウルグアイの首都。モンテビデオ県の県都でもある。メルコスールの事務局が置かれている。同国南部、ラ・プラタ川の河口左岸に位置する最大の都市で、2011年の人口は約130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を有し、温暖な気候で知られる。
ポシートス、ブセオ、マルビン、プラシャ・デ・ロス・イングレセス(イギリス人の砂浜)、プラシャ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、ラテンアメリカで最も生活の質が高い都市とされている(これにブエノスアイレスとサンティアゴが続く)。
由来には諸説あるが、いずれの説もスペイン語で山を意味する「モンテ」がモンテビデオ湾の西岸にそびえるフォルタレーザ・デル・セロを指すことについては共通している。しかし、ビデオの語源をめぐっては、以下のように複数の説がある。
1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスがここを訪れたが、チャルーア族に殺害された。1624年に、現在のモンテビデオの地にグアラニー族を対象とするイエズス会伝道所が建設された。
その後、1680年にポルトガル人が、今のモンテビデオの西にコロニア・デル・サクラメントを建設する。その後、スペイン人はトルデシリャス条約を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年に、ブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡大して、都市サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ(San Felipe y Santiago de Montevideo)を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。
1828年にウルグアイが独立すると、その首都となった。
1832年7月26日から8月19日まで、チャールズ・ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして、モンテビデオ一帯の調査旅行を行っている。彼はバイア・ブランカ(アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類メガテリウムの、歯の一本ついた顎骨を発見した。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンは、チャールズ・ライエルの『地質学原理』第2巻を受け取っている。
19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、1869年には内陸に向かう鉄道が開通した。
1860年に5万7913人だった人口は、多くの移民を迎えて、1884年には10万4472人になった。移民の大半はスペインとイタリアの出身者であったが、中欧からも多くの移民を受け入れた。1930年にはFIFAワールドカップが開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。
第二次世界大戦初頭の1939年12月13日、プンタ・デル・エステ沖に現れたドイツ海軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーをイギリス海軍が追撃し、ラプラタ沖海戦が起きた。海戦の後、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐はモンテビデオ港に退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは英寄りの中立を貫き、グラーフ・シュペーに72時間以内の退去を通告、その直後12月17日、モンテビデオ港外で同艦は自沈した。
1950年代には人口が90万人近くに達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復と隣国との強力な貿易上の結びつきによって、ウルグアイの農業は発展してきており、将来の繁栄が望まれている。
ラプラタ川が大西洋に流れ込む河口部の左岸に位置する。
温暖湿潤気候に属し、一年を通して降水がある。
市街は下記の地区に分かれる。
1860年、モンテビデオ市街の人口は57,913人だった。
2016年現在、モンテビデオ市街の人口は約1,349,000人であるが、モンテビデオ大都市圏全体では1,814,400人が住んでいることになる。モンテビデオ市民はヨーロッパ人の影響を特に強く受けており、イタリア系、スペイン系の家系が最も一般的だが、その一方でアフリカ系ウルグアイ人の家系やユダヤ人の共同体の存在も重要である。 モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良いカネロネス県は約12%を占めている。
地下鉄はなく、市民の足としては、もっぱらコレクティーボと呼ばれるバスとタクシーが使われている。
近隣諸国や国内各地への主な交通手段は、長距離バスや、ブケブス社によるラプラタ川を運航する船舶の他に、航空機が利用されており、近郊にあるカラスコ国際空港が使用されている。だが、同空港には長距離国際線がそれほど就航していないため、欧米など遠くに行く場合には隣国ブラジル・サンパウロにあるグアルーリョス国際空港、アルゼンチン・ブエノスアイレス郊外にあるエセイサ国際空港が利用されることも多い。
上記以外にも鉄道が国有のAFE(Administración de Ferrocarriles del Estado、ウルグアイ国鉄局)により運営され、日曜日を除き朝モンテビデオ周辺の町からモンテビデオへ向かい、夕方に再び周辺の町へ向かう形態のディーゼル動車による旅客列車が2路線に1往復運行されているが、同国での鉄道は貨物輸送が中心であり、モンテビデオ市内ではタンク貨車を連ねた貨物列車が目立つ。
共和国大学などのウルグアイの主要教育機関が集中する。
モンテビデオ市民にとって、最も親しみのあるスポーツはサッカーである。1930年にはエスタディオ・センテナリオで世界初のFIFAワールドカップが開催された。この1930 FIFAワールドカップでロス・チャルーアズ(ウルグアイ代表チームの愛称)は勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。国内リーグにおいては、ペニャロール、ナシオナルなどのクラブチームが熱い戦いを繰り広げている。
その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。
主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。
1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたりカーニバルの期間となる。特に2月上旬(年により変動)に2日間にわたって行なわれるジャマーダス (Llamadas) では、数十組の打楽器奏者やダンサーがパレードを行い、モンテビデオは賑わいを見せる。
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2,861 |
平仮名
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平仮名(ひらがな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。異体字は変体仮名と呼ばれる。
平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた万葉仮名(まんようがな)である。
万葉仮名は楷書や行書のほか、草書で書かれることもあった。草書の万葉仮名を、平仮名の前段階として草仮名(そうがな)と呼ぶ。すでに8世紀末の正倉院文書には、字形や筆順の上で平安時代の平仮名と通じる草仮名が記されている。9世紀中頃の『藤原有年申文』(貞観9年〈867年〉)や同時期の『智証大師病中言上艸書』などの文書類、京都市の藤原良相(冬嗣の五男で右大臣に上り詰めた公卿。813〜867)邸遺跡から見つかった土器群にも見られる。また、宮城県の多賀城跡遺跡から発掘された土器や、富山県射水市の赤田遺跡からも草仮名の書かれた墨書土器が発掘されているため、同時期に地方へ赴任した官人らによって、日本各地で普及し始めたと考えられる。
宇多天皇宸翰の『周易抄』(寛平9年〈897年〉)では、訓注に草仮名を、傍訓に片仮名をそれぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。その後、草仮名の略化が進み、ついに漢字の草書体から形が逸脱した。こうして、文章を記す書記体系として確立したのが平仮名(ひらがな)である。
伝統的に平安時代初期の名僧で能筆家でもあった空海が作ったという俗説がある。空海が「いろは歌」及びいろは手本を作ったという俗説から発展して、空海が平仮名まで創作したということになったとみられる。
平仮名は誕生した当初から、ひとつの音節に対して複数の字体 (異体字) があった。異体字は万葉仮名と比べると遥かに少ない。平仮名による表現が頂点に達した平安時代末期の時点で、異体字の総数が約300種、そのうち個人が使用したのはおよそ100から200種ほどとされる。
9世紀後半から歌文の表記などに用いられていた平仮名が公的な文書に現れるのは、醍醐天皇の時代の勅撰和歌集である『古今和歌集』(延喜5年〈905年〉)が最初である。その序文は漢文である真名序と、仮名で書かれた仮名序のふたつがある。また承平5年(935年)頃に紀貫之が著した『土佐日記』については、後にその貫之自筆本の巻尾を藤原定家が臨書したものが伝わっており、当時すでに後世の平仮名とほぼ同じ字体が用いられていたことが確認できる。天暦5年(951年)の「醍醐寺五重塔天井板落書」になると、片仮名で記された和歌の一節を平仮名で書き換えており、この頃には平仮名は文字体系として完全に独立したものになっていたと考えられる。なお「平仮名」という言葉が登場するのは16世紀以降のことであり、これは片仮名と区別するために「普通の仮名」の意で呼ばれたものである。
山梨県のケカチ遺跡(甲州市塩山下於曽)からは、全て平仮名で和歌を刻んだうえで焼成したとみられる10世紀半ばの皿状土器が2016年に出土しており、国司ら官人の赴任により地方にも次第に伝播したことがうかがえる。
平仮名による最初期の文学作品である紀貫之の著『土佐日記』は、作者が女性に仮託して書かれているというのが通説である。貴族社会における平仮名は私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされ、女流文学が平仮名で書かれた以外にも、和歌や消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。それにより女手(おんなで)とも呼ばれた。平安時代の貴族の女性は、大和言葉を用いた平仮名を使って多くの作品を残した。平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ、地位が低く見られていたが、中国との公的交流の断絶が長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。
明治33年(1900年)、「小学校令施行規則」の「第一号表」に48種の平仮名が示された。以後この字体だけが公教育において教授され、一般に普及した。これにより、数多くの変体仮名が用いられなくなった。
ただし変体仮名の判読可能な人々はその後も当然存在していることから、その後数十年ほどは変体仮名を使った書籍の出版も併存したと思われる。例えば昭和2年(1927年)発行の随筆叢書には、変体仮名を使った文も使っていない文も載っている。しかし第二次大戦後は、変体仮名を使った書籍は1900年代以前(江戸時代を含む)の書籍の復刻版に限られている。
第二次世界大戦後、現代仮名遣いが制定された。これにより、特殊な場合を除いて「ゐ」と「ゑ」が用いられなくなった。
現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。
1900年頃、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。
以下の画像に、平仮名の筆順(書き順)と発音を示す。
"平仮名の書き順" - YouTube
現在の日本語で最も基本的な文字であり、主に次のような場面で用いられる。
現在の日本の学校教育では文字の中では「平仮名」が最初に教えられる。
現代では、平仮名を敢えて使用する理由の一つとして「柔らかで親しみやすいイメージ」が考えられるといわれる。カタカナ(ヘ/へ、リ/りは形状が近いが)や漢字の多くと比較して、平仮名の特徴には「丸み・流れるような」などが挙げられる。ひらがな・カタカナ地名のような使用例もある。
選挙法では候補者の通称使用が認められていることもあり、平仮名を用いる候補者も度々見られる。これを俗に「名前をひらく」などという人もいる。
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チリ
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チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家。国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島およびポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスなどと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している(「南極における領有権主張の一覧」参照)。OECD諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい。
正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チーレ [ˈt͡siːle]],或いはシーレ[ʃiːle])。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ /ˈʧɪl(i)/。
日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。
国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来するなどの説がある。
チリは1818年にスペインより独立した。1990年のピノチェト軍事独裁政権崩壊後は、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位となるなどの諸問題も抱えている。
政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である。2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する左派主導の新憲法案が提示されたが、急進的な内容が災いし9月4日の国民投票では賛成が38%にとどまり否決された。仕切り直しとなった2023年5月7日の制憲議会選挙では現行憲法に肯定的な右派勢力が草案承認に必要な3分の2を確保する結果となっている。
立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。
司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。
チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による世界腐敗認識指数では26位とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。
ピノチェト軍事独裁から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持されてきた。
独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。
19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期にチリ海軍はイギリスの、法や教育はフランスの、陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。
1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2010年、チリはOECDの31番目の公式加盟国になった。
軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島、レノックス島、ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアをめぐってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張はいまだに続いている。
なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の一部に対して領有権(チリ領南極)を主張している。
2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8か国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる。会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は最終宣言を発表した。
1897年に日本チリ修好通商条約が締結され、同年9月25日に外交関係を樹立。太平洋戦争末期の1945年4月11日にチリが対日宣戦布告し断交するものの、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年10月17日に外交関係を再開した。
日本とチリは日本・チリ経済連携協定(2007年9月3日発効)を締結している。また、ともに環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP, TPP11協定)の署名国である。ただし、チリは国内手続が遅れ、2022年12月23日に国内手続きの完了を通報したため、CPTPPはチリについては2023年2月21日に発効する。
チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍のほかに憲兵(カラビネーロス)が存在し、規模は4万人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで2番目に大きな軍事予算を組んでいる。
伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国より政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、アジェンデがスト解決のために軍人を利用し始めたことから崩れ始め、1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後、軍政期に軍はコンドル作戦や「汚い戦争」などを遂行し、自国民や近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。
チリ陸軍は兵員4万5,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。
チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員2万3,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、水上戦闘艦艇は内8隻のフリゲートのみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒にあたる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。
チリ空軍は兵員1万2,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。
1973年9月の軍事クーデターに参加後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。
チリは、州監督官(Intendente)を長とする16の州(Region)に分けられる。州はさらにいくつかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。
1974年に各州には北から南へ順にローマ数字が割り当てられた。しかし首都州は例外的に頭文字のRMとされたこと、またその後に新設された州には位置に関係なく割り振られたことから、当初の意義を失い2018年2月に廃止された。
主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。
西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,300キロメートルに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸などの環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。
北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方キロメートルの領有権を主張するが(チリ領南極)、南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700キロメートルほど離れてラパ・ヌイ(イースター島)が存在する。最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6,893メートル。チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。
気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。
チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている(南半球であるため亜寒帯は存在しない)。寒流であるペルー海流の影響により、北部でもあまり気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。
チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。
チリは中南米の国の中では治安が良い国とされてきたが、2013年以降は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる。
2021年のチリの名目GDPは、世界44位であり、3,167.70億USドルである。チリのGDPは、2000年代から大幅に成長しており、4倍以上の著しい伸び率が見られる。2022年9月時点では、経済活動指数の変動も少なく、国民の生活は比較的安定している。しかし、失業率は7.9%と未だに高い水準であり、日本の3倍以上にもなる。
アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。
経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。
チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端をいく通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7 - 12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。
近年、欧州連合(EU)、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結んでいる。日本のほかカナダ、メキシコやニュージーランド、オーストラリア、シンガポールなど一部の東南アジア諸国とはともにTPP11署名国である。
農業では、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。
チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 - 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。
林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。
近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。 漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の3分の1、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。
鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1,250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。
金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。たとえば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。
チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった。北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。
鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。特にタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。
主な製品は銅で、世界の36%を供給する世界最大の生産国であり、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。
鉄、モリブデン、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。
近年、観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイなどの独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。
観光は、2005年にこの部門は国のGDPの1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した。
観光客が本土への全ての訪問の1.8%に達したとき、世界観光機関(WTO)によると、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという。その年、国は1,636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した。
チリは、COVID-19流行前の2019年、GEM(Global Entrepreneurship Monitor)の研究における総合起業活動指数®(TEA)が世界1位である。チリ政府は、2010年よりStart-Up Chileを設立し、2021年には、資金提供や資金調達プラットフォームを設立し、スタートアップを試みる企業への支援を行っている。しかし、事業の休業や廃業も多くみられる。革新的な世界のスタートアップ100社が選出された「テクノロジー・パイオニア・コミュニティ2022」では、チリ発のスタートアップとして、ホームとグロバル66の2社が選出された。チリからは継続的に選出されており、今後の成長が期待される。
チリでは、再生可能資源があまり多くないため化石燃料に依存しており、その価格と国際情勢に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。
また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガス(LNG)ターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。
チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電により、次に水力発電によって生成され、6万280ギガワット時であったと推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。
チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で2番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。
現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。
チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した。
2012年には327.6万の固定電話回線と2,413万の携帯電話加入者がいる。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人あたりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。
2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる。
1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された。
世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた。2013年には総人口の66.5%のインターネット普及率であり、ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。
2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカでもっとも大きかった。
フラッグ・キャリアである、LATAM チリが、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。ハブ空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港で、多くの外国航空会社も乗り入れている。
細長い国土を縦に貫く「チリ縦貫鉄道」と、そこから分かれてアンデス山脈や太平洋側の町を結ぶ「支線」が国内の鉄道を構成している。詳細はチリの鉄道を参照。
チリ国鉄が後述の近郊電車のほか、サンティアゴと中部のタルカ・チリャンの間に中距離電車を、コンセプシオンやテムコの間に季節運行の夜行列車を走らせている。南部のプエルトモントを発着する夜行列車は「車両の老朽化」を理由として、2003年に運行が休止された。
サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されているほか、サンティアゴの都心にはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。
また、バルパライソと郊外のビニャ・デル・マールの間にはMervalと呼ばれる近郊電車が、コンセプシオンとその近郊の間にはビオトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されている。
鉄道による貨物輸送も盛んであり、特に鉱石や木材、水産物などの運搬に重宝されている。
サンティアゴ近郊には高速道路網があるほか、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスや、ペルーの首都リマとの間を結んでいる。
独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは737万4,115人、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。
チリの人口は約1,750万人ほどであり、1990年代から出生率の低下とともに人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、そのうち40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。
チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり、人口の52.7%が純粋な白人であり、44.1%がメスティーソとなっている。
そのほか、インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、きわめて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。
ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジルほどの規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人がごく少数存在するのみである。
チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。そのほかにはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。
チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%ほどとなっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。
コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。
通常、婚姻によって改姓することはない(夫婦別姓)。社交上「de+夫の姓」を追加した複合姓を用いることもあるが、一般的ではなくなりつつある。
平均寿命は78.8歳と先進国並み。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である。
チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。
19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。
識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカでもっとも高い部類に入る。
代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。
スペイン人による征服以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する。
チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。
代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。
チリはワインの大生産国として知られ、チリワインはアジェンデ政権末期に品質を落としたものの、高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。
チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。
小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。
チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、そのほかに北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。
1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害・拷問・追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。
2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。
ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達をたどることになった。その後、80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド「Los Jaivas」は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動している。
チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』『サンディーノ』のミゲル・リティン、『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。
チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。
チリ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしては、コロコロ、コブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。欧州のビッグクラブで活躍した選手には、アレクシス・サンチェスやクラウディオ・ブラーボ、アルトゥーロ・ビダルがいる。
チリサッカー連盟(FFC)によって構成されるサッカーチリ代表は、FIFAワールドカップには自国開催となった1962年大会で3位に輝いている。さらに1998年大会に出場した際には、「4チーム制によるグループリーグを3引き分け(0勝で勝ち点3)で突破し、決勝トーナメントに進出する」という珍しい記録をもつ。これは「8グループ、上位2チーム勝ち上がり」の1998年大会以降では初であり、現在まで唯一のケースとなっている。
チリ代表は近年コパ・アメリカでの躍進も著しく、2015年大会で初優勝を果たすと、翌年に行われた「100周年記念大会」であるコパ・アメリカ・センテナリオでも、リオネル・メッシのいるアルゼンチン代表を決勝で破って優勝し、大会連覇を達成した。また、FIFAコンフェデレーションズカップの2017年大会では、決勝に進出したがドイツ代表に0-1で敗れ準優勝となった。
多数の科学刊行物によると、チリは2011年時点、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。
天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。
チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。
国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。
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ボリビア
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ボリビア多民族国(ボリビアたみんぞくこく、西: Estado Plurinacional de Bolivia、ケチュア語族: Buliwiya Mama Llaqta、アイマラ語: Bulibiya Suyu)、通称ボリビアは、南アメリカ大陸西部にある立憲共和制国家。憲法上の首都はスクレだが、ラパスが実質的な首都機能を担っており、議会をはじめとした政府主要機関が所在する。ラパスは標高3600メートルで、世界で最も高所にある首都となっている。
太平洋戦争 (1879年-1884年)で敗れてチリに太平洋海岸部の領土を奪われて以降は内陸国となっており、南西はチリ、北西はペルー、北東はブラジル、南東はパラグアイ、南はアルゼンチンと国境を接する。
国土面積は約110万平方キロメートルで、日本の約3.3倍。アメリカ大陸では8番目に、ラテンアメリカでは6番目に、世界的には27番目に大きい国であるが、上記のように領土を隣国に奪われる前はさらに広かった。ボリビアは太平洋岸領土の奪還を諦めておらず、チチカカ湖や河川で活動するボリビア海軍(兵力4800人)を保持しているほか、3月23日を海の日 (ボリビア)と定め、国際司法裁判所に提訴(2018年に「チリは交渉に応じる義務はないが、善隣の精神に基づいた対話継続を妨げない」との判断が示された)するなどしている。
南半球にあり、晴れていれば南十字星が見える。
かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。推定1万4000人の日系ボリビア人がおり、日本人町もある。
公用語による正式名称は、スペイン語で Estado Plurinacional de Bolivia。公式のケチュア語表記は Bulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記は Buliwya である。通称は Bolivia [boˈliβia] ( 音声ファイル)。
2009年3月18日に、それまでのRepública de Bolivia(ボリビア共和国)から現国名へ変更した。
公式の英語表記は Plurinational State of Bolivia。通称は Bolivia [bəˈliviə] ( 音声ファイル) となっている。
日本語の表記は、ボリビア多民族国。通称は、ボリビア。また、ボリヴィアとも表記される。また公式ではないが、漢字表記としては、「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。
国家の独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。
ボリビアの大統領を元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。
建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。
国会にあたる多民族立法議会は両院制。上院は全36議席で、各県から4名ずつ比例代表制選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は小選挙区から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる(小選挙区比例代表併用制。ただし 超過議席が出ないようになっているため、連用制に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。
直近の国政選挙は、2014年10月12日に行われた。政党別の獲得議席数は、以下の通り。
2006年7月2日、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。
ボリビアの181周年独立記念日の2006年8月6日に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。
就任2年目になるエボ・モラレス大統領は、2007年1月22日、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、水を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定などを巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。
2009年1月25日、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て承認された。2009年12月6日、大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票で勝利した。
2014年10月29日、モラレスが大統領選で3度目の当選を果たし、翌2015年1月に第3期モラレス政権が発足した。
2019年10月20日、モラレスは大統領選で4度目の当選を果たしたものの、開票結果の不正操作疑惑が浮上し、これに反発した対立候補の支持者による抗議活動が発生し、国内は混乱。国軍・国家警察などから辞職勧告を突き付けられたモラレスは11月10日に大統領辞任を表明し、11月12日にメキシコへ亡命。これは事実上のクーデターとされる。
モラレスの辞任表明を受け、憲法裁判所はヘアニネ・アニェス上院副議長を暫定大統領に選出し、アニェスは就任宣誓を行った。これに対し、モラレス政権を独裁として批判してきたアメリカ合衆国やアメリカ寄りの右派政権が統治するブラジル、コロンビア、エクアドルはアニェスを暫定大統領として承認した。大統領選挙の仕切り直しは、2020年5月に予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、同年10月18日に延期して実施され、モラレス派のルイス・アルセ・カタコラが当選した。2021年3月13日、前暫定大統領のアニェスが、2019年の「クーデター」に関与した疑いなどで逮捕された。
陸軍、空軍、海軍を保有しており、12ヶ月の徴兵制度が敷かれている。
現在のボリビアは内陸国であるが、現在でも海軍と呼称されている。大西洋やチチカカ湖で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。
ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。
主要な都市はスクレ(憲法上の首都)、ラパス(事実上の首都)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ、エル・アルト、コチャバンバがある。
太平洋戦争 (1879年-1884年)に敗れて内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる。
一つは、ペルーとの国境であるチチカカ湖周辺から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、その面積は32万平方キロ余りで、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。ラパス市やオルロ市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域はアルティプラーノと呼ばれる。アンデス地域にはオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)とオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)の二つの山脈がある。 さらにコルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈)、コルディリェラ・オリエンタル(コルディリェラ・レアル、東アンデス山脈)、アルティプラノと呼ばれる高原よりなる。
国土の北東側から東側は国土の約62%を占めるアマゾンの熱帯地域であり、リャノ(llano)またはオリエンテ(oriente)と呼ばれる。リャノはさらに、熱帯雨林(いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥しているグランチャコ地方(パラグアイ国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する。
国土の約9%を占めるコチャバンバ県やラパス県ユンガス地方などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所はバジェ (valle) 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域ではインディヘナ農民によるコカの栽培も盛んである。 ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。 このユンガスにある保養地コロイコ(英語版)とラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「死の道路」と呼ばれていた。
ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に太平洋戦争_(1879年-1884年)で敗れ、 バルパライソ条約と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは3月23日を「海の日(día del mar)」として、当時ボリビア領だったカラマでチリ軍への降伏を拒否して戦死した英雄エドゥアルド・アバロアの像があるラパスで式典を開き「海を取り戻そうキャンペーン」を展開している。
ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する保税上屋(TRANSIT SHED)と呼ばれるタックス・ヘイヴンがあり、ここからチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。
アンデス共同体、南米諸国連合に加盟し、メルコスールの準加盟国でもある。 国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り(いずれも2003年の値)。
植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降は錫がボリビア経済の主軸であった。ホッホシルトが錫開発の主役であった。 石油の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。
南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。
1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年大豆、サトウキビ、綿花、コーヒー、バナナなどの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域ではカカオなどが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業やコカ栽培などが行われている。
1958年、第一次農地改革が行われたが、2006年現在では、分配された土地の95%に当たる約3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。 2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというものである。
主な観光地としてはティワナクの遺跡や、チチカカ湖、ウユニ塩原、ポトシの鉱山、チェ・ゲバラの戦死したイゲラなどがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、カナダ、アメリカ合衆国、日本、韓国、イスラエルといった先進国に加えて、南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から登山家を引き寄せている。また、アマゾンのツアーを提供する多くのツアー会社もある。
国家統計局(INE : Instituto Nacional de Estadistica)が発表している2001年の国勢調査(Censo Nacional)の結果によると、人口は8,274,325人、うち女性4,150,475 人、男性4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/km。
国際連合児童基金(ユニセフ)の発表によると、5歳以下で死亡する子供の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。平均寿命は女性64歳、男性61歳、合計63歳。
ケチュア人が約30%、メスティーソ(混血)が約30%、アイマラ人が約25%、ヨーロッパ系が約15%、アフリカ系が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。
先住民人口比率が85%と南米最多である。
先住民としては南東部のチャコ地方にはグアラニー族も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、チキタノ人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。
メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性はチョリータと呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。
クリオーリョ(スペイン系)の出身地としては植民地時代からのスペイン人が最も多いが、ドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、クロアチア、ロシア、ポーランドなどにルーツを持つ者やバスク民族系なども存在している。
全人口の0.5%程であるアフリカ系は、元々ブラジルに奴隷としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。日系ボリビア人は推定1万4000人ほど存在する。ペルーへの日系移民がボリビアへ来たのが始まりといわれている。1900年代に日本人移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域のリベラルタやトリニダに移住した。1954年からは主に沖縄県や九州からの移住者がサンタ・クルス県に移住し、オキナワ移住区やサンフアン・デ・ヤパカニ移住区を開拓した。
言語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。
信仰の自由を認めたうえでローマ・カトリックを国教に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年は同じキリスト教のプロテスタントや福音派が勢力を増している。東部にはメノニータも入植している。
2020年時点でGDPに占める比率は9.8%であり、2011年から徐々に上昇している。
2020 年時点で94%であり、ラテンアメリカ並びにカリブ諸国の識字率94%と比較すると概ね平均的な識字率である。ボリビアでの非識字率は2001年の13.28%から2014年に3.8%に下がっている。これは2006年に発足したモラレス政権が非識字克服を最優先課題の一つに掲げ、キューバの教育者が開発した識字メソッド(Yo, sí puedo)の活用とベネズエラからの資金援助によって、読み書きできない国民へ無償の教育を提供した影響が大きい。
4〜5歳を対象とした2年間の就学前教育から始まり、6年間の初等教育、6年間の中等教育、高等教育が行われる。義務教育は初等教育から中等教育までの14年間であり、学年暦は2月から始まり、11月に終わる。高等教育は大学やその他の高等教育機関で行われる。大学では,学士課程(4〜6年),修士課程(2年),博士課程(4年)が置かれる。その他の高等教育機関では,上級技術者ディプロマを取得する 3〜4年の課程などが置かれる。高等教育までは全ての公教育が無償となっている。
一般的に同じ校舎内で午前に小学校の授業,午後は中学・高校その他の学校の授業,夜は夜間学校と技術専門学校などの授業が行われている。また、学校施設不足などの理由から1つの校舎を別の複数の学校が共有することもある。
義務教育後の教育としては私立高校からは大学へ進学する者が多い。大学は入学が簡単である一方、卒業は困難である。公立高校からは経済的理由により働くか公立大学へ進学する者が多い。
私立校は小・中・高までの一貫教育を行っており、公立校よりも教師、設備に優れ、教育水準も高い。公立校は授業料が無料であるが、ほとんどの学校で教科書をコピーして使っており、教職員のストライキが多く教育課程に支障が出る場合がある。
独立機関である教育の質研究所(OPCE)の2010年の調査によると、初等教育では国語よりも算数の能力が低い児童が多いことが確認された。また、中等教育では初等教育と同様に算数の能力の低さが確認された。特に開発が遅れているとされている県において能力が低い生徒の割合が多く、県ごとに能力のばらつきが大きいことが確認されている。算数能力が低い理由として、授業が教師主導型で練習問題を解かせるだけであり生徒の自主性を重要視していないことが指摘されている。
2020年時点で男性69歳、女性75歳、合計72歳である。
2019年時点で第1に虚血性心疾患、第2に下気道感染症、第3に脳卒中である。
寿命に大きな影響を与えている要因として栄養失調、肥満がある。
2019年時点でGDPに占める比率は6.92%であり、2000年から徐々に上昇している。
公共の保健医療施設はサービスレベルに応じて3段階に分けられている。第1次レベルは初期治療などを提供する診療所、保健センターが該当する。第2次レベルは基本的専門医療を提供する県病院が該当する。第3次レベルは最も高度な医療を提供する総合・専門病院が該当する。
妊産婦死亡率や5歳未満の乳幼児の死亡率が高く、母子保健が劣悪な状況であることから、1996年7月に「国家母子保健政策」が政府によって策定され、妊産婦および5歳未満の乳幼児が無料で診療を受けられるようになった。2003年には国家母子保険はユニバーサル母子保険と名称が変更され、社会保険や民間の施設でも適用されるようになった。妊産婦死亡率や幼児死亡率は近年(2019)の経済成長によって減少しつつあるが、依然として人口1万人あたりの医師数は中南米域内の平均を大きく下回っており、病院の数・人材・機材・薬品も不足している状態が長く続き、栄養失調などの問題が残っていた。こうした状況を踏まえ、政府は2019年3月に全国統一医療システムを導入し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの拡大に取り組んでいる。具体的には全国民の保健サービスへのアクセスを目標とし、妊産婦死亡率を現状より50%削減し、幼児死亡率については現状より30%削減するとしている。
ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ拡大の政策によって医療設備の数は増加しており、新しく導入された国民皆保険により、国民の51%が無料診療を受けられるようになった一方で、患者数の急増に病院のインフラが追いつかず、十分な医療サービスを提供できない病院もある。そのため、より多くの機材や医師を病院に配置することが求められている。
2008年2月1日、前年の11月に成立した新年金法が施行され、無年金者への「尊厳ある年金」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施しているベネズエラや、無年金救済制度をつくったアルゼンチンなどの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400ボリビアーノス(約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。
プレ・インカ期やインカ帝国の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下のペルー副王領やリオ・デ・ラ・プラタ副王領の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、ペルーとボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。
例えば、アンデス地方を特徴づける文化として世界的に有名なのはフォルクローレであるが、その曲調、使用する楽器などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これはアルゼンチン北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続けるチョリータと呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。
アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。 俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々はコージャと呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々はカンバと呼ばれる。
1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている。
食文化としては、パン、ジャガイモ、トウモロコシを主食とし、副食として主に牛肉と鶏肉を食べる。豚肉は高級な食材とされる。クイと呼ばれる天竺鼠の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ(キャッサバ)やパパイア・マンゴーなども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ(鱒の一種)やペヘレイといった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地ではサルテーニャが、低地ではクニャペがよく売られている。
第二次世界大戦前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前はユダヤ人、戦後はナチスの残党)がビールを広めた結果、ラパスでは「パセーニャ (Paceña)」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、コチャバンバでは「タキーニャ (Taquiña)」、サンタクルスでは「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。
ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれているチチャという発酵酒や、ブドウの蒸留酒シンガニや、中米から輸入したラム酒のロン(Ron)などが飲まれる。
ボリビア人のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホによりロバの背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。また、アルゼンチンに近いタリハはボリビア屈指のワイン産地であり、ワインも好まれている。
ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、ロマン主義の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。
20世紀初めになるとアルシデス・アルゲダスの『ワタ・ワラ』や『青銅の種族』により、インディオの困窮やキリスト教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。このころの作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。現在において活躍する作家としては、エドムンド・パス・ソルダンや日系ボリビア人のペドロ・シモセが特に有名である。
ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達したクリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロとポトシが有名である。オルロでは年に一度、ユネスコの無形文化遺産にも登録されているカルナバル(カーニバル)が行われるが、これはクスコ、リオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョ、クエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。
『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。ポトシやその近くのチュキサカの田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、タラブコの祭りなどがその例である。
ポピュラー音楽の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレとロックやジャズのクロスオーバーも盛んである。コロンビア生まれのクンビアも広く聴かれている。
ボリビアにおいて初めて長編映画『ワラ・ワラ』を撮影したのはホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナ(英語版)であり、1930年のことだった。その後1953年にボリビア映画協会が設立され、ホルヘ・ルイスらが活躍した。1966年にはホルヘ・サンヒネスを中心にウカマウ集団(スペイン語版)が結成され、日本でも現代企画室と太田昌国の協力により『地下の民』(1986年)などが公開された。
ボリビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。
ボリビア国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様、サッカーが圧倒的に一番人気のスポーツとなっており、1950年にサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。ボリビアサッカー連盟(FBF)によって構成されるサッカーボリビア代表は、これまでFIFAワールドカップには3度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかしコパ・アメリカでは1963年大会で初優勝を果たしており、1997年大会では準優勝に輝いている。
代表チームはホームゲームで驚異的な強さを誇っており、ラパスにあるスタジアム「エスタディオ・エルナンド・シレス」は標高が約3,600mもあり、酸素濃度が低いためアウェーチームは度々苦戦を強いられている。
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ファミリーベーシック
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ファミリーベーシック(FAMILY BASIC)は、任天堂が1984年6月21日に発売したファミリーコンピュータ用の「プログラミング環境」である。BASIC言語を組み込んだロムカセットと、ファミコン本体のエキスパンドコネクタに接続する周辺機器としてのキーボード、プログラミング教本の3点がセットになっている。
ロムカセットとキーボードの2点をファミコン本体に接続することにより、BASICの文法に基づいた簡単なゲームプログラムを自作することができるようになる。組み込まれているプログラミング言語の固有称は、ハドソン開発のHu-BASICを元に、任天堂、シャープとの3社共同開発だったことから頭文字を付け、「NS-Hu BASIC」とした。ただし、最終的にはファミコンに大幅に特化したため、パソコン用のHu-BASICとは大きく異なる。
プログラム実行のために使えるメモリ容量は1,982バイト、バージョンアップ版の「ファミリーベーシックV3」では4,086バイトであり、カートリッジ内にSRAMで実装され、乾電池によってバックアップすることが可能になっている。
キーボードの配列は、アルファベットに関しては現在のパソコンやタイプライターと同様のいわゆる「QWERTY配列」だったが、カナ配列に関しては現在のパソコンで主流のJISキーボードと異なり、五十音順に並んでいる。
「ゲーム制作体験のためのBASIC」という方向性とそのハードウェア仕様によって、一般的なBASICとは異なる部分を多く含む。
メインモードであるGAME BASICモードでゲームプログラミングを行う。それ以外にも計算式入力による電卓機能の“カリキュレータボード”、音階入力による音楽制作機能の“ミュージックボード”、ワードプロセッサのような機能を持つ“メッセージボード”、バイオリズムに基づいた簡単な占いと生誕からの総経過日数の算出をする“占い”の4つの機能が内蔵された。
また、各モードに移行するイントロダクション画面もまるでコンピュータが話しかけてくれるような親しみやすい画面に作られている。
GAME BASICモードでは整数演算のみで小数点以下切り捨て、扱うことのできる整数の範囲も-32768から+32767まで、文字列の長さは31文字まで、ドット描画機能なしといった機能制限がある。その一方で、あらかじめ定義されているキャラクター群を自由に組み合わせることにより非常に簡単にスプライトキャラクターや背景画を作ることができ、煩雑で面倒になりがちな作業を一手に引き受ける簡易性がファミリーベーシックの大きな特徴となっている。ステートメントや関数など、必要となる標準的なBASIC言語命令も大方備わっている他、直線的な動きであれば簡単にスプライトキャラクターを定義し動かせる MOVE 命令など、独自の命令が多数備わっている。
プログラム自体はROMカートリッジに一時的に記録できる他、データの保存(SAVE)および保存したデータの読み込み(LOAD)にはカセットテープを使用する。テープへの読み書きには別売りの専用データレコーダもしくはモノラル録音再生のテープレコーダが必要となる。この機能は市販ゲームプレイ時にキーボードとデータレコーダを接続することで、自作ステージデータ、セーブデータの保存用ツールとして応用された。
4つのバージョンが存在することが確認されている。V1.0 のバージョンアップ版である V2.0A および V2.1A は出荷時期の違いによる差異であり、単体発売されていない。また、ROMカセットの色は黒が基本だが、V3.0 のみワインレッド色の外装で成型されている。
最初に発売されたバージョン。
SCR$ 関数が追加。
V2.0Aのバグが除かれたものとされる。
『ファミリーベーシックV3』として、1985年2月21日にカセットが単体発売された。メモリ容量拡張のためGAME BASICモードに完全に特化しており、イントロダクション画面なども省略され、直接BASICの画面が起動する。CRASH、AUTO、ON ERROR GOTO など多数の新規命令が追加。サンプルプログラムも4つのゲームが収録されており、BASICの命令によりRAMに呼び出すことができる。
サンプルプログラムとして収録されたのは、以下の4つである。GAME 1とGAME 2は、BGグラフィックをエディタで編集することで、簡単にステージを改造できる。
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ラパス
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ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(西: Nuestra Señora de La Paz)、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都である。これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党(英語版)政権を、1899年の「連邦革命(英語版)」によってラパスを拠点とした自由党(英語版)が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである。なお、現在も最高裁判所はスクレに存在する。
かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカに委任された。
ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサに、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマとの中継地点として、ラパス市が建設された。建設当時の名称はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(La Ciudad de Nuestra Señora de La Paz、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (Laja) という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された。1549年、ホアン・グティエレス・パニアグアは、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた。現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された。1549年に建設が開始されたサンフランシスコ教会は1610年に積雪によって倒壊したが、1744年より再建が始められ、1784年にアンデス・バロック様式の教会堂として落成した。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。
1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所でエケコの伝説が生まれた。
1809年にスペイン支配からの独立を求め、ラパス革命(スペイン語版、英語版)が始まった(ボリビア独立戦争の中心地のひとつ)。1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョはその晩スペイン広場で絞首刑となったが、ムリーリョの名前は広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として記憶された。1825年12月9日のイスパノアメリカ独立戦争におけるアヤクーチョの戦い(英語版)でのスペイン軍に対する、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍率いる大コロンビア共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「アヤクーチョの平和」の意味)に変更された。スクレはこの戦いの後、ベネズエラ人でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった。
1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していたポトシ銀山とスクレ市を背景とする保守党勢力から、オルロ近郊の錫とラパスを基盤とする自由党勢力に、政治、経済がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、1929年の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した。
1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった。
中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣のエル・アルト(El Alto)に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。
山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。近年急速に人口が増加してきている地域では上下水道などのインフラ整備が追いつかず、衛生的な水は不足することがある。下水道が貧弱なため、ちょっとした大雨でも道路が冠水しやすい。そのため、2002年2月には、50人以上の犠牲者を出す水害も発生している。
標高が高く、気候は高山気候に属する。
大統領官邸カサ・グランデ・デル・プエブロ、国会議事堂、中央省庁、各国の大使館などが集中し、最高裁判所以外の首都機能はほぼすべてがこの市に集まっている。旧市街にあるムリリョ広場 (Plaza Murillo)の周辺はラパス大聖堂などの歴史的建築が立地し、伝統的に市の中心であるが、近年は谷の一番底にあたるプラド通り (El Prado) が商業的中心になってきており、その周囲には近代的な高層ビルが建ち並んでいる。
市の中心部のやや北側にある聖フランシスコ教会 (Iglesia de San Francisco) とそこから坂を上ってゆくサガルナガ通り (Calle Sagárnaga) が観光の中心になっており、アルパカや羊の毛で作ったセーター、タペストリーのような民芸品、銀製品、ケーナやチャランゴなどの民族楽器などを売る店が多く集まっている。
サガルナガ通りの近くには「魔女の市場 (Mercado de Brujas)」と呼ばれる通りがあり、キリスト教が浸透する以前からアイマラ族などで行なわれていた儀式に用いられる道具などが売られている。ここでは、各種ハーブやセラミックの人形、リャマの胎児のミイラなどが売られている(リャマの胎児のミイラは、家を新築する際に地面の下に埋めて家内安全を祈願するのに用いられる)。
黄金博物館 (Museo de Oro) などの4つの博物館があるハエン通り (Calle Jaen) は、スペイン統治時代の雰囲気を残す古い町並みで情緒がある。この通りにはマルカタンボ (Marca Tambo) というペーニャ(フォルクローレの生演奏を聴くことができるレストラン)がある。
市内北東部のミラフローレス地区にはエルナンド・シレス競技場がある。この競技場は2007年に国際サッカー連盟がその標高を理由に公認競技場からはずしたことで話題となった。現在は再びFIFAワールドカップ予選会場として認められている。
カーニバル(カルナバル、carnaval)の時(2月頃)とグラン・ポデール祭(El Gran PoderまたはLa Entrada Universitaria)の時(8月頃)には、中心のプラド通りとそれに続くマリスカル・サンタクルス通り (Av. Mariscal Santa Cruz) とモンテス通り (Av. Montes) で、パレードが行なわれる。吹奏楽団の演奏に合わせて民族衣装をまとった十数人から百数十人のグループが踊り歩く。踊りの内容はオルロのカーニバルとほぼ同じであるのでそちらも参照されたい。毎年1月24日にアラシタの祭が開かれる。詳細はエケコの記事を参照。
空気が希薄であることと、ほとんどの家が「アドベ」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。このため、ラパス市には消防署が存在しないということがしばしば言われるが、実際には消防署も消防車も存在する。空気が希薄なために、吸っていないタバコの火が消える、ビールやコーラが激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。
酸素が不足するため、旅行者は高山病にかかりやすく、ひどい場合、嘔吐する。急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときにはコカ茶を飲むと症状が緩和される。
すり鉢状の盆地に都市が形成されており、周辺部の急峻な場所には先住民アイマラや貧困層が居住する日干し煉瓦でできた低層住宅が広がる。
ラパスの空港であるエル・アルト国際空港は、正確に言うと隣接市であるエル・アルト市(標高4071mに位置し、世界で最も高い都市といわれる)の高原台地にあり標高差は約500mもある。峡谷盆地のラパス市内からは、すり鉢状の地形を螺旋状に上ってゆく高速道路を使って30分ほどで行くことができる。
サンタ・クルス・デ・ラ・シエラやコチャバンバなどの国内主要都市や、リマ、ボゴタ、サンパウロ、リオデジャネイロ、アスンシオンなどの近隣国の主要都市、またアメリカ合衆国のマイアミと結ぶ航空便が開設されている。
2014年には道路渋滞の緩和を目的として、ラパス中心部と近郊のエル・アルトなどとを結ぶロープウェイ「ミ・テレフェリコ」が開業した。
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ケチュア
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ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、アルゼンチンに居住する。
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データ圧縮
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データ圧縮(データあっしゅく、英: data compression)とは、あるデータを、そのデータの実質的な内容(情報、あるいはその情報量)を可能な限り保ったまま、データ量を減らした別のデータに変換すること。高効率符号化ともいう。
データ圧縮は、データ転送におけるトラフィックやデータ蓄積に必要な記憶容量の削減といった面で有効である。しかし圧縮されたデータは、利用する前に伸長(解凍)するという追加の処理を必要とする。つまりデータ圧縮は、空間計算量を時間計算量に変換することに他ならない。例えば映像の圧縮においては、それをスムーズに再生するために高速に伸長(解凍)する高価なハードウェアが必要となるかもしれないが、圧縮しなければ大容量の記憶装置を必要とするかもしれない。データ圧縮方式の設計には様々な要因のトレードオフがからんでおり、圧縮率をどうするか、(非可逆圧縮の場合)歪みをどの程度許容するか、データの圧縮伸長に必要とされる計算リソースの量などを考慮する。
データ圧縮には、可逆圧縮と非可逆圧縮の2種類がある。可逆圧縮は、統計的冗長性を特定・除去することでビット数を削減する。可逆圧縮では情報が失われない。可逆圧縮は、数値データや文書、プログラムなど、1ビットの変化で情報の価値が大きく毀損されるようなデータに対して用いられる。一方で、非可逆圧縮は不必要な情報を特定・除去することでビット数を削減する。非可逆圧縮ではいくらかの情報が失われる。非可逆圧縮は、音声や画像、動画など、細部が変化しても情報の意味が変わりにくいデータに対して用いられる。
アナログ技術を用いた通信技術においては通信路の帯域幅を削減する効果を得るための圧縮ということで帯域圧縮ともいわれた。デジタル技術では、情報を元の表現よりも少ないビット数で符号化することを意味する。
新たな代替技法として、圧縮センシングの原理を使ったリソース効率のよい技法が登場している。圧縮センシング技法は注意深くサンプリングすることでデータ圧縮の必要性を避けることができる。
可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮データを復元した時に、圧縮前の入力データが完全に復元されるような圧縮方法である。基本的には、入力データの統計的冗長性(出現する符号の偏り、規則性)を利用して、情報を失うことなくより稠密なデータに変換する。例えば、画像には数ピクセル同じ色が並んだ領域がよくみられる。そこでピクセル単位に色情報を並べて表現する代わりに、「n個の赤のピクセル」という形で符号化できる。このような種類の方法は連長圧縮(RLE)と呼ばれる。また、多くの可逆圧縮で使われている方法として、出現頻度(確率)の高いものに短い符号を、出現頻度の低いものに長い符号を割り当てることで、データ全体でみたときの平均符号長を短くする方法がある。これをエントロピー符号化と呼び、具体的な方法としてハフマン符号化や算術符号化などがある。また、データを区間に区切って、それぞれで対応する符号を変えたり、n 個の連続した符号の列に対して符号を割り当てる方法(拡大情報源)など、冗長性を除去することでデータ量を低減させる様々な方法が存在する。これらの方法は、圧縮率や圧縮・展開にかかる計算コスト(時間やメモリ)が異なっており、状況に応じて使い分けたり、互いに組み合わせて使うことができる。
LZ77 (Lempel–Ziv) およびそれを改良したLempel–Ziv–Storer–Szymanski (LZSS) という圧縮法は、可逆記録方法としては最もよく使われているアルゴリズムである。DeflateはLZSSを伸長速度と圧縮率の面で最適化した派生技法だが、圧縮は時間がかかることがある。Deflateは、PKZIP(英語版)、gzip、PNGで採用されている。Lempel–Ziv–Welch (LZW) はGIFで採用されている。また、LZR (Lempel-Ziv–Renau) アルゴリズムはZIPの基盤として採用されている。LZでは、データに繰り返し出現する記号列をテーブルを使って置換する方式を採用している。多くのLZ系の技法では、このテーブルを動的に生成しつつ入力を先頭から順次処理していく。テーブル自体はハフマン符号で符号化されることが多い(例えば、SHRI、LZX)。LZXはDeflateよりも効率が良く、マイクロソフトのCAB形式などで使われている。また、ハフマン符号に代わりRange Coderを採用したLZMAやLZMA2はさらに圧縮率が良い。
圧縮効率が最も高い可逆圧縮法は乱択アルゴリズムを導入したもので Prediction by Partial Matching などがある。ブロックソートはデータの統計的モデリング技法であり、圧縮の前処理に使われる。
文法圧縮を使った技法は、繰り返しが非常に多い場合に高い圧縮率を達成でき、同一あるいは関連する種の生物学的データ群、頻繁に改版される文書群、インターネットアーカイブなどの用途がある。文法圧縮では、入力文字列から文脈自由文法を構築する。コードが公開されているアルゴリズムとしては、Sequitur(英語版)、Re-Pair、MPMがある。
これらの技法をさらに洗練させるため、統計的予測と算術符号と呼ばれるアルゴリズムを組み合わせる。算術符号は Jorma Rissanen が考案し、Witten、Neal、Cleary がそれを実用的な技法に発展させ、ハフマン符号より優れた圧縮率を達成するようになった。統計的予測が文脈に強く依存する場合のデータ圧縮によく採用されている。二値画像圧縮の標準であるJBIG、文書(スキャン画像)圧縮の標準であるDjVuなどで使われている。テキスト入力システム Dasher は、いわば逆算術符号化器である。
非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)は可逆圧縮とは逆で、データを復元したときに完全には元にもどらない圧縮方法をいう。多くの非可逆圧縮では人間があまり強く認識しない成分を削除することでデータを圧縮する方法がとられている。たとえば人間は大きな音と小さな音を同時に聞いた場合、小さな音をあまり認識できないし(マスキング効果)、画像に対しても小さな色の変化は輝度の変化ほど認識されない。このためデータをフーリエ変換(あるいはその一種である離散コサイン変換など)し、高周波成分や低振幅成分を削除してしまっても、受け手に与える印象の変化に大きな差は現れない。当然削除する範囲が多ければ、元データとの差異は大きくなり、違いに気づく人間も増える。画像のサイズを小さくする、動画のフレームレートを下げるなども一種の非可逆圧縮と言える。画像圧縮技法であるJPEGは、データの本質的でない部分を丸めることで圧縮を達成している部分もある。情報の喪失と圧縮率はトレードオフの関係にある。このような人間の知覚の特性を利用した非可逆圧縮は、音声、画像、映像などのデータによく使われている。
デジタルカメラでは、画質の低下を抑えつつ撮影枚数を増やすのに非可逆圧縮を使うことがある。また、DVDで使用しているMPEG-2も映像(動画)の非可逆圧縮法の一つである。
音響データの非可逆圧縮では音響心理学が応用されており、音響信号のうちヒトの耳に聞こえない(聞こえにくい)成分を捨てている。ヒトの声のデータ圧縮にはさらに専用の技法が使われることが多く、音声符号化は音響圧縮とは別の領域とされることがある。音声圧縮はVoIP、音響圧縮はCDのリッピングなどで使われている。
圧縮の理論的背景としては、可逆圧縮については情報理論(とそれに密接に関連するアルゴリズム情報理論)、非可逆圧縮についてはレート歪み理論(英語版)がある。これらの分野の基盤を作り上げたのはクロード・シャノンで、1940年代後半から1950年代前半にかけて基盤となる論文をいくつか発表している。符号理論も関係している。データ圧縮の考え方は推計統計学とも密接に関連している。
機械学習と圧縮の間には密接な関係がある。ある系列の完全な履歴を入力として事後確率を予測するシステムは(出力分布に対して算術符号を使用することで)最適なデータ圧縮に利用でき、一方最適な圧縮器は(履歴から最もうまく圧縮するシンボルを見つけることで)予測に利用できる。この等価性を利用して、データ圧縮は「一般知能」(general intelligence) を評価するベンチマークとして使われてきた。
データ圧縮はデータの差分抽出 (data differencing) の特殊ケースとみることもできる。データの差分抽出は「ソース」と「ターゲット」の「差分」を抽出し、「ソース」と「差分」から「ターゲット」を再現できるようにするものだが、データ圧縮は「ターゲット」から圧縮したデータを作り、「ターゲット」をその圧縮したデータのみから再現する。したがって、データ圧縮は「ソース」が空の場合の差分抽出とみなすことができ、圧縮データは「無からの差分」に対応する。これは、情報量(データ圧縮に相当)がカルバック・ライブラー情報量(差分抽出に相当)の初期データがない特殊ケースと対応しているのと同じである。
このような関係を強調したい場合、データの差分抽出を「差分圧縮」(differential compression) と呼ぶことがある。
代表的なものとして、TV放送に用いられるNTSC、PALなどのコンポジット映像信号がある。コンポジット映像信号では、映像信号を輝度成分と色成分に分離した後、輝度成分に対しては十分な帯域幅を与えているのに対し、色成分についてはそれと比べ帯域幅を狭くしている。結果として元の画質と比較すると、色彩の細かい変化が失われた、例を上げるなら黒白写真に着色したものに近いような画質になっているはずだが、人間の視覚の特性上、通常のいわゆる「自然画」や、いわゆるアニメ絵でも縁の黒い線の輝度成分に助けられ、あまり気にならない(また画質が気になるような、静止している映像に対しては三次元Y/C分離によって高画質な再生が可能である)。しかしゲーム画面やCGのような、隣接する場所の色彩が極端に変化する動画ではいわゆる「色滲み」が避けられない。
中波~短波のAMラジオ放送では、占有帯域をあまり広くしないように、4kHz程度から上を切っている。電話においても効率よく多重化するため、電話は300 Hz - 3600 Hz程度が伝われば良いので、その範囲以外を切っている。
他に、以前は電話の交換機と交換機の間をPAM(パルス振幅変調)方式を使い0.125μsに分割することで、信号を多重化して送っていた。後にPAM方式からPCM(パルス符号変調)方式へ変わり、事実上デジタル方式に変わっている。
デジタル符号化されたデータの圧縮の歴史は意外と古く、1830年代に発明されたモールス信号に用いられるモールス符号も圧縮符号の一種である。これは、文字通信の中で比較的出現頻度の高いアルファベットに短い符号を割り当て、出現頻度の低いものには長い符号を割り当てることで、通信に要する手間を省いている。(しかし日本語のモールス符号はそうなっていない。モールス信号の項目を参照)
1967年、音響心理学的マスキング効果が発表されている。
その後、コンピュータの発達とともに、デジタル通信やファイルの保存でデータ圧縮の重要性が高まったことで研究が進み、1970年代後半頃からはデータ圧縮の要素技術に関する重要な特許も出願されるようになった。特許については、近年でも、オーディオ圧縮で用いられるMP3のライセンスの問題や、ウェブサイトの画像で広く用いられている GIF画像のライセンス問題など多くの紛争を発生させており、それだけデジタル時代の重要な基幹技術であることを示している。
1980年代に入ると音声通信分野のデジタル化の動きが始まり、音声圧縮の分野ではADPCMなど初期の比較的単純な圧縮方式が実用化された。また、パーソナルコンピュータやパソコン通信(ただし、日本では通信自由化以降)が普及するようになり、オンラインソフトウェアの分野からもZIPやLHAといった現在も幅広く使用されているファイル圧縮方式も誕生した。1988年、ブエノスアイレス大学の Oscar Bonello が IBM PC を使ったラジオ放送局用自動音声圧縮システムを開発した。
1990年代前半に入ると、音声圧縮や画像圧縮の分野で2005年現在でも広く知られている多くのデータ圧縮方式が発表された。音声(オーディオ)の分野では、1992年に登場したミニディスク (MD) に搭載されているATRACなどがある。また、画像の分野ではJPEG圧縮方式が国際標準規格として勧告され、広く普及した。これらの背景には、集積回路 (IC) の生産技術や設計技術の発達で大規模で高度な処理が行えるICが比較的安価な製品でも搭載可能になった点や、パーソナルコンピュータの急速な性能向上でソフトウェア的な画像処理が容易に行えるようになった点も大きい。
また、動画圧縮の分野でも、この頃、TV会議システム用の動画圧縮方式 (H.261) やビデオCDの圧縮方式 (MPEG-1) も標準化されている。また、パーソナルコンピュータ向けに企業独自の圧縮方式を採用したコーデックも登場するようになった。しかし、動画圧縮の分野では音声圧縮や画像圧縮に比べてさらに高度な技術が要求されるため、まだしばらくの間、業務用や限定的な用途に限られていた。これとは別に、デジタル時代の重要な基幹技術である動画圧縮技術には特許の権益に絡む思惑もあり、この方面でも標準化までに長い時間を要した。
1990年代後半になると、動画圧縮の分野でも国際的な標準規格であるMPEG-2が標準化され、業務用分野から幅広く利用されるようになり、1996年に登場したDVDプレーヤーや、2000年に開始されたBSデジタル放送など、家電製品にも採用されるようになった。
代表的なものとしては、インターネットのウェブサイトで広く用いられるJPEG、GIFがある。非可逆圧縮による高能率圧縮を行うものと、劣化を生じさせない可逆圧縮を用いるものがある。
例えば、非可逆圧縮形式のJPEGの場合、一定の画素数のブロックに分割したデータを離散コサイン変換 (Discrete Cosine Transform, DCT) と呼ばれる演算で処理して符号化を行う。
画像圧縮アルゴリズムの評価には、レナなどの画像サンプルが広く使われている。
音声圧縮では、人の聴覚の特性を利用して高能率の非可逆圧縮を行うものが広く用いられている。非可逆圧縮の代表的な方式としてMP3がある。CDの音声データ (1411.2kbps: 44.1kHz, 16bit, 2ch) を128kbpsのMP3形式に圧縮した場合、圧縮率は約1/11となる。最近では高音質の320kbpsの圧縮率が一般的になりつつある。
一方で、まったく劣化を生じさせない可逆圧縮方式を用いたものも増えてきている。 ALAC、FLAC、Monkey's Audio(APE)などがその代表である。
動画圧縮では、各フレームの静止画の圧縮と時系列の圧縮技法(動きベクトル、フレーム間予測、動き補償など)を組み合わせて行う。通常動画データには同期した音声も付属しているため、動画圧縮のコーデックは音声圧縮用コーデックを統合してパッケージ化されていることが多い。
動画圧縮アルゴリズムのほとんどが非可逆圧縮である。圧縮前の動画はあまりにも多大なデータとなり、ストリーミングに際しても巨大な帯域幅を必要とする。可逆な動画用コーデックの圧縮性能は平均で3倍程度だが、非可逆なMPEG-4の圧縮性能は20倍から200倍である。非可逆圧縮では、画質、圧縮・伸長のコスト、要求されるシステム性能といったトレードオフが考慮される。圧縮率が高すぎるとブロックノイズなどの圧縮アーティファクトが生じることがある。
動画圧縮では一般に四角い範囲の隣接するピクセル群をグループとして扱い、これをマクロブロックと呼ぶ。このブロックを次のフレームの同じ位置のブロックと比較し、差分のみをデータとして送る。そのため、動きが激しい動画では差分が大きくなり、より多くのデータを符号化しなければならなくなる。したがって固定ビットレートでは、爆発シーン、炎のシーン、動物の群れ、視点(カメラ)の平行移動などで画質が低下することがあり、可変ビットレートではデータ転送量が増加する。
動画データは、一連の静止画フレームからなっている。このフレーム列には空間的にも時間的にも冗長性があり、動画圧縮アルゴリズムはそれを除去することで全体のサイズを小さくしようとする。隣接するフレームは相互によく似ていることが多く、フレーム間の差分だけを格納することでこれを利用する。また、ヒトの目は色の変化には鈍感で輝度の変化には敏感である。そこで、静止画圧縮のJPEGのようにフレーム内の似たような色が並んでいる領域を平均化するような圧縮を行う。これらの技法には本質的に非可逆なものと原本の情報を保持する可逆なものがある。
フレーム間圧縮では、フレーム列を前後で比較したとき、全く変化しない領域があれば、前のフレームの同じ領域をそのままコピーせよというコマンドを生成する。領域が単純に変化している場合、シフト、回転、明るくする、暗くするなどのコマンドを生成する。このようにコマンド列を生成した方が各フレームを静止画として圧縮するよりサイズが小さくなる。このようなフレームをまたいだ圧縮は単純に再生する用途では問題ないが、圧縮された動画を編集したい場合には問題となることがある。
フレーム間圧縮を行うと、フレームからフレームにデータをコピーしていくことになるため、大本となるフレームが消されると(転送に失敗すると)その後のフレーム列を正しく再生できなくなる。DVのようなデジタルビデオ規格では、フレーム毎の圧縮しか行わない。その場合は編集で一部をカットするのが容易である。フレーム毎の圧縮しか行わない場合、各フレームのデータ量はほぼ同じになる。フレーム間圧縮システムでは、あるフレーム(MPEG-2では「Iフレーム」と呼ぶ)は他のフレームからデータをコピーせずに再現できるフレームでフレーム間圧縮の起点となっているため、前後の他のフレームより多くのデータを含んでいる。
フレーム間圧縮を施した動画データの編集はフレーム毎の圧縮のみの場合よりはるかにコンピュータの性能を要求するが、例えばHDVなどの規格ではMPEG-2データのノンリニア編集が可能である。
2013年現在、主に使われている動画圧縮技法(例えば、ITU-TまたはISOが規格として承認したもの)は、空間的冗長性の削減に離散コサイン変換 (DCT) を採用しているものが多い。この技法は1974年、N. Ahmed、T. Natarajan、K. R. Rao が導入した。他の技法としてはフラクタル圧縮や matching pursuit がある。研究段階では離散ウェーブレット変換 (DWT) も使われているが、製品としては実用化されていない(静止画圧縮では使用している例がある)。フラクタル圧縮は最近の研究の進展で比較的有効性が低いとされ、人気が衰えている。
塩基配列データの圧縮は可逆圧縮の新たな用途であり、データの特性に適応させた一般的な圧縮アルゴリズムと遺伝学的なアルゴリズムが使われている。2012年、ジョンズ・ホプキンス大学のチームは特定の外部の配列データベースに依存しない世界初の遺伝子圧縮アルゴリズムを発表した。HAPZIPPERは HapMap 向けに作られており、20分の1に圧縮(ファイルサイズを95%削減)できる。これは、一般的圧縮ユーティリティの2倍から4倍の圧縮率であり、しかも高速である。彼らはSNP(一塩基多型)をマイナー対立遺伝子でソートすることでデータセットを均質化するMAF(マイナー対立遺伝子頻度)ベースの符号化 (MAFE) を導入した。
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グアラニー族
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グアラニー族 (グアラニーぞく、グアラニー語: Guarani、スペイン語: Guaraní, (複数形)Guaraníes) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としては非常に人口が少なくなっており、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。
植民地時代のブラジルの農業は、元々ポルトガル人が農耕に向いた民族ではなかったこともあり、征服したグアラニー族の農業を通婚したポルトガル人の子孫がそのまま受け継ぐという形になった。ブラジルではポルトガル人と結婚したグアラニー人の母を通して息子にグアラニー文化が伝承された。南米南部一帯に広がるマテ茶を飲む習慣もグアラニー族由来のものであるなど、グアラニー文化はいまだ影響を残している。
南米南部の地名にはウルグアイ川やパラグアイ川などグアラニー語起源の言葉が多い。ガウチョも元はグアラニー語で孤児や放浪者を意味する言葉だったという説がある。
元々が農耕民だったため、ラ・プラタ地域のチャルーア族のような攻撃的なインディオとは違って、スペイン人、ポルトガル人が来寇した直後から同盟が進み、それに伴ってスペイン植民地では主にパラグアイで、ポルトガル植民地ではブラジルで通婚、混血が進んだ。こうしてヨーロッパ人と同盟したグアラニー族は敵対部族を共同で攻撃した。
グアラニー族の特徴の1つとして、トゥピ族の一部のようにこの世に楽園が存在すると信じ、宗教的指導者として有力な存在であるシャーマンの導きにより楽園を目指すための旅に出る場合があるという点が挙げられる。グアラニー族は呪術師による世界の終末が迫りつつあるという予言を信じ、白人たちの手を逃れると共に病気も死も存在しない「災厄なき国」、「不死の国」または「悪しきことなき国」を目指して1000キロメートル以上もの移住の旅を行うこともあったが、その証拠は古いものでは16世紀中頃にまで遡る。行き先である楽園のありかは時にはブラジル奥地、またある時には遥か海の彼方にすら求められたりした。1912年に人類学者クルト・ニムエンダジュ(英語版)はアパポクバー・グアラニー族(Apapocuva-Guarani)の移住に同行したが、これは1800年頃から行われていた移住の旅のうちの最後のものであり、まもなくアパポクバー・グアラニー族が保護地域の1つに留め置かれることとなったために頓挫してしまったものの、それまでの間に彼らはマト・グロッソからブラジル大西洋岸までの大移動を果たしている。
Cipolletti (1991) はこうした終末感情についてイエズス会の影響により引き起こされたものとする見方を取り上げてはいるものの、彼女自身やミルチャ・エリアーデはこうした見解には否定的で、エリアーデはむしろグアラニー族にとって根源的なものであったと見ている。
かつてのグアラニー族の直系の子孫はカヨバ(英語版)(Kayová)、ムブヤ(スペイン語版)(Mbyá)、ニヤンデーバ(Ñandeva)の3部族であるが、2013年以前の段階でパラグアイ、ブラジル、アルゼンチン3ヶ国の国境地帯に2万-2万2000人が暮らすのみである。
ブラジルのサンパウロを根拠地とするバンデイランテスと呼ばれた奴隷商人が、グアラニー族を捕らえて奴隷にし、ブラジルで奴隷労働をさせるということがしばしば起きた。そこでスペインは辺境の地パラグアイを防衛するため、イエズス会のミッションを送り込んだ。
伝道団はグアラニー族にカトリックを伝え、さらには自警団を組織してバンデイランチへの抵抗に当たらせた。グアラニー族はしばしばバンデイランチを打ち破った。キリスト教化が進むにつれて、悪習とされた酷い飲酒の習慣や食人文化もなくなってゆき、このイエズス会の派遣は上手くいったが、スペインでのイエズス会の追放により、パラグアイからもイエズス会は撤退して行った。
パラグアイでは建国時移民を禁止しており、さらに初代独裁者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアはクリオージョが団結して反乱を起こすことを恐れたため、政策的に通婚を強要し、クリオージョとの混血(メスティーソ)がさらに多くなった。現在ではこのようなメスティーソはパラグアイ人の90%を占めるまでに至り、彼らの言葉(グアラニー語)はパラグアイの公用語の一つである。グアラニー語でグアラニー魂を表現したものがパラグアイ文学であるとされる。
チャルーア族と共に主要なインディオであった。ブラジルに国境を接しているためパラグアイと同じ問題でイエズス会伝道所が作られた。18世紀に入るとバンダ・オリエンタルを巡るスペインとポルトガルの戦争は激しさを増した。1750年1月13日にマドリード条約(英語版)が結ばれると、スペインはコロニア・デル・サクラメントをポルトガルから手に入れ、代わりにそれ以外のウルグアイ川東岸地帯がポルトガル(ブラジル)領となった。しかし、イエズス会と、教化されたグアラニー族はこれに抵抗し、1756年からスペイン軍とポルトガル軍が共同でかれらを攻撃した(グアラニー戦争(英語版))。戦争は主に現ブラジルのウルグアイ川北部とパラグアイで行われたが、結果としてウルグアイにいたグアラニー族は、一部を除いてパラグアイに撤退することになった。現在は地名と国名にその影響を残す。
上述のように、ポルトガル人との通婚を通してグアラニー文化の伝承が進み、現在では先住民性=グアラニー性は、ポルトガル性、アフリカ性と並ぶブラジル国民の三本柱のうちの一つとなっている。 南部のリオ・グランデ・ド・スル州やサンタ・カタリナ州やパラナ州につくられたイエズス会伝道所が世界遺産になっている。
この国もコリエンテス州やミシオネス州にイエズス会伝道所がある。
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ブラジリア
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ブラジリア(ポルトガル語: Brasília [bɾaˈziljɐ])は、ブラジルの首都。連邦区を構成する地区のひとつ。人口は309万4325人(2021年)で同国3位である。ブラジル中部の標高約1,100mの高原地帯に建設された計画都市。
ブラジル高原の荒涼とした未開の大地(セラード)に建設された計画都市。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計により建設された計画都市地域は、人造湖であるパラノア湖のほとりに飛行機が翼を広げた形をしており、飛行機の機首の部分に国会議事堂や連邦最高裁判所などの政府機関が並び、翼の部分には高層住宅や各国の大使館がある。 国会議事堂や大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーである。
1987年には、世界遺産に登録された。歴史的で伝統的な街並みを持つ都市が世界遺産に登録されることは多いが、建設から40年未満という近代的な都市が登録されたのは、当時としては異例のことであった。のちに世界遺産委員会の「世界遺産条約履行のための作業指針」において、20世紀建築の登録は推進されるべき分野のひとつと位置づけられた。
赤道と南回帰線の内側にあるため緯度による定義では熱帯に該当し、ケッペンの気候区分ではサバナ気候(Aw)とされるが、標高1000m台とやや高地にあるため温帯夏雨気候(Cwa,Cwb)にも近い。
ブラジルは、ポルトガルの植民地から独立した頃から(ブラジリア建設以降、現代に至るまでも含め)旧首都であるリオデジャネイロやブラジル最大の都市であるサンパウロといった大都市が存在する大西洋沿岸部に人口や産業が集中している。そのため、内陸の高原部との間で所得などの面で大幅な格差があり、既に19世紀頃からその解消と、その方策としての内陸部遷都が叫ばれていた。
20世紀に入ってからも、何度か内陸遷都が検討されながらも度重なる政変や第二次世界大戦の勃発などで具体的な形にならないままでいたが、1956年に大統領に当選したジュセリーノ・クビチェック(ジュセリーノ・クビシェッキ)は、新首都建設で内陸部の開発とそれによる国土の均衡的発展を企図し、正式に新都市の建設とリオデジャネイロからの遷都を発表した。
インドのチャンディーガルと並び、モダニズムの理念に基づいて計画的に建設された都市で、工事はクビチェックの任期である5年以内に間に合うよう、急ピッチで進められわずか41か月間(約3.5年)で完成。1960年4月21日に供用を開始した。
この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つとなったとの評価もある。
新首都を国土の中央に建設した結果、開発の進行によって内陸部の経済振興は進み、ブラジル全体としてみれば、ブラジルの国土の中央部にブラジリア国際空港(ジュセリーノ・クビシェッキ国際空港)を建設したことにより、航空路線の航路は東西南北の各地域を結ぶハブを得ており、商業運輸の面でもこの地域の国道が整備されたことで、中西部のマットグロッソ州方面から北東部のバイーア州など大西洋側の地域へ、あるいはサンパウロ州から中西部、北東部へと抜ける物流や長距離バス路線が再整備されており、連邦直轄区の建設自体には今日、一定の意義が認められる。
しかしながら、道路は整備されているものの、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、航空路線も国内線は充実しているが、大きな産業もないため国際線定期便の就航は少ない。また、サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離がかなり離れている。このような状況から大企業の本社機能の移転などが行われるには至っていない。
さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便である。
しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化しているところもあり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリア市もその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況である。
莫大な建設費を一挙に投じて、巨大建築が立ち並ぶ理想都市を建設したブラジリアのアンチテーゼとして、低コスト、ヒューマンスケール、小さなプロジェクトの積み上げという街づくりを掲げ、成功したのがパラナ州のクリティーバ市であった。
2023年1月8日、前年の大統領選挙で敗れたジャイル・ボルソナロ前大統領の支持者らが、連邦議会や最高裁判所、大統領府の建物にも侵入して破壊活動を行った。
地方政治は連邦区単位で管轄されている。ブラジリアには市長や市議会は無く、連邦区知事と連邦区議会がブラジリアを含む連邦区を統治する。
白人(49.15%)、混血(44.77%)、黒人(4.80%)、アジア人(0.39%)、先住民(0.35%)
市内は自動車道と歩道が完全に区別されており、自動車道も極力立体交差になるよう設計されている。住宅区画と商業区画、官庁街など各区画は厳然と分かたれており、市民生活においても移動が不便であるため、人口約300万人に対して自家用車の総数は100万台弱と、ブラジルの都市としては自動車の保有率が高い。
市内の主な公共交通手段はバスとタクシーである。近年になって公共交通機関の整備が始まり、一部で地下鉄が開業し、またトラムの建設工事が進行中である。
サンパウロやリオ・デ・ジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離が離れており、旅客機と長距離バスが都市間の主な交通手段である。鉄道駅も存在するものの、こちらは貨物が主であり、一般に旅客には用いていない。
空港はブラジリア国際空港があり、国際便と国内便が就航している。国内便については、全てのブラジルの大都市との間に定期便が就航しており、特に南部の大都市であるサンパウロのコンゴーニャス空港との間には15分-30分に1本程度、リオ・デ・ジャネイロのサントス・デュモン空港やアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港との間には30分―1時間に1本程度の定期便が就航している。
またブラジル国内の旅客便は南部の都市、中部の都市、北部の都市にまたがって移動する場合、中小都市同士との間には必ずしも直行便があるわけではないので、ブラジルの中心に位置するブラジリア国際空港が各都市を結ぶ乗り換えのハブ的役割を果たしている。
国際便については、ブラジリア自体に大きな産業がないため、首都の空港であるにもかかわらずTAPポルトガル航空によるリスボンへの直行便のみにとどまっていたが、昨今のブラジルの経済成長と、ブラジル中西部そしてブラジリア発着客の増加を受けて、北米便の就航が2009年より相次いでいる(アトランタ、マイアミ)。なお、TAM航空がニューヨークとの直行便を就航させる予定である。
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
ブラジリエンセFCやSEガマ、レギオンFCなどのサッカークラブがあるが、ブラジルの1部リーグに所属するクラブは2014年の時点では存在しない。なおブラジリアの州リーグ(ブラジリアは連邦直轄区なので厳密に言うと「州リーグ」ではない)が存在しているが小規模である。市内にあるエスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリアはFIFAコンフェデレーションズカップ2013と2014 FIFAワールドカップ、リオデジャネイロオリンピックのサッカーの会場として使用された。
2019年には夏季ユニバーシアードを開催予定だったが、2015年1月に財政難を理由に開催を返上したため、2016年5月にナポリ( イタリア)で代わって開催することが決定した。
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アマゾン
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アマゾン(Amazon)
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ペルー
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ペルー共和国(ペルーきょうわこく、ケチュア語族: Piruw Republika、アイマラ語: Piruw Suyu)、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。首都はリマ。
北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。
紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。
公用語による正式名称は、スペイン語表記では「República del Perú()」。ケチュア語、アイマラ語表記は共に「Piruw」である。通称は Perú。公式の英語表記は「Republic of Peru()」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳はペルー共和国。通称はペルー。漢字表記では秘露, 平柳と記される。
ペルーという言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルーという首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶ様になり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後、スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。
紀元前3000年から紀元前2500年ごろにスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明(英語版))が現れる。
1000B.C.ごろ - 200B.C.ごろ、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ(スペイン語版)北部にモチェ文化がA.D.100ごろ - A.D.700ごろ、現トルヒーリョ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1ごろ - A.D.600ごろに、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。
紀元800年ごろ、シエラ(スペイン語版)南部のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年ごろまで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。
その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャン・チャンの人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。
15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア人の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人によるタワンティン・スウユ(ケチュア語族: Tawantin Suyu、インカ帝国)によってペルー、および周辺のアンデス地域は統合される。
続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年ごろに征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ人と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。
インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ人の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初めごろまで栄えていたが、いつのころからか疫病が流行し(パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの間で激しい内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 – 1532年)が繰り広げられた。
内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸したフランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちがインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、1533年に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配からビルカバンバに逃れていた最後の皇帝トゥパク・アマルーが捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。
植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していたペルー副王領の首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われた。ミタ制によってポトシ鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。
このような状況の中で1780年、インディヘナやメスティーソは、クリオージョに対する反抗とスペイン王への忠誠を唱え、トゥパク・アマルー2世を首謀者にした反乱(スペイン語版、英語版)(1780年 - 1782年)を起こした。この反乱は、当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失って行き、トゥパク・アマルー2世は遂に部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。
18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命以来のヨーロッパでの混乱を背景に、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起きスペイン独立戦争が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラからマテオ・ガルシア・プマカワ(英語版)が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが(クスコの反乱(スペイン語版、英語版))、結局プマカワも破れた。1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレがワマンガに攻め込んだアヤクーチョの戦い(英語版)でペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ(英語版) (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それがただちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、アグスティン・ガマーラ(英語版)は、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)として独立を果たしたアルト・ペルーを併合しようと軍を送ったが、スクレ大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領によってペルーは完全征服され、南ペルー共和国と北ペルー共和国に分けられて、1836年10月にペルー・ボリビア連合の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリに亡命して、チリ政府とアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、ボリビア軍によって撃退され、インガビの戦い(英語版)でガマーラ自身も戦死すると、翌1842年にプーノで講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。
1845年にラモン・カスティーリャ(英語版)が政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる硝石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。
1854年に奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでのプランテーションで働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。1858年、エクアドル・ペルー戦争(スペイン語版、英語版)(1858年 - 1860年)。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれをカヤオでの戦いで撃退した(チンチャ諸島戦争(英語版))。
1879年4月3日にはそれまで問題になっていたアントファガスタのチリ硝石鉱山を巡って、同盟国ボリビアと共に チリ に宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍にリマを占領されて敗北し、アリカとタクナをチリに割譲することとなった。同時にこのころには貴重な資源であったグアノの鉱山も荒廃してしまった。
太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。 太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民のニコラス・デ・ピエロラ(英語版)が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってアウグスト・レギーア(英語版)政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発してビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)によって、1924年に亡命先のメキシコで「アメリカ人民革命同盟」(アプラ党)が設立された。また、ホセ・マリアテギらのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこのころである。1920年代にはアヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)がアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年にはタクナがチリから返還されたが、アリカの返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。
世界恐慌後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人のサンチェス・セロ大統領は、ポプリスモ的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じて、コロンビアからレティシアを奪おうとしコロンビア・ペルー戦争を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会はオスカル・ベナビデス(英語版)将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党によるテロが激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。
1939年にマヌエル・プラド・イ・ウガルテチェが大統領になると、ペルーは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まるとアメリカ合衆国に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日にエクアドルと国境紛争(エクアドル・ペルー戦争)を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km2を翌1942年のリオデジャネイロ議定書で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。
1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、マヌエル・オドリーア(英語版)将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンのフアン・ペロンのような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。
このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていたキューバ革命の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。
1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、ペレス・ゴドイ(英語版)将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(First Presidency of Fernando Belaúnde (1963-1968))が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC(International Petroleum Corporation, インターナショナル石油会社)問題でつまずき、IPCとの間にタララで結ばれたタララ協定(El Acta de Talara)で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。
こうした状況の中で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデター(Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas)によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や第三世界外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、キューバやチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ人民連合のサルバドール・アジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこのころである。
また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。任期の最後の年にはケチュア語が公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって1975年に終焉した。
1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派のモラレス・ベルムデス(英語版)が大統領となった(Gobierno de Francisco Morales Bermúdez)。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。
1980年には選挙によって民政に移り、再び人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(Second Presidency of Fernando Belaúnde (1980-1985))が誕生した。1981年、en:Paquisha War。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、センデロ・ルミノソ(PCP-SL)などのゲリラ勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。
1985年、当時32歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、国民総生産(GNP)は20年前の水準に逆戻りし、失業率は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これはメキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の徳政令であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%というハイパーインフレを記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。また当時はセンデロ・ルミノソはアヤクーチョを中心にシエラの大部分を占領し、パンアメリカンハイウェイや主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。
このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」(Cambio 90)を率いた日系二世のアルベルト・フジモリが勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、アメリカ合衆国や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡ってエクアドルのシスト・デュラン・バジェン(英語版)政権とのセネパ紛争(英語版)に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として1996年12月にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件が発生した。2000年にはフジモリは再選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや 、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問のモンテシノスに行わせていた買収工作や諜報機関ペルー国家情報局(スペイン語版、英語版)の存在が明らかになり、フジモリ政権は幕を閉じた。しかし、汚職での失敗支持を失ってなお、経済・治安で大きな役割を果たし、21世紀においても地方を中心に大きな支持を受けている。
2001年の選挙により、「可能なペルー(スペイン語版、英語版)」(Perú Posible)から先住民初(チョロ)の大統領、アレハンドロ・トレドが就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。
2006年の選挙により、アメリカ人民革命同盟(アプラ)から、16年ぶりにアラン・ガルシアが再び大統領に就任した。2007年8月15日に発生したペルー地震によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。2009年4月7日、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、元大統領アルベルト・フジモリ被告に対し、在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。
2006年の選挙でアラン・ガルシアに敗北したオジャンタ・ウマラが2011年大統領選挙で勝利し左派政権が誕生した。格差の縮小や富の再分配に重点を置いた政策を表明したが、実際には市場寄りの中道左派政策を取った。2012年2月13日にセンデロ・ルミノソの残党リーダーのフロリンド・フロレスを銃撃戦の末、身柄を拘束した。拘束を受けてオジャンタ・ウマラ大統領は、テレビ放送にて「センデロ・ルミノソはもはやペルーにとって脅威ではない。」と演説を行った。
2017年、オジャンタ・ウマラ大統領は、ブラジルの建設会社をめぐる汚職(オペレーション・カー・ウォッシュ)を理由に罷免されるとペドロ・パブロ・クチンスキが大統領に就任。しかし2018年3月21日、ペドロ・パブロ・クチンスキにも、同じ汚職事件に関与していた疑いが高まり、罷免決議案が採決される直前に辞職、副大統領職にあったマルティン・ビスカラが大統領に就任した。この建設会社をめぐる汚職事件は、ペルー政界を揺るがし続け、2019年4月17日には、2011年まで大統領を務めていたアラン・ガルシアが自殺。これも同じ汚職事件に関与した疑いで逮捕される直前の出来事であった。
2020年11月9日、マルティン・ビスカラ大統領がモケグア県知事時代の汚職を理由に罷免され、10日、マヌエル・メリノ国会議長が大統領に就任した。しかしこれに抗議するデモが相次ぎ、15日、メリノも辞任を発表。16日、元世界銀行職員のフランシスコ・サガスティが新大統領に選出された。わずか1週間に3人の大統領が存在したこととなった。2021年7月28日、急進左派のペドロ・カスティジョが大統領に就任。グイド・ベジド(ベリド)が首相に指名されたが、過激な発言で野党と対立して国会運営に行き詰まり、10月6日辞職した。
2022年12月7日、議会で弾劾が審議される数時間前にカスティジョは、議会を解散して大統領令による統治を開始し、2023年9月までに議会選挙を行うと表明。議会は大統領決定を認めずカスティジョを解任し、ディナ・ボルアルテ副大統領を新大統領とすることを賛成101、反対6、棄権10票で決定。ベッツィー・チャベス(英語版)首相をはじめ閣僚は辞任し、カスティジョは失職した直後に亡命のためメキシコ大使館へ向かったが途中で国家警察に反逆容疑で拘束され、首都リマ近郊の警察施設に収監された。 ペルー国内ではデモ活動が活発化し、一部は新大統領の辞任や新憲法の制定、議会の解散を要求し始めた。12月16日にはコレア教育相とペレス文化相が辞任を表明した。
大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領が行使する。大統領、副大統領共に普通選挙によって選出され、任期は5年。現行の憲法は1993年憲法であり、同憲法の規定では大統領の権限が強力であるが、大統領の再選は2000年の憲法改正により禁止されている。また、大統領によって首相に当たる閣僚評議会議長が任命される。
立法権は一院制の共和国議会によって担われ、議会の定数は120人となっている。
司法権は最高裁判所によって担われる。
1980年ごろから反政府左翼ゲリラの活動が活発になった。センデロ・ルミノソとトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動と軍との衝突によって、農村部の人口を中心に3万人を超える犠牲者が出たと言われている。
1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題を抱えていた。そのため議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、センデロ・ルミノソのグスマンをはじめとする左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。経済政策にもインフレ抑制など特筆すべき成果を挙げており、貧困層からは未だに人気が高い(要出典)。
2006年まで死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における死刑廃止国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、性的暴行を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、この年の9月21日に議会へ提出した。現在、その審議が行なわれている。背景には、日本の広島県で2005年に発生した広島小1女児殺害事件の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。
ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。
かつて徴兵制が敷かれており、成人男子は2年間の兵役の義務を有していたが、1999年に廃止されて志願兵制を採用している。
1960年代後半からベラスコ将軍の革命政権時代にソ連との友好が図られたため、1980年の民政化後もペルー軍は基本的には東側の装備である。ペルーにおいて軍隊、特に陸軍はメスティーソやチョロといった貧しい階層の出世が可能な唯一の組織であったといっても過言ではなく、サンチェス・セロやベラスコ・アルバラードなど、過去にクーデターで政権を握った軍人にもそういった階層の出身者は多かった。こうしたある意味で民主的な陸軍の伝統がある一方、対照的に海軍はイギリス海軍の影響を受けて貴族的であり、多くの機会において有色人種や身分の低い階層よりも白人が優先されていた。
軍隊は憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。
ペルー陸軍は兵員約76,000人(2001年)を擁している。
ペルー海軍は兵員約26,000人(2001年)を擁している。
ペルー空軍は兵員約18,000人(2001年)を擁している。
24の県(departamentos)とカヤオ特別区(Provincia Constitucional del Callao)によって編成されている。
主要な都市はリマ(首都)、アレキパ、トルヒーリョ、チクラーヨがある。
ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(es、国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(es、国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(es、国土の約60%)である。このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には熱帯であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。
コスタは太平洋から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。砂漠であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22°C、最も寒い8月の平均気温も14°Cであり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。冬の日はどんよりとした天気が続く。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来たオアシスの周囲のみであり、前インカ期からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。
シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域ではコーヒー、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、タワンティンスーユの中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域ではジャガイモが育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、リャマやアルパカの放牧に適している。4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。
シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、アイユと呼ばれる村落共同体の伝統が未だに重要な経済単位となっている。
セルバ(モンターニャ)はアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆やバナナなどの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつてゴムや砂金のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。
ペルーの太平洋沿岸には寒流のペルー海流(フンボルト海流)と暖流が流れており、2つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。
ペルーの国土を南北にアンデス山脈が貫いており、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版)、中央部のセントラル山脈(スペイン語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のウアスカラン山(6,778m)である。
アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。アマゾン川の源流もアンデス山脈のミスミ山(スペイン語版、英語版)にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れるプトゥマヨ川はペルーとコロンビアの国境線を形成している。
ペルーとボリビアの国境地帯のティティカカ湖は両国最大の湖となっている。
2021年のペルーのGDPは2,259億ドル、1人当たりのGDPは6,680ドルである。
アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、アジア太平洋経済協力と南米共同体の加盟国でもある。
現行の通貨はs/. ヌエボ・ソル Nuevo Sol(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。
産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油やガスなどの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、鉱毒に侵されている。
また、漁業は古くから盛んであり、1960年代には漁獲高で世界一を記録していた。2003年においても中華人民共和国に次いで世界第2位の漁獲高を記録。水産業もペルーの主要な産業であると言える。
2021年の輸出額は573億3,700万ドル、輸入額は510億8,300万ドルとなった。
輸出相手国上位5カ国は中国、アメリカ、韓国、日本、カナダであり、中国とアメリカの2カ国で輸出額の約45%を占めている。主要輸出品は銅、金、亜鉛などの鉱物資源や、ブドウ、ブルーベリー、アボカドなどの農産物である。ペルーは2020年にブルーベリーで世界2位、アボカドで世界4位の生産国となった。輸入相手国上位5カ国は中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコであり、中国とアメリカの2カ国で輸入額の約47%を占めている。主要輸入品は燃料や輸送機器、電気製品などである。
2021年の日本の輸出額は10億2,500万ドル、日本の輸入額は29億3,300万ドルとなり、日本がペルーから輸入する金額の方が多くなっている。ペルーへの輸出品は自動車、電気製品、タイヤなどである。ペルーからの輸入品は銅、亜鉛、鉄などの鉱物資源、原油、天然ガスなどである。
植民地時代にリマがペルー副王領の首都であり、そのため独立前からクリオージョ支配層がグアテマラ、メキシコと並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在国民意識が変わりつつある。 現在のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。
ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく日系ペルー人は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。
インディヘナに関してはケチュア人とアイマラ人が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。
アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。
ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からのスペイン人の他に、イタリア人、フランス人、ドイツ人、バスク人などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。
アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人(クーリー)が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタのプランテーションでの労働力として導入された。
その他のマイノリティとしてはアラブ人、ユダヤ人、アメリカ人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。
インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。
1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。
人口増加率 : 1.39%
公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。
シエラのインディヘナの多くはケチュア語を話す。アイマラ語話者はティティカカ湖沿岸のプーノ県に特に集中しており、ボリビアのアイマラ語文化圏と文化的に連続している。
国立統計情報機構(INEI)による2007年実施の第11回国勢調査結果では、当時12歳以上の国民の81.3%がローマ・カトリック、12.5%はプロテスタント、3.3%はユダヤ教・モルモン教・エホバの証人などの他宗教、2.9%は特定宗教なしとなっている。カトリックの数は減少傾向が観察され、同機構による調査数値の推移では、1993年から2007年にかけてのカトリックが89%から81%に減少している。
スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、それでもペルー土着の宗教的要素が完全に消え去ったわけではなく、先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。
伝統的には、スペイン語圏であるため、婚姻後の女性の姓は、自己の姓に相手の姓をdeを挟んで後置したものであるが、女性の権利を守る立場から近年法律が改定され自己の名前のみを名乗る夫婦別姓や、相手の姓を名乗ることも選択できるようになった。
6年間の初等教育と5年間の中等教育、6歳から16歳までの計11年間が義務教育期間である。その後に、大学(10学期=5年間)、専門学校などに進学することができ、またそれらに進学するための予備校などもある。
国立情報統計機構(INEI)が2017年9月に発表した2016年全国世帯アンケート(ENAHO)のデータによれば、識字人口は2147万4000人、15歳以上識字率は94.1%である。2006年から2016年の10年間で男性が1.7%(95.4%→97.1%)、女性が4.8%(86.2%→91.0%)向上している。
主な高等教育機関はサン・マルコス大学(1551)、ペルー・カトリカ大学、太平洋大学(1962)など。
ペルーで提供されている医療保険は、公的保険と民間保険に分けられる。公的保険には学生や妊婦、定職のない貧困者を対象とした統合健康保険(Seguro Integral de Salud : SIS )と、正規雇用者を対象とした社会保険がある。民間保険には民間保険会社が独自で運営するものと民間保険会社と政府が協力して運営するものとがあり、より良い医療サービスを求める富裕層を対象にしている。その他、国軍や国家警察を対象とした医療サービスなどがある。受診できる医療機関は保険の種類に応じて異なる。
SISの課題は4点あると考えられる。1点目は、SISへの加入者が増加しているにもかかわらず、医療施設の数が増えていないことである。2点目は、老朽化した施設が多いことである。施設、設備が共に老朽化しているため、衛生上の問題に不安が残る。3点目は、都市と地方の格差である。医療従事者全体の約3割、医師では約4割がリマ州に集中しているため、地方では正規の資格を持った医師が不足している。また、医療器具などの不足もあり、地方では十分な医療サービスを提供できていない場合が多い。4点目は、SISと社会保険のどちらにも加入できない人がいることである。SISに加入するためには収入などの審査を受ける必要がある。その審査基準に当てはまらない非正規雇用者や、社会保険費用を負担できない中小企業の雇用者はSISへも社会保険へも加入することができない。そのため、このような雇用者に対して新たな保険制度の導入を検討している。
ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。
費が多く、その後入ってきた米、パスタ、パンも多く消費されている。また高地の特産物で高栄養価のキヌアの消費も少なくない。
ペルーの食文化は高地、海岸地帯、アマゾンの密林地帯で食材の違いもあり大きく異なる。海岸地帯(コスタ)で育ったクリオーヨ料理はペルー料理を代表するひとつであり、黒人、インディヘナ、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けて独特のペルー料理を形成している。海岸地帯の料理にはセビッチェのように魚介類を豊富に使った料理が多い。シエラ(山岳地帯)では旧文明の食文化が多く残っており パチャマンカ料理やエクアドルやボリビアのように、クイと呼ばれる天竺鼠や、アルパカの肉も貴重な蛋白源として食べられている。アマゾンの密林地帯では料理用のバナナ(プランテイン)を含め多くのフルーツやアマゾンで獲れる淡水魚(ピラニアも含め)や陸生の動物も食べられている。
トウモロコシを発酵させて作る独特なアルコール飲料のチチャは古代よりアンデス地方で飲み続けられている。 独自のビールのブランドは、クリスタル、クスケーニャ、アレキペーニャなどの銘柄があり、清涼飲料水ではブランドにインカ・コーラがある。また、いろいろなハーブティーが薬用としても飲まれており、ボリビアやアルゼンチン北西部と同様にコカ茶も供されている。
ペルー文学は先コロンビア期の文明に根を持ち、植民地時代はスペイン人が年代記や宗教文学を書いた。特にインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが著した『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』はその後のインカ帝国のイメージ形成に大きな影響力を持った。
ペルーの小説は独立後の1848年にナルシソ・アレステギにより、ペルーで初めての小説『オラン神父』が書かれてから始まった。コストゥンブリスモやロマン主義が最も主流のジャンルとなり、リカルド・パルマの『ペルー伝説集』やクロリンダ・マットの『巣のない鳥たち』などがその例である。また当時ラテンアメリカで流行していた、ニカラグアのルベン・ダリオ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーから始まったモデルニスモの流れを引いた詩人としてホセ・サントス・チョカーノ、ホセ・マリア・エグーレンなどの名が挙げられる。
20世紀初頭にはインディヘニスモ運動が起こり、文学にも影響を与えた。既に19世紀末の太平洋戦争敗北後、マヌエル・ゴンサレス・プラダはインディオを重視する論陣を張っていたが、これは1920年代から1930年代のホセ・カルロス・マリアテギのインディヘニスモ思想に結びつき、さらにその流れは20世紀半ばから後半にはシロ・アレグリア、マヌエル・スコルサ、ホセ・マリア・アルゲダスらによってシエラのインディオの生活を写実的に描いた文学となって完成された。
その一方で同じく20世紀後半にはコロンビアのガルシア・マルケスと共に、ラテンアメリカ文学ブームを牽引したマリオ・バルガス・リョサや、フリオ・ラモン・リベイロ、アルフレド・ブライス・エチェニケらの活躍により、ペルー文学はより身近なものになった。
ペルーの音楽としてはヨーロッパ由来のバルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)や、ヨーロッパとアフリカの要素の入り混じったマリネラや、アフロ・ペルー音楽に代表される、コスタのクリオーリャ音楽(クレオール音楽)や、あるいはシエラで生まれたワイニョなどのフォルクローレなど有名である。
特にマリネラ(マリネラ・ノルテーニャ)は舞踊として有名で、Baile Nacional(国の踊り)と称される。ブラジルのサンバや、アルゼンチンのタンゴと並ぶ南米3大舞踊の一つに挙げられ、ペルーの無形文化遺産に登録されている。 また、競技ペアダンスとして毎年1月にペルーで世界大会が開催されている。ヨーロッパや南北アメリカ大陸に競技者が多く、アジアでは唯一、日本でも毎年各地でコンクールが開催されている。
また、現在はコスタ、シエラ、セルバと地方を問わず、国内の全域において、キューバ生まれのサルサが愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『コンドルは飛んで行く』をはじめとするケーナやチャランゴを使ったアンデスのフォルクローレである。
クリオーリャ音楽は、ペルーに土着したアフリカやヨーロッパの音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。クリオーリャ音楽は長らくコスタ唯一の大都市だったリマで育ち、19世紀末ごろに現在の形となった。このころの音楽家としては特にフェリペ・ピィングロ・アルバの名が挙げられる。クリオーリャ音楽は基本的に貧困層や大衆の音楽であったが、ラジオやレコードの普及に伴い、1950年代からブームを迎えた。チャブカ、スサーナ・バカ、ルーチャ・レジェス、タニア・リベルタ、エバ・アジョンなどの音楽家や作曲家が活躍した。カホンやギロ、クラベスなどの使用で特徴的なアフロ・ペルー音楽はペルー国外での関心も高く、著名な音楽家としてビクトリア・サンタ・クルスとニコメンデス・サンタ・クルス姉弟の名が挙げられる。
ポピュラー音楽の世界では、中産階級によってロックが愛好されているが、ペルー・ロックはラテンアメリカ市場でもあまり成功しているとはいえない。代表的なミュージシャンとしてはロス・サイコス、ウチュパ、ミキ・ゴンサレスなど。ワイニョとクンビアのクロスオーバー音楽であるチチャ(テクノ・クンビア)などもリマで愛好されている。
ペルー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が2件、複合遺産が2件存在する。
ペルー国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1928年にプロサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしてはウニベルシタリオ・デポルテス、アリアンサ・リマ、スポルティング・クリスタルなどが挙げられる。ペルー人を代表する著名なサッカー選手としては、クラウディオ・ピサーロ、パオロ・ゲレーロ、ジェフェルソン・ファルファンなどがいる。
ペルーサッカー連盟(FPF)によって構成されるサッカーペルー代表は、FIFAワールドカップには5度の出場歴をもつ。これまで1982年大会で出場したのを最後に予選敗退が続いていたが、2018年大会で36年ぶりに出場を果たした。コパ・アメリカでは自国開催となった1939年大会と、南米選手権からコパ・アメリカに名称が変更された最初の大会である1975年大会で、優勝を果たしている。
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22世紀
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22世紀(にじゅうにせいき)とは、西暦2101年から西暦2200年までの100年間を指す世紀。
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メキシコ
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メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。
メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。
正式名称は、Estados Unidos Mexicanos( 発音、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、México([ˈme̞.xi.ko̞] ( 音声ファイル)、 メヒコ)。
公式の英語表記は、United Mexican States(ユナイテッド・メクスィカン・ステイツ)、略称は、Mexico([ˈmɛksɨˌkoʊ] ( 音声ファイル)、メクスィコゥ)。
日本語訳はメキシコ合衆国で、通称はメキシコである。当て字は日本語・中国語ともに墨西哥で、墨と略される。「合衆国」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。
国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メヒクトリの地」を意味する「Mēxihco」に由来する。メヒクトリはアステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。
「合衆国」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「メキシコ共和国」に変更しようという動きがある。その一方で、伝統と歴史的背景を尊重する意見も多く、国名を変更することに対する賛否は分かれている。この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない。
この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。
先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。
14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。
1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。
ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。
スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。
独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。
また、コアウイラ・イ・テハス州にアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立した 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国と米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。
領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。
インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ(英語版)大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。
この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolución de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。
1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパタ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年に革命憲法が発布されたことで革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。
1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年に制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ、1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した。
1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。
1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレス(スペイン語版)は、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた。
また、20世紀の前半から中盤にかけては石油や銀の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。
1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化してしまう。カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。
冷戦が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、2000年に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。
カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、軍を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。
一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。
2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザ(H1N1)の発祥地とされている。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。
2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。
2013年、MIKTAに加盟している。
政体は連邦共和制である。
2018年メキシコ総選挙では、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが大統領に当選した。
国家元首は大統領である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。
大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「混合政治体制」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。
大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる。
連邦議会は両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。
現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。
世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。
2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律が最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。
主要政党には、中道右派の国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派の民主革命党, サパティスタ民族解放戦線や、労働党、メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。
司法権は最高裁判所に属している。
19世紀においては隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦やキューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年のキューバ革命以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、汎米主義に基づいて国交を継続していた。
スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。
2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。
しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「国境の壁建設問題」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった。
バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された民主主義サミットにおいてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された米州首脳会議では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「米州機構加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである。
江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。
1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。
また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。
19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。
メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社(日産第二工場、ホンダ、マツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。なかでもアグアスカリエンテスは、1982年から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。アメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。日系企業進出の遠因は、賃金も安く未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にない親日国であることなどである。犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では軍隊や警察組織を駆使して独自の治安維持をしているところもあるので、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須である。
2021年10月現在、メキシコへ進出している日系企業は1,272社となっている。これは前年(2020年)の1,300社から減少しているものの、中南米地域では最多の進出数となっている。また同年の在留邦人は11,390人であり、中南米地域ではブラジルに次いで2番目であり、国別邦人数においても21位につけている。日本からの輸出額は138億9700万米ドル、メキシコからの輸出額は36億52万米ドルであり、メキシコからアジア地域の貿易相手国としては中国、韓国に次ぐ規模となっている。日本からの主要な輸出品として輸送機械(鉄道以外)や電気・電子機器などが挙げられる。要因としてメキシコの地理的要因(例として米国・メキシコ・カナダ協定が挙げられる)、人件費の安さ、メキシコ国内におけるサプライヤーの不足がある。メキシコ国外から輸入した部品をメキシコの現地工場で製品を組み立て、国内及び北米向けに販売を行うことで、低コストで生産できる利点から進出する日系企業が多い。
特に、日本企業(現在はフランスのルノー傘下)としては最初期の1966年7月に現地工場での自動車生産を開始した日産自動車は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。日産AD(現地名ツバメ)を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置するアグアスカリエンテスや、メキシコシティ郊外のクエルナバカに工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよびカナダ向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣のチリやアルゼンチン、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「ティーダ(北米ではヴァーサ)」「ツル」「セントラ」「NP300フロンティア」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「マキシマ」「アルティマ」「370Z(フェアレディZ)」「エクストレイル」「パスファインダー」「アーバン(キャラバン)」「キャブスター(アトラス)」と新たに「リーフ」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「サクラ(シルビア)」「サムライ(バイオレット)」「280C(後のセドリック)」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。
MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Korea, Republic of)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。
成人男子には1年間の選抜徴兵制が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル(メキシコ麻薬戦争)、次いでサパティスタ民族解放軍である。
北米大陸の南部に位置し、約197万平方キロの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。
地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、クラトンが存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古いアパラチア山脈に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、第三紀以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、ポポカテペトル山(5,465メートル、もしくは5,452メートル)、イスタシュワトル山(5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。
最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川(リオ・グランデ川)であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖はチャパラ湖(1,680平方キロ)である。
カリフォルニア半島の大部分とメキシコ高原中央は、ケッペンの気候区分でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域はステップ気候BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンやリュウゼツランなどしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類されるサバナ気候(Aw)が伸びる。ユカタン半島南部にのみ、弱い乾期の存在する熱帯雨林気候(Am)が見られる。熱帯雨林気候(Af)はテワンテペク地峡北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である温暖湿潤気候(Cfa)が、山岳部は温帯気候である温帯夏雨気候(Cw)と高山気候(H)が卓越する。首都メキシコシティの平均気温は、13.7°C(1月)、16.5°C(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。
平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんある。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、太平洋沿岸の西南部ではアカプルコやイスタパなど、西端にあり太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島のカボ・サンルーカスやラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの雇用をもたらしている。
地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウムなどの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。
第一級行政区画は32の州に分かれる。首都メキシコシティの全域は、どの州にも属さない連邦区(Distrito Federal)とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。
各州には、知事(メキシコシティは政府長官)と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。
2013年の時点のGDPは1兆2,609億ドルであり、世界15位である。韓国とほぼ同じ経済規模であり、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位である。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る。メルコスールと南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構(OECD)、アジア太平洋経済協力(APEC)、北米自由貿易協定(NAFTA)の加盟国でもある。
カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、第二次世界大戦ごろより国営石油会社のペメックスを中心とした石油が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では銀やオパールの産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える銅はグルポ・メヒコが採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩やビールなどが大きな外貨獲得源になっている。また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。
特に1994年1月1日に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカやカナダ向けの自動車や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、2004年9月17日には日本との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。
2008年1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていたトウモロコシなど農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年1月30日にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。
1970年代、石油価格高騰を受け、石油投資ブームが発生した。また、賃金がアメリカよりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。国際金融市場を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど1995年前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から東南アジアへ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは固定相場であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による債務保証がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの対外債務は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、1980年代になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。1982年8月、利払いの一時停止(モラトリアム)を宣言する羽目になり、国民は急激なインフレーションと失業の増大によって苦しんだ。
当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカのメガバンクに与える影響が大きいため、IMFとアメリカ合衆国財務省、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「大きすぎて潰せない」有名な事件となった。ネルソン・バンカー・ハントを破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の民営化はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。
危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、カルロス・スリムのようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。
1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。
しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。
その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。
企業への法人税は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、ミニマムタックス制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている。企業は税金を回避するために「新しい税制は憲法により保障された権利を侵している」として訴訟を起こすのが毎年恒例となっている。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある。ただし、訴訟期間中は税金を払うことが望ましい。
国民の7割が肥満となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している。
メキシコは米投資銀行のゴールドマン・サックスおよびエコノミストのジム・オニールが研究論文において、BRICs諸国に次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在能力があるとしたNEXT11に含まれている。メキシコは1994年の通貨危機以降、アメリカの景気拡大や国際石油価格の高騰、新興国への資金流入の活発化に支えられ、2022年現在、順調な回復軌道を辿っている。特に製造業が好調であるが、最大の輸出相手であるアメリカの経済に左右されやすい特徴を持っている。
南北アメリカ間、太平洋とカリブ海を結ぶラテンアメリカの交通の要所として、メキシコシティが航空の要所として、ベラクルス港やアカプルコ港が海運の要所として、また、国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェイや国土を網羅する鉄道網が陸運の要として機能している。沿岸部の主要港には多くのクルーズ船が寄港する。
また、国内最大の航空会社であるアエロメヒコのほかに、国内には格安航空会社を含む航空網と、高速バスが走る高速道路網が整備されているほか、貨物を含む鉄道も整備されている。
メキシコシティやグアダラハラなどの大都市には充実した地下鉄網が整備されているほか、ベラクルスやアグスカリエンテス、アカプルコなどの中規模の都市には市バス網が完備されている。
民族構成はメスティーソ(白人と先住民族の混血)が60%、先住民族が30%、白人が9%とされており、そのほかにも日系メキシコ人やフィリピン系メキシコ人などといったアジア系移民の子孫、さらにはアフリカ系メキシコ人も総人口の1%ほど存在する。
白人(ヨーロッパ系メキシコ人)は、おもに植民地時代に移住したスペイン人であり、ほかにも独立後移民したイタリア人やフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、バスク人、アイルランド人、イギリス人、アメリカ人などの子孫もいる。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は共和派を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。
公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。
一般的に夫婦別姓であり、婚姻時に女性が改姓することはない。2012年より、同性同士の結婚(同性婚)を認める州が出てくるようになった。
宗教はローマ・カトリックが82.7パーセント、プロテスタントが9パーセント、その他(ユダヤ教、仏教、イスラム教など)が5パーセントである。
ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。
当国で活動するプロテスタントの宗派にはペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチスト教会などが挙げられる。
新宗教としては、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者が存在する。
1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の初等教育と前期中等教育が義務教育の期間であったが、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている。
おもな高等教育機関としては、メキシコ国立自治大学(1551年)、グアダラハラ大学(1792年)、モンテレイ工科大学(1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。
2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である。
国の所得格差を表すジニ指数によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(参照:国の所得格差順リスト)。また、カルロス・スリムという世界一の億万長者を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている。
教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)については、自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、奨学金制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である。
メキシコの治安は非常に危険な状況に陥っている。特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まるメキシコシティや、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。
カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。
また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている。
治安・市民保護省などの統計に基づく国立統計地理情報院の2023年5月24日付発表によれば、ロペス・オブラドール大統領政権下(2018年12月~2023年5月24日)の累計故意殺人件数は、過去最高値を記録したペニャ・ニエト政権の殺人件数を上回り、156,136件に上った。
先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、インディヘニスモという一大文化運動を確立した。古くから音楽や絵画、彫刻、建築など芸術面で世界的に有名な人物を輩出している。
一般的に辛いことで知られているメキシコ料理は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされたタコスやブリートがファストフードとして広く普及しているが、それらはテックス・メックス(Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食はマサと呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、トルティーヤと呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆やトウモロコシ、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも米や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。
伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、モーレがある。
海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。
近年はカップラーメンが広く普及しており、中でも東洋水産の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。
蒸留酒であるテキーラの一大産地として有名であるが、それはハリスコ州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、ビールの特産地としても知られており、コロナビールやXX(ドス・エキス)などの著名なブランドが世界中に輸出されている。
作家としては、フアン・ルルフォ、アマード・ネルボ、カルロス・フエンテス、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、アルフォンソ・レイエスなどが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年にノーベル文学賞を受賞した。アルフォンソ・レイエスはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスに大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、ロサリオ・カスティリャーノスの『バルン・カナン』などが挙げられる。
当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、マリアッチやランチェーロ、ノリード、ノルテーニョ、バンダなどが挙げられ、メキシコのフォルクローレではパラグアイやベネズエラのようにアルパが多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によってアフリカ伝来のマリンバが用いられる音楽が盛んである。
また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民(チカーノ)によってアメリカ合衆国のポピュラー音楽が行われ、ロックはラテン・ロックになり、ヒップ・ホップはチカーノ・ラップとなって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。メキシコ・ロック(ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としてはカフェ・タクーバなどが挙げられる。
クラシック音楽の分野ではカルロス・チャベスの名が特筆され、メキシコ国立交響楽団はチャベスによって設立された。
絵画に特化している面を持つ。メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家のホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が有名である。
革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で1930年代から始まったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画家たちによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻のフリーダ・カーロも女流画家として世界中で紹介されている。
ブラジル、アルゼンチンとともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。
現在、一般的に認知されている古代メキシコ人の服装や衣服は、メキシコの先住民族であるナワ族の服飾の一例である。メキシコにおける女性の伝統的な服装にはラ・チャイナ(英語版)と呼ばれるものが挙げられることがあるが、実際にはメキシコ中南部地域の一部の都市圏にのみ存在しており、19世紀後半には消滅したものと見られている。
最も賞賛されている地方衣装としてはテワナ(スペイン語版)が挙げられる。
国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が27件、自然遺産が6件、複合遺産が2件、暫定リストに22件存在する。
労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である。これ以外に慣習的な祝日がある。
メキシコで開催された著名な国際大会としては、夏季オリンピックの1968年メキシコシティオリンピックや、FIFAワールドカップ(サッカー)の1970年大会と1986年大会が行われている。なお、2026年にはアメリカやカナダとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となっている。またメキシコでは伝統的に闘牛が盛んに行われており、大都市には必ず闘牛場がある。
メキシコ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1943年にプロサッカーリーグのリーガMXが創設された。北中米カリブ海地域では最もレベルの高いリーグであり、歴代のCONCACAFチャンピオンズリーグではメキシコのクラブが優勝を独占している。
メキシコサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーメキシコ代表は、これまでFIFAワールドカップには17度出場を果たしており、北中米カリブ屈指の強豪国として知られている。CONCACAFゴールドカップでは大会最多11度の優勝を達成しており、FIFAコンフェデレーションズカップでは1999年大会で優勝するなどメキシコはサッカー大国としても名高い。著名な選手としては、元バルセロナのラファエル・マルケスや、元マンチェスター・ユナイテッドのハビエル・エルナンデス(チチャリート)などが存在する。
野球もアメリカ合衆国の強い影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ、メキシコにおける野球は国境に近い北部でも盛んである。しかし主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。またMLB選手を多く輩出しており、2019年までに129人のメキシコ人選手がプレーしている。国内には夏季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル、LMB)と冬季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ、LMP)の2つのプロリーグが存在する。LMBは1925年にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。MLBから3A相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれていたが、2021年のマイナーリーグ再編に伴いMLB機構から切り離され、現在では独立したプロ野球組織となっている。ウィンターリーグであるLMPは8チームからなり、優勝チームはLMP代表としてカリビアンシリーズに出場する。
ルチャリブレはメキシコを代表するスポーツのひとつ(厳密にはショー)で、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・プロレスであり、メキシコの象徴でもある。古くは「エル・サント、ウラカンラミレス、エル・ソリタリオ、ミル・マスカラス・ドス・カラス兄弟、エル・カネック、チャボ・ゲレロ・ジュニア、ドクトルワグナーJr、レイ・ミステリオJr、アルベルト・デル・リオ、ミスティコ」まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。CBLLおよびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。
日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず初代タイガーマスク、獣神サンダーライガー、ザ・グレート・サスケ、タイガーマスク、ウルティモ・ドラゴン、エル・サムライ、スペル・デルフィン、グラン浜田、百田光雄、CIMA、TARU、後藤洋央紀、オカダ・カズチカなど日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために、留学や遠征をするケースも多数見られる。なお、日本の全日本プロレスやアメリカのWWEなどの団体にも多くの選手を送り込んでいる。
メキシコシティ市内にある競技場、アレナ・メヒコとアレナ・コリセオは『ルチャリブレの2大聖地』と言われ、二大のルチャ団体『CMLL・トリプレ・ア』の看板スターや、フリーランスのドス・カラス・ジュニア、エル・イホ・デル・サントが繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやって来る。
ボクシングもまた、メキシコで人気スポーツのひとつでもある。世界最大の団体であるWBCの本部が置かれており、3階級制覇を達成したフリオ・セサール・チャベスを筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟やイスラエル・バスケス、日本でもなじみの深いルーベン・オリバレスやリカルド・ロペスら世界王者も数多く輩出している。なお、チャベスがエスタディオ・アステカに、グレグ・ホーゲンを迎えたWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチは、世界最多の有料入場者となる13万人を記録した。
コミッションは「CBLL」であり、タイ同様にプロボクサーライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。2000年代後半に、本部があるWBCが創設した同国内王座「FECOMBOX」と並存している。
さらに女子プロボクシングもあり、2階級制覇を達成したジャッキー・ナバを筆頭に、多くの女子世界王者も輩出している。アマチュアボクシングも盛んで、2007年のグアンテス・デ・オロには亀田和毅が出場している。オリンピックでは2021年東京大会まで13個のメダルを獲得し、競技別では飛込競技に次いで2番目に多い数字でもあるが、金メダルは自国開催の1968年メキシコシティー大会で獲得した2個のみで、女子に至ってはメダル未獲得のままである。
ブラジルやアルゼンチンなど他の中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツもメキシコでは人気スポーツのひとつである。1950年代に行われた国内を縦断する公道レースのカレラ・パナメリカーナ・メヒコや、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レースのバハ1000は世界的に有名で、F1・メキシコグランプリがメキシコシティ国際空港の近くにあるエルマノス・ロドリゲス・サーキットにて開催されている。さらに2004年からはWRCがメキシコ北部を舞台に毎年開催され、人気を博している。
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アンディ・ウォーホル
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アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)は、アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。本名はアンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。
銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。
チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(ジュリア)の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。
体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。
1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。
1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。
1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。
1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ(英語版)」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。
1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となる。
1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。 ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。
芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。
1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。
三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。
1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。1974年 (46歳)、初来日。
1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。
1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題して、ブラウン管にカラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ...キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。
1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン)」のミュージック・ビデオを手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。
1987年2月17日、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとしてマイルス・デイヴィスとともに参加。しかし直前に体調を悪くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。
2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。
派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故や死のイメージも描かれた。
彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。
初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが、1960年代以降は版画のシルクスクリーンを多用している。孔版印刷であるシルクスクリーンの原理は平たくいえば「プリントゴッコ」のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクスクリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプリントをずらしたり、インクをはみ出させた。
シルクスクリーンのモチーフに以下のようなものを選んだ(一例)。
シルクスクリーンプリント制作の傍ら1963年から1968年にかけ、60を超える映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966年の『チェルシー・ガールズ(英語版)』。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた『スリープ( Sleep)(英語版)』(1963年)。彼はアクション映画を好まず(本質的には同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なものをテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかもしれない。 その後も映画制作をし、劇映画も制作。 ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方のスクリーンにはニコの貌がランダムに挿入される)、『チェルシー・ガールズ』(1966年)は全米で公開され大ヒットとなった。他にも『エンパイア (1964年の映画)』、『フォースターズ(1967年映画)(英語版)』がある。1970年代に入ってからはそれまでの作品とは一転し、ジョー・ダレッサンドロやウド・キアを主演とする『悪魔のはらわた』(1974年)や『処女の生血』(1974年)、『アンディ・ウォーホルのBAD』(1977年)といったホラー映画の総監修も行なった。ポルノ映画『ブルー・ムービー』の監督も行った。
『Interview』は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビューのみで構成される月刊グラフ誌である。1969年秋創刊。縦16インチ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物を載せた。
ウォーホルは死後の財産について、家族に残すいくばくかのものを除いた遺産の大半によって「視覚芸術の進歩」を目的とした財団の設立を希望しており、その意思に基づいて1987年にアンディ・ウォーホル視覚芸術財団(The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts)が設立された。設立時に、財団はウォーホル作品の著作権および商標を取得した。財団はウォーホル作品の著作権を元にさまざまな企業とコラボを行って財源を確保し、視覚芸術研究や芸術家などへの支援と助成を行っている。
1991年9月、スロバキア共和国文化省とアンディ・ウォーホル美術財団は、両親の出身地である東部スロバキアのプレショウ県ストロプコウ郡ミコヴァー村から南東4キロの同郡メジラボルツェ市に「アンディ・ウォーホル現代美術館」(Múzeum moderného umenia Andyho Warhola)を開館した。社会主義時代の1970年代からアンディ・ウォーホルの作品に強い関心を持っていたメジラボルツェ市の民族工芸学校教師の調べにより、両親がミコヴァー村出身で、村には親戚もいることが判明。これを受けてアンディが没した1987年に2番目の兄、ジョン・ウォーホラ(2010年没)がミコヴァー村を訪れたことが発端となり、民主化後に実現した。旧郵便局施設を改装した建物には作品160点を常設展示。一家の由来に関する史料も展示されている。2001年以降はプレショウ県政府が運営している。
また人口わずか約150人の小村であるミコヴァー村では、ルシン人文化行事として1992年から民間主催の民族音楽・ロック音楽イベント「アンディ・ウォーホル記念ミコウスキー・フェスティバル」が毎年夏に開催されている。村域の出入口標識近くには、表にアンディ・ウォーホルの肖像画をあしらった「ようこそアンディ・ウォーホルの両親の一族ミコヴァー村へ」(Víta vás obec Miková, rodisko rodičov Andy Worhola)、裏にキャンベルスープ缶の絵をあしらった「さようなら、アンディ・ウォーホルの両親の一族より」(Dovidenia v rodisku rodičov Andy Worhola)という手描きの看板が設けられている。
アンディ・ウォーホル本人の出身地である米ペンシルベニア州ピッツバーグ市には1994年5月、「アンディ・ウォーホル美術館」(The Andy Warhol Museum)が開館した。カーネギー財団とアンディ・ウォーホル美術財団などが、産業用倉庫として使われていたノース・ショア地区の7階建てのビルを改装して開いたもので、ピッツバーグ市内の「カーネギー美術4館」の1つ。絵画や印刷作品のほか、映像作品なども合わせ1万点以上の作品を所蔵していて、1人の芸術家に特化した美術館としてはアメリカ最大である。美術館は2013年、分館を2017年にニューヨークに開設すると発表したが、計画は2015年になって中止された。
アンディ・ウォーホルの作品は死後も高く評価され続けており、オークションなどでは1億ドル以上の高値で取引されることさえある。
2013年11月には彼のシルクスクリーン作品である「銀色の車の事故(二重の災禍)(英語版)」がサザビーズで競売にかけられ1億544万ドルで落札され、彼の作品では落札最高値、美術品競売全体でも当時で4位の高値となった。
2022年5月9日には、シルクスクリーン作品「ショット・セージブルー・マリリン」がクリスティーズで競売にかけられ1億9500万ドルで落札され、最高価格を更新した。美術品オークション全体では史上2位の高値であった。この作品は、ウォーホルがマリリン・モンローのシルクスクリーン作品4枚を壁に立てかけておいたところを、知人がいたずらで銃弾で撃ち抜いて穴をあけたことで「ショット・マリリン」と呼ばれることになったものの1枚である。
それにさかのぼる2011年1月11日には、デニス・ホッパーが銃弾を2発を撃ち込んで穴を開けた毛沢東の肖像画がクリスティーズで競売にかけられ30万2500ドルで落札されている。壁に掛かっていた肖像画が、毛沢東によく似ていることをデニス・ホッパーが気味悪がり、銃で撃ってしまったといわれている。後日、デニス・ホッパーが製作者のアンディ・ウォーホルにこの絵を見せ、2人の共同制作となったことで知られる。
晩年にはコンピュータアートにも興味を持ち、2014年にフロッピーディスクに残されていた未発表のデジタル作品28点が発見された。また、自分自身のロボットをも制作させていた。シャイで人前に出るのを好まなかったため、ロボットに代わりを務めさせたかったと言われている。1960年代には、大学でのウォーホルの映画上映会に出向いて質疑応答に応えるのを嫌がり、友人をウォーホルに変装させて代わりに送っていた。
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日本テレビ放送網
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日本テレビ放送網株式会社(にほんテレビほうそうもう、英: Nippon Television Network Corporation)は、日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。日本国内で最初に開局した民放テレビ局で、日本の民放テレビ局においては歴史が最も古い。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)又は日テレ(ニッテレ)と呼ばれる。
コールサイン「JOAX-DTV」(東京 25ch)。NNN・日本ニュースネットワーク、NNS・日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDは「4」。
スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。
なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。
※テレビジョン単営局に対する最初の予備免許であったため、「JO*X-TV」シリーズの中で“A”が与えられた。
関東広域圏における地上波放送以外に、以下のチャンネルを放送、供給している。
1966年4月1日にNNN(Nippon News Network)を、また1972年6月14日にNNS(Nippon television Network System)を形成し、各系列局とネットワークを結んでいる。現在NNN加盟局は30局、NNS加盟局は29局。日本テレビの報道取材地域には関東広域圏の他に沖縄県が含まれる(沖縄県にNNN系列局がないため)。
開局以来長年「(第)4チャンネル」、「AX」、「NTV」などを略称として使用してきたが、1995年前後よりキャンペーンコピーに「日テレ」 を使用し始めた。後述の正式な略称・愛称採用以前には1996年8月から4年間放送されたCSチャンネルの名称を「CS★日テレ」、2000年12月には、開局した系列のBS日本のチャンネル名称を「BS日テレ」とした。
2003年の放送開始50周年と汐留移転を契機にコーポレートロゴを「日テレ」とするなど、正式な略称・愛称として「日テレ」が採用された。なお、新聞・テレビ情報誌の番組表での表示は従来通り「日本テレビ」のままだが、デイリースポーツ東京版では「日テレ」(以前は「NTV」)、一部番組の動画配信や関連商品の版権表記では「NTV」として表記されている。
業界ではコールサインを由来とするCX(フジテレビ)、EX(テレビ朝日)、TX(テレビ東京)に合わせ「AX」(エーエックス、アックス)と呼ぶこともある。これにちなんで、かつてはSHIBUYA-AX(シブヤ-アックス、2014年5月31日営業終了)というライブスペースを運営していた時期があり、『AX MUSIC-FACTORY』、『AX MUSIC-TV』という番組も放送していた。また、2010年には日本テレビタワーにミニライブハウス「汐留AX」(SHIODOME-AX)を設立した。グループ内の番組制作会社『日テレアックスオン』(略称:『AXON』)の社名にも「AX」が使われている。
商号の読みは「にほんテレビほうそうもう」ではなく「にっぽんテレビほうそうもう」が正しく、これは日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、NHK)やテレビ西日本(テレビにしにっぽん、TNC)の場合と同様に、英字表記する場合や局ロゴなどの表記では"NIPPON TV"としている。ただしこの2局とは異なりコールネームの方は逆に「にほんテレビ(デジタルテレビジョン)」が正しいために局名告知でも全て「にほんテレビ」で統一されており、アナウンサーも「にほんテレビ」と読むことが多い。更には国税庁の法人番号公表サイトでも商号の読み仮名が「ニホンテレビホウソウモウ」とされている。
日本テレビでは、以下の2冊を発行している(2020年3月時点)。
日本テレビ放送網は1953年8月に放送を開始した。正式社名が「日本テレビ放送網」 であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを計画して設立された。
1951年9月に正力松太郎によって日本テレビ放送網構想が公表され、日本各地に直営局を持つ放送・通信網(テレビ放送に限らない多重通信網・マイクロ中継網)が想定されていた(正力構想)。1952年7月に電波監理委員会から予備免許を付与されたが、免許方針ではさしあたり東京に2~3局、他の都市では1~2局を置局するとされた。本放送開始後も正力はマイクロ中継網を諦めてはいなかったが、マイクロ回線を専用線として貸し出す方針を示していた電電公社や、テレビ事業への進出を検討していた新聞業界から反発(1953年9月の新聞社69社の反対声明)を受けた。さらに1954年12月に衆参両院の電気通信委員会が民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ったことで正力構想の実現は困難となった(マイクロ中継網については建設のための巨額の経費や公衆電気通信法による第三者への賃貸禁止などの問題もあった)。こうして関東広域圏の放送局としての方向性が定まった。
開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。
プロ野球やプロレス中継などのスポーツ番組や『なんでもやりまショー』などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と同社施設の独占中継権を掌握していたのが有利に働いた。
日本民間放送連盟には、当初加盟しなかった。電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、東京タワーではなく自社鉄塔からの送信を継続した。「全ては自社こそテレビのパイオニアである」ということを自負していたからである。
東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保一丁目(現・新宿六丁目)に用地を確保。東京タワーの333mより高い550mの高さを有する、通称「正力タワー」を1968年に構想する。タワーの下には100階建てと200階建てのビルを数棟建てる予定であった。
ところが、「正力タワー」構想発表後の翌1969年3月5日には、当時内幸町(東京放送会館)に位置していたNHKが渋谷に計画していた現在のNHK放送センター敷地内に、「正力タワー」よりもさらに高く、現在の東京スカイツリーの高さに匹敵する600m級の、当時としては世界最大の電波塔となる予定であった(当時の世界最大の電波塔はオスタンキノ・タワーの537mであった)「NHKタワー」の建設計画を発表した(いわゆる「渋谷案」)が、この構想は「正力タワー」と同様に頓挫した。「渋谷案」は同年7月に建設計画が発表され、「高さ200mまでは鉄骨の四本足で支え、そこから高さ550mまではステンレスで覆った直径15mの円筒形になり、さらにこの上に直径212.5m、長さ50mのアンテナを取り付ける。また、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7000~8000tと軽量なタワーとする」という計画であった。なお、これとは別の案として、同じく同年7月にはNHKは代々木公園の敷地内に、「渋谷案」および「正力タワー」よりも低いものの、それでも当時は相当な高さの電波塔計画であった、高さ488m、最大直径40mの電波塔を建設する計画(いわゆる「代々木案」)もほぼ同時に打ち出した(こちらも「NHKタワー」の名称とする計画であった)。この「代々木案」では総工費は65億円で、最上部の展望台は4層構造、300人収容できる回転レストランを併設する計画であった が、こちらも頓挫した。なお「代々木案」が「渋谷案」と大きく異なるのは、「渋谷案」では純然たる電波塔で計画されていたのに対し、「代々木案」では付帯設備としてレストランを併設した施設として計画していた点であった。
この対抗的に出された「NHKタワー」計画に、正力は「同じようなものは2本(「正力タワー」と「NHKタワー」とを合わせた数)も要りません」と言い放ち、さらに「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していない「NHKタワー」と(「正力タワー」とを)一緒にされ、競合などとするのは筋違いではないか」とNHKを非難した。これに対してNHK側も「正力さんの「正力タワー」は観光塔じゃないですか?(「NHKタワー」でも「代々木案」が付帯設備を設けているものの、計画では主な利用目的を電波塔としての位置付けとしていた)」と批判。また「NHKが民間放送に対して恒久的に施設を借りた例は今までにない。そんなことをしていては視聴者に対しての責任が持てない」と正力の批判に反論した。
西大久保に建設予定であった「正力タワー」に対抗するかのように、有力候補地を2案出していた「NHKタワー」は、東京タワーを使用していたNHK教育テレビ用のアンテナと当時紀尾井町に位置していたNHK総合テレビ用電波塔(高さ82m)より電波を送っていたNHK総合テレビの電波塔を「NHKタワー」へと移転統合する計画であったが、NHK局舎の内幸町から渋谷への移転までに計画は立ち消えとなった。
正力の没後、「正力タワー」の建設計画の消滅、およびそれに関連しての東京タワーへの送信所移転が行われた。「正力タワー」を予定していた用地は後に日本テレビゴルフガーデンとしてオープンした。
当時読売新聞社主であった正力が社長を務めていたことで、大阪の完全系列局である読売テレビの開局が「大阪読売新聞」の部数増に繋がったことなどの事例もあったが、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回った。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。これはTBS自身が新聞社の色を薄め、結成当初から特定の新聞との関係を持たないようにしてネットワーク形成を構築したためである。
加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社制作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降した。
正力の没後、粉飾決算の公表もなされた一方で、名古屋地区の中京テレビへの単独ネット化、読売新聞への完全系列化、ラジオ日本との提携など、正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われ、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直す。その後、朝枠に『ズームイン!!朝!』などの情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化した。しかし、ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時「軽チャー路線」で成功し視聴率三冠王に輝いていたフジテレビの後塵を拝し、番組制作現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。
日本テレビは、とにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようとし、番宣バラエティ番組として平日の『なんだろう!?大情報!』、週末の『TVおじゃマンボウ』、『TVおじゃマンモス』を、それぞれ1993年から開始することで、視聴者へのPRを行った。
1990年代は1980年代末に発足した社内チーム「クイズプロジェクト」によって、バラエティ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』・『マジカル頭脳パワー!!』が登場。早朝5時台に『あさ天5』を立ち上げ、『ジパングあさ6』や『ズームイン!!朝!』などの報道・情報番組が人気コンテンツとなる。1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビはフジテレビを追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年から2003年に10年連続「年間視聴率四冠王」、1994年度から2002年度に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデンタイム・プライムタイム・全日に更にノンプライムを加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」を史上最高となる46か月連続で達成し、2000年には史上初となる機械式視聴率調査を行っている26局の系列局すべてが年間・年度視聴率三冠王を達成するなど一時代を築いた。また、他局に先駆けて時代劇の制作・放送からいち早く撤退し、2004年の正月に放送された『丹下左膳』を最後に、時代劇の制作から一切手を引いている。
しかし2003年度には、視聴率買収事件の発覚や巨人戦中継の視聴率低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、プライムタイムが2位になりフジテレビに抜かれ、2004年度(2004年4月 - 2005年3月)の調査では、全部門で2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。
2000年代前半には、長寿番組や人気番組が続々と終了した。スポーツ番組『全日本プロレス中継』(2000年夏)を皮切りに、午前の帯番組『ルックルックこんにちは』(2001年春)、『ズームイン!!朝!』(2001年秋)、ドキュメンタリー教養番組『知ってるつもり?!』(2002年春)、情報バラエティ番組『特命リサーチ200X』(2004年春)、サスペンスドラマ枠『火曜サスペンス劇場』(2005年秋)、夕方の報道番組『NNNニュースプラス1』(2006年春)、昼の生活情報番組『午後は○○おもいッきりテレビ』(2007年秋)、民放テレビ局最長寿の報道番組『NNNきょうの出来事』(2006年秋)といった番組が次々と打ち切られた結果、2000年代前中盤の数年で日本テレビのタイムテーブルはほとんど塗り替えられた。
また、一部のバラエティ番組も視聴率が低下傾向にあったため、2009年春改編で19時台に帯番組『SUPER SURPRISE』を新設し、(改編時点で)開始10年以上経過していた番組は全て20時台に移行・集約させた。移行後も番組の人気は安定しており、月~木曜の20時台番組は全て開始20年を越す長寿番組となっている。
2000年代終盤以降はスポンサーニーズの高いコアターゲット層(T層・F1層・F2層)を意識した番組編成が功を奏し、全時間帯での視聴率向上に成功している。2008年・2009年には2年連続でノンプライム帯での年間・年度視聴率首位を獲得した。
2011年には8年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2011年度には9年ぶりに「年度視聴率三冠王」をそれぞれフジテレビから奪還した。
2013年12月第2週(12月9日 - 15日)から2017年11月第1週(10月30日 - 11月5日)には歴代新記録となる204週連続「週間全日トップ」を記録した。
2013年7月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる63ヶ月連続「月間全日帯視聴率トップ」を獲得した。また、2013年12月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる58ヶ月連続「月間視聴率三冠王」を獲得した。
2014年には3年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2014年度には3年ぶりに「年度視聴率三冠王」を奪還。また、放送収入(地上波放送におけるタイムCMとスポットCMの年度売上高の合計)でもフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。
2015年1月第5週から6月第2週には歴代最高記録となる20週連続三冠王を達成した。
2015年には年間売上高でも3000億円の大台を突破して前年まで31年間首位だったフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。
2016年には「週間視聴率三冠王」を年間で49回獲得し、1991年にフジテレビが記録した年間46回の記録を抜いて民放新記録となった。
2016年6月第4週(6月20日 - 26日)から2017年3月第1週(2月27日 - 3月5日)には民放歴代新記録となる35週連続「週間視聴率三冠王」を獲得した。
2019年には6年連続となる「年間視聴率三冠王」、2019年度には6年連続となる「年度視聴率三冠王」を獲得した。また、それまでKPI(重要業績評価指標)としていた「世帯視聴率」を、より正確に誰にどれくらい視聴されているかが分かる「個人視聴率」に全面的に移行させた。
2021年には11年連続となる「年間個人視聴率三冠王」、7年連続となる「年間個人視聴率五冠王」、9年連続となる「年間コア視聴率三冠王」、8年連続となる「年間コア視聴率五冠王」をそれぞれ獲得した。2021年度には歴代最長の9年連続となる「年度視聴率三冠王」(個人)を獲得した。
2022年には12年連続となる「年間個人視聴率三冠王」を獲得した。
日本テレビは日本のテレビ業界において、新しい放送媒体・放送形式を積極的に早く導入し、導入するや否やその媒体を用いた放送を定着させてきた事で有名である。放送免許取得や民間資本による開局・本放送開始はもちろんのこと、コマーシャルの放送、カラー放送、音声多重放送(世界初)、ワイドクリアビジョン放送、洋画の日本語吹き替え放送、L字型画面、データ放送、ワンセグ放送独自番組放送(非サイマル放送)、3D立体映像での生放送、ネット動画配信サービス、放送中のドラマ全話無料配信も日本の民間放送では日本テレビが初めてであった。
スポーツ中継についても、プロ野球中継におけるバックスクリーン横「センターカメラ」の導入、王貞治のための「ホームランカメラ」の導入、「審判カメラ」の導入、完全3D映像による中継の実現、サッカー中継におけるゴール内部への小型カメラの設置など、他局に先駆けて新たな中継技術を開発した。また、第3回世界陸上では世界で初めて写真判定を中継に取り入れた。
選挙特番における出口調査を全国規模で導入したのも日本テレビ報道局が最初である。
2000年代頃から環境問題に関して積極的に取り組んでいる。2003年3月に「日テレ・エコ委員会」を発足させ、在京民放キー局として初めてISOの環境マネジメントシステム規格ISO 14001の認証を取得したほか、2004年から毎年6月5日の世界環境デーを含む1週間を「日テレ系ecoウィーク」と題し、期間中は番組やイベントを通して環境問題を提起している。
テレビ放送の開始年が日本テレビと同じ1953年で共通している日本放送協会(NHK)と連携する機会も多く、2010年には「つなげよう、ecoハート。」、2021年には「国際ガールズ・デー」などをテーマに同局とコラボレーションして啓発キャンペーンを繰り広げた。また、2013年(テレビ放送開始60周年)と2018年(テレビ放送開始65周年)、2023年(テレビ放送開始70周年)には共同で特別番組も制作し、両局にて放映している。
宮崎駿率いるスタジオジブリとの関係が深く、同社の作品をほぼ独占的にテレビ放映する権利を持っている。また、日本テレビのマスコット「なんだろう」も宮崎駿が手掛けたものである。2023年10月に同社の株式4割超を取得し、子会社化することを同年9月に発表した。
2021年現在、民放キー局の中では唯一時代劇や2時間ドラマの制作を行わず、再放送枠も設けていない。そのためドラマ番組は自社系の衛星放送(BS日テレ・日テレプラス)での再放送がメインとなる。バラエティ番組については土曜・日曜の14~16時台に当該番組の宣伝も兼ねて再放送されることが多く、ドラマ番組も同枠で集中方式で再放送を実施することもある。
かつては、他の民放キー局に比べて収入全体に占める放送収入の割合が著しく高い状態であったが、現在は映画事業、通販事業、イベント・文化事業などによる放送外収入も広げている。『全日本仮装大賞』や『そっくりスイーツ』といった自社制作番組のフォーマット販売も積極的に行っており、海外事業による収入も増加しつつある。なお、海外販売で最も大きな売上を占めているのは2000年代前半に制作・放送された『¥マネーの虎』でこれまでに番組フォーマット輸出された国は2022年6月の時点で45か国以上に上る。
映画事業に関しては、スタジオジブリ作品や『名探偵コナン』シリーズ、細田守監督作品などのアニメ映画のほか、『デスノート』・『20世紀少年』シリーズ・『カイジ』シリーズ・『GANTZ』など少年漫画・青年漫画の実写化がある。
データ放送では鉄道運行情報を表示しており、JR東日本線の運行情報をJR東日本公式で表示しているテレビ局である。また『歌スタ!!』は在京キー局の中で深夜番組としては最初にデータ放送を導入した番組である。
インターネット事業に関しては積極的に展開している。一例として、ウェブサイトの充実にも取り組み、公式ウェブサイトアクセス数も在京民放テレビ局の中で首位を獲得している。
ビデオ・オン・デマンド(VOD)事業にもテレビ局としては早く参入し、日本初のテレビ局主導のインターネット動画配信サービス「第2日本テレビ」を運営していた(2012年10月から「日テレオンデマンド ゼロ」に改称)。完全無料化も功を奏し、テレビ局が運営するVODサービスの中で再生回数トップを誇り、2009年1月には単月黒字化に成功した。2010年12月からは有料動画配信サービス「日テレオンデマンド」の運営も開始した。2014年には一部の番組を放送後7日間パソコンやスマートフォンで無料視聴できる「日テレいつでもどこでもキャンペーン」を開始した。
2014年には「Hulu」から日本市場向けの事業を継承し、定額制動画配信サービスにも参入しており、最終的にはVOD事業はHuluに統一が採られている。
なお、Hulu以外の定額制動画配信サービスとの提携や自社制作番組の供給も行っており、2021年10月にNetflixと提携し、日本テレビが制作したドラマやバラエティー番組など、30作品を日本と中国を除くアジア各国への配信を開始したほか、2022年3月にはバラエティー番組『はじめてのおつかい』を世界190以上の国と地域に配信した。2023年3月には初の同サービスとの共同制作番組となる『名アシスト有吉』も世界配信した。また、2022年3月にウォルト・ディズニー・ジャパンとの間でも戦略的協業に関する合意書を締結し、同年4月から放送された『金田一少年の事件簿』をウォルト・ディズニー・カンパニー傘下の定額制動画配信サービスであるDisney+でも日本とほぼ同時期に世界配信を行った。
2020年10月からは日本の民放テレビ局で初となるテレビ番組のインターネット同時配信サービスである「日テレ系ライブ配信」(現・日テレ系リアルタイム配信)を試験的に開始し(同年12月30日でいったん終了)、2021年10月2日より本格運用を開始した。
汐留の日本テレビタワーの本社スタジオ機能は2004年2月29日に稼働し、生放送の報道・情報番組と一部のバラエティ番組が制作されている。
以前は19階は日テレグループ各社や韓国SBSなど海外テレビ局の東京支局、20階から24階には一般企業が入居していたが、現在はすべて日本テレビグループの企業が入居している。20階には準キー局である読売テレビと系列局の南海放送の東京支社も入居している。
旧本社・南本館にあったマイスタジオの名称は汐留移転後も使用されている。
汐留・日本テレビタワーに本社が移転された後も、旧社屋は麹町分室「日テレ麹町ビル」として北本館にある2つのスタジオと南本館にある貸しスタジオに限り、引き続き使用していた。日本テレビで最大面積のGスタジオがあることから、主に観客入れや出演者が多い番組が収録されている。また制作部門の一部デスクは分室に留まった。
また、日本テレビグループ企業の本社が入居し、CS日本(以前はBS日テレも)の本社と送出マスターもここにあった。周辺には、バップなど日本テレビの子会社・関連会社が入居する別館群がある。旧西本館は一般テナントビルとして使用されていた。
麹町社屋は「西本館」、「南本館」、「北本館」、「カラーセンター」の4棟から成り立っており、カラーテレビ放送開始に伴い建設された「カラーセンター」が後に新築された南本館と合体化された。しかし旧「カラーセンター」棟は老朽化が激しく、棟内にあったHスタジオとJスタジオは本社移転を契機として使用を中止した。
2019年1月、北本館隣接地に新築された番町スタジオの運用開始に伴い使用を完全に終了。旧社屋は順次取り壊されている。
旧社屋である麹町ビルの老朽化が進んでいるため、4K放送などの新しい機能を備えたスタジオとして、麹町ビルの隣に建設された。地上11階、地下5階、高さ59.9m(鉄塔含む高さ99.9m)、延べ面積33,600m2のテレビスタジオ。2016年2月着工、2018年8月竣工(全体の竣工は2020年12月)、2019年1月29日運用開始。名称は公募で選ばれた(住所の「二番町」が由来になっている)。
2004年に日本テレビの本社機能はデジタル放送に対応するため、開局以来本社を置いていた千代田区二番町(通称:麹町)から港区東新橋(通称:汐留)に移転した。
しかし、移転後に本社機能・番組収録を全て旧社屋から新社屋にシフトしたTBSやフジテレビとは違い、日本テレビは麹町社屋がさほど老朽化していなかった事や、新社屋の敷地面積が他の在京民放の社屋より狭いことなどから、本社機能と報道・情報番組制作、一部のバラエティ番組制作が『日本テレビタワー』にシフトし、バラエティ番組の多くが汐留に本社を移した後も2019年1月まで『麹町分室』で制作されており、BS・CS放送の番組送出は麹町で行っていた。こうした機能分散の例はテレビ朝日六本木ヒルズ完成前の時代(アークヒルズのスタジオ建設や本社機能移転)などがある。
2019年1月に麹町分室北本館隣接地に新築された番町スタジオへとその機能が引き継がれたが、今後も麹町の地での番組制作を継続する。
『麹町分室』『番町スタジオ』ともに、番組収録については各副調整室でVTRなどに収録した上で編集作業などを行い放送されていたが、生番組について、『麹町分室』では『日本テレビタワー(以後「本社」と表記)』の主調整室と映像・音声や各種制御系回線が直接接続されていなかったため、本社内の副調整室(所謂「受けサブ」)を開き、そこで一旦回線を受けCM出しなど制御系の調整を行ってから主調整室へ送る必要があった。 それに対し『番町スタジオ』では館内に「回線室」を設け、各副調整室と本社主調整室の映像・音声や各種制御系回線を接続できるようにした。これにより本社側に副調整室(所謂「受けサブ」)を開かず、『番町スタジオ』内の設備のみで直接生放送ができるように改められた。
『麹町分室』時代は、BS・CSの主調整室(送出マスター)が分室に置かれていたため、本社で制作された番組を光回線で送り、分室から放送されていたが、その後本社内にBS・CSも統合した主調整設備が完成し運用開始したことにより、2021年時点では番町スタジオで制作された番組は地上波・BS・CSすべてが光回線で本社へ送られている。本社主調整室から地上波は東京スカイツリー(東京タワーは予備送信所)で関東一円へ、ネット向け回線で全国のネット局へ、さらにBS・CSはそれぞれの衛星へのアップリンク施設を通じ送られ、放送に至っている。
汐留・麹町間はスタッフ専用のシャトルバスで結ばれている(六本木再開発時代のテレビ朝日も同様)。
スタジオ技術は子会社のNiTRo(旧NTV映像センター)が請け負っている。災害時の送出機能も備えている。
ワイドショー・情報番組が多く制作されており、ノンプライム帯に占める生放送の割合が高い。現在、月曜日 - 木曜日は午前4時30分から午後7時まで一部のミニ番組を除き生放送番組が連なっている(読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』を含む)。この分野を得意としている日本テレビはゴールデンタイム・プライムタイム・全日に加え、ノンプライムも視聴率の1つの区分として重要視している。
巨人戦のプロ野球中継は開局当時から「ドル箱番組」として日本テレビの番組編成の中心となっていたが、2002年を境に視聴率低迷が続き、2006年には年間平均視聴率が1桁を記録。これにより視聴率とスポンサーの点で特に大きく依存してきた日本テレビは大きなダメージを受けた。その後はゴールデンタイムのレギュラー番組を優先する編成方針から、東京ドームの巨人主催試合の放映権をNHKや他局に譲渡、あるいはBS日テレへ移行させるなどした結果、2009年以降の巨人戦の地上波中継は年間20試合前後にまで削減された。中継は週末デーゲームが中心で、ナイター中継は年間5試合程度となっている。
メジャーリーグベースボール(MLB)については放映権料の高騰を理由として、代理店との間で放映権の契約を交わしていないため、原則として、2009年から同リーグの中継を行っていない。また、同年から2022年シーズンまで、同リーグの試合映像の配信も受けていなかったため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。なお、同年以降もMLBの公式戦を日本の東京ドームにて行う際はMLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている。
野球以外では1987年から箱根駅伝の中継権を獲得し、『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』として完全中継を実施しており、毎年20%以上の高視聴率を記録する正月の人気番組となっている。サッカーは『全国高校サッカー選手権』の幹事局であり、系列局29社およびTOKYO MXを除く全国独立放送協議会12社・宮崎放送(JNN)・沖縄テレビ(FNS)と中継の共同制作を行っている。Jリーグ中継は、2009年まで当時親会社となっていたヴェルディ川崎→東京ヴェルディの主催試合を深夜枠中心に放送した。
過去には開局当初から日本プロレスの試合中継である『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』を編成して人気を博し、1972年に『全日本プロレス中継』に移行したが2000年で終了。その後は『プロレスリング・ノア中継』に移行したが、視聴率低迷を受けて2009年3月末を以て終了、以降地上波でのプロレス中継は行われていない。
他のキー局に比べて国際試合の中継数は少なく、ジャパンコンソーシアムが放映権を保有している国際大会を除き、2022年現在放映権を保有している大会はFIFAクラブワールドカップ(2005年大会から)、ラグビーワールドカップ(2007年の第6回大会以降)とFIBAバスケットボール・ワールドカップ(2023年開催予定の第19回大会)のみである。かつては世界陸上やワールド・ベースボール・クラシックの中継も実施していたが、いずれも他局に譲る形で撤退している。
1960年代から1970年代に掛けて『光子の窓』『シャボン玉ホリデー』『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』などの名番組を制作。1980年代には『久米宏のTVスクランブル』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』といった話題作はあったものの、全体的には視聴率も低迷。1990年代以降は『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』や土屋敏男演出番組(『電波少年シリーズ』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』)が人気を博し、その勢いを取り戻した。一時期までは『ロンパールーム』や『カリキュラマシーン』などの教育番組にも取り組んでおり、2021年現在は『所さんの目がテン!』が制作・継続されている。1966年から放送されている『笑点』は全国ネットで放送されるバラエティ・お笑い番組ではギネス世界記録を持つ長寿番組であり、日曜夕方の放送ながら現在も視聴率15%前後を叩き出す人気を誇っている。
他局と比較してゴールデンタイム・プライムタイムで放送されているバラエティ番組の本数が非常に多い。2023年現在、月~木曜の20時台で放送されているバラエティ番組は全て放送開始から20年を越す長寿番組となっている。日曜日に至っては15年以上続く長寿番組が集中していており、特に2007年の「イッテQ!」がゴールデンタイムに進出後は「笑点」から「おしゃれ」シリーズの番組編成が15年以上続いている。また、一部のバラエティ番組は情報エンターテインメント局で制作されている。
番組の開始時間を00分の定時ではなく、55分や57分などのいわゆるフライングスタートをキー局でいち早く導入した局である。
開局当初の麹町旧本社屋はドラマ撮影に対応可能な広いセット設備を持たなかったことから、ドラマ製作にあたっては日活や大映など各映画会社の撮影所を使用し、フィルム撮影によるテレビ映画の製作に力を入れていた。この制作方針は、自局製作によるスタジオドラマを得意としていたライバル局のTBSとは対照的なものであった。とりわけ国内の映画産業が斜陽化した1970年代から1990年代初頭にかけては東宝や石原プロモーションなど外部の映画製作プロと提携し、現代劇では『青春とはなんだ』『おひかえあそばせ』『傷だらけの天使』『大都会』『俺たちの旅』、時代劇では『子連れ狼』『新五捕物帳』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』などを放送。特に刑事ドラマは同局の十八番と言われ、1972年に金曜20時枠でスタートした『太陽にほえろ!』は最高視聴率42.5%(ニールセン調べ)を記録、レギュラー放送期間も15年近くに及ぶ人気番組となった。終了後も同時間帯はアクション路線の枠として定着し、廃枠となる1995年まで『もっとあぶない刑事』 『刑事貴族』『静かなるドン』などの人気作を生んだ。生田スタジオの運用開始以降は自局製作による一般ドラマも積極的に手掛け、『前略おふくろ様』『熱中時代』『天まであがれ!』『妻たちの課外授業』などをヒットさせている。この他、『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』に始まる「長いタイトルシリーズ」などのユニークな試みも行っており、『七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた』は日本のテレビ番組史上最も長いタイトルとされている。
現在、プライムタイムで放送されている全国ネットの連続ドラマ枠は『水曜ドラマ』・『土曜ドラマ』・『日曜ドラマ』 の3本。これは他局並みの数だが、『家なき子』『金田一少年の事件簿』『ごくせん』『家政婦のミタ』『あなたの番です』など人気番組も数多い。『水曜ドラマ』は女性層、『土曜ドラマ』はファミリー層、もしくはティーンエイジ層を意識した作品を放送している。『日曜ドラマ』は「大人の男性も楽しめて、月曜日へ弾みになるドラマ」をコンセプトとして近年では1年に1本必ず学園ドラマ(それも多くが高校が舞台のものである。)が編成されている。2017年度以降は3枠とも開始時間が22時以降となっており、全国ネットでは最も遅い編成を組んでいる。また、キー局では唯一、21世紀以降に20時台にテレビドラマ枠を編成したことがない。
なお、上記に挙げられている現在放送中のプライムタイムの連続ドラマ枠では、すべてステレオ放送、文字多重放送、連動データ放送を実施しているほか、2017年10月期以降に放送される作品にはそれらに加え、解説放送も随時実施している。更に、2019年度以降に放送される作品は原則として初回・最終回などの放送時間拡大を廃止し、通常放送時と同様の放送時間になっている。
また2018年から断続的に『ZIP!』内で連続短編ドラマを展開するなど、放送枠の概念を超えたチャレンジを積極的に行っている。
トムス・エンタテインメント(旧:東京ムービー)との繋がりが強く、自社製作では『ルパン三世』シリーズ、『それいけ!アンパンマン』、読売テレビ製作では『名探偵コナン』などを放送。また、スタジオジブリ制作のアニメーション映画作品にも参加するなど、アニメ史上重要な映画作品を多数製作している。1973年には『ドラえもん』を現在放送中のテレビ朝日版に先駆けてアニメ化した実績も持つ。特撮番組は円谷プロダクションの初期の代表作のひとつである『快獣ブースカ』をはじめとして、『ファイヤーマン』『流星人間ゾーン』『スーパーロボット レッドバロン』『星雲仮面マシンマン』『電脳警察サイバーコップ』などを放送。1978年には開局25周年記念作品として製作された『西遊記』がヒットした。
1980年代~1990年代前半は日曜午前や平日夕方に数多くの自社制作の30分連続テレビアニメ枠が存在していたが、2022年現在は、自社製作の30分連続テレビアニメ枠は金曜午前に『それいけ!アンパンマン』を持つほか、『金曜ロードショー』でも長編アニメを放送する。
この他、いわゆる「深夜アニメ」もキー局としては黎明期から積極的に放送しているが、他キー局と比べて時おり休止したり、放送曜日の変動が激しい傾向がある(詳細は「日本テレビの深夜アニメ枠の項」を参照)。一部の深夜アニメ作品についてはHuluで日テレでの本放送より早く配信を行っている。
子会社としてアニメ制作会社・マッドハウスやタツノコプロを保有しているため、この2社が作った深夜アニメを放送する事も多い。
他系列に比べ、系列局が全国ネットの番組を制作する機会が多い。
現在、読売テレビは土曜日17時台後半のアニメ、『名探偵コナン』(土曜日18時台)、『秘密のケンミンSHOW→秘密のケンミンSHOW極』(木曜日21時台)、『ダウンタウンDX』(木曜日22時台)、『木曜ドラマ→木曜ドラマF→モクドラF→木曜ドラマ』(金曜日0時台〈木曜日深夜〉)、2020年以降の一部の『日曜ドラマ』(日曜日22時台後半~23時台前半)、『情報ライブ ミヤネ屋』(月 - 金曜日14時・15時台)、『ウェークアップ』(土曜日8時台・9時台前半)、『遠くへ行きたい』を制作している。中京テレビは『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』(火曜19時台)、『それって!?実際どうなの課』(木曜日0時台〈水曜日深夜〉)、『オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。』を制作している。
かつては深夜のバラエティー枠『ZZZ』を系列局に開放し、札幌テレビ(『爆笑問題のススメ』など)、山口放送(『三宅裕司のドシロウト』など)、テレビ岩手(『フライデーナイトはお願い!モーニング』)、広島テレビ(『松本紳助』など)、福岡放送(『新型テレビ』など)が制作に参加した。
また、1970年代には基幹局以外でも北日本放送がゴールデンタイムのテレビドラマ『ゲンコツの海』を、山梨放送がプライムタイムのバラエティ番組『田宮二郎ショー プラザ47』を制作した。
夏期・冬期には『土曜パラダイス』などの放送枠で各系列局制作の全国ネット番組が相次いで放送される。年に1・2回のペースで全国ネットの単発番組を制作している系列局も多い。
2011年7月に発足した部署。2006年に従来の編成本部が制作局と名称を変え、その中の部署も一新された。実質、その編成本部の前の編成局が復活したようなもの。新しい部署として、「ドラマ制作部」、「CP班グループ」、「業務部」が作られた。また、新たに「スポーツ・情報局」が発足し、スポーツ番組や情報番組はこのスポーツ・情報局の担当となった。2009年7月の組織改正により制作局が廃止され、バラエティー局とドラマ局に分割されたが、2011年7月の組織改正で再び統合され、制作局の下にバラエティーセンターとドラマセンターが置かれた。さらに2012年6月からはバラエティーセンターとドラマセンターが廃止され制作局に移管した。
具体的に制作されている番組の種類は次の通り。
その他、日本テレビ制作局制作番組の分野別一覧も参照のこと。
制作局と共に2006年に「スポーツ・情報局」として発足した部署。従来の編成本部の制作していたスポーツ番組や情報番組がこの部署の制作担当となった。その後、2007年7月の組織改正により、情報エンターテインメント局とスポーツ局に分割された。スポーツ局には「CP班グループ」と「スポーツ企画推進部」、情報エンターテインメント局には「CP班グループ」がそれぞれ作られた。
2012年12月より情報エンターテインメント局は情報カルチャー局に改称された。
具体的な制作番組は以下の通り。
その他、日本テレビ・スポーツ・情報局制作番組の分野別一覧も参照のこと。
報道局は、政治部・経済部・社会部・国際部・映像取材部・総合ニュースセンター・ライブソリューション部・NNN事務局・解説委員会・業務改革推進部・報道審査委員会の11部署からなり、汐留・日テレタワー5階の報道局を中心に業務を行っている(報道フロア 340坪)。2012年6月1日付の組織改正で、民放では珍しい生活文化部が設置されていた。
海外の放送局を模して、レールカメラを配置した報道フロアをはじめ、パーマネントセットを配置した放送スタジオも完備している。CS放送・日テレNEWS24(旧NNN24)のスタジオもここにある。この報道局内設備もすべてHDに対応している。ニュース映像素材は最近ではHDカメラによる取材や現場からの中継も行っており、民放キー局としては報道取材におけるHDの導入が早く、今では日本テレビの放送エリア内の取材は、ほぼ全面的にHD化されている。
地方局が取材したニュースについては取材した系列局のテロップを「NNN」と併記して表示する(連名で表示する場合もある)。重大な事件・大規模な事故・災害の取材の際、地元局以外の系列局の支援を受け共同取材する場合や、高校野球等系列各局が集結して取材を行う場合は「NNN取材団」と表示する。この表示は地上波放送各種ニュース番組・日テレNEWS24ともにおこなわれている。
報道スタジオは5階報道局に隣接して置かれ、サブは3つある。主にNEWS1サブでは地上波、NEWS2サブは日テレNEWS24で使用される。この他に素材収録用の簡易サブもある。
ニュース映像の収録・編集は4階のCVセンター、テロップ・CGなどの制作は4階のテロップセンターで行われている。
NNN系列各局や海外メディア配信へのニュース配信を行う「ニュースチャンネル」が6階にあり、ニュース配信を行う送出設備のほかVTR編集室・カメラ1台の顔出し設備がある。
具体的に制作されている番組の種類は次の通り。
その他、日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧も参照のこと。
日本テレビでは以下のように、汐留「日テレプラザ」(日テレタワー敷地内)および周辺にて年数回開催される総合イベントをはじめ、『ズームイン!!SUPER』などの番組主体のイベントも開催しているほか、ミュージカルや美術展などにも力を入れている。
また、ラジオ日本で放送している日本テレビ提供の番組『坂上みきのエンタメgo!go!』でもイベント情報を紹介している。
※は現在でも継続してシリーズ化されている映画
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代前半
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
2024年
日本テレビが製作・出資に関わる映画は、「製作委員会方式」による作品が主流である。準キー局の読売テレビ、親会社の読売新聞、基幹系列局の札幌テレビ・ミヤギテレビ・静岡第一テレビ・読売テレビ・中京テレビ・広島テレビ・福岡放送などが制作委員会に名を連ねている作品が多い。
2022年9月22日、郡司恭子アナ発案で、アパレルブランド「Audire」(アウディーレ)を立ち上げた。「Wear the Voice.」をブランドコンセプトに、服を通じて女性の生き方に関する発信を行っていく。
他
他
他
なお、国が許可した債権回収業(サービサー)のニッテレ債権回収株式会社とは全くの無関係。
※2013年5月30日以前は新宿センタービル(東京都新宿区西新宿1丁目25-1)が予備送信所として使われていた。
全145局の送信所が存在する。
2011年7月24日終了時点
全97局の送信所が存在した。
70・71chは難視聴対策のためのSHF放送。
長野県・静岡県の各一部地域のCATV事業者は各県に系列局はあるものの激変緩和措置として、区域外再放送をアナログ放送終了後3年間(2014年7月24日まで)を限度として実施していた。山梨県郡内地方のCATV事業者でも、アナログ放送時代にはその終了までアナログ放送でのみ実施していた。なお、激変緩和措置の期間満了後は個別協議により次の通り継続実施していたが、2018年9月30日をもって当局を区域外再放送するケーブルテレビ局は無くなった。
静岡県
現在
過去に設置
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2,884 |
茄子 (漫画)
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茄子(なす)とは黒田硫黄の漫画作品である。講談社『月刊アフタヌーン』2000年11月号から2002年10月号にかけて連載された。単行本全3巻。
茄子を共通の話題とするオムニバス短編集。田舎や都会を舞台とする現代劇から、ヨーロッパの自転車レース(ロードレース)、近未来SF、時代劇と幅広いジャンルを扱う。第1巻に収録されている「アンダルシアの夏」は高坂希太郎監督によってアニメ映画化され、2003年夏に『茄子 アンダルシアの夏』として発表、カンヌ映画祭監督週間にも出品された。また続編として第3巻に収録されている「スーツケースの渡り鳥」が『茄子 スーツケースの渡り鳥』として同監督によって2007年秋にOVA化されている。2009年には、「新装版 上下巻」が発売された。
多数の人物が登場するが、ここでは複数の話に登場する人物を解説する。
カッコ内はその回の主要登場人物、ないし作品の舞台設定。
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2,885 |
哺乳類
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哺乳類(ほにゅうるい、英語: mammal, [ˈmæm(ə)l]、 学名:Mammalia)は、哺乳形類に属する脊椎動物の一群である。分類階級は普通綱に置かれ、哺乳綱(ほにゅうこう)とされる。
ほ乳類と表記されることもある。
基本的に有性生殖を行い、現存する多くの種が胎生で、乳で子を育てるのが特徴である。ヒト Homo sapiens を含む分類群で、ヒトは哺乳綱の中の霊長目ヒト科ヒト属に分類される。
哺乳類に属する動物の種の数は、研究者によって変動するが、現生種は5,416種~6,495種(最近絶滅した96種を含む)とされ、脊索動物門の約10%、広義の動物界の約0.4%にあたる。
日本およびその近海には、外来種も含め、約170種が生息する(日本の哺乳類一覧を参照)。
Mammalia(哺乳類)という言葉は、1758年、カール・フォン・リンネによる『自然の体系』第10版においてはじめて用いられた。リンネは1735年の『自然の体系』初版では哺乳類を「四足綱 Quadrupedia」としていたが、ヒトを四足動物に入れたことで自然主義者たちから批判を受けた。リンネはこれを受けて「ヒトがもともと四つん這いで歩いていなかったとしても、女性から生まれるヒトは母乳で成長することは認めざるを得ないだろう」と、第10版では雌の乳房 (female mammae) をその象徴として、ラテン語の「乳房の mammae」に由来する「哺乳類 Mammalia」とした。今日では、哺乳類の定義を乳腺(mammary gland)を持つこととし、これは乳汁を分泌しない雄や乳頭を持たない単孔類にもうまく当てはまる。
「哺乳類」は、ドイツ語の Säugetiere の訳である。saugen(母乳を飲む)と Tier(動物)に由来している。「哺」は、口でとる(捕)、あるいは口でささえる(輔)という字の成り立ちから、口にふくむ、食らうことを表すが、食物を与える意味ともなる。よって、「哺乳」とは乳を飲ませて育てることを意味する。
哺乳類の起源は古く、既に三畳紀後期の2億2500万年前には、最初の哺乳類といわれるアデロバシレウスが生息していた。そのルーツは、古生代に繁栄した単弓類のうち、キノドン類である。単弓類は両生類から派生した有羊膜類の子孫の一つである。有羊膜類は単弓類と竜弓類(後に爬虫類が出現した系統を包括する)とに石炭紀後期に分岐し、以降、単弓類は独自の進化をしていた。単弓類は、ペルム紀末の大量絶滅において壊滅的なダメージを受け、キノドン類などごくわずかな系統のみが三畳紀まで生き延びている。一時期再び勢力を挽回するものの、既に主竜類などの勢力も伸長し単弓類は地上の覇者ではなくなっていた。そして、三畳紀後期初頭の大絶滅を哺乳類とともに生き延びたのは、トリティロドン科のみであった。しかし彼らも白亜紀前期には姿を消している。また、同じく三畳紀には、すでに哺乳類の他のものから分岐する形で単孔目が出現している。単孔目は現存するが、これは卵生であることや総排出腔をもつことなどほかの哺乳類とは大きく異なる構造を持ち、もっとも原始的な哺乳類の形をとどめているとされる。
酸素濃度35%のペルム紀以降は、リグニンの分解能を獲得した菌類による木材の分解により酸素濃度が徐々に低下し、ジュラ紀後期の2億年前には酸素濃度は12%まで低下した。気嚢は、横隔膜方式よりも効率的に酸素を摂取できる機能がある。低酸素下でもその機能を維持できる気嚢を有した一部の双弓類(爬虫類)は繁栄することができた。一方で哺乳類の祖先である単弓類は低酸素環境下でその種の大部分が絶滅することとなった。哺乳類の肺機能は、酸素分圧0.1気圧以下で呼吸困難になり、酸素分圧0.8気圧以上で肺の組織が酸化される。
恐竜の全盛時代であるジュラ紀、白亜紀の哺乳類はネズミほどの大きさのものが多かった。しかし進化が停滞していたわけではない。白亜紀前期には、それまでの有袋類から分岐してすでに有胎盤類が登場している。また、中国から発見された大型の哺乳類の化石から未消化の恐竜の子供が見つかっている。これは、レペノマムスやデルタデリジウムのように哺乳類が恐竜を捕食していた例もあったことを意味している。
恐竜を含む主竜類が繁栄を極めた時代には、哺乳類は、夜の世界など主竜類の活動が及ばない時間・場所などのニッチに生活していた。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞を持つものが多い。現在、鳥類などに比して哺乳類の視覚が全般的に劣っているのも、この長い夜行生活を経て大部分の哺乳類の視覚が2色型色覚に退化したためと考えられている。約6400万年前、鳥類とワニ類を除く主竜類が絶滅し、次の新生代では、その空白を埋めるように哺乳類は爆発的に放散進化し、多種多様な種が現れて地上でもっとも繁栄した種となった。
現在では地中や水中などを含め、地球上のほとんどの環境に、哺乳類が生息している。
┌────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────┘
※単弓類の系統は哺乳類以外は全て絶滅した。
※哺乳類は、従来は後述する顎関節の特徴で定義されてきた。しかし近年、中間的な化石が出現するなどこの定義が適用できない場合が増えたため、現生種を含む最も小さい単系統となるよう、系統学的に厳密に再定義することが多くなった。これにより、梁歯目、モルガヌコドン目などの原始的なものが哺乳類から外れることになる。それらを含めた従来の広い意味での哺乳類を、哺乳形類という。
これらは化石では確認しにくいが、近年では少しずつ研究が進められている。
次の特徴は「哺乳類の特徴」と言われることがあるが、正しくは、あくまで一部の系統の特徴である。
哺乳類の歯は一般的に、それぞれ別の機能を持つ形状を取っており、切歯(門歯)・犬歯・前臼歯(小臼歯)・臼歯(大臼歯)の4種類に分化している。真獣類の基本数はイノシシに見られる片顎あたり切歯3・犬歯1・前臼歯4・臼歯3だが、これが揃っている種は少なく食性により歯の退化したものや、ハクジラ類のように同形歯をもつものもある。両生類や爬虫類は同形歯であり、鳥類は歯をもたない。
頬歯(前臼歯と臼歯)は、歯冠に咬頭と呼ばれるふくらみを複数もち、複雑な形をしている。また、頬歯の歯根は2本以上に分岐している。
脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞(4色型色覚)を持つものが多い。よってこれらの生物は、長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ(2色型色覚)しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われるアデロバシレウスが生息し始め、初期の哺乳類は主に夜行性であったため、色覚は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。
霊長類直鼻猿亜目は、メガネザル下目と真猿下目に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した色覚の多型が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに狭鼻下目のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながることとなる。真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている。ヒトを含む旧世界の霊長類狭鼻下目の祖先は、約3000万年前、性染色体であるX染色体に位置している赤を中心に感知するL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる。
なお、時代を下ってヒトの色覚に鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザルに色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる。広鼻下目のヨザルは1色型色覚でありホエザルは狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得しているが、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである。ヒトは上記のような霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、M錐体を欠損したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に色盲が発現する。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる。
その他の哺乳類の2色型色覚の例外として、最近の研究では、有袋類には3色型色覚が広がっている可能性がある。有袋類のうちフクロネコ、ポッサムで3色覚が認められている。 鰭脚類とクジラ類は1色型色覚である。
従来の分類体系では現生哺乳類を原獣亜綱(Ptorotheria)と獣亜綱(Theria)の2亜綱とする分類が用いられており、以下の解説も伝統的な体系に基づいている。一方で現生群を南楔歯亜綱(アウストラロトリボスフェニック亜綱 Australosphenida)と北楔歯亜綱(ボレオトリボスフェニック亜綱 Boreosphenida)の2亜綱に分ける説も提唱されている。南楔歯類には単孔類と、絶滅したアウスクトリボスフェノス目Ausktribosphenidaが含まれる。北楔歯類は摩楔歯類(トリボスフェニダ類 Tribosphenida)と同義とされることがあり、獣類(有胎盤類と有袋類)は北楔歯類または摩楔歯類に含められる。摩楔歯類を絶滅群である異獣類などとともに獣型亜綱(Theriiformes)としてまとめる分類が提唱されたこともある。
現生の哺乳類は以下のように分岐したと考えられている。なお、獣亜綱と単孔類が分岐したのは約1億8000万年前、有袋類と有胎盤類が分岐したのは約1億4000万年前である。 赤で表記した近蹄類の分岐のみ白亜紀と古第3紀の境界にあたる6600万年前より後である。
上記の系統樹の凡例:
上記の系統樹に対して生物学者の間でどの程度合意が取れているかは、系統樹の分岐箇所により異なるが、最初の
の部分に関しては、多くの化石の証拠と分子系統解析の結果から合意が取れている。
哺乳類 - 獣亜綱の下にあたる有胎盤類内の系統が
という3つに分かれる事は概ね合意されている。
なお、この3つの系統はパンゲア大陸の分裂と密接に関係している事が強く示唆されており、実際パンゲア大陸の分裂により誕生したアフリカ大陸、南アメリカ大陸、ローラシア大陸に対応する地域にアフリカ獣類、異節類、北方獣類がそれぞれ分布する。
しかしこれらの大陸の分裂の順番と年代は、分子系統解析が明らかにするアフリカ獣類、異節類、北方獣類の分岐の順番と年代とは異なっている。まず順番に関して言えば分子系統解析はこれら3つの系統がほぼ同時期に分岐した事を示唆する。
また時期に関しても、アフリカ大陸と南アメリカ大陸の分岐の時期がおよそ1億500万年前だとされているのに対し、これら3系統の分岐はおよそ8800〜9000万年前と推定されており、両者の年代は大きく異なっている。もちろん分子系統解析は(分岐が何世代前に起こったかはある程度推測できるものの)分岐が起こった年代を直接推定できるわけではなく、年代の推定には仮定をいくつも重ねなければならないという事情はあるが、2010年以降の研究は大陸の分裂よりも3系統の分岐のほうがはっきりと後に起こったとする傾向がある。
こうした差がある原因は、大陸は分裂後も距離的に近くにあった為、しばらくは動物相の交流が可能であった為と考えられる。実際、陸地が分裂状態にあっても海を渡った漂流が居住地域を拡大したと考えられる例は(パンゲア大陸の分裂以外で)いくつか存在し、このような推定を傍証する。
なお上記3系統はほぼ同時期に分岐したので、これらのうちどれが最初に分岐したのかに関する合意は2017年現在存在しない。すなわち、下記の3つのいずれの分類が正しいのか決着がついていない:
形態学的な研究はかなりの部分3.を支持するものの、ほとんどの分子系統解析は1.か2.を支持する。
決着がつかない原因は、(おそらくはパンゲア大陸やゴンドワナ大陸の分裂に伴う連続的で急速な発散によって)上記3系統の遺伝子があまりに大きくかけ離れているため分子系統解析で3系統の関係を探るのが容易ではないからである。
アフリカ獣類に属する系統群は、海へ進出した海獣類を除き、2000万年前まで遡るとアフリカ大陸、マダガスカル、アラビア半島といったアフリカ周辺に限られるため、その名がつけられた。アフリカ獣類は大きく2つの系統に分かれており、それぞれアフリカ食虫類、近蹄類と呼ばれる。
北方真獣類は
のように分岐するが、真主齧類内部の分岐、およびローラシア獣類内部の分岐は2017年現在未確定な部分が多い。
真主齧類はグリレス類(Glires、ネズミ目、ウサギ目)と真主獣類(Euarchonta、霊長目、齧歯目、ヒヨケザル目、ツパイ目)に系統分類できるとされるものの、真主齧類内の目の系統関係は2013年現在曖昧なままである。特にツパイ目の位置づけの決定は2017年現在でも難しい。ツパイ目が霊長目やヒヨケザル目の姉妹群となる研究成果がある一方、グリレス類の姉妹群とする成果や、真主齧類で最も祖先的だとする成果もあり、後者2つのいずれかが正しいとすれば、真主獣類という系統は否定されることになる。
なお歴史的には真主齧類に翼手目を加えたものを「主齧類」と呼んでいたが、分子系統解析により翼手目は別系統であることが分かったので、主齧類から翼手目を除いたものを「真主齧類」と名付けた。
ローラシア獣類内の目の系統関係の確立は難しく、2017年現在確立されているのは、真無盲腸目が最も早期に分岐したことと、食肉目と鱗甲目が姉妹群であることだけである。ローラシア獣類内における奇蹄目の位置づけの決定は特に難しい。
なお、翼手目、奇蹄目、鱗甲目、食肉目の4つを総称してペガサス野獣類と呼ぶ事がレトロトランスポゾンの解析から提案されたが、その後の分子系統解析の研究で否定されている。
有袋類は系統樹に挙げた7つの目からなっており、20世紀にはこれら7つを
の2つに分類していたが、21世紀における分子系統解析の研究はこの2つの分類を否定している。
日本では明治維新以来、目名には「齧歯目」「霊長目」等、原名のラテン語をおおむね忠実に漢訳した漢名が用いられてきた(一般にはしばしば、「齧歯類」「霊長類」のように「類」が慣用されてきた)。だが、1988年文部省の『学術用語集 動物学編』において、目以下の名称をすべてカナ書きにし、目名は「ネズミ目」「サル目」のように、それぞれの動物群を代表する動物名(カナ書き)に変えるという改定がなされた。
しかし、たとえば「ネコ目」(食肉目)のネコ亜目とアシカ亜目、イヌ上科とネコ上科のように、亜目、上科のような比較的高い階層の分類階級による動物群は、それぞれ他のグループとは明らかに異なる特有の性質をもつものであり、1つの下位分類群の名前(「ネコ」)によって、目という大きなグループの全体(ネコ・イヌ・イタチ・クマ・アライグマ・パンダ・アシカ・アザラシ・セイウチなどからなる食肉目)を代表させることは、必ずしも直観的な分かりやすさには繋がらない。
さらに、近年の研究により、偶蹄目とクジラ目の詳細な系統が明らかにされ、「鯨偶蹄目」が創設された。これをカナ書きの原則に当てはめると「クジラウシ目」となる。また、「サル目ヒト科」は教科書にも全く採用されていない。
また、以前からの慣用として、どの分類階級であるかにかかわらず、「○○の仲間」を「○○類」と書くことがあるが、かつての漢名ならば、例えば「齧歯類」と言えば、それが「目」の階層の「齧歯目」を指すことは明らかであり、他の階層との混同のおそれは無かった。それが、「齧歯目」が「ネズミ目」となることによって、「ネズミ類」という言葉が示す可能性のある階層の範囲が目のレベルにまで広がり、混乱が拡大されたという側面もある。つまり、旧来の用例ならば、例えば「齧歯類」にネズミの類とリスの類、ヤマアラシの類が含まれることは容易に認識できるが、新しい用例で「ネズミ類」とした場合、これが狭義のネズミ類なのか、リスやヤマアラシの類をも含んだ概念なのかが把握しにくくなってしまっている。
この分類名の改定は、分類学の根本理念に対して充分に配慮した上でのものではなく、また平易化にむしろ逆行する部分もあることから、学界内でも現在なお議論が多い。現状では、旧来の漢名をそのまま用いたり、新しいカナ名と併記したりする例も多い。
日本哺乳類学会・目名問題検討作業部会では、基本的に従来の漢字名で統一すべきという論文を発表している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%BA%E4%B9%B3%E9%A1%9E
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2,886 |
食材
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食材(しょくざい、英: food ingredients)とは、料理の材料のこと。
多くの食材が、もとをたどれば植物か動物である。
食材は基本的には鮮度が高いうちに使うほうがよいとされている。
多くは常温で保管すると、腐敗が進行してしまう。このため、塩蔵、乾燥、燻煙、発酵、など様々な方法で食材の貯蔵性を高める工夫が古くから行われてきた。近年は冷蔵庫の登場で、これらの食材は新鮮な状態のまま長く貯蔵できるようになった。
主材料に対して、それに混ぜる副材料となる場合にはその食材を「具(ぐ)」または「具材(ぐざい)」と呼ぶ。近年では、むしろ「主材料」のように扱う場合が、例えば「具のないカレー」といったいった用法で示されることもあり、意味の拡張がある。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E6%9D%90
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2,887 |
ブリュアンゾーン
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ブリユアンゾーン(Brillouin Zone、略称BZ)とは、逆格子におけるウィグナーザイツ胞のことである。ブリルアンゾーン、ブリユアン域とも言われる。
ある逆格子点の周りの逆格子点の垂直二等分面によって作られる領域は、無数にできるが、その中で最小の領域のことを第一ブリユアンゾーンという。それ以外は、第二ブリユアンゾーン、第三、、と称していく。
ブリュアンゾーンは固体物理学において、波の散乱による回折条件を表現するために広く用いられている。これは、電子のエネルギーバンド理論などの説明に便利である。たとえば波数ベクトルがブリュアンゾーン上にあるとき、電子波のブラッグ反射が起きる。
量子力学では、波動関数をψとし、Rを実空間での結晶内の適当な実格子ベクトルとすると、
が成り立つようなkが存在する。このkは波数ベクトルである(参照:ブロッホの定理)。
波数ベクトルkの集合を波数空間(k空間)と呼ぶ。また、任意の逆格子ベクトルGとRとは、
という関係があるため、kとk+Gは等価であり、これは第一ブリュアンゾーンのみを考えればよいことを意味する。
ブリュアンゾーン内においてメッシュによって区分された各点(Sampling points)のことをk点(k-point)と呼ぶ。ブリュアンゾーン上のk点のうち、対称性の良い点に特に名称が付いており、X、L、Δ、Λ、Σなどの記号を付ける。ブリュアンゾーン内部はギリシャ文字で、表面はアルファベットで記す。
なお大文字のK点は、k点とは意味が異なり、対称性を表す記号Kのことを意味する。
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2,890 |
線形化 (第一原理バンド計算)
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第一原理バンド計算において線形化(せんけいか)とは、固有値問題を解くための手法の一つである。
全電子を扱うバンド計算手法であるAPW法において、その解くべき行列要素に求めるべきエネルギー固有値が含まれている問題を解決するために、線形化が行われた。
線形化は、基底関数に対して行われる。1 Ry程度の狭いエネルギー領域では基底関数が含む解くべきエネルギー固有値を排除した形(線形な表式)にすることが出来る。但し、この線形化に伴いゴーストバンドの問題が生ずる場合がある。
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ワールドトレードセンター (ニューヨーク)
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ワールドトレードセンター、世界貿易センター(英語: World Trade Center, WTC)は、かつてアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた高層ビルの集合体である。
ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建てオフィスビルを中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。ツインタワー(1 WTCおよび2 WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたっていた。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件(9.11テロ事件)の標的の一つとなり、最終的にツインタワーが崩壊し、それに巻き込まれる形で残る5つのビルも半壊または全壊したことで壊滅状態に陥った。現在は跡地に1 ワールドトレードセンターをはじめとした6つの超高層ビルと9.11テロ事件の追悼施設などからなる新WTCが開業している。
ワールドトレードセンターの敷地には、1921年から1966年まで「ラジオ・ロウ(英語版)」と呼ばれる電気部品街が存在していた。1921年にハリー・シュネック (Harry Schneck) がコートランド・ストリートに「シティ・ラジオ」という店をオープンしたのを皮切りに、最終的にこの地には数ブロックにわたって広がる電気部品店の街が形成された。とあるビジネス記者によると、ラジオ・ロウは電子部品流通事業の起源であった。
1939年、ニューヨーク万国博覧会の中で、「World Peace through Trade(貿易を通じての世界平和)」をテーマに「ワールドトレードセンター」と名付けられたパビリオンが設置された。第二次世界大戦終結後の1946年、ローワー・マンハッタンに世界的な貿易センターを建設する提案がニューヨーク州議会によって承認され、当時のニューヨーク州知事トマス・E・デューイが建設計画の立案に乗り出したが、1949年になるとこのプロジェクトは頓挫した。
1959年、ミッドタウンの繁栄の影で経済的に停滞していたロウアー・マンハッタン地区の再興を望んでいたデイヴィッド・ロックフェラーは、「ダウンタウン・ロウアー・マンハッタン協会 (Downtown Lower Manhattan Association)」を設立し、いったんは頓挫した世界的な貿易センターの建設プロジェクトを復活させた。この計画を実現するため、ロックフェラーはニューヨーク港湾公社に協力を要請した。
ニューヨーク港湾公社のエグゼクティブ・ディレクターであるオースティン・トービン(英語版)はロックフェラーの計画を支持し、貿易センターの建設プロジェクトを強力に推進した。トービンは、このプロジェクトで建設されるものは単なる「世界的な貿易センター (world trade center)」ではなく、「ザ・ワールドトレードセンター (the World Trade Center)」という唯一無二の存在であるべきだと述べた。1962年1月までに、トービンはニューヨーク州・ニュージャージー州の両州政府から計画への支持を取りつけることに成功し、一帯を再開発して巨大なオフィスビルを複数作り、貿易関係の企業や公的機関を集積させるという「ワールドトレードセンター・コンプレックス」の建設が正式に認可された。
1961年に公開された当初の案では、ワールドトレードセンターはイースト川沿いの敷地に建設されることとなっていたが、最終的にハドソン&マンハッタン鉄道のターミナルがあり、ニュージャージー州との交通が便利なハドソン川沿いのラジオ・ロウ地区が建設用地として選ばれた。ラジオ・ロウに存在する事業者への移転費用の補償として、港湾公社は各事業の存続期間や売り上げの程度にかかわらず、すべての事業者に一律に3,000ドルを支払った。1965年3月、敷地がWTCの建設用地として買収され、翌1966年3月からラジオ・ロウの解体工事が開始された。1966年8月、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。
1962年9月20日、港湾公社はワールドトレードセンターの主任建築士として日系アメリカ人のミノル・ヤマサキを選出したことを発表した。WTCの中心施設をツインタワーとするのはヤマサキのアイディアであり、彼のオリジナル案では2つのタワーはそれぞれ80階建のビルとなっていた。しかし、80階建のタワーでは港湾公社が設定した10,000,000平方フィート(930,000m2)以上のオフィススペース確保という条件をクリアできなかったため、最終的にツインタワーはそれぞれ110階建のビルとして建設されることになった。
1964年1月18日、ヤマサキによる建設計画案が一般公開され、ツインタワーが一辺208フィート(63.4m)の正方形底面をもつ直方体となることが明らかになった。オフィスフロアの外窓はひとつにつき幅18インチ(46cm)と細長いものになっていたが、これはヤマサキ自身の高所恐怖症の反映であり、フロアにいる人間が高度による恐怖を感じることがないよう配慮した結果だった。ヤマサキによる設計はさらに、ツインタワーの外壁をアルミニウム合金で被覆することを求めていた。WTCのデザインはヤマサキによるゴシック・モダニズム建築の独創的な表現であったほか、ル・コルビュジエの建築哲学が顕著に反映されていた。さらにヤマサキは、ツインタワーのデザインにイスラーム建築の特徴を取り入れていた。
各タワーの44階と78階にはエレベーターの乗り換え階「スカイロビー(英語版)」が設けられ、急行エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行の普通エレベーターに乗り換えさせるという方式になっていた。このシステムにより、効率的なエレベーターの運行が実現されるのと同時に、エレベーターシャフト数の削減により、フロアの使用可能面積が62%から75%に引き上げられた。WTCのツインタワーはシカゴのジョン・ハンコック・センターに続き、スカイロビーを採用した2例目の超高層ビルだった。ツインタワーにはそれぞれ99基のエレベーターが設けられ、両タワーの合計では198基のエレベーターが存在した。
ヤマサキによるデザインを実現しつつ十分な強度を得るため、構造エンジニア班はファズラー・ラーマン・カーンが開発したチューブ構造(英語版)を採用した。ツインタワーのチューブ構造は「フレームド・チューブ (framed-tube)」と呼ばれる設計であり、チューブ状に並べた外壁支柱とビル中心のコア支柱との間に床の梁を渡すことにより、柱や耐力壁のない広大なスペースを得ることができた。ツインタワーの外壁は、各面59本、合計236本の鉄骨支柱をチューブ状に密に配置したもので、外壁の一辺の長さは約63mだった。外壁支柱は事実上すべての水平荷重(風荷重など)を負担し、さらに鉛直荷重をコア支柱と分担するよう設計されていた。地上階には出入り口を設ける必要があり、支柱と支柱の間隔を広く取る必要があったため、外壁支柱は7階付近から1本のものがフォークのように3本に分かれ、そのまま最上階まで達する設計となっていた。各タワーの中心部(コア)には47本のコア支柱があり、すべてのエレベーター(各99基)および非常階段(各3本)もコアに集中的に設置されていた。
耐火被覆材を吹きつけた外壁支柱・コア支柱でつくられるチューブ構造は、エンパイアステートビルのような(耐火被覆に石材を使用する)建築物よりも軽量かつ柔軟であるため、風に対しても横揺れしやすい性質をもっていた。ニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、横揺れは深刻な問題として懸念された。ツインタワーの設計には風洞実験が用いられており、タワー内部の人間が耐えられる横揺れのレベルも実験により評価された。多くの被験者はネガティブな反応を示し、めまいなどの体の不調を訴えた。横揺れを低減するため、主任技術者レスリー・ロバートソン(英語版)は、アラン・ダヴェンポートとともに粘弾性ダンパー (viscoelastic damper) を開発した。約1万個の粘弾性ダンパーが、各タワーの外壁支柱と床の間に設置され、(いくつかの他の改良点とともに)横揺れを許容できるレベルに抑えることに成功した。
ツインタワーの107階から110階にかけては、「ハットトラス (hat trusses)」と呼ばれる構造が設けられていた。ハットトラスは、タワー屋上に設けられる予定の通信アンテナの荷重を支持するためのものだった。1978年、1 WTC(北タワー)の屋上に実際にアンテナが設置されたが、2 WTCにアンテナが設置されることはなかった。
1965年3月、港湾公社はワールドトレードセンター建設用地にあたる土地(ラジオ・ロウ)の買収を開始した。翌1966年3月21日には、13ブロックにわたって広がるラジオ・ロウの低層ビル群を取り壊すための解体工事が始まった。ラジオ・ロウの解体が完了したあとの1966年8月5日、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。
WTCの敷地は埋め立て地であり、岩盤は地下20mに位置していた。基礎工事を行うには、まず掘削時にハドソン川から水が侵入するのを防ぐ必要があり、建設用地一帯に、バスタブ状の地下壁(通称ザ・バスタブ(英語版))を築かねばならなかった。この地下壁を施工するにあたり、港湾公社のチーフエンジニアはスラリー壁(英語版)工法を選択した。この工法は、掘削と同時にスラリーと呼ばれるベントナイト混合物を溝に注ぎこみ、溝をスラリーで満たすことで地下水の流入を封じ、掘削の完了後に鋼鉄のケージを溝に沈め、続いてコンクリートを注入すると、スラリーは溝から押し出され、コンクリートの地下壁が完成するというものだった。地下壁の完成までには14か月を要したが、バスタブの建設は敷地内部で掘削を始めるために必須だった。
バスタブに囲われた敷地からは92万立方メートルもの大量の土砂が掘り出され、敷地西側に隣接するハドソン川の埋め立てに利用された。形成された埋立地は「バッテリー・パーク・シティ」と呼ばれ、1985年にはこの地に「ワールドフィナンシャルセンター」と呼ばれる高層オフィスビル群がオープンした。
建設用地の地下を通るパストレインの鉄道トンネルは、地下鉄の新駅が1971年にオープンするまでの間、建設工事中も運行を続けた。トンネルは支柱で宙に浮かされ、バスタブ内を渡されており、その中をパストレインが走った。敷地の地下には約2,000台の車を収容できる大駐車場や、ショッピングモールなども建設された。
基礎工事が完了したあとの1968年8月、1 WTC(北タワー)の建設工事が開始された。翌1969年1月には2 WTC(南タワー)の建設も始まった。ツインタワーの建設ではプレハブ工法が大々的に用いられ、建設プロセスの高速化が果たされた。1970年12月23日、北タワーの上棟式(トッピング・アウト)が行われた。翌1971年の7月19日には南タワーの上棟式が行われた。北タワーの最初のテナントは1970年12月15日に入居し、1972年1月には南タワーにも最初のテナントが入った。
1 WTCは1972年に、2 WTCは1973年に完成した。ツインタワーが完成した時点で、港湾公社はワールドトレードセンターの建設に約9億ドルを費やしていた。1973年4月4日、WTCのオープニング式典が挙行され、ツインタワーは正式に開業した。
ワールドトレードセンターの建設計画は多くの論争を呼んだ。WTCの建設予定地である「ラジオ・ロウ(英語版)」地区には、何百もの商工業者と約100人の住民が存在しており、その多くは立ち退きを求められることに対して猛烈に反発した。1962年6月、立ち退きの対象となった事業者らは結束して港湾公社の土地収用権に異議を申し立て、その差し止めを請求した。港湾公社との法的な争いは最終的に合衆国最高裁判所まで持ち込まれたが、最高裁判所は1963年に事業者側の訴えを棄却し、立ち退きの実施が確定した。
民間の不動産デベロッパーやエンパイアステートビルの所有者ローレンス・ウィーン(英語版)らは、公的に助成されたWTCのオフィス物件が、(すでにオフィス物件の供給過剰状態にある)一般の市場に解き放たれ、民間セクターと競合することに対しての懸念を表明した。計画の妥当性自体を疑問視する声もあり、WTCプロジェクトを「誤った社会的優先事項」と表現する見方もあった。
アメリカ建築家協会ほかの団体は、ツインタワーのデザインを美的観点から批判した。都市計画についての著作を多く持つルイス・マンフォードは1967年、WTCのような最新の超高層ビル群について、「金属とガラスでできた書類用キャビネットに過ぎない」と評した。ツインタワーのオフィスの窓は1つあたりの幅が46cmと狭く、眺望は常に窓枠(支柱)で遮られていたため非常に不評だった。社会学者・活動家のジェイン・ジェイコブズは、ニューヨークのウォーターフロントは住民の憩いの場として保存されるべきだと主張した。
ワールドトレードセンターは、ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建オフィスビル(1 WTC・2 WTC)、22階建の高級ホテル(3 WTC)、2棟の9階建オフィスビル(4 WTC・5 WTC)、8階建の合衆国税関ビル(6 WTC)、47階建オフィスビル(7 WTC)の7棟からなるビルの集合体だった。ワールドトレードセンターのビル群には28か国から430のテナントが入居しており、銀行・金融会社・保険会社・貿易会社・政府機関など多種多様だった。ワールドトレードセンターでは5万人が働いており、それ以外に1日14万人の観光客らが訪れていた。ビル群全体では13,400,000平方フィート(1,240,000 m2)のオフィススペースがあり、あまりの広大さから独自の郵便番号(10048)が与えられていた。
ツインタワーと呼ばれた1 WTC(北タワー)と2 WTC(南タワー)は、建築家ミノル・ヤマサキがデザインしたチューブ構造(英語版)の超高層ビルであり、ワールドトレードセンター・コンプレックスの中心的建築物であった。1972年の完成時、北タワーは40年以上記録を維持していたエンパイアステートビルを追い抜き世界一高いビルとなった。北タワーは高さ417mで完成したが、1978年には高さ110mの通信アンテナが屋上に設けられ、最頂部は527mとなった。南タワーは1973年に高さ415mで完成し、北タワーに次いで当時世界で2番目に高いビルとなった。
世界一高いビルの座は1974年に完成したシカゴのシアーズ・タワー(現・ウィリス・タワー)にすぐに奪われたものの、1975年以降に展望デッキや展望レストランが完成し、多くの観光客が訪れるようになった。ワールドトレードセンターのツインタワーは新たなニューヨークの象徴となり、数多くの映画やテレビドラマにも登場するようになった。
ツインタワーは両棟ともに110階建てであり、北タワーの110階はテレビスタジオ、南タワーの108〜110階は機械設備階となっていた。北タワーの屋上には通信用アンテナの尖塔が設置されており、南タワーの屋上は展望デッキとして使用されていた。完成から崩壊するまでの間、ツインタワーは世界でもっともフロア数の多いビルであり続けた。110階というフロア数の記録は2010年にブルジュ・ハリファが完成するまで追い抜かれることはなかった。各タワーの総重量は約50万トンだった。
ツインタワーには一般の観光客に開放されたフロアがあり、南タワーの107階は「トップ・オブ・ザ・ワールド (Top of the World)」という名の屋内展望デッキとなっていた。来場者は入場料を払ったあと(1993年のテロ事件以降はセキュリティ・チェックが追加された)、専用エレベーターで地上から107階の展望デッキ(地上400m)まで直行することができた。107階には双眼鏡が多数設置されていたほか、さまざまな売店やニューヨークをヘリで飛行する映像を上映するシアターなどがあった。天候が許す日には、107階から2本のエスカレーターを乗り継いで屋上の展望デッキ(地上420m)に出ることもできた。晴れた日には、屋上のデッキから50マイル(80km)先まで見渡すことができた。屋上のデッキは自殺防止用フェンスよりも高い位置に高台のように設置されており、エンパイアステートビル屋上の展望デッキとは異なり、何にも遮られない眺望を得ることができた。
北タワーの106〜107階には「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド (Windows on the World)」と呼ばれる展望レストランが存在しており、観光客も入店することができた。1976年4月に営業開始したこのレストランは、飲食店経営者ジョー・バウム(英語版)が1,700万ドル以上を投じて開業したものだった。106〜107階では「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」のほかにも、スモーブローと寿司を提供する「Hors d'Oeuvrerie」と、ワイン専用のバー「Cellar in the Sky」という2つの系列店が営業していた。展望レストランは1993年の爆破事件のあとに一時閉店した。レストランは1996年に再オープンしたが、それに合わせ従来の系列店「Hors d'Oeuvrerie」と「Cellar in the Sky」は、それぞれ「Wild Blue」というレストランと「The Greatest Bar on Earth」という名のバーに置き換えられた。2000年度の「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」の売上高は3,700万ドルであり、アメリカでもっとも収入の多いレストランとなっていた。北タワーの44階(スカイロビー階)でも系列店の「スカイ・ダイブ・レストラン (The Sky Dive Restaurant)」が営業していた。批評家による展望レストランへの評価は賛否両論があった。1996年12月、ニューヨークタイムズのレストラン批評家ルース・ライル(英語版)は、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドに純粋に食事をしにいく人は皆無だろうが、今ならばもっとも食事にうるさい部類の人でも満足させることができるだろう」と書き、このレストランの品質に "very good" という評価を与えた。別のレストラン批評家ウィリアム・グライムズ(英語版)は、2009年出版の著書 Appetite の中で、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドでは、メインの料理はニューヨークの景色だった」と評した。
ワールドトレードセンターの16エーカー(65,000m2)の敷地には、ツインタワーのほかに5棟のビルが存在していた。敷地の南西に建設された3 WTCは22階建のホテルであり、1981年に「ビスタ・ホテル (Vista Hotel) 」として開業し、1995年には「マリオット・ワールドトレードセンター(英語版)」と改称された。4 WTC、5 WTC、6 WTCはいずれもオフィスビルであり、トービン・プラザを囲むように建設されていた。プラザの南東に位置する4 WTCビルと北東の5 WTCビルは9階建であり、4 WTCには合衆国商品取引所 (U.S. Commodities Exchange) が入居していた。北西に位置する6 WTCビルは8階建であり、アメリカ合衆国税関が入居していた。1987年には、WTCの敷地から道路を挟んだ北側に47階建オフィスビルの7 WTCが完成した。WTCコンプレックスの地下には大型ショッピングモール(英語版)が広がっており、ニューヨーク市地下鉄やPATHトレインなどの公共交通機関とも接続されていた。
ワールドトレードセンターの敷地中央には、ヴェネツィアのサン・マルコ広場を意識した広場である「プラザ」が設けられていた。プラザのデザインには、地面に描かれた巨大な四角形・泉(噴水)・中心から放射状に広がる模様など、メッカの大モスクのモチーフも使われていた。ヤマサキによれば、このプラザは「ウォール街の通りや歩道の窮屈さから解放してくれる、メッカのような場所」であった。プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒ(英語版)の作品「ザ・スフィア」が置かれていた。1982年、プラザは1978年に亡くなったオースティン・トービン(英語版)にちなみ、「オースティン・J・トービン・プラザ」と命名された。夏の間、プラザには仮設の野外ステージが設置され、さまざまなパフォーマンスや演奏が行われていた。長年にわたり、プラザは2棟のタワーの間で発生するベンチュリ効果による突風の被害を受けており、歩行者は時にはロープにつかまって移動する必要があるほどだった。約1,200万ドルが費やされた改修工事を経て1999年にトービン・プラザは再オープンした。改修により従来の大理石舗装がグレーとピンクの花崗岩による舗装に変更されたほか、新しいレストランやキオスク、ベンチやプランターなどが追加された。
港湾公社はワールドトレードセンターの建設にあたり、総建設費用の1%をパブリック・アートに使っていた。エントランスのロビーにはルイーズ・ネーベルソン、ジョアン・ミロ、ル・コルビュジエらの大きな作品が、トービン・プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒの「ザ・スフィア」が、またその周辺には流政之の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後にはアレクサンダー・カルダーの「スタビル」などが設置された。ビルの各テナントもおのおの美術コレクションを所有しており、1 WTCの上層階にあった証券会社キャンター・フィッツジェラルド(9.11テロで大多数の社員が死亡した)はロダンの彫刻のコレクションで知られていたほか、バンク・オブ・アメリカのオフィスには100点以上の現代美術作品があった。美術品の多くは同時多発テロ事件によって失われたが、プラザに置かれていた「ザ・スフィア」は原型を保った状態で発見され、再度組み立てられたのち、テロの記念碑としてバッテリー・パークに移設された。テロで失われた美術品の当時の総額は、各テナントのプライベート・コレクションが1億ドル、パブリックアートが1,000万ドル、合計で1.1億ドルとされる。
1975年2月13日の夜、北タワーの11階で大規模な火災が発生した。火は電話線の絶縁体を伝わって9階と14階にも燃え広がった。火元から遠いエリアはすぐさま鎮火され、11階の火元も数時間以内に鎮火された。駆けつけた消防隊員が軽傷を負った以外に人的被害はなかった。大きなダメージを被った11階では、書類用キャビネットとオフィス機械用のオイルが火の燃料となっていた。耐火被覆が機能し、タワーに構造的ダメージは見られなかった。火が広がった9階と14階以外に、消火活動に使われた水によってダメージを受けたフロアもあった。当時のワールドトレードセンターにはスプリンクラー設備が存在していなかった。
1993年2月26日午後0時17分、テロリスト(ラムジ・ユセフ)によって設置された、1,500ポンド(680kg)の爆発物を満載したトラックが、北タワーの地下駐車場で爆発した。爆発によって地下駐車場のB1およびB2フロアが甚大な被害を受け、B3フロアも深刻な構造的ダメージを被った。このテロ攻撃の結果、6人が死亡し、1,042人が負傷した(煙の吸引による負傷を含む)。駐車場の火災により発生した煙が両タワーのエレベーターシャフトを伝わって全階に広がり、WTCは全館全員緊急退去という騒然とした状況に包まれた。のちに、ラムジ・ヨセフとイヤード・イスマイール(英語版)がテロの実行犯として有罪判決を受けたほか、オマル・アブドッラフマーンら5人の人物がテロに関与したとして有罪となった。裁判では、テロの計画者らの狙いは北タワーの安定性を損なうことで南タワーに向かって倒れこむように仕向け、ツインタワー両棟を破壊することであったとされた。
爆発で吹き飛ばされた地下駐車場の床は北タワーを構造的に支持していたため、修復を行ってその機能を回復する必要があった。地下駐車場のB5フロアにはWTCコンプレックス全体の空調を担う冷却設備が存在していたが、この設備も爆発で大きなダメージを受けた。爆発は火災報知システムの配線や信号装置も破壊しており、コンプレックス全体で装置を交換する必要が生じた。
このテロ事件のあと、港湾公社は非常階段に避難誘導用のフォトルミネセンス表示を追加したほか、犠牲者の名を刻んだ追悼のメモリアルをトービン・プラザに設置した。このメモリアルは2001年の同時多発テロによって破壊され失われた。1993年の事件による犠牲者の名前は、2001年のテロによる犠牲者の名前とともにナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアムに記載されている。
1998年1月14日、マフィアの構成員であるラルフ・グアリーノ (Ralph Guarino) は、3人の共犯者とともにBrink's(英語版)の北タワー11階の銀行への現金輸送を待ち伏せして襲い、200万ドルを越える額の現金(ドル以外の通貨を含む)を奪った(w:1998 Bank of America robbery)。しかしその後、4人とも逮捕され、主犯のグアリーノはFBIの証人となった。彼の情報提供により、ニュージャージー州のデカヴァルカンテ一家(英語版)の幹部が多数逮捕・起訴され、組織に大打撃を与えた。
2001年9月11日午前8時46分、イスラム過激派テロリストにハイジャックされたアメリカン航空11便が1 WTC(北タワー)の北側外壁、93〜99階に突入した。その17分後の午前9時3分、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便が2 WTC(南タワー)の南側外壁、77〜85階に突入した。北タワーでは11便の衝突によってすべての非常階段が破壊されたが、南タワーでは175便が中心から逸れて衝突したため、1本の非常階段が使用可能な状態で残されていた。
午前9時59分、南タワーは約56分間炎上したあとに崩壊した。航空機の衝突による構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱が構造部材の強度を著しく低下させたことが崩壊につながった。10時28分、南タワーに続き、北タワーが約102分間炎上したあとに崩壊した。17時21分、7 WTCビルが火災による構造ダメージによって崩壊した。3 WTCビル(マリオット・ワールドトレードセンター)はツインタワーの崩落に巻き込まれ崩壊した。プラザ周辺の3つのビル(4-6 WTC)はツインタワーからのデブリによって甚大な被害を受け、事件後に解体された。ワールドトレードセンター跡地での救出作業や回収作業、がれきの除去が完了するまでには8か月を要した。
アメリカ国立標準技術研究所(NIST)の推定によれば、テロ発生時のツインタワーには約17,400人が存在していた。ワールドトレードセンターとその周辺での民間人死者は2,192人(突入した旅客機の乗員乗客を除く)であり、中でもキャンター・フィッツジェラルド(英語版)(北タワーの101〜105階に入居)とマーシュ・アンド・マクレナン(北タワーの93〜101階に入居)、エーオンなどの企業は多数の死者を出した。南タワーに旅客機が衝突したポイントは北タワーに比べて低層であり、より多くフロアが影響を受けたにもかかわらず、南タワーにおける民間人死者は624人と(1,466人の民間人死者を出した北タワーに比べて)少なかった。民間人死者のほかにも、現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、ニューヨーク市警察・港湾公社警察などの警察官71人がワールドトレードセンターで死亡した。各タワーの崩壊時、内部には多数の民間人や消防士が存在していたが、生存してがれきから救出されたのは20人のみだった。
ワールドトレードセンターの再建についての議論はテロによる破壊の直後から始まった。2001年11月には再建プロセスの監督を目的とする「ロウアー・マンハッタン開発公社(英語版)(LMDC)」が設立された。LMDCは用地計画や建築デザインを選定するのためのコンペを実施し、その結果ダニエル・リベスキンドによる「メモリー・ファウンデーション(英語版)」と題する設計案がマスタープラン(基本計画)として採用された。リベスキンドはベルリン・ユダヤ博物館に代表される祈念モニュメントの設計に実績があり、今回も尖塔までの高さ1,776フィート(541m、アメリカ独立の1776年にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模したフリーダム・タワーがそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲をストーンヘンジのように囲む5つの高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地には影を落とさないように配置されていた。しかし最終的に、リベスキンドの案には大幅な変更が加えられることとなった。
港湾公社は9.11テロ直前の2001年7月、ニューヨークの不動産開発業者ラリー・シルバースタインにWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、SOMのデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計変更が繰り返され、フリーダム・タワーも自由の女神のデザインは特に取り入れないこととなった。
2002年5月いっぱいで残骸はすべて撤去され、遺体の捜索も合わせて打ち切られた。以後、新ワールドトレードセンターや地下鉄の再建が始まり、その第一歩として、新7WTCが2006年に竣工、WTC全体の再建事業完成は当初は2010年代前半となる予定であったが、リーマンショックなどの経済的な諸事情により大幅に遅れている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」とされた。
新ワールドトレードセンターの構成は以下のとおり。6 ワールドトレードセンター(英語版)にあたる建物は計画されておらず、欠番となっている。
2001年の9.11テロの発生以前、ワールドトレードセンターのツインタワーはニューヨーク市のシンボルであり、映画やテレビドラマの中ではニューヨーク自体を示す「エスタブリッシング・ショット」として使われていた。2006年の推定では、ワールドトレードセンターが何らかの形で登場する映画は472本にのぼるとされた。映画以外にも、数多くのテレビ番組、テレビゲーム、ミュージックビデオなどにワールドトレードセンターが登場していた。とある記者は1999年、「ニューヨークのガイドブックはほぼ間違いなく、ツインタワーを観光名所のトップ10に挙げている」と述べた。
ワールドトレードセンターは世間の耳目を集める出来事の舞台ともなった。特にフランスの大道芸人フィリップ・プティが1974年にツインタワーの屋上に登り、2つのタワーの間で綱渡りを行ったことは有名となり、この出来事を題材にしたドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』が2008年に、伝記映画『ザ・ウォーク』が2015年に公開された。プティは2つのタワーの間に張られた鋼鉄製ケーブルの上を、8度にわたって横断することに成功した。1975年7月、オーウェン・クインが警備をかいくぐって北タワーの屋上にたどり着き、飛び降りて600フィート(180m)自由落下したあと、パラシュートを開いてプラザに無事着地した。1977年5月、アマチュア登山家のジョージ・ウィリッグ(英語版)が突如として南タワーの外壁を登り始め、登頂を成功させた。1995年には、南タワーの107階でPCA世界チェス選手権が開催され、ガルリ・カスパロフとヴィスワナータン・アーナンドが対戦した。
9.11テロの発生を受けて、一部の映画やテレビ番組はワールドトレードセンターを舞台とするシーンやエピソードを作品から削除した。9.11テロの満1年を迎えた時点で、60本以上の「追悼映画 (memorial films) 」が制作されていた。オリバー・ストーンの監督による、テロ攻撃にさらされたワールドトレードセンターを舞台にした初の映画『ワールド・トレード・センター』は2006年に公開された。
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MaxDB
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MaxDBはデータベース管理システムのひとつである。
簡単な管理、無制限のユーザー数、無制限のデータサイズなどを特徴とする。無料のフリーソフトウェアであり、ライセンスはGPL/LGPLを採用する。
以前はSAP DBという名前でSAP AGにより開発されていたが、後にMySQLの開発を行っているMySQL ABに開発が委託されて「MaxDB」という製品になった。このデータベースシステムには、MySQLの機能を移植するなどしている。
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鉄拳シリーズ
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鉄拳シリーズ(てっけんシリーズ)は、バンダイナムコグループ(コンシューマ版はバンダイナムコエンターテインメント、アーケード版はバンダイナムコアミューズメント)が開発・販売を手掛ける3Dタイプ対戦型格闘ゲームの1シリーズ。
『鉄拳』を第1作とする本シリーズは、三島一族の確執とそれにまつわる個性的なキャラクターたちの戦いを描いた内容となっている。
アーケード版のうち、『鉄拳』から『鉄拳6 BLOODLINE REBELLION』までの筐体の修理サポートは部品調達難に伴い2017年10月に終了した他、『鉄拳タッグトーナメント2』の筐体の修理サポートも、部品調達難に伴い2018年6月に終了することが発表された。
第1作の時点からキャラクターの四肢に対応させた4つの打撃ボタンや10連コンボといった独自の要素が取り入れられている。『鉄拳3』では横移動・受け身・投げ抜けといった要素が追加され、後続作でも取り入れられるようになった。また、『鉄拳5』からインターネットに接続され、専用のカードを使ったプレイヤーデータの記録、キャラクターのカスタマイズ、あるいはゲームシステムのオンラインアップデートができるようになった。『鉄拳6』では、バウンドシステムによってコンボのバリエーション、威力が大きく上がった。さらに、『鉄拳7』では初めてリアルタイムオンライン対戦が実現した。
シリーズに長年携わってきた原田勝弘は、バンダイナムコエンターテインメントの社長宮河恭夫らを交えた対談の中で、技術的に実現できることを取り入れ続けた結果、シリーズ内においてステージの形状や広さ、駆け引きの要素やルールまでもが変遷していったと話している。
第1作の時点ではオンライン機能は無かったが、アーケード版、家庭用版どちらも機器環境の変遷に伴って実装してきた。まずはアーケード版が先行し、『鉄拳5』から導入された。ICカードをネットワークにつながった筐体に認識させるとサーバーに記録されているプレイヤー名や戦績を呼び出すことができ、段位制が始まった。戦績によってキャラクターごとに級、段が昇降し、プレイヤーの強さが可視化されたのである。また、服装や肌、髪の色を変化させたり装飾品をカスタマイズすることで差別化も可能になり、やりこみ要素として導入された。また、CPU戦での相手にはサーバーからランダムでカスタマイズデータのみが反映されて登場するようになった。家庭用ゲーム機ではオンライン対応は遅れており、先行していたアーケード版から抽選で選ばれたプレイヤーがゴーストデータとして収録された。リアルタイムオンライン対戦が可能になったのは家庭用版が先行し、『鉄拳6』から実装された。アーケード版は『鉄拳7』から実装。
| 1994 = 鉄拳 | 1995 = 鉄拳2 | 1997 = 鉄拳3 | 1999 = 鉄拳タッグトーナメント | 2001 = 鉄拳4 | 2004 = 鉄拳5 | 2007 = 鉄拳6 | 2011 = 鉄拳タッグトーナメント2 | 2015 = 鉄拳7 | 2024年 = TEKKEN 8
『鉄拳4』までは山佐から発売。2020年12月の山佐の企業再編に伴い『鉄拳4デビルVer.』からは山佐ネクストから発売されている。
『鉄拳 -TEKKEN-』のタイトルで1998年1月21日から2月21日にかけて発売された。全2巻。内容は『鉄拳2』のサイドストーリーをベースに、アニメオリジナルの展開を加えたものとなっている。主人公は三島一八。
『鉄拳 ブラッド・ベンジェンス』のタイトルで2011年9月3日より3D公開。シリーズ初のフルCG長編アニメーション作品。
『Tekken: Bloodline』(てっけん ブラッドライン)のタイトルで2022年8月18日よりNetflixにて全世界独占配信。日本語吹き替えでは『7』まで鉄拳シリーズに出演している声優はこれまで通り続投のほか、以前出演経験のある声優が同役および別役で復帰したキャストも出演している。
2011年8月30日に『鉄拳 the dark history of mishima』のタイトルで小説化された。著者は矢野隆で、集英社より刊行。物語の時系列は『鉄拳5』と『鉄拳6』の間に位置する。ゲーム版の中心キャラクター三島一族の因縁を戦国時代まで遡り、デビル因子の真実が語られる。
本シリーズは国内外で人気を博しており、2023年には全世界シリーズ累計販売本数が5500万本を突破した。これはバンダイナムコエンターテインメントのゲームシリーズにおいて最高の販売本数となる。北米だけでなく韓国市場などでも存在感を発揮したのも特徴的で、日本の格闘ゲーム大会「闘劇」において『鉄拳5』の最初の優勝者が韓国人プレイヤーであり、その後も韓国人と日本人の強力なプレイヤー同士で日韓の対戦大会が行われ、両者互角の勝負が繰り広げられるなど、『鉄拳5』『5DR』などで韓国人の活躍が目立った。
アーケード版リリース当時は、日本各地のゲームセンターでセガ(後のセガ・インタラクティブ)の『バーチャファイター2』が人気であったこともあり注目度は低かった。一方で家庭用ゲームソフトとしては、バーチャファイターシリーズが当初セガ系ハードにしか移植されなかったのに対し、『鉄拳』はPlayStationに移植されたことにより徐々に注目を集めるようになっていった。そして『鉄拳2』で100万本セールスのメガヒットを達成。さらに『鉄拳3』からは本格的な対戦型格闘ゲームとしても注目され始め、『鉄拳3』および続編の『鉄拳タッグトーナメント』は3D格闘ゲームの分野においてアーケードにおいてもバーチャファイターシリーズと人気を二分する存在へと成長していった。『鉄拳4』は意欲的な作品となり大きな人気は得られなかったが、『鉄拳5』からはインターネットが利用できる携帯電話の普及に伴い、対戦成績の記録やキャラクターのカスタマイズなどのサービスが受けられるゲーム連動型オンラインネットワークシステム『TEKKEN-NET』の運用を開始した。またPlayStation 2への忠実な移植も普及に大きく寄与し、アーケード業界が低迷していた海外ではEvo2kなどの大きな大会が家庭用機種で行われることも多くなり(Evoは2005年)、他方時期的に競合した『バーチャファイター5』は海外での大会が行われにくくなるなど、海外市場で有利な展開が進んだ。
2017年8月31日、本シリーズが「最も長く続く3D対戦型格闘ビデオゲームシリーズ(21年179日)」および「最も長く続くビデオゲームの物語(20年99日)」として、ギネス世界記録に認定された。
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バーチャファイターシリーズ
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バーチャファイターシリーズ(Virtua Fighter series)は、セガの3D対戦型格闘ゲームのシリーズ。略称は「VF」。また、一時期セガの3D系アーケードゲームの多くに「バーチャ」の名を冠した作品がリリースされており、それらは本作を含めて「バーチャシリーズ」と総称されることがあるが、単にセガのゲームを語る文脈で単に「バーチャ」と述べた場合は「バーチャファイターシリーズ」(VFシリーズ)あるいは第1作目『バーチャファイター』を指すことが多い。
1993年に稼働を開始した『バーチャファイター』を第1作とし、以降シリーズ作品が不定期にリリースされているほか、家庭用ゲーム機などに移植されている。開発元はセガ・AM2研(後のセガ第二研究開発本部)が開発し、『VF5 Final Showdown』(VF5FS)までは単独でオリジナルを造り続けた(『eスポーツ』はセガ・龍が如くスタジオとの共同開発)。
なお発売元は基本的にセガだが、セガグループの業務再編成などによる理由で、アーケードゲーム版については2015年4月1日から2020年3月31日までセガ・インタラクティブが担当していた。2020年4月1日以降はセガのアミューズメント事業部門が担当。
1993年に『バーチャファイター』(VF1)が当時AM2研の代表であった鈴木裕のもとで開発、アーケードゲームとしてリリースされた。『VF1』は世界初の3D格闘ゲームであるとされる。以降、「バーチャファイター」の名を冠した後続作品が不定期にリリースされシリーズ化していった。
『VF1』はセガ社の家庭用ゲーム機・セガサターン用ソフトとして1994年にリリースされ、本体の売上向上に大きく貢献した。
初心者でも熟練者と戦える、操作の上手さではなくセンスで勝負する、をコンセプトにこれまでの格闘ゲームでは難解になっていた操作系に大きくメスを入れた。8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つ(『VF3』ではエスケープを加えた4つ)のボタンによる操作系はシンプルながら自由度が高く、キャラクターごとに多彩な連係技を持つ。
また中国拳法など実在する格闘技を使うキャラクターやリングアウト制などにおいても2D格闘ゲームとの差異を強調させた。八極拳、ジークンドー、プロレス、パンクラチオン、虎燕拳、燕青拳、蟷螂拳、酔拳などが再現されている。
2015年3月に稼働を開始した『バーチャファイター5 Final Showdown VERSION B』(VF5FSB)以降は長らくリリースが休止しており、家庭用ゲーム機への移植版も旧作がいくつか単発的に出るにとどまっていたが、2021年6月より『VF5FSB』をベースに様々な点をリメイクし、いわゆる「eスポーツ」に最適化されたバージョン『バーチャファイター eスポーツ』が家庭用ゲーム機(PlayStation 4の定額サブスクリプションサービス・PlayStation Plusおよびクラウド型ゲームサービス・PlayStation Now)とアーケードゲーム(ALL.Net P-ras MULTI Ver.3)にて同時稼働を開始。今後は本格的なeスポーツ競技として『バーチャファイター』を発展させていくことを目指す。
シリーズ第2作『バーチャファイター2』は爆発的なヒットを記録し、マスコミにも全国ネットで取り上げられた。
『VF2』の稼働全盛期には地方・全国を含め様々な大会が企画・開催された。特に大都市での大会の常連上位者に対しては、その町と使用キャラクター名を冠した独自の名称で呼ばれている。中でも「鉄人」と呼ばれた有名プレイヤーたちは一部の雑誌・TV媒体などにも取り上げられた。
ゲームシステムや個々の技を記述した解説書『バーチャファイターマニアックス(アスペクト 1994年8月出版 ISBN 4893662643)』は武術研究家の松田隆智より拳法のリアルさの解説を受けるなどそれまでのアーケードゲーム関連書籍とは一線を画す詳細な解説書であった。さらに、続編『バーチャファイター2』の解説書『バーチャファイター2マニアックス(アスペクト 1995年10月出版 ISBN 4893664174)』には解剖学者の養老孟司へのインタビューを収録するなど、単に人気ゲームとしての枠を越えた広がりを見せた。
バーチャファイターに関心を持っていた有名人も多く、中でも漫画家の加瀬あつし、イラストレーターやアニメ作画や漫画などを手掛けていたいのまたむつみの両者は、「自宅に筐体とアーケード版のロムを持ち、『VF2』の全盛期には一日中ゲーセンに入り浸って対戦することも珍しくなかった」と述べている。また、JUDY AND MARYが発表した楽曲『The Great Escape』の中には、「あたしのボディはまるでバーチャファイターのZone2」という歌詞がある。
1998年にはシリーズ全体(当時は『VF3』が最新)がデジタルゲーム史におけるエポックメイキングな製品として文化的価値をスミソニアン博物館に認められ、「1998 コンピュータワールド・スミソニアン・アウォード」を受賞、各種資料が保管されることになった。
この他、龍が如くシリーズや『JUDGE EYES:死神の遺言』のミニゲームとして、バーチャファイターシリーズが収録されている場合がある。
太字 - アーケード版、SS - セガサターン版、32X - スーパー32X版、DC - ドリームキャスト版、PS2 - PlayStation 2版、PS3 - PlayStation 3版、PS4 - PlayStation 4版
さまざまな格闘ゲーム・RPGなどに本作のキャラクターがゲスト出演している。
8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つのボタンでキャラクターを操作。相手に攻撃を加えて体力ゲージを0にするか、リングアウトさせると1ラウンド取得となり、規定のラウンド数を先取した側が勝利となる。なお時間切れの際は、体力ゲージで勝っていた側のプレイヤーが1ラウンド取得となる。
いわゆる飛び道具攻撃はなく、遠距離攻撃も僅かな突進系打撃に限られる。ガード・ヒットにかかわらず近接距離が保持されやすいことから、他の格闘ゲームに比べ展開のテンポが非常に早い対戦システムとなっている。
技は「上段」「中段」「下段(しゃがみ)」いずれかの属性を持つ。この3つは「上段>中段>下段>上段」という三すくみの関係になっている。
ガードは、ガードボタンを押しながら上下でガード方向を変化させることができる。「立ちガード」は上段と中段をガードし、「しゃがみガード」は上段を避け下段をガードすることができる。技には防御されたときに隙があり、中段や下段は隙が総じて大きい傾向にある。ガードすると確実に特定の技で反撃できる技も多い(確定反撃と呼ばれる)。
下段攻撃が中段攻撃に比べると弱めの技が多いため、立ちガードが崩しにくい。これの裏の選択肢として上段ガードを崩す「投げ」が用意されている。
「打撃>投げ>ガード>打撃」と「上段>中段>下段>上段」、近距離戦でこの2つの三すくみを基に相手がどう来るかをお互い読んでいくことで対戦は展開していく。基本的には隙の少ない上段攻撃をガードさせ、中段か投げの2択を迫る、防御側はどちらかを読み反撃するのが基本戦術となる。
この他、ガードの派生として、特定の攻撃を受けると直接反撃できる「返し技」や、数多い直線的な打撃を回避する軸移動「避け」、それを攻撃する「回転技」など、さらに深い読み合いを提供するためのアクションがある。
キャラクターはレバーとボタンの組み合わせによって多彩な固有技を持っている。その数は1作目では多くて30個ほどだったが、5作目では技表に書いてあるもの全てを計算すれば、1キャラクターが70-100個ほどの技を持っている。
レバー入力の方向はキーボードのテンキーを用いて表記する。5を中心とし、他の数字がそれぞれの方向に対応する(6なら→、2なら↓である)。
ステージは基本的に正方形で、リングの端から足を踏み外すとリングアウトとなり負けとなる。
『VF3』では「アンジュレーション」という高低差の要素が追加された。低い場所へ飛ばすと滞空時間が長くなりコンボが決まりやすくなったり、登り坂によって技の押し能力が弱くなるなどの不確定要素が追加され、位置取りの要素が強くなっている。ステージに壁が追加されたのも3からで、相手を壁に叩き付けた状態でのみ決められる連続技など、壁を巡る攻防の要素も加えられた。また、砂漠ステージというリングアウトが無いステージがあった(無限大に広いステージ風であるが実際には見えない壁が存在する)。
『VF4』ではアンジュレーションがオミットされ、全てのステージが平坦な正方形のリングへと回帰した。また、ステージの種類が破壊不可能な高い壁で囲われたフルフェンス、破壊可能な腰ほどの高さの壁で囲われたハーフフェンス、壁で囲われていないノーフェンスの3種類に大別されるようになった。ハーフフェンスのステージでは、キャラクターが壁より高く浮いた状態で押し出されるか、壁が破壊された箇所からリング外に落ちた場合にリングアウトとなる。フルフェンスのステージでは、キャラクターによっては壁際専用の特殊技が使用できる。
『VF5』では全ての壁が壊れなくなり、またステージ選択時にリングの広さと壁の有無・高さが表示されるようになった。
『VF5R』では八角形フルフェンスのリングも登場するとともに、ハーフフェンスよりさらに低いローフェンス、破壊可能なフルフェンス、リングの広さやフルフェンスとノーフェンスがラウンド毎に切り替わる、壁が一部の辺にしか存在しない長方形リングなど、ステージ毎に様々な仕掛けが追加された。
史上初の3D格闘ゲームの『バーチャファイター』だが、『3』以前ではシステムそのものはルールの違う2D格闘ゲームと言えるもので、手前や奥へ回避するなどの概念は希薄だった。『2』では一部のキャラクターが自発的に横へ移動する技を持っていたものの、根本的な二次元からの脱却はなされていなかった。開発側も攻防が二次元的になっているのは快く思っておらず、しゃがみパンチが強力なのは「三次元的な攻防ができないための苦肉の策」だとしていた。
『VF3』ではパンチ、キック、ガードに加えて第4のボタン「エスケープ」を追加した。ボタンを押すことで画面奥方向へ移動し、直線的な攻撃を回避することができる。レバーとエスケープボタンを組み合わせることにより、各方向への移動を1ステップの入力で可能にした。
『VF4』ではエスケープボタンを廃し、手前・奥への避けも全てレバーのみで行うARMが導入された。このARMによりレバー入力のみで、キャラクターをリング上で8方向に移動させることができるようになった。相手の直線的もしくは半回転の攻撃に合わせて上(画面奥方向)か下(画面手前方向)へレバーを一瞬だけ倒しニュートラルに戻すことで、相手の攻撃を軸をずらして避けることができる。またこのためジャンプ操作は、レバー上と同時に何らかのボタンを入力するコマンド動作に変更された。
『VF4』から『VF5FS VERSION A REVISION 1』まで実装。ランキングやアイテム装備やチーム加入など対戦機器と連動しており、より対戦ゲームを楽しめるコンテンツ(別途月額料金が必要)であった。2016年2月29日の16時を以ってサービス自体が終了し、PC版並びにSoftBank版に関しては2016年2月一杯は無料開放されていた(PC版における自動継続権利用者は2016年2月分の料金は発生しない。SoftBank版は月額料金利用者が対象)。
対応機種は携帯電話(iモード、EZweb、Yahoo!ケータイ)、PC、およびスマートフォン(PC版を流用)。『VF4』(無印)版はドリームキャストにも対応していた(シェンムーII初回生産分に同梱していた専用ソフトが必要だった。『VF4EVO』以降は非対応)。
後にセガネットワーク対戦麻雀MJシリーズや、Quest of D、STARHORSE2など、幾つものアーケードゲームに採用された連動コンテンツサービスを、最初に始めたのが『VF4』だった。これらのアーケードゲームにおけるオンラインサービス「ALL.Net」のサービスの1つとしてVF.NETも展開されていた。
『VF5FS VERSION B』はVF.NET非連動となった。
『VF esports』稼働時より、『VF esports.NET』として新たなサービスが開始された。
各シリーズ作品の項目を参照。なお、基本的に『VF2』以降の「世界格闘トーナメント」の優勝者は前作の最強キャラクター、あるいは印象に残っているキャラクターになっている。
1995年から1996年にかけて、テレビ東京系で放送された。
本作を基にしたコミカライズが複数描かれた。
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光磁気ディスク
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光磁気ディスク(ひかりじきディスク、magneto-optical disk 〈discとも表記される〉)とは、赤色レーザー光と磁場を用いて磁気記録および再生を行う電子記録媒体の1つである。1980年代から1990年代前半に磁気テープに代わる映像記録媒体として研究開発が行われ、アナログあるいはデジタル記録媒体として実用化された。
1985年に最初の光磁気ディスクメディアおよび対応製品として5.25インチドライブが発売され、1988年にはNeXT社から光磁気ディスクドライブを搭載したワークステーション「The Cube」が発表された。1991年には3.5インチドライブがIBMから発売された。
MO(エムオー)あるいはMOディスクと略した場合、一般には後述のISO規格準拠のMOディスク(3.5インチ、5.25インチ)のことを指すが、本項目では他規格の光磁気ディスクについても記述する。
規格は2000年代で消滅したとされ、ハードディスクドライブ (HDD) やフラッシュメモリーなどの大容量化によって、ほぼ代替されている。
光磁気ディスクには磁性を持った記録層が形成されており、外部から電磁石による記録用の磁界を加えて媒体を磁化する点では磁気ディスクと似ているが、記録層が常温ではほとんど磁化されず、これを熱して磁化する点に特徴がある。記録の際に光の強度を変化させて磁界を一定とする光変調方式と、光の強度を一定として磁界を変化させる磁気変調方式がある。
磁気変調方式(MFM方式)では、以下の手順でデータが記録される。
この繰り返しにより磁性体にN極とS極の磁性が記録されていく。読み出し時には書き込み時よりも出力の弱いレーザを照射し、N極とS極の向きの違いによってレーザの偏光面が回転する現象(磁気光学カー効果)を検出しそれを0と1のデータとして読みとっている。
また光変調方式ではまず一定磁界・高出力レーザ光で記録層の磁力を一方向にそろえることで初期化(消去)し、続いて加える磁界を反転したうえで、記録したい部分を光で加熱し磁気を反転させて記録を行う。
光磁気ディスクメディアの論理フォーマットとしては、ハードディスク形式とスーパーフロッピー形式の2種類がある。
音声録音用とデータ記録用の光磁気ディスクがある。
Hi-MDはMDの上位互換のメディアで、MDと同じサイズで1 GBの容量を実現している。磁壁移動検出方式 (DWDD: Domain Wall Displacement Detection) を採用している。
ISO規格のMOやMDと並び、実用化・普及した数少ない規格のひとつである。
HS (Hyper Storage)は、1995年にソニーが開発した光磁気ディスクである。3.5インチフロッピーディスクとほぼ同じサイズのカートリッジに納められており、容量は約650 MB。
HSの開発にあたっては日立製作所と3Mが協力している。
将来的には2002年頃までに約2.5 GBに容量を段階的に拡大する予定だった。しかし、当時普及していたMOとの互換性がない上にMOと比べてドライブやメディアが高額だったため普及しなかった。ドライブ、メディアとも製造・販売は終了しており、開発も停止されたままである。
AS-MOはAdvanced Storage Magneto Opticalの略で5インチの光磁気ディスク。シャープを含む16社で開発され、直径120 mmの片面ディスクで6 GBの大容量記録を実現した。ASTC(advanced storage technical conference)が1998年4月に規格を策定したが、製品化はされなかった。
AS-MOの技術を応用し、三洋電機、オリンパス光学工業、日立マクセルの3社で1999年に開発された。記録方式にMFM方式、再生技術にMSR技術を採用し2インチ (5 cm) 径で730 MBの容量を持つ。
シャープとソニーによって2000年3月に発表された。
1990年代後半から将来迎えるであろうハードディスクの記録密度の限界が問題視され、各メーカーでは高速リードライト、高記録密度の光磁気ディスクを研究している。
磁区拡大再生技術 (MAMMOS: Magnetic AMplifying Magneto-Optical System) といった記録再生技術や、青紫色レーザを利用することで5.25インチサイズで最大200 GBの容量が見込まれている。このうちMAMMOSは従来のレーザ波長で20 GB/12 cm、現時点でのDWDDは従来のレーザー波長で3 GB/5 cmの容量とされる。なおDWDDの技術目標は100 GB/12 cm、青紫色レーザで200 GB/12 cmを見込んでいる。
2013年11月25日に発表されたこれまでとは全く違った技術である光スイッチング磁石を用いた記録方式もある。ディスクとしての媒体で供給できるのかまだ不透明であるが、平方インチあたり30 GB記録可能でありブルーレイディスクを大きく超える容量になる。
MOの普及率は世界的に見た場合には決して高いものではなく、むしろ日本での普及の高さはかなり珍しい部類に入る。
1990年代にはドライブ単価の安いZipドライブが世界中で普及を見せ、MOは他のリムーバブルメディア共々その余波をまともに浴び普及は微々たるものだった。その後、1990年代後半からはCD-Rが安価に出回るようになり、さらにはフラッシュメモリの大容量・低価格化による普及も進んでいるためMOは地味な(あるいはそれ以下の)存在のままである。
一方、日本国内では当初から企業や官公庁を中心に登場時からデータの保存・運搬用として広く普及しており、デスクトップパブリッシングやデザイン・印刷・出版の分野では、そのメディア信頼性の高さと容量に対するコストパフォーマンスの良さから広く使われている。特にPC-9800シリーズではデバイスドライバを必要とせずSCSI接続のMOからのブートも可能だったため、Windowsの普及初期に広く出回った(PC/AT互換機ではデバイスドライバが必要)。Windows 95まではHDDレスのシステムも構築可能だった。1990年代にはZipドライブの普及に押され気味だった時期もあったが、Zipドライブが衰退し始めてからは一時期勢いを取り戻したこともあった。しかし代わってCD-RWやDVDドライブがパソコンに標準搭載されることが急増し、さらに高速なフラッシュメモリー(主にUSBメモリー)が安価に出回るようになり始めてからはすぐに衰退の一途を辿った。富士通よりCD-ROM・MOの両方が使えるコンボドライブが開発・試作されたが、市場販売には至らなかった。MOはドライブの小型化やインターフェースにUSBバスパワータイプを採用した製品が登場し、信頼性・長期保管性に長けたメディアとして見直す動きもあったが、大容量化でDVDやBD、DDS、フラッシュメモリーに遅れを取ったこともあり、需要は伸びることはなかった。関連企業により1999年結成された「MOフォーラム」も2009年から休眠、2010年に解散した。
MOディスクドライブの生産・販売はすべて終了している。オリンパスは2005年(平成17年)後半に生産を中止して2006年(平成18年)3月にMO事業から完全撤退した。コニカミノルタは2010年(平成22年)9月に販売を終了、富士通は2012年(平成24年)3月30日をもって全てのサポートを終了し、バッファローも生産を終了、最後まで販売していたロジテックも2013年(平成25年)6月下旬に発売した「LMO-FC654U2」が最終モデルとなった。
記録メディアについても、日立マクセルは2009年(平成21年)9月末に、三菱化学メディアは2009年(平成21年)12月末にMOディスクの販売を終了した。アイ・オー・データ機器も販売を終了、ソニーは3.5インチMOに関しては2017年(平成29年)6月を最後に現行品のリストから外れ、5.25インチMOに関しては2018年(平成30年)2月を最後に現行品のリストから外れた。
ラジオ放送業務用としては、信頼性・耐久性・使い勝手の面(ラジオ放送局内のデジタル化進展や業務用6 mmテープの在庫希少化)から、2000年代中盤以降MOを積極的に採用していた。
規格は番組制作・CM制作・番組搬入用の録音メディアとしてソニーによる3.5インチ規格準拠の業務用MO「Pro-MO(プロモ)」が広く採用されていたが、2015年(平成27年)7月以降、2020年(令和2年)までに生産終了したことで、各局では使用を取りやめる傾向にある。
代表的なレコーダーとしては、DENON ProfessionalのDN-H5600N・DN-H4600N(3.5インチ用)、CD制作時のマスターレコーダーとして、専用の5インチMO (5.2 GB) を用いて、24bit/44.1 kHzの音源を記録する、ソニーのPCM-9000などがあるが、いずれも生産終了した。
各業務では、MOの代わりにHDDやフラッシュメモリーを媒体とした機材に代替している。
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2,900 |
未知との遭遇
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『未知との遭遇』(みちとのそうぐう、Close Encounters of the Third Kind)は、1977年に公開されたアメリカ映画。世界各地で発生するUFO遭遇事件と、最後に果たされる人類と宇宙人のコンタクトを描いた。
原題の「Close Encounters of the Third Kind(「第三種接近遭遇」の意)」は、ジョーゼフ・アレン・ハイネックの著書で提唱された用語であり、人間が空飛ぶ円盤に接近する体験のうち、搭乗員とのコンタクトにまで至るものを指す。
1977年11月16日公開。日本での公開は1978年2月25日。言語は英語。製作費2,000万ドル。コロムビア映画提供。
オリジナル版の他に、マザーシップ内を公開した1980年の『特別編』、さらに再編集や修正がされた2002年の『ファイナル・カット版』がある。また、アメリカABCテレビで143分の版が放映されたことがある。
アカデミー賞を撮影賞、特別業績賞(音響効果編集)の2部門で受賞したほか、英国アカデミー賞のプロダクションデザイン賞も受賞した。
バミューダトライアングルで行方不明になった戦闘機群や巨大な貨物船が、砂漠に失踪当時の姿のまま忽然と姿を現した。謎の発光体が米国内外で目撃され、原因不明の大規模停電が発生。発電所に勤めるロイ・ニアリーも停電の復旧作業に向かう途中、不可思議な機械の誤作動を起こす飛行物体と遭遇。それが放つ閃光を浴びて以後理由も判らないまま、憑かれたようにUFOの目撃情報を集め出し、枕やシェービング・クリームに漠然と山のような形を見出すようになる。インディアナ州に住む少年バリー・ガイラーは家の台所に入り込み冷蔵庫を漁っていた「何者か」と鉢合わせするが、恐れる様子も無く後を追い掛け、その母のジリアンも深夜外に出て行った息子を連れ帰ろうとする途中で飛行物体の編隊と遭遇し閃光を浴び、ロイ同様に山の姿を描くようになる。
飛行物体の群れにバリー少年が連れ去られるなど謎の現象が続く中、フランス人UFO学者のクロード・ラコームは異星人からの接触を確信し、「彼ら」と直接面会する地球側の「第三種接近遭遇」プロジェクトをスタートさせる。「彼ら」からのデータ送信をキャッチしそれが地上の座標を示す信号で、ワイオミング州にあるデビルスタワー(悪魔の塔)という山を指し示していた。軍も出動し有毒ガス漏洩を偽装して住民が退避させられるがニュースで報じられた事によってロイとジリアンは探し求めていた奇妙な形の山がデビルスタワーである事を確信。州境を越えデビルスタワーを目指す。
デビルスタワーに陣取ったラコームらプロジェクトチームの目前に飛行物体の編隊が現れ、チームが送った信号に反応を示して飛び去った。関係者達は歓声を上げるが、直後山の背後から「彼ら」の母船とみられる巨大な円盤が重低音を響かせながら出現する。
スーパーバイザーを務めたのは、元アメリカ空軍UFO研究部顧問のジョーゼフ・アレン・ハイネックで、劇中でもエキストラで登場している。
本作のストーリーは『十戒』を基にしている。劇中でも「山」に向かうことになる主人公の家族が家のテレビで『十戒』を観ている。「宇宙船が現れる前ぶれとしての雲の動きは、まさに紅海が割れる場面の雲の動きとそっくりなのである。そして、宇宙船が地球に到着する感動は、モーゼが紅海を割る奇蹟と、意識の中でつながってくるのだ」。
撮影はまずは人間ドラマを収録し、UFOのシーンは後回しにされた。UFOデザインはなかなか決まらず、当初はあのようなきらびやかなものではなかった。「宇宙人が地球人を安心させるため、地球上の様々なものに似たデザインにするのではないか」という観点で、ネオンっぽいものなども日常で見かける物に似せたアイデアが出た。中にはハンバーガーの看板「M」にそっくりのデザインもあり、却下されたものの赤い光球状のUFOが道端に立てられたハンバーガーの看板の前で小休止する「特別編」以降の追加シーンにその名残を見ることができる。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーが出演しているが、トリュフォーは自作の映画にしか出演せず、またSF嫌いで「宇宙だのロボットだのは生理的に嫌悪感がする」とまで公言していたため、本作への出演は驚かれた。『野性の少年』や『アメリカの夜』を見ていたスピルバーグとはアメリカに行くたびにパーティ等で会い、出演を打診された。コロンビア ピクチャーズはリノ・ヴァンチュラかジャン=ルイ・トランティニャンを起用する予定だったが、スピルバーグがトリュフォーに出演を懇願し続けて実現した。
コレクター向けのソフト化はスタッフのインタビューを含む大量の資料/特典とともに'77年版と「特別編」の両方をプログラム再生という形で選択、鑑賞可能にしたレーザーディスクがあり、製作30周年を記念して発売された「アルティメット・エディション」のセット(ブルーレイは2枚組、DVDは3枚組)では、'77年版+「特別編」+「ファイナル・カット」の3種類が同梱されている。
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2,901 |
FSF
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FSF
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FSF
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フリーソフトウェア財団
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フリーソフトウェア財団(フリーソフトウェアざいだん、英語: Free Software Foundation, Inc., 略称FSF)とは、1985年10月4日、リチャード・ストールマンにより創設された非営利団体である。当団体は、フリーソフトウェア運動、すなわち、コンピュータ・ソフトウェアを作成、頒布、改変する自由をユーザーに広く遍く推し進めることを狙い、コピーレフトを基本とする社会運動の支援を目標に掲げている。
FSFはアメリカ合衆国、マサチューセッツ州の団体である。元々は、マサチューセッツ工科大学の地下室と呼ばれたコンピュータルーム内の計算機を活用して、数多くのソフトウェアを製作したストールマンの活動が起源となっている。創立から1990年代中頃まで、FSFの資金は、GNUプロジェクトのために自由ソフトウェアを作成するソフトウェア開発者を雇用する為、概ね拠出されていた。1990年代中頃からは、FSFの従業員とその奉仕活動者(ヴォランティア)は、フリーソフトウェア運動と自由ソフトウェアコミュニティに対する法的かつ構造的な問題に対処するため概ね活動している。
FSFの目標は首尾一貫しており、コンピュータ上で利用できる唯一のソフトウェアが自由ソフトウェアとなることを目指している。
FSFの理事会(board of directors)は以下の人物が務める。
以前理事を務めたものは以下の人物を含む。
FSFの理事会は、議決権を持つ委員によって選出される。委員の持つ権利のうち、少なくとも投票権に関しては、次に述べる財団の定款(規約)に略記されている。
参考訳
FSFの議決権を持つ委員が誰なのか、その構成を示す有効な文書は現時点では不明である。
FSFの執行役員(Executive director、代表取締役)は、ウィリアム・ジョン・サリバンが2021年3月まで務めた。以前この地位に就いていたものは、ブラッドリー・M・クーン(在任: 2001年-2005年)、ピーター・T・ブラウン(英語版)(在任: 2005年-2010年)であった。
設立から現在にかけて、FSFには大抵約十数名の従業員がいる。全てではないが、FSFの本部機能の大部分はマサチューセッツ州ボストンに設置されている。
エベン・モグレンとダン・ラヴィチャー(英語版)は以前、プロボノの法務顧問(legal counsel)として個人でFSFに従事していた。Software Freedom Law Center(SFLC)の立ち上げにより、FSFに対する法的サービスはSFLCにより行われることになった。
2002年11月25日、FSFは個人向けのFSF賛助会員プログラム(FSF Associate Membership program)を立ち上げた。ブラッドリー・M・クーン(2001年から2005年までFSFの執行役員,Executive Directorを務めた)はそのプログラムの立ち上げを行っており、最初の賛助会員に登録を申し込んでいる。賛助会員は純粋に名誉を得るだけであり、FSFの資金援助という役目を担っている。
自由ソフトウェアの理想を推し進めることを目的に様々な活動をしている。
フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの理想を社会に共有するため、フリーソフトウェア運動という形で社会運動をしている。
フリーソフトウェア運動を定義付ける「自由ソフトウェアの定義」を含む多くの文書を維持管理している。
Defective by Design(DbD)は、DRM(Digital Rights Management、デジタル著作権管理)は「権利を奪い、制限するよう設計されている」という見解から、この用語をDRM(Digital Restrictions Management、デジタル制約(制限)管理)と再定義し、DRMおよびソフトウェア特許に対抗する先駆けとなる運動である。
BadVistaは、Microsoft Windows Vistaへの移行に反対し、Defective by Designの問題を社会に広めて自由ソフトウェアへの置き換えを促進する運動である。
ルック・アンド・フィールなどをはじめとするユーザインタフェースの著作権などを含むソフトウェア特許は「ソフトウェア利用者の自由」を阻害するものであるとして、ソフトウェア特許に対抗する多くの社会運動を支援している。
Ogg+Vorbisを推進する運動を提起して、MP3やAACなどのプロプライエタリファイルフォーマットに取って代わるべき自由なデジタル音声ファイルフォーマットであるとしている。
GNUプロジェクトは、GNUオペレーティングシステム (The GNU Operating System) を開発している。これと直接関連するソフトウェアであるGNUツールチェーン、GNU Hurd、glibcが現在までの主要な成果である。2013年5月現在、当プロジェクトのウェブ・サイトでは、「フリーソフトウェア財団」でなく、カタカナでひらいた「フリーソフトウェアファウンデーション」の表記が見える。
GNUライセンスはフリーソフトウェア財団 (FSF) およびGNUプロジェクトが提供するライセンスである。GNU General Public License(GNU GPL、単にGPL)はフリーソフトウェアプロジェクトに幅広く採用されているライセンスである。現行バージョン(バージョン3)は2007年6月にリリースされた。FSFはまた、GNU Lesser General Public License(GNU LGPL、単にLGPL)、GNU Free Documentation License(GNU FDL、GFDL)、そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) も公開している。
GNU Pressは、FSFの出版部門であり、「自由に頒布可能なライセンスを採用した計算機科学の書籍を手ごろな値段で発刊すること」を責務としている。
GNU Savannahは、ウェブサイト上にソフトウェア開発プロジェクトをホストしている。
1991年から2001年まで、GPLの違反は、非公式に、通常ストールマン自身により、しばしばFSFの弁護士エベン・モグレンからの助言を受けて是正されていた。典型的なことに、この期間のGPL違反はストールマンと違反者とが電子メール数通を交換することで解決されていた。
2001年後半、当時のFSFの執行役員(Executive Director)であったブラッドリー・M・クーンは、モグレン、デイヴィッド・ターナー(David Turner)そしてピーター・T・ブラウン(英語版)らの助言を受けて、これらの成果を生かし、FSF GPL コンプライアンス・ラボ(GPL Compliance Labs)という組織として正式に発足させた。
この間、GPL遵守と関連する、GPL違反是正ならびにライセンスの啓蒙活動は、FSFの活動における主要な焦点だった。
2003年から2005年にかけて、GPL自体の条文説明並びにその法的側面を解説する法律セミナーを開催していた。大抵は、ブラッドリー・M・クーンとダニエル・ラヴィチャー(英語版)が教鞭を振るっていたが、このセミナーは生涯法曹教育(英語版)(Continuing legal education, CLE)認定を受け、GPLの法的な教育活動として正式な認定を受けた最初の成果であった。
FSFはGNUコンパイラコレクションなど、GNUシステムにとって非常に重要となるさまざまなソフトウェア群の著作権を保持している。FSFは(あくまで保持しているこれらソフトウェアのみの)著作権者として、とりわけGNU General Public License (GPL)で許諾されているソフトウェアに対し、そのライセンス違反に起因する著作権侵害が発生すれば、GPLの強制(エンフォースメント)を行使できる唯一の存在である。その他のソフトウェア・システムの著作権者がGPLを彼らのライセンスとして採用した場合、FSFはそのライセンスを受けているソフトウェアの著作権的利益を保護すべしと力説し、通常割り込んで来る唯一の組織だったのだが、2004年にハラルト・ヴェルテが同様の組織gpl-violations.orgを立ち上げている。
Free Software Directoryは、フリーソフトウェアであることが検証されたソフトウェアパッケージのリストである。各パッケージのエントリにはプロジェクトホームページ、開発者、プログラミング言語など47の情報を含む。フリーソフトウェアの検索エンジンを提供すること、そして、パッケージがフリーソフトウェアであるかの調査を行うためユーザーに相互参照を与えることを目標としている。FSFはこのプロジェクトのため、UNESCOより若干の資金援助を受けていた。将来的にはディレクトリが多くの言語に翻訳され得ることを望まれている。
「自由ソフトウェアコミュニティの注目を集めるのに極めて重要」と主張する「最優先度プロジェクト」のリストをFSFは維持管理している。FSFはこれらのプロジェクトを「コンピュータユーザは頻繁に非フリーソフトウェアの利用の誘惑に駆られており、フリーな置き換えが不十分である理由により、重要である」とし、「高い優先度」を持つとされる各種フリーソフトウェアプロジェクトを支援している。
以前、作業が必要とされるとして注目されていたプロジェクトには、OpenOffice.orgやGNOMEデスクトップ環境のJava依存部の互換性を保証するため、フリーなJava実装(英語版)、GNU Interpreter for Java、GNU ClasspathそしてGNU Compiler for Javaが含まれていた(本項の詳細は、英語版ウィキペディアの記事"License of Java"を参照せよ)。
しかし、後日あるプロジェクトが最優先度リストに加えられたものの、活発な開発につながっておらず、また、プロジェクトがのんびりと進められている状況を見て、本活動が本当に効果を発揮しているのか批判する者もいる。
FSFは毎年フリーソフトウェア界に大きな貢献を与えた人物・組織にそれぞれつぎの賞を授与している。
1999年、Linus Torvalds Award for Open Source Computingという賞を授与した。
2005年、アルス・エレクトロニカは当団体の長年にわたるフリーソフトウェア運動を顕彰し、プリ・アルス・エレクトロニカ デジタル・コミュニティ部門 栄誉賞(Prix Ars Electronica Award of Distinction in the category of "Digital Communities")を授与した。
2002年から2004年にかけて、LinksysそしてOpenTV(英語版)によるものといった明確なGPL違反事例が続出するようになった。
2003年3月、SCOはIBMを提訴した(英語版)。提訴事由は、IBMが、FSFのGNUソフトウェアを含む、様々なフリーソフトウェアに貢献を行っていたが、それがSCOの権益を侵害するものであるとの主張である。FSFは訴訟の当事者ではなかったが、FSFは2003年11月5日、召喚令状を受け取った。2003年から2004年にかけて、FSFは当訴訟に対抗し、フリーソフトウェアの採用と移行に対する負の影響を押さえ込むためかなりの擁護活動を行った。
2008年12月、FSFは、シスコがGPLで保護された(FSFが著作権を持つ)コンポーネントを利用し同社Linksys製品と共に出荷したことに対し、(ライセンス違反による著作権侵害で)提訴した。シスコは2003年にライセンスの問題について通知されていたが、シスコはGPLの条項による義務を繰り返し無視した。2009年5月、シスコは、FSFへの金銭的支払い、シスコがライセンス遵守を実践しているかの継続的調査を指揮するフリーソフトウェア監査役(Free Software Director)の任命という和解案に合意し、FSFは訴状を取り下げた。
2004年10月にLinux kernel mailing list(英語版)に投稿したメールからも分かるとおり、リーナス・トーバルズは以前からストールマンとGPLの違反是正活動を批判している。また彼は2011年5月、Linuxfr(フランス語版、英語版)のインタビューにおいて、FSFが制定したGPLv3の反DRM的姿勢を批判しており、(リーナス自身もDRMが嫌いであることは自認しているが)いくらDRMを嫌悪しているとはいえ、ライセンスをDRM攻撃の武器にするべきではない、コンテンツの自由な利用やハードウェアに関連するDRMの問題点とソフトウェアのみに関係するライセンスの問題点をない交ぜにすべきではない、と述べている。
2009年7月22日、Linux Magazine誌のクリストファー・スマート(Christopher Smart)が、マイクロソフトがLinuxカーネルにコードを提供したことに関連して、リーナスにインタビューしたところ、彼は自由ソフトウェアと関連付けられるのを毛嫌いしており、それは「過激な」思想の運動だと批判した、と伝えられた。
2010年5月2日、ZDNetのエド・ボット(Ed Bott)は、FSFはPlayOgg運動の最初の時点でいくつか事実誤認しており、彼らは誤った情報を故意に得ようとしていた上でプロプライエタリフォーマットの作成元を非難した、というFSFを批判する記事を同サイトで公開した。FSFは運動の一環として、MP3に関する特許権侵害訴訟であるアルカテル・ルーセント対マイクロソフト事件(英語版)の結果、裁判所が被告のマイクロソフトに原告のアルカテル・ルーセントへの15億ドルの支払いを命じた件について言及したが、エドはこれが「真っ赤な嘘」であると主張した。なぜなら、マイクロソフトの特許権侵害が裁判で認定され、侵害に対する損害賠償を命じられたのは事実だが、のちにこの裁判が覆されたことをFSFは述べていなかったからである。またエドは、FSFがRealPlayer、Windows Media PlayerそしてiTunesといったメディアプレーヤーをターゲットに「フォーマット批判」を根拠なく主張したこと(FSFはこれらプレーヤーが専用のプロプライエタリなフォーマット、例えばWMPならばWMA、をユーザに強制しようとしているという誤った主張をした)について、FUDであると非難した。加えて、RealPlayer、iTunesそしてWMPのプライバシー侵害に関する問題が広く報告されているにもかかわらず、彼はこのようなソフトウェアがユーザを覗き見しているというFSFの主張については「純然たるFUD」であると述べ、「根拠無き相当酷い言い掛かり」であると述べた。
2010年6月16日、Linux Magazine誌のジャーナリスト、ジョー・ブロックマイアー(Joe Brockmeier)は、Defective by DesignなどFSFが運動と呼ぶ彼らの行為について、「ネガティヴ」であり「幼稚」であるとし、ユーザーに提供するプロプライエタリソフトウェアを「説得力を持って取り替える」ものは十分にはない、と批判した。
協力関係にある団体を世界中に有する。
日本では、GNU関連書籍を出版していたビレッジセンターの招請により、ストールマンは訪日している。ここより、GNUソフトウェアの普及、フリーソフトウェア運動の推進などが図られ、フリーソフトウェアイニシアティブやインターネットブラウザであるMozillaなどの日本語化などを行う、もじら組が結成されている。
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2,903 |
GNUプロジェクト
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GNUプロジェクト(グヌープロジェクト、[ɡnuː] ( 音声ファイル))とは、フリーソフトウェアのマス・コラボレーションなプロジェクトである。
プロジェクトは1983年9月27日にMITのリチャード・ストールマンにより発表された。このプロジェクトの狙いは、ユーザーが自由にソフトウェアを実行し、(コピーや配布により)共有し、研究し、そして修正するための権利に基づいたソフトウェアを開発し提供することにより、ユーザーにそのような自由な権利を与えた上でコンピュータやコンピューティングデバイスの制御をユーザーに与えることにある。GNUのソフトウェアはこれらの自由な権利を(そのライセンスによって)法的に保障しているため、フリーソフトウェアである。なおフリーソフトウェアの「フリー」という言葉は常に自由な権利を指し示すために必要なため使われている。
コンピュータの全てのソフトウェアが、(使用、共有、研究、修正を行うための)自由な権利を全てユーザーに付与することを確保するためには、ソフトウェアの中で最も基本的かつ重要な部分である(ユーティリティプログラムを数多く含む)オペレーティングシステムをフリーソフトウェアとすることが必要となった。GNU宣言によると、GNUプロジェクトの創立目標はフリーオペレーティングシステムを設立し、さらに可能であれば、「フリーでないソフトウェアを全く使わないでも済むようUNIXシステムに通常付属する有益なもの全て」も構築することであった。ストールマンはこのオペレーティングシステムをGNU("GNU's not Unix"を意味する再帰的頭字語)と呼ぶことに決め、その設計をプロプライエタリオペレーティングシステムであるUNIXの設計に基づくようにした。GNUの開発は1984年1月に開始された。1991年、リーナス・トーバルズによりGNUプロジェクトとは関係のないプロジェクトで開発されたLinuxカーネルが発表され、1992年12月にGNU General Public Licenseのバージョン2に基づき利用できるようにした。LinuxカーネルはGNUプロジェクトによって既に開発されていた、オペレーティングシステムのユーティリティと組み合わされ最初のフリーソフトウェアオペレーティングシステムとして認められた。このフリーソフトウェアオペレーティングシステムはLinuxやGNU/Linuxとして知られている。
GNUプロジェクトは現在、ソフトウェア開発、意識改革、政治的キャンペーンや、新しい題材の共有などを行っている。
1983年9月、リチャード・ストールマンはUsenetのメッセージにGNUプロジェクトのコーディングを開始する意図を発表した。
GNUプロジェクトが最初に開始したとき、このプロジェクトにはライティングエディタコマンド用のLISPが付属したEmacsテキストエディタ、ソースレベルデバッガ、Yacc互換のパーサジェネレータ、そしてリンカが存在していた。GNUのシステムではそのCコンパイラとツールがフリーソフトウェアであることが要求されたため、これらも開発する必要があった。1987年6月、GNUプロジェクトはアセンブラ、ほぼ完成されていた移植可能な最適化Cコンパイラ (GCC)、エディタ (GNU Emacs)、そして(ls、grep、awk、makeおよびldといった)様々なUNIXユーティリティ用のフリーソフトウェア(GNU Core Utilities など)を開発し蓄積していった。GNUプロジェクトにはさらに多くの更新が必要な初期カーネルが存在していた。
カーネルとコンパイラが完成すれば、GNUはプログラム開発用として利用可能であった。GNUの主な目標は他の多くのUNIXシステムのようにアプリケーションを作成することであった。GNUはUNIXプログラムを起動することが可能であったが、UNIXとは異なっていた。GNUはUNIXより長いファイル名とファイルバージョン番号、そして耐衝撃性ファイルシステムを組み込まれた。GNUプロジェクトへ他者からのサポートと参加を得るためにGNU宣言が書かれた。人々はGNUプロジェクトに資金、コンピュータの部品、さらにはコードやプログラムを書くための時間を寄付することができた。
GNUプロジェクトのあらゆる面における起源と開発については、Emacsヘルプシステム内にある詳細な物語で共有されている(これは C-h g でEmacsエディタコマンドdescribe-gnu-projectを起動することで表示される)。この物語はGNUプロジェクトのウェブサイトにある詳細な歴史と同じものである。
リチャード・ストールマンはGNUプロジェクトへのサポートと参加を増やすためにGNU宣言を書いた。GNU宣言で、ストールマンはソフトウェアユーザーに対する4つの本質的な自由を列挙した。それらの自由とは、目的のためにプログラムを実行する自由、プログラムのメカニックを研究して修正する自由、コピーを再配布する自由、そして公共利用のために修正したバージョンを改善し変更する自由である。これらの自由を実現するためにはユーザーが全てのコードにアクセスできるようにする必要があった。コードを自由なままで公開することを保障するため、ストールマンはソフトウェアとそのコードから派生した将来世代のソフトウェアを公共利用のために自由なままにできるための、GNU General Public Licenseを作成した。
GNUフリーシステム・ディストリビューション・ガイドライン(GNU Free System Distribution Guidelines、GNU FSDG)は、自由とみなされることは(GNU/Linuxディストリビューションのような)インストール可能なシステムディストリビューションにとって何を意味するのかを説明したり、ディストリビューションの開発者がそのディストリビューションを自由とみなされる資格を与えることを補助するために使われるシステムディストリビューションコミットメントである。
自由なディストリビューションとしては、主にGNUパッケージとLinux-libreカーネル(Linuxカーネルからバイナリ・ブロブ、難読化コード、そしてプロプライエタリなライセンスに基づくコードの部分を取り除いて修正したもの)とを組み合わせ、さらに(プロプライエタリソフトウェアを完全に避けて)フリーソフトウェアのみから構成されたディストリビューションが挙げられる。GNU FSDGを採用したディストリビューションには、gNewSense、Parabola GNU/Linux-libre、Trisquel GNU/Linux、Ututo(英語版)などがある。
FedoraプロジェクトのディストリビューションライセンスガイドラインがFSDGの基礎として使われた。
GNUプロジェクトはユーザーが複製し、編集し、そして配布する自由があるソフトウェアを使用する。ユーザーが個人のニーズに合うようソフトウェアを変更することが可能であるという意味で自由である。プログラマーがフリーソフトウェアを獲得する手段は、それを得る場所に依存する。フリーソフトウェアはプログラマーに友人やインターネットを通じて提供されるかもしれないし、あるいはソフトウェアを購入するためにプログラマーが働いている会社から提供されるかもしれない。
GNUプロジェクトの生産活動のほとんどは本質的に技術的なものであるが、それらは社会的、倫理的、および政治的な取り組みとして送り出された。GNUプロジェクトはソフトウェアとライセンスを生み出すのと同様に多数の文書を公開している。それらの文書のほとんどはリチャード・ストールマンにより作成された。
コピーレフトとは、プログラマー達の間でソフトウェアを自由に使用し続けることを補助するものである。コピーレフトにより、プログラムやそのコードを使用し、編集し、そして再配布するための法的権利が、配布条件を変更しない限り誰にでも与えられる。結果として、ソフトウェアを獲得した誰もがユーザー以外の人間ができる自由と同じ自由を法的に獲得する。
GNUプロジェクトとFSFは、「強い」コピーレフトと「弱い」コピーレフトとを区別することがある。「弱い」コピーレフトプログラムは通常、そのプログラムを配布する人間によりフリーではないプログラムとリンクすることを許可される。一方、「強い」コピーレフトプログラムはこのようなリンクを厳しく禁止する。GNUプロジェクトが生産するものはほとんど強いコピーレフトに基づきリリースされるが、LGPLのような、弱いコピーレフトやパーミッシブ・ライセンスに基づきリリースされるものもある。
GNUプロジェクトの最初の目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを作成することであった。1992年にGNUプロジェクトは、カーネルであるGNU Hurdを除く全ての主要なオペレーティングシステムコンポーネントを完成した。1991年にはリーナス・トーバルズが独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxカーネルのバージョン0.12がGNU General Public Licenseに基づきリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、GCCや他のGNUプログラミングツールを使用して開発され、GNU General Public Licenseに基づきフリーソフトウェアとしてリリースされた。
今日、GNUの安定版(およびGNUの派生)はGNUパッケージとUnix系Linuxカーネルとを組み合わせることで実行できる。GNUプロジェクトはこれをGNU/Linuxと呼び、決定的な特徴は以下の組み合わせである:
GNUウェブサイト内にはプロジェクトの一覧が記載され、プロジェクトごとにある部分に必要なタスクを実行できるのはどのようなタイプの開発者であるかが詳細に述べられている。技術レベルの範囲はプロジェクトからプロジェクトへと投影されるが、プログラミングのバックグラウンド知識を持つ者誰もがプロジェクトを支援することが推奨されている。
Linuxカーネルとその他のプログラムとを組み合わせたGNUツールのパッケージングは通常Linuxディストリビューションと呼ばれる。GNUプロジェクトはGNUとLinuxカーネルとを組み合わせたものを "GNU/Linux" と呼び、さらに他の人々へもそのように呼ぶよう要請している。これがGNU/Linux名称論争の原因である。
今日、ほとんどのLinuxディストリビューションはGNUパッケージと、バイナリ・ブロブおよびプロプライエタリなプログラムを多数含んでいるLinuxカーネルとを組み合わせている。
GNUプロジェクトはソフトウェアがフリーであり、フリーであることを普及させるソフトウェアライセンスを開発・公開している。
GNUプロジェクトは、GPL・LGPL・AFGLもしくはApacheライセンスをフリーソフトウェアに適用するライセンスとして推奨している。GNUプロジェクトのライセンス文書自体は、フリーソフトウェアの理念とは反するが、フリーではないライセンスを課している。
サードパーティーによるGNU General Public Licenseから派生した特定条件下でコピーレフト特性を適用しないライセンスが存在する。
1990年代中期以降、多くの企業がフリーソフトウェア開発に資金援助しており、フリーソフトウェア財団はその資金をフリーソフトウェア開発に関連する法的・政治的サポートに回した。ソフトウェア開発はそのころから既存プロジェクトの保守が主になり、新規プロジェクトはフリーソフトウェアのコミュニティへの重大な脅威が存在する場合だけ立ち上げた。GNUプロジェクトの最も注目すべきプロジェクトの1つはGNUコンパイラコレクションであり、そのコンポーネントは多くのUnix系システムの標準コンパイラシステムとして採用されている。
GNOMEデスクトップの企画はGNUプロジェクトによって開始された。これはもう1つのデスクトップシステムであるKDEが人気となったものの、その利用にはプロプライエタリソフトウェアであったQtのインストールが必須だったためである。KDEとQtを人々がインストールしなくて済むようにするため、GNUプロジェクトは同時に2つのプロジェクトを開始した。1つはHarmonyツールキットである。これはQtのフリーソフトウェアによる代替品を作るプロジェクトである。このプロジェクトが成功していたら、KDEに関する問題は解決していただろう。もう1つのプロジェクトがGNOMEで、同じ問題を別の角度から解決しようとした。すなわち、KDE全体を代替し、しかもプロプライエタリソフトウェアに依存しないものを作るという試みである。Harmonyプロジェクトは進歩しなかったが、GNOMEは非常にうまく開発された。なお、KDEが依存していたプロプライエタリ・コンポーネント (Qt) は後にフリーソフトウェアとしてリリースされた。
GNU Enterprise (GNUe) は1996年に開始されたメタプロジェクトであり、GNUプロジェクトのサブプロジェクトとみなすことができる。GNUeの目標はフリーな「エンタープライズクラスのデータ対応アプリケーション」(企業資源計画など)を作成することである。GNUeは(GNOMEプロジェクトが複数のデスクトップソフトウェアの集合であるのと同様に)GNUシステム用のエンタープライズソフトウェアを1つのコレクションとして集めるよう設計されている。
GnashはAdobe Flash 形式で配布されるコンテンツを再生する。GNUはGnash開発時、これを重要プロジェクトに位置付けていた。OSやブラウザがフリーソフトウェアのものを使っていても、アドビ製のプロプライエタリなプラグインをインストールして使っているユーザーが多かったためである。
2001年、GNUプロジェクトは「研究と商業開発の生成を可能にした、その自由に利用できる再配布可能と変更可能なソフトウェアの偏在性、広さ、品質」によりUSENIXの貢献賞(Lifetime achievement award)を受賞した。
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2,906 |
岡本太郎
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岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。
父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。
家庭環境の為か、岡本は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返したが、慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。
絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。
一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。
フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。
1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。
同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。
1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。そのメンバーにはピート・モンドリアン、ワシリー・カンディンスキーら錚々たる大家がいた。岡本はその協会の年鑑で、「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージを投げかけていた。
親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。 1938年シュールリアリズムの創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」に「傷ましき腕」が掲載された。 この絵画を契機に、岡本は美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退し、パリ大学ソルボンヌ校の哲学科に聴講生として通うようになる。さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者マルセル・モース教授と出会い、彼の講義から多大な影響を受ける。やがて岡本は思想家ジョルジュ・バタイユとも出会い、盟友として親交を深めた。
1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。
1942年(昭和17年)、大東亜戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。
1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。
1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。
1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。
1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。
1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。
1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。
この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。
同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される。
岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。
1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。
1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。
老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。
1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は多磨霊園にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『午後の日』の複製が据えられている。
1998年(平成10年)、青山の岡本の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。
1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区桝形の生田緑地内に所在)。
2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、パブリックアートとして新たな名所となった。
2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。
2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が影響を及ぼしていたことが確認された。
2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。
2022年(令和4年)、「展覧会 岡本太郎」が大阪中之島美術館・東京都美術館・愛知県美術館の順で開催。新しく発見された岡本太郎の作品。「作品A」「作品B」「作品C」が展示された。
ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。
スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の千葉茂や中西太らと共に興じた。
スキーは、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。
また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。
岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。
※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵
『綜合文化』(1948年7月) *『原色の呪文』収録
後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。
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朝永振一郎
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朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京教育大学名誉教授。
相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。
1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(長崎県大村藩士の出)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。幼少期は病弱であったと伝えられる。
父の三十郎は著名な哲学者(京都学派の一員)で、1913年に京都帝国大学教授就任に伴い、一家は京都市に転居し、錦林小学校に転校する。振一郎は次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機や顕微鏡のレンズを自作するなどしていた。哲学者の息子だったが、後年に「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている。
京都一中(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であった。無給副手時代、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。
この無給副手時代を後年振り返って、「湯川さんのこの勉強の進行ぶりに反して、不健康と無理な試験勉強ですっかり疲労困憊し、はげしい劣等感にとりつかれたものにとっては、そのようなむつかしい分野に進む決心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたったひとつだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた。こんな暗い日が三年間ほどつづいたが、こういう状態からぬけ出させてくれたのは、仁科先生との出会いであった。」と語っている。
1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や場の量子論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行った。この研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。
1937年、ニールス・ボーアが来日。
1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。
1946年、朝日賞を受賞した。「そのうち朝日賞をもらったが、これは大助かりであった。このお金をつぎこんで畳を十枚買い、学校の大久保分室のやけ残り小屋に居をかまえた。」と語った。(江沢洋編『科学者の自由な楽園』ー 十年のひとりごと に掲載)
1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するための繰り込み理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年秋にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞した。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった。朝永は先に受賞した湯川より年上であり、更に年上の川端康成が文学賞を受賞するまで日本人最高齢の受賞者となっていた。なお、朝永は湯川より先に亡くなっている。
1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年に日本学術会議会長を務めた。晩年は学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1978年喉頭癌により手術を行ったため声を失った、翌79年に再発悪化し亡くなった。墓所は東京西部の多磨霊園にある。
1949年に出版された『量子力学』は、日本語で書かれた量子力学の教科書の定番として長年読み継がれており、1963年には小柴昌俊による英訳版が刊行。更に1998年には『スピンはめぐる』の英訳版が刊行された。物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書を多数執筆しており、歿後の1980年には『物理学とは何だろうか』で大佛次郎賞を受賞した。『量子力学』、『物理学とは何だろうか』は共に未完であった。みすず書房で「著作集」が没後出版された。
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データレコーダ
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データレコーダとは、音楽用として大量に出回っていたテープレコーダーを利用してカセットテープにデータを書き込むというもの。CMT(Cassette Magnetic Tape:カセット磁気テープ)などとも呼ばれた。これはコンピュータ業界では磁気テープをMTと略すため、それにカセットのCを付けたものである。
本項では1980年代以前のホビーパソコンブームにおける磁気テープによるデータの記録について扱う。2000年代以降現在にかけてのデータ用磁気テープについてはテープドライブを参照のこと。
1970年代、マイクロコンピュータが発展したが、手頃な補助記憶装置がなかった。このため、民生用に大量生産されており非常に安価で便利な記録媒体と録音再生機器である、コンパクトカセットやマイクロカセットなどとカセットテープレコーダーを流用するというアイディアが生まれた。
これは、情報をFSKなどの変調方式でオーディオ周波数帯の信号に変調して記録するもので、代表的な記録方式にKCS(カンサスシティスタンダード)があり1200Hz/2400HzのFSK方式で300bpsの記録ができた。やがて電子工作の延長的なマイクロコンピュータは様々なコンピュータメーカーから発売された初期のパーソナルコンピュータへと置き換えられていったが、フロッピーディスクは当初、読取装置となるドライブもディスクメディア自体も高価なものであり、ディスクドライブ搭載機は高価な機種に限定され、ホビーパソコンのような廉価で一般家庭への普及を目指した機種では採用し難いものであったことから、データレコーダーは依然として利用され続けた。
8ビット時代のパソコンへの具体的な採用例としては、日本においてはNECのPC-8000シリーズなどではキャリア周波数はそのままでシンボル長のみ短縮した600bpsでの記録を標準としていた。シャープのMZシリーズではコンピュータ本体に直接内蔵され、ソフトウェア制御によるパルス幅変調方式で記録を行い、他の機種と比較し、エラーの少ないアクセスと共に、1200bpsの速度を実現していた。この筐体に直接内蔵される専用のデータレコーダはMZ-80B、並びにその系譜にある機種では2000bpsに速度を変更すると共に、後述の通り、制御の多くもソフトウェアから行うことが可能であった。CPUからの直接制御であるため、そのタイミングの書き換えによって、そのレコーダの信頼性も手伝い、更に高速な読み書きも可能であった。別部署から発売されたX1でも、この電磁制御が可能なデータレコーダを採用しており、速度は2700bpsになっている。他に千葉憲昭の提唱したサッポロシティ・スタンダードがある。
また、コンピュータの周辺機器として使い勝手がいいようにモディファイされたカセットテープレコーダーが作られ、データレコーダと呼ばれた(後述)。
以上で述べたような時代には、メーカー純正のドライブはもとより比較して安価なサードパーティ製でも、パソコン本体より高価ということもザラだったため、データレコーダがよく使われた。その後、時代を下ってディスクドライブやディスクメディアが低価格化するようになると、廉価なホビーパソコンでもデータ転送速度の遅さからロード時間が長く、またシーク(データ読み出しのために媒体の該当データ箇所に読み取りヘッドを移動すること)に対応していないか、対応していたとしても時間の掛かるデータレコーダーからランダムアクセス性の優れたフロッピーディスクメディアへと切り替えられていった。過渡期には、クイックディスクのようなディスクメディアとテープメディアの中間のような機器(と媒体)も存在した。
データの保存自体は普通のアナログテープを録音/再生できるテープレコーダー、極端な話ではラジカセのような音響機器としての製品でも行えるが、データレコーダはデータの保存に特化した機能を備えている。例えば、スピーカー用と別にデータ出力専用のボリュームが付いていたり、コントロールができるものもある。パーソナルコンピュータに内蔵された専用のものでは、後述するようにテープの早送り・巻き戻しを行って、記録されたデータの先頭にシークする機能もあった。そこまででなくても、専用の製品としてデータロードに際してパーソナルコンピュータ側から再生を開始するリモート端子ぐらいは付いているものが多い。
データレコーダの仕様ではないが、当時使われた記録方式の仕様について記す。論理フォーマットについても様々なものがあったが、ここでは物理フォーマットについてのみ述べる。
カンサスシティスタンダードは、冗長さにより信頼性が高い半面、その遅さは当時のマイコン用としても遅かった。このため制定後すぐに、より高速な方式の提案が乱立した。サッポロシティ・スタンダードは標準としてのカンサス方式との互換についても考慮しつつ、2値変調の理論限界に迫る速度を実現することで、大幅な改良の余地を残さない「スタンダード」とするべく提案された野心的な仕様であった。
サッポロシティ・スタンダードは、2,400Hzと1,200Hzの2値変調という点はカンサスシティスタンダードと共通としている。その上で、マーク(1)を2,400Hzの半サイクル、スペース(ゼロ)を1,200Hzの半サイクルとする。つまり信号波形を矩形波にモデル化すると、その1個の山あるいは谷の前後のエッジ間隔の長短に情報を乗せる方式である。0と1の割合を半々と仮定して3,200bpsと公称した。
提案者千葉憲昭が札幌の人であり、当時地方組織としては最大級であった、札幌を拠点とするマイコンクラブ「北海道マイクロコンピュータ研究会」(立ち上げ・青木由直)で1977年に発表し同会で研究された方式であることから、サッポロシティの名が付けられた。公刊された文献としては、『トランジスタ技術』1978年12月号の記事「サッポロ シティ スタンダードについて」、電気学会情報処理研究会 IP-78-76「データ処理用ローコスト周辺装置の試作」、特開S54-96908「エッジ間隔を利用したディジタル変調方式」他がある(本項の「サッポロシティ・スタンダード」という表記はトラ技1980年11月号の記事に従った)。
記録と再生について簡単に説明する。記録は、これはサッポロ方式に限らないが、ディジタル回路で生成した矩形波を、レベルとオフセットの調整のみでそのままカセットテープレコーダの録音入力に入れ録音する。
再生は、カセットテープレコーダからの出力をアナログ的に波形を調整した後、シュミットトリガを通して矩形波とする。矩形波の立ち上がり立ち下がりのそれぞれのエッジから、約0.3ミリ秒後までにレベルが反転しなければ(していなければ)1,200Hz、反転すれば2,400Hzとわかる。サッポロ方式の場合ならそこから直接ビット列とすれば良いし、カンサス方式であれば8乃至16個ごとに処理すれば良い。
私設の「さっぽろコンピュータ博物館」に、本方式のインタフェースボード北斗電子製SC-3200が所蔵されている。
N-BASICなど初期のマイクロソフト系BASICなどではデータレコーダへのセーブはCSAVE、ロードはCLOADだった。CLOAD?でベリファイも行なえる。のちのN88-BASICや富士通のF-BASIC系などでは、カセット専用命令を持たず通常のSAVE・LOADコマンドでデバイス名「CASx:」(xは数字)を指定した。
シャープのX1およびMZ-80B/2000、その後継機種のデータレコーダは、デッキのオープン、並びに、メカ部の制御(ヘッドやキャプスタンのローディング)が、ボタンを操作する人力によるものではなく、電気制御によるものであったため、コンピュータ側からレコーダの動作を制御することができた。このためHu-BASICにはカセット制御用のコマンドが用意されている。また自動頭出し(ヘッドを軽く接触させた状態で高速送りし無音部を検出するもの)もできたため、データレコーダでありながらランダムアクセスに近い使い方も可能であった。
ファミリーベーシックのプログラム保存にも使われていた。ファミリーコンピュータ本体にはカセットテープインタフェースがなく、エディットモードのあるゲームで作成した面を保存する場合にもキーボードを介してデータレコーダを接続する必要があった(それ故か重く場所を取るキーボードを接続する煩わしさを解消する為、エディットデータのみ対応のホリ電機(現・ホリ)製S.D.ステーションが使われることがあった)。
データレコーダー実機の入手性が悪化した現代では、レトロコンピューティング(英語版)などで実機のコンピュータ製品本体を使おうとする場合、据置型、ポータブル型を問わず録音の機能を備えたミニディスクレコーダーやDATレコーダー、ICレコーダー、リニアPCMレコーダーなどの各種デジタル録音機で代用を行う。ただし、DATレコーダーやリニアPCMレコーダーの各種無圧縮状態のデジタル記録を除き、位相が保証されない非可逆圧縮などにより、データエラーが発生する可能性も否定できない。
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野菜
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野菜(やさい、英: vegetable)は、食用の草本植物の総称。水分が多い草本性で食用となる植物を指す。主に葉や根、茎(地下茎を含む)、花・つぼみ・果実を副食として食べるものをいう。
野菜は一般には食用の草本植物をいう。ただし、野菜の明確な定義づけは難しい問題とされている。たとえばイネとトウモロコシは、日本においてはイネは野菜ではなく穀物であり、トウモロコシは野菜であると同時に穀物である。
園芸学上において野菜とは「副食物として利用する草本類の総称」をいう。例えばイチゴ、スイカ、メロンは園芸分野では野菜として扱われ、農林水産省「野菜生産出荷統計」でもイチゴ、スイカ、メロンは「果実的野菜」(果菜)として野菜に分類されている。青果市場ではこれらは果物(果実部)として扱われ、厚生労働省の「国民栄養調査」や日本食品標準成分表でも「果実類」で扱われている。また、日本食品標準成分表において「野菜類」とは別に「いも類」として扱われているもの(食品群としては「いも及びでん粉類」に分類)は一般には野菜として扱われている。また、ゼンマイやツクシといった山菜については野菜に含めて扱われることもあり、木本性の植物であるタラの芽やサンショウの葉も野菜の仲間として扱われることがある。さらに、日本食品標準成分表において種実類に分類されるヒシなども野菜として取り扱われる場合がある。
日本では慣用的に蔬菜(そさい)と同義語となっている。ただし、「蔬菜」は明治時代に入ってから栽培作物を指して用いられるようになった語で、本来は栽培されたものではない野菜や山菜などと厳密な区別があった。しかし、その後、山菜等も栽培されるようになった結果としてこれらの厳密な区別が困難になったといわれ、「野菜」と「蔬菜」は学問的にも全く同義語として扱われるようになっている。そして、「蔬菜」の「蔬」の字が常用漢字外であることもあって一般には「野菜」の語が用いられている。なお、野菜は青物(あおもの)とも呼ばれる。京浜急行には「青物横丁駅」がある。
野菜は食用とする部位(需要部位)の違いから、一般に根を食用部位とする根菜類、地下あるいは地上の茎を食用部位とする茎菜類、葉や葉柄を食用部位とする葉菜類、花序や花弁を食用部位とする花菜類、未熟果や熟果を食用部位とする果菜類に分けられる。
なお、日本ではこのほかの分類法として総務省「日本標準商品分類」では根菜類、葉茎菜類、果菜類の3つに分類され、農林水産省「野菜生産出荷統計」では根菜類、葉茎菜類、果菜類、果実的野菜、香辛野菜の5つに分類されている。
植物学的に属する科に注目すると、その野菜の特徴がみえてくる。同じ科どうしの野菜であれば、見た目や味、栄養価が似ているほか、栽培する上での基本的な育ち方が似通っていている。
同じ野菜名であっても、種類によってはさまざまな品種が作られているものもあり、個々に品種名がつけられている。品種名には、産地の名前が由来となっているもの、地域で特別に名付けたもの、品種改良を行った人物や種苗会社が名付けたものなどさまざまである。品種名がそのまま商品名(商標名)となったり、同じ品種でも産地によって異なる商標名になることもあり、地域の特産品になるとブランド名として独自の名前をつけることもある。
野菜にはF1品種(雑種第一代)とよばれるものがある。F1品種は、異なる品種を人工的に交配して、病気に強い・形が揃いやすい・栽培期間が短いなどの長所となる特性を持たせたもので、流通している野菜の多くはF1品種だといわれている。F1品種の特性は一代限りのため、種を取って翌年栽培しても一代目と同じ特性の野菜には育たない。そのため、F1品種は種苗会社が種を作り、栽培農家が毎年その種を購入する必要がある。
固定種や在来種とよばれる野菜は、長い年月をかけて優良な個体から種を取り、特性を固定していくことでできた品種である。遺伝的にも安定しており、地方によっては多くの固定種が作り継がれていった。現在、地方の伝統野菜とよばれている品種は、こうした受け継がれて栽培されたことによって、その地域の在来種となったものである。
野菜は栄養面で見ると、可食部分のカロテン含有量の違いによって緑黄色野菜と淡色野菜に分けられる。日本の厚生労働省では「原則として可食部100g当たりカロテン含量が600μg以上の野菜」を緑黄色野菜と定義している。緑黄色野菜は色が濃い野菜が多く、ホウレンソウ、ニンジン、カボチャなどがその代表例である。トマトやピーマンなどは、この基準に入らないが、食べる回数や量が多いことから緑黄色野菜とみなされている。また、緑黄色野菜以外の野菜は、淡色野菜である。
日本において明治時代以降に欧米から導入されたブロッコリーなどを西洋野菜(洋菜)という。また、日本において中国から1970年代以降に導入され普及したチンゲンサイやパクチョイなどを中国野菜という。
夏でも涼しい標高1,000メートル前後の高原で栽培される野菜類を高原野菜(こうげんやさい)または高冷地野菜(こうれいちやさい)という。明治以降、長野県の軽井沢において避暑に訪れる外国人客向けとして栽培が始まった。その後各地に広まり、ハクサイやキャベツ、レタスなど、40を超える種類の野菜が高原野菜として栽培されている。
野菜には旬があるが、近年では品種改良・作型の改良(ハウス栽培など)・輸入野菜の増加によって、旬以外の時期でも市場に年間を通して供給されるようになった。またこれらの影響か、近年の野菜の味は昔よりも薄くなったと感じている人もいる。需要形態が変化してきており、カット野菜(切断されて部分的に販売される野菜)や冷凍野菜も利用されるようになっている。ただし、カット野菜は切断面が大きい分、野菜の呼吸量も大きくなるため、品質の落ちるスピードも速くなってしまうという難点がある。
古来食材としては、野菜類はどの文化圏においても副菜としての性格が強く、主食はコメやコムギといった炭水化物を摂取するための穀物であり、またタンパク質に富む肉や魚がごちそうとして扱われるのに比べ、野菜類がメインとなることは少なかった。野菜類がメインとなる場合も、うま味を供給する肉や魚、油や調味料と組み合わせて使用されることが常である。また野菜類の作物としての比重も高くなく、古代にはこうした野菜類は栽培するのではなく、食べられる野草を採集してくることも多かった。これは野菜類にエネルギー源やタンパク質に富むものが少なく、栄養源としてはそこまで必要性が高くなかったことによる。やがて生活が豊かになるにつれて食生活に彩りを添えるために各種栽培野菜の開発が各地で進められていくが、野草採集も食糧供給源としては存続し、現代においても山菜として食卓をにぎわせている。
宗教・文化的理由もしくは主義として肉食を避ける人は、一般に菜食主義者と呼ばれるが、これは「野菜のみを食べる人」という意味ではない。菜食主義者の食事においてもメインとなるものはエネルギー源となる炭水化物を多く含む穀物やイモ類、およびタンパク質に富む豆類であり、野菜は副菜としての位置づけにあることには変わりがない。
なお、主食となる穀物は野菜に含めないことが多いが、それを主食としない文化圏では野菜として扱われることがある。たとえば、穀物であるトウモロコシは日本などでは野菜に含まれ、欧米でも米が野菜に含まれることがある。
野菜は、洗う、切るといった下ごしらえを調理の直前に行うのが基本である。根付き野菜は、水につけて洗うことによって根元付近に付着した泥が落ちやすくなる。灰汁が強い野菜の場合は、下処理として水や酢水、焼きミョウバン水などにつけて灰汁抜きをする。キュウリやオクラ、ニガウリのように、塩をまぶして揉むことで食感が良くなる野菜もある。野菜を切るときは食べやすく味や食感を考えて、輪切り、角切り(さいの目切り)、千切り、千六本、小口切り、拍子切り、短冊切り、半月切り、いちょう切り、かつらむき、みじん切り、くし形切り、細切り、斜め切り、乱切り、ささがきなど、料理に合わせたさまざまな切り方がある。
サラダなどで生で食べる野菜は、加熱で失われやすいビタミンなどを効率よく摂ることができる。生野菜のみずみずしさ、香り、爽やかな歯ごたえは加熱野菜では得られない魅力がある。一方、野菜を加熱調理にも特有のおいしさがあり、加熱によって失われる栄養素もあるが、かさが減ることで食べる量でカバーできるので、結果的に加熱した方が多くの栄養を摂ることができる。
焼く場合は直火・オーブン・フライパンで焼くなど方法があり、野菜表面の水分が抜けて素材の旨味も凝縮されて、かさも減るため生野菜よりも多く摂ることができる。蒸すと野菜が元来持つ旨味や栄養分を損なわずに加熱できる。油炒めは、脂溶性ビタミンのビタミンAやビタミンDの吸収率を上げる調理法で、短時間で炒めるとビタミンCの損失量も少なくなる。煮る場合は、煮汁まで食べたほうが栄養を無駄なく摂取できる。油で揚げると野菜の水分が適度に抜けて甘味が出る。クセの強い野菜は油で揚げると食べやすくなるため、山菜や苦味のある野菜に向いている調理法である。茹でるときは、葉野菜はたっぷりの湯を沸騰させて短時間で茹で上げるようにする。根菜は水から入れてじっくりと加熱し、デンプン質が多い芋類は、加熱に時間をかけることによって糖質がふえて甘くなる。電子レンジは、固めの野菜でも短時間で加熱調理できる方法で、野菜全体をラップに包んで水分が抜けて乾燥するのを防ぐ。電子レンジで加熱すると、ガスレンジで加熱するよりも短時間で火が通り、ビタミンの損失が少なく済むというメリットがある。
野菜に含まれるビタミン・ミネラル類の中でも、調理で最も失われやすい栄養素はビタミンCである。ビタミンCは水溶性ビタミンであり、水にさらす時間が長いほど減少してしまう。例えばニンジンを千切りにして水に5分さらすと、ビタミンCが30%ほど減少する。また、ゆで時間が長くなるほどビタミンCの損失量が多くなる。野菜を煮るときは、野菜を大きめに切ったほうがビタミンCは失われにくくなる。体内で必要に応じてビタミンAに変化するカロテンは、脂溶性ビタミンであっるため、油で調理することでより吸収されやすくなる。緑色が濃い緑黄色野菜を色鮮やかに仕上げるには、加熱時間を短くして、酢などは食べる直前に加えるなどの配慮が必要になる。野菜のえぐみ、渋み、苦味などのアクは、灰分、有機酸、タンニン、アルカノイドなどである。野菜によってアクに違いがあり単純ではないが、大半は水溶性のため、茹でたり、水にさらすことによって減らすことができる。ホウレンソウのようにアクが強いものは、下茹でや電子レンジ加熱後に水にさらしてアク抜きしてから使われる。
漬物は調味料で味をつけるとともに、野菜から水気を引き出し、保存性を増すことができる調理法である。低塩分で手軽につくれる浅漬け、野菜に塩を振って重石して保存性を高める塩漬け、精米の副産物のぬかを微生物で発酵させて野菜を漬け込んだぬか漬け、酢・水・砂糖を煮溶かした甘酢に漬け込んだ甘酢漬け、ハーブやスパイスで香り付けした酢に漬け込んだピクルスなどがある。
野菜料理 とは、野菜を主体とした料理である。調理法は温野菜、生野菜にわけられ、肉料理、魚料理などに対置して使われる。野菜も他の食材と同じく、基本的には火を通すなど何らかの加工をして食用とするものであった。このため、おひたしや和え物、炒め物(野菜炒め)、煮物、蒸し物、揚げ物(天ぷらなど)など様々な調理法が開発された。こうした加熱法のほか、野菜の調理において非常に重要だったものは漬物としての利用である。多くの野菜、特に葉物野菜は日持ちがしないが、塩などで漬け込み漬物とすれば非常に長持ちするため、保存食として価値が高く、世界各国において様々な野菜の漬物が考案された。こうした加工利用に比べ、野菜の生での食用が一般化したのはかなり遅い時代のことだった。とりわけ日本においては、肥料に下肥を用いていたこともあり、加熱等の加工処理が必須だったために野菜の生食は非常に遅れ、一般家庭において野菜の生食であるサラダが一般化したのは1970年代中期を待たねばならなかった。
食物に含まれる栄養素の中でも重要なタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルは五大栄養素とよばれ、中でも野菜はビタミンとミネラルを手軽に摂取しやすい食材である。品種改良が進んだ現代の野菜も、本来の生育時期は決まっており、その野菜の特性と栽培地の環境の中で自然に収穫を迎えたものが旬となる。本来の旬の時期に収穫した野菜は、もっとも味がよくなり、栄養価も高くなる。例えば、冬場に旬の時期を迎えるホウレンソウは、夏に収穫したものではビタミンC量が3分の1程度しかない。
野菜の多くは無機塩類やビタミン類、食物繊維のほかに、抗酸化物質を含むファイトケミカル(フィトケミカル)が豊富で、免疫力を上げて体内を浄化する働きがあり、癌予防を含めた各種健康維持に役立っている。ファイトケミカルとは、植物に含まれる色素や香り、灰汁などに含まれる植物自体が有害な物から防御するための物質で、ポリフェノール類、フラボノール、カテキンなどが相当する。
ヒトの消化管は自力ではデンプンやグリコーゲン以外の多くの多糖類を消化できないが、大腸内の腸内細菌が嫌気発酵することによって、一部が酪酸やプロピオン酸のような短鎖脂肪酸に変換されてエネルギー源として吸収される。野菜に含まれる食物繊維の大半がセルロースであり、人間のセルロース利用能力は意外に高く、粉末にしたセルロースであれば腸内細菌を介してほぼ100%分解利用されるとも言われている。デンプンは約4kcal/g のエネルギーを産生するが、食物繊維は腸内細菌による醗酵分解によってエネルギーを産生し、その値は一定でないが、有効エネルギーは0~2kcal/gであると考えられている。また、食物繊維の望ましい摂取量は、成人男性で19g/日以上、成人女性で17g/日以上である。食物繊維は、大腸内で腸内細菌によりヒトが吸収できる分解物に転換されることから、食後長時間を経てから体内にエネルギーとして吸収される特徴を持ち、エネルギー吸収の平準化に寄与している。
野菜に含まれるファイトケミカル(フィトケミカル)には、ポリフェノール類とカロテノイド類がある。
ポリフェノール類は化学構造上の分類で、フェノール基に水酸基(OH)が2つ以上たくさんついている物質のことをいう。植物の色素やアクとよばれている苦味成分のほとんどはポリフェノールである。光合成によって生成されるといわれ、光の当たる部分には特にたくさん含有されている。含有している野菜としては、赤タマネギ、紅芋、ダイズなどがよく知られる。ポリフェノールの主たる機能は抗酸化作用であり、がん予防や血中コレステロールの酸化を防いで動脈硬化を予防する働きがあるとされる。ポリフェノール類の生理作用は個々の物質によって異なるさまざまな作用があり、その効用は数時間内といわれる。
カロテノイド類は、主として植物に含まれている赤色から黄色の色素成分で、カロテン類とキサントフィル類に分けられる。基本的に植物だけが作り出せる成分である。カロテン類には、αカロテン、βカロテン、γカロテン、リコペン(リコピン)などがあり、人間の体内でレチノールという物質に変換されてビタミンAとして作用する。レチノールに変換されないカロテン類は、抗酸化作用を発揮する。また、キサントフィル類にはアントシアニン、ルテイン、アスタキサンチン、クリプトキサンチン、カプサイシンなどがあり、これらはビタミンAとして働かないが、抗酸化作用を発揮して、がん予防や老化防止に役立つと考えられている。
イオウ化合物は、アメリカ国立癌研究所 (NCI) が中心となって提唱したデザイナーズフーズの上位に、ニンニクやキャベツ、タマネギがランクされたことから注目されるようになった生理機能成分で、特有の臭いを発する。
野菜は、果物とともに癌予防の可能性が大きいものとされている。
デザイナーフーズ計画は、1990年代、アメリカ国立癌研究所 (NCI) によって2000万ドルの予算でがんを予防するために、フィトケミカルを特定して加工食品に加える目的で開始された計画である。デザイナーフーズ計画では、がん予防に有効性のあると考えられる野菜類などが40種類ほど公開された。デザイナーフーズ計画で発表された野菜はつぎのとおり。
香辛料では甘草(リコリス )、ショウガ、ウコン(ターメリック)、バジル、タラゴン、ハッカ、オレガノであり、豆類では大豆である。
野菜などで変異原性物質Trp-P-1(3-amino-1,4-di-methyl-5H-pyrido[4,3-b]indole)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。
野菜などで変異原性物質NIHP(2-ヒドロキシ-3-(1-N-ニトロソインドリル)-プロピオン酸)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。
キャベツ、ブロッコリー、ゴボウ、ナス、ショウガ等に強い抗変異原性があることが知られている。加えて、エストラゴン、オレガノ、ギョウジャニンニク、シロザ、タイム、ツクシ、フキノトウ、モミジガサ、レモンバームの野菜類9種にもTrp-P-1に対して強い抗変異原性があり、キク科、シソ科、アブラナ科、セリ科の植物に抗変異原性があるものが多い。
2007年11月1日、世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」が報告されている。(詳細は「食生活指針」を参照のこと)
野菜は果物とともにアルカリ性食品に分類されている。(詳細は、酸性食品とアルカリ性食品を参照)
腎臓に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や果物の摂取を増やすことにより血圧の降圧が期待できる。
21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)では、望ましい野菜の摂取量は成人1人1日あたり350g以上とされている。日本人の平均ではこの目標に対して8割程度の摂取量にとどまっており、若年層においては7割~6割程度にとどまっている状況にある。平成24年の調査では20歳以上の日本人の平均野菜摂取量は、286.5g/人日であった。所得と生活習慣等に関する状況の調査においては、所得が高いほど野菜摂取量が多く、所得が低いほど野菜摂取量が低い傾向が見られた。
2010年度における野菜の最大生産国は中華人民共和国であり、一国で世界の半分以上の生産量があった。2位はインドで、以下アメリカ合衆国、トルコ、イラン、エジプトの順となっている。中国は世界で最も野菜畑の面積が広いが、野菜の反収が最も高い国はスペインと大韓民国である。
野菜は一般的に貯蔵性が高くないため、農家が自給的に生産して余剰分を市場に供給することが多く、商業的に生産される場合は消費地の近くで生産されることが多かった。しかし都市の急速な拡大によって都市近郊の野菜生産地が都市化していったことや、輸送手段・貯蔵手段の発達によって遠隔地でも野菜栽培が採算に乗るようになったことから、野菜生産は都市から離れた地域でも行われるようになった。また、葉や実を利用し貯蔵性が低い関係上供給はその植物の収穫期に限定され、旬が短く時期によって左右されたものが野菜生産であった。その後、温室やビニールハウスなどの技術革新によって野菜は一年中供給されるようになった。
近年では、巨大なハウスを造りコンピュータ制御でその中の環境をコントロールし高い生産性・採算性で野菜を生産するオランダのような国が出現している。オランダはトマトを、本場であるイタリア向けも含めてヨーロッパ各地に大量に輸出するほどになっている。
また最近では、野菜を植物工場で生産する事例も、まだ生産量は少ないものの徐々に増えてきている。閉じた空間、害虫や雑菌の影響が少ない空間において、LED照明やコンピュータで制御された空調や養液補給などによって、気候・天候の影響をほぼ受けずに安定的に野菜を生産する方式である。雑菌や害虫が少ないため無農薬栽培が可能で、栄養価や規格の統一も容易であるなど利点も多いが、生産コストが高く採算を取るのが難しいなど課題も多く残っている。
現代において世界で栽培される野菜の多くは、中国、インドから東南アジア、中央アジア、近東、地中海岸、アフリカ(サヘル地帯及びエチオピア高原)、中央アメリカ、南米のアンデス山脈の8地域を起源としている。これらの地域は農耕文明の発祥地と重なっている。また、もともとの生息域が広く、栽培化地域が複数にまたがっている野菜も多い。中国においてはハクサイ、ネギ、ゴボウが、インドから東南アジアにおいてはキュウリやナス、サトイモ、中央アジアではダイコン、ニンジン、タマネギ、ホウレンソウ、ソラマメなどが栽培化されている。近東地域ではレタスやニンジンやタマネギが栽培化されている。地中海岸は野菜の一大起源地であり、キャベツやエンドウマメ、アスパラガスやセロリが栽培化されている。アフリカのサヘルからエチオピア高原にかけては、ササゲやオクラなどが栽培化された。中央アメリカにおいてはインゲンマメやサツマイモ、カボチャが栽培化された。南アメリカ・アンデスにおいては、トマトとジャガイモ、それにトウガラシやピーマン、カボチャの栽培化が行われた。こうした中心地のほか、世界各地で野草採集から発展した独自の野菜が栽培されており、各地独特の食文化の重要な要素となっている。
日本においては、フキやウド、ミツバなどのように日本原産の野菜も存在するが、ほとんどの野菜は日本列島の外で栽培化されたものが持ち込まれたものである。
その移入の歴史は古く、すでに縄文時代の遺跡である福井県の鳥浜貝塚においては、ゴボウ、カブ、アブラナ、リョクトウ、エゴマ、シソなどの種子が出土し、栽培されていたと考えられている。この発見は弥生時代の稲作伝来以前からすでに農耕が開始されていたこと、および縄文時代にすでにはるかな遠隔地で栽培化されていた野菜(カブやアブラナは地中海沿岸、エゴマやシソやリョクトウはインド原産)が伝来しており、大陸をはじめとする広範囲な移動がすでに行われていたことを示した。
このほか、1世紀ごろまでにはゴマ、サトイモ、ニンニク、ラッキョウ、ヤマイモ、トウガンなどがすでに伝来しており、古墳時代にはナス、キュウリ、ササゲ、ネギが伝来した。
古事記や日本書紀にはカブやニラの、万葉集では水葱(なぎ、現代のミズアオイやコナギ)やジュンサイ、ヒシ、セリ、瓜(マクワウリ)などの記述が存在する。このほか、現代ではあまり野菜としては使用されない水葱や羊蹄(しのね、現代のギシギシ)なども使用されていた。
その後も日本に伝来した野菜があり、レタスも8世紀には「萵苣」(わきょ/ちしゃ)という名前で日本に伝来している(玉状のものは明治になってからの伝来)。
江戸時代に入り、平和が続き経済が成長すると野菜の需要も高まり、特に一大消費地である江戸の周辺では大量の野菜が栽培され都市へ運び込まれるようになった。小松菜や練馬大根などのように、地名をつけブランド化する野菜が現れ始めたのもこのころのことである。
こうした傾向は江戸に限ったことではなく、京野菜や加賀野菜をはじめ、各地で特色ある野菜が開発され定着したのも江戸時代のことであった。明治時代に入ると文明開化の潮流とともにタマネギやトマト、キャベツをはじめとする西洋野菜が多く流入し、日本の野菜はより多様なものとなった。
スーパーマーケットでは外観を重視し、変形が見られるものは「規格外」として取り扱わず、「訳あり」などとして格安で売られるか、採算が取れないと農家が判断し廃棄されることもあった。消費者の意識が過度に美観を重視する姿勢から変化していることもあり、外観を規格に合わせるための栽培法を止める試みもある。
野菜は人間が長年かけて改良し続けて、長い間食べ続けられてきた植物なので、それなりに安全性は確保できていると考えてもよい。しかし、野菜の安全性に関してまだ結論が出ていないこともたくさんあり、新しく作り出された野菜の品種や遺伝子組み換え作物などは、必ずしも安全性が確かめられているわけではなく、未知のリスクの可能性も指摘されている。なるべく健康的な食生活を送るためにも、なるべく多くの種類の野菜を適量摂ることが、今最も安全な野菜の食べ方といわれている。
野菜を生産するうえで、人間以外の昆虫などの動物から受ける被害を抑止する目的で農薬が使用されるが、農薬の残存化学物質は人間にとっても癌などのリスクがあるので好ましいものではない。農薬を使用しなければ、地球上の人類を養うだけの農作物の生産量は確保できないと言われており、農薬を正しく用いる農法がふつう一般に行われている(これを慣行栽培という)。先進国のように農薬の製造や使用が適正に規制されている国では、癌を含む疾病のリスクについて、農薬を正しく使用している限りは害はないと考えてもよいといわれている。しかし、農薬が適正に使用されていない状況でつくられた野菜については、人体に害はないという前提条件が崩れてしまう。しばしば「野菜には残留農薬の危険があるから、よく洗ってから食べる」という意見も見かけられ、ていねいな水洗いや加熱調理が野菜についている残留農薬を減らすことになるのは間違いではないが、先進諸国において野菜を洗うことによって農薬の害が低減するといった科学的根拠のある研究結果はほとんど発表されていない。
野菜の安全性で注目されるのようになったものに、原則として農薬や化学肥料を使わずに栽培された有機農産物(有機野菜)がある。有機野菜は栽培法による分類で、日本のJAS法では厳密な規定により認定を受けたものだけが有機野菜と表示することができるため、流通量が極めて少ないのが現状である。有機野菜は農薬が残留している可能性は低いが、残留農薬がゼロであることまでは保証していない。有機野菜の特徴は「安心して食べられる」という点において一般に高い評価を得ているが、科学的根拠のある研究結果はほとんどない。
有機野菜に変わって増えてきたものに、農林水産省(農水省)のガイドラインに示されている無農薬野菜と減農薬野菜がある。農水省のガイドラインは、第三者による認定を必要とせず、違反しても罰則規定がないので、本当に無農薬かどうかまではわからないという問題が指摘されている。また農水省とは別に、各自治体や生産者団体が独自にガイドラインを設けて、無農薬・減農薬生産と表示をしているケースもある。農水省のガイドラインは平成16年4月に改定され、無農薬野菜と減農薬野菜という分類が特別栽培野菜という表記に統一されている。
世帯の野菜消費量が少なくなるなかで、外食産業を中心に利便性を考えてあらかじめ下処理された野菜であるカット野菜の生産量が増えてきている。カット野菜は手軽で便利というメリットがある反面、丸のままの野菜よりもカット工程などが増えるので、雑菌に触れやすく傷みやすい性質上、多くは次亜塩素酸ナトリウム溶液で殺菌してある。その後は水洗いしてあるので、食べる人の健康を害するほど残留していないが、とても傷みやすいことには変わりないので、消費期限を厳守して封を開けたら早めに使い切ることが肝要になる。
放射線照射野菜で知られるものに、発芽防止目的で使用されているジャガイモがある。放射線を当てた食品が放射能を持つことはなく、健康に害を与えるようなこともないとされている。ジャガイモの芽に含まれるアルカロイド (PGA) による食中毒リスク、輸入スパイスに付着する病原菌リスク、食品保存に使われる燻蒸の発がん性リスクを軽減するために用いられているのが放射線照射である。また放射線を当てることによって殺菌効果が高められるため、食品が腐りにくくなるという特徴もある。
遺伝子組み換え作物は遺伝子操作によってつくられた野菜であるが、それを食べた人の遺伝子に影響を与えるようなことはない。遺伝子がつくる物質はタンパク質であるため、そのタンパク質が人の健康に害を及ぼすかどうかが、遺伝子組み換え作物の安全性の評価となる。遺伝子組み換え作物のタンパク質が人の健康を害するという研究結果はほとんどなく、スターリンクというトウモロコシのタンパク質がアレルギーを起こす可能性があるという研究があるため、スターリンクについては食品として許可されていないのが現状である。遺伝子組み換え作物については、大企業の利益になっても一般市民の利益は何もないという指摘もあるため、遺伝子組み換え作物の必要性について意見が分かれるところであるが、その安全性について現段階では害は認められていないことから安全であるといわれている。
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高橋幸宏
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高橋 幸宏(たかはし ゆきひろ、1952年〈昭和27年〉6月6日 - 2023年〈令和5年〉1月11日)は日本のシンガーソングライター、ドラマー、音楽プロデューサー、ファッション・デザイナー、文筆家。
ソロ・デビューした1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)前半までは、「高橋ユキヒロ」とカタカナ表記の名前を名乗っていた。
立教中学校(現:立教池袋中学校)・立教高等学校(現:立教新座高等学校)卒業(高校の3年後輩に佐野元春がいる)。武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン科中退。
高校在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動。「サディスティック・ミカ・バンド」や「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) のメンバーとしての活動が有名。その他、鈴木慶一と共に結成した「ビートニクス」、細野晴臣とのユニット「スケッチ・ショウ」としての活動を始め、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュースも手掛けている。山本耀司のパリ・コレ出展の際の音楽を担当したり、椎名誠が監督を務めた映画の音楽を担当したこともある。ドラマーとして、その厳格なまでに正確なリズムと少ない音数で多彩な表現を可能とする独特のタイトな演奏は、特にYMO世代のミュージシャン達から高くリスペクトされている。
音楽活動の他に、これまでに「Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Buzz Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks Mono」(PLAN・NET-WERK CO.)、「YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTION」(WAG Inc.) といった自身のファッション・ブランドのデザイナーも務めている。1983年(昭和58年)には、『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた。その他、映画やCMへの出演、エッセイの発表など、その活動は多岐に渡っている。映画『四月の魚』では主演を務めた。俳優の竹中直人と交流が深く、『竹中直人の恋のバカンス』、『デカメロン』などに出演した際には、シュールなコントに挑戦している。
趣味は釣り。神経症の治療のために始めたものだが、以来すっかり夢中になってしまい、ラジオ番組で中継を行ったこともある。釣り同好会「東京鶴亀フィッシングクラブ」(旧:東京鶴亀磯釣り会)の会長である。
最晩年まで長野県軽井沢町に在住していた。軽井沢には親族が別荘を所有していたこともあり幼少期から頻繁に足を運んでいた。細野晴臣との出会いも軽井沢の「三笠ホテル」であった。
1952年(昭和27年)、東京に生まれる。小学校5年生頃にはすでにドラムを叩いていたという。立教中学校(現立教池袋中学校)時代、同級生の東郷昌和と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。主にパーティー等で活動していた(後に東郷は高橋の兄・信之のプロデュースでフォークグループ「バズ」としてデビューする)。荒井由実も立教中学校当時からの友達である。高校在学中からスタジオミュージシャンとして活動を開始。1969年にフォークバンド「ガロ」のサポートメンバーとして加わる。しかし、『学生街の喫茶店』ヒット以後の歌謡曲路線に合わず、小原礼と共に脱退。
武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科 在学中の1972年(昭和47年)、加藤和彦の誘いを受け、脱退した角田ひろ(現:つのだ☆ひろ)の後任として「サディスティック・ミカ・バンド」に加入。ミカ・バンドは海外(とりわけイギリス)において評価されている。1974年にはロキシー・ミュージックの全英ツアーにおいてオープニング・アクトを務めた。帰国後、解散。
ミカ・バンド解散後、「サディスティックス」を経て、1978年(昭和53年)からはソロ活動を開始。そして同年「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) を結成。1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)にかけて2度にわたるワールドツアーを敢行した。YMOは世界的な大成功を収め、日本のみならず世界の音楽シーンに多大な影響を与えた。高橋の作曲としては「ライディーン」が有名。結成当初、細野は「YMOのメンバーはヴォーカルを取らない(ゲスト・ミュージシャンに任せる)」という意向を持っていたが、坂本の推挽で高橋が「中国女」のボーカルを手がけたことにより、ボーカリストとしての才能も発揮。またファッション・デザインの才も発揮して衣装のデザインも手掛けていた。高橋は当時、自身のブランド「Bricks」や「Bricks-MONO」のデザイナーだった。YMO結成前、当時の坂本龍一のぞんざいな服装を見た高橋は「かっこいいのにもったいない」と初対面の時に思ったそうである。1980年(昭和55年)には「POP THE HERO '80s」(ラジオ関東)のパーソナリティを(準レギュラーに当時のマネージャー伊藤洋一と共に)担当。ソロやYMOの活動の一方で、1981年(昭和56年)には鈴木慶一と供に「The Beatniks(ビートニクス)」を結成し、活動を開始する。1982年(昭和57年)、個人事務所「オフィス・インテンツィオ」を設立。1983年(昭和58年)4月より、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)のパーソナリティを担当。同年12月、YMO「散開」(解散)とともに放送終了。
YMO散開以降、ソロ活動を本格化させ、また「ビートニクス」としてもマイペースに活動。1989年(平成元年)には「サディスティック・ミカ・バンド」が桐島かれんを迎えて一時再結成。1992年(平成4年)3月には山本耀司、高橋信之、田中信一と共に、「AGENT CON-SIPIO」を設立。翌1993年(平成5年)には録音スタジオ「CONSIPIO STUDIO」とレコードレーベル「CONSIPIO RECORDS」を発足。同年2月、YMO「再生」(再結成)を発表し、東京ドームにてコンサートを行う。1997年(平成9年)には自らも「CONSIPIO RECORDS」に移籍したが、現在は休眠状態である。
2002年(平成14年)からは細野晴臣と共にYMO以来のユニット「スケッチ・ショウ」を結成、活動を開始する。2004年(平成16年)にはスケッチ・ショウ+坂本龍一のユニット「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS)」として、エレクトロニカイベント「sonar」に出演。
2005年(平成17年)には再び東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)と契約。翌2006年(平成18年)3月に7年ぶりのソロアルバム「BLUE MOON BLUE」をリリース。スケッチ・ショウで実践したエレクトロニカの手法を通過させた新機軸のポップ路線を展開した。アルバム発表後は高野寛、高田漣、権藤知彦を主要メンバーに迎え、ライブハウスからロックフェスまで、各地でライブを精力的にこなした。10月には恵比寿ガーデンホールで開催された「SONAR」への出演を交えながら、新宿ICC、仙台メディアテーク、東京都現代美術館の3箇所で「ミュージアムツアー」と称したライブを行い、インプロヴィゼーション中心のクオリティの高い演奏を披露、新たなる次への展開を窺わせた。
また同年、キリンラガービールのテレビCMとの連動企画で「サディスティック・ミカ・バンド」が木村カエラをボーカルに迎えて2度目の再結成。10月にはアルバムをリリースした。同じく2007年には同CMの企画でYMOがこれも二度目の再結成。CMでは「ライディーン」のセルフカバー版「RYDEEN 79/07」を披露し、同時にネット配信を開始。5月にはチャリティ団体「Smile Together Project」主催のライブに(HASとして)出演、また7月には「ライヴ・アース」に出演。ワールドハピネスの主催。
2008年(平成20年)、新バンドpupaを、原田知世、高野寛、高田漣、権藤知彦、堀江博久と共に結成。同年7月2日にアルバム「floating pupa」リリースした。
2009年(平成21年)3月11日にはオリジナル・アルバムとしては22作目となるニュー・アルバム「Page By Page」がリリース。小山田圭吾をサポートに迎え、同年6月6日には3年ぶりのソロ・ライブ、7月には自ら「念願だった」というフジロック・フェスティバルに出演、10月にはフェス形式のライブハウス公演に登壇するなど単発的ながら充実のライブ活動を展開した。
2009年(平成21年)11月24日より、Twitterを利用。
2010年(平成22年)、pupaの2ndアルバムをリリース。
2012年(平成24年)12月22日、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールにて高橋幸宏の還暦を記念するライブ「高橋幸宏 60th Anniversary Live」が開催された。
2013年(平成25年)9月12日、ユリイカ2013年10月臨時増刊号として「総特集◎高橋幸宏」が発売された。
2014年(平成26年)、新ユニット高橋幸宏&METAFIVEを、小山田圭吾、砂原良徳、TOWA TEI、ゴンドウトモヒコ、LEO今井と共に結成。同年7月27日にLIVEアルバム「TECHNO RECITAL」リリースした。
2015年(平成27年)LOVE PSYCHEDELICOのツアーに帯同。高橋幸宏&METAFIVEをMETAFIVEに改める。
2020年(令和2年)8月31日、脳腫瘍の摘出手術を行ったことを公表。手術は無事に成功し、後遺症も見られないという。
2021年(令和3年)、METAFIVEの「METAATEM」が発売中止。
2022年(令和4年)6月6日、古希(70歳)を迎え、また、プロ活動50周年という節目の年であることを祝い、それを記念するライブ「高橋幸宏 50周年記念ライヴ LOVE TOGETHER 愛こそすべて」を、2022年9月18日にNHKホールにて行う予定であることを発表、しかし体調面から高橋は出演を見合わせることになった。
2023年(令和5年)1月11日午前5時59分、脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎のため死去。70歳没。
後日、お別れ会を行う予定。
2月5日、第65回グラミー賞(英語版)の逝去した音楽関係者に哀悼を捧げる、イン・メモリアム(英語版)のコーナーで追悼された。
同年、第65回日本レコード大賞特別功労賞を受賞した。
兄は、元ザ・フィンガーズで音楽プロデューサーの高橋信之。姉は日本のファッション界における広報の第一人者である伊藤美恵。ファッション・ブランド「soe」のデザイナー伊藤壮一郎は美恵の息子であり、高橋の甥に当たる。デザイナー兼ボイスアクターの大岩Larry正志は高橋家の次女の息子であり、壮一郎の従弟に当たる。また、近代文学研究者の高橋世織は従兄弟。また、現在の妻は「non-no」モデルであった高橋喜代美(当時の芸名は「しもいきよみ」)。
竹中直人、安田成美、高野寛、山下久美子、中原理恵、シーナ&ザ・ロケッツ、立花ハジメ、ピンク・レディー、門あさ美、SMOOTH ACE、NOKKO、桐島かれん、TOKIO、EBI、SUSAN、Urban dance、山野ミナなど。
桜田淳子、竹内まりや、田原俊彦、高岡早紀、浅香唯、小坂一也、藤真利子、堀ちえみ、ピエール・バルー、高井麻巳子、杉本彩、サンディー&サンセッツ、宮本典子(現mimi)、伊藤つかさ、ザ・ベンチャーズ、冨田ラボ、安田成美 、山野ミナなど提供作品多数。
BUZZ、山下達郎、荒井由実、矢沢永吉、太田裕美、キャンディーズ、浅野ゆう子、山口百恵、桑名正博、草刈正雄、岩崎宏美、オフコース、泉谷しげる、加藤和彦、矢野顕子、大貫妙子、八神純子、ビル・ネルソン、アグネス・チャン、堀ちえみ、海援隊、来生たかお、浜田省吾、南佳孝、鈴木茂、ブレッド&バター、Zaine Griff、郷ひろみ、松井常松、テイ・トウワ、東京スカパラダイスオーケストラ、EPO、山本達彦、渡辺香津美、高中正義、やくしまるえつこ、小林武史、小椋佳、渡辺美里、ムーンライダーズ、LOVE PSYCHEDELICO、セニョール・ココナッツなど多数の作品に参加(ドラムをはじめ、キーボード、コーラスなど)。
山本耀司のパリ・コレクション出展用の音楽を制作、椎名誠監督映画『ガクの冒険』では音楽監督を務めた。
カシオのリズムマシン「RZ-1」に内蔵されたドラム音の監修を行った。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%B9%B8%E5%AE%8F
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FPU
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FPU(Floating Point Unit、浮動小数点(演算処理)装置)とは、浮動小数点演算を専門に行う処理装置のこと。コンピュータの周辺機器のようなアーキテクチャのものもあれば、主プロセッサと一体化したコプロセッサのようなアーキテクチャのものもある。
AMDではAm9511をAPU (Arithmetic Processing Unit) と呼んでおり(2011年以降はAPUをAccelerated Processing Unitの略称として使用)、インテルではx87をNDP(Numeric data processor, 数値演算コプロセッサ)、またその命令についてNPX(Numeric Processor eXtension)とも呼んでいる。
マイクロプロセッサにおいては、Apple IIの頃は完全に周辺機器のようなアーキテクチャだったが、8087の頃には命令の一体化など、CPUの拡張装置のようなアーキテクチャになった。
1990年代中盤以降の高性能プロセッサではFPUはプロセッサ内部のサブユニットとなっている。インテルのx86系CPUでは独立ユニットのFPUは387(386用)が最後となり、486からは同一のチップ内に内蔵された(486の初期には、FPUを内蔵しない廉価版と、事実上はオーバードライブプロセッサであった487もあった)。同様に、モトローラの68000系でもMC68040以降はチップ内に内蔵している。プロセッサに内蔵されたFPUはスーパースカラーで他ユニットと並列動作させることができるなど様々なメリットがあるため、現在ではFPUを単体で用いることは珍しくなっている。
FPUをI/Oポートに接続して、通常の周辺機器と同様にI/Oポートを介してデータのやり取りを行なう形式。たとえばAm9511はこの形式で設計されている。FPUは周辺機器として扱われるので、CPUと同じメーカのFPUを使わなくてもよく、8ビットCPUの時代には、コストのかかるAm9511などの代わりに別メーカの電卓用CPUをI/Oポートに接続して使うことがホビイストの間で実験的に行なわれた。
また、対応機種として設計されていない組み合わせ、たとえばモトローラのMC68881(MC68020/MC68030用FPU)や、インテルの287(286用FPU)を、MC68000やMC68010に接続する場合は、データの入出力をプログラム上で明示的に行わなくてはならない。そのマシンに対応した数値演算ライブラリを使用すれば、アプリケーションソフトウェアのプログラミングにおいては、FPUを使用することを意識する必要は無いが、I/Oポートを介してデータをやり取りするため直接接続されている場合に比べて、大きなオーバヘッドが生ずる。逆に利点としては、主プロセッサと、副プロセッサの動作速度を個別に設定できるなど、自由度が高い点がある。
2018年現在では、Graphics Processing Unit及びそれをベースにしたプロセッサを用い、暗号通貨や各種演算処理に用いられる事が増え、グラフィックボードが品薄になる程の需要が生じている。
CPUとFPUがアドレスバスとデータバスを共有し、協調して動作する方式。ユーザから見るとCPUの命令が拡張されたように見える。 8087ではデコーダを独立して内蔵しており、真の意味でコプロセッサだったが、287以降はCPUのデコード結果を専用I/Oポートを介し引き渡す方式を採った。8086/87では次の浮動小数点命令を実行する前に、直前の(8087の)命令が終わるまで待つための(8086の) wait 命令が必要だったが、286/287からは必要なくなっている。
モトローラのMC68881やMC68882を同社MC68020またはMC68030と組み合わせる場合、専用に用意された制御線を使用して接続すれば、ソフトウェアの変更は必要なく、プログラマからは単純にCPUの機能が拡張されたように扱える。MC68020の場合、厳密にはコプロセッサの存在を示すフラグが立つ。
コプロセッサ方式の発展形。コプロセッサが実際にはCPUとしての全機能を持っており、制御は完全にコプロセッサ側に渡してしまい、既存のCPUは停止させてしまう。
487がこれで、要するにFPUというのは名前だけで、実態はオーバードライブプロセッサである。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FPU
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ライブラリ
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ライブラリ(英: library)は、汎用性の高い複数のプログラムを再利用可能な形でひとまとまりにしたものである。ライブラリと呼ぶときは、それ単体ではプログラムとして動作させることはできない、つまり実行ファイルではない場合がある。ライブラリは他のプログラムに何らかの機能を提供するコードの集まりと言える。ソースコードの場合と、オブジェクトコード、あるいは専用の形式を用いる場合とがある。たとえば、UNIXのライブラリはオブジェクトコードをarと呼ばれるアーカイブツール(アーカイバ)でひとまとめにして利用する。図書館(英: library)と同様にプログラム(算譜)の書庫であるので、索引方法が重要である。
また、ソフトウェア以外の再利用可能なものの集合について使われることもある(音声データなど)。
動的リンク (英: dynamic linking) は、あるライブラリ内のデータ(コードを含む)を新たな実行ファイルのビルド時にコピーすることはなく、ディスク上に別のファイルとして存在している。ビルド時にリンカが行うのは、その実行ファイルが必要とするのがどのライブラリのどの部分であるか(関数名やインデックス)を記録するだけである。リンク作業の大部分はそのアプリケーションがメモリ上にロードされたときか、実行時である。リンクを行うプログラムコードはローダ(英: loader)と呼ばれ、実際にはオペレーティングシステム (OS) の一部と見なされる。適当な時点でローダは必要なライブラリをディスク上で見つけてプロセスのメモリ空間に(追加のデータ空間と共に)マッピングする。OSによってはプロセスが実行開始する前でないとライブラリをリンクできないものもあるが、多くのOSではプロセス実行時に実際にライブラリを参照したときにリンクできる。後者は「遅延読み込み」などと呼ばれる。どちらの場合もライブラリは動的リンクライブラリ(ダイナミックリンクライブラリ)と呼ばれる。Windows環境では動的リンクライブラリの略称でもある「DLL」という呼び方が一般的であり、動的ライブラリのファイル拡張子は通例 .dll である。動的リンクライブラリの中でも、システム上の複数の実行プログラムによって共有・再利用されうるものを、共有ライブラリ(シェアードライブラリ)と呼ぶ。
ローダの処理は、メモリ上の各ライブラリの位置が実際にロードされるまで確定しないため、ちょっとしたトリックを必要とする。ディスク上のファイル内に絶対アドレスを書きこんでおくことはDLL内であっても不可能である。理論的にはメモリにロードされたときにライブラリを参照している部分を全て書き換えて正しいメモリ上の位置を参照するようにすることはできるが、それによって消費される時間とメモリは無視できない。その代わりに多くの動的リンクシステムではアドレス欄が空欄となったシンボルテーブルをコンパイル時に用意する。ライブラリへの参照は全てこのシンボルテーブルを経由して行われる(コンパイラはシンボルテーブルからアドレスを取り出して使うコードを生成する)。メモリにロードされたとき、ローダがこのテーブルを書き換える。
ライブラリも全メソッド(関数、サブルーチン)のテーブルを持っている。ライブラリに入ってくるときは、このテーブルを経由して各ルーチンにジャンプする。これによってライブラリのルーチンコールにオーバーヘッドが発生するが、通例それは無視できるほど小さい。
動的リンカ・ローダは機能面で様々なものがある。いくつかの場合、実行ファイルに格納された明示的なライブラリパスに依存し、ライブラリ名やディスク上の配置を変更するとシステムが作動できなくなる。より一般的な手法としてはライブラリ名だけを実行ファイルに格納し、OSが何らかのアルゴリズムでディスク上のライブラリを検索する。Unix系システムでは、ライブラリを探す場所(ディレクトリ)を構成ファイルにリストアップしておく。ライブラリ開発者はそこに書かれたディレクトリにライブラリを配置することを推奨される。しかし、この方法では新しいライブラリをインストールする際に問題が発生しやすく、共通のディレクトリにあまりにも多くのライブラリが置かれることとなって管理を難しくする。Windowsではレジストリを使ってCOMコンポーネントやActiveX DLLの場所を決めているが、標準DLLでは、
で示されるディレクトリを探す(古いバージョンではカレントディレクトリが2番目だった)。OPENSTEPはもっと柔軟なシステムを使用していて、ライブラリの探索リストを保持している。しかし不正なDLLが探索の上位に置かれていると実行ファイルは不正動作する可能性がある。Windowsではこれが「DLL地獄」(英: DLL hell)と呼ばれ、よく知られている問題である。
Windows XPからはSide-by-Sideアセンブリ(DLL署名、WinSxS)というメカニズムが追加された。これは動的リンク時にライブラリのファイル名ではなく、ライブラリにつけられた署名によってリンクすべきライブラリを決定するものである。これにより、同じファイル名を持つが異なる実装を持つライブラリを同時に使い分ける事ができる。よくあるパターンとして、ソースコードから改変・ビルドされたランタイムライブラリをシステムにインストールする場合にこのメカニズムが有効に働く。システムにインストールされたライブラリはライブラリ探索リスト上比較的上位に存在するが、署名が一致するプログラムにのみロードされるのでDLL地獄は今後解消されるであろうと考えられる。しかし、この機構には一つの弱点がある。それはシステムライブラリをオーバーライドして独自機能を実装する時、この機構は役に立たない方向へ働く。その様な実装をする時には、故意にマニフェスト機能を無効にしてライブラリを作らなくてはならない。もっとも、そのようなアプローチは、システムファイル保護機能が搭載されたWindows 2000のリリース時点で時代遅れであり、Windows Vistaに至っては管理者と言えどもシステムライブラリを書き換える事は出来なくなっている。
動的ライブラリの起源は定かではないが、少なくとも1960年代後半のMTS (Michigan Terminal System) まで遡ることができる ("A History of MTS", Information Technology Digest, Vol. 5, No. 5)。
動的読み込み (英: dynamic loading) は動的リンクの下位カテゴリであり、ビルド時にリンク(暗黙的リンク、英: implicit linking)されたもの以外のダイナミックリンクライブラリを、実行中のプログラムが明示的にロードすることである。明示的リンク (英: explicit linking) と呼ばれることもある。この場合、ライブラリはプラグインモジュールとして使われるのが一般的で、表計算プログラムのadd-inや特定機能を実現するインタプリタなどが典型的である。
動的ライブラリをサポートしているシステムは、モジュールの動的読み込みAPIもサポートしているのが一般的である。例えばWindowsではLoadLibrary()とGetProcAddress()が用意されていて、Unix系システムではdlopen()とdlsym()が用意されている。いくつかの開発環境ではこの処理を自動化している。逆に、不要になったモジュールを解放(アンロード)するAPI(FreeLibrary()やdlclose())も用意されている。これらのAPIは、特にユーザーによる機能拡張を可能とするプラグインシステムをアプリケーション内に実装することにも役立つ。
.NET Frameworkでは、ライブラリのアセンブリは必要となったタイミングで動的かつ自動的にロードされる遅延読み込みが基本であるが、アセンブリの明示的なアンロードはできない。P/Invokeも同様である。.NET 4以降ではプラグインシステムの実装を容易にするManaged Extensibility Framework(英語版)がサポートされるようになった。
もうひとつのライブラリの形態として完全に分離された実行ファイルを遠隔手続き呼出し (RPC) と呼ばれる方法で接続するものがある。このアプローチではOSの再利用が最大に生かされる。つまり、ライブラリサポートのためのコードはアプリケーションサポートのコードやセキュリティサポートのコードと共通化できる。さらに、このライブラリはネットワークを経由した別のマシン上に存在しても構わない。
欠点はライブラリコールの度に無視できないオーバーヘッドが発生することである。RPCは非常にコストがかかり、可能な限り排除されてきた。しかし、このアプローチは特定分野で一般化しつつある。特にクライアントサーバシステムやEnterprise JavaBeansのようなアプリケーションサーバで一般的である。
動的か静的かとは別に、ライブラリはプログラム間で共有される方式でも分類される。動的ライブラリは何らかの共有をサポートしており、複数のプログラムが同時に同じライブラリを使用することができる。静的ライブラリは各プログラムにリンクされるため、共有することはできない。
共有ライブラリ(英: shared library)はやや曖昧な用語であり、ふたつの概念を含む。第一はディスク上のコードを複数の無関係なプログラムが共有することを意味する。第二の概念はメモリ上のコードの共有であり、ライブラリのロードされた物理メモリページが複数のプロセスのアドレス空間にマップされ、同時にアクセスされることを意味する。一般に後者を共有ライブラリと称するのが推奨され、この方式には様々な利点がある。例えばOPENSTEPでは、アプリケーションの多くは数百Kバイトで即座にロード可能であり、その機能の大部分はライブラリ上に実装されていて、共有可能であるためにOSが別のプログラム用にメモリにロードしたコードイメージがそのまま使用できる。しかし、マルチタスク環境で共有されるコードは特別な配慮が必要であり、そのために性能が若干低下する。
メモリ上の共有ライブラリはUNIXでは位置独立コード (PIC) を使って実現される。これは柔軟なアーキテクチャだが複雑であり、Windowsなどでは使われていない。Windowsなどは、DLL毎にマップすべきアドレスを事前に決めておくなどしてメモリ上で共有可能にしている。WindowsのDLLはUNIXから見れば共有ライブラリではない。(訳注:UNIXでもライブラリのマップすべきアドレスを決めている場合がある。ただしそれは性能向上目的であり、基本的にはPIC化されている。)
最近のOSでは共有ライブラリは通常の実行ファイルと同じ形式になっている。これにはふたつの利点がある。第一はひとつのローダで両方をロードできる。それによってローダが若干複雑化するが、十分コストに見合う程度である。第二はシンボルテーブルさえあれば実行ファイルを共有ライブラリとして使うことができる点である。このようなファイル形式として、ELF (UNIX) と PE (Windows) がある。また、Windowsではフォントなどのリソースも同じファイル形式になっている。OPENSTEPでもほとんど全てのシステムリソースが同じファイル形式になっている。
DLLという用語はWindowsやOS/2で主に使われる。UNIXでは「共有ライブラリ」が一般的である。
マルチスレッド環境下でライブラリを使用するにあたっては、別の共有問題が発生する。ライブラリルーチンがデータ領域としてスタックのみを使う場合は問題ないが、ライブラリ内のデータ領域を使う場合、そのデータ領域がスレッド毎に用意されていないことが多い。したがって、そのようなライブラリルーチンを使う場合、実行ファイル側で同時に複数のスレッドが同じライブラリルーチンを使わないように注意しなければならないことがある。
1980年代終盤に開発された動的リンクは1990年代初期にはほとんどのOSで使用可能となった。ほぼ同時期にオブジェクト指向プログラミング (OOP) が市場に出回り始めた。OOPは従来のライブラリが提供していなかった情報を必要とした。それは、あるオブジェクトが依存しているオブジェクトのリストである。これはOOPの継承という機能の副作用であり、あるメソッドの完全な定義は複数の場所に分散して配置される可能性がある。これは単純化すればライブラリ間の依存関係ということになるが、真のOOPシステムではコンパイル時には依存関係が明らかでなく、そのために様々な解決方法が登場した。
同じころ、多層構造のシステムの考え方も出てきた。デスクトップコンピュータ上の表示プログラムが汎用コンピュータ(汎用機)やミニコンピュータの記憶装置や演算機能を利用するものである。例えばGUIベースのコンピュータがミニコンピュータにメッセージを送り、表示すべき膨大なデータの一部を得るというものが考えられた。RPCは既に使われていたが、それは標準化されていなかった。
主要な汎用機およびミニコンメーカーがこれら二つの問題に関してプロジェクトを結成し、どこでも使えるOOPライブラリ形式を開発した。このようなシステムをオブジェクト・ライブラリ(英: object library)と呼んだり、リモートアクセスが可能ならば分散オブジェクト(英: distributed objects)と呼ぶ。マイクロソフトのCOMは分散機能のないオブジェクトライブラリであり、DCOMはリモートアクセスを可能としたバージョンである。
一時期、オブジェクトライブラリはプログラミングの世界の「次の大きな出来事」とされた。様々なシステムが開発され競争も激化した。例をあげると、IBMのSOM/DSOM、サン・マイクロシステムズのDOE、NeXTのPDO、DECの ObjectBroker、マイクロソフトのComponent Object Model (COM/DCOM)、そして様々なCORBAベースのシステムがある。
結局、OOPライブラリは次の大きな出来事ではなかった。マイクロソフトのCOMとNeXT(現在はApple)のPDO以外は、ほとんど使われることも無くなったのである。
Javaではオブジェクトライブラリとして主にJARが使われている。その中には(圧縮された)クラスのバイトコード形式が格納されていて、Java仮想マシンや特殊なクラスローダーがそれをロードする。
ライブラリのファイル名は常に接頭辞libで始まり、拡張子として.a(静的ライブラリ)あるいは.so(ダイナミックリンクライブラリ)が使用される。オプションとして多重拡張子によるインタフェース番号が付与される場合がある。例えば、libfoo.so.2はlibfooライブラリの二番目のメジャーなインタフェース番号の付いたダイナミックリンクライブラリである。古いUNIXではマイナー番号も使っている場合がある (libfoo.so.1.2) が、最近のUNIXではメジャー番号しか使っていない。ライブラリのうち、共有ライブラリは/lib、/usr/lib、/usr/local/libなどのディレクトリに置かれる。動的にロードされたライブラリは/usr/libexecなどのディレクトリに置かれる。ライブラリのディレクトリにある .la ファイルは libtool(英語版) アーカイブである。
ライブラリの命名規則はBSDを踏襲していて、動的ライブラリの拡張子には.dylibが使われるが、代わりに.soを使うこともできる。しかし、多くの動的ライブラリは「バンドル(英: bundles)」と呼ばれる特別な場所(パッケージ)に置かれ、ライブラリに関連するファイルやメタデータもそこに置かれる。例えば、"My Neat Library" というライブラリは "My Neat Library.framework" というバンドルに実装される。
Windowsではライブラリのファイル名に対する厳格な命名規則はないが、いくつかの拡張子が用意されている。C言語/C++では.libという拡張子を持つファイルがビルド時にリンカによって使用されるが、これには2つの種類がある。ひとつは静的ライブラリで、もうひとつはDLLのインポートライブラリである。ダイナミックリンクライブラリには通例.dllという拡張子が付けられる。インタフェースのリビジョンはファイル内にリソースとして書きこまれるか、COMインタフェースを使って抽象化される。また、.NET Frameworkのアセンブリについては、内部のマニフェストに記述される。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA
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エミュレータ (コンピュータ)
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エミュレータ(英: Emulator)とは、コンピューターを含む機械装置の動作・機能を模倣する事をエミュレート(動詞)またはエミュレーション(名詞)といい、エミュレート/エミュレーションする装置、あるいはソフトウェアのことをエミュレーターという。本項では、コンピュータに関連したエミュレータについて解説する。
エミュレータとは、所定のコンピュータや機械装置の全機能を模倣する機構のことである。特に実機が存在するもの、ないし実機の内部ロジックそのものを再現するもの、を指すことが多く、仮想化技術(仮想機械#システム仮想機械)のひとつでもある。一方、Java仮想マシンなどの仮想機械(仮想機械#プロセス仮想機械)は、原理的にはエミュレータと同様のものだが、模倣対象の実機が存在しないため、エミュレータとしないこともある。
エミュレータの需要の背景には、既に摩滅して、市場で入手困難になったハードウェアの代用品として、あるいはまだ存在していない製品の代用や、クロス開発の実行環境として、開発段階で汎用性のある現用のパソコンを流用しようというものがある。これらは、所定の環境で動作するソフトウェアを、ハードウェアやオペレーティングシステムが異なる環境でも動作させることを目的とする。
コンピュータ上で動作するエミュレータの多くは、ソフトウェアによる実装が多い。ハードウェアでエミュレートするものもあり、産業用に広く使われている。
ICE (In-Circuit Emulator) やROMエミュレータ等はハードウェアによって実装されたエミュレータである。プログラマブルロジックデバイスに他の集積回路と同等のものを実装したものも一種のハードウェアによるエミュレータである。
エミュレータは、対象となるハードウェア仕様を模倣して動作する。それを利用するソフトウェアやハードウェアに対しては、適切なインターフェースを提供する。提供されるインターフェイスは、製品として存在しない仕様のものであったり、エミュレーションを念頭において製造された仕様であったりする。
主な用途としては、
などがある。
商用で最初のコンピュータのエミュレータは、1958年のIBM 709に搭載された。またマイクロプログラム方式のCPUは複数の命令セットのサポートを容易とした。
一般にエミュレータは、タイミングの制約は考慮しないものが多い。例えば、Z80のエミュレータの動作速度は、実物のZ80の実行速度で動くとは限らない。1命令を実行するために必要なクロック数を考慮しないことも多い。ただし、リアルタイムの処理系を正確に再現する場合は、当然ながら配慮される。
ほとんどのエミュレータは、環境の違いを吸収するための、なんらかのトランスレーションを行いつつ実行される。従って、実行時のオーバーヘッドは避けられない。そのため実行環境は、エミュレーション対象よりも高速な処理能力が必要である。しかし、古いスペックのハードウェアを、十分に高速なハードウェアでエミュレーションした場合は、実機よりも高速に稼働してしまう場合もある。
メインフレーム・汎用機において、PCやUnixサーバ向けCPUを使ったエミュレータによって構成されているモデルがある。特別なハードウェアを搭載する必要がなく、ダウンサイジングを目的としたタイプに多い。これは、激化したPCやUnixサーバ向けCPUの性能競争の結果、メインフレーム/汎用機などに使われるCPUを、ソフトウェアでエミュレーションした方が速くなってしまったためである。
現代のPC向けCPUもまた、RISCプロセッサで作ったCISCプロセッサエミュレータである場合が多い。
原理的にはコンピュータのエミュレータの一種だが、家庭用ゲーム機や業務用ゲーム機をエミュレーションするソフトウェアで、ほとんどはゲーム機メーカーとは関係のない個人や団体が作成した非公認のものである。
さまざまなゲーム機のエミュレーターが存在し、実行環境の多くはパソコン用だが、家庭用ゲーム機上に実装されたもの(バーチャルコンソール等)も存在する。市販ソフトウェアを対象とする場合、著作権と絡んで難しい問題を含む。
原則として、ゲームエミュレータ本体に関しては、実物の動作をリバースエンジニアリングして開発する限りは違法性はないとされる。ただし、ハードウェアベンダから提供される、ハードウェア情報やソフトウェア開発キットなど、ベンダとの守秘義務契約に該当する情報を流用した場合は、守秘義務契約を違反した開発者に対して違法性を問われることになる。
パソコン上で実行する場合、ゲームソフトの実行に特化したハードウェアであるゲーム機の動作を汎用ハードウェアのパソコン上で再現するには多くの問題があるため、実機と同等の速度で動作させるためには元のゲーム機より遙かに高い処理能力が必要である。特に、複数のCPUを搭載しているセガサターンや特殊フォーマットのCDであるGD-ROMを採用したドリームキャストや現行のゲーム機よりCPU性能が劣っていてもロムカートリッジ内にCPUが搭載されているカセットビジョンなど、特殊な仕様になっているゲーム機のエミュレータは開発が困難である。実用レベルで動作させることができる性能を持つパソコンであっても、エミュレータの再現度によって、挙動が異なる場合がままある。これは、エミュレータ自身の実装の問題のように改善が可能なものもあれば、音声など、実機のアナログ(アンプ)回路の設計・実装や個体差に依存する問題のように、対応が困難なものもある。
家庭用ゲーム機などパソコン以外のハードウェア用のエミュレータも存在し、セガのドリームキャスト上でソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationのソフトを動作させるものや、ソニー・コンピュータエンタテインメントのPSPで任天堂のファミコンを動作させるものなどがある。こういった家庭用ゲーム機を実行環境とする非公認エミュレータはゲーム機やソフトのメーカーが本来意図した使用方法とは異なるので、メーカー側がハードウェアやソフトウェアに対策を施すことでエミュレータ環境の実行を阻止する対策をとることがある。
一方、メーカーの公認・許諾を得てエミュレータおよびROMイメージを販売・提供する例もある。任天堂のWiiには、過去に発売されたゲームをダウンロードして遊べる「バーチャルコンソール」というサービスがある(この場合は、Wii本体がゲームエミュレータとなる)。
また、PlayStation 3やPCでPlayStationとPCエンジンのゲームをダウンロードしてPS3およびPSP上で動かす「ゲームアーカイブス」や、かつて販売されたテレビゲームやパソコンゲームをWindows上でエミュレートさせて動作可能な状態に復刻しダウンロード販売を行う「プロジェクトEGG」などのサービスも提供されている。
ゲームエミュレータは、いわばゲーム機本体であるといえる。従ってゲームソフトを別に用意する必要がある。ゲームソフトといっても、デジタルデータであり、これが俗称でROMイメージなどと呼ばれる。エミュレータは、このROMイメージの内容をロードして再生することで、初めて動作する。CD-ROMやDVD-ROMといった汎用メディアを採用したソフトウェアである場合は、直接ロード可能な場合もあるが、それ以外の場合は実物のゲームソフトからコピーしてパソコン上にROMイメージを作り出す必要がある。
業務用ゲーム機などの場合、基板から外したROMのIC単体でROMリーダ/ライタを使って読み出す。家庭用ゲーム機と供給方式が似ている場合も、同様の手段でデータを読み出す。
一般的なパソコンで利用できないメディアを採用したソフトウェアのROMイメージを作り出す場合には、作り出したいROMイメージのソフトと、パソコンがROMイメージを読み込めるようにする機器が必要である。メディアをパソコン上で読み込めるようにする手法と、パソコンへ転送する機器を用いて実機上でメディアを読み出す手法がある。この2つは違法性がないとされている手法だが、さすがに必要な機器は堂々とは売られておらず、インターネット通販や、アンダーグラウンドな製品を扱っている店舗(秋葉原や日本橋に多く、機器は全て輸入品)で販売されるのが一般的である。
このような吸い出し行為は昔はOKだったが、2012年の著作権法の改正により、私的複製に於ても技術的保護手段(いわゆるコピープロテクト)を解除することは違法になった。ただしこの改正自体は主にDVDやブルーレイディスクの映像ソフトのコピーを念頭に置いたものであり、ゲームソフトに関しては明確な見解は出されていない。コピープロテクトのかかっていないソフトの私的複製は依然として合法である。
詳しくは後述するが、こうしてコピーされたゲームデータのイメージがインターネット上で違法に配布されているという事例は後を絶たず、著作権者や管理団体の頭痛のタネとなっている。
ゲームエミュレータの種類によっては、ハードウェア環境固有の基本プログラムのデータである「BIOS」、が必要な場合がある。これはROMとして実装されているのが普通で、前述のROMイメージと同様にゲーム機の本体から抽出してコピーするため、公衆に頒布することは著作権法違反となる。しかし、ウェブサイトやファイル共有ソフトを用いて違法に頒布する例は、ROMイメージ同様に後を絶たない。
自力でゲーム機の本体からBIOSをコピーする場合には、ROMイメージと同様に専用の機器と専用のソフトウェアが必要になる。これらもROMイメージコピー用の機器と同じく、アンダーグラウンドな製品を扱う店舗やインターネットでの通販という販売形態がほとんどである。
ただし、オリジナルの挙動から、互換性のあるコードを生成、再実装した互換BIOSや、シャープのX68000については、メーカーが公式にBIOSの配布を許諾しており、これを用いる場合にはその限りではない。
ゲームエミュレータにおけるこうした問題で一番重要とされているものは、ROMやBIOSイメージの入手方法である。現存しているROMやBIOSデータは「ほとんどがインターネット上へのアップロードやCD-R等の記憶媒体経由で第三者に譲渡・頒布されたものであって明らかに違法なものである」と考えられているため、著作権者および関連団体はこれを問題視している。
ゲームエミュレータが持つ役割は、入手が困難な古いゲームソフトをプレーするという面が強かったが、最新のゲーム機のエミュレータも多い。コピーしたソフトが実機を必要としない為、最新のゲームソフトが発売日前に流出するという事態も珍しいことではなくなった。これは、コンピュータの高性能化やインターネットの高速化、改造をゲーム機本体に直接加える事などにより引き起こされた問題である。
日本においては、譲渡・頒布など、提供する側を罰する法律はあり、時折検挙者も見られる。しかし、受け取る側に関しては、著作権法は親告罪であることから、ダウンロードの利用に関しては、拡大解釈してグレーゾーンあるいは合法と吹聴する者もいるが、あまりに悪質な場合は警察が独自に捜査を行う場合もあるため、明らかに誤った認識である。また、違法ダウンロードの刑事罰化が施行済みである。
自分の持っているソフトウェアならば、ダウンロードは法律で認められている、などと記述するサイトもあるが、理論上はアップロードされているデータは他人が複製したものであり、自身が複製した物ではない。このため、たとえ電子的には同じ情報であっても、著作権法の私的複製には該当せず、法的には全く根拠はない。
また、家庭内での私的利用の範疇における複製は著作権法で認められているので、これに基づいた考え方の「自分が所有しているソフトウエアやハードウエアから直接の複製を行う場合は合法である」という考えは一般的である。ただしコピープロテクトを破って複製するなど、著作権法(99年改正など)の「技術的保護手段(の回避)」に関する項に触れる場合は違法である。現在不正競争防止法の見直しが検討中である。
加えて、契約でコピーを禁止していれば、そのソフトをコピーすることは原則禁止となる。これに違反してソフトウェアを無理やりコピーすれば、契約不履行である。それでも、本来ならば利用することができなくなったそのソフトを無理に使用したら、前述のように、契約の問題で販売元は法的手段に訴えることが可能であり、訴えられる可能性がある。
また「ゲームソフトのデータを配布するサイトを具体的に紹介するサイト」というのも、法的には極めて黒に近いグレーゾーンである。ゲームソフトを配布しているサイトを不特定多数に紹介することで違法行為を教唆していると解釈することも可能である。
こうした情報を目の当たりにして違法性を認識しつつ使用した場合、著作権侵害となり刑事罰などが科せられるというのが著作権法上の解釈である。
各社から公開されているオンラインゲームに関して、そのゲームサーバをエミュレートするソフトが存在している。サービスのエミュレータではあっても、厳密に言えばオリジナルの実装を完全に再現しない限り、サーバーサービスとプロトコルのシミュレータである。しかし便宜上エミュレータと呼ばれることがほとんどである。また、そのようなソフトウェアで公開されているサーバを、元の開発元の「公式サーバ」と区別して「エミュレータサーバ」「エミュサーバ」などと呼ぶ。
エミュレータと名乗る中には、正当でない手段で入手した、正規のサーバソフトウェアを全部あるいは一部使用している場合もある。実際に、ラグナロクオンラインは、サーバプログラムが台湾で流出している。この場合は単なるデッドコピーであり、異なるものの、エミュレータと呼ぶこともある。エミュレータと詐称することには、違法性の認識を矮小化する意図が含まれる。
グラフィックなどのデータの大半は、クライアントソフトに依存しているため、外観については、エミュレータサーバであっても、ほぼ同一である。しかし、エミュレーションの実装度合いや再現度によって 公式サーバでは公開されているマップに進入できなかったり、アイテムの入手確率や敵の強さが違うなどといった相違点も多い。
有名なものでは、外国産のウルティマオンラインを始め、ラグナロクオンラインやリネージュ2など、さまざまなゲームのエミュレーターサーバがある。非公認であるため、サーバを公開しているのは、個人がほとんどである。また、ほとんどが公式サーバとは違い、無料で接続できるのがひとつの特徴である。無料で開放されている一つの理由としては、存在そのものが著作権や商標に抵触している可能性が濃厚で、その上に料金を取れば営業妨害で訴えられる可能性が高く、そこからサーバ開設者の特定(そして逮捕など)が容易になるからである。事実、海外では料金こそ取っていなかったが、「エミュレーターサーバの運営者が、公式サイトのクライアントソフトに直接リンクしてダウンロードさせていたため、クライアントソフトの提供に多額のコスト被害が発生した」として逮捕されたケースもある。
一方でエミュレーターサーバに接続するユーザーは、逮捕されたり起訴されたといった話はまずないが、サーバに接続するためにクライアントソフトの改造を必要とする場合がある。それを直接罰する法律はないが、ほとんどの場合、クライアントソフトの改変やサーバエミュレータの利用は、クライアントソフトウェアの利用規約に対して違反している。
※ゲームエミュレータ
注意:基本的には合法であるこちらの非公認エミュレータも、使用法によっては著作権法を侵害する可能性がある。
ファミリーコンピュータ
スーパーファミコン
NINTENDO64
ニンテンドーゲームキューブ
Wii
Wii U
Nintendo Switch
ゲームボーイ
ゲームボーイアドバンス
ニンテンドーDS
ニンテンドー3DS
PlayStation
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PlayStation 3
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PlayStation Portable
PlayStation Vita
マスターシステム
PCエンジン
メガドライブ
セガサターン
ドリームキャスト
ビジュアルメモリ
ゲームギア
ネオジオ
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ノイマン型
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ノイマン型(ノイマンがた、英: von Neumann architecture)、またはフォンノイマン型アーキテクチャは、コンピュータの基本的な構成法のひとつである。今では基本的なコンピュータ・アーキテクチャのひとつとされるが、そもそもコンピュータの要件とされることもあり、このあたりの定義は循環的である。名前の由来はジョン・フォン・ノイマン。
プログラム内蔵方式のディジタルコンピュータで、CPUとアドレス付けされた記憶装置とそれらをつなぐバスを要素に構成され、命令(プログラム)とデータを区別せず記憶装置に記憶する。
中心となるプロセッサは、今では一つの部品としてまとめて考えることが多いが、オリジナルの報告書では制御装置となっている。ノイマンの草稿がその保護に入らず、多くの人がノイマンを発明者だとみなしたことは不公平な結果だったとし、ノイマンの参加以前に本質的な先進があったとしながらも、「数値データと命令を同じ記憶装置の中に置くのは不自然である」「そのために必要な遅延記憶装置は信頼性に欠ける」といった新規技術への疑念に対し「物理学者として、また数学者(計算理論)として、ノイマンが計算機の潜在能力を見抜き、信望と影響力を行使したことはマタイ効果として重要だった」とも述べている。
チューリングマシンを、可能な範囲で実現・具体化(実装)するもので、記憶装置を仮に、必要であれば必要なだけ無制限に追加できるものとすれば、計算模型として(「ノイマンマシン」と呼ばれることがある)見た場合チューリング完全とみなせることになる。また、二進法の採用も、要件に含めることがある(二進法と、二進法の基本的な演算(論理演算)の組み合わせで、あらゆるディジタル処理が可能である)。ノイマン型コンピュータを計算模型として定義したものとしてRAMマシン(ランダムアクセスマシン)がある。
また、ノイマンの思考はチューリングマシンを通してのものではなく、ゲーデル数からの直接のものではないだろうか、とする論者もいる(ノイマンは不完全性定理とも深くかかわっている)。
プログラムのチューリング完全性は、命令の書き換えをしなくても、インタプリタの原理により可能とわかったり、また一般に自己書き換えコードは特殊な技法とされるため、システムソフトウェアを除いて、特に一般ユーザの通常のプログラミングでは、命令とデータは区別するのが一般的である。特に近年ではマルウェア対策として、命令を置いたメモリは書き換え禁止に設定されることがある。また、組み込みシステムなどの専用コンピュータなどで、プログラムを入れ替える必要がないなど、命令とデータを区別するハーバード・アーキテクチャもある。しかし、汎用コンピュータにおけるプログラムの入れ換えなどは、ノイマン型に依っており、システムソフトウェアや性能のため(インタプリタは遅い)などで、依然として重要な原理であることに変わりない。
また性能の点では、バスが細いとそれがボトルネックになってコンピュータ全体の性能がそれで決まってしまう。これをフォン・ノイマン・ボトルネックと言う。
EDVACの開発は遅れ、世界初のプログラム内蔵方式の全電子式コンピュータはSSEM、同じく実用的な実現はEDSACとなった。これらのマシンは「報告書」に影響されたものとされる。EDVACの遅れは、エッカートとモークリーの離脱が大きな理由とされており、離脱の理由は諸説ある。ともあれ、「ノイマンの法則『いつ聞かれても完成は半年後』」などと言われながら、1949年8月に大学から軍の施設に運ばれ、1951年に稼動をはじめた。
ノイマンの草稿の構成に近いマシンとして、EDVACの他に、IASマシンがある。
池田敏雄が1965年にコンピュータについてまとめた報告では、電子計算機の最も基本的な概念はフォン・ノイマンによって確立されたプログラム内蔵方式で、(主)記憶装置にアドレスを付け命令をそれに記憶しシーケンシャルに取り出して実行すること、としている。またノイマンは「コンピュータはすべからく2進法たるべきである」と言っている、としている(この点については十進演算を併用すべき場合とのバランス感覚が必要と、少々辛い見解を池田敏雄は示している)。
21世紀初頭におけるコンピュータのほとんどはノイマン型である。これに対しデータフローマシンなどは非ノイマン型と呼ばれる。この場合の「ノイマン型」とは、次に実行すべき命令が記憶装置に順番に並んでおり(ジャンプ命令等の直後の命令など例外以外は)それをバスを通して記憶装置から順番に次々と取り出してくる、というモデルのことを指している。データフローマシンには、何らかの方法で「必要なデータが揃っているので、今から実行できる命令」を決定できる仕掛けがある(そういった意味ではアウト・オブ・オーダー実行などは部分的に非ノイマン的であるといえる)。普通のハーバード・アーキテクチャなどを非ノイマン型とすることはまずない。さらに、再構成可能コンピューティング、光コンピューティング、量子コンピュータ、ニューロコンピュータ、DNAコンピュータ等のより先進的な、新しい型の計算の実現法を意図して使われていると思われることもあり、「非ノイマン」という語だけでは具体的に何を意図しているかを推し量ることは不可能である。
データフロープロセッサの一例としては、NECのμPD7281(1984年、ImPP:Image Pipelined Processor)がある。画像処理などへの応用を意図されており、非ノイマン型として言及がある。後に、μPD7281を通常のメモリに接続するためのLSIとしてμPD9305が製品化されている。
また、次のような要素なども、ノイマン型には含まないが、ノイマン型のモディファイの範囲内とみなし、ふつうノイマン型でないとはしない。
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集積回路
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集積回路(しゅうせきかいろ、英: integrated circuit, IC)は、半導体の表面に、微細かつ複雑な電子回路を形成した上で封入した電子部品である。
製造においては、フォトリソグラフィという光学技術を利用することにより、微細な素子や配線をひとつずつ組み立てることなく大量に生産できるため、現在のコンピュータやデジタル機器を支える主要な技術の一つとなっている。
20世紀中頃に、トランジスタの発明に次いで考案されて以降、製造技術の進歩により急速に微細化し、性能が向上してきた。
集積回路とは、シリコン単結晶などに代表される「半導体チップ」の表面に、不純物を拡散させることによって、トランジスタ・コンデンサ・抵抗器として動作する構造を形成したり、アルミ蒸着とエッチングによって配線を形成したりすることにより、複雑な機能を果たす電子回路が作り込まれている電子部品である。
多くの場合、複数の端子を持つ比較的小型のパッケージに封入され、内部で端子からチップに配線されモールドされた状態で、部品・製品となっている。
実際に集積回路を考案したのは、レーダー科学者ジェフリー・ダマー(1909年生まれ)であった。彼はイギリス国防省の王立レーダー施設で働き、1952年5月7日ワシントンD.C.でそのアイデアを公表した。しかし、ダマーは1956年、そのような回路を作ることに失敗した。各企業は集積回路の実現を目指して、RCAのマイクロモジュール、ウェスティングハウス・エレクトリックのモレキュラーエレクトロニクス、テキサス・インスツルメンツのソリッドステートサーキットが開発された。
初期の集積回路の概念は、モノリシックICというより後のハイブリッドICに近いもので、この概念にしたがって、基板に真空蒸着で抵抗素子やコンデンサを形成してトランジスタと組み合わせる薄膜集積回路や、現在のプリンテッドエレクトロニクスに相当する印刷技術により抵抗や配線、コンデンサなどを1枚のセラミック基板上に集積した厚膜集積回路が開発されていった。
また、1958年にはウェスティングハウスから「Molectronics」という名称の集積回路の概念が発表され、1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて、電気試験所でも同年12月に、見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえる、ゲルマニウムのペレット3個を約1cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。
1961年2月には、ウェスティングハウスと技術提携した三菱電機から、11種類のモレクトロンが発表された。日本で最初のモノリシック集積回路は、東京大学と日本電気 (NEC) の共同開発とされる。
著名な集積回路の特許は、アメリカ合衆国の別々の2つの企業の、2人の研究者による異なった発明にそれぞれ発行された。テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーの特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった (アメリカ合衆国特許第 3,138,743号)。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった(アメリカ合衆国特許第 2,981,877号)。しかし、「キルビー特許紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった。
技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許として有効であるか」を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。
ライセンスビジネス的には、1966年にテキサス・インスツルメンツとフェアチャイルドセミコンダクターを含む十数社のエレクトロニクス企業が、集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで、莫大な額の請求等を伴う紛争となり「サブマリン特許制度」のタチの悪さを際立たせるという役割を担う結果となった。
キルビーとノイスは後に、ともにアメリカ国家技術賞を受け、全米発明家殿堂入りをした。
SSI, MSI, LSI というのは、集積する素子の数によってICを分類定義したものである。「MSI IC」のようにも言うものであるが、今日ではほぼ使われない。比較的小規模のものを単にIC、比較的大規模のものを単にLSIとしているが、現在ではICとLSIを同義語として使うことも多い。
初期の集積回路はごくわずかなトランジスタを集積したものであった。これをSSI (Small Scale Integration) とするのであるが、後にMSI (Middle Scale Integration) やLSI (Large Scale Integration) という語と同時に作られたと思われる、おそらくレトロニムであろう。航空宇宙分野のプロジェクトで珍重され、それによって発展した。ミニットマンミサイルとアポロ計画は慣性航法用計算機として軽量のデジタルコンピュータを必要としていた。アポロ誘導コンピュータは集積回路技術を進化させるのに寄与し、ミニットマンミサイルは量産化技術の向上に寄与した。これらの計画が1960年から1963年まで生産されたICをほぼ全て買い取った。これにより製造技術が向上したために製品価格が40分の1になり、それ以外の需要が生まれてくることになった。
民生品として大量のICの需要を発生させたのは電卓だった。コンピュータ(メインフレーム)でのICの採用は、System/360では単体のトランジスタをモジュールに集積したハイブリッド集積回路(IBMはSLTと呼んだ)にとどまり、モノリシック集積回路の採用はSystem/370からであった。
1960年代に最初の製品があらわれた汎用ロジックICは、やがて多品種が大量に作られるようになり、コンピュータのようにそれらを大量に使用する製品や、あるいは家電など大量生産される機器にも使われるようになっていった。1970年代にはマイクロプロセッサが現れた。
集積度の高いMSIやLSIが普通に生産されるようになると、そのうちそのような分類も曖昧になって、マイクロプロセッサなど比較的複雑なものをLSI、汎用ロジックICなど比較的単純なものをIC、と大雑把に呼び分ける程度の分類となった。
もとの分類ではLSIに全て入るわけだが、1980年代に開発され始めたより大規模な集積回路をVLSI (Very Large Scale Integration) とするようになった。これにより、これまでの多数のICで作られていたコンピュータに匹敵する規模のマイクロプロセッサが製作されるようになった。1986年、最初の1MbitRAMが登場した。これは100万トランジスタを集積したものである。1993年の最初のPentiumには約310万個のトランジスタが集積されている。また、設計のルール化はそれ以前と比較して設計を容易にした。
また、カーバー・ミードとリン・コンウェイの『超LSIシステム入門』によりVLSIにマッチした設計手法が提案された。これはMead & Conway revolution(en:Mead & Conway revolution)と呼ばれることもあるなどの影響をもたらした。たとえば、1950年代には、大学で最先端のコンピュータを実際に建造するなどといったこともさかんだったわけであるが、1970年頃以降にはコストの点で現実的ではなくなっていた。それが、CAD等の助けによりパターンを設計してチップ化する、という手法で、大学などでも最先端の実際の研究がまた可能になった、といった変化を齎したのが一例である。たとえば初期のRISCとして、IBM 801、バークレイRISC(SPARCへの影響が大きい)、スタンフォード系のMIPSがまず挙がるが、後者2つにはその影響がある。
VLSIに続いて、新たに ULSI (Ultra-Large Scale Integration) という語も作られ、集積される素子数が100万以上とも1000万以上ともされているが、そのような集積度の集積回路も、今日普通はVLSIとしている。
WSI (Wafer-Scale Integration) は、複数のコンピュータ・システム等の全体をウェハー上に作り込み、個別のダイに切り離さずにウェハーの大きさのままで使用するという構想である。現状では、1品もので、コストが非常に高額であっても良いというような特殊な用途・特殊な要求に基づき生産するような装置で採用されている。たとえば、人工衛星や天体観測望遠鏡の光学受像素子では、つなぎ合わせて作ると歪みや隙間が生ずるので、1枚のウェハーの全面を使用した物が作られている。
System-on-a-chip (SoC) は、従来別々のダイで構成されていたものを統合することで、独立して動作するシステム全体をひとつの集積回路上に実現するものである。例えば、マイクロプロセッサとメモリ、周辺機器インターフェースなどを1つのチップに集積するものである。
集積回路技術の進歩の一例であるが、以前は撮像管などと呼ばれる真空管だった、映像を撮影する撮像素子も、電荷結合素子 (CCD) の技術開発が進み、固体撮像素子としてCCDイメージセンサが作られ、家庭用ビデオカメラの大幅な小型化などにまず貢献した。続いてCMOSイメージセンサも作られた。やがて静止写真用にも十分な解像度を持つようになり、デジタルカメラが銀塩カメラを一掃した。
このシステムは、単結晶硅素の無機の整列アレイを含む無機電子材料と、極薄のプラスチックやエラストマー基板を統合している。
半導体製造は、ウェハー上に回路を形成する前工程と、そこで作られたウェハーをダイに切断し、パッケージに搭載した後に最終検査を行う後工程に大きく二分される。なお、これらの工程は一般に複数の工程専門企業がそれぞれの工場で順次行っていくものである。1社ですべての工程を行うケースはほぼなく、あったとしても非常に稀である。
一般的には、設計・ウェハー製造・表面処理・回路形成・ダイシング・基材製造・ボンディングの各工程に専業企業が存在し、デザイン・ウェハー切り出し・アンダーフィリング・検査が前記から分かれて専業化している場合、加えて各工程で使用される材料・加工にも専業メーカーが存在する。一つの集積回路パッケージが出来上がるまでに関わるメーカーの数は少なくとも5、多いときには30社とも言われる。
集積回路の母材となるウェハーの原材料は、半導体の性質を持つ物質である。一般的な集積回路ではそのほとんどがシリコンであるが、高周波回路では超高速スイッチングが可能なヒ化ガリウム、低電圧で高速な回路を作りやすいゲルマニウムも利用される。
集積回路の歩留まりとコストは、ウェハーの原材料である単結晶インゴットの純度の高さと結晶欠陥の数、そして直径に大きく左右される。2007年末現在のウェハーの直径は300 mmに達する。インゴットのサイズを引き上げるには、従来の技術だけでは欠陥を低くすることが難しく、多くのメーカーが揃って壁に突き当たった時期があった。シリコン単結晶引き上げ装置のるつぼを超伝導磁石で囲みこみ、溶融したシリコンの対流を強力な磁場で止めることで欠陥の少ない単結晶が製造可能になった。
前工程は、設計者によって作られた回路のレイアウトに従ってウェハー上に集積回路を作り込む工程である。光学技術、精密加工技術、真空技術、統計工学、プラズマ工学、無人化技術、微細繊維工学、高分子化学、コンピュータ・プログラミング、環境工学など多岐にわたる技術によって構成される。
集積回路は半導体表面に各種表面処理を複数実施して製造される。まずウェハーにはイオン注入によってドープ物質を打ち込み、不純物濃度を高める措置が行われる(最初に作られるこの層がゲートなどの集積回路の中枢となる)。さらにSOIではウェハーに絶縁層を焼きこむか張り合わせることで漏れ電流を押さえ込む処置が行われる。そしてレジスト膜の塗布、ステッパーによる露光、現像処理によるレジスト処理を複数行い、その間に回路構造物の母体となるシリコンの堆積、イオン注入によるドープ物質の注入、ゲートや配線の土台となる絶縁膜の生成、金属スパッタリングによる配線、エッチングによる不要部分の除去などが行われる(フォトリソグラフィ)。集積回路の立体的な複雑さを配線層の枚数で数えることから4層メタル・6層メタル等と表現する。この表面処理技術は現在進行形であり、2014年現在ではHigh-K絶縁膜、添加物打ち込み、メタルゲート、窒化物半導体素子など新たな技術が導入されている。さらに新しい技術は、より微細化したプロセス・ルールと共に世に出ると言われている。
半導体工場の生産ラインは、それ自体が巨大なクリーンルームとなっている。生物学的クリーンルームよりも、半導体製造現場のほうが遥かに清浄度が高い。ウェハー上の1つの細菌細胞は、トランジスタ100個近くを覆い隠す。2008年の先端プロセス・ルールである45nmは、ウイルス以下の大きさである。製造中の半導体は、人間がいる環境ではどこにでもあるナトリウムに大変弱く、それが絶縁膜に浸透するため、特にCMOSトランジスタには致命的欠陥になる。
半導体工場のクリーンルーム内に導入される空気は、部屋や場所ごとに設定されたクリーン度に応じて、何度もHEPAフィルターやULPAフィルターで、空中微粒子を濾しとられたものが使われる。また水はイオン交換樹脂とフィルターによって、空気同様に水中微粒子を徹底的に除去された超純水を使用している。
大量のナトリウムを含み、皮膚から大量の角質細胞の破片を落下させ、振動をもたらすヒトは、半導体プロセスにとって害をなす以外の何物でもなく、クリーンスーツ、いわゆる“宇宙服”を着て、製造ラインを汚染しないようにしている。もっとも工場は高度に自動化されており、人間が製造ラインに出向くのは、機械の故障といったトラブルがあった時だけである。
ウェハー上への回路形成が完了したら、半導体試験装置を用いて回路が正常に機能するかを確認するウェハーテストを行う。半導体の動作特性は温度にも左右されるため、常温に加え高温や低温下での試験も行われる。
ウェハーテストの結果はダイにマーキングされ、後述する後工程では良品とマークされたダイのみが組み立て対象となる。
ダイ面積の大きい超大規模集積回路では、チップ上に一つも欠陥がない完璧な製品を作ることは非常に難しい。そこで、設計段階で予備の回路を前もって追加し、ウェハーテストで不良が検出されたときにそこを予備回路で補うことで歩留まりを上げる救済が行われる。回路の切り替えは、回路上に形成されたヒューズを、レーザーまたはウェハーテスト中に電流を流して切断することで実現している。
DRAMやフラッシュメモリでは、製品で決められた容量に加え予備のメモリ領域を用意しておき、不良箇所をテストで見つけた時点で配線のヒューズを切り予備領域に切り替えることが一般的に行われる。また、CPUでオンダイのコプロセッサや、マルチコアプロセッサの各コアなど、その内部に不良があった場合にはそれを切り離して、ラインナップ中の低グレードの製品とする、あるいは最初から全てが機能することは期待しない、といった手法もある。例えば、CellプロセッサはSynergistic Processor Element()をマスクパターンとしては8個用意しているが、ゲーム機PlayStation 3では、使用可能なSynergistic Processor Elementを7個に設定し、不良コアが一つ発生しているダイでも利用可能とした。
前工程で良品としてマーキングされた回路をウェハーから切り出し、シートに貼り付けてパッケージに搭載する。端子との配線や樹脂で封止し、最終製品の形になる。その後、初期不良をあぶり出すバーンイン試験や製品の機能を確認するファイナルテストを経て出荷される。
ダイシング工程では、前工程で製造されたウェハーをチップの形に切り離す。ダイシングには、薄い砥石を用いて切断する方法と、レーザーを用いる方法が主流である。
チップをパッケージ基板に搭載し、チップ側の端子とパッケージの端子を接続する工程はボンディングと呼ばれる。主なボンディング手法を下に示す。
ボンディングによる配線が完了したら、外部からの衝撃や水分から集積回路を保護する封止を行う。一般的な集積回路では、モールド剤でチップやボンディングワイヤーを保護するための注入成形を行う。集積回路の黒い外見はこの樹脂によるものである。樹脂が固まった後、チップ毎に切り離せば集積回路は完成する。近年のCPUやGPU、液晶ドライバICなどの超精密集積回路にはモールド剤を用いず、アンダーフィルと呼ばれる一液硬化の樹脂を用いる。ボンディングの後、基材とIC間に注入を行いキュア炉と呼ばれる装置でリフローし、硬化させる。
集積回路の故障率は一般的にバスタブカーブと呼ばれる確率分布に従う。バスタブカーブでは、使用開始直後に高い不良率を示す初期不良期間を経て、低い不良率を維持する偶発故障期間に移行する。劣化を加速する条件下で短時間集積回路を動作させることでこの初期不良をあぶり出す工程がバーンイン(burn-in、焼入れ。エイジングとも)である。バーンインであぶり出された初期不良は次の品質検査によって取り除かれる。
具体的には、高温下で一定時間集積回路に電流を流すことで劣化を加速している。これは、劣化を化学反応として捉えた場合、劣化速度と温度はアレニウスの式の関係に従うとの考え方によるものである。
最後に、集積回路が製品として正常に機能するかを確認する検査を行う。封止樹脂に欠けやひび、リードフレームやBGAパッケージのボール端子に異常が無いかを確認する外観検査、ボンディングによる電気接続が確実に行われ、チップが完全に動作するかを半導体検査装置で確認する電気検査が行われる。
EEPROMやフラッシュメモリなどの記憶素子を混載した製品では、プログラムをそれらに書き込む作業も行われる。プログラムの内容を切り替えることで、同一のマスクから異なるグレードや入出端子の異なる集積回路を作り出すことができる。またCPU等の製品で、実際に動作可能な最高速度に応じたクロック倍率を後処理で設定することで、グレードの異なる製品を同一生産ラインから製造している。
プロセス・ルールとは、集積回路をウェハーに製造するプロセス条件をいい、最小加工寸法を用いて表す。プロセス・ルールによって、回路設計での素子や配線の寸法を規定するデザイン・ルールが決まる。
通常、最小加工寸法はゲート配線の幅または間隔である。ゲート配線幅が狭くできれば、金属酸化物電界効果トランジスタ (MOSFET) のゲート長が短くなるから、ソースとドレインの間隔が短くなり、チャネル抵抗が小さくなる。したがって、トランジスタの駆動電流が大きくなり、高速動作が期待できる。このため、プロセス・ルールは、高速化を期待して、ゲート長のことを指す場合もある。特にDRAMプロセスでは、ゲート長はゲート配線の最小寸法を使わない場合があるし、拡散層とメタル層を導通させるコンタクトの径が最小加工寸法の場合もある。つまり、プロセス・ルールは、製造上の技術的な高度さや困難さを示す指標と言える。
プロセス・ルールが半分になれば、ダイの外部配線部を除けば、同じ面積に4倍のトランジスタや配線が配置できるため、同じトランジスタ数では4倍 (4分の1) の面積になる。ダイ面積が4分の1に縮小できれば1枚のウェハーから取れるダイが4倍になるだけでなく、歩留まりが改善されるためさらに多くのダイが取れる。トランジスタ素子が小さくなればMOSFETのチャネル長が短くなり、ON/OFFの閾値の電圧 (Vth) を下げられ、低電圧で高速のスイッチング動作が可能となるため、リーク電流の問題を考えなければ、消費電力を下げながら性能が向上する。
伝播遅延 τ {\displaystyle \tau } は次の式に表される関係に従う。
プロセス・ルールは、フォトマスクからウェハーに回路を転写する半導体露光装置の光学分解能や、エッチング工程の寸法変換差の改善などで更新されてきた。プロセス・ルールの将来予測は、ムーアの法則を引用されることが多い。
半導体露光装置は非常に高い工作精度が要求され、製造の大部分が人間の手作業で行われる。ウェハーを載せるスライドテーブルは、高い水平度を実現するために非常にキメの細かい砥石で職人が磨いたレールの上に乗せられる。微細パターンをウェハー上に転写する光学系には、原子単位で表面の曲率が修正されている超高精度なレンズが用いられている。
半導体露光装置メーカーは1社か2社の最先端半導体メーカーと共同で次の世代や次々世代の半導体露光装置を開発し、まずその半導体メーカーに向けて製造する。その開発によって生み出された装置を、2 - 3年程度後に最先端に続く半導体メーカーが量産のために購入する頃には最先端半導体メーカーはその先の世代の試験運用をはじめる。この循環があるために演算プロセッサのプロセスルールは、350 nm/250 nm/180 nm/130 nm/90 nm/65 nm/45 nm/32 nm/22 nm/14 nm/10 nm といった飛びとびの値になるのが普通である。最先端のプロセス・ルールは2020年時点で5nmに達していて、3 nm, 2 nmと微細化が進んで行くと予想されている。一方DRAMやフラッシュメモリのような記憶用半導体では小刻みにプロセスルールを縮小している。DRAMにおける一般的なプロセス・ルールは2007年には65nm、2008年には57 nmと縮小を行い、2013年には32 nmを想定している。これは、製品の急激な低価格化によって各メーカーが新規投資を控え、既存設備の改善によって生産性を向上させることが狙いである。ただし最先端の微細化が要求される携帯端末向けなどには、2010年時点で25nmの製品が、2020年時点で10 nmの製品が投入されている。
微細化によってプロセスルールが使われる光源の波長よりも短くなると、光の回折や干渉によってマスクの形とウェハー上に作られる像の食い違いが大きくなり、設計通りの回路が形成できなくなる。この問題を解決するため、回路設計にあらかじめこれらの光学効果を織り込んでおく光学近接効果補正が130 nm以下のルールで行われるようになった。光学近接効果補正は、EDAによる自動化が普及している。
2020年頃には、5nmに到達し、CMOSを使った微細化の限界が訪れるとの推測されており、新しい素材・構造の研究や微細化に頼らない手段による集積度の向上も模索されている。
また携帯電話の小型カメラ撮像素子ではフットプリントの都合上、非常に微細化したイメージセンサーを使う。しかし、このセンサーの画素密度は可視光波長では従来のカラーフィルタ方式がまったく役に立たなくなる。このため、メタル層で光を回折させて分光を行ったり、窒化物半導体素子を使って分光することにより、プロセスルールよりも遥かに長い可視光をフォトダイオードに導く。APS-Cサイズで2000万画素を超えるものも同様である。
歩留まりとは、ウェハーから取れる全てのダイに対する良品ダイの割合を指し、イールド・レート (yield rate) とも呼ばれる。PC用のCPUのように、同じ生産ラインで同じ製造工程を経た製品を、完成製品に後からテストによってグレード(動作周波数)を割り振ることがあるので、グレードを下げれば(低クロックでしか動作させられないCPUでも良品と見なせるため)歩留まりが上がるという結果になる。
半導体故障解析とは、極めて多くの素子の集合体である集積回路に於いて、何処が、どの様に、壊れているのかを解析する技術である。LSIテスタ(半導体試験装置)では、不良品であることは分かっても、その回路の何処に異常があるのかまでは分からない。数千万ものトランジスタが集積された回路に於いて、その一つ一つを試験していくのは現実的ではなく、また、それ以上に配線の不良などもあり得る。従って、集積回路の登場当初から、集積度の向上に伴って、故障解析技術も進歩している。
モノリシック集積回路は1片のチップに、トランジスタ、ダイオード、抵抗器などの回路素子を形成し、素子間をアルミニウムなどの蒸着によって配線した後、数mm - 十数mm角の小片に切り出したものである。組み立て工数が少ないため安価である。
シリコン(Si、珪素)単結晶基板上に平面状に構成するトランジスタ(プレーナ型トランジスタ)を発展させたものである。アナログICとデジタルICのどちらも1960年代から発展が始まっているが、1990年代には製造プロセスの進歩により高度なアナログ・デジタル混在回路も見られるようになった。
比較的小さいプリント基板に、多数の個別部品や複数のチップ(マルチチップモジュール)などを直接、高密度さらには立体的に実装・配線し、さらにモールドするなどして一体の部品としたものである。
制御回路が一体化された大電力の増幅回路やスイッチング回路(インテリジェントパワーモジュール)や、高密度実装が要求される携帯機器・自動車・航空機・軍事用、集積回路同士の距離が演算速度に影響を与えるスーパー・コンピュータやメインフレーム・コンピュータなどに用いられる。メインフレームコンピュータやスーパーコンピュータで使われるマルチチップモジュールは100層を超えるセラミック基板を焼結生成した非常に高度な立体回路を構成している。プリント基板においてもビルドアップと呼ばれる、複数の多層基板を貼り合わせて回路を構成する技術が開発されているため、ハイブリッド集積回路の多層化製品とプリント基板の多層化製品の境目は無くなっている。
コンピューターに耐タンパー性能を与えるためのSystem-on-a-chipモジュール。I/Oポートと電源端子のみを備え、マイクロコントローラーとして全てのロジックをワンチップに収納してある。鍵管理・鍵ブロックの登録と払い出し・Worm機能などが盛り込まれ、中間者攻撃やサイドチャネル攻撃からコンピューターシステムを防御する。世界で最も多く使われているセキュリティチップがICカードである。システム防衛の要として使われるが、通常スタンドアロンで動作する物は無い。バックエンドシステムにデータベースを備え、そのデータベースにアクセスする鍵が格納される(過去に実データを格納するICカードもあったが耐タンパー性の悪さから、B-CASカード等限定受信システム以外は撤退している。日本、EUではカードが解析・改ざんされ限定受信システムが崩壊した)。おサイフケータイ・Suicaなどで知られるワイヤレス電子マネー・電子発券システムもセキュリティチップである。このシェアはソニーが開発したFelicaが主流であり、NFCとしてISOで標準化された。携帯電話のSIMカードもセキュリティチップである。Microsoft WindowsはWindows Vistaから、セキュリティチップの本格採用を始めた。セキュリティチップに電子証明書を格納し、ハードディスクを暗号化する。それ以前は電子署名ベースのEFSを搭載していたが、ユーザープロファイルの消滅がユーザー証明書の喪失につながりデータを損失する事故があった。またシステム全体を暗号化することができなかった。インテルはvProとしてWindows NTにセキュリティチップをオプションで採用した暗号化システムを提供していた。しかし一般ユーザーには利用されず、主にITプロフェッショナルが運用する大規模システムでつかわれた。
耐タンパー性技術は日々進歩しており、長い鍵を処理できる高性能プロセッサの搭載、光消去EPROMによるチップ取り出しの困難化(チップに光を当てるとフローティングゲートから電荷が流出してデータが消滅する)など改良が重ねられている。
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フィルター
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フィルター(フィルタ、filter)とは、与えられた物の特定成分を取り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。またその作用をフィルタリングと呼ぶ。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC
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製本
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製本(せいほん、英: Bookbinding, PostPress)とは、筆記または印刷した本文の料紙に表紙などを付け本の形に整えること。
洋式の場合、上製本(本製本)と仮製本(並製本)があり、仮製本は耐久性が低い。
製本の際に印刷された紙を折り込んだものを「折り丁」という。また、ページの余白部分のうち綴じられる側を「のど」と呼び、これが見開き状態で中央にくる部分となる。製本の方式によってこの「のど」の余白部分として必要な量(「のどの開き」という)が異なってくるため、どのような綴じ方とするかはページレイアウトの点でも基本的な情報であり、綴じ方を決定したのちに最終的にページレイアウトが決定される。
製本が完全になされていない段階のものを入手し独自の製本を行い書庫を充実させていくといったことがヨーロッパでは行われている。
西洋には製本を手作業で工芸的に行なう伝統があり、一般にルリユール(フランス語: reliure)と呼ばれる。羊や山羊、仔牛の革を貼り、さまざまな装飾を加えて美しく飾り立てる工芸的な製本で、昔は職人が行なっていたが、現在は趣味のひとつとしても楽しまれている。ルリユール作家も世界中にいる。
こうした西洋における手製本の伝統は、キリスト教の出現により、神の言葉である聖書を大切に保存するために始まった。堅牢性から革で製本するだけでなく、信仰の重要性を印象付けるためにそれらを豪華に装飾することも始められた。イスラムでもコーランを美しく飾り立てる習慣があり、それがイベリア半島経由でフランス、イタリアに伝わった。グーテンベルクの印刷術の発明で書物が大衆化すると、たくさんある中の「自分が所有する一冊」を際立たせるために、装飾に紋章が取り入れられ、所有者の個性を強調する装丁が生まれた。その後、贅沢を嫌うプロテスタントの諸国ではこうした豪華な製本が廃れたが、宮廷文化が華やかだったフランスではその伝統が生き残った。
なお、こうした美しい私家版が高値で取引される古書の世界においては、(当時の所有者を表す)紋章のあるなしが重要で、紋章のないものは一気に価値が落ちるという。
アメリカでは1868年、アイルランド出身の発明家デヴィッド・マコーネル・スミスが、史上初の製本機の発明で特許を取得した。1879年にスミス製造社(the Smyth Manufacturing Company)が設立されたのち、製本機はさらに飛躍的に進化し、本の出版冊数の増加を齎した。
東洋における本の体裁は、本文料紙を横につないだ巻子装本及び折本装本と、本文料紙を重ね合わせて糊や糸で留めた草子本及び冊子装本の4種に大別される。なお、紙が出現する以前の時代には竹簡や木簡を閉じたものや貝多羅樹の葉を利用した貝葉経のような形態のものもあった。和式の場合は綴じ方が外部に見えるので装飾的な綴じが施されている。
フランスでは以下の国家資格が存在する。
日本では製本技能士が存在する。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%BD%E6%9C%AC
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PL/I
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■カテゴリ / ■テンプレート
PL/I(ピーエルワン)は、汎用プログラミング言語の一つ。名前は英語の「programming language one」に由来する。
PL/Iは科学技術用、工業用、商業用などにデザインされた命令型プログラミング言語である。1964年に生まれ、教育機関、商用、工業で使用されてきた。
PL/Iの主要な用途はデータ処理で、再帰および構造化プログラミングに対応する。言語の構文は英語に似ており、検証や操作が可能な幅広い機能のセットを持ち、複合的なデータ型を記述することに適している。
提案当時は「NPL」と呼ばれていた。初期には「PL/1」と表記していたが、その後「PL/I」が正式名称となった(I はローマ数字)。同時期の「DL/I」(ディー・エル・ワン、IBMの階層型データベース照会言語)と同じネーミングと考えられる。
を同時に持っている。
予約語が無いのも特徴。
1963年 IBMとそのユーザー団体(SHARE)が提案
1965年 IBMが完成させた
1979年 ISOで標準化
科学技術計算向けのFORTRAN、ビジネス処理向けのCOBOLと言われていた時代に、ALGOL並のアルゴリズム記述能力も加え、ひとつの言語であらゆるニーズを満たすために開発されたプログラミング言語。
言語仕様が複雑なため、大型計算機以外では余り使われなかったが、デジタルリサーチ社のゲイリー・キルドールが、インテルのi8080のために、サブセット版のPL/Mおよび、一部をPL/Mで記述し、オペレーティングシステムCP/Mを作った。また、CP/M上で動作するPL/I(PL/I-80)も作成している。
UNIX開発のきっかけとなったMultics(のちにMulticsは「成功しなかったプロジェクト」と見なされることとなる)は、PL/Iで書かれていた。Multicsの失敗はPL/Iが原因ではなかったものの、記述言語においても簡潔極まるC言語を生んだ事は皮肉である。
2016年時点でも、メインフレームで稼働する銀行の勘定系システムの多くはCOBOLまたはPL/Iで記述されている。
IBMのPL/Iコンパイラでは、メッセージIDが「IBM」で始まる。IBMが当時PL/Iに力を入れていたためと言われている。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/PL/I
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可逆圧縮
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可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開の処理を経たデータが完全に等しくなるデータ圧縮方法のこと。ロスレス圧縮(ロスレスあっしゅく)、無歪み圧縮(むゆがみあっしゅく)とも呼ばれる。
アルゴリズムとしては連長圧縮、ハフマン符号、LZWなどが有名。
コンピュータ上でよく扱われるLZH、ZIP、CABや、画像圧縮形式のPNG、GIFなどが可逆圧縮である。
すべてのデータを効果的に圧縮できる可逆圧縮アルゴリズムは存在しない(可逆圧縮の限界の節を参照)。そのため、データの種類によって多くのアルゴリズムが存在する。下記に主要な可逆圧縮方式を列挙する。
可逆圧縮アルゴリズムはすべての入力データに対して圧縮後のデータサイズが圧縮前より小さいことを保証できない。すなわち、どのような可逆圧縮アルゴリズムでも圧縮処理後にデータサイズが小さくならない入力データが存在し、また圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データが存在する場合、圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データも必ず存在する。前者の証明は下記の通り。
後者の証明は鳩の巣原理を用いたものであり、下記の通りとなっている。
このようにすべてのデータを圧縮できるアルゴリズムは数学上存在しえないが、インターネット・バブル期にはAdam's Platform(1998年)、NearZero(2001年)などそのようなアルゴリズムを発明したと主張するベンチャーが複数存在した。実際の処理では圧縮を行わず、入力データを別のフォルダにコピーし、「圧縮」された偽ファイルに置き換えただけであり、「解凍」のときは別のフォルダにコピーした入力データを元に戻しただけである。
可逆圧縮アルゴリズムのベンチマークにはカルガリーコーパス(英語版)が広く使われている。サイズ、速度、メモリ使用量がトレードオフの関係にあり、たとえばデータ圧縮比が高いアルゴリズムはメモリ使用量が多い場合が多い。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E9%80%86%E5%9C%A7%E7%B8%AE
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非可逆圧縮
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非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)は、圧縮前のデータと、圧縮・展開を経たデータとが完全には一致しないデータ圧縮方式。不可逆圧縮(ふかぎゃくあっしゅく)とも呼ばれる。画像や音声、映像(動画)データに対して用いられる。静止画像ではJPEG、動画像ではMPEG-1、MPEG-2、MPEG-4(DivX、Xvid、3ivX)、MPEG-4 AVC/H.264、HEVC/H.265、WMV9、VP8、音声ではVorbis、WMA、AAC、MP3、ATRAC、Dolby Digital、DTS Digital Surround、Dolby Digital Plus、DTS-HD High Resolutionなどが代表的な非可逆圧縮方法にあたる。
一般的に「データ圧縮」というときには、広い意味で非可逆圧縮も含めることが多いが、狭義のデータ圧縮では非可逆圧縮は入らない。「データ圧縮」の正確な定義は、「情報量を保ったまま」データ量を減らした別のデータに変換することすなわち可逆圧縮をいうからであり、非可逆圧縮の場合は「情報量を保ったまま」という定義から外れる。
非可逆圧縮では、圧縮により一部のデータは欠落するが、人間の感覚に伝わりにくい部分は情報を大幅に減らし、伝わりやすい部分の情報を多く残すことで、劣化を目立たなくする。この結果、すべてのデータを均一に扱う可逆圧縮と比較して圧倒的な圧縮率が得られる。また、圧縮率と品質を両天秤にかけることができ、目的や環境に応じて適切なバランスを選ぶことができる。例えば、低速なナローバンドを使う場合や、データが高い品質を必要としない場合は、圧縮率を高めてデータ量を小さくする。逆に、高速なブロードバンドインターネット接続を使う場合や、より鮮明なコンテンツを表示する場合などは、圧縮率を低くして品質を高くする。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%8F%AF%E9%80%86%E5%9C%A7%E7%B8%AE
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Plan 9 from Bell Labs
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Plan 9 from Bell Labs(通称 Plan 9)は、主に研究用に使われている分散オペレーティングシステム。ベル研究所の Computing Sciences Research Center で1980年代中ごろから2002年まで、UNIXの研究上の後継として開発された。Plan 9 は、ネットワークやユーザインタフェースまで含めたあらゆるシステムインタフェースを、個別のインタフェースではなくファイルシステムを通して統一的に表現することを特徴とする。Plan 9 は9Pプロトコルを使い、ユーザーにワークステーション毎に独立した作業環境を提供することを目指している。
Plan 9 は、UNIXの流れを汲むオペレーティングシステム (OS) の一種であり、開発に当たってUNIXの設計の問題点を改善することを念頭に置かれている。
Plan 9の"9"には、UNIX version 8の次の版という意味もあると言われている(UNIX version 9と10も作られているが)。
また、フルネームをPlan9 from Bell Labsだとしているが、これはエド・ウッドの史上最低の映画と評されたSF映画 Plan 9 from Outer Space から来ている。また、プロジェクトのマスコットキャラクターGlendaの名も、同じくエド・ウッド作品グレンとグレンダにちなむ。初期の(つまり間に合わせの)ウインドウシステムの81⁄2は(9に足りてない、という意味もあるが)フェデリコ・フェリーニの名画「8 1/2」に掛けており、ハッカー流ジョークの側面でもUNIXの後継であることをうかがわせる。
Plan 9はベル研究所内の主な研究用プラットフォームとしてUNIXを代替し、システムの使用とプログラミングについての本来のUNIXのモデル、特に分散マルチユーザー環境にいくつかの変更を加えることの研究対象ともなった。1980年代中ごろに始まった当初、Plan 9はベル研究所内部のプロジェクトだった。
Plan 9はベル研究所の Computing Science Research Center のメンバーが開発した。そのグループはUNIXやC言語を開発したグループと同一である。当初チームはロブ・パイクやケン・トンプソンらが率い、Computing Techniques Research Department のリーダーとしてデニス・リッチーが支援した。開発には、ブライアン・カーニハン、ビャーネ・ストロヴストルップらも貢献している。
1992年、大学向けに初めてリリースした。1995年、一般向けの商用OSとしてリリースした。1990年代末、ベル研究所を引き継いだルーセント・テクノロジーは、このプロジェクトの商業化を断念。2000年、オープンソースライセンスで非商用リリースを行った。2002年、新たにフリーソフトウェアライセンスで非商用リリースを行った。
ベル研究所の研究員やマサチューセッツ工科大学などの Plan 9ユーザーコミュニティが、ISOイメージの形で頻繁なマイナーリリースを継続している。その開発はいまだにベル研究所がホスティングしている。開発ソースツリーは9PプロトコルかHTTPプロトコルでアクセスでき、インストールしたものを最新に保つのに使われている。OS本体をISOイメージとしている以外に、アプリケーションやツールのリポジトリもベル研究所がホスティングしている。
UNIXの問題点とは、1つのコンピュータを多くの利用者が共有することを前提に作られており、多くのコンピュータを多くの利用者が共有することは考えられていないことである。その結果、利用者が特定のコンピュータを占有することになり、それらのコンピュータは雑然と管理運営されることになる。
UNIXの当初の環境では、どの端末からコンピュータを使っても同じ環境を再現できた。Plan 9では、それをネットワーク上に繋がった分散処理環境上で実現する。
また、UNIXの開発がローカルなファイルシステムをどう表現するかということをテーマとして始まったのに対して、Plan 9は、ローカルであれリモートであれ、リソースというものにどうアクセスするかということを課題とする研究として始まった。
したがって、UNIXの設計当初になかったネットワークの利用を前提とし、端末、CPUサーバ、ファイルサーバ、認証サーバを分けることでセキュリティの向上を狙う。また、ファイルサーバは毎日のスナップショットを保存し、ユーザーレベルでのバックアップ作業をほぼ不要なものとした。
当初はMOジュークボックスなどの利用を考えており、ハードディスクはMOジュークボックスのキャッシュという考え方だった。最近ではハードディスクの大容量化と低廉化が進んでいるため、MOジュークボックスの代わりにハードディスクを使えるようになりつつある。
UNIX以前、多くのオペレーティングシステムはそれぞれのデバイスにアクセスするのに、それぞれ異なる機構を用意していた。例えば、ディスクドライブにアクセスするAPIは、シリアルポートでデータ送受信をするためのAPIとは全く異なるし、プリンターにデータを送信するAPIとも全く異なっていた。
UNIXはそのような差異をなくそうとし、全ての入出力をファイル操作でモデル化しようとした。そのため、全デバイスドライバが制御手段として read および write 操作に対応する必要に迫られた。こうすることで、mvやcpなどのユーティリティで、実装の詳細を気にすることなくデバイスからデバイスにデータを転送することができるようになった。しかし、UNIXでは多くの重要な概念(例えば、プロセス状態の制御など)はファイルにきれいにマッピングされなかった。ソケットや X Window System といった新たな機能が追加されたとき、それらはファイルシステムの外に存在するようになった。新たなハードウェア機能(ソフトウェアがCDのイジェクトを制御するなど)も、ioctlシステムコールなどのハードウェア固有制御機構を使うようになった。
Plan 9研究プロジェクトは、ファイル中心の見方への回帰を目標とし、それ以外の手法を排除した(その一部は、外のUnixへ与えた影響が限定的であった、ベル研版UNIXのバージョン8, 9, 10から引き継がれたものである)。Plan 9のプログラムから見れば、ネットワークやユーザインタフェースのリソース(ウィンドウなど)も含めたあらゆるリソースが階層型ファイルシステムの一部となっており、それ以外の特別なインタフェースは使わない。
Plan 9は単一のマシンにインストールして、自立したシステムとして使うこともできる。しかし、OSの個々の機能コンポーネントをそれぞれ別のハードウェアプラットフォームに配置することもできる。模範的な配置では、RioというGUIを動作させた軽量な端末をユーザーが使い、ネットワーク経由でCPUサーバに接続して、そちらで計算量の多いプロセスを実行し、さらに別のマシンに用意した永続的データストレージをファイルサーバとして使う。最近のデスクトップコンピュータでは、複数の仮想機械を動作させて、この環境を1台のマシン上に再現することができる。
Plan 9設計者はマイクロカーネルと似たような目標を掲げていたが、実際のアーキテクチャや実現方法は異なる。Plan 9の設計目標は次の項目を含む。
Plan 9では、ファイルも画面もユーザーもコンピュータも、それぞれに固有のパス名が対応している。それらは全て既存のUNIXの手法で操作されるが、それに加えて任意のオブジェクトにパス名としての名前をつけることができる(World Wide WebのURIシステムに似ている)。UNIXでは、例えばプリンターなどの機器は /dev 配下の名前で表されるが、ネットワーク経由のプリンターはそのように表されることはなく、直接接続しているプリンターだけである。Plan 9ではプリンターはファイルとして仮想化され、ネットワーク上のあらゆるプリンターに任意のワークステーションから同じ方法でアクセスできる。
また Plan 9では、実世界では同一のオブジェクトにユーザーごとに異なる名前を付けることができる。各ユーザーは各種オブジェクトを自分の名前空間に集め、個人的環境を生成できる。UNIXでは類似の概念として、別のユーザーからコピーされることでユーザーが特権を得るというコンセプトがあるが、Plan 9 ではそれを全てのオブジェクトに拡張している。ユーザーは容易に自分自身の「クローン」を生成することができ、それに変更を加え、それらが作成されたリソースに影響を与えることなく削除できる。
UNIXでは、「リンク」やファイルシステムの「マウント」といった考え方で各種リソース群からファイルシステムを構築できる。それらを利用すると、元々のディレクトリは見えなくなる。例えば、"net" というディレクトリに新たなファイルシステムをマウントすると、元々の "net" ディレクトリ配下の内容にはアクセスできなくなる。
Plan 9は「unionディレクトリ」という考え方を導入した。これは、異なる媒体やネットワークにまたがるリソース群をまとめたディレクトリであり、他のディレクトリと透過的に連結することができる。例えば、他のコンピュータの /bin ディレクトリを手元のコンピュータの同名のディレクトリと連結し、ローカルとリモートのアプリケーションに透過的にアクセスできるようにすることができる。同様に、/dev に外部のデバイスやリソースをまとめると、全くコードを追加することなくネットワーク経由でデバイスを共有できる。
LinuxディストリビューションのLive CDの多くは、この機能の限定版である union mount という機能を実装しているものが増えている。
/proc ディレクトリには動作中プロセスの一覧があり、それぞれの状態を示している。いわゆる「プロセスファイルシステム(procfs)」と呼ばれるもので、標準化はされておらず詳細は異なるが、Linuxその他多くのUnixでも採用されている。プロセスは名前付きのオブジェクト(infoファイルやcontrolファイルのあるサブディレクトリ)として /proc 配下にあり、他のカーネルリソースと共に動的I/Oチャネルもあり、ユーザーはそれにコマンドを送ったり、データを読み取ったりできる。ユーザーは一部のシステムコールを使ったプログラムをコンパイルしてカーネルとやり取りする必要はなく、ls や cat といったコマンドでプロセスを検索し、操作することができる。
他のマシンの /proc ディレクトリは他の特殊なファイルシステムと同様、ユーザーの名前空間にマウントでき、ローカルにあるかのようにそれを使うことができる。これにより、複数のマシンから成る分散コンピューティング環境ができる。ユーザーの机上にある端末、データを格納してあるファイルサーバ、高速CPUや認証やゲートウェイなどのその他サーバ群などがあり、それら全てがユーザーが見慣れたディレクトリ階層を使っている。ユーザーはファイルサーバやサーバで動作中のアプリケーションやネットワーク上のプリンターなどを集め、端末上の個人的名前空間にそれらをまとめることができる。
Plan 9は多数の通信プロトコルやデバイスドライバのインタフェースとしてのシステムコールを持たない。例えば、/net はTCP/IP全体のAPIの役割を担っており、スクリプトやコマンドで操作可能で、制御ファイルに書き込むことでコネクションを読み書きできる。/net/tcp や /net/udp といったサブディレクトリはそれぞれのプロトコルへのインタフェースとして使うことができる。例えば、NATを実装する場合、公開IPアドレスを持つ境界線上のマシンの /net をマウントし、内部ネットワークで Plan 9 の9Pプロトコルを使い、プライベートIPアドレスの内部ネットワークから当該マシンへと接続する。VPNを実装する場合は、インターネット上でセキュアな9Pプロトコルを使い、リモートのゲートウェイの /net ディレクトリをマウントすればよい。
/net で union ディレクトリを使う例を示す。オブジェクト指向プログラミングにおける継承のように、(リモートの) /special に対して、別のローカルなディレクトリを連結(重ね合わせ)する。すると同じ名前の制御ファイルはあとから重ねた方で隠され、新たな制御ファイルは追加された状態になる。言ってみれば union ディレクトリは、元の2つの親を継承した子オブジェクトのようなものである。オリジナルの機能は部分的に変更されることがある。これを /net ファイルシステムで考えると、/net/udp サブディレクトリを更新または隠蔽すると、UDPインタフェースにローカルなフィルタープロセスをかませて制御または拡張でき、/net/tcp は元のまま、おそらくリモートマシン上で動作させておくといったことができる。名前空間はプロセス単位に設定可能なので、信頼できないアプリケーションに対して制限を加えた /net union ディレクトリを見せることで、ネットワークアクセスを制限することができる。
このような機構は、異なるシステム上で異なる言語で書かれたファイルシステムや「オブジェクト」を容易に連結でき、プログラマからはファイルシステムの名前付けやアクセス制御やセキュリティの大部分が透過的となる。
類似の機構として4.4BSDの portalがある。UDPは実装されていない、(慣習であって本質的な違いではないが)マウントポイントが /net ではなく /p である、といった点が違う。
Plan 9はUNIXをベースとしているが、通信を中核機能としたシステムを構築できることを示すために開発された。全てのシステムリソースには名前があり、ファイルのようにアクセスでき、動作中の各プログラムに対応して動的に分散システムのビューを定義できる。この手法は、ユーザーやアプリケーションに提示するデータを保持するサーバ群を通常ファイルの集まりのように見せることで、アプリケーション設計の汎用性とモジュール性を改善する。
Plan 9のネットワーク透過性サポートの鍵となる部分は、9Pというプロトコルである。9Pプロトコルとその実装は、名前付きのネットワークオブジェクト同士を結びつけ、ファイルのようなシステムインタフェースとして提示する。9Pは高速なバイト指向分散ファイルシステムであり(ブロック指向ではない)、リモートマシン上のNFSサーバが提示するオブジェクトだけでなく、任意のオブジェクトを仮想化できる。このプロトコルはプロセスやプログラムやデータと通信するのに使われ、ユーザインタフェースとネットワークの両方を含んでいる。第4版では 9P2000 に改称された。
Plan 9の内部コードはUTF-8となっている。このため、多言語の問題は基本的には発生しない。また、そもそもUTF-8自体、Plan 9の研究の過程でケン・トンプソンが考案したもので、1992年に全コードがUTF-8対応になった。なお、Plan 9 がサポートしているのは、Unicodeの基本多言語面だけである。
インストール可能な実行環境がx86向けに用意されている。また、MIPS、DEC Alpha、SPARC、PowerPC、ARMなどのアーキテクチャにも移植されている。システムは ISO/ANSI C の方言の一種で書かれている。いくつかのアプリケーションはAlefという独自の言語で元々は書かれていたが、後でシステムと同じC言語の方言で書き直されたものもある。POSIX対応アプリケーションを移植可能であり、ソケットは ANSI/POSIX Environment APE 経由でエミュレートできる。最近では、Plan 9上でLinux用バイナリを実行できる linuxemu というアプリケーションも開発中である。
IBMのスーパーコンピュータ Blue Gene にも移植されている。
Plan 9はUNIXの中核的概念——すなわち全てのシステムインタフェースをファイル群で表現するということ——が現代的分散システムとして実装でき、機能することを示した。Plan 9 の一部機能、例えばUTF-8は他のオペレーティングシステムにも実装された。LinuxなどのUnix系オペレーティングシステムは9P、Plan 9 のファイルシステムやシステムコール体系も部分的に実装した。また、Plan 9 のアプリケーションやツールを集めた Plan 9 from User Space はUnix系システムに移植され、ある程度の人気を得ている。Glendix は、Linuxカーネルの周囲のGNUのシステムプログラムを Plan 9 内のプログラムで置き換えようとするプロジェクト(あるいは、逆に Plan 9 のカーネルを Linux に置き換えるプロジェクト)である。
しかし、Plan 9はUNIXほどの人気を得ることはなく、研究用ツールという位置づけに終始した。Plan 9に対しては、「オペレーティングシステム研究での興味深い論文を生成するためのデバイスとして主に機能している」という批判もある。エリック・レイモンドは著書 The Art of Unix Programming で、Plan 9が広まらない背景について、次のように考察している。
Plan 9の支持者や開発者は、採用を妨げていた問題は既に解決され、当初の目標としていた分散システム、開発環境、研究用プラットフォームには十分な完成度であり、今後徐々に広まっていくだろうと主張している。Infernoは仮想機械上で動作するため、混在グリッド環境の一部として Plan 9 の技術をもたらす原動力になるとしている。
GNUプロジェクトはPlan 9のライセンスをフリーソフトウェアライセンスだとは認めていなかったが、2003年6月にそのライセンスに変更が加えられ、GPLとは整合性を持たないながらも、フリーソフトウェアと認められるようになった。OSIもオープンソースライセンスと認めており、Debianフリーソフトウェアガイドラインには合格している。全ソースコードがそのライセンスでフリーで入手可能である。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Plan_9_from_Bell_Labs
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内燃機関
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内燃機関(ないねんきかん)とは、シリンダーなど機関内においてガソリンなどの燃料を燃焼させ、それによって発生した燃焼ガスを用いて直接に機械仕事を得る原動機をいう。内燃機関では燃焼ガスを直接作動流体として用いて、その熱エネルギーによって仕事をする。これに対して、蒸気タービンのように燃焼ガスと作動流体がまったく異なる原動機を外燃機関という。
内燃機関はインターナル・コンバスチョン・エンジン(internal combustion engine, ICE)の訳語であり、内部(インターナル)で燃料を燃焼(コンバスチョン)させて動力を取り出す機関(エンジン)である。「機関」も「エンジン」も、複雑な機構を持つ装置という意味を持つが、ここでは発動機という意味である。
なお、動力を取り出すことが目的の内燃機関ではあるが、特殊な用途としてパルスジェットによるフロンガスの分解や4サイクル機関による天然ガスの改質などが研究された。
内燃機関は熱エネルギーを機械エネルギーに変換する熱機関の一種であり、レシプロエンジン(ピストンエンジン)やロータリーエンジン(ヴァンケルエンジン)といった容積型内燃機関とガスタービンエンジンやジェットエンジンなどの速度型内燃機関に分けられる。
容積型内燃機関とは、燃焼ガスの容積変化(膨張)を利用するもので、クランク機構などにより回転軸出力として機械仕事に転換する内燃機関をいう。レシプロエンジンの場合、シリンダー(気筒)の内部で燃料を燃焼させ、燃焼ガスがピストンを押す力を利用する。このピストンの往復運動をクランクにより回転運動に変換し軸動力を得る。また、ロータリーエンジンの場合は、作動室内での燃焼後のガスの膨張によるローターの公転が、エキセントリックシャフトを回転させて軸動力を得る。
これに対して速度型内燃機関は燃焼ガスの高速の流れを利用するもので、タービン翼車の回転運動等を通じて機械仕事に転換する内燃機関をいう。ガスタービンエンジンの場合、燃焼器で燃料を燃焼させ、燃焼ガスが出力タービンを回転させることで軸動力を得る。軸動力ではなく推力を直接得るために、出力タービンを省き燃焼ガスを一方向に噴出させるとジェットエンジンとなる。
容積型機関は「間欠燃焼」、速度型機関は「連続燃焼」という燃焼形態の違いはあるが(パルスジェットエンジンは間欠燃焼式速度型機関という例外)、ともに燃焼熱により高圧となった燃焼ガスそのものを作動流体とすることは共通する。これに対し蒸気機関などの外燃機関では、機関外部の熱源(燃料の燃焼など)により、燃焼ガスとは別の作動流体(水など)に熱エネルギーを与え、機関により動力を得る。
現代の内燃機関では主に熱効率を高めるために、燃焼には出力の一部を利用して圧縮した空気を使用する。ディーゼルエンジン(レシプロエンジンの一種)のように、原理的に圧縮なしでは動作しない内燃機関もある。
積極的にデトネーションを利用する事で高効率化が期待され、パルス・デトネーション・エンジンの開発が各国で進められている。
内燃機関に限らず、燃焼プロセスを経る装置では、熱効率においてカルノー効率を超えるものは、理論上ありえず、また効率を最大限向上させると出力が殆ど無になる。
19世紀より前から様々な内燃機関が発明されてきたが、19世紀に入り都市ガスが普及し始めるとこれを燃料とする内燃レシプロエンジンの開発が活発となった。1860年代には様々な形式のガスエンジンが定置式の産業用原動機として普及し始め、ニコラウス・オットーらの4ストローク機関により完成の域に達した。同じ頃石油の採掘と精製が産業として確立し、ガスエンジンをガソリンで運転する試みが始められたが、ガソリンを継続的に気化する仕組みの開発がネックとなり、ガソリンエンジンの実用化はガスエンジンに多少遅れている。さらに少し遅れて、これら予混合燃焼の機関とは別のアプローチからディーゼルエンジンが発明された。
貯蔵と運搬が容易な液体燃料を使用する内燃機関の登場は、自動車の商業実用化や飛行機の発明を可能にし、特に輸送の分野に大きな発展をもたらした。
容積型
※オートバイ用エンジンも参照。
速度型
※航空用エンジンも参照
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%87%83%E6%A9%9F%E9%96%A2
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レシプロエンジン
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レシプロエンジン(英語: reciprocating engine)は、往復動機関あるいはピストンエンジン・ピストン機関とも呼ばれる熱機関の一形式である。燃焼熱を取り出す方法によって、外燃式と内燃式に大別される。
燃料の燃焼による熱エネルギーを作動流体の圧力(膨張力)として利用し、まず往復直線運動に変換し、ついでクランクを用いて回転運動の力学的エネルギーとして取り出す原動機である。初期の蒸気機関においてポンプに使われたそれのように、往復運動を直接利用する場合もある。燃焼エネルギーをそのまま回転運動として取り出すタービンエンジンやヴァンケル型ロータリーエンジンと対置される概念でもある。
船舶、自動車、非電化区間向けの鉄道車両、航空機といった乗り物の他、発電機やポンプなどの定置動力にも用いられ、一般的な動力源として広く普及した。20世紀中盤以降、航空機では大排気量・高出力のものからガスタービンエンジンに置き換わり、21世紀に入ると、分野によっては、再生可能エネルギーを利用したカーボンニュートラル化が容易な電動機に置き換わりつつある。
往復動型機関の最初の記録はオランダのホイヘンスで、1680年に火薬を使って動力を発生させる考えを発表したと伝えられる。ベルサイユ宮殿の水役人だったホイヘンスはピストンと真空を熱機関として利用しようとする祖と認められている。ホイヘンスの案はシリンダー(筒)の最下部に燃焼部、最上部にピストンがおかれていた。燃焼部で火薬を燃焼させ、この燃焼により発生した高温の空気が上部の弁から抜けていくだけのものだった。弁は一方通行の不還弁であり、空気が抜けたのちシリンダーが冷えれば内部の圧力が低くなり、当時発見されたばかりの真空の力により最上部のピストンが下降する際に力を及ぼすというものである。当時は火薬の爆発は危険なものとされており、ホイヘンスの考えも真空利用の静粛性が特徴である。当時は内燃と外燃の区別はされず「熱から動力が生み出される」という考えであった。
その後、フランスのアッベ・フォートフュイユやイギリスのモアランドらの創案があるが、これらも試作はされていない。
ピストンエンジンはピストン型蒸気機関の祖といわれるドニ・パパンの蒸気機関で実現した。ドニ・パパンはホイヘンスとも親交があり、ホイヘンスの案を試作し、検証したものの、当時の技術では火薬の燃焼、ピストンや不還弁の製作は難しかった。そのためパパンは直接火薬を燃やすことではなく、外部で発生させた蒸気によって圧力を高める蒸気機関とした。火薬の燃焼の代わりに蒸気を使う点を除けば、ホイヘンスのものと変わらない。
その後、セイヴァリが英国で特許を取得し、1705年になってトーマス・ニューコメンの改良により実用的な蒸気機関となった。ニューコメン蒸気機関は、英国では炭鉱から水を抜き取るための排水ポンプ用途に使用された。
ニューコメンが最初に機関を発明した時代は、その動作は非常に緩慢なものであり、バルブの開閉は人手で行われていた。このバルブ開閉の進歩が蒸気機関の普及を促した。ニューコメンの「大気圧機関 (Atmospheric engine)」のバルブの改良は、バルブの開閉操作員だったハンフリー・ポッター (Humphrey Potter) という少年により1713年にロープや滑車を利用した最初の自動化の工夫がなされ、1718年にヘンリー・バイトン (Henry Beighton) がさらに改良を重ねた。ジョン・スミートンがさらにさまざまな改良を施した。
50年以上もの間改良されながら1770年頃まで広く使われていたニューコメン式の蒸気機関であったが、ここまでの蒸気機関は、往復運動をそのまま直線的動力として利用するものであり、しかもその力は往復以前に往だけの片道通行の利用だった。
ジェームズ・ワットは根本的に改良を加えた往復動蒸気機関を考案し、1769年に英国で特許を取得した。これは本格的な回転動力の実用化に至る道でもあった。
ピストンの往復の動きを回転運動として利用した最初のエンジンは、ワットの特許と同年の1769年、フランスで考案された蒸気動力の牽引車、キュニョーの砲車である。これはピストンロッドの先のクランクにラチェットを用いて回転運動に変換するものだった。
次いで英国でワットの元で働いていたウィリアム・マードックが遊星ギアを利用して回転運動を得ることを着想し、蒸気自動車を作成した。この往復運動を回転運動にする特許はマードックではなくワットが取得している。ワットらはクランクシャフトを利用したかったが、同時期に特許がすでに取得されており、その使用にはワットの蒸気機関の特許との交換条件を持ち出されたために使用しなかった。遊星ギアはクランクシャフトに比べて往復運動から回転運動への変換効率が低く、ワットは後年、特許使用可能になったクランクシャフト方式に乗り換えている。
1801年にトレビシックが蒸気自動車を製作し運転した。トレビシックはさらに1804年に世界最初の蒸気機関車を制作し、試運転を行っている。
1820年、イギリスのW・セシルが水素ガスを燃料とした真空利用の大気圧機関を製作し、60rpm(回転/分)の動きを実現した。爆発時の騒音が問題となったがこれが世界最古のガス機関として認められている。しかし当時は蒸気機関の実用化が盛んな時期であり、ガスエンジンはその後の研究があまり進まなかった。
イギリスでは続いて発明家のサミュエル・ブラウンが、1823年にガス真空機関(真空エンジン、用気エンジン)の開発に成功。内燃機関だったが、爆発の後に生じる真空によりピストンを引き戻すことにより往復運動をおこなうものであり、大気圧利用という点ではトーマス・ニューコメンの蒸気機関そのままの原理であった。1825年には車両に載せられ、この真空機関付き自動車は1826年の試運転で10.5分の1の勾配(約5 °26 ′)をたやすく登った。1827年にはテムズ川で船に真空エンジンを載せて公式試運転を行い、11 - 13 kmを記録している。これらの実績によりブラウンは内燃機関の歴史において功績が認められており、また、ブラウンのエンジンは実用になった最初のガス機関と認められている。もっとも、当時は蒸気機関全盛の時代であり、普及には至っていない。
1833年には、イギリスのW.L.ライトがガス爆発機関の特許を取得している。実際に製作されたかどうかは確認されていないが、後年、ガス爆発機関としてはこの設計は完璧であり、製作されていればブラウン以上の能力が出せたと評価されている。
ウィリアム・バーネットは1838年に2サイクル圧縮型エンジンと独自の点火プラグを開発した。
イタリアのバルサンチとマテゥチは1855年に世界初のフリー・ピストン・エンジンを創案する。爆発により上方に上がったピストンが重力により落下することを利用したもので、動力はピストンのコネクティングロッドからラチェット付きで一方向回転するギアを使って取り出した。極めて騒々しく、振動も激しかったが、内燃機関の点火自体が不安定だった時代にはこれでも比較的効率が良かった。
フランスでルノアールが1860年にガスエンジンを商用化し、大型化が必然的で大規模工場でなければ使えなかった当時の蒸気機関に比べてコンパクトで軽便であったため、中規模工場などでも一般に使用されるようになった。当時の先進国の都市で普及しつつあったガス燈用の石炭乾留ガス配管を利用して、燃料供給インフラストラクチャーの面も解決したことが優れており、1860年は内燃機関の本格的な実用化の年とされる。
ルノアール・エンジンは往復動の2ストローク内燃機関であるが、圧縮行程が事故の危険を伴うと危惧したルノアールの意図によって無圧縮の設計であった。このためエンジンとしての効率は低く、実用内燃機関の先駆ではあったが本格的な内燃機関の祖とは言い難い面もある。日本の内燃機関研究者の富塚清は「内燃機関の歴史」で「多少気の毒」と評している。ルノアールは自動車も製作し、走行試験を行い、またセーヌ川でのモーターボート動力にも使用されたが、無圧縮型のガス燃料機関という効率の低さと燃料供給の制約から、工場等の定置動力以外では成功しなかった。
ルノアールのエンジン以前にはさまざまな案が試されていたが、ルノアールの商業的成功により明確な指標ができたため、内燃機関の研究が急速にすすむことになった。
1862年、フランスのボー・ド・ロシャが、内燃機関としての4ストロークエンジンを提唱した。1867年、ドイツでニコラス・オットーとオイゲン・ランゲンがフリー・ピストン機関(de:Flugkolbenmotor)を製作する。1873年、アメリカでブレートンが新型を開発。ブレートン機関とよばれる。
1876年、オットーは後年のレシプロ式ガソリンエンジンの直接の祖型となる4ストローク式ガスエンジンを完成させた。
20世紀になって実用化がなされた航空機の発達はレシプロエンジンと共にあり、1950年代の後半までは飛行機のエンジンといえば、レシプロエンジンといわれていた。航空機の性能(最大速度や上昇力)はエンジンによってほぼ決定されるため、各国はより高性能の航空機を作りあげるために高性能なエンジンを必要とした。そのためにエンジンの性能をあげるためのさまざまな研究は第一次世界大戦から第二次世界大戦においてその多くがなされている。戦後になると大出力の航空機用エンジンは、高出力プロペラ機用ターボプロップエンジンを含むジェットエンジンに切り替わり、現代では「レシプロ」は小型プロペラ機の代名詞ともなっている。
船舶においては、20世紀初頭までは蒸気機関のレシプロエンジンが主流であったが、外燃機関の蒸気タービンエンジンや内燃機関のレシプロエンジンの実用化とともに、徐々にそれらに置き換えられていった。現在では民間用途としてはディーゼルの内燃レシプロエンジンが主流となっている。軍艦ではガスタービンエンジンと蒸気タービンエンジン(原子力動力の場合)の採用率が高いが、内燃レシプロエンジン(ガスタービンとの併用を含む)も一定数採用されている。
鉄道車輛においては、20世紀の前半期を通じて蒸気機関のレシプロエンジンを搭載する蒸気機関車が主流であったが、電化区間では電気機関車や電車に、非電化区間および両区間の直通用では内燃レシプロエンジンを搭載するディーゼル機関車や気動車に、それぞれ置き換えられた。ガスタービンエンジンはターボ・エレクトリック方式では実用例があるが、その最盛期はオイルショック以前で、また、日本の国鉄のようにガスタービンを直接動力源とする車両は実用化されておらず、電気式、液体式、機械式のいずれでもディーゼルエンジンが大勢を占めている。熱効率の低い蒸気機関車も、僅かながら保存鉄道(産業遺産)としての運行は続いている。
自動車においては、最初期に電気自動車や蒸気自動車が検討・試作されたものの、その歴史を通じて内燃レシプロエンジンが主流である。一時期ロータリーエンジンの採用が各社で検討されたが、結局は主流とならなかった。またガスタービンエンジンの自動車も実用化には至っていない。電気自動車は特殊用途に限られていたが、近年は再び一般向として市販される例が増えている。しかしこれが主流となりレシプロエンジン車を置き換えていくかどうかは未知数である。
発電機やポンプなどの定置動力としては、20世紀初頭は蒸気レシプロエンジンが主流であり、他に選択肢が無い状況であった。その後、それ以外の動力機関が普及していき、蒸気レシプロエンジンは完全に廃れている。発電など大規模用途としては蒸気タービンが主流であるが、それ以外では内燃レシプロエンジンが主流となっている。ただ、20世紀末よりマイクロガスタービンを含むガスタービンエンジンが伸長しており、内燃レシプロエンジンを置き換えつつある。
なお、上述の通り最初期のレシプロ蒸気機関は、直線的動力として利用するもの、かつ往だけの片道通行の利用だった。航空母艦用の蒸気カタパルトは、現代においてはこれに相当するものであるが、将来的にはリニアモーター式の開発も進められている。
またディーゼルハンマ式杭打ち機は、21世紀初頭現在でも生産され続けている現役の、2ストローク単気筒フリーピストンディーゼルエンジン製品である。
シリンダー内の動作流体(水蒸気や燃焼ガスなど)の加熱方法により外燃機関のレシプロエンジンと、内燃機関のレシプロエンジンの二つに大きく分類される。それぞれの仕組みの概略は以下のようになる。
外燃機関のレシプロエンジンには蒸気機関やスターリングエンジンがある(詳細はそれぞれの項目を参照)。
蒸気機関では高温の蒸気を駆動に使う。初期はトーマス・ニューコメンが作った大気圧の負圧を利用する方法がある。当時から高い蒸気圧を利用することは考えられていたが、まだ工作技術が十分でなかった頃はそれに耐えうるボイラーを作ることができなかったため負圧を利用していた。
ニューコメンの蒸気機関は効率が悪かったため、それをジェームズ・ワットが復水器を組み合わせて使うことで効率を上げ、産業革命の原動力となり、石炭を当時の主要なエネルギー源にした。
ワットが老いた頃は工作技術も上がり、高い圧力に耐えられるボイラーやシリンダーが作られる。するとその効率の良さから、負圧を使った蒸気機関ではなく、そちらを用いて蒸気自動車や蒸気機関車が広まった。
また、蒸気圧を高めて使う蒸気機関が現れて間もない頃は、シリンダーが蒸気圧に耐えられず爆発する事故が相次いだ。これを見たスコットランドの牧師ロバート・スターリングはより安全な熱機関を作ろうと、外燃レシプロ機関のスターリングエンジンを考案した。高出力には向かないが、理論上は非常に高い熱効率を持つ。ただし一般動力機関としては扱いにくい面もあってほとんど普及しておらず、むしろ空調等を目的に熱を移動させるヒートポンプシステムの分野でその原理が広く応用されている。
動作の仕組みはおよそ以下のようになり、これを繰り返す、すなわちピストンが往復動することで、エンジンは連続的に回転動力を出力する。
外部からは、ガソリンやプロパンガス、軽油、アルコール等の燃料と、それに対し適当な量の空気とをエンジン内部へ供給する。液体の燃料は、気化しやすいように微粒化(霧化)しながら使用される。まず、シリンダー内に吸入した空気を、ピストンにより圧縮する。その圧縮空気中で燃料に何らかの方法で着火し、シリンダー内で急速に(時には爆発的に)燃焼させる。充分な強度を持つシリンダー内で、高温高圧の燃焼ガスが膨張してピストンを押し出す力となる。この力を受けたピストンの直線的な運動を、コネクティングロッド(コンロッド)とクランクシャフトとにより回転運動に変える。燃焼ガスは充分に膨張したのち、外部に排気される。
内燃機関のレシプロエンジンは様々に分類されるが、主な分類法を列記すると以下のようなものがある。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
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正規表現
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正規表現(せいきひょうげん、英: regular expression)は、文字列の集合を一つの文字列で表現する方法の一つである。正則表現()とも呼ばれ、形式言語理論の分野では比較的こちらの訳語の方が使われる。まれに正則式()あるいは正規式()と呼ばれることもある。
もともと正規表現は形式言語理論において正規言語を表すための手段として導入された。形式言語理論では、形式言語が正規言語であることと正規表現によって表せることは同値である。
その後正規表現は単機能の文字列探索ツールやテキストエディタ、ワードプロセッサなどのアプリケーションで、マッチさせるべき対象を表すために使用されるようになり、表せるパターンの種類を増やすために本来の正規表現にはないさまざまな記法が新たに付け加えられた。このような拡張された正規表現には正規言語ではない文字列も表せるものも多く、ゆえに正規表現という名前は実態に即していない面もあるが、伝統的に正規表現と呼ばれ続けている。
この記事では主にこのような正規表現を用いたパターンマッチングについて説明している。以下、誤解のない限り、アプリケーションやプログラミングにおいて正規表現を用いた文字列のパターンマッチングを行う機能のことを、単に正規表現という。
ほとんどのプログラミング言語では、ライブラリによって正規表現を使うことができる他、一部の言語では正規表現のリテラルもある。「正規表現によるマッチ」を意味する(専用の)演算子がある言語なども一部ある。具体例として、grep, AWK, sed, Perl, Tcl, lex などがある。
それぞれの言語やアプリケーションで細部の仕様が異なっている、といったように思われることも多いが(古い実装では実際にそのようなことも多い)、近年は同じライブラリを使っていれば同じということも多い。またPOSIXなど標準もある。
理論的に明解であり扱いも容易であるため、形式的な説明を先に述べる。
記号(アルファベット) A = { a 1 , ... , a n } {\displaystyle A=\{a_{1},\dots ,a_{n}\}} 上の正規表現は次のようなものから成る。正規表現があらわす記号列(アルファベット列)の集合によって形式言語が定義される。
正規表現の定義に、次の項目を含めることもある:
正規表現 ε {\displaystyle \varepsilon } の表す集合は正規表現 ∅ ∗ {\displaystyle \varnothing *} の表す集合に等しいので、 ε {\displaystyle \varepsilon } を正規表現の定義に含めなくても ∅ ∗ {\displaystyle \varnothing *} で代用できる。
X ∣ Y {\displaystyle X\mid Y} の代わりに X + Y {\displaystyle X+Y} と書くことや、 X Y {\displaystyle XY} の代わりに X ⋅ Y {\displaystyle X\cdot Y} と書くこともある。また、「 ∣ {\displaystyle \mid } 」や「 ∗ {\displaystyle *} 」の優先順位を明確にするために、補助的なカッコも(上述の定義には含めていないが)必要である。
以下ではもっぱらよく使われているライブラリやツールなどの実用的な観点から説明する。
例えば、「Handel」「Hendel」「Haendel」という3つの文字列を含む集合は「H(e|ae?)ndel」というパターンで表現できる(あるいは、パターンは個々の3つの文字列にマッチすると言われる)。ほとんどの形式では、もし特定の集合にマッチする何らかの正規表現が存在すれば、無限の数のそのような表現がある。ほとんどの形式では正規表現を構築するために次の演算子を提供している。
これらの構文は任意の複雑な表現を形成するために組み合わされて使用される。
正規表現の起源は、言語学と、理論計算機科学の一分野であるオートマトン理論や形式言語理論にみることができる。20世紀の言語学では数理的に言語を扱う数理言語学が発展しその過程の一部として、また後者は計算のモデル化(オートマトン)や形式言語の分類方法などを扱う学術分野である。数学者のスティーヴン・クリーネは1950年代に正規集合と呼ばれる独自の数学的表記法を用い、これらの分野のモデルを記述した。
Unix系のツールに広まったのは、ケン・トンプソンがテキストファイル中のパターンにマッチさせる手段として、この表記法をエディタQEDに導入したことなどに始まる。彼はこの機能をUNIXのエディタedにも追加し、後に一般的な検索ツールであるgrepの正規表現へと受け継がれていった。これ以降、トンプソンの正規表現の適用にならい、多くのUnix系のツールがこの方法を採用した(例えば expr, awk, Emacs, vi, lex, Perl など)。
PerlとTclの正規表現はヘンリー・スペンサーによって書かれたものから派生している(Perlは後にスペンサーの正規表現を拡張し、多くの機能を追加した)。フィリップ・ヘーゼルはPerlの正規表現とほぼ互換のものを実装する試みとしてPerl Compatible Regular Expressions (PCRE) を開発した。これはPHPやApacheなどといった新しいツールで使用されている。
Rakuでは、正規表現の機能を改善してその適用範囲や能力を高め、Parsing Expression Grammarを定義できるようにする努力がなされた。この結果として、Raku文法の定義だけでなくプログラマのツールとしても使用できる、Perl 6 rulesと呼ばれる小言語が生み出された。
(本来の)正規表現からの拡張は各種あり便利であるがその多くは、(本来の)正規言語から逸脱するものであり、キャプチャなどが代表例である。なお、正規言語から逸脱しないことによって理論的な扱いが可能になるという利点があるため、例えば「非包含オペレータ」の提案ではそういった観点からの理由も挙げられている。
Rakuに限らずいくつかの実装では、(Perlではsubpatternと呼んでいる)部分パターンの定義とその再帰的な呼出しにより、例えばカッコの対応などといった(本来の)正規表現では不可能なパターンも表現できる。これは、対象部分にマッチした文字列が捕獲され、後から利用できるキャプチャとは異なり、パターンそのものの定義と利用である。PHP, Perl, Python(regexライブラリ), Ruby などで利用できる。
UNIXの標準であるPOSIXでは、単純正規表現、基本正規表現、拡張正規表現の3種類の記法が示されている。このうち、単純正規表現は「歴史的」また「レガシー」と書かれており、後方互換性を提供するものとされ、標準の将来の版では廃止され得ると注意されている。
単純正規表現はSREとも呼ばれる。その仕様は「regexp.h」のマニュアルページとして示されている。
基本正規表現はBREとも呼ばれる。ほとんどの正規表現を利用する UNIXのユーティリティ(grepやsed)のデフォルトはこれである。
この文法では、ほとんどの文字はリテラル(機能を意味せず書かれたそのまま)に扱われる。つまり、ある文字はその文字にのみマッチする。例えば、正規表現「a」は文字「a」にマッチし、正規表現「(bc」は文字列「(bc」にマッチするなど。例外はメタ文字と呼ばれる。
古いバージョンのgrepは選言演算子「\|」をサポートしていない。
例
符号点の範囲によってたとえば「アルファベット大文字」などを表現しようとすることは、時に問題をひきおこす。たとえばロケールに依存する例として、エストニア語のアルファベット順では、文字「s」の後に「z」があり、その後は「t」「u」「v」「w」「x」「y」と続くので、正規表現「[a-z]」ではすべての言語のすべてのアルファベット小文字にマッチするわけではない。そのため、POSIX 標準では次の表に示されているクラス、つまり文字の区分を定義している。
例:正規表現「[[:upper:]ab]」は英語の大文字「A」〜「Z」と「a」と「b」のうち1文字のみにマッチする。
いくつかのツールで使用できる、POSIX にないクラスとして「[:word:]」がある。「[:word:]」は通常「[:alnum:]」とアンダースコアからなる。これらが多くのプログラミング言語で識別子として使用できる文字であることを反映している。
拡張正規表現はEREとも呼ばれる。より現代的な拡張正規表現は多くの場合、現在の UNIXのユーティリティでコマンドラインオプションに「-E」を含めることで使用できる。
POSIXの拡張正規表現は伝統的な UNIX の正規表現に似ているが、いくつかの点で異なっている。
例えば、拡張正規表現「a\.(\(|\))」は文字列「a.)」や文字列「a.(」にマッチする。
GNU findコマンドにおけるデフォルトの正規表現文法としても用いられる。(findutils-4.2.28)
GNU Emacs Manual - Regexps
PerlはPOSIXの拡張正規表現さえも上回る豊富な文法を持っている。その例として、POSIXとは異なり、Perlの正規表現には「非欲張り量指定子」がある。標準の「*」は、例えば、正規表現「a.*b」の「.*」はできるだけ長い文字列にマッチしようとする。このふるまいを「貪欲」という。たとえば文字列「a bad dab」にマッチさせると、全体にマッチする。これに対し、Perlでは使うことができる正規表現「a.*?b」の「.*?」は、マッチするのであれば、できるだけ短い文字列にマッチする。たとえば文字列「a bad dab」に対して「a b」にだけマッチする。これを「非欲張り量指定子」と言う。
また、Perlには以下の定義済み文字クラスがある。
すぐれた機能をもつPerlの拡張正規表現は、多くのプログラミング言語やソフトウェアで採りいれられている。例えば、JavaのPatternクラス、Python、Rubyなどがそうである。しかし、これらがPerlの正規表現と完全に互換である訳ではない。また、Perl Compatible Regular Expressions (PCRE) と呼ばれる汎用の正規表現ライブラリはアプリケーションに組み込まれ、Perlの正規表現とほぼ互換の機能を提供する。
言語処理系やアプリケーションが正規表現をサポートしていない場合であっても、正規表現に必要な処理を提供する外部ライブラリを導入することで正規表現を使うことができる。以下にその一例を挙げておく。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E8%A1%A8%E7%8F%BE
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マハーラーシュトラ州
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マハーラーシュトラ州(マハーラーシュトラしゅう、Maharashtra、महाराष्ट्र、「偉大な国」の意)は、西インドに位置するインドの州のひとつ。人口は約1億1,237万人。州の公用語はマラーティー語。州都はムンバイ(Mumbai、ボンベイ)。
ムンバイはインドの経済と芸能の中心で、政治の中心であるデリーと国としての機能をわけている。
南にゴア州とカルナータカ州、東南にアーンドラ・プラデーシュ州、北にグジャラート州とマディヤ・プラデーシュ州、東にチャッティースガル州、西にアラビア海がある。
ヒンドゥー教徒の英雄チャトラパティ・シヴァージーやバージー・ラーオ、独立運動家のマハーデーヴ・ゴーヴィンド・ラーナデーやロークマンニャ・ティラクなどの人物を輩出した。
2008年11月、州都のムンバイでムンバイ同時多発テロが発生した。
2021年7月、州内で集中豪雨が発生。ムンバイの南方の地域では地すべり性崩壊も発生した。州内の死者・行方不明者が200人を超え、約23万人が避難を余儀なくされた。2023年7月にも州内で集中豪雨があり、地すべりにより死者・行方不明者100人以上の被害が出ている。
35県からなり、6つの郡(アムラバティ郡、アウランガーバード郡、コンカン郡、ナーグプル郡、ナーシク郡、プネー郡)に大別される。
マラーティー人など。
言語はマラーティー語である。マラーティー語はヒンディ語とよく似ており、多少の疎通が可能である。 また、英語も広く通じる。
ヒンドゥー教徒、スンナ派、ジャイナ教(en:Jainism in Maharashtra)、キリスト教(en:East Indians、en:Marathi Christians)、シク教、仏教(新仏教運動)、ゾロアスター教(パールシー、en:Irani (India))、ユダヤ教(ベネ・イスラエル)。
マハーラーシュトラ州はインドで最も経済発展が進んだ州のひとつである。強力に工業化された経済、国内最大の電力生産・消費高を誇る。
世界最大の規模にあるインド映画産業のうち、北インドを中心に各地で上映されているヒンディー語の娯楽映画の業界は一般的にボリウッドと呼ばれ、その中心がマハーラーシュトラ州の州都ムンバイーにある巨大な映画撮影所(フィルム・シティ)だとされている。
2021-22年のGDPは31兆ルピー(4306億ドル)であり、インドで1位である。ムンバイは金融都市として、プネは教育都市として発展している。
政府の統計によれば、2019年10月から2022年6月までの間の外国直接投資(FDI)の額は444億ドルであり、インド全体のFDIの28%を占める。
ムンバイの160km沖合でインド最大のボンベイハイ油田(英語版)(マラーティー語: बॉम्बे हाय - 英語: Bombay High、ムンバイハイ油田)が1974年から生産している。
ムンバイのトロンベイ(英語版)(Trombay)地区にあるバーバ原子核研究センター(カンナダ語版、英語版)(Bhabha Atomic Research Center, BARC)はインドの核開発の中枢を担う(インドの核実験 (1974年)、インドの核実験 (1998年))。
農業は、州内の基幹産業の一つであるが、干ばつや不十分なインフラ、農作物の価格低迷により農民は苦しい経営を強いられている。2018年には、不作による収入減を苦にして数か月に600人以上の農民が自殺する事態となり、国の人監視機関は州と中央政府に調査と対応を勧告する事態となっている。
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ノルディック
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ノルディック (Nordic)
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2,939 |
パターンマッチング
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パターンマッチング(英: Pattern matching、パターン照合)とは、データを検索する場合に、特定のパターンが出現するかどうか、またどこに出現するかを特定する手法のことである。
文字列のパターンマッチングには、固定されたパターンの検索ではKMP法やBM法など各種の文字列探索アルゴリズムがある。また正規表現を利用する手法も多数提案されている。
画像や動画に対するパターンマッチングの研究も行われている。だが、パターンマッチングはあらかじめ人が打っておかなくてはいけないため人工知能とは別で機械が自分で考えているわけではない(そもそも「考える」ということを形式的に定義することは不可能なので、この段落の後半の「だが、」以降は、単にどこかの誰かの考える「人工知能」という語に関する主観の表明に過ぎず、意味があることを何も述べてはいない)。
いくつかの高水準プログラミング言語には、多分岐の一種で、場合分けと同時に構成要素の取り出しのできる言語機能があり、パターンマッチと呼ばれている。Haskellでの例を示す。
なお、この例の listSumCase は expression style、listSumPtn は declaration style である。
パターンマッチング構造を備えた初期のプログラミング言語には、COMIT (1957)、SNOBOL (1962)、Refal (1968)、ツリーベースのパターンマッチング、Prolog (1972)、 SASL (1976)、NPL (1977)、およびKRC (1981)がある。
多くのテキストエディタはさまざまな種類のパターンマッチングをサポートしている。QEDエディタは正規表現検索をサポートし、一部のバージョンのTECOでは、検索でOR演算子をサポートしている。
数式処理システムは通常、代数式のパターンマッチングをサポートしている。
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2,941 |
プネー
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プネー(マラーティー語: पुणे, 英語: Pune)は、デカン高原に位置するインド・マハーラーシュトラ州、プネー県(英語版)の都市。同州で二番目に大きな都市。 植民地時代に付けられた英語名称「プーナ(Poona)」も以前は公的な名称として併用されていたが、1999年に現地マラーティー語での名称「プネー」が公式名称として採用された。現在でもプーナの名称は非公式ながら広く使われている。(なお、前述の両名称を混同した「プーネ」という表記は誤りである。)
2010年の都市的地域の人口は493万人であり、世界第60位、同国では第8位である。海抜600メートルの高原にあるため、大都市の富裕層の避暑地として発達した。金融と経済の中心であるムンバイの南170kmに位置し、インド国内の各主要都市と空路・鉄道・陸路で結ばれている。 町の40% が緑に覆われ、インドでもっとも緑の多い街の一つであり、インドで最も安全な都市とも言われている。
18世紀には、ムガル帝国に代わってインドの覇権を握ったマラーター王国の宰相府があった。 英領時代から「東のオックスフォード」「インドのオックスフォード」として知られる教育・研究の中心地で、インドで最も多くの研究機関が存在する。多くの有名な研究施設や高等教育機関があり、インド国内のみならず、世界中から学生が集まる。プネー市内にはインド最大の科学コミュニティが存在している。
また、工業やビジネスの中心でもあり、IT産業を中心にインドでもっとも目覚しい発展を遂げており、多くのIT産業やソフトウエア開発会社の本部がある。市内に国際レベルの教育施設が立地することから、インド政府は、プネーをIT開発の中心的都市と位置付けた。ハイテク機器のベンガルールとならんで示され、近年は「東のシリコンバレー」といわれている。PCの家庭普及率はインド全国1位で、インド国内での生活水準の高さを示している。
20世紀前半にヨーロッパに影響を与えた神秘家のメヘル・バーバーが過ごした。また、マハトマ・ガンディーが一時期監禁された場所でもある。
詳細はプネーの歴史((英語版))を参照。
大都市地域における自治都市(Municipal Corporation)として、Pune Municipal Corporationがある。日本では単にプネー市と表記される。
「東のオックスフォード」「インドのオックスフォード」として知られる学術都市。2008年には、オックスフォード大学のJohn Hood学長が、プネー地区のラバサ(Lavasa)に、同大学のビジネスコースに所属するOxford University India Business Centre (OUIBC)を設置すると発表した。オックスフォード大学が海外に施設を置くのは、800年の歴史の中ではじめてのことである。OUIBCでは企業経営のマネージメントプログラムを開設し、教授陣もイギリスから招くとのこと。
国立レベルの研究開発センターはじめ NCL, Tropical Meteorology, DRDO, TCS, IUCAA, などの研究機関がある。インドで最も権威があるIT研究開発機関であるC-DAC (Center for Development of Advanced Computing)の本部もプネー市内にある。プネーは、「熱心な者たちが崇高な目的のために集まる巣箱」として、マハトマ・ガンディーに評された。1857年には、気象庁がシムラーからプネーに移転した。
大学は、名門のプネー大学(英語版)以外にも17校の工科大学があり、毎年数多くのITエンジニアを世に送り出している。
1000年もの歴史を持つプネーは「マハーラーシュトラ州の文化的首都」とも呼ばれており、要塞跡や宮殿、庭園など、多数の名所がある。シンハガド要塞、ケールカル博物館、アーガー・ハーン宮殿、パールヴァティー寺院、シャニワール・ワーダー宮殿跡などが有名である。
祭典では、8月末または9月始めに行われるガネーシュ・フェスティバルが有名。満月を最終日として10日間行われる。もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてインド国民会議派初代議長のティラクにより計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。
20世紀の神秘家として知られるオショウが多くの期間をここで過ごし、肉体を離れたオショウ・コミューンがあり、現在観光ルートの一つになっている。
インドのパールシーのほとんどがムンバイまたはプネーに暮らしている。3つ程のゾロアスター教の寺院があり、ゾロアスターが点火したといわれる炎がイランから持ち運ばれて燃え続けている。異教徒は寺院に入ることは出来ない。ゾロアスター教徒はビジネスで成功している裕福な階級が多く、ムンバイとプネーの両方に家を持っている人も多い。
バドミントンは植民地時代にプネーで行なわれていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う遊びをイギリス人が本国に紹介したのが起源とされる。
プネーはKoynaダム(英語版)の周りの地震活動が活発な地帯に非常に近く位置している。プネーは、その歴史の中でいくつかの中程度の震度と、多くの低強度の地震を経験した。
プネーで発生したマグニチュード3.0以上の地震を以下に示す。
インドの他の都市同様、夏季・涼季・雨季(モンスーン)の3つの季節に分かれている。
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2,942 |
ブレードランナー
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『ブレードランナー』(原題:Blade Runner)は、1982年のアメリカ合衆国のSF映画。監督はリドリー・スコット、出演はハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングなど。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としている。
21世紀初頭、遺伝子工学技術の進歩により、タイレル社はロボットに代わるレプリカントと呼ばれる人造人間を発明した。彼らは優れた体力に、創造した科学者と同等の高い知性を持っていた。
環境破壊により人類の大半は宇宙の植民地(オフワールド)に移住し、レプリカントは宇宙開拓の前線で過酷な奴隷労働や戦闘に従事していた。しかし、彼らには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻す事件が発生する。そのため、最新の「ネクサス6型」には、安全装置として4年の寿命年限が与えられたが、脱走し人間社会に紛れ込もうとするレプリカントが後を絶たず、地球へ脱走した彼らは違法な存在と宣告された。そんな脱走レプリカント達を判別し見つけ出した上で「解任(抹殺)」する任務を負うのが、警察の専任捜査官「ブレードランナー」であった。
2019年11月のロサンゼルス。地球に残った人々は酸性雨の降りしきる、高層ビル群が立ち並んだ人口過密の大都市での生活を強いられていた。ネクサス6型レプリカントの一団がオフワールドで反乱を起こし、人間を殺害して逃走、シャトルを奪い密かに地球に帰還した。タイレル社に入り込んで身分を書き換え、潜伏したレプリカントの男女4名(ロイ・バッティ、リオン、ゾーラ、プリス)を見つけ出すため、ロサンゼルス市警のブレードランナーであるホールデンが捜査にあたっていたが、リオンの反撃にあい負傷する。上司であるブライアントはガフを使いに出し、既にブレードランナーを退職していたリック・デッカードを呼び戻す。彼は情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書であるレイチェルもまたレプリカントであることを見抜く。レイチェルはデッカードの自宅アパートに押しかけ問いただした結果、人間だと思っていた自分の記憶が作られたものだと知り、自己認識が揺さぶられ涙を流して飛び出してしまう。そんな彼女にデッカードは惹かれていく。
デッカードは、リオンが潜んでいたアパートの証拠物から足跡をたどり、歓楽街のバーで踊り子に扮していたゾーラを発見、追跡の末に射殺する。現場にブライアントとガフが訪れ、レイチェルがタイレル博士のもとを脱走したことを告げ、彼女も「解任」するよう命令される。その直後リオンに襲われて銃を落とすが、駆けつけたレイチェルが銃を拾ってリオンを射殺した事でデッカードは命拾いする。彼はレイチェルを自宅へ招き、彼女が自分のことも「解任」するのか問うと「自分はやらないが、他の誰かがやる」と告げる。そして未経験の感情に脅えるレイチェルにキスし、熱く抱擁する。一方反逆レプリカントのリーダーであるバッティは眼球技師のチュウを脅して掴んだ情報をもとに、プリスを通じてタイレル社の技師J・F・セバスチャンに近づき、さらに彼を仲介役にして、本社ビル最上階に住むタイレル博士と対面する。バッティは地球潜入の目的である、自分たちの残り少ない寿命を伸ばすよう依頼するが、博士は技術的に不可能であり、限られた命を全うしろと告げる。絶望したバッティは博士の眼を潰して殺し、セバスチャンをも殺して姿を消す。
タイレル博士とセバスチャン殺害の報を聞いたデッカードは、セバスチャンの高層アパートへ踏み込み、部屋に潜んでいたプリスを格闘の末に射殺。そこへ戻ってきたバッティと最後の対決に臨む。優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、デッカードはアパートの屋上へ逃れ、隣のビルへ飛び移ろうとして転落寸前となる。しかし、寿命の到来を悟ったバッティは突如デッカードを救い上げ、最期の言葉を述べた後、穏やかな笑みを浮かべながら事切れた。現場に現れたガフが不穏な言葉を告げ、デッカードはレイチェルにも同じ運命が待っているのではないかと慌てて自宅へ戻るが、彼女は生きていた。デッカードはレイチェルを連れ出し、逃避行へと旅立った。
ネオ・ノワールを基調とした暗く退廃的な近未来のビジュアルは、公開当初こそ人気を得なかったものの、後発のSF作品に大きな影響を与え、所謂「サイバーパンク」の代表作の一つと見なされている。シド・ミードの美術デザイン、ダグラス・トランブルのVFX、メビウスの衣装デザイン、ヴァンゲリスのシンセサイザーを効果的に使用した音楽も独自の世界観の確立に貢献した。
リドリー・スコットが「彼女は完璧だった」と評したレイチェル役のショーン・ヤング、そしてプリス役のダリル・ハンナも本作をきっかけに注目されるようになった。
作中の風景に日本語が多く描かれている理由は、スコットが来日した際に訪れた新宿歌舞伎町の様子をヒントにしたとされている。このことが日本人観客の興味をひくことになり、これらのシーンへのオマージュ・議論が生まれることになった。また、スコットは都市の外観は香港をモデルにしていることを述べている。なお、香港のショウ・ブラザーズが制作費の大半を出資したために本作は事実上アメリカ・香港合作であり、ショウ・ブラザーズの創設者である邵逸夫は本作で製作総指揮にクレジットされている。
1993年にアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。2007年、視覚効果協会が発表した「視覚効果面で最も影響力がある50本の映画」で第2位にランクインした。2014年、イギリスの情報誌『タイム・アウト(英語版)』ロンドン版にてアルフォンソ・キュアロン、ジョン・カーペンター、ギレルモ・デル・トロ、エドガー・ライトら映画監督、作家のスティーヴン・キング、ほか科学者や評論家150名が選定した「SF映画ベスト100」にて、第2位にランクインした。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とは設定や登場人物、物語の展開、結末などが翻案により大きく異なっており、原作というよりは原案に近い扱いである。
1968年の原作発表後から程なくして、いくつかの映画化交渉が持ち上がったが、いずれも不成立に終わっていた。1975年、ハンプトン・ファンチャーは作者のフィリップ・K・ディックとの交渉を行ったものの成立せず、友人のブライアン・ケリーが交渉にあたり、1977年に承諾を取り付けた。ディック自身は制作会社に映画化権を売った後は関与していないが、ファンチャーが書き上げた草稿に彼は良い返事を出さず、何度も改稿が行われた。撮影開始後も映画の出来を不安視し、ノベライズ版の執筆も断っていたが、2019年のロサンゼルスを描いたVFXシーンのラッシュ試写を観て「まさに私が想像したとおりものだ!」と喜んだという。監督のスコットは、就任にあたって全く原作を読んでいなかったが、作品の世界観についてディックと何度も議論を交わしたことで、彼は映画の出来に確信を持つようになり、制作会社に「我々の"SFとは何であるか"という概念にとって革命的な作品となるだろう」と期待の手紙を送っている。本作は『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』に先立つ、ディック作品の初映画化となったが、本人は完成を待たず1982年3月2日に死去した。
本作に登場する「ブレードランナー」と「レプリカント(英語版)」は、原作には登場しない映画オリジナル用語である。
「ブレードランナー」という名称は、SF作家アラン・E・ナースの小説『The Bladerunner』(1974年)において「非合法医療器具(blade)の運び屋(runner)」という意味で登場する。この小説を元にウィリアム・S・バロウズは映画化用の翻案として『Blade Runner (a movie)』(1979年、訳題『映画:ブレードランナー』)を執筆した。関連書籍『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』記載のスコットのインタビューによれば、本作の制作陣はデッカードにふさわしい職業名を探すうちにバロウズの小説を見つけ、本のタイトルのみを借り受けることに決めたという。いずれの小説も物語自体は、ディックの原作および映画とも全く関連はないが、作品タイトルとするにあたり、ナースとバロウズに使用権料を払い、エンドクレジットに謝辞を記している。なお初期タイトルは『デンジャラス・デイズ(Dangerous Days)』であった(このタイトルは後にメイキング・ドキュメンタリーのタイトルに使用されている)。
「レプリカント(replicant)」という名称については、原作の「アンドロイド」が機械を連想させることと、観客に先入観を持たれたくないと考えたスコットが、ファンチャーに代わって起用した脚本のデヴィッド・ピープルズに別の名前を考えるように依頼。生化学を学んでいた娘からクローン技術の「レプリケーション(細胞複製)」という用語を教わり、そこから「レプリカント」という言葉を創造した。以降、(創作における)人造人間を指す用語として辞書にも掲載されるなど、定着している。
「フォークト=カンプフ(Voight-Kampff)」検査は人間とレプリカントを区別するための架空の検査法で、そのための唯一の方法である。この時代に生きる人間の感情を大きく揺さぶるような質問を繰り返し、それに対して起きる肉体的反応を計測することで、対象が人間かレプリカントであるかを判別することができる、とされている。
検査は専用の分析装置を用いることによって行われ、装置は本体に黒い大きな蛇腹状のパーツと数種類のモニタを備え、本体から伸びる伸縮式のアームの先には反射鏡式光学照準装置のようなものが取り付けられている。アーム先端の装置には虹彩を計測するビデオカメラを内蔵しており、収縮する蛇腹状のパーツは「対象者の身体表面より発散される粒子を収集するための装置」である。
劇中では、リオンとレイチェルがこれによりテストを受けているシーンがあり、デッカードとタイレルの会話において、レプリカントであるか否かを判定するためには通常2~30項目の質問が必要になる、と述べられているが、レイチェルがレプリカントであることを判定するには100項目以上の質問が必要であった。この描写から、質問項目に対する反応は「自分がレプリカントという自覚があるかどうか」に大きく左右されること、「記憶」の内容(レプリカントの場合は記憶として「移植」されたものの内容)によっては、レプリカントであるか否かの判定が容易には行えなくなり、テストの正確性が大きく揺らぐことがわかる。
撮影中の脚本やスケジュールの変更、単純なミスなどにより、劇中では整合性のとれない箇所がいくつかみられる。当初、本作の年代設定は2020年だった。しかし、英語において「Twenty-Twenty」が視力検査で少数視力でいうところの1.0を表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された。そのため登場するレプリカントの寿命に1年のズレがあるという矛盾が生じたが、気付かれずにそのまま撮影されてしまった。
ミスの中で生まれたものとして有名なのが「6人目のレプリカントはどこに行ったのか?」という問題である。警察署のシーンでブライアントは、地球に侵入したレプリカントは「男3人、女3人の計6名」であり、「うち1名は既に死亡している」と説明している。残りは5名となるはずだが、彼は「4名が潜伏中」と言い、劇中でもそれしか登場しない。
ファンチャーの脚本では5人目のレプリカント「ホッジ」と6人目の「メアリー」が設定されており、後者については配役も決まっていたが(ステーシー・ネルキン(英語版)が演じる予定だった)、予算の都合で撮影されなかった。しかし、ポストプロダクションで台詞の差し替えをしなかったため、ブライアントの説明に矛盾が生じる結果となった。その後、彼の台詞は『ファイナル・カット』において「2名が既に死亡」に修整された。
続編として発表された小説『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』は、この6人目のレプリカントに関する物語になっている。また、当初はタイレル博士もレプリカントだという設定だった(後述)。
上述の6人目のレプリカント問題に関して、「6人目とはデッカード自身ではないのか?」という考察が生まれたが、これは実際は制作上のミスによるもので、意図的な表現では無い。スコット自身は「デッカード=レプリカント」というアイデアを撮影中に気に入り、それを示唆する表現である「デッカードが見るユニコーンの夢」のシーンを撮影作業終盤に撮影し、劇場公開版に入れようとした。しかし当時のプロデューサー達は「芸術的すぎる」と拒否した。
このシーンは『ディレクターズ・カット』において初めて追加され、ラストシーンのガフが作ったユニコーンの折り紙と結びつくことによって、「デッカードの夢の内容が知られている=彼の記憶は作られたものである=デッカードもレプリカントである」という可能性を示唆した。スコット自身は、2000年にイギリスのChannel 4 Televisionが制作したドキュメンタリー『ON THE EDGE OF BLADE RUNNER』のインタビューにおいて「デッカードはレプリカントだ」と明言している。また、『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』掲載のインタビューでは他のヒント(家族写真やデッカードの赤目現象シーン)も挙げた上で、より人間に近いネクサス7型レプリカントというアイデアを示唆している。またオーディオコメンタリーにおいては、「続編は無い」とした上で「もし続編があれば、デッカードをレプリカントにしようと思った」とも語っていた。しかし2017年の4K ULTRA HD版収録の、オーディオコメンタリーにおいては「続編を作りたい」と語り、またラストシーンについては「デッカードとレイチェルがネクサス7型や8型なら生き延びたろうね」とも述べている。
ただしスコットの見解に対する関係者の意見は様々である。ガフを演じたエドワード・ジェームズ・オルモスはスコットと同じ意見で、ユニコーンの夢を根拠にデッカードがレプリカントなのは明らかだと明言する一方、脚本のファンチャーは人間説を唱え、スコットと論争を続けるフォードもまた、観客はデッカードを応援したいはずだという理由で、レプリカントであるということを否定している。しかし後にフォードは私は、ずっと彼がレプリカントだと知っていましたとも証言しており、レプリカントは自分自身を人間だと信じたいものであり、デッカードを演じて抗いたい思いもあったと述べている。またデッカードがレプリカントというアイデアは撮影途中でスコットが思いついたことで、当初はそのように考えて撮影されていなかったとされ、フォードもレプリカントだとは指示を受けておらず、撮影時には人間として演じたという。
以上のように諸々の経緯はあるが、「デッカード=レプリカント説」を断定出来るような描写はどの版の劇中にも存在しない。
フォードは、この映画については長年否定的であった。これは、興行的に失敗したことの他に、撮影が一旦終了したにも拘らず、何度も追加撮影のために呼ばれたのに我慢ができなくなったことによるという。
また、レイチェル役のショーン・ヤングが、撮影中にフォードから乱暴に扱われたという理由で、不仲のまま撮影が行われたという経緯がある。ディレクターズ・カットが公開された1992年には、「デッカード=レプリカント説」をめぐってスコットと揉めたこともあった。こうした経緯があり、長い間作品の事を語りたがらなかった。しかしある時期からは「本作以降出演作を自由に選べるようになった」と述べるなど、態度を軟化させるようになり、積極的ではないがインタビュー等にも答えている。その後、続編となる『ブレードランナー 2049』への出演も快諾した。
映画『エイリアン』のSEや、救命艇ナルキッソス号が母船ノストロモ号から切り離される際のシークエンスで表示されるモニター画像をさりげなく挿入するなど、スコットのお遊びが散見される。ディックの小説『高い城の男』の世界観(枢軸国が勝利した世界)が想定されている可能性がある。
レプリカントのリーダー、バッティ役のルトガー・ハウアーは人造人間の狂気と悲哀を好演した。ラストの独白シーンの台詞や演出は、本来の台本が長すぎると感じた彼が撮影時に提案したアドリブで、要約したピープルズの脚本に独自の台詞を加えて完成した。モノローグ「雨の中の涙」(Tears in rain monologue)として知られる。このシーンを撮り終えると拍手が起こりスタッフも涙していたという。また白い鳩が飛び立つ描写もハウアーのアイデアだった。
ガフがデッカードに呼び掛ける「彼女も生きられずに残念ですな。だが、誰もがそうかもしれない」という台詞も、演じたオルモスによって付け足され、脚本にあった「お見事ですな」に続けて去り際に言った言葉が、思いもかけず完成した映画に残されたという。
ロサンゼルスの街にさまざまな人種が入り乱れて生活する様子を描写するため、日本語をはじめとする多国語の看板、日本語を話す店主が切り盛りする露店、日本語による話し声が多用されている。また、「ふたつで十分ですよ」とハリソン・フォードとやりとりしている寿司屋の主人ハウイー・リーは、ロバート・オカザキという日系アメリカ人俳優である。以下に代表的なものを挙げる。
またミニチュア・クルーによる演出外の趣向として、『未知との遭遇』のマザーシップや、『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコン号、そして『ダーク・スター』の模型が画面に登場する。
監督のリドリー・スコットはSFホラー『エイリアン』(1979年)に次ぐSF作品となる本作でも、卓越した映像センスを発揮した。従来のSF映画にありがちだったクリーンでハイテクな未来都市のイメージを打ち破り、環境汚染にまみれた酸性雨の降りしきる、退廃的な近未来の大都市を描いた。これは、シナリオ初稿を書いた、ハンプトン・ファンチャーが、フランスの漫画家メビウスが描いたバンド・デシネ短編作品『ロング・トゥモロー』(原作は『エイリアン』の脚本家ダン・オバノン)での、「混沌とした未来社会でのフィリップ・マーロウ的な探偵の物語」をイメージしていたためだった。
劇中の無国籍で混沌としたロサンゼルスのイメージは、メビウスの作品そのものである。スコットは映画のスタッフにメビウスの参加を熱望したが、アニメーション『時の支配者(フランス語版)』の作業に携わっていた彼は、衣装デザインのみの参加となった。また、インタビューでは度々エンキ・ビラルの作品の世界観を参考にしたとの発言が出ている。
本作を特徴づけているものの一つが、「ビジュアル・フューチャリスト」ことシド・ミードによる一連のデザインである。
ミードは最初は作品に登場する車両のデザイナーとして着目され、起用された。1979年に出版された個人画集の中の1枚である「雨の降る未来の高速道路の情景」に目を留めたリドリー・スコットが、作中に登場する未来の自動車のデザインを依頼したことがきっかけであった。
当初はミードは車両のみを担当する予定であったが、ミードは自身のデザインに対する姿勢として「工業製品は、それが使用される状況や環境とセットでデザインされなければならない」というポリシーを持っており、「未来の乗用車」のカラーイラストの背景に描かれた未来都市のイメージに魅了されたスコットは、車両以外にも室内インテリア、未来の銃、パーキングメーター、ショーウィンドー等のセットや小道具のデザインを依頼し、さらに建築、都市の外観、列車や駅、コンピュータ等のインターフェースに至る、作中に登場するありとあらゆる工業製品のデザインを依頼した。
ただし、ミードが本作のためにデザインしたものが全て劇中で使われたわけではなく、幾つかのものはスコットにより「未来的にすぎる」という理由で却下されている。未来の銃(後述「#デッカードブラスター」参照)や、医療用のカプセル型ベッド(後述「#没シーン」参照)等である。
ミードはこれまでも美術やメカデザイン等で映画に参加していたが、本作で初めて以降の肩書きである「ビジュアル・フューチャリスト」を名乗り、またエンドロールにおける単独クレジットがなされた。
フォークト=カンプフ・マシンは、対象がレプリカントであるかどうかを判断するためにブレードランナーが使用する一種のポリグラフ(嘘発見器)で、呼吸などの身体機能を測定し、毛細血管の膨張による血流の増大や、質問に対しての心拍数および眼球運動を測定して判定する装置である。
1982年、初公開時のプレスキットの説明には
とある。
スコットはこの検査装置をデザインするにあたり、「ハイテク機器のようには見えない」「対象者を威嚇するような感じに」「デリケートな装置に見えるように」という要望を出した。ミードは彼の出した要望に対して、「自室の机の上のライトに大きなタランチュラが取り付いている」というビジュアルイメージを思い浮かび、そのイメージに従って、見た者に「生きているような感じ」を与えられるものをデザインした。デザインの意図としては「視線を合わせられ続けることの威圧感」「機械が呼吸しているように見えることへの気持ち悪さ」を感じさせることを念頭に置いている。
なお、プロップとして製作された装置にはカメラ機能はなく、モニターには実際にそのシーンで「検査」されている俳優の瞳が映っているわけではない。俳優たちの瞳のクローズアップも撮影されたが、モニタに当たる部分に投影されているのは、科学教育用フィルムの素材提供会社より調達された別人の瞳の映像である(そのため、レイチェル役のヤングは瞳がブラウンであるにもかかわらず、モニターではグリーンに映っている)。
前述のように、ミードは当初「カーデザイナー」として起用された。彼の描いたコンセプトデザインは、カスタムカーデザイナーのジーン・ウィンフィールド(英語版)によって、デッカードの乗るセダンやセバスチャンの乗るバンなど、セダンタイプのものからコンパクトカータイプのものなど、25種類に及ぶ各種の車両にリファインされた。当初は57台が製作される予定で、予算と製作期間の問題から台数は半分の25台に減らされたが、納入前に工房で火災が発生して2台が焼失し、最終的には23台が納品された。
この他、撮影所の倉庫の隅に保管されていた1960年代の中古車があり、それらは他の映画の撮影に際して様々な装飾が施されていたものだが、これらも「エキストラ」として渋滞の列に並ぶ車として用いられている。
「スピナー(Spinner)」は、劇中に登場する架空の飛行車の総称である。
通常の自動車と同じく、地上を走行することができるだけではなく、垂直に離着陸することができ、垂直離着陸機と同様のジェット推進装置を使用して浮上し、そのまま空中を飛行することができる。作中では主に警察がパトカーとして使用しているが、裕福な人々はスピナーのライセンスを取得することができる、と設定されており、警察用以外にも複数種類のスピナーが登場する。
この架空の車両は、ミードによって「揚力を得るために空気を直接下方に噴射することによって飛行する」機構を持つ、という「エアロダイン(Aerodyne)」という名称のメカニクスとして考案され、デザインされた(ただし、映画公開時の広報用資料では、スピナーは「従来の内燃機関、ジェットエンジンに加え、反重力エンジンという3つのエンジンによって推進されている」と記述されている)。
作中に登場したスピナーのうち、パトカーとして登場したものは“ポリススピナー”と通称されており、「映画『ブレードランナー』に登場した架空のメカニクス」としての“スピナー”といった場合、まずこれを指すことが多い。
ポリススピナーは各種サイズの複数のミニチュアと実物大のプロップ(劇用車)が4台製作された。なお、スピナーには左側面にレーザーガンとの設定がある武装が装備されたタイプがあるが(シド・ミードによるコンセプトデザインにも描かれている)、この通称“レーザースピナー”はミニチュアモデルしか製作されていない。
4台の実物大プロップの製作は「空を飛ばない」自動車と同じくジーン・ウィンフィールドと彼のチームが担当した。4台の内訳は、フォルクスワーゲン・ビートルのシャーシとエンジンを流用して作られた、実際に自走できる劇用車が2台、車内とコクピット周辺のみが製作された、車内シーンの撮影用モデルが1台、軽量アルミニウムで製作され、ジェット噴射のギミックが内蔵されているが自走能力はなく、クレーンで吊り下げて低空飛行および離着陸シーンを撮影するために用いられた、通称“フライングスピナー”が1台である。なお、車内シーン用のモデルはスピナーの他“デッカードセダン”の車内としても使用された。
映画の撮影が終了した後、これらのプロップは映画の宣伝に使用され、その後は他のSF映画に使用された後に処分・売却された。 自走可能なプロップのうち1台はパトロールカー・セダンと共にフロリダ州オーランドのMGMスタジオで屋外展示品とされ、劣化が進んだこともあり、1990年代の末に処分された。自走可能なプロップのもう1台は、映画撮影用車両会社の間を転々とした後、1990年代初頭にオークションへの出品を経て日本のコレクターに売却された。この車両は『ブレードランナー』撮影後に他の映画の撮影に用いられた際に塗装や細部に変更が加えられているが、オリジナルの状態を比較的保った形で現存している。個人蔵ということもあり、時折『ブレードランナー』関連のイベント等に展示される(一部のパーツのみが展示された例もある)他には一般公開はされておらず、「ポリススピナーの実物大プロップのうち1台が日本に現存している」とマニアの間で語られるのみの存在となっていたが、2017年よりは後述の“フライング・スピナー”同様にプロップを製作したウィンフィールドを交えたレストアの計画が進められ、2019年に入りメディアに現存が公表され、その詳細が紹介されている。
飛行シーン撮影用の“フライング・スピナー”は1990年代初頭に「デッカード・セダン」と共にフロリダ州のアメリカ警察殿堂博物館(英語版)(American Police Hall of Fame & Museum)に売却されたが、1992年、輸送中に大破し、部品状態で売却された。その後は不完全な修理が施されたまま宣伝用の展示品とされ、1999年には再び売却された。 21世紀に入り、2003年12月12日に開催されたオークションに出展され、マイクロソフトの創設者の一人、ポール・アレンが落札した。落札時にはオリジナルの状態を大きく損っていたが、ウィンフィールドの工房にレストアが依頼され、2004年6月に完了、アレンが開設したシアトルのSF博物館(英語版)(Science Fiction Museum & Hall of Fame)に搬入され、同博物館の目玉展示品の一つとして常設展示されている。
また、ロサンゼルスにあるピーターセン自動車博物館(英語版)(Petersen Automotive Museum)にはレプリカが展示されている。
スピナーと並んで本作品を語る上で重要な小道具として、デッカード他が使用した架空の拳銃がある。劇中に登場したものは2種類あり、冒頭でリオンがホールデンを撃つシーンで使われた「ブラックホール・ガン」の仮称で考案された、COP社の4連装小型拳銃COP .357をそのまま使用したものと、後に「デッカード・ブラスター」と通称されるようになった、ライフルとリボルバーを合わせて改造したプロップガンがある。
映画の製作にあたり、スコットは従来のSF映画でよく用いられた「明るい光線を発射するレーザー・ピストル」を避けたいと考えており、それに代わる全く新しい表現を求めていた。これに対し、特殊効果監修のデヴィッド・ドライヤーが考案したものが、「ブラックホール・ガン」であった。
これは「強力な分子破壊ビームを発射し、命中箇所を分子レベルで破壊する」というもので、画面上ではまったく光を発しない「黒いビーム(Black beam)」が銃から目標に発射され、命中すると目標は消滅する、という表現が考案された。これは、派手な血飛沫や出血を描く必要がない、という点でも良案とされた。
しかし、冒頭でリオンがホールデンを銃撃するシーンにおいて、特殊効果を挿入したカットを試験的に制作したところ、「ただの暗い筋にしか見えず、劇的効果が得られない」と判断され、このアイディアは他のシーンでは用いられなかった。
主人公のデッカードらが使っている銃については、公式な命名がなされていない。いつ、どのような経緯でそのように呼ばれるようになったかは判然としていないが、日本では1983年の初公開時の映画パンフレットにおいて「ブラスター」の名称で解説されたため、それ以降、この銃はそのように呼称されるようになった。一介の小道具であるにもかかわらず高い人気を博し、作品の公開後、数多くのプロップレプリカやモデルガンが製作されることになる。
本作品に登場するオリジナルデザインの品々の中で、この「ブラスター」はシド・ミードのデザインではない。当初彼がデザインしたモデルは前衛的に過ぎ、本作品の状況設定にそぐわず採用は見送られ、新たにCOP .357を基にしたデザインがアシスタントアートディレクターであるスティーブン・デーンにより描き起こされたが、これも採用されなかった。 なお、リオンがホールデンを撃つシーンで使われているプロップガンは、本来はデーンによるデザインに基づいて改造するために用意された銃を、ほぼそのまま使用したものである。
改めてプロップを製作するにあたり、まず参考にされたのが、映画『マッドマックス』で主人公の使う、「ソードオフ」と呼ばれる二連銃身の短縮型散弾銃である。しかし、前述の「フィリップ・マーロウ的な探偵の物語(ハードボイルド)」の作風に合わせて、拳銃前提という制約があった。実在の銃器をそのまま、もしくは多少の改造を加えて使うという妥協案も出されたが、実際に使用されたものは美術部が現物合わせでプロップを制作したもので、オーストリア製のライフルの機関部をリボルバーと合体させた上に、電飾加工を施したものである。
作品の象徴でもある、日本語で書かれた看板やネオンサインが並び、多国籍の人々が行き交う未来都市の街頭は、ワーナー・ブラザースのバーバンクスタジオにある「オールド・ニューヨーク・ストリート」と呼ばれるオープンセットを大規模に改装して作られたセットである。「リドリーヴィル(Ridleyville)」のニックネームが付けられていたこのセットには、地上6mの地点に7基の散水装置が設置されており、作品を代表するイメージの一つである「絶え間なく降り続ける酸性雨」を表現するために用いられた。これに撮影後の合成処理で超高層ビルその他を描き加え、2019年の近未来都市が作り上げられた。
その他のシーンは基本的にはロサンゼルスにある著名な建造物、もしくはスタジオセットで撮影し、撮影後に合成等の処理を施したもので、登場した建造物は2016年現在でも存在している。
ロサンゼルス・ユニオン駅で撮影された。 駅舎内を署内として使用し、舎内一角にセットを組み、ブライアントのオフィスとしている。現役で使用されている建物のため、使用できるのは営業外の夜から翌朝にかけての深夜に限定され、急いでセットを組み上げ撮影準備を完了させてから引き払い期限の午前6時までの間、純粋な撮影時間は1日あたりわずか10分程度しかなかったという。
なお、ブライアントがデッカードにレプリカントのプロフィールを説明しているシーンは、スタジオセット内で撮影されている。
劇中で複数回登場した白い内壁のトンネルは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるセカンドストリート・トンネル(英語版)である。
内壁を白い陶製のタイルで装飾したことで知られるこのトンネルは、他にも多くの映画に登場している。
デッカードの自宅シーンに使用されたのは、ロサンゼルス郊外にある邸宅、エニス邸(英語版)である。1923年に建設された、フランク・ロイド・ライトの設計による「テキスタイル・ブロック住宅」の一つで、マヤ文明の遺跡をイメージした造形の施されたコンクリートブロック壁が特徴になっており、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。実際のエニス邸は低層平屋の構造であり、郊外の高台に位置しているが、作品では合成を駆使して街中にある高層ビルに見えるように構成されている。
エニス邸は後のスコットの監督作『ブラック・レイン』においても、ヤクザの親分のスガイ邸として使われている。
J・F・セバスチャンが住むアパートとして使用されたのは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるブラッドベリ・ビルディング(英語版)である。1893年に建設され、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。映画やTVドラマのロケ地としても有名で、他のロケーションと同様、様々な作品に登場している。
作中の設定ではデッカードのアパート等と同じく超高層ビルということになっているため、外観や屋上のシーン等は合成処理で高層建築に見えるように加工されているが、内部は演出上の装飾として荒れた雰囲気に飾り付けられた以外は、玄関として映る部分をビルの北西側エントランスにセットの柱を付け足して作り変えた他は元のまま用いられている。内部が吹き抜けになっていることや、吹き抜け部分の天井がガラス張りになっていること、内廊下の外周にオープンケージタイプのエレベーターがあることも元のままであり、床や壁、手摺の装飾といったものもオリジナルのまま用いられた。
撮影に使用された際もオフィスビルとして現役で使用されており、本作の撮影は営業時間外に行われた。映画製作に使用できるのは午後6時から翌日の午前6時の間に限られ、美術設定に従って各種の装飾とウェザリングを施した後に本編の撮影を行い、使用期限の前に撮影を切り上げて装飾を撤去し施した汚し塗装を清掃、使用前の状態に戻して撤収する、というハードスケジュールが連日繰り返された。
なお、セバスチャンの部屋の内部や、デッカードとバッティの戦いの舞台となる室内部分はスタジオにセットを組んで撮影されており、デッカードが壁沿いを伝って移動するシーンや屋上でのクライマックスシーンは、ブラッドベリ・ビルの上部3階層を再現した屋外セットが作られてそこで撮影され、合成処理が施されている。
セバスチャンのアパートの玄関のシーンで後方に見える派手なネオンサインの看板は、ブラッドベリ・ビルからブロードウェイ・ストリートを挟んで向かいにある劇場、ミリオンダラー・シアター(英語版)の入場口である。ミリオンダラー・シアターではロサンゼルス歴史建造物保存協会主催の「ブレードランナー有料上映会」が2013年3月23日に一度だけ開催された。
リオンが宿泊していた「ユーコンホテル(YUKON HOTEL)」は、外観は美術スタッフの製作したミニチュアだが(このミニチュアは看板の文字を「NUYOK」と組み替えて別のシーンでも使われている)、内部はブラッドベリ・ビルの交差点を挟んで北側の斜め向かいにある、パンアメリカン・ロフトビル(PanAmerican Loft Building)で撮影された。
ハンニバル・チュウの工房は、外観はスタジオセットであるが、内部はカリフォルニア州ヴァーノンにあった食肉会社の冷凍倉庫を借りてセットを組み、実際にマイナス21度の環境として酷寒の中で撮影が行われた。セットを組み終わった後、実物の霜が張り氷柱が垂れている環境を作るために4日間を要し、予算の圧縮のために5日間が予定されていた撮影期間を2日間に短縮して行われた。
1982年6月25日に全米公開され、週末興行収入成績は初登場第2位(同年6月25日-27日付)を記録したが、2週間前に公開され大ヒットしていた『E.T.』などの影響などもあり、興行的にも同作の約7900万ドルに対して約3380万ドルと振るわなかった(皮肉にも『E.T.』の脚本を担当したのは、フォードが当時交際し、本作公開の翌年に結婚したメリッサ・マシスンである)。
当時は明朗なSF映画が主流であり、暗く退廃的な未来観は多くの観客には受けが良くなかったとされる。新聞や雑誌での評価も二分し、『ワシントン・ポスト』は「永遠の命を求める人間の不毛な努力をテーマとした心を打つシナリオから、素晴らしく超モダンなセットに至るまで、あらゆる面で偉大な作品」と賞賛した一方で、『ニューヨーク・タイムズ』は「めちゃくちゃで、ぞっとする、混乱そのものだ」と酷評した。日本でのキャッチコピーも「2020年(原文ママ)、レプリカント軍団、人類に宣戦布告!」と、あたかもアクションSFのような謳い文句であり、フォードが『帝国の逆襲』や『レイダース』で見せたような、アクションを想像した多くの観客にとっては期待外れであったとも言われ、ロードショーは軒並み不入りで、多くの劇場で早々に上映が打ち切られてしまった。
一方、名画座での上映では映画マニアからの好評を博し、渋谷パンテオンでは、3週間限定上映と告知されていたにもかかわらず、結果的に4週間に延び、その後リバイバル上映が行われるようになってからはカルト映画的な人気を得、アメリカ本国からVHSを個人輸入するほどの熱狂的なマニアも現れた。当時から普及し始めていたビデオパッケージにより、内容をより精査して繰り返し観ることが出来るようになると評価は更に高まり、ソフトも記録的なセールスとなった。日本初公開時に映画館では鑑賞特典として、小さいポスターが配られた。これは偶然にも、後年『ディレクターズ・カット』で使用されたポスターと同じである。大学生時代に劇場で鑑賞した小島秀夫は、後に本作に大きな影響を受けた『スナッチャー』、『ポリスノーツ』を制作した。
公開25周年を迎える2007年に、日本で行われたファイナルカット・カウントダウンイベントの際、来場した全ての観客にポスターやネガフィルムやフライヤーなどが配られ、劇中の広告に使用された「強力わかもと」も進呈された。また、抽選により100名限定でオリジナルTシャツ、2名限定で『ブレードランナー製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション』、3名限定で『シド・ミード・ビジュアルフューチャリストDVD』がプレゼントされた。
本作には前述のわかもと等実在企業が数多く登場した一方、史実では業績不振に陥り消滅・破産した企業もある(パンアメリカン航空、RCAなど)。一部ではこれを「ブレードランナーの呪い」と称している。
Rotten Tomatoesによれば、126件の評論のうち高評価は89%にあたる112件で、平均点は10点満点中8.5点、批評家の一致した見解は「劇場初公開当時は誤解されていた、リドリー・スコット監督のミステリアスなネオノワール映画『ブレードランナー』の影響力は時とともに深まってきている。視覚的にも並外れた、痛切なヒューマンSFの傑作。」となっている。Metacriticによれば、15件の評論のうち、高評価は13件、賛否混在は1件、低評価は1件で、平均点は100点満点中84点となっている。
本作には諸般の事情により、他映画作品では類を見ない7つの異なるバージョンが存在する。とくにスコットが再編集した1992年の『ディレクターズ・カット』では、作品の解釈を変えるような意味深長なシーンが追加された(詳細は「デッカードは何者なのか」の節を参照)。
なお、サンディエゴ覆面試写版とUSテレビ放映版を除く5つのバージョンは、日本では2007年12月14日にリリースされたDVDボックス『ブレードランナー 製作25周年記念アルティメット・コレクターズ・エディション(以下『UCE』)』で全て視聴する事ができる。
1982年。113分。『UCE』では「ワークプリント版」と称される。本作公開前の同年3月、ダラスやデンバーで観客の反応を見るためにテスト試写(スニークプレビュー)が行われた際のバージョン。しかし観客の反応は余り芳しいものでは無く、最悪だったとスコットは振り返る。フォードを倒す悪役に同情的なこと。画面は暗く絶えず雨が降り、ハッピーエンドではないこと。ユニコーンの折り紙も不評だったという。
以下は本バージョンのみで見られるシーンである。
1982年。未ソフト化。同年5月にサンディエゴでスニークプレビュー(覆面試写)が行われた際のバージョン。基本的にリサーチ試写版と同じだが、3つの新たなシーンが追加されたと言われる(詳細な箇所は不明)。
1982年。116分。『UCE』では「US劇場公開版」。北米で初めて商業上映された際のバージョン。リサーチ試写版で不評だった点を改善し、一般受けを良くしようとしたが、結果的にはそれでも評判は上がらず、映画評論家に酷評された。エンドロールの空撮映像は、『シャイニング』のオープニングの別テイクを借用したものである。
1982年。ヨーロッパや日本で劇場公開された際のバージョン。なお、日本ではワーナーのレンタルビデオや初期にリリースされたLDソフトに初期劇場公開版が収録されていた為、バージョンの違いが認識されており、ビデオ発売時には「完全版」と称して発売された。日本版『UCE』でも同様に呼称している。
1986年。114分。未ソフト化。CBSでの放映用に編集を行ったバージョン。
1992年。116分。公開10周年を記念し再編集されたバージョン(ビデオソフト、『UCE』では「最終版」の名称も付け加えられている)。最初の劇場公開後、本作は次第に評価を高め、サイバーパンクの原典としての地位を確立した。と同時に、スコットが本来意図した『ブレードランナー』を見たいという要望が高まり、ワーナーは彼に再び本作の編集を依頼。スコットも劇場公開版で自身の望まざる編集が行われた事に加え、機が熟したと考え、これを了承した。内容はリサーチ試写版に近いものになっている。
2007年。117分。公開25周年を記念し、再びスコット自身の総指揮によって編集されたバージョン。本バージョンは第64回ヴェネツィア国際映画祭でワールドプレミア4Kデジタルで上映された後、同年10月5日(現地時間)からニューヨークとロサンゼルスで劇場公開され、アメリカでは12月18日(現地時間)にDVDが発売された。日本では、11月17日 - 30日の2週間限定で東京(新宿バルト9。上映期間は1週間延長)、大阪(梅田ブルク7)の2館4スクリーンにて2KデジタルDLP劇場公開された。
2017年に発売されたUltra HD Blu-ray版の発売にあたっては、4K解像度に変換するにあたりスコットの監修のもとに細かな調整が加えられ、音声が新たにリミックスされたバージョンとなっている。
2019年に行われたIMAX上映にあたってもこのバージョンが使用されている。
視覚効果監修のダグラス・トランブルは、そのキャリアの最初に携わった『2001年宇宙の旅』で、監督のキューブリックから、チリ一つ無いほどの高画質を要求され、当時の光学合成による画質劣化を抑えるため、通常シーンが35mmフィルム撮影の作品でもSFXシーンは65mm幅のフィルムで撮影する方法を採った。『ブレードランナー』では、視覚効果は65mmで撮影、俳優の演技と合成するシーンも35mmスコープ・サイズで撮影し65mmに拡大して合成作業が行われた。
65mmフィルムによる撮影は、一コマあたりの画面が35mmより広く粒状性が目立たないので、再撮影やコピーのプロセスを重ねても画質が荒れない利点がある(左右幅を圧縮して撮影するスコープ・サイズの、光学合成の手間や画質への悪影響は、ジェームズ・キャメロンも指摘するところである)。ところが決して高予算ではないながらも高画質に拘って製作された『ブレードランナー』のSFXも、今日観られるフィルムやソフトで充分なクオリティが発揮されていないとトランブルは語っている。
ファイナル・カット版の特撮シーンは、この70mm(65mm)フィルムからダイレクトにテレシネされたものが使用されており、劇場での上映も他のバージョンと比べて、非常に鮮明なイメージを提供していた。
エンドロール中にはポリドールよりサントラが発売される旨書かれているが、実際には発売されなかった。ヴァンゲリスより正式にリリースされるのはディレクターズ・カット(最終版)の後、1994年のことである。
以上の詳細は「ブレードランナー (アルバム)」の項を参照のこと。
2016年、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、リドリー・スコット製作総指揮のもと、続編『ブレードランナー 2049』の日本公開が2017年11月に決定したことが発表された。アメリカで2017年10月6日、日本では10月27日に公開された。ライアン・ゴズリング、ロビン・ライト、ジャレッド・レトのほか、ハリソン・フォードも再びデッカード役として出演した。
原作者ディックの友人である作家K・W・ジーターが、映画の続編として小説3作を発表している。
当作について、複数のドキュメンタリーが制作されている。
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ロータリーエンジン
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ロータリーエンジン(英語: rotary engine)は、一般的なレシプロエンジンの様な往復動機構による容積変化ではなく、回転動機構による容積変化を利用して、熱エネルギーを回転動力に変換して出力する原動機である。
ドイツの技術者フェリクス・ヴァンケルの発明による、三角形の回転子(ローター)を用いるオットーサイクルエンジンが実用化されている。ヴァンケル型ロータリーエンジンとレシプロエンジンとでは構造は大きく異なるが、熱機関としては同等に機能する。本項ではこのヴァンケルエンジン(Wankel engine)について述べる。
ロータリーエンジンの研究は原理的には古くから行われてきたが、その中で唯一実用化された所謂ヴァンケルエンジンは、1957年に西ドイツ(当時)のNSU社とWankel社が共同研究により開発に成功した。
レシプロエンジンとは基本的に大きく異なる構造を持っており、エンジン本体にピストンのような往復運動部はなく、回転運動するローターにより回転動力を得ている。またロータリーエンジンの吸気および排気のポートは、ハウジングの内側面に設けられた孔がローター自体により開閉されるため、一般的な4ストロークレシプロエンジンのような、往復動する吸排気バルブやこれを開閉するカムシャフトなどの動弁系は必要ない。
4ストロークレシプロエンジンと同様にオットーサイクルやディーゼルサイクルでの熱力学的動作が可能だが、実用化されたのはオットーサイクルのガソリン燃料火花点火機関であり、ガソリンに代えて水素燃料を使える物も試作されている。なお、ガスタービンエンジンも本項のロータリーエンジンと同様に回転運動により出力を得ているが、これは速度型の内燃機関であり、容積型内燃機関であるロータリーエンジンとは別に分類される。
ロータリーエンジンとして上記の「ヴァンケルエンジン」のみを指す場合も多く、また「回転ピストン型エンジン」、時には「ピストンレスエンジン」と呼ばれることもある。自動車用としては、日本ではヴァンケルエンジンを指して「ロータリーエンジン」(「RE」と略記される)と呼ぶことが一般的であるが、日本以外では「Rotary engine」とも、あるいはより限定的に「Wankel engine」とも呼ばれる。航空機用として「ロータリーエンジン」と呼ぶときは、星型エンジン本体(シリンダー側)がプロペラとともに回転し、クランクシャフトは固定されている構造の回転式レシプロエンジンを意味する場合と、本項のヴァンケルエンジンを意味する場合とがある。
ロータリーエンジンの出力軸回転数とは、ローターではなくエキセントリックシャフトの回転数であり、これが4ストロークレシプロエンジンのクランクシャフト回転数に相当する。ロータリーエンジンは、1ローターあたりエンジン回転1回転に1回単室容積分の空気を吸入するため、1気筒あたりエンジン2回転に1回単気筒容積分の空気を吸入する4ストロークレシプロエンジンの2倍の吸気回数を持つ(詳しくは下記「動作」を参照)。すなわち、ロータリーエンジンの実質吸気量は「単室容積xローター数x2」となる。このため、内燃機関工学分野においては2ストロークレシプロエンジン同様に、当初から現在まで一貫して換算係数2が用いられている。
日本の自動車税課税時の排気量区分では、「単室容積×ローター数×係数1.5」として換算される。これはロータリーエンジンの出力が「単室容積xローター数x1.5」程度の換算吸気量のレシプロエンジンと同等だったためである。
モータースポーツ分野においては、ロータリーエンジンデビュー期には工学的にロータリーエンジンの排気量に係数「2」を掛け、その値をレシプロエンジンの排気量区分に当てはめていた。しかし、レシプロエンジンの約2倍の空気(と燃料)を吸入しながら出力は1.5倍程度しか得られないため「燃料消費率が3割悪い」という性質を持ち、特にモータースポーツにおいては出力差だけでなく燃料タンク容量や燃料消費に伴う車重変化まで考慮するとレシプロエンジンとの平等な排気量換算は極めて困難である。そのため競技の種類(例えばスプリントレースか耐久レースか、など)によって異なる換算係数が用いられたり、またF1などのようにロータリーエンジンの使用を認めない競技もある。
ロータリーエンジン本体の構成部品の概略を下記に示す。燃料供給系・吸排気系・潤滑系・冷却系・電気系などは、一部構造は異なりながらもレシプロエンジンと同様に別途設けられるが、上述のとおりローター自体が弁機能を呈するので動弁系は不要である。なお相当部品名は、レシプロエンジンに対するものである。
エキセントリックシャフトの偏心部がローターの穴に通されていて、エキセントリックシャフトの回転によりその軸心のまわりをローターが公転するが、この両者間では自由に回転できるようになっている。ローターが自転1回転の間に3回公転、すなわちエキセントリックシャフトが3回転するように、サイドハウジングのステーショナリーギヤとローターのインターナルギヤとのかみ合いによって制御されている。なお、エキセントリックシャフトの偏心量やローターの中心からアペックスまでの距離は、上記の動作時にローターの各頂点がローターハウジングのトロコイド面をなぞるように設定されている。
ローターとローターハウジングの間の作動室容積は、ローターの1回の自転の間に拡大と縮小を2回ずつ生じるが、この間に4ストロークエンジンがクランクシャフト2回転で行うのと同様の工程(オットーサイクル)を1サイクル実行する。このサイクルがローターの3辺の上で位相をずらしてそれぞれ進行しているので、ローターの自転1回、すなわち公転3回の間に3回の燃焼・膨張行程がある。ローターの自転運動ではなく公転運動がエキセントリックシャフトを回転させて出力となる。
4ストロークレシプロエンジンと比較すると、
ハウジングに設けられる吸排気ポートは、その位置・形状により以下のように分類される。
4ストロークレシプロエンジンとの比較で、以下のような長所・短所がある。
特に上記長所のうちの「低振動、低騒音」は、往復運動を回転運動に変換するのではなく、もともとが回転運動である本エンジンの構造に由来するものであり、当初は性能でもレシプロエンジンを大きく引き離して未来のエンジンともてはやされ、世界中の自動車メーカーが開発を行う大きな理由となった。
自動車用としてはNSUヴァンケルタイプが唯一実用化されている。その後、NSUに続いて東洋工業(現・マツダ)が量産化した。ほかにもシトロエンなどが生産モデルに搭載しているが、1970年代以降も自動車用として量産を続けたのは、資本主義圏内ではマツダのみである。
20社を超える自動車メーカーがNSUから基本特許を導入して開発を進めたが、実用化に向けた開発はマツダが先行して周辺特許を固めたため、1974年の時点で既にマツダの周辺特許を避けては通れない状況になっていたという。
以下、マツダを除いたロータリーエンジンの概況について記述する(マツダに関する詳細は後述)。
NOx排出量が少ないという時代の要求に合致していたため、1971年にNSU社と技術導入契約を結び開発を始めた。試作機は595 cc × 2ローターで出力120 PS/6000 rpmであり、酸化触媒を用いることで昭和53年排出ガス規制に適合した。2層吸気方式での希薄燃焼(リーンバーン)により熱効率の改善を試みたが、燃費はレシプロエンジンに及ばず、社内基準を満たさなかったために開発は中止された。
1972年の東京モーターショーに、ロータリーエンジンを搭載したサニーを参考出品し、2代目(S10型)シルビアはロータリーエンジンを搭載することを前提に市販間近といわれていた。しかし、1973年に起きた第一次オイルショックに見舞われたことを契機に、省エネルギー志向に切り替わった社会情勢においては燃費の良くないロータリーエンジンは相応しくないとの理由から、既存のレシプロエンジンに変更され、市販には至らなかった。
1960年代からロータリーエンジンの研究を開始し、ミッドシップに4ローターロータリーエンジンを搭載したコンセプトカー「C111」を1970年のジュネーブ・モーターショーで発表したが、耐久性の面で問題が生じ、市販されることはなかった。
ロータリーエンジンの元祖NSUを吸収合併したアウディは、2010年のジュネーブ・モーターショーにおいてコンセプトカー「アウディ・A1 e-tron」を発表した。これは、ロータリーエンジンを発電機専用に使用したシリーズ・ハイブリッド(レンジエクステンダー付きEV)である。
低圧高圧二段構成のロータリーディーゼルエンジン「R6」を試作している。
1970年代に独自のロータリーエンジン開発計画(英語版)が存在し、1973年にミッドシップに2ローター/4ローターを搭載したコルベットを発表したが、第一次オイルショック直後だったため、市販されることはなかった。また、GMからロータリーエンジンの供給を受け、同社初のFFとなる予定であったシボレー・ベガ(英語版)の発表を計画していたが、最終的には既存のレシプロエンジンを使ったFRレイアウトへの変更を余儀なくされた。
農業用トラクターなどで知られる同社は、米軍部のマルチフューエルエンジン化構想に応えたロータリーエンジンを完成させ、海兵隊車両に採用された。
国営時代からソビエト連邦の崩壊後の2000年頃まで、幅広い車種でロータリーエンジン搭載車を量産していた。ソ連は国策の一環として、国営のVAZに命じてロータリーエンジンの製作を行わせていた。ソ連の一般市民には、現在の基準から見れば比較的低性能なレシプロエンジンの車両しか販売されていなかったため、安価に高出力を出せるロータリーエンジンはKGBをはじめとした官公庁向けの車両や、高級官僚や軍人向けに販売される高性能車両にはうってつけであった。ソ連圏のロータリーエンジン開発は、資本主義圏のメーカーとは一切の提携の締結なしに行われ、リバースエンジニアリング元はNSU系の1ローター654ccのエンジンといわれている。コピー元はあるものの、技術やノウハウの提供を正規に得ていないという点では、独立に完成させた物といえる。そのバリエーションは東洋工業に劣らないもので、市販車には1ローターから3ローターまでが存在し、試作エンジンには4ローターも存在した。市販車では合計8車種に搭載され、エンジンの種類は試作も含めると20種類に達するという。最高出力も燃料供給装置の幾多の改良を経て、航空機向けに開発された2ローターの最終型VAZ-416(ロシア語版)は180馬力から206馬力、3ローターの最終型VAZ-426(ロシア語版)は270馬力、試作4ローターのVAZ-526(ロシア語版)は400馬力に達していたという。1974年から製造が開始され、ソ連が崩壊しロシア連邦となった後も2002年頃までロータリーエンジン車の販売が続けられたものとされているが、その総生産台数やエンジン設計の全容などの情報は、現存するメーカー自体も積極的に公表したがらない事情もあり、冷戦終結後の現在でも西側諸国にはあまり伝わっていない。ただし、ロシアのエンスージアストの間ではチューニングカーのベース車両としてある程度の知名度はあるようで、NAチューンやターボチャージャー取り付けなどの改造が施されたVAZ製ロータリー車の走行映像が、YouTubeなどに数多く投稿されている。
小型軽量ながら高出力という利点を活かし航空機用のエンジンとして採用された例がある。また軽量でオクタン価の低い燃料でも稼動するため補助動力装置に採用例がある。
大手グライダー製造メーカーであるドイツのアレキサンダー・シュライハー社は、自力で離陸できる動力格納式のモーターグライダーである、オープンクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 25(英語版)、18mクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 26(英語版)や、2004年に初飛行したベストセラー練習機アレキサンダー・シュライハー ASK 21を基にしたASK21 Mi に、従来の空冷2ストロークエンジンではなくシングルローターのヴァンケルロータリーエンジンを搭載している。これは、もともとノートンのオートバイ用であったものを、ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズグループのダイアモンドエンジン社が改良、発展させたものである。
ヘリコプター用としては、シトロエン RE-2やYoungcopter NEOに採用された。
Moller社ではポール・モラー(英語版)がFreedom Motorsのロータリーエンジンを使用したスカイカーとしてMoller M400やMoller M200Gを制作している。
シコルスキーでは、無人実験機・サイファーの動力にヴァンケルロータリーエンジンを用いている。
ホームビルト機では、マツダ車から取り出したロータリーエンジンを搭載できるように設計された機体もある。
模型飛行機用として超小型のロータリーエンジンが市販されている。小川精機は工程容積4.97 ccの49-PIをかつて製造販売していた。実用回転数は2,500 - 18,000 rpmで、出力は1.1馬力/17,000 rpmである。初期はサイドポート吸気であったが、49-PI Type IIではペリフェラルポート吸気に変更されている。現在でも入手可能なものは日東工作所製で、行程容積11.97 ccのNR-12HとNR-12Pである。
分散型の熱電供給システムであるコジェネレーションシステムの動力源として、コンパクトで低騒音、低振動という特徴からロータリーエンジンが注目されている。
2002年に広島ガス、2003年に中国電力がマツダの自動車用ロータリーエンジンを組み込んだシステムを試作、LPガスを燃料として実証試験を行っている。
広島市南区の広島県太田川流域下水道東部浄化センターでは、バクテリアの力で下水汚泥を分解して量を減らす工程で生じるメタンガスを燃料とし、自動車用ロータリーエンジンを組み込んだ発電装置9台を4億7400万円で設置し、2012年3月23日から稼働させている。これは呉市に製造拠点を置く製鋼・産業機械メーカーの寿工業(東京)やマツダなどが共同開発したもので、排熱も浄化槽の加温に使用されている。
元マツダの技術者である室木巧は、層状給気燃焼方式を採用したロータリーエンジン(DISC-RE)でコージェネレーションシステムの研究をしているが、自著で自動車に使うには研究が足りないと記している。
カリフォルニア大学バークレー校のMEMSのロータリーエンジン研究室はローター径1 mm以下、容積0.1 cc未満のヴァンケルロータリー型発電機を開発している。ローターに組み込まれた磁石で発電するが、現在は外部からの圧縮空気で動いている段階。目標は100 mWを供給する内燃機関の開発という。
1959年(昭和34年)、西ドイツ(当時)のNSU(後にアウディへ吸収合併)が、フェリクス・ヴァンケルとともにロータリーエンジンを試験開発したと発表した。日本では1965年(昭和40年)の乗用車輸入自由化に向け、通商産業省(現・経済産業省)主導による自動車業界再編が噂されており、後発メーカーである東洋工業(現・マツダ)はその波に飲み込まれる形で吸収合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする当時の松田恒次社長は事態の打開を目指し、1960年(昭和35年)にNSUと技術提携の仮調印を行った。契約に際してNSUから提示された条件は以下のようなものであった。
以上のようにあまりにも一方的な内容であった。また、NSUから送られてきた試作エンジンは、数々の問題が残されていた。アイドリング時の激しい振動(電気あんま)、エンジンオイルの過大な消費、それによるおびただしい白煙(カチカチ山)、さらにチャターマークの発生(ローターハウジング内壁に波状磨耗が起こる致命的なトラブル)によって40時間程でエンジンが停止。ロータリーエンジンは試験開発には成功したものの、とても実用化できるレベルのものではなかった。
こうして東洋工業は、次世代エンジンと目されたロータリーエンジンの開発・実用化という社運を賭けた挑戦を行うこととなった。山本健一を筆頭とするロータリーエンジン研究部(平均年齢25歳。のちにロータリー四十七士と称される)がその任にあたった。
しかし、日本の自動車業界内ではロータリーエンジンに対する様々な批判・悪評が飛び交い、それは東洋工業社内にも広がった。戦前から日本の内燃機関技術の権威であった富塚清は、1960年代初頭からヴァンケル式ロータリーエンジンの開発に極めて否定的な見解を示し、一般向け自動車雑誌「モーターファン」誌、専門家向けの「日本機械学会誌」双方でロータリー否定論を展開した。この時代、日本の大学研究者や企業のエンジン技術者には東京帝国大学等で富塚に師事した弟子も多かったため、富塚の見解に同調して、ロータリーエンジンを実現性に乏しい技術とする論調が業界に高まった。山本も後年、富塚の実名を挙げて「富塚の弟子らに集団批判の席に招かれた(単なる吊るし上げに陥ると見た山本は断っている)」「批判により部下たちが自信を失いがちになり、モチベーションを維持することに苦心した」と回想している。富塚はその後、マツダのロータリーエンジン車が市販されるようになった晩年の著作に至るまで、ロータリーエンジンに否定的な見解を一貫して続けた。
開発は困難を極めたが、それでも途方もない時間、労力、資金、そして情熱を費やして続行された。大きな問題は3つあった。
1963年(昭和38年)には第10回全日本自動車ショウ(翌年の第11回から東京モーターショーに改称)に400 cc×1ローター・400 cc×2ローターの試作エンジンを展示。翌1964年(昭和39年)にはスポーツカー「コスモスポーツ」のプロトタイプを展示した。この時、松田が自らコスモスポーツを運転して広島から会場に到着し、帰路には各販売会社、メインバンクの住友銀行、当時の池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)と続けて展示され、その間、試作車による10万 kmに及ぶ連続耐久テストを含む、総距離300万 kmにも達する走行テストが行われた。テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年の期間を費やして実施された。そして1967年(昭和42年)5月30日、コスモスポーツは満を持してついに発売となった。1961年(昭和36年)1月のロータリーエンジン試作1号機から、6年の歳月が流れていた。
1985年までに、ロータリーエンジンの研究に携わっていた各メーカーが開発した特許件数は以下の通りである。
しかし、このエンジンの開発期における最大の問題点であり、かつ解決されたかに思われた部分が、後に短所として再び浮き彫りになる。
1973年(昭和48年)の排出ガス規制導入当初は、窒素酸化物(NOx)を減らすための効果的な手段が見つかっていなかったが、マツダはREの低いNOx濃度を濃い空燃比(燃調)でさらに低減させ、それに伴う不完全燃焼により増加する排気ガス中の炭化水素(HC)および一酸化炭素(CO)をサーマルリアクターにて再燃焼させて浄化しており、濃い燃調により実燃費がさらに悪化するという事態に陥っていた。のちにNOx、HC、COを同時に低減可能な三元触媒が開発・実用化され、サーマルリアクターを触媒に置き換えることで燃調を薄くできたため、燃費を向上させた。
オイルショックによる原油価格高騰の影響で、NSUと提携した各社はロータリーエンジンの将来性を見限って開発から撤退し、本家たるNSUもロータリーエンジン車生産を中止した。そのような中でマツダは唯一市場に踏み止まったが、採用車種は年を追うごとに減少し、ユーノスコスモが生産を終了した1996年以降は、RX-7が唯一の生産車種となった。
2003年にRX-7の後継として発売されたRX-8のロータリーエンジンでは、排気ポートをペリフェラルポートからサイドポートに変更して、従来からの燃費悪化要因のひとつであった吸排気のオーバーラップをなくして燃費向上を図っている。一方で排気ポートの変更により、サイドシールの磨耗やススの付着といった新たな問題も生じた。
2012年6月のRX-8の生産終了をもって、ロータリーエンジンを搭載した市販車はマツダのラインナップから消滅したが、同時にレンジエクステンダーシステム(電気自動車の発電用)や水素ロータリーエンジンとして活用することが発表された。2013年12月には、デミオEVにロータリーエンジンによるレンジエクステンダーシステムを搭載した試作車を報道陣に公開している。
2023年には、MX-30に発電用のロータリーエンジンを搭載したプラグインハイブリッドモデル「MX-30 Rotary-EV」が発表され、同年9月14日に日本国内での予約受付を開始した。ロータリーエンジンを搭載したマツダの市販車は、RX-8の生産終了以来11年ぶりの復活となる。
マツダはコスモスポーツの発売以来、「1970年代、車の主流はロータリーエンジンへ」「車の主流をかえるロータリーのマツダ」というキャッチコピーとともに各車種への展開を図った。13A、16X、8C以外は完全な新開発ではなく、既存の生産設備を使うため10Aをベースにローターやハウジングの厚みを増して排気量を上げたものである。そのためローターの厚さ以外の基本寸法は変えられていない。
1991年のHR-X以来、マツダでは水素を燃料としたロータリーエンジンを開発している。2004年10月にはRX-8をベースにした車両が、2008年にはプレマシーをベースにした車両がナンバーを取得している。
水素燃料は再生可能エネルギーの一種であり、また燃料電池用の燃料としてのインフラ整備が課題に挙がっている。その水素燃料を容易に転用できる内燃機関のひとつとして、ロータリーエンジンは有望である。これはレシプロエンジンとの比較で、吸気室と燃焼室が分離している上に高温となる排気バルブもないため、過早着火やバックファイアーと言った異常着火が発生しないこと、また大径となる水素インジェクターを、燃焼にさらされずにすむ吸気室上部の広大な場所に設置できること、という構造上の利点があり、さらには水素の燃焼速度は速いため、縦長で扁平な燃焼室形状というロータリーエンジンの欠点が問題になりにくいという相性の良さもあるためである。現時点では高純度の水素を必要とする燃料電池車などと比べても、はるかに現実的な解法である。また燃焼時のすすが少ないためLPGやCNGなどのガス燃料であれば、水素以外でもロータリーエンジンの方がレシプロエンジンよりも有利であるとされる(このうちLPGについては前述のコジェネレーションシステムの実証実験もなされている)。
ただし、LPGやCNGはともかく水素においてはインフラの整備があまりにも局所的であり全国展開の目途が立たないこと、水素の場合において、水素吸蔵合金を使用すれば車が重くなり、高圧水素タンクを使用すれば衝突時に爆発の危険があること、そのどちらにおいても航続距離が短距離に留まることなど、ロータリーエンジンに限らず、水素を自動車用エネルギー源として使用する上で解決すべき課題はまだ多い。
ドイツはロータリー発祥の地ではあるが、市販に漕ぎ着けた車種は極僅かである。
ロータリーエンジンは構成部品が圧倒的に少なく、特に組み付けと調整に多くの時間を要する動弁系を持たないことや、ジャーナルとキャップ間などのオイルクリアランスの管理箇所が少ないことで、オーバーホールの時間を大幅に短縮でき、レースユースには非常に適している。ローコストで高性能が得られることから、多くのプライベーターの支持を受け、1970年代以降の日本のモータースポーツ界を支えた。
コスモスポーツでのマラソン・デ・ラ・ルート84時間参戦に始まるロータリーエンジンのモータースポーツ活動は、その後日本国内でも1971年のサバンナによる日産・スカイラインGT-Rの連勝記録ストップとその後の同車との一騎討ち的な闘い、富士グランチャンピオンレースでのマツダRE搭載車の活躍などがあった。世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースにも参戦し続け、1991年には787Bが日本車初の総合優勝を果たすなど、日本国内外において幅広く活躍した。
その後、1992年にマツダはレース活動自体から撤退。マツダスピードはロータリーエンジンでの耐久レースを続けていたが、1999年に解散し、ワークスレベルでの支援は望めない状況になってしまった。そのような中でもRE雨宮は、自然吸気仕様の20B型エンジンを搭載したFD型RX-7でSUPER GTに参戦し、プライベーターながらGT300クラスのタイトルを獲得した。
北米では古くから現地のマツダ法人によるモータースポーツ活動が行われ、2000年代末までIMSAの市販車・GTクラスで勝利を重ね続けていた。また同じく北米でマツダが関わっていたミドルフォーミュラのフォーミュラ・マツダとプロ・マツダ チャンピオンシップでロータリーエンジンが使用されていた。
ロータリーエンジンは採用チームの少ない割に性能均衡が難しいことから搭載自体を禁止するカテゴリも多く、規則の自由度が高いことで知られる世界耐久選手権(WEC)でも認可されていなかった。そのため、2010年代以降のトップカテゴリでロータリーエンジンが禁じられていないものは、世界ラリークロス選手権のツーリングカークラスやWRC3のような、アマチュア志向の市販車クラスのみとなっていた。
しかし、2020 - 2021シーズンにLMP1に代わって導入されたWECのハイパーカー規定から、ロータリーエンジン搭載車両が参戦可能となった。マツダが787Bでル・マンを制した1991年以来初のことであり、マツダも参戦への関心を示していることが報じられた。
その簡単な構造により、十分な知識、部品およびツールさえあれば、個人でのエンジンの分解・組み立てさえも可能である。また、2ローター以上のロータリーエンジンは、左右と中央のハウジングに挟まれたローターが直列に配置された構造を採るため、レシプロエンジンのクランクシャフトに相当するエキセントリックシャフトの新造さえできれば、個人でも市販エンジンの部品を組み合わせて1ローターや4ローター以上のエンジンを製作する事も可能である。1ローターは日本のRE雨宮がマツダ・シャンテの改造用に製作したものが著名であり、海外では2013年現在、自動車向けではニュージーランドのエンジンビルダーが試作した6ローターが発表されている。
外部からの動力で働くヴァンケルロータリー構造の空気圧縮機である。レシプロ式に比べ低振動・低騒音で高効率である一方、潤滑油が圧縮空気に混合し易い。
ヴァンケルロータリー構造を内燃機関用スーパーチャージャーに応用したもの。実験は行われたが、十分な過給効果を得るためには、ロータリーエンジンの2倍ほどの大きさのハウジングが必要となるため、実用化はされていない。
油圧モーターの中で、油圧ショベルの駆動輪などに用いられているものはヴァンケルロータリー構造のものが多い。
奇抜なものとしてシートベルトプリテンショナーがある。メルセデスベンツでいくつかの車種に使用されている。これらの自動車では衝撃を感知すると電気的に小型のガス発生器に点火されて作動して減圧されたガスが小型のヴァンケルロータリーモーターに供給されてシートベルトを巻き上げる。
ランキンサイクルによって作動する外燃・外熱ヴァンケルロータリーエンジン。各種プラントの排熱を、機械エネルギーとして、また、発電機との組み合わせで電力として回収するために用いられる。
沸点の低いアンモニアやエタノールを作動流体とすることで、従来利用されることのなかった(捨てられていた)、温度域が40°C - 150°C程度の排熱からでも動力を取り出せる。
1967年英国センチュリー21プロダクション製作のSF特撮人形劇「キャプテン・スカーレット」に登場する追跡戦闘車(S.P.V. Spectrum Pursuit Vehicle)は、前後に8ローターのロータリー・エンジンを搭載という設定になっている。
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Osho
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Osho(本名:チャンドラ・モハン・ジャイン、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、現代インドに生まれた20世紀の瞑想指導者、精神指導者、神秘家。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならないという。 死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。
Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行なった。。
Oshoは21歳の時に悟りに至ったという。彼は第二次世界大戦後、独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物であるという。スピリチュアリティの本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、広く称賛されたという。世界中からやってきた弟子や求道者たちに対して語られた彼の講話は650冊以上も出版され、翻訳は32カ国語以上にものぼるという。
Oshoによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることであるという。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとOshoは捉える。自我は、社会的条件付けによって増進していくという。Oshoは、親の教育や学校教育、また道徳的、宗教的な教えなどすべての社会化を痛烈に批判する。なぜなら、いわゆる教育が特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこんでしまうと考えるからであるという。
Oshoはなかでも、組織宗教やその指導者を痛烈に攻撃したという。というのも、第1に、従来の組織宗教の多くが彼岸での目的達成を掲げるため、人々が世俗的生活をトータルに亭受し、それをスピリチュアルな成長のための機会とすることを妨げてしまうからである。第2に、伝統的な宗教的指導者が、本来なら自己変容の機会となるべき性的エネルギーを否定し、性に関わるタブーを生み出した。そして第3には、組織宗教という権威主義的な制度によって、内的体験のうちで見いだされるはずの宗教的エッセンスを見失わせてしまっていることである。つまり、Oshoは組織宗教を社会的条件づけの最たるものの1つと捉える。
自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した。
瞑想とは何か? という問いにOshoは、『瞑想とは無心の状態だ それは、中身のいっさいない純粋な意識の状態だ あなたたちの意識は、たいがい、あまりにもがらくたでいっぱいだ それはちょうど鏡がほこりでおおわれているようなものだ マインドはとだえることのない交通だ 思考が動き、欲望が動き、記憶が動き、野望が動いている それはとぎれなき交通だ! 明けても、暮れても、眠りについているときまでもマインドは動いている、それは夢みている 相も変わらず考え、相も変わらず心配事や心労のなかにいる あしたのために準備し、秘密裡に準備し続けている これは瞑想なき状態だ 瞑想は、これとまるで反対のものだ 従来がとだえ、考えが止み 思考が動かず、欲望がうごめかず、あなたがまったく沈黙しているとき その沈黙こそ瞑想だ その沈黙のなかでこそ、真実は知られる』と答える。
瞑想に入りやすくする為に、セラピーも積極的に取り入れた。多くのセラピストたちが、その新しい可能性を求めてOshoのもとに集まり、セラピーを行うようになった。セラピーの目的は主に2つある。第1は怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすることである。第2は「ありのままの自分」を受け入いれ、気づきを高めていくことである。
意識変容を促進する手段として、Oshoは様々な瞑想テクニックを開発した。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、Oshoは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた。動の瞑想である。代表的な動の瞑想に、OSHO Dynamic Meditation®(ダイナミック・メディテーション)、OSHO Kundalini Meditation®(クンダリーニ・メディテーション) 、OSHO Nadabrahma Meditation®(ナーダブラーマ・メディテーション)、OSHO Nataraj Meditation®(ナタラジ・メディテーション)、OSHO Devavani MeditationTM(デババニ・メディテーション)、などがある。
”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、健康にしてくれる。とOshoは言う。
米国ダラスに在住する精神科医Vyas, A博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。
OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」
2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。
Oshoはインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ、と言い、もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ、と説いた。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は言う。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。
「人間には多くのエネルギーがあるのではない、たった一つのエネルギーしかない。最も低いところではそれは「性エネルギー」と呼ばれる。それを瞑想を通じて、瞑想の錬金術を通じてさらに純粋なものにし、さらに変容させ続けていくと、その同じエネルギーが上に向かって動き始める。セックスは粗野な、なまのものであり、鉱床のなかで見つかるダイヤモンドのようなものだ。それはカットされ、磨かなければならない。そうして初めてそれはダイヤモンドと認められるようになる。性はなまのエネルギーだ。それは変容されねばならない、そして変容を通じて超越が起こる。性は自然な現象だが、宗教はそれを変容するどころか抑圧してきた。それを抑圧すれば、自然な結果として倒錯的な人間が生まれてくる。彼はセックスにとりつかれるようになる。性は最も重要な現象のひとつであり、実際には、人間の生でいちばん重要な現象だ。セックスはあなたの最も低い中枢であり、サマーディ―は至高の、第七の中枢だ。それは七段のはしごだ。性エネルギーは一段また一段と第七段階まで昇ってゆかなければならない。そこでそれは一千の花弁を持つハスのように花開く。性が変容されて初めて人はブッダになる」と、Oshoは言う。
Oshoは、師弟関係を肯定し、それが光明を得る手助けになると主張する。Oshoは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ。彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、Oshoは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという。サニヤス(探求)とは、運動でもなければ、組織でもない。その逆に、あらゆる組織、あらゆる集団、あらゆる教会からの、独立の宣言だ、と言う。
Oshoは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」。サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はない。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ。
「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた。Oshoは講話で、「母親になるということは、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止めること。あなたが深刻になってしまったら子どもはあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子どもに重荷を負わせてはならない。子どもがあなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子どもを通して自分の母性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている。
Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた。ジャバプール大学では哲学を専攻した。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる。
1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった。正式にイニシエーションを授けるようになる。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている。
ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺にはコミューン的な状況が生まれた。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった。
1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れたという。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている。吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレンのような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている。
Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった。
1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した。
警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった。
ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った。
約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された。伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている。
1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた。
1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った。
1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる。
州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された。
逮捕後、最終的に司法取引が行われた。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった。
後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している。
1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった。
86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻る。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した。
1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニアシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る。
1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する。
1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った。
1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる。1月19日彼の脈拍が不規則になる。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える。彼は午後五時に肉体を離れる。 1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた。そして、その旅立ちを祝うサニアシンたちに送られながら茶毘にふされた。
Oshoに特定の後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している。OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、より油断なく、リラックスして、楽しく生きる方法を、直接、個人的に体験できる場所である。インドのムンバイから南東に百マイルほどのプネーにあり、毎年世界の百カ国以上から訪れる数千の人々に、バラエティーに富んだプログラムを提供している。
Oshoの語った何千もの講話は、個人レベルの問題から今日の社会が直面する最も緊急の社会・政治問題まで様々なジャンルに渡っていて、もはや分類の域を超えている。毎日語られていたOshoの即興の講話はオーディオおよびビデオに録られ、何か国もの言語に訳され、世界中の人々に届けられている。Oshoの死去後も講話の本は売れ続け、多くのファンがいる。書店では現在も、Osho名義の講話の本や、彼の講話をコンセプトにしたタロットカードのデッキ「OSHO 禅タロット」を買うことができる。Oshoの講話や生み出された瞑想のベースに糸のように張り巡らされているのは、時と年代を超えた永遠の知恵が包含された高い可能性を秘めた、今日のまたはこの先の科学技術である。Oshoの生み出した革新的な瞑想の数々は、加速されたペース生きる現代人に対する内なる変容の科学として広く知られている。
Oshoは言う、「次のことを覚えておくように。私はあなたについて話しているだけでなく、次の世代のために話しているのだということを」
幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する。
1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める。
1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る。
同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる。
同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる。
加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。
1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。
1988年4月22日、翌年の4月まで続けられる禅シリーズが始まる。以降、Oshoは〝無門関〟〝碧巌録〟を初め、馬祖、臨済、南泉など歴代の主要な禅者の語録を題材にした一連の講話を展開してゆく。
Oshoは、「無思考に敬意を払うのは禅だけだ。あらゆる場所で、思考は最高位のものとして君臨している。思考を束縛だとするのは、禅の世界だけだ。無思考は自由だ」と、言う。そして、「究極の自由は禅、自分自身からの自由だ。それは信仰として受け取るものではなく、体得するべきものだ。」と言う。「禅とは、非常に単純で、無垢で、楽しい方法だ。苦行的なもの、生ー否定的なものは何もない。世俗を放棄する必要はなく、僧になる必要もなく、修道院に入る必要もない。必要なのは自分自身に入ることだ。それはどこでもできる。」と、仏性を、あくまで普通で、平凡で、単純で、人間的な事柄とすることを伝えた。Oshoの講話は1989年4月10日にされた、「禅宣言」(原題 The Zen Manifesto)であり、その後2度と講話をすることはなかった。
彼のその講話での最後の言葉は、「仏陀の最後の言葉は、サマサティだった... 自分がブッダであることを覚えていなさい... サマサティ(正念)」
「サマサティ」がOshoの最後の言葉となり、「禅」がOshoの最後のメッセージとなった。
同年11月16日Oshoがコミューンのプレス・リリースより、日本に関する以下の声明が発表される。
「私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒を盛られた時、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の真のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆けとなることができる、ということを示してくれた」
Osho達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた。Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した。
Osho International Foundationは、
・残念なことに、Netflixドキュメンタリーシリーズは中心的な局面を究明していないために、ストーリーの背後にある真実のストーリーを明確に報告していない
・本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指す米国政府の謀略であり、どこまで政府が影響を行使していたのかは情報公開法によって初めて明らかになっている。
・ホワイトハウスの関与には、レーガン政権の司法長官だったエドウィン・ミースが含まれ、連邦議会ではオレゴン州選出のハットフィールドとパックウッド上院議員、そしてカンザス州のドール上院議員が影響を与えた。さらには移民帰化局(INS)の上級職員から地方の捜査官まで。そして州レベルではオレゴン州知事アタイヤー、共和党員ロバート・ミス、オレゴン州法務長官フローンマイヤー、オレゴン州の連邦検事チャールズ・ターナー、数多くの州議会議員やその他大勢が働いた。
などとコメントしている。
ニューヨーク・タイムズは、シーラについてこう評している。「シーラ――5年間、紛争の中心であった彼女は現在スイスで老人ホームを所有、運営している――彼女は当時とほぼ同じように不遜で、せっかちで、軽蔑的で、おそらく妄想(または、おそらく誇大妄想)を持っているようだ。彼女はまた、巧みなパフォーマーであり、人を操るのに長けた人物であることに変わりはない。ウェイズ(兄弟ディレクター)は彼女に最初で最後の言葉を与えている。『オレゴン州の人びとはRajneesheesを隣人としていたことを幸運だと思うべきだ』と彼女は言う。このストーリーは、いっときも目が離せない」。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Osho
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エバルトの方法
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エバルトの方法(エバルトのほうほう、英: Ewald method)は、分子動力学法、量子化学的手法、バンド計算手法などで、単位胞(またはスーパーセル)内の原子核(またはイオン芯)同士のクーロン相互作用を効率良く計算する手法である。
実空間と逆格子空間のどちらでも発散してしまうクーロン相互作用を、実空間での計算が都合のよい部分と、逆格子空間での計算が都合のよい部分との2つに分けて別々に計算を行い、これら2つの計算結果の和が求めるべき答となる。
格子点 l {\displaystyle {\boldsymbol {l}}} におかれたイオンの作る静電ポテンシャル φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} を例にとって説明する。 φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} は係数を省略すれば次の式で書ける。
静電ポテンシャル φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} を、関数 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} を用いて、次のように分割する。
ここで、 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} として短距離で0に収束する関数をうまく選び、第1項の和が実空間で短距離で0に収束し、第2項の和が逆格子空間で短距離で0に収束すると計算上都合がよい。 実際には、 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} として相補誤差関数 erfc がよく使われる。Gを任意の定数として f ( r ) = erfc ( G | r − l | ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})=\operatorname {erfc} (G\left|{\boldsymbol {r}}-{\boldsymbol {l}}\right|)} を、 1 − f ( r ) {\displaystyle 1-f({\boldsymbol {r}})} は誤差関数の定義式を代入すると
第2項で t = | r − l | ρ {\displaystyle t=\left|{\boldsymbol {r}}-{\boldsymbol {l}}\right|\rho } とおいて変数変換する。
第2項の被積分関数は、格子の周期を持つ r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} の関数であるから、フーリエ級数に展開できる。単位格子の体積を v c e l l {\displaystyle v_{\mathrm {cell} }} とおくと、次のように第2項を展開できる。
よって、 erfc ( x ) {\displaystyle \operatorname {erfc} (x)} や e − x {\displaystyle e^{-x}} といった、 x {\displaystyle x} について速やかに0に収束する関数が現れる形に変形することができた。 後は、各項がそれぞれ l {\displaystyle {\boldsymbol {l}}} と g {\displaystyle {\boldsymbol {g}}} に対して速く収束するように適当なGの値を選べば効率よく計算できる。
エバルト法は、計算機の出現よりずっと以前に、理論物理学における手法として開発された。しかしながら、エバルト法は1970年代以降、粒子系のコンピュータシミュレーション、特に重力や静電気学といった逆2乗力を介して相互作用する粒子系において広範に使用されている。最近、PME法は打ち切りによるアーティファクトを除去するためにレナード-ジョーンズ・ポテンシャルの r − 6 {\displaystyle r^{-6}} 部分の計算にも使用されている。PME法はプラズマ、銀河、分子のシミュレーションに応用されている。
粒子・メッシュ法では、標準のエバルト和と同じく、包括的相互作用ポテンシャルが2つの項へと分離される。
粒子・メッシュ・エバルト和の基本的考えは、点粒子間の相互作用エネルギーの直接和
を実空間における短距離ポテンシャルの直接和 E s r {\displaystyle E_{\mathrm {sr} }} (すなわち粒子・メッシュ・エバルトの粒子部分)
と長距離部分のフーリエ空間における和
へと置き換えることである。 Φ ~ l r {\displaystyle {\tilde {\Phi }}_{\ell r}} および ρ ~ ( k ) {\displaystyle {\tilde {\rho }}({\boldsymbol {k}})} はポテンシャルおよび電荷密度のフーリエ変換を表す(すなわちエバルト部分)。どちらの和もそれぞれの空間(実空間ならびにフーリエ空間)において素早く収束するため、精度の損失がほとんどなく打ち切ることができ、必要な計算時間を大きく改善することができる。電荷密度場のフーリエ変換 ρ ~ ( k ) {\displaystyle {\tilde {\rho }}({\boldsymbol {k}})} を効率的に評価するため、高速フーリエ変換が用いられる。高速フーリエ変換では、密度場は空間中の離散格子(すなわちメッシュ部分)上で評価される必要がある。
エバルト和はポテンシャルの周期性を仮定する。PME法の物理系への適用にあたり,ポテンシャルの周期的な対称性が必要となる。そのため,この手法は空間的に無限に広がる系(バルク固体など)のシミュレーションに適している。分子動力学シミュレーションでは、これは電荷が中性の単位セルを無限に並べることによって通常達成される。しかしながら、この近似の効果を適切に説明するために、無限に続くセルは元のシミュレーションセルへと再取り込みされる。これは周期的境界条件と呼ばれる。
密度場のメッシュへの制限は、密度の変動が「滑らか」な系(連続ポテンシャル関数を持つ系)についてPME法をより効率的にしている。局在した系、または密度の揺らぎが大きな系については、GreengardとRokhlinの高速多重極法(英語版)を用いてより効率的に扱うことができる。
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2,950 |
直交化
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直交化(ちょっこうか)とは、線型空間上にあるベクトルの組から、互いに直交するベクトルの組を生成することである。
通常のバンド計算では、行列要素の対角化を行い、固有値(固有エネルギー)及び固有ベクトルを求める。この時、異なる固有値に属する固有ベクトルは互いに直交していなければならない。通常の対角化手法(対角化ルーチン)を用いた場合、対角化ルーチンの内部で直交性を満たすように計算がされている。しかし、カー・パリネロ法のように通常の対角化手法を用いないバンド計算では、この固有ベクトル同士の直交性を満たすことが必要となり,通常はグラムシュミットの直交化による方法が使われる。他の直交化手法として、Löwdinの直交化(レフディンの直交化)がある(カー・パリネロ法では、あまり使われない)。
一方、扱う系が大きくなると直交化には多くの計算量が必要となるので、直交化の計算を行わないバンド計算手法も提案されている。
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スレッド
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スレッド (Thread,Sled)
本項では複数形になるものも扱う。
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三浦知良
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三浦 知良(みうら かずよし、1967年〈昭和42年〉2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。リーガ・ポルトガル2・UDオリヴェイレンセ所属。ポジションはフォワード。元日本代表。元フットサル日本代表。Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手である。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)。
Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持つ。
日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。
2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。
妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太、次男は格闘家の三浦孝太、いとこにサッカー選手の納谷伊織、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる。
1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった。
1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。
1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った。1986年1月には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。
1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。チームメイトであったドゥンガからは4月9日ジュベントスデビュー戦でのプレーを叱責された。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした。
サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された。
1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。
1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCへ移籍、チームの中心選手として、パラナ州選手権優勝に貢献した。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した。
1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。
1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現:東京ヴェルディの前身)へ移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかったが、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日のNKK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、三浦泰年のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝のトヨタ自動車戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した。1992年のJリーグカップでは9月19日のガンバ大阪戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると、準決勝の鹿島アントラーズ戦で決勝ゴールを決め、決勝の清水エスパルス戦でも決勝ゴールを決めるなど、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。この年、地元であるエスパルスからのオファーを受け、移籍に前向きな姿勢を示していたが、ヴェルディに残留した。
Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージ、5月26日5節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めたが、クラブ内の内紛(欧州路線)や日本代表の過密スケジュールの影響を受け18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージからビスマルクが加入。7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。12月8日17節浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続き、1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった。)50分間プレー、サイドからのクロスでウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた。
1994年には移籍を認めたくなかった渡辺恒雄から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て、1994-95シーズン、イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアのユニフォームの広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。
プレシーズンマッチの地中海カップでは、パナシナイコスFCとACミラン相手に好プレーを見せ、コパ・イタリア2回戦のチェゼーナ戦で先発出場して公式戦デビュー、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にバレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
復帰後、第12節のサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、マニコーネの浮き球からスクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった。16節のパドヴァとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした。第31節のユベントス戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリアを欠場。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)、第19節のフィオレンティーナ戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず、また自身の誕生日に出場したナポリ戦など数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノヴァの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。3度の監督交代など様々な事情もあり、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後の日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し洪明甫のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった。
その後、三浦はJリーグの1995年シーズン第2ステージから古巣・ヴェルディ川崎に復帰。復帰初戦、8月12日ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節鹿島アントラーズ戦、9月13日、9節横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げ、第2ステージのみの出場にもかかわらず得点ランキングの上位に名を連ねた。
1996年のJリーグは初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日のジェフユナイテッド市原戦でハットトリックを決めるなど、三浦自身はリーグ得点王になる活躍を続け、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、ブラジル戦に先発出場した。この年、当時ラ・リーガ1部のCDログロニェスからオファーを受け、ミゲル・アンヘル・ロティーナ監督とも移籍に向けた話し合いをしていたが、年俸などの条件が合わず、移籍は実現しなかった。
30歳となった1997年シーズン頃から衰えを見せ始めた。この年あたりから以前のようなキレが徐々になくなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦での崔英一からのラフプレーで尾てい骨を痛めてコンディションを大きく落とす。その怪我の影響から、同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点。ヴェルディ川崎も初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。
1998年シーズン、新加入のエウレルと高木琢也のツートップを採用したことからMFとしてプレーした。ファーストステージこそ終盤まで優勝争ったが、セカンドステージではベンチスタートになることも増え、1ゴールを挙げたのみに終わった。チームも18チーム中17位と低迷した。年末にV川崎は親会社である読売新聞の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた。
三浦は、2年契約でクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現GNKディナモ・ザグレブ)へ移籍。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。この時チームメートになったゴラン・ユーリッチのサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日のオシエク戦では退場処分を受けた。ザグレブはクロアチア・リーグで優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるオズワルド・アルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点はなかったが、クロスバー直撃のシュートを放った。
1999年7月、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず、当時元日本代表監督の加茂周監督からの熱心な誘いを受け、京都パープルサンガへ移籍。中村忠と再び同僚となった。加茂監督は「カズはある時期を境に全く得点を挙げられなくなった。何度も話し合いをして原因を究明しようとしたが、解らず仕舞いであった。サンガではストライカーへの原点回帰をさせ、全盛期のカズ程まではいかなくても、ストライカーとして復活出来る様に何とか手助けしたい。」と話していた。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。その後8試合無得点が続いたが、最終節を前にした磐田戦と最終節のC大阪戦でゴールを決めてシーズンを終えた。
2000年は、5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた。11月23日の古巣ヴェルディ川崎戦でハットトリックを決めるなど、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2へ降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。
2001年からは永島昭浩が現役を引退した直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。11月24日神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど、セカンドステージのラスト4試合でいずれもゴールを挙げ、シーズン11ゴールと健在ぶりを示した。
2002年は代表でもプレーした城彰二や兵庫県出身でもある播戸竜二が加入。2002年1stステージ第3節ガンバ大阪戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱し、ほとんど出場機会を得られなかった。
2003年はオゼアス・播戸竜二の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。
2004年、1stステージの第11節のガンバ大阪戦でのゴールで、11年連続ゴールを記録。2ndステージに入りエムボマ、平瀬智行らが加入し、ポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し12節から14節まで3試合連続ゴールを記録するなど、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。
2005年は、開幕からリーグカップも含めて3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると完全に構想から外れ、主将も三浦淳宏に譲った。7月26日に行なわれたボルトンとの親善試合を最後に神戸を退団。
38歳となった2005年7月、横浜FCへ電撃移籍。7月30日の水戸ホーリホック戦の後半残り僅かの時間から初出場。8月27日のヴァンフォーレ甲府でのゴールは、移籍後初ゴールとなった。
横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCへ期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身のインターコンチネンタルカップを含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった。
三浦は、2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。
40歳となった2007年は、2年ぶりのJ1での戦いとなる。シーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた。
2008年はJ2での戦いとなる。シーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、自身のJリーグ通算150ゴールとなる、シーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。
2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点はこの1得点のみに終わった。
43歳となった2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。出場した際には好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。
三浦は、2011年はシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップする。3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継され、英語実況では「national treasure Miura」と評された。
2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出され、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。
2012年は、J2出場14試合、うち先発5試合に留まった。第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。12月22日、JFLのチームでJリーグ準加盟の承認も受けているSC相模原から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された。
2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結んだ。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣東京ヴェルディが獲得を打診していると報道された。同年7月3日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節松本山雅FC戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。
2014年シーズンは、6月5日、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、日本サッカー協会が三浦をワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対コートジボワール戦を観戦し、同17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった。ただ、シーズン開幕前に左足の付け根を痛めて出場機会を失い、J2はわずか2試合、計4分のみの出場となった。
2015年シーズンは、3月9日に行われたJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。4月5日に行われたジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた。6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録をまた更新。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は「時代を超越した存在」と称賛した。前園真聖は「還暦(60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている。この年はJ2で3ゴールして健在ぶりをアピールしたが、4月に右足、10月に右太ももを負傷して長期離脱。出場は15試合だった
2016年、6月19日に行われた岐阜戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新。さらに同年8月7日に行われたアウェイでのC大阪戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた。
2017年は、自身の50歳の誕生日である2月26日に、開幕戦の松本戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録をまたもや更新した。3月12日の群馬戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた。この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定された。このゴールは、JFLに移籍した2022年1月現在、三浦のJリーグでの最後の得点である。4月15日の第8節までは7試合に先発したが、左膝痛 や左太もも負傷もあって以降は出場機会を失い、5試合に途中出場するにとどまった。
2018年は、42試合のうち39試合にベンチ入りしたが、出場は9試合で出場時間は計59分。シュートは1本で、ゴールはなかった。
2019年3月23日に行われた第5節のFC岐阜戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した。第8節も先発出場したが、練習中の左太ももの負傷で、以降は出場機会を失った。11月24日、J2最終節の愛媛FC戦で残り3分で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。J2での出場は、3試合計109分で、シュートもゴールも0本だった。
2020年1月14日にチームと契約を更新した。9月23日の川崎フロンターレ戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた。左臀部の痛みで出遅れたこともあり、13年ぶりのJ1での出場は4試合計68分に留まり、ゴールもシュートもかなわなかった。
2021年3月10日、J1浦和戦(埼玉)でロスタイムに1分間出場。自身が持つJ1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばした。以降は出場機会を失い、ベンチ入りすらもできない中、11月20日の第36節神戸戦で、横浜FCのJ2降格が確定する。最終的に、J1での出場は1試合1分のみに留まり、三浦の移籍話がメディアで取りざたされるようになった。
2022年1月11日、兄・三浦泰年が監督兼ゼネラルマネージャーを務めるJFL所属の鈴鹿ポイントゲッターズへの期限付き移籍が発表された。JFL開幕戦から先発出場が続くが、5月15日のホンダFC戦で右太ももを負傷して、ハーフタイムで途中交代する。復帰は9月4日のヴィアティン三重戦で、4ヶ月ぶりに公式戦のピッチに立った。10月9日の国立競技場でのクリアソン新宿戦では、後半31分から途中出場する。国立での公式戦出場は11年ぶりで、JFL歴代最多となる16218人の観衆が集まった。10月23日の奈良クラブ戦もロートフィールド奈良にJFL歴代2位の14202人が集まり、同チームのJ3昇格の集客案件クリアをアシストした。10月30日、枚方との対戦でPKを沈め、2017年3月12日以来となるゴールを決めた。11月12日、リーグ第29節のFC大阪戦ではダイビングヘッドでシーズン2点目となるゴールを挙げた。最終的にJFLには18試合出場した。
2023年1月16日、鈴鹿への期限付き移籍満了が発表され、横浜FCに戻った後、2月1日、プロ38年目(55歳)にしてポルトガル2部のUDオリヴェイレンセへの夏までの期限付き移籍を発表した。オリヴェイレンセは、三浦の保有権を持つ横浜FCの親会社が経営権を取得したチームである。移籍後は、筋肉系の疲労や炎症が起こり、コンディションを上げるのに苦労したが、4月14日のホームのファレンセ戦で、ポルトガルに旅行へ来た妻の三浦りさ子が見守る中、初のベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった 。4月22日のアカデミコ・デ・ヴィセウ戦では、4-1で大差のついた後半45分から出場、56歳1カ月24日での出場はポルトガル国内のサッカー史において最年長出場となった。 5月16日のトレエンセ戦には3-1の場面で、後半45分の終了間際に出場した。 5月28日のリーグ最終戦のレイションイスSC戦に4-2の場面で、後半18分から出場した。
フル代表デビューは1990年9月26日、第11回アジア競技大会、バングラデシュ戦、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には長谷川健太のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた。1992年、ダイナスティカップの北朝鮮戦で代表初ゴールを決めた。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。
AFCアジアカップ1992のグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした。
1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選でのバングラデシュ戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、予選合計9ゴール、最終予選では合計4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。北朝鮮戦で2ゴールを決めて最終予選の初勝利に貢献、続く大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めたが、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。
その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った。韓国戦において、崔英一から受けたラフプレーからの骨折が原因により、以降大きく調子を落としていった。
その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田武史監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。 1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加、ニヨンとの練習試合ではハットトリックを決めたが、監督の岡田は最後の最後まで悩んだ末に本大会出場メンバーから外す決断をした。そしてミラノでの滞在後、帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。
岡田が日本代表のコーチ時代に、合宿所の風呂で岡田の後頭部をふざけて軽く蹴り、岡田がメガネを落として怒る。。
また、ジョホールバルでのイランとのフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦での予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。
フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからしばらく代表に招集されることはなかったが、京都サンガ時代の2000年から再び代表に招集され5試合でプレーした。2000年2月5日、カールスバーグカップのメキシコ戦で約2年振りにAマッチに出場、2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦でのゴールは、1997年9月7日のワールドカップ予選、ウズベキスタン戦以来と約2年5ヶ月振りのゴールとなった。2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦でのゴールは代表で最後のゴールとなった。それ以降韓国戦に招集されたが、出場機会がなく本戦のメンバーからも落選。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいた為に実現しなかった。
2004年、当時代表監督を務めていたジーコは、既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、興行的意味合いのみならず、若手選手を刺激するために、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。
2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。
10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。
ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる 等、活躍した。
ドリブルを得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せた。
元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて硬い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。
サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した。
チーム事情によってはクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る当時としては稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている。
通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に『週刊サッカーマガジン』などベースボール・マガジン社の出版物)や新聞(日刊スポーツ)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもある。
1993年8月1日にタレントの設楽りさ子と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。父方の伯父・納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。親戚にビームス社長の設楽洋がいる。
日本国籍の選手で2019年現在、ブラジルで成功、活躍し、有名になった唯一の日本人選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識。
朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている。
前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。
2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州2部リーグに所属するウニオン・サンジョアンECのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた。
横浜FCはJ2ながらカズが加入したこともあり、横浜FCの関わった試合の平均観客動員が加入前6,079人から加入後10,293人へと上昇する など、アウェイでも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。FIFAクラブ世界選手権2005に出場するシドニーFCへレンタル移籍した際には、カズの認知度は日本でプレーする選手の中でも群を抜いており、日本人初の出場選手として大会の認知度を格段に上げたとスポーツニッポンのコラム内で言及されている。2010年6月、南アフリカW杯中断期間中に沖縄県宮古島でキャンプを行った際に、カズ人気で多くの市民が練習見学に訪れた。
北澤豪は読売時代からカズとよく一緒に行動しており、北澤がまだ無名だった頃には、カズはファンにサインする際に色紙の半分を空白にし「こいつ、これから絶対伸びてくる奴だから、今のうちにサイン貰っといた方がいいよ」とよく言っていた。1998 FIFAワールドカップの落選に対し、カズは同じく落選した北澤に「俺たちがやってきたことは間違いない。大事なのはこの後だ」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかった。またメンバー落選翌日には、日本に帰国する前に合宿先のスイスから北澤を伴いイタリア・ミラノへ立ち寄り、ホテルの最高級部屋に2人で滞在、1泊20万円ほどしたという代金は後日、日本サッカー協会に請求したところ払ってくれたという。
元韓国代表の朴智星はカズと親交があり、韓国でもカズを知らないものはいないと評している。京都パープルサンガでプロデビューし、カズと共にプレーする以前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識しており、自分の原点は京都にあると共に、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズであると語っている。
2012年2月、「女性に花を贈る姿が似合う男性」として、初代Mr.フラワーバレンタインに選出された。ヨーロッパなどではバレンタインデーに男性が女性に花を贈ることが通例となっていることから。
2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダでないと人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している。
「背番号11」へのこだわりは強い。11番を着けるようになったのはブラジルに渡ってからで、小中学生の頃は14番だった。カズのいた当時のブラジルは背番号固定制ではなく先発選手が1番から11番をつけるシステムになっており、左ウィングの背番号が11番だった。日本に帰国した時にも読売クラブに11番を希望していたがすでに埋まっており、空いていた24番を選択した。翌シーズンには希望通り11番を着けた。94年には日本代表監督に就任したファルカンから代表のキャプテンとして10番を付けるように勧められたが、これを断っているほどであった。京都へシーズン途中に加入した際、Jリーグは固定背番号制に移行していたため、11番はヴェルディ時代も同僚だった藤吉信次が着けておりカズは空き番だった36番を着けたが、藤吉に冗談で「500万円で売ってくれ」と頼んだことがある。ここでもリーグ戦と別に大会独自の背番号の登録が可能な同年の天皇杯は11番で出場し、翌シーズンは正式に11番を着けた。11番はラッキーナンバーとして大事にしており、練習の際のビブスも11番を選んで着用し、車のナンバーを11にしたり、駐車場で11番が空いていたらどんなに狭くてもそこに駐める。
幼少の頃憧れた選手として元ブラジル代表としてワールドカップを制し、清水エスパルスの監督を務めていたこともあるロベルト・リベリーノの名前を挙げた。
ドカベンのファンであることを明かしている。
先にも述べた11へのこだわりは契約更改を「1月11日午前11時11分」しようという考えにも反映されている。
ヴェルディ川崎においてJ1、横浜FCにおいてJ2での優勝を経験し、その他のタイトルでは天皇杯、ナビスコカップも制覇した。J2以外ではMVPも獲得している。
原型となったのは、ブラジルのFWカレッカが得点後にみせたコーナーフラッグ付近でサンバを踊るパフォーマンス。カズが考えた踊りを元に、田原俊彦がアレンジを加えて完成した。「ゴール後のパフォーマンス」を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。
日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時であるが、後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。本人は初披露は1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップ(読売対トヨタ)だったと述べている。
近年では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。2010年シーズン第28節富山戦でJリーグ最年長ゴール記録を更新したときも披露した。
また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした。それ以来、城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また、須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、実現はしていない)。なお、コンサドーレ札幌に所属していた相川進也は、2005年第34節徳島戦にて披露している。京都と神戸でチームメイトだった朴康造は韓国代表の試合や2010年最終節浦和戦、2011年第10節川崎戦で「本家公認」というカズダンスを披露している。李忠成(当時柏所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときに披露した。
2011年3月29日行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチがんばろうニッポン! では、試合前にカズダンスについて「やってもいいんじゃないですかね。いろんな意見があると思うけど、やるのも一つの手だと思う」とゴールを決めた場合にはカズダンスを行うことを示唆。後半37分にゴールを決めた際にはゴール裏でカズダンスを披露した。2015年4月5日に最年長ゴールを決めた試合終了後、カズダンスの全Jリーグ選手への解禁を宣言し「Jリーグなら誰でも公認」となった。
その他の公式戦
2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。
JFAとRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている。
これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%9F%A5%E8%89%AF
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AppleScript
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AppleScript(アップルスクリプト)は、Appleが開発したClassic Mac OS/macOS用のオブジェクト指向のスクリプト言語。System 7(Mac OS 7にあたる)から採用されている。
標準環境で利用でき、ある程度自然言語(英語)に似た構文を持つ。制御構文、ハンドラや変数、オブジェクトやプロパティの記述といったプログラミングの基本機能を言語に備えており、Mac OSのプロセス間通信機能の一つであるApple eventによって、システムや様々な対応アプリケーションにまたがって制御できる。
AppleScriptはMac OSのスクリプティング機構Open Scripting Architecture (OSA) に対応した言語(OSA言語)のひとつであり、OS X v10.10よりJavaScript for Automation (JXA) も標準搭載されるようになった。
アプリケーション操作の自動化、シェル、コマンドの呼び出し、画面上の部品の強制操作にWebコンテンツの強制コントロール、Cocoaフレームワークの呼び出しにiCloud経由のコンテンツ更新など、マクロ言語としてはカバーできる範囲がとても広い。そのうえ、GUIベースのアプリケーション開発まで行えるため、いったん覚えるとMacを用いた作業の生産性が向上する。ただし、他のアプリケーションを他のコンピュータからも操作できるため、セキュリティを考慮しさまざまな抑止機能がオペレーティングシステム (OS) に用意されつつある(詳細は#制限機能を参照)。
Classic Mac OSからmacOSを通じて継承された唯一のテクノロジーであり、海外を中心に古くから開発者コミュニティが形成され、GUIベースのアプリケーションのコントロールについての知見が蓄積されている。
AppleScriptはOSAに準拠したスクリプト言語の一つであり、アプリケーション等のプロセスにApple eventを送ることにより自動操作を実現する。通常はコンパイル済みのバイトコードが保存され実行される。このため、基本的にはOSのバージョンやCPUの形式 (68000, PowerPC, x86, x64, ARM) 、記述した言語(AppleScript英語、AppleScriptフランス語、AppleScript日本語)などに依存しないコードが生成される。
AppleScriptの言語そのものが定義している予約語(複数の単語による連語から構成される)は数十程度と少なく、標準では絶対値を求める機能や三角関数の機能すら持たないが、Scripting Additions/OSAX(Open Scripting Architecture eXtension)と呼ばれる機能拡張書類、あるいはAppleScriptそのもので記述したAppleScript Librariesによって命令を増やすことが可能となっている(サードパーティのOSAXはmacOS 10.14で廃止になった)。
AppleScriptはMac OS上のアプリケーション間通信を基礎技術として用いているため、アプリケーションがApple eventに対応していればそのアプリケーションに処理を委ね、その処理結果を別のアプリケーションに対して用いることも可能である。また、現在のバージョンではUser Interface ScriptingあるいはGUI ScriptingあるいはUI Element Scriptingと呼ばれる機能を用いて、スクリプトからアプリケーションにメニュー操作やキー入力を伝達することも可能になっている。アプリケーションは、システム経由で送られてきたApple eventメッセージを解釈して対応した処理を行い、処理結果を再びシステムを経由してApple eventメッセージとして返す。
バイトコードインタプリタ型の逐次実行で処理されるため、ネイティブコードに比べると実行速度は劣るものの、アプリケーションの機能呼び出しを行わない場合にはスクリプト言語としては十分な速度で実行される。ただし、アプリケーションの機能呼び出しはコストも高く、前述のGUI Scriptingを用いたメニューなどの強制操作を行うと、さらに処理コストが増加し、時間がかかる。
AppleScriptは、簡素なダイアログ (display dialog、display alert)、ノーティフィケーションセンターへのノーティファイ (display notification)、ポップアップメニューからの項目選択ダイアログ (choose from list)、ファイル選択 (choose file)、フォルダ選択 (choose folder)、新規ファイル保存先パス選択 (choose file name) 、プログレスバー表示(Mac OS X v10.10以降。アプレット動作時のみ)などの、目的に特化した簡単なユーザインタフェースを提供している。
これら以外のユーザインタフェースを利用するために、現在利用できる手段で一番簡単なやり方は、Mac OS X標準搭載の「スイッチコントロール」でパネルを作成し、パネル内のボタンに対してアクション「AppleScript」を割り当てておくというものである。
Adobe InDesignなどの一部のアプリケーションでは、簡易的なユーザーインタフェースをAppleScriptのプログラムから動的に生成する機能を備えている。
本格的な、自由度の高い自作のインタフェースを持たせるには、Xcode上で「AppleScript App」プロジェクトを作成し、その中にAppleScriptコード(AppleScriptObjC)を記述する。Xcode上で一般のアプリケーション開発と同様にユーザインタフェースを作成できる。コントロール(GUIの部品)が操作されると、AppleScriptコード中の対応するイベントハンドラが呼び出される。
macOSにはスクリプトの編集・実行ツールであるスクリプトエディタ(Mac OS X v10.0〜v10.4はスクリプトエディタ、Mac OS X v10.5〜v10.9はAppleScriptエディタ(スクリプトエディタの名称が変更されたもの)、Mac OSでは『スクリプト編集プログラム』)が付属する。
スクリプトエディタにAppleScript対応アプリケーションのアイコンをドラッグ・アンド・ドロップするとAppleScript用語辞書が表示され、これを参照しつつアプリケーションのコントロールを行う処理を記述する。
スクリプトエディタにはブレークポイント設定や変数内容のモニタリングなどの機能はないため、これらの機能を利用したいユーザーはLate Night Software社の「Script Debugger」を用いる必要がある。また、Cocoaオブジェクトのログ表示やAppleScript Librariesに添付するAppleScript用語辞書の編集についても「Script Debugger」で行える。
AppleScriptへのコードサインはApple純正のスクリプトエディタおよびScript Debuggerで行うことができる。Mac App StoreにAppleScriptで作成したアプリケーションを提出するには、Xcode上で記述・コードサインする必要がある。
その他、テキストで書いたスクリプトをコマンドラインからosascriptコマンドでコンパイル・実行することも可能である。
Apple純正の統合開発環境Xcode(旧Project Builder)上でAppleScriptによるアプリケーション開発を行うこともできる。AppleScriptから直接Cocoaの機能を呼び出せる「AppleScriptObjC」が提供されている(Mac OS X v10.1〜v10.5ではAppleScript Studio)。ユーザーインタフェース作成についてInterface Builderを用いる点は以前のAppleScript Studio(Mac OS X v10.6で廃止)とかわりないが、AppleScript用語辞書を用いて各種GUI部品にアクセスするのではなく、Interface Builder上でバインディングによりAppleScriptプログラム中のプロパティ値にひもづけしたり、Cocoaの各種フレームワーク内のメソッドを呼び出す方式に変更された。
AppleScript書類のフォーマットは維持されているため、基本的には互換性が確保されている。これまでMac OS X v10.4のインテルCPUへの移行や、Mac OS X v10.7の64ビットへの移行、macOS 11.0のApple Silicon(ARM)移行などOSの基盤の大変革期があったが、AppleScriptそのものについてはほぼ影響はなかった。AppleScriptの処理系そのものの変更が小刻みであったため、15年前に作られたソートルーチンがそのまま使えたりもする。
ただし、AppleScriptだけでなくOSAXや外部のアプリケーションの機能を利用していた場合には、部品ごとに確認が必要となる。
まず、macOS標準添付のアプリケーションの機能がOSバージョンごとに異なる。これらを呼び出す処理を行っている場合にはチェックが必要である。とくに、AppleScriptにOSの機能を提供するために用意されている補助アプリケーションはOSバージョンによって変更されることがあるため、その存在および代替機能を確認する必要がある。一般的に、古いバージョンから新バージョンへの移行は、それなりに手間はかかるものの確認作業レベルで済む。
逆に、新しいバージョンのOSから古いバージョンのOSにScriptを移植する場合には大幅に作業量が増える。古いOSには固有のバグもあるため(Mac OS X v10.5以前は日本語のパスの扱いに問題があった)、それらを考慮した処理に変更する必要も生じる。古いmacOSが動作する実機と関連アプリケーションを用意し、きちんと動作検証や書き換え作業が必要になる。
GUI Scriptingを利用している場合には、メニュー構成やボタンの文字を変えただけで動かなくなる可能性があるため、そもそも異なるOSバージョン間でそのまま動く可能性は低い(ただし単純な修正で対応できる)。
OS X v10.10以降ではAppleScript側が想定するAppleScript処理系のバージョン(≒ macOSそのもののバージョン)をuseコマンドを使って表記できるようになった。
また、macOS 10.14以降でサードパーティ製のOSAXが使用できなくなったため、それらを使用しているScriptをmacOS 10.14以降で動かす場合には代替機能を探す必要もある(Cocoaの機能を呼び出したり、shellコマンドの機能を呼び出したりするのが一般的)。
HyperCard用のスクリプト言語であるHyperTalkに似た、英語に近い構文が採用されており、基本的には習得しやすい。機能の異なるアプリケーションを操作するためには、それぞれアプリケーションごとに異なる命令やオブジェクト構造を知る必要があり、AppleScript対応アプリケーションのアイコンをスクリプトエディタでオープンすることで表示される「AppleScript用語辞書」を参照しつつ記述することになる。
初期は日本語表現形式を含む英語以外の言語による記述も可能だったが、Mac OS 8.5以降は英語表現形式のみが採用されている。英語表現形式の場合も変数名は | で囲むことで日本語などを使用できる。
Mac OS X v10.10でAppleScriptObjCがXcode上のみならず、スクリプトエディタ上でも利用できるようになったため、Objective-C風の表記も標準採用された。
スクリプトの例(変数「持ち物=myItem」の中身が0だったらダイアログを表示する)
英語
通常は上記のように記述するが、より英文に近い以下のようなコードも記述できる。ただし複数の処理を一行のif文に組み込むことはできないので、先ほどの構文を使用することになる。下記のコードでは比較演算子の“等価”を表す = が is に置き換えられている(is は is equal to と書くこともできる。このような同義語が数多く存在するのもAppleScriptの特徴のひとつ)。
変数名に日本語を用いた例
日本語(現在は利用できない)
Mac OS X v10.6で部分的に導入され(Xcode上のみ)、Mac OS X v10.10でスクリプトエディタでもCocoaの機能を利用するAppleScriptObjCが導入された。このため、現行のmacOS上ではどのマシンでも、どのAppleScriptランタイム環境上でもCocoaの機能を利用できる状態になっている。
AppleScriptObjCは従来のAppleScriptと比べて10倍以上の高速処理が可能である。ただし、それはAppleScriptのオブジェクト(string、list、recordなど)をCocoaのオブジェクト(NSString、NSArray、NSDictionaryなど)に変換したうえでCocoaのメソッドを呼び出した場合であり、従来型のAppleScriptをAppleScriptObjC環境で記述しても速度は変わらない。AppleScriptとCocoaの間でのオブジェクト変換は暗黙で行われる場合もあるが、多くの場合は明示的に変換する必要がある。
また、AppleScriptObjCではObjective-CのBlocks構文やprotocolをサポートしていないため、Cocoaのフレームワークすべてが利用できるわけではない。Cocoaのクラス名やメソッド名でAppleScriptの予約語とコンフリクトするものについては「|」で囲う必要がある(例:NSURL、URL、document、count、propertiesなど)。ドットシンタックスもサポートしていないため、現行のObjective-C 2.0にくらべるとやや冗長な表記になる。
Cocoaオブジェクトの結果表示やログ表示については、macOS標準添付のスクリプトエディタではサポートしていない。Cocoaオブジェクトのログ表示などを利用するためにはサードパーティーの開発ツール「Script Debugger」の利用が必要である。
スクリプトの例(変数「aString」のアルファベット大文字を小文字に変換する)
Objective-C
AppleScriptObjC
AppleScript対応アプリケーションへのtellブロック内でAppleScriptObjCの命令を呼び出すとエラーになる。このため、たとえばAdobe InDesignの書類から得られたデータをAppleScriptObjCを用いて高速にソートしたい場合などは、AppleScriptObjCの機能部分をサブルーチンとして分離し、InDesignへの命令ブロックと明示的に分ける必要がある。
なお、AppleScriptObjCで実行されるCocoa機能呼び出しはARC環境下で実行されるため、releaseなどのメソッドを呼び出すと実行環境ごとクラッシュする。
スクリプトエディタ上でのコンパイル(構文確認)時に演算の優先順位を指定するため、AppleScript処理系がソースコード内にカッコ(「(」「)」)を自動的に補う動作を行う。ユーザーはこのカッコが自分の意図に合うかどうかを判断し、適宜カッコを補ったり移動させる必要がある。
カッコが自動で付加されるのは、主に四則演算や文字列の連結演算、Cocoaオブジェクトへのメソッド実行などの記述時である。
英文風に記述するため、「無意味句」を入れることができる。無意味句の代表的なものに「the」がある。theはプログラム内で何もプログラム的な動作を行わない。実行時に無視される。
のような配列変数の末尾に数値を追加する記述を行なった場合、英文風に読みやすくするため、
のように無意味句を補うことができる。
無意味句はプログラム的な動作を何も行わないが、それら自体が存在し、無意味句同士は別物として識別される。そのため、無意味句を補助的に用いてサブルーチン(ハンドラ)の宣言を行うことも可能。
AppleScriptが定義している無意味句には、
などがあり、サブルーチンのパラメータを指定する装飾子としてこれらの無意味句を利用できる。
アプリケーションの操作による作業の自動化や、複数のアプリケーションの操作によるソフトウェア・ロボットの構築が可能であるが、操作対象の種類によって利用する技術や手法が変わる。
Safariやコンタクト、カレンダーなどのmacOS標準添付アプリケーションの多くがAppleScriptからのコントロールに対応しており、主要機能にアクセスできる。
ただし、対応アプリケーションであっても機能のすべてがAppleScriptに解放されているわけではない。AppleScript用語辞書に定義されている範囲のみである。
そのため、前述のGUI Scriptingによるメニューやボタンなどの強制操作が時と場合によって必要になる。この強制操作機能はOSのデフォルト設定ではオフになっているほか、アプリケーション/アプレット/Scriptごとに許可/禁止するようになっている。
do shell scriptコマンドでBSD (UNIX) レイヤー上のコマンドを呼び出すことができる。ただし、Terminal.app上とdo shell scriptコマンドでは設定されている環境変数が異なるため、Terminal.app上で実行できていた処理ができなくなる場合がある。特に、指定したコマンドにパスが通っていないことや、カレントディレクトリが異なること等はエラーの原因となる。これは環境変数の内容を明示的に指定することや、利用コマンドをフルパスで表記することで回避できる(環境変数内容はenvコマンドを実行して確認できる)。
macOS標準装備の「リモートApple events」の機構を用いて、TCP/IPネットワーク(主にLAN)内の他のMac上のアプリケーションをコントロールできるようになっている。ただし、セキュリティ確保のためmacOS標準装備のアプリケーションの多くは、この機能が禁止されているほか、OSのデフォルト設定ではリモートApple eventsはオフになっている。
1台のMacでは処理が追いつかない場合、この機構を用いて複数台のMacに仕事を割り振り分散処理を行うことができる。また、Mac上で稼働する仮想環境上でmacOSを動作させ、仮想環境との間での分散処理も可能である。
SOAP、XML-RPCを呼び出すための命令が標準で装備されている(call soap、call xmlrpc)。Cocoaの機能を用いてRESTful APIを呼び出すことも可能である。
これらのサービスが存在しないサイトに対しても、Safariのdo JavaScriptコマンド経由で操作したり、GUI Scriptingで強制的に操作することで、Webサービスにログインして必要な情報を取得するなどの処理が可能である。
macOS 11.0以降、ARM Mac上ではiOS用のアプリケーションがそのまま動作している。このため、ARM Mac上で動作するiOSアプリケーションをAppleScriptから操作することも可能になった。専用の用語辞書を持たないiOSアプリケーションに対しては、GUI Scripting経由で操作するが、macOSアプリケーションのようにオブジェクト階層をたどれる作りになっていないため、新たなノウハウが必要である。
Apple純正のメモなどのアプリケーションでは、macOS用とiOS用がiCloud経由でデータのシンクロを行うため、macOS上でデータの更新を行うとiOS側にもそれが反映される。これを利用して、iOS側に大量のデータを登録したい場合にMac上でAppleScriptなどによってデータを追加するといった方法が可能である。また、iPhoneとひもづけされたMacからAppleScriptを用いて電話をかけたりSMSメッセージを送信したりもできる。
iOSシミュレータ上で動くiOSアプリケーションもGUI Scriptingにより操作や情報の取得などが可能である。そのため、AppleScriptからシミュレータ上のiOSアプリを操作し、操作テストを実施して段階ごとに画面キャプチャを記録することも行われている。
Mac OS X v10.10以降では、Apple純正およびサードパーティー製CocoaフレームワークをAppleScriptから直接呼び出すことが可能となっている。また、コンタクト(住所録)やカレンダーの情報をフレームワーク経由で検索・操作できるようになった。iTunes Libraryの検索もiTunes.app経由やiTunes Music Library.xmlを検索するよりも高速に行える。
Mac OS X v10.9以降で、AppleScript自体をライブラリ化して再利用できるようになった。さらに、このライブラリにはAppleScript用語辞書を持たせることが可能なため、AppleScriptの命令語をAppleScriptで記述したライブラリによって拡張することが可能である。
macOS 12以降では、iOS系のOSから移植された自動化ツール「ショートカット」(Shortcuts.app)が利用できる。このツール自体がAppleScriptからの操作に対応しており、指定のショートカット(ユーザーが定義した自動化ワークフロー)を実行できるほか、Shortcuts.appが起動していない状態でも、AppleScriptからの実行専用バックグラウンドツール「Shortcuts Events」を指定してショートカットの実行が可能。
AppleScriptから音声エージェント「Siri」を呼び出すAppleScriptライブラリ「AgentCallerLib」がPiyomaru Softwareより提供(電子書籍の付録として提供)されており、指定の文字列をSiriに渡して実行できるようになった。コマンドの冒頭に「Hey Siri」を書く必要はない。同ライブラリは、macOS 12以降をサポートしている。
AppleScriptは中間コードに翻訳されて逐次実行されるが、以下のようなさまざまな保存・実行環境(ランタイム環境)を持つため、実行環境によって動作が微妙に異なり、想定していた通りに動かない場合がある。
また、実行中のログ表示が行えるのはスクリプトエディタでオープンしてスクリプトエディタで実行させた場合、およびXcode上で作成してデバッグビルドを行なっている場合の2つのケースにかぎられる。フォルダアクションで実行中のAppleScript書類をスクリプトエディタでオープンさせたからといって、フォルダアクションで実行中のAppleScriptのログがスクリプトエディタ上にログ表示されることはない。
スクリプトエディタ上に記述して、スクリプトエディタ上で実行する形態である。この際の実行環境はスクリプトエディタであり、途中でAppleScriptの実行を停止させたり、ログ表示させた内容を確認したりできる(ログ表示させると実行速度がいちじるしく低下する)。セキュリティ上の制約がもっとも少ない実行環境でもあり、他の実行環境では動かせないコードもこの環境で動くケースが多い。
スクリプトエディタ上で記述して、アプリケーションとして保存、あるいはアプリケーションとして書き出したものである。この形態のものをアプレットと呼ぶ。アプレット実行時にはアプレット用のランタイム環境が用意されている。この環境で実行すると、on idleによるタイマー割り込み、ファイルやフォルダをドラッグ&ドロップ受信する機能、ハンドラの実行後に終了しない、プログレスバーの表示機能(Mac OS X v10.10より)などの機能が利用できる。ファイル/フォルダのドラッグ&ドロップを受け付けるアプレットをドロップレットと呼んで区別する(アイコンが異なる)が、ランタイム環境は同じである。
アプレット実行時にログ表示などの機能は利用できないため、この実行形態のままではバグの確認や修正が困難である。アプレットとして書き出す前にスクリプトエディタ上で内容に問題がないことを確認する必要がある。
Automatorのワークフロー記述の一部としてAppleScriptを使用することもできる。Automator上のアクション「AppleScriptを実行」がスクリプトエディタに近い機能(ログ表示、結果表示)を持つが、他のAppleScript対応アプリケーションのAppleScript用語辞書をブラウズしたり、途中で実行を停止させるなどの機能はない。
Mac OS X v10.7で導入された。スクリプトエディタ上で「ファイル」>「テンプレートから新規作成」>「Cocoa-AppleScript Applet」を選択することで新規作成できる。AppleScriptObjCによるプログラムをスクリプトエディタ上で記述できるが、Interface Builderによるユーザーインタフェースの作成が行えず、デバッグ機能も乏しい。実行はアプレット形式でのみ行う。
Xcode上で「File」>「Project」>「Other」>「AppleScript App」を呼び出すと作成される。Mac App Store上でのアプリケーション販売が可能な形式である。一般的なCocoaアプリケーションをAppleScriptで開発する環境であり、一般的なCocoaアプリケーションに近いものが作れるが、一般的なCocoaアプリケーションを作成するレベルの知識が必要とされる。Xcode内蔵のエディタ上で編集するAppleScriptは、文法要素に応じた構文色分け機能が利用できず、デバッグも行いにくい。複数のスクリプトファイルにプログラムを分割した場合のハンドラ呼び出し方法にクセがある。
macOSのメニューバーから所定のフォルダ内のAppleScriptを実行できる、macOS標準装備の「スクリプトメニュー」に登録・実行した場合の実行環境も、OSのバージョンに応じてさまざまな変更が加わってきた。Mac OS X v10.10からはosascriptコマンドで実行する実装になった。このため、スクリプトメニューから複数のAppleScriptを同時に実行させることが可能になったが、実行するScript同士で共通のアプリケーションにアクセスした場合のバッティングまでは面倒を見てくれない。スクリプトメニューから実行中のScriptの停止を行えるが、実行中のログ表示はできない。macOS v10.14からは独立したアプリケーションとして提供されるようになった。
指定のフォルダ内容を数秒間隔で監視し、変更が加わるとAppleScriptの実行を行う機構である。ランタイムの差異が問題を生むというよりも、このフォルダアクションの機構そのものがmacOSのバージョンによってはうまく動作していない(Mac OS X v10.10)ことが問題であった。のちに、macOS v10.11でFSEvents経由で変更イベントを受信するよう全面的に書き直され、ファイル変更があったら即時にScriptが実行されるようになった。
OSバージョンによっては、display dialogなどのコマンドが利用できなかったが、Mac OS X v10.10以降はスクリプトエディタ上での実行にきわめて近いランタイム環境が提供されている。全く同一ではないため、スクリプトエディタ上で記述すれば発生しないような問題に直面する場合がある。一例として、AppleScript中からNSWindowを動的に生成し、そのウィンドウ上の各種GUI部品でユーザーからの操作を受け付けたい場合、操作が処理されないといった問題がある。
macOSのアクセシビリティ系の機能に、フローティングパレット上に配置したボタンからキーボードショートカットやAppleScriptの実行を行えるSwitch Controlがある。バンドル形式のScriptを読み込んで実行できない、Scriptのバンドル内に実行ファイルを入れて呼び出すことができない、ユーザーディレクトリ下のAppleScriptライブラリを認識しない、といった運用上の制約がある。
日本語音声認識でAppleScriptを実行できる。実行可能形式は、AppleScriptのフラット形式(.scpt)およびAppleScriptアプレット。Siriとは別の音声認識コマンドであり、あらかじめ指定しておいた固定文字列を日本語音声認識して、合致すればコマンドを実行する。macOS 12でショートカット.appがmacOSに搭載されたことにより、AppleScriptを実行可能な音声認識コマンドの実行系が2つ存在している。
FileMaker Proを外部からAppleScriptでコントロールするよりも、FileMaker Proスクリプトの「AppleScriptを実行」スクリプトステップ中にAppleScriptをコピー&ペーストで入れて実行する方が数倍高速に実行される。画面の再描画などを抑止するほか、高速実行するための仕組みを備えている。
Microsoft OfficeのVBAスクリプト内でも、AppleScriptを呼び出す仕組みが用意されている。Excel v.14.xまでは「MacScript」コマンドにより文字列で与えたAppleScriptが、Excel v.15.xでは「AppleScriptTask」コマンドによりファイル名を指定して外部のAppleScriptを実行できるようになっている。
同様に、Adobe InDesignの「スクリプト」パレット中からAppleScriptを呼び出すことが出来、この際に画面の再描画を抑止できるため高速実行(おおよそ2倍)が可能となっている。ただし、Adobe InDesignについては大量のデータ処理時にクラッシュが発生するため、処理速度より安定稼働を重視すると外部からのコントロールも選択肢に入る。
AppleScript専用のサードパーティー統合開発環境といえるScript Debuggerでは、デバッグ時にAppleScript互換の「AppleScript Debugger」というAppleScriptとは別のOSA言語を実行することになる。厳密にいえばAppleScriptそのものを実行するわけではないため、振る舞いが異なる箇所が出てくることは否定できない。ただし、以前(Classic Mac OS時代)に比べると純正AppleScript環境との互換性は大幅に高まっている。強力で便利な環境であるが、「デバッグ時以外はScript Debuggerを使うべきではない」という方針の開発現場もあるのは、この「互換性問題」ゆえである。
Shortcuts.appのアクションに「AppleScriptを実行」が用意されており、ショートカット内でのAppleScript実行が可能である。このアクションはmacOS専用であり、他のOS上では実行できない。Cocoaの機能呼び出しや、ユーザー環境にインストールされたAppleScript Librariesの機能呼び出しなどが可能。このことにより、Mac上であればSiri経由で日本語音声認識/テキスト操作によりAppleScriptを実行できるようになった。
スクリプトエディタ上でのコンパイル(実質的には構文チェック+中間コードへの置き換え)時には、AppleScriptの基本的な文法を外れなければ、それがたとえ実行できない命令の組み合わせであってもエラーにならない。実行時にエラーとなる。FinderのAppleScript用語辞書を見ていると「make new application」といったできそうもないプログラムを組めそうに見え、実際にFinderへのtellブロック内に記述するとコンパイルを通ってしまう。
実際には、アプリケーション側が想定している命令語の組み合わせは限定されたものである。また、想定された条件下によっては実行できるが、条件がそろわないと実行してもエラーになったり無意味な結果になるものもある。このため、アプリケーションが備えている機能を逸脱しない表記、アプリケーションの用語辞書で実現可能な記述パターンの情報を収集することには大いに意義がある(Appleが主催するメーリングリストのアーカイブの検索がこれに適している)。また、Scriptはこまめに実行して想定どおりの実行結果が得られているかを確認するとよい。
たとえば、printコマンドでプリンタを指定して書類を印刷する機能が存在していても、LAN内に存在するプリンタ名一覧を取得する機能はデフォルトでは用意されていない。同様に、テキストの音声読み上げを行うsayコマンドで音声キャラクタの名称を指定できるのに、現在システムにインストールされている音声名称の一覧を取得する機能が存在していない。このため、shell scriptやCocoaのサービスを呼び出して、取得する手段を別途用意する必要がある。
何らかの条件に基づいてオブジェクトを抽出する処理が、アプリケーションコントロールでは日常的に発生する。たとえば、リマインダーで名称(name)に「発売日」を含む項目のみ抽出するといった処理である。そのような場合に、オブジェクトの抽出をせずに「とりあえずすべてのオブジェクトを取得して、ループで条件一致するものを抽出する」ようなコードでは処理が遅くなってしまう。フィルタ参照を使って対象オブジェクトのしぼりこみを行うと速度を向上できる。
ただし、64bit化されたFinderではこのフィルタ参照の処理速度が大幅に低下しており、Finderに対して複数のフィルタ参照を実行すると速度が落ちる点に注意が必要である。
何らかのオブジェクトの属性値を取得したい場合に、複数の属性値を何回かに分けて取得するよりもpropertiesでまとめて属性を取得した方が速いケースなどがある。アプリケーションをコントロールするために存在しているAppleScriptであるが、アプリケーションとの通信回数を減らすことが処理の高速化につながる。
例えば、指定フォルダ以下の全てのファイルを処理する場合、Classic Mac OS時代にはFinderに対して再帰処理で取得するように書いていたが、現代のmacOSではSpotlightを用いてファイル一覧を取得するとずっと速く処理できる。このように、macOSの機能の移り変わりを意識していないと処理速度が大幅に変わる。
Music(iTunes)、Keynote、Pages、NumbersなどApple純正アプリケーションに固有の問題が存在する。アプリケーションのローカライズをやりすぎて、AppleScript関連の機能までローカライズされている例が多々ある。このため、海外で流布しているAppleScriptの、主にオブジェクト名称を英語名表記から日本語名表記に変更しないと日本語環境上では実行できない(エラーになる)ケースが存在する。
あまりに拡張され、できることが増えすぎたため、AppleScriptの一部機能を抑止するための機構がmacOSに用意されつつある。以下の機能についてはデフォルトでは禁止状態になっているが、管理者パスワードを入力すれば実行を許可するようになっている。
ネットワーク上の他のMacからのコントロールを行うリモートApple Eventsに対し、macOS標準装備の各アプリケーションは応答しないようになっている。また、出荷時のデフォルト設定で、リモートApple Eventsはオフになっている。
画面上のメニューやボタンなどを操作するGUI Scriptingについては、「システム環境設定」の「セキュリティとプライバシー」>「アクセシビリティ」で個別に許可を行うようになっている。デフォルト設定では、どのプログラムに対しても許可していない。
Safari 9.1.1より、「開発」メニューに「Apple EventsからのJavaScriptを許可」の項目が新設され、これにチェックを入れないとAppleScriptからSafariに対してdo javascript命令を実行できなくなった。いったん許可すれば、その状態は継続される。
FileMaker Pro v16より、FileMaker Script中におけるAppleScriptの実行(正確にいえば、AppleScriptからFileMaker Pro自身を操作すること)がデフォルトの権限セットのままでは許可されない状態になっている。そのため、より以前のバージョンで作成したFileMaker ProデータベースをFileMaker Pro v16でオープンすると、FileMaker Script Step実行時に「実行権限エラー」ダイアログが表示され、Script Stepの実行が行われないという現象に直面することがある。このような場合には、拡張アクセス権で「Apple EventおよびActive-XによるFileMaker操作の実行を許可」にチェックを入れれば実行できるようになる。
macOS 10.14より、システム環境設定の「セキュリティとプライバシー」>「プライバシー」項目にセキュリティ度を調整するための各種機能が追加され、AppleScriptもその影響を受けるようになった。
「フルディスクアクセス」項目では、動作中のMacのすべてのユーザーに対して、ユーザー自身のメール、メッセージ、Safari、ホーム、Time Machineバックアップなどのデータや特定の管理設定へのアクセスを許可する。AppleScriptを利用するユーザーはこの項目に「スクリプトエディタ」と「スクリプトメニュー」を登録しておく必要がある。
「オートメーション」項目では、他のアプリケーション制御の許可、および取り消しを行える。スクリプトエディタ以外のアプリケーションで、他のアプリケーションを制御する場合には、動作中の最初の要求時にユーザーに対して承認を求めるダイアログを表示する。承認されたアプリケーションはこの「オートメーション」項目に表示されるようになる。実行したユーザーが承認しなかった場合にも、本項目にチェックボックスがオフになった状態で表示されるため、あとからシステム環境設定上の本項目において承認を行う(チェックボックスをオンにする)ことが可能である。
なお、一度「オートメーション」項目に登録され、ユーザーの承認を得ていれば、毎回ユーザーの承認ダイアログが表示されることはない。
逆に、本「オートメーション」項目に意図的に登録させたい場合、アプリケーションのバージョン番号を確認したり最前面に表示させる(activate)コマンドを実行させる程度ではシステムが反応しない。他のアプリケーションを操作するAppleScriptアプレット/AppleScriptアプリケーションにおいて、初回起動時に「オートメーション」項目に登録される程度の簡単な(害のない)アプリケーション操作を意図的に行う必要が生じるようになった。AppleScript側から任意のアプリケーションに対する操作が許可されているかを知ることは、サードパーティのフレームワークを呼び出すことで可能となっている。
macOS 10.11以降、SIPによる機能制限が段階的に強化され、macOS 10.14においてはApple純正のスクリプトエディタにも制限が加わった。ホームディレクトリ下の「ライブラリ」フォルダ中の「Frameworks」フォルダ(デフォルトでは存在しない)へのアクセスがSIPにより禁止された。macOS 10.14上でこの制限を回避するには、サードパーティの開発環境「Script Debugger」を利用するか、SIPそのものを解除する必要がある。
macOS 10.15以降、リモートApple Eventsでネットワーク上の他のMac上のAppleScriptから命令を受け付ける場合、呼び出す側と受け付ける側のユーザー名が同じである必要があるようになった。なお、簡単なシェルコマンドでこの制限は無効にすることができる。
macOS側のセキュリティ機能とAppleScriptの処理系のすり合わせが不十分なままOSがリリースされてしまったために、macOS 10.12, SierraにおいてはAppleScriptをドロップレットとして保存し、ファイルをドラッグ&ドロップした場合には、ファイルの処理が行われなかったりファイル処理の順序が以前のOSのとおりに行われなかったりする。
これは、ファイルの拡張属性(Xattr)の1つ「com.apple.quarantine」により発生する。インターネット上からダウンロードしたファイルなどは、その安全性が担保されていない状態であると(macOSが)みなし、この「com.apple.quarantine」属性が添付される。
ユーザーの操作によりファイルのオープンを許可された(「ダウンロードされたファイルですが、オープンしてもよいですか?」という確認ダイアログでユーザーに承認)場合には処理されるが、同属性がついたままだとドロップレットによる処理が行われない。一応回避手段は存在するが、初心者には理解が難しいものとなっている。 。
sayコマンドで日本語読み上げ音声を指定して「もげる」「捥げる」を読み上げると正常に読み上げられない(NSSpeechManagerのバグで、SwiftやObjective-Cでも同様のバグが発生し、iOSでも状況は同じ)。。
Enum「NSNotFound」の定義が間違っており、-1ではない値を返す(10.13.1にて修正)。
AppleScriptからCocoaの機能を呼び出す際にScripting Bridgeの仕組みが利用されているが、このScripting Bridgeの定義ファイルに問題があり、いくつかの機能が正常に呼び出せない状況が確認されている。。
NSRectが属性ラベルつきのレコード型ではなくリスト型に変換されるようになっている。
PDFViewに対してcurrentPage()を実行してもPDFPageが返ってこない。このため、PDFView上でPDFを表示させるGUIプログラムに影響が出ている。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/AppleScript
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2,955 |
ハンデキャップ
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ハンデキャップ、ハンディキャップ(英:Handicap n, v)とは、スポーツやゲーム等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のこと。単にハンデやハンディともいわれる。なお、本項で記述する意味などから発して、競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられることも多い。
競技において参加者が、同時にゴールできたり、誰にも同じ確率で勝てるように、競技を行う前に数値を計上したり、上級者の行為を制限したり下級者の行為の幅を広げる設定を行う。通常、内容は競技ルールの一部として定義されている。
操作は公正に行われる必要がある。操作を行う人はハンデキャッパーなどと呼ばれる。
ハンデキャップを設けない「スクラッチ」は対義的な意味として扱われる。
英語のHandicapはイギリスのHand-in-capと呼ばれる古い遊びがあり、17世紀の官僚サミュエル・ピープスは1660年9月19日付の日記ではこの遊びを知ったことが書かれ、それは2人が物々交換を始めようとして第三者の審判が安価な方に足し前(boot)を提案、2人か審判は対戦するごとに担保を入れた帽子に手を入れることからこのゲームの呼び名が付き、安価な物に対して弱みも意味するようになり、後の不利な条件を意味するようになった。
主に「ハンデ戦」と表現する。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97
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浮動小数点数
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浮動小数点数(ふどうしょうすうてんすう、英: floating-point number)は、実数をコンピュータで処理(演算や記憶、通信)するために有限桁の小数で近似値として扱う方式であり、コンピュータの数値表現として広く用いられている。多くの場合、1ビットの符号部、固定長の指数部、固定長の仮数部、の3つの部分を組み合わせて、数値を表現する。
この節はパターソンらの記述に基づく。
実数は0以上かつ1以下のような有限の範囲でも、無限個の値(種類)が存在するため、コンピュータでは妥当なビット数で有限個の値(種類)の近似値で扱う必要がある。
実数-1/3は無限小数となるが、有限桁の小数で近似値を表記できる。下の例では10進数での4桁としている。
下の2つの表記は科学記数法 (scientific notation) とよばれ、小数点より左側の整数部分を1桁とする。 科学記数法のうち、左側の1桁を0以外(10進表記では1から9)にしたものを、正規化数 (normalized number) とよび、 一番下の表記が該当する。
実数-1/3はまた、有限桁2進数の小数でも、近似値で表記できる。下の例では2進数17桁としている。
2進数の小数も科学記数法で表記できる。
上記は同じ値を、小数点位置を移動し異なる表記にしているため、浮動小数点と呼ばれる。一番下の表記は、正規化数である。
コンピュータ処理に適した暗黙の基数2について、符号 (sign) S、仮数 (significand) F、指数 (exponent) Eにより、 浮動小数点数は下記の式で表記できる。
浮動小数点数のフォーマットには、以下で説明するものの他、以前は多数あった。
IEEE 754 形式の
で表現されている。各部は次のように定義されている。
つまり、IEEE 754 形式で表現する値は
である。
ただし、IEEE 754 形式の指数部は複雑で、以下のような役割も持つ。
0 を 0 で割ろうとすると NaN になる。また、 − 1 {\displaystyle {\sqrt {-1}}} も、求めるとNaNになる。
2.5を例にとると、
であることから、まず次のように考える。
仮数部は1未満でなければならないため、仮数の値2.5を(この例では右へ)シフトし正規化する。基数は2、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は1ビットである。さらに、右シフトして1⁄2になったことを相殺するため、指数に1を加える(もし左シフトなら、指数から1を引く)。 値をシフトすることで表現範囲を広げ、丸め誤差を少なくなるようにしている。この操作を正規化という。正規化は基数の±1乗を繰り返し求めればよい。
このままでは (−1) × 1.25 × 2 となり、仮数の絶対値は1未満ではないが、仮数部は 仮数 − 1 と決められているため、次のようになる。
指数部は、指数に127をバイアスすることが決まっているため
2進法では、
浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため
IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。符号部 1 ビット ・ 指数部 8 ビット ・ 仮数部 7 ビットである。
つまり、bfloat16 形式で表現する値は
である。
採用事例
IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。以下の2種類がある。
採用事例
IBM方式は、IBM社がSystem/360で導入し、以後同社の標準としてSystem/370などのメインフレームで使った方式である(System/390では、従来形式のサポートは残すもののIEEE 754を使用するよう改めた)。指数部が2の冪ではなく16の冪を表すという特徴がある。この方式は、より大きな範囲を少ないビット数の指数部で表すことができ、そのぶんのビットを仮数部の桁数に使うことで精度も確保できるように一見思える。しかし、仮数部にケチ表現を使うことができず、さらに指数部の変化の前後で、仮数部のLSBが表現する値の刻み幅が16倍変化するため、2べきの場合に比べて最悪の場合には2進で3ビット分の精度が損なわれるため、一般には大成功であったと評されたSystem/360の設計において良くなかった点の一つとして挙げられる。(浮動小数点数の加減算の際に必要となる仮数部のシフトが4ビット単位となるのでシフト回数が減ることで演算が15%程度高速になる利点も16進数が採用された理由であった。)
特に単精度において、前世代機のIBM 7094(全部で36ビット)よりも桁数を減らした(32ビット)ことと相まって精度が大きく損なわれた。その他にも問題があり、ユーザグループであるSHAREから改善提案が出され、その多くを受け入れて多大なコストのかかる改修をおこなったほどであり、これを記憶しているIBMの古参社員は「身の縮む思い」をおぼえているという。
また、計算対象の数値がベンフォードの法則に従って分布していた場合、計算対象として精度の低い数(仮数部の最上位4ビットが0b0001)の現れる確率は1/15にはならず、もっと高い。
IBM方式の単精度浮動小数点数では、符号部1ビット、指数部7ビット、仮数部24ビットで表現されている。各部は次のように定義されている。
符号部は仮数の符号を表す。 指数部は−16~−16と16~16の範囲が表現できる。
1.5を単精度のIBM方式で表現するには、次のようになる。
仮数部は1未満でなければならないため、値を(この例では右へ)シフトする。ただし、基数が16で、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は4ビットである(2 = 16)。加えて正規化し、その結果は次の通り。
次に指数部を、64をバイアスしたゲタ履き表現(エクセス64)で表現する。バイアスにより、0~127のビットパターンで、整数値−64~+63を表現するということになる(−64 + 64 = 0、63 + 64 = 127)。 よって、今回の例では以下のようになる。
2進法では、
浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため
任意精度演算と、従来の指数部と仮数部を共に固定長とする形式の中庸と言えるような方式が、いくつか提案されている。絶対値が1に近い値では指数部の桁数を短くし、仮数部の桁数を多くとって、よく使われる値を精度よく表現する。絶対値が極端に大きい値や小さい値には、精度とひきかえに指数部の桁数を増やすことで対応する。以下で述べる方式を提案している文献では、アプリケーションとして、通常の浮動小数点計算には、指数が大きくなり過ぎることがあって向かないとされているen:Graeffe's methodをうまく扱えたという例が示されている。
松井正一と伊理正夫が提案した方式で、符号と絶対値による表現法である。論文中に示された例では、64ビットの倍精度浮動小数点数として、仮数部の長さnを示す情報6ビットと、(符号部を含む)mビットの指数部とnビットの仮数部(m+n = 58)からなる。彼らは、オーバーフローを起こさせないための、より大きい数やより小さい数の表現や、無限大などの例外的な値を含めた算術(IEEE標準の±∞や−0の扱いに似ているが、より拡張されている)も提案している。
浜田穂積が提案した方式で、Universal Representation of Real numbersの意でURRと名付けられている。−∞ ~ 0 ~ ∞ の区間を、次のように分割しながら、二進法による表現に対応付ける、というのが基本的な考え方で、「符号と絶対値」形ではなく、浮動小数点の表現としては比較的珍しい2の補数の形をしている。
ここで±1の前後は、区間の両端の比が2なので、指数部の表現は終わったとみなすことができ、残りの桁は仮数部のように扱う(±1の前後は、以後は1/2で等差分割する)。次のように分割を続ける。
以降は、符号ビットが0である0 ~ 0.5 と 2 ~ ∞ の区間に絞って説明する。
ここで、2 = 2、4 = 2、16 = 2、256 = 2 である。このように 0 や ±∞ を含む区間は「二重指数分割」する。
このように、区間の両端の比が2より大きい場合は、「等比分割」する。
以上のような操作の結果として、指数部が0以上の場合は
指数部が0未満の場合は
ビット反転して0以上にした後に上述の方法を適用した指数部を、再びビット反転したものとなる。 こうして、負数に拡張されたガンマ符号によって自分の長さを含む指数部と、残りの仮数部から成る、と見ることができるような表現が得られる。
利点として、ビット表現を固定小数点数と解釈しても値・絶対値の大小関係が一致しているため、
という点が挙げられる。また、1の近くでは桁数のほとんどが仮数部となるので精度が高い。
欠点としては、精度が変化するため従来の精度一定を前提としたノウハウに修正が必要かもしれない、−∞を除くワードのあらゆるビット表現に浮動小数点数としての意味が与えられるため、例外的な値を表現する方法を別に考えなければいけない、などといった点がある。浜田は1000...を符号なしの∞(射影モード用。符号なしの0と対応する)とし、表現可能な最大と最小の絶対値を持つ値を、具体的にその値を表すのではなく±∞と±0を表現するものとする(0は、通常の0を符号なしの0とし、符号付きの+0や−0は、無限大で割った結果など例外的な値としてのみ現れる)、という方法を提案している。
この表現法の初出は1981年だが、1983年に改良版が提案されているのでそちらをまずは参照すべきである。
いくつかの実装の報告や改良の提案などがある。
この方法は浜田方式のリバイバルのようなものである。
| false | false | false |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E5%8B%95%E5%B0%8F%E6%95%B0%E7%82%B9%E6%95%B0
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Subsets and Splits
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