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日本代表
日本代表(にほんだいひょう、にっぽんだいひょう)とは、日本を代表して国際会議や世界的な大会に参加する個人もしくは団体。団体を指す場合には「日本代表団」とも呼ばれる。また、スポーツの選手個人を指す場合は「代表選手」とも呼ぶ。 かつては競技スポーツ全般において日本代表チームを「全日本」と呼ぶことが通例だったが、現在では一部競技を除き、この呼称は使われなくなってきた。また、外国のチームも含めて、以前は「ナショナルチーム」と呼ばれる場合も多かったが、現在では「代表チーム」と呼ぶことで落ち着いている。 これに対し現在の日本では、主要な競技スポーツにおけるほとんどの日本代表チームは、代表監督の苗字を頭につけて「**ジャパン」「xxJAPAN」のように呼ばれる。この呼び方は1980年代のラグビー日本代表から始まり、1990年代のサッカー日本代表に波及し、ほぼすべての団体球技に対して用いられている。 日本で開催された2006年バスケットボール世界選手権に出場したバスケットボール男子日本代表監督の名前は、ジェリコ・パブリセヴィッチ。長くて、「パブリセヴィッチジャパン」とは連呼しづらいため、代表チームは監督名で呼ばれないと思われていた。しかし、当時のメディアは監督のファーストネームを使って「ジェリコジャパン」と呼んでいた。2010年にトーマス・ウィスマンが同代表監督に就任した際は、トーマスの愛称「トム」を使って「トムジャパン」と呼んでいる。また、サッカーのアルベルト・ザッケローニ監督に関しても、2010年の就任当初から姓を略して愛称化した「ザックジャパン」と略されていた。 近年は、「**ジャパン」という呼び方に対する短所も明らかになっている。監督が交代すると呼び方も変わり、チーム作りのコンセプトも変わってしまうため、チーム作りにおいて前任者の思想・チーム戦術などが受け継がれないということがよく生じている。また、選手の個性や実力よりも監督の名前と注目度ばかりが先行してしまうことも生じてしまう。こうした側面から、2008年に開催された北京オリンピックでは男女バレーボールや男子サッカー、野球などの「**ジャパン」と呼ばれた競技がことごとく不振に終わっている。同年8月23日の日本経済新聞のコラムでは、「監督のカリスマ性や過剰な物語性よりも、選手の伸びやかなプレーに勝利の女神はほほ笑む。」と書いている。また、日刊スポーツのコラムでも前者の短所に触れて「継続性がない○○ジャパン」と書いている。 上記名称に対して、例外も幾つか存在する。 その他、マジック:ザ・ギャザリングなどのテーブルゲーム、国際数学オリンピック日本代表や、ミス・ユニバースなどの国際的なミスコンテスト日本代表などが挙げられる。
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GNUコンパイラコレクション
GNU Compiler Collection(グヌーコンパイラコレクション)は、GNUのコンパイラ群である。略称は「GCC(ジーシーシー)」。GNUツールチェーンの中核コンポーネント。 最新標準パッケージには C、C++、Objective-C、Objective-C++、Fortran、Ada、Go、Dのコンパイラ並びにこれらのライブラリが含まれている。 バージョン7以前では、Javaもサポートされていた。 当初はCコンパイラとして開発し、GCCは GNU C Compiler を意味していた。しかし、もともと多言語を想定して設計しており、 GNU C Compiler と呼ばれていたときでも多くの言語に対応していた。現在でも GNU C Compiler の意味で「GCC」と呼ぶことも多い。ちなみに GNU C Compiler の実行ファイルの名称もgccである。なお、GNU C++コンパイラをG++、GNU JavaコンパイラをGCJ、GNU AdaコンパイラをGNATと呼ぶ。 CコンパイラとしてのGCCは、ANSI規格 (ANSI X3.159-1989) にほぼ適合するC言語コンパイラ処理系であった。登場当初の時点では、オペレーティングシステム (OS) 標準に付属するCコンパイラがANSI規格に適合していない部分が多いものがあった。そのため、GCCはANSI規格を広める役割を果たした。GCC自身はK&Rの範囲内のC言語で記述していたので、OS付属のコンパイラでコンパイルできた。ただし、GNU拡張という独自の仕様もあり、GCCでコンパイルできるものがANSI適合コンパイラでコンパイルできるとは限らない。 1985年、当時マサチューセッツ工科大学 (MIT) の研究者であったリチャード・ストールマンによって、既成のコンパイラを拡張する形で開発が始められた。当初コンパイラはPastel(英語版)というPascalの方言によって書かれていた。その後ストールマンとLeonard H. Tower, Jr.によってC言語で書き直され、GNUプロジェクトの一つとして1987年に公開された。さらに2012年にはLawrence CrowlとDiego NovilloによってC++で書き直された。 EGCS (エッグズ、Experimental/Enhanced GNU Compiler System) は、1997年に当時開発中のGCC 2.8をベースとしてCygnus社のEGCS Steering Committee(後のGCC Steering Committee)により開発された拡張版GCCである。1999年4月、GCCと再統合されてEGCSがGCCの公式バージョンとなり、GCCの開発主力はGCC Steering Committeeに委ねられた。また、この時点でGCCはGNU Compiler Collectionの意味となった。統合後初めてリリースされたバージョンは、1999年7月のGCC 2.95である。 GCCは通常のコンパイラと同様にフロントエンド部、最適化部、バックエンド部から構成される。 フロントエンド部は字句解析、構文解析などを行い、対応言語ごとに用意されている。たとえばC++フロントエンド、Javaフロントエンドなどがある。 バックエンド部のコード生成部(コードジェネレータ)、および最適化部(オプティマイザ)は全言語で共通である。したがってGCCの対応の言語同士の間では、生成コードの質や対応するCPUの種類は原理的に同じになる。なお、フロントエンドおよびバックエンドの間でやりとりされる中間形式としてレジスタ転送言語(英語版) (RTL) が使用される。 CコンパイラとしてのGCCの開発のために開発された構文解析部生成系bisonやフリーな字句解析部生成系flexといったプログラムを使用してGNU Cコンパイラその他の各種フロントエンドは構築されている。これらは単独のフリーソフトウェアとしても有用なものである。 GCCはバージョン4から中間形式が2つ追加された。まず、各言語は通常フロントエンド言語の木構造を保持した共通中間形式のGENERICに変換されその後GIMPLEという中間形式で木の最適化SSAをおこなってからRTLの最適化がおこなわれる。また、CやC++のコンパイル時にフロントエンドの構文解析、字句解析においてbisonやflexを使用しなくなった。 GCCはそれ自身が有用なフリーソフトウェアだが、OSやDOSエクステンダ(DJGPP、EMXなど)を構築するための基盤ツールとしても非常に有用であり、商用・非商用を問わず多くの環境で標準的なCコンパイラとして採用されている。特にLinuxやFreeBSDなど、フリーソフトウェアとしてのOSは、もしGCCが存在しなかったならば大きく違ったものになっていたであろうと言われている。実際Linuxの生みの親であるリーナス・トーバルズはGCCをGNUプロジェクトの中で最も重要なものとして挙げている。 また、多くの組み込みOS や、ゲームの開発環境でもGCCを採用している場合も多い。これは、クロス開発を容易なものとするGCCの広範なプロセッサへの対応が評価されていることによる。 その一方で、現状では生成コードの最適化において、特定のプロセッサへの最適化を図る商用コンパイラに水をあけられているのが実情である。特に科学技術演算で多用されるベクトル演算機構への対応や、特定のベンチマークなどでは顕著であった。これは多様な環境に対応することを第一とし、個別のプロセッサ向けの最適化を追求してこなかったことも大きな要因であったが、最近ではこれを改善するための試みも始められている。(最適化を参照) GCCを巡っては、GNU General Public License(特にバージョン3)との関係が問題視される場合がある。実際「GPLフリー」を目指して、OS(あるいはプラットフォーム)の標準コンパイラをGCCから別のものに切り替える動きも有り、一例としてFreeBSDでは、2012年に標準コンパイラをGCCからClang/LLVMに切り替えた。 GNU C コンパイラの特徴のひとつは、前述のようにANSIあるいはISO等の標準への準拠である。もうひとつの特徴は独自の拡張機能である。このような拡張を「GCC拡張機能」とよぶ。GCC拡張機能は数多いが、多引数マクロ、基本型としての複素数型、式の演算結果としての左辺値、初期化式の拡張、Cでのインライン関数定義、ネストした関数定義、ラベルに対する&演算子の適用などがある。 このような拡張は、C99における標準Cの拡張として逆に取り込まれたものも多い。 言語機能の拡張のほかに、標準外機能としてasm文によるインラインアセンブラの機能はユニークである。ただし、GCCにおいてはこのインラインアセンブラ機能を利用して記述したコードに対しても最適化が行われる(プログラマが意図してアセンブリ言語を用いて書いたとしても、その通りのコードが出力されない可能性がある)点に注意が必要である。 その他、研究論文の発表における実装例のベースとして、あるいは実験的機能実装のベースとしてGCC (G++)が使われることも多い。そのような拡張の最近の例としては、スタックバッファオーバーフローに関する脆弱性の回避のためのGCC拡張ProPoliceなどがある。 GCCは高度な最適化を行うが、CPUベンダやRISCワークステーションメーカが提供するコンパイラと比べると見劣りする場合もある。マルチアーキテクチャゆえに、機種依存しない最適化が中心となるため、特定の CPU に特化した専用コンパイラと比べてやや不利な立場といえる。 2005年4月にリリースされたGCC4.0はループ最適化の改善や自動ベクトル化など最適化機構が大幅に見直されている反面、GCC3.x で書かれたコードがコンパイルエラーになることがあり、互換性において若干の問題点がある。GCC4.2ではバグ修正、最適化の改善に加え、新機能としてC、C++、FortranでOpenMPに対応し、さらにGCC4.3ではループの自動並列化によるマルチスレッド処理が可能となるなど、マルチプロセッサ環境では大幅にアプリケーションの性能を引き上げることが可能になった。ただし、マルチスレッドやベクトルプロセッサを使用しないことを前提としたシングルスレッドアプリケーションにおける最適化においては3.x系よりも一部のプログラムにおいて劣る場合もある。 2010年4月にリリースされたGCC4.5ではリンク時最適化が導入され、複数のオブジェクトファイルにまたがるプログラムに対してより効果的に最適化ができるようになった。なおリンク時最適化とは単にリンク時に行う最適化を意味し、プロシージャ間最適化(英語版)やプログラム全体最適化を改善する上で求められるようになった。 1990年頃のGCC1.xや2.xは、特にMC680x0系に対して商用コンパイラを凌駕する最適化品質を誇っていたとされる。ただし、これは同時代の68k系商用コンパイラとの相対的な比較・評価であり絶対的な指標によるものではない。 また1990年代後半のPGCCはインテル Pentium専用の最適化を行うGCC(正確にはegcs)の派生であり、通常版と比べてPentium CPU上でより効率良く動作するコードを生成する。
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2,961
Bomis
Bomis, Inc.(ボミス・インク)は、1996年設立のインターネット企業であり、主要事業は検索エンジンポータル「bomis.com」(2010年頃閉鎖)での広告販売であった。フリー百科事典プロジェクトNupediaおよびウィキペディアに資金援助をおこなった。2006年以来、ティム・シェルがCEO(最高経営責任者)を務めていた。 Bomis.comでは人気のあるサーチ対象のウェブリングを作成・提供している。ウェブリングのカテゴリーは2005年現在おおまかに「かわいこちゃん」「エンターテインメント」「スポーツ」「ポルノ」「その他」および「サイエンス・フィクション」にカテゴリー分けされている。「ポルノ」「かわいこちゃん」「エンターテインメント」のカテゴリーは最も更新頻度が高く、人気も高い。加えて、Bomis社はOpen Directory Projectのサーチ・ディレクトリをコピーしたものを提供している。検索に関連するページでは広告掲載およびアフィリエイトから収益を得ている。 またBomisは2005年まで「Bomisプレミアム」("Bomis Premium", premium.bomis.com)というウェブサイトを運営していた。これは顧客に対して上質のポルノ・コンテンツを提供するものだった。 2005年半ばまで、Bomisは"Bomis Babe Report"(Bomisのかわいこちゃん通信)という無料のブログを公開しており、これは著名人、モデル、大人向けエンターテインメント業界のニュースや論評を伝えるものであった。この"Bomis Babe Report"は「Bomisプレミアム」へ多くのリンクをはり、Bomisに新しく加わったモデルの情報を逐一伝えていた。またBomisはnekkid.infoという、エロチックな写真のフリー・レポジトリを運営しており、さらに「高精度かわいこちゃん検索エンジン」を謳う「The Babe Engine」を運営していた。これはグラマラスな写真からポルノグラフィーまで多様な写真をインデックスしたものだった。 こうしたポルノグラフィー関連と検索に加えて、Bomisは客観主義(英語版ウィキペディア"Objectivism"を参照)およびその他のリバタリアニズム的政治思想を支持するウェブサイトをホスティングしていた。この中には書籍や引用のデータベース「Freedom's Nest」、そして今や消滅した大規模な客観主義コミュニティー「We the Living」も含まれている。 BomisはNupediaを開始し、Nupediaに従事させるために雇ったラリー・サンガーからウィキペディアのアイディアを得た。Bomisはこれらのプロジェクトにウェブスペースと帯域を提供し、これらのプロジェクトとはかかわるがドメイン名などオープンソースやオープンコンテントで無い部分を所有した。しかし、2003年6月20日、これらの所有権をウィキメディア財団に移譲する計画だと発表した。 Bomis.comは2010年頃に閲覧不能となった。 2012年12月、「Bomisに何が起こったか?」("What Happened to Bomis?")という質問がQuoraに寄せられ、Bomisの創業者であるジミー・ウェールズが2013年1月に以下のように回答した。
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2,962
Moving Picture Experts Group
Moving Picture Experts Group(ムービング・ピクチャー・エクスパーツ・グループ、動画専門家集団)あるいはMPEG(エムペグ)は、ビデオとオーディオに対して符号を付与する基準の開発責任を負ったISO/IECのワーキンググループで1988年1月に設立し、その最初の会議はオタワ(カナダ)で1988年5月に開催された。2005年の終わりの時点で、MPEGは、様々な産業、大学および研究機関から約350人のメンバーが参加している。MPEGの公式名称はISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 11である。「Motion 〜」などとも呼ばれる。 グループの略称をMPEGといい、またはそこがつくった動画等の標準規格の名称としてMPEGが使われるようになった。標準規格の名称がMPEGであり、略称ではない。音声圧縮方式のMP3やファイルフォーマットのMP4はMPEGが規格化した方式である。MPEG-2システムはH.222.0、MPEG-2ビデオはH.262、MPEG-4 Part 10 AVCはH.264と同じ内容であるように、MPEGとITU-Tは共同で規格化作業を行うことがある。 MPEGは以下のような圧縮フォーマットおよび付随的な基準を標準化した。ヒトの視覚は目に入る左上頂点から認識する特性があることから、それを原理的に取り入れ、各種な圧縮展開方策が取られている。 ※表中のMP-xはMPEGーxの省略です。 ※CD、BD、HD DVDは標準的な片面1層の容量で、読込速度も1倍速再生で倍速は含まない。また、各メディアに複数の規格があるが、一般的な物とする。
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2,963
アプリケーションプログラミングインタフェース
アプリケーションプログラミングインタフェース(API、英: application programming interface)とは、広義ではソフトウェアコンポーネント同士が互いに情報をやりとりするのに使用するインタフェースの仕様である。 APIには、サブルーチン、データ構造、オブジェクトクラス、変数などの仕様が含まれる。APIには様々な形態があり、POSIXのような国際標準規格、マイクロソフトのWindows APIのようなベンダーによる文書、プログラミング言語の標準ライブラリ(例えば、C++のStandard Template LibraryやJava API(英語版)など)がある。 商業的に使われる狭義では、各種システムやサービス(ハードウェア、OS、ミドルウェアおよびWebサービス等)を利用するアプリケーションソフトウェア (Application) を開発・プログラミング (Programming) するためのインタフェース (Interface) である。こちらの意味では、システムやサービスから直接提供されないもの、例えば言語の標準ライブラリは含まない。 APIはアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) とは異なる。APIはソースコードベースだが、ABIはバイナリインタフェースである。例えば、POSIXはAPIだが、Linux Standard Base (LSB) はABIである(LSBはいろいろな規定の集合なので、正確には「LSBには、ABIにまで踏み込んでいる部分もある」)。 広義のAPIでは単なるライブラリのインタフェースを含むかどうかにばらつきがあるなど定義が曖昧であるため、ここでは狭義のAPIについて説明する。 前述のとおりAPIは各種システム/サービスがそのシステム/サービスを利用するアプリケーションに対して公開するインタフェースである。APIの重要な役割は、システム/サービス提供者が公式に仕様(外部仕様)を定義し、管理している各種機能を利用するための操作方法(インタフェース)を提供することである。APIは多くの場合、アプリケーションを構築する言語と同じ言語のライブラリ、あるいは通信プロトコル形式として提供され、システム/サービス開発者によって提供・管理される。 アプリケーションがシステム/サービスを利用するには、APIを無視してシステム/サービスの現在の実装および内部仕様に依存した方法がある。人と同じ操作をアプリケーションにさせたり、たまたま設定が書き込まれていたファイルをアプリケーションで読み取るなどである。この手法を非APIと言い英語圏ではnon-APIあるいはnon APIと呼ぶ。システム/サービス提供者はアプリケーションがAPI以外の仕様や実装に依存していることは関知せず、API以外の仕様や実装が永続的に維持されることも保証しない。このため非APIを使ったアプリケーションは、バグ修正などで少しでもシステム/サービスの内部仕様に変更があれば、たちまち動かなくなってしまう。この点、APIを使用する場合は、システム/サービスが更新されてもAPIが提供者によって後方互換性を維持してくれるため、アプリケーション側の変更は必要ない(ただし頻繁ではないが提供者により互換性がなくなる場合もある)。アプリケーションがシステム/サービスを操作するにあたり、APIにだけ依存することでこのような互換性の問題を避けることができる。 ただし、APIを使う場合、APIの提供者から使用回数などに制限を掛けられる場合がありそれをらの制限を回避するためやAPIを提供していないシステム/サービスを使うために非APIを使う技術が重要になる場合もある。 Microsoft Windows、macOS、iOS、AndroidなどのOSには、API以外に、俗に「隠しAPI」や「プライベートAPI」「非公開API」などと呼ばれるライブラリー形式の非APIが存在する。これらの非APIは特定の共通処理をアプリケーション側ではなくシステム内部でのみ再利用することを想定して実装されており、例えばWindowsでは一部の非API関数がシステムDLLにエクスポートされていることから、LoadLibrary 関数を使用してAPI関数エントリポイントを動的ロードすることで呼び出すことができる。Javaや.NET Frameworkの場合は、カプセル化を破壊することになるが、隠蔽されたメソッドであってもリフレクションを使用して呼び出すことができる。しかし、これらはシステム/サービス提供者が公式に提供している機能ではなくAPIではない。このためこれらの隠し機能を使ったアプリケーションの動作は保証されないし、互換性も将来に渡って保証されることはない。例えばWindows APIにおいて、timeBeginPeriod(), timeEndPeriod() はアプリケーション開発者向けに正式公開・ドキュメント化されているAPI関数だが、これらは内部でNtSetTimerResolution()を呼び出している。NtSetTimerResolution()は、Windows NT系のシステムDLLのひとつ、"ntdll.dll"にエクスポートされているが、アプリケーション開発者向けのドキュメントには記載されていない非API関数であり、この非API関数をアプリケーションで直接使用した場合の結果は保証されない。EclipseではPlugin開発にて非APIを使った場合エラーを出す設定がある。Appleが提供するApp StoreではAppleが作成した非APIを使ったアプリケーションは掲載を拒否される。 APIは関数、プロシージャ、変数やデータ構造といったライブラリによって実装されることが多いが、狭義のAPIではライブラリとAPIは同一ではない。 ライブラリ形式ではなくプロトコル形式で提供される場合もあるという理由もあるが、ライブラリ形式である場合も同一視せず区別する必要があるという理由がある。 例えばAPIが関数であればサービスにより提供される関数はAPI関数と呼ぶが、API関数を利用して構築された関数はAPIではないためライブラリ関数と呼ぶ。 ライブラリ関数は直接サービスと関係ないか、APIを使って構築されておりサービスを利用する上で必須ではない。逆にAPI関数の存在はサービスを利用する上で必須である。例えばC言語の標準ライブラリ関数であるfwriteは、Windows上ではAPI関数である WriteFile を使って実装されている。WriteFileはOSの機能に直接アクセスできることからfwriteよりも高機能であり、別OSへの移植性を考えなければfwriteの代わりにWriteFileを直接利用してアプリケーションを記述することもできる。同様に、Linuxでは writeシステムコールを利用して実装されている。 APIはサービスを利用するうえで必須になるが、APIを直接使用することは外部サービスに対する依存性を高め移植性を妨げる。例えば前述のWriteFileを使うプログラムは基本的にWindows用にしかコンパイルできないが、fwriteを使うプログラムはフリースタンディング環境以外ならどの環境でもコンパイルできる。このため移植性を考えるのであればAPIの直接使用は避け、APIを抽象化したライブラリを使用することが望ましい。 さらに、後述するように移植性を意識する言語ではライブラリとAPIを厳密に区別している場合が多い。特に後述のSmalltalkはクロスプラットフォームが一つの長所となっているためAPIの直接使用を避けることは重要となる。 C++の規格書では、API関数とライブラリ関数は一貫して区別されており、API関数は標準のライブラリ関数から呼び出されるもの、あるいは標準ライブラリの関数が同等の機能を模倣する対象として書かれている。またCの規格書においてはAPIという言葉は無く、相当する関数がライブラリ関数以外の関数として書かれている。1980年代から存在するSmalltalkでもAPIとライブラリは区別されており、例えばSmalltalk環境の一種であるPharoはAPIと対応しているパッケージをライブラリとは別にAPIとして区分している 。 なお、標準ライブラリはOSやファームウェアなどアプリケーション以外からも使われる。 APIはソフトウェアライブラリと対応しているのが一般的である。 APIは「期待される挙動」を規定し説明するが、ライブラリはその規則群の「実際の実装」である。 1つのAPIが複数の実装を持つこともあるし、実装のない抽象的APIもありうる。 広義のAPIはソフトウェアフレームワークと対応する場合もある。フレームワークはいくつかのライブラリを備え、いくつかのAPIを実装することもあるが、通常のAPIとは使い方が異なり、「フレームワークに組み込まれた」挙動への「アクセス」としてフレームワーク自身に新たなクラスをプラグインすることでその内容を拡張するという手段をとる。さらに言えば、呼び出し側はプログラムの動作を制御できず、制御の反転や他の類似の機構によってフレームワーク側が流れを制御する。 APIはプロトコルの実装となっていることもある。 プロトコルは、共通の転送手段に基づいた要求と応答の標準的交換方法を定義している。一方プロトコルを実装していないAPIは、ライブラリとして実装され、直接使われるのが一般的である。したがってAPIには「転送手段」が関与することはなく(遠隔のマシンとの物理的情報転送を行わない)、「関数呼び出し」によって単純に情報交換し、データは特定の言語で表現された形式で交換される。 APIがプロトコルの実装である場合、下層にある通信プロトコルを使ってリモート呼び出しを行うためのプロキシ的手段となっている。その場合のAPIの役目は、プロトコルの詳細を隠蔽することである。例えばJava RMIは、JRMP(英語版)プロトコルまたはRMI-IIOPとしてのIIOPを実装している。 プロトコルは一般に異なるテクノロジー(特定OS内の特定プログラミング言語に基づくシステム)間をつなぎ、それらの間での情報交換を可能にしている。一方APIは特定のテクノロジーに固有であり、何らかの変換手段を用いない限り、ある言語用のAPIを別の言語では使用できない。 オブジェクトAPIは具体的なオブジェクト交換フォーマットを規定し、オブジェクト交換プロトコルはメッセージ内の同種の情報をリモートシステムに転送する方法を定義する。 2つの異なるプラットフォーム間で、両者にあるオブジェクトを使ってプロトコル経由でメッセージを交換する場合、あるプログラミング言語内のオブジェクトは相手の異なる言語でのオブジェクトに変換される。例えばJavaで書かれたプログラムがC#で書かれたサービスをSOAPやIIOP経由で呼び出す場合、どちらのプログラムもリモート呼び出し用API(API自体はローカルに存在する)を使って情報交換し、ローカルなメモリ内でオブジェクトの変換を行う。 一方、同一マシン上でAPI経由のオブジェクト交換を行う場合、メモリ内で効率的に(オブジェクトまたはオブジェクトへの参照の)交換が行われる。例えば、1つのプロセスに割り当てられたメモリということもあるし、共有メモリを使って複数プロセス間で行うこともあるし、タプルスペースのような共有技法を使うこともある。 ウェブAPIはHTTP要求メッセージ定義とJSON形式等の応答メッセージ定義で構成される。Web 2.0ではSOAPベースからRESTベースへと変化している。ウェブAPIはマッシュアップにより複数のサービスを組み合わせて新たなアプリケーションとすることを可能にする。 APIを公表する慣習により、ウェブコミュニティにはコミュニティ間やアプリケーション間でコンテンツとデータを共有するオープンアーキテクチャが発展していった。そのため、ある場所で作成されたコンテンツはウェブ上の様々な場所で盛んにポストされ更新される。 WebAPIは様々なスタイルで表現される。例えばリソースの表現は以下の様式がありうる。 パスは厳密な階層構造をもつリソースの表現に適している。クエリ文字列およびリクエストボディは自由な表現が可能なため任意のリソースに利用できる。 広く知られるWebAPIスタイルの例として以下が挙げられる。 POSIX標準は、様々な一般的コンピューティング機能を各種システム上で実装できるよう考慮したAPIを定義している。例えば、macOSやBSD系システムで実装されている。ただし、ABIや実行ファイル形式は標準化されていないため、POSIX準拠のプログラムを別のPOSIX準拠のプラットフォームで実行するには、再コンパイルが必要である。 一方、APIおよびABIに互換性があるシステムならば、どこでも同じバイナリをそのまま実行可能である。これはアプリケーションソフトウェアベンダーにもユーザーにも有益であり、ベンダーは互換API/ABIが実装されていれば新システムが登場してもアプリケーション製品を修正・リビルドせずに済むし、ユーザーも古いソフトウェアを後方互換性のある新システムにインストールして利用できる。ただし、それには一般に各種ライブラリが必要なAPI群を実装している必要がある。 WindowsはAPI/ABIに後方互換性があり、例えばVisual C++とWindows SDKを使用して開発されたアプリケーションは、ビルド時にWindows APIヘッダーをインクルードする前にWINVERおよび_WIN32_WINNTなどのシンボルが適切に定義されていれば、指定したバージョン以降のすべてのWindowsで動作する。廃止されたAPI関数などを使用していない限り、アプリケーションを修正・リビルドする必要はない。新しいバージョンのWindowsで追加された機能を使いたい場合、WINVERおよび_WIN32_WINNTをそのバージョンに合わせて定義するか、LoadLibrary関数を使用して動的ロードする。 なおWindows XP以降では、特定のバージョンのWindowsの実装や内部仕様に依存するなど、誤った実装や後方互換性を無視した実装により正常に動作しなくなってしまったアプリケーション向けに、「互換モード」が用意されている。これはシステム側が返す情報を特定バージョンのWindowsのものに偽装することで、アプリケーションをだますことにより動作させる救済措置であり、本来はアプリケーション側をAPI外部仕様に基づいて正しく修正することが好ましい。 Unix系OSでは、相互に関連はあるが非互換なOS群が同一ハードウェア上で動作している。ソフトウェア業者が同一バイナリで各種OSに対応できるようAPIとABIを共通化する試みがなされてきたが、いずれも失敗に終わっている。そのような試みとしてLinuxではLinux Standard Baseがある。BSD系OSも各種あるが、互換性のレベルは様々である。 Androidには「APIレベル」という概念が存在し、Android OSのバージョンごとにAPIレベルの番号が割り振られている。例えばAndroid 10はAPIレベル29に相当する。特定のAPIレベルで追加された機能(クラス、メソッド、フィールド)を利用するには、アプリケーションのビルド時に "AndroidManifest.xml"あるいは "build.gradle"にてtargetSdkVersionの値をそのAPIレベル番号以降に設定し、また指定されたバージョン以降のAndroid SDKを使ってビルドする必要がある。また、minSdkVersionの値によって、アプリケーションのインストールおよび実行に必要な最小システムバージョンを指定することができる。minSdkVersion以下の機能は(廃止されたものでない限り)無条件で使用できるが、minSdkVersionを超えるバージョンで追加された機能を使用する場合は、android.os.Build.VERSION クラスのSDK_INTフィールドの値に基づいて動的分岐する処理を実装する必要がある。 APIの公開に関しては2つの一般的な方針がある。 この2つの方針の中間もある。 互換性のためのAPIを作成するためにそのAPIの実装を解析することは一般的に合法である。この手法は相互運用性のためのリバースエンジニアリングと呼ばれる。しかしAPIそのものとは異なり、APIの実装には著作権が存在するため、リバースエンジニアリングする前には著作権侵害の問題が生じないよう、十分注意する必要がある。また、使おうとしているAPIに、特許保持者の許可がなければ使えない特許技術が許可なく含まれていたら、それは特許権侵害になりうる(ただし、これはリバースエンジニアリングに限られた話ではなく、APIを利用するプログラムにも全般的に言えることである)。 2010年、米オラクルはGoogleがJavaの新たな実装をAndroidの一部として配布したとして、Googleを訴えた。Java APIを複製する許可(ライセンス)はOpenJDKプロジェクトやIBM J9などの実装には与えられていたが、一方AndroidのDalvik仮想マシンの実装はOpenJDKなどに基づいてはおらず、またGoogleはJava APIを複製する許可をとっていなかった。これに対して、地方裁判所はAPIは著作権法の対象外であるとする判断を下したものの、控訴裁では保護対象であるとされ、最終的に2015年、最高裁によりアメリカ合衆国内ではAPIにも著作権があるとの判断が確定した。ただしその後の審理を経て、2021年には著作権があってもフェアユースの下に利用可能であるとの判断が下されている。 日本においては、著作権法第10条第3項において、プログラムのインタフェースやプロトコルが著作物とみなされないことが明確に示されている。 特にDDIやファームウェアインタフェースを使う場合は、ソフトウェアがアプリケーションと異なる環境で動作しAPIに依存するライブラリを使用できない場合があるため、開発者は自分が何を使っているか意識する必要がある。 複数の高水準言語での使用を意図したAPIは、文法的・意味的に各言語に適したインタフェースをAPIに自動的にマッピングする機能を提供している。これを言語束縛と呼び、それ自体もAPIである。その目的は、そのAPIに要求される機能のほとんどをカプセル化するため、各言語に薄い層を設けることである。 以下に挙げたものは、コンパイル時に言語とAPIの束縛を行うインタフェースジェネレータである。
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2,964
パソコン通信
パソコン通信(パソコンつうしん)は、専用ソフト等を用いてパソコンとホスト局のサーバ(またはノード、ホスト)との間で、通信回線によりデータ通信を行う手法及びそれによるサービスである。 全盛期は1980年代後半から1990年代で、のちにインターネットが一般ユーザーに開放されたため、徐々に衰退していった。商用大手としては最後まで残っていたニフティが、2006年3月末でパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」を終了した事で、パソコン通信は事実上廃止となった。 パソコン通信はいわゆる「クローズドネットワーク」であり、特定のサーバ(ホスト)とその参加者(会員)の間だけをつなぐ閉じたネットワークであったため、他のネットワークに接続するには一度接続を切る必要があった。基本はクローズドネットワークであったが、提携しているサーバ(「NIFTY-Serve」と「CompuServe」など)やインターネットに元のサーバに接続しながらアクセスする事が出来るサービスを提供しているサーバもあった。これに対し、インターネットは「オープンネットワーク」であり、インターネット上のサーバ(ホスト)であれば切り替えずに複数に同時にアクセス可能である。 原理的には個人同士が1対1で接続することも含まれるが、通常の利用形態としてはパソコンにモデムや音響カプラなどを接続して一般加入回線(電話回線)を経由してサーバにダイアルアップ接続していた。その中で電子メールの送受信や電子掲示板、チャットなどを利用した情報交換が行われた。株式取引や公営競技の投票が運営されていた時期もある。 ファイルアーカイブなどの機能を持つが、基本的には情報の送受信は文字データ中心である。パソコン以外にも、ワープロ専用機や家庭用ゲーム機・携帯端末での通信接続もパソコン通信に分類される場合がある。 日本でパソコン通信ホストを運営していた団体・企業には、ニフティサーブ(@niftyを経て現・ニフティ)、PC-VAN(現・BIGLOBE)、アスキーネット(アスキーによるサービス、後にネットワーク事業から撤退)などに代表される商用業者を始めとして、エプソンなど顧客サービスを目的としたものがあった。またそれ以外に個人やグループなどで開設した草の根BBSと呼ばれる小さい局が多数存在していたが、ニフティサーブとPC-VANの二大ネットは、それぞれ数百万の会員を集め、活況を呈した。 一方の草の根BBSはパソコン、ホスト用ソフト、着信用のモデムと通常電話回線、それに書籍から十分仕入れられる比較的簡単な技術知識があれば誰でも開設可能であり、原則無料であったが、一般向けに料金を徴収するなどの商用サービスであれば第2種電気通信事業に該当するため、当時の郵政省への届け出を必要とした。 大規模なところでは、「コミュニティー」と呼ばれる趣味・話題を共通にする集まり(ニフティサーブではフォーラム、PC-VANではSIGと呼んだ)をいくつも作り、それぞれの中で情報交換ができるようにしていた。小規模な草の根BBSなどでは、それ自体が1つのフォーラムのようになっているところもあった。 通信方式はインターネットの各種通信プロトコル(TCP/IPなど)と異なり、基本的に無手順による文字の送受信のみで、ストップビットなど様々な項目を適正に設定しないと通信ができなかった。 画像などバイナリデータの送受信もできたが、各種バイナリ転送プロトコルを使用する必要があり、後のインターネットに比べると面倒なものであった。バイナリ転送プロトコルが普及する以前に開発されたのが、ishなどバイナリデータとテキストを相互変換するツールである。電子メールでのバイナリデータのやり取りや、バイナリ転送に別課金が生じるPC-VANなどでよく利用された。 通信速度は初期には音響カプラを用いた300bps程度であったが、モデムでパソコンと電話回線を直結できるようになると、モデムの改良と歩調を合わせる形で1,200、2,400、9,600、14,400bpsへと速度が上がり、インターネット・サービス・プロバイダ(ISP)のダイヤルアップ接続用アクセスポイントが主要都市に整備され始めた1996年頃には28,800bps、1997年頃には33,600bpsまで達した。現在、一般回線用モデムの能力は最高56kbpsまで上がったが、その能力を使ったパソコン通信はあまりない。ちなみに56kbpsで通信するには、サーバ側にISDN回線と専用のTA・モデムが必要なため、一般の56kbpsモデム同士では33,600bpsが上限である。 また1980年代半ばから、アマチュア無線家の間で、無線機にターミナルノードコントローラ(TNC)と呼ばれるデータ通信機器を接続して行なうアマチュアパケット通信が流行し、シリアルポートを持つパソコンやワープロでこれらに興じる人も多かった。特にアマチュア無線用バンド(周波数帯)では、回線の状態から通信速度は稼げないものの、当時の非常に高価な(1分数十円)電話回線を用いたパソコン通信では非常に贅沢な遊びとされたネットゲームもアマチュア無線経由で流行した。 1982年、在日米軍のための「CORTON-NET」が東京の山王ホテル内で開設され、またスティーブ・ベラミがアメリカ大使館内にBBSを開設した。同時期に林伸夫もApple IIをホストにしたサービス(後の「Mac Event」)を開設した。 1983年8月末にはデータブレーン社が大阪に「Com Com」を開設。これはホストにPC-9801を使用し、メール、電子掲示板、チャットなどのサービスを3回線で提供していた。 1985年、日本電信電話公社が日本電信電話(以下NTT)に移行するに伴い電気通信事業法などの法律が制定・改正された(通信自由化)。その結果、モジュラージャックなどの技術基準を満たしていれば、NTTなど第1種電気通信事業者が敷設する一般加入回線への端末設備の接続が、個人でも法律的に認められるようになった。これにより、従来は電話の受話器に音響カプラを乗せてダイヤルも手動で行い速度も300bps程度だったパソコン通信が、モデムによって手軽かつより高速に楽しめるようになった。これを受けて、数社から技術基準を満たす非同期式300/1200bpsのモデムが発売され、パソコン通信普及のきっかけとなった。これらのモデムは旧来のモデムとは違い、網制御装置(NCU)を内蔵したものである。 1980年代半ばにアスキーネット、PC-VANなどの大手業者が商用サービスに参入、通信ソフトの普及と共に安価な2400bpsモデムが発売されるなど、1990年代にかけて大手、草の根BBSとも加入者が増加していき、『電脳辞典 1990's』によれば、1989年末頃には商用大手9社の加入者数が20万人台、草の根ネットは24時間運営局だけでも300局以上、といった規模となる。 基本的には個々のサービスはそれぞれ独立しており、ニフティとCompuServe、朝日ネットとPeopleなど提携関係にある一部の場合を除いては、他サービスとのつながりはほとんどなかった。電子メールのやりとりも同一サービス加入者でないと不可能であったが、1992年にPC-VANとニフティのメールが接続され、さらに各サービスでインターネットメールとの接続が開始されたため、大手商用サービスのメールに限っては障壁がなくなった。 パソコン通信では、アクセス数の増加への対応や全国各地に居住する利用者への負担を軽減するためには、アクセスポイントを増やさざるを得なかった。ニフティとPC-VANがそれぞれの運営母体である富士通のFENICSとNECのC&Cという自前のVANを活用し、全国各地にアクセスポイントを続々と設置していったのに対して、他社は遅れを取ってアクセスポイント数も少なく、日本の商用パソコン通信サービスはニフティとPC-VANの寡占状態となり、1996年にはそれぞれ会員数200万人を数えた。 草の根BBSでは、24時間開設となっても複数の電話回線と複数のモデムがなければ複数の人間が接続できず、長時間の接続を制限することもあった。遠距離からの電話回線料金の負担を軽減するために、パケット通信によるTYMPASやTri-PといったVANサービスで全国からの接続を仲介したこともあった。例えば、東京から大阪のホストへ直接電話回線の従量料金で接続することは相当な電話料金がかかり、VANサービスならば全国の主要都市にアクセスポイントがあり、近隣のアクセスポイントに接続すれば電話料金を節約できた。しかしホストとユーザーともにVANサービスを利用するための費用も必要であり、会員からの費用徴収が困難な側面もあり、個人で運営するBBSの運営は無料により近隣地区からユーザーの接続という趣味の範囲にとどまることが多かった。個人運営のホストの中には夜間のみ開設され、昼間は普通の電話として使われる回線もあり、専用の回線を24時間開放することは贅沢であった。 ネットワーキングフォーラムと呼ばれる全国大会も開催され、BBSの接続番号などを記載した「ワープロ/パソコン通信BBS電話帳」がマイコンBASICマガジン別冊として年2回のペースで出版されたこともあった。また、出版社などが運営するところもあったり、NHK衛星放送局も運営していた(銀河通信)こともある。名古屋市役所マイコンクラブが運営し、NHK-FM名古屋のリクエストと連動したDEPO-NETなどのメディアミックスも存在した。DEPO-NETは1989年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会の協賛ネットワークであり、名古屋市役所やNTT名古屋、NHKという堅い組織が協力していたが、草の根BBSの一つであった。 これらの草の根BBSの中には、無線でパソコン通信を接続するだけでなく、JUNETと連動して、無線でインターネット接続をしていた。 1994年頃から、世界規模の通信網であるインターネットへの一般個人からの接続環境が整備され始めた。 1995年、Windows 95が発売され、パソコンの普及が加速した。ただしマイクロソフトCEO(当時)であったビル・ゲイツはインターネットの普及はまだ先であるとして、パソコン通信を前提としたネットワークを考えていた。それがMSNの元となる The Microsoft Networkである。ゆえに、Windows 95の初期バージョンにはインターネット関連の機能は初期状態で搭載されておらず、別売りの「Microsoft Plus!」に拡張機能としてのInternet Explorerが含まれていたのみであった。 Windows 95発売後、ビル・ゲイツは自分の判断の誤りに気づき、OSR2以降ではインターネット関連機能が標準搭載されるようになった。すなわち、OSR2ではTCP/IPが初期状態で選択されており、「Windows 95を使えばインターネットに接続できる」というイメージ戦略に成功した。 日本ではNTTがINS1500などダイアルアップ回線として安価に多数の回線を収容できるサービスを始めるなど、設備投資が安価になるなどの環境整備もあり、相次ぐISP企業の参入と、ダイヤルアップ接続用アクセスポイントの設置地域が拡充され、多くの地域で安価(市内通話料金あるいはテレホーダイ + プロバイダ料金)にインターネットへ接続できる環境が整っていった。この状況の変化により、基本的に一つの閉じたシステムであるパソコン通信については、事業の将来性や存在意義が薄れてしまったり、2000年問題で更新を迫られたホストも少なくなかったことから、アスキーネットや日経MIX、Peopleなど、殆どの商用サービスでは事業を中止したり、ニフティやPC-VAN、ASAHIネットのように、ISPに事業の中心を移したりしていった。 2000年代には大手、草の根とも、従来のパソコン通信上にあったコンテンツは、インターネットWeb上の電子掲示板等に移行しているか、廃業したところが多く、Telnet接続で文字通信手段を残しているホストもあるが、無手順による接続ホストは消滅に近く実態は殆どつかめないにまで減少した。 全盛期当時の過去ログなどは、利用者によって個人的に保存されたもの以外は、ホストのハードディスク故障、古い記録媒体の劣化やアクセス手段の喪失のほか、運営者によって破棄されるなどして散逸していることが多い。また、保存されているデータも、著作権者が所在不明などの理由により、再利用されることはほとんどない。 少数ながら、業務用で残っていたものもあった。NECのモバイルギアシリーズ、シャープのザウルスなどで屋外での利用を考慮したツールを発売した事もあるが、主な利用は掲示板ではなく、メールなどのデータの送受信としてである。また、屋外での公衆電話機にパソコン通信を考慮したモジュラジャックが付くなどしている。端末側の設備として携帯電話に於いては速度は遅いものの、パソコンと直接接続する物もあった。 ネットの利用形態は様々だが、その中でも「オンラインソフトウェア(特にフリーソフトウェア)」の広範囲な流通と、素性をよく知らない人との気さくな「会話」は、パソコン通信で初めて可能になった。 意思伝達の主な方法が文書であると、日常的に文書を書く人と書かない人では文書作成力や読解力に格差が生じることから、意思がスムーズに伝わらずに誤解が生じることもあった。 文字でのやり取りは、対面して話す時とは違い、感情がそのまま文章に表れるとは限らず、また感情を読み取れる人ばかりではないため、感情やニュアンスを表すのに意図的に顔文字(絵文字)が付け足される場合もあった。また物事に付いての考えが異なれば意見が衝突する機会が度々生じ、いたるところで議論が行われるようになった。それに伴い、議論を楽しもうという人たちが表れる一方で見物して楽しもうという人たちも発生した。 草の根BBSなどでは、限りある回線を占有するだけでコミュニティに積極的に参加しない人をROM(ReadOnlyMember)やDOM(DownloadOnlyMember)と呼び、特に否定的な意味で使われたが、ROMは一般的には読むだけで発言しない人を示す用語であった。 1980年代末期になり、パソコン通信が普及するようになると、パソコン通信でユーザーが自作したパソコン用プログラムがオンラインソフトウェアとして公開されるようになった。従来はパソコン雑誌に投稿して掲載されるか、作者個人か仲間内で使われるしかなかったような小回りの効く便利なツールが一般に流通する機会を得ることになった。一般に単機能のものが多く、商用ソフトほど大規模ではないが、中にはファイル管理ソフトやパソコン通信ソフトなど市販の商用ソフトを凌ぐ人気を得たものもある。日本国内では、その多くはNECのパソコンPC-9800シリーズのMS-DOS上で動くものであった。 プログラミングが得意な人が善意で自作ソフトウェアを公開し、利用者によるバグ報告や要望を取り入れて改良が行われた。その多くは個人による開発であるが、利用者による改良を期待して企業が商用ソフトを開発する前段階として無償公開するソフトもあった。作者の意向によってフリーウェア(フリーソフト)、シェアウェアなどに区分されたが「羊羹ウエア(気に入ったら羊羹を送って欲しい)」という変わり種もあった。 MS-DOS上で動くソフトウェアが主流を占めた時代には決済の手段が限られていたため、ほとんどが無料のフリーウェアとして公開されMicrosoft Windowsが普及し出すと開発ソフトウェアが高価だった背景もあり、徐々に商用BBSで決済を行なうシェアウェアが増えていった。人気の高いソフトウエアは、開発元のホスト局にアップロードされるとたちまち全国の他のホスト局に転載されるのを始め、「月刊パソコン通信」などパソコン通信を扱った雑誌付録としてフロッピーディスクで配布された。しかし初期のパソコン通信では電子メールに課金されたり容量制限が厳しかったり、他のパソコン通信サービスとは相互にメールができなかったりしたため、サポートは自らの加入しているパソコン通信のみというものも多かった。 以下は、小規模なホスト用ソフトウェアである。ホストは、パソコン以外にも汎用コンピュータを使用した物も多々ある。 下記は主にパソコン用のパソコン通信向け機能を持った端末ソフト(いわゆる通信ソフト。ダム端末エミュレータと呼ばれる事もある)である。この他にもワープロソフト中に通信機能を持ったものやワープロ専用機に通信機能(OASYSのAutoComなど)を持った物もあった。 以下は、各ホストプログラムの出力やコマンドに対応した、専用ソフト(オフラインログリーダーなどと呼ばれた)である。 1980年代後半から1990年代のパソコン通信全盛期においては、パソコン通信の話題を専門に扱った専門誌が各社から発刊された。内容はモデムなどのハードウェアや通信プロトコルなどの技術情報、商用ソフト・オンラインソフトの使い方や新作情報、パソコン通信クライアントソフトウェアなどフリーソフトの配布、草の根BBSの開局情報、商用パソコン通信のフォーラムやSIGの紹介など多岐に渡った。
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モデム
モデム(英: modem)とは、アナログ信号をデジタル信号に、またデジタル信号をアナログ信号に変換することでコンピュータなどの機器が通信回線を通じてデータを送受信できるようにする装置。変復調装置。 変調器 (modulator) と復調器 (demodulator) を組み合わせた装置なので、双方の名称から頭の数文字 (mo + dem) を採り命名されている。 デジタル信号を伝送路の特性に合わせたアナログ信号にデジタル変調して送信し、伝送路からのアナログ信号をデジタル信号に復調して受信する。通信方式はITU-Tにより標準化されている。 通信回線の種類に応じた網制御装置 (NCU) を持つものが多く、誤り検出と再送信・データ圧縮などの機能を持つものもある。 単にモデムという場合は、コンピュータをアナログ電話回線(公衆交換電話網)に接続するための変復調装置を意味することが多い。 広義には、コンピュータなどの機器と通信回線の間で信号の相互変換を行って通信を仲介する機器全般をモデムということがある。 アナログ電話回線つまり人と人が音声で会話をするために使っている通話回線を用いてコンピュータ等でデータの送受信を行うための装置である。このタイプのモデムは、平易に言うと、デジタル信号をいわゆる「音」に変換し、またその音を元のデジタル信号に戻す装置である。送信側と受信側がそれぞれモデムを設置することで、音声通話用回線でもデジタル通信を行えるようになる。 このタイプのモデムは (300 - 3400Hz) という周波数帯域を利用し通信する。つまり音声可聴帯域周波数よりはかなり狭い帯域を使用する。(※)。 このタイプのモデムの通信速度は300bpsから56kbpsである。 指定した電話番号を発呼してデータ通信を開始したり、外部からの着呼に応答して自動的にデータ通信を開始したりといった機能も備えていることが多い。 なおアナログ音声回線には公衆交換電話網以外にも、専用線、私設線(利用者が施設内・建物内・敷地などに敷設した電話線)、無線電話などがある。モデムとこうしたアナログ回線を利用して、たとえばPOS装置のデータ集計、自動販売機のリモート情報収集、屋外の道路信号機や標識類とのデータ通信、コンピュータとコンピュータの1対1の接続などといったことができる。電話回線さえつなげばデータ通信が可能になる。機器をサイバー攻撃が行われがちなインターネットから完全に遮断して、セキュリティを確保した状態でデータ通信を行うことができる、完全にプライベートな回線でデータ通信できる、など現在でも意味ある利用法は多々ある。 ADSL回線用のものは、はっきり区別して、「ADSLモデム」と呼ぶ。 本来のモデムを、後から登場したADSLモデム(数百kHz~数MHzの非可聴音、高周波を使う)と対比させて「アナログモデム」と呼んでしまう人が一部にいるが、一般に認知された表現とはいえない。可聴音を使うものを従来通り「モデム」と呼び、非可聴音を使うほうを「ADSLモデム」と呼びわけるのが一般的である。 通信の途中がデジタル化されていることを前提にした規格ITU V.90、V.92モデムについて、「加入側がアナログ回線だから」などと理由をつけて「アナログモデム」と呼ぶのも、やはりあまり一般的ではない。 光回線の光回線終端装置 (ONU)・ISDN回線のターミナルアダプタ (TA) は、オペレーティングシステムの「コントロールパネル」などの画面内で「デバイス」の枠で乱暴に「モデム」と表示されてしまうこともあるが、やはりターミナルアダプタをモデムと呼ぶのは不適切である。 形状には次のようなものがある。 最初に商業的に利用可能になったモデムはBell 103 modemであり、1962年にアメリカのAT&Tから公表されたものである。 日本では日本電信電話公社を民営化するため1985年4月に電気通信事業法が制定され、民間企業としての日本電信電話 (NTT) が誕生した。この法令の施行により、それまで省庁が個別に許認可制し、特別の事情だけに許可されていた「日本国内での通信事業」が、広く一般民間企業に開放された。これと同時に「端末の自由化」も行われ、技術基準適合認定を受けた通信機器であれば自由に利用できるようになった。 この端末機器自由化は、アナログ信号の音声通話機器の自由化に加えて、デジタル信号を伝送するデータ通信も自由化された。それまでのデジタル通信は日本電信電話公社が1964年の東京オリンピック目前の1963年末の12月に、国鉄の「みどりの窓口」と日本航空の座席予約システムコンピューターネットワーク接続のために開始したデータ伝送サービスだった。その後、全国銀行データ通信システムでの銀行間における為替業務通信に広がった。 企業間のデータ通信は時代の当然の流れで機器の低価格化に伴い次第に個人レベルでのアーリーアダプターに広がり草の根のパソコン通信では音響カプラによる300bps使用、企業が乗り出してくるころには1200bpsのデータ通信への置き換え、パソコン通信のアクセスポイントへのダイヤルアップ接続、FAX通信をする手段となった。これによりパーソナルコンピュータに接続する電話回線用モデムが普及した。1994年の日本でのインターネット商用化を受けてこれがさらに加速し、当初は外付けだったモデムはパソコンの低価格と相まって、次第に内蔵が主流となった。 モデムはもともとはデジタル信号をアナログ信号に変換し、アナログ通信回線を通じて相手に送り、受信側はそのアナログ信号をモデムでデジタル信号に変換するものである。 しかし、デジタル信号をデジタル回線にそのまま載せるシステムとして1995年には世界に先駆けて日本でデジタル通信のためのISDN回線がサービス開始された。ISDNでは(「モデム」は本来アナログ回線を使うものであったので)それとはっきり区別するために「ターミナルアダプタ (TA)」と呼ばれた。1997年からの常時接続サービスにより一般使用も徐々に広がり、高速通信として使用された。データ通信は64kbps/128kbpsとなった。しかしアナログ加入回線が主流で、モデムのほうも広く一般に使用されつづけ、アナログ回線用モデムとデジタル回線用ターミナルアダプタが共存する時代となった。 2000年頃からADSL・CATVなどのブロードバンド回線が普及しはじめた。ADSLは(一般音声のための)アナログ回線を利用してのデジタル通信であり、ADSL仕様のモデムを利用する。これをADSLモデムという。ADSLは低価格化大容量化し一般に広く普及し、ADSLモデムも広く普及した。(一方、光ファイバー網のデジタル回線も普及し、デジタル回線を利用したデジタル通信が主流となってきた。) 公衆無線LAN接続・モバイルデータ通信定額制・インターネットFAXサービスなどの拡充によりモデムを使う用途は激減し、2000年代後半には、モデムはノートパソコンでも内蔵されないことが一般化した。モデムを利用する人だけカード型モデムを増設して利用するようになった。モデムの代わりにWifiを標準搭載するノートPCが一般化していった。ノートパソコンにカードスロットもなくなり、モデム使用にはUSB接続モデムが使われるようになってきた。 デジタル回線やADSL使用不可の地域(一部の離島など)では、今でも従来型のモデムが使用されている。 コンピュータやルーターなどとは、古い機種ではRS-232C・RS-422などのシリアルポート、比較的新しい機種ではUSBやExpressCardなどのインタフェースで接続するのが多い。また、パソコン本体に内蔵されたものや、PCIなどの拡張スロットに装着するもの、PCカードタイプのものもある。 ケーブルモデム・ADSLモデムなどの高速なものは、LANポート(イーサネット)で接続するものが多い。 加入電話回線用のモデムの加入者線側は、電話用2線式のモジュラージャック (RJ-11) にモジュラーケーブルで接続する。アナログ電話機は、電話機端子に接続する。 単方向通信のみ可能で、送信側受信側の切り替えのできないもの。 通信方向を切り替えて使用するもので、送信・受信を同時にできないもの。現在でもPOSシステムや、銀行向けの業務用システム(全銀手順)の一部で使われている。G3ファクシミリもこの方式である(制御通信・画像通信とも)。 各種複信方式を利用して、送受信を同時に行えるようになっているもの。現在一般的に使用されている。 一般的に使われるタイプ。モデムには、同期の機能が無いものである。調歩同期式でビット単位同期、High-Level Data Link Control (HDLC) などのフラグ同期またはキャラクタ同期でブロック単位同期を、データ信号自体で取りながら通信する。同期モデムに比べて、速度と確実性に劣るが、安価である。 一部の業務用で使われるタイプ。端末装置から別々の信号線で送信されたデータ信号と同期信号を、一つの伝送路で送信し、受信側でデータ信号と同期信号を分離し別々の信号線で端末装置に受信させるものである。非同期モデムに比べて、確実で高速な通信が可能であるが、高価である。 電話回線の音声周波数帯域 (300 - 3400Hz) をデジタル変調により変復調し、コンピューター等のシリアルポートとデジタル信号(データ)としてやり取りするものである。 MMとは手動発信・手動着信の略である。通信回線インターフェースと変復調部を一体にまとめたモデム。通信用インターフェース(RS-232Cが多い)と通信回線インターフェース(一般の電話回線が多い)を持ち、1980年代のパソコン通信の登場初期から使われている。音響カプラと異なり回線に直接接続されているので安定性が高い。 回線の制御機能は自動的ではなく、電話機でダイヤル後にモデムにあるボタンやスイッチの操作(以下スイッチ操作)で回線をモデムに切り替える。通信終了時にも同様にスイッチ操作で回線を電話機に戻す。発信(発呼 ORG)側か着信(被呼 ANS)側かの選択もスイッチ操作で行う。複数の通信規格(V.21 300bpsとV.23 1200bps半二重 など)に対応した機種では通信速度の切り替えもスイッチ操作で行う。 など のちに着信のみ自動化したMAモデムも登場した。1980年代後半頃から次項のインテリジェントモデムにとって代わられた。 NCU・変復調・制御部を一体にまとめたモデム。通信用インターフェースと通信回線インターフェースを持ち、1980年代のパソコン通信の登場初期から使われている。当時は普及機のMMモデムに対し高級機であった。かつては主流であったが、2000年頃から少なくなっている。 次項のソフトモデムと異なり、動作中にCPUに負担をかけることが少なく、安定して動作することや、特別なデバイスドライバがなくても、RS-232Cポートさえ利用できれば通信できるメリットがあり、産業用機器などの組み込みシステムのコンポーネンツに利用されたことも多い。 インテリジェントモデムをモジュール化し、INS1500のような集合回線に一括接続し、通信用インターフェースにネットワークインターフェースを用いた集合モデムは、アクセスポイントに多用された。 ソフトモデムは、モデム側のハードウェアを簡略化し、コンピュータ側のCPUで処理の多くを行うものである。部品点数が少なく・回路が占有する基板面積が狭く・コストが安いため、非動作時には電源を切っても構わない、内部拡張スロット・USB接続・PCカード・コンピュータ内蔵のモデムのほとんどは、このソフトモデムである。 機能の多くをソフトウェアで実現しているため、安価で新規格にソフトウェアの変更のみで対応が可能である。しかし、処理速度・通信速度・安定性の低下の原因となることもある。また、オペレーティングシステムごとにデバイスドライバの開発が必要である。 基本的に一般的なモデム(インテリジェントモデム)の場合、NCUからアナログ信号とデジタル信号の相互変換を行うADC/DACに接続するまでのトランス・アンプ・イコライザなどのアナログ回路と、ADC/DACと接続され変調・復調・圧縮展開・エラー訂正・コマンド処理を司るDSPとシリアルインターフェース回路で構成されている。コンピューター側のCPUがDSPの機能を担当すれば、ハードウエアで必要な部品はNCU・トランス・必要最小限のアナログ回路・ADC/DACになる。特にDSPは高価な部品なので、省略する事で大幅なコストダウンとなる。 シリアルインターフェースも省略され、生のアナログ信号をADC/DAC経由で高速にCPUと入出力するため、FIFOメモリとホストバスインターフェース(ISAやPCI、USB)が使われる。初期のソフトモデムを除き、現在のソフトモデムはアナログ回路からホストバスインターフェースまでの一切をワンチップで構成している。 デバイスドライバはDSPが担当していた処理をエミュレーションし、イコライザ・ゲイン調整・NCUで使用する信号の生成・変調・復調・圧縮展開・エラー訂正・コマンド処理を行い、オペレーティングシステムに仮想シリアルインターフェースの形でインテリジェントモデムが存在するように見せかけている。 初期のソフトモデムは非常に多くのCPUパワーを消費していた。これは当時のCPUがDSP的な命令セットを備えていなかったために、特に変調・復調処理で手間取っていたためである。ダイヤル回線のダイヤルパルスの間隔が乱れ、かけ間違いが起こることもあった。現代のCPUは全般的に処理能力が向上していることに加え、DSP的な命令セットを備え、かつ並列して一度に実行することができることから、ソフトモデムが登場したころに比べるとCPU負荷はかなり軽減されている。 スマートフォンのアプリケーションとしての実装もできる。FAXモデム(次項)を実装することにより、スマートフォンでFAXを送受信することもできるようになる。 モデムホン(オートホン)は電話機とモデムを一体にした装置。オンフックダイヤル、スピーカ受話、短縮ダイヤルリダイヤル、スピーカ音量調節等の付加機能。通信装置としての機能はモデムに準じる。通信回線インターフェース(モジュラジャック)と通信用インターフェース (RS-232C) を持ち、パソコンからコントロールできる多機能電話とも言える。 但し、モデムを内蔵している電話機のためAC電源アダプタ等により電源を供給する必要がある。 FAXモデムは、G3ファクシミリ (ITU-T T.30) の送受信機能を、ATコマンドを拡張して実装したものである。カラーG3 (ITU-T T.30E) などの拡張機能を利用する場合、Class1相当の機能のみを利用することとなる。機械的には、単体モデム・ソフトモデムともに存在する。 1990年代後半より、パーソナルコンピュータと電話網に接続されたファクシミリとの相互通信のために導入されていた。2000年代に入り、業務用のFAXサーバや複合機のFAXインターフェースモジュールとして製造されるものが主となっている。FAXモデムチップセットのシェアはコネクサント社(旧ロックウエル社)が大部分を占めている。EIA-578規格は一度は姿を消したものの、チップセットの価格を安価にする事ができる事、G3以外の規格(カラーG3やスーパーG3など)も使える為、再び2014年現在主流であるEIA-592規格を後退させている。 ボイスモデムは、データ通信と切替または、対応機器間で同時に音声通信が可能なものである。1990年代後半に製造されていたが、2000年代に入りほとんど製造されていない。 詳細はを参照。 FSK変調を採用した規格は、Bell 103を除き低群・高群ともマーク(1)信号が低位、スペース(0)信号が高位である。FSK以外の変調を採用した規格では、同じシンボルが連続すると搬送波に変化がなくなり復調に支障をきたすため、一定のアルゴリズムでマークとスペースを入れ替える処理が行われる。これをスクランブルという。 2400bps以上の速度のものは、後述のMNPやLAPMによる圧縮を行うことから、パソコンとモデム間の通信速度は、回線上の通信速度よりも高く設定することがほとんどである。この場合、RS-232CのRS・CS信号のオン・オフでフローコントロールを行う。 MNP (Microcom Networking Protocol) は、アメリカMicrocom(マイクロコム)社が提唱した、モデム用のデータ圧縮とエラー訂正のための規格の総称。第三者組織によって標準化された規格ではないが、一部の規格は内容が一般に公開されたことと、実際にMicrocom Networking Protocolを搭載したマイクロコム社のモデムの伝送品質が優れていた事から普及した。クラス1から10までクラス分けがされており、上位のクラスは下位のクラスの機能をすべて含んでいる。ほかの通信プロトコルと組み合わせて使用される。 クラス毎の特徴は以下の通り。 なお、クラス8は欠番である。 ITU-T標準プロトコルで規定された、エラー訂正とデータ圧縮の方式。エラー訂正はMNP4と互換。「V.42bis」はBTLZ (British Telecom Lempel-Ziv) 方式を採用したデータ圧縮の規格であり、CCITT(当時)が1989年11月に勧告したもの。MNP5の圧縮率が1.6 : 1であったのと比較して2.45 : 1程度と、圧縮効が高い。2400bps以上のモデムで広く使われた。 網制御装置(もうせいぎょそうち)は、NCU (Network Control Unit) とも呼ばれる、一般加入者回線に接続するために、交換機に対し回線の接続・相手側の電話番号の通知・切断・通信先等の変更等の処理を行う機器である。 初期のものは、電話機の形状をしており、回線接続などの動作は手動でダイヤルしたり、回路を切り替えたりしていたが、後に、コンピュータからの制御により自動発信、自動着信などもできる様になった。 初期段階では、NCUから制御用信号専用のケーブルでモデムに接続されていたが、後にモデムと一体化された機器が登場する。ヘイズATコマンドという業界標準のコマンドを搭載したモデムが登場してからは、専用ケーブルを介して制御する必要がなくなり、制御コードの標準化と通信回線接続のモジュラジャック化に伴い、一般のパソコン通信などでも使えるようになった。 ヘイズATコマンドとは、アメリカのHayes Microcomputer Products社が開発したインテリジェントモデムのコマンド体系で、ATtentionの略である、「AT」でコマンドが始まることからこう呼ばれる。AやTは小文字でも良いが、AとTとの間に他のコードが入るとATコマンドとは認識されない。 ヘイズ以外のモデムメーカーも同コマンド体系を採用したため業界標準となったが、各社の独自の拡張がされた部分には互換性がないこともある。 端末からの命令を「コマンド」、モデムからの応答を「リザルトコード」と呼ぶ。 RS-232は最下位ビットから送信するので、8-N-1(8データビット、パリティビットなし、1ストップビット)のラインパターンは 0100000101 0001010101(スタート、ストップビットを斜体)でATコマンドは、次のようなビットストリームから始まる。 8bit、パリティなし、ストップビット1bitの場合 A|0s|1|0|0|0|0|0c|1|0x|1s| T|0s|0|0|1|0|1|0c|1|0x|1s| /|0s|1|1|1|1|0|1|0|0x|1s| a|0s|1|0|0|0|0|1c|1|0x|1s| t|0s|0|0|1|0|1|1c|1|0x|1s| ヘイズATコマンドを採用するモデムはDCE - DTE間の速度及びフォーマットを自動判定する機能を備えている場合が多い。このATというデータを受信したと仮定し、最初の1の後の5個の0の後に現れる1までの時間を測定することで速度 (bit per second) を測定できる。その次の0 (0x) が現れるかどうかで、現れなければ7bitパリティなしと、0ではなく1が現れた場合は7bit奇数パリティであると判定できる。0が現れた場合は7bit偶数パリティと8bitパリティなしの可能性がある。その場合、AとTでは1の個数が異なるため、Tのパリティビットを見ることでどちらなのか判定できる。実際の実装は、AやTが小文字であった場合 (0c=1) を考慮してある、ストップビット長をAの後にくるTとの間で判断するなど、若干複雑である。なお、A/は直前の操作を繰り返すコマンドである。 ITU-Tが定めたモデムのコマンド体系。ヘイズATコマンドはモデムによって独自の拡張が行われており、通信するにあたってモデムを何らかの形で識別しなければならないが、V.25bisではシリアルインターフェースの制御状態からコマンドとその手順が厳密に定義されており機種依存の問題はほとんどない。ルーターなどに接続されることを前提としたモデムで採用されている。コンシューマー向けの製品では一時期V.25bisとヘイズATコマンドの両方をサポートしていたが、現在ではV.25bisをサポートしていない製品がほとんどである。 無線モデム、ワイヤレスモデム (wireless modem) とは、無線通信回線を伝送路に使用するモデムである。ブロードバンドインターネット接続のものは、モバイルモデム (Mobile modem)、ポータブルモデム (portable modem) と呼ぶこともある。 IPの仮想LANカード・ルーター・ブリッジとして振る舞うものは、「モデム」と言うよりは「(通信)アダプタ」などと呼ばれる事も多い。 汎用の無線デバイスとして多様な使い方が可能なBluetoothも無線モデムの一種と言える。 2000年代より電波帯域の有効活用のため、2G携帯電話やPHSのように、音声をアナログ-デジタル変換してナローバンド無線モデムでデジタル伝送することが一般的になっていた。また、2000年代後半より第3世代移動通信システム (3G) ・Wimaxなどの広帯域無線アクセスや、Wi-Fiアクセスポイントなどが普及し始める。 2010年代より、第3.5世代携帯電話 (3.5G)、おくれて第3.9世代携帯電話 (3.9G) が普及し始めている。特に3.9G (LTE) は形式の差こそあれ基盤技術は同じLTEであり、3.5Gまで見られた規格争いは沈静化し一本化が見られる。3.9G (LTE) は2010年代末に掛けて本格的に普及した。 2020年代に掛けて第4世代携帯電話 (4G)、第5世代携帯電話 (5G) の普及が展望されている。 移動体通信ネットワーク以外を使用するものとして、小出力のFMラジオ波を使用したり、ISM帯である2.4GHz帯や、特定小電力無線を使用する無線モデムがある。後者の無線モデムは、ホストと通信ポート等で直接接続したり、イーサネットブリッジとして機能する物もある。2.4GHz帯の無線モデムは免許が不要でかつ高速通信ができるスペクトラム拡散を用いた物が主である。アマチュア無線におけるターミナルノードコントローラ (TNC) が、モデムを内蔵したデータリンク装置に該当する。ただしTNCがモデムと呼ばれることは少ない。 通信衛星を利用した、デジタル通信に用いられるもの。多元接続の機能を持つものが多い。 ブロードバンドインターネット接続などの高速デジタル通信用のモデム。コンピュータ等とは、LANポート(イーサネット)でPPPoE等によるブリッジ接続、あるいはルーターに内蔵されてルータ接続するものが多い。 従来のアナログモデムより高速性と、ノイズへの耐性を高めるなどの安定性を目的としたモデム。RS-232Cなどのシリアルインターフェースを半導体レーザー光に変換して、光ケーブルを用いて通信する。用途はNTTがサポートするアナログ回線の内、特定回線によるものとほぼ同じで、アナログの専用線からの置き換えが進んでいる。
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HAVi
HAVi(Home Audio/Video Interoperability、ハビ)は、デジタルオーディオ、デジタルビデオ等の家庭用AV機器を、IEEE 1394を使ってネットワーク接続するための共通基盤の名称。ホームネットワーク上で異なるベンダー製品の相互運用を可能にすることを目指す。 HAVi仕様では、製品製造者やサードパーティーがアプリケーション開発可能なAPIセットを規定している。ホームネットワークを分散コンピューティング環境とみなしており、ネットワーク中にPCのような制御用の単一マスターデバイスを必要としない点が特徴。ネイティブコードによる開発のみではなく将来拡張のためにJavaを利用可能な仕様となっている。 1999年11月、ソニー、日立製作所、フィリップス、トムソンなど8社によりHAVi推進協会(HAVi Organization)が創設された。HAViを利用した最終製品はロイヤリティとして0.10USドルを支払うこととなっている。
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HS
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MD
MD, Md, md(エムディー)
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デジタルコンパクトカセット
デジタルコンパクトカセット(英: Digital Compact Cassette、DCC)は、フィリップスと松下電器産業(現:パナソニックホールディングス)が共同で開発し、1991年に発表したオーディオ規格である。 アナログコンパクトカセット(Cカセット、カセットテープ)と同サイズのテープに、PASC(Precision Adaptive Subband Coding)形式(MPEG-1/2 Audio Layer-1)で圧縮されたデジタルデータを固定ヘッド方式で記録する。PASCにより、CDなどの音源を約1/4の容量に圧縮できる。サンプリング周波数は48kHz、44.1kHz、32kHzに対応していて、デジタル・コピーはSCMS方式を採用している。 なお、DAT(R-DAT・回転ヘッド)規格制定時に、固定ヘッドを用いるS-DATと呼ばれる規格が策定されていた。S-DATは商品化されず、また、DCCはS-DATそのものではない。DCCは、S-DATからみてヘッドを簡略化され圧縮音声が採用されている別の規格である。音質面では、サンプリング後のビットレートが低い時は無圧縮で記録する仕組みになっていたり、圧縮時も人間の聴感に合わせたチューニングが施されていたので聴感上は優れていた。 DCCの基本技術は、フィリップスの基礎研究所(Natラボ)で開発されていたが、製品化は、フィリップス、松下電器、日本マランツの3社で行っていた。フィリップス、日本マランツで試作を行った後、キーデバイス(薄膜ヘッド等)の供給は主に松下電器が、完成品の製造は、主に日本マランツが行っていた。DCC用の薄膜ヘッドの基本技術はフィリップスのNatラボで開発されていたが、量産化には松下電器の技術が必要であった。また、松下電器は、ICの開発も担当していた。 (アナログ)コンパクトカセットとの互換性を重視して開発されており、DCC機器ではコンパクトカセットがそのまま再生可能である。フィリップスは独BASF(ビー・エー・エス・エフ)社にDCCテープの開発を依頼し、DCC専用に開発された二酸化クロムを採用して発売した。フィリップスがハイポジション(Type II/CrO2)規格(二酸化クロムまたはコバルト被着酸化鉄)を採用した理由は、メタルテープ用のメタルパウダーを作る会社が欧州に存在しないこと(メタルテープの製造に必要なパンケーキ〈≒磁気テープ本体〉を製造していたのは主に日本と北米が中心だった)、また、ミュージックテープを作成する場合に熱転写が容易であるからである。 DCCテープの製造会社は欧州では独BASF社が中心となっていた。一方日本では松下電器産業から販売されたテープのパッケージに「原産国・日本」と明記され、説明文にも「新開発超微粒子ZETAS磁性体を使用」と明記されていたことから、コバルト被着酸化鉄系磁性体を採用した自社生産だった可能性がある。 DCC用の磁性粉はS-VHS並の超微粒子を使用しなければ必要なC/N比が確保できなかったため、オーディオ用の大きな磁性粉は使えない。パナソニックのZETAS磁性体やBASFの二酸化クロムの粒子サイズもかなり微細である。どちらも長軸はサブミクロンの領域である。 日本国内でDCCテープを発売したのはパナソニック(松下電器産業)、TDK(記録メディア事業部。後にイメーションへ事業譲渡)、日立マクセル(現・マクセル)、AXIA(富士フイルム)、日本ビクター(記録メディア事業部。後のビクターアドバンストメディア。2015年12月末を以って法人解散、および清算)。輸入品としてフィリップスも発売された。 DCCは1992年に蘭フィリップス社と日本の松下電器産業(現:パナソニック)が共同で開発した。一方で、日本のソニーもMDを同年に開発している。 2つの陣営の3社は、ほぼ同一の市場に向けた2つの異なる規格による製品群を送り出すことで、自らが敗者となることを恐れた。3社は可能ならば両規格が共存することを望み、最悪でもいずれか片方が絶対的な敗者となる危険性を避けるために、当初から3社によって2つの規格を共同ライセンスしていた。MDとDCCのいずれが普及するかに関わらず、フィリップス、松下、ソニーは共同ライセンスすることで、莫大なライセンス料の支払いという意味での敗者になることを避けた。 これにより両陣営は、市場で競争を演じることもなく、DCC陣営だった松下とフィリップスの2社が、市場が選んだMDをすんなりと採用したことで、DCCは消えて行った。 1992年9月、第1号機であるパナソニックRS-DC10(標準価格135,000円・税別)とフィリップスDCC900(標準価格115,000円・税別)が発売された。いずれも比較的大型の据置型カセットデッキである。 1992年11月、ソニー(現・ソニーグループ)がMDレコーダーの第1号機MZ-1(標準価格79,800円・税別)を発売。こちらは重量520gのポータブル型である。また、すでに登場から5年が経過していたDATは値下がりが進んでおり、1991年5月発売のパイオニア(ホームAV機器事業部。後のパイオニアホームエレクトロニクス→オンキヨー&パイオニア→オンキヨーホームエンターテイメント→オンキヨーテクノロジー/ティアック) D-50の標準価格は85,000円(税別)、1992年10月発売のソニー DTC-59ESの標準価格は95,000円(税別)だった。 このように、すでに発売当初から価格・大きさの両面で明らかに競争力が不足していた。MDがディスク形式ならではの使い勝手をアピールしたのに対し、DCCは以下の理由から、MDはおろか同じテープメディアのDATにも劣っており、最後まで一般に普及することはなかった。 結果的に1996年末までに全ての参入メーカーがハードウェア機器の生産を終え、翌年の1997年には開発元の一つであった松下電器産業( → パナソニック)や日本マランツも最終的にMDに参入した。
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録音再生機器
録音再生機器(ろくおんさいせいきき)は、音声を記録媒体=メディアに録音し、またその音声を再生するための音響機器である。 録音機能だけの機器は「レコーダー」、再生機能だけの機器は「プレーヤー」と呼ばれることが多いが、一般に民生分野の機器には、録音機能も再生機能も備わっており、「レコーダー」という名称で販売される。 音をアナログ信号のまま記録再生するアナログ録音再生機器と、音をデジタル信号に変換(AD変換)して録音し、再びアナログ信号に変換(DA変換)して再生するデジタル録音再生機器とがある。 録音再生機器には、メディア別に以下のようなものがある。
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池波正太郎
池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年(大正12年)1月25日 - 1990年(平成2年)5月3日)は、戦後の日本を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、映画評論家としても著名であった。 映画ではとりわけフランス映画の名作、とりわけフィルム・ノワールを好み、監督ではジュリアン・デュヴィヴィエや俳優ジャン・ギャバンを敬愛している。その他美食家としても知られている。 1923年(大正12年)1月25日、東京市浅草区聖天町(現:東京都台東区浅草7丁目)に生れる。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男であった。この年9月1日、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に避難し引越、6歳まで同地に居住。1929年(昭和4年)、両親と共に下谷に戻る。正太郎は根岸小学校に入学する。商売不振だった富治郎は近親の出資により上根岸で撞球場を開業するも、この年不和により両親は離婚した。 正太郎は母に引き取られ、浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校(後の台東区立西町小学校。1998年に閉校)に転入した。祖父・今井教三は御家人の家に養子入りした職人気質・江戸っ子気質の人物で、忙しい母親に代わって正太郎をかわいがった。この時期、母は働きながら今井家の家計を支え、一時正太郎を預けたまま再婚をしたが、不縁となり、実家に戻った。この二度目の結婚によって、正太郎には異父弟が一人できた。小学校時代の正太郎は図画を得意とし、将来は日本画家鏑木清方の弟子となることを夢見る一方、チャンバラものの剣劇映画と少年向け小説を大いに好み、小遣い銭で買い食いを楽しんでいた。 1935年(昭和10年)、西町小学校を卒業。担任教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初株式現物取引店・田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店・松島商店に入った。以後、1942年(昭和17年)に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。チップや小遣い銭を元手に内緒の相場に手を出し月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として読書、映画、観劇にはげみ、登山や旅行を楽しみ、剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、歌舞伎・新国劇・新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために長唄まで習っていた。 1941年(昭和16年)、太平洋戦争が開戦したが、その翌年に松島商店を退職、国民勤労訓練所に入所。同年には芝浦・萱場製作所に配属され、ここで旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ経理を担当する予定であったものが、池波本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数か月間で技術を習熟した。この間には「婦人画報」の朗読文学欄にスケッチなどを投稿、また「休日」で選外佳作(1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で賞金50円を得て、これが自身初めての原稿収入となった。 1943年(昭和18年)の冬には岐阜太田の工場に転勤となり、当地で旋盤工の教育係を兼ねた。翌年元日には名古屋の製鋼所に徴用されていた父と久しぶりに再会。休日には中部地方の山をめぐり、東京に足を伸ばして歌舞伎を見物したが、前年、成年に達した正太郎のもとにも、ついに召集令状が来て、工場を退職。 1944年4月、横須賀海兵団に入団。間もなく武山海兵団内自動車講習所に入所。しかし、教官の暴力的な教えかたや物資横流しに反感を持ち、ことあるごとに反抗的な態度を取り、繰返し制裁を受け、同所を修了しないまま退所。横浜磯子の八〇一空に転属となり、通信任務(電話交換手)を担当。1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲で浅草永住町の家が焼失。水兵長に昇進し米子の美保航空基地に転属。同地で電話交換室の室長となった。戦況が悪化し、全国的に空襲の危機にさらされるなか、米子では比較的平穏な日々がつづき、この時期、正太郎は余暇に俳句や短歌を作ることに熱中した。8月15日の敗戦によるポツダム進級で二等兵曹、残務処理を終えて8月24日に帰京した。 1945年10月には、帝国劇場で六代目尾上菊五郎の『銀座復興』を観劇した。1946年(昭和21年)、占領下の東京都職員となり下谷区役所に勤務、学生アルバイトを伴い各所にDDTを撒布してまわることだった。空襲によって家を失っていたうえに、借家の家主が疎開先から帰ってきたため、役所内に寝泊りして作業に没頭する一方、この年に創設された読売新聞演劇文化賞に向けて、戯曲「雪晴れ」を執筆。同作品は入選第四位となり、新協劇団で上演された。区役所勤務を継続しつつ、翌年「南風の吹く窓」で同賞佳作入選を果たした。 1948年(昭和23年)には習作を手に初めて長谷川伸を訪問。翌年より本格的に劇作を師事し、門下の批評会「二十六日会」にも参加した。この前後の習作に『牡丹軒』『手』『蛾』など。『手』は新国劇での上演が検討された。1950年(昭和25年)、片岡豊子と結婚し、借家して所帯を持ったが、間もなく申しこんでいた住宅抽選に当選し、新国劇で上演された『鈍牛』の上演料などで新居を建てた。以後、座付作者といわれるほどに新国劇と関係を深めた正太郎は、辰巳柳太郎・島田正吾らに『檻の中』(1952年)、『渡辺華山』(1953年)などを提供する一方で、長谷川の強い勧めによって小説でも、新鷹会の雑誌「大衆文芸」に『厨房にて』(1954年)などの作品を発表した。 1955年(昭和30年)1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、自ら演出をも行った。これにより文筆によって立つ自信を得て、都職員を退職(あえて昇進を断り、外回りの職に徹しており、この時期は目黒税務事務所で収税を行っていた)。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作の『風林火山』『黒雲谷』『賊将』など、新国劇で作品を次々と上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年(昭和34年)9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年(昭和33年)暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父と久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。また、同じく小説家の角原三之助とは親友であり、何度も旅行を共にした他、一時期は同居していたともいう。 1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、少年期から愛読者だった大佛次郎より賞を手渡された。受賞後も数年は『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書き、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号 - 64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号 - 64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号 - 12月29日号)など、初期代表作の小説を次々と発表、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で直ちに映画化された。一方で劇作家として、1963年(昭和38年)に子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、師・長谷川伸が没し、これを契機として二十六日会・新鷹会などを退会し、以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。 四十代に入った正太郎は、『江戸怪盗記』(「週刊新潮」64年1月6日号)、『おせん』(「小説現代」同年7月号)、『堀部安兵衛』(「中国新聞」同年5月14日 - 66年5月24日)、『出刃打お玉』(「小説現代」65年3月号)、『同門の宴』(「オール讀物」同年9月号)、『あほうがらす』(「小説新潮」67年7月号)など従来からの歴史小説に加えて江戸の市井に題材を採った時代小説作品を多く手がけるようになったが、なかでも1967年(昭和42年)12月の「オール讀物」に発表した『浅草御厩河岸』は読者から高い評価を受け、次号以降断続的にシリーズとして連載が開始された。これが代表作となった『鬼平犯科帳』の第一作目である。「寛政重修諸家譜」のなかで出会った長谷川平蔵という人物に強い興味を持っていたが、旧知の八代目松本幸四郎をモデルに、世の善悪に通じ、強烈なリーダーシップと情愛を兼ね備えた平蔵を描出するとともに、火付盗賊改方と盗賊たちの相克を通して「よいことをしながらわるいことをする」人間の矛盾を描き、悪漢小説として読者の広範な支持を受けた。同時期の歴史小説は『さむらい劇場』(「週刊サンケイ」66年8月22日号 - 67年7月17日号)、『上泉伊勢守(日本剣客伝)』(「週刊朝日」67年4月28日号 - 6月16日号)、『蝶の戦記』(「信濃毎日新聞」ほか同年4月30日 - 68年3月31日)、『近藤勇自書』(「新評」同年10月号 - 69年3月号)などが挙げられる。昼に起き夜中に執筆する生活習慣は相変わらずであったが、元来速筆家で仕事の合間に取材旅行を含めて旺盛に旅行し、映画・演劇鑑賞も盛んに行っていた。 『鬼平』連載開始の翌1968年(昭和43年)には、担当編集者の求めにより自伝的随筆『青春忘れもの』(「小説新潮」68年1月号 - 12月号)を執筆。旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させたが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者から強い支持を受けた。翌1969年(昭和44年)にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年(昭和46年)には同シリーズ中『狐火』を舞台化。各・主演は八代目幸四郎で、特にテレビ版は度々再放送され時代劇として高い評価を受け、以後の評価を不動のものとした。『鬼平』の連載は「オール讀物」誌上にあって依然好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』(69年)、『血闘』(70年)、『狐火』(71年)、『流星』(72年)と年一冊のペースで新作が世に送り出された。江戸の市井を舞台とした作品でも、幡随院長兵衛を描いた『侠客』(「サンケイスポーツ」68年10月28日 - 69年9月5日)、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』(「週刊新潮」69年5月31日号 - 70年5月16日号)、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』(「東京新聞」ほか70年3月20日 - 71年6月17日)などの作品が発表された。 1972年(昭和47年)には「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表した。京都の古書店で偶然見かけた歌舞伎役者・二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客・秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男・大治郎、田沼意次の娘である女剣客・佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決していく、代表作となり人気を博した。翌73年4月にテレビドラマ『剣客商売』が放送開始された。 1972年「小説現代」3月号に『仕掛人・藤枝梅安』シリーズ第1作となる『おんなごろし』を発表。同誌6月号には第二作『殺しの四人』が掲載され、この作品は年末に小説現代読者賞を受賞。仕掛人という言葉は流行語となり、同年9月より朝日放送で『必殺仕掛人』が放送開始された。翌73年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号 - 12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号 - 12月号に、『仕掛人』を「小説現代」2、7、9、10月号に、並行連載した。 また同時期には『雲霧仁左衛門』(「週刊新潮」72年8月26日号 - 74年4月4日号)、『剣の天地』(「東京タイムズ」ほか、73年5月15日 - 74年3月30日)の長編作品や、随筆『食事の情景』(「週刊朝日」72年1月7日号 - 73年7月27日号)なども連載。1973年には立風書房で『池波正太郎自選傑作集』全5巻を刊行。仕掛人もの『春雪仕掛針』で小説現代読者賞を再び受賞した。 1974年(昭和49年)に「週刊朝日」で『真田太平記』(1月4日号 - 80年12月15日号)が連載開始、同年には『男振』(「太陽」7月号 - 77年9月号)の連載もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演された。1975年(昭和50年)は『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞、「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」連載に加え、劇作でも、新国劇のほかに、歌舞伎にも脚本を提供するようになり、原作・脚本両方を含め、『出刃打お玉』(2月歌舞伎座)、『剣客商売』(6月帝国劇場)、『必殺仕掛人』(9月明治座)『手越の平八』(11月明治座)の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』(4月、演出担当)、『江戸女草紙・出刃打お玉』(5月、演出担当)、『侠客幡随院長兵衛』(10月)を上演。 一連の舞台のなかで1975年の『出刃打お玉』『剣客商売』などで中村又五郎とともに仕事をし、親交を深めたが、1976年(昭和51年)より『又五郎の春秋』(「中央公論」7月号 - 77年6月号)を連載した。同年にはこのほか『散歩のとき何か食べたくなって』(「太陽」1月号 - 77年6月号)、『おとこの秘図』(「週刊新潮」1月号 - 77年5月12日号)および三大シリーズの諸篇を発表。1977年(昭和52年)にはさらに新連載『忍びの旗』(「読売新聞」夕刊11月26日 - 78年8月22日)が始まった。同年、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」を中心とした作家活動によって、第11回吉川英治文学賞受賞。『市松小僧の女』(2月)、『真田太平記』(11月)が舞台化され、NHK「この人と語ろう」に出演し、映画『トップ・ハット』の曲『ピコリーノ』の演奏をリクエストした。またこの年の初夏、初めてフランスを中心にヨーロッパへ長期旅行した。 1978年(昭和53年)、「鬼平」「剣客」のほか、『旅路』(「サンケイ新聞」5月13日 - 79年5月7日)の連載を開始する一方、『あいびきの女』(2月歌舞伎座)、『狐火』(11月明治座)で脚本と演出を担当。また前年の『市松小僧の女』が高い評価を受け、第3回大谷竹次郎賞を受賞。7月には『雲霧仁左衛門』が映画化された。この年、「池波正太郎短篇小説全集」全10巻・別1巻が立風書房より刊行された。翌1979年(昭和54年)には三大シリーズの執筆に専念し、以前からの連載のほかは、『日曜日の万年筆』(「毎日新聞」2月4日 - 80年1月27日)、『よい匂いのする一夜』(「太陽」7月号 - 81年5月号)のエッセイ二作が発表されたのみであった。この年の秋にはふたたびヨーロッパに旅行した。1980年(昭和55年)、この年も「鬼平」「剣客」のほか『味の歳時記』(「芸術新潮」1月号 - 12月号)を連載した。なお同年には『真田太平記』が完結。82年までにすべてが単行本化した。初夏には三たびヨーロッパを旅行。1981年(昭和56年)、『黒白』(「週刊新潮」4月23日号 - 82年11月4日号)を発表。さらにエッセイ『むかしの味』(「小説新潮」1月号 - 82年12月号)の連載のほか、書き下ろしとして『男の作法』(ごま書房)、『田園の微風』(講談社)を上梓した。このころよりヨーロッパ旅行を基としたエッセイも多数発表され、1982年(昭和57年)にはフランスを舞台とした小説『ドンレミイの雨』(「小説新潮」9月号)を発表した。また同年には『新潮45+』に「新潮45+封切館」の連載(5月号 - 83年4月号)を持った。初夏には四たびヨーロッパ旅行に赴いた。1983年(昭和58年)、『鬼平』『剣客』『梅安』に加え、『雲ながれゆく』(「週刊文春」1月6日号 - 8月18・25日合併号)、『食卓のつぶやき』(「週刊朝日」10月14日号 - 84年7月20日号)を発表した。 1984年(昭和59年)には「鬼平」「剣客」のほか『乳房』(「週刊文春」1月5日号 - 7月26日号)を新連載。秋には同じく1923年生まれの角原三之助と共に5度目のヨーロッパ旅行を行う。翌1985年(昭和60年)には『まんぞくまんぞく』(「週刊新潮」5月30日号 - 11月28日号)と「秘伝の声」(「サンケイ新聞」8月19日 - 86年4月30日)を発表。また『池波正太郎のパレット遊び』と題して小画集を角川書店から刊行した。同年、紫綬褒章受章。「鬼平」「剣客」「梅安」を平行して連載。さらに『秘密』(「週刊文春」2月6日号 - 9月11日号)を執筆し、3月の新国劇公演で自作の『黒雲峠』と長谷川伸の原作をもとに脚色した『夜もすがら検校』の演出として参加。新国劇は翌年解散し、池波ゆかりの同劇団が彼の脚本で公演を行うのはこれが最後となった。1987年(昭和62年)、三大シリーズを「剣客」一本にしぼり、「波」に『原っぱ』を連載した(1月号 - 88年2月号)。同年1月、西武百貨店池袋本店にて「池波正太郎展」開催。1988年、この年はまとまった仕事(以前からの連載を除いて)として『江戸切絵図散歩』(「小説新潮」1月号 - 12月号)のみにとどめ、5月にフランス、9月にドイツ・フランス・イタリアへ旅行したが、これが最後の海外旅行となった。この年12月、「大衆文学の真髄である新しいヒーローを創出し、現代の男の生き方を時代小説の中に活写、読者の圧倒的支持を得た」として第36回菊池寛賞受賞。 1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』(「週刊新潮」2月号 - 7月号)、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』(「小説現代」12月号 - )、『鬼平犯科帳 誘拐』(「オール讀物」12月号 - )の連載を開始した。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年(平成2年)、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には吉右衛門主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去、67歳。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完絶筆となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。法名は「華文院釈正業」。浅草西光寺(真宗大谷派)に葬られた。没後、勲三等瑞宝章受章。 1998年(平成10年)11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。 2006年(平成18年)5月、富山県南砺市井波(旧井波町)に「池波正太郎ふれあい館」が開館した(池波の先祖は井波の宮大工で、天保年間に江戸へ移り住んだことがわかっている。こうした縁で池波が寄贈した直筆の書や原稿、地元関係者に送った手紙などが展示されている)。 池波正太郎の死後、2001年(平成13年)9月26日に台東区生涯学習センター1階台東区立中央図書館内に池波正太郎記念文庫が開設された。池波正太郎の遺品、原稿、台本、絵画などが展示されている。
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和尚
和尚(呉音:わじょう、漢音:かしょう、唐音:おしょう、梵: upādhyāya)とは、仏教の僧侶に対する敬称である。upādhyāya の俗語形を音写したもの。和上、和闍、和社とも書き、親教師、依学と訳される。 本来の意味は、出家して受戒した僧が、日常親しく教えを受けるグル(Guru, 指導者)を指す。『十誦律』では、受戒の師を指す。 日本では、天平宝字2年(758年)に戒師として渡来した鑑真に対して「大和尚」の号が授与されており、その後、高僧への敬称として使用され、更に住職以上の僧への敬称となった。 宗派によって書き方・読み方が異なり、一部地域では更に言葉が詰まって「おっさん」「おっさま」「おっしゃん」(アクセントは頭高型)と呼ばれている。 ※「和尚」の読み方は一般に宗派の区別により放送上も読み分けられている。 ※ 天台宗では遷化(亡くなること)された時は和尚(おしょう)から和尚(かしょう)へと呼び方が変わる。
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2,984
Microsoft Windows XP
Microsoft Windows XP(マイクロソフト ウィンドウズ エックスピー)は、マイクロソフトが2001年に発表したWindowsシリーズに属するオペレーティングシステム (OS) である。 Windows XPの発売以前、Windowsは一般家庭向けでWindows 3.1由来のMS-DOSを前提とした古い構造を機能拡張して開発されたWindows 95、Windows 98、Windows MeなどのWindows 9x系と、サーバ用途に耐える安定したOSとして新規開発されたWindows NTなどのWindows NT系が並行開発・販売されている状態が永らく続いていた。 その状況はマイクロソフトにとっては開発リソースが2つの製品に向けて分散される等の大きな課題となり、9x系ではマルチメディア機能の拡張と共にシステムリソースに余裕が無くなりクラッシュが多発するようになる(特にWindows Meで顕著)など、構造面でも限界に達しており、開発負荷の軽減と、マルチメディア対応の安定したOSを作る目的で、一般家庭向けの9x系をNT系に統合することを目標に開発された。XP以前に同様の統合化を試みたWindows 2000を基本に、その際の統合の成功に至らなかった機能も含めて開発されている。この機能統合の成功により、XPはNTの安定性・堅牢性と9x系のマルチメディア機能や使いやすさを併せ持った汎用OSとなった。NTカーネルを採用した一般家庭向けのWindowsはXPが初であり、XPのリリースによって、一般市民が初めて安定に動作するOSを手軽に入手・利用することができるようになった。XPの開発成功を受け、マイクロソフトは長年の懸案であった9x系の終息を成すことができた。 開発時のコードネームはWhistler(ウィスラー)と呼ばれていた。 永きに渡って販売されていたが、ネットブックなど超低価格機向けなどの一部の用途を除き、2008年6月30日をもってマイクロソフトからの出荷は終了した。2008年7月以降の入手方法は、流通在庫品のほかに後継製品となるWindows VistaのBusinessかUltimateエディション、Windows 7のProfessionalかUltimateエディションからのダウングレード権を利用する形のみになった。一部の直販 (BTO) メーカーでは、この仕組みを利用して業務用向けオプションとして引き続きWindows XP ProfessionalをプリインストールしたPCが出荷されていたが、2010年10月22日に販売が終了した。また、米MicrosoftのDSP版も2009年6月30日に販売終了となり、店舗在庫限りとなった。 OSはコンピュータが導入された時のものが使われ諸事情により後続のOSに置き換えができない場合がある(たとえば工場の生産ラインのマシン群のひとつとして組まれてしまっていて仕様を変更するわけにはいかないコンピュータや、発展途上国に慈善活動、フィランソロピーなどで贈られたもので使用者側は買い替え予算が組めないコンピュータなど)。米国の調査会社Net Applicationsによると、2018年12月時点における世界のOSシェアはWindows XPが4.54%であり、首位の座をWindows 10 (39.22%) に明け渡している。NetMarketShareの調査では2020年時点で、シェアが1.26%であり、この数字はWindows 8 のシェア(0.57%)、ChromeOS (0.42%)、Windows Vista (0.12%)よりも大きい。2020年時点でXPは、後続のWindows 8やVistaよりも多く使われているのである。StatCounterによる2020年3月の別の調査では、Windows XPのシェアが増加し0.24ポイント増の1.39%となったといい、中国での急増(13.32%、+9.13)が大きいらしいが、先進国でもフランス(1.11%、+0.23)・カナダ(1.13%、+0.22)・アメリカ合衆国(0.92%、+0.14)など微増している国は数多い。 これにはそれなりの理由がある。XPが要求するハードウェア要件がWindows 2000の次くらいに低く(後述参照)、低スペックのマシンで動かすことができ、また使用しているアプリケーションソフトによっては後継のWindowsに対応していないなどの理由からXPが必要であるユーザがいるなどといった事情で依然として根強いシェアがあるのである。その結果、一部のインターネットオークションや中古販売においてWindows XPリテールパッケージ版(特にクリーンインストール版のProfessional)は後発のWindows Vista、およびWindows 7、Windows 8、Windows 8.1、Windows 10、そして2023年6月現在、最新のWindowsであるWindows 11より高額で取引されることも決して少なくない。 XPは「「経験、体験」を意味するeXPerienceに由来する」と公式には解説されている。 主に家庭で使用されることを前提に開発されたエディション。Windows XPの基本的な機能が搭載されており、ドメイン参加といったビジネス向けの機能は非搭載。Professionalエディションに比して、1つの物理CPUのみの対応(ただしハイパースレッディング・テクノロジーやマルチコアプロセッサはサポートする)といくつか拡張性に制限がある。 ここでは、32ビットバージョンのService Packについて述べる。なお、SP2以降では起動画面でエディション名が表示されなくなった。 従来のマイクロソフトの方針では、家庭向けのエディションではメインストリーム サポート フェーズ(次のバージョンのWindows発売から2年後まで)しか提供せず、ビジネス・開発向けのエディションのみ延長サポート フェーズ(メインストリーム サポート終了後5年間)を提供してきた。しかし、Windows XP Home Editionは市場で非常に多く使われていたため、メインストリーム サポート期間をもってサポートを打ち切ると、重大な脆弱性が発見されてもセキュリティ アップデートが提供されず、無防備な状態のPCが巷にあふれることが懸念された。2007年1月25日、マイクロソフトは市場の状況を鑑み、「Windows XP Home EditionおよびMedia Center Editionについても、(家庭向けのエディションであるが)5年間の延長サポートフェーズを提供する」と発表した。これにより、Home EditionおよびMedia Center Editionはサポート期限が2009年4月14日から2014年4月8日へ延長された。発売開始より約12年半にもおよぶという、PC用ソフトとしてはかなりの長期サポートとなる。 なお、ProfessionalとTablet PC Editionに関してはビジネス・開発用製品扱いのため、従前どおり延長サポート フェーズが提供される。また、Windows XPベースの組み込みシステム向けOSであるWindows XP Embeddedは2016年1月12日を以って延長サポートが終了した。このほか、Windows Embedded Standard 2009は2019年1月8日まで、Windows Embedded POSReady 2009は2019年4月9日までそれぞれ延長サポートとなる予定である。 2014年4月9日(日本標準時)を以って延長サポートが切れ、更新プログラムの提供が全て終了した。マイクロソフトはWindows 7以降の最新のWindowsへの早めの移行を呼び掛けている。しかし、中小企業などでは会社内のネットワークシステムをデファクトスタンダードだったXP向けに構築している会社も非常に多く、予算不足などから思いのほか移行が進められていない会社も少なくない。さらに東日本大震災によって被災した福島県、および宮城県、岩手県、一部の関東地方の各学校や各企業などでは、建物の耐震改修やパソコンより重要な業務機材などの購入に予算を取られ、期限切れまでにパソコンを更新できない自治体や企業、学校が続出しており、こちらも大きな問題となっている。家庭や企業のPCに大量に導入されたWindows XPの延長サポート切れに伴う諸問題について2014年問題と呼ばれることがある。 また、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)は、既に延長サポートが全て終了したWindows XPのセキュリティ上の危険性を指摘しており、なるべく、ネットワークに接続しない単独の専用システム(スタンドアローン)にしたうえでUSBメモリやFD、MO、外付けHDDなどの外部補助記憶装置でデータ交換しないことを呼びかけている。このほか、VMwareやVirtualBox、Pro以上のバージョンに搭載されている64ビット版Windows 8/8.1/10専用のクライアントHyper-V、Professional以上のバージョンに搭載されているWindows 7のXP Modeなどの仮想デスクトップ(ハイパーバイザ)上で稼働しているWindows XPであってもセキュリティ上の危険性を指摘している。 その一方で、一部の法人向けセキュリティソフトについては、マイクロソフトのサポート打ち切り後も、2018年7月5日までWindows XPのサポートを継続する製品も存在している。キヤノンITソリューションズのESET Endpoint Securityを含めた製品は2018年1月31日まで、米シマンテックのSymantec Endpoint Protection 12.xは2018年7月5日→2021年4月3日まで、トレンドマイクロのウイルスバスター コーポレートエディション 10.6は有償の延長サポートは2019年1月30日まででその他の製品も少なくとも2021年1月31日まで利用可能のものもある、露カスペルスキーのKaspersky Endpoint Security 10 for Windowsなどは最短でも2016年1月末日まで、米マカフィーのMcAfee Endpoint Protection Suiteは2015年12月31日でサポート終了、フォティーンフォティ技術研究所(FFRI)のFFRI yaraiは2017年12月31日まで。 政府機関や企業向けの有償カスタムサポートは、2014年4月9日以降も提供される。実際に英国やオランダの政府が契約している。 マイクロソフトはXPからの移行キャンペーンとして、XPの各種要素をモチーフにした敵を倒すブラウザゲーム「Escape from XP」を公開している。ゲームの最後はXPが爆破されるという演出になっている。 なお、2014年4月8日(日本時間4月9日)をもってWindows XPの延長サポートが全て終了となった直後、マイクロソフトは米国時間2014年4月26日、Internet Explorerの更新プログラムが配布された際、Internet Explorer6から11までのバージョンに脆弱性があると発表し、「サポート切れからまだ間もない」という理由で「特例」としてXPも更新プログラムの対象となりIE6向けにも例外的に2014年5月2日セキュリティ更新プログラム(パッチ)を公開した(KB2964358)。 また、2017年5月15日(日本時間)には同年5月12日(米国時間)より全世界各国で流行発生している新型ランサムウェア ("WannaCry") によるサイバー攻撃の被害が深刻であったがこれについての対策状況を告知。このランサムウェアが悪用しているセキュリティーホールがもはやアップデートパッチの提供されていない(またはパッチを当てていない)システムのみに存在するため、サポート中のVista以降のOSに加えて本来は3年前にサポート終了済のXPや2年前にサポート終了済みのServer 2003も再び例外的にセキュリティ更新プログラム(パッチ)が特例として公開 (KB4012598) 配布された(すでに淘汰の進んだWindows 2000などは対象外)。 現地時間2019年5月14日に、リモート デスクトップ サービス(Remote Desktop Services、かつてはTerminal Servicesとも)に重大なリモートコード実行の脆弱性 (CVE-2019-0708) が存在するので、Windows 7とWindows Server 2008およびWindows Server 2008 R2などにWindows Updateを介したパッチの提供を行っている。Windows XPとWindows Server 2003に対しても修正プログラム「KB4500331」をMicrosoft Update カタログで提供。Windows 8.1やWindows 10などはセキュリティ強化が施されているので提供されない。 Windows XPは、Windows NT系列のOSとして開発されているため、本来ならWindows NT 4.0(SP5以降)やWindows 2000からのアップグレードを想定しているが、Windows NT系列のOSとWindows 9x系列のOSはWin32という共通のAPIを備えている上、Windows XPは前述の通りWindows NT系列とWindows 9x系列の統合を目的として開発されているため、Windows 9x系列のOSの基本的な機能も含まれている。そのためWindows 98(SEも含む。以下同じ)やWindows Meからでもアップグレード可能。特に、Windows XP Home Editionへは、Windows 9x系列であるWindows 98とWindows Meからしかアップグレードできない。また、これらがインストールされた環境では、アップグレードの他に新規インストールも行える。Windows 95やWindows NT 3.51やWindows 2000からはセットアッププログラムを起動させるとエラーメッセージが表示してしまい、先に進まない(そのため新規インストールも行えない)。Windows 98とWindows Meのどちらからアップグレードしてもそのシステムファイルが保存されれば、後でWindows XPをアンインストールして旧バージョンへ戻すことは可能。ただし、旧バージョンのシステムファイルの保存はWindows XPをインストールするパーティションに十分な空き容量が残っている必要がある。Windows XPをインストールできる容量はあっても旧バージョンのシステムファイルを保存する容量まではない場合は、その旨を伝えるメッセージが表示され、旧バージョンのシステムファイルは保存されない。この場合は、たとえWindows 98やWindows Meからアップグレードした場合でも後でWindows XPをアンインストールすることはできない。 一方Windows XP Professionalへは、Windows 98、Windows Me、Windows NT 4.0 Workstation、Windows 2000 Professional、Windows XP Home Editionのいずれかからアップグレード可能。Home Edition同様、Windows 95やNT 3.51からはアップグレードできない(セットアップ開始時に強制終了してしまうため、基本的には新規インストールも行えないが、パッケージによってはアップグレードができないだけで、Windows 95からセットアップを起動し、Windows XP Professionalの新規インストールを行えるものはある。MSDNなどで配布されるWindows XP Professionalがこれにあたる。Home Editionも同様)。また、アンインストールはWindows 98とWindows Meからアップグレードした場合に限り可能(Windows NT Workstation 4.0、Windows 2000 Professional、Windows XP Home Editionからアップグレードした場合はアンインストールできない)。ちなみに、通常のXP Professionalへのアップグレード版は、SP未適用のRTMはXP Home Editionからはアップグレードの対象とはなっていなかったが、SP1以降は対象となった。なお、日本語版のみWindows 2000 Professionalのみからアップグレード可能のWindows XP Professional 期間限定特別アップグレード版もあった。 また、Windows XP Media Center EditionとWindows XP Tablet PC Editionにはアップグレード版が存在しないが、基本的にWindows XP Professionalと同じセットアッププログラムでインストールが進行し、途中で該当バージョンに分岐する(これらのバージョンにはインストールCDが2つあり、1つ目のインストールCDからセットアップを開始すると最初に「Windows XP Professional セットアップ」と表示され、使用許諾契約書の一番上の行にも「Microsoft Windows XP Professional」と表示される)。ただし、Windows XPのOEM版CD-ROMはアップグレードインストールをサポートせず、アップグレードアナライザも実行できないように制限されているため、旧バージョンからアップグレードするには特殊な手順を踏む必要がある。ちなみにこれらのバージョンにアップグレードした場合でも、アップグレード元がWindows 98かWindows Meならば、これらのバージョンをアンインストールして元のバージョンに戻すことができる。 Windows XPからはWindows VistaとWindows 7、Windows 8にアップグレードすることができる。しかし、Windows 7へは直接アップグレードすることはできず、新規インストールを行うか、間にWindows Vistaを挟む必要がある。Windows Vistaにアップグレードする場合、アップグレード元のWindows XPにはService Pack 2以上が予め適用されている必要がある。Windows 7に新規インストールという形でアップグレードする場合も同様。Windows 8にアップグレードする場合は、Service Pack 3が予め適用されている必要がある。また、Windows XP Home Editionからは、Windows Vistaの全てのエディションにアップグレード可能であるが(StarterとEnterpriseを除く)、Windows XP ProfessionalとWindows XP Tablet PC EditionからはWindows VistaのBusinessかUltimateにしかすることができない(Professional x64からは直接アップグレードすることができず、新規インストールを行う必要がある)。Windows XP Media Center EditionからはHome PremiumかUltimateにのみアップグレード可能。 また、Windows XPのどのバージョンからWindows Vistaのすべてのエディションにアップグレードしても、それらをアンインストールしてWindows XPに戻すことはできない。これは、Windows XPからWindows Vistaにアップグレードする前に、システムパーティションを強制的にFAT32からNTFSに変換しなければならないためである。NTFSは通常、Windows 98やWindows MeのようなWindows 9x系のOSには対応しておらず、インストール・アンインストール共にできない。Windows 98かWindows MeをWindows XPのインストール先と同じパーティションに旧バージョンのシステムファイルを保存する形でWindows XPにアップグレードした環境をさらにWindows Vistaにアップグレードすると、Windows XPにアップグレードする際に保存された旧バージョンのシステムファイルは強制的に(システムパーティションをNTFSに変換した段階で)削除される。また、Windows 95やWindows 3.1からWindows 98にアップグレードし、それをさらに(Windows XPをインストールするパーティションとは別のパーティションに旧バージョンのシステムファイルを保存するという形で)Windows XPにアップグレードした環境や、Windows 98をWindows Meにアップグレードし、それをさらにWindows XPにアップグレードした環境をWindows Vistaにアップグレードすると、Windows XPにアップグレードする前のアップグレードによって保存された旧バージョンのシステムファイルは使用不能になる(その旧システムファイルのデータにアクセスすること自体はできるが、アンインストール機能がなくなるため、そのままでは使い道はほぼ無い)。最初からNTFSパーティションにインストールされたWindows XPをWindows Vistaにアップグレードした場合でも、アンインストールは基本的にできない。 Windows XPのアップグレード版を使って新規インストールを開始した場合、セットアップの途中でアップグレード認証を行わなければならない(ハードディスクにWindows 2000がインストールされている場合は除く)。これは古いバージョンのWindowsを所持しているかどうかを確認するために行われるが、上述のアップグレード対象製品と違い、以下のバージョンのWindows CDのいずれかを1枚持っていれば、取りあえずアップグレード認証は通過できる。ただし、購入したアップグレードパッケージに記載されているアップグレード対象製品のCDとそのライセンスが手元にない場合、Microsoftの使用許諾契約書の条項に違反することになる(正規ライセンスからのアップグレードと見なされないため)。例えば、手元にWindows 95のCDとライセンスしかないにもかかわらず、Windows XP Home Editionのアップグレード版CD-ROMを使って新規インストールを開始し、アップグレード認証にそのWindows 95のCD(Companion CDでも可能)を使用した場合や、Windows XP Professionalの「ステップアップグレードパッケージ」(後日期間限定で発売されたHome EditionからProfessionalへの専用アップグレードパッケージ)を使ってWindows XP Home Edition以外のバージョン(Windows 98など)からWindows XP Professionalにアップグレードした場合などがこれに当てはまる(Windows 95はWindows XPのどのバージョンのアップグレード対象製品にもなっておらず、「Windows XP Professional ステップアップグレードパッケージ」もWindows XP Home Edition以外のバージョンがアップグレード対象製品になっていないため)。 上記のうち、通常版を要求されるWindows XP以外のバージョンのCDを挿入する場合、それがアップグレード版だったとしても認証することができる。 すでにWindows XPのパッケージ製品を持つユーザーが、2台目以降のPCへ、同じWindows XPのエディションを追加する際に必要となる、プロダクトキーのみのパッケージでCD-ROMは付属していない。 Professionalに拡張キットのMicrosoft Plus!がセット。 2005年11月に日本限定で行われた企画で、Windows誕生20周年を記念しWindows XP Professionalアップグレード版(SP2適用)の特別パッケージが 9999本限定で販売された。パッケージは専用の「20」と大きく書かれたものを採用し、Windowsの20年間の歩みが書かれた年表がパッケージに印刷されている。その他、通常パッケージとの差は以下の通り。 Windows XPが使用できることをPCメーカーやマイクロソフトから保証されたPCで、主に2001年夏モデルが対象となっていた。このグループに認定されたPCは、Windows XP発売と同時に専用のアップグレードプログラムにより、既存のWindowsをWindows XPに入れ替えられるのはもちろん、プレインストールされているアプリケーションやハードウエアデバイスドライバをWindows XP対応済のバージョンに修正・入れ替えて、アプリケーションソフトウェアや周辺機器をWindows XPで使えるようになっていた。 なお、プレインストールのWindows Meの場合はWindows XP Home Editionへの、Windows 2000の場合はWindows XP Professionalへのアップグレードとなっていた。 2005年以降、Windows Genuine Advantageにより正規のWindowsであることが認証された場合の特典として、LZH(LHA)圧縮ファイルの展開機能をサポートするプラグインである「Microsoft 圧縮(LZH形式)フォルダ」や、フォトアルバムソフトの「Microsoft Photo Story 3」、神経衰弱ゲームの「Microsoft Match-Up!」などが用意され配布された。 Windows XPをインストールした際にデフォルトで設定されている壁紙の「草原」(英語名「Bliss」)は、カリフォルニア州ソノマ郡の、カリフォルニアワイン産地としても知られるソノマ・ヴァレー。実在する風景である。マイクロソフトでは撮影者を非公開としているが、チャールズ・オレアというカメラマンが撮影したという説が有力とされている。なお、マイクロソフトは採用される壁紙について「壁紙はプロの写真家や社内の公募から候補を挙げて製品コンセプトに合うイメージのものを採用している。候補には挙がったものの採用されないものが大量にあり、製品出荷前のベータ版には異なった壁紙が採用されていることもあるのでそちらが話題になることもある。」と回答している。
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ジェリウムモデル
ジェリウム(Jellium)は、固体中の原子核がもつ正電荷と電子密度が、固体内で均一に分布していると仮定する模型である。この模型によって、結晶格子などの固体の構造を無視して、固体中の電子の量子力学的性質と、固体中の電子との相互作用によって起こる効果について比較的簡単に議論することが可能になる。均一電子ガスまたは一様電子ガス(uniform electron gas、UEG; homogeneous electron gas、HEG)とも呼ばれる。 ジェリウムは、非局在化した金属中の電子の単純な模型として、固体物理学でしばしば使われ、遮蔽、プラズモン、ウィグナー結晶化、フリーデル振動といった金属の特徴を定性的に再現できる。 絶対零度では、ジェリウムの性質は一定の電子密度にのみ依存する。これが密度汎関数理論内での取り扱いに役立つ。ジェリウム模型自身は交換-相関エネルギー密度汎関数への局所密度近似の基礎を与える。 「Jellium」という用語は、コニャーズ・ヘリング(英語版)による造語である。これは「positive jelly」背景とそれが示す典型的な金属的振る舞いを暗示する。 ジェリウムモデルのみ(例:正電荷のジェリウム+自由電子)で電子状態の計算が行われる以外にも、バンド計算においては単位胞内で通常電荷の中性が保たれるが、電子が過剰あるいは過少にあると仮定し、そのままの計算ではエバルト項などが発散してしまう場合に使われる。この発散の問題を解消するため、電子が過剰な場合は全体の電荷中性を満たすよう、正(過少なら負)の一様な電荷(→ジェリウム)を分布させる。ただし、これは近似なので、現実の系を正しく記述できてはいない。 電子系のハミルトニアンが で与えられるときを考える。ここで、 V L ( r i ) {\textstyle V_{L}({\boldsymbol {r}}_{i})} は格子ポテンシャルで、 E I {\displaystyle E_{I}} はイオンの背景電荷によるエネルギーである。これらは で定義される。ここで r i {\displaystyle {\boldsymbol {r}}_{i}} は i {\displaystyle i} 番目の電子の位置、 R λ {\displaystyle {\boldsymbol {R}}_{\lambda }} は λ {\displaystyle \lambda } 番目のイオンの位置、 m {\displaystyle m} は電子の電荷、 Z λ {\displaystyle Z_{\lambda }} はイオンの価数を表す。ジェリウムモデルでは、格子ポテンシャルを連続体近似して、 とする。ここで n {\displaystyle n} は電子密度、 n I {\textstyle n_{I}} はイオン密度である。
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エバルト項
エバルト項(エバルトこう Ewald term)は、バンド計算において、単位胞内の原子核(またはイオン芯)同士のクーロン相互作用を表す項。
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Microsoft Windows 2000
Microsoft Windows 2000(マイクロソフト ウィンドウズ 2000)は、マイクロソフトによってWindows NT 4.0の後継として開発されたオペレーティングシステム。1999年12月15日(米東部時間)に製造工程向けリリース (RTM) が発表され、2000年2月18日(日本時間)に一般リリースが発売された。 Windows 2000はWindows 9x系に比べて安定性・堅牢性に優れた NTカーネルを基に開発された。当初の正式名称は「Windows NT 5.0」として発表されていたが、後に現在のものに変更された。Windows NTチームのデーブ・トンプソンによると、ジム・オールチン(英語版)がコードネームを嫌っていたため、Windows 2000にはコードネームがなかった。Windows 2000は主に業務用として位置付けられている。しかし、開発当初からWindows NT系とWindows 9x系の統合が計画されていたため、一般ユーザーへも十分に対応できるようWindows 9x系のユーザーインターフェイスも取り込まれている。 当初の製品版では65000件以上の問題を抱えていたと揶揄されたが、数度のサービスパックの適用により、安定性や使い勝手なども登場当初と比べると格段に向上した。当初は各種ドライバ類が少なく、特にマルチメディア関連機器の多くに非対応という弱点を抱えていた。しかし次第に専用もしくはWindows XP互換のドライバが開発された。 Windows NT系は移植性を高める設計が行われており、前バージョンのWindows NT 4.0ではPowerPCやDEC Alphaなどの複数のプラットフォームに向けて販売されていた。しかしIA-32以外のプラットフォームが事実上消滅してしまったため、Windows 2000ではβ3までは複数存在していたものの、結局IA-32以外の発売は取り止めとなった。ただし後述の「Windows Advanced Server, Limited Edition」についてはIA-64(Itaniumシリーズ)用が後にリリースされた。また、PC-9800シリーズの対応もWindows 2000を最後に終了した。 Windows 2000はサーバー用とクライアント用が同一の製品名として発売された最後のWindowsではあるが、後期のサーバエディションである「Windows Datacenter Server Limited Edition」や「Windows Advanced Server, Limited Edition」からは「Windows 2000」の名称が外れている。これ以降のWindowsのリリースでも同様に、サーバー用とクライアント用が別のバージョンや別の製品名で別けて発売されている。 2019年1月現在、Windows 2000は企業・法人向けのボリュームライセンス契約者に限定したダウングレード権としてライセンスのみ提供が継続されている。その他のサポートとしては、それまでに提供された修正モジュールがダウンロードできる「オンラインセルフヘルプサポート」があるほか、企業等の契約者に対する有料の「カスタマーサポート」にて新たなOS環境へ移行するための手助けを受けられる。しかし延長サポートがすでに終了しているため、新たな修正モジュールは必ずしも開発されているわけではない。その後もいくつかの更新プログラムが提供されているが、無論すべてのhotfixが対応しているわけではなく、Windows 2000では延長サポート中でさえ開発困難なパッチは対応が見送られるケースもあった。また充分な動作検証が行われていない場合もある。 Windows 2000は主に企業で多く用いられていたため、資金難等の理由からシステム更新の遅れた企業で需要が残るケースが少なくなかった。実際、後続OSであるWindows XPのサポートも終了した2014年4月時点ですら、XPを利用して構築されたサーバは世界で6000件程度なのに対し、(サーバエディションの存在する)Windows 2000については50万台ものサーバがなおも稼動しているという。さらに、組み込み向けの"Windows 2000 Professional for Embedded Systems"は延長サポートの終了が2010年7月13日(日本時間7月14日)までで、ライセンス搭載製品出荷提供可能期間終了の2015年3月31日(日本時間4月1日)までサポートされるという事情もあった。こうした問題に目を付けた一部のセキュリティソフトベンダでは独自サポートを継続する動きも見られ、企業向けのセキュリティソフトでは2016年3月31日(日本時間4月1日)までサポートされていた例もある。ただし、そうしたセキュリティベンダでも基本的には新しい環境への移行を推奨している。独立行政法人情報処理推進機構(IPA)も、根本的な解決ではないとしながらもシステム更新までに時間が掛かる場合のつなぎとしてセキュリティツールの使用を指導している。またIPAはこうしたサポートの終了した旧OSのセキュリティ上の危険性を指摘しており、なるべく、ネットワークに接続しない単独の専用システム(スタンドアローン)にしたうえでUSBメモリやFD、MO、外付けHDD等の外部補助記憶装置でデータ交換しないことを呼びかけている。 そのほかにも などの機能追加及び強化が図られた。 サービスパックではないがそれに準ずるものとしてロールアップも複数回登場しているため、時系列上これも併記する。サービスパックはOSバージョンに準ずる扱いであり、それぞれにサポート期間が設定されている。またWindowsコンポーネント追加の際にもサービスパック適用済みのファイルからインストールされる。これに対しロールアップは単に修正プログラム集であり、後からWindowsコンポーネントを追加した際にはそのファイルに対してロールアップは適用されていない。またサポート期限も対象サービスパックの期限に依存する。 Windows 2000 Professionalは本来、Windows NT 3.51 WorkstationとWindows NT 4.0 Workstationからのアップグレードを想定しているが、Windows NT系列のOSと、Windows 9x系列のOSはWin32という共通のAPIを備えている為、Windows 95、Windows 98(Second Edition含む)、Windows Meからでもアップグレードは可能。ただし、どのバージョンからアップグレードしても、旧バージョンに戻す事(アンインストール)はできない(Windows 2000には元々アンインストール機能が備わっていないため)。なお、Windows 2000 Professional 期間限定アップグレードパッケージ(Windows 95/98/98SEからのアップグレード)もあった。また、Windows MeはWindows 2000よりも後にリリースされているので本来ならアップグレード対象になっていないはずだったが、Microsoftから2001年2月に正式にWindows MeもWindows 2000のアップグレード対象OSとして認められた。ただし、アップグレードインストールはサポートされておらず、フォーマットしての新規インストールのみがサポートされている。一応、Windows MeからWindows 2000にアップグレードインストールする事自体はできるが、Windows Meからアップグレードすると、Windows Meに備わっていた一部の機能(システムの復元など)が利用できなくなる。また、通常パッケージ版ではWindows 3.1及びそれ以前のOSからはアップグレードできない。 Windows 2000 ServerとWindows 2000 Advanced Serverへは、Windows NT Server 3.51と4.0からのみアップグレード可能。また、Windows 2000の異なるバージョン間でのアップグレードはサポートされていない(Windows 2000 ProfessionalからWindows 2000 Serverにアップグレードする事はできず、その逆もできない。ただし、新規インストールは可能)。 アカデミックパックでは「優待アップグレード版」という形態が取られており、上記に加えWindows 3.1も正式なアップグレード対象に含まれた。さらに他社OSもアップグレード対象であり、パッケージのシールでは具体例としてUNIX、OS/2およびMacintoshが挙げられている。すなわちコンピュータシステムごと乗り替える「アップグレード」も想定されている。無論これらはライセンスの話であり、インストールについては通常版と同様に(Windows 95/98/98SE/NT以外からの)アップグレードインストールはサポートされておらず新規インストールしかできない。ちなみにこの「優待アップグレード版」CDから新規インストールを開始すると、アップグレード版であるにもかかわらず、旧バージョンのインストールメディアの挿入を要求されない(通常のアップグレード版から新規インストールを開始すると、途中でアップグレード対象製品のCDの挿入を要求されるはずである)。 ボリュームライセンス版ではクライアントOS(Windows 2000の場合はProfessional)について、最新OSへのアップグレードライセンス(に付随するWindows 2000へのダウングレード権)として提供されている。そのアップグレード対象は契約内容によって異なり、場合によっては一部の他社OSがアップグレード対象になることもある。やはりWindows 95/98/98SE/NT以外からのアップグレードインストールはサポートされていない。 Windows 2000がアップグレード元OSの場合、そのバージョンによってアップグレード先が異なるのが特徴である。Windows 2000 Professionalからアップグレードする場合と、Windows 2000 Server及びWindows 2000 Advanced Serverからアップグレードする場合とでアップグレード先が変わる(Windows 2000 ServerとWindows 2000 Advanced Serverは基本的にアップグレード先が共通だが、Windows 2000 Advanced Serverからアップグレードする場合、Windows Server 2003の下位エディション(Standard)にはアップグレードできないので注意)。 Windows 2000 ProfessionalからはWindows XP ProfessionalかWindows Vistaにのみアップグレードする事ができる。ただし、Windows Vistaへは直接アップグレードする事ができず、新規インストールを行う必要がある。Windows 2000からアップグレードによって(環境を引き継いで)Windows Vistaにしたい場合、間にWindows XP Professionalを挟む必要がある。Windows XP Home Editionにはアップグレードできない(セットアップ開始時に強制終了してしまうので、CD-ROMから起動しないと新規インストールも行えない)。故にWindows 2000 Professionalから直接アップグレードできるのは、Windows XP Professionalのみとなる。なお、日本語版のみ、Windows 2000 Professionalのみからアップグレード可能の、Windows XP Professional 期間限定特別アップグレード版もあった。 一方、Windows 2000 Server及びWindows 2000 Advanced ServerからはWindows Server 2003かWindows Server 2008にのみアップグレード可能。ただし、Windows 2000 ProfessionalからWindows Vistaにするのと同様、Windows 2000 Server及びWindows 2000 Advanced ServerからいきなりWindows Server 2008にする事はできない。間にWindows Server 2003を挟むか、新規インストールをする必要がある。 また、両バージョン間に互換性は無い為、Windows 2000 ProfessionalからWindows Server 2003にアップグレードしたり、Windows 2000 ServerやWindows 2000 Advanded ServerからWindows XP Professionalにアップグレードする事はできない(いずれもの場合もそのバージョンからセットアップを起動しての新規インストール及び、CD-ROMから起動しての新規インストールは可能)。 Windows 2000がアップグレード元OSの場合、基本的にどのバージョンからどのバージョンにアップグレードしても、新しいバージョンをアンインストールしてWindows 2000に戻す事はできない。
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2,991
モンテカルロ法
モンテカルロ法(、英: Monte Carlo method、MC)とはシミュレーションや数値計算を乱数を用いて行う手法の総称。元々は、中性子が物質中を動き回る様子を探るためにスタニスワフ・ウラムが考案しジョン・フォン・ノイマンにより命名された手法。カジノで有名な国家モナコ公国の4つの地区(カルティ)の1つであるモンテカルロから名付けられた。ランダム法とも呼ばれる。 計算理論の分野において、モンテカルロ法とは誤答する確率の上界が与えられる乱択アルゴリズム(ランダム・アルゴリズム)と定義される。一例として素数判定問題におけるミラー-ラビン素数判定法がある。このアルゴリズムは与えられた数値が素数の場合は確実に Yes と答えるが、合成数の場合は非常に少ない確率ではあるが No と答えるべきところを Yes と答える場合がある。一般にモンテカルロ法は独立な乱択を用いて繰り返し、実行時間を犠牲にすれば誤答する確率をいくらでも小さくすることができる。またモンテカルロ法の中でも任意の入力に対して最大時間計算量の上界が入力サイズの多項式で与えられるものを効率的モンテカルロ法という。 なお、これとは対照的に理論上必ずしも終了するとは限らないが、もし答えが得られれば必ず正しい乱択アルゴリズムをラスベガス法と呼ぶ。 計算複雑性理論では、確率的チューリング機械によるモデル化によってモンテカルロ法を用いて解決できる問題のクラスをいくつか定義している。代表的なところでは RPやBPP、PP などがある。これらのクラスと P や NP との関連性を解明していくことによって、モンテカルロ法のようにランダム性を含むアルゴリズムによって解ける問題の範囲が拡大しているのか(P ≠ BPP なのか)、それとも単に決定的アルゴリズムで解ける問題の多項式時間の次数を減らしているだけなのか(P=BPP なのか)は計算複雑性理論における主要課題の1つである。現在、NP ⊂ PP 、RP ⊆ NPであることはわかっているが BPP と NPとの関係はわかっていない。 一様乱数ではなく、超一様分布列(英語版)を使用する方法を準モンテカルロ法(英語版)という。乱数を利用するよりも収束が早くなる場合がある。ただし、純粋にランダムな方法ではないので、正解を得られる可能性が確率論的に低下する場合がある。 超一様分布列としては、以下などがある。 数値解析の分野においてはモンテカルロ法はよく確率を近似的に求める手法として使われる。n 回シミュレーションを行い、ある事象が m 回起これば、その事象の起こる確率は当然ながら m/n で近似される。試行回数が少なければ近似は荒く、試行回数が多ければよい近似となる。 また、この確率を利用すれば、積分(面積)の近似解を求めることが可能となる。領域 R の面積 S は、領域 R を含む面積 T の領域内でランダムに点を打ち、領域 R の中に入る確率 p をモンテカルロ法で求めれば、S = pT で近似される。 n 重積分 をサンプルサイズ N のモンテカルロ法で計算するには、0 以上 1 以下の値をとる n × N 個の一様乱数 を生成して、 とすれば、IN が積分の近似値となる。一様乱数を超一様分布列に置き換えると準モンテカルロ法になる。 これに層化抽出法を行うよう改良を加えた MISER 法や、加重サンプリングを行う VEGAS 法といった改良版のアルゴリズムがある。MISER 法では、積分範囲を分割し、それぞれの領域中でランダム・サンプリングを行い、被積分関数値の分散が最も大きくなる領域をより小さな領域に分割して、そこでさらにサンプリングを行うことで精度を上げる。VEGAS 法では、被積分関数値の大きな場所にサンプリング点を増やし、積分値に寄与の大きなところに集中することで精度を上げる。 積分の計算法には他に台形公式・シンプソンの公式・二重指数関数型数値積分公式等があるが、モンテカルロ法はこれらの手法より多次元問題の際に利用しやすく、誤差が少ない。 機械学習の強化学習の文脈では、モンテカルロ法とは行動によって得られた報酬経験だけを頼りに状態価値、行動価値を推定する方法のことを指す。 統計学におけるモンテカルロ法の1つとして、ブートストラップ法を参照。 モンテカルロ法では状況に応じた乱数列の選択が重要である。また、結果の品質には使用する乱数の品質によるところがある。 また、精度の良い結果を得るためには多くの試行回数が必要となる。しかし、1回の試行に膨大な時間がかかる場合、多くの試行を行うことは物理的に不可能となる。そのため、モンテカルロ法の精度は1回の試行に掛かる時間にも制限を受ける。 数値積分の精度はサンプルサイズ N を増やすことによって、よくなることが確率論によって保証されている。サンプルが真にランダムな乱数列だった場合には、積分の値と近似値の誤差 は、N を無限大にしたときほとんど確実に 0 に収束する(大数の法則)。この収束の速さに関しては、 となる(重複対数の法則(英語版))。すなわち、精度を10倍にするためには100倍のサンプルが必要となる。 これに対して、準モンテカルロ法では となるので、精度を10倍にするためには約10倍のサンプルでよい。これが、準モンテカルロ法の利点である。 ただし多次元の積分を行う場合には次元 n が大きくなるので実際問題として効果が薄くなり、単純なモンテカルロの方が良い結果を与えることが多い。
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駿河湾
座標: 北緯34度48分 東経138度30分 / 北緯34.8度 東経138.5度 / 34.8; 138.5 駿河湾(するがわん)は、伊豆半島先端にある石廊崎と、御前崎を結ぶ線より北側の海域。海岸は全て静岡県に属し、令制国としては西岸と北岸は駿河国、東岸は伊豆国である。最深部は水深2500メートルに達し、日本で最も深い湾である。相模湾、富山湾とならんで日本三大深湾(日本三深海湾とも)のひとつに数えられる。 駿河湾は湾口幅が56キロメートル、奥行が約60キロメートルあり、表面積は約2300平方キロメートル。約60万年前にフィリピン海プレートに載った火山島であった伊豆半島が本州に衝突して駿河湾ができた。湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界、その北端部である駿河トラフが湾の南北に通るために深度が深い。富士川河口部にあたる湾の最奥部では、海岸からわずか2キロメートル地点で水深500メートルに達する。 伊豆半島や伊豆諸島から沖縄県の各諸島までは、太平洋の一海域であるフィリピン海であり、駿河湾もその一海域に含まれる。湾奥からは九州、台湾東岸沖まで水深1000メートルを超える海底峡谷が続く。 駿河湾の一海域として、湾奥の沼津市沖のごく小さい海域が、内浦湾(北緯35度1分20秒 東経138度53分30秒)と江浦湾(北緯35度2分30秒 東経138度53分40秒)と名づけられている。また、湾の東側にある三保半島で分けられた海域が折戸湾(北緯35度0分0秒 東経138度30分0秒)と呼ばれている。 火山活動により形成された東側(伊豆半島ブロック)と堆積活動により形成された西側(静岡ブロック)が接する。伊豆側は水深1500メートル付近まで硬い岩石で構成されるため急斜面が発達しており、海底谷は少なく、海食崖や、島嶼が多くなる。一方で、静岡側は削れやすい礫・砂・泥岩で構成され水深1000メートル付近まで谷地形の発達する斜面が広がっている。特に静岡側はトラフ陸側斜面に特徴的な逆断層により、階段状に発達した平坦面と急斜面が繰り返す複雑な地形が見られ、多くの海底谷を有する。また、静岡側には、最大12キロメートルに達する平坦な大陸棚(水深100 - 150メートル以浅)が発達しており、これらは2万年前の氷河期に海面が低下したために形成された浸食地形である。ただし例外的に、三保半島沖には大陸棚が発達しておらず、東へ約4キロメートル進むと一気に水深500メートルまで落ち込む谷地形となっている。 湾南西域には水深平均100メートル、最浅部32メートル、最大比高約1800メートルを呈する石花海(せのうみ、または石花海堆)と呼ばれる台地が存在し、好漁場となっている。この石花海は2つの高まりからなり、北側を石花海北堆(北緯34度44分0秒 東経138度30分0秒)、南側を石花海南堆(北緯34度38分44秒 東経138度27分43秒)と呼ぶ。この石花海の山頂は水深約40 - 60メートルの平らな地形であり、砂質堆積物が表層を覆っている。山頂は非常に浅いため、イサキ・マダイ・カサゴ・イカなど多様に富んだ釣りが盛んである。石花海の西側には傾斜の緩やかな斜面が水深800メートルまで広がっており、北堆西側斜面上には馬蹄形状の地すべり地形が見られるが、この地すべりは1854年に発生した安政地震の際に起きたものと推定される。さらに西方には焼津まで続く平坦な地形(石花海海盆:最大水深900メートル)が発達している。 一方で、石花海の東側斜面はこれとは異なり水深150メートル付近から一気に深さを増し1800 - 2000メートルの駿河トラフ底まで落ち込んでいる。この斜面は45 - 50°の急角で約4キロメートルに渡って発達しており、この斜面上には礫岩層と泥岩層が分布している。この礫岩の種類は、有度丘陵や三保海岸を構成する円礫とほぼ同じ種類あり、いずれも古安倍川から供給されたものと推定され、200万年 - 数十万年前に起こった隆起運動によって山地となった。これらの円礫のほとんどに割れ目が入っていたことから隆起運動の際に強い圧力がかかったと考えられる。 また、石花海北堆東側に発達する急斜面底(水深1850メートル)付近は石花海ゴージと呼ばれる幅約200メートルの峡谷が約4キロメートルわたって広がっている。この峡谷付近は深海底であるにもかかわらず、2ノットを超える潮の流れがあり、潜水調査船の操作を困難にしている。 公の機関では、御前崎から大瀬崎までの163キロメートルを駿河湾沿岸、大瀬崎から石廊崎を経て、静岡県と神奈川県の境界までの273キロメートルを伊豆半島沿岸として用語を使用している。 湾の西側は大井川、安倍川、富士川などの一級水系が多く、河川水の影響を強く受けている。これに対し、湾の東側は伊豆半島の中央を流れる一級水系の狩野川の河口が、湾奥にあるため流入河川が少なく表層水が比較的、澄んでいる。 富士山やその山麓に降った雨や雪がとけた水は河川から流入する以外に、海底湧水にもなっている。富士山に降った降水の約20 %にあたる年間6億立方メートルの水が、湾北部の沿岸域の海底から地下水として直接湾に流出している。駿河湾に流れ込む河川水は年間100億立方メートルに達し、この流量の少なくとも10 %程度が海底湧水として流れ込んでいる。さらに、富士山由来の分も含めれば年間16億立方メートルの地下水が直接湾に注いでいる。河川水や海底湧水に含む豊富な栄養は、植物プランクトンを経て、湾に生息する生物へと伝播している。黒潮系水や中深層水がさまざまな卵稚仔や成魚を湾内にもたらし、それらを栄養豊富な沿岸河川系水が育むことで、生物多様性に富む駿河湾の生態系を形成している。 湾口が南に開いているため、北太平洋の海水が容易に侵入する。沖合で西から東へ流れる黒潮の分派流が伊豆半島に沿って流入することがあり、湾内ではサンゴや熱帯魚が見られる。この黒潮系水は、湾全域の水深300メートル以浅に分布する(黒潮系海洋深層水)。また、河川水が流入する湾西部や北部の沿岸部には、河川水の影響を受けた低塩分の海水が恒常的に存在する。河川水は海水に比べて軽いため、黒潮系水と混ざりあいながら黒潮系水に乗り上げ、これを覆うように分布しており、沿岸河川系水と呼ばれる。この沿岸河川系水は降水量が増加する夏季には湾の表層全域に広がる。 湾の水深300メートルから800メートルには、水温5°Cから10°Cと比較的低温・低塩分の海水が存在する。この海水は北太平洋亜熱帯海域の北緯20°から45°にかけ広く分布し、亜寒帯系海洋深層水(北太平洋中層水)と呼ばれる。中層水の起源は、オホーツク海北西部陸棚域にあることが判明している。 水深800メートル以深に存在する海水は、太平洋海洋深層水(太平洋深層水)と呼ばれており、グリーンランド近海と南極ウェッデル海表層を起源とする。 このように、表層水の下には三層の海洋深層水がある(黒潮系海洋深層水、亜寒帯系海洋深層水、太平洋海洋深層水)。 年間平均気温は、県内南端にある御前崎や石廊崎付近で高く、北へ行くほど低くなるが、駿河湾の沿岸、特に三保半島のある西岸付近では海洋性気候を反映して幾分高くなる傾向にある。 日本列島に北西の季節風が吹くと、中部地方の山脈地帯を避けて、関東地方を経て東回りに迂回する気流と、若狭湾から伊勢湾を経由して遠州灘方向へ西回りに迂回する気流が、駿河湾付近で収束することによって、駿河湾収束線(または駿河湾低気圧)が発生する。駿河湾収束線が発生したときには、駿河湾付近に西部と東部から気流が流れ込むため、湾内の南北方向に収束線ができる。その結果、県内西部では晴天であるにもかかわらず、中部から東部では曇天になり、時には霧や降水をもたらす。収束線は、西高東低型の気圧配置になる冬季から春季に発生する傾向にあるが、地上での気象観測点が限られている点、駿河湾を含めた洋上における気象観測資料が不足しているなどの点から、その発生予測は必ずしも容易ではない。 なお、人為的要因を含んだ気象条件の変化により、駿河湾内における水温は過去50年間で0.7度ほど上昇傾向にある。 駿河湾は駿河トラフが南北に通るため、これが巨大地震とされる東海地震を起こすと考えられている。この境界を境に、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込むことで、プレート境界地震(海溝型地震)が過去に繰り返し発生してきたことが、書き残されている大地震の記録や津波堆積物の調査結果、考古学的な発掘調査などから判明している。 東海大学と気象研究所は、駿河湾の海底に海底地震観測網の展開を2011年から行い、観測を継続している。観測には海底地震計などを用いる。 2009年(平成21年)8月11日には、マグニチュード6.5の駿河湾地震が起きたが、気象庁の発表では、この地震と東海地震の関連性について『直接的には関係ない』と結論を出した。 漁場や海上交通路として古来利用された。戦国時代には戦国大名間の海戦も発生した(伊豆水軍を参照)。 漁業では、江戸時代後期から明治・大正・昭和初期にクロマグロが漁獲されていた。天保3年(1832年)に幕府浜御殿奉行・木村喜繁は長浜村(現・沼津市)においてマグロの大漁を目撃し、画帳『天保三年伊豆紀行』(静岡県立中央図書館所蔵)として記録しており、マグロ漁師や商談をする網元・商人の姿を描いている。同年3月には滝沢馬琴が『兎園小説余録』において江戸におけるマグロ価格の暴落を記録しており、木村喜繁が目撃したマグロ大漁が影響したと考えられている。 近代には1894年(明治27年)刊行の『静岡県水産誌』においてマグロやカツオ、イルカなど大型魚類・哺乳類の漁獲を記している。同書によればこれらの大型魚類は網で断ち切り追い込んで漁獲する「建切網」と呼ばれる漁法で漁獲されていたという。マグロは駿河湾奥部から伊豆半島を中心に漁獲されており、カツオは駿河湾口部と湾外で漁獲されている。イルカはマグロやカツオに比較して少なく、西伊豆を中心に漁獲されている。 1907年(明治40年)と1913年(大正2年)には沼津市口野の金桜神社にマグロ豊漁を祈念した絵馬が奉納され、マグロ漁の様子が描かれている。1921年(大正10年)頃の木内三朗『落穂拾遺』でも、木内が1919年(大正8年)に伊豆三津浜で目撃したマグロ追い込みや買い付けの商人の姿が描かれている。 江戸後期・明治期には駿河湾で漁獲された大型魚類は内陸部へも流通しており、甲斐国(山梨県)南部の鰍沢河岸(山梨県富士川町鰍沢)からは江戸後期から近代にかけての魚類など動物遺体が多く出土している。鰍沢河岸出土の魚類はマグロやイルカといった大型魚類をはじめ、アブラボウズ、イシナギなど伊豆半島や小田原で食される希少種も出土している。これらの魚類は駿河湾で漁獲され、甲斐・駿河間を結ぶ富士川舟運や中道往還を通じて甲斐国へもたらされたと考えられている。 大正期には駿河湾岸で製紙工場の建設が始まり、1920年には工場排水が原因でサクラエビの漁獲に影響が出るなどの被害が現れ始めている。 2016年11月、駿河湾の「世界で最も美しい湾クラブ」への加盟が正式に決定した。 日本の魚類は淡水魚を含め約2300種であるが、駿河湾内にはこの内の約1000種の魚類が生息している。 最深部は2500メートルという日本一深い駿河湾。1000メートルも潜れば、太陽の光が全く届かない世界。沼津市には、日本で唯一深海生物をテーマにした水族館、「沼津港深海水族館」があり、水深200メートルよりも深い位置に生息する深海生物を常時100種類以上も見ることができる。 かつて、深海部で撮影された巨大なオンデンザメ科のサメの映像がテレビ番組上で放送され、話題になったこともあった。また、近年では一般的に観察の難しいとされるアカボウクジラ科やスジイルカ、ハナゴンドウなど鯨類が回遊・定住する海域であることも判明しつつある。松崎町雲見町には非常に希少な種類(セミクジラ)の骨格標本を展示する「雲見くじら館」も建立されている。 以下は主要な港湾である。ただし、2種未満の漁港は除く。
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乱数列
乱数列(らんすうれつ)とはランダムな数列のこと。 数学的に述べれば、今得られている数列 x 1 , x 2 , ... , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\dots ,x_{n}} から次の数列の値 x n + 1 {\displaystyle x_{n+1}} が予測できない数列。乱数列の各要素を乱数(らんすう)という。もう少し具体的には、漸化式や関数で定義できない数列を構成する数を乱数ということもできる。 決定的オートマトン (en:deterministic automaton) であるコンピュータでは、基本的には確定的な計算によってしか数列を作ることができない。しかし、確定的な計算によって作られた数列でありながら、用途において必要とする統計的な性質に関して、サイコロなどで作られた乱数列を近似した数列の生成法があり、そのようにして生成された数列を擬似乱数列という。特にコンピュータへの実装に関しては、ビット列を生成することから Deterministic Random Bit Generator (DRBG) という語もある。「乱数列と近似の性質」の評価(検定)に関しては各種の提案があるが、標準としては米国のNIST、FIPSが検査方法を、ANS X9-82の中で公表しているものがあり、いくつかの方法について公認としている。 以上のような、確定的な計算により生成される擬似的な乱数列に対して、(十分に)本質的に確率的な自然現象・物理現象を基にして作られる乱数列を「真の乱数」「自然乱数」「物理乱数」などという。非決定的という点を強調した Non-deterministic Random Bit Generator (NRBG) という語もある。この発生に用いられる代表的な自然現象は、原子核の放射崩壊により放出された放射線のカウントや時間間隔、電気抵抗器の両端に現れる熱雑音などのホワイトノイズやピンクノイズなどのノイズ、熱雑音などを原因とする半導体素子の遅れ時間のバラつき、光の屈折からの光子の分散などが多く使われている。前述のFIPSでは、自然乱数の検定方法はいまだ検討中となっているが、いくつかの必要条件を示しており、乱数発生源の健康状態が確認できること、発生源のエントロピーを確認できること、発生回路を自己検定できることなどがあげられているが、まだドラフトの段階となっている。特記すべき点として、自然乱数はその発生源のエントロピーの低下に備えて、疑似乱数と混合する(たとえば二進乱数なら排他的論理和を取るなど)ことが望ましいとしていることがある(これは望ましくない場合もある。コンピュータの応答などで遅滞が許されない場合は疑似乱数にフォールバックすべきだろうが、暗号などに使う場合などには絶対に真の乱数でなければならない場合がある)。 近年、IoT他、セキュリティの程度を高める要求から、暗号のためにより良い乱数が必要とされ、従来はその実装が高価で一般に特殊な用途でしか実用化されていなかった自然乱数に対する需要が高まり、たとえばCPUメーカーであるインテルがCPU内部に機能として組み込む例もでている。 世界での自然乱数の発生器については英語版の記事が詳しい。 乱数列はそのとる値や確率分布によって分類される。 多くのプログラム言語では、0からある最大値までの整数に一様分布する乱数を発生させる関数が標準で用意されている。これを基にして加工することにより様々な分布を持つ乱数を作ることができる。ただし、実装に使われているアルゴリズムによって周期やランダム性(すなわち乱数の"質")には違いがあり、たとえばC++11標準ライブラリに実装されているメルセンヌ・ツイスタエンジン(std::mt19937)は2-1(24番目のメルセンヌ素数、約4.315×10)という非常に長い周期をもつが、C言語標準ライブラリのrand()関数やJavaのjava.util.Random 、および.NET Framework基本クラスライブラリのSystem.Random などのように、実装は簡便であるが下位の桁が規則性を持っていたり、2次元以上では分布に相関が生じる線形合同法が使われていることが多い。 一様乱数とはある有限の区間を区切って、その区間内で全ての実数が同じ確率(濃度)で現れるような連続一様分布に従う乱数のことである。 ある範囲の整数値を取る乱数列を発生させて、それを範囲の幅で割ることで [0,1](0以上1以下)や [0,1)(0以上1未満)の一様乱数に近いものが得られる。このようにして生成した一様乱数は原理的に有理数のみを含むため、任意の実数でありうる真の一様乱数ではない。コンピュータでは一般に浮動小数点数を扱い、真の実数を一般に扱うことは難しいため、真の一様乱数を扱うのは難しい。 2進乱数とは0と1(あるいは-1と1)がランダムに現れるようなベルヌーイ分布に従う乱数である。ストリーム暗号やスペクトラム拡散通信に用いられる。 正規乱数とは正規分布に従う乱数である。正規乱数は工学においてはホワイトガウスノイズとして利用される。 手法として、以下の方法などがある。GNU Scientific Library のドキュメントによるとほとんどの場合ジッグラト法が最速である。 平均 μ {\displaystyle \mu } 、分散 σ 2 {\displaystyle \sigma ^{2}} の正規分布 N ( μ , σ 2 ) {\displaystyle N(\mu ,\sigma ^{2})} のような正規乱数を作る場合、まず ( 0 , 1 ] {\displaystyle (0,1]} の一様乱数をボックス=ミュラー法(Box-Muller transform)で変換して N ( 0 , 1 ) {\displaystyle N(0,1)} の正規乱数を得ることから始める。 一様乱数 ( 0 , 1 ] {\displaystyle (0,1]} の要素 α {\displaystyle \alpha } と β {\displaystyle \beta } を次の変換を用いて変換する。 このようにして2つの相関のない N ( 0 , 1 ) {\displaystyle N(0,1)} の正規乱数が得られる。ただし ln {\displaystyle \ln } は自然対数。 この正規乱数に σ {\displaystyle \sigma } をかけて、さらに μ {\displaystyle \mu } を加えることで正規分布 N ( μ , σ 2 ) {\displaystyle N(\mu ,\sigma ^{2})} の正規乱数が得られる。 またこれとは別に、簡単で擬似的な方法として、12個の一様乱数 [0,1] の和から6を減ずる方法もよく用いられる。中心極限定理によって、独立した複数の一様乱数の和の分布は正規分布に近づく。さらに、12個の一様乱数 [0,1] の和の分散は1となるため、6を減ずるだけで正規分布に近い確率分布が得られ、計算に都合がよい。 1990年代以降のパーソナルコンピュータは浮動小数点演算処理装置の内蔵によって三角関数や対数関数の演算が速くなっているため、1つの正規乱数あたり12回もの一様乱数生成を要するこの方法より、1つの正規乱数あたり1回の一様乱数生成で済むボックス=ミュラー法を用いた方が、一般的によく知られた多くの擬似乱数生成器との組み合わせにおいては高速である。 但し、非常に高速な擬似乱数生成器を用いるならば、中心極限定理を用いた手法はボックス=ミュラー法を用いるよりも十分に高速な正規乱数の生成が可能である。 ボードゲームやテーブルトークRPGなどの遊戯において、複数個のサイコロの目の合計を使用している例がよく見られるが、これは中心極限定理によって正規乱数(の、ごくごく粗い近似)を生成し利用しているといえる。 各種サンプリング法を使用する。手法ごとに計算量や棄却率など様々な特徴がある。 擬似乱数列でない乱数列をコンピュータで利用するには、外部のエントロピーを入力するための専用ハードウェアなどを利用することになる。そのようなハードウェア乱数生成器を内蔵したCPUやチップセット、OSによってキーボードの打鍵タイミングなどから乱数が生成される擬似デバイスなどが存在する。このような乱数の生成法はコンピュータの歴史より古く、コンピュータが一般的に利用可能となるまでは「乱数賽」(1〜10の全ての数字が1/10の確率で現れるよう作られたサイコロ。3軸に対して対称の10面体は作れないので、正20面体の面に同じ番号を2つずつ振ったものが通常使われる)や袋に入れた乱数カードを引き出すハイハット方式で生成していた。 擬似乱数列の生成は、理論的(数学的)にはコンピュータ以前から手計算でも可能ではあったが、実際的にはコンピュータ以後に発展した。代表的な生成法に二乗中抜き法や線形合同法、線形帰還シフトレジスタやXorshift、メルセンヌ・ツイスタがある。これらはいずれも暗号論的に安全ではない。暗号論的に安全な擬似乱数については暗号論的擬似乱数生成器を参照。
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MSX-BASIC
MSX-BASIC(エムエスエックス ベイシック)は、MSXパソコンにROMで搭載されたマイクロソフト製のBASIC。他のマイクロソフト製BASICと基本的に同じ文法、ユーザーインターフェースを持っていた。 言語の仕様としては、変数名が最初の2文字のみ有効、行番号を抽象化するラベルの概念がなく、GOTO命令等の飛び先にラベルを指定できないなど、他機種に採用されていたマイクロソフト製BASICが拡張されていたのと比べると初期の版に近かった。 一方で、浮動小数点には仮数部は単精度6桁、倍精度14桁のBCDで演算している。他のBASICの処理系の仮数部の基底が2であるのに対して、基底を10とすることで、コンピューター初心者にも分かりやすくなっている。演算サブルーチンは仮想計算機として実装されており、仮想レジスタ相当のワークエリアに引数を書き込み処理を行うルーチンをコールする形になっている。この演算の中核部分はMath-Packとして仕様が公開されており、BASIC以外からも直接呼び出せるようになっている。また、BASICのサブルーチンとして実装されているため、一部関連するBASICの機能とは不可分である。また、浮動小数点演算は精度は高いものの相応にコストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するゲームなどの作成では変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。 Z80のメモリ空間のうち前半32KBをBIOSとBASICインタプリタのROM、後半32KBにユーザーエリアと、周辺機器の使用するものを含むワークエリアが配置される。MSX2以降の追加機能やディスクドライブを接続した際のDISK-BASICのためのROMは前半32KBのスロットを切り替える形で実装されていたが、そのワークエリアはフリーエリアの末尾に配置される。そのため、機能を拡張するにつれてフリーエリアは削減される。また、後半のユーザーエリアはページが固定であることを前提に使用されるため、BASICのVersionやハードウェアに関わらず、32KiB以上実装された機種やメモリマッパを持っている機種でもBASICのユーザーエリアは増えず、初期状態で配置されるRAM以外はRAMDISK等の拡張機能で使用する形となっている。 システム部分がROMで構成されているため機能の拡張や、変更用のフックがメモリの最後部に配置されているほか、ディスクドライブなどのBIOSがワークエリアとして使用するため、ユーザーが直接メモリに書き込みを行う場合には、事前に使用可能な末尾のアドレスを確認する必要がある。BASIC上で機能の拡張を行う場合、call命令によって初期化、有効化を行う必要がありハードウェアの拡張などの場合BASICからの利用に対応している場合は、同じ手順で制御ルーチンの組み込みと初期化も行う形となっていた。 MSXのBIOSは同時期の実装におけるマシン語モニタなどとは異なり、規格としてハードウェアに対するアクセスの窓口ともなっているため、純正のシステムを離れたプログラムでもシステムコールの形で呼び出される性質のものになっているほか、マシン語モニタとして簡略化されたメモリやバイナリに対する操作は標準の構成として提供していない。スロット、ハードウェア制御以外はBASICの実装に伴うサブルーチンであるが、公開されているエントリに関してはユーザーも呼び出して利用できるのは他の環境のマシン語モニタでのエントリと同様である。 MSX規格に則ったハードウェアの持つスプライト機能、VDP命令の補助によるグラフィックス処理等によって、他の機種では難しかった高速にキャラクタが動き回るリアルタイムゲームをBASICレベルで作成することが簡単だった。また、命令単位では低級言語によるハードウェアの直接制御に肉薄する速度で動作させることが可能だったことも特徴である。ただし、グラフィックス制御に関してはアルゴリズムレベルで最適化するなどしない限り、直接ハードウェアを制御してもそれ以上の速度は望めないということでもあり、VDPの処理速度から必ずしも他の実装に対し高速なわけではない。 MSXの規格にあわせた次のような命令を持っていた。 本体またはカートリッジスロットにフロッピーディスクドライブが存在する場合、それらの内蔵ROMにより拡張されたDISK-BASICが起動した。物理的にドライブが1台の場合でも、ワークエリアは2台分確保される。CTRLキーを押しながら起動することで1台分に制限され、空きエリアを増やすことができた。また、SHIFTキーを押しながら起動するとフロッピーディスク環境は一切無効化され、従来のROM-BASICの空きエリアを前提としたアプリケーションが実行できた。 MSX-BASICにはMSXの規格と対応するいくつかのバージョンが用意された。ローマ字入力等の一部を除けば、規格の拡張に伴い機能に対応する予約語の追加が主な変更点となる。但し、メモリについては積極的にフリーエリアや、ワークエリアとして使用するような拡張はされず、RAMDISKなど拡張ストレージとしての対応に留まっている。すべてのバージョンで文法に上位互換性があり、大幅なシステムプログラムの更新が行われたturboRを除けばスイッチ、システムの読み込みなどによるモード変更やシステムの変更などを必要とせずにそのまま旧版のソフトウェアが実行可能である。MSX turboRではプロセッサの変更やMSX-DOSの改版に伴い、起動時に「1」キーを押し続けるか、MSX-DOS1またはDISK-BASICのVersion1でフォーマットしたディスクで起動するとDISK-BASICがVersion1でZ80ベースの互換モードで起動し、互換性を維持している。 MSX(1)用。 FDDを含む拡張BASICを使用しない場合、ROM-BASICのワークエリアは約4KBである。ユーザエリアは となっており、標準で32KiB未満の機種では拡張したメモリが直接BASICで使用可能な容量に反映される。 MSX2用。 MSX2は全機種がRAM 64KiB以上であるため、ROM-BASICのユーザエリアは28,815バイトである。2.xで拡張された命令は1.xで未使用だったワークエリアで動作する。 MSX2+用。 MSX2+は全機種がRAM 64KiB以上であるため、ROM-BASICのユーザエリアは28,815バイトである。3.xで拡張された命令は1.x, 2.xで未使用だったワークエリアで動作する。 MSXturboR用。 MSX-BASICには「MSXべーしっ君」という名称でMSX独自の機能を活用できるコンパイラも存在した。 アスキーに所属していたプログラマ・鈴木仁志が開発した。初版は雑誌に発表、1986年にアスキーからROMカートリッジで発売された。製品名は当時ログイン誌で連載していた4コママンガのタイトルから取られており、ソフトのパッケージにも主人公・べーしっ君のイラストが描かれ、一見するとゲームソフトを思わせる体裁だった。付属のフロッピーディスクにはサンプルのマンデルブロ集合の描画やワイヤーフレームの3D迷路自動作成のプログラムが収められていた。 MSX2+が発表されると新機能に対応した「べーしっ君ぷらす」が発売されたほか、サンヨーのMSX2+であるWAVY77シリーズに同等のものが内蔵された。また、MSXturboRが発表されるとソフトベンダーTAKERUからディスク版で「べーしっ君たーぼ」が発売された。 なお、MSX-BASICのコンパイラは、べーしっ君以外にも、ソフトウエスト、ハート電子産業がそれぞれ開発・発売していたものが存在する。 オンメモリのコンパイラで、拡張BASICとして実装されている。ROM媒体や本体内蔵のバージョンではROMカートリッジや本体内のスロットに、ディスク媒体のバージョンではメインRAMの未使用領域(裏RAM)に格納されて動作する。 既存のBASICプログラムに対し少し手直しするだけで高速化できるというコンセプトで設計されている。 一般的なコンパイラと違い、中間コードや機械語オブジェクトをファイルとしては生成せず、プログラム実行の都度コンパイルを行い、オンメモリで機械語オブジェクトを生成して実行する仕様となっている。このため、MSX-BASICのプログラムソースそのものがMSXべーしっ君のソースとなり、一般のBASICプログラムと同等に管理できるため、BASICの扱いの簡便さと機械語の高速さを併せ持った開発環境となっている。 実行速度は最大で10倍程度に高速化される。 ただし、MSX-BASICの完全互換ではなく、ディスク入出力など未サポートの命令が一部あるため、プログラム全体をコンパイルするか一部分のみをコンパイルするかを選択できるようになっている。 RUN の代わりに拡張命令 CALL RUN により実行開始した場合、プログラム全体の機械語オブジェクトを生成し実行する。 一部分のみをコンパイルする場合は、BASICプログラム内に拡張命令(CALL TURBO ON、CALL TURBO OFF)を用い、高速化したい部分の前後にこの拡張命令を記述する。実行時にその拡張命令に処理が移ると、ワークエリアにコンパイル対象の部分の機械語オブジェクトが一時的に生成されて実行される仕組みとなっている。コンパイル対象外の箇所はそのままBASICインタプリタで動作するため、MSXべーしっ君非対応の命令がプログラムソース中に同居できる。 浮動小数点数は、MSX-BASICがBCDで実装しているのに対して効率化を理由に3バイトの2進数という独自方式で実装しているため、非コンパイル部分と受け渡しすることはできない。
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誕生石
誕生石()とは、1月から12月までの各月にちなむ宝石である。自分の生まれた月の宝石を身につけるとなんらかの加護があると言われる俗習の一種である。1月1日から12月31日までの各日にちなむ宝石もあるが、こちらは特に誕生日石と呼ぶ。 誕生石の由来については、『旧約聖書』の『出エジプト記』に出てくる祭司の胸当てにはめ込まれた12種類の宝石という説や、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』にある神の都の神殿の土台に使われた12種類の宝石という説などがある。誕生石をお守りとして身につける習慣が始まったのは18世紀頃のポーランドとされ、移住したユダヤ人が広めたともされている。 誕生石を整理したのはアメリカの鉱物学者であるジョージ・フレデリック・クンツ(英語版)で、1912年にアメリカの宝石商組合(現在のジュエラーズ・オブ・アメリカ(英語版))によって広められた。今日の誕生石は1952年にアメリカ宝石小売商組合など複数の団体によって個々に改訂されたものが基準となっている。誕生石の習慣はイギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、日本など各国に広まったが、それぞれの国情に合わせて種類には若干の違いがある。 日本では、アメリカの宝石商組合が定めたものを基準に、1958年に全国宝石商協同組合(現:全国宝石卸商協同組合)が独自にサンゴとヒスイを追加して制定したものが最初とされる。サンゴとヒスイが加わった経緯について、組合理事長を務めた巽忠春が書籍に記した箇所を引用する。 その後、他の団体も独自に導入していったため、業界全体での統一がされておらず消費者の混乱を招いていたことから、全国宝石卸商協同組合は日本ジュエリー協会および山梨県水晶宝飾協同組合の賛同を得て、2021年に63年ぶりの改訂を行った。今回の改訂は、最盛期の3分の1以下にまで落ちた宝飾品の国内市場を盛り上げる狙いもあるという。2021年の改訂では、アメリカのジュエラーズ・オブ・アメリカで既に誕生石になっていたものを追認し、日本独自のものも含めて計10種類が追加され、誕生石は全部で29種類となった(#全国宝石卸商協同組合による誕生石の一覧を参照)。 イギリスでは、日本で選定されていない宝石として、水晶(4月)、クリソプレーズ(5月)、カーネリアン(7月)の名前を見ることができる。 誕生石の起源としては、占星術や地域説など諸説あるが、明確に文書として残っているものに聖書の記述がある。 旧約聖書『出エジプト記』28章17 - 21節には、裁きの胸当てにはめる12個の貴石の記述がある。 ヘブライ語では となっているが、それぞれの石は聖書の翻訳によって異なり、一義的には決まっていない。 聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳では、それぞれ以下のように記されている。 12の貴石にはそれぞれ支族の名を彫るように指示されており、訳としてオデムをルビー、サピールをサファイヤ、ヤハロームをダイヤモンドとしているものがあるが、これらの宝石は硬度が高く彫刻は困難である。 新約聖書『ヨハネの黙示録』に記されているエルサレムの城壁の土台石に飾られている宝石にちなむという説が、クリスチャン人口の多いアメリカならではの有力な説である。 各種の団体が定める、各月の誕生石の例を次の表に示す。複数の石が選ばれている月もある。 2021年時点でジュエラーズ・オブ・アメリカのサイトに掲載されているもの。 全国宝石卸商協同組合(ZHO)の常任理事であり誕生石委員会委員長である望月英樹らによって誕生石改訂作業を行い、日本ジュエリー協会(JJA)および山梨県水晶宝飾協同組合(YJA)の賛同を得て、宝飾業界での統一をはかるため、2021年に改訂した誕生石の一覧。2021年の改訂では、アレキサンドライト、スピネル、タンザナイト、ジルコンはアメリカのジュエラーズ・オブ・アメリカが採用しているものを追認し、ブラッドストーンは歴史的背景を考慮して追加している。 日本で独自に追加された5種類については、クリソベリル・キャッツアイは、日本で2月22日が「猫の日」、2月17日がヨーロッパなどで "World Cat Day" とされていることにちなむものである。それ以外のアイオライト、モルガナイト、スフェーン、クンツァイトについては、色合いやゆかりのある人物の誕生月にちなみ選定されている。
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12月11日
12月11日(じゅうにがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から345日目(閏年では346日目)にあたり、年末まであと20日ある。
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国語国字問題
国語国字問題(こくごこくじもんだい)とは、日常で使用する言語・文字をいかに改良し、いかに定めるべきであるかについての問題である。本項では、国語としての日本語の表記法である漢字仮名交じり文とそれを構成する漢字、仮名遣いの在り方、改変に関わる近現代の言語政策(公的決定)など、表記をめぐって議論となる事柄について、第二次世界大戦後の「国語改革」以降のものを中心に取り上げる。 国語国字問題は、言語の伝達において、何らかの抵抗や障害が意識されるところに発生し、外国語との比較による言語に対する文化的意義の自覚によって促進される。識字率引き上げや欧化主義、また逆に国粋主義などの様々な理由から、漢字の制限や表記の表音化について、明治時代から政府の内外で議論されていたのは、その好例である。それは「国語」の成立に大きく関係することであり、日本の近代化において必須不可避ともいえるものであった。 日本語の表記法として漢字を用いることの是非は、少なくとも江戸時代中期における国学の勃興以来、議論の対象となってきた。新井白石は、宣教師シドッティの取り調べで、西洋の文字の少なさに感心した。 漢字廃止論の先駆けとしてしばしば言及されるのが、1866年(慶応2年)、前島来輔(密)が、時の将軍徳川慶喜に提出した「漢字御廃止之議」と呼ばれる建白書(報告・提言)である。その趣旨は「漢字の習得は非効率であるため、漢字を廃止すべきである」というものであった。 後の文部大臣森有礼は1872年 - 1873年に日本における日本語使用を英語に切り換えることを論じたとされた。北一輝は英語と日本語の両方を敵視し、「合理的」なエスペラントの導入を提案した。 漢字廃止論・制限論については他に、次のような論者が知られる。 1900年(明治33年)、感動詞や字音語の長音を長音符「ー」で書き表す「棒引き仮名遣い」を小学校教科書で用いることが、小学校令施行規則に定められた。国語施策や国語教育によって国語国字の改良を行ったのである。しかし、あまり世評がよくなかったので、文部省は1908年(明治41年)に臨時仮名遣調査委員会を設置し、新たな改定案として「字音仮名遣は全て表音式にする」「国語仮名遣は活用語尾と助詞だけそのままで、その他は表音式にする」というものを出したが、結論らしい結論を得ないまま廃止された。 臨時国語調査会(のちの国語審議会の前身)が設置され、1922年(大正11年)11月に常用漢字1962字を選定し可決(戦後の当用漢字表を経て現在の常用漢字に至る)、1923年(大正12年)12月には仮名遣改定案を可決(現代仮名遣いの原型となる)。 漢字の使用を制限する動きとしては、1940年に日本陸軍が「兵器名称用制限漢字表」を決定し、兵器の名に使える漢字を1235字に制限した。 また1942年には国語審議会が、各省庁および一般社会で使用する漢字の標準を示した合計2528字の「標準漢字表」を答申している。 第二次世界大戦後の一時期には、漢字使用を制限し、日本語表記を単純化しようとする動きが強まった。 1946年(昭和21年)3月、連合国軍総司令部 (GHQ/SCAP) が招いた第一次アメリカ教育使節団が3月31日に第一次アメリカ教育使節団報告書を提出、学校教育における漢字の弊害とローマ字の便を指摘した(ローマ字論も参照)。 同年4月、志賀直哉は雑誌『改造』に「国語問題」を発表し、「日本語を廃止し、世界で一番美しい言語であるフランス語を採用することにしたらどうか」という趣旨の提案をした。また1945年11月12日、読売報知(今の読売新聞)は「漢字を廃止せよ」と題した社説を掲載した。 当時の国語審議会委員にも、日本語改革論者が多数就任し、漢字廃止やローマ字化など極論は見送られたものの、彼らが関与した「国語改革」が戦後の日本語に与えた影響は大きい。こうした動きを背景として、戦前から温められてきた常用漢字や仮名遣改定案を流用・修正した上で当用漢字と現代かなづかいが制定された。 なお、同様の漢字簡略化の動きは、識字率の向上に取り組んでいた中国においても見られ、中華人民共和国成立後全ての文字表記をピン音とする動きもあったが、最終的には簡体字が導入された。 当用漢字とは、狭義には1946年(昭和21年)11月16日に内閣から告示された「当用漢字表」に掲載された1850字の漢字を指し、広義にはそれに関連したいくつかの告示を総称する。当用漢字表においては、日常使用しないとされた漢字は使用が制限され、公用文書や一般社会で使用する漢字の範囲が示された。 従来は複雑かつ多様であった字体の簡素化も一部の文字で行われ、新字・新かなが制定された。新字体(新字)制定においては、漢字の構成要素ごとに体系的に変更を行う方式は採らず、慣用を参考に個別の文字を部分的に簡略化するのみにとどめた。 なお、当用漢字表では漢字の読みも制限したが、当初の当用漢字音訓表は「魚」の読みを「ギョ」と「うお」に制限し「さかな」の読みが認められなくなるなどの不合理が散見されたことで、1972年(昭和47年)6月28日に改定されている。 熟語を漢字と平仮名で表記する「交ぜ書き」の問題も、当用漢字表に端を発する。同表によれば、当用漢字で書けない言葉は言い換えて表現することになっていたが、実際には漢字を仮名で書いただけで元の言葉が使われ続け、漢字と仮名の「交ぜ書き」が多数生ずることとなった。顕著な例としては「改ざん」「けん引」「ばい煙」「漏えい」などがある(「交ぜ書き」せずに全て漢字で表記した場合はそれぞれ「改竄」「牽引」「煤煙」「漏洩」〈ろうせつ=漏泄〉となる)。 なお、交ぜ書きは「けん引免許」など官公庁の用語として残っている場合もある。 国語審議会は1956年(昭和31年)7月5日、当用漢字の適用を円滑にするためとして、当用漢字表にない漢字を含む漢語を同音の別字(異体字関係にあるものを含む)に書き換えてもよいとして「同音の漢字による書きかえ」として報告した。 従来は複数の表記が存在した熟語を一本化する方向で例示したものには、次のようなものがある(括弧内が当用漢字表にない漢字を含む書き方)。 一般には複数の書き方があったものの、専門用語として当用漢字表にない漢字を含む書き方をしていたものについて、当用漢字表内の漢字に書き換えることを認めたものには、次のようなものがある(括弧内が当用漢字表実施以前の書き方)。 本来その語においては使われることのなかった当用漢字表内の漢字に書き換えることを認めたものには、次のようなものがある(括弧内が当用漢字表実施以前の書き方)。 これらの「交ぜ書き」「書き換え」には、熟語本来の意味が不明瞭になるという問題点がある。漢字は「音」と「意」で成り立っており、熟語はそれを組み合わせて意味を表したものである。例えば「破綻」を「破たん」と交ぜ書きすると、本来は「破れ綻(ほころ)びる」という意味だが、平仮名の「たん」では意味が不明瞭になる。また「沈澱」から「沈殿」への書き換えでは、本来は「澱(おり)が沈む」という意味だが、「沈殿」では「殿が沈む」と意味が不明瞭になる。「煽動」から「扇動」への書き換えに至っては、「煽り動かす」から「扇を動かす」と全く異なる意味になってしまう。「書き換え」の中には支障の少ないものもあるが(「掩護」→「援護」など)、ただ単に漢字の音を仮借しただけのものも多々ある。 こうしたことから、「交ぜ書き」「書き換え」は、「熟語の成り立ちを破棄し、日本語文化を破壊した」、「行き過ぎた合理主義により日本語の乱れを認めてしまった」などと批判されることがある。 当用漢字のうち881字は、小学校教育期間中に習得すべき漢字として、1948年(昭和23年)2月16日に当用漢字別表という形でまとめられた。いわゆる「教育漢字」である。 人名については、同1948年(昭和23年)施行の戸籍法第50条には「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」とある。この範囲は当初は法務省令によって平仮名、片仮名、当用漢字であるとされており、当用漢字以外の漢字は新生児の戸籍の届出の際に使用することができなかった。1951年(昭和26年)には人名用漢字別表として92字を内閣から告示され、当用漢字外の漢字も一部認められることになった。 この人名用漢字別表は、数度の改定を経て1997年(平成9年)には285字を含むものとなった。札幌高等裁判所において、「常用平易な文字」であるのに人名用漢字別表に含まれないために子供の名として使用できなかったことを不服とした裁判で訴えが認められたことも要因の一つか、2004年(平成16年)9月27日付で488文字が追加された。当初は578文字の追加が見込まれていたが、世論を受けて人名にふさわしくない漢字(怨・痔・屍など)が削除された。 当用漢字は、漢字全廃を目的としたものとしてしばしば批判されている。 1958年(昭和33年)から雑誌『聲』に連載された『私の國語敎室』で福田恆存は、すでに漢字制限は不可能であることが明らかになっていると指摘した。1961年(昭和36年)には表音主義者が多数を占め、毎回同じ委員が選出される構造となっていた国語審議会の総会から、舟橋聖一、塩田良平、宇野精一、山岸徳平ら、改革反対派の委員が退場する事件となった。 1962年(昭和37年)、国語審議会の委員に選出された吉田富三は、審議する立場を「国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。国語審議会は、この前提の下に、国語の改善を審議するものである」と規定することを提案した。 1965年(昭和40年)、森戸辰男・国語審議会会長は記者会見で、「漢字仮名交じり文が審議の前提。漢字全廃は考えられない」と述べた。 1966年(昭和41年)、総会の際中村梅吉・文部大臣は「当然のことながら国語の表記は、漢字仮名交じり文によることを前提と」すると挨拶した。 歴史的仮名遣を基に、1946年(昭和21年)11月16日に告示され現代の音韻に基づいて改変したのが「現代かなづかい」である。 「現代かなづかい」はもともと、表音式仮名遣いへ移行するまでの繋ぎとして考えられていた。しかし仮名遣いの完全な表音化は不可能であり、「現代かなづかい」はそのまま定着した。1986年(昭和61年)7月1日に内閣から告示された「現代仮名遣い」はそうした状況の追認であるといえる。従って、現在の「現代仮名遣い」は中途半端な形のまま、さまざまな矛盾を抱えている。 常用漢字は、1981年(昭和56年)に内閣から告示された漢字表に掲載された漢字1945字(常用漢字一覧参照)を指す。当用漢字表を基に制定されたものであるが、常用漢字は、当用漢字と比べて制限の緩い「目安」という位置付けになっている。 漢字をめぐるこうした政府の動きと前後して、JIS規格も、コンピュータなどで用いる漢字について、その漢字の種類(文字集合)と、各漢字をデータとして処理する際の数値表現(文字コード)の規格を独自に定める試みを続けてきた。 このうち、前者「文字集合」は常用漢字などと同じく、おびただしい数の漢字の中から一定数の漢字を取り出したもので、俗に「JIS漢字」と呼ばれる。2012年(平成24年)までに4回の改正が行われている。 最初のものは1978年(昭和53年)にJIS C 6226-1978で指定された6802字の文字群である。この規格は「78JIS」などと呼ばれる。1983年(昭和58年)には常用漢字の制定を受けて、JIS C 6226 の大幅改正が行われ、6877字の文字(非漢字を含む)が指定された。「83JIS」などと呼ばれる。1987年(昭和62年)に「JIS X 0208」と改称され、1990年(平成2年)には細かい例示字形変更と2字の追加が行われた。以降、1997年(平成9年)と2010年(平成12年)にもJIS X 0208の細かい改定が行われたが、これは直接「文字集合」の変更をするものではなかった。(以上の内容についてはJIS X 0208に詳しい) 83JISへの移行によって、300字近くもの例示字形が変更された。78JIS準拠の機器で作成された文書が、83JIS移行のJIS準拠の機器で字体が変わってしまうといった問題が指摘された。特に問題とされたのは伝統的字体(いわゆる康熙字典体)から簡略字体に変更されたものであった。78JISで「鷗、蠟」と示された文字が「鴎、蝋」となり、前者の字形は83JIS以降のJIS X 0208の範囲では事実上扱えなくなった。檜と桧、藪と薮など22組の符号位置が交換された。 JISの文字集合では、「包摂」の考え方によって新旧の字体を区別せず、一つの文字として扱っているものがあり、両者を区別したい場合にも区別できないという問題がある。その一方、「剣」「劒」「劍」や「鉄」「鐵」「銕」「鐡」のように、異体字にそれぞれ割り当てられている字もある。 表外漢字字体表の漢字一覧については、別項目「表外漢字字体表の漢字一覧」を参照のこと。 1980年代(昭和55年 - 平成元年)半ば以降、かな漢字変換を実現したワードプロセッサやコンピュータといった情報機器の普及は、それまで専ら手書きに頼っていた日本語の記述に大きな変化をもたらした。手書きと違って情報機器の漢字変換機能においては、画数の少ない漢字も多い漢字も記す手間は同じであり、使用者がその文字を知っていれば使えるようになった。例えば「驚愕」「愕然」「吃驚」「仰天」「びっくり」のいずれも、情報機器で記す手間は手書きほどの違いはない。それにより常用漢字外の漢字の使用環境が改善され、それまで減少の一途をたどっていた漢字の使用率が平衡あるいは増加に転じるようになった。 常用漢字表に示される簡略化された字体を、常用漢字表外の漢字に適用するかどうか、国語審議会答申の常用漢字表前文では「当面、特定の方向を示さず、各分野における慎重な検討にまつこととした」とし、国語審議会としての判断を保留した。前述の「83JIS」は簡略字体を常用漢字表外の漢字へと拡張しており(拡張新字体)、一般の書籍における漢字字体と情報機器の出力字体との間で乖離を生んでいた。また一部には「83JIS」の字体を積極的に採用する動きも出版界にあった。 このため、常用漢字表外の漢字字体に混乱が生じているとして、国語審議会が「字体選択のよりどころ」として一定の方針を示すことになったのが、「表外漢字字体表」(2000年(平成12年)12月最終答申)である。 表外漢字字体表では、実際の印刷物に使われている表外漢字を調査した結果、表外漢字の代表的なものとして1022字を挙げ、それらについておおむねいわゆる康熙字典体に準じた「印刷標準字体」を示した。うち22字については俗字体・略字体等を「簡易慣用字体」とし、示偏・食偏・之繞(しんにょう)の略字体(礻・飠・⻌)を許容字体とした(3部首許容)が、常用漢字表外の漢字については、伝統的な字体(⺬・𩙿・⻍)を本則とする方針が示された。 表外漢字字体表では、常用漢字のほかに2000年(平成12年)時点での人名用漢字についても対象外となっており、その時点の人名用漢字別表の字体を標準とすることになっている。また、1990年(平成2年)に人名用漢字に追加された「(つくりの者に点がない)曙」や「(1点しんにょう〈⻌〉の)蓮」についても同じ理由でそのままの字体が標準となり、「(つくりの者に点がある)曙」や「(2点しんにょう〈⻍〉の)蓮」は標準とはなっていない。これらの漢字は2004年(平成16年)のJIS X 0213改正でもそのままになっている。一方、2004年(平成16年)に人名用漢字に追加された「堵」や「逢」は表外漢字字体表の対象となっている漢字なので、それぞれつくりが者の中に点があるものと2点しんにょうのものが印刷標準字体となっており、2004年(平成16年)のJIS X 0213改正でも例示字形が印刷標準字体に整合するように改正されている。字体を検討する上で注意を要する。 当用漢字制定による熟語の「交ぜ書き」「書き換え」表記については、使用が強制されていたわけではなく、随筆や小説などの文学作品ではほとんど用いられていなかった。しかし新聞社や通信社、放送局などの報道機関は、日本新聞協会の取り決めなどにより、熟語の「交ぜ書き」「書き換え」による代用表記を多用した。新聞社が交ぜ書き表記を使用する主な理由としては、活版印刷ではルビ(振り仮名)を振ると組版コストが増大するため、漢字制限がコスト低減に役立つという理由があった。また、新聞各社は当用漢字の実施と同時にルビを廃止している。漢字の字数も読みも制限されていれば振り仮名は不要という考えからである。 そのため、新聞やテレビなどのニュース報道では「けん銃」「だ捕」「ら致」「破たん」「補てん」などと交ぜ書きの表記が多用されていた。 しかし、「交ぜ書き」は日本語として成立しにくい事や不評がある事により、日本新聞協会加盟社の用語担当者からなる集まりで、新聞紙上における用字用語について懇談する「新聞用語懇談会」では2000年(平成12年)12月の『表外漢字字体表』の答申と前後して、交ぜ書きの減少を検討した。 その後刊行された『記者ハンドブック 新聞用字用語集』では使用する漢字が増やされる傾向にある。それまでは交ぜ書きにされていた「危惧(きぐ)」、「蜂起」、「冥福」などが漢字で表記されるようになった。また、ルビを復活させた新聞もある。この傾向は新聞以外のマスメディアでも同様であり、公共放送のNHKでも『NHK新用字用語辞典』において、交ぜ書きを減らしている。 2020年代に入って新型コロナウイルスの「まん延(蔓延)」や、電力需給ひっ迫警報の「ひっ迫(逼迫)」といった用語が頻出するようになったため、交ぜ書きを減少すべきか再び議論になっている。 児童文学・小学校教科書の世界では強い漢字制限がかけられており、習っていない漢字は見せない、書かないという教育が続いているが、むしろルビを使うべきでありマンガやゲームのほうがよほど漢字の勉強になるという批判もある。 表外漢字字体表は、一部においてJIS漢字の例示字形とはなはだしい異同があったが、2004年(平成16年)にJIS X 0213が改正され、例示字形を表外漢字字体表に整合させた。これによりコンピュータについても、印刷標準字体に沿った字形を標準とする環境に移行しつつある。 2007年(平成19年)には各種オペレーティングシステムで使われるフォントが相次いでJIS X 0213:2004例示字形に対応した。マイクロソフトが発売したWindows Vistaでは、標準搭載日本語フォント(メイリオ・MS ゴシック・MS 明朝)の字形をJIS X 0213:2004の例示字形とした。Vistaと後継のWindows 7には、旧来の字形を採用した「JIS90 互換 MS ゴシック・明朝フォントパッケージ」が用意されている。Appleは、Mac OS X v10.5発売に際して、JIS X 0213:2004の例示字形を標準とした日本語フォントヒラギノ ProN/StdNを新たに追加した。引き続き従来のヒラギノ Pro/Stdも附属する。情報処理推進機構は、無償公開しているIPAフォントの字形をVer.2からJIS X 0213:2004準拠とした。IPAフォントはLinuxなどオープンソースソフトウェアを含めプラットフォームを問わず誰でも無償で利用できる公共フォントと位置付けられている。 上記、JIS X 0213:2004の改正と前後して、法務省が2004年(平成16年)に行った人名用漢字の変更(追加等)も、おおむね印刷標準字体によって行われた(「芦」「阪」「堺」など例外もある)。 2010年(平成22年)に常用漢字が改定された。特徴としては、漢字の廃止や節減という動きと決別するように多くの漢字が追加されたことが挙げられる。一般名詞や代名詞などで幅広く使われていた漢字のみならず、前述の交ぜ書きを防ぐための漢字も追加された。また実生活上では初等教育から読み書きする必要があるにもかかわらず、これまで含まれていなかった都道府県名などに使われる漢字が追加された。 なお、新潟県の「潟」は1981年にすでに常用漢字に追加されている。 字形については、前述の表外漢字字体表の字形を参照し、JIS X 0213:2004の例示字形に合わせた文字を追加した。 在来の国語学においては、明治以来の国語国字問題の種々の論議を学問的領域から尽く除外するものもあれば、領域の一種として音声論や文法論と同列に位置づけて取り扱ったり、「知識の応用部面」として国語学の延長のごとく取り扱ったりなど、利用の仕方は様々であった。そのような中で「国語国字問題を対象とすべき」と明確に位置づけたのが時枝誠記である。時枝の立論は「言語は個人の実践的表現行為ないし理解行為そのものである」とする言語過程説の立場からなされているが、従来の国語学における研究方法に対して反省を促しているともいえるので、どのような立場から論じるにせよ、日本語学者は国語国字問題について無関心でいるわけにはいかない。
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3,007
品種
品種(ひんしゅ)とは、生物の種以下の生物集団の単位である。 日本語では、異なる意味を持つものが混在して「品種」と呼ばれうる。以下のものが挙げられる。 品種(ひんしゅ、ラテン語: forma フォールマ、英語: form フォーム、省略形: f.)は国際藻類・菌類・植物命名規約(ICN)によって定められた、種より下位の分類階級の一つ、および、その階級に属するタクソンである。専ら植物学のみで使われる。 自然(野生)状態で、形態などにおいてははっきりと区別できるものの、同じ地域の同種個体群とは生殖的に隔離されていない個体群を指す。多くの顕花植物に見られる白花品などはこのように扱われる。 ICNによる品種分類群の学名の例 栽培品種(英語: cultivar、園芸品種とも。また、単に品種と表記されることも多い)は、人にとって有用な植物に価値を付けて利用する際に用いる分類体系で、他のものと識別できる特性を安定して有し、かつ、その特性を保持したまま増殖可能な植物の集合のことで、植物学における分類階級の品種やタクソンとは全く異なる分類体系である。遺伝的に均一か否かは問わない。 栽培品種の命名法は国際栽培植物命名規約(英語版)(ICNCP)で定められている。 特定の種にとどまらず、雑種や接木キメラにも栽培品種名を付けることができる。 ICNCPによる栽培品種名の例 植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV条約)における植物品種(英語: Plant variety)は分類学上の品種や変種ではなく、栽培品種を法的に定義した語である。植物品種は次のように定義される。 種の中で、他の個体と区別できる、人為的に選抜された形質などの特徴が安定しており、それにより他と区別できる、もしくは産業上区別する意味の認められる個体群。クローン個体群も含まれる。品種内で遺伝的に斉一か雑ぱくかは問われない。農業(畜産も含む)上のハイブリッド品種など、ある品種同士の子孫が親と同じ品種とみなされないことも多い。 一般社会で使う場合、種と混同したりする例もある。たとえばシェパードやチワワは種ではなく犬の品種である。植物、動物、菌(キノコ)で認められる。細菌、酵母、カビなどでは系統と言われ、品種とはいわない。 ただし「variety」を「変種」とした場合は、動物分類学においては、種内のあらゆる変異型をさす多義的な概念。色彩多型・季節多型・栽培生物・飼養生物・亜種および非遺伝的な変異などがこれに含まれる。
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3,008
国際電気通信連合
国際電気通信連合(こくさいでんきつうしんれんごう、フランス語: Union internationale des télécommunications; UIT、英語: International Telecommunication Union; ITU)は、国際連合の専門機関の一つである。 1865年5月17日にフランスのパリで設立された万国電信連合(フランス語: Union internationale du télégraphe、英語: International Telegraph Union)に端を発しているため、ITUは世界最古の国際機関とみなされている。国際電気通信連合憲章に基づき、無線通信と電気通信分野において各国間の標準化と規制の確立を図っている。 2017年10月時点の加盟国は、ほぼ全ての国際連合加盟国にバチカンを加えた193ヶ国、セクターメンバーは2008年4月時点で700社以上である。日本は、1959年から理事国としてITUの管理・運営に参加している。 1834年にアメリカ人サミュエル・モールスによって電信機が発明されたのち、イギリス帝国では1837年に鉄道沿線で有線電信が実用化され、アメリカ合衆国でも1845年にワシントンD.C.とボルティモアの間で電信線路が建設されたが、最初の国際電信は、1849年にプロイセン王国とオーストリア帝国との間で結ばれた電信条約にもとづいて始められた。 1850年、オーストリア・プロイセン・バイエルン・ザクセンの4か国がドイツ=オーストリア電信連合をドレスデンで発足させた。これには、のちにドイツ帝国のほとんどの各邦とオランダが参加した。一方、1851年にはフランスとベルギーの間でも相互接続条約が結ばれ、1855年、両国にサルデーニャ王国・スペイン・スイスを加えた5か国が、パリで西部欧州電信連合を発足させた。2つの組織は1865年に統合され、万国電信連合として設立された。 1894年、イタリアのグリエルモ・マルコーニが自宅で電波による無線通信実験に成功、1897年にはマルコーニ無線電信会社(英語版)が創立されて、無線の時代が訪れた。20世紀、イギリス帝国は植民地と本国を直接結び、第三国への情報漏洩を回避するため、船舶間通信手段として無線を重用するようになった。 イギリスとイタリアの海軍は、マルコーニの仕様だけを利用したが、ドイツでは1903年にシーメンスとAEGが合弁し、無線技術を開発するためベルリンでテレフンケンが設立された。アメリカの発明家・電子工学者のリー・ド・フォレストもまた無線技術の発展に尽力した。両者はのちに提携するが、一方では混信の解決が必要になり、1903年には欧米9か国がベルリンで会議を開いた。1908年、大日本帝国を含む30か国が参加して、国際無線電信連合が発足した。 第二次世界大戦後の1947年、万国電信連合と国際無線電信連合が統合し「国際電気通信連合」として発足した。 主な業務は、第一に標準化である。ITUによる国際標準は「勧告」という形式を採る。国際機関としての歴史も古く、国際連合の専門機関であるということもあって、ITUによってまとめられる標準は『デ・ジュール』(法令上の公式)標準として、フォーラムなど他の機関によって纏められる『デ・ファクト』(事実上)の民間標準よりも、より位置づけの高いものとして扱われる。 他の役割としては、無線周波数帯の割当て(世界無線通信会議)がある。また、国際電話を行うために各国間の接続を調整している。これは、郵便の分野で万国郵便連合の果たしている役割を、電気通信の分野において担うものである。 ITU は、無線通信部門(ITU-R)、電気通信標準化部門(ITU-T)、電気通信開発部門(ITU-D)と事務総局からなる。 無線通信部門と電気通信標準化部門は、国際海底ケーブルについて、参加国間の調整をしている。 ただし、国際衛星通信の調整はインテルサットが担ってきた。 次節に示すよう私企業の立場が強い組織であるので、ITU の標準化・規制は『ざる法』となることもある。その一例が1980年のRecommendation D.6 であり、D.1 の例外規定として国際銀行間通信協会とSITA の存続を許した。そもそもこのD.1 自体が十分ザル規定である。これは通信主管庁の業務を他の者が担ってはならないとする原則である。通信主管庁には次節にいうセクターメンバーを含み、憲章により定義される。日本の場合、NTT、KDDI、日本放送協会(NHK)、日本民間放送連盟が指定されている。 ITUは多くの事項を議論し、決定するため、加盟国、私企業などを交えてさまざまな研究委員会(SG)、作業班(WP)、地域会合(RRC)、全体会合(全権委員会議)などを開催する。 ITUの業務は加盟国の協力により成り立っている。国際連合の系統であることから、一つの国が一つの主体として加盟国となる。私企業や他の組織も、セクターメンバーやそれに準ずるものとして、加盟することが可能である。セクターメンバーなどであれば、私企業であっても国際標準の策定過程に参加することが可能である。この点は、ISOをはじめとする他の標準化機関と異なっている。それら機関においては、標準についての投票権が国家ごとに一票ずつしかなく、私企業は各国家の代表として参加するほかない。また、ITUの多くの取り組みにおいて、他の機関との連絡体制が維持されている。 デジタル・オポチュニティ・プラットフォーム(DOP)の取り組みの一環として、ITUではデジタル・オポチュニティ・インデックス(DOI)という、情報通信技術(ICT)についての指標を開発している。この指標は、「コアICT指標」と称される11の基本的なICT指標を基として算出される。DOIは、世界情報社会サミットにより是認されたものであり、デジタル・オポチュニティを世界的規模で把握するための単一指標として、同サミットの関係文書「チュニス・アジェンダのパラグラフ117」に記されているものである。 DOIは、2005年に180の国または地域についてまとめられ、これは現在において最も広範なICT関連指標であり、世界中のICTの状況を国際的に合意されたベンチマークとして捉えることができるものである。DOIは、ICTについて社会基盤、機会、利用の3つのカテゴリごとに経年変化を追えるようになっている。デジタル・ディバイドを測定し、科学的に有意な証拠に基づき分析することで、とりわけ途上国における政策の決定過程を助け、ICTにより利益を最大化することを目指している。 国際電気通信連合は、2015年5月17日に150周年を迎えた。特別式典がフランスの首都パリで行われ、マドリッドでも式典が行われた。 ITU 150周年賞が、次の5人に与えられた。 ITUの事務総局長は、全加盟国の代表により4年に1度の頻度で組織される「全権委員会議」における選挙によって、加盟国から推挙された候補者の中から選出される。 2014年10月23日、韓国の釜山で開催された全権委員会議において、中華人民共和国出身の趙厚麟が第19代事務総局長に選挙により選出された。趙の任期は2015年1月1日からの4年間で、2015年1月15日に正式に就任した。
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3,009
メスティーソ
メスティーソ(スペイン語: Mestizo、ポルトガル語: Mestiço)は、白人とラテンアメリカや先住民(インディオ)との混血である人々。ポルトガル語ではメスチース、またスペイン語はメスティソ、メスチーソ、メスチソなどとも書く。Mestiçagemなど原語では、人種の違うもの同士での婚姻や交配を意味し、転じて混血児全般を表す言葉になった。特に白人とインディオの混血のことを指すことが多い。 植民地時代にスペイン人とキリスト教に改宗したインディオの結婚は合法だった。中南米のほとんどの地域では16世紀のスペイン侵略以降、キリスト教徒の先住民の人数が増えるにつれてスペイン人とインディオとの結婚が進んでいった。初期にはスペインから来る女性はほとんどいなかったので、スペイン人男性とインディオ女性の結婚は普通のことであった。コンキスタドール(征服者)がインディオの首長の娘と結婚し、その息子が父の後継者になることも可能であった。 しかし、征服が一段落し安定的な社会制度が形成された16世紀後半になると、人種を基準にした身分社会が形成された。メスティーソは、スペイン人を父とする者と母とする者(クリオーリョ)とはっきり区別され、スペイン人の親が持つ特権を受け継ぐことはできなかった。ただしスペイン人を父とする者の場合父親が認知すれば財産の相続も可能であった。(もっともスペイン人を母とする者の数は少数であった。)スペイン政府はインディオとスペイン人の生活を分離しようと努めたので、メスティーソは中間の身分として様々な職業についた。そして、アングロサクソンの社会と違って厳格な人種差別 (One drop rule) というコンセプトはなかったので黒人と白人との結婚も珍しくなかった。なお、黒人と白人の混血児はムラート、黒人とインディオの混血はサンボと呼ばれた。植民地時代には、メスティソ男性と白人女性の子をカスティソというなど、細かな混血にそれぞれ呼び名があった。 メスティーソの比率が高くなり、インディオ旧来の社会が崩れてくると、非特権層としてのインディオとメスティーソの違いは曖昧になってきた。白人は特権を保持するために家系を重視したが、特権を持たないインディオとメスティーソにとって、何代も前の先祖のことはわからない。 植民地時代の終わりごろから、白人の男を父とするメスティーソを父親が引き取って白人として育てれば白人として遇されるようになったので、メスティーソと他人種の違いは、人種というより文化的な違いになった。独立後の中南米諸国には、メスティーソを国民のあるべき形としてたたえる思想が現れた。二つの人種に分かれた分断社会から、一つの国民を作り上げようとするナショナリズムである。19世紀には白人を至上としてヨーロッパ化を唱える思想も根強かったから、メスティーソ性の肯定には民衆文化の擁護創造の側面があったが、先住民の言葉と生活を守る人々にとっては同化圧力の強まりを意味していた。 独立後21世紀に至るまで、各国は移民を積極的に受け入れている。スペイン以外のヨーロッパ諸国からの移民は一世ならば白人だが、上流階級になるとは限らない。日本、中国などアジアからの移民も多いので、人種構成はさらに複雑になった。移民一世の多くはメスティーソではないが、以降は急速に通婚が進んでいく。 20世紀に入って、中南米ではメスティーソなどの人種的用語は一般の人に使われていない。「○○国の人口構成は白人○○%、インディオ○○%、メスティーソ○○%」というような数字が統計として流通しているが、中南米諸国は人種別の公的な家系図を備えていない。現代においては形質的・血脈的特徴でなくスペイン語を母語とする者をメスティソ、インディオの言語を母語とする者をインディオ(先住民)とすることもある。 南米では、エクアドル・ペルー・ボリビアのアンデスの国々では比較的インディオの特徴が強い。これは、スペイン侵略までインカ帝国という強大な国家があり、もともと人口が多かったこと、スペイン人が植民化以前の支配機構をそのまま利用し、その上に乗っかる形で支配したため、長くインディオ社会がそのままの自立性を保っていたことによる。インディオと白人が激烈な戦いを繰り広げたチリ・アルゼンチン・ウルグアイなどの南米南部の国々では、比較的白人の特徴が強い。南米最大の国であるブラジルの場合、ポルトガル人等によってアフリカから奴隷として連れてこられた黒人が多かったことより、黒人の特徴を持つ人も数多くいる。 それとは逆に、パラグアイのメスティーソたちは自分たちのインディオ血統を誇るものが多い。これはスペイン人の征服当時からグアラニー人との友好関係が続いたことと、19世紀パラグアイにおける、国家的混血政策(フランシア博士ら)によるものである。 ペルーやボリビアでは、先住民やメスティーソのうち、インディヘナ的な文化、習俗を強く維持している人のことをチョロ(女性はチョラ)と呼ぶ。特に女性で、スペイン統治時代の名残を残す伝統的な衣装を着た人たちはチョリータ(男性はチョリート)と呼ばれる。なお、チョロ・チョラ・チョリート・チョリータともに侮蔑的な意味を含むことがあるので、これらの言葉の使用には注意が必要である。 スペインの植民地だったフィリピンでは、先住民と中国系の混血者をメスティーソと呼ぶことが多い。これはスペイン本国からフィリピンが遠すぎたため、スペイン人入植者が余り増えなかったためだと考えられる。 北アメリカのカナダでは、主にフランス人とインディアンの混血者はメティと呼ばれる。メティは近年再び一つの民族集団として存在感を増している。 ポルトガル語圏アフリカ(アンゴラ、カーボ・ヴェルデ、モザンビーク、サン=トメ・プリンシペ、ギニア・ビサオなど)では、メスチーソ(mestiço)は黒人と白人の混血、つまりスペイン語でいうムラートを指す言葉である。
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3,014
コンパクトカセット
コンパクトカセットは、オランダの電機メーカーであるフィリップス社が1962年に開発した、フェライトを素としたオーディオ用磁気記録テープ媒体の規格である。小型かつ安価である事から民生用記録メディアの事実上の標準となり、20世紀後半の音楽市場を支えた。「カセットテープ」、「アナログカセット」、「フィリップスカセット」などとも呼ばれる。また1990年代初頭に登場したDCC(デジタルコンパクトカセット)に対するレトロニムとして、ACC(アナログコンパクトカセット)と表記することもある。 1950年代以降、オープンリール式だった録音テープを扱いやすくするため、1958年にアメリカのRCA社が「カートリッジ」を考案したのを端緒に、世界の各社が「カセット」「マガジン」などの名前と仕様で、磁気テープをケースの中に収納したものを開発し始めた。ソニーでは1957年にリールを2段重ねにしてテープをマガジン状に収納した「ベビーコーダー」を発売しており、これは他社に先駆けてテープのカセット化、レコーダーの小型・軽量化を行ったものだったが、普及するまでには至らなかった。 また、中にはオープンリール式同様に一方向回転でエンドレス構造とした8トラック方式(1965年)のような事例があった一方、同一規格リール2個をカートリッジ内に固定し、テープ上トラックを2セットに分けたうえで、両回転方向で往復(片方向送り専用に比して2倍)の録音・再生ができる構造とし、長時間録音を可能とした製品も見られた。 往復型カートリッジの中でもフィリップスの製品開発部長ルー・オッテンスが主導し開発したコンパクトカセットは小型の割に音質が良かった。 当時ソニー第2製造部長の大賀典雄は「カセットの世界標準をつくりたい」と考えていたが、ソニー1社で行うのは困難であると感じていた。1963年9月のベルリンで開かれたショーの会場で、ドイツのグルンディッヒが大賀に「DCインターナショナル」というカセットの規格化の話を持ち込み、一方でフィリップスのデッカーが来日した際、既に発売されていたコンパクトカセットを一緒に広めようと話を持ち掛けてきた。 大賀はコンパクトカセットを採用することに決め、特許使用料の話になるが、当初フィリップスは日本中の各社に1個につき25円を提示するが、大賀は無料を主張した。その後の話し合いの結果、ソニーには無料ということになったが、独占禁止法や他メーカー間の信頼を考慮した結果、1965年にフィリップスが互換性厳守を条件に基本特許を無償公開したため、多くのメーカーの参入を得て事実上の標準規格となった。このため単に「カセットテープ」の呼称でも通じるようになっている。 日本の磁気テープ産業は1965年のオープンリール当時、約35億円で、輸出もほとんどなかったが、コンパクトカセットが誕生し、音楽にも使用され始めた1969年には100億円を突破、1981年にはオーディオテープだけで約1300億円の産業となり、輸出額も660億円となった。 性能に関しても、当初はテープ幅の狭さやテープ速度の遅さによる制約から会話録音や BGM 程度までのメディアと考えられ、語学学習などへの活用も目立っていたが、1960年代末頃から性能が大きく向上し、1970年代には携帯が容易な音楽用メディアとして広く普及した。メディアが廉価で長時間再生に適することもあって、録音媒体としてレコードのダビング、放送番組を録音するエアチェックなどに幅広く活用された。1980年代まではレコードのダビングとラジオ録音、1990年代まではCDのダビングとラジオ録音に多く用いられた。音楽の交換のため、ステレオやラジカセなどを用いた、カセット同士でのダビングも良く行われていた。 カーオーディオの分野においても、先行する8トラックカートリッジ方式に比べて小さなコンパクトカセットはスペースの限られる自動車のダッシュボードにデッキを配置しやすく、実用上の耐久性にも優れ、1970年代から1980年代にかけ隆盛を極めた。 また、全盛期にはコンパクトカセットはある種のファッションと見做され、デザイン面で大きな変化を遂げた。まず、1979年のウォークマンの発売で、場所を選ばず音楽を聴く事が可能になると、コンパクトカセット自体がファッション化した。1980年代のコンパクトカセットのデザインは、若者が外に持ち出す用途を考慮して徐々にカラフルになって行ったが、あくまで同じ形のプラスチックケースに同じ形のシールを貼り付けた程度の、統一的なデザインであった。しかし、全盛期としては末期の1990年代になると、プラスチックケース自体に画像を印刷したコンパクトカセットがソニー,TDK,マクセル,AXIAを筆頭として多数発売された。例えば、ソニーのCDixシリーズでは、グラフィティやレトロフューチャーのデザインを全面に用いた製品が存在した。 音楽制作の現場では、テープを片面方向のみに使用し、両面それぞれの左右チャンネルの合計4チャンネル、あるいは特殊なヘッドで8チャンネルの再生・録音を可能にしたマルチトラック・レコーダー (MTR) の記録媒体として重宝された。 またコンパクトカセットは、コンピューター分野ではCMT(Cassette Magnetic Tape : カセット磁気テープ)と呼ばれていた。1980年前後を中心に、初期のパーソナルコンピュータの記憶メディアとして個人ユーザーを中心に広く利用され、専用の製品も発売されていた(データレコーダも参照のこと)。しかしその後、本格的なデータ用メディアであるフロッピーディスクの低価格化と普及に伴って利用されなくなった。1980年代前半に人気のあったMSXではカセットテープでのゲーム発売なども行われており、近年の復刻が困難になる一因となっている。 コンパクトカセットは民生用の録音規格として大きく普及したが、1980年代以降は新しく台頭したデジタルメディアのCDと比較されるようになったため、コンパクトカセットのパッケージでも技術的な用語を用いて高音質を謳い、デジタル感を押し出すようになった。こうして日本において1989年には販売数がピークに達し、年間約5億巻を売り上げたとされる。 1990年代初頭にはコンパクトカセットの後継として、音声データをデジタルで記録・再生でき、コンパクトカセットとの再生互換性を持たせたデジタルコンパクトカセット (DCC) とミニディスク (MD) が登場し、結果として1990年代後半から若年層を中心に録音メディアの主流がMDに移行した。 2000年ごろからはポータブルMDプレーヤーなどの小型化、再生時間の長時間・大容量化が進み、発売当初の本体の巨大さや短い電池持続時間が解消され、2000年代後半からはデジタルオーディオプレーヤーやICレコーダー(リニアPCMレコーダー含む)も台頭し、それらデジタルオーディオの安定した高音質やランダムアクセスによる容易な選曲などの使い勝手の良さに慣れたユーザーは次第に新しい媒体へと移行した。 なお、CDやMD対応デッキの普及により、車載用コンパクトカセットデッキの種類は次第に数が少なくなっていった一方で、iPodをはじめとする大容量携帯プレーヤーをカーオーディオで聴くユーザーの間では、FMトランスミッターに比べて音質劣化や電波干渉を受けにくいコンパクトカセット型のカセットアダプターを珍重する傾向があった。しかし2013年に入るとカーオーディオの分野からは自動車メーカー純正品(ただし輸出用は除く)、社外品に関わらず1DIN、2DIN規格ともどもカセット対応カーオーディオはラインナップから消滅している。 このように若年層を中心とした利用者減少のため、1990年代に見られたファッショナブルな製品ラインナップは順次生産終了となった。またJ-POPや洋楽などの国内向けミュージックカセットテープは国内盤だと1990年代末に、アジア圏などへの輸出向けなど逆輸入盤だと2000年代半ばに消滅した。 一方で、小売店では売価2,000 - 5,000円程度のモノラルラジカセ、CDラジカセと録音済音楽テープが引き続き廉売されている。また主にカセットテープで育った高年齢層のカラオケや稽古事用途で使用されている。そのため一番売れているのは10分用テープである。また演歌などでは2014年時点においてもCDとカセットの同時発売が依然として続いている。 主に高齢者世代に根強い支持の理由としては、「巻き直しも楽なのでカラオケの練習に都合がいい」「テープレコーダーも再生ボタンを押すだけのシンプルな操作で手間いらずなので、スマホなどの最新機器に慣れていないシニア世代でも使いやすい」などの理由が挙げられる。 コンパクトカセットに変わり普及していったMDの方が先に衰退していったが、その理由としてコンパクトカセットはハードの技術が容易で新興国でも生産が可能である一方、衰退したメディアはメーカー側に採算が合わなくなったことが挙げられる。 2010年代には、デジタル配信によってCDなどのメディア自体を所有しないで音楽を聴くスタイルが普及する一方、アナログ回帰の一環としてコンパクトカセットが注目され始め、様々なデザインのコンパクトカセットが少量生産されるようになった。また「昭和レトロ」ブームや1970年代から80年代にかけて流行したシティ・ポップの再評価で、カセットテープを知らなかった若い世代にも注目されるようになった。新世代による、アナログ回帰だけに留まらない現代的なファッションとしてのコンパクトカセットの流行も起き、ヴェイパーウェイヴ界隈で特に際立っている。 その後新たにノーブランド(販売網ブランド)のカセットテープの販売が復活した。2019年4月時点では、業界全体で年間約1000万巻が販売されている。ただし安価な無地のノーマルポジションテープのみであり、新機種に関してもクロム(ハイポジション)テープ録再(ただしティアック製の据置き型単品オーディオコンポーネント用カセットデッキを除く)、メタルテープ録再、ドルビーBタイプなどにみられるノイズリダクション録再、オートリバース、倍速ダビングなどの各種機能に非対応(すでに必要なパーツを作れない、いわゆるロストテクノロジー)である。 コンパクトカセットはハーフ、ハブ、テープ、リーダーテープ、スリップシートで構成される。 テープはハーフもしくはシェルと呼ばれるプラスチック製ケースの中に、ハブというリールに巻かれた状態で入っており、ベーステープと呼ばれる薄い強化ポリエステルのテープ上にバインダと呼ばれる接合剤で磁性粉を接着している。また1970年代後半以降はテープの走行性を保ち、ドロップアウトやヘッドの摩耗を防ぐため、テープ表面に鏡面仕上げを施している。 また、テープにはオープンリールと同じように再生開始および終了時の伸びにより劣化することがないよう、リーダーテープと呼ばれる、録音ができない乳白色や無色透明のテープが両端に付属している。リーダーテープには一部のメーカー品ではヘッドクリーニングテープを兼ねている。リーダー部およびクリーニング部の長さは5秒程度から40秒ほどの物までさまざまである。ここには録音ができないので、録音前にはあらかじめリーダーテープ部分を巻き取り、録音テープ部を録音ヘッド接触点直前まで送り出しておく必要がある。一方データレコーダー用の短時間のカセットテープにはリーダーテープがなく、いきなり録音テープ部になっているものもある。 ハーフとテープの間には走行性を維持するためにスリップシートと呼ばれる、長繊維ポリエステル系の素材で出来たシートが挟まっている。またヘッドが押しこまれる部分にはヘッドとのタッチを良好に保ちなおかつテープ裏面に付着した磁性粉を清掃するためにフレッシャーパッドと呼ばれるパッドがつく。またヘッドから巻かれているテープへ磁気の影響が及ばないよう、遮磁板がある場合が多いが、これは省略しても問題はない。 ケース上部には誤消去防止の「ツメ」があり、ここを折ると録音や上書きができなくなる。再び録音する場合はセロハンテープなどでふさげばよいが、この場合クローム・メタルテープではオートテープセレクター用テープポジション検出孔をふさがないようにする。 なお経年劣化によって、リーダーテープと磁気テープのつなぎ目や、リールハブの留め具が劣化して、巻戻しや早送りの終わりで、リーダーテープと磁気テープが分離したり、ハブの留め具が折れてテープが脱落することがある。リーダーテープと磁気テープが分離した場合はスプライシングテープでつなぎ合わせて再使用が可能である。またハブの留め具からテープが脱落した場合は他のハブを転用して再使用が可能である。 録音は電気信号を録音ヘッドで磁気に変換しヘッドギャップから放射させ、そこに磁性体を塗布した磁気テープを接触させ磁気的に記録する。磁気テープを長手方向に一定速度で摺動させることにより信号を連続的に記録する水平磁気記録方式である。再生は録音の逆で、再生ヘッドで磁気を電気信号に変換することで行う。また録音時には消去ヘッドによる既存の録音の消去も行われる。ヘッドがすべて独立している場合、磁気テープは消去ヘッド、録音ヘッド、再生ヘッドの順に通過する。 録音ヘッドと再生ヘッドは兼用できるが最適な設計が異なるので、性能を追求するならばそれぞれ専用が望ましい。しかしコンパクトカセットは本来録再兼用ヘッドの使用を想定しており、その分のスペースしかないので、録音と再生をそれぞれ専用ヘッドとする場合は録再コンビネーションヘッドと呼ばれる、録音ヘッドと再生ヘッドを一体化したヘッドが用いられることが多い。 録音ヘッドに加える電気信号は音声信号のみでは残留磁束の直線性が悪いので、録音バイアス信号が重畳される。オープンリールテープレコーダーと同じく高周波(100 kHz 程度)の交流を録音バイアス信号とする交流バイアス法が標準的である(交流バイアス信号自体は周波数が非常に高いため記録されない)。消去には消去ヘッドに高周波の交流(ほとんどの場合録音バイアス信号と出所は同じもの)を加えて行う交流消去と、安価なレコーダーで用いられる、永久磁石でできた消去ヘッドをテープに当てることで行う直流消去とがある。 トラック構成は通常 2 トラックのモノラルまたは 4 トラックのステレオで、カセットの表と裏にあたる A 面と B 面(A 面をサイド 1, B 面をサイド 2 ともいう)をひっくり返すことにより往復で使用できる(このように往復で使用できるとテープを巻き戻す必要がなく都合が良い)。テープ幅は 3.81 mm(0.15 in.) で、中央の 0.66 mm は A 面 B 面のトラック間のガードバンドとし記録しない。モノラル記録の場合、その両側各 1.54 mm を A 面および B 面のトラックとする。カセットの「A 面」と表示されている側を上にした場合、実際には A 面のトラックはテープの下側、つまり「B 面」と表示されている側になる。ステレオ記録の場合はモノラルの各トラックの中央 0.3 mm にあたる部分を左右チャンネルトラック間のガードバンドとし、その両側各 0.62 mm を左右チャンネルのトラックとする(テープ端側が左チャンネル)。モノラル記録のトラックとステレオ記録のトラックが同じ位置にあるためモノラルとステレオに互換性がある。 録音・再生のテープ速度は 4.76 cm/sと規定されており、カセットハーフに設けられた孔に一定速度で回転するキャプスタンを通し、テープを挟んでゴム製のピンチローラーを押し当てることで、テープ位置により変化するリール巻径にかかわらず一定のテープ速度を得ている。 4.76 cm/s というテープ速度は家庭用オープンリールテープレコーダーに用いられた速度 9.53 cm/sの半速であり、本来、音質より小形と経済性を優先した規格である。 録音時と再生時のテープ速度が異なっていると音の高さや曲のテンポ、演奏時間が変わってしまうので、互換性上テープ速度は重要である。しかし正確に合わせることは難しく、特に録音と再生で別のレコーダーを使用した場合、音の高さや曲のテンポ、演奏時間が明らかに変わることがある。逆にピッチコントロールとして速度を微調整できるようにしたレコーダーもあり(曲のテンポや演奏時間も変わる)、楽器ルート系の機材に多くみられる。ほとんどのものはピッチコントロールが有効なのは再生時だけで、録音時にはあらかじめ調整された速度に固定される。 なお、テープ速度が変動するとワウフラッターが生じる。これを防ぐためキャプスタンは精密に仕上げられており、またほとんどのレコーダーはキャプスタンの根元にフライホイールを備え、その慣性を利用して回転むらを抑えている。しかし可搬型のレコーダーでは本体が揺れると慣性が逆に回転むらを発生させてしまうため、フライホイールを 2 つ持ち、互いに逆回転させて相殺するもの(アンチローリング)や、フライホイールを持たず電子制御によって回転むらを抑えるものもある。 平坦な周波数特性を得るには大幅なイコライゼーションが必要で、互換性を保つため IEC により再生イコライザの時定数が規定されている(高域時定数は IEC Type I テープでは 120 μs, IEC Type II, IEC Type III, IEC Type IV テープでは 70 μs、低域時定数は 3180 μs)。実際には磁束の測定は困難なので、 IEC の時定数に従って記録されたキャリブレーションテープが用意され、それを再生してフラットになるよう再生系が調整され、次いで録再総合特性がフラットになるように録音系が調整される。 特殊な用途向けに独自の録音方式も開発された。 当初は会話録音・ BGM 用程度に手軽に扱えるものだったコンパクトカセットだが、用途が Hi-Fi にも拡がり周波数特性やダイナミックレンジなどが要求されるようになると、さまざまな磁性体を用いたさまざまな特性のテープが現れ、互換性に問題が生じてきた。そのため、テープの録音特性として IEC Type I, IEC Type II, IEC Type III, IEC Type IV の 4 タイプを策定し、それぞれに基準となる IEC リファレンステープを規定して、タイプごとに互換性を保つことになった。 IEC Type I - IEC Type IV は元は磁性体の種類に応じて分けられたものだが、録音特性が同等ならば磁性体の種類は問わない。 コンパクトカセットの性能向上が著しかった時代には市販テープに追随するために IEC リファレンステープはたびたび改訂されたが、1994年に IEC Type I リファレンステープが BASF Y348M に改訂されて以降、改訂は行われていない。 コンパクトカセットの登場当初から使われているテープと同系の、最も基本的なテープである。最初期のものはオープンリール用スタンダードテープを使用したものが少なからず存在する。「ノーマル」テープとも呼ばれ、一部特殊用途のレコーダーを除き、ほぼすべてのレコーダーで使用できる。安価なものが多く高級なテープでないように思われているが、長年の改良でS/N比の改善により低ノイズ化され、CDなどのデジタル音声由来の音声ソースからの録音対応など高性能を謳ったものも数多く登場した。これらはSTD(Standard)ランク、LN(Low Noise)ランク、LLHランク(Low-Class Low-noise High-output)、LH(Low-noise High-output)ランク、SLH(Super Low-noise High-output)のように複数のランクで性能差を判別する。 1990年代以降は低価格化やコストダウンが目立ち、音楽・一般兼用の低級LHと音楽用の標準LHのみの販売にほぼ集約された。TDKのF・LN・D・AE・SD・AD、日立マクセルのLN・UL・UR・UD・UDΙはソニーと日本コロムビア(DENONブランドを含む)を除く数多くの録音機メーカーのリファレンス(基準)テープとして用いられた。 磁性体として当初γ‐酸化鉄 (III) (γ-Fe2O3) が用いられ、またその後も多く用いられたので "Fe2O3" と表記されることがあるが、 IEC Type I テープの磁性体は必ずしも Fe2O3 ではなく、主に高級タイプに用いられた、Type III に倣った発想で、特性の異なるγ酸化鉄を二層塗布したもの(富士写真フイルム/Fx-Duo・Range6、日本コロムビア=DENON/初期DX3・DX4)、例は少ないが四酸化鉄(マグネタイト Fe3O4)のもの (TDK/ED)、そして1980年代に入って開発された、γ酸化鉄の生成時の内部空孔(ポア)をほぼなくして磁気効率を改良した無空孔(ノンポア/ポアレス)酸化鉄(TDK/初期AR、日立マクセル=maxell/初期UDI)およびそれのコバルト被着タイプ(前掲機種の後期型)がある。また、後にType IIの主流になったものの、最初はType Iの高性能タイプ用に用いられたものに、コバルトドープ酸化鉄 (Scotch/HighEnergy) やコバルト被着酸化鉄 (maxell/UD-XL) がある。特にコバルト被着酸化鉄はその調整の容易さと高域特性改善の面からTypeIでも並行して用いられ、1970年代後期から高級タイプ (TDK/AD-X、maxell/XLI-S) の、1980年代中期以降は普及タイプ(富士写真フイルム=AXIA/PS-I、太陽誘電=That's/RX)にも多用された。 再生イコライザの時定数は 120 μs と 3180 μs 。 カセットに IEC I, TYPE I, または単に I の表示がある。 IEC リファレンステープは BASF Y348M (1994年改訂)。 1970年代初期に登場。IEC Type I より保磁力の大きな磁性体を使用するテープである。テープ速度が遅いため高域のダイナミックレンジが狭いコンパクトカセットの欠点を改善するために開発された。「クロム(クローム)」「CrO2」「コバルト」「Co-Fe2O3」テープなどとも呼ばれる。俗に「ハイポジション」とも呼ばれる。 磁性体としては最初期こそ代名詞ともなった二酸化クロム(CrO2; デュポンが発明)が主流だったが、中域以下の MOL が低くヘッド摩耗が激しかったことに加え、日本国内でめっき工場の廃液などの公害問題(六価クロム廃液)の風評の余波で次第にフェードアウトし、特許のライセンス問題もあったので、1970年代後半 - 1980年代初頭に一部で用いられたコバルトドープ酸化鉄(Scotch/Master70、DENON/初期DX7)等を経て、コバルト被着酸化鉄磁性体(Co-γ-Fe2O3;酸化鉄の表層にコバルトフェライトが結晶成長したもの)(TDK/SA、maxell/XL II)へ移行した。これらは中低域の強化や低ヒスノイズ化、高域MOLの向上が図られ、1980年代には音楽用テープの代名詞となった。1980年代終期、この酸化鉄の代わりに前述のマグネタイトを核に用いたものもあり、日立マクセル、日本コロムビア等が採用した(maxell/最終XL II-S、後期UD II)。 ポジションの位置づけとしてはノーマルテープよりも上位だが、性能的には高級ノーマルテープと重なる部分があり、低価格タイプが高級ノーマルテープ、中級タイプが最高級ノーマルテープと同等の性能と評価されている。ただし高級ノーマルテープが得意な高MOL特性と、ハイポジションが得意な低ノイズ特性を相殺した評価であるため、実際の音質特性はそれぞれ異なる。 IEC Type I より録音バイアス量を増やす必要があり(IEC Type I 比 1.5 倍程度)、また保磁力は IEC Type I、および IEC Type III 磁性体の約 1.5〜1.8 倍程度もあり、これらの各ポジション用テープに比較して消去しにくいため、 IEC Type II テープに対応したレコーダーでないと録音できない。再生はできるが高域が強調されるので、基本的には IEC Type II テープに対応したレコーダーでないと使用できないと考えた方がよい。 再生イコライザの時定数は 70 μs と 3180 μs で、再生時に IEC Type I テープより高域を減衰させることで雑音の高域成分を抑えている。 カセットに IEC II, TYPE II, または単に II の表示がある。 IEC リファレンステープは BASF U564W (1986年改訂)。 高域は伸びるが低域に弱いIEC Type IIと、逆に中低域は強いが高域が弱いIEC Type Iの両者を併せることで弱点を補完しようという発想から生まれたものである。 基本的に下層に中低域用のγ-ヘマタイト、上層に高域用の二酸化クロムを塗布するため、「フェリクロム(フェリクローム)」「Fe-Cr」テープとも呼ばれるが、他にも上層をコバルト被着酸化鉄にしたり (DENON/DX5)、特性の異なるコバルト被着酸化鉄の二層塗布とするものも存在する。元々は IEC Type I のみに対応するレコーダーの高域特性を改善するために開発され、1973年にソニーから初の二層塗布テープ「Duad」が発売された。後にIECで正式にTypeIIIとして制定された。 高級音楽用として、1970年代には各社の最高価格帯の製品として君臨したものの、製造工程の複雑さや専用のバイアス・イコライザが必要ではあるが自動ポジション検知は構造上できない等の使用時の煩雑さ等もあり、発売したメーカーは多くない。日本でも大手のTDK、日立マクセル、富士写真フイルム等は採用せず、同価格帯には高級ノーマルポジションを置いていた。 IEC Type III テープが登場した当時(1973年)は IEC Type I のみ対応のレコーダーで使用でき、また初期の IEC Type II テープは中域以下の MOL が低い欠点があったため存在意義があったが、 IEC Type I, IEC Type II テープが改良され、またレコーダーも IEC Type II に対応したものが多くなると存在意義が希薄になり、1978年に3M社よりメタルテープ (Type IV) が発売された後は、最高級音楽用としての役割はそちらに置き換えられて各社とも撤退し、日本で1980年代まで発売を継続していたのは開発元のソニーのみであったが、それも1980年代後期にはカタログ落ちしている。ソニー製カセットデッキでも1984年に発売された「TC-K333ES」を皮切りに手動式テープセレクター仕様であってもIEC Type III対応カセットデッキは順次廃止されている。ただし、1980年に販売開始した可搬型カセットデッキ「TC-D5M」(通称「カセットデンスケ」)は、手動式テープセレクターによるTypeIII対応機として2005年まで生産販売されていた。最高価格帯の製品でもあったためか同時期には1社1グレードのみで、価格帯としては同時期のIEC Type IIと同等かやや上、IEC Type IVよりは下となる。 そのType IIIがほぼ死滅した1980年代中期、松下電器産業が「オングローム」ブランドで投入した蒸着テープが存在した。通常の塗布層の上にさらに金属コバルトを蒸着させるという、発想自体は極めてType III的な製品だった(ポジションは当初Type II、後Type I・IVを追加)。TypeIIIと異なる点は、低域 - 中高域のテープ特性の大部分は下の塗布層に由来しており、上の蒸着層は超高域(スピーカーで言うスーパーツィーター)のみを担当する。そのために高域特性を大幅に改善したものの、塗布層自体の性能が他社の同価格帯と比較して見劣りしていたこと、その強力な高域特性のためデッキによって相性の相違が激しく、また製造コストの高騰からくる価格設定の高さもあり、短命に終わった。この技術は、蒸着層の超高域信号(ビデオの映像信号)への対応能力を買われて、後にビデオカメラ用テープの技術として開花することとなる(Hi8のMEタイプ、その後のテープ式デジタルビデオの規格DV (ビデオ規格)|DVC)。 録音バイアス量は IEC Type I 比 1.1 倍程度。再生イコライザの時定数は IEC Type II と同じく 70 μs と 3180 μs 。 カセットに IEC III, TYPE III, または単に III の表示がある。 IEC リファレンステープはソニー CS301 。 最も後に現れたもので、酸化されていない鉄合金磁性体を使用するテープである。「メタル」テープとも呼ばれる。 磁気テープが実用化された当初から、磁性体としての性能は酸化鉄より純鉄(酸化していない鉄)のほうが優れていることは判っていたものの、酸化しやすい(安定性が悪い)点や製造コストなどの点から実用化は遅れていた。元々はデータレコーダ用高密度記録用磁性体として開発されており、それを音楽用に転用した製品が、1978年、米国3M社から「Metafine」として発売され、後にIECで正式にTypeIVとして制定された。 元々が高価格であったため(後に低価格化されたが)、長らく愛好家(マニア)向けというイメージがあった。ラインナップは当初、各社の最高価格帯に設定され、基本的に1社1品種(TDKのMA-R、およびMA-XGはハーフのみ異なる番外的な製品)であったが、後にメタル磁性体の量産体制が整うと低価格化されて、1990年代にはノーマルやハイポジションの低価格帯と同等までになった。同時にグレードも多岐にわたり、最盛期となる1980年代終盤には国内大手メーカーで高級機から普及機まで3 - 4グレードを擁していた。 主成分はα-Feとコバルトなどの合金であるが、これも酸化に弱いという欠点を克服すべく、各社工夫していた。表面にマグネタイトを形成する方法が一般的だがまったく充分ではない。還元時の焼結防止も兼ねてシリカ、酸化アルミニウムなどを析出、被覆し酸化防止をしている。このメタル磁性体も、1980年代初期よりイコライザーが同じTypeIIへの転用が図られ、極めて高出力な特性を買われて主に高級タイプ (TDK/HX、DENON/DX8) に用いられたが、中には低価格タイプ (That's/EM) も存在する。このメタルパウダーの成分はNiを合金としており、ハイポジションの保磁力に近づけるように設計をしていた。これは言い方を変えればメタル磁性粉をパーマロイ化して保磁力を下げたといってよい。俗にLow Hcメタルとも呼ばれ、ハイポジションの欠点であった低音域のパワー不足を大幅に向上させた。 残留磁束密度は IEC Type I - IEC Type III 磁性体の 2 倍程度、保磁力は IEC Type II 磁性体の 2 倍程度、およびIEC Type I 磁性体の 3 倍程度もあり、結果として全帯域での録音レベル及びMOLが非常に高い。かつてのオープンリールテープに迫るダイナミックレンジを持つと言われた。反面、録音バイアス量を IEC Type II の更に 1.5 倍程度に増やす必要があり、消去も IEC Type II より更にしづらく、一度録音したものの上から直接録音すると前の音が残留してしまうなどの問題もあり、取扱いに注意を要する。テープの能力としては非常に高いといえるが、レコーダー側のヘッドや発振回路などの負担も大きくなる。当然、 IEC Type IV テープに対応したレコーダーでないと使用できない。 再生イコライザの時定数は IEC Type II と同じく 70 μs と 3180 μs 。録音機器、および再生機器側がそれぞれハイ(クロム)ポジションに対応していれば、再生のみは可能。 カセットに IEC IV, TYPE IV, または単に IV の表示がある。 IEC リファレンステープは TDK MJ507A (1991年改訂)。 収録時間は、“Cassette”の頭文字“C”に両面の公称総収録時間を付けて表示される(主に1970年代後期頃からは省略されることが多い)。標準的な製品は、それぞれC-30からC-120と呼ばれる、両面で30分 - 120分(=片面で15分 - 60分)録音できるものである。 収録時間によってテープの厚みが異なり、標準タイプのC-60以下で約17 - 18μm(ベース厚13.5μm)、長時間タイプのC-64 - C-90でその約2/3の11 - 12μm(ベース厚7.5μm)、超長時間タイプのC-120で半分の9μm(ベース厚4.5μm)と段々薄くなる。なお、この数値は磁性層4.5μm(メタルテープは3.5μm)を含んだ厚さであり、テープの長さが変わっても磁性層の厚さは変わらず、ベースフィルムの薄さにのみ影響する。このため、長時間録音になると安定性と耐久性は悪化し、高温下で伸びやすく、又は過剰なテンションによって切れやすくなる。温度変動が大きい高負荷環境にあるカーステレオや、特に緻密な走行制御(安定性)を要するクローズドループ・デュアルキャプスタンを採用した一部のテープデッキ(主に概ね最低5万円台以上のクラスの3ヘッドタイプのものがほとんど)ではC-90以下の使用を推奨している。 規格としてはTDKの輸出モデルなどにC-180やC-240もあるが、耐久性の問題(テープ厚はC-180で6.5μm、C-240で5μm。ベース厚はそれぞれ2μm、0.5μm=物理上の限界値)もあり製品としてはほとんど存在しない。 特殊用途を除く一般的な収録時間は、過去に国内で発売されたものだけでもC-5・C-6・C-8・C-9・C-10・C-12・C-15・C-16・C-18・C-20・C-22・C-30・C-36・C-40・C-42・C-45・C-46・C-48・C-50・C-46+5・C-52・C-54・C-55・C-60・C-62・C-64・C-65・C-60+5・C-70・C-74・C-75・C-76・C-80・C-84・C-90・C-92・C-94・C-90+5・C-100・C-108・C-110・C-120・C-120+5・C-150と多岐にわたる。 テープは磁気の強弱で情報を記録しているため、磁界の影響で内容が消滅する恐れがある。そのため磁石の近くや強い磁界のある場所(大型ブラウン管ディスプレイやスピーカーの上)や高温になる所(自動車のダッシュボード)に保管してはならない。また高熱でテープの伸び(形状から“ワカメ”と呼ばれる)やケースの変形が生じると復元困難になる。 またテープは繰り返し再生および録音を行うことで磁性体劣化、摩耗、テープ伸び、テープ鳴きなどの傷みが生じる。その結果消耗や保存状態などによる経年変化が進むと音質の著しい劣化(雑音、ゆがみなど)が起き、またテープ切れが起こるなどの要因で使用できなくなる。それ以外にも録音したものを使用せずに数年放置しておくと、リールの巻き部分で外側と内側のテープの磁気記録が干渉し、転写や音量低下、音質悪化を招く。 テープのうち、再生時間が概ね70分以上のものはリールへの巻き取り外径を小さくするため、磁気テープ媒体が通常より薄くなっている。磁性層の厚さ(4.5μm)は変わらないので、ベースの厚さは再生時間70~90分タイプの場合で60分タイプ(13.5μm)の約56%(7.5μm)となり、120分タイプでは33%(4.5μm)、150分タイプに至っては20%(2.7μm)の厚さでしかなくなる。このため、特に120分以上再生タイプは強度の面で問題があり、再生時間が概ね90分以下のテープにしか適応していないレコーダーで再生・録音をすると、テープ損傷、カセットテープ全体の作動不良、走行トラブルの恐れがある(再生可能なレコーダーでも早送りや巻き戻し・一時停止などの操作を頻繁に繰り返すと走行トラブルの原因となる)。 以下のような欠点がある。 コンパクトカセットのテープはヘッド接触部周囲で外部に露出しており、ケースから出したままの状態ではテープの損傷やほこりの付着を招くため、カセット本体やインデックスカード、タイトル記入シールを収納するためにケースが付属する。ケースに納めるとリールが固定され、持ち運びなどで振動が加わってもテープのたるみが生じない。 ※2019年(令和元年)7月現在。太字...ハイグレードタイプ、印...ハイポジション。 業務用カセットテープメーカーを除く。 (日本国内での正式販売はないので、輸入問屋などを通じるなどして購入可能) OEM商品も含む。 以下は過去に市販されたものである。 ※無印は音楽録音専用標準(LH)タイプまたは音楽録音・一般録音用途兼用(LLH)タイプ、は一般録音用途用低雑音(LN)タイプまたは最初期に発売された一般録音用途用標準(STD)タイプ、太字は音楽録音専用高級(SLH)タイプ、はエンドレスカセット。 ※は低価格タイプ、太字は高級タイプ。 ※印は低価格タイプ、太字は高級タイプ。 絵文字が Unicode 7.0 にて収録された。
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3,015
日本語字幕
日本語字幕(にほんごじまく)は、映画・テレビ番組等の音声や文字に付される、日本語の文字を使った翻訳・解説法。 外国語に限らずときには日本国内でも強い方言や古典芸能の音声には字幕が表示されることがある。 バラエティー番組などで、文字にしたほうが面白い台詞、喧噪の中で聞き取りづらかった台詞を補足するため、あるいは笑いどころを強調するために入るテロップも、日本語字幕の一種と言える場合がある。 外国語音声の劇場用映画の場合、通常は台詞1秒に対して4文字以内、一度に表示される字幕は20文字までが基本。1行あたりの文字数は、かつては13字だったが現在では10字(例外もある)。簡単な挨拶程度のセリフの場合、字幕に出さないことが多い。なお、字幕では簡潔さがモットーとされるため、逐語訳にこだわることなく意訳を積極的に取り入れる必要があり、必ずしも原語の台詞に忠実な翻訳がなされないこともある。 1930年ごろにトーキー映画が主流となったハリウッドの映画界は、日本語の吹き替え版を制作して輸出しようしたものの、吹き替え版に広島出身者の日系二世が多く関わったために全編広島弁となってしまい、最終的に諦めて日本で字幕が作られるようになった、これが日本語字幕の始まりとされる。 1931年(昭和6年)に封切られた『モロッコ』が初の日本語字幕映画となった。 日本では海外の映画を劇場公開する場合、日本語の字幕つきで上映されるものが多い。一方、アメリカ、ドイツ、フランス、スペインなど吹き替えでの上映の割合が日本よりも多い国もある。吹き替えが当然という国の俳優が来日した際、自分の出演している映画の字幕上映に接すると、自らの生の声が他人の声に置き換えられてしまわずにそのまま観客に伝えられていることを知って、喜ぶケースが多々あるという。 アメリカで字幕映画はヒットしないといわれたが、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はネイティブ・アメリカンの翻訳字幕があったにもかかわらずヒットした。外国映画は字幕つきにせず、英語の映画としてリメイクされることも多い(日本映画のリメイクとしては『荒野の七人』『暴行』『ザ・リング』『THE JUON 呪怨』『Shall We Dance?』など)。 日本人が特に劇場公開作品で字幕を好む理由として、日本に於ける外国語映画(主にゴールデンタイムのもの)・ドラマのテレビ放送では吹替えが多いこともあって、「吹き替えはテレビ的である」と感じる人が多い点を指摘する声がある。もっとも近年では、「神戸新聞」の記事にも書かれているように、着実に吹き替えの需要が高まっている。それは2000年以降から場面の展開が早い、つまりカット数の多い映画作品が増えていったことが理由とされている。 上に挙げた国以外の海外では(例:スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ポルトガル、ギリシャ等)、市場規模などから吹き替えでは採算が取れないこともあり、その国で広く使用される言語による字幕で放送・公開されるのが主流である。また中国では広東語映画に標準中国語(普通話)字幕がつけられたり、インド、イスラエル、フィンランド、ベルギー、ヨルダンなどの多言語国家では、二言語以上の字幕がつけられることも多い。 一般に、外国語で発せられる台詞を母国語に正確に翻訳した上で文字に起こそうとすると文章が長くなりがちであるが、日本の字幕翻訳の場合は制限文字数が定められており、1秒あたり或いは1行あたりにつき画面に出せる文字数は限られている。そのため「翻訳とは直訳であるべき」という立場から評価するならば、意訳を多用する字幕の翻訳精度には難があると言わざるを得ない。 それに対して吹き替えを好む人の多くは、やはり、文字数の制約が厳しい字幕スーパーでは吹き替えよりも情報量が少なくなってしまいストーリーが理解し難い、字幕スーパーでは字幕を読んでいると画面に集中出来ない、字幕に書かれた漢字を読むことができない、字幕の表示スピードについていけない、そもそも字幕を読むのが面倒、といった意見を持っていることが多い。 ただし、字幕に限らず、異なる言語を別の言語で完全に表現することはそもそも不可能なことである。訳文が如何に原語の台詞の大意を掴んでいるかという点では、直訳より意訳のほうが相応しい場合もある。また、一定の制約が課せられるという点は吹き替え翻訳に於いても同様であり、字幕か吹き替えかで翻訳の優劣を単純に判断することはできない。 現在、字幕訳への批判は、週刊誌やインターネットなどの民間でのみ行われており、翻訳学等の学問の上で議論されたことはない。その点において、字幕批判は専門家が介在しないアマチュアレベルでの論争であり、翻訳とは何か、正確性とは何かといった根本的な問題まで掘り下げた議論は今後の学者の手にかかっている。 表示される字幕のことを「字幕スーパー」「スーパー字幕」と言ったりするのは、「スーパーインポーズ」のことである。写真の多重焼き付け技術のことで、映像作品においては、画面に重ねて表示される形の字幕を言う。この方式が主流になる以前(無声映画の時代)には、画面が一旦ブラックアウトして字幕のみが表示される「中間字幕」形式があり、それに対して「スーパー字幕」という呼び方をしたのがこの呼称の発祥である。現代の映画界においては、字幕といえばスーパー字幕のことを指すのがほとんどだが、まれにレトロ感を出す演出として中間字幕が使用されることがある。 映画のフィルムは、輸入にあたって他の輸入品同様に通関と呼ばれる政府機関によるチェックを受ける。映画の業界用語で「ツーカン」と呼ぶ。 劇場映画と、ビデオ作品・海外ドキュメンタリーなどでは、翻訳の事情およびプロセス、社会的背景が非常に異なるため、以下で分離して示す。 劇場映画の字幕をつけるにあたっては、現在では推敲の時間はあまり取られていない。最初のチェック・中間調整・最終確認の3回ほどで済ませてしまうことが多いとされる。ビデオテープやDVDに起こせば繰り返し観ることはできるが、輸入のあとの時間的制約(フィルムからディスクやテープに起こす時間がない)や海賊版の作成を避けるため、配給会社がそれを嫌うからである。このため、字幕翻訳には非常な集中力が要求される。原語の台本が手に入ればそれとつき合わせる形で(無い場合は稀にテープ起こしをすることもある)、どの台詞を字幕として訳すか(字数制限の問題もあるため)を検討する。これを「ハコガキ」と呼ぶ。 台詞内容のチェックが終わると、フィルムのオプチカル(35mmフィルムの横に記録されている、光学変調された音声トラック部分)を頼りに、役者のしゃべる台詞の秒数(コマ数×24が秒数:映写用フィルムは毎秒24コマ)を割り出し、日本語字幕に使用できる文字数を決めていく。これらの作業を「スポッティング」、または「スパット」と呼ぶ。その際、フィルムには「ここからここまで字幕を入れる」というマーキングを、ダーマトグラフを用いて施す。 翻訳作業が終わると、これらの台詞に連番を振り、字幕を書く「字幕ライター」にまわす。通称「カキヤ」と呼ばれる字幕ライターは、先端を研いで加工したカラス口を使い専用の用紙にインクで、あの独特のタッチで文字を書いていく。間違えた場合は、紙をカッターナイフで削って修正する。こうして作成された原稿は、映画1本につき約1000枚ほどになる。のち、誤字が無いか校正も行なう。なおその際、字幕を縦書きにするか横書きにするかは、最終的には配給会社の判断による。 この用紙から35mmフィルムサイズに亜鉛の凸版を起こし、フィルム表面にキズを付けていく形で字幕をひとコマずつ“刻んで”いく。その際、凸版がフィルム面から剥がれやすいように「空気穴」と呼ばれる隙間をわざと作ったうえで、字幕文字は書かれるのが通例である。また近年では、データを元にレーザーでフィルム表面を短時間だけ“焼き切る”ことで字幕を刻む技術も開発され、実用化されている。 字幕が入れ終わったフィルムは「初号」(あるいは「ゼロ号」)と呼ばれ、関係者を集めて試写室で上映チェックが行なわれる。ここで初歩的な翻訳ミスが見つかる事もしばしばで、典型的なものとしては「男性の台詞が『女性しゃべり』(あるいはその逆:業界用語では「メスオスが違う」と呼ぶ)」・または「兄弟違い(“brother”を「弟」と訳したら出てきたのが「兄」だった、等)」といったミスが発覚することがある。「初号」フィルムに問題が無ければ、これをマスターとして上映館用の映写用プリントフィルムを複製し、作業は完了である。 映画字幕を本業として現役で活躍している翻訳者は、日本全体で十数人と言われ、そのほとんどが英語の和訳専門である(通訳・書籍の翻訳などを本業とする者が副業的に少数の映画字幕を担当することもしばしばあり、特に英語以外の言語では当該国の研究家など翻訳を専業としない専門家が映画字幕を担当することも多く、これら1度でも映画字幕を担当したことのある者を含めるとずっと多い)。全国のスクリーン数には上限があるので、数日で1本を仕上げてしまえるプロフェッショナルの翻訳家が10人いれば、劇場公開される映画のほとんどが間に合ってしまうということである。また、有名な字幕翻訳家が多数のスタッフを抱えて分業体制で処理している、ということはないとされる。 日本国外の映画の日本語字幕については、常に批判がつきまとう対象となっている。原語のヒアリングができる者が映画を観ていると、「原義と異なることを言っている」ことが分かるケースがままある。また原語のヒアリングはできないが、日本語吹替版と原語音声字幕版を両方を観ている者は「吹替版と異なる事を述べている」ことに気付くケースも少なくない。ただし、これを単純に誤訳だとして糾弾するには、やや問題がある。そもそも、一定時間内に観客が読みきれる字幕の字数には限りがあるため、早口の台詞などはその過半を切って、エッセンスだけを抽出することになる。また語呂合わせやジョークの類いは、そのまま翻訳することが原理的に不可能である。加えて、日本人には知られていないが、映画の製作元の国の人々にはよく知られているローカルなカルチャーに関する台詞の場合、そのまま翻訳しても、日本人の多数には理解ができない。そのためどうしても、その人物の台詞を日本の文化の中でまず置き換え、再構築するという作業が必要になってくる。日本語字幕の第一人者である清水俊二はこれをして、「映画字幕は翻訳ではない」とまで表現している。 ただし、上述のような短期間で仕上げるタイプの仕事が日本語字幕の「やりかた」として定着してしまっているためか、専門的な知識が必要になるような映画ではとんでもない誤訳が見られることがある。もちろん専門家に確認を取る翻訳者も多いが、さりげなく出てくるような用語や慣用句などで見落としと思える例が散見される。また原作つきの映画などでは、映画のシーンだけを見て訳すと、原著の内容からは明らかにあり得ないような事実関係を提示してしまう例もある。このほか、翻訳という特殊技能を必要とする作業を少人数・短期間で行う以上、ケアレスミスが残ってしまうことも珍しくない。 この場合には、映画と異なり繰り返しチェックできる。また、画面の隅に時間経過を示すカウンターが入る。劇場未公開の映画や、海外ドキュメンタリー番組などの翻訳は、劇場映画のそれより遙かに多い。また、近年のレンタルビデオ店の増加や、さらには最近の多チャンネル化によって、こういった翻訳の需要は増大しつつある。このようなタイプの仕事をこなしている字幕翻訳者は、日本全体で約数百名いると考えられる。ただし兼業・在宅翻訳家なども多く、正確な数は分からない。 語学系統の専門学校の中には、字幕翻訳の専門コースを設けているところもあるが、劇場映画の翻訳者として華々しくスクリーンに名を載せることができる人物は上記のように非常に少なく、学校出でその座を占めることは不可能に近い。ただしビデオ作品などの翻訳は、在宅でも行なうことができるという利点もある。 また劇場映画でも共通であるが、インド映画などの場合でも、英語しかできない翻訳者が訳すことがままある。この場合、配給会社が用意した英語訳の台本があり、それを参考にしながら日本語字幕を起こすことになる。映画翻訳が語学力の問題ではなく、国語力の問題であるといわれる所以である。映画字幕翻訳においては、どのシーンでどのようなことを、どういった感情をこめて喋っているかを適切に読み取り、数秒間だけ表示される字幕にいかにして取り込むかが、なによりも肝要である。単に英語の翻訳家の方が安く・簡単に手配できるという面もあるが、日本語字幕特有の表現力を身につけている人を探すのに、英語以外の言語より英語の方が簡単に見つかるという事情もある。ただし、中国映画を日本語に訳すときなどには、中国語に存在する敬語表現が、それをうまく取り入れられない英語などの言語を通過することになり、映画やドラマの雰囲気を伝えきれないなどの問題もある。単に英語で鑑賞するだけであれば問題ないレベルとは言えるが、背景をいくばくか共有する文化圏の映画に親しむに際し、本来の言葉が持ち合わせているニュアンスが失われることは必然とは言えない。そのため、制作費用と期間に余裕がある場合には、両方の言語を習得している人物のチェックが入ることになる。 映画とビデオなどの相違、あるいは制作会社などによってそれぞれ、まったく異なるため注意が必要である。
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3,016
MP3
MP3(エムピースリー、英: MPEG-1 Audio Layer-3)は、音響データを圧縮する技術の1つであり、それから作られる音声ファイルフォーマットでもある。ファイルの拡張子は「.mp3」である。 本フォーマットでは、1411.2 kbpsで収録されている音楽CD規格のPCMなどを、後述する範囲内で任意のビットレート・サンプリング周波数等を設定し、圧縮することができる。 狭義のMP3は、ビデオ圧縮規格であるMPEG-1のオーディオ規格として開発された。非可逆圧縮であり、それ以前の規格であるMP1およびMP2を改良したものにあたる。当初は「MPEG-1 Audio Layer-3」の略称だったが、のちに互換性を持つ「MPEG-2 AudioBC (MPEG-2 Audio Layer-3)」が加わったので、合わせて「MPEG-1/2 Audio Layer-3」とすることもある。更に、非公式規格の「MPEG-2.5 Audio Layer-3」を含む場合もある。なお、MPEG-1 Audio Layer-3の仕様はISO 11172-3 (JIS X 4323、ただし2011年1月20日に廃止) で規格化されている。規格書は有料であり、それゆえインターネット上では詳細な仕様は公開されていない。 MP1 (MPEG-1 Audio Layer-1)、MP2 (MPEG-1 Audio Layer-2) は前身規格でありMP3との互換性はない。 また、MP3とMP4の名称が類似していることからMP4が同類のAudio Layer-4と誤解されるケースが見受けられるが、MP4はあくまでMPEG-4の関連規格であり、直接の関連性はない規格である。また逆にMP3がMPEG-3の略称であるとされるケースもあるが、MPEG-3は策定段階でMPEG-2規格に吸収されているため存在せず、これも同様に誤解である。 「MP3」という語は「データ圧縮の規格やそれに基づいて作成されたファイルのフォーマット」を指すが、店頭広告で「MP3が安い」などの表現が使われるために、MP3が携帯型デジタルオーディオプレーヤーそのものであると誤認されることもある。 MP3圧縮アルゴリズムは1991年12月、ドイツのフラウンホーファーIIS(集積回路研究所)で発明された。 これは1970年代後半、フラウンホーファーの「電話回線で音楽信号を送信する」というアイデアを実現させたものである。 1995年、フラウンホーファーはMPEGレイヤー3のファイル拡張子を「.mp3」と命名。その特許権収入は2005年時点で約1億ユーロに上る。 MP3は、音声の周波数帯域では極端な声質の劣化を伴わずに圧縮でき、音声をデジタル化するために用いられた。後に音楽をCDなどの音源媒体からパーソナルコンピュータ (PC) のハードディスクドライブ (HDD) に取り込む用途で広く普及した。 MP3は音の聞こえ易さの違い(周波数ごとの最小可聴値)や大きな音が鳴った際に、その直前直後や近い周波数の小さな音が聞こえにくくなる現象(時間/周波数マスキング)等の人間の聴覚心理を利用した圧縮を行うため、エンコーダの実装(聴覚心理モデルの調整)次第で圧縮後の再生品質は大きく変化する。 音楽用途の評価が高まると、MP3に対応する携帯型音楽プレーヤーが現われ、これらはMP3プレーヤーと呼ばれている。大容量のHDDを内蔵したプレーヤーなら1万曲以上の楽曲が収録可能であり、MP3による音楽ファイルをCD-RやDVD-Rなどに書き込むなら数百曲や数千曲が収まり、対応しているCD/DVDプレーヤーなどで再生可能である。 ボイスレコーダーでも、三洋電機など以前からMP3形式での録音可能な機種が発売されていたメーカー以外にも、今まで独自規格を採用していたパナソニックやソニー製のボイスレコーダーでも、汎用性等の観点からMP3形式での録音可能な機種が出始めている。 圧縮したデータはサイズの減少から取り回しが容易となるため、通信回線上で転送することも容易となり、インターネットラジオなどで広く用いられる一方、著作権者が再配布を認めていない楽曲の不正配布に用いられることもある。これに対し「MP3にデジタル著作権管理機能が付いていないためだ」という主張などがある。最近の音楽携帯にはこのような事態を防ぐべく、いわゆる著作権保護に対応するためのmp3としてセキュアmp3を採用している企業もある。 MP3が広く普及した要因として、無料のエンコーダ・デコーダソフトウェアが入手可能な点が挙げられる。1998年以降にはドイツのフラウンホーファー協会とフランスのトムソン社がライセンスの保有を主張しているが、フリーソフトウェアライセンスで提供されているLAMEなどの無料のエンコーダやWindows Media Playerなどの無料の再生ソフトウェアが入手できたため、普及を妨げることはなかった。Windowsにおいては1999年11月にリリースされたWindows Media Player 6.4でMP3が標準対応になり、爆発的に普及することになった。 MP3の後継規格としては、後発の標準規格「AAC」が「iTunes」・「mora」・「iPod」・「着うた」などで用いられている。また同様にMP3の代替を目的とした後発規格としてマイクロソフトが開発した「WMA」や、特許の制約を受けない完全にフリーなコーデックとして開発された「Vorbis」、可逆圧縮コーデックとして開発された「FLAC」、ソニーが開発した「ATRAC」などがある。 なお、WMAやATRACについては、デジタル著作権管理の機能が備わっているために、ネット上での音楽配信サービスを行う事業者が採用する傾向がある。また、FLACは可逆圧縮のほか、ハイレゾ級のサンプリング周波数(主に96kHz、192kHz)・量子化ビット数(主に24bit)を用いた超高音質の音楽配信などが可能などという利点から採用される機会が広がりつつある。 2017年4月23日、フラウンホーファーIISおよびテクニカラー(旧トムソン)によるMP3ライセンスプログラムが、基本特許の存続期間満了により終了した。これにより、これら特許がカバーしてきたMP3の基本技術はパブリックドメインとなった。 MP3では比較的低ビットレートでのエンコード時に16 kHz付近でLPFを掛けるエンコーダが多い。これはフォーマット上の制約から高周波成分の記録には多くのデータ量を必要とするため、全体の品質を保つためにはビットレートを大きく上げなければならなくなるからである。 LPFを外せばスペクトログラム上での見かけは周波数特性が良くなったように見えるが、聴覚上の品質は低下している事が多い。カットオフ周波数を低くすると、特にビットレートの低い場合で聴覚上の音質が向上する。高ビットレートでのエンコードでは高周波成分の記録にゆとりが出てくるので、ビットレートに応じてLPFのカットオフ周波数を変えるエンコーダがほとんどである。 メタデータはファイルに楽曲情報などを持たせる規格で、ID3タグやXingなどが存在する。 ID3には、ファイルの末尾に付加されるID3v1と、ファイルの先頭に付加されるID3v2が存在する。 なお、ID3v1とID3v2の両方をファイルに埋め込んでもよい。 MP3のデータ情報を持たせる規格。可変ビットレート(VBR)のファイルの再生時間を算出する為に用いられる事が多いことからVBRタグとも呼ばれる。 MPEG-2にもAudio Layer-3が存在し、同様にMP3と呼ばれるが、規格上ではMPEG-2 AudioBC (backward compatible) が正式である。この規格では圧縮方式は同じだが、ビットレートの低いメディアのための高圧縮率対応やマルチチャンネル対応がなされている。この形式はヨーロッパ向けのDVDで採用されている。 通称「MP1」と呼ばれ、拡張子は「.mpa」か「.mp1」。 PCMデータの周波数帯域を帯域分割フィルタを用いて32個のサブバンドに分け、聴覚心理モデルに基づいてサブバンド毎に量子化する。各サブバンドはさらなる帯域分割細分化が行われない(MDCTは使わない)。また、ハフマン符号化による可逆圧縮も行われない。そのためビットレートがかなり高く、約1/4にしか圧縮できないが、エンコードが非常に速い。PASCとしてデジタルコンパクトカセット(以下DCC)で採用されている。基本ビットレートは320 kbps(DCCでは384 kbps)。 通称「MP2」と呼ばれるMP3の前身規格。拡張子は「.mp2」か「.mpc」。比較的普及率の高い音声圧縮フォーマット。 Video-CDやCSデジタル放送(日本国内ではスカパー!)をはじめ、D-VHS、DVD-Video、Blu-rayまで採用され、殆どの規格の基本フォーマットとして使われている。圧縮アルゴリズムはMP1とほぼ同様であり、MDCTを用いた各サブバンドごとのさらなる帯域分割細分化は行われないし、ハフマン符号化による可逆圧縮も行われない。圧縮効率はMP1より高まっているが、約1/7程度に留まっている。基本ビットレートは特に規定は無いがVideo-CDに使われている224 kbps、または256 kbpsが標準として用いられる場合が多い。 通常はMPEG-2 AudioBCと呼ばれることが多い。サンプリング周波数の低いMP3に使われる規格で、主に24 kHzと22.05 kHz、16 kHzで扱われる。他はMPEG-1 Audio Layer-3と変わらない。他にもMPEG-2.5が存在している。 なお24 kHz以下のサンプリング周波数のものはすべてこれと見なせる為、WindowsのWAVに標準で使えるMPEG Layer-3コーデックがこれとなる。 ここで言うMP4は、一般的に言われるMP4とはまったく別である。 MP3からの派生品にMP4 (MPEG-1 Audio Layer-4) がある。これは圧縮技術ではなく著作権保護を目的とした規格として開発され、音声部分の技術はMP3と変わらなかった。 利便性が悪く、更にMP3プレイヤーなどでは再生できないという互換性の問題も生じている。その後、MP3よりも高圧縮、高音質で著作権保護を謳う「WMA」や「AAC」などの登場により、またコンテナ形式の一種であるMP4コンテナ (MPEG-4 Part 14) の登場により普及どころか殆どその名を残さずに終ってしまっている。 2001年に発表された、MP3をベースに圧縮率を向上させた規格。ほとんど普及していない。 MP3を最大5.1チャンネルに拡張したサラウンド音声フォーマット。2004年発表。ほとんど普及していない。 2009年にトムソン社が発表した可逆圧縮音声フォーマット。他のロスレスフォーマット(FLAC、Apple Lossless、WMA Lossless等)と同程度の圧縮率(概ね50パーセント)で可逆圧縮を行う。従来のMP3のストリームも格納されるため、非対応の機器やソフトウェアでもMP3部分が再生可能。ほとんど普及していない。 mp3PRO、AAC、MP2はMP3とほぼ同じような音響心理学モデルを利用している。フラウンホーファーがこれらのフォーマットの多くの基本特許を持っており、ドルビー、ソニー、Thomson Consumer Electronics、AT&Tも同様である。他にオープンソースの圧縮フォーマットであるOpus、Vorbisがあり、フリーで特許の制約がない。新しい音声圧縮フォーマットの一種であるAAC、WMA Pro、VorbisはMP3エンコーダーにあるようなMP3フォーマット固有の制限に縛られない。 フラウンホーファーは2017年4月23日、MP3に関する各種特許の保護期間が終了したと発表し、アメリカの公共ラジオ局ナショナル・パブリック・ラジオが同年5月11日に、フラウンホーファーが所有するmp3技術のライセンス販売のライセンス期限が4月23日に終了した旨を報じている。 非可逆圧縮フォーマットのほかに可逆圧縮コーデックがMP3の意義深い代替になりうる。可逆圧縮は音声の中身を変えないが容量は非可逆圧縮よりも増大する。可逆圧縮にはFLACやApple Losslessなどがある。
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3,018
経世済民
經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世を經め、民を濟ふ」の意。「経国済民」(けいこくさいみん)もほぼ同義である。 略して「經濟」(けいざい / 経済)とも言うが、主として英語の「Economy」の訳語として使われている今日の「経済」とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指す語であった。以下「經世濟民」および「經濟」の本来の用法と、その変遷について扱う。 中国・東晋の葛洪の著作『抱朴子』内篇(地眞篇)には「經世濟俗」という語が現れ、經世濟民とほぼ同義で用いられている。時代がやや下り、隋代の王通『文中子』礼楽篇には、「皆有經濟之道、謂經世濟民」とあって、「經濟」が經世濟民の略語として用いられていたことがわかる。さらに後代の『晋書』殷浩伝(唐)、『宋史』王安石伝論(元)などにも「經濟」が現れるが、以上はもちろん政治・統治・行政一般を意味する用法である。清末、戊戌の政変後、従来のような儒教的教養によらず学識ある在野の有為な人材を登用するために新設された科挙の新科目「経済特科」も、この用法によるものである。 近世以前の日本では、「経世済民」あるいは「経国済民」が一つの言葉として用いられることはあまりなく、「経国」「済民」などがそれぞれ別個に用いられることが多かった。近世(江戸時代)になるとこれらを一つにまとめた「経世済民」あるいは「経済」が盛んに用いられるようになった。その背景には、明末清初の中国で発展した考証学者による「経世致用の学」の影響を受け、日本でも儒学者・蘭学者などによる同種の「経世論」(経世済民論)が流行したことが関わっている。この「経世論」の代表的著作の一つで日本で初めて「經濟」の語を書名とした太宰春台『経済録』(18世紀前半)は、「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」としており、この頃の「經世濟民(經濟)の學」は今日でいう経済学のみならず政治学・政策学・社会学などきわめて広範な領域をカバーするものであった。 しかし江戸後期に入って次第に貨幣経済が浸透すると「經濟」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになっていった。海保青陵は、自著で専ら現在と同じ意味で用いており、これは「経済」という語の早い例である。ただ青陵によると、当時の大坂で「経済家」といえば、治政一般ではなく「金銀の事」に詳しい者を指したと言い、大坂商人の間では現代的な用法は既に常識的だったようだ。19世紀前半の正司考祺『経済問答秘録』に「今世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」とあるように、(考祺は批判的に指摘しているものの)今日の用法に近い「經濟」が普及していた。以上のような用法の変化は、明・清代の中国の俗語において、金銭・財務に関連する(古典的用法と異なる)用法が広まったことの影響とする杉本つとむの見解もある。 幕末期になり、新たに交流が始まったイギリスなどから古典派経済学の文献が輸入されるようになると、「経済」の語は新たに"economy"の訳語として用いられるようになるが、それにはいくつかの段階がある。まず、1862年(文久2年)に刊行された堀達之助らの『英和対訳袖珍辞書』では"economy"を「家事する、倹約する」とし、"political economy"(古典派経済学において「経済学」を意味する語)に「経済学」の訳語を与えている(西周によると後者は津田真道の執筆)。ついで日本における最初の西洋経済学入門書として知られる神田孝平訳の『経済小学』(1867年(慶応3年)刊)では「経済学」を「ポリチャーエコノミー」と読ませており、同年末に刊行された福沢諭吉の『西洋事情 外篇』巻の3でも同様の用法として「経済学」の語が見える(なお前年1866年(慶応2年)刊の『西洋事情 初篇』巻の1には「経済論」の語がある)。 しかし「経済(学)」がエコノミーもしくはポリティカル・エコノミーの訳語として定着するには若干の問題があり、例えば西周は『百学連環』(1870年(明治3年)刊)で、エコノミーとポリティカル・エコノミーの区別を重視して前者に「家政」、後者については国家の「活計」を意味するものであり、津田の訳語「経済学」では活計の意味を尽くしていないとして「制産学」の訳語を与えている。このように個人(もしくは企業)の家計・会計と国家規模の経済運営を分けて考える立場はしばらく影響力を持ち、後者については「理財」の訳語が用いられることもあり(1881年刊『哲学字彙』では"economics"の訳語)明治初期の大学・専門学校の学科名としては「理財学」がしばしば用いられた。しかし国家レベルと個人・企業レベルのエコノミーを包括して「経済」とする用法が次第に普及することになり、現在に至っている。また江戸時代以来の「貨殖興利」という用法も存続したため、本来の「経済」の語に含まれていた「民を済ふ」という規範的な意味は稀薄となった。 また、この新しい用法は本来の意味の「經濟」という語を生み出した中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出され、以後東アジア文化圏全域で定着した。
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3,019
流通
流通(りゅうつう、英語:distribution)とは、貨幣や商品などが市場で移転されることを指し、特に商品が生産者から消費者に渡ること、またそれを可能とせしめる社会経済的機能や、商品を消費者(個人だけでなく企業間取引も含む)へ届けるための商業・事業活動全般をいう。元は仏教で仏典や教義を広めることを意味する「流通(るづう)」に由来し、それが転じて広い意味で流れ広まることを指すようになり、さらに現在のような経済用語として使われるに至った。 生産者(メーカー、農民、漁師など) → 一次卸売業者・仲買(大卸とも) → 二次卸業者 → 小売業者 → 消費者 日本の学術団体としては、日本商業学会が1951年4月21日、慶應義塾大学教授の向井鹿松を初代会長として設立された。
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3,020
MPEG-2
MPEG-2(エムペグツー、H.222/H.262, ISO/IEC 13818)は1995年7月にISO/IEC JTC 1のMoving Picture Experts Groupによって決められた標準規格。正式名称はGeneric coding of moving pictures and associated audio information。 MPEG2はビデオ、オーディオの他、システム等についても規格化されている。また、様々なメディアでの利用を想定して、複数の解像度、圧縮率がある。なお、復号方式のみが定められており、符号化方式について規格化されていない。よって規格に沿った結果が得られるのであれば、符号化の手順はどのようにしてもよい事になっている。基本的にMPEG-1との下位互換性は無い(MPEG-2の再生装置でMPEG-1の再生は出来るがその逆ではできない)。 なお、元々標準テレビ放送(SDTV)向けにMPEG-2、高精細度テレビジョン放送 (HDTV)向けにMPEG-3が策定される予定であったが、両者は基本技術が同じであったため、最終的にはMPEG-3がMPEG-2に吸収・統合されることが決定し、MPEG-3規格は欠番となっている。現在では標準テレビからHDTVに至るまでMPEG-2が幅広く利用されている。 ビデオ(ISO/IEC 13818-2)については、採用されている基本技術の大部分がMPEG-1ビデオと同等であるため、圧縮効率の側面ではMPEG-1とほとんど変わらない。 ただしネットワーク環境やHDTVなど動画性能の向上を受けて、以下の拡張が行われている。 なお、MPEG-2ビデオはITU-TとISO/IECの合同規格であり、ITU-T勧告H.262としても標準化されている。 一般的にはMPEG-2オーディオと呼ばれるものが定義されており(ISO/IEC 13818-3)、MPEG-1オーディオと同様にLayer-1、Layer-2、Layer-3と分けられて策定された。MPEG-1オーディオとの互換性が考慮されているBC(Backward Compatible)と、互換性を排除して高音質・高圧縮を達成したAAC(Advanced Audio Coding)がある(MPEG-2 Audio Layer-3の正式名称が“MPEG-2 BC”となった。)。 システム(ISO/IEC 13818-1, ITU-T H.222.0)についても、DVD-Videoのような蓄積メディアでの使用に向いたプログラムストリーム(MPEG-2 PS)と、デジタル放送等の放送・通信に向いたトランスポートストリーム(MPEG-2 TS)が規定されている。詳細についてはMPEG-2システムの記事を参照されたい。 パソコン上で扱われる「MPEG-2ファイル」と呼ばれるものはプログラムストリームのデータが記録されているものであることが多く、拡張子として.m2pが使われることが多い。 これに対して、.mp2はMPEG Audio Layer 2の拡張子として使われることが一般的であり、MPEG-2システムのデータを指し示すものではない。 MPEG-2は放送やHDTVなどを想定した規格であり、実際にもデジタル放送や記録メディアなど様々な用途に利用されている。以下に代表的な利用例を挙げる。 DVD-Videoでは映像としてMPEG-2ビデオが使われると共に、プログラムストリームに準じた形式で音声などのデータが混合・記録されている。一方日本国内では、音声としてはPCMやドルビーデジタル(AC-3)といった、MPEG以外の規格・技術が使われている例が大勢を占める。MPEGオーディオもDVD-Videoの規格としては認められているが、日本国内では必須ではなくオプション扱いである。なお、同じくオプション扱いでは、低圧縮(=高音質)なdts方式で収録されているものが多い。 デジタル放送では多重化伝送方式としてMPEG-2 TS、動画像符号化方式としてMPEG-2ビデオが採用されている。(詳細についてはデジタルテレビの記事を参照。) MPEG-2に関する符号化・復号技術などの技術は、電機メーカー各社で開発、特許申請等が行われ、アメリカのMPEG LA社が管理している。2008年6月、アメリカの液晶テレビのトップシェアメーカーであるVIZIO社が、テレビ製造に際しライセンス料の支払いを行っていないとして、各電機メーカーがニューヨーク州連邦地方裁判所に提訴。VIZIO側は、2008年11月17日にライセンス料を支払うことで和解が成立している。
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3,022
あっち向いてホイ
あっち向いてホイ(あっちむいてホイ)は、じゃんけんから派生した遊び。 まず、2人でじゃんけんを行う。その勝敗が決まった直後、「あっち向いてホイ!」の掛け声の後、負けた方は上下左右のいずれか一方へ顔を向け、勝った方は上下左右のいずれか一方を指差す。顔を向けた方向と指を差した方向が一致すると指を差した方の勝ちとなり、一致しなかった場合じゃんけんからやり直しとなる。その派生として「こっち向いてホイ!」もあり、こちらは逆に勝った方は顔と指の方向が一致しなければ指を差した方が勝ちとなり、一致すればじゃんけんからやり直しとなる。 元は祇園のお座敷遊びで、落語家の六代桂文枝(当時三枝)が『ヤングおー!おー!』で紹介して花柳界以外で広まったとされる。1972年頃より萩本欽一が『スター誕生!』の審査決定までの場つなぎコーナーで行い(「こっちむいてホイ!」の掛け声で行われていた)、全国的に有名になった。萩本は「大阪で子供たちがやっていたのを聞いた放送作家が持ってきたもの」と述べている。 その後、『NTV紅白歌のベストテン』の「プール大会」の時にプール上の一本橋の上で行ったり(負けた歌手は即プール落ち)、『プロポーズ大作戦』の中間コーナーで、「スターが挑戦!アッチャムイテホイ」と銘打ち、その回のゲスト歌手が町中で行ったりしており、そして1996年の年末特番『紅白なんてブッ飛ばせ そんなアナタもお祭りちゃん '96大晦日スペシャル』では、前年まで行って批判を浴びた「野球拳」に代わって、5時間15分も丸々あっち向いてホイを行い、しかもやる前には必ず踊りを踊ってから行っていた。またテレビアニメ『おじゃる丸』の2002年度ED「あっち向いてホイおじゃる」にも動きを使っていた。さらにはテレビアニメ『クレヨンしんちゃん』で、2013年10月よりデータ放送を使った「東西南北あっち向いてホイ」(2015年10月からは「東西南北HIPでYO!」)が行われていた。『アイドリング!!!』(2015年放送終了)では「あっち向いてパイ!!!」と題した、負けるとパイをぶつけられるゲームが行われていた。現在はNHK総合テレビ昼前の番組情報番組『どーも、NHK』で、エンディングにNHKのマスコットキャラクター「どーもくん」が視聴者相手に行っている。 あっち向いてホイをテーマにした1時間のテレビ番組が制作されたことがある(NBS長野放送「あっち向いてホイロジー ~脳科学が探る勝利の法則~」 2007年)。また、脳の動きの仕組みとして、相手の指の動きにつられないためには視覚情報に反する運動(衝動性眼球運動)を行うことが必要であるが、これには視床からの命令が重要な役割を果たしているとする研究結果が北海道大学医学研究科准教授の田中真樹らによって2010年に発表されている。
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ビームフラッシュ
ビームフラッシュはじゃんけんから派生した遊び。 大きく『じゃんけん部』と『ポーズ部』に分けられる。
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3,025
MPEG-1
MPEG-1 (エムペグワン)は、ISO/IEC JTC 1のMoving Picture Experts Group(MPEG)によって作られた標準動画規格の一つ。 正式名称:Coding of moving pictures and associated audio for digital storage media at up to about 1.5 Mbit/s コンパクトディスク(CD)に1時間程度の動画を記録する事を目標にNTTとアスキーに由ってISOへ提案された。ビデオCDなどで利用されている。単にMPEG動画というと、MPEG-1で圧縮されたものを指す場合が多い。 ビデオとオーディオ、両者を併せたシステムについて規格化されている。 プログレッシブ信号には対応しているが、インタレース信号には対応していない。 H.261で開発された動画像圧縮技術の流れを汲み、フレーム間予測と離散コサイン変換を用いた技術である。最大4095×4095(12ビット)の解像度と、最大100 Mbit / sのビットレートをサポートする。MPEG-1の特徴は、従来まで1画素(動画像符号化ではフルペルと呼ぶ)単位であった動き補償の精度を、半画素(ハーフペル)単位に拡張した点である。ハーフペル動き補償は、半画素単位での動きベクトル探索が必要で演算量が大きいものの、フルペル単位に比べて圧縮率を大きく向上させることができる。ハーフペル動き補償は、H.262 (MPEG-2)やH.263 (MPEG-4)でも使用されている。 ビデオCDのほかDVD-VideoやDVD-VRの規格に低解像度用として取り入れられている(実際にMPEG-1を使ったDVDは極めて少ない)。2000年代初頭頃まではゲームやインターネットでやり取りされる動画での圧縮形式としても一般的だったが、その後はMPEG-4(DivX・Xvid・3ivx)・H.264・WMVなどに取って代わられた。2009年現在では携帯電話・携帯型プレーヤー・デジタルフォトフレームなどでMPEG-1に対応している製品は少数である。 Layer 1、Layer 2、Layer 3があり、それぞれMP1、MP2、MP3と呼ばれている。Layer 2対応機器はLayer 1の再生もでき、Layer 3対応機器ではLayer 1、Layer 2、Layer 3全て再生できる上位互換性を持つ。ビデオCDではLayer 2が使われる。
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3,027
たたいて・かぶって・ジャンケンポン
たたいて・かぶって・ジャンケンポンは、2人で行うお座敷遊び(お座敷で行う遊び)の一種である。 プレーヤーはじゃんけんによって攻撃権を取得し、相手が防御を行う前に相手の頭を叩くことを目的とする。 この遊びは落語家の六代桂文枝(当時:桂三枝)がテレビ番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の1コーナーとして考案したと言われている。この遊びは多くの別名で知られており、そのいずれかは元々、番組の遊びの原形であった可能性もある。 たたいて・かぶって・ジャンケンポンに正式なルールはなく、下記に示すのは慣習的に認められているものである。 たたいて・かぶって・ジャンケンポンは2人で行う。 プレーヤーは50~100cmの間隔を置いて、正対する。互いの間に攻撃用の棒と防御用のヘルメットを配置する。 準備が完了したらじゃんけんを行う。ただし、この時には通常の「じゃんけんぽん」のかけ声に代わって「たたいてかぶってじゃんけんぽん」というかけ声を用いる。あいこになった場合は勝負がつくまで繰り返す。じゃんけんで勝負がつくと、勝者は攻撃権を得る。 じゃんけんの勝者を攻撃側、敗者を防御側と呼ぶことにする。じゃんけんの勝負が決まった瞬間、攻撃側は両者の中央にある棒を持って防御側の頭をたたく。一方、防御側は両者の中央にあるヘルメットを自らの頭にかぶせる。防御側がヘルメットをかぶる前に攻撃側が棒で敗者の頭を叩くことができれば、攻撃側の最終勝利となる。素手やヘルメットを使って防御側の頭を叩いたり、防御側が攻撃したりしたら反則負けである。防御側が完全に頭にヘルメットをかぶせた時点で攻撃側の攻撃権は消滅し、再び攻撃権を争うためじゃんけんを行う。 どちらかが最終勝利をおさめるまで、これを繰り返す。 たたいて・かぶって・ジャンケンポンには以下の用具を使用する。
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3,028
調理
調理(ちょうり、仏: cuisson、英: cooking)とは、食品材料(食材)を洗う、切るなどして、さらに煮る、焼く、炒めるなどの操作をほどこし、食べやすく、また味も良くすることや、その技術のこと。「料理する」という場合の「料理」は、調理よりも広義である(下で説明)。本記事では調理すること、および料理することの両方を扱う。 調理とは食材を洗う、切るなどして、さらに煮る、焼く、炒めるなどの操作をほどこし、食べやすく、また味も良くすることである。「調理」は味作りの技術面に限定される用語である。「料理」のほうは、やや広義で、食事計画を立て、(食材を確保し、調理操作を行い)食卓上の料理を構成するまでの過程全体を指す。 調理は長い歴史を持ち歴史とともに変化してきた。調理は各家庭においても行われている。また料理店などの調理場において職業的調理者によっても行われている。料理店で職業的料理人が提供する料理を「専門料理」と呼ぶ。また専門料理に対し、家庭で日常提供される料理を「家庭料理」という。 調理で用いられる様々な手法や技法は、調理法、調理技術と呼ばれる。 調理に用いる道具を調理器具と言う。キッチンナイフ(包丁)類、鍋類、熱源などが基本中の基本である。調理をする人は広く「調理者」や「調理人」と言う。 家庭料理では母が娘に(また父が息子に、祖母が孫娘に)調理法を教えることで、家庭ごとの調理法や「味」が次世代に継承されている。調理のための教室(「クッキング教室」)なども開催されている。 料理店では職業的な調理者、プロの調理者が調理を行っているわけだが、 職業的に調理を行う人はフランス語では「cuisinier キュイジニエ」と言い、その中でも調理場でキュイジニエたちを統率する料理長(調理場の最高責任者)を「chef シェフ」と言う(「シェフ」は本来は調理に限らず様々な分野で、広く人々に命令し、決定的な影響を与える人物のこと。調理場でその役割を果たすので「シェフ」と呼ばれるようになった。)。英語では「コック」、日本語では和食の調理人は「板前」などと呼ばれ、日本でもフランス料理の調理人は「シェフ」や「キュイジニエ」などと呼ぶ。 プロの調理人を養成する調理師学校もある。 専門料理は技術であり、また特に高度なものは芸術の一種と捉えられることもある。絵画芸術では芸術家による作品は絵画作品であり、創り出された作品そのものが形として後世にまで残るが、調理の場合は、作品は料理でありお客(食べる人)の前に出され、食べられ、形(物体)としては無くなる、という特徴がある。ただし、レシピという形では残り、シェフが開発した優れたレシピは時代を超えた価値を持ち続けている。 なお世界の一般論として言えば、調理に資格は一切必要ない。世界的に見て、料理店などの調理場で調理するのにも免許は必要ない。日本では1958年の調理師法の公布により「調理師」が都道府県知事の免許制として一応法制化されたが、それでも飲食店においても調理は調理師免許を持っていなくても行うことができる。ただ料理店に対して調理師を置くことを「努力義務」としただけで、調理師がいなくても特にとがめられるわけではない。 調理については学問的な研究も行われており、栄養や味覚などについて自然科学的アプローチを行う「調理科学」や、歴史の変遷を追う「調理史」などがある。 そのままでは食べられないものを、加熱により食べられるものへと変化させることができる。加熱することで有害な病原菌が殺菌され、有毒なタンパク質は変質され無毒化される。 また毒のある部位を取り除くことで危険性を低減する。(フグの卵巣除去等)。 切る、刻む、すり潰すなどの操作は歯と顎による咀嚼よりも効率的に食物を消化吸収に適した形状に加工することを可能とした。また、加熱によりタンパク質が変質し消化吸収されやすくなる。 ただし、ビタミンは調理中に失われてしまうものもある。 人類は火を使い食物を加熱することで食べられないものを食べられるようにし、消化吸収のコストを激的に低減した。それにより大量のエネルギー余剰が生まれ、それが脳の発達の一因となったという見方が存在する 調理は包丁のような刃物を用いることがあるため、怪我をする危険がある。 切り傷から感染症に繋がる場合もあるため、注意が必要である。 また、切り傷がある人が調理した生物(なまもの)などは、黄色ブドウ球菌などの食中毒を引き起こす可能性がある。 調理に伴う油煙などは有害であり、吸い込むと肺がんなどの呼吸器疾患を引き起こす。そのため適切な換気装置を使用する必要がある。 韓国では調理場の従業員の内18%が呼吸器疾患を患っており、料理人の呼吸器疾患が労災認定されている。 また火のために薪のような精製されていない燃料を使う場合、大量に煙が発生するため大気汚染の原因となり、環境を汚染する。 発展途上国では調理の際に発生するこれらの有害物質の吸入が全死亡の死因中で1位であり、大きな課題となっている。
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3,032
L.M.L.
L.M.L. ヌ・ヴィルゴスによる2枚目の英語アルバムと5枚目のスタジオアルバムである。 アルバムのタイトルは、「L.M.L。」というタイトルのアルバムの曲に由来している。 このアルバムは、2007年9月13日にロシアでリリースされ、2007年9月19日にアジアでリリースされた。アルバムは数か月にわたってチャートにヒットし、努力の成果を見せた。 リリース後の最初の数か月間、アルバムの発売会社であるMonolithに多くの儲けが入った。 曲の作者はコンスタンティン・メラゼである。
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ヴェラ・ブレジネーヴァ
ビラ・ガルシュカ (ウクライナ語: Віра Вікторівна Галушка; ロシア語: Вера Викторовна Галушка) 、芸名 ヴェラ・ブレジネーヴァ (ロシア語: Вера Брежнева) (1982年2月3日生まれ)は、ウクライナのポップシンガー、テレビ司会者、女優。 ベラは1982年2月3日に生まれました ドニプロツェリンスク ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 ソビエト連邦. 彼女の両親は音楽やエンターテインメントのビジネスには関与していませんでした。 彼女の父、ヴィクターは化学工場で働いていました。 医学部を卒業したベラの母親であるタマラは、ベラの父親と同じ工場で働いていた。 ヴェラには3人の姉妹がいます: 1人は年上(Halyna)、2人は年下(NastyaとVika、双生児)。 彼女はキエフに近い町ボリスピルで両親のためにアパートを購入した。 ベラの娘(ソニア)の父親は、ベラが数年間結婚していたVitaliy Voychenkoです。 彼女はドニプロペトロフスク国立鉄道輸送大学の経済学部から通信によって学位を取得しました。 ヴェラは、ロシア語の映画に数多く出演しています。 彼女は2009年に映画「ラブインザビッグシティ」でカティアを演じ、2010年と2013年にその2つの続編を果たしました。2016年には、8つのベストデイトで演奏しました。 彼女はまた、クリスマスツリー1とクリスマスツリー2で自分自身として主要な役割を果たし、ジャングルに出演しました。 彼女の映画作品のほとんどは、ロマンチックコメディーです。 スタジオアルバム
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人間
人間(、英: human being)とは、以下の概念を指す。 関係性を重視して「人‐間(あいだ)」という名称があてられたとされている。旧約聖書の『創世記』において、人間はすべて神にかたどってつくられた(「神の似姿」)、とされ、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、とされた。アリストテレスは著書『政治学』において、人間とは、自分自身の自然本性の誠意をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人々の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物とは異なった)独特の自然本性を有する動物である、と説明した。キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承され、平等が重んじられ、一番大切なのは(自分だけを特別視するような視点ではなく)「神の視点」だとされるようになった。→#人間観の遷移 「人間らしさ」について、説明する方法は幾通りもあるが、「言葉を使うこと」「道具を使うこと」などはしばしば挙げられている。→#性質 旧約聖書では、すべては神というフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や世界観が語られている。殺人、不倫、近親相姦、大量殺人、権力抗争といった人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある。 創世記には天地創造がしるされているが、そこには以下のようなくだりがある。 旧約聖書以前の時代、古代エジプトやバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、とされた。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられている。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている、とも言われる。 人間については、古くから哲学者らによって考察されていた。 ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによって構築された人間観は、人間の普遍的特質に関心を集中させている。古代ギリシャの人間像というのは、近現代に見られるような、具体的な犯すべからざる個人としての人間といったものではない、とビショフベルゲルは指摘した。 アリストテレスは『ポリティカー』の一節において人間を「ζῷον πολιτικόν (zoon politikon ゾーン・ポリティコン)」と呼んだ。(『ポリティカー』 1252b-1253a) アリストテレスはその直前の文で、ポリスというものを「ポリス的 - 政治的 - 共同体」と定義した。アリストテレスの言うポリスとは、単に生きることではなく、《善く生きること》を目的に掲げて互いに結びついた市民(= politai)の共同体のことであり、人間がつくるさまざまな共同体の中で最高最善の共同体だと位置づけられていた。ポリス的共同体においてこそ人間の自然本性が完成されるのだから、とアリストテレスは考えた。そしてポリスというのは、人間にとって究極の目的としての自然本性である。よって、アリストテレスが主張したことは、人間とは自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(=《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、他の動物には見られない自然本性を有する動物である、ということである。 (誤解が流布しているようだが)アリストテレスは、人間が単に社会を形成している、とか、社会生活を営む一個の社会的存在である、などと言ったのではない。 ζῷον πολιτικόνは日本語での訳語は定まっていないが、「ポリス的動物」、「政治的動物」、「社会的動物」などと訳されている。 キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)創造主である神の眼、神の視点である。さらに、4〜5世紀の神学者アウグスティヌスによって原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった。キリスト教では、イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した。 正教会では、神の像と肖として人間が創られたという教えが人間観において強調される。アウグスティヌスの影響は正教会には希薄であった。 1400年代〜1500年代の頃になり、ガリレイやケプラー、ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。ただし、デカルトは心身二元論を採用しつつ、人間と動物をはっきりと区別した。 1700年代になると、ラ・メトリーがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィンが自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた。 人間は(肉体はともかくとして)精神の働きという点であらゆる存在に対して秀でているという考え方から「万物の霊長(英語: The Lord of Creation)」とさかんに呼ばれた(霊長とは、霊すなわち精神的に優れている、の意味)。 現代の生物学ではネオダーウィニズムが主流で、それは「生物の進化」という考え方を基盤として成り立っているため、自然科学者や先進国の知識人などで、現代生物学を受け入れている人々は「人間は猿、ネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきた」といったように見なしている。。(生物学的な人間像はヒトが参照可) ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人が必ずしも多数派というわけではなく、例えばアメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ち続けている人の方がむしろ多数派であることなどが知られている(詳細は「アメリカ合衆国の現代キリスト教」を参照)。 現在、人間の学名は「ホモ・サピエンス」(知恵のあるヒトの意)で、やはり言語や文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている。この学名と同時に作られた名に「ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に社会面から捉えられた「ホモ・○○○(〜するヒト)」といった造語の元となった。遊びに目を留めたホイジンガの「ホモ・ルーデンス」といった表現はその典型である。 技術との融合により圧倒的な進化を遂げた人間の姿として、ポストヒューマンというアイデアも出てきている。 『論語』の陽貨篇第十七には右のように書かれている。「子曰く、性、相近きなり。習い、相遠きなり」 (意味:師は言われた。人間は、生まれつきの性質は同じようなものであるが、習い(=教育、しつけ)によって、大きく異なってゆくものだ。) ジャン=ジャック・ルソーは「植物は耕作によりつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べた。 イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べた。 現代でも日常的に「人は教育によって人間になる」「人は教育によってのみ人間となる」「しつけと教育によって人間になる」「教育によってヒトが人間になる」 といったことが多くの人々によって言われ続けている。 「人間らしさ」(人間の特徴)の説明のしかたはいくつかあるが、言葉が使え 言葉でコミュニケーションをすること、文化を持つこと(そしてそれを仲間や子に伝えること)、道具を使い道具を作ること、などが挙げられる。 人間の特徴のひとつは、言語を現在ある様な状態で使用し、自分の心の中で言語を用いて考え、以て互いの意思疎通を図ることにある。 人間は文字や言語を抽象的なシンボル(象徴)として扱ったり、論理思考(論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では知能は地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。 好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「知ること」と「考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。 人間は、知識だけでなく、自らの精神や心にも注意を向けることができる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば瞑想や内観などを行うこともある。宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えばアブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。 道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(コストなど)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。 記憶は、多くの点で自分が誰であるかを形作る。それらは内部の伝記、つまり人生で何をしたかについて自身に語る物語を構成している。誰とつながっているのか、人生の中で誰に触れたのか、そして誰が私たちに触れたのかを教えてくれる。要するに、記憶は、人間であるという本質にとって非常に重要である。つまり、加齢に伴う記憶喪失は、自己の喪失を表す可能性がある。したがって、思考力と記憶力の低下に関する懸念が、年齢を重ねるにつれて人々が抱く最大の恐怖の中にランク付けされるのは当然のことである。 現生人類は、アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパやアジア、さらに氷期などの気候の変動も影響して南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で農業が始まり、同時期に文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている(初期の文明としてはナイル川、ユーフラテス川、インダス川、黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。 生活について言えば、人類史を概観すると、人類は もともと採集・狩猟生活を送り、その後農業を開始し、やがて本格的に工業も行うようになった、ということになる。 生活は、民族ごとに差異が大きく、気候でも生活方法は異なる。 現在、人間が住む地域は、極地を除き、地球上全ての地域である。アジアの人口が過半数を占め,その中でもインドや中国の人口が特に多く、およそ3分の1を占める。インドは2030年ごろ中国の人口を抜かすと考えられている。 人類を他の生物種から際立たせる特徴は幾つかある。最もよくかつ古くから指摘されるものは言語能力の発達、それによる豊かなコミュニケーション、および思考の能力である。知性を持つ生物は人間以外にもあるという指摘はあるが、言語の使用が人間が人間らしい共同体を持つことを可能にしたことは確かであろう。共同体は相互の信頼関係、上下関係など緊密な人間関係によって成り立っている。 言語はコミュニケーションする能力を与え、共同体・社会の基礎を与えるだけではない。また、人間は、言葉を用いて自らについて考える。人間は古来より人間自身について想いを巡らせてきた。人間は自省する。また人間は、人がこの世に生まれ死んでゆく意味についても想いを巡らせてきた。人間の心にあるさまざまな想いが言葉で綴られ、文学作品が生みだされてきた。古代メソポタミア、今からおよそ5000年ほど前に書かれたと推察されている『ギルガメシュ叙事詩』にすでに、深い洞察に満ちた人生哲学、現代人が読んでも感動するような文学作品が書かれている。 また人間は他の人間の心に描かれる、自分の姿や自分の評価などについて考え、喜んだり、悲しんだりしてきた。人間には自我がある。「人間らしさ」には、自我が発達し、他の人間の視点から見た自身を意識するということも挙げられる。日本的な表現で言えば「名を重んじる」あるいは「(生命よりも)名誉を重んじる」というのも、他の動物には無い「人間らしさ」である。 人間は「他の人の心の中で自分が確かに生きている」と感じられると喜びを感じ、「他の人の心の中に自分がいない(死んでしまっている)」と感じると苦しむ。 人間は人間関係の網目の中での自分の場所・位置、「自らの 分」=「自分」を重んじ、それが喜びともなり、また苦しみともなってきた歴史がある。また近代以降の西洋文化では他の人間とは違っていることに存在意義を見出すようになり(一種の「アイデンティティ」)、そうした「アイデンティティ」を追求しようとすることが、たとえば登山の登頂「一番乗り」や未踏の地への一番乗りなど極端な冒険へと駆り立て大きな喜びももたらしたが、その一方で、他と同じような人間、とりたてて特徴の無い人間は苦しんでしまう、という結果も生んだ。 人間は人間自身について考えずにはいられない。そうして人間やその行為に関して研究する学問も生まれ、現在では倫理学、歴史学、考古学、人文地理学、文化人類学、人間学、心理学などがある。 人間はその社会において、生存に必要な消費物を余剰生産する段階にまで入っている。この余剰生産分は、非生産的な活動に従事する人間に供される。これら非生産的な活動は、いわゆる遊びと呼ばれる活動であるが、人間は余暇を遊ぶことで、更なる生産性の維持を可能としている。 この余暇を生み出す生産性によって維持される遊びは、いわゆる文化と呼ばれる人間を人間たらしめている特長の原点であるともされ、また、多くの人間は趣味と呼ばれる非生産的な活動様式をもっており、自身の生活を購う労働とその生産物を消費する活動とは別に、この趣味を行うことを求めている。 動物では遊びを通して自身の能力を開発する様式を持っているが、これは成長の上で実利的な意味を持つのに対して、人間の遊びは、実利的側面が何に結び付けられているかよく分かっていない場合も多い。人間の遊びや趣味は生物的に成熟した後でも続けられ、特に社会的な価値観(→常識)においては、趣味が有る人間の方が尊重される傾向すら見られる。 なお、多くの地域において、人間は貨幣経済によりその生産力を貨幣単位に換算しており、ほとんどの場合、遊ぶためには、この単位を消費する。 人間を活動面から特徴付けている要素として、この遊びに注目する学問も多い。詳しくは遊びの項を参照されたい。 近代以前の言語では、日本語の「人間」に相当する表現が、現在の「自由人」の意で用いられ、筆者自身はそのことを意識さえしていない、ということもあった。つまり、奴隷や農奴などの存在が自明当然のこととして扱われ、人間と言う時に彼らが除外されていたことがある。一部の文献の解読に際しては注意を要する。 また、かつては各国において、他民族を排斥する時など、相手の民族を貶めるため、「彼らは人間ではない」「野生の動物である」などとする発想や表現が存在していた。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考え方がありふれていた時代もある。近代の日本に於いても、戦時下には敵国の国民を「鬼畜」呼ばわりしたことがあった。その後、人権思想も広まり、このような差別的な考え方、人種差別的な考え方は現在では世界的に嫌悪されることが多くなり、公に表明されることは少なくなった。 日本での問題としては、被差別部落民を指し「非人」と称していた事があった。「人非人」という表現もあったが人であって人に非(あら)ず、と言うのは矛盾しているため人という言葉はここでは2つ、生物学的な人と(自分たちの)社会に入っていない人を使い分けていた事が窺える。 18世紀にフランスで発見されたアヴェロンの野生児などのように、人間の親に育てられなかった人、社会から切り離されて育った人(野生児)が見つかることがあるが、彼らのありさまは、人々が「人間」という言葉で思うそれとは異なっていることが報告されている。 現代では、非人道的なことを行う人、モラルに欠ける人などのことを「人間ではない」「動物にも劣る」と表現することがある。 「知能を備えていれば人間」とする考え方をする者も古くからあったので、今日のようにコンピュータが普及し人工知能も徐々に実現してくると、どこまでが人間でどこまでが機械装置か、というテーマも浮上してきた。それに関する哲学的問答が存在している(→チューリング・テスト)し、そういったテーマを織り込んだSF作品(フィクション)も最近では少なくない。 主としてサイエンス・フィクションなどを引用し、空想を逞しくし、いわゆる「宇宙人」なども絡めた上で人間の線引きを話題にする者もいる。 人間はしばしば人物(じんぶつ)と呼ばれる。短く「人」と言うことで「人間」を意味することも多い。また、特筆すべき著名な活動を行っている人間のことを著名人(ちょめいじん)或いは有名人(ゆうめいじん)と呼ぶ。人間と人間の関係を人間関係という。 人間の心身の本質についての、哲学的考察から近・現代の実証的な研究までを対象として「人間学」と呼ばれる学問分野がある。これはもともと、宇宙、世界の中での人間の位置づけ、人間の身体、気質、精神、魂などの在り方を研究するものである。 人間を「じんかん」と読んだ場合は、「世の中、人間社会」という意味になる。中国語でも、この意味になる。
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アドレス
アドレス(Address)は、あるものの所在を示す情報である。
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海洋深層水
海洋深層水(かいようしんそうすい、deep ocean water:DOW, deep sea water)または単に深層水とは、海洋学の用語でもあるが、それについては本文で詳述する。非学術的・産業利用上の定義では、深度200メートル以深の深海に分布する、表層とは違った特徴を持つ海水のこととされ、海水の95%以上は海洋深層水にあたる。 海洋学上の深層水は大洋の深層に分布する海水で、地球上の2箇所(北大西洋のグリーンランド沖で形成される北大西洋深層水と、南極海で形成される南極底層水)のことを示す。これらの深層水は熱塩循環によっておよそ2000年かけて世界中の海洋を移動しており、千年単位の地球の気候にも重要な関わりを持っている。 これと比べ、産業利用上の深層水は、分布や出自を問わず深度200メートル以深の海水をひとくくりに定義したものである。この定義に当てはめると、単純計算で海水の約95%は海洋深層水である。 以下、この記事では後者の深層水について説明する。 一般的な表層水との違いは、清浄性、低温安定性、栄養塩が豊富という特徴を有することである。 海洋深層水は、表層水との混合が生じにくいため溶存酸素量は少ない。ただし、日本海固有水は太平洋側の海洋深層水とその成り立ち方が異なるため、溶存酸素量が表層水とほとんど同じであることが特徴である。なお、深層水が特定の海域で表層へ上昇する(湧昇)ことがあり、そこでは豊富な無機栄養塩によりプランクトンが豊富に発生するため、非常に生物生産性の高い海域となり好漁場となる。 自然に影響を及ぼすのは、取水よりも利用後の排水の影響の方が問題となる。ノルウェーでは、魚の養殖に深層水を利用しようとしていたが、フィヨルド内の海水の入れ替わりに10年前後かかることから中止した。 日本の取水施設は、11都道県19施設あるが、取水施設の整備コスト面では、陸地から急激に深くなる海底地形の方が、取水管の設置距離が短くなり、初期投資コスト面で有利になることから、取水地は島(新潟県佐渡島、沖縄県久米島、鹿児島県甑島)や半島の先端(高知県室戸、神奈川県三浦、北海道羅臼)に設置される。 例外としては、3000メートル級の立山連峰からの急峻地形が海底1,000メートルまで続いている、富山湾に面した富山県滑川市や同入善町、同じく急峻地形で水深2,500メートルの駿河湾に面した静岡県焼津市では、焼津漁港に取水施設がある。 これらの立地条件は、企業や一般人が取水施設を利用しやすい都市部が後背地としてあるかないか、道路インフラストラクチャーへのアクセスの良否による、製造した深層水製品の消費地への輸送費用の増減といった事柄に影響することから、深層水の産業利用の成否を握ることになると思われる。 海洋学上の海洋深層水は、1930年(昭和5年)ごろにフランスで低温性に着目した研究目的で取水されたのが始まりとされており、1981年(昭和56年)にハワイで石油危機に対応するため低温安定性を利用した温度差発電、冷房への利用研究のために大規模な取水施設が整備された。しかし、豊富なミネラル分、清浄性、富栄養性といった海洋深層水の特性を活かした産業利用では、日本が最先端を行っている。ハワイで生産された深層水飲料は日本企業がハワイのイメージを利用して販売するために製造し、日本へ輸出しているものであることからも日本での海洋深層水の浸透度の高さがわかる。 日本における海洋深層水の利用研究は、科学技術庁(現文部科学省)が実施した「海洋深層資源の有効利用技術の開発に関する研究」(1986~89年実施)の中で、高知県室戸市に陸上型の海洋深層水取水施設が、富山県氷見市沖で洋上型海洋深層水有効利用システム(取水施設・温度差発電施設)が整備されたのが始まりである。水産分野では、富山県と一般社団法人マリノフォーラム21が、1992年(平成4年)度から1994年(平成6年)度に施工費約10億5600万円をかけて、海洋深層水利用研究施設を富山県水産試験場内に整備した。このほか、富山県では、県立大学、食品研究所、衛生研究所、工業試験場、林業試験場等で県立試験研究機関がそれぞれの専門分野で研究テーマを定めて多様な分野で研究を進めてきた。高知県では室戸市に高知県海洋深層水研究所が設置されている。 産業利用については、1995年(平成7年)に高知県が国の補助目的である水産利用に反して、取水した深層水の無償提供を始め、産業利用を行った。富山県では水産庁と協議して許可を得て2000年(平成12年)から非水産分野の企業への分水を始めた。また、水産分野への利活用では水産庁の補助を受けて富山県下新川郡入善町で無機栄養塩に富み雑菌が非常に少ないという特質を利用してアワビなどの養殖業に利用している。 健康増進分野では、1998年(平成10年)に、富山県滑川市に世界で初めての深層水体験施設「タラソピア」がオープンし、多くの人々の健康作りに利用されている。富山医科薬科大学医学部(現:富山大学医学部)と富山県衛生研究所が、タラソピアで共同研究を行い、深層水浴によるリラクゼーション効果の高さを研究し、成果について学会発表を行っている。現在は、深層水浴による皮膚への効果についての共同研究を行っている。静岡県は、日本一深い湾である駿河湾の水を「駿河湾深層水」と呼び、活用のための研究を行っており。2004年(平成16年)には取水地の焼津市に深層水ミュージアムがオープンした。 2006年(平成18年)には、高知県室戸市の「アクアファーム」、静岡県焼津市の「アクアスやいづ」と、タラソテラピー施設が相次いでオープンした。2007年(平成19年)現在では、沖縄県久米島にも海洋深層水を利用した温浴施設が整備されている。 冷熱源としての利用については、富山県入善町が設置した海洋深層水企業団地において、食品製造企業が製造した食品の冷却、工場内の空調に深層水を利用するため2008年(平成20年)12月の操業開始に向けて準備を進めている。これまでも深層水の低温性を活かした飼育槽の水の冷却や空調への利用は、研究機関である富山県水産試験場やサービス産業である深層水体験施設タラソピアで行われてきたが、製造業の民間企業による製造工程への利用実用化はこれが世界で初めてである。これにより二酸化炭素の排出削減が図られることになる。 細菌学的にも化学的にも清浄、ミネラルが豊富な海洋深層水に着目した化粧品、飲料、食品業界などが、これを化粧品、バスグッズ、入浴剤、飲料水、アルコール類、水産加工食品などとして商品化している。 海洋深層水は、人が生きるために不可欠なミネラル分を陸水よりも多種類含むだけでなく、陸水の有害化学物質に汚染されていないという特性を持っており、その利活用方法は単純に飲料水に留まるものではない。 富山県農林水産総合技術センター食品研究所が、大豆や里芋の加工時に出るヌメリが減るという実験結果を発表した。これは、カルシウムやマグネシウムを含むためである。 しかし、魚介類や大豆と比較して、海洋深層水に含まれるカルシウム・カリウム・マグネシウムといったミネラルはごく微量であり、特に健康増進効果は確認されていない。ミネラルウォーターも同様である。例えば1日のカルシウム必要量を補うためには、海洋深層水を数十リットルから数百リットル飲む必要がある。 各取水地では、その特性を活かすべく、産官学の連携により様々な研究開発を行っている。その成果を特許として保護し、他の企業や取水地と差別化を図る努力が行われている。特許の都道府県別の出願件数は、東京、高知、富山の順となっており、他の取水地の企業は、先行したこれらの特許に抵触しない製品開発を迫られている。これは大韓民国でも同様であり、本格取水開始前から特許の取得が競われており、先行した日本の研究開発や特許出願を参考に、短期間で数多くの特許が出願されている。 ただし、深層水の取水が始まり、商品化が流通し始めたころには、一部業者が、海洋学上の海洋深層水の神秘的イメージや、科学的に証明されていない「数千年間かけて熟成された水」等のイメージをPRに利用したり、或いは科学的根拠を用いることなく海洋深層水という名前だけで、健康に良くあたかも病気にも効くというような、薬事法に抵触するような販売手法をとった。 このような反社会的商品の根絶を図るため、2001年(平成13年)12月には公正取引委員会からガイドラインとして「飲用海洋深層水の表示について」が示されほか、良心的な事業者団体では、独自のブランドマークを付与したりして、海洋深層水商品のイメージ保護に努めている。 現在では、一時的な深層水ブームにのって生産されていた、このような製品は淘汰されつつある。これは、飲料以外の深層水利用商品についても同様である。 海外では韓国や台湾(2006年6月設立)で深層水の産業利用を推進するため国立の研究機関を設立し、研究開発を進めている。 台湾では現在、複数の企業が台湾で取水された深層水を用いた深層水飲料の販売を行なっている。一部は中国へ高級飲料として輸出されている。また、飲料だけに留まっている利活用を活性化させようと、日本の深層水を利用した清酒製造技術の導入を図ろうとする取水地もある。 韓国では、2007年7月3日に国会で「海洋深層水の開発及び管理に関する法律」が成立し、2008年2月4日に施行された。これにより韓国で取水された海洋深層水を用いた製品開発が開始された。 アジア以外では、インド洋のモーリシャス共和国でも海洋深層水を活用した産業振興のための調査・研究を進めている。 日本海などの縁海では、特徴的な性質を持った海水が分布する。特に日本海の場合の深層水を日本海固有水と呼び、太平洋側の海洋深層水と異なる特質を持っている。まず、太平洋側の深層水は年間を通じて10°C前後だが、日本海固有水は2°C前後と低温である。また、太平洋側の深層水は深度が深くなるに従って海水中の溶存酸素量が減少するが、日本海固有水は深度が深くなっても溶存酸素量は表層水とほとんど変わらず豊富である。 このように異なる性質となるのは、日本海固有水の起源が日本海北部で冷却された表層水の水塊が底層に沈み込んだものだからである。日本海固有水がこのような起源を持つのは、海峡水深が深い通常の海域の場合には、外洋の深層水が流入するのに対して、日本海の場合は、外洋との通路となる対馬海峡が著しく浅く、外洋の深層水が流入しないためである。
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Gecko
Gecko(ゲッコー)は、Netscapeシリーズ 6以降およびMozillaソフトウェアのために開発されたオープンソースのHTMLレンダリングエンジン群の総称である。HTML、CSS、XUL、JavaScriptなどを解釈する。 なお、Geckoは英語でヤモリの意味を持つ。 当初、Mozillaは1998年に公開されたNetscape 5.0へ向けて開発中だったソースコードを元に開発されていたが、軽量化のために当時買収したDigital Style社のエンジンをベースにして新規に書かれた。これがGeckoである。パース部分はW3Cによる勧告に合致することを目標に作成されている。 1.8系列以前ではWeb Standards ProjectがCSS 2.1のテストとして用意したAcid2に合格していなかったが、1.9系列からは合格している。 ウェブブラウザ以外でも、HTMLやCSSなどを表示に用いるソフトウェアでGeckoが採用されている。 XULはアプリケーションのGUIをXMLで記述した形式である。イベントハンドラを用いてJavaScriptを呼び出すことで、HTMLとJavaScriptを組み合わせたWebアプリケーションと同じ感覚でネイティブのGUIに近いアプリケーションを製作することができる。XULはアプリケーションとしてローカルから読み出されるほか、Web上のファイルであっても表示できる。(ただしファイルの読み書きなどの特権は利用できない。) HTML・CSSのレンダリングや通信部分、ファイルの読み書きなどのAPIはC++で記述されており、それぞれコンポーネント化されている。これらのAPIは他のC++コードから(必要なものだけを)呼び出せるほか、XULアプリケーションなどからJavaScriptなどスクリプト言語を通じて呼び出すことができる(XPCOM)。FirefoxなどではXULアプリケーションから実際に呼び出しているほか、XPCOM 対応でビルドされた JavaScript シェルから利用することもできる。 XUL, CSSでスタイルづけされたHTML, MathML, SVGを表示することができる。 HTMLの描画は(複雑な)ペインターアルゴリズムが採用されている。HTMLがCSSの「ボックス」群に変換しレイアウトを決定すると、描画順序を決めたリストを構成し、リストができると実際に描画される。 描画バックエンドにはcairoが使われている。半透明、曲線描画などにその技術が使われている。 スクリプト処理部分はSpiderMonkeyと呼ばれる。ECMAScript 3 に準拠する。Firefoxに組み込まれた状態では、特権管理により、WebページのJavaScriptを実行できるだけでなく、ブラウザ本体や拡張機能をJavaScriptで記述することができる。アプリケーション側からもWebページのJavaScriptオブジェクトに(間接的に)アクセス可能である。2007年ごろからWebアプリケーションの普及によりJavaScriptの性能が話題になり始めたが、Gecko 1.9.1 (2008)以降、JIT方式のJavaScriptコンパイラ/インタプリタが搭載され、性能が向上した(TraceMonkey)。Gecko 2.0 (aka 1.93a) / Firefox 4 (2010) では低速だがコンパイルの早いJITコンパイラ(JägerMonkey)とTraceMonkeyを組み合わせて使う方式になった。Gecko 9 / Firefox 9 (2011) では型推論が導入され、リリース製品に組み込まれた。 このエンジンを使用したユーザーエージェントの多くはユーザーエージェント名で使用環境などを確認できる。 Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.8.1.1) Gecko/20061204 Firefox/2.0.0.1 この例では、Windowsは対象のプラットフォームがMicrosoft Windowsであること、Uは強いセキュリティレベルであること、Windows NT 5.1は使用しているシステムが Windows NT 5.1であること、jaは利用している言語の設定が日本語であること、rv:1.8.1.1はGeckoのリビジョンが1.8.1.1であること、Gecko/20061204はビルドされた日付が2006年12月4日であること、Firefox/2.0.0.1は以上のようなGeckoを搭載したFirefox 2.0.0.1であることを表している。 Microsoft Windows上で動作する プラグイン。Mozilla ActiveX Projectにより開発されている。ActiveX をGeckoのブラウザ上から管理したり、Geckoのレンダリングエンジン部分をコンポーネントとしてWindowsアプリケーションに組み込む目的で開発された。 ActiveXの管理機能は安全性の確認されたインストール済みのActiveXをブラウザから管理するためのもので、ブラウザからActiveXを実行したりインストールしたりするためのものではない。 ブラウザエンジンとしては、XUL上のアプリケーションではなく、Windowsネイティブのアプリケーションとして組み込むことによってより軽量に使用することを可能にした。mozctl.dll をソフトウェアに接続することでコンポーネントとしての Gecko エンジンが利用できる。Webブラウザに使われる場合が多いが、Webページの表示確認など、補助的な機能として用いられた例もある。 Mozilla ActiveX ControlのHTMLレンダリングエンジンとしての機能はXULネイティブなプログラムと同一であり、設定項目なども共通である。ただし、標準ダイアログボックスなどの表示はXULネイティブのものと異なる。
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欧州連合加盟国
欧州連合加盟国(おうしゅうれんごうかめいこく)とは、1951年署名のパリ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体に事実上の起源を持つ欧州連合(EU)に加盟している27の主権国民国家。原加盟国数は6で、その後7度の拡大が繰り返された。その拡大の中でも2004年5月1日のものは10か国が加盟する最大のものであった。欧州連合は21の共和国、5つの王国、1つの大公国で構成されている。 クロアチアは2013年7月1日に加盟しており、最も新しい加盟国である。このほかにも多くの国が欧州連合への加盟協議を続けている。加盟の過程はヨーロッパの統合と表現されることもある。しかしながら、この「ヨーロッパの統合」という表現はヨーロッパ規模の諸機関に権限を段階的に集中させている欧州連合加盟国のそれぞれの国家としての協力の強化という意味としても用いられている。欧州連合に加盟することが認められるまでに、加盟を希望する国家はコペンハーゲン基準と呼ばれる経済的・政治的条件を満たさなければならない。この条件のもとでは、加盟候補国は宗教権力によらない、民主的な体制を持つ政府、またそのような政府に対応する自主性や統治機関、そして法の支配の尊重を備えていなければならない。欧州連合条約の規定では、連合の拡大は欧州議会の同意と既存の加盟各国の合意が必要とされている。 拡大は欧州連合の政治展望において重要な議題である。欧州連合は「インナー6」と呼ばれる、共同体の設立に積極的な諸国によって設立された。当初共同体に対して懐疑的だったインナー6以外のヨーロッパ諸国が加盟に方針転換したのは欧州経済共同体の設立から10年が経過したのちのことであったが、その当時は共同体のほうが拡大に懐疑的な姿勢を見せていた。フランス大統領シャルル・ド・ゴールはイギリスの加盟がアメリカのトロイアの木馬となることを恐れ、イギリスの加盟に拒否権を行使した。ド・ゴールが大統領を退任したことにより、ようやくイギリスは3度目の加盟申請が認められた。 イギリスと同時にアイルランド、デンマーク、ノルウェーが加盟を申請していた。ところがアイルランド、デンマークはイギリスとともに加盟を果たす一方で、ノルウェーは国民投票で反対され、このことは国民によって加盟が拒否された初の事例となった。その後グリーンランドが1985年に共同体から離脱するも、冷戦の終結までにさらに3か国が共同体に加盟した。1987年にはモロッコが加盟を希望し、このとき共同体の対象となる地理的な範囲が検討されたが、モロッコはヨーロッパの国ではないとして加盟が認められなかった。 1990年になると冷戦が終結し、ドイツ再統一により東ドイツの各州が共同体に組み込まれた。また従来中立的な立場であったオーストリア、フィンランド、スウェーデンが新たに発足した欧州連合に加盟した。その一方でスイスは1992年に加盟を申請したが、国民投票で欧州経済領域への参加に反対するという結果を受けて加盟のための協議が凍結され、また再度加盟を申請していたノルウェーも再び加盟の是非を問う国民投票で反対された。その後旧東側諸国や旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していた諸国が欧州連合への加盟に動き出した。そして2004年5月1日にこれらの10の国々が欧州連合に加わり、東西のヨーロッパの統合を示す出来事となった。 2007年1月にブルガリアとルーマニアが、2013年7月にクロアチアが欧州連合に加盟し、欧州連合は28か国体制となった。その後も欧州連合は西バルカン諸国の加盟を優先的に協議している。アイスランドは2009年7月23日に正式な加盟申請を行い、加盟候補国として承認されたが、2015年3月12日、加盟申請を取り下げた。 コペンハーゲン基準によると欧州連合への加盟は、安定し、自由市場と、法の支配と人権を尊重する民主主義を有するあらゆるヨーロッパの国に対して開かれたものとされている。さらに加盟を希望する国はアキ・コミュノテールの受容やユーロの導入といった加盟国の義務を受け入れなければならない。 2022年12月現在、トルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニア、ウクライナ、モルドバ及びボスニア・ヘルツェゴビナの8か国は正式な加盟候補国として認定されている。 トルコは1980年代から加盟を希望しており、長く交渉を重ねてきたが、正式な加盟協議に入ったのは2004年のことだった。 北マケドニアは2006年に加盟候補国となっている(当時の国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」)。長らく隣国ギリシャとの間で国名改称問題を抱えており加盟に際する課題となっていたが、2018年6月12日に国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャと合意し、両国の議会承認等を経て2019年2月12日に改名が発効した。2020年3月26日、EUは北マケドニアとの加盟交渉開始に合意した。 モンテネグロは2011年10月にEUと本格的な加盟交渉が開始された。2020年6月現在、該当するアキ・コミュノテール全33分野中33のすべての分野で交渉を開始しており、そのうちの3分野の交渉は暫定的に終了していることから、加盟候補国8か国のなかで最も交渉が進展している国といえる。 セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の大物戦犯であるラトコ・ムラディッチとゴラン・ハジッチの拘束が評価され、2011年10月12日欧州委員会から加盟候補国の地位を提言されたものの、2008年にセルビアから一方的に独立を宣言したコソボとの関係改善および政治対話の進展が加盟交渉開始の条件とされ、正式な加盟申請を行った2009年12月22日から2012年2月の段階まで加盟候補国に認定されていなかったが、関係改善を評価され、2012年3月1日のEU首脳会議において正式な加盟候補国に承認された。2014年1月21日から加盟交渉を開始している。 アルバニアは2009年4月28日EUに加盟を申請し、2014年6月27日に加盟候補国として承認された。2020年3月26日、EUはアルバニアとの加盟交渉開始に合意した。 さらに2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けて、2022年2月28日にウクライナが、3月3日にモルドバがそれぞれEUに加盟申請し、6月23日、両国はEUの加盟候補国として承認された。 ボスニア・ヘルツェゴビナは、2016年2月15日EUに加盟を申請し、2022年12月15日に加盟候補国として承認された。 ジョージアとコソボはEUの潜在的加盟候補国として見なされているが、正式な加盟候補国としての地位は与えられていない。 ジョージアは2022年3月3日、EUに加盟申請した。6月23日、欧州理事会はジョージアに対し、将来的にEUに加盟する見通しがあると認めた。 コソボは現在、国連に加盟している110ヶ国から独立を承認されているが、EU既存加盟国の間ではコソボの国家承認について対応が分かれている。EU加盟国中23カ国がコソボの独立を承認しているが、一方で、バスクやカタルーニャといった国内地域に民族問題を抱えるスペイン、キプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャの5カ国は独立を承認していない。このためEUによる機関承認は見送られている。 コソボは2022年12月15日、EUに加盟申請した。 1973年、英国は欧州共同体(EC)に加盟し、1975年の国民投票によって継続的な加盟が支持されたが、2016年6月23日の国民投票の結果、投票者の51.9%がEUを離脱することを選択したことにより、2020年2月1日午前0時(CET)にイギリスはEUを離脱した。 多くの国が加盟国と変わらないほどの欧州連合と密接な関係を持っている。ノルウェーは欧州連合への加盟が実現しなかったことを受けて、同じく欧州連合に加盟していないアイスランドとリヒテンシュタイン、スイスと欧州連合加盟国が参加する欧州経済領域に加わった。欧州経済領域では非加盟4か国に対して欧州連合の域内市場に参入すること、また欧州連合の域内市場における4つの分野での自由を認めている。そのかわりに4か国は負担金の支払や関連する欧州連合の法令の適用を受け入れることが義務づけられている。このように法令を受け入れている状況は、4か国が直接的に立法過程に参加することができず、ブリュッセルから新しい法令がファクシミリで送られてくることから「ファックス民主主義」と揶揄されている。 各加盟国は欧州連合の諸機関に対して代表を出している。正式な加盟国になるとそれぞれの政府は欧州連合理事会や欧州理事会に議席が与えられる。全会一致による決定がなされない場合においては、人口が小さい加盟国よりも人口が大きい加盟国に票数がより多く与えられる多数決方式が適用される(ただしこのときの各国の票の配分は人口に比例しておらず、人口の小さい加盟国が相対的に人口の大きい国よりも多くの票数が与えられている)。 これと同様に各国はそれぞれの人口に基づいて欧州議会の議席数が割り当てられている。ただし欧州議会議員は1979年以降、普通選挙で選出されており(1979年以前は各国議会が選出していた)、政府には任命権が与えられていない。他方で各国政府は委員長の意向に従って欧州委員会に委員を、ほかの加盟国に合わせる形で欧州司法裁判所に判事を、欧州会計監査院に委員をそれぞれ1名ずつ出している。 かつては規模の大きい加盟国からは欧州委員会委員を2名出していた。ところが委員会の組織が肥大化したため、この大国に与えられていた特権は廃止され、各加盟国は平等に委員を出すことになった。しかしながら欧州司法裁判所の法務官が大国から出されるという制度は続けられている。なお、欧州中央銀行の政策理事会は各加盟国の中央銀行総裁で構成されている。 従来より規模の大きい加盟国は交渉にさいして大きな影響力を行使してきたが、規模の小さい加盟国は公平な仲介者としての機能を果たし、またそれらの加盟国の市民は大国との間での競合を回避するような敏感な首脳を選出してきた。 基本条約では、すべての加盟国はそれぞれ主権を有し、その価値は等しいとうたっている。しかし欧州連合は欧州共同体の分野において超国家的な制度に基づいており、各加盟国は連合の諸機関に代表を送って、その主権を一体的なものとして連合の諸機関に委ねている。これらの機関はヨーロッパ規模での立法やその執行についての権限が与えられている。加盟国が連合の法令を遵守しなかった場合には、当該加盟国には制裁金が科されたり、あるいは連合の資金が引き揚げられることになる。さらに極端な事例では、当該加盟国の票決権や加盟国としての資格を停止する規定も存在する。欧州共同体分野以外(外交政策、警察、司法分野)では、主権の移管の程度は低く、これらの分野の問題では政府間の合意や協力によって対応される。 ところがそもそも主権というのはそれぞれの国家に由来するものであり、加盟国は望めば欧州連合を脱退するということもあり得る。そのためある法令がある加盟国にそぐわないものであるとされた場合、当該加盟国は法令の適用を回避するために欧州連合から脱退することがあり得る。しかしながら加盟していることによる利益がその法令による不利な影響を上回ることもある。さらに現実政治において、関係の向上やほかの問題における自らの立場を強化するために、利権や政治的圧力といった要素により加盟国はある分野において利益につながらないものでも受け入れざるを得なくなる。
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トマト
トマト(蕃茄; 英語: tomato; 学名: Solanum lycopersicum)は、南アメリカのアンデス山脈高原地帯原産のナス科ナス属の植物、また、その果実のこと。アカナスなどの別名でもよばれる。多年生植物で、果実は食用として利用される。緑黄色野菜の一種である。リンネの『植物の種』で記載された植物の一つである。 英名のトマトの語源は、メキシコ土語であるナワトル語で「ホオズキの実」「膨らんだ果実」を意味する “tomatl” (トマトゥル)に由来する。 ヨーロッパでは当初ポモ・ドーロ(金色のリンゴ)、ポム・ダムール(愛のリンゴ)とよばれた。イタリア語では現在でもその名残でポモドーロ(pomodoro)とよばれる。リトアニア語のポミドーリ(pomidori)など周辺言語への派生もある。 日本語では唐柿(とうし)、赤茄子(あかなす)、蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)、珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)などの異称もある。 小さなトマトの呼称「プチトマト」はタキイ種苗が小さなトマトの品種につけた商品名がはじまりである。 和製外来語であり、日本でしか通じない。プチ(petit)はフランス語に由来するが、フランス語版Wikipediaでは「Tomate cerise」となっている。英語名は「cherry tomato」。 原産地は南米ペルーのアンデス高原とされている。代表的な夏野菜で、真っ赤に実る果実は長期間にわたって収穫ができ、リコピンやβ-カロテン、ビタミンCなどの栄養素を豊富に含む。日本では一部の地域を除き冬に枯死する一年生植物であるが、熱帯地方などでは多年生であり適切な環境の下では長年月にわたって生育し続け、延々と開花と結実を続けることができる。1本仕立てで1年間の長期栽培を行うと、その生長量は8メートル - 10メートルにも達する事となる。 通常の栽培品種(支柱に誘引するタイプ)では発芽後、本葉8葉から9葉目に最初の花房(第一花房)が着き、その後は3葉おきに花房を着ける性質をもつ。地這栽培用の品種では2葉おきに花房を着ける品種も多い。 また、各節位からは側枝が発生する。側枝では5葉目と6葉目に花房が着き、その後は3葉おきに花房を着けるが、側枝は栽培管理上、除去されることもある。株が高温などのストレスを受けると正常な位置に花が着かない(花飛び)現象が発生するため、株が適切に生育しているかどうかを示す指針となる。 トマトは長らく独自の属(トマト属 Lycopersicon)に分類されてきたが、1990年代ごろからの様々な系統解析の結果、最近の分類ではナス属(Solanum)に戻すようになってきている。元々リンネはトマトをナス属に含めて lycopersicum(ギリシャ語 lycos「狼」 + persicos「桃」)という種小名を与えたが、1768年にフィリップ・ミラーがトマト属を設立して付けた Lycopersicon esculentum が学名として広く用いられてきた。この学名は国際藻類・菌類・植物命名規約上不適切な(種小名を変えずに Lycopersicon lycopersicum とすべき)ものであったが、広く普及していたため保存名とされてきた。しかし系統解析によりトマト属に分類されてきた植物がナス属の内部に含まれることが判明した。ナス属を分割するか、トマト属を解消してナス属に戻すかの処置が必要になった。したがってリンネのやり方に戻して、学名も Solanum lycopersicum とした。 植物学において近年、トマトはナス科のモデル植物として注目されている。Micro Tom は矮性で実験室でも育成が可能な系統として利用されている。また、国際的なゲノムプロジェクトも行われ、ゲノム(約3万5千個の遺伝子の位置・構造、7億8千万の塩基配列)を解読した。 トマトにはアルカロイド配糖体(トマチン)が含まれる。その含量は品種や栽培方法によって異なるが、かずさDNA研究所による測定例では、花(1,100 mg/kg)、葉(975 mg/kg)、茎(896 mg/kg)、未熟果実(465 mg/kg)、熟した青い果実・グリーントマト(48 mg/kg)、完熟果実(0.4 mg/kg)という報告がされている。 トマチンには幾つかの菌に対する抗菌性 と昆虫への忌避性があるが、トマトを食害する害虫は存在する。野生種においては、完熟果実においてもトマチンが相当量残留する。通常食用にされている品種の完熟果実のトマチン量はごく微量であり、ヒトへの健康被害は無視できる。 トマトは、原産地である南米のアンデス山脈や、ガラパゴス諸島の雨の降らない乾燥地帯に自生していた。メキシコへは紀元前1600年ごろに伝わり、メキシコのアステカ族がアンデス山脈からもたらされた種からトマトを栽培し始めた。新大陸の中でもトマトを栽培植物として育てていたのは、この地域に限られる。16世紀にアステカに入ったサアグン修道士の記録から、当時から複数種類の栽培種が開発されていたと見られる。 ヨーロッパへは、クリストファー・コロンブスによる南米大陸発見によりもたらされ、1519年にメキシコへ上陸したスペイン人エルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。当時トマトは「poison apple」(毒リンゴ)ともよばれていた。なぜなら裕福な貴族達が使用していたピューター(錫合金)食器には鉛が多く含まれ、トマトの酸味で漏出して鉛中毒になっていたためである。鉛中毒の誤解が解けた後も、有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く、最初は観賞用とされた。 しかし、イタリアの貧困層で食用にしようと考える人が現れ、200年にも及ぶ開発を経て現在の形となった。これがヨーロッパへと広まり、一般的に食用となったのは19世紀以降のことである。南ヨーロッパでは加熱調理用、北ヨーロッパでは生食用の品種が発達していった。 一方、北アメリカではその後もしばらくは食用としては認知されなかった。フロリダ方面に定着したスペイン系入植者やカリブ海経由で連れてこられた黒人奴隷がトマトを食べる習慣をゆっくりと広めていった。実験精神の旺盛なトーマス・ジェファーソンは自らの農園でトマトを栽培し、ディナーに供した。1820年、ニュージャージー州の農業研究家ロバート・ギボン・ジョンソン(英語版)は、セイラムの裁判所前の階段でトマトを食べて人々に毒がないことを証明したとされるが、詳しい資料は残っていない。 1893年当時のアメリカでは輸入の際に果物への関税がなく、野菜には関税が課せられていた。このため、トマトの輸入業者は、税金がかからないように「果物」と主張。これに対して農務省は「野菜」と主張した。米国最高裁判所の判決は「野菜」。判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれていた。 日本には江戸時代の17世紀初め(寛文年間ごろ)に、オランダ人によって長崎へ伝わったのが最初とされる。狩野探幽の『草花写生図巻』(1668年)には観賞用のトマトが描かれ、また貝原益軒の『大和本草』(1709年)にはトマトについての記述があり、そのころまでには伝播していたものと考えられている。ただ、青臭く、また真っ赤な色が敬遠され、当時は観賞用で「唐柿」(とうがき)や、「唐茄子」(とうなすび)とよばれていた。中国では、現在も「西紅柿」(xīhóngshì)と呼んでおり、西紅柿炒鶏蛋(鶏卵との炒め物)などとして料理される。 なお、台湾や香港では「番茄」(fānqié)とよばれ、番茄牛肉通心粉(牛肉とマカロニとの煮物)などの料理がある。 日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で、1868年(明治元年)に欧米から9品種が導入され、「赤茄子」(あかなす)とよばれたが、当時はトマト独特の青臭い匂いが強い小型の品種であった。そのトマト臭に日本人はなじめず、野菜として普及したのは19世紀末(1887年ころ)からとされる。さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和時代からである。20世紀に入ってから、アメリカから導入された桃色系大玉品種「ポンテローザ」とその改良種「ファーストトマト」が広く受け入れられたことから、トマトの生産は日本各地で普及していき、第二次世界大戦後になってトマトの需要が飛躍的に増大していった。1960年代は生産地が都市から遠くなったことで果実を未成熟で収穫して出荷する「青切り」が定着するようになり、1970年代になると食味向上や着色均一化のニーズが高まった。そこで消費者のニーズに応える形で、1985年(昭和60年)にタキイ種苗の開発によって樹上完熟でも収穫できる「桃太郎」が誕生した。 トマトは米国で最初に認可を受けた遺伝子組み換え作物である。1994年5月、FDA(連邦食品医薬品局)が承認したFlavr Savrというトマトで、長期間の保存に適した品種であった。ただし、開発費用などを回収するために通常のトマトよりも高い価格に設定されたため、商業的にはそれほどの成功を収めなかった。 果皮の色による分類では桃色系・赤系・緑系に大別される。 桃色系トマトの果実は、果肉が赤色、果皮が無色透明のため見た目が桃色を呈する。皮が薄くて香りが弱く甘味があり、酸味や青臭いトマト臭が少なく生食に向いているという特徴がある。 一方の赤系トマトの果実は、果肉が赤色、果皮が黄色で見た目が濃い赤を呈する。皮が厚く酸味や青臭さが強いが加熱調理向きとされる。厚くて丈夫な果皮、酸味と香りが強く、ジュースやケチャップなどの加工用にも使われる。赤系トマトは酸味と甘味が強く、加工用としての需要が多い欧米では主流である。しかし近年になって赤系トマトには、抗酸化作用をもつとされる成分リコピンが多量に含まれていることから、利用が見直されている。 その他に白色、黄色、オレンジ色、緑色、褐色、複色で縞模様のものがある。見た目が黄色いものは、果肉が黄色で果皮が透明な場合になり、見た目がオレンジ色なものは、果肉が黄色で果皮が黄色の場合である。1980年以降に市場に多く出回るようになったミニトマトは、赤色系がほとんどであるが、黄色や桃色種、洋なし型、プラム形など、色や形も様々な品種がある。 世界では、8,000種を超える品種があるとされ、日本では120種を超えるトマトが品種登録されている(農林水産省、2008年5月時点)。これは、野菜類の登録品種数の中でも、目立って多い。一方で一代雑種のF1品種は登録されないことが多く、桃太郎などの有名な品種の登録はない。 世界には日本で多く流通している「桃太郎」に代表される桃色、丸型のトマト以外のトマトが非常に多く、むしろ、桃色以外の品種の方が圧倒的に多い。また、形も日本では見られない、プリーツとよばれるヒダが大きく入ったものが数多くあったり、トマトソースにするための細長い形の品種も各色揃ったりしている。欧米では生食よりも調理用の品種が多く扱われており、加熱調理すると粘りとうまみが出て、それだけでもソースにもなる。 世界のトマトの味は、日本の大玉品種のように甘さに重点を置いたものばかりではない。旨味、香り、酸味、食感、見た目を楽しませてくれる品種が数多く存在する。また、これらの品種は固定種であり、自家採種可能であり、代々種を引き継いで育種することができる。 果実の大きさによる分類では大玉トマト(200 g以上)、ミニトマト(10 - 30 g)、中玉(ミディ)トマト(50 g内外、前2者の中間)、に分類される。ただし、栽培方法によって果重は変化するため、品種とは関係ない分類である。もっとも、それぞれの果実の大きさに適した品種というものは存在し、例えばミニトマトに適した品種としてパキーノ地方原産のパキーノトマト(チェリートマト)も生産されている。マイクロトマトと称して流通しているものはSolanum pimpinellifoliumであり、Solanum lycopersicum(Lycopersicon esculentum)とは別種である。水を極力与えず高糖度化をはかると、大玉に適した品種であっても、果実が小さくなる。 小さく甘みの強いフルーツトマトとは、栽培の工夫によって糖度8以上に高糖度化をはかったトマトの総称のことであり、品種名を示すものではない。産地によっては特産野菜として力を入れており、例えば高知県高知市一宮(いっく)地区の徳谷トマトは、品種を問わず一宮地区の特に徳谷地区の塩分を含む土壌で、あえて成長を遅く、実が小ぶりになるように栽培して糖度を高めたものである。また塩トマトは、熊本県八代地域の干拓地など塩分の多い土壌で育成されたトマトのうち特別に糖度が高いもので、フルーツトマトの元祖といわれ、品種は主に「桃太郎」を使っている。 十分な日照と風通しの良い場所を選び、夏に果実を収穫するため、栽培期は春の種まきから晩春に苗を植えて育てる。収穫は初夏から始まり初秋まで次々と実がなり、1株だけでも長い間収穫できる。芽かきを行うことと、追肥を切らさないことが重要で、栽培難度はやや難しいが、上手に育てれば1株あたり大玉トマトで15 - 20個、ミニトマトであれば100 - 150個ほど収穫が見込める。他のナス科作物と同様に連作は不可で、連作障害を防ぐためには3 - 4年ほど同じ畑を空けなければならない。畑は深く耕して元肥を入れ、根を深く張らせるとよい。施設栽培や早い時期の露地栽培で着果しにくいときは、ホルモン剤処理や振動を与えて受粉を促すか、ハウス栽培ではマルハナバチなどの訪花昆虫を放してを着果を促す。ミニトマトであれば、大型のプランター(コンテナ)や大きめの鉢で栽培することも可能で、鉢に支柱を立てて、日当たりの良い場所で水切れに注意しながら育てていく。トマトは、海水に浸かった土地でも生育できる作物としての特性も知られている。 栽培適温は昼温25 - 30 °C、夜温13 - 13 °Cとされる。気温が32 °C以上の環境では花粉稔性の低下により着果障害や不良果が増加し、最低気温が8 °Cを下回ると幼花の発達が損なわれ障害を受ける。適湿度は65 - 85 %でありこれ以下では生育が劣り、これ以上では病気が発生しやすくなる。果菜の中では強い光を好む性質があり、日照不足になると軟弱・徒長となり、実のつきが悪くなったり生育不良を起こしやすい。 極めて雨量が少ない南米アンデスが原産のトマトは、多雨を嫌う性質がある。潅水量が多すぎると水分を吸収しすぎて果実が割れ(裂果)、少ないと障害果が発生するため、高品質な果実を作るためには潅水量の細かい制御を必要とする作物である。潅水量を減らすことで高糖度な果実を生産することができるが、収量は減少する。雨が少ない原産地の風土と同様に、灌水量を少なくすると甘みを凝縮させることができ、また根の生長の制限や肥料の制限してトマトにストレスを与えると糖分を蓄えさせることができる。水耕栽培では養液の浸透圧を制御することで高糖度化を行うことができる。 種まき時期は早春(3月)で、室内などの暖かい場所でポットなどに2 - 3粒すつ蒔いて、芽が出たら間引いて1本にする。春(4月下旬 - 5月上旬)に苗の植え付けが始まり、支柱を立てて茎が揺れないように紐で縛り付ける。苗が根付くと、茎がどんどん伸びてきて倒れてしまうので、都度支柱に紐で縛り付けるようにするが、茎が太くなるため食い込んだら紐を縛り直す。春から夏にかけて、すべての葉の付け根からわき芽が伸びてくるようになると、栄養が分散して実つきが悪くなることを防ぐため、わき芽が小さなうちに摘んで取り除いて主枝を1本にまとめる。ただし、茎の途中から出るのは果実がつく花房なので、これを摘み取らないように注意する。またトマトは多くの果実を付けながら延々成長が続くため、最初の実がつき始めたら、2 - 3週間に1回ほど追肥を行っていく必要があり、収穫期にカルシウム不足になると尻腐病が発生する場合があるため、カルシウム分の多い肥料を与えるようにする。果実は赤く熟したものから、順次ヘタの上からはさみで切り取って収穫を行っていく。実が熟し始めるころから灌水量を減らして、乾燥気味に育てると味が良くなる。 病虫害としては、幼虫が果実内部を食い荒らすトマトキバガ(2021年に日本国内でも初確認)。 農林水産省の野菜生産出荷統計によれば、トマトの作付け面積は、1985年ごろから減少傾向にあり、ピーク時の75 %程度にまで落ち込んでいる。これは飛躍的な増加を見せた1960年代後半以前のレベル(15,000ha以下)である。収穫量ベースでも、ピーク時の1980年代の80 %程度、700,000トン - 800,000トン程度を推移している。近年、加工用トマトとミニトマトは、作付面積、収穫量ベースでそれぞれ10 %程度を占める。また、生産量のトップは熊本県でありシェアは13.0 %(平成21年度)を占める。続いて、北海道、茨城県が共に7.0 %となっている。 時期別の代表的な産地は、夏秋トマトは北海道、青森県、岩手県、福島県、岐阜県で、冬春トマトは栃木県、愛知県が代表産地であり、夏秋・冬春ともに出荷量が特に多いのが茨城県、千葉県、熊本県である。加工用トマトは長野県と福島県が主産地で、ミニトマトは熊本県と愛知県の出荷量が多い。日本は施設栽培が主流に行われており、年間を通じて安定的に供給されている。外国産は、韓国、オランダ、アメリカ合衆国、ニュージーランドからの輸入が多い。 総務省の2000年家計調査によれば1世帯当たりの年間購入量(重量ベース)では、トマトは生鮮野菜類中5位に位置する。これは一般消費者家庭でダイコン、ジャガイモ、キャベツ、タマネギに次いでトマトが多く消費されることを示唆するものである。出荷量、収穫量ベースで見ても、トマトはこれらの野菜に次いで5位を占めている(平成13年野菜生産出荷統計)。 また、家計調査によれば、野菜の主要品目が10年前と比べて軒並み減少または横ばい傾向にある中、ネギと並んで目立った増加を見せている数少ない野菜類の一つである。 収穫量上位10都道府県(2012年) 冬春トマト収穫量上位10市町村(2012年) 夏秋トマト収穫量上位10市町村(2012年) トマトは世界で最も多く生産されている野菜である。国際連合食糧農業機関 (FAO) によると、生産量の多い国は、中華人民共和国が最大生産国で、続いてインド、アメリカ合衆国、トルコが多い。1人あたりのトマト年間消費量は世界平均で18キログラム (kg)、1人あたりの消費量が最も多い国はトルコで99 kg、日本は10 kgである。 世界のトマトの収穫量上位10か国(2012年) 日本の収穫量は26位で722,300t、作付面積は43位で12,000haである。 日本では生食されるほか、サラダや焼きトマトなど、そのままを味わう料理も数多くある。日本以外では加熱して食べるのが普通で、生食はほとんどしない。当然、加熱に適した品種の栽培が主流で、生食用の品種自体が珍しい。手を加えた料理でよく知られているものにメキシコ料理のサルサ、イタリア料理の各種ピザ、パスタ用ソース、インドのカレーの一部、ヨーロッパのシチューの一部などがある。中華料理でもトマトと卵を合わせた炒め物やスープにされる。中央アジアではラグマンなどに利用されている。 ケチャップ、トマトソース、ピザソースなどに用いられるためトマトの年間消費量は1億2000万トン以上と、野菜の中でも世界1位である。グルタミン酸の濃度が非常に高いためうま味があること、酸味・水分があることなどがその理由として挙げられる。 好きな野菜ランキングでは子供大人ともに1位に挙がることが多く、人気がある一方で苦手な野菜としても上位に挙がることが多く、好みが分かれる一面がある。 品種によって酸味、甘みの度合いがかなり異なり、また皮の硬さも異なるので、用途に適したものを選んで使うのがコツとなる。例えば、酸味が強く皮が厚いイタリアントマトは加熱した料理に向いている。仮に、生食用として売られている品種を加熱調理に利用する場合は種子周辺のゼリー質を捨てずに利用するのがポイントである。 美味しいトマトの見分け方として、ヘタが鮮やかな緑色で張りがあるものが新鮮で、果実の皮全体につや張りがあり、手に持ったときに重くてヘタのそばまで赤いものが、味や栄養価の面においても良品とされる。また、果実の先端から放射状に入る筋は、種が入っている子質と同じ数だけあり、筋の数が多いほど甘味があり、味も良いといわれている。緑色がかった未熟なトマトでも数日ほど常温で追熟させることで少しは美味しくなる。 トマトの加工食品として、トマトジュース、トマトケチャップ、トマトソース、トマトピューレ、ドライトマト(英語版)などがある。また缶詰としてホールやカットやジュースが販売されている。 生でサラダやジュースにするほか、スープやシチューなどの煮込み料理、オムレツや炒め物など幅広い。トマトには甘味、酸味、グルタミン酸などの旨味成分が含まれているので、料理の味わいを深める調味料としても使われる。日本では生食されることが多いトマトであるが、欧米では古くからトマトがもつ食材の旨味を引き出す効果が知られ、料理に加えたり、トマトソースにするなどの調味料的な使われ方のほうが多い。 トマトに含まれる酸味成分のクエン酸・酒石酸や、食物繊維の一種ペクチンは、肉や魚介の臭みを和らげ、料理の味を爽やかにする効果がある。加熱すると旨味成分のグルタミン酸の働きによって特有の旨味が引き出され、グルタミン酸と相性の良いイノシン酸やコハク酸を多く含む肉や魚介類などの食材と合わせて調理すると、相乗効果でより一層旨さが引き立つ。また炒め物やシチューなどのように油で調理したり加熱すると、トマトに含まれるリコピンやβ-カロテンの吸収を高めるのに役立つ。 スープやソースなど、そのままでは口当たりが悪くなる料理では、下ごしらえにトマトの皮をむいたり、種を取り除いたりする。 調理器具にアルミ製の鍋を使用して長時間加熱調理すると、トマトがもつ酸味によりアルミに腐食作用が働いて金属味を帯びることもある。 生の場合、可食部100グラム (g) あたりのエネルギー量は19 kcal (79 kJ)で、水分含有量は94.0 gを占める。栄養素は比率で炭水化物が4.7 gと最も多く、次いで蛋白質0.7 g、灰分0.5 g、脂質0.1 gと続く。食物繊維1.0 gのうち、水溶性は0.3 g、不溶性は0.7 gである。 エネルギーは低めで、トマト1個食べても約40 kcal程度である。他の野菜類と同様に、トマトはビタミンCを多く含み、時間をおいても損失が少ないのが特徴である。さらに、β-カロテン、カリウム、ビタミンE、ルチンなどが豊富で、ヨーロッパでは「トマトが赤くなると医者が青くなる」という格言があるほど栄養価が高いことで知られている。また他の野菜では見られない、赤い色素でポリフェノールの1種であるリコピンが含まれていることでも有名である。ミニトマトは、桃太郎などの大玉トマトに比べて、カロテン、ビタミンC、カリウム、食物繊維などが豊富である。 トマトの栄養的価値の大きな特徴は、なかなか一度にはたくさん食べきれない葉物野菜とは異なり、1回の食事で多くの量を摂ることができる点にある。また、ハウス栽培が盛んに行われているため、1年中を通して食べられる点も大きな特徴である。ただし、トマトの旬の時期といわれている夏場に、ハウス栽培ものよりも栄養価が高い露地栽培ものが多く出回ることから、トマトの栄養的価値は夏場に高くなるといわれている。 トマトに含まれる酸味成分はクエン酸で、食欲を増進させる作用があり、夏場に食欲がないときに冷やしたトマトが食事をおいしくするのに役立つ。またクエン酸は疲労回復の働きが期待でき、血糖値の上昇を抑える作用があるといわれる。日本において、トマトジュースやサプリメントなど一部のトマト製品は血中コレステロールや血圧などの改善効果を謳う機能性表示食品として販売されている。 トマトの赤い色素リコピンの他に、黄色い色素カロテンも多く含む緑黄色野菜である。トマト100 g中に540 μgほどのカロテンを含んでおり、1個食べれば緑黄色野菜の1日推奨摂取量のカロテンを十分摂取できる。カロテンは体内でビタミンAに変わり、目や皮膚、消化器官の粘膜の働きを活発にして免疫機能を助ける働きをすることで知られている。ビタミンC量は葉物野菜ほどではないが、比較的豊富に含まれていることから、トマトのビタミンAとビタミンCが相互に影響し合って、強い抗酸化作用を発揮してがん予防や老化防止に効果を発揮する野菜と認識されている。 リコピンはカロテンと同じカルテノイド色素で、抗酸化力に関してはカロテンよりも強力だとの見方がされており、加熱にも強いため、煮たり焼いたりしても抗酸化力があまり低下しないという長所がある。真っ赤な調理用トマトに特に多く含まれるカロテンとリコピンは、油と一緒に調理したり加熱調理をすると、より効率よく栄養摂取できる。 トマトにはビタミン様物質であるルチン(ビタミンP)とビオチン(ビタミンH)が含まれている。ルチンは高血圧予防や動脈硬化の進行を遅らせる作用が知られ、ビオチンはコラーゲン生成を助けて肌を健康に保つのに役立つといわれている。ミネラルでは体内のナトリウムの排出を促すカリウムを多く含み、過酸化物質を分解するセレンを含んでいるので、生活習慣病予防効果がある野菜ともいわれている。 欧米で多く使われている調理用トマトは、旨み成分のグルタミン酸やアスパラギン酸を豊富に含んでおり、加熱調理することでさらに旨みが強くなる。 トマトに含まれるリコピンは、1995年にがん予防の効果が指摘されて以来、注目を集めるようになったが、有効性に関しては「有効性あり」とするデータと「有効性なし」とする両方のデータがあり、科学的なデータの蓄積が必要である。 これはハーバード大学のギオヴァンヌッキらの研究チームが4万5千人以上の医療関係者を対象に6年間のコホート調査を行った結果から、様々な形態のビタミンAを含む食品の中でも、イチゴと並んでトマト関連食品3種が前立腺癌の罹患率の低さと相関しているとしたもの。その後の様々な関連研究の引き金ともなった。 京都大学大学院の河田照雄教授らの研究グループにより、トマトに含まれる13-オキソ-9,11-オクタデカジエン酸に血液中の脂肪増加を抑える効果があることが発見され、2012年2月10日付けの米科学誌PLoS one上で発表された。研究段階である上、効果を得るには大量のトマトを食べる必要があるとされるが、日本では大きく報道されたことにより、トマトジュースが供給不足になるほどのブームが起きた。 日本において、露地栽培トマトは一般に夏(6月 - 9月)が旬の時期とされる野菜である。トマトは夏の季語。冷涼で強い日差しを好み高温多湿を嫌うトマトの性質からして、夏のトマトは水っぽく、春先のトマトのほうが果肉が詰まって濃厚な味わいがあり美味とされる。ハウス栽培で育てられたトマトは、冬から春が出荷のピークを迎えることから、冬 - 春はトマトのもうひとつの旬だともいわれている。 季節によっても味や食感が変わる。一般的な温室栽培を例に挙げると冬は光が少なく成長に時間がかかるため水っぽく皮が硬い、夏は成長が早すぎて味がのる前に赤くなるが皮は柔らかい。春と秋は旨味が強くなる。家庭菜園の場合は保温用のビニールをかけて秋まで栽培すると皮は硬いがメロン並みの糖度と旨味のあるトマトが得られる。 冷やしすぎると味が落ちるため、室温で保存するのが一般的で、鮮度が良いものは1週間ほど日持ちする。特に、まだ堅くて未熟なトマトであれば、常温でやや日光が当たる場所に置いて追熟することによって、酸味を抑えることができる。よく熟しているトマトは、ポリ袋などに入れて冷やしすぎない程度に冷蔵庫の野菜室(3~8°C程度)などに保存して、早めに使い切るようにする。完熟したトマトをソースや煮込みに使う場合は、丸ごと冷凍庫に入れて冷凍すると、水で洗うだけで皮が簡単にむける。 保存食にもなるドライトマトは、ミニトマトを半分に切ったり、中玉や大玉トマトでも種を取ってスライスして作ることができ、塩をふったあと140度ほどで予熱したオーブンで焼いたあと、風通しのよいところで水分を飛ばして乾燥させて作る。南ヨーロッパの料理には欠かせない保存食と調味料を兼ねたドライトマトは、ミニトマトの「プリンチペ・ポルゲーゼ」という品種が使われている。 果実は糖尿病、のどの渇き、食べ過ぎに薬効がある薬草とされ、蕃茄(ばんか)と称して、輪切りにして天日乾燥して生薬とするか、生のものを薬用にする。民間療法では、1日量5 - 10gの干した番茄を、600 ccの水で煎じて3回に分けて服用する用法が知られている。また、1日1個の生トマトを食べたり、調理しても同様とされる。胃腸の熱を冷ます効果から、食べ過ぎによる消化不良に良いといわれている。 トルコの民間療法ではやけどにスライスしたトマトを皮膚に塗りつけている。
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線形合同法
線形合同法(せんけいごうどうほう、英: Linear congruential generators, LCGs)とは、擬似乱数列の生成式の一つ。 漸化式 によって与えられる。A、B、Mは定数で、M>A、M>B、A>0、B≥0である。 上の式で、 X 0 {\displaystyle X_{0}} が、乱数の種であり、これに数を代入すると、 X 1 {\displaystyle X_{1}} が得られる。さらに X 2 {\displaystyle X_{2}} を生成する場合には、 X 1 {\displaystyle X_{1}} を使う。以後、同様に行う。 例えば、定数をそれぞれ、A=3、B=5、M=13、乱数の種 X 0 {\displaystyle X_{0}} =8とすると、(上の式においてはXn+1を左辺に置いたが、今回は便宜上、右辺に置く) 次に乱数を生成する際は前回生成された乱数(今回は3)を使って、 以下、同じように、 となる。 生成される乱数列は周期性を持ち、上の例では8→3→1→8→3→......、を繰り返す。この周期は最大でMであり、以下の条件が満たされたときに最大周期Mをもつ。 A=13、B=5、M=24の組み合わせなどがそれに当たる。 B=0のときは、0→0→0...というループがあるため、周期がMとなるAとMの組合せはない。M-1が、B=0の場合の最大の周期であり、これも最大周期と考えることもある。 暗号論的擬似乱数生成器ではなく、そのまま暗号に使用してはならない。 線形合同法一般の欠点に、多次元で規則的に分布するという性質がある。線形合同法による乱数列r0, r1, r2, r3, ... から(r0, r1), (r1, r2), (r2, r3), ... のように順番に割り当ててプロットすると、それが疎になるのはしょうがないのだが(例として、全部で10000個しかない点を、10000x10000 の矩形にプロットすることになるのだから、稠密にはなりえない)、一定の間隔の平面上に点が並んでしまうのが問題である。印象的にこれを表現したフレーズに Random numbers fall mainly in the planes. (乱数は、主に平面(プレイン)に落ちる)というものがあり、「スペインの雨は主に平野(プレイン)に降る」(The rain in Spain stays mainly in the plain.)のパロディである。科学技術シミュレーションで3次元の点の位置などを生成する場合に問題となる。 下位ビットのランダム性が低い。Mの値によっては、最下位に近いビットはほとんどランダムでなく、完全に規則性を持っていることすらある。たとえばMが偶数の場合(コンピュータでの実装が楽であるために、Mに2の冪を採用した場合はこれに当たる)、最下位ビットは、同じものが出続けるか、0と1が交互にでるかのどちらかである。すなわち、偶数ばかりが出る、奇数ばかりが出る、偶数と奇数が交互に出る、のどれかになるということである(最大周期ならば偶数と奇数が交互に出る)。 大量に乱数列を消費する科学技術シミュレーションなどでは、周期の短さ(たとえば32ビットでは最大周期でも約40億)が問題になる。 プログラミング言語処理系に附属するライブラリの乱数列生成器(たとえばrand(3)やjava.util.Randomなど)が、線形合同法を利用している場合があるため、たとえばサイコロの目を生成する場合はrand() % 6 + 1としてはならない。前述のように周期2で偶数と奇数が循環するような場合、その規則性がそのまま顕れてしまう。rand() / (RAND_MAX / 6 + 1) + 1のようにすればランダムになる(注。このコードは考え方を示すものであり、厳密に1/6の確率になるものではない)。 Stephen K. Park と Keith W. Miller が、彼らのサーベイ中で「最低基準」として示したもので、より良い選択肢が無いのならば、自作などせずにこれを使うべしというもの。 C言語による実装例が「comp.lang.c FAQ list · Question 13.15」の回答中にある。 由来不詳だが、よく実装が見られるもの。 C言語による実装例が、POSIXのrandの解説中(informative扱いのEXAMPLESとして、であるが)にあるためか、2017年現在のウェブコンテンツなどにも時折見られるが(例えばRosetta Codeの線形合同法のサンプルに「BSD formula」という名前で示されている)前節のPark & Millerよりも質が悪い。特に(POSIXにあるコードでは下位桁を捨てて回避しているが)、最下位ビットは周期2、次のビットは周期4、次のビットは周期8、......のように、下位桁に完全な規則性がある。また、由来は不詳だが少なくともBSDよりは古く、Unixバージョン7の /usr/src/libc/gen/rand.c に見られる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E5%BD%A2%E5%90%88%E5%90%8C%E6%B3%95
3,053
MPEG-4
MPEG-4(エムペグフォー、ISO/IEC 14496)は、動画・音声全般をデジタルデータとして扱うための規格のことである。MPEG-1やMPEG-2と同様、システム、ビジュアル(MPEG-1/-2ではビデオと呼ぶ)、オーディオ、ファイルフォーマットの各技術から構成される。しかしながら、一般的には「MPEG-4」と呼ぶ場合、動画の符号化方式を記述したビジュアル部分だけを指すことが多い。 規格が広範なことが「MPEG-4とは何か」という説明を難しくさせている上に、ビジュアル、あるいはファイルフォーマットの一部の規格を利用したものも単に「MPEG-4です」と説明されることが多く、使われ方、意味のとられ方が混乱している用語でもある。 なお、規格化を行っているMoving Picture Experts GroupではMPEG-4を最後の動画/音声符号化の規格とする意向であり、現在では3次元コンピュータグラフィクスや音声合成などを含む大変広範な規格になっている。MPEG技術は、各技術毎にパート(Part)と呼ばれる規格が作成され、技術が採用/規格化されるたびにパートが増える。2003年にH.264がMPEG-4 Part 10 Advanced Video Codingとして規格化されるなど、現在もなお追加・拡張が継続されている規格である。 MPEG-4(ISO/IEC 14496)自体は、動画・音声全般を扱う多様なマルチメディア符号化フォーマットを規定している。これらは以下に示す複数の「部(Part)」に分れて標準化されている。MPEG-4の各部は、ISO/IEC 14496を翻訳したJIS X 4332の各部と対応する。なお、第31部以降は現在開発中である。 動画には第2部(1999年制定)と第10部(2003年制定)があることに注意する。一般にMPEG-4動画(またはMPEG-4ビジュアル)といえば第2部を指すことが多く、第10部は第2部と区別するために、MPEG-4 AVC と呼ばれることがある。MPEG-4は動画の符号化規格と呼ばれることもあるが、実際に規定されているのは復号のみであり、符号化は規定していない。 マルチメディアデータをファイルや記録メディアに保存したり、ネットワーク上で伝送するには、動画と音声毎に別々に符号化した符号化データの統合(多重化)と同期のための仕組みが必要となる。この多重化方式を規定するものがシステムである。なお、システムによって多重化される以前の動画像や音声のバイナリデータをエレメンタリストリーム(ES: Elementary Stream)と呼ぶ。 動画像と音声のエレメンタリストリームを多重化するという目的においては、MPEG-1やMPEG-2のシステムに近いといえるが、MPEG-4についてはオブジェクト符号化という概念があるという点で異なる。MPEG-4においては、オーディオ、ビジュアル(ビデオ)のデータは各1つのオブジェクトとして扱われ、これらのオブジェクトを多重化・同期するのがシステムの役割である。なお、MPEG-4の動画像(ビジュアルおよびAVC)や音声のエレメンタリストリームの多重化には、MPEG-4システムの他にMPEG-2トランスポートストリーム(MPEG-2 TS)を用いることも可能であり、地上デジタルテレビジョン放送の1セグメント放送ではAVCとAACの伝送にMPEG-2 TSが用いられる。 さらに、複数のオブジェクトを組み合わせて扱うことを可能にするためのシーン記述のための仕様として、VRML97をベースとしたBIFS(Binary Format for Scenes)が規定されている。例えば、人物や背景の動画および音声をそれぞれ別個のオブジェクトとして符号化し、それらを重ね合わせて表示したり、ユーザが任意にオブジェクトを動かしたりできるようなアプリケーションを作ることが可能である。しかし、このようなオブジェクト符号化は、一般向けに実用化されていないのが現状である。 オブジェクト符号化の概念の導入やBIFSなどにより、MPEG-4システムの内容が肥大化してしまったため、ファイルフォーマット(MP4)に関しては後述のPart 14として独立して規定されている。ちなみに、ネットワーク上での伝送に関しては、Part 8および RFC 3640 で規定されている。 なお、バイナリフォーマットであるBIFSを容易に扱えるようにするため、XML準拠の記述形式として、Extensible MPEG-4 Textual Format in XML (XMT)がPart 11で規定されている。 MPEG-1ではビデオCD、MPEG-2では放送やHDTVでの使用を想定しているのに対して、MPEG-4では低ビットレートでの使用にまで用途を拡大することを目標として規格化が開始された。符号化技術としては先に規格化が進んでいたH.263を基に幾つかのツールを追加した構成になっている。H.263との相違点は、フレーム間予測におけるBフレームの採用、DCT係数のAC/DC予測の導入、などが挙げられる。 このビジュアル技術自体も、エラー耐性技術のほか、任意形状技術やスプライト符号化技術、顔画像の動きを符号化するフェース(Face)符号化技術、スケーラビリティ技術などを盛り込んだ巨大なものであったが、現在ではエラー耐性技術のほかは殆ど使用されていない。 圧縮アルゴリズムの基本原理は、MPEG-1、MPEG-2、H.263などと基本的には同様であり、空間変換やフレーム間予測、量子化、エントロピー符号化を採用している。 MPEG-4では、空間変換に離散コサイン変換が用いられる。8×8画素のブロックを単位として、原画像もしくはフレーム間予測の予測誤差画像のDCT係数を求め、その係数を量子化している。 フレーム間予測において参照フレームとして指定できるフレームは、Iフレーム, Pフレーム、Bフレームが存在する。Pフレームでは時間軸で前方のフレーム1枚の画像を利用して符号化を行うが、Bフレームでは前方・後方2枚の画像を利用して符号化を行う。 動き補償の精度としては1/2画素精度まで基本的に利用可能である。MPEG-4 ASP(Advanced Simple Profile)では、1/4画素精度動き補償も採用している。 空間変換で得られたDCT係数に対して、さらに係数の最上列ないし最左列の係数から予測を行って情報量を削減する技術が導入されている。 DC予測とは、隣接した「左MBと左上MBのDC成分の変化量」と「左上MBと上MBのDC成分の変化量」を比較して、より傾きの小さい方向から現在のMBのDC成分を予測する手法である。この方法を用いることによって、相関の高い画素からの予測を行うことが可能であるため、圧縮率の向上が期待できる。 AC予測とは、フレーム間予測を用いずに符号化される画素ブロックについて、単純に離散コサイン変換(DCT)の係数を量子化して符号化するのではなく、DCT係数行列のうち最上列ないし最左行の値について、上ないし左の隣接ブロックの値との差分を符号化することによって符号量を削減する方式である。予測の方向の決定については、DC予測での予測方向に従う。 この予測方式は、後にH.263でもAnnex Iとして採用された。 DC予測は必ず使用しなければならず、AC予測は使用有無をヘッダで切り替えることが可能である。 ハフマン符号をベースとした可変長符号化(VLC; Variable Length Coding)が採用されている。 MPEG-4の音響符号化技術では、もっとも広く知られているMPEG-4 AACの他にもMPEG-4 CELP、TwinVQ、HVXC(Harmonic Vector eXcitation Coding)、HILN(Harmonic and Individual Lines plus Noise)、TTSI(Text To Speech Interface) など様々な音響符号化技術が規格化されている。 MPEG-4 第3部で採択されたAAC符号化には以下の種類がある。 MPEG-4 第3部 サブパート11において、圧縮時に音響符号が劣化しないMPEG-4 ALS技術が規格化された。 MPEG-4 第3部 サブパート12において、圧縮時にAAC部分の階層と、補完してロスレスになる階層の複数階層で音響を符号化できるMPEG-4 SLSが規格化された。SLS符号化された音響信号は、SLS再生機では劣化せず再生でき、さらにAAC再生機でも再生できるという特徴を持つ。 第2部では、規格範囲が拡散しすぎてしまったという反省のもと、通常の動画像の圧縮効率を追求するという方針のもと開発が進められた(第2部では使用されることがなかったフェース技術やスケーラブル技術は範囲から外されている)。ITU-Tと共同で規格化したものでありH.264と同じもの。H.264/AVCとも呼ばれる。詳細はH.264ページを参照のこと。 マルチメディアデータをファイルに記録するには、動画像と音声のエレメンタリストリームを多重化する必要があるが、後で再生する際に早送りや編集を容易にするためにフレーム単位でアクセスできるように、データを区分けして、さらにアクセス用管理データを付加する方が便利である。MPEG-4では、そのためのファイルフォーマットとしてMP4ファイルフォーマットを規定している。 音声の場合には、ファイルフォーマットに格納せず、符号化データをそのまま使用することもある。MPEG-1などで規定されたMP3はこの例である。 MP4ファイルフォーマットはAppleのQuickTimeのファイルフォーマットをベースに開発されている。QuickTimeファイルフォーマットで採用されているファイル構造は、さまざまな動画像や音声のエレメンタリストリームを柔軟に多重化可能となっており、汎用的なファイルフォーマットとしてISOベースメディアファイルフォーマット(Part 12)に採用された。このPart 12からMPEG-4用のファイルフォーマットとして派生したものがMP4ファイルフォーマットである。詳細は、MP4ページ参照。 ビジュアル、オーディオ共その規格内において、プロファイルとレベルと呼ばれる概念が規定されている。プロファイルとは使用できるツールを示すものであり、レベルとは使用できるパラメータの範囲を規定するものである。例えば、MPEG-4 Part 2では、シンプルプロファイル(SP)、アドバンスドシンプルプロファイル(ASP)、メインプロファイル (MP)などが規定されそれぞれ使用可能なツールが異なる。MPEG-4 AVCでは、ベースラインプロファイル、メインプロファイル、拡張(Extended)プロファイルの3種類が規定されていたが、2004年に高忠実度化規格(FRExt)が策定され、ハイプロファイル、ハイ10プロファイル、ハイ4:2:2プロファイル、ハイ4:4:4プロファイルの4種類が新たに規定された。 1999年に規格化された直後から、動画像を長時間記録する用途でデジタルカメラの一機能として使用された。当初は、ファイルフォーマットが規格化されていなかったため、マイクロソフト社のASFファイルフォーマットが使用された。近年では、第三世代携帯電話の動画フォーマットとして採用され、PDAを含めてモバイルで見る動画フォーマットの主流になりつつある。特にiPodやPSPがこのフォーマットに対応したことを機に爆発的に普及している。これらの動画符号化技術は、現状MPEG-4 Part 2であるが、2005年後半からは、MPEG-4 AVCも使用されることが確実視されている。 放送や通信分野においては、ライセンスの問題もあり主だった利用例も少なかったが、MPEG-4 AVC (H.264)が地上波デジタル放送の携帯端末向け(1セグメント)放送での採用、Blu-ray DiscやHD DVDのビデオ・コーデックとして承認、などされており、応用例は増えていく見込みである。 第三世代携帯電話の業界団体である3GPPと3GPP2は、動画コンテンツにMPEG-4を採用している。なお、同じファイルフォーマットをサポートした第二世代携帯電話端末も存在する。 を使用している。解像度はQCIF(Sub-QCIF)などに限定されているが、一部端末ではQVGAなども利用可能。 2000年代前半にパソコンで動画を扱う際によく使われたDivXやXvidはMPEG-4 Visual (Video) の技術を利用したものである。これらを利用した映像をAVIの箱(コンテナ)に収めたものは一部のDVDプレーヤーやゲーム機等での再生に対応している。 SDメモリーカードのSD-Video規格やメモリースティックのメモリースティックビデオフォーマットにMPEG-4が採用されている。前者はASF形式、後者はMP4を採用している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MPEG-4
3,054
胎座
胎座(たいざ、英語: placenta)とは、植物の子房中の胚珠の接する部分のこと。 植物により分布のしかたが異なり、側膜胎座や中軸胎座などの種類に分かれる。 胎座を果実の可食部に発達させる植物もある。アケビ科のアケビは種の周りの胎座が、甘いゼリー状の果肉に発達する。ナス科のトマトは内部のゼリー状果肉と隣接した内側の果肉が胎座で、動物が果実を食べようとすると、種子とともに飛び出して周囲に飛散させ、繁殖に寄与する。トウガラシやピーマンなどナス科トウガラシ属の胎座は判別しやすいため好例である。トウガラシ属の果実の内側にある種子の付着した白い芯のような果肉が胎座である。トウガラシ属の胎座は、果実の中で最も多くカプサイシンを保有している、辛い部位である。 胎座が子房室(ovary)の中でどのように分布するかを分類して、胎座型(placentation)と呼ぶ。植物の種によって異なる。
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3,055
一年生植物
一年生植物(いちねんせいしょくぶつ)とは、種子から発芽して一年以内に生長して開花・結実して、種子を残して枯死する植物。普通は草木である。一年生草木・一年草・一年生作物・一年生ともいう。 植物の本来の性質として一年生植物である場合と、本来は原産地で多年生植物であるが生息地の気候条件によって一年生植物になる場合がある。後者は「園芸上は一年生植物」などという言い方をすることがある。 また、秋に発芽し越冬し翌年に枯れる植物を、冬型一年草又は、越年草という。これを「二年生植物」という場合があるので注意を要する。これは、1年目の秋に種を蒔いて発芽させて、年が替わり1月になったことを2年目と考え、2年目に開花~枯死するので「二年生植物」としている。しかし、普通、「二年生植物」とは種子~枯死までが1年を超えて2年以内でのものをいう。 植物はもともとは多年生であったものと思われる。現生の植物でもシダ植物には温帯におけるミズワラビのようなわずかな例外を除くと一年草はほとんどないし、裸子植物には皆無である。いわゆる草本という形態と共に、被子植物の段階より進化したものと思われる。これは、より変化の激しい気候の地域に生活するための適応と考えられる。裸地に出現するパイオニア的な草本も1年草が多い。 たとえば、砂漠のような年間にごく限られた期間のみ水が利用できるような環境では、ウェルウィッチアのように地下水脈まで根を下ろして暮らすとか、サボテンのように極度に乾燥に強い形態で耐えるというやり方もあるが、種子で休眠して過ごす方がはるかに簡単である。ただし、そのためには良好な条件の時期に短時間で成長、繁殖することが必要になる。元来は熱帯植物であるイネが日本では東北・北海道地方でも生育できるのも、冬季を種子で過ごせる(人間が保管するのであるが)ためである。 身近な一年生植物の例をあげる。(但し、品種などにより例外があったり、日本でも地域によっては越冬、越夏ができ多年生植物となる可能性はある。)
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3,056
食物繊維
食物繊維(しょくもつせんい)とは、人の消化酵素によって消化されにくい、食物に含まれている難消化性成分の総称である。その多くは植物性、藻類性、菌類性食物の細胞壁を構成する成分であるが、植物の貯蔵炭水化物の中にはグルコマンナンやイヌリンの様に栄養学的には食物繊維としてふるまうものも少なくない。化学的には炭水化物のうちの多糖類であることが多い。 従来は、消化されず役に立たないものとされてきた。後に有用性がわかってきたため、日本人の食事摂取基準で摂取する目標量が設定されている。ただし、定義から明らかなように栄養素ではない。 ヒトの消化管は自力ではデンプンやグリコーゲン以外の多くの多糖類を消化できないが、大腸内の腸内細菌が嫌気発酵することによって、短鎖脂肪酸やメタン、二酸化炭素、水素などに分解される。短鎖脂肪酸の83%が酢酸、プロピオン酸、酪酸で占められ、産生比は60:20:20の割合である。産生された短鎖脂肪酸の大部分は大腸から吸収される。酢酸は宿主のエネルギー源となり、プロピオン酸は肝臓で糖新生の原料として利用され、酪酸は結腸細胞に優先的にエネルギー源として利用される。食物繊維の大半がセルロースであり、人間のセルロース利用能力は意外に高く、粉末にしたセルロースであれば腸内細菌を介してほぼ100%分解利用されるとも言われている。デンプンは約4kcal/g のエネルギーを産生するが、食物繊維は腸内細菌による醗酵分解によってエネルギーを産生し、その値は一定でないが、有効エネルギーは0 - 2kcal/gであると考えられている。また、食物繊維の望ましい摂取量は、成人男性で19g/日以上、成人女性で17g/日以上である。食物繊維は、大腸内で腸内細菌によりヒトが吸収できる分解物に転換されることから、食後長時間を経てから体内にエネルギーとして吸収される特徴を持ち、エネルギー吸収の平準化に寄与している。大腸の機能は食物繊維の存在を前提としたものであり、これの不足は大腸の機能不全につながることになる。食物繊維をNSP(non‐starch polysaccharide、非デンプン性多糖類)と呼ぶこともある。 1918年、医師であるジョン・ハーヴェイ・ケロッグは『自家中毒』という著書を出版し、腸内で細菌が未消化タンパク質から作る毒が健康を害するという自家中毒説をもとに、未消化の肉には細菌が繁殖しやすいが、食物繊維は腸を刺激して活発にさせるので毒が作られにくいという理由で菜食をすすめた。 しかし、一方で栄養学では「食べ物のカス」ともされ、長年役に立たないものと認識されていた。たとえば、栄養学の創設者である佐伯矩は、玄米は栄養が多いが未消化物が多いので消化吸収の効率が悪いなどとして、ある程度精白した米である七分搗き米をすすめていた。 1960年代の南アフリカのジョージ・オットル(George Oettle)が、食物繊維と大腸がんの関連の研究をしていた。1967年に、インドのマルホトラは食物繊維の摂取が多い場合、がんのリスクが減るという報告をしている。 1970年前後、バーキットはオットルの研究を発展させランセットなどで研究報告を行い、食物繊維が少ないと腸内の疾患のリスクが上がるだろうという説が広く知られるようになっていった。1975年にバーキットはトロウェル (Hugh Trowell)と共著で『精製炭水化物と病気-食物繊維の影響』を出版し、精白していない穀物である全粒穀物の食物繊維が有益であると述べ、このことは科学的研究によって確認されていった。 日本では2000年の「第6次改定日本人の栄養所要量」から摂取量について目標量が設定されている。 大きく水溶性食物繊維 (SDF : soluble dietary fiber)と不溶性食物繊維 (IDF : insoluble dietary fiber)に分けられる。粘性や発酵性で分類する場合もある。 水溶性食物繊維 (海藻に含まれる水溶性食物繊維) 不溶性食物繊維 不溶性食物繊維と水溶性食物繊維の特性をあわせ持つもの 溶けるとゲル状となり栄養吸収をゆっくりとさせる。 粘性食物繊維 非粘性食物繊維 大腸内のバクテリアにより発酵され短鎖脂肪酸(SCFA)やガス(おなら)が産生される。 発酵性食物繊維 非発酵性食物繊維 熟した果物などに含まれている水溶性食物繊維は、食後の血糖値の急激な上昇の抑制や、コレステロールの吸収を抑制する作用が報告されている。 野菜や穀類、豆類等に含まれている不溶性食物繊維は、大腸の蠕動運動を促す。 食物繊維の効用として、脂質異常症予防、便秘予防、肥満予防、糖尿病予防、脂質代謝を調節して動脈硬化の予防、大腸癌の予防、その他腸内細菌によるビタミンB群の合成、食品中の毒性物質の排除促進等が確認された。長寿地区住民の高齢者の食物繊維摂取量と同一人の腸内細菌叢を分析することによって、食物繊維の摂取量が多いと、働き盛りの青壮年なみに有用菌(ビフィズス菌等)が優勢で老人特有の有害菌(ウエルシュ菌等)は抑えこまれていることが実証された。さらにこの有用菌は腸内腐敗防止、免疫強化、腸内感染の防御、腸管運動の促進といった作用のあることがわかった。 消化管内の必須栄養素であるカルシウムと結合し腸管からの吸収を阻害する働きもある。 日本では、特定保健用食品(トクホ)の表示が認可されている。 2003年、世界保健機関(WHO)と国連食糧農業機関(FAO)による「食事、栄養と生活習慣病の予防」(Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases) では、肥満、2型糖尿病、心臓病のリスクを下げると報告し、野菜や果物や玄米のような全粒穀物からの摂取をすすめている。 リード (N.W. Read) とティムス (J.M. Timms) による「トンネルの向こうに光は見えるか」という1987年の論文では「食物繊維によって重症の便秘が軽減することは少ない」と著されている。 2007年11月1日の世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7000以上の研究から分析したがん予防の報告書では、結腸や直腸のがんの予防との関連がありうるとしている。 食物繊維摂取量との関連が検討された生活習慣病は多岐に及び、心筋梗塞の発症ならびに死亡、糖尿病の発症との間に負の関連を認めたとする研究報告が数多くある。また、循環器疾患の強い危険因子である血圧並びに血清(または血漿)LDLコレステロールとの間でも負の関連が示唆されている。さらに、肥満との関連を示した疫学研究も多数存在する。一方、がん、特に、大腸(結腸並びに直腸)がんとの関連については、最近の疫学研究の結果は必ずしも一致していない。ハーバード大学公衆衛生学部は、「食物繊維の摂取は、健康効果のある健全な食事としてもてはやされ、心臓病、糖尿病、憩室疾患、便秘を含む様々な疾患のリスクを減少させていた。多くの人が信じていたにもかかわらず、食物繊維には大腸がんのリスクの減少の効果はほとんど認められなかった。」と発表している。 海藻、全粒穀物、豆などに食物繊維が多く含まれる。実際の含有量は、産地、収穫時期、品種等で異なるため代表値である。
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ニンテンドーゲームキューブ
ニンテンドー ゲームキューブ(NINTENDO GAMECUBE)は、任天堂が2001年に発売した家庭用ゲーム機。略称はゲームキューブ、キューブ、GC、NGC、GCN。21世紀最初の任天堂の家庭用ゲーム機に当たる。日本では9月14日、アメリカとカナダでは11月18日、ヨーロッパでは2002年5月3日に発売された。日本での発売当時のメーカー希望小売価格は2万5,000円。 NINTENDO64の後継機として開発された。NINTENDO64では開発の困難さからソフト不足が発売当初から最後まで続いていた。この失敗を生かしソフト開発しやすいことが念頭に置かれた。しかし前世代機から始まったゲーム離れの現象や任天堂以外のソフトの売り上げが伸びなかったことから出荷台数はNINTENDO64よりも少なかった。 なお、任天堂ハードでは国内生産は本機が最後となった。日本発売は2001年(平成13年)9月14日、生産終了は2007年(平成19年)。 開発コードネームは「Dolphin」。 NINTENDO64では開発の困難さからソフト不足が発売当初から最後まで一貫して続いていた。この事に対しての反省や教訓から瞬間最大性能の高さよりも、安定的に高性能を発揮し、ビデオ・ゲームを作りやすいハードウェアとすることを念頭に開発された。2001年当時、任天堂取締役経営企画室室長の岩田聡によると「開発で最初に重要視したのが「数字主義、スペック主義からの決別」」である。いくらスペックが素晴らしくても、実際にソフトを開発してみると使えないスペックが多く、スペックが嘘になってしまう上に、最適化・チューニング作業に開発者が多くの時間を割かざるを得ない状況を踏まえ、「ピーク性能を重要視するのでなく、現実的にゲームづくりで使える実効性能を重要視」している。ニンテンドー ゲームキューブのスペックは、NINTENDO64と比較してCPU速度を10倍、グラフィック処理速度を100倍を念頭に開発されたが、ピーク性能上はそれを満たしていない。しかし、岩田によると「実効性能としてはまさに依頼したCPU10倍、グラフィック100倍が達成できた」としている。絵を描く、音楽を鳴らす、ゲームを動かすというデータ処理の全てをCPUが行うものではなく、キレイに他の部品に分担させるという技術が確立した。 なお、本体内部には3D対応の回路が組み込まれており、『ルイージマンション』では対応していた。また、周辺環境を整えればその機能も使えたが、当時はまだ立体視用の液晶が非常に高価で、実用には至らなかった。 ニンテンドーゲームキューブのハードウェア仕様については任天堂が公開、詳説している。 本体および関連製品の型番にはDOLがつけられている。 2001年9月14日に発売した際の本体色はバイオレット。型番はDOL-S-VTA(JPN)。本体には同色のコントローラー1個が同梱。 限定・非売品を除く本体のカラーバリエーションはバイオレット、オレンジ、ブラック、シルバーの4種類でコントローラーはそれに加えてバイオレット&クリア、エメラルドブルー、ホワイトの6種。 松下電器産業(現・パナソニック)から、DVDプレイヤーと家庭用ゲーム機(ニンテンドー ゲームキューブ互換機)の複合機DVD/ゲームプレイヤー「Q」(SL-GC10)が,2001年12月14日に日本で発売された。コードネームは「マーメイド」。 ニンテンドー ゲームキューブにDVD-Videoの再生機能を追加したものでニンテンドー ゲームキューブ用のディスク開発のために任天堂と松下電器産業が提携した際に製作が発表された「X-21」を元とする。 筐体はキューブデザインが採用され、ニンテンドーゲームキューブのデザインが踏襲された。色はシルバーである。 「GAME」スイッチを押すとゲーム側が起動するが、ゲーム上のメニューでDVD/CD用に拡張された項目などは存在しない。任天堂仕様のデジタル映像出力端子はゲーム側専用で、DVDは汎用のS/コンポジット端子からの出力のみとなっている。この端子はゲーム側の出力と兼用している。任天堂仕様のアナログ出力端子は無い。また、DVD側専用の光デジタル音声出力端子がある。電源は内蔵している。底面のサイズが違うため、拡張機器のうちゲームボーイプレーヤーは専用のもの(SH-GB10)を使う。 任天堂関連商品初のDVD/CD再生対応であり、松下電器産業はデジタルプラットホームの先駆けと期待していたが、すでにPS2が普及していたことなどにより、ほとんど普及しなかった。 Wii発売まで、パナソニックセンター東京にあるニンテンドーゲームフロントにはQが設置されており、新作ゲームを体験することができた。 任天堂が2006年に発売した家庭用ゲーム機Wii(RVL-001)はニンテンドー ゲームキューブと互換性を持つ。オンライン機能は使えず、ニンテンドー ゲームキューブ用の周辺機器が必要となるが、すべてのニンテンドー ゲームキューブ用ソフトを使用できる。ニンテンドーゲームキューブ用ハイスピードポートが廃止されたため、ニンテンドーゲームキューブ用ハイスピードポートをモデムアダプタ及びゲームボーイプレーヤーとして周辺機器を併用していた一部のニンテンドーゲームキューブ用ソフトがプレイ不可能になった。 この他に、NINTENDO64用の「RFモジュレータ」(NUS-003)(別途「RFスイッチ」(HVC-003)または「RFスイッチUV」(NUS-009)が必要)を流用可能。ただし、放熱口を半分塞ぐ難点がある。また、非公式のため保証対象外。 ローンチタイトルは『ウェーブレース ブルーストーム』、『ルイージマンション』、『スーパーモンキーボール』の3タイトルで、最後のタイトルは2006年12月2日にオンライン限定で発売された『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』である。なお、通常販売での新作としての最後になったタイトルは、2006年7月20日に発売された『バトルスタジアム D.O.N』になった。 最も売れたゲームソフトは『大乱闘スマッシュブラザーズDX』で、全世界で740万本超を販売。次いで『マリオカート ダブルダッシュ!!』の同696万本、『スーパーマリオサンシャイン』の同628万本だった。 最終的にニンテンドー ゲームキューブ向けのソフトウェアは、北米で761種 。欧州で472種、日本で272種が販売された。 また、ニンテンドー ゲームキューブには『ファンタシースターオンライン エピソード1&2』など、別売で用意されるモデムアダプタ(DOL-012)およびブロードバンドアダプタ(DOL-015)を使用する、オンラインに対応するゲームソフトが8種類発売された。 2007年4月に米国任天堂はセガのファンタシースターオンラインシリーズは、オンラインプレイでサポートされなくなったと発表した。 発売当初は折しもアメリカ同時多発テロ事件直後であり世界中のメディアに自粛ムードが広まったため、発売直前・直後において特集が組まれることがほとんどなかった。その中でも2001年9月13日にカプコンが「バイオハザード」シリーズをニンテンドー ゲームキューブ向けにのみ供給すると発表したり、2005年1月7日にコナミと任天堂が『Dance Dance Revolution with MARIO』の共同開発、9月8日にバンダイと任天堂が『SDガンダム ガシャポンウォーズ』の共同開発を発表するなどの話題はあった。また『大乱闘スマッシュブラザーズDX』や、『ゼルダの伝説 風のタクト』、『スーパーマリオサンシャイン』など、人気を博したゲームソフトも存在したが、サードパーティのソフトの売上が少なかったため、国内では不振であった前ハードのNINTENDO64よりもさらに販売台数は下落し、好調であった北米市場でも本ハードから優位性を失ってしまった。本ハード販売中に起きたユーザーのゲーム離れは、以後「ゲーム人口の拡大」を根幹とする経営方針の策定、後に次世代機Wiiの開発へと繋がっていった。 しかしゲームキューブのゲームソフトはリメイクや移植が少ないのも相まって今でも一定の人気を集めている。また、ニンテンドー ゲームキューブ向けに新たに開発された、『ピクミン』、『ちびロボ!』、『メトロイドプライム』そして『ルイージマンション』は、次世代機向けにも続編が販売される、新たな人気シリーズとなった。 本体のデザインは評価され、2002年に「グッドデザイン賞」を受賞しており、コントローラも同社の次世代機以降のゲーム機でも引き続き使用でき、ユーザーから評価されている。
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NINTENDO64
NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん)は、任天堂が1996年に発売した家庭用ゲーム機。略称は「64(ロクヨン)」、「N64」。キャッチコピーは、「ゲームが変わる。64が変える。」 スーパーファミコンの後継機として開発された。1990年代中期当時「次世代機」と呼ばれたゲームハードの一つで、任天堂としては初めて本格的な3Dゲームに対応し、『スーパーマリオ64』など3次元空間を自由に体感でき、その操作性を売りにするゲームが多数登場した。 ゲーム開発の難しさや参入メーカー不足によるソフト不足およびドラゴンクエストシリーズ、女神転生、ファイナルファンタジーシリーズなど2世代前のファミリーコンピュータから続いている人気シリーズ作品が同世代機のPlayStationで発売されたことなどの理由により、出荷台数は同世代機と比べて低迷した。 1993年(平成5年)の開発発表時のコードネームは「プロジェクト・リアリティ」で正式名が決定する以前の海外名称は「ウルトラ64」(日本国内では当時名称未発表)、ユーザー間の通称は「ウルトラファミコン」だった。ファミリーコンピュータやスーパーファミコン時代は開発第一部や開発第二部がハード開発を行っていたが、NINTENDO64は竹田玄洋が率いる、ROMカートリッジの特殊チップ開発を担当していた開発第三部がハード開発を行った。当時、任天堂はこれと並行して次世代機としてのCD-ROM機を製作。開発第二部部長の上村雅之によるとほぼ完成していたとされるが、それを発売中止にしての正式発売となった。企画立ちあげ当初は社長の山内溥により「ウルトラファミコン」として発表されていた。 ハード設計にあたっては、レア社のクリス・スタンパー (Chris Stamper) が指導・提案役として半年間参加。開発の主導権は任天堂が取っているが、設計提案については大半の75%をSGIが占めた。 デザインに関しては今までにないもの、かつ北米で流行するものを念頭に置き、3次元CADを用いて同社の前世代機までにはなかった曲線を多く用いた。 ボディ色はスーパーファミコンの時はユーザーの好みを反映させたが、本機は全世界で統一した色にするためにどの国でも嫌われない色を採用した。 それまでのファミリーコンピュータ (NES) やスーパーファミコン (SNES) は名称・デザイン・ロゴマーク・内部仕様などが出荷国によってバラバラであったが、本機ではデザイン・配色はもとより、韓国を除く全出荷地で「NINTENDO64」という名称に統一された。韓国のみ当時任天堂製品のライセンス(販売権)を持っていた現代電子産業(現在のハイニックス半導体)により「ヒョンデ・コンボイ64」(현대 컴보이64、Hyundai Comboy64)の名称で発売された。本体の型番はブラジルを除くほとんどの出荷地でNUS-001(XXX)、ピカチュウバージョンはNUS-101(XXX)、ブラジル版はNUSM-001(BRA)となった。N64ロゴや各製品の製品名シールに採用されているフォントはFrutiger。 据え置き型のゲーム機として64ビットCPU・浮動小数点数演算機能・パースペクティブ補正(英語版)・Zバッファを初めて採用した。そのため他の同世代機種に比べて3Dポリゴンの演算能力と描画品質が高く、同世代で唯一ポリゴン描画で擬似的な手法を用いず、理論的に正しい手法で描画を行ったため、CGワークステーションに近い安定した3次元空間を描画できた。 CPUは当時グラフィックスワークステーションメーカーだったシリコングラフィックス (SGI) と提携して開発が行われ、メインにはRISCのMIPS R4300カスタム、32ビットRISCのR3000をコアに持つグラフィックエンジンである「RCP (Reality Co-Processor)」を搭載した。64ビットのR4300カスタムは最高122MIPSの処理能力を発揮することが可能で、競合機種の一つであるPlayStationの搭載するCPUの約4倍の処理能力にあたる。ポリゴン機能は環境マッピングやトライリニアといった本格的なテクスチャ・マッピング処理にも対応し、スーパーファミコンの35倍の性能を発揮する。64ビットCPU搭載を売りにしていたが、64ビットモードでは動作クロックが下がる仕様となっているため、殆どのソフトウエアで32ビットモードを用いていた。 また、「RCP」の描画能力を引き出すためにマイクロコード方式を取り入れた。これはプログラミングによってあらかじめハードウエアに実装された機能に、後からプログラミングコードを追加または書き換えることで、開発するソフトウェアの種類に合わせた演算性能の特化を可能にしたものである。メーカーや開発者が独自に開発することが可能だったが、開発の難易度が上がる弊害もあった。 当初、NINTENDO64のグラフィックスチップの性能をあまり活かせておらず、岩田聡(後の任天堂代表取締役社長)がアメリカへ渡り勉強をすることでその性能を上げていった。 ゲームソフトの供給媒体には、当時主流となりつつあったCD-ROMではなくROMカートリッジを採用している。また、カートリッジにリージョンプロテクトが物理的に施されており、日本国内版ソフトと海外版では背面にあたる形状の一部が異なることで、異なるリージョンのソフトが対応しない本体に刺さらないようになっている。ただし、あくまでもカートリッジに施された物理的なプロテクトであり、接続端子は共通のものであったため、本体とカートリッジの組み合わせが日本版・北米版などのNTSC方式の国で出荷された本体同士(PAL-M出力のブラジル版を含む)の場合は非公式の変換アダプタを使用するか本体のカートリッジコネクタにあるカセット形状を判別する部品を外す等を行えば問題なく動作する。一方でNTSC版の本体でPAL版のソフトを起動する(あるいはその逆)の場合は、そのままではCICチップのプロテクトにより動作しないため、本体の改造かCICチップのプロテクトを突破できる高機能の変換アダプタ(非公式)が必要となる。 なお、ファミリーコンピュータ(HVC-001)・NES(NES-001、NES-PAL-001、NESE-001など)、スーパーファミコン(SHVC-001)・SNES(SNS-001、SNSP-001Aなど)と異なり、本体にはイジェクトボタンが搭載されていないため、カートリッジを本体から外すには上から手でカートリッジを引き抜く必要がある。 データ転送速度を高速にするためにカートリッジ内にはCD-ROMの36倍速に相当する5.3MB/sのROMを採用し、本体には当時主力パソコンの2.5倍相当の250MHzのRDRAMを採用した。 筐体とは異なり、デザインは従来通りのアナログの手法も併用、左右と中央それぞれの下部に安定して保持するためのグリップを設けた三つ又の形状を採用し、3次元空間を体感するため、同社の前世代機までに使用された十字キーに加えて、コントローラ中央に「3Dスティック」という名称のアナログスティックを採用した。 スーパーファミコン用のコントローラーから発展したような形状となっており、LボタンとRボタンはそのまま継承されている。中央のSELECTボタンと右側のX・Yボタンが一旦廃止され、新たにコントローラー右側に上・下・左右の矢印が刻印された4つの「Cボタン」が新たに配置、A・Bボタンと合わせて6つのボタンで構成される。また、中央は前述の3Dスティックと背面に「Zボタン」が配置されており、トリガーを引くような感覚でZボタンを操作可能となっている。 コントローラーの背面には周辺機器を装着できる「拡張コネクタ」が存在する。こちらには本体ROMとは別に記録する個別データを持ち運ぶための媒体や、振動パックなど、ゲーム本体の体感や遊び方を拡張することが可能。 三つ又の棒部分を左右の手のいずれかで握ることで安定して保持できるほか、握る位置によって3つ操作体系持つ。 コントローラーの操作に関しては、小さい子供に対してはコントローラが大きいという難点もあった。また、使用できるボタン数が少ないレフトポジションを採用したソフトは片手で数えられるほどの少数で、アナログ操作を活かせるライトポジションのソフトが大半を占めた。また、それまでは2つが主流だったコントローラ端子は本体に標準で4つ用意されており、多人数プレイを想定した設計となっている。4人対戦対応ソフトも数多く開発された。拡張コネクタと使用した個別データの持ち寄り、といったことを想定したソフトも開発された。 1996年発売の『スーパーマリオ64』や1998年発売の『マリオパーティ』など、3Dスティックをグリグリと回す操作方法を取り入れたソフトが多かったが、この操作はスティックの故障の原因につながるほか、プレイヤーが指や手を痛めることが多く、次第にそういったことを勧めるゲームはなくなっていった。しかし、普通に使っていても使用頻度によってはかなりの短期間で、「操作しているキャラクターがスティックに触れていないのに勝手に動いてしまう」などの誤作動を起こす場合があった。この原因は、コントローラ内部で3Dスティックの動きをX軸、Y軸の回転として変換し、またスティック自体を支えている部品に樹脂素材を使用していた事による。スティックが磨耗すると遊びがかなり大きくなり、指を離しても3Dスティックが正確な中心に戻らなくなる。本体の電源を入れるとそのときの3Dスティックの位置を中心として認識する仕様のため、正確な中心位置が認識できなくなるためである。また3Dスティックの内部では部品の一部が粉末状になり堆積する。NINTENDO64においてはスティックを使用するゲームがソフトの大半を占めていたこともあり、コントローラを修理に出したり買い替えなければならなくなることもしばしばあった。 また、色がライトグレーであるのは、日本国外の市場を意識した本機にあって、スーパーファミコンの名残を残すためである。 発売当時は本体上面にあるメモリー拡張パック用(後述の周辺機器参照)の接続端子(ターミネータパックが刺さっている)に「はがさないでください」という赤い警告シールが貼られていた。メモリー拡張パックを必ず装着しなければならない『ドンキーコング64』のCMでは、3人の子供たちがこのシールに戸惑いながらも、大丈夫だとシールを剥がすシーンを盛り込んで、啓蒙活動を行った。実際、メモリー拡張パックが必要ないソフトも、ターミネータパックを外した状態では起動しない。 スーパーファミコン用RGBケーブルは対応していないが、初期型ではRCPから送られたデジタル信号をアナログRGBに一度D/A変換してからビデオ信号に変換する仕様のため、アナログRGB信号を基板上の映像コネクタまで配線を施すと使う事が可能。中期型以降では、デジタル信号から直接ビデオ信号に変換されているため、この改造を施すことが不可能である。 本体側の電源端子の形状も全世界で統一され、ACアダプタ部分を除く分類ではカラーテレビの規格がNTSC方式(60Hz)を採用する日本・台湾・香港版と韓国版(前述のリージョンプロテクトとしてカートリッジ裏側の切り欠きが内側にある)、同じくNTSC方式を採用する北米版(アメリカ合衆国・カナダ・メキシコ向けで、カートリッジ裏側の切欠きが外側にある)、PAL-M方式(60Hz)を採用するブラジル版(カートリッジは北米版と同じ形状)、PAL方式(50Hz)を採用するヨーロッパ(主にEUの西欧諸国)とオセアニア(オーストラリア、ニュージーランド)向けのPAL版(カートリッジ裏側の切欠きが内側にある)の4種類に絞られている。スーパーファミコンまでは本体に内蔵していたRFユニット(RFモジュレーター)は出荷国の放送規格に合わせるために出荷国によって基板を作り分けしなければならない原因であったが、本機が発売された1996年(平成8年)当時は既にRCAコンポジット端子を備えたテレビが普及していたことやコストダウンの観点から、AV仕様ファミリーコンピュータ(HVC-101)と同様にRFユニットは外付け・別売りとなった。 任天堂公式ホームページより 1996年(平成8年)6月23日に発売された際の本体カラーはブラックで型番はNUS-001。日本国外版も含めてブラジル版を除いて日本で生産され(コントローラの一部ロットは中華人民共和国でも生産)、ブラジル版のみ電子機器の完成品の輸入関税が高額であることから日本や中国から部品を輸入し、現地代理店のPlaytronic Industrial社(後にGradiente Entertainment社)のマナウスにある工場にて現地生産された。 非公式の互換機「Analogue 3D」がAnalogueから2024年に発売予定。ソフトでエミュレーションせず、完全FPGA設計することによって互換性を実現している。 型番の「NUS」は、「Nintendo Ultra Sixty-four」の略とされる。 その他、ファミリーコンピュータ・スーパーファミコン用のRFスイッチ(HVC-003)はNINTENDO64でも使用可能。 この他にも、多くの機器が発売されている。 非ライセンス商品だが、コロンバスサークル製「(N64用)スーパーコンバーターBR」(CC-64SCB-BR)を接続すると、Nintendo Switch Proコントローラー、NINTENDO 64 コントローラー(HAC‐043)が使用できるようになる。 日本におけるローンチタイトルは『スーパーマリオ64』、『パイロットウイングス64』、『最強羽生将棋』。 PlayStationやセガサターンのようなCD-ROM媒体を用いた多くのゲームが動画を多用していく中で、NINTENDO64は全年齢に親しまれるラインナップが多かった。 発売されたソフトは日本では全208タイトルでPlayStationやセガサターンと比べて少ないが、『ゴールデンアイ 007』、『ドンキーコング64』、『バンジョーとカズーイの大冒険』、『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』など人気を博したソフトや、『風来のシレン2』など作品として評価されているソフトも存在している。また4人同時プレイに最初から対応していたという事もあり、多人数ゲームで大きな広がりを見せた。そのため、小中学生を中心に一定のシェアを獲得することに成功した。 特に『マリオカート64』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』などは売上も好調だった。また、売り上げこそ劣るものの『実況パワフルプロ野球』や『実況ワールドサッカー』なども3Dスティックでの操作性が独特で、シリーズ屈指の作品として支持されている。 本ハードで初めて登場したマリオパーティシリーズは、NINTENDO64以降のゲーム機でも続編が発売される人気タイトルとなっている。また2001年にはNINTENDO64において任天堂最後のソフトとなる『どうぶつの森』が発売された。発売当時はNINTENDO64市場の終末期であったことから初回生産分はわずかなものであったが、インターネット上の口コミなどによってたちまち品薄状態を生み出した。 新作ソフトの発売は日本国内においては2001年12月発売の『ボンバーマン64』が最後となった。 当時、任天堂ハードでは発売されていなかったリッジレーサーシリーズだが、海外ではNintendo Software Technologyによって開発された「Ridge Racer 64」が発売された。 北米では2003年夏まで新作ソフトが発売された。最後のNINTENDO64用新作タイトルとなった『トニーホークプロスケーター3』である。 当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されており、「ゲームが変わる、64が変える。」のキャッチコピーとともに登場した。しかし、度重なる延期でライバル機より2年近くも遅れた発売により、登場時には全出荷国でPlayStationが、日本国内ではさらにセガサターンも市場を占拠し始めていた。 ライバル機より普及が進まなかった要因として が挙げられる。 ゲーム機に3Dが導入されたことに伴いソフトの開発環境が変化し開発人員も増大した。開発言語が従来のアセンブリ言語からC言語へ変わり、開発環境には、SGIのグラフィックワークステーション、SGI Onyxが使用された。後にSGI Indyも使用された。日本では、安価なMicrosoft Windowsベースの京都マイクロコンピュータ製インサーキット・エミュレータ「PARTNER-N64」も用意された。 ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)はソフトの開発機材を安価でソフトメーカーに提供し、開発環境の負担を軽減することにより、サードパーティーを数多く取り込んでいた。これは元々ソニーがスーパーファミコンの開発機材を作っていたりなどしたためノウハウがあったことによる。しかし当時の任天堂は従来通りソフト毎に開発者が独自にプログラムを組んでいた。また当初はセカンドパーティの増強を考え、マネージメント会社「マリーガル」を設立して対処していた。 開発環境の変化は任天堂自身にも影響を与えた。岩田は「ハードの能力と自由度が上がったことで、逆にゲームにおけるハードの限界が明確でなくなってしまって、プログラマーにとってはどこまでハードの性能を出せるのかがわかりにくくなってしまった」「“オプティマイズ”や“チューニング”といった(中略)ゲーム制作の本質とは違う仕事が爆発的に増え、つくり手は思ったとおりにゲーム制作ができなくなってしまった」と述べている。そのため、開発が長期化してしまう状態になっていた。ほぼ時期を同じくしてNINTENDO64の発売直後に出るはずだった周辺機器『64DD』も暗礁に乗り上げる。当初はファミリーコンピュータ ディスクシステムと同様のハードになるはずだったが、様々な構想が消えては生まれる状態が起き、そのたびに開発延期が繰り返された。最終的に「製品群構想」となったが、発売が遅れ過ぎたことなどが響き、ほとんど定着しなかった。 こうして、開発の困難さからNINTENDO64は発売初期からすでに参入メーカー不足によりソフト不足に見舞われる。具体的にはローンチタイトル3作品の発売の後3ヵ月以上ソフトが1つも発売されなかった。任天堂は1996年内にセカンドパーティ製のものも含め、16本の自社ソフトを発売する計画だったが、ソフト開発の遅延や64DDの発売延期などにより4本しか発売できず、後に発売できたのも半分ほどで、残りは発売中止となった。また発売当初のキラーソフトの一つ『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の発売が大きく延期したこともハードの普及を妨げた。 参入メーカー不足で致命的だったのはファミコン、スーパーファミコン時代に抱えていた国民的な人気を誇るRPGシリーズが離れたことであり、ファイナルファンタジーシリーズは大容量メディアであることを理由に、ドラゴンクエストシリーズは普及台数の差と64DDの開発遅延をきっかけにいずれもPlayStationに移籍。RPG不足もハードの普及を妨げた。 それ以外にも当時は対戦格闘ゲームの絶頂期であり、セガサターンは『バーチャファイター』、PlayStationは『鉄拳』などの格闘ゲームでハードの売り上げを伸ばしていたが、任天堂は「勝ち負けが付くゲームはマニアックになりやすい」という理由で自社で格闘ゲームを開発しない方針を取っていたことでハードウェア後期になってもあまり発売されなかった。 またこの世代のゲーム機からPlayStationやセガサターンのマルチプラットフォーム作品が登場していたものの、NINTENDO64はディスクメディアを不採用にしたことや、コントローラの形状といった操作体系など、他のハードと異なる面が多いことを理由に、マルチプラットフォームや移植でNINTENDO64に発売された作品がほとんどなかった。 こうした要因により、本体価格を下げて対応したが普及が進まず、最終的なハード出荷台数は同世代のPlayStation・セガサターンに及ばなかった。この結果、任天堂は据え置きゲーム機のトップシェアを失い、その後2世代にわたりその座をSCEに明け渡すことになった。 後年山内は、任天堂はソフト体質の会社だが、NINTENDO64はハード体質の人間によるものであるため、NINTENDO64を当時から不満に思っていたと回顧している。 一方で本体やコントローラのデザインおよび操作性は評価され、1997年にはスポーツ・レジャー用品部門でグッドデザイン金賞を受賞している。 日本市場では上記の原因により苦戦を強いられたが、北米市場においては上記の事態がほとんど起きず、『スーパーマリオ64』や『ゴールデンアイ 007』がNPD調べで500万本以上売り上げるなど有力ソフトがハードを牽引し、累計販売台数2,063万台とSNES(海外版スーパーファミコン)並の市場を築くことに成功した。当時の北米では任天堂と同様に、プログラマが独自でプログラムを組むことが多く、プログラム問題があまり起こらなかった。また、RPG・格闘ゲーム不足については、日本と異なりさほど人気がなかったことにより問題とならなかった。 米国では画像処理能力とコストパフォーマンスなどが評価され、タイム誌による”マシン・オブ・ジ・イヤー’96”を受賞した。 宮本茂は「NINTENDO64はね、とりあえず日本ではすごくトーンが下がっているし、ヨーロッパもけっこう厳しいですし、不安な状態に見えるんですけれども、アメリカの勢いのお蔭で、ビジネスとしては完全に成り立った」と述べている。
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農業
農業(のうぎょう、英: agriculture)とは、土地の力を利用して有用な植物を栽培する。また、有用な動物を飼養する、有機的な生産業。 農業とは、土地を利用して有用な植物・動物を育成し、生産物を得る活動のことである。広義には、農産加工や林業までも含む。このうち林業については林業を参照。 農業を職業としている人は農家や農民と呼ばれる。 2007年現在、全労働人口の3分の1が農業を中心とする第一次産業に従事している。世界全体では第三次産業に従事する人口が一次産業を凌駕している。 農業は、伝統的な分類では林業・漁業と同じ第一次産業に分類される。農業・林業・水産業・畜産業などに関わる研究は、農学という学問の一分野を成している。 人類はもともとはもっぱら狩猟採集を行って生きていたと考えられており(狩猟採集社会)、どこかの段階で農業を"始めた"と考えられている。農業の起源については諸説あるが、ハーバード大学、テルアビブ大学とハイファ大学の共同チームは、イスラエルのガリラヤ湖岸で、23,000年前の農耕の痕跡(オオムギ、ライムギ、エンバク、エンマーコムギ)を発見したと、ニューヨーク・タイムズなどで報道されている。 また、約10000年ほど前、中国の長江流域で稲作を中心とした農耕が始められていたことが発掘調査で確認されている。またレバント(シリア周辺、肥沃な三日月地帯の西半分)では、テル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)で最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。イモ類ではパプアニューギニアにて9000年前の農業用灌漑施設の跡「クックの初期農耕遺跡」がオーストラリアの学術調査により発見されている。農耕の開始と同時期に牧畜も開始された。 中緯度の狩猟民が定住化した後に農耕や牧畜を開始したことは「農業革命」と呼ばれており、その後の人類の社会に大きな影響を与えた。 植物を栽培するためには自然の植生を取り払う必要があり、土地を焼いた後に種子をまく方法が行われていた。原始人は意識していたかわからないが草木の灰には養分が含まれており一種の施肥行為になっていた(焼畑)。しかし、これだけでは十分な養分の供給は難しく、完全な定着農業が実現したのはヨーロッパで発達した輪作や積極的な施肥(ヨーロッパでは主に厩肥、日本では主に刈草敷)といった方法が行われるようになったことによってである。 社会の分業化とともに自給自足、物々交換のための農業は商業化された農業へと移行した。 産業分類や生産物分類では耕種農業と畜産農業(このほか農業サービスや園芸サービス)に大別される。耕種部門と畜産部門の連携を耕畜連携という。 耕種農業とは米、麦、野菜等の生産活動を行う農業をいう。 耕作システムは利用可能な資源や制約条件(地形や気候、天候、政府の政策、経済的・社会的・政治的な圧力、農家の経営方針や慣習)によって変化する。 焼畑農業は毎年のように森林を燃やして、解放された栄養素を耕作に利用するシステムで、その後は多年生作物を数年間栽培する。その区画はその後休閑地とされて森林に自然に戻り、10年から20年後に再度焼いて利用する。休閑期間は人口密度が増加すると短くなるため、肥料を導入したり、病害虫管理が必要となってくる。 次の段階は休閑期を設けない耕作システムであり、栄養管理と病害虫管理がさらに必要となる。その後さらに工業化が進展すると、単一作物の大規模栽培システムが登場する。特定の栽培品種だけを作付けすると、生物多様性が低下し、必要な栄養素も均一化し、病害虫も発生しやすくなる。そのため、農薬や化学肥料にさらに頼ることになる。多毛作は1年間に複数種類の作物を次々と栽培するシステムで、間作は複数種類の作物を同時に栽培するシステムである。他にも混作という類似のシステムもある。 熱帯では、これら全ての耕作システムが実際に行われている。亜熱帯や砂漠気候では、農作物の栽培は降雨の時期(雨期)に限定されて1年間に何度も栽培することができないか、さもなくば灌漑を必要とする。それらの環境では多年生作物(コーヒー、チョコレート)が栽培され、アグロフォレストリーのような耕作システムも行われている。温帯では草原やプレーリーが多く、年1回だけ収穫する生産性の高い耕作システムが支配的である。 20世紀は集約農業、農業における集中と分業が進んだ時代であり、農業化学の新技術(化学肥料、農薬)、農業機械、品種改良(交雑や遺伝子組み換え作物)がそれを支えた。ここ数十年間、社会経済学的な公正さと資源保全の考え方や耕作システムにおける環境の考え方と結びついた持続可能な農業への動きもある。この動きから従来の農業とは異なる様々な農業の形態が生まれた。例えば、有機農業、近郊農業、community supported agriculture(地域で支える農業)、エコ農業、integrated farming などがあり、全体として農業の多様化に向かう傾向が明らかとなってきている。 生産物分類は複数あるが、主に耕種農業の生産物は穀物(コムギ、トウモロコシ、コメ、モロコシ、オオムギ、ライムギ、オート麦、雑穀、その他の穀物)、野菜、果実および堅果、脂肪種子および脂肪性果実(ダイズ、ラッカセイ、綿花、オリーブ、ココナツなど)、香辛料植物および香料作物(コーヒー、茶、コショウ、トウガラシ)、豆類、糖料作物(テンサイ、サトウキビなど)、その他の植物原料(飼料用植物、繊維料植物、タバコ)などに分類される。 国際連合食糧農業機関 (FAO) による作物の種類毎の生産量の推定を次に挙げる。 畜産は、基本的に、食肉・鶏卵、乳、ウールなどを得るために動物を飼育することである。 歴史をたどれば、もともとは全て野生の動物であったのだが、その中から比較的飼いやすい種類(人間になついてくれる種類)や利用価値が高いものを見出し、人類が次第に家畜として利用するようになってきたのである。 「畜産システム」には、まず飼料を供給する草原に基づくもの、混合型システム、土地を持たないシステムなどがある。 草原に基づく畜産は、反芻動物の飼料を供給する低木林地、放牧地、牧草地のような草地に依存している。家畜の厩肥を肥料として直接草地に撒いたとしても、それ以外の肥料も使用することもある。畜産というのは、気候や土壌のせいで農作物の栽培が現実的でない地域では特に重要であり、世界には3,000万から4,000万人の牧畜民がいる。混合型システムでは、飼料作物や穀物を生産して、反芻動物や単胃動物(主にニワトリとブタ)の飼料とする。厩肥は農作物の肥料として再利用される。統計的に見ると、実は、農地の約68%は飼料作物栽培地として畜産向けに使われている。人々が食事で食べる食品が、先進国で起きがちな肉食偏重傾向などによって、植物性の食品(穀物・野菜 類)から動物性の食品(肉類)へとシフトすると、結果として、せっかく生産された穀物・野菜類の大部分が(人の口に入らず)肉のための家畜の口に入ってしまう、ということが指摘されている。直接 植物を食べるのと、家畜に食べさせてから肉として食べるのを比較すると、人が同程度の栄養をとる場合を比較すると、肉にしてから口に入れるほうが10倍程度の植物が必要になる、と指摘されている。つまり、わざわざ肉に変換してから口に入れるということをすると、「植物の生産→人間の栄養」という経路の効率は1/10程度まで落ちてしまう、ということである。) 土地を持たないシステムでは、飼料は農場外から供給する。つまり飼料作物の生産と家畜の飼育を別々に行うもので、特に経済協力開発機構 (OECD) 加盟国によく見られる。特に(肉食偏重の)アメリカ合衆国では、生産した穀物の、実に 70%が飼料として消費される(消費されてしまう)。飼料作物の生産には化学肥料が多用されており、厩肥をどうするかも問題となっている。 畜産は基本的に、食肉・鶏卵、乳、ウールなどを得るために動物を飼育することであるが、「畜産」が(広義には)使役するための動物(使役動物)を産ませ育てることまで含めて指すこともある。 ウマ、ラバ、ウシ、ラクダ、リャマ、アルパカ、イヌといった動物は、農地の耕作、作物の収穫、収穫物の運搬、他の家畜の番(牧羊犬など)などに使役されてきた。 1940年代以降、主にエネルギーを多用する機械化、肥料、農薬によって農業の生産性は急激に向上した。それらのエネルギー源のほとんどが化石燃料によるものである。1950年から1984年にかけての緑の革命で世界中の農業が大きく変化し、世界人口が倍増する間に穀物生産量は250%も増加した。現代の農業は石油化学製品と機械化に大きく依存しており、石油不足がコストを増大させて農業生産量を減少させ、食料危機を起こすのではないかという懸念が生じるようになった。 現代の機械化された農業は2つの意味で化石燃料に依存している。1つは農場で燃料として直接使用しており、もう1つは農場で使用するものを製造する過程で間接的に使用している。直接消費としては、農業機械の燃料や潤滑油としての使用だけでなく、乾燥機、ポンプ、ヒーター、冷房などにガスや電力を使っている。2002年の時点でアメリカ合衆国の農家が直接消費したエネルギーは約1.2エクサジュールで、アメリカの全エネルギー消費の1%強程度である。 間接消費は主に肥料と農薬の製造に使われた石油と天然ガスであり、2002年には0.6エクサジュールだった。農業機械の製造に使われたエネルギーも間接消費の一種だが、アメリカ合衆国農務省の統計にはそれは含まれていない。合計すると、アメリカでの農業が直接・間接に消費するエネルギーは全体の約2%を占めている。アメリカでの農業の直接・間接のエネルギー消費量は1979年をピークとして、その後30年間は徐々に減少傾向にある。 食料システムと言った場合、農業生産だけでなく、その後の加工、梱包、輸送、販売、消費、廃棄といった食料にまつわる全てが含まれる。アメリカでは食料システム全体のエネルギー消費に対して農業が占める割合は5分の1以下である。 石油不足が生じた場合、食料供給に影響が生じる。現代的有機農法を採用している農家は、化学肥料や農薬を使わなくとも高い生産量を維持できると報告している。しかし、石油に基づいた技術で可能になった単作栽培で失われた土壌の栄養素の復元には時間がかかる。 2007年、バイオ燃料用作物の栽培が農家をひきつけ、他の要因(輸送コスト上昇、異常気象、中国やインドでの食料需要増、世界的な人口増加など)も加わってアジア、中欧、アフリカ、メキシコなどで食料供給が逼迫し、世界全体で食品価格が高騰した。2007年12月の時点で37カ国で食料危機が発生し、20カ国で何らかの食料価格の統制が行われている。この2007年-2008年の世界食料価格危機で暴動も起きている。 農業に関連して最も化石燃料を消費しているのは、ハーバー・ボッシュ法で化学肥料を作る際に原料の水素を得るのに天然ガスを使っていることである。天然ガスが使われているのは、水素の原料として今のところ最も安価だからである。石油が減少してくれば、天然ガスがその代替として一時的に使われるようになり、需要と供給の関係で天然ガスはさらに高価になる。他の水素の原料が見つからなければハーバー・ボッシュ法による化学肥料の製造は高くつくようになり、化学肥料の入手が困難になることが予想される。そうすると、食品価格が急激に高騰し、世界的な食料危機になる可能性もある。 石油不足対策として有機農業への転換が考えられる。有機農業では、石油化学製品である殺虫剤、除草剤、化学肥料を使わない。現代的有機農法で生産量が減少しないことを実証した農家もある。しかし有機農業は手間がかかるため、労働力の都市から地方へのシフトを必要とする。 農村で廃棄物からバイオ炭や合成燃料を作って燃料として使うという方法も提案されている。合成燃料の場合、その場で作って使用することが可能であるためより効率的であり、新たな有機農業には十分な燃料を供給できる可能性がある。 肥料が少なくても生産量が減らない遺伝子組み換え作物の開発も進められている。しかし遺伝子組み換え作物については生態学者や経済学者から疑問が呈されており、2008年1月には遺伝子組み換え作物が「環境面でも社会面でも経済面でも失敗だ」とする報告がなされた。 モンサントの失敗例のように遺伝子組み換え作物による持続可能性の研究がある一方で、従来からの品種改良による作物の持続可能性の改良が行われている。さらにアフリカの自給自足農家についてのバイオテクノロジー業界による調査によると、農家の抱える問題への対策のほとんどは遺伝子組み換えとは無関係のものだったとしている。それにも関わらず、アフリカのいくつかの政府は遺伝子組み換え技術への投資が持続可能性を高めるのに必須だとしている。 現代社会は貨幣経済であり、農業も自家消費のための生産という側面を残しつつも、ほとんどの農家は農産物の販売によって貨幣で収入を得ている。農家の場合は会社から賃金を得る場合とは異なり、農家自体が経営体で家族労働に依存していることも多く所得の算出がやや複雑になる。 農業所得は、農産物の販売による収入(厳密には農家が自家消費した農産物を含む)から農業経営費を差し引いたものである。農業経営費には、肥料や農薬等の物財費、地代、雇用労働費、農業機械等の減価償却費などがある。農業経営費は家族労働費、自作地地代、自己資本利子などを含む「生産費」とは異なる。また、農産物の販売による収入のほか、政府から受け取る助成金が重要な収入源になっている場合もある。 農業は自然環境のなかで動植物を生産するため自然災害や不作などのリスクがあるほか、短期的な収益最大化を図ろうとすると土地の地力維持ができなくなるなど農業経営には多面的要素がある。 農作物栽培の場合、基本的に自然を対象にするため、日照や気温、降水量などの気象状態に左右されやすく、また需給関係や投資の影響による市場での価格変動もあり、収入面の安定に欠ける面がある。 また、畜産では、市場での価格変動以外にも、飼育する家畜に対する水や飼料の給餌や運動など、早朝から深夜までの世話が毎日必要となり、休日が取り難く、従事者の肉体的負担(過労)・精神的な負担(ストレス)が大きいという問題のほか、家畜の糞尿による悪臭や環境汚染などの問題を有する。 農業経営の規模では農業経済学や農業経営学で古くから大農と小農をめぐる論争がある。小農は賃労働者のいない小規模の家族経営の農家をいい、生産活動は自家労働(家族労働)で行い農産物の一部は自家消費され、家計と生産(経営)が未分離という特徴がある。家族経営と企業的農業経営に分けられることもある。 農業政策は農業生産の目標や手法を扱う。政策レベルでの主な農業の目標として次のものがある。 多くの政府が適正な食品供給を保証するために農業に補助金や助成金を与えてきた。そういった農業補助金は、コムギ、トウモロコシ、米、ダイズ、乳といった特定の食品に対して与えられることが多い。先進国がそのような補助金制度を実施する場合、保護貿易と呼ばれ、非効率で環境に対しても悪影響があると評されることが多い。 近年、集約農業の環境への悪影響(外部性)、特に水質汚染に対する反発から、有機農業を推進する動きが生まれた。例えば欧州連合は1991年に有機農産物の認証を始め、2005年には共通農業政策 (CAP) 改訂で生産量と補助金を段階的に切り離すいわゆる「デカップリング方式」の導入を決めた。 2007年後半、いくつかの要因が重なって穀物の価格が急騰し(コムギは58%上昇、ダイズは32%上昇、トウモロコシは11%上昇)、穀物を飼料としている畜産物の価格も押し上げた。世界中のいくつかの国で暴動まで発生した。高騰の要因は、オーストラリアなどでの干ばつ、中国やインドなどの成長が著しい中流階級の食肉需要増、穀物をバイオ燃料生産に転換し始めたこと、いくつかの国が貿易を制限したことなどである。 近年、Ug99株のコムギに小麦さび病 (en) という伝染病がアフリカやアジアで広まっており、懸念が強まっている。また、全世界の農地の約40%で土壌の荒廃が深刻な問題となっている。国際連合大学のガーナに本拠地のあるアフリカ天然資源研究所は、アフリカでこのまま土壌の荒廃が進めば、2025年にはアフリカの人口の25%にしか食糧が行き渡らなくなる可能性があるとしている。 経済発展、人口密度、文化など世界の農家はそれぞれ全く異なる条件下で働いている。 アメリカの綿花農家は作付面積1エーカー当たり230ドルの補助金を受け取っているが(2003年時点)、一方でマリ共和国などの開発途上国の農家にはそのような補助金は出ていない。価格が下落してもアメリカの綿花農家は補助金があるので生産量を減らす必要がないが、マリの綿花農家は価格下落の影響をもろに被って破産することもある。 大韓民国の畜産農家は政府に保護されており、子牛1頭あたり1300USドルの販売価格を見込むことができる。南米のメルコスール加盟国の農場経営者の場合、子牛の販売価格は120から200USドルである(どちらも2008年の値)。前者は土地の不足と高コストを公的な補助金で補っており、後者は土地の広さと低コストによって補助金がないことを補っている。 中華人民共和国では、農家の平均的耕作地は1ヘクタールと言われている。ブラジルやパラグアイなど海外の人間が土地を自由に購入できる国では、1ヘクタールあたり数百USドルで数千ヘクタールの農地や未開発の土地が国際的に販売されている。 2011年の世界各国の農業生産高を以下に示す。 食の安全や食品表示の問題は、食品の安全性に関わる問題である。国際的にはバイオセーフティーに関するカルタヘナ議定書によって遺伝子組み換え作物の貿易が規制されている。欧州連合では遺伝子組み換え作物を使った食品には表示が義務付けられているが、アメリカ合衆国では必須とされていない。遺伝子組み換え作物の安全性についてはまだ疑問が残るため、遺伝子組み換え作物を使用の有無を食品に表示し、一般大衆が選択できるようにすることが必須だ、と考える者もいる。 国際連合食糧農業機関 (FAO) は「飢餓の根絶」を目標とし、加盟国が平等な立場で集まって食糧政策や農業の規制について話し合い、合意を形成する場を提供している。FAOの家畜生産・衛生部長 Samuel Jutzi は、巨大食品企業によるロビー活動が 健康と環境の改善にむけた改革を妨害してきた、としている。彼は Compassion in World Farming (CIWF) の年次会合で「現実の真の問題は、強大な力を背景にしたロビイストの影響を受ける政治的プロセスでは解決されない」と述べた。例えば、畜産業界の自主規制案として単位面積あたりの家畜の頭数を制限して土地への長期的ダメージを低減するなどの環境対策が提案されたのだが、巨大食品企業の圧力によって廃案となってしまったのである。 アメリカ合衆国では家計における食費に占める農業のコストの割合が低下し、食品加工、流通、マーケティングのコストが増大している。これは農業の生産性が向上しただけでなく、高付加価値の食品が増えていることを意味する。1960年から1980年まで、食費に占める農業コストは40%前後だったが、1990年には30%、1998年には22.2%に低下している。寡占化も進んでおり、1995年には食品企業上位20社の製品が全体の半分を占めるようになっており、1954年に比べると倍増している。流通面でも寡占化が進んでおり、アメリカのスーパーマーケット上位6チェーンが食品販売に占める割合は、1992年には32%だったものが2000年には50%になった。寡占化はある意味で効率向上にもなっているが、農村にとっては悪影響があるかもしれない。 人類は文明の始まった数千年前から品種改良を行ってきた。人間によってよりよい特徴を持つ作物になるよう植物の遺伝構造を変更してきた。例えば、果実や種がより大きくなるようにしたり、干ばつへの耐性を持たせたり、害虫に強くしたりといった改良である。グレゴール・ヨハン・メンデル以降、品種改良技術が著しく進歩した。遺伝形質についてのメンデルの業績により、遺伝について理解が深まり、それによって品種改良の技法が発展したのである。望ましい特徴を持つ植物を選択し、自家受粉および他家受粉を駆使し、最終的には遺伝子組み換えを行うようになった。 植物の品種改良により、徐々に収穫量が増えていき、病害や干ばつへの耐性が改善され、収穫が容易になり、作物の味と栄養価が高まった。慎重な選択と育種によって農作物の特徴は大きく変化していった。例えば1920年代から1930年代にかけて、ニュージーランドで選別と育種によって牧草やクローバーが改良された。1950年代にはX線や紫外線を使って突然変異率を高める原始的な遺伝子工学が生まれ、小麦、トウモロコシ、大麦などの品種改良が行われた。 緑の革命では従来からの交雑技法を使うことが一般化し、生産性の高い品種を栽培することで収穫量が何倍にも高まった。例えば、アメリカでのトウモロコシの収穫量は1900年ごろには1ヘクタール当たり2.5トンだったが、2001年ごろには1ヘクタール当たり9.4トンになっている。同様に小麦の収穫量の世界平均は、1900年ごろには1ヘクタール当たり1トンだったものが、1990年には1ヘクタール当たり2.5トンになっている。南アメリカでの平均小麦収穫量は1ヘクタール当たり2トン、アフリカでは1トン以下だが、エジプトやアラビアの灌漑を行っている地域では3.5トンから4トンの収穫がある。これに対して技術の進んでいるフランスでは1ヘクタール当たり8トン以上の収穫がある。収穫量の地域差は主に気候、品種、耕作技法(肥料、害虫駆除、倒伏防止など)の差が原因である。 遺伝子組み換え作物 (GMO) は遺伝子工学の技法を使って遺伝子に修正を加えた作物(植物)である。遺伝子工学によって新品種の生殖系列を生み出すのに使える遺伝子の幅が広がった。1960年代初めに機械式トマト収穫機が開発されると、農学者は機械による収穫により適した遺伝子組み換えを施したトマトを作り出した。最近では遺伝子組み換え技術は様々な作物の新品種開発に使われている。 Roundup Ready と呼ばれる種は、グリホサート剤にさらされても影響を受けないよう除草剤に抵抗力のある遺伝子を持っている。ラウンドアップはグリホサート剤をベースとした非選択的にあらゆる雑草を殺す除草剤の商品名である。つまり Roundup Ready 種を使えば、グリホサート剤を散布しても作物だけは影響を受けず、あらゆる雑草を殺すことができる。除草剤に耐性のある作物は世界中で栽培されている。アメリカの大豆は作付面積の92%が除草剤に耐性のある品種(遺伝子組み換え作物)になっている。 除草剤に耐性のある作物が多く栽培されるようになると、当然ながらグリホサート剤ベースの除草剤が散布されることが多くなる。中にはグリホサート剤に耐性のある雑草も出てきたため、別の除草剤への切り替えを余儀なくされた地域もある。広範囲なグリホサート剤の使用が収穫量や作物の栄養価に与える影響、さらには経済や健康に与える影響について研究が行われている。 害虫に強い遺伝子組み換え作物も開発されており、昆虫に作用する毒素を産出する土中バクテリアであるバチルス・チューリンゲンシスの遺伝子を組み込んでいる。そのような作物は昆虫に食い荒らされない。例えば、Starlink というトウモロコシがある。また、綿花でも同様の品種が作られており、アメリカでは綿花の63%がそういった品種になっている。 遺伝子組み換えを行わなくとも、従来からの品種改良、特に野生種との交雑または他家受粉によって害虫に強い品種を作ることができるという者もいる。野生種は様々な耐性の源泉となることもある。野生種との交雑によって19の病害に耐性のあるトマトの栽培品種を作った例もある。 遺伝子工学者はいずれ、灌漑や排水や保全などを気にしなくても栽培できる作物を生み出すかもしれない。そのような作物は大規模な灌漑に依存する不毛な地域で重要になるだろう。しかし、遺伝子組み換えには批判も多い。食の安全と環境という2つの面から遺伝子組み換え作物について問題提起されている。例えば、作物の次世代の種が発芽しないようにした「ターミネーター種」は環境学者や経済学者によって疑問を呈されている。ターミネーター種には国際的に反対の声が強く、今のところ実際の作物には適用されていない。 別の問題として、遺伝子組み換え技術で開発された新たな種の特許をどうやって保護するかという問題がある。開発企業がそのような種の知的財産権を所有し、その種を使って栽培した作物について条件を設定する権利を有している。現在10の種苗会社が世界的な種の販売の3分の2を制御している。環境活動家ヴァンダナ・シヴァは、それら企業が生命について特許を取得し、それによって利益を得ようとしており、生物学的窃盗罪(バイオパイラシー)を犯していると主張する。特許で保護された種を使っている農家は、翌年のための種を収穫から得られるとしても、毎年新たな種を購入しなければならない。収穫から翌年の種を得ることは普通に行われてきた習慣だが、特許侵害に問われないようにするためには、その習慣を変える必要がある。 限られた地域に適応した種(土着種)は、品種改良された作物や遺伝子組み換え作物によって絶滅の危機にさらされている。そのような種は長い年月をかけてその地域の気候、土壌、その他の環境条件、田畑の設計、現地の民族の好みに適応してきたという意味で重要である。遺伝子組み換え作物や交雑種を持ち込むと、土着種との交雑が起きる危険性がある。つまり遺伝子組み換え作物は土着種の持続可能性やその地域の文化に対する脅威となりうる。交雑によって土着種が遺伝子組み換え作物の形質を獲得したら、その種は特許を保持している企業の設定する条件の対象となりうる。 農業には単に耕作だけでなく、広い土地を耕作に適した農地にすること(開墾)や水路を作るなどの灌漑といった様々な専門的技法が含まれる。農業の基本は、依然として農地での農作物の栽培と牧草地での牧畜である。 トマス・ロバート・マルサスは、地球は人口増加を支えきれないと予言したが、緑の革命などのテクノロジーが食糧需要増に応えることを可能にした。 20世紀末以降、既存の農業に対する懸念から、持続可能な農業への関心が高まっている。品種改良・農薬・化学肥料などの技術革新によって収穫量は急激に増加したものの、環境への悪影響(環境汚染)や 人体への悪影響 が起きている。畜産においても品種改良や「集約型の」養豚・養鶏によって食肉の生産高が劇的に増加したが、動物虐待の問題、抗生物質や成長ホルモンなどの化学物質を投与することによる人体への悪影響が懸念されている。 バイオ医薬品、(欧米でも)薬剤(生薬)、バイオプラスチック、バイオ燃料、などの原料に使われることも多くなっている。ただしそもそも世界では、食糧が不足していて、飢餓で命を落としている人々・地域も多数ある現状である。植物をわざわざ燃料に変換するため燃やしてしまうと、さらに食糧の総量が不足したり、基礎的な農作物の値をつり上げてしまう結果となる。世界人口で多くの割合を占める、低収入で食べ物が十分に入手できてはいない人々の生命を奪う結果をまねくことが懸念されている。 農業は農薬、栄養流去、水の過剰使用などの問題により、社会に対して外部費用(公害)を課す。2000年に発表された研究で、イギリスにおける総外部費用の見積もりは1996年の時点で23億4300万ポンドで、1ヘクタールあたり208ポンドとなっている。アメリカ合衆国の2005年時点の耕作に関わる外部費用はおよそ50億ドルから160億ドル(1ヘクタールあたり30ドルから96ドル)と見積もられており、畜産に関わる外部費用は7億1400万ドルと見積もられている。どちらの研究も外部費用の内部化が必要だとしているが、補助金については分析しておらず、補助金も社会に対する農業のコストに影響していることを注記している。どちらの研究も純粋に経済的影響のみを述べている。2000年の研究は農薬汚染の報告を含んでいるが農薬の常用が及ぼす影響については考察しておらず、2004年の研究では1992年の農薬の影響見積もりに依存している。 ノーマン・ボーローグは革命的な農業技術を開発し、何十億もの命を救った重要人物である。彼の開発した品種は開発途上国の穀物生産量を大幅に増大させ、「緑の革命の父」と呼ばれるようになった。 国連職員でこの問題に関する国連報告の共著者であるヘニング・スタインフェルドは「畜産は今日の環境問題の最も重要な原因の1つだ」と述べている。畜産は農業が使用する総面積の70%を占めており、地球全体の30%の土地を使っている。温室効果ガスの最大の発生源でもあり、CO2 に換算すると全温室効果ガス発生量の18%が畜産に由来する。ちなみに、交通機関・輸送機関が放出するCO2の総計は全体の13.5%である。人間の活動で排出される亜酸化窒素の65%が畜産によるもので(CO2の296倍もの温室効果がある)、メタンの37%が畜産によるものである(CO2の23倍の温室効果がある)。また、アンモニアの64%が畜産によるもので、酸性雨や生態系の酸性化の原因とされている。畜産は森林伐採の主要因とされており、アマゾンで開墾された土地の70%が牧草地になっている(残りは耕作地)。森林伐採や開墾を通して、畜産が生物多様性を低下させているとも言える。 土地を開墾して農産や畜産に利用することは、地球の生態系に最も大きな影響を与える人類の活動であり、生物多様性を低下させる最大の原動力となっている。人類がこれまでに開墾した土地の見積もりは39%から50%まで様々である。土地荒廃 (en) は生態系機能と生産性の長期低下を意味し、全世界の24%の土地(ほとんどが農地)で起きていると見積もられている。国際連合食糧農業機関 (FAO) は土地荒廃の主要因は土地管理の問題だとし、15億人が荒廃した土地に頼って生きていると報告している。ここでいう荒廃とは、森林破壊、砂漠化、侵食、ミネラル分の枯渇、土壌の酸性化や塩害などを指す。 富栄養化は水中の生態系が過剰な栄養を持つようになることで、藻類が繁茂し水中の酸素濃度が低下する。そのため魚類が生息できなくなり、生物多様性が失われ、その水も飲用や工業用に適さなくなる。耕作地への過剰な栄養(肥料)投与や家畜に過剰な飼料を与えることが窒素やリンといった栄養素の表面流出や浸出を招く。これらの栄養素は水中生態系の富栄養化を引き起こす主要な非特定汚染源負荷である。 全世界での農薬の使用量は1950年以降、毎年250万トンずつ増加しているが、農作物の害虫被害はほぼ一定で推移している。1992年、世界保健機関 (WHO) は毎年300万人が農薬中毒を起こし、およそ22万人がそのために亡くなっているとの見積もりを発表した。農薬を使用し続けることでその農薬に耐性のある害虫だけが生き延び、さらに強力な農薬が必要になるというサイクルが生まれている。 飢饉を防ぎつつ環境を守るために農薬を使用した集中的農法を正当化する論理として、Center for Global Food Issues のウェブサイトの冒頭に引用されていた「1エーカーあたりの収穫を増やすことで、より多くの土地を自然のままに残しておける」という考え方もある。批評家は環境と食料需要のトレードオフは必ずしも必然的ではないとし、農薬を減らして輪作などのよい農業経営の習慣を根付かせればよいと主張している。 農業は気温、降水量や降雨時期、CO2、太陽光、といった要素の変化、あるいはこれらの組み合わせによる気候変動に影響を受ける。農業には地球温暖化を防ぐ面もあるし、悪化させる面もある。大気中のCO2増加の一因として、土壌中での有機物の腐敗があり、大気中に放出されるメタンの大部分は水田などの湿った土壌での有機物の分解によるものである。さらに湿った嫌気性土壌では脱窒によって窒素を失い、温室効果ガスの一種である一酸化窒素の形で大気中に放出する。土壌の管理をうまく行えばこれらの温室効果ガス放出を抑え、土壌に大気中のCO2を貯留させることも可能である。 農業生物については、地球内で数種類いる。 アリやシロアリにも、農耕を行う生物種がいる。
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3,061
ヒューリスティック
ヒューリスティック(英: heuristic、独: Heuristik)または発見的(手法) とは、必ずしも正しい答えを導けるとは限らないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴がある。 主に計算機科学と心理学の分野で使用される言葉であり、どちらの分野での用法も根本的な意味は同じであるが、指示対象が異なる。すなわち、計算機科学ではプログラミングの方法を指すが、心理学では人間の思考方法を指すものとして使われる。なお、論理学では仮説形成法と呼ばれている。 計算機科学では、コンピューターに計算やシミュレーションを実行させるときに、発見的手法を用いることがある。たいていの計算は、計算結果の正しさが保証されるアルゴリズムか、または計算結果が間違っているかもしれないが誤差がある範囲内に収まっていることが保証されている近似アルゴリズムを用いて計算する。しかし、そのような方法だと、計算時間が爆発的に増加してしまうようなことがある。そのような場合に、妥協策として発見的手法を用いる。発見的手法は、精度の保証はないが、平均的には近似アルゴリズムより解の精度が高い。また、発見的手法の中でも、任意の問題に対応するように設計されたものは、メタヒューリスティックという。 アルゴリズムの近似精度や実行時間を評価したいが、真面目に評価するのが困難な場合、アドホックな仮定(妥当な仮定に見えるものの、その正しさを証明できないような、その場しのぎの仮定)をおいて評価を行うことが多い。こうした仮定のことを「発見的仮定」と呼ぶ。 近年のアンチウイルスソフトウェアでは、ヒューリスティックエンジンを搭載したものが増加してきている。また、フリーソフトにも搭載されており、その進展を見せている。ただし、個々のソフトの発見的機能は同じでも、その仕組みは異なっているものが多い。 心理学における発見的手法は、人が複雑な問題解決などのために、何らかの意思決定を行うときに、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことを指す。これらは、経験に基づくため、経験則と同義で扱われる。判断に至る時間は早いが、必ずしもそれが正しいわけではなく、判断結果に一定の偏り(バイアス)を含んでいることが多い。なお、発見的手法の使用によって生まれている認識上の偏りを、「認知バイアス」と呼ぶ。
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3,062
肉(にく、英: flesh)とは、 単に「肉」というと、動物の、主に筋肉からなる部分のことである。素朴な表現では身体を「骨と肉と皮」などと言うことも多いが、この場合の「肉」は「骨」や「皮」と対比されている。「肉」は近世に解剖学が発展する以前の、素朴な概念であり、現代の学問では「肉」として研究されるのではなく、もっと細分化した上で研究されている。現代人があえて「肉」と言う場合は大抵、あえて非学術的な、主に古代以来の素朴な概念枠を提示したい時である。 広辞苑では「皮膚におおわれ、骨格に付着する」との説明を載せている。なお素朴な概念では、消化器官・心臓・脳などは「内臓」として区別する方法も一般的である。 (現代的な、古代の概念体系とは異なった概念体系を用いて分析すると)「肉」は主に筋肉ではあるが、細かく見てゆくと、脂肪組織も含んでおり、血管も通っており、神経線維も含まれている。これはあくまで現代の細分化された概念体系、分類体系である。現代の概念枠のほうは解剖学、動物解剖学、人体解剖学、を参照。 動物の肉のうち、食用に供するもの(食肉)を、日常的には単に「肉」と呼んでいる。例えば肉屋やスーパーの「肉売り場」などで販売されている。こうした店や売り場では動物の内臓(モツ)も扱っており、それも広義の食肉に当たる。→食肉、製肉 骨や皮と対比するのでなく、機械と対比する用法である。 工学やDIYなどでは、比喩を用いて、素材を「肉」とたとえる場合があり、例えば「肉厚」は厚みが厚いことを指す。素材が過剰に使われている場合は比喩で「贅肉」と言ってみたり、不要な部分を削ることを「肉抜き」などと言うこともある。 また、機械装置の余分な部分も比喩で「贅肉」と呼ぶこともある。例えばレーシング・カーなどでも、早く走ることには不要な部分を「贅肉」と呼んで、製肉の加工で脂肪を包丁で削るのに喩えて「削り取る」などと表現して、設計図から除去したり、不要な機械部品を取り外す。→比喩
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3,063
魚類
魚類(ぎょるい)は、脊椎動物亜門 Vertebrataから四肢動物を除外した動物群。日本語の日常語で魚(さかな、うお)と呼ばれる動物である。 基本的に一生の間水中生活を営み、えら(鰓)呼吸を行い、ひれ(鰭)を用いて移動する。体表はうろこ(鱗)で覆われている。 ほとんどの種は外界の温度によって体温を変化させる変温動物である。マグロやカジキ、一部の軟骨魚類は奇網と呼ばれる組織により、体温を海水温よりも高く保つことができる。 魚類は地球上のあらゆる水圏環境に放散し、その生息域は熱帯から極域、海洋の表層から深層、また内陸の淡水域まで多岐におよぶ。その生態や形態も実に様々である。魚類全体の種数は2万5,000 - 3万近くにものぼり、脊椎動物全体の半数以上を占めている。 大きさは種により大きく異なる。現生種で最大のものは体長13.7メートルに達するジンベエザメである。また化石種を含めると、約1億6,500万年前のリードシクティス・プロブレマティカスに、推定の仕方に違いがあるが28メートル以上もしくは16.7メートルの個体が発見されている。一方、現生種で最小のものはパエドキプリス・プロゲネティカであり、成魚でも7.9ミリメートルにしかならない。 冒頭文の定義では煩雑な表現をとったが、これは現在の系統学の立場からこの群を定義する他の方法が無いからである。古くは単に魚と考えればひとくくりに出来る感覚であり、20世紀半ばまではそれらを魚綱として一つにまとめ、その下に無顎類、軟骨魚類と硬骨魚類の三群を置くのが普通であった。これらは脊椎や頭部、脊髄と脳などの脊椎動物の基本構成の体制を持ち、鰓裂を鰓として持ち、鰭があって水中を遊泳するのに都合のいい構造をもっている。だが、これらはすべて、脊椎動物のきわめて祖先的形態にすぎない。 現在の分類学的観点からすると古典的な魚綱という群は単系統群ではなく側系統群であり、互いにかなり異質な系統を包含している。たとえば硬骨魚類は四肢動物とともに軟骨魚類や無顎類と別の単系統群を構成するし、そもそも硬骨魚類と軟骨魚類はともに無顎類とは別の単系統群である顎口上綱を構成する。そのため、最古の魚類であるミロクンミンギア、ハイコウイクチスから現代に生息している種までを一つの概念としてまとめようとした場合、このような表現にならざるを得ないのである。 進化の観点から言えば、ヒトを含む陸上脊椎動物の遠い祖先も魚類である。脊椎動物は水中で多様な群に分化し、その一部から陸上進出が行われ、それらがさらに分岐し多様な進化を遂げた。現在の魚類はこれらのうち、水中段階にとどまっているもの(上陸後に水中に戻ったものを除いて)をまとめたもの、といってもよい。ある意味でやはり陸上進出によって多様化した群の中で原始的構造をとどめたものをまとめたものであるシダ植物という群の位置づけに近い。 なお、定義に関連していえば、日本語の基礎語彙としての「魚(さかな)」と学術用語である「魚類」とは別語である。後者が分類学の手法でしか定義されないのに対し、前者は元来、生物学の知識の全くない人でも扱うことのできる語彙で、それで差し支えない範囲の中において用いられるものであった。たとえばヤツメウナギを「魚」と呼ぶことはあり得るが、その文脈の中においてはそれは誤りではなく、またその用例自体が「魚」という言葉の語義を成り立たせる基礎にもなっているのである。 解剖学的に見ると、魚類の体は水の特徴(空気に比べて粘性が高い、溶存酸素が少ない、光を吸収し透過しにくいなど)に適応したものだと言える。近年まで脳の構造上痛みを感じないといわれたが、魚類の痛覚には諸説あり、ニジマスの痛覚実験で痛覚受容体が存在するとした論文も掲載されている為、魚に痛覚があることも大いに考えられる。 水の抵抗を受けにくい流線型である種が多い。活発に泳ぎ回る種に多い。 体は頭部、胴部、尾部の3つに分けられる。 頭部に含まれるものは、眼から上あごの先端部までの吻部、えら蓋、頬部(眼から前鰓蓋骨まで)および下あごである。頭には長いひげやとげを持つものもいる。鼻孔には様々な形や深さのものがあるが、多くの場合には、前鼻孔と後鼻孔とが皮下で連結したU字型の管になっており、鼻孔と口腔とは繋がらない。吻の前部にある前鼻孔から入った水は、そのまま後部にある後鼻孔から流出するようになっている。 胴部は頭部以降から肛門の位置までで、外見上は臀鰭の前までである。消化器官は全てここまでに含まれる。 尾部は肛門以降、尾びれまでである。背面の筋肉が胴部から尾部へと連続的に発達しているので、外見上は尾の区別がはっきりしない。つまり、胴部から尾部をまとめて運動に使用しているとも言える。尾部の比率は比較的高く、多くの種で3割以上、ウナギ目の魚などは7割以上が尾である。 水中の少ない溶存酸素を利用するために、えら(鰓)という器官を発達させている。魚類の属する脊索動物門の鰓の基本構造は、口から咽頭に吸い込んだ外界水を排出する鰓裂(さいれつ)というスリット、スリット間の鰓弓(さいきゅう)という支柱、鰓弓に生じた鰓弁(さいべん)というガス交換器官から成っている。硬骨魚類では、これらの基本構造のセットが頭部の後方にある1対の鰓蓋骨(さいがいこつ、いわゆるえらぶた)で覆われていて、弓上の骨に支えられた鰓弓が4対存在する。鰓弓からは一次鰓弁が何本も伸び、さらに一次鰓弁上には表面積を拡げるための二次鰓弁が多数存在して、ガス交換に用いられる表面積を著しく拡大している。鰓弁には血管が高密度に通っており、外界(海水、淡水)と直接ガス交換を行う。そのためえらは赤く見える。えらはガス交換の他にも、塩類細胞によるイオンの排出・取り込みや窒素排泄物であるアンモニアの排泄を行っている。鰓弓を挟んで鰓弁の反対側にはしばしば鰓耙(さいは)というくし状の突起が発達し、口から吸いこんだ水や堆積物の中から食物をより分けたり漉し分けて食道へと送る機能を持っている。 ひれ(鰭)は体から突き出した薄膜状の構造である。基部には骨格や筋肉があり、動かせる。泳いだり、海底や地上を這ったり砂に潜ったりするのに使われる。 ひれは体につく位置により次のように分類される。 胸びれと腹びれは左右1対あり、これらを対鰭(ついき)、それ以外を不対鰭(ふついき)と呼ぶ。また背びれの数は1基、2基、3基と数え、前から順に第1背鰭、第2背鰭、第3背鰭と呼ぶ。 ひれの形態は、軟骨魚類、肉鰭類、条鰭類で大きく異なる。 ひれが遊泳以外の目的に進化している場合もある。また進化の過程で、一部のひれが退化していることも多い。 うろこは1つ1つは小さな板や棘(とげ)のような形のもので、これが多数集まって体の表面を覆う。外部の衝撃から皮膚や筋肉、内臓を保護する役割を担う。種によって大きさや形は異なり、うろこを持たない種もいる。硬骨魚類のうろこには樹木の年輪に相当する模様が刻まれており、年齢を知るのに役立つ。 うろこは大きく4種類に分けられる。現存する硬骨魚類の多くは円鱗(えんりん)あるいは櫛鱗(しつりん)を持つ。ヒラメのように体の部分によって円鱗と櫛鱗を有する種類もいる。 鰾は主に条鰭類が持つ器官である。浮き袋とも呼ばれる。 魚類の体は海水より比重が大きく、何もしなければ沈降してしまう。そこで、簡単に浮力を得るために鰾を発達させている。鰾は伸縮性に富む風船のような器官で、ガスを溜めたり抜いたりして浮力調節を行う。 原始的な鰾は消化管から枝分かれしており、水面に口を出して空気を出し入れする開鰾(有気管鰾)である。しかし一部の種は消化管から分離した閉鰾(無気管鰾)を持ち、鰾の周囲にある奇網からガス腺と呼ばれる細胞を介してガスを取り込む。 鰾は四肢動物やハイギョの肺と相同である。かつては鰾が肺に進化したと考えられていたが、現在では肺から鰾が進化したと考えられている。初期の硬骨魚類は、淡水生活の中で空気呼吸の必要から肺を発達させたが、水中生活へ適応した条鰭類では肺が鰾となった。そのため、硬骨魚類が肺を獲得する前に分岐したサメ・エイなどの軟骨魚類には鰾も肺もない。軟骨魚類では鰾の代わりに肝臓に脂質を蓄積することで浮力を得ている。条鰭類が肺を鰓に変化させる前に分岐した肉鰭類は、鰾の代わりに肺を持つ。ただし例外的に、現生シーラカンスのラティメリアは脂肪で満たされた鰾を持つ。 条鰭類でも一部の原始的な種では、鰾は肺の機能を残しており、鰓呼吸とは別に肺呼吸を行う。また、底生魚類や深海魚の中には、鰾を二次的に喪失したか非常に小さくなったものが多い。 魚類の目は哺乳類の目とは異なり、4種類の錐体細胞を持ち、紫外線領域の視覚をも持つ。このため、人の目にはオスとメスの区別がほとんどできない種でも、紫外線の反射率がオスとメスで大きな差があることから、魚自身には両者の視覚上の差は明瞭である可能性がある。 魚類は水中生活である。分布は世界中に渡り、その環境によって異なった種が見られる。 生活している塩分環境によって、海で生活する海水魚と河川や湖沼など内陸の淡水で生活する淡水魚に大別される。しかし、海水と淡水の混じり合う河口などの汽水域で生活する汽水魚や、海水・淡水どちらでも生きられる魚もおり、海水魚と淡水魚の区別は厳密でない。また、海水魚は塩湖に生息する魚も含めて塩水魚と呼ばれることもある。 海では海岸線から外洋、深海まであらゆる所に生息する種がある。特に水深200メートル以深の深海に生息するものを深海魚という。インド洋から太平洋に多くの種があり、大西洋には種数が少ない。これは大西洋が比較的新しく生じた海であるためである(ボトルネック効果)。 陸水では湖や池、川に多くの種があり、洞窟の中だけに見られる魚や地下水に生息するものもいる。陸水は陸と海水によってそれぞれ孤立しているので、淡水魚には地域による種分化が見られることが多い。しかし、上位分類群はごく広い分布域を持つものが多い。これは魚類の進化の多くが大陸移動以前から起こってきたためである。 一部の種は生活史の中で海と河川を往復する(通し回遊)。 ほとんどの魚類は水が無い環境では生活できない。これには陸上で体を支えるしくみを持たないこと、水中でしか呼吸できないことが大きい。一部には、体の下面にあるひれで体を支えて移動したり、肺・腸・皮膚などで空気中でも呼吸できるものもあり、干潟や湿地などの陸上である程度生活できる種もある。しかしこれらの大部分も主な生活は水中であり、トビハゼのように水中より陸にいる時間が長いような種も、皮膚の乾燥には耐えられないし、生殖や仔魚・稚魚(幼魚)の生活は水中である。 乾期に干あがる河川で魚類が生息している事がある。これはほとんどの場合は、水がある時期に外から侵入してくるためである。しかし、一部の種は乾燥期を特殊な方法で乗り切る。たとえば肺魚には泥の中に繭を作ってそこにこもり、水がない季節を耐える。カダヤシ目のノソブランキウスなどは、卵が土の中で生き延び、水が入ると孵化する。しかし、節足動物のアルテミアのように完全に乾燥した状態に耐えるものはない。 繁殖形態は卵生および胎生(卵胎生)である。卵は卵黄(栄養分)の割合が比較的多く、卵割は盤割を行うものが多く、小さな胚が大きな卵黄にくっついたような状態で発生がすすむ。孵化した仔魚は卵黄を抱え、しばらくは卵黄の栄養分を使って成長する。サメ類、エイ類、カダヤシ、カサゴ、ウミタナゴなどの仲間には、体内で卵を孵化させて子供を産む卵胎生のものもいる。 繁殖習性も様々である。卵胎生のものは体内受精だが、大多数は体外受精を行う。その際に多数が集まって抱卵放精を行うものから、雌雄一対によるものまで様々な配偶行動が見られる。 大部分の魚類(無顎類以外)の幼生は、すべて魚類の体制を備えて孵化する。その点では直接発生的である。しかし、種によっては成長するにつれた見かけ上の姿が大きく変わるものもある。 とくに真骨魚類は生まれたばかりの幼生を仔魚(しぎょ)、少し成長した幼生を稚魚(ちぎょ)といって区別する。両者の間には明確な形態的変化があり、これを変態と呼ぶ。稚魚は体の大きさこそ小さいが、成魚と同じ形質を備えている。それに対して仔魚は成魚と形態的にもかなり異なっている場合が多い。いくつかの種では「〜幼生」と名前がついているが、そういうものは、発見時に親とは別の種だと思われて付けられた名前の名残であるもの多い。ただし、全ての種が変態を行うわけではなく、仔魚・稚魚の区別がはっきりしない種もある。 仔魚期に特徴的な形態をとるのは、多くの場合は浮遊生活への適応のためである。まだ十分な遊泳力を持たないため、水平方向に泳げないばかりか、そのままでは海底に沈んでしまう。そこで体に大きな棘や糸状の構造物を生やしたり、ひれを大きくしたりして浮力を得ている。棘は捕食に対する抵抗でもある。また、外見からは分からないが、体液の代わりに比重の軽い水や油、気体を溜めて沈降を防いでいる場合もある。 無顎類であるヤツメウナギは、幼生はより単純なアンモシーテス幼生の時期を持つ。アンモシーテス幼生は両眼を欠き、砂泥の中で生活する。アンモシーテス幼生をナメクジウオに対応させる考えもある。 近年の動物の苦痛の研究は、軟体動物、甲殻類、魚などのさまざまな水生動物が、苦痛を認識している可能性を示している。多くの科学者たちは魚が情感を備えると認めており、魚は不安を経験していると推測されている。例えば、アメリカの海洋生物学者のシルビア・アリス・アール博士は次のように述べている。 また魚は、人間同様「うつ」になるとも考えられている。自然界にはないストレス(過密、他の魚からの攻撃、人間による扱い、ワクチン接種など)にさらされた養殖のサケが、深刻なうつ状態にあることが示唆される研究や、ゼブラフィッシュにエタノールを2週間与え続けたあとでその供給をストップして強制的にうつ状態にさせたあと、抗うつ剤をゼブラフィッシュに与えるという研究では、エタノールの供給を絶たれて動きが緩慢になり底のほうに停滞するゼブラフィッシュが、抗うつ剤投与で水槽の上から下へと泳ぎ回りはじめる様子が観察されている。この研究では「うつ状態」のゼブラフィッシュは、うつの人々と同じように、食べ物、おもちゃ、探検など、ほぼすべてに興味を失う様子を見せた。 魚にとって、生活環境は重要で、小石や植物など飼育環境に工夫を施した水槽か、何もない水槽かのどちらかを選択するように提示されたゼブラフィッシュは、一貫して前者を選択する。水槽に有害な酢酸 (酢) を注入してもこの選択が持続した。 「痛み」についても、情動をつかさどる大脳辺縁系にあたる部分が魚類にもあることがわかっており、ダメージや損傷があった時の魚の行動は、注意散漫になったり、損傷部分をかばったり、異物を取り除こうとしたり、食欲が低下したりする。そして、痛みを和らげるモルヒネを投与すると、注意力を取り戻し、通常の行動を取ることが可能になるといった人間が痛みを感じた時と同じ反応を示す。 認知能力については、ホンソメワケベラという魚は鏡像認知し、メダカは相手の顔を識別し、魚は痛みを感じ、タラは音で会話しているという指摘がある。大阪市立大学の研究によると、「魚は鏡を見て自己認識することができる」という。同研究で、麻酔をした魚ののどに色素を注入すると、魚はその部分を気にするようにそれを取り除こうとのどを水槽の底にこすりつけることが観察された。 魚類の中ではマンタ(オニイトマキエイ、ナンヨウマンタ)が最も脳化指数が高い種類の一つとされ大型の哺乳類と同等の知性を持っているとされており、脳のサイズはジンベエザメの10倍あり脳の対比は魚類の中では最大である。また、マンタは鏡像認知をした可能性が高い生物にも数えられている。また、マンタは少なくとも一種は特定の個体を識別し友情を築くことが判明した。 魚の認知能力や感受性についての世論は一致しており、 9,000 人のヨーロッパ人を対象とした 2018 年の調査では、79% が魚の福祉は他の家畜の福祉と同じくらい保護されるべきだと考えていることがわかった。また、2021年にオーストラリア、バングラデシュ、ブラジル、チリ、中国、インド、マレーシア、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、スーダン、タイ、英国、米国の14か国の市民を対象に行った調査では、いずれの国でも60%以上が「魚が痛みや感情を持っている」ことに同意している。 このような、魚の情感に対する認知の広がりを背景に、イギリス大手のスーパーマーケット セインズベリーが、魚の飼育密度の規定や体の切除の禁止、屠殺方法などの動物福祉基準を設けたり、スロバキアでは生きた鯉の販売はクリスマスの伝統の一部であったが、2021年以降、小売業者Kaufland(ドイツ語版)、テスコ、 Billa(英語版)が、2022年以降スロバキアでの生きたコイの販売を終了することを約束したりするなどの魚に配慮する動きが近年見られる。また、イタリアのモンツァ市、ボローニャ市が球形の金魚鉢での金魚の飼育を禁止し、またベルギーでも「表面積の小さい球形の金魚鉢は魚にストレスを与える」として、丸いボウルの販売禁止法案が検討中である(2022年3月時点)。 2018年(平成30年)現在、魚類の系統仮説は以下の通りである。なお下表では魚類ではない四肢類を太字で表した: 知られている中で最古の脊椎動物であり魚類は、カンブリア紀のミロクンミンギア類である。次のオルドビス紀で無顎類が発達し、シルル紀に汽水域で活動できるようになり、顎を持つ顎口類が登場した。 魚類は世界中で食物として利用される。獣肉を食べることを禁じられていた仏教徒の多い国ではより重視される。 魚類を捕らえる方法として代表的なのは銛()などで突く方法、網ですくう方法、釣りなどであり、それぞれに各国で、あるいは対象によって様々な方法が工夫されている。中には動物を使役する(鵜飼いやカワウソなど)などの特殊な方法もある。それらは食料確保のためでもあるが、趣味としても行なわれている。 魚を取ることをまとめて漁、仕事としては漁業という。また、食用の魚種を飼育することを養殖という。 四方を海に囲まれた日本でもなじみ深い食材である。「不味い魚」「美味しい魚」という実用的な観点から魚の種類への関心が高い。貝類や甲殻類とあわせて魚介類と言うことも多く、それらは魚屋で扱われる。そのような文化もあり、生物の和名には肉の色が採用されることが多い。 焼いたり煮たり、あるいは揚げたりと様々に料理される。日本の刺身などでは生で食べるが少数派である。傷みやすいものが多く、保存のために塩漬けや干物、燻製、あるいは油漬けなど処理される例も多い。直接的な食品でない例としては鰹節や魚醤がある。 食料の他に肥料や飼料・加工品の原料などとして使われる。また、釣りや熱帯魚鑑賞は趣味として広く親しまれている。各地に水族館が建てられ、世界中の魚を見ることができる。日本は周りを海に囲まれていることもあり、世界有数の魚大国である。 魚には、エイコサペンタエン酸 (EPA) やドコサヘキサエン酸 (DHA) などのω-3脂肪酸である多価不飽和脂肪酸が多く含まれる。魚に含まれるDHAの多くは、ラビリンチュラ類の1属であるSchizochytrium属などのような海産の微生物によって生産されたものが、食物連鎖の過程で魚の体内に濃縮されたものである。 ω-3脂肪酸の摂取は心臓病の予防に良いと言われている。脳や網膜など神経系の発達にも関与するといわれている。流行歌のおさかな天国には「魚を食べると頭が良くなる」というフレーズがあるが、上記の健康影響を考えると無根拠とも言えない。 村落単位で見た生活習慣では、労働が激しく、魚又は大豆を十分にとり、野菜や海草を多食する地域は長寿村であり、米と塩の過剰摂取、魚の偏食の見られる地域は短命村が多いことが指摘されている。 魚介類の脂肪酸にて、魚介類100グラム中の主な脂肪酸について解説。 魚は世界の水系に排出される化学物質を取り込み濃縮させる。PCBやダイオキシン、水銀、鉛、DTTなどがある。魚はPCBの最大の摂取源であると指摘される。 脂肪の多い魚は、オメガ3脂肪酸の豊富な供給源であり、アルツハイマー病の人々の脳に有害な塊を形成するタンパク質であるベータアミロイドの血中濃度の低下に関連している。このため、少なくとも週に2回は魚を食べること。ただし、鮭、タラ、ライトマグロの缶詰、ポラックなど、水銀の少ない品種を選択すること。魚に過敏な場合は、オメガ3サプリメントの摂取について医師に相談するか、亜麻仁、アボカド、クルミなどの陸生オメガ3ソースを選択すること。 20世紀半ばまでは、魚類は魚上綱(ぎょじょうこう)として1つの綱に分類されていた。これは日常用語における「魚」に対応する分類群であった。魚上綱には、軟骨魚綱、硬骨魚綱、絶滅した板皮綱および棘魚綱が含まれていた。 現在では、魚綱は単系統群ではなく側系統群であるとされる。例えば、マグロ・メダカなどの典型的な魚を含む条鰭綱は、サメなどの軟骨魚類やヤツメウナギなどの無顎類よりも、ヒトなどの四肢動物(両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類)により近縁である。このような分類は人為的であるため、現在では魚綱は生物の分類としては用いられない。 ただし、漁業などの実用的な分野では、現在でも魚類が用いられる。 本稿では無顎類も示すこととする。また全体の分類体系はNelson の分類に従った。 魚類を分類するにあたって使用される特徴のうち、特に注目されるのが鰭の形態である。背鰭の数、胸鰭と腹鰭の位置、脂鰭の有無などが、分類上の重要な形質となる。例として、系統的に古い魚類(コイ目など)では腹鰭は体の中央付近に位置するが、比較的高等な魚類(スズキ目など)ではずっと前方に移動し、胸鰭のすぐ下であったり喉の位置にあったりする。胸鰭と腹鰭を近づけて連動させることで、より効率の良い運動が行えるようになったものと見られている。また条鰭類の魚類では、各々の鰭が何本の棘条と軟条で構成されているかによって、系統的に近い種類・遠い種類を見分けることができる。これらの鰭の構成は分類上極めて重要な要素であるため、専門的には略号を用いて「D.XII,9; A.III,8; P1.26〜28; P2.I,5」のように表し、これを鰭式(きしき)と呼ぶ。アルファベットは鰭の種類(D:背鰭、A:臀鰭、P1:胸鰭、P2:腹鰭)を、ローマ数字・アラビア数字はそれぞれ棘条・軟条の数を表している。 分類に用いられる形質として、骨格や鱗もまた重要な要素である。より進化した高等な魚類では、骨の癒合・省略が進み、全体の数が少なくなる傾向がある。これは脊椎動物全体に見られる特徴で、ウィリストンの法則と呼ばれる。鱗は上述したような形態の区別の他、側線を基準に計測した鱗の数(側線鱗数や横列鱗数)が分類形質となる。 魚類は様々な体型や体色をしており、これらは見た目にわかりやすい特徴ではあるが、少なくとも目のレベルでの分類に使用されることは少ない。体型や体色は系統よりもむしろ環境への適応を色濃く反映している。科・属・種などの下位分類では、発光器の数と位置(ハダカイワシ類)、交接器の形態(アシロ類)など多種多様な形質が分類に用いられている。
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3,065
5月5日
5月5日(ごがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から125日目(閏年では126日目)にあたり、年末まではあと240日ある。
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5月28日
5月28日(ごがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から148日目(閏年では149日目)にあたり、年末まではあと217日ある。
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3,070
ガウシアンブロードニング法
ガウシアンブロードニング法(ガウシアンブロードニングほう、Gaussian broadening method)は、バンド計算において、k点の足し上げの際に、バンドにガウス関数による幅を与えることにより、金属系でもk点の足し上げを可能にした方法。 幅の与え方には他にいくつか方法があり、代表的なものとしてフェルミ分布関数を用いる方法があるが、ガウス関数を用いるのが主流である。 ガウス関数やフェルミ分布関数の関数形はテイルの部分を持つので、そのままでは無限遠まで計算しなければならないが、実際は適当なところで切断して足し上げを行う。厳密には、バンド計算において、幅をゼロとした極限の場合の計算結果が正しい結果となる。実際には、ゼロの極限までは計算せず外挿を行う。
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3,071
擬波動関数
擬波動関数(ぎはどうかんすう、Pseudo wave function, Pseudowave function)は、内核電子の影響を擬ポテンシャルとして表現し、そのもとで価電子の波動関数を解いたものである。通常は密度汎関数法の枠内で、Kohn-Sham軌道を作製したものを指す。擬ポテンシャルは、孤立原子の計算によって作製し、これを固体や分子にも適用する場合が多い。ノルム保存型擬ポテンシャルでは、その作成条件(例:ノードレス(節がないこと)など)に基づいて作られる。 通常の擬波動関数は、内核近傍での節(ノード)などをまったく表現しないため、超微細構造や光学応答といった物理量の計算には適さない。ただし、PAW法のように、こうした問題への適用も念頭においた定式化も存在する。
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3,074
メートル
メートル(フランス語: mètre、英: metre 、アメリカ英語: meter、記号: m)は、国際単位系 (SI) およびMKS単位系における長さの計量単位である。 他の量とは関係せず完全に独立して与えられる7つのSI基本単位の一つである。 元々は、「地球の赤道と北極点の間の海抜ゼロにおける子午線弧長を 1/10000000 倍した長さ」を意図し、計量学の技術発展を反映して何度か更新された。 1983年(昭和58年)に基準が見直され、現在は「1秒の 299792458 分の1の時間に光が真空中を伝わる長さ」として定義されている。 なお、CGS単位系ではセンチメートル (cm) が基本単位となる。 • デシメートル ≪ メートル ≪ デカメートル 現在の「メートル」は、以下のように定義される。この定義は第17回国際度量衡総会により1983年10月21日に決定され、第26回国際度量衡総会により改定され、2019年5月20日に施行された。定義の実質は1983年のものと同じである。 ∆νCs は Cs (セシウム)の超微細構造遷移周波数である。 この定義により、真空中の光の速さは正確に 299792458 m/s である。 メートルの単位記号は、小文字・立体の m である。大文字・立体の M と書かれることがあるが、誤りである。大文字・立体の M は、10を表すSI接頭語 メガ (mega) の記号である。ただし、計量法では単位記号の表記揺れに対する罰則はない(これに対して、計量単位の「メートル」を「メーター」と表記することはできない。)が、混乱を防ぐためには標準の表記が推奨される。 メートル (mètre) という名称は、「ものさし」または「測ること」を意味する古代ギリシャ語 μέτρον(メトロン)からの造語であり、計器類を意味するメーター (meterまたはmetre) と語源は同じである。 計量法における表記は、「メートル」である。 日本語の「メートル」はフランス語 mètre からの外来語である。英語の metre / meter からの外来語である「メーター」も特に口頭では使用されることがあるが、計量法上は、「メーター」の表記は用いることはできない(計量法第8条第1項)。 なお、「メーター」は計器の意味で用いられる語である。 日本では1952年(昭和27年)2月29日までは漢字で「米」と書かれていた。 「米」は常用漢字表にあるものの、メートルの読みは常用漢字表にはなく、1952年(昭和27年)3月1日以降の計量法に則した取引・証明においては「米」の字を用いることはできない。 古くは「粁」(キロ)、「糎」(センチ)、「粍」(ミリ)にも漢字があてられ、準常用漢字として位置づけられていたが、1942年(昭和17年)に国語審議会から発表された標準漢字表案の段階において準常用漢字から外され、第二次世界大戦後は使用機会も無くなった。 国際規格ISO/IEC 80000 series Quantities and unitsの規定では、単位記号 m のみが国際的に定められており、単位名称は言語に依存するとしているが、本文には内規によりイギリス英語綴り(オクスフォード式綴り)が用いられ、metre表記が採用されている。 国際度量衡局が発行する国際単位系 (SI) 文書の英語版は上記のISO/IEC 80000 series Quantities and units.の表記に準拠している(meter → metre 以外では、liter → litre、deca → deka がある)。産業技術総合研究所計量標準総合センター (NMIJ) によって翻訳されたSI文書日本語版でも、ISO/IEC 80000に準ずる日本産業規格JIS Z 8000においても、metre表記が採用されている。このため全てのJIS規格において、metre 表記となっている。 国際規格の水平規格であるIEC 60050(国際電気技術用語集(英語版): IEV, electropedia)では各言語での表記を収録し、metreを英語での推奨用語として、meterを米国での同義語として収録している。 国際純正・応用化学連合 (IUPAC) のような国際的な学術団体では、表記が国際的に標準化されていないとして、metre表記に加えてmeter表記を許容する例もある。 国際天文学連合は、単位にはmetreを使うとし、meterは計器を示す文脈に使うよう明記している。 次項のアメリカ合衆国とフィリピン(の一部)における綴り meter は、数少ない例外である。米国では 1977年以降は、公式にmeterと綴られている(後述のメートル#米国における表記の経緯を参照)。 なお、単位の名称ではない、パーキングメータ(ー)やマイクロメータ(ー)、スピードメータ(ー)のような計器の名称には、「meter」の表記が多く使われている。 アメリカでも一時「metre」の綴りを使用していたが、1977年以降は公式に「meter」を用いるようになった。1975年のメートル法転換法 (en:Metric Conversion Act of 1975) によってアメリカ商務省はアメリカ国内においてSIの解釈と変更の責任を与えられ、商務省はアメリカ国立標準技術研究所 (NIST) に対しSIの解釈と変更の裁量権を与えた。2008年にNISTは、BIPMが発表した「Le Système international d'unités (SI)」第8版の英語翻訳書 (BIPM, 2006) に対してアメリカ版を発行した (Taylor and Thompson, 2008a)。この中でNISTは合衆国政府印刷局が定める公文書書式マニュアルに沿い、BIPM版の「metre」を「meter」、「litre」(リットル)を「liter」、「deca」(デカ:10倍の意)を「deka」に置き換えた (Taylor and Thompson, 2008a, p. iii)。NIST所長は、公式にこの変更を表明し、これはアメリカ合衆国におけるSIの「法解釈」の結果であるとした。ただし2017年版のNIST Handbook 44によれば、metre表記も許容されており、これは全米計量会議(英語版)によって支持されている。 フィリピンでも、その計量法の規定においては「metre」の表記である。しかし、その他の法律や標準規格などでは「meter」としばしば表記されているのが実態である。 米国が1971年に、 International System of Units(国際単位系)のフランス語版(仏版が正式文書)を翻訳し、NBS Special Publication 330(現在のNIST SP330)として出版したときには、メートルは公式に、metreと綴り、リットルはlitreと綴られていた。これは、英国がグラムの綴りとして、-grammeではなく-gram を受け入れたこととの取引(「紳士協定」)と理解されていた。 しかしその後、米国内では、meter, literを主張する様々な運動が展開され、1975年には 商務省 (Department of Commerce) が政府機関に -er の綴りとするようにアドバイスし、1977年のNIST SP330の改定時に、ついにmeter、liter、そしてdeca →deka の綴りが採用されるに至った。 -metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。しかし、kilometre, millimetre, nanometre などの倍量単位・分量単位の英語発音では、その接頭語 (kilo, milli, nano) の最初のシラブルに強アクセントがある。 なお、オーストラリア政府のメートル法転換局 (Metric Conversion Board) が1975年に、kilometreのアクセントは第1シラブルにあると公式に宣言したにもかかわらず、当時の首相のゴフ・ホイットラムが、第2シラブルにアクセントがあるべきと主張したことがある。 漢字では「米突」の字が宛てられており、ここから「米」一字だけでメートルの意味を表すようになった。日本では明治時代、中央気象台(現:気象庁)が「米」を偏とする以下のような倍量・分量単位の漢字を作り、1891年(明治24年)から各気象台で気象観測の月報などに使用して、一般にも広まった。一部は中国でも取り入れられている。 以上の様々な漢字表記は戦後まもなくまで使われたが、いずれも当用漢字から外されたうえ、1951年(昭和26年)に施行された計量法上その使用は禁止されている。 長さの少数単位の提案は、記録された中では1668年にイングランドの哲学者ジョン・ウィルキンス(英語版)が著作『真性の文字と哲学的言語にむけての試論』提唱した普遍的測定単位 (universal measure) に見られる。 同年ウィルキンスは、クリストファー・レンが提案したクリスティアーン・ホイヘンスが観察した2秒の間隔を刻む時の振り子の長さを標準長とする案を受け入れた。その長さは38ラインランド・インチおよび39.25イギリス・インチ (997mm) に相当した。 1675年にイタリアの科学者ティト・リビオ・ブラッティーニ(英語版)が著作『Misura Universale』の中で、古代ギリシャ語の「μέτρον καθολικόν(メトロン・カトリコン)」から普遍的測定単位を「metro cattolico」と書き表している。 フランス革命の直後の1790年5月に市民オーギュスト・サヴィニアン・ルブロンが長さの基本単位に対して、「メートル」という新たな名称を初めて提案した。彼はメートルという命名は「ひじょうにうまい表現であり、もともとフランス語だったと言ってもいいほどだ」と言っている。これがフランスで正式に採用され(「mètre」)次いで英語の「metre」となった。なお、現代ギリシャ語では μέτρο(メトロ)という。 人類がそれぞれの生活圏の中で過ごしている時代にはさして必要が無かったが、大航海時代を経て地球規模の航海や交流網が発達すると、長さの単位がまちまちな状態では不都合が多くなった。これに最も熱心に取り組んだのは、既に地球測量の実績を持つフランスだった。 1790年にフランスのシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが普遍的な物理量基準の必要性を提唱し、これを国民議会が承認して基準づくりへの取組が始まった。当時、長さの標準単位を決める定義には、以下に示す3つの支持を集めた案があった。 この問題はパリ科学学士院で検討され、アントワーヌ・ラヴォアジエ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ジャン=シャルル・ド・ボルダらが議論に加わった。1791年、フランスの科学アカデミーは子午線を基準に置く方法を選択した。その理由は、案1では実際の地球表面とジオイド面との差異によって重力は一定にならないため振り子の振幅は変動する点が問題視され、また案2では海上や熱帯気候に当たる赤道での測定は困難と判断されたためである。 普遍的に受け入れられる基本的な長さの単位を設定するに当たり、当時知られていた子午線の長さよりも更に正確な測定が求められた。イギリスやアメリカの協力が得られず、フランス科学アカデミーは単独でジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルとピエール・メシャンを派遣して、1792年から子午線弧長の測定を三角測量にて行わせた。パリを起点に、北のダンケルクへはドランブル一行が、南のスペインのバルセロナへはメシャン一行がそれぞれ計測を担当し、緯度差9°39′27′′.81の距離を最新の経緯儀などを携えて測量を開始した。しかし時はフランス革命のさ中にあり、持っていた測定機器から反革命分子のスパイ活動と間違えられたり、フランス革命戦争のためメシャンはスペインで足止めされるなど幾多の困難に直面した。その間にも政府は、暫定的にニコラ・ルイ・ド・ラカーユの測定値を用いて、新しい単位メートルを「パリを通過する北極点と赤道をつなぐ子午線長の10分の1を定める」という法律を1795年に公布した。測量は、1798年に完遂された。 測量から計算された結果、子午線全周の1⁄4に当たる北極点から赤道までの子午線弧長は5130740トワーズという数値が計算された。測定の終了を受けて、1799年にフランスは、これを1千万分の1にした値3ピエ11.296リーニュを1メートルと定めた。これは、1ヤードや2キュービットといった既存の長さ単位を意識して採用された。そして、白金で作られた板状のメートル原器(端度器)を製作し、これをフランス国立中央文書館に保管した。これはアルシーヴ原器 (Mètre des Archives) と呼ばれた。 この新しい長さの単位は、旧来の慣れ親しんだ寸法からすぐには切替わらなかった。フランスは1837年にメートル法以外の単位使用を法律で禁じ、1851年のロンドン万国博覧会や1867年のパリ万国博覧会などで広報活動を行い、普及に努めた。そのうち、蒸気機関車の発明による鉄道敷設や、実験を重視する科学の発達が統一基準の普及を求め、電気単位への採用などを通じてメートルは広まった。 現実には、地球の地殻表面は単純な正球または楕円球ではなく、標準長を設定する際の絶対的な基準とするには馴染まない。これが地球科学の発展で明らかとなってきた事に加え、ふたたび基準値を観測で得ようとすると、また地球を測るという費用と時間および労力をかけなければならないことから再現性が疑問視された。このため、1869年にアルシーヴ原器そのものが副原器の立場からメートルの基準そのものと変更された。 1870年代から、現代的な観点から新しいメートル法の規格を検討する一連の国際会議が開催された。1870年にフランスが主催した第1回国際メートル委員会は普仏戦争の影響で参加国が少なく実効的な決議を得られなかった。1872年には第2回委員会が開かれ、30本の原器を製作することが決まった。これは、アルシーヴの原器を基準に、白金90%とイリジウム10%の合金を用い、氷が融解する温度環境下で原器に刻まれた2本の目盛りの間を1mの基準とする、全長102cm、「X」字型の断面はアンリ・トレスカが考案した形状が採用された)。しかし、この原器は1875年のメートル条約に基づいた国際度量衡局 (Bureau International des Poids et Mesures, BIPM) 設立(フランスのセーヴル)に間に合わなかった。 1889年、国際度量衡総会 (Conférence Générale des Poids et Mesures, CGPM) 第1回大会が開催され、30本のうち最も正確と判断されたNo.6原器を正式な国際メートル原器と認定してこれを保管し、他の原器は国家単位へ配布した。 このオリジナルとなるメートル原器はBIPMによって特別な環境下で1889年まで保存された。しかし、原器は製作当初から精度に対する物理的な限界が指摘され、同時に経時的変化や紛失・焼損のリスクが常につきまとった。また、長さの原器となるものについての議論は続き、さらにアメリカ国立標準技術研究所によってメートル原器には製作時の誤差があることが発見された。 1873年、ジェームズ・クラーク・マクスウェルは著書『電磁気学』にて普遍的で高精度が期待される光の特定波長をメートルの単位にすべきという発想を示した。1893年、メートル原器へ初めての干渉法による計測が、マクスウェルと同じ主張を唱えるアルバート・マイケルソンによって行われた。1925年まで、干渉法はBIPMにて一般的に用いられたが、国際メートル原器は1960年まで長さの基準の地位にあった。しかし、暫定的に 0°C 1気圧の乾燥環境におけるカドミウム赤線の波長 6438.4696×10^ m が使われつつ、色々な同位体元素の電磁スペクトルが検討された。 そして、1960年の第11回CGPMにて国際単位系によってメートルの定義は、クリプトン-86が真空中で発する電磁スペクトルであるオレンジ色‐赤色の発光スペクトルが示す波長の1650763.73倍と等しい長さへと変更された。この「0.73」という半端な小数点以下部分は、あくまでメートル原器の長さに波長数を合わせたためである。その後継続してレーザーの安定放出や測定方法の精度向上が図られたが、クリプトンランプを使う実験では再現性の悪さも問題となっていた。 不確実性の低減を目指し、1983年の第17回CGPMでメートルの定義はさらに変更され、現在用いられている「光速」と「秒」で表す方法になった。これはセシウム原子時計が発明され、正確な「秒」が決められた事と表裏一体を成している。 この定義は、真空中の光速を有効数字9桁という高い精度となる 299792458 m/s と固定して得たものである。さらに、特殊相対性理論によって光は光源の動きや方向に関わりなく、またどんな波長(振動数)でも一定であり、そして不変だという点が重視された。 このように現在採用されるメートルは一定時間における光が進む距離で定義されているが、実験室で現実に再現されるメートルは未だに標準的なレーザーを用いて干渉法で波長の数を数える測定をして得られる「図による表現」である。そして、この方法では3つの大きな制約が精度に課せられている。 メートルの定義には以下の関係式が用いられる。 λ は決定された波長、c は理想的な真空中における光速、n は測定がされる媒体の屈折率、f は周波数を表す。この方法では、長さは最も正確な測定値のひとつである周波数 f に関連づけられる。 第17回CGPMで決定したこの定義では、科学者が行うレーザー波長の測定において不確かさを1/5に抑える副次的効果が意図された。さらに、研究室ごとの再現性も容易にするために、第17回CGPMではヨウ素で安定化したヘリウム - ネオンレーザーを推奨している。これによれば、波長は λHeNe = 632.99139822 nm となり、関連する不確かさ (U) の期待値は 2.5×10 となるこれは秒の定義における不確かさ (U = 5×10) よりも数段劣り、実験室における再現性には限界があることを表している。その結果、現在使われるメートルの実用的な設定は定義と違って真空中のヘリウム - ネオンレーザー波長 1579800.298728(39)個分で叙述される。 1999年から2000年には測定の絶対性を高めるために超短光パルスレーザーを用いる「光周波数コム」を利用した計測がアメリカやドイツを中心に提案され、この成果を受けて開発者のジョン・ホール(アメリカ)とテオドール・ヘンシュ(ドイツ)には2005年のノーベル物理学賞が授与された。日本は2009年(平成21年)7月16日に国家標準を光周波数コム装置へ変更した。 原器を廃した現在の基準では、メートルは計測器(計量器)の測定結果が根底の基準となる。そのための具体的な計量器が指定され、日本の場合は計量法第134条に基づいて「特定標準器」を経済産業大臣が指定し、これが「国家基準」となる。2009年(平成21年)7月16日に日本はメートル計量器指定を更新し、「モード同期ファイバレーザ」を使用する光周波数コムが採用された。これは従来の方法よりも300倍の精度向上を果たしている。 最新の定義は光速を基準にしているが、CIPMは過去のクリプトンスペクトル長を基準としたメートルおよびそれを基にした測定結果を否定した訳ではない。問題は、それぞれの不確かさにある差であり、測定結果を取扱う際にこれを充分念頭に置くことが必要としている。逆に、求める測定誤差範囲によっては光速以外の方法で基準のメートルを求めても良いものとしている。 SI接頭語では、メートルの十進法による倍量単位・分量単位を定めている。定義上あり得る全ての単位を以下の表に示す。実用されているものは太字で示す。 かつてはミクロン (micron) がマイクロメートル (micrometre) の代わりに使われることがあった。しかし、この単位は国際単位系 (SI) でも日本の計量法でも現在は認められておらず、使用することはできない。 フェムトメートルには、フェルミまたはユカワの別名があった 長大な距離ではkmだけでなく、天文単位や光年またはパーセクといった単位が用いられることが多い。kmを超える倍量単位は、実用上ほとんど使われない。またかつては1万倍を表す「ミリア」という接頭語も存在したが、これもあまり用いられることなく、現在では廃止されている。 分量単位では、アトメートル (am) が現代物理学で解明されている最小スケールであり、それより小さいものではプランク長 (∼ 10 m) オーダーまで表すべき長さが現在のところほとんど存在しないため、理論上は考えられるもののほとんど使われない。 メートルはSIの基本単位であり、メートルから派生した単位は多数あるため、ここで全てを挙げることはせず、メートルのみを使用した単位 (整数 n を用いて、"m" と略されるもののみ)を挙げる。 Unicodeには、CJK互換用文字として上記の文字が収録されている。これらは、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであり、使用は推奨されない。
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ビデオCD
ビデオCD(VCD)は、コンパクトディスクに動画や音声などを記録し、対応機器で再生するための規格。1993年に登場した。規格書は表紙の色から「ホワイトブック」と呼ばれる。 ビデオCDの登場時期に展開されていた映像メディアとしてはレーザーディスク、VHS、ベータマックス、8ミリビデオなどがある。これらはいずれもアナログ記録である一方ビデオCDはデジタルビデオ規格である。1993年に開発が始まった次世代メディアであるDVDの普及までの間を埋めるべく登場した。 世界的には映像ソフトは普及しなかったが、再生機能自体は様々なプレーヤーに搭載された。 ビデオCDに収録される形式は標準化されている。映像の解像度はNTSCでは352×240ピクセル、PALでは352×288ピクセルとなっており、DVD(480i、576i)と比較した場合、約4分の1の画素数である。再生の際に少ない画素を演算処理で補完する事により、テレビ画面ではNTSCの場合では720×480ピクセル、PALでは720×576ピクセルで出力される。また、SECAMでも画素が補完される。映像の圧縮形式はMPEG-1で、ビットレートは1150kbits/(キロビット毎秒)、オーディオの圧縮形式はMPEG-1 Layer 2で、224kbit/sが割り当てられている。 ビデオCDではシステムストリームがCD-ROMフォーマットに準拠して記録されるが、セクタ長が2048byteであるモード1ではなく、誤り訂正能力が落ちる反面ビットレートや容量を大きく確保できるモード2フォーム2(CD-ROM XAフォーマット)が採用されており、ビットレートはオーディオCD(1411.2 kbps)とほぼ等しい。そのため、容量が650MB(メガバイト)のコンパクトディスクには、オーディオCDと基準時間と同じ長さである74分の映像が収録できる計算となる。 Version 2.0では簡易メニュー機能(プレイバックコントロール)を持たせ、高精細静止画再生には704*480又は704*576画素)の画像を収録できるようになっている。 ビデオCDの映像画質は「VHS(ノーマルVHS)の3倍モードと同程度」とされるが、VHSのアナログ形式と異なりデジタル形式で格納されているため、画像が安定している。具体的には、ジッターと呼ばれる映像の細かい横揺れが無く、輝度ノイズや色ノイズも少ない。また、ビデオテープではわずかな傷やゴミでもドロップアウトが発生するが、ビデオCDはエラー訂正があるためディスクに多少の傷や汚れがあっても正しく再生される。 ただし、ビットレートが低いうえMPEG-1の圧縮効率の悪さもあって、動きの激しいシーンではDCT特有のブロックノイズが発生する。 上記特徴が故に、VHSと比較して画質が見劣りする上に、再生時間が74分であったため、一部映画作品は2,3枚組で発売されたが、映像タイトルでの発売は主にカラオケやアニメが中心となった。既に広く普及していたVHSの牙城を崩すことはできず、その後2000年にPlayStation 2が登場してからはDVDに主流が移ったため、正規品として商業的に活用された期間は数年程度と短かった。 旧来の一般的なDVDプレーヤーには、ビデオCDの再生に対応しているものも多かったが、2000年代半ば以降は記録型DVDや、MPEG-4 AVCフォーマットの普及に伴い対応機器の数は減っている。2009年現在で広く普及しているDVDレコーダーやBDレコーダーなど、録画機能付き機器でその傾向にある。 CDの物理規格を映像記録に転用したものであり、比較的安価に製造できるため、DVDが登場する以前から、レーザーディスクより安くVHSより高品質なメディアとして、香港やフィリピン、台湾などのアジア地域で広く普及した。 DVDが普及した2009年現在でも正規品として供給されるビデオCDの映像作品が極少数存在する一方、海賊版も多い。DVDと違い、ビデオCDにはコピーガードおよびリージョンコードが導入されていないことも海賊版が多い一因となっている。日本の作品での例として、アニメやドラマなどの全話を収録したLD-BOXが数万円で販売されていた時期に、香港や台湾において同じく日本のアニメやドラマを全話収録したビデオCDが数千円程度で販売されており、こういった商品はネットオークションなどを通じて、日本にも出回っていた。香港や台湾への日本人旅行者が、ビデオCDを購入して持ち帰ることもあった。 また1990年代前半の中国においてはVHSレコーダーが他国より普及していなかったことから、これに着目した中国企業が中国市場向けに積極的にビデオCDプレーヤーを展開したことで各家庭に普及、2010年代においても新規タイトルが発売されていた。 日本・海外ともに2010年代後半になり、Blu-ray Discやネット配信が主流になると、コスト面でビデオCDを選択する意味も無くなり、中古市場以外での流通は終焉している。 本規格を改良し、映像をMPEG-2に対応させ、より圧縮率を高めた「スーパービデオCD(SVCD)」も存在するほか、「KVCD」と呼ばれるものも存在する。これらは通常のビデオCDと比較してビットレートがかなり高く(最大2.6Mbps)、一枚あたりの記録時間はそれらの規格より短くなる(30分程度)。NTSC・PALいずれにも対応している。これらの形式は正式に標準化はされていないが、既存技術の組み合わせであるため、ソフトウェアの設定次第でパソコンのCD-ROMドライブで再生できる。また、いくつかのDVDプレーヤーでも再生ができる場合がある。 そのほかにも中華人民共和国だけで普及している形式として、DVCDやダブルビデオCDも存在する。
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Linuxディストリビューション
LinuxディストリビューションはLinuxカーネルとその他ソフトウェア群を1つにまとめ、利用者が容易にインストール・利用できるようにしたものである。 Linuxカーネルはプロセスやソケット通信などの機能を提供する。これらは様々なソフトウェアを動作させるうえで基礎となる重要な機能であるが、ユーザーが利用する機能としては非常にプリミティブである。例えばカーネルそのものにはOS起動時のデーモン自動起動機能は存在しないし、Bashのようなインタラクティブコンソール機能も存在しない。これらの機能はすべてLinuxカーネルを利用するGNUなどによって作られた個別のソフトウェアによって実現されている。 ユーザーの利便性を高めるためにLinuxカーネルとこれらソフトウェア群を1つのパッケージにしたものがLinuxディストリビューションである。無償・有償様々なdistribution=配布・流通・頒布形態が存在し、各ディストリビューションはその理念・目的によって派生し、それぞれ異なるソフトウェアをパッケージに含んでいる。ユーザーはLinuxディストリビューションをインストールするだけでシェル機能やパッケージ管理機能、デスクトップ環境などを利用することができる。 カーネルの他、基本的なUNIXのツールやユーティリティ、その他サーバ向けやデスクトップ環境向けのソフトウェアを集め、ビルドしてバイナリパッケージを作成し提供している。その他、最初のインストールの際に必要なインストーラ等といった補助的なシステムが付属する。バイナリパッケージを利用するという形態のために、rpmやdebなど、何らかのバイナリパッケージシステムの採用がほぼ必須であり、どのシステムを採用しているかがディストリビューションの主要な特徴のひとつとなる。aptやyumなどより上位のパッケージ管理システムも、現代ではほぼ必須である。 これらはソフトウェア構成の例であり、他にも様々なソフトウェアをインストールできる。 ディストリビューションは、自由に配布、利用の出来るソフトウェア(フリーソフトウェア)だけを集め、無料で提供されるものと、利用に料金を払う必要のある商用ソフトウェアや企業によるサポートを受けられる権利を含んだ有料のものに分けられる。大抵の場合、前者はFTPなどで公開されており、Torrentを利用した配布をするディストリビューションも存在する。後者はユーザー数などに制限のあるライセンス契約によって提供される。どちらの場合も、CD-ROM等によって入手することができる。GNU/Linuxディストリビューターによっては両方を用意している場合や、サポートのみ有償で受けられる場合もある。 パッケージ管理システムとしてPacmanを使っている。主要なものは以下の通り。 パッケージ管理システムにdeb形式を使っている。主要なものは以下の通り。 パッケージ管理システムとしてRPMを使っている。主要なものは以下の通り。
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3,077
齧歯目
齧歯目(げっしもく、Rodentia)は、哺乳綱に分類される目。別名ネズミ目。現在のところ地球上で最も繁栄している哺乳類で、南極大陸を除く全ての大陸、およびほぼ全ての島に生息する。2005年時点の分類で現生種は2277種(481属33科)で現生哺乳類の42%を占め、絶滅した化石種も含めると1200属以上、53科にもなる。 齧歯類の動物は、物をかじるのに適した歯と顎を持ち、上顎・下顎の両方に伸び続ける2つの門歯があり、犬歯を持たないことが特徴である。この門歯は物をかじることで次第に削れてゆき、長さを保っている。漢語名齧歯目、および学名「Rodentia」はラテン語で「かじる(齧る)」という意味のrodereから来ている。歯は木を削ったり堅果類の皮をかじったり身を守ったりするために使われる。齧歯目の動物の多くは、種子などの植物質を食料とするが、魚や昆虫を主食とする種もわずかに存在している。なお他の哺乳類とは異なり、齧歯目では嘔吐反射が見られない。 南極大陸とニュージーランドを除く世界各地に自然分布している(ニュージーランドには外来動物として生息するようになっている)。オーストラリアを除く各地域では、種類数・個体数ともに多く、外形・習性変化も多様性に富んでいる。約2400種が知られており、全4千数百種程とされる哺乳類の種数の半分を占める最大のグループである。いわゆる「ねずみ算」という言葉を生んだほど、非常に繁殖力が強い種が多い。 概して小さいものが多く、なかでもアフリカンドワーフマウスは体長6cm、体重7g程度しかない。一方、大きいものでは、現生種最大のカピバラが45kg程度である。 化石種としては、1999年に南米ベネズエラで全身化石が発見された第三紀後期のフォベロミス・パッテルソニ Phoberomys pattersoni が最大で、体高 1.3 m(尾まで含めた体長は3 m)、体重 700 kg程度あったと考えられている。 兎形目の姉妹群と考えられており、現生ではこの2目でグリレス類(Glires)を構成する。以前は兎形目を本目に含めることもあった。 伝統的にはリス形亜目・ネズミ形亜目・ヤマアラシ形亜目の3亜目とする分類や、咬筋の発達の仕方による原齧歯型・リス型・ヤマアラシ型・ネズミ型の4分類、下顎の形態からリス顎亜目Sciurognathi(原齧歯形下目Protrogomorpha・リス形下目Sciuromorphaなどを含む)・ヤマアラシ顎亜目Hystricognathi(デバネズミ形下目Bathyergomorpha・テンジクネズミ形下目Caviomorphaなどを含む)の2亜目とする分類もあったが、2005年に発表された分類体系では以下の5亜目とされた。和名は、川田ほか (2018) に従う。 一方で2019年には、分子系統解析によりウロコオリス形亜目・ビーバー形亜目・ネズミ形亜目が単系統群とすることが支持されたことでこれらが下目相当とされ、Anomaluromorphi・Castorimorphi・Myomorphiの3下目を含める亜目としてSupramyomorphaが提唱された。同年にはリス形亜目に相当する分類群に対してEusciuridaの学名が提唱された。以下の分類は、Flynn et al. (2019) に従う。 系統はFabre et al. (2012)、和名は注記がない限り川田ほか (2018)。 齧歯類は、伝染病の生物学的な媒介者となることがある。ペストの例は、公衆衛生が発達した2000年代においても世界的に年間数千人規模の患者が発生し、時にはアウトブレイクも発生するなど病気の撲滅が達成されていないが、これは野生のネズミ目が広大な地域に分布し、対策が難しいためである。
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ネコ科
ネコ科(ネコか、Felidae)は、哺乳綱食肉目に分類される科。イエネコ、ヤマネコ、ライオン、トラ、ヒョウ、チーター、サーベルタイガーなどが含まれる。 耳介は大型で漏斗状をしており、集音効果に優れている。眼は大型で、立体視ができ色覚もある。瞳孔は調節する筋肉が作用し、明るさの変化への順応が早い。網膜の感覚細胞の後部に反射層(輝板、タペタム)があり、これにより光が感覚細胞を透過せず反射することで2回刺激され、暗所でも適応できる。暗所でネコの眼にわずかでも光が当たると光るのは、この輝板の反射による。 歯列は門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上顎6本・下顎4本、大臼歯が上下2本と、計30本の種が多い(オオヤマネコ類・マヌルネコなどは上顎の小臼歯が4本のため計28本)。犬歯は大型で(ウンピョウで顕著)、獲物に噛みつき仕留めるのに適している。食物を咀嚼する大臼歯が退化している代わりに、舌に鑢状の突起があり、食物を固定し引き裂いた後、舌で肉を削ぎ落とすことができる。ヒョウ属では舌骨の基部を動かすことができ、これによって吠えることができる。 多くの種で爪をさやに引っ込めることができ、速く走る、木に登る、獲物を捕らえる際など、必要な時にだけ爪を出す。 ネコ科は食肉目のネコ型亜目に属す。従来ニムラブス科もネコ科に含まれていたが、現在は独立した科とされている。最古のネコ科は鮮新世前期~中新世前期のプロアイルルスであるが、現生のネコ科や剣歯虎は中新世前期のスーダエルルス(Pseudaelurus)の子孫である。「サーベルタイガー」(剣歯虎)は名前に虎とつくものの、トラなどとは系統的に離れたマカイロドゥス亜科に属す。 Piras et al. (2013) による絶滅分類群を含む分岐図 以下、Johnson et al. (2006)による現生種の分岐図 2006年に発表された分子系統推定から、以下の系統(順番はこの解析での分岐順)に分かれるという解析結果が得られている。2016年に発表された分子系統解析でもこれらの系統は支持されたが、分岐順は異なる(Panthera lineageに次いでBay cat lineageではなくCaracal lineageが分岐したとされ、Bay cat lineageはLynx lineageに次いで分岐した系統という解析結果が得られている)。 以下の現生種の分類・英名は、IUCN SSC Cat Specialist Group (2017) に従う。和名は付記のないかぎり、川田ら (2018, 2021) に従う。 リンネの『自然の体系』でネコ属 (Felis) とされたものが7種(ライオン・トラ・ヒョウ・ジャガー・オセロット・イエネコ・オオヤマネコ)あり、これは現在の現生ネコ科の範囲におおよそ対応している。19世紀にジョン・エドワード・グレイやニコライ・セヴェルツォフらによって属が多数分割されたあと、1917年にレジナルド・インズ・ポコックがネコ亜科・ヒョウ亜科・チーター亜科の3亜科に分類したものが現在に続く現生ネコ科の下位分類の基本となっている。亜科に関しては、分子系統解析などからチーター亜科の独立性が否定されているほか、化石種の分類体系との均衡から現生種を全てネコ亜科に含めヒョウ亜科を認めない場合もある。属については20世紀中葉にジョージ・ゲイロード・シンプソンの影響で現生種が3属のみにまとめられたこともある オーストラリア大陸・南極大陸・マダガスカルを除く全ての大陸とほとんどの島。 約4分の3以上の種が森林に生息する。夜行性で森や茂みの中で生活する種が多い。主に単独で生活するが、ライオンやチーターは血縁関係のある個体で群れを形成することもある。 主に脊椎動物を食べるが、魚類、昆虫、果実を食べることもある。肉のみを食料とする種も多く、ほとんどの地域で食物連鎖の頂点にいる。 主に2 - 3匹の幼獣を産む。出産間隔は小型種では年に1 - 2回、大型種は2 - 3年に1回。 毛皮目的の狩猟、家畜や人間を襲う害獣としての駆除などにより生息数が減少している種もいる。
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XFree86
XFree86は、1991年よりオープンソースで開発されていたX Window Systemの実装である。名称は、AT&Tによるi386向けX Window Systemの実装であるX386の3 (Three) をFreeに置き換えた点から由来している。 PC向けに広く使われていたフリーソフトウェアであり、OSとしては、Linux、FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、Solaris、Mac OS X、Windows NT、OS/2などを対象としている。CPUアーキテクチャとしては、当初i386系CPUだけがサポートされたが、後にPowerPCなどの他のCPUもサポートするようになっている。 現在、2009年5月を最後にコミットされておらず、2011年にはプロジェクトは休止したと確認された。 XFree86のバージョン4.4からはライセンス条項が変わり、Apache Software Licenseの謝辞条項に極めて類似した、いわゆる宣伝条項付きBSDライセンスと似たものになったため、GPLをライセンスとしているソフトウェアを含むディストリビューションではライセンス間の矛盾により使用できなくなった。このライセンス形態の変更と以前からのXFree86の開発プロセスの閉鎖性に不満を持ったXFree86の中核メンバーがXFree86 Projectを離脱し、新たにX.Org Foundationを立ち上げた。
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3,082
兎形目
兎形目(とけいもく、Lagomorpha)は、哺乳綱に分類される目。別名兎目、ウサギ目。 北半球を中心に、南極大陸や離島を除く世界中の陸地に分布している。オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。 全身は柔らかい体毛で被われる。耳介は大型で、本目内では耳介があまり発達しないナキウサギ科でも他の哺乳綱の分類群と比較すると大型。 眼は頭部の上部側面にあり、広い視野を確保することができる。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を動かすことで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。上顎の門歯の裏側に、楔形の門歯がある。盲腸は長い。尿と糞は、1つの穴(総排泄腔)から排出する。 目名Lagomorphaは、古代ギリシャ語で「ウサギ型」を意味する語に由来する。「(λαγος (lagos) + μορφή (morphē)」からきている。つまり、「ウサギ目」は(たとえばネコ目などと違い)1980年代以前から使われている翻訳語である(ただし古くは兎目と書くこともあった)。 始新世前期の約5千万年前に出現したと考えられている。門歯が伸びつづける事から以前は齧歯目の重歯亜目Duplicidentataに含まれていたが、上顎門歯の裏側にある楔形門歯などの特徴から独立した目として本目が分割された。齧歯目(単歯類)との類似性は収斂進化によるものとされていたが、化石記録からこれらの目がグリレス類という単系統群を構成することが支持されている。 化石群としてはエウリミルス科Eurymylidaeやミモトナ科Mimotonidaeを本目に含める説もあった。エウリミルス科は楔形門歯を持たないという現生群と異なる特徴があり、のちに原始的な単歯類とみなされている。ミモトナ科は重歯類とされるが、独立したミモトナ目Mimotonidaとして本目から分割する説もある。 以下の分類は、Hoffmann & Smith (2005) に従う。和名は川田ら (2018) に従う。 草原、半砂漠地帯、熱帯雨林、雪原、岩場などの様々な環境に生息する。 食性は植物食で、草本、木の葉、樹皮、果実などを食べる。一方で陸棲の巻貝や昆虫を食べる種もいる。一部の栄養素を摂取するため軟便を食物と一緒に胃で攪拌し、再び腸から栄養を摂取する。 繁殖様式は胎生。繁殖力が強く、交尾によって排卵(誘導排卵)する。出産して直後に妊娠する(出産後妊娠)ことが可能で、一部の種では妊娠中に、再び妊娠する(重複妊娠)ことも可能である。妊娠期間も短く、30 - 40日。 生息地では食用とされることもあり、食用に養殖されることもある。 アナウサギはペットとして飼育される事もあり(カイウサギ)、小型種のネザーランド・ドワーフなど、数多くの品種が作り出されている。アナウサギは人為的に世界各地に移入され、各地の植生を破壊したり移入先に分布する動物の競合などが問題となっている。開発による生息地の破壊などにより生息数が減少している種もいる。
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有機化学
有機化学(ゆうきかがく、英語: organic chemistry)は、有機化合物の製法、構造、用途、性質についての研究をする化学の部門である。 構造有機化学、反応有機化学(有機反応論)、合成有機化学、生物有機化学などの分野がある。 炭素の酸化物を除き、炭素化合物はすべて有機化合物である。また、生体を構成する物質のうち、タンパク質や核酸、糖、脂質といった化合物は炭素化合物である。ケイ素はいくぶん似た性質を持つが、炭素に比べると Si-Si 結合やSi=Si結合等の安定度が低いために炭素ほどの多様性をもたない。 有機化学が誕生する以前から人類は様々な有機物を利用していた。食料については言うに及ばず、麝香や樟脳等の香料、石鹸やアルコール等がその好例である。石鹸は油脂を植物灰中の金属塩と反応させて作られていた。従って有機化学の始まりを定義するのは異論のあるところである。 1780年頃にカール・ヴィルヘルム・シェーレが生物材料から有機化合物を取りだすことに成功し、以降徐々に有機化学が発展していくが、当時は有機物は人工的には合成することができず、生命の神秘的な力によって生み出されるとされる、いわゆる生気論が主流であった。二酸化炭素などは炭や木を燃やせば作ることができるため、生命力に依らない無機物であるとされた。つまるところ、人によって作ることができず、生物によってのみ作ることができる物質が有機物であると考えられていたのである。 化学における生気論は1828年にドイツのフリードリヒ・ヴェーラーによって打ち破られた。彼は、無機物であるシアン酸アンモニウムの加熱によって有機物である尿素が得られることを示したのである。これによって有機物の定義は変化した。 その後、19世紀後半には有機化学は分野として独立し、様々な有機化合物の性質が調べられ数々の反応が発見されるとともに、様々な有機物が合成されるに至り生気論は崩壊した。その中で特筆すべきものとして芳香族化合物の発見があげられる。最初に見つかった芳香族化合物はベンゼンである。ベンゼンの構造はフリードリヒ・ケクレによって示されたが、二重結合を有する物質の割に反応性が低いことや、置換誘導体の種類が少ないなど奇妙な性質を持っていることが分かった。この奇妙な性質の原因が解明されるのは量子力学が導入されてからである。 1857年にウィリアム・パーキンが紫色染料のモーブを合成することに成功したのを皮切りに、有機化学の成果は続々と工業分野に応用されるようになった。初期の応用は染料工業が中心であったが、やがて19世紀後半には薬品工業にも応用は広がっていった。1869年のセルロイドの開発をきっかけに合成樹脂の研究が進められ、1909年にはアメリカのレオ・ベークランドが初の完全な合成樹脂としてベークライトの工業化に成功した。18世紀末には人造絹糸(レーヨン)の開発も進み、さらに時代が下って1934年、ウォーレス・カロザースによってナイロンが作り出された。やがて有機化学の発展と共にゴムや接着剤、樹脂などが合成されるようになり、靴下から宇宙船まで様々な分野に応用されている。 有機化学は元来生物を構成する物質を扱う学問であり、生化学とごく密接に関連している。有機化学における手法は、生化学における化学反応の理解や、生体物質の解析などに応用される。現在では、有機化学は生化学や高分子化学の基礎として位置づけられている。 有機化学の理論は構造論と反応論に大別できる。 有機化学の基本的な実験操作は、現代ではかなり洗練され、実験の安全性および結果の妥当性を保証するものとしてほぼ確立されているので、実験者はまずそれらをしっかりと身につけることが求められる。 ただし各手順は研究者によって微妙に異なることもあり、時にはそこから流派(出身研究室)を推測することも可能である。 有機化学で化合物の合成方法を考える場合、炭素骨格の構築と官能基の変換に大別することが多い。 一般の有機化合物は、鎖式炭化水素(アルカン、アルケン、アルキン)あるいは環式有機化合物(シクロアルカン、芳香族炭化水素、複素環式化合物など)を骨格とし、そこに官能基(ヒドロキシ基、カルボキシル基など)が結合した構造を持っている。 官能基を変換することは比較的容易である。例えば、アルコールは適当な酸化剤を用いることによって、アルデヒドあるいはカルボン酸に変換でき、カルボン酸からさらにアミドやエステルへと変換することが可能である(官能基については基に詳しい説明がある)。 一方、炭素骨格を構築することはなかなか難しい。古くからアルドール反応やグリニャール反応が用いられてきたが、期待する炭素骨格を効率よく合成することは困難であった。しかし、近年では鈴木カップリングやメタセシス反応など、効率の良い反応が開発され、タキソールやシガトキシンのような複雑で巨大な分子も全合成することが可能となっている。
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モデル生物
モデル生物(モデルせいぶつ、model organism)とは、生物学、特に分子生物学とその周辺分野において、普遍的な生命現象の研究に用いられる生物のこと。 飼育・繁殖や観察がしやすい、世代交代が早い、遺伝子情報の解明が進んでいる種が使われる。微生物では大腸菌や酵母、動物では線虫やショウジョウバエ、マウス(ハツカネズミ)、ゼブラフィッシュ、メダカ、植物ではシロイヌナズナなどがある。 生物は進化の過程で代謝や発生などの機構を再利用してきた。つまり基本的な生命現象は進化的に保存されていると言える。例えば大腸菌の遺伝子発現の概念、出芽酵母の細胞周期の制御機構、ショウジョウバエの発生機構などは、生物一般にもヒトにもおおむね当てはめることができる。これによってモデル生物研究に有効性が与えられている。 研究に適した生物を選択し、多くの人が同一の生物を用いることで、知見の統合が容易になり、全体的な研究の効率を高めることができる。 モデル生物は、研究対象となる生命現象が観察しやすいこと、すなわち生物学的利点を持つことが重要である。飼育・培養が容易であること、つまり実験手法として容易であることも重要である。たとえばウニが発生学でよく使われたのは、入手や実験操作の上で容易であった事とともに、透明で内部が良く見えるためであり、この点でたとえばヒトデは向かないと云う。 目的が生物一般に共通する原理を究明するためであるから、ある意味ではどれを選んでもいいともいえる。その場合、入手の容易さや飼育培養、あるいは実験操作の容易さで選ぶ事になろう。しかし、特定の現象が特によく発達しているものを選ぶ、と云う場合もある。たとえば神経に関してヤリイカが使われるのは、太い神経繊維を持っているからである。 あまりに大きなものや、成長の遅いもの、特殊なエサが必要な生物はモデル生物として適さない。バクテリオファージがウイルスに関するモデルとなったのは、一般のウイルスが生きた細胞でしか増殖せず、細胞培養の技術が未発達な時代には使えなかった中で、培養の簡単な大腸菌で繁殖させることが出来たことも大きい。特殊な生物でも、飼育や培養の方法が確立することでモデル生物となる場合もある。真正粘菌のモジホコリはこの例である。 その生物が実社会において有用で経済的利点を持つことも重視される。これは研究結果がそのまま実用上の役に立つだけでなく、実用上の必要性から情報の蓄積が多いことも重要である。遺伝学の初期の実験がエンドウやハト、あるいはカイコなどで行われたのもこれによる。 分子遺伝学の発展以降はゲノムプロジェクトが発達し、ゲノミクスの観点から研究が行われることが増えているため、ゲノムサイズが小さいことも注目されている。 研究対象として好適な生物が選ばれることにより、研究の進行が格段に変わることは、科学史にはよく見られる現象である。例えば遺伝の研究は、初期にはエンドウやハトなど、有用動植物が使われた。しかしショウジョウバエという人間社会に直接的な利点がないものの、生活環が早く、飼育や系統化が容易である生物を選んだことで格段に進行した。遺伝子の働きの解明の際には、栄養要求が簡単なアカパンカビが選ばれている。また初期の分子生物学には、細菌に感染するウイルス、バクテリオファージを用いることで遺伝暗号の解読などが行われた。 人工癌は日本の山極勝三郎が最初にそれに成功したことで知られる。彼は他の研究者が失敗したのは早くに諦めたためとの判断で、長期の実験でこれに成功したとされるが、モデルの選択もその成功に与っている。彼はウサギを使ってこれに成功したが、それ以前の研究者の多くはラットを使った。後の研究で、ラットではこのタイプの癌の発生率が極めて低いことが確かめられた。ちなみに、ハツカネズミを使えばウサギよりさらに簡単に発生させられることも知られている。 研究テーマやゲノム解読の進展などに伴い、新たにモデル生物として扱われるようになる種もある。たとえばオオヒメグモは採取しやすく、2017年にゲノム解読が完了したことで、体節の研究に使われるようになった。 基礎生物学研究所は「新規モデル生物開発センター」を設けて、飼育ノウハウの研究や遺伝子解析などに取り組んでいる。アブラムシはブクネラ属細菌との細胞内相利共生、セイタカイソギンチャクはサンゴの代用、イベリアトゲイモリは高い再生力から、モデル生物として有望・有用である。
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古生物学
古生物学(こせいぶつがく、アメリカ英語: paleontology、イギリス英語: palaeontology)は、地質学の一分野で、過去に生きていた生物(古生物)を研究する学問である。 地質学的時間尺度での過去において地球上に生きてきた生物を対象とし、その生物の分類・生態・歴史・進化を明らかにすることを目的とする。つまり古生物を対象とする生物学である。生物学、生態学の他、層序学や地球化学なども関連する。主に化石標本を用いて研究を行う。 古生物学は、扱う生物の分類により、動物を対象とする古動物学(古脊椎動物学、古無脊椎動物学)、植物を対象とする古植物学、微化石を対象とする微古生物学等に分けられる。他にも、主に古生物とその食性・生活環境との相互関係を研究対象とする古生態学、古生物の地理的分布を研究対象とする古生物地理学といった分野も含む。 地質学の研究においては、離れた地域間でそれぞれ観察される地層が同一時期に形成されたものか、そうでない場合地層間の上下関係について判断する作業が必要となる。19世紀初め、地層に含まれる化石に注目し、これを地層の同定及び新旧の判断に利用すること(地層同定の法則)が提唱され、基本法則として確立した。この法則によりはじめて地質学は近代科学として発展することができた。このように、地質学が発展する上で古生物学の果たした役割は大きく、放射年代測定が登場するまでは、示準化石によって組み立てられた生層序学に基づく地層区分が唯一の時間尺度であった。 現在、古生物の生きていた(または産出した地層の)年代(古さ)を調べるには、示準化石や化石中に含まれる放射性元素を直接測定する、あるいは周囲の放射性元素からの影響を測定する放射年代測定(放射性炭素年代測定やESR法など)、アミノ酸の変化を利用する方法(ラセミ化法)などを用い、生きていた(または堆積した)環境を調べるには示相化石が用いられる。 古生物学は、とにかくも生物を扱うので、ある意味では生物学の一部である。勿論その発展はある程度独立的に進んだ。しかし、両者が深く関わりを持つ側面も多い。 元々、化石は古生物の一部でしかない場合が多い。多くの場合に、軟組織は失われている。またそれが残っている場合でも、今生きている素材のように扱うことは出来ない。そのため、それがどのような生物であったのかは、現在の生物と比較検討して初めて明らかになる場合が大部分である。そもそも古生物学の発展そのものも、比較解剖学の発展によって始まったものであり、ジョルジュ・キュヴィエは現在の生物の研究から、その各部分は互いに深く関連を持っていて、そのある部分からそれ以外の部分が推定できるとの確信を持ったことに始まる。 生物は歴史的に変化したと考えられ、これを進化という。しかし我々が生物を見る場合、現在の状態しか知ることができず、進化の歴史の一断面だけを見ることになる。しかし、古生物は広い時間にわたって出現するものであるから、我々は初めからこれを歴史の流れの中に位置づけて知ることになる。従って、古生物学では進化を流れとして看取ることができる。また、前述のように、古生物は現代の生物と比べながら検討せずにはいられないから、勢い系統を取り扱うことになる。いずれにせよ、進化とは深い関わりを持ちやすい。 そもそも、進化論の始まりの一つは古生物学にある。さらに、定向進化説や幼形成熟などの論も古生物学の分野から起こったものである。
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フレデリック・ショパン
フレデリック・フランソワ・ショパン(仏: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin 、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、母国ポーランドへの強い愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。 1988年からポーランドで発行されていた5,000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。2001年、ポーランド最大の空港「オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Okęcie)」が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名された。 ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。1794年のコシチュシュコの蜂起で、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。彼のフランスで受けた洗礼名はニコラ(Nicholas)だったが、ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにし、ミコワイ(Mikołaj)とした。元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。ポーランドの歴史家・公文書保管人のワパチンスキ(Łopaciński)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」という。 フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と結婚した。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女をしていた。二人の結婚式は16世紀のブロフフの教区の聖ロフ教会で、1806年6月2日に執り行われた。ユスティナの兄弟には、アメリカの南北戦争で北軍の准将を務めることになるヴォジミエシュ・クシジャノフスキ(英語版)がいた。 フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた。彼は当時ワルシャワ公国だったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。1892年に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日は1810年2月22日となっているがこれは本人やその家族の主張する3月1日という日付より一週間早い。ショパンが1833年1月16日にパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「1810年3月1日にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている。 ショパンは1810年4月23日の復活祭の日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。登記簿には彼の名前はラテン語表記でFridericus Franciscus、ポーランド語表記でFryderyk Franciszekと記されている。彼の代父となったフレデリック・スカルベク(Fryderyk Skarbek)は後に監獄を改修する仕事に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたパヴィアク刑務所の設計に携わった。また彼は第二次世界大戦でイギリスの特殊作戦執行部に所属していたクリスティナ・スカルベク(Krystyna Skarbek)の曽祖おじにあたる。代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ(Maria Wodzińska)と1841年に結婚する。 1810年10月、ショパンが7か月の時、サムエル・リンデ(英語版)が父にワルシャワ中等学校(英語版)でフランス語を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。中等学校はサスキ宮殿内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。サスキ宮殿は1817年にコンスタンチン・パヴロヴィチによって軍用地として徴収され、中等学校はカジミェシュ宮殿へ移動を余儀なくされた。カジミェシュ宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学も入居していた。ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。ショパンもワルシャワ中等学校に1823年から1826年にかけて通った。 ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった。伝記作家のルイ・エノーはジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している。 ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートとヴァイオリンを演奏できた。母ユスティナはピアノに長けており、一家で切り盛りしていたエリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。 ショパンと同時代の音楽家のユゼフ・シコルスキ(ポーランド語版)の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした。しかし、ショパンに最初にピアノを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカだった。 ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816年から1822年、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィだった。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになっていった。 同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキの印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキの有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『ポロネーズ 変イ長調』に明らかである。この曲は1821年に聖名祝日の贈り物としてジヴヌィに捧げられた。 幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた。 この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシアの皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した。また、ポーランド立憲王国の副王だったコンスタンチン・パヴロヴィチ大公の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した。 ユリアン・ニームチェヴィツは、劇的エクローグ『我らの交わり Nasze Verkehry』(1818年)の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している。 1820年代、ワルシャワ中等学校とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。1824年と1825年にはシャファルニャ、1826年にはバート・ライネルツ(現:ドゥシュニキ・ズドルイ)、1827年にはポメラニア、1828年にはサンニキを訪れた。 休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。この経験は後になって彼の作品へと形を変える。シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディとして仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。 ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、1823年のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。1825年には演奏会でイグナーツ・モシェレスの曲を弾くとともに即興演奏で聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された。 ショパンは1826年にシレジア出身の作曲家ユゼフ・エルスネル(エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。実はショパンが最初にエルスネルに会ったのは1822年であり、1823年にも非公式にアドバイスを受けていたのは間違いない。そして1826年に本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて音楽理論・通奏低音・作曲の勉強を開始した。 エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした。 1827年に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区のクラシンスキ宮殿南館に移り住んだ。この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。ショパンは1830年にワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。1837年から1839年には詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィトが芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。彼は後に1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノFortepian Szopena』という詩を詠んだ。ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。 両親の営む寄宿塾の寮生の中で4人がショパンと親しくなった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキ、ユリアン・フォンタナである。ショパンは同じジヴヌィ門下だったティトゥスとは特に親しく付き合った。またマトゥシンスキ、フォンタナとはパリに出てからの生活でも交流を続けた。 1829年、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキがショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた(一番下の妹のエミリアは1827年に亡くなっていた)。この肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はモノクロの写真が残る。1913年にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュはこう記した。「(この肖像画からは)この若者が結核に罹っていることがわかる。彼の肌は極端に白く、喉頭隆起が見られ、頬は落ち窪んでいる。また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。妹エミリアの14歳での死因も結核であり、また父も1844年に同じ病に倒れることになる。 ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキによれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。なぜなら、ショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。バッハやモーツァルト、ベートーヴェンですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである。 ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた。しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカである。親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた。彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ、ユゼフ・ザレスキ、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった。 1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキが 学会に出席するので同行して、ベルリンに赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルターやメンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した 。 1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルと出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた。 演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。 その後、11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。 1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。彼は母語のポーランド語で「コンラッド(Konrad)の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などを作曲した。 パリに到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた。最初は、現在のパリ2区ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière) 27番地に住み、翌1832年に現在の9区シテ・ベルジェール (Cité Bergère)、1836年に同ショセ=ダンタン通り38番地へ転居したように、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民」の一人となったことになる。1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティスは「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale」にこう記した。「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである」。その3ヶ月前の1831年12月には、シューマンがショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung」にこう記している。「諸君、脱帽したまえ、天才だ」 パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た。彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。 ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる。このフランスの旅券が発行されたのは1835年8月1日であり、これを境にショパンはフランスの市民となった。 ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはサロンだった。サロンは貴族や芸術・文学のエリートの集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。彼の健康状態は思わしくなく、そのためヴィルトゥオーゾとしてあちこち外遊することはできなかった。一度ルーアンで演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという。彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた。アーサー・ヘドレイはこう見ていた。「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである」 1835年、ショパンはカールスバートに行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。パリへ戻る途中でザクセン州を通った彼は、ドレスデンでワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵(Wodziński)一家に会った。5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア(英語版)はその時16歳になっていた。その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう。翌1836年の9月にはヴォジンスキ一家とマリーエンバートでの休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さによって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより、結婚はついに現実のものとはならなかった。ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda」と書いた。 ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』に残されている。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。それらはポーランドロマン派の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものだった。 婚約破談後は、ポーランド人のポトツカ伯爵夫人がショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『子犬のワルツ』を献呈している。 パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。そのようなプログラム掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。例えば、1833年3月23日の演奏会ではショパン、リスト、ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲』を演奏し、1838年3月3日にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン(英語版)、アルカンとその師のピエール・ジメルマンの4人で、アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェンの『交響曲第7番』を演奏している。 また、ショパンはリストのベッリーニの主題による『ヘクサメロン変奏曲』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。 1836年、友人であり仲間だった作曲家のリストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーの場で、ショパンはジョルジュ・サンドとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。サンドの過去の恋人にはジュール・サンドー(2人が文学において協力関係にあったことで「ジョルジュ・サンド」というペンネームが誕生した)、プロスペル・メリメ、アルフレッド・ド・ミュッセ、ルイ=クリソストム・ミシェル(Louis-Chrysostome Michel)、作家のシャルル・ディディエール(Charles Didier)、ピエール=フランソワ・ボカージュ(Pierre-François Bocage)、フェリシャン・マルフィーユがいた。 ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた。彼はヒラーにこう宣言している。「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。疑いたくなってしまうよ」。しかし、サンドは自らとショパンの共通の友人のヴォイチェフ・グジマワ伯爵(Wojciech Grzymała)に32ページにわたる率直な手紙をしたため、そこで彼に対する強い感情を認めている。その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた。1838年の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった。 彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったマヨルカ島での冬(1838年11月8日 - 1839年2月13日)が挙げられる。彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサのかつてカルトジオ会の修道院だった建物の軒を借りざるを得なくなった。 ショパンもまた自分のプレイエルのピアノを輸送するのに問題を抱えていた。ピアノは12月20日にパリから到着していたが、税関で止められてしまったのだ。ショパンは12月28日にこう記している。「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。 12月3日、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。3人の医者が往診に来た。1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」 1839年1月4日にジョルジュ・サンドが300フラン(要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。それが届いたのは1月5日だった。その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。『前奏曲 Op.28』の数曲、『バラード第2番 Op.38』の改定稿、Op.40の『2つのポロネーズ(第3番と第4番)』、『スケルツォ第3番 Op.39』、『マズルカ Op.41』のホ短調、そしておそらく手を入れたであろう『ピアノソナタ第2番 Op.35』である。このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。 冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却した。 4人の一行はまずバルセロナへ、次にマルセイユへと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。1839年5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアンを目指した。彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。ショパンはすぐに現在のパリ8区トロンシェ通り(rue Tronchet)5番地のアパートを離れ、現在の9区ピガル通り(rue Pigalle)16番地のサンドの家へ移り住んだ。4人はその住所で1839年の10月から1842年の11月まで一緒に暮らしたが、1846年まで夏季のほとんどはノアンで過ごした。彼らは1842年に現在のパリ9区スクワール・ドルレアン(Square d'Orléans)があるテブー通り(rue Taitbout)80番地に移り、隣同士の建物で暮らした。 この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。ナポリで急逝したテノール歌手のアドルフ・ヌリの遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはシューベルトのリート『天体 Die Gestirne』のオルガン編曲を演奏した。 ノアンでの夏、特に1839年から1843年にかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。ショパン作品の中でも有名な『英雄ポロネーズ Op.53』もそうした作品である。サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。友人のドラクロワと過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。 ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた。 1845年、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。1846年には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のオーギュスト・クレサンジェとの関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。サンドは1847年に小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani』を出版した。主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。1847年、彼はノアンを訪れなかった。共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった。 そのような友人の1人にメゾ・ソプラノのポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドがいる。サンドは1843年にヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりリストとレイハに師事する優れたピアニストでもあった。彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた。2人はしばしば共演することもあった。ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『マズルカ』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。彼はお返しとして、ヴィアルドからスペインの音楽を直接知ることができた。 1847年、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた。なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。「もし(ショパンが)G.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はケルビーニの歳まで生きていただろうに」 ショパンのヴィルトゥオーゾとしての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。1848年に彼はパリでの最後の演奏会を開く。パリでは革命が進行中だった4月、彼はロンドンへと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた。この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたジェーン・スターリングとその姉のキャサリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった。 夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有するエディンバラ近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(グラスゴーに程近いレンフルーシャーのジョンストンにあった)に滞在した。そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。エディンバラでは開業医のアダム・ウィシュツジニスキ(? Adam Łyszczyński)医師の住むワリストン街路(Warriston Crescent)10にも滞在しつつ、そこで医師の治療を受けた。ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった。 1848年10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で、ショパンは最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた。1848年11月16日、彼はロンドンのギルドホールの演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった。この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである。 11月の終わりにショパンはパリへ戻った。イギリス旅行はロンドンでのヴィクトリア女王の御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた。冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のアダム・ミツキエヴィチを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった。 2011年3月24日、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。それらの手紙の日付は1845年から1848年とされており、彼の日常生活と『チェロソナタ』に関する記述がなされている。手紙は博物館で2011年4月25日まで展示されていた。 ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。1849年6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた。同年9月には最後の住居となるヴァンドーム12の陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ。それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした。 10月15日になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいた。彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。彼は紙片を要求し、そこにこう記した。「Comme cette terre m'étouffera, je vous conjure de faire ouvrir mon corps pour [que] je ne sois pas enterré vif.(土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ。)」。10月17日の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。「もう何も感じない」とショパンは答えた。そして午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った。 ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。死亡診断書では死因は肺結核とされている。一方でショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝子疾患の嚢胞性線維症など)とする説もある。しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのない19世紀において、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る。ショパンが長く苦しんだ病についての総説が2011年に出版されている。文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高い。 ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ」。実際にショパンの死の床に付き添ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人、ソランジュとオーギュスト・クレサンジェ夫妻、ショパンの弟子で友人のアドルフ・グートマン、友人のトーマス・アルブレヒト(Thomas Albrecht)、信頼を置いていたポーランドのカトリック教会司祭のアレクサンダー・イェウォヴィツキ(Aleksander Jełowicki)神父だった。 夜が明けてから、クレサンジェはショパンのデスマスクを作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区の聖十字架教会のレオナルド・マルコーニ作のエピタフの下の柱に、コニャックと思しきアルコールに浸けられて収められた。そこにはマタイによる福音書6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。現在の教会は1944年のワルシャワ蜂起で大きく破壊されて再建されたものである。教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿からすぐ近くのところにある。 パリのマドレーヌ寺院で行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われることになった。予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた。招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された。 モーツァルトの『レクイエム』が歌われることが、急遽決められた。これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである。『レクイエム』は大部分が女声合唱によって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。しかし、教会は女性歌手を黒いベルベットのカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。『レクイエム』のソリストは、ソプラノがジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan)、メゾソプラノがショパンとサンドの友人だったポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド、テノールがアレクシス・デュポン、バスがハイドンやベートーヴェン、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケである。また、ショパンの『前奏曲集』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。 葬送の行進は町の中央のオペラ座の隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のペール・ラシェーズ墓地までの非常に長い距離にわたった。葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたチャルトリスキ公であり、芸術家たち(ウジェーヌ・ドラクロワやチェリストのオーギュスト・フランショーム、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた。 埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベールの管弦楽編曲によるショパンの『葬送行進曲』が演奏された。このことについて、参列していたジャコモ・マイアベーアは後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている。 ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽のムーサのエウテルペーが壊れたリラの上で涙を流す姿をかたどったものである。葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000フランだったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはジェーン・スターリングが負担した。スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある)。 ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。 生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。 幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。 後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもある。 女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に年上の女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。 ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。 同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。 性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えば1830年にウィーンに来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して)。 写真は2枚残されており、1846年の写真は損傷が激しい。もう1枚は、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソン(英語版)によって撮られたものである。 2011年3月にショパンの死後撮影された写真を発見したとポーランドの写真収集家が発表した。この写真には、ベッドに仰向けに横たわるショパンの横顔が写されており、ビソンの署名がある。しかし、ショパン博物館の学芸員・パリのポーランド図書館の写真専門家・ショパン研究家の3者は、この写真を偽造としている。 2017年1月にスイスの物理学者アラン・コーラーによる新たな写真の発見が発表された。 ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ティトゥス・ヴォイチェホフスキ(英語版)ら一部の友人及びモーリッツ・カラソフスキ(ポーランド語版)ら後世のポーランドの伝記作家が国粋主義的な動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している。 代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンがデルフィヌ・ポトツカ伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。1950-60年代に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存している。 ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。 ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。 ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったユリアン・フォンタナをはじめとするショパン研究者によって出版された。主な遺作には、『幻想即興曲』『レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(夜想曲 第20番)』などがある。 フォンタナは、ショパンの原稿を整理し、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。 なおショパンの作品の分類番号は2つある。KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。ヤン・エキエルは、彼自身が編纂しているナショナル・エディション(ショパン全集)の中で、作品番号の付いていない作品に限って、WN(Wydanie Narodowe = ナショナル・エディション)というエキエル独自の作品分類番号を記している。 有名なものとして、いくつかの楽曲にオーケストレーションを施してまとめた数種のバレエ音楽がある。 ワルシャワ在住時にショパンが作曲と演奏に使っていた楽器は、ブッフホルツ製のピアノであった。この楽器については、2018年にポール・マクナルティが復元楽器を製作し、ワルシャワ大劇場で公開演奏されたほか、ショパン研究所主催の第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで使用されたことが知られている。 ショパンはその後、ワルシャワを離れたパリ在住時に、プレイエルから楽器を購入した。彼はプレイエルのピアノを、「ノン・プルス・ウルトラ」(極致!)と評価している。パリでショパンと交友関係にあったリストは、ショパンのプレイエルの音を「クリスタルと水の結婚」のようだと述べている。 また1848年にロンドンに滞在していたショパンは、自分のピアノ3台について「大きな応接間にはピアノが3台あり、プレイエル1台、ブロードウッド1台、エラール1台がある。」と手紙に記している。 ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)やヘンレ社やペータース社などの原典版楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。
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電気泳動
電気泳動(でんきえいどう、英: electrophoresis)は、荷電粒子あるいは分子が電場(電界)中を移動する現象。あるいは、その現象を利用した解析手法。特に分子生物学や生化学ではDNAやタンパク質を分離する手法としてなくてはならないものである。 19世紀初めにロシアの物理学者フェルディナント・フリードリヒ・ロイスが水中の粘土粒子で発見したのに始まる。19世紀終わりからタンパク質やアミノ酸などの研究に用いられ、1930年代にティセリウスによってタンパク質の移動度を調べる方法として確立された。これは水溶液を用いる「無担体電気泳動」であったが、第2次大戦後、濾紙やデンプンゲルなどの担体を用いた電気泳動が発展した。濾紙電気泳動(現在は主としてセルロースアセテート膜を使う)は臨床検査で血清タンパク質を分析する方法として用いられている。一方ゲルとしては、その後 アガロース がよく用いられるようになり、現在でもDNA断片の分離・分析に用いられる。また1960年代に ポリアクリルアミドゲルが開発され、これはタンパク質の分析やDNAの塩基配列決定に用いられる。ポリアクリルアミドゲルを用いたタンパク質分析法の一種として等電点電気泳動や二次元電気泳動がある。最近では無担体電気泳動であるキャピラリー電気泳動が自動塩基配列決定に用いられている。 荷電粒子や分子はその荷電と反対の極に向かって移動する。移動中にpH 勾配があると、荷電が0となる点(等電点)で停止する。これが等電点電気泳動であり、タンパク質の分析に用いられる。 担体を用いる場合には、DNAやタンパク質などの高分子が担体分子に遮られ分子量の大きいものほど移動しにくくなる「分子ふるい効果」が働く。つまり、分子量の低い分子はゲルの網目をスムーズに通過でき、逆に分子量の高い分子はゲルの網目にひっかかり移動がしにくくなる。特にアガロースやポリアクリルアミドなどのゲルではこの効果が顕著なのでよく用いられる。核酸は一様にマイナスに荷電しているので一定方向(陰極→陽極)に泳動して分子量による分離が容易に行える。ただし、RNAはDNAと違い、1本鎖の分子内で高次構造を形成し分子量の特定ができなくなるので、ゲルに変性剤(尿素、ホルムアミド)を混ぜる。結果、RNAが高次構造を形成しなくなるので、分子量の解析が可能となる。ちなみに、核酸の分子量を特定する際、電気泳動時の別のレーンに分子量ラダー(階段状)マーカーと呼ばれる、分子量既知の核酸が数十種類含まれたマーカーを一緒に流し、その移動度と試料の移動度を比較することで試料の分子量を特定する。なお別の原理に基づいて大分子量のDNAを分離するパルスフィールド電気泳動もある。 タンパク質の荷電は種類によって大きく異なるが、陰イオン系界面活性剤であるドデシル硫酸ナトリウム (SDS) 存在下ではSDS分子がタンパク質分子に付着するため、タンパク質分子は陽極に向かって移動する。この方法がSDS-ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGEと略す)で、核酸の場合と同様に分子量による分離が行える。 担体を用いた電気泳動では各種の染色法で核酸やタンパク質の位置を検出することができる。例えば臭化エチジウムなど蛍光色素による核酸の検出、染料(クーマシー・ブリリアントブルーなど)や銀染色法によるタンパク質の検出がよく使われる。 泳動には直流電流を用いる。一般的な電源では交流電流であるので、AC-DCコンバータ(あるいは整流器ともいう)を用いて直流電流に変換してから電流を流す。 詳しくは関連各項目を参照されたい。
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Linuxカーネル
Linuxカーネルは、Unix系オペレーティングシステムであるLinuxのカーネル。リーナス・トーバルズによって開発が開始された。ライセンスにGPL(バージョン2)を採用する自由なソフトウェアである。 通常、Linuxカーネルと言えばリーナスが管理・公開している公式版(メインライン・カーネル)を指すが、Linuxディストリビューションで使用されているカーネルは、バージョンが古かったり、ベンダーが独自の改造を施してあることが多い。例えば、Androidで使用されているカーネルもそのひとつである。このような非公式のカーネルは、ベンダー側が対応すべきとしているため、Linux Kernel Mailing Listなどでは基本的に対応対象外となっている。 開発の初期には、MINIXを参考としており、影響を受けてもいるが、MINIXのコードは使用せず、ゼロから書かれた(IBM PCを端末エミュレータとして動かすためのコードから成長させたものと言われている)。 GPLを採用したことがLinuxを共有の物として開発することを推進させた、とされている。また、Linuxの開発とインターネットの発展が時期的に一致したことも、Linuxの開発コミュニティ形成に寄与した。 また、開発に際して、よりオープンな開発体制をとり、現在バザール方式と呼ばれている、誰でもLinux Kernel Mailing Listへのバグ報告や修正、機能拡張パッチを公開でき、その中から最終的にリーナスと彼が任命したメインテナーがコーディネータとなって、公式版のLinuxカーネルの質を保っている。 Linuxカーネルは各種命令セット (ISA) に対応している。各アーキテクチャで共有されているコードが多いため、CPUに依存した部分を変更すれば移植できるようになっている。 バージョン5.11.11(2021年3月30日)時点。括弧書きはarchディレクトリ内の名称。
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JPEG
JPEG(ジェイペグ、Joint Photographic Experts Group)は、コンピュータなどで扱われる静止画像のデジタルデータを圧縮する方式のひとつ。またはそれをつくった組織 (ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1, Joint Photographic Experts Group) の略称であり、アクロニムである。JPEG方式による画像ファイルにつけられる拡張子は jpg が多く使われるほか、jpeg 等が使われる場合もある。 一般的に非可逆圧縮の画像フォーマットとして知られている。可逆圧縮形式もサポートしているが、可逆圧縮は特許などの関係でほとんど利用されていない。1992年9月18日に最初のリリースが行われた比較的古いフォーマットである。JPEGの欠点を克服すべく数々の後継規格が提案されてきたが、いずれも主流になるには至らず、JPEGが現在も静止画像規格の主流である。 標準では、特定の種類の画像の正式なフォーマットがなく、JFIF(英語版)形式(マジックナンバー上は、6バイト目から始まる形式部分にJFIFと記されているもの)が事実上の標準ファイルフォーマットとなっている。動画を記録可能にしたものにMotion JPEGがある。立体視 (3D) 用には、ステレオJPEG(英語版)(JPS) フォーマット、JPEG Multi-Picture Format(英語版)(MPO) がある。 デジタルカメラの記録方式としてもよく利用されているが、デジタルカメラでは様々なオプション機能を使い、JFIFを拡張したExchangeable image file format (EXIF) などのフォーマットとしてまとめられている。 ここでは、一般に用いられる非可逆圧縮の方式について説明する。なお、JPEGの可逆圧縮には非可逆圧縮とは全く別の技術が用いられている。JPEG 2000ではどちらにも同じ技術を用いる。 JPEGでは、画像を固定サイズ(8×8画素)のブロックに分割し、そのブロック単位で、離散コサイン変換 (DCT: discrete cosine transform) を用いて、空間領域から周波数領域へ変換する。この変換自体では情報量は削減されない。変換されたデータは、量子化ビット数の低減によって情報量を落としてから、ハフマン符号によるエントロピー符号化がなされ圧縮が行われる。エントロピー符号化とは、データの生起確率の高低に応じて異なる長さの符号を割り当てることで圧縮を行うものである。 DCTによる周波数領域への変換では、変換そのものでは情報量は削減されないが、低周波数成分にエネルギーが集まることを利用して、量子化ビット数の低減による情報量削減と、エントロピー符号化での圧縮率向上を図っている。普通の画像をそのまま量子化ビット数を低減してしまうと大きな画質劣化が生じるが、重要な成分が局所的に集められた後では元の画像の性質を残したまま量子化が可能である。また、低周波数成分に集中するという形で、データに偏りが生じると、エントロピー符号化の圧縮率も向上する。なお、JPEGでは、量子化マトリックスと呼ばれる係数表を用いて、低周波数成分に比べて高周波数成分でより粗い量子化を行うのが一般的である。 エントロピー符号化ではハフマン符号を用いる。ハフマン符号は処理が単純であるため演算量が少なく、さらにその符号セットが想定する、理想的なデータが入力された場合には極めて高い圧縮率を実現する。符号セットにあわないデータが入力された場合、逆に圧縮率は下がってしまう。この問題を解消するため後継のJPEG 2000では算術符号が採用された。 なお、周波数領域への変換前の画像フォーマットの色成分の数は1–4の間で選択でき、各色成分が何であるかを決める表色系も自由に選択することができる。そのため色成分が1つのグレースケール、色成分が3つのRGBおよびYCbCr、色成分が4つのYMCKなどのデータのどれも用いることができる。しかし、表色系の規定がない上にどの表色系であるかを示す情報もないことは互換性に大きな問題となる。そのためJFIF形式では、YCbCr表色系を用いること、さらに成分の順序はY、Cb、Crの順であることを規定している。各色成分の空間的な間引きをあらわすサンプリングファクタについては、各々の色成分について水平方向、垂直方向独立に定めることができ、一般的な形式の4:4:4、4:2:2、4:2:0、4:1:1のいずれもが選択可能である。 JPEGではブロック単位で変換を行うため、圧縮率を上げるとブロックの境界にブロックノイズと呼ばれるノイズが生じる。 また、周波数領域への変換においては、低周波成分に画像のエネルギーが集中するため、高周波成分のエネルギーは小さくなる。このため量子化を行うと高周波成分はゼロに落ち、無くなってしまう。すると画像の急峻な変化を十分に表現できないため、エッジ周辺では、ある一点に集まる蚊にたとえモスキートノイズと呼ばれるノイズが生じる。 色差を間引くため、特に赤には弱く、赤の部分でノイズが発生しやすい。 規格は合同のグループで作られたため、国際標準化機構 (ISO)、国際電気標準会議 (IEC) と国際電気通信連合 (ITU) の双方から出されている。それにならい、日本産業規格 (JIS) でも規格化されている。 JPEGは、Webの普及黎明期において、Webブラウザ標準の画像フォーマットとして、GIFと双璧を成していた。 JPEGの符号化方式の特性から、同じ色が広い範囲に広がることの多い絵画であっても、画像そのもののサイズに比例してファイルサイズが大きくなる。このため、ダイヤルアップ接続等、一般ユーザーの末端接続がナローバンドだった時代には、データ転送量を少なくするという観点から、絵画はGIF、デジタルスチル写真にはJPEG、という使い分けが存在していた。 1999年、GIFの特許問題によって起こったGIF排斥運動(当該項目を参照)で、GIFから、JPEGや、新たにフリーのフォーマットとして開発されたPNGに移行する流れになった。PNGは当時のブラウザではプラグインを導入しないと表示できないなどの問題を抱えているケースが多かったため、GIF画像をJPEGによって置き換えられるケースが多かった。 現在は、GIFのLZWの特許が失効し、フリーな画像フォーマットとして再び使えるようになり、PNGもほぼ全てのブラウザでサポートされるようになった。この2つの画像フォーマットは現在もインターネット上でよく使われている。 Independent JPEG Group によるフリーのライブラリ libjpeg は、jpeg コーデックの実装として大変重要である。これは1991年に初版がリリースされ、jpeg が標準技術として採用され成功を収める鍵となった 。libjpeg やその派生版は数えきれないほどのソフトウェアから利用されている。 2017年3月には Google が Guetzli というオープンソースの jpeg エンコーダを発表した。これは同じく Google が発表した画質評価アルゴリズム Butteraugli に特化したエンコーダであり、既存のエンコーダと比較してエンコードに莫大な時間を費やす代わりに、Butteraugli の評価値と圧縮率においてバランスの取れた画像を出力する。Google は既存の方式と比較して Guetzli は高品質な jpeg 画像のファイルサイズを35%削減できると主張している。
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3,094
軍艦じゃんけん
軍艦じゃんけん(ぐんかんじゃんけん)は、じゃんけんから派生した遊び。別名「軍艦」、「戦争」など。 様々なローカルルールが存在するが、以下は基本的なルールの紹介である。 もし、2回目であいこでは無くなってしまったら、その時点で勝っている側が「軍艦、軍艦、ハワイ!」などのように声をかけ、続ける。 声を掛けている側がまた、相手とあいこになった場合は「一本とって〇〇」という掛け声で3回連続であいこになるまで続ける。 以下は代表的な遊び方のバリエーションの一つである。 地域によって以下の例のようなバリエーションがある。 戦時中に始まった遊びと思われるが、始まりの由来については不明である。 2010年代中頃にも、一部の子供達の間で遊ばれているのが確認されている。現在では主に一部の小学校の児童の間などで遊ばれている。
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罫線表
罫線表(けいせんひょう)あるいはチャートとは、主に株式、商品取引、為替等の相場を観測する目的で、価格等の情報を示した図表である。図示する情報の種類・作成手法により様々な種類が存在する。 罫線表は図表だけでなく、その様相を分析することにより将来の相場の値動きを予測する解釈論を伴っていることが通例である。 過去の相場の値動きから将来を予測することをテクニカル分析というが、罫線表を利用すると図解による分析が可能である。 価格の動きだけではなく、出来高、移動平均線など他の指標を同時に観測し、将来の株価を予測する。
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3,097
タカアシガニ
タカアシガニ(高脚蟹・学名Macrocheira kaempferi)は、十脚目・短尾下目・クモガニ科に分類される蟹。日本近海の深海に生息する巨大な蟹で、現生の節足動物では世界最大になる。 カニ類の中では系統的に古い種で、生きた化石とよばれる。現生のタカアシガニ属(Macrocheira属)は1属1種だけだが、他に化石種が4種類(日本国内に2種、アメリカ合衆国ワシントン州に2種)報告されている。 脚には白色のまだら模様が入る。脚は非常に細長いが、さらに成体のオスでは鋏脚が脚よりも長くなり、大きなオスが鋏脚を広げると3.8メートルに達する。甲羅は最大で甲幅40センチメートルになり、甲長の方が長く楕円形で、盛りあがっていて丸っこい。体重は最大で19キログラムに達する。複眼は甲羅の前方に並び、複眼の間には斜めの棘が左右に突き出す。若い個体は甲羅に毛や棘があり、複眼の間の棘も長いが、成熟すると毛は短くなり、棘も目立たなくなる。 生息域は岩手県沖から九州までの太平洋岸で、東シナ海、駿河湾、土佐湾である。まれに三河湾や伊勢湾で漁獲されたこともある。 日本近海の固有種と言われていたが、1989年に台湾の東方沖で見つかっている。水深150 - 800メートルほどの深海砂泥底に生息し(特に水深200 - 300メートルに多い)、春の産卵期には、水深50メートル程度の浅いところまで移動して産卵する。学名はエンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer) にちなんで名づけられたもので、彼の生誕350年の折には剥製がドイツに送られた。 食性は動物食の強い雑食性で、貝などを鋏で潰し割って食べることが多い。(鋏の内側に球状の突起が多数並んでおり、くるみ割り器のように、固い物を潰して割る構造になっている。) 近縁種4種は全て絶滅種で、1926年にメアリー・ラスバンによってアメリカ合衆国ワシントン州のオリンピック半島の東ツイン川(ワシントン州)(英語版)で確認された Macrocheira teglandi、1957年に今泉力蔵によって長野県下伊那郡千代村米川(現在の同県飯田市大字千代)の千代小学校の校庭の地層で確認された「チヨガニ」(Macrocheira yabei)、同じく今泉によって1965年に山形県尾花沢市の薬師沢支流の砂岩層から確認された Macrocheira ginzanensis、1999年にキャリー・シュバイツァー (Carrie E. Schweitzer) とロドニー・フェルドマン (Rodney M. Feldmann) の研究チームによってワシントン州オリンピック半島の地層から確認された Macrocheira longirostra である。 産地以外では食材としての評価は低い。水揚げして放置すると身が溶けて液体化してしまうため、扱いが難しいといったことが挙げられる。 味は水っぽく大味で、それゆえ大正初期の頃から底引き網漁でタカアシガニが水揚げされるも見向きもされていなかった。しかし今日では漁獲される地元の名物料理の一つになっている。巷説では、1960年(昭和35年)に戸田村 (現在の沼津市戸田地区) の地元旅館主人が「タカアシガニ料理」を始めたとされている。 小型底引き網(トロール網)などで漁獲され、塩茹でや蒸しガニなどにして食用にされる。メスの方が美味しいという話もあるが、巨体の割にはあまり肉が多くない。漁場は相模灘、伊豆七島周辺、駿河湾、熊野灘、土佐湾などだが、産卵期の春は禁漁となっている。特に漁が盛んな駿河湾ではタカアシガニを観光の名物にしているが、近年は漁獲が減少しているため、種苗放流など資源保護の動きもある。和歌山県では産卵期の春に浅瀬に移動するものを漁獲している。 食用の他に研究用や装飾用の剥製、魔よけにもされる。性質はおとなしく、また飼育のし易さ、目を引く点、個体の補充しやすさから水族館などでも飼育される。
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大阪環状線
大阪環状線(おおさかかんじょうせん、英: Osaka Loop Line)は、大阪府大阪市内の天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 西九条駅 - 新今宮駅間を結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。 「大阪環状線」の呼称が指す区間は典拠や目的により、次のように使い分けられている。 以下、特記がない限りは 1. (運行系統としては3.)に従って記述する。なお、大阪をはじめとする近畿圏においては、当路線を単に「環状線」と呼称する場合も多く、本項でも一部でそのように表記している。 大阪環状線は、大阪市の都心部外周を環状運転している環状線であり、JR西日本のアーバンネットワークの中心路線として機能している。ラインカラーは赤(■)で、大阪のダイナミズムをイメージしている。駅ナンバリングで使われる路線記号はO。当路線で運行された101系・103系・201系電車の車体色はオレンジバーミリオン(■ 朱色1号)で、現用車両の323系電車でもドア横のアクセントカラーや黒とともに帯色で使用されている。 多くの駅で各方面へのJR・私鉄各線および都心部を走る大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の地下鉄各路線と連絡している。また、大阪環状線では線内で環状運転や区間運転を行なっている普通列車以外に、大和路線(関西本線)と阪和線、JRゆめ咲線(桜島線)、JR京都線(東海道本線)といったJR他路線と直通運転している普通列車や快速列車、及び特急列車が走行する。 大阪環状線は、南側の関西本線の一部区間、関西本線と東海道本線を連絡する東側の城東線、安治川の右岸を走る北西側の西成線の一部区間、南西側の関西本線貨物支線の一部区間を、第二次世界大戦後の高度経済成長期に西側の未成区間に新線を造って接続したものである。発足時の大阪市域のほぼ全域を取り囲んでおり、大阪環状線内を横断・縦断する地上路線は存在しないものの、地上区間により大阪環状線内に入り込む路線は9路線(天王寺駅阪和線ホームを含めると10路線)ある。地下路線ではOsaka Metro(旧大阪市営地下鉄)線が従来から大阪環状線内を横断・縦断しているが、地下鉄以外でもJR・私鉄ともに地下区間により横断・縦断路線を建設する計画が何度か立てられ、2009年までにJRではJR東西線、私鉄では阪神なんば線・近鉄奈良線(難波線・大阪線)の西九条駅 - 鶴橋駅間の2つの横断路線が実現しているほか、2031年度には縦断路線のなにわ筋線(JR西日本、南海電鉄)が開通する予定となっている。 堂島・中之島・船場(本町など)・島之内(心斎橋など)といった都心部(旧来の中心市街)およびミナミの玄関口である難波が大阪環状線の内側に位置するため、前述の通り元私鉄を含む多数の路線が大阪環状線内に入り込んでいる。加えて新幹線接続駅がないため、新大阪駅 - 梅田駅(大阪駅直下) - 難波駅 - 天王寺駅間を直線的に通るOsaka Metro御堂筋線が市内交通の大動脈として都心部への移動の主力を担い、大阪環状線や他のOsaka Metro各線および大阪シティバスがそれを補完する形になっている。これらは他路線との直通列車が存在することとともに、同じく環状運転を行なっている東京の山手線と大きく異なる点である。 南側と東側は特に都心部から離れて敷設されたため、南海、京阪、近鉄(かつての大軌)がそれぞれ大阪環状線の内側に難波駅、天満橋駅、大阪上本町駅を構えた一方、比較的都心部に近接して敷設された北側では阪神、阪急とも大阪駅付近に大阪梅田駅 (阪神)、大阪梅田駅 (阪急)を構え、南側でも後発の近鉄(かつての大鉄)が天王寺駅付近に大阪阿部野橋駅を構えた経緯から、梅田、天王寺・阿倍野の副都心が形成された。大阪駅一帯の梅田は大規模な再開発の進展によって旧来の中心市街の相対的な地位を低下させるまでに発展している。また、河川が集中して土地の制約が大きかった京橋駅の周辺も大阪ビジネスパーク(OBP)と一体となった副都心が形成されている。 また、東側の大阪駅 - 京橋駅 - 天王寺駅間では、全列車が各駅に停車するのに対し、西側の大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅間では、特急や快速は大阪環状線内で通過運転を行っているため、日中時間帯では特急・快速が全て停車する駅に1時間に15本が停車する一方で、特急や快速が通過する野田駅、芦原橋駅と今宮駅は1時間に4本しか停車する列車がない。これも日中は各駅とも1時間12本以上が停車する山手線と異なる点である。 路線の大半は高架であるが、天王寺駅付近と大阪城公園駅付近だけは地平を走っている。故にこの2駅だけは地上駅となっている。ただし、天王寺駅は掘割式の地下駅に分類される場合もある。また内回り線の新今宮駅 - 天王寺駅間には大阪環状線で最後まで残った踏切である一ツ家踏切があった。 大阪都心部を走る路線でありながら、他の私鉄・地下鉄線と直接競合していないこともあり、2013年に「大阪環状線改造プロジェクト」が開始されるまでは環状運転の大半の普通列車が国鉄時代の車両で占められ、新車導入や駅の美装化といった設備投資が、私鉄と競合し看板列車の新快速が運転されているJR神戸線やJR京都線などの主要路線と比べるとかなり遅れた。 JR線で唯一、全列車が掲載されている紙の時刻表が存在しない路線である(他路線に直通する列車の時刻はすべて掲載されている)。ただし、八峰出版がかつて発行していた『KATT 関西圏JR線私鉄線時刻表』では大阪環状線が特集として、また『携帯全国時刻表』特別付録として2017年4月号に別冊付録として大阪環状線の快速も含む全列車の時刻が掲載された。なお、『携帯全国時刻表』2018年4月号にも別冊付録で大阪環状線全列車時刻表(こちらは特急列車も含む)が掲載された。 全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」、電車特定区間、およびIC乗車カード「ICOCA」エリアに含まれており、JR西日本近畿統括本部の管轄である。 なお、平均駅間距離は1.15 km(新今宮駅 - 天王寺駅間を含む場合は約1.14 km)で、JR西日本管内の路線では最も短い。 以下に示す記述はすべて内回り(反時計回り、左回り)の沿線概況であり、外回り(時計回り、右回り)の場合は風景の順番が逆で、大阪駅の発着ホームも2番のりばとなる。 天王寺駅は関西本線・阪和線が分岐しているほか、近鉄南大阪線、Osaka Metro御堂筋線・谷町線、阪堺電気軌道上町線との接続駅で、天王寺は南大阪の玄関口であるとともに、ミナミ・キタなどと並ぶ大阪市の都市核の一つである。駅周辺には天王寺ミオやあべのキューズモール、日本一の高さ300 mの駅ビルあべのハルカス(あべのハルカス近鉄本店)などの商業施設が多く、JR西日本の駅別乗車人員数では第3位である。 天王寺駅を出ると左にカーブして、天王寺駅の北側にある阪和線をくぐって北上する。寺田町駅を出て桃谷駅に向かう間は、マンションの立ち並ぶ天王寺区、下町情緒豊かな生野区を分けるように高架の線路を北上し、鶴橋駅に到着する。近鉄大阪線・奈良線、Osaka Metro千日前線との接続駅で、ホームには近鉄との連絡改札口があり、乗り換え客も非常に多い。駅前は在日コリアンによって造られたコリア・タウンが中核を担っている。周辺に焼肉店や朝鮮料理店が多く、駅周辺の賑わいは環境省のかおり風景100選にも選ばれている。 鶴橋駅からは引き続き住宅街を北上し、玉造駅を過ぎると今度は京セラドキュメントソリューションズや森下仁丹、サクラクレパスなどの本社建物が立ち並ぶ区域を通り、Osaka Metro中央線・長堀鶴見緑地線との連絡駅、森ノ宮駅に至る。森ノ宮駅を過ぎると左手に大阪城がある大阪城公園、右手に吹田総合車両所森ノ宮支所やOsaka Metroの森之宮検車場が見える。線路は高架から地上へ下り大阪城公園駅に着く。さらに進むと同支所の入出区線が右手から接近し、左手に多数のビル群が林立する大阪ビジネスパークを過ぎると京橋駅に着く。京橋駅には 片町線(学研都市線)・JR東西線と京阪本線のほか、Osaka Metro長堀鶴見緑地線が乗り入れ、飲食店街や歓楽街も発展していることから、「キタ」「ミナミ」に対して「ヒガシ」と呼ばれることもある。 京橋駅を出ると正面にはかつての淀川電車区・淀川駅に至る連絡線があった空き地が広がるが、大阪環状線は左にカーブする。桜の名所、桜ノ宮駅を過ぎ、旧淀川(大川)を渡って右にカーブすると、阪神高速12号守口線をくぐり大阪環状線の最も北に位置する天満駅と続く。天満駅を出てすぐ天神橋筋商店街を高架で跨ぎ、住宅街やビルの合間をかいくぐって行き、右手から東海道本線(JR京都線)が合流してくると大阪駅に着く。 大阪駅では最も南側(サウスゲートビルディング寄り)の1番のりばから発車する。大阪駅を出ると、東海道本線(JR神戸線・JR宝塚線)と並走し、やがて東海道本線は右に分かれていく。大阪環状線はそのまま直進して福島駅に着く。福島駅付近で東海道本線貨物支線が合流しているが、貨物線は地平線を走り、福島駅を出ると右手から貨物線が地平線から高架橋へ上ってくる。阪神本線を越えると、野田駅である。野田駅からはかつて、大阪環状線の北側から高架を下って直進方向に進んで三菱製紙などに至る専用鉄道と、大阪環状線をくぐって大阪市中央卸売市場本場にあった大阪市場駅へと至る貨物支線(1984年〈昭和59年〉2月1日廃止)が分岐しており、野田駅ホームからはその地上への分岐部の跡が確認できる。現在は、専用鉄道の線路跡には住宅などが建っており当時を偲ばせるものはないが、大阪市場駅への貨物支線跡は遊歩道として整備されている。 続く西九条駅は島式2面5線であるが、このうちホームがあるのは内側の3線のみである。桜島線(JRゆめ咲線)・梅田貨物線が分岐しており、大阪方面から桜島線に乗り入れているほか、梅田貨物線を経由して新大阪方面から特急列車も大阪環状線に直通している。西九条駅の真上に位置している阪神なんば線をくぐり、内・外回り線に挟まれて桜島線が地平に降りて西進して分かれていく。安治川を渡って大きく左にカーブすると、右手から阪神高速17号西大阪線・国道43号が寄り添い始め、ORC200などの高層ビルが建ち並ぶ弁天町駅に着く。弁天町駅は大阪環状線の最も西部に位置しており、Osaka Metro中央線との接続駅で、大阪ベイエリアの入口に当たる。高架下にはかつて交通科学博物館があり、内回りホームからは保存車両の一部を見ることができた。駅前は中央大通と国道43号が交差して車の交通量も多く、大阪環状線と直角に阪神高速16号大阪港線が交差している。 弁天町駅を出て一度左にカーブして東に向くと内回り・外回りの間に空き地があるが、これがかつての境川信号場跡で、大阪臨港線が分岐していた。正面から左手に京セラドーム大阪とガスタンクのモニュメントのある大阪ガスのドームシティ(岩崎地区)が見えると、その最寄り駅である大正駅に着く。大正駅はOsaka Metro長堀鶴見緑地線との連絡駅であるとともに大正区の最北端に位置しており、鉄軌道網がない同区内の大阪環状線以南の各方面に多数の大阪シティバスが運行されており、ラッシュ時には急行バスも運行されている。 大正駅の先で南海汐見橋線と交差すると芦原橋駅・今宮駅と続く。今宮駅は関西本線(大和路線)を越えるために内回り線のホームは3階となっているが、外回り線はその必要がないため2階にホームがあり、関西本線の下り線と同一ホームで乗り換えることができる。なお、1997年までは今宮駅には大阪環状線のホームがなく、当時地上にあった関西本線の両側の築堤上を内回り・外回りに分かれて走行していた。 新今宮駅は南海本線・高野線、Osaka Metro御堂筋線・堺筋線および、阪堺線との接続駅である。島式2面4線のうち、外側2線を大阪環状線の列車が、内側2線を関西本線および大阪環状線と直通運転する列車が使用している。新今宮駅を出ると、左手に通天閣や大阪市天王寺動物園といった主要ランドマークが立ち並び、天王寺駅に着く。この間、外回り線は高架橋で関西本線を越えるが、2012年6月まで、この交点付近に大阪環状線で最後の踏切となる一ツ家踏切があった。その踏切跡付近から天王寺駅にかけては、1993年に廃止された南海天王寺支線の廃線跡が南側に並行して残っている。 新今宮駅 - 天王寺駅間にあった一ツ家踏切は、大阪環状線に最後まで残った踏切で、内回り線(外回り線の同区間は関西本線を乗り越すため高架線になっている)・関西本線(大和路線)の列車のほかに、阪和線との直通列車も通過するため、朝ラッシュ時は1時間で最大54分踏切が閉まる開かずの踏切であった。JR西日本が所有する踏切の中でも線路内に立ち入るトラブルが多く、人身事故につながるケースもあったことから、2012年7月1日をもって廃止された。 この踏切で人身事故が発生するとその影響が広範囲に波及することから、JR西日本ではその対策として、最末期には踏切照明灯を青色にするなどの対策を取っていた。鉄道会社で青色の照明灯をいち早く導入したのはJR西日本で、実際に人身事故や踏切事故の抑止に効果があるとされたことから、青色の踏切照明灯は他線区にも導入され、その後、他社にも広がっている。 沿線では、民家の屋根上を作品展示の場所としたルーフアートが行われている。すべての作品は、車内や駅ホームから見える所にあり、堺市の芸術家である余田卓也が1994年から設置し始めたもので、2010年まで「家庭のパスワード」として、その家の住人が選んだ4桁の数字がシンボルカラーと共にそれぞれに数字と異なる色が掲げられていた。 大阪環状線内相互発着の普通のほか、桜島線(JRゆめ咲線)に直通する普通、関西本線(大和路線)・阪和線へ直通する快速列車が運転されている。快速列車は、区間快速・直通快速を除いて、大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅間で快速運転が行われている。また、東海道本線(JR京都線)・紀勢本線(きのくに線)方面から特急が、大阪駅 - 天王寺駅間を走行している。 日中は、全線にわたり1時間に12本の運転で、内訳は環状運転の「普通」、大和路線直通の「大和路快速」、阪和線・関西空港線直通の「関空快速・紀州路快速」がそれぞれ4本である。大阪駅 - 天王寺駅間は特急「くろしお」1本、「はるか」2本が加わり、1時間に15本の運転となる。午前中と夜間は、JRゆめ咲線直通の普通(天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 西九条駅 - 桜島駅間)が4本入るため、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 西九条駅間は1時間に16本、特急「くろしお」「はるか」を含めると大阪駅 - 西九条駅間は1時間に19 - 20本の運転となる。平日の朝夕は大和路快速に代わって区間快速が、朝ラッシュ時は関空・紀州路快速に代わって直通快速(外回りのみ)が運転されている。なお、特急は天王寺駅と2023年3月17日まで一部が西九条駅にしか停車せず、大和路快速と関空快速・紀州路快速は野田駅・芦原橋駅・今宮駅の3駅を通過するため、この3駅は日中は1時間あたり4本のみの停車となる。 国鉄時代から終電時刻はほとんど変わらなかったが、2009年3月14日のダイヤ改正で、乗務員の睡眠時間確保のために大幅な繰り上げが行われ、大阪環状線では最大21分繰り上がった。 平日の朝夕ラッシュ時は約3分間隔で運転されており、ほとんどが環状運転列車であるが、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間の区間運転列車(朝ラッシュ時のみ)またはJRゆめ咲線直通列車も運転されている。この時間帯の前後には吹田総合車両所森ノ宮支所への入出区の関係から、京橋駅発着(内回り・外回り)・大阪城公園発(外回りのみ)となる列車がある。夕方ラッシュ時は2015年3月14日の改正で京橋駅発着を天王寺駅発着に延長して区間が統一された。 日中は環状運転列車が1時間に4本(15分間隔)運転されている。午前中と夜は、JRゆめ咲線直通列車が天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 西九条駅 - 桜島駅間で1時間に4本(15分間隔)運転されている。時間調整のため、大阪駅・京橋駅・森ノ宮駅・新今宮駅で1 - 2分ほど停車するほか、新今宮駅で快速を待ち合わせる列車もあるため、先発先着の平行ダイヤにはなっていない。 車両は全て3ドア車で、原則としてロングシートの323系が使用されているが、ラッシュ時の一部の列車は転換クロスシートのある223系・225系や221系も使用されている。 環状運転を行っているため、運転取り扱い上や旅客案内上は「上り・下り」という概念はなく、「外回り・内回り」という表現が用いられている。列車番号は内回りを奇数(大和路線直通列車を除く)としているが、奇数だから「下り」という意味ではなく、起点である大阪駅で、東海道本線と列車の方向と列車番号の奇数・偶数を合わせて内回りを奇数としただけである。 環状運転する電車の各駅での行き先案内は、主要6駅(大阪駅、西九条駅、新今宮駅、天王寺駅、鶴橋駅、京橋駅)から直近の2駅を挙げて「○○・△△方面行き」としている(たとえば、天満駅での外回り電車は京橋・鶴橋方面行きと案内する)。 列車番号は、引き続き環状運転列車となる列車は1000番台を使用し、天王寺駅で列車番号が変わる。途中駅が終点となる列車は2000番台が使用されている。なお、大阪環状線内のみを走行する列車には、JRの客車列車と同様に列車番号の末尾にアルファベットが付かない。JRゆめ咲線に直通する列車は、列車番号の末尾にEがつく。 大阪環状線と大和路線(関西本線)を直通する列車として、大和路快速・区間快速が運転されている。大和路快速は大阪環状線内の野田駅・芦原橋駅・今宮駅の3駅を通過するが、区間快速は大阪環状線内は各駅に停車する。日中および土・休日の朝と夜間に、大和路快速が1時間に4本(15分間隔)運転されている。朝と平日の夕方・夜間は大和路快速の代わりに区間快速が運転されている。 関西本線に直通する快速列車は1973年から113系で運転を開始し、1989年3月11日の221系導入と同時に大和路快速の愛称が付けられた。日中時間帯を中心に、天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅 - 奈良駅 - 加茂駅間で運転(JR時刻表では大阪駅発着で案内)されているが、土休日ダイヤでは和歌山線高田駅・五条駅へ直通する列車がある。ラッシュ時間帯には大阪環状線内で各駅に停車する区間快速が運転されていて、京橋駅までの列車や和歌山線高田駅・五条駅へ直通する列車も設定されている。また天理教祭典(「こどもおぢばがえり」やお節会含む)開催時や土曜・休日ダイヤには臨時列車として桜井線(万葉まほろば線)に直通する列車もある。 夕方・夜間の一部の奈良駅・加茂駅発の区間快速は新今宮駅で阪和線方面からの特急列車の通過待ちを行う。 車両は全列車221系の8両編成で、区間快速には2016年9月まで103系・201系の8両編成が運用されていた。 また、2011年3月11日までの平日ダイヤの夜間には「やまとじライナー」が大阪駅 - 加茂駅間で運転されていた。大阪環状線内の停車駅は新今宮駅・天王寺駅であるが、大阪駅では両駅に停車する案内はされていなかった。 JR西日本は2023年8月24日に、同年10月23日より平日朝ラッシュ時間帯の加茂駅発大和路線区間快速2本に、有料座席サービス「快速 うれしート」(指定席)を導入すると発表した。なお、当該座席は天王寺駅からは無料開放(自由席)となる。 大和路快速は、大阪環状線の東半分(天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間)では列車番号は数字だけだが、西半分(大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅間)および大和路線内では末尾にKがつく。区間快速は列車番号の末尾にYがつく。 天王寺始発で大阪環状線の内回りを1周し、再度天王寺駅を経由してから大和路線(関西本線)に直通する列車は、始発である天王寺駅の環状線ホームでは本来の種別及び行先を案内・表示せず、あたかも大阪環状線の内回りの普通列車であるかのように「普通 鶴橋・京橋方面」と案内されており、次駅の寺田町駅から本来の種別及び行先(「大和路快速 奈良」等)での案内・表示に変わる。 大阪環状線と阪和線を直通運転する列車として、関空快速・紀州路快速・快速・直通快速が運転されている。関空快速・紀州路快速・快速は大阪環状線内の野田駅・芦原橋駅・今宮駅の3駅を通過し、直通快速は大阪環状線内は各駅に停車する。 日中と夜間は関空快速・紀州路快速が1時間に4本(15分間隔)運転されている。朝ラッシュ時の外回りは関空快速・紀州路快速の代わりに直通快速が運転される。 阪和線との直通運転は、1990年3月10日から新大阪発新宮行きの夜行快速列車が運転されたのが最初で、その後1994年9月4日に関西国際空港が開港したことにより、関西空港線直通列車として京橋駅 - 大阪駅 - 関西空港駅間で関空快速の運転が開始された。当時の大阪環状線内の停車駅は、京橋駅・大阪駅・西九条駅・弁天町駅・新今宮駅・天王寺駅であったが、翌1995年4月20日から1999年5月9日まで、関空快速の停車駅のうち西九条駅・弁天町駅・新今宮駅を通過する「関空特快ウイング」が運転されていた。和歌山方面では新大阪駅発着の快速のみであったが、1999年5月10日から京橋駅 - 日根野駅間で関空快速と併結する紀州路快速の運転を開始し、大阪環状線に乗り入れることとなる。 大阪環状線の天王寺駅発着の列車は、2008年3月14日までは早朝・深夜にのみ設定され、内回りでは京橋駅 → 大阪駅間でも快速運転も行っていたが、翌15日のダイヤ改正で天王寺駅の阪和線への連絡線が複線化されたことにより、朝ラッシュ時間帯に大阪環状線へ直通する列車が増発されて直通快速として運転されるようになると、大阪環状線を一周する列車が増加するとともに、関空快速・紀州路快速・快速は大阪駅 - 京橋駅 - 天王寺駅間で各駅に停車するようになり、快速通過駅での停車時刻の間隔が所々で広がっていた問題が解決された。さらに、2012年3月17日のダイヤ改正では日中のJRゆめ咲線直通列車が削減され、この時間帯の大半の列車が大阪環状線天王寺駅発着に変更されたため、京橋駅で折り返す列車は午前中・夕方の一部列車と深夜時間帯のみになっている。また夜間時間帯には日根野駅までの列車もある(種別上は快速)。 また、2003年10月4日から2006年3月12日までの土曜・休日ダイヤの朝に、鳳駅 - 天王寺駅 - 大阪駅 - 天王寺駅間では直通快速と同じ停車駅で、区間快速が運転されていた。車両は日根野電車区(当時)の103系8両編成が使用されていた。 紀州路快速は一部の列車を除き、列車番号の末尾にHがつくが、関空快速と併結する大阪環状線内および阪和線天王寺駅 - 日根野駅間での列車番号末尾はMとなる。 天王寺始発で大阪環状線の内回りを1周し、再度天王寺駅を経由してから阪和線に直通する列車は、始発駅となる天王寺駅から次駅の寺田町駅まで大和路線(関西本線)直通列車と同様の案内体制が取られている。 1989年7月22日から、特急「くろしお」が大阪環状線に乗り入れて新大阪駅または京都駅へと直通運転されるようになった。関西国際空港が開港した1994年9月4日からは、関西空港線直通の特急「はるか」も運転されている。過去には、1990年に臨時特急「エキスポ雷鳥」が、2000年代に臨時特急「ユニバーサルエクスプレス」が、2010年に臨時特急「まほろば」が、それぞれ運転された。 「くろしお」が直通運転を開始する前年の1988年に奈良市内で開催された「なら・シルクロード博覧会」会場への東海道・山陽新幹線(新大阪駅)からのアクセス向上のため、西九条駅構内の配線を変更(大阪環状線と梅田貨物線との間に渡り線を設置)した上で加茂駅・奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間の快速の一部を新大阪駅発着に変更して大阪環状線から梅田貨物線の直通運転を行ったが、翌1989年には天王寺駅構内における大阪環状線と阪和線との連絡線設置工事が完了したことにより、阪和線・紀勢本線に直通する特急列車の運転も可能となった。 ただし、大阪環状線内での特急列車の運行区間は、西半分側にある大阪駅 - 天王寺駅間のみであり、2023年2月13日に梅田貨物線が地下新線に切り換えられるまで大阪駅を経由せず、切り換え後も同年3月17日までは大阪駅には停車しなかったためや、天王寺駅に全列車が停車する以外は同日まで一部の「くろしお」が西九条駅に停車するのみであったため、大阪環状線内において特急列車を利用できる機会は僅かであった。同年3月18日からは特急列車が大阪駅(うめきたエリア)に停車するようになり、大阪駅では地下ホーム発着になるものの大阪駅 - 天王寺駅間で特急列車が利用可能になったが、すべての特急列車が通過するようになった西九条駅は利用できなくなっている。 アーバンネットワークエリアでは一部の線区・区間を除いて大晦日から元日にかけての終夜運転が実施されているが、ここ最近では環状運転列車およびJRゆめ咲線との直通列車(いずれも普通)を両者合わせて10 - 30分間隔で運転し、大晦日から元日にかけて特別営業を行うユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) へのアクセスなどに活用されている。 2001年(平成13年)3月の USJ の開業前、つまり2000年(平成12年)12月31日から翌2001年1月1日にかけての終夜運転までは、普通が奈良駅 - 天王寺駅 - 西九条駅 - 大阪駅 - 京橋駅 - 天王寺駅間(いわば大和路快速のような運行形態)の形でおおむね30分間隔で運転されていた(大和路線の項も参照)。 福島駅 - 西九条駅間では、梅田貨物線を経由して毎日運転の列車が1日2往復と、特定曜日運休の列車が1日3往復運転されている。全列車が桜島線安治川口駅発着である。 かつて弁天町駅 - 大正駅間にあった境川信号場からは大阪臨港線と呼ばれる非電化単線の貨物支線が分岐していた。大阪港からの貨物輸送を担っていたが、大阪臨港線のうち最後まで残っていた境川信号場 - 浪速駅間は、貨物運送の衰退により2004年11月から休止となり、2006年4月1日に廃止された。末期は1日2往復のダイヤが組まれていたが、扱い貨物がないため運休する日も多かった。 このほかにも、浪速駅から大阪港駅(地下鉄中央線の大阪港駅とは別)・大阪東港駅および、野田駅から大阪市場駅までの貨物支線を有していたが、いずれも1984年2月1日に廃止されている。 かつて大阪駅・西九条駅・新今宮駅・天王寺駅以外の駅において、環状線ホームの発車標に発車時刻・乗車位置を表示する機能がないものが使用されてきたが、2009年10月4日の大阪環状・大和路線運行管理システム導入に伴い、発車時刻・乗車位置などのほかに列車の遅延表示を行う機能を持つ旅客案内情報処理装置 (PIC) 対応の発車標が設置された。ただし、大阪駅の一部の発車標では関西本線・阪和線・関西空港線方面へ直通する快速列車のみ案内されている。 なお運行形態上、環状運転から区間運転へ移行する列車や、前述の通り他線区との直通列車が数多くあるため、途中で行先を変更する列車が存在する。 また、これまで島式ホームである野田駅・福島駅・西九条駅・新今宮駅・天王寺駅と過去に島式ホームだった天満駅(現在は単式2本の2面2線ホーム)のみホーム番号が振り当てられていて、相対式ホームにはホーム番号が振り当てられていなかった。大阪駅では環状線ホームのみ「環状内回りのりば」「環状外回りのりば」という名称であり番号ではなかったが、大阪駅改良工事に伴い、のりば番号が割り当てられたのをはじめ、2006年9月ごろから相対式ホームの駅にも順次のりば番号が割り当てられ、2008年3月に京橋駅を最後にすべての駅で完了した。 環状運転を行う電車の場合は、発車標では行先が「環状」と表示されていたが、2019年3月のダイヤ改正以降は323系電車と同じように、天王寺駅・鶴橋駅・京橋駅・大阪駅・西九条駅・新今宮駅の主要6駅から直近の2駅を使って「○○・△△方面」と表示するようになっている(例:大阪駅では内回りが「西九条・新今宮方面」、外回りが「京橋・鶴橋方面」と表示される)。この方式は山手線でも古くから用いられている。 乗車位置は、JR西日本の標準として、3ドア車が△印、4ドア車が○印で案内されており、201系が運行を終了した2019年6月以降は△印のみで案内されていたが、2021年2月6日より、大阪環状線とJRゆめ咲線(桜島線)に限り、323系で運行される列車(女性専用車両設定あり・ロングシート車)は○印、221系・223系・225系で運行される列車(トイレ付き・クロスシート車)は△印で案内されるように変更された。 各駅の環状線ホームには、車掌が扱う押ボタンスイッチがあり、発車直前に車掌がボタンを押すと内回り・外回りともに「ドアが閉まります。ドアが閉まります。ご注意ください」と放送されている。かつてはこのボタンを押すと、発車ベル(1999年 - 2003年の間は発車メロディ)の後に放送されていた。 1999年5月に発車メロディと接近メロディ、入線メロディが各駅に順次導入された。これらは、「さわやかでシンプル」「八百八橋と川の流れ」をコンセプトとしたメロディであったが、2003年12月下旬から速達化による停車時間短縮のため、発車メロディの使用が各駅で順次停止された。 その後2014年3月から、JR西日本では「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、駅ごとに異なるメロディを導入することになった。導入された駅と曲は下表の通り。2014年3月15日のダイヤ改正から森ノ宮駅・京橋駅・西九条駅で、5月1日から大阪駅で使用開始し、残りの駅も2015年3月22日に使用開始した。 2014年度の路線記号導入に合わせて、2015年3月14日のダイヤ改正から大阪環状線に直通する大和路快速・関空快速・紀州路快速に路線記号を活用した種別表示が行われている。大阪環状線に直通する列車は、赤色のラインカラーに大阪環状線の路線記号 O を表示した種別幕が、関西空港行きの列車は、青色のラインカラーに関西空港線の路線記号 S と飛行機マークを表示した種別幕が、和歌山方面行きの列車は、橙色のラインカラーに阪和線の路線記号 R を表示した種別幕が、奈良方面行きの列車は、緑色のラインカラーに大和路線の路線記号 Q を表示した種別幕が、JRゆめ咲線方面行きの列車には紺色のラインカラーにJRゆめ咲線の路線記号 P が入った種別幕が使用されている。 平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、323系8両編成の4号車に女性専用車が設定されている。対象車両および乗車位置には、女性専用車の案内表示が設置されている。なお阪和線・大和路線直通列車には設定はない。 大阪環状線では2002年7月1日より平日の始発から9時まで、大阪環状線を周回運転する列車に限って試験的に導入し、同年10月1日から本格的に導入した。その後、同年12月2日からは平日の17時から21時までの時間帯についても女性専用車の設定を行った。 2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。 1995年では136万人の利用があったが、2012年では108万人に減少している。2019年度の1日の平均通過人員は292,574人である。並行するOsaka Metro御堂筋線の260,840人、Osaka Metro谷町線の100,723人と比べて多い。 旧城東線区間となる天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅間(以下、東半分)と大阪駅 - 西九条駅 - 天王寺駅間(以下、西半分)とで性格に大きな違いが見られ、利用者の多くは京阪本線や片町線(学研都市線)の京橋駅、近鉄奈良線・大阪線の鶴橋駅といった郊外路線と連絡する東半分に集中する。そのため、東半分を折り返し運転する区間列車が環状線成立後も多く設定されており、運転密度も高く近隣も商業地・住宅地として開発が進んでいる。 他方、西半分は運転密度が低く、利用者数も伸び悩んでいたが、1973年から関西本線(大和路線)との直通列車、1989年から特急「くろしお」などの阪和線との直通列車、1994年の関西国際空港開港後は関空特急「はるか」や関空・紀州路快速などの快速列車が天王寺駅東方から大阪環状線に乗り入れるようになり、運転密度は上昇した。ただし、優先運行される特急や快速列車が通過する駅では逆に不便なダイヤとなり、西半分の駅 - 東半分の駅間の天王寺駅経由での移動も不便になった。その一方、快速停車駅では利便性が向上し、弁天町駅付近には高層ビルやタワーマンションが立ち並ぶようになり、大正駅と西九条駅は大阪ドームとユニバーサル・スタジオ・ジャパンのオープン以来土曜・休日の利用者が増加傾向にある。また、大和路・関空・紀州路などの快速列車の増発による西半分の高速化は、乗り換え不要で運賃が安いこともあって、大阪駅 - 天王寺駅間の移動における環状線利用増に貢献している。 2013年3月13日に発表されたJR西日本の中期経営計画において、線区価値の向上、都市の魅力向上の重点線区に選定され、2017年度までの5年間で、駅の改良・美化、車両の新製、高架下・駅周辺の開発などが計画され、2013年12月24日から「大阪環状線改造プロジェクト」がスタートした。 このプロジェクトでは、大阪環状線を「行ってみたい」「乗ってみたい」線区に改造し、ハード面とソフト面の取り組みでイメージアップを図り、大阪環状線の利用を拡大し、大阪の活性化を目指す取り組みである。大阪環状線の駅19駅を19の点でシンボル化し、赤(線区カラー)とオレンジ(車両カラー)で表現した円をイメージしたロゴマークと、お客様満足度二重丸を目指すという思いを込めた「みんなの◎に」というキャッチコピーも制定されている。 このプロジェクトは、以下の重点施策によって行われている。 このほかにも、全駅へ発車メロディが順次導入されたほか、沿線風景や名所・祭事などをモチーフにデザインしたラッピング列車「OSAKA POWER LOOP」が2014年6月1日から2017年9月7日まで運転された。デザインは、FM802が主催しているアーティスト発掘プロジェクトに参加しているうち8名が携わった。また、2014年9月28日には天満音楽祭とコラボレーションした音楽列車「TEN-ON ぐるKAN LIVE」が運転された。2017年10月15日には323系初の車内イベント列車として天満音楽祭とコラボレーションしたイベント列車「ぐるKANブラス」が運行される。2019年4月1日からはサンリオのキャラクター「ハローキティ」とのコラボレーションイベント「HELLO! LOOP PROJECT」が、当プロジェクトの一環として実施されている。期間中は「ハローキティ 環状線トレイン」の運行や、主要駅へのフォトスポットの設置などが行われる。 このプロジェクトが「323系と大阪環状線改造プロジェクト」として、2016年9月29日に2016年度グッドデザイン賞(移動用機器・設備部門)を受賞している。 本節では、大阪環状線で使用される、または使用された車両について記述する。なお、貨物列車については、牽引機関車(貨物電車のM250系を含む)のみを記述する。 以下はすべて電車である。 すべて3ドア車で運行されている。座席は323系がロングシート、それ以外の車両はクロスシートである。 吹田総合車両所森ノ宮支所(旧・森ノ宮電車区)所属車両が使用される。 また、車内広告を1社で独占して掲出している広告貸切列車として使用されている車両もある。8両編成の広告貸切列車は Loopack(ルーパック)と呼ばれ、過去にはヘッドマークを掲出していた時期もあり、特に毎年10月には8020推進財団が広告主となっている列車について、8020運動の普及啓発を行う「8020号」の特製ヘッドマークが掲出されている。 吹田総合車両所奈良支所(旧・奈良電車区)所属車両が使用される。 吹田総合車両所日根野支所(旧・日根野電車区)所属車両が使用される。 吹田総合車両所日根野支所(旧・日根野電車区)および吹田総合車両所京都支所(旧・京都総合運転所)所属車両が使用される。本節で特に記述なければ日根野支所所属。 福島駅付近から西九条駅までを併走する梅田貨物線を経由し、桜島線(JRゆめ咲線)安治川口駅貨物ヤードを結ぶ貨物列車の牽引機として運用される。 大阪環状線は、大阪鉄道(初代)により建設された関西本線の今宮駅 - 天王寺駅間、同じく大阪鉄道(初代)により建設された天王寺駅 - 玉造駅 - 大阪駅間の城東線、西成鉄道により建設された西成線の大阪駅 - 西九条駅間、鉄道省により建設された関西本線貨物支線(大阪臨港線)の境川信号場 - 今宮駅間を元に、未成区間の西九条駅 - 境川信号場間を日本国有鉄道(国鉄)が繋いで成立した環状路線である。その関係で、国鉄時代は境川信号場 - 天王寺駅間は天王寺鉄道管理局の管内で、残りが大阪鉄道管理局の管内とされた。 関西本線・城東線・西成線の開業当時、関西本線は木津村・今宮村・天王寺村の集落を迂回する必要があり、市街地からやや南へ離れてしまい、城東線は四天王寺・大坂城址といった建造物や天王寺村・清堀村・玉造町の集落を迂回するため、市街地から大きく東へ離れてしまった。西成線は比較的市街地に近接していたが、船舶の出入が多いため橋が1本もない安治川右岸を通っており、基本的には臨港路線だった。 もともとの市街地が海に面していない大阪では、もとから海に面した市街地である東京と比べて海側への鉄道敷設が容易でありそうなものだが、大阪湾と大阪市街を結ぶ二大水路の安治川および木津川への架橋が、船舶の出入の多さから事実上不可能という問題があり、大阪鉄道(初代)の大阪駅乗り入れが城東線ルートになったのも、この問題に一因があった。1897年に大阪港(築港)の埋立造成が開始され、その完工を目前に控えた1928年の大阪臨港線開業時に木津川への架橋は実現したが、安治川への架橋は1961年の大阪環状線開業まで実現することはなかった。 このように、大阪市街の東半分を取り囲む関西本線および城東線がどちらも市街地から離れたところに敷設されたため、現在の私鉄各社に加えて片町線や当の関西本線ですら現在の大阪環状線の内側(それらは明治期、市街地の端でもあった)にターミナルを設置することとなり、環状線の構想に至るには市街地の拡張を待つ必要があった。大正初期までに開業した私鉄(元私鉄を含む)の大阪側ターミナルは難波駅・湊町駅(現・JR難波駅)・片町駅・汐見橋駅・天王寺西門前駅・阪神梅田駅・天満橋駅・恵美須町駅・大阪上本町駅など、ほとんどが現在の大阪環状線の内側に位置するもので、阪急梅田駅も当初は内側(現在の阪急百貨店うめだ本店の位置)にあった。当時は城東線も西成線もまだ電化されておらず、それらのターミナルと大阪市の中心市街地との間の輸送は専ら大阪市電が担っていた。 大正末期に至って城東線・西成線の内側は一部を除いて市街化され(時期を同じくして城東線・西成線が通る地域はすべて大阪市に編入された)、大阪鉄道(2代目、現・近鉄南大阪線)と阪和電気鉄道(現・JR阪和線)は天王寺駅にターミナルを構えるに至った。環状線の構想も戦前には持ち上がったが、上述のとおり船舶の出入が多い安治川への架橋に対して反対運動があり、計画が具体的に進むことはなかった。また、日本橋・銀座といったオフィス街・繁華街に近接し、東京駅が開業するなど、発足時の東京市域を縦断する経路で未成区間が解消された東京市(当時)の海側と異なり、一部レジャー施設と新興住宅地を除いて工業地帯・港湾施設が広がる大阪市の海側に十分な利用者数が見込めるのかという疑問も残った。 しかし、戦災復興都市計画によって環状線建設が立案施行されることになった。第二次世界大戦直後と高度経済成長期の2度にわたって大阪市長を務めた中井光次は、海側の未成区間への新線敷設と港区・大正区における旅客駅の開設に尽力し、1953年に大阪環状線建設促進協議委員会が発足、1956年3月20日には大阪市内環状線として起工式が挙行された。それでもなお、安治川橋梁の架橋に対して反対運動があったため、1960年に開業予定が1年遅れることになった。大阪環状線という名称に決定したのは1961年4月3日で、1960年12月26日の国鉄関西支社が調査役会議で本社に上申したものである。 大阪環状線となったのは、西九条駅から大阪臨港線の今宮駅 - 浪速駅間に設けられた境川信号場までが開通した1961年である。なおこの時、西成線のうち西九条駅 - 桜島駅間が桜島線として分離され、大阪臨港線は起点を大正駅に変更され大阪環状線貨物支線として扱われるようになった。当初は西九条駅で線路がつながっていなかったため、桜島駅 - 大阪駅 - 京橋駅 - 天王寺駅 - 西九条駅の逆「の」の字運転を行っていたが、1964年に西九条駅の高架化が完成して線路がつながり、環状運転を開始した。 1973年に関西本線(1988年に大和路線の愛称がつく)の快速列車、1989年に阪和線・紀勢本線の特急、1990年に阪和線快速列車の大阪環状線直通運転が開始された。2012年現在では日中の3分の2が大和路線や阪和線直通列車(快速)であり、これらの運行形態は逆「の」の字運転である(大和路快速・関空快速・紀州路快速の各項も参照)。 なお、鉄道国有法の公布に伴い主要鉄道の国有化が実施されるまで、城東線は大阪鉄道 - 関西鉄道の保有路線であったが、南海電気鉄道の前身である南海鉄道の列車が、1993年に全廃された南海天王寺支線を経由してここに乗り入れ、大阪駅まで直通していたこともあった。 天王寺駅から内回り方向に記述する。 ( ) 内は起点からの営業キロ ( ) 内は大阪駅起点・環状線内回り経由の営業キロ
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3,101
青春映画
青春映画(せいしゅんえいが)は、若者特有の夢や挫折、友情や初恋、冒険と旅立ちを描いた映画のジャンルである。 ベストセラーになった文学作品を映画化したものも多い。このジャンルでは、往々にして1作で映画の新しいスターを生み出してきた。 スポーツ、悲恋、仲間との友情、試練とその克服などテーマはほとんどこのジャンルでは一定のものである。それを時代の流行などでアレンジし、繰り返し焼きなおしては製作されているが、いつの時代にもそれなりに共感と賛同を集められるのが、このジャンルである。 ただ、それぞれの作品は、その舞台となった時代の社会階級間の対立、家族や宗教、エスニック集団同士の間の抗争などを背景にして若者の恋愛の悲劇を描いたりすることが多い。古典的な作品としては、『ロミオとジュリエット』がある。この作品自体が何度も映画化されたばかりでなく、『ウエスト・サイド物語』を始めとする、時代・国などの設定を変えた多くの翻案作品を派生した。 1990年代頃からは、より多様な問題を扱うようになり、思春期の性、女子高生、いじめ、レイプ、おたく、アルコール依存症、薬物乱用、妊娠、中絶、貧困、殺人、精神障害、性的少数者など、それまで比較的タブーだった事案を直接的に表現する作品が増えている。
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3,102
ホラー映画
ホラー映画(ホラーえいが)または恐怖映画(きょうふえいが)は、映画のジャンルの一つ。観る者が恐怖感(英語でいうところのHorror、Fear、Terrorなど)を味わって楽しむことを想定して制作されているものを広く指す。また、ゾンビ、殺人鬼、幽霊、吸血鬼、悪魔、怪物、精神疾患、非行少年、性的逸脱など、観客に恐怖感を与えるためにホラー映画で用いられる素材や題材を含むものを(それが恐怖感を与えるためのものかにかかわらず)、ホラー映画とする場合もある。ホラー映画は日本、韓国、イタリア、タイなどで特に普及している。 ホラーの他に、ジャンルの名前がそのまま感情の名前でもあるものにサスペンス映画とスリラー映画があるが、これらはホラーと密接に関連している。あえて分けて呼ぶ場合は、ゾンビやオカルトなど超自然的要素を扱うものをホラー映画として狭義に括り、現実世界の殺人鬼や犯罪者を描くものをサスペンス映画、スリラー映画と呼ぶ場合も多いが、厳密な定義はない。 また、スプラッター映画は、典型的には血しぶきや惨殺死体などの直接的な描写(スラッシャーとも呼ばれる)によって定義されるジャンルだが、これも恐怖感を引き起こす手段として多用されるため、基本的にはホラーのサブジャンルと見なされる。サスペンスと同様、性行為などのエロティシズムなども内包されているものが多い。 また、サブジャンルとして、ホラーとは対照的な存在であるコメディをひとつの要素として取り入れたコメディ・ホラーや、祝祭日を題材としたホリデイ・ホラーなどが挙げられる。 映画黎明期の19世紀末より、ホラー作品の製作記録は多くある。1891年にエジソンが「キネトスコープ」を発明し、リュミエール兄弟がそれを改良した「シネマトグラフ」を発表した1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『メアリー女王の処刑』(『The Execution of Mary, Queen of Scots』あるいは『The Execution of Mary Stuart』)は世界初のホラー映画として名を挙げられる。ただし本作は14秒と非常に短いものであり、のぞき窓から映像を見てひとりで楽しむという、現代の「暗所で鑑賞する大衆娯楽」という映画のスタイルとはまるで異なるものであった。 後のホラー映画に大きな影響を与えた始祖的存在としては、1920年のドイツ映画『カリガリ博士』が知られている。1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』も著作権者の許可を得ない非公式作ながら、重要な映画と位置づけられている。 1925年のアメリカ映画『オペラの怪人』は、千の顔を持つ男と称された名優ロン・チェイニーが髑髏のような恐ろしいメイクでファントムを演じ、サイレントホラーの伝説的作品となった。ゴシック・ロマンスを題材とし、強力な個性を持った怪奇スターが看板となるホラー映画のスタイルを決定付けた。 トーキーの時代を迎えた1931年、アメリカのユニバーサル映画は『魔人ドラキュラ』と『フランケンシュタイン』を大ヒットさせ、ホラーのリーディングカンパニーとなった。1930年に早世したチェイニーに替わり、ドラキュラを演じたベラ・ルゴシと、フランケンシュタイン・モンスターを演じたボリス・カーロフが2大怪奇スターとなった。他社も追随し、吸血鬼、ミイラ、狼男ら怪物達や、エドガー・アラン・ポー作品、『ジキル博士とハイド氏』等を題材としたホラーの名作が多く作られた。 1940年代に入るとチェイニーの息子で『狼男』を代表作とするロン・チェイニー・ジュニアが怪奇スターとして台頭した。40年代半ばにはユニバーサル・ホラーは一作に複数の怪物が登場するエンターテインメント色の強い作品が主流となるが、結果としてこの路線はホラーの衰退を招いた。
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3,103
戦争映画
戦争映画(せんそうえいが)は、映画の一種で、歴史上の戦争を題材としたものを指す。 実際にあった戦闘を再現するアクションによる興奮を描くものが人気を集めてきた。近年は圧倒的多数がアメリカ製であり、アメリカが関係した20世紀以降の近代戦争が題材となっている。ほとんどの場合、扱われる戦争は過去に実際にあったものか、それに似せたものである。国家間の戦争ではなく内乱や民族紛争を扱った場合でも戦争映画と呼ばれることが多い。ただし、軍人または元軍人の主人公が単身、または少人数で架空の戦闘行為を行う場合は、アクション映画と呼ばれることが多いが、戦争映画との境界は曖昧である。また、未来の戦争を題材としたものはSF映画と呼ばれる。日本の近代以前の歴史上の戦争を題材とした場合は通常時代劇と呼ばれる。 戦闘以外の題材では、軍隊の訓練や内部抗争、戦争に至る政治的経緯や戦後の軍事裁判、戦場・占領地での様々な物語、戦争中の国内(銃後)の戦争への姿勢、戦後の国民の戦争への思いを題材としたものなどがあげられる。登場人物は、前線の兵士、戦場から離れた場所にいる将校や政府関係者、戦場となった土地に生きる市民などが登場することが多い。舞台には戦場が登場する場合が多い。 また、戦争映画はその性格上、軍や政府による政治宣伝、世論誘導、戦意高揚、プロパガンダの手段としても制作される。そのため、戦争映画を鑑賞する際には創られた時代背景や制作者、協力団体などを考慮せずに無批判にその内容を受け入れると、制作者の術中に嵌ることもある。 日本では第二次世界大戦後も多くの戦争映画を製作しており、いくつかは大変な人気を博した。内容は戦争に至る政府及び軍部の苦悩や、困難な作戦に臨む将兵を描いた作品、戦争を否定されるべきものとして捉えた作品など多岐にわたる。 中国でも多くの戦争映画が製作されており、2007年には南京事件を扱った映画が多数製作された。
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3,104
アクション映画
アクション映画(アクションえいが)とは、格闘・戦闘などで主人公が何らかの障壁を乗り越えようと行う物理的な活動を主な見せ場とした映画を指す。活劇。 映画作品は複数の要素が組み合わされているものであり、アクション映画を画一的に定義することは難しい。アクションは各ジャンルに存在しているものである。 アメリカ合衆国では西部劇や刑事ドラマ、イタリアではいわゆるマカロニ・ウェスタン、イギリスではスパイ・アクション、日本では時代劇(チャンバラ)、ヤクザ映画、B級アクション映画などを量産した歴史がある。 映画の分類としては西部劇・ヤクザ映画・時代劇・スパイ映画・ギャング映画・冒険映画などを含めたくくりでアクション映画とする見方もある。製作した国名や地名をつけた「香港アクション」といった呼び方もある。 ドラマとしての構造はアクション映画も他のドラマと変わる点はない。時代や場所が明確であり、導入部から解決部までのシークエンス(段落)で主人公とその内面に葛藤を引き起こす多くの環境(敵)の対比が説明され、最後のクライマックス(山場)で最終目標が達成される。正義感や職業的倫理観からなる主人公の行動原理は「現実離れしている」場合も多く、観客に分かりやすいキャラクターである。 このため設定や人間関係にテーマとしての味付けをする。前述の『アクション・ムービー究極大鑑』はアクション映画を「ポリス・アクション」「ミリタリー・アクション」「ライド・アクション」「エスケープ・アクション」「SF・アクション」「クライム・アクション」「カンフー・アクション」「アドベンチャー・アクション」「チャンバラ・アクション」「ガン・アクション」に分けている。 ポリス・アクションであれば法治国家や人権尊重の建前から犯罪者を充分取り締まることができず、警官としての職務を遂行したい主人公を阻む管理社会との対決(『ダーティー・ハリー』など)があげられる。また、クライム・アクションの場合は主人公が犯罪者の場合最後に死ぬか、生き延びても「観客の不当な抗議」が原因で未来に暗雲がたちこめる文字解説が後でつけられる(『ゲッタウェイ』)のが製作側の不文律として長く存在していた。男同士の友情(『さらば友よ』、『ストリートファイター』1975年)や大義への献身もアクションのテーマとして存在してきた。 シリーズが長期化するにつれてアクション要素が強くなり、本来のジャンルとはかけ離れた作品となっていくシリーズも多い。例として初代『エイリアン』はホラー要素の強いSF映画であったが、続編の『エイリアン2』ではホラー要素が排除されミリタリーSFアクション映画となり、「ワイルドスピードシリーズ」は当初は車やストリートレースが題材のカーアクション映画だったが現在では車やレース要素はほとんど排除されて一般的なアクション映画となっている。 1930年代から1960年代には西部劇が流行し、多数のヒット作が生まれた。 1960年代のアメリカンニューシネマの登場により勧善懲悪の娯楽作品は色あせたが、そのニューシネマが1970年代の半ばから1970年代末には終焉を迎え、『スター・ウォーズ』や『ロッキー』などといった娯楽映画が増加し、CG、SFX、VFXを導入したアクション映画を大規模な予算で製作するようになった。 西部劇が衰退した1970年代には、『ダーティハリー』シリーズや『フレンチ・コネクション』等のアクション要素のある刑事ドラマがヒットした。同時期にはブルース・リーによるカンフー映画もヒットしている。 1982年に『コナン・ザ・グレート』がヒットすると、「ソード&サンダル」映画が復活し、大剣を持った上半身裸の主人公が活躍するコナンのZ級亜流コピー映画が多数作られた。 1980年代の中盤に入ると、シルベスター・スタローンの『ランボー』、アーノルド・シュワルツェネッガーの『コマンドー』、チャック・ノリスの『地獄のヒーロー』等といった、「ワンマンアーミー」と呼ばれるスタイルの主人公が活躍するアクション映画が多数ヒットするようになった。こうしたワンマンアーミー映画の主人公は、ほとんどダメージを受けずに一人で大勢の敵を倒すなど、圧倒的な強さで描かれることが特徴として挙げられる。特に1985年の『ランボー/怒りの脱出』のヒットにより、ランボーのZ級亜流コピー映画が多数生まれた。 また、同時期には『48時間』『リーサルウェポン』シリーズなどのバディものの刑事ドラマも多数ヒットしている。 1988年のブルース・ウィリス主演の『ダイハード』が「劣勢の状況下に置かれた主人公が頭脳で挑んでいく」という要素を取り入れてヒットし、従来のワンマンアーミー映画とは違う新しいスタイルのアクション映画を生み出したとされる。 1990年代にはダイハードと同じフォーマットの『スピード』や『ザ・ロック』等もヒットしたが、いずれも肉体派のアクション俳優ではなくアクションのイメージが無かった一般俳優を起用していたため、従来型の肉体派アクション俳優とアクション映画は人気に陰りが見え始め、長い間下火となった。 1999年にCGとワイヤーを使用したキアヌ・リーブス主演の『マトリックス』が大ヒットして以降、CGの普及により大がかりなワイヤーアクションやグリーンバック合成によるスタントなど多様な表現のアクション映画が増加した。 現在ではCGの普及などでアクション映画出演へのハードルが下がったため、女優やアクション専門ではない一般俳優のアクション映画への出演が増加している。 現在では製作本数、配給規模、予算等からアクション映画の製作はアメリカが飛び抜けた存在だが、同国の映像産業における顕彰ではゴールデン・グローブ賞、エミー賞でコメディ部門が創設されている反面、アクション部門はない。しかし、プロのスタントマン、スタント団体に所属するメンバーによって投票される“Taurus World Stunt Awards(英語版)”といった賞はある。アメリカでは2016年にスタント・パーソン100名以上がビバリーヒルズの映画芸術科学アカデミー前で、アカデミー賞に「スタント・コーディネーター部門」を新たに加えるように訴えるデモを行い、すでに5万人の署名を集めたという報道があった。 一方、日本では映画だけではなくテレビドラマなども含んだ映像作品を対象とした、「ジャパンアクションアワード」というものもある。中国大陸では上海国際映画祭にて、ジャッキー・チェンの冠の付いた「成龍動作電影周之夜(ジャッキー・チェン・アクション映画ウィーク)」が創設され、アクション作品・俳優・アクション監督を表彰している。 アクション俳優のカテゴリを参照。
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3,107
ファイルシステム
ファイルシステム(英: file system、filesystem)は、コンピュータのリソースを操作するための、オペレーティングシステム (OS) が持つ機能の一つ。ファイルとは、主に補助記憶装置に格納されたデータを指すが、デバイスやプロセス、カーネル内の情報といったものもファイルとして提供するファイルシステムもある。 より正確に定義すれば、ファイルシステムは抽象データ型の集まりであり、ストレージ、階層構造、データの操作/アクセス/検索のために実装されたものである。ファイルシステムを特殊用途のデータベース管理システム (DBMS) と見なせるかどうかは議論があるが、ファイルシステムとデータベース管理システムには多くの共通点がある。 最も身近なファイルシステムは補助記憶装置上のもので、「セクタ」などと呼ばれる通常512バイトの固定サイズの「ブロック」の配列にアクセスするものである。ファイルシステムはこのセクタ群を使用してファイルやディレクトリを構成し、各セクタがどのファイルに使用され、使用されていないセクターはどれなのかを把握する必要がある。 しかし、ファイルシステム自体は記憶装置を利用する必要はない。ファイルシステムはデータへの操作とアクセスを提供するものであり、対象データが記憶装置に格納されているか (例えば、ネットワーク接続経由で) 動的に生成させるかは問題ではない。 ファイルシステムがストレージ上にあるかどうかに関わらず、一般的なファイルシステムはファイルのファイル名を束ねるディレクトリを持つ。通常、ファイル名は何らかのファイル・アロケーション・テーブルのインデックスと対応しており、それはMS-DOSのファイルシステムであるFATでも、Unix系ファイルシステムでのinodeでもそのようになっている。ディレクトリ構造は平坦な場合もあるし、ディレクトリの下にサブディレクトリのある階層構造の場合もある。いくつかのファイルシステムではファイル名も構造化されていて、拡張子やバージョン番号の文法が存在する。そうでない場合、ファイル名は単なる文字列であり、ファイル毎のメタデータは適当な場所に格納される。 階層型ファイルシステムはUNIXで有名なデニス・リッチーの初期の研究対象であった。それまでの実装では階層はあまり深くできなかった。例えばIBMの初期に生まれたデータベース管理システムであるIMSなどがそうである。UNIXの成功により、リッチーはその後のOS開発 (Plan 9やInferno) でもファイルシステムのコンセプトを様々な対象に広げていった。 初期のファイルシステムはファイルとディレクトリの生成、移動、削除といった機能を提供していた。ディレクトリへの追加リンクを生成する機能 (UNIXにおけるハードリンク)、親リンク (Unix系OSにおける..) の名称変更、ファイル間の双方向リンクの生成といった機能は当初は存在しなかった。 初期のファイルシステムはファイルの切捨て (内容を一部削除すること)、ファイルとファイルの連結、ファイルの生成、ファイルの移動、ファイルの削除、ファイルの更新などの機能を提供していた。ファイルの先頭へのデータ挿入 (prepend)、ファイルの先頭からの内容切捨て、任意の位置の内容の削除や挿入などといった機能は提供されていなかった。提供された操作は対称性に乏しく、どんな状況でも便利というものではない。例えばUNIXにおけるプロセス間のパイプはファイルシステム上には実装できない。というのもパイプはファイル先頭からの切捨てに対応できないためである。 ファイルシステムの基本操作への安全なアクセスはアクセス制御リストまたはケーパビリティに基づいて行われる。研究によれば、アクセス制御リストは完全なセキュリティを確保するのが困難といわれており、研究中の最新のOSではケーパビリティが使われる傾向にある。商用ファイルシステムはまだアクセス制御リストを使用している (コンピュータセキュリティ参照)。 また、アプリケーションソフトウェアの中にも、独自のファイルシステムを採用しているものがある。(FMRシリーズ・FM TOWNS用のワープロソフトウェアである「FM-OASYS」など) ファイルシステムはディスクファイルシステム、分散ファイルシステム、特殊用途のファイルシステムに分類できる。 「ディスクファイルシステム」は、直接的か間接的かに関わらずコンピュータシステムに接続された補助記憶装置、特にハードディスク上にファイルを格納するためのものである。ディスクファイルシステムとしては、FAT、NTFS、HFS、ext2、ext3、ext4、WAFL(英語版)、ISO 9660、ODS-5(英語版)、UDF、HPFS、JFS、UFS、VTOC、XFSなどがある。ディスクファイルシステムの一部はジャーナルファイルシステムまたはバージョニングファイルシステムでもある。 データベースに基づいたファイルシステムである。メインフレームにあったVSAMのように以前からあるものであり、何ら新しいコンセプトではない。通常のファイルシステムでは、設計の時点でその情報構造が決め打ちで決定されている、ファイルの型、内容、作者などといったメタデータの代わりに、各データベース毎に設定されるメタデータに基づいた管理するが、従来のファイルシステムをその上にマップすることもできる。操作はデータベース操作言語 (例えばSQL) で行われる。データベース管理システムが通常のファイルにアクセスしてデータベースを操作するのに比べオーバーヘッドの削減による性能向上などが期待される。BFS、GnomeVFS、HFS+、WinFSなどがある。 ファイル操作により引き起こされる、ディスク上のデータ構造を操作するイベントやトランザクションを、それ用に確保してある領域にまず記録してから行うものである。多くの場合データ構造の操作は相互に関連しているため、「どれも全く行われていない」か「全て成功裏に完了した」のどちらかでなければ、壊れた状態ということになってしまう。例として銀行から銀行へ電子送金する場合を考えてみよう。銀行のコンピュータは、もう一方の銀行へ転送命令を「送信」し、自身の記録として転送開始したことを保持しておく。もし、コンピュータが記録を更新する前に何らかの原因でクラッシュしてしまった場合、転送したという記録が残っていないし、お金だけが失われる。トランザクションシステムは、このような間違いを、事前の記録と照合することにより検出して、切り戻すか再実行し、健全な状態を保とうとするシステムである。各トランザクションは記録され、どこで何をしたのかという完全な記録を残す。この種のファイルシステムはフォールトトレラント設計であることを意図して設計されているため、オーバーヘッドが大きくなる。 ネットワークに対応したOSの多くが、ファイル共有のためのプロトコルを備えている。これを分散ファイルシステムと呼ぶ。 Windowsで標準的なSMB/CIFS、あるいはMacintoshのAFP、UNIXのNFSなどが有名である。 こういったネットワークファイルシステムは、共有元のファイルシステムを抽象化した、別の一種のファイルシステムとして扱われる。 個々のOSが標準とするNTFS、UFS、HFS+、ext3、HPFS、BFSなどの差異も、Sambaなどを使ったファイル共有では実用上の問題はほとんど無くなる。ただし、ファイル名制限自体は存在し、また拡張属性等が利用できないなどの問題はあり得る。 なお、WindowsやmacOSを対象にしたNAS装置でも、内部のハードディスクドライブ (HDD) ではReiserFSやXFSなどが使われている場合が少なくない。 特殊用途のファイルシステムとは、ディスクファイルシステムでも分散ファイルシステムでもないものを意味する。ソフトウェアが動的にファイルを用意するようなシステムがこれに当たる。用途としてはプロセス間の通信のためだったり、一時的なファイル空間のためだったりする。 特殊用途のファイルシステムはUNIXのようなファイル中心のOSで主に使用されている。例えば一部のUNIX系システムで使用されている procfs (/proc) ファイルシステムは、プロセスや他のOS機能の情報へのアクセスを提供している。 ボイジャー計画などの深宇宙探査機ではデジタルテープに基づいた特殊なファイルシステムが使われた。最近の探査機カッシーニはリアルタイムオペレーティングシステム (RTOS) のファイルシステム (あるいはRTOSに影響されたファイルシステム) を使用している。マーズ・パスファインダーのローバーもそのようなRTOSファイルシステムを使用しているが、これらはフラッシュメモリに実装されている点が重要である。 ほとんどのオペレーティングシステム (OS) はファイルシステムを提供しており、ファイルシステムは最近のOSの重要な部分となっている。初期のマイクロコンピュータのOSではファイル管理がほとんど唯一の仕事であり、「DOS」というその名前にも現われている。初期のOSにはディスクオペレーティングシステムと呼ばれるファイルシステム相当の部分が存在していた。マイクロコンピュータによっては、その部分だけをロードして使用することができた。初期のOSでは、唯一の名前のないファイルシステムがサポートされていた。例えば、CP/Mにも独自のファイルシステムがあるが、改めて名前を付けるほどの機能は持っていない。 一般に、OSはファイルシステムに関する次の2種類のインタフェースを提供する。1種類目はプログラムのためにカーネルが提供するシステムコール群であり、2種類目はユーザによるファイル操作のための、コマンド群やグラフィカルユーザインタフェースによるツール (いわゆるファイルマネージャ等) などである。真に重要なのは前者である。なぜなら後者はOSによって提供される以外のプログラムを使っても何ら問題ないからである。しかし後者だけがインタフェースの全てであるかのように思われていることもまた、多いようである。 組み込み用途向けや、特定用途向けのOSでは、ファイルシステムをサポートしていなかったり、ファイルシステムをサポートしていても、実際の利用時にファイルシステムを使用しないこともある。このようなケースでは、コンピュータは外部記憶装置を持っていないか、持っていてもOSからは単なるデータストリームとして認識し、直接アドレスを指定することでアクセスされる。このように、ファイルシステムはコンピュータやOSにとって必須の機能ではない。 平坦なファイルシステムでは、ディレクトリが存在せず、ハードディスクドライブ (HDD) であれフロッピーディスクであれ、全てが唯一の階層に格納される。単純なシステムだが、ファイルの数が増えるにつれてユーザーがデータを分類して管理することが非常に困難となり、非能率的になった。 他の初期の小規模システムと同様、Mac OSは当初、平坦なファイルシステム、Macintosh File System(英語版) (MFS) を採用していた。そのバージョンのMac OSでは、Finderがあたかも階層があるかのようにファイルシステムを見せかけていた。MFSは即座に本当のディレクトリをサポートしたHierarchical File Systemに置き換えられた。 UNIXとUnix系OSは、各デバイスにデバイス名を設定するが、デバイス上のファイルにそれを使ってアクセスするわけではない。UNIXは仮想ファイルシステムを生成し、全てのデバイス上の全てのファイルがひとつの階層構造内にあるように見せかける。従って、UNIXにはひとつのルートディレクトリがあり、全てのファイルはその下のどこかに配置されるのである。さらにUNIXのルートディレクトリは物理的にデバイス上に存在している必要がない。それはそのシステムの1台目のディスクにあるとは限らず、そのシステム内にあるとも限らない。UNIXではルートディレクトリをネットワーク経由で共有することができる。 別のデバイス上のファイルにアクセスするため、最初にOSにそのデバイスのファイル群をディレクトリツリー上のどこに置くか (見せるか) を指示しなければならない。この処理をファイルシステムのマウント (英: mount) と呼ぶ。例えば、CD-ROM内のファイルにアクセスするには、OSに対して「このCD-ROMのファイルシステムを、このディレクトリの下にツリーとして見せろ」と指示しなければならない。このときに指定するディレクトリを「マウントポイント」と呼ぶ。Unix系システムには/mediaや/mntディレクトリがあることが多く、フロッピーディスクやCDといった媒体を一時的にマウントするのに使われる。マウントされるデバイスは何も格納されていないこともあるし、サブディレクトリがあるかもしれない。一般に、システムアドミニストレータ (すなわちスーパーユーザー)だけがファイルシステムのマウントを行うことができる。 Unix系OSにはマウント処理のためのソフトウェアやツールがあり、新たな機能も提供されている。そのひとつとして「自動マウント (英: auto-mount)」がある。 多くの場合、ルート以外のファイルシステムもブート直後からOSにとって必要とされる。全てのUnix系システムはブート時にファイルシステムをマウントする機能を提供している。システムアドミニストレータは、それらのファイルシステムをfstab(英語版)ファイルに定義しておく。fstabにはオプションやマウントポイントが記述される。 場合によっては、後で必要とされるとしてもブート時にファイルシステムをマウントする必要がないこともある。Unix系システムには要求されたときに初めてファイルシステムを自動的にマウントする機能もある。 可搬記憶媒体は非常に一般化してきた。可搬媒体は物理的に接続されていないコンピュータ間でプログラムやデータを転送することを可能とする。最も一般的なものとしてCD-ROMとDVDがある。それらが機器に挿入されたことを自動的に検知し、その中身がファイルシステムとして使用可能であることをチェックし、自動的にマウントするユーティリティも開発されてきた。 最新のUnix系システムでは「スーパーマウント (英: supermount)」と呼ばれる機能が登場している。実例としてthe Linux supermount-ng projectを参照されたい。例えば、スーパーマウントされたフロッピーディスクはシステムから物理的に取り去ることができる。通常、補助記憶装置は内容の同期を取る必要があり、その後にアンマウント (unmount) 処理をしてから取り去らなければならない。これに対して、スーパーマウントではアンマウントする必要が無く、続いて次の媒体を挿入することができる。システムは自動的にそれを検知しマウントポイント以下の内容を新たな媒体のものに変更する。 同様の機能として一部ユーザーが好んで使うのはautofsである。このシステムはスーパーマウントに似ていて、マウントコマンドを手で入力する必要がない。異なるのは、分散ファイルシステムなどを経由して使用する際の互換性に優れていて、媒体の挿入を検知するのではなく、アプリケーションがそのファイルシステムの中身にアクセスしようとしたときにマウントするようになっている点である。従って、ネットワークサーバなどで使われている。 Unix系OSではMS-DOS系のOSとは違い、仮想メモリのためのHDD利用に、仮想メモリファイルのほかにスワップファイルシステムも利用する。 MS-DOS系OSでは、HDDのパーティション内 (OSからドライブとして認識されるFATやNTFSのファイルシステム内) に、スワップ用の隠しシステムファイルを作成する。 Unix系OSでは、たとえばLinuxではスワップ用パーティションを用意し、mkswap、swaponコマンドで利用可能とする。 FreeBSDなどの場合は、BIOSから扱われるパーティションをスライスと呼称し、その中にさらに独自に管理する複数のパーティションとしてスワップファイルシステムを構築する。 macOSのファイルシステムはClassic Mac OSから継承したHFSX (HFS+) である。HFSXはメタデータが豊富で大文字/小文字保護をするファイルシステムである。macOSはPOSIXに準拠しているが、HFSXにもPOSIX ACL準拠のパーミッション情報が追加されている。HFSXにはジャーナルが追加されてファイルシステム構造の破損を防ぐようになり、自動的にフラグメント化したファイルを正規ブロックにするなどのアロケーション機能の最適化もいくつか導入されている。 ファイル名は最大255文字である。HFS+はファイル名の格納に独自のルールで正規分解したUnicodeを使用している。macOSではファイルフォーマットはファイル名のタイプコードや拡張子等から総合的に判断している。Mac OS X v10.5からはUTIを用いてより柔軟にフォーマットを判断する。 POSIX系のファイルシステムとは異なり、ファイルをディレクトリの相対位置でアクセスするため、理論上パス長に制限がない。ただ、基盤となるDarwinがUNIX互換を保つため、システムの多くの部分で1024文字を限界としている。Carbonを経由し、HFSXを直接アクセスする場合はこの限りではない。 HFSXには3種類のリンクがある。ハードリンクとシンボリックリンクとエイリアス(英語版)である。エイリアスはリンク先のファイルが移動されたり改名されたりしてもリンクし続けるようになっている。 Plan 9 from Bell Labs (Plan 9) はUNIXの長所を拡張して新たなアイデアを導入し、UNIXの欠点を修正したものとして計画された。 ファイルシステムの観点から言えば、UNIX的に何でもファイルとして扱うという思想は変わっていないが、Plan 9では本当に「すべて」がファイルとして扱われ、アクセスされる (つまりioctlもmmapもない)。ファイルインターフェイスを汎用化すると同時にそれを大幅に単純化している。例えば、シンボリックリンクもハードリンクもsuidも古い機能とされ (obsolete)、アトミックなcreate/open操作が導入された。重要な点はファイル操作がうまく定義されているためにioctlなどを排除できたことである。 また、9Pプロトコルによってローカルとリモートのファイルの違いが無くなっている (時間的な遅延だけは残っている)。このため、ネットワーク経由で別のコンピュータシステム上のデバイス (これもファイルとして表される) をローカルにあるデバイスと全く同じように操作することが可能となっている。従ってPlan 9の元では、複数のファイルサーバをひとつのファイルシステムに見せることができる。この「合成」ファイルシステムのサーバ群は、システムの単純さを保ちながらマイクロカーネルの利点を生かしてユーザー空間で動作することもできる。 Plan 9では全てのものがファイルとして抽象化されている。ネットワーク、グラフィックス、認証、暗号化など様々なサービスをファイル識別子経由の入出力で扱える。例えば、NATなしでIPスタックのゲートウェイシステムを構築したり、追加コードなしでネットワーク透過なウィンドウシステムを提供したりできる。 Plan 9のアプリケーションはFTPサイトからFTPサービスを受けることもできる。ftpfsサーバによってリモートのFTPサイトをローカルのファイルシステムにマウントすることができ、普通のファイルシステムとして扱えるのである。仮想的なファイルやディレクトリを合成するファイルサーバで /mail/fs/mbox をユーザーのメールボックスとするような電子メールシステムもある。wikifsはwikiへのファイルシステムインターフェイスを提供する。 これらのファイルシステムは、プロセス毎のプライベートな名前空間によって構成される。そのため、各プロセスは分散システムに存在する数々のファイルシステムを固有の観点で見ることができる。 Infernoは、これらの概念をPlan 9から受け継いでいる。 Windowsは、CP/M、次いでMS-DOSを継承して開発されており、MS-DOSのファイルシステムであったFATはWindowsでも用いられている。FATファイルシステムの古い版では、ファイル名に強い制限があり、FATでフォーマットできるディスクやパーティションのサイズにも強い制限があった。 MS-DOSがUnix的なファイル管理を導入した事から、以降のマイクロソフト製OSでは同様の方針が継承されている。 また、IBMとマイクロソフトで共同開発していたOS/2には、FATに加え、FATの欠点を補ったHPFSというファイルシステムが用意された。Windows NTでも、NT 4.0までHPFSをサポートした。 Windows NTにはその後、OS/2のHPFSをより進化させたNTFSが用意された。その結果、Windowsでは FATとNTFSという2種類のファイルシステムが存在することとなった。 WindowsはGUIを通してユーザーと対話するため、ディレクトリを「フォルダの一種」として扱い、フォルダアイコンでグラフィカルに表示している。 NTFSはACLベースのパーミッション制御を可能とした。ハードリンク、代替データストリーム、属性索引、クオータ管理、圧縮、ファイルシステム間のマウントポイント (ジャンクションと呼ばれる)、不良セクタの動的ホットフィックスなどがサポートされている。ただし、一部の仕様は未公開である。 Windowsでは、UNIX系のファイルシステムとは異なり、「ドライブレター」によってディスクやパーティションをユーザーに見せている。例えば C:\WINDOWS\ というパスはCドライブにある WINDOWS ディレクトリを意味している。 Cドライブは1台目のハードディスクパーティションを表すものとして使われることが多く、そこにブート時に起動されるWindowsが格納される。この「伝統」は非常に堅固に植えつけられているため、一時期のWindowsには必ずCドライブにインストールされるという仕様が存在することもあった。これは、MS-DOSから受け継がれた伝統で、AとBがフロッピーディスクドライブ用に予約されていたために Cドライブ以降がハードディスクとなったものである。ネットワークドライブにも同様のドライブ文字がマップされる。ただし、PC-9800シリーズおよびその互換機では、HDD上のWindowsをOSとして起動したときAドライブがHDDに割り当てられた。 Windows NT系OSでは、NTエグゼクティブレベルではドライブレターそのものは実体として存在しなくなった。従前のドライブレターは例えばC:ならば、デバイスオブジェクト\??\C:から\Device\HarddiskVolume1などのボリュームデバイスオブジェクトへのシンボリックリンクで、従来のWindowsと互換性を持たせている。Windows NT系でも見かけ上ドライブレターに縛られていると誤解される場合があるが、例えばボリュームにドライブレターを与えず、ジャンクションによって特定のディレクトリにボリュームを割り当てた場合、ドライブレターを介する事なくボリュームにアクセスできるといった形でNT系ではドライブレターが必須の要素で無くなった事を知ることが出来る。ただし、Win32サブシステムの制約により、Win32アプリはNTエグゼクティブレベルのディレクトリを起点にパス名を指定する事はできない。例えば、Win32サブシステムの制約を受けないInterixサブシステムでは可能。また、WAIK (Automated Installation Kit) を利用する事でC:\以外にもインストールする事も可能。 パーソナルコンピュータ (パソコン) ではハイバネーションという機能が使える場合がある。この機能を使うとメモリー内容をHDD等に保存して電源を落とし、再度電源投入した際に速やかに作業を再開できる。この為にはハイバネーションファイルを利用するものと、ハイバネーション用パーティションを作成するものが存在する。 ハイバネーション用パーティションを作成する場合は、特殊なファイルシステムとも考えられるが、実際には単にメモリーをベタ複製しているだけとも言える。 市販パソコンでは、リカバリー領域と呼ばれる隠しパーティションをもつものがある。 リカバリー領域のファイルシステムについての情報は通常、公開されていない。リカバリー領域をもつパソコンは実質すべてがWindows付属のため、Windows用のNTFSやFAT32等でフォーマットされていると推測される。 これについては、Files-11で解説する。 これについては、MVSファイルシステムで解説する。 IBM PC/ATやPC-9800シリーズ等ではHDDのパーティションごとの利用目的を判別しやすくするため、パーティションごとに番号を与えている。 この番号により、OSの起動時の、利用すべきパーティションの自動判別が速やかに行なわれる。 ただし、正常な設定が行なわれていない場合も考えて、実際のファイルシステム状況を分析して認識する処理が一般的。 具体的には、HPFSと同じパーティション番号を引き継いで開発されたNTFSのような計画上の問題もあった。 また、開発組織がまったく違うために、Linux用のスワップファイルシステムとサン・マイクロシステムズのSolarisのファイルシステムが同じ番号を持ってしまったような例もある。 こういった状況では、誤った認識でデータ破壊が起きる可能性がある。
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3,108
ギャング映画
ギャング映画(ギャングえいが、英語:gangster film)は戦前から戦後にかけて暗躍した、アメリカやヨーロッパのギャングやマフィアを描いた犯罪映画である。 日本のヤクザや暴力団を描いた作品はヤクザ映画と呼ばれる。 ギャングが登場した映画の歴史は古く、1912年にはD・W・グリフィスの「ピッグ横丁のならず者(英語版)」、1915年にラオール・ウォルシュの「Regeneration」が早くも撮影、上映されている。1930年代には、ジェームズ・キャグニー、エドワード・G・ロビンソンなどを主役にしたギャング映画がハリウッドで多く作られた。
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3,109
交換・相関項
交換・相関項(こうかん・そうかんこう Exchange-correlation term)は、バンド計算において、電子の交換相互作用、および、電子の相関を担う部分。
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3,110
時代劇
時代劇(じだいげき)は、日本の演劇や映画・テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である。 時代劇というジャンルは、その作品の数から、主に平安時代から明治維新までを扱った作品が「時代劇」とも解釈されている。しかしあくまで解釈であって、厳密に定義があるわけではない。奈良時代以前の古代も含まれるという解釈も存在する。キネマ旬報社2012年発行の『現代映画用語事典』では「明治維新以前の時代を扱う日本映画で、特に戦国時代から江戸末期までを題材とした剣戟映画(チャンバラを含む映画)が時代劇映画の主軸として捉えられ、一般に"時代劇"とのみ称される」と説明され、日本図書センター2008年発行の『世界映画大事典』では「明治維新の頃より以前の時代を扱った劇映画の呼称で、現代劇に対するジャンルとして多様な広がりを持っている」と書かれており、また「髷(マゲ)を結んだ人物が主な登場人物であれば全て時代劇映画と定義する」とするもの、など解釈は多様である。英米では「period drama」もしくは「costume drama」と訳されたが、近年はそのまま「Jidaigeki」と呼ぶ例も増えている。時代劇で数多く製作されているのは、江戸時代を舞台にした作品である。 時代劇は一方でチャンバラとも呼ばれる。これはクライマックスに剣戟シーンがある時代劇を指し、時代劇の中のサブジャンルでもあり、時代劇が即チャンバラではない。語源は新国劇からの剣劇の影響を受けた剣戟映画で、立ち回り(殺陣)で両者の刀がぶつかった時に、刀の発する音を擬音で「ちゃんちゃんばらばら」と表現したことからそれを略して使われた言葉である。 またこれとは別に時代劇は俗に髷物(まげもの)、丁髷物(ちょんまげもの)とも言われ、英語では「Samurai cinema」「Samurai film」あるいは「Samurai drama」と表記されている。 時代劇に対して「歴史劇(史劇)」というものも存在するが、フィクションに近いかノンフィクションに近いかで区別する時代小説と歴史小説とは違い、日本国内のものを「時代劇」、日本以外のものを「歴史劇」或いは「史劇」と呼び分けている。 時代劇は、実際にあった歴史上の事件や歴史に残る人物を登場させることも多いが、登場する人物像を始め、その時代の慣習、風俗、効果音、台詞などが大胆にフィクション化され、その時代劇が制作された年代の大衆に受け入れやすいようになっている。 一般論として、時代劇で描かれる歴史はあくまでフィクションであり、同じ題材を扱っていても全く解釈の異なる作品が生み出されている。 「時代劇」という用語はもともと活動写真から誕生した言葉であり、映画の歴史と共に歩んできたジャンルである。そして映画が活動写真と呼ばれていた最初の頃には、厳密に時代劇と呼ばれるジャンルは無かった。 1899年(明治32年)に当時の歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の「紅葉狩」の演目を撮影した「紅葉狩」が現存する日本最古の映画として一部フィルムが残っているが、これは映画興行を目的としたものではなく、あくまで記録として残されたものである。そして映画興行の目的で撮影された最初の時代劇映画は1908年(明治41年)に牧野省三(後のマキノ省三)が製作した『本能寺合戦』をもって嚆矢とするものである。ただしこの初の時代劇は、当時は旧劇と呼ばれていた。 明治から大正時代の半ば過ぎまでの時代物全般は旧劇であった。講談・歌舞伎からの題材が多く、人物造形・衣装・化粧・演技・立ち回り・女形など、舞台の名残を強く留め、声色弁士と邦楽器による鳴り物・囃子の伴奏が多かったと言われる。 1920年代に入った頃に当時「映画劇」と呼ばれる日本映画の革新運動が起こり、欧米を模範にシナリオの重視、映画技法の活用と表現の工夫、弁士に依存しない字幕の利用、そして女優の採用などこの時期までの活動写真とは違う、撮影や編集までの映画全般に及ぶ内容の新しさを求めた運動が起こった。それに刺激を受けた形で、旧劇映画についても「旧劇の映画劇化」「旧劇映画改造論」「映画劇的な旧劇」といった言葉が活動写真の論評に使われていた。 『本能寺合戦』以降に映画の題名と共に宣伝に使われた呼称を列挙すると、旧劇、革新旧派映画、純映画劇、新映画劇、旧派純映画劇、新時代劇および新時代映画、時代劇および時代映画となる。革新旧派映画は旧劇様式ではあるがロケ撮影を生かした自然描写、細かいカット割りがあり、しかし女形を採用していた。映画劇は欧米風の映画様式に近づけたもので、脚本と撮影技法を重視し字幕を使い、そして女優を採用した。純映画劇も新映画劇も同じで、マキノ省三監督の『実録忠臣蔵』は新映画劇と呼ばれたが女形の採用は残っていた。旧劇をいくらかでも映画劇に近づけたものだが、女優を採用したのは旧派純映画劇であった。そして旧劇の映画劇化をさらに進めたのが新時代劇および新時代映画と呼ばれたもので、新しい解釈、新しい視点を入れて、演技も新劇系を導入し、女優を採用している。 旧劇映画の芝居臭さ、荒唐無稽の非現実性、女優不在の不自然さに対して、やがてそれらに対して作られていったのが「新時代劇」という呼称の新しい時代劇であった。 初めて時代劇と呼ばれた映画は、『本能寺合戦』から14年後の1922年(大正11年)に松竹蒲田撮影所で製作された『清水の次郎長』の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていたことから、この映画が「時代劇」と称する映画の始まりであるとされている。監督は野村芳亭(野村芳太郎監督の父)でこの映画の脚本を書いた伊藤大輔がそれまで「旧劇」と呼称されていた髷物映画を、宣伝に「新時代劇」と名付けて公開した。ゆえに「時代劇という呼称は松竹蒲田撮影所で製作された映画に冠されたものである」、とされている。 ただ岩本憲児は著書『「時代映画」の誕生』の中で、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて松竹キネマが「新時代劇」「新時代映画」と呼び、同時期のマキノ映画は「時代劇」「時代映画」と呼んでいたとして混在していたとしている。そして簡略化して「時代劇」が定着していったという。 歌舞伎の分野では、江戸時代よりも過去の時代を扱った演目を「時代物」(武士・貴族や僧侶など上層社会を題材としたもの)と呼び、江戸時代当時の現代劇を「世話物」と呼んでいた。そして鶴屋南北らの「生世話」は庶民の暮らしを描いた江戸時代のものであるが、江戸時代の武士などの上層社会を題材とすることは不可能であったので、過去の時代に遡って武士・貴族・僧侶を描いて当代の現実を投影させていた。また過去の時代の庶民の姿を題材としたものを「時代世話」とも呼んでいた。もともと「時代物」という呼称は人形浄瑠璃から始まって歌舞伎へ移り、そこでの「時代」は江戸時代以前の奈良・平安・鎌倉・室町時代など7世紀から15世紀までが時代背景となっていた。そして実は江戸時代の世相や世論が強く反映されて、人物造形も同時代的であり、故に今日でも時代劇は現代劇の裏返しという一面が大きい。 明治維新以降の日本の演劇は、1888年(明治21年)、自由党の壮士角藤定憲らが大阪で創始、川上音二郎らが発展させた壮士芝居を、1890年代後半(明治30年代)の日本のジャーナリズムが、歌舞伎との差別化を図るため、便宜的に歌舞伎を「旧派劇」、壮士芝居を「新派劇」と呼び、さらに、1906年(明治39年)に坪内逍遥・島村抱月らの文芸協会、1909年(明治42年)に小山内薫・二代目市川左團次らの自由劇場のヨーロッパ近代劇の影響下にある演劇を、歌舞伎(旧派)、新派との差別化を図り、「新劇」と名乗った。 そして坪内逍遥の門下生で新劇出身であった澤田正二郎が1917年(大正6年)に劇団「新国劇」を結成し、歌舞伎から導入した「剣劇」を発展させて、旧派でも新派でも新劇でもない大衆演劇を目指し人気を博した。新国劇の主な演目である『月形半平太』と『国定忠治』は、好まれて映画化された。 このようにして、現在の「時代劇」と「現代劇」の二分法は、江戸時代の「時代物」と「世話物」を源流にもち、明治時代に演劇の発展とともに「旧劇」「新劇」とされ、大正時代に活動写真から「時代劇」「現代劇」と呼ばれたもので、このジャンルは、「明治維新以前の時代」を扱ったものである。ただしこの「時代劇」という呼び方は映画が発祥であり、そもそも多くの影響を受けていた歌舞伎では使われていない。そして新国劇や大衆演劇の世界でも芝居やチャンバラ劇という言葉が使われており、「時代劇」の歴史は主に映画とテレビの中で歩んだことになる。 最初の時代劇は、前述の通り1908年(明治41年)に牧野省三(マキノ省三)が撮った京都の横田商会での当時「旧劇」と呼ばれた『本能寺合戦』である。この当時、横田商会を設立した横田永之助が活動写真の製作に当たり、演劇関係者に協力を求めて京都西陣にあった千本座という芝居小屋を経営するマキノ省三に協力を依頼し、マキノが真如堂の境内で千本座の舞台で常打ち一座が演じていた狂言「本能寺合戦」の「森蘭丸奮戦の場」を野外で演じさせ、それをワンシーンワンカットで撮影する方法で作った活動写真が『本能寺合戦』であった。マキノ省三は以後『本能寺合戦』を含めて6本ほど映画を作っているが興行成績は芳しいものでなく、ほどなくして映画から撤退を考え始めていたが、その翌年1909年(明治36年)に千本座座頭になっていた尾上松之助を主演にした映画が人気を呼んで、それ以降マキノ省三と尾上松之助は明治末から大正末まで時代劇映画の主流を歩むことになった。 このように時代劇は歌舞伎の模倣から始まったものである。この時代の活動写真はズームの技法もなく、旧派・旧劇と呼ばれた歌舞伎の演目芝居をそのまま屋外で撮ったフィルムを小屋で見せる、というのが上映形態であり、「檜舞台で芝居をする」歌舞伎役者は、活動写真の役者を「土の上で芝居をする連中」として「泥芝居」と蔑んだのであった。ただし時代劇が歌舞伎の模倣から始まったのは事実だが、ここでいう歌舞伎とは「大歌舞伎」だけでなく、旅回り一座の劇や小さな小屋で上演される劇も明治期までは全て歌舞伎であった。映画評論家の佐藤忠男は「京都で時代劇を作り始めていたのは、主に二流級の歌舞伎の人々であった」と述べている。 時代劇映画の最初のスターは、尾上松之助である。1909年(明治42年)にマキノ省三と組んで『碁盤忠信 源氏礎』で映画デビューを果たし、以後1926年(大正15年)の『侠骨三日月』まで17年間で1003本の時代劇映画に出演した。「目玉の松ちゃん」と愛称された彼は、歌舞伎や講談、立川文庫のヒーローを繰り返し演じて日活の看板スターとして活躍した。特に特撮の先駆けであるトリック撮影による「忍術映画」が十八番であり、それは歌舞伎から題材を取り、「子ども相手の荒唐無稽なもの」ではあったが、17年間にわたって時代劇の歴史に足跡を刻み、尾上松之助は映画を広く一般の人に広めるうえで大きく貢献した。しかし大正時代の末になると観客は松之助の殺陣に飽き、よりスピーディーでリアル、激しい調子を持った殺陣を求めるようになっていった。またこれとは別にほぼ同時期に澤村四郎五郎 が吉野二郎監督らの忍術映画で人気を呼び、200本を超す映画に出演している。 1912年(大正元年)にそれまでの横田商会、福宝堂、M・パテー商会、吉沢商会の4つの映画会社が合同して「日本活動写真(株)」(日活)が誕生した。日本で初めての本格的な映画会社であった。日活は東京向島と京都二条城に撮影所を設け、向島では新派を、京都二条では旧劇を製作することとなった。そしてマキノ省三と尾上松之助は日活に所属した。これとは別に1914年(大正3年)に「天然色活動写真(株)」(天活)が設立されて吉野二郎と澤村四郎五郎らが所属した。 そして1920年(大正9年)頃までは旧派であった歌舞伎の影響下にあり、女性の役柄は女形が演じていて、後に時代劇の監督になった衣笠貞之助はこの時期は日活向島撮影所の女形であった。 その一方で帰山教正が1919年(大正8年)に新劇を映画に導入した現代劇である『生の輝き』、『深山の乙女』を発表し、その翌年1920年(大正9年)にそれまで歌舞伎の興行しか手掛けてこなかった松竹が松竹キネマを興し、新劇の小山内薫が、同年松竹キネマに招かれて活動写真を撮り始めると、松竹は初めから女形を使わず、女優を映画に起用した。その中から川田芳子、柳さく子、飯塚敏子らが松竹時代劇のスターとなった。 この頃に松竹が映画事業に乗り出したのは、自社が経営する劇場よりも松竹が当時日活に貸していた大阪道頓堀朝日座での客の入りが良く、白井竹次郎が映画に乗り出すべきとの提唱から大谷竹次郎が末弟の信太郎を渡米させ、アメリカの映画事業を調査させてから参入したのであるが、大谷竹次郎はその時に「日本映画の俳優は一流の舞台では用いられない落伍者の集まりであり、このままでは世界の映画界に肩を並べることはできない」として「世界に恥ずかしくないものを作り、映画を輸出する」ことを視野に置いていた。そのためには女形は最初から使わないと決めていた。また旧劇については日活の尾上松之助の歌舞伎的な殺陣に対して新国劇を専属にしてリアリズムな殺陣を打ち立てようとしていた。 1922年(大正11年)頃までは日活は現代劇でも新派の影響で女形を起用していたが、その年の暮れに女形を交えた新派役者十数人が国際活映(国活)に移籍したため、それまでの女形起用を止めて女優を起用し、新劇的な現代劇を製作し始める。その時に日活における名称が、時代劇は「日活旧劇部」、現代劇が「日活新劇部」であった。その当時は東京でも、巣鴨の国際活映(国活)等で時代劇映画は盛んに製作されていたが、新劇の発展と映画への導入が東京主導で行なわれ、やがて国活が倒産し、人材が京都に流出したことでその後の「時代劇の京都」と「現代劇の東京」との棲み分けの源流となった。またマキノ省三は尾上松之助の映画で女形を使って、女優は使っていなかったが、日活は1924年(大正13年)に尾上松之助主演『渡し守と武士』で初めて女優を使っている。 日活向島撮影所でも1923年(大正12年)に松竹に刺激され女優の採用を始めて「第三部」というセクションを設け、女優起用の映画を製作した。この年の現代劇『朝日さす前』がその第一作で、後に日活時代劇の大スター酒井米子を輩出している。同年9月、東京を関東大震災が襲い、日活向島撮影所は閉鎖される。女優やスタッフは日活京都に移り、以後、京都が時代劇映画の本場となった。 マキノ省三が1921年(大正10年)に日活から独立し、牧野教育映画製作所を設立した。これはマキノ省三が尾上松之助や旧劇と袂を分かつことでもあった。当時忍術映画で尾上松之助が人気役者になった一方、青少年に悪影響を与えているという批判があり、それを教育映画ということでかわす狙いがあったとも、単純な勧善懲悪で「幼稚なチャンバラ映画」であった松之助映画を脱却する方向を模索していたとも言われている。そして1922年(大正11年)に『実録忠臣蔵』を製作して新国劇が生んだ新しい殺陣である写実的な立ち回りを使った当時としては斬新な動きの映画を作った。この映画を見て寿々喜多呂九平がマキノの下に参じ、やがて1925年(大正14年)にこの寿々喜多呂九平が脚本、二川文太郎が監督、阪東妻三郎が主演して製作されたのが『雄呂血』であった。ラストでの主人公が大勢の捕り方に囲まれて大剣戟シーンとなる場面は迫力のあるもので、阪妻の激しい立ち回りが、それまでの歌舞伎調の優雅さとは全く違うリアルな殺陣を見せて時代劇映画に新風を吹き込んだ。以後彼は剣戟映画の大スターとなった。新国劇で展開された立ち回りが映画の殺陣に取り込まれて、それまで旧劇と呼ばれていたものが時代劇と呼ばれる新しいジャンルになったのである。 この頃にマキノ省三は1924年(大正13年)に東亜キネマと合併して翌1925年(大正14年)に聯合映画芸術家協会を設立し、そして同年6月にマキノ・プロダクションを設立した。ここでマキノは、阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介らのスターを生み出した。彼らは時代劇に「剣戟」の見せ場を持ち込んだ「チャンバラスター」であり、以後「チャンバラ映画」は時代劇の主流を占めるようになった。またマキノが去った後の日活に新劇の小山内薫の門下でもあった伊藤大輔監督と第二新国劇から日活に来た大河内傅次郎主演のコンビが登場し、このコンビで『幕末剣史 長恨』『忠次旅日記』『下郎』『新版大岡政談』と次々と傑作を生み出し、そして『丹下左膳』シリーズが始まりヒットした。この伊藤大輔監督は後に市川右太衛門主演で『一殺多生剣』、月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を製作している。それはおよそ「松之助映画」とは違った「反逆的ヒーロー」の映画であった。 やがて1925年(大正14年)に設立された阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を筆頭に、彼ら「チャンバラスター」は次々と独立してスタープロダクションを設立し、チャンバラのスター映画を量産した。阪東妻三郎は、竹薮だった京都郊外の太秦村の地に初めて撮影所を建設した人物であり、この撮影所はその後東映京都撮影所となり太秦映画村となった。 そして大正時代が終わろうとしていた1926年(大正15年)9月、日本映画最初の時代劇スター尾上松之助が世を去った。寿々喜多呂九平と阪東妻三郎、伊藤大輔と大河内傅次郎のコンビが台頭し、松之助自身が自分のこれまでの映画が時代にすでに適応できていないことを感じ取っていたという。全盛期であった1917年(大正6年)には月9本、3日に1本の割合で量産されて「低級な観客相手の粗製濫造品」「何等奥行も巾もない駄作ものばかり」と批評されても映画を作り続けた松之助だが、田中純一郎はその著「日本映画発達史」の中で「他の映画が舞台劇的で動作が少なく科白による内容発展に一切を委ねていたのに対して、松之助自身の軽快な動作、映画的本質の一つとして掴んだマキノ省三の演出方針を基盤として....退屈感はなく視覚を満足させるだけの動きと変化を持っていた」として「他の映画よりは映画的本質に適っていた」と評価している。 1927年(昭和2年)、松竹が林長二郎(長谷川一夫)を時代劇スターとして売り出し、女形出身の林の美貌は日本全国の女性を虜とする。林長二郎の登場は彼以外のスターは圧倒的に男性ファンが多い中で、時代劇映画に女性むエポックとなったのである。 この頃にマキノ省三は大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始した。しかし撮影中の度重なるトラブルで片岡千恵蔵や嵐寛寿郎が離反し、しかも精魂込めて製作した『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムを編集中に火災を起こして焼失する不運に見舞われて、1929年(昭和4年)に失意のうちに世を去った。しかし息子のマキノ正博(後のマキノ雅広)が前年に『浪人街』を監督し、その後長く戦前・戦後の時期に時代劇を作り続けて1972年(昭和47年)までに261本の映画を製作してその大半は時代劇であった。 一方、片岡千恵蔵はマキノプロから独立後に千恵蔵プロを設立したが、その際に伊藤大輔監督に相談に行き、「自分のところにいる若い2人を提供するから、今までとは違う時代劇を作ればいい」という趣旨のアドバイスを受けた。その若い2人とは伊丹万作(伊丹十三の父)と稲垣浩であった。そしてやがて伊丹万作は千恵蔵プロで『國士無双』『戦国奇譚 気まぐれ冠者』『赤西蠣太』などの新しく知的で明るい時代劇を作り、「明朗時代劇」と呼ばれた。ユーモアもナンセンスさもあり、それまでの陰惨な大剣戟や暗い傾向のある映画に嫌気がさした観客に支持された。また稲垣浩は千恵蔵プロで『瞼の母』『一本刀土俵入り』などの秀作を製作した。 1934年(昭和9年)、京都の鳴滝に映画監督の滝沢英輔、稲垣浩、鈴木桃作、脚本の三村伸太郎、八尋不二、藤井滋司ら有志が集まり、さらに山中貞雄、萩原遼らが加わって合計8人が集まり共同ペンネーム「梶原金八」の名前でシナリオを作り、そして製作された時代劇映画には現代語を採り入れて新風を巻き起こし、一大勢力となった。このグループは鳴滝組と呼ばれて、片岡千恵蔵の千恵蔵プロの流れを受けて、ユーモアのある明るい時代劇を製作していった。この鳴滝組が製作した映画の代表作が山中貞雄監督、大河内傅次郎主演の『丹下左膳余話 百万両の壺』である。これらの時代劇はその明るさとセリフの分かりやすさ、そのテンポの良さで「髷(マゲ)をつけた現代劇」と言われた。そしてこの頃が戦前における時代劇の頂点であった。 また山中貞雄はその後応召して戦病死したため、わずか5年間の活動で全26本の作品であったが、『丹下左膳余話 百万両の壺』の他に『河内山宗俊』『人情紙風船』のたった3本のフィルムしか現存していない。しかし現在でも山中作品は高い評価を受けている。 1930年代半ばからは、トーキーが導入され、時代劇にも、映画館ごとの活動弁士と生演奏ではない、俳優のセリフと音楽がもたらされ、当時唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉が現れ、そこで製作された映画が大曾根辰夫監督『大江戸出世小唄』で、これが最初の時代劇ミュージカルであり、その後マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』が製作された。 この昭和初期の映画製作会社は、日活、帝国キネマ(後の新興キネマ)、松竹、東亜キネマ、PCL(後の東宝)、右太衛門プロ、千恵蔵プロ、阪妻プロ、マキノプロ、大都映画などで、年間で各社10本前後から100本前後の製作本数を記録して、時代劇も大きなジャンルとして人気があった。 またトーキー以後もサイレント映画による剣戟にこだわる俳優やスタッフ、観客は存在し、1935年(昭和10年)に西宮の東亜キネマ跡地に設立された極東映画、翌1936年(昭和11年)に奈良の市川右太衛門プロダクション跡地に設立された全勝キネマは、それぞれが解散するまでサイレントの剣戟映画を量産しつづけた。 1930年代、時代劇の製作本数が現代劇を上回る年もあり、時代劇は質量ともに戦前の黄金期を支えていた。 松之助の忍者映画から始まって、やがて『雄呂血』のようなニヒルな反逆的ヒーローが出たり、その後は『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』のような反体制的な傾向を持つ映画が出て、世の中が暗くなっていくと千恵蔵プロや鳴滝組などから明朗時代劇と呼ばれる『國士無双』『赤西蠣太』『丹下左膳余話 百万両の壺』のような明るい時代劇が生まれ、「髷をつけた現代劇」と揶揄され、この鳴滝組的な映画に対抗する形で今度は真面目に歴史ものを描くべきとの声があがり、昭和10年代に入ると『阿部一族』『海援隊』『元禄忠臣蔵』『江戸最後の日』など歴史映画と呼ばれる作品が製作された。やがて国策映画として『海賊旗吹っ飛ぶ』『狼火は上海に揚る』『かくて神風が吹く』などが作られ、映画人が自由に映画が作れない時代となった。そして国策として映画会社の統合が進められて日活の製作部門と新興キネマ・大都映画が合併して大日本映画(大映)が設立され、その第1回作品として阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎が揃っての初共演で『維新の曲』が製作された。 敗戦までの日本映画では流血や博打、接吻などの場面は当局によって禁止された。時代劇も例外ではなく、チャンバラでいくら人が斬られても、また切腹の場面でも流血があると検閲でカットされた。阪東妻三郎は相手を斬る際に、刃を当てた後もう一回引く「二段引き」という殺陣を使ったが、これも「骨まで斬った感じが出るから」とカットされたことがある。全般に「リアルな殺陣」はすべて検閲でカットされたのである。 また、剣戟で人を斬る際の効果音を初めて使ったのは1935年(昭和10年)の『大菩薩峠』で、稲垣浩監督のアイディアで、カチンコの音を逆回転した効果音が使われた。しかしこの効果音も「検閲保留」扱いにされている 。 1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後、日本が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ))の占領統治下に置かれると、GHQは教育文化政策を担当する民間情報教育局(CIE)を設置し、さらに民間検閲支隊(CCD)を置いて、日本映画は二重の検閲を受けることとなった。その政策により、CIEから日本映画に対して13の規制項目が出されて(これが俗にチャンバラ禁止令と呼ばれている)、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義的として、敵討ちなど復讐の賛美はアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起するとして、こうした要素がある映画は一時製作が制限された。チャンバラ場面が禁止されたため、阪東妻三郎や片岡千恵蔵などの時代劇スターは現代劇に主演し、戦前『鞍馬天狗』をヒットさせた嵐寛寿郎の場合は剣戟のない推理物の時代劇『右門捕物帳』でしか、舞台も映画もできなかったと語っている。しかしそんな時代でも時代劇は製作されていた。戦後最初に作られた時代劇は丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』で終戦の年の10月に公開されている。 この数々の制約を受けた特定の時期に撮影が出来た時代劇の傾向として次の4つが挙げられる。1番目は俗に「戦争反省映画」と言われているもので、例として嵐寛寿郎主演で稲垣弘監督『最後の攘夷党』が挙げられる。これは、幕末の攘夷運動に加わった浪士が西洋人に助けられて排外主義の愚かさに気づくストーリーであった。2番目は「既成のヒーロー像の破壊」であり、あるいはそれまでの任侠のイメージを変えるものとして松田定次監督『国定忠治』や吉村公三郎監督『森の石松』があり、特に『国定忠治』は正義感の強い民主主義的な人物として描かれていた。3番目は「剣戟や立ち回りシーンの無いもの」で市川右太衛門主演『お夏清十郎』などの恋愛ものがその例であり、4番目はその「剣戟や立ち回りシーンを回避した映画」で前述の『右門捕物帳』や伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演『素浪人罷通る』などであった。しかし戦前からの時代劇を見慣れた観客にとっては「肝心なところが欠けている」と見なされていた。 そして1951年(昭和26年)9月の講和条約成立で自由に時代劇が作れる時代に入ると、それまで蓄積されていたエネルギーが爆発したようにどっと時代劇映画が溢れ、時代劇映画の歴史で最も輝く時代の始まりであった。 それは占領時代に作られた黒澤明監督『羅生門』の受賞からスタートした。そしてこの『羅生門』はベネチア映画祭でグランプリを獲得した。1952年(昭和27年)に占領体制が終わると、どっと時代劇映画の量産が始まった。溝口健二の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』、黒澤明の『七人の侍』、衣笠貞之助の『地獄門』が製作されて時代劇映画の黄金時代の幕開けであった。嵐寛寿郎は再び『鞍馬天狗』に出演していった。 戦後の時代劇映画の製作会社は、松竹、東宝、大映、東映、新東宝、日活、宝塚映画(東宝の傍系会社)などである。 終戦直後に東宝が内紛と労働争議で分裂して1947年3月に新東宝ができ、しばらくは製作は新東宝、配給は東宝の形態がとられたが、やがて新東宝は東宝に配給を断られたことから自主配給に踏み切った。 その一方で戦前の1938年に設立され興行会社としてスタートした東横映画が、戦後1947年から映画製作に進出して当時大映が所有していた京都太秦の大映第二撮影所(後の東映京都撮影所)を借りて製作活動に入った。東横映画は自前の配給網を持たないので当初大映に配給する関係であったが、しかし大映の傘下では経営が成り立たないとして、大映に配給を頼る下請け会社から脱却するため、東急グループの支援を受けて自前の配給会社東京映画配給を1949年10月に作った。しかし赤字が増大し、そこで東急グループは同じ赤字の太泉映画と東横映画と東京映画配給を合併させて1951年(昭和26年)4月に東映と改称して、配給を東宝に委ねた。この当時東宝は分裂騒動の余波で自前での製作能力が無かったので、宝塚映画や東京映画の作品を配給し、そこへ東映作品も配給して、1951年頃は東映製作で東宝配給という提携関係であった。しかしわずか1年で東映と東宝の提携は終了した。東宝が東映を傘下に収めようとしたことで東映が反発したとされている。そして1950年の朝鮮戦争の勃発とともにGHQの方針が大きく転換して時代劇の製作が可能となり、やがて東映は自前の配給網を確保し拡大するために、二本立て興行を打ち立て、そこに東映娯楽版として中村錦之助や東千代之介をデビューさせて大人気となったことで一気に業界トップに躍り出ることになった。 それは時代劇を中心としたプログラムピクチャーによって、映画の中心が時代劇になった時代でもあった。 東横映画は大映との提携を解消する頃に、当時大映に所属していて永田雅一社長と衝突していた片岡千恵蔵と市川右太衛門を引き抜き、やがて千恵蔵と右太衛門は東映となった後に取締役に就任した。全くスターがいなかった東横映画にとってはそれこそ観客を呼べる看板スターを持ったことになり、その後の東映においてスター中心のシステムを作るきっかけとなった。 戦後のそれまで千恵蔵は『多羅尾伴内』や『金田一耕助』などの現代劇シリーズに出演し、右太衛門は時代劇だが『お夏清十郎』『お艶殺し』などのいわゆる艶ものに出演していた。1950年に千恵蔵はいち早く従来の時代劇を復活させて渡辺邦男監督で初めて『いれずみ判官』の『桜花乱舞の巻』『落花対決の巻』を出し、翌1951年にはマキノ雅弘監督で『女賊と判官』を出した。右太衛門は松田定次・萩原遼監督で『旗本退屈男』の『旗本退屈男捕物控七人の花嫁』『旗本退屈男捕物控毒殺魔殿』を出し、それぞれが後の東映のドル箱シリーズとなった。1954年に二本立て興行に移り、毎週新作二本の製作体制になり、長編と東映娯楽版と言われる中編の連続物を組み合わせて、それに日舞出身の東千代之介、歌舞伎出身の中村錦之助をデビューさせて『笛吹童子』が大ヒットし、翌年には同じ歌舞伎から大川橋蔵がデビューした。 そして1956年(昭和31年)に松田定次監督『赤穂浪士』が大ヒットして、この年から業界トップに躍り出た東映は、マキノ雅弘監督が『次郎長三国志』『仇討崇禅寺馬場』、伊藤大輔監督が中村錦之助主演『反逆児』および『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』、内田吐夢監督が片岡千恵蔵主演『血槍富士』および『大菩薩峠』三部作、そして中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作、松田定次監督はオールスターで『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』などが製作されて、時代劇スター中心のプログラムを組んで多数の時代劇映画を量産した。 東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門の両者を重役にして、ベテランの月形龍之介、大友柳太朗、そして若手の中村錦之助(のち萬屋錦之介)、東千代之介、大川橋蔵らが育ち、きらびやかで豪快な東映時代劇を築いていく。片岡千恵蔵と市川右太衛門は御大と呼ばれ、千恵蔵が『いれずみ判官』(遠山の金さん)を、右太衛門が『旗本退屈男』といったそれぞれシリーズを持ち、月形龍之介は『水戸黄門』、大友柳太朗は『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『右門捕物帖』、中村錦之助は『一心太助』『殿様弥次喜多』『宮本武蔵』、東千代之介は『鞍馬天狗』『雪之丞変化』、大川橋蔵は『若さま侍捕物手帖』『新吾十番勝負』の各シリーズを持ち、加えて正月には『忠臣蔵』や『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』、お盆には『旗本退屈男』(1958年)、『水戸黄門』(1960年)など歌舞伎の顔見世のようにオールスターキャストの時代劇を製作して、1950年代後半(昭和30年代前半)は東映時代劇の黄金期であった。時代劇王国を謳歌し、"東映城"の名をほしいままにした。この量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔、マキノ雅弘、松田定次、内田吐夢以外には田坂具隆、佐々木康、沢島忠、加藤泰、河野寿一、工藤栄一、などがいた。 戦争中の1942年(昭和17年)に当時の日活の製作部門と新興キネマと大都映画が合併して設立された大映は、戦後も溝口健二監督『雨月物語』『山椒大夫』を製作して、その後同じ溝口健二監督『近松物語』、衣笠貞之助監督『地獄門』で主演した戦前からの大スター長谷川一夫の『銭形平次捕物控』シリーズを中心にして時代劇を量産し、やがて若い市川雷蔵、勝新太郎が育って、雷蔵は『新・平家物語』から『大菩薩峠』三部作、そして『眠狂四郎』シリーズを自身の代表作とし、勝新は『座頭市』シリーズでその後長く日本映画界を牽引することとなった。東映時代劇の華やかさと優雅さに全く無縁で全く異質な『眠狂四郎』『座頭市』というダーティーなヒーローを二人が演じて独自の大映時代劇を築いていく。監督には最初の時期には黒澤明、伊藤大輔、渡辺邦男もいたが、溝口健二、衣笠貞之助、森一生、三隅研次、安田公義、田中徳三、池広一夫らがいた。 戦後の東宝争議の後に設立した新東宝は、1950年3月から自主配給で大手会社となり、初期には佐伯清監督で嵐寛寿郎主演『中山安兵衛』、溝口健二監督『西鶴一代女』、伊藤大輔監督『下郎の首』、山田達雄監督で嵐寛寿郎主演『危し 伊達六十二万石』、渡辺邦男監督で美空ひばり主演『ひばり三役 競艶雪之丞変化』などの秀作があるが、後期に入って大蔵貢が社長に就任すると怪談ものを作り始めて、渡辺邦男監督『怨霊佐倉大騒動』、中川信夫監督『怪談累が淵』『東海道四谷怪談』などを製作し、1961年に経営不振から映画製作を中止した。 しかし新東宝から丹波哲郎、天知茂などがデビューして、新東宝倒産後に五社協定に拘束されずにテレビに移っていった。 日活は1942年に製作部門が大映に吸収されて、戦後はずっと映画興行会社であったが1954年に製作部門を再開し、それと同時に時代劇で、鳴滝組であった滝沢英輔監督で新国劇の辰巳柳太郎主演『国定忠治』『地獄の剣豪 平手造酒』を製作し、また同じ滝沢英輔監督で島田正吾主演『六人の暗殺者』、三國連太郎主演『江戸一寸の虫』を出したが、その後石原裕次郎の人気沸騰で現代劇の活劇路線を中心としたプログラムピクチャーを組み、やがて時代劇は製作しなくなった。しかし1957年(昭和32年)に当時の自社のスターを総出演させた川島雄三監督『幕末太陽伝』という異色時代劇を製作している。 文藝路線の松竹は時代劇が少なく、大船での現代劇が主で京都の撮影所では思うようには時代劇の製作は出来なかった。1951年に創立30周年記念映画でオールスターキャストの『大江戸五人男』(伊藤大輔監督)を、また1953年に八代目松本幸四郎(後の松本白鸚)の井伊大老役で大作『花の生涯』(大曾根辰夫監督)を、1954年も同じ八代目松本幸四郎が大石内蔵助を演じた『忠臣蔵花の巻・雪の巻』(大曾根辰夫監督)を、そして3年後の1957年に再び大曾根辰夫監督で『大忠臣蔵』を製作したりしたが、シリーズものとしては唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉主演の『伝七捕物帳』シリーズぐらいで、松竹が抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優で脇を固め、これに近衛十四郎と高田浩吉を絡めてそこへ新人の森美樹を次代の時代劇スターに育てる予定であった。しかし1960年から61年にかけて森美樹が事故死し、高田浩吉と近衛十四郎は東映に移籍し、また歌舞伎界の八代目松本幸四郎ら多数が東宝へ移籍する事態となり、この時期から急速に松竹時代劇は衰退していった。1962年には忠臣蔵を製作しようにもキャストが組めず旧作の『大忠臣蔵』を再編集した『仮名手本忠臣蔵』とその後日談の『義士始末記』を新国劇の島田正吾を起用して製作する始末であった。 この他に歌舞伎座製作で松竹が配給した山本薩夫監督『赤い陣羽織』、木下恵介監督『笛吹川』、『楢山節考』、今井正監督で三國連太郎主演『夜の鼓』、小林正樹監督で仲代逹矢主演『切腹』など異色作を出しているが、やがて京都では時代劇を撮らないことを決めて、1964年に篠田正浩監督で丹波哲郎主演『暗殺』を最後に1965年に京都太秦撮影所は閉鎖された。 戦後に新東宝や東映との提携関係が消滅して以後、宝塚映画や東京映画製作の作品を配給していた東宝は自前の製作体制を整えることに力を注ぎ、やがて1954年に特撮で『ゴジラ』がヒットした同じ年に黒澤明監督『七人の侍』、稲垣浩監督『宮本武蔵』もヒットしたことで成果があがった。 その後特撮と喜劇路線の東宝にとって時代劇に黒澤明監督がいて『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』を作り、やがて『用心棒』『椿三十郎』を製作した。この2つの映画で、東映時代劇のように様式美にこだわり、あくまでスター俳優を中心にカッコ良く決めるスタイルで、その美しさを前面に出す殺陣とは違って、黒澤明はリアルで迫力のある、そして残酷な描写を厭わない斬り合いを表現して話題となった。しかし黒澤明は1965年の『赤ひげ』を最後に東宝を去った。鳴滝組であった稲垣弘は1950年に東宝に加わり、『佐々木小次郎』三部作、そして三船敏郎主演『宮本武蔵』三部作を作り、後に『柳生武芸帳』『大坂城物語』そして1962年に東宝創立30周年記念映画として『忠臣蔵 花の巻 雪の巻』を撮っている。なお戦後の初期には後に東映に移ったマキノ雅弘監督が『次郎長三国志』全九部作を製作している。 1962年の正月映画で東宝『椿三十郎』が東映『東海道のつむじ風』を圧倒して、東映の華麗な様式美の世界から時代劇は生々しい迫力の世界へと変わっていった。そのリアルな殺陣が、東映時代劇の華やかさと所作の優雅さとが次第に観客に飽きられていき、またこの直前に「第二東映」の出現で多数の時代劇を粗製乱造したことも加えて、東映時代劇の衰退を招くこととなった。 これ以降東映は時代劇の不振に悩まされて、その後に集団抗争時代劇として『十七人の忍者』『十三人の刺客』『大殺陣』などを製作したが時代劇の退潮を食い止められず、やがて任侠路線に転換してヤクザ映画が主流を占め、東映の本来の時代劇は消えて、セクシー路線の時代劇へ移っていった。任侠路線転換を実施した岡田茂東映企画本部長は、『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの取材に対して「時代劇の客はテレビに吸い取られた」と断言し、「お客の減ったものに大金をかけることは出来ない」と、東映で正統時代劇を作らなくなった理由を明言した。また「私は、時代劇は、必ず映画館にお客をこさせうる素材だと思う。但し、映画館用の時代劇は、テレビでは出来ないもの、つまり"不良性感度"の高いものでないとお客は呼び込めないと思う」等と話した。従来、映画の時代劇のヒーローは"きれいで腕が立って女にもてて"という男性だったが、そっくりブラウン管に取られた。岡田は先を見越してこのとき、時代劇は全てテレビに移していた。 こうした風潮に対して「大型時代劇こそ日本映画復興のエネルギーだ」と意気上がったのが独立プロ・三船プロダクションを主宰する三船敏郎と勝プロダクションを主宰する勝新太郎で、三船プロの自主作品として、1960年代後半の『侍』以降、『上意討ち 拝領妻始末』『風林火山』と、2年ペースで時代劇映画を作り、特に1969年3月1日封切りの『風林火山』は大当たりを取った。日本映画界にはそれまで「ヨロイものは当たらない」というジンクスがあったが、それは吹き飛ばされ、映画関係者からは「洋画のアクションものに対抗出来るのは、やっぱり"時代劇"」などという声も飛び起こった。勝新太郎は「"座頭市"の大型化を狙う」と表明した。また大手映画会社に頼らず製作した『祇園祭』も1968年11月に封切られ大ヒットした。『日刊スポーツ』1969年1月16日付けの記事で興味深いのが、フジテレビが劇場用映画第一作として『御用金』の製作を伝えていることである。フジは第2作として『人斬り』も製作しヒットはしたが、劇場を持たないテレビ局や独立プロは、よっぽど大当たりを取らないと儲からないと判断し、映画製作から撤退した。1980年代に入り、鹿内春雄体制になって、再び映画製作を活発化させ、日本映画の歴史を塗り替えたが、時代劇映画はほとんど作らなかった。 1955年(昭和30年)には当時の大手映画会社6社で年間174本の時代劇が製作され、1960年(昭和35年)で合計168本の製作本数を数えたが、わずか2年後の1962年(昭和37年)には77本に半減し、中村錦之助が東映を退社した1966年(昭和41年)の翌年には15本となり、1973年以降は年間5本程度を製作する状況となった。時代劇の軸は映画界からテレビに移行、この時期からテレビ時代劇が急増する。 映画の世界では、時代劇王国と言われた東映が1964年頃から任侠路線に切り替えて1966年(昭和41年)で時代劇を打ち切り、時代劇の中心は大映に移った。しかし勝新太郎との二枚看板で『眠狂四郎』シリーズをヒットさせた市川雷蔵が1969年(昭和44年)に若くして死去して、急速に精彩を失った大映も1971年(昭和46年)に倒産してしまった。その後は1970年代に入って勝プロが製作した若山富三郎主演の『子連れ狼』シリーズがヒットして、松竹が高橋英樹主演で『宮本武蔵』さらにオールスターキャストで『狼よ落日を斬れ』『雲霧仁左衛門』『闇の狩人』を出し、東映が1978年(昭和53年)に12年ぶりに時代劇を復活させて『柳生一族の陰謀』が大ヒットして以後『赤穂城断絶』『真田幸村の謀略』『徳川一族の崩壊』『影の軍団服部半蔵』を出し、1980年代に入ると『魔界転生』『里見八犬伝』を角川春樹と提携して深作欣二監督で製作している。しかし、その後は特に話題となるような時代劇はなく、もはや映画のジャンルとしては過去のものになりつつある。時代劇映画は50年近く長期低迷であり、そして時代劇の主な舞台はすでにテレビに変わり、これ以降、テレビが時代劇を産業として支えていった。 1953年(昭和28年)2月、NHKテレビが開局してTV放送スタートと同時にテレビ時代劇の歴史も始まった。ただし当時はテレビカメラによる30分のスタジオドラマで生放送であり、同年7月に放送された笈川武夫主演『半七捕物帳』がテレビ初の時代劇であり、翌年1954年6月に日本テレビが放送した『エノケンの水戸黄門漫遊記』が民放初の時代劇とされている。また初期には子ども向け時代劇として夕方に『赤胴鈴之助』『猿飛佐助』『孫悟空』などの番組が放送された。 テレビ創成期の最初の時代劇スターは中村竹弥で最初の『江戸の影法師』(1955年)で認められて当時のラジオ東京テレビ(現在のTBS)と専属契約を結び、『半七捕物帳』(1956年)、『右門捕物帳』(1957年)、『又四郎行状記』(1958年)、そして『旗本退屈男』(1959年)から『新選組始末記』などに出演した。この他に大人にも楽しめる時代劇として『鞍馬天狗』『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『銭形平次捕物控』『眠狂四郎』『鳴門秘帖』『新吾十番勝負』などが放送された。 また民放テレビ局の開局と同時にそのテレビ局に資本参加している映画会社が独自に製作した時代劇を放映している。代表作が『風小僧』『白馬童子』『源義経』『若さま侍捕物帳』である。そして国産テレビ映画が増加した1962年秋から4年前に『月光仮面』をヒットさせた宣弘社が、同じ船床定男監督で主演も同じ大瀬康一で『隠密剣士』が放映を開始してヒットした。この番組で初めて忍者の世界を描き、その忍者の殺陣は以後の時代劇作品の忍者の描写の元になっている。 そして1963年4月から、NHKが現在まで続く長寿時代劇シリーズとなる大河ドラマの放送を開始した。その第1作『花の生涯』は井伊大老役に歌舞伎界から尾上松緑、長野主膳役に映画界から佐田啓二(中井貴一の父)を起用し、2作目の『赤穂浪士』には映画界から長谷川一夫、民芸から滝沢修、宇野重吉、歌舞伎界から尾上梅幸など当時豪華な顔ぶれが揃い、テレビ時代劇の1つのエポックとなった。3作目は『太閤記』で新国劇から緒形拳が主演、文学座から高橋幸治、俳優座から佐藤慶など若い人材が出演して、4作目が『源義経』で歌舞伎界から尾上菊之助(現尾上菊五郎)が主演。毎年1作ずつ膨大な時代劇が制作されている。 その後も映画の世界では時代劇が衰退していく中で、テレビ界では各局とも時代劇を制作して、『三匹の侍』『新選組血風録』『素浪人月影兵庫』『銭形平次』『水戸黄門』『大岡越前』『遠山の金さん』『木枯らし紋次郎』『必殺仕掛人』『必殺仕置人』『必殺仕事人』『子連れ狼』『影の軍団』『鬼平犯科帳』などのシリーズを生んだ。 時代劇制作を映画からテレビに移した先鞭をつけたのは、やはり東映である。もともとテレビ局の開局時から子ども向けテレビ映画を製作して他社に比べてテレビに対して積極的であった東映は、映画での時代劇衰退で早くに見切り、1964年(昭和39年)に東映京都テレビプロダクションを設立すると時代劇のスタッフを移してそこから数々のヒット作を生み出すこととなった。そしてかつての銀幕スターがテレビ時代劇に主演し、大川橋蔵『銭形平次』、片岡千恵蔵『軍兵衛目安箱』、市川右太衛門『旗本退屈男』、萬屋錦之介『子連れ狼』など番組が並び1970年代半ばのゴールデンタイムの人気ジャンルであった。また、三船敏郎『荒野の素浪人』、勝新太郎『座頭市物語』のように銀幕スターが独立プロダクションを設立して制作に携わったり、『大江戸捜査網』のようにテレビ時代劇制作のノウハウに乏しかった日活が制作に携わったりした。 そして東映時代劇で育った松方弘樹は1965年にNHK時代劇『人形佐七捕物帳』でテレビに出演し、北大路欣也は1968年に大河ドラマ『竜馬がゆく』で主役に抜擢され、里見浩太朗は1971年に『水戸黄門』で助さん役を演じてから時代劇スターの座を確保した。また日活の現代劇で育った高橋英樹は大河ドラマ『竜馬がゆく』からテレビ時代劇で頭角を現わし、1967年のNHK時代劇『文五捕物絵図』で時代劇にデビューした杉良太郎、1978年にテレビ朝日『暴れん坊将軍』から人気俳優となった松平健などテレビから時代劇スターが生まれていった。 一方、1980年代に入ると、若者向け文化を重視する風潮が時代劇にもあり、若手俳優を起用した時代劇を製作したが軒並み視聴率が不振で、やがて時代劇の不人気が浮き彫りとなり、テレビ局は時代劇番組を減らしていった。そして長期シリーズであった『影の軍団』や『必殺』シリーズの放送終了によって、テレビの世界でも時代劇の退潮が言われるようになったものの、1980年代後半になると、日本テレビが大晦日に紅白歌合戦に対抗して制作した1985年(昭和60年)の『忠臣蔵』、翌1986年(昭和61年)の『白虎隊』が高視聴率を上げ、1987年(昭和62年)にNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が高視聴率を記録し、1989年(平成元年)にはフジテレビの『女ねずみ小僧』『鬼平犯科帳』が始まり、そしてテレビ東京の新春ワイド時代劇が1981年以来続いていて、1991年の1月2日のゴールデンタイムには4番組が並んで、時代劇復活の雰囲気となり、1986年の日光を皮切りに4ヶ所に開設の時代村のように時代劇制作ノウハウが取り入れられたテーマパークも建設された。 しかしバブル崩壊を迎え、1990年代後半になると、再び状況は一変して1996年(平成8年)以降に少しずつレギュラー枠が減らされていった。 1990年代のトレンディドラマの出現以降、テレビの主たるターゲットである若者層の視聴率が時代劇では取りにくいこと、時代考証や資料引用に関する許諾および大道具・小道具等の制作や調達並びに化粧・鬘・衣装等に製作費用や手間がかかること、都市化が進み国内では自然のままのロケ地の確保が難しくなってきたこと、製作関係者の後継者不足や人材育成の不足、勧善懲悪の作風が多くマンネリ化し、視聴者に受け入れられなくなったなどの理由により、テレビ向けに製作・放映されることが大幅に減少した。 新作テレビ時代劇の制作は減少傾向が続き(現状については#主なテレビ時代劇放送枠の各項目などを参照)、2011年12月19日、長らく月曜夜8時の時代劇として親しまれてきた『水戸黄門』(TBS系)が最終回スペシャルを迎え、42年の歴史に幕を閉じるという出来事があった。時代劇存亡の危機が囁かれる中、デジタル放送の普及が本格化した2010年代からは、地上波よりもシニア層の視聴者が多いとされるBSデジタル・CS放送などで時代劇の放送が増加。既存作品の再放送が多いものの、後述するように新作の放送数も増えている。 地上波民放では、翌年(2012年)3月にテレビ東京で深夜帯に1クール放送された『逃亡者おりん2』が終了すると、2012年10月にTBS系の『金曜ドラマ・大奥〜誕生[有功・家光篇]』が放送されるまでの半年間、新作テレビ時代劇のレギュラー放送が途絶えた。2014年には、フジテレビが開局55周年プロジェクトの一つとして、月9枠で初の時代劇作品『信長協奏曲』を放送し、2016年には映画化された。地上波民放でレギュラー放送された新作テレビ時代劇は2018年現在、2016年10-12月にテレビ東京が金曜日20時枠に『石川五右衛門』を放送したのが最後である。また、2010年代中盤以降はHuluやNetflixに代表される動画ストリーミングサービスが多数登場しているが、過去作品の配信は少なく、サイトオリジナルの時代劇は現時点で制作されていない。 一方、1997年に、東映の岡田茂とC.A.Lの加地隆雄を中心に「時代劇コンテンツ推進協議会」が立ち上がり、時代劇専門チャンネルでの放送などで時代劇の維持と再発展を目指してきたCS放送では、スカパー!で日本映画衛星放送(現・日本映画放送)と共同で、2011年の正月にCS初の完全新作時代劇・『鬼平外伝 夜兎の角右衛門』を放送、これが好評を博したことにより、2012年2月には企画第2弾となる『鬼平外伝 熊五郎の顔』を放映した。以降も年に1~2作ペースで新作を制作・放送している。 BSデジタル放送では当初NHKでの新作放送が中心だったが、2015年中盤以降、WOWOWを除くBS民放でも単発やレギュラー放送の新作時代劇が制作・放送されており、前述の水戸黄門も2017年にBS-TBSでキャスティングを改めた新シリーズが放送された。 他方、2000年代中期から2010年代以降、往年とは及ぶべくもないが時代劇映画の製作・公開が微増傾向にあり、新作時代劇はテレビから映画へと再びシフトしつつある。2010年には映画会社5社による共同企画“サムライ・シネマ キャンペーン”が行われ、同年同時期に公開される5作品(『十三人の刺客』『桜田門外ノ変』『雷桜』『武士の家計簿』『最後の忠臣蔵』)が連携してプロモーションキャンペーンを実施した。 なお、本稿ではもっぱら実写時代劇を扱っているが,日本では古くから時代劇アニメも多数制作されている。映像表現やロケ地等の制約がなく、若年層への訴求力が期待できるとあって、近年はアニメによる時代劇の制作がむしろ盛んである。また『鬼平犯科帳』『仕掛人 藤枝梅安』の漫画版を看板とした時代劇漫画専門誌(『コミック乱』・『コミック乱ツインズ』)がリイド社の軸となるなど2000年代に入ってからは安定した人気を保っている。 また、製作関係者からは日本独自の映像文化や技術が途絶えるとの危機感や現場における製作技術の維持継承の観点から、東映京都撮影所の契約社員組合などで作られた「時代劇復興委員会」が立ち上げられ、有名ではない時代劇俳優(いわゆる大部屋俳優)たちは太秦映画村で殺陣アトラクションを行ったりするなど、様々な方法で時代劇生存の道を探っている。 2020年代から、グリーンバックステージで人物を撮影しリアルタイムで人物とCG背景・美術をVFX合成する「バーチャルプロダクション」技術が発達しているが、東映太秦・松竹京都が京都府の支援で、時代劇のバーチャルプロダクション化の研究を始めている。歴史建造物や風景を3Dデータ化してVFX撮影に生かすことで建物の経年劣化消滅や撮影プロセスの問題を克服するための試みとなっている。 時代考証については、多くの時代劇作品で専門のスタッフが配置されるものの、年を経る毎に様々な事情から省略されたり、本来のものと異なる部分が増えており、それは文学的要素の色濃い作品であっても例外ではない。 1960年代までは相当する役柄にお歯黒や引眉を行う場合が多かったが、すでに明治時代に廃れた遠い過去の習慣であり、また、お歯黒、引眉が不気味と思われる、等、現代人に受け入れられにくいことから、現在ではお歯黒、引眉に該当する役柄でもお歯黒、引眉をすることは一部の役を除きないといって良い。また、本来ならふんどしであるべき男性の下着が猿股になったり、元禄年間の物語なのに服装や髪型が幕末仕様だったりするなど、雑な部分も多い。その一方で、女性の日本髪の鬘は以前は全鬘が一般的だったがハイビジョン収録の一般化に伴い生え際が自然に見える部分鬘を使うようになった。また代官・目明し・同心・小者などの端役の服飾や、屋台・建築物などの部分については、撮影現場で使い回しがなされたりセット・道具類にまつわる事情から厳密な考証が省略されているものが多い。 人物像においては、伊達政宗の刀鍔型の眼帯は時代劇による創作であるが、眼帯が無いと「誰だか分からない」として白い包帯などの妥協案を採用する例もある。 日本刀の打刀では斬撃、抜刀、納刀など元来ほとんど音がしないため、当初のそれは無音であったものが、60年代に『用心棒』と『三匹の侍』の登場により徐々に様々な効果音が入れられるようになった。 馬については、実際には江戸期以前の日本では皆無に等しかったはずのサラブレッドやクォーターホースなど西洋で品種改良がなされた体高160cm以上の現代日本で主流の乗用馬で代用されている。時代考証を厳密に行うならば体高(肩までの高さ)130-135cm程度の日本在来馬を使用するべきところであるが、大型化した現代の日本人俳優の体格に日本在来馬では釣り合いが取れず映像的な見栄えに劣ること、そして、乗用馬に比べ頭数が少なくまとまった数を確保することが困難を極めることなどが要因となっている。時代考証の厳格さで定評のある黒沢明監督でさえ、馬に関しては西洋馬を用いている。 陶器・漆器類を始めとする日用品や調度品も、当時の実物やかつての技法のまま現代の職人が創りだした工芸品的な物を使うことや、その撮影のために当時の技法で現在に必要量だけ製造することは予算面などから難しいことが多く、江戸時代のそれに近い表現技法を再現した現代の製品などを限られた時間と予算の中で探してきて代用した結果として、技巧・表現・流行などの面において時代設定と合わないことが多々起きている。 テレビ用時代劇は他のテレビ番組が急速にビデオ撮影による収録に切り替わっていく中、1990年代後半までは映画用フィルムによる撮影を主流とし、「ドラマ」というよりは「映画」的なコンテンツとして特異な地位を確立していた。これは時代劇と刑事ドラマと特撮ヒーロー番組に言える特徴であった。当時時代劇ドラマにおいては、ビデオ映像にあえて映画フィルム風の映像補正をかけることが良く行われていた。これはVTR撮影が常識となった時代においても、フィルム画像ならではの“味”を愛好する人が製作者にも視聴者にも多いためであるといわれているが、これは役者のカツラと素肌の境目がくっきりと見えたり、室内のセットが明瞭すぎて現実感が乏しくなることを避けるためとされている。また、下級武士や農民の生活などその時代の雰囲気を出すために最近でもハイビジョン映像で撮影したものをあえて画像を落として放送する場合がある。 フィルム撮影はVTR撮影よりも多額の費用が発生することから1990年代以降減ってきたが、フジテレビは1998年以降のフィルム作品において「スーパー16」規格で撮影している。スタンダードサイズの画角ではなくビスタサイズの画角で撮影し、劇場公開やHDTV放送などの「ワンソフト・マルチユース」に対応することで長期的な費用回収を可能にし、フィルム撮影の存続の可能性を確保している。 テレビドラマ 参考資料:『実録テレビ時代劇史』(能村庸一著) 巻末の時代劇放送記録 漫画・アニメ作品 漫画には上記の映画やテレビドラマ作品の原作となり、実写化された作品が多いが、ここではそうした形で実写映像化していないものを主に挙げる。実写映画化やドラマ化された作品でも、主となる読者・視聴者が低年齢層となる作品はここに含む。 NHK 日本テレビ系 テレビ朝日系 TBS系 テレビ東京系 フジテレビ系 時代劇の撮影が可能なパーマネントセットを有するスタジオ、その他の場所。
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西部劇
西部劇(せいぶげき)は、19世紀後半のアメリカ合衆国の西部開拓時代に当時フロンティアと呼ばれた主にアメリカ西部の未開拓地を舞台にした映画(テレビ映画を含む)や小説である。英語のWestern(ウェスタン)の訳語である。 1860年代後半・南北戦争後のアメリカ西部を舞台に、開拓者魂を持つ白人を主人公に無法者や先住民と対決するというプロットが、白人がフロンティアを開拓したという開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成された。 それ故に「19世紀後半のアメリカ西部開拓期を撮った映画」が西部劇であり、「新興の気に満ち満ちていた若きパイオニア精神が壮烈なアクションとともに展開するのが特徴」であるが、「現在西部劇は殆ど滅び去ったと言ってよく、パイオニア精神の失われた今のアメリカで成り立ち得ないジャンル」であるとされている。 なお19世紀後半(特に1860年代から1890年代にかけて)のアメリカ西部を舞台とするとした西部劇の定義は必ずしも厳密なものではなく、ゲイリー・クーパー主演『征服されざる人々』の舞台は独立宣言前の東部のペンシルベニア州ピッツバーグであり、ジョン・フォード監督ヘンリー・フォンダ主演『モホークの太鼓』は独立戦争時のニューヨーク州が舞台で、セシル・B・デミル監督『北西騎馬警官隊』は時代は1880年代だが舞台はカナダで、いずれも未開拓の地を切り開いていく物語であり西部劇と見なされている。また『明日に向って撃て!』『アラスカ魂』『ワイルドバンチ』は、20世紀初頭の物語であり、「明日に向って撃て!」は最後は南米ボリビア、『アラスカ魂』はアラスカ、『ワイルドバンチ』や他に『荒野の七人』などはメキシコが舞台だが西部劇のジャンルとされている。 そして最後は第一次世界大戦時になる『シマロン』は西部劇に入るが、同じ作家が書いた『ジャイアンツ』はテキサスを舞台にした20世紀の物語で西部劇とはされていない。また南部アトランタを舞台に南北戦争時のストーリーである『風と共に去りぬ』も西部劇のジャンルには入っていない。 西部劇は映画とともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。厳しい自然の中で多くの困難と闘いながら逞しく生きてきた開拓者の物語はアメリカ人の誇りとするものであり、フロンティア精神と夢を含み、アメリカンドリームそのものであった。 西部を舞台とする発想は映画史のごく初期から存在しており、1898年には、エジソンのキネトスコープ(覗き眼鏡方式)による活動写真において最初の西部劇が作られている。1895年にリュミエール兄弟が初めてシネマトグラフ(スクリーン投影方式)を生み出し、やがてサイレント映画が登場すると、最初の本格的な西部劇映画である1903年のエドウィン・S・ポーター監督『大列車強盗』がつくられた。列車を襲った強盗を自警団が追跡して討ち取る簡単なストーリーだが、走る列車の上での立ち回り、殺人と金庫の爆破、追跡と撃ち合いなど動きのある映像を編集した画面によって観客は興奮を味わい、やがて西部劇はアクションを売り物に盛んに製作された。この「大列車強盗」はその後の西部劇映画の基本となる骨格を整えた画期的な作品で、映画の歴史に大きな影響を与えた。ただし、この映画の撮影はエジソン社に近い東部のニュージャージー州であり、西部の自然はスクリーンに映されていなかった。当時は撮影は東部でしか出来ず、物語は西部でも、撮影は全て東部で行われていた。1910年代に入るとエジソン社による特許権紛争が起こり、トラストによってエジソン社の特許を持たない映画関係者の強制排除が行われ(後に裁判でエジソン社は敗れる)、特許料の支払いから逃れるように遠い西部に移った人々はカリフォルニア州ロサンゼルス郊外に西部劇を製作するのに好条件の土地を見出した。豊かな太陽、美しく雄大な景観をバックに、ロケーションに事欠くことなく西部劇の撮影が進められ、ここが映画製作の中心地となった。それがハリウッドであった。 西部の荒野で、逆境に立ち向かい、悪をやっつけて、弱者(女性や子供)には優しいガンマンを主人公に、懸賞金が掛けられたお尋ね者と決闘したり、駅馬車を追っかけたり、銀行強盗があったり、騎兵隊が来たり、そして先住のインディアンと争ったりするのがパターンであった。実在した保安官(ワイアット・アープやワイルド・ビル・ヒコック)やガンマン(バット・マスターソン、ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームス)を題材にして、アメリカ西部の大自然を背景に開拓者魂(フロンティア精神)を詩情豊かに描く西部劇は多くの人々を魅了し、西部開拓時代へのノスタルジーを掻き立てられた。それは19世紀後半の西部開拓時代での開拓者精神を称え、アメリカを発展させたものとして賛美するものであった。 こうした西部劇の基本は強く勇敢なヒーローの存在であり、そのヒーローを演じる俳優は西部劇スターとなった。最初の頃に登場したブロンコ・ビリー・アンダーソンは「ブロンコ・ビリー」シリーズで主演し、毎週1本ずつ一巻物(上映時間12分まで)で製作された連続活劇に7年間出演した。 ブロンコ・ビリーの後にはブロードウエイの舞台俳優であったウィリアム・S・ハートが二挺拳銃の颯爽とした姿で登場し「西部の騎士」のようなスタイルで多くの観客を魅了した。ハートはそれまでの西部劇役者とは全く異質で、騎士道精神を前面に出しながらも孤独で悲劇的立場に追い込まれる場面が多く、そこが観客の心を強く打つものであった。彼は俳優のみならず製作・監督にもたずさわり、「曠野の志士」(1925年)などのサイレント作品が日本でも上映されて西部劇映画に大きな足跡を残した。 そしてほぼ同時期にハリー・ケリーが登場して1917年から1919年にかけて「シャイアン・ハリー」シリーズで人気を呼んだ。ハリー・ケリーは後年は脇役に回って、戦後は「白昼の決闘」「赤い河」にも出演していたがサイレント期の西部劇スターとしてその名は記憶されている。この「シャイアン・ハリー」シリーズの殆どを製作・監督したのが当時ジャック・フォードと名乗っていた後のジョン・フォードであり、ハリー・ケリーはフォード一家とは親しい関係で、息子のハリー・ケリー・ジュニアは後にジョン・フォード西部劇の貴重なバイプレイヤーとなり、ハリー・ケリーの妻は後年のフォード西部劇の傑作『捜索者』に出演している。 ジョン・フォードは兄のフランシス・フォードによって映画界に入り、フランシスの助手を務めながらやがて映画監督になったが、そのフランシスはサイレント時代の西部劇の製作に多く関わり、『Custer`s Last Fight』(1912年)「旋風児」(1921年)「Western Yesterday」(1924年)などの作品を製作している。このサイレント期には、前述のエドウィン・S・ポーター、フランシス・フォード、ウィリアム・S・ハート以外にスチュアート・ペイトン、リン・F・レイノルズなどの映画監督が西部劇に多数の映画を残していた。また他の西部劇スターとしてはウイリアム・ファーナムやトム・ミックスらがいた。 第一次世界大戦後にはジェームズ・クルーズ監督『幌馬車』(1923年)が製作された。この映画はスターによるヒーロー物語ではなく、自然の猛威や先住民と戦いながら西部の荒野を西へ西へと進む集団の物語で、それまでの西部劇とは全く違う新しい西部劇を作った。ジョン・フォードは1924年に大陸横断鉄道の建設を軸にした西部開拓叙事詩「アイアンホース」、1926年に『三悪人』を製作していた。 そして1927年に「ジャズシンガー」でトーキーが普及すると、後に「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」を作ったヴィクター・フレミング監督が1929年「ヴァージニアン」を製作して主演に抜擢されたゲイリー・クーパーはこの作品で西部劇スターの座を獲得した。その後1936年にセシル・B・デミル監督の『平原児』で主役ワイルド・ビル・ヒコックを演じ、ジーン・アーサー演じるカラミティ・ジェーンとの悲恋を絡めながら巧みなガンさばきを見せて大スターとなった。 一方1930年ラオール・ウォルシュ監督の「ビッグ・トレイル」でジョン・フォードは当時無名だったジョン・ウェインを推薦して主役に抜擢させたが不評に終わったので、ジョン・ウェインはその後B級西部劇に10年近く出演を続けた。そして1939年になってB級映画で俳優として経験を積んだジョン・ウェインを再び抜擢してジョン・フォードは『駅馬車』を製作し、ジョン・ウェインは主役リンゴー・キッドを演じた。この映画は駅馬車の走行にインディアンの襲撃及びガンマンの決闘、そして駅馬車に乗り合わせた乗客のそれぞれの人生模様を描き、たんなる娯楽活劇ではなく西部劇の評価を一気に高めて、今日でも戦前の西部劇の最高峰と評価されている。 この時期にはサイレント映画の名作「ビッグ・パレード」を作ったキング・ヴィダー監督が西部劇の「ビリーザ・キッド」(1930年)、「テキサス決死隊」(1936年)を製作し、同じくサイレントで「スコオ・マン」を作り、トーキー以後の1931年にも再映画化をしたセシル・B・デミル監督が「平原児」の後に1939年に大陸横断鉄道の建設、列車転覆、襲撃、悪との対決、恋を絡ませたジョエル・マクリー主演『大平原』、その翌年1940年にゲイリー・クーパー主演『北西騎馬警官隊』を製作し、同じ1939年にヘンリー・キング監督でタイロン・パワーがジェシー・ジェームスを演じた『地獄への道』、ジョージ・マーシャル監督でジェームズ・スチュアートとマレーネ・ディートリヒ主演『砂塵』、1940年にウィリアム・ワイラー監督で西部開拓史にその名を残すロイ・ビーン判事を描いたゲイリー・クーパー主演『西部の男』など西部劇の傑作と呼ばれる作品が次々と発表された。 第二次大戦の戦時下でもハワード・ヒューズ監督でジェーン・ラッセルの妖艶な姿が話題となった『ならず者』(1943年)、ラオール・ウォルシュ監督の史上に名高いリトル・ビッグホーンでの第七騎兵隊の全滅とカスター将軍の最後を描いたエロール・フリン主演『壮烈第七騎兵隊』(1943年)、ウィリアム・A・ウェルマン監督でヘンリー・フォンダ主演の『牛泥棒』(1943年)、ジョエル・マクリー主演でバッファロー・ビル・コディを描いた『西部の王者』(1944年)などの作品が作られている。 そして第二次大戦が終わって後に西部劇は黄金時代を迎えて、1960年頃まで多数の名作を生んだ。また多くの俳優が西部劇で主演を演じて、その中からゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、グレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュアートらの大スターが西部劇から育っていった。 ジョン・フォード監督のヘンリー・フォンダ主演でワイアット・アープとクラントン一家との対決を描いた『荒野の決闘』(1946年)、そしてジョン・ウェイン主演で後に騎兵隊三部作と言われた『アパッチ砦』(1948年)・『黄色いリボン』(1949年)・『リオ・グランデの砦』(1950年)、今日では最高傑作とされる『捜索者』(1956年)、そしてウィリアム・ホールデンと共演した『騎兵隊』(1959年)、ハワード・ホークス監督のジョン・ウェイン主演『赤い河』(1948年)、ジョン・ウェインとディーン・マーティン主演『リオ・ブラボー』(1958年)、ヘンリー・キング監督のグレゴリー・ペック主演「拳銃王」(1950年)、デルマー・デイヴィス監督のジェームズ・スチュアート主演『折れた矢』(1950年)、そしてフレッド・ジンネマン監督のゲイリー・クーパー主演『真昼の決闘』(1952年)、ジョージ・スティーブンス監督のアラン・ラッド主演『シェーン』(1953年)、ジョン・スタージェス監督のバート・ランカスターとカーク・ダグラス主演で「荒野の決闘」と同じく西部開拓史上最も有名な決闘を描いた『OK牧場の決斗』(1957年)などの名作が世に送り出された。 この時期の『捜索者』・『真昼の決闘』・『シェーン』の3作品は、戦前の『駅馬車』と合わせてアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が1998年と2008年に行った「偉大なアメリカ映画ベスト100」で西部劇部門の最上位を占め、1998年は『真昼の決闘』が、2008年は『捜索者』が西部劇映画のトップとして評価されている。 またこの時期にジョン・スタージェス監督の「ブラボー砦の脱出」、『ガンヒルの決斗』、ロバート・テイラー主演『ゴーストタウンの決斗』そして「六番目の男」、キング・ヴィダー監督のグレゴリー・ペック主演『白昼の決闘』そして「星のない男」、ラオール・ウォルシュ監督の『死の谷』「追跡」「決闘一対三」、ヘンリー・キング監督の「無頼の群」、ロバート・アルドリッチ監督の「アパッチ」『ヴェラクルス』「ガンファイター」、ウィリアム・ワイラー監督でグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストン主演の『大いなる西部』とゲイリー・クーパー主演の『友情ある説得』、デルマー・デイヴィス監督でグレン・フォードとヴァン・ヘフリン主演『決断の3時10分』、リチャード・ウィドマーク主演「襲われた幌馬車」、グレン・フォード主演「カウボーイ」そしてゲイリー・クーパー主演『縛り首の木』、アンソニー・マン監督の『ウインチェスター銃73』『裸の拍車』『ララミーから来た男』『怒りの河』『遠い国』『胸に輝く星』『西部の人』、エドワード・ドミトリク監督でヘンリー・フォンダとリチャード・ウィドマークとアンソニー・クイン主演の『ワーロック』そして「折れた槍」、スチュアート・ギルモア監督の「落日の決闘」、フランク・ロイド監督の「アラモの砦」、ロバート・ワイズ監督でロバート・ミッチャム主演の「月下の銃声」、ニコラス・レイ監督の『大砂塵』『無法の王者ジェシイ・ジェイムス』、ジョージ・マーシャル監督の「燃える幌馬車」、オットー・プレミンジャー監督のロバート・ミッチャムとマリリン・モンロー主演で初のシネマスコープ作品『帰らざる河』、ジョン・ヒューストン監督のバート・ランカスターとオードリー・ヘプバーン主演『許されざる者』、ロバート・D・ウエッブ監督のロバート・ライアン主演「誇り高き男」、ヘンリー・ハサウェイ監督の「狙われた駅馬車」「向こう見ずの男」そしてゲイリー・クーパー主演『悪の花園』、アーサー・ペン監督ポール・ニューマン主演でビリー・ザ・キッドを描いた「左ききの拳銃」などが製作された。 そして1960年代に入るとジョン・スタージェス監督のユル・ブリンナーとスティーブ・マックイーン主演『荒野の七人』、マイケル・カーティス監督の『コマンチェロ』、ジョン・フォード監督の『バファロー大隊』『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』、また西部劇スターが製作監督してジョン・ウエイン監督で初の70ミリ作品『アラモ』、マーロン・ブランド監督の「片目のジャック」、そして西部開拓の歴史を家族の一代記としてオムニバスで描いたヘンリー・ハサウェイとジョン・フォードとジョージ・マーシャル監督の初のシネラマ作品『西部開拓史』などの作品が続々と製作された。 第二次世界大戦が終わる頃まで、アメリカ映画の大きなジャンルとして西部劇は確固としたもので人気は高かった。1930年代に西部劇の製作本数は100本を超えて、1935年には150本、戦争を挟んで1950年頃も140本近くを記録した。この製作本数の増加は、30年代から始まった二本立て興行の添え物としてB級映画が製作されて、西部劇もB級作品として50〜70分程度のB級西部劇が多数製作されたことによるものである。単純明快な活劇であり、善悪がはっきりして勧善懲悪なストーリーで、当時は西部劇なら必ず当たると言われたほどであった。この粗製乱造と言われるほど大量に作られた時期に、その試行錯誤から映像表現の技術と可能性を発展させ、また西部劇の売上げ増による資本の蓄積が映画を産業として発展させる基礎を構築し、映画王国を築く活力源となった。 B級西部劇からジョン・ウェインは育ってきたスターであり、ランドルフ・スコットやジョエル・マクリー或いはオーディ・マーフィなどもB級西部劇スターと呼ばれた。この他にはチャールズ・スターレット、フート・ギブスン、バック・ジョーンズ、ケン・メイナード、ジョニー・マック・ブラウンや『ホパロング・キャシディ』で有名なウイリアム・ボイド、そしてB級西部劇のサブジャンルとしてミュージカル西部劇が第二次大戦前後に人気となり、歌うカウボーイとしてジーン・オートリーやロイ・ロジャースがその歴史に刻まれている。 またB級西部劇の監督としてレイ・エンライト、ジョセフ・ケーン、アンドレ・ド・トス、ジョージ・シャーマン、ルドルフ・マテ、バッド・ベティカー、アラン・ドワン、ラッセル・ラウズなどが活躍し、やがてB級映画の監督から後に大作のメガホンをとる監督も現れてきた。レイ・エンライト監督のランドルフ・スコットとジョン・ウェインとマレーネ・ディートリヒ主演『スポイラース』や「西部の裁き」、ジョセフ・ケーン監督の「無法の道」「最後の駅馬車」、アンドレ・ド・トス監督の「スプリングフィールド銃」「平原の落雷」「賞金を追う男」、ジョージ・シャーマン監督の「戦いの矢」「生まれながらの無宿者」、ルドルフ・マテ監督の「欲望の谷」「三人の荒くれ者」、バッド・ベティカー監督の「平原の待ち伏せ」「決闘コマンチ砦」、アラン・ドワン監督の「私刑される女」「バファロウ平原」、ラッセル・ラウズ監督の「必殺の一弾」「バスク決死隊」などがある。 そしてB級西部劇が衰退した頃からテレビ西部劇が盛んに製作されて、テレビからスターが生まれ、西部劇映画の監督が生まれた。「拳銃無宿」のスティーブ・マックイーン、「マーベリック」のジェームズ・ガーナー、『ローハイド』のクリント・イーストウッド、そしてジェームズ・コバーン、チャールズ・ブロンソン、リー・マーヴィンがその例であり、テレビ出身の監督からサム・ペキンパー監督でランドルフ・スコットとジョエル・マクリー主演「昼下がりの決闘」、ゴードン・ダグラス監督の「駅馬車」、アンドリュー・V・マクラグレン監督の「シェナンドー河」、ドン・シーゲル監督でオーディ・マーフィ主演「抜き射ち二挺拳銃」、エルビス・プレスリー主演「燃える平原児」などの作品が生まれた。 そして、1960年代に入った頃から西部劇の人気は下降していった。ほぼ同時にテレビ西部劇も衰退して当時日本でも人気番組であった「ローハイド」もアメリカで製作中止となり出演していたクリント・イーストウッドはイタリアに渡り、セルジオ・レオーネ監督『荒野の用心棒』(1964年)で一躍マカロニ・ウエスタンが注目されると同時に彼は一気に西部劇スターの座を獲得した。クリント・イーストウッドはやがて西部劇衰退の時代に活躍することとなった。 西部劇が描く人物像は基本的に主人公は白人で、強く正しくて『勧善懲悪』をストーリーの骨子とし、そこへ応援に来たりする(陸軍の)騎兵隊は「善役」であり、それに刃向う先住民インディアンを「悪役」としたものが多い。そして劇中で描かれた白人とインディアンとの戦いには史実も多いが、戦いの原因(土地の領有権)に触れたものはほとんどなかった。 しかし、やがて史実とは違う(白人に都合のいい)内容に対する反発や反省が西部劇を衰退させる強い動因となった。戦後、多様化する価値観や倫理観の変化に勧善懲悪のドラマがついていけなくなったのである。 1940年代の半ば頃から、フロンティア精神を肯定してそこに主人公(ヒーロー)がいて無法者や先住民を倒す「西部劇」という一つの図式が崩れ始めた。1950年のデルマー・デイヴィス監督『折れた矢』は先住民は他者で白人コミュニティを脅かす存在という図式ではなく、先住民の側から描き、戦いを好むのではなく平和を求める彼らの姿を描いた。それは、当時黒人の地位向上を目指す公民権運動が次第に激しくなる時代に入り、人権意識が高まる中でインディアンや黒人の描き方が批判されるようになって、単なる勧善懲悪では有り得ない現実を浮かび上がらせ、それまでの西部劇が捨象してきた問題に対して向き合わざるを得なくなったことであった。 そしてもう一つの図式である勧善懲悪で、開拓者精神を肯定する強いヒーローがいて悪を倒すそれまでの図式も崩れていった。自分の名誉のためだけにインディアンを見下し、結果自身の連隊を壊滅させてしまう騎兵中佐(『アパッチ砦』でヘンリー・フォンダが演じたサースデイ)、町の誰からも助けてもらえない連邦保安官(『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーが演じたケイン)、復讐に執念を燃やす男(『捜索者』でジョン・ウェインが演じたエドワーズ)、農園を取り戻すだけのために賞金稼ぎとなり人を殺す農園主(『裸の拍車』でジェームズ・スチュアートが演じたケンプ)が主人公の西部劇が40年代から50年代にかけ多数製作されて、それまでの映画にあった悪に立ち向かうヒーロー像がもはや存在せず、何が正しくて何が悪いか、明らかにしないままにただ主人公の人間らしさが主になって、そこではもはやヒーローが描きにくくなったのである。 この時期になると、善悪の区別が曖昧で複雑な作品が多くなった。痛快で豪快なアクション、ヒーローと悪役との対決、派手なガンさばきを見せたりして見せ場はあっても全体としての雰囲気は重く暗いものになった。ラオール・ウォルシュ監督の『死の谷』「追跡」、アンソニー・マン監督の『裸の拍車』、キング・ヴィダー監督の「白昼の決闘」、ヘンリー・キング監督の「拳銃王」「無頼の群」、ジョン・スタージェス監督の「六番目の男」、ジョージ・シャーマン監督の「生まれながらの無宿者」、デルマー・デイヴィス監督の『縛り首の木』、ニコラス・レイ監督の『大砂塵』、エドワード・ドミトリク監督の『ワーロック』、そしてフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』などの主人公は誰からも信用されない、心にトラウマがあったり、死にたいと願ったり、孤立無援の戦いに追い込まれたりしている。それは第二次大戦が終わって未曽有の戦争を体験したアメリカ社会が、それまであった「強く正しいヒーローが大活躍する単純明快な西部劇が作りにくくなったことを示している」と川本三郎は述べている。 そしてそれはまた、この当時ハリウッドを襲った「赤狩り」という暗い空気の中で、アンソニー・マンやフレッド・ジンネマンが描いた世界が西部劇の変貌をもたらしたとも言われている。 これが1960年代に入ると、公民権運動が高まると同時に西部劇の衰退を招くこととなった。1960年にジョン・F・ケネディが大統領に就任し人種差別の撤廃に強い姿勢で臨み、これに伴い従来の製作コードが通用しなくなり製作本数も激減した。そしてイタリアなどでいわゆるマカロニ・ウェスタンと呼ばれる多くの西部劇が作られ始めると、サム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』のようにマカロニウエスタンに逆に影響を受けた作品も数多く生まれた。 こうした状況から西部劇はそれまでの単純な善悪二元論では立ち行かなくなり、1950年代初頭には年間100本ほどの製作本数が、四半世紀後の1970年代後半にはわずか1ケタの製作本数に激減していく。 やがてニューシネマの台頭でジョージ・ロイ・ヒル監督ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演の『明日に向って撃て!』のような秀作も生まれ、またアーサー・ペン監督『小さな巨人』とラルフ・ネルソン監督『ソルジャー・ブルー』が1970年に公開され、『ソルジャー・ブルー』は1864年のサンドクリークの虐殺を基に、被害者である先住民の立場に立って虐殺事件を描き、当時話題になった作品である。 1960年代から1970年代になるとマカロニ・ウエスタンの影響を受けながらも、バート・ケネディ監督の「続・荒野の七人」「夕陽に立つ保安官」、リチャード・ブルックス監督の「プロフェッショナル」「弾丸を噛め」、ドン・シーゲル監督でクリント・イーストウッド主演の「真昼の死闘」とジョン・ウェイン主演の『ラスト・シューティスト』、ラルフ・ネルソン監督の「砦の29人」、マーク・ライデル監督でジョン・ウェイン主演の「11人のカウボーイ」、ロバート・シオドマク監督の「カスター将軍」、マイケル・ウイナー監督でバート・ランカスター主演の「追跡者」、サム・ペキンパー監督でチャールトン・ヘストンとジェームズ・コバーン主演「ダンディー少佐」、ウィリアム・ホールデンとロバート・ライアン主演「ワイルド・バンチ」、アンドリュー・V・マクラグレン監督でチャールトン・ヘストン主演の『大いなる決闘』、ベテランのハワード・ホークス監督の『エル・ドラド』『リオ・ロボ』、ジョン・スタージェス監督でワイアット・アープの決闘後を描いたジェームズ・ガーナー主演の「墓石と決闘」、ヘンリー・ハサウェイ監督でスティーブ・マックイーン主演「ネバダ・スミス」とジョン・ウェイン主演の『エルダー兄弟』そして『勇気ある追跡』などの西部劇が製作された。 1970年代以後になると、クリント・イーストウッド主演・監督の『荒野のストレンジャー』(1973年)・『アウトロー』(1976年)・『ペイルライダー』(1985年)・『許されざる者』(1992年)、ローレンス・カスダン監督の『シルバラード』(1985年)、ケビン・コスナー主演の『ワイアット・アープ』(1994年)、ケビン・コスナー主演・監督の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990年)・『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』(2003年)などの秀作が生まれている。しかしかつて活劇映画として人気のあった頃の西部劇の魅力はすでに失われている。 現在において西部劇は製作されているが数少なく、過去の作品と肩を並べるような傑作を世に送り出していない。物語りとしての図式が出来ず、西部劇としてのジャンルが確立されていないからである。その一方で、時代考証や衣装設定、ガン・アクションは過去の作品とは比較できないほどの正確さで表現されており、『トゥームストーン』のような娯楽性に富んだアクション映画も作られている。 フランク・グルーバー(英語版)は、西部劇の基本的なプロットとして以下の7系統を挙げている。彼によると、優秀な脚本家はこれらの基本系統をキャラクターの台詞とストーリー開発によって、もっともらしいストーリーを作り上げていくという。1960年代から1970年代にかけて、西部劇は修正主義西部劇(英語版)の台頭によって新たな展開を見せた。 歴史上初めて製作された西部劇映画として、1899年にミッチェルとケニョン(英語版)が製作した短編映画『Kidnapping by Indians』が知られている。しばしばエドウィン・S・ポーターが1903年に製作した『大列車強盗』が「最初の西部劇映画」と誤って紹介されることがあるが、ジョージ・N・フェニンとウィリアム・K・エヴァーソン(英語版)は「『大列車強盗』製作の数年前から、エジソン社は西部劇を題材としていた」と指摘している。『大列車強盗』のヒットにより、出演者のブロンチョ・ビリー・アンダーソン(英語版)は映画史上初のカウボーイ・スターとなり、その後数百本の短編西部劇映画を手掛けたものの、すぐに西部劇スターの座をトム・ミックス(英語版)やウィリアム・S・ハート(英語版)と争うようになった。 西部劇映画黄金時代の代表作として、以下の監督と作品が挙げられている。 ジョナサン・ローゼンバウム(英語版)は1960年代から1970年代にかけて流行したアシッド・ウェスタンについて分析し、同ジャンルはデニス・ホッパー、ジム・マクブライド(英語版)、ルディ・ワーリッツァー(英語版)などの俳優や、『銃撃(英語版)』『エル・トポ』『グリーサーズ・パレス(英語版)』などの作品と関連付けられている。『エル・トポ』はアレハンドロ・ホドロフスキーが製作し、同名の主人公のガンマンが悟りの境地にいたるまでを描いた寓話的作品としてカルト映画、アンダーグラウンド映画に位置付けられており、キリスト教や東洋哲学の要素が盛り込まれている。 1980年代以降のアシッド・ウェスタンには『ウォーカー』『デッドマン』が挙げられる。ローゼンバウムはアシッド・ウェスタンについて「妄想的なアジェンダを正当化するために、冷酷で野蛮なフロンティア詩情を定式化している」と指摘し、最終的には資本主義を批判し、その代替様式を取り入れたカウンターカルチャーを表現していると結論付けている。 1960年代初頭以降、アメリカの映画製作者たちは西部劇の伝統的な要素に疑問を抱くようになり、西部劇映画は「ヒーロー対悪役」という善悪二元論からの脱却を目指し、登場人物が暴力的手段で物事の解決を図ることに観客が疑問を抱くような内容に変化していった。また、従来「野蛮人」として描写されていたネイティブ・アメリカンを積極的に題材にするようになったことも修正主義西部劇の大きな特徴の一つであり、『シャイアン』『ワイルドバンチ』『昼下りの決斗』『馬と呼ばれた男(英語版)』『砦のガンベルト』『小さな巨人』『ソルジャー・ブルー』『荒野に生きる』『アウトロー』『ダンス・ウィズ・ウルブズ』『許されざる者』『クイック&デッド』『デッドマン』が代表的な修正主義西部劇映画に挙げられる。1960年代以前に製作された作品で修正主義西部劇に該当する作品として、女性キャラクターに焦点を当てた『女群西部へ!(英語版)』や、コマンチに育てられた白人ガンマンやリーダー的立場にいる女性キャラクターが登場する『襲われた幌馬車』がある。 ブラックスプロイテーション映画の多くが西部劇要素を取り入れており、特にフレッド・ウィリアムソンが出演した作品にこの傾向が見られる。ブラックスプロイテーション・ウェスタンの代表作として『Soul Soldier』『ブラック・ライダー』『ブラック・サンダー(英語版)』『荒野の襲撃・人質救出大作戦(英語版)』『Thomasine & Bushrod』『Boss Nigger』『Adios Amigo』『黒豹のバラード』などが挙げられる。 コメディ西部劇では「西部劇」として確立された様式や題材、作家のスタイルなどをユーモア、風刺、皮肉という側面からパロディ化している。典型例が『腰抜け二丁拳銃』であり、同作では「オーウェン・ウィスター(英語版)の小説『The Virginian』や勇猛果敢なヒーロー、メインストリートでの最後の銃撃戦など、西部劇のあらゆる要素」を風刺の対象としている。 ドキュメンタリー西部劇では、アメリカ西部の歴史的な側面を描き出している。テレビシリーズの『The West』は歴史的事実に基づいた描写がされており、『Cowboys: A Documentary Portrait』では現代のアメリカ西部に生きるカウボーイをノンフィクションで描写している。 ジョン・ルービンスタイン、ドン・ジョンソン、パトリツィア・クイン(英語版)が出演した『ウェスタン・ロック ザカライヤ(英語版)』は、「最初のエレクトリック西部劇」と呼ばれている。このジャンルはアメリカ西部を舞台にロックバンドを題材にしており、『ウェスタン・ロック ザカライヤ』では1970年代に活動したジェイムス・ギャング、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ(英語版)などのロックバンドがクラッカーバンドとして出演し、音楽を提供していた。また、ダグ・カーショウ(英語版)とエルヴィン・ジョーンズがカメオ出演している。 ドミニク・スウェイン、ロン・トンプソン(英語版)、ポール・ドゥーリイが出演した『Hate Horses』は「第2のエレクトリック西部劇」を謳っている。 叙事詩的西部劇では、西部開拓時代を壮大なスケールで描くことを軸にしており、南北戦争を舞台とした『続・夕陽のガンマン』やメキシコ革命を舞台とした『ワイルドバンチ』のように時代の転換期や戦争を舞台とすることが多い。セルジオ・レオーネの『ウエスタン』は代表作の一つに挙げられ、同作ではモニュメント・バレーをワイドスケールで撮影し、様々な人間模様を描いている。この他に『アイアン・ホース』『白昼の決闘』『捜索者』『ジャイアンツ』『大いなる西部』『シマロン』『西部開拓史』『夕陽のギャングたち』『天国の門』『ダンス・ウィズ・ウルブズ』『ジェシー・ジェームズの暗殺』『ジャンゴ 繋がれざる者』『レヴェナント: 蘇えりし者』が知られている。 ネオウェスタンは、現代のアメリカを舞台に従来の西部劇の要素・価値観(秩序に反抗するアンチヒーロー、舞台が砂漠、銃撃戦)を反映した作品を指す。2007年にコーエン兄弟が製作した『ノーカントリー』がネオウェスタン映画の始まりと言われている。これらの作品はアメリカ合衆国西部が主な舞台となっており、従来の西部劇的価値観を持つ主人公が、自分たちの時代遅れの正義を否定する「文明」の中で居場所を失い苦悩する姿が描かれることが多い。ネオウェスタン映画はテイラー・シェリダンの作品から以下の3つの基本的なテーマを見出すことができる 。 「クラッカー・ウェスタン(Cracker Westerns)」とも呼ばれ、フロリダ州を舞台に第二次セミノール戦争(英語版)を題材としている。代表作として『遠い太鼓』が挙げられる。 アラスカ州やカナダ西部を舞台とした西部劇を指し、『北西騎馬警官隊』『The Spoilers』『スポイラース』『遠い国』『アラスカ魂』『デス・ハント』『The Grey Fox』が挙げられる。 ウィアード・ウェストは古典的西部劇に他の要素(ファンタジー、SF、ホラー(英語版))を組み合わせた作品を指す。『0088/ワイルド・ウエスト』『ワイルド・ワイルド・ウエスト』では西部劇にスチームパンクの要素を組み合わせており、『ジョナ・ヘックスシリーズ』では西部劇にスーパーヒーローの要素を組み合わせている。『Western Religion』では従来の西部劇の世界に悪魔が登場し、オールドマン・ローガンのグラフィックノベルでは西部劇にスーパーヒーローと終末世界の要素が取り入れられている。 1960年代から1970年代にかけて、イタリアでは「スパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Westerns)」「イタロウェスタン(Italo-Westerns)」と呼ばれる西部劇映画が製作された。最も有名な作品としてドル箱三部作の第3作『続・夕陽のガンマン』が挙げられる。マカロニ・ウェスタンの多くは低予算で、アメリカ合衆国南西部の風景に酷似しているスペインのアルメリア、メキシコのデュランゴなどで撮影された。また、ハリウッド西部劇よりもアクションや暴力描写が多く、主人公は正義感よりも金銭や復讐など利己的な動機で行動することが大半だった。マカロニ・ウェスタンの中には西部劇の伝統的様式を否定する作品も見られ、そうした作品は修正主義西部劇に含まれる。 マカロニ・ウェスタンの代表的な監督であるセルジオ・レオーネの作品は、ハリウッド西部劇映画とは異なる様式で製作されている。マカロニ・ウェスタンで成功した俳優にはチャールズ・ブロンソン、リー・ヴァン・クリーフ、クリント・イーストウッドがおり、この他にもジェームズ・コバーン、ヘンリー・フォンダ、ロッド・スタイガー、クラウス・キンスキー、ジェイソン・ロバーズ、ジャン・マリア・ヴォロンテ、イーライ・ウォラックが知られている。テレビシリーズ『ローハイド』以外のヒット作に恵まれていなかったイーストウッドは、レオーネ監督作品『荒野の用心棒』への出演をきっかけにスター俳優の地位を手にすることになった。 オーストラリアの西部劇映画は「ミートパイ・ウェスタン(Meat pie western)」と呼ばれ、アウトバックやブッシュ(英語版)が主な舞台となっている。これらの作品はアメリカの西部劇のスタイルを踏襲し、オーストラリア先住民がインディアン役を演じることが多い。 『トラッカー(英語版)』はオーストラリアン・ウェスタンの典型的な作品に挙げられ、過酷な砂漠地帯を舞台にアボリジニの搾取、正義への渇望がテーマとして描かれている。この他に『Rangle River』『Kangaroo』『The Kangaroo Kid』『サンダウナーズ』『ブラッディ・ガン(英語版)』『Ned Kelly』『スノーリバー/輝く大地の果てに(英語版)』『プロポジション -血の誓約-(英語版)』『Lucky Country』『スウィート・カントリー(英語版)』が知られている。 ボリウッドの『炎(英語版)』は、しばしば「カレー・ウェスタン(curry Western)」と呼ばれる。同作は『マザー・インディア(英語版)』『Gunga Jumna』などのダコイト映画とマカロニ・ウェスタンの要素を組み合わせた作品であり、「ダコイト・ウェスタン」と称される独自のジャンルを確立した。 チャーロ・ウェスタン(英語版)はアクション俳優だけではなくミュージカル俳優が多く出演し、1930年代以降にメキシコ映画で主流となった。1930年代から1940年代にかけてはメキシコ農村部の騎手を主人公とした作品が多く、ハリウッドの主流西部劇映画とは一線を画した作風となっていたが、1950年代から1970年代にかけてはハリウッド西部劇との文化的融合が進んでいった。この時期の代表作としてイスマイル・ロドリゲス(英語版)の『Los Hermanos Del Hierro』、ホルヘ・フォンス(英語版)の『Cinco Mil Dólares de Recompensa』、アルトゥーロ・リプスタインの『Tiempo de morir』がある。チャーロ・ウェスタンの最も著名な映画製作者としてアルベルト・マリスカル(英語版)が知られている。 西ヨーロッパで製作された西部劇であり、マカロニ・ウェスタンを含める場合がある。代表作として『荒野の愚連隊(英語版)』が挙げられる。ドイツが製作した西部劇映画は「ザワークラウト・ウェスタン(Sauerkraut Westerns)」と呼ばれ、主にカール・マイの小説を原作としてユーゴスラビアで撮影された。ドイツではアメリカ人俳優のレックス・パーカー主演で、1961年から1965年にかけて『アパッチ』『大酋長ウイネットー』『シルバーレークの待ち伏せ』などが製作された。これらの映画には、アメリカの俳優でハリウッドでは作品に恵まれず、ドイツやイタリアに行った俳優が多かった。ザワークラウト・ウェスタンで最も人気があったのは、アパッチを主人公とした『Winnetouシリーズ』だった。この他に『The Unhanged』『悪党に粛清を』『ブリムストーン(英語版)』『The Dark Valley』が知られている。 「ファソラーダ・ウェスタン(Fasolada Westerns)」(ファソラーダ(英語版):ギリシャの国民食)と呼ばれ、アカデミー国際長編映画賞ギリシャ代表作品(英語版)に選出された『Blood on the Land』が知られている。 ソビエト連邦や東ヨーロッパが製作した作品を指し、「イースタン(Eastern)」「レッド・ウェスタン(Red Western)」と呼ばれる2つのジャンルが存在する。冷戦時代の東側諸国では人気のジャンルで、特にヨシフ・スターリンのお気に入りだった。レッド・ウェスタンではハリウッド西部劇とは対照的に、インディアンを「虐げられた弱い者が、自分の権利のために立ち上がる」という形で描写することが多く、ジプシーやトルコ系人種がインディアン役を演じていた。イースタンではコーカサスのステップが舞台になることが多く、「カウボーイとインディアン」に代わる存在として「盗賊とハレム」が登場する。代表作として『砂漠の白い太陽(英語版)』が挙げられる。 「ラーメン・ウェスタン(Ramen Western)」はアジアを舞台とした西部劇映画を指し、『タンポポ』で初めて使用された。代表作として『荒野の渡世人』『冒険活劇 上海エクスプレス』『EAST MEETS WEST』『Tears of the Black Tiger』『ロケットマン!』『さらば復讐の狼たちよ』『許されざる者』『マルリナの明日(英語版)』『バッファロー・ボーイズ(英語版)』『グッド・バッド・ウィアード』『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』が挙げられる。 日本では戦前から西部劇の人気は高く、戦後特に1960年前後にはガン・ブームと呼ばれる現象が生まれ、当時日活が無国籍映画と言われる西部劇のような活劇を作ったりしたが特筆されるほどではなかった。ただ時代劇の分野で黒澤明監督「七人の侍」がアメリカでリメイクされてジョン・スタージェス監督「荒野の七人」となり、「用心棒」が「荒野の用心棒」となり、西部劇の世界に影響を与えることとなった。 コロンブスがアメリカ大陸に到達した時には、北米大陸にもすでに先住の民族がいた。北米大陸に着いた時にインドに着いたと勘違いして先住民をインディアンと呼んだ話は有名だが、17世紀初めにイギリス人が最初の植民地を作った頃に北米にはおよそ人口100万人、部族の数では約500余りが暮らしていたと言われている。しかし西部開拓が進む頃から白人との戦いが始まった。西部開拓の歴史はまた先住民迫害そして虐殺の歴史でもあった。そして西部開拓時代の1870年には人口がわずか2万5千人に激減している。 20世紀初頭の黎明期の西部劇では、インディアンをヒーローとして扱ったものもあったが、西部劇がアクション中心の娯楽映画に移行するとインディアンは『フロンティア』を害する悪役となり、白人開拓者にとっては邪悪と凶暴さの象徴であった。 西部劇は、インディアンのイメージを決定付けた。劇中に登場するインディアン達は、決まって馬にまたがって派手な羽飾りをつけ、手斧を振り回し、「アワワワワ」と鬨の声を挙げて襲ってくる。これらは馬にまたがり、羽飾りをつけること以外は出鱈目なものである。彼らの衣装も、撮影所のデザイナーが考えたものであり、またそのほとんどが、白人たちが演じており、資料的価値は皆無である。 また、西部劇には「号令一下、全インディアン戦士を従わせる大酋長(Grand Chief)や戦争酋長(War chief)」が登場するが、これはインディアン文化に対する白人の誤解から生まれたものである。基本的にインディアンの社会は合議制民主主義社会であり、このような絶対権力者は存在しない。「大酋長」も「戦争酋長」もまったくのフィクションであり、現実には存在しない西部劇の中のキャラクターなのにも関わらず、これが全世界で公開されることで、「酋長は部族長である」といった、誤ったインディアンに対する認識をさらに広めることとなってしまった。 平原の部族の風俗である羽飾りをつけ、無表情に片言の英語を喋る(日本語の台詞では「インディアン、ウソツカナイ」はこの典型である)このステレオタイプは、その後世界中の人々が「インディアン」と聞いて真っ先に頭に思い浮かぶイメージとなった。ラジオやTVのシリーズ『ローン・レンジャー』に出てくる、主人公の相棒であるインディアンの「トント」は、インディアンの間では「白人にへつらうインディアン」の代名詞となっている。 1950年代に入って、このようなインディアンの描き方に対する反省から『折れた矢』「アパッチ」が製作され、1960年代に入ると、『モホークの太鼓』(1939)で典型的なインディアンの描き方をして以後も悪役としてのインディアンしか描いてこなかったジョン・フォードが「シャイアン」(1964)でシャイアン族の悲劇を描くようになり、1970年には『ソルジャー・ブルー』で騎兵隊がインディアンを虐殺する場面が描かれている。 1960年に「片目のジャック」を監督・主演したマーロン・ブランドは、インディアン権利団体『アメリカインディアン運動』(AIM)に賛同し、同団体設立当初から助言と運動をともにしていたが、1973年に映画『ゴッド・ファーザー』でアカデミー賞を受賞した際、授賞式に「インディアン女性」を代理出席させ、ハリウッド西部劇において、いかにインディアンが理不尽な扱いを受けているかメッセージを代読させた。 映画俳優でAIMの運動家でスポークスマンをも務めるラッセル・ミーンズはハリウッド映画についてのインタビューに答え、こう述べている。 1940年代のある土曜日の午後に、私は弟のデイスと二人でカリフォルニアのバレーホにあるエスクァイア映画劇場へ映画を観に行ったことがあります。その映画にはカウボーイとインディアンが出てきて、満場の観客たちが大喝采する中、進軍ラッパが鳴り響き、騎兵隊が撃ちまくり、否も応もなしにインディアンがぶち殺されるんです。デイスは、とても見ていられない様子でした。彼は、顔を手で覆っていました。あなたが8歳か9歳だった頃、私たちはそんなふうだったんです。あなたは多分、今度の映画(『ラスト・オブ・モヒカン』)はそれと違ってインディアンが勝つかもしれないなと思うでしょうね。まあそれからその後で、私たちは映画館を出るわけです。 ガンマンが題材となることの多い西部劇には、正確な考証に基づくものから近現代の銃器を手直ししてそれらしく見せかけたものまで、様々の銃器が小道具として登場した。中でも象徴的なのがコルト・シングル・アクション・アーミー(SAA)リボルバー、通称「ピースメーカー」や、コルトM1851のようなシングルアクション回転式拳銃である。SAAはコルト社の最高傑作と言われる名銃で1873〜1940年までの67年間に35万挺が製造されている。 腰の、ベルト付きホルスターにシングルアクションの回転式拳銃を収めたカウボーイスタイルは、映画に登場する西部ガンマンの定番であった。日本においても、西部劇人気の高まりと共にコルト45のようなシングルアクション拳銃の知名度は上昇し、多くのメーカーからトイガン製品が販売された。 この時代のシングルアクション拳銃には様々なバリエーションが存在するが、特にマカロニ・ウェスタンにおいて、主役は5.5インチの金属薬莢式、悪役のボスは7.5インチなどの長銃身で大型、その他大勢は4.75インチの金属薬莢式拳銃や、パーカッション式リボルバーという具合に、持ち主の役どころにより銃の種類が決められている場合が多かった。 目にも止まらぬ抜き撃ち連射、華麗なスピンといったガンプレイに習熟することが主演スターには要求され、ゲイリー・クーパーは『平原児』(1936)でセシル・B・デミルと話し合った結果、二丁拳銃の抜き撃ちを2週間猛練習し、名場面を作りあげた。 映画がカラーになり、やがてワイド化して横長画面になった頃、1950年代中期以降は朝鮮戦争の帰還兵士であったレッド・ロッドウィングが銃器類の取り扱い指導者になり多くのスターに拳銃の技を伝授した。このガン・プレイの指導にはアルヴァ・オジャラやドイル・ブルックスなどの名前が伝わっているが、遡ると映画がサイレントからトーキーになった頃に、まだデビュー前のジョン・ウェインにガン・プレイを指導したのはあのワイアット・アープ本人であったという話がある。 引き金を引いたままで拳銃を抜き、撃鉄をもう一方の手で連打することで高速に連射する「ファニング」と呼ばれるテクニックは、『荒野の決闘』で名バイプレーヤーワード・ボンドが初めて披露した技である。 なお、ジョン・ウェインはコルト6連発銃によるガンプレイが実は巧かった(「捜索者」でその片鱗を披露している)が大柄(やや太めのウェスト)過ぎて似合わないのでジョン・フォード監督のアドバイスでウィンチェスター銃(ライフル)を愛用したと伝えられる。そして後にライフル銃を持つとこれほど似合う俳優はいないと言われた。 そのウィンチェスター銃はオリバー・ウィンチェスターが考案したライフルで、最初は6連発のライフル銃であったが、SAAが売り出された同じ1873年に17連発の「73年型ウィンチェスター銃」(M1873通称ウィンチェスター銃73))が登場して、このウィンチェスター73も1873〜1932年の59年間に72万挺製造され当時の西部に広く普及したと言われている。ただし当時のアメリカ陸軍には不評で、19世紀に騎兵隊などの軍関係にはウインチェスター銃は使われていない。したがって歴史的には騎兵隊がライフル銃を使う場合はウインチェスター銃ではなく単発のスプリングフィールド銃が使われており、1876年にカスター将軍以下の第七騎兵隊がリトルビッグホーンでインディアンに全滅したのはインディアン側は連発のウインチェスター銃で、騎兵隊側は単発のスプリングフィールド銃を使っていたからという「まことしやかな説がある」と言われている。しかし西部劇映画では騎兵隊がウインチェスター銃で射ちまくる場面がよく見られるという。またテレビ「拳銃無宿」に主演したスティーブ・マックイーンが愛用していた銃は、このウインチェスター銃の銃身を短くした通称ランダルカスタムと呼ばれる銃である。ちなみに映画やテレビで使われるウインチェスター銃は有名なM1873ではなく後継のM1892が使用されている。 この「シングル・アクション・アーミー」と「ウィンチェスターM1873」の2つの銃が後に「西部を征服した銃」と呼ばれている。
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3,112
恋愛映画
恋愛映画(れんあいえいが)は、ロマンス映画やラブ・ロマンスともいわれる映画のジャンルで恋愛を主題に描く映画のジャンル。楽しい恋、コメディタッチなロマンティック・コメディや悲劇の恋、三角関係、不倫と様々な範囲にわたる。既存の文芸作品をベースにしたものとオリジナルストーリーによるものとがある。また、恋人との別離や死別を扱ったものの中には、歴史的な事件、戦争を背景にしたものも少なくなく、その多くは映画史に残る名作となっているものも多い。同性同士の恋愛を扱ったものは、レズビアン・ゲイ映画に区分されるものもある。
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3,113
サスペンス映画
サスペンス映画(サスペンスえいが)は、観客の緊張感を煽ることを狙いの一つにしている映画のジャンル。サスペンスの語源は、人の心を宙吊りにするという意味で、ズボンのサスペンダーと同源である。項目サスペンスを参照。 連続殺人や真犯人との心理戦、猟奇性の濃厚な犯行などが特徴。 心霊や超能力等の超自然現象的要素が、一切絡まないのが大前提条件とされる。
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3,114
高水準言語
高水準言語(こうすいじゅんげんご、high-level programming language、高級言語とも)とは、記述の抽象度が高いプログラミング言語のことである。対義語は機械語やアセンブリ言語を指す「低水準言語」である。「高級言語」の対は「低級言語」である。 抽象度が特に高いプログラミング言語という意味で代表的な言語としては、C言語やJavaがある。 高水準言語は、低水準言語と比べ、 といったことが特徴である。 高水準言語とハードウェアとの間には、大きなセマンティックギャップがある。そのギャップを埋めるのがコンパイラやインタプリタといったプログラミング言語処理系であるわけだが、これを効率化するため、過去いろいろな努力がおこなわれてきた。 ひとつめは、ハードウェアを高水準言語の側に寄せる努力である。古くは1961年のバロース B5000という例があり、LISPマシンや、近年でもメインフレームにはCOBOLの1命令(MOVEやADD等)をほぼ1つの機械語に変換できるアーキテクチャを持つものや、ARMアーキテクチャのJazelleのように中間表現を実行できる、といったものがある。(高水準言語マシン) ふたつめは、コンパイラが生成するプログラムやインタプリタが、高性能になるようにする、という努力である。RISCは、あえてハードウェアを単純にし、コンパイラに高性能なプログラムを生成させよう、という方向であった。一方で、コンパイラが利用しやすいような複雑な命令を用意したTRONCHIPのような例もある。
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ナイアガラ・レーベル
ナイアガラ・レーベルは、かつて大滝詠一が主宰していたレコードレーベル。現在は坂口修(女婿・音楽評論家)ら大瀧家の親族が継承し、生前の作品の原盤管理を行っている。 ナイアガラという名前は、大滝=「大きい滝」の代表格であるナイアガラの滝にちなんで付けられた。レコード盤(CD)のレーベル面には"Fussa Tokyo Niagara Records"と表記されている。 大滝が自身の1stソロ・アルバム『大瀧詠一』の原盤管理に関して、ベルウッド(キングレコード)に疑問を抱いたことが発端。同社ではマスターテープ以外のレコード製作過程のマルチテープの音源が廃棄され、未発表の原盤のほとんどが失われてしまっていた。大滝は「全ての音源を守るには自分で原盤権を持たなければならない」と自身の作成する原盤すべてを管理・保存することを目的に、1974年にザ・ナイアガラ・エンタープライズという会社を設立。パシフィック音楽出版(PMP、現・フジパシフィックミュージック)も出資し、PMPが制作費を出す代わりに出版権を持つことになった。 なお『大瀧詠一』の原盤は、マスターテープ以外はキングレコードには残されておらず、ボーナストラックに収録された楽曲は、大滝が個人的に所有していたものである(『大瀧詠一』ソニー再発盤の解説より)。 1975年4月にその会社から発売された初の作品が、シュガー・ベイブのシングル「DOWN TOWN」、およびアルバム『SONGS』である。大滝自身がナイアガラ・レーベルからアルバムを発売するのは、翌月の『NIAGARA MOON』が最初となる。 70年代は、大滝にとっては不遇の時代であり、彼の世間での知名度は皆無であった。 1973年より担当していた「三ツ矢サイダー」のCMソングをレコードにしてくれる会社はないかと1974年頃に、各レコード会社を回るが「CMをレコードにするなんて、バカなことを言うな」と断られる。しかしエレックレコードにいた後藤由多加が、唯一「面白いじゃない」と言ってくれ、「どうせやるならCMレコードだけじゃなくレーベルを作ってやってみようか」と言われエレックレコードと契約し、プライベート・レーベル「ナイアガラ・レコード」を設立した。また、レコード会社の原盤管理に疑問を抱き、個人事務所「ザ・ナイアガラ・エンタープライズ」を設立し、自分の作品の原盤権を当該会社で管理するようになる。所属第1号アーティストはシュガー・ベイブであった。ところが、始まった途端、エレックレコードは倒産する。 シュガー・ベイブのシングル「DOWN TOWN」、アルバム『SONGS』を発売。 大滝詠一のソロ・アルバム『NIAGARA MOON』を発売。 前年のエレックレコード倒産に伴い日本コロムビアに移籍。16チャンネルテープレコーダを貰うことを条件に、3年で12枚のアルバム制作契約を結ぶ。アルバムは制作されたが当時の世間の大滝の作品への評価は皆無に等しく、大滝周辺やナイアガラ・レーベル作品の愛好者にしか受けなかった。因みに大滝作品およびナイアガラレーベル作品の愛好家は「ナイアガラー」と呼ばれている。大滝作品は制作作品数が多い割りに売れなかったため、会社に経営の危機をもたらすことになり(『NIAGARA CALENDAR』収録の「名月赤坂マンション」はこの会社存続の危機を歌にしたノンフィクションソングである。)、その後会社はCBSソニー移籍まで休眠状態となり、運営をPMPに委託する状態となる(1978年頃のコンサートのパンフレットでは、会社の所在地が当時PMPの本社があったニッポン放送内となっている)。 大滝詠一のソロ・アルバム『GO! GO! NIAGARA』を発売。 山下達郎、伊藤銀次とのアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』を発売。 レーベル設立の当初の目的であったCMソング集アルバム『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』を発売。 大滝のプロデュースによるシリア・ポールのソロ・アルバム『夢で逢えたら』を発売。 インストゥルメンタル・アルバム『多羅尾伴内楽團 Vol.1』を発売。 大滝詠一のソロ・アルバム『NIAGARA CALENDAR』を発売。 インストゥルメンタル・アルバム『多羅尾伴内楽團 Vol.2』を発売。 雑誌の読者投票により選曲した大滝詠一のベスト・アルバム『DEBUT』を発売。 アルバム『LET'S ONDO AGAIN』を発売。 前年に発売されたアルバム『LET'S ONDO AGAIN』の制作を最後にコロムビアとの「3年間でアルバム12枚」という、レーベルとしての契約を終了。 前述の契約にアルバムが1枚足りていなかったこともあり、ナイアガラ・レーベル非公認カタログとしてコンピレーション・アルバム『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売される。 アルバム『A LONG VACATION』の大ヒットや、松田聖子の「風立ちぬ」などを手掛けたことにより徐々に名が知られ始める。セールス面などで見ると大滝の絶頂期といえる。 CBS・ソニーレコード(後のソニーレコード、現在のソニー・ミュージックレコーズ)に移籍。当時PMPの常務だった朝妻一郎は、本来ならPMPの元上司であった羽佐間重彰が社長を務めるキャニオンレコード(現ポニーキャニオン。PMP、キャニオンともニッポン放送の子会社だった)に移籍させるのが筋だが、大滝の音楽はキャニオンには合わないと考え、CBS・ソニーに移籍させた。一方大滝はコロムビアとの契約終了後、楽曲提供でCBS・ソニーのディレクターからの発注が多かったことから移籍先を決めたと語っていた。 3月21日に発売されたアルバム『A LONG VACATION』のヒットがきっかけで大滝の名が世に広く知られるようになる。このヒットは「5年間も売れなかったアーティストが突如売れ出すことは奇跡」ということを言った業界人もいたほどの出来事だった。 コロムビアで制作したアルバムのうち6作品をCBSソニーから再発売。コロムビアで制作した音源のうち、上記6作品に収録されていない楽曲の一部を集めて再構成したオムニバスアルバム『NIAGARA FALL STARS』を発売。 インストゥルメンタル・アルバム『Sing ALONG VACATION』を発売。 佐野元春、杉真理とのアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』を発売。 井上鑑アレンジのインストゥルメンタル・アルバム『NIAGARA SONG BOOK』を発売。 CMソング集続編および、大滝歌唱楽曲コマーシャルスポットなどを収録した『NIAGARA CM SPECIAL Vol.2』を発売。 映像作品『NIAGARA SONG BOOK』の映像版をサブレーベルのKeg-onより発売(後年DVDで再発売)。 アルバム『EACH TIME』を発売。大滝詠一名義では最後のオリジナル・アルバムとなる。 1981年の再発売から漏れたコロムビアでの制作アルバム5作品をセットにした『NIAGARA BLACK VOX』を発売。 井上鑑アレンジのインストゥルメンタル・アルバム『NIAGARA SONG BOOK 2』を発売。 コンピレーション・アルバムとして『B-EACH TIME L-ONG』を発売。 プロモーション・オンリー・アルバム『SNOW TIME』(非売品)を制作する。当時最新メディアだったCDに加え、その後カセットテープとアナログレコードも制作された。 大滝自身の全てのアナログ・シングルを廃盤にする。これは本人曰く「邦楽第一号のCDがアルバム『A LONG VACATION』であったため、人一倍レコードに思い入れのある自分がCDの普及を早めた」とのことである。これにより大滝の歌手活動は、長期休業にはいる。 『NIAGARA BLACK VOX』をリマスタリングの上、ボーナストラックを追加したCD-BOXセット『NIAGARA BLACK BOOK』を発売。 過去の作品のリマスターを活発に行う。1990年代半ばにプロデューサー業を一時再開し、大滝自身も12年ぶりのシングル「幸せな結末」を発売。 1980年代のカタログを「CD選書」シリーズにてリイシュー。 山下達郎「パレード」がeast west japanよりシングルカットされる際にナイアガラレーベル(青レーベル)を使用。シュガー・ベイブ『SONGS』もリイシューされ、再発盤としては異例の大ヒットを記録。 大滝がダブル・オーレコード取締役に就任。ダブル・オーではサブレーベルのYoo-Looを使用。 1970年代のカタログを「CD選書」シリーズでリイシュー開始。1997年まで続けられる。 渡辺満里奈のアルバム『Ring-a-Bell』のプロデュースを担当。 『SNOW TIME』がリマスタリングおよび、ボーナス・トラック追加にてCD化。一般発売される。 ダブル・オーレコード解散。大滝が12年ぶりのシングル「幸せな結末」をリリース。ミリオン・ヒットを記録。 2005年からは「ナイアガラ30周年事業」と題して、1970年代から80年代にかけての作品をリマスター盤で再発している。また、2003年には最後の新曲である「恋するふたり」を発売している。しかし2013年12月30日の大滝の死去により、2014年以降は親族が過去作品の原盤管理を行い、リマスタリング・再編集・未発表作品の発掘などを監修する形でレーベルの活動を継続している。 1980年代のカタログを「20th Anniversary Edition」としてリマスター開始。 初のトリビュート・アルバム『ナイアガラで恋をして』が発売される。 大滝が6年ぶりのシングル「恋するふたり」をリリース。事実上最後のシングルとなった。 1970年代のカタログを「30th Anniversary Edition」としてリマスター開始。 これまでナイアガラ・レーベル非公認カタログ扱いだった『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』を、『TATSURO FROM NIAGARA』としてナイアガラ・レーベルよりオフィシャル・リリース。 1980年代のカタログを「30th Edition」としてリマスター開始。 12月30日午後5時30分ごろ主宰の大滝詠一が東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で倒れ、病院に搬送されたが、午後7時ごろ、解離性動脈瘤でこの世を去る。享年65。 12月3日、葬儀で流され、マスターテープの存在を家族にのみ知らせていたという「夢で逢えたら」のセルフカバーを収録した初のオールタイム・ベスト『Best Always』を発売。このアルバムでは、娘婿で音楽プロデューサー・音楽評論家の坂口修がナイアガラ・エンタープライズを継承していることが、スタッフ・クレジットで明らかになっている。 同日、大滝詠一が生前に自宅で愛用していたジューク・ボックスに収められていた洋楽オールディーズ楽曲を集めたコンピレーション・アルバム『大瀧詠一のジュークボックス』が、3タイトル(ワーナーミュージック編、ユニバーサルミュージック編、エルヴィス・プレスリー編)同時発売。いずれも"Niagara Records"のロゴが入り、ナイアガラのカタログとして発売された。 3月21日、CDのみでの『SNOW TIME』で世に出ていた森進一に楽曲提供した「冬のリヴィエラ」のセルフカバー「夏のリビエラ」、ベストアルバム『Best Always』に収録した「夢で逢えたら」のベストアルバム『Best Always』とボックスセット『NIAGARA CD BOOK II』の同時購入者特典として抽選で300名にのみプレゼントされた、「夢で逢えたら」のレコードB面に収録されていた大滝の歌声とストリングスのみのバージョンの「夢で逢えたら (Strings Mix) 」を含めた、大滝の死後にスタッフがスタジオの遺品整理中に発見した提供曲のセルフカバーを収録した新作とも言われているアルバム『DEBUT AGAIN』を発売。アルバムには1981年12月の「ヘットホーンコンサート」で「二度と歌わない」と前置きして歌われた松田聖子への提供曲「風立ちぬ」のライブ音源も収録された。 3月21日、シリア・ポールの『夢で逢えたらVOX』と同時に、「夢で逢えたら」のオリジナル及びカヴァー作品として、その当時存在が確認された86曲を収録したコンピレーションアルバム『EIICHI OHTAKI Song Book III 大瀧詠一作品集Vol.3「夢で逢えたら」(1976~2018)』を発売。 11月3日、インディーズ系アーティストたちが大瀧の楽曲をカバーしたトリビュート・アルバム『大瀧詠一 Cover Book -ネクスト・ジェネレーション編-「GO! GO! ARAGAIN」』がアナログ盤で発売される(12月3日にCD盤も発売される)。ナイアガラ・エンタープライズの坂口修がプロデューサーとなり、ザ・ナイアガラ・エンタープライズの楽曲管理部門「ARAGAIN」(NIAGARAの逆読み)名義を使っている。 3月21日、1983年7月24日、森進一に楽曲提供した「冬のリヴィエラ」のセルフカバー「夏のリビエラ」、薬師丸ひろ子に楽曲提供した「探偵物語」、「すこしだけやさしく」を大滝自ら歌唱披露した西武ライオンズ球場(現:メットライフドーム)のライブ音源(当日、マルチトラックレコーダーで録音していたライブ素材をCD化に際してミックスダウンした。)の初CD化となるライブアルバム『NIAGARA CONCERT '83』が発売。初回版限定生産盤はCD枚とDVD1枚の構成で、CD2枚目は大滝が生前ライブでオールディーズナンバーを歌ったライブ音源のみを様々なライブの残されたテープから集めた『EACH Sings Oldies from NIAGARA CONCERT』、DVDは1977年6月20日のナイアガラレーベル最初のライブ映像を収録した『THE FIRST NIAGARA TOUR 1977/6/20 渋谷公会堂』である。ソロになってから大滝はエレック~コロムビア時代の歌唱を伴わない数回の取材対応を除き顔出しでのテレビ出演を拒否していたため、歌番組での歌唱映像がなく、動く大滝の姿が見られるのは、この時点ではDVD化されたあがた森魚が監督を務めた映画『僕は天使ぢゃないよ』とこのライブDVDのみで、歌唱姿だけだとこのライブDVDのみである。同ライブDVDには同ライブで披露された布谷文夫の『ナイアガラ音頭』も収録されており、貴重な布谷の歌唱姿も見られる。なお、CDに収録されている83年のライブに関しては、同時に出演したラッツ&スターとサザンオールスターズに関してはテレビ放送もされた映像が残っているが、大滝パートではカメラを反対向きにさせるなど徹底して如何なる記録映像も拒否する事を条件に出演したため、数枚の写真以外は残されていない。
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白浜
白浜(しらはま、はくひん) 日本人の姓のひとつ。 海岸名は白浜海岸参照。
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枝豆
枝豆(えだまめ)は、大豆を未成熟で緑色のうちに枝ごと収穫し、ゆでて食用にするもの。そのため豆類に分類されず、緑黄色野菜に分類される。 ダイズ(大豆)の未成熟の果実を若採りしたものを枝豆という。ダイズには日長が短くなると花芽ができる短日性の秋ダイズと、日長には影響を受けない夏ダイズがあり、枝豆は夏ダイズに属する。品種としては、実りが秋までかかる晩生種を成熟させて大豆として収穫するのに対し、早生種の未成熟な果実を夏場に枝豆として収穫する。日本においては主力品種である「錦秋」などに加えて、収量が多い、豆の粒が大きい、食味が良いといった方向性で新しい品種の開発が行われている(秋田県農業試験場「あきたのほのか」、サカタのタネ「とびきり」など)。枝豆向きの品種を成熟させて大豆として収穫することは、種子を得る場合を除き、通常は行われない。 大豆の起源は東アジアといわれ、日本や中国では大豆の代表的な食べ方の一つである。日本で枝豆が食べられるようになったのは17世紀ごろといわれている。主な旬は夏6 - 9月で、大豆と野菜の両方の栄養をあわせて摂ることができ、大豆にはないビタミンCを多く含んでいるのが特徴である。サヤの緑色が濃く、ふっくらとして産毛が密生しているものが良品とされる。サヤの膨らみがないものは実が未熟で、サヤが黄色いものは熟しすぎで食味は落ちる。種子(豆)が成熟すると特有の風味をもたらす香気成分や甘みの成分である還元糖、アミノ酸、アスコルビン酸などが減少することが報告されている。収穫後の品質保持には低温貯蔵が有効とされている。 原産地は東アジア、中国といわれている。『日本書紀』(693年)に、大豆(豆)が五穀の一つとして書かれている。奈良・平安時代には既に現在の形で食されていたとされている。鎌倉時代の僧、日蓮が寄進を受けた信徒に宛てた礼状「松野殿女房御返事」には「(略)、枝大豆・ゑびね、旁の物給び候ひぬ」とある。戦国時代にずんだ餅が生まれたといわれ、発案者を伊達政宗として太刀で枝豆を砕いて食べたという説がある。江戸時代に書かれた『俗事百工起源』(1771年)には、夏になると路上に枝豆売りの姿があったという。現在のように枝から鞘を外した状態ではなく、枝についたままの状態で茹でたものが売られており、当時はその状態で食べ歩いていることから現代のファストフードのような存在だった。この状態のものを「枝付き豆」または「枝成り豆」と呼び、それが「枝豆」の名前の由来とされている。 明治初期(19世紀末)、庄内藩でだだちゃ豆の元になった「小真木」が育成されたと伝えられている。昭和期(1974年)に、雪印種苗が早生でさやの大きな品種を配合させる研究を重ねた枝豆専用品種「サッポロミドリ」を発売し、ヒット商品となった。冷凍技術が大きく発達するようになると、2003年(平成15年)にJA鶴岡が「殿様のだだちゃ豆」フリーズドライを発売、2005年(平成17年)には北海道中札内村の大規模瞬間冷凍施設で作った「大袖の舞」が人気となった。 生の枝豆には可食部100グラム (g) あたり、熱量は135キロカロリー (kcal) 、水分は約71%含まれ、残りはタンパク質11.7 g、炭水化物8.8 g、脂質6.2 g、灰分1.6 gが含まれる。大豆と同様に栄養価が高く、植物性タンパク質や脂質、ビタミンE、食物繊維、カルシウム、鉄分に富むことに加え、ビタミンB1・B2は野菜の中では特に多く、大豆にはないカロテン、ビタミンC、カリウムも豊富に含まれている。サヤごと茹でることによって、これら栄養素の流出を防ぐことができる。新鮮なうちにサヤごと塩ゆでにしておけば、枝豆が本来持つ旨さや栄養を維持できる。ビタミンB1を多く含んでいるため、新陳代謝を活発にして夏バテを防ぎ、アルコールの分解を促進して悪酔いを軽減して肝臓を守る働きもする。枝豆に含まれるアミノ酸の一種であるメオチニンもアルコールから肝臓や腎臓を守る働きがある。 大豆の未熟果には、他の野菜ではあまり見られないサポニンやレシチン、イソフラボンなどの大豆特有の成分を持っている。サポニンは血液中のコレステロール値を下げ、レシチンは細胞の活性化に役立ち、内臓や神経を若々しく保つのに必要な成分といわれている。イソフラボンは女性ホルモンに似た働きをすることが知られている。 元々枝豆は、ダイズの未熟果を食べていたが、現在では大豆と枝豆専用種に分けられている。ダイズから枝豆として栽培されているものは、色の違いから白毛豆(別名:青豆)、茶豆、黒豆の3系統に大別される。 日本には、各地で在来種が栽培されており、枝豆の品種が400以上あるといわれている。特に東北地方では、地方ごとに独自の品種が栽培されており、有名なところでは山形県の「だだちゃ豆」、福島県の「かおり枝豆」、岩手県の「におい豆」、新潟県の「くろさき茶豆」「いうなよ」などが知られる。変わったものでは、丹波地方の黒豆の枝豆や、10月ごろに収穫される秋田県の「十月豆」などがある。品種によって味わいが多少異なり、だだちゃ豆や茶豆はゆでるととうもろこしに似た香りが強くなる。 日本国内の主な生産地は、北海道、山形県、群馬県、千葉県、埼玉県で多く、5月ごろから徐々に出荷量が増えて、7 - 8月にピークを迎える。 春(4 - 6月)から種を播き、夏から秋にかけて収穫する。枝豆として収穫する場合は、春に種を播いて80日前後で収穫できる早生種、初夏に播いて秋に収穫する晩生種がある。種蒔きの時期を数回に分けてずらして栽培すると、収穫時期もずれて新鮮な枝豆を長い間楽しめる。栽培適温は20 - 25度とされ、インゲンマメなどよりも低温に強く、やや早蒔きすることができる。連作は不可で、2 - 3年ほどマメ科作物を作っていない日当たりの良い畑で育てる。家庭でも作りやすく、深いコンテナ(プランター)などを使って鉢植えでも育てられる。他のマメ科同様に直根が発達するので、移植は行わない。なお、枝豆(未熟果)を収穫せずにサヤが枯れるまで待つと、大豆として収穫できる。 枝豆にするダイズは、夏の暑さを感じると花を咲かせて結実する夏ダイズで、葉は3枚の丸形の小葉からなる複葉で、花は白色から紫色のごく小さな蝶形をしている。多くのマメ科同様に自家受粉で結実する。開花期が高温すぎても開花しにくく、30度以上になると受精できず、開花しても花が落ちてしまう。開花期から結実期は十分な水分や強い光が必要で、足りないとサヤがついても実がスカスカになる。 畑は深く耕して堆肥をすき込み、根粒菌が共生するため元肥は窒素肥料を控えめにする。種は株間を25 - 30 cmほどあけて1か所に3 - 4粒ずつ播き、軽く覆土する。覆土が浅すぎたり押さえ方が足りなかったりすると、芽が正常に展開できない。発芽までの間は、ハトやカラスなどの鳥に播いた種が食べられてしまう鳥害があるため、芽が出るまでは不織布などをかけて保護すると良い。本葉が5 - 6枚になったところで、生長が悪い芽を抜き取らずに根元から切り取って1本だけ残し、芽の先端を摘芯してわき芽を出させて育てていく。種まきから80 - 90日で花が咲くまでに、チッソ分控えめの追肥と、倒伏防止のため土寄せを数回行い、開花後1か月ほどでサヤが膨らみ収穫期となる。早生種では6月ごろから収穫が始まる。サヤを軽く押して実が入っていることを確かめ、豆がやわらかいうちに株ごと引き抜いて収穫する。 枝豆の害虫にはカメムシがあり、サヤがつくころに実の養分が吸われてしまうことがある。 一般に塩ゆでにして食べられている。塩ゆで以外でも、かき揚げ、炒め物、煮物にするほか、産地では潰して和え物にしたり、サヤごと甘辛く煮て食べたりしている。 枝豆は、収穫後は鮮度とともに味が落ちるのが早い。袋入りで売られているものもあるが、枝つきで売られているもののほうが鮮度が良く、茹でる前にサヤを傷つけないようにヘタの先端で枝から外す。サヤに傷がついてしまうと、茹でるときにサヤの中に水が入って、茹で上がりが水っぽくなり、風味を損ねる原因となる。収穫の翌日までに食べきることが望ましいが、保存するときは生で保存せずに、できるだけ早くかために茹でて、よく冷ましてから冷凍する。冷凍品を食べるときは、熱湯にくぐらせて解凍してから食べる。 最も典型的な調理法である。枝豆本来の風味が引き出される調理法であるが、実の大きさや収穫時期によって茹で時間は異なる。ふつう2 - 5分ほど茹でてから1つ取り出して、食べてゆで加減を確認してみて、実がかたかったらさらに1 - 2分ほど茹でる。旬の終わりごろや、実が大きく育っている枝豆は、より長い時間をかけてやわらかく茹で上げる。 調理は極めて簡単で、枝豆のサヤをボウルに入れて塩揉みして、表面の産毛を落としてから水洗いして水気を切り、塩少々が入ったたっぷりの熱湯で茹で上げ、ザルに上げて湯を切り、好みの加減で塩を振り、広げて冷ます。 また、1980年代からは調理後冷凍した商品も出回っており、小売店の冷凍食品売り場などで目にすることができる。 枝豆の塩ゆでは、酒、特にビールのつまみの定番として知られる。大豆に豊富に含まれる蛋白質などはアルコールの分解を助ける働きがあり、「枝豆をつまみにするのは理にかなっている」と言われる。また、冷凍食品としては鞘から取り出した豆の部分だけのものもみられる。 生のままでは硬い枝豆を食べやすくする調理法としては、焙ったり煎ったりした「焼き枝豆」や漬物などもある。 茹でた枝豆をすり潰して餡状にしたもの。ずんだを餅にまぶした「ずんだ餅」は主に宮城県・山形県・秋田県・岩手県など東北地方の名物の一つになっている。 子供にも人気のある食材であることからスナック菓子の材料としても用いられるほか、すり潰してスープにしたり、餅に入れたり、煮物などの具材として利用されたりすることもある。また地域おこしの題材として枝豆を使ったお酒が作られた例もある。 兵庫県丹波篠山市や三田市、和歌山県紀の川市鞆渕地区においては、黒豆の未熟なものを「黒枝豆」として食べることがある。茹でる前も茹でた後も、一般の枝豆ではお馴染みな鮮やかな緑色ではなく、茹で上がり後ですら鞘の中の豆は黒みがかった緑色である。 異質な見た目に反して味は極めて良い。その見た目の異質さと味の良さから様々なメディアで取り上げられたこともあり、枝豆愛好者などへの知名度も高い。ただし同地域のものは毎年10月第2週前後に出荷されており、流通する期間が限られることもあって入手は比較的難しく、それ以前に流通しているものは別品種の可能性がある。 近年の健康志向にともなう日本料理ブームの影響もあり、枝豆でも特に塩茹でなど簡単な調理法のものは、2000年頃から次第に北米・ヨーロッパなどの日本以外でも食べられるようになっている。 イギリスなど英語圏では枝豆は「green soy beans」または「edamame」と呼ばれ、ニューヨークなどの日本風の居酒屋では、定番のアペタイザーとして振る舞われ、オーガニックフード店やアジア食材を置く店でも気軽に入手することが出来る。 また、アメリカンフットボールやメジャーリーグベースボールを観戦しながらつまむ食べ物として、競技場内の売店でも買うことが出来るところもある。中華料理では「毛豆」と呼ばれ、豆干毛豆炒黄瓜などの食材としても広く使われている。 観光や仕事などで来日した外国人が好んで食べる傾向にある。 豆自体が世界各国で食されており、親しみやすい味であること、自ら皮を剥くという変わった食べ方、皮自体も柔らかく食べやすいという理由から食されている。また、子供の食育の一環としても注目されている。野菜を食べたがらない子供が、枝豆が飛び出る姿を面白がり、「遊びながら食べられる」「小さいサイズで口に入れやすい」「軟らかく食べやすい」という利点がある。
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3月3日
3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。
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3,121
白浜町
白浜町(しらはまちょう)は、和歌山県西牟婁郡にある町。千葉県などにも存在する白浜という地名と区別する意味で、紀伊半島あるいは旧紀伊国(和歌山県)の南を意味する「南紀」を冠して南紀白浜と呼ばれることもある。古くは奈良時代から、温泉街として有名である。 和歌山県南西部の太平洋岸に位置する。北側は2か所に分かれて田辺市と境を接し、間に挟まれるように西牟婁郡上富田町がある。南側は西牟婁郡すさみ町がある。町の東部はわずかに東牟婁郡古座川町と隣接する。 観光業と農業、水産業が経済を支えている。夏の海では小さな熱帯魚と共に泳ぐこともできるほか、沖合いに黒潮が流れているという恩恵もあり、一年を通じて温暖な気候で知られる。南紀白浜温泉(白浜温泉)や椿温泉(古くから白浜温泉の奥座敷として知られる)など温泉が多く湧出し(旧日置川町内にもある)、年間を通じて近畿を中心に観光客が訪れる。南紀白浜空港が所在し、近年は台湾などからのチャーター便が直行している。白良浜などの海水浴場付近を中心に、リゾート施設ほか企業・各種団体などの別荘や保養所が多数集まっている。 また、世界遺産にも登録された熊野古道の大辺路ルートが2本(富田坂・仏坂)通っており、こちらも観光の対象となっている。 なお、白浜町には全国でも珍しい、行政区画上の字がない住所がある。これは白浜町の中心部に存在し、役場・温泉街などの旧瀬戸鉛山村地区にある。この場合の住所は「白浜町****番地」である(白浜町役場の住所の項を参照)。住民らは慣れた地区名(湯崎、瀬戸、三段、綱不知などがある)で呼んでいるが、観光客からは場所がわかりづらいという声もある(湯崎、三段あたりは温泉旅館、ホテル密集地帯でもある)。 2010年(平成22年)の町長選は3月7日に出直し選挙が行われて現職の町長(当時)が再選されたが、公職選挙法259条の2の規定によって前回の町長選挙から2週間あまりしか経たない同年3月22日に再び任期満了の選挙が行われて新人が町長に当選し、半月の間に2度も町長選挙が実施されるという異例の事態が発生した。 厳しい財政状況の中、選挙に税金が使われることに町民からは批判の声もあった。 なお、後述するアメリカ合衆国ハワイ州との提携関係があることから、夏期は南国ムードを演出する目的もあり、主要交通機関や自治体・観光業などの職員らの制服の多くがアロハシャツとなる(概ね6月初頭から9月末まで)。 2011年(平成23年)12月5日、水本雄三町長と熊崎訓自副町長が「精神的苦痛を受けた」などとして、ごみ焼却場の使用期間延長交渉の当時の担当課長と副課長、区との協議に立ち会った町議会議長、区長、副区長ら6人を相手に慰謝料を求める訴訟を和歌山地裁田辺支部に起こしていたことが分かった。 2012年(平成24年)3月23日、辞意を表明していた水本雄三町長が、町議会の西尾智朗議長に辞表を提出した。その後開かれた町議会定例会で報告され、全会一致で同意された。 隣接する田辺市の経済圏である。 町の主要な産業は観光業である。町内には多くの温泉が湧出することもあり、多数のホテルが林立している。さらさらとした白い砂が特徴的な白良浜(しららはま)海水浴場は、夏になると近畿一円から海水浴客が訪れる。隣接する上富田町にまたがって、ゴルフ場がいくつか存在する。パンダ飼育で知られる複合型娯楽施設・アドベンチャーワールドもテレビCMを放映していることもあり、観光地としての知名度は高い。旧日置川町エリアでは、夏は日置川流域でのアユ釣り(友釣り)が風物詩である。 観光業以外では、旧白浜町域では温室による花卉栽培、そのうち町南部の富田地区はトウモロコシ栽培が盛んである。旧日置川町域ではウメや茶(川添茶)が名産品。また、堅田地区などの臨海地区には漁港もあり、エビ、タイなどが獲れる。 白浜町は政府(内閣府)や和歌山県、在京大手企業(三菱地所など)の協力を得て、休暇(バケーション)に向いた行楽地の環境を楽しみつつ、仕事(ワーク)をする「ワーケーション」に対応したサテライト・オフィスやビジネスパーソンの誘致を行っている。情報技術 (IT) の普及によって出勤しなくても業務ができるテレワークの範囲が広がった上、南紀白浜空港から首都圏を簡単に往復できる立地を生かした。町内のネットワークを相互に結び、外部と接続する出入口を制限することで、災害やサイバー攻撃に強い構造にしている。 こうしたテレワークの取り組みは、白浜町に近い田辺市内に設置されている「和歌山県立情報交流センター ビッグ・ユー」(ビッグU)が支援している。 集配郵便局 無集配郵便局 ゆうちょ銀行 ※白浜町内の郵便番号は以下のとおり。 2000年(平成12年)に米国ハワイ州ホノルル市のワイキキビーチと、「友好姉妹浜」(Goodwill Beach City Relationship) 提携を結ぶ。 大韓民国・果川市 2010年(平成22年)国勢調査(速報値)より前回調査からの人口増減をみると、4.00%減の22,697人であり、増減率は県内30市町村中8位。 和歌山県立南紀高等学校の白浜分校(1983年 閉校)と富田分校(1982年 閉校)がかつてあったが、現在は町内に高等学校はない。 町内に大学はないが、京都大学の実習施設兼水族館「京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館」がある。 また近畿大学が水産研究所の本部および白浜実験場や大学発ベンチャー企業「アーマリン近大」の本社を置いている。近大マグロを含めた養殖魚の研究や商品化では、世界でもトップレベルの実績を残している 特急が停車する中心駅である西日本旅客鉄道(JR西日本)紀勢本線白浜駅が町への玄関口であるが、所在地としては温泉街中心部から約5kmほど離れた富田(とんだ)地区にある。このため、白浜半島西部に多い温泉地・ホテルまでの交通手段としては、駅前から発着する路線バス(明光バス)・タクシーや、旅館・ホテルによる送迎車を利用することが一般的である。 かつては道路事情があまり良くなく、鉄道が比較的便利であった。大阪まで直通する高速道路の阪和自動車道・南紀田辺ICから延伸する紀勢自動車道が、まず南紀白浜ICまでの区間が2015年7月12日に開通。さらに白浜町の日置川IC、またさらに南のすさみ南ICまで延長されたことにより、鉄道より自動車のほうが大阪や和歌山への利便性が高くなった。JR西日本の特急列車は、白浜駅始発・終着列車も含めて多数設定されている。 東京国際空港(羽田)まで、日本航空(JAL)が1日3往復運航。田辺市や新宮市などにもバスを運行している。 高速バスは大阪市(梅田・なんば地区)から多数の便がある。横浜・東京方面行きの夜行バスも運行されている。 特に、大阪便(白浜エクスプレス大阪号)は往復5,580円(2020年7月現在)と安いことや、みなべICまで阪和道が延長されたことなどにより利便性が増し、人気を得て増便された。明光バスと西日本JRバスの共同運行となっている。2015年(平成27年)7月12日に、紀勢道が南紀田辺ICから南紀白浜ICまで延伸されたが、阪和道みなべIC以南は一般道を走行している。 ※旧・日置川町域の名所などに関しては、日置川町#観光スポットを参照。
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3,122
3月4日
3月4日(さんがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から63日目(閏年では64日目)にあたり、年末まであと302日ある。
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調味料
調味料(ちょうみりょう、英: Seasoning)は、料理の調味に使う材料。主なものに、砂糖、塩、酢、醤油、味噌(さしすせそ)などがある。 料理への味付けを目的としたもの。和食の味付け手順では、「さしすせそ」と称される。調味料は、それ自身が食品であったり、化学調味料などの食品添加物であったりと多種にわたる。 調味料には多くの種類があり、代表的なものは別個に名を持つ。 味の種類では甘さを加えるものを甘味料、旨味を与えるものを出汁などという。特別な香り・辛さをつけるものを香辛料という。 その由来や製法は次のように様々である。 物質の状態による分類では、固形タイプ、粉末タイプ、液体タイプ、ペーストタイプ、半固体状のもの(マヨネーズなど)、他にジュレなどもある。 調味料を加えることは、料理の重要な要素であり、その加え方も様々である。完成したものに加える場合、加えた後にその他の処理をする場合があり、またそのタイミングや順番も重要である。 日本では家庭料理において調味料を使うタイミングとして、「さしすせそ」というものがある。これは、素材に味が染み込ませるのに好適な順序として挙げられるもので、「砂糖」「塩(食塩)」「酢」「せうゆ(しょうゆ)」「みそ」の順である。 食べる直前に使う例もある。そのため、醤油差しや食塩は食卓に常備するのが普通である。 塩はしょっぱさを与えるものであるが、甘いものに混ぜて甘味を増加させるためにも使用される。例えば、スイカに食塩を少量かけて食べることで甘味をより強く感じられる。このように異なる味があるときに一方の味がもう一方の味を強めることを、「味の対比効果(あじのたいひこうか)」という。 前近代における伝統的な日本料理は、「醤油」と「味噌」といった二大万能調味料があったことで新しい味付けをする試みはあまり成されなかった(味噌を万能とする表現は『本朝食鑑』にもある)。これは日本料理の特徴が、四季の多様な食材に頼っていたことにもより、食材に手を加えない(食材本来の味を包丁の切り方でいかに引き出すか)といったこだわりも、豊富な食材がある大前提で成立したものとされる(日本料理の海外進出が難しいのも、旬の食材頼りにある)。こうした日本料理の気風から調味料による人工的味付けはあまり好まれなかった。 料理店で出された料理に対し、持参の調味料をかける行為はマナー違反であり、北大路魯山人はフランス料理店で口に合わないとしてわさび醤油をかけた逸話がある(当該項目を参照)。
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3,124
穀物
穀物(こくもつ、英: cerealsあるいはgrain)は、植物から得られる食材の総称の一つで、澱粉質を主体とする種子を食用とするもの。狭義にはイネ科作物の種子(米や麦やトウモロコシなど)のみを指し、広義にはこれにマメ科作物の種子(豆)や他科の作物の種子を含む。 イネ科作物の種子を禾穀類(かこくるい、Cereals、シリアル)といい、マメ科作物の種子を菽穀類(しゅこくるい、Pulses)という。広義の穀物のうち、禾穀類の種子(単子葉植物であるイネ科作物の種子)と似ていることから穀物として利用される双子葉植物の種子をまとめて擬禾穀類あるいは擬穀類(疑似穀類、Pseudocereals)と呼ぶ。擬穀類には、ソバ(タデ科)、アマランサス(ヒユ科)、キヌア(キノア、アカザ科)などが含まれる。 国連食糧農業機関では禾穀類に擬穀類を加えシリアルとまとめている。豆は別集計、大豆はさらに油糧作物として集計している。 生産量ではトウモロコシ、小麦、米が突出しており、これら3種は世界三大穀物と呼ばれている。 穀物が含む栄養素は主に炭水化物である。タンパク質や脂肪も含まれるものの穀物の摂取だけでは不足しがちなため、多くの文化圏において穀物はタンパク質を補うための豆類とセットで栽培され、消費されてきた。たとえば、アジア地域における「米と豆」、中近東における「小麦と豆」、アメリカ州における「トウモロコシと豆」の組み合わせである。 現代において世界で栽培される穀物は、ほぼ7地域(近東、アフリカ(サヘル地帯及びエチオピア高原)、中央アジア、中国雲南省~東南アジア~インド北部、中国北部、中央アメリカ、南米のアンデス山脈)を起源としている。これらの地域は農耕文明の発祥地と重なっている。 近東地域(中近東)は穀物の栽培化が世界で最も早かった地域であり、コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクといった世界でも重要な地位を占める穀物が栽培化された地域である。アフリカのサヘルからエチオピア高原にかけては、世界に広まったモロコシをはじめ、シコクビエやトウジンビエ、フォニオやテフなどが栽培化された。中央アジアではソラマメ、ヒヨコマメ、レンズマメが栽培化され、中国雲南省~東南アジア~インド北部においてはイネを筆頭としてソバやハトムギが、中国北部においてはキビ、ヒエ、ダイズ、アズキが栽培化された。中央アメリカにおいてはトウモロコシが栽培化された。南アメリカ・アンデスにおいては、アマランサスやキノアの栽培化が行われた。 栽培化される前は、穀物の多くは播種のために熟すると種子が穂から脱落する性質(脱粒性)を持っていた。人類が野生の穀物を利用し始めた際には逆にそれを利用し、穂の下に容器を置いて穂をゆすり身を振るい落としたり、種子がまだ固定している未熟なうちに刈り取ったりするなどの手段を取っていた。しかしこうした方法には限界があり、やがて人類は穂が熟しても種子の脱落しない個体を選抜して栽培するようになり、穀物は非脱粒性を獲得していった。このほかにも可食部分の肥大化など、選抜によってより利用しやすい形へと植物自体の性質が変化していった。 野生の穀物の粒は小さく、収穫しにくく、さらに加工しなければ消化もしにくいため、広く穀物を利用するようになるには石器の登場が必要であった。石を原料とした器は旧石器時代のうち、4万年から1万2千年ほど前の間に出現したが、定期的な穀物の収穫は1万2千年前のナトゥフ文化にみられる。ナトゥフ文化では野生の小麦、大麦、ライ麦を収穫し、ヤンガードリアス期に畑を作り穀物を蔵に保管するようになると、穀物を守るようにして野生の猫もそこに集まるネズミを狙った。 なお穀物の栽培化においては、もともと栽培化されていた穀物とは別に、それらの穀物の栽培の過程において畑に紛れ込んだ雑草が、本来の穀物に紛れて、または押しのけて成長する中で穀物として栽培されるようになっていったものがある。これらは二次作物と呼ばれ、コムギの栽培過程で作物化していったライムギやエンバクなどがあてはまる。 栽培化後も、農法の進歩は続いていた。たとえば上記のとおり穀物が非脱落性を獲得したばかりの場合、穀物の成熟度はその穂ごとに異なるため、熟した穂を選んで収穫する穂刈りが行われていた。しかしやがて農法の進歩によって同じ農地の穀物の成熟度をほぼ同じに調整することが可能となると、穂ではなく茎を根元から収穫する根刈りが主流となっていった。 栽培化された穀物はやがて起源地から広がっていくが、この過程において、コムギ、イネ、トウモロコシの三種の穀物が突出して栽培されるようになっていった。コムギは栽培化当初は加工のしやすいオオムギに比べ二義的な穀物だったと考えられているが、やがて粥ではなくパンを製造するようになると、グルテンを持つコムギは他の穀物のパンよりはるかに美味なパンを作ることができ、また加工の幅もほかの穀物とは比べ物にならないくらい広がったため、旧大陸のパン食文化圏においてはほぼどこでもコムギが第一の穀物とされるようになっていった。 穀物は多くの国家において食糧生産の根幹であり、そのため栽培化以降も各地で品種改良の努力が続けられてきた。19世紀以降には農法の改善によって農業革命が起き、またこの頃から科学的な品種改良の理論が確立して各地で近代的な育種が行われるようになり、穀物の収量は激増した。特に20世紀後半に入ると、肥料の多用に耐えられる穀物品種の開発などによっていわゆる緑の革命が起き、穀物の反収は激増して世界人口の急増を支えることに成功した。 工業革命以前は小麦粉などを粉にするには石臼が使われ、手で選別処理をしなければふすま(表皮)や胚芽を完全に除去することは不可能であった。19世紀後半には、そうした処理が自動化され高度に精製された穀物が広く消費されるようになった。しかし工業の発達は穀物の精製技術を向上させる一方で、食物繊維、ビタミンやミネラルを損失させることで摂取量を減少させており、健康に影響を及ぼしていることが考えられる。 1970年代後半には、クロマトグラフィー果糖濃縮技術の出現で異性化糖(高果糖コーンシロップ、HFCS)の大量生産を可能とした。 国連食糧農業機関(FAO)の穀物の世界需給予測によると、2021年度の生産量は30億0663万トンと初めて30億トン台に乗り、貿易量は5億7959万トン、13.6憶トンが食用、9.9憶トンが飼料であった。以下に1961年(FAO統計が利用可能な最初の年)以降の穀物生産量とその推移を示す。2003年にはトウモロコシ、コメ、コムギの3大穀物で世界の穀物生産の87%、世界の食物カロリーの43%を占めていた。緑の革命の影響を受けた3大穀物の生産量が爆発的に増加しているのに対し、ライムギとエンバクの生産量は1960年代に比べて大幅に減少している。 雑穀とみなされる穀物は全般に需要が低調であり、換金性もそれに伴って低いために栽培が減少する傾向が目立つが、雑穀のなかでも例えばエチオピア高原におけるテフのように地元のアムハラ人などによって強く嗜好され、主食の座を保っている穀物も存在する。このためテフの換金性は高く高価で取引されている。 穀物は世界の人口のかなりを支えており、その生産様式は多岐にわたる。東アジアから東南アジア、南アジアにかけては集約型の穀物生産が行われ、ヨーロッパにおいては年単位で耕地を移動させ輪作を行い、地力の消耗を防ぎながら食用となる穀物と飼料作物を栽培する混合農業が主流である。こうした土地生産性の高い諸国に対し、アメリカのグレートプレーンズやオーストラリア、アルゼンチンのパンパなどでは、広大な土地で穀物を大規模に栽培する企業的穀物農業が行われている。こうした企業的穀物農業においては土地生産性が低く、例えばコムギにおいてはアメリカでは290kg、オーストラリアでは190kgと反収が低くなっているかわりに、少ない労働力で大規模に生産できるために労働生産性が非常に高くなっていることが特徴である。またこうしたことから、穀物の反収は先進国と発展途上国の間には必ずしも明確な差はなく、また穀物の種類によっても大きく左右される。例えばコムギの反収においてはもっとも高いのは西ヨーロッパ諸国であるが、ナイル川沿いの肥沃な土地を擁するエジプトや、ロバート・ムガベ政権によって穀物生産が崩壊する以前のジンバブエなどもそれに劣らない反収を誇っていた。また、日本においてはコメの反収は世界最高レベルにあるが、コムギの反収は384kgと世界中位レベルであり、労働集約型農業としては低いレベルにとどまっている。 農業革命や緑の革命によって品種改良や農法の改善が進んだコメ、コムギ、トウモロコシの三大穀物の収量は激増したが、雑穀などはそれらが進んでおらず、収量も低いレベルにとどまっているものがほとんどである。また、品種改良の進んだ穀物においても、たとえばトウモロコシやソルガムのように世界中で需要の多い飼料用としての改良は大幅に進んだものの、主食用としての改良が進んでいない穀物もあり、これらの穀物を飼料用として栽培するアメリカなどの企業的穀物農業の諸国と、アフリカや中南米などの自給用としてトウモロコシやソルガムの生産を行う諸国との反収の差の一因となっている。 穀物農業は、一年生植物である小麦栽培による表土流出など自然環境に負荷をかける面もあり、アメリカ合衆国のランド研究所が小麦代替穀物として開発した多年草「カーンザ」のように、品種改良で新たに作出される穀物もある。 穀物は、人類の多種ある主食のひとつとして使われてもいるが、実際には人類全体に穀物は届いておらず、世界で生産される穀物の3分の1は主に食肉用の家畜の餌として使われている。 穀物は必需品であり、古くから重要な交易品の一つだった。現代においても穀物交易の重要性は変わらず、北アメリカ・南アメリカ・オーストラリアなどから大量の穀物が輸出され、世界各国に販売されている。なかでも世界最大の穀物輸出国はアメリカであり、主にコムギやトウモロコシの輸出を行っている。逆に穀物輸入額が多いのは、日本をはじめとする東アジア諸国や、アフリカ諸国である。この穀物流通においては、カーギルやアーチャー・ダニエルズ・ミッドランドといった穀物メジャーと呼ばれる商社群が大きな割合を占めている。 穀物の国際価格は変動しやすく、経済や人々の生活にに大きな影響をもたらす。2007年から2008年にかけては飼料用需要の増加や人口増加、穀物在庫の減少、バイオエタノール需要の増加、そして当年の主要産地での不作によって穀物価格が暴騰し、2007年-2008年の世界食料価格危機が発生して、特に発展途上国において都市部貧困層の生活水準悪化と、それにともなう暴動を引き起こした。 穀物は、その種類によって用途の割合が異なっている。(生産量1位の)トウモロコシは、6割が飼料用で、4割が食用である。(生産量2位の)小麦は8割が食用で、2割が飼料用である。(生産量3位の)コメはほぼ全量が食用として使われる。 穀物は、主にエネルギー源となる炭水化物を供給するための主食の材料として用いられており、イモ類などの根菜類やバナナなどを主食とする地域を除く、世界中の大半の地域において食糧の中心部分を占めている。一日のカロリー摂取量に占める穀物の割合は発展途上国におけるほど高くなり、低所得国では70%を超えることすら珍しくない。経済が成長するにつれて食生活が多様化し、脂質や肉類の消費が増加することで穀物の食卓に占める割合も低下していったが、もっとも食卓に穀類の占める割合の少ない北アメリカや西ヨーロッパでも一日のカロリー摂取量の20%程度は穀物から供給されている。 穀物は、脱稃をして外皮を取り除かないと食べることができない。脱稃をしたあと、通常は果皮、種皮、胚、胚乳表層部といった糠やふすま部分を取り除く精白を行う。また、精白しない全粒穀物を食べることもある。全粒穀物の例としては、玄米やオートミール、全粒粉の加工品などが挙げられる。精白する場合と比べてビタミンやミネラル、食物繊維が豊富に含まれているため、健康に良いとされる。精白の際に取り除かれた糠やふすまは通常食用とせず、飼料など様々な形で直接の食用以外に使用されることが多い。 穀物を製粉した場合は、たいていは次に何らかの形で粉をまとめ成形してから食べることになる。ほとんどは、まず水を加えて練り上げ、必要に応じ塩などを混ぜて生地を作る。この生地をそのまま、あるいは発酵させて火を通したものがパンである。パンはコムギから作るものがもっとも一般的であるが、トウモロコシやライムギなどから作られるパンも根強い人気がある。また、この生地を細長く切って成形したものを麺と呼び、これも世界中で広く食される。麺もやはりコムギから作るものが最も一般的であるが、コムギの出来ない東南アジアにおいては麺はコメから作られるものが多い。また日本ではソバを麺にして食べるが、ソバ単体の場合麺状にした場合ちぎれやすくなるため、つなぎとしてコムギを使用することも多い。ただし麺は作るのに手間がかかるため、近代において製麺機が実用化されるまではどの文化圏においてもかなりのごちそうとされていた。こうした伝統的な調理法のほか、19世紀後半に穀物をローラーで圧搾しフレーク状にする技術が開発されたため、これ以後、穀物を加熱加工して長期保存に適するようにした、いわゆるシリアル食品が開発され、朝食を中心に広く利用されている。 また、多めの水で穀物を煮た粥も調理が簡単であり、古くから広く世界で利用されてきた穀物調理法である。粥はそのまま煮るだけなので粒食もできるが、アフリカのウガリのように一度粉にしたものを粥にして食することもある。この場合、水分が多ければ普通の粥となるが、水分が少なければ粥というより粘りの強いペースト状の固体となる。 一部の穀物には、アミロースを含む粳(うるち)性のものと、アミロースを全く、あるいはほとんど含まない糯(もち)性のものの二つに分かれているものがある。本来、穀物は粳性であり、糯性のものはそこから変異して誕生したため、なかには糯性の品種が存在しない穀物も存在する。また、糯性はうるち性に比べて劣性遺伝であるうえ交雑しやすいため、自然状態では存続が難しく、糯性を好む人々が品種維持の努力を継続して初めて品種として継続するものである。糯性品種が存在するものとしては、コメ(もち米)を筆頭に、トウモロコシ、オオムギ(もち麦)、アワ(もち粟)、キビ、モロコシ、アマランサスなどがある。糯性の穀物は調理すると粘性が高くなるため、これを利用して、蒸したもち米をついて作る餅のような様々な食品が生み出された。 また、トウモロコシやソルガムなど一部の穀物には、火を通すと大きくはじける爆裂種(ポップ種)が存在し、ポップコーンなどに加工される。 穀物は飼料としても古くから盛んに使用されてきた。穀物は飼料としては、牧草などの粗飼料と対比して濃厚飼料と呼ばれ、栄養価が高く近代的な畜産には不可欠なものである。飼料用としてもっとも重要な穀物はトウモロコシである。トウモロコシは中南米やアフリカにおいては主食としても使用されるものの、主な用途は消費の64%を占める飼料用である。この他、かつてはウマの飼料としてエンバクが非常に重要な飼料用作物であったが、第一次世界大戦後に軍用や輸送用のウマの需要が激減し、これにともなって飼料作物としてのエンバクの需要も激減して、栽培も少なくなった。ただし、現代においてもウマの飼育においてはエンバクはもっとも重要な飼料の一つである。この他、オオムギの飼料向け割合も高い。また、モロコシもアフリカや南アジアを除いては飼料用の利用がほとんどを占める。 穀物はそのまま食料として用いるほか、様々な食品に加工されても使用される。主食用以外の穀物用途で最も重要なものは、穀物を発酵させて醸造し、酒を造ることである。穀物は果実と並び醸造酒の原料として広く用いられるものである。たとえば、オオムギを原料としてビール、コメを原料として日本酒が造られている。様々な種類の酒が各民族によって作られてきた。穀物の中で醸造用としての用途が特に大きな割合を占める穀物としては、ビールの原料であるオオムギが挙げられる。 穀物は酢酸の原料として用いることも可能であり、例えば米酢のように実際に穀物から作られている酢も存在する。このように、穀物は調味料の原料として用いられることもある。 コーン油や米糠から取る米油などのように、一部の穀物は食用油の生産にも使われている。 2000年代には、穀物を醸造して得られるエタノールをアルコール燃料(バイオマスエタノール)として、機械装置の動力に利用する研究と実用化も進んでいたが、このバイオマスエタノール生産の急成長は穀物価格の急上昇を招き、2007年-2008年の世界食料価格危機の主因の一つとなるなど問題が発生したことから、2015年頃からバイオマスエタノール利用は大きく鈍化している。なお穀物由来のバイオエタノールの主要生産国はアメリカで、主にトウモロコシから生産を行っている。 種を収穫した後の残部も広く使用され、たとえば米の茎部分である藁は工芸材料として広く利用されるほか、籾殻も充填材として利用される。コムギの藁は敷き藁などに利用され、またトウモロコシの茎は燃料や製紙原料として利用される。 特に生産量が多く主食として扱われることも多いイネ、ムギ類、トウモロコシを除く、その他の穀物を雑穀と呼んで区別することもある。中国や日本においては、特に主要な五種の穀物を五穀と呼び重視してきた。この五穀の内容は時代や書物によって様々であり、主要穀物の総称としての意味合いが強かった。現代日本においては、コメ、ムギ、アワ、マメ、キビまたはヒエを指して五穀と呼ぶことが多い。
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