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スカイライナー
スカイライナー(英語: Skyliner)は、京成電鉄が京成上野駅 - 成田空港駅間を京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)経由で運行する、座席指定有料特急列車の列車愛称。 京成電鉄の登録商標で、同社内における最速達の列車種別。料金不要の快速特急・特急とは別。 本項では京成本線(京成船橋駅)経由で運行し、同じ車両を使用する座席定員有料列車の「モーニングライナー」「イブニングライナー」および「シティライナー」について、また京成電鉄における歴代の有料列車の沿革についても記述する。 東京都区部から新東京国際空港(現・成田国際空港)への空港アクセス列車として、1978年(昭和53年)の新東京国際空港開港と同時に運行を開始した。開港当初は、新東京国際空港への唯一の空港連絡鉄道手段だった。「スカイライナー」の名称は、空港連絡列車の愛称として、日本全国の小学生からの公募により決定された。東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」と競合関係にある。 開港当時は成田新幹線計画があったため、京成電鉄の成田空港駅(現在の東成田駅)は空港ターミナルから約1 km離れた場所に設置された。これにより同駅から空港ターミナルビルへ行くには、路線バスへの乗り継ぎが必要とされたことから、「スカイライナー」はリムジンバスなど他の交通機関との競争で苦戦を強いられた。その後、成田新幹線計画の消滅などにより、1991年(平成3年)3月にJR東日本とともに空港ターミナルビル直下となる、現在の成田空港駅への乗り入れを果たしている。 1979年(昭和54年)9月から、成田山新勝寺参詣客の利便性向上を目的に京成成田駅にも昼間時間帯の「スカイライナー」が停車するようになり、2003年(平成15年)7月より、ほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになった。また2006年(平成18年)12月から、京成船橋駅にもほぼすべての「スカイライナー」が停車するようになり、JR東日本の「成田エクスプレス」が通過する千葉県中央部と成田国際空港との連絡列車としての側面を持つようになった。 2010年(平成22年)7月には、より短絡的に東京と成田空港を結ぶ京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、従来の京成本線を経由するルートから同線経由へ運行ルートを変更した。さらに最高160 km/h運転が可能な2代目AE形電車を登場させたことで、それまで日暮里駅 - 空港第2ビル駅間で51分かかっていた所要時間が36分へと大幅に短縮されている。従来「スカイライナー」が運行されていた京成本線には「シティライナー」を新設し、京成成田駅や京成船橋駅などかつての「スカイライナー」停車駅の需要は同列車が担うこととなったが、需要の少なさからシティライナーは定期運行を終了し、現在は成田山新勝寺の初詣需要のための臨時列車(成田山開運号)が年末年始に運行されるのみとなっている。また、新AE型を用いて朝と夕方の通勤ラッシュ時間帯には有料着席保証列車の「モーニングライナー」と「イブニングライナー」が京成本線経由で定期運行されている。 2015年(平成27年)3月14日に、北越急行の特急「はくたか」が廃止されて以降、「スカイライナー」は新幹線以外の日本の鉄道としては単独トップの160 km/h運転を行う列車でもある。新AE型で運行されるものの、京成本線経由の「モーニングライナー」「イブニングライナー」「シティライナー(臨時運行)」の最高速度はいずれも160 km/hではなく110 km/hである。 2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で、5月1日より日中時間帯の半数を運休する一方、4月11日からスカイライナーの一部が青砥駅に臨時停車をしており、青砥駅では浅草線発着列車と相互に接続する。成田空港行きは乗車のみ、京成上野行きは降車のみ取り扱う。ドアが開く号車も最後部車両に限定され、青砥から成田空港行きスカイライナーに乗車する場合は座席未指定で、空席に着席する形を取っていた。当初は成田空港行早朝便と京成上野行深夜便各6本(3・5・7・9・11・13・72・74・76・78・80・82号)のみだったが、6月1日以降は日中の一部も対象に加わり、追加分と合わせて計14往復が青砥に停車していた。減便は2021年(令和3年)10月29日、臨時停車は2022年(令和4年)2月25日をもって終了した。 2022年2月26日より、スカイライナーの一部列車について、青砥駅が正式な停車駅となる。これにより、青砥駅発着のスカイライナー券においても、座席指定、券売機での購入、Web予約およびチケットレスサービスの利用が可能となったほか、成田空港行きについては4号車からの乗車も可能となった。また、京成上野行きについては全ての号車からの降車が可能となった。 2022年11月26日より、新鎌ヶ谷駅での停車を開始(上下列車とも乗降可能)。成田空港行きは4・6号車から、京成上野行きは全号車からの乗降が可能。 「スカイライナー」はおおむね20 - 40分に1本の割合で運転されており、さらに通勤時間帯には「モーニングライナー」・「イブニングライナー」が運行される。「シティライナー」は年末年始の成田山新勝寺への初詣需要に対応した臨時列車(成田山開運号)として運行されており、定期運行は行われていない。 スカイライナーは、京成上野 - 成田空港間で運行される最速達列車および空港アクセス列車。初代のAE形落成と同時に「空港連絡特急」の愛称として、1972年9月からの1か月間、毎日小学生新聞の協力により、日本全国の小学生から公募して決定したものである。 1978年5月21日に本線(京成成田経由)で運行開始。成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業した2010年7月17日から現在のルートによる運行が開始され、成田空港線印旛日本医大 - 空港第2ビル間は日本国内の在来線最速となる最高速度160 km/hで運転される。所要時間は、日暮里 - 空港第2ビル間を最速36分、京成上野 - 成田空港間を最速43分で結ぶ。 運行時間帯は終日であるものの、夜間の成田空港方面は通勤需要などに応えるために本線経由のイブニングライナーとなることから、運行されない時間帯が存在する。 「モーニングライナー」・「イブニングライナー」は、主に京成上野 - 京成成田間で通勤時間帯に運行される停車型列車。「スカイライナー」とは異なり、京成上野 - 成田空港間を京成本線経由で運行する。ホームライナー的な役割をもつ。 「イブニングライナー」は1984年12月1日に、「モーニングライナー」は1985年10月19日に運行を開始した。 主に通勤需要に対応する列車で、「モーニングライナー」は朝に京成上野方面上り列車4本、「イブニングライナー」は夕方以降に成田方面下り列車7本が設定されている(平日・土休日とも同じ本数)。各列車とも運行される時間帯に「スカイライナー」の運転を行わない時間帯が存在するため、空港輸送の観点から一部列車が成田空港駅に乗り入れる。 当初は全列車が車両指定制の自由席となっていて、乗車駅ごとに指定された車両内の空席を利用する方式をとっていた。 2015年12月5日より京成船橋駅に全列車が停車となり、「モーニングライナー」「イブニングライナー」共に全車指定席に変更された。 号数は1991年にスカイライナーとともに付与され、当時は50番台始まり、後に60番台始まりとなった後、2017年10月28日より70番台始まりになり、スカイライナーが大幅増便された2019年10月26日からは200番台始まりとなった。 「臨時ライナー」は、北総線内から都内方面への利便性向上を目的として、回送列車を活用して印旛日本医大始発京成上野行き1本のみ運行する。 2020年10月1日運行開始。平日のみ運行。全席自由席とし、ライナー券(500円)は乗車後、車内で現金でのみ発売。 「シティライナー」は、大晦日から元旦の終夜運転や正月三が日、1月土休日の成田山新勝寺の初詣客輸送などのために臨時運転される列車で、京成上野 - 京成成田間を京成本線経由で運行される。 運行当初は、成田スカイアクセス線開業に伴い「スカイライナー」が経由しなくなる京成本線の速達列車として、京成上野 - 京成成田・成田空港間に1日7往復設定されていた(うち京成上野方面上り2本・京成成田方面下り1本が成田空港駅始発・終着)。車両は臨時列車を除いてAE100形が使用された。基本的に日中の運行であったが、下り1本のみが朝の通勤時間帯に運行されていた。所要時間はスカイライナー時代は1時間だったのが75分程度に伸びてしまい、快速特急と同程度かやや遅い時間であったが、青砥駅にも停車するために浅草線方面からの乗り継ぎも可能であり、羽田空港とのアクセスに利用されることもあった。なお、料金形態は従来の料金を据置している。 2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による計画停電や電力制限によって運休状態に陥り、その後2011年9月10日に2往復が京成成田駅発着で運行再開されたものの、2012年10月21日のダイヤ改正で1往復のみの設定となり、成田空港駅への乗り入れが正式に廃止された。さらに料金不要の下位列車とも時間差が縮まり利用離れが進んだ結果、2014年11月8日のダイヤ改正で土休日のみの運行となり、2015年12月5日のダイヤ改正によって定期列車としては廃止された。 2017年1月土休日のシティライナーは京成成田駅発着で2代目AE形で運転されたが、「成田山開運号」の愛称名が付き、正面には歌舞伎の市川家(成田屋)に由来する隈取をモチーフとしたラッピングによるヘッドマークが掲出された。2018年以降も大晦日から元日と1月土休日に継続して運転され、2020年大晦日から2021年1月にかけては、新型コロナウイルス感染拡大の影響で大晦日と元日深夜の運転が休止となったが、土休日運転は行われた。 なお、「シティライナー」は2010年7月16日までスカイライナーとして使用されていたAE100形が使用されていたが、2010年 - 2011年以降の終夜運転における臨時列車では2代目AE形による運行が行われている。 なお、1990年から3年間の置き換え過渡期では初代AE形とAE100形が共通に運用されていた。 ライナー券などの予約・購入の詳細は公式サイト を確認のこと。 「スカイライナー」などのライナー系列車は全車座席指定席制を採用している。「モーニングライナー」、「イブニングライナー」は当初は車両指定のみで、指定された車両内の空いている席を利用するようになっていた。利用の際は乗車券のほか「ライナー券」が必要となる。なお、いずれの列車もライナー券を購入すれば定期券でも利用可能である。また、いずれの列車も所定時刻より1時間以上遅延した場合は、ライナー料金は全額払い戻しとなる。いずれも小児半額だが、障害者割引は適用されない。 なお、各ライナーとも乗車券と特別急行券(ライナー券)の2段構成であり、乗車券部分には定期を含む乗車券の組合せや、全国相互対応ICカード等の適用が可能である。また、駅窓口で予約・支払を同時に行う場合には、Suicaに限りライナー券の購入に充てる事が可能(PASMOや他の全国相互対応カード等は不可。モバイル系も不可)。 料金は2022年4月25日改定。「スカイライナー」は京成上野・日暮里⇔空港第2ビル・成田空港は1,300円、青砥⇔空港第2ビル・成田空港は1,050円、新鎌ヶ谷⇔空港第2ビル・成田空港は800円、京成上野・日暮里⇔新鎌ヶ谷は500円、青砥⇔新鎌ヶ谷は300円、「シティライナー」は京成上野・日暮里・青砥 ⇔ 京成成田で1,000円、京成船橋乗降と京成上野・日暮里 ⇔ 青砥は550円となっている。当日発売のほか乗車日の1か月前から前売り発売も行っている。ライナー券の発売箇所は各停車駅で販売されている。また系列会社の京成トラベルサービスなどのほか、主な旅行会社などでも購入が可能で、2001年からはiモードやEZWeb、Yahoo!ケータイ、京成電鉄の公式サイト(外部リンク参照)などでも予約が可能となっている。さらに2010年からはチケットレスサービスも開始している。この他、11枚綴り13,000円の「ライナー回数券」も発売されている(3か月間有効)。ライナー回数券以外はライナー券単独で購入することはできず、事前に有効な乗車券(ICカード乗車券および定期乗車券含む)を持っていない限り、乗車券とセット販売である。上下列車ともスカイライナーで京成上野 - 青砥間各駅、空港第2ビル - 成田空港間およびシティライナーで京成上野 - 日暮里間のみの利用はできない。 両列車とも車掌が所持する端末でライナー券の発売状況を確認することができ、あらかじめ指定された座席に着席している乗客に対しては車内改札が省略されている。 2015年12月4日までは車両指定の定員制で、各駅ごとに着席できる号車が割り振られていた。座席は指定されないが、定員分以上の発売を行わないので着席は保証されていた。同年12月5日からは全車指定席となった。基本的には当日の発車時刻数十分前から直近の列車のライナー券のみを発売する。ライナー券売機には残席数が大きくLED表示され、売れ切れた場合はその列車には乗車できない(JRのような立席券は発売されない)。 「イブニングライナー」の一部の座席に限っては、前売り発売を行っており、京成上野案内所、日暮里、空港第2ビル、成田空港の各駅とJTBトラべランドと近畿日本ツーリストおよび日本旅行にて購入できる。両列車ともチケットレスサービスの利用は可能であるが、ネット予約やチケット予約サービス等は利用できない。 この他、「モーニングライナー」については枚数限定でライナー定期券「モーニングPASS」(毎月25日から月末まで発売され、次月1日から末日まで有効 8,150円 小児料金や通学の設定はなく、持参人方式 定期券販売所で発売。定期券を取り扱わない駅は駅窓口)も設定されている(京成船橋・八千代台・京成佐倉・京成成田駅のみ発売で、成田空港・空港第2ビル発は設定がない)。なお、「モーニングライナー」ならばどの列車でも良いというわけではなく、乗車駅・利用列車・号車は指定されており、指定されたモーニングライナーより先行の列車に乗るにはライナー券の購入が必要であり、乗り遅れた場合の救済措置はない。またモーニングPASSに乗車券としての効力はなく、あくまでライナー券の定期券式販売である。 2022年4月25日、イブニングPASSの発売を開始し、同年5月より使用を開始する。イブニングPASSは毎月1日〜末日まで任意のイブニングライナーを何度でも利用できる定期券式のPASSである(別途乗車券が必要)。 「モーニングライナー(上り)」の場合、成田空港・空港第2ビル・京成成田・京成佐倉・八千代台・京成船橋が乗車可能駅、青砥・日暮里・京成上野が降車専用駅である。 「イブニングライナー(下り)」は京成上野 - 京成成田が乗車可能駅、空港第2ビル・成田空港が降車専用駅となっている。ただし、八千代台駅、京成佐倉駅、京成成田駅から下りイブニングライナーを利用する場合、座席の指定はできない(チケットレスは除く)。 モーニングライナー券を購入した上で成田空港 - 八千代台間の各駅相互間、イブニングライナー券を購入した上で京成上野 - 青砥間の各駅相互間を利用することも可能であるが、下りイブニングライナーの空港第2ビル - 成田空港間および上りモーニングライナーの青砥 - 京成上野間のみの利用はできない。 両列車とも車内改札は行わず、駅ごとに指定された列車乗車口にて係員が乗車時に改札を行う。 2010年11月15日より京成の特急券類としては日本国外で初となる「スカイライナークーポン」の発売を開始した。 発売するのは日本国外の提携旅行会社で、発売額は2,250円。京成上野駅・日暮里駅・空港第2ビル駅・成田空港駅のいずれかで片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換えて使用する。 また、京成公式サイトより、e-ticketを購入することも可能である。 上り限定で成田空港・空港第2ビルからの割引チケットであり、発売額は2,250円。成田空港駅・空港第2ビル駅のいずれかのライナー券発売カウンターで(2017年現在、成田空港の第1旅客ターミナルの南ウイング1階の京成電鉄乗車券販売カウンターでも可能)、片道分の乗車券・スカイライナー券と引き換える必要がある。発売箇所は次の通り。 なお、発売当日のみ有効のため、最終のスカイライナーに間に合わない場合は発売されない。 また、訪日外国人観光客を対象として、下りのスカイライナーバリューチケットを、浅草駅と池袋駅の観光案内所、一部の都内ホテルで発売している。 毎年12月31日(下り)および1月1日(上り)には初詣臨時列車として深夜時間帯に京成上野駅 - 京成成田駅間にて臨時「シティライナー」(成田スカイアクセス線開業前は「スカイライナー」)が運転されている。「シティライナー」では定期列車時代はAE100形が使用されていたが、この深夜の臨時「シティライナー」では新AE形で運転されている。 成田山新勝寺と縁が深い歌舞伎の市川家(成田屋)が成田山で襲名披露を実施する場合は、京成上野駅 - 京成成田駅間をスカイライナーに乗車して移動することが通例となっており、その際は「團十郎号」「海老蔵号」「成田屋号」として運転され記念ヘッドマークの掲出などが行われているが、スカイライナー運転開始前は一般車両で運転していたこともあった。 その他、過去にはスカイライナー1億人記念や京成電鉄100周年記念でのヘッドマーク掲出、エティハド航空のラッピング広告などが行われたことがある。 また、2005年3月9日にパク・ヨンハファンクラブの企画として団体列車『ヨンハライナー』が、2006年5月27日に成田空港第一ターミナルビルのグランドオープン記念として「まるごと体験教室」参加者輸送の団体列車『クウタン号』が運行された。 この節では、前段として成田山新勝寺への参拝観光列車である「開運号」、およびかつて新京成線・京成本線(一部は都営浅草線系統もあり)と千葉線に跨って運行された優等列車である急行・特急「九十九里号」などについても記載する。 2010年7月17日の新アクセスルート開業以降の早い時期(2010年代前半頃)に、羽田空港 - 成田空港間を65分で結ぶ構想があった。この所要時分は、「スカイライナー」の都営浅草線・京急線乗り入れを想定したものとなっていた。2008年9月7日には、浅草線とは別にバイパス目的で都営地下鉄新線を建設し、両空港間をさらに10分短縮する計画も浮上した。ただし、新AE形には先頭部に非常用貫通扉を装備しておらず、また都営浅草線や京急線のホームドアに対応していないため、都営浅草線乗り入れは不可能である。一方、AE100形は先頭部に非常用貫通扉を装備するが、先述と同様に通勤形電車とドアの位置が異なるほか、成田スカイアクセス線内での160 km/h運転に対応していない。またAE100形は京急空港線羽田(現・天空橋)開業時に試運転のため入線する予定になっていたが、当時の京急蒲田 - 糀谷間の急カーブを通過できないことが直前になって判明したため中止されている。 最終的には特急料金不要の通勤型車両を用いた「アクセス特急」を新設し、従来から都営浅草線・京急線内で運行されている「エアポート快特」をスカイアクセス線経由とすることが決定した。成田空港駅から羽田空港第1・第2ターミナル駅までの所要時間は最短1時間33分である。また日中は種別変更が行われる押上駅で横浜方面の列車に接続する。 その他、現行8両編成である2代目AE形を10両編成とする構想もある。 下記のCMやポスターでは、池袋駅や新宿駅など、「成田エクスプレス」が発着する駅からの到達時間も表示されている。 1990年代前半から、京成電鉄では「スカイライナー」のテレビCMを放送している。過去にちあきなおみ、GAO、都はるみ、DEEN、大貫妙子らがCMソングを担当した。 かつては「スカイライナー」の名称やイメージアップ向上を図った映像(霧の中を抜ける映像など)を使用していたことが多かった。近年では、日本国外に活動の場を求める人々を描くドラマ仕立てのものや、木下航志を起用したものが放送された。また、「速いのは、こっち。安いのも、こっち。」というフレーズで「成田エクスプレス」との対決姿勢を明確にしているCMもある。ただし、基本コンセプトは芸能人・イメージキャラクター等が登場しないスカイライナーが颯爽と走行するイメージアップCMである。 さらに、2010年6月から8月と2011年11月にかけて、成田スカイアクセス線の開業と合わせて新型スカイライナーをPRするCMを放送している。 2019年10月26日の増便に合わせて、『お客様は、お姫様。』というキャッチフレーズで、Sexy Zoneの中島健人が「京成王子」役で出演するテレビCM等が新たに放送されている。 ZOZOマリンスタジアムに於ける千葉ロッテマリーンズのホームゲームにて、佐々木朗希が投手として登板し投げた球速が160km/hを超えた場合、場内ビジョンにその球速とともに「最速160km/h 京成スカイライナー」と表示して演出している。
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成田空港駅
成田空港駅(なりたくうこうえき)は、千葉県成田市三里塚御料牧場にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と京成電鉄の駅である。成田国際空港第1ターミナル内に位置し、両社とも「成田第1ターミナル」の副名称を付与している。 関東の駅百選に選定されている。 成田国際空港(成田空港)へのアクセス駅の一つで、成田空港第1ターミナルに直結している。JR東日本は成田営業統括センター所属の直営駅で、空港第2ビル駅を管理する。京成電鉄は空港第2ビル駅の被管理駅である。第2ターミナルおよび第3ターミナルへは無料連絡バスが運行されている。 当駅には、JR東日本の成田線(空港支線)と、京成電鉄の本線ならびに成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れており、いずれも当駅が終点となっている。ただし、JR・京成とも線路を保有しない第二種鉄道事業者であり、線路・設備を保有している第三種鉄道事業者は成田空港高速鉄道である。JR東日本成田線空港支線の駅番号はJO 37、京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)の駅番号はいずれもKS42である。 開業当初の英語表記は Narita Airport であり、一部の案内や路線図で Narita Airport Terminal 1 が使われていたが、2015年4月8日の第3ターミナル開業以降はごく一部を除いて Narita Airport Terminal 1 に統一されている。同様に当駅の中国語・韓国語での駅名表記についても、第1ターミナルを表す語句が含まれている。 なお、京成電鉄の行先表示など一部旅客案内では、空港第2ビル駅と当駅の総称として「成田空港 Narita Airport」を用いる場合がある(この場合、駅番号が2つの駅の並立表示となる)。 現在の京成成田駅 - 駒井野信号場 - 空港第2ビル駅 - 成田空港駅間は、空港建設決定時に京成電鉄の空港新線として計画された区間である。京成電鉄では、現在の空港第2ビル駅と当駅の位置に、当初から「第2ターミナル駅」と「第1ターミナル駅」(いずれも仮称)の建設を計画し、1969年11月7日に空港新線の免許を取得している。しかし、運輸省(当時)は成田空港への鉄道アクセス手段として成田新幹線を計画していたため、新東京国際空港公団が京成の旅客ターミナル直下への乗り入れに難色を示し、翌1970年9月28日に京成成田駅から5.2 km地点までの施工が認可されたものの、旅客ターミナル直下までの施工認可は保留された。その後、最終的に空港公団は京成の乗り入れを認めず、やむなく旅客ターミナルから約1キロメートル(km)離れた場所に(初代)成田空港駅を建設することとなり、1971年3月25日に(初代)成田空港駅までの施工が認可された。 しかし、成田新幹線は沿線の反対運動などにより工事が進まず、1986年に計画を断念。第1・第2旅客ターミナル直下に建設されていた新幹線用の路線および駅は在来線用に転用され、JR東日本および京成電鉄の駅として1991年に2代目となる現在の成田空港駅(当駅)が、翌1992年に空港第2ビル駅が開業した。前出の(初代)成田空港駅は、東成田駅と改称し、京成東成田線として営業を継続している。 成田空港第1ターミナルの地下1階にある地下駅である。 駅改札外のJRコンコースには、ジャパンレールパスの引き換えや訪日外国人向けの旅行サービスを提供するJR東日本訪日旅行センターが設置されている(運営はJR東日本グループのびゅうトラベルサービス)。また、京成コンコースにも訪日外国人向けの旅行サービスを提供する「SKYLINER & KEISEI INFORMATION CENTER」(京成トラベルサービス)が設置されている。このほかスターバックスなどの飲食店、売店などが立地する。 JRは島式ホーム1面2線、京成は単式ホームから成田スカイアクセス開業時に改造し、島式ホームと単式ホーム2面3線(うち島式ホームはのりばを4つに分けてある)を有する。改札内での両線ホーム間の行き来はできない。また、出口改札は後述の検問所に直結しているため、検問所を通過しないと再入場や両社間の乗り換えはできない。 空港建設時の経緯から、改札を出た所に「セキュリティエリア」と呼ばれる空港の検問所があり、ここではパスポート若しくは身分証明書の提示を求められるとともに手荷物検査(実際に荷物を開ける)が行われていた。そのため、当駅の開業時には主要駅に新東京国際空港公団(当時)名で、その旨と空港に用のない人は他の駅を使うよう求める旨が書かれた張り紙が掲示された。なお、成田新高速鉄道(京成成田空港線)の開業前をめどに、セキュリティエリアの廃止を検討していることが報じられていたが、開通後も続けられていた。その後、2010年10月以降は再国際化した東京国際空港(羽田空港)との競争の激化を理由に、再び検問廃止を検討しているとも報じられた。そして2015年3月30日の正午をもって、ついに開港以来実施してきた検問が廃止された。 2010年7月17日ダイヤ改正より成田空港線(成田スカイアクセス線)が乗り入れているが、それに伴い京成線の外側(北ウイング側)に新たに躯体を建設し、成田スカイアクセス線専用のホーム1面(新1番線)を設けた。これによって当駅は京成3線・JR2線の計5線となった。なお、改修工事完了後も京成線の駅前後の線路は単線のままである。 躯体工事は成田国際空港株式会社が担当し、その後成田高速鉄道アクセス株式会社が躯体の内部にレールを敷設し、信号機器やエスカレーターなどの諸施設を整備している。 成田スカイアクセス線の開業と同時に当駅 - 京成高砂駅間のルートは2通りとなっているが、2つのルートは運賃が異なるので、ルートの特定と運賃の算定を行うため、当駅のホームを成田スカイアクセス線専用ホーム(単式ホーム・1番線)・京成本線専用ホーム(島式ホーム上野方、2・3番線)・スカイライナー専用ホーム(島式ホーム車止め側、4・5番線)に分け、京成本線コンコースに中間改札が設置されている。また京成本線ホームと成田スカイアクセス線ホームとの間に信号機が設けられており、縦列停車も可能である。4・5番線から電車が発着する時は、2・3番線で通過を知らせる放送が流れる。 かつて、日本レストランエンタプライズ(現:JR東日本クロスステーション)が改札外(成田空港内テナント)に駅弁販売店を出店していたが、現在は閉店している。当時販売されていた主な駅弁は下記の通り(新宿駅・いわき駅と同様の駅弁)。 1992年12月6日の第2ターミナル開業時に多くの主要航空会社の便が第2ターミナル発着とされたため、第2ターミナルに併設される空港第2ビル駅の乗降人員は当駅の2倍近くになった。その後、2006年6月2日より第1ターミナルが拡張され、スカイチームやスターアライアンス加盟航空会社などが第2ターミナルから再び第1ターミナルへ配置換えしたため再度増加している。京成では2010年7月17日に成田スカイアクセス線が開業した後、増加傾向が続いている。しかし、2020年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行の影響で大幅な落ち込みとなった。 近年の1日平均乗降人員の推移は以下の通りである(JRは除く)。 開業以降の1日平均乗車人員の推移は以下の通り。
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青砥駅
青砥駅(あおとえき)は、東京都葛飾区青戸三丁目にある、京成電鉄の駅である。本線と押上線が乗り入れている。駅番号はKS09。 押上線の起点駅で、本線京成上野方面と、都営地下鉄浅草線・京急線からの列車が乗り入れる押上線押上方面の分岐点でもある。また、京成本線では当駅から隣駅の京成高砂駅まで複々線であり、京成電鉄におけるジャンクションとしての機能を当駅と京成高砂駅で二分する形になっている。 島式ホーム2面4線を有する高架駅で、2階と3階にそれぞれ1面ずつホームがある。 1階・中2階にはテナントとしてユアエルム青戸店が入居する。中2階は改札口・駅事務所、2階は都営浅草線・京急線方面(1番線)と京成上野方面(2番線)、3階は成田空港方面(3・4番線)のりばである。 進行方向別の構造のため、当駅では階段を昇降せずに京成高砂方面からの列車と押上線の列車の乗り換えが可能である。また、上り方面への列車の折り返し着発用に、上り・下りの二層間をつなぐ引き上げ線も設置されている。しかし、引き上げ線が1線しかないため、当駅で折り返す本数には制約がある事から、日中の一部の横浜方面快特と羽田空港方面快速特急は京成高砂で折り返す。 中2階改札口にはエレベーター(低速)が設置され、2階ホーム、3階ホームに通じている。他にも、中2階と1階(出口)の間を連絡するエレベーターがある。エスカレーターも併設され、改札口 - 2階ホーム、2階ホーム - 3階ホームをそれぞれ連絡している。 改築から1994年までは、京成津田沼駅と同様の字幕式発車標が使用されていた。その後LED式に交換されたが、成田スカイアクセスの開業に伴いフルカラーLED式のものに交換された。これにより3・4番線ホームで個別に設置されていたものが一体のものとされている。なお、発車標はホームのみの設置であり、運行情報表示器も併設されている。 かつて地上駅時代(当時は島式ホーム2面4線、駅東側から順に1 - 4番線)は平面交差で分岐を捌いていたが、ダイヤ編成上のネックを解消するために大規模改良工事を行い、二重高架の方向別配線となった。その際は、現在の駅舎の位置から京成高砂寄りに一旦仮駅を建設し、旧駅舎を解体後現駅舎を建設する方法で行われた。仮駅はその後1976年に現駅の直下に戻った。1985年の高架化完成と同時期に、駅と隣接する環状七号線最後の区間(青戸八丁目交差点 - 青砥橋 - 奥戸)も完成した。 駅長配置駅。青砥管区としてお花茶屋駅、京成立石駅および四ツ木駅を管理下に置く。 2022年度の1日平均乗降人員は43,907人であり、京成線全69駅中第7位で、他社と接続のない京成電鉄の駅としては最多。また隣の京成高砂駅は北総線からの直通人員を乗降人員としてカウントするため、乗降客数自体は当駅の方が多い。 近年の1日平均乗降人員推移は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。 当駅には駅前にロータリーを設置するスペースがない。ユアエルム青戸5番街と6番街の間の高架下に「京成青砥駅・ユアエルム青戸前」停留所を設置し、2011年8月1日から青01系統の慈恵医大葛飾医療センター行の運行を開始した。青砥駅東交差点はバス停が環七通り沿い(京成高砂方面)にあり駅から離れている為、利用時には注意が必要。 アリオ亀有へのアクセスのために、無料循環シャトルバスが青砥駅入口・青砥駅東交差点の両バス停に停車する。 タクシー乗り場はロータリーが無いため、リブレ京成青砥店横にタクシーが横付けされ、そこから乗車することが慣例となっている。正式なものではないため、タクシー乗り場等の表示はない。 講談の太平記に登場する青砥藤綱が由来とされる。町名は江戸時代の川運の港を意味する「戸」からきた青戸であり、混同されることが多い。また、駅開業時は亀青村青戸ではなく、本田町中原(葛飾区に移行後は本田中原町)に属していた。当駅の住所が青戸となったのは、1967年(昭和42年)の住居表示施行後である。 当駅の高架化事業着手時点では、「スカイライナー」を10両編成にする計画があったため、上下ホームとも10両編分のホーム有効長198mとなっている。1997年に、このスペースを活用し、下りホーム京成上野寄りに「イブニングライナー」の利用客のための待合室が設置されている。
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東成田駅
東成田駅(ひがしなりたえき)は、千葉県成田市古込字込前にある、京成電鉄・芝山鉄道の駅である。 京成電鉄の東成田線と、芝山鉄道の芝山鉄道線が乗り入れており、前者の終点でかつ後者の起点であるが、両線の列車は当駅を介して相互直通運転を行っており、運行形態が一体化している。ただし、芝山鉄道線でのPASMO・Suica等交通系ICカードの利用はできない。当駅は両社の共同使用駅であり、京成電鉄の管轄駅である。京成電鉄では、原則として他社との共同使用駅を含め駅番号の二重付番を行わない方針を採っているため、当駅の駅番号は京成電鉄に対してのみ付与されており、KS44である。 成田国際空港の敷地内にあり、1978年に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなるターミナル駅「(旧)成田空港駅」として開業したが、1991年に現・成田空港駅(以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と1992年に開業した空港第2ビル駅に譲った。 しかし、通勤時間帯を中心に空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が設けられている。このような経緯から、現在でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。 当駅から先の芝山鉄道線は単線で、芝山千代田駅も1線しかないため1編成しか入線できない。 島式ホーム2面4線を有する地下駅。そのうち、実際に通常の旅客列車が使用しているのは1面2線である。エレベーターは設置されていないが、上りエスカレーター1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。改札外コンコースからは、5時20分から23時15分までは空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける全長500メートルの地下通路が使用可能。当駅にも空港第2ビル駅の時刻表が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている自動券売機で同駅からの乗車券を購入することができる。 トイレは改札内にある。成田空港駅時代は列車の接近・到着・発車時における英語付きの案内放送が流れ発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近・案内放送が流れず、発車時に車載のベルが鳴るのみとなっている。 地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲートが併設されていたが、現在は閉鎖されており、爆発物探知犬(通称K-9)の事務所として使用されている。また、これとは別に実質的な東成田駅の出入口となる空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲートがあり、ここで検問が実施されていたが、2015年3月30日以降は原則として行われなくなった。 当駅は、広大な改札外コンコース内に大型の陶板壁画『曲水の宴』(原画:森田嚝平、造形:ルイ・フランセン。1980年5月21日設置)が飾られているほか、レストランの跡地があるなど、多くの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを全て使用しており、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも上下方向とも稼動していた。 ホームについても、1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の発車標も設置されていたが、改称してからは、営業用として供用するコンコース面積が大幅に縮小され、発車標も撤去。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となった。以降、この旧特急ホームは2本の線路を留置線として使用している。また、同ホームについては床タイルが剥がされ、エスカレーターも停止しているが、駅名標は撤去されておらず「成田空港」表記のままである。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままであり、中には東武鉄道の特急スペーシアが登場した当時、外国人観光客向けに日光観光をアピールするために設置された広告もある。ただ、これらの広告は長年手入れされておらず汚損や劣化が進んでいるという。旧特急ホームの線路は、芝山千代田方面には繋がっておらず行き止まりとなっている。旧特急ホームおよび閉鎖されたコンコースは通常時は立入りできないが、2018年5月20日には開業40周年を記念し先着1000名限定での見学会が行われたほか、京成が主催するツアー列車では当駅の旧特急ホームに入線するルートが組まれていることが多く、その際にも見学することが可能となっている。 成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在の1・2番線ホームも、改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。 1997年4月1日に博物館動物園駅が営業休止(2004年4月1日に廃止)してから、2010年7月17日に成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し成田湯川駅が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は京成成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。 当駅が空港アクセス駅として機能していた時代(成田空港駅時代)は、京成線内でも利用客数が多い駅で、最ピーク時は1日平均乗降人員が2万人強を記録していた。 駅の利用者は、ほとんどが成田国際空港関連会社への通勤客の利用で、航空旅客や見学・送迎者の利用は少ない。空港敷地の真ん中にあるため、住民の利用は想定されていない。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通りである。 当駅は成田国際空港の敷地内にあり、駅名改称後も空港ターミナルへのアクセスに用いることができる。空港ターミナルビルへは徒歩や後述の連絡バスでアクセスすることも可能である。第2ターミナルへは、空港第2ビル駅へつながる地下通路を経由して雨や雪に濡れることなく徒歩で移動できる。 付近を通る高架道路の千葉県道62号成田松尾線から車道および歩道が連絡している。この場合、当時実施されていた検問を通ることなく、当駅に行くことができたが、駅敷地内から出ることはできなかった。 成田空港駅時代は、第1ターミナルまでの有料連絡バスが発着していた。駅名改称後も京成成田駅・多古方面などへの路線バスの乗り場があったが、芝山鉄道線の開業により芝山千代田駅へ移転した。 現在、上記第5ゲートを出た空港東通り上のバス停から、成田国際空港内を走る無料のターミナル間連絡バス(成田空港交通による運行)が、第1・第2・第3ターミナル間を結んでいる(一部便は第3ターミナルを経由しない)。連絡バスの他ののりばと異なり乗降客のない場合は通過するため、東成田駅で降車する際はバス車内の降車ボタンを押すよう案内されている。なお、2018年10月以降、成田空港公式サイト上のページや各ターミナルのフロアガイドから東成田駅のりばの表記が省略されているが、連絡バスは引き続き経由している。 このほかに、日本航空や全日本空輸など一部の空港関連企業の送迎バスの発着がある。
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ジョン・H・ワトスン
ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の登場人物。軍医を経た後開業医となった。名探偵シャーロック・ホームズの友人であり、伝記作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を語り手としており、その物語を綴ったことにもなっている。日本語ではワトソンと表記されることも多い。 少年時代を家族と共にオーストラリアで過ごす。ロンドン大学卒業後、聖トーマス病院に入って医学博士号を取得、第二次アフガン戦争に軍医として従軍し、英軍が敗れたマイワンドの戦い(英語版)で負傷した。傷病兵として本国に送還され、ロンドンで下宿を探していた際、友人のスタンフォードにホームズを紹介され、ロンドンのベーカー街221Bで共同生活を始めるようになる。当初はホームズの行動に対して懐疑的だったが、『緋色の研究』事件においてホームズと共に事件に関わり、ホームズの探偵としての姿を目の当たりにすることとなる。そして、ホームズが事件を見事に解決したにもかかわらず、その手柄をレストレード警部らに全て取られる形となったことを(ホームズ自身は気にしていないが)不満に思ったワトスンは、ホームズの活躍をいずれ物語として世に発表することを宣言する。 『四つの署名』事件で知り合ったメアリー・モースタン と結婚し、一旦ベイカー街を出たが、『空き家の冒険』の後でホームズとの共同生活に戻っている。その理由として、メアリーとの離婚、あるいは死別等諸説があるが、ワトスン自身が「悲しい別離」と語っていることから、死別であったとする説が一般的である。いくつかの事件の年代と結婚についての記述が矛盾することや、ずっと後年の『白面の兵士』ではワトスンが妻のためにホームズと別居していたという記述があることから、メアリーとの結婚が終わった後(またはメアリーとの結婚以前)に別の女性と結婚したとする説もある 。 『四つの署名』で、父親の名前の頭文字がHであり、物語で描かれた時期よりかなり前に亡くなったことや、兄がいたことが語られている。 ワトスンのファーストネーム「ジョン (John)」については、妻が「ジェームズ (James)」と呼びかける場面(『唇のねじれた男』)があり、ホームズ研究者(シャーロキアン)たちを悩ませてきた。1943年にドロシー・セイヤーズが「ドクター・ワトソンの洗礼名」を発表し、ミドルネームのHは「ジェームズ」のスコットランドにおける異形である「ヘイミッシュ (Hamish)」なのであろう、という解決策を提示している。そして、なぜ妻がジョンと呼ばなかったかについては、彼女の父親の死に関係したジョン・ショルトー少佐 (Major John Sholto) と同じ名であるため、嫌ったのだとしている。 当人が『四つの署名』で記述しているところでは、「三大陸にまたがる女性遍歴」を持つ。この「三大陸」はアフガニスタンへの従軍経験を持つことなどから、「アジア・アフリカ・ヨーロッパ」のこととする見方が強いが、(少年時代を過ごした)オーストラリアを含める説や、当人が語っていないだけで、アメリカ大陸へ渡った時期もあるのではないかとする説もある。ホームズも「女性は君の領分だ」(『第二の汚点』)と認めたほどだったが、(少なくとも当人の一人称による作中では)本人が豪語するほど「女たらし」な一面は描かれていない。 ワトスンは、『空き家の冒険』で死んだはずのホームズと再会した際に、初めて気を失ったとされている。 容姿については基本本人視点なので「こういう外見だ」と地の文と言われることはないが、『緋色の研究』の第1章ではスタンフォードから「痩せて茶色い肌」、第2章ではホームズから「日焼けで肌色が濃い」と言われ、『犯人は二人(恐喝王ミルヴァートン)』の終盤で、レストレード警部が怪しい男(実はワトスン本人)の要旨を「中背ながらがっしりした体格、顎が張って首が太く、口ひげを生やしている。」と説明(ホームズもこの描写を「ワトスンみたいな犯人」と評し、レストレード自身も「ワトスンそっくり」と賛同している)し、『赤い輪』では序盤でホームズが口ひげの短い人間の例にワトスンをあげる描写がある。アフガニスタン戦争従軍時にジザイル弾で負傷したが、その箇所は脚とも肩とも記されている。 ホームズに比べれば能力が見劣りするとはいえ、コナン・ドイルはワトスンを愚鈍な人物としては描いていない。ホームズは何度も、ワトスンの勇気や能力を賞賛する言葉を口にしており、ホームズはある意味でワトスンに依存していたと見る向きもある。そして、ホームズと対比するとワトスンは実直な常識人として描かれており、職業とも相まって大半の読者から受け入れられる人物像といえる。 『高名な依頼人』事件においては、ホームズの指示で短期間に中国の陶磁器について猛勉強し、陶器の権威であるグルーナー男爵と対峙しても、ある程度の受け答えが可能となる水準にまで知識を高めている(最終的にはスパイであることを見破られてしまうが、これはホームズの計算通りの出来事であった)。また、時にはホームズに調査を頼まれることもあり、ほとんどの場合は後々ホームズに駄目出しをされてしまうものの、『バスカヴィル家の犬』では偶然とはいえホームズの隠れ家を探し出し、ワトスンが送った報告書もホームズが感心するほど詳細なものであった。『隠居絵具師』事件では、依頼人アンバリー氏の持っていた演劇の切符の座席番号を(自分の少年時代と関わりのある番号だったためではあるが)確認しており、「満点だ」とホームズに言わしめている。『悪魔の足』では毒物の効果を自ら確かめる実験をホームズと行った際に、毒物の影響で朦朧としながらも目の前のホームズが危険な状態だと悟ると彼を連れて外へ脱出した。『瀕死の探偵』では、ホームズはワトスンの医者としての腕も評価しており、仮病と悟られないために辛辣な言葉を使って近寄らせないようにした。 ホームズはワトスンに対してもそっけない態度をとることが多く、ワトスンも自身をホームズが円滑に推理を行うための道具の一つとまで発言したことがある。しかし、『三人ガリデブ』でワトスンが殺し屋エヴァンズに撃たれたときには、ホームズはひどく動揺した様子でワトスンに安否を尋ね、エヴァンズに対して「もしワトスンが死んでいたら、お前を殺すところだった」と言い放った。また、『悪魔の足』でも、毒物の効果を確かめる実験に付き合わせたことに対して、謝罪と感謝の言葉をかけ、彼を感動させている。さらに、『最後の事件』では、遺書として書いた手紙の中で、自身の事を「(ワトスンの)真実の友 シャーロック・ホームズ」と書いている。更にホームズは、『白面の兵士』にて、ワトスンが結婚して同居を解消したことに対して、「私たちの付き合いの中で、これがワトスンの唯一の自分本位の行動だった」「私は一人ぼっちだった」と複雑な心境を語っている。 なお、軍医時代の軍用拳銃(型式名称は不明だが、19世紀の物語なので、ウェブリー・リボルバーであることは確実。自動拳銃は20世紀に入ってから発明された)を所持し続け(『赤毛組合』)、危険な事件の際にはホームズの身を案じて携行することもあった。ワトスン自身は、ホームズは一度事件に没頭すると身の安全も顧みない男だったので、自分の拳銃でその窮地を救ったことは「一度や二度ではない」(『ソア橋』)と書いている。その「ソア橋」事件においては、ワトソンの拳銃がトリックの再現に役立っている。本編中での発砲シーンは「四つの署名」(ホームズと同時に発砲。撃たれたトンガは死亡したが、どちらの弾が致命傷になったかは不明)、「バスカヴィル家の犬」(命中したかどうかは不明)、「ぶな屋敷」(犬の頭を撃ち抜いてる)。その他にも「空き家の冒険」でホームズの喉を掴んだ犯人の頭を拳銃の尻で殴ったり、「ブラック・ピーター」でホームズと格闘する犯人のこめかみに銃を突きつけたりしてホームズを助けている。 ワトスンは昔はアスリートであった。『サセックスの吸血鬼』ではワトスンがかつてブラックヒース(有名な古いロンドンのクラブ)でラグビーユニオンをプレーしたことが言及されている。 シャーロック・ホームズシリーズが文学的に成功したのは、読者と同レベルの知能を持つワトスンを語り手として導入し、ワトスンの目を通すことで、手がかりを読者にあからさまでない形で提示できるようになったという点によるものが大きい。また、ワトスンはポーの「私」とは異なり名前が(ミドルネームを除き)判明しており、医師という社会的地位もあることから、名探偵と読者との中間にある第三者(「私」は主人公と同様に奇人であるが、読者にとっては仮託しうる対象ともなる)として、物語に介在していることが大きな特色といえる。この有用な形式は以後多くの推理小説で踏襲されることになる。ちなみに、ホームズはワトスンの書く文章を批判していたが(ただし、彼は自身の名前が世に出ることをあまり好ましく思っていない割にはワトスンを「僕の伝記作家」と評したり、「この事件は君の物語には合わない」など、事件をワトスンが公表することを前提とした発言をすることがある)、あまりに批判されたので遂にはワトスンが怒ってホームズ自身に物語を書くことを要求し、その結果ホームズも読者を喜ばせるためにはワトスンと同じ書き方をしなければならないのだと考え直し、反省した(『白面の兵士』)。 シャーロック・ホームズシリーズが成功したおかげで、ワトスンは名探偵の相棒(サイドキック)の代名詞となった。ノックスの十戒でもサイドキックの例としてワトスンが例示されている。 シャーロック・ホームズシリーズ以降の探偵小説において、物語の語り部や探偵の助手など、ワトスンと同等の役を務める登場人物を「ワトスン役」と称することがある(推理小説#ワトスン役)。 ホームズ同様、ワトスンもまた多数の俳優によって演じられてきた。ホームズに比べるとキャラクターに際立った特徴が少ないためか、ワトスンの方が演じる俳優の個性に左右されやすいと言われる。 特筆されるワトスン俳優として、「アメリカ最高のホームズ」と言われたベイジル・ラスボーンとコンビを組んだナイジェル・ブルースがいる。ブルースが映画やラジオで演じたのは、うっかり者で怒りっぽく大事な場面でへまばかりする、ホームズの引き立て役としてのワトスンだった。ブルースのワトソン像はファンの支持を集め、ラスボーンがアメリカ最高のホームズ俳優とされたのと同じく、ワトスン役のイコンとなった。晩年、ラスボーンからオリジナルの舞台でワトスンを演じて欲しいと要請されたブルースは大いに乗り気であったが、開幕の数週間前に病死した。 その他、エドワード・ハードウィック、アンドレ・モレル、H・マリオン・クロフォードらの評価が高い。特にハードウィックは、最高のホームズとして全世界に名を馳せたジェレミー・ブレット主演によるグラナダ・テレビ製作のテレビドラマシリーズ『シャーロック・ホームズの冒険』で2代目ワトスンを演じ、ナイジェル・ブルースとは全く異なるワトソン像を確立した。ハードウィックの演じたワトソンは、ドイルの原作で本来描かれていたワトスン像であった。すなわち、高潔な英国紳士にして好奇心と勇気があり、陰ながらホームズをサポートする素晴らしい相棒としてのワトスン博士である。ハードウィックの演技により、ブルースの影響による「ワトスン博士=ドジでヘマばかりする名探偵の相棒」のイメージは完全に払拭された。なお、ワトスンの負のイメージの払拭という意味では、同シリーズの初代ワトスンであったデビッド・バークも、男性的で行動力溢れる元軍医としてのワトスンを演じている。 トーキー初のホームズ映画でワトスンを演じたレジナルド・オウエンがそうだったように、ワトスンとホームズを両方演じた俳優も数名存在する。ワトスンを演じてから後にホームズに「出世」するケースが多く、逆にホームズを演じてからワトスンを演じる俳優は少ない。作品によってはワトスンが女性や少年に変更されるケースもある。 日本の声優では、富田耕生がアニメ『名探偵ホームズ』でワトスンを演じた。この作品は映画版から内容がそのままテレビ版にコンバートされる際、声優の一部が交代しているが(広川太一郎演ずるホームズもテレビ版から)、富田はそのまま続投している。表記は「ワトソン」。 2008年にガイ・リッチー監督による映画『シャーロック・ホームズ』において、ワトスン役にはジュード・ロウが抜擢された。公式の日本語表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは劇場公開版では森川智之、テレビ朝日版では堀内賢雄が担当している。 2010年から始まったBBCのTVシリーズ『SHERLOCK(シャーロック)』では、マーティン・フリーマンが演じている。ホームズとは現代風にシャーロック、ジョンと呼び合う。公式の日本語表記は「ジョン・ヘイミッシュ・ワトソン」。舞台は21世紀のイギリスに変更されているが、キングス・カレッジ・ロンドン卒でアフガン紛争(21世紀の)帰りの陸軍医、勇敢で誠実な人物、射撃の名手、友人に紹介されてホームズとルームシェアを始める、女好きなど、原作に忠実な設定も多い。一方で、足の怪我に関してはPTSDによるもので、肉体に問題があるわけではないと変更されている。またホームズと行動を共にすることが多いため、ゲイと勘違いされるシーンが何度もある。演じるフリーマンは、本作での演技により英国アカデミー賞のテレビ部門最優秀助演男優賞を受賞した。日本語吹き替えは森川智之が担当している。森川はガイ・リッチー監督の映画の吹き替え版(劇場公開版)でもワトスンを担当したため、複数の作品でワトスンを演じた珍しい声優となっている。 2011年にロシアで制作された『名探偵シャーロック・ホームズ』では、アンドレイ・パニンが演じている。この作品はホームズより15歳年上のワトスンが主人公の作品である。 2013年からCBSで始まった『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』は、舞台が21世紀のニューヨークであり、ワトスンに相当する役は「ジョーン・ワトソン」という、元外科医で薬物依存者回復支援員となった中国系アメリカ人女性という設定であり、ルーシー・リューが演じている。日本語表音及び和文表記は「ワトソン」。日本語吹き替えは田中敦子が担当している。 2014年に放送が始まった、NHKの人形劇『シャーロック ホームズ』では、オーストラリアからビートン校に転校して来た生徒という設定になっている。表記は「ジョン・H・ワトソン」で、声の出演は高木渉である。ベイカー寮221Bでホームズと同室になり、当初はホームズの行動に戸惑ったり、左脚の負傷でラグビーをやめたりしたことから自分を見失いがちになっていたが、その後ホームズを理解するようになり、退学することになった生徒を励ましたりして、自分を取り戻す。ホームズの事件解決をワトソンメモに記録し、それを元に学内の壁新聞に記事を執筆している。
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推理小説
推理小説(すいりしょうせつ)は、小説のジャンルのひとつ。主として殺人・盗難・誘拐・詐欺等なんらかの事件・犯罪の発生と、その合理的な解決へ向けての経過を描くもの。小説以外にも漫画やアニメ、映画やドラマ、ゲームなどさまざまなメディアに展開されるミステリーというジャンルの元になった。 「推理小説」という名称は木々高太郎が雄鶏社にて科学小説を含む広義のミステリ叢書を監修した際、江戸川乱歩や水谷準に提案されて命名したものと伝えられる。このほか探偵小説(たんていしょうせつ)、ミステリー小説(ミステリーしょうせつ)、サスペンス小説(サスペンスしょうせつ)という呼び名もあるが、前者の名称は「偵」の字が当用漢字制限を受けたためにあまり用いられなくなった。犯罪小説と重なる部分もあるが、完全に同義という訳ではない。 世界初の推理小説は、一般的にはエドガー・アラン・ポーの短編小説『モルグ街の殺人』(1841年)であるといわれる。しかしチャールズ・ディケンズもポーに先立ち、同年1月から連載を開始した半推理・半犯罪小説の『バーナビー・ラッジ』(1841年)を書いている他、100年ほど前に書かれたヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。さらには『カンタベリー物語』、『デカメロン』、聖書外典『ダニエル書補遺』の「ベルと竜」などにも推理小説のような話が収録されており、どこに端を発するかという議論は尽きない。 ただ、確実に言えるのは、1830年代のイギリスに警察制度が整い、犯罪に対する新しい感覚が生まれたということである。この頃一世を風靡した『ニューゲイト小説』(英語版)は、ニューゲート監獄の発行した犯罪の記録『ニューゲート・カレンダー』を元に書かれた犯罪小説であり、後の近代推理小説が生まれる基盤を作ったと言える。 権利と義務の体系が整い、司法制度や基本的人権がある程度確立した社会であることも、推理小説に欠かせない要素であろう。 推理小説というジャンルにとって警察組織の存在は大きい。法を手に犯罪者を捕らえる新しい形のヒーローが誕生したからである。その裏側には、急速に都市化が進むイギリスで、一般市民が都市の暗黒部に対し抱く不安が高まっていた、という歴史的事実がある。そして都市化に伴うストレスのはけ口として、「殺人事件」という素材の非日常性が必要とされていたという見方もある。 推理小説が誕生した後、様々なアイデアが生み出されてきた。そして下記に挙げられるようなミステリにおける「基礎・応用などの土台」が作られたのである。また、科学・医学が進歩するにつれて、それらの知識を用いたトリックなどが次々と考え出された。 また、ミステリの手法は小説にとどまらず、映画・ドラマ・舞台・漫画・ゲームなど多様なメディアに波及してきた。 『モルグ街の殺人』以前にも推理要素を含む文学は存在していた。 『旧約聖書』「列王記略上」第3章にはソロモン王が裁判で名判決を下す話があり、聖書外典『ダニエル書補遺』にも「スザナの物語」「ベルと竜」のようなミステリ仕立ての説話が含まれている。 ウェルギリウスの『アエネーイス』には、ギリシャ神話の英雄ソクラテスが、盗賊カークスに盗まれた牛を、偽の手がかりを回避しながら見事に探し出す挿話がある。 また、『カンタベリー物語』、『デカメロン』、ヘロドトスの『歴史』などにも推理小説のような話がある。 最古の例の探偵小説:『千夜一夜物語』の「3つの林檎の物語」 (The Three Apples) である。 ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605年)には、債権者と債務者の言い分のどちらが正しいかサンチョ・パンサが裁判長として名判決を下すエピソードがある。 ヴォルテールの『ザディグ』(1747年)の一編「王妃の犬と国王の馬」も推理に重きが置かれている。ボーマルシェ『セヴィリアの理髪師』(1775年)には、謎解き推理小説の要素が含まれる。 ヴィドックの『回想録』(1823年)はポーのデュパン探偵ものに影響を与えた。大デュマ『ポール船長』(1838年)は冒険ミステリの色彩が強く、のちのドイルの一連の海洋奇談ものにも通じる。 1841年、アメリカのエドガー・アラン・ポーが発表した短編『モルグ街の殺人』が推理小説の始まりだとされる。チャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』も純粋な推理小説ではないが、作中にミステリー要素がある。未完に終わったディケンズ晩年の『エドウィン・ドルードの謎』は、のちに多くの作家が「解決編」の作成を試みている。 1866年、エミール・ガボリオは仏訳されたポーの作品群に影響を受け、世界最初の長編推理小説『ルルージュ事件』を発表。 イギリスではウィルキー・コリンズが、1860年にスリラーの大長編『白衣(びゃくえ)の女』、1862年には謎をテーマにし、ミステリに近い長編『無名(ノーネイム)』を出版した。そして1868年に、「英語で書かれた初の長編推理小説」といわれる『月長石(月神の宝石)』 を発表している。 1878年、アンナ・キャサリン・グリーンは、処女長編『リーヴェンワース事件』を出版、世界で初めて長編推理小説を書いた女性と言われている。また、ヴァイオレット・ストレンジというフィクションにおける「世界初の女探偵」(世界初の女刑事はバロネス・オルツィ(オルツィ女男爵)が創造したレディ・モリー)が活躍する短編集でも知られる。 1882年、リチャード・ストックトンは、『女か虎か』を発表し反響を呼ぶ。物語中に謎が提示され、解決は読者に委ねるというリドル・ストーリーの典型として有名である。他の作品に「三日月刀の促進士」などがある。 ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』は、フランスの挿絵入り新聞『イリュストラシオン』で連載され、密室ものの古典とされる。続編として『黒衣夫人の香り』が存在する。 ファーガス・ヒュームには質屋のジプシー女性をシリーズ・キャラクターにした『質屋のヘイガー』 (Gypsy Detective Hagar Stanley) の一連の作品群がある。ほかには、章ごとに主役や視点が変わる長編『二輪馬車の秘密』は当時の英国でベストセラーを記録した。ケネス・ウィップルは様々な雑誌に作品を発表した短編メインの作家だが、長編『鍾乳洞殺人事件』では変わり者のアーシー博士が、担当の警部を無視して勝手に捜査を進めてしまう内容で、横溝正史の金田一耕助シリーズに影響を与えている。また『ルーン・レイクの惨劇』では事件発生後ではなく、探偵や関係者(読者も)の目前で殺人が描かれる 趣向を見せた。 キャロライン・ウェルズは処女長編『手がかり』を皮切りに、フレミング・ストーンという「シリーズものキャラクター探偵」が登場する長編ミステリを70作も出版し、「同一作家による長編への最多登場の探偵」となった。 (法廷ものではE・S・ガードナーのペリー・メイスン弁護士が82長編で最多。ノンシリーズも含めるとジョン・ロードが140長編を超す。14のシリーズ探偵を持つジョン・クリーシー(別名 J・J・マリック John Creasey )は、「トフ氏」シリーズ58長編、「ギデオン警視」シリーズ21長編をはじめ総計562長編。) また、ジョン・ラッセル・コリエルは、ニコラス・カーター名義で1886年に「探偵ニック・カーター」が登場する作品を、ニューヨーク・ウィークリー誌で発表。その後、多くの作家がニコラス・カーターのハウスネームでシリーズを書き続けた。100年以上続く探偵ニックものは、その大半が長編である。 同様に、英国でも1893年にハリー・ブリスが探偵「セクストン・ブレイク」の冒険を描く『失踪した百万長者』を発表。ブレイクものは異なった作者により、複数の名義で70年以上書き続けられたが、こちらはニックものとは対照的に短編がほとんどである(アプルビー警部を創作したマイケル・イネスが書いた短編もある)。 1879年、アーサー・コナン・ドイルが、処女作の短編『ササッサ谷の怪』をチェンバーズ・ジャーナル誌10月号で発表。これはホームズものではなかった。1887年には「名探偵」の代表とも言えるシャーロック・ホームズの長編第1作『緋色の研究』を、ワードロック社のピートン誌クリスマス号にて発表。ホームズものは、1927年の短編『ショスコム荘』まで書き続けられた。 ホームズもの作品は長編より短編が圧倒的に多く、同時代には、アーサー・モリスン、アーネスト・ブラマ、ジャック・フットレル、メルヴィル・デイヴィスン・ポースト、オーガスト・ダーレス、ギルバート・キース・チェスタトンなどが独自のキャラクター探偵の活躍する短編を発表し、彼らの創造した探偵は「ホームズのライヴァルたち」とも呼ばれることがある。 一方、フランスのモーリス・ルブランが1905年、短編『アルセーヌ・ルパンの逮捕』で探偵とは逆の立場に属する主人公である「怪盗もの」の執筆をはじめ、30年にわたって怪盗ルパンは長短編に登場することとなった。 そしてパトリシア・ハイスミスは、名探偵ではなく「犯人」をシリーズ・キャラクターに起用し、完全犯罪をたくらむ殺人犯リプリー青年が毎回主人公の『太陽がいっぱい』からはじまる長編5作を発表し、映画化もされている。 また、『キングコング』で知られるエドガー・ウォーレスは、『正義の四人』を筆頭に、探偵・刑事と殺人者・悪漢の両陣営で十指に余るシリーズ・キャラクターを創造した。 犯人の側から犯罪を描写する「倒叙」ものは、オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』が有名だが、毎話ごとに当然ながら犯人が変わっており(探偵は毎回同じソーンダイク博士。また殺人犯が逃亡したり、未遂に終わる、被害者側が許すなど、犯人が罰せられない作品もあるのが本作品集の特徴。)、フリーマン・ウィルス・クロフツの短編集『殺人者はへまをする』および『クロイドン発12時30分』やロイ・ヴィカーズの「迷宮課」シリーズを経て、現代のレビンソンとリンク共作の『刑事コロンボ』に至るミステリの定番ジャンルのひとつになっている。 「被害者」を主人公に起用したミステリとしては、グラント・アレンの『アフリカの百万長者』が挙げられる。 変り種では、いくつもの筆名でシリアスとコミカルの作風を使い分けるドナルド・E・ウェストレイクが『殺人はお好き?』で、「容疑者」を主人公に、事件担当の刑事が抱える別の難事件を次々に解決していく趣向の連作集を発表している。 「語り手(記述者)」が主人公になっている作品としては、ロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の短編集『スミザーズの話』 が挙げられる。ウィルキー・コリンズの長編および中短編では、章や巻ごとに語り手が交代する作品が多い。 「読者」を主人公にする趣向は、フレドリック・ブラウンが連作短編集『真っ白な嘘』で試みている。 「作者」を文体などから読者に当てさせる趣旨のアンソロジーは、エラリー・クイーン編「読者への挑戦」やアイザック・アシモフ編「新・読者への挑戦」がある。 短編中心だった推理小説の世界は、1913年にE・C・ベントリーが、長編『トレント最後の事件』でミステリに恋愛要素を盛り込んだ趣向の作品を発表すると、多くの作家により長編推理小説の名作が次々と発表され、のちに「黄金時代」と呼ばれる長編全盛期を迎えた。 アール・デア・ビガーズは1925年に長編『鍵のない家』を発表。中国人探偵チャーリー・チャンは、ケイ・ルークの当たり役となった数十本の映画や、新聞の連続漫画にも登場する人気を獲得した。「ノックスの十戒」で有名なロナルド・ノックスは、保険会社の事件調査員という珍しい設定のマイルズ・ブリードンを探偵役に起用した。 アガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』における旅客列車の車両内、『そして誰もいなくなった』の孤島、『雲をつかむ死』の旅客機といった「クローズド・サークル(閉ざされた空間)もの」、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』の「見立て殺人」、エラリー・クイーンの『Xの悲劇』から始まる「ダイイング・メッセージ(死に際の伝言)」、ディクスン・カーが得意とする『三つの棺』に代表される「密室もの」および、『深夜の密使』から書き始められた一連の、過去を舞台にした「歴史ミステリ」など様々なジャンルの長編推理小説が発表され、「本格」「フーダニット(犯人当て)」「パズラー」等と称される傑作群が続いた。 ヴァン・ダイン、カー、クイーンにはラジオ・ドラマ脚本も多く、日本でも20世紀末までFEN(米軍放送ラジオ)の平日番組『Radio Mystery Theater』(E・G・マーシャル)で過去の放送が聴取できた(カーの『B13号船室』は特に有名で複数の出版社から英語の学習教材としても出版された)。 カーの『髑髏城』は、本格ものでは珍しくドイツを舞台にした長編である。ジョルジオ・シェルバネンコ (Giorgio Scerbanenco )の長編『傷ついた女神』はイタリアが舞台になっている。ヤーン・エクストレムは「スウェーデンのカー」とも呼ばれ、『誕生パーティの17人』『うなぎの罠』ほか密室殺人を扱った作品が多い。クロフツの『フローテ公園の殺人』は、南アフリカでの事件を扱っている。トマス・S・ストリブリングのイタリア系心理学者・ポジオリ教授ものは、キュラソー、ハイチ、 ヴァージン諸島などカリブ海諸国を歴訪し、事件に遭遇する(読者でも気付くトリックに教授が最後まで解らなかったり、殺人者が逃亡してしまったりするなど、教授の敗北に終わる中編が複数ある)。 クリスティには『うぐいす荘(ナイチンゲール荘)』のようなスリラー作品もある。彼女の「パーカー・パイン」の初期短編は、コンゲームものの古典ともいわれる。イーデン・フィルポッツはクリスティの隣家に住んでおり、種々の助言をしたという。フィルポッツは58歳で推理小説を書き始め、98歳の『老将の回想』(There Was an Old Man )まで推理長編 を執筆し続けた。ドロシー・セイヤーズにも『疑惑』というホラー短編がある。 フィルポッツとは対照的なのがジェイムズ・ヤッフェで、15歳の時に短編『不可能犯罪課』を発表し、3年後の『喜歌劇殺人事件』まで連作短編6作品を書いた。長編は「メサグランテのママ」シリーズがある。ティモシー・フラーも、ハーバード大学在学中に21歳で『ハーバード大学殺人事件』で作家デビュー。探偵役ジュピター・ジョーンズが、主に同大学やその同窓会で起きた事件を解決するシリーズになっている。女性二人の合同ペンネームであるロジャー・スカーレットはミステリ作家としての活動期間が短く寡作ながら、江戸川乱歩が高く評価し『エンジェル家の殺人』を『三角館の恐怖』に翻案している。 ルーパート・ペニー(Rupert Penny )は『おしゃべりな警官」から始まるビール主任警部もの8長編に、クイーンを思わせるような「読者への挑戦状」を挿入した。 「オベリスト三部作」のチャールズ・デイリー・キング(Charles Daly King )は『海のオベリスト』で「探偵役が登場人物のうち誰か判らない」、『空のオベリスト』で「シリーズ探偵が事件解決に失敗する」という工夫を見せているほか、長編の巻末に「手がかり索引」を置き事件を振り返ることができる。ブライアン・フリン(Brian Flynn )は「英国のファイロ・ヴァンス」とも呼ばれるアンソニー・バサーストを探偵役に50冊を超す長編を発表した。邦訳は『角のあるライオン』(1933年)しか訳されていないが、本国では現在もペーパーバックが売られている。 黄金時代からその少し後に登場したトリッキーな作家群を、江戸川乱歩は「新本格派」と命名している。 ベルギーのスタニスラス=アンドレ・ステーマン、アイルランドのニコラス・ブレイク、英国のクリスチアナ・ブランド、リチャード・ハル、アントニイ・バークリー、エドマンド・クリスピン、エリザベス・フェラーズ(Elizabeth・X・Ferrars )、レオ・ブルースらが、独自の作風で創意工夫に満ちた異色作を発表した。 「本格」に対して、「変格」といわれる作品の一つが、パトリシア・マガーの『被害者を捜せ!』『探偵を捜せ!』等の、犯人はわかっていて被害者・探偵・目撃者などを推理させるといった、推理小説の枠にとどまらないユニークな形式(変格推理)の長編作品である。マガーは女スパイを主人公にした「セレナ・ミード」ものも著名で映画にもなっている。スパイものでは「ジェームズ・ボンド」シリーズのイアン・フレミングが有名だが、他にエリック・アンブラーの『ディミトリオスの棺』やフレデリック・フォーサイスによる『ジャッカルの日』、グレアム・グリーン『ハバナの男』、ほか多数の日本語訳がある。 さらに、トリックや謎解きよりも主人公や登場人物の心理描写に重点を置く「サスペンス」の作品をアメリカのコーネル・ウールリッチが多数発表。代表作がウィリアム・アイリッシュ名義の長編『幻の女』で、冒頭の書き出しも有名である。短編『裏窓』は映画の原作に採用された。アレックス・ゴードンの『アラベスク』も映画化されている。 英国では、パトリック・クェンティン(のちアメリカに渡る)のウェッブ主導の初期作品は本格色が強かったが、コンビのうちホイーラー中心の後期はサスペンス色が濃くなった。ルース・レンデルも「ウェクスフォード警部」シリーズの本格推理と、バーバラ・ヴァイン名義でのサスペンスの両系統で傑作群 を発表した。 フランスではボワロー=ナルスジャック(『死者の中から(めまい)』)やカトリーヌ・アルレー(『わらの女』)、セバスチアン・ジャプリゾ(『雨の訪問者』)などが「サスペンス」ものを多く発表している。 ジョセフィン・テイは女性の心理描写に長けた作家だが、『時の娘』において舞台は現代ながら探偵役が病院のベッドの上で、文献のみから歴史上の事件を解決する手法を採っている。彼女と混同されがちな『病院殺人事件』など、医療ミステリのジョセフィン・ベル(Josephine Bell )は、イギリス推理作家協会(CCA)の創立当初からのメンバーであり、会長職も務めた。アンドリュウ・ガーヴ(Andrew Garve )は謎解き・冒険・警察ものと多彩な作風を使い分けるが、『ヒルダよ眠れ』からはサスペンス基調の作品が多くなった。 のちに児童文学の大家となるアレキサンダー・ミルンは『くまのプーさん』の前に、『赤い館の秘密』ほか数点のミステリを発表している。 ジェームズ・ヒルトンも『チップス先生さようなら』の前に『学校の殺人』を書いている。SFの巨匠アイザック・アシモフには『黒後家蜘蛛の会』シリーズがある。『宝島』のロバート・スティーヴンソンもミステリ要素の多い『新アラビア夜話』(「自殺クラブ」)を書いている。 ヴォードヴィル劇作家のパーシヴァル・ワイルドは、『検屍裁判』をはじめとするリーガル推理長編や、トランプいかさま師パームリーが主人公のカードミステリ『悪党どものお楽しみ』などでも知られる。チェコ語の翻訳者であるエリス・ピーターズは、イーディス・パージターの本名で歴史小説を書く一方、「修道士カドフェルシリーズ」などの歴史ミステリも執筆した。フランス社会小説の大家クロード・アヴリーヌにも、『U路線の定期乗客』ほか数点のミステリ長編がある。 1928年、ダシール・ハメットが名無しの探偵コンティネンタル・オプの最初の長編『デイン家の呪い』とそれに続き『赤い収穫』を発表。従来の推理小説とは一線を画す「酒、暴力、アクション、恋愛」といった要素の多い「ハードボイルド」と呼ばれる、主としてアメリカの大都会を舞台にした私立探偵ものの嚆矢とされる。ハメットは1930年、もう一人『マルタの鷹』で初登場するサム・スペードも創造した。オプとスペードに続く第3のキャラクター、おしどり探偵ニックとノラの活躍を描く『影なき男』も好評で、映画でシリーズ化された。 ジョン・ダン・マクドナルドの長編は、『濃紺のさよなら』から題名に色の名前がつけられ、シリーズ・キャラクターのトラヴィス・マッギーは、さまざまな作家に影響を与えた。ノンシリーズ作品『恐怖の岬』はグレゴリー・ペックとロバート・ミッチャム、マーティン・バルサムの共演で映画化された。 『ブラック・マスク』などのパルプマガジン(大衆向け読本雑誌)で活躍した作家にはフランク・グルーバー(Frank Gruber)がいる。「人間百科事典」ことオリヴァー・クエイドと『フランス鍵の秘密』から登場のフレッチャー&クラッグは、都会を舞台としつつもプロの私立探偵ではなく、どちらも「巻き込まれ型」の素人探偵である(百科事典売りとボディビルの香具師コンビ)。 ハードボイルドものの都会的なセンスおよびスリリングな展開と、本格ものの論理的な謎解きを併せ持つ『屠所の羊』のA・A・フェアや『ネロ・ウルフ対FBI』のレックス・スタウト、『処刑6日前』のジョナサン・ラティマー、『シカゴ・ブルース』のフレドリック・ブラウンらの作品群を「ソフトボイルド」と呼ぶ場合もある。 『大いなる眠り』や『長いお別れ』の レイモンド・チャンドラーは、「主流文学(純文学)の中にミステリーを取り入れた」と評され、ロス・マクドナルドは、『動く標的』などに見られる複雑なプロットと、登場人物に関する心理学的な洞察が特徴で、「ハードボイルドと本格の融合」と称される場合がある。 マクドナルド(本名:ケネス・ミラー)の妻であるマーガレット・ミラーは、プライ博士とサンズ警部もの長編『見えない虫』『鉄の門』ほかで夫より先に作家として成功を収めており、『これよりさき怪物領域』など心理スリラーの第一人者として活躍。晩年のアラゴン弁護士ものでは、ハードボイルドやサスペンスにユーモアの要素を加えて以前よりマイルドな作風に転じた。 カーター・ブラウンには、ハードボイルドでは珍しい女性の都会探偵を主人公にした、メイヴィス・セドリッツもの『乾杯、女探偵!』『女ボディガード』がある。 エド・マクベインは、架空の街アイソラを舞台にの警官たちの活躍を描いた「87分署シリーズ」で、警察小説と呼ばれる新たなジャンルを確立した。かたや「ホープ弁護士シリーズ」は題名が『白雪と赤バラ』『長靴をはいた猫』など童話に因む作品になっている。他にカート・キャノン名義での同名キャラ登場の「酔いどれ探偵シリーズ」、エヴァン・ハンター名義の『暴力教室』『逢う時はいつも他人』などの作品群は映画化された。、 警察小説では、ヒラリー・ウォー、ジョルジュ・シムノン、コリン・デクスターなどの作品が名高い。 また、ディック・フランシスは障害騎手として活躍した経験を生かし、処女長編『本命』をはじめ、競馬界をめぐる事件を発表し続けた。そして法曹界出身のシリル・ヘアー(Cyril Hare )は、「法律ミステリ」「リーガル本格」とも呼ばれる『法の悲劇』などが知られる。他に経済・化学・会計などのテーマに特化したミステリを書く作家も現われた。 ジョン・L・ブリーンは、ヴァン・ダインの文体を真似た『サークル殺人事件』、ディクスン・カーが書きそうな不可能犯罪『甲高い囁きの館』など、多くの推理作家の巨匠パロディ・パスティーシュを発表した。 アンソニー・ホロヴィッツとジョン・エドマンド・ガードナーは、ホームズの宿敵モリアーティー教授の後日談、およびフレミング財団公認のジェームズ・ボンドシリーズをそれぞれ独自の内容で発表している。 ロバート・ロイド・フィッシュは『シュロック・ホームズの冒険』などのホームズ・パロディの短編集を書く一方、『亡命者』のようなシリアスなサスペンス長編もある。短編の名手エドワード・デンティンジャー・ホックには『第二のまだらの紐』など12短編のホームズ・パスティーシュがあるほか、怪盗ニックやホーソーン医師ら自身のキャラクターとホームズを共演させた。 女流作家の ジョイス・ポーターは、ドーヴァー警部とホンコンおばさんの三枚目キャラクターが、作中でドタバタを繰り広げるユーモア推理作品で人気を博した。 同じく女流のクレイグ・ライスも、自身とその家族をモデルにしたと言われる『スイート・ホーム殺人事件』(1944年)や『時計は三時に止まる』(1939年)にはじまるマローン弁護士ものといったユーモア長編を多く発表した。 ウィリアム・ブリテンの『エラリー・クイーンを読んだ男』など「読んだ男」(The Man who Read...)シリーズは、原作の雰囲気をよく捉えた作品群である。ほかに教師探偵「ストラング先生」ものがある。 『チョコレート工場の秘密」『チキ・チキ・バン・バン』などでも知られるロアルド・ダールは、賭けに取りつかれた人間心理の短編集『あなたに似た人』で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の短編賞を受賞。特に『南から来た男』や『おとなしい凶器」は複数回ドラマ化されている。 ロバート・トゥーイ(Robert Twohy )は『さよなら、フランシー』で男女双方の姿を使い分けて生活し、知人隣人に性別を微塵も疑われない作家の完全犯罪を描き、TVシリーズ「ヒッチコック・サスペンス」にも原作を提供した。女装作家フランシス・スコットものはシリアスだが、トゥーイのもう一人の主人公ジャック・モアマンものは死体を埋めたと警察に誤認させ自宅の畑を開墾させるなどのユーモア短編。短編集『物しか書けなかった物書き』には殺人(粛清)シーンなしで犯罪組織の非情さを綴る「探偵の出て来ないハードボイルド」ものがある等と作風の幅が広い。 ジャック・リッチーは軽妙な文体が特徴で、主人公には夜しか活動できないモンスター探偵カーデュラと、周囲を刮目させる名推理を披露しながら最後に真犯人を間違えてしまう迷刑事ターンバックルの二人がいる。ヘンリー・スレッサーやシオドア・スタージョンなどもクライム・ストーリーを多作し、ロッド・サーリングの『トワイライトゾーン』などでテレビ映像化されている。 サラ・パレツキーは高学歴で元弁護士の女性探偵V(ヴィクトリア)・I・ウォーショースキーが活躍する『サマータイム・ブルース』でデビュー。キャスリーン・ターナー主演で映画化(邦題「私がウォシャウスキー」)。スー・グラフトンは才女ウォーショースキーとは対照的な、「平凡で普通の女性」を探偵役に起用した。『アリバイのA』の主人公キンジー・ミルホーンのシリーズは「作者・探偵・読者」すべて女性である(男性読者もいるが、作風が女性読者向けということで)「3Fミステリー」 との新語も生んだ。『荊の城』のサラ・ウォーターズは、レズビアンのキャラクターを作品に多く登場させている。パトリシア・モイーズ(Patricia Moyes )のシリーズ探偵は男性のヘンリー・ティベット警部だが、明るく聡明な妻のエミーも捜査に協力して、夫婦で事件を解決していく作品が多い。 2000年代以降にはタフな女性の私立探偵や犯罪者を描く作品に対してタルト・ノワールというジャンル名が提唱されている。現代本格の作家だが、ジル・チャーチルは1930年代のアメリカ田舎を舞台として、良家子女くずれのリリーと兄ロバートが事件を推理するシリーズがあり、タイトルがジャズのスタンダードナンバー(『風の向くまま』Anything Goes など)になっている。他に現代アメリカ北部が舞台の主婦探偵ジェーンものがあるが、こちらは『飛ぶのがフライ』( Fear of Frying )といった具合で小説タイトルのもじり(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』 Fear of Flying)である。 ジョン・ボールは黒人エリート警官ヴァージル・ティッブスを主人公とする長編『夜の熱気の中で』を発表し、人種の壁を乗り越えて相手に尊敬される主人公が人気となった。チェスター・ハイムズの書いた「墓掘りジョーンズと棺桶エド」の黒人コンビが登場する『イマベルへの愛』はフランスで話題になったが、生国のアメリカでは不評だったという。 その後、女性や黒人の探偵も続いて登場し、珍しくなくなったミステリの世界で、作者たちは、猫(リリアン・ブラウンの『シャム猫ココ』)やねずみ、未来人(ロバート・アーサーの『時間旅行者』)、歴史上の偉人(セオドア・マシスンの『名探偵群像』)、魚やイルカ、機械やロボット、この世の人間ではない人(ハーリ・クイン氏)など、様々な探偵を創造し続けた。 イーヴ・タイタスのねずみの国の「探偵ベイジル」もの、ウィリアム・C・アンダースン(William Charles Anderson ) の人語を話すイルカ「ペネロッピー」シリーズ、ピエール・アンリ・カミの『クリク・ロボット』、魔法使いが主役のランドル・ギャレットの『魔術師を探せ』などは、我が国でも紹介された。ポール・アルテのツイスト博士は、百年経過しても年をとらない 不思議な名探偵である。 ジャン・マイケルズ『死のリフレイン』、ジョゼフィン・ケインズ『ステージの悪魔』やビル・S・バリンジャー (Bill Sanborn Ballinger ) 『歯と爪』は解決編を袋綴じにして販売。トマス・チャステイン、ビル・アドラー『誰がロビンズ一家を殺したか?』と続編『ロビンズ一家の復讐』は、懸賞を付けて読者から犯人の回答を募集した。スタンリイ・エリンは長編『鏡よ、鏡』を返金保証つきで出版した。 また、デニス・ホイートリー (Dennis Wheatley )は『マイアミ沖殺人事件』、『誰がロバート・プレンティスを殺したか』、『マリンゼー島連続殺人事件』で、マッチや新聞記事の切れ端など、証拠品の複製を単行本 に添付して発行した。 ピエール・バイヤール (Pierre Bayard )は『アクロイドを殺したのはだれか』、『シャーロック・ホームズの誤謬』などで、クリスティの初期作品やドイルの長編で「探偵が作中で指摘した犯人は無罪。真犯人は別にいた。」という内容の評論・改作を続けて発表している。 エイドリアン・コナン・ドイルはディクスン・カーと共作で、ホームズの語られざる作品集 『シャーロック・ホームズの功績』を出版。また、21世紀に入り、カーの孫娘シェリー・ディクスン・カーが『ザ・リッパー 切り裂きジャックの秘密』を発表しミステリ界にデビューしている。 マクドネル・ボドキン(Matthias McDonnell Bodkin )は、私立探偵ポール・ベック、 女探偵ドラ・マールの二大シリーズを持っていたが、彼らを結婚させ二人の息子であるベック2世の作品も創造し、二世代の共演も実現させた。また、ジョン・ピールは1992年からジョン・ヴィンセント(John Vincent )名義で『踊るのは我らだ』(Live And Let's Dance ) などジェームズ・ボンド・ジュニアのシリーズを書き続けている。 ロシアではアントン・チェーホフが、1884年に長編推理小説『狩場の悲劇』を発表。父親がロシア系ユダヤ人の英国作家イズレイル・ザングウィルは、1892年の『ビッグ・ボウの殺人』連載中に、読者から解決(真相)の予想を募集した。ロシア国内では未発表のジャンルとされている。 ハンガリーのアラド(現在はルーマニアのArad郡都)生まれのバルドゥイン・グロラー (Balduin Groller )は、オーストリア=ハンガリー帝国ハプスブルク朝末期を舞台に「探偵ダゴベルト」もの短編を発表している。 チェコの作家ヨゼフ・シュクヴォレツキー (Josef Škvorecký )には『ノックス師に捧げる10の犯罪』(Hříchy pro pátera Knoxe)という、「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」「探偵自身が犯人であってはならない」など「ノックスの十戒」に違反した連作集がある。 トルコのイスタンブールで生まれたアキフ・ピリンチ(Akif Pirinçci)は、トルコ人の若者を主人公にした恋愛小説でデビューしたが、『猫たちの聖夜』(Felidae)でミステリ分野にも参入。『ザ・ドア 交差する世界』は映画化もされた。 アルゼンチンでは戦前から、探偵小説がかなり書かれており、1940年代には、アメリカのミステリ雑誌『Ellery Queen's Mystery Magazine』に投稿がみられる。第3回短編ミステリ・コンテストにはホルヘ・ルイス・ボルヘス ( Jorge Luis Borges、1899-1986)の「迷路の花園」が入選した。ボルヘスの推理小説およびミステリ風小説は、「死とコンパス」(1942)、「裏切り者と英雄のテーマ」(1944) 、 「エンマ・ツンツ」(1949) などがある。 1942年、服役中のドン・イシドロ・パロディという究極の安楽椅子探偵もの連作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件 』(Seis problemas para don Isidro Parodi )が 刊行され、オノリオ・ブストス・ドメックと名乗る作者は謎だったが、ボルヘスとアドルフォ・ビオイ・カサレス( Adolfo Bioy Casares )の合作だと後に判明した。他に、パブロ・デ・サンティスの世界の名探偵12名が事件の解明を競い合う『世界名探偵倶楽部』(El enigma de París)や、ギジェルモ・マルティネスの映画化された『見えざる犯罪』(Crímenes imperceptibles)は日本でも翻訳されている。 ウルグアイではチャンドラー作品の続編を書いたイベア・コンテリース(Hiber Conteris )の『マーロウ もう一つの事件』、コロンビアの ホルヘ・フランコ (Jorge Franco )の『ロサリオの鋏』など が、本国のほか英訳されて刊行されている。ブラジルのJ・ソアレス(Jô Soares )には、『シャーロック・ホームズ リオ連続殺人事件』(O Xangô de Baker Street )というホームズものパロディがある。 オーストラリアのアーサー・アップフィールド(Arthur Upfield )は、『バラキー牧場の謎』(1929)そして『ボニーと砂に消えた男』(1931)にはじまる、先住民アボリジニとの混血であるボナパルト警部が、豪州の大自然を舞台に活躍する作品群を量産した。また、S・H・コーティア(Sidney Hobson Courtier )は、『謀殺の火』(1967)など、アボリジニの神話や風俗を主題にした作品を発表している。 中国では、事件の調書や裁判記録など、公的機関が発行した文書のことを公案と呼んでいたが、宋代から元代にかけて、公案を題材にした話芸や戯曲が人気を呼び、明代にはこれをもとにした公案小説というジャンルが流行している。特に、宋代に実在した政治家の包拯が、様々な講談、戯曲、公案小説において裁判や捜査で事件の真相を明らかにする主人公として登場しており、今日でもテレビドラマなどに翻案されている。 中国では、1885年に発表された知非子(ちひし)『冤獄縁』(えんごくえん)が初の創作探偵小説だとされている。長編では1890年に、作者不明の『狄公案』(てきこうあん) が刊行されている 近代中国で推理小説の嚆矢となった作家は、 程小青が挙げられる。1914年、上海の新聞で短編『灯光人影(とうこうじんえい)』を発表。探偵役の霍桑 (かくそう/フオサン)はホームズ型の天才探偵で、ワトスン役は包朗(ほうろう/バオラン)。霍桑の探偵談はシリーズ化され30年以上続いた。 朝鮮では、李海朝(イ・ヘジョ、1869 - 1927)が1908年に発表した『双玉笛』(そう ぎょくてき)が初の創作探偵小説とされている。大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌近郊の平安南道で生まれた 金来成は、早稲田大学在学中の1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。1939年に発表した『魔人』は和訳が出版されている。 余心樂は、台湾月刊誌「推理雑誌」に作品を発表。林仏児推理小説賞の中編「生死線上」が和訳されている。 日本では明治以前から勧善懲悪をテーマとした歌舞伎や講談の演目が存在していた。例えば大岡政談などの政談ものは発生した事件を正しく裁く筋立てが法廷推理小説に等しく、鼠小僧や石川五右衛門を題材とした作品群は犯罪心理小説に通じるものがある。しかし、これらは奉行や犯罪者の物語であり、民間人が犯罪を解決する役回りにはならない(もし民間人が犯罪を解決しようとすると仇討ちや義賊という形になり、民間人ではなく情に厚い犯罪者になってしまう)。日本における探偵小説は、文明開化以降、探偵という概念が西洋から輸入されることで生まれた。 黒岩涙香が明治22年(1889年)に発表した『無惨』(別題『三筋の髪、探偵小説』)が、日本人初の創作推理小説と言われる。涙香は1896年にも『六人の死骸』と題する作品を執筆している。 1917年、岡本綺堂は、アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、「三河町の半七」を主人公にして『半七捕物帳』のシリーズを開始。探偵小説の要素を盛り込んだ時代劇である「捕物帳もの」のさきがけとなる。ほかに、野村胡堂の1931年からはじまる『銭形平次捕物控』シリーズは、後年、たびたび映画やテレビドラマ化されている。『旗本退屈男』の佐々木味津三には『むっつり右門」、城昌幸にも『若さま侍』の捕物帳がある。変わったところでは、鳴海丈がセクシー路線の『彦六捕物帖』『柳屋お藤捕物帳』などを書いている。 「捕物帳もの」と並ぶ日本ミステリのジャンルに「奉行もの(お白洲もの)」がある。実在の遠山景元が登場の『遠山の金さん』が一例。『伝七捕物帳』 の陣出達朗や『桃太郎侍』で知られる山手樹一郎など複数の作家が、『遠山の金さん』ものを執筆している。 他には、時代小説のイメージが強い山本周五郎だが、『寝ぼけ署長』という連作の探偵小説がある。『木枯し紋次郎』の笹沢左保も多くの捕物帳以外に、現代を舞台にしたミステリを発表した。 日本において探偵という職業を大衆に認知させ、探偵小説・推理小説の知名度を上げたうちの一人に、江戸川乱歩がいる。江戸川乱歩は大正・昭和期、推理小説の黎明期において明智小五郎や少年探偵団が活躍する一連のシリーズで名を挙げ、現在も江戸川乱歩賞にその名を残している。 1947年、江戸川乱歩が探偵作家クラブを設立した(このクラブは現在日本推理作家協会という形で残っている)。氷川瓏は、ポプラ社の乱歩作品の少年少女向けリライトや、涙香や海外作品など乱歩名義の翻案を手がけた。 1935年、日本の探偵小説における三大奇書と呼ばれるうちの二作(夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』)が出版された。1965年には、三大奇書の最後の一作・中井英夫の『虚無への供物』が出版された。時代や作風などに差があるものの、坂口安吾の『不連続殺人事件』や竹本健治の『匣の中の失楽』も三大奇書と絡めて語られることがある。 『支倉事件』の甲賀三郎、『わが女学生時代の罪』の木々高太郎、物理的・化学的トリックを多用した「帆村荘六」ものを書いた海野十三などの諸作品は今日でも再刷が続いている。久生十蘭には長編『魔都』『金狼』などがある。谷崎潤一郎のような文豪も『秘密』『白昼鬼語』などの推理作品を発表した。また、木々・海野は大下宇陀児と三人で、「風間光枝」という共通の探偵キャラクターを持ち競作を行なっている。 第二次世界大戦中は探偵小説が禁圧され出版できなかった。戦後はGHQの検閲により、復讐などの要素を含む時代劇が禁止された。横溝正史は当時、捕物帳をはじめとした時代小説を書いていたが、GHQの規制を受けて『本陣殺人事件』『獄門島』などの金田一耕助シリーズを執筆し、これが本格推理長編小説の再興に繋がったと言われる。 また、伝奇小説で知られた角田喜久雄は、長編『高木家の惨劇』で本格推理のジャンルに参入、伝奇ロマンとの二枚看板で人気を得た。クロフツに影響を受けた鮎川哲也はアリバイくずしを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』など鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。またアンソロジーの編纂にも力を尽くした。 高木彬光は神津恭介を探偵役とする『刺青殺人事件』他の本格ものを中心に『連合艦隊ついに勝つ』『邪馬台国の秘密』など歴史・SFとも融合したミステリ、『破戒裁判』などの法廷もの、『黄金の鍵』から始まる安楽椅子探偵ものと多岐にわたる作品群を発表した。都筑道夫は、長短編はもとより掌編(ショートショート)でも多くの作品を発表、また英米ミステリの紹介者としても功績を残す。 1957年には、仁木悦子が自身と同名ヒロインが登場する長編『猫は知っていた』でデビュー、「日本のクリスティー」と呼ばれた。また、夏樹静子はクイーンの悲劇四部作のオマージュともいえる『Wの悲劇』が話題となり、薬師丸ひろ子主演で映画化もされた。『花の棺』をはじめとするキャサリンシリーズの山村美紗も、京都を中心としたトラベル・ミステリ作品の多くがテレビドラマ化された。 SFや伝奇小説の分野でも多作で知られる栗本薫は、評論では「中島梓」名義を使い分け、エラリー・クイーンとバーナビー・ロスを思わせる中島梓と栗本薫の1人2役対談が、『平凡パンチ』誌上で企画された。推理小説の分野では、作者と同名だが男性の栗本薫が主人公の『ぼくらの時代』をはじめ、多くのシリーズとキャラクターを創造した。 トリッキーな連作『妻の女友達』『プワゾンの匂う女』や、倒錯ミステリの長編『ナルキッソスの鏡』が有名な小池真理子は、短編の名手としても知られる。 1960年代以降、推理小説は松本清張の『砂の器』などの作品群や黒岩重吾、西村寿行の「社会派」、西村京太郎の「トラベル・ミステリ」、森村誠一の「ビジネス・企業もの」「歴史ミステリ」、高橋克彦の「美術ミステリ」、山田正紀や小松左京、豊田有恒、筒井康隆らの「SFミステリ」、志茂田景樹の「恋愛ミステリ」、 館淳一や丸茂ジュンの「官能ミステリ」、 山藍紫姫子の『スタンレー・ホークの事件簿』に代表される「耽美ミステリ」など、様々なサブジャンルに分かれていった。 初期には『古墳殺人事件」など、本格ものでペダンティックな作品を書いていた島田一男は、のちに「事件もの」といわれる記者が活躍する小説に転じた。山田風太郎は「忍法帖シリーズ」が有名だが、青春探偵団が活躍する推理小説もあり漫画化された。お色気に満ちた風俗小説とシリアスな経済小説で作風を使い分ける梶山季之にも、『朝は死んでいた』、『知能犯』など推理作品がある。時代もの・SFと多分野で活躍した多岐川恭も、『濡れた心』をはじめ登場人物の心理描写に優れたミステリの傑作群がある。誘拐事件を扱った天藤真の『大誘拐』は、映画化されている。 そのほか、ハードボイルド(大藪春彦や生島治郎、片岡義男、小鷹信光)、将棋や奇術、音楽、法律、山岳、競馬など他の趣味・本業を生かしたミステリ(斎藤栄、泡坂妻夫、戸川昌子、佐賀潜、太田蘭三)、実在する文学者・文学作品(『芥川龍之介の推理』や『川端康成の遺書』などの土屋隆夫)、日常の謎(北村薫、若竹七海)などをテーマや作風とする作家も現れた。佐野洋は『推理日記』のタイトルで、40年にわたりミステリ評論を書き続けた。岡嶋二人は、日本では珍しいコンビによる作家(現在は解消)でデビューした。 80年代末から世紀末にかけ、1987年にデビューした綾辻行人を嚆矢とした、有栖川有栖・二階堂黎人・麻耶雄嵩・貫井徳郎・芦辺拓・深水黎一郎らの海外のクイーンやカーを再現したような「本格」というジャンルに特化した作家群が次々に出現。彼らは「新本格派」または「日本の新本格派」 とも呼ばれることがある。また、清涼院流水は、その独特の作風からミステリ界に論争を巻き起こした。大塚英志や舞城王太郎といった作家たちが、清涼院のJDCシリーズと同じ世界観を持つ作品を発表している。 南洋一郎はモーリス・ルブランの原作を、少年少女向けに改筆した『怪盗ルパン全集』全30巻 の訳者として知られる。第13巻『ピラミッドの秘密』のように、一部にルブラン作品を取り入れてはいるが、ほぼパスティーシュと認定されている作品もある。 70年代後半に各出版社がジュニア向け文庫を立ち上げると、山浦弘靖の『殺人切符はハート色』などトランプ絡みの題名が続く「星子ひとり旅シリーズ」は、コバルト文庫の看板シリーズとなった。 また、『仮題・中学殺人事件』にはじまる辻真先の、「読者」「作者」「編集者」など本来は犯人たりえない人物を扱うシリーズをラインナップに揃えたソノラマ文庫など、ジュヴナイルのミステリが多く刊行された。辻は卒寿(90歳)になっても、なお現役で推理長編(一般向け)を発表している。 学研や旺文社などの学年誌や受験誌に多く連載した小峰元は、ギリシャ哲学者を冠した『アルキメデスは手を汚さない』から始まる「青春ミステリー」で知られる。ラジオの深夜放送や大学受験など、当時の10代から20歳前後の若者の生活や悩みを作中に織り込んだ作風が特徴。最初期の短編集『幽霊列車』では本格要素がかなり強かった赤川次郎だが、角川映画との連携や『三毛猫ホームズ』シリーズのテレビドラマ化で人気が出たことから、若者向けのユーモア・ミステリ路線にシフトした。 『湯殿山麓呪い村』 の山村正夫は、古今東西のミステリをダイジェストにして、年少者やミステリ入門者向けに、クイズ形式とした『トリック・ゲーム』などを著した。また、各種会場での小説教室の指導者として、多数の人材を輩出している。 1992年には『金田一少年の事件簿』、1996年には『名探偵コナン』が好評を博し、推理漫画が一つのジャンルとして定着した。2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』でデビューした西尾維新は、文芸ものの新書「講談社ノベルス」から発行されているが、ライトノベルとして分類され、また自身もそのようにとらえる場合もある。『掟上今日子の備忘録』や『美少年探偵団 きみだけに光かがやく暗黒星』など多くの作品が漫画化・テレビドラマ化されている。西尾維新に限らず青春ミステリにおいてはライトノベルとの境界が非常に曖昧で、『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞を受賞した桜庭一樹は元々ライトノベル作家であった。 2010年代以降は頭脳戦、デスゲーム、ギャンブルを描いた漫画のヒットにより、推理小説でも「特殊設定ミステリー」と呼ばれる特殊な条件下の作品が多く発表されるようになった。 前項の桜庭一樹は、自身の故郷である鳥取県を舞台にミステリを書いているが、他にも東京や首都圏以外の推理小説を書く作家もいる。山村美紗の『京都殺人案内』(京都)、東野圭吾の『浪花少年探偵団』(大阪)がその一例である。 内田康夫の『死者の木霊』からはじまる「信濃のコロンボ」シリーズは長野県 で起きた事件がメイン。森博嗣の『すべてがFになる』は愛知県 で探偵が活躍する。石沢英太郎のシリーズ探偵・牟田刑事官は福岡市など福岡県が主な舞台。 山本巧次は『大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう』シリーズで、現代と文政年間の江戸を自在に行き来できる時空探偵を登場させた。 海外では海渡英祐が発表した『伯林(ベルリン)一八八八年』が、19世紀のドイツ(Deutsches Reich)を、結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』は1960年代のベトナムを舞台にしている。 下記の分類は、互いに相反するものとは限らず、一つの作品が複数の項目に当てはまることがある。 アメリカ探偵作家クラブが主催するエドガー賞の長編賞では、ハードボイルド(『長いお別れ』など)、警察小説(『笑う警官』など)、医療ミステリー(『緊急の場合は』など)、スパイ小説(『寒い国から帰ってきたスパイ』)など推理要素のある様々なジャンルの小説が受賞している。 推理小説のなかではもっとも一般的でかつ古典的なジャンルである。事件の手がかりをすべてフェアな形で作品中で示し、それと同じ情報をもとに登場人物(広義の探偵)が真相を導き出す形のもの。第二次世界大戦前の日本では、「本格」以外のものは「変格」というジャンルに分類された。なお、本格という呼び方は日本独自のもので、欧米ではフーダニットやパズラーと称される(後述)。 密室殺人をはじめとした不可能犯罪を扱った作品の多くはこのジャンルに含まれる。 本格であるためには、解決の論理性だけではなく手がかりが全て示されること、地の文に虚偽を書かないことが要求される(わざと決定的な事実を明示せず曖昧に表現したり、登場人物の視点から登場人物自身の誤解を記述するのは問題がない)。たとえば、ある作品では列車に乗り合わせた子供の性別が問題になるが、題名にも地の文にも「男の子」「女の子」といった記述は一切なく、伏線として子供の振るまい(特定の玩具に興味を示す)が記述されている。作家はそれが伏線であることを隠蔽する努力も怠っていない。ただし、現代の視点では、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』には若干アンフェアな記述がある他、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』はフェアかアンフェアかについて、有識者の間で議論を醸した。現代でも本格ミステリの愛好家にとってはフェアかアンフェアが関心事であり、本格の体裁から外れる作品について論争がある。 「ハードボイルド」と言う言葉そのものは、非常に多面的な意味合いを持つ言葉なのだが、「推理小説」の一ジャンルとして使われる場合には、登場人物(主人公も含めて)の内面描写をあまり行わず、簡潔で客観的な描写を主体とした作品を指す。ダシール・ハメットの作品を嚆矢とする。特徴的なのは、それまでの「推理小説」の主人公は、自ら行動を起こすことはあまりなく、提供されるわずかな手がかりを元に、内面的な思索を深めて事件を解決する、まさに「推理」に重点を置く傾向が強かったのに対して、「ハードボイルド」の主人公は概ね行動的で、自ら率先して捜査を行い、その結果を積み上げて解決に至る傾向にある。これは、ハメット自身が探偵の経験があり、それを作品に生かしたからだと言われている。私立探偵や類似する職業が主人公に選ばれることが多いためPI(私立探偵)小説と呼ばれることもあるが、必ずしも同じものではない。 私立探偵のフィリップ・マーロウを主人公とするレイモンド・チャンドラーの作品が有名。 ハードボイルドの反義語で暴力的表現や非日常性を極力排除した作品。主人公が素人探偵であるのも大きな特徴。非情さを前面に出さず、穏健で道徳的な作風なため、ハードボイルドに対して「ソフトボイルド(Soft Boiled)」とも呼ばれる。 狭義には女性向けの「気楽に読める」内容のコメディタッチのミステリをいう。 アガサ・クリスティの『ミス・マープル』シリーズなど、女性の素人探偵が活躍する作品が多い。 探偵が事件現場に赴くことなく、情報として与えられた手がかりのみで事件を解決する作品やその探偵は安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)と呼ばれる。 構造的に推理と関係の無い要素を描く必要がなく、論理的推理に特化することができるため推理小説の極北とも言われるが、依頼者や助手とのやり取りを描くこともあり、厳密にデータのみで勝負している作品は少ない。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは参加者の議論を聞いていた給仕が謎を解くという形式である。 身体障害者や老人など証拠集めのため動き回れない者が探偵役、介助者が証拠集めなど探偵を助けるワトスン役と役をはっきりと分ける作品もある。 最初期の名探偵であるC・オーギュスト・デュパンは訪ねてきた警視総監から聞いた話で事件を解決するため、安楽椅子探偵に含まれることもある。小説ではバロネス・オルツィの『隅の老人』シリーズ、レックス・スタウトの『ネロ・ウルフ』シリーズ、アガサ・クリスティのミス・マープルものの短編集『火曜クラブ』(13作品のうち12作品まで)など。 サブジャンルとしてベッド・ディテクティヴがあり、こちらは怪我などで動けないため推理しか出来ないという設定である。シリーズものでは探偵役が怪我で動けなくなり、一時的に安楽椅子探偵となる作品もある。ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。 倒叙から派生した犯罪心理小説は犯罪者の内面に目を向け、殺人に至る過程を描く作品であり、サスペンスの要素も含まれる。アントニー・バークリーの『殺意』、ジム・トンプスンの『内なる殺人者』など。 窃盗、詐欺、誘拐などで一攫千金を狙う姿を犯罪者の視点で描く作品は「ケイパー・ストーリー」と呼ばれ、警察や探偵を出し抜き大金を手にするという筋書きが多く推理小説とは別ジャンルとなるが、天藤真の『大誘拐』のように推理要素がある作品も書かれている。 恐怖を主題としたホラー、不安感を煽るサスペンス、スリルを表現するスリラーは必ずしも推理要素を含むとは限らないが、恐怖の様相を捜査や論理的な推理によって暴き出せば推理小説になりうる。殊にモダンホラー、サイコサスペンスといった、人間性や異常心理への恐怖を扱った作品では作例が多い。ジャンルとしては犯罪心理小説と重なる。 「孤島もの」で犯人への恐怖感を強めたり、探偵と犯人の頭脳戦をスリリングに描いたりするなど、他のジャンルに要素として取り入れられている。 法廷など司法の場が舞台となるジャンル。検事や弁護士が主人公となって、被告人の犯行を立証したり、逆に無実を証明して真犯人を暴きだしたりする過程が描かれる。法廷が主要な舞台とは限らないため、「リーガル・ミステリー」とも呼ばれる。 E・S・ガードナーが書いたペリー・メイスンシリーズ、和久峻三の『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ、ゲームの『逆転裁判』シリーズなど。法廷もののシリーズ作品以外にもカーター・ディクスンの『ユダの窓』や高木彬光の『破戒裁判』などがある。 法律の知識を活かせることから、中嶋博行、五十嵐律人、フェルディナント・フォン・シーラッハなど現役弁護士の作家も存在する。 警察官が主人公であるもの。謎解きそのものより警察の捜査活動の描写に重点が置かれる。警察官でありながら組織に反発する者が主人公だったり警察組織内部の情勢や暗部を題材としたりしたものもある。必ずしも推理小説であるとは限らず、アクション、サスペンスの要素に重点を置くもの、警察組織への風刺をこめたもの、逮捕後に法廷ものへ移行するもの、交番勤務など地味な活動に焦点を当てたものなど様々な作品がある。国際犯罪や公安警察を題材とした作品はスパイ小説に分類されることもある。 初の警察小説は1868年にウィルキー・コリンズが発表した『月長石』とされる。 科学捜査を主題とした作品では鑑識官や法医学者が科学・医学の知識を元に推理する作品もある。シャーロック・ホームズシリーズでも医師であるワトスンが証拠調べとして補助することはあったが、探偵役となるのは同時期にライバル誌で連載していた法医学者のジョン・イヴリン・ソーンダイクが活躍する作品が初期の例とされる。ジャンルの初期からあるが科学の進歩により新しい捜査手法が登場しており、最新の知見を反映した作品が定期的に発表されている。 知識や実務経験をいかせるため、濱嘉之や佐竹一彦など元警察官の作家もいる。 日本警察小説は「ガラパゴス進化を遂げた」との見方もある。 スパイの防諜活動を描くジャンル。エスピオナージュ(espionnage)とも呼ばれる。ジャンルとしてはハードボイルドや警察小説と重複する。 現実的な国際謀略を描いたものから、荒唐無稽なアクションまで多彩な作品が書かれており、前者の代表例はジョン・ル・カレのスマイリー・シリーズ、ロバート・ラドラムのボーン三部作、トム・クランシーのジャック・ライアン・シリーズ、フレデリック・フォーサイスのドキュメント・スリラー。後者の代表例としてはイアン・フレミングのジェームズ・ボンド・シリーズが有名。アクション要素が強い作品はスパイ映画の原作となることも多い。 推理要素は必須とされないが、要人を暗殺した犯人や護衛対象を狙う殺し屋を探すなどスパイ要素に絡めた作品もある。フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は暗殺犯と警察の頭脳戦が主題となっており、エドガー賞の長編賞を受賞している。 スパイ・ミステリ・暗殺といった要素を内包する演劇のジャンルは外套と短剣とも呼ばれる。 病院や診療所を舞台とし、主人公が医師や看護師などの医療従事者であるジャンル。 医学の知識を用いて謎を暴くのが基本であるが、架空の病気を題材としたSFに近い作品、医療制度の問題を描く社会派に近い作品など様々な作品がある。 知識や実務経験があるため、海堂尊や知念実希人など現役の医師が執筆する例もある。 過去の時代を舞台としたもの。探偵役やワトスン役、容疑者や犯人・被害者役が史実上の実在人物という設定もある(織田信長、水戸黄門、千坂兵部など)。 日本では特に江戸時代を舞台にした「名奉行もの(お白州もの)」や「捕物帳」といったジャンルがある。「名奉行もの」は一種の法廷ものである。「捕物帳」は岡本綺堂の『半七捕物帳』を嚆矢とし、緊密な構成をもった本格物から江戸風俗の描写に力を入れたものまで幅広い。歴史ミステリと特に区別なく使用されることがしばしばある。 シャーロック・ホームズシリーズのように長く人気を保ち、後代の作家によって続編が書かれつづけた結果、時代ものとしての一面も持つに至った作品もある。 歴史上の謎に、現代の探偵役が資料などを元に取り組むもの。史実における謎を真面目に取り扱った作品も存在するが、多くはフィクションとしての面白さを狙った奇抜な回答が用意されることになる。純粋に歴史上の謎のみを解決することは少なく、ほとんどの作品では探偵役と同時代の犯罪事件の解決も付随している。退職した刑事が迷宮入りした過去の事件を再検討する作品は警察ものに分類される。 ジョセフィン・テイの『時の娘』、高木彬光の『成吉思汗の秘密』など。 魔術師や超能力者が存在する状況、死者が甦る状況、宇宙の果てを航行する宇宙船の中、人類と異なる思考体系の知性体との共同社会など、現実世界ではありえない状況・環境を許容する世界観の中で発生した事件について、その世界観の下で論理的な捜査と考察を行えば推理小説になりうる。日本ではこのような非現実的な状況下において論理的な推理で事件を解決する作品に対し、米澤穂信による『折れた竜骨』の後書きや解説から「特殊設定ミステリー」という用語が使われるようになった。日本でのヒットは超能力による頭脳戦、デスゲームのような極限の状況下、複雑なルールのギャンブルを描いた漫画の影響が指摘されている。 論理性よりもSFや超能力の設定を重視し、ノックスの十戒では批判された(大半の読者には)理解出来ない高度な科学技術や、超能力による犯罪・解決をメインに据えた作品も多い。 SFミステリではロボットの殺人を禁じたロボット工学三原則を逆手に取った『鋼鉄都市』などアイザック・アシモフが多数の作品を執筆している。また未来を舞台に科学技術による犯罪と、進歩した科学捜査を駆使する警察を描いた「SF警察もの」も存在する。アルフレッド・ベスターの『分解された男』はテレパシー能力をもつエスパーが存在する世界の犯罪と警察活動を描いている。 サイバー犯罪のように執筆時点では空想であったが技術の進歩により現実となった例もある。 井沢元彦の『猿丸幻視行』のようにタイムトラベルものの歴史ミステリもある。 ファンタジーミステリとしては、密室で魔法使いが殺されたという事件を扱ったランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』、マジックアイテムを用いた殺人事件を「嘘看破」の呪文を駆使して捜査する山本弘の『死者は弁明せず』などがある。 現実世界を舞台に幽霊や吸血鬼などオカルト・超自然的要素が絡む作品はオカルト・ディテクティブ・フィクション(英語版)、サイキック・ディテクティブ、スーパーナチュラル・ディテクティブなどと呼ばれ、西澤保彦の『神麻嗣子の超能力事件簿』や城平京の『虚構推理』、漫画では松井優征の『魔人探偵脳噛ネウロ』などがある。 事件そのものの推理よりも暗号やパズルなどの謎解きに重点が置かれる作品。 ストーリーは重視されず、トリックが解けると結末は数行で纏められたり、そのまま作品が終了しその後が描かれない作品もある。舞台背景も重視されず、謎を成立させるために非現実的な設定(1人は必ず嘘をつき、もう1人は必ず真実を話す双子など)の作品もある。分量が少ないため短編集やショートショート集が多い。アイザック・アシモフの『ユニオンクラブ奇談』シリーズはショートショート集である。 ゲームブック形式もあり、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの「捜査ファイル・ミステリー・シリーズ」は警察の捜査書類や証拠写真のページを読んで、袋とじになった解決編に書かれた犯人を当てるゲームができるようになっている。 ストーリー性が薄く、数学パズルに簡単な設定を付けたものや、ほぼ論理クイズ(ロジックパズル)となっている作品もある。これらはクイズ集やパズル集として出版されており、多くはクイズやパズルの作家が執筆している。推理作家の作品としてドナルド・ソボルの『2分間ミステリ』シリーズは、短い本文に全ての証拠が提示されおり、それを2分間の制限時間で推理するというクイズを集めた短編集である。 極端な例として京都大学推理小説研究会はジグソーパズルと推理小説を組み合わせた『推理小説×ジグソーパズル 鏡の国の住人たち』を刊行した。 子供向け絵本の『いますぐ名探偵 犯人をさがせ!』は、最初から証拠と容疑者の素性提示されており、その情報から犯人を推理することで論理性を養うことを目的としている。 ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』に収録された『密室講義』や、江戸川乱歩の『類別トリック集成』などトリックの分類や解説をした評論もある。 なお、英語圏での分類である「パズラー(Puzzler)」「パズル・ストーリー(Puzzle Story)」は、ここでいうパズル・ミステリではなく、日本語での分類に則せば本格ものに近い。 推理小説とも怪奇小説ともつかない奇妙なもので、文学小説として分類されることもある。 推理作家でない作家が書くこともあり、ロアルド・ダールは短編を多数執筆した。 一般に、社会性のある題材を扱い、作品世界のリアリティを重んじる作風を指す。事件そのものに加え、事件の背景を綿密に描くのが特徴。日本では1960年代から長らく主流が続いた。松本清張の作品がその代表とされる。1990年代以降は高村薫がこの代表である。 字義としては「新たな本格」であり、ミステリ史上いくつかの使用例があるが、日本では特に、1980年代後半から90年代にかけてデビューした一部の若手作家による作品群を指すことが多い。綾辻行人、有栖川有栖、法月綸太郎等がこの代表である。各作家による差異はあるが、一般に古典的ミステリ(特に本格もの)に倣った作風を特徴とする。ただし「新本格」という用語にはこれ以前にも別の用例があり、またミステリの拡散状況もあって、現在では歴史的な用語に近くなっている。 推理小説の形式自体を題材にした、あるいは利用した推理小説。曖昧に使われているが、広くいえば言語の自己言及性そのものに謎を見出す作品。小説中にAとBの2つの部分が交互に現れ、Aに現れる登場人物がBを、Bに現れる登場人物がAを執筆しているという合わせ鏡的プロット(有栖川有栖の「学生アリスシリーズ」と「作家アリスシリーズ」等)や、作中作を利用した再帰的構造の一番奥の部分が、全体の枠組みに言及する循環構造プロット、「探偵」「犯人」「ワトスン役」「読者への挑戦状」など推理小説の定義を利用したトリック、「登場人物一覧の虚偽」、著者・編集者・読者など小説外部の人間が犯人など商品としての書物自体を含んだプロットなどが挙げられる。 本格作品(前述)の〈手がかりをすべて作中に示す〉ことが作中でどのように保証されるかを問題にしたプロット(「本格」としての解決の後、それが実は作中作であって、後日談があって、新たな捜査の進展があって、意外な真相がさらに明らかにされる、など)も含まれ、この種の推理小説自体の枠組みに対し疑念を呈する作品を「アンチ・ミステリー」(反推理小説)と呼ぶことがある。 日常生活の中でふと目にした不思議な現象などについて、その理由・真相を探るもの。 犯罪の場合も「教室からある物が無くなった」など警察が関与するほどではない軽微なものであるため、少年探偵が活躍する青春ミステリ(後述)に多く採用されており、ジャンルが重複している。 代表的な作家に北村薫、加納朋子等がいる。 主人公もしくはそれに近い人物に、思春期・青年期を迎えた人物を配したミステリ。多くは小説の進行に伴って、主人公およびその周辺の人物の成長が描かれる。学校を舞台とした学園ミステリの多くを包含する。当初ライトノベルやジュブナイル小説のレーベルで発表された推理小説は多くがここに属する。 古典的な代表作に赤川次郎の『セーラー服と機関銃』、小峰元『アルキメデスは手を汚さない』、栗本薫『ぼくらの時代』等があり、2000年代以降の書き手では米澤穂信、辻村深月などが著名である。 米澤穂信の「〈小市民〉シリーズ」、「〈古典部〉シリーズ」のような「日常の謎」系の作品から桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のように陰惨なテーマを扱ったもの、ごく普通の少女だった主人公が如何に推理力を育てたかを描く松岡圭祐の『万能鑑定士Qの事件簿』シリーズまで、作風は幅広く存在している。 児童文学との境界が曖昧で、はやみねかおるの「名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズ」や松原秀行の「パソコン通信探偵団事件ノートシリーズ」は特に低年齢層に支持されている。 推理要素を持つ海外の作品にはエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』、ドナルド・ソボルの「少年探偵ブラウンシリーズ」、1930年から著者を変えて続く「少女探偵ナンシーシリーズ」などの少女探偵ものがあるが、海外では児童文学やジュブナイル小説に分類される。『パイは小さな秘密を運ぶ』から始まるアラン・ブラッドリーの「少女探偵フレーヴィアシリーズ」の邦訳は創元推理文庫から推理小説として出版されている。 広義には、有名な観光地を舞台にするなど、探偵役が何らかの形で観光に関わる作品を指す。旅先の情景や風土といった旅行記的な要素も人気の一因で、テレビドラマや映画など、映像化に適したジャンルでもあり、その面での傑作も多い。日本では西村京太郎の多作によって、人気ジャンルの一つになっている。主に京都を舞台とした山村美紗の多作と多数のテレビドラマ化もこれに寄与している。 狭義には、鉄道や航空機などの交通手段を用い、その運行予定表の裏をかいたアリバイ工作の登場する作品。鉄道の場合時刻表を駆使したトリックが使われることが多く「時刻表もの」とも呼ばれるが、車両の構造を利用する例もある。特に日本では鉄道の定時性が極めて高く、国民の間で広く利用されていることが、このジャンルの成立と人気を支えている。 鮎川哲也が先駆的作品である『ペトロフ事件』で初めて列車の時刻表を用いて以降、時刻表ミステリが定番となった。松本清張は社会派とされるが、代表作のひとつ、『点と線』は、時刻表ミステリの代表的作品といえる。 海外では公共輸送機関の定時性が日本ほど厳密ではないため時刻表トリックは成立しにくいが、欧米では上流階級がクルーズ客船やクルーズトレインでヨーロッパを旅行するというシチュエーションは自然であるため、『オリエント急行の殺人』のような走行中の列車内で探偵が事件に遭遇する「動く密室」としての利用が多い。このような作品は通常、本格ものに分類される。 日本における分類の1つで、リアリズムを意図的に無視したトリックなど結末の「バカバカしさを重視するミステリー」と、結末を知って「そんなバカな!!と驚くようなミステリー」の二つを意味が混在している。 前者の意味での代表作は蘇部健一の『六枚のとんかつ』など。 読むと嫌な気分になるミステリー、後味の悪いミステリーのこと。社会派、ホラー、青春小説などジャンルは様々である。イヤミスという言葉を最初に使ったのは、霜月蒼とされ、『本の雑誌』2007年1月号で「このイヤミスに震えろ!」というタイトルの連載がスタートしている。 代表的な作家に湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子、秋吉理香子、歌野晶午、貫井徳郎らがいる。 犯人を捜したり推理する人物を指す用語。 推理小説では、シャーロック・ホームズのような私立探偵業を営む「名探偵」が登場して事件を解決するのが基本であるが、探偵業者が登場しない作品も多い。このため事件記者、警察官、検事、弁護士、保険調査員など犯罪に多く関わる職業も含め、推理小説における謎を解決する人物の総称として「探偵役」と表記する場合もある。特にその探偵役が主婦や学生など普段は犯罪と関わらない一般人の場合(いわゆる「日常の謎」派の探偵をのぞき)、「素人探偵」や「アマチュア探偵」と呼ぶことがある。「素人」や「アマチュア」とは「事件捜査の専門家ではない者」という意味で、自身の専門分野においては警察や探偵より上という人物もおり、素人探偵が専門知識で事件を解決する作品も多数刊行されている。 警察から依頼や情報提供を受けるなど協力関係にある探偵も多く描かれており、名探偵エラリー・クイーンはニューヨーク市警察の警視である父の協力を得て事件を解決する。世界初の名探偵とされるC・オーギュスト・デュパンは、知人の警視総監から依頼を受ける隠居者という設定であり、現代では素人探偵に分類される。警察からの依頼も受けるシャーロック・ホームズは「民間諮問探偵」(consulting detective) を自称している。 探偵役が単独とは限らず『トミーとタペンス』ように探偵がコンビを組む作品もある。また複数の探偵役が独自に推理した結果を終盤で一堂に会し披露し合う『推理合戦』は競争要素も加わり人気であるが、間違った推理を披露する探偵が名探偵のかませ犬として描かれることも多いため不満を持つ読者もいる。アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズは最初から複数人が集まって議論が行われ、最後に給仕のヘンリー・ジャクスンが真相を明らかにして終わる。『名探偵なんか怖くない』のような推理合戦をパロディとした作品も刊行されている。 少年達が協力して謎に挑む『探偵団もの』はジュブナイル小説の人気ジャンルであり、はやみねかおるのようにこのジャンルをメインに活動する作家も多い。また、江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』のように本格ミステリの作家による作品もある。大人向けとしては赤川次郎の『三姉妹探偵団シリーズ』がある。 警察小説では性格の違う刑事がコンビを組んで事件を捜査する『バディもの』が多く刊行されている。映像作品ではバディフィルムというジャンルを形成しており、『X-ファイル』『リーサル・ウェポン』『あぶない刑事』『相棒』などが人気シリーズとなっている。 終盤になって、物語の幕引きのためだけに登場する探偵役もおり、必ずしも作品の主人公とイコールではない。『名探偵登場』では当初、終盤になってシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンが現れ、それまでスター俳優が演じる探偵たちの推理を全て否定し真相を明らかにして去っていくという展開(デウス・エクス・マキナ)を撮影したが、かませ犬に不満を持ったスターらの反発で別のバージョンが公開された。 麻耶雄嵩は『貴族探偵シリーズ』で「証拠集めから推理まで全て使用人に任せる」という「なにもしない探偵」、『神様ゲーム』ては序盤で推理過程を飛ばして犯人を指摘する探偵など、探偵の定義を利用したメタミステリ要素の強い作品を多く執筆している。 法月綸太郎により、「探偵役が提示した解決が真の解決であるかは作中で証明できない」という問題(後期クイーン的問題)が提起されている。これ以降、日本の新本格ミステリでは、不完全な推理しかできない探偵役、作中で推理の完全性が保証された名探偵など、問題を意識した作品が多数登場した。変則的な事例として『虚構推理』の探偵役は事件の真相ではなく「どうやって人々を納得させるか」を目的としており、推測が含まれると断言した上で納得できそうな解決を提示するという作風から議論を巻き起こした。 探偵役の助手や相棒、物語の語り部となる人物を指す用語。キャラクター類型ではサイドキックに該当する。 語源は『シャーロック・ホームズシリーズ』において、探偵役のシャーロック・ホームズの相棒であり語り部でもあるジョン・H・ワトスンから。 シャーロック・ホームズシリーズが商業的に成功した理由の一つとして、ホームズの奇抜な行動や核心となる手がかりをワトスンの視点で描写することにより、ホームズが推理を披露するまで読者の興味を引きつけたままに出来たことがあげられる。この形式はシャーロック・ホームズシリーズ以後、多くの推理小説で踏襲されたため「ワトスンと同等の役割」から「ワトスン役」と呼ばれることとなった。 単独とは限らず直属の部下や探偵事務所の職員という設定で複数人の場合もある。 医師でもあるワトスンのように専門知識を活かして積極的に手伝う者、完全な傍観者で語り部に徹する者などパターンが様々であるが、探偵役と違い必須の役回りではないため存在しない作品も多い。一方で、シリーズ作品の中には普段ワトスン役の人物が探偵役となるエピソードが執筆されることもある。また探偵役が主人公でワトスン役は毎回別人、逆にワトスン役が主人公で探偵役が毎回別人など、変則的な設定の作品も存在する。ワトスン役が毎回同じで、犯人も毎回同じなのはロード・ダンセイニ(ダンセイニ卿)の初期シリーズ作品。 ワトスン役が積極的に推理する作品も多く、相沢沙呼の『medium 霊媒探偵城塚翡翠』は探偵役が霊媒で得た真相を元に、ワトスン役が論理的な答えを構築するという設定である。 犯行を行った者。推理小説では基本的に犯人が不明のまま捜査・推理が行われ、最後に探偵が犯人を指摘することで物語が完結する。本格ものでは読者が犯人を推理するのが楽しみの一つとなっており、著者は様々な工夫で隠匿しているが、推理過程やトリックの解明、推理以外の要素(恋愛など)を重視した作品では犯人当ては重視されず、西村京太郎のように「犯人は印象に残りやすいように印象的な名前にしている」と公言する作家もいる。 単独とは限らず、既に死亡していることもある。人間ではないこともあり、動物に襲われたという真相も存在する。生物ではなく法律や制度などが真犯人という作品もある。 犯人が主人公という作品の中には自身が犯人だと認識していなかったり、文章を工夫し読者に悟られないようにしているなど、様々なパターンが生み出されている。 作中の手がかりから推理はできるが名指しされずに終わる作品もあり、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』は講談社ノベルスから刊行された際に問い合わせがあったため、文庫化に併せて袋とじの解説を追加したが、解説でも明示はされていない。 鮮やかな手口や犯行予告など劇場型犯罪で厳重な警備下にある美術品を盗み出す者は怪盗と呼ばれ、シリーズものでは探偵や警察とライバル関係という設定も多い。江戸川乱歩の作品群では怪人二十面相が明智小五郎や少年探偵団とライバル関係にある。 犯行が露呈しないようにする企みであるが、同時に「著者が読者に仕掛ける企み」とも捉えられる。推理小説は基本的に「探偵がトリックを見破り犯人を指摘する」形式の作品である。 物理的、心理的な手段の他、小説という形式自体の暗黙の前提や偏見を利用した叙述トリックもある。また偶然が重なり結果としてトリックとして成立した作品もある。 本格ものではトリックの現実性や厳密さ、それを暴く推理の論理性が重要とされフェア/アンフェアが論争となるが、ジャンルによっては重要視されない。 外部から侵入できない空間。密室内での犯行(密室殺人)が発生し、犯人がどうやって外へ出たのかを探偵が推理する作品は「密室もの」と呼ばれる。密室殺人は「不可能犯罪」の一種である。特に本格推理小説では様々な工夫を凝らした密室が誕生している。 1892年に発表された『ビッグ・ボウの殺人』の序文において作者は「これまで出入りできない部屋での殺人を書いた作家はいない」と公言しており、本作が史上初の「密室もの」とされる。 なお、列車・船舶・航空機など移動中に乗り降りできない場所は「動く密室」と呼ばれるが、後述のクローズド・サークルに分類されるもので「不可能犯罪」に分類されるものではない(ただし、クローズド・サークル内の全員にアリバイがある等、別の要因により「不可能犯罪」の様相を呈することがある)。探偵、被疑者、犯人が「動く密室」から出ないまま解決する作品もある。『ナイルに死す』ではナイル河を、『名探偵が多すぎる』は瀬戸内海を航行する船上で物語が進行する。 被疑者が犯行に関わっていないことを示す証拠。推理小説では各被疑者のアリバイを検討して矛盾を見つけ、真犯人を指摘する「アリバイ崩し」というプロセスが一般的である。警察小説や法廷ものでは取り調べ時の『アリバイ崩し』が大きなウェイトを占める作品も多い。 本格推理小説ではアリバイを偽装する様々な手法が考案されている。 ミステリ用語の枠を越えて、広く一般に定着している言葉でもあるが、「のちの批判をかわすためのアリバイ作り」のように、「建前、弁明」の意味で使われることも多い。 死亡した人物が死の間際に残したメッセージのこと。一般的には被害者によって犯人を示す目的で残されるが、これを逆手に取って「犯人による改竄や偽装」「記述のミス」「無関係の人物が書いた」などのバリエーションが考案されている。エラリー・クイーンの『シャム双生児の謎』ではダイイング・メッセージにより探偵が誘導されるが、犯人も意図しなかった結末を描いている。 事件の解明に必要な要素である犯人、犯行方法、動機のうち、どれの解明を重視するかによる分類。この3つの分類は、推理小説の興味の対象が、単なる犯人当てからトリックの面白さへと移り変わり、そして社会派へつながる動機重視に変わっていく、という推理小説の発展史と重なる。 これらは相反する要素ではなく、二つもしくは全てを追求する作品もある。特に「密室もの」では、密室を構成するトリックの解明と犯行に及んだ人物の推理を平行して行う作品が多い。 外界とは隔絶された状況下で事件が起こるストーリー。過去の代表例から「嵐の孤島もの」「吹雪の山荘もの」とも呼ばれる。走行中の列車内など「動く密室」もクローズド・サークルに分類される。隔絶された理由を犯人の意図としてプロットやトリックに組み込んだ作品も多い。 孤立した環境下ということで現実的な警察機関の介入や科学的捜査を排し、また容疑者の幅を作中の登場人物に限定できることから、より純粋に「犯人当て」の面白味を描ける利点があり、本格ものの作者やファンから好まれる傾向がある。シリーズものでは探偵やワトスン役を意図的に引き離す展開にも使われている。 探偵役やワトスン役も含めて、登場人物は殺人犯(かもしれない人物)と過ごすことになるため、推理よりもサスペンスを重視した作品もある。またホラー、サスペンス、スリラーなど他のジャンルでも使われている。 途中で外部から救援が来ることでクローズド・サークルが解消される作品もあり、救援に来た警察や医師の協力により必要な証拠が集まる、探偵が推理を披露する直前であり到着した警察は逮捕するだけ、逃げられなくなった犯人が逮捕される前に自殺するなど、様々なパターンが考案されている。 電話や無線通信、ヘリコプターの実用化により、孤島などでも通信や往来が以前より容易となったことから、「往来は出来ないが電話で探偵や警察のアドバイスが得られる」「何者かにより無線機が破壊された」「天候が回復するx日後にヘリコプターで向かう」など、これらを取り込んだ設定の作品も登場している。 「犯人が自分の犯行に気付いた相手をやむをえず殺害することになる」などの理由付けによって連続殺人事件へ発展、犯行が進むにつれ生存者が減少し、その中に犯人がいる(はずである)という恐怖を強調する作品もある。また、突き止められた犯人が凶暴化しパニックものへ移行する作品もある。 逆に言えば犯人にとっては「容疑者が限定される状況」で犯行を繰り広げるということであるため、なぜわざわざそうした危険を冒すのかという批判もあるが、それにいかに「合理的な動機」を与えるかもこのジャンルの醍醐味といえる。ストーリーによっては途中で殺害された人間の中に自殺した犯人がいて、その後の犯行は機械的なブービートラップなどにより行われたという結末もある。また犯人が捕まらないように脱出することを目標としている作品もある。 初期の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島で連続殺人が起きる設定である。 「素人探偵が警察を差し置いて犯人探しに取り組む」という設定を合理化することが容易であることもあってか、素人探偵や少年探偵の活躍する作品にも多く見られる。 本格ものには「孤島に建つ館の部屋で密室殺人が起きるという」二重構造の作品もある。『すべてがFになる』は孤島の研究所の密室で殺人事件が起きるが、通信が不可能となったためヘリコプターで救援を呼ぼうとするものの不可能となり、自力で通信を復旧させて警察を呼ぶという展開である。 映像作品では、舞台劇のように1つの場所や状況のみで物語が進行する「ワンシチュエーション」というジャンルがあり、スリラー要素を追加した「ソリッド・シチュエーション」という派生ジャンルも確立している。『キューブ』や『ソウ』のように登場人物が脱出方法を推理するなど謎解き要素が含まれる作品もある。 犯人が死体や現場などをあるものに見立てる殺人のこと。殺人が絡まないものも含めて単に「見立て」とも呼ぶ。古くは江戸川乱歩によって「童謡殺人」と「筋書き殺人」に大別される。 読者に対し筋立て通りに殺人が行われるという異様な不気味さを狙ったもので本来はプロットに属するが、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』や横溝正史の『八つ墓村』のように見立て自体がトリックという例も古くからある。この場合には「犯人が偽装のために見立て殺人を装った」「見立てが中途半端で異なるものと認識され推理が迷走する」などがある。 「事件が起きた孤島に伝わる言い伝え通りの死因」「見立てが暗号となっており解くと次の被害者が分かる」など他の要素と組み合わせた作品もある。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は孤島ものであると同時に童謡殺人でもある。 通常の推理小説では、まず犯行の結果のみが描かれ、探偵役の捜査によって犯人とトリックを明らかにしていく。しかし倒叙形式では、初めに犯人を主軸に描写がなされ、読者は犯人と犯行過程がわかった上で物語が展開される。その上で、探偵役がどのようにして犯行を見抜くのか、どのようにして犯人を追い詰めるのかが物語の主旨となる。また、犯人の心理を描く時間が多く取れることで、一般的に尺が短くなりがちな動機の描写(通常は解決編の自白のみ)において、なぜ犯行に至ったのかという点を強く描写することが可能であり、犯罪心理小説で多く使われる。 隠匿に手を尽くす犯人側と推理を巡らす探偵側の視点を交互に描くことで頭脳戦を強調した作品や、終始犯人側の視点で進み、最初は犯罪心理、逮捕されてからは警察もの、裁判が始まると法廷ものとジャンルが変わっていく作品もある。 「どの時点で犯人が失敗したかを推理する小説」としても読めるため、犯人側の視点の描写を工夫する(犯行直後に物語が開始など)ことで読者と探偵役が得られる手がかりを公平とし、探偵役との頭脳戦を疑似体験できるようにした作品もある。漫画作品の『DEATH NOTE』は姿を隠す犯人である主人公と、犯人の正体を探る探偵の視点が交互に描写される。 英語では「inverted detective story(逆さまの推理小説の意)」「howcatchem(how catch them:どうやって彼(ら)を捕まえるかの意)」と呼ばれる。日本でも後述の『歌う白骨』が発表された黎明期には、馬場孤蝶が「逆の探偵小説」という言葉を使っていたと江戸川乱歩は回顧している。また、倒叙のうち、犯人は示されるがそのトリックや動機などが最後まで明かされないものを「半倒叙」と呼ぶことがある。 オースティン・フリーマンの短編集『歌う白骨』(1912年)でこの手法が初めて用いられた。ただし、ポーも倒叙ミステリとしても読める『黒猫』(1843年)や『告げ口心臓』(1843年)を著しており、ドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)も、この形式に類する。推理小説そのものの歴史と同様に、その最初をどこに置くかについては諸説ある。1920年代から1930年代に全盛期を迎え、なかでもフランシス・アイルズ(アントニー・バークリー)の『殺意』(1931年)、F・W・クロフツの『クロイドン発12時30分』(1934年)、リチャード・ハルの『伯母殺人事件』(1934年)は倒叙三大名作と呼ばれた。日本では乱歩が1925年に明智小五郎シリーズの2作目として短編『心理試験』を書いており、また乱歩は後に小論「倒叙探偵小説再説」(1949年)において倒叙作品の代表作に、上記三大作品以外ではイーデン・フィルポッツの『極悪人の肖像』を挙げている。 映像作品では「大物俳優に犯人役を演じさせたくても、下手をすれば配役だけで犯人がわかってしまうので、目立たないように複数の容疑者役も大物で固める」という予算的に難しい配役や、「演技への影響を抑えるため(真相が明らかになる)最終回まで犯人が誰かを俳優達に明らかにしないことで、犯人とされた役の演技が最終回とそれ以前とで矛盾が生じる」というジレンマを解消できるため、毎回異なる犯人が必要となる連続テレビドラマで多く使われる。特に『刑事コロンボシリーズ』や『古畑任三郎シリーズ』は、大物俳優が犯人役としてゲスト出演することもあり人気シリーズとなった。 1つの事件に対して、何通りもの解決が並立的に与えられる趣向。どんでん返しの一種。 探偵が複数いる場合、推理合戦によって提示された異なる解決をそれぞれ検討し、誤答を排除するパートに移行して真相が絞り込まれる。 推理合戦で多重解決となった後、名探偵が登場して真の解決を提示する作品もある。「黒後家蜘蛛の会」シリーズでは議論が袋小路に陥る一歩手前で、会話を聞いていた給仕が真相を暴くという形式である。 アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』のように推理プロセスで各探偵の個性を強調する作品もある。 複数の探偵による推理合戦が基本であるが、三津田信三の『刀城言耶シリーズ』のように単独の場合もある。 どの答えも正解だったり真相か不明なまま終わる作品もある。芥川龍之介の『藪の中』も真相不明のまま終わる多重解決と見ることが出来る。 作中で探偵役が犯人を指摘する「解決編」の前に「ここまでの部分で、推理に必要な手がかりは全て晒した。さあ犯人(もしくは真相等)を推理してみよ」という文言が挿入される演出があり、これが「読者への挑戦状」と呼ばれる。本格ものでは読者にも推理できるのが暗黙の了解となっているため、あえて書かない作品もある。挑戦状を使う作品では、前後に空白ページを入れたり章を区切る、袋とじにするなどして解決編が目に入らないようにする、挑戦状風のイラストや特殊なフォントを使うなど視覚的な演出を行う作品もある。 J・J・コニントンが1926年に発表した『或る豪邸主の死』で用いたのが最初であるが、エラリー・クイーンが1929年に『ローマ帽子の謎』から始まる『国名シリーズ』で使ったことでで広く知られるようになり、他の作家も追随した。読者への挑戦状の後に続く解決編を袋とじとしたミステリは、1936年に発表されたデニス・ホイートリーの『マイアミ沖殺人事件』が初とされ、日本語訳では1959年に刊行されたビル・S・バリンジャーの『消された時間』とされる。 『国名シリーズ』、有栖川有栖の『学生アリスシリーズ』、横溝正史の『蝶々殺人事件』、高木彬光の『呪縛の家』、『人形はなぜ殺される』、東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』、『私が彼を殺した』のように本文で明示する作品もあるが、作者が「解決編の前で証拠が出揃っている」「読者の視点で推理可能」と序文や後書きで書いたり、インタビューで聞かれた際に答えたりするだけなど態度は様々である。読者への挑戦状が恒例となったシリーズでも挿入されないことがあり、『国名シリーズ』は9作品中『シャム双生児の謎』のみ挿入されていない。 雑誌連載では解決編まで掲載すると単行本が売れないことがあるため、西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』のように、推理できる証拠が揃う段階まで連載し、解決編は単行本にのみ掲載する例もある。 正解者に懸賞金やプレゼントが用意されることもあり、坂口安吾は『不連続殺人事件』の連載時に犯人を当てた者に解決編の原稿料を進呈すると発表した。また読者だけでなく、大井廣介、平野謙、荒正人、江戸川乱歩ら文人を指名した挑戦状も載せた。 古典的な本格ものの特徴とされるが、「変格」でも読者への挑戦状を載せる作品があり、メタミステリではトリックとして使われることもある。泡坂妻夫の『生者と死者―酩探偵ヨギ ガンジーの透視術―』は14箇所の袋とじがあり、そのまま読むと短編集、袋とじを開けると長編ミステリになるという仕掛けがある。 犯人当て以外にも、パトリシア・マガーや貫井徳郎の『被害者は誰?』の「被害者当て」、都筑道夫による遺体の「発見者当て」などがある。 類似した仕掛けとしてビル・S・バリンジャーの『消された時間』の他にも『歯と爪』において、結末部分が袋とじとなっており「意外な結末が待っているが、未開封であれば返金に応じる」という文言を記している。 犯行の手口が露見せずに犯人が捕まらない犯罪。推理小説では探偵が犯人を指摘できずに終わる作品もある。偶然が重なって証拠が消え推理が不可能となった、無関係の人間が冤罪で犯人とされる、発覚はしないが事故で真犯人が死亡するなど様々なパターンがある。 江戸川乱歩は『赤い部屋』において手段として確実性はなく偶然性に頼るものの完全犯罪となるトリックを「プロバビリティーの犯罪」と命名し、作中で複数のトリックを登場させている。 日本ではかつて英語の“Detective Novel”、“Detective Fiction”の訳語として探偵小説が用いられていたが、第二次大戦後、「偵」の字が当用漢字に入れられなかったため、「探てい小説」と混ぜ書きで書くことになった。しかし、これを「みっともない」として「推理小説」という言葉が作られ、一般的になった。1946年に雄鳥社が『推理小説叢書』を発刊した時に、その監修者の木々高太郎が命名したという説もある。「偵」の字は1954年の当用漢字補正案で当用漢字に入れられたが、既に「推理小説」という言葉が広まっており、「探偵小説」に戻されることはなかった。「探偵小説」は、ジャンル名としては廃れていったものの、ロマン的な響きを持つため、未だ愛用している者も多い。または「名探偵」による推理と解決が中心であった時期の作品に限定して使うこともある。 なお、創始者のポー自身も似たような名前の「推理物語(tales of ratiocination)」と呼んでいた。 また、「ミステリー小説」(あるいは「ミステリ小説」)、もしくは単に「ミステリー(ミステリ)」とも呼ばれる。 イタリアではジャッロ(giallo, 黄色(黄表紙)、あるいは複数形でジャッリgialli)と呼ばれるジャンルに含まれる。フランスでは一般的にロマン・ポリシエromans policiersと呼ぶが、特にガリマール社刊行の推理小説シリーズを指してセリー・ノワールserie noire(黒いシリーズ)とも呼ぶ。 推理小説を著す作家は推理作家、ミステリ作家などと呼ばれる。推理小説を専業にする作家と、他のジャンルの小説をも同時に手がける作家との2つに大きく分けられる。近年では、作家本人は推理小説を書いている意識がないのにも関わらず、読者や評論家から推理作家に分類される場合があるなど、書き手と読み手との意識のずれもみられる。前述のようにパズル・ミステリを執筆しているのはパズルやクイズ作家が多く、推理作家に分類されることはない。 日本以外における推理小説の賞あるいは推理作家団体が主催する賞については、「推理小説の賞#日本以外」もしくは「推理作家#推理作家の団体」を参照
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ユーザーエージェント
ユーザーエージェント (英: user agent、日: 利用者エージェント)とは、利用者があるプロトコルに基づいてデータを利用する際に用いるソフトウェアまたはハードウェアのこと。 特にHypertext Transfer Protocolを用いてWorld Wide Webにアクセスする、ウェブブラウザなどのソフトウェアのこと。 本項ではHTTPユーザーエージェントについて解説する。 HTTPを用いてリソースの取得等を行うユーザーエージェントをHTTPユーザーエージェントと呼ぶ。 HTTPユーザーエージェントには、ウェブブラウザや、リソースを自動的に処理するクローラなどがある。 HTTPではUser-Agentヘッダーが定義されている。 クライアントはサーバーにリクエストを送る際に、ユーザーエージェントの情報をUser-Agentヘッダーとして送信する。User-Agentヘッダーには、アプリケーション名、バージョン、ホストオペレーティングシステムや言語といった情報が含まれる。 ウェブクローラーのようなボットの場合は、ウェブ担当者がそのボットのオペレーターと連絡を取ることができるように、URLや電子メールアドレスも含む。 User-Agentヘッダーはサーバ側において様々な用途で利用されている。 アクセス解析をする際に、User-Agentヘッダーによって、ユーザーが使用しているブラウザの種類やバージョンを集計することができる。 またUser-Agentヘッダーを偽装して、「ロボット排除基準」 (robots.txt)を使ってある特定のページあるいはウェブサイトの一部からクローラーを排除するための基準の1つになっている。ウェブ担当者は、特定のクローラーに特定のページを収集させたくない場合や、特定のクローラーがあまりに多くの帯域を消費している場合などに、そのクローラーがそれらのページを訪問しないように要請することができる。 ただし、後述のように、User-Agentヘッダーの値はあくまでクライアント側からの自己申告なので、 実際のユーザーエージェントと異なる値を送信することもできる。 ユーザーエージェント・スニッフィングとは、Webサイトが、ユーザーエージェントによって異なる内容を表示したり、 特定のユーザーエージェントにのみ内容を表示することである。Vivaldiはこのような問題を回避するため、Chromeのユーザーエージェントを使用している。 マイクロソフトのOutlook 2003ウェブアクセスは悪名高い例であった。Internet Explorerで閲覧すると、他ブラウザより多くの機能が表示された。 携帯電話向けのウェブサイトでは、ベンダー間や新旧の機種の間で、携帯電話のブラウザの仕様がしばしば大きく異なるため、ユーザーエージェント・スニッフィングが行われた(後述のようにUser-Agentヘッダーの偽装が容易に可能であるため、IPアドレスをもとに携帯電話か否かを判断していることもあった)。機種間の表示の内容の違いは、小さい(例えば小さいスクリーンに合うように特定の画像のサイズを変える)こともあるし、あるいは非常に大規模のこともあり得る(例えばXHTML の代わりにWMLでページを表現する)。 ユーザーエージェント・スニッフィングを回避するために、User-Agentヘッダーの偽装が行われた。 この最も早い例はInternet Explorerが、 Mozilla/<version> (compatible; MSIE <version>... で始まるUser-Agentヘッダーの値を使っていたことであろう。「Mozilla」はNetscape Navigatorのコードネームである。これは、その当時のInternet Explorerの主たる競合者だったNetscape Navigator用の内容を受け取るためだった。 その後、ブラウザ戦争においてInternet Explorerのシェアが拡大したために、User-Agentヘッダーの値のフォーマットは、部分的に他のブラウザによってコピーされていった。 Mozilla Firefox 、 Safari や Opera のようなInternet Explorerの競合製品は、 User-Agentヘッダーなどのをユーザー側の操作で変更できる機能を備えていた。 この機能はInternet Explorer専用に設計されたWebサイトを利用する場合に使用された。 ただし、WebサイトがInternet Explorerの独自機能を使用しているために、User-Agentヘッダーを偽装しても正常に使用できないことも多かった。 Webブラウザ以外に、大部分のダウンロードマネージャーやオフラインブラウザもUser-Agentヘッダーをユーザーの好みに変える機能を持っている。 2020年の時点では、多くのウェブサイトがウェブ標準に従うようになっている。 Netscape、Mozilla、Opera、その他一部のブラウザでは、ブラウザの暗号強度を示すためにU, I, Nの3個の文字を使用する。米国政府は40ビットを越える暗号をアメリカから国外へ輸出することを認めていなかったので、暗号強度が異なるバージョンがリリースされた。 暗号強度はUser-Agentヘッダーで確認できた。「U」は「USA」を表し、128ビットの暗号化を備えたバージョンであることを示す。「I」は「international(国際的)」のiであり、40ビットの暗号化を備えており、世界中のどこでも使用できることを示す。「N」は「none(無し)」を表し、暗号化を行わない。 元は、「U」バージョンはアメリカ国内からのみダウンロードが許可されていたが、その後米国政府が方針を緩めたので、今では高い暗号化をするバージョンがほとんどの国々で許されている。現在では国際版がもはや要求されないので、NetscapeとMozillaは「U」バージョンのみを配布している。 SIPを解釈して処理する各種端末のソフトウェアやハードウェア。SIPに対応したIP電話機やVoIPゲートウェイ。
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3,606
一電子近似
一電子近似(いちでんしきんじ、英: one electron approximation):現実の系の電子は、他の電子、外部ポテンシャル(イオン芯など)からの相互作用を受ける。これはそのままでは多体問題であり、解析的に解くことは不可能で、数値的に解くには膨大な計算が必要となる。従って、多体問題を通常の電子状態計算手法(例:バンド計算など)で取り扱うことは事実上不可能である。 そこで、多体効果を有効な平均場に置き換え(→平均場近似、分子場近似)、その平均場ポテンシャルを電子が感じる一体問題と考える。この一電子のシュレーディンガー方程式を解くと、その固有関数としていくつかの軌道が求まる。これらの軌道に電子を詰めていくと電子配置が定まる。ある決まった電子配置に基づいて考えている多電子系の波動関数を作ることを一電子近似(一体近似ともいう)である。 一電子近似のうち最も簡単なのは、N電子系の波動関数をN個の軌道の積1個(ハートリー積)で表す近似である。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値が最小になるように軌道を決めたのがハートリー近似である。 次に進んだ一電子近似としては、軌道にスピン関数をかけてスピン軌道を作り、N個のスピン軌道の積を反対称化した波動関数を用いる近似がある。この反対称化されたスピン軌道の積は1個のスレーター行列式で表される。この近似波動関数によるハミルトニアンの期待値を最小にするように軌道を決めたのがハートリー・フォック近似である。 電子の多体効果を直接的に扱う方法としては、モンテカルロ法(変分モンテカルロ法、拡散モンテカルロ法などが利用される)によるアプローチなどがある。
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漫画家一覧
漫画家一覧(まんがかいちらん)は、世界の漫画家の地域別・五十音順一覧。 日本の漫画家一覧を参照 ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの漫画家
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日本の漫画家一覧
日本の漫画家一覧(にほんのまんがかいちらん)は、日本で活動する漫画家の五十音順一覧である。 単独での項目がない漫画家についてのプロフィール抄つきの漫画家一覧 (あ〜わ)- 関連項目
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3,609
Webサーバ
Webサーバ(ウェブサーバ、英:Web server)は、HTTPに則り、クライアントソフトウェアのウェブブラウザに対して、HTMLやオブジェクト(画像など)の表示を提供するサービスプログラム及び、そのサービスが動作するサーバコンピュータを指す。 広義には、クライアントソフトウェアとHTTPによる通信を行うプログラム及びコンピュータ。 クライアントであるウェブブラウザのURLにて指示された、Webサーバ内に存在するHTMLドキュメントの各種情報を、クライアントから接続されたHTTPに則ったTCP/IPソケットストリーム(HTTPコネクションと呼ぶ)に送信する。多くの場合、クライアントのウェブブラウザとの間に複数のコネクションを張り、HTMLドキュメントとその配下の個々の情報ファイル(画像ファイル情報など)を並列して送り、処理時間を短縮してサービスを提供している。 また、HTMLドキュメントに各種処理を組み込み、CGIスクリプトやJava Servlet(サーバ側で実行されるJavaプログラム)と呼ばれるWeb画面に連動した動的処理を行う事が可能である。CGI処理においてはPerl・Ruby・PHPなどのスクリプト言語によって開発されることが多い。 Java Servletにおいては、Javaによる動的処理の負荷を分散するため、Java Servletを処理する機能を別サーバに切り出し、Webアプリケーションサーバとして、垂直分散(スケールアウト)する事も一般化している。 大規模なWebサービスを提供する場合、同じサービスを提供するWebサーバを並列して設置し、ロードバランサと呼ばれる各種ロジック(ラウンドロビン方式や処理中の負荷を計測して割り当てるサーバを決定するものや、サーバの性能を考慮して重み付けをする方式などが存在する)によりWebサーバへの処理を振り分ける装置を、Webサーバ群の前に置く事が多い。 これにより、Webサービスを提供する際のサーバ故障に対する可用性・信頼性を確保する(疎結合クラスターの一種と定義される)。 また、不特定多数のウェブブラウザ(クライアント)との接続を行うため、一般的にWebサーバ及びWebアプリケーションサーバにはDNSサーバとの連動設定を組み込む。 2015年時点においては、Apache及びその派生版である各ベンダのHTTP Serverが市場の4割、マイクロソフトのIISが市場の3割、nginxが2割弱を占める。 元々、WebサーバはUNIX上で開発され発展してきた経緯もあり、当初からオープン系サーバと言われるUNIXサーバやWindows系サーバにより実装・提供されるのが普通である。ただし、システム構成上の都合により、HTTPやFTP、TCP/IPが利用可能な汎用コンピュータにて動作させる場合もある。 他
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オーダーN法
オーダーN 法(オーダーN ほう、英: order N method, linear scaling method, O(N ) method)とは、バンド計算の計算量を、扱う系(単位胞内)の原子の数N の 1 乗のオーダー(オーダーN )にしようとする電子状態計算手法のことである。 通常のバンド計算での計算量は粗い評価であるが大体、(扱う系の原子数)×(系を記述する基底関数の数)×(系の総電子数〔≒バンドの数〕)となる。いずれも原子数N に比例する量であり、オーダーとしてN 程度となる。系が巨大な場合、つまり実空間で巨大なスーパーセルをとる場合、逆格子空間におけるk点の数はΓ点一点のみかごく少数(一定値)で済むので、ここでは考えない。 複数の試みがあるが代表的なものとして、 などがある。まだ発展途上の手法であるが、通常の第一原理によるバンド計算が扱える原子数の上限が、最も条件の良い場合でも一千原子のオーダーであることから、一万あるいはそれ以上の原子からなる系を扱う手法としてオーダーN 法は注目されている。オーダーN法には、第一原理によるもの、経験的なパラメーターに依るものが存在する。
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Apache HTTP Server
Apache HTTP Server(アパッチ エイチティーティーピー サーバ)は、Apache License2.0の条件でリリースされるフリーでオープンソースのクロスプラットフォームのWebサーバソフトウェアである。Apache はApacheソフトウェア財団の支援のもと、開発者のオープンコミュニティによって開発・保守されている。 Apache HTTP サーバのインスタンスの大部分は Linuxディストリビューション上で動作するが、現在のバージョンは Microsoft Windows や様々な Unixライクなシステム上でも動作する。過去のバージョンでは、OpenVMS、NetWare、OS/2、メインフレームへの移植を含む他のオペレーティングシステムでも動作した。 元々は NCSA HTTPdサーバをベースにしていたが、NCSAコードの作業が停滞した後、1995 年初頭にApache の開発が始まった。Apache はWorld Wide Webの最初の成長において重要な役割を果たし、支配的な HTTP サーバとしてすぐに NCSA HTTPd を追い抜き、1996 年 4 月以来、最も人気のあるサーバであり続けている。2009年には、1億以上のウェブサイトにサービスを提供する最初のウェブサーバーソフトウェアとなった。2020年4月現在、Netcraftの推定では、Apacheは最もアクセスの多い100万のウェブサイトの29.12%のサーバーで利用され、Nginxは25.54%で利用されている。W3Techsによると、Apacheは上位1000万サイトの39.5%で利用され、Nginxは31.7%で利用されている。 2018年3月現在、Apacheの公式ページでは2.4系のみを推奨リリースとしている 。 1.3系、2.0系、2.2系を含む古い系列は、アーカイブ・サイトからダウンロードできる。 Apacheの機能はモジュールを追加することで拡張できる。Apacheの核となる「Core」がまずあり、そこへモジュールを追加して機能を拡張する。モジュール名は慣習的に「mod_XXX」と付けられる。XXXは機能の概要名である。例えば「mod_dir」「mod_alias」「mod_setenvif」などとなる。 モジュールは「静的リンク」または「動的リンク」により追加できる。静的リンクとは、Apacheの実行ファイルそのものにモジュールを組み込む方式である。つまりApacheとモジュールはバイナリ的に一体化して動作する。動的リンクとは、モジュールを別ファイルとして作成し、必要に応じてモジュールのファイルから機能を呼び出す方式である。この機能を「DSO(Dynamic Shared Object=動的共有オブジェクト)」と呼ぶ。動的リンクの機能を利用するためには、あらかじめ「mod_so」モジュールを静的リンクしておく必要がある。 動的リンクはモジュール機能の呼び出しで静的リンクよりも負荷が高くなる(オーバーヘッドがかかる)デメリットがあるが、再起動のみでモジュールを組み入れたり外したりできるメリットがある。 逆に静的リンクは高速にモジュール機能を呼び出せるが、モジュールを入れたり外すためにはApache本体を再コンパイルする必要がある。 Apacheは数多くのOSをサポートするために、MPM(マルチ プロセッシング モジュール)という仕組みをとっている。これにより、利用するOSに最適化されたApacheを容易に組み込むことができる。 Unix系においては、プロセス・スレッドの挙動が異なる3つのMPMが利用できる。 このほか、Netware、OS/2、Windows向けにそれぞれ専用のMPMが用意されている。 Apacheは、主にワールドワイドウェブ上で静的または動的なコンテンツを公開するために使われる。多くのウェブアプリケーションは、Apacheが提供する環境と機能を想定して設計されている。また、ApacheはLAMP (Linux、Apache、MySQL、PHP/Perl/Python) や LAPP (Linux、Apache、PostgreSQL、PHP/Perl/Python) と呼ばれる非常に人気のあるウェブサーバコンポーネントの一つでもある。読み方はそれぞれLAMP(ランプ)、LAPP(ラップ)である。さらに、Apacheはいろいろな商用パッケージ、例えばOracle Databaseに組み込まれており、macOSやNetWare 6.5の標準Webサーバにもなっている。 Apacheでは、FreeBSDのカーネルと連動し、最高の性能を引き出す特殊な動作形態をサポートしている。 これはFreeBSDをHTTPサーバに特化するという運用形態を想定したもので、FreeBSD及びApacheの両者に設定が必要であり、共にインストール直後の標準設定ではサポートされない。 基本的な動作は、LinuxのTUX web serverやWindowsのInternet Information Servicesなどに近い実装であり、通信バッファのカーネルからの直接的な読込やkqueueなど多岐にわたり、一部のみ利用ということも可能になっている。 同形態はLinuxにおけるサポートも検討されたが、あまりに特殊であるため未実装となっている。
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3,616
紙切り
紙切り(かみきり)とは、紙を鋏で切り、形を作る即興性のある伝統芸能のひとつである。寄席では色物の一つとして紙切りの芸を披露する。このような芸では客からのリクエストに応える場合もあり、縁起物や芝居の一場面など古典的なものから、動物やアニメのキャラクターまで題材は多岐に渡る。形で表現するのに難しいお題も、その場で頓知を利かせて具現化させたり、切っている最中も黙ったりせず、客を飽きさせないように喋り続けるなど、単に紙を切る技術だけでは成立しない芸である。切りあがったものは、ほとんど客に供される。 もともとは中国で古来からあった剪紙といわれる切り絵文化が仏教とともに日本に伝わったとされる。 繊細で時間のかかる工芸だったものを、江戸時代になり宴席の余興として、より簡略化した図柄や形を謡や音曲に合わせて鋏1つで素早く切り抜く芸として始まった。寄席の出し物としては1873年(明治6年)に幇間の喜楽亭おもちゃ(後、巴家おもちゃ)が高座で披露した。しかし色物の中でも地味な芸であったため、以降も寄席では数人しか紙切り芸人はおらず、当時の作品はほとんど残っていない。 第二次大戦後、テレビ放送が始まると、切り絵クイズ番組に出演した初代林家正楽が有名となった。当初テレビ局側は紙切り芸人の柳家一兆に依頼したが、「クイズに使う、訳のわからない切り絵は正楽に頼め」と断ったため、初代正楽が紙切りでクイズを出題することになった。 柳家一兆(後の花房一兆、小倉一兆(一晁))の弟子には、「モダン紙切り」で人気を博した花房蝶二や、現在、鋏切絵作家としても活動している柳家松太郎がおり、初代正楽の弟子には2代目正楽、林家今丸がいた。2代目正楽は当初、落語家として8代目林家正蔵(後の林家彦六)に入門したが、言葉の訛りが抜けず落語家を断念、紙切りとして初代正楽に弟子入りした。その2代目正楽の弟子には、3代目正楽と林家二楽がいるが、二楽は2代目正楽の次男である(長男は落語家の三代目桂小南)。大阪では香見喜利平、晴乃ダイナらが活躍した。 日本国外では、紙切り芸は非常に珍しいパフォーマンスとして扱われ、ペーパー・カッティング・クラフトとも呼ばれる。このため現地での日本関連イベントに招聘されて公演をする機会が多い。林家二楽師は2006年より毎夏バーモント州ミドルベリー大学日本語学校に招聘され、紙切りワークショップと公演を行っている。
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3,617
文化
文化(ぶんか、ラテン語: cultura)には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。 「文化」は一方では、日本の元号の一つで、江戸時代の19世紀前半に享和の後、文政の前に使われた。その語源は『易経』賁卦彖伝にある「観于天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」」(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)にあるとされている。他方、ラテン語 colere(耕す)から派生したculturaはローマ時代の政治家・哲学者のキケロも「cultura anima」などと使っている。現代の英語「Culture」・ドイツ語「Kultur」の訳語としては、明治時代に坪内逍遥が『小説神髄』(1885年)などで「文華」という言葉を使い、彼の東京専門学校の後輩・大西祝がマシュー・アーノルド著『Culture and Anarchy』の翻訳書『教養と無秩序』(1986年)で「文化」(ただし時々『文華』も)を初めて使ったのが知られている。その後、中国語でも「文化」が使われるようになった。 ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。 人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である。 こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー (1871) の、 である。この文に続く進化主義的な議論は批判されているが、タイラーの定義は今でも基本的には正当性が認められている。 この定義は動物に社会が存在しないことが自明とされていた時代の定義であり、後に野生動物も社会を形成することが認められるようになると、新たな制約が加えられた。動物が使うことがない言語によって特徴づけるようになったのである。この場合、動物の音声コミュニケーションとは異なる特徴である再帰性や象徴性が強調された。レヴィ=ストロースによれば、言語は文化の条件であるという。つまり文化は、それが非言語的なものであっても言語的な性質を備えている象徴的な事象と定義するもので、構造主義文化人類学者によく使われる。 出発点が近代社会とは異なる世界を記述するための概念であった人類学的文化は、やがて近代社会を理解するための学問である社会学にも取り込まれるようになった。社会学における文化の定義は人類学から大きく影響を受けているが、例えばパーソンズは「ひとつの社会システムは、二つかそれ以上の諸社会の社会構造や成員や文化、あるいはそうした諸社会の構造、成員、文化のそのいずれかとかかわりあうことができる」として、一つの社会における多文化的な状況を記述可能にするために、社会システムと並立して正統性を担保するものとしての文化システムを定義づけた。シンボリック相互作用論者、なかでもタモツ・シブタニは、ある特定の集団ないしは社会的世界において、人々に共有されているパースペクティブ(認識枠組)を指すものとして文化を扱い、同じく、一つの社会における多文化的な状況(文化の多元的共在)の説明に有用な概念として捉えている。ハーバーマスは文化 (Kultur) を「文化とは知のストックのことであり、コミュニケーションの参加者達は世界におけるあるものについての了解しあうさいに、この知のストックから解釈を手に入れる」としている。このように行為、あるいはコミュニケーションに利用されるストックというアイデアは、ルーマンのゼマンティーク (Semantik)、フーコーのアーシーブ(Archive) などとも関連性が深い。 文化人類学者のクリフォード・ギアツもパーソンズ由来の文化を採用しているので、現在では社会学的文化と人類学的文化の境目はあまり重要ではない。 文化の概念は、通常、人間集団内で伝播されるものに対してのみ用いられるので、個人がただ発明しただけの状態では適用されることはない。また、地域や集団、時代によって文化様式は大きく異なることがある。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、個々の文化はそれぞれの固有様式で統合されており、他の文化からの基準では本当の意味で理解することは困難であり、相対化と再帰的な検討が必要であるという文化相対主義を展開した。 文化は人間集団によって作られるが、同時に個々の人間も環境という形で、不断に文化に適応、学習させられていると考えられる。 日本文化や東京の下町文化、室町文化など地理的、歴史的なまとまりによって文化を定義するもの、おたく文化のように集団を構成する人を基準に文化を定義するもの、出版文化や食文化のように人の活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義、概念化される。 さらに小規模な集団にも企業の「社風」、学校の「校風」、ある家系の「家風」などがあり、これらも文化と呼ばれる。 上記のタイラーの定義にもみられるとおり、社会科学分野では人間以外の生物は文化を持たないものと長年考えられてきた。しかし野生動物の長期野外調査の蓄積によって、同種個体でも地域差が見られたりすることや道具を使用することは知られている。たとえば、ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリの鳥のさえずりは、遺伝的に親から子へ伝わるのではなく、人間の言語と同様に、模倣という手段によって伝達され、異なるグループでは方言のように異なるさえずりが観察できる。これは、多くの動物が社会的学習能力を持ち、さらにそれを集団内において文化的伝統として保持していることを示している。一方で、そうした文化的伝統は蓄積を伴わず、ある獲得された文化を改良してさらに優れた文化を生み出すといった動きは人間以外の生物にはまったく見られない。 文化という概念がほぼ確立した19世紀には、文化や社会がどのように進化していくかという社会文化的進化の理論も同時に構築されつつあった。当時は文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていた。この理論を単系進化と呼ぶ。こうして成立した社会進化論は当時のヨーロッパの自文化中心主義と容易に結びつき、ヨーロッパの文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たるヨーロッパ文化にいまだたどり着いていないという考え方が主流となった。この理論は、他文化に属する人類を全くの他者ではなく、文化が異なるだけでともかくも同じ「人類」とみなすようになったという点でそれ以前に比べ改善が見られたものの、植民地主義と強く結びつき、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させ近代化させるということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出されるようになった。このような観点から、野蛮・未開とされた人間を動物園の動物のように見せる人間動物園が流行した。また、この理論に従い、各分野で文化の発展図式が構築された。 後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった。 古い進化主義が否定されたのち、1940年代に入ると再び進化主義の要素が文化理論に取り入れられるようになり、ネオ進化主義が誕生した。これはレズリー・ホワイト(英語版)による文化進化の客観的な測定基準の導入や、ジュリアン・スチュワードによる単系進化の否定と多系進化の提唱を経て、マーシャル・サーリンズとエルマン・サービス(英語版)によって理論の統合がなされた。 また、生態人類学においては、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する。 文化相対主義の浸透などにより、現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくない態度とされ、むしろ文化の多様性が称揚される場面が多くなりつつある。一方で、いまだそうした差異を排撃する地域も多い。その場合批判は当該地域の古くからの伝統文化に基づくこともあるが、従来さして重要とみなされてこなかった差異をクローズアップしたうえで多文化排撃の根拠とすることもみられる。こうした動きは、他文化への干渉と批判を躊躇する態度によってしばしば助長される。 例えば、女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。 このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。 ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。 近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける。 このような議論の極端な事例が捏造疑惑である。マーガレット・ミードはサモア人女性は性的に開放的であると議論したが、のちに調査した文化人類学者やサモア人から反論がされた。実際にミードが捏造をした、もしくは経験不足で嘘や冗談を見抜けず誤ったことを書いてしまったのか、サモアの文化そのものが変貌したのかについては議論が分かれている。 また文化人類学者の横暴に対して現地の人々が反発したものとして、例えば南米の狩猟採集民族のヤノマミ族は他人を罵倒する言葉として、「人類学者(アンスロ)」が定着しているということが挙げられる。 日本では大正時代に入ると、ある種の近代性や合理性のあるデザインやモノに「文化」という語をつけて新しさを示すことが流行した。洋風を取り入れた文化住宅や文化アパートメントなどがこの頃にできた語である。第二次世界大戦後には再びこの流行がおき、文化鍋や文化包丁といった調理関連、文化干しのような食品関連、学校名など広範な対象物に「文化」の文字が冠され、また文化住宅も関西地方において「木造2階建て、棟割りの賃貸アパート」を指す言葉として復活した。 文化人類学において、文化は人間の行為を媒介する象徴の体系である。しかしイギリスの文学研究者たちが、イギリス国内のマスメディア現象を批判的に分析するためにうまれた研究手法であるカルチュラル・スタディーズでは、均質であることの想定を許さない社会における文化を分析対象とするために、「ある社会において生活している人々の誰もが、等しく共有しているわけではない」という「社会認識」をもとに文化を位置づけた。 人類学は、未開社会の貴重な文化が西欧文化やグローバリゼーションなど外部の悪影響で消えつつあることを告発していたが、現在では他の文化を未開社会とみなす姿勢はもとより、真正・純正の文化がある・あったという思考自体が批判されている。クリフォードはこうした思考による記述を「消失の語り」として、文化が外部の影響を取り込みつつも新たな展開を示していくことを重視して記述する「生成の語り」と区別した。 外部からの影響によって、伝統的文化が変貌したり新しく創造されたりすることがある。その典型的な事例は観光地にしばしば現れる。例えばバリのケチャは悪魔祓いの儀礼のときに行われるコーラスをもとに、映画『悪魔の島』(1955年)のBGMとしてドイツ人、ヴァルター・シュピースが創作したものであるが、これがラーマヤナの物語として現在の姿になり、それが現地の人々に受け入れられたものである。他にはアイヌの民族芸能である木彫りの熊も、徳川義親がスイス土産を開拓村のアイヌに作らせたことが起源だとする説がある。 一方でこうした観光のクレオール的な性質に対して、しばしば反発がおきる。代表的な事例では観光地での商売上の慣行が実際の伝統的な文化と同一視されることを拒絶する民族運動としてハワイの先住民運動がある。 文化相対主義の政治的応用の一つとして多文化主義と文化隔離主義がある。どちらも文化を本質主義的に取り扱っているので、文化人類学者の議論とは隔絶がある。特に移民排除運動や排外主義を理論化する際に、「文化相対主義からすれば、お互い相容れない存在なのだから、祖国に帰るべきである」という形で援用されるのが文化隔離主義であり、人類学者から文化相対主義の地獄とされる。 ピエール・ブルデューは、社会における支配階層は権力によって、文化の洗練さを規定し、そうして規定した洗練されたとする文化資本を維持するハビトゥスを獲得することで権力を再生産するとした。 ミーム (meme) とは、文化を形成する情報であり、模倣を通して人の心から心へとコピーされる情報である。ミームという言葉は、生物学者のリチャード・ドーキンスが作ったもので、ドーキンスはミームの例としてキャッチフレーズや服の流行をあげている。 ミーム学という科学では、ミームという概念を用いて文化を理解する。ミーム学は、「ミームが自分の複製を作る」という視点で考察される。これは、ドーキンスの論じる利己的遺伝子が「遺伝子が自分の複製を作る」という視点で考察されることからの類推である(ただし利己的遺伝子のアイデア自体はドーキンス独自のものではない)。 遺伝子やミームのように自己の複製を作るものを自己複製子という。自己複製子は、自分のコピーを作る時に変異を起こすことがあり、多様化していく(DNAは、多くの場合正確に子孫に複製されるが、まれにコピーミスが起きる)。多様化した自己複製子は自然選択(自然淘汰)によって、進化する。したがって、自己複製子であるミームも遺伝子のように進化することができ、この考察から、文化の進化する様子を分析することができる。 例として、コンピュータにおける情報分野で盛んになっており、開発言語の変遷や仮想通貨にその様子が伺え、さらには、スマートフォンの世界的な普及を背景にしたものもある。 ある特定地域の文化が他地域へと拡大することを文化伝播と呼ぶ。文化伝播には、隣接地域への直接的な接触による接触性拡大伝播、重要人物間や大都市間など遠隔地の同一階層にまず広がり、そこから下位へと伝播していく階層性拡大伝播、文化の所持者が移住することによって文化が伝播していく移転伝播などがある。 例えば仏教は、インドで発祥し、宗派の分裂や各地の文化の影響もありつつ、主に上座部仏教は南方の東南アジア諸国に、大乗仏教は北方の中央アジア諸国や東アジア諸国などへと伝播していく。その後大乗仏教が6世紀に日本にも伝えられるが(仏教公伝)、当初は崇仏論争が起きその受容につき激しく争われた。受容後は中国などからの影響も受けつつも、日本独自の宗派も発達し、また本地垂迹説の登場によって日本古来の宗教である神道との融合が起き、神仏習合と呼ばれる状態が生まれた。 交通・通信手段の改善や経済交流の増大によって各文化圏の交流が密接になるに伴い、文化の伝播・交流はますます密度を増しつつある。特に1990年代以降、グローバリゼーションの爆発的な進展に伴い、各国では他国文化の流入が起きて多様性が増大し、さらに在来の文化と異文化との融合によって新たな文化が生まれた。その一方で、流入する異文化とはだいたいにおいて有力な文化、特にアメリカを中心とした文化であり、アメリカナイゼーションをはじめとする文化の画一化による文化差異の減少も顕著となっている。食文化においては、世界各地で気候風土や現地文化に即した独自性の高い文化が世界各地で育まれていたが、1990年代以降流通や情報技術の発達によって食品系企業の世界展開が起きて急速に標準化が進みつつあり、全体として差異は縮小する傾向にある。ファストフード・チェーンなどの多国籍企業による効率的・画一的な消費文化が全世界に広がることで起こる文化の均質化も指摘されているが、そうして広まった均質な文化の中でまた差異が追求されることも珍しくない。こうしたグローバリゼーションと地域限定化の混合による文化の流れは、グローカリゼーションと呼ばれる。 マスメディアは娯楽情報や文化や教養面の情報を発信し、また企業が自らの商品を売り込むための広告や、各団体が行う広報も大量に流される。こうしたマスメディアによる画一的で一方的な大量の情報の提供は、市民の受け取る情報を一様なものとすることで広汎な共通文化市場を生み出し、人々が広く愉しむ大衆文化を成立させた。大衆文化が本格的に成立したのは第1次世界大戦後のアメリカであり、マスコミュニケーションの発達と販売技術の向上によってその波は世界に波及して、それまでの社会の価値観を大きく変動させた。 文化はナショナリズムと密接な関連があり、国家は自国の国民文化の創出に力を注ぐ。ヨーロッパでは19世紀に民族意識やナショナリズムが興隆した結果、各地でその地域を代表するような名物料理が成立し、民族・地域意識の核のひとつとなってきた。また、音楽・文学・映画などをはじめとする大衆文化や、その国の伝統文化は当該国家の競争力を高めるのに有効な手段と見なされており、各国は競って文化産業の輸出や自国文化の広報に力を入れるようになっている。こうした文化面からの交流によって他国からの共感と好意を得、自国のイメージを向上させることは外交上ソフトパワーと呼ばれ、ソフトパワーを得るために他国の市民に対し自国の広報を行うことをパブリック・ディプロマシーと呼び、重要な外交の一手段となっている。 各文化はそれぞれ有形・無形の文化的な成果を所持しており、それらの中でも特に価値の高いものは文化遺産と呼ばれる。各国の文化遺産は国内でそれぞれ保護される他、国際的な保護体制も構築されている。こうした文化遺産のうち、有形で特に価値の高いものは1972年の世界遺産条約によって保護のガイドラインが制定され、世界遺産に登録されれば文化遺産や複合遺産として保護されることとなる。次いで、2003年には無形の文化遺産においても無形文化遺産の保護に関する条約が採択され、重要と認められたものはユネスコによって無形文化遺産に登録されるようになった。こうした文化遺産は観光において重要な位置を占めており、国外から文化を鑑賞したり体験するために観光客が押し寄せることも多い。
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レンダリングエンジン
レンダリングエンジン (rendering engine) とは、レンダリングを行うソフトウェア部品。情報(データ)を読み込んで、特定のルールにしたがい適切な表現に変換する役割を担う。レイアウトエンジン (layout engine)、レンダラー (renderer) ともいう。 情報がデジタルデータの場合、適切にレンダリングを行うためには、レンダラーの書式(フォーマット)に従って保存されていることが必要となり、また一般的にデータの名前やデータ中のヘッダーにレンダラーの条件が付けられる。例えばコンピュータにおいて、記憶装置中に格納されたある領域に羅列するデータ列が、書式に従ってデータの名前、形式、データの始まり、データの終わり、エラー訂正のための冗長情報などが書かれていれば、これを適切なレンダラーが読み込むことで、「ファイル」として認識することができる。この場合の書式はファイルシステムが定義しており、「ファイラー」がレンダリングエンジンとして機能している。 アプリケーション・ソフトウェア内部に組み込まれていることもあるが、独立したライブラリとして提供されたり、ソフトウェアどうしの連携によって外部から利用されることもある。多くのコンピューターで、上記の「ファイル」として認識されたデータをさらに別のレンダラーが連携で読み込み利用している。
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知恵の輪
知恵の輪(ちえのわ、英: disentanglement puzzle)とは、パズルの一種で、簡単に外せない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。ただし、外すのではなく部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするものもある。また、大抵のものは特定の外し方によって簡単に外せるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。 外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなる。元の形のみならず、複数のパターンがあって、それらの内で目指す形に戻すのを楽しみとするような作品もある(「キャストパズル」のキャストキーリング等)。 部品には金属や紐がよく使用される。金属は容易に変形できないために、外すための障害となる。逆に紐は軟らかいため、変形させて金属部品の隙間を通したり、場合によっては狭い隙間を通すこともある。木製のものや紙製のものもあり、素材によらず知恵の輪となる可能性を秘めている。 位相幾何学的には、紐の知恵の輪は、紐に充分な長さがあると仮定し、かつ金属部品(固定部品)の部分もまた紐で作られていたと想定したときに外れるのなら、必ず外せる。逆に、金属部品の部分も紐だったとしても外せないなら、当然外せない。
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Internet Information Services
Microsoft Internet Information Services (IIS) は、Microsoft Windowsの標準Webサーバー(アプリケーションサーバー)サービスである。HTTP/HTTPS、FTP、SMTP、NNTP等の基本的なプロトコルはサポートしている。クライアント版に付属するIISでは機能制限が行われている。 もともとInternet Information Serverという名称で、Windows NT Server上で稼働するアドオンソフトウェアという位置付けであったが、Windows 2000 Server登場時にシステムの標準サービスに位置付けられ、現名称に改められた。 インストールした時点でIISの仕事は始まっており、指定されたフォルダにhtmlテキストを保存し、設定することでwebページの公開は可能である。またサーバ版の場合、Windows Server Update Servicesや、Microsoft Exchange Server等のアプリケーションと関連付ける事で、サーバアプリケーションをブラウザ越しに、よりグラフィカルに設定させることが出来るため、ある意味マイクロソフトを象徴するコンポーネントといえる。 かつてのバージョンでは、IIS自身にSMTPサーバ機能が付加されており、Windows Server 2003のPOP3サーバ機能と合わせて簡易なメールサーバを構成できた。これはIISのエラー情報を管理者に通知するための機能の応用であるため、Exchange Serverのように本格的なメールサーバを構築することは出来ない。なお、SMTPサーバ機能はIIS 7.0より削除された。 そのほかバーチャルドメイン等の機能も持つが、パーミッション(アクセス権限)設定が他のWebサーバソフトよりも複雑である。 IIS に比べて対応機能が少ない「ASP.NET 開発サーバー」 (Cassini) を利用せずに IIS の全機能を開発環境で使用するために公開された。ASP.NET 開発サーバーと同様に IIS のインストールが不要で、localhost 接続要求のみ受け付ける(ただし、設定すればlocalhost以外からの接続要求も受け付けることが出来る)。また、古いバージョンの OS でも新しい IIS の機能を使用することができる。 IIS 7.5 と同等の IIS Express 7.5、IIS 8.0 と同等の IIS Express 8.0 が公開されており、Visual Studio 2010 Service Pack 1 で対応し、Visual Studio 2012 で ASP.NET 開発サーバーから置き換えられた。 IIS は当初、多くのそして重大なセキュリティホールが頻繁に発見された。過去にはCode RedやNimdaといったワームの蔓延により大規模な障害を引き起こした。特にWindows 2000では標準で組み込まれるため被害を大きくした。 IIS 6.0においてアーキテクチャを過去のIISに比べ大幅に変更し、発表から2007年1月の間にわずか3つの脆弱性しか発見されないレベルまでセキュリティを向上させている。また、安全性確保のため初期状態ではインストールされないようになった。 マイクロソフトでは旧バージョンのIIS 4.0、IIS 5.0、IIS 5.1に対しては、セキュリティ対策用のツールとして「IIS Lockdown Wizard ツール」を配布し、セキュリティの向上を促している。
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3,623
タングラム
タングラムは、問題として提示された形を作るシルエットパズルの中で非常に有名なものの一つで、正方形をいくつかに切りわけたものを使うパズルである。 タングラムは、以下の図形で構成されている。 タングラムは中国で生まれたと考えられているが、詳しくは分かっていない。 中国の宋の時代に黄伯思という人物が著した「燕几図」という机の並べ方に関する書物があり、7個の長方形の机を並べる物であった。これを基に明の厳澄が、三角形や台形を用いた「蝶翅几」を考案し、それらを更に発展させたのがタングラムであるという説がある。 日本では1742年(寛保2年)に「清少納言知恵の板」(シルエットパズルだが分割法はタングラムと異なる)に関する本が発行されている。 中国では1813年に「七巧図合壁」、1858年に「七巧八分図」という本が刊行される。これらの本はタングラムに関する本である。 ヨーロッパでは、1805年に発行された書籍に紹介されている。その後「七巧図合壁」がヨーロッパでも出版され 1817年にはイギリスでオリジナルの問題集が発売されている。これらが翻訳されることでヨーロッパ中に広まり、各国で多くの問題集が発売されている。 ルイス・キャロルやエドガー・アラン・ポーなど著名人が遊んでいたと言う話も残っており、セント・ヘレナ島に流されたナポレオンが遊んでいたという記録も残っている。 19世紀末にドイツのリヒター社がシルエットパズルの製造を開始し、20ペニヒで販売している。このシリーズにおいてタングラムは、"Kopfzerbrecher"というタイトルで収録されている。この商品はヒットし、ピースの形を変えた多くのシルエットパズルが発売されるようになる。 20世紀に入ってから、サム・ロイドは「タンの8番目の本」を出版した。この本には数百題の絵柄と共に、今日までよく知られているタングラムの名称の由来の話が掲載されている。 現在では、単なる遊びとしてだけではなく幾何学の教材などにも利用されている。 タングラムを遊んでいたとされる19世紀の欧米の著名人は何人かいる。ナポレオン・ボナパルトもその1人だが、彼が本当にタングラムで遊んでいたか疑わしい部分があった。理由として以下のようなものが存在する。 ナポレオンが遊んでいたと考えられる根拠としては以下のようなものがあったが、いずれも遊んでいた可能性があることを示すだけで確実な根拠ではない。 他の根拠として、1817年に出版されたタングラムの本に「ナポレオンがこの遊びを楽しんでいる」という記述があるが、これも事実かどうかは不明である。 これらの理由から、マーティン・ガードナーのようにナポレオンは遊んでいなかったと結論付ける人もいた。 オーストリアの外交官 Barthélémi de Stürmer(en)は、クレメンス・フォン・メッテルニヒに宛てた私信の中で「独創的な中国の遊び」について言及している。このことから、この時点でセントヘレナにタングラムが存在していたことがわかる。20世紀末の調査の結果、マルメゾン城のナポレオンの遺物のコレクションの中に象牙製のタングラムと問題集があるのが確認された。これにより、ナポレオンがタングラムで遊んだことがあることが証明された。ただし、この調査にも携わったジェリー・スローカムは、「タングラムを所持していたのは間違いないが、それはお気に入りの娯楽ではなかった」としている。 中国においてこのパズルは「七巧」と呼ばれる。この言葉は七夕の習慣に由来しているといわれる。 欧米に最初に伝わったときにはこのパズルは単に「(中国の)パズル」と呼ばれていた。Tangram という単語は 1848年にアメリカで出版されたトーマス・ヒル(en)の著書の中で確認されている。1864年に発行された辞書に収録されているのが確認されている。 タングラムの名称の由来には諸説ある。 タングラムの7片を使用して、人間・動物・物・文字など様々な形を作ることができる。右の人の絵もその一例である。 現在までに多くの国で多くの人によりタングラムの作品集(問題集)が出版されている。 ジェリー・スローカムらの調査によれば、1920年以前に中国で作られた作品は2200以上である。同時期までにアメリカで約2500、フランスで1500以上、イギリスで500以上、ドイツとイタリアでそれぞれ300以上の作品が作られている。 図の2つの人物は同じ大きさのタングラムのセットを並べた物であるが、下の方が三角が一つ多い。このように、よく似ているのに明らかに違う(必然的に並べ方も異なってくる)ような図を、タングラム・パラドックスと呼ぶ。 同じ片を使用している以上全体の面積は同じである。実際に作ってみると分かるが、上の方が三角以外の部分の面積が若干大きくなっている。 タングラムの7片は最初正方形に配列されているが、他の凸多角形を作成することもできる。中国の数学者 Fu Traing Wang と Chuan-Chin Hsiung は、1942年に13種類の凸多角形が作成可能であることを発表している。 13種類の内訳は以下の通りである。 右の図は可能な13種類の多角形と、その組み方の例を示している。 タングラムは、図形や絵のほかに文字を造ることもできる。 アルファベットや数字には多くの作例がある。1818年にイタリアで発売された "Al Gioco Cinese Chiamato IL Rompicapo; Appendice" にはすでに掲載されている。それらを用いたフォントを作成する人もいる。 ひらがな・カタカナも作例はあるが、すべての文字を作った人はほとんどいない。清少納言智恵の板においては、いろは48文字すべてに作例がある。 漢字はアルファベットやかなに比べ複雑な物が多いが、多くの文字が作られている。秋芬室による「七巧八分図」には漢字の分類が存在し「七巧」「山川」などの文字が収録されている。厳笠舫は1876年に『七巧書譜』を出版しているが、この中にはタングラムで作った文字が500以上収録されている。 複数のタングラムを使う造形には2種類ある。 1つはすべてのピースで1つの図形を作るものである。右に挙げた「釘抜き」(この名称は清少納言知恵の板に由来する)はタングラム1セットで作ることはできないが、2セット14ピースを使用してこの形(元の√2倍の相似形)を作ることができる。 もう1つは1セットで作られる図形を複数並べて1つの作品とするものである。「ビリヤードをする人たち」はデュードニーの著書に掲載されているもので、2人の人物・ビリヤード台・柱時計がそれぞれ1セットのタングラムで作られている。前節で述べた文字の造形を使用して単語や文章を作ることもこの範疇にあるといえる。 19世紀から20世紀初頭に出版された主な書籍をあげる。書籍名の後に発行年・国・収録問題数を付記している。
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推理作家一覧
推理作家一覧(すいりさっかいちらん)は、日本及び世界各国で活躍する、名を残す推理作家の地域別五十音順一覧である。ウィキペディア内に記事が存在する人物を中心とする。 日本を除くアジアの推理作家 ヨーロッパおよび北アメリカ、オセアニアの推理作家 =アメリカ合衆国、=カナダ、=イギリス、=アイルランド、=オーストラリア、=ニュージーランド それ以外の国については適宜注記する。なお、「英語で執筆する推理作家」については「#インド」、「#アフリカ」も参照のこと。 (英語版WikipediaのCategory:アメリカの推理作家、Category:カナダの推理作家、Category:イギリスの推理作家、Category:アイルランドの推理作家、Category:オーストラリアの推理作家、Category:ニュージーランドの推理作家も参照) ヨーロッパのフランス語圏の推理作家。特に示さない場合はフランスの推理作家。なお、「フランス語で執筆する推理作家」については「#アフリカ」も参照のこと。 (Category:フランスの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照) ヨーロッパのドイツ語圏の推理作家。 ドイツ (Category:ドイツの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) オーストリア スイス その他 上記以外の西ヨーロッパの推理作家(一部重複) ドイツ オランダ (Category:オランダの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) ベルギー (Category:ベルギーの推理作家(フランス語版Wikipedia)も参照) ルクセンブルク 北ヨーロッパの推理作家 アイスランド (Category:アイスランドの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) スウェーデン (Category:スウェーデンの推理作家(スウェーデン語版Wikipedia)も参照) デンマーク (Category:デンマークの推理作家(デンマーク語版Wikipedia)も参照) ノルウェー (Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ブークモール版Wikipedia)、Category:ノルウェーの推理作家(ノルウェー語ニーノシュク版Wikipedia)も参照) フィンランド (Category:フィンランドの推理作家(フィンランド語版Wikipedia)も参照) 南ヨーロッパの推理作家 イタリア (Category:イタリアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) ギリシャ スペイン 特に示さない場合はスペイン語での執筆。なお、「スペイン語で執筆する推理作家」については「#中南米」も参照のこと。 (Category:スペインの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) 中央ヨーロッパの推理作家 スロバキア チェコ ハンガリー ポーランド (Category:ポーランドの推理作家(ポーランド語版Wikipedia)も参照) 東ヨーロッパおよびロシアの推理作家 クロアチア ブルガリア ルーマニア (Category:ルーマニアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) ロシア (Category:ロシアの推理作家(英語版Wikipedia)も参照) バルト三国の推理作家 エストニア (エストニアの推理作家(エストニア語版Wikipedia)を参照) リトアニア (リトアニアの推理作家(リトアニア語版Wikipedia)を参照) 以下、特に示さない場合はスペイン語での執筆 中央アメリカの推理作家 キューバ 南アメリカの推理作家 アルゼンチン 北アフリカの推理作家 西アフリカの推理作家 中部アフリカの推理作家 南部アフリカの推理作家 日本国内、及び世界各地の推理作家団体の一覧 英語圏 北欧
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ペンシルパズル
ペンシルパズル(pencil puzzle)とは、図示された問題に対して答えを徐々に書き込むことによって、最終的な解答を行う形式のパズルのことである。リトゥンパズル(written puzzle)とも呼ばれる。 迷路や、虫食い算、クロスワードパズル、数独などが代表的。 現在はパズルの専門雑誌がいくつも存在し、以下のパズルのいずれか一種類専門の雑誌も多い。パズルの形式(種類)自体に新しいものが次々と考え出されているが、それらの種類の名称は必ずしも共通しておらず、雑誌(出版社)により異なる場合がある。 なお、「ペンシルパズル」は株式会社ニコリの登録商標である。なお、ニコリでは、略して「ペンパ」とも呼んでいる。 ペンシルパズルの作り手は、プロ・セミプロ・アマチュアに分かれる。 パズルの作成だけで収入を得ている純粋なプロはあまり多くない。その多くが1980年代のクロスワード誌の創刊ラッシュ以前から新聞・雑誌や単行本などでクロスワードを含むパズルを発表してきた人である。彼らは、複数の雑誌で出題することも珍しくない。個人で活動している人の他に、ニコリ編集部や菫工房のような制作集団も存在する。 プロの数が多くないこともあり多くの雑誌では投稿を募集しており、アマチュアが作品を発表する場を設けている。アマチュアには、主婦・学生など一人の時間が取れる人が多い。投稿コーナーという区切りが無く、ほぼ読者による投稿が誌面を占めているパズル通信ニコリは異色とも言える。 セミプロの多くは、上述のような投稿コーナーの常連を経て作家としてデビューしており、最初から作家デビューを前提にしている雑誌も多い。プロと違い、一社の雑誌でしか出題しない人が多い。数独やお絵かきロジックのような、単独のパズルのスペシャリストも多い。 かつてお絵かきロジックの原作者が誰かについて裁判で争われたことがあるが、判決が出る前に双方が独自に開発したとして和解しているので司法の判断が実際に下されたことはない。 現在では新しいペンシルパズルの考案者に権利は発生しないと考えられている。 個々の問題に関しては著作権が発生すると考えられており、各誌の投稿規定でも二重投稿の禁止などの対策がとられている。 ペンシルパズルの専門雑誌は「パズル誌」と呼ばれ、多くの種類の雑誌が発売されている。 日本で現在刊行されているパズル誌の中で最初に創刊されたのは「パズル通信ニコリ」(スタジオ魔法塵→ニコリ)であり、1980年に創刊された。この雑誌は、アメリカのデル・マガジンなどのパズル誌を参考に作られた。 1980年代前半に、「クロスワードハウス」(廣済堂)・「パズラー」「クロスワードファン」(世界文化社)・「クロスワードキング」(英知出版→インフォレスト)が創刊されている。タイトルから分かるように「パズラー」以外はクロスワードパズルが中心だった。 1990年代になると、特定のパズルに的を絞った雑誌が創刊されるようになる。多くの場合、既にパズル誌を発行している会社が増刊の形で始めている。ナンクロ・お絵かきロジック・数独など、パズル誌で人気の高かったパズルの雑誌が多い。 ペンシルパズルは種類が多いが、明確な分類方法はほとんど確立されていない。以下の2つはこの記事でも使用されている方法だが、これも十分な物とはいえない。 他に「ルールの分かりやすさ」「枠の形が可変か」などの分類方法もあるが、一般的には使用されていない。 2008年にニコリから出版された「パズルBOX9」では、51種類のパズルを以下の6つに分類している。分類の後に代表的なパズルをあげる(同誌に掲載されていないパズルを例としてあげる場合がある)。
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コレクション
コレクションは、モノを広く集めること、また集められたもの。収集、収集物、所蔵品。「収集」は「蒐集」とも書く。趣味としての収集活動に対して使われることが多いが。また、研究用資料、博物館や美術館等の所蔵作品群、近年では作家の著作集などに対しても用いられている。服飾においては、ファッションデザイナーや服飾ブランドが開催する展示会及びその作品群を指す。ただし英語ではファッションウィーク (fashion week) と呼ぶのが一般的である(詳細はファッションショーを参照)。また、日本では一般的でないが、英語圏では募金、寄付金、献金、集金などもコレクションと呼ばれる。 収集は人間の生活において広い範囲にわたって見られる行動であり、美術館や図書館、博物館などに代表されるように、文化財の収集、蓄積は文化の発展に大きく寄与してきた。またそのように集められるものは有形のものに限らず、無形の知識や言い伝えなどもしばしば収集の対象となる。現代では個人の趣味として物を集める人も多く、そのような趣味としてのコレクションでは、芸術品などの高価なものから集めている本人以外は見向きもしないようながらくたまでありとあらゆるものが収集の対象となっている。 「集められたもの」すべてが必ずしも「コレクション」となるわけではない。例えば商業活動を通じて金銭を集め、財産を増やしていく行為は「コレクション」とは呼ばれないし、医師が自分の診療所にいくら多くの患者のカルテを持っていたとしてもそれは「コレクション」ではない。これに関しヴァルター・ベンヤミンやジャン・ボードリヤールのような哲学者は、事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれることを(特に趣味としての)コレクションの性質だとしている。また歴史家のクシシトフ・ポミアン(英語版)は、「歴史家の実践において」コレクションは単なる物の堆積とは以下の3つの点で区別されるとしている。 精神病理学においては、認知症や統合失調症の患者に見られるような、身近な物を捨てられず無闇に溜め込んでしまう症状を「蒐集症(collectionism)」と称する。また精神科医の春日武彦は収集癖に親和性が高い病理として強迫神経症を挙げている。 芸術や学問においては、先行作品や資料、文献などが後世に伝えられることがその発展の上での条件であり、したがって文物の収集は芸術、学問の諸分野で重要な役割を果たしている。特に著作、文献の収集としての図書館はすでに紀元前7世紀にその例があるが、これはあらゆる学問研究の基盤を成す収集であると言える。学問の諸分野のうちで特に収集と深い関わりがあるのは博物学であり、動物、植物、鉱物などの自然物の収集と分類がその基盤である。この分野においては趣味による採集を通じて新種の発見がなされるということも多い。考古学においては古代の人類の遺物が、古生物学においては太古の生物の化石が収集・研究の対象となり、民俗学においては、民芸品のような有形のものに限らず伝承や民謡のような無形のものも収集される。 美術品の収集の歴史は古く、ヘレニズム時代に既に権力者、政治家、学者らによる美術品の収集、公開が行われ、古代ローマの支配拡大に伴って戦利品として古代ギリシアの美術品を持ち帰るということもしばしば行われた。 中世ヨーロッパでは教会が美術品収集の中心であり、彫刻や工芸品の他、写本や珍しい動物の標本などを宝物庫(シャッツカンマー)に所蔵し、中世末期になると宮廷や富裕な市民の間でも世俗的な美術品の収集が行われている。 ルネサンス期においては国家的なまとまりがまだ生じていなかったイタリアを中心に、メディチ家を始めとする富裕層・支配者層の間で古代美術を規範とした美術品収集が行われ、あるいは好古家によって骨董品収集が行われ、それにより国内外の珍品を集めて展示するヴンダーカンマー(驚異の部屋)が作られるようになった。このような私的なコレクションは啓蒙主義の時代とそれに続くフランス革命によって次々に公共化されていき、その幾つかは今日存在する美術館、博物館の基礎となっている。 日本においては奈良時代の正倉院に代表されるように献納物からなる権力者のコレクションが存在したが、個人の美意識に基づいて収集が行われたものとしては足利義政による東山御物などが早い例である。戦国時代から江戸時代には茶の湯の流行から各地の数寄者・大名によって茶道具や古書画が収集されており、江戸時代後期になると文人趣味の流行から中国の書画骨董が収集の対象となった。明治時代になると西洋の美意識が輸入されるようになるが、同時にフェノロサらによって日本美術の独自性が打ち出され美術収集の方向性に大きな影響を与えた。フェノロサ自身明治10年代に多くの日本美術を収集しており、現在そのコレクションはボストン美術館に所蔵されている。明治後期からは益田孝、原富太郎、根津嘉一郎、岩崎弥太郎など実業家によって古画・古磁器を中心とした美術品の収集を行われており、現代でもこのような個人コレクションがのちに美術館の基礎となる例は多い。 趣味としてのコレクションの歴史は古く、中国中世の説話集「世説新語」には、下駄の収集に凝って自ら手入れをし「一生に何足の下駄が履けることか」と嘆いていた人物が登場する。近代において市民社会が発達すると、一般市民の間で趣味としてのコレクションが広く行われるようになる。 このような趣味においては美術品、工芸品などの比較的高価なものから、本や古地図、動植物や鉱物標本など資料的価値のあるもの、硬貨、切手など収集の歴史の長いもの、模型や玩具、記念品や土産物のような比較的安価なもの、食料品のパッケージや包装紙のようなそれ自体は価値のないようなものに至るまで、各人の好みに従ってほとんどありとあらゆるものがコレクションの対象となっている。 現代では物の種類による収集ではなく、特定の漫画・アニメーション作品やそのキャラクターの関連商品(キャラクターグッズ)を収集する例も多い。またトレーディングカードや食玩のように、始めから消費者によって収集の対象とされることを前提とした商品も数多く生産されており、このような分野においては特定のシリーズをすべて収集が目指される。 また近年のインターネットの発達により情報交換サイトやネットオークションでの取引きも行われるようになっており、収集家同士の間では未開封の商品や新品同様の商品がしばしば高値で取引されている。
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登山
登山(とざん、英: mountain climbing, mountaineering, alpinism)は、山に登ることに楽しみを求め、登ること自体を目的とすること。そのようなスポーツ。 登山は山に登ることではある。だが、登山は登山そのものを目的とし、そこに最大の喜びを見出し、自分の人生に活かしてゆくことである。山菜や動物を採集したり、地質調査のため等々のために山に入ってそこを登ることは登山自体を目的としておらず、異なっている。 狩猟や信仰のための登山は古くから行われているが、これらは今日的な意味での登山からは除外される。山頂から景色を眺めることがしたくて登山をした、という今日的な意味の登山へとつながる登山をした最初の記録はイタリアのペトラルカ(14世紀の詩人)のものである。→#歴史 山に登ることそのものを目的とする登山とその思想(英: alpinism, アルピニズム, 近代登山)が18世紀後半のヨーロッパで始まった。この意味での登山はスポーツの一種とされる。 英: alpinism(アルピニズム) は広義には登山全体を指すが、特に近代登山(近代的なスポーツ登山)とその思想を指す。18世紀後半を始まりとする近代登山は、山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神や肉体に与えるものを重視し、人生のうるおいとすることを目的とする。アルピニズムはまた、登山の知識と技術を総合的に養い、全人格的に山に対していこうとする思想でもある。登るという行為以外に目的がない点で近代登山はスポーツの一種であり、この点において宗教的な登山や戦争、狩猟、測量、研究などのための登山と異なっている。 日本では戦後に登山者が増加した。高年齢の登山者や女性も多くなり、登山は野外スポーツとして定着しているとされるが、遭難の続発は社会問題となっている。高齢になって始めた登山者が、体力や技術を過信したり、気象変化を軽くみがちで、それが原因となって遭難し、山岳救助を要請する事態となっている。 登山を広く捉えると、スリーシーズンの(雪が無い時期の)ハイキング、トレッキング、縦走登山といった比較的平易なものから、雪山登山、山スキー、沢登り、藪漕ぎ、岩登り(ロッククライミング)、アイスクライミング、フリークライミング、他にもトレイルランニングなどと登山の難易度が高く技術や経験が必要なものまで、登山の形態は、方法、技術、難易度、季節、時期などによって多岐にわたる。 近代登山が始まる以前の段階(近代登山から見れば一種の「前史」に当たるもの)から解説する。 山を登るということは先史時代から行われていたようである。イタリアとオーストリアの国境にて約5,300年前の男性のミイラであるアイスマンがエッツ渓谷(海抜3,210m)で発見された。アイスマンがここまで登った理由は不明であるが、山に登ったことは確かである。他にも、狩猟などでも登山は行われていたが、これらは今日の登山とは除外される。また、多くの宗教で山は崇拝や信仰の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な聖典や伝説で登山が記録されている。。 宗教で山に登った記録としては、旧約聖書にあるモーセの十戒に関連するシナイ山、新約聖書の山上の垂訓などがある。 日本では縄文時代の早い段階から黒曜石を求めて登山したことが長野県の星糞峠黒曜石原産地遺跡や栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群などから確認されている(当項目の「概要」および「発掘調査の歴史」を参照)ことから資源目的の登山は石器時代から行われていた。 15世紀の南アメリカのインカ帝国の都市遺跡であるマチュ・ピチュは王家の別邸説が有力であり、常に住むものではなかったこと(インカの首都クスコの方が標高は高く、首都に戻る過程で登山につながる)からも登山は確認できる。 前218年、ハンニバルは第二次ポエニ戦争において、6万人の兵と37頭のゾウとともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている。 125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った。 ヨーロッパ近代の精神が、山に登ることそのものに喜びを見出す近代登山に道を開いた。イタリアの詩人ペトラルカがその先駆けとなった。1336年、ペトラルカはフランス南部のアビニョン近郊のモンバントゥーに登った。これが、山頂からの眺望を得るために登山をした最初の記録とされる。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。 ルネサンスの始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にエギーユ山(フランス語版)の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラー(英語版)が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。 18世紀後半、アルプス最高峰のモンブラン登頂が達成されたことが、近代的登山(近代登山、スポーツとしての登山)の幕開けとなった。1760年、自然科学者オラス=ベネディクト・ド・ソシュールがシャモニーを訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にミシェル・ガブリエル・パカール(英語版)およびジャック・バルマ(英語版)が登頂に成功した。 19世紀に入って、ヨーロッパ・アルプスの登山は盛んになった。特にイギリス人によってアルプス黄金時代がもたらされ、登山技術の面でも急激な進歩があった。マッターホルン(4,477m)は従来、登ることが不可能と見なされていたが、1865年7月14日にエドワード・ウィンパーが登頂に成功した。1857年には世界で最初の登山団体となるイギリス山岳会が設立された。1854年のヴェッターホルン(英語版)初登頂から1865年のマッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ。 アルプス黄金時代の間に、アルプス山脈の4,000m級の峰が登りつくされ未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルート(バリエーションルート)からの登頂や、冬季登山、案内人を付けない登山などが行われるようになった。その背景には、より困難なルートからの登山を提唱したママリー(1855-1895)の思想があり、これがママリズムとして近代のアルピニズムの主な思想となった。新しい山を求めてカフカス、アンデスなどにも目が向けられ始めた。1865年のウィンパーによるマッターホルン登頂から、1882年のダン・デュ・ジュアン(英語版)初登頂までをアルプス銀の時代と呼ぶ。 世界最高峰のエベレストが有名である。 日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中国(富山県)国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている。都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降も北海道を除く全国各地の山岳寺院に所属する山伏による山岳修行が盛行し、各山地の尾根道をメインルートとした入峰修行登山の記録が残されている。最も記録が多く残されているのは紀伊半島の大峰山脈で、東北では羽黒山・月山、関東では日光、丹沢、中部地方の富士山、九州では英彦山など、調査研究も進んでいる。ただし、この登山文化は明治5年(1872)の修験道廃止令で一旦は途絶えることになった。 日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。 ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある。 同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている。 1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻り役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った。 文化13年(1816年)、小尾権三郎(延命行者)の甲斐駒ヶ岳、 文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの講中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる。 江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている。 江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、杣人や狩猟や採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる。 江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが大宮・村山口登山道から登り登頂している。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている。 明治時代(1868年 - 1912年)、1874年にガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年に槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる。 日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある。 その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる。 明治期の日本アルプスの登山では、長野県の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした。 日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い。1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。 測量や地理学的な目的での登山も行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)農商務省地質調査所の大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである。 明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した。 陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。 探検時代の後、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、大正期に大衆化した1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った。 一方、日本の登山は当時のイギリスの上流階級の趣味としての登山の受容から始まっており、戦前の登山において大学・高校の山岳部の現役・OBが大きな役割を占めるのも、彼らの多くが上流階級の子弟で経済的にも時間的にも余裕がある人々だったからだという指摘がある。登山の大衆化はこうした既存の担い手との摩擦も生じ、当時は(お金をかけて)案内人を雇って登るのがマナーと考えられていたためにタブー視されてきた単独行を行ってその草分け的存在となった加藤文太郎は、加藤自身の内向的な性格も相俟って批判の対象とされた。 登山の広がりは遭難事故の増加をもたらすことになる。登山家・作家の春日俊吉の調査によると、近代登山における記録に残る最古のものは、1891年9月に青山学院(当時は東京英和学校)の学生が友人ら2名と木曽駒ヶ岳に登山した際に雨に打たれて体力を消耗したことで下山中に死亡した事故とみられている。初期の遭難事件としては、軍隊の訓練による八甲田雪中行軍遭難事件や学校の集団登山による木曽駒ヶ岳大量遭難事故は著名であるが、前述の春日によれば記録が伝わる遭難事故は明治期には199名の犠牲者を出した八甲田山の遭難事件を除くとわずか3件6名の犠牲者に過ぎないが、大正の15年間(実質14年弱)で21件64名の犠牲者が出ているとしている。 1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった。 1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた 1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。 1936年(昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一を隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル、当時はイギリス領インド帝国内)を目標に実施され、初登頂に成功した。 1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された。 1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ、1953年(昭和28年)のエベレスト、1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュが続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した。1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた。1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった。 1966年3月26日、富山県が、全国初の登山届出条例を制定、12月1日実施。12月17日、群馬県は、谷川岳遭難防止条例を制定、1967年3月1日実施。 1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向と日本百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。羽根田治は『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)で、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでおり、このブームの始期は1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている。 2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた。 2010年前後には旧来の山岳雑誌とは異なったライト感覚の登山・アウトドア雑誌が多く創刊され、それとともに山ガールという言葉がマスコミに踊ったことにより、従来の汗臭い、泥臭い男性中心で危険な登山というイメージからの脱皮が計られるようになった。また、登山ウェアや用具なども技術革新、新素材の登場によって、よりファッショナブルで軽量な物が開発されるようになった。『ゆるキャン△』などの登山を描いた漫画もヒットした。2020年前後頃からは登山YouTuberと呼ばれる人たちがインターネット上で山行動画を公開し始めたことも、初心者の若者中心に登山需要を喚起している。これを第4次登山ブームと呼ぶべきかについてはまだ諸説ある。 一方これらの多くの若者が山岳部や山岳会などに所属しないフリーな登山活動であったため、経験の蓄積のないままランクの高い山に不用意に入ってしまうという安全上の懸念も生んでいる。また、2019年には動画配信中の富士山滑落事故が発生している。 登山は競技ではないので、技術の優劣をつけることは難しいとされる。また、同一の山やコースであっても、自然条件が異なればその難易度は異なる。従って、広い意味においての登山技術とは、十分な準備と訓練をふまえて行動計画を立案することと、自然と人間の力関係を判断していくことが基本であり、登攀・歩行・生活などの具体的な技術は2次的なものである。 目的の山を選び、期日を決め、パーティ(隊)のリーダーを決める。さらに、予算、各自の任務分担、行動予定、食料・装備などについて協議する会合をもつことにより、全ての参加者が、目的の山についての知識を得て、コースも熟知しているようになれば理想的である。 登山者が2人以上の場合には、必ずリーダーが定められる。パーティ(グループ)が大人数の場合はサブリーダーも置き、リーダーの補助をさせる。 登山にはトレーニングも必要である。筋肉を強くすることよりも、耐久力をつけることと健康の堅持に重点を置くトレーニングを平素から行うべきだとされる。 体力、山の状況、荷物の重さなどに応じて、疲労を少なくするように歩くことが重要だとされる。一定の心拍数で、足の裏全体を使ってリズミカルに歩くことを提唱する説もある。 一般的には、歩き始めて最初の20分で一度休憩し、身体・衣服・荷物を調整する。その後は40-50分ごとに10分程度の休憩をとることが普通である。地図上で位置を確認しながら歩く。パーティでの歩行は、体力的な弱者を標準とする。 多数の人々の支援を受けて、ベースキャンプから順に前進キャンプを設営しつつ物資や人員を進めてゆき、各キャンプの隊員の援助のもとに、少数の隊員が頂上に到達するという登山法。高山や、登頂までのアプローチが長い山で用いられる。登山では1922年にイギリスのエベレスト遠征隊が初めて用いた。スポーツとしての登山では、最早過去のものだが、気象状況が極めて困難な場所でのトライにわずかに使用されたり、高所へのガイド登山で使用される方法である。 登山というのは主に歩くのであり(自分で荷物を背負わなければならないので)多くの用具や食料を携行することはできない。また、登山では危険に直面することもあるので、十分な安全対策を検討したものである必要もある。「安全」「堅牢(けんろう、=丈夫であること)」「軽量」「扱いやすさ」は登山用具の必要条件である。 体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることをレイヤリング、またはレイヤードという。 登山ではできるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装が求められる。肌寒い季節を例にとると、行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じないこともあるが、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。そのまま再び行動をすると汗をかき、反って体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。このように運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。 着替えを持ち運ぶ必要があるため、特に脱ぎ着の機会が多い中間着では軽量かつ嵩張らないものが好まれる。フードがついた上着は目出し帽の代わりとなるため、防寒性能が高いとして好まれる。また、ファスナー付きの服は、ファスナーを開放することで換気(ベンチレーション)を行うことができるため行動中の体温調節に便利である。 ウルトラ・ライト・ハイキングとも。90年代後半にアメリカのレイ・ジャーダイン(Ray Jardine)によって提唱された「極限まで荷物を軽くすれば遠くへ行ける」という考え方である。 U.L.はクッカーを軽量なチタン製に換えるなど、従来から行われてきた簡単な手段の積み重ねでも実践できる。さらにU.L.を追求するものは、テントを軽量なツェルトに代えるなど快適性などを多少犠牲にしても軽量化を図ることがある。近年ではトレイルランニング向けに企画された軽量な装備を流用することもある。他にも売店があるような山では、水分を売店で買う計画を立てて登山口から持ち込む重量を減らすという手段をとるものもいる。 前述のレイヤリングを例に挙げると、ミドルレイヤーの役割である保温とアウターの役割である防風を中厚手のソフトシェル1着でまかなうケースが想定できる。この場合は対応できる温度帯が狭くなるため、急に天候や運動強度が変化した場合に対応することが難しくなる。このように反って体力を消耗することがあり得るので、ある程度の経験を積んでからU.L.を検討することが望ましい。 レクリエーションとしての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や、新陳代謝の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、森林浴(リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流や、冬山を登る際にはスキー滑走を目的としたりする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、散歩の延長で登れるような手頃な山から、踏破に3-4日かかるものまで様々な山を歩くことができる。また同じ山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というとワンダーフォーゲルや山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山(ハイキング)やトレッキングができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。 標高が高くても、中腹の高所まで鉄道やロープウェイ、路線・貸切バスで上れる山もある(立山の室堂駅、駒ヶ岳の千畳敷駅など)。 また高山や地形・気候が厳しい山への挑戦と対照的に、高さ数メートルのものを含めた低山巡りも趣味として広まりつつある。 一方で登山人口における高齢者の割合が高くなるにつれ、遭難・事故件数も増えつつある(#登山における事故参照)。また、速度を競い走る速さで登山をするトレイルランニング練習者と一般登山者の衝突事故、競技用自転車との交通事故も起きている。 国体には山岳競技があり(国民体育大会山岳競技)、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。 高校総体も、競技形式の登山を実施している。 他にも岩を登る行為を競技として行うフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングやスカイランニング等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。 ヨーロッパで盛んな山スキーも雪山を登ることから登山競技の一種である。 風景画や山岳写真、詩、歌や小説の題材とすることも登山の目的のひとつとして挙げられる。山が多く四季の表情に恵まれた日本では、山岳の美しさ、険しさ、優しさなどを心情表現として、古来からアートの対象になってきた。最近は、デジタルカメラの小型軽量化・高性能化に伴い、山岳地での写真撮影も容易なものとなっている。 古代日本において山岳信仰に発祥する修験道の場として、立山、御嶽山、甲斐駒ヶ岳など全国各地の霊山で登山が行われてきた。江戸時代に始まった富士講も、山岳信仰のひとつとして挙げられる。 江戸時代の会津や米沢では飯豊信仰に基づき、成人儀礼として飯豊山を登山することが求められた(「通過儀礼#日本における通過儀礼」および「飯豊山神社#補足」を参照)。 もともと伝統的に山で自然資源を得るための登山が存在した。たとえば東北地方に存在するマタギと呼ばれる狩猟集団が行っていたことである。今ではかなり人数が減少したが、マタギを行っている人はいる。また地元住民らが山菜やキノコを採って販売するために入山することも仕事としての登山である。山菜・キノコ採りは資源枯渇や自然環境に影響を与えるほどの量を採ることはせず、狩猟をする場合も乱獲は避けるのが望ましいとされる。 山麓から山頂まで荷物を人力で運ぶために登山する職業を歩荷(ボッカ)あるいは強力(ごうりき)といい、現在でもそれを行う人がいる。ヒマラヤ地方のシェルパという部族には、山で荷物運びを行ったり(下で説明するような)登山ガイドの仕事をして収入を得ている者が多数いる。 また、登山ガイドや登山家などもいる(登山ガイドは広義の登山家に含まれる)。 登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請け負い、山を案内して収入を得る。そのためその山に対する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となる。登山がさかんな国(例えばフランスなど)では高山ガイドの資格認定を行っている組織がある。日本では現在は、公益社団法人日本山岳ガイド協会が、ガイドの資格認定を行っている。その資格には、世界中の山を案内できる国際山岳ガイドや、里山を案内する登山ガイドなどさまざまな資格がある。また長野県においては独自のガイド資格として信州登山案内人の資格を策定している。。 また、あまり数は多くないが、著名な登山家の一部は、8000m級の山を単独で登ったり無酸素登攀したりといった難しいアタックをする際、大企業やテレビ局とスポンサー契約を結び、それによって登山に必要な莫大な費用の一部もしくは大半を確保することがある。幸運にもアタックが成功した場合は企業の広告塔としてCMに出演したりすることなどによって、うまくすれば利益を得ることもある、だがアタックに失敗すると命を落としてしまったり、なんとか生還した場合でも、負傷してしまったり、スポンサー契約を失い苦境に陥ることもある。こういった登山家や山岳ガイドの中でも特に名前を知られている者は講演活動をしたり著書を出版して、生活費の足しにしたり、さらなる挑戦のための費用の一部を得る人もいる。 登山は軍事教練に利用される場合もある。1902年には青森県の八甲田山で八甲田雪中行軍遭難事件が発生した。こうした訓練を重ね、高地や急峻な地形での戦闘を得意とする山岳戦部隊を保有する国もある。 警察庁は、1961年(昭和35年)から毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめる統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、 となっている、時代によって登山をする世代が異なることを示していると考えられる。 1990年(平成2年)前後からは中高年登山ブームが起こっていて、2008年(平成20年)に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録。2009年(平成21年)に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新。遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている2008年(平成20年)の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる。朝日新聞による2010年(平成22年)の調べでは、2005年 - 2009年の7、8月の富士山への登山中に救護された人のうち、体調急変により心肺停止になった人が14人おり、うち11人が45 - 69歳である。 高度のある山は、見た目でわかる以上に平地と環境が違うので、ふだんの生活では自覚されないで隠れている持病が悪化することが考えられるという。 2009年(平成21年)夏、富士登山で高山病と診断された人が537人いるという。 また、天気の急変や高地で温度も低下するため低体温症が、動き回ることで脱水症・熱中症などが起きやすい。 登山中に上から崩れ落ちてきた石あるいは岩塊が身体に当たって死傷する事故が発生することがある。落石の発生原因は自然発生的なものもあれば、人が誤って脆い地盤を踏んで発生させてしまうものもある。 落石の時は、ラク!と叫ぶのがマナーとされるが、落石の落(ラク)か、英語での警告Rock(岩の意、ロック)!から来たものかは不明。 2014年9月27日に御嶽山が噴火して登山者に多数の死傷者を出した。この御嶽山での噴火を受けて各地で対応策の検討が行われている。山梨県の横内正明知事は御嶽山での噴火を受けて富士山でも水蒸気爆発等の突発的な事態に備え登山者にマスクやヘルメットの持参を呼び掛ける必要があるとの考えを示した。 2014年の御嶽山噴火を受け、2015年7月に活動火山対策特別措置法が改正されて新たに「登山者は、火山の噴火等が起こった際に円滑、迅速に避難できるよう、必要な手段を講じるように努めなければならない。」(第11条第2項)という規定が定められた。また、火山周辺の一部の施設については、避難確保計画の作成等が義務づけられた。 山は急に天候が変化する。遭難時が必ず悪天候とは限らないが、その多くは悪天候の時である。 登山前に天気予報の確認と登山計画を立てる。無理そうなら登山を諦める決断。レインコートなどの雨具やエマージェンシーシートなどの備えを準備する。 雷は、平地より発生しやすく、気温が上昇しやすい午後以降に起きやすいため、早朝や午前中の行動を心掛け、雷を回避する知識を身に着ける。 最も多いのが道に迷う遭難で、低い山ほど迷いやすい。事前対策として携帯電話のマップ機能を使うほか、登山届を提出し発信機を持つなどがある。また、来た道を引き返し正しいルートに戻るか、山頂や尾根を目指し下ってはいけないなどがある。 ヨーロッパ・アルプスおよびロシアでは、山のコースごとに難易度を決める試みがなされており、登山者の経験にも等級が付けられつつある。日本でも、山やルートごとに難易度を示す「グレーディング」(難易度評価)が全国に広がっている。2014年に長野県が公表し、2017年夏時点では7県の600以上のコースについてグレーディングが公表されている。 難所 (登山)(英語版) 「フラット歩行」を身に付けて、 土や岩をけったり植物を踏むような乱暴な歩き方は極力避けること。「歩かせていただきます」という謙譲な気持ちをもってローインパクトでなければならない。 近年、登山人口が増加したことによる自然に対するダメージが目立ってきている。例としては、ゴミやタバコを持ち帰らずポイ捨てする、むやみに木や枝を折る、遊歩道を歩かず、貴重な植物を踏んでしまうなどがある。これらは本来、登山者にとって守るべきマナーであるが、登山を始めたばかりの登山者の中にはそれを知らず結果的に自然や景観に影響を与えてしまうことがままある。以下に具体的な例を挙げる。 西ヨーロッパの最高峰モンブラン登山の出発点となるサンジェルベ・レ・バン(英語版)の市長は、2017年8月に「適切な装備を整えていない登山者」に対して即時罰金を科する条例を発布した。これは、連続する死亡事故を受けての措置である。 2023年5月31日、インドネシアのバリ州知事ワヤン・コスター(英語版)は観光客の相次ぐ迷惑行為を受けて、「山々は聖なる存在として崇拝されている。その神聖さが損なわれれば、それはバリの神聖さをおとしめるに等しい」と述べ、バリ州にある22山の登山客の登山、宗教儀式や災害対処などの理由のない地元住民の登山を無期限禁止とした。 日本では、富士山への休憩なし、装備なしの弾丸登山に対して、多くの自治体などが警戒しており、場合によっては登山制限などの検討を行っている。 登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。 学校または職場単位で結成される山岳会は部活動として特に山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部などと称する。 1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である日本山岳会が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・日本山岳・スポーツクライミング協会)と勤労者山岳会(現・日本勤労者山岳連盟)のような統括団体が生まれた。 山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは山小屋の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ。 1965年にイタリア、フランス、オーストリア、スイスの山岳ガイド協会の会議が行われ、国際山岳ガイド連盟(英語版)が設立された。 日本の山岳ガイドは、古くは強力(ごうりき)が行っていた。1934年ごろの富士山表口強力案内組合には100名を超える強力が加盟していた。1990年に日本山岳ガイド連盟が設立され、翌1991年に国際山岳ガイド連盟に加入した。2003年に日本山岳ガイド連盟と日本アルパイン・ガイド協会は合併し日本山岳ガイド協会に改組した。 フランス、スイス、オーストリア、ロシア、インドなどに登山学校があり、指導者養成と研修が行われている。日本では立山に国立登山研修所があるほか、神奈川県、長野県、兵庫県に県立の登山学校がある。 山岳事故を防止・救難するための情報提供を行ったり、警察・消防などの公的機関に協力して救助活動を行う団体である。山岳遭難防止対策協会、山岳遭難防止対策協議会など地域によって名称に若干の差異があるが活動内容はほぼ同一である。1964年以降国立登山研修所とスポーツ庁等が全国山岳遭難対策協議会を毎年開催している。 また、1992年に東京都山岳連盟の提唱により日本山岳レスキュー協議会が設立され、遭難救助に関する情報交換を行っている。 山を対象にした画・写真などの作家団体が存在する。山全般を対象にする団体や、富士山など特定の山や地域を対象にする団体がある。 登山用品は多岐にわたるため、登山用品に限っても多くの総合・専門メーカーが存在する。 また、登山専門を謳わないアウトドア用品メーカーや総合スポーツ用品メーカー、一般の衣類メーカーなどでも登山に使用できる用品を作成・販売している。 総合スポーツ用品店を含む登山用品販売店では、登山学校と称して登山知識や技術の講習会を実施していることがある。 この他に登山に関連するビジネスとしては、登山客の輸送・宿泊を担う交通・旅行会社や旅館・ホテル・山小屋などの観光産業、ヤマレコのようなインターネットでの登山情報の提供、登山地図や雑誌の出版社などがある。 季語としての登山(とざん)は、夏の季語(晩夏の季語)である。分類は行事/人事。季語の世界では「登山」は「山に登ること」全般を指す。 「登山」を親季語とする子季語は、以下のとおり、かなり多い。山登り(やまのぼり。山に登ること。登山)、登山宿(とざんやど。登山者のための宿)、登山小屋(とざんごや。登山者のための小屋)、山小屋(やまごや)、登山口(とざんぐち。山の登りくち)、登山杖(とざんずえ。登山のときに使用する杖)、登山笠(とざんがさ。登山のときに使用する笠)、登山帽(とざんぼう。登山のときに使用する帽子)、登山馬(とざんうま。山登り用の馬)、登山電車(とざんでんしゃ。登山用の鉄道)、登山地図(とざんちず。登山するための地図)、ザイル、寝袋(ねぶくろ)。 関連季語として歳時記に記載されていないものの、関連性のある季語としては、夏の山(なつのやま。三夏の季語。分類は地理)とその子季語(夏山〈なつやま。夏の青葉が繁った山〉、夏嶺〈かれい。夏山と同義〉、青嶺〈あおね、歴史的仮名遣:あをね。夏山と同義〉、夏山路〈なつやまじ。草木の生い繁った夏の山路〉、夏山家〈なつやまが。草木の生い繁る夏の山中の家〉、青き嶺〈あおきみね。夏の山〉、山滴る〈やましたたる〉、滴る山〈したたる山。五月山[さつきやま。陰暦5月ごろの緑の多い山]の異称〉、翠巒〈すいらん。緑色に連なる山々〉)を始め、ケルン(山頂や山道に道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの。登山で亡くなった人を哀悼する記念碑もある。晩夏の季語。分類は人事)、積石(つみいし。ケルンと同義で子季語)、冬登山(ふゆとざん。冬山の登山。危険を伴ない、遭難者も多い。冬の季語。分類は地理)を挙げることができる。登山靴(とざんぐつ)を挙げる場合もある。 登山に限らず、いわゆる山岳小説と呼ばれるジャンルである。
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KHTML
KHTML(ケーエイチティーエムエル)は、 KDEプロジェクトにより開発されているHTMLレンダリングエンジンである。KDEのウェブブラウザであるKonquerorのために開発された。 KPartフレームワークのもとで開発され、C++で実装されている。HTML 4.01、CSSレベル1およびレベル2、DOMレベル1およびレベル2、レベル3の一部、ECMAScriptをサポートする。CSSに関してはAcid2テストをクリアする実装が施されている。ウェブ標準をサポートするように開発されているほか、できる限り多くのページをレンダリングできるよう、マイクロソフトによるInternet Explorerのいくつかの非標準な機能をサポートしている。 KHTMLはソフトウェアの構成要素として単独利用することが可能であり、後にAppleが自社のmacOSに搭載するために作ったウェブブラウザSafariではこれに手を加えたWebKitが使用されている。 KHTMLを搭載するブラウザはあまり知られておらず、多くのウェブサイトはKHTMLのサポートを行わないか、もしくはKonquerorにてサイトが正確に動作するにもかかわらずサポートしていない。例えば、GmailはKonquerorが自身をFirefoxであると報告しない限り、正常に動作しない。
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年(ねん、とし、英: year)は、時間の単位の一つであり、春・夏・秋・冬、あるいは雨季・乾季という季節のめぐりが1年である。元来は春分点を基準に太陽が天球を一巡する周期であり、平均して約365.242 189日(2015年時点)である(太陽年)。 1年の長さを暦によって定義する方法が暦法であり、現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦(現行暦)では、1年を365日とするが、1年を366日とする閏年を400年間に97回設けることによって、1年の平均日数を365.2425日とする。 なお、天文学における時間の計量の単位としての「年」には通常、ユリウス年を用いる。ユリウス年は正確に31 557 600秒=365.25 d(d = 86 400秒)である(後述)。 年は、時刻を表示する区分であり、また、年数を表す単位ともなる。これは英語 の year も同様で、「4 years old」(4歳)や「per year」(1年あたり)という時間を表すとともに、「year 1950」(1950年)や「the years of 」(-の年・-の時代)というように特定の時刻を示す際にも使われる。 暦法に従い時刻の「年」を表す方法が紀年法であり、キリスト紀元(西暦)をはじめとするさまざまな紀年法が使用されている(後述)。 「年」は天文学においては、ユリウス年以外は、計量的な用途には馴染まない。その理由は、たとえば、現行のグレゴリオ暦では、閏年があるために、1年が365日または366日となって日数(または秒数)が一定ではないためである。さらに地球の自転と時刻を合わせるために閏秒による補正も行われているからである。 天文学で用いるユリウス年は、正確に365.25 日(ユリウス暦における1年の日数)であり、したがって正確に31 557 600 秒( = 3600 秒 × 24 時間 × 365.25 日)である。 年は、時間を示すおおまかな単位としては一般に認められている。これは人間を取り巻く環境や生活がもたらす周期性を重視し、それから受ける感覚を尊重していることに由来する。このような累積する時間(秒)と繰り返す時間(年)の共存は、単位の柔軟性と多様性を示す一例に当たる。 日本語で「とし」とは、「稲」や穀物を語源とし、1年周期で稲作を行なっていたため「年」の意味で使われるようになったという。ちなみに、漢字の「年」は禾に粘りの意味を含む人の符を加え、穀物が成熟するまでの周期を表現した。 地球上で生活する上で、1年の長さとは春夏秋冬という季節が一巡する期間を指す。そしてこれは、地上から見た太陽の高さと日照時間の変化でもたらされる。太陽は、天の赤道から約23.44度傾いた黄道を通っている。春分と秋分の際に天の赤道と黄道は重なるが、夏には天の赤道よりも最大約23.44度高い位置を太陽が通り、冬には逆に最大約23.44度低い位置を通る。これに伴い日照時間も変化し、昼夜は春分と秋分ではほぼ同じ、夏には昼が長く冬には短くなる。太陽の高さは日光の入射角を決め、夏の時期には高くなり地表の単位面積当たりのエネルギー量が多くなる。また夏には日照時間が延びることもエネルギーを増やす。冬にはこれらが逆に働き、結果として季節ができる。 この季節の一巡は、天文学的には春分から次の春分までを指し、これは太陽年(回帰年)と呼ばれる。この見た目の太陽運行は、太陽を公転する地球の自転軸(地軸)が公転面に対して約23.44度傾いているために生じる。これは赤道傾斜角と言われる。地球が、太陽が春分点にある位置から太陽周回軌道(公転軌道)をほぼ1周すると、太陽に対するこの傾いた地軸が同じ位置になり、ふたたび春分点に太陽が来る。これが季節の一巡となる。 しかし、地球の自転軸や公転時間は一定していない。傾いた地球自転軸は、コマが触れるようにその方向を変え、そのため春分点が1年あたり約50秒ずつ東へ移動している。これは歳差運動と呼ばれる。そのため、実は春分点への回帰を根拠とする太陽年では地球の公転上の位置が一定しておらず、1年で地球の公転方向と逆に角度約50秒(公転時間約マイナス20分)ずつずれてゆく。これは地球上では、年々ずれる春分点と、遠い距離の恒星がつくる星座の位置が変わってゆく現象として観察される。地球が正確に公転軌道を360度回転した「年」は、この恒星(慣性系)を基準にその位置が回帰した時間として定められ、これは恒星年と呼ばれる。 基本的な天文学における1年を決める地球の公転はケプラーの法則に従う楕円軌道で定義され、歳差運動も一定ならば太陽年や恒星年に変化は生じないと思われる。しかし、ケプラーの法則は2つの天体についての運動をニュートン力学で解いたものであり、ここに第3の天体が加わると計算が非常に複雑となり、事実上近似値しか求められなくなる。このような他天体の影響による軌道の乱れは摂動と呼ばれる。サイモン・ニューカムはこれら摂動の影響を短い周期(短周期項)とゆっくりした周期(詳しくは長周期項と長年項)に分け、それらが断続的にケプラー運動の初期値に影響を与えると述べた。そして、この摂動によって地球の公転軌道は徐々に離心率が小さくなり恒星年が短くなると説明された。さらに摂動は自転軸の章動を起こし、公転速度に乱れを生じさせ恒星年に影響を与える。 また、公転軌道そのものも一定ではない。楕円の公転軌道も他惑星からの摂動によって回転しており、地球の近日点は1年で地球の公転方向側に角度約11秒ずつ(公転時間約4分)ずれてゆく。近日点通過後次に近日点の位置に地球がくるまでの時間を「近点年」(平均約365.25964日 )というが、この年は恒星年よりも約4分長い。 一方、「年」を地球の自転によって決まる「日」で定義する場合、この自転そのものが段々と減速している事も知られている。摂動や潮汐などの影響と考えられているが、古代の日食記録やサンゴ組織の「日」単位の粗密(日輪)の調査などから約5億年前の1日は短かったことが判明しており、当時の1年は約400日だったと考えられる。 初期の人類が時間を認識する基礎は、季節の観念だったと考えられる。これは狩猟採集社会において獲物や収穫を左右する要因に大きく影響を及ぼしたからである。ただしその当時どこまで厳密な「年」の概念を持っていたかは定かでない。イギリスにある新石器時代の遺跡ストーンヘンジは一種の天体観測台であり、夏至や冬至の時期を知るカレンダーの機能を持っていたと考えられる 日次を認識する際、天体の月が相(満ち欠け)を起こす様子は便利だった。そこから新月から次の新月までの周期である1朔望月(約29.53日)を基礎に置いた暦である太陰暦が発達した。この暦では、平均朔望月(約29.53059日)から1か月を29または30日とし、その12倍(太陰年=約354.36708日)を暦年と定めたが、季節の循環と毎年10日ほどのずれが生じることになった。この暦は遊牧民族や漁撈中心の社会に適し、地域では古代メソポタミア、エジプト、ギリシア、中国で発達した。現代でもイスラムで使われるヒジュラ暦は太陰暦であり、1年は354または355日となる。 しかし太陰暦は季節の期とのずれが激しく、気候変化に根付いた時間感覚との違和感が大きく農耕民族にとっては使いにくい。古代ギリシアの数学者メトンは、19太陽年と235朔望月にほぼ合うことを見つけ、太陰暦の19年に7度追加の月(閏月)を挿入するメトン周期を発案した。これによると、1年は平均して365.263日となる。この周期はバビロニアや中国でも独自に発見され、太陽年と太陰暦を置閏法で調整し特定の年を13か月とする太陰太陽暦が発達した。 地球の公転を基礎に置く太陽暦を発達させた古代文明にエジプトがある。この地で発達した根底には一定の期間で発生するナイル川の洪水があった。これを基準に季節を3つの期に分け、アケト(洪水)、ペロイェト(芽生え)、ショム(欠乏)と呼んでいた。この期がそれぞれ4朔望月とほぼ一致することから、当初はエジプトでも太陰暦が用いられていた。ところが彼らは、洪水が起こり始める夏の時期には太陽が昇る直前の東の空にシリウスが輝くという天文現象に気づいた。エジプト人はシリウスを神ソプデトと崇め、夏至を基準とする暦法を作り出した。当初、これは朔望月を基準に3年に1度閏月を加える1年を354日とする「太陰星暦」とも呼べる暦法だったが、紀元前2700年ごろに1か月を30日とし別に5日の祭日を設けた1年を365日とするシリウス暦に改められた。この30日の12倍に余りの5日を1年とする暦法は古代エチオピアや古代インドのパーシ教徒でも用いられた。古代エジプトでは、やがてシリウス(恒星)と太陽の運行には若干の差がある事が認識され、プトレマイオス3世治世時に4年に1度閏日を加え、1年を平均365.25日とする暦法が制定された。 共和政ローマの実権を握ったガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前46年に1年を平均365.25日とするエジプトの太陽暦を導入した。彼の死後、一時混乱して閏年を3年に1度とする平均365.3333日の運用もなされたが、紀元8年にアウグストゥスが修正を施し平均365.25日へ戻された。ローマ帝国の拡大に伴い、ユリウス暦はヨーロッパのほぼ全土・アフリカ北部から中近東に至る広い地域で用いられた。このユリウス暦でも1年当たり約11分14秒長かったため、やがて春分日との誤差が顕著になった。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によって400年間に97回の閏年を設けるグレゴリオ暦へ改暦され、1年は365.2425日となった。この年単位は当初はカトリック諸国のみの採用に留まっていた。しかし暦として優れている点が徐々に認められ、プロテスタント諸国には18世紀以降、ギリシア正教諸国も19世紀には、非キリスト教国では1873年の日本 を皮切りに、20世紀中には世界中のほとんどの国が採用する西暦(世界標準暦)として用いられるようになった。 メソアメリカ文明では、エジプトとは独立に太陽暦を確立していた。メソアメリカには20日の月が18と5日の余日から構成される365日を1年とする暦と、13日の数字による周期と20日の日名による周期が別々に動き、260日で元に戻る宗教暦が用いられた。 天文学では計量の単位としての「年」として、1年を正確に365.25日とするユリウス年を用いる。したがって、1ユリウス年は、国際単位系における31 557 600秒(正確に)と定義されている。 日付(年月日)と日数が、改暦による時期やそれぞれの地域によって統一されていないことから生じるさまざまな不具合に対して考案された基準がユリウス通日(または、「ユリウス日」)である。 ユリウス通日は、紀元前4713年1月1日(または、-4712年1月1日)の正午を起点とした通日である。1582年に実施されたユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦によって、さまざまな混乱が生じることを懸念して、スカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ(英語版))(1540年-1609年)が考案した。 10年を「十年紀」(decade)、1000年を「千年紀」(ミレニアム)と呼ぶ。また、100年を「世紀」と言うが、これは西暦元年から100年刻みの時代区分を指す。 1年の半分の6か月のことを「半年(はんとし、はんねん)」という。また、会計年度などで一つの年度を6か月ずつの半期に分けて、前の半期(前期)を「上半期(かみはんき)」、後の半期(後期)を「下半期(しもはんき)」ともいう。さらに、1年を3か月単位の4分の1に分けたものを「四半期(しはんき)」(クォーター、英語:quarter)といい、年や年度の初めから順に第1四半期・第2四半期・第3四半期・第4四半期と呼ぶ。英語圏では "Q1,Q2,Q3,Q4" と略す。 天文学・地質学・古生物学などでは、以下のような単位が使用される。 これらはそれぞれ「キロ年」「メガ年」「ギガ年」の意味だが、日本語では接頭語も訳して呼ぶ。 地殻変動など非常に遅い速度を表すのに、「ミリメートル毎年」(mm/y, mm/yr)、「センチメートル毎年」(cm/y, cm/yr)が使われる。資源などの産出量は「トン毎年」(t/y, t/yr)などが使われるが、年当たりなのは自明とみなし単にトンなどと表すことが多い。他にもさまざまな量が年当たりで算出されるが、毎年は省略することが多い。 ユリウス年を使って定義される長さの単位に「光年」(ly)がある。これは光速度とユリウス年との積に等しい。1光年は正確に 9 460 730 472 580 800 m である。 紀年法には、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく紀元、君主や統治者、その他さまざまな制限によって期限を区切られる元号、一定の期間で循環する周期によって年を表わす方法が存在する。周期による紀年法の例としては、古代ギリシアにおけるオリンピアード(オリンピア紀元)や、干支などが挙げられる。 現代においてはキリスト紀元(西暦)が最も多くの国で使われていて、国際標準化機構のISO 8601ではアラビア数字4桁で表記するよう定められている。また、西暦と独自の紀年法を併記する場合がある。新聞を例に取ると、例えば日本では西暦2020年に対して、元号を用いる「令和2年」。ほかのアジア諸国では、中華民国(台湾)では「民国109年」(聯合報)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「主体109年」(コリアンニュース)、大韓民国(韓国)では「檀君紀元4353年」(朝鮮日報)、イスラム教国でもエジプト(アル・アハラム)やブルネイ(ブリタブルネイ)を例に取ると「ヒジュラ太陰暦1442年」が併記される。 現在の一年の始まり(年初・歳首)は元日(1月1日)であるが、これには天文学的または宗教・思想的な意味は無い。グレゴリオ暦の基礎となったローマ暦では、紀元前735年に始まった当初、一年の始まりを現在の3月 (Martius) 初日に置いていた。後にガイウス・ユリウス・カエサル(ユリウス・シーザー)がエジプトから導入した太陽暦へ切り替えた紀元前47年に、冬至に近かった 1月 (Januarius) の初日を一年の始まりと改めたことが現在まで引き継がれている。日本語では暦月名は一月、二月、と序数で数え上げるが、西洋の暦の暦月名はそうではない。巡回する12の固有な名前の「どれが年初か」は必ずしも自明ではなく、Martiusを年初の暦月とするか、Januariusを年初の暦月とするかは自由度があるのである(これは曜日を数で数えない言語で「週」が日曜から始まるか月曜から始まるか議論があるのと似ている)。 しかし、文化圏や民族によって一年の始まりは様々であった。温帯地方では太陽運行上の節目に当る冬至や春分、または夏至(エジプトなど)、秋分(ユダヤ暦)を年初と置いていた。シュメールでは各都市ごとに暦が統一されていなかったため、年初も春分が多かったものの、夏至や秋分を年初とする都市も存在し、春分近くを年初とする暦に統一されたのはバビロン第1王朝の時代だった。古代ギリシア暦においても都市間で年初が異なることは同様であり、アテナイでは夏至基準、スパルタでは秋分を基準としていずれも次の新月を年初とした。農業中心の社会ではローマ暦のように春を年初とみなす場合が多かった。他の太陽暦でも、現在の9月11-12日を年初とするエチオピア暦、8月26日から始まったパーシ暦、現在の9月22-24日を年初としたフランス革命暦(1793年11月24日~1805年12月31日、元日に相当する日はヴァンデミエール(葡萄月)1日)もあった。中国においても春秋戦国時代には周が冬至、楚が立冬、魏が立春を正月とするなど各国によってバラバラであったが、立春を年初とした秦が中国を統一し、漢の時代には立春を年初の基準とすることが定着した。 中世ヨーロッパでは、基本的にユリウス暦を用いながらも、年初は地域によってばらばらだった。それらは主にキリスト教にとって重要な日を選び、イエス・キリスト生誕日であるクリスマスの12月25日、受胎告知の3月25日、そしてキリスト教で最も重視され太陽暦では固定できなかった復活祭。1月1日を主の割礼祭として年初に据えることもあったが、一般的ではなかった。 1564年にフランスのシャルル9世が、年初を冬至に近い1月1日へ固定した。当初これには国内の反発があったが3年後には議会で採択され正式に発令され、さらにこれは1582年のグレゴリオ暦採用時にも再度定められた。しかしこの定めはキリスト教圏にすぐに広がったわけではなく、例えばイギリスが1月1日を年初としたのは1752年であった。 歴史学や天文学などにおいて、何かしらの概念に基づく長大な時間に対し固有名詞をつけて「何々年」と呼ぶ場合がある。古代ギリシアの哲学者プラトンは歴史とは循環するものと考え、『テアイテトス』にて、その周期を36,000年と試算した。36,000は「完全数」の名で呼ばれ、これは「プラトン大年(magnus Platonicus annus)」「大年(great year)」「プラトン年 (Platonic Year)」「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」と呼ばれ、地球を回る8天体(太陽と7惑星)が元の位置に戻るのに要する時間をいい、宇宙の更新が行われる聖なる周期と考えられていた。 現代では、歳差運動によって春分点が移動して一周する約26,000年に対し、「大年(great year)」 の名が与えられている。さらに、太陽系が秒速200kmの速度で銀河系を一周する期間である約2億年も、銀河年 (Galactic year) という名称で呼ばれる。 年が地球の公転周期を基礎にしていることから転じ、他の惑星の公転周期についても「年」という表記が使われる。例えば「水星年」、「火星の一年」などである。このような用語を使う際、混同を避けるために地球の1年は「地球年」 (earth year) とも呼ばれる。 ガウス年(英語版) : 2π / k = 約365.256 898日。k はガウス引力定数で k = 0.017 202 098 95(定義値)。かつては天文単位の換算などに使われた。現在では(2012年8月以降)天文単位はガウス引力定数とは関係なく、正確に149 597 870 700 m と定義されている。
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3,630
アプリケーションソフトウェア
アプリケーションソフトウェア(英: application software)あるいはアプリケーションソフト(最近は英語では極端に略すとapp(s)アップ)は、ある特定の機能や目的のために開発・使用されるソフトウェアで、コンピュータの操作自体のためのものではないもの。たとえば、ワープロソフト、表計算ソフトウェア、イラスト作成(お絵かき)用ソフトウェア、写真加工用ソフトウェアなど。アプリケーションプログラム(応用プログラム)ともいい、コンピュータ・プログラムの一種である。 アプリケーションと(2番目の語を省略して)も呼ばれ。「アプリケーション」は「応用」という意味なので日本語では「応用ソフト」とも呼ぶ(が、最近は「応用ソフト」と呼ばれることは減った)。日本語ではアプリとも略される。「アプリ」という略称の用例は1980年代から存在する。マイクロソフトもWindows 10あたりから、アプリケーションソフトのことをアプリと呼ぶようになった(初心者向けの説明書や宣伝パンフなどの場合)。 アプリケーション・ソフトウェアという用語・概念と対比されている用語・概念というのは「システムソフトウェア」であり、システムソフトウェアのほうは、計算機のきわめて基本的な機能や資源を管理・提供する役割のソフトウェアであり、譬えて言えば「裏方的な存在」である。 アプリケーションソフトウェアの例としては、たとえば一般的な事務所(オフィス)での基本的な事務作業を支援する分野では、ワープロソフト、表計算ソフト、プレゼンテーションソフトウェア(会議資料作成)、データベース管理システム (DBMS) などが挙げられ、その他の分野では、映像・音声などを再生するためのメディアプレーヤー、ペイントソフト、画像編集ソフトウェア、動画編集ソフトウェア、ゲームソフト...と、現在では網羅的に列挙することは困難なくらい膨大な種類のアプリケーション・ソフトウェアがある。特にスマートフォン(という電話機能も持った携帯可能なコンピュータ)が登場し、スマートフォン上で動くアプリが流通するようになってからは、数(個々のソフトウェアの数、本数、個数)もジャンルの数も爆発的に増えてきており、最初はそれぞれ数百個程度の数で始まったのに、2020年時点で、Android上で動きGoogle Play Storeで流通しているアプリは約256万(個、種)、iPhone上で動くアプリは約185万(個、種)という状況である。ジャンルも、個人が仕事抜きで、きわめて私的に使うようなものの比率が圧倒的に増えてきている。→#モバイルアプリケーション (アプリケーションソフトウェアの能力はさまざまであり)テキストを操作するアプリケーションもあれば、数式、グラフィックス、あるいはこれらの組合せを操作するアプリケーションもある。ワードプロセッサのように特定の作業に特化することで強力な計算能力を提供するものもあれば、個々の作業をこなす能力は低くても、いくつかのアプリケーションを統合したソフトウェアもある。 組み込みシステムやデジタル腕時計、簡易的なゲーム機などでは、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアは利用者から見て区別できない場合がある。例えば、ビデオテープレコーダ、DVDプレイヤー、電子レンジなどの制御は、アプリケーションソフトウェアとシステムソフトウェアの組み合わせによって実現されることがあるが、そのような機器内部の組み合わせは、利用者には区別することができない。また、アプリケーションとシステムソフトウェアを分けずに作成されている場合も有る。 なお、世の中の多くの人が共通的に利用できるものとして、汎用化して売り出したものをパッケージソフトウェアと呼ぶ。会計処理や給与計算、製造業・小売業などの多くの分野に対して、業務用や会計用、人事や査定用のパッケージソフトウェアが販売されている。 近年のパッケージソフトウェアには、Jakarta EEとApache Strutsを利用した、ウェブアプリケーションサーバ上で稼働するものがある。2000年代初期より、iアプリなど、携帯電話上で動くアプリケーションソフトウェアも登場した。 アプリケーション・ソフトウェアの制作(開発)というのは、近年では一般に統合開発環境を使って行われている。このアプリケーションを作成するソフトウェアもアプリケーションの一種でもある。→#アプリケーションソフトウェアの制作 オペレーティングシステム(OS)などのシステムソフトウェアとアプリケーションソフトウェアの境界は様々であり、OSの製造者によって異なる。利用者の間でも境界をどう見なすか判断が分かれることがあり、自分が利用しているOSの製造者と同じ考えを採ろうとする人もいるが、OSの製造者ごとに見解が異なるので人々の間でも見解が異なるという結果になり、またOSのインストールパッケージに含まれる物をアプリケーションとするのかしないのか、小規模なソフトウェアもアプリケーションとするのかしないのか、シェルをアプリケーションとするのかしないのか、などは、しばしば議論の元となる。 コンテンツは広義には全ての具体化されたソフトウェアを含むことがあるが、アプリケーションソフトウェアと対比される場合には、該当ソフトウェアが作製、編集、出力、管理する対象物を指す。多くはコンテンツ自体がデジタルデータである。例えば、画像処理ソフトウェアはアプリケーションソフトウェアであり、作製・編集されたデジタル画像をコンテンツと称する。 該当ソフトウェアがコンテンツと称し、実行ファイル形式で出力する場合もある。また、開発環境と呼ばれるアプリケーションからはコンテンツとしてアプリケーション(実行ファイル)が出力される。 さまざまな分類法がある。 たとえばコンピュータなどの種類で分類して、スーパーコンピュータ用 / メインフレーム用 / 汎用PC用(Windows用 / Macintosh用) / スマートフォン・タブレット用 (Android用 / iOS用) / 携帯電話(フィーチャーフォン)用...などと分類する方法がある。 目的とする機能や仕事の大まかな分類にもとづいて以下のような分類が行われることもある。 おおまかに見れば以上のような分類があるわけだが、細かく見てゆけば、この世で行われている仕事の種類や、タスクの種類、あるいは(特にスマートフォンやタブレット向けのアプリケーション開発が活発化してからは)一般的な仕事上の必要性だけでなく、個々人の趣味や興味の種類の数に対応するほどの、膨大な種類のアプリケーションが日々作られているような状況になっている。 まず、最近特に台数が圧倒的に増え、アプリケーションの数も他の種類のコンピュータよりも圧倒的に増えてきており、その開発に従事しているエンジニアの人数もすでに他種のアプリケーションを圧倒する状態になっている、スマートフォンやタブレット用のアプリケーションから解説することにする。 近年のスマホでは、購入時に、数十ほどのアプリケーションソフトウェアがあらかじめインストールされている(プリインストール)状態になっている。たとえば今仮に、Androidスマートフォンのうちシャープ製でソフトバンクから販売されているものを例にとると、以下のような状態である。 これでも実際のリストのまだ一部にすぎないが、ともかくこのように、スマートフォンのアプリでは、1980年代や1990年代にアプリケーションソフトウェアを分類していた時の、オーソドックスな(古臭い)カテゴリ枠ではもはや簡単に分類することができないような種類のアプリケーションが多数出現してきている。 さらにAndroidフォンだと、Google Play Storeに掲載されている250万種類以上のアプリケーションから自由に選んで、ダウンロードおよびインストールして使うことができる。しかも、一部に広告が少し表示されることを我慢すれば、ほとんどが無料である。開発者によっては、広告表示も一切無しで、アプリケーションを無料で人々に公開している。 携帯電話(フィーチャーフォン)用のアプリは携帯アプリと呼ばれていた。 コンテンツ開発ソフトウェア (contents development software) とは、他者に発信するための印刷コンテンツや電子コンテンツを制作するためのソフトウェア。グラフィックアート、電子出版、マルチメディア開発などが含まれる。 コンテンツ・アクセス・ソフトウェア (contents access software) は、基本的には編集することなくコンテンツにアクセスするソフトウェアだが、コンテンツ編集機能を持つ場合もある。デジタルエンターテイメントの消費を目的としたり、デジタルコンテンツを出版するのに使われることもある。 教育ソフトウェア (educational software) は、コンテンツアクセスと似ているが、教材を提示するだけでなくテストを課すことで学習状況を管理する点が特徴的である。また、グループウェア的要素を持つことが多い。 複数のアプリケーションがひとまとまりにされたもの、一種のパッケージに同梱されたような状態になったものを、アプリケーションスイート (application suite) と呼ぶことがある。例としては、ワードプロセッサや表計算ソフトなどを同梱した、Microsoft OfficeとOpenOffice.orgが挙げられる。スイート内の各アプリケーションの特徴としては、操作のユーザインタフェースに一貫性があり、表計算ソフトで作成したスプレッドシートをワードプロセッサの文書内に埋め込むなど、相互のデータのやりとりが考慮されていることが挙げられる。 インフォメーション・ワーカー・ソフトウェア (information worker software) とは、組織内の個々のプロジェクトで、個人が情報を生成し管理するニーズに対応したソフトウェア。例えば、時間管理、資源管理、ドキュメンテーションツール、解析ツール、グループウェアなどがある。ワードプロセッサ、表計算ソフト、電子メールクライアントやブログクライアント、個人情報管理システム、各種メディアエディタなどは、様々なインフォメーションワーカーの仕事で使われる。 企業ソフトウェア (enterprise software) は、組織のプロセスやデータフローのニーズに対応したもので、大規模な分散環境であることが多い。例えば、財務管理、顧客関係管理 (CRM)、サプライチェーン・マネジメント (SCM) などがある。部門ソフトウェア (departmental software) は企業ソフトウェアの一種であり、大きな組織内のより小さな部分を扱う。例えば、出張旅費管理、ITヘルプデスクなどがそれに当たる。 企業基盤ソフトウェア (enterprise infrastructure software) とは、企業ソフトウェアシステムをサポートするために必要な共通機能を提供するものを指す。例えば、データベース、メールサーバ、ネットワーク管理、セキュリティ管理などがある。 シミュレーションソフトウェア(英語版) は、シミュレーションするためのソフトウェア。使用目的は多種多様であり、予報、予測、研究、訓練、娯楽など。航空工学での航空機の流体力学的分析、天体物理学での利用(たとえば個々の惑星や小惑星の動きの予測や過去の位置の再現、銀河の回転のシミュレーション)、気象予報全般(たとえば天候、雨雲位置の予測、気温・風向の予報 等々等々)、気象現象の予測、気候変動の長期予測・研究(たとえばCO2の放出量に応じた気温上昇の具体的な数値の算出など)、応用化学、製薬、マクロ経済やミクロ経済の予測、交通量の予測、感染症が社会や集団に属する人々の間で相互に感染してゆく過程や程度の予測...等々、現代では数えきれないほどのシミュレーションが行われている。たとえばここ数十年の精度の高い気象予報というのは、スーパーコンピューター上で走るシミュレーションソフトウェアの上で、架空の大気空間と地表などを(数億マスなど)多数のマス目で区切り、各マスの気温、気圧、水蒸気量、風向、風の強さ、日照...等々に関するデータを設定し、その膨大な量のデータに対して膨大な量の演算を高速に行い、各マス内の変化と周辺のマス目への影響など、相互作用を、細かい時間に分割して計算することで実現できている。1950年代や1960年代のようにコンピュータシミュレーション抜きの手法、つまりわずかなデータを用いて人の頭脳で大まかな推論や経験や勘で行っては、優秀な予報官ですら、気象予報のおよそ数割から半分強ほどがハズレになってしまう。 現代では、各分野ごとに、さまざまなシミュレーションソフトウェアが開発されている。具体的なシミュレーション・ソフトウェアについてはen:List of computer simulation software(英語版の一覧)が参照可であり、各ソフトの特徴や使用分野も分かる。シミュレーションソフトの英語版の記事も読め、(日本語版があるソフトウェアならば)日本語版の記事へとリンクも張られているものもある。 なお訓練目的のシミュレーションソフトウェアなどもある(フライトシミュレーション、ドライビングシミュレーターなど) またゲーム形式に仕立てたシミュレーションゲームもPlayStationなど市販のゲームコンソールやPCなどで動くので、ゲーム愛好者(ゲーマー)たちにさかんに利用されている。 エンジニアリングソフトウェア (engineering software) は、各種製品開発に使われる。 英語:Management software は、各種管理(マネジメント)に使われる。 近年では一般に、アプリケーションソフトウェアは統合開発環境(IDE)を使って制作(開発)されている。IDEというのは、プログラマがソースコードを記述する「エディタ」、ソースコードから実行プログラムを生成する「コンパイラ」、コードの不具合を発見・修正するための「デバッガ」など、プログラム開発のためのソフトウェア群(ツール群)をひとまとめにしたもののことである。 無料のものもあり、有料のものもある。複数のプラットフォーム向けに使えるIDEもある。特定のプラットフォーム専用のものもある。 ものすごく原始的で単純な(少ない文字数、バイト数の)ソフトウェアならば、テキストエディタ(と、PCなどにインストールされた素朴なコンパイラ)だけでも書くことは一応でき、コンピュータの歴史の初期にはそうしたやりかたが行われることは多々あったわけで、今日でも初心者に対するプログラミング講習の「最初の一歩」だけは、あえてそうした段階を一度踏ませることでコンピュータ内部で行われていることの現実を初心者にも理解してもらうという手順がとられることも多いが、今日では、その次の段階以降の「アプリケーション・ソフトウェア」と呼ぶにふさわしいくらいの機能を持ったソフトウェアを制作する場合は、基本的に統合開発環境を使って制作するものだと考えてよい。 WindowsやMac,Linuxなど一般的なファイルからOSに読み込まれ実行される形式のOSであれば、上記開発環境で作成されたファイルを実行できる。 Androidアプリ、つまりAndroid上で動くアプリの開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。 開発に使われるプログラミング言語は、主にJavaやPythonなど。 iOS上で動くアプリの開発環境は、 開発に使われる言語は、Swift、Objective-Cなど。 Microsoft Windowsの上で動くアプリケーションの制作(開発)を行う開発環境としては、たとえば以下のような選択肢がある。
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マウス (コンピュータ)
マウス(英: mouse)とは、コンピュータの操作全般に用いられる入力機器の一つであり、画面上に表示された物の場所を指し示して選択するための装置(ポインティングデバイス)の一種である。キーボードとともに広く使われる。 本体を手に持って机などの平面上を移動させ、接触式ないしは非接触式のセンサで移動を検知し、2次元の縦横それぞれの移動をコンピュータへ伝える(加速度センサにより3次元の移動を感知する3Dマウスといったようなものや、絶対座標を指示するタイプのものもあるが、一般的ではない)。 マウスという呼称は、形状がネズミに似ていたことから名付けられた。 マイクロソフトが製作した試作品(本体は白色)は左右のボタン(緑色)を耳に、電線(黒色)を尾に見立ててマウスと呼んでいた。だが量産前に電線は指先側に、本体はベージュ色に変更されている。これは、ひじの下にコードが隠れる形になり、マウスを手前に引いた時にコードを予期せずに踏んでしまい、使用に不便を感じたからである。現在のマウスはメーカーに寄らず、もっぱら指先側に電線(コード)が付いている。 2.4GHz無線通信が一般解放されてからは、(Bluetoothなどの)無線によるコードレスマウス(ワイヤレスマウス、無線マウス)も普及している。 英語の複数形は生物のネズミと同じ mice とすることが多いが mouses とすることもある。 ワークステーションをはじめ、1980-90年代以降はパーソナルコンピュータのグラフィック性能も強化され、GUIが一般的になると、GUIにおける標準のポインティングデバイスとして普及した。家庭用ゲーム機では、スーパーファミコンなどにも存在し、近年はUSBインターフェースにより市販品を使用可能だが、商品の性質上ゲームパッドや周辺機器での操作しか想定されていないこともあり、対応ゲームはそう多くなく、マウスを必須とするようなゲームは家庭用ゲーム機にはほとんどない。 一般的にマウスの形状は、手全体をマウスに覆い被せるようにして持つこと(いわゆる「かぶせ持ち」)を前提としてデザインされる。人によっては手を前に出し、爪を立てるような持ち方(いわゆる「つめたて持ち」)や、手のひらを当てずに指先だけで持つ(いわゆる「つまみ持ち」)例も見られる。 オペレーティングシステムによっては、マウスの移動速度が速い場合や加速度が大きい場合に、ポインタをマウスの移動距離よりも大きく移動させる機能がある。これによって、ポインタの座標とマウスの実際の位置とは対応しなくなるが、より「動かす」感覚に近くポインタを移動できると感じるユーザーもいる。この場合、マウスはポインティングデバイスではなく、『ポインタを移動させるデバイス』として捉えられていると言えよう。また、マウス位置とポインタ座標が対応している方が、正確にポイントしやすいと感じるユーザーもいる。 マウスのボタンは、Macintoshでは1つまたは4つ、PC/AT互換機では2つから5つ、UNIXマシンでは3つのボタンがついていることが多い。このボタンを押すことをクリック、ボタンを押しっぱなしにすることをプレス、またプレスしながらマウスを動かすことをドラッグという。そうしてドラッグしたものからボタンを離すことをドロップという。ドラッグとドロップでドラッグアンドドロップ(しばしばD&DあるいはDnDと略される)ということがある。 Windows向けの場合、Windowsの標準では左ボタンはクリック(項目選択・決定)やドラッグ、右ボタンはコンテキストメニューの表示に主に使われる。1999年に発売されたマイクロソフトのIntelliMouse Explorerにはサイドボタンと呼ばれる2つのボタンが側面に搭載され、それ以降は1つまたは2つのサイドボタンを備える高機能なマウスも普及している。サイドボタンは通常ウェブブラウザ・Windows Explorer等の「戻る」「進む」機能に割り当てられるが、マウスのベンダーから提供されるドライバユーティリティを使用すれば好みの機能にカスタマイズできる場合がある。ゲーム向けの高級機種として、より多くのボタンを備えた製品もある。 ボタンだけでは充分な快適性が得られないとして、ホイール(車輪)やトラックボールが表面に付いているものもある(後に詳述)。また、特定のディジタイザ上のみで使用可能なマウス型デバイスといったものも存在する(ワコム製タブレットなど)。 1960年代にダグラス・エンゲルバートが作ったマウスはXとYの直交した2個の円板がある方式だったが、1970年代には、内蔵したボールの一部が底面に露出しているボール式が開発され主流となった。ボール式では、マウスの内部でボールに小さな縦方向と横方向の円板ないし円筒が接しており、その回転で縦横の移動を検出する。ボールのころがり(モーメント)による独特の操作感があるが、機械的な構造上ある程度の滑りは避けられず、またボールが机上の埃を巻き込んでしまい内部に蓄積するなどで定期的な分解清掃といったメンテナンスが必要なため、メンテナンスフリーの光学式(次節)が発表されてからはそちらが主流となった。 また、小中学校にパソコンが導入されて以降は生徒がマウスのボールを外して使用不能にしてしまうといういたずらが多発したため、その対策として光学式に置き換える学校もあった。また、補修用にボール単体での販売も行われていた。当初普及したマウスのボールは金属製そのままだったため、使用していると錆びると言う事態になったのである。そのため補修用ではゴムでコーティングしたボールが販売されている。 LEDなどの光源と光学センサーにより、移動を検出するマウス。1980年代から存在する方式であるが、当初は専用のマウスパッドを必要とした上に高額であったため、ワークステーションやCADといった業務用途での使用が主であった。マウスパッドが不要なタイプが普及したのは、1999年にマイクロソフトがIntelliMouse Explorerを発売して以降である。通常は、赤色LEDで可視光を底面に照射し、カメラセンサーでその動きを検出することで動作する。カメラセンサーの搭載によりマウスパッドが不要となったが、透明なガラス板や光沢面などの上では全く動作が検出できなかったり、不安定だったりする場合がある。FPSゲーム等で安定性や応答速度を求める層向けに、光学式マウスと相性の良いマウスパッドが市販されている。 光学式マウスの一種であるが、赤色LEDの代わりに、波長の長い赤外線LEDを使用している。発光を目で確認することはできないが、赤外線対応のカメラを使うと発光しているのがわかる。動作検出精度は赤色LEDの光学式とほぼ同等であるが、発光せず消費電力も少ないため赤色LED式からの置き換えが進んでいる。 2004年9月、ロジテック(ロジクール)が赤外線レーザーを使用したマウス(レーザーマウス)を発表した。精度が高く、光学式マウスが苦手としていた光沢面でも動作検出が可能となっている。数年後には比較的安価に販売されるようになったが、リフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が長く、光学式の性能が大幅に向上したため、あまり普及しなかった。2020年現在では一部の高級機に使われるにとどまっている。 2008年9月、マイクロソフトが青色LEDを使ったBlueTrackマウスを発表した。青色光は赤色光と比べて波長が短く拡散率が高いため、わずかなホコリや凹凸を検出することができる。動作検出精度が高く、かつリフトオフディスタンス(マウスを持ち上げても反応する距離)が短い。詳細についてはBlueTrackを参照。ちなみに青色LEDを使用したマウスはこれより以前にも存在し、2000年12月発売のCMS-OP/UP(センチュリー)、2003年11月発売のM-BGUP2RLBU(エレコム)等がある。 2009年8月、ロジテック(ロジクール)が暗視野顕微鏡の技術を応用した「Darkfieldレーザーセンサー」を搭載したマウスを発表した。動作検出精度は非常に高く、従来の方式では動作しなかった透明なガラス板などの上でも動作が可能になっている。エレコムが2011年12月に発表したマウスに搭載された「Track on Glass(ULTIMATE)レーザーセンサー」も同様の技術。 マウスにおけるホイールは、ポインタ移動とクリック・ドラッグによる操作だけでは煩雑な処理を補助するために設けられた機構である。標準的な2ボタンマウスの場合は、通例左ボタンと右ボタンの間に保持され、人さし指、または中指による前後方向の回転移動を行う。1996年にマイクロソフトが発売したIntelliMouseで初めて多くの消費者に認知され(KYE(英語版)(Geniusブランド)の「EasyScroll」が先行製品である)同社がWindows 95やOffice 97などを対応させ普及に弾みをつけた。 ホイールは一次元縦方向の回転量を検出し、それを何らかの操作の移動量と結びつける。マウスのポインタ移動と異なり、マウス自体は移動しない。また原理上、動作はいくらでも続けられる。 ホイールを下に押して、クリック操作ができるものも多い。多くの場合、それはホイール状態をロックしてポインタ移動と同期するか、または回転のメタファーから状態のトグルを表す操作に対応する。いずれにせよ、ホイールは比較的クリックしにくい構造であり、通常は頻繁に利用する動作が割り当てられることはない。 ワークステーションでは、ホイールマウス誕生以前から3ボタンマウスが一般的であったが、ホイールマウスがワークステーションやPC-Unixでも使われるようになった後は、ホイールのクリックに、従来の中ボタンの操作を当てるようになった。このためPC用でも、元がワークステーション用だったりするようなCAD等のソフトでは、元々のワークステーション用の中ボタンの機能をホイール押下に割り当てていることがある。ペースト操作用として多用される場合があるが、ホイールの押下の検出には多用されない前提のスイッチが使われていることがあり、劣化が早いことがある。 一般のユーザーにおいては、ブラウザやワープロなどのソフトにおいて画面に入りきらない情報をウインドウ内でスクロールするために用いることが圧倒的に多く、そのためホイール操作は画面スクロールと同期される場合がほとんどである。これはプログラミングあるいはデバイスドライバの設定により挙動を変更できる。 中クリックあるいはホイールクリックへのアサインは、タブブラウザが普及してからは新しいタブを開く・タブを閉じるなどの挙動が定着した。その延長上でWindows 7のタスクバーでは、タスクスイッチを中クリック/ホイールクリックすると、そのアプリケーションの新しいウィンドウあるいはタブが開く。 コントロールキーを押しながらホイールを回すと、ウィンドウ内の表示倍率を拡大/縮小する挙動が一般的である。Internet Explorerなど一部のアプリケーションでは、シフトキーを押しながら回すと履歴の戻る・進むの機能が行われる。 ホイールボタンの定着の弊害として、ホイールマウスで代用が可能であることから、従来のワークステーション用マウスと同様の3ボタンマウスの流通が減少し、ホイールマウスを「3ボタンマウス」と称すようになったため、入手などの際に従来型3ボタンマウスを指名することが難しくなった、ということが挙げられる。あくまでも「代用」であって、ドラッグ操作のしづらさや、前述のようにスイッチの耐久性の問題がある。 トラックパッドなどでは、ホイールの機構を待たずそのままではスクロール操作ができずに不便になってしまう。そこで、ホイールを持たずに同等の機能を提供するデバイスもある。 マイクロソフトが最初に製作したマウスは、専用基板でIBM-PC用にマイクロソフトから販売された。日本国内ではPC-9801用に専用基板(スロット1つ使用、マウス部分はコードやコネクタ含めてIBM-PC用と同じ)でNECから販売された。 一時期はRS-232Cへのインタフェースを内蔵したシリアルマウスが販売されていた。 その後のPC/AT互換機ではPS/2の販売以降はPS/2コネクタ、MacintoshではApple Desktop Bus (ADB) 端子が長く使われていたが、2000年代に緩やかにUSB接続に置き換わった。2015年現在、PS/2方式は安価なマイコンなどUSB機能を持たないような機器用や、特殊目的などでわずかに残っている。有線接続はコードの扱いがわずらわしいが、接続の確実性や、紛失や充電などの問題が無い、バッテリーを内蔵しないのでマウス自体が軽量という利点もあり広く使われている。 無線接続の場合はレシーバーをUSB端子に接続し、レシーバーとマウスを電波で通信するタイプが安価で主流である。Bluetooth接続の製品も、特にUSB端子の数やスペースの都合上ネットブックやタブレット端末向けに徐々に普及しつつある。無線マウスは電源として乾電池を必要とするか、充電池を内蔵する。 ポーリングレートは高頻度化が進んでいる。PS/2接続のマウスにおいては40Hzが標準であり、PS2Rateなどのソフトウェアを使うことで200Hzまで上げることが可能であった。USB接続のマウスにおいては元々125Hzが多かったものの、240Hzのゲーミングモニターの普及と共に500Hzや1000Hzのゲーミングマウスも普及していき、更には4000Hzや8000Hz(Razer Viper 8KHzなど)のゲーミングマウスまで登場するようになった。 ダグラス・エンゲルバートが1960年代に開発し、1968年12月9日に、「すべてのデモの母」として知られるデモを実施したoN-Line System (NLS) で開発されたものが現在のマウスの始祖とされている。12月9日は「IT25・50」シンポジウム実行委員会によって、『マウスの誕生日』として記念日に制定されている。 マウスの特許は、雇用主のSRIが保有していたため、エンゲルバートはロイヤルティを受け取ることはなかった。この特許は、マウスがパーソナルコンピュータで広く使用されるようになる前に失効している。マウスの発明は、人間の知性を増強するというエンゲルバートのはるかに大きなプロジェクトのほんの一部にすぎなかった。 エンゲルバートによる原形はX軸とY軸それぞれの円板が床と接触するもので、1970年代にはボール式マウスが開発された。類似した装置としてはトラックボールが同様に1960年代には存在している。 50年後、カリフォルニア州マウンテンビュー市にあるコンピュータ歴史博物館で開催されたエンゲルバートの栄光を称えるシンポジウムにて、エンゲルバートの娘クリスティーナが「彼は、我々の時代が持つ唯一最大の実存的な課題は、問題をまとめて解決する能力の曲線を引き上げることだと考えた」と発言している。 マウスの移動距離の単位にミッキー (mickey) がある。ミッキーの定義は、「1ミッキー=マウスの1/100インチ(0.254ミリメートル)分移動させた距離」であり、名前の由来は、ミッキーマウスからであるという説がある。 マウスの移動距離とマウスカーソルの移動距離の比を、ミッキー比といい、これは、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の操作におけるマウスの感度の指標となる。以前はミッキー比として、ミッキー/ドット比(マウス1ミッキーの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が使われていたが、現在は、DPI(マウス1インチの移動に対しカーソルが何ドット移動するか)が広く使われている。 過去に製造、販売していた企業 ノートパソコンにはタッチパッドやポインティング・スティックといったマウスを代替可能なデバイスがキーボードの付近に内蔵されている。慣れが必要でマウスほど快適な操作ができない場合が多いため、別途マウスを接続するユーザーは多い。標準でマウスが同梱されていることもある。ノートPCと一緒に持ち運ぶための小型・軽量マウスがモバイルマウスなどの名称で販売されている。 キーボードは最も一般的な入力ユーザーインタフェースだが、アプリケーションやOSには多くのキーボードショートカットが用いられ、マウスに手を伸ばさなくてもキーボードだけで作業が完結できる場合もある。またカーソルキーでマウスポインタを動かせたり、マウスボタン入力を矢印キーで再現できるユーティリティソフトウェアも存在する。 製図・イラストなど精細な再現性が必要な作業に使用される。専門的なデバイスとみなされ、マウスほど大量には普及していない。 2010年前後に急速な普及を始めたスマートフォンやタブレット型コンピュータ等では、タッチパネルにより画面を直接タッチ操作するのが事実上の標準となった。 タッチパネルはマウスより直感性に優れた操作が可能である一方細かい操作は不得意であるため、タッチ対応ディスプレイを備えたパソコンでは、タッチとマウスのどちらでも操作が可能である。Windowsは次第にタッチ操作への対応を進め、特にWindows 8ではタッチ操作に最適化したModern UIを搭載したが、タッチパネルとマウスのUIの統合には無理が生じ、Windows 8.1ではオーソドックスなスタートメニューが復活している。 マウスにタッチパネルライクな操作性を融合する試みもある。AppleのMagic Mouseや、それに類似したマイクロソフトのTOUCH MOUSE、ロジクールのタッチマウス M600などの製品では、ボタンやホイールを排除して表面にタッチセンサーを搭載し、クリックなどのボタンの操作をエミュレートするだけでなく、スワイプなどのタッチ操作独特のジェスチャーも利用可能である。
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ヌーペディア
ヌーペディア(Nupedia)は、ウィキペディアの前身となったウェブ上のインターネット百科事典プロジェクト。無料の閲覧、ボランティアの専門家による執筆と査読、フリーコンテントライセンスによる記事の公開という特徴を持っていた。2000年3月にジミー・ウェールズが創設し、ボミスが出資、ラリー・サンガーが編集主幹を務める体制で始まり、2003年9月に休止した。 ヌーペディアという名称は、百科事典を意味する「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」と、リチャード・ストールマンにより始められたフリーソフトウェアプロジェクトの「グヌー(GNU)」という2つの単語に由来する。 2008年にCNET UKによる「ドットコムバブルの中で生まれては消えていったサイトの中から選ばれた、偉大な今は亡きサイト」の1つに、ヌーペディアも選ばれている。 1990年後半、自身の会社であるボミスで働いていたジミー・ウェールズは、インターネットにアクセスすれば誰でも読むことができる百科事典の構想を抱いていた。ウェールズは幼少のころに、親から買い与えられたワールドブック百科事典を夢中になって読みふけり、百科事典に親しんでいた。一方、後の大学院在籍中にリチャード・ストールマンのGNUの思想を知り、その考え方に強く共感するようになる。1996年に創業されたボミスは、2000年を迎える前にはある程度操業が安定するようになり、新しいプロジェクトを始める余裕を持ち始めた。1999年の秋ごろから、ウェールズはボランティアで作るインターネット上の百科事典について考え出した。 後にヌーペディアの編集主幹となるラリー・サンガーは、大学の博士課程に在籍していた。その一方で、当時高まっていた2000年問題への関心や不安に応えるために、2000年問題に関するニュースを整理して報告するサイトを運営していた。しかし2000年になっても不安視されていたような大きな問題は起こらなかったため、サンガーはすべきことを失い、新たに取り組むことを模索し出す。 2000年明けのすぐにサンガーは登録していたメーリングリストのグループに、新たに立ち上げるブログのプロジェクトに参加を呼び掛けるメールを送った。サンガーは哲学を専攻しており、ウェールズも客観主義とよばれる哲学に興味を持ち造詣が深かった。ウェールズもサンガーが送ったメールのグループに含まれていた。メールを受け取ったウェールズはサンガーに、自身が持っていたインターネット百科事典のアイデアを説明し、そのリーダーになってくれないかと逆に提案する。「ジミーから返信があったときはびっくりした。彼は、プロジェクトを率いる哲学者を探していたようだ」と、サンガーは回想している。 ウェールズの提案を承諾したサンガーは、2000年2月にサンディエゴへ移住し、ボミスで働きだした。仕事を開始したサンガーは、ウェールズと協議しながら、新しいインターネット百科事典の運営方針や執筆者の確保に勤む。翌月の3月9日、ヌーペディアのサイトが公式に立ち上げられる。翌日の10日には『PC World』のサイト上でヌーペディア立ち上げが宣伝されて、執筆者の募集もなされた。 2000年3月11日、ウェールズは初期のヌーペディアのメーリングリストに、自分の思いを説明する次のようなメッセージを送っている。 ウェールズもサンガーも、GNUのような自由な配布・改変を許すライセンスでヌーペディアの記事を公開するつもりではいたが、記事の編集については、既存の百科事典同様に専門家による管理と査読が行われる厳格なプロセスを踏んで行うつもりでいた。2000年3月のサンガーの報告によると、参加者の25 - 40%(または35 - 56%)が博士号持ちで、その他も何らかの専門家であったという。公開までの過程には、後述のように7つの段階が定められ、これを終えた記事のみが公開された。この厳格で手間をかけた編集過程のため、1つの記事を公開されるのに数週間を要する結果となった。そして、2000年9月、ヌーペディアとしての記事が初めて完成、公開される。記事は音楽の「atonality(無調)」、ヨハネス・グーテンベルク大学の音楽学者クリストフ・フストが作成したものであった。編集方針ガイドラインも整備され、2000年11月までにヌーペディア編集方針ガイドライン3.31版まで作成された。 サイトは立ち上げられ、最初の記事は完成したが、ヌーペディアの厳しい参加資格の条件と厳格で複雑な編集プロセスにより、執筆者の数も記事の数も伸び悩むことになる。ウェールズ自身も「ロバート・マートン」と「オプション価格決定理論」の記事を書き、投稿しようとした。しかし書き始めると、自分の書いた記事が2名の金融経済学者から査読を受けることを思い出し、憂鬱な気分になった。「学界を何年も離れていたので、それは怖かった。宿題のように感じた。」と振り返っている。この出来事によってウェールズもヌーペディアで記事を書くことが楽しくないことを理解する。結局、最初の年で完成した記事は12個のみであった。2000年の終わりには、このような状態を打開するために、ウェールズとサンガーは解決策を話し合い、模索するようになる。 その後、この状況を解決する1つの策として、ウィキを導入したプロジェクト、すなわちウィキペディアが開始される。ただしウィキ導入の着想の経緯については、現在ではサンガーとウェールズとで認識が異なっている。サンガーによると、コンピュータプログラマで旧友のベン・コヴィッツと行った会話に端を発すると述べている。2001年1月初め、ヌーペディアの生産性が悪いことに関してフラストレーションが増加していく中、1月2日、サンガーはカリフォルニア州サンディエゴのメキシコ料理店で友人のベン・コヴィッツと夕食をとっていた。ヌーペディアの問題をサンガーから聞かされたコヴィッツは、ウォード・カニンガムによって発明されたウィキの仕組みについて説明した。それを聞いたサンガーは、ウィキがよりオープンでシンプルな編集手順を持つ百科事典を作るプロジェクトに相応しいものと考えるに至った。サンガーはウェールズにウィキをヌーペディアに利用する案を持ちかけ、ウェールズからの好感触を得たサンガーは具体的なウィキの適用に動き出す。 初期のボミスのプレスリリースでも、ウィキ導入のアイデアはサンガーの提案とされていた。ウェールズも、後の2001年10月30日のウィキペディアメーリングリストメッセージにおいて、ウィキを使用するアイデアはサンガーが持っていたと述べている。しかしその後、ウィキのアイデアはヌーペディアを運営するボミスの社員であったジェレミー・ローゼンフェルドから聞いたとウェールズは述べており、現在ではそれぞれの認識が異なっている。 いずれの経緯にしろ、ウィキを導入した百科事典プロジェクトがボミス内で動き出した。2001年1月10日、サンガーはヌーペディアのメーリングリストに、ウィキ導入を説明する"Let's make a wiki"(ウィキを作ろう)と題したメッセージを送信した。悪くない反響を得たサンガーはnupedia.comのサブディレクトリとしてすぐにウィキページを作成する。しかし、ヌーペディアの専門家の投稿者たちはウィキのシステムに抵抗を見せ、結局、別の独自アドレスとして2001年1月15日にwikipedia.comが立ち上げられた。ヌーペディアとは対照的に、開始されたウィキペディアは急激な成長を始める。ウィキペディアは2月の終わりまでに150項目を達成し、2001年の終わりには記事数は約15,000項目にも上り、参加者は約350人に達した。 その後もウィキペディアは成長を遂げていくが、ヌーペディアは自然休眠状態に陥る。2001年以降に作られたヌーペディアの記事は2つのみであった。ウィキペディアの急成長はウェールズとサンガーを驚かせ、ウィキペディアがしっかり機能していくことを2人は理解すると、全面的にウィキペディアの運営に力を入れていくことになる。 サンガーによれば、閉鎖するまでの2002年または2003年ごろ、ヌーペディアを十分に支援できなくなってきたボミスの代わりに、大学などの組織に買い取ってもらい運営してもらうことや、サンガー自身が買い取ることをウェールズに提案したが、結局実現しなかった。また、ウィキペディアの完成・承認された記事をヌーペディアに収めていく案も議論された。これについてはウェールズも積極的だったが、結局実現しなかった。 2003年9月にヌーペディアのサーバーがクラッシュする。オフライン状態になったヌーペディアはそのまま復旧されることなく、その歴史を閉じた。ヌーペディアの記事の総数は、サンガーによれば2001年初冬までに査読プロセスを通過して完成した記事はおよそ25項目ほどで、下書き中の記事が150項目以上という状態であった。少ないながらも存在していた記事はウィキペディアの方へ吸収された。その後の歴史については、後身となったウィキペディアの歴史などを参照のこと。 ヌーペディアが上手く機能できなかったことの反省点として、サンガーは、複雑なシステムでも指示さえ明確にしていれば我慢強く利用してくれると思い込んでいたことを挙げている。ウェールズは、2007年のインタビューでヌーペディアが失敗した理由を尋ねられて、「なぜ失敗したかというと、参加するのが難しかった、そして面白くなかったのが理由だと思います 」と振り返っている。 ヌーペディアの記事の利用許諾ライセンスは、GNUのライセンスを基にしたヌーペディア・オープン・コンテント・ライセンス(Nupedia Open Content License)が作られ、採用されていた。このライセンスでは、ウィキペディアのように記事作成者ではなく、サイトに出資するボミスが著作権者となっていた。ただし、途中からGNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス(GNU Free Documentation License)に移行している。サイトのソフトウェアはNupeCodeという共同作業用のソフトウェアで動いていた。閲覧は無料で、広告を掲載することで収益を確保する予定だった。 記事の執筆や査読はボランティアによって行われた。ラリー・サンガーが編集主幹の役職を務め、彼のみがボミスに雇われる形で有給でヌーペディアの編集に携わっていた。博士号取得者、大学の教授、その他実績のある専門家を対象に参加者を募っていた。記事が公開されるまでに厳格な7段階の工程を経る必要がある。記事の作成から公開までのプロセスは次のようになっている。 執筆の方針やガイドラインを備えており、ウィキペディアの中核方針の1つである「中立的な観点」の原形も、この中にすでに存在していた。記事の難度は、予備知識の無い大学生が読んで理解できる程度のレベルを目標としていた。 完成した記事の一覧を投稿順で以下に示す。ヌーペディアが閉鎖する直前の2003年8月8日付のインターネットアーカイブより。 ※特に、文献内の複数個所に亘って参照したものを示す。
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エンシクロペディア・リブレ
エンシクロペディア・リブレ (Enciclopedia Libre Universal en Español) は、ウィキを用いたスペイン語のオンライン百科事典であり、MediaWikiを使用し、GFDLで発行されている。 スペイン語版ウィキペディアから、主として商業化(その時点ではドメインの所有者が企業(Bomis)であったため、広告の挿入の可能性が論じられていた)と管理者による批判的な意見への検閲(と彼らがみなしたもの)への反対を論点として分岐した。 さらに詳しい情報と話し合いの参加のためには、Wikipedia:大使館を参照のこと。 またWikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアも参照のこと。 2003年の10月および11月に、スペイン語ウィキペディアはボットを使い、エンシクロペディア・リブレのダンプから項目の移入を行った。
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細胞質
細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)は、細胞の細胞膜で囲まれた部分である原形質のうち、細胞核以外の領域のことを指す。細胞質は細胞質基質の他、特に真核生物の細胞では様々な細胞小器官を含む。細胞小器官の多くは生体膜によって他の部分と隔てられている。細胞質は生体内の様々な代謝や、細胞分裂などの細胞活動のほとんどが起こる場所である。細胞質基質を意図して誤用される場合も多い。 細胞質のうち、細胞小器官以外の部分を細胞質基質または細胞質ゲルという。細胞質基質は複雑な混合物であり、細胞骨格、溶解した分子、水分などからなり、細胞の体積の大きな部分を占めている。細胞質基質はゲルであり、繊維のネットワークが溶液中に散らばっている。この細孔状のネットワークと、タンパク質などの高分子の濃度の高さのため、細胞質基質の中では分子クラウディングと呼ばれる現象が起こり、理想溶液にはならない。このクラウディングの効果はまた細胞質基質内部の反応も変化させる。 細胞質には3つの主要な要素がある。細胞質基質、細胞小器官、封入体である。 細胞質基質は、細胞質のうち細胞小器官と封入体以外の部分である。細胞質基質は半透明な液体であり、様々な細胞質の要素がその中に漂っている。細胞質基質は一般的な細胞の体積の約70%を占め、水、塩、低分子の有機化合物などからなる。細胞質はまた細胞骨格を形作るタンパク質繊維や水溶性タンパク質、リボソーム、プロテアソームなどの大きな構造、まだ良くわかっていないヴォールトなどを含んでいる。細胞質の内側の部分は顆粒を多く含み、比較的流動性に富んでいて、これを内質(endoplasm)と呼ぶ。対して外側の部分は外質(ectoplasm)と呼ばれる。 細胞小器官は生体膜で包まれた、細胞中で固有の機能を持つ部分である。主要な細胞小器官としてはミトコンドリア、小胞体、ゴルジ体、リソソームなどがある。植物細胞では他に葉緑体、液胞などがある。 封入体は細胞質基質中に浮かぶ不溶性物質の集合体である。細胞内含有物ともいう。生物種や細胞の種類ごとに異なる種類の封入体が存在する。たとえば植物に見られるシュウ酸カルシウムや二酸化ケイ素の結晶(プラント・オパール)の他、デンプン、グリコーゲン、ポリヒドロキシ酪酸(PHB)などのエネルギー貯蔵物質の顆粒などである。特に広く見られるものは、油滴(もしくは脂質滴、lipid droplet)である。これは球状の液滴で、脂質とタンパク質の混合物であり、原核生物にも真核生物にも見られる。脂肪酸やステロールなどの脂質の保存のために使われる。脂質保存に特化した細胞である脂肪細胞では、体積の多くを油滴が占める。
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細胞
細胞(さいぼう、英: cell)はすべての生命体(英語版)の構造と機能の基本的な単位である。すべての細胞は、細胞膜に包まれた細胞質で構成され、その中にはタンパク質、DNA、RNAなどの多くの高分子と、栄養素や代謝産物などの多くの小分子が含まれている。この言葉は「小さな部屋」を意味するラテン語の cellula に由来する。 細胞は特定の機能を獲得し、複製、DNA修復、タンパク質合成、運動性など、細胞内でさまざまな仕事を遂行することができる。細胞は特殊化し、細胞間を移動することができる。 ほとんどの動物細胞や植物細胞は、光学顕微鏡でしか見ることができず、その大きさは1–100 μm(マイクロメートル)である。電子顕微鏡では、より高い解像度で細胞構造を詳細に観察することができる。生物は単細胞生物(細菌などの単一細胞からなる)と多細胞生物(植物や動物を含む)に分類される。ほとんどの単細胞生物は微生物に分類される。 細胞とその働きに関する研究は、DNAの発見、がんシステム生物学(英語版)、老化、発生生物学など、生物学の関連分野における他の多くの研究につながっている。 細胞生物学は、1665年にロバート・フックによって発見された細胞を研究する学問である。フックは、この細胞がキリスト教の修道院で修道士が暮らす庵室(英語版)に似ていることから、この名前をつけた。細胞理論は、1839年にマティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンによって初めて提唱されたもので、すべての生物は一つまたは複数の細胞から構成され、細胞はすべての生物の構造と機能の基本的な単位であり、すべての細胞は既存の細胞から生じるというものである。細胞が地球上に初めて出現したのは約40億年前と考えられている。 時が経つにつれ、顕微鏡が改良され、より高倍率の技術で細胞を発見することができるようになった。この発見に対するロバート・フックの貢献は大きく、細胞生物学として知られる細胞の科学的研究が始まった。彼はコルク片を観察し、拡大して細胞を発見することができた。当時、このような細胞を見た人は誰もいないと思われていただけに、これは衝撃的な出来事であった。彼の理論をさらに裏付けるために マティアス・シュライデンとテオドール・シュワンは動物や植物の細胞も研究した。彼らは、2種類の細胞の間には大きな違いがあることを発見した。その結果、細胞は植物だけでなく、動物にとっても基本的なものだという考えが生まれた。 動植物の細胞数は生物種によって異なる。人体には約37兆個(3.72×10)の細胞があり(2013年)、そのうち約800億個は脳が占めていると推定されている。Hattonらによる最近の研究では(2023年)、人体の細胞数を約30兆個(男性で約36兆個、女性で約28兆個)と推定し、臓器ごとの細胞数を報告している。 細胞は、核を持つ真核細胞と、核は持たないが核様体領域を持つ原核細胞に大別される。原核生物は単細胞生物であるのに対し、真核生物は単細胞生物か多細胞生物のどちらかである。 原核生物(げんかくせいぶつ、英: Prokaryote)には、生命の3つ(英語版)のドメインのうち、細菌と古細菌の2つが含まれる。原核細胞は地球上で最初の生命体であり、細胞シグナル伝達などの重要な生物学的プロセスを持つことが特徴である。これは、真核細胞よりも単純で小さく、核や膜結合細胞小器官を持たない。原核細胞のDNAは、細胞質に直接接触した単一の環状染色体(英語版)から構成されている。細胞質内の核領域は核様体と呼ばれる。ほとんどの原核生物は、直径0.5–2.0 μmと、すべての生物の中で最も小さい。 原核細胞は3つの領域から構成される。 細胞形態(cell morphology)とも呼ばれる細胞の形状は、細胞骨格の配置と動作から形成されると考えられている。細胞形態の研究における多くの進歩は、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)、大腸菌(Escherichia coli)、枯草菌(Bacillus subtilis)のような単純な細菌の研究からもたらされた。さまざまな細胞の形状が発見され、記述されてきたが、細胞がどのようにして、またなぜさまざまな形状を形成するのかは、まだほとんど解明されていない。確認されている細胞の形状は、桿菌、球菌、スピロヘータなどである。球菌は円形、桿菌は細長い棒状、スピロヘータはらせん状である。 植物、動物、真菌類、粘菌類、原生動物、そして藻類はすべて真核生物(しんかくせいぶつ、英: Eukaryote)である。これらの細胞の幅は一般的な原核生物の約15倍で、体積は1,000倍にもなることがある。原核生物と比較した場合の真核生物の主な特徴は、区画化(英語版)、すなわち特定の活動を行う膜結合細胞小器官(区画)の存在である。その中でもっとも重要なものは細胞核(核)であり、細胞のDNAを収容する細胞小器官である。この核が「真の核」(英: true kernel (nucleus))を意味する真核生物という名前の由来である。そのほかに次のような違いがある。 原核生物であれ真核生物であれ、すべての細胞には細胞を包み込み、出入りするものを調節し(選択的透過性)、細胞の電位を維持する膜がある。膜の内側では、細胞質が細胞容積の大部分を占めている。ヘモグロビンを最大限に収納するために細胞核もほとんどの細胞小器官を持たない赤血球を除けば、すべての細胞は遺伝情報の伝達物質であるDNAと、細胞の主要な機械である酵素などさまざまなタンパク質を合成するのに必要な情報を含むRNAを持っている。細胞内には、他にもさまざまな生体分子が存在する。この記事では、これらの主要な細胞成分(英語版)を列挙し、その機能を簡単に説明する。 細胞膜(cell membrane)は原形質膜(plasma membrane)とも呼ばれ、細胞の細胞質を取り囲む選択的透過性の生体膜である。動物では原形質膜が細胞の外側の境界であるが、植物や原核生物では膜の外側は細胞壁で覆われていることが多い。この膜は、細胞を周囲の環境から分離し保護する役割を果たし、ほとんどが両親媒性(一部が疎水性で一部が親水性)のリン脂質からなる二重層でできている。そのため、この層はリン脂質二重膜、または流体モザイク膜と呼ばれることもある。この膜の中には、細胞の一般的な分泌孔となるポロソーム(英語版)と呼ばれる高分子構造体と、さまざまな分子を細胞内外に移動させるチャネルやポンプとして働くさまざまなタンパク質分子が埋め込まれている。膜は、物質(分子やイオン)を自由に通過させるか、限定的に通過させるか、あるいは全く通過させないように、半透過性または選択的透過性という特徴を有している。細胞膜には、受容体タンパク質も含まれており、細胞はホルモンなどの外部のシグナル分子を感知することができる。 細胞骨格(cytoskeleton)はさまざまな役割を担い、細胞の形状を組織化・維持し、細胞小器官を所定位置へ固定し、エンドサイトーシス(細胞外物質の細胞内への取り込み)や細胞質分裂(細胞分裂後の娘細胞の分離)を補助し、成長や移動の際には細胞の一部を動かす働きをする。真核生物の細胞骨格は、微小管、中間径フィラメント、およびマイクロフィラメントで構成されている。神経細胞では、中間径フィラメントはニューロフィラメントと呼ばれる。これらに関与するタンパク質は非常に多く、それぞれがフィラメントを方向づけ、束ね、整列させることで細胞の構造を制御している。原核生物の細胞骨格はあまり研究されていないが、細胞の形状、極性、細胞質分裂の維持に関与している。マイクロフィラメントを構成するサブユニットタンパク質は、アクチンと呼ばれる小さな単量体タンパク質である。微小管のサブユニットはチューブリンと呼ばれる二量体分子である。中間径フィラメントはヘテロポリマーであり、そのサブユニットは組織の細胞型によって異なる。中間径フィラメントのサブユニットタンパク質には、ビメンチン、デスミン、ラミン(ラミンA、B、C)、ケラチン(複数の酸性ケラチンおよび塩基性ケラチン)、ニューロフィラメントタンパク質(英語版)(NF-L(英語版)、NF-M(英語版))などがある。 生命には、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類の遺伝物質(genetic material)がある。細胞はDNAを使用して長期的に情報を保存する。生物に含まれる生物学的情報はDNA配列にコード化されている。RNAは、情報伝達(mRNAなど)や酵素機能(リボソームRNAなど)に使われる。転移RNA(tRNA)分子は、翻訳でタンパク質が作られる際に、アミノ酸を運搬したり付加するのに使われる。 原核生物の遺伝物質は、細胞質の核様体領域で単純な環状細菌染色体(英語版)に組織化されている。真核生物では、遺伝物質は染色体と呼ばれる個別の直鎖分子に分割されて細胞核の中に格納され、通常、ミトコンドリアや葉緑体などいくつかの細胞小器官にも遺伝物質が収められている(細胞内共生説を参照)。 ヒトの細胞では、遺伝物質は細胞核(核ゲノム)とミトコンドリア(ミトコンドリアゲノム)に格納されている。ヒトの場合、核ゲノムは染色体と呼ばれる46本の直鎖DNA分子に分割され、内訳は22対の相同染色体(英語版)と1対の性染色体からなる。ミトコンドリアゲノムは環状DNA分子であり、核ゲノムの直鎖DNAとは異なる。ミトコンドリアDNAは核染色体よりもはるかに小さいが、ミトコンドリアのエネルギー産生に関わる13個のタンパク質と特定のtRNAをコード化している。 トランスフェクションと呼ばれる工程によって、外来の遺伝物質(一般的にはDNA)を人為的に細胞内に導入することもできる。そのDNAが細胞のゲノムに挿入されていなければ一過性であり、挿入されていれば安定したものとなる。ある種のウイルスは宿主のゲノムに遺伝物質を挿入する。 細胞小器官(英: organelles、羅: organella)とは、一つまたは複数の重要な機能を果たすように適応(または特殊化)された細胞の構成要素であり、人体における臓器の存在に似ている(心臓、肺、腎臓など、それぞれの臓器は異なる機能を果たす)。真核細胞にも原核細胞にも細胞小器官があるが、原核細胞の小器官は一般に単純で、膜結合型ではない。 細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。単独で存在するもの(核やゴルジ装置など)もあれば、多数(数百から数千)存在するもの(ミトコンドリア、葉緑体、ペルオキシソーム、リソソームなど)もある。細胞質は細胞小器官を取り囲み、細胞内を満たすゲル状の液体である。 多くの細胞は、細胞膜の外側に全体的あるいは部分的に存在する構造を持っている。これらはまた、細胞膜によって外部環境から保護されていない点からも注目される。こうした構造体を組み立てるには、その構成成分を細胞膜を越えて輸送しなくてはならない。 原核細胞や真核細胞の多くには細胞壁がある。細胞壁は、細胞膜のさらなる保護層で、細胞を機械的あるいは化学的に環境から保護する。細胞の種類によって、細胞壁は異なる材料で作られる。植物の細胞壁は主にセルロース、真菌類の細胞壁はキチン、細菌の細胞壁はペプチドグリカンでできている。 細菌の中には、細胞膜と細胞壁の外側にゲル状の莢膜(きょうまく、capsule)を持つものがある。莢膜は、肺炎球菌や髄膜炎菌では多糖で、炭疽菌ではポリペプチドで、レンサ球菌ではヒアルロン酸でできている。莢膜は通常の染色プロトコールでは標識されないが、インドインク(英語版)やメチルブルーで検出することができ、細胞間のコントラストを高めて観察することができる。 鞭毛(べんもう、flagella)は、細胞が移動するための細胞小器官である。細菌の鞭毛は細胞膜を通過して細胞質から伸び、細胞壁を貫通する。この鞭毛は、フラジェリンというタンパク質でできた長くて太い糸状の付属器官である。古細菌や真核生物ではそれぞれ異なる種類の鞭毛を持っている。 線毛(せんもう、fimbria)は性繊毛(pilus)とも呼ばれ、細菌の表面に見られる短くて細い毛のようなフィラメントである。線毛はピリンというタンパク質(抗原性を示す)で構成され、細菌がヒト細胞上の特定の受容体に付着することができる。また、細菌接合(英語版)に関与する繊毛にも特殊な種類がある。 細胞分裂は、一つの細胞(母細胞と呼ばれる)が二つの娘細胞に分裂する過程である。これにより、多細胞生物では成長(組織成長)につながり、単細胞生物では生殖(栄養生殖)につながる。原核細胞は二分裂によって分裂するが、真核細胞の細胞分裂は通常、有糸分裂と呼ばれる核分裂と、それに続く細胞質分裂という段階を経る。二倍体(英語版)細胞は減数分裂を経て、通常は4個の一倍体細胞を生成する。一倍体(英語版)細胞は多細胞生物の配偶子として働き、融合して新しい二倍体細胞を形成する。 DNA複製、言い換えれば細胞のゲノムを複製する過程は、細胞が有糸分裂あるいは二分裂によって分裂するたびに行われる。これは細胞周期のS期に起こる。 減数分裂では、DNAは1回だけ複製され、細胞は2回分裂する。DNA複製は減数分裂I(英語版)の前にのみ行われる。DNA複製は、細胞の2回目の分裂である減数分裂II(英語版)には起こらない。他の細胞活動と同様、複製を行うには特殊なタンパク質が必要である。 すべての生物の細胞は、DNAの損傷を走査し、検出された損傷を修復する酵素系を持っている。細菌からヒトに至るまで、生物の中ではさまざまな修復過程が進化してきた。こうした修復過程が広く普及していることは、突然変異につながる可能性のある損傷による細胞死や複製誤りを避けるために、細胞のDNAを未損傷の状態に維持することの重要性を示している。大腸菌(E. coli)は、多様で明確に説明されたDNA修復過程を持つ、よく研究された細胞生物である。これには、ヌクレオチド除去修復、DNAミスマッチ修復、二本鎖切断に対する非相同末端結合、組換え修復および光依存性修復(光回復)などが含まれる。 連続する細胞分裂の間、細胞は細胞代謝の作用によって成長する。細胞代謝とは、個々の細胞が栄養分子を処理する過程である。代謝には2つの区分があり、細胞が複雑な分子を分解してエネルギーと還元力を生成する異化作用と、細胞がエネルギーと還元力を使って複雑な分子を作り出したり、別の生物学的機能を果たす同化作用である。生物が消費する複雑な糖は、グルコースなどの単糖類と呼ばれる、より単純な糖分子に分解される。細胞内では、グルコースは2つの異なる経路を経て分解され、容易に利用可能なエネルギーを持つアデノシン三リン酸(ATP)分子を作る。 細胞には、新しいタンパク質を合成する能力があり、これは細胞活動の調節や維持に不可欠である。この過程では、DNA/RNAにコード化された情報に基づいて、アミノ酸の構成要素から新しいタンパク質分子が形成される。タンパク質合成は一般に、転写と翻訳という2つの大きな段階からなる。 転写とは、DNAの遺伝情報を使用して相補的なRNA鎖を生成する過程のことである。このRNA鎖は伝令RNA(mRNA)分子として加工され、細胞内を自由に移動できるようになる。mRNA分子は、細胞質でリボソームと呼ばれるタンパク質-RNA複合体に結合し、そこでポリペプチド配列に翻訳される。リボソームは、mRNA配列に基づくポリペプチド配列の形成を仲介する。mRNAの配列は、リボソーム内の結合ポケットで転移RNA(tRNA)アダプター分子に結合することにより、ポリペプチド配列に直接に関与する。そして新しいポリペプチドは、機能的な三次元のタンパク質分子に折り畳まれる。 単細胞生物は食物を探したり、捕食者から逃れるために移動することができる。一般的な運動機構には鞭毛や繊毛がある。 多細胞生物では、創傷治癒、免疫応答、がん転移などの過程で細胞が移動することがある。たとえば、動物の創傷治癒では、白血球が創傷部位に移動し、感染の原因となる微生物を殺滅する。細胞の運動性には、多くの受容体、架橋、結束、結合、接着、モーター、その他のタンパク質が関与している。その過程は3段階に分けられる。順に、細胞の前縁の突出、前縁の接着と細胞体と後方との脱接着、細胞を前方に引っ張るための細胞骨格の収縮である。各段階は、細胞骨格の固有の部位から発生する物理的な力によって駆動される。 2020年8月、科学者は、細胞(特に粘菌の細胞や、マウスの膵臓がん由来の細胞)が体内を効率的に移動するための最適な経路を特定する方法について発表した。細胞は、拡散した化学誘引物質を、角を曲がるなどする前に分解して濃度勾配を生成することで、次の分岐点を感知することができるという。 細胞の死は生物が成長する各段階において見られ、例えばオタマジャクシの尾が収縮する例が挙げられる。その死には遺伝子にあらかじめ組み込まれた情報に則ったものから、偶発的な場合もある。自発的な細胞死はアポトーシス、偶発的な細胞死(壊死)はネクローシスと呼ばれる。 単細胞生物とは対照的に、多細胞生物は、複数の細胞から構成される生物である。 複雑な多細胞生物では、各細胞は特定の機能に適応した異なる細胞型(英語版)に特化している。哺乳動物の場合、主な細胞型として皮膚細胞、筋細胞、神経細胞、血液細胞、線維芽細胞、幹細胞などがある。細胞型が異なれば外見も機能も異なるが、遺伝学的には同じである。同じ遺伝子型でも、含まれる遺伝子の発現の差異(差次的発現変動)により、異なる細胞型になることがある。 ほとんどの異なる細胞型は、接合子と呼ばれる単一の全能性細胞であるから発生し、発生過程(英語版)で数百の異なる細胞型に分化する。細胞の分化は、さまざまな環境要因(細胞間相互作用など)と内在性の違い(分裂時の分子分布の不均等など)によって引き起こされる。 多細胞性(英語版)は、真核生物で少なくとも25回進化しており、原核生物でもシアノバクテリア、粘菌細菌、放線菌、Magnetoglobus multicellularis、メタノサルキナ属などで独自に進化してきた。しかし、動物、真菌類、褐藻類、紅藻類、緑藻類、植物の6つの真核生物グループだけが、複雑な多細胞生物を進化させてきた。植物(緑色植物亜界)では繰り返し進化し、動物では1–2回、褐藻類では1回、真菌類、粘菌類(英語版)、紅藻類ではおそらく数回進化した。多細胞性は、相互依存的な生物のコロニーから、細胞膜形成(英語版)から、あるいは生物の共生関係から進化した可能性がある。 多細胞性の最初の証拠は、30億年から35億年前に生息していたシアノバクテリアのような生物から得られている。初期の多細胞生物の化石には、論争の的になっているグリパニア・スピラリス(Grypania spiralis)や、ガボンにある古原生代のフランスヴィル層群化石(英語版)B層の黒色頁岩の化石などがある。 単細胞の祖先から多細胞性への進化は、捕食を選択圧(英語版)とした進化実験(英語版)によって再現される。 細胞の起源は「生命の起源」と関係し、地球上の生命の歴史(英語版)の始まりでもある。 初期地球(英語版)に生命が誕生するきっかけとなった小分子の起源については、いくつかの理論がある。たとえば、隕石に乗って地球に運ばれてきた説(マーチソン隕石を参照)、深海の噴出孔で形成された説、還元性大気の中で雷によって合成された説(ユーリー-ミラーの実験を参照)などがある。最初の自己複製形態が何であったかを明らかにする実験データはほとんどない。RNAは遺伝情報を保存し、化学反応を触媒することができるため、最も初期の自己複製分子であると考えられているが(RNAワールド仮説を参照)、粘土やペプチド核酸など、自己複製可能な他の物質がRNAより前に存在していた可能性もある。細胞は少なくとも35億年前に誕生した。現在の見解では、これらの細胞は従属栄養生物と考えられている。初期の細胞膜は、おそらく現代のものより単純で透過性が高く、脂質1分子につき脂肪酸鎖が1本しかなかった。脂質は水中で自発的に二重膜小胞を形成することが知られており、RNAに先行していた可能性もあるが、RNA触媒によって最初の細胞膜が生成された可能性や、膜の形成前に構造タンパク質が必要であった可能性もある。 真核細胞は約22億年前に、真核生物発生(英語版)(eukaryogenesis)として知られる過程で誕生した。これには、古細菌と細菌が一緒になって最初の真核生物の共通祖先(英語版)を誕生させた共生発生が関係していると広く受け入れられている。これらの細胞は、細胞核と条件的好気性ミトコンドリアを持ち、新たなレベルの複雑さと能力を備えていた。この細胞は約20億年前に最後の真核生物の共通祖先を含む単細胞生物の集団へと進化し、その過程で能力を獲得したが、その一連の過程については議論があり、共生発生から始まったわけではない可能性もある。その細胞は、少なくとも一つの中心小体と繊毛、性(減数分裂と異型配偶子融合(英語版))、ペルオキシソーム、そしてキチンやセルロースの細胞壁を持つ休眠嚢胞を持っていた。やがて真核生物の最後の共通祖先は、動物、真菌類、植物、そして多様な単細胞生物の祖先を含む真核生物のクラウングループを生み出した。約16億年前、シアノバクテリア由来の葉緑体を加えた2度目の共生発生によって、緑色植物が誕生した。 ヒトの細胞は、最小のリンパ球で直径約5 μm、最大のひとつ卵子は約120 μmある。一般的な細胞は10–20 μmである。ヒトの体には生殖細胞と体細胞があり、そのほとんどを占める体細胞は約200種で、増殖方法から大きく3種類の組織に分けられる。 日本語: 英語:
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細胞分裂
細胞分裂(さいぼうぶんれつ)とは、1つの細胞が2個以上の娘細胞に分かれる生命現象。核分裂とそれに引き続く細胞質分裂に分けてそれぞれ研究が進む。単細胞生物では細胞分裂が個体の増殖となる。多細胞生物では、受精卵以後の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増える。それらは厳密な制御機構に裏打ちされており、その異常はたとえばガン化を引き起こす。フィルヒョウは「細胞は細胞から生ず」と言ったと伝えられているが、これこそが細胞分裂を示している。 真核細胞では、細胞分裂期(M期)に先行してDNA複製が起こり(S期)ゲノムが倍加した後、核分裂が起こり、引き続き細胞質分裂が起こる。母細胞がそれと同等な娘細胞を生じる体細胞分裂でも、発生過程中の細胞分裂でも、基本的な機構は同じである。 核分裂が起きながら細胞質分裂が起きない場合、多核体を生じる。 体細胞分裂では染色体数は変わらないが、生殖細胞が配偶子に分化する際などにみられる減数分裂では染色体数が半減する。 受精卵の細胞分裂は卵割ともいう。体細胞分裂と同様の機構で起こるが、分裂後の細胞サイズの成長を伴わない。 また、一度に多数の細胞に分裂することを多分裂と呼ぶが、これは核分裂が繰り返し起こったのち、細胞質分裂が適所に起こる状態で、ショウジョウバエの初期発生に観られるシンシチウムがそれに当たる。 細胞の中央で均等に分裂する等分裂と、偏りをもって分裂する不等分裂がある。後者の場合でも、染色体は均等に分けられる。また細胞運命決定因子が不等分配されることは、発生において重要な役割を担っている。 古くは細胞分裂をまず有糸分裂と無糸分裂に分けたが、現在では無糸分裂はほぼ使われない。
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標準模型
標準模型(ひょうじゅんもけい、英: Standard Model、略称: SM)とは、素粒子物理学において、強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用の3つの基本的な相互作用を記述するためのモデルのひとつである。 標準理論(ひょうじゅんりろん)または標準モデル(ひょうじゅんモデル)とも言う。多くの物理現象をほぼ的確に描写する仮説である。 標準模型は、強い相互作用についての量子色力学、弱い相互作用と電磁相互作用についてのワインバーグ=サラム理論をあわせた SU(3)c×SU(2)L×U(1)Y ゲージ対称性を基礎とし、ヒッグス機構による真空の対称性の破れとフェルミオンの質量獲得、アノマリーの相殺の要請によるフェルミオンの世代構造と世代間混合とCP対称性の破れについての小林・益川理論などの理論も組み込まれたものである。標準模型は特殊相対性理論と整合する量子論として、場の量子論的方法で記述され、今のところ重力をのぞき、場の量子論であつかわれるあらゆる事象を的確に描写している。 標準模型の素粒子は力を媒介するスピン1のゲージ粒子、対称性を破るスピン0のヒッグス粒子、物質を構成するスピン1/2のフェルミオンからなる。 標準模型はヤン=ミルズ理論に従い、それぞれのゲージ群に対応するゲージ粒子が存在する。 SU(3)Cに対応するゲージ粒子はグルーオンと呼ばれている。 SU(2)LとU(1)Yに対応するゲージ粒子に関しては、ヒッグス機構によりゲージ場の混合と質量の獲得が起こるので、多少複雑な様相を呈する。ウィークアイソスピン SU(2)L の非対角成分は質量を獲得してWボソンとなり、対角成分とウィークハイパーチャージ U(1)Y は交じり合って、質量を獲得するZボソンと質量を獲得しない光子になる。 フェルミオンは強い相互作用をするクォークと、強い相互作用をしないレプトンに分けられる。さらに、クォークとレプトンは、それぞれ左手型(left-handed)粒子と右手型(right-handed)粒子に分類することができる。標準模型における左手型粒子は電弱相互作用のウィークアイソスピンを持つが、右手型粒子は持たない。そのため、左手型粒子と右手型粒子ではゲージ相互作用の形が異なり、標準模型はゲージ相互作用に関してカイラルな理論となっている。また、この性質のために、電弱対称性がヒッグス機構によって破れないかぎり、全てのクォークとレプトンは質量を持つことができない。全てのクォークと荷電レプトンは、ヒッグス機構によって質量を獲得する。ニュートリノは標準模型の範囲内では質量を持つことはない フェルミオンは左手型クォークと左手型レプトン、右手型アップクォークと右手型ダウンクォーク、右手型荷電レプトンで世代と呼ばれるグループを構成する。一般に、ゲージ相互作用を含む模型については、カイラルアノマリーと重力アノマリーが相殺されている必要があるが、世代を構成するフェルミオンの間でアノマリーが相殺される構成になっている。標準模型は、3世代のクォークとレプトンが存在する。小林・益川理論によると、フェルミオンの混合によりCP対称性が破れるためには3世代以上のフェルミオンが必要である。実際に、フェルミオンの混合に起因するCP対称性の破れは実験で確認されており、標準模型による予言と良く一致することが確かめられている。 標準模型では、ヒッグス機構により電弱対称性が自発的に破れる。一般に場の揺らぎは粒子として解釈されるが、ヒッグス場の4つある揺らぎの自由度のうち3つは、WボソンとZボソンが質量を持つことに伴い、その縦波成分として吸収される。残りの1自由度は、スピン0のスカラー粒子であるヒッグス粒子としてあらわれる。2012年7月にジュネーブ郊外の欧州原子核研究機構 (CERN) で行われているLHC実験により新粒子の発見が発表された。この新粒子の性質はヒッグス粒子と良く一致しており、その後のスピン-パリティ観測、崩壊後粒子の信号強度の検証により標準模型におけるヒッグス粒子、およびこれを内包する理論によるヒッグス粒子であることが認定された。 標準模型は2014年現在までに行われた素粒子物理学に関する実験結果をほとんど全て矛盾することなく説明することができているが、その一方で、理論的または実験・観測的観点から解決すべき問題をいくつか抱えている。このことは標準模型を超える物理の存在を示唆する。この節では標準模型において未解決の問題を列挙する。 標準模型は基本的な相互作用とされる4つの力のうち、電磁気力、弱い力、強い力の3つをヤン=ミルズ理論に基づき量子論的に記述することに成功している。しかし、残りの1つである重力についてはその記述を欠いている。言い換えれば、重力を媒介するとされる重力子は標準模型の粒子のリストに含まれていない。これは、標準模型の基礎的な枠組みとなっている場の量子論における量子効果による発散の相殺を重力理論に適用できないからである。重力を量子論的に扱うことができる枠組みの候補としては、超弦理論、ループ量子重力理論などが挙げられる。 標準模型が記述する3つの力のうち、強い力は、電磁気力と弱い力とは別のゲージ対称性により記述されている。このため、3つの力を統一的に理解することは難しい。しかし、電磁気力を記述するU(1)ゲージ対称性が S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} ゲージ対称性がヒッグス機構により自発的に破れた結果あらわれたものであるように、標準模型のゲージ対称性 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(3)_{C}\times SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} もより大きなゲージ対称性が自発的に破れた結果あらわれたものである可能性が指摘されている。この可能性に基づいた理論は大統一理論と呼ばれている。 S U ( 3 ) C × S U ( 2 ) L × U ( 1 ) Y {\displaystyle SU(3)_{C}\times SU(2)_{L}\times U(1)_{Y}} のおおもととなった大統一理論のゲージ対称性にはいくつか候補があるが、SU(5)、SO(10)、 E 6 {\displaystyle E_{6}} などが提案されている。強い力と電弱相互作用を統一的に記述する大統一理論では、クォークをレプトンに変換するような相互作用が可能になる。具体的な現象としては陽子崩壊が予言される。カミオカンデなどの実験で陽子崩壊を実証するための実験が続けられているが、2014年現在、実験的証拠は得られていない。 標準模型は場の量子論に基づいた模型であるため、物理的に意味のある量を計算するために繰り込みと呼ばれる操作が必要となる。このことと関連して、標準模型ではヒッグス機構による電弱対称性の自発的破れの大きさを観測事実と合わせるために、理論のパラメーターを非常に精密に調整する必要がある。この問題は、プランクスケール(10 GeV)と電弱対称性が破れるスケール(10 GeV)の間に大きな隔たりがあることに起因しており階層性問題と呼ばれている。この問題を解決する模型として提案されているものはいくつかあるが、代表的なものの1つが超対称性模型である。 中性子の電気双極子モーメントの測定により、その大きさは2014年現在の観測精度を下回る値であることが分かっている。このことは、標準模型の弱い相互作用以外の部分でCP対称性がよく成り立っていることを示しており、強い相互作用に関するパラメーターとクォークの湯川行列の位相がCP対称性がよく成り立つような値に設定されていることを意味している。標準模型ではこの2つのパラメーターは特に関連性の無いものであり、精密に調整されているという状況は不自然である。この不自然さの問題は何らかの機構によって解決されるべきであると考えられており、強いCP問題と呼ばれている。解決策の一つとして有力視されているものが、ペッチャイ・クイン機構(英語版)である。この機構によりアクシオンと呼ばれる新しい粒子の存在が予言される。 標準模型のフェルミオンはヒッグスの真空期待値との結合(俗に湯川結合という)により質量を獲得しているが3世代が独立に結合しているわけではない。たとえば荷電レプトンの1世代と2世代とヒッグスという3点結合が存在し、3世代合わせると3×3行列として書ける質量行列として質量を得ている。この質量行列を対角化した後の質量固有状態として物理的なモード、すなわち電子やミュー粒子などのモードが書ける。標準模型の質量行列の要素はフリーパラメータとなっており、その値には数桁の開きがある。またレプトンとクォークでは質量行列の構造が大きく違い、レプトンの質量行列では非対角要素が大きく、クォークの質量行列では非対角要素が比較的小さい値を取っている。すなわち標準模型を使って現実の粒子描像を記述するためには質量パラメータに微細な調整が必要になってくる。この構造を対称性やオーダー1のパラメータを用いた理論から再現する研究が広く進められている。 標準模型における世代を俗にフレーバー(flavor)と呼び、フレーバー構造(flavor structure)、フレーバー物理(flavor physics)、フレーバー混合(flavor mixing)等の呼称で広まっている。 1998年に神岡鉱山に設置されたスーパーカミオカンデによりニュートリノ振動が発見されたが、これは質量を持ったニュートリノが存在することの証明となっている。標準模型ではニュートリノの質量は厳密に0であるため、この実験結果は標準模型には何らかの修正が必要であることを示すものの一つとして重要である。単純にニュートリノの質量項を標準模型の枠組みに加える場合は右巻きニュートリノを導入すればよいが、標準模型の荷電を用いると右巻きニュートリノはマヨラナ粒子となり右巻きニュートリノだけで組む質量項(マヨラナ質量項)が現れ、質量構造が複雑化する。これを取り入れた枠組みとして代表的なものの一つがシーソー機構である。 現在の宇宙のエネルギー密度の約4分の1を暗黒物質が占めていることが明らかになっているが、標準模型には暗黒物質の候補となる粒子が存在しない。そのため、暗黒物質の正体を素粒子に求める場合は標準模型の拡張が必要である。仮説上の粒子として、通常の物質と暗黒物質を繋ぐ役割を持つ「Z’ボゾン」、その他「アクシオン」等が考えられている。2020年現在は未発見である”超対称性粒子”の中の「ゲージーノ」や「ヒグシーノ」の一部が暗黒物質の候補として挙げられている。 標準模型に含まれるフェルミオンは粒子と反粒子の2種類に分類される。粒子と反粒子はほぼ対等な存在であるが我々の住む宇宙では粒子の量が反粒子に比べて多い。この非対称性はバリオン数の非対称性として知られている。標準模型はヒッグスとフェルミオンの結合を通してCP対称性の破れを引き起こすことが可能であり、これにより粒子・反粒子数の非対称性を生み出せることが知られているが、標準模型の持つ位相だけでは十分なバリオン数を作り出すことが出来ないことが知られており標準模型を超える物理の存在を示唆していると考えられている。 2001年、ブルックヘブン国立研究所は、ミューオンの歳差運動が、標準模型の予測からずれている実験結果を報告した。2021年にフェルミ国立加速器研究所のミューオンg-2実験でも同様の結果が示された。
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物理法則一覧
物理法則一覧(ぶつりほうそくいちらん)では、物理法則の一覧を提示した。
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ニュース系列
ニュース系列(ニュースけいれつ)またはニュースネットワーク(ニュースネットワーク)とは、日本の民間放送テレビ局間における、ニュース取材および情報の相互流通を行う放送局の系列関係をいう。 1958年6月、当時東京のラジオ東京(現・TBSテレビ)が、大阪の大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)・名古屋の中部日本放送(現・CBCテレビ)・福岡のラジオ九州(現・RKB毎日放送)・北海道の北海道放送との間にテレビニュースネットワーク協定を締結。ラジオ東京の「東京テレニュース」を各局でタイトルや一部内容を差し替えて放送し、また自社取材のニュースをラジオ東京経由で流した。 一方、同年7月、共同通信社を中心に、フジテレビ、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)等が出資した共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)が発足。当初は同社がテレビニュースの制作を行い、出資各局が同社から番組を購入して放送することとしたが、結局業務開始までにNETが降り、事実上のフジテレビ系列として11月に「共同テレニュース」がスタートした。 共同テレビジョンニュース社から抜けたNETは、親会社であった東映が朝日新聞社と提携して朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)を発足させ、同社が制作した「NETニュース 朝日新聞制作」を購入して放送することとなり、1959年よりNETと九州朝日放送で放送開始。ただし、既にラジオ東京との協定を結んでいた朝日放送ではこの番組を放送せず、1960年から大阪地区では毎日新聞系の毎日放送がこの番組を放送し取材制作に携わったことから、「腸捻転」ネットとして問題になった(1975年3月30日に解消。ネットチェンジの項を参照のこと)。 先発局ながら、こうした系列化で後れをとった日本テレビは、姉妹局・読売テレビや自社資本が入った札幌テレビ・テレビ西日本(1964年10月ネット解消)の他、後述するJNNに加盟しなかったラ・テ兼営局を対象に「NTVニュース」や「日本テレニュース」、「きょうの出来事」といったニュース番組を配信していった。ただし、これらは系列各社の取材協力はあったものの、あくまでも日本テレビの番組を供給したものであった。 1959年8月1日、ラジオ東京は、同年4月に放送した皇太子(現・上皇)ご成婚特番でネットワークを組んだ前述4社を含めた計16局と、ニュース協定のJNNを締結。これがニュース系列の嚆矢とされる。 その後、1966年4月1日に日本テレビ系列がNNNを、10月3日にはフジテレビ系列がFNNをそれぞれ発足させ、これまでの日本テレビや共同テレビが制作したニュース番組を購入して放送する形式を改め、JNNと同様のスタイルを採ることとなった。1974年4月1日にはNETテレビ系列もANNというニュース協定を締結した(「ANNニュース」そのものは上記「NETニュース 朝日新聞制作」を改題した形で1970年1月1日よりスタートしていた。)。 テレビ東京がキー局となっているTXNは「TXNニュース協定」を1991年に締結して以降、ニュース系列と番組供給系列(1982年発足)を兼ねている。 左から系列名(略称)、在京キー局/在阪準キー局/在名基幹局。 なおNHK(日本放送協会)は1926年以来全国で同一事業者であり、ニュース系列には含まれない。 東京を中心とした関東広域圏を放送対象地域とするキー局にとって、地方のニュース取材は負担が重い。また、系列局にとっては東京でのニュースを必須とする。さらに、ニュースネットワークのない状態で各局がやりとりすると全国ニュース番組においての統一性に欠ける恐れがある。この事情から、 の3点を目的とした局間ネットワークが組まれていった。JNN排他協定は他系列が混じることによる品質の低下を防ぐためにJNNが当初から盛り込んでいたもので、ほかのニュース系列では盛り込まれていないものもある。その地域の放送局が少なく複数の系列に属する場合は「クロスネット」というが、平成に入ってから新たに開局した放送局が増えたため少なくなっている。 またニュース以外のドラマなどの各種番組についても、このニュース系列のネットワーク各局で放送されることが多い(フジテレビ系列の番組供給ネットワークはFNS・日本テレビ系列の番組供給ネットワークはNNSという別名称で呼ばれている)。 なお、札幌・東京・名古屋・大阪・福岡のテレビ局はその系列の基幹局であり、ニュース系列で大きな力を持つ。 上掲の通り、独立した放送局がニュースの相互配信を目的として発足したものだが、日本テレビは読売新聞社との関係が開局当初から強く、またNETテレビに至っては朝日新聞制作のニュースをそのままネットワークニュースとしてきたことから、やがてニュース系列と特定新聞社(言い換えれば、全国紙)との関係は強くなってきた。 日本テレビをキー局とするNNNは、地方新聞社が設立した局も多く加盟しているため読売新聞とは一応別物と位置付けられているが、日本テレビと読売テレビは読売グループに属し、札仙広福の各局をはじめとして多くのNNN系列局には読売新聞の資本が入っている。一方、四国全域や北日本(東北地方の日本海側や北陸地方など)の一部にある古参局のように、読売資本が入っておらず地方紙等の地方企業との関係が深いところもある。例えば青森放送は東奥日報、山形放送は山形新聞、山梨放送は山梨日日新聞、北日本放送は北日本新聞、四国放送は徳島新聞、西日本放送は四国新聞、南海放送は愛媛新聞、また平成新局であるテレビ金沢は北國新聞などといったように一部の系列局は各県の地方紙を背景に設立されたものもあり、TBSテレビをキー局とする毎日新聞系列のJNNより少ないものの、やはり読売新聞との関係が希薄・皆無な局も存在する。 なお、札幌テレビ放送、福岡放送など資本・人事面等で読売新聞の影響が強い局も、「読売グループ」には名を連ねていない。また、在名基幹局の中京テレビは設立に中日新聞系列である中部日本放送(現・CBCテレビ)と東海テレビ放送や名古屋鉄道(名鉄グループ)に加え、日本経済新聞などが関わっており、現在は日本テレビHDが筆頭株主ではあるものの、意外にも開局当初から様々な諸事情により、読売新聞との関係が資本上では希薄となっており、上位株主にはなっていない。 一方、読売・日テレ色が濃い系列局でも松本市発祥のテレビ信州は信濃毎日新聞、アルピコグループに加えてクロスネット局の名残で朝日新聞・テレビ朝日HD、福岡放送は九州電力と西日本新聞、熊本県民テレビは西日本新聞と熊本日日新聞などが上位株主であることに加え、宮城テレビ放送も地元仙台市の有力企業・カメイが親会社であるなど、地方紙や地元企業も主要株主になっている系列局も存在している。なお福島中央テレビは福島民友系列ではあるが、福島民友は読売新聞グループの地方紙である。また山口放送はテレビ放送開始当初から日本テレビとは親密ではあるが、一時期はフジテレビも出資していたことがあった。また静岡第一テレビやテレビ金沢、長崎国際テレビ、テレビ大分の様にFNNのキー局であるフジテレビの持株会社であるフジ・メディア・ホールディングスや準キー局の関西テレビ(カンテレ)が大株主である系列局も存在する。 テレビ朝日をキー局とするANNは、テレ朝(当時のNETテレビ)が発足した際に、当初毎日放送(MBSテレビ)が系列基幹局に加わっていたこともあり、名称も「朝日ニュースネットワーク」の略ではなく、「オールニッポンニュースネットワーク」の略となっているが、1975年3月31日に腸捻転解消に伴うネットチェンジでANNの準キー局が毎日放送から朝日放送(ABCテレビ)に変更して以降、現在はテレビ朝日、朝日放送テレビ、名古屋テレビも含め、全加盟局が朝日新聞社の関係会社であるため、ANNもまた朝日新聞系のテレビニュースネットワークに位置付けられている。 TBSテレビをキー局とするJNNはTBS・毎日放送・RKB毎日放送といった基幹局が毎日新聞社の友好会社となってはいるが、歴史的経緯から、この3局が現在では資本面では毎日新聞社の系列というよりも同社と対等な関係にある一方、テレビユー福島、テレビ山口、宮崎放送など毎日新聞社が大株主の系列局もある。 また地方紙がテレビ放送開始直後に設立した古参局が多く、例えばCBCテレビは中日新聞、北海道放送は北海道新聞、IBC岩手放送は岩手日報、東北放送は河北新報、新潟放送は新潟日報、信越放送は信濃毎日新聞、静岡放送は静岡新聞、北陸放送は北國新聞社、RSK山陽放送は山陽新聞、中国放送は中国新聞、熊本放送は熊本日日新聞、大分放送は大分合同新聞社、南日本放送は南日本新聞、琉球放送は沖縄タイムスといったように有力系列局の多くは各県の地方紙を背景に設立されたものが多く、またテレビ単営局であるテレビユー福島は福島民報社、チューリップテレビは北國新聞社と北日本新聞社、あいテレビは愛媛新聞社のように、毎日新聞との関係が希薄・皆無な局も多い。また、TBSの設立時には読売新聞社・朝日新聞社とも関係があったことから、朝日新聞・読売新聞とも資本および友好関係が残っている局(主に山陰放送、テレビユー山形、テレビ山梨、チューリップテレビ、テレビ高知など)もある。 このためJNNと毎日新聞は完全に別物であるといえるが、TBS制作の情報番組の解説者には毎日新聞の記者や論説委員などが多く起用されている。 テレビ東京をキー局とするTXNは、地元の山陽新聞社が筆頭株主となっているテレビせとうちを除いた5局が日本経済新聞社の持分法適用会社となっており、またニュース取材においても日本経済新聞社との提携関係にある。 フジテレビをキー局とするFNNはフジテレビの親会社であるフジ・メディア・ホールディングスが産業経済新聞社の大株主であり、フジテレビと産経新聞は報道面で協力関係にあるが、東海テレビ、テレビ静岡などは中日新聞、富山テレビ、石川テレビなどは北陸中日新聞、テレビ西日本、サガテレビ、テレビ熊本などは西日本新聞、北海道文化放送は北海道新聞と関係が深く、また産経新聞自体が全国紙とは言い難い取材発行体制にあるため、FNNが産経系のニュースネットワークであるとは言い切れない。ただし、産経新聞紙面には時折「FNN・産経新聞共同世論調査」が掲載されていたり、FNNの解説者として産経新聞記者が登場するなど関係は深い。フジテレビでは「FNNスピーク」(2018年3月30日に終了。「FNNプライムニュース デイズ」→現・「FNN Live News days」。テレビ宮崎を除く)に「協力 産経」のクレジットが入り、(但し、「FNNスピーク」制作・幹事局のフジテレビのみ)2016年3月までは「産経テレニュースFNN」の放送もあった。 なお、東海テレビではFNNニュースを「FNN東海テレニュース・協力 中日新聞」とテレビ西日本では「TNCニュース FNN(または「FNN西日本新聞ニュース」)」(一部時間帯)とそれぞれ系列局名を冠した番組名に差し替え、協力する新聞社のクレジットを入れている。しかし、FNNは東海テレビやテレビ西日本だけに限らず、他のFNN系列局(関西テレビなど)でもFNNニュースのタイトル差し替え番組が数多く存在する。
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3,650
Random Access Memory
Random access memory(ランダムアクセスメモリ、RAM、ラム)とは、コンピュータで使用するメモリの一分類である。本来は、格納されたデータに任意の順序でアクセスできる(ランダムアクセス)メモリといった意味で、かなりの粗粒度で「端から順番に」からしかデータを読み書きできない「シーケンシャルアクセスメモリ」(SAM)と対比した意味を持つ語であった。しかし本来の意味からズレて、電源を落としても記録が消えないROM(これも本来の読み出し専用メモリからは意味がズレてきている。)に対して、電源が落ちれば記憶内容が消えてしまう短期メモリの意で使われていることが専らである。 本来の「ランダムアクセス・メモリ」とは、任意のアドレスの記憶素子に対して随時、アクセスパターンに依存した待ち時間などを要することなく、読み出しや書き込みといった操作ができるメモリを指す語である。磁気テープのように記憶情報が順番に格納されていて所要の番地への操作を行なうには順番待ちをしなければならないメモリを指す「シーケンシャルアクセス・メモリ」に対比した語であって、RAMという言葉には読み書き (Read/Write) 可能という意味は(本来は)ない。 読み書き (Read/Write) 可能という意味ではRWM (Read write memory) という表現がある。しかし実際上はほとんど全く使われていない。 厳密にはこれらも、半導体チップによるものだけを指す語ではないが、ここでは専ら半導体チップによるものについて述べる。 半導体DRAMは、記憶データをコンデンサ(キャパシタ)の電荷として蓄えているため、一定時間経つと自然放電によりデータが消えてしまう。そのため、定期的に情報を読み出し、再度書き込みをする必要がある。この動作を「リフレッシュ」といい、記憶を保持するためには1秒間に数十回の頻度で繰り返しリフレッシュを行う必要がある。一般にそのようなメモリをダイナミックメモリといい、ダイナミックなRAMということでDRAMと呼ばれている。DRAMは、アドレスを指定してからデータを読み出すまでの時間がSRAMよりも若干遅いものの、記憶部の構造が単純であるため、容量あたりのコストが低いという特徴がある。また、常にリフレッシュを行っているため、消費電力が大きい。DRAMのアクセス方式によってさまざまな種類のものが市販されている。 半導体SRAMは、記憶部にフリップフロップを用いており、リフレッシュ動作を必要としない。また、DRAMより高速動作させることができるが、記憶部の回路が複雑になるため、容量あたりのコストが高い。リフレッシュ動作を必要としないため、リフレッシュ動作による電力の消費が無い。 半導体DRAMも半導体SRAMも揮発性メモリである。揮発性でないメモリとして、不揮発性メモリがある。 最初期(1940年代)の電子計算機の時点で、当時の主力素子である真空管で1ビット1ビットメモリを作っていたのでは高価につきすぎることから、いくつかの記憶装置に特化した素子や機器が考案された。アタナソフ&ベリー・コンピュータではリフレッシュ操作を機械的に行う、キャパシタによる一種のDRAMのような装置が考案された。1949年に稼働したEDSACで使われた水銀遅延記憶装置などの信号の遅延を利用するものは、原理上シーケンシャルアクセスである。EDSACは初の「実用的な」プログラム内蔵方式のコンピュータだとされているが、プログラム内蔵方式の実用性のためにはある程度多くのメモリが必要であり(EDSACでは1024短語)、水銀遅延記憶装置は同機の成功の重要な要素であった。当時の他の素子では、ブラウン管面の帯電を利用するウィリアムス管は、ランダムアクセスでリフレッシュを必要とするなどDRAMに近い性格を持つ。 以降には「ランダムアクセス」メモリに関する話題は特に無い。 その後、1949年から1952年に磁気コアを用いた磁気コアメモリが開発された。コアメモリでは、格子状に配置した磁気コアと呼ばれるリング状の磁性体に、縦と横方向から電線を貫いた構造をしていた。磁気コアメモリは、集積回路による半導体メモリが登場する1960年代末から1970年代初頭まで、広く使われていた。特には、放射線などの影響を受けにくいという特性から、宇宙機用などでは1980年代でも用いられていた例がある。また、破壊読み出しなので読み出したら書き戻す必要がある一方、ドーナツ状のフェライトコアの磁性を利用しているため不揮発という特性がある。 21世紀の現在では、コンピュータの主記憶装置は、すべてDRAMになっている。原理的にSRAMは容量あたりの単価が高くならざるをえないため、(何らかのブレークスルーがないかぎり)主記憶装置をSRAMで構成するようになるとは考えられていない。いっぽうで、何らかの不揮発性メモリがDRAMを置き換える可能性はあるものと考えられており、研究開発がおこなわれている。例えば、カーボンナノチューブを使ったものや、トンネル磁気抵抗効果を使ったMRAMがある。また、2004年には、インフィニオン・テクノロジーズが16MiBのMRAM試作品を公開した。現在開発が進んでいる第二世代の技術は、Thermal Assisted Switching (TAS) 方式と Spin Torque Transfer (STT) 方式がある。前者はベンチャー企業が単独で開発しているが、後者はIBMなどを含め複数の企業が開発に乗り出している。ただし、これらが今後の主流となるかどうかは、まだ不透明である。 主記憶装置において、アクセススピードや容量あたりコストと並んで重要なのは、消費電力である。過去の組み込みシステムにおいては、消費電力を抑えるためにSRAMが用いられていたが、近年では低消費電力に特化したDRAMが使われている。例えば、サーバファームなどでは、高速性よりも消費電力を抑えることに重点を置いた、"EcoRAM" と呼ばれるRAMも登場している。 理論的にはRandom Access Machine(理論の文脈では、RAMという略語はこちらのこともある)といって、全てのメモリに一定時間でランダムアクセスできるような機械のモデルなどもあるが、現実のコンピュータでは一般に「早くて小さい」メモリと「遅くて大きい」メモリを組み合わせて使う。 多くのコンピュータシステムは、レジスタを頂点として、マイクロプロセッサチップ上のSRAMキャッシュ、外部キャッシュメモリ、主記憶装置、補助記憶装置等々といったようなメモリ階層を持っている。DRAMという階層だけを見てもアクセス時間にはバラつきがあるが、その範囲は回転式の電子媒体や磁気テープほど大きくはない。メモリ階層を使う目的は、メモリシステム全体のコストを最小化しつつ、平均的なアクセス性能を向上させることにある。一般に、レイテンシ・スループット・アクセス単位といった点で、レジスタが最も高速・細粒度であり、階層を下に行くほど低速・粗粒度となる。 マイクロプロセッサの速度(ここでは、周辺の速度によって待たされることが無かった場合の単位時間あたりのデータ処理量)とその向上に対して、メモリの速度(レイテンシとスループット)とその向上を比較すると、メモリの方が遅いという傾向は、マイクロプロセッサの誕生以来一貫して続いている。最大の問題は、チップとチップの間のデータ転送帯域幅に限界があることである。1986年から2000年まで、CPUの性能向上は年率平均で55%であったのに対して、メモリの性能向上は年率平均で10%ほどであった。この傾向から、メモリレイテンシがコンピュータ全体の性能においてボトルネックになるだろうと予想されていた。 その後、CPUの性能向上は鈍化した。これには、微細化により性能向上が物理的限界に近づいていることや発熱の問題もあるが、同時にメモリとの速度差を考慮した結果でもある。インテルは、その原因について次のように分析している。 第一に、チップが微細化しクロック周波数が上がると、個々のトランジスタのリーク電流が増大し、消費電力の増大と発熱量の増大を招く(中略)、第二にクロック高速化による利点はメモリレイテンシによって一部相殺される。つまり、メモリアクセス時間は、クロック周波数の向上に合わせて短縮することができなかった。第三に、これまでの逐次的アーキテクチャでは、ある種のアプリケーションは、プロセッサが高速化したほど性能が向上しなくなっている(フォン・ノイマン・ボトルネック)。さらに、集積回路の微細化が進行したことにより、インダクタンスの付与が難しく、信号伝送におけるRC遅延が大きくなる。これも周波数向上を阻害するボトルネックの一つである。 信号伝送におけるRC遅延については Clock Rate versus IPC: The End of the Road for Conventional Microarchitectures にもあり、2000年から2014年のCPUの性能向上は、最大でも年率平均で12.5%という見積もりが示されていた。インテルのデータを見ても、2000年から2004年の間、CPUの速度の向上は鈍化している。 しかし、この見積もりはCPUの性能向上があくまで「クロック周波数の向上によって」高性能化するという前提に立っていた。だが、2004年に AMDがK8アーキテクチャを発表すると、パイプラインバーストによる処理遅延を抑え単位クロック数あたりの命令実行数を向上することがトレンドとなり、クロック周波数のむやみな向上は止まったが、処理能力の向上はむしろ激化した。さらに、この頃から1つのプロセッサダイに複数の主演算コアを搭載し、さらにそれを仮想的に複数のコアとするスレッディング技術を搭載することが主流となった。AMDの製品では、2005年のAthlon64 X2 3800+ では約7.31GFLOPS相当だったが、2017年のRyzen 7 1800Xでは約42.53GFLOPSにも達しており、これは年率平均にすると約50%程度の性能向上と、2000年以前とさして変わっていない。 一般にRAMという語は、主記憶装置寄りのそれを指し、補助記憶装置寄りのそれは指さないことが多い。しかし、DVD-RAMのような例外もある。 DVD-RAMは文字通りランダムアクセスを重視して設計されており、DVD-RWや他のDVDと比べてランダムアクセス性能が高い。 RAMディスクという語は2通りに使われている。どちらも「論理的には超高速のハードディスクのように見える」という点は共通である。 1種類目は、SCSIなどのインタフェースでアクセスできる、外からはハードディスクのように見える装置だが、内部は(D)RAMで構成されているというもので、バッテリーバックアップ等により記憶が保持できるようにしたものも多いが、そうでないものもある。 2種類目は、オペレーティングシステムのデバイスドライバとして、ユーザーのプログラムからはストレージ(ブロックデバイス)のように見えるが、実際にはメインメモリに確保した領域に記録している、というもので、当然ながらシャットダウンにより情報は失われる。テンポラリファイル等の置き場等として使われることが意図されている。 ROMの内容をRAMにコピーしてアクセス時間を短縮することがある(ROMは一般に低速である)。コンピュータの電源投入時、メモリを初期化した後、ROMの配置されていたアドレス範囲をコピーしたRAMに切り替える。これをシャドウRAMと呼ぶ。これは組み込みシステムでもよく行われる技法である。 典型例として、パーソナルコンピュータのBIOSがあり、ファームウェアのなんらかのオプション設定でBIOSをシャドウRAMにコピーして使うことができる(システム内の他のROMをRAMにコピーして使うオプションもある)。それによって性能向上する場合もあるし、非互換問題が発生する場合もある。例えば、ある種のハードウェアはシャドウRAMが使われているとオペレーティングシステムにアクセスできない。また、ブート後は全くBIOSを使わないシステムなら、性能は向上しない。当然ながらシャドウRAMを使うと、主記憶の空き容量が少なくなる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Random_Access_Memory
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TBS (曖昧さ回避)
TBSは、以下の略語
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数学者の一覧
本項は数学者の一覧(すうがくしゃのいちらん)である。世界の著名な数学者を生年順に並べる。 過去の数学者については数学史において既に評価が定まった者を選んだ。 近現代の数学者については次の基準に基づいて選んだ。 なお、日本の数学者の一覧、Category:数学者も参照。
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Dynamic Random Access Memory
Dynamic Random Access Memory(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ、DRAM、ディーラム)は、コンピュータなどに使用される半導体メモリによるRAMの1種で、チップ中に形成された小さなキャパシタに電荷を貯めることで情報を保持する記憶素子である。放置すると電荷が放電し情報が喪われるため、常にリフレッシュ(記憶保持動作)を必要とする。やはりRAMの1種であるSRAMがリフレッシュ不要であるのに比べ、リフレッシュのために常に電力を消費することが欠点だが、SRAMに対して大容量を安価に提供できるという利点から、コンピュータの主記憶装置やデジタルテレビやデジタルカメラなど多くの情報機器において、大規模な作業用記憶として用いられている。 DRAMでは、キャパシタに蓄えられた電荷の有無で情報が記憶されるが、この電荷は時間とともに失われるため、常に電荷を更新(リフレッシュ)し続けなければならない。この「常に動き続ける」という特徴から「ダイナミック」(動的)という名前が付いている。ニュースなどでは「記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しできる半導体記憶回路」などの長い名前で紹介されることがある。 チップ内にDRAMとリフレッシュ動作のための回路などを内蔵し、SRAMと同じ周辺回路とアクセス方法で利用できる「疑似SRAM」という名称の商品があるが、それもDRAMの一種である。 商品としては、SIMMやDIMMやSO-DIMMといった基板にチップのパッケージを実装したモジュールの形態を指す名称や、近年ではDDR3やDDR4のように電子的仕様や転送プロトコルなどを指す表現が使われることも多い。 DRAMの概念は1966年にIBMトーマス・J・ワトソン研究所のロバート・デナード(Robert Dennard)博士によって考案され、1967年にIBMと博士によって特許申請され、1968年に特許発行された。 1970年にインテルは世界最初のDRAMチップである1103を製造した。1103は3トランジスタセル設計を使用した1キロビットDRAMチップで、非常に成功した。その後、1970年代半ばまでに複数のメーカーがデナードのシングルトランジスタセルを使用して4キロビットチップを製造し、ムーアの法則に従い大容量化が進展した。 米ザイログ社が作ったCPUのZ80は、DRAMのリフレッシュ動作専用の7ビットのレジスタ(Rレジスタ)を持つ。命令列の実行中に、プログラムの実行に伴うアクセスとは無関係に、このレジスタが持つアドレス(DRAMの列)にアクセスをしてリフレッシュを行う。後の多くのマイクロプロセッサではプロセッサコア以外で実装される機能であるが、当時はマイクロコントローラ的な応用やホビーパソコンを廉価に製品としてまとめ上げる等といった目的にも効果的な機能であった。なお、多数開発された「Z80互換」チップでは、メモリコントローラとして別機能としたものや、省電力機器用として完全にオミットしているものなどもある。 コンデンサとも呼ばれるキャパシタに電荷を蓄え、この電荷の有無によって1ビットの情報を記憶する。電荷は漏出しやがて失われるため、1秒間に数回程、列単位でデータを読み出して列単位で再び記録し直すリフレッシュが絶えず必要となる。たとえ読み出しの必要がなくとも、記憶を保持するためには常にこの操作を行わなければならない。 DRAMの内部回路は、各1つずつのキャパシタと電界効果トランジスタ(FET)から構成される「メモリセル」の部分と、多数のメモリセルが配列したマトリックスの周囲を取り巻く「周辺回路」から構成される。 DRAMの集積度を上げるには、メモリセルをできるだけ小さくすることが有効である。そのため、キャパシタとFETを狭い場所に詰め込むために、さまざまな工夫が行われている。 各々のメモリセルはキャパシタ1個とスイッチ用のFET 1個から構成される。記憶セルは碁盤の目状に並べて配置され、横方向と縦方向にワード線とビット線が走っている。記憶データは、メモリセルのキャパシタに電荷がある場合は論理 "1"、無い場合は論理 "0" というように扱われており、1つのメモリセルで1ビットの記憶を保持している。 読み出しに先立って、ビット線自身の寄生容量(浮遊容量)を電源電圧の半分にプリチャージしておく。ワード線に電圧がかけられると、メモリセルのFETは、キャパシタとビット線との間を電気的に接続するように働く。そのため、キャパシタとビット線との間で電荷が移動し、キャパシタに電荷が蓄えられていればビット線の電位は僅かに上昇し、蓄えられていなければ僅かに下降する。この電荷の移動による微弱な電位の変化をセンスアンプによって増幅して読み取ることで、論理 "1" と論理 "0" が判別される。 キャパシタに電荷を溜める動作時でも、電荷の移動方向が逆になる他は、読み出しと同じである。論理 "1" の1ビットのデータを記憶する場合を考えると、ワード線の電圧によってFETはキャパシタとビット線を接続し、ビット線を通じて電荷がキャパシタ移動し充電される。その後、ワード線の電圧がなくなってFETでの接続が断たれても、キャパシタ内には電荷がしばらくは残るのでその間は状態が保たれる。 SRAMのメモリセルが6個のトランジスタ(あるいは4個のトランジスタと2個の抵抗)で構成されていてプロセス微細化によるスイッチング速度向上がアクセス速度を向上させているのに対して、DRAMではメモリセルにあるキャパシタとスイッチング・トランジスタに存在する寄生抵抗による時定数回路が存在するため、プロセスの微細化やトランジスタのスイッチング速度向上はメモリのアクセス速度向上にさほど寄与しない。キャパシタの容量を小さくすれば高速化できるがキャパシタの情報を正しく読み取れない恐れが出る。微細化によってキャパシタを作りこめる面積が小さくなったのを補うために、キャパシタとFETを立体的に配置して容量不足を補うようにしている。 DRAMは、記憶セルの構造からスタック型とトレンチ型に分類される。スタック型では、スイッチング・トランジスタの上方にシリコンを堆積させてから溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。トレンチ型では、スイッチング・トランジスタの横のシリコン基板に鋭い溝を掘り、キャパシタ構造体を作る。スタック型ではキャパシタを積層するためにトレンチ型より工程数や加工時間が増えるが、トレンチ型では微細化に限界がある。そのため、ほとんどの場合、スタック型が採用されている。 液晶ディスプレイに使用される薄膜トランジスタと同様に点欠陥が問題となるが、半導体メモリでは欠陥セルのあるカラムは、メモリセルアレイの端にある、冗長領域に論理的に割当てられ、ICチップは良品として出荷され製品コストの上昇が抑えられている。この技術は半導体メモリ一般に利用されている。 従来までは8F(Fは最小加工寸法)が主流だったが、現在では6Fが主流となりつつある。将来的には、4Fが導入される見通しである。 メモリセルは、ワード線とビット線で作られるマトリックス状に配置され、多数のメモリセルによって、メモリセルアレイが作られる。ビット線の寄生容量が読み出し時の精度を制限するため、余り長くすることができない。そのため、メモリセルアレイの大きさには上限がある。 メモリセルアレイの周辺には、ワード線とビット線を制御してデータの書き込み/読み出し/リフレッシュを行い、外部と信号をやり取りする周辺回路が備わっている。 データの読み出しをする時には、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に増幅し、その中から必要とするビットのデータを読み出す。読み出し動作によってキャパシタの電荷は失われる(破壊記憶)ので、ワード線で指定したままにすることでセンスアンプで増幅された電位を記憶セルに書き戻し、読み出しは完了する。 データの書き込みは、読み出し時の動作とほぼ同じで、ワード線で指定される1列分のデータをビット線の数だけ用意されたセンスアンプで同時に読み出し、その中から書き込みするビットのデータを書き換えてから、ワード線で指定したまま直ちにこの1列分のデータをビット線に流して記憶セルに書き戻し、書き込みは完了する。 リフレッシュ動作においても、外部に信号を出力しない点を除けば読み書きの動作時と同様に、1列分のデータを読み出し再び書き戻している。 メモリセルアレイの周辺にはセンスアンプの他にもラッチ、マルチプレクサ、外部との接続信号を作る3ステート・バッファが取り巻いている。 各々のメモリセルアレイは1ビット分の記憶領域として使用され、いくつかあるアレイをチップのデータ幅に合わせて組み合わせて使用している。メモリモジュールの入出力幅の拡大に合わせて、チップ単体で8ビットや16ビット幅を持つ製品が多い。 DRAMのメモリセルを指定するためのアドレスデータ線は、行アドレスと列アドレスとで共通になっていて、行アドレスと列アドレスを時分割で設定するようになっている。メモリの番地のうち、行アドレスは上位ビットの部分に割り当て、列アドレスは、下位ビットに割り当てて使用する。アドレスデータ線にどちらのデータが加えられているかを区別するために、RAS (row address strobe) およびCAS (column address strobe) と呼ばれる信号を用いる。行アドレスデータを確定した状態でRAS信号をアクティブにすることで、RAS信号の変化点での状態を素子に行アドレスとして認識させる。RAS信号がアクティブな状態のまま、引き続き列アドレスデータに切り替えて、CAS信号をアクティブにし、CAS信号の変化点での状態を素子に列アドレスとして認識させ、必要とするアドレスのデータにアクセスを完了する。 データアクセスの高速化のため、同じ行アドレスで列アドレスが違うデータを次々に読み書きする方法が考案されており、これをページモードと呼ぶ。 ページモードは、高速ページモード (fast page mode)からEDO(extended data out、EDO DRAM)へと進歩した。そして、21世紀以降はsynchronous DRAM (SDRAM) と呼ばれる、行アドレス内容を同期転送(バーストモード)で高速に入出力する機構を搭載したものが主流となっている。全く工夫のないDRAMでは100nsec以上かかっていたものが、これらのDRAMでは2.5nsec前後まで高速化されている。ただし、列・行アドレス共に指定してセットアップ・プリチャージの時間を含むアクセスタイム自体は、それほど短縮されておらず、この10年間で1/3程度高速化されただけである。 また、異なるアドレスに対する読み書きを同時に2つのポートから擬似的に行うことができるDual Port DRAMがある。PCでは画像表示用のVRAMやCPU-GPU間共有メモリに用いられたり、あるいは互換性のないマルチプロセッサ構成のPCやワークステーション、PCI-PCI間メモリ転送デバイスなどの用途に使われる。 メモリセルに蓄えられた電荷は、素子内部の漏れ電流によって徐々に失われていき、電荷のない状態との区別が困難になる。そこで、定期的に電荷を補充する操作が必要となる。この操作をリフレッシュと呼ぶ。リフレッシュは、1行単位で同時にアクセスすることで実施され、規定された時間内(数十ミリ秒程度)に素子内の全ての行について行わなければならない。 リフレッシュという用語は、米インテル社によって付けられた。なお、コンデンサ・メモリの元祖であるABCでは、ジョギングと呼ばれていた。 リフレッシュを行う行アドレスを指定するには、次のような方法がある。 代表的な方法として、以下の二つがある。 情報は各メモリセルのキャパシタの電荷の形で記憶されるが、宇宙線などの放射線がキャパシタに照射されると、電荷が失われデータが書き換わってしまう現象が発生する。これはソフトエラー(英語版)と呼ばれ、高エネルギーの放射線を常に浴びる可能性のある宇宙航空分野に限らず、地上の日常的な環境でも発生し得る、メモリを持つ機器の偶発的な異常動作の原因となる。 宇宙線のような高エネルギー放射線でなくとも、可視光線の光子でも同様の現象が発生する。通常のDRAMは、樹脂製のパッケージによって遮光されているため、実際の問題とはならない。しかし、この現象を応用して、チップに光を当てられるようにすることで、画像素子として応用した製品も存在した。 主となるメタル配線とワード線の配線の間隔を空けて配置し、その下層で1本のメタル配線ごとにゲートポリ配線を4-8本階層する方法である。メタル配線からはデコード機能を兼ねたゲートでもあるサブワードドライバによってゲートポリ配線が分岐され各メモリセルに接続される。 高集積化のため、21世紀以降はオープン・ビット線が使用されるようになっている。従来方式では、本来のビット線に平行して折り返しビット線が配線されていた。この方式では、読み出されるセルのすぐそばに2本のビット線が通っているので、たとえノイズを受けても、これらをメモリセルアレイ外周部のセンスアンプで比較することで、ノイズの影響を排除することができた。その後、セルが小さくなったため、電極としてポリシリコンではなく金属材料を使い始めると、寄生抵抗と読み出し抵抗が減少して、読み出し電流が多く取れるようになった。そこで、DRAMに対する微細化・高集積化への要求に応じて、折り返しビット線方式に代わってオープン・ビット線方式が取り入れられるようになった。 ロウとカラムの両方で冗長回路を用意しておき、ウエハーテスト時や出荷前テストで不良セル、不良ロウ、不良カラムがあれば冗長回路に切り替えられて良品として出荷できるようにする技術がある。不良アドレスはレーザーによりフューズ部を焼灼切断するか電気的に過電流で焼き切り、同様の方法で冗長回路を代替アドレスへ割り当てる。冗長回路による速度性能の低下が見込まれるため、性能と良品率とのトレードオフになる。 フラッシュメモリで使用されているように、キャパシタ内の電荷の有無により"0"と"1"を検出して1セル当り1ビットを保持するのではなく、例えば、0%、25%、50%、100%と4段階で電荷量を検出すれば、1つのセルで2ビットの情報を保持することができる。これが多値化技術であり、DRAMでも早くから提唱されていたが、実際の製品にはほとんど採用されていない。 2011年6月22日エルピーダメモリと秋田エルピーダメモリは、タブレットPCやスマートフォンなどの薄型化や大容量化に役立つ、世界最薄となる厚さ0.8ミリの4枚積層DRAMを開発したと発表した。 1970年に米インテル社が世界最初のDRAMである「1103」を発売してから、多くの種類のDRAMが市場に登場している。各DRAMの種別名称ではSD-RAMあるいはSDRAMのようにハイフンの有無で表記の揺らぎが存在するが、以下では全てハイフンを省いて表記する。 1970年代から1980年代の初期にかけて、DRAMは、広範に採用された動作規格などが存在せず、DRAM製品ごとに細かな仕様を確認する必要があった。また、2000年代に一般的になっているDIMMのようなメモリモジュール形状での実装はあくまで少数派であり、多くが単体のDIPを8個や16個など複数を個別にDIPソケットへ挿入実装していた。このときに採用された2つの動作原理、すなわちRAS/CAS信号やセンスアンプといったDRAMの基本的な回路構成と、微小なキャパシタに記憶して繰り返しリフレッシュ動作を行う、という動作原理は、21世紀の現在も最新型DRAMの基本技術に継承されている。 高速ページモード付きDRAMとは、いくつかの連続するアドレスの読み出し時に高速化するための工夫を加えたDRAMである。初期はページモードと表記された。また、Fast Page Mode DRAMを略してFPDRAMまたはFPM DRAMなどとも表記される。通常のDRAMの読み出し時にはRAS信号によってロウアドレスを与え、CAS信号によってカラムアドレスを与える動作をそれぞれのメモリ番地に対して繰り返し与えるが、記憶領域へのアクセスは連続する傾向が強く、連続する番地ごとにロウとカラムを与えるのではなく、直前のロウアドレス(ページ)と同じ場合にはRAS信号を固定したままロウを与えずにCAS信号とカラムだけを変えて与えることで、メモリ番地の指定時間を短くすることで高速化をはかっていた。高速ページモード付きDRAMでも従来のロウとカラムをすべて個別に与える動作が保証されていた。 21世紀の現在はほとんど使用されていない。 メモリチップ内にバッファとして1ページ分のSRAMを内蔵し、同一ページ内のアクセスについて一旦当該ページに書かれたデータを全てSRAM上にコピーすることにより、RAS信号によってロウアドレスを与えればあとはCAS信号を固定してからカラムアドレスを変化させるだけで連続的にデータ出力が実施されるという動作を行う(高速ページモード付きDRAMとの違いはCAS信号を固定する点である)。つまり、同一ページ内の連続するアドレスの読み出しであれば、CAS信号の発行とそのレイテンシの分だけメモリアクセスタイムが節減され、通常のDRAMよりも読み出し速度が高速化されるという特徴を備え、ページ境界をまたぐアドレスの連続読み出し時でもごく小さなペナルティで済ませられる。なお、高速ページモード付きDRAMと同様、通常のDRAMと同様のRAS/CAS信号の個別発行によるアクセスモードにも対応する。 このDRAMは日立製作所が開発、製品化したが、SRAM内蔵で構造が複雑であったことからコスト面で不利であり、しかもより生産コストが低廉で同程度の効果が得られる高速ページモード付きDRAMが開発されたためにほとんど採用例はなく、パソコン向けではシャープX68030シリーズに標準採用されるに留まった。また、信号のタイミングによっては(CAS信号がカラムアドレスより先(または同時)に出る場合等)、この方式のDRAMが必要な場合もあった。 従来のDRAMでは、データ読み出し時にデータ出力信号が安定出力されるまでは、次のカラムアドレスを与えることが出来なかったのに対し、EDO DRAM(Extended Data Output DRAM)ではデータ出力線にデータラッチを設けることで、データ出力のタイミングと次のカラムアドレスの受付タイミングとをオーバーラップしている。Pentiumなどの66MHzのCPUではウェイト数を高速ページモードの2クロックからEDOの1クロックへと高速化できた。21世紀初頭に於いてはモノクロページプリンタのバッファメモリに用いられるなどして残っていたが、組込向けCPUが高速化され処理が複雑化した2010年以降はほとんど使用されていない。 Micron社が開発した高速版EDO DRAMである。Burst EDO RAMという正式名称が示す通り、内部に2ビット分の2進カウンタを持っており、最初に入力されたカラムアドレスの値を使って1を3回加えることで続く3回分の連続するアドレスを作り出し、CAS信号の遷移にあわせて合計4回の連続するデータ読み出し動作を行う。Pentiumではこのための専用回路が備わっていたため、最速ではウェイト数を0クロックに出来、アクセス時間52nsでページモードサイクル時間15ns品のBEDO DRAMを66MHzのPentiumで使用すれば、4つのウェイト数は5-1-1-1というクロック数でバースト転送が行えるとされたが、DRAMコントローラやチップセットの対応がほとんど無く(Intel純正チップセットではPentium ProおよびPentium II用のIntel 440FXのみ対応)、普及しなかった。なお、BEDO DRAM以前にも、同様のコンセプトを持った(CAS信号のみの遷移で連続3回(合計4回)のアクセスができた)ニブルモードDRAMというものがあった(日立 HM514101(4M(×1)ビット)など)。ニブルとは4ビットのことである。 SDRAM(Synchronous DRAM、シンクロナス・ディーラム、エスディーラム)は、外部クロックに同期してカラムの読み出し動作を行うDRAMである。外部クロックに同期することで、DRAM素子内部でパイプライン動作を行い、外部のバスクロックに同期してバースト転送することにより、0ウェイトでの出力アクセスを可能とし、外部バスクロックがそのまま使用できるために回路設計も容易となった。 以下は現行のDDR SDRAM(後述)以前の、SDR SDRAMについて述べる。登場した当初は同期クロックはIntel製CPUのPentiumに合わせて66MHzであったが、やがてPentium IIやAMD製CPUのK6-2に合わせてPC100 SDRAMと呼ばれる規格で100MHzとなり、2000年のIntel製のPentium III用新チップセット出荷に合わせてPC133 SDRAMが本格的に使用された。パーソナルコンピュータでの使用では多くがDIMMでの実装となっていた。DDR SDRAMが主力になった後は、生産される製品は少なくなっている。 Direct RDRAMとは、米Rambus社が開発した高速DRAM用のバス信号と物理形状の規格のことである。他のDRAMのようにRAS/RASなどの制御信号線によって読み出し/書き込み動作を指示するのではなく、Direct Rambusというバス上に16ビットか18ビットのデータ、アドレス、コマンドをパケット形式でやり取りする。RIMM(Rambus In-line Memory Module)と呼ばれるモジュールも規定していた。リフレッシュ機能が内蔵されている。任天堂のゲーム機NINTENDO64で同種のメモリーが採用され、パーソナルコンピュータへの採用も図られたが、バスの技術設計に高額なライセンス使用料を払い、Direct RDRAMコントローラを初めとする周辺回路やDirect RDRAMチップそのものの高価格によって、民生用途ではコスト競争力がなかったため、一部のサーバー機にのみ採用されるに留まり、PCでの主記憶用半導体の次の主役はPC133 SDRAMとDDRに移った。 DDRはDDR SDRAM(Double Data Rate SDRAM)のことである。内部のメモリセルアレイの読み出し時には2ビットや4ビット、8ビット分のセルを一度にアクセスし、データバスへの出力には読み出した信号線を切り替えて直列並列変換を行っている。書き込み時にはこの逆となる。パーソナルコンピュータでの使用ではほとんど全てがDIMM(Dual Inline Memory Module)での実装となっている。DDRの登場によって従来のSDRAMはSDR(シングル・データ・レート)と呼ばれることが多い。 SDRAMでの外部同期クロックの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて2倍のデータ転送速度となる。クロック信号はSDRのシングルエンド伝送からディファレンシャル伝送に変わり、位相・逆位相信号のエッジ検出を両信号のクロスポイントに置くことでデューティ比を50%に近づけた。SDRには無かったDQS(データ・ストローブ信号)によってメモリ素子とコントローラ間の配線長の自由度が増した。信号のインターフェースはSDRのLVTTLからSSTLに変えられた。 データ転送の動作周波数は200MHz、266MHz、332MHz、400MHz。電源電圧は2.5Vから2.6Vが多い。184ピンDIMM。 DDRでの外部同期クロックを2倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて4倍のデータ転送速度となる。"Posted CAS"機能が加わり、DDRまでは複数のリード、またはライトが連続するアクセス時にRAS信号からCAS信号までのサイクル間隔時間(tRCD)によってコマンド競合による待ち時間が生じていたが、DDR2からはRAS信号の後でtRCDの経過を待たずにCAS信号を受付け、メモリチップ内部で留め置かれて"Additive Latency"の経過後ただちに内部的にCAS信号が処理されるようになった。また、ODT(One Die Termination)とOCD(Off Chip Driver)が実装されることで終端抵抗をメモリチップ内部に持たせて、ドライバ駆動能力も調整可能として信号反射の低減など信号を最適化するように工夫が加えられた。DDR2用以降のメモリ・コントローラ側では起動時などにキャリブレーションを行うことで、メモリ素子とコントローラ間の配線のバラツキに起因するスキュー、つまり信号到着時間のズレを読み取り、信号線ごとのタイミングと駆動能力の調整を行うものがある。。 動作周波数は400MHz、533MHz、667MHz、800MHz、1066MHzの5種類があり、単体での半導体パッケージの容量では128Mビットから2Gビットまでの2倍刻みで5種類がある。電源電圧は1.8V。240ピンDIMM。 DDRでの同期クロックを4倍に高めそれぞれの立ち上がりと立ち下り時にデータ入出力を確定するのでSDRに比べて8倍のデータ転送速度となる。 動作周波数は800MHz、1066MHz、1333MHz、1600MHzの4種類があり、単体での半導体パッケージの容量では512Mビットや1Gビット、2Gビットのものが多い。電源電圧は1.5Vと1.35V。 グラフィック用途でのDRAMとして書き込みと読み出しが同時平行で行えるようになっている。今でも高性能グラフィック回路で使用される。 日本のNECが開発したもので、内部にチャンネルを設けてメモリーセルと入出力部との伝送速度を高める工夫がなされたが、普及しなかった。 余分なビットに誤り訂正符号を記録することで、ソフトエラー(英語版)によるデータの破損を検出・修正できる。 高信頼性用途のサーバなどで使われる。 スマートフォンや省電力な組み込み用途向けの規格。 大量のメモリを実装するサーバなどで使われる。 バッファード・メモリともいう。 レジスタードかつECCというDRAMもある。 DRAM業界を含むメモリ半導体製造業界は、黎明期の1970年代以降では、他社との技術的な差別化の余地が比較的少ないものとなっている。メモリ半導体を製造するメーカーのうち、先行するメーカーは、半導体製造装置メーカーと共に、一部は既にCPU等で開発された最先端技術(半導体製造装置メーカーがCPUメーカーとのビジネスで得たノウハウ)も取り入れ、メモリー半導体製造装置を共同開発して導入することで、生産工場を整えることになっている。開発現場を提供したことの対価として、メモリー半導体メーカーは共同開発パートナーである製造装置メーカーから安価に共同開発済みの装置を複数調達導入する。半導体製造装置メーカーは、追随するメモリ半導体メーカーへ同じ装置を販売することで利益を得る。追随するメモリー半導体メーカーが新規の独自技術を開発することは比較的少なく、半導体を高い生産性で量産するための工夫と経験が各社の差別化での大きな要素となっている。「半導体製造装置を買える程の投資資金があれば誰でもメモリメーカーとして起業できる」とは、あまりにも極論であるが、世界的にはほとんど同種の半導体製造装置が各社の生産ラインに並んでいる事実が示すように、製造装置での技術的な差異は少ない。 現在では、メモリ半導体メーカー各社は、パーソナルコンピュータの需要が拡大する時期(新しいWindows OS製品が登場するときなど)に合わせて、量産体制を拡大している。一方、過去には「シリコンサイクル」と呼ばれるサイクルが、半導体業界の景気の好不況の循環を主導してきた。パーソナルコンピュータの需要拡大等でメモリ製品が不足すると、価格は上昇する。メモリ半導体メーカーは、上昇した価格と旺盛なメモリ製品への需要に基づいて、将来への投資といった経営判断を下し、生産設備への拡大投資を決定する。このとき、1社が生産設備の拡大を行うだけでなく、ほとんど全てのメモリメーカーが生産設備を拡大するので、生産ラインが完成して量産に移行する頃には需要拡大は既に終わっており、各社の生み出す大量のメモリ製品がほとんど同時期に市場にあふれて価格は暴落する。こういったサイクルを過去に数回繰り返してきたため、日本の総合家電メーカーのように多くの企業は、度々訪れる莫大な赤字に耐え切れず半導体ビジネスから撤退していった。このような経緯から、1990年代中期以降、生き残ったDRAMメーカー各社は、過去の失敗を参考に、将来の需要予測に対して細心の注意を払いながら設備投資を行い、かつ価格操作や供給コントロールを行うことで、シリコンサイクルが起こらないように努めてきた。 2000年代中盤にはSamsung、Hynix、Qimonda、エルピーダ、Micronの大手5社で業界を寡占するようになっていた。2006年末頃、(DRAM価格操作談合事件による苦境、および規格の主流がDDR2からDDR3へ思うように移行せず依然として従来型製品のコストダウンを中心とした低収益に喘いでいた)DRAMメーカー各社は、2007年初頭に販売されるWindows Vistaの登場によってPC需要が大幅に拡大するだろうと予測し、各社生き残りを賭けて我先にと一斉に生産量を増やした(この独断専行とも思える各社なりふり構わぬ増産体制は、2004年に発覚したDRAM価格操作談合事件の余波で、各社横との連絡が完全に断たれ、これまでのように大手DRAMメーカー主導による共同歩調体制が全く取れず各社疑心暗鬼になっていたことも多分に影響している)。しかしこの増産は完全に裏目に出てしまい、需給バランスが大きく崩れDRAMでのシリコンサイクルを発生させてしまうこととなった。今回のシリコンサイクルは、Windows Vistaの予想外の販売不振(Windows XPに取って代わる存在になれなかった)、米国発の金融不況による大幅な消費減、NANDフラッシュ・メモリの生産との関連、等が同時期に運悪く重なり合ってしまったことが原因と云われている。DRAM価格は、2006年末から2007年中頃までと2008年中頃から2008年末までの2年程で20分の1以下にまで値下がりした。 DRAMの価格は主力の1Gbit品では2007年の1年間に80%程も低下し、全てのDRAMメーカーが大幅な赤字となった。2008年第算四半期の決算でもDRAM最大手のSamsung社以外の各社は大幅な赤字を記録し、2009年1月23日には大手5社の一角である独キマンダ社は破産し消滅する事態にまで追い込まれた。 下がり続けていたDRAMの世界市場規模は、2009年にようやく回復した。しかし、その後もDRAM価格の下落は止まらなかった。サムスンは、2011年度に唯一黒字を達成したメーカーであるが、それでもDRAMで大きな利益を得ておらず、フラッシュメモリで収益を確保している。大手各社とも、大幅な赤字を計上しながらもシェアを確保するためにDRAMを生産し続けざるを得ないチキンゲームと化している。 キマンダの破産以降は、大手による市場での寡占がより進んだ。微細化に伴い、露光装置の導入費用がさらに高くなるため、資金面での競争力の差が顕著になり、2009年から2013年頃にかけてDRAM業界の世界的な再編が行われた。 キマンダの消滅後、台湾5メーカー(Inotera、Nanya、Powerchip、ProMOS、Winbond)のうちNanyaがシェアを伸ばし、業界第5位となった。業界第4位のMicronは2008年にNanya及びInoteraと提携を結んだ。Nanyaは2012年8月に汎用DRAMから撤退した。ProMOSもグローバル・ファウンドリーズに買収されるなど、台湾5メーカーは汎用DRAMから撤退、または大手メーカーに吸収された。 かつての大手5社の中では、キマンダに続いてエルピーダも、2009年6月30日より産業活力再生特別措置法に基づいて再建を行っていたが2012年2月についに力尽き会社更生法適用を申請し破綻、2013年7月にMicronの子会社となった。同時にエルピーダ傘下の台湾RexchipもMicron傘下に入った。業界第4位だったMicronは、業界第3位のエルピーダの買収の結果、業界第2位のHynixを抜いて新たに業界第2位となった。 こうして、2013年には業界はSamsung、Micron、Hynixの大手3社体制となった。Hynixは、2011年以来、大規模な赤字に苦しんでいたが、エルピーダ破綻後の2013年第2四半期には営業利益が1兆ウォンを超え、チキンゲームは終了したと報道された。
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3,655
SRAM
SRAMとは、
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3,656
Static Random Access Memory
Static RAM・SRAM(スタティックラム・エスラム)は、半導体メモリの一種である。DRAM(ダイナミック(動的)RAM)に対して、「スタティック(静的)な回路方式により情報を記憶するもの」であることからその名がある。詳しくは概要を参照。 読み書き可能という意味で慣用的に名前にRAM(ランダムアクセスメモリ、Random Access Memory)が入っているが、厳密には本来の意味とは異なるため、当該項目を参照されたい。これはDRAMも同様である。 SRAMは内部構造的に記憶部にフリップフロップ回路を用いているため、ダイナミックRAM(DRAM)と比較して、下記の特徴がある。 なお、現在では従来のDRAMの記憶セルを用いながら、消費電力を低減してSRAMと同じインターフェースを持つ疑似SRAMもある。 SRAM内の各ビットは4つのトランジスタで構成される2つの交差接続されたインバータに格納される。その記憶セルは2つの安定状態があり、それぞれを 0 と 1 に対応させる。さらに読み出しと書き込みアクセスのために2つのトランジスタを必要とする。したがって、典型的なSRAMでは1ビットを格納するのに6個のMOSFET(6T)を使用する。 他にも8Tや10Tで記憶セルを構成するものもあるが、これは読み書きポートを複数実装する(マルチポート型SRAM回路)ために使われる。これは、ある種のビデオメモリやレジスタファイルなどに使われる。 一般的に、セル当たりのトランジスタ数が少ないほど個々のセルを小さくできる。シリコンウェハーの製造コストは比較的一定であるため、セルが小さくなれば単位面積により多くのビットを格納でき、メモリのビット当たりのコストも低減される。 6Tよりも少ないトランジスタ数で記憶セルを構成することも可能だが、そのような3Tや1Tのセルは実際にはDRAMであり、SRAMではない。例えば1T-SRAMと呼ばれるものがある。 セルへのアクセスは、ワード線(図ではWL)でイネーブルとなり、それによって2つのアクセス用トランジスタ M5 と M6 を制御し、次いでセル本体をビット線(図ではBLとBL)に接続すべきか否かを制御する。ビット線は読み取り操作と書き込み操作でのデータ転送に使われる。厳密にはビット線を2本持つ必要はないが、その信号と反転信号を同時に提供することでノイズマージンを改善している。 読み取りアクセスでは、SRAMのセルが能動的にビット線を High または Low に駆動する。それに対して、DRAMでは、ビット線がコンデンサと繋がっており、電荷共有(charge sharing)によって、ビット線がHighまたはLowとなるまでに少し時間がかかる。そのため、SRAMの方が帯域幅が大きくなる。SRAMのセルは対称形となっているため、差動信号処理が可能であり、小さな電圧の変化を容易に検出できる。また、DRAMと比べて、SRAMが高速動作できる他の要因として、商用のSRAMチップがアドレスを表す全ビットを同時に受け付けるという点も挙げられる。DRAMは、ピン数を減らして小型大容量化するためにアドレスビットが多重化されており、一度に全アドレスビットを受け付けられない。 アドレス線が m 本でデータ線が n 本のSRAMの大きさは、2 ワード または 2 × n ビットである。 SRAMセルは3種類の異なる状態をとりうる。回路が何もしていない「スタンバイ」モード、データの読み取り要求に対応する「読み取り」モード、内容の更新をする際の「書き込み」モードである。読み取りモードと書き込みモードのSRAMはそれぞれ「読み取り可能性 (readability)」と「書き込み安定性 (write stability)」がなけれはならない。ここではそれら3つの状態を解説する。 ワード線がアサートされていないとき、アクセス用トランジスタ M5 と M6 がセル本体とビット線を切り離した状態となっている。交差接続された2つのインバータ(M1 から M4 で構成)はその間、状態を保持し続ける。 図のQに格納されているセルの内容が 1 だとする。読み取りサイクルでは両方のビット線が 1 に事前充電され、次いでワード線 WL をアサートすることで両方のアクセス用トランジスタをイネーブル状態とする。次にQとQに保持されている値がビット線に転送される。Qが 1 なので、BLは事前充電された値のままとなり、BLはM1とM5を通して 0 に放電される。BLの側ではトランジスタM4とM6がビット線をVDDすなわち 1 にする。メモリ内容が 0 だった場合、逆のことが起こり、BLが 1 となり、BLが 0 となる。BLとBLの電位差は小さくても、センスアンプがそれらの線のうちどちらの電位が高いかを判別し、格納されているメモリの値が 1 なのか 0 なのかを決定する。センスアンプの感度が高いほど、読み取り操作の速度が速くなる。 書き込みサイクルは、まず書き込むべき値をビット線に印加することで始まる。0 を書き込みたい場合、ビット線には 0 を入力する。つまり、BLを 1、BLを 0 とする。これはRS型フリップフロップにリセットパルスを与えるのと同じであり、それによってフリップは状態を変化させる。ビット線に与える入力を逆転させると 1 が書き込まれる。次にWLをアサートすると、格納すべき値がラッチされる。これがうまく機能するには、ビット線の入力ドライバが相対的に弱いセル内のトランジスタよりも強く、交差接続されたインバータの状態を上書きできるよう設計する必要がある。SRAMセル内のトランジスタの大きさは慎重に決定する必要があり、それによって正しい動作を保証する。 アクセス時間が70nsとされるメモリは、アドレス線群に正しいアドレス信号が送られてから70ナノ秒以内に対応するデータが出力される。しかし、データはある時間(5nsから10ns)だけ保持され続ける。また信号の0と1の間での遷移に要する時間も考慮する必要があり、約5nsと見積もられる。アドレスの下位ビットを順次変えながらある範囲のメモリを読み取る場合、アクセス時間はもっと短くなる(30nsなど)。 DRAMと比べて下記の特徴と用途が見られる。 SRAMの電力消費は、どの程度頻繁にアクセスされるかに依存する。頻繁にアクセスされる用途ではDRAMと同程度に電力を消費し、一部のICは最大帯域幅で使用すると何ワットも消費する。一方でアクセス頻度が小さい場合、例えばやや低いクロック周波数で駆動したマイクロプロセッサで利用する場合などは極めて消費電力が低くなり、アクセスがないアイドル状態ではほとんど無視できる程度の電力消費(数マイクロワット)となる。 そのため、電池交換中程度の短時間の電源喪失であれば比較的大容量のキャパシタで駆動できる。 また、保存性のよい小さな電池を内蔵あるいは外部に配置することで不揮発メモリ(NVRAM, コンピュータの時計やBIOS設定情報の保持など)のようにも利用できる(バッテリーバックアップ機能)。フラッシュメモリが一般化する以前には、ゲーム機などのカートリッジ内のセーブデータ用に多用された。 SRAMには主に次のようなものがある。 プログラマブルロジックデバイスへの応用は、SRAMの高速動作を利用したものであり、記憶セルの状態によってマトリクス状の配線を接続・切断することにより、ゲートアレイとして機能させる。プログラマブルロジックデバイスの一種であるFPGAは、配線だけでなく論理セルの構造もSRAMによるLUT(ルックアップテーブル)で構成されているものもある。 産業システム、科学技術システム、自動車の車載エレクトロニクスなどによく遣われている。最近の電子機器や電子玩具には、ある程度の量(数KBかそれ以下)のSRAMがほとんど必ず搭載されている。デジタルカメラや携帯電話、シンセサイザーなどの複雑な製品には数MBのSRAMが搭載されている。 デュアルポート型のSRAMは、リアルタイム方式のデジタル信号処理回路に使われることもある。 SRAMは、パーソナルコンピュータ、ワークステーション、ルーター、その他周辺機器にも使われている。CPU内蔵のキャッシュメモリ、外付けのバーストモードのSRAMキャッシュ、ハードディスクドライブのバッファ、ルーターのバッファなどである。液晶ディスプレイやプリンターも表示(印刷)する画像を保持するのにSRAMを使っていることが多い。CD-ROMドライブやCD-RWドライブでも256KB程度のバッファをSRAMで構成しており、ブロック単位でデータをバッファリングするのに使っている。同様にケーブルモデムなどの機器もSRAMをバッファとして使っている。 インタフェースが単純ということで趣味でデジタル回路を作る際にはSRAMが好まれることが多い。DRAMに比べてリフレッシュサイクルがなく、アドレスバスとデータバスを多重化せずに直接アクセスでき、回路設計が単純である。バスや電源供給以外にSRAMが必要とする制御は Chip Enable (CE)、Write Enable (WE)、Output Enable (OE) の3種類だけである。同期SRAMでは Clock (CLK) も必要となる。 nvSRAMはSRAMを内蔵しているが、主電源が切れた状態でも重要なデータを保持することができる不揮発性メモリである。nvSRAMの用途は幅広く、ネットワーク、航空宇宙、医療などで利用されている。電池を内蔵する方式のBBSRAM (Battery Backup SRAM) もnvSRAMと呼ばれることがあるが、大容量コンデンサと不揮発性メモリセルを内蔵していて、主電源が切れるとコンデンサに蓄えた電力を使って自動的にSRAMから不揮発性メモリにデータを転送して保持する方式のnvSRAMもある。 非同期SRAMは4Kbから32Mbのものがある。アクセス速度が高速であるため、キャッシュを持たない組み込みプロセッサの主記憶装置としてよく使われており、パワーエレクトロニクスなどの制御装置(自動車の車載エレクトロニクスなど)、計測システム(ICテスタ)、ハードディスクドライブ、ネットワーク機器(スイッチ、ルーター、IP電話、DSLAM)など様々な機器に使われている。
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3,658
私鉄
私鉄(してつ、Private railway)は、私企業のみにより運営が行われる鉄道や軌道、またはその事業者をさす言葉である。 今日のアメリカ合衆国における私鉄は、自動車と航空機の普及後も、長大編成の貨物列車が象徴するように貨物輸送において一定の規模と存在感を保っている。私鉄各社は収益に応じて一級▪二級▪三級に分類されており、それらがアメリカ本土に一大貨物鉄道網を形成している。 それに対し旅客輸送においては、同国の私鉄は一般客向けの定期旅客列車を運行していない。鉄道を所有する企業は社内の輸送システムとして使うだけである。 かつては中近距離旅客輸送を担ったインターアーバンと呼ばれる都市間電車を運転する企業が全米各地に存在したが、モータリゼーションの進展によりほとんどが撤退し、わずかに残ったものも公営化済みである。 日本統治下の私鉄路線は、韓国ではアメリカ占領時期に国有化された。これに伴い、朝鮮鉄道や京春鉄道などの路線が1946年5月7日国有化され、咸平軌道などの路面電車だけが私鉄として残された。その後、1960年代に路面電車が全廃され、韓国の鉄道は完全に国有のみとなった(その後、ソウル地下鉄1号線の開業などで、国有以外の公営鉄道も増えている)。 現在、韓国において「私鉄」とされる国有鉄道・公営鉄道以外の路線は、全羅南道和順郡の和順線や、慶尚北道浦項市のポスコ線といった専用鉄道のみとなっている。 なお2000年代に入り、空港鉄道やソウル市メトロ9号線、新盆唐線など、民間資本を取り入れた鉄道事業者が複数設立されている。ただし、路線運営のみを担う形であり、施設そのものは政府や自治体が保有する形態(上下分離方式)がとられているため、日本でいう「私鉄」とはやや異なる。 中国では2006年に羅定鐵路が競売で深圳市中技實業 (集團)有限公司に売却され、中国において最初で唯一の私鉄となっている。 1949年以降のドイツにおける私鉄は、Nichtbundeseigene Eisenbahn(連邦政府が所有しない鉄道)と呼ばれる。民間の投資家や地方公共団体が所有するものを指し、中には公営企業として運営されるものもある。監督官庁も連邦鉄道局(en)ではなく、州政府であることが多い。各社の運行範囲も様々で、ノルトヴェストバーンのように地域輸送を担う事業者もあれば、ロコモア(現・LEOエクスプレス)のように国際列車を運行する事業者もある。 本項目での「私鉄」は以下の「日本における定義」に従っている。 日本では、民営鉄道(みんえいてつどう、略称「民鉄」=みんてつ)とも呼称され、JRグループや第三セクター鉄道、場合によっては東京地下鉄などの鉄道や軌道を除く、いわゆる日本民営鉄道協会(民鉄協)に属する鉄道事業者を指すことがある。 1987年に日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化されたことにより、すべてのJR各社もすでに組織形態は公社ではなく私企業(株式会社)となっている。JR貨物とJR北海道・JR四国が依然として全発行済み株式を鉄道建設・運輸施設整備支援機構に保有され旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(JR会社法)による規制を受ける特殊会社である一方、JR東日本・JR西日本・JR東海(本州3社)とJR九州は、株式上場後民間保有の株式の割合が高くなったことから、JR会社法による規制から外れ、その後いずれも完全民営化がすでに完了したため、事実上民間の鉄道事業者であるといえる。 しかし、歴史的な経緯から、「私鉄」という場合、JR各社は含めないのが一般的である。これは、「私鉄」が「国鉄」の対義語であり、JRが日本国有鉄道改革法(国鉄改革法)で「国鉄」の事業を引き継いだ法人と位置づけられているからである。また、JR自体も「JR線」と「私鉄線」を別けて表示している。 完全民営化された本州3社が民鉄協に非加入で、JR各社の労働組合も、国鉄時代から活動している国鉄労働組合(国労)か国鉄動力車労働組合(動労)・鉄道労働組合(鉄労)などを前身とする全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)・日本鉄道労働組合連合会(JR連合)のいずれかに属し、この点でも日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)などに加入している組合が多い他の鉄道事業者とは一線を画する。ただし、少数派の組合である全国鉄動力車労働組合(全動労)はその後JR以外の組合と組織統合し、全日本建設交運一般労働組合(建交労)という上部団体を結成した。建交労には私鉄の組合も存在する。 一方、東京地下鉄は帝都高速度交通営団時代から民鉄協に加入し、大手私鉄の一つに数えられ、その労働組合も営団時代から私鉄総連に加入しているが、2023年現在でも全株式を日本国政府及び東京都が保有し、東京地下鉄株式会社法の規制を受ける特殊会社である。また、株式会社の形態ながらも自治体が出資する第三セクター鉄道の中にも青い森鉄道や神戸高速鉄道など民鉄協に加入する事業者がある。一方、旧大阪市交通局から民営化された大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)は民鉄協には加入しておらず、その労働組合も私鉄総連には加入していない。 したがって、日本における私鉄(民鉄)の定義としては、概して言えばJRを除いた民間事業者による鉄道ということになる。国鉄及びその承継法人ではない民間企業の形態をとる事業者の運営による鉄道・軌道及び事業者自体を指し、狭義では公営企業・東京地下鉄・大阪メトロ・第三セクター鉄道の鉄道・軌道と事業者自体を含めず、最も広義ではそれらも含める。 国土地理院の線路の区分では以前は「私鉄」と書かれていた物は、国鉄の民営化後は「JR線以外」と記載されている。 日本の私鉄各社は経営規模等によって大手私鉄と中小私鉄に区分される(中小私鉄の中でも規模の大きい会社を準大手私鉄として3つに区分することもある)。これらの区分は民鉄協によるもので、明確な定義・基準は存在しない。国土交通省においても民鉄協による区分が用いられる。 明治期は以下が5大私鉄とされた。 詳細は、これらの各項目を参照のこと。 私鉄各社は鉄道事業のほか、異業種にその企業の直営または企業グループによって参入しているのが顕著に見られ、多種の異業種に亘って事業展開する鉄道事業者の企業グループが幾つも見られる(殊に大手私鉄)。異業種では、百貨店、不動産業、レジャー関連、宿泊施設などが挙げられ、不動産業においては沿線のデベロッパーとなってきた事業者もある。 東急電鉄、京王電鉄、南海電気鉄道、西武鉄道、阪急電鉄、近畿日本鉄道、名古屋鉄道、西日本鉄道のように、鉄道事業以外では企業グループ全体が自社沿線を超えた事業活動をする事業者(不動産事業では紀州鉄道、バス事業では小田急電鉄、旅行業では東武鉄道も該当する)も存在する。 しかし、分割民営化後のJR各社もその関連企業が鉄道事業以外に多種の事業展開を行っており、私鉄各社のみに顕著な特徴ではなくなった。 日本においては、国土地理院発行の地形図では、JR線とそれ以外の鉄道線路は記号が異なる。市販の時刻表の索引地図においてもJRと他の事業者の鉄道路線は異なる記号となっている。このような国有鉄道またはその民営化・組織改編で成立した鉄道事業者による鉄道線と他の事業者による鉄道線とを地図等の表示において記号で区分するのは、日本以外ではほとんど例を見ない。
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3,659
アダルトアニメ
アダルトアニメ(英: adult animation)は、成人を対象とした激しい胸部の露出や性行為など、性的な表現を含むアニメーションのことをさす。日本では18歳未満の未成年の視聴が禁止されている作品については「エロアニメ」「18禁アニメ」(R18)という呼称も用いられる。 現存する世界最古のアダルトアニメは、取り外し可能な陰茎を持った男の性的冒険を描いた白黒作品『エヴァレディ・ハートンの埋もれた財宝』である。これはアメリカ合衆国の3つのアニメーションスタジオが内輪の集まりで1929年に制作したものと伝えられる。 日本初といわれる「成人を対象としたポルノアニメ」は、浮世絵の技法が用いられた白黒作品『すヾみ舟』(国立映画アーカイブ所蔵)とされている。製作当時の1932年(昭和7年)の社会情勢では当然ながら正規の配給網では公開できず、非合法なものとして検挙された。作者については木村白山という人物による個人制作と伝えられ、題名についても『隅田川』『川開き』『花火』『夕涼み』『マンガ』などの別名がある。 1968年、アメリカ合衆国大統領のリンドン・ジョンソンは「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置しポルノ解禁問題をはかった。 1969年から1973年にかけては、手塚治虫の虫プロダクションが日本ヘラルド映画から依頼され、大人向けのエロティックな描写をふんだんに用いた『千夜一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』の3本から構成される「アニメラマ3部作」と称したアニメ映画を製作した。このうち『千夜一夜物語』は大ヒットとなる。 この前後の1967年から1972年にかけてフィルム蒐集家の杉本五郎が美少女をモチーフに複数の実験映画を自主制作しており、このうち剣持加津夫による同名の少女ヌード写真集を基にした幻想映画『12歳の神話』(1970年)は先駆的な美少女アニメとされる。 前述の「アニメラマ3部作」のヒットに便乗し、1969年には実写映画『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の併映でレオ・プロダクションの『秘劇画 浮世絵千一夜』が、1971年には日本ヘラルド映画の企画で東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』(原作・谷岡ヤスジ)が上映された。 『秘劇画 浮世絵千一夜』は東映系の全国53館の劇場で上映されたが、映倫の審査を通過していたにもかかわらず、警視庁からは猥褻な場面を削除するようにとの警告を受けた。また『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』は映倫の審査で11カ所がカット、タイトルバックの修正、結婚という人生の墓場で主人公が割腹自殺を遂げるラストシーンは前年の三島事件を連想させるとのことで全面的に撮り直された。そのうえ全く客が入らなかったことから2週予定が1週で打ち切られるなど、この2本の便乗作の内容に対する評価は芳しくなかった。 1972年、アメリカ映画史上初のX指定 を受けたアダルトアニメ『フリッツ・ザ・キャット』(原作・ロバート・クラム)がアメリカ合衆国で興行1億ドルを超える大ヒットを記録する。しかし、日本国内での興行成績は全く振るわず、封切1週間で上映が打ち切られた。 また、虫プロダクションが1973年に公開したアニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』も興行的には赤字に終わっており、これが旧虫プロの倒産を招くことになったといわれる。その後、一連の大人向けアニメの失敗は映画業界やアニメ業界に大きな禍根を残すことになり、オリジナルビデオアニメ(OVA)が盛んに作られるようになる1980年代半ばまで日本製のアダルトアニメは11年もの長きにわたり姿を消すことになった。 2019年現在、上記作品のうち入手可能なものは虫プロダクションの「アニメラマ3部作」と東京テレビ動画の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』の4作品のみとなっている。また創成期の作品については伝聞資料が乏しく現在もなお不明瞭な部分が多い。 1980年代半ば以降になると、アダルトビデオの延長線上として、アダルトアニメはビデオテープやLDにより量産されるようになる。OVAによる初のアダルトアニメは、1984年2月にワンダーキッズが制作した中島史雄原作の『ロリータアニメ雪の紅化粧/少女薔薇刑』であるが、これは当時すでに時代遅れだった劇画調の絵柄で、大ヒットとはならなかった。同作品の制作は1979年に完了済みであり、発売時期を模索した結果、1984年となった。 その後、同じくワンダーキッズによる中島史雄原作の『仔猫ちゃんのいる店』が発売された。こちらはデフォルメの効いた絵柄で、アニメファン層にも受け入れられた。この当時から新興のビデオメーカーが独自レーベルを掲げて作品を制作・販売するスタイルが次第に確立され始めるが、タイトルごとのヒットというレベルには至らなかった。 1984年8月にはフェアリーダストから『くりいむレモン』シリーズが発売されて大ブームとなり、歴史的にはこれが先駆けといわれる。特にVol.1『媚・妹・Baby』のヒロイン・亜美は、レコード発売やラジオ番組の放送などのメディアミックス展開を広げ、一種のカリスマの様相を呈した。 『媚・妹・Baby』は発表当初、日本ビデオ倫理協会(ビデ倫)の審査を通過後に「修正を加えたもの」と後に「最低限の修正を加えたもの」が製品として混在するに至った。また、Vol.3『SF・超次元伝説ラル』は、人間ではなく架空の生物の触手が相手であることから無修正のままビデ倫審査を通過し、その当時の審査が有効なビデオとLDについては無修正での発売が続けられた。また、人気となった『くりいむレモン』シリーズの作品群は、富士見文庫(富士見美少女文庫)によってノベライズが手掛けられることになる。これが後のジュブナイルポルノの嚆矢となったとされる。 その後、『超神伝説うろつき童子』などの前田俊夫原作の劇画調作品、及びそれを模した作品などの淫獣物や妖獣物がブームとなる。これは男性器(陰茎)を模した、想像上の「獣の触手」が、女性キャラクターと絡むというもので、規制を回避した作品だが、男性キャラクターを邪魔に思う視聴者との需給が一致し、レンタル、セルを併せて毎回約1万本が売れる高セールスを記録する。しかし、近年では規制が強くなり、女性器が描かれていない場面でも、陰茎を連想させる触手そのものにさえも規制がかかるケースが出ており、その存在意義がなくなってきている。 また、成人向け漫画を原作とした作品の売れ行きが良かったことから、TDKコアのクール・ディバイシスシリーズを中心にそれらの作品が増加した。さらにはその流れから、アダルトゲームを原作とした作品も登場し、人気を博した。その中でもピンクパイナップルレーベルは人気アダルトゲームを多数アニメ化し、とくに『同級生』シリーズや『遺作』シリーズなどのエルフ作品や『Piaキャロットへようこそ!!』などのF&C作品、『闘神都市II』などのアリスソフト作品といった人気アダルトゲームのアニメ化により、当時のアダルトゲームブームも相まって、それまでのアンダーグラウンドなイメージだったアダルトアニメを一転させた。それとともに専門誌も誕生し、それまでは同ジャンルを扱う紙媒体は辰巳出版の『美少女アニメ大全集』など単発の成人書籍、ムックしかなかった中、コアマガジンの『G-type』が創刊、後発誌も各出版社から刊行された。 バイオレンス描写の金澤勝眞の作品や桶澤尚によるスカトロ描写の『夜勤病棟』シリーズ、過度な飲精描写のむらかみてるあきなど、過激化とフェティッシュな描写の作品が主流となっている。これはそれまでビデ倫の審査が中心だったアダルトアニメにおいて、コンピュータソフトウェア倫理機構(略称・ソフ倫)やコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)などの、比較的審査の緩い審査団体を選べるようになったことにも一因する。このため「Pixy」や「わるきゅ〜れ」といったインディーズレーベルを中心に作品数の増加も見られており、ヒットしたアダルトゲームについてはアダルトアニメ化を巡る競合が激しくなっている。 その一方で、ライトノベル・コミックや、いわゆるメディアミックスに関連する各業界の体質的な変化などが背景にあるが、アダルトゲームが原作の作品でも、性描写を排除して一般向けへのメディアミックス企画が展開されるようになり、UHFアニメやコンシューマゲーム機などへの展開も積極的に行われている。これらのことから、収益の期待値がより高い一般向けなコンテンツへの展開を目論んで、アダルトゲームのメーカーがアダルトアニメ化そのものを拒否するなど、人気アダルトゲーム原作のアダルトアニメ化が困難な状況も見られるようになってきている。最近では、子供たちもアダルトゲームをプレイしている傾向になっていることも問題視されている。 1980年代以降は成人向け漫画を原作とした作品とオリジナル作品が中心となっていたが、1990年代後半以降はアダルトゲームを原作としたものが増え、漫画・ジュブナイルポルノ原作のものは減少した。そのきっかけとなったのは、ピンクパイナップルの『同級生 夏の終わりに』(原作:エルフ)である。同シリーズは累計10万本を超えるヒットとなった。 2006年にはひまじんの『そらのいろ、みずのいろ』(原作:Ciel)の上巻『ダメ......聞こえちゃう♥』が、原作よりセックスシーンに特化させた内容と人気アニメーターの起用が功を奏し、累計1万本超を記録した。その後、下巻『わたしも......してあげる♥』との累計は4万本超を記録している。 最近では、『A KITE』や『MEZZO FORTE』などのような北米をはじめとする日本国外での販売を前提とした作品が増加しており、二か国語処理を施した作品も存在する。一般的なアダルトビデオと大きく異なる点がこれであり、日本での販売作品がそのまま日本国外の市場でも正規流通品として販売されている。また、恥部(性器)や性交の描写に対する規制が緩い国では、作品によっては緻密に描き込んだ性器にモザイクをかけないまま販売されている。 しかし、性器の描画はアダルトアニメ特有のもので細かく手間がかかるうえ、「規制のある国」と「規制のない国」で別々に作品管理をしなければならず、メーカー側にコストアップなどの負担が掛かることになる。 亜美の人気と当時の声優ブームをきっかけに声にも注目が集まったが、内容が内容なだけにアダルトアニメの声優の実名(芸名)は表記せず、本名はもとより芸名・その他変名すら表記しないものがほとんどだった。しかし、1985年発売の『ペロペロキャンデー』は初めて声優のキャストを表記している。また、1986年には宇宙企画(フレンズレーベル)の『リヨン伝説フレア』もキャストの公開に踏み切り、同レーベルはすべて声優は芸名で表記されている。しかし、これらはごく少数派であり、現在でも多くのアダルトゲーム・アニメにおいて声優のキャストはまったく公開しないか、あるいは「成人向け」作品のみで用いる「裏名義」の芸名となっている。 AV女優・AV男優と同様に法規制の関係上、声優としての出演であっても18歳未満の者は出演が禁止されている。 日本のアダルトアニメでは、刑法175条(わいせつ物頒布罪)を受けて、性器描写にモザイク処理がかけられる自主規制がなされている。この刑法175条については、現状にそぐわない不合理な規制であるから廃止すべきとの批判もあり、参議院議員の山田太郎が刑法175条の見直しを提唱している。 ビデ倫による、アダルトビデオと同様の審査を受審し、同協会の基準に従って表現を自主規制している作品が多いが、メーカーによってはコンテンツ・ソフト協同組合(旧・メディア倫理協会、メディ倫)による審査を受審している作品や、自主規制組織による審査を受けていない作品も存在する。2010年現在性描写がなく暴力や犯罪などの反社会的なシーンの描写によって成人指定とされた作品は存在しない。 2006年4月より経済産業省の指導でCESA、コンピュータソフトウェア倫理機構日本アミューズメントマシン工業協会、映倫管理委員会、日本ビデオ倫理協会と映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において、アニメ・実写映画・コンピュータゲームなどに対する審査基準・表示の一本化を協議することが決定しているが、それに伴い、性描写がなくても暴力などの反社会的なシーンを含むアニメも成人指定の可能性がある。 日本国内では性描写全般の規制が厳しく、描写したい画像や動画が動画共有サイトなど日本国外に設置されたサーバやP2Pなどで違法アップロードされることもある。 権利者でない第三者(エンドユーザー)がアップロードした場合、著作権法違反に問われる。また、正当な権利者により、無料で視聴が可能にしても、サーバやP2Pにアップロードするとわいせつ物頒布等の罪などに抵触、仮に、作品の著作権を放棄し、無断転載や複製を容認してもわいせつ物頒布等の罪に問われるのは避けられない。 一方、日本国外から配信する場合、日本の法律が適用できず、グレーゾーンとなっているのが現状であるため、これを逆手に取り、アダルトビデオと同様に無修正の海外流通版を製作者と権利関係をクリアしたうえで日本国外に設置されたサーバから配信し、日本語のページも用意された有料動画配信サイトも存在するが、国や作品によっては児童ポルノやその他反社会的な描写(性犯罪や暴力の肯定など)とみなされ、違法となる場合がある。
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3,661
パスネット
パスネット(英称:Passnet)とは、パスネット協議会に加盟する関東地方(主に南関東)の鉄道(私鉄・地下鉄)22社局共通の磁気カードを用いたストアードフェアシステムの総称である。 2000年10月14日に導入された。2008年1月10日の終電をもって販売を終了し、2008年3月14日(一部事業者は2009年3月13日)の終電をもって自動改札機での取り扱いを終了し、2015年3月31日の終電をもって完全に利用を終了した(後述)。 なお、パスネットは一般公募により制定された名称である。 パスネットは、磁気カードによるプリペイドカード式の乗車カードシステムで、カードを自動改札機に投入することで入・出場が可能だった。自動改札機に投入した際に自動的に運賃が精算(減額)された。ただし、入場券としての利用はできなかった。加盟22社局であれば乗り継ぎにも対応しており、最大4社局までの乗り継ぎに対応していた。 同様の関東私鉄・地下鉄による乗車用ICカード「PASMO」導入前の2006年までは加盟社局のパスネット対応路線の駅にある自動券売機、カード自動販売機、駅窓口などで1,000円・3,000円・5,000円の3種類が発売されていた。また、オーダーメイドタイプに限り500円のカードも存在し、主に記念品などの目的で使用されていた。 利用可能エリアは、PASMOと比べるとやや狭く、PASMOが利用可能な鉄道路線の中では東武鉄道の一部無人駅、西武多摩川線、東急世田谷線、横浜新都市交通(現・横浜シーサイドライン)、江ノ島電鉄、伊豆箱根鉄道、都電荒川線、および箱根登山鉄道の塔ノ沢 - 強羅間では利用できず、京浜急行電鉄もシステムの切替の関係で当初は全線で一切使えなかった。また、バスや東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)では一切使えず、バスと都電荒川線に関してもパスネット導入以前に首都圏でバス共通カードを発売・導入していたほか、JR東日本は東京モノレールとともにSuicaの導入を予定していたため導入されなかった。 なお、パスネットは将来の共通化を目的にJR東日本のイオカードと規格をあわせていた。しかし、結局磁気カードによる共通化は実現せず、一部のJRとの共同使用駅の自動精算機でJR線運賃の精算に使える程度だった。JRと私鉄陣営のSFの相互利用は、2007年3月18日の非接触ICカード乗車券「PASMO」の導入に伴い開始した首都圏ICカード相互利用サービスにより、Suicaとの共通利用が実現した。 カードで乗車する場合、自動改札機に直接投入するだけで入場時に初乗り運賃が前引きされた。相互乗り入れ駅などで複数の初乗り運賃がある場合、前引きはその最低額となった。運賃は加盟社・局線の最安の経路で計算し、出場時に着駅までの運賃の差額分が引き落とされた。このため、残額が初乗り運賃に満たない場合は入場できず、また着駅までの運賃に満たない場合は出場できなかった。ただし、カードの2枚投入が可能な自動改札機では残額が不足するカードと十分な残額のある別のカードとを同時に投入することで前者の残額が後者に引き継がれ入・出場することができた。出場時には自動精算機で現金または他のカードで精算することもできた。また、区間の一部に定期券などを利用した場合には同時投入によって自動精算された。このため、2枚投入が可能な自動改札機の投入口にステッカーが貼付されていた。 駅により、乗り換えなどで一度改札から出る必要がある場合は、出場駅までの運賃に足りている必要があったほか、30分以内に再入場しないと乗り継ぎや割引が打ち切られ、新たに初乗り運賃が差し引かれた。これは同一社線間の乗り換えの場合も同様だが、この場合は経路を指定するものではないので、一旦出場が不要な場合の経路との運賃差は生じなかった。ただし、最安経路計算の例外が存在していた。A駅で乗車し、B駅で一旦出場し、乗り換えてC駅に到着した場合にA駅からB駅までの運賃がA駅からC駅までの運賃より高額である場合(A→B>A→Cの場合に、A→B→Cの経路で乗車する場合)はB駅改札を経由する時点でB駅までの運賃相当額が差し引かれ、C駅で改札から出場する場合も過剰徴収分は戻らなかった。なお、このC駅が改札を通らずに直接行き来できる他社の駅である場合、超過分は他社線運賃として持ち越せた。接続駅までの運賃より多額の乗車券で入場して精算する場合と同様だった。 カードは直接自動改札機に投入できたほか、自動券売機での乗車券・回数券(事業者によっては特急券も)を購入する時にも利用できた。残額不足の場合は現金や別のカードを追加すれば購入できたが、この場合、PASMOやSuicaとは併用できず、残額不足のパスネットを挿入した後にPASMO・Suicaを入れるとPASMO・Suicaの受付が拒否された。また、パスネットではPASMOの購入ができなかったが、その後一部事業者の自動券売機などでカード残額を全額PASMOに移し替えることが可能になった(Suicaへの移し替えは不可)。 イオカードと異なり、自動改札機での入・出場時のみならず、有人改札での入・出場時および自動精算機と自動券売機、有人改札窓口などでの使用時には、それぞれカードの裏面に日付・金額・社局名略称・利用駅名などが印字された。 カードを挿入する向きは一応指定されているが、自動改札機に関してはどの向きで挿入しても問題はない。2枚投入の際に同じ面に合わせ上下逆にして挿入しても問題はなく、同じ向きに揃った状態で出てくる。ただし、通常より処理に少々時間がかかる。 「パスネット」はシステムの名称であり、パスネット協議会ではカードの名前に使わないようにと決めている。そのため、一部の発行元では「SFメトロカード」「Tカード」などカードに固有の名称を付けている。なかには「SFとーぶカード」「SFレオカード」などのように従来のカード名称に「SF」を付ける事業者もあった。しかし、このような固有名称を付けなかった鉄道事業者も多く、これらの各社では案内上「パスネットカード」または「パスネット」という呼称が使われており、それが定着した。また、固有名称を持つ一部の事業者でも後に標記を取りやめている。また、固有名称のロゴがパスネットロゴより縮小されている事業者もある。 2007年6月現在。経緯度はGeocodingで検索したもの。 2007年3月18日からPASMOが導入され普及したことで、パスネット導入各社では記念カードの発売を終了したり、カード自動販売機を撤去したり、記念図柄の通信販売・オーダーメイドカードの受付を終了したりするなどサービスを縮小していった。PASMO開始以前からSuicaを導入・発売している東京臨海高速鉄道ではパスネットをカード自動販売機でのみ販売していたが、PASMOサービス開始時にあわせ自動販売機を撤去し、大井町 - 東京テレポート間の窓口のみでの発売となっていた。 2007年12月21日には、パスネットカードの発売と自動改札機での利用の終了が発表された。 パスネットの販売は2008年1月10日の終電をもって終了し、自動改札機の取り扱いも同年3月14日で終了した。発売は前述のとおり「2008年1月10日の終電まで」であるが、在庫がある場合は同日24時以降も終電時刻までは発売されていたので、券売機で発売されたカードには、発行日が「2008年1月11日」になっているものも存在する(券売機の日付は0時に変更される)。また、舞浜リゾートラインについてはPASMOの導入が遅れたため、ディズニーリゾートライン内の自動改札機での取り扱いをPASMOの導入前日の2009年3月13日まで継続したが、カードの発売については他の事業者と同様に2008年1月10日をもって終了した。 自動券売機・自動精算機などでの利用はこれ以降も継続してきたが、2015年3月31日の終電をもって、これらについてもすべて終了した。また自動改札機での取り扱いを終了した翌日の2008年3月15日より、パスネットで残額のあるカードについて、手数料なしで払い戻しを開始したほか、一部の事業者では手数料なしでカードからPASMOへ残額の移し替えが可能な自動券売機を設置したが、残額移し替えについては自動券売機・自動精算機と同様に2015年3月31日に終了し、払い戻しについては2018年1月31日限りで終了した。 パスネット発売終了以降の取り扱いは、下表の通りである。 通常、パスネットカードは導入事業者の対応路線の駅の自動券売機・窓口や構内売店などで発売されていたが、以下に挙げる場所でも購入することができた。カッコ内はその場所で発売されていたパスネットカードの発行事業者である。
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3,665
SCO
SCOは、コンピュータ業界のブランド名である。2001年にSCOブランドは旧SCO社から離れ、直接関係のない別会社が(新)SCO社となった。2社とも本項で説明する。 1979年に創立。社名のサンタクルーズとは、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある都市名に由来する。 1983年、マイクロソフトと共同で開発したインテルx86プロセッサ向けのUNIX実装であるSCO Xenix System VをAT&Tのライセンス下でリリースした。 1991年、Open Desktopの漢字バージョン「漢字Open Desktop」(80386/80486をCPUとして搭載したパーソナルコンピュータ上で動作するSCO UNIX SystemV/386 Release3.2にグラフィカルユーザインターフェイスのOSF/Motifを装備した統合化UNIXを日本語化したもの)を開発、OEM提供を開始した。 1995年、当時AT&TのUNIXの資産を入手していたノベルからUNIXの権利とUnixWareビジネスを譲り受け、以後UNIXのライセンサとなる。 2001年、UNIX資産の全てとSCOブランドの権利を Caldera Systems, Inc.に売却、社名もTarantella Inc.に改称。 The SCO Group, Inc.(SCOグループ)は、アメリカ合衆国ユタ州に本拠を置くソフトウェア企業である。 1994年 元ノベルの社員が、カルデラ社 (Caldera Inc.) としてユタ州で創立。Linuxディストリビューションの一つであるThe Caldera Network Desktop、MS-DOS互換のDR-DOSなどを販売していた。 1998年にCaldera Systems,Inc.を設立し、ビジネス向けLinux市場に参入。組み込み向けLinuxとDR-DOSの部門を分社化し、Caldera SystemsをNASDAQに上場。 2001年5月7日、株式上場で得た資金をもとに、オープンLinuxビジネス戦略の一環としてThe Santa Cruz Operation,Inc.(現在の Tarantella Inc. )からUNIX資産とSCOブランドを買収。以後UNIXの諸権利を所有していると主張している。 2002年8月26日、オープンLinux戦略の行き詰まりから既存ブランドの有効活用としてCaldera International,Inc.からThe SCO Group,Inc.への改称を発表した。Solaris,HP-UXなどUNIXのライセンスはSCOとのライセンス契約により配付され、SCO UNIXと言われる、インテルプロセッサで動くUNIXシステムを販売している。 2007年9月14日、SCOグループは米国連邦倒産法第11章の適用申請を行った。 2009年1月 SCOグループはUNIX事業とモバイル事業を競売にかける計画を表明した。 日本SCO株式会社は、 The SCO Group, Inc. の日本法人である。 2001年5月31日にカルデラ株式会社として設立。 2003年1月1日、親会社の改称に合わせ現在の商号に変更した。 2003年3月7日、SCOグループはIBMがSCO社のUNIXコードに基づく機能をLinuxに不正に組み込んだとして同社を提訴し、後にIBMのUNIXであるAIXに対するライセンス契約を破棄した。IBMもこれに対し反訴した。 SCOはIBM以外にもLinuxのディストリビュータやエンドユーザにも自社の権利に基づくライセンス料の支払いを要求するなどし、これに怒ったLinuxの熱狂的な支持者からと思われるDDos攻撃を受けたり、ウェブサイトを改ざんされたりした。しかしこのことがオープンソースの権利問題に関して一石を投じた形になった。 しかしながら、旧サンタクルズオペレーション社とノベルとの契約ではUNIX資産がノベルから完全には譲渡されていなかったとされ、このため現SCOの所有するUNIXに関する権利の範囲が問題となり、Linuxにおける裁判の焦点のひとつになった。 同社は証拠の提出を渋り、GPLを無効と主張するなどしたために、2006年11月30日に訴訟事由の根拠なしと判断されて主張の大半が棄却された。さらに2007年8月10日にユタ州連邦裁判所は「UNIXの著作権はノベルにある」との判決を下した。しかし2009年8月の控訴審では、地裁判決を覆し「UNIXの著作権はSCOにある」との判決が下された。2010年3月の連邦地裁での陪審員裁定において、再度UNIXの著作権はノベルにあるとされた。2010年6月、結審をうけて、ノベルは訴訟で勝利したと発表した。
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3,666
ハーグ陸戦条約
ハーグ陸戦条約(ハーグりくせんじょうやく)は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(英: Convention respecting the Laws and Customs of War on Land, 仏: Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terre)」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。戦時国際法に関するハーグ条約の一つであり、1907年の第2回万国平和会議やジュネーヴ条約等で改定・拡張され、今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。 交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。 日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。この条約が批准国の軍の行動を直接に規制するかどうかは、他の条約と同様、その国の法制度による。条約の国内法的効力を直接には認めず、それに応じた個々の国内法の制定による受容(変型という)をもって初めて有効となる国であっても、条約を批准し発効した場合、違反があったときには、少なくとも国家としては国内法を援用して国際法上の責任を免れることは出来ない。 23条1項では「毒、または毒を施した兵器の使用」を禁じている。また、同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じている。しかし「不必要な苦痛」の明確な定義がないため、曖昧なものとなっている。 (米州) - (欧州) - (亜州) - (計32カ国=原加盟国24カ国+追加加盟国8カ国) (米州) - (欧州) - (亜州) - (計44カ国=原加盟国43カ国+追加加盟国1カ国) 注:本節は条約及び附属書の条文(参考文献及び外部リンク)をなぞって現代文に改めたものである。省略したものにはその旨表記した。 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(1899年条約、1907年条約)第2条は「交戦国が悉く本条約の当事者である」ことを求めており、第二次世界大戦における当条約を解釈するさいについては注意が必要である。2条の総加入条項を有効とした判決として東京高判S47.11.28。また地裁判決では「イタリアを初めとする幾つかの交戦国が加入していなかった(・・・略)したがって、総加入条項を満たしていない以上、第二次世界大戦について、ハーグ陸戦条約の適用はないといわざるを得ない」との判示がある。
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3,667
キャッシュメモリ
キャッシュメモリ (cache memory) は、CPUなど処理装置がデータや命令などの情報を取得/更新する際に主記憶装置やバスなどの遅延/低帯域を隠蔽し、処理装置と記憶装置の性能差を埋めるために用いる高速小容量メモリのことである。略してキャッシュとも呼ぶ。コンピュータは以前から記憶装置や伝送路の性能が処理装置の性能に追いつけず、この差が全体性能に対するボトルネックとされてきた(ノイマンズ・ボトルネック)。そしてムーアの法則に基づく処理装置の加速度的な高性能化により現在ではますますこの差が拡大されている。キャッシュメモリは、記憶階層の観点からこれを解消しようとするものである。 主に、主記憶装置とCPUなど処理装置との間に構成される。この場合、処理装置がアクセスしたいデータやそのアドレス、状態、設定など属性情報をコピーし保持することで、本来アクセスすべき記憶装置に代わってデータを入出力する。通常はキャッシュメモリが自動的にデータ保存や主記憶装置の代替を行うため、基本的にCPUのプログラムなど処理装置側がキャッシュメモリを意識する必要はない。 キャッシュの一般的な概念はキャッシュ (コンピュータシステム)を参照のこと。 キャッシュメモリは再利用データのキャッシングによる実効データ帯域の増加という意義をもつ。 例えば SGEMV(単精度浮動小数点の行列ベクトル積)を考える。2.0 GHzで動作する Haswell CPUのシングルコアはピーク時に128GB/sのデータアクセスを要求する (8 [FMA/inst.] ÷ 0.5 [CPI=cycle/inst.] * 2.0G [Hz=cycle/sec] * 4 [Byte/FP32])。一方プロセッサ-メインメモリ間のレイテンシは数百サイクルであり、並列ロードをおこなっても高々5GB/sしかデータを読み出せない。すなわちメモリ律速でCPU性能の5%以下しか引き出すことができない。もし行列をキャッシュに載せきることが出来れば、よりレイテンシの小さいキャッシュメモリからデータを供給し高いデータ帯域を確保できる。 キャッシュメモリは、通常は下位レベルの記憶装置より小容量で高速なスタティックRAMを用いて構成される。データ本体の一部とそのアドレス、フラグなど属性情報のセットを固定容量のメモリに格納する構造で、データ格納構造、ライン入替え、データ更新方式、キャッシュ階層などに多数のアーキテクチャが存在する。以前はCPUチップの外部に接続されていたが、LSIの集積度の向上や要求速度の上昇に伴いCPUチップ内部に取り込まれることが普通となった。 記憶階層をもつキャッシュメモリをマルチレベルキャッシュ(英: multi level caches)という。CPUとメモリの性能差の拡大、マルチスレッドなどアクセス範囲の拡大に対応するために導入される。CPUに近い側からL1キャッシュ(レベル1)、L2キャッシュ(レベル2)と呼ばれ、2013年時点ではL4キャッシュまでCPUに内蔵する例も存在する。CPUから見て一番遠いキャッシュメモリの事をLLC(Last Level Cache)と呼ぶ事もある。 キャッシュメモリはデータをライン(ブロック)と呼ぶある程度まとまった単位で管理する(例えばIntel Pentium 4の8kByte L1キャッシュはラインサイズ64Byte)が、データのアクセス要求があった時にそのデータがキャッシュに存在しているか、あるならどのラインかなどを瞬時(多くの場合1サイクルのスループット)に検索する必要がある。そのためデータ格納アドレスの一部、具体的にはライン単位アドレスの下位数ビット(エントリアドレス)によりある程度の格納位置を限定することで検索速度を高める。各ラインにはライン単位アドレスの上位ビット、即ちフレームアドレスを格納しておき、キャッシュ検索時には検索アドレスのフレームアドレス部と、キャッシュ内に格納されている検索エントリアドレス位置(エントリアドレス部をデコードしラインが1つ選択される)に対応したフレームアドレスとを比較することでキャッシュのヒットを検出する。このフレームアドレス格納バッファが(図中)タグである。複数セットのタグを持てば同じエントリアドレスでも複数データの格納を行うことが可能となる。このタグのセット数(ウエイ)を連想度と呼ぶ。データ格納構造の相違は連想度の相違でもある。 ラインの入替え(リフィル)は該当エントリの全ラインにデータが格納されてなお同一エントリ新規フレームアドレスが入力されてキャッシュミスした(ヒットしなかった)場合に発生する。その場合どのラインを掃出して新規アドレスと入替えるかのアルゴリズムによってキャッシュのヒット率が変動する。代表的なアルゴリズムを記す。 CPUキャッシュは命令キャッシュとデータキャッシュの2種類が搭載されている場合が多い。命令キャッシュはプログラムという静的なデータを扱うのでデータ更新は存在しないが、データキャッシュはメモリへのライト動作があるためデータ更新が存在する。更新されたデータはいずれかのタイミングで下位レベルのメモリにも反映される必要があり、そのタイミングの相違により2つのアルゴリズムが存在する。 マルチCPU/キャッシュ構成など複数のバスマスタが存在し、各々がデータ更新を行った場合でも最新の正しいデータにアクセスできるよう保つべきデータの一貫性のことをキャッシュコヒーレンシもしくはキャッシュコンシステンシ (Cache Consistency) という。データ更新に上記ライトバック方式を用いた場合など、キャッシュに更新されたデータが滞留して主記憶装置など下位レベルのメモリには最新のデータが存在しない可能性がある。この時に複数のCPUが同一の記憶領域を参照/更新しようとすると、データの不整合が起こり正しい結果が得られないため、これを解決しどのCPUも必ず最新のデータにアクセスできるようにする必要がある。このための代表的なアルゴリズムにスヌープ方式やディレクトリ方式、共有キャッシュがある。
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くまいもとこ
くまい もとこ(1970年9月8日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。81プロデュース所属。 小さい時から好奇心旺盛で、女優、DJ、バイクレーサーにも憧れていたという。 小学4年生の頃に映画『銀河鉄道999』を観て漠然と役者に憧れ、中学・高校時代は演劇部に所属していた。大学時代は放送部に興味を持っており、そのことが、声優を目指すきっかけにもなったと語っている。 81ACTOR'S STUDIO第5期卒業後、81プロデュースに所属し、声優としてデビューを果たす。 2006年12月21日に病気療養のため、休業。病気休業以前に収録していた『鉄人28号 白昼の残月』や『スパイダーライダーズ 〜よみがえる太陽〜』などの例外を除いて、出演作品では代役への交代を余儀なくされた。『きらりん☆レボリューション』(第80話 「ソーナンダー!?きのこ大使でハッピーまいたけ!!」2007年10月19日放送分)にて復帰。2007年(平成19年)大晦日に放送された『メジャー 第1シリーズ』総集編でも、少年時代の吾郎役でナレーションを担当している。復帰後初のラジオ出演は『今日からマ王! 眞魔国放送協会(SHK)』第29回『グレタがぐれた!?』(2007年11月29日)である。 趣味はツーリング、ドライブ、バードウォッチング。特技は英語であり、大学時代に英語の教員免許を取得している。 声種はメゾソプラノ。 声優としてアニメ、外画、テレビ、ゲ-ムなどで活躍している。 主に少年役や少女役を演じることが多い。 くまいの病気療養に伴う休業中に代役した人物は以下の通り。ただし、『ぐ〜チョコランタン』以外の作品は復帰前に最終回を迎えたため、途中降板という形となったが、『かいけつゾロリ』のノシシ役は2012年に公開された『映画かいけつゾロリ だ・だ・だ・だいぼうけん!』から復帰しており、テレビシリーズとしての本格的な復帰は『もっと!まじめにふまじめ かいけつゾロリ』からとなっている。 太字はメインキャラクター。
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冨永みーな
冨永 みーな(とみなが みーな、1966年〈昭和41年〉4月3日 - )は、日本の声優、女優、歌手、タレント、ナレーター。広島県広島市西区己斐西町出身、東京都中野区育ち。東京俳優生活協同組合所属。 広島県広島市西区己斐西町で誕生し、赤ん坊の頃、母が具合が悪かったため、京都府の寺に預けられて、両親がその間に東京都に来ており、少しだけ大井町に住んでいた。その後、東京都中野区に引っ越した。 5歳のときに知人の勧めで母に連れられて行った映画のオーディションで合格し、1971年に当時の本名の冨永美子として神山征二郎監督の映画『鯉のいる村』のゆうこ役で子役としてデビュー。この映画で主演したことがきっかけで児童劇団に入団する。6歳の時に劇団こまどりに入団し、テレビドラマ『お嫁さんに決めた!』『それ行け!カッチン』『ウルトラマンレオ』やテレビCMなどで子役として活躍する傍ら、1975年には、海外ドラマ『大草原の小さな家』の3女のキャリー役で声優デビュー。1977年のテレビアニメ『世界名作劇場』における『あらいぐまラスカル』のアリス役などからアニメの声優の仕事も始める。 日本大学櫻丘高等学校時代からは、『銀河漂流バイファム』『魔法の妖精ペルシャ』などのテレビアニメで、声優業中心に活躍するようになり、レコードデビューも果たすなど、1980年代半ばにかけて声優界でアイドル的な存在となる。日本大学藝術学部演劇学科演技コース在学中は、声優としてさらに人気が上昇し、ラジオ『アニメトピア』のパーソナリティとしてDJデビューし、『タッチ』などにも出演する。その後、同大学芸術学部を中退。 1991年、マァム役として出演していた『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の収録中に突然激しい腹痛に襲われ、病院に搬送されるという事件もあった。検査の結果、虫垂炎を患っていたことが判明、そのまま治療のために入院することになったものの、声を担当していたマァムの出番は、この収録回で最後であった。 一時期は声優業の他に、各種ラジオ番組・モノマネ番組などにも出演していた。ナレーターとして『どうぶつ奇想天外!』『開運!なんでも鑑定団』『世界ウルルン滞在記』『いきなり!黄金伝説』など、人気番組・長寿番組に数多く関わっている。 かつてはグループこまどり、プロジェクト・レヴュー、大橋巨泉事務所、2003年 - 2014年10月頃にミントアベニューに所属していたが、2014年11月からは東京俳優生活協同組合に所属している。 2018年、第12回声優アワードにて高橋和枝賞を受賞。 長いキャリアから、諸事情により出演を見合せた声優の代役を務めたり、準レギュラーとして出演していた番組においてレギュラー声優の降板、死去により、レギュラーになった経験もいくつかある。 1995年、『赤ずきんチャチャ』では当初、おゆき先生、海坊子役などの脇役を担当していたものの、どろしー役で出演していた大坪純子が第58話を持って降板したため、第60話からどろしー役を引き継いだ。また、これまでに担当していた脇役も最終回まで続投していた。 『サザエさん』では早川さん・みゆきちゃん・イカコ・リカちゃんのママ役などの常連脇役を担当。一方で、2代目・磯野カツオ役の高橋和枝が1998年5月14日に体調不良で降板し、その後1999年3月23日に死去したことに伴い、1998年5月17日放送回より3代目・磯野カツオ役に就任。これに当たって冨永が担当していた脇役は川崎恵理子が引き継いだ。また、2018年9月に『ウルトラマンR/B』以降のウルトラシリーズで高橋が声を担当していたブースカも引き継いでおり、『レオ』以来のウルトラシリーズ出演となる。 『それいけ!アンパンマン』ではロールパンナ役やその他の脇役を担当。1999年の8月から9月には柳沢三千代の代役でカレーパンマンを演じた(柳沢は10月に復帰)。一方で、初代・ドキンちゃん役の鶴ひろみが2017年11月16日に死去したことに伴い、2018年1月26日放送回よりロールパンナ役と兼任する形で2代目・ドキンちゃん役に就任。これに当たって冨永が担当していたロールパンナ以外の持ち役は降板し、ニャンコック役は白石涼子、しろかぶくん役とレアチーズ役は渕崎ゆり子、たまごどんまん役はかないみかが引き継いだ。 2019年、体調不良によりレギュラー番組への出演を見合せた増岡弘(『サザエさん』や『それいけ!アンパンマン』でも共演)の代役として『有吉くんの正直さんぽ』の7・8月放送分のナレーションを担当。また、増岡が体調を再び崩した翌2020年の2・3月放送分も担当(その後、増岡は2020年3月21日に死去)。 初期は本名の「冨永美子」を名乗っていたが、小学生の時に易者に言われて「冨永ミーナ」に改名(『あらいぐまラスカル』のエンディングのクレジットは当初“富永美子”で、30話から“冨永ミーナ”に変更されている)。その後「冨永みーな(み〜な)」に改名。現在、所属事務所のホームページでは「みーな」となっている。 趣味としてゴルフ、釣りを挙げている。 声優の矢尾一樹と1990年に結婚したが、後に離婚。その後、2001年8月に吉本興業所属(当時)のタレント・増本庄一郎と2度目の結婚。2002年1月には、女児を出産。2004年9月に、男児を出産。現在2児の母親である。出産2日後に『サザエさん』のアフレコに参加した逸話があり、後にあるテレビ番組で、予定日の前後に産休を取る予定だったが予定日より早く産まれたため参加せざるを得なかった、と語った。 2014年1月26日に死去した初代波平役の永井一郎の葬儀ではサザエ役の加藤みどりと共に弔辞を担当した。その際に冨永はカツオが波平に話しかける口調で「父さん、大好きです。もっといっぱい一緒にお風呂に入りたかった。もっと叱られたかった」と涙声で読み上げていた。 中島役の白川澄子が2015年11月25日に死去した際には「突然の訃報に大変驚いています。いつもスタジオで優しく声をかけていただいて、本当に寂しいです。白川さんのご冥福をお祈りします。」とコメントし、最後にカツオの声で「中島ー!中島ー!俺たち永遠に親友だよな!」と締めくくった。 日本大学芸術学部時代の先輩には漫才コンビ、爆笑問題の太田光・田中裕二の2人がいた。同学部の学生有名人に過敏なまでに反感を持っていたという太田には「みーな、みーな、こっちを見ーな」などと言われ、相当絡まれたという。 フリーアナウンサーでRKB毎日放送元アナウンサーの富永倫子は親戚。 笠原弘子とは彼女のコンサートに関わるなど、親交が深い。 声種はアルト。 歌やラジオ、写真集などでマルチに活躍する声優としては、1990年代の声優ブームにおける風潮を先取りしたと言える。2017年の談話では「俳優が声優の仕事を行い、声優が俳優の仕事を行なうようになって、俳優と声優がボーダレスになる方が自然」という趣旨のコメントを残している。10代のころはまだ声優という単語自体が存在しておらず「俳優が"声の仕事"をする」と言っていた。16歳からアニメの仕事が多くなった背景には、当時10代の声優の絶対数が足りておらず消去法で自分くらいしかいなかったという事情もある。同じく10代のころ、OVAの販促などのイベントを行うと、当時10代の声優に興味を持つ人自体が希少であったため、イベントには同じファンが来ることが多かった。海外映画の吹き替えを10代のころはよく担当していたが、それは収録日が土日であり学校に通いながら活動するのに好都合であったためであり、収録に関しては当時は劇団こまどりの西村サエ子代表に導かれるがままであったと2017年のインタビューで述懐している。ファンに自身を認知してもらえるようになったきっかけはOVA『BIRTH』の販促イベントであるとのちに話している。1980年代のころから声優活動をしていたため、1990年代の声優業界では姉貴分扱いされることが多かった。 自身が歌手として初めて楽曲をリリースした時点では、声優で歌っていたのは小山茉美くらいであり、当時は声優がアイドル歌手として人気を集めるような時代ではなかった。それだけに声優を担当している自身がファンから応援してもらえたことは冨永本人にとって不思議なことであった。 なお、『声優Premeum vol.2』では、「劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー」としているが、ディスコグラフィにある通り、10歳の時にリリースした2曲がデビュー曲である。 レポーターをやってみたくてオーディションを受けたところ、大橋巨泉事務所の関係者のつてで『走れ!歌謡曲』に出演させてもらったのは本人にとって良い思い出だという。 写真集『パーフェクトみーな』はある種の触れられたくない過去としている。2017年の時点では捨てるに捨てられず1冊だけ保存しているが、保存に使用している箱には「開けちゃイヤ」と書いてある。写真集については「本当に見られたくないんです。きれいじゃないし、太ってるし」と恥ずかしがっている。 『名探偵コナン』への出演を希望しており 、2018年には映画『名探偵コナン ゼロの執行人』にゲストとして初出演を果たしている。 声優以外で少女時代に憧れていた職業はキャビンアテンダント=スチュワーデスだったという。 2017年時点では家事や育児を優先しており、午後5時から7時の仕事は先方に避けてもらうようにしている。 座右の銘は「なせばなる、なさねばならぬなにごとも」。 高橋和枝が体調不良でスタジオに来られなくなった日、ディレクターから「カツオできるか?」と聞かれ、自身は「出来ません」と答えたが、「ちょっとやってみよう」と言われてその日のカツオの台詞を収録。それまで男の子を演じたことがなく、カツオを演じたのは不思議な感覚だったという。自身は「高橋のことが大好きで、その高橋が演じるカツオの素晴らしさを目の当たりにしていたので、どうしても高橋のカツオをなぞるような感じになってしまい、どうしていいのかわからず混乱してしまった」と語っている。次の週に高橋が入院し、「入院の間だけやってくれ」とディレクターに言われ、「自分でも違和感があるけど仕方無い。やらせていただこう」「高橋はカツオに対して何を大切にしているのだろう?」と自分なりに考えて演じたと語っている。高橋には絶対戻って欲しかったが、それは叶わず、自身が3代目・磯野カツオ役になる。後日、高橋が「冨永ならいい」と言ったのを聞き、とても嬉しく心強かったと述べた。 太字はメインキャラクター。
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森功至
森 功至(もり かつじ、本名同じ(旧芸名:森 深雪〈もり みゆき〉)、1945年7月10日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)生まれ、東京都中央区日本橋、文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)出身。プラスワンカンパニー所属。 日本大学豊山高等学校中退。 かつては、俳協、劇団河、青二プロダクション、自らが代表を務めていたオフィスもりに所属していた。 中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)で生まれ、終戦の1ヵ月ほど前に父の腕に抱かれて、母に背負われて中国大陸を南、東に移動し、海に渡る。終戦後の2歳くらいの時に親に連れられて故郷の東京都に戻り、東京都中央区日本橋のビルの谷間に建てられていたわずか一間の掘っ建て小屋に住む。父は建築関係の仕事を見つけて懸命に就職し、その後一家は東京都文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)に焼け残っていた土蔵を買い取って転居。 10歳の時にラジオドラマ『少年猿飛佐助』の主役の一般公募に親が応募するが、面接通知が届いたのが面接翌日で、ひどく落胆した。それを見た親に連れられて児童劇団の入団試験を受け、児童劇団こじかに所属。子役として活動した。劇団入団後の初仕事はラジオドラマ『宇宙人類ノバ』の主役。3年後、俳協の前身である太平洋テレビジョンに移る。最初のアテレコは『ビーバーちゃん(英語版)』のウォーリー役。15-6歳のころにNHKの時代劇『黒百合城の兄弟』に少年剣士役でレギュラー出演から俳優活動を始めるが、大人に言われるがままスタジオに行って演技の繰り返しから「この世界にいてもいいんだろうか」と不安になり、壁にぶち当たったりした。それが原因で、何回か役者を辞めた時期があり、俳協でデスクやマネージャー、『科学忍者隊ガッチャマン』放送終了後の1975年に30歳の時に金融会社のサラリーマンをやっていた経験がある。 顔出しの仕事も並行しながら『マッハGoGoGo』で主人公・三船剛を演じる。共演した大宮悌二、富山敬、愛川欽也らに影響を受け、「声の仕事を優先的にやりたい」と思い、富山が所属していて愛川が移籍したこともあって所属事務所を河の会に移す。 1970年 - 80年代のヒーローものに多数出演している。 元々は、当時の本名である田中深雪(たなか みゆき)で活動していたが、女性に間違えられることがあったため、田中雪弥(たなか せつや)の芸名を用いた。10代のときに軽自動車で交通違反をした際に、警察から本籍地に自身の本名である田中深雪の名前がないと連絡があって調べたところ、両親が籍を入れておらず戸籍上の姓が母方の姓である「森」であることが分かる。その後本名である森深雪(もり みゆき)で活動しようとしたが、森深雪という名が「森の中で深い雪に閉ざされ、一生陽の目を見ない名前」と姓名判断で言われたため、森功至(もり かつじ)の芸名を用いるようになり、その後裁判所で本名も森功至に改名した。 40歳を過ぎてナレーターとしての活動も開始。どうやって自分を生かしていけばいいんだろうかと考えていたが、企業プロモーションビデオのナレーションから、当時ワイドショーなどが放映され始めた時期で、生ナレーションをやらせてもらうようになった。初めて生ナレーションしたときには強いプレッシャーを感じ、全身の筋肉が硬直して原稿を持つ手が震えからペーパーノイズがマイクに乗るんじゃないかと思うような状態で、何を読んだのかまったく記憶に無いという。 2013年の第7回声優アワードで、タツノコプロ50周年としてシナジー賞を受賞。 50歳後半になって、所属していた青二プロダクションを退所し自らが代表を務めるオフィスもりを設立。オフィスもりの声優研究所であるVoice-1 アカデミーで講師を務め、後進の指導にあたっていたが、オフィスもりは2018年6月27日に東京地方裁判所から破産手続開始決定を受けた。 声種はテノール。 アニメ黎明期よりヒーローを演じ、活躍している。若い頃は『マッハGoGoGo』の三船剛、『サイボーグ009』の009/島村ジョー、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健、『宇宙の騎士テッカマン』の南城二、『柔道讃歌』の巴突進太といったヒーロー役が多かったが、『アタックNo.1』の湯島二郎、『キューティーハニー』の早見青児、『エースをねらえ!』の藤堂貴之、『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ、『J9シリーズ』、『美少女戦士セーラームーン』のネフライト、『銀河英雄伝説』のウォルフガング・ミッターマイヤー、『イウォーク物語』のゴルニーシュの部下など、問わず優しい美形キャラを担当することが多い。2008年放送の『RD 潜脳調査室』では、60代にして主人公・波留真理役に登板。同キャラクターの老年期のみならず青年期も演じた。2013年の『THE UNLIMITED 兵部京介』においても、同様に早乙女英治の青年期と老年期を演じている。 『マッハGoGoGo』出演当時、軽自動車免許が16歳で取得可能だったため、免許取得当日に購入した軽自動車をディーラーから受け取り、そのまま東京まで仕事に行ったことがある。 趣味は旅行、パソコン。特技はギター。1985年には未だ黎明期で非常にマイナーな時期のパソコン通信「アスキーネットacs実験システム」に「Makonosuke」のハンドル名で参加。ネットワーク活動を開始している。この彼の進取性は特筆に値する。やや遅れて参加した古谷徹が当初からカリスマ的存在だったのに対し、彼はその気取らない親しみのあるキャラクターで「気さくなオヤジ」的存在として、参加者の大きなウエイトを占める技術集団からの信望も厚かった。 森が『美少女戦士セーラームーン』で演じたネフライトは敵役ではあるが、物語の中で月野うさぎの親友・大阪なるとの間に恋が芽生えるというアニメオリジナルのストーリーが展開される。しかし、ネフライトはアニメの第24話で、ゾイサイトの配下の攻撃からなるを庇ったために致命傷を負い、なるに嘘をつき続けたことを詫びながら絶命してしまう(原作のネフライトはセーラージュピターに倒されている)。このシーンでは、なるを演じた柿沼紫乃が役に入り込みすぎたために号泣してしまい、何度もNGを出してしまうという出来事があった。柿沼は後に「森さんとスタッフの方々に大変迷惑をかけてしまった」と語ったが、森はこの一件に対して、「役者冥利に尽きる感じです」と高く評価している。 2008年4月6日放送の『大胆MAP』(顔を見てみたいアニメキャラクター30人全部見せちゃうよ! 春の撮れたて新作SP)に『機動戦士ガンダム』のガルマ・ザビ役、『科学忍者隊ガッチャマン』の大鷲の健役として紹介されたが、調査員の品川祐の「カメラの前で顔出しをして欲しい」との交渉に対して森本人が顔を出すことに難色を示し、横顔を出した状態で顔出しを行った。同日に更新された 「旧もりもり日記」 によると、「一家団欒の中で見るテレビではあのアニメの役をやっている森功至は出るべきではない。それが私の考え方であり拘りなのである」と述べていることから、森本人の「(テレビに顔を出すことによって)子供の夢を壊したくない」という考え方が垣間見える。 ただし、ナレーターを務めていた『マジカル頭脳パワー!!』で顔出しをしたことがあった。1999年4月22日に放送されたコーナー「いじわる実験室」において「私は赤い眼鏡と黄色い眼鏡と青い眼鏡をしています。さて私は誰でしょう?」という問題が出題された。「信号機」と言いそうな問題だが実際の答えは赤・黄・青の眼鏡をかけた森本人であり、ほとんどの回答者が誤答を連発しなかなか正解が出ないため森が説明した。また1999年9月16日に放送された最終回にも、総合演出の五味一男と談笑しているシーンが一瞬ながら公開された。2001年12月29日に放送された復活スペシャルの1週間前の12月22日に放送された『スーパースペシャル2001・総制作費30億!!日テレ年末年始スペシャルのオイシイ所ジョージが全て見せますペシャル』でも所ジョージ打倒の鉢巻きをしながら問題を出題している様子が流された。 2011年1月11日放送のフジテレビ『FNNスーパーニュース』やテレビ朝日『スーパーJチャンネル』などのニュース番組で、「全国の児童養護施設等に“伊達直人”名義でランドセルや現金等の寄付が送られているニュース」に関連し、「伊達直人の声を担当した事もある声優」との紹介でインタビュー形式で顔出しでコメントをしている姿が放映された。また、1月13日のフジテレビ『とくダネ!』にはスタジオに生出演。各地の寄付品に添えられていた「伊達直人からの手紙」の一部を朗読した。この騒動で、本来の担当声優である富山敬が既に故人で代役を担当した自分にコメントを求める取材が集中したことに対して恐縮し困惑したとの心境がブログで語られた。悩みに悩んだ結果、取材を受けたが、東京キー局すべてから取材を受けたことに対して「思ってもみなかったこと」との感想や、改めて「声のドリームセーラーマンだから今後もバラエティ番組に顔出ししないつもり」との心境を語った。 太字はメインキャラクター。
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吉田理保子
吉田 理保子(よしだ りほこ、1949年1月24日 - )は、日本の女性実業家、元声優。現在はディーカラーにキャスティング・コーディネーターとして在籍。 劇団こまどり、青二プロダクション、ぷろだくしょんバオバブを経て、81プロデュースに所属していた。 東京都出身で、4人兄妹の長女。東京都練馬区育ち。 子供の頃はバレリーナになろうと3歳からバレエをしていたが、「踊りには演技の勉強も必要だな」と思い出し、富士見高校時代は演劇部に所属していた。知り合いにテレビ局のプロデューサーがいたことがきっかけで、劇団こまどりに所属。 20歳ごろに、NHK教育テレビの番組『明るいなかま』に顔出しでレギュラー出演をする。だが、本人曰く「太ってきちゃって(笑)。そのままいけば結婚するシーンもさせてあげるという役だったのに、その話もなくなっちゃうくらい」「こんなに太っちゃったら映像はもう無理じゃない?」となり、フジテレビの人物の紹介で声優活動を開始する。アニメのデビュー作は『アンデルセン物語』。 1998年1月に声優業の第一線から引退する。理由については後に、洋画でいい役や面白い役を当時立て続けに担当できたことや、現場で共演者の芝居を観て「もっとこうすれば良くなるのに......」と感じるようになりマネージャーに向いているかもしれないと考えたこと、それまでにさまざまな役を演じ「やりきった」という気持ちが大きかったことを挙げている。 引退後はマネージャー職を経て、キャスティング・コーディネーター、声優講師などの活動に主に携わっている。声優業については過去に演じた役・再現など特殊なオファーが入った場合を除き、基本的にしない方針を採っている。 2006年より野沢雅子が独立して設立したオフィス野沢に移籍し、野沢のマネージャーを務めていた。2012年4月30日付けでオフィス野沢廃業後、メディアフォースに移籍しマネージャー業を務めていたが、2014年2月23日、メディアフォースの破産に伴い、同年3月より株式会社ディーカラーにて所属声優のキャスティングに関わる業務を行っている。 声種はメゾソプラノ。 声優としては1960年代末期から1990年代にかけて活躍。『アルプスの少女ハイジ』のクララなど当初は少女役が多かったが、1978年に『未来少年コナン』で大人の女性であるモンスリー、翌1979年には『ベルサイユのばら』でロザリー・ラ・モリエールを演じ芸域を広げた。主役級の代表作に、『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグ、『まいっちんぐマチコ先生』麻衣マチコなどがある。 洋画吹き替えでは、『エイリアン3』のシガニー・ウィーバーや『ターミネーター2』のリンダ・ハミルトン、『女刑事キャグニー&レイシー』のシャロン・グレスなど芯の強い女性キャラクターを数多く演じた。 特技は日舞。趣味は読書、お酒、ゴルフ。 『アルプスの少女ハイジ』のクララについて、後に「ああいう役はめったに出会えなかった」「特別な役」であると共に、一番苦労した役だったと述べている。収録時に画がなく、何をやってるのか分からなくなるくらいダメ出しが多かったため、いつも「早くハイジは山に帰れ!」と思っていたといい、クララがハイジに再会した辺りから「やっと吹っ切れた」という。また、演技ができず悔し泣きをした経験もあり、「今は、そういう経験をしたから良かったんだと思いますけど」と語っている。 『魔女っ子メグちゃん』の神崎メグについては、クララとは対照的に男勝りで活発なため「本当に伸び伸びと地のままで演じさせていただいた感じでしたね」と語り、童心に戻れたように楽しく演じられた大好きな役だったという。 メグを演じていた頃、当時の所属事務所に小学校5年生の少年からファンレターが来た、内容は手紙の他に野球のユニフォーム姿などプライベート写真が同封されていた。明らかに吉田を異性として意識していたものであり、メグを演じる吉田のことを中学2年生くらいのお姉さんだと思い込んでいた様子だったという。 吉田の引退後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 太字はメインキャラクター。
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米国立スーパーコンピュータ応用研究所
米国立スーパーコンピュータ応用研究所(べいこくりつスーパーコンピュータおうようけんきゅうじょ、英: National Center for Supercomputing Applications, NCSA)は、アメリカ合衆国イリノイ州のイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にある研究所で、米国科学財団のスーパーコンピュータを扱う5つの施設のうちの1つである。スーパーコンピュータを利用した研究を主とするが、Mosaicと呼ばれるWebブラウザやNCSA HTTPdと呼ばれるWebサーバソフトウェアを出した研究所として知られている。 1983年、アーバナ・シャンペーン校の教職員であるラリー・スマールを先導に、米国科学財団に頼んでもいない提案を送ったことからこのセンターは建てられた。米国科学財団が1985年にスーパーコンピュータの施設への資金提供を発表し、翌年の1986年1月に初めてスーパーコンピュータはオンラインになった。NCSAの実質的な活動を開始したのもこのときであるため、設立は1986年1月とされている。 最初に、NCSAは事務所をWater Resources Bulidingに置いた。後に本部はアーバナ・シャンペーン校のキャンパスの周りに散らばり、2006年現在ではアーバナ・シャンペーン校の中に自前のビルに置かれているが、それはアーノルド・ベックマンの高度な科学や技術を扱う研究所として使われていた場所であった。その新しい本部は「NCSAビル」と呼ばれている。なお、スーパーコンピュータの施設はAdvanced Computation Buldingと呼ばれる施設に収容されている。 NCSAは大学、政府、民間会社、コミュニティ及び学校とともに、どのようにしてサイバーインフラストラクチャの利点を発見するか、というものを仕事としている。全米科学財団、イリノイ州、イリノイ大学及び産業のパートナー、そして他の連邦機関はNCSAを支援している。 NCSAのスーパーコンピューティングシステムBlue Watersは、ピーク時のパフォーマンスが1.3ペタFLOPS(1秒あたり1.3京回の浮動小数点演算)を超える程度である。 Mosaicは世界で初めての画像を扱えるウェブブラウザで、インターネットとWorld Wide Webの成長に重要な役割を果たした。このソフトはマーク・アンドリーセンとエリック・ビナによって作られ、後にその2人はNetscape Navigatorを開発した。また、スパイグラスのライセンスを受けて、マイクロソフトのInternet ExplorerもMosaicの基盤を利用していた。
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ヨハネス・ファン・デル・ワールス
ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールス(Johannes Diderik van der Waals, 1837年11月23日 - 1923年3月8日)は、オランダの物理学者。分子の大きさと分子間力を考慮した気体の状態方程式を発見し、1910年にオランダ人として3人目のノーベル物理学賞を受賞した。 ヨハネス・ファン・デル・ワールスの業績の重要さは以下の点にある。 他に、この研究を発展させた混合気体の理論や、液体の表面張力に関する研究もある。 彼の研究の始まりは分子運動論から理想気体の法則を導いたクラウジウスの論文である。これに触発され、二酸化炭素の状態を詳しく調べて臨界温度を求めていたアンドリューズの実験(1869年)を分子論的に説明できないかと考えた。そして、理想気体の状態方程式に分子間の引力(ファンデルワールス力)と分子の大きさをそれぞれ表す二つの定数(ファンデルワールス定数と呼ばれる)を導入することで実験結果を上手く説明できることを発見した。 分子間力や分子の大きさは気体によって異なるため、当初彼の発見した状態方程式の定数は気体ごとに異なった値を持っていた。しかし彼はさらに研究を進め、温度・圧力・体積の尺度を変えるだけで多くの気体や液体の性質が同じ状態方程式であらわされるという法則を導き出した。この成果によって、デュワーの水素液化やカメルリング・オネスのヘリウム液化の方法が開発された。 この後、ファンデルワールスの状態方程式の誤差を埋めるべく、クラウジウスほか多くの物理学者によって様々な方程式が提案されているが、分子間力と分子の大きさを考慮するというファン・デル・ワールスの直感は今でもそのまま残っている。
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金属
金属(きんぞく、英: metal)とは、展性、塑性(延性)に富み機械工作が可能な、電気および熱の良導体であり、金属光沢という特有の光沢を持つ物質の総称である。水銀を例外として常温・常圧状態では透明ではない固体となり、液化状態でも良導体性と光沢性は維持される。 単体で金属の性質を持つ元素を「金属元素」と呼び、金属内部の原子同士は金属結合という陽イオンが自由電子を媒介とする金属結晶状態にある。周期表において、ホウ素、ケイ素、ヒ素、テルル、アスタチン(これらは半金属と呼ばれる)を結ぶ斜めの線より左に位置する元素が金属元素に当たる。異なる金属同士の混合物である合金、ある種の非金属を含む相でも金属様性質を示すものは金属に含まれる。 その性質から、以下の5つの特徴をすべて備えるものを金属と定義している。 ただし、金属元素以外でも特定環境下では金属状態となる可能性も指摘され、例えば常温で200GPaの高圧下では水素は金属様性質を帯びると推測されている。これを金属水素と呼称する。 金属を原子の化学結合で定義する場合、特有の金属結合で説明される。これは、カチオン化した金属元素が規則正しく並び、その間を自由電子が動き回りながら、これらがクーロン力で結びついている結合を指し、常温下でこのような結合状態にある物質を金属と定義している。 原子の配列は、ほとんどの場合、面心立方格子構造 (fcc)、体心立方格子構造 (bcc)、六方最密充填構造 (hcp) のいずれかを取り、元素の種類や同じ元素でも状態によってそれぞれの構造となる。この構造はそれぞれ原子充填率が異なり、金属の塑性変形に影響を与える。 自由電子理論では、金属とは陽子がつくる格子状立体の中を電子が自由に飛び回っている状態 (Drude, 1900)、自由電子の気体の中に鋼体球(陽イオン)が浸かっている状態 (Lorentz, 1923) という表現で、カチオンと電子雲が結合する様子と自由電子のふるまいを説明した。この自由電子の存在が金属の特徴をもたらす。物体に外部の力が加わってズレが生じた際、イオン結合の物質は静電反発が起こり壊れるのに対し、金属は自由電子が取り囲んでいるために結合が安定する。金属光沢は、自由電子がほとんどの可視光をはねかえす、実際は自由電子の集団が様々な波長の光を吸収し再放出するために、全体では反射し光沢を持っている様に見えることによる。導電性には、電荷を持つ電子が自由に動き回りながら電極間に電荷を受け渡すことで寄与している。 原子中の電子が取りうるエネルギーのレベルは、複数の原子が存在する状態下ではおのおのが重ならない電子軌道を取る。量子力学が要請するこの分裂によって生じる軌道は、金属においてアボガドロ数程度の原子が存在する状況ではエネルギーが低いところから順々に埋められ、最も高いエネルギー(フェルミエネルギー)を持つ電子が球状のフェルミ面を形成し、全体として定まった幅を持つ。これは「バンド構造」と呼ばれる(バンド理論)。このバンドには物質によっては電子が軌道を取りえない断絶したエネルギー領域(バンドギャップ、禁制帯)があり、電子が取りうる最大のエネルギー領域がこのバンドギャップ部分にあると、電子軌道はギャップよりも低く原子核に束縛される バンド領域(価電子帯、バレンスバンド)に詰まってしまい、電流は流れない。しかし金属にはこのバンドギャップが無いため、電子は自由に動くことができ、電流が流れる。 半導体は、このバンドギャップが1eV前後であるため、光や熱のエネルギーを加えることで電子の一部をバンドギャップよりもエネルギー位置が高いところにある伝導帯(コンダクションバンド)まで引き上げることができ、結果通電するようになる物質である。 系の自由度を規定するギブスの相律では、物質の状態は以下の式で示される。 金属の相律を考える際、わずかな圧力変化が及ぼす影響は無視してかまわないため、変数2が表す示強性のうち圧力を減らした次式を用いる。 純金属の成分 C {\displaystyle C} は1となるため、上式を変形すると となり、 P {\displaystyle P} = 2 すなわち固相と液相が共存する状態での自由度 F {\displaystyle F} は0になる。これは、純金属が一定の融点を持つことを示す。一方、合金では C {\displaystyle C} は2、 F {\displaystyle F} は1となり、融け始める温度(固相線温度)と完全に融ける温度(液相線温度)が異なるため、固相線温度を融点と置いている。これら相の変化は、溶融状態の金属を徐々に冷却しながら凝固させ得られる冷却曲線から分析する。 この、一定である純金属の融点(凝固点)は、温度の定点として利用されている。国際温度目盛1990年改訂 (ITS-90) ではスズ、アルミニウム、金、銀などの凝固点が採用されている。融点から沸点の間で液体状になった金属、または狭義では室温付近で液体状になる金属を液体金属という。 金属は一般には硬いものとしてイメージされ、ひっかき硬さなどの意味に置いては実際に硬いものが多い。しかし、アルカリ金属やアルカリ土類金属のように柔らかいものもある。また、塑性という観点に立てば、むしろ金属は柔らかく(延性があり)加工しやすいのが特徴といえる。工業的に大量に利用されている理由も、強度と加工しやすさのバランスの良さにある。 塑性には、金属原子がどのような構造配列を持っているかも影響を与える。金属の塑性変形は原子密度が高い辷り面(すべりめん)と呼ばれる結晶面に沿って、原子の間隔が広く抵抗が少ないところから間隔が狭い方向(辷り方向)に起こる。この辷り面と辷り方向の組み合わせは「辷り系(すべりけい)」と呼ばれ、原子の構造配列によって数が異なる。それぞれの系の数は、fccが12、bccが48、hcpが4となる。ただし、bcc構造は原子密度が高い領域が無いため、辷りを起こすためには大きなせん断力が必要になる。このような理由から、fcc構造の金属は比較的簡単に塑性を起こし、bcc構造の金属は力が必要だが多様な形に変形させることができる。 金属材料の硬さ評価は、JIS規格にてブリネル硬さ、ビッカース硬さ、ロックウェル硬さ、ショア硬さの4種類の測定法が定められている。ブリネル硬さ試験は鋳物などに限られ、荷重の幅が広いビッカース硬さ試験は柔らかい金属から超硬合金まで対応が可能。ロックウェル硬さ試験は黄銅や焼入れ合金などで用いられる。 物質が相を固体、液体、気体に変えることを相変態というが、ほとんどの金属はこれ以外に固体状態で結晶構造を変える現象を起こし、これを「固相変態」、「同素変態」または単に「(金属の)変態」と言う。この変態は温度変化によって起こされ、大抵のケースでは低温のfccやhcp構造を取る金属が固有の温度(変態温度)でbcc構造へ変わる。しかし例外として鉄は特殊な変態を見せ、低温時のbcc構造(α-Fe)から、912°Cを境界にfcc構造(γ-Fe)へ変り、さらに加熱すると1400°Cでbcc構造 (δ-Fe) となる。これは、低温の鉄は磁性が強いために起こる現象と説明されており、この特性が鉄の用途を広げる理由ともなっている。 高温の金属が冷却されbcc構造になる変態を「マルテンサイト変態」と言い、これは開始温度 Ms で始まり終了温度 Mf で完了する。逆にbcc構造の金属を加熱し起こす変態は「逆変態」と呼ばれ、温度 As で始まり Af で完了する。これらの温度は Mf<Ms<As<Af の関係にある。 この変態を工学に応用する例には、原子力発電所で利用するウラン処理がある。668°C以下で斜方晶構造 (α-U) のウランは発電において鍛造や圧延加工を施し棒状に成形されるが、これには集合組織が形成されるため何度も加熱するうちに熱膨張を起こして数倍に伸びる。そこで、ウラン棒を加熱し正方晶構造 (β-U) へ変態させた上で急冷し、集合組織を除去する。これによって熱膨張を低減させることができる。 自由電子のふるまいによって、金属の熱伝導率と電気伝導率は高くなり、しかも比例する(ヴィーデマン=フランツ則)。金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する。これは温度の上昇に伴って伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて金属の電気抵抗はゼロになることを検証する過程で、超伝導が1911年にヘイケ・カメルリング・オネスによって発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22K、アルミニウムは1.20Kとなる。 貴金属など一部を除き金属は本来、酸化や硫化された状態が安定している。工業利用では還元反応を用いて化合物を取り除いているが、自然な状態に置いた金属は再び酸素や硫黄などと結びつこうとする性質を持ち、錆や脆化が発生する。これらや、酸による反応などは一般に腐食と呼ばれる。腐食は、「化学的腐食」に相当する溶液による「湿食」や腐食性ガスがもたらす「乾食」がある。「電気化学腐食」は、合金を含め複数の金属が接触しているものに対し、電極の電位差から起きる腐食であり、イオン化傾向が強い金属が陽極(アノード)となって電解腐食(ガルバニ腐食)を起こす。 一方、化学的腐食のうち酸などが金属の表面を侵した段階で、この部分が酸化皮膜化してそれ以上の腐食が起こらなくなる現象がある。例えば鉄を希硝酸に漬けると溶解するが、硝酸濃度を上げ40%を超えると溶解速度は遅くなり始め、65%以上では溶解しなくなる。これは、鉄の表面に数10Å厚の不溶性である酸化鉄(II,III)が生成されるためである。このような状態となった金属を不動態と言う。 金属が酸素と結びつく酸化反応には、激しく起こるものと緩やかに進行するものがある。金属粉が酸化する場合、急な発熱や閃光を伴うことがあり、爆発事故に繋がる場合がある。この現象を逆利用したものがアルミニウム粉末を用いた溶接の手段であるテルミット法や、マグネシウムを利用する写真用フラッシュなどである。 塑性がある金属でも、過大な力が掛かれば破壊する。引張破壊を例にすると「脆性破壊」と「延性破壊」に分かれる。ぜい性破壊は亀裂を起因とするもので破壊箇所に塑性変形が見られず、金属の結晶面に沿って破壊が始まり、劈開(ヘキカイ)破面と呼ばれる断面が2km/秒という瞬時に金属に走って断裂する。これは部品設計上の問題が大きい。延性破壊は荷重のため金属が延伸し、その限界に達したところで断裂を起こす。そのため、破断部分に伸び細った様子が見られ、破断面にはディンプルと呼ばれる小さなくぼみが多数観察される。このような破壊に対し、破断面を観察し研究する分野はフラクトグラフィ(破面学)と呼ばれる。 一方で、破壊を引き起こさない程度の力が繰り返し同じ箇所に掛かるような時にも破壊が起こる。これは「金属疲労」もしくは単に「疲労」と呼ばれる。 金属の分類にはいくつかの方法がある。 金属を比重で分類する場合は、比重5を基準に下回るものを軽金属、上回るものを重金属と一般に呼ぶ。しかしこれはあまり厳密な定義ではなく、基準を比重4とする場合 もある。 貴金属と卑金属の分類にはさまざまな考え方がある。イオン化傾向から小さい金属を「貴金属」、大きいものを「卑金属」と呼ぶ概念、これに産出量の少なさや金属光沢の美しいもの(貴金属:precious metals)と大量産出されるもの(卑金属:base metals)を判断に加える概念 もある。貴金属は財貨となり、硬貨や貨幣経済を裏打ちする金本位制の基礎など、世界経済を支える役割を担った。また、卑金属から貴金属を生み出すことを目的とした錬金術は、化学の生みの親ともなった。 ほとんどの金属が持つ金属光沢は灰白色であるが、一部に、比較的はっきりした色相を有する金属がある。純金属では金や銅、合金では黄銅、丹銅などがある。なお表面が酸化、塩素化、窒化など化学反応を起こした場合、これらの化合物の色や、酸化発色などの構造色 によって変色することもある。 金属を汎用金属(コモンメタル、ベースメタル)と希少金属(レアメタル)に分ける分類もある。レアメタルの基準は以下の1-4のどれか一項目を満たし、かつ5番目の条件にあてはまるものを言う。 レアメタルは、典型元素15種類+希土類以外の遷移元素15種類+希土類金属(レアアースメタル)17種類の合計47種類があり、この中には半金属のホウ素、セレン、テルルも含まれる。これらレアメタルはクラーク数の少なさとは必ずしも一致せず、例えば銅は、地殻に含まれる量は少ないが古来青銅器が作られたように鉱石が発掘しやすく精錬も容易だった。 コモンメタルの定義は、「レアメタル以外の金属」「歴史的に文明を支えた鉄、銅、亜鉛、スズ、水銀、鉛、アルミニウム、金、銀の8種類」など複数ある。 以上のように「レア」と「コモン」の差は物質の絶対量ではなく、人類がいかに容易に調達できるか、需給バランスのギャップという点が強い。そのため、精錬技術の向上など製造プロセス革新によってレアメタルに分類される金属がコモンメタル化される可能性があり、その例としてチタンがコモンメタル化されつつある。 単一の金属を「純金属」という のに対し、複数の金属の化合物を「合金」という。合金は単体の金属が持たない性質を持つことがあり、工業用材料として用いられる金属は多くが合金である。 鉄を基礎とする合金(鉄基合金)は鉄鋼と呼ばれ、その潤沢な生産性を背景に様々な分野で活躍している。鉄鋼は本質的に鉄 (Fe) と炭素 (C) の合金であり、その微細組織は Fe-C 二元系が平衡状態にある物質と定義できる。鉄鋼の用途は構造部材が主流とするが、車両や船舶など輸送機械、発電、化学などのプラントや工作機械類、ばね、工具、金型など多岐にわたる。 鉄鋼はさらに別の金属を加えた改良が施され、クロムを加えて耐食性を付与した不銹鋼(ステンレス鋼)は100種類以上、優れた磁性を持つ磁石鋼、膨張など温度による影響を排除した不変鋼(インバー、バイメタルなど)、その他にも工具鋼や耐熱鋼、快削鋼など、多様な合金が上市されている。 本来は結晶相を持つ金属が、ある種の合金では規則的な格子を作らずガラスのように非晶性となることがあり、これはアモルファス金属と呼ばれる。1960年、金-シリコン合金で発見されたこの性質は、他に鉄系、アルミニウム系、コバルト系、ニッケル系、マグネシウム系などが知られる。 アモルファス金属は、強い磁性に機械的強度や耐食性に優れ、温度変化による熱膨張や剛性低下の係数が低い。アモルファス金属の製造法には複数の手法が提案されているが、工業的には直接合金を得られる溶融金属の急冷凝固法が優れている。 合金の中には、特殊な機能を持つ種類がある。ニッケル-チタンや鉄-マンガン-チタン合金などの形状記憶合金、相変態を利用した超弾性合金、金-銅-ジルコイル合金などの超塑性合金、マグネシウムなどを用いる水素吸蔵合金、結晶境界のずれを利用する制振合金などがある。水銀や高価なセシウムに替わる低融点の合金も研究されており、かつて開発されたウッドメタルの毒性を改良したガリンスタンなども提案されている。今後は、レアメタルの用途を代替する合金の開発などが求められている。 地球の環境下において、天然の状態で得られる純金属はごく少数に限られ、ほとんどは酸化物、硫化物、炭酸塩、ケイ酸塩、ヒ化物といった化合物となっている。これらから他の元素を排除して利用に耐えうる金属を取り出す手法を精錬、冶金と言う。その方法は加熱して行う乾式精錬法(乾式冶金法)と、電気分解(電解精錬)や溶液内で抽出する湿式精錬法(湿式冶金法)があり、これらは金属と他の元素間に働く結合力(親和力)などから選ばれる。 金属利用範囲の拡大に伴って高純度の金属が求められるようになり、これらに対応する精錬法も開発されている。ゾーンメルト法(帯域溶融法)は、溶融させた不純物を含む金属を徐々に冷やし、偏析を利用して純度を高める。 金属を工業材料として用いるには、まず溶融させて鋳型に流し込む鋳造から始まる。青銅器時代から用いられたこの金属加工法で作られた鋳物は、そのままでは粗く、不純物の遍在や鋳巣などがあり強度が低い。これらは金属部品の要求性能が高まるにつれ、塑性加工技術の進展や用いられる合金の改良などが施された。鉄では1947年に球状黒鉛鋳鉄、アルミニウム合金では1920年にシルミンの改良法が発案され、溶湯(ようとう、溶融状態の金属)処理法での強度改良に大きく寄与した。 製法も、砂型、金型、ダイカスト、精密鋳造など多種の手段が用いられるようになった。効率向上においては、連続鋳造法の基礎が1933年に発案され、1950年代にプロセス改良を経て実用的な技術として確立された。 金属に弾性限界を超える外的な力を与え、永久ひずみを起こして望む形状や寸法に加工することを塑性加工と言う。これには、加熱した状態で行う「熱間加工」と常温で行う「冷間加工」に分類され、前者は再結晶が伴い、後者は常温で再結晶する一部の金属を除いて再結晶化が起こらない。 塑性加工の手法には、圧延、引抜き、押出し、鍛造、深絞り、打抜きなどがあり、このような変形加工を通じて金属の不均一や粗い結晶粒の微細化が起こり、強靭さが増す。また、圧延などでは個々の結晶粒の方向性が揃いながら集合組織を形成するために、表面のエネルギー特性を高める効果もある。 金属硬度には、「焼入れ」も大きな影響を与える。これは、加熱した金属を急冷却させる工程で、変態を起こさせる暇を与えず水や油に投入して温度を下げ、高温時の結晶状態を維持する手段である。ただし焼入れのみではもろいため、「焼き戻し」という再加熱が対で行われる。この2工程を合わせて調質という。 鍛鉄や、金属を何度も折り曲げるなど外部から繰り返して力を加えると、金属は硬くなる。これは転位論で説明される格子欠陥のひとつ「転位」と呼ばれる原子配列の乱れが金属の塑性を起こす辷り面に生じ、これがやがて点欠陥に固着し、金属全体が動きにくくなる現象である。 人体は、カルシウムを含む6つの多量元素、ナトリウム、カリウム、マグネシウムを含む5つの少量元素で99.4%を構成されている。これに加え必須元素、微量元素が生命活動や酵素の活性などに使われている。 このような金属をつくる元素は宇宙の誕生とともに生成された訳ではない。ビッグバンが起こった後、当初宇宙に満ちていた元素は水素とヘリウムだけだったと考えられる。これが重力によって集まり、産まれた恒星の中でより重い元素は核融合を起こし生成された。ただし太陽程度の星では酸素までであり、より重い質量の恒星でも内部で生成される元素は鉄までに止まる。鉄よりも重い元素は超新星爆発のエネルギーを吸収して初めて核融合を成すといわれる。地球が鉄よりも重い金属元素を含み、それらを生物が生命活動に、そして人類がエネルギーとして放射性元素を利用していることは、すなわち太陽系、人類を含む生命を構成し活動を支える物質はかつて爆発し散らばった星のカケラが再集結したものであることを示し、金属の存在はそれを証明している。このことを指し、人類を始め地球生命は「星の子」 とも評される。 文明が金属を使用した太古の例では、イラクで出土した紀元前9500年頃の銅製ペンダントが見つかっている。しかしこれは天然にあった純銅をほぼそのまま利用したもので、以後続いた銅の利用は、銅が純粋な形(自然銅)で鉱石となって集まりやすく、しかも地球表面のいたるところに分布していたことが幸いした。この初期段階で利用された他の金属は、金や銀など酸素と結合しにくい貴金属に限られ、その絶対量も希少だった。 酸化物から金属を得る製錬技術は、世界四大文明が生まれ、人類が数百°C以上の熱源を制御する手段を得て初めて可能となった。紀元前2000頃のエジプトの壁画には足踏みふいごと鋳型が登場する。さらに、銅-砒素および銅-錫合金が発明され、融点を940°Cまで下げながら約3倍の強度を持つ青銅が古代中国大陸の殷王朝や地中海のミケーネ文明、ミノア文明および中東などを例に金属器が広く製造、使用されるようになり、青銅器時代が到来した。 地球上に豊富にある鉄は酸化された状態にあり、最古の利用例と言われるエジプトやメソポタミアで発見された紀元前5000-3000年前の鉄製品は、隕鉄を叩いて 製造されている。酸化鉄を加熱し還元反応を経る精錬は、諸説あるが 紀元前1650年頃のヒッタイトで始められ、彼らが持つ鉄製の武具は高い軍事力の裏打ちとなった。製鉄技術は約200年以上秘匿されてきたが、紀元前1200年頃に「海の民」にヒッタイトが滅ぼされると、製鉄技術の広範な伝播が始まった。なおヒッタイト秘術の真髄は、鉄の精錬そのものではなく炭素を含ませ鋼をつくる技術にあったと思われている。 金属精錬技術の普及とともに、金属は武器だけでなく農耕器具や生活用品にも広く用いられ、また貴金属類も装飾品などに使われている。金属の磁性は方位磁石から羅針盤へと発展し航海技術発展に寄与した。 18世紀以前、人類が使用していた金属は金や鉄、水銀など11種類だけであった。産業革命を迎えると採掘や精錬技術が進み、またドミトリ・メンデレーエフの周期表発表前後は新たな金属が続々と発見された。さらに19世紀以降には様々な化学実験や原子論など考察が金属にも加えられ、原子の構造が順次明らかとなった。20世紀には量子論など金属への根本理解がさらに深まり、さまざまな用途展開が行われている。 一部の金属は人体に強い毒性を持ち、必須、微量元素に当たる金属の中には過剰摂取で中毒症状を起こすものもある。公害の原因となったカドミウム(イタイイタイ病)、水銀(水俣病)や、グレアム・ヤング事件で使われたタリウムなどが知られる。江上不二夫は、このような元素類は海水中に含まれる濃度が低い点を指摘し、人類に繋がる生物が海中で発生した際に接触する機会がほとんど無く、進化の過程で解毒機構を獲得しなかったものと考察している。 2006年に起こったアレクサンドル・リトビネンコ暗殺事件で被害者の体内から検出された放射性元素のポロニウムは、純度50%での致死量は100万分の1グラムと言われる。ただしポロニウムは自然界に存在せず、原子炉で人為的にしか製造されない。 金属が生体に接触してアレルギー反応を示すことがあり、これは金属アレルギーと呼ばれIV型(遅延型)に分類される。金属そのものは抗原性を示さないがアレルゲンとなり、溶出した金属イオンが蛋白質と結合して抗原となる。
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オットー・ハーン
オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年3月8日 - 1968年7月28日)は、ドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。 1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。 ハーンは30年以上にわたってリーゼ・マイトナーと一緒に研究を行ってきたが、ユダヤ系であったマイトナーはナチスの迫害を避けるために1938年にスウェーデンに移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。 しかし、ハーンはナチスの圧力に負けマイトナーを外したため、マイトナーはノーベル化学賞の受賞を逸している。ハーンは、受賞のスピーチでもマイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。 マイトナーはハーンへの手紙で「40年間の友情を裏切られた思い」と吐露している。 今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。 ハーンとマイトナーの名前はいずれも元素名に提案されたが、マイトナーの名前に由来するマイトネリウムだけが採用された。ハーンの名前に由来するハーニウムは正式採用されず、ドブニウムが正式な名称となった。
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半導体
半導体とは、金属などの導体と、ゴムなどの絶縁体の中間の抵抗率を持つ物質である。半導体は、不純物の導入や熱や光・磁場・電圧・電流・放射線などの影響で、その導電性が顕著に変わる性質を持つ。この性質を利用して、トランジスタなどの半導体素子に利用されている。 半導体は、電気伝導性の良い金属などの導体と、電気抵抗率の大きい絶縁体の中間的な抵抗率をもつ物質である。代表的なものとしては元素半導体のケイ素、ゲルマニウム、化合物半導体のヒ化ガリウム、リン化ガリウム、リン化インジウムなどがある。 半導体の特徴は、固体のバンド理論によって説明される。 なお、バンド理論を用いれば、半導体とは、価電子帯を埋める電子の状態は完全に詰まっているものの、禁制帯を挟んで、伝導帯を埋める電子の状態は存在しない物質として定義される。 一般的に、抵抗は電流と電圧に関して比例的な関係を満たす、すなわちオームの法則が成り立つことからオーム性抵抗と呼ばれる。一方、電気回路においては、非オーム性抵抗素子はオーム性抵抗素子に劣らず重要である。 半導体が重要視される性質の一つは、半導体と金属、または半導体同士を適当に接触させることでさまざまな非オーム性抵抗が得られることにある。 具体的には、p型半導体とn型半導体をpn接合したダイオードや、n型半導体をp型半導体で挟んだ、もしくはp型半導体をn型半導体で挟んだトランジスタなどがある。太陽電池もpn接合を用いている。 半導体では通常、温度が上がると電気伝導性が増す。 室温では、キャリアが不純物原子から受ける束縛を離れて結晶中を動ける状態にある。言い方を変えれば、ドナーとアクセプターの原子は多くがイオン化しているが、温度が低下すると熱励起も弱くなり、不純物原子のクーロン引力による束縛の影響が相対的に大きくなる。キャリアが束縛を離れている温度の領域を飽和領域、あるいは出払い領域といい、キャリアが束縛を受ける温度領域を不純物領域という。また、温度を上昇させると価電子までもが熱励起され、キャリアの供給源となり、この温度領域を真性領域と呼ぶ。半導体素子として利用する場合は飽和領域が利用される。 逆バイアスされたpn接合などにおいて温度が上がりすぎると、キャリアの増加で電流が増加し、その抵抗発熱でさらに温度が上がる熱暴走が発生する。 半導体となる材料には以下のものがある。 半導体の材料としてグラフェンが注目されている。グラフェンは、炭素原子とその結合からできた蜂の巣のような六角形格子構造で、薄さはわずか 0.142 nm となっている。ダイヤモンド以上に炭素同士の結合が強く、平面内ではダイヤモンドより強い物質と考えられている。物理的にもとても強く、世界で最も引っ張りに強い。熱伝導も世界で最も良いとされ、電気の伝導度もトップクラスに良い物質である。 これらの特性から原子層半導体デバイスへの活用が期待される。 不純物や格子欠陥を全く含まない半導体を真性半導体と呼ぶ。真性半導体は、そのフェルミ準位は禁制帯の中央に位置し、全温度領域においてキャリアは価電子帯のエネルギーレベルにある電子の励起によってのみ供給されることから、電子回路に用いるような半導体素子としては使い難い。 半導体素子として用いることができるような半導体は、真性半導体にドーパントと呼ばれる微量の添加物を混ぜて不純物半導体とすることで作成する。このドープによって、半導体のキャリアである電子または正孔の密度が変化することとなるが、伝導現象を支配するキャリアとして電子が優勢である半導体をn型半導体、逆に正孔が優勢なものをp型半導体と呼ぶ。このような優勢なキャリアを多数キャリア、逆に劣勢なキャリアを少数キャリアと呼ぶ。n型半導体での多数キャリアは電子、少数キャリアは正孔である。p型半導体での多数キャリアは正孔、少数キャリアは電子である。 なお、p型半導体やn型半導体はドーピングしなければ作れないというわけではない。カーボンナノチューブはP型半導体として知られている。 n型半導体とは、電圧がかけられると伝導電子や自由電子、ほとんど自由な電子とも呼ばれる電子の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の多い元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコンやゲルマニウムの結晶に、ヒ素などの5価の原子を混ぜることでn型となる。 不純物の導入によって生成されたキャリアは、導入された不純物原子から受けるクーロン引力により束縛される。ただしその束縛は弱く、ゲルマニウムのn型半導体では、電子束縛エネルギー = -0.01 eV、ボーア半径 = 4.2 nm 程度であるため、結晶内の原子間距離 0.25 nm、室温での熱励起は約 0.025 eV 程度では単独原子の束縛を離れて結晶の原子同士間を自由に動き、これらの原子は互いの電子を共有する状態となる。 バンド構造で言えば通常、ドーパント原子は禁制帯の上端付近にドナー準位を形成し、そこから熱エネルギーにて伝導帯へ励起される。フェルミ準位は禁制帯中のドナー準位に近い位置になる。 電圧がかけられると正孔の移動によって電荷が運ばれる半導体である。価数の少ない元素をドーピングすることで作られる。例えばシリコン(4価)の結晶にホウ素などの3価の原子を混ぜることでp型となる。 電子が伝導帯側に遷移して価電子帯側の電子が不足することで生じる電子軌道上の空隙が正孔となる。結晶の原子同士間の自由電子が隣の正孔に移動することで正孔の位置は自由に移動でき、 電圧に応じて電子とは逆方向へ流れる。移動度は電子に比べて劣る。バンド構造で言えば、ドーパント原子は禁制帯の下端付近にアクセプター準位と呼ばれる空の準位を形成し、アクセプター準位へ価電子帯から熱エネルギーによって価電子が励起されることで、価電子帯に正孔が生じる。フェルミ準位は禁制帯中のアクセプター準位に近い位置になる。 1821年にトーマス・ゼーベックは半導体の特性の一つである熱電変換効果を発見した。 1839年にマイケル・ファラデーは硫化銀を加熱すると導電性が増し、冷やすと伝導性が低下する現象を発見した。 1839年にアレクサンドル・エドモン・ベクレルは薄い塩化銀で覆われた白金の電極を電解液に浸したものに光を照射時に電流が生じる光電効果を発見した。 1873年にウィロビー・スミスは光を照射するとセレンの電気抵抗が低下する事を発見した。 1874年にフェルディナント・ブラウンは硫化金属の伝導性と整流作用を観測したが、この効果は1835年に既にピエテル・サミュエル・ムンクがAnnalen der Physik und Chemieに記述しており、アーサー・シュスターは電線の表面の酸化銅の被膜に整流作用があることを発見していた。 1876年にウィリアム・グリルス・アダムスとリチャード・エヴァンス・デイはセレンの光電効果を観測した。 これらの事象を説明するためには20世紀前半の固体物理学の理論の構築を必要とした。 1878年にエドウィン・ホールは磁場のない時には等電位の部分が、磁場を印加すると電位差(ホール電圧)を生じるホール効果を発見した。 半導体を使用した素子は当初は理論が確立する前だったので手探りで製造された。 1880年にアレクサンダー・グラハム・ベルはセレンの感光特性を光線電話に使用した。 1883年に低効率で作動する太陽電池はチャールズ・フリッツによってセレンを塗布して金メッキを施した金属板を使用して製造された。これは1930年代以降、露出計として1970年代まで市販された。 1897年にジョゼフ・ジョン・トムソンによって電子が発見された。 1904年に硫化鉛製の高周波の点接触検波器の整流素子はジャガディッシュ・チャンドラ・ボースによって天然の方鉛鉱を使用した鉱石検波器として製造された。これは初期の鉱石ラジオに使用されて普及した。しかし、当時は作動の原理が不明で改良の方法も不明だった。 1906年にH.J. Roundは炭化珪素の結晶に電流を印加すると発光する現象を観測した。これは発光ダイオードの原型だった。 1922年にオレク・ロシェフも類似の現象を観測したが、当時はこの効果を実用化することができなかった。酸化銅とセレンを使用した電力整流器は1920年代に開発され、真空管整流器が普及するまで商業的に重要だった。 1922年にオレク・ロシェフは2接点式の負性抵抗増幅器を無線のために開発したが、彼は1942年にレニングラード包囲戦により38歳で餓死した。 第二次世界大戦前に赤外線の検出と光無線通信を目的とした素子が硫化鉛とセレン化鉛の材料で研究された。これらの素子は船舶や航空機の熱紋の捕捉と音声通話のために使用された。 およそ4000 MHz以上の周波数帯域では当時入手可能だった真空管では機能しなかったので点接触鉱石検波器はマイクロ波帯域を使用するレーダーの受信装置で使用された。戦争中には検波器を開発するために適した高純度のシリコン材料を製造するための研究開発が進められた。 検波器と電力整流器には信号の増幅は不可能だった。半導体増幅器の開発に多くの労力が費やされたが半導体材料への理論的な限界により失敗した。 1926年にユリウス・エドガー・リリエンフェルトは近代的な電界効果トランジスタの特許を取得したが、当時は実現しなかった。 1930年代には理論的には半導体による増幅器の出現はある程度予想されていたものの、実験の結果は芳しくなかった。これは当時の半導体の純度が低かったためで、半導体増幅器を実現するためには1950年代のゾーンメルト法の開発を待たなければならなかった。 1935年にO.Heilは半導体抵抗を面電極によって制御するMOSFETに類似の素子の特許を出願した。半導体(Te2、I2、Co2O3、V2O5 等)の両端に電極を取付け、その半導体上面に制御用電極を半導体ときわめて接近するが互いに接触しないように配置してこの電位を変化して半導体の抵抗を変化させることにより、増幅された信号を外部回路に取り出す素子だった。R. HilschとR. W. Pohlは1938年にKBr結晶とPt電極で形成した整流器のKBr結晶内に格子電極を埋め込んだ真空管の制御電極の構造を使用した素子構造で、このデバイスで初めて制御電極(格子電極として結晶内に埋め込んだ電極)に流した電流0.02 mA に対して陽極電流の変化0.4 mAの増幅を確認している。このデバイスは電子流の他にイオン電流の寄与もあって、素子の遮断周波数が1 Hz程度で実用上は低すぎた。 1938年にベル研究所のウィリアム・ショックレーとA. Holdenは半導体増幅器の開発に着手した。 1941年頃に最初のシリコン内のpn接合はRussell Ohlによって発見された。 1947年11月17日から1947年12月23日にかけてベル研究所でゲルマニウムのトランジスタの実験を試み、1947年12月16日に増幅作用が確認された。増幅作用の発見から1週間後の1947年12月23日がベル研究所の公式発明日となる。特許出願は、1948年2月26日にウェスタン・エレクトリック社によってジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンの名前で出願された。同年6月30日に新聞で発表された。この素子の名称はTransfer Resistorの略称で、社内で公募され、キャリアの注入でエミッターからコレクターへ電荷が移動する電流駆動型デバイスが入力と出力の間の転送する抵抗であることから、J.R.Pierseが「trans-sistor」としたことに由来す。 第二次世界大戦中にレーダーの開発に従事したドイツ人技術者のヘルベルト・マタレ(英語版)とHeinrich Welker達が戦後にフランスのウェスティングハウスの子会社に勤務して半導体の機能の研究を進めており、ゲルマニウム上で点接触の電極間での増幅作用を観測していた。ベル研究所が"トランジスタ"を発表後、まもなくMataréのグループは彼らの"Transistron"増幅器を発表した。 1948年6月26日にウィリアム・ショックレーはバイポーラトランジスタの特許を出願した。 日本国内ではトランジスタの開発のニュースが1948年中頃に伝わり、1948年10月には東北大学の渡辺寧、東京大学の久保、電気試験所、東芝、日本電気、日立などの研究者によるトランジスタ勉強会がスタートした。この勉強会は1949年4月には日本電子機械工業会の文部省研究費によるトランジスタ研究連絡会に発展した。1948年11月には日本電気の小林正次によって無線と実験誌に日本で最初のトランジスタに関する解説記事が掲載された。続いて日本物理学会誌の1949年7 - 8月号に東京大学の山下次郎、澁谷元一による解説論文が発表された。この時点では、バイポーラトランジスタの動作原理は日米ともにまだ完全には理解されていなかった。 1950年4月3日には東京工業大学で開催された日本物理学会分科会で、トランジスタに関する日本で最初のシンポジウムが開催され、電気試験所から分割された逓信省電気通信研究所の岩瀬、浅川は、高純度ゲルマニウム単結晶を使用した点接触型トランジスタの試作、動作確認に日本で初めて成功した。 1952年5月7日に集積回路の原型はイギリスのレーダー科学者ジェフリー・ダマーによって概念が発表されたものの、当時は製造技術が未熟で実現には至らなかった。その後、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーによって「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月にアメリカ合衆国特許第 3,138,743号が登録された。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの考案した「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月にアメリカ合衆国特許第 2,981,877号が登録された。 1954年1月に神戸工業(現在の富士通テン)から合金接合型のゲルマニウムトランジスタが発売され、同年7月にはソニーから成長接合型ゲルマニウムトランジスタが発売された。成長接合型トランジスタの不良品を調査する過程で江崎玲於奈によってエサキダイオードが開発された。 1959年にはフェアチャイルド・セミコンダクターでプレーナー技術が開発された。プレーナー技術は後に集積回路で使用される。 1960年代の初頭にはウェスティングハウスが当時、テキサスインスツルメンツ、フェアチャイルドとは独立して「Molectronics」という名称の集積回路の開発を進めていて1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて電気試験所でも同年12月に見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえるゲルマニウムのペレット3個を約1 cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。 1990年、世界の半導体メーカーの売り上げで上位10社のうち6社は日本企業であった。しかしその後は日米半導体協定を経て急速な凋落を辿る。
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絶縁体
絶縁体(ぜつえんたい、英: insulator)は、電気あるいは熱を通しにくい性質を持つ物質の総称である。 電気を通しやすい導体(電気伝導体)に対して、不導体(ふどうたい)ともいう。自由電子を持たない物。絶縁体が電場中で電気的に分極する性質、誘電性に着目した場合、絶縁体を誘電体ともいう。絶縁体の価電子は原子と強く結合している。そのような物質が電気機器で絶縁物として使われ、電気伝導体を支持しつつそれ自体には電気が流れないようになっている。電柱や鉄塔に電線をとりつける碍子も絶縁物の一種である。 ガラス、紙、テフロンといった材料はよい絶縁物である。電気抵抗率で比較するとさらに抵抗が大きい絶縁物があり、電線や電気配線の絶縁に使われている。例えば、ゴム状の重合体や多くのプラスチックである。そのような材料は低電圧や中程度の電圧(数百から数千ボルトまで)の実用的かつ安全な絶縁物として使用できる。 絶縁体には電流が流れない。バンド理論において絶縁体は、半導体と同じく価電子帯と伝導帯の間にバンドギャップが存在する状態、またはその状態を示す物質である。金属などの電気伝導体では電子が励起して伝導帯に遷移することで電流が流れる。バンドギャップのためにそのような状態とならない物質が絶縁体である。半導体よりバンドギャップの値が大きいものが絶縁体でありその間に歴とした境界はない(モット絶縁体のような例外もある)。 絶縁は、電子に占有された最もエネルギー準位の高い価電子帯からその上にある次のバンド(伝導帯)までが大きなエネルギーギャップで隔てられているために起きる。ある十分に高い電圧(絶縁破壊電圧)がかかると、電子が伝導帯まで励起するのに十分なエネルギーが与えられる。一度この電圧を越えると、その材質は絶縁体であることをやめ、電荷が流れるようになる。しかし、そうなったときは一般に物理的または化学的に変化し、その材料の絶縁性は恒久的に損なわれる。 絶縁体には共有結合性やイオン結合性の強い物質に多い。ただし例外としてグラファイトは、層内の結合は強い共有結合であっても半金属である。電解液やプラズマのようにイオンを含む液体や気体では電子ではなくイオンが電荷を担うため、伝導体となる。 絶縁体は絶縁破壊という現象で損傷を受ける。絶縁物に電界を印加したとき、その物体の(バンドギャップエネルギーに比例する)しきい値を超えると、その絶縁体は電気抵抗を伴う抵抗器となり、破壊的な結果を伴うこともある。絶縁破壊の際、自由な電荷担体が強い電場によって加速され、それが衝突した原子をイオン化して電子を飛び出させるのに十分な速度となる。そのようにして自由になった電子とイオンも加速し別の原子に衝突するので、さらに電荷担体が生み出されるという連鎖反応(電子雪崩)が起きる。こうして絶縁体は瞬時に電荷担体で満たされ、電気抵抗値が低下する。空気における絶縁破壊はコロナ放電やアーク放電といった放電現象を伴う。 同様の絶縁破壊は任意の絶縁体に起こりうる。真空でも放電現象は起きるが、それは金属電極から電荷が放出されることによるもので、真空自体が電荷を生み出しているわけではない。 絶縁体は、電気配線やケーブルの柔軟な被覆によく使われている。また、空気も絶縁体なので、それを絶縁に利用することもある。高圧送電線はプラスチックなどのコーティングが現実的でないため、主に空気だけを絶縁に利用している。電線が互いに触れると短絡や火災の危険を生じる。同軸ケーブルの中心にある内部導体は中空の外部導体のちょうど真ん中になるよう絶縁体で支持されており、電磁波の反射を防いでいる。60ボルト以上の電圧がかかっている電線は感電によって人が死亡する危険性をはらんでいる。絶縁体をコーティングすることでそういった問題を防ぐことに役立っている。 被覆電線/ケーブルには電圧と温度の定格が存在する。アンペア容量は、その電線やケーブルが使用される環境に依存するので、定格化されていない。 プリント基板はエポキシ樹脂やファイバーグラスで出来ており、そういった絶縁体の板が銅の導体の層を支持している。電子部品にも絶縁体のエポキシ樹脂やフェノール樹脂で封入したものやガラスやセラミックでコーティングしたものもある。 トランジスタや集積回路などの半導体素子では、シリコンはドーピングによって導電性があるが、熱と酸素を加えることで部分的によい絶縁体とすることもできる。酸化したシリコンは石英すなわち二酸化ケイ素である。 変圧器やコンデンサを含む高電圧システムでは、放電を防ぐのに液体の絶縁オイルをよく利用する。絶縁破壊を防ぐために電位差の大きい空間を空気の代わりに絶縁オイルで満たす。また、セラミックまたはガラス製のホルダー(碍子)で電線を保持することもよくあるし、なんらかのガスや真空もよく使われる。電線と周囲との距離をとることで空気を絶縁体として利用することも多い。 送電用の電線は建物に入る部分以外ではむき出しであり、周囲の空気を絶縁体として利用している。電柱で支える部分で碍子を必要とする。変圧器や遮断器と接続する際にもそれらの容器と電線を絶縁するための絶縁体が必要とされる。そのような中空で中に導体を通す絶縁体を「套管 (bushing)」と呼ぶ。 放送用アンテナは電波塔として建てられることが多く、特にマスト構造のものは全体に高電圧がかかることでエネルギーを与えられるため、地面から絶縁されなければならない。そのためステアタイトを架台とすることが多い。それらは場合によっては400kVにも達するアンテナにかかる電圧に耐えるだけでなく、アンテナの重量にも耐える必要がある。マスト型アンテナには落雷もよくあるので、アークホーンと避雷器も必須である。 マスト型アンテナを支持する支線には、地面との短絡や感電を防ぐ耐張がいしを挿入する。また、支線が送信波長と共鳴しないよう何箇所かに絶縁体を挿入して、その長さが波長の約数にならないようにする。そのための絶縁体としては、セラミック製の玉がいしなどを使う(写真参照)。玉がいしは、張力ではなく圧縮力がかかるという利点があり、たとえそれが破壊されても支線自体はアンテナを支え続けられるという利点もある。 これらの碍子にはまた、過電圧保護装置を装備する必要がある。支線の碍子の寸法については支線の持つ静電容量を考慮する必要があり、マストが高いほど送信機によってアンテナにかかる電圧より静電気による電圧が大きくなり、支線を碍子で複数に分割にする必要性が高まる。その場合、地面にコイル経由で支線を接地するか、場合によっては直接接地する。 アンテナと無線機をつなぐ給電線(特に平衡型フィーダー線)は、金属の構造物から距離を保つ必要があることが多い。この場合の碍子を「隔離碍子 (standoff insulator)」と呼ぶ。 最も重要な絶縁体は空気である。電気機器には様々な固体・液体・気体の絶縁体が使われている。小型の変圧器・発電機・電動機では、薄い重合体ワニス層で絶縁したワイヤ(いわゆる「マグネットワイヤ」)を巻線に使う。それによって狭い空間でより多く巻くことができる。太い導体を巻く場合は、ファイバーグラスの絶縁テープで補強することが多い。巻いた後でワニスを浸透させて、放電を防ぎ電磁誘導による導線の振動を低減させることもある。大型の変圧器などでは、絶縁物として紙、木、ワニス、鉱油などを使っていることが多い。これらは100年以上に渡って使われ続けているが、経済性と性能のバランスが今でも最もよい。開閉装置の母線や遮断器ではガラス強化プラスチック絶縁体が使われることもあり、耐火性と漏電を防ぐという点で優れている。 1970年代初期以前に製造された機器では、石綿を圧縮した板を使っていることがある。石綿は電源周波数に最適な絶縁体だが、取り付けや修理の際に危険な繊維が空気中に飛散するため、取り扱いには注意を要する。フェルト状の石綿で被覆した電線が1920年代ごろから高温などの悪条件の環境で使われていた。例えばゼネラル・エレクトリックが "Deltabeston" という製品名で販売していたものがある。 高電圧装置の中には、六フッ化硫黄などの絶縁ガスを高圧に満たした中で動作させるよう設計されたものもある。 電源周波数や低周波で絶縁体としてよく使われる素材でも、誘電体であるために高周波では熱を持ち絶縁性能が落ちるものがある。 電線の絶縁用被覆としては、ポリエチレン、架橋ポリエチレン、ポリ塩化ビニル、カプトン、ゴム状重合体、油浸紙、テフロン、シリコーン、ETFEなどがある。より大きな電力ケーブルでは用途によっては無機絶縁銅被ケーブル(無機物のパウダーを圧縮した絶縁物を使ったケーブル)を使うこともある。 ポリ塩化ビニルのような柔軟な素材を絶縁に使う場合、600Vやそれ以下で通電中の回路に人間が直接触れるのを防ぐという目的もある。ポリ塩化ビニルは欧州連合の環境規制により経済的でなくなりつつあり、代替素材の採用が増えている。 携帯可能・可搬の電気機器はユーザーを感電から守るために絶縁されている。 クラス1の絶縁では「基礎絶縁」を基本とし、金属製の筐体や表面に出ている金属部分がアース線に繋がっていて、主要なサービスパネルから接地できるようになっている。電源プラグに第3のピンがあることで容易にクラス1だとわかる。 クラス2の絶縁では、「二重絶縁」を用いる。電気かみそり、ドライヤー、可搬型発電機などで使われているクラスである。基礎絶縁と追加絶縁を同時に施しており、どちらか一方のみでも感電を防ぐことができる。内部の電気部品は全て絶縁物で覆われていて、電気が流れているところに人間が触れないようになっている。欧州連合では、二重絶縁を施した機器には二重の四角形のシンボルがつけられている。 耐熱クラス(たいねつクラス)は、日本産業規格 (JIS) において、絶縁体を耐熱温度別に分類したものである。 「耐熱クラスY」、「耐熱クラス200」「耐熱クラスF種」などと呼称する。 かつて、180 °C を超える熱に耐える絶縁体はすべて「C種」とされていた。現在の JIS C 4003 では細分化され、上表の 250 °C を超えるものは 25 °C 間隔で耐熱クラスが設けられている。 →断熱材
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ユーリイ・ガガーリン
ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(ロシア語: Юрий Алексеевич Гагарин, ラテン文字転写: Yurii Alekseyevich Gagarin, 1934年3月9日 - 1968年3月27日)は、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。1961年、人類初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗した人物である。 ガガーリンは1934年3月9日、モスクワ西方のスモレンスク州グジャーツク市に近い村クルシノで生まれた。両親はコルホーズの労働者であった。「労働者階級出身の英雄」というガガーリン像を強調するため「両親は農民であった」と語られている。もちろん労働階級出身であることは間違いではないが、実際のガガーリンの父親は教養のある腕利きの大工であり、母親もインテリで読書家であった。 彼は四人兄弟の三人目で、幼いガガーリンの世話は姉が行うこともあった。他のソ連国民同様、第二次世界大戦は一家に大きな苦しみをもたらした。兄と姉は1943年にドイツによりポーランドへ連れ去られ、強制労働に従事させられ、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代のガガーリンへの評価は、まじめで勉強家だが、茶目っ気もあるというものだった。やがて空軍から除隊してきた教師がガガーリンの学校で数学を教えることになったが、彼の授業をガガーリンは熱心に聞き、後の生き方に影響を与えることになる。 1950年にモスクワの金属工場の見習いとして働き出したガガーリンは優秀であったため、翌1951年には技術教育を受けるべくサラトフの学校へ送られた。そこで彼はエアロクラブに入り、軽飛行機での飛行を楽しんだが、徐々に飛ぶことの楽しさにとりつかれるようになった。1955年に工業学校を卒業したガガーリンはパイロットを志し、オレンブルクにあった空軍士官学校に入った。1957年にはオレンブルクで出会ったヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚している。1957年の卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された。当時の記録によるとガガーリンの身長は158cmであった。 1959年、ソビエト連邦の宇宙開発が本格的に始まったことに伴って宇宙飛行士の選抜が始められ、翌1960年3月にはソビエト全土からガガーリンを含む20人の候補生がモスクワ近郊の基地へと配属された。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。6月18日にはボストーク宇宙船の開発者であるセルゲイ・コロリョフが候補生を招いて宇宙船を見せたが、このときガガーリンが開発陣や同僚に与えた印象は強いもので、有力候補の一人と見なされるようになった。 1961年4月の打ち上げに向けて飛行士の選考は進んでおり、1960年末には、候補者はガガーリンを含む6人にまで絞られた。このときの選考では、身長の低さが重要な要因となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。飛行予定まで1ヶ月となった3月初めには、パイロットの候補はガガーリンとゲルマン・チトフのどちらかに絞られた。二人とも訓練結果が優れており、既に1960年末の時点で候補生の間ではどちらかが飛行士に選ばれることは確実とみられていた。 4月8日に最終選考が行われ、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決定された。この決定は政府の上層部によって行われ、翌4月9日に両名に伝達された。なぜガガーリンが選ばれたかについてはいくつかの説があるが、ガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な人好きのする性格だったことや、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちなどが有力な要因とされている。選考に漏れたチトフは、同年8月にボストーク2号でガガーリンに次ぐ史上二番目の(軌道宇宙飛行を行なった)宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦して大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。 1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。このときのコールサインは「ケードル(Кедр、ヒマラヤスギの意)」であった。飛行中「祖国は聞いている(ロシア語版)」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれている。 飛行中、ガガーリンは自分が中尉から少佐に昇進(二階級特進)したというタス通信のニュースを聞いた。ガガーリンは喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の技術ではガガーリンが生きて帰還できる可能性は低いと政府高官が考えていたからだと言われている。ガガーリンを乗せた宇宙船は、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱(108分間)で1周したのち大気圏再突入を行ない、高度7000mでガガーリンは座席ごとカプセルから射出されて、パラシュートで降下した。ボストーク1号にはカプセルごと安全に着陸できる装置はまだなく、乗員は安全上パラシュートで脱出せざるを得なかったのだが、1961年当時の国際航空連盟 (FAI) による高度記録の定義においては、飛行士は機体に搭乗したまま地上に到達する事が要求されており、このことが露見すると記録が剥奪される恐れがあったため、公式発表では宇宙船と共に着陸したとされ、ソ連はこの主張を押し通した。ガガーリンのパラシュートは、ソ連領内サラトフ州にあるスミロフカ村の外れに着地した。 地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。4月14日のモスクワ・赤の広場での記念式典では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いたソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフとソ連共産党の偉大さを賞賛した。ガガーリンはフルシチョフのお気に入りとなり、フルシチョフ在任中はガガーリンとクレムリンの関係は良好だった。フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めた宇宙ロケット/弾道ミサイル増強計画の成果を示すものであった。 国内での式典が一段落した4月末から、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅するようになった。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、連日続く式典や過酷なスケジュールのストレスなどから疲労がたまっていき、徐々に酒量が増えていった。1961年10月には、家族や同僚と休暇で訪れていたクリミア半島の保養地フォロス(ロシア語版)で、前日に起こしたモーターボートの事故の際に知り合った看護師の部屋にいるところを妻ヴァレンチナに踏み込まれ、二階のバルコニーから飛び降りて庭の縁石に額をぶつけ、眉の上に傷が残ることになった。 ガガーリンは宇宙開発の現場に戻ることを希望していたが、世界各国からの招待はそれからも続き、ガガーリンは世界中を歴訪した。1962年5月には日本を訪問し、東京など各地を回っている。重要人物となったガガーリンは身に危険の及ぶ可能性のある訓練飛行などを禁止され、多忙なスケジュールも相まってほとんど現場から離れたまま3年間を過ごした。それでも1963年12月には宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任し、1964年3月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学して宇宙工学を学ぶなど、現場に戻るための努力は続けていた。 しかし1964年10月にフルシチョフが失脚すると、フルシチョフ派とみなされていたガガーリンの地位は大きく低下し、対外的な仕事は激減した。1966年1月には師といえるコロリョフが死去し、ガガーリンは大きな衝撃を受けた。また高い開発能力や組織運営能力を持つコロリョフの死により、ソ連の宇宙開発計画は次第に停滞していった。一方、対外的な仕事の減少は本来の職務に取り組む時間をガガーリンに与えることになり、またコロリョフの死によってさらに職務に精励するようになったガガーリンは訓練の再開を認められ、1967年には親友でもあるウラジーミル・コマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員に選ばれることになった。しかしソユーズの試験は上手くいかず、ガガーリンをはじめとする飛行士や開発陣は飛行中止を進言したものの、それが政府に受け入れられることはなかった。試験飛行が1度も成功しないままソユーズが4月23日の出発の日を迎えた時、ガガーリンは宇宙服を着て「自分が乗る」とコマロフをかばったという。結果的にコマロフは宇宙船自動安定化システムの機能停止や大気圏突入時パラシュートが絡まるなどのトラブルで死亡してしまう。 コマロフの事故以降、英雄の身を案じた政府によってガガーリンは宇宙飛行ミッションから外され、自身が飛ぶ可能性はなくなった。このことにガガーリンは非常に落胆し、政府に嘆願書を送って復帰を求めたものの、決定が覆ることはなかった。1968年2月にはジューコフスキー空軍技術アカデミーで学位を取得し、管理者への道を歩み始めたものの、ガガーリンは新人パイロットだったときに宇宙計画に選抜されたため、飛行時間はさして長いものではなかった。このため、パイロットの指導のためにもあらためて飛行経験を積むことが必要になり、3月にはベテランの教官とともに飛行訓練を再開した。 1968年3月27日、ガガーリンは教官とともに搭乗したMiG-15UTIでキルジャチ付近を飛行中、墜落事故を起こし、死亡した。34歳没。 事故の正確な原因は長らく不明であり、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論も含めて噂されていた。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つからなかった。 陰謀論以外として、付近を飛行していた別の軍用機に巻き込まれたというものがある。1986年に発表された調査資料によれば、Su-11迎撃機が付近を高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性が示唆されている。1988年のプラウダ紙の報道では、ガガーリンの近くを管制ミスのためMiG-21が通過し、事故を招いたという調査結果が取り上げられた。2005年に発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている。 2011年4月に機密解除された当時のソ連政府調査委員会の報告書によると、気象観測用気球か鳥との衝突を避けようとして操縦不能に陥ったことが原因だったと結論付けられている。しかし、ガガーリンの同僚であり事故調査委員会にも参加していたアレクセイ・レオーノフはこの結論を否定し、また彼の証言として調査結果に記載された内容が捏造だったことを明かしている。レオーノフは2013年に、無許可で発進したSu-15が付近を通過し、それを回避しようとしたガガーリンのMiG-15が回避しきれず操縦不能に陥り、結果として墜落に至ったことが死因だったと語っている。レオーノフはまた、事故を引き起こしたSu-15のパイロットはソ連邦英雄であり、名前を公にしないことを条件に真相を明かすことを許されたとも述べている。 前人未到の宇宙に飛び立つ際に発した一言である。この言葉は、人類史の宇宙時代(英語版)の幕開けを告げる言葉として、東側諸国で歴史的な言葉となった。 また、それ以外の出発直前の会話も録音・文書化されており、ロケット設計者のセルゲイ・コロリョフとのジョークを交えた会話や、整備士の調整忘れの修正作業に関する会話、コントロールパネルのライトの一つが点灯しないのでハッチの調整が必要だと言われる場面等も残っている。これらの内容は、2011年4月にロシア政府によって公開された「ガガーリンの一生に関する700ページ以上に及ぶ文書」に掲載されている。 ガガーリンの言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けの『イズベスチヤ』に掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では "Небо очень и очень темное, а Земля голубоватая. " となっており、日本語訳では、「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となる。『朝日新聞』夕刊4月13日、『毎日新聞』夕刊4月13日、『読売新聞』朝刊4月13日は、この記事を基にしてガガーリンの言葉を伝えている。 ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。これは同じソ連の宇宙飛行士のチトフが訪米した時にシアトルで記者団に向けて放った発言である。しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。 ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書『Two sides of the moon』(『アポロとソユーズ』p.295)の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドート(風刺ジョーク)として次の話を挙げている。 宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。 しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。 宇宙飛行中、ガガーリンが地上に「無重力状態は面白い。すべてが浮かんでいる」と通信してきた、当時は秘密扱いだった映像のテープが全ロシア・テレビラジオ放送研究所で発見され、2021年4月2日にロシアで放映された ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは今でも疑問の余地がないが、いまだにロシアではガガーリン以前に二度有人宇宙飛行が試みられたが国境を越えて中国に着陸してしまう等で失敗し、隠蔽のために永遠の秘密とされたというデマが流れることがある。この話はしばしば著名な飛行機設計者セルゲイ・イリューシンの息子ウラジーミルの名前と結びつけて論じられる。ガガーリンの伝記『スターマン』(邦題『ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で』)によれば、このような噂が広まった背景には、1961年3月25日に有人宇宙飛行に先駆けて行われた無人試験飛行で、人形を乗せ、通信のチェックを行うために人の声を吹き込んだテープをのせていたことが原因ではないかと推測している。ガガーリンは日本にも来たことがあるが、発言に不可解な面が目立った事から不審に見られ「秘匿している機密を守るための替え玉では」との報道もあった。これは糸川英夫がガガーリン本人と対談した際の個人的な感想を基にしたものであり、糸川の意見に対しては反論もなされている。 ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功した4月12日は宇宙飛行士の日としてソビエト連邦、およびロシア連邦の祝日となっている。この日が祝われるのはロシア国内だけではなく、世界各国でユーリーズナイトと呼ばれる宇宙イベントが開催される。さらに2011年4月7日には国連総会によってこの日が世界宇宙飛行の日に制定され、国際デーの一つとなっている。 ガガーリンはロシアの宇宙開発を象徴する人物であり、ロシアの偉人の一人とされている。ガガーリンの人類初の有人飛行から60周年に当たる2021年4月12日には、ロシア各地で記念行事が開催された。サラトフ州スミロフカ村近くのガガーリン記念公園には1週間前の4月5日に「ガガーリン記念館」が一部先行オープンし、12日にはロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン、女性として人類初の宇宙飛行をしたワレンチナ・テレシコワ、サラトフ出身のヴャチェスラフ・ヴォロージンロシア連邦議会国家院 (ロシア)(下院)議長が、ガガーリン記念公園を訪問した。プーチンとテレシコワは遊歩道に記念植樹を行い、ガガーリンを讃えた。これに先立つ4月9日に国際宇宙ステーションに向けて打ち上げられた宇宙船も、彼にちなみ「ガガーリン」と名付けられた。 2023年5月にはロシアの宇宙開発活動に功績を残した人物を対象とした「ガガーリン勲章」が創設され、前出のテレシコワに対して飛行60周年となる同年6月に最初の受章者として授与が決定した。 ロシア国内にはガガーリンにちなんだ名称の地名や事物が複数存在する。ガガーリンの出生地であるスモレンスク州クルシノ村に近いグジャーツク市は、1968年のガガーリンの死去すぐにガガーリン市へと改名された。モスクワ近郊の星の町にある宇宙飛行士訓練センターは、1968年にユーリ・A・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターと改称されている。ガガーリンを打ち上げたカザフスタンのバイコヌール宇宙基地第1発射台はその後も使用され続け、ガガーリン発射台と呼ばれている。サラトフに2019年開港した新空港は、サラトフ・ガガーリン空港と命名された。 ガガーリンを記念する施設としては、生地ガガーリン市に生家や記念館などを含んだ博物館が存在する。また、モスクワのレーニンスキー大通りには1980年7月、高さ45.2mのチタン製巨大ガガーリン像が建設された。 宇宙開発とは関わりのない分野でも使用されるケースがあり、アイスホッケーKHLのプレーオフトーナメント優勝チームに与えられる賞は、彼にちなんでガガーリン・カップと名付けられた。 これら以外に、ガガーリンの名を関したものに以下のものがある。 旧ソ連以外でもちなんだ命名物がある。
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ウィリアム・スミス・クラーク
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。 1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。 1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。 1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。 じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。 マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。 途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。 アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。 クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。明治政府(開拓使)は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えた。 札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。 クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。 9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。 彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。 ドイツ留学から帰国して数カ月後の1853年5月25日に、ハリエット・ウィリストン(Harriet Keopuolani Richards Williston)と結婚した。ハリエット・ウィリストンというのは、William RichardsとClarissaの間に生まれた娘で、William Richardsはハワイ王国へミッション(宣教)へ行った人物である。 1838年にハリエットと弟の Lymanはウィリストン神学校で教育を受けるべく、ハワイから送り出されたのであった。(妻の父親(義理の父)のWilliam Richardsは1847年にハワイで亡くなることになる) クラークは妻のハリエットの間に11人の子どもをもうけた。ただし、うち3人は生後1年以内に死亡した。 我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。 我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。 我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。 我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。 あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。 あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。 あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。 安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。 あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。 あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。 あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。 絶えず祈りなさい。 我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。 札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られている。それは「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていた。しかし、この文言は、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代があった。1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われた。 しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録。安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明した。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になる(ただし『恵林』には「Boys, be ambitions like this old man」と印刷されているが、「n」は「u」の誤植・倒置と思われる)。安東の発表の後、大島自身が内村鑑三編集の雑誌 Japan Christian Intelligencer, Vol.1, No.2 でのクラークについての記述で、全く同じ文章を使ったことも判明した。また大島は、次のように述べている。 この時に他にも「Boys, be ambitious in Christ (God)」と言ったという説もある。また「青年よ、利己のためや はかなき名声を求めることの野心を燃やすことなく、人間の本分をなすべく大望を抱け」と述べたという説がある。 クラークがアマースト大学在学中からambition, ambitiousという言葉を愛用し、かつクラークの人物の形容語として同様の言葉がよく使用されていたことは、近年のアメリカ側の研究で明らかになっており、島松の別れに居合わせていたブルックスが帰国後もこの惜別の言葉について自ら語り、否定していないことからも、ambitiousと言う言葉を用いたことは間違いないとみられる。 そして他にも「Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という浮ついたものを求める大志であってはならない。人間としてあるべき全ての物を求める大志を抱きたまえ)と言われたという説もある。 クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。 北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。 「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。
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グラファイト
グラファイト(graphite、石墨、黒鉛)は、炭素から成る元素鉱物。六方晶系(結晶対称性はP63/mmc)、六角板状結晶。構造は亀の甲状の層状物質、層毎の面内は強い共有結合(sp的)で炭素間が繋がっているが、層と層の間(面間)は弱いファンデルワールス力で結合している。それゆえ、層状に剥離する(へき開完全)。電子状態は、半金属的である。 グラファイトが剥がれて厚さが原子1個分しかない単一層となったものはグラフェンと呼ばれ、金属と半導体の両方の性質を持つ。 採掘は、スリランカのサバラガムワ、メキシコのソノラ、カナダのオンタリオ州、北朝鮮、マダガスカル、アメリカのニューヨーク州などで商業的に行われている。日本でも、かつて富山県で千野谷黒鉛鉱山が稼働していた。 硬筆に使われることから石墨(せきぼく)の和名を持ち、鉱物名として使われることが多い。 元素分析以前には鉛を含むと思われており、ラテン語で鉛を意味する plumbum に由来する plumbago と呼ばれていた。このため、英語で black lead 、日本語でもこれを直訳して黒鉛(こくえん)とも呼ぶ。ただし、実際には鉛はまったく含まれていない。グラファイトという名は、それが判明したのち、plumbago という名が不適切とされたことで提案されたものである。 構造上、α黒鉛とβ黒鉛が存在し、両者の違いは黒鉛層構造の重なり具合の違いである。通常見られる黒鉛は、ほとんどがα黒鉛である。 同素体にダイヤモンド、フラーレン、カーボンナノチューブ、カーボンナノホーンがある。 常温、常圧ではダイヤモンドより、このグラファイトの方が安定な相 (Phase) である。しかしながら、ダイヤモンドとの間には、乗り越えるべきエネルギー差が非常に大きいため、普通の状態ではダイヤモンドからグラファイトになる(構造相転移)ことはない。 歴史的な産業利用は16世紀前半にイギリスの湖水地方で発見された石墨鉱床が最初で、長い間鉛筆を製造したが、その他にも耐火物質として、製鉄やイギリスがスペイン無敵艦隊を撃破した16世紀後半には、砲弾の鋳型に使われた。また、粘土などと混合させたうえで鉛筆の芯としても利用される。またガスケットとして、耐熱性が求められる場合や、軸受など潤滑と気密の役割を同時に持たせる場合に用いられる。 黒鉛層間の空隙に電子供与体あるいは電子受容体元素が侵入(インターカレーション)した層間化合物(そうかんかごうぶつ、intercalational compound)が知られており、これは成層化合物(せいそうかごうぶつ、lamellar compound)とも呼ばれる。 1926年に最初の層間化合物KC8が発見され、KC24、KC36なども知られている。他には黒鉛と、アルカリ金属元素、Br2、金属酸化物、典型元素の酸化物や硫化物とから形成される層間化合物も知られている。 KC8は300°Cで黒鉛にカリウム蒸気を作用させて製造し、外見はブロンズ色をしている。黒鉛に比してKC8の方が金属的性質が強く、これは還元試薬としても利用されている。LiC6はリチウムイオン電池の負極として用いられている。
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アーサー・コナン・ドイル
アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル(英語: Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, KStJ, DL, [ˈɑːrθər ɪgˈneɪʃ(i)əs ˈkoʊnən / ˈkɑnən ˈdɔɪl] 発音例1 発音例2, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。 推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー(英語版)』やジェラール准将(英語版)シリーズなどを著している。 1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た 1859年5月22日、スコットランド・エディンバラに測量士補チャールズ・ドイル(英語版)の息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、ミドルネームのひとつとなる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、のちにアルコール依存症になり精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(→出生と出自)。 伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出たあと、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(→学生時代)。大学卒業後、医師として診察所を開業した(→医師として)。 患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1887年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(→副業としての初期の執筆活動)。1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』などで小説家として成功した(→小説家としての成功)。 1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者はまったく来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(→眼科への転身失敗と執筆業一本化)。 1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(→シャーロック・ホームズの大ヒット)。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたため、ホームズシリーズが著名になり過ぎるとホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将(英語版)シリーズの連載を開始した(→歴史小説を志向)。 1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の1人として参加して戦地に赴いた(→戦地医療奉仕活動)。同年10月に行われた解散総選挙(英語版)に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬し、戦争支持を訴えたが落選した(→総選挙に出馬するも落選)。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を公刊して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(→英軍擁護運動)。 1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(→ホームズの復活)。 彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察のずさんな捜査を暴き、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(→冤罪事件への取り組み)。 1912年4月のタイタニック号沈没事件について、乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショーと論争した(→タイタニック沈没事件をめぐる論争)。 1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線を回って士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(→第一次世界大戦をめぐって)。 一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜をいっそう強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国』を発表した(→心霊主義、心霊主義活動の本格化)。 1930年7月7日に死去した(→死去)。 さまざまな分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声がもっとも高く、この作品を通じて後世の推理物のさまざまな原型を築いた(→評価)。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(→政治思想)。クリケットをはじめとしてさまざまなスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(→スポーツマン)。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(→家族)。 1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイル(英語版)とその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる。 チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。 父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。 ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルがダブリンからロンドンに出てきて、"H.B." の筆名で著名な風刺画家となってからだった。ジョンの長男ジェームズ(英語版)は画家、次男リチャードはイラストレーター、三男ヘンリー(英語版)はアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという。 母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという。 裕福な伯父の支援で1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジ(英語版)に進学し、同校で5年間学んだ。スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している。1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学した。 オーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、1876年にエジンバラ大学医学部に進学した。 5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという。しかしここで知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けた。ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり、ドイルは彼をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたという。また解剖学のウィリアム・ラザフォード(英語版)教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという。 大学在学中、ダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという。 大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵の『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュの『ジル・ブラース物語(フランス語版)』、サー・ウィリアム・テンプル准男爵のエッセイ、オリバー・ウェンデル・ホームズのエッセイ、トマス・マコーリーのエッセイ、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けたという。 スポーツにも積極的に参加した。相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた。 当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している。 1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった。 大学卒業後の1881年10月にアフリカ汽船会社(英語版)に船医として就職した。10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号(SS Mayumba)に乗船したが、客が次々とマラリアに罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。気候も暑くてたまらなかったという。1882年1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した。 このあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった。 1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、プリマスのバッドの診察所の共同経営者となった。バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた。 1882年6月末からポーツマス郊外サウスシー(英語版)で診察所を個人開業するようになった。8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった。すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという。スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、サッカー・クラブの立ち上げにも参加した。 1885年には病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をした。 ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(My Friend the Murderer)』が『ロンドン・ソサエティ(英語版)』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(The Captain of the Pole-Star)』が『テンプル・バー(英語版)』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書(英語版)』が『コーンヒル・マガジン(英語版)』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。 短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社(英語版)』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。 この後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社(英語版)に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。 『緋色の研究』出版までの間に『ガス・アンド・ウォーター・ガゼット』誌からの依頼でドイツ語の『ガスパイプ漏れの検査』を英語訳した。後年、コナン・ドイルは「世人は『緋色の研究』が私の仕事の突破口だと思うかもしれないが、そうではない。自分から頼んだのではなく出版社から依頼された初めての仕事という意味でこの翻訳が私の突破口となった」と語っている。 1887年7月から1888年初めにかけて、17世紀後半のモンマスの反乱を描いた歴史小説『マイカ・クラーク(英語版)』を執筆した。この作品はロングマン社(英語版)に買い取ってもらい、1889年2月に出版した。かなり評判がよく、1年の間に3版も重版を重ねている。後年ドイル自身も「この作品が自分の最初の出世作だった」と語っている。 1889年にアメリカ合衆国のJ.B.リピンコット(英語版)からの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、1890年2月に英米で出版された。この作品の評判もよかった。 『四つの署名』執筆後、14世紀を舞台にした歴史小説『ホワイト・カンパニー(英語版)』の執筆に戻った(この小説の執筆と歴史調査には2年かけていた)。『マイカ・クラーク』と『四つの署名』の評判がよかったため、コーンヒル社から雑誌掲載で200ポンド、単行本化で350ポンドという高い報酬で買ってもらえた。単行本は全3巻で出版されたが、非常によく売れ、コナン・ドイルの小説家としての名声を押し上げた。この本はのちに学校の歴史教育の教材にも使われており、それについてドイルは「長く読み伝えられ、イギリスの伝統が栄光に輝いてほしい」という感想を述べている。 1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会においてロベルト・コッホが新しい結核治療法を発見したと発表した。気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという。 このベルリン滞在時にドイルは突然眼科医になることを思い立った。1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受けた。しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した。 帰国後にはロンドンのモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった。 診察所を閉鎖するとサウス・ノーウッド(英語版)郊外テニスン・ロード12番地に移住した。 このころ、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書くことを考えていた。その主人公として選ばれたのがシャーロック・ホームズだった。ホームズをシリーズ化することにしたのは、すでにホームズ作品を2つ出していたため(『緋色の研究』と『4つの署名』)、シリーズ化が一番容易だろうと判断したためだった。 こうして書かれたホームズ短編小説6編は1891年1月に発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』誌に1作35ポンドで買ってもらえ、同誌1891年7月号から順次掲載された。この連載は初回から話題となり、ホームズシリーズは人気となり、『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げた。好評にこたえてさらに6編のホームズ短編小説を書き、1892年1月号から連載された。この連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化された。 ドイルのもとにはホームズ読者の手紙が大量に届くようになったが、その大半はドイル宛てではなく、ホームズ宛てだったという(ドイルはホームズ宛ての手紙には「ドクター・ジョン・ワトスン」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」という返事を書いていたという)。またサインを求められることも多くなったが、それもやはり「コナン・ドイル」のサインではなく、「シャーロック・ホームズ」のサインを求められることが多かったという。 このころ、ドイルは『ブックマン(英語版)』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。あるときは学生から、あるときは熱心な読者の巡回セールスマンの方から。時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っている。 しかしドイル当人は歴史小説が自分の本分と考えており、歴史小説家として名前を残したがっていた。そのためホームズの評判が高くなりすぎると、逆にホームズを倦厭するようになった。 最初のホームズ連載が終わると、ホームズを離れ、17世紀フランスのカルヴァン派への弾圧と彼らのアメリカ亡命を描いた歴史小説『亡命者(英語版)』の執筆を行った。1892年2月までに同作品を完成させ、『ストランド・マガジン』とアメリカ合衆国の『ハーパーズ・ニューマンリース』誌で発表し、1893年には単行本化された。それなりに売れたものの、すでにホームズ人気には及ばなかった。 『ストランド・マガジン』はドイルに歴史小説よりホームズシリーズの続編を書いてほしいと要請し続けていた。これに対してドイルは「1,000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を提示した。破格の報酬を条件に出すことで『ストランド・マガジン』の方から諦めさせようとしたようだが、同誌はこの条件を本当に呑んでしまったため、書くしかなくなった。 こうして再び書かれた12編のホームズ短編小説は『ストランド・マガジン』1892年12月号から発表され、のちに『シャーロック・ホームズの回想』として単行本化された。しかしこの連載の最後である1893年12月号の『最後の事件』ではホームズをライヘンバッハの滝に落として死んだことにしてしまったため、物議をかもした。ドイルはこの連載が始まる前の母に宛てた手紙の中で「私はホームズを最後に殺すことでこの仕事を打ち切ることを考えています。彼のために私はほかのもっと素晴らしいことを考える余裕がなくなっているからです」と漏らしていた。 ホームズを死なせたドイルは、1894年からナポレオン戦争時代を描いた『ジェラール准将(英語版)』シリーズの執筆を開始した。最初の8編は1896年に『ジェラール准将の功績』として単行本化され、続く8編は1903年に『ジェラールの冒険』として単行本化されている。ジェラール准将シリーズもかなりの人気作品になったが、世間では依然ホームズシリーズの再開とホームズの復活を求める声が強かった。 南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。 これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた。従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。ですから私を責めないでください。兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している。 しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした。 ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。ドイルも休む暇もなく献身的に働いた。 1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させた。ドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた。 帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった。 ドイルはボーア戦争以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していた。 そのため1900年10月の解散総選挙(英語版)を前にして、与党である保守党・自由統一党も、野党である自由党も著名な作家であるドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけた。ドイルは、自由統一党からの出馬を決めた。同党はジョゼフ・チェンバレンやデヴォンシャー公爵らアイルランド自治に反対する自由党議員が自由党から離党して作った政党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していた。 自由統一党執行部は与党候補の当選が安定している選挙区を用意すると言ってくれていたが、ドイルはそれを断って「スコットランド急進派の砦」と呼ばれ、与党候補の当選が困難と見られていたエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬した。 同選挙区の自由党候補は出版業者ジョージ・マッケンジー・ブラウン(英語版)だったが、ドイルは自分と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで争点をボーア戦争の是非のみに持ち込み、そのうえで「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えた。 しかし、選挙日前日に福音派信者がドイルのことを「教皇派共謀者」「イエズス会密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進し、これによってドイルは有権者から狂信的カトリックのように誤解され、選挙の流れが不利になったという(少なくともドイル本人はそう思っていた)。 選挙の結果はブラウンの3,028票に対してドイルは2,459票に留まり、落選であった。しかし前回選挙と比べると自由党候補の票を1,500票も減じた格好だったため、党は一定の成果があったと評価したようである。ちなみに総選挙全体の結果は与党の圧勝であった。 一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)。イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった。 国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。ドイルは1902年3月にもイギリス軍擁護の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を著した。この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する。 この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した。ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。この活動を政府から評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世からKnight Bachelorに叙され、以降「サー」の称号を使用できるようになった。また同時に名誉職のサリー州副統監にも任命された。 ボーア戦争から帰国して8か月ほど経った1901年3月にドイルは友人とノーフォークの温泉に行ったが、そこで友人からダートムーアに伝わる魔犬伝説を聞いた。興味を持ったドイルは現地調査を行ったうえで数か月間でホームズ長編小説『バスカヴィル家の犬』を書きあげた。この作品は『ストランド・マガジン』1901年8月号から8回に分けて連載された。 久々のホームズ作品の発表にホームズファンは大喜びしたが、これは物語の設定上死亡したことになっているホームズが復活したわけではなく、事件の発生日を『最後の事件』以前に設定したものだった。 ホームズ復活への熱望がますます高まる中、とうとうドイルもホームズを復活させる決意を固め、『ストランド・マガジン』1903年10月号から新連載された読み切りホームズ短編シリーズの第一作『空家の冒険』の中で、ホームズは「バリツ」なる日本武術を使って死なずに済んだと設定した。この新連載13編は1905年に『シャーロック・ホームズの生還』として単行本化されている。 『ストランド・マガジン』誌1906年7月号から『ホワイト・カンパニー』の姉妹編の歴史長編小説『サー・ナイジェル(英語版)』を発表した。ドイルはこれを自身の最高傑作と自負していた。 1906年には妻ルイーズが結核のために死去した。ドイルは1897年の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣ってプラトニックな関係に留めてきたジーン・レッキーと1907年に再婚した。これを機にクロウバラに移住して新婚生活を始めた。 ドイル自身は「自分にホームズのような推理力はない」と述べていたが、彼は以下の2つの事件において、冤罪を晴らすことに貢献した。 その最初の事件はバーミンガムに近いグレイト・ワーリー(英語版)で発生した「ジョージ・エダルジ事件」だった。これは1903年中、6か月にわたって同地の家畜の牛馬たちが何者かによって腹を裂かれて殺害された事件だった(傷口は浅かったものの長く、家畜たちは出血多量で死んでいた)。 地元警察から疑われたのは、インド系の弁護士ジョージ・エダルジだった。エダルジはこれまでも散々人種差別に晒され、地元警察や住民から忌み嫌われてきた人だった。上記の事件が発生するとエダルジを犯人と告発する怪文書が地元警察や住民に出回った。警察はこの怪文書もエダルジの自作自演と判断し、エダルジの自宅を家宅捜索した。そして血痕らしき小さなシミと馬の毛がついたスーツが発見されたとして、エダルジを家畜殺害の容疑者として逮捕した。怪文書の筆跡もエダルジの筆跡であると鑑定された。裁判にかけられたエダルジは有罪判決を受け、石切場での7年の重労働刑に処された。 しかし警察が依頼した筆跡鑑定官は別の事件の裁判でもいい加減な鑑定をしたことで悪名高い人物であり、しかもエダルジが石切場で重労働させられている間にも家畜が殺される事件が発生したため、エダルジ冤罪説が強まり、内務省に再審請求が殺到した。内務省は1906年10月にエダルジを仮釈放したものの、仮釈の理由を説明せず、有罪判決を取り消したわけではなかった。このやり口に憤慨したエダルジは新聞で自らの冤罪を訴えた。 これを読んで事件に関心を持ったドイルは、裁判記録を調べ、犯行現場を視察し、またエダルジ本人とも会見した。ドイルはエダルジと会った瞬間に彼の無罪を確信したという。ドイルがエダルジを訪問したとき、エダルジは眼を近づけて横にずらすように新聞を読んでいるところだったが、かつて眼科の勉強をしていたドイルは、この様子を見て彼がメガネでも矯正できないほどの強度の近視かつ乱視だと見抜いたという。そのため彼が闇夜の野原の中から家畜場や家畜の位置を特定して傷つけることなど不可能と考えたのだった。 ドイルは証拠の洗い直しを行い、警察のずさんな捜査の実態を次々と暴いた。エダルジが書いたと鑑定された怪文書を別の筆跡鑑定人のところに持ち込んだ結果、エダルジの筆跡ではないという鑑定結果を得られた。上着の馬の毛については、その衣服が警察署へ運ばれる途中に馬のなめし皮入りの袋に入れられたために付着しただけであると突き止めた。また、同じく衣服に付着していた血痕らしきシミについては「どんなに腕のいい暗殺者でも暗闇で馬を引き裂いて3ペンス銅貨2つの血痕しか付かないなどということはあり得ない」と問題視しなかった。 著名な作家コナン・ドイルが事件を出版したことで事件への国内外の注目は大いに高まった(アメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』は一面で報道している)。そのためイギリス政府としてもこの事件をいい加減なままにしておくことはできなくなり、1907年春には事件の再調査を行う「エダルジ委員会」が設置された。しかしそのメンバーには警察に都合のいい人物が入れられていたため、委員会は家畜殺しについてエダルジの無罪を認めつつも、怪文書を書いた件については有罪を覆さなかった。その結果、エダルジは特赦を受けつつ、「ある程度までエダルジの責任」とされて、3年間の重労働刑についての刑事補償を認められなかった。ドイルはこれにがっかりし、役人のかばい合い体質を批判するとともに、この事件はイギリス裁判の汚点となるだろうと主張した。 1908年12月、スコットランド・グラスゴーでマリオン・ギルクリストという老女がダイヤモンドのブローチを奪われて撲殺された。警察が容疑者としたのはユダヤ系ドイツ人のオスカー・スレイターだった。スレイターはギャンブルや犯罪まがいのことに手を染めてきた素行の悪い人物だったうえ、この直前にダイヤモンドのブローチを質に入れており、しかも偽名で船に乗ってニューヨークに渡航していたため、一見して疑わしい人物だった。またユダヤ人だったため、人種的偏見を向けるのにも格好の標的だった。 警察の捜査は粗略というより、彼を犯人に仕立てあげようという悪意がこめられているものだった。たとえば、証人たちはあらかじめスレイターの写真を犯人の写真と言って見せつけられ、スレイターを犯人と証言するよう誘導されていた。唯一の物的証拠であるスレイターが質入れしたダイヤモンドのブローチはギルクリフトのものと一致せず、質入れした時期も殺人事件前だと判明したが、警察はそれらの情報を隠ぺいしていた。 ニューヨークにいるスレイターは当局から犯罪人引き渡しの脅迫を受けたため、自発的にイギリスに帰国し、逮捕されて裁判にかけられたが、警察による証拠の捏造と隠蔽、弁護士や裁判官の杜撰さによって死刑判決を受けてしまった。当時のスコットランドには刑事事件の上訴制度がなかったため、スレイターにできることはもはや国王エドワード7世に慈悲を乞うことだけだった。世論はスレイターに同情し、2万人もの減刑嘆願署名が集まり、恐らくその影響で死刑執行2日前に終身重労働刑に減刑された。 ドイルは1910年にこの事件の証拠の矛盾を扱ったウィリアム・ラフヘッド弁護士の小冊子を読んで事件を知り、冤罪事件との確信を強めたが、エダルジ事件での役人の結託・隠蔽にうんざりしていたため、今回はすぐに腰を上げようとはしなかった。 しかし調べれば調べるほど、エダルジ事件より酷い冤罪事件と分かり、結局彼は取り組む決意をした。1912年夏に小冊子『オスカー・スレイター事件』を出版した。この中でドイルはスレイターが偽名でアメリカに逃亡したのは、若い愛人と一緒にいることが妻にばれることを恐れて警察から逃れようとしたのではないことを指摘した。また凶器とされるスレイターが持っていた小型ハンマーについては「画鋲を抜いたり、小さな石炭のかけらをたたく以上のことをしたら限界を超える」と指摘した。またこの冤罪がユダヤ人に対する人種的偏見に根ざしている点も指摘した。 ドイルの介入で事件が注目を集める中、事件を担当した刑事ジョン・トレンチ警部補は良心の呵責に耐えかね、警察の方で証言を捏造したことを暴露した。しかし裁判所はこの暴露を再審理由として十分ではないとして却下し、しかもトレンチ警部補は警察上層部の圧力で解雇され、年金を打ち切られてしまった。警察の腐敗ぶりに愕然としたドイルは、『スペクテイター』誌において「この事件は警察の無能さと頑迷さの最高の一例として犯罪傑作集に不滅の名を留めるだろう」と語った。 その後、この事件についての動きは10年以上なかった。その間、スレイターは服役を続け、ドイルは再審請求を何度も司法当局に提出したが、取り合ってもらえない状況が続いた。 1925年2月、服役して16年になるスレイターは看守の目を盗んで釈放された囚人仲間を利用してドイルに助けを求める手紙を送った。これを読んだドイルは、再びこの問題に本腰を入れて取り組む決意を固めた。ドイルは1927年7月にジャーナリストのウィリアム・パークが出版したスレイターの無罪を訴える著作『オスカー・スレイターについての真実』に協力した。この本は世論に大きな影響を与え、この事件に関するマスコミの再調査が過熱した。1927年11月に『エンパイア・ニュース(英語版)』紙は、警察の用意した証人は警察から「スレイターを犯人と証言しろ」と脅迫されていたことを明らかにした。同紙のライバル紙『デイリー・ニュース』も、警察が証人に賄賂を送っていたことを明らかにした。マスコミの報道合戦で警察腐敗の実態がさらに暴露されることを恐れたイギリス政府は同時期に突然スレイターを釈放し、この問題を鎮静化させようとした。 スレイターは釈放されたものの、いまだ無罪と認められたわけではなかった。ドイルは間髪いれずスレイターの名誉回復および不当な刑罰に対する刑事補償の請求を行った。今回は再審が認められたが、スレイターには金がなかったため、裁判費用は支援者たちの募金およびドイルの1,000ポンドの資金援助で賄われた。裁判の結果、スレイターは公式に無罪と判決されたものの、刑事補償はわずか6,000ポンドしか払われず、18年にも及ぶ不当投獄に対するものとしては少なすぎた。しかも裁判費用を全額負担せねばならなかった(ドイルとしては刑事補償1万ポンド、裁判費用は全額国持ちが妥当と考えていた)。 ドイルはあくまで司法・警察の腐敗を正すために行動したのであって、スレイター個人の人柄が好きなわけではなかった(ドイルは強烈な国家主義者であり、スレイターのように不道徳な生活を送る根なし草のコスモポリタンは嫌いだった)ため、無罪判決を得た今、スレイターとは縁を切るつもりだった。彼がお礼として送ってきた贈り物もすべて返却している。またドイルはスレイターが支援者たちに裁判費用を返還しないことを批判した。ドイルにとっては大した金額ではなく自分への返還はどうでもよかったが、ほかの貧しい支援者たちに債務を押しつけようとしていることは許せなかった。ドイルはスレイターに「きみは私が今まで会った人間の中でももっとも恩知らずで愚かな人間だ」と批判する手紙を送っている。 1912年4月、タイタニック号沈没事件があった。マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者ジョージ・バーナード・ショーはその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した。 ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、婦女子優先は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)。 またショーはエドワード・スミス船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた。 乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した。 ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている。 1912年には初のSF小説でチャレンジャー教授シリーズ第1作である『失われた世界』を公刊した。先史時代の生物が生存している南米アマゾンの台地をチャレンジャー教授が旅する物語である。ドイルの幻想的なイマジネーションが高く評価されている作品である。 さらに翌1913年には再びチャレンジャー教授を主人公とする『毒ガス帯』を執筆した。地球が毒ガス帯を通過し、チャレンジャー教授ら5人を除いた全人類が死に絶えたと思われたが、昏睡していただけだったという物語だが、ドイル研究家の中にはこの昏睡から目覚めた後の世界というのは心霊主義の「次の世界」のことで、つまりこの作品がドイルの心霊主義作品の第1作ではないかと指摘する者もいる。 1911年にはドイツとイギリスで行われた自動車レースのプリンツ・ハインリヒ・トライアル(英語版)に参加した。この際にドイルはドイツ軍人の間にイギリスとの開戦不可避との意識が高まっているのを感じ、イギリスの戦争準備が足りていないと憂うようになったという。 大戦直前には『危険!(英語版)』を著した。これはイギリスが「ノーランド」という架空の国と戦争になり、ノーランドの潜水艦が王立海軍をかわしてイギリス商船に大打撃を与え、イギリスは破れ去るという仮想戦記であるが、この著作はのちに一次大戦のドイツ潜水艦によるイギリス商船攻撃戦略を予見したものと評価され、ドイツ海軍大臣からドイルは「預言者」と呼ばれた。 1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した。 ドイルは、全国に先駆けて地元クロウバラに「義勇軍」と称する民兵団を創設した。この組織は軍部からも注目され、のちに「第6近衛サセックス義勇連隊クロウバラ隊」として再編成された。ドイルは大戦全期を通じてこの部隊に一兵卒として所属していた。 政府と軍部は著名な作家であるドイルを徹底的に戦意高揚に利用する腹積もりであり、ドイルに各地の前線視察や従軍記執筆を依頼した。ドイルはそれらの要請を快諾し、各戦線を練り歩いて士気を鼓舞する演説を行った。ドイルはどこの戦線でも将兵から人気があったという。1915年からは戦記『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』の執筆を開始し、1920年までに全6巻で完成させた。大戦中のドイルはかつてないほどエネルギッシュに行動し、彼自身ものちに「自己の身体的絶頂期」と評している。 1916年末には強力な総力戦体制・戦時体制構築を目指すロイド・ジョージが首相に就任し、ドイルも政府から一層の戦争協力を求められるようになった。しかし軍部による社会監視も強化され、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正・削除されることが多くなり、ドイルの苛立ちは募った。ロイド・ジョージを称える公式伝記を書くよう求められたこともあったが、ドイルには首相の伝記を書くことが目下の戦争遂行に必要とは思えなかったとして断っている。 ホームズ関連では、開戦前の1914年4月に書きあげた長編『恐怖の谷』が『ストランド』1914年9月号から9回にわたって連載された。また戦況が泥沼化している1917年にはホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという内容の短編『最後の挨拶』を戦意高揚のために執筆した。この作品は同年9月の『ストランド』誌に掲載され、「シャーロック・ホームズの戦争での任務」という副題がつけられた。この作品と1908年から1913年にかけて発表されてきたホームズ短編は1917年に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』として単行本化されている。 しかしドイルは盲目的に愛国旗振り役だけに徹したわけではなく、1916年には大戦に乗じて反乱(イースター蜂起)を起こしたアイルランド独立運動家サー・ロジャー・ケースメントの死刑執行延期の嘆願書に署名している(しかし功を奏せず、ケースメントは反逆罪でただちに処刑された)。 大戦中、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われた。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが最初に戦死し、ついで妹の夫や2人の甥が戦死した。1918年10月には26歳の長男キングズリーが前線で病死した。1919年2月には若い弟イニスも病死した。 ドイルは一次大戦前から心霊主義に関心を持っており、一次大戦での身内の死が原因で心霊主義に入ったとはいえないが、これをきっかけに心霊主義への傾斜を強めたことは確かなようである。1918年に著した最初の心霊主義に関する著作『新たなる啓示(The New Revelation)』の中でドイルは「戦争で多くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死後もなお生き続けているはずだとの確信に達した」と書いている。 一次大戦後のドイルは心霊主義の布教を自身の使命と心得るようになった。イギリスのみならずオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ諸国、南アフリカ、ローデシア、ケニアなどを訪問しては心霊主義の講演を行った。1925年にはパリで開かれた国際心霊主義者連盟(英語版)の会議の議長を務めた。一次大戦後にドイルが心霊主義布教のために費やした金額は25万ポンドを超えると言われている。 コティングリー(英語版)の2人の少女(15歳と9歳)が妖精の写真を撮ったと話題になった「コティングリー妖精事件」をめぐっては、ドイルはこの写真を本物と判断し、『ストランド・マガジン』1920年12月号に掲載させた。さらに1922年には『妖精の到来(The Coming of the Fairies)』というタイトルでこの件を本にして出版した。ドイルがこれを信じたのは、少女に偽造写真を作る技術などあるわけがないと考えたこともあった。この写真の真偽はその後、イギリスで延々と論争され続けたが、60年以上後の1983年に至って写真を撮った2人の少女(この時点ではもちろん2人とも老婆になっていた)がそろって本から妖精の絵を切り取って作った偽造写真であることを認めたため、最終的に決着した。 『ストランド・マガジン』1925年7月号から心霊主義小説『霧の国』の連載を開始した。頑なに心霊主義を受け入れないチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める話であり、もちろんこの作品のチャレンジャー教授にはドイル本人が投影されている。またイギリスの心霊主義弾圧の法令を批判的に描いている。 『ストランド・マガジン』からの依頼でホームズ短編も執筆したが、この時期のホームズ作品はシャーロキアンからも精彩がないと評価されることが多い。もはやドイルにとってホームズは、心霊主義布教をやりやすくするための資金作りと名声維持の意味しかなくなっていたため、気持ちが十分に入っていなかったと言われている。またホームズ作品の舞台となるヴィクトリア朝とエドワード朝が作者にとって遠い過去の時代になってしまっていたことも原因と見られている。このころに書かれたホームズ短編作品は1927年に『シャーロック・ホームズの事件簿』として単行本化されている。 1929年にはアトランティス沈没を生き延びた人類が深海探査船に発見されるという内容のSF小説『マラコット深海(英語版)』を発表した。 ドイルは1920年代から心臓発作を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた。1929年には心臓発作が頻発するようになり、1930年春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した。 死の直前の1930年7月1日には、ジェームズ1世時代に制定され、当時心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「魔女法(英語版)」の撤廃を陳情すべく、内務大臣ジョン・ロバート・クラインスを訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた。 1930年7月7日朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。そこからサセックスの田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った。亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた。 彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった。妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた。そのため、7月11日に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという。 ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている。 ドイルは晩年の1927年に「彼(ホームズ)のことは、もともとそんな気はなかったのに、随分長く書くことになった」「ありがたい友人たちがもっと読みたいとしきりに望むので、書くことを余儀なくされたのだ。おかげで本当に小粒な種から、こんな途方もないものに成長した」と述べている。 一度はホームズを死なせたこともあるドイルはしばしば「シャーロック・ホームズを嫌っていた男」と表現されるが、ドイルは後年に次のように語ってホームズと「和解」している。「ホームズを復活させたことについて、私はまったく後悔していない。こうした軽い作品を書くことにより、史実や詩、歴史小説、心霊現象研究の著作、劇作といったさまざまなジャンルの創作活動において、自分の限界を試し、発見する行為が、特に邪魔されたわけではないからである。もしホームズが最初からいなければ、私はこれ以上の仕事をしてこれなかっただろう。ただもっとシリアスな著作を認めてもらううえで彼が若干のお荷物になったということはあるかもしれない」。 ドイルは、当時の大多数のイギリス人と同様に熱狂的な帝国主義者であり、「大英帝国の拡大が道徳的善を推進する」と信じて疑わなかった。そのため1898年のイギリス軍のスーダン侵攻の際には『コロスコの悲劇』を著し、その中でマフディーの反乱を起こしてイギリス支配を脱却したマフディー教徒たちを「狂信的な専制者」と批判している。1900年から1902年にかけてのボーア戦争の際にもイギリス軍のさまざまな残虐行為の「弁護士」の役割を全力で果たし、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙された。選挙には自由統一党の候補として出馬したが、それは同党が最も強硬に帝国主義戦争を推進していたからだった。 ドイルの大英帝国観は彼の歴史小説の中に見える中世騎士道賛美とも相互補完していた。ドイルは騎士道の強者への賛美はそのまま世界最強国大英帝国への信奉、騎士道の弱者への思いやりはそのまま大英帝国の寛大な植民地政策に反映されていると考えていた。ちなみにベルギー王レオポルド2世による残虐なコンゴ植民地支配には批判的であり、その犯罪的統治を糾弾する『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』を著している。 女性観も中世騎士道に根ざしており、男は強くあり、女性を保護しなければならないと考えていた。そのためドイルは、無意味な女性差別を廃することには賛成したが、女性が男性の分野に進出してくることには反対した。たとえば離婚事由をめぐって男女差別を規定していた離婚法の改正運動には積極的に協力したが、政治という男の世界への女性の進出を促す婦人参政権には強く反対した。ドイルは、婦人参政権について「女性に選挙権を持たせても何の益もない」「女性が政治運動をすること自体がおぞましく、女性らしくない」と論じている。そのためしばしば婦人参政権論者の憎悪の対象となり、1909年には自宅の郵便受けに硫酸を流し込まれたことがあった。1914年に訪米した際にも、あるアメリカ合衆国の新聞に「シャーロック来る。"狂気の女たち"のリンチに期待」という見出しをつけられた。 反共主義者であり、第一次世界大戦中にロシアで起きた共産革命を強く嫌悪した。ロシア革命について「まるで一人の強健な人物(帝政ロシア)が、突然目の前でドロドロの腐敗物(ソビエト連邦)と化してしまったかのようだ」「やがていくばくもなく共産主義政権は崩壊し、再び強固で健全なロシア人が甦るだろう」という感想を漏らしている。ドイルの後年の心霊主義傾倒は共産主義に対する反発もあったようである。また英国労働党の緩やかな社会主義も非英国的と見て嫌っていた。 ドイルは徹底した国粋主義者だったが、アメリカには好感を持っており、「アングロ・サクソン人が世界をリードすべき」「世界の未来は英米両国の結合にかかっている」と語っていた。1900年には『英米の融和(An Anglo-American Reunion)』という小論文を著し、この2国の結合が善意で実現できなければ、やがてロシアからの威嚇の防衛手段として無理やりその結合を成立させられることとなるであろうと予言した。 心霊主義は19世紀半ばから世界各地で盛んになっていた。イギリスにおける心霊主義の流行はヨーロッパやアジアでの流行に触発されてのものだったが、一度やってくるとイギリスが一番心霊主義の盛んな国となった。 ドイルと心霊主義の最初の出会いは、20歳のときの1880年にバーミンガムで行われた「死は全ての終わりか」という題の心霊主義講演を聞いたことだったが、この時のドイルは「唯物論者」だったといい、不信感をもって心霊話を聞いていたという。しかしやがて少なくない数の科学者が心霊術を認めていることを知ったドイルは、ケンブリッジ大学教授フレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが実在すると主張していたテレパシーを自ら実験した結果、それに成功したらしく、心霊現象に対して自分は頑固すぎたと反省したという。 その後、ドイルは降霊会に参加するようになった。最初に降霊を体験したときには、その霊がもたらした情報がでたらめだったのでドイルはがっかりしたが、2度目に降霊を体験をしたときには自分しか知らないことを言い当てられ、心霊が立証されたと感じたという。そしてその体験をした6年後の1893年11月に心霊現象研究協会に正式に入会するに至った。 冷静な論理の化身ホームズの生みの親が心霊主義組織に入会したことは一見矛盾して見えるため、当時も今もドイルにケチをつける者はこの点を批判したり嘲笑することが多いが、当時心霊主義はイギリス各界の権威ある人々から広く信じられていた。ドイルが入会したときの心霊現象研究協会の会長は、のちに首相となる政界の重鎮アーサー・バルフォアであり、哲学者ウィリアム・ジェームズ、博学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス、物理学者オリバー・ロッジ、化学者ウィリアム・クルックスなど名だたる科学者たちも参加していた。 このころのドイルはまださほど熱心に心霊主義を研究していたわけではなかったようである。前述したようにドイルの心霊主義への本格的傾倒は、身内の戦死が続出した第一次世界大戦後である。1920年代のドイルは体調が悪化し続けていたが、無理をしてでも心霊主義布教のために尽くしていた。自分の残りの人生はそのためだけに与えられていると思っていたという。 ドイルは生来体格がよかったこともあって、スポーツ好きだった。 とりわけクリケットが得意であり、メアリルボーン・クリケット・クラブ(英語版)の一員として、投手としても打者としても活躍した。ウィリアム・ギルバート・グレースからアウトを取ったこともあったという。 サッカーでも活躍し、40代までプレイし続けた。ゴルフやビリヤードもたしなんだ。 アマチュアのボクサーでもあり、かなり強かったという。ドイルはボクシングを「武器を使わないもっともフェアで男らしいスポーツ」と絶賛している。 ただドイル本人は自分のスポーツの腕前について「どれも専門的にやったわけではないから、何をやっても二流どまりだった」と謙虚に語っている。 ドイル当人にとっては「どちらかといえば程度の低い作品」であったシャーロック・ホームズシリーズの知名度がドイル作品の中では群を抜いている。『ストランド・マガジン』のホームズ担当編集員だったグリーンハウ・スミスは「シャーロック・ホームズとワトスン博士の名前はみんなにおなじみの名前であり、この2人の名は今や普通名詞化しています」「これはどんな作者でも誇りに思うような偉業です。シャーロック・ホームズは間違いなく、英語で書かれた小説の中でもっともなじみのある、もっとも広く知られた登場人物なのです」と語っている。 ホームズ作品の魅力はもちろんドイルの文才によるところが大きい。ドイルの文章は歯切れがよく、しかも平易で読みやすく、含蓄もある。日本においても英語授業の教材としてしばしば使用されている。物語の簡潔な構成力が高く評価されており、江戸川乱歩はドイルのことを「どちらかといえば短編作家」と評している。またドイルはホームズ作品を通じて、密室、暗号、ダイイング・メッセージ、毒殺・毒物、一人二役、替え玉死体、偽装殺人、意外な凶器、意外な隠し場所など、現代に至るまでの推理物の基本的なトリックのパターンをほぼすべて完成させた人物でもある。 一方、ホームズ以外の作品の知名度は低いと言わざるを得ず、ドイルが自身の傑作と考えていた『ホワイト・カンパニー(英語版)』や『ナイジェル卿の冒険(英語版)』といった歴史小説も現在ではほとんど読まれていない。 ドイルは『ストランド・マガジン』1903年10月号掲載の『最後の事件』で、ホームズがライヘンバッハの滝からモリアーティ教授と落ちながら助かった理由として、「日本武術バリツ」をホームズが身に着けていたためと設定した。また『ストランド・マガジン』1925年2月・3月号掲載の『高名な依頼人』では「聖武天皇」と「奈良の正倉院」を話題として出している。 ドイルが系統的に日本についての知識を有していたかは疑わしい。しかし中国分割をめぐってロシアと対立を深めるイギリスは、1902年に日本と対露を目的とした同盟を締結したため、以降イギリス人の日本への関心は高まっていた。そのため知識人層であるドイルが日本について断片的な知識を有していたとしても不思議ではない。 またドイルの幼馴染の友人には東京帝国大学教授ウィリアム・K・バートンがいた。工業化が急速に進展していた明治の日本は、近代的水道網の設備を急いでおり、バートンはそのための人材として1884年に日本政府から招かれていた。ドイルはバートンと写真を通じて仲がよく、バートンが日本にいる間、イギリスにある彼の預金通帳はドイルが預かっていた。そのような関係から2人は文通も多く、ドイルの日本に関する知識もこのバートンから仕入れられた可能性がある。 ドイルと会ったことがある日本人は確認されている限り2人である。1人は1909年から英国留学した英語教師の安藤貫一で、1910年1月にピカデリー・ホテルでドイルと会見している。ドイルは安藤にバートン教授の話や自分の作品の話をし、「ジェラール准将のごとき武勇伝が私は一番好きで歴史小説に心血を注いできたのに、期待したほどの反応はなく、むしろ探偵小説で予想外の成功を収めたのは意外だった」と語ったという。 もう1人は薩摩治郎八であり、彼は20歳のころの1921年にロンドン日本協会副会長アーサー・ディオシーの紹介でドイルと会見した。彼はドイルにアラビアのロレンスについて質問したという。 1885年にルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をしたが、1906年に死別。翌1907年にジーン・レッキーと再婚する。 子供は全部で5人。ルイーズとの間に、長女マリー・ルイーズと長男アーサー・アレイン・キングスレイ(スペインかぜで1918年に死去)。ジーンとの間に、次男デニス・パーシー・スチュワート(グルジア貴族の娘と結婚し、アメリカ合衆国での派手な暮らしで破産同然となる)、三男エイドリアン・マルコム(英語版)(レーサー、探検家)、次女ジーン・レナ・アレット(幼いころから父親の心霊スポット行脚の旅に同行し、両親の死後、イギリス空軍の軍人になり、定年まで勤め上げる。夫も軍人)。三男のエイドリアンは、ジョン・ディクスン・カーの協力を得て、ホームズ・シリーズの続編をいくつか出版した。次男と三男は父親の財産で放蕩の限りを尽くし、父親の版権相続をめぐって一族内で裁判沙汰が絶えなかった。1997年に次女で末娘のジーンが亡くなったことで、コナンドイルの子孫は断絶した。 ドイル作品の版権は次男の死後、三男に引き継がれた。その一部は、次男の未亡人による裁判によって未亡人のものになったが、彼女の経済的破綻によりロイヤルバンク・オブ・スコットランドのものとなり、その後、個人に売却された。1980年にドイルの版権は英国のパブリック・ドメインになったが、アメリカ合衆国では著作権法により2023年まで保護されることになり、次女のジーンに引き継がれた。ジーンの死亡後は、その遺言により英国王立盲人協会 (RNIB)に譲渡されたが、のちにドイル家の傍系の相続人に売却された。 そしてシャーロック・ホームズシリーズの著作権は、2023年1月1日にすべてパブリックドメインになったとされている 延原謙訳『ドイル傑作集』全8巻(新潮文庫、1957年 - 1961年)が、ジャンル別に編纂したアンソロジーの構成。21世紀以降は新潮社で電子出版。21世紀に入り、ホームズ外典を含めた短編集『ドイル傑作集』全5冊が創元推理文庫で出版された。
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メモリ (曖昧さ回避)
メモリ (memory) は、英語で記憶または思い出のこと。
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千葉駅
千葉駅(ちばえき)は、千葉県千葉市中央区新千葉一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。 京成電鉄の京成千葉駅と近接しており、乗換駅となっている。 東日本旅客鉄道(JR東日本)と千葉都市モノレールが乗り入れており、中央区新千葉一丁目に位置している。尚、隣接する京成電鉄の京成千葉駅は中央区新町250番地3に位置している。 千葉県の県庁所在地及び政令指定都市である千葉市の中心駅である。横須賀・総武快速線(総武線快速)、中央・総武緩行線(中央総武線各駅停車) 成田線、総武本線、外房線、内房線、千葉都市モノレール1号線、千葉都市モノレール2号線が乗り入れており、東京都心方面からの緩急分離運転区間の終点及び千葉県内各地へ向かう各路線が集結するジャンクション及びターミナル駅である。千葉都市モノレールの駅は、京成電鉄の京成千葉駅と一体的な造りとなっており、当駅のモノレール連絡通路からモノレール口を通ることで京成千葉線へも乗り換えが可能である。 当駅には駅ビル(ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、ホテル(サンルート千葉)、センシティ(センシティタワー、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ)、商業施設(C-One)が入居・接続している。主に当駅東側から千葉中央駅にかけての中心市街地(富士見地区から中央地区)には企業のオフィスビル、銀行や商業施設、家電量販店などが林立する繁華街となっており、柏駅や船橋駅周辺などとともに千葉県有数の市場規模を誇る巨大商圏となっている。 当駅は2011年(平成23年)以前から建て替え工事が進められてきており、2016年(平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している。 駅西口には2013年(平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ(WESTRIO)が開業し、ホテル棟(WESTRIO1)と事務所棟(WESTRIO2・WESTRIO3)のビルが3棟並ぶ。2018年(平成30年)6月28日には千葉ステーションビル主体の駅ビル「ペリエ千葉(Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートル(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。 駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区) 等、更なる都市再開発事業が続いている。 事務管コードは▲431218を使用している。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線と外房線の2路線であり、このうち総武本線を当駅の所属線とし、外房線は当駅を起点としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。 総武本線は当駅から東京方面は錦糸町駅までが複々線となっており、快速線を走行する総武快速線と緩行線を走行する中央・総武線各駅停車がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が当駅より先(後述の各線)へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。なお、津田沼・当駅間が複線だった頃は、当駅より先に直通する各駅停車も運転されていた。現在では配線上、内房線や外房線、総武本線(銚子方面)や成田線へ直通することが不可能となり、折り返し運転のみが可能となっている。 東京都心方面へ向かう総武本線は、快速線を走る総武快速線と、緩行線を走る中央・総武線各駅停車の2系統が発着する。このうち、横須賀線・総武快速線は総武本線、成田線、鹿島線、外房線、内房線へ相互直通運転を実施している。 千葉県内各地へ向かう各路線は次の4系統が発着する。すべて横須賀線・総武快速線への相互直通運転を実施している。 千葉都市モノレールの駅は1号線と、当駅を起点とする2号線の乗換駅となっている。両線共通で「CM 03」の駅番号が設定されている。モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と大阪モノレールの万博記念公園駅のみである。 当駅は京成電鉄「京成千葉駅」と相互乗換駅になっており、接続路線は京成千葉線である。当駅中央改札から出場して南口からそごう千葉店方面に向かうか、モノレール連絡口を通り京成千葉駅のモノレール口から入場することで乗り換えが可能である。 1963年(昭和38年)に移転するまでは、800 mほど成田方面寄りの千葉市民会館周辺(北緯35度36分56秒 東経140度7分12秒 / 北緯35.61556度 東経140.12000度 / 35.61556; 140.12000 (Old Chiba stastion))にあり、佐倉・銚子方面から船橋・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅方面の二またに分かれていた。そのため船橋・東京方面と蘇我・安房鴨川方面を結ぶ直通列車は、当駅でスイッチバックする形となっていた。 現在地に移転後は、船橋・東京方面から蘇我・安房鴨川方面と佐倉・銚子方面の二またに分かれる線形に改良された。駅全体がV字状になっているのはそのためである。千葉近隣の駅では大網駅も同様の変遷をたどっている。駅前広場も当時は非常に狭く、バス路線の大半は駅より離れた「要町」での発着となっていた。栄町は当時の千葉駅前から千葉県庁へのメインストリートに当たり、繁華街であった。千葉市民会館の近くに、旧駅の石碑が残っている。また、移転後の1965年(昭和40年)には旧駅よりもやや成田寄りに東千葉駅が新設されている。 JR東日本千葉支社は、2008年9月18日に、千葉駅とペリエ1となっている千葉駅ビルの建て替えを発表した(後述)。2010年7月時点で、駅構内のほとんどの店舗が閉店され本格的に工事が始まり、通路に天窓が建設され、7・8番線の一部階段が閉鎖されて使用できなくなっていた。また、西口改札外の歩道橋が早期に建て替えられていた。 現在地に移転する1963年以前の駅構造は、頭端式ホーム2面3線と島式ホーム1面2線の計3面5線(加えて複数の留置線を有していた)で、0番線は房総東線(現:外房線)、1番線は房総西線(現:内房線)、2番線は成田線、3番線は中央・総武線(各駅停車)、4番線は総武本線が使用していた。 駅長・助役配置の直営駅で、当駅と西千葉駅、本千葉駅、東千葉駅を管理している。また、当駅、稲毛駅、四街道駅で千葉営業統括センターを構成しており、当駅駅長はその所長も兼任する。島式ホーム5面10線を有する。1 - 6番線と7 - 10番線は、東側で駅ビル(駅本屋を兼ね、「ペリエ千葉」が入っている)を挟む形で分かれている。そのため、東側では5・6番線ホームと7・8番線ホームの距離が離れている。台地の斜面に位置しているため、西千葉駅・稲毛駅方向では橋上であるが、本千葉駅・東千葉駅方向は高架となっている。階数は東口側にある駅ビルが基準となっているため、各ホームは2階として扱われている。駅がこのような型になった理由については「歴史」を参照。 改札口は1 - 6番線と7 - 10番線の二又の間にある3階の中央改札口(東口・南口・千葉公園口・モノレール連絡口に接続)、西千葉駅方向の高架橋にある同じく3階の西改札口(西口・北口に接続)、更にペリエ千葉エキナカ4階にあるペリエ改札(ペリエ千葉4階に接続)の3ヶ所ある。西改札口は2018年3月3日より、始発から午前6時50分までの間は遠隔対応(インターホン対応は稲毛駅が行う)となり、改札係員は不在。一部の自動券売機のみ稼働している。ペリエ改札は午前10時から午後9時の間ICカード利用客のみ利用できる改札口で、終日無人となっており、Suicaチャージ機が設置されている。 コンコースは3階にあり、中央改札口に繋がる東側通路、西改札口に繋がる西側通路、その間にある中央通路で構成されている。東側通路には各ホーム行きのエスカレーターとエレベーターが、西側通路には7・8番線ホーム行きのエレベーターが設置されている。このうち中央通路と5 - 8番線ホームを結ぶエレベーターはペリエ千葉エキナカの4階へもつながっている。ペリエ千葉エキナカの4階へは、このエレベーターの他にエスカレーター3基と階段が設置されている。トイレは東側通路1・2番線側、中央通路9・10番線側、連絡通路の3箇所に、車椅子に対応した多機能トイレはこのうち東側通路1・2番線側と中央通路9・10番線側の2箇所にある。鉄道警察隊は東側通路9・10番線側にある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 線路の配線状況により、1 - 6番線の線路と7 - 10番線の線路は東側では一切交差していない。そのため、直通先が多岐にわたっている総武快速線の東京方面行は終日3 - 10番線からランダムに発車している。 平日朝ラッシュ時において、東京方面の当駅始発列車を対象に一旦ドアを閉める整列乗車を行っている。下り列車は全て対象外である。 当駅では、発車ベル(当時主流のピロピロピロという電子音)が近隣から騒音であるとの苦情に応えて、JR東日本の主要駅としては初めて1988年(昭和63年)5月から同年8月7日まで30分間発車ベルを鳴らさないで運行を行う試験を行い、特に問題も生じなかったことから、そのまま試行期間の終了後に発車ベルを全面廃止した。 この試みは「静けさで心が和らぐ改善」などの肯定的な評価をされ、業界誌でも取り上げられるなど注目を集めた。同年10月には早くも市川駅や稲毛駅といった同じ千葉県内の駅のみならず、東京都内の新小岩駅など県外の駅にも広がることになり、後にJR駅の発車ベルが電子音からメロディに変わるきっかけともなった。その後これらの駅では発車メロディが相次いで導入されたが、当駅では現在も発車メロディを含めて鳴らしていない。 なお、中央・総武線各駅停車の全区間(三鷹駅 - 御茶ノ水駅 - 当駅間)と横須賀・総武快速線の一部区間(久里浜駅 - 東京駅 - 幕張駅間)は、ATOSが導入されており、1・2番線の西千葉寄りに出発時機表示機が設置されている。これに加え、2019年に3 - 10番線の西千葉寄りにも出発時機表示機が設置され、さらに2020年2月16日始発から全番線において自動放送が導入された。 2021年現在、ATOS型自動放送を導入しているなかで、発車メロディ等が使われていない唯一の駅である。また、3 - 10番線については、自動放送に戸閉放送がなく、駅員のマイクによる肉声放送の後、出発指示合図または乗降終了合図でドアが閉まる。 以下の表は当駅ホームの変遷を記したものである。 JR線のさらに上層に軌道がある高架駅で、千葉都市モノレールで唯一の2面4線を有する。ホームは4階にある。正面口が地上にあり、JR千葉駅東口と向かい合っている。モノレール駅の2階(JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)にJR中央改札方面との連絡通路がある。また、3階(モノレール改札階)には中央改札口、南改札口、南口、駅事務室、車椅子対応トイレがあるほか、南口側に京成千葉駅モノレール改札口(深夜・早朝は閉鎖)や、そごう千葉店(4階)・センシティタワー(4階)方面との連絡通路がある。 改札内に3階のコンコースと4階の各ホームを結ぶエレベーター並びにエスカレーター(上り及び下り)がある(車椅子対応)。 改札外でエレベーターが1階(=地上階)、2階(JR連絡通路があり、JR駅の改札階(=3階)と同じ階層)及び3階(モノレール改札階)の間で稼働している(車椅子対応、写真参照)。改札外のエスカレーターには2つの系統がある。一方は2階のJR連絡通路と3階のモノレール改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)である(写真参照)。他方は1階(=地上階)の正面口、2階の中間コンコース、及び3階の改札コンコースを結ぶもの(上り及び下り)であり、正面口から行く場合には、中間コンコースで右折して乗り継ぐ。なお、JR連絡通路がある2階と、中間コンコースがある2階は分かれていて、互いにつながっていない。 千葉駅は、1995年8月に営業路線が千葉みなと駅まで延伸する以前には、千葉公園駅方向に約100 mよりの仮駅であったが、延伸時に現在の駅舎へ移行した。仮駅時代は、現在の駅舎の手前まで線路が延びていたため、それを利用して引き上げ線として使用、同時にホームも乗車専用と降車専用に分けていた。 また、「駅前の道路構造物は目障りで著しく景観を損ねる」として、JR東日本から250億円の迷惑料を請求され支払う事態になった逸話がある。前述の仮駅舎(23億円)や開業の遅れも重なってしまい、千葉都市モノレールは千葉駅関連の工事だけで300億円もの予定外費用を支出することになった。 ペリエ千葉、センシティ、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ、センシティタワー、ウェストリオ、シーワン、ミーオがある。京成千葉駅と千葉中央駅はこれらの施設を通して隣接している。 ペリエ千葉エキナカ 約8,000 m、3階と4階の2フロアに跨り、3階は約48店舗、4階は約13店舗の専門店を有する。 本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2合わせて約7万5000 m(地下1階 - 地上7階)の大規模な駅ビルが隣接している。 高架下ショッピングモール。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ペリエ千葉ストリート1から続いて、ミーオ1(Mio1)まで高架下でつながっている。千葉中央駅の抜け道にも利用可能である。 シーワンから高架下で続く、京成電鉄千葉中央駅西口側のショッピングセンター。外房線、内房線、京成千葉線の高架下に位置する。ミーオ1は1番街から6番街まである。 ミーオ1から千葉県庁方面(千葉中央駅東口)にあるショッピングセンター。2階は京成ホテルミラマーレと接続している。 千葉新町地区の再開発事業における施設建築物名称。 千葉新町第二地区の再開発事業における施設建築物名称。 千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設としてホテル棟と事務所棟のビル3棟が並ぶ。 当駅は駅弁専門店として改札内にリエイ「万葉軒 マンヨーケン」(旧:日本レストランエンタプライズ「駅弁屋 踊」)がある。主な駅弁は下記の通り。 年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して1日平均乗車人員を求めている。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 当駅は千葉市中心部の北西端に位置し、東口・モノレール中央口より南東方の中央公園などの「中央」方面に向かう広い通り「千葉駅前大通り」が伸びる。これは、1963年(昭和38年)の千葉駅の現在地への移転に合わせ、周辺区画と共に整備されたもので、デパートやオフィスビルなどが多い。一方通行路や右折禁止の交差点が多く、客待ちをするタクシーの台数もかなり多い。駅前広場は東口・モノレール中央口・北口・西口にあり、各々バス・タクシー乗り場がある。特に東口・モノレール中央口前のバスターミナルは規模が大きく、路線バス用、一般車とタクシー用とレーンが分かれており、県都中心駅の性格を表している。 東口・モノレール中央口駅前にはデパートやショッピングセンターなどのビルが林立している。2018年(平成30年)からは、ペリエ千葉、そごう千葉店、シーワンを中心として「えきまつり」が開催されるようになった。 北口と西口は位置・構造の関係上、東口と比べ人出が少ない。北口は1990年代まで閑静な住宅街であったが現在は駅前広場が整備され、広い道幅の道路が開通しているほか、高等学校や大手予備校もあり学生は比較的多い。また、西口にも駅前広場が整備され、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)により、病院や商業施設の建設が予定されている。 東方向の先は関東屈指の歓楽街(栄町)、南東方向は中心部の繁華街(富士見・中央)、南方向(新町・新田町・新宿)はビルなどが混在する地域となっている。2010年代以降はパルコや三越といった大型商業施設が撤退し、中心市街地の空洞化が見られる。2020年代前半は駅前の大規模再開発が進んでおり、国税庁が2022年7月に発表した同年1月時点の路線価では本地域の上昇率が全国トップとなった。西方向(新千葉)と北方向(弁天)は駅から離れると閑静な住宅街が広がる。駅周辺は路上喫煙禁止地区になっている。 県庁・千葉県警察本部や千葉地方裁判所・千葉地方検察庁など国や県の機関とその関連施設は、歴史的に千葉市の中心部である千葉中央駅から本千葉駅にかけての一帯の東側、「長洲」や「市場町」にある。当駅からは徒歩で約20分かかるため、葭川公園駅(→千葉地検、千葉地裁)、県庁前駅(→県庁舎、県警本部)、本千葉駅(→県警本部、県庁舎)からの徒歩か、バスターミナルから千葉中央バスや小湊鉄道バスなどの路線バスを利用するほうが便利である。 当駅を中心とする以下、概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内周辺の一般国道・都道府県道。 当駅を中心とする以下の各駅は概ね半径1キロメートル(km)程度範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。 栄町駅、葭川公園駅、千葉中央駅付近は栄町駅周辺、葭川公園駅周辺、千葉中央駅周辺も参照。 東口・モノレール中央口駅前 富士見二丁目 - 千葉駅前大通り南西側 飲食店、ファストフード店、居酒屋などは駅前通りよりも南側の外房線・京成線沿いに多い。 中央 新町 - 京成千葉駅周辺 新田町 新千葉駅付近は新千葉駅も参照。
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ファンデルワールス力
ファンデルワールス力(ファンデルワールスりょく、英: van der Waals force)は、原子、イオン、分子の間に働く力(分子間力)の一種である。ファンデルワールス力によって分子間に形成される結合を、ファンデルワールス結合(ファンデルワールスけつごう)と言う。 ファンデルワールス力の起源は、以下のとおりである。 結合による引力及び電荷を持つイオン間または、電荷を持つイオンと持たない中性の分子との静電気力は含まれない。 この力は、ヨハネス・ファン・デル・ワールスが実在気体の状態方程式を定式化した際に導入された凝縮力であり、それ故、彼の名を冠してファンデルワールス力と呼ばれる。 ファン・デル・ワールス自身はファンデルワールス力が発生する機構は示さなかったが、今日では励起双極子やロンドン分散力などが元になって引力が働くと考えられている。すなわち、巨視的には電気的に中性で、かつ双極子モーメントがほとんどない無極性な分子であっても、分子内の電子分布は、量子ゆらぎによって極性をもつことができる。これによって生じる電気双極子(双極子モーメント)が、同様にして出来た周りの分子の電気双極子同士と相互作用することによって凝集力を生じる。この様に動的に形成される双極子同士の引力を分散力と言う。これは、分散に関与する力という意味ではなく、分極率の振動数依存特性を分散特性と呼ぶことにちなむ名称である。 ロンドンは、上記の機構で分散力が働くことを示したので、電子の量子論的な挙動により自発的分極を起こすことに基づく分散力を、ロンドン分散力と呼ぶ。また、発生した他の分子の双極子は無極性分子の電子分布を偏向させ励起双極子を発生させる。 あるいは極性を持った(永久双極子を持つ)分子同士の双極子相互作用による引力も、ファンデルワールス力の範疇に入れる場合もある。 そして、ファンデルワールス結晶の中で分子間を結びつける力も、その主たるものはファンデルワールス力による。 電荷を持たない中性の原子あるいは分子が、主としてファンデルワールス力で凝集している場合を、化学結合の区分の一つとしてファンデルワールス結合と呼ぶ。永久双極子(双極子モーメント)を持つハロゲン化アルキルなど電荷的には中性であるが定常的に分極している物質の凝集も、必ずしも典型的なファンデルワールス力ではないが、ファンデルワールス結合の範疇に含める。それ故、ファンデルワールス結合の元になる分子間力という意味で、広義のファンデルワールス力が定義されることが多い。 理論的な(つまり狭義の)ファンデルワールス力は分子間に働く分散力で定義され、等方向性で原子間距離の7乗に反比例する力である。レナード・ジョーンズ型ポテンシャルの長距離方向のポテンシャルが6乗で増加するのは、このファンデルワールス力を表すためである。しかし、現実の分子は理論の想定する球体ではなくそれぞれ固有の構造をとるので、現実のファンデルワールス力も異方性を示す。すなわち分子の近傍においては分子の形状に応じて、つまりどの部分かあるいは方向によって、ファンデルワールス力の強弱が現れる。異方性が存在すると、結晶格子に配置する際に安定な状態が複数取りうるので、ファンデルワールス力の異方性は結晶多形の要因の一つとなる。 ファンデルワールス結合により形成された集合体は、ファンデルワールス錯体(ファンデルワールスさくたい、van der Waals complex)あるいはファンデルワールスクラスターと呼ばれる。ファンデルワールス錯体は、多数の分子で構成されるファンデルワールス結晶より、簡単なモデルで説明できる。このことから、ファンデルワールス結晶を理解するためのプロトタイプとして、多くの研究の対象となっている。 高分子化合物や分子クラスターにおいては、個々の原子のファンデルワールス結合は小さくても、分子量が膨大な為に結合エネルギーのうちファンデルワールス結合の占める部分が大きく、かつ支配的になる。その結果、水素結合やイオン結合など、他の結合の化学ポテンシャルと同じ影響力を持ち、疎水結合のように振舞うようになる。すなわち、疎水結合にはファンデルワールス力が間接的に作用している。 また、物体表面に分子が吸着する様式の一つとして物理吸着が存在するが、物理吸着は主としてファンデルワールス力で吸着しているのでファンデルワールス吸着(ファンデルワールスきゅうちゃく、van der Waals adsorption)とも呼ばれる。それ故、物理吸着はファンデルワールス結合の1形式と見なすことができる。ファンデルワールス吸着は固体表面とのファンデルワールス力と吸着分子間のファンデルワールス力のバランスにより吸着挙動が多様に変化するが、分子の熱運動と同程度のエネルギーしか持たないため温度が高くなると吸着量が著しく減少する。 ヤモリが四肢で壁や天井を歩けるのは、その四肢にある独特の構造が物理吸着力(つまりこのファンデルワールス力)を強くしているのではないかという説が検討され、2000年にカリフォルニア大のFullらにより、それぞれの足の裏にある約50万本もの剛毛が壁面の分子との間にファンデルワールス力を発生させることで接着していることが証明された。
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曹洞宗
曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。 日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つであり、始まりは鎌倉仏教の1つとしてでもあった。源が源家の御先祖様を祀る為に初めに作った寺は大佛寺と記載がある。曹洞宗の寺紋は久我家の家紋から永平寺の寺紋は久我竜胆の紋、後醍醐天皇が勅許した總持寺の寺紋は五七の桐紋。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の日本曹洞宗は、日本における単一宗教宗派としては最大であり、14,000を超える寺院を有する。 中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている。また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈もなされている(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。 道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思-石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-....と継がれている法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで途絶えずに伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」となっている。 洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された。 次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。 丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗の大慧宗杲(1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、元末明初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永璵(1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林にも大きな影響を与えた。 他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、金代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕(? - 1274年)、耶律楚材(1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は元代に皇帝クビライ(1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点とされている。 以上の主な法嗣は、以下のようになる。 日本仏教における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1227年に帰国した。 宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、 となる。 道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。 後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年-1325年)とその後席峨山韶碩(1275年-1366年)の頃からである。 日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。 「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。 「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぐが、各人が坐禅により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。 『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。また、道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。 主によまれる経典 基本となる祖録 ご詠歌・和讃 正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248年-1249年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。 永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。 永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。 四哲の一人峨山韶碩も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は梅山聞本、如仲天誾などを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出、了庵慧明は最乗寺を開き東国に、石屋真梁は大寧寺を開き中国地方に教線を拡大した。無底良韶は貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、弟弟子の月泉良印がそれを継いだ。 後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。 21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「宗教法人曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に所属が二分されている。 曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、大本山永平寺および大本山總持寺の貫首(住職)がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の1月20日付けで任期満了となり、翌1月21日付で交代となる。なお、管長が任期中に示寂の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は宗務総長といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。 両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。 尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。 歴史的には正法寺(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市南区)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺(茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。 明治・大正時代の日本人の海外移住と共に、ハワイ・ブラジルなどに開教された。ペルーの慈恩寺は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは弟子丸泰仙が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。 この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。 多々良学園(2006年9月、設置者変更により高川学園高等学校・中学校となる)の破綻問題に関し、山口信用金庫と防府信用金庫から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。 2010年9月に行われた宗議会議員選挙で、岩手県選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという。ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。 曹洞宗(ヴェトナム語版)は越南(ベトナム)など他の漢字文化圏の国にも伝わっている。
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臨済宗
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう、Linji school)は、中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。 日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。 臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄(生年不詳 - 867年)に始まる。臨済は、中国禅宗の祖とされる達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の一人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709年 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749年 - 814年)、黄檗希運(生年不詳 - 850年)と続く法系を嗣いだ。河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳軍節度使の王紹懿(中国語版、英語版)(生年不詳 - 866年、禅録では王常侍)を支持基盤として宗勢を伸張した。臨済は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。しかし、唐末五代の混乱した時期には、河北は5王朝を中心に混乱した地域であったため、宗勢が振るわなくなる。この時期の中心人物は、風穴延沼である。 臨済宗が再び活気に満ち溢れるようになるのは、北宋であり、石霜楚円の門下より、ともに江西を出自とする黄龍慧南と楊岐方会という、臨済宗の主流となる2派(黄龍派・楊岐派)を生む傑僧が出て、中国全土を席巻することとなった。 南宋になると、楊岐派に属する圜悟克勤(1063年 - 1135年)の弟子の大慧宗杲(1089年 - 1163年)が、浙江を拠点として大慧派を形成し、臨済宗の中の主流派となった。 宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚(1091年 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋代の中国に喫茶とともに渡り学んだ栄西(1141年 - 1215年)らによって、鎌倉時代初期以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄龍派の教えだが、俊芿(1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった。なお、江戸時代に伝わった黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。 同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、鎌倉幕府、室町幕府という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山、鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、足利氏の権勢とともに臨済宗も衰退していった。 江戸時代になって、白隠禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが、白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、愚堂東寔や一糸文守、無著道忠を輩出している。一方の大徳寺派では、沢庵宗彭が有名である。また、江戸時代は各宗派において学林が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った。 (なお、臨済宗外では、仏眼清遠から3代下った楊岐派7代目の蒙庵元聡の下で修行し、初めて楊岐派の法灯を日本へと伝えた真言宗泉涌寺派の祖・俊芿などもいる。) 法嗣という師匠から弟子へと悟りの伝達が続き現在に至る。師匠と弟子の重要なやりとりは、室内の秘密と呼ばれ師匠の部屋の中から持ち出されて公開されることはない。師匠と弟子のやりとりや、師匠の振舞を記録した禅語録から、抜き出したものが公案(判例)とよばれ、宋代からさまざまな集成が編まれてきたが、悟りは言葉では伝えられるものではなく、現代人の文章理解で読もうとすると公案自体が拒絶する。しかし、悟りに導くヒントになることがらの記録であり、禅の典籍はその創立時から現在に至るまで非常に多い。それとともに宋代以降、禅宗は看話禅(かんなぜん)という、禅語録を教材に老師が提要を講義する(提唱という)スタイルに変わり、臨済を初めとする唐代の祖師たちの威容は見られなくなった。師匠が肉体を去るときには少なくとも跡継ぎを選んで行くが、跡継ぎは必ずしも悟りを開いているとは限らず、その事は師匠とその弟子だけが知っている。新しい師匠が悟りを開いていなくとも、悟りを開いていた師匠の時代から数世代の間であれば、世代を越えて弟子が悟りを開くことは可能なため、その様な手段が取られる。師匠は、ひとりだけではなく複数の師匠を残して行くこともあれば、師匠の判断で跡を嗣ぐ師匠を残さずにその流れが終わることもある。いくつもの支流に分かれ、ある流れは消えて行き、その流れのいくつかが7世紀から現在まで伝わっている。 禅宗は悟りを開く事が目的とされており、知識ではなく、悟りを重んじる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。 仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。 悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。 いろいろな方法で悟りの境地を表現できるとされており、特に日本では、詩、絵画、建築などを始めとした分野で悟りが表現されている。 宋代以降公案の体系がまとめられ、擬似的に多くの悟りを起こさせ、宗門隆盛のために多くの禅僧の輩出を可能にした。公案は、禅語録から抽出した主に師と弟子の間の問答である。弟子が悟りを得る瞬間の契機を伝える話が多い。 公案は論理的、知的な理解を受け付けることが出来ない、人智の発生以前の無垢の境地での対話であり、考えることから解脱して、公案になり切るという比喩的境地を通してのみ知ることができる。これらの公案を、弟子を導くメソッド集としてまとめたのが公案体系であり、500から1900の公案が知られている。公案体系は師の家風によって異なる。 修行の初期段階に与えられる公案の例: 臨済宗の葬儀は故人を仏の弟子にするための式であり、授戒・念誦・引導などの構成からなる。また引導を渡す儀式の途中に導師が「喝」と叫ぶことがあるが、これはこの世に対する未練を取り除き、邪悪を祓う意味がある。松明に見立てた先の赤い棒を投げるのも、光明を照らし、迷いを断ち切る意味がある。引磬・太鼓・妙鉢などが用いられることが多い。
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携帯型ゲーム
携帯型ゲーム(けいたいがたゲーム)は携帯可能なサイズに小型化された家庭用ゲーム機である携帯ゲーム機(英: handheld game console)において動作するゲームソフトや市場全般を指す分類。携帯用ゲームとも呼ばれる。また携帯ゲーム機は携帯型ゲーム機および携帯用ゲーム機とも呼ばれる。 スマートデバイスなどの携帯機器は含まれないことが多く、ソフト内蔵型のいわゆる電子ゲームは「含む」「含まない」に分かれる場合もある。 1976年にアメリカにおいてマテルが世界初の携帯型電子ゲーム機「Mattel Auto Race」を発売した。同社が翌1977年に発売した『Mattel Football』はヒット商品となり、各社から様々な製品が登場した。その一部は日本にも輸入された他、日本国産のものも各種登場した。1980年に発売された任天堂の「ゲーム&ウオッチ」シリーズは日本国内1,300万台と大ヒット商品となった。 当時は電子ゲームと呼ばれる携帯型ゲームが主流だった。これはゲームソフト自体が本体の内蔵部品に書き込まれており、別のゲームソフトが必要になったときには本体も含めて新しいものを購入しなければならなかった。表示装置も登場人物などの形状の点滅箇所があらかじめ決められている程度の今から見ればごく簡易的なものだった。1979年にカートリッジ交換式であり、メディア交換型の携帯型ゲーム機としては世界初である「Microvision」がMilton Bradley Company社から発売される。日本においては1985年に登場した「ゲームポケコン」が初のカートリッジ交換式ゲーム機である。 1989年に任天堂が発売した「ゲームボーイ」は安価な本体価格と熱中度の高い『テトリス』の効果で売り切れが続出するほど爆発的にヒットした。そこそこの性能で安価・軽量であり、乱暴に扱われがちな携帯機器(児童向け玩具)にあって足元に落下させた程度では簡単には破損しない丈夫さや電池切れを余り気にせず利用できた。1990年代半ばに入ると売上が頭打ちとなり、一時市場から姿を消す寸前までになるが『ポケットモンスター 赤・緑』を発売後、小学生を中心に広がり売上ランキングで1年以上に渡り上位にランクインし続ける大ヒットとなる。それをきっかけに市場は活気を取り戻し『マリオのピクロス』などがスマッシュヒットした。スーパーゲームボーイはスーパーファミコンを利用してゲームボーイのゲーム画面をテレビに表示させる形式を取ることで、当時のカラー液晶画面が抱えていた欠点の改善を図ったものである。また、据え置き型ゲームとのデータ連動を実現させる64GBパック、携帯電話と接続したネットワークサービスを受けられるモバイルアダプタGBなど従来にはなかった遊び方も示されるようになった。 ソフトウェア内蔵型の電子ゲームについては、いわゆる「ミニテトリス」といったキーホルダー大の商品や、1996年にバンダイの『たまごっち』が10代の女性を中心に大ヒットし社会現象にまで発展した。その後もハドソンの『てくてくエンジェル』、任天堂の『ポケットピカチュウ』を初めとする万歩計と一体化した機種などが発売された。 しかし2010年代にはスマートフォンの普及により携帯ゲーム機市場は衰退に向かった。また米国のように、もともと据え置き機やPCゲームが人気の市場もある。その一方でSteam Deckのような携帯型ゲーミングPCや「携帯可能な据え置き機」として作られたNintendo Switchなどの新しい動きも出ている。 ゲーム機を考察する上でテレビを使用した据え置き型のテレビゲーム機とは対比される。携帯用途のため本体が小型で持ち運びしやすい。自宅だけでなく外出先でも容易に利用できる。コントローラが本体に一体化している。表示装置が内蔵されている。もっぱら液晶ディスプレイが用いられる。PSPのうち、PSP-2000/PSP-3000型およびPSP goはテレビに接続し、映像を出力させることもできる。PSPではUMDを採用しているが、ゲームソフトのメディアはROMカートリッジを用いるものが多い。ソフトがハードに内蔵されて取り替えられなかったりデータ転送で外部から読み込むなど、本体がメディアを兼ねるものもある。PSPのメモリースティック PRO Duo、ニンテンドー3DSのSDメモリーカードなど内蔵のメモリーカードにデータを書き込めるのもあり、メモリーカードリーダライタとパソコンを接続することでセーブデータや写真などを取り込み、バックアップできるものもある。動画・静止画・音楽鑑賞、ビデオ・オン・デマンド、電子ブックリーダー、インターネット閲覧(ウェブブラウザ)などデジタルメディアプレーヤー/ポータブルメディアプレーヤーの機能も持つようになった。 消費電力の少ない電子部品を使用している。そのため同時期のテレビゲーム機と比較すると性能は劣るが、その差は以前よりは縮まっている。電源は電池。初期の小型機ではボタン型電池または乾電池が主流であったが、性能の向上により消費電力が増大してきたため、2000年代以降は専用のバッテリー(リチウムイオン二次電池)を用いるのが主流となった。PSP go・PS Vitaは本体にバッテリーが内蔵され、ユーザーの手で交換することができない。 本体およびソフトが、同時期に発売されたテレビゲーム機と比較すると安価なものが多い。テレビゲームは家族と共同で所有しているケースも多いが、携帯型ゲームは本体・ソフトともたいてい一人で専有している。ちょっとした時間に遊ぶことが多いため、ゲームのルールや操作方法がすぐに理解できるゲームソフトが比較的多い。個人での本体やソフトウェアの専有意識があることから、通信機能を利用し、対戦やキャラクターの交換などにより、他者とのコミュニケーションをとることのできる機能を盛り込んだソフトも多い。
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半金属
半金属(はんきんぞく、英: metalloid)とは、元素の分類において金属と非金属の中間の性質を示す物質のことである。その定義は曖昧であり、決定的な定義や分類基準は存在せず、様々な方法によって分類が試みられている。 一般的にはホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルルの6元素が半金属とされ、セレン、ポロニウム、アスタチンの3元素がしばしば加えられる。炭素やリンなどは通常半金属とはされないものの、その同素体にはグラファイトや黒リンのような半金属性を有しているものが存在する。これらの半金属元素は周期表上において、おおよそホウ素からポロニウムまでを繋ぐライン上に現れるが、その境界線の引き方にもまた多くの議論がある。 半金属に特徴的な性質としては脆性、半導体性、金属光沢、酸化物の示す両性などが挙げられ、半金属のイオン化エネルギーや電気陰性度の値は一定の範囲に収まる。半金属の単体もしくはその化合物は、ガラスや半導体、合金の構成元素として広く利用されている。 元素は通常、その一般的な化学的、物理的性質によって金属もしくは非金属に分類される。しかしながら、いくつかの元素はその中間の性質を有していたり、両方の性質を併せ持ったりしているために、その特性による分類が困難となる。そのため、これらの元素はしばしば半金属として分類される。半金属を表すmetalloidの語は、ラテン語で金属を意味する metallum および、ギリシア語で形状もしくは外観が類似していることを意味するoeidesの語に由来する。日本語では半金属の他に、准金属、亜金属、またはそのままメタロイドとも呼ばれる。半金属は金属と非金属の間で曖昧な緩衝地帯を形成する分類基準であると説明される。 半金属は通常、金属および非金属と並び立つ元素の第三の分類であると考えられているが、その包含する元素は、場合によっては(半金属ではなく)金属に分類されたり、(半金属ではなく)非金属に分類されたり、あるいは半金属に分類されながら、半金属という分類自体が金属・非金属いずれかのサブカテゴリであるとみなされたりする。 半金属という用語には、普遍的に合意された厳格な定義は存在せず、個々の元素の分類は「任意である」とされる。しかしながら、以下に示す金属-半金属-非金属の物理的、化学的性質の表のように、金属および非金属の性質と比較することで半金属の性質が浮かび上がる。これらは一般的な共通点を抽出しているので、いくつかの例外が存在している。 上記の物理的、化学的性質のうち、脆さもしくは半導体性、またはその両方は、著しく特徴的な半金属の指標として用いられてきた。しかし半導体性については、半金属に分類される元素の内ほとんどのものが半導体性を示すものの全ての元素が必ずしも半導体性を示すというわけではなく、「半金属」は周期表上において特定の元素の化学的、物理的(物質的)、電子的な性質に関連した化学的な概念であるのに対して、「半導体」は元素と化合物を含む素材の電子特性に関連した物理学的な概念であり、半金属と半導体は全く別の概念である。また、例えば半金属酸化物が両生を示すような、著しく際立った化学的な二重のふるまいもまた、これまでに用いられてきた半金属の基準の一つであり、半金属は全てが金属光沢を示す固体であるとされている。 その他の性質は元素によって異なっている。半金属の見せる金属的な性質はいくつかの特徴の組み合わせである点に注意が必要であり、ホークスは、ある元素が半金属に属するか否かは、その元素が半金属に関連する性質をどの程度示すのかに基づいて元素毎に個別に審査することを提唱している。 マスタートンとスロウィンスキは、半金属のイオン化エネルギーは200 kJ/mol周辺、電気陰性度は2.0周辺に集まっておりそれらは一般的に半導体であるが、(バンド理論における半金属である)アンチモンとヒ素は、金属のそれに近似した電気伝導度を有していると記述した。彼らの示す半金属の3つの特性は、右表のように6つの一般的な半金属に対して当てはまる。セレンおよびポロニウムはおそらくこの表からは排除され、アスタチンは含まれない。 他の定量的な特徴として空間充填率があり、一般的な半金属は34から41の間の空間充填率を示す。各半金属の空間充填率は、ホウ素:38 %、ケイ素およびゲルマニウム:34 %、ヒ素:38.5 %、アンチモン:41 %、テルル:36.4 %である。これらの値は、大部分の金属の空間充填率が通常80%以上であり少なくとも68 %よりも高いことと比較して低い。しかし、非金属と分類される黒鉛の17 %や硫黄の19.2 %、ヨウ素の23.9 %、黒リンの28.5 %よりは高く、しばしば半金属として分類されるセレンも28.5 %である。 一般的な半金属は、0.85から1.1、平均1.0のゴールドハマー・ハーツフェルド基準を有している。 通常半金属として分類される元素は電気陰性度が1.9から2.2の間に集まっている。電気陰性度が大きな元素は電子が強く原子に引きつけられているためs軌道のエネルギーが非常に低くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が大きくなるため電子が局在化した共有結合性のワイドバンドギャップ(すなわち絶縁体)であるような非金属的な性質が現れる。逆に、電気陰性度が小さな元素は電子が原子に引きつけられる力が弱いためs軌道のエネルギーが高くなり、ns軌道とnp軌道のエネルギー差が小さくなるため電子が非局在化した金属結合性のバンドギャップの無い(すなわち導体)金属的な性質が現れる。半金属元素の1.9から2.2という電気陰性度はちょうどこの両者の中間に位置するためns軌道とnp軌道のエネルギー差が中程度となり、したがって一部の電子が非局在化した共有結合性と金属結合性を併せ持つ中程度のバンドギャップ(すなわち半導体)という半金属元素特有の性質が現れる。 ホウ素が半金属性を示す理由は、その大きなイオン化エネルギーにも起因している。ホウ素の第一イオン化エネルギーは8.296 eVと比較的大きく、そのためホウ素はイオン化してイオン結合を形成することなく共有結合性の結合を形成する。したがって、単体においてもホウ素原子どうしは共有結合性の強い結合で結びついており、自由電子として導電性に寄与できる電子が少ないため導電性を示すものの導電性は低いという半金属に特有な性質が現れる。 前述のように半金属という用語には普遍的に合意された厳格な定義は存在しないため、どの元素が半金属に含まれるかはその分類を行う者の考える基準によって変動する。例えば、エムズリーによる分類ではゲルマニウム、ヒ素、アンチモンおよびテルルの4つの元素のみが半金属とされた一方で、セルウッドによる分類ではホウ素、アルミニウム、ケイ素、ガリウム、ゲルマニウム、ヒ素、スズ、アンチモン、テルル、ビスマス、ポロニウムおよびアスタチンの12元素が半金属とされた。このように個々の半金属の分類における元素の組み合わせはその基準の不明瞭さによって多くのバリエーションが存在するものの、どのようなバリエーションにおいてもいくつかの元素は共通して半金属とされる傾向がある。周期表上において金属元素から非金属元素へと向かう間には元素の性質の連続的な変化が多かれ少なかれ存在しているため、半金属を分類するための標準的な基準が欠如しているということが必ずしも問題になるわけではなく、その連続的な変化の部分を取り扱う半金属という集合は元素の分類という目的にきちんと適合している。 以下の6元素は、元素の分類において一般的に半金属として分類される。 これに加えて、しばしばセレン、ポロニウム、アスタチンが半金属とされることがある。しばしばホウ素は、単独でもしくはケイ素とともに半金属から除外され、テルルもよく除外される。また、アンチモン、ポロニウム、アスタチンを半金属に加えることに疑問が呈されることもある。 半金属に合意された定義がないため、水素、ベリリウム、炭素、窒素、アルミニウム、リン、硫黄、亜鉛、ガリウム、スズ、ヨウ素、鉛、ビスマスおよびラドンが時折半金属として分類される。 半金属 (metalloid) という用語は、以下の性質を示すのにも用いられていた。 多くの化学者や関連する科学の専門家によって、金属と非金属の中間に位置する元素の分類という概念はしばしば拡張され、通常半金属であるとは認められない元素が半金属に含まれることがある。 1935年、フェルネリウスとロビーは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素を、ホウ素、ケイ素、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよび当時未発見だった原子番号85番の元素(その5年後の1940年に作られたアスタチン)とともに元素の中間的な分類に含めた。ゲルマニウムは、当時はまだ伝導性に乏しい金属であると考えられていたため、この中間的な元素の分類からは除外された。 1954年、サボーとラカトシュは、ベリリウムとアルミニウムをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウム、アスタチンとともに半金属のリストに含めた。 1957年、サンダーソンは、炭素、リン、セレンおよびヨウ素をホウ素、ケイ素、ヒ素、テルルおよびアスタチンとともに、特定の金属特性を有する元素の中間的な分類の一部として含め、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウムは金属に含めた。 最近の事例では、2007年、ペティは、炭素、リン、セレン、スズおよびビスマスをホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムおよびアスタチンとともに半金属のリストに含めた。 これらのような一般的な半金属の近くに位置する元素は通常は金属もしくは非金属として分類されるが、しばしば半金属に近い (near-metalloid)などと呼ばれる。 アルミニウム、スズおよびビスマスのようにこの緩やかなカテゴリーに入れられた金属には、例えば、変わった充填構造を取る、分子もしくは重合状態において共有結合を取る、両性金属としてふるまうといった性質を示す傾向がみられる。それらはまた、弱い金属 (weak metals)、貧金属 (poor metals)、ポスト遷移金属 (post-transition metals)もしくは、これらの金属における前述の不完全な金属的性質を意図してセミメタル (semimetals)などとして言及され、このような分類グループは一般には周期表の同一領域を指し示しているが、必ずしも同一の元素を相互に含んでいるというわけではない。 非金属に含まれる元素のうち、炭素、リン、セレン、ヨウ素は、それらの環境条件が熱力学的に最も安定した形状(炭素ではグラファイト、リンでは黒リン、セレンでは灰色セレンなど)において、金属光沢、半導体性(例えば中程度の電気伝導度、比較的狭いバンドギャップ、光感受性)、伝導体もしくは価電子帯の非局在性を示す。これらの元素は半金属的、半金属性を示す、半金属のような、いくらか半金属(的)、金属的性質を有している、などと評される。 いくつかの元素では、同じ元素の同素体であっても異なる性質(金属的、半金属的もしくは非金属的)を示すことがある。例えば、炭素の同素体のうち、ダイヤモンドは明らかに非金属であるが、グラファイトは半金属に特有の限定的な電気伝導度を示す。リン、セレン、スズおよびビスマスも金属もしくは半金属もしくは非金属的なふるまいを示す同素体を有している。そのため櫻井らは、半金属性は元素に固有のものではなく単体に固有の性質であると注記した。 セレンは半金属もしくは非金属としてのふるまいを示し、それらの境界線上に位置する元素である。 セレンの最も安定した同素体は六方晶系の結晶構造を取る灰色セレンであり、単斜晶系の結晶構造をとる赤色セレンと比較して数桁高い電気伝導度を示すことから「金属セレン」と呼ばれている。セレンの金属的な性質は、光沢、結晶構造(直鎖状の結合の中にわずかに金属結合が含まれていると考えられている)、溶融したセレンを引抜加工することによって細い糸状にすることができる性質、「非金属に特有な高酸化数状態」において電気抵抗が発生する性質、そしてトリヒドロキシセレニウム(IV)の過塩素酸塩であるSe(OH)3ClO4の形の加水分解された陽イオンの塩の存在などによって示される。 セレンの非金属的性質は、脆さ、バンド構造(半導体性)、10から高純度品で10 S·cmという低い電気伝導度(それは非金属である臭素の(7.95×10 S·cmに相当もしくはさらに低い)、比較的高い電気陰性度(修正ポーリングスケールで2.55)、液体状態においても保持される半導体性、そしてセレンの非金属陰イオン形であるSe、SeO2−3、SeO2−4における化学反応、発煙硫酸に溶解した際に硫黄やテルルと同じくSe2+8のような環状ポリカチオンを形成する能力などによって示される。 ポロニウムはいくつかの性質において明確に金属的であり、その金属的な性質は、ポロニウムの多くの塩類の性質、水溶液中において形成するバラ色のPo陽イオンの存在、そしてポロニウムの2つの同素体における金属的な電気伝導度によって示される。しかしながら、Poのアニオンを含んだ多数の金属ポロニウム化物を形成するように、非金属的な性質も示す。 アスタチンは非金属もしくは半金属に分類される。通常は非金属として分類されるが、いくつかの著しい金属的な性質を有している。1940年、アスタチン原子の合成に直結した初期の研究者はアスタチンは金属であると考えていた。その後の1949年の言及では、アスタチンは還元するのが難しく最も不活性な非金属であり、同様に酸化するのが難しく比較的貴な金属であるとされていた。1950年には、アスタチンはハロゲンであるため活性な非金属であるとも言及された。 アスタチンの非金属的な性質としては以下のものがある。 アスタチンの金属的な性質としては以下のものがある。 アルミニウムは、その光沢、可鍛性および延性、高い熱および電気の伝導率、最密充填構造を取ることなどから、通常は金属として分類される。しかしながらアルミニウムは以下のような金属としては珍しい性質をいくらか有しており、しばしばアルミニウムを半金属として分類する根拠とされる。 ストットは、金属的な物理的性質を有するものの、いくつかの非金属的な化学的性質も有する弱い金属であるとアルミニウムを分類した。スティールは、アルミニウムの両性酸化物を形成し、多くの共有結合性の化合物を形成する性質は弱い金属に類似しているが、それでもアルミニウムは高い負の電極電位を有する、強く電気的に陽性な金属であると、アルミニウムの化学的なふるまいをやや逆説的に記した。 半金属としてのアルミニウムの理解は、その多くの金属的な性質と、金属と非金属の境界線に隣接した元素が半金属であるという記憶を呼び戻すために、アルミニウムがその代表的な例外であるということを重要視するために、しばしば議論される。 半金属は周期表上において、金属と非金属との境界線の両端に集まる。それらの元素は一般的に、左下に向かうほど金属的な性質が増し、右上に向かうほど非金属的な性質が増す。この境界線が規則的な階段で表現される場合、それらのグループにとって最も臨界温度の高い元素(アルミニウム、ゲルマニウム、アンチモン、ポロニウム)が境界線の直下に位置することになる。この境界線は、金属-非金属線 (metal-nonmetal line)、半金属線 (metalloid line)、半金属線 (semimetal line)、ジントル境界 (Zintl border)、ジントル線 (Zintl line)などと呼ばれる。後ろの2つは、1941年にフリッツ・ラーベスによって命名された第13族元素と第14族元素との間に引かれた垂直線(ジントル相(英語版))および、通常周期表上で第14族元素より右側に位置する元素と金属元素によって形成される塩のような化合物と、第13族元素と金属元素によって形成される金属間化合物とを区別するのに使用される境界線も意味する。 このような金属と非金属を分割する境界線の概念は、少なくとも1869年より古い文献において記述されている。1891年、ウォーカーは金属と非金属の境界として周期表上に斜めの直線を引いて「図表化」したものを公表した。1906年、アレクサンダー・スミス(英語版)は、彼の非常に影響力のある教科書Introduction to General Inorganic Chemistryにおいて、非金属を残りの元素から分離するジグザグの線を周期表上に含めた。 1923年、アメリカの化学者であるホーレス・グローブス・デミングは、彼の書いた教科書General Chemistry: An elementary surveyにおいて、金属と非金属を分離する階段状の線を短周期表(メンデレーエフの周期表)および各族を18列に並べた通常の周期表のそれぞれに含めた。1928年、メルクは当時アメリカの学校で広く流布していたデミングの18列の周期表を配布する準備を行い、1930年代までにはデミングの周期表は化学のハンドブックや百科事典にまで掲載されるようになった。それはまた、サージェント・ウェルチ(英語版)社によって長年配布され続けた。 一部の著者は、金属と非金属の境界線に接している元素を半金属としては分類せず、その代り、例えば境界線の左側に接する元素を若干の非金属的性質を示す、対して右側に接する元素を若干の金属的性質を示すといった注釈をした。このような対となった分類は、金属や非金属の間の結合の種類を決定するための単純な規則の確立を容易にすることができる。他の著者は、いくつかの元素を半金属と分類することが半金属は周期表上の境界線上で急に一体として変化するのではなく、その性質が徐々に変化していくことが強調されるという事を提示した。時折、金属と非金属の間の境界線は、金属と半金属および半金属と非金属をそれぞれ分割する2本の境界線とされることもある。 いくつかの周期表では、金属と非金属の形式的な境界線が無くとも半金属元素を区別する。その場合、境界線の代わりに斜めの帯もしくは広がった領域のような左上から右下に走る範囲で示され、それはヒ素の周りに集まる。メンデレーエフは、金属と非金属の間に明確な境界を引くことは不可能であり、そこにはいくつもの中間的な物質が存在しているという見解を示した。いくつかの他の出典は、境界線の混乱や曖昧さを注記し、見かけ上不定であると示唆し、その妥当性に対する反論の論拠を提供し、そしてその誤解を招き、論争となり、またはおおよその性質としてのコメントが行われた。デミング自身も、この境界線を正確には引けないことを注記した。 ヒ素やアンチモンのような一般的な半金属は、それらの純粋な単体で構造材として用いるには脆すぎる。一般的な半金属の典型的な用途としては以下に示すように、ガラス質の酸化物としての用途、合金の構成元素もしくは添加剤としての用途、半導体の構成元素もしくはそのドーパントとしての用途などが挙げられる。 半金属元素の酸化物である酸化ホウ素 (B2O3)、二酸化ケイ素 (SiO2)、二酸化ゲルマニウム (GeO2)、三酸化二ヒ素 (As2O3)および三酸化アンチモン (Sb2O3)はガラス質を形成する。二酸化テルル (TeO2)もまたガラス質を形成するが、そのためには結晶の形成を避けるために焼入れを行うか、もしくは不純物を添加剤としてを加える必要がある。これらの化合物は、化学用や家庭用、産業用のガラス製品において実用されており、特にゲルマニウムおよびテルルは光学ガラスとして利用されている。 1914年、Deschは、特定の非金属元素は明確に金属的な性質の化合物を形成することが出来、これらの元素はしたがって合金の組成として組み込むことが可能であるかもしれないと書き記した。彼は合金の構成元素として、特にケイ素、ヒ素およびテルルを想定していた。後にPhillipsとWilliamsは、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモンの貧金属との混合物はおそらく最良の合金であるとされると記した。 半金属元素を合金に加えることで、その融点を下げる方向に制御することができる。また、その合金の融点 (Tm)に対するガラス転移温度 (Tg)の比 (Tg/Tm)を大きくすることで非晶質な合金を形成することができるため、半金属元素を加えて融点を下げるということは非晶質な合金が得やすくなることを意味している。 ホウ素は遷移金属との間で、MnB (n>2の場合)の組成の金属間化合物および合金を形成する事ができる。このような合金もしくは金属間化合物は、最密に充填された金属原子の隙間にホウ素原子が入り込む形で形成される。Sandersonは、ケイ素は自然な状態においては半金属であるが、金属との合金を形成する能力においては完全に金属的に見えるとコメントした。鉄、コバルト、ニッケルの3元合金にホウ素およびケイ素を添加することで、透磁性の大きな非晶質の軟磁性合金を形成することができる。このような合金は保磁力が低いためにヒステリシス損を低く抑えることが可能となり、非晶質合金であることに起因して電気抵抗が大きいため渦電流損も低く抑えられる。これらの性質を利用して、磁気ヘッドや電気トランスの鉄芯のような軟磁気性が要求される用途において有用な材料として広く用いられている。ゲルマニウムは多くの金属元素と合金を形成することができ、その中で最も重要なものとして第11族元素(銅族元素)との合金が挙げられる。ヒ素はプラチナや銅を含む金属と合金を形成することができる。アンチモンは活字合金(アンチモンを最高25 wt%含んだ鉛合金)やピューター(アンチモンを最高20 wt%含んだスズ合金)に代表されるように、合金の構成元素としてよく知られている。テルルは銅との合金として利用される。1973年のアメリカ地質調査所の報告によれば、当時のテルル生産量のおよそ18 %は銅-テルル合金(テルルを40から50 %含む)および鉄-テルル合金(テルルを50から58 %含む)向けに販売されていた。 全ての一般的な半金属もしくはそれらの化合物は、半導体もしくは固体電子工学産業における用途が見つけられている。その代表的な例としてケイ素は半導体の主要用途の一つである太陽電池材料として広く利用されており、テルルの化合物であるテルル化カドミウムも低コストな太陽電池材料として実用化されている。ホウ素はその高い融点と、不純物の導入および制御、保持の困難さに起因して単結晶を得ることが相対的に難しかったため、ホウ素が半導体として利用され始めたのは他の半金属元素よりも遅かった。 As2Se3やSb2Te3のようなIV-V族化合物半導体は、ガラス質を形成する低融点半導体として利用される。また、InSbやBixSb1-xのような半金属合金は、バンドギャップの非常に小さな(InSbで0.17 eV)微小ギャップ半導体として利用される。Mg2SiやMg2GeのようなII-IV族半導体もバンドギャップが狭い。 固体で溶融する可鍛性の物質であるという古代における金属の概念は、プラトンの『ティマイオス』(紀元前360年)やアリストテレスの『気象学』に見られる。強く金属的な性質を示す物質を、金属的な性質が劣っている物質(例えば亜鉛、アンチモン、ビスマス、輝安鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱など)から分離するための分類システム構築の試みは、偽ゲベル(英語版) (1310年)、バジル・バレンタイン(英語版)の(Conclusiones)、パラケルスス、ヘルマン・ブールハーフェの(Elementa Chemiæ 1733年)などによって行われ、これらは半金属 (semi-metals)もしくは偽金属(bastard metals)と呼ばれた。1735年、イェオリ・ブラントは可鍛性の有無をこの分類の原則とすることを提言し、その原則に従って水銀を金属から分離した。ルドルフ・ヴォーゲル (Institutiones Chemiæ 1755年)およびビュフォン (Histoire naturelle des Minéraux 1785年)も同様の見解を示した。その後の1759-60年、ブラウンによって冷却による水銀の凝固が観察され、それが1783年にハチンズとヘンリー・キャヴェンディッシュによって確認されたため、水銀の可鍛性が明らかとなり水銀は金属に含まれるようになった。しかし、これらの脆く、不完全な金属であるという非金属の概念は、アントワーヌ・ラヴォアジエの「革命的」な『化学原論』が出版された1789年以降、徐々に放棄された。 1807年、金属と金属に類似した物質との古い分類を復活させる試みにおいてヒルマンとサイモンは、新しく発見された元素であるナトリウムおよびカリウムが水よりも軽く、多くの化学者が金属として分類することに賛成しなかったことから、これらの元素に言及するために半金属という用語を用いることを提言したが、化学者のコミュニティーに無視された。 1811年もしくは1812年、イェンス・ベルセリウスは、非金属元素がオキソアニオンを形成する能力(例えばクロムがクロム酸イオンCrO4を形成するように多くの金属がオキソアニオンを形成するのと同様に、例えば硫黄が硫酸イオンSO4を形成するように非金属元素もオキソアニオンを形成する)に関して半金属と呼称した。ベルセリウスの用いた半金属という語の用法は広く採用されたが、それはその後の論評者らによって直観に反する、誤用される、妥当でない、もしくは説得力がないと評価された。1825年、ベルセリウスのTextbook of Chemistryの改定されたドイツ語版において、ベルセリウスは自らが定義した半金属の概念を3種類に再分割した。1つは常に気体である「gazloyta」(水素、窒素、酸素)、1つは真の半金属「metalloid」(硫黄、リン、炭素、ホウ素、ケイ素)、そしてもう1つは塩を形成する「halogenia」(フッ素、塩素、臭素、ヨウ素)である。1845年に発行されたA dictionary of science, literature and artにおいて、ベルセリウスによる元素の分類は「I. gazolytes; II. halogens; III. metalloids(一定の側面においては金属に類似しているが、他は広く異なっている); IV. metals」と表された。 1844年、ジャクソンは金属に類似しているが、いくつかの性質が欠損しているという現在の半金属の概念と類似した意味を半金属の用語に与えた。1864年、非金属の分類のために使用されていた半金属という用語は最高機関によって依然として認可されていたが、その使用は必ずしも適切ではなく、半金属の用語はより正確であるヒ素のような他の元素への適用も考慮されていた。1866年という早い年代に、一部の著者は非金属元素への言及のための用語として、「半金属」よりもむしろ「非金属」という語を使用していた。1876年、チルデンは酸素、塩素、フッ素のような元素に半金属という用語を与えるような慣例が非論理的であるにもかかわらず非常に一般的であることに反対して抗議し、それまでの分類に代わって元素を真の金属であるbasigenic、半金属であるimperfect metals、非金属であるoxigenicの3つに分割した。1888年になっても、金属、非金属、半金属という元素の分類は、依然として金属と半金属という分類よりも特殊な分類であると考えられており、潜在的な混乱の原因であった。 1911年、ビーチは半金属について以下のように説明した。 1917年ごろ、ミズーリ州薬剤師審議会は以下のように記した。 1920年代間、半金属という用語の2つの意味は流行の移り変わりを受けているように見えた。コーチはA Dictionary of Chemical Termsにおいて、「半金属」とは「非金属」の古くすたれた言い方であると定義した。一方でWebster 's New International Dictionaryにおいては、非金属を言及するための半金属という用語の使用は、ヒ素やアンチモン、テルルのような典型的な金属に類似した元素へ何らかの方法で適用される基準として注記された。半金属という用語の使用は、その後1940年までの間大きく流動していた。半金属の用語を中間もしくは境界線上の元素に対して適用するという合意は、続く1940年から1960年の間には起こらなかった。 1947年、ライナス・ポーリングは、彼の古典的かつ影響力のあるテキストであるGeneral chemistry: An introduction to descriptive chemistry and modern chemical theoryにおいて、半金属についての言及を行った。ポーリングは半金属を中間的な性質を有する元素である...ホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素、アンチモン、テルル、ポロニウムを含み、[周期表上で]斜めの領域を占領していると記述した。1959年、国際純正・応用化学連合 (IUPAC)は、たとえ半金属という用語が非金属の概念を意味する用語としてフランス人などの間でいまだ使われているとしても、半金属という用語は非金属を表すために用いてはならないと勧告した。 1970年、IUPACはさらに、半金属 (metalloid)という用語は異なる言語において継続的に一貫性なく使用されているため半金属 (metalloid)という用語を放棄するように勧告し、金属、半金属 (semimetal)、非金属の用語を代わりに用いることを提案した。しかしながら2010年現在では、バンド理論における半金属 (semi-metal)という用語と明確に区別ができるため、元素の分類における「semimetal」という用語の使用は「metalloid」という用語よりもむしろ少なくなっている。「metalloid」という用語はこのような奇妙で中間的な性質の元素を正確に説明しており、「metalloid」という用語が時代遅れであるという言及はナンセンスであると評された。 バンド理論における半金属(Semi-metal、以下本節においてセミメタルという)はフェルミエネルギーが、価電子帯の最上部と、伝導帯の最下部を横切っている状態(価電子帯と伝導帯が僅かに重なっている)、またはその状態を示す物質。この場合、価電子帯最上部にホールができ、伝導帯最下部は電子が占有している。金属より電気伝導度(電気伝導率)は低い。セミメタルとしては、グラファイト、ヒ素、アンチモン、ビスマスなどがある。 温度と電気伝導との関係は、金属と同じで温度が下がるほど電気伝導は良くなる(電気伝導度が上がる)。セミメタルの特徴としては、キャリアが少ない、有効質量が小さい、反磁性磁化率や誘電率が大きいことなどが挙げられる。 なお、ハーフメタリックという用語は、ここで述べたセミメタルとは別の概念である。
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3,707
ハッシュ関数
ハッシュ関数 (ハッシュかんすう、英語: hash function) あるいは要約関数とは、任意のデータから、別の(多くの場合は短い固定長の)値を得るための操作、または、その様な値を得るための関数のこと。ハッシュ関数から得られた値のことを要約値やハッシュ値または単にハッシュという。 ハッシュ関数は、主に検索の高速化やデータ比較処理の高速化、さらには改竄の検出に使われる。例えば、データベース内の項目を探したり、大きなファイル内で重複しているレコードや似ているレコードを検出したり、核酸の並びから類似する配列を探したりといった場合に利用できる。 ハッシュ関数は、チェックサム、チェックディジット、フィンガープリント、誤り訂正符号、暗号学的ハッシュ関数などと関係がある。それぞれ用途が異なり、異なった形で設計・最適化されている。 ハッシュ関数の入力を「キー (key)」と呼ぶ。得られるハッシュ値は、2つ以上のキーから同じ値が得られることがある。これを衝突という。多くの場合、衝突の発生は最小限に抑えるのが望ましい。そのため、ハッシュ値の出現頻度は一様になるように設計しなければならない。 ハッシュ関数は特にハッシュテーブルで使われ、与えられた検索キー(例えばキーワード)から素早くデータレコード(辞書でのキーワードの定義)を探すのに使われる。ハッシュ関数は検索キーをハッシュにマッピングする。ハッシュをインデックスとして対応するレコードの格納位置が分かる。さらにハッシュテーブルは連想配列や動的集合の実装に使われる。 一般にハッシュ関数は複数の異なるキーを同じインデックスにマッピングする可能性がある。したがって、ハッシュテーブルの各スロットは(明示的か暗黙かはともかく)単一のレコードではなくレコードの集合に対応していることが多い。このため、ハッシュテーブルの各スロットを「バケット (bucket)」、ハッシュ値を「バケットインデックス」とも呼ぶ。 したがって、ハッシュ関数はレコードの位置のヒントでしかない。つまり、探すための出発点を教えるだけである。それでも、半分以上埋まったテーブルで良いハッシュ関数を使えば、検索対象をせいぜい1つか2つのエントリに減らすことができる。 ハッシュ関数は、低速な記憶媒体に格納された巨大なデータセットのためのキャッシュを構築するのに使うことがある。ハッシュテーブルと似ているが、キャッシュであるため、衝突が発生しても古い方のアイテムを消去するか本来の媒体に書き戻せばよいという特徴がある。 ハッシュ関数はブルームフィルタの基本的構成要素である。ブルームフィルタはキーが集合に含まれるかどうかを近似的に表すコンパクトなデータ構造である。 巨大なソートされていないファイルから重複したレコードを探す場合、各レコードをハッシュ関数に入力して配列 T のインデックスを得て、各バケット T[i] にハッシュ値が i になった全レコードの番号をリストの形で集める。この配列が完成すると、重複したレコードは必ず同じバケットに存在しているはずである。そこで、リストの要素数が2つ以上のバケット全てについて実際のレコードを求めて比較することで、重複レコードを探すことができる。配列が適切な大きさであれば、この方法が他のどんな方法(ファイルをソートし、隣り合うレコードを比較していく方法など)よりも高速な場合が多い。 ハッシュ関数は、キーが似ているが全く同一ではない場合のレコード検索にも使える。この場合の入力は1つのキーか、似たようなキーを持つ巨大ファイル内の2つのレコードである。このためには、似たようなキーを与えられたとき、最大でも m しか違わないハッシュ値(m は小さい整数で例えば1か2)を生成するハッシュ関数を必要とする。このようなハッシュ関数を使って全レコードに関するハッシュテーブル T を構築すると、似たようなレコードは同じバケットか近いバケットに格納されることになる。すると各バケット T[i] について、-m から m の範囲の k で表されるバケット T[i+k] に格納されているレコード群を相互に比較すればよい。 この応用として声紋アルゴリズムと呼ばれる技法がある。これを使うと音声ファイルの巨大なコレクションから似たようなエントリを探すことができる(MusicBrainzの楽曲ラベリングサービスで使われている)。この場合のハッシュ関数は、ノイズやタイミングの違いや音量の違いといった差異をなるべく無視できるようなものであることが望ましい。 同じ技法は巨大な文字列の集まりから同じ部分か類似する部分を見つけ出すのに応用できる。例えば、文書リポジトリや遺伝子データベースなどに応用できる。この場合、入力文字列群を多数の小さな部分に分割し、それらに対してハッシュ関数を適用して上述してきたような技法で同じ部分や類似の部分を探す。 ラビン-カープ文字列検索アルゴリズムは比較的高速な文字列検索アルゴリズムで、平均でO(n)の時間で動作する。このアルゴリズムは文字列の比較にハッシュ関数を使っている。 この原理は、コンピュータグラフィックスや計算幾何学を代表とする様々な分野で、2次元平面や3次元空間でのいわゆる類似性問題を解くのに使われている。例えば、多数の点から最も近い2つの点を探すとか、一連の形状から類似した形状を探すとか、画像データベースから類似する画像を探すなどの用途である。これらの用途では、あらゆる入力は何らかの距離空間にあり、ハッシュ関数はその空間を格子状に分割するものと解釈できる。このときに使用するテーブルは2次元以上の配列であり(グリッドファイルなどと呼ぶ)、ハッシュ関数はその次元数に対応した一連のインデックスを返す。このようなハッシュ技法を幾何学的ハッシュなどと呼ぶ。幾何学的ハッシュは電気通信でのベクトル量子化でも使われており、多次元の信号を符号化し圧縮するために使われている。 例えば、「ある文書が正確かどうか検証したいが、その文書そのものを記録・比較したくない」場合を考える。ここでもしこの文書を代表する数値(文書の要約)を数学的に作り出すことができれば、この要約だけを記録し、比較すれば良いことになる。このような要約を作る操作がハッシュ化である。 より具体的に、今、ハッシュ関数として、「5字ごとに1字を選択し、その列を並べたものをハッシュ値とする」という操作を選択したとすると、このハッシュ関数によって、元の文書を1/5に短縮することができる。しかしこの方法では、 という問題がある。そこで、このようなことが確率論的に現実には起こりにくくなるようなハッシュ関数を工夫をする必要がある。 通常は元データのバイナリ表現を使い、それを複雑に操作し数十~数百ビットのハッシュ値を作る。 改竄の検出を行う場合は、単純なハッシュ関数アルゴリズムを用いると、容易に同じハッシュ値を求めることができるため、安全に設計されたハッシュ関数を用いる必要がある。 ハッシュ関数は非可逆変換であるため、ハッシュ値から元の値を容易には復元できないという特徴がある。そのため、認証サーバは、パスワードをハッシュ化して保存することが推奨される。このようにすれば、サーバ内の認証情報を窃取された場合であっても、キーを知られるリスクを減らすことができる。 良いハッシュ関数は、一般に以下のような特性を満たす必要がある。なお、関連する概念(暗号学的ハッシュ関数、チェックサムなど)では要求は異なる。 他の手法に比べてハッシュ関数を用いた手法をより有利にするには、ハッシュ関数の計算コストが十分小さくなければならない。例えば、n個の要素のあるソート済みテーブルにある要素を挿入する場合、二分探索では log2 n 回のキーの比較を必要とする。したがって、ハッシュテーブルを使った手法が二分探索よりも効率的であるためには、ハッシュ関数が1つのキーからハッシュ値を計算するコストが log2 n 回のキー比較のコストよりも小さくなければならない。暗号学的ハッシュ関数は、そういう意味では時間がかかりすぎる。 ハッシュを使った手法は決定的でなければならない。つまり、ある入力が与えられたとき、生成するハッシュ値は常に同じでなければならない。言い換えれば、数学的な意味で関数になっていなければならない。したがってハッシュ関数は、時刻などに基づいた擬似乱数のような外部パラメータに依存してはならない。また、ハッシュ対象オブジェクトのメモリアドレスが処理中に変化する可能性があるなら(ガベージコレクションが行われるシステムでは変化する可能性がある)、それもパラメータとして利用することはできないが、時にはアドレス変更と同時にハッシュのやり直しを行うこともある。 良いハッシュ関数は、考えられる入力範囲が出力範囲全体になるべく一様に分布するようにマッピングを行う。つまり、出力範囲のそれぞれのハッシュ値はほぼ同じ確率で生成されるべきである。このような条件があるのは、異なる入力が同じハッシュ値にマッピングされてしまう「衝突」が発生すると、ハッシュに基づく各種技法のコストは衝突発生回数と共に増大するためである。あるハッシュ値が他のハッシュ値より生成されやすいなら、参照操作で衝突しているエントリ間でどれが探しているエントリかを調べる作業が基本的に大きな部分を占めることになる。 注意しなければならないのは、「一様分布」が必要なのであって「無作為」である必要はないという点である。よい無作為化関数はハッシュ関数にも適していることが多いが、ハッシュ関数が無作為化関数である必要はない。 ハッシュテーブルには可能な入力のうちのごく一部が格納されているということが多い。例えば、ある会の会員名簿には100人ほどの会員の名前が並んでいるが、それはこの世に存在する人名のごく一部である。その場合、一様性はほぼ全ての典型的な部分集合に対して成り立てばよいのであって、全ての可能なエントリ全体の集合に対して成り立たせる必要はない。 言い換えれば、典型的な m 個のレコードの集合を n 個のバケットにマッピングする場合、1つのバケットに対応するレコード数が m/n より大きくなる可能性をなるべく小さくすればよい。特に m が n より小さい場合、一部のバケットだけが1つまたはせいぜい2つのレコードを格納するようにすべきである。理想的な完全ハッシュ関数では、各バケットには最大でも1つのレコードしか格納されない。しかし、n が m よりずっと大きくても、衝突を完全に無くすことはできない(誕生日のパラドックスを参照)。 ハッシュ関数を評価する場合、ハッシュ値の分布の一様性はカイ二乗検定で評価できる。 多くの用途では、プログラムを実行するたびにハッシュ値の範囲は変化するし、場合によっては1回の実行中にも範囲が変化することもある(ハッシュテーブルを拡張する必要が生じた場合など)。そのような場合、ハッシュ関数は2つのパラメータを入力する必要がある。1つは入力データ z で、もう1つは生成可能なハッシュ値の数 n である。 よくある方式は、非常に大きな値域(例えば 0 から 2−1)のハッシュ関数を用意し、その出力を n で割った余りを最終的な出力とする。n が2のべき乗なら、割り算ではなくビットマスクやビットシフトで代替できる。この方式を採用するなら、ハッシュ関数は n がいくつであっても、0 から n−1 の間でハッシュ値が一様に分布するようなものを選択する必要がある。関数によっては、奇数や素数など特定の n でないと余りが一様分布にならないこともある。 用途によっては、入力データに比較目的には不適切な特徴が含まれていることがある。例えば、英語の個人名を参照するとき、大文字と小文字を区別しない方がよい。そのようなデータをハッシュ関数の入力にする場合、データの同値関係基準を考慮すべきであり、同じと見なされる入力には同じハッシュ値を生成すべきである。 (等しいデータではなく)類似するデータを探索する用途では、ハッシュ関数は可能な限り連続となっているべきである。少しだけ異なる入力に対しては、同じハッシュ値かごく近いハッシュ値を生成すべきである。 なお、連続性はチェックサムや暗号学的ハッシュ関数などにとっては不適切な特性である。ハッシュ関数に連続性が必要となる用途は、線型探索を使うハッシュテーブルなどの用途である。 ハッシュ関数の選択は、その用途における入力データの性質や確率分布に大きく左右される。 ハッシュ対象のデータが十分に小さいなら、入力データそのものをハッシュ値として使うこともできる(何らかのバイナリを整数として再解釈する)。このような自明なハッシュ関数(恒等関数)の計算コストは事実上ゼロである。 「十分に小さい」の意味は、ハッシュテーブルに割り当てられるメモリ量に依存する。2008年現在、典型的なPCでは1GB程度のメモリが利用可能で、30ビット程度のハッシュ値なら扱える。ただし、多くの場合そこまで大きなハッシュテーブルは必要としない。例えば、英文の文字列の大文字/小文字の変換をするとき、各文字をバイナリ符号化したものを使い、その文字符号を整数のインデックスとしてテーブルを参照すると対応する変換後の文字符号が得られるようにするという方法が考えられる(例えば、'A' には 'a'、'8' には '8' を返すなど)。それぞれの文字が8ビットで表されていれば(ASCIIまたはISO Latin 1)、テーブルのエントリ数は 2 = 256 個だけとなるし、Unicodeの場合でも 17×2 = 1114112 エントリである。 同じ技法は 'us' とか 'ja' のような2文字国名コードを実際の国名にマッピングする場合(26=676 エントリ)、アメリカの5桁の郵便番号を地名にマッピングする場合(10万エントリ)などに利用できる。不正なデータ値(例えば国名コードなら 'xx'、ZIPコードなら 00000)に対応するエントリは未定義とされたり、何らかの 'null' 値にマッピングすることになるだろう。 ハッシュ関数が単射の場合、すなわち正しい入力に対して必ず異なるハッシュ値が対応する場合、これを完全 (perfect) だという。このような関数を使えば、1つのハッシュテーブルで目的のエントリを直接探すことができ、それ以外の探索の手間が生じない。 完全ハッシュ関数は、入力される範囲が予め分かっていて変化しない場合のみ成立する。例えば英語の月の名前を0から11の整数にマッピングするとか、ある辞書に掲載されている単語にハッシュ値を割り当てるといった場合である。入力の集合を与えられると、それに対応した完全ハッシュ関数を実行する最適化されたサブルーチンを出力する生成器がいくつか存在する(例えば、GNU gperf)。 n 個のキーに対する完全ハッシュ関数が最小 (minimal) であるとは、その値域が n 個の連続な整数(通常 0 から n-1)の場合である。単に参照が単純化されるだけでなく、ハッシュテーブルもコンパクトになり、空きスロットができない。最小完全ハッシュ関数は単なる完全ハッシュ関数よりも求めるのが難しくなる。 入力が制限された長さの文字列(例えば、電話番号、自動車のナンバー、送り状番号など)で、個々の入力値は独立にかつ一様な確率で発生する場合、ハッシュ関数は個々のハッシュ値にだいたい同じ個数の入力値をマッピングすればよい。例えば、入力 z が 0 から N−1 の範囲の整数、出力 h が 0 から n−1 の範囲の整数で、N が n より大きいとする。するとハッシュ関数としては、h = z mod n ( z を n で割った余り)、h = (z × n) ÷ N (z を n/N 倍して整数に丸めた値)、などの式が考えられる。 入力の出現確率が一様でない場合や、独立性がない場合は、上のような単純な方式ではうまくいかない。例えば、あるスーパーマーケットの利用者は地理的に近い場所に集中しているため、電話番号の先頭数桁は同じになってしまう。その場合、(z × n) ÷ N の式では元の数値の上の桁が残るため、衝突が多発する。一方、z mod n の式では、末尾側の桁が残るため、この場合のハッシュ値の分布はこちらの方がよい。 データが非常に長い(または可変長の)文字列の場合(人名、URL、電子メールの中身など)、その分布は一様でないことが多く、複雑な依存関係が存在することが多い。例えば、自然言語の文章では文字の分布は全く一様ではないし、文字の並び方にも相関関係があり、その言語に特有の性質を持っている。その場合、ハッシュ関数は文字列内の全文字を何らかの形で使用し、しかもそれぞれの文字を異なった形で使用するのが望ましい。 そのようなデータをハッシュ値に変換する典型的手法は、入力を小さな単位(数ビット、数バイト、数ワードなど)の並び b[1], b[2], ..., b[m] に分割し、それを順に以下のように結合していく。 この手法は、テキストのチェックサムやフィンガープリントのアルゴリズムにも利用されている。状態変数 S は32ビットか64ビットの符号無し整数である。例の場合、S0 は 0 でよいし、G(S,n) は単に S mod n でよい。最適な F の選択は難しい問題で、データの性質にも依存する。データ単位 b[k] が1ビットなら、F(S,b) は例えば次のようになる。 ここで highbit(S) は S の最上位ビットを意味し、'*' 演算子は符号無しの整数の乗算でオーバーフローを無視する操作を表す。'^' はビット単位の排他的論理和演算を表し、P は適当な固定のワードである。 多くの場合ヒューリスティクスを利用して、汎用のハッシュ関数よりも特定用途で衝突を削減できるハッシュ関数を設計できる。例えば、入力が FILE0000.CHK、FILE0001.CHK、FILE0002.CHK などのファイル名で、多くの場合このような一連の番号が名前に含まれているとする。すると、ファイル名から番号部分 k を抜き出し、k mod n をハッシュ値とすれば、ほぼ最適な結果が得られる。言うまでもないが、特定の入力に最適化したハッシュ関数は、それ以外の分布を示す入力に対しては非常に悪い結果を生じる。 チェックサムやフィンガープリント用のアルゴリズムをハッシュ関数として採用することもできる。それらのアルゴリズムの一部は、任意長の文字列データ z から32ビットまたは64ビットのビット列を生成するので、そこから 0 から n-1 のハッシュ値を容易に抽出できる。 この手法は、ハッシュ値の範囲 n がチェックサムやフィンガープリント関数の値域より十分小さい場合に限って、十分一様に分布するハッシュ値を生成する。しかし、一部のチェックサムは雪崩効果が弱いため、用途によっては不向きである。よく使われているCRC32チェックサムは、上位16ビットだけがハッシュ用途に使える。さらに言えば、入力の各ビットはCRC32の1つのビットにのみ影響を与える。したがって、32ビットのチェックサムをそのままハッシュ値に利用する場合は十分な注意が必要である。 Secure Hash Algorithmのような暗号学的ハッシュ関数は、チェックサムやフィンガープリントよりも強力な一様性を保証するので、汎用ハッシュ関数としても最適である。 しかし暗号化などの用途以外では、その計算コストが高いため利点が打ち消されてしまう。しかし、悪意ある者がキーを選んでもハッシュ値が一様に分布するという特性がある。このためDoS攻撃からサービスを保護する助けとなる場合もある。 暗号学的ハッシュ関数の安全性を議論する場合、以下の3種類について議論を行う。 原像計算困難性(Preimage Resistance)とは、与えられたハッシュ値に対して、そのハッシュ値を出力するようなハッシュ関数への入力を求めることが困難であるような性質を言う。ただし、異なる入力から同じハッシュ値が得られるため、そのハッシュ値を得られる入力を1つ求めればよい。 第2原像計算困難性(Second Preimage Resistance)とは、与えられた入力値に対して、その入力値をハッシュ関数へ入力したときのハッシュ値と同じハッシュ値を出力する入力値を求めることが困難であるような性質を言う。 衝突困難性(Collision Resistance)とは、同じハッシュ値を与える2つの入力値を求めることが困難であるような性質を言うのである。 ハッシュ関数に衝突が多い場合、原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、任意の入力値からハッシュ値を得られるため、第2原像計算困難性を満たさない。また、第2原像計算困難性を満たさないハッシュ関数では、衝突困難性を満たさない。すなわち、 である。 "hash" という用語は、本来の「切り刻んで混ぜる」という意味からの類推で使われるようになった。実際、合同操作を行う典型的なハッシュ関数は、入力の定義域を多数の部分に「切り刻み」、キーの分布が値域で一様になるように「混ぜた」形で出力する。 ドナルド・クヌースによれば、この用語を最初に使ったのはIBMの Hans Peter Luhn で、1953年1月の社内メモで使っていた。そして、Robert Morris が学会誌 Communications of the ACM に掲載した論文でこの用語を使い、単なるジャーゴンから正式な専門用語に昇格した。
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3,708
パズルゲーム
パズルゲームとは、一般にはパズルをコンピューターゲームでプレイできるよう作られたゲームソフトのことを言い、パズルそのものとは緩やかに区別される。コンピュータゲームのジャンルの一つ。PZLという略表記もまま使われる。 従来のパズルがコンピューターゲームとして提供されることにより、操作の簡便さ、設問数や視聴覚面の充実、再挑戦のしやすさ、プレイ環境の手軽さ、実力に応じた難易度設定が可能、自動的な解答のチェックなどのメリットを得ることができた。 またコンピューターによる処理能力を活かし、アクション性や敗北条件などを付け加えることで対戦要素やステージクリアモード(俗に言うストーリーモード)を採り入れて、従来のパズルでは不可能だった遊び方をコンピューターゲームで実現している。これにより現実世界では不可能な表現を用いたパズルが登場したり、アクションパズルなど古来の「パズル」にはなかったジャンルも生まれたりしている。 家庭用ゲーム機のパッケージソフトでは、1本数千円といった価格に見合ったボリュームを提供することが難しいため、ユーザーや支持者がかなり限定されるジャンルではあるが、テトリスなど社会現象にもなったソフトも存在する。 一方、パソコン向けのフリーウェアやブラウザゲーム、携帯電話・インターネット対応の携帯ゲーム機・スマートフォンなどの端末で需要が多いカジュアルゲームでは、手軽に遊べるパズルが人気ジャンルとして定着した。 詰碁や詰将棋、テトリス・マッチ3ゲームなど古典的なパズルも依然人気があるが、2000年代後半にプロセッサの処理能力が上がると物理シミュレーションを利用してオブジェクトの複雑な動きを表現するパズルが登場したり(「Angry Birds」「グーの惑星」など)、タッチパネル・ジャイロセンサーなど新しい入力方法を活用したパズルも開発されるようになった。 3DCGを利用した3次元のパズル要素を持つゲームは、2次元に比べて複雑な思考が要求されるためか、あまり受け入れられていない。3DCGを駆使したゲームでもパズル自体は平面上で展開される場合が多い。 また、コンピューターゲーム以外の分野において、スライディングブロックパズル、知恵の輪、ハノイの塔などの、ゲームの要素をもつ数学パズルを指すことがある。 また、以上に挙げたものは市販品であるが、個人作のフリーソフトでも数多くのパズルゲームが出回っており、Vアプリにも移植されたアクションパズル「みすてぃっく☆ばる〜ん」などが知られている。
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3,710
インドの観光地の一覧
インドの観光地の一覧は、インド国内の観光地の一覧である。
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3,711
グル・ナーナク
グル・ナーナク(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ , 1469年4月15日 - 1539年9月22日)は、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。 シク教では宗教指導者をグル(尊師)と呼ぶため、グル・ナーナク(あるいはナーナク師)という呼称が一般的であるが、神格化されたグル・ナーナク・デヴ( パンジャブ語発音)という尊称もある。また、日本語文献ではグル・ナナク(あるいはナナク師)という表記も散見される。 ラーホール(現在のパキスタンの都市、インドとの国境近く)近郊のタールワンディー村で、ヒンドゥー教徒の両親の元に生まれた。 その後シク教の開祖となり、インドのパンジャーブ地方で布教活動を行った。 彼は第2代グルに息子を選ばずに、信仰心のあついアンガドを指名した。この決定に反発した息子は独立してウダーシー派を結成した。 身分差別の激しいカースト制には否定的であり、また礼拝後には男女貴賎を問わず、すべての人が同じ場所に座り同じ食べ物を分けあう事を奨励した。これはヒンドゥー教がカーストが異なると一緒に食事をしないことに対する批判である。 宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義スーフィズムの影響を受けている。カビールの思想とグル・ナーナクの思想は大変似ているが、違う点はカビールがタントラ(密教)の影響を受けているのに対し、グル・ナーナクにはそれがないことである。カビールと対面したかどうかはカビールの生没年がはっきりしないこともあって、学者によって意見が異なるが、現在主流の説では1440年誕生で1516年死亡なので、これなら出会った可能性はあることになる。 グル・ナーナクの教える神は形がなく、人格を持ち、慈愛深く、一神教で、偶像を持たず、定まった神の名前を持たない、つまりアラーもヴィシュヌも同じ神の異名にすぎないということである。 グル・ナーナクは数珠を首にかけ、頭にターバンを巻きヒンドゥー教とイスラーム教の両方の身なりをしていた。 グル・ナーナクの教えをヒンドゥー教とイスラーム教の折衷であるという人がいるが、ナーナクはヒンドゥー教でもなくイスラーム教でもない諸宗教の本質を追求したのである。
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3,712
電子工学
電子工学(でんしこうがく、英: electronics)は、電気工学の一部ないし隣接分野である。 様々な領域の範囲にまたがるものであるため定義は緩やかだが、概ね電子の真空中や固体物質中の挙動から生じる現象を工学的に利用するものと言える。これらは電子デバイスと呼ばれ、例えば次のようなものである。 通信、信号処理、電子計算機による情報処理、制御、計測など、応用分野を技術的に担保する技術分野である。 電気工学と対比させた場合、電気工学が電気現象全般を対象とするのに対し、電子工学は能動素子による増幅動作、スイッチング動作をはじめ、前述のような部分に焦点を当てている点が特徴である。 歴史的経緯から電子工学の起点は小電力の通信、信号処理が対象領域であったが、大電力用素子のパワーエレクトロニクスの発展により電力制御用途にも利用範囲が拡大している。 半導体、磁性体、誘電体等の物性を利用するため物性物理学、材料科学と関係が深い。また製造技術においては物理化学が応用される。 応用面では回路の構成において電子回路学が存在する。 能動素子をはじめとする前述各分野を電子工学の領域として扱うとするならば、その起源は後述の通り20世紀初頭に求めることが出来る。 日本語の語としての「電子工学」は、1940年の日本工学大会における電気学会会長八木秀次の講演題目「電子工学の躍進」が初出とみられる。この講演で八木は「今後、電子管の応用は目覚ましく発展する。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、国民の日常生活にまで侵入すると予期される」と述べており、電子管(真空管)による能動素子を念頭に置いていたものと考えられる。 リー・ド・フォレストが機械的でなく電気的に増幅可能な能動素子の真空管である三極管を発明した1906年ごろ、電気工学から電子工学が派生的に出現した。 1950年頃まで通信工学とほぼ同義であり、通信用途での送信機と受信機の回路構成、それらに使用する真空管についての研究が中心であった。 固体増幅素子としては1920年代からの先駆的研究に続き、1947-48年にトランジスタが発明されている。 1959年にはシリコンでのプレーナー技術が開発され、集積回路開発への道が開かれた。 集積回路はデジタル型の論理演算による電子計算機の発展につながり、今日の情報社会の基となった。 高周波発振については、電子管による高周波大出力発信分野の利用のほか、1950年代にメーザー、レーザーが開発され、量子力学による電子のエネルギー準位間の遷移を基にしたデバイスが登場した。 またスイッチング動作の周波数源としての水晶振動子(1921年)、圧電素子による周波数フィルタ(1960年代~)等も電子工学の範疇と考えられる。 パワーエレクトロニクス分野ではサイリスタ(1957年)の登場により、小電力信号で大電力電流が制御可能となったことが起源である。 超電導材料を絶縁体を挟んで接合したジョセフソン素子は1962年に発明されている。高速スイッチング動作、磁気検出への利用が可能である。 表示装置の分野では1897年にブラウン(ドイツ)が陰極線管を発明し、それを元に1907年にロージング(ロシア)が映像表示装置を発明した。1968年に液晶ディスプレイが、1970年代初頭にプラズマディスプレイが開発された。 電磁的情報記録では磁気記録としてポールセンのワイヤーレコーダー(1898年)が登場し、1907年には直流バイアス方式が発明され、情報記録への利用はこの頃に起源を求めることが出来る。 その後記録媒体が磁気テープ(1940年代前半実用化)、ハードディスク(1956年登場)に移っている。 磁気記録は当初は電子工学の分野とは意識されなかったが、記録容量の拡大に伴って磁区が微細化して磁性体の微視的な挙動に研究の関心が移ったことから、次第に電子工学の範疇と認識されるようになった。 情報記録方式としては交流バイアス方式(1938年)、垂直磁気記録方式(1975年)が登場している。 この他情報記録デバイスとして半導体素子から発展したフラッシュメモリー(NOR型1980年、NAND型1986年発明)も存在する。 情報記録媒体自体は物理的なものであるが、読み出しに前述のレーザーを用いるものとしてレーザーディスク (LD)、コンパクトディスク (CD)、DVD、ブルーレイディスク (BD)がある。 以下では電子工学の応用としての電子回路と電子機器について述べる。 電子機器はその機能を実現する機能ブロックとしての電子回路の集まりとして構成されている。 電子回路は増幅回路、発振回路、フィルタ回路など意図した機能を果たすように構成されている。 電子回路は回路素子が個別の部品として何らかの配線部品(プリント基板にはんだ付けするなど)で相互接続され実装される場合と、集積回路の形で複合的に実現される場合がある。 個別部品としてよく見られる電子部品としては、コンデンサ、抵抗器、ダイオード、トランジスタなどがある。 電子部品はトランジスタやサイリスタなどの能動素子と、抵抗器やコンデンサなどの受動素子に分類される。 個別部品と集積回路は排他的な物ではなく、機能として必要に応じて使い分けられる。同じ基板上に併存することもある。 電子機器・システムは次の部分に分けられる。 テレビ受像機を例に挙げると、入力はアンテナやケーブルテレビから得られた放送信号である。テレビ受像機内部の信号処理回路は、放送信号から輝度や色や音声の情報を取り出す。出力は、電気信号をブラウン管やスピーカーによって映像や音声の形態に変換することによって実現される。 電子回路や装置は、アナログとデジタルに分類される。両者の橋渡しを担当するアナログ-デジタル変換回路と、デジタル-アナログ変換回路もある。 ラジオ受信機などのアナログ電子機器の多くは、数種類の基本回路の組み合わせで構成されている。アナログ回路は連続的な範囲の電圧を使う。 電子回路は1個から数千個の部品で構成されるため、これまでに考案されたアナログ回路は使用している部品の違いを考慮すれば膨大な数になる。 アナログ回路には線型回路もあるが、非線型な効果を持つミキサ回路、変調回路なども多数存在する。アナログ回路の典型例として、真空管やトランジスタを使用した増幅回路、演算増幅回路、発振回路などがある。 最近では完全にアナログだけの回路は滅多にない。アナログ回路であっても性能を改善するためにデジタル回路やマイクロプロセッサ技術を利用していることが多い。そのような回路は一般に "Mixed Signal" と呼ばれる。 アナログ回路もデジタル回路も線型な素子と非線型な素子を使っているため、区別の難しい場合もある。例えばコンパレータは連続的に変化する電圧を入力としながら、デジタル回路のような2つの電圧レベルのどちらかを出力する。 デジタル回路はいくつかの離散的な電圧レベルをとる電子回路である。デジタル回路はブール論理を物理的に実装した最も一般的な形態であり、すべてのデジタルコンピュータの基盤である。ほとんどのデジタル回路は2つの電圧レベルをとり、"Low"(0) と "High"(1) として使用する。"Low" は0V付近ということが多く、"High" は電源電圧に依存して決まる。 コンピュータ、デジタルクォーツ時計、プログラマブルロジックコントローラ(生産工程の制御で使用)などはすべてデジタル回路で構成されている。他にはデジタルシグナルプロセッサもある。 基本回路としては以下が挙げられる。 高集積部品としては以下が挙げられる。 電子回路は熱を発生するため、誤動作を防ぎ長期間の信頼性を確保するには放熱が重要となる。放熱技法としてはヒートシンクやファンによる空冷、コンピュータの放熱に見られる水冷などがある。放熱システムの設計にあたっては、対流、熱伝導、熱エネルギー放射などを利用する。 電子回路にはノイズが付き物である。この場合のノイズとは、電気信号に重なっている好ましくない変動で、電気信号の内容である情報を不明瞭にする傾向がある。ノイズは回路に起因する信号の歪みとは異なる。ノイズは電磁気や熱によって発生し、回路の温度を低く保てば低減させることができる。その他のノイズとしてはショットノイズなどがあるが、これは電子回路の物理特性の限界に起因するため、除去できない。 今日のエレクトロニクス設計技師は、電源回路、半導体素子(トランジスタなど)、集積回路といった既存の要素を組み合わせて電子回路を設計する。その際に使用するEDA(電子設計自動化)ソフトウェアは、回路エディタ機能やプリント基板設計機能を備えている。 電子部品を相互接続するに当たっては、さまざまな技法が長年使われてきた。例えば、初期の電子システムでは部品を木製の板(ブレッドボード)に固定し、それらを空中配線することで回路を構成していた。他にもコードウッド型配線(図参照)やワイヤラッピングなどが古くから使われてきた。現在ではガラスエポキシ基板などのプリント基板が主流で、より安価な紙フェノール基板(黄色から茶色の色が特徴)も使われている。近年、電子機器は処分時のリサイクルや健康・環境への配慮から、有害物質の使用が規制される流れにあり、欧州連合 (EU) のRoHS指令やWEEE指令が2006年7月に施行されたのをはじめ、各国においても類似の制度が制定・検討されている。
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黒岩重吾
黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は、日本の小説家。社会派推理小説、風俗小説、古代史を題材にした歴史小説で活躍した。 大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。父は大同電力の電気技師、母は植村正久の弟子の牧師で名古屋の金城女学校で教頭も務めた池田勤之助の娘で、重吾は安治川発電所の社宅で生まれた。小学生の頃はキリスト教の日曜学校に通わされたが、結局信者にはならなかった。 大阪の府立中学受験に失敗し、旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)に入学し、4年で終了して同志社大学の予科に入学。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。 ソ連国境に近い綏芬河の町で終戦を迎え、厳しい逃避行の末、1946年に朝鮮に辿り着き、内地へ帰還した。この時の体験が創作の原点になる。同志社大学復学して、弁護士を目指して法学部入学し、闇ブローカー業も行いながら1947年卒業。この頃太宰治や織田作之助を愛読した。日本勧業証券(現みずほ証券)に入社。 1949年に「北満病棟記」を書き、『週刊朝日』の記録文学コンクールに入選、以後作家を志して中短編を書き溜めながら、同人誌「文学者」のグループに参加した。『サンデー毎日』の千葉亀雄賞に珊瑚十五のペンネームで応募した「虚数と詩人」が選外佳作。ドッジ政策により株相場で大失敗し、家財を売り払って株の情報屋となり、次いで「証券新報」設立に参加する。 1953年、悪食を試み、腐った肉を食べたことで小児麻痺を発病し、子供の頃からのかかりつけの中之島の回生病院に入院。以後3年間入院生活を送り、その間大学ノートで小説を書き続け、また退院後も脚に後遺症が残った。その間にスターリン暴落で多額の借金も抱えて、父の家や和歌山の祖父の土地も売り払った。帰るべきところがなくなったために、退院後は釜ヶ崎(あいりん地区)のドヤ街、飛田商店街に近い東田町に移り住み、トランプ占い、キャバレーの呼び込み、「水道産業新聞」編集長などさまざまな職業を経験。飛田の娼婦たちとも顔なじみになる。キャバレーの宣伝の仕事でホステス募集のキャッチフレーズを書く仕事をしていたせいで、小説の題名を考えるのが上手くなったという。夕刊紙のコントやラジオ小説に応募をして収入を得て、また闘病記を婦人雑誌に採用され原稿料を受け取ったが掲載はされなかった。 1958年に「ネオンと三角帽子」が『サンデー毎日』大衆文芸コンクールに入選、発表。1959年源氏鶏太の紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人となり、1960年に「青い火花」が「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に佳作入選。この選考委員だった中島河太郎の紹介で、企業の内幕を題材にした本格的な推理小説『休日の断崖』を書き下ろしで刊行し、直木賞候補となる。 翌1961年に釜ヶ崎を舞台にした多様な人間模様に取り組んだ『背徳のメス』直木賞を受賞、続いて社会企業の問題を取り上げた『真昼の罠』『脂のしたたり』などを発表、松本清張に続く社会派推理小説作家として、「現代人の孤独と陥没の意識にふれる」作品で注目された。やがて「西成モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った風俗小説、普通小説作家として活躍した。売れっ子となってからは月に七、八百の執筆をこなしていた。また推理小説については当時「なぞの意味を、トリックや犯人当てに限らず、社会のなぞを、人間のなぞを推理的に追求していくのも、推理小説に入れていただくならば、私は社会派推理作家なる言葉を誇りたい」と語っている。1962年9月には山中湖事件を取材中に突然上半身麻痺を起こし、飛行機で大阪に運ばれて3ヶ月入院したが、その間も長編の連載は休まなかった。 1963年、日本推理作家協会関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、戦災孤児をテーマにした全5部の大作『さらば星座』などの作品がある。従軍時の体験をもとにした戦地小説として短編「兵隊と人間の間」「相剋」執筆。1960年代からはヨーロッパやハワイなど海外に足を運び、「シャンゼリゼ裏通り」(1973年)、「サンマルタン運河」(1974年)、「アムスのじゃが芋」(1975年)、「セーヌ川の畔」(1976年)などの海外を舞台にした短編も執筆。株の知識が活かされた、企業を舞台にした小説『大いなる変身』もある。夫の愛人の存在に苦しむ妻を描いた短編「夜の波」(1967年)は、中国語版『日本当代短篇小説選』(莽永彬訳、1982年)に収録され、「黒岩作品の主人公生き方や作品に流れる人間の悲しさ、正義感などに感銘、単なる風俗小説ではない」と評された。今東光に縁のある作家による野良犬会に参加。1日100本以上吸うヘビースモーカーだったが、1970年頃に東京のホテルで倒れたのを機に、柴田錬三郎に「誓いを破ったなら、軽蔑して絶交してほしい」と宣言して禁煙し、10年後から量を減らして喫煙を再開したがこれもやめてしまった。 1970年代後半から、以前より関心のあった古代史を舞台にした歴史小説の執筆を始める。少年時代に百舌鳥古墳群、古市古墳群など古代史の舞台となった場所で遊んで育ち、宇陀中学では当時「わが校は日本発祥の地にある」と強調されており、また飛鳥を中心にして古墳を利用するなどの軍事練習をしていたこと、1972年の高松塚古墳壁画の発見を契機とした古代史ブームに触発されたのがあったのが執筆の動機だった。 1976年に『歴史と人物』編集長に勧められて、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)の争いを題材にした『天の川の太陽』を連載する。続いて推古天皇が即位するまでの蘇我馬子と物部守屋の闘争の時代を描く『紅蓮の女王』を『黒岩重吾長編小説全集』月報に連載し、こちらが先に完結して刊行された。その後大化の改新前夜の時代を舞台に蘇我入鹿を主人公にし『落日の皇子』を執筆。『日と影の王子』では聖徳太子の生涯、『天翔る白日』は天武朝期における大津皇子の悲劇的な生涯を描いている。これらは、『日本書紀』『古事記』を独自に読解し、また舞台となった土地にも取材し、時に通説と異なる独自の歴史解釈や想像も盛り込んでいる。 『天の川の太陽』については「激動期に生きた人間の物語」「大海人皇子に仕えた舎人達も主人公といって良い」と自身で語っている。『弓削道鏡』では、『続日本紀』などをもとに道鏡の栄達への道のりと孝謙天皇との関係を描き、「ひとりの無位の青年が、ふつうなら手のとどきようもない女性と愛恋におちる。その過程と結末を描く純愛物語です」と語った。 これらの執筆の方法について「私なりに勉強してきた二十数年の知識を土台に、時にイマジネーションを駆使して推理し、分析するということです。そうでなければ作家である私が古代史の謎に取り組む意味がない」、及び「やはり人物に対する人間的な共感ですね。それが湧いてこなかったら、いくら歴史的に見て面白い題材でも、事件や人物に関するイメージがはっきりしてこない」「滅びるのがわかってて、大きな流れの中で自分なりに必死に抵抗している姿というか、生きざまの方を僕は書きたいですね」と述べている。 『日と影の王子』終章では、作者独自の見解として厩戸王子が十七条憲法を作ったかどうか、大王の地位に就いたが蘇我入鹿の圧力で政治から身を引いたのではないかといった自説も述べたのに続いて、歴史に関するエッセイで様々な説を述べ、1991年に見瀬丸山古墳の内部が撮影された際には、「私の推古女帝観がが根底から揺らぐような事実が判明した。」と、自説の見直しもしている。また古代史ブームについては、高度成長期を過ぎた日本での「時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物」とも述べている。これら古代史小説は、古代の中国や朝鮮半島の情勢の影響を考慮した独特の歴史解釈と、現代小説とも共通する人間分析が特徴となっている。 1980年に『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞、1992年には一連の古代歴史ロマンにより菊池寛賞を、「古代に材をとり巷説伝承を越えて、雄大な構想と艶やかな情感で、時代に光芒を放つ新しい人間像を創出した一連の歴史ロマンに対して」として受賞している。他の代表的な作品に『白鳥の王子ヤマトタケル』などがある。1984年から直木賞選考委員。奈良文学賞選考委員も務めた。 自伝的小説として、宇陀中学時代を振り返る「春の傷」(1993年)、流行作家時代に趣味のクルーザーで釣りをしながら様々な想念に耽る「ボート物語」(1992年)、長年交流があるノンフィクションライターで長編小説『廃虚の唇』『詐欺師の旅』の題材を得たともいうS氏についての「霧の跫音」(1993年)、「霧の顔」(1993年)、86歳で亡くなった母の死を振り返る「或る戦士」(1991年)、「脳死の残映」(1994年)なども執筆した。 2003年、肝不全により死去。死後に書斎から、入院中に完成させた『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』の連載最終回の原稿が発見され、陳舜臣、田辺聖子、津本陽、北方謙三の追悼文とともに掲載された。 1970年代からクルーザーによる遊泳、釣りを趣味としていたが、1994年に紀淡海峡沖で貨物船との衝突事故により命を落としかけたのを機に、クルーザーはやめた。人物評として、水上勉「文壇のどの徒党にも属さない一匹狼」、瀬戸内晴美「きゃしゃで繊細で、どこか痛々しい感じのする外貌をもつが、実はタフでねばり強く、けんかに強く、女にも強いスーパーマンである。しかし神経だけは外貌のごとく繊細である」がある。大阪で生まれ育ったが、東京出身の母の影響で大阪弁よりは標準語に近い喋り方と言われた。 弟は1969年に黒岩竜太のペンネームでオール讀物新人賞入選するが、数作を発表後に小説から離れた。妻黒岩秀子による自伝的エッセイとして『女房の狸寝入り』(集英社 2000年)がある。 弟子に難波利三がおり、難波が『てんのじ村』で第91回直木賞候補となった際、連城三紀彦の単独受賞でもおかしくなかったところを黒岩が猛烈に後押しして難波の同時受賞を実現した。
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フロッピーディスク
フロッピーディスク (英: Floppy disk, floppy diskette) は、磁気ディスクの一種で、磁性体を塗布・蒸着した樹脂製小円盤を樹脂製の保護ケースに入れたものである。 「フロッピー」「FD」と略称されることもある。生産数は2000年頃にピークに達したが、その後はコンピュータの情報を記録できるDVDなど他の媒体やハードディスクドライブ (HDD) が普及したため、企業が生産から撤退した。一部では使い続けられているが、耐用年数前のデータ移行(マイグレーション作業)も日本の国立国会図書館などにより行われている。 本来は記録媒体(メディア)が「フロッピーディスク」または「フロッピーディスクメディア」で、駆動装置(駆動し読み書きする装置)が「フロッピーディスクドライブ」(FDD) と呼ばれる。両者とも略して「フロッピー」などと呼ばれることも多い。また「フロッピィディスク」「フロッピィ」のように書き表すこともある。俗称の「フロッピーディスク」(floppy disk) が普及したが(レトロニム)、日本産業規格 (JIS) の用語集では「フレキシブルディスク」と「フレキシブルディスクカートリッジ」である。 最初のフロッピーディスクは1971年に米国企業IBMが開発した。当時の名称は「フレキシブル・ディスケット」(flexible diskette) または「ディスケット」で、IBMの登録商標となった。IBMは2015年時点で一般向けには「フロッピーディスク」の用語も併用している。かつては3 1/2インチ型媒体を使用する読取装置を「3.5型駆動機構」と呼んでいた。 なお、「フレキシブル」も「フロッピー」も“柔らかい”の意味で命名されたもので、登場当初はメディアの構造が薄いディスクを薄い保護ケースに包んだ薄く柔らかいものであったためである。これに対して、従来の硬い磁気ディスクは「ハードディスク」や「ハードドライブ」と呼ばれるようになった。 磁気ディスクの一種で、駆動装置からの取り外しが可能(リムーバブル)な記録媒体(メディア)である。磁性体を塗布した厚さ0.075ミリメートルのプラスチック円盤を駆動装置で回転させ、円盤の片面ないしは両面に同心円状に信号を記録する。円盤に記録された信号の読み書きはフロッピーディスクコントローラ(英語版)を介して行う。 現時点で一般的なハードディスクとは異なり、駆動装置から媒体を取り外すことができることが特徴である。ディスクの直径により、8インチ、5 1/4 (5.25) インチ、3 1/2 (3.5) インチの3種が主に知られる。1969年に読み取り専用の8インチフロッピーディスクが生まれてから1990年代末にかけて、小型コンピュータのデータの記録に広く用いられた。 その後、小型コンピュータの性能の向上により、扱うデータの容量も増大したため、CDやDVD、BDなどの記録型光ディスクドライブがパソコンに標準搭載されるようになり、2000年頃以降は徐々に廃れていった。1998年に発売されたiMacはCD-ROMドライブのみを標準搭載し、フロッピーディスクドライブは廃止された。2000年頃よりノートパソコンで、続いてデスクトップタイプでもフロッピーディスクドライブを内蔵していない製品が増えた。このような製品でOSインストール時のドライバの組み込みバックアップや復元作業など何らかの事情でフロッピーディスクを使う必要がある場合、USB接続による外付けのドライブを利用する。2000年代後半頃には市販のパソコンではほぼ搭載されなくなり、自作パソコンでも非対応のマザーボードが出回るなど、事実上レガシーデバイス扱いとなっている。代替メディアとしては、記録型CD・DVD・BD、USBメモリ、SDメモリーカード等の各種メディアがあり、配布、保管などの役割を分けて普及している。また、ネットワークの発達によって、物理的な媒体をデータ交換に使用すること自体が減少した。 現在でもBIOSのメニューのみで認識させられる数少ないメディアである。一部では需要があり、SDカードやメモリースティック、コンパクトフラッシュ、スマートメディアなどのカードリーダーと3.5インチフロッピードライブを一つにまとめた製品が販売されている。 磁気ヘッドがメディアに接触する際、ヘッドの接触痕跡がメディアに残る。この痕跡はヘッド毎にユニークであるといわれる。記憶媒体の中では磁気テープと並び、読み取りの痕跡が媒体に残る数少ないメディアである。 フロッピーディスク自体は2011年3月のソニー撤退により生産終了した。ドライブは一部のメーカーが在庫や再生品を販売している。 また3.5インチ型は最も普及していたことから、現在でもファイルの保存などに使われるマークの図柄(アイコン)として、多くのソフトでその形がモデルにされ、Unicodeにもフロッピーディスクの絵文字(💾、U+1F4BE)がある。 しかし、2013年の調査では、米国の小学5年までの子供のうち、保存アイコンが何の絵であるかを理解している者は14%しかおらず アイコンのデザインを変更する動きもあり、フロッピーディスクをモチーフとしたアイコンは姿を消しつつある。 円盤(ベース)の直径、ないしその外側の正方形状の外装の辺の長さで分類される。主要な仕様を挙げれば200mm≒8インチ、130mm≒5.25インチ、90mm≒3.5インチなどがある。5.25インチは5インチと呼ばれることも多い(3.5インチについては、同時期に3インチ前後の仕様が複数提唱されていた経緯から、誤解を避けるために3インチと呼ばれることは稀である)。 先行製品の磁気ディスクでは金属ベースだったこともあり(初期には)ディスクを剥き出しで扱うものもあったが、フロッピーディスクではその名の通り薄い樹脂のベースであるため、ほぼ全てのものが、おおよそ正方形の外装から取り出さず、常に入れたまま使うようになっている。駆動とアクセスのために、外装の中央と、1箇所に放射状の穴が開いている。 外装は主要な仕様では、8インチと5.25インチのものは薄く弱い樹脂製、3.5インチでは硬質のハードケースになっている。他の仕様もだいたいそのどちらかに似ている。内側には不織布による内張りがある。3.5インチのケースのヘッドアクセス用の穴がある部分は、金属またはプラスチック製のシャッターで保護される。シャッターはディスクドライブ内部でスライドして開き、閉じるときはケース内のばねの力で閉じる。 外装は「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれるが、ディスクの一部とも言えるこの外装ではなく、8インチや5.25インチのディスクにおいて、保管時にそのさらに外側に被せる、1方向が開いた袋(紙製が多かった)のこともまた「エンベロープ」とも「ジャケット」とも呼ばれることがあり、混同に注意を要する。円盤が入っている正方形状の外装は紙製ではない。 最初期にソニーが発売した3.5インチディスクドライブはシャッター自動開閉機能がなく、ディスクの出し入れ前後に手でシャッターをスライドさせて開閉する必要があった。やがてドライブにシャッター自動開閉機能が搭載されたが、その頃は自動開閉機能のないドライブとの互換のために、手でシャッターを開けると開けた位置でロックされ、"PINCH"と書かれた部分(肩部分)をつまむとロックが解除されてシャッターが閉じるという機構のディスクが発売された。このディスクは自動開閉機能搭載のドライブには手でシャッターを開けずに挿入することができた。やがて自動開閉機能が一般的になり、開けたままロックできる機構は消えていった。 日本ではSIを使用し、計量法の関係上、正式な製品名称では、サイズを具体的にインチで表現することが禁じられており、サイズはmmで表し、インチの数字については「型」といった表現の使用が見られる。例: 5インチ、90mm 3.5インチの一般的な2HDのメディアでは、約1.2-1.4MBの容量があり、90mm 3.5インチのものが主流となった。さらなる小型化を試みる動きもあり、80mm 3インチや65mm 2.5インチも発表されたが、計測器など一部機器の記録メディアとしての利用にとどまり、主流にはならなかった。また、大容量化を試みた製品も数多く存在していた。概要を大容量フロッピーディスクの節に記す。 1枚で1MB程度という容量は、現在のように画像や音声データを扱う用途では不足する。しかしフロッピーの代替となる標準メディアがなかなか現れなかった。また、かつてのPC/AT互換機では唯一の起動可能 (Bootable) かつ読み書き可能なリムーバブルメディアだった。そのため、主に起動用や一部周辺機器のデバイスドライバなど、少量のデータの受け渡し用として広く普及した。なお、類似のものに、クイックディスクやスーパーディスクなどがあるが、普及することはなかった。 読み込みのみを許可し、書き込みを禁止する設定ができ、「書き込み禁止」または「ライトプロテクト」と言う。その書き込み禁止の操作は各メディアにより異なる。 ノッチを元に戻す、シールを剥がす、シールを貼るなどの逆操作を行えば、再び書き込み可能状態になる。 ディスクドライブは、ノッチまたはシールの位置に配置したスイッチまたは光センサ(多くはフォトインタラプタ)で、書き込み禁止の状態を判別する。 他のディスクメディアと基本的には同様であるが、簡単に説明する。ディスクには、片面であれば1枚、両面であれば2枚の「サーフェース」がある。(各)サーフェースには、同心円状に独立した多数の「トラック」がある(スパイラル状のディスクもあるが稀)。各トラックは一定の角度毎に複数の「セクタ」に分けられている。フロッピーではほぼ全てのディスクが線速度一定ではなく角速度一定のため、内周と外周で記録密度が異なる。セクタ位置の判別において、各セクタの開始角度に対応する内周の記憶領域外の位置に穴(インデックスホール)が開けてあり、光学センサで検出するなどといった機械的方式がハードセクタ方式、第1セクタの位置のみ穴があり後続セクタの位置を各トラックの物理フォーマットにより磁気パターンで検出する方式がソフトセクタ方式である。 読み書きの処理が行われるタイミングによっては、論理的には連続したセクタを、物理的には1セクタおき、あるいは数セクタおきに配置すると、前のセクタを読み込んで処理をした後に、ちょうどタイミング良く次のセクタの読み出し位置に来て、連続して読み書き可能にできることがある。この技法をインターリービングという(インターリーブ#ディスク・ストレージでのインターリーブ)。同様の理屈でトラックごとに第1セクタの位置をずらす手法もある。 フロッピーディスクの容量表記には2進接頭辞が使用される場合が多い。しかし1.44MBなど一部に独特の表記もあり、1.44MBは1.44×1000×1024バイトである。詳細はメガバイト#概要を参照。また各種フォーマットの容量についての詳細は下記#フォーマットを参照。 3.5インチの2DDと2HDは、磁性体の品質の要件(塗布厚など)と、2HDのみ外側ケースに穴(HD検知孔)が開いている以外の差はない。 3.5インチの2HCと2HDについては、メディア自体は全く同じ2HDであり、物理フォーマット(ローレベルフォーマット)が違うだけである。具体的には1トラックあたりのセクター数の違いである。PC-9800シリーズで用いられる2HDフォーマットとはこれに加えて1セクターあたりのバイト数(セクター長)とトラック数も異なる。フロッピーディスクでは物理フォーマットという言葉は、ハードウェア形式を指す用語ではなく、論理フォーマットの一段下のレベルのフォーマットを意味し、セクター長やトラック数などのパターンのマッピングを指すものである。 なお、一時期の日本では1.44MBフォーマットの2HDが「2HC」と呼ばれることがあったが、誤りである。 フロッピーディスクは磁気ディスクの一種なので、磁気に弱い。ある程度以上に強力な磁石を近づけると、記録されている情報は破壊されてしまう。ホコリなどの異物の付着や汚れにも弱く、記録面が汚れると情報が読み取れなくなり、破壊に至ることがある。また、高温多湿や紫外線も嫌う。 常に磁気ヘッドと接触した状態で読み書きを行うために少しずつ摩耗し、利用には限度がある。アクセス時以外にはヘッドをディスクから分離する機構のドライブもあるが、現在はヘッドとディスクが常に接触するドライブが一般的である。 摩耗が重なるとディスクの磁気が弱まり、記録された情報を維持できなくなる。ただし、その磨耗は一般使用では無視できるレベルである。JISでは1トラックにつき300万回は使用できる耐久性を持たせるよう定められている。 フロッピーディスクは、適切な使用と保管をしていれば既存の磁気テープメディア同様、(理論上)100年程度は情報を維持できるとされる。しかし、雑に扱うと、破壊に至る可能性が高くなるデリケートな記録媒体であり、保管方法によっては数年程度で読み込み不良となる場合もある。寿命を延ばすには、磁気、埃、汚れ、高温多湿、紫外線を避ける保管方法が必須となる。 元々フロッピーディスクのようなフレキシブルな円盤に磁気情報を記録させようとする報告は1960年代からあり、例えばピアソンの研究報告では容量12.5KB、40トラック、回転速度は1800rpmでヘッドは非接触式のものであった。 1970年、IBMによってIBM System/370のIPLローダーとして8インチのIBM23 (23FD-2) フロッピーディスクが開発された。容量は80キロバイト。1972年にはやはりIBMから新たなIBM33フロッピーディスクが開発され、翌年発表のIBM 3740データ入力システム用であった。これは容量400KB、ディスケット1枚で1900枚のパンチカードに匹敵するデータを格納できる、当時としては画期的なものであり、フロッピーディスクの基本にあたる。その後ディスクを両面化し容量を800KBとしたIBM43フロッピーディスクとなり、さらに倍密度化して1.6MBのIBM53フロッピーディスクが登場する。その後小型コンピュータやワードプロセッサの記憶媒体として利用されていく。 初期の8ビットや16ビットパソコン用としても1980年代後半前後まで使われていた。 ミニフロッピーディスクとも呼ばれる。デスクの上に載せるには8インチフロッピーディスクドライブは大きすぎると考えられ、その小型化が要求されたのだという。 シュガートが興したメーカーである米シュガートアソシエイツは1976年に、SA-400と呼ばれる5.25インチのディスクとドライブを発表・発売した。当初は容量が109.4KB(1S、片面単密)と小さく、さらにすでに利用されている8インチ(SA-800シリーズ)ドライブとは物理的にも電気信号的にも互換性がなかったが大いにヒットした。なお1980年には両面・倍密度として容量を約4倍の437.5KBとしたSA450が発売されている。 また小型化により、コンピュータへのドライブの内蔵も可能となった。また小型化に伴い容量は一時的に減少している。 1978年にApple ComputerのApple IIでは容量100KBのドライブが採用された。これはSA-400からコントローラ基板を抜いたモデルである兄弟機SA-390。これは、Apple IIではコントローラはアップル独自の物を利用していたことによる。ただし、実機のドライブ銘板がSA-390ではなく、SA-400のままの個体も多数存在した。 その後、フロッピーディスクはコンピュータにとって必要不可欠なものとなり、広く普及していった。 5.25インチのディスクは1D(片面倍密度)や2D(両面倍密度)などに発展し、2DD(両面倍密度倍トラック)を経て、やがて主流となる2HD(両面高密度)に至る。日本では電電公社(現在のNTT)が5.25インチ2HDドライブの開発を行なってきたため、発表当時は電電公社フォーマットドライブとも言われた。これは容量が約1.2MBで、電気的にも8インチドライブと互換性をとっており、8インチドライブからの代替が可能だったのもスムーズな移行につながった。ごく古いMS-DOS等の5.25インチ2HD用ディスクフォーマットを持たないオペレーティングシステム (OS) でも、これを8インチ2Dディスク用フォーマットで代用できた。 ただし信頼性は8インチディスク同様に問題があり、磁気に弱く、外装も変形しやすく、それに入った磁性体は、常にヘッド部が露出し、さらに磁性体を塗布した円盤の中央部も露出している。このため保管時は専用の封筒を用いねばならない。また開口部からは常に塵や埃が内部に侵入する危険性があり、その他その脆弱性により取り扱いには相当な注意を払うことが要求されているものであった。 なおヘッドと磁性体は接触製であるため摩耗が心配されるが、これは当時1トラックの連続使用で100万パス(360rpmで46時間)が保証されていた。また、ドライブが磁性体の円盤中央部をクランプしチャッキングする際の精度やその部分の耐久性も弱点であった。 1980年にソニーが3.5インチ (90mm) のディスクを開発し、1981年発売の英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用・発売した。8インチや5.25インチのフロッピーディスクは薄い樹脂製の袋に磁気ディスクが収められていたが、3.5インチではプラスチック製の硬質なケースに改められた。金属製のスライドカバーがあり、5.25インチディスクと比べ磁性面が接触から守られた。 1982年に発売された同社製のSMC-70からパソコンにも搭載されるようになり、1983年にヒューレット・パッカードがHP-150に採用したほか、ソニーも同年にMSXで採用し、アップルもMacintoshに採用した。PC9801 U以降の98シリーズやAtari ST、Amigaにも採用された。 ソニーは1985年に未フォーマット時1.6MB、フォーマット時1.44MBの「2HD」のディスクを開発し、1987年にIBMがPS/2に採用してPC互換機もこれに追従。1988年までに3.5インチディスクの販売枚数は5.25インチを超えた。 1991年に2.88MBの超高密度2EDを採用したNeXTcubeやNeXTstation、IBM PS/2モデル57などが販売されたがこのフォーマットは普及しなかった。 この後3.5インチフロッピーディスクは大いに普及し、最盛期では世界市場で1995年にディスクが年間約45億枚、2002年にはドライブが年間約14000台製造された。1993年頃からCD-ROMが普及しディスクの生産枚数が減少。ドライブも2002年をピークに生産数が減少した。アップルは1998年にフロッピー非搭載のiMacを発売して話題になった。 1980年 ソニーの英文ワープロ「シリーズ35」の外部記録媒体として採用。翌年発売。 1982年 ソニーのパーソナルコンピュータSMC-70に搭載。 1983年提唱のMSXが、1984年5月の発売時までに3.5インチに一本化されたこともあり、日本ではホビー用途の機種や、ワープロ専用機では普及が早かった。しかし、3.5インチのメディアは5.25インチより高価で、ゲームなどパッケージソフトの価格にも同封媒体による差があった。パソコン関連雑誌の付録メディアについては「露出した金属を流通させてはならない」という付録に関する規制のため、3.5インチのメディアを付録として使用することが出来なかった。シャッターのプラスチック化は、価格よりもこの対策が主要因である。なお、チャッキング部分は露出していないため、金属製のままとされた。なお、後にはディスクと同じ厚さのボール紙で囲うことで金属部分を露出させないように対処した。 また、ビジネス用途では、日本電気 (NEC) 製PC-9800シリーズなどの中期までは、互換性を重視して5.25インチが主流だった。だが、ホビーユースではいずれの16ビットパソコンも3.5インチを採用したため、両者間のデータ共有が少なからぬ問題となった。結局、家庭用では安価な3.5インチFDD標準搭載のホビーユースモデルに5.25インチFDDを外付けする手法で対応した。さらには、EPSON PCシリーズの一部では、3.5インチFDDと5.25インチFDDの両方を標準搭載したパソコンも発売された。 1984年1月、Apple ComputerのMacintoshが3.5インチ (400K) を採用したのを皮切りに、世界的にも各社が3.5インチを用いるようになった。1986年、IBMはIBM PC Convertibleで3.5インチ2DD (720KB) を採用。1987年にはPS/2とPS/55の全モデルで3.5インチを採用。下位機種は2DD (720KB)、上位機種は2DD (720KB) および2HD (1.44MB) を搭載した。後の上位機種には2ED (2.88MB) も追加された。 この2HD (1.44MB) のフォーマットは2DD (720KB) のフォーマットを単純に2倍にした形である。5インチでの電電公社フォーマットをベースにした国産各社の3.5インチの2HD (1.2M) フォーマット(正確には1.21MBや1.23MBなど)とは互換性が無く、相互に読み書きできなかった。ただし、PS/2やPS/55は企業向けが中心であり、また当時のPC/AT互換機はまだ5.25インチが主流であり、2ED (2.88MB) はNeXTstationなどのワークステーションに採用された程度で、あまり普及しなかったため、影響は限られていた。 しかし、1990年にDOS/Vが登場して1991年にOADGも3.5インチを推奨し、3.5インチ標準搭載のPC/AT互換機が一般家庭を含めて日本で本格的に普及すると、日本(PC-9800シリーズ、FMRシリーズ、FM TOWNSなど)と世界(PC/AT互換機)では両者で標準となった3.5インチの2HDフォーマットで互換性が無いという問題の影響が拡大し、PC/AT互換機の普及の過程で混乱があった。当初は、両者に共通のフォーマットである2DD (720KB) のフロッピーディスクや、ネットワークなどを利用したデータ交換が行われた。中には日本IBMのPS/55Zのようにオプションで1.2MBフォーマットのディスク読み出しに対応したドライブを搭載可能とした機種も存在した。次第に、3モードフロッピーディスクドライブ (720KB, 1.2MB, 1.44MB) が両者に普及した。 2000年代後半から他の大容量電子媒体の登場に伴い、3.5インチFDの売り上げは大幅に落ち込んだ。2009年春に日立マクセル(現・マクセルホールディングス)と三菱化学メディアがFD生産から撤退。最後までFD生産を続けたソニーも、2011年3月に中華人民共和国のメーカーに委託しているFDの生産を終了した。 ソニーから発売されていた3.5インチFDのパッケージには長らく「世界の3.5フロッピーはソニーから始まった SINCE 1980」と記されていた。 当初、フロッピーディスクは磁性体の塗布技術に難点があり、不良率が高かった。しかし、特定OS用の初期化作業時に全品検査する方式が導入されると、不良率が激減した。さらに、磁性体の塗布技術が向上し、1990年代前半には品質が安定した。その後は大容量化が図れず、日本ではコスト削減から製造ラインの国外移設により、品質も低下した。 1990年代中盤には、雑誌や本の付録に3.5インチディスクが使われることもあったものの、1990年代後半には、すでにフロッピーディスクは容量、速度、信頼性のいずれも時代遅れとなっていた。光磁気ディスク、フロプティカルディスク、ZIP、jazなど、より高速大容量の媒体もあったが、フロッピーディスクは起動用ディスクとして使え、ほぼすべてのコンピューターで共通に使える利点が大きく、長らく使われ続けた。 おおむね2000年頃までフロッピーディスクは盛んに使われていたが、読み書き速度も高速で大容量かつ低価格なフラッシュメモリ(特にUSBメモリ、およびSDメモリーカード(SDHC以上))が普及したこと、フロッピーディスク以外の記憶媒体(CD/DVD-ROMなど)からでもOSの起動やセットアップができるようになったことから、フロッピーディスクは徐々に廃れていった。また、本の付録としての使用はより薄くて大量生産が可能なCD/DVD-ROMなどに移行し、また出版社や著者のWebサイト上でのファイル公開という代替手段ができている。 ただし、自作機市場では2010年頃まで一定の需要があり、自らシステムメンテナンスを行う自作機ユーザーは、フロッピーディスクを「最後の起動手段」として常識的に搭載してきた。だが、近年のWindowsでは、フロッピー起動ではNTFSの読み書きをするには上級の知識と技術が必要なため、この意味での搭載の意味は薄くなった。 DSP版Windowsのライセンスはハードウェアとのセット(OSとハードウェアを一体製品)で販売されているため、過去にはフロッピーディスクドライブとのセットが見られた。これは、フロッピードライブは今後発展がないと推測されるため交換する必要がなく、ライセンスを維持したまま他のパーツを自由に交換することができる上に安価であるためである。この販売手法が、フロッピーディスクドライブインターフェイスを搭載しないマザーボードが主流となったのちにも一部で継続され、DSP版Windowsを廉価に販売および購入する方法の一つになっていた。フロッピーディスクドライブの製造が各社で終息したことやマザーボードからFDインターフェースが廃止になったこと及び、2010年2月よりフロッピーディスクドライブとのセット販売が禁止されたことにより、この方法での販売も収束した。その他の需要と問題点については後述するレガシーシステムとしてのフロッピーディスクを参照。 フロッピーディスクの磁性体特性は、規格に定められているか、あるいはデファクトスタンダードとして定着しており、メディアの差別化は磁性体をフィルムに固定するバインダーと呼ばれる接着剤に工夫を凝らしていた。磁性体の剥離を最小限に抑えヘッドの清浄性を保つもの、導電性を持たせて埃の付着を防止したもの等があった。 なお、経年劣化した古いメディアをドライブに挿入するとヘッドにカビが付着し、他メディア読み取りも不可となる事例がある。対処法としては経時したメディアを使用する時に白い粉が噴いていないか確認することが挙げられる。 フロッピーディスクの記憶容量を増やすために、フロッピーディスクと上位互換を持ついくつかの製品が開発されたこともある。それらを総称して大容量フロッピーディスクという。しかしそれぞれ専用のディスクと専用のドライブが必要で、製品間の互換性もないため、普及しなかったものがほとんどである。 前述の自作機パーツとしての用途が廃れた後も、刺繍機、現金自動預け払い機、医療機器、航空機関連の機器など既存の機器を使い続ける業界では需要があったが、機材の更新により姿を消しつつある。 日本国内では2011年3月以前にソニーが生産と販売を終了したが、エレコムではフロッピーディスク用のケースが2022年時点でも一定数売れているため販売を継続している。 官公庁では2022年現在もデータの受け渡しに利用されている。オンライン申請への切り替えが進んでいるが、法令による指定やフロッピーディスクにしか対応していない民間事業者が残っているなどの理由で利用を継続している。厚生労働省では医薬品や医療機器の承認審査の受付でフロッピーディスクを指定していたため、オンライン申請が可能となった2022年現在でも「FD申請」という名称で運用している。2020年時点でオンラインかコンパクトディスクでの申請が大多数であるが、一部の企業からフロッピーディスクしか対応できないという申し出があるため、データの破損があることを通知した上で受付を継続している。日本では2022年時点でフロッピーディスクなど、特定の記録媒体による提出を求める法令が約1900条項あることから、これらの改正を予定している。 民間では西陣織では、織機に紋様の織り出し方を指示する紋意匠図の製作と製織の過程で、以前は「紋紙」と呼ばれる孔開き厚紙(歴史的には、コンピュータ以前の時代から使われていたパンチカードの由来である、イギリスで発明された織機のシステムそのものである)を使っていたが、1980年代に紋紙に代わって電子的な形式が制定され(コンピュータ柄システム)フロッピーディスクを使う機器が普及した。その後フロッピーディスクの生産打ち切りに伴い、ほとんどの織機が使えなくなるおそれを生じている。このような問題に対応するために京都市産業技術研究所でシステムが開発され、2011年から西陣織セミナーが開催されている。銀行ではオンラインへの移行を促しフロッピーディスクによる受け渡しを廃止しているが、官公庁のみ特別に対応している例がある。 アメリカ合衆国連邦政府でも、2016年になっても核兵器の運用部門にはフロッピーディスクが使われており、それらを始めとする旧式システムの維持管理に、年間600億ドル(約6兆6000億円)以上も費やされることが問題となっていた。2019年になり、戦略司令部は「フロッピーディスクデバイスを『安全性の高いSSD記憶装置』に置き換えた。」とアナウンスした。 アメリカ国防総省は、一刻も速くフロッピーディスクの使用を停止する方針を発表しているが、新システム構築のために用意された投資額は、旧システム維持費用の3分の1以下に留まっており、「簡単に言えば現在も機能しているため」旧システムは使われ続けている。これらは同省固有の現象ではなく、財務省やホワイトハウスでもフロッピーディスクや、1950年代のコンピュータプログラムが使われ続けている。 これら旧システムには、2015年ごろまではインターネットから遮断され、サイバー攻撃の影響を受けないこと、長年使用されてきた信頼性と確実性は、新規システムを上回るなどの利点が指摘されていた。ただし、2015年段階で新品のフロッピーディスクの入手は困難となっており、アメリカ政府も専門の業者を通じて中古品を購入していることが伝えられている。またメディアの耐久性や容量、セキュリティの高いオンラインストレージの登場もあり、上記のように置き換えが進んでいる。
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総武線
総武線(そうぶせん):鉄道路線名称。以下の項目に大別される。
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プリペイドカード
プリペイドカード(英: prepaid card 略語:プリカもしくはプリペ)とは、予め入金して積み立てておく形(前払い)で一定金額の価値を有し、商品やサービスを提供してもらう権利のあるカード型の有価証券(金券)。プリペイドカードはトラベラーズチェックなどと同じく前払式決済の一種である。ただし、クレジットカードや預金口座から即時引き落とされるデビットカードとは異なる。 デビットカードと混同されやすいが、プリペイドカードの場合には入金した後は出金して現金化することができないタイプも多いので、注意が必要である。 また、プリペイドカードは未成年でも発行することができる物もある。 プリペイドカードとは次のような特徴を有する磁気カードなどのカード類である。 事前に代金を支払って購入するもので、商品券と異なり、残額がゼロになるまで繰り返し利用できる。発行者側には、使用完了までの間に資金運用が可能、少額決済のために釣り銭の用意や販売機等に投入された硬貨の回収の手間が省けるなどの利点がある。また利用者側には、小銭を持ち歩く必要がなく、軽くて持ち歩きやすい、カードによってはプレミアム(おまけ)やポイント還元により現金での決済より有利、などの利点がある。 基本的には磁気で記録するカードであるため、記録するデータ量がさほど多くなく、また市販のカードリーダ/ライタで偽造が行いやすい。そのため、偽造カードの流通が大きな社会問題となっており、高額カードの発売および利用停止(テレホンカード(NTT)やオレンジカード(JRグループ)など)や、さらにプリペイドカードシステムそのものが廃止(ハイウェイカード(旧・道路関係四公団)、オレンジカード、ふみカード(日本の郵便局)など)されたものもある。 偽造対策のために開発されたICカードの一部や、国際ブランドのプリペイドカードでは、繰り返し代金を追加して利用できるカードもあり、一部の電子マネーに相似する。 また、モバイラーズチェックのように、磁気式ではなく、スクラッチカード(英語版)印刷で一意の番号を記入したカードもある。これらのカードは、購入後、一意の番号を携帯電話等に登録して購入金額分の利用権を登録する形で利用する。また、コンビニエンスストアなどでは金券類などの盗難対策として、チケット用紙ないしは感熱式のレシートなど、シートに登録用の番号を印字して発行されていたが、最近ではプリペイドカードの裏面のバーコードをPOSレジに通し、購入処理が行われたことによってプリペイドカードの残高が有効になるシステム(POSA〈Point Of Sales Activation、POSアクティベーション〉方式)が導入されたことにより、カード式での販売が再び行われるようになった。 カードは多種多様に富んだデザインの物が発行されており、チャージが出来ないものは残額を使い切ったあとは使用用途が無くなる。使用済みプリペイドカードは回収してリサイクルされて別のプラスチック製品の原料になるほか、コレクターが収集目的で買い取る事がある。これを利用して、援助団体が発展途上国への援助活動などの活動資金の資金源として使用済みプリペイドカードを回収している事がある。また、一部のプリペイドカード採用事業者では、使用済みカードを特定枚数集めて特定金額の未使用カード1枚と交換するシステムを実施している事業者がある。 クレジットカードの場合と異なり、基本的にチャージ済み残高の不正使用(偽造も含まれる)や、プリペイドカードの紛失・盗難・障害に関する補償は無い。カード使用の際も、基本的に信用照会、与信照会は行われず、残高チェックだけが行われる。ただし、ブランドによっては、個人情報を登録しなくても利用できるカードにおける個人情報の登録や、特定の有料会員サービスを事前に契約しておくと、紛失や不正使用分が補償されるサービスもある。 基本的に無記名式のプリペイドカードは残高再発行は不能である。記名式(名義あり)であっても、プリペイドカードでは残高再発行に対応しないブランドが多数である。 ブランドカード型のプリペイドカードは、クレジットカードと同様に裏面の署名欄があるが、ここに署名するだけでは不正使用等に対する補償はされない。 プリペイドカードでオートチャージ機能を使用している場合、不正使用、盗難や紛失が発覚した場合には速やかに利用停止措置を取る必要がある。この点は、プリペイド(前払い)式の電子マネーと仕組みはほぼ同様である。詳細は「電子マネー」参照。 なお、ブランドカード型のものでは、ICカード対応によりカード自体の偽造防止対応が進んでいる。それ以外のハウス型カードでは磁気カードのままの物も多数ある。 アメリカ合衆国はプリペイドカードの先進国となった国であり1976年に地下鉄で利用されたのが始まりである。 プリペイドカードについて米国では州により規制が異なる。プリペイドカード発行のための法的な資格要件が定められておらず所持人に対する特別の保護もないところもあるが、州の法律によって発行条件が厳格に規制され発行主体の倒産時の所持人保護について規定している州もある。 アメリカでは詐欺まがいの使用できないテレホンカードが流通して社会問題になったことがある。 ブランドプリペイドカードとしては、日本では発行、販売されていないアメリカンエキスプレスのプリペイドカードも存在する。 日本では1982年に旧電電公社がテレホンカードを発行したのが最初とされている。 プリペイドカードの多くは資金決済に関する法律、それに基づく政令である資金決済に関する法律施行令(平成二十二年政令第十九号)、内閣府令である前払式支払手段に関する内閣府令(平成二十二年内閣府令第三号)によって規制される前払式支払手段の一種である。日本では1989年(平成元年)の前払式証票の規制等に関する法律により法規制が行われ同法はプリペイドカード法と呼ばれていた。前払式証票の規制等に関する法律に代わって2010年(平成22年)に施行されたのが資金決済に関する法律である。 資金決済に関する法律、前払式支払手段に関する内閣府令によって、通常、発行主体は内閣総理大臣(財務局)への届出か申請を必要とし、毎年3月・9月末時点で発行したカードの未使用残高が1000万円を超える場合、残高の半分以上の発行保証金を供託しておく義務などを負う。ただし、交通機関の回数券などは別の制度によって保全され、ハイウェイカードなどのような特殊法人が発行するものは、この法律の適用から除外されている。 日本ではこれらの法令のほかプリペイドカード取引標準約款及び加盟店規約例も定められている。 下記のものがあるが、その他に、SBI新生銀行等の外貨預金利用者を対象に、当該口座からチャージして国外で引き出すためのプリペイドカードも発行されている。 下記2サービスは海外で始まったサービスで、現在は日本からアカウントの登録、カードの申し込みが可能。複数の通貨を容易に扱えるマルチカレンシー口座の残高から支払われるカード(口座紐づけ)という事で、扱い上は「デビットカード」となっているが、日本の従来の銀行や信用金庫といった金融機関の口座と直接紐づけするという意味ではなく、そのサービスのアカウント内・アプリ内の口座にVISA/Masterのクレジットカードか一般の金融機関からの銀行振込にて資金をチャージしてからカードを使うので、日本ではブランドデビットというよりはブランドプリペイドのイメージに近い。 上記プリペイドカード一覧内のキャッシュパスポートのように、海外専用で国内の店舗では一切使えないカードも存在する中、RevolutとTransferWiseのカードは海外発のサービスながら日本国内の店舗でも利用できる。 バーチャルカードとはインターネット上の決済のみで使えるカードである。下記のものの他、三菱UFJニコスやオリエントコーポレーション、ジャックス等が、すでに自社のクレジット会員を対象として、クレジットのショッピング枠からチャージして、本来のクレジットの会員番号とは別の番号でネット決済できるプリペイド式のバーチャルカードが設定されている。 国際ブランドが付与されているが追加チャージ機能がないカード。テレホンカード等の使い切りタイプはハウスカードにあたる為後述の欄参照。 ハウスカードとは決済に使用できる対象が特定の会社の製品やサービスに限定されているものをいう。 ※アルファベット順、五十音順(後継カードがある場合のみ直下に掲載する場合がある) 上記の他、交通系のカードが多数存在する。 VISA・MasterCardなど、国際ブランドが付与されていて、クレジットカードと同じように使用できるプリペイドカードをブランドプリペイドカード(ブランドプリカ)と呼ぶことがある。 これらのカードは実店舗で利用できるようにカードを発行するタイプと、ネットショップでの利用を前提としてカードそのものは発行せずにカード番号の発行のみを行うバーチャルタイプのカードが存在する。 カードによっては店頭に置いてあるカードに署名をすればすぐに入金して利用できるタイプのものもあり、これらのカードには表面の契約者名の部分に『CARD HOLDER』や『CARD MEMBER』など、個人名が記載されていない事がある。端末機器に名前が表示される、あるいは伝票に名前が印字される場合はカードに記載されたこのような名前が表示あるいは印字される。 残高以上の決済がされないように利用の都度信用照会による確認が必要なため、クレジットカードとは異なり信用照会端末やインターネット以外での決済には対応していないことが多く、インプリンタによる決済ができないようにカード番号などのエンボス加工がされていないものがほとんどである(ただし手書きで処理可能な場合はそれで決済できてしまうこともある)。 支払いしようとした金額がカード残高を超えた場合、信用照会が通らないため利用することが出来ず、カード決済の性格上、他の決済手段と併用して支払うことも出来ない(不足分を現金で決済することが可能な店舗もごく稀に存在する)。その他、定期的に支払いを行う処理(公共料金の月額利用料の支払い等)や、決済金額がその場で確定しない処理(ガソリンスタンドにおける給油料金の支払い)には利用できないが、例外としてKyash Cardやバンドルカードプラスではデポジットを預かることでガソリンスタンドに対応、au PAY プリペイドカードは出光興産のガソリンスタンドのうち出光ブランドあるいは出光ブランドから転換されたapollostationでのみ利用可能。飛行機の機内販売や、高速道路の料金所はその時点ではオフライン扱いの取引の為、利用が出来ない。 上記でもあるように公共料金や会員サイト等の定額支払いには利用できないのは勿論であるが、ネット通販等でその時限りの決済の場合でもエラー表示となり利用できないケースも少なくない。ブランドプリペイドやブランドデビットは、カードの性質上ネット通販での購入申し込み時の信用照会、商品発送時の本決済の二重引き落としが発生するリスクがあり、こういったトラブルを避けるために本当のクレジットカードのみ受け付けるように設定されているものと思われる。ブランドカードは頭4桁〜8桁で発行会社やカードの種類が決まっているためそれらを受け付けないようにされているか、多くのブランドプリペイドで11円以上でないと決済出来ないようになっている事から、カード番号登録や購入申し込み時に10円以下の承認を取って利用可能カードか判別する通称「1円オーソリ」を実施しているサイトの可能性が高い。なお、実質利用できるサイトでの利用で二重決済が発生してしまった場合でも、本決済以外の利用承認分は店舗からの正式な請求データーが送られない為に、期間は数日から1か月以上要するがその分の残高が復活するとされている。 1度入金した残高は現金での払い戻しに対応していないものがほとんどだが、手数料を支払うことにより残高を現金で引き出すことが可能なものもある。 2016年以降、国外での決済やATM引出に対応するカードの場合は、個人番号を届け出ないと発行できない場合がある(あるいは、発行可能であっても国内利用のみに制限される場合もある)。
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果実
果実(かじつ、英: fruit)とは、雌しべの子房およびそれに付随する構造が成熟したものであり、内部には種子が含まれる。果実は基本的に内部の種子を保護し、またしばしば効率的な種子散布のための構造・機構をもつ。果実において、子房壁に由来する部分は果皮とよばれる。成熟した状態で果皮が液質・多肉質なものは液果(図1a)、果皮が乾燥しているものは乾果とよばれ、また乾果のうち成熟しても裂開しないものは閉果(図1b, c)、成熟すると裂開するものは裂開果(図1d)とよばれる。果実はふつう1つの花の1個の雌しべに由来し、このような果実は単果とよばれる。一方、キイチゴのように1つの花の複数の雌しべに由来するものは集合果、パイナップルのように複数の花に由来するものは複合果(多花果)とよばれる。また、花托(雌しべなどがついている茎の部分)や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果とよばれる。 人間はさまざまな果実を食用としており、その中で甘みがあるものは果物(くだもの)、野菜とされるものは果菜(かさい)とよばれる。また、特に果物のことを果実とよんでいることもある。果実は、一般語として実(み)ともよばれるが、この語は大型の種子を意味することもある(トチの"実"、イチョウの"実"など)。 被子植物では、種子となる構造である胚珠が雌しべの中に包まれている。雌しべにおいて、胚珠が含まれる部分は、子房(ovary)とよばれる(下図2a)。花粉が雌しべの柱頭に付着(受粉)すると、そこから花粉管を伸ばし、子房中の胚珠に達する。胚珠の中には雌性配偶体である胚嚢(胚のう)が形成され、その中に卵細胞がつくられる。卵細胞は花粉管を通じて送り込まれた精細胞と合体(受精)し、受精卵は次世代である胚となり、これを含む胚珠は種子となる。また胚珠(種子)を含む雌しべの子房は成熟し、果実となる(下図2e)。果実が発達するきっかけは胚珠が受精することによる植物ホルモンの変化であり、受精できなかった雌しべはふつう枯れてしまう。しかし受精することなしに果実が発達することがあり、単為結果(単為結実)とよばれる(例: バナナ、パイナップル、イチジク、ブドウなどの園芸品種)。 果実の大きさは極めて多様である。栽培されるセイヨウカボチャの中には極めて大きな果実をつくるものがあり、最大では直径3.56メートル (m)、最重では1,226キログラム (kg) のものが知られている。一方、最小の果実はミジンコウキクサ属のものであり、直径0.3ミリメートル (mm)、重さ70マイクログラム (μg) しかない。1個の果実に含まれる種子の数もさまざまであり、1個の種子を含むものから、100万個以上の微小な種子を含むものまである。 果実において、雌しべの子房壁が成熟した部分は、果皮(かひ; pericarp, fruit coat)とよばれる。果皮は基本的に3層からなり、外果皮(exocarp)、中果皮(mesocarp)、内果皮(endocarp)とよばれるが、これらの分化が不明瞭なこともある(上図2b–d)。また果皮が肉質である場合は、果肉(sarcocarp)ともよばれる。子房下位の花(萼片や花弁、雄しべの基部よりも下に子房が位置している花)では、子房が花托(下記参照)に包まれている。そのため、このような花から形成された果実においては、果皮の外側に花托に由来する部分が存在し、偽果皮とよばれることもあるが、その区分はふつう不明瞭であり、特に区別せず果皮とよばれることが多い。イネ科の果実(穎果)では、果皮が種皮と合着している。果皮は種子を包んでいるが、ヤブラン属やジャノヒゲ属(キジカクシ科)などでは果皮がすぐに脱落し、種子が裸出した状態で成長する。 花において、花被片や雄しべ、雌しべなどの花要素がついている茎の先端部分は、花托(かたく)とよばれる。また複数の花がついている茎先端が広がった部分は、花床(かしょう)とよばれる。ただし花托・花床を区別せず、共に花床とよんでいることも多い。花托・花床は、果実になった状態では果托・果床とよばれることがある。リンゴやイチゴでは花托に由来する部分が(下図3a)、イチジクでは花床に由来する部分が(下図3b)、果実の大部分を占めている。このように花托や花床、さらに花被など子房以外の要素が大部分を占める果実は、偽果ともよばれる。 茎についている果実の柄は果柄(pedicel)、複数の果実がついている共通の柄は果梗(peduncle)とよばれる(上図3c, d)。果柄・果梗は、ふつう花の花柄・花梗に由来するが、花後に雌しべの基部が伸長して柄になるものでは、果柄と花柄は一致しない。 花のついた茎全体または茎に対する花のつき方は、花序(inflorescence)とよばれる。花が果実になった状態では、果序(infructescence)ともよばれる。 果実は、果皮の状態や心皮(雌しべを構成する葉的要素)の数などに基づいてさまざまな型に類別される。熟した状態で果皮が乾燥しているものは乾果(かんか; dry fruit)とよばれる。乾果は、果皮が裂開する裂開果と裂開しない閉果(非裂開果)に分けられる。一方、果皮が柔らかく水分を含むものを液果(えきか; 多肉果、sap fruit)とよばれる。また1個の花の1個の雌しべに由来する果実は単果とよばれ、1個の花の複数の雌しべに由来する果実がまとまった構造は集合果とよばれる。単果と集合果はいずれも1個の花に由来するため単花果とよばれ、一方で複数の花の雌しべに由来するまとまった構造は複合果(多花果)とよばれる。果実のうち、雌しべの子房に由来する部分が大部分を占めるものは真果、子房以外の要素が大部分を占める果実は偽果ともよばれる。 乾果のうち、成熟すると裂開して種子を露出するものは裂開果(れっかいか; dehiscent fruit)とよばれる。裂開する場所はふつう決まっており、心皮の両縁が接する線(内縫線、腹縫線、inner suture, ventral suture)や心皮の中軸にあたる線(外縫線、背縫線、outer suture, dorsal suture)、心皮どうしが接する線などであることが多い。裂開果の場合、果実から出た種子が散布される単位となる。 乾果のうち、成熟しても裂開しないものは閉果(へいか; 非裂開果、indehiscent fruit)とよばれる。閉果の場合、種子を含む果実が散布単位となる。 複数の心皮からなり、心皮ごとに分離して複数の単位に分離する果実は分離果(ぶんりか; schizocarp)とよばれる。分離する単位は分果(ぶんか; mericarp, coccus)とよばれる。乾果であり、分果が裂開しないもの(上図7c)と裂開するもの(上図7d)があるが、前者のみを分離果とすることもある。分果が裂開するものはフウロソウ科、コクサギやサンショウ(ミカン科)に、分果が裂開しないものはハマビシ科、ニガキ科、ゼニアオイ(アオイ科)、ヤエムグラ属(アカネ科)、ムラサキ科、シソ科、セリ科などに見られる。またセリ科などの果実は2つの分果がぶら下がった形になり、特に双懸果(そうけんか)(cremocarp)ともよばれる。 果皮が柔らかく多肉質・多汁質である果実は、液果(多肉果、sap fruit)とよばれる。基本的に裂開しないが、アケビ(アケビ科)のように裂開する例もある。 1個の花はふつう1個の雌しべ(子房)をもつが、これに由来する独立した果実は単果(simple fruit)とよばれる。一方、1個の花が複数の雌しべ(子房)をもつことがあり(個々の雌しべは1心皮からなり、このような状態は離生心皮とよばれる)、これに由来する複数の果実がまとまった構造となる場合、集合果(aggregate fruit)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば集合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。集合果には、以下のようなものがある。 1個の花の1個または複数の雌しべ(子房)に由来する果実は、単花果(monothalamic fruit)とよばれる。一方、複数の花に由来する果実がまとまった構造となる場合、複合果(または多花果、collective fruit, polyanthocarp)とよばれる。ただし、どの程度まとまっていれば複合果と呼べるのか明確な定義があるわけではない。複合果は、それを構成する果実の型や、付随する構造に基づいて以下のように類別される。 基本的に、果実は雌しべの子房(種子になる構造である胚珠を含む部分)が発達して形成された構造であり、これが大部分を占める果実は真果(true fruit)とよばれる。一方で、花托や花被など子房以外に由来する構造が多くを占めている果実は、偽果(仮果、副果、accessory fruit, anthocarp, false fruit)とよばれる(図11)。ほとんどの果実は子房以外の構造を含むが、その程度はさまざまであり、子房以外の構造をどの程度含むものを偽果とするかは明瞭な基準があるわけではない。「偽果」には「ニセモノの果実」という語感があるが、偽果は真の果実の部分(子房に由来する部分)を含んでおり、果実の一型として扱われる。 上記のナシ状果、バラ状果、イチゴ状果、ハス状果、イチジク状果では、それぞれの花がついた花托や多数の花がついた花床(花托、花床は花がついた茎の先端部)が発達して果実の大部分を占めており、典型的な偽果である。またクワ状果では複合果を構成する個々の真果の部分が液質化した花被に包まれた偽果であるが、他にもイシミカワ(タデ科)やシラタマノキ属(ツツジ科)などに同様の例が見られる(下図12a)。グミ属(グミ科)やオシロイバナ(オシロイバナ科)の果実も萼筒の基部が真果の部分を包んで偽果となっている(下図12b, c)。オナモミ属(キク科)では複数の雌花に由来する複数の痩果が、刺だらけの総苞で包まれた偽果を形成する(下図12d)。 生物学的に、果実は雌しべの子房が発達したものであり、そのため雌しべをもつ植物群である被子植物に特有の器官である。裸子植物は胚珠(種子)を包む雌しべをもたないため、裸子植物は果実をもたない。しかし、裸子植物でも種子を囲んだ器官が発達して果実様の構造を形成することが多く、このような構造が"果実"とよばれることがある。 裸子植物の球果類(針葉樹)は、基本的に、向軸側に胚珠をつけた鱗片が軸に多数集まって球果(まつかさ、cone, strobile)を形成する。球果の鱗片はふつう木化しており、乾湿運動によって開閉して種子を放出する(下図13a)。ビャクシン属(ヒノキ科)の球果では鱗片が肉質になり、裂開しない液果状の球果を形成する(下図13b)。このような球果は、漿質球果(しょうしつきゅうか; 肉質球果、freshy cone, galbulus)とよばれる。マキ科では、鱗片が肉質化して套皮(とうひ、epimatium)とよばれる構造となり、1個の種子を包んでいる(下図13c)。さらにイヌマキなどでは、種子のついた枝("花托"、種托)が多肉質になる。またグネツム属やマオウ属では、胚珠を包む苞が肉質化して液果状になる(下図13d)。 イチイ属やカヤ属(イチイ科)では、胚珠の基部の構造が発達して仮種皮となり、種子の基部または全体を覆うようになる(上図13e)。このような構造は仮種皮果(arillocarpium)ともよばれる。 ソテツ目やイチョウ目では、種皮が3層に分化し、外層が肉質化する(上図13f)。この種子は液果に似ているため、"実"とよばれることもあるが、実際には種子である。このような種子は種子果(seminicarpium)ともよばれる。またイヌガヤ(イチイ科)でも、種皮外層が多肉質になる。 通常は動けない種子植物にとって、親植物から離れて分布拡大できる時期は、種子の段階である。種子が散布されること(種子散布)は、裸地に植物が生えてくることや、植生が次第に遷移していくことで認識できる。被子植物では種子は果実に包まれた状態で形成されるが、裂開果では果実から放出された種子が、閉果では種子を含む果実が、それぞれ散布単位となる。果実は、効率的な種子散布のための構造・機能をもつことがある。 風によって果実・種子が散布される様式は、風散布とよばれる。風散布される果実は、翼をもつ例と綿毛をもつ例がある。カエデ(ムクロジ科)やアキニレ(ニレ科)、シラカンバ(カバノキ科)など果皮が翼状になった例(翼果とよばれる; 下図14a)や、スイバ(タデ科)やツクバネウツギ(スイカズラ科)のように果実に付随する花被が翼状になっている例、シナノキ(アオイ科)やツクバネ(ビャクダン科)のように苞が翼状になっている例(下図14b)がある。また果実が綿毛をもつ例も見られ、タンポポなどキク科の多くでは萼に由来する冠毛が(下図14c)、クレマチス(キンポウゲ科)では花柱に生えた毛が、ススキ(イネ科)では花序の基部に生えた毛が(下図14d)発達している。裂開果において種子が散布される場合でも、果実の開口部が小さく上部にあるなど、強い風や振動によってのみ種子が散布されるようになっているものがある(風靡散布)(下図14e)。 水辺に生育する植物の中には、水によって果実・種子が散布されるものがある(水散布)。コナギ(ミズアオイ科)やハス(ハス科)、クサネム(マメ科)、タカサブロウ(キク科)などの果実は比重が軽く、水に浮いて散布される(下図15a)。ジュズダマ(イネ科)やオナモミ(キク科)では、果実を包む苞が特殊化して浮遊するようになっている(上図12d, 下図15b)。またオモダカ(オモダカ科)の果実には翼があり、水中で流される(下図15c)。ココヤシ(ヤシ科)やハマゴウ(シソ科)の果実は核果であり、硬化した内果皮で種子が包まれていることから、海水に耐えて海面を浮いて散布される(海流散布)(下図15d)。ネコノメソウ(ユキノシタ科)やフデリンドウ(リンドウ科)の果実は、上向きに裂開し雨粒を受けて種子が散布される(雨滴散布)(下図15e)。 大型の動物に付着し、種子散布される様式は付着散布(動物付着散布)とよばれる。かぎ状の突起などによって動物に付着するものとして、果皮にかぎ毛をもつヌスビトハギ(マメ科)、ミズタマソウ(アカバナ科; 下図16a)、ヤエムグラ(アカネ科)、ヤブジラミ(セリ科; 下図16b)、花柱由来のかぎをもつミズヒキ(タデ科)やダイコンソウ(バラ科; 図9b)、萼由来のかぎをもつハエドクソウ(ハエドクソウ科)やセンダングサ(キク科; 下図16c)、苞に由来するかぎをもつイノコヅチ、果実を包む総苞に多数のとげをもつオナモミ(キク科; 上図12d)などがある。また粘液によって動物に付着するものとして、果実表面から粘液を分泌するノブキ(キク科; 上図16d)、冠毛から粘液を分泌するヌマダイコン(キク科)、総苞から粘液を分泌するメナモミ(キク科)、芒から粘液を分泌するチヂミザサ(イネ科; 下図16e)などがある。特に付着のための構造をもたない果実でも、小型のものは泥などによって動物に付着し、散布されることがあると考えられている。 哺乳類や鳥類に食べられ、排出されることで種子散布される様式は、被食散布(動物被食散布、周食散布、糞散布)とよばれる(下図17a)。このような果実は、動物にとって魅力ある可食部と適度な大きさをもち、また内部の種子は消化されないように厚い種皮をもっていたり、硬化した内果皮で包まれていたり(核果)、粘質の物質をまとっていたりする。大きな種子を少数含むものから、小さな種子を多数含むものまである。可食部の質や果実の大きさ、色、匂い、果実のつく高さや落下しやすさなどに多様性があり、それぞれ捕食者である動物に合わせている。特に鳥類に被食されるものと哺乳類に被食されるものでは色(鳥類用果実には赤や黒のものが多い)や匂い(哺乳類用果実は強い匂いをもつものが多い)などに違いがあるが、鳥類・哺乳類双方に対応しているものもある。被食散布される果実は内部の種子の発芽を抑制する物質が含んでいることがあり、この場合、動物に食べられて排出されることで初めて種子が発芽できるようになる。未熟期の果実は、色が変わっていないことや有毒・不味成分を含むことで食べられないようにしている。ただし可食部をほとんどもたない果実や種子が目立つ色をしており、十分な可食部をもつ果実に擬態(果実擬態)していると考えられている例もある。また被食散布される果実は、一斉に成熟するタイプと、長期に渡って少数ずつ成熟するタイプがあることが知られている。さらに年ごとによって果実の生産量が大きく変動することも知られており、食害昆虫の増加を抑えるためであると考えられている。果皮が多肉質である液果は、被食散布される。クワ(クワ科)やグミ(グミ科)、シラタマノキ(ツツジ科)では、子房ではなく果実を包む花被が多肉質の可食部になる(上図12a, b, 下図17b)。イチゴ(バラ科)では隆起した花托が、バラ(バラ科)ではつぼ状になった花托が、ケンポナシ(クロウメモドキ科; 下図17c)では花がついた枝が、イチジク(クワ科)では多数の花がついたつぼ状の花床がそれぞれ可食部になる。他にも、果実ではなく種子の付属物(種皮、仮種皮など)が可食部となっている例もある。またイネ科やカヤツリグサ科、ヒユ科、タデ科、シロツメクサなど特に被食散布のための構造をもたない小型の果実が、ウシやシカ、カモ類などの草食動物が葉や茎を食べる際に一緒に取り込まれ、消化されずに排出されることがあり、このような散布も重要であることが示唆されている。 クリやコナラ(ブナ科)、ハシバミ(カバノキ科)、オニグルミ(クルミ科)、エゴノキ(エゴノキ科)などの果実は、果皮が硬く木化しており、内部に大きな種子を含む。リスやネズミ、シジュウカラ、カケスなどの動物はこのような果実を収集・輸送・貯蔵し、内部の種子を食用とするが、貯蔵されながら食べ残された果実はそこで発芽することができる(貯食散布、食べ残し散布)(上図17d)。 一部の植物では種子や果実にエライオソームとよばれるアリが好む物質の塊がついており、アリによって収穫、巣まで運ばれることで種子散布される。このような種子散布様式はアリ散布とよばれ、多くは種子にエライオソームをつけているが、ホトケノザ(シソ科)やカナムグラ(アサ科)、アオスゲ(カヤツリグサ科)のように果実にエライオソームをつけている例もある(上図17e)。 果実の中には、自動的に種子を射出する機構を備えているものがあり、このような種子散布は自動散布(自力散布、自発分散、自力射出散布)とよばれる。シキミ(マツブサ科)やスミレ(スミレ科)、カラスノエンドウ(マメ科)、ゲンノショウコ(フウロソウ科)などでは、果実の果皮が乾燥・収縮することで種子を弾き飛ばす(上図18a–d)。またホウセンカ(ツリフネソウ科)やムラサキケマン(ケシ科)では果皮の細胞の膨圧上昇によって果実がはじけ、種子を弾き飛ばす(上図18e)。 人間は、さまざまな果実を食用に利用している。穀物であるイネ、コムギ、トウモロコシ(イネ科)、豆類であるダイズ、アズキ、インゲンマメ(マメ科)などは、種子に含まれる胚乳や子葉が主な食用部とされるが、種子を伴う果実の状態で収穫される。またこれら穀物や豆類は、人間の食用だけではなく飼料としても重要である。主に果皮部が食用とされる果実のうち、ミカン、リンゴ、ブドウなど木本に実り一般的に甘いものは果物、キュウリ、エンドウ、トマトなど草本に実り野菜として利用されるものは果菜とよばれる(下図19a, b)。また、果物のことを特に「果実」とよんでいることもある。生産分野では木本に実るものを果物(果実)としており、スイカやイチゴなど草本に実るものは「果実的野菜」とよばれることがあるが、消費分野ではこのような果実も果物として扱われる。ブドウなどの果実は、直接食用とされるだけではなく、アルコール飲料の原料としても利用される(下図19c)。 オリーブ(クスノキ科)やアブラヤシ(ヤシ科)の果皮から得られた油は、食用油やせっけんなどに利用される(上図19d)。ハゼノキ(ウルシ科)の果実の果皮から得られた油脂(木蝋、ハゼ蝋)は、和ろうそくなどに用いられる。 クチナシ(アカネ科; 下図20a)、ミカン(ミカン科; 下図20b)、ナツメ(クロウメモドキ科)などの果実は、生薬とされることがある。ケシ(ケシ科)の未熟果実から得られた乳液(乾燥させた乳液はアヘン)にはモルヒネなどのアルカロイドが含まれ、薬用として利用されており、また麻薬ともされる(下図20c)。 カボチャやヒョウタン(ウリ科)、ココヤシ(ヤシ科)などの果実は飾りや容器に加工され(上図20d)、またヘチマ(ウリ科)やココヤシの果実から得られる繊維もさまざまに利用される。クチナシなどの果実は、染料として利用されることもある。園芸や生け花において、果実を鑑賞対象とすることがあり、このような植物は実物(みもの)ともよばれ、日本で利用される例としてセンリョウ(センリョウ科)やナンテン(メギ科)、サンキライ(サルトリイバラ科)などがある(上図20e)。
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遠藤周作
遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。 父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。 その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。 無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。 『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。 1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。 母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。 1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。 遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に兵庫県神戸市の六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で西宮市にあるカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。 1935年、遠藤は私立灘中学校に入学。宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。 正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。 1939年に一家は宝塚市仁川月見ヶ丘に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。 遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい。遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。 1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している。同年、浪速高と姫路高と甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。 遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、遠藤は東京外国語学校、日本医科大学予科、東京慈恵会医科大学予科、日本大学医学部予科に不合格となり、慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。 生活基盤を失った遠藤は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタン(英語版)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎、堀辰雄などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。 第二次世界大戦の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎の勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、遠藤は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。 終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノス、フランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎との知遇も得た。1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。 1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎、原民喜、丸岡明、山本健吉、堀田善衛との知遇を得ている。 1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。 1950年6月4日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。フランス船マルセイエーズ号(英語版)で横浜港を出航し、7月5日にマルセイユに着く。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。 留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。 1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥ(フランス語版)』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルー(英語版))の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念する。翌1953年1月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。 帰国後、遠藤は企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。 遠藤は書簡や日記によれば、留学から帰国直前、フランスの7歳下の女子学生と交際していた。その女性は遠藤が結婚したと聞き、1966年フランス語講師として北海道大学に赴任した。遠藤は彼女に『沈黙』のフランス語訳をすすめた。彼女は1970年に帰国し、1971年乳がんのために死去した。41歳。 1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫、近藤啓太郎、庄野潤三、進藤純孝、三浦朱門、吉行淳之介らとの知遇を得た。 遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。 1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。 1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。 9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整、加藤周一、野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連のタシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。同1958年、第六次三田文学に編集委員として参加。他の委員は堀田善衛、梅田晴夫、安岡章太郎、白井浩司、柴田錬三郎、庄司総一。 1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリー(フランス語版))、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリス、スペイン、イタリア、ギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。 帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発した。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。 1966年には代表作『沈黙』を発表している。同作で第二回谷崎潤一郎賞を受賞する。同年に第七次三田文学で編集長となる。 1968年、長野県軽井沢町に別荘を建てる。別荘は近所の北杜夫や矢代静一ら作家仲間たちとの交流の場となる。なお軽井沢に初めて訪れたのは、大学在学中に病気療養中の堀辰雄を訪ねたときである。 1973年『死海のほとり』発表。 1973年、評伝『イエスの生涯』発表。 1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞する。 1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。 1980年、『侍』で第三十三回野間文芸賞を受賞する。 1980年代から「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。 1993年『深い河』発表。この小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っている。なお「シンクロニシティ」については、1992年8月「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」において、F・D・ピート(英語版)の『シンクロニシティ』を絶賛し、それにより同書がベストセラーに躍り出るという事が起きている(「シンクロニシティ」を良い意味で取り上げることはカトリック作家としては異例の事態であったが、遠藤によるオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている)。 1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。 1995年『深い河』を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとする映画が公開される。撮影にあたりインド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現している。 1996年4月、腎臓病治療のため慶應義塾大学病院に入院、同年9月に脳出血。同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で同病院で死去した。73歳だった。 絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。 スポーツ新聞は、遠藤の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町の聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された。2015年12月に聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。 その後遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、2000年5月に『沈黙』の舞台となった長崎県西彼杵郡外海町(現・長崎市)に「外海町立遠藤周作文学館」が開館した。 キリスト教は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。 遠藤は家がカトリックであり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学の時に感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。 キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。 遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラや小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。 「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。...キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。 日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。 遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。 現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師らとして描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。 日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。 遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。 そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒックの宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。 遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。熊井啓監督によって映画化され、また、歌手の宇多田ヒカルは、この作品に影響を受け、「Deep River」という楽曲を発表している。 幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。 母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはホーリィ(英語版)ではない」という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。 父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。 父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」と斬り捨て、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」と嘆き、悲しんだ。 1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。 父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。 1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。 彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。 1963年に駒場から町田市玉川学園に転居したころから、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレである(狐狸庵とは、一般には、遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている)。1978年10月に『アップダウンクイズ』(毎日放送)に出演した際には、「狐狸庵」の由来として「町田に引っ越したところ、周りが山と林ばかりだった」ことと「ある随筆を頼まれて全く書けなかったことがあり『こりゃあかんわ』と思った」ことの2つがあると語っている。 滋賀県の懇意にしていた料亭を狐狸庵を琵琶湖にかけてもじって「湖里庵」と命名している。 純文学作家・遠藤は、カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組んだ。一方、謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。 ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。 親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。 したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。 さくらももこは遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは東京ガスの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている。 なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。 遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。 晩年にはジョン・ヒックの提唱する宗教多元主義と出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。 このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。 遠藤と共にフランスで学んだ井上洋治神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」と高く評価している。また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。 サレジオ会のアロイジオ・デルコル神父は、1978年12月24日のクリスマスのテレビ番組で「キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである」という自説を『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『沈黙』等で書いたと遠藤が語ったことに対し、「遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”紹介したにすぎない」と評している。 遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、フェデリコ・バルバロ神父は反論を書いている。 キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。 キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。 しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った。この認識、そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである。 ※便宜上、タイトルは英語に統一。言語圏ごとにタイトルは異なる。 2010年4月25日、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた。 2020年2月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された。1963年3月より後、40歳以降に執筆されたと推測される、自伝的作品。 短編作品数篇を併録し、同年10月に新潮社から単行本化された。
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受粉
受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の珠孔に花粉が達することを指す。 花粉は葯と呼ばれる器官で形成される。葯は通常は雄蕊(ゆうずい、おしべ)の先端にある。裸子植物では葯は多数の花粉嚢が雄蕊の上に付く形で葯が形成され、被子植物では雄蕊の先端に葯壁で分離される形で2つの半葯から形成される。葯が開くと花粉が外に放出され、雌蕊に到達すると受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉、他の個体の花粉による受粉を他家受粉という。受粉過程でどのように花粉が移動するかによって、種子植物の受粉様式は花粉媒介者の助けを要しない自動自家受粉や、媒介者の種類を冠した風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)などに分類できる。裸子植物の大部分は風媒花である。 被子植物では、自家不和合性・雌雄異熟 (dichogamy) ・異形花柱性といった自家受粉・自家受精を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は近親交配を妨げることにより、遺伝的多様性を維持する役割を持っていると考えられる。 受粉は英語"pollination"の翻訳語であり、ほかに授粉・送粉(そうふん)・花粉媒介(かふんばいかい)の用語も用いられる。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学"palynology"などがある。 以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。 自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い。その媒体の種類によって受粉様式は風媒、水媒、動物媒、自動同花受粉などに分けられる。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的媒介による受粉であると推定されている。受粉様式は種子植物の進化上で重要であり、花の形質(送粉シンドローム)に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の共進化の例として研究がなされている。また、植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく種子散布まで含めた共生関係にあるものがある。なお、同一種でも複数の受粉様式が起こっており、必ずしも品種と受粉様式が1対1で対応するわけではないことに注意する必要がある。 自然状態で受粉させることを自然受粉と呼ぶのに対し、人間が人為的に受粉させることを人工授粉という。詳細は人工授粉の項を参照。 花の受粉様式の中には、自殖といって同一個体の中で自身が生成した花粉を自身で受粉するものがある。これが自家受粉である。一般に植物は自分で移動できないから別個体同士で受粉するには、外部の何らかの手段に頼って花粉を移動させる必要がある。しかしそれには不確実性があるため、自殖するほうが確実である。また新しい領域に侵入する場合、自殖が可能であれば単一の個体で繁殖できるが、そうでなければ同時に複数の個体が進出しない限り次の世代を残せない。そのため自殖を行う植物も一定数存在する。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある。一方で、遺伝的多様性を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である。特に基本的に片方の性のみを持つ動物の近親交配と異なり、植物においては同一個体内での近親交配であるから、自殖により適応度が下がる可能性は高い。したがって進化によってそうした特徴を排除し、自殖を避け他植を促進するものも多い。 日本のスミレ属 Viola では、通常の虫媒花を開花させた後に閉鎖花を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており、また、オニバスは水中で自己受粉をして身をむすぶ閉鎖花と水面に浮かんで通常の花を咲かせる開放花をともに咲かせるが、種子の結実率は閉鎖花のほうが高いことが報告されている。 開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中 (1993)は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:タチイヌノフグリ)・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:アキノノゲシ)・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:オシロイバナ)・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:メヒシバ)に分類している。 非生物的媒介として風媒 (anemophily) と水媒 (hydrophily) がある。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が進化した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている。水媒はほとんどが水生植物でみられるが、すべての水生植物が水媒による送粉を行うわけではない。 風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出して、花粉を受けやすくあるいは放出しやすくなっているものが多い。また花粉は乾燥していることが多い。被子植物についてはそうではないものの、裸子植物については生産する花粉量が虫媒花よりも多い傾向にある。これらは風媒に適応した特徴である。 水媒花は水との位置関係で、水上を送粉するもの、水中を送粉するもの、水面を送粉するものに分けられる。 自然界で受粉(送粉)を行う動物を送粉者と呼ぶ。動物媒花では、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を餌として提供したりすることによって動物に自身の存在を示す。動物が餌を探すために花を見つけるため、森林や熱帯といった複雑な植物社会において動物媒による送粉をとる種が多い。 送粉者の種類は約20万種あると推定されており、その大部分は昆虫である。昆虫による送粉を虫媒 (entomophily) と呼び、虫媒花はハチとアリ(膜翅目)・コウチュウ(鞘翅目)・チョウとガ(鱗翅目)・アブとハエ(双翅目)などの昆虫を引き寄せる。そのために、目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を提供するなどの戦略をとる。また、昆虫類が知覚できる紫外線領域の色も用いて昆虫を誘引している花もある。進化的には虫媒花の原型は、送粉者に花粉を食べさせる虫媒植物であったと考えられている。 その他の動物媒"zoophily"としては、鳥類・コウモリなどの脊椎動物によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている。鳥類は昆虫に比べて体が大きく、また多量の蜜を必要とするため花間を積極的に飛び回るので、花粉の移動を考える上では貢献度が高いとされる。送粉を行う脊椎動物の例としてはハチドリ・オオコウモリ類・オーストラリアにおける有袋類がある。コウモリを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ香りは持たない傾向がある。 受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある。 以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示すが、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。 受粉に関する科学的研究はSprengelによる『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる。19世紀にはダーウィンによる『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された。 20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカのFægriとPijlによる『受粉生態学原理』などが著されて研究が盛んになった。 その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している。 2016年、水中においては動物が介在しないとされていたが、無脊椎動物による媒介が確認された。 ポリネーターガーデン(Pollinator_garden)とは、特定の蜜や花粉を生産する植物を育て、ポリネーターと呼ばれる花粉媒介者・送粉昆虫を呼び寄せることを意図して設計された庭園。 花粉媒介者は人間が食べる3口のうち1口の生産を助けているため、これらの種をサポートする方法である。 花粉媒介者のための庭園であるとみなされるためには、蜜を出すさまざまな花、花粉媒介者のための巣・避難所を提供する植物を配し、農薬を使用しないことである。 ポリネーターガーデンでは、植物群は野生の受粉媒介者を呼び寄せることを目的として栽培される。受粉は植物が種子を生産するための生殖過程である。ある花の雄部の花粉が、同種の別の花の雌部に移動すると、受精が起こる。受精すると、花は実と種を作る。全ての顕花植物の90%近くが動物によって受粉される。これらの受粉媒介者の種の大半はハチやチョウなどの昆虫であるが、動物の受粉媒介者には、他に特定の種の鳥や哺乳類などもいる。 花粉媒介者は人間の食糧生産に重要な役割を果たしており、ポリネーターガーデンは重要な花粉媒介者種を支援し保護する方法でもある。受粉は150以上の食用作物、米国内ならば栽培されている果物、野菜、ナッツ類のほとんどが花粉媒介者に依存しているとみられているが、現在、多くの花粉媒介者種が脅かされ減少の一途を辿っている。2007年、全米研究会議は、全昆虫受粉媒介種の40%が現在絶滅の危機にあると結論付けた。花粉媒介者の減少の原因としては、生息地の喪失、農薬への暴露、外来植物の蔓延による食料源の喪失などが挙げられる。花粉媒介者の生息地を保護せず、新しい生息地を作らない場合、植物の受粉不足は最終的に人間に影響を与えることになる。花粉媒介者が減少すると、農業の収穫量も減少し、受粉がなければ人間の主たる栄養源は苦しむことになる。さらに、作物以外の植物種の80~95%も何らかの受粉を必要とするため、危機に瀕しているのは作物だけではないのである。しかし、研究によると、ある地域に自生する受粉媒介植物の割合が増えると、受粉媒介者の活動も活発になることが分かっている。 花粉媒介植物の植栽には、いくつかの注意点がある。鳥、ハチ、チョウなど、園芸家がどのような種類の受粉媒介者を引き寄せたいのかによって、これらの種に適した蜜、花粉、幼虫の宿主となる植物を選ぶ必要があるし、自生種のプラントを選ぶよう勧めがある。つまり在来種の植物は、特定の気候や生育条件に最適に適応するように進化し、しばしば受粉媒介者固有の関係を築いてきた(例:オオカバマダラとミルクウィードなど)。さらに、自生の植物を選べば、周囲の自生植物が外来種に駆逐されることはないのである。
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エディンバラ
エディンバラ(英語: Edinburgh、スコットランド・ゲール語: Dùn Éideann)は、スコットランドの首都であり、ロージアン地方の首府。日本語では「エジンバラ」とも表記される。人口は48万人。 スコットランドの東岸、フォース湾に面するこの都市は、スコットランドにおける政治と文化の中心であり、グラスゴーと共に2大都市の一角を占める。旧市街と新市街の美しい町並みは、ユネスコの世界遺産に登録されていて、旧跡など観光資源が豊富である。街の中心にカールトン・ヒルと呼ばれる小高い丘があり、街を一望できる。毎年8月にはエディンバラ・フェスティバルと呼ばれる芸術祭典が行われ、多くの観光客で賑わう。学術都市でもあり、世界的な名門であるエディンバラ大学がある。 地名は「エドウィンの城」の意味。一方、ブリトン人のゲール語で険しい丘を意味するエディンと後に攻略したアングル人が、砦を意味するバラを付けたとする見解がある。火山の溶岩の上に形成された城郭都市であり地盤が強固である。 スコットランドのローランドに位置するエディンバラは北にフォース湾が控え、西へ100kmほどにグラスゴーがある。 地質時代のデボン紀から石炭紀にかけて、約4億年前に初めて火山活動が発生した。3億5000万年前に2回目の火山活動で火山円錐丘が作られ、2億8500万年前に岩脈、そして2億5000年前に地震が起こり、200万年前には氷河におおわれた。二度の火山活動で噴出した玄武岩溶岩の上に街が出来ている。町の目印となるキャッスル・ロックは、ほぼ左右対称の円筒状の玄武岩でできており、450フィートの高さがある。 エディンバラ城の場所やアーサーの玉座(Arthur's Seat)と呼ばれる岩山は溶岩が氷河に削り取られた後の残丘である。 他のスコットランドの都市と同様、その緯度に似合わずエディンバラも温和な海洋性気候である。冬は零下になることは余り無い。夏の最高気温は22 °Cだが、メキシコ湾流による南西風が強いことで知られる。雨は年間を通じ多い。10月から5月にかけて北海からの東風が冷たい乾いた嵐となることがある。 ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。 古くから行政府・商都として栄え、金融業や小売業が強い。19世紀頃までは、銀行業・出版業・醸造業が主力産業だった。現代でも、金融業や学術や研究機関関連の産業が盛んである。金融センターとしては、イギリスではロンドンに次ぐ規模である。 エディンバラ大学は、イギリスないし欧州屈指の名門大学。哲学者のデイヴィッド・ヒューム、経済学者のアダム・スミス、科学者のチャールズ・ダーウィン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、小説家のアーサー・コナン・ドイルなど数多くの学者、文化人を輩出している。 エディンバラの中心駅はウェーバリー駅で、ロンドンのキングス・クロス駅までインターシティで約4時間30分。 市内では路線バスおよびトラムが運行されている。 1956年11月16日にトラムが廃止されたが近年、トラムシステムの有用性が再認識され再び復活する運びとなった。当初の開業予定は2011年7月だったが予定より遅れて2014年5月31日に開通。エディンバラ空港とヨークプレイス間を結んでいる。更なる延伸も予定されている。当初の予算は512万ポンドで現在の予想では600万ポンドを超えると見られている。 2011年の開業予定で2007年にスコットランド議会で建設が可決されたが同年9月に政権が交代して計画は中止された。滑走路の下にトンネルを掘って高速で連絡する予定だった。 この街のカフェ The Elephant House で作家J・K・ローリングがハリー・ポッターと賢者の石を書き上げたという話は有名。また、物語に登場する「ホグワーツ魔法魔術学校(ホグワーツ城)」はエディンバラ城がモデルだといわれているが、作者は否定している。
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3,727
誤り検出訂正
誤り検出訂正(あやまりけんしゅつていせい)またはエラー検出訂正 (error detection and correction/error check and correct) とは、データに符号誤り(エラー)が発生した場合にそれを検出、あるいは検出し訂正(前方誤り訂正)することである。検出だけをする誤り検出またはエラー検出と、検出し訂正する誤り訂正またはエラー訂正を区別することもある。また改竄検出を含める場合も含めない場合もある。誤り検出訂正により、記憶装置やデジタル通信・信号処理の信頼性が確保されている。 一般に誤り検出訂正では、k 単位長(k ビット、k バイト など)の符号を、n = m + k 単位長の符号語に変換する。これを (n, k) 符号、あるいは、符号形式を添えて (n, k) ××符号などと呼ぶ(誤り訂正符号"Error Correction Code"を特にECCと略す)。符号語は、最小ハミング距離が d > 1、つまり、互いに少なくとも d 単位が異なっていて、この冗長性を利用して前方誤り訂正が可能となる。dを添えて、(n, k, d) 符号ともいう。 適切な (n, k, d) 符号は、符号語あたり d - 1 単位の誤りを検出でき、[(d - 1) / 2] 単位([ ] は床関数)の誤りを訂正できる。d ≦ 2 ならば、誤り訂正能力は [(d - 1) / 2] = 0 となり、単なる誤り検出となる。ただし、データの消失に対しては、つまり誤り位置がわかっているときは、d 単位の消失を訂正できる。これを特に消失訂正と呼ぶ。単なる誤り訂正も、最低 1 単位の消失訂正能力を持つ。 たとえば、(2, 1, 2) 符号であるミラーリングは、 となる。(3, 1, 3) 符号である三重ミラーリングでは、誤り検出能力と消失訂正能力が2となり、誤り訂正能力1も得る。 双方向の通信では、前方誤り訂正ができなくても誤り検出さえできれば、送信者に再送を要求することで実質的に誤りを訂正できる。これを自動的におこなう仕組みを、自動再送要求 (ARQ, Automatic Repeat reQuest) と呼ぶ。 誤りには、 の2種類がある。 多くの誤り検出・訂正は、全体の誤り率が許容範囲でも、バースト誤りに対しては、1つのブロックに多くの誤りが集中するため、対応できない。そこで、符号の順序を入れ替え、同じブロックのデータを分散させ、バースト誤りが1つのブロックに集中しないようにする。この技術をインターリーブという。 切り替え動作、フェージングなどが原因。%SESを評価尺度に用いるのに適している。 熱雑音などが原因。BERを評価尺度に用いるのに適している。 特に音声や映像など、人間の感覚に訴える信号のディジタル化されたデータで真の値から多少の誤差が許容される場合、誤り検出は可能でも誤り訂正が不可能(訂正能力を超えている)かまたは誤り訂正が実装されていないとき、元のデータ自身に含まれる冗長性を利用して欠落データを予測して置き換えることがある。これを特に誤り補正 (error compensation) と呼んで区別する。補正されたデータは真の値と一致するとは限らないが、真の値から許容される誤差内にあると期待される。CDなどでは、誤り補正がデータ読み取り誤りに対する「最後の手段」として使われている。 誤り補正では、一般には、近傍の標本に重み付けをした和、すなわちフィルタを畳み込んだ値を予測値(補正値)とする。特に、直前・直後の標本を使うものを、以下のように呼ぶ。 誤り補正は原信号自身に含まれる冗長性を使うため、データ圧縮、特に非可逆圧縮と同種の原理に基づいている。
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PCI
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3,730
Peripheral Component Interconnect
Peripheral Component Interconnect(ペリフェラル コンポーネント インターコネクト、PCI)は、コンピュータのプロセッサと周辺機器との間の通信を行うためのバスアーキテクチャの一つ。 おおむね2000年代初頭を中心とした前後数年間において、PCIバスはパーソナルコンピュータ(パソコン)またはワークステーション、サーバ、オフィスコンピュータ用の拡張カードを増設するための業界標準のバスとして広く採用されていたが、2004年に登場した後継規格のPCI Expressが、まずグラフィックカードの分野で急速に普及し、その他の拡張カードも2010年代中盤頃にかけて次第に代替されていった。 PCIバスは、当初CPUアーキテクチャに全く依存しないデバイス間を結ぶ内部高速バスLocal Glueless Busとして、1991年にインテルから提案された。 その当時、PC/AT互換機においては、標準の拡張バスであるISAバス(いわゆるATバス)が低速、かつバス調停機能が存在しなかったため、高速なデバイス(VGAやLAN、SCSI等)の接続、マルチタスクオペレーティングシステムの運用などの際にボトルネックになっていた。 そのため、全く新しい設計の16/32ビットバスであるMCAバス、ISAバスを拡張しそれに対する上位互換機能を備えた32ビットバスであるEISAバス、i486のメモリバスをそのまま引き出したVLバスなどが登場したが、MCAバスは高度なバス調停機能を持つがISAバスとの互換性が無く、また特許権の問題からIBM以外にはほとんど普及せず、EISAバスは高度なバス調停機能による高価格化とISA互換によるデータ転送速度の不足、VLバスは転送速度は充分(50 MHz駆動時200 MB/s)だがi486アーキテクチャに強く依存し互換性・安定性が不十分でバス調停機能は存在しなかった。 このため、インテルの提案を受けた各社から、ISAを代替する高速な標準汎用バスとしてLocal Glueless Busを外部バス化する要求が多く寄せられた。 この要求に対し、PC/AT互換機やPC-9821シリーズへの実装を目的とした機種依存仕様の追加、64ビットバスへの拡張対応、拡張スロット形状を含めた最終の形に近いPCIバスの仕様が、インテルを中心として策定された。 PCIバスは、策定当初からアーキテクチャに依存しない汎用高速バスとして設計されていたが、PC/AT互換機における標準バスとしての地位が約束されていた訳ではなかった。このため、PCIバスを搭載した初期のマザーボードにはEISAバスとVLバスも搭載するという変則的な製品やVLバス上にPCIブリッジを実装する製品も存在した。 PCIバスはワークステーションやサーバ、オフィスコンピュータなどの方面にも同時に取り入れられていった。この方面ではEISAバス、APバス、VMEバスなどを使用していたが、特にコンピュータグラフィックや衛星画像処理などで大規模な画像データを表示する必要に迫られたり、大規模なデータを取り扱うSCSI等にいちはやく取り入れられていった。同時に、i486系のCPUを持つワークステーションのみならず、R4400、R10000等、MIPS系のRISC型CPUを持つワークステーションやサーバ等でも利用できるよう、PCIコントローラーが開発され実装されていった。サーバなどのボードの拡張を容易にするため、PCIブリッジと呼ばれる外部筐体にPCIバスを拡張するコントローラーも開発され、i486系、MIPS系のサーバに使用されている。 2002年には、PCIとAGPの後継規格であるPCI Expressが発表される。
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3,731
U2
U2(ユーツー)は、アイルランドのロックバンドである。『グラミー賞』22回受賞(46回ノミネート)、アーティストグループでのグラミー賞世界最多受賞記録を保持している。 1980年のデビューから現在に至るまで活動休止は勿論、オリジナル・メンバーの脱退や変更もなく活動しており、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。 中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロック・バンド史上最多”且つ、“グループアーティスト史上最多”となっている。 2005年には「ロックの殿堂」入りもしている。 世界に渦巻く社会問題を楽曲のテーマとしている。宗教紛争や反核運動、アパルトヘイトなどの人権問題、薬物依存症などについてメッセージ性の強い曲を発表、チャリティー・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中でボノはアフリカの貧困救済やアムネスティ・インターナショナル、ジュビリー2000、ONE Campaignなどの慈善事業に深く関わっており、2006年にはアフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立するなど、人権と社会正義のために運動している。 また、コンサートの規模や動員数でも世界最大・最高のバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録。『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上で最も成功したアーティストグループツアー”として認定されている。 なお、これまで1位となっていた記録も、同じくU2が1987年9月25日に〈Joshua Tree Tour〉のフィラデルフィア公演で樹立した86,145人となっており、U2自身が記録を塗り替えたこととなる。また、歴代動員記録の3位までをU2が独占しており、彼らの人気を改めて窺わせる結果となっている。 その他、ピンク・フロイドやバックストリート・ボーイズが名を連ねる歴代5位までの観客動員記録リストは以下の通り。 〈米国での単独公演動員記録〉 1. U2:97,014人(2009年10月25日、カリフォルニア州ローズ・ボウル・スタジアム) 2. U2:86,145人(1987年9月25日、ペンシルヴァニア州ジョンF・ケネディ・スタジアム) 3. U2:84,754人(2009年9月29日、メリーランド州フェデックスフィールド) 4. PINK FLOYD:75,250人(1994年5月29日、オハイオ州オハイオ州立大学スタジアム) 5. BACKSTREET BOYS:73,337人(2000年2月19日、ジョージア州ジョージア・ドーム) 米経済誌フォーブスが2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億円)になり第1位とされた。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている。 ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて16位。 トータル・アルバム・セールスは、1億7,000万枚超と言われている。 バンド名の由来については、アメリカの偵察機「U-2」、ドイツの潜水艦「II型Uボート」、「You too」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説があった。 彼らはアマチュア時代「FEEDBACK」や「THE HYPE」と名乗っていたが、アダムの知り合いのグラフィックデザイナーが考えた新バンド名案のひとつに「U2」があった。特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。 ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は実在するベルリン動物園駅(ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2(地下鉄2号線)」である。 1976年、アイルランド・ダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。 当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、リムリックで行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「スリー」をアイルランド国内で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついにアイランド・レコードと契約を交わした。 1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。 1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動の独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスやヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。 アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。 社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンク(ニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン)の写真が使用されている。 1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。 1984年10月に4枚目のアルバム『焰』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった。 1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。 1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。 1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランやB.B.キング、ヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。 この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースやゴスペル、ソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。 東西ドイツ統一による影響のあるベルリンで制作されたアルバム『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、ビッグ・ビートやテクノなどの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている。この音楽路線は、1993年発表の『ZOOROPA』(Zooropa)、1997年発表の『ポップ』(Pop)へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、スタジアム・ロック・バンドとしての地位を構築していった。 1992年、グリーンピースのセラフィールド抗議活動に参加し、放射線防護服を着てビートルズの『ヘルプ!』(Help!)のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。 1993年に『ZOO TV TOUR JAPAN』と題して東京ドームで日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。 1995年、映画『バットマン フォーエヴァー』(Batman Forever)に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me)を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(Passengers)名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(Original Soundtracks 1)を発表。オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティがフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元にサラエヴォ包囲について取り上げた「ミス・サラエボ」(Miss Sarajevo)はシングルカットされた。さらに、ボノとジ・エッジは映画『007 ゴールデンアイ』(007 GoldenEye)主題歌として「ゴールデンアイ」(GoldenEye)をティナ・ターナーに提供した。 1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノがテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初のベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』(The Best of 1980–1990)を発表する。日本ではフジテレビ系列のドラマ『眠れる森』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。 2000年、ボノ原作でヴィム・ヴェンダース監督による映画『ミリオンダラー・ホテル』(The Million Dollar Hotel)が公開(日本公開は2001年)。サウンドトラック制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(The Ground Beneath Her Feet)も提供した(サルマン・ラシュディ著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』(All That You Can't Leave Behind)を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「ビューティフル・デイ」(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。 2002年、『第36回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(The Best of 1990–2000)を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(The Hands That Built America)が映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)主題歌に起用された。 2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(Where The Streets Have No Name)など、各コーナーでU2の曲が使用された。 2004年にはアルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「ヴァーティゴ」(Vertigo)はApple「iPod」CMソング起用され、全英シングルチャート1位となった。日本でも、日本テレビ系番組『スポーツうるぐす』のテーマ曲になった。また、iTunes Store限定で『ザ・コンプリート・U2』(The Complete U2)が音楽配信された。 2005年、「ヴァーティゴ」に続き「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」(Sometimes You Can't Make It On Your Own)が全英シングルチャート1位を獲得する。7月にはチャリティー・コンサート『LIVE 8』に出演した。メアリー・J. ブライジはアルバム『ザ・ブレイクスルー』でボノと「ワン」でデュエットしており、翌年にはシングルカットされて全英シングルチャート2位とヒットした。 2006年、レナード・コーエン(Leonard Cohen)のドキュメンタリー映画『アイム・ユア・マン』(I'm Your Man)サウンドトラックにレナードとコラボレーションした曲「タワー・オブ・ソング」(Tower Of Song)を提供。同年秋には前年8月に発生したハリケーン・カトリーナで被害に遭ったニューオリンズのミュージシャン達を救うため、グリーン・デイと「セインツ・アー・カミング」(Saints Are Coming。オリジナルは1978年発表のザ・スキッズ)のカバー曲を発売。すべての収益を寄付した。また、ベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』(U218 Singles)を発表。同年冬には8年ぶりとなる日本公演をさいたまスーパーアリーナで行った。これは、同年春に日産スタジアムで開催予定であったライヴが、「メンバーの家族の病気」という理由により延期されたため行われた振替公演であった。来日時の11月29日にボノは安倍晋三(第90代内閣総理大臣)を表敬訪問し、総理へサングラスをプレゼント。アフリカの感染症問題に対する日本の貢献について高く評価し、今後も世界をリードすることに期待していると述べた。また、TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』ではボノがインタビューを受けた。12月1日にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』にはバンドで出演した。日本のテレビ番組に出演するのはボノが8年ぶり、バンドとしては23年ぶりのことであった。 2008年、『Vertigo Tour』の模様を収録した3D映画『U2 3D』を世界公開(日本公開は2009年)。 2009年1月、バラク・オバマの大統領就任式『祝賀コンサート』に出演。キング牧師が「I Have a Dream」の演説を行ったリンカーン記念館で、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」(City Of Blinding Lights)を披露した。2月にはアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』(No Line On The Horizon)を発表。ボノは「巡礼をテーマにしたより瞑想的なアルバム」と表現した。『U2 360° Tour』がスタートした。8月にはジ・エッジがジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジャック・ホワイト(元ザ・ホワイト・ストライプス)と共演した映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』が公開(日本公開は2011年)。10月には『ベルリンの壁崩壊20周年記念式典』にバンドで出演しブランデンブルク門前でパフォーマンスした。12月から公開された映画『マイ・ブラザー』(日本公開は2010年)主題歌として「ウィンター」(Winter)を提供した。 2011年、東日本大震災で被災された方々への支援を目的としたコンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』(Songs For Japan)へ「ウォーク・オン」(Walk On)を提供する。6月、ボノとジ・エッジが音楽を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(Spider-Man: Turn Off The Dark)が公開された。また、前年にボノの負傷により出演キャンセルしたイギリスのロック・フェスティバル『グラストンベリー・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演した。 2012年、発売20周年を記念して2011年末にデラックス盤を含む複数種でリマスター再発売された『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)がBillboard 200で再び1位を獲得。2013年にはネルソン・マンデラの著書を原作とした映画『マンデラ 自由への長い道』主題歌に「オーディナリー・ラブ」(Ordinary Love)を提供した。 2014年2月、配信曲「インヴィジブル」(Invisible)を発表。配信開始24時間限定で無料ダウンロードできた。これは、バンク・オブ・アメリカが期間中ダウンロード1件につき上限200万ドル(約2億400万円)まで1ドルずつ「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」に寄付を行うという取り決めになっていて、結果300万ドル(約3億600万円)を越える寄付金を集めることに成功したと報じられた。5月、アメリカの楽器メーカーフェンダーは、ボノとジ・エッジが取締役に就任したと発表した。 9月、カリフォルニア州クパチーノで開かれたアップルのイベントにメンバーが登場し、アルバム『ソングス・オブ・イノセンス』(Songs of Innocence)を全世界のiTunes Store利用者に無料配信することが発表された。5億人とも言われるユーザーに配信されたが、突如ライブラリに追加される仕組みにはユーザーの混乱を招き苦情もあったため、アップル側が削除ツールを公開する対策を講じた。無料配信された10月中旬までにおよそ8,100万人のユーザーがストリーミングし、およそ1,600万人のユーザーがダウンロードしたとされている。10月にはCD盤が発表された。 2015年、前篇後篇2部作となる映画『ソロモンの偽証』主題歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」を提供。日本映画へは初の楽曲提供となった。 ライヴでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『スピン』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている。 1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「トラバント」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライヴ中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下のサラエヴォを衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継でルー・リードと共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスのミッテラン大統領(当時)、ドイツのコール首相(当時)、アメリカのホワイトハウス(ブッシュ大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であったビル・クリントン(本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が横綱曙(当時)、2日目は117番(NTTの時報ダイヤル)相手に「マドンナにつないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。 1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。ボスニア紛争停戦合意後の1997年には、北大西洋条約機構(NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。 2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。 2009年から2011年にかけて開催した『U2 360° TOUR』は、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客総動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(The Claw、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった。 U2が少年期に大きく影響を受けたのは、ザ・フー、ザ・クラッシュ、テレヴィジョン、ラモーンズ、ビートルズ、ジョイ・ディヴィジョン、スージー・アンド・ザ・バンシーズ, エルヴィス・プレスリー、パティ・スミス や クラフトワーク。 ほか
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パイソン
パイソン (Python)
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ジャバ(ジャヴァ、ジャワ)
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京都駅
京都駅(きょうとえき)は、京都府京都市下京区にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・近畿日本鉄道(近鉄)・京都市交通局(京都市営地下鉄)の駅。 現存の原広司設計の烏丸口の駅ビルは「京都駅ビル」と呼ばれ、1997年に完成した4代目駅舎である。 京都府内では唯一の新幹線停車駅である。京都市の玄関口であり、観光の拠点となっているターミナル駅である。京都都市圏の中心駅として各社局線乗換の通勤・通学客もあり、1日平均の乗降人員は約50万人。JR西日本管内の駅では乗車人員が大阪駅に次いで2番目に多く、定期券率は64%である。 東海道新幹線の全列車が停車するほか、JR西日本は寝台特急「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」を除く全列車が停車し、北陸・山陰・関西空港・南紀(和歌山)・中部方面、近鉄は奈良・橿原神宮・伊勢志摩方面など、各地を結ぶ特急列車が発着する。 1997年竣工の烏丸口の駅ビルは、百貨店・ホテル・劇場などで構成される複合商業ビルである。ガラス張りの前衛的な駅ビルは原広司による設計で、ブルネル賞奨励賞を受賞した。 正面の烏丸口のバスターミナル直下には市内最初の地下街であるポルタがあり、市営地下鉄の改札口と直結している。駅周辺はオフィスや大型商業施設、観光客向けのホテルなどが集積するが、当駅は市街地南部の八条通付近に位置しているため、京都市の中心市街地である四条通(四条河原町・四条烏丸)とは離れた場所に立地している。 以下の合計4社局が乗り入れている。 JR西日本・JR東海の駅は特定都区市内制度における「京都市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となっている。 JR西日本の駅はICOCA、近鉄と地下鉄の駅はICOCAの他PiTaPaおよびスルッとKANSAI対応各種カードの利用エリアに含まれており、それぞれ相互利用可能な各カードにも対応している。 JR東海の東海道新幹線では、EXサービス(EX予約・スマートEX)で予約を行い、交通系ICカードの登録を行えば利用可能。 1874年に開業した神戸駅 - 大阪駅間の鉄道を東に延伸する形で、1877年2月5日に開業した。開業と同時期に西南戦争が勃発し、すぐに軍事輸送用として用いられたという。通過式の構造を持っていたが、数年間は終着駅として機能した。 駅が設置された八条通付近は旧来の繁華街である三条通などからは遠く離れた寂れた地域だった。立地は路線形状の都合や用地買収の観点から決定された。 1880年、鉄道は大津駅まで延伸されたが、この時のルートは東山にトンネルを掘削する技術がまだなかったことから、現在のJR奈良線を稲荷駅周辺まで南下した後、現在の名神高速道路が走っている敷地を通って、大津駅へと向かうものとなった(大津駅の項目も参照)。 その後、 1895年に奈良鉄道(現:奈良線)、1897年に京都鉄道(現:山陰本線)が開通し、市内の路面電車(京都市電)も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。 1921年(大正10年)8月1日に東海道本線のルートが東山トンネル・新逢坂山トンネルの開通によって馬場駅(現在の膳所駅) - 当駅間で変更・短縮されることになった際に、奈良線の当駅 - 桃山駅が旧東海道本線を経由したルートに変更された。また、1928年(昭和3年)には廃止された旧奈良線のルートを利用して近鉄京都線が当駅まで開業した。 東海道新幹線の建設に際し新幹線京都駅をどこに設置するかについては、計画段階では3つの案があった。1つ目は京都駅の南約2kmの奈良線稲荷駅付近に設置する「南案」、2つ目は現駅に併設する「併設案」、3つ目は五条通の地下を通し烏丸五条(現烏丸線五条駅)付近に設置する「北案」である。最終的に地元の強い要望もあり、1960年4月に京都駅へ併設することが決定した。建設用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの京都総合運転所)に移転した。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は八条通の上空に最大12m程度張り出している。 また、新幹線の速達種別である超特急(ひかり号)は京都駅を通過する計画だったが、京都市長高山義三、京都市会、京都商工会議所など政財界は停車させるよう強く陳情した。さらに、1963年7月には運輸大臣綾部健太郎も超特急の京都駅停車を支持した。結局開業まで1ヶ月少々となった1964年8月18日に、ようやく超特急の京都駅停車が正式決定した。 1877年(明治10年)2月5日開業の初代駅舎は赤煉瓦のモダンな建物で、完成祝賀会には明治天皇が行幸している。駅舎が七条通に面していたことから「七条ステーション」や「七条停車場」と呼ばれた。2代目以降の京都駅より少しだけ北側にあった。 1914年(大正3年)、大正天皇の御大典にあわせて2代目駅舎が渡辺節の設計により初代駅舎の南側に建設された。敷地を確保するため、駅全体が南に移設され、貨物ヤードや機関区は駅西方の梅小路に移転した。初代駅舎の跡地は駅前広場の拡張に使われた。 1950年(昭和25年)11月18日午前4時頃、駅舎食堂の従業員が更衣室に設置されたアイロンの電源を切らずに帰宅したことが原因で出火し、2代目駅舎は全焼した。この事件に関しては、その晩に夜警業務を行っていた従業員が業務上失火罪で有罪判決を受けている。 3代目駅舎は、1951年(昭和26年)に着工し、1952年(昭和27年)に完成した。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を備えたものである。駅舎の設計については、2代目駅舎のデザインをそのままに再建する案、日本様式のデザインにする案、現代的デザインにする案などがあったが、最終的にコンクリートを多用した機能主義的デザインが採用された。駅舎に近い1番のりばは電車化を見据え30cm嵩上げされた。 1990(平成2)年にJR京都駅改築に関するコンペが開催。翌1991(平成3)年コンペ審査で原広司案が最優秀作品に決定した。1997(平成9)年の9月11日に地上16階地下3階の4代目駅舎として、京都駅ビルがグランドオープンした。 京都駅開業後、東海道本線の線路により京都駅周辺が南北に分断されることが問題視された。1930年(昭和5年)12月16日に、京都市会は「京都駅及び東海道線,山陰線の高架要望に関する意見書」を可決し、同時に「京都駅及び鉄道線高架式実行委員会」を設置して京都府・京都商工会議所と共に運動を開始した。しかしその後、戦中・戦後の混乱期に運動は断絶した。 1950年(昭和25年)11月に駅舎が焼失したことを契機に運動が再興し、「京都市内国鉄改築に関する委員会」が設立された。同委員会は1952年(昭和27年)8月5日に「国鉄高架並びに電化促進に関する委員会」と名称変更され、電化を含めた国鉄線全般の改良運動へと形を変えた。 1956年(昭和31年)11月9日に米原までの電化が実現し改めて高架化が争点となったが、100億円と見積もられた工費の地元負担について京都市が2割を主張したのに対し、国鉄は5割を要求したことで折り合わず実現しなかった。 また、東海道新幹線の駅が京都駅に併設されることが決定してからも再び高架化運動が盛り上がったが、結局実現しないまま現在に至る。なお、高架化運動中に建築された3代目駅舎や東海道新幹線の京都駅は、将来の高架化に支障しないように設計されている。 この市街地の分断という問題は堀川通や河原町通がそれぞれ1964年(昭和39年)、2009年(平成21年)に拡幅されたこと等により徐々に改善が図られている。 近鉄京都線の前身は奈良電気鉄道であり、同社が京都駅への乗入れを最初に計画時は、高架式を採用して東海道線を跨線し、北口(烏丸口)側に駅を設ける予定としていた。 しかし、昭和天皇即位の礼が実施されるのに間に合わせる必要があったこと、それに予算の問題もあって、当面は仮設駅として、現在地に地上で京都駅南側に駅を建設した。その後、仮設置の予定であった駅設備は北側まで移されることもなく、東海道新幹線の建設時に国鉄の要請を受けて駅を高架化し、現在のように新幹線駅の真下にホームが設けられる構造となった。それまで保有していた北口までの免許は、仮設駅として設置している現在の位置を本設駅とすることにより、取り消されている。 2007年から2012年にかけては、近鉄の主要ターミナル整備計画により駅のリニューアルが行われた。1階にあった八条改札口跡地に「近鉄名店街」を増床し、「近鉄名店街みやこみち」と名を改めて2008年10月9日にリニューアルオープンした。また、新たに4番線を増設し、その直上には2011年10月に「ホテル近鉄京都駅」がオープンしている(2019年4月に名称を「都シティ 近鉄京都駅」に変更)。 便宜上、京都市電京都駅前電停の歴史についてもここで触れる。 同電停には伏見線(のちに河原町線に編入)、堀川線、烏丸線が乗り入れていた。 現在のJR在来線と東海道新幹線の駅は、かつては同じ日本国有鉄道(国鉄)の駅であったが、国鉄分割民営化後は在来線がJR西日本、新幹線がJR東海の管轄に分かれ、駅長もJR西日本とJR東海で別に配置されている。 なお、JR西日本の駅は管理駅として山科駅と梅小路京都西駅を管轄しているが、山科駅は地区駅長が配置され、一定の権限を持っている。夜間滞泊の設定もある。 JR京都駅の事務管コードは▲610116、京都市内の事務管コードは▲619902である。 先述の通り1番のりばは欠番となっている。0番のりばの西側が30番のりばで、その北側に山陰線の31〜34番のりばがある。 方面表記は2020年6月30日現在の「JRおでかけネット」の駅構内図に即している。また、特急列車専用ホームは、当該特急の直通路線名で案内されているのでそれに合わせた。 基本的に、0 - 3番のりばが東海道本線上り(湖西線・草津線直通を含む)、4 - 7番のりばが東海道本線下り、8 - 10番のりばが奈良線、30番のりばが関空特急「はるか」、31番 - 33番のりばが山陰本線、11・12番線が東海道新幹線上り、13・14番線が同新幹線下りに用いられている。 2022年3月6日に2番線、10月19日に5番線にホームドアが設置された。 発着する特急については後述する。 (出典:JR西日本:構内図) 2020年(令和2年)6月30日現在、のりばは上記のように案内されているが、細かく分けると以下のように使用されている。 ※ JR西日本 京都駅の構内鉄道配線図(注意 巾600px)を表示するには、右の [表示] をクリックされたい。 当駅は、山陰方面へ向かう「スーパーはくと」、関空特急「はるか」、山陰本線経由で北近畿方面へ向かう各種特急の起点となっている。(ただし、「はるか」の一部は野洲駅または草津駅を始発・終着駅とする)また、大阪駅発着の北陸・飛騨行きの特急も停車する。 在来線の出入口は、北側地上に「烏丸中央口」、南北自由通路に通じる西側橋上駅舎上に「西口」、地下自由通路に通じる地下1階に「地下東口」、南東側地上に「八条東口」、山陰線30番・31番乗り場ホームからビックカメラJR京都駅店2階に直結する「西洞院口(にしのとういんぐち)」がある。北側地下1階に存在した「地下中央口」は、2022年12月25日をもって閉鎖された。 乗り換えは、烏丸口のバス利用者は「烏丸中央口」、八条口のバス利用者は「八条東口」「新幹線八条口」など、近鉄線へは西口、地下鉄へは地下東口が至近である。 他の京都市内にある各線の駅や大都市の主要駅と比べると、烏丸中央口は駅前のターミナル(バス・タクシーのりば)が広くゆとりがあるのが特徴である。 主な駅弁は下記の通り。 JR東海の京都駅は東海道新幹線のみであり、JR西日本の駅の南側にある高架駅である。 東海道新幹線の全営業列車の停車駅であるが、発着駅 (始発列車や終着列車を担う駅) ではない。島式ホーム2面4線を持ち通過線はない。ただし中央側の2線は低速通過線として使用可能な構造である。新大阪方には京都駅前後区間専用の保守基地と横取装置がある。 ホーム(および新幹線車内)の乗り換え案内放送では、かつては地下鉄線はアナウンスされなかったが、2015年3月14日のダイヤ改正よりアナウンスされるようになった。 各ホームにはエレベーターが設置されており、11・12番線のエレベーターは1階の新幹線八条口に繋がっている。 コンコースには東海キヨスクの店舗もある。 出入口は、南側地上に「新幹線八条口」、南東側地上に「新幹線八条東口」、新幹線コンコース西側に「新幹線中央口」がある。 在来線と新幹線は「中央のりかえ口」と「東のりかえ口」を介して乗り換えできる。近鉄線へは新幹線中央口、地下鉄へは新幹線八条東口が最寄りである。 2016年3月10日にホームへの可動式安全柵の設置が完了した。 なお、ホームの南側(八条口側)にはJR東海の駅舎があるが、これは新幹線開通時に建設されたもので近鉄・新幹線のホーム下にあり、規模は小さく、新しい京都駅ビル建設の際も南北自由通路の設置やJR線と近鉄線の改札を完全分離化したことと、在来線の自動券売機が八条東口に集約され、JR東海の機種(地紋がJR東海の物で、左上に□に「海」の記述がありながら「西日本会社線」と表記)から烏丸口と同様のJR西日本の機種に変更された。 改札業務がJR東海からJR西日本(関連会社の委託を含む)に移管されたこと以外は大きな変更はなかった。 (出典:JR東海:駅構内図) 頭端式ホーム4面4線を有する高架駅で、ホーム有効長は6両編成分である。新幹線ホームの下に位置し、ホーム全体が覆われている構造上、特急車両の喫煙室は当駅停車中は使用禁止となる。 1997年にJR京都駅4代目駅舎が竣工して南北自由通路が通行可能になる以前には、烏丸口に有人個別対応の券売窓口が存在していた。 また中央口改札には、開業当初から長らく(国鉄→)JR京都駅の構内に入り込む形で乗換用の改札機があったが、現京都駅ビル建設および同駅南北自由通路設置に合わせて、両社の乗換改札口は完全に分離された。そして、2007年12月1日には駅リニューアルの一環として1階の八条口改札・切符売り場が廃止され、定期券売り場、駅営業所等を含めて2階改札口(中央口)に移転、集約された。駅長配置駅である。 (出典:近鉄:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 改札口は北改札(有人)、中央1改札(有人)、中央2改札(無人)、南改札(無人)の4か所で、奈良線以外のJR在来線への乗り換えは中央2改札が、JR奈良線・新幹線および近鉄線との乗り換えは南改札が便利である。JR線の東側の地下で南北方向に交差しているため、南北自由通路からのアクセスは悪い。 (出典:京都市営地下鉄:構内図) 京都駅の駅舎のうち、JR西日本の烏丸中央口側のものを「京都駅ビル」と呼ぶ。 地上16階、地下3階 (高さ60m)、敷地面積38,000m2、延床面積は238,000m2、東西の長さは470mにおよび、鉄道駅の駅舎としては日本有数の規模である。1997年に完成し、新しい京都市の顔となりつつある。大阪駅の大阪ステーションシティ、名古屋駅のJRセントラルタワーズや札幌駅のJRタワーなど、その後のJR各社のターミナル駅再開発の先駆け的存在でもある。 現在の駅舎は4代目に当たる。1952年に竣工した鉄筋コンクリート造の3代目駅舎は、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、地下街を含む商店街や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便なものになっていた。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じて来た。そこで、抜本的対策として駅ビルの新築が計画された。これは1994年の平安遷都1200年記念事業の一環でもあった。 京都駅ビル(JR西日本)は、日本の鉄道駅舎としては異例の国際指名コンペ方式で行われ、新駅ビル設計者には原広司、安藤忠雄、池原義郎、黒川紀章、ジェームス・スターリング、ベルナール・チュミ、ペーター・ブスマン(wikidata)の7名の複数の建築家が指名された。設計審査の結果、先ず原広司案、安藤忠雄案、スターリング案の3案に絞り込まれ、さらなる協議を経て、梅田スカイビルなどの作品で知られる原広司の案が最終案として採用された。 京都駅周辺は高さ120mまでの建築物が建築可能となる特例措置が設けられているが、高さ制限の緩和は古都の景観を損なうものとして反対意見も根強かったため、建物の巨大さ、高さに起因する圧迫感を回避し、いかに周辺環境との調和を図るかが作品の評価のポイントとなった。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。 採用にいたらなかった諸案の概要は次の通り。 この他、駅ビル建設に反対した市民グループは、寺社風木造建築の駅舎で、周辺の商店を保護するため、大型商業施設をテナントに入れないという独自の案を提唱し、当時駅ビル問題を扱った『NNNドキュメント』(日本テレビ系列・当該回は読売テレビ制作)でも紹介されていた。 京都駅ビルは、東側にJR西日本ホテルズのホテルグランヴィア京都、西側に百貨店のジェイアール京都伊勢丹が位置する。その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と大屋根で覆う広々とした吹き抜け(横幅147m、奥行29m、高さ50m)になっている。吹き抜けの最上部には地上45mの空中径路が通っている。 吹き抜けから東西へは渓谷状の階段が設けられている。伊勢丹側の大階段は段数171段、高低差は11階建てビルに相当する35m、全長は70mある。大階段はコンサートや、毎年2月の「JR京都駅ビル大階段駆け上がり大会」(主催:KBS京都)などイベント会場としても利用されるほか、カップルや観光客の憩いの場ともなっている。また、非常時の避難経路となることも想定されている。 京都駅ビルの延床面積238,000mの内訳は、駅施設が約12,000m、ホテルグランヴィア京都が約70,000m、百貨店などの商業施設が約88,000m、「美術館・えきKYOTO」などの文化施設が約11,000m、駐車場が約37,000m、行政関係施設などが約38,000m、となっている。他都市の大規模な駅ビルの場合、面積のかなりの部分を企業向けの賃貸オフィスに割いていることが多いのに対して、京都駅ビルはそうした部分をほとんど持たない。 その後、嵯峨野線ホーム亀岡寄り側付近は京都駅NKビル(JR西日本不動産開発)が増築され、新しく改札口(西洞院口)を設けた。この改札口は、同ビルに出店した家電量販店のビックカメラ京都店の内部に取り込まれている。(その後、閉店のため閉鎖) 京都駅ビルは、規模の巨大さとデザインの斬新さにより、建設時はもちろん建築後もその評価には賛否がある。建設当時には、京都・まちづくり市民会議などが中心になって、激しい反対運動が起こった。また1990年代初頭、京都仏教会はこの駅ビル建設に「景観が悪くなる」という趣旨で強く反対していた。 京都駅ビルの中央エリアは巨大な吹き抜けのコンコースで、アーチ形のガラス屋根が半開き状態であることから、強風の際は駅舎内に雨、雪が入り込むことがある。 2018年9月4日の台風21号上陸時には中央コンコースのガラス屋根が構内へ落下し、男女3人が負傷する事故が発生した。 2023年1月24日の大雪時には、構内を利用客が傘をさして移動する模様がSNSで話題になった。ネットメディアのBusiness Journalは「鉄道会社関係者」の話として、ガラス屋根の落下防止措置や、雪や雨などが構内に入らないようする対策が求められるとし、災害に対する脆弱性を指摘した。 2007年8月23日、京都駅ビルの西側、JR嵯峨野線ホームの亀岡寄り側付近に京都駅NKビルが増築された。延床面積は約10,200m2。同ビルには家電量販店ビックカメラ京都店が出店した。同ビルの中にはJR嵯峨野線プラットホーム(30・31番のりば)に直結する改札口(JR京都駅西洞院口)が新設され(この改札口はビックカメラの売場内部に直結している)、京都寄り車両に乗客が集中する嵯峨野線の混雑緩和が図られている。 年度別乗降・乗車人員数は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 各年度の利用状況は次の通り。 周辺は大型商業地域並びに観光客向けのホテルが多く立ち並んでいる。ただし、駅建設当時に市街地の外縁部で土地の確保や線路の敷設がしやすかったことから、中心市街地の四条通や三条通からは外れた七条通付近に当駅が設置された(その後八条通北側の現在地に移転)。そのため、京都随一の繁華街である四条河原町からは約2kmほど距離が離れており、当地へは阪急京都線の京都河原町駅や京阪本線の祇園四条駅が最寄りである。当駅から四条河原町や市内に点在する観光地へはバスや地下鉄に乗り換える必要がある。 駅の北側に位置している。当駅の表玄関であり、京都駅ビルや地下街も烏丸口に位置している。 駅付帯施設など 名所・旧跡など 公共施設 企業・金融機関など 駅の南側に位置している。 南東北・関東・中部・中国・四国・九州方面の高速バス路線が発着している。また市内を縦横に結ぶ路線バスの起点や定期観光バスの出発地でもあり、多数のバスが発着している。 京都駅前停留所にて発着する。 なお烏丸口を経由する一般路線バスは、他にも京阪バス308号経路(西本願寺 - 京都駅八条口)があるが、この系統は準循環的な経路を採り、京都駅烏丸口前を通るルートではあるものの、全便が停車せずに通過となる。ただし同じ京都駅の八条口に向かう系統であるので、そのまま乗車すれば大回りにはなるものの、京都駅自体にたどり着くことはできる。 烏丸口よりやや東側に離れている、京都センチュリーホテル北隣のザ・サウザンド キョウト(京都第2タワーホテル跡地に開業)入口前の構内に設置されている。 南北自由通路に近い京都駅八条口と八条東口に近い京都駅八条口アバンティ前の2つの停留所がある。 国鉄時代から自動車駅として独立した窓口が設置されていた。 インフォマティックの一部便が発着。但し、実際の停留所は七条通の京都ヨドバシ駐車場出入口付近となる。 近鉄バスが共同運行している路線(一部を除く)などが発着する。下記路線のうち発車場所と到着場所が異なる路線もある。 上記以外のツアーバスから移行した路線が発着。かつては近鉄八条口付近の「八条口観光バス駐車場」から発着していた便もあったが、駅前広場再開発に伴い撤去されたため、2015年2月26日から2017年1月31日までこれらの路線は地下鉄十条駅付近の『京都鴨川十条(タイムズ鴨川西)』に発着していた。2017年2月1日からは京都アバンティ前に整備された新たな観光バス駐車場に発着している。また、WILLER GROUPが近隣に降車専用の停留所『京都駅ホテルセントノーム京都前』を設置している。 国道1号イオンモールKYOTO沿いに設置。 ※東海道新幹線の列車および在来線特急・急行の停車駅は各列車記事を参照。括弧内の英数字は駅番号を示す。
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3,737
ジャワ島
ジャワ島(ジャワとう、インドネシア語: Jawa、英語: Java)は、インドネシアを構成する島の一つ。世界一人口の多い島でインドネシアの首都「ジャカルタ」がある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。 首都ジャカルタが存在する。人口は約1億5160万人(2020年)で、インドネシアのみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も1,171人/kmと高い。過剰人口や貧困問題はオランダ支配下の19世紀前半に始まる。ジャワ島は、古代から東南アジアにおいて人口分布の核心地であったと考えられる。ジャワ島の西部にスンダ人、中部と東部にジャワ人、東部の一部(マドゥラ島とその対岸)にマドゥラ人が住み、狭義の「ジャワ」はこれらのうちのジャワ人地域である。 隣島のバリ島はヒンドゥー教信者中心の島であり、宗教上の違いから両島は民族的に若干の対立関係にある。 ジャワ古代史は、7世紀以前を西部ジャワ時代(4世紀:タルマヌガラ王国、7世紀:スンダ王国(英語版))、8世紀から10世紀前半までを中部ジャワ時代(8世紀:古マタラム王国・シャイレーンドラ朝)、その後の10世紀前半から16世紀初めまでを東部ジャワ時代に大きく分け、東部ジャワ時代の前半の3世紀をクディリ時代(西ジャワにはヒンドゥー国家のパジャジャラン王国(1579年滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀をシンガサリ・マジャパヒト時代と呼んでいる。このように分けるのは王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。Kerajaan Kahuripan、Kerajaan Janggala、Kerajaan Kadiriなどが建国された。 世界史的に16世紀初めまでを古代と呼ぶのには違和感があるが、文献などは15世紀までは古代ジャワ語で書かれており、また、支配的な宗教であったヒンドゥー教や大乗仏教が16世紀前後にイスラムに代わることなどによる。 イスラム王朝として、ドゥマク王国、チルボン王国(英語版)(西ジャワ)、バンテン王国(バンテン地方)、パジャン王国(英語版)(スラカルタ)、マタラム王国(ジョグジャカルタ)が相次いで建国された。また、Kerajaan Kalinyamat、Kerajaan Sumedang Larang、Kerajaan Blambanganなどの非イスラム王国が建国された。 1511年、ポルトガルがマラッカ王国と戦争になると、ドゥマク王国のファタヒラー(インドネシア語版)(Pati Unus)が援軍として駆けつけたが、1512年8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領 (1511年)(英語版))。 1520年からアチェ王国のアラウッディン・アルカハル(英語版)が貿易の独占を狙って、三度に渡ってジョホール王国やポルトガル領マラッカ(ポルトガル語版)と戦争になった。この時は、オスマン帝国のスレイマン1世が艦隊を派遣してアチェ王国に加勢したが、成功しなかった。 1514年からポルトガルはマラッカで売る人身売買を目的として明朝の屯門(現香港屯門区)を占拠していたが、朝貢国マラッカを失うと第一次屯門の戦い(英語版)(1521年)と第二次屯門の戦い(英語版)(1521年)の二度にわたって明朝が攻めて撃退した。1522年、ポルトガルとパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ドゥマク王国のファタヒラーの艦隊がポルトガル艦隊と西部ジャワで海戦を行なった。勝ったドゥマク王国は、1527年6月22日にスンダ・クラパ(Sunda Kelapa、「スンダ族のココナッツ」の意味)の町の名前を「ジャヤカルタ」(Jayakarta、「勝利」の意味)に改名した。1557年、ポルトガルは明朝からマカオの居留権を得て日本との貿易を開始した。日本人がジャガタラに進出する切っ掛けとなった。 その後、バンテン王国がスンダ海峡の交易路の支配者となって繁栄したが、1596年にオランダ商人のコンパニエ・ファン・フェレ(遠方会社)が資金を出し、コルネリス・ドゥ・ハウトマン(英語版)が香料の買い付けにバンテン王国を訪れた。オランダ人とジャワ人の間で公式書類が交わされ、三世紀半に及ぶ両国の関係が始まった。しかし、和親同盟ではなく惨い植民地支配であった。1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。1606年、ポルトガルとオランダ東インド会社がタンジュン・トゥアン(英語版)を巡ってラチャド岬の戦い(英語版)を行ない、ポルトガルが勝利して香辛料貿易独占の足がかりとなった。 親オランダ政策をとったスルタン・ハジ(英語版)は、反オランダ派の父スルタン・アグン・ティルタヤサ(英語版)との内戦に勝利したものの、1619年にオランダ東インド会社のヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン王国を管理下に置き、「ジャヤカルタ」は「バタヴィア」(Batavia、古代オランダの呼称)と改名されることになった。1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でアンボイナ事件が起こり、オランダ東インド会社が香辛料貿易を独占することになった。イギリスは東インドの制海権を失って香辛料貿易が頓挫すると、南インドのフランス領ポンディシェリ占領を目指してカーナティック戦争を開始することになった。1641年、オランダ東インド会社がジョホール王国の援助を得てポルトガル領マラッカを占領し(マラッカの戦い (1641年)(英語版))、オランダ領マラッカ(ポルトガル語版)とした。1667年、第二次英蘭戦争(英語版)の講和条約・ブレダの和約で、ニューアムステルダム(現ニューヨーク)とバンダ諸島のラン島を交換した。 18世紀の3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)、第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版))と華僑虐殺事件の結果、マタラム王国は4分割されてジャワ島全域がオランダ東インド会社の支配下に置かれた。 欧州でナポレオン戦争が戦われている中、1811年にイギリスの攻撃を受け占領され、トーマス・ラッフルズジャワ副知事による植民地化政策が進められたが、フランス帝国の崩壊後は、フランスに対抗させるためネーデルラント連合王国に返還され、1824年には、英蘭協約でオランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス植民地を交換し、イギリスの海峡植民地が完成するとともに、ジャワ島を含む島嶼部のオランダへの帰属が確定した。1825年、マタラム王族のディポヌゴロがオランダへの反乱を起こすが、1830年に鎮圧されている(ジャワ戦争)。 第二次世界大戦で、オランダ本国がナチス・ドイツの占領下になると、1942年に、蘭印作戦で日本軍がジャワ島を占領した。長きにわたるオランダの圧政が同じアジア人の日本軍によって制圧され、スバラヤ市に入城する日本軍の戦車隊や日本兵をジャワ島の人々がジュンポール(万歳、一番よい)という親指を立てる最大限の歓迎を示す仕草で迎えた。これら日本を大歓迎する現地の人々の写真は日本の敗戦後GHQの検閲(プレスコード)により封印された。 島の形状は棒状で、西北西から東南東に東西 1040km にわたって延びる。南北 300km にわたるが、島の幅自体は最も広いところでも 200km にとどまる。最西端はカンクアン岬、最東端はバリ島の西端よりも東に延びる。スンダ海峡をはさんで北西のスマトラ島、バリ海峡をはさんで東のバリ島と向かいあう。 ユーラシアプレートにインド・オーストラリアプレートがもぐりこむプレート境界に位置するため、南に250km の位置にはスンダ海溝(ジャワ海溝)が形成されている。地震多発地帯であり、火山も多い。主な火山は西からクラカタウ、スラメット山 (3432m)、ムラピ山 (2968m)、スメル山 (3676m)、ブロモ山 (2329m)、ラウ山 (3332m)、イジェン火山 (2799 m)である。山地や丘陵が多い。このため川は急流が多く、ラフティングなどのアウトドア・アクティビティが盛んである。 ジャワ島西部は熱帯雨林気候、中部より東はモンスーン気候で、自然環境からいっても西部のスンダ地方はスマトラの続きであって、ジャワとは異なる。さらにジャワでは古くから水田耕作が生業であったのに対して、スンダでの水田耕作はオランダ支配下に入った18世紀から始まった。 人口100万人を超える都市は、ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランの4つである。
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ジャワコーヒー
ジャワコーヒーはインドネシアのジャワ島を産地とするコーヒー豆。または、そのコーヒー豆でいれたコーヒー。 飲用にあたっては、コーヒー豆の焙煎度が深く、また超微粉になるように豆を粉砕する。 ドリップのフイルターを用いると目詰まりするので、カップにコーヒー粉を適量注ぎ、直接お湯を加えてかき混ぜる。粉が底に沈むのを待ってから、その上澄みを飲む。 見た目は濃く、苦そうだが、香り高く飲み易い。 ジャワにおけるコーヒー栽培の歴史は、インドネシアのオランダ領東インド時代にさかのぼる。オランダによってインド産のアラビカ種のコーヒーの苗木がジャワに持ち込まれたのは17世紀末だと伝えられるが、本格的に栽培が始まるのは、1830年に東インドに導入された強制栽培期以降のことである。 以後、コーヒーは東インドの有力輸出品目の地位を獲得し、オランダの植民地経済の重要な収入源となったが、19世紀末の農業恐慌、1930年代の経済恐慌により、東インドのコーヒー栽培は大打撃をうけた。 インドネシア独立後はコーヒー生産も徐々に回復し、ジャワだけでなく、スマトラ(マンデリン)、バリ、スラウェシ(トラジャ)などの各地で栽培が盛んである。
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観音菩薩
観音菩薩(かんのん ぼさつ、梵: Avalokiteśvara)は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。 観音菩薩の起源や性別には定説がない。 友松圓諦は『般若心経講話』(1956年)の中で、「どこか、観自在菩薩の信仰のつよい地方、また、密教の呪文が珍重されていた地方」に起源を求めた。 岩本裕はインド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性を示唆しており、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されている。 ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されている。 サンスクリットのアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)を、玄奘は「観察された(avalokita )」と「自在者(īśvara)」の合成語と解釈し「観自在」と訳した。鳩摩羅什訳では「観世音」であったが、玄奘は「古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである」といっている。 一方で、中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ(avalokitasvara)となっており、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。なお、現在発見されている写本に記された名前としては、avalokitasvaraがもっとも古形であり、ローケーシュ・チャンドラはこの表記が原形であったとしている。 観音菩薩という呼び名は、唐の太宗皇帝の忌み名が世民であったため改称された。一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。 日本語の「カンノン」は「観音」の呉音読みであり、連声によって「オン」が「ノン」になったものである。 『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(傅亮『光世音応験記』、張演『続観世音応験記』、陸杲『繫観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。 観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、実叉難陀訳『大方広仏華厳経』と般若訳『大方広仏華厳経』には、南インドの摩頼矩吒国の補怛洛伽(Potalaka)であると説かれる。 偽経『観世音菩薩往生浄土本縁経』によると、過去世において長那(ちょうな)というバラモンの子の早離(そうり)であったとされる。彼には速離(そくり)という兄弟がおり、のちの勢至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、観音菩薩になったという。なお、父の長那は未来に釈迦として生まれ変わった。 チベット仏教では、チベットの国土に住む衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベット仏教の四大宗派に数えられるゲルグ派の高位の化身ラマで、民間の信仰を集めているダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。チベットでは、観音菩薩はチェンレジー(spyan ras gzigs)として知られるが、これは「観自在」を意味する「spyan ras gzigs dbang phyug」を省略したものである。 観音菩薩は男性と女性の両方の姿を取ることから、欧米の研究者のあいだではジェンダー・フリーの体現者であると解釈され、評価されている。しかしながら、本来は男性であったと考えられる。 例えば、松原哲明は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラが男性名詞であること、華厳経に「勇猛なる男子(丈夫)、観世音菩薩」と書かれていることから、本来男性であったと述べている。植木雅俊も、 という事実を挙げ、観音の女性化はインドではなく中国において起きたこと、中国での観音菩薩は男尊女卑の儒教倫理に悩む人たちがすがるものであったこと、例えば、世継ぎの男子を生めない妻は離縁されて当然という儒教(『礼記』の「嫁して三年、子なきは去る」)の男尊女卑の考えに苦しんだ女性たちは、観音に祈れば男児が授かるという現世利益的な観音信仰を広く受け入れたこと、を指摘している。 たしかに、中国では「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。また、例えば地蔵菩薩を観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多い。観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性に対しては女性に変身して説法することもあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなった。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山(浙江省・舟山群島)から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結び付いたためと考えられている。 また、妙荘王の末女である妙善という女性が尼僧として出家、成道し、観音菩薩となったという説話が十二世紀頃に中国全土に流布し、『香山宝巻』の成立によって王女妙善説話が定着、美しい女性としての観音菩薩のイメージが定着したとする説もある。 観音について説かれた仏教経典は数多いが、最古かつ最も有名なのは妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、別名「観音経」である。後述の三十三身普門示現もこの教典の長行に説かれている。この略本と考えられている十句観音経や、十一面観音について説かれた十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経がよく読誦される経典である。 これらの経典は、普門品偈文(観音経)に、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通している。 観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。なお、観音経とは別に、密教経典『摂無礙経』にも三十三身の記載があり、両者は細部が異なる。(下記参照) 西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」(後述)とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。 この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。 このため、観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。 その元となったのが三十三応現身像と言われている。 応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう。 『観音経』の観音三十三応現身の種類及び、対応する仏尊、三十三観音を以下に図とする。 『観音経』観音三十三身の絵図。『観音経絵解』(1866年刊)より。 真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。 なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。この経の最後に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。 観音が衆生教化のために変じ給える七身。真言系の六観音に天台系の不空羂索観音を加える。 三十三観音(次項参照)のうち、白衣、葉衣、水月、楊柳、阿摩提、多羅、青頸、琉璃、龍頭、持経、円光、遊戯、蓮臥、瀧見、施薬の15の変化身をいう。 以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された絵師の土佐秀信が著した『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のものである。この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもあるが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源は様々である。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもあるが、大部分の観音は単独での造像はまれである。 三十三観音の名称 現在のスリランカの仏教は上座部仏教で占められているもの、かつては大乗仏教や密教が勢力を持っていた時代があり、「ナータ」(観音菩薩)や「サマン」(普賢菩薩)への信仰が存在した。15世紀のスリランカにおいて図像の作成者によって用いられた図像学についてのサンスクリット文献は観音菩薩(ナータ)における以下の示現を記述している。なお、これらは南インドのヒンドゥー教における「アーガマ」の伝統からの輸入である。 平和のモニュメントとして昭和時代以降、日本各地で観音菩薩像が造られた。その多くは女性的な顔立ちで、頭部と両肩を布でおおい、全身白塗りである。これは中国明代の白磁の白衣観音の影響があるという(君島彩子『観音像とは何か』 2021年 青弓社)
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あゆみゆい
あゆみ ゆい(2月3日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。みずがめ座。血液型はA型。 1987年、第4回なかよし新人まんが賞入選「ひまわりイリュージョン」で、『なかよしデラックス』(講談社)夏の号にてデビュー。代表作は『デリシャス!』、『明日のナージャ』。 1990年代の『なかよし』(講談社)を代表する漫画家。繊細な線、柔らかなタッチで描く。原作の連載が多い。影響を受けた漫画として上原きみこの漫画を挙げている。趣味はテディベア集めで、作中にも度々テディベアが登場する。 デビュー前にあさぎり夕の元でアシスタント経験あり。
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ジ・エッジ
ジ・エッジ(The Edge、1961年8月8日 - )は、イングランド生まれ、アイルランド育ちのロック・ミュージシャンで、U2のギタリストである。本名はデヴィッド・ヒューウェル・エヴァンス (David Howell Evans) 。ウェールズ系である。 「ジ・エッジ」というステージネームの由来は、本人の説明によれば、顔や鼻の形が角立っているからだという。 『ローリング・ストーン』誌の2003年8月号のカバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第24位、2011年の改訂版では第38位。 ロンドンで生まれ、幼い頃にアイルランドのダブリンに引っ越す。ギターやピアノを習い始め、手先が器用なためギターを自作したこともあった。高校時代、兄ディックと共にアマチュアバンド結成に加わり、1979年にU2としてシングル・デビューする。なお、ディックはデビュー前に脱退し、ヴァージン・プルーンズのメンバーになっている。以後もU2のメンバーとして活動を続ける。演奏法や器材の研究を重ね、空間的な音作りを追求。1980年代後半の『ヨシュア・トゥリー』『魂の叫び』などで、独自の演奏スタイルを確立した。『ZOOROPA』ではプロデュースにも参加している。 私生活では、1983年に結婚して、その後3人の子供が生まれるが、1996年に離婚。2002年に再婚し、2児をもうけている。2人目の妻モーリー・スタインバーグは振付師で、U2の「ZOO TV TOUR」にベリーダンサーとして出演している時に知り合った。 過去のライブ映像やインタビューなどで使用が確認されているものを挙げる。
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陸軍記念日
陸軍記念日(りくぐんきねんび)とは、一般に陸軍の勝戦を祝う記念日。 戦前日本では、3月10日であった。これは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日である。1906年(明治39年)3月10日が第1回陸軍記念日である。これに対して同じ日露戦争の日本海海戦で帝国海軍が勝利した5月27日が海軍記念日と定められていた。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説がある。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になって事実であるかのように出回っていた。日本には事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。
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阪急電鉄
阪急電鉄株式会社(はんきゅうでんてつ、英: Hankyu Corporation)は、大阪の梅田を中心に、大阪と神戸・宝塚・京都などを結ぶ鉄道を経営する会社。阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループ(旧・阪急東宝グループ)の中核事業会社である。略称は阪急。他の関西の大手私鉄同様に阪急電車とも呼ばれる。日本の大手私鉄の一つである。 本社は大阪府大阪市北区、登記上の本店所在地は大阪府池田市栄町1番1号(阪急宝塚本線池田駅の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、女性のみの団員で構成される劇団「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られる(「その他の事業」の節も参照)。 三水会及びみどり会の会員企業であり三和グループに属している。なお阪急阪神東宝グループのメンバーでみどり会の加盟企業は他に東宝・阪急阪神百貨店・阪急阪神ホテルズ・阪急阪神不動産があるが、三水会の加盟企業は阪急電鉄のみである。 阪急電鉄が運営している鉄道事業は、1907年(明治40年)に設立された箕面有馬電気軌道が、1910年(明治43年)3月10日に現在の宝塚本線・箕面線にあたる梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間、石橋駅(現在の石橋阪大前駅) - 箕面公園駅(現在の箕面駅)間を開業したのが始まり。当時の箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道(大阪-神戸)など既に発展している都市間を結ぶ路線と異なり、郊外の田園地帯を走る路線であったため、乗客数は少なく経営基盤は貧弱であった。実質的な創業者である小林一三は鉄道需要を創出して経営を安定させるため沿線開発に力を入れた。当時、人口増加が著しかった大阪市は過密化や工場の公害によって住環境が悪化していた。そこで郊外の自然豊かな沿線に住宅地を新たに作り、その居住者を電車で都心へと運ぶアイディアを考案し、路線建設時にもともと地価の安かった沿線の土地を買い上げ、日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅地の分譲販売を行った。また終点の宝塚周辺では大阪方面からの客を呼び込むために宝塚新温泉、宝塚唱歌隊(後の少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)などの事業を多角的に展開し、現在では当たり前にもなった鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという考えの基礎を作り上げた。 続いて阪神間の輸送に参入。1918年(大正7年)、社名を阪神急行電鉄に改称。後に正式社名にも採用され現在まで続く略称の「阪急」はこれに由来する。阪神間に参入したことで、以後既に阪神間で都市間連絡電車を営業していた阪神電気鉄道とは競合関係となる一方で駅間隔などで棲み分けがなされ、協調関係ともなった。1920年(大正9年)に神戸本線十三駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を開業し、1936年(昭和11年)には神戸三宮に新たに設けた神戸駅(後の三宮駅、現在の神戸三宮駅)へ高架線で乗り入れた。 なお、「電鉄」という語は、「電気鉄道」という語を商号に使用することに、鉄道省があくまで軌道法準拠の「電気軌道」であることを根拠として難色を示したことから、対策として小林一三が考え出した語で、以後軌道法監督下の各社が高速電気鉄道への脱皮を図る際に有効活用されることとなった。 1929年(昭和4年)に梅田駅に世界初となるターミナルデパート(駅直結型百貨店)である阪急百貨店を開業した。当時の百貨店業界は三越や大丸など江戸時代からの老舗の呉服店が百貨店に転換することが一般的であり、鉄道会社が運営する電鉄系百貨店の先駆けとなった。 このように阪急並びに創業者の小林一三は鉄道事業に留まらず、百貨店・スーパーマーケットなどの流通事業、沿線の住宅開発(不動産事業)、宝塚歌劇団、ホテル・レジャー事業(1924年 - 1988年にはプロ野球球団の経営)といった多角経営を行った。これらの事業は本業の鉄道事業とともにシナジー効果を高め、阪急の多角経営(=小林一三モデル)は日本の私鉄(特に大手私鉄)や国鉄から民営化したJRの経営モデルとして多大な影響を与えた。 1943年(昭和18年)、陸上交通事業調整法により京阪電気鉄道と合併、京阪神急行電鉄となる(この経緯については「阪神急行電鉄#京阪電気鉄道の統合と分離」も参照)。なお、このとき公式の略称は「阪急」のまま変わらず、「京阪」の略称も引き続き使用され、大阪市電の電停名でも「阪急阪神前」(梅田)・「京阪前」(天満橋)・「京阪神急行前」(天六)などと、混用されていた。 戦後の1949年(昭和24年)、旧・京阪電鉄は京阪神急行電鉄からの分離、独立に舵を切り始めた。その際に行われた役員会において、1944年(昭和19年)から行われていた新京阪線電車の梅田駅乗り入れを踏まえ、日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方から、新京阪の路線は阪急側へ割譲されることとなった。1949年(昭和24年)12月、旧京阪電鉄の京阪本線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の5路線が分離されて京阪電気鉄道(現在の京阪ホールディングス)として再発足した。京阪神急行電鉄に残った新京阪線はこの時に京都本線となった。 1959年(昭和34年)、梅田駅 - 十三駅間が3複線化され、京都本線のターミナル駅が天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅)から梅田駅になる。十三線は京都本線へ編入された。 1967年(昭和42年)に千里山線が北千里駅まで延長され千里線と改称された。1973年(昭和48年)、阪急電鉄に社名を変更した。 1992年(平成4年)、後にスルッとKANSAIへ発展するラガールカードによるストアードフェアシステム「ラガールスルー」を開始する。 しかし、バブル崩壊で小林公平が主導した茶屋町地区などの再開発事業(ちゃやまちアプローズ)の失敗による巨額の損失を蒙った。追い討ちをかけるように、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、神戸本線・伊丹線・今津(北)線などが甚大な被害を受けたが、同年6月12日にほぼ全線が復旧、1998年(平成10年)には伊丹駅も再建された。 震災以降も、生産年齢人口の減少や娯楽の多様化、少子高齢化などの影響により輸送人員は減少。不動産・ホテル事業の再編や、宝塚新温泉以来90年以上の歴史を持つ遊園地「宝塚ファミリーランド」の閉園、ポートアイランドにあった「神戸ポートピアランド」からの事業撤退(その後暫くは神戸市の手で運営を継続ののち、2006年閉園)など、グループ事業の再編が進められる。その集大成として、2005年(平成17年)4月1日に、旧・阪急電鉄から鉄道、不動産、レジャー、流通の4事業を分割承継する新・阪急電鉄(阪急電鉄分割準備(株)〈1989年設立〉から商号変更)と、ホテル経営を統括する阪急ホテルマネジメント、旅行業の阪急交通社の直営事業会社2社の合わせて3社に再編し、旧・阪急電鉄は持株会社として阪急ホールディングスに移行した(2006年10月1日には阪神電気鉄道と経営統合し、阪急ホールディングスは阪急阪神ホールディングスとなった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照)。 2007年(平成19年)10月19日に創業100年、2010年(平成22年)3月10日に開業100年を迎えた。 コーポレートマークとも呼ばれる現社章は1992年9月のVI(ビジュアル・アイデンティティ)導入時に制定された。阪急電鉄イニシャルの「H」を花のイメージでかたどり、新しい領域へ挑戦する成長力・若々しさを表現している。基本カラーとしてワインレッドの指定があり、これをHankyuレッドと呼称する。 旧社章は京阪神急行電鉄時代に制定されたもので、大阪市(澪標)と神戸市の市章を重ねて「阪・神」をシンボライズした意匠はさらに阪神急行電鉄時代にまで遡ることができる。京阪神急行電鉄の社章はこれに京都市の旧き章(現・京都市略章)を象った円で囲ったもので、現在阪急バスがこれに類似した社章を使用している。 阪急電鉄では、鉄道事業のことを「都市交通事業」と呼称し、同社都市交通事業本部の管轄下に置いている。 大きく神戸線・宝塚線・京都線の3つに分けられ、それぞれに本線とそれに付随する支線を有する。基幹路線である神戸本線・宝塚本線・京都本線の3本線の列車が発着する大阪梅田駅は阪急電鉄の最大のターミナル駅であり、グループ会社の商業施設やオフィスビルといった各種施設が集中していることから駅周辺は「阪急村」とも呼ばれる。京阪神急行電鉄という旧社名や、神戸線と京都線の路線名が示すように、関西の大手私鉄では唯一京阪神の3都市全てに自社路線を持つ。 神戸本線の支線として甲陽線、今津線、伊丹線があり、宝塚本線の支線として箕面線、京都本線の支線として千里線、嵐山線がある。以前は「...本線」を、「...線」と略して表記していたが、2010年3月14日における京都本線のダイヤ改正以降、本線系統の路線においては『京都本線』『宝塚本線』『神戸本線』と正式な表記で統一されている。また、神戸線と宝塚線は、車両をほとんど共有している(詳細は後述)ことから、まとめて「神宝線」と呼称されることがある(かつて軌道法に基づく路線であったことから「軌道線」とも呼称されたことがあった)。ラインカラーは、ホームの発車番線や駅の運賃表などに使用されるほか、かつては行先板でも使用されていた。2013年12月21日から駅ナンバリングが導入された。 2020年時点において阪急で最も新しい区間は、神戸高速線を除くと1967年開業の千里線 千里山駅 - 北千里駅間であり、営業路線は全て明治・大正・昭和時代に開業している。関西大手私鉄では唯一、平成時代に新路線の開業がなかった。 神戸本線は神戸高速線に自社の営業線として直通している。宝塚本線は能勢電鉄と、京都本線・千里線は大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線と相互直通運転を行っている。詳細は「他社線との直通運転」参照。 このほか、宝塚本線 十三 - 宝塚間、神戸本線 十三 - 西宮北口間、今津(北)線 宝塚 - 西宮北口間の環状区間を「環状線」と呼称する場合がある。かつては各駅の運賃表周辺に掲出されていた注意書きなどにもその記述が見られたが、同区間で環状運転は行われていないほか、「環状線」の呼称はJR大阪環状線をイメージさせることもあり、積極的には用いられていない。運賃計算における注意書きや企画乗車券・定期乗車券の有効区間表示などでわずかに確認できる程度である。 阪急の路線にはトンネルがほとんど存在しない。工期と費用がかさみ、明治 - 大正時代の土木技術では危険が大きかったため、意図的にトンネル工事を避けたためである。宝塚本線はトンネルを必要とするルートを避けた結果、カーブの多い路線となった。また神戸本線の住吉川周辺では1938年の阪神大水害で甚大な被害が発生。そのため住吉川の河床や堤防が高く改修されたが、その際もトンネルは掘削はおこなわず、住吉川を乗り越える形で線路を復旧させたため急な勾配が存在する。現在でもトンネルは第二種鉄道事業区間(神戸高速線)を除くと全線で3か所しか存在せず、そのうち2か所は京都本線の西院 - 京都河原町間と千里線の天神橋筋六丁目付近の地下線へ通じる入口で、出入口がある純粋なトンネルは千里線の南千里 - 山田間の千里トンネルただ一つである。なお、直通運転を行っている能勢電鉄には数多くのトンネルがある。 そのほか、関西の大手私鉄としては唯一の特徴として、以下のようなものがある。 阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して京阪神急行電鉄が発足した際に旧京阪電気鉄道から(交野線は京阪神急行電鉄発足翌年の1945年に京阪子会社の交野電気鉄道から)継承した路線。いずれも、1949年に京阪神急行電鉄から分離発足した京阪電気鉄道へ譲渡された。詳しくは「京阪電気鉄道#路線」を参照。 停車駅や運行区間など詳しくは、各種別および各路線の記事を参照のこと。 2023年2月12日現在、阪急電鉄において設定されている列車種別は次の9種別である。 以下は臨時列車のみ 過去には下記の種別があった。 関西の大手私鉄では唯一「区間急行」など、「区間...」といった区間種別名称での旅客案内を行っていない。ダイヤグラム上での正式な列車種別としては、一部区間で各駅に停車する列車という意味ではなく一部区間を運転する列車の意味で用いられ、区間急行(宝塚本線の雲雀丘花屋敷発着の急行列車)、区間準急(大阪梅田発雲雀丘花屋敷着の準急列車)、区間普通(神戸・宝塚・京都各本線の途中駅折り返し普通列車)が存在している。ただし、公式ホームページにおいては、この「区間...」という表記をしている。宝塚本線の日生エクスプレスについても、設定当初の正式な列車種別は「特急」であったが、直通特急設定後は「直通特急」となっている。 毎年春・秋の行楽期には嵐山方面への臨時列車を走らせている。 列車種別は先頭車両前面の通過標識灯や種別表示器(方向幕)で識別できる。 正面の種別・行先表示は他社とは異なり、『行先』・『種別』と逆の表示になっている。 通過標識灯の点灯パターンは以下の通りである。 急行の点灯パターンは近畿日本鉄道と同じである。 方向幕は以下の通りである(廃止種別含む)。 電車の行先表示に方向幕が普及した高度経済成長以後も、関西の大手私鉄では運行標識板(行先板、標識板、種別板などとも呼ばれる)を好んで使用し、駅の売店でもミニサボが発売されている程であったが、阪急はここでもこだわりのある特筆性で知られ、宝塚ファミリーランド電車館や、保育社のカラーブックス『阪急』でも、各種の運行標識板が紹介されていた。 歴代の全デザインを解説する事は困難なため、ここではポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)の開催に合わせた1981年(昭和56年)3月1日、各路線・種別・運転区間によりバラバラだった仕様を、一部の臨時列車用を除いて統一、運行標識板廃止まで使用されたデザイン(以下「新デザイン」)について説明する。また新デザインのモデルとなった一世代前のデザイン(以下「旧デザイン」)についても、簡単に説明する。 新造時からの方向幕の設置は、戦前の車両では2代目500系などにも存在したほか、1967年に地下鉄直通用として登場した3300系にも例があるが、戦後特定の列車に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1976年に登場した6000系からで、1975年に試作された2200系と同じ形状である。2300系以降の製造年度が若い車両も設置が行われていったが、関西の大手私鉄では阪急のみが、方向幕設置車と未設置車で標識灯の位置が干渉するため、標識灯の移設という改造も必要とされた。使用車両の関係上、阪急京都線と名古屋鉄道が、大手私鉄の主要路線で運行標識板を常用していた、最晩年の鉄道となった。 神戸三宮駅は2010年10月1日より阪急と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪急の単独駅となった。 数値は公式サイト上の「駅別乗降人員」による。1月から12月までの通年平均である。Osaka Metroが管理する千里線天神橋筋六丁目駅は、乗降人員のカウントから除かれている。 は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。 神戸本線、宝塚本線、京都本線の始発駅である大阪梅田駅は、首都圏を除く大手私鉄のターミナル駅で最大の乗降人員を記録している。ただし、大阪梅田駅における京都本線の乗降人員は神戸本線や宝塚本線に比べて少ない。これは、京都本線が大阪梅田駅から淡路駅まで西側に迂回する線形となっているほか、南方駅で地下鉄御堂筋線(西中島南方駅)、淡路駅で千里線(地下鉄堺筋線)に接続し、大阪梅田駅を介さないで大阪市内と京都、千里を結ぶバイパスルートが確保されていることによる。 神戸本線は平均駅間距離が約2kmと長いが、神戸市内は東海道本線(JR神戸線)と並走するため、神戸三宮駅を除いて乗降人員が3万人を下回る。今津線と接続する西宮北口駅は阪急西宮ガーデンズの最寄り駅であり、乗降人員は2019年まで10万人を上回っていた。武庫之荘駅は急行通過駅でありながら伊丹線と接続する塚口駅よりも乗降人員が多く、朝夕ラッシュ時は急行の停車駅に加えて同駅にも停車する通勤急行を運行することで多客に対応している。西宮北口駅から神戸三宮駅の間には特急停車駅が夙川駅・岡本駅の2つあるが、いずれもJR線との競合対策のための停車という意味合いが強く、前述の武庫之荘駅・塚口駅のほか各駅停車以外はいずれも通過する園田駅の数字も下回る。 宝塚本線は豊中駅から川西能勢口駅までの各駅で乗降人員が4万人を上回っていた。主力種別の急行は十三駅から豊中駅まで通過した後、各駅停車になることでこれらの駅への利便性を確保している。ラッシュ時は急行のほかに特急「日生エクスプレス」と通勤特急が運転され、混雑の平準化が図られている。 京都本線の烏丸駅は、地下鉄烏丸線と連絡することから大阪梅田駅を除いた同線の駅では最も利用者が多く、終点である京都河原町駅以上の数値となっている。他にも茨木市駅・高槻市駅・桂駅といった特急停車駅の乗降人員が多い。上新庄駅はかつて各駅停車のみ停車していたが、2007年から準急停車駅に、2010年から快速(現・急行)停車駅になった。 箕面有馬電気軌道(箕有)、および、その後身の阪神急行電鉄(阪急)によって敷設された神戸線・宝塚線(神宝線)と、北大阪電気鉄道、および、その後身の新京阪鉄道によって敷設された京都線とでは、その成り立ちが異なるため、車両規格に違いがある。統一の動きが何度かあったが、いまのところ実現に至っていない。 車体の塗装は全車両一貫して「阪急マルーン」が用いられている。ただし時代が下るとともにこの標準化は進んでおり、昭和前半までは「茶色」といってもおかしくない車両でもあったことが、残されたカラー写真から確認できる。内装についても木目調の化粧板やゴールデンオリーブ色のアンゴラ山羊の毛のシートを採用するなど統一が図られている。 阪急と相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線の東吹田検車場が京都本線内(相川駅 - 正雀駅間)にある。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。下表には鉄道駅バリアフリー料金10円を含む。2023年4月1日改定。 大阪梅田駅 - 中津駅・十三駅間の運賃計算上のキロ数は事後処理が煩雑になることを防ぐため移転前の営業キロ数をそのまま適用している(営業キロに0.4 kmを足して計算する)。 神戸高速線は阪急が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。神戸本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。 2023年4月1日から、グループの阪神電気鉄道と同時に、全駅へのホームドア設置などのバリアフリー設備の整備を推進のため、普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金制度による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している。 有効な乗車券を持たずに、十三駅 - 大阪梅田駅 - 十三駅と乗車する折り返し乗車は不正乗車にあたる。なにわ淀川花火大会(旧・平成淀川花火大会)の際であっても大阪梅田折り返し乗車をする場合にも、乗車券は の2枚を十三駅で購入しなければならないとされている。大阪梅田駅折り返し乗車で有効な乗車券がない場合、係員の承諾を得ずに大阪梅田駅で折り返し乗車すると不正乗車になる。 全駅で能勢電鉄各駅に加え、神戸高速線経由山陽電気鉄道(1998年2月15日に相互乗り入れが中止となった後も発売を継続している)・神戸電鉄各駅への連絡乗車券がそれぞれ購入できるほか、加えて京都線系統のほとんどの駅ではこれら3点のほかに天神橋筋六丁目駅経由Osaka Metro各駅への連絡乗車券、そしてさらにはこれを応用したOsaka Metro堺筋線天下茶屋駅経由南海空港線関西空港駅への連絡乗車券も購入できる(ただし後者2点は南方駅もしくは大阪梅田駅で乗り換えて利用することはできない)。 以下の種類の回数券を磁気カード式で発売していたが、2023年4月30日限りで発売を終了した(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は発売継続、他社で発売される阪急線との連絡回数券は引き続き利用可能)。 有効期限は発売日から3か月後の末日まで。なお、昼間時間帯とは10 - 16時の間に入場・精算使用することを指す。土休日には土休日ダイヤで運転する平日(お盆・年末年始期間)も含む。 能勢電鉄・神戸高速・山陽電鉄・神戸電鉄連絡は普通回数券・ハーフ時差回数券・ハーフ土休日回数券のみの発売である。 複数人で使用する場合は、乗車前に券売機で回数券券片に引き換える必要がある。カードから引き換えた券片の有効期限は2018年10月1日以降、引き換え当日限りとなっている。 阪急線内のきっぷタイプの回数券は、2018年9月30日をもって発売を終了した(発売済みのものは有効期限まで使用可能)。 2007年4月1日より、阪急電鉄と阪神電気鉄道で同額となる区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)のすべての回数券については、有効期間内であれば阪神でも利用可能となった(阪急・阪神経営統合によるサービス向上策の一環として実施)。ただしそのままでは利用できず、阪神の路線で利用する際は入場前に青色の券売機で阪神の回数券に引き換える必要がある。また、阪神の同額の回数券も同様に使用前に赤色の券売機で阪急の回数券に引き換えて阪急で使用可能である。2007年のこの取り扱い開始当時は180円、260円、310円区間が対象だったが、2009年3月20日より阪神なんば線の開業で阪神に270円区間が出現したため、270円区間回数券も同様の取り扱いを開始した。2014年4月1日の運賃改定で190円、270円、280円、320円、370円区間(それぞれ旧180円、260円、270円、310円、360円区間で、370円区間は新規)に変更され、2019年10月1日の運賃改定で370円区間に代わって380円区間、新規に400円区間でも同様の取り扱いを開始した。 阪神での回数券発売終了に伴い、2022年9月30日をもって、阪神との間で実施していた回数券引き換えサービスは終了した。 阪急では乗り越し精算の際、回数券を1枚のみ券面に記載された額面の金券として使用することができる。例えば、480円区間を、280円の普通乗車券(または回数券)で入場・乗車した場合、出場時に200円の回数券をもって乗り越し精算をすることができる。不利を承知で合計金額が過剰になる場合も使用できる(例:540円区間を280円の普通乗車券(または回数券)で入場、出場時に280円の回数券をもって乗り越し精算)が、この時は改札機・精算機の利用はできず、係員窓口で精算する必要がある。また 2枚重ね対応改札機では入場済みの回数券と未使用の回数券を2枚重ねて投入可能であるが、Osaka Metro管理の天神橋筋六丁目駅は2枚重ね投入することはできず、改札内の阪急用精算機で出場証と引き換えなければならない。 2008年12月29日に偽造レインボーカード(当時の大阪市交通局のスルッとKANSAI対応カード)の使用が発覚したため、2009年2月から3月にかけて自動券売機の改修が行われ、ラガールカードを含むスルッとKANSAI対応カードでの回数券および回数カードへの引き換えができなくなった。 2018年10月1日より、阪急と阪神の回数券の取り扱いを変更したため、それまできっぷタイプとカードタイプの回数券を発売していたが、きっぷタイプの回数券を発売終了とし、カードタイプの回数券のみの発売となった。この変更によりカードタイプの模様変更も行われている。阪急と阪神で相互で実施している回数券引き換えサービスの有効期間を回数券の有効期限から、引き換え当日限りと変更した。また、時差回数券は10時から16時が利用可能時間であったが、初発から16時までと変更になった。 以下の各項目を参照。 これ以外にも、各種乗車カード・企画乗車券が発売されている。 ラガールカード等のスルッとKANSAI対応カードやレールウェイカードでカードに印字される符号については、花隈駅のみKK、それ以外の駅はHKであった。 関西の大手私鉄では唯一、運賃の他に特別料金が必要な列車(臨時を含む)や車両の運行歴がなかった。ただし、2021年には京都本線において有料車両を検討しているとの報道がなされたほか、(検討路線を明確に指していないが)親会社の2020年度決算説明資料 においても「有料座席指定サービスの導入等の検討を進めるなど、収益の確保に向けた取組も行っていく。」との文言があった。 2022年10月の同年12月ダイヤ改正のニュースリリースで、2024年から京都本線の特急・通勤特急・準特急の一部車両を座席指定にする予定であると発表され、2023年10月6日の2024年夏に導入する新型車両2300系・2000系のニュースリリースで、京都線用の2300系について大阪方4両目に同社初となる座席指定サービス車両を導入することが発表された。この時点ではサービス内容についての詳細は明かされなかったが、同年11月21日に座席指定サービスの名称が「PRiVACE」(プライベース)に決定したと発表された。サービスコンセプトは「日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ」。PRiVACEの名前は、Private(プライベート)とPlace(場所)から取られ、"自分時間"が過ごせるプライベート空間を表現したという。対象車両は新導入の2300系と一部の9300系で、2024年夏より京都線の特急・準特急・通勤特急で順次サービスを開始するとしている。 阪急電鉄では、鉄道事業(都市交通事業)以外に不動産事業やエンタテインメント・コミュニケーション事業(創遊事業)・流通事業をそれぞれ行っており、鉄道事業(都市交通事業)に匹敵する売上や営業利益をあげている。 かつては不動産事業本部と、阪急不動産が統括し、西宮北口駅にある大型ショッピングセンター「阪急西宮ガーデンズ」の開発や梅田エリアにある「梅田阪急ビル」や「NU茶屋町」・「グランフロント大阪(大阪駅北地区)」などの開発を手掛けたほか、国際文化公園都市(愛称:彩都)予定地の山林に土地を保有していた。 住宅事業のうち、分譲マンションの開発に関しては子会社の阪急不動産が、分譲戸建の開発に関しては阪神電気鉄道(不動産事業本部)が、それぞれ行っていた。 2018年4月1日、阪急不動産の株式を親会社の阪急阪神ホールディングスに譲渡した上で、阪急電鉄不動産事業本部及び阪神電気鉄道の不動産事業本部と経営統合して、阪急阪神不動産株式会社とした。 創遊事業本部が統括し、女性のみで構成される宝塚歌劇団の運営や関連子会社を有する。なお、宝塚歌劇団自体は阪急電鉄の組織の一つである。 また、鉄道事業者では唯一、総務省より東経110度CS委託放送事業者認定を受けており、2002年より宝塚歌劇団専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」を放送していたが、2011年4月1日、番組制作・編成や送出・送信管理を担当していた子会社の宝塚クリエイティブアーツに放送事業者の地位を承継している。 その他の関連事業会社として、阪急コミュニケーションズという阪急阪神ホールディングス連結子会社が存在していた(阪急電鉄が100 %出資)。元々は大阪市で阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部として阪急電鉄沿線の観光ガイド本・グルメ本や宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』、『宝塚GRAPH』、『宝塚おとめ』、演劇専門月刊雑誌『レプリーク』、阪急電車関係の書籍・絵本等を発行していたが、2003年7月に『ニューズウィーク日本版』、『フィガロジャポン』、『Pen』などを発行していたTBSブリタニカの事業(百科事典事業を除く)と阪急電鉄創遊事業本部コミュニケーション事業部の事業を統合して発足した。本社はTBSブリタニカ時代から継承して東京都目黒区に置き、大阪市北区の阪急電鉄本社ビル内(TOKKの編集部門・広告部門と宝塚歌劇団関連誌の広告部門)と宝塚市の宝塚大劇場内(宝塚歌劇団関連書籍・雑誌の編集部門)にも事務所を構えていた。2014年10月1日をもって事業再編により、宝塚歌劇団関係の書籍出版事業を宝塚クリエイティブアーツに、TOKKなどの阪急電車関係の書籍出版事業を阪急アドエージェンシーにそれぞれ譲渡し、残った出版事業をCCCメディアハウスに分割した上で同社株式をカルチュア・コンビニエンス・クラブに譲渡した。 都市交通事業本部のえきまち事業部が統括している。駅構内のコンビニアズナスや、日本の中堅書店であるブックファーストを運営していたエキ・リテール・サービス阪急阪神(ブックファースト運営当時は阪急リテールズ)を傘下に持つ(ただし、コンビニ事業は2019年8月にエイチ・ツー・オー リテイリンググループへ譲渡)。 なお、関西私鉄で初めて駅構内に立ち食いそば・うどん店を設けたのは阪急電鉄である(阪急そば。2019年4月に平野屋へ事業譲渡し運営から撤退、若菜そばへ名称変更)。 アズナスは2021年6月21日付けでローソンのフランチャイズ店舗へ転換することを発表した。これにより、アズナスブランドは消滅し、2021年11月24日アズナスexp宝塚店閉店により、阪急阪神の駅構内コンビニは全てローソンとして存続、営業することになった。 阪急ホールディングス(現・阪急阪神ホールディングス)として持株会社となる前の旧・阪急電鉄は1924年から1929年までの宝塚運動協会、そして1936年から1988年まで阪急ブレーブス(後にオリックス・ブレーブス、現在はオリックス・バファローズ)というプロ野球球団を持ち、それらの本拠地(専用球場)として宝塚球場、阪急西宮球場(後の阪急西宮スタジアム、2002年に閉鎖)を所有していた。 関西の私鉄では「○○電車」という呼称が定着しており、車内放送や駅の掲示、ウェブサイトにおいても「○○電車」という愛称が使用されているが、阪急電鉄は公式には「阪急電車」とは案内してこなかった。これは1992年の創業85周年を機に、会社側が公式な通称を「阪急電鉄」と変更したためである。 以後2016年12月まで、旅客案内の際は、「本日も阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます」のように「阪急電鉄」と称していた。 ただし乗客の間では今でも「阪急電車」「阪急線」「阪急」という略称が多く使われる。有川浩の同名小説のタイトルにも使用されている。京都市営地下鉄四条駅、大阪地下鉄梅田駅といった、他社局の駅での乗り換え案内表示も、「阪急電車」となっている。阪急側でもグッズ・刊行物では時折「阪急電車」を使用する例がある。 2017年1月1日から、車内放送において、これまでの「阪急電鉄」という呼称に代えて「本日も阪急電車をご利用いただきまして...」という言い回しに改められている。ただし、グループ内の阪神電気鉄道や、Osaka Metroなどの車内放送では「阪急線」と案内している。 阪急電鉄は、「電気鉄道」という呼称を「電鉄」と省略し正式な社名とした(当時の社名は「阪神急行電鉄」)日本で最初の鉄道会社である(「歴史」節も参照)。 待避線を有する駅や終着駅は別として、上下本線に挟まれたタイプの島式ホームが元々極めて少なかった。 1963年に烏丸駅が開業し、また東海道新幹線の建設に伴い上牧駅が現ホームに移設されるまで、上下本線に挟まれた島式ホームは中津駅と春日野道駅しか存在しなかった。 1963年の2駅のあと永らく上下本線に挟まれた島式ホームは現れなかったが、1984年の池田駅を皮切りに、川西能勢口駅(1992年)、豊中駅と岡町駅(1997年)、三国駅(2000年)の各駅(いずれも宝塚本線)が高架化の際に島式ホームに改築されており、島式ホームも僅かながらに増加している。ただ、21世紀に入って新たに開業した洛西口駅、摂津市駅、西山天王山駅(ともに京都本線)はコスト面から相対式ホームで開業している(洛西口駅は後に相対式ホームで高架化)。 なお、2016年4月時点で施工中である京都本線淡路駅・崇禅寺駅、千里線柴島駅・下新庄駅の各駅における高架化事業においては、千里線の2駅のみ島式ホームとなる予定(淡路駅は現状と同じく上下本線ともに島式ホームとなる)。 阪急電鉄では、携帯電話の電源オフを終日ルールづけた車両「携帯電話電源オフ車両」を全列車に設定している。2003年(平成15年)6月10日から1か月間限定で試験導入、同年7月11日から本格的に導入した。また京都線に直通する地下鉄堺筋線や同じ阪急阪神東宝グループの能勢電鉄・神戸電鉄でも導入されている。またこの「携帯電話電源オフ車両」についてのアナウンスは、車掌によって異なることがある。オフ車両導入当初は先頭車両と最後尾車両がそれに指定されていたが、2007年(平成19年)10月29日から下記のように変更された。 なお、2014年7月15日に携帯電話電源オフ車両を廃止し(堺筋線や能勢電鉄・神戸電鉄も同時)、以降は「優先座席付近では、混雑時は電源オフ」とした。 もう一つ、阪急電鉄の独自ルールとして特筆されたものが「全席優先座席」である。阪急電鉄では「特定の席にこだわらず、すべての座席で譲り合いの精神を」とのことから、特定の座席を優先座席と指定することを廃止して1999年(平成11年)4月から「全席優先座席」を導入していた。阪急電鉄で「携帯電話電源オフ車両」が設定されたのは、同業他社が「優先座席付近では携帯電話の電源をオフ」というルールを導入したが阪急では前述のとおり、特定の優先座席の指定がなかったためである。ただし、地下鉄堺筋線から乗り入れている大阪市交(当時)66系電車はこの間も優先座席の設置を継続しており、「携帯電話電源オフ車両」導入時は、優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形として対応した。 ところが、阪急電鉄側の思惑とは裏腹にこの「全席優先座席」は浸透せず、ほとんど座席の譲り合いが行われていないという現状を受け、2007年(平成19年)6月末の阪急阪神ホールディングスの株主総会で再設置の要望があったのを機に全席優先座席を見直すことになり、同年10月29日に「全席優先座席」は廃止され、再び「優先座席」を設置した。「携帯電話電源オフ車両」は継続され、大阪市交66系電車同様に優先座席付近で携帯電話の電源を切ることを義務付けない形とした。 しかし、優先座席の設置箇所は基本的に各車両の「梅田を前方としたときの最後尾座席」(すなわち神戸・宝塚・京都寄り)であるのだが、運転台、もしくは運転台跡が存在する車両はそれらの逆側(梅田寄り)の座席となっており、中間に運転台およびその廃止改造を行った車両が含まれる編成(神戸線の8032Fなど)だと、優先座席が車両前方にあったり後方にあったりで、統一されていないという懸念があった。 2014年7月からは、携帯電話電源オフ車両の廃止に合わせ、各車両の優先座席の設置箇所を運転台の位置にかかわらず神戸・宝塚・京都寄りに統一し、あわせて優先座席の色を赤紫色に順次変更している。 主要携帯電話会社の公衆無線LANは、2013年には天神橋筋六丁目駅を除き、神戸高速線の花隈駅を含む全駅で利用できるようになった。利用できる無線LANは「阪神電気鉄道#公衆無線LAN」を参照。同年12月21日には訪日旅行者向け無料公衆無線LANサービス「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」も、天神橋筋六丁目駅を除き、花隈駅を含む全駅で開始された。 2018年には、京都線の9300系と観光列車「京とれいん」の車内で、無料公衆無線LANサービス「HANKYU-TRAIN FREE Wi-Fi」「HANKYU-HANSHIN WELCOME WiFi」の提供を開始した。2019年から京都線で運行を開始した「京とれいん 雅洛」では、これらの無料公衆無線LANサービスが利用できるほか、前方展望映像専用のWi-Fiサービスもある。 2007年11月28日に阪急電鉄は、鉄道向け自動改札システムの開発・実用化に関して、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会であるIEEE(アメリカ電気電子学会)より、「IEEEマイルストーン」に認定され、同システムを共同で研究・開発してきた、大阪大学・オムロン・近畿日本鉄道と共に受賞したと発表した。1967年に自動改札機の試験導入が行われた千里線の北千里駅には、受賞記念の銘板が設置されている。 日本の鉄道事業者で初めて改札口を設けないフリーパスゲート「学生専用出口」を1965年に甲陽線甲陽園駅を皮切りに一部の駅で開設した(制服着用が条件)。1969年には「通勤専用出口」を塚口駅、池田駅、富田駅に設置した。1994年の「フェアライドシステム」導入後も定期券の出場記録がなくても入場可能とする対応であり、現在も王子公園駅や相川駅などにある。ただし磁気定期券のみ対象でICカード式の定期券には非対応のため、ほとんどの学生が改札機を用いて出場している。雲雀丘花屋敷駅には雲雀丘学園中学校・高等学校に直結している専用の改札口がある(自動改札機が設置されている)。 阪急電車情報誌として、古くから『阪急沿線』→『Linea(リネア)』を発行してきたが、『Linea』は1990年代後半に『TOKK』に統合された(『TOKK』は『Linea』とは別に存在)。現在はTOKK毎月1日発行分の最終ページの前のページに『Linea』というコーナーで存続している。また各線でダイヤ改正を行ったときは改正ほぼ一週間前に時刻表が掲載された臨時増刊が必ず行われる。『Linea』では1990年から1994年まで「FREPPY(フレッピー)」という猫のようなマスコットキャラクターが存在した(愛称の「FREPPY」は公募により決定)。 阪急電鉄の企業CMは、主に自社の社員としての身分も有する宝塚歌劇団の団員が主に出演(過去には阪急ブレーブスの選手も出演)するが、まれに宝塚以外のタレントが出演する場合がある。 今津線の仁川駅を最寄駅とする中央競馬の阪神競馬場では、阪急杯として重賞競走が行われるほか、阪神競馬開催時に様々なイベントを実施する。阪神競馬開催時には仁川発西宮北口行きの普通列車や、仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される。 また、神戸線の園田駅を最寄駅とする地方競馬の園田競馬場への無料送迎バスは同じ阪急阪神東宝グループに属する、阪急バスが担当している。 阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。
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渥美清
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。 没後に国民栄誉賞を受賞している。 1928年3月10日(土曜日)、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。 1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。 1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。 進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは船乗りを志しその中でも司厨員志望で大日本船舶運営会へ願書まで出したが、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという。また「清く美しくあっ(渥)たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある。 1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て、『阿部定一代記』でのチョイ役で舞台初出演。1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。2年後の1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。 1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演。1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。 1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った。41歳の時だった。 当初は、松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で、東映で"喜劇路線"を敷こうとした岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「列車シリーズ」などに主演した。岡田茂は「渥美清は、実は私が東映東京撮影所の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている。東映とは水が合わなかったが、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。 最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。 1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。 1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『旅路の果て』が、1979年には『まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズほどの成功は収めることができなかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を(松竹との関係が悪化していた)角川春樹事務所と東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。 1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得た。1980年代以降になると、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていった。1988年に紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。 晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。 最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。 病気については、1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたがなんとか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。1996年6月27日、若しくは6月30日の代官山レストランでの食事の際に第49作制作の件で高知ロケを承諾し、撮影を控えていた中、亡くなる一週間前に「呼吸が苦しい」と家族に訴え即手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。68歳没。 「戒名はつけるな」「最期は家族だけで看取ること」「世間には荼毘に付したあと、知らせること」「騒ぎになったときは、長男の健太郎ひとりで対応すること」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。最初に連絡を受けたのは山田監督ともいわれ、8月5日に監督と松竹の宣伝部の大西が駆け付けた時にはすでにお骨になっていた。おばちゃん役の三崎千恵子のもとには8月6日(小林によると8月7日)の午前10時ごろ、さくら役の倍賞の下へは同6日の夜中に連絡が入ったとされる。訃報は8月7日に松竹から公表された。男はつらいよの第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』が実質の遺作となった。 8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。 死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優での受賞は、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。 1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。 2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。さらに、「映画館をいっぱいにしたマネーメイキング・スターは誰だ!」日本編では第1位。 渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。 巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。 大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。 『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席にあまり顔を出さなかったものの、第48作では瀬戸内町主催のホテルの歓迎会に町の人を呼び、渥美清もグレーのジャージ上下とサンダル姿で30分ほど出席している。 家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。 渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。 脚本家・早坂暁とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)や、沖合いにある「北条鹿島」はお気に入りで何度も同行している。早坂作のNHKドラマ『花へんろ』(早坂の自伝的ドラマ)ではナレーションを担当した。これらの事情が、実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。渥美の死後発見された晩年の手帳には「......旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう......」と綴ってあった。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている(後記)。 1985年頃、渥美は尾崎放哉を演じたいと早坂に相談していたが、NHKが先に「海も暮れきる 小豆島の放哉」を放送したためその話は流れることになった。早坂が書いた「首人形-方哉の島」の脚本が完成したのは1993年で既に癌に侵されていてやれる体力がなく渥美は机に置いた脚本を見つめたまま一言も発しなかったという。吉村昭の小説をもとにしたドラマはNHK松山放送局が1985年に制作・放映している。NHKの放送後、急遽題材を種田山頭火に変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。渥美降板により主役がフランキー堺となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。早坂は渥美に、初期のテレビドラマ『泣いてたまるか』や、上記土曜ワイド劇場第1回作品の『田舎刑事』シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。 映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。 上記著書の小林信彦は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親しい仲であった。 渥美は松竹新喜劇の藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか?」と言うアドリブを発していた。非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。 山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。 増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を基にして作中男性だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男性だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。この構想はすでに早坂暁によって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている。 黒柳徹子は、プライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『夢であいましょう』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をした時の写真が掲載された。これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。黒柳は2006年は渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。 永六輔とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。また渥美が役者を目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことが役者を目指すきっかけになったとのことである。 田中秀征によるとスナックの経営者から買い取った田中の著書『自民党解体論』を熱心に読んでくれたという。 その他、プライベートでの交流があった芸能人として笹野高史、柄本明がいる。2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。 布袋寅泰は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、台所の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという。 長男の田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に「父 田所康雄 職業 俳優」と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の時代劇の斬られ役と思っていたが、当時ニッポン放送に存在した新入社員の仕事を見る「父兄参観日」に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となったという。健太郎は、講談社『月刊現代』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のドメスティック・バイオレンスが家族へ日常的に行われていたとも告白している。 晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。 秋野の著作によると、同じ浅草仲間の八波むと志が交通事故を起こし死亡したことがきっかけで、絶対に車を所有せず終生ハンドルを握らなかったという。 倍賞によると「渥美が最後に病院に入っていた時、まるでお別れを告げるようにいろいろな人に電話をかけていたようで、夜中だったため電話を取ることが出来なかった」と著作で語っている。同様のことは付け人だった篠原靖治も述べており、篠原によると7月の入院前に突然渥美からかかってきた電話が最後の会話だった、と話している。渥美自身共演したおじちゃん役の森川信を始め、芸能人の通夜や葬式には一切出席しなかったが、唯一出席しマスコミの取材に答えたのが1995年10月に亡くなった高羽哲夫の通夜であった。 ※印作品は生前の映像を使用したライブラリ出演。 男はつらいよシリーズ以外の映画 父 友次郎:1884年〜1956年10月31日 行年72、戒名は釈友教信士 母 タツ:1892年〜1970年6月13日 行年78、戒名は釈妙達信女 兄 健一郎 1925年〜1947年5月12日 行年22、戒名は釈義健道信士 妻 正子 長男 田所健太郎 株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。 長女 幸恵
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Java Platform, Standard Edition
Java Platform, Standard Edition または Java SE は、多くのJavaプラットフォームプログラムで利用されるJava APIの集合体である。Java仮想マシン、APIなどから構成される。バージョン1.2からバージョン5.0までは Java 2 Platform, Standard Edition または J2SE と呼ばれていた(詳細はJavaバージョン履歴を参照)。 J2SEバージョン1.4 (Merlin) 以降、Java SEプラットフォームはJava Community Process (JCP) の下で開発されている。JSR 59はJ2SE 1.4の包括仕様であり、JSR 176はJ2SE 5.0 (Tiger) を、JSR 270はJava SE 6 (Mustang) を規定している。Java SE 7 (Dolphin) はJSR 336の下でリリースされた。 Java SEでは標準的な機能のみが定められており、サーバ関連の機能についてはJava SEを拡張した企業向けのエディションであるJakarta EE(旧称: Java Platform, Enterprise Edition / Java EE)にて定義されている。 下記は主要なJava SEパッケージの説明である。全てのパッケージリストはJava SE 9 API Javadocsを参照。 Javaの基本的なパッケージ。 パッケージ java.lang は、言語とランタイム(実行)システムに緊密な基本的なクラスとインタフェースを含む。これはクラス階層を形成する基底クラス、言語仕様に密接な型、基本的な例外、数学関数、スレッド、セキュリティ関数、下位にあるネイティブシステムに関する情報も含む。 java.langの主なクラス: java.langのクラスはソースファイルでimport宣言をせずとも自動的にインポートされる。 java.lang.refパッケージは、他の可能な許可するアプリケーションとJava仮想マシン (JVM) ガベージコレクタとの間の限定的な相互関係よりも柔軟な参照型を提供する。それは重要なパッケージであり、それに"java.lang"で始まる名前を与えた言語設計者のための言語として十分に中核をなしたが、それはいくぶん特殊目的であり多くの開発者は使わない。このパッケージはJ2SE1.2から追加された。 Javaは多くのガベージコレクトされたプログラミング言語より柔軟な参照システムを持ち、ガベージコレクションに特別な振る舞いを許可する。Javaにある通常の(言語組み込みの)参照は「強参照 (strong reference)」として知られている。java.lang.refパッケージは3つの弱い参照型(ソフト参照SoftReference、弱参照WeakReference、ファントム参照PhantomReference)を定義している。各々の参照型は特殊な用途のために設計されている。 SoftReference はキャッシュを実装するために使われている。オブジェクトは強到達可能 (strongly reachable) つまり強参照によって到達可能ではないが、ソフト到達可能 (softly reachable) と呼ばれるソフト参照によって参照されている。ソフト到達可能なオブジェクトはガベージコレクタの自由裁量によってガベージコレクトされるかもしれない。これは一般的にソフト到達可能なオブジェクトは空きメモリが少ないときのみガベージコレクトされるだろうということを意味する。ところが、それはガベージコレクタの自由裁量にある。意味的に言えば、ソフト参照は「メモリが必要とされなくなるまでこのオブジェクトを保持せよ」ということを意味する。 WeakReference は弱マップを実装するために使われている。強到達可能またはソフト到達可能でなく弱参照によって参照されているオブジェクトは、弱到達可能 (weakly reachable) と呼ばれる。弱到達可能なオブジェクトは次の回収サイクルの間にガベージコレクトされる。この振る舞いはクラスjava.util.WeakHashMapによって使われている。プログラマは弱マップにキー/値ペアを挿入でき、キーがどこからも到達可能でなくなるかどうかを心配する必要がなく、オブジェクトがメモリを占有する可能性を心配しなくてよい。意味的に言えば、弱参照は「他にそれを参照するものが無いときはこのオブジェクトを除去せよ」を意味する。 PhantomReference はガベージコレクションにマークされているオブジェクトを参照するために使われており、ファイナライズされているが、未だに再利用されていない。オブジェクトは強、ソフト、弱到達可能でないが、ファントム到達可能 (phantom reachable) と呼ばれるファントム参照によって参照されている。これはファイナライゼーションメカニズムのみによって可能なものよりもより柔軟なクリーンナップを可能にする。意味的に言えば、ファントム参照は「このオブジェクトは長い間必要とされなくなりコレクトされる準備をしている状態でファイナライズされている。」を意味する。 これらの各々の参照型はReferenceクラスを継承し、リファレント(指示対象オブジェクト)(または、もし参照がクリアされているか参照型がファントムであるならばnull)への強参照を返すget()メソッド および、リファレンスをクリアするclear()メソッドを提供する。 java.lang.ref もまた参照型が変わるオブジェクトを保持するために上記で検討された各々のアプリケーションが使われるクラスReferenceQueueを定義する。 Referenceが生成されるとき、それは任意にリファレンスキューに登録される。アプリケーションは到達可能性状態の変化した参照を得るためのリファレンスキューを監視する。 参照型とリファレンスキューのより首尾よい説明は"Reference Objects and Garbage Collection" を参照。 リフレクションはJavaコード調査や、実行時のJavaコンポーネントやリフレクトされたメンバを使用する上での「リフレクト」を可能にするJava APIの構成要素である。このパッケージにあるクラスは、java.lang.Classとjava.lang.Packageに加えて、デバッガやインタプリタ、オブジェクトインスペクタ(調査)、クラスブラウザのようなアプリケーション、オブジェクトシリアライゼーションやJavaBeansのようなサービスに適合し、(その実行クラスを基礎とする)ターゲットとなるオブジェクトのpublicメンバまたは与えられたクラスによって宣言されたメンバにアクセスする必要がある。このパッケージはJDK1.1より追加された。 リフレクションはインスタンスによって使われ、それらの名前を使ってメソッドを呼び出す、動的プログラミングを許可する着想である。クラス、インタフェース、メソッド、フィールド、コンストラクタはすべて実行時に見つけて利用することができる。メタデータによってサポートされているリフレクションはそのプログラムの近くにあるJVMである。そこにはリフレクションによって呼び出された二つの技術がある。 Discoveryはだいたいオブジェクトから始まり、Classのオブジェクトを取得するObject.getClass()メソッドを呼び出す。Classオブジェクトはクラスの中身を発見する数種のメソッドを持つ。以下にその例を示す: Classオブジェクトは「クラスリテラル」(e.g. MyClass.class) を使用すること、またはメンバのシンボル名を使うことで得られる (e.g. Class.forName("mypackage.MyClass"))。Classオブジェクト、メンバMethod、Constructor、Fieldオブジェクト、などの名前による発見を通して得られる。例: Method、Constructor、Fieldオブジェクトはクラスのメンバを表現した動的アクセスで利用することができる。例: Object...引数に留まるものはメソッドによって渡される。(もしMethodオブジェクトが静的メソッドである場合は第一Object引数が無視されてnullとなることがある。) java.lang.reflectパッケージもまた静的メソッドを含み配列オブジェクトを巧みに扱うArrayクラスと、J2SE1.3以降登場した、特定のインタフェースを実装したプロキシクラスの動的生成をサポートするProxyクラスを提供する。 Proxyクラスの実装はInvocationHandlerインタフェースを実装した補給オブジェクトによって提供される。 InvocationHandlerの invoke(Object, Method, Object[]) メソッドはプロキシオブジェクトで呼び出された各々のメソッドに呼ばれる。—第一引数はプロキシオブジェクト、第二引数はプロキシによって実装されたインタフェースメソッドMethodオブジェクト、第三引数はインタフェースメソッドへ渡す引数の配列である。invoke()メソッドはプロキシインタフェースメソッドを飛ぶコードを戻り値として含むObjectを戻り値として返す。 java.ioパッケージは入出力(I/O)をサポートするクラスを含む。 パッケージにあるクラスは本来ストリーム指向である。; しかしながら、ランダムアクセスファイル (コンピュータ)としてのクラスもまた提供されている。パッケージで中心となるクラスはそれぞれバイトストリームの読み書きを行う抽象クラスであるInputStreamとOutputStreamである。このパッケージもまた多数のファイルシステムとの相互作用をサポートする多少の様々なクラスを持っている。 ストリームクラスはストリームクラスに特色を加えたベースとなるサブクラスを拡張したDecoratorパターンに沿っている。ベースとなるストリームクラスのサブクラスはたいてい以下の特質を用いて名付けられる。: ストリームサブクラスはXxxが特色を記述しStreamTypeがInputStream、OutputStream、Reader、Writerのような名前をもつパターンXxxStreamTypeを使って名付けられる。 以下の表はjava.ioパッケージが直にサポートする送信元/送信先を示す: 他の標準ライブラリパッケージは、java.net.Socket.getInputStream()メソッドやJava EEのjavax.servlet.ServletOutputStreamクラスが返すInputStreamのような他の送信先としてストリーム実装を提供する。 データ型ハンドリング、ストリームデータのプロセッシングやフィルタリングはストリームフィルタを通してできあがっている。フィルタクラスはすべて、コンストラクタの引数としてもう一つの互換ストリームオブジェクトを受け入れ、追加された特色とともに囲まれたストリームをデコレート(decorate)する。ベースとなるフィルタクラスFilterInputStream、FilterOutputStream、FilterReader、FilterWriterを拡張することでフィルタは生成される。 ReaderとWriterクラスは真に、バイトを文字にコンバートするためのデータストリームで追加処理を行うバイトストリームである。それらはJ2SE5.0から登場した静的メソッドjava.nio.charset.Charset.defaultCharset()によって返されるCharsetを使う。InputStreamReaderクラスはInputStreamをReaderへとコンバートし、OutputStreamWriterクラスはOutputStreamをWriterへコンバートする。これら双方のクラスは特別に役立つ文字エンコーディングを許可するコンストラクタを持っている—もしエンコーディングが指定されていなければ、プラットフォームにあるデフォルトエンコーディングを使用する。 以下の表はjava.ioパッケージを直にサポートする他の処理、フィルタを示す。これらのクラスはすべてFilterクラスに相当するものを継承している。 RandomAccessFileクラスはファイルのランダムアクセス読み書きをサポートする。このクラスはファイル内の次の読込または書込命令を行うバイトオフセットを表現するファイルポインタを使用する。ファイルポインタは読み書きによって無条件に動かされ、 seek(long)またはskipBytes(int)メソッドによって明確になる。 ファイルポインタのカレントポジションはgetFilePointer()メソッドによって返される。 File クラスはファイルシステムのファイルやディレクトリパスを表現する。 Fileオブジェクトはファイル、ディレクトリの生成、削除、リネームや「読み取り専用」や「最終更新タイムスタンプ」のようなファイル属性操作をサポートする。File オブジェクトはファイルとディレクトリを含むすべてのリストを得るために使われるディレクトリを表現することができる。 FileDescriptor クラスはバイトの送信元または廃棄先(送信先)を表現するファイル記述子である。一般的にこれはファイルであるが、コンソールやネットワークソケットにすることもできる。 FileDescriptor オブジェクトはFile ストリームを生成するために使われている。それらは File ストリーム、java.net ソケットやデータグラムソケットから得られる。 J2SE 1.4では、パッケージjava.nio (NIO または New I/O) がメモリマップドI/O、ときどき劇的にベターなパフォーマンスを得る基本ハードウェアと、よりいっそう親密な入出力命令を容易にするサポートが追加された。java.nio パッケージはバッファ型サポートを提供する。サブパッケージ java.nio.charset は文字データとは異なる文字エンコーディングサポートを提供する。サブパッケージ java.nio.channels はファイルやソケットのようなI/O命令演算能力がある資格を与える接続を表現する「チャネル」サポートを提供する。java.nio.channels パッケージもまたファイルのきめ細かいロックサポートを提供する。 java.math package (剰余演算を含む)多倍長精度の演算をサポートし暗号鍵を生成するための多倍長の素数生成を提供する。 以下にパッケージのメインクラスを示す: java.net パッケージは他の共通トランザクションと同じくらい良質のHTTPリクエストネットワーク向けに特別なI/Oルーチンを提供する。 java.text パッケージは文字列をパースするルーチンを実装し、様々な自然言語、ロケールに依存したパースをサポートする。 java.utilパッケージの中心である集約したオブジェクトデータ構造。 パッケージに含まれているものは、デザインパターンを非常に考慮したデータ構造階層、コレクションAPI(コンテナ)である。 Javaアプレット生成をサポートするために作られたjava.appletパッケージはネットワーク越しにダウンロードされた保護されたサンドボックス上で動くアプリケーションを許可する。セキュリティ制約は簡単にサンドボックスに適用される。開発者は、例えば、それが安全であることを示すために、アプレットに電子署名を適用することができる。(ローカルハードドライブにアクセスするような)制限された処理を行うアプレットの許可を認めるため、そういう行為をユーザに許し、サンドボックスの制限を部分的または全て取り払う。デジタル証明書はThawteやEntrustのような機関によって発行される。 java.beansパッケージに含まれているものは開発やbean操作のための様々なクラスであり、JavaBeansアーキテクチャによって定義された再利用コンポーネントである。アーキテクチャはコンポーネントのプロパティ操作やそれらのプロパティが変更されたときの発火イベントのメカニズムを提供する。 java.beansにあるAPIの多くはbeanが結合、カスタマイズ、操作されうるbean編集ツールによる使用として書かれている。beanエディタのとあるタイプは、IDEにあるGUIデザイナである。 The Abstract Windowing Toolkit(AWT)は基本的なGUI命令をサポートするルーチンを含み、 基礎を成すネィティブシステムから基本的なウィンドウズを使用する。Java API(GNUのlibgcjのような)多くの独自実装は何もかも実装しているがしかし、AWTは多くのサーバサイドアプリケーションで使われていない。このパッケージもまたJava 2DグラフィックAPIを含んでいる。 java.rmi パッケージは異なるJVM上にある2つのJavaアプリケーション間でのRPCをサポートする Java Remote Method Invocationを提供する。 メッセージダイジェストアルゴリズムを含んでいるセキュリティサポートはjava.security に含まれている。 JDBC API (SQLデータベース接続で使用)の実装はjava.sqlパッケージにまとめられている。 アプリケーション間のリモート間通信を提供し、RMI over IIOPプロトコルを使用する。このプロトコルはRMIとCORBAと連携させる。 general inter ORB protocolを使用するアプリケーション間のリモート間通信をサポートし、CORBAの他のフィーチャーをサポートする。RMIとRMI-IIOPと同じく、このパッケージは(通常、ネットワーク経由で)他の仮想マシン上で動いているオブジェクトのリモートメソッドを呼ぶためにある。 すべての通信可能性からCORBAは様々なプログラミング言語でもっともポータブルである。しかしながら、それはCORBAを理解することをもいくぶん難しくしている。 Swingはプラットフォーム非依存のウィジェット・ツールキットを提供するjava.awtを基礎とするルーチンの集合である。Swingは下層のネイティブOS独自のGUIサポートに頼る代わりに、ユーザインタフェースコンポーネントをレンダリングするために2次元描画ルーチンを使用する。 GUI上のウィジェットが下層のネイティブシステムから模倣することができるように、Swingは着脱可能なルック・アンド・フィール (PLAFs; pluggable looks and feels) をサポートする。システム全体に行き渡っているデザインパターン、特にMVCパターンの改良版は、機能と外観との間の結合度を緩めている。1点、統一されていないのは、(J2SE 1.3現在において)フォントがJavaではなく下層のネイティブシステムによって描画されるということであり、これによりテキスト移植性を限定してしまっている。次善策としては、ビットマップフォントを使うことが挙げられる。一般的に「レイアウト」が使用され、これは要素をクロスプラットフォームかつ審美眼的に一貫したGUIに保つ。 様々なウェブブラウザやウェブボットの記述に関して使われる、エラー耐性のあるHTMLパーサを提供する。
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しりあがり寿
しりあがり 寿(しりあがり ことぶき、1958年1月1日 - )は、日本の漫画家。静岡県静岡市葵区出身。男性。神戸芸術工科大学特任教授、横浜美術大学客員教授、日本大学藝術学部非常勤講師。本名は望月寿城(もちづき としき)。妻は漫画家の西家ヒバリ。 代表作は『真夜中の弥次さん喜多さん』、『弥次喜多 in DEEP』など。 白土三平や貸本ホラー漫画などをネタにした漫画マニア向けのパロディ作品や、『流星課長』などのシュールなサラリーマン物などを手がけ、独特のギャグ漫画家として評価を獲得する。 現在では時事ネタ、家庭ネタ、サラリーマンネタ、果てには哲学的なテーマまで幅広く扱い、ギャグによって文学の領域にまで達した漫画家として評価が高い。 青林工藝舎発行の『アックス』に2002年から2004年まで連載した「ジャカランダ」は、登場人物に主人公すら設定せず、ある日突然生えてきた一本の巨樹ジャカランダによって徹底的に東京が崩壊する阿鼻叫喚の地獄絵図だけを300ページに渡り描き、ラストに人類再生へと続く希望を見せ、物語は終了するという特異な漫画作品も描いている。芸人の鳥居みゆきは、「のうのうと生きてちゃいけないな」と本作への衝撃を語っている。 非常にラフで、一見描き殴りのような「ヘタウマ」絵を描く漫画家として知られるが、生前の手塚治虫に「この人は実はものすごく絵がうまい人だ」と評され、時事ネタとしてアニメ調の画風でネタを描いた事がある。その手塚治虫に2作目の『エレキな春』では真似が出来ないと言わしめた。 自身の事務所である「有限会社さるやまハゲの助」の新年会として行われる社内ロックフェスティバル「しりあがり寿 presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル」(通称:さるフェス)を、新宿Loftにて毎年、一般公開している。
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放送
放送(ほうそう、英: broadcasting, 英: transmission)とは、電気通信を用いて、音声・映像(動画)・文字などで表現された情報を、「1対多」の形で送信すること。 「館内放送」「車内放送」といった語用もあるが、日本語で単に「放送」といった場合、多くはラジオ放送およびテレビジョン放送、すなわち受信機等の媒体(メディア)へ向けた電磁波による番組の送信を指す。本項目ではこの放送番組を送信する放送について記述する。 放送を行う主体とその機器等を合わせて放送局(ほうそうきょく)と呼ぶ。 放送事業は、その運営主体別に国営放送、公共放送、民間放送に分類される。日本に例を取ると、日本放送協会(NHK)と放送大学学園が公共放送に該当する。なお日本において日本国政府が運営する国営放送は存在しないが、在日米軍の運営によるAFNが日本の領内に放送局を設置している。 コミュニケーションの観点から見た場合、放送は、対面(フェイス・トゥ・フェイス)で行われるものではなく、通信であることから、隔地間で行う「テレコミュニケーション」である。 また、コミュニケーションは、構造別に「1対1」と「1対多」に分類できるが、放送はおおむね「1対多」を想定して行われる。特にラジオ放送・テレビ放送は、不特定かつ多数の大衆(英: mass マス)を相手に行うのでマスコミュニケーションである。 さらに、コミュニケーションは、方向別に「双方向コミュニケーション」と「一方向コミュニケーション」に分類できるが、放送は、基本的には送信側から受信側へ向けた一方向のコミュニケーションである。 特にテレビの放送番組を送出することを「放映する」と表現する場合がある。NHK放送文化研究所によると、「放映」はテレビ番組全般を放送する意味と、映画番組を放送する意味とに用いられ、「放映」を用いた場合その範囲や区別がはっきりしないため、NHKでは原則として「放送」を使い「放映」は使わない。 第一次世界大戦後のアメリカではレコードが普及するとともに、軍事利用されていた無線の使用制限が解除され、無線機メーカーとレコード製造会社が放送事業を計画するようになった。ペンシルベニア州ピッツバーグのウェスティングハウス電気製造会社の技術者フランク・コンラッドの実験局「8XK」を母体に世界初の商業放送局「KDKA(英語版)」が開設され、1920年11月2日、ウォレン・ハーディング大統領の当選を伝えた。ただし、実際にはアマチュア無線家が運営する小規模の放送が既に実施されていた。 アメリカの放送事業は、ラジオ放送による受信機の売上、および放送で流される音楽のレコードの売上で経営されていた。しかし、放送がスタートした時期のレコードは録音時間が3分程度しかなく、レコードを交換するタイミングで商業広告が入るスタイルとなった。 その後、アメリカでは多数の放送局が設立され、それが連結して商業ネットワークがつくられるようになった。 アメリカで多数の放送局が設立されるようになると、イギリス政府内では大量生産による安価な受信機がアメリカから流入するのではないかとの懸念があり、国土の狭いイギリスでアメリカと同じように多くの放送局が競合すれば経営難に陥ることが予想されたため政府主導による免許制とすることが好ましいと考えられていた。 1922年、マルコーニ無線電信会社(英語版)などがイギリス政府の意向を受けて「英国放送協会(BBC)」の設立に合意し、政府はBBCの経営安定のため受信料を徴収することを特許した。 英国放送協会(BBC)は2034年を目処に伝送路をインターネットへ移行させ、地上波放送電波を返上(停波)することを検討している 。 とりあえず以下を参照のこと。 とりあえず以下を参照のこと。 日本では放送事業を規制していた法規としては「放送用私設無線電信電話規則」というものがあった。同規則に代わり、1950年(昭和25年)に放送法が新しく制定・公布された。 放送法では「公衆によって直接受信されることを目的とする電気通信の送信」(放送法第2条1)と定義した。(ちなみに「電気通信」というのは、英語圏では通用しない概念で、日本(やアジアの一部の国)の行政用語である。) 根拠となる法律により以下のように区分される。一般的に「放送」という場合、放送法(以下、「法」と略す。)に基づく放送を指す。 促音の表記は原文ママ 新聞・雑誌などの他のメディアと比較して、放送には特殊な位置づけが与えられている。理由の一つは「電波の有限性(利用出来る電波の周波数帯域は限られている。)」というものがあげられる。 また、放送は音声(テレビであれば映像も含まれる。)で情報を伝えるメディアであり、生放送・生中継が出来ることから即効性もある。それゆえ、放送は他のメディアに比較し国民の思想・世論・人格形成などに与える影響が特に強いと考えられている。そこで、放送の中立性をはじめとして青少年の健全育成に配慮し、公共の福祉の為にこれを活用する必要があるとされる。 そのため、放送事業は、放送法により規制され、総務省(従前は郵政省)によって周波数の割当てを受ける免許事業(許認可事項)であり、勝手に放送事業を行ってはならないとされていた。しかし、2010年(平成22年)の平成22年法律第65号(平成23年6月30日施行)により放送法が改正され、放送局の免許を受けた者が自ら放送事業を営む特定地上基幹放送事業者、後述の#放送法令適用外の放送のほか、認定基幹放送事業者は総務大臣の認定、一般放送事業者は総務大臣の登録又は総務大臣若しくは都道府県知事への届出により放送の業務を行うことができることとなった。 ちなみにアメリカでは届出制である。 放送系とは、同一の放送番組の放送を同時に行うことのできる放送局の総体 (法第2条の2第2項第3号)を表す。 同一の放送番組の基幹放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域(法第91条第2項第2号)。基幹放送普及計画により放送系毎に定められる。 放送を行う事業者を放送事業者という。そのうち、放送法第92条において、「特定基幹放送事業者、及び基幹放送局提供事業者は、その基幹放送局を用いて行う基幹放送に係る放送対象地域において、当該放送があまねく受信できるように努めるものとする」と規定されている。 飛地、地形上の制約、物理的制約その他によりこの規定を達成していない主な放送事業者は次の通り(†は平成新局)。 など、平成新局のほとんどが規定を達成できていない。また、平成新局は資金面が乏しいことから2006年以降の地上デジタル放送の中継局整備であまり多く設置することが出来ず、CS再送信やIP放送に任せてしまおうと検討する放送局があったが、総務省や地元自治体などの支援(建設費用の一部を助成すること)によりアナログ未開局地域を含めて先発局と同等の数で設置が進められてきている。逆に放送対象地域外に電波が飛んでいる場合がある(スピルオーバー現象。IP放送の場合方式によれば全国からの受信を可能にしてしまうおそれがある)。デジタル放送の電界強度次第ではアナログでは難視聴状態でもデジタルでは鮮明に受信できる可能性も地域によって出てくる。なお、ラジオ(AM/FM・短波)放送については上記以外のFM局でも山間部などの辺境地の多くは難聴や聴取不可となる地域も多い。AMの場合、送信所・中継局の設置に波長の関係から送信鉄塔自体が高くなり、その高い鉄塔を支えるためのワイヤー設置等で広大な土地が必要とする関係から、中継局を多く設置できず、民放を中心に放送対象地域全域をカバー出来ていないケースが多く、一方で高出力局を中心にスピルオーバーが起こっている既存の親局・中継局が多いことから、既存の親局・中継局の増力はスピルオーバーをなお一層拡大させる問題があるため、増力を実施できるケースはほとんど無いのが実情である。 一の基幹放送局の放送に係る区域。一般的にいえば、標準の受信設備で放送を良好に受信できると想定される区域(強・中電界地域)のことであり、地上波電界強度により機械的に定まる。これらは総務省令基幹放送局の開設の根本的基準第2条第1項第15号で規定されている。 放送対象地域が放送系毎に定められるのに対し、放送区域は無線局(送信所)毎に定められる。 例えば地上アナログテレビジョン放送の場合、電界強度が3mV/m(70dBμ)以上である区域、地上デジタルテレビジョン放送の場合、地上波電界強度が1mV/m(60dBμ)以上である区域が放送区域である。これは、UHFテレビ放送の場合アナログ放送は地上4mの高さ、デジタル放送は地上10mの高さで14〜20素子程度のUHF八木・宇田アンテナを設置した場合の受信できる範囲に相当する。移動体端末で1セグメント放送受信の場合、地上10m未満の高さでの受信となるため、放送区域内でも受信時に電界強度が弱い場合は受信できない。逆に放送区域外でも環境によっては受信が容易な場合も多い。地上波のFM放送・テレビ放送の場合、パラスタックアンテナ(大型でアンテナの設置・維持管理が困難である欠点があったが、最近は設置・維持管理を容易にしようと小型で遠距離受信可能なアンテナ(マスプロ電工の「LS14TMH」、DXアンテナの「UBL-62DA」、八木アンテナの「US-LD14CR」など)が発売されている。)をアナログ放送は地上4mを超える高さ、デジタル放送は地上10mを超える高さに設置することによって放送区域外(弱電界地域)でも良好に受信できる場合がある。場合によってはアンテナと受信機の間に受信ブースターを取り付ける。 放送が影響力の大きいメディアであることをかんがみ、基幹放送事業者、認定放送持株会社並びに基幹放送局提供事業者への外資規制が設けられている。 これに抵触した特定地上基幹放送事業者あるいは基幹放送局提供事業者に対して、総務大臣は改善命令や電波法第75条第1項に基づく無線局免許の取消しの処分を行わなければならない。但し無線局免許の残存期間中はその状況を勘案し、免許を取り消さないことができる(電波法第75条第2項)ため、抵触しても必ずしも取消しになるとは限らない(当然ながら、その状況下での免許更新はできない。)。 同様に、これに抵触した認定基幹放送事業者及び認定放送持株会社に対しては、総務大臣はその認定を取り消すことができる(法第104条、第166条第1項第1号)としている。 これらを防ぐための防衛措置として、外国人からの株式の名義書換請求を拒否することを認めている(法第116条、第125条、第161条)。 なお一般放送事業者に関してはこのような規定がなく、基幹放送事業を兼業している、あるいは無線局免許を受けている場合を除き、外資支配を理由とした事業者登録の抹消、若しくは業務の停止処分を受けることはない。 ビル内、事業所内などに備え付けたスピーカーに、有線、場合によっては無線の通信設備により、一斉送信をして連絡や呼び出しなどに使われる。これらも放送法においては一般放送の定義に含まれるが、受信障害対策中継放送、微弱電力無線通信設備(ワイヤレスマイクの一部等)、単一の構内に完結する自営有線電気通信設備(構内放送)やこれに類似する車両・船舶・航空機内の有線電気通信設備(車内放送等)、引込端子数が50以下の有線電気通信設備により行われる有線一般放送(その全てが同時再放送又は共同聴取業務であるものその他これに類するものとして総務大臣が別に告示するものに限る。)などは、原則として放送法の適用除外となり、放送法上の登録・届出手続を要しない。 但し、有料放送業務や協会放送受信契約締結義務など、放送法またはこれに基づく政省令や技術基準において「除外の除外」条項を設けている場合や、有線電気通信法における有線電気通信設備、消防法における非常用放送設備などの他法令による規制あるいは基準が設けられている事がある点に注意が必要。また、受信障害対策中継放送については、電波法に基づく無線局免許が必要であるほか、基幹放送普及計画などの放送法の一部の規定の適用を受ける。 なお在日米軍による無線放送(AFN)は、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う電波法の特例に関する法律に基づき日米地位協定に定めるところによる。 小学校、中学校、高等学校などの学校には、校内向けの放送設備が整えられている。児童、生徒や教員がこれを使い、全校生徒への連絡等に利用する。これを校内放送と言う。 利便性から、その設備を使用しての特定の生徒への呼び出しや連絡に使用される場合もある。 児童、生徒の委員会活動として一般的に放送委員会や、それに類する組織が設けられており、これらに所属する児童、生徒を放送委員という。放送委員は、全校朝礼の放送設備の準備、昼休みにいわゆるお昼の放送、下校時刻を知らせる放送や、運動会など学校行事の放送を行う。 設備の整っている学校では、校内でテレビ中継のようなこと(学校内での各教室への映像配信)ができる場合もある。 これら校内放送を基にし、中高生のメディアリテラシーの実践の場として、アナウンスや、朗読、ラジオ番組やテレビ番組の技術等を競うNHK杯全国高校放送コンテストや、NHK杯全国中学校放送コンテストが開催されている。
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