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10,602 |
キロメートル
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キロメートル(フランス語: kilomètre、英語: kilometre、アメリカ英語: kilometer、記号:km)は、国際単位系 (SI) の長さの単位で、1000 (10) メートルに等しい。 km の単位記号は、長さのSI基本単位であるメートル m に 10 倍を表すSI接頭語であるキロ k を付けたものである。
ヘクトメートル ≪ キロメートル ≪ ミリアメートル
口頭では、英語に近い発音の「キロメーター」と発音される場合があるが、計量法上は認められない。また、日本では和製漢字を用いて「粁」と表記することがある。これはメートルを表す「米」にその 1000 倍であることを示す「千」の字を合わせたものである(メートル#表記を参照)。ただし、計量法体系では、「粁」の表記は認められていない。
なお、サムネイルの画像のように、km をしばしば「Km」と大文字を用いて表記することがあるが、「ケルビン メートル」と誤読される可能性もあり、決してそのような表記はしてはならない。
Unicode には記号 km を一文字で表した km (339E) という合字がある。また、単に「キロ」と省略されることもある。
キロメートルの公式の英語の綴りは、kilometreである。JIS規格などにおいても kilometerと綴られることはない。ただし、米国でのみ1977年以降、例外的にkilometerとしている。
kilometre の発音では、接頭語である kilo の最初のシラブルに強アクセントがある。これは、millimetre, nanometre などの分量単位の英語発音でも同じである。
なお、単位「メートル」に由来しない、-metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。
1 キロメートル (1 km) は以下の長さに等しい(あるいは、ほぼ等しい)。
|
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"text": "キロメートルの公式の英語の綴りは、kilometreである。JIS規格などにおいても kilometerと綴られることはない。ただし、米国でのみ1977年以降、例外的にkilometerとしている。",
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"text": "kilometre の発音では、接頭語である kilo の最初のシラブルに強アクセントがある。これは、millimetre, nanometre などの分量単位の英語発音でも同じである。",
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"text": "なお、単位「メートル」に由来しない、-metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。",
"title": "kilometre のアクセント"
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"text": "1 キロメートル (1 km) は以下の長さに等しい(あるいは、ほぼ等しい)。",
"title": "換算"
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キロメートル(フランス語: kilomètre、英語: kilometre、アメリカ英語: kilometer、記号:km)は、国際単位系 (SI) の長さの単位で、1000 (103) メートルに等しい。
km の単位記号は、長さのSI基本単位であるメートル m に 103 倍を表すSI接頭語であるキロ k を付けたものである。 ヘクトメートル ≪ キロメートル ≪ ミリアメートル
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{{単位
|名称=キロメートル
|画像=[[File:Lahti distances.jpg|220px]]<br/>キロメートルで表記された世界の各都市への距離(推奨されない "Km" の表記である)
|フランス語=kilomètre
|英語=kilometre<br/>({{ja|米国のみ1977年以降、}}kilometer)
|記号=km
|単位系=国際単位系(倍量単位)
|物理量=[[長さ]]
|定義={{Val|1000|u=m}}
}}
'''キロメートル'''({{Lang-fr|kilomètre}}、{{Lang-en|kilometre}}、{{Lang-en-us|kilometer}}、[[単位記号|記号]]:'''km''')は、[[国際単位系]] (SI) の[[長さの単位]]で、1000 (10<sup>3</sup>) [[メートル]]に等しい。
km の[[単位記号]]は、[[長さ]]の[[SI基本単位]]である[[メートル]] m に 10<sup>3</sup> 倍を表す[[SI接頭語]]である[[キロ]] k を付けたものである。
[[ヘクトメートル]] ≪ '''キロメートル''' ≪ [[ミリアメートル]]
== 表記 ==
口頭では、英語に近い発音の「キロメーター」と発音される場合があるが、[[計量法]]上は認められない。また、[[日本]]では[[1950年]]([[昭和]]25年)頃まで[[和製漢字]]を用いて「'''[[Wiktionary:粁|粁]]'''」と表記することがあった。これはメートルを表す「米」にその 1000 倍であることを示す「千」の字を合わせたものである([[メートル#表記]]を参照)。ただし、「粁」の表記は[[当用漢字]](現・[[常用漢字]])表にないうえ計量法制定で計量法でも使用禁止となったから、以来70年以上は滅多に使われなくなった。
なお、サムネイルの画像のように、km をしばしば「Km」と[[大文字]]を用いて表記することがあるが、「[[ケルビン]] [[メートル]]」と誤読される可能性もあり、決してそのような表記はしてはならない<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際文書第8版(2006)国際単位系(SI)日本語版] 訳・監修 独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター、p.43、「SI単位あるいは単位全般に関して言えることであるが,正しい[[単位記号]]を用いるということは必須(mandatory)である.これにより,量の値についての曖昧さや誤解を排除することができる.」</ref>。{{See|キロ#小文字を使う理由}}
[[Unicode]] には記号 km を一文字で表した {{Unicode|㎞}} (339E) という合字がある。また、単に「キロ」と省略されることもある。
== 英語の綴り ==
{{main|メートル#米国における表記の経緯}}
キロメートルの公式の英語の綴りは、kilomet'''re'''である。[[日本産業規格|JIS規格]]などにおいても kilomet'''er'''と綴られることはない。ただし、米国でのみ1977年以降、例外的にkilomet'''er'''としている。
== kilometre のアクセント ==
{{main|メートル#派生語の英語発音}}
kilometre の発音では、接頭語である kilo の最初のシラブルに強アクセントがある。これは、millimetre, nanometre などの分量単位の英語発音でも同じである。
なお、単位「メートル」に由来しない、-metre ( -meter) で終わる語のアクセントは、その直前にあるのが普通である。例えば speedometer(速度計)のアクセントは、speedo- の第2シラブルに強アクセントがある。
== 換算 ==
1 キロメートル (1 km) は以下の長さに等しい(あるいは、ほぼ等しい)。
: 1 km
: = 1000 m(定義)
: [[≒]] 0.621 [[マイル]]
: ≒ 1094 [[ヤード]]
: ≒ 3281 [[フィート]]
: ≒ 0.255 [[里 (尺貫法)|里]](日本)
: = 2 里(中国)
: ≒ 9.167 [[町 (単位)#長さの単位|町]](日本)
: = 3300 [[尺]](日本)
: = 3000 尺(中国)
: = 1 Click (英語):(俗語)キロメートル。3 km なら 3 Clicks という。主に無線通信での会話に使用される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[長さの比較]]
** [[1 E3 m]] : 1 km - 10 km
** [[1 E4 m]] : 10 km - 100 km
** [[1 E5 m]] : 100 km - 1000 km
* [[平方キロメートル]] (km<sup>2</sup>)
* [[キロメートル毎時]] (km/h)
* [[単位一覧]]
{{長さの単位 (長)}}
{{Unit of length.(m)}}
{{DEFAULTSORT:きろめいとる}}
[[Category:長さの単位]]
[[Category:SI単位の10進の倍量及び分量]]
|
2003-06-29T08:36:23Z
|
2023-12-09T11:33:43Z
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"Template:Lang-fr",
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"Template:Unicode",
"Template:Main",
"Template:長さの単位 (長)",
"Template:Lang-en-us",
"Template:See",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Unit of length.(m)"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
|
10,603 |
ユーフォニアム
|
ユーフォニアム(ユーフォニウム、ユーフォニューム)は、金管楽器の一種。一般的にB♭管で、幾重かに巻かれた円錐管と、通常4つのバルブ(弁)を持つ。音域はテナーやテナーバスのトロンボーンとほぼ同じであるが、それよりも幾分か柔らかく温かみのある音色を奏でる。
ユーフォニアムのマウスピースは多くのメーカーでカタログ上トロンボーンと共通に扱われているが、トロンボーンのものよりややカップの深いものが好まれる。
各国には、ユーフォニアムとほぼ同じ役割を担うものの、音色、形状、バルブシステムなどの異なる楽器が存在し、これらすべてを統括したグローバルスタンダードな名称は、現時点では存在していない。したがって、これらの楽器は、個々においてはその本来の名称を使い、日本語において一纏めに呼ぶ必要がある場合は、便宜上「ユーフォニアム」と呼んでいる(例:次項の「各国のユーフォニアム」「ユーフォニアムの歴史」)。
日本のユーフォニアムの役割に相当する各国の楽器には大きく4つのタイプが現存し、各国で用いられている。
ユーフォニアムの音色は、一般的にはよく知られていない。ユーフォニアムの音色がよく感じられる代表的な作品には、以下のようなものがある。
ユーフォニアムの協奏曲は少ないが、早く1870年代にアミルカレ・ポンキエッリが書いたものがある(正確にはユーフォニアムに類似したイタリアのフリコルノ・バッソの協奏曲)。有名な作品にはジョーゼフ・ホロヴィッツのユーフォニアム協奏曲(1972年)がある。
ユーフォニアムは、ヴァイマルのバンドマスターであったフェルディナント・ゾンマー(Ferdinand Sommer)が自身専用のソロ楽器として発案したゾンメロフォン(Sommerophone)を元に改良が加えられ、一般に使われるようになった。もともとはオイフォニオン(Euphonion)と呼ばれたが、この名前はギリシア語の“euphonos”(eu=良い、phone=響き)に由来する。
オーケストラのスコアに、テナーチューバのパートが設けられていることがある。これは作曲者がユーフォニアム、ドイツ式のバリトン、B♭管のワグナーチューバなどを想定して設けるパートであり、作曲者がどの楽器を想定してこのパートを設けたかは、記譜や他楽器からの持ち替え指定、作曲年代、曲想などにより判断されている。ただし、チューバ属全般にいえることであるが、実演では作曲者が想定した通りの楽器が使用されるとは限らない。
現在、ユーフォニアムやドイツ式のバリトンで演奏される楽曲に、リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』、『ドン・キホーテ』、ホルストの『惑星』、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』などがある。
ラヴェル編曲の『展覧会の絵』(原曲はムソルグスキー作曲のピアノ曲)にはチューバのパートが設けられているが、当時のチューバはユーフォニアムに近いフランス式の楽器(フレンチ・チューバ)であったとして、高音域が続く「ビドロ」のソロのみ、しばしばユーフォニアムで演奏される。
日本においてはピストン式のバルブを持つ楽器を「ユーフォニアム」、ロータリー式を「テナーチューバ」と区別する場合がある。しかしその結果、「テナーチューバ」はパート名であるにもかかわらず、オーケストラで使用される「楽器」であるという誤解が生じる原因となっている。
オーケストラにおいては、前述のような「テナーチューバ」のパートのほか、マーラーの交響曲第7番では「テノールホルン」の指定があり、ショスタコーヴィチのバレエ音楽「黄金時代」は「バリトン」の指定、サンサーンスの交響曲第1番では「サクソルン・バス」の指定、レスピーギの「ローマの松」では「フリコルノ・バッソ」の指定がされている。
日本において主に使われるユーフォニアムの代表的なメーカー、ブランドは以下である。各社とも音色・操作面において明確なオリジナリティを有する。
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"text": "日本のユーフォニアムの役割に相当する各国の楽器には大きく4つのタイプが現存し、各国で用いられている。",
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"text": "ユーフォニアムの音色は、一般的にはよく知られていない。ユーフォニアムの音色がよく感じられる代表的な作品には、以下のようなものがある。",
"title": "楽曲"
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"text": "ユーフォニアムの協奏曲は少ないが、早く1870年代にアミルカレ・ポンキエッリが書いたものがある(正確にはユーフォニアムに類似したイタリアのフリコルノ・バッソの協奏曲)。有名な作品にはジョーゼフ・ホロヴィッツのユーフォニアム協奏曲(1972年)がある。",
"title": "楽曲"
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"text": "ユーフォニアムは、ヴァイマルのバンドマスターであったフェルディナント・ゾンマー(Ferdinand Sommer)が自身専用のソロ楽器として発案したゾンメロフォン(Sommerophone)を元に改良が加えられ、一般に使われるようになった。もともとはオイフォニオン(Euphonion)と呼ばれたが、この名前はギリシア語の“euphonos”(eu=良い、phone=響き)に由来する。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "オーケストラのスコアに、テナーチューバのパートが設けられていることがある。これは作曲者がユーフォニアム、ドイツ式のバリトン、B♭管のワグナーチューバなどを想定して設けるパートであり、作曲者がどの楽器を想定してこのパートを設けたかは、記譜や他楽器からの持ち替え指定、作曲年代、曲想などにより判断されている。ただし、チューバ属全般にいえることであるが、実演では作曲者が想定した通りの楽器が使用されるとは限らない。",
"title": "ユーフォニアムとテナーチューバ"
},
{
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"text": "現在、ユーフォニアムやドイツ式のバリトンで演奏される楽曲に、リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』、『ドン・キホーテ』、ホルストの『惑星』、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』などがある。",
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},
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"text": "ラヴェル編曲の『展覧会の絵』(原曲はムソルグスキー作曲のピアノ曲)にはチューバのパートが設けられているが、当時のチューバはユーフォニアムに近いフランス式の楽器(フレンチ・チューバ)であったとして、高音域が続く「ビドロ」のソロのみ、しばしばユーフォニアムで演奏される。",
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{
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"text": "日本においてはピストン式のバルブを持つ楽器を「ユーフォニアム」、ロータリー式を「テナーチューバ」と区別する場合がある。しかしその結果、「テナーチューバ」はパート名であるにもかかわらず、オーケストラで使用される「楽器」であるという誤解が生じる原因となっている。",
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},
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"text": "オーケストラにおいては、前述のような「テナーチューバ」のパートのほか、マーラーの交響曲第7番では「テノールホルン」の指定があり、ショスタコーヴィチのバレエ音楽「黄金時代」は「バリトン」の指定、サンサーンスの交響曲第1番では「サクソルン・バス」の指定、レスピーギの「ローマの松」では「フリコルノ・バッソ」の指定がされている。",
"title": "ユーフォニアムとテナーチューバ"
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"title": "著名な奏者"
},
{
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"text": "日本において主に使われるユーフォニアムの代表的なメーカー、ブランドは以下である。各社とも音色・操作面において明確なオリジナリティを有する。",
"title": "主なメーカー・ブランド"
}
] |
ユーフォニアム(ユーフォニウム、ユーフォニューム)は、金管楽器の一種。一般的にB♭管で、幾重かに巻かれた円錐管と、通常4つのバルブ(弁)を持つ。音域はテナーやテナーバスのトロンボーンとほぼ同じであるが、それよりも幾分か柔らかく温かみのある音色を奏でる。 ユーフォニアムのマウスピースは多くのメーカーでカタログ上トロンボーンと共通に扱われているが、トロンボーンのものよりややカップの深いものが好まれる。 各国には、ユーフォニアムとほぼ同じ役割を担うものの、音色、形状、バルブシステムなどの異なる楽器が存在し、これらすべてを統括したグローバルスタンダードな名称は、現時点では存在していない。したがって、これらの楽器は、個々においてはその本来の名称を使い、日本語において一纏めに呼ぶ必要がある場合は、便宜上「ユーフォニアム」と呼んでいる。
|
{{出典の明記|date=2023年9月}}
{{Infobox 楽器
|楽器名 = ユーフォニアム
|その他の名称 =
|英語名 = euphonium {{IPA-en|juːˈfoʊniəm|}}
|ドイツ語名 = Euphonium<BR>(Euphonion, Bariton,Kaiserbariton)
|フランス語名 = euphonium<BR>(saxhorn basse)
|イタリア語名 = eufonio<BR>(flicorno basso)
|中国語名 = 上低音号
|画像 = Image:Euphonium Boosey and hawkes.jpg
|画像サイズ = 240px
|画像の説明 = ユーフォニアム
|分類 = [[金管楽器]]
|音域 =
|関連楽器 = * [[チューバ]]
* [[サクソルン]]
|演奏者 =
|製作者 = フランツ・ボック、フェルディナント・ヘル
|関連項目 =
|}}
'''ユーフォニアム'''('''ユーフォニウム、ユーフォニューム''')は、[[金管楽器]]の一種。一般的にB♭管で、幾重かに巻かれた円錐管と、通常4つのバルブ(弁)を持つ。音域はテナーやテナーバスの[[トロンボーン]]とほぼ同じであるが、それよりも幾分か柔らかく温かみ<ref>{{Cite web |url = https://www.adams-music.com/shop/product/detail/?i=Adams+Euphonium&id=1EP0A&lid=1033|title = Euphonium |publisher = www.adams-music.com |date = |accessdate = 2019-10-16}}</ref>のある[[音色]]を奏でる。
ユーフォニアムの[[マウスピース (楽器)|マウスピース]]は多くのメーカーでカタログ上トロンボーンと共通に扱われているが、トロンボーンのものよりややカップの深い<ref>{{Cite web |url = https://jp.yamaha.com/products/musical_instruments/winds/mouthpieces/euphoniums/additional_tab3447.html|title = Euphonium |publisher = jp.yamaha.com |date = |accessdate = 2019-10-16}}</ref>ものが好まれる。
各国には、ユーフォニアムとほぼ同じ役割を担うものの、音色、形状、バルブシステムなどの異なる楽器が存在し、これらすべてを統括したグローバルスタンダードな名称は、現時点では存在していない。したがって、これらの楽器は、個々においてはその本来の名称を使い、日本語において一纏めに呼ぶ必要がある場合は、便宜上「ユーフォニアム」と呼んでいる(例:次項の「[[#各国のユーフォニアム|各国のユーフォニアム]]」「[[#歴史|ユーフォニアムの歴史]]」)。
== 各国のユーフォニアム ==
[[Image:Saxhorn courtois166.jpg|thumb|right|サクソルン・バス]]
[[Image:German bariton alexander150.jpg|thumb|right|(ドイツ式)バリトン]]
[[Image:Kaiserbariton miraphone56.jpg|thumb|right|カイゼルバリトン]]
日本のユーフォニアムの役割に相当する各国の楽器には大きく4つのタイプが現存し、各国で用いられている。
; ユーフォニアム(euphonium)
: [[日本]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで用いられている、ピストン・バルブを備えた、中低音域を担うB♭管の楽器。各国各地のバリトン音域の金管楽器が融合して、[[20世紀]]前半のイギリスで現在の形状に落ち着いた。3バルブタイプ、B♭/Fコンペンセイティング・システムつき4バルブタイプと、4バルブタイプの3種が現在も存続している。
; [[サクソルン|サクソルン・バス]](saxhorn basse)
: [[フランス]]において、[[サクソルン]]属のバスとして発展した楽器。3本から6本ピストンのアップライト(上向き)のベルを持つ楽器で、日本でも戦前・戦中の軍楽隊において、「ユーフォニオン(海軍)」「プチバス、小バス(陸軍)」として用いられた。現在も、フランスのクルトワ(Courtois)社によって新しいモデルが開発され続けている。6本のピストンを備えたC管のサクソルン・バスは「[[チューバ|フレンチ・チューバ]]」とも呼ばれ、1970年ごろまで、おもにフランスのオーケストラで用いられた。
; (ドイツ式)バリトン、カイゼルバリトン(Bariton, Kaiserbariton 古くはBaryton, Kaiserbaryton)
: 別掲の「テノールホルン」とともに、[[ドイツ]]や[[中欧]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]でユーフォニアムの役割を担う楽器。イギリス式のユーフォニアムとは楽器の左右の向きが逆で、バルブはロータリー式を採用。管体はいずれも卵形またはチューバ型で、カイゼルか否かは[[ボア (管楽器)|ボア]]の広がり方によるため、見分けがつきにくい。後述のアメリカのバリトン・ホーンやイギリスのバリトンとは別の楽器{{efn2|バリトンという名称は、国や地域によっては別の楽器を指すことがある。}}。
; バリトン・ホーン(アメリカ)(baritone horn)
: かつてのアメリカでは、南北戦争の頃に用いられた初期のサクソルンに代わり、現在のユーフォニアムよりも若干管径が細い楽器が開発された。この楽器はバルブが3本であれば「バリトン・ホーン(baritone horn)」、4本以上であれば「ユーフォニアム(euphonium)」として販売されていた。アメリカの吹奏楽譜の「バリトン」あるいは「ユーフォニアム」のパートに、まったく同じ内容であるにもかかわらずト音記号とヘ音記号の両方の譜面が用意されていることが多い。当初バリトン・ホーンの方がユーフォニアムよりも管の内径が若干細かったが、1960年代にもなると両者は同じ内径で製造されるようになり、ピストンの数以外に楽器としての画然とした違いがなくなってきた。そのため、カタログ上は「ユーフォニアム」という名称であっても、イギリスのユーフォニアムと区別して、アメリカンタイプの楽器を「バリトン」「バリトン・ホーン」と呼ぶようになってきた。1960年代終わりごろから1970年代にかけてアメリカの各軍楽隊で一斉にイギリスのユーフォニアムが使われるようになって以来、学校教育からプロの吹奏楽団に至るまで、一般的にイギリスや日本で使われるようなユーフォニアムが用いられるようになった。ただし、海を隔てたドイツや東欧の小編成バンドでは、現在でもアメリカンタイプのバリトン・ホーンが好んで使われ、新しいモデルも作られている<ref>{{Cite web |url = http://www.worischek.de/index.php/2012-02-09-11-50-19/baritone|title = Baritone|website = www.worischek.de|publisher = R.Worischek|date = 2012-05-19|accessdate = 2020-01-16}}</ref>。
== 楽曲 ==
{{Portal クラシック音楽}}
ユーフォニアムの音色は、一般的にはよく知られていない。ユーフォニアムの音色がよく感じられる代表的な作品には、以下のようなものがある。
; [[グスターヴ・ホルスト]]:[[吹奏楽のための組曲 (ホルスト)|吹奏楽のための第2組曲ヘ長調]]〜第1曲「行進曲」
: 吹奏楽曲。きびきびとしたリズムが奏でられる中に、ユーフォニアムの朗々とした長いソロがある。
: 第4曲「『ダーガソン』による幻想曲」にもソロがある。
; グスターヴ・ホルスト:組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』~第1曲「火星」
:管弦楽曲。中盤頃にソロ旋律を奏でる。
; [[ケネス・アルフォード]]:行進曲「[[ボギー大佐]]」
: 吹奏楽曲。全編で大らかな対旋律を奏でる。各国のユーフォニアムに相当する楽器も、行進曲において対旋律を奏でることが多い。
; [[フィリップ・スパーク]]:「祝典のための音楽」
: [[英国式ブラスバンド|ブラスバンド]]曲。所々にユーフォニアムの印象的なソロがある。
; [[リヒャルト・シュトラウス]]:交響詩「[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]」
: 管弦楽曲。テノール・テューバ([[#ユーフォニアムとテナーチューバ|ユーフォニアムとテナーチューバ]]」参照)の指定。ドン・キホーテの腹心、サンチョ・パンサのキャラクターを[[ヴィオラ]]、[[バスクラリネット]]とともに演じる。
; [[モデスト・ムソルグスキー]]/[[モーリス・ラヴェル]]編曲:組曲「[[展覧会の絵]]」〜「ビドロ」
: 管弦楽曲。ラヴェルの指示ではテューバとなっているが、高音域が続くこのソロのみ、しばしばユーフォニアムで演奏される(詳細は「[[#ユーフォニアムとテナーチューバ|ユーフォニアムとテナーチューバ]]」参照)。
; [[フィリップ・スパーク]]:「パントマイム」
: ユーフォニアム独奏曲(伴奏はピアノまたはブラスバンド、吹奏楽)。
ユーフォニアムの[[協奏曲]]は少ないが、早く1870年代に[[アミルカレ・ポンキエッリ]]が書いたものがある(正確にはユーフォニアムに類似したイタリアのフリコルノ・バッソの協奏曲)<ref>{{citation|url=https://www.shsu.edu/academics/music/ponchielli/the-music/virtuoso/brass/concerto-per-flicornobasso.html|title=Concerto per flicornobasso, Op. 155, PP.143.11|publisher=Sam Houston State University}}</ref>。有名な作品には[[ジョーゼフ・ホロヴィッツ]]のユーフォニアム協奏曲(1972年)がある。
== 歴史 ==
ユーフォニアムは、[[ヴァイマル]]のバンドマスターであったフェルディナント・ゾンマー(Ferdinand Sommer)が自身専用のソロ楽器として発案したゾンメロフォン(Sommerophone)を元に改良が加えられ、一般に使われるようになった<ref name="Bevan The Tuba Family p.221">Clifford ''Bevan The Tuba Family'' 2nd edition, Winchester: Piccolo Press, 2000, p.221 </ref>。もともとはオイフォニオン(Euphonion)と呼ばれたが、この名前は[[ギリシア語]]の“euphonos”(eu=良い、phone=響き)に由来する<ref name="Bevan The Tuba Family p.221" />。
; ユーフォニアムとチューバの分離
: ゾンマーのゾンメロフォンが登場する以前は、[[セルパン]]やバスホルン、[[オフィクレイド]]などが金管低音の役割を担ってきた。1835年に、[[プロイセン王国|プロイセン]]の軍楽隊長だったW.ヴィープレヒトの要請を受けて、C.モリッツによってF管のアップライトベル、フロントピストン式バスチューバ(Basstuba)が作られた。続いて1838年には、それよりも小型のB♭管のアップライトベル、フロントピストン式テノールチューバ(Tenortuba)が作られた。こうして、金管の低音域をバスとテナーという別々の楽器で演奏するようになり、前者がバス、そしてコントラバスチューバへと発展し、後者がユーフォニアムへと発展していった<ref>Anthony Baines ''BRASS INSTRUMENTS'' New York: DOVER PUBLICATIONS, INC. 1993, p.250-252</ref>。
; ソロ楽器としての発展
: 1843年にゾンマーは、モリッツのテノールチューバや、その後各地で作られた同じような楽器を元に、ゾンメロフォンという楽器を発案する。これはゾンマー自身がソロを演奏するために発案したものである。[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|1851年のロンドン万国博覧会]]にて、[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公]]をはじめとするイギリス王族の御前で、[[オルガン]]を伴奏に、ゾンマーがこのゾンメロフォンを用いてソロ・[[リサイタル]]を開催した記録が残っている<ref>Lytton Strachey ''Queen Victoria'', London: Chatto & Windus, 1921</ref> 。そのリサイタルのスケッチ(ゾンマーがゾンメロフォンを演奏している)は[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]にて見ることができる。この楽器は、C.モリッツの製作したテノールチューバと同じような、細いチューバ型であった(ただし、バルブはロータリー式)<ref>Lloyd E. Bone Jr. 他 ''Guide to the Euphonium Repertoire'' Bloomington & Indianapolis: Indiana University Press, 2007, p.8</ref>。
: ゾンメロフォンが完成した翌年の1844年、[[ウィーン]]のフランツ・ボック(Franz Bock)とフェルディナント・ヘル(Ferdinand Hell)が、それぞれゾンメロフォンを改良させた「Euphonion」「Euphonium」という楽器を作り、ボックは4月1日に、ヘルは4月5日にウィーンにて発明特権(Privilegium)を取得した(いずれもバルブはロータリー式)。特にボックが作った「Euphonion(オイフォニオン)」は、バルブこそロータリー式であるが、現在のユーフォニアムに近い太い楽器であり、「金管楽器特有の荒い音を排し、広い音域を持ち、音色は柔らかく、美しく優しい響きで、あたかも吹奏楽器におけるチェロのようだ」と、ボック自身が発明特権出願の際に記している<ref>Herbert Heyde ''Das Ventilbrasinstrument'', Wiesbaden: Breitkopf & Härtel, 1987, P.217-219, 298</ref>。この楽器は、のちにチェルヴェニー(Cerveny)社(現・[[チェコ]]のメーカー)などからも「オイフォニオン」として一般向けに製造販売されるに至った<ref>1853年発行のチェルヴェニー社のカタログより</ref>。19世紀中頃に登場した「オイフォニオン」が実際に楽曲に使われた例としては、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の「[[ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#行進曲変ホ長調|行進曲 変ホ長調]]」(1865年作曲)が挙げられる。
; サクソルン族「バス(Basse)」からの発展
: こうした流れとは別に、[[パリ]]では[[アドルフ・サックス]]が、高音域から低音域までを同一の音色でカバーする一連の金管楽器「[[サクソルン]]」を製作し、1845年に特許を取得した。<ref>Anthony Baines ''BRASS INSTRUMENTS'' New York: DOVER PUBLICATIONS, INC. 1993, p.253-258</ref>サクソルンはフランスの吹奏楽の他にイギリスのブラスバンドにも採り入れられ、イギリスではサクソルンのうちのバス(Basse)が、ウィーンで発明された「Euphonion」「Euphonium」の名称を用いて、ユーフォニアム(またはユーフォニオン)と呼ばれるようになった。<ref>Ray Far ''The Distin Legacy'' Newcastle upon Tyne: Cambridge Scholars Publishing. 2013, p.142-146</ref>そして、イギリスのブラスバンドにおいてユーフォニアムは、単なる中低音域の楽器としてではなく、コルネット同様にソロを受け持つ楽器として活用されるようになっていった。<ref>Roy Newsome ''Brass Roots'' New York: Ashgate Publishing. 1998, p.142-146</ref>イギリスのメーカーでも独自のユーフォニアムが作られるようになり、1878年にイギリスのブージー社によって特許が取得されたコンペンセイティング・システムバルブを採用したモデルが登場して、現代のユーフォニアムのスタイルが確立した。このブージー社のモデルは、イギリスのホーニマン博物館(Horniman Museum and Gardens)に所蔵されており、画像が公開されている。<ref>[http://minim.ac.uk/index.php/explore/?instrument=22350 Euphonium Boosey & Co. 1880]</ref>
; 総括
: ユーフォニアムは、セルパンやバスホルン、[[オフィクレイド]]の高音域を担うために生まれてきた楽器を元に、ゾンマーによる発案と彼自身の演奏活動をきっかけに「チェロのような、美しく優しい響きのソロ楽器」としてオーストリアで誕生し、またサクソルン一族のバスとして生まれた楽器を元にしてイギリスで発達した。
; 日本
: 日本におけるユーフォニアムの歴史は、明治3年(1870年)にイギリスよりユーホーニオンが到着したことにより始まった<ref name="海軍軍楽隊 P10">楽水会編『海軍軍楽隊』 P.10</ref>。日本人初のユーフォニアム奏者は、明治2年(1869年)に[[薩摩藩]]によって集められた軍楽隊の伝習生、尾崎惟徳<ref>小山作之助『國歌君が代の由來』 P.87</ref>(平次郎<ref name="海軍軍楽隊 P10" />)であった。軍楽隊の伝習生は、当初イギリス式教育を受けたが、明治3年に陸海軍が分離されたあと、海軍軍楽隊はイギリス式教育(のちにドイツ式教育)、陸軍軍楽隊はフランス式教育を導入した<ref>[[阿部勘一]]他『ブラスバンドの社会史』 P.91-94</ref>ため、ユーフォニアムに相当するパートに関しては、海軍では「ユーフォニオン、バリトン」<ref>楽水会編『海軍軍楽隊』 P.237, 266-271</ref>、陸軍では「プチバス<ref>阿部勘一他『ブラスバンドの社会史』 P.163</ref>、小バス<ref>山口常光『陸軍軍楽隊史』 P.159</ref>」などとさまざまな名称で呼ばれていた。遺されている多くの画像によれば、いずれもおもにフランス式の楽器(サクソルン・バス)が使われていたことがわかる<ref>楽水会編『海軍軍楽隊』</ref><ref>山口常光『陸軍軍楽隊史』</ref>が、一時期の海軍や音楽学校、各種音楽隊、学校教育における吹奏楽部などでは、指導者の方針により、ドイツ式バリトンや(小バスではない)ユーフォニアムなども使われていた<ref>大石清『テューバかかえて』 P.49, 61, 98</ref>。
: [[第二次世界大戦]]敗戦後に米国より導入されたスクールバンドの普及により、日本においては名称は「ユーフォニアム(ユーフォニウム)」に定着し、楽器も[[イギリス]]で発展したピストン式の4バルブユーフォニアムが一般的になっている。このため創作文芸の世界でサクソルン・バスやドイツ式バリトン、バリトン・ホーンなどの出現する機会はほとんどなく、日本の吹奏楽の作曲コンテストでこれらの楽器が要求されることはあまりない。
: おおよそ1960年代からユーフォニアムを専門とする演奏家が活躍を始めた<ref>三浦徹『うまくなろう! ユーフォニアム』 P.76</ref>。その後、ユーフォニアム部門のコンクール開催や国外演奏家の来日などにより、専門家としての能力と指導力を身につけたユーフォニアム奏者たちは、続々と音楽大学の講師として赴任し、日本の演奏家による国外での活躍も見られるようになった<ref>三浦徹『うまくなろう! ユーフォニアム』 P.76-79</ref>。近年では新しい音響素材として目を向ける作曲家<ref>{{Cite web|和書|url =https://ci.nii.ac.jp/naid/120001399252 |title =ユーフォニアムにおける微分音の研究--微分音・4分音スケールの開発 |publisher =岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 |date = |accessdate =2018-10-20 }}</ref>がいる。
== ユーフォニアムとテナーチューバ ==
オーケストラのスコアに、テナーチューバのパートが設けられていることがある。これは作曲者がユーフォニアム、ドイツ式のバリトン、B♭管の[[ワグナーチューバ]]などを想定して設けるパートであり、作曲者がどの楽器を想定してこのパートを設けたかは、記譜や他楽器からの持ち替え指定、作曲年代、曲想などにより判断されている。ただし、チューバ属全般にいえることであるが、実演では作曲者が想定した通りの楽器が使用されるとは限らない。
現在、ユーフォニアムやドイツ式のバリトンで演奏される楽曲に、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[英雄の生涯]]』、『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』、[[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]の『[[惑星 (組曲)|惑星]]』、[[レオシュ・ヤナーチェク|ヤナーチェク]]の『[[シンフォニエッタ (ヤナーチェク)|シンフォニエッタ]]』などがある。
[[Image:Frenchtuba.jpg|thumb|right|フレンチ・チューバ]]
[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]編曲の『[[展覧会の絵]]』(原曲は[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]作曲のピアノ曲)にはチューバのパートが設けられているが、当時のチューバはユーフォニアムに近いフランス式の楽器([[チューバ|フレンチ・チューバ]])であったとして、高音域が続く「ビドロ」のソロのみ、しばしばユーフォニアムで演奏される。
日本においてはピストン式のバルブを持つ楽器を「'''ユーフォニアム'''」、ロータリー式を「'''テナーチューバ'''」と区別する場合がある。しかしその結果、「テナーチューバ」はパート名であるにもかかわらず、オーケストラで使用される「楽器」であるという誤解が生じる原因となっている。
オーケストラにおいては、前述のような「テナーチューバ」のパートのほか、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番]]では「テノールホルン」の指定があり、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]のバレエ音楽「[[黄金時代 (ショスタコーヴィチ)|黄金時代]]」は「バリトン」の指定、[[カミーユ・サン=サーンス|サンサーンス]]の[[交響曲第1番 (サン=サーンス)|交響曲第1番]]では「サクソルン・バス」の指定、[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]の「[[ローマの松]]」では「フリコルノ・バッソ」の指定がされている。
== ユーフォニアムと音域が近い楽器 ==
[[Image:Baritonesaxhorn.jpg|thumb|right|バリトン]]
[[Image:Tenorhorn alexander.jpg|thumb|right|テノールホルン]]
[[ファイル:Tenore_basso.jpg|thumb|right|フリコルノ・バッソ(左)とテノーレ(右)]]
; バリトン(フランス、イギリス)({{Lang-en-short|baritone}}、{{Lang-fr-short|baryton}})
: サクソルン属のバリトン。フランスやイギリスで、ピストン・バルブを備えていて細身のB♭管の楽器を「バリトン」(baritone)と呼ぶ。同じサクソルン属のバスや、一般に使われるユーフォニアムよりもずっと管が細く、現在はヨーロッパのファンファールや[[英国式ブラスバンド|英国式金管バンド(ブラスバンド)]]で使用されている。アメリカン・バリトンホーンとはまったく別の楽器である。
; テノールホルン(ドイツ、オーストリア)({{Lang-de-short|Tenorhorn}})
: ドイツや中欧・東欧では、ロータリー・バルブを備えていて、ユーフォニアムよりもやや管の細いB♭管の楽器を「テノールホルン」(Tenorhorn)と呼ぶ。もともとは[[トランペット]]型で[[テノール]]音域の楽器だったが、次第にトランペット型から、卵形やチューバ型に移行したようである。別掲のドイツの「ドイツ式バリトン」や「カイゼルバリトン」と同じ外観だが、これらに比べてベルの直径は小さく、管の内径は細めである。便宜上、イギリスの[[バリトン (金管楽器)|バリトン]](baritone)と同じ種類の楽器と見なされる場合が多いが、テノールホルンの管はイギリスのバリトンよりももっと太く、その役割はむしろユーフォニアムに近い。[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番「夜の歌」]]にはテノールホルンのパートがあり、冒頭から幾度かソロを奏でる。
: なお、イギリスで「テナーホルン(テナーホーン)」と呼ばれる楽器は、日本やアメリカでは[[アルトホルン]]と呼ばれ、4度高いサクソルン属のE♭管の楽器である。両者は英語圏においても時折混同されることがあるため、「in B♭」「in E♭」と調を付け加えるなどして区別されることもある。
; フリコルノ・テノーレ([[イタリア]])({{Lang-it-short|flicorno tenore}})
: 英国でバリトンと呼ばれるピストン式の楽器、またドイツでテノールホルンと呼ばれるロータリー式の楽器の、イタリアでの名称。時代や地域によって、ピストン式、ロータリー式、トランペット型、チューバ型など、さまざまな楽器が製作され、用いられてきた。なお、楽器自体はB♭管であるが、マウスパイプのレシーバーはE♭管のアルトホルンと同じ内径である。[[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]の「[[ローマの松]]」では、フリコルノ・バッソ(ドイツでバリトンと呼ばれる楽器に相当)とともにブッキーナ([[バンダ (オーケストラ)|バンダ]])としてこの楽器の指定がある。
== さまざまな形態のユーフォニアム ==
; ダブル・ベル・ユーフォニアム(ツイン・ベル・ユーフォニアム)
: 2つ以上の楽器の役割を1つにまとめた楽器を意味する「複合楽器」(duplex)として考案されたユーフォニアム。ユーフォニアム本来のベルと[[トロンボーン]]のような小さいベルの2つのベルを持った楽器。バルブによって音の出るベルを切り替えることができる。
; マーチングブラス・ユーフォニアム
: マーチングやパレードで使用され、ベルが正面を向いている楽器<ref>{{Cite web |url =https://www.nonaka.com/king_marching_brass/products/euphonium/index.html |title =king |publisher =www.nonaka.com |date =2018-10-18 |accessdate =2018-10-18 }}</ref><ref>{{Cite web |url =https://www.nonaka.com/systemblue/brass/professional.html |title =systemblue |publisher =www.nonaka.com |date =2018-10-18 |accessdate =2018-10-18 }}</ref>。古くはベルだけを曲げたものが使われたが、現在ではトランペットのように両手で楽器を支えるタイプのものと、本体を肩に担ぐタイプのものがある。肩に担ぎベルが後方に向くタイプは米国の[[南北戦争]]時に出現、行軍に使用された。
; アップライトベル、フロントベル
: 体の前で構えるタイプの楽器で、ベルが上方に向いているタイプをアップライトベルというが、これに対しベルが前方に曲がっているタイプをフロントベルという。フロントベル・タイプは音が前方に向かうため、マーチングに用いられた他、レコーディング向きであるともされ、広く用いられていた。
== 著名な奏者 ==
; 日本
:* [[青島可奈]]<ref>https://aoshimakana-euhonium.amebaownd.com/</ref>(ユーフォニウムユニット「ラフィネ」主宰<ref>http://s-concert.jp/2011-5program/2011-shizuoka.htm</ref>)
:* [[阿部竜之介]]<ref>https://www.pepeabe.com/</ref>(ユーフォニアム、トロンボーン)
:* [[新井秀昇]]<ref>https://hidearai.wixsite.com/euph</ref>(ユーフォニアム、作曲家、編曲家)
:* [[安東京平]]<ref>https://www.euphann.com/</ref>
:* [[石橋美奈子]]<ref>{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/eupho1484/ |title=Euphoniumist 石橋 美奈子 Official Web Site |date=20190331134057}}</ref>
:* [[岩黒綾乃]]<ref>http://www.musashino-music.ac.jp/graduate/teacher/guest/wind/iwaguro/</ref>([[東京佼成ウインドオーケストラ]]団員)
:* [[牛上隆司]]<ref>http://www001.upp.so-net.ne.jp/euphoria/</ref>(VIVID BRASS TOKYO<ref>http://www.vividbrass.jp/</ref>)
:* [[牛渡克之]]
:* 貝塚理江(エバたんち)
:* [[河野健]]<ref>http://we-kanade.sakura.ne.jp/home/?brass=euphonium</ref>(RUSH BRASS 首席)
:* 木村玲(ユーフォニアム奏者)
:* [[木村寛仁]]<ref>https://www.daion.ac.jp/professor/187/</ref>([[大阪音楽大学]]教授)
:* [[齋藤充]]<ref>https://www.senzoku.ac.jp/music/teacher/mitsuru-saito</ref>
:* [[坂岡裕志]]<ref>https://sakaeuph.wixsite.com/home</ref>(ユーフォニアムグループGROW 他)
:* [[佐藤采香]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://profile.ameba.jp/ameba/ayakasato-euphonium/|title=佐藤 采香 Ayaka Sato / Euphonium / in der Schweiz|accessdate=2021/1/26|publisher=}}</ref>
:*[[庄司恵子]]<ref>https://sienawind.com/orchestra_member/brass/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A0/1319</ref>([[シエナ・ウインド・オーケストラ]]団員)
:* [[竹内広三]]<ref>https://kt-euphonium.jimdofree.com/</ref>
:* [[竹森賢]]
:* [[露木薫]]<ref>https://www.senzoku.ac.jp/music/teacher/kaoru-tsuyuki</ref>
:* [[照喜名俊典]]<ref>http://tterukina.com/</ref>(チューバマンショー<ref>http://tubamanshow.com/</ref>、鬼頭哲ブラスバンド<ref>http://kito-akira.com/brassband_top.html</ref>)
:* 原厳汰(ユーフォニアム、サクソルンバス、寺子屋塾代表)
:* [[深石宗太郎]]
:* [[福田昌範]]<ref>http://www2u.biglobe.ne.jp/~dafee/</ref>(ユーフォニアム、指揮者、作曲家)
:* [[外囿祥一郎]]([[東京音楽大学]]准教授、[[エリザベト音楽大学]]、洗足音楽大学、[[昭和音楽大学]]各客員教授および[[相愛大学]]音楽学部特別講師)
:* [[三浦徹]]([[国立音楽大学]]教授)
:* 宮島優哉
:* [[ミサ・ミード]](ユーフォニアム、作曲家、編曲家)
:* [[山岡潤]]<ref>https://www.shobi.ac.jp/about/feature2/profile/25348.html</ref>([[尚美ミュージックカレッジ専門学校]]非常勤講師)
; アメリカ
:* [[ブライアン・ボーマン]]
:* [[:en:Leonard Falcone|レオナルド・ファルコーネ]](バリトン・ホーン)
:* [[アダム・フライ]]<ref>http://euphonium.com/index.html</ref>
; イギリス
:* [[スティーブン・ミード]]
:* [[デイヴィッド・チャイルズ]]<ref>[http://davechilds.com/ 公式サイト]</ref>(ユーフォニアム、トロンボーン)
:* [[ニコラス・チャイルズ]]
:* [[ロバート・チャイルズ]]
:* [[デリック・ケイン]]
:* [[デイヴィッド・ソーントン]]
:* [[モーガン・グリフィス]]
:* [[ゲイリー・カーティン]]
; フランス
:* [[アントニー・カイエ]]<ref>http://www.anthonycaillet.com/</ref>(サクソルンバス)
:* [[:fr:Ivan Milhiet|イヴォン・ミリエ]]
:*[[バスティアン・ボーメ]]
:*[[クオンタン・モルガン]]
:*[[リリアン・ムーラン]]
:*[[エレーヌ・エスカリバー]]
:*[[ジャン・ドーフレン]]
:*[[ビエンネ・ドゥプラント]]
:*[[パトリック・ヴィバー]]
:*[[セバスチャン・シュタイン]]
:*[[デビッド・マイヨ]]
:*[[フィリップ・フリッチ]]
:*[[ジョンルック・プティプレ]]
; ドイツ
:* [[:de:Ernst Hutter|エルンスト・フッター]](テノールホルン、トロンボーン)
:* [[:de:Alexander Wurz (Musiker)|アレクサンダー・ヴルツ]](テノールホルン)
; スイス
:* [[トーマス・リューディ]]
:*[[ジル・ロッシャー]]
:*[[グレン・ヴァン・ローイ]]
<ref>https://www.thomasruedi.net/</ref>
== 主なメーカー・ブランド ==
日本において主に使われるユーフォニアムの代表的なメーカー、ブランドは以下である。各社とも音色・操作面において明確なオリジナリティを有する。
; 日本
:* [[ヤマハ]]
:* プレソン(製造は中国、販売元は野中貿易<ref>{{Cite web|和書|title=PRÉSON -プレソン-|url=https://www.nonaka.com/preson/|website=www.nonaka.com|accessdate=2019-05-16}}</ref>)
:* マルカート(<!-- ユーフォニアムに関しては -->製造は中国、プロデュース・販売元は下倉楽器<ref>{{Cite web|和書|title=楽器なら何でも揃う お茶の水下倉楽器|url=http://www.shimokura-gakki.com/|website=www.shimokura-gakki.com|accessdate=2019-02-01}}</ref>)
; イギリス
:* [[ベッソン (企業)|Besson]]
; スイス
:* [[ウィルソン (楽器メーカー)|Willson]][https://www.willson.ch/]
; アメリカ
:* Eastman Winds[https://www.eastmanwinds.com/]
; オランダ
:* ADAMS[https://www.adams-music.com/]
; 台湾
:* [[ジュピター (楽器メーカー)|Jupiter]][http://jupitermusic.com/international/]
== 参考文献 ==
* 阿部勘一他『ブラスバンドの社会史』(青弓社、2001年)
* 大石清『テューバかかえて』(音楽之友社、1999年)
*楽水会編 『海軍軍楽隊』 (国書刊行会、1984年)
* 小山作之助『國歌君が代の由來』(小山真津、1941年)
* 三浦徹『うまくなろう! ユーフォニアム』(音楽之友社、1999年)
*山口常光『陸軍軍楽隊史』(三青社、1968年)
* Apel, Willi (1969). Harvard Dictionary of Music. Cambridge:: Belknap Press of Harvard University Press, 1972
* H.N. White/King catalog (Baritone/Euphonium) (1963)
* Baritone History, North Dakota State University<ref>[https://web.archive.org/web/20060830161538/http://www.nd.edu:80/~baritone/history.html Baritone History]</ref>
* Bone, Lloyd E., The Euphonium Sourcebook, University of Indiana Press, 2007 edition
* Bouldersdome, H. J., The Late Mr. A. J. Phasey, The British Bandsman, November 1888, Derby, England
* Roy Newsome, The Modern Brass Band: From the 1930s to the New Millennium, Ashgate Publishing, Ltd., 2006 ISBN 0-7546-0717-8.
* Bierley, Paul A., The Incredible Band of John Philip Sousa, Board of Trustees of the University of Illinois, Urbana, IL. 2006
* Lehman, Arthur, A Quick Analysis of Simone Mantia's Artistry On the Euphonium, 2008
* Schudel, Matt (2009-06-28). "Arthur W. Lehman, 91, Retired Sergeant Played Euphonium With the Marine Band". The Washington Post
* Morin, Alexander J., Classical music: the listener's companion, Backbeat Books, SanFrancisco CA, 2002
* Brian Bowman Euphonium, The Instrumentalist, Volume 63, 2008
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Euphonium}}
* [[管楽器]]
* [[金管楽器の一覧]]
** [[アルトホルン]]
* [[サクソルン]]
* [[響け! ユーフォニアム]]
== 外部リンク ==
* [http://www.euphstudy.com ユーフォニアム講座] 各国の楽器研究、情報サイト
* [http://www.euphcd.com/ EUPHONIUM CD Club] CD、情報サイト
* [http://www.euphists.net/ Euphists' Paradise] 情報、コミュニケーションサイト
{{オーケストラの楽器}}
{{Normdaten}}
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[[Category:金管楽器]]
[[Category:チューバ]]
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10,607 |
ホルン
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ホルンは、金管楽器の一種である。トランペット、トロンボーン、チューバなどともに近代西洋の金管楽器の主要な楽器のひとつであり、漏斗型のマウスピース、円錐を主体とした長い丸められた管、直径約30cmに達するベル(朝顔)を持つ。他の金管楽器よりも多くの倍音を出すことができる。
金管楽器であるが、音色のやわらかさから金管楽器のみならず木管楽器ともよく調和する。通常の木管五重奏では標準的にホルンが加えられている。
ホルン(英語 horn、ドイツ語 Horn)はイタリア語でcorno(コルノ)、フランス語ではcor(コール)と言い、いずれも動物の角を意味するが、古くから「角笛」を意味してもいた。広義のホルン(角笛)はかつて動物の角、ほら貝、金属などで作られた。トランペットとの違いは通常トランペットの管が円筒を主体にするのに対し、ホルンが円錐を主にすることにあると言われるが、現代のトランペットは円錐部分が増え、もはやこの区別は成り立たなくなっている。ザックス=ホルンボステル分類ではホルンはトランペット類の一種と見なされる。
近代西洋の金管楽器をとくに指すために、英語圏でfrench hornと呼ばれることがあり、日本語でもそれにならってフレンチ・ホルンとも呼ばれる。この語は1742年にはじめて見られ、おそらくフランス起源の楽器と認識されていたためであろう。フランス語では「cor d'harmonie」(管楽器のホルン)、ドイツ語では「Waldhorn」(森のホルン)という語も用いられる。
ホルンと名のつく金管楽器には、サクソルン族のフリューゲルホルン、アルトホルン、テナーホルンなども有るが、これらはマウスピースやバルブの構造、管体の形状からホルンとは区別される。マーチングなどでホルンの代わりなどに使われるメロフォンは外観はホルンに似ているが別の楽器である。またホルンを名前に含む木管楽器にはオーボエ族のイングリッシュホルン(コーラングレ)やクラリネット族のバセットホルンなどがある。これらも金管楽器のホルンとは直接の関係はない。
ポストホルンもホルンとは異なる楽器である。郵便ラッパを参照。
ホルンはカタツムリのような形状に巻かれた円錐状の管と、3つから5つの、通常はロータリー式のバルブ(弁)を持つ。ヘ調と変ロ調の調性を持った楽器があり、それぞれF管、B♭管と呼ばれるが、一般的には、それらを一つに組み合わせ「切換バルブ」と呼ばれる特殊なバルブで切り換えられるものが多用される。単一の調性の楽器をシングル・ホルン、2つの調性を持つものをダブル・ホルンと言って区別するが、ダブル・ホルンに一般的なヘ調より1オクターヴ高い「ハイF」などを追加したトリプル・ホルンと呼ばれるものも存在する。
ホルンは中音域の楽器だが、管長は約4メートルと長く、B♭トロンボーン(3メートル弱)よりも長い。これはホルンが他の金管楽器より高次の倍音を利用することによる。これによってバルブを使わなくても多くの音を出すことができ、またグリッサンドのような奏法も可能になるが、その一方で音を外しやすい欠点がある。マウスピースに近い部分では管の直径はトランペットなどより細い。マウスピース自体も円錐形で、トランペットが浅い椀型であるのと大きく異なる。
ホルンの管体は0.3-0.5mm程度の薄い真鍮素材で作られている。ホルンの管体部はその真円形状を保つため、高温で溶かした鉛やタールなどの充填材を流し込み、曲げ加工の後その充填材を取り除く形で制作される。大量生産の場合には管体に水を通してそのまま凍結し、曲げ加工の後氷を融かして外に出し、管体を型にはめて内部から圧力をかけることで完全な形に仕上げる工法が取られている場合もある。
シングル・ホルン(Single Horn)は、単一調の管のみによって構成される形態をとる。一般にヘ調または変ロ調の管を用い、それぞれFシングル・ホルン、B♭シングル・ホルンと呼ばれる。楽器が軽くて扱いやすいほか、構造が比較的簡単なため価格が安く、特にFシングルのものはナチュラル・ホルンに最も近い音を出すことができる。また、B♭シングルのものは軽い吹奏感が好まれる。
Fシングル・ホルンは、音色は良いものの、管が長く高音の倍音間隔が狭いためミスを起こしやすく、操作性が悪い。一方、B♭シングル・ホルンは、F管に比べて操作性は良いが、音色が劣る。両方の利点を組み合わせたダブル・ホルンの誕生と普及により、シングル・ホルンはあまり使用されなくなっている。
また、通常のF管より1オクターヴ高い音域を演奏できるHigh-F管(F-Alto管)のものをデスカント・ホルン(Descant Horn)と呼ぶ。管長が通常のFシングル管の半分しかなく、倍音の間隔が広いため、高音域の操作性がB♭管や通常のF管よりも高くなる。しかし操作性と引き換えに音色はB♭管や通常のF管よりも劣る。バッハのブランデンブルク協奏曲のような高音域が使用される曲の演奏にはこのデスカント・ホルンが用いられることがある。
ダブル・ホルン(Double Horn)は、1本の楽器で2種類の調性を切り替えられるようにしたものである。1897年にドイツ・エアフルトのフリッツ・クルスペ(Fritz Kruspe)によって発明され、現在主流の楽器として使用されている。切り替えの方式により次の2種類がある。
ダブルホルンでは親指のレバーで2種類の調性を切り替える。2種類の調性の取り合わせには様々なものがあり、F管とB♭管を組み合わせたF/B♭ダブルホルンが一般的であるが、B♭管とデスカント・ホルン(High-F管)を組み合わせたデスカント・ダブル・ホルンなども存在する。
トリプル・ホルン(Triple Horn)とは、1本の楽器で3種類の調性を切り替えられるようにしたものであり、1965年にイギリス・ロンドンのパックスマン社(Paxman)によって開発された。高音域を演奏し易いが中低音域の音色が劣るHigh-F管、中低音域の音色は優れているが高音域の演奏が難しいF管、そして両者の中間の性質を持つB♭管の3つを組み込むことで、多様なジャンルの楽曲で要求される幅広い音域に1本の楽器で対応することが可能となる。
しかし、トリプル・ホルンは高価であり、楽器が重く長時間の演奏には体力を要する。その重量と複雑な管体レイアウトのため、独特のボリューム感のある音色となり、バロック音楽などで求められる軽く明るい音を出すのが難しい。これらの問題のため、トリプル・ホルンはあまり広く普及しておらず、さらなる改良が望まれている。
ウィンナ・ホルン(ヴィーナー・ホルン)はウィンナ・バルブ(あるいはダブルピストン・バルブ、プンペン式バルブ)と呼ばれる特殊な旧式のバルブを備えている。またナチュラル・ホルンのコール・ドルケストルと同様に、円形のボーゲンと呼ばれる独特のマウスパイプが装着されている。19世紀中頃から構造や形状が進化しておらず、一種の古楽器とみることができる。音色は暗く重く、より自然ホルンに近い。フォルテで音が楽に割れやすく、物理的な音量をあまり上げずにフォルテッシモのような響きを作ることができる。このため、声を覆い隠さないオペラの伴奏に適している。F-シングルホルンであるため高音の倍音間隔が狭く、ミスを起こしやすい。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、このウィンナ・ホルン(F管シングル・ホルン)を原則として使用している。
19世紀前半まではバルブを持たず、自然倍音のみを発音できるナチュラル・ホルンが用いられた。この楽器では普通の状態では自由に半音階を演奏することはできない。バロックから古典派前期のホルンのパートが比較的単純な音形に限られるのはこのためでもある。18世紀中期に、ハンドテクニックの開発すなわちベルの中の右手の位置を変える事により、自然倍音から音程を最大で長2度上昇もしくは下降させる奏法(ストップ奏法)が考案され、この技法と管体自体の調性を変えることで、開放音とストップ音、ハーフ・ミュートなどによる音色の犠牲はあるものの、半音階をある程度演奏できるようになった。この時代からソリストとして活躍する奏者が現れ出す。楽器も独奏者用のコール・ソロとオーケストラ奏者用のコール・ドルケストルの2種類に分かれ、前者の演奏家はサロンでもてなされ、後者は台所でビールを傾けるなど、身分的な差もあった。
ハイドンやモーツァルトの協奏曲はこのような時代に書かれた。しかし、1814年のバルブの出現により、ナチュラル・ホルンは次第にバルブ付きホルンに取って代わられることとなる。それでもフランスのホルン奏者は、バルブ付きのホルンを好まずナチュラルホルンを愛用したため、ロマン派時代でもナチュラルホルンのために作曲されていることも多い。自身もホルンを演奏したブラームスは、当時のドイツでは殆どバルブホルンに代わっていたにもかかわらず、ナチュラルホルンを好んだ。ブラームスの管弦楽作品におけるホルンパートは、ナチュラルホルンを意識した擬古的な書き方になっている。また彼のホルン・トリオは完全にナチュラルホルンのために作曲されている。デュカスがパリ国立高等音楽院のホルン科の試験のために作曲した「ホルンとピアノのための『ヴィラネル』」には、前半部にSans pistons(ピストンなしで)という指定があり、この部分はピストンホルンを使いつつもストップ奏法のみで演奏されるようになっている。作曲当時、同音楽院のナチュラルホルン専攻コースはすでに閉鎖されていたが、ホルン科の学生は専攻コースが無くなった後もナチュラルホルンを並行して学んでいたことが分かる。
ナチュラルホルンは現代の古楽復興の流れの中、ヘルマン・バウマンがモーツァルトの協奏曲集が録音してから、様々な演奏家によって演奏されるようになっている。創立当時より優れたホルン奏者を育ててきた前述のパリ国立高等音楽院のナチュラルホルン専攻のコースは、ピストンホルンの普及とともに19世紀末に廃止されたが、近年のピリオド・アプローチの復活とともに、パリ管弦楽団首席奏者のミッシェル・ガルサン=マルーによって数年前に再開された。彼の定年退職後、現在はクロード・モリーが教授として指導にあたっている。また日本人ホルン奏者根本雄伯もパリ郊外カシャン市の国立音楽院でナチュラルホルンを教えている。
再現楽器の中には、本来のナチュラルホルンには存在しなかったが、正しい音程を出すのを助けるための穴がいくつかあけられているものがある。
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"text": "近代西洋の金管楽器をとくに指すために、英語圏でfrench hornと呼ばれることがあり、日本語でもそれにならってフレンチ・ホルンとも呼ばれる。この語は1742年にはじめて見られ、おそらくフランス起源の楽器と認識されていたためであろう。フランス語では「cor d'harmonie」(管楽器のホルン)、ドイツ語では「Waldhorn」(森のホルン)という語も用いられる。",
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"text": "ホルンと名のつく金管楽器には、サクソルン族のフリューゲルホルン、アルトホルン、テナーホルンなども有るが、これらはマウスピースやバルブの構造、管体の形状からホルンとは区別される。マーチングなどでホルンの代わりなどに使われるメロフォンは外観はホルンに似ているが別の楽器である。またホルンを名前に含む木管楽器にはオーボエ族のイングリッシュホルン(コーラングレ)やクラリネット族のバセットホルンなどがある。これらも金管楽器のホルンとは直接の関係はない。",
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ホルンは、金管楽器の一種である。トランペット、トロンボーン、チューバなどともに近代西洋の金管楽器の主要な楽器のひとつであり、漏斗型のマウスピース、円錐を主体とした長い丸められた管、直径約30cmに達するベル(朝顔)を持つ。他の金管楽器よりも多くの倍音を出すことができる。 金管楽器であるが、音色のやわらかさから金管楽器のみならず木管楽器ともよく調和する。通常の木管五重奏では標準的にホルンが加えられている。
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{{Otheruses}}
{{Infobox 楽器
|楽器名 = ホルン
|その他の名称 =
|英語名 = Horn (French horn)
|ドイツ語名 = Waldhorn
|フランス語名 = Cor d'harmonie, Cor français
|イタリア語名 = Corno
|中国語名 = 法國號, 圓號
|画像 = ファイル:French horn front.png
|画像サイズ = 240px
|画像の説明 = ダブル・ホルン
|分類 = [[金管楽器]]
|音域 = F管:[[完全五度]]高く記譜[[ファイル:Range frenchhorn.png|150px|center]]
|関連楽器 =
* [[ワグナーチューバ]]
* [[コルネット]]
* [[フリューゲルホルン]]
* [[メロフォン]]
| 演奏者 = [[クラシック音楽の演奏家一覧#ホルン奏者|クラシック音楽#ホルン奏者]]
| 関連項目 =
|}}
'''ホルン'''は、[[金管楽器]]の一種である。[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[チューバ]]などともに近代西洋の金管楽器の主要な楽器のひとつであり、[[漏斗]]型の[[マウスピース]]、円錐を主体とした長い丸められた管、直径約30cmに達するベル(朝顔)を持つ。他の金管楽器よりも多くの[[倍音]]を出すことができる。
金管楽器であるが、音色のやわらかさから金管楽器のみならず[[木管楽器]]ともよく調和する。通常の[[木管五重奏]]では標準的にホルンが加えられている。
== 名称 ==
ホルン([[英語]] horn、[[ドイツ語]] Horn)は[[イタリア語]]でcorno(コルノ)、[[フランス語]]ではcor(コール)と言い、いずれも動物の角を意味するが、古くから「[[角笛]]」を意味してもいた。広義のホルン(角笛)はかつて動物の角、ほら貝、金属などで作られた。[[トランペット]]との違いは通常トランペットの管が円筒を主体にするのに対し、ホルンが円錐を主にすることにあると言われるが、現代のトランペットは円錐部分が増え、もはやこの区別は成り立たなくなっている。[[楽器分類学|ザックス=ホルンボステル分類]]ではホルンはトランペット類の一種と見なされる<ref name="newgrove2">{{cite book|chapter=Horn|title=New Grove Dictionary of Music and Musicians|editor=Stanley Sadie|edition=2nd|volume=11|publisher=Macmillan Publishers|year=2001|isbn=1561592390|pages=709-725}}</ref>。
近代西洋の金管楽器をとくに指すために、英語圏でfrench hornと呼ばれることがあり、日本語でもそれにならって'''フレンチ・ホルン'''とも呼ばれる。この語は1742年にはじめて見られ<ref>{{cite book|chapter=French|editor=Robert K. Barnhart|title=Chambers Dictionary of Etymology|publisher=Chambers|year=1988|isbn=0550142304|page=407}}</ref>、おそらくフランス起源の楽器と認識されていたためであろう<ref name="newgrove2"/>。フランス語では「cor d'harmonie」(管楽器のホルン)、ドイツ語では「Waldhorn」(森のホルン)という語も用いられる。
ホルンと名のつく[[金管楽器]]には、[[サクソルン]]族の[[フリューゲルホルン]]、[[アルトホルン]]、[[テナーホルン]]なども有るが、これらは[[マウスピース (楽器)|マウスピース]]や[[金管楽器#バルブ|バルブ]]の構造、管体の形状からホルンとは区別される。マーチングなどでホルンの代わりなどに使われる[[メロフォン]]は外観はホルンに似ているが別の楽器である。またホルンを名前に含む[[木管楽器]]には[[オーボエ]]族の[[イングリッシュホルン]](コーラングレ)や[[クラリネット]]族の[[バセットホルン]]などがある。これらも金管楽器のホルンとは直接の関係はない。
ポストホルンもホルンとは異なる楽器である。[[郵便ラッパ]]を参照。
== 構造 ==
[[ファイル:French horn.jpg|thumb|right|240px|フレンチ・ホルン]]
ホルンは[[カタツムリ]]のような形状に巻かれた円錐状の管と、3つから5つの、通常は[[ロータリーバルブ#金管楽器における利用|ロータリー式のバルブ(弁)]]を持つ。ヘ調と変ロ調の調性を持った楽器があり、それぞれF管、B♭管と呼ばれるが、一般的には、それらを一つに組み合わせ「切換バルブ」と呼ばれる特殊なバルブで切り換えられるものが多用される。単一の調性の楽器をシングル・ホルン、2つの調性を持つものをダブル・ホルンと言って区別するが、ダブル・ホルンに一般的なヘ調より1[[オクターヴ]]高い「ハイF」などを追加したトリプル・ホルンと呼ばれるものも存在する。
ホルンは中音域の楽器だが、管長は約4メートルと長く、B{{flat}}[[トロンボーン]](3メートル弱)よりも長い。これはホルンが他の金管楽器より高次の倍音を利用することによる。これによってバルブを使わなくても多くの音を出すことができ、またグリッサンドのような奏法も可能になるが、その一方で音を外しやすい欠点がある。マウスピースに近い部分では管の直径はトランペットなどより細い。マウスピース自体も円錐形で、トランペットが浅い椀型であるのと大きく異なる。
ホルンの管体は0.3-0.5mm程度の薄い[[真鍮]]素材で作られている。ホルンの管体部はその真円形状を保つため、高温で溶かした[[鉛]]や[[タール]]などの充填材を流し込み、曲げ加工の後その充填材を取り除く形で制作される。大量生産の場合には管体に水を通してそのまま凍結し、曲げ加工の後氷を融かして外に出し、管体を型にはめて内部から圧力をかけることで完全な形に仕上げる工法が取られている場合もある。
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File:French Horn back.svg|構造図
File:Einzelteile-Waldhorn1.jpg|分解写真
File:French-horn.png|ピストンを備えた、古い型のホルン
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=== シングル・ホルン ===
[[ファイル:Yamaha Horn YHR-314II.tif|thumb|right|240px|Fシングル・ホルン]]
シングル・ホルン(Single Horn)は、単一調の管のみによって構成される形態をとる。一般にヘ調または変ロ調の管を用い、それぞれFシングル・ホルン、B♭シングル・ホルンと呼ばれる。楽器が軽くて扱いやすいほか、構造が比較的簡単なため価格が安く、特にFシングルのものは[[#ナチュラル・ホルン|ナチュラル・ホルン]]に最も近い音を出すことができる。また、B♭シングルのものは軽い吹奏感が好まれる。
Fシングル・ホルンは、音色は良いものの、管が長く高音の倍音間隔が狭いためミスを起こしやすく、操作性が悪い。一方、B♭シングル・ホルンは、F管に比べて操作性は良いが、音色が劣る。両方の利点を組み合わせたダブル・ホルンの誕生と普及により、シングル・ホルンはあまり使用されなくなっている。
また、通常のF管より1オクターヴ高い音域を演奏できるHigh-F管(F-Alto管)のものを'''デスカント・ホルン'''(Descant Horn)と呼ぶ。管長が通常のFシングル管の半分しかなく、倍音の間隔が広いため、高音域の操作性がB♭管や通常のF管よりも高くなる。しかし操作性と引き換えに音色はB♭管や通常のF管よりも劣る。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[ブランデンブルク協奏曲]]のような高音域が使用される曲の演奏にはこのデスカント・ホルンが用いられることがある。
=== ダブル・ホルン ===
[[ファイル:French horn-dbrandon.jpg|thumb|right|240px|F/B♭管]]
ダブル・ホルン(Double Horn)は、1本の楽器で2種類の調性を切り替えられるようにしたものである。[[1897年]]に[[ドイツ]]・[[エアフルト]]のフリッツ・クルスペ([[:en:Ed. Kruspe|Fritz Kruspe]])によって発明され<ref>Anthony C. Baines, ''The Oxford Companion to Musical Instruments'', Oxford University Press, 1992, ISBN 0193113341, 163頁。</ref>、現在主流の楽器として使用されている。切り替えの方式により次の2種類がある。
;セミダブル
:セミダブル(Compensating double)式は、高い方の調性の楽器に、低い方の調性を演奏できるようにするための迂回管(これを補正管と呼ぶ)を追加することによって、2つの調性の音を演奏できるように改良したものである(補正ピッチ方式)。
;フルダブル
:フルダブル(Full-double)式は、それぞれ独立した2つの調性をバルブで切り替えて使用する楽器である。セミダブル式の場合と違い、一方の調性を使用している時にはもう一方の管は迂回しない。セミダブル式よりも楽器の重量は増すが、低い方の調性の音色がよりシングルホルンに近いものになるという長所を持つ。
ダブルホルンでは親指のレバーで2種類の調性を切り替える。2種類の調性の取り合わせには様々なものがあり、F管とB♭管を組み合わせたF/B♭ダブルホルンが一般的であるが、B♭管とデスカント・ホルン(High-F管)を組み合わせたデスカント・ダブル・ホルンなども存在する。
=== トリプル・ホルン ===
トリプル・ホルン(Triple Horn)とは、1本の楽器で3種類の調性を切り替えられるようにしたものであり、[[1965年]]に[[イギリス]]・[[ロンドン]]のパックスマン社([[:en:Paxman Musical Instruments|Paxman]])によって開発された<ref>Stanley Sadie, Alison Latham, ''The Cambridge Music Guide'', Cambridge University Press, 1990, ISBN 0521399424, 50 - 51頁。</ref>。高音域を演奏し易いが中低音域の音色が劣るHigh-F管、中低音域の音色は優れているが高音域の演奏が難しいF管、そして両者の中間の性質を持つB♭管の3つを組み込むことで、多様なジャンルの楽曲で要求される幅広い音域に1本の楽器で対応することが可能となる。
しかし、トリプル・ホルンは高価であり、楽器が重く長時間の演奏には体力を要する。その重量と複雑な管体レイアウトのため、独特のボリューム感のある音色となり、[[バロック音楽]]などで求められる軽く明るい音を出すのが難しい。これらの問題のため、トリプル・ホルンはあまり広く普及しておらず、さらなる改良が望まれている。
== ウィンナ・ホルン ==
[[ファイル:Viennese horn.jpg|thumb|right|240px|ウィンナ・ホルン]]
ウィンナ・ホルン(ヴィーナー・ホルン)はウィンナ・バルブ(あるいはダブルピストン・バルブ、プンペン式バルブ)と呼ばれる特殊な旧式のバルブを備えている。また[[#ナチュラル・ホルン|ナチュラル・ホルンのコール・ドルケストル]]と同様に、円形のボーゲンと呼ばれる独特のマウスパイプが装着されている。19世紀中頃から構造や形状が進化しておらず、一種の古楽器とみることができる。音色は暗く重く、より自然ホルンに近い。フォルテで音が楽に割れやすく、物理的な音量をあまり上げずにフォルテッシモのような響きを作ることができる。このため、声を覆い隠さない[[オペラ]]の伴奏に適している。F-シングルホルンであるため高音の倍音間隔が狭く、ミスを起こしやすい。
[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]は、このウィンナ・ホルン(F管シングル・ホルン)を原則として使用している。
== ナチュラル・ホルン ==
[[ファイル:Natural Horn (instrument).JPG|thumb|right|240px|ナチュラル・ホルン Victoria & Albert Museum, London.]]
[[ファイル:Cor naturel.JPG|thumb|right|240px|ナチュラルホルン]]
19世紀前半まではバルブを持たず、自然倍音のみを発音できるナチュラル・ホルンが用いられた。この楽器では普通の状態では自由に[[半音階]]を演奏することはできない。[[バロック音楽|バロック]]から[[古典派音楽|古典派]]前期のホルンのパートが比較的単純な音形に限られるのはこのためでもある。18世紀中期に、ハンドテクニックの開発すなわちベルの中の右手の位置を変える事により、自然倍音から音程を最大で長2度上昇もしくは下降させる奏法([[ゲシュトップフト|ストップ奏法]])が考案され、この技法と管体自体の調性を変える<!--(管長が短い順にB♭、A、G、F、E♭、D、C) / これだけではない。例えば他にC-alto、A♭、E、B♭-bassoなどの替管もある。このへんは製作者ごとの違いもあるのでコメントアウト。-->ことで、開放音とストップ音、ハーフ・ミュートなどによる音色の犠牲はあるものの、半音階をある程度演奏できるようになった。この時代からソリストとして活躍する奏者が現れ出す。楽器も独奏者用のコール・ソロとオーケストラ奏者用のコール・ドルケストルの2種類に分かれ、前者の演奏家はサロンでもてなされ、後者は台所でビールを傾けるなど、身分的な差もあった。
[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の協奏曲はこのような時代に書かれた。しかし、1814年のバルブの出現により、ナチュラル・ホルンは次第にバルブ付きホルンに取って代わられることとなる。それでもフランスのホルン奏者は、バルブ付きのホルンを好まずナチュラルホルンを愛用したため、ロマン派時代でもナチュラルホルンのために作曲されていることも多い。自身もホルンを演奏した[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]は、当時のドイツでは殆どバルブホルンに代わっていたにもかかわらず、ナチュラルホルンを好んだ。ブラームスの管弦楽作品におけるホルンパートは、ナチュラルホルンを意識した擬古的な書き方になっている。また彼のホルン・トリオは完全にナチュラルホルンのために作曲されている。<!--大学祝典序曲のゲシュトプフトの部分はバルブがついていないと演奏が困難。従って「全てのオーケストラ曲をナチュラルホルンで演奏できるように書いていた」とは考えられない。「バルブホルンが使用される」ことを認めた上で、「ナチュラルホルン的」な書き方をしているのだと思われる。-->[[ポール・デュカス|デュカス]]が[[パリ国立高等音楽院]]のホルン科の試験のために作曲した「ホルンとピアノのための『ヴィラネル』」には、前半部に''Sans pistons''(ピストンなしで)という指定があり、この部分はピストンホルンを使いつつもストップ奏法のみで演奏されるようになっている。作曲当時、同音楽院のナチュラルホルン専攻コースはすでに閉鎖されていたが、ホルン科の学生は専攻コースが無くなった後もナチュラルホルンを並行して学んでいたことが分かる。
ナチュラルホルンは現代の古楽復興の流れの中、[[ヘルマン・バウマン]]がモーツァルトの協奏曲集が録音してから、様々な演奏家によって演奏されるようになっている。創立当時より優れたホルン奏者を育ててきた前述の[[パリ国立高等音楽院]]のナチュラルホルン専攻のコースは、ピストンホルンの普及とともに19世紀末に廃止されたが、近年のピリオド・アプローチの復活とともに、[[パリ管弦楽団]]首席奏者のミッシェル・ガルサン=マルーによって数年前に再開された。彼の定年退職後、現在はクロード・モリーが教授として指導にあたっている。また日本人ホルン奏者[[根本雄伯]]もパリ郊外カシャン市の国立音楽院でナチュラルホルンを教えている。
再現楽器の中には、本来のナチュラルホルンには存在しなかったが、正しい音程を出すのを助けるための穴がいくつかあけられているものがある<ref>{{cite journal|url=https://www.seraphinoff.com/content.php?p=bf9e6fd4-be82-47b8-a5b2-fddc3354f6a0|author=Richard Seraphinoff|year=1996|title=Nodal Venting on the Baroque Horn: A Study in Non-Historical Performance Practice|journal=The Horn Call|volume=27|issue=1}}</ref>。
== ホルンが活躍する楽曲 ==
=== クラシック音楽 ===
; ホルン協奏曲等
* [[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]:ホルン協奏曲 TWV 51:D8
* [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]:ホルン協奏曲第1番 Hob. VIId/3、第2番 Hob. VIId/4(真偽未確定)、2つのホルンのための協奏曲 Hob. VIId/6 (真偽未確定、実弟の[[ヨハン・ミヒャエル・ハイドン|ミヒャエル・ハイドン]]あるいは[[フランティシェク・アントニーン・レスレル|ロセッティ]]作曲との説あり)
* [[アントニオ・ロセッティ|ロセッティ]]:ホルン協奏曲(多数作曲)
* [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:[[ホルン協奏曲 (モーツァルト)|ホルン協奏曲第1番-第4番]]、[[オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲]](偽作)
* [[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]:[[ホルン小協奏曲 (ウェーバー)|ホルン小協奏曲]] op.45
* [[ロベルト・シューマン|シューマン]]:[[4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック]] ヘ長調 op.86
* [[フランツ・シュトラウス]]:ホルン協奏曲 op.8
* [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]:[[ホルンと管弦楽のための演奏会用小品]] ヘ短調 op.94
* [[リヒャルト・シュトラウス]]:[[ホルン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|ホルン協奏曲第1番 op.11、第2番 AV132]]
* [[レインゴリト・グリエール|グリエール]]:[[ホルン協奏曲 (グリエール)|ホルン協奏曲]] op.91
* [[オトマール・シェック|シェック]]:ホルン協奏曲 op.65
* [[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]:ホルン協奏曲
; 管弦楽曲・オペラ・バレエ等
* テレマン:組曲「アルスター」TWV55:F11
* [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]:歌劇「[[エジプトのジュリアス・シーザー|ジュリアス・シーザー]]」 HWV17 - "Va tacito"
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]
** [[ミサ曲 ロ短調]] BWV232 - "Quoniam tu solus sanctus"
** [[ブランデンブルク協奏曲]]第1番 BWV1046
* ハイドン:[[交響曲第31番 (ハイドン)|交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」]] - 第2楽章
* モーツァルト
** [[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]] - 第3楽章トリオ
** 歌劇「[[ポントの王ミトリダーテ]]」 - シファーレのアリア
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]
** [[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]] - 第3楽章トリオ
** [[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]] - 第3楽章
** [[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]] - 第3楽章、第5楽章冒頭
** [[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]] - 第1楽章第1主題、第4楽章
** [[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]] - 第3楽章トリオ
** [[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]] - 第2楽章トリオ、第3楽章
** 歌劇「[[フィデリオ]]」 - 序曲
* ウェーバー
** 歌劇「[[魔弾の射手]]」 - 序曲導入部
** 歌劇「[[オベロン (オペラ)|オベロン]]」 - 序曲冒頭
* [[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]
** 歌劇「[[イタリアのトルコ人]]」 - 序曲導入部
** 歌劇「[[セミラーミデ]]」 - 序曲導入部
** 歌劇「[[セビリアの理髪師]]」 - 序曲導入部および主部
* [[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲第8番「ザ・グレート」]] - 第1楽章冒頭
* [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]
** [[交響曲第4番 (メンデルスゾーン)|交響曲第4番「イタリア」]] - 第3楽章トリオ
** [[夏の夜の夢 (メンデルスゾーン)|夏の夜の夢]] - 夜想曲
* [[フレデリック・ショパン|ショパン]]:[[ピアノ協奏曲第2番 (ショパン)|ピアノ協奏曲第2番]] - 第3楽章
* [[フランツ・リスト|リスト]]:[[前奏曲 (リスト)|交響詩「前奏曲」]]
* [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]
** 歌劇「[[タンホイザー]]」 - 序曲冒頭、第1幕第4場
** 楽劇「[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]」 - 第2幕第2場
* [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]
** [[交響曲第4番 (ブルックナー)|交響曲第4番]] - 第1楽章冒頭、第3楽章冒頭
** [[交響曲第6番 (ブルックナー)|交響曲第6番]] - 第3楽章トリオ
** [[交響曲第9番 (ブルックナー)|交響曲第9番]] - 第1楽章冒頭
* [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]
** [[セレナード (ブラームス)|セレナード第1番]] - 第5楽章スケルツォ
** [[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]] - 第2楽章、第4楽章
** [[交響曲第2番 (ブラームス)|交響曲第2番]] - 第1楽章コーダ、第2楽章
** [[交響曲第3番 (ブラームス)|交響曲第3番]] - 第3楽章
** [[交響曲第4番 (ブラームス)|交響曲第4番]] - 第2楽章冒頭
* サン=サーンス:[[ピアノ協奏曲第1番 (サン=サーンス)|ピアノ協奏曲第1番]] - 第1楽章
* [[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]:歌劇「[[カルメン (オペラ)|カルメン]]」 - 第3幕第1場、ミカエラのアリア「もう恐れはしない」
* [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]
** バレエ音楽「[[くるみ割り人形]]」 - 花のワルツ
** [[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]] - 第1楽章冒頭
** [[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]] - 第2楽章
* [[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]] - 第1楽章
* [[エンゲルベルト・フンパーディンク|フンパーディンク]]:歌劇「[[ヘンゼルとグレーテル (オペラ)|ヘンゼルとグレーテル]]」 - 序曲
* [[グスタフ・マーラー|マーラー]]
** [[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番]] - 第1楽章、第2楽章、第4楽章
** [[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番]] - 第1楽章
** [[交響曲第3番 (マーラー)|交響曲第3番]] - 第1楽章冒頭
** [[交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番]] - 第1楽章
** [[交響曲第5番 (マーラー)|交響曲第5番]] - 第3楽章、第5楽章冒頭
** [[交響曲第6番 (マーラー)|交響曲第6番]] - 第1楽章
** [[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番]] - 第2楽章冒頭
** [[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]] - 第1楽章
* リヒャルト・シュトラウス
** [[アルプス交響曲]]
** 交響詩「[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]」
** 交響詩「[[英雄の生涯]]」
** 交響詩「[[アルプス交響曲]]」
** 楽劇「[[ばらの騎士]]」 - 第1幕前奏曲冒頭
** 楽劇「[[カプリッチョ]]」 - 月光の音楽(最終場前の間奏曲)
* [[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]
** 「[[亡き王女のためのパヴァーヌ]]」
** [[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲ト長調]] - 第1楽章中間部
* [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]:バレエ音楽「[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]」 - 終曲
* [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]:組曲「[[ピーターと狼]]」 - 狼のテーマ
* [[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]:バレエ音楽「[[ガイーヌ]]」 - レスギンカ
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]
** [[交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第5番]] - 第1楽章展開部、第2楽章、第4楽章
** [[交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第10番]] - 第3楽章
** [[チェロ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|チェロ協奏曲第1番]]
; 独奏曲・室内楽
* モーツァルト
** [[12の二重奏曲|ホルンのための12の二重奏]] K.487
** [[ホルン五重奏曲 (モーツァルト)|ホルン五重奏曲]] K.407(ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ2、チェロ)
** [[ピアノと管楽のための五重奏曲 (モーツァルト)|ピアノと管楽器のための五重奏曲]] K.452(ピアノ、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
** [[ディヴェルティメント第17番 (モーツァルト)|ディヴェルティメント第17番]] K.334(ホルン2、[[弦楽合奏|弦五部]])
* ベートーヴェン
** ホルン・ソナタ op.17(ホルン、[[ピアノ]])
** [[六重奏曲 (ベートーヴェン)|六重奏曲]] op.81b([[ヴァイオリン]]2、[[ヴィオラ]]、[[チェロ]]、ホルン2)
** 六重奏曲 op.71([[クラリネット]]2、ホルン2、[[ファゴット]]2)
** [[七重奏曲 (ベートーヴェン)|七重奏曲]] op.20(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、[[コントラバス]]、クラリネット、ホルン、ファゴット)
** [[ピアノと管楽のための五重奏曲 (ベートーヴェン)|ピアノと管楽器のための五重奏曲]] op.16(ピアノ、[[オーボエ]]、クラリネット、ホルン、ファゴット)
* [[アントニーン・レイハ|ライヒャ]]:大五重奏曲(ホルン、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
* ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ
** 序奏、主題と変奏(ホルン、ピアノ)
** 管楽四重奏曲(6曲 [[フルート]]、クラリネット、ホルン、ファゴット)
* シューベルト
** 『流れの上で』(''Auf den Strom'' )D.943([[ソプラノ]]、ホルン、ピアノ)
** [[八重奏曲 (シューベルト)|八重奏曲]] D.803(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ホルン、ファゴット)
* [[ロベルト・シューマン|シューマン]]
** [[アダージョとアレグロ (シューマン)|アダージョとアレグロ]] op.70 (ホルン、ピアノ)
** [[アンダンテと変奏曲 (シューマン)|アンダンテと変奏曲]] op.46(ホルン、チェロ2、ピアノ2)
* フランツ・シュトラウス:ノクターン(ホルン、ピアノ) op.7
* ブラームス:[[ホルン三重奏曲 (ブラームス)|ホルン三重奏曲]] op.40(ヴァイオリン、ホルン、ピアノ)
* リヒャルト・シュトラウス
** アンダンテ(ホルン、ピアノ)AV86a
** 序奏、主題と変奏(ホルン、ピアノ)AV52
** [[13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス)|13管楽器のためのセレナード]] op.7(フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、コントラファゴットまたはチューバ)
* [[ポール・デュカス|デュカス]]:ヴィラネル(田園詩、''Villanelle'' ホルン、ピアノ)
* ヒンデミット
** ホルン・ソナタ(ホルン、ピアノ)
** ホルン四重奏曲(ホルン4)
* [[フランシス・プーランク|プーランク]]
** エレジー(ホルン、ピアノ)
** 六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
** ホルンとトランペットとトロンボーンのためのソナタ
* [[ウジェーヌ・ボザ|ボザ]]
** ホルンとピアノのための「森にて」op.40(ホルン、ピアノ)
** 4本のホルンのための組曲(ホルン4)
; 声楽曲
* シューベルト:森の夜の歌 D.913(男声合唱、ホルン4)
* シューマン:狩の歌 作品137(男声合唱、ホルン4)
* ブラームス:4つの歌 作品17(女声合唱、ホルン2、ハープ)
* リヒャルト・シュトラウス:アルプホルン(ソプラノ、ホルン、ピアノ)
=== ポピュラー音楽、主題歌等 ===
* [[ビートルズ]]『[[フォー・ノー・ワン]]』
* [[冬木透]]『[[ウルトラセブン#音楽|ウルトラセブンの歌]]』
== 主なメーカー ==
; 日本
:* [[ヤマハ]]
; ドイツ
:* [[アレキサンダー (楽器メーカー)|アレキサンダー]]
:* [[ハンスホイヤー]]
:* E.シュミット
:* クルスペ
:* メーニッヒ
:* クノッフ
:* ヴェンツェル・マインル
:* D.オットー
; アメリカ
:* ホルトン 《ホルトン社は1964年に[[ルブラン (楽器メーカー)|ルブラン]]社へ経営権を委託》
:* コーン
; イギリス
:* パックスマン
; 台湾
:* ジュピター
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{commons|Category:Horns}}
* [[コルノ・ダ・カッチャ]]
* [[ゲシュトップフト]]
* [[管楽器]]
* [[金管楽器の一覧]]
** [[アルトホルン]]
* [[バズィング]]
* [[アンブシュア]]
== 外部リンク ==
*[https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/horn/ YAMAHA楽器解体全書]
*[http://jhs.horn.jp/ 日本ホルン協会]
{{オーケストラの楽器}}
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[[Category:ホルン|*]]
[[Category:金管楽器]]
[[Category:無形文化遺産]]
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10,608 |
CD-ROM2
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CD-ROMとは、1988年12月4日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器及びシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。読み方は「シーディーロムロム」。愛称は「ロム・ロム」。
欧米市場ではTurboGrafx-CD(ターボグラフィックスシーディー)の商品名で発売された。
家庭用ゲーム機としては世界初となる光学ドライブを搭載し、CD-ROMをゲームソフトとして採用したプラットフォームである。
CD-ROM及びSUPER CD-ROMの普及により、PCエンジンのソフト供給はCD-ROMへ移行していく事になる。
1987年10月1日インテックス大阪で開催された「'87エレクトロニクスショー」でプロトタイプとなるPCエンジン用CD-ROMユニットが初出品される。この時出品されたCD-ROMユニットは本体が青色で、CD-ROMドライブとインターフェイスユニットは一体化されており、PCエンジンはフロント右側に空けられたベイに挿入する形状だった。CD-ROMドライブはキャディカートリッジを使用したフロントローディングが採用されていた。デモ用のソフトとしては「大通公園殺人事件」という、画面がスチル写真のアドベンチャーゲームが使用されていた。
1988年6月16日にはプレス向け発表会を実施。続けて1988年6月16 - 19日に開催された「'88東京おもちゃショー」で一般公開された。形状は製品版とほぼ変わらないが、PCエンジンユニットが挿さる部分のサイド形状や各所のシルク印刷に若干の違いがあった。この時点で『天外魔境』は本体と同時発売と発表された。
発売時にはストリートファイターの家庭用初移植となる『ファイティング・ストリート』と、世界初の芸能人の実写画像や生音声による歌を収録したゲーム『No・Ri・Ko』がロンチの目玉となったものの、非常に高価なシステムであったため当初はほとんど普及しなかった。その後、1989年6月発売の『天外魔境 ZIRIA』を皮切りに、同年12月発売の『イースI・II』、1990年3月発売の『スーパーダライアス』など人気タイトルを連ねることでCD-ROMの持つ性能が認知され、ゲーム機に高額を投資できるマニア層をメインに普及していった。
成熟期にはHuCARDとCD-ROMで同一タイトルをリリースし、CD-ROM版は追加要素を付けて内容を豪華にする差別化も見られた。
PCエンジン本体背面に拡張バスを持つ機種に直接接続が可能だが、PCエンジンスーパーグラフィックスのみ形状の問題から接続アダプタRAU-30が必須である。
発売当時のCDプレーヤーは音響機器扱いで物品税がかけられていた。そのため、課税されるCD-ROMユニット(32,800円)と非課税のインターフェースユニット(システムカード付属、27,000円)を別売にすることで価格を抑えた。 1989年4月より消費税が導入されたのに伴い物品税が廃止されたことで分ける必要がなくなったため、1パッケージでのセット売りに変更された(セットでの価格は57,300円)。
CD-ROMプレイヤーとインターフェースユニットが同梱して発売された際にCD-ROMプレイヤーは型番を削除された。なお型番の最後に"A"が付けられた物はCDアクセスエラー対策として内部基板などへのアース処理が強化されている。
本機発売当時、ファミリーコンピュータのロムカセットの容量が数100KBであったのに対して、本機で採用されたCD-ROMは540MBの大容量である。そのため音楽CDと同様にCD-DAによる音楽再生または声優によるアフレコをゲームと同時に出力することが可能になった。またCDは再プレスが容易であり、一度原版ができればロムカセットと比較して低価格かつ量産時間の短縮が実現した。
一方で一度に扱えるデータ容量は本体メモリに依存するためローディング時間が発生する。
CD-ROMはメモリを増強する事によって二回のメジャーバージョンアップを実施している。
CD-ROMの物理フォーマットはYellow Book準拠であるが、論理フォーマットは独自のものを採用している。
対応ソフトウェアには、いわゆるコピーガードは一切掛けられていない。これは開発当時、CD-Rといった一般向け記録型CD-ROMドライブも開発段階であり、開発側がCD-ROMの複製自体が不可能であったと看做されていたためである。
CD-ROM用ソフトのトラック1には以下の警告メッセージが記録されている。
メーカーのNECホームエレクトロニクスが準備したと推測される女性の声による標準メッセージが多く使われた。また、ソフトごとにゲーム登場キャラ(出演者など)によるCDドラマ形式による警告メッセージが採用されている例もある。ちなみに、SUPER CD-ROM以降、有名な声優による音声演出を使用したキャラクターゲームが多く発売されたこともあり、後期以降のタイトルはこちらのパターンを用いるのが主流となり、逆に標準メッセージを用いるタイトルは少数派となった。
CD-ROM用ソフトウェアのNECホームエレクトロニクスへのマスターデータの納品は長らく8ミリマスターと呼ばれる磁気テープで行われていた。またAD-PCM等の音声データおよびCDオーディオ用データは一部DATで制作されていた。これはCD-ROM発売当時CD-Rドライブ登場の端境期に当たっていたためである。
ローンチタイトルは『ファイティング・ストリート』と『No・Ri・Ko』の2タイトルで、最後のタイトルは1993年6月30日発売の『レインボーアイランド』である。
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"text": "CD-ROMプレイヤーとインターフェースユニットが同梱して発売された際にCD-ROMプレイヤーは型番を削除された。なお型番の最後に\"A\"が付けられた物はCDアクセスエラー対策として内部基板などへのアース処理が強化されている。",
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"text": "メーカーのNECホームエレクトロニクスが準備したと推測される女性の声による標準メッセージが多く使われた。また、ソフトごとにゲーム登場キャラ(出演者など)によるCDドラマ形式による警告メッセージが採用されている例もある。ちなみに、SUPER CD-ROM以降、有名な声優による音声演出を使用したキャラクターゲームが多く発売されたこともあり、後期以降のタイトルはこちらのパターンを用いるのが主流となり、逆に標準メッセージを用いるタイトルは少数派となった。",
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] |
CD-ROM2とは、1988年12月4日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器及びシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。読み方は「シーディーロムロム」。愛称は「ロム・ロム」。 欧米市場ではTurboGrafx-CD(ターボグラフィックスシーディー)の商品名で発売された。 家庭用ゲーム機としては世界初となる光学ドライブを搭載し、CD-ROMをゲームソフトとして採用したプラットフォームである。 CD-ROM2及びSUPER CD-ROM2の普及により、PCエンジンのソフト供給はCD-ROMへ移行していく事になる。
|
{{Pathnav|PCエンジン|frame=1}}
{{DISPLAYTITLE:CD-ROM<sup>2</sup>}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = CD-ROM<sup>2</sup><br />TurboGrafx-CD
|画像 = [[ファイル:NEC CD-Rom 2 Unit.png|280px]]<br />[[ファイル:NEC-TurboGrafx-16-CD-FL.png|260px]]
|画像コメント = CD-ROM<sup>2</sup>(上)、TurboGrafx-CD(下)
|メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第4世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1988年]][[12月4日]]<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon|CAN}} [[1989年]][[8月29日]]
|メディア = [[CD-ROM]]、[[CD-DA]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|売上台数={{Flagicon|JPN}} 202万台(SUPER CD-ROM²と合算)
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[天外魔境II 卍MARU]] /50万本
|次世代ハード = [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
}}
'''CD-ROM<sup>2</sup>'''{{Efn|CD-ROMROMと書くのは間違いで、CD-ROMに2乗した形で書く。}}(シーディーロムロム)は、[[1988年]][[12月4日]]<ref name=PCEngine博物館>{{Wayback|url=http://www.nehe-et.gr.jp/kh/kh/products/pcengine.htm |title=PCEngine博物館 |date=19990116234241}}</ref>に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[PCエンジン]]用の[[周辺機器]]及びシステム、それを用いた[[ゲームソフト]]の[[ゲーム機|プラットフォーム]]の呼称。読み方は「シーディーロムロム」<ref>名称の由来はCD-ROMとシステムカードROMの2つのROMで動くシステムであることからロムロムとなった。</ref>。愛称は「ロム・ロム」{{Sfn |データベース振興センター|1989| p=85}}。
[[欧米|欧米市場]]では'''[[w:TurboGrafx-CD#TurboGrafx-CD|TurboGrafx-CD]]'''(ターボグラフィックスシーディー)の商品名で発売された。
[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]としては[[世界初の一覧|世界初]]となる[[光学ドライブ]]を搭載し、[[CD-ROM]]をゲームソフトとして採用したプラットフォームである<ref>{{Cite web|和書|date = 2007-09-15|url=http://www.jp.playstation.com/info/release/nr_20090715_psstore_pce.html|title=PlayStationStore「ゲームアーカイブス」カテゴリ内にて「PCエンジンアーカイブス」を、本日より取り扱い開始|publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパン ニュースリリース |accessdate=2012-09-21}}</ref>。
CD-ROM<sup>2</sup>及びSUPER CD-ROM<sup>2</sup>の普及により、PCエンジンのソフト供給はCD-ROMへ移行していく事になる。
== 沿革 ==
[[1987年]][[10月1日]][[大阪国際見本市会場|インテックス大阪]]で開催された「'87エレクトロニクスショー」で[[プロトタイプ]]となるPCエンジン用CD-ROMユニットが初出品される。この時出品されたCD-ROMユニットは本体が青色で、CD-ROMドライブとインターフェイスユニットは一体化されており、PCエンジンはフロント右側に空けられたベイに挿入する形状だった<ref>{{Cite web |url=https://nfggames.com/games/PCE_Protos/|title=PC Engne Prototype|accessdate=2023-02-04}}</ref>。CD-ROMドライブはキャディカートリッジを使用したフロントローディングが採用されていた。デモ用のソフトとしては「大通公園殺人事件<ref>鯨武長之介『PCエンジン&メガドライブ発売中止ゲーム図鑑』8ページ(三才ブックス、2023年)によると、ゲームは無音で、グラフィックは粗かったという。1987年のエレクトロニクスショーに出展された。</ref>」という、画面が[[スチル写真]]の[[アドベンチャーゲーム]]が使用されていた。
1988年6月16日にはプレス向け発表会を実施。続けて1988年6月16 - 19日に開催された「'88東京おもちゃショー」で一般公開された。形状は製品版とほぼ変わらないが、PCエンジンユニットが挿さる部分のサイド形状や各所のシルク印刷に若干の違いがあった。この時点で『[[天外魔境]]』は本体と同時発売と発表された。
発売時にはストリートファイターの家庭用初移植となる『ファイティング・ストリート』と、世界初の芸能人の実写画像や生音声による歌を収録したゲーム『No・Ri・Ko』がロンチの目玉となったものの、非常に高価なシステム{{Efn|CD-ROM<sup>2</sup>ユニット部分だけで、[[フロッピーディスク|FDドライブ]]を搭載した[[MSX2+]]本体と同じ価格帯。}}であったため当初はほとんど普及しなかった。その後、[[1989年]]6月発売の『[[天外魔境 ZIRIA]]』を皮切りに、同年12月発売の『[[イースI・II#PCエンジン版|イースI・II]]』、[[1990年]]3月発売の『[[ダライアス#移植版|スーパーダライアス]]』など人気タイトルを連ねることでCD-ROM<sup>2</sup>の持つ性能が認知され、ゲーム機に高額を投資できるマニア層をメインに普及していった。
成熟期には[[HuCARD]]とCD-ROM<sup>2</sup>で同一タイトルをリリースし、CD-ROM<sup>2</sup>版は追加要素を付けて内容を豪華にする差別化も見られた。
== ハードウェア ==
PCエンジン本体背面に拡張バスを持つ機種に直接接続が可能だが、PCエンジンスーパーグラフィックスのみ形状の問題から接続アダプタRAU-30が必須である。
=== 販売時のパーツ構成 ===
発売当時のCDプレーヤーは[[音響機器]]扱いで[[物品税]]がかけられていた。そのため、課税されるCD-ROMユニット(32,800円)と非課税の[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]ユニット(システムカード付属、27,000円)を別売にすることで価格を抑えた{{efn|税務署からは「CD-ROMソフトもCDなので物品税がかかる」と言われたが、そこは実際のゲーム画面を見せて「児童向けなので非課税」と説明することで回避した。}}。
1989年4月より[[消費税]]が導入されたのに伴い物品税が廃止されたことで分ける必要がなくなったため、1パッケージでのセット売りに変更された(セットでの価格は57,300円)。
; 初期型
: CDR-30(CD-ROMプレイヤー)+IFU-30(インターフェースユニット システムカード ver1.0同梱)
; 中期型
: CD-R30(CD-ROMプレイヤー、インターフェースユニット、システムカード ver2.0[CD-G再生機能付])
; 後期型
: CD-R30A(CD-ROMプレイヤー、インターフェースユニット、システムカード ver2.1[CD-G再生機能、CDオートディスクチェンジ機能付])
CD-ROMプレイヤーとインターフェースユニットが同梱して発売された際にCD-ROMプレイヤーは型番を削除された。なお型番の最後に"A"が付けられた物はCDアクセスエラー対策として内部基板などへのアース処理が強化されている。
=== CD-ROM<sup>2</sup> ===
本機発売当時、[[ファミリーコンピュータ]]の[[ロムカセット]]の容量が数100KBであったのに対して、本機で採用されたCD-ROMは540MBの大容量である。そのため音楽CDと同様に[[CD-DA]]による音楽再生または声優によるアフレコをゲームと同時に出力することが可能になった。またCDは再プレスが容易であり、一度原版ができればロムカセットと比較して低価格かつ量産時間の短縮が実現した。
一方で一度に扱えるデータ容量は本体メモリに依存するためローディング時間が発生する。
=== 仕様 ===
; CD-ROMドライブ
: 読み取り速度は等速 (150KB/秒)で通信プロトコルは[[Small Computer System Interface|SCSI-1]]を使用する。
: 本機発売後の1989年11月に発売された[[PC-8800シリーズ|PC-8801MC]]の[[光学ドライブ|CD-ROMドライブ]]と同型機であり、[[パーソナルコンピュータ|PC]](PC-8801MCのみ)のCD-ROMドライブとしての利用(その逆も同様)もできる。
: PCエンジン本体用のACアダプタを接続することで、[[ヘッドフォン]]式の卓上[[CDプレーヤー]]としても使用可能である。フロント部分にCD操作用のボタン、トラック表示LED、ヘッドフォン端子、ボリュームダイヤルが並んでいた。インターフェイスユニットからの給電でHuCARDソフトと同時に再生出力も可能。
; インターフェースユニット
: [[Static Random Access Memory|SRAM]]は64KB、ADPCM用[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]は64KB、ADPCMデータフォーマットは1ch 1Bit(符号)+3Bit(最適化済変位量 沖電気独自形式) 、バックアップ用SRAMは2KBである。
: [[コンデンサ]]を使用してのバックアップ機能(バックアップブースター・天の声2の代わりとしてHuCARDソフトのバックアップユニットとしても使用可能)がある。
: [[AV端子|AV出力]]の追加。[[CD-DA]]、ADPCM、PCエンジン本体内蔵[[波形メモリ音源]]各々の音声信号の[[ステレオ]]対応独立音量調整出力機能がある。
: [[適応的差分パルス符号変調|ADPCM音源]]([[沖電気工業|沖電気]] MSM5205)は当初そのチップ特性によって1秒当たり8KBを消費する割にダイナミックレンジもなく、ヒスノイズを伴い、クリアな音質を得ることが難しかった。そのため、初期CD-ROM<sup>2</sup>システムの64KBという小さなメインメモリの容量を補うため、プログラム、ならびにデータ用バッファにも転用された。
::読み込むデータを指定すると自動的にADPCMバッファに読み込むことが可能。ただし読み込みデータ指定時に一瞬プログラム停止する問題がある(音の停止・動作速度の低下も伴う)。
::本来の音源のバッファとして活用されるようになるのは、データに特定のノイズを加算することによって音質を改善する手法が開発された1990年末以降である<ref>「読み込むデータを指定すると、指定時に一瞬プログラムが止まるだけで、あとは勝手にADPCMバッファに読み込んでくれる」「一定のホワイトノイズを加算すると、音が良くなり、かつ聞きやすくなる…というのが分かったのは1990年末あたり」[http://www.highriskrevolution.com/gamelife/index.php?e=71 Colorful Pieces of Game]より一部引用</ref>。
; システムカード
: ゲーム起動に必要な日本語BIOSカード。製作はハドソンが担当。
: 専用の操作画面による音楽CDの再生やセーブデータ管理のユーティリティー機能がある。ver2.0以降はCD-G再生、ver2.1ではCDのオートディスクチェンジ機能が付いた。
: 最初期(Version 1.0)のシステムカードには、隠しコマンドとしてバイナリエディタが内蔵されており、本体のバックアップRAMの内容を自由に書き換えることが可能となっていた。
: SUPER CD-ROM<sup>2</sup>やPCエンジンDUOシリーズでは、カードスロットに差し込んで起動すると旧バージョンのシステムとして認識される。これにより旧本体がなくても、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用ゲームのバージョン違いの注意メッセージや、バージョンアップを促す隠し画面等を見ることができた。
: システムカード内には「12x12ドット」と「16x16ドット」のJIS第一水準漢字フォントと、JIS第二水準漢字フォントの一部の約3000文字が内蔵されており、ゲーム中にはこれらのフォントを使用して漢字カナ混じりのテキストをメモリを圧迫せずに標準で使用できた。また、後に発売されたスーパーシステムカードでは、これらのフォントデザインの修正および記号の追加などが施され、旧版よりも読みやすいデザインになっている。ちなみに、スーパーシステムカードでノーマルのCD-ROM<sup>2</sup>のゲームを起動すると、ゲーム中に使用されているフォントがスーパーシステムカード仕様のデザインに差し替わる。これらのフォント製作は当時のハドソン社内のアーティスト陣が総掛かりで担当した。
== 周辺機器 ==
{{Gallery
|File:PC Engine ArcadeCard PRO.jpg|アーケードカードPRO
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! style="width:5.5em"|型番
! 名称
! style="width:8.5em"|発売日
! 備考
|-
| IFU-30
| インターフェースユニット
| rowspan="3"| 1988年12月4日
| CD-ROM<sup>2</sup>本体を構成するハードの内の一つ。<br />PCエンジンとCD-ROMドライブを繋ぐために使用され、AV出力端子およびCD-ROM<sup>2</sup>ソフトのセーブデータを保有する機能(容量は2KB、電源はコンデンサ)を持つ。バッファ容量は0.5Mb。
|-
| PAD-123
| ACアダプタ
|
|-
|
| システムカード ver 1.0
| タイトル画面でI+II+右上+SELECT押下でバイナリエディタが立ち上がり、バックアップメモリを直接編集できる。
|-
|
| システムカード ver 2.0
|
| エディタによるデバッグ機能は削除され、CD-G機能が追加されている。
|-
|
| システムカード ver 2.1
| 1990年7月6日
| スーパーシステムカード以降の物を除けば唯一別売りされたシステムカード。
|-
| PI-SC1
| スーパーシステムカード ver 3.0
| 1991年10月26日
| CD-ROM<sup>2</sup>専用。[[HuCARD]]スロットに挿入することでSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へアップグレードされる。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム対応のソフトを遊ぶためには必須となる。
|-
| PCE-AC2
| [[アーケードカード|アーケードカードPRO]]
| 1994年3月12日
| CD-ROM<sup>2</sup>専用のアーケードカード。DRAMが内蔵されていること以外はスーパーシステムカードと同機能であり、スーパーシステムカードと同様に下部にT字状の補強カバーがある。
|-
| RAU-30
| ROM<sup>2</sup>アダプター
| 1990年4月8日
| PCエンジンスーパーグラフィックスをCD-ROM<sup>2</sup>本体と接続する際に必須になるアダプタ。
|-
| AMP-30
| ROM<sup>2</sup>アンプ{{R|PCEngine博物館}}
| rowspan="2" | 1989年10月27日
| CD-ROM<sup>2</sup>本体専用のカラオケシステム。
|-
| SPK-30
| ROM<sup>2</sup>スピーカー
| ROM<sup>2</sup>アンプ同梱
|-
| MIC-30
| マイク
| 1989年12月4日
| カラオケ用マイク。市販品で代用可能。
|-
|}
== バージョンアップ ==
CD-ROM<sup>2</sup>はメモリを増強する事によって二回のメジャーバージョンアップを実施している。
; [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
: 1.5MbのSRAMを追加したプラットフォーム。本機にスーパーシステムカードを追加するか、専用のハードを使用する事で対応できる。バッファ容量は2Mb。
; [[アーケードカード]]
: SUPER CD-ROM<sup>2</sup>に16MbのDRAMを追加したプラットフォーム。本機にアーケードカードPROを追加する等の方法で対応できる。バージョンアップでのみ対応する規格であり専用のハードは存在しない。バッファ容量は16Mb。
== ソフトウェア ==
{{Main|PCエンジンのソフトウェア一覧}}
CD-ROMの物理フォーマットはYellow Book準拠であるが、論理フォーマットは独自のものを採用している{{Sfn |データベース振興センター|1989| p=85}}。
対応ソフトウェアには、いわゆる[[コピーガード]]は一切掛けられていない。これは開発当時、[[CD-R]]といった一般向け記録型CD-ROMドライブも開発段階であり{{efn|CD-Rの発売開始は1989年に入ってからであり、極めて高価であったことに加え、一般[[消費者]]には殆ど知られていなかった。}}、開発側がCD-ROMの複製自体が不可能であったと看做されていたためである。
CD-ROM<sup>2</sup>用ソフトのトラック1には以下の警告メッセージが記録されている。
:'''"これはHE-SYSTEMのCD-ROM Discです。2曲目にコンピュータ用データが入っていますので再生しないでください。"'''
:'''"間もなく2曲目に入ります、止めて下さい。"'''
メーカーのNECホームエレクトロニクスが準備したと推測される女性の声による標準メッセージが多く使われた。また、ソフトごとにゲーム登場キャラ(出演者など)によるCDドラマ形式による警告メッセージが採用されている例もある{{Efn|『[[みつばち学園]]』、『[[鏡の国のレジェンド]]』、『[[うる星やつら STAY WITH YOU]]』など。SCD登場後も『[[ときめきメモリアル]]』、『[[悪魔城ドラキュラX 血の輪廻]]』、『[[エメラルドドラゴン]]』などこのパターンに顕著}}。ちなみに、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>以降、有名な声優による音声演出を使用した[[キャラクターゲーム]]が多く発売されたこともあり、後期以降のタイトルはこちらのパターンを用いるのが主流となり、逆に標準メッセージを用いるタイトルは少数派となった。
CD-ROM<sup>2</sup>用ソフトウェアのNECホームエレクトロニクスへのマスターデータの納品は長らく8ミリマスターと呼ばれる[[磁気テープ]]で行われていた。またAD-PCM等の音声データおよびCDオーディオ用データは一部[[DAT]]で制作されていた。これはCD-ROM<sup>2</sup>発売当時[[CD-R]]ドライブ登場の端境期に当たっていたためである。
[[ローンチタイトル]]は『[[ストリートファイター (ゲーム)#他機種版|ファイティング・ストリート]]』と『[[小川範子#CD-ROM、3DO、CDドラマ|No・Ri・Ko]]』の2タイトルで、最後のタイトルは[[1993年]][[6月30日]]発売の『[[レインボーアイランド]]』である。
== 問題点 ==
*CD-ROMプレイヤーのピニオンギアとドライブ間を接続する黄色いギアが経年劣化で破損しやすい。黄色いギアは特注品らしく一般に流通するギアでの代替は基本的に不可能で自作もしくは特注するしか方法が無かったが、近年では耐久性のある素材でこのギアを量産する有志が現れたお陰で駆動不可だった個体が再び日の目を見るようになった。<ref>[https://www.dentsubo.net/~nosuke/diary/diary.html?y=2009&m=6&d=3&n=1 日記みたいな何か(CD-ROM2ギア修理)]</ref>
*CD-ROM<sup>2</sup>本体に同梱されている純正ACアダプタではCD-ROM<sup>2</sup>が本来必要とする電力を充分供給できないという欠陥がある。後期型CD-ROM<sup>2</sup>本体ではより大型、高出力の純正ACアダプタに変更されているがそれでもまだ充分とはいえない。CD-ROM<sup>2</sup>本体使用時に動作不良を起こす場合、近年発売された小型のACアダプタと接続すれば、改善されることもある<ref>[http://pcerepair.blog.fc2.com/blog-category-13.html ACアダプタ代替。]</ref>。また、[[PCエンジンDuo]]以降では改善されている<ref>[http://workshop.game.coocan.jp/pceside/sittoku.htm 知っていると特かもしれない情報。]</ref>。
== その他 ==
*海外でのTurboGrafx-CDのデモンストレーションの際、TurboGrafx-CDのCD-ROMドライブをパソコン用等速[[Small Computer System Interface|SCSI]]CD-ROMドライブとして使用する例を実機を使って展示していた。その後、[[PC-FX]]内蔵の倍速CD-ROMドライブで同様の使い方が出来るようになった。
*元々コンピュータ用に製造されているCDR-35というCD-ROMドライブも基本的な仕様はPCエンジン用とほぼ同じで同形状である<ref>[https://support.necam.com/Legacy/Optical/advmedia/intersect/intersect1x/cdr35/index.htm Parent Frameset 1400_Model]</ref>。わざわざドライブ本体をインターフェース基板から取り外せる仕様を引き継いだのは恐らく生産ラインの有効活用とメンテナンスのため。
*先の「'87エレクトロニクスショー」で展示されていたものには、インターフェースユニットのCD-ROMドライブが収まる部分にDUOモニターに似た液晶テレビユニットが接続されHuカードのゲームをデモンストレーションしているものもあった。
== 参考文献 ==
*{{Cite web|和書|url=https://www.jipdec.or.jp/archives/publications/J0000664.pdf |title=CD-ROM調査研究報告書 |format=PDF |publisher=データベース振興センター |date=1989-03 |accessdate=2022-10-18 |ref ={{SfnRef|データベース振興センター|1989}}}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[PCエンジンDuo]]
*[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
{{家庭用ゲーム機/NEC}}
{{DEFAULTSORT:しいていいろむろむ}}
[[Category:PCエンジン]]
[[Category:コンピュータゲームの周辺機器]]
[[Category:1988年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:ハドソン]]
[[Category:1980年代の玩具]]
|
2003-06-29T09:18:00Z
|
2023-11-27T06:20:21Z
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[
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"Template:Efn",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/CD-ROM2
|
10,609 |
SUPER CD-ROM2
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SUPER CD-ROM(スーパーシーディーロムロム)とは、1991年12月13日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器、及び同等の機能を持つシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。型番はPI-CD1。当時のメーカー希望小売価格は47,800円。
PCエンジンの周辺機器であるCD-ROMシステムのSRAMを4倍に強化した上位規格のシステムである。CD-ROM用ソフトとSUPER CD-ROM用ソフト両方を起動する事が出来る。 この規格に対応したシステムの組み合わせとして主に以下の3通りの方法が提供された。
この他、後年になってから発売されたパイオニアの製品で、数ヶ月後にNECホームエレクトロニクスもOEMで販売したレーザーアクティブPCエンジンパックもSUPER CD-ROMに対応している。
本体の色調はコアグラフィックスIIに合わせたもの。ユニット全体が拡張バスの後方に配置されるデザインにしたことでPCエンジンスーパーグラフィックスにもアダプタなしで直接接続可能となったが、PCエンジンLTとの接続にはSUPER ROM ADAPTER(PI-AD18)が必要となった。
旧CD-ROMシステム本体からの変更点は、システムカードとインターフェースユニットの内蔵、SRAM容量増加(2Mbit)。旧CD-ROMシステムで各々独立していたパーツをコンパクトに一体化させたことで、上位機種ながら定価は大きく下がった。またSRAM容量増加によって、旧CD-ROMの欠点だった読み込みの多さをある程度解消することができた。
上記の通りシステムカード機能が内蔵されているため、CD-ROMソフトを使う場合はアーケードカードなどの使用時を除きPCエンジン本体のHuカードスロットには何も挿さないでスイッチを入れる。これはPCエンジンDuoでも同じ仕様になっている。
CD-ROMからSUPER CD-ROMへのプラットフォーム移行過渡期には、SUPER CD-ROMで起動したほうが動作が快適になるなど両者での動作に変化が発生するCD-ROM対応ソフトがいくつか発売されている。
初期のSUPER CD-ROM専用ソフトは、コアグラフィックス単体や旧CD-ROMの所持者を意識してか、前述のプレイ方法が事細やかに記されていた。
発売済みの『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』と発売前の『天外魔境II 卍MARU』の体験版を収録しただけの『SUPER CD-ROM 体験ソフト集』が実質的なローンチタイトルであり、一般タイトルにおけるローンチタイトルは無かった。本機の発売前で、PCエンジンDuo発売後(1991年9月21日)かつスーパーシステムカードの発売を翌日に控えた1991年10月25日発売の『天使の詩』、『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』、『ポピュラス ザ・プロミストランド』が初のSUPER CD-ROM専用ソフトである。最後のタイトルは1999年6月3日発売の『デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2』である。
同時期にセガからメガドライブ用周辺機器としてSUPER CD-ROMの性能を上回るメガCDが発売され、初めてのCD-ROM機種の競合となるが、既にPCエンジンソフトの主流になっていたCD-ROMシステムからSUPER CD-ROM環境へのアップグレードが容易だった事や、新規ユーザ向けにSUPER CD-ROM用ソフトが遊べるPCエンジンDuoが発売された事で普及が進み、ソフト供給も安定していたため同世代のCD-ROMプラットフォームとしてはPCエンジンが活発であった。PCエンジンの市場はSUPER CD-ROM中心に移行し多数のタイトルが発売された。
プラットフォームとしてのSUPER CD-ROM普及の一方で、周辺機器としてのSUPER CD-ROMシステム本体は、同規格に対応するハードの中で発売が遅く、先行して発売されたスーパーシステムカードとPCエンジンDuoで販売開始時の需要をほぼカバーできたことに加え、以降の主力ハードがPCエンジンDuoシリーズにシフトしたことで、この機器自体はセールス的には不振に終わった。
|
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"text": "SUPER CD-ROM(スーパーシーディーロムロム)とは、1991年12月13日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器、及び同等の機能を持つシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。型番はPI-CD1。当時のメーカー希望小売価格は47,800円。",
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"text": "上記の通りシステムカード機能が内蔵されているため、CD-ROMソフトを使う場合はアーケードカードなどの使用時を除きPCエンジン本体のHuカードスロットには何も挿さないでスイッチを入れる。これはPCエンジンDuoでも同じ仕様になっている。",
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] |
SUPER CD-ROM2(スーパーシーディーロムロム)とは、1991年12月13日に日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)より発売されたPCエンジン用の周辺機器、及び同等の機能を持つシステム、それを用いたゲームソフトのプラットフォームの呼称。型番はPI-CD1。当時のメーカー希望小売価格は47,800円。
|
{{Pathnav|PCエンジン|CD-ROM2|frame=1}}
{{DISPLAYTITLE:SUPER CD-ROM<sup>2</sup>}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = SUPER CD-ROM<sup>2</sup>
|画像 = [[ファイル:Super CD-ROM2 with CoreGrafx II (3-4 right view).jpg|240px]]
|画像コメント = SUPER CD-ROM<sup>2</sup>本体<br />([[PCエンジンコアグラフィックス|PCエンジンコアグラフィックスII]]と合体した状態)
|メーカー = [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第4世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1991年]][[12月13日]]<br />{{Flagicon|FRA}} [[1991年]]
|メディア = [[CD-ROM]]<br />[[CD-DA]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|外部接続端子 = 電源出力端子
|前世代ハード = [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]
|互換ハード = [[PCエンジンDuo]]
}}
'''SUPER CD-ROM<sup>2</sup>'''(スーパーシーディーロムロム)とは、[[1991年]][[12月13日]]に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)より発売された[[PCエンジン]]用の[[周辺機器]]、及び同等の機能を持つシステム、それを用いた[[ゲームソフト]]の[[ゲーム機|プラットフォーム]]の呼称。型番はPI-CD1。当時の[[メーカー]][[希望小売価格]]は47,800円。
== 概要 ==
PCエンジンの周辺機器である[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]システムの[[Static Random Access Memory|SRAM]]を4倍に強化した上位規格のシステムである。CD-ROM<sup>2</sup>用ソフトとSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用ソフト両方を起動する事が出来る。
この規格に対応したシステムの組み合わせとして主に以下の3通りの方法が提供された。
*旧CD-ROM<sup>2</sup>システム本体にスーパーシステムカードを入れ替える(旧機種ユーザー向けの方法)
*PCエンジン本体にSUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム本体を接続する(PCエンジンのみの所有者向けの方法)
*一体型機種である[[PCエンジンDuo]]シリーズを使う(新規ユーザー向けの方法)
この他、後年になってから発売された[[パイオニア]]の製品で、数ヶ月後にNECホームエレクトロニクスも[[OEM]]で販売した[[レーザーアクティブ]]PCエンジンパックもSUPER CD-ROM<sup>2</sup>に対応している。
== ハードウェア ==
[[ファイル:PCEngine SuperGrafx with SuperCDRom2.jpg|thumb|180px|スーパーグラフィックスに直接接続したSUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
本体の色調はコアグラフィックスIIに合わせたもの。ユニット全体が[[拡張バス]]の後方に配置されるデザインにしたことで[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]にもアダプタなしで直接接続可能となったが、[[PCエンジンLT]]との接続にはSUPER ROM<sup>2</sup> ADAPTER(PI-AD18)が必要となった<ref name=beep>[https://www.beep-shop.com/blog/6716/ 【出張買取】PCエンジンLTを埼玉県さいたま市のお客様よりお譲りいただきました]|BEEP</ref>。
旧[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]システム本体からの変更点は、システムカードと[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]ユニットの内蔵、[[Static Random Access Memory|SRAM]]容量増加(2Mbit)。旧CD-ROM<sup>2</sup>システムで各々独立していたパーツをコンパクトに一体化させたことで、上位機種ながら定価は大きく下がった。またSRAM容量増加によって、旧CD-ROM<sup>2</sup>の欠点だった読み込みの多さをある程度解消することができた。
上記の通りシステムカード機能が内蔵されているため、CD-ROMソフトを使う場合はアーケードカードなどの使用時を除きPCエンジン本体のHuカードスロットには何も挿さないでスイッチを入れる。これはPCエンジンDuoでも同じ仕様になっている。
=== 仕様 ===
{| class="wikitable"
!CD-ROMドライブ
|等速 (150KB/秒)
|-
!通信プロトコル
|[[Small Computer System Interface|SCSI-1]]
|-
![[Static Random Access Memory|SRAM]]
|2Mbit(256KB)
|-
!ADPCM用[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]
|64KB
|-
!ADPCMデータフォーマット
|1ch 1Bit(符号)+3Bit(最適化済変位量 [[沖電気]]独自形式)
|-
!バックアップ用SRAM
|2KB
|}
*SUPER CD-ROM<sup>2</sup>本体左側面には電源出力端子があり、PCエンジンおよび[[PCエンジンコアグラフィックス]]への給電が可能である。但し[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]への給電には対応していない。
*本体底に用途不明の拡張端子がある。
== 周辺機器 ==
[[ファイル:PC_Engine_ArcadeCard_DUO.jpg|thumb|right|150px|アーケードカードDUO]]
=== NECホームエレクトロニクス純正 ===
{| class="wikitable" border="1"
|-
! 型番
! 名称
! 発売日
! 備考
|-
| PAD-125
| ACアダプタ
| 1991年<br />12月13日
| SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のACアダプタ。
|-
| PI-AD18
| SUPER ROM<sup>2</sup>アダプター
| 1992年<br />3月
| PCエンジンLTをSUPER CD-ROM<sup>2</sup>と接続する際に必須になるアダプタ<ref name=beep></ref>。<br />特に意味は無いもののRAU-30と同時に使用することも出来る<ref>[http://workshop.game.coocan.jp/pceside/99offr.htm 99 3/21福岡オフ会詳細報告]</ref>。
|-
| PCE-AC1
| [[アーケードカード|アーケードカードDUO]]
| 1994年<br />3月12日
| PCエンジンDuo系の機種やSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用のアーケードカード。
|-
|}
=== 他社発売 ===
*「HACKER CD CARD」については[[ハッカーインターナショナル#PCエンジン|ハッカーインターナショナルのツール類]]を参照。
== バージョン変更 ==
; [[アーケードカード]]
: SUPER CD-ROM<sup>2</sup>にアーケードカードDuoを組み合わせる等の方法で16Mbitの[[DRAM]]を追加した[[アーケードカード]]対応システムにバージョンアップできる。対応するシステムの組み合わせについては当該記事参照。
; バージョンダウン
: SUPER CD-ROM<sup>2</sup>対応機種に旧CD-ROM<sup>2</sup>付属のシステムカード(別売りも存在)を差し込むと旧CD-ROM<sup>2</sup>規格として起動できる。
: 一見無意味だが、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>用ソフトの多くは旧CD-ROM<sup>2</sup>で起動した際の警告画面が様々な趣向を凝らしており一種のおまけ要素になっている{{Efn|中には隠しゲームが遊べるものや、「あくまぢょお どらきゅらペケ」(『[[悪魔城ドラキュラX 血の輪廻]]』の警告メッセージを兼ねたコース)のような凝った仕掛けもある。}}。
: また、初期ロットの『[[獣王記]]』はバージョン2.0以上のシステムカードでは不具合が発生するため、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>やPCエンジンDuoではバージョン1.0のシステムカードを挿入したほうが安全にプレイすることが可能であるなど、一部ソフトの[[ワークアラウンド]]にもなっていた。
== ソフトウェア ==
{{Main|PCエンジンのソフトウェア一覧}}
CD-ROM<sup>2</sup>からSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へのプラットフォーム移行過渡期には、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>で起動したほうが動作が快適になるなど両者での動作に変化が発生するCD-ROM<sup>2</sup>対応ソフトがいくつか発売されている。
初期のSUPER CD-ROM<sup>2</sup>専用ソフトは、コアグラフィックス単体や旧CD-ROM<sup>2</sup>の所持者を意識してか、前述のプレイ方法が事細やかに記されていた。
発売済みの『[[ドラゴンスレイヤー英雄伝説]]』と発売前の『[[天外魔境II 卍MARU]]』の[[体験版]]を収録しただけの『SUPER CD-ROM<sup>2</sup> 体験ソフト集』が実質的な[[ローンチタイトル]]であり、一般タイトルにおけるローンチタイトルは無かった。本機の発売前で、PCエンジンDuo発売後(1991年[[9月21日]])かつスーパーシステムカードの発売を翌日に控えた1991年[[10月25日]]発売の『[[天使の詩 (ゲーム)|天使の詩]]』、『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』、『[[ポピュラス|ポピュラス ザ・プロミストランド]]』が初のSUPER CD-ROM<sup>2</sup>専用ソフトである。最後のタイトルは[[1999年]][[6月3日]]発売の『[[デッド・オブ・ザ・ブレイン|デッド・オブ・ザ・ブレイン 1&2]]』である。
== 反響 ==
同時期に[[セガ]]から[[メガドライブ]]用周辺機器としてSUPER CD-ROM<sup>2</sup>の性能を上回る[[メガCD]]が発売され、初めての[[CD-ROM]]機種の競合となるが、既にPCエンジンソフトの主流になっていたCD-ROM<sup>2</sup>システムからSUPER CD-ROM<sup>2</sup>環境へのアップグレードが容易だった事や、新規ユーザ向けにSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用ソフトが遊べる[[PCエンジンDuo]]が発売された事で普及が進み、ソフト供給も安定していたため同世代のCD-ROMプラットフォームとしてはPCエンジンが活発であった。PCエンジンの市場はSUPER CD-ROM<sup>2</sup>中心に移行し多数のタイトルが発売された。
プラットフォームとしてのSUPER CD-ROM<sup>2</sup>普及の一方で、周辺機器としてのSUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム本体は、同規格に対応するハードの中で発売が遅く、先行して発売されたスーパーシステムカードとPCエンジンDuoで販売開始時の需要をほぼカバーできたことに加え、以降の主力ハードがPCエンジンDuoシリーズにシフトしたことで、この機器自体はセールス的には不振に終わった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|PC Engine}}
* [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]
* [[PCエンジンDuo]]
{{家庭用ゲーム機/NEC}}
{{DEFAULTSORT:すうはあしいていいろむろむ}}
[[Category:PCエンジン]]
[[Category:コンピュータゲームの周辺機器]]
[[Category:1991年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:ハドソン]]
[[Category:1990年代の玩具]]
|
2003-06-29T09:25:13Z
|
2023-08-02T22:13:02Z
| false | false | false |
[
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Efn",
"Template:Infobox コンシューマーゲーム機",
"Template:Main",
"Template:Commonscat",
"Template:家庭用ゲーム機/NEC",
"Template:Pathnav"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/SUPER_CD-ROM2
|
10,610 |
アーケードカード
|
アーケードカード (Arcade Card) とは、日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)が1994年3月12日に発売したPCエンジンの周辺機器である。
CD-ROMは、CD-ROMから必要なデータをバッファRAMと呼ばれるメインメモリに転送して使用する仕組みになっており、最初のCD-ROMシステムではバッファRAMが512Kbit、SUPER CD-ROMシステムでは2Mbitだった。それを18Mbitに増強するために用意されたのが、アーケードカードである。CD-ROMシステムを接続済みのPCエンジンのHuCARDスロットに挿入し、使用する。
システム構成は、従来のSUPER CD-ROMシステムの2MbitのSRAMに16MbitのDRAMを追加することで、計18MbitのバッファRAMに増強したものである。CPUやチップ、音源の追加と言ったハード自体の機能追加は一切行われていない。システムBIOSはスーパーシステムカード ver 3.0のまま据え置きであり、特にバージョンアップはされてはおらずソフト側がメモリの増強の有無で判別して使用された。この為、アーケードカードを挿入して起動しても、電源投入時の起動画面は「SUPER CD-ROMシステム」と同一のものである。
扱えるデータの量は格段に増えたものの、CD-ROMドライブは等速のままだったため、比例して1回のロード時間が長くなるケースが多く、ソフト側はこれまで以上にロード時間短縮のための技術的努力が必要であった。
導入するシステム本体にSUPER CD-ROM用の2Mbit SRAMが内蔵されているかどうかの差異に対応するため、2種類のアーケードカードが発売された。両者に機能的な差異はない。
当初は1993年12月の発売が予定されていたが、アーケードカードに利用する4Mbit DRAM(本製品は4Mbit DRAM×4で16Mbitとなる構成)が世界的に品薄となったため、供給に必要な数が確保できないとの理由により、一度発売が延期されている。
これにより同時発売予定であった専用ソフト第1弾『餓狼伝説2』も、本製品に合わせて発売が延期されている。
商品名からも分かるように、本製品の登場の背景には当時ブームとなっていたアーケードの対戦型格闘ゲーム人気が大きく影響している(格闘ゲームでは、1つのステージで大量のキャラクターパターンを用意する必要があり、従来のバッファRAM容量では忠実に移植するのが困難だった)。そのため、発表された専用ソフトにはネオジオで人気を博していた格闘ゲームが名を連ねたが、バッファRAM増強による効果は他にも期待できるため、格闘ゲーム以外のタイトルも発表された。また、アーケードカード専用ソフトのほかにも、アーケードカードを使用すると従来のSUPER CD-ROMよりも快適にプレイできたり、映像や音声が強化されるといったアーケードカード「対応」ソフトもいくつか発売された。
両対応ソフトの「エメラルドドラゴン」を読み込みエラーによる誤差の少ないハードのレーザーアクティブとアーケードカードDUOを使って、実際どの程度アクセス回数が減少するのかを検証したところ、バッファRAM増設により画面切り替えに伴うマップデータの読み込み回数が減少する。SUPER CD-ROMでは移動によって画面が切り替わる都度、データ読み込みを行っていたが、アーケードカード使用時は1度マップデータの読み込みを行えば画面が切り替わる際は読み込み不要になり、音楽のサーチ(頭だし)だけで済むようになる。
ビジュアルシーンの豊富なゲームにはアーケードカードのメリットはない。
しかし、発売当時は同年に発売されることとなる次世代機(3DO、セガサターン、PlayStationなど)の情報が公開され始めており、高額な価格設定とも相まって、かつてのCD-ROMからSUPER CD-ROMへのような普及には至らず、発売予定であった『天外魔境III』もNEC-HEの次世代機であったPC-FX用ソフトへ移行するなど、最終的に発売された専用ソフトはわずかな本数となった。多部田俊雄は「コンマ数秒のアクセス時間のためにわざわざアーケードカード対応にしていくと制作の現場にも負担がかかるし、また値段の面でユーザーにも負担をかけてしまいます」と現行のSUPER CD-ROM2のスペックは今後も十分通用するものとして意見を出している。
SUPER CD-ROMソフトのうち、アーケードカードで起動すると動作に変化があるもの(一部、変化の概要も記載)。
|
[
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"text": "導入するシステム本体にSUPER CD-ROM用の2Mbit SRAMが内蔵されているかどうかの差異に対応するため、2種類のアーケードカードが発売された。両者に機能的な差異はない。",
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"text": "これにより同時発売予定であった専用ソフト第1弾『餓狼伝説2』も、本製品に合わせて発売が延期されている。",
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"text": "商品名からも分かるように、本製品の登場の背景には当時ブームとなっていたアーケードの対戦型格闘ゲーム人気が大きく影響している(格闘ゲームでは、1つのステージで大量のキャラクターパターンを用意する必要があり、従来のバッファRAM容量では忠実に移植するのが困難だった)。そのため、発表された専用ソフトにはネオジオで人気を博していた格闘ゲームが名を連ねたが、バッファRAM増強による効果は他にも期待できるため、格闘ゲーム以外のタイトルも発表された。また、アーケードカード専用ソフトのほかにも、アーケードカードを使用すると従来のSUPER CD-ROMよりも快適にプレイできたり、映像や音声が強化されるといったアーケードカード「対応」ソフトもいくつか発売された。",
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"text": "両対応ソフトの「エメラルドドラゴン」を読み込みエラーによる誤差の少ないハードのレーザーアクティブとアーケードカードDUOを使って、実際どの程度アクセス回数が減少するのかを検証したところ、バッファRAM増設により画面切り替えに伴うマップデータの読み込み回数が減少する。SUPER CD-ROMでは移動によって画面が切り替わる都度、データ読み込みを行っていたが、アーケードカード使用時は1度マップデータの読み込みを行えば画面が切り替わる際は読み込み不要になり、音楽のサーチ(頭だし)だけで済むようになる。",
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"text": "ビジュアルシーンの豊富なゲームにはアーケードカードのメリットはない。",
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"text": "しかし、発売当時は同年に発売されることとなる次世代機(3DO、セガサターン、PlayStationなど)の情報が公開され始めており、高額な価格設定とも相まって、かつてのCD-ROMからSUPER CD-ROMへのような普及には至らず、発売予定であった『天外魔境III』もNEC-HEの次世代機であったPC-FX用ソフトへ移行するなど、最終的に発売された専用ソフトはわずかな本数となった。多部田俊雄は「コンマ数秒のアクセス時間のためにわざわざアーケードカード対応にしていくと制作の現場にも負担がかかるし、また値段の面でユーザーにも負担をかけてしまいます」と現行のSUPER CD-ROM2のスペックは今後も十分通用するものとして意見を出している。",
"title": "市場の反応"
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"text": "SUPER CD-ROMソフトのうち、アーケードカードで起動すると動作に変化があるもの(一部、変化の概要も記載)。",
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アーケードカード とは、日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)が1994年3月12日に発売したPCエンジンの周辺機器である。
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{{出典の明記|date=2017-03-09}}
'''アーケードカード'''(''Arcade Card'')は、[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)が[[1994年]][[3月12日]]に発売した[[PCエンジン]]の[[周辺機器]]である。
== 概要 ==
[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]は、[[CD-ROM]]から必要なデータをバッファRAMと呼ばれる[[主記憶装置|メインメモリ]]に転送して使用する仕組みになっており、最初のCD-ROM<sup>2</sup>システムではバッファRAMが512[[キロビット|Kbit]]、[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]システムでは2[[メガビット|Mbit]]だった。それを18Mbitに増強するために用意されたのが、アーケードカードである。CD-ROM<sup>2</sup>システムを接続済みのPCエンジンの[[HuCARD]]スロットに挿入し、使用する。
システム構成は、従来のSUPER CD-ROM<sup>2</sup>システムの2Mbitの[[Static Random Access Memory|SRAM]]に16Mbitの[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]を追加することで、計18MbitのバッファRAMに増強したものである。CPUやチップ、音源の追加と言ったハード自体の機能追加は一切行われていない。システムBIOSはスーパーシステムカード ver 3.0のまま据え置きであり、特にバージョンアップはされてはおらずソフト側がメモリの増強の有無で判別して使用された。この為、アーケードカードを挿入して起動しても、電源投入時の起動画面は「SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システム」と同一のものである。
扱えるデータの量は格段に増えたものの、CD-ROMドライブは等速のままだったため、比例して1回のロード時間が長くなるケースが多く、ソフト側はこれまで以上にロード時間短縮のための技術的努力が必要であった。
== バリエーション ==
導入するシステム本体にSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用の2Mbit SRAMが内蔵されているかどうかの差異に対応するため、2種類のアーケードカードが発売された<ref>当初はアーケードカードDUOに相当するものだけをアーケードカードとして発売し、CD-ROM<sup>2</sup>システムユーザーにはスーパーシステムカードとアーケードカードの2枚を同時に挿入する拡張ユニットが用意される予定であった。しかし、発売前にコスト面などから製品構成の見直しが行われ、2種類のバリエーションでの発売となる。</ref>。両者に機能的な差異はない。
;アーケードカードPRO (PCE-AC2) 17,800円
:[[File:PC Engine ArcadeCard PRO.jpg|thumb|140px|アーケードカードPRO]]
:CD-ROM<sup>2</sup>システム用のカードで、アーケードカードの16Mbit DRAMとSUPER CD-ROM<sup>2</sup>用の2Mbit SRAMとシステムBIOSのスーパーシステムカード ver 3.0の機能を搭載。
:初代CD-ROM<sup>2</sup>システムは、HuCARDスロットにバッファRAM用SRAMを搭載した「システムカード」か「スーパーシステムカード」を挿入して使用しており、アーケードカードと併用できないため、スーパーシステムカードの機能も合わせて両方を内包する形で1枚に集約して発売された。
:CD-ROM<sup>2</sup>システム用と謳っているが、SUPER CD-ROM<sup>2</sup>システムでも使用することはできる(その場合はアーケードカードPRO側のSRAMのみが機能し、本体側のSRAMは使用されない)。ただし、メーカーは推奨していない。
:HuCARDの上面半分にプラスチックカバーをかぶせた形状になっている<ref>この形状のものは他に『[[ポピュラス]]』、『[[ストリートファイターII|ストリートファイターIIダッシュ]]』、スーパーシステムカード、天の声バンクがある。通常のHuCARDよりも容量などが大きいものは[[プリント基板]]の面積が広いため、カードの強度を補強するために採用している(ただし、「天の声バンク」のみ、ボタン電池を収納するスペースとして使用)。レーザーアクティブはHuCARDスロットの形状の関係から、厚みのあるこのタイプのHuCARDは抜けなくなる可能性があるので、注意が必要である。</ref>。
;アーケードカードDUO (PCE-AC1) 12,800円
:[[File:PC_Engine_ArcadeCard_DUO.jpg|thumb|160px|アーケードカードDUO]]
:スーパーシステムカードの機能を内蔵しているSUPER CD-ROM<sup>2</sup>システムに使用するアーケードカード。16MbitのDRAMのみを搭載。スーパーシステムカードが内蔵されていない以外はPROと同じ性能。<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=PC Engine Fan 通巻64号|date=1994年3月1日|year=1994|publisher=徳間書店|pages=15,16,17,}}</ref>
:「[[PCエンジンDuo]]」「同Duo-R」「同Duo-RX」「SUPER CD-ROM<sup>2</sup>」「[[レーザーアクティブ]]PCエンジン用パック」は本体内に2MbitのSRAMが内蔵されており、HuCARDスロットが空いているので、そこに16MbitのDRAMを挿入するだけで済むため、スーパーシステムカードを内蔵しない分だけPROよりも価格を低く設定している。
:形状は通常のHuCARDと似ているが、上面全体がプリント基板となっており、下面全体を薄いステンレス板で補強して強度を確保している。この方式のHuCARDは本製品のみである。
== ソフト一覧 ==
=== アーケードカード専用 ===
*[[餓狼伝説2]]([[ハドソン]] [[1994年]][[3月12日]]発売)
*[[龍虎の拳]](ハドソン 1994年[[3月26日]])
*[[ワールドヒーローズ|ワールドヒーローズ2]](ハドソン 1994年[[6月4日]])
*マッドストーカー([[日本電気ホームエレクトロニクス]] 1994年[[9月15日]])
*[[ストライダー飛竜]]([[NECアベニュー]] 1994年[[9月22日]])
*新日本プロレスリング '94バトルフィールドイン闘強導夢([[フジコム]] 1994年[[11月25日]])
*[[餓狼伝説スペシャル]](ハドソン 1994年[[12月2日]])
*[[ファイヤープロレスリング|ファイプロ女子憧夢超女大戦 全女vsJWP]]([[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]] [[1995年]][[2月3日]])
*[[カブキ一刀涼談]](ハドソン 1995年[[2月24日]])
*[[雀神伝説]](日本電気ホームエレクトロニクス 1995年2月24日)
*[[銀河婦警伝説サファイア]](ハドソン 1995年[[11月24日]])
*[[魔導物語#魔導物語I 炎の卒園児|魔導物語I 炎の卒園児]](NECアベニュー [[1996年]][[12月13日]])
=== アーケードカード対応 ===
SUPER CD-ROM<sup>2</sup>ソフトのうち、アーケードカードで起動すると動作に変化があるもの(一部、変化の概要も記載)。
*[[フラッシュハイダース]]([[ライトスタッフ (ゲーム会社)|ライトスタッフ]] [[1993年]][[12月19日]])
**戦闘開始前のロード時間短縮。戦闘勝利後の勝利ポーズ時の読み込みによる一時停止などがなくなる。
*[[エメラルドドラゴン]]([[日本電気ホームエレクトロニクス]] [[1994年]][[1月28日]])
**プレイ中に一度読み込んだデータをキャッシュとして蓄積し、一度通過した街の再訪などでロード時間がなくなる。
*[[THE ATLAS]]([[アートディンク]] 1994年[[3月4日]])
**ゲーム開始時に大量のデータを読み込んでゲーム中のロード回数が大幅に軽減し、メインBGMが内蔵音源からCD-DAに変わる。
*[[ブランディッシュ]](日本電気ホームエレクトロニクス 1994年[[6月17日]])
<!--ソースはNEC-HEのアーケードカード用パンフレット及びPCE FAQ。使用効果の情報、追記願います-->
*[[3×3 EYES|3×3EYES〜三只眼変成〜]](日本電気ホームエレクトロニクス 1994年[[7月8日]])
**ゲーム起動時に大量のデータを読み込むことで、オープニングデモ中のロードがなくなり、アニメーションが追加、音も[[CD-DA]]になる。
*バスティール2([[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]] 1994年[[7月8日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*栄冠は君に([[アートディンク]] 1994年[[7月15日]])
**ゲーム開始時に大量のデータを読み込み、ゲーム中のロード回数を大幅に軽減する。
*[[聖戦士伝承・雀卓の騎士]]([[日本物産]] 1994年[[8月1日]])
<!--ソースはNEC-HEのアーケードカード用パンフレット。使用確認 及び使用効果の情報、追記願います-->
*[[スーパーリアル麻雀|スーパーリアル麻雀PII・III カスタム]]([[ナグザット]] 1994年[[8月5日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[ぽっぷるメイル]](日本電気ホームエレクトロニクス 1994年[[8月12日]])
<!--対応についてはソフトにて確認済み。使用効果の情報、追記願います-->
*まーじゃんファッション物語(日本物産 1994年[[9月16日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[誕生 〜Debut〜]]([[NECアベニュー]] 1994年[[9月22日]])
<!--キャッシュ効果、追記願います-->
*[[サークIII|Xak III]](日本電気ホームエレクトロニクス 1994年[[9月30日]])
<!--ソースはNEC-HEのアーケードカード用パンフレット。使用確認 及び使用効果の情報、追記願います-->
*[[卒業II 〜Neo Generation〜]]([[リバーヒルソフト]] 1994年[[12月23日]])
**ゲーム起動時に大量のデータを読み込み、ゲーム中のロード回数を大幅に軽減する。
*[[スーパーリアル麻雀|スーパーリアル麻雀PVカスタム]]([[ナグザット]] [[1995年]][[3月3日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[フォーメーションサッカー|フォーメーションサッカー95 della セリエA]](ヒューマン 1995年[[4月7日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[レッスルエンジェルス|レッスルエンジェルス・ダブルインパクト 団体経営編&新人デビュー編]](日本電気ホームエレクトロニクス 1995年[[5月19日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[空想科学世界ガリバーボーイ]]([[ハドソン]] 1995年[[5月26日]])
**プレイ中に一度読み込んだデータをキャッシュとして蓄積し、一度通過した街の再訪などでロード時間がなくなる。
*[[プリンセスメーカー]](日本電気ホームエレクトロニクス [[マイクロキャビン]] 1995年[[1月3日]])
*プリンセスメーカー2(日本電気ホームエレクトロニクス マイクロキャビン 1995年[[6月16日]])
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[あすか120%|あすか120% マキシマ]](NECアベニュー 1995年[[7月28日]])
**起動時に左+IIボタン同時押しによる隠し対応。起動時に大量のデータを読み込み、ゲーム中のロード時間を大幅に軽減する。
*[[プライベート・アイ・ドル]](日本電気ホームエレクトロニクス 1995年[[8月11日]])
**主に各章のはじめに大量のデータを読み込み、ビジュアルシーン中などのロード回数が大幅に軽減する。
*マージャン・ソード プリンセス・クエスト外伝([[ナグザット]] 1995年8月11日)
<!--ソースはPCE FAQ。動作確認と使用効果の追記願います-->
*[[リンダキューブ]](日本電気ホームエレクトロニクス 1995年[[10月13日]])
**プレイ中に一度読み込んだデータをキャッシュとして蓄積し、一度通過した街の再訪などでロード時間がなくなる。
*[[同級生 (ゲーム)|同級生]](NECアベニュー 1995年[[11月23日]])
<!--ソースはPCE FAQ。ソフトの説明書などにはAC対応に関する記載なし。動作確認や他のソース求む-->
*[[聖夜物語]](ハドソン 1995年[[12月22日]])
<!--ソースはPCE FAQ。ソフトの説明書などにはAC対応に関する記載なし。動作確認や他のソース求む-->
== その他 ==
=== 発売延期 ===
当初は[[1993年]][[12月]]の発売が予定されていたが、アーケードカードに利用する4Mbit DRAM(本製品は4Mbit DRAM×4で16Mbitとなる構成)が世界的に品薄となったため、供給に必要な数が確保できないとの理由により、一度発売が延期されている。
これにより同時発売予定であった専用ソフト第1弾『[[餓狼伝説2]]』も、本製品に合わせて発売が延期されている。
=== 市場の反応 ===
商品名からも分かるように、本製品の登場の背景には当時ブームとなっていた[[アーケードゲーム|アーケード]]の[[対戦型格闘ゲーム]]人気が大きく影響している(格闘ゲームでは、1つのステージで大量のキャラクターパターンを用意する必要があり、従来のバッファRAM容量では忠実に移植するのが困難だった)。そのため、発表された専用ソフトには[[ネオジオ]]で人気を博していた格闘ゲームが名を連ねたが<ref>これらのゲームのオリジナル製作元である[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]は、移植許諾だけでなく各タイトルの内部データも提供している。これは当時、SNKが[[ネオジオCD]]によるCD-ROM供給を計画しており、ハドソンの持つCD-ROM製作のノウハウと交換する形で両社が技術提携したからである。</ref>、バッファRAM増強による効果は他にも期待できるため、格闘ゲーム以外のタイトルも発表された。また、アーケードカード専用ソフトのほかにも、アーケードカードを使用すると従来のSUPER CD-ROM<sup>2</sup>よりも快適にプレイできたり、映像や音声が強化されるといったアーケードカード「対応」ソフトもいくつか発売された。
両対応ソフトの「[[エメラルドドラゴン]]」を読み込みエラーによる誤差の少ないハードのレーザーアクティブとアーケードカードDUOを使って、実際どの程度アクセス回数が減少するのかを検証したところ、バッファRAM増設により画面切り替えに伴うマップデータの読み込み回数が減少する。SUPER CD-ROM<sup>2</sup>では移動によって画面が切り替わる都度、データ読み込みを行っていたが、アーケードカード使用時は1度マップデータの読み込みを行えば画面が切り替わる際は読み込み不要になり、音楽のサーチ(頭だし)だけで済むようになる。<ref name=":0" />
ビジュアルシーンの豊富なゲームにはアーケードカードのメリットはない。<ref name=":0" />
しかし、発売当時は同年に発売されることとなる次世代機([[3DO]]、[[セガサターン]]、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]など)の情報が公開され始めており、高額な価格設定とも相まって、かつてのCD-ROM<sup>2</sup>からSUPER CD-ROM<sup>2</sup>へのような普及には至らず、発売予定であった『[[天外魔境III]]』もNEC-HEの次世代機であった[[PC-FX]]用ソフトへ移行するなど<ref>同作は結局PC-FXでも発売されず、長い沈黙ののち、[[2005年]]に[[PlayStation 2]]用ソフトとしてようやく発売された。</ref>、最終的に発売された専用ソフトはわずかな本数となった。[[多部田俊雄]]は「コンマ数秒のアクセス時間のためにわざわざアーケードカード対応にしていくと制作の現場にも負担がかかるし、また値段の面でユーザーにも負担をかけてしまいます」と現行のSUPER CD-ROM²のスペックは今後も十分通用するものとして意見を出している。<ref>{{Cite book|title=HIPPON SUPER! 第9巻|date=1994年6月3日|year=1994|publisher=株式会社宝島社|page=62}}</ref>
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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{{家庭用ゲーム機/NEC}}
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[[Category:PCエンジン]]
[[Category:メモリーカード]]
[[Category:コンピュータゲームの周辺機器]]
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ネイピア数
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ネイピア数(ネイピアすう、英: Napier's constant)は、数学定数の一つであり、自然対数の底である。ネーピア数、ネピア数とも表記する。記号として通常は e が用いられる。その値は
と続く超越数である。ネピアの定数とも呼ばれる。欧米では一般にオイラー数 (Euler's number) と呼ばれる(オイラーの定数 γ やオイラー数列とは異なる。)。また、ネイピア数の e は、18世紀の数学者オイラー(Euler)のeの略といわれる。オイラーにちなんで名づけられた物事の一覧#オイラー数も参照。
なお、コンピュータにおける指数表記では、e または E がネイピア数ではなく、常用対数の底である10を示すので注意が必要である。ネイピア数は微分積分学に度々登場するため、解析学において重要な数とされる。
ネイピア数の近似値と言えるものが記された最も古い文献は、1618年、ジョン・ネイピアによって発表された対数の研究の付録に収録されていた表である。その表自体はウィリアム・アウトレッドによって書かれたとされている。
厳密にネイピア数そのものを見い出したのはヤコブ・ベルヌーイと言われており、複利の計算で
を求めようとした。これは e に等しくなる。
この数に初めて定数記号を割り当てたのはゴットフリート・ライプニッツだとされている。1690年と1691年のクリスティアーン・ホイヘンス宛ての手紙の中で、記号 b を用いた。レオンハルト・オイラーは、1727年からこの数を表すのに記号 e を使い始め、オイラーによる1736年の『力学』がネイピア数を e で表した最初の出版物となった。その後しばらくは c によってこの数を表す流儀もあったが、やがて e が標準的な記号として受け入れられるようになった。
オイラーは、指数関数 a が
を満たすとき a = e であることを示した。
さらに積分
が対数の性質を持ち、対数として見た時の底が e でもあることを示した。この対数を自然対数という。
ネイピア数を定義するために用いられる指数関数や対数関数の性質・公式を挙げる。これらの式と e = exp 1 などを組み合わせることによって、ネイピア数が定義できる。
n → +∞ とした極限は、
一般に、任意の実数 x に対して、
特に、x=-1 の場合、
が成り立つ。
底が e の指数関数 e の導関数と不定積分は
となる。また、底が e の対数関数 loge x(ln x あるいは(紛らわしくない場合)log x と書くことが多い)の導関数は
となる。したがってまた
である。
e は無理数である(ネイピア数の無理性の証明、オイラー、1744年)だけでなく超越数でもある(シャルル・エルミート、1873年)。
指数関数の解析接続によって一般の複素数を指数とした e の冪乗 e が定義されるが、特に純虚数を指数とする冪はオイラーの公式として知られる関係式
を満たす。この式の特別な場合として x = π(π は円周率)を代入して得られるオイラーの等式
において前者はネイピアの数を含む5つの基本的な数学定数 e, i, π, 0, 1 の間の、後者は e, i, π, −1 の間の直観的には全く明らかではない関係を記述するものである。
ネイピア数は以下の規則的な連分数展開を持つ:
特に 11/4 = 2.75, 19/7 = 2.714..., ... などは e の近似値である。
ネイピア数 e を立体と斜体とのどちらで表記するかは、国や分野によって異なる。国際標準化機構、日本産業規格、日本物理学会などは、e のような定数は立体で表記することを定めている。
しかし、数学の分野では、斜体の一つであるイタリック体で表記されることが多い。
ただし、フランスでは数学の書籍でも立体での表記が比較的多く見つかる。
小数点以下1000桁までの値を示す:
e = 2.
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ネイピア数と呼ばれる自然対数の底
には以下のような語呂合わせで記憶する方法が知られている。
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"text": "なお、コンピュータにおける指数表記では、e または E がネイピア数ではなく、常用対数の底である10を示すので注意が必要である。ネイピア数は微分積分学に度々登場するため、解析学において重要な数とされる。",
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"text": "この数に初めて定数記号を割り当てたのはゴットフリート・ライプニッツだとされている。1690年と1691年のクリスティアーン・ホイヘンス宛ての手紙の中で、記号 b を用いた。レオンハルト・オイラーは、1727年からこの数を表すのに記号 e を使い始め、オイラーによる1736年の『力学』がネイピア数を e で表した最初の出版物となった。その後しばらくは c によってこの数を表す流儀もあったが、やがて e が標準的な記号として受け入れられるようになった。",
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"text": "において前者はネイピアの数を含む5つの基本的な数学定数 e, i, π, 0, 1 の間の、後者は e, i, π, −1 の間の直観的には全く明らかではない関係を記述するものである。",
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"text": "ネイピア数 e を立体と斜体とのどちらで表記するかは、国や分野によって異なる。国際標準化機構、日本産業規格、日本物理学会などは、e のような定数は立体で表記することを定めている。",
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"text": "しかし、数学の分野では、斜体の一つであるイタリック体で表記されることが多い。",
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"text": "ただし、フランスでは数学の書籍でも立体での表記が比較的多く見つかる。",
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}
] |
ネイピア数は、数学定数の一つであり、自然対数の底である。ネーピア数、ネピア数とも表記する。記号として通常は e が用いられる。その値は と続く超越数である。ネピアの定数とも呼ばれる。欧米では一般にオイラー数 と呼ばれる(オイラーの定数 γ やオイラー数列とは異なる。)。また、ネイピア数の e は、18世紀の数学者オイラー(Euler)のeの略といわれる。オイラーにちなんで名づけられた物事の一覧#オイラー数も参照。 なお、コンピュータにおける指数表記では、e または E がネイピア数ではなく、常用対数の底である10を示すので注意が必要である。ネイピア数は微分積分学に度々登場するため、解析学において重要な数とされる。
|
{{ネイピア数e}}
[[画像:Exp derivative at 0.svg|150px|thumb|関数 {{math2|1=''y'' = ''a{{sup|x}}''}} の {{math2|1=''x'' = 0}} における[[微分|微分係数]]が {{math|1}}(赤線)になるのは {{math2|1=''a'' = ''e''}}(青線)のときである(破線は {{math2|1=''a'' = 2, 4}} のとき)。]]
'''ネイピア数'''(ネイピアすう、{{lang-en-short|Napier's constant}})は、[[数学定数]]の一つであり、'''[[自然対数]]の底'''である。'''ネーピア数'''、'''ネピア数'''とも表記する。記号として通常は {{mvar|[[e]]}} が用いられる。その値は
:{{math2|1=''e'' = 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352 …}}
と続く[[超越数]]である。ネピアの定数とも呼ばれる。欧米では一般に'''オイラー数''' (Euler's number) と呼ばれる([[オイラーの定数]] {{mvar|γ}} や[[オイラー数]]列とは異なる。)。また、ネイピア数の {{mvar|e}} は、[[18世紀]]の数学者[[レオンハルト・オイラー|オイラー]](Euler)のeの略といわれる<ref>{{Cite web|和書|title=数学者オイラーが視力を失っても平気だった理由 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/596436 |website=東洋経済オンライン |date=2022-07-02 |accessdate=2023-01-01}}</ref>。[[オイラーにちなんで名づけられた物事の一覧#オイラー数]]も参照。
なお、コンピュータにおける[[指数表記]]では、e または E がネイピア数ではなく、[[常用対数]]の底である[[10]]を示すので注意が必要である<ref>[https://kikakurui.com/x0/X0210-1986-01.html JIS X0210-1986] 情報交換用文字列による数値表現</ref>。ネイピア数は[[微分積分学]]に度々登場するため、[[解析学]]において重要な数とされる。
== 歴史 ==
ネイピア数の近似値と言えるものが記された最も古い文献は、[[1618年]]、[[ジョン・ネイピア]]によって発表された対数の研究の付録に収録されていた表である。その表自体は[[ウィリアム・アウトレッド]]によって書かれたとされている。
厳密にネイピア数そのものを見い出したのは[[ヤコブ・ベルヌーイ]]と言われており、[[複利]]の計算で
:<math>\lim_{n\to \infty} \left( 1+\frac{1}{n} \right)^n</math>
を求めようとした。これは {{mvar|e}} に等しくなる。
この数に初めて定数記号を割り当てたのは[[ゴットフリート・ライプニッツ]]だとされている。1690年と1691年の[[クリスティアーン・ホイヘンス]]宛ての手紙の中で、記号 ''b'' を用いた。レオンハルト・オイラーは、1727年からこの数を表すのに記号 ''e'' を使い始め、オイラーによる1736年の『力学』がネイピア数を ''e'' で表した最初の出版物となった<ref>{{Harvnb|エイドリアン|2008|p=85}}</ref>。その後しばらくは ''c'' によってこの数を表す流儀もあったが、やがて ''e'' が標準的な記号として受け入れられるようになった。
オイラーは、[[指数関数]] ''a{{sup|x}}'' が
:<math>\frac{d}{dx} a^x =a^x</math>
を満たすとき ''a'' = ''e'' であることを示した。
さらに[[積分]]
:<math>\int_1^x \frac{dt}{t}</math>
が[[対数]]の性質を持ち、対数として見た時の底が ''e'' でもあることを示した。この対数を[[自然対数]]という。
== 定義 ==
;オイラーによる定義
:''e'' は
:<math style="margin-left:2em">\frac{d}{dx} \, a^x
= \lim_{h\rightarrow 0} \frac{a^{x+h} -a^x}{h}
=a^x \lim_{h\rightarrow 0} \frac{a^h -1}{h}
= a^x</math>
:を満たすような実数 ''a''、つまり
:<math style="margin-left:2em">\lim_{h\rightarrow 0} \frac{e^h -1}{h} =1</math>
:をネイピア数の定義とした。
;収束数列による定義
:以下の式の右辺は、ヤコブ・ベルヌーイによって、[[利子#連続複利と元利合計|利子の連続複利]]の計算との関連で言及されたものである。
:<math>e=\lim_{n\to +\infty} \left( 1+\frac{1}{n} \right)^n</math>
:元金1を年利1、付利期間を {{math|{{sfrac|1|''n''}}}} 年で1年預金すれば、{{math|{{sfrac|1|''n''}}}} 年ごとに利子 {{math|{{sfrac|1|''n''}}}} で元利合計が増えていき、1年経つと右辺の式になる。''n'' → +∞ とした極限は連続複利の元利合計となる。
:オイラーは、導関数が元の関数と等しい[[指数関数]]の底が、この式の右辺によって求まることを示した。ここで ''n'' は[[自然数]]だが、''n'' を[[実数]]として変動させた場合も上の式は同じ値に収束する。
[[画像:Ln+e.svg|200px|thumb|ln ''e'' = 1]]
;微分積分学の基本的な関数を使った定義
:<math style="margin-left:2em">e=\exp 1=\sum^{\infty}_{n=0} \frac{1}{n!}</math>
:<math style="margin-left:2em">\ln e=1</math>
:exp ''x'' は[[指数関数]]、ln ''x'' は[[自然対数]]であり、互いに逆関数になっている。指数関数や自然対数をネイピア数 ''e'' により定義する場合、これらの式によりネイピア数を定義することは、[[循環定義]]となってしまう。そのためにネイピア数 ''e'' を用いない指数関数・対数関数の定義として以下に示すようなものがある。
=== 定義に用いられる諸公式 ===
[[画像:hyperbola E.svg|200px|thumb|グラフ ''y'' = {{sfrac|1|''x''}} の 1 ≤ ''x'' ≤ ''e'' における領域の面積は 1 になる<ref>1647年グレゴアール・サン・ヴァンサン(ベルギーの数学者1584~1667年)がこの事実を発見したという。カジョリ『初等数学史』(共立出版)235頁参照</ref>。]]
ネイピア数を定義するために用いられる指数関数や対数関数の性質・公式を挙げる。これらの式と ''e'' = exp 1 などを組み合わせることによって、ネイピア数が定義できる。
*<math>\exp x=\sum^{\infty}_{n=0} \frac{x^n}{n!}</math>
*:これは関数 <math>\exp x=e^x</math> を[[テイラー展開]]したものである。
*<math>\frac{d}{dx} y(x)= y(x),\quad y(0)=1</math>
*:という[[微分方程式|常微分方程式]]の初期値問題の解 ''y''(''x'') によって exp ''x'' = ''y''(''x'') が定義される。
*<math>\int_1^x \frac{dt}{t} =\ln x</math>
*<math>\left.\frac{d}{da} x^a \right|_{a=0} = \ln x</math>
== 性質 ==
''n'' → +∞ とした極限は、
:<math>\lim_{n\to +\infty} \left( 1+\frac{1}{n} \right)^n = e</math>
一般に、任意の実数 ''x'' に対して、
:<math>\lim_{n\to +\infty} \left( 1+\frac{x}{n} \right)^n = e^{x}</math>
特に、''x''=-1 の場合、
:<math>\lim_{n\to +\infty} \left( 1-\frac{1}{n} \right)^n = \frac{1}{e} </math>
が成り立つ。
底が ''e'' の[[指数関数]] ''e{{sup|x}}'' の[[導関数]]と[[不定積分]]は
:<math>\frac{d}{dx} e^x = e^x,</math>
:<math>\int e^x \,dx= e^x +C</math>(''C'' は積分定数)
となる。また、底が ''e'' の[[対数関数]] log{{sub|''e''}} ''x''(ln ''x'' あるいは(紛らわしくない場合)log ''x'' と書くことが多い)の導関数は
:<math>\frac{d}{dx}\ln x=\frac{1}{x}</math>
となる。したがってまた
:<math>\int \frac{dx}{x} =\ln x+C</math>
である。
''e'' は無理数である([[ネイピア数の無理性の証明]]、オイラー、1744年)だけでなく[[超越数]]でもある([[シャルル・エルミート]]、1873年)。
指数関数の[[解析接続]]によって一般の[[複素数]]を指数とした ''e'' の[[冪乗]] ''e{{sup|z}}'' が定義されるが、特に純虚数を指数とする冪は[[オイラーの公式]]として知られる関係式
:<math>e^{ix} =\cos x+i\sin x</math>
を満たす。この式の特別な場合として ''x'' = {{π}}({{π}} は[[円周率]])を代入して得られる[[オイラーの等式]]
:<math>e^{i\pi} +1=0</math> または <math>e^{i\pi}=-1</math>
において前者はネイピアの数を含む5つの基本的な数学定数 ''e'', ''i'', {{π}}, 0, 1 の間の、後者は ''e'', ''i'', {{π}}, −1 の間の直観的には全く明らかではない関係を記述するものである。
ネイピア数は以下の規則的な[[連分数]]展開を持つ:
:''e'' = [2; 1, 2, 1, 1, 4, 1, 1, 6, 1, 1, 8, 1, 1, 10, …]
特に {{sfrac|11|4}} = 2.75, {{sfrac|19|7}} = 2.714…, … などは ''e'' の近似値である。
== 表記 ==
ネイピア数 ''e'' を[[立体活字|立体]]と[[斜体]]とのどちらで表記するかは、国や分野によって異なる。[[国際標準化機構]]<ref>[http://www.iso.org/iso/home/store/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=31887 ISO 80000-2:2009] Quantities and units −- Part 2: Mathematical signs and symbols to be used in the natural sciences and technology, [[国際標準化機構]]、2009年。</ref>、[[日本産業規格]]<ref>[https://kikakurui.com/z8/Z8201-1981-01.html JIS Z 8201](数学記号)、[[日本産業規格|日本工業規格]]、1981。</ref>、[[日本物理学会]]<ref>[https://www.jps.or.jp/books/files/toukou-kitei.pdf 日本物理学会誌投稿規定]、[[日本物理学会]]、2023年1月。</ref>などは、{{math|e}} のような定数は立体で表記することを定めている。
: 例:<math>y = \mathrm{e}^x ,\quad x = \log_{\mathrm{\,e}} y.</math>
しかし、数学の分野では、斜体の一つである[[イタリック体]]で表記されることが多い。
: 例:<math>y = e^x ,\quad x = \log_{\,e} y.</math>
ただし、[[フランス]]では数学の書籍でも立体での表記が比較的多く見つかる。
== 値 ==
小数点以下1000桁までの値を示す<ref>({{OEIS|A001113}})</ref>:
e = 2.
7182818284 5904523536 0287471352 6624977572 4709369995 9574966967 6277240766 3035354759 4571382178 5251664274 2746639193 2003059921 8174135966 2904357290 0334295260 5956307381 3232862794 3490763233 8298807531 9525101901 1573834187 9307021540 8914993488 4167509244 7614606680 8226480016 8477411853 7423454424 3710753907 7744992069 5517027618 3860626133 1384583000 7520449338 2656029760 6737113200 7093287091 2744374704 7230696977 2093101416 9283681902 5515108657 4637721112 5238978442 5056953696 7707854499 6996794686 4454905987 9316368892 3009879312 7736178215 4249992295 7635148220 8269895193 6680331825 2886939849 6465105820 9392398294 8879332036 2509443117 3012381970 6841614039 7019837679 3206832823 7646480429 5311802328 7825098194 5581530175 6717361332 0698112509 9618188159 3041690351 5988885193 4580727386 6738589422 8792284998 9208680582 5749279610 4841984443 6346324496 8487560233 6248270419 7862320900 2160990235 3043699418 4914631409 3431738143 6405462531 5209618369 0888707016 7683964243 7814059271 4563549061 3031072085 1038375051 0115747704 1718986106 8739696552 1267154688 9570350354 ...
== 覚え方 ==
ネイピア数と呼ばれる自然対数の底
:{{math|1=''e'' = 2.718281828459045…}}
には以下のような語呂合わせで記憶する方法が知られている<ref>{{Cite web|和書|author=大野泰生 |date=2016-06-01 |url=https://www.shokabo.co.jp/column-math/column-math0010.html |title=【コラム:数学者的思考回路】(10)1173事件 |publisher=裳華房 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170709100524/https://www.shokabo.co.jp/column-math/column-math0010.html|archivedate=2017-07-09 |accessdate=2021-01-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-19 |url=http://2.718281828459045235360287471352662497757247093699959574966967627.org/recitation/ |title=ネイピア数(自然対数の底)の暗唱 |publisher=Home(ネイピア数 自然対数の底 e) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210116083051/http://2.718281828459045235360287471352662497757247093699959574966967627.org/recitation/ |archivedate=2021-01-16 |accessdate=2021-01-16}}</ref>。
;{{ruby|鮒|ふな}}{{ruby|一鉢|ひとはち}}{{ruby|二鉢|ふたはち}}{{ruby|一鉢|ひとはち}}{{ruby|二鉢|ふたはち}}{{ruby|至極|しごく}}{{ruby|惜|お}}しい
;{{ruby|鮒|ふな}}{{ruby|一鉢|ひとはち}}{{ruby|二鉢|ふたはち}}{{ruby|一鉢|ひとはち}}{{ruby|二鉢|ふたはち}}{{ruby|至極|しごく}}{{ruby|美味|おい}}しい
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|section=1|date=2016-02}}
*{{Cite book|和書 |author=Yeo・エイドリアン |translator=[[久保儀明]]、[[蓮見亮]] |date=2008-10 |title=πとeの話 数の不思議 |publisher=青土社 |isbn=978-4-7917-6439-6 |ref={{Harvid|エイドリアン|2008}} |url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=1663}}
*{{Cite book|和書 |author=高木貞治 |authorlink=高木貞治 |date=1983-09-27 |title=解析概論 |edition=改訂第3版 軽装版 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-005171-7 |ref={{Harvid|高木|1983}} |url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/7/0051710.html}}
**{{Cite book|和書 |author=高木貞治 |authorlink=高木貞治 |date=2010-09-15 |title=定本 解析概論 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-005209-2 |ref={{Harvid|高木|2010}}|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/8/0052090.html}}
*{{Cite book|和書 |author=L. S. ポントリャーギン |authorlink=レフ・ポントリャーギン |translator=[[坂本實 (情報学者)|坂本實]] |date=2008-08-06 |title=やさしい微積分 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま学芸文庫 ホ13-1 Math & Science |isbn=978-4-480-09149-9 |ref={{Harvid|ポントリャーギン|2008}} |url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480091499/}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
*[[指数関数]]
*[[自然対数]]
*[[数学定数]]
*[[超越数]]
*[[ネイピア数の表現]]
*[[e進法]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|E (mathematical constant)}}
*{{Kotobank|ネーピアの数|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
*{{Kotobank|自然対数|2=[[竹之内脩]]}}
*{{高校数学の美しい物語|714|自然対数の底(ネイピア数)の定義:収束することの証明}}
*{{MathWorld|title=e|urlname=e|author=[[:en:Jonathan Sondow|Sondow, Jonathan]] and [[:en:Eric W. Weisstein|Weisstein, Eric W.]]}}
*{{WolframAlpha|title=Napier's constant|id=Napier's constant|accessdate=2023-05-28}}
*[https://apod.nasa.gov/htmltest/gifcity/e.5mil eの近似値](500万桁)2015年3月30日閲覧
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ねいひあすう}}
[[Category:超越数]]
[[Category:数学定数]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:ネイピア数|*]]
[[Category:数学のエポニム]]
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2003-06-29T09:31:36Z
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2023-10-22T12:10:31Z
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10,612 |
オイラーの定数
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オイラーの定数(オイラーのていすう、英: Euler’s constant)は、数学定数の1つで、以下のように定義される。
γ := lim n → ∞ ( ∑ k = 1 n 1 k − ln ( n ) ) = ∫ 1 ∞ ( 1 ⌊ x ⌋ − 1 x ) d x {\displaystyle \gamma :=\lim _{n\rightarrow \infty }\left(\sum _{k=1}^{n}{\frac {1}{k}}-\ln(n)\right)=\int _{1}^{\infty }\left({1 \over \lfloor x\rfloor }-{1 \over x}\right)\,dx}
オイラー・マスケローニ定数 (英: Euler-Mascheroni constant)、オイラーのγ (英: Euler's gamma) とも呼ぶ。ちなみに、オイラーはこの定数を表わすのに記号 C を用いた。γ を用いたのはロレンツォ・マスケローニである。
この値は、およそ0.57721 56649 01532 86060 65120 90082 40243 10421 59335 93992 35988 05767 23488 48677 26777 66467 09369 47063 29174 67495...である。
オイラーの定数は超越数であろうと予想されている。しかしながら、無理数であるかどうか、および、円周率 π {\displaystyle \pi } との関係性も、数学上の未解決問題の一つである。
上式は調和級数と呼ばれる。調和級数が発散するという事実は、今日においては微分積分学の初歩であるが、古くは収束すると考えられていた。
調和級数が発散することの証明を最初に行ったのは、14世紀のパリ大学のニコル・オレームであるが、これには誤りがあり、正しい証明が得られたのは17世紀になってからである。その後ゴットフリート・ライプニッツなどは有限項の調和級数の近似式に関心をもつなど17世紀においても数学的な関心を集めていた。
有限項の調和級数の近似式への関心から、レオンハルト・オイラーは調和級数の増え方が極限において対数関数に等しいことを証明した。つまり、調和級数と対数関数との差はある定数に収束し、それがのちにオイラーの定数と呼ばれるようになった。オイラーはこの値を小数第6位まで求めた。その後、ロレンツォ・マスケローニが第32位まで求め(ただし、正しかったのは第20位まで)、γの記号で表した。
大文字のガンマ Γ で表されるガンマ関数と小文字のガンマ γ で表されるオイラーの定数は共にオイラーによって与えられたものであるが、オイラー自身は前者のガンマ関数を階乗 (factorial) と呼んでいる。ガンマ関数の記号はアドリアン=マリ・ルジャンドルに始まり、オイラーの定数の記号はマスケローニに始まるものである。オイラーの定数の記号がガンマ関数に由来するものであったのか、今となっては確かめようがないが、オイラーの定数がガンマ関数に関係しているということは確かである。すなわち、ガンマ関数の乗積表示
Γ ( z ) = lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\displaystyle \Gamma (z)=\lim _{n\to \infty }{\frac {n^{z}n!}{\displaystyle \prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}}
に対し、その対数微分であるディガンマ関数
Ψ ( z ) = d d z log Γ ( z ) = Γ ′ ( z ) Γ ( z ) = lim n → ∞ ( log n − ∑ k = 0 n 1 z + k ) {\displaystyle {\begin{aligned}\Psi (z)&={\frac {d}{dz}}\log \Gamma (z)={\frac {\Gamma '(z)}{\Gamma (z)}}\\&=\lim _{n\to \infty }\left(\log {n}-\sum _{k=0}^{n}{\frac {1}{z+k}}\right)\end{aligned}}}
に z = 1 {\displaystyle z=1} を代入すると
Ψ ( 1 ) = Γ ′ ( 1 ) = lim n → ∞ ( log n − ∑ k = 0 n 1 1 + k ) = lim n → ∞ ( − γ − 1 1 + n ) = − γ {\displaystyle {\begin{aligned}\Psi (1)=\Gamma '(1)&=\lim _{n\to \infty }\left(\log {n}-\sum _{k=0}^{n}{\frac {1}{1+k}}\right)\\&=\lim _{n\to \infty }\left(-\gamma -{\frac {1}{1+n}}\right)\\&=-\gamma \\\end{aligned}}}
を得る。
オイラーの定数の値は以下の定積分で与えられる。
γ = − Γ ′ ( 1 ) = − ∫ 0 ∞ log t e − t d t = − ∫ 0 1 log log 1 u d u ( u = e − t ) = − ∫ − ∞ ∞ u e u − e u d u ( u = log t ) {\displaystyle {\begin{aligned}\gamma &=-\Gamma '(1)\\&=-\int _{0}^{\infty }\log {t}e^{-t}dt\\&=-\int _{0}^{1}\log \log {\frac {1}{u}}du\qquad (u=e^{-t})\\&=-\int _{-\infty }^{\infty }ue^{u-e^{u}}du\qquad (u=\log {t})\\\end{aligned}}}
あるいは
log t = ∫ 1 t 1 s d s = ∫ 1 t ∫ 0 ∞ e − s u d u d s = ∫ 0 ∞ ∫ 1 t e − s u d s d u = ∫ 0 ∞ e − u − e − t u u d u {\displaystyle {\begin{aligned}\log {t}&=\int _{1}^{t}{\frac {1}{s}}ds\\&=\int _{1}^{t}\int _{0}^{\infty }e^{-su}duds\\&=\int _{0}^{\infty }\int _{1}^{t}e^{-su}dsdu\\&=\int _{0}^{\infty }{\frac {e^{-u}-e^{-tu}}{u}}du\\\end{aligned}}}
を用いれば
γ = − ∫ 0 ∞ log t e − t d t = − ∫ 0 ∞ ∫ 0 ∞ e − u − e − t u u d u e − t d t = ∫ 0 ∞ ∫ 0 ∞ e − t u − e − u u d u e − t d t = ∫ 0 ∞ ( ∫ 0 ∞ e − t ( u + 1 ) u d t − ∫ 0 ∞ e − u e − t u d t ) d u = ∫ 0 ∞ ( 1 u ( u + 1 ) − e − u u ) d u {\displaystyle {\begin{aligned}\gamma &=-\int _{0}^{\infty }\log {t}e^{-t}dt\\&=-\int _{0}^{\infty }\int _{0}^{\infty }{\frac {e^{-u}-e^{-tu}}{u}}du\;e^{-t}dt\\&=\int _{0}^{\infty }\int _{0}^{\infty }{\frac {e^{-tu}-e^{-u}}{u}}du\;e^{-t}dt\\&=\int _{0}^{\infty }\left(\int _{0}^{\infty }{\frac {e^{-t(u+1)}}{u}}dt-\int _{0}^{\infty }{\frac {e^{-u}e^{-t}}{u}}dt\right)du\\&=\int _{0}^{\infty }\left({\frac {1}{u(u+1)}}-{\frac {e^{-u}}{u}}\right)du\\\end{aligned}}}
となり、更に δ → + 0 {\displaystyle \delta \to +0} のときに
| ∫ δ e δ − 1 1 u ( u + 1 ) d u | ≤ | ∫ δ e δ − 1 1 δ d u | = O ( δ ) {\displaystyle {\begin{aligned}\left|\int _{\delta }^{e^{\delta }-1}{\frac {1}{u(u+1)}}du\right|&\leq \left|\int _{\delta }^{e^{\delta }-1}{\frac {1}{\delta }}du\right|\\&=O(\delta )\\\end{aligned}}}
であるから
γ = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ ( 1 u ( u + 1 ) − e − u u ) d u = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ 1 u ( u + 1 ) d u − ∫ δ ∞ e − s s d s = lim δ → + 0 ∫ e δ − 1 ∞ 1 u ( u + 1 ) d u − ∫ δ ∞ e − s s d s = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ e t ( e t − 1 ) e t d t − ∫ δ ∞ e − s s d s ( u = e t − 1 ) = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ e − t 1 − e − t d t − ∫ δ ∞ e − s s d s = ∫ 0 ∞ ( e − t 1 − e − t − e − t t ) d t {\displaystyle {\begin{aligned}\gamma &=\lim _{\delta \to +0}\int _{\delta }^{\infty }\left({\frac {1}{u(u+1)}}-{\frac {e^{-u}}{u}}\right)du\\&=\lim _{\delta \to +0}\int _{\delta }^{\infty }{\frac {1}{u(u+1)}}du-\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{-s}}{s}}ds\\&=\lim _{\delta \to +0}\int _{e^{\delta }-1}^{\infty }{\frac {1}{u(u+1)}}du-\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{-s}}{s}}ds\\&=\lim _{\delta \to +0}\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{t}}{(e^{t}-1)e^{t}}}dt-\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{-s}}{s}}ds\qquad (u=e^{t}-1)\\&=\lim _{\delta \to +0}\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{-t}}{1-e^{-t}}}dt-\int _{\delta }^{\infty }{\frac {e^{-s}}{s}}ds\\&=\int _{0}^{\infty }\left({\frac {e^{-t}}{1-e^{-t}}}-{\frac {e^{-t}}{t}}\right)dt\end{aligned}}}
となる。
オイラーの定数の値は以下の級数で得られる.
γ = ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) n {\displaystyle \gamma =\sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}\zeta (n)}{n}}}
γ = 1 − ∑ n = 2 ∞ ζ ( n ) − 1 n {\displaystyle \gamma =1-\sum _{n=2}^{\infty }{\frac {\zeta (n)-1}{n}}}
γ = ∑ n = 2 ∞ ( n − 1 ) ( ζ ( n ) − 1 ) n {\displaystyle \gamma =\sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(n-1)(\zeta (n)-1)}{n}}}
γ = ln 2 − ∑ n = 1 ∞ ζ ( 2 n + 1 ) 2 2 n ( 2 n + 1 ) {\displaystyle \gamma =\ln 2-\sum _{n=1}^{\infty }{\frac {\zeta (2n+1)}{2^{2n}(2n+1)}}}
γ = ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) , { m ∣ m ∈ R ∖ { 0 , − 1 , − 1 k + 1 } } w h e r e { k ∣ k ∈ Z ∖ { − 1 } } {\displaystyle \gamma =\displaystyle \sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\ln \Gamma \left({\frac {m+1}{m}}\right),\quad \{m\mid m\in \mathbb {R} \setminus \{0,-1,-{\dfrac {1}{k+1}}\}\}\,\mathrm {where} \,\{k\mid \,k\in \mathbb {Z} \setminus \{-1\}\}}
γ = lim m → 0 ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) {\displaystyle \gamma =\lim _{m\rightarrow 0}\left(\displaystyle \sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\ln \Gamma \left({\frac {m+1}{m}}\right)\right)}
γ = lim m → − 1 ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) {\displaystyle \gamma =\lim _{m\rightarrow -1}\left(\displaystyle \sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\ln \Gamma \left({\frac {m+1}{m}}\right)\right)}
γ = lim m → ( − 1 ) / ( k + 1 ) ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) , { k ∣ k ∈ Z ∖ { − 1 } } {\displaystyle \gamma =\lim _{m\rightarrow (-1)/(k+1)}\left(\displaystyle \sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\ln \Gamma \left({\frac {m+1}{m}}\right)\right),\quad \{\,k\,\mid \,k\in \mathbb {Z} \setminus \{-1\}\}}
γ = 3 2 − ln 2 − ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ( n − 1 ) ( ζ ( n ) − 1 ) n {\displaystyle \gamma ={\frac {3}{2}}-\ln 2-\sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}(n-1)(\zeta (n)-1)}{n}}}
γ = 1 − ln 2 + ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ( ζ ( n ) − 1 ) n {\displaystyle \gamma =1-\ln 2+\sum _{n=2}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}(\zeta (n)-1)}{n}}}
等々.
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "オイラーの定数(オイラーのていすう、英: Euler’s constant)は、数学定数の1つで、以下のように定義される。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "γ := lim n → ∞ ( ∑ k = 1 n 1 k − ln ( n ) ) = ∫ 1 ∞ ( 1 ⌊ x ⌋ − 1 x ) d x {\\displaystyle \\gamma :=\\lim _{n\\rightarrow \\infty }\\left(\\sum _{k=1}^{n}{\\frac {1}{k}}-\\ln(n)\\right)=\\int _{1}^{\\infty }\\left({1 \\over \\lfloor x\\rfloor }-{1 \\over x}\\right)\\,dx}",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "オイラー・マスケローニ定数 (英: Euler-Mascheroni constant)、オイラーのγ (英: Euler's gamma) とも呼ぶ。ちなみに、オイラーはこの定数を表わすのに記号 C を用いた。γ を用いたのはロレンツォ・マスケローニである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "この値は、およそ0.57721 56649 01532 86060 65120 90082 40243 10421 59335 93992 35988 05767 23488 48677 26777 66467 09369 47063 29174 67495...である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "オイラーの定数は超越数であろうと予想されている。しかしながら、無理数であるかどうか、および、円周率 π {\\displaystyle \\pi } との関係性も、数学上の未解決問題の一つである。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "上式は調和級数と呼ばれる。調和級数が発散するという事実は、今日においては微分積分学の初歩であるが、古くは収束すると考えられていた。",
"title": "調和級数との関係"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "調和級数が発散することの証明を最初に行ったのは、14世紀のパリ大学のニコル・オレームであるが、これには誤りがあり、正しい証明が得られたのは17世紀になってからである。その後ゴットフリート・ライプニッツなどは有限項の調和級数の近似式に関心をもつなど17世紀においても数学的な関心を集めていた。",
"title": "調和級数との関係"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "有限項の調和級数の近似式への関心から、レオンハルト・オイラーは調和級数の増え方が極限において対数関数に等しいことを証明した。つまり、調和級数と対数関数との差はある定数に収束し、それがのちにオイラーの定数と呼ばれるようになった。オイラーはこの値を小数第6位まで求めた。その後、ロレンツォ・マスケローニが第32位まで求め(ただし、正しかったのは第20位まで)、γの記号で表した。",
"title": "調和級数との関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "大文字のガンマ Γ で表されるガンマ関数と小文字のガンマ γ で表されるオイラーの定数は共にオイラーによって与えられたものであるが、オイラー自身は前者のガンマ関数を階乗 (factorial) と呼んでいる。ガンマ関数の記号はアドリアン=マリ・ルジャンドルに始まり、オイラーの定数の記号はマスケローニに始まるものである。オイラーの定数の記号がガンマ関数に由来するものであったのか、今となっては確かめようがないが、オイラーの定数がガンマ関数に関係しているということは確かである。すなわち、ガンマ関数の乗積表示",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "Γ ( z ) = lim n → ∞ n z n ! ∏ k = 0 n ( z + k ) {\\displaystyle \\Gamma (z)=\\lim _{n\\to \\infty }{\\frac {n^{z}n!}{\\displaystyle \\prod _{k=0}^{n}{(z+k)}}}}",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "に対し、その対数微分であるディガンマ関数",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "Ψ ( z ) = d d z log Γ ( z ) = Γ ′ ( z ) Γ ( z ) = lim n → ∞ ( log n − ∑ k = 0 n 1 z + k ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\Psi (z)&={\\frac {d}{dz}}\\log \\Gamma (z)={\\frac {\\Gamma '(z)}{\\Gamma (z)}}\\\\&=\\lim _{n\\to \\infty }\\left(\\log {n}-\\sum _{k=0}^{n}{\\frac {1}{z+k}}\\right)\\end{aligned}}}",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "に z = 1 {\\displaystyle z=1} を代入すると",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "Ψ ( 1 ) = Γ ′ ( 1 ) = lim n → ∞ ( log n − ∑ k = 0 n 1 1 + k ) = lim n → ∞ ( − γ − 1 1 + n ) = − γ {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\Psi (1)=\\Gamma '(1)&=\\lim _{n\\to \\infty }\\left(\\log {n}-\\sum _{k=0}^{n}{\\frac {1}{1+k}}\\right)\\\\&=\\lim _{n\\to \\infty }\\left(-\\gamma -{\\frac {1}{1+n}}\\right)\\\\&=-\\gamma \\\\\\end{aligned}}}",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "を得る。",
"title": "ガンマ関数との関係"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "オイラーの定数の値は以下の定積分で与えられる。",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "γ = − Γ ′ ( 1 ) = − ∫ 0 ∞ log t e − t d t = − ∫ 0 1 log log 1 u d u ( u = e − t ) = − ∫ − ∞ ∞ u e u − e u d u ( u = log t ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\gamma &=-\\Gamma '(1)\\\\&=-\\int _{0}^{\\infty }\\log {t}e^{-t}dt\\\\&=-\\int _{0}^{1}\\log \\log {\\frac {1}{u}}du\\qquad (u=e^{-t})\\\\&=-\\int _{-\\infty }^{\\infty }ue^{u-e^{u}}du\\qquad (u=\\log {t})\\\\\\end{aligned}}}",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "あるいは",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "log t = ∫ 1 t 1 s d s = ∫ 1 t ∫ 0 ∞ e − s u d u d s = ∫ 0 ∞ ∫ 1 t e − s u d s d u = ∫ 0 ∞ e − u − e − t u u d u {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\log {t}&=\\int _{1}^{t}{\\frac {1}{s}}ds\\\\&=\\int _{1}^{t}\\int _{0}^{\\infty }e^{-su}duds\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }\\int _{1}^{t}e^{-su}dsdu\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }{\\frac {e^{-u}-e^{-tu}}{u}}du\\\\\\end{aligned}}}",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "を用いれば",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "γ = − ∫ 0 ∞ log t e − t d t = − ∫ 0 ∞ ∫ 0 ∞ e − u − e − t u u d u e − t d t = ∫ 0 ∞ ∫ 0 ∞ e − t u − e − u u d u e − t d t = ∫ 0 ∞ ( ∫ 0 ∞ e − t ( u + 1 ) u d t − ∫ 0 ∞ e − u e − t u d t ) d u = ∫ 0 ∞ ( 1 u ( u + 1 ) − e − u u ) d u {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\gamma &=-\\int _{0}^{\\infty }\\log {t}e^{-t}dt\\\\&=-\\int _{0}^{\\infty }\\int _{0}^{\\infty }{\\frac {e^{-u}-e^{-tu}}{u}}du\\;e^{-t}dt\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }\\int _{0}^{\\infty }{\\frac {e^{-tu}-e^{-u}}{u}}du\\;e^{-t}dt\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }\\left(\\int _{0}^{\\infty }{\\frac {e^{-t(u+1)}}{u}}dt-\\int _{0}^{\\infty }{\\frac {e^{-u}e^{-t}}{u}}dt\\right)du\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }\\left({\\frac {1}{u(u+1)}}-{\\frac {e^{-u}}{u}}\\right)du\\\\\\end{aligned}}}",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "となり、更に δ → + 0 {\\displaystyle \\delta \\to +0} のときに",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "| ∫ δ e δ − 1 1 u ( u + 1 ) d u | ≤ | ∫ δ e δ − 1 1 δ d u | = O ( δ ) {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\left|\\int _{\\delta }^{e^{\\delta }-1}{\\frac {1}{u(u+1)}}du\\right|&\\leq \\left|\\int _{\\delta }^{e^{\\delta }-1}{\\frac {1}{\\delta }}du\\right|\\\\&=O(\\delta )\\\\\\end{aligned}}}",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "であるから",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "γ = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ ( 1 u ( u + 1 ) − e − u u ) d u = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ 1 u ( u + 1 ) d u − ∫ δ ∞ e − s s d s = lim δ → + 0 ∫ e δ − 1 ∞ 1 u ( u + 1 ) d u − ∫ δ ∞ e − s s d s = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ e t ( e t − 1 ) e t d t − ∫ δ ∞ e − s s d s ( u = e t − 1 ) = lim δ → + 0 ∫ δ ∞ e − t 1 − e − t d t − ∫ δ ∞ e − s s d s = ∫ 0 ∞ ( e − t 1 − e − t − e − t t ) d t {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\gamma &=\\lim _{\\delta \\to +0}\\int _{\\delta }^{\\infty }\\left({\\frac {1}{u(u+1)}}-{\\frac {e^{-u}}{u}}\\right)du\\\\&=\\lim _{\\delta \\to +0}\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {1}{u(u+1)}}du-\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{-s}}{s}}ds\\\\&=\\lim _{\\delta \\to +0}\\int _{e^{\\delta }-1}^{\\infty }{\\frac {1}{u(u+1)}}du-\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{-s}}{s}}ds\\\\&=\\lim _{\\delta \\to +0}\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{t}}{(e^{t}-1)e^{t}}}dt-\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{-s}}{s}}ds\\qquad (u=e^{t}-1)\\\\&=\\lim _{\\delta \\to +0}\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{-t}}{1-e^{-t}}}dt-\\int _{\\delta }^{\\infty }{\\frac {e^{-s}}{s}}ds\\\\&=\\int _{0}^{\\infty }\\left({\\frac {e^{-t}}{1-e^{-t}}}-{\\frac {e^{-t}}{t}}\\right)dt\\end{aligned}}}",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "積分表示"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "オイラーの定数の値は以下の級数で得られる.",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "γ = ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) n {\\displaystyle \\gamma =\\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}\\zeta (n)}{n}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "γ = 1 − ∑ n = 2 ∞ ζ ( n ) − 1 n {\\displaystyle \\gamma =1-\\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {\\zeta (n)-1}{n}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "γ = ∑ n = 2 ∞ ( n − 1 ) ( ζ ( n ) − 1 ) n {\\displaystyle \\gamma =\\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(n-1)(\\zeta (n)-1)}{n}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "γ = ln 2 − ∑ n = 1 ∞ ζ ( 2 n + 1 ) 2 2 n ( 2 n + 1 ) {\\displaystyle \\gamma =\\ln 2-\\sum _{n=1}^{\\infty }{\\frac {\\zeta (2n+1)}{2^{2n}(2n+1)}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "γ = ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) , { m ∣ m ∈ R ∖ { 0 , − 1 , − 1 k + 1 } } w h e r e { k ∣ k ∈ Z ∖ { − 1 } } {\\displaystyle \\gamma =\\displaystyle \\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}\\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\\ln \\Gamma \\left({\\frac {m+1}{m}}\\right),\\quad \\{m\\mid m\\in \\mathbb {R} \\setminus \\{0,-1,-{\\dfrac {1}{k+1}}\\}\\}\\,\\mathrm {where} \\,\\{k\\mid \\,k\\in \\mathbb {Z} \\setminus \\{-1\\}\\}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "γ = lim m → 0 ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) {\\displaystyle \\gamma =\\lim _{m\\rightarrow 0}\\left(\\displaystyle \\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}\\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\\ln \\Gamma \\left({\\frac {m+1}{m}}\\right)\\right)}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "γ = lim m → − 1 ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) {\\displaystyle \\gamma =\\lim _{m\\rightarrow -1}\\left(\\displaystyle \\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}\\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\\ln \\Gamma \\left({\\frac {m+1}{m}}\\right)\\right)}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "γ = lim m → ( − 1 ) / ( k + 1 ) ( ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ζ ( n ) m n − 1 n − m ln Γ ( m + 1 m ) ) , { k ∣ k ∈ Z ∖ { − 1 } } {\\displaystyle \\gamma =\\lim _{m\\rightarrow (-1)/(k+1)}\\left(\\displaystyle \\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}\\zeta (n)}{m^{n-1}n}}-m\\ln \\Gamma \\left({\\frac {m+1}{m}}\\right)\\right),\\quad \\{\\,k\\,\\mid \\,k\\in \\mathbb {Z} \\setminus \\{-1\\}\\}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "γ = 3 2 − ln 2 − ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ( n − 1 ) ( ζ ( n ) − 1 ) n {\\displaystyle \\gamma ={\\frac {3}{2}}-\\ln 2-\\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(n-1)(\\zeta (n)-1)}{n}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "γ = 1 − ln 2 + ∑ n = 2 ∞ ( − 1 ) n ( ζ ( n ) − 1 ) n {\\displaystyle \\gamma =1-\\ln 2+\\sum _{n=2}^{\\infty }{\\frac {(-1)^{n}(\\zeta (n)-1)}{n}}}",
"title": "級数表示"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "等々.",
"title": "級数表示"
}
] |
オイラーの定数は、数学定数の1つで、以下のように定義される。 オイラー・マスケローニ定数、オイラーのγ とも呼ぶ。ちなみに、オイラーはこの定数を表わすのに記号 C を用いた。γ を用いたのはロレンツォ・マスケローニである。 この値は、およそ0.57721 56649 01532 86060 65120 90082 40243 10421 59335 93992 35988 05767 23488 48677 26777 66467 09369 47063 29174 67495...である。 オイラーの定数は超越数であろうと予想されている。しかしながら、無理数であるかどうか、および、円周率 π との関係性も、数学上の未解決問題の一つである。
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{{Otheruses|オイラーのγ|自然対数の底|ネイピア数|整数列|オイラー数}}
{{Unsolved|数学|オイラーの定数は無理数か。}}
'''オイラーの定数'''(オイラーのていすう、{{Lang-en-short|Euler’s constant}})は、[[数学定数]]の1つで、以下のように定義される。
{{Indent|<math>\gamma := \lim_{n \rightarrow \infty } \left(\sum_{k=1}^n \frac{1}{k} - \ln(n) \right) = \int_1^\infty\left({1\over\lfloor x\rfloor}-{1\over x}\right)\,dx</math>}}
'''オイラー・マスケローニ定数''' ({{Lang-en-short|Euler-Mascheroni constant}})<ref>[[#Reference-Mathworld-Euler-Mascheroni Constant|Weisstein]]</ref>、'''オイラーの{{mvar|γ}}''' ({{Lang-en-short|Euler's gamma}}) とも呼ぶ。ちなみに、オイラーはこの定数を表わすのに記号 {{mvar|C}} を用いた。{{mvar|γ}} を用いたのは[[ロレンツォ・マスケローニ]]である<ref name="Miller">[http://members.aol.com/jeff570/mathsym.html Jeff Miller, Earliest Uses of Various Mathematical Symbols]</ref>。
この値は、およそ0.57721 56649 01532 86060 65120 90082 40243 10421 59335 93992 35988 05767 23488 48677 26777 66467 09369 47063 29174 67495...である。
オイラーの定数は[[超越数]]であろうと[[予想]]されている。しかしながら、[[無理数]]であるかどうか、および、[[円周率]]{{Math|<math>\pi</math>}}との関係性も、[[数学上の未解決問題]]の一つである。
== 調和級数との関係 ==
{{main|調和級数}}
:<math>\lim_{n \rightarrow \infty } \sum_{k=1}^n \frac{1}{k}</math>
上式は[[調和級数]]と呼ばれる。調和級数が[[発散級数|発散]]するという事実は、今日においては[[微分積分学]]の初歩であるが、古くは[[収束級数|収束]]すると考えられていた。
調和級数が発散することの証明を最初に行ったのは、14世紀のパリ大学の[[ニコル・オレーム]]であるが、これには誤りがあり、正しい証明が得られたのは17世紀になってからである。その後[[ゴットフリート・ライプニッツ]]などは有限項の調和級数の[[近似式]]に関心をもつなど17世紀においても数学的な関心を集めていた。
有限項の調和級数の近似式への関心から、[[レオンハルト・オイラー]]は調和級数の増え方が[[極限]]において[[対数関数]]に等しいことを証明した。つまり、調和級数と対数関数との差はある定数に収束し、それがのちにオイラーの定数と呼ばれるようになった。オイラーはこの値を小数第6位まで求めた。その後、ロレンツォ・マスケローニが第32位まで求め(ただし、正しかったのは第20位まで)、[[γ]]の記号で表した<ref name="Miller" />。
== ガンマ関数との関係 ==
大文字のガンマ [[Γ]] で表される[[ガンマ関数]]と小文字のガンマ [[γ]] で表されるオイラーの定数は共にオイラーによって与えられたものであるが、オイラー自身は前者のガンマ関数を[[階乗]] (factorial) と呼んでいる。ガンマ関数の記号は[[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]に始まり、オイラーの定数の記号はマスケローニに始まるものである<ref name="Miller" />。オイラーの定数の記号がガンマ関数に由来するものであったのか、今となっては確かめようがないが、オイラーの定数がガンマ関数に関係しているということは確かである。すなわち、ガンマ関数の乗積表示
{{Indent|<math>\Gamma(z)=\lim_{n\to\infty}\frac{n^zn!}{\displaystyle\prod_{k=0}^{n}{(z+k)}}</math>}}
に対し、その対数微分である[[ディガンマ関数]]
{{Indent|<math>\begin{align}\Psi(z)&=\frac{d}{dz}\log\Gamma(z)=\frac{\Gamma'(z)}{\Gamma(z)}\\
&=\lim_{n\to\infty}\left(\log{n}-\sum_{k=0}^{n}\frac{1}{z+k}\right)
\end{align}</math>}}
に<math>z=1</math>を代入すると
{{Indent|<math>\begin{align}\Psi(1)=\Gamma'(1)
&=\lim_{n\to\infty}\left(\log{n}-\sum_{k=0}^{n}\frac{1}{1+k}\right)\\
&=\lim_{n\to\infty}\left(-\gamma-\frac{1}{1+n}\right)\\
&=-\gamma\\
\end{align}</math>}}
を得る。
== 積分表示 ==
オイラーの定数の値は以下の定積分で与えられる。
{{Indent|<math>\begin{align}\gamma
&=-\Gamma'(1)\\
&=-\int_{0}^{\infty}\log{t}e^{-t}dt\\
&=-\int_{0}^{1}\log\log\frac{1}{u}du\qquad(u=e^{-t})\\
&=-\int_{-\infty}^{\infty}ue^{u-e^u}du\qquad(u=\log{t})\\
\end{align}</math>}}
あるいは
{{Indent|<math>\begin{align}\log{t}
&=\int_{1}^{t}\frac{1}{s}ds\\
&=\int_{1}^{t}\int_{0}^{\infty}e^{-su}duds\\
&=\int_{0}^{\infty}\int_{1}^{t}e^{-su}dsdu\\
&=\int_{0}^{\infty}\frac{e^{-u}-e^{-tu}}{u}du\\
\end{align}</math>}}
を用いれば
{{Indent|<math>\begin{align}\gamma
&=-\int_{0}^{\infty}\log{t}e^{-t}dt\\
&=-\int_{0}^{\infty}\int_{0}^{\infty}\frac{e^{-u}-e^{-tu}}{u}du\;e^{-t}dt\\
&=\int_{0}^{\infty}\int_{0}^{\infty}\frac{e^{-tu}-e^{-u}}{u}du\;e^{-t}dt\\
&=\int_{0}^{\infty}\left(\int_{0}^{\infty}\frac{e^{-t(u+1)}}{u}dt-\int_{0}^{\infty}\frac{e^{-u}e^{-t}}{u}dt\right)du\\
&=\int_{0}^{\infty}\left(\frac{1}{u(u+1)}-\frac{e^{-u}}{u}\right)du\\
\end{align}</math>}}
となり、更に<math>\delta\to+0</math>のときに
{{Indent|<math>\begin{align}\left|\int_{\delta}^{e^\delta-1}\frac{1}{u(u+1)}du\right|
&\le\left|\int_{\delta}^{e^\delta-1}\frac{1}{\delta}du\right|\\
&=O(\delta)\\
\end{align}</math>}}
であるから
{{Indent|<math>\begin{align}\gamma
&=\lim_{\delta\to+0}\int_{\delta}^{\infty}\left(\frac{1}{u(u+1)}-\frac{e^{-u}}{u}\right)du\\
&=\lim_{\delta\to+0}\int_{\delta}^{\infty}\frac{1}{u(u+1)}du-\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^{-s}}{s}ds\\
&=\lim_{\delta\to+0}\int_{e^\delta-1}^{\infty}\frac{1}{u(u+1)}du-\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^{-s}}{s}ds\\
&=\lim_{\delta\to+0}\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^t}{(e^t-1)e^t}dt-\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^{-s}}{s}ds\qquad(u=e^t-1)\\
&=\lim_{\delta\to+0}\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^{-t}}{1-e^{-t}}dt-\int_{\delta}^{\infty}\frac{e^{-s}}{s}ds\\
&=\int_{0}^{\infty}\left(\frac{e^{-t}}{1-e^{-t}}-\frac{e^{-t}}{t}\right)dt
\end{align}</math>}}
となる。
== 級数表示 ==
オイラーの定数の値は以下の級数で得られる.
{{Indent|<math>\gamma =
\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n\zeta(n)}{n}</math>
}}
{{Indent|<math>\gamma = 1 -
\sum_{n=2}^{\infty}\frac{\zeta(n)-1}{n}</math>
}}
{{Indent|<math>\gamma =
\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(n-1)(\zeta(n)-1)}{n}</math>
}}
{{Indent|<math>\gamma = \ln 2 -
\sum_{n=1}^{\infty}\frac{\zeta(2n+1)}{2^{2n}(2n+1)}</math>
}}
{{Indent|<math>\gamma = \displaystyle\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n\zeta(n)}{m^{n-1}n}-m\ln\Gamma\left(\frac{m+1}{m}\right),\quad\{m \mid m\in\mathbb{R}\setminus\{0,-1,-\dfrac{1}{k+1}\}\}\,\mathrm{where}\,\{k\mid \,k\in\mathbb{Z}\setminus\{-1\}\}</math>}}
{{Indent|<math>\gamma = \lim_{m\rightarrow0}\left(\displaystyle\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n\zeta(n)}{m^{n-1}n}-m\ln\Gamma\left(\frac{m+1}{m}\right)\right)</math><ref>Limit[Sum[(-1)^n Zeta[n]/(m^(n - 1)n), {n, 2, Infinity}] - m Log[Gamma[(m + 1)/m<nowiki>]]</nowiki>, m <nowiki>-></nowiki> 0]=EulerGamma</ref>}}
{{Indent|<math>\gamma = \lim_{m\rightarrow -1}\left(\displaystyle\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n\zeta(n)}{m^{n-1}n}-m\ln\Gamma\left(\frac{m+1}{m}\right)\right)</math><ref>Limit[Sum[(-1)^n Zeta[n]/(m^(n - 1)n), {n, 2, Infinity}] - m Log[Gamma[(m + 1)/m<nowiki>]]</nowiki>, m <nowiki>-></nowiki> -1]=EulerGamma</ref>}}
{{Indent|<math>\gamma = \lim_{m\rightarrow(-1)/(k+1)}\left(\displaystyle\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n\zeta(n)}{m^{n-1}n}-m\ln\Gamma\left(\frac{m+1}{m}\right)\right),\quad\{\,k\,\mid\, k\in\mathbb{Z}\setminus\{-1\}\}</math><ref>Limit[Sum[(-1)^n Zeta[n]/(m^(n - 1)n), {n, 2, Infinity}] - m Log[Gamma[(m + 1)/m<nowiki>]]</nowiki>, m <nowiki>-></nowiki> -1/(k+1)]=EulerGamma</ref>}}
{{Indent|<math>\gamma = \frac{3}{2} - \ln 2 -
\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n (n - 1)(\zeta(n)-1)}{n}</math>
}}
{{Indent|<math>\gamma = 1 - \ln 2 +
\sum_{n=2}^{\infty}\frac{(-1)^n(\zeta(n)-1)}{n}</math>
}}
等々.
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Citation
|last=Dunham
|first=William
|author-link=:en:William Dunham (mathematician)
|year=1999
|title=Euler, The Master of Us All
|publisher=Mathematical Association of America
|edition=Paperback
|series=Dolciani Mathematical Expositions
|volume=Vol. 22
|isbn=978-0-88385-328-3
|url={{Google books|x7p4tCPPuXoC|Euler, The Master of Us All|plainurl=yes}}
}} - Chapter 2
*{{Citation
|last=Havil
|first=Julian
|date=2009-07-06
|origdate=2003-03-17
|title=Gamma: Exploring Euler's Constant
|publisher=Princeton University Press
|edition=Paperback
|series=Princeton Science Library
|isbn=978-0-691-14133-6
|url={{Google books|lQX6Oy_SuOgC|Gamma: Exploring Euler's Constant|plainurl=yes}}
}}
**{{Cite book|和書
|author=Julian Havil
|others=[[新妻弘]] 監訳
|date=2009-05-25
|title=オイラーの定数ガンマ γで旅する数学の世界
|publisher=共立出版
|isbn=978-4-320-01885-3
|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320018853
|ref={{Harvid|Havil|2009}}
}} - {{Harvtxt|Havil|2009}}の初版の翻訳。
*{{cite book|和書
|author = 真実のみを記す会
|title = オイラー定数1000000桁表
|publisher = [[暗黒通信団]]
|id = ISBN 978-4-87310-053-1
|year = 2009
}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|オイラーの定数|2=[[竹之内脩]]}}
*{{MathWorld|title=Euler-Mascheroni Constant|urlname=Euler-MascheroniConstant}}
*[http://www.wolframalpha.com/input/?i=Euler%E2%80%99s+constant Euler’s constant] - [[Wolfram Alpha]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おいらあのていすう}}
[[Category:数学定数]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:レオンハルト・オイラー]]
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|
10,618 |
Lightweight Directory Access Protocol
|
Lightweight Directory Access Protocol(ライトウェイト ディレクトリ アクセス プロトコル、LDAP:エルダップ)は、ディレクトリ・サービスに接続するために使用される通信プロトコルの一つ。
ITU勧告X.500モデルをサポートするディレクトリに対するアクセスを提供するために設計された。 一方で、X.500ディレクトリアクセスプロトコル(Directory Access Protocol : DAP)の資源要求は課されない。 本プロトコルは、特にディレクトリに対する対話的な読み込み/書き込み(read/write)アクセスを提供する管理アプリケーションやブラウザアプリケーションを対象とする。 X.500プロトコルをサポートするディレクトリと共に使用する際に、X.500のDAPを補完するものとなることが意図されている。
コンピュータネットワークでは、ネットワークを構成する機器が多くなるにつれて扱うべきネットワーク・リソースが増大する。 DAP が登場した背景には、個々に異なるディレクトリ・サービスを扱うよりも、統一されたプロトコルで拡張可能な情報にアクセスする方法が求められるようになったことが挙げられる。 上述の X.500 シリーズは、分散可能な統合案内サービスとして優れた機能を有していたものの、DAP が複雑なため処理が重たく、TCP/IP によるインターネットでは使用されにくいという欠点があった。
「X.500の90%の機能を10%のコストで実現する」というキャッチフレーズのもと、DAPの問題点を洗い出し、再設計が行われたLDAPv2がIETFによって RFC 1777 として標準化された。LDAPv2 では、LDAP サーバは X.500 のフロントエンドとして機能し、分散化は X.500 が担っている。
LDAPv2は、その後分散化を実現するLDAPv2+、さらに国際化やセキュリティ強化がなされたLDAPv3(RFC 2251)へと進化している。
LDAP の処理系は、OpenLDAP により、オープンソースで提供されているものをはじめ、各種の製品が存在している。
LDAPはX.500のDAPを軽量化したものである。
しかし、X.500ではDAP以外にDSP,DOP,DISPといったプロトコルが規定されている。
つまりLDAPにはこの3つのプロトコルが存在しないことになる。
X.500のDAPはOSI各層の標準プロトコルを使用する。
LDAPはTCP/IPの上に実装されるため、DAPにあるROSE,RTSE,ACSEを実装していない。
(これらの機能はTCP/IPの中で実装されているのでLDAPでは不要)
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Lightweight Directory Access Protocolは、ディレクトリ・サービスに接続するために使用される通信プロトコルの一つ。
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{{WikipediaPage|「'''LDAP'''」はここに[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されてます。[[ウィキメディア財団|ウィキメディア]]開発者アカウントについては「[[mediawikiwiki:Developer_account/ja]]」をご覧ください。}}
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{{IPstack}}
'''Lightweight Directory Access Protocol'''(ライトウェイト ディレクトリ アクセス プロトコル、'''LDAP''':エルダップ)は、[[ディレクトリ・サービス]]に接続するために使用される[[通信プロトコル]]の一つ。
== 概要 ==
[[国際電気通信連合|ITU]]勧告[[X.500]]モデルをサポートする[[ディレクトリ]]に対するアクセスを提供するために設計された。
一方で、X.500ディレクトリアクセスプロトコル(Directory Access Protocol : DAP)の資源要求は課されない。
本プロトコルは、特にディレクトリに対する対話的な読み込み/書き込み(read/write)アクセスを提供する管理アプリケーションやブラウザアプリケーションを対象とする。
X.500プロトコルをサポートするディレクトリと共に使用する際に、X.500のDAPを補完するものとなることが意図されている。
[[コンピュータネットワーク]]では、ネットワークを構成する機器が多くなるにつれて扱うべきネットワーク・リソースが増大する。
DAP が登場した背景には、個々に異なる[[ディレクトリ・サービス]]を扱うよりも、統一されたプロトコルで拡張可能な情報にアクセスする方法が求められるようになったことが挙げられる。
上述の X.500 シリーズは、分散可能な統合案内サービスとして優れた機能を有していたものの、DAP が複雑なため処理が重たく、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]] による[[インターネット]]では使用されにくいという欠点があった。
「X.500の90%の機能を10%のコストで実現する」というキャッチフレーズのもと、DAPの問題点を洗い出し、再設計が行われたLDAPv2が[[Internet Engineering Task Force|IETF]]によって {{IETF RFC|1777}} として標準化された。LDAPv2 では、LDAP サーバは X.500 の[[フロントエンド]]として機能し、分散化は X.500 が担っている。
LDAPv2は、その後分散化を実現するLDAPv2+、さらに国際化やセキュリティ強化がなされたLDAPv3({{IETF RFC|2251}})へと進化している。
LDAP の処理系は、[[OpenLDAP]] により、[[オープンソース]]で提供されているものをはじめ、各種の製品が存在している。
== LDAPとX.500の違い ==
LDAPはX.500のDAPを軽量化したものである。
しかし、X.500ではDAP以外にDSP,DOP,DISPといったプロトコルが規定されている。
つまりLDAPにはこの3つのプロトコルが存在しないことになる。
* DUA(Directory User Agent):ディレクトリの利用者に代わってディレクトリにアクセスする機能(プログラムやコマンド、ライブラリ)
* DSA(Directory Service Agent):ディレクトリ情報を管理する個々のシステム。ディレクトリはDSAの集合体として構成される。
* DAP(Directory Access Protocol):DSAがDUAに対してディレクトリサービスを提供するためのプロトコル
* DSP(Directory System Protocol):DSA間で分散協調動作(連鎖や紹介)を行うためのプロトコル
* DOP(Directory Operational binding management Protocol):ディレクトリ運用結合管理プロトコル。DSA間の運用結合の規定内容や状態の交換に用いられるプロトコル
* DISP(Directory Information Shadowing Protocol):DSA間で複製情報を交換するためのプロトコル
X.500のDAPはOSI各層の標準プロトコルを使用する。
LDAPはTCP/IPの上に実装されるため、DAPにあるROSE,RTSE,ACSEを実装していない。
(これらの機能はTCP/IPの中で実装されているのでLDAPでは不要)
* ROSE(Remote Operation Service Element):遠隔操作サービス要素、処理の依頼と結果の通知という通信メカニズムを実現するプロトコル要素
* RTSE(Reliable Transfer Service Element):高信頼転送サービス要素、通信経路障害などによって情報の欠落や重複が起きないようにするプロトコル要素
* ACSE(Association Control Service Element):アソシエーション制御サービス要素、コネクションの確立、正常開放、異常解放を行うサービス要素
== 代表的なLDAP実装 ==
* [[NetIQ eDirectory]] ([[NetIQ]])
* [http://otn.oracle.co.jp/products/oid/index.html Oracle Internet Directory]([[オラクル (企業)|オラクル]]){{リンク切れ|date=2015年12月}}
* [http://jp.sun.com/practice/software/identity/jp/directory_srvr_ee/ Sun Java System Directory Server]([[サン・マイクロシステムズ]])
* [http://www.opends.org/ Sun OpenDS](サン・マイクロシステムズ)
* StarDirectory([[日本電気]])
* 389 Directory Server([[レッドハット]])
* InfoDirectory([[富士通]])
* [http://www.proofpoint.com/us/node/4053 Sendmail Directory Server]
* [[OpenLDAP]]
* [[Tivoli]] Directory Server ([[IBM]])
* [[Active Directory]]([[マイクロソフト]])
* [https://directory.apache.org/ Apache Directory Server]
{{URI scheme}}
{{問い合わせ言語}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:Lightweight Directory Access Protocol}}
[[Category:インターネットのプロトコル]]
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|1487]]
[[Category:長大な項目名]]
|
2003-06-29T09:54:45Z
|
2023-10-29T18:50:50Z
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"Template:リンク切れ"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Lightweight_Directory_Access_Protocol
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10,619 |
閉路
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閉路(へいろ、英: cycle)あるいは閉道(へいどう、英: closed path)とは、始点と終点が同じ道のこと。すなわち、出発点に戻るような辿り方であって頂点の重複がないグラフのことである。グラフ理論や位相幾何学において用いられる。
グラフの一種を言うこともある。n個の点vi(i=0, 1, ..., n -1)からなるグラフで、辺はちょうど、vi とvi+1(i=0, 1, ..., n -1添字はn を法とする)を結んだものからなっているもの。Cnと表記。
深さ優先探索で親ノードへの戻り辺があれば、それは閉路である。トポロジカルソートでも検出できる。
|
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"text": "閉路(へいろ、英: cycle)あるいは閉道(へいどう、英: closed path)とは、始点と終点が同じ道のこと。すなわち、出発点に戻るような辿り方であって頂点の重複がないグラフのことである。グラフ理論や位相幾何学において用いられる。",
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"text": "グラフの一種を言うこともある。n個の点vi(i=0, 1, ..., n -1)からなるグラフで、辺はちょうど、vi とvi+1(i=0, 1, ..., n -1添字はn を法とする)を結んだものからなっているもの。Cnと表記。",
"title": "閉路グラフ"
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"text": "深さ優先探索で親ノードへの戻り辺があれば、それは閉路である。トポロジカルソートでも検出できる。",
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}
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閉路あるいは閉道とは、始点と終点が同じ道のこと。すなわち、出発点に戻るような辿り方であって頂点の重複がないグラフのことである。グラフ理論や位相幾何学において用いられる。
|
{{出典の明記|date=2012年7月}}'''閉路'''(へいろ、{{lang-en-short|cycle}})あるいは'''閉道'''(へいどう、{{lang-en-short|closed path}})とは、始点と終点が同じ道のこと。すなわち、出発点に戻るような辿り方であって頂点の重複がないグラフのことである。[[グラフ理論]]や[[位相幾何学]]において用いられる。
== 閉路グラフ ==
{{main|閉路グラフ}}
[[グラフ理論|グラフ]]の一種を言うこともある。''n''個の点''v''<sub>''i''</sub>(''i''=0, 1, ..., ''n'' -1)からなるグラフで、辺はちょうど、''v''<sub>''i''</sub> と''v''<sub>''i''+1</sub>(''i''=0, 1, ..., ''n'' -1添字は''n'' を法とする)を結んだものからなっているもの。'''''C<sub>n</sub>'''''と表記。
== 閉路の検出 ==
[[深さ優先探索]]で親ノードへの戻り辺があれば、それは閉路である。[[トポロジカルソート]]でも検出できる。
== 関連項目 ==
* [[ハミルトン閉路問題]]
* [[ジョルダン曲線定理]]
{{デフォルトソート:へいろ}}
[[Category:グラフ理論]]
[[Category:数学に関する記事]]
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"Template:Main",
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%89%E8%B7%AF
|
10,621 |
ロルフィー
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ロルフィー (Rolfee) は、PC-FXのイメージキャラクター。NECホームエレクトロニクスのマスコットキャラクターとしても活動した。
キャラクターボイスは大野まりな。
13歳の少女で、ソバージュがかった青緑色の髪が両肩の外側に広がって後方に巻く独特な髪型をしている。広告などでは、「ロルフィーといっしょにアニメであそぼ」「アニメゲームでいっしょにあそぼ♥」といった台詞をよく言っていた。
PC-FXのアニメ戦略にもとづいて只野和子にキャラクターデザインを委ね、オーディションで当時新人だった大野が抜擢された。1995年には『アニメフリークFX』に登場し、1997年には単独でヒロインを務めたゲーム作品『となりのプリンセス ロルフィー』も発表される。うちわ、インスタントカメラ、ピンバッジなど様々な雑貨が作成され、シングルCDも発売されるなどバーチャルアイドルとしても活動した。しかし、PC-FXと一体の存在であったため、PC-FXが商業的に失敗すると同時に活動の幅も狭まってしまった。
インターネットアーカイブで確認できる最後の活動は、2015年6月23日までの「美少女ゲームポータル『ドキドキCplaza』」のバナーへの登場である。
|
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"text": "ロルフィー (Rolfee) は、PC-FXのイメージキャラクター。NECホームエレクトロニクスのマスコットキャラクターとしても活動した。",
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ロルフィー (Rolfee) は、PC-FXのイメージキャラクター。NECホームエレクトロニクスのマスコットキャラクターとしても活動した。 キャラクターボイスは大野まりな。
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'''ロルフィー''' (Rolfee) は、[[PC-FX]]の[[イメージキャラクター]]。[[NECホームエレクトロニクス]]のマスコットキャラクターとしても活動した。
キャラクターボイスは[[大野まりな]]。
== 特徴 ==
13歳の少女で、ソバージュがかった青緑色の髪が両肩の外側に広がって後方に巻く独特な髪型をしている。広告などでは、「'''ロルフィーといっしょにアニメであそぼ'''」「'''アニメゲームでいっしょにあそぼ♥'''」といった台詞をよく言っていた。
== 経緯 ==
PC-FXのアニメ戦略にもとづいて[[只野和子]]にキャラクターデザインを委ね、オーディションで当時新人だった大野が抜擢された。1995年には『[[アニメフリークFX]]』に登場し、1997年には単独でヒロインを務めたゲーム作品『[[となりのプリンセス ロルフィー]]』も発表される。うちわ、インスタントカメラ、ピンバッジなど様々な雑貨が作成され、シングルCDも発売されるなど[[バーチャルアイドル]]としても活動した。しかし、PC-FXと一体の存在であったため、PC-FXが商業的に失敗すると同時に活動の幅も狭まってしまった。
[[インターネットアーカイブ]]で確認できる最後の活動は、2015年6月23日までの「美少女ゲームポータル『ドキドキCplaza』」の[[バナー]]への登場である{{Refnest|group="注"|2015年6月23日までの「BIGLOBEゲーム」公式サイト<ref>[https://web.archive.org/web/20150623041902/http://game.biglobe.ne.jp/ BIGLOBEゲーム ~無料ゲーム、フラッシュのゲーム、美少女ゲームまで~](インターネット・アーカイブ2015年6月23日分キャッシュ)</ref>を参照。同年8月12日以降は、女性のシルエットを模してキャラクター性を排除したバナーに差し替えられている<ref>[https://web.archive.org/web/20150812115814/http://game.biglobe.ne.jp/ BIGLOBEゲーム ~無料ゲーム、フラッシュのゲーム、美少女ゲームまで~](インターネット・アーカイブ2015年8月12日分キャッシュ)</ref>。}}。
== 登場作品 ==
* [[アニメフリークFX]] vol.1-5 (PC-FX)
* [[となりのプリンセス ロルフィー]] (PC-FX)
* Rolfee PERFECTデータ&スクリーンセイバー&壁紙&サウンドデータコレクション (Windows 95)
* となりのプリンセスロルフィー オープニング・テーマ 素直になれるなんて (Single CD)
* PC-FXベストキャラクターズ公式デジタル原画集 Vol.1-3 徳間書店インターメディア(ムック)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 『ロルフィーブック PC-FX開発ノートVol.1』NECホームエレクトロニクス 1995年8月18日
* 「只野和子 ロルフィーの世界」 『VirtualIDOL』 1997年9月号 徳間書店インターメディア 1997年9月1日 pp.13-19
* Worker’s Committee (編) 『[http://www.kobi.co.jp/BOOKS/anime.html アニメ声優―輝く「人」たちの魅力的な「仕事」が全部わかる]』 <女の職業解体シリーズ3> 広美出版事業部 1996年11月 ISBN 978-4877470036
== 外部リンク ==
* [http://pc-fx.moemoe.gr.jp/p04.html PC-FX MoeMoe -PhotoGraffy Vol.04 "Other Panfu"-] - 当時配布されたロルフィーが登場するパンフレットを多く紹介。
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信者
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信者(しんじゃ)とは、
実際に信仰している者を指すことが多いが、宗教的組織の名簿に形式上記載されているのみの者まで指すこともあり、明確な境界はない。
本来の意味での「信者」は、信仰を共有する者の間では肯定的な意味で用いられる。 ただし無神論者など、「信じる」という言葉に否定的な者は、「信者」という言葉を否定的に使うこともある。
以下は代表例である。
洗礼機密を参照。洗礼は全身を水に浸す浸礼か灌水礼式で行なわれる。洗礼とともに聖人や天使などに因んだ洗礼名が与えられる。
カトリックでは、洗礼を受けて信者となる。洗礼は司祭が受洗者のこめかみに「父と、子と、聖霊の御名によって洗礼を授ける」と宣言しながら水をかける灌水礼式。洗礼とともに洗礼名が与えられる。幼児洗礼の場合、"ある段階で信者になった"という意識はあまりないことが多いため、秘跡の意味が十分に理解できるようになってから改めて堅信を行う。
一方、成人後に受洗した場合は、入信という意識の変化と洗礼体験が分かち難く結びついている。なお成人洗礼の場合、洗礼と同時に堅信を行う場合もありうる。
プロテスタントも、洗礼を受けて信者となる。洗礼の仕方は教派によって異なり、頭に水をかけるだけの滴礼のところもあれば、バプテスト教会のように浸礼(バプテスト教会では洗礼とは言わず「浸す」という意味の「バプテスマ」と言う)のところもある。幼児洗礼の場合は一定の年齢になった段階で信仰告白(堅信)を行なう。バプテスト教会は14歳未満の児童に対する幼児洗礼は行わない。聖公会では正教会やカトリックと同じく洗礼時に洗礼名が与えられる。
クエーカーのように信徒による面接で入信を行なったり、救世軍のように軍旗の下で信仰告白をする「入隊式」を行なうなど、入信に水を使わない教派もある。
イスラム教では、親の片方がムスリムならば、その子もムスリムとみなされる。イスラム法やシャーリアでは、入信について特段の定めはない。非ムスリムが入信する場合は、指導者であるイマームの前で「アッラーのほかに神はない、ムハンマドはアッラーの使徒である」と信仰を告白すれば、ムスリムとなりウンマの一員に加わる。
以下は日本での事例である。
特に定まっていない。例外はあるものの、大半は元々檀家であるだけで特に儀式に参加しなくとも、信者に数えられる。ただし、明治以降に離壇の手続きを取った世帯については末代まで管理されている。
得度し、戒律を授かり、剃髪を行って出家者となる。この時、僧侶としての名前である戒名あるいは法名を授かる。ただし浄土真宗では、門徒(在家信徒)に対しても「帰敬式」(〈おかみそり〉とも)を受けて法名を授かる事を推奨している。
日蓮正宗は他宗派とシステムが異なり、在家信者は寺院において住職から授戒を受け、さらに「御本尊」と呼ばれる曼荼羅を下附されなければ檀信徒名簿に登録されない。授戒だけ終えて御本尊が交付されていない在家信者を指して「内得信仰」(ないとくしんこう)と言うこともある。
日蓮正宗の僧侶(出家者)については総本山大石寺で行われる得度審査に合格しなければならない。この得度審査も「少年」(小学校6年生)と「一般」(高卒以上)に分かれており、少年得度に合格した者は中学・高校の6年間を大石寺で過ごした後、地方寺院在勤を経て教師に補任され、約10年をかけて一人前の出家僧となる。
なお、創価学会、冨士大石寺顕正会、正信会を退会ないしは除名になった者であっても、末寺に参拝し授戒を受ければ信仰に復帰することができる。
創価学会は1991年(平成3年)、顕正会も1974年(昭和49年)以前は日蓮正宗内の信徒団体だったため、この時代に両団体に入会した人は団体内での手続き完了後に日蓮正宗の寺院に参拝して授戒と御本尊授与を受けていた。これにより、両団体が破門されるまでの間は日蓮正宗の信徒としても取り扱われていた。
日本国内最大の信者を抱える日蓮系新宗教団体の創価学会(827万世帯)は、1945年の終戦直後から1960年代にかけては入信手続きがかなり緩く、折伏(勧誘)をされた後すぐに日蓮正宗の寺院に参拝し、その場で御本尊が授与されることもあった。その後1970年代以降、入会(入信)の手続きが非常に厳しいものとなり現在に至っている。現在、入信手続きは「会員希望カード」と呼ばれる書類の記入から始まる。
会員希望カードには「3つの実践」が記載されている。
この条件を満たし、地区部長以上の幹部を含む2名以上の既存会員による紹介と本人への意思確認、同居家族の了解、未成年者については親権者の承諾という手続きを経て、最寄りの会館で「入会記念勤行会」に出席するよう指示される。この勤行会に出席するまでの間に他宗の仏壇、および仏教以外の既存世界宗教から転向する場合はその宗教で使用していた用具類を廃棄、返却しなければならない。創価学会専用の仏壇・仏具も販売されているが、全会員が強制的に購入しなければならないものではない。
なお、折伏大行進と呼ばれる急速な会員拡張が行われていた1950年代から60年代には、「謗法払い」(ほうぼうばらい)といってこれらの作業を支部の先輩会員が半ば強制的に行うこともあり社会問題化した。
勤行会で自宅の仏壇に設置する「御本尊」の授与を受け、紹介者とともに帰宅して御本尊を安置して、初めて正式の創価学会員と認められる。何らかの理由で御本尊を仏壇に安置できない場合は、「お守り御本尊」と呼ばれる御本尊を象ったペンダントを首にかけることもできる。なお、御本尊、お守り御本尊のどちらも授与を受けるには創価学会規定の手数料を納付する必要がある。
ここまでの一連の過程には最低でも3ヶ月程度、あるいはそれ以上の時間を要する。
ただし入会を希望した者が住所不定の場合は、機関紙の聖教新聞(日刊)、および大白蓮華(月刊)の宅配ができず、会員管理制度である「統監」(とうかん)に組み込むことも困難なため、原則として入会を受け付けない。創価学会本部は、住所不定者の受け入れを拒否する理由を「地域の活動に根付けないためだ」と説明している。
3つの実践の全て、特に聖教新聞の購読が実行できなくても創価学会の活動に参加する意思のある者は、地区部長の判断で「会友」(かいゆう)として受け入れる場合もある。会友として座談会に参加し、大白蓮華などを参考に御書の研鑽を積んで教学部任用試験(教学入門)に合格すれば、教学部員として入会が認められる。
創価学会は世帯内の誰かが入会した場合に作成する「会員カード」に基づき、家族・世帯単位での信仰を求めている。このため結婚や子供が生まれるなどして同一生計内の人数に増減があったときは、所属する地区・支部の統監主任に連絡すれば会員カードへの加除が行われ、創価学会員(信者)と同等に扱われる。
ただし、非創価学会員と結婚した場合の相手など会員カードに記載されたとしても活動への参加を拒否することは自由であり、結婚から時間が経った後改めて折伏を行い夫婦揃って創価学会の活動に参加するようになったケースもある。
創価学会結成後に日蓮正宗から分派した冨士大石寺顕正会や正信会といった日蓮正宗系新宗教団体の会員であった者が創価学会への転向を希望する時は、それら組織に入会する前に創価学会員の経験がないことが前提となる。また入会に際して、地区部長や区本部レベルで通常の新規折伏よりも厳しい審査が行われ、総県を担当する副会長や幹部経験者であれば中央本部の承認が必要となる場合もある。
創価学会を退会ないしは除名された後にこれら団体へ移籍し、そこからも除名された場合に審査会の処分により活動を離れた者の創価学会員への復帰は一切認められていないため、信仰の選択肢が限られてしまうケースも多い(前述)。
創価学会インタナショナル(SGI)に属する日本国外の組織では、聖教新聞の購読ができない分、座談会への出席が重視される傾向があり、国によっては連続する12ヶ月の間に1度でも座談会を欠席すると入会が認められないこともある。2002年(平成14年)にSGI方式勤行が導入されるまでは外国人でも五座三座の勤行を滞りなく実施できることが最低限の基準とされた国も多かった。
また、国外に活動の本拠を置いている日本人が日本へ一時帰国中に創価学会に入会しようとしても原則として認められない。この場合、居住ないしは活動の本拠がある国の組織に自ら連絡し、組織が主催する座談会などの活動に現地人会員とともに参加した上で、組織が定める基準を完全に満たさなければ入会できない。外こもりなど日本国外で活動している時間の方が長く、かつ複数の国を渡り歩いている人は、創価学会員世帯出身者でない限り事実上門戸が閉ざされていると言ってもいい。
逆に、日本で入会が認められた創価学会員が駐在、第三国移住などで世帯ごと海外へ転居する場合は、日本国内で所属していた支部または区本部を通じて中央の「国際本部」へ届け出ると、転居先の国の創価学会組織へ紹介される。
創価学会と対立する日蓮正宗系宗教団体冨士大石寺顕正会の場合は、創価学会や日蓮正宗と違って会員個人宅に安置する本尊の授与がない。このため入会(入信)の過程は創価学会と比べて簡素であり、折伏大行進全盛期の創価学会に近い体制となっている。また、世帯単位での信者の再生産体制が確立している創価学会と違い、顕正会は個人単位で信徒を把握している。
非会員が会館で行われる勤行会に出席するなど、顕正会の行事に初めて参加した時は、紹介者となる先輩会員1名の署名を付けた「入信報告書」を記入し提出する。組織は入信報告書を受理すると、自宅での遥拝勤行実施に必要な「勤行要典」という小冊子と数珠を新入会員に配布する。
後日、先輩会員とともに会館での日曜勤行に出席して「入信勤行」を行う。この席上、導師に自分の名前を読み上げてもらい、顕正会会員の列に正式に加えられる。
江戸時代の寺を拠点とした檀家制度に代わって、1871年(明治4年)に神社を拠点とする氏子調が導入されたこともあり、大抵の神社はその土地の住人をそのまま氏子とみなしている。
ひろさちやは次のように指摘する。「日本人であれば、信仰表明をしないでも信者とされるのに、外国人がいくら信仰表明をしても『氏子』とは認めてもらえない。いや、日本人の場合は、神道の信者にならないと明白に信仰を拒否しても、(勝手に)信者ということにされてしまう」
上記の信者の用法から転じて、何らかの個人やグループ、あるいは主義や製品等々に夢中になっている者を指す。「彼女はビートルズ信者だ」「彼はUnixの信者だ」のように用いられる。 その度合いが高いものを狂信者とも称する。
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"text": "後日、先輩会員とともに会館での日曜勤行に出席して「入信勤行」を行う。この席上、導師に自分の名前を読み上げてもらい、顕正会会員の列に正式に加えられる。",
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"text": "江戸時代の寺を拠点とした檀家制度に代わって、1871年(明治4年)に神社を拠点とする氏子調が導入されたこともあり、大抵の神社はその土地の住人をそのまま氏子とみなしている。",
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"text": "上記の信者の用法から転じて、何らかの個人やグループ、あるいは主義や製品等々に夢中になっている者を指す。「彼女はビートルズ信者だ」「彼はUnixの信者だ」のように用いられる。 その度合いが高いものを狂信者とも称する。",
"title": "比喩的な意味での「信者」"
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信者(しんじゃ)とは、 特定の宗教や宗派を信仰する者。別に信徒(しんと)、檀信徒(だんしんと)、「~教徒」とも言う。
上記より転じて、特定の個人や団体や主義や製品などに熱中し、異なる主義を客観的に判断しない者。
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{{Otheruses||クルアーンの第23番目のスーラ|信者たち (クルアーン)|第40番目のスーラ|ガーフィル (クルアーン)}}
{{複数の問題
||出典の明記=2012年5月
||独自研究=2017年9月}}
'''信者'''(しんじゃ)とは、
* 特定の[[宗教]]や[[宗派]]を[[信仰]]する者。別に'''信徒'''(しんと)、'''檀信徒'''(だんしんと)、「~教徒」とも言う。
* 上記より転じて、特定の個人や団体や[[主義]]や製品などに熱中し、異なる主義を客観的に判断しない者。
== 概要 ==
実際に[[信仰]]している者を指すことが多いが、宗教的組織の名簿に形式上記載されているのみの者まで指すこともあり、明確な境界はない。
本来の意味での「信者」は、信仰を共有する者の間では肯定的な意味で用いられる<ref>キリスト教徒の間では、「信者」([[クリスチャン]])と言えば、同じ[[価値観]]を共有し、(誰も見ていない状況でも)その行動が信用できるという肯定的な文脈で用いられる。
またあえて「どの宗教の信者でもない」などと表現する場合は、"価値観や道徳観が定まらない" 、という意味合いを持つことが多い。</ref>。
ただし[[無神論]]者など、「信じる」という言葉に否定的な者は、「信者」という言葉を否定的に使うこともある。
== 信者となる過程 ==
以下は代表例である。
=== キリスト教 ===
;正教会
[[洗礼機密]]を参照。洗礼は全身を水に浸す[[浸礼]]か灌水礼式で行なわれる。洗礼とともに[[聖人]]や[[天使]]などに因んだ[[洗礼名]]が与えられる。
; カトリック
[[カトリック教会|カトリック]]では、[[洗礼]]を受けて信者となる。洗礼は司祭が受洗者のこめかみに「[[神|父]]と、[[イエス・キリスト|子]]と、[[聖霊]]の御名によって洗礼を授ける」と宣言しながら水をかける灌水礼式。洗礼とともに洗礼名が与えられる。[[幼児洗礼]]の場合、"ある段階で信者になった"という意識はあまりないことが多いため<ref name="名前なし-1">『宗教常識の嘘』p.81-86</ref>、[[秘跡]]の意味が十分に理解できるようになってから改めて[[堅信]]を行う。
一方、成人後に受洗した場合は、入信という意識の変化と洗礼体験が分かち難く結びついている。なお成人洗礼の場合、洗礼と同時に堅信を行う場合もありうる。
; プロテスタント
[[プロテスタント]]も、洗礼を受けて信者となる。洗礼の仕方は教派によって異なり、頭に水をかけるだけの滴礼のところもあれば、[[バプテスト教会]]のように浸礼(バプテスト教会では洗礼とは言わず「浸す」という意味の「[[バプテスマ]]」と言う)のところもある。幼児洗礼の場合は一定の年齢になった段階で[[信仰告白]](堅信)を行なう。バプテスト教会は14歳未満の児童に対する幼児洗礼は行わない。[[聖公会]]では正教会やカトリックと同じく洗礼時に洗礼名が与えられる。
[[クエーカー]]のように信徒による面接で入信を行なったり、[[救世軍]]のように[[軍旗]]の下で信仰告白をする「入隊式」を行なうなど、入信に水を使わない教派もある。
=== イスラム教 ===
[[イスラム教]]では、親の片方が[[ムスリム]]ならば、その子もムスリムとみなされる。イスラム法や[[シャーリア]]では、入信について特段の定めはない。非ムスリムが入信する場合は、指導者である[[イマーム]]の前で「[[アッラー]]のほかに神はない、[[ムハンマド]]はアッラーの使徒である」と信仰を告白すれば、ムスリムとなり[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]の一員に加わる<ref>島田裕巳『宗教常識の嘘』朝日新聞社 p.81-86</ref>。
=== 仏教 ===
以下は[[日本]]での事例である。
==== 檀家制度下での在家信者 ====
特に定まっていない。例外はあるものの、大半は元々[[檀家]]であるだけで特に儀式に参加しなくとも、信者に数えられる<ref name="名前なし-1"/>。ただし、明治以降に離壇の手続きを取った世帯については末代まで管理されている。{{see also|檀家制度#現代|葬式仏教#平成・令和時代}}
==== 出家者 ====
[[得度]]し、[[戒律]]を授かり、[[僧#剃髪|剃髪]]を行って出家者となる<ref name="名前なし-1"/>。この時、僧侶としての名前である[[戒名]]あるいは[[戒名|法名]]を授かる。ただし[[浄土真宗]]では、[[門徒]](在家信徒)に対しても'''「帰敬式」'''(〈おかみそり〉とも)を受けて[[法名 (浄土真宗)|法名]]を授かる事を推奨している。{{main|法名 (浄土真宗)#概要}}
==== 日蓮正宗 ====
[[日蓮正宗]]は他宗派とシステムが異なり、在家信者は寺院において住職から授戒を受け、さらに「[[本尊 (日蓮正宗)|御本尊]]」と呼ばれる[[曼荼羅]]を下附されなければ檀信徒名簿に登録されない。授戒だけ終えて御本尊が交付されていない在家信者を指して'''「内得信仰」'''(ないとくしんこう)と言うこともある。{{main|本尊 (日蓮正宗)#本尊の形態}}
日蓮正宗の[[比丘|僧侶]](出家者)については総本山[[大石寺]]で行われる得度審査に合格しなければならない。この得度審査も「少年」(小学校6年生)と「一般」(高卒以上)に分かれており、少年得度に合格した者は中学・高校の6年間を大石寺で過ごした後、地方寺院在勤を経て教師に補任され、約10年をかけて一人前の出家僧となる。{{main|日蓮正宗#出家制度|正信会#歴史}}
なお、[[創価学会]]、[[冨士大石寺顕正会]]、[[正信会]]を退会ないしは除名になった者であっても、末寺に参拝し授戒を受ければ信仰に復帰することができる。{{see also|除名#宗教の除名}}
創価学会は[[1991年]](平成3年)、顕正会も[[1974年]](昭和49年)以前は日蓮正宗内の信徒団体だったため、この時代に両団体に入会した人は団体内での手続き完了後に日蓮正宗の寺院に参拝して授戒と御本尊授与を受けていた。これにより、両団体が破門されるまでの間は日蓮正宗の信徒としても取り扱われていた。
=== 創価学会 ===
日本国内最大の信者を抱える[[日蓮]]系[[新宗教]]団体の[[創価学会]](827万世帯)は、[[日本の降伏|1945年の終戦]]直後から[[1960年代]]にかけては入信手続きがかなり緩く、[[折伏]](勧誘)をされた後すぐに[[日蓮正宗]]の寺院に参拝し、その場で[[本尊 (日蓮正宗)|御本尊]]が授与されることもあった<ref>玉野和志『創価学会の研究』2008年([[講談社]][[講談社現代新書|現代新書]] ISBN 4062879654)p16</ref>。その後[[1970年代]]以降、入会(入信)の手続きが非常に厳しいものとなり現在に至っている。現在、入信手続きは'''「会員希望カード」'''と呼ばれる書類の記入から始まる。{{see also|創価学会|言論出版妨害事件#概要}}
==== 世帯内に創価学会員がいない場合 ====
会員希望カードには「3つの実践」が記載されている。
{{Quotation|
#[[勤行 (日蓮正宗)#創価学会の勤行|勤行]]・[[唱題]]の継続
#[[聖教新聞]]の購読(最低3ヶ月以上)
#[[座談会 (創価学会)|座談会]]への出席}}
この条件を満たし、地区部長以上の幹部を含む2名以上の既存会員による紹介と本人への意思確認、同居家族の了解、未成年者については親権者の承諾という手続きを経て、最寄りの会館で「入会記念勤行会」に出席するよう指示される。この勤行会に出席するまでの間に他宗の仏壇、および仏教以外の既存世界宗教から転向する場合はその宗教で使用していた用具類を廃棄、返却しなければならない。創価学会専用の仏壇・仏具も販売されているが、全会員が強制的に購入しなければならないものではない。
なお、[[折伏大行進]]と呼ばれる急速な会員拡張が行われていた[[1950年代]]から[[1960年代|60年代]]には、'''「謗法払い」'''(ほうぼうばらい)といってこれらの作業を支部の先輩会員が半ば強制的に行うこともあり社会問題化した。{{main|折伏大行進#歴史|本尊 (日蓮正宗)#安置形式と仏壇・仏具}}{{see also|仏壇#宗派による違い}}
勤行会で自宅の仏壇に設置する「御本尊」の授与を受け、紹介者とともに帰宅して御本尊を安置して、初めて正式の創価学会員と認められる<ref>『創価学会の研究』p15-16</ref>。何らかの理由で御本尊を仏壇に安置できない場合は、「お守り御本尊」と呼ばれる御本尊を象ったペンダントを首にかけることもできる。なお、御本尊、お守り御本尊のどちらも授与を受けるには創価学会規定の[[お布施|手数料]]を納付する必要がある<ref>2017年4月現在、御本尊は2,500円、お守り御本尊は5,000円と規定されている。</ref>。{{main|勤行 (日蓮正宗)#創価学会の勤行|創価学会#本尊・本仏}}{{see also|寄付#寄付と宗教|布施#布施の種類}}
ここまでの一連の過程には最低でも3ヶ月程度、あるいはそれ以上の時間を要する。
ただし入会を希望した者が住所不定の場合は、機関紙の[[聖教新聞]](日刊)、および[[大白蓮華]](月刊)の宅配ができず、会員管理制度である'''「統監」'''(とうかん)に組み込むことも困難なため、原則として入会を受け付けない。創価学会本部は、住所不定者の受け入れを拒否する理由を'''「地域の活動に根付けないためだ」'''と説明している。
==== 教学試験を経由する方法 ====
3つの実践の全て、特に[[聖教新聞]]の購読が実行できなくても創価学会の活動に参加する意思のある者は、地区部長の判断で'''「会友」'''(かいゆう)として受け入れる場合もある。会友として座談会に参加し、大白蓮華などを参考に[[御書 (日蓮)|御書]]の研鑽を積んで教学部任用試験(教学入門)に合格すれば、教学部員として入会が認められる。
==== 世帯内に創価学会員がいる場合 ====
創価学会は世帯内の誰かが入会した場合に作成する「会員カード」に基づき、家族・世帯単位での信仰を求めている。このため結婚や子供が生まれるなどして同一生計内の人数に増減があったときは、所属する地区・支部の統監主任に連絡すれば会員カードへの加除が行われ、創価学会員(信者)と同等に扱われる。{{main|折伏大行進}}
ただし、非創価学会員と結婚した場合の相手など会員カードに記載されたとしても活動への参加を拒否することは自由であり、結婚から時間が経った後改めて折伏を行い夫婦揃って創価学会の活動に参加するようになったケースもある。{{see also|信教の自由|日本国憲法第20条#解釈}}
==== 日蓮系他教団からの転向 ====
創価学会結成後に日蓮正宗から分派した[[冨士大石寺顕正会]]や[[正信会]]といった日蓮正宗系新宗教団体の会員であった者が創価学会への転向を希望する時は、それら組織に入会する前に創価学会員の経験がないことが前提となる。また入会に際して、地区部長や区本部レベルで通常の新規折伏よりも厳しい審査が行われ、総県を担当する副会長や幹部経験者であれば中央本部の承認が必要となる場合もある。
創価学会を退会ないしは[[除名]]された後にこれら団体へ移籍し、そこからも除名された場合に審査会の処分により活動を離れた者の創価学会員への復帰は一切認められていないため、信仰の選択肢が限られてしまうケースも多い(前述)。
==== 創価学会インタナショナル(SGI) ====
[[創価学会インタナショナル]](SGI)に属する日本国外の組織では、聖教新聞の購読ができない分、座談会への出席が重視される傾向があり、国によっては連続する12ヶ月の間に1度でも座談会を欠席すると入会が認められないこともある。[[2002年]](平成14年)にSGI方式勤行が導入されるまでは外国人でも五座三座の勤行を滞りなく実施できることが最低限の基準とされた国も多かった。
また、国外に活動の本拠を置いている日本人が日本へ一時帰国中に創価学会に入会しようとしても原則として認められない。この場合、居住ないしは活動の本拠がある国の組織に自ら連絡し、組織が主催する座談会などの活動に現地人会員とともに参加した上で、組織が定める基準を完全に満たさなければ入会できない。[[外こもり]]など日本国外で活動している時間の方が長く、かつ複数の国を渡り歩いている人は、創価学会員世帯出身者でない限り事実上門戸が閉ざされていると言ってもいい<ref>「わが友に贈る」- 聖教新聞2010年11月25日付</ref><ref>日本国内在住の創価学会員に連絡を取り、その人の紹介で会友として国内での座談会に参加することは可能。また聖教新聞、大白蓮華など創価学会ないしは聖教新聞社発行の出版物を会館、取扱書店で購入することもできるが、正式の創価学会員となることは困難である。</ref>。{{see also|沈没#比喩的表現}}
逆に、日本で入会が認められた創価学会員が駐在、第三国移住などで世帯ごと海外へ転居する場合は、日本国内で所属していた支部または区本部を通じて中央の「国際本部」へ届け出ると、転居先の国の創価学会組織へ紹介される。
=== 冨士大石寺顕正会 ===
創価学会と対立する日蓮正宗系宗教団体[[冨士大石寺顕正会]]の場合は、創価学会や日蓮正宗と違って会員個人宅に安置する本尊の授与がない。このため入会(入信)の過程は創価学会と比べて簡素であり、折伏大行進全盛期の創価学会に近い体制となっている。また、世帯単位での信者の再生産体制が確立している創価学会と違い、顕正会は個人単位で信徒を把握している。{{main|遥拝勤行#歴史}}
非会員が会館で行われる[[勤行 (日蓮正宗)|勤行]]会に出席するなど、顕正会の行事に初めて参加した時は、紹介者となる先輩会員1名の署名を付けた「入信報告書」を記入し提出する。組織は入信報告書を受理すると、自宅での[[遥拝勤行]]実施に必要な「勤行要典」という小冊子と数珠を新入会員に配布する。{{see also|遥拝勤行#実践}}
後日、先輩会員とともに会館での日曜勤行に出席して「入信勤行」を行う。この席上、導師に自分の名前を読み上げてもらい、顕正会会員の列に正式に加えられる。{{main|勤行 (日蓮正宗)#顕正会の勤行}}
=== 神道 ===
江戸時代の寺を拠点とした檀家制度に代わって、[[1871年]](明治4年)に[[神社]]を拠点とする[[氏子調]]が導入されたこともあり、大抵の神社はその土地の住人をそのまま[[氏子]]とみなしている<ref>ひろさちや『仏教と神道』新潮選書、1987年、p.21-22</ref>。{{main|氏子調#行政単位と郷社|近代社格制度#分類}}
[[ひろさちや]]は次のように指摘する。「日本人であれば、信仰表明をしないでも信者とされるのに、外国人がいくら信仰表明をしても『[[氏子]]』とは認めてもらえない。いや、日本人の場合は、神道の信者にならないと明白に信仰を拒否しても、(勝手に)信者ということにされてしまう<ref>『仏教と神道』p.21-22</ref>」
== 比喩的な意味での「信者」 ==
上記の信者の用法から転じて、何らかの個人やグループ、あるいは[[主義]]や[[工業製品|製品]]等々に夢中になっている者を指す。「彼女は[[ビートルズ]]信者だ」「彼は[[Unix]]の信者だ」のように用いられる。
その度合いが高いものを狂信者とも称する<ref>https://kotobank.jp/word/狂信者-704621</ref>。
== 脚注 ==
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<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
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* [[ファン]]
* [[マニア]]
* [[檀家]]
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10,624 |
トリウム
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トリウム (英: thorium [ˈθɔəriəm]、漢字:釷) は原子番号90の元素で、元素記号は Th である。アクチノイド元素の一つで、銀白色の金属。
モナザイト砂に多く含まれ、多いもので10 %に達する。モナザイト砂は希土類元素(セリウム、ランタン、ネオジム)資源であり、その副生産物として得られる。主な産地はオーストラリア、インド、ブラジル、マレーシア、タイ。
天然に存在する同位体は放射性のトリウム232一種類だけで、安定同位体はない。しかし、半減期が140.5億年と非常に長く、地殻中にもかなり豊富(10ppm前後)に存在する。水に溶けにくく海水中には少ない。 トリウム系列の親核種であり、放射能を持つ(アルファ崩壊)ことは、1898年にマリ・キュリーらによって発見された。
トリウム232が中性子を吸収するとトリウム233となり、これがベータ崩壊して、プロトアクチニウム233となる。これが更にベータ崩壊してウラン233となる。ウラン233は核燃料であるため、その原料となるトリウムも核燃料として扱われる。
1828年、スウェーデンのイェンス・ベルセリウスによってトール石 (thorite、ThSiO4) から発見され、その名の由来である北欧神話の雷神トールに因んで命名された。
銀白色の柔らかい金属で、非常に延性に富む。結晶構造は面心立方格子構造で、1400 °C付近で体心立方格子構造へ転移する。また、融点と沸点の差が大きく、液体状態をとる温度幅は2946 °Cと元素中最大。
酸化しやすいが、表面に酸化皮膜が形成されるとそれ以上進行しない。空気中で加熱すると白光を発して激しく燃焼し、粉末は常温で自然発火する。高温ではほかに、水素、窒素、第17族元素(ハロゲン)と反応する。純度が高ければ空気中でも安定しているが、酸化物と混合すると酸化が促進され、灰色から最終的には黒色となる。高純度の試料でも0.1 %ほどの酸化物を含んでいる。
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トリウムの化合物はその酸化数が+4のとき安定となる。
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トリウム は原子番号90の元素で、元素記号は Th である。アクチノイド元素の一つで、銀白色の金属。 モナザイト砂に多く含まれ、多いもので10 %に達する。モナザイト砂は希土類元素(セリウム、ランタン、ネオジム)資源であり、その副生産物として得られる。主な産地はオーストラリア、インド、ブラジル、マレーシア、タイ。 天然に存在する同位体は放射性のトリウム232一種類だけで、安定同位体はない。しかし、半減期が140.5億年と非常に長く、地殻中にもかなり豊富(10ppm前後)に存在する。水に溶けにくく海水中には少ない。
トリウム系列の親核種であり、放射能を持つ(アルファ崩壊)ことは、1898年にマリ・キュリーらによって発見された。 トリウム232が中性子を吸収するとトリウム233となり、これがベータ崩壊して、プロトアクチニウム233となる。これが更にベータ崩壊してウラン233となる。ウラン233は核燃料であるため、その原料となるトリウムも核燃料として扱われる。
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{{混同|トリチウム}}
{{Otheruses|元素のトリウム|デスメタル・バンドのトリウム|トリウム (バンド)}}
{{Expand English|Thorium|date=2023-11}}
{{Elementbox
|name=thorium
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|electrical resistivity at 0=147 n
|thermal conductivity=54.0
|thermal expansion at 25=11.0
|speed of sound rod at 20=2490
|Young's modulus=79
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|Bulk modulus=54
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}}
'''トリウム''' ({{lang-en-short|thorium}} {{IPA-en|ˈθɔəriəm|}}、漢字:釷) は[[原子番号]]90の[[元素]]で、[[元素記号]]は '''Th''' である。[[アクチノイド]]元素の一つで、銀白色の[[金属]]。
[[モナズ石|モナザイト]]砂に多く含まれ、多いもので10 %に達する。モナザイト砂は[[希土類元素]]([[セリウム]]、[[ランタン]]、[[ネオジム]])資源であり、その副生産物として得られる。主な産地は[[オーストラリア]]、[[インド]]、[[ブラジル]]、[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]]。
天然に存在する[[同位体]]は放射性の[[トリウムの同位体|トリウム232]]一種類だけで、安定[[同位体]]はない。しかし、[[半減期]]が140.5億年と非常に長く、地殻中にもかなり豊富(10[[ppm]]前後)に存在する。水に溶けにくく[[海水]]中には少ない。
[[トリウム系列]]の[[崩壊系列|親核種]]であり、放射能を持つ([[アルファ崩壊]])ことは、[[1898年]]に[[マリ・キュリー]]らによって発見された。
トリウム232が[[中性子]]を吸収するとトリウム233となり、これが[[ベータ崩壊]]して、[[プロトアクチニウム]]233となる。これが更にベータ崩壊して[[ウラン]]233となる。ウラン233は[[核燃料]]であるため、その原料となるトリウムも核燃料として扱われる。
== 名称 ==
[[1828年]]、[[スウェーデン]]の[[イェンス・ベルセリウス]]によって[[トール石]] (thorite、ThSiO<sub>4</sub>) から発見され、その名の由来である[[北欧神話]]の雷神[[トール]]に因んで命名された<ref name="sakurai">{{Cite book|和書|author=桜井弘 |title=元素111の新知識 : 引いて重宝、読んでおもしろい |publisher=講談社 |year=1997 |series=ブルーバックス B-1192|naid=10027573432 |ISBN=4062571927 |id={{全国書誌番号|21536899}} |page=365 |ref={{harvid|元素111の新知識}}}}</ref>。
== 性質 ==
銀白色の柔らかい金属で、非常に[[展延性|延性]]に富む。結晶構造は[[面心立方格子構造]]で、1400 {{℃}}付近で[[体心立方格子構造]]へ転移する。また、[[融点]]と[[沸点]]の差が大きく、液体状態をとる温度幅は2946 {{℃}}と元素中最大<ref name="CRC" />。
[[酸化]]しやすいが、表面に酸化皮膜が形成されるとそれ以上進行しない。空気中で加熱すると白光を発して激しく燃焼し、粉末は[[常温]]で[[自然発火]]する。高温ではほかに、[[水素]]、[[窒素]]、[[第17族元素]](ハロゲン)と反応する。純度が高ければ空気中でも安定しているが、[[酸化物]]と混合すると酸化が促進され、灰色から最終的には黒色となる。高純度の試料でも0.1 %ほどの酸化物を含んでいる。
水と反応して[[水酸化物]]を生じるが、不溶性なので不動態状となって[[化学反応|反応]]は進みにくい。[[塩酸]]、[[王水]]には溶けるが、[[硝酸]]には[[不動態]]被膜が形成され溶けない。ただし、濃硝酸に[[触媒]]として少量の[[フッ化物]][[イオン]]を加えると、不動態が破られ溶けるようになる<ref name="ekhyde">{{cite book | url = http://www.radiochemistry.org/periodictable/pdf_books/pdf/rc000034.pdf | author = Hyde, Earl K. | title = The radiochemistry of thorium | publisher = Subcommittee on Radiochemistry, National Academy of Sciences—National Research Council | year = 1960}}</ref>。アルカリ溶液には不溶。
酸化物は、ほとんどの酸に溶けにくい<ref name="CRC">{{cite book | author = Hammond, C. R. | title = The Elements, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition | publisher = CRC press | isbn = 0849304857 | year = 2004}}</ref>。塩類(塩酸塩、硝酸塩、硫酸塩)は水溶性だが、塩基性にすると不溶性の沈殿を生じる。
== 化合物 ==
トリウムの化合物はその[[酸化数]]が+4のとき安定となる<ref name="tp147-c3" />。
* [[二酸化トリウム]]({{chem|ThO|2}}) 酸化物中、融点が最高 (3300 {{℃}})<ref>{{cite book|last = Emsley|first = John|title = Nature's Building Blocks|edition = (Hardcover, First Edition)|publisher = [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|year = 2001|pages = 441|isbn = 0198503407}}</ref>。
* フッ化トリウム(IV) {{chem|ThF|4}}・{{chem|4H|2|O}} [[水和物]]をつくる<ref name="tp147-c3">{{cite web | publisher = Department of Health and Human Services | title = Toxicological Profile Information Sheet | url = http://www.atsdr.cdc.gov/toxprofiles/tp147-c3.pdf |format=PDF | accessdate = 2009-05-21}}</ref>。
* 水酸化トリウム(IV) {{chem|Th(OH)|4}} 不溶性であり、[[両性 (化学)|両性]]ではない。
* 硝酸トリウム(IV) {{chem|Th(NO|3|)|4}}・{{chem|4H|2|O}} 水和物をつくる<ref name="tp147-c3" />。
* 炭酸トリウム(IV) {{chem|Th(CO|3|)|2}}<ref name="tp147-c3" />
* [[過酸化物]] 不溶性固体の中にわずかに存在する。この性質を利用すると、他のイオンとの混合溶液からトリウムを分離することができる<ref name="ekhyde" />。
* [[リン酸塩|リン酸イオン]]の存在下では、{{chem|Th|4+}} はさまざまな組成の化合物を作り、どれも水や酸性溶液に不溶である<ref name="ekhyde" />。
* [[フッ化カリウム]]や[[フッ化水素酸]]と混ぜると、{{chem|Th|4+}} は {{chem|ThF|6||2-}} のような[[錯体|錯イオン]]を作り、不溶性の塩 {{chem|K|2|ThF|6}} として沈殿する<ref name="ekhyde" />。
== 同位体 ==
{{Main|トリウムの同位体}}
トリウムの同位体は全て[[放射性同位体]]で、存在率100.00 %のトリウム232をはじめ、27種が知られている。
[[原子量]]は210 [[統一原子質量単位|u]]から236 uまで<ref>{{cite journal | author= Uusitalo, J. ''et al.''| title = α decay of the new isotopes <sup>210</sup>Th and <sup>211</sup>Th | journal = Phys. Rev. C | volume = 52 | page = 113 | year =1995 | doi = 10.1103/PhysRevC.52.113}}</ref>。
ほとんどの同位体の半減期は10分以内と短く、比較的安定な以下の4種を除いて全て30日以内である。
* トリウム232 半減期140億年 アルファ線を放出してラジウム-228になる
*トリウム230(イオニウム) ウラン238の崩壊生成物で、半減期は75380年。
* トリウム229 励起エネルギーが7.6 eVと著しく低い[[核異性体]]を持つ<ref>{{cite journal | author = Beck, B. R. ''et al.''| title = Energy Splitting of the Ground-State Doublet in the Nucleus <sup>229</sup>Th | journal = Phys. Rev. Lett. | volume = 98 | page = 142501 |year = 2007 | doi = 10.1103/PhysRevLett.98.142501 | pmid = 17501268 | url=https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.98.142501}}</ref>。半減期は7340年。
* トリウム228(ラジオトリウム) 半減期は1.92年。
== 用途 ==
; 直熱型[[真空管]] : [[仕事関数]]を下げ[[熱電子]]放出を促進させるため、[[フィラメント]]表面に塗布された。主に送信管で使用され、トリウムまたはトリエーテッド・タングステン・フィラメントと呼ばれた。
; 高[[屈折率]][[レンズ]] : 1948年アメリカで発明されたトリウムレンズは、酸化トリウムを10-30 %程含む超低[[分散 (光学)|分散]][[光学ガラス]]による。[[色収差]]が小さく、1950-1970年頃販売されたが、[[崩壊生成物]][[放射線]]の懸念から[[ランタノイド]]に置き換えられた。経年変化による[[ブラウニング現象]]でガラスが黄変するという欠点がある。通常の[[紫外線]]には反応しないが、短波長紫外線照射で青色蛍光を発するので鑑別できる<ref>「写真工業」2004年9月号</ref>。
; [[X線]]血管[[造影剤]] : [[第二次世界大戦]]前後、[[トロトラスト]](二酸化トリウムの[[コロイド]]製剤)が用いられたが、大部分が[[肝臓]]に沈着し、数十年後に肝腫瘍(肝内胆管癌、血管[[肉腫]]など)の原因となった。また、[[泌尿器科学|泌尿器科]]領域などで用いられたウンブラトールも含トリウム造影剤であり局所に長期に沈着遺存した。
; [[るつぼ]] : 二酸化トリウムが高融点酸化物で、高温下でも安定なことから用いられた。
; [[アーク溶接]][[電極]] : 着火性がよい[[TIG溶接]]用として、酸化トリウムまたはタングステン合金が用いられる。
; [[ガス灯]]の[[ガスマントル]] : 硝酸トリウムを含浸させた繊維を灰化した発光体。炎中で硝酸トリウムが酸化されて生じる酸化トリウムは融点が非常に高いため安定で、加熱すると白色に強く発光することから、かつて白熱ガス灯やランタンのマントルとして利用されていた。
; [[合金]]素材 : 耐熱マグネシウム合金や、[[タングステン]]との合金が、前述のフィラメント、アーク溶接棒として用いられていた。
; [[触媒]] : [[不飽和炭化水素]]の水素化反応に用いられる。
; [[核燃料]] : 第二次大戦後のアメリカで[[トリウム燃料サイクル]]<ref>{{PDFlink|[http://www.aesj.or.jp/~fuel/Pdf/Th%20WG_report/App%202-3.pdf トリウム燃料の製造について] 日本原子力学会}}</ref>が着目、研究された。現在はインドの[[トリウム燃料サイクル#原子炉|トリウム炉]]で利用されている。
; [[天文学]] : [[超新星]]爆発時の元素合成モデルの推定のため、[[スペクトル]]観測される<ref>[http://www.naoj.org/Pressrelease/2007/06/25/j_index.html 銀河系外の星にアクチノイド元素トリウムを初検出]すばる望遠鏡</ref>。
== 危険性 ==
; 燃焼性 : 粉末状態のトリウムは[[自然発火性物質|自然発火性]]で、注意して扱うべき金属である。
; 放射性 : トリウムは半減期の長いアルファ線源であり、外部[[被曝]]より内部被曝のリスクが高い。体内に入ると、[[肺]]、[[膵臓]]、[[肝臓]]について発癌危険性がある。[[国際がん研究機関]] (IARC) は、トリウム232とその[[崩壊生成物]]を「[[ヒト]]に対して[[発癌性]]がある」[[IARC発がん性リスク一覧#Group1|Group 1]]に[[IARC発がん性リスク一覧|分類]]している<ref name="IARC"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2|refs=
<ref name="IARC">{{Cite web
| url = http://monographs.iarc.fr/ENG/Classification/ClassificationsGroupOrder.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20110514234339/monographs.iarc.fr/ENG/Classification/ClassificationsGroupOrder.pdf
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| title = Agents Classified by the ''IARC Monographs'', Volumes 1–100
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| quote = Thorium-232 and its decay products
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| date = 2010-5-27
| accessdate = 2010-6-30
| archivedate = 2011-5-14
| deadlinkdate = 2022年6月12日 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[トリアナイト]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Thorium}}
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
{{トリウムの化合物}}
{{核技術}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とりうむ}}
[[Category:トリウム|*]]
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[[Category:核物質]]
[[Category:発癌性物質]]
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10,626 |
正方形
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正方形(せいほうけい、英: square)または正四角形(せいしかくけい、せいしかっけい)は、平面上の幾何学において、4つの辺の長さが全て等しく、かつ、4つの角の角度が全て等しい四角形のこと。従って、4つの角は全て直角(90度)になっている。日常語では真四角(ましかく)とも呼ぶ。
正方形は正多角形の一種であり、また長方形、菱形、平行四辺形、台形、凧形の特殊な形だと考えることもできる。
面積の単位である平方メートルは、一辺1mの正方形の面積と定義される。1cm、1kmなども同様である。
以下では他の平面図形のクラスとの比較を挙げる。すべての場合において、正方形は各クラスの特殊な場合であり、逆に各クラスは一般には正方形とは言えないのである。
正方形は、長方形、菱形、凧形、平行四辺形、台形の「特殊な形」と言えるので、それらの図形が持つ性質は全て持っている。また、それとは別に四角形の中では正方形だけが持つ性質もある。以下に正方形の性質の具体例を幾つか列記する。
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正方形または正四角形(せいしかくけい、せいしかっけい)は、平面上の幾何学において、4つの辺の長さが全て等しく、かつ、4つの角の角度が全て等しい四角形のこと。従って、4つの角は全て直角(90度)になっている。日常語では真四角(ましかく)とも呼ぶ。 正方形は正多角形の一種であり、また長方形、菱形、平行四辺形、台形、凧形の特殊な形だと考えることもできる。 面積の単位である平方メートルは、一辺1mの正方形の面積と定義される。1cm2、1km2なども同様である。
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{{Regular polygon db|Regular polygon stat table|p4}}
[[File:四邊形四邊線等而角直為直角方形.svg|thumb|160px|正方形。(甲・乙・丙・丁は角)]]
[[File:Square diamond (shape).svg|thumb|160px|正方形にその[[対角線]]を点線で書き加えたもの。]]
'''正方形'''(せいほうけい、[[英語|英]]: square)または'''正四角形'''(せいしかくけい、せいしかっけい)は、[[平面]]上の[[幾何学]]において、4つの[[辺]]の長さが全て等しく、[[論理積|かつ]]、4つの[[角]]の角度が全て等しい[[四角形]]のこと。従って、4つの角は全て[[直角]](90度)になっている。日常語では'''真四角'''(ましかく)とも呼ぶ。
正方形は[[正多角形]]の一種であり、また[[長方形]]、[[菱形]]、[[平行四辺形]]、[[台形]]、[[凧形]]の特殊な形だと考えることもできる。
[[面積]]の単位である[[平方メートル]]は、一辺1[[メートル|m]]の正方形の面積と定義される。1[[平方センチメートル|cm<sup>2</sup>]]、1[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]なども同様である。
== 他の図形との関係 ==
以下では他の平面図形のクラスとの比較を挙げる。すべての場合において、正方形は各クラスの特殊な場合であり、逆に各クラスは一般には正方形とは言えないのである。
; 正方形と長方形
: 正方形は、全て角の角度が等しいという性質を持っている。従って、正方形は長方形の一種である。
: 一方、長方形は「4つの辺の長さが全て等しい」という性質は持っていない。従って、長方形は一般には正方形ではない。
; 正方形と菱形
: 正方形には2本の[[対角線]]が存在するが、その長さは等しく、またこの2本の対角線は[[直交]]する。逆に、対角線の長さが等しい菱形(4つの辺の長さが全て等しい四角形)は、正方形となる。
: 一方で、菱形は「4つの角の角度が全て等しい」という性質は持っていないため、菱形は一般には正方形ではない。
; 正方形と平行四辺形
: 正方形の向かい合う辺は、必ず[[平行]]である。従って正方形は平行四辺形の一種である。
: 一方で、平行四辺形は「4つの辺の長さが全て等しい」「4つの角の角度が全て等しい」という性質を持っていないため、平行四辺形は一般には正方形ではない。
; 正方形と台形
:平行四辺形は台形の一種であるため、正方形は[[台形]](向かい合う1組の辺が平行な四角形)の一種であるとも言える。
:一方で、台形は向かい合う2組の辺がどちらも平行であるとは限らず、従って一般に平行四辺形や正方形ではないため、正方形は台形の特殊な場合と言える。
; 正方形と凧型
: 正方形の4つの辺の長さは全て等しい。よって対頂点(辺を共有しない、向かい合う2つの[[頂点]])に接する辺の長さも等しい。従って、正方形は凧型(1組の対頂点に接する辺の長さが等しい四角形)の一種であると言える。
: 一方で、凧型は「4つの辺の長さが全て等しい」「4つの角の角度が全て等しい」という性質を一般に持っていないため、凧型は正方形とは限らない。
== 性質 ==
正方形は、[[長方形]]、[[菱形]]、[[凧形]]、[[平行四辺形]]、[[台形]]の「特殊な形」と言えるので、それらの図形が持つ性質は全て持っている。また、それとは別に四角形の中では正方形だけが持つ性質もある。以下に正方形の性質の具体例を幾つか列記する。
* 正方形の1辺の長さを[[自乗|2乗]]すれば、その正方形の[[面積]]が算出できる。
* 正方形の対角線の長さにその半分の長さをかけると、その正方形の面積が算出できる。すなわち正方形の面積は、その対角線を長さ(長方形の長い方の辺の長さ)その半分を幅(長方形の短い方の辺の長さ)とする長方形の面積と等しい。
* 正方形Aの[[内接円]]と、正方形Bの[[外接円]]、それぞれの[[円 (数学)|円]]の[[半径]]が等しい時、正方形Aの面積は、正方形Bの面積の2倍となる。
* 正方形は、全て角の角度が等しい四角形であるため、必ず正方形の内角はどれも[[直角]]となる。よって、正方形の向かい合う辺は、必ず[[平行]]となる。
* 全ての正方形は、互いに[[図形の相似|相似]]である(相似でない正方形は存在しない)。さらに、辺の長さの等しい正方形同士ならば、それらは[[図形の合同|合同]]である。また、対角線の長さの等しい正方形同士も、それらは合同である。
* 正方形には2本の[[対角線]]が存在するが、その長さは等しく、またこの2本の対角線は[[直交]]する。なお、この2本の対角線の[[交点]]は、正方形の[[重心]]となっている。
* 正方形は、対角線の交点(重心)を中心点とした[[点対称]]な図形である。ところで点対称とは、中心点を軸に180度回転した像と元の像が重なり合う状態を言う。したがって、正方形の重心を中心として180度回転させると元の像と重なり合うのは当然だが、正方形の場合は、さらに重心を中心として90度回転させた場合も元の像と重なり合う。
* 正方形は、対角線、または、向かい合う辺の[[中点]]同士を結ぶ[[線分]]に対して、[[線対称]]な図形である。したがって、これらの線で折り返した場合、重なり合う。なお、これらの線は必ず正方形の重心を通る。また、これらの線は合わせて4本あるので、[[対称軸]]が4本あると言うことができる。ちなみに、四角形が持ち得る対称軸は、最大で4本である。なお、一般に、正n角形にはn本の対称軸が存在するが、正方形(=正4角形)の場合もこのことは当てはまっている。
[[File:Square of area 4.png|thumb|原点に重心があり、辺が軸に平行で、一辺の長さが2の正方形]]
* 正方形の重心を[[原点 (数学)|原点]]に取り、[[軸]]に平行に取った辺の長さが2である正方形の[[頂点]]の[[座標]]は (''x'', ''y'') = (1, 1), (1, −1), (−1, 1), (−1, −1) となる。この正方形の内部は −1 < ''x'' < 1, −1 < ''y'' < 1 として、(''x'', ''y'') で表される[[点 (数学)|点]]の[[集合]]として書ける。もしくは |''x''|<sup>''n''</sup> + |''y''|<sup>''n''</sup> < 1 の ''n'' → ∞ の[[極限]]である。ただし、この式では辺と頂点は含まない。
* 正方形は[[正多角形]]の一種である。正多角形のうち[[平面充填|平面を隙間なく敷き詰めること]]のできる図形は、[[正三角形]]、正方形、[[正六角形]]の3種のみである(なお、平面を隙間なく敷き詰めることのできる正多角形以外の図形は、例えば平行四辺形など、他にも存在する)。また、正多角形のうち[[正多面体]]の面になり得るものは、正三角形、正方形、[[正五角形]]の3種のみである。全ての面が正方形である正多面体は[[正六面体]]であり、一般に[[正六面体|立方体]]と呼ばれる。
== 正方形ならではの事項 ==
* [[正六面体]]([[立方体]])の[[面]]は、正方形である。
* [[地図]]の[[投影法 (地図)|投影法]]の一種である[[正距円筒図法]]は、'''[[正方形図法]]'''という別名を持つ。これは、正距円筒図法で書かれた地図の[[経線]]と[[緯線]]が等間隔に直交し、ちょうど正方形のマスができるためである。
* 一般的な[[折り紙]]は、正方形の[[紙]]である。
<!--* 囲碁とか将棋の盤面は、正方形? 囲碁の盤面は一般に長方形です。-->
* [[数]]の一種である[[平方数]]は、'''[[正方形数]]'''とも呼ばれる。
* 「任意の正方形を、2個以上の全て異なる大きさの正方形に分割できるか」という問題は、[[ルジンの問題]]として知られる。かつては解がないだろうと予想されていたが、後に幾つかの解が発見された。
*数式
::<math>r=n\sec((1/4)\arccos(\cos(4\theta)))</math>
:で表すことができる。<math>n</math>は正方形の一辺の長さを表す。
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|数学}}
{{Refbegin|2}}
* [[四角形]]
* [[正多角形]]
* [[超立方体]]
* [[四角 (記号)]]
* [[正多胞体]]
* [[単位正方形]]
{{refend}}
{{多角形}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せいほうけい}}
[[Category:四角形]]
[[Category:数学に関する記事]]
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10,627 |
検索エンジン最適化
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検索エンジン最適化(けんさくエンジンさいてきか、英: search engine optimization, SEO、サーチ・エンジン・オプティマイゼーション)とは、検索エンジンのオーガニックな検索結果において、特定のウェブサイトが上位に表示されるよう、ウェブサイトの構成や記述などを調整すること。また、その手法の総称。
サーチエンジン最適化ないし検索エンジン対策とも呼ばれ、ウェブポジショニングと同義である。サーチエンジンマーケティングとあわせて用いられることも多い。英語表記のSEOから「セオ」とも呼ばれる。 SEOという言葉は順位を上げることを指しているのではなく、検索エンジンがサイトを理解して適切な結果を反映させていくことを指している。
順位決定には独自の計算式(アルゴリズム)が用いられるが、アルゴリズムは公開されていない場合も多く、特定の検索エンジンの特徴や基準を調査する専門家も存在する。
Googleは、例えば米国で1日あたり平均およそ2億4600万の検索結果を返しており、検索エンジン最適化を行うことは重要なマーケティングの一つである。また、ウェブ利用者の多くは「検索結果の上位に表示される企業はメジャーブランドである」と考える傾向にあることが明らかとなっている。
ウェブサイトを完全にインデックスさせるもっとも簡単で効果的な方法はサイトマップを提供することとされるが、これは検索結果には直接影響しない。
検索エンジン最適化は、1990年代半ば、最初期の検索エンジンが初期のウェブを登録した時に始まった。検索エンジンの登場によって自分のサイトへのアクセスが増加したため、多くのウェブページ所有者はすぐに検索エンジンの価値を評価するようになった。
サイト所有者の多くは、検索エンジン所定の方式にのっとり、自身のサイトのURLを検索エンジンのデータベースへ送信し、ウェブを探索するソフトウェア(クローラ)に親和性の高いウェブページを目指すため、自身のサイトを変更し始めた。そしてまもなく検索エンジン最適化を行う会社も立ち上げられ、検索エンジンの内部論理アルゴリズムの分析・探究が促進された。
この産業が発展すると、YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は良心的でないSEO企業がどんな手を使ってでも顧客のためにアクセス数を増やそうとするのを用心するようになった。
YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は次々と対策をとって、不適切な検索エンジン最適化に分類されるテクニックによる操作を除去するように企図した。それに対し、いくつかのSEO会社は、さらに巧妙なテクニックを使って順位に影響を与えようとした。
Googleは特にスパム行為に厳しく、ドイツのBMWとリコーのウェブサイトがJavaScriptによるリダイレクトを行なった時にそれをスパム行為と判断し、検索対象から削除した事がある。日本でもサイバーエージェント系列のウェブサイトが、スタイルシートによって大量の隠し相互リンクをページ内に埋め込んだ行為をスパム行為と判断されて、検索対象から削除された。現在は、いずれのウェブサイトも対処を行い、再び検索対象となっている。
このように、検索結果から排除されることを、村八分になぞらえて検索エンジン八分、特に代表的な検索エンジンであるGoogleを代名詞としてグーグル八分と呼ぶ。
当初は「ウェブページのページランキングを上げることを目的とするいかなる形態のSEOも検索エンジンスパムである」としてきた検索エンジン業者だったが、時が経つにつれて、「サーチエンジンの順位向上とアクセス増加の手段として受け容れられるもの」と「そうでないもの」に分かれるという結論に達した。
2000年代前半には、検索エンジンとSEO会社は非公式な休戦に達した。SEO企業にはいくつかの階層があり、もっとも評判の高い企業は内容に基づいた最適化を行い、検索エンジンの(渋々ながらの)承認をうけている。これらのテクニックには、サイトの案内やコピーライティングを改良して、ウェブサイトを検索エンジンのアルゴリズムによく知らせるように企図することが含まれる。
検索エンジン自体もSEO業界に接近し、しばしばSEOの会議やセミナーのスポンサーや来賓になっている。
検索エンジン最適化には、適切なキーワードをタイトルやページ先頭に持ってくる手法や、検索エンジンスパムを使う手法まで、多様な手法が用いられる。検索エンジンスパムを利用したことが発覚すると、検索エンジンのインデックスから削除されるなどのペナルティが課せられることがある。特定のドメイン・IPアドレスを検索対象から除外するペナルティもあり、ドメイン・IPアドレスの再取得といったコストがかかってしまうことがある。
Googleのアルゴリズムには新しい情報を優遇するというルールがあり、このアルゴリズムのことをQDF(Query Deserves Freshness)という。ただし、これは"新着情報"を優遇するものであり、時事的でない情報を優遇するものではない。
2013年のインドのウェブマスター向け公式ブログや2014年のSMX Advancedにおいて、Googleは検索順位を決定するために200以上のアルゴリズムを利用していることを明言している。Googleはアルゴリズムを非公開としているが、世界中の専門家が議論を重ねたうえで独自に作成したアルゴリズムのリストが存在し各国で翻訳されている。これらのリストはGoogleが取得した特許や内部リーク情報などから作成されており、100%信頼できるものではないが、検索エンジン最適化を行う目安となっている。なお、アメリカ民間企業が実施した2014年度版の検索順位決定要因に関する調査では、特定のキーワードの影響力が減少する一方で、コンテンツの関連性や専門性などを重視する傾向が見られた。
検索エンジン最適化は、大きくホワイトハットSEOとブラックハットSEOに分類される。ホワイトハットSEOはユーザーに重点を置いた最適化で、ブラックハットSEOは検索エンジンを騙して不正に順位を上げようとする最適化である。検索エンジンのシステムの裏をかくような最適化を行っているウェブサイトは不適切とみなされ、検索結果から除外されることがある。なお、Googleは、自社が公開しているウェブマスター向けガイドライン(後述)に準拠している最適化の手法をホワイトハットSEO、そうでない手法をブラックハットSEOと定義している。GoogleはブラックハットSEOを行うことをバッドプラクティスであるとしており、ブラックハットSEOを行うとGoogle検索でサイトの掲載順位が下落したり、ページがGoogle検索から排除されたりすることがある。
検索エンジン最適化の手法のうち、ユーザーに重点を置いてサイトを改善する検索エンジン最適化のことをホワイトハットSEOと呼ぶ。この最適化の多くは、コンテンツを構造化して意味づけをする、検索エンジンが利用できるメタデータを提供する、等、SEOという手段が認知される以前から推奨されている手段を活用したものである。
検索エンジン最適化の出発点は、対象としたいウェブ利用者がどういったキーワードで必要とする情報を探しているかを理解することである。例えば、製品やサービスを比較しながら探す場合、検索ボックスには製品の固有名詞ではなく一般名称が、特定製品の機能名ではなく一般的な機能名が打ち込まれる傾向にある。
Googleは、ユーザーがサイトを検索するときに入力する可能性の高いキーワードをサイト内に含めることを推奨している。
あるページが、あるキーワードにどの程度関連しているかは、検索エンジン・スパイダーのアルゴリズムに基づいて決定される。検索エンジンは、ウェブサイトが閲覧されるときに閲覧者が読もうとするテキストを内容に基づいて整理し、そのページは何を記しているページで、あるキーワードに対する関連性がどの程度かを判断する。
多くの検索エンジンは、ページの価値を判断する基準に、そのページにどれだけの被リンクがあるかという基準を採用している。したがって、ウェブ上の他の関係あるサイトに自分のコンテンツについて通知し、リンクを求めたり、自己が運営する既存のサイトから適切なリンクをはったりすることが対策として行われる。ユーザーに役立つページを作成することで、閲覧したユーザーからのリンクを得るという対策が行われることもある。
また、スパイダーはコンテンツのハイパーリンクを辿って巡回を行うので、検索エンジンに登録してもらいたい場合、そのページへのリンクを作成しておくことが必要になる。「サイトマップ」を作成することはその手法の一つで、推奨されていることでもある。サイトマップは、トップページやサイト上のすべてのページからリンクされているのが好ましい。このようなページがあると、ひとたびスパイダーがサイトを見つけた時に、そのサイト全体が索引化される確率が高まる。
検索エンジンは、HTMLのtitle、meta、strong、hnの各要素などを重視すると考えられているため、重要なキーワードをこのタグで囲って、重要であることを示すこともされる。例えば、見出しとして強調したい語句を font 要素などで赤く大きな文字で表示するようにマークアップすると、それは単に「赤くて大きな文字」というようにしか解釈されないが、h1 要素(とスタイルシートによる装飾)を使えば、検索エンジンにとっても、それが見出しであると解釈され、検索にヒットしやすくなるという具合である。これは、基礎的なセマンティック・ウェブと言うことも出来る。
ホワイトハットSEOとは逆に、検索エンジンを騙し、ウェブページを本来よりも高く評価させる検索エンジン最適化のことをブラックハットSEOと呼ぶ。GoogleはブラックハットSEOに準ずる行為をウェブマスター向けガイドラインで禁じており、ブラックハットSEOやそれに準ずる行為を行うと手動による対策が適用されることがある。
Ptengineのマーケティング部門でVPを務めるジェフ・ドイッチュは、Googleに対するスパム行為で月収5万ドルの収益をあげていたことを明らかにした。Googleは毎日スパムにあたるワードを4億5000万個インデックスしているが、ドイッチュはこのシステムを潜り抜け、高く順位付けされる記事を生成するスパムマシンを構築し収益をあげていた。しかし、2012年3月16日、Googleのマット・カッツがALN(Authority Link Network)に関して言及したツイートを投稿し、その後GoogleによりALNネットワークが発見され、すべて破壊されたとされる。
背景色と同色にするなどして、ユーザーには見えない文字をページ内に埋め込む行為は、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている。“隠し文字”といわれる。スパムを役に立たないサイトにリンクすることも、Googleの悪い評価になる。
検索結果でのランキングを操作するために、ウェブページにキーワードや数字を埋め込むことは、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている。電話番号の羅列や、サイト内容とは直接関係のない大量の地名(市名や区名など)の埋め込み、不自然なほどの同じ単語の繰り返しなどがこれに該当する。
検索結果でのランキングを操作するために、ユーザーからは見えない隠しリンクを作成することは、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている。
目的とするページへの誘導のみを目的としたページを作成し、検索エンジン用に文書構造などを最適化する。入り口になるページはドアページと呼ばれる。
クローキングは、人間に見えるページと異なるページを検索エンジン・スパイダーに提供する技術。検索エンジン最適化の手法のうち最も論争の種となるものである。クローキングは特定のウェブサイトのコンテンツを検索エンジンを誤解させる不当な試みでありうる一方で、検索エンジンが処理・解読できないが人間の閲覧者に有用なコンテンツを提供するのに用いることができる。クローキングはウェブサイトのアクセシビリティを視覚障害者やその他の障害者に提供することにも用いられる。あるクローキング行為が倫理的か否かを判定するよい基準のひとつは、その行為がアクセシビリティを高めているかどうかである。
検索エンジンでの結果を向上させることを目的として、他サイトからのリンクを購入し、あるいは自サイトからのリンクを販売したりすること。Googleはこれを禁じ、不当な有料リンクの報告を募っている。 Googleはこの行為に対し、サイトからの不自然なリンクという個別のペナルティを設けている. これはgoogle 2020のアップデートです。
Googleは、無名な検索エンジンへ登録することをスパム行為であると認定している。
ユーザーが検索フィールドに入力する単語数の平均は3.1単語であり、Googleはこれらの入力をもとに、数千、場合によっては何百万ものページを検索結果として返す。Googleには、3つの単語をもとにして最良の検索結果を提供する高度な方法が用意されている。これらの結果のうち、10件のみが検索結果の最初のページに表示される。
また、Googleはウェブページをクロールするために膨大な数のコンピュータを使用しており、これを行うプログラムはGooglebotと呼ばれる。
Googleの検索エンジンの順位付けでは、ページ内のコンテンツと外部からの被リンク(バックリンク)の量と質に重点が置かれる。なお、rel="nofollow" が付与されている発リンクは評価の対象とならない。Googleにはほかにも200以上の要素を用いて順位付けを行っているが、それらの要素が与える影響はコンテンツや被リンクと比較すれば小さいものである。なお、これらの2つの要素が最重要視されているのは、コンテンツのないページが上位に表示されることを防ぐため、また被リンクがないとページを評価することができないためである。
WebmasterWorldのフォーラムアドミニストレータによれば、被リンクは主にこれらの8つの要因によって評価される。
Googleは、検索エンジン最適化を行う業者を利用することは時間の節約になる一方で、サイトの信用が損なわれるおそれもあるとしている。また、Googleは不審なメールを配信する業者に注意を払うよう呼び掛けており、業者を探す前にまず検索エンジンの仕組みについて理解しておくことを推奨している。PageRankを販売する悪質なSEO業者を利用しペナルティを受け、業者リンクの削除を依頼しても応じなかったり、リンクの削除に法外な料金を請求したりする業者に遭遇した場合は、再審査リクエストのほかにリンク否認ツールをあわせて利用することを呼び掛けている。
Googleは、ウェブマスター向けガイドラインと呼ばれる、ウェブページの登録やランク付けをスムーズに行わせるためのウェブページの作り方を示したガイドラインを公開している。このガイドラインでは、Googleがウェブページを検出・理解しやすくするために行うべきことや、検索エンジン最適化においてGoogleに認められない手法などが記されている。品質に関するガイドラインでは、基本方針として「ユーザーの利便性を第一に考える」ことが挙げられている。
Googleは、ブラックハットSEOに分類される最適化のうちいくつかをこのウェブマスター向けガイドラインの品質に関するガイドラインの節で明示的に禁止しており、品質に関するガイドラインへの違反が確認された場合、ペナルティを与えられることがある。多くは掲載順位の低下で、場合によっては検索結果にまったく表示されなくなるGoogle八分を受けることもある。また、Googleはブラックハットな手法について「サイトの評判を傷つける」と警告している。
Googleはウェブサイトの常時SSL化を推進しており、常時SSL化されているウェブサイトを(条件付きで)検索結果で待遇するとしている。また、HTTPSが用いられているページは優先的にGoogleのインデックスへ登録される。
Googleによると、常時SSL化されているウェブサイトのインデックスを待遇する条件は次のとおりである。
GoogleはHTTPサイトを安全でないと明示する計画を実行しており、この一環として、Google ChromeではユーザーがHTTPサイトに機密情報を入力する際にユーザーに警告を出すようになっている。
モバイルファーストインデックス(MFI)とは、モバイル向けに提供されるウェブページを主な評価の対象とするGoogleのランキングシステムのことで、2018年3月27日より開始。従来はコンピュータ向けのページをクロールして検索結果に表示する各種情報を算出してきたが、以降は主にモバイル向けのページに基づいて検索結果が作成されるようになる。これは、モバイルから検索するユーザーが増加したためである。
ページエクスペリエンスとは、2020年にGoogleが発表したランキングシグナル。ウェブにおけるユーザー体験を快適にするための取り組みとして、Google検索のランキングにページエクスペリエンスシグナルを導入する計画が発表された。これにより、サイト運営者はより高くGoogleから評価されるためにユーザー体験の向上に取り組み、ウェブ全体の改善が期待できる。
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"text": "検索エンジン最適化(けんさくエンジンさいてきか、英: search engine optimization, SEO、サーチ・エンジン・オプティマイゼーション)とは、検索エンジンのオーガニックな検索結果において、特定のウェブサイトが上位に表示されるよう、ウェブサイトの構成や記述などを調整すること。また、その手法の総称。",
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"text": "サーチエンジン最適化ないし検索エンジン対策とも呼ばれ、ウェブポジショニングと同義である。サーチエンジンマーケティングとあわせて用いられることも多い。英語表記のSEOから「セオ」とも呼ばれる。 SEOという言葉は順位を上げることを指しているのではなく、検索エンジンがサイトを理解して適切な結果を反映させていくことを指している。",
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"text": "順位決定には独自の計算式(アルゴリズム)が用いられるが、アルゴリズムは公開されていない場合も多く、特定の検索エンジンの特徴や基準を調査する専門家も存在する。",
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"text": "Googleは、例えば米国で1日あたり平均およそ2億4600万の検索結果を返しており、検索エンジン最適化を行うことは重要なマーケティングの一つである。また、ウェブ利用者の多くは「検索結果の上位に表示される企業はメジャーブランドである」と考える傾向にあることが明らかとなっている。",
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"text": "ウェブサイトを完全にインデックスさせるもっとも簡単で効果的な方法はサイトマップを提供することとされるが、これは検索結果には直接影響しない。",
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"text": "検索エンジン最適化は、1990年代半ば、最初期の検索エンジンが初期のウェブを登録した時に始まった。検索エンジンの登場によって自分のサイトへのアクセスが増加したため、多くのウェブページ所有者はすぐに検索エンジンの価値を評価するようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "サイト所有者の多くは、検索エンジン所定の方式にのっとり、自身のサイトのURLを検索エンジンのデータベースへ送信し、ウェブを探索するソフトウェア(クローラ)に親和性の高いウェブページを目指すため、自身のサイトを変更し始めた。そしてまもなく検索エンジン最適化を行う会社も立ち上げられ、検索エンジンの内部論理アルゴリズムの分析・探究が促進された。",
"title": "歴史"
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"text": "この産業が発展すると、YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は良心的でないSEO企業がどんな手を使ってでも顧客のためにアクセス数を増やそうとするのを用心するようになった。",
"title": "論争"
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"text": "YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は次々と対策をとって、不適切な検索エンジン最適化に分類されるテクニックによる操作を除去するように企図した。それに対し、いくつかのSEO会社は、さらに巧妙なテクニックを使って順位に影響を与えようとした。",
"title": "論争"
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"text": "Googleは特にスパム行為に厳しく、ドイツのBMWとリコーのウェブサイトがJavaScriptによるリダイレクトを行なった時にそれをスパム行為と判断し、検索対象から削除した事がある。日本でもサイバーエージェント系列のウェブサイトが、スタイルシートによって大量の隠し相互リンクをページ内に埋め込んだ行為をスパム行為と判断されて、検索対象から削除された。現在は、いずれのウェブサイトも対処を行い、再び検索対象となっている。",
"title": "論争"
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"text": "このように、検索結果から排除されることを、村八分になぞらえて検索エンジン八分、特に代表的な検索エンジンであるGoogleを代名詞としてグーグル八分と呼ぶ。",
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"text": "当初は「ウェブページのページランキングを上げることを目的とするいかなる形態のSEOも検索エンジンスパムである」としてきた検索エンジン業者だったが、時が経つにつれて、「サーチエンジンの順位向上とアクセス増加の手段として受け容れられるもの」と「そうでないもの」に分かれるという結論に達した。",
"title": "和解"
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"text": "2000年代前半には、検索エンジンとSEO会社は非公式な休戦に達した。SEO企業にはいくつかの階層があり、もっとも評判の高い企業は内容に基づいた最適化を行い、検索エンジンの(渋々ながらの)承認をうけている。これらのテクニックには、サイトの案内やコピーライティングを改良して、ウェブサイトを検索エンジンのアルゴリズムによく知らせるように企図することが含まれる。",
"title": "和解"
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"text": "検索エンジン自体もSEO業界に接近し、しばしばSEOの会議やセミナーのスポンサーや来賓になっている。",
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"text": "検索エンジン最適化には、適切なキーワードをタイトルやページ先頭に持ってくる手法や、検索エンジンスパムを使う手法まで、多様な手法が用いられる。検索エンジンスパムを利用したことが発覚すると、検索エンジンのインデックスから削除されるなどのペナルティが課せられることがある。特定のドメイン・IPアドレスを検索対象から除外するペナルティもあり、ドメイン・IPアドレスの再取得といったコストがかかってしまうことがある。",
"title": "手法"
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"text": "Googleのアルゴリズムには新しい情報を優遇するというルールがあり、このアルゴリズムのことをQDF(Query Deserves Freshness)という。ただし、これは\"新着情報\"を優遇するものであり、時事的でない情報を優遇するものではない。",
"title": "手法"
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"text": "2013年のインドのウェブマスター向け公式ブログや2014年のSMX Advancedにおいて、Googleは検索順位を決定するために200以上のアルゴリズムを利用していることを明言している。Googleはアルゴリズムを非公開としているが、世界中の専門家が議論を重ねたうえで独自に作成したアルゴリズムのリストが存在し各国で翻訳されている。これらのリストはGoogleが取得した特許や内部リーク情報などから作成されており、100%信頼できるものではないが、検索エンジン最適化を行う目安となっている。なお、アメリカ民間企業が実施した2014年度版の検索順位決定要因に関する調査では、特定のキーワードの影響力が減少する一方で、コンテンツの関連性や専門性などを重視する傾向が見られた。",
"title": "手法"
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{
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"text": "検索エンジン最適化は、大きくホワイトハットSEOとブラックハットSEOに分類される。ホワイトハットSEOはユーザーに重点を置いた最適化で、ブラックハットSEOは検索エンジンを騙して不正に順位を上げようとする最適化である。検索エンジンのシステムの裏をかくような最適化を行っているウェブサイトは不適切とみなされ、検索結果から除外されることがある。なお、Googleは、自社が公開しているウェブマスター向けガイドライン(後述)に準拠している最適化の手法をホワイトハットSEO、そうでない手法をブラックハットSEOと定義している。GoogleはブラックハットSEOを行うことをバッドプラクティスであるとしており、ブラックハットSEOを行うとGoogle検索でサイトの掲載順位が下落したり、ページがGoogle検索から排除されたりすることがある。",
"title": "手法"
},
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"text": "検索エンジン最適化の手法のうち、ユーザーに重点を置いてサイトを改善する検索エンジン最適化のことをホワイトハットSEOと呼ぶ。この最適化の多くは、コンテンツを構造化して意味づけをする、検索エンジンが利用できるメタデータを提供する、等、SEOという手段が認知される以前から推奨されている手段を活用したものである。",
"title": "手法"
},
{
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"text": "検索エンジン最適化の出発点は、対象としたいウェブ利用者がどういったキーワードで必要とする情報を探しているかを理解することである。例えば、製品やサービスを比較しながら探す場合、検索ボックスには製品の固有名詞ではなく一般名称が、特定製品の機能名ではなく一般的な機能名が打ち込まれる傾向にある。",
"title": "手法"
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"text": "Googleは、ユーザーがサイトを検索するときに入力する可能性の高いキーワードをサイト内に含めることを推奨している。",
"title": "手法"
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"text": "あるページが、あるキーワードにどの程度関連しているかは、検索エンジン・スパイダーのアルゴリズムに基づいて決定される。検索エンジンは、ウェブサイトが閲覧されるときに閲覧者が読もうとするテキストを内容に基づいて整理し、そのページは何を記しているページで、あるキーワードに対する関連性がどの程度かを判断する。",
"title": "手法"
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"text": "多くの検索エンジンは、ページの価値を判断する基準に、そのページにどれだけの被リンクがあるかという基準を採用している。したがって、ウェブ上の他の関係あるサイトに自分のコンテンツについて通知し、リンクを求めたり、自己が運営する既存のサイトから適切なリンクをはったりすることが対策として行われる。ユーザーに役立つページを作成することで、閲覧したユーザーからのリンクを得るという対策が行われることもある。",
"title": "手法"
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"text": "また、スパイダーはコンテンツのハイパーリンクを辿って巡回を行うので、検索エンジンに登録してもらいたい場合、そのページへのリンクを作成しておくことが必要になる。「サイトマップ」を作成することはその手法の一つで、推奨されていることでもある。サイトマップは、トップページやサイト上のすべてのページからリンクされているのが好ましい。このようなページがあると、ひとたびスパイダーがサイトを見つけた時に、そのサイト全体が索引化される確率が高まる。",
"title": "手法"
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"text": "検索エンジンは、HTMLのtitle、meta、strong、hnの各要素などを重視すると考えられているため、重要なキーワードをこのタグで囲って、重要であることを示すこともされる。例えば、見出しとして強調したい語句を font 要素などで赤く大きな文字で表示するようにマークアップすると、それは単に「赤くて大きな文字」というようにしか解釈されないが、h1 要素(とスタイルシートによる装飾)を使えば、検索エンジンにとっても、それが見出しであると解釈され、検索にヒットしやすくなるという具合である。これは、基礎的なセマンティック・ウェブと言うことも出来る。",
"title": "手法"
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"text": "ホワイトハットSEOとは逆に、検索エンジンを騙し、ウェブページを本来よりも高く評価させる検索エンジン最適化のことをブラックハットSEOと呼ぶ。GoogleはブラックハットSEOに準ずる行為をウェブマスター向けガイドラインで禁じており、ブラックハットSEOやそれに準ずる行為を行うと手動による対策が適用されることがある。",
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"text": "Ptengineのマーケティング部門でVPを務めるジェフ・ドイッチュは、Googleに対するスパム行為で月収5万ドルの収益をあげていたことを明らかにした。Googleは毎日スパムにあたるワードを4億5000万個インデックスしているが、ドイッチュはこのシステムを潜り抜け、高く順位付けされる記事を生成するスパムマシンを構築し収益をあげていた。しかし、2012年3月16日、Googleのマット・カッツがALN(Authority Link Network)に関して言及したツイートを投稿し、その後GoogleによりALNネットワークが発見され、すべて破壊されたとされる。",
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"text": "Googleによると、常時SSL化されているウェブサイトのインデックスを待遇する条件は次のとおりである。",
"title": "Google"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "GoogleはHTTPサイトを安全でないと明示する計画を実行しており、この一環として、Google ChromeではユーザーがHTTPサイトに機密情報を入力する際にユーザーに警告を出すようになっている。",
"title": "Google"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "モバイルファーストインデックス(MFI)とは、モバイル向けに提供されるウェブページを主な評価の対象とするGoogleのランキングシステムのことで、2018年3月27日より開始。従来はコンピュータ向けのページをクロールして検索結果に表示する各種情報を算出してきたが、以降は主にモバイル向けのページに基づいて検索結果が作成されるようになる。これは、モバイルから検索するユーザーが増加したためである。",
"title": "Google"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ページエクスペリエンスとは、2020年にGoogleが発表したランキングシグナル。ウェブにおけるユーザー体験を快適にするための取り組みとして、Google検索のランキングにページエクスペリエンスシグナルを導入する計画が発表された。これにより、サイト運営者はより高くGoogleから評価されるためにユーザー体験の向上に取り組み、ウェブ全体の改善が期待できる。",
"title": "Google"
}
] |
検索エンジン最適化とは、検索エンジンのオーガニックな検索結果において、特定のウェブサイトが上位に表示されるよう、ウェブサイトの構成や記述などを調整すること。また、その手法の総称。 サーチエンジン最適化ないし検索エンジン対策とも呼ばれ、ウェブポジショニングと同義である。サーチエンジンマーケティングとあわせて用いられることも多い。英語表記のSEOから「セオ」とも呼ばれる。 SEOという言葉は順位を上げることを指しているのではなく、検索エンジンがサイトを理解して適切な結果を反映させていくことを指している。 順位決定には独自の計算式(アルゴリズム)が用いられるが、アルゴリズムは公開されていない場合も多く、特定の検索エンジンの特徴や基準を調査する専門家も存在する。 Googleは、例えば米国で1日あたり平均およそ2億4600万の検索結果を返しており、検索エンジン最適化を行うことは重要なマーケティングの一つである。また、ウェブ利用者の多くは「検索結果の上位に表示される企業はメジャーブランドである」と考える傾向にあることが明らかとなっている。 ウェブサイトを完全にインデックスさせるもっとも簡単で効果的な方法はサイトマップを提供することとされるが、これは検索結果には直接影響しない。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
| 精度 = 2017年10月
}}
'''検索エンジン最適化'''(けんさくエンジンさいてきか、{{lang-en-short|search engine optimization, '''SEO'''}}、サーチ・エンジン・オプティマイゼーション)とは、[[検索エンジン]]の'''オーガニックな検索結果'''<ref group="注">検索結果として表示されるページの中で、検索ワードに連動した広告を除いたもので、いわゆる純粋な検索結果のみを指す語。「自然検索」「ナチュラル検索」とも。</ref>において、特定の[[ウェブサイト]]が上位に表示されるよう、ウェブサイトの構成や記述などを調整すること<ref name="berkeley" />。また、その手法の総称<ref name="kotobank" />。
'''サーチエンジン最適化'''ないし'''検索エンジン対策'''とも呼ばれ、ウェブポジショニングと同義である。[[サーチエンジンマーケティング]]とあわせて用いられることも多い。[[英語]]表記の<span lang="en">SEO</span>から「セオ」とも呼ばれる<ref name="kotobank" /><ref group="注">会社組織における[[CEO]]も、俗にセオと発音されることがあるので、注意。</ref>。 SEOという言葉は順位を上げることを指しているのではなく、検索エンジンがサイトを理解して適切な結果を反映させていくことを指している。 <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seojapan.com/seo/what-is-seo/ |title=SEO(検索エンジン最適化)とは?初心者でもわかるSEOの基本 |accessdate=2022/6/20 |publisher=アイオイクス株式会社}}</ref>
順位決定には独自の計算式([[アルゴリズム]])が用いられるが、アルゴリズムは公開されていない場合も多く、特定の[[検索エンジン]]の特徴や基準を調査する専門家も存在する<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/SEO-1420|title=SEOとは|publisher=コトバンク|accessdate=2017-10-17}}</ref>。
[[Google]]は、例えば米国で1日あたり平均およそ2億4600万の検索結果を返しており<ref name="berkeley" />、検索エンジン最適化を行うことは重要な[[マーケティング]]の一つである<ref name="berkeley">{{Cite web|url=https://seogifts.blogspot.com/2022/01/how-much-people-search-per-day-on-google.html?m=1|title=Tutorial: Google Searches Per Day | author=Scot Hacker|accessdate=2022-01-04|language=英語|publisher=SEO GIFTS}}</ref>。また、ウェブ利用者の多くは「検索結果の上位に表示される企業はメジャーブランドである」と考える傾向にあることが明らかとなっている<ref>{{Cite journal|和書|author=山名早人 |author2=村田剛志 |title=検索エンジン2005 -Webの道しるべ- :1.検索エンジンの概要 |journal=情報処理 |ISSN=04478053 |publisher=情報処理学会 |year=2005 |month=sep |volume=46 |issue=9 |pages=981-987 |naid=110002770410 |url=http://id.nii.ac.jp/1001/00065439/ |accessdate=2021-11-07}}</ref>。
ウェブサイトを完全にインデックスさせるもっとも簡単で効果的な方法はサイトマップを提供することとされるが、これは検索結果には直接影響しない<ref name="berkeley" />。
== 歴史 ==
{{複数の問題 | section = 1
| 出典の明記 = 2017年8月
| 独自研究 = 2017年7月
}}
検索エンジン最適化は、[[1990年代]]半ば、最初期の検索エンジンが初期の[[World Wide Web|ウェブ]]を登録した時に始まった。検索エンジンの登場によって自分のサイトへのアクセスが増加したため、多くのウェブページ所有者はすぐに検索エンジンの価値を評価するようになった。
サイト所有者の多くは、検索エンジン所定の方式にのっとり、自身のサイトの[[URL]]を検索エンジンのデータベースへ送信し、ウェブを探索する[[ソフトウェア]]([[クローラ]])に親和性の高いウェブページを目指すため、自身のサイトを変更し始めた。そしてまもなく検索エンジン最適化を行う会社も立ち上げられ、検索エンジンの内部論理[[アルゴリズム]]の分析・探究が促進された<ref name="sosus">[http://sosus.info/002/01/ 002.1.SEOってそもそも何!?―SEO対策の基本|初心者でもわかるSEOの考え方|月刊ソウサス]</ref>{{出典無効|date=2017年8月}}。
<!--検索エンジン最適化の定義・目的に関しては、「検索ページにおいて高順位を獲得する手法」という狭義の定義から、「サイトコンテンツに対して関心の高いユーザーのアクセスを効果的に集約する営み」とする広義のものまで、さまざまなものが存在する。後者の立場を採る場合、サイトのコーディング面だけでなく、検索ページでウェブページを目立たせる[[コピーライティング]]や、ウェブページに向けられる外部リンクの設置についても検索エンジン最適化の一環に含まれることになる。-->
== 論争 ==
{{複数の問題 | section = 1
| 出典の明記 = 2017年8月
| 独自研究 = 2017年7月
}}
この産業が発展すると、YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は良心的でないSEO企業がどんな手を使ってでも顧客のためにアクセス数を増やそうとするのを用心するようになった。
YahooやGoogleなどの検索エンジン運営会社は次々と対策をとって、不適切な検索エンジン最適化に分類されるテクニックによる操作を除去するように企図した。それに対し、いくつかのSEO会社は、さらに巧妙なテクニックを使って順位に影響を与えようとした。
Googleは特にスパム行為に厳しく、ドイツの[[BMW]]と[[リコー]]のウェブサイトが[[JavaScript]]による[[リダイレクト (HTTP)|リダイレクト]]を行なった時にそれをスパム行為と判断し、検索対象から削除した事がある。日本でも[[サイバーエージェント]]系列のウェブサイトが、[[スタイルシート]]によって大量の隠し相互リンクをページ内に埋め込んだ行為をスパム行為と判断されて、検索対象から削除された。現在は、いずれのウェブサイトも対処を行い、再び検索対象となっている{{要出典|date=2017年8月}}。
このように、検索結果から排除されることを、[[村八分]]になぞらえて検索エンジン八分、特に代表的な検索エンジンであるGoogleを代名詞として[[グーグル八分]]と呼ぶ<ref name="sosus" />{{出典無効|date=2017年8月}}。
== 和解 ==
{{複数の問題 | section = 1
| 出典の明記 = 2017年8月
| 独自研究 = 2017年7月
}}
当初は「ウェブページのページランキングを上げることを目的とするいかなる形態のSEOも検索エンジンスパムである」としてきた検索エンジン業者{{誰|date=2017年8月}}だったが、時が経つにつれて、「サーチエンジンの順位向上とアクセス増加の手段として受け容れられるもの」と「そうでないもの」に分かれるという結論に達した。
[[2000年代]]前半には、検索エンジンとSEO会社は非公式な休戦に達した。SEO企業にはいくつかの階層があり、もっとも評判の高い企業は内容に基づいた最適化を行い、検索エンジンの(渋々ながらの)承認をうけている。これらのテクニックには、サイトの案内やコピーライティングを改良して、ウェブサイトを検索エンジンのアルゴリズムによく知らせるように企図することが含まれる。
検索エンジン自体もSEO業界に接近し、しばしばSEOの会議やセミナーのスポンサーや来賓になっている<ref name="sosus" />{{出典無効|date=2017年8月}}。<!--実のところ、有料登録により、検索エンジンはいまや最適化業界の健全さに既得権益をもっているのである--><!-- ←現在の主要の検索エンジンは有料登録を採用しておらず、すでに古くなった記述だと思われます。 -->
<!--== 有料登録 ==
有料登録は、検索エンジンにウェブサイトのリストを提出する有料モデルである<ref name=":4">{{Cite web|url=http://web-tan.forum.impressrd.jp/g/有料検索エンジン登録|title=有料検索エンジン登録 とは 意味/解説/説明|accessdate=2016-12-24|publisher=Web担当者Forum}}</ref>。
GoogleやBingなどのほとんどの検索エンジンでは、登録したいサイトを無料で提出することができるようになっている<ref>[https://www.google.com/webmasters/tools/submit-url?hl=ja Search Console - URL のクロール]</ref><ref>[http://www.bing.com/toolbox/submit-site-url Bing - 自分のサイトを Bing に登録する]</ref>。その一方で、対価を支払って検索結果にサイトを反映させるという方式を採用している検索エンジンもあり、この方式のことを有料登録という<ref name=":4" />。
有料登録で支払われる料金は、余分な提出に対するフィルタリング作業に用いられる他、単純に運営会社の収入源にもなっている。典型的には、料金はウェブページひとつあたりの年間料をカバーし、自動的・定期的に分類登録される。
Googleは、検索結果が支払いの有無によって影響されないよう、倫理的な注意を払っている。また、対価を支払って広告として掲載されたページと通常のページとが区別できるようになっており<ref>{{Cite web|url=https://support.google.com/webmasters/answer/35291?hl=ja|title=SEO が必要なケース|accessdate=2016-12-23|publisher=Google}}</ref>、どのページが有料で表示されているかを知ることができる。また、有料で掲載されたページが、無関係な検索の結果表示されることを防ぐ種々の手段を用いている。-->
== 手法 ==
検索エンジン最適化には、適切なキーワードをタイトルやページ先頭に持ってくる手法や、[[検索エンジンスパム]]を使う手法まで、多様な手法が用いられる。検索エンジンスパムを利用したことが発覚すると、検索エンジンのインデックスから削除されるなどのペナルティが課せられることがある。特定の[[ドメイン名|ドメイン]]・[[IPアドレス]]を検索対象から除外するペナルティもあり、ドメイン・IPアドレスの再取得といったコストがかかってしまうことがある。
Googleのアルゴリズムには新しい情報を優遇するというルールがあり、このアルゴリズムのことをQDF(Query Deserves Freshness)という<ref>[https://www.suzukikenichi.com/blog/google-qdf-dose-exist/ Google QDFアルゴリズムは間違いなく存在する | 海外SEO情報ブログ]</ref>。ただし、これは"新着情報"を優遇するものであり、時事的でない情報を優遇するものではない<ref>[https://www.suzukikenichi.com/blog/is-freshness-an-important-signal-for-all-sites/ 最新のコンテンツを上位表示するGoogleの「QDFアルゴリズム」はどんなサイトに対しても重要なのか? | 海外SEO情報ブログ]</ref>。
2013年のインドのウェブマスター向け公式ブログや2014年のSMX Advancedにおいて、Googleは検索順位を決定するために200以上のアルゴリズムを利用していることを明言している<ref>{{cite news|title=India Webmaster Q&A: Search Quality Team answers your questions|newspaper=Google India Blog|date=2013年8月15日|url=http://googleindia.blogspot.jp/2013/08/india-webmaster-q-search-quality-team.html|accessdate=2015年6月15日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Googleのマット・カッツがあんな質問、こんな質問、どんな質問にも答える at #SMX Advanced 2014|newspaper=海外SEO情報ブログ|date=2014年6月16日|url=https://www.suzukikenichi.com/blog/matt-cutts-answers-many-different-types-of-questions-at-smx-advanced-2014/|accessdate=2015年6月15日|author=Kenichi Suzuki}}</ref>。Googleはアルゴリズムを非公開としているが<ref>[https://www.suzukikenichi.com/blog/why-dont-ex-googlers-disclose-secrests-of-search-algorithm/ 元Google社員が検索アルゴリズムを暴露しないのはどうしてなのか? | 海外SEO情報ブログ]</ref>、世界中の専門家が議論を重ねたうえで独自に作成したアルゴリズムのリスト<ref>{{Cite web|url=https://www.searchenginejournal.com/200-parameters-in-google-algorithm/|title=Let’s Try to Find All 200 Parameters in Google Algorithm|publisher=Search Engine Journal|date=2009年12月18日|accessdate=2017年8月1日|language=英語}}</ref>が存在し各国で翻訳されている。これらのリストはGoogleが取得した特許や内部リーク情報などから作成されており、100%信頼できるものではないが、検索エンジン最適化を行う目安となっている。なお、アメリカ民間企業が実施した2014年度版の検索順位決定要因に関する調査<ref>{{cite news |url = http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2015/02/09/19283 |title = グーグルの順位決定要因2014年版データ登場! |newspaper = Web担当者Forum |date =2015年2月9日 |accessdate = 2015年6月15日 }}</ref>では、特定のキーワードの影響力が減少する一方で、コンテンツの関連性や専門性などを重視する傾向が見られた。
検索エンジン最適化は、大きくホワイトハットSEOとブラックハットSEOに分類される。ホワイトハットSEOは[[ユーザー]]に重点を置いた最適化で、ブラックハットSEOは[[検索エンジン]]を騙して不正に順位を上げようとする最適化である<ref name="Google-6001181" />。検索エンジンのシステムの裏をかくような最適化を行っている[[ウェブサイト]]は不適切とみなされ、検索結果から除外されることがある。なお、Googleは、自社が公開しているウェブマスター向けガイドライン(後述)に準拠している最適化の手法をホワイトハットSEO、そうでない手法をブラックハットSEOと定義している。GoogleはブラックハットSEOを行うことをバッドプラクティスであるとしており<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://support.google.com/webmasters/answer/6001181?hl=ja|title=2.5 検索エンジン最適化について学ぶ|accessdate=2016-12-23|publisher=[[Google]]}}</ref>、ブラックハットSEOを行うとGoogle検索でサイトの掲載順位が下落したり、ページがGoogle検索から排除されたりすることがある<ref name=":0" /><ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.seohacks.net/basic/terms/penalty/|title=ペナルティとは|accessdate=2016-12-23|publisher=ナイル株式会社}}</ref>。
=== ホワイトハットSEO ===
{{出典の明記|date=2017年10月|section=1}}
検索エンジン最適化の手法のうち、ユーザーに重点を置いてサイトを改善する検索エンジン最適化のことをホワイトハットSEOと呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seohacks.net/basic/knowledge/black_and_white/|title=ブラックハットSEOとホワイトハットSEO|accessdate=2016-12-21|publisher=ナイル株式会社|language=日本語}}</ref>。この最適化の多くは、コンテンツを構造化して意味づけをする、検索エンジンが利用できるメタデータを提供する、等、SEOという手段が認知される以前から推奨されている手段を活用したものである。
==== 目的キーワードの分析 ====
検索エンジン最適化の出発点は、対象としたいウェブ利用者がどういったキーワードで必要とする情報を探しているかを理解することである。例えば、製品やサービスを比較しながら探す場合、検索ボックスには製品の固有名詞ではなく一般名称が、特定製品の機能名ではなく一般的な機能名が打ち込まれる傾向にある。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsujigawa.com/seo%e5%af%be%e7%ad%96/6382.html|title=SEOのためのキーワード調査|publisher=SPL|author=SPL|date=2023-08-27|accessdate=2023-09-07}}</ref>
==== キーワードに沿ったページの構成 ====
Googleは、ユーザーがサイトを検索するときに入力する可能性の高いキーワードをサイト内に含めることを推奨している<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://support.google.com/webmasters/answer/35769|title=ウェブマスター向けガイドライン(品質に関するガイドライン)|accessdate=2016-12-21|publisher=[[Google]]|language=日本語}}</ref><ref name=":4" />。
あるページが、あるキーワードにどの程度関連しているかは、検索エンジン・スパイダーの[[アルゴリズム]]に基づいて決定される。検索エンジンは、ウェブサイトが閲覧されるときに閲覧者が読もうとするテキストを内容に基づいて整理し、そのページは何を記しているページで、あるキーワードに対する関連性がどの程度かを判断する。
==== リンクの作成 ====
多くの検索エンジンは、ページの価値を判断する基準に、そのページにどれだけの被リンクがあるかという基準を採用している。したがって、ウェブ上の他の関係あるサイトに自分のコンテンツについて通知し、リンクを求めたり、自己が運営する既存のサイトから適切なリンクをはったりすることが対策として行われる。ユーザーに役立つページを作成することで、閲覧したユーザーからのリンクを得るという対策が行われることもある<ref>{{Cite web|和書|title=SEO対策における被リンクの獲得方法について |url=https://seogeeks.jp/blog/backlink-building/ |website=SEO GEEKS |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=被リンクの増やし方とは?良質な被リンクの獲得方法や事例を紹介 |url=https://co.nobilista.com/ja/column/seo/backlink/ |website=Nobilista |access-date=2022-7-14 |language=ja}}</ref>。
また、スパイダーはコンテンツの[[ハイパーリンク]]を辿って巡回を行うので、検索エンジンに登録してもらいたい場合、そのページへのリンクを作成しておくことが必要になる。「サイトマップ」を作成することはその手法の一つで、推奨されていることでもある。サイトマップは、トップページやサイト上のすべてのページからリンクされているのが好ましい。このようなページがあると、ひとたびスパイダーがサイトを見つけた時に、そのサイト全体が索引化される確率が高まる。
==== HTMLによる最適化 ====
検索エンジンは、[[HyperText Markup Language|HTML]]のtitle、meta、strong、hnの各要素などを重視すると考えられているため、重要なキーワードをこの[[HTML要素|タグ]]で囲って、重要であることを示すこともされる。例えば、見出しとして強調したい語句を font 要素などで赤く大きな文字で表示するようにマークアップすると、それは単に「赤くて大きな文字」というようにしか解釈されないが、h1 要素(と[[スタイルシート]]による装飾)を使えば、検索エンジンにとっても、それが見出しであると解釈され、検索にヒットしやすくなるという具合である。これは、基礎的な[[セマンティック・ウェブ]]と言うことも出来る。
=== ブラックハットSEO ===
{{出典の明記|date=2017年10月|section=1}}
ホワイトハットSEOとは逆に、検索エンジンを騙し、ウェブページを本来よりも高く評価させる検索エンジン最適化のことをブラックハットSEOと呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sophia-it.com/content/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88SEO|title=ブラックハットSEOとは 「ブラックハット」 (Black Hat SEO) ブラックハットエスイーオー|accessdate=2016-12-21|publisher=Weblio|language=日本語}}</ref>。GoogleはブラックハットSEOに準ずる行為を[https://support.google.com/webmasters/answer/35769?hl=ja ウェブマスター向けガイドライン]で禁じており<ref name=":0" />、ブラックハットSEOやそれに準ずる行為を行うと手動による対策が適用されることがある<ref name=":0" />。
Ptengineのマーケティング部門でVPを務める[[ジェフ・ドイッチュ]]は、Googleに対するスパム行為で月収5万ドルの収益をあげていたことを明らかにした。Googleは毎日スパムにあたるワードを4億5000万個インデックスしているが、ドイッチュはこのシステムを潜り抜け、高く順位付けされる記事を生成するスパムマシンを構築し収益をあげていた。しかし、2012年3月16日、Googleの[[マット・カッツ]]がALN(Authority Link Network)に関して言及したツイート<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/mattcutts/status/180392083427823616|title=Matt Cuttsさんのツイート|accessdate=2017-10-18|date=2012-03-15|publisher=Twitter|author=[[マット・カッツ]]}}</ref>を投稿し、その後GoogleによりALNネットワークが発見され、すべて破壊されたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://gigazine.net/news/20160224-google-spammer-how-make-money/|title=週に数時間だけGoogleにスパムを行い月収500万円も稼いでいたスパマーが衝撃の実態を激白|publisher=GIGAZINE|accessdate=2017-10-18|date=2016-02-24}}</ref>。
==== 関係のないキーワード ====
背景色と同色にするなどして、ユーザーには見えない文字をページ内に埋め込む行為は、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている<ref name=":0" /><ref name=":1">[https://support.google.com/webmasters/answer/66353 隠しテキストと隠しリンク - Search Console ヘルプ]</ref>。“隠し文字”といわれる。スパムを役に立たないサイトにリンクすることも、Googleの悪い評価になる。
==== キーワードの乱用 ====
検索結果でのランキングを操作するために、ウェブページにキーワードや数字を埋め込むことは、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://support.google.com/webmasters/answer/66358?hl=ja|title=キーワードの乱用 - Search Console ヘルプ|accessdate=2016-12-21|publisher=Google|language=日本語}}</ref>。電話番号の羅列や、サイト内容とは直接関係のない大量の地名(市名や区名など)の埋め込み、不自然なほどの同じ単語の繰り返しなどがこれに該当する<ref name=":2" />。
==== 不適切なリンク ====
検索結果でのランキングを操作するために、ユーザーからは見えない隠しリンクを作成することは、Googleが定めるウェブマスター向けガイドラインで禁じられている<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
;リンク・スパム
:[[Google検索]]は、適切に得られたのではない何千ものリンクを見て、あるページの関連度(ランキング)を高いと判断してしまう場合がある。SEO担当者らは所望のキーワードを内向きリンクのハイパーリンクされたテキストにおいている。「Google爆撃」 ([[:en:Googlebombing]]) とも呼ばれるこの行為は、悪ふざけでもあり得るが、商業上の利益のため順位に影響を与える意図的な試みでもありうる。
==== ドアページの作成 ====
目的とするページへの誘導のみを目的としたページを作成し、検索エンジン用に文書構造などを最適化する。入り口になるページはドアページと呼ばれる。
==== クローキング ====
クローキングは、人間に見えるページと異なるページを検索エンジン・スパイダーに提供する技術。検索エンジン最適化の手法のうち最も論争の種となるものである。クローキングは特定のウェブサイトのコンテンツを検索エンジンを誤解させる不当な試みでありうる一方で、検索エンジンが処理・解読できないが人間の閲覧者に有用なコンテンツを提供するのに用いることができる。クローキングはウェブサイトの[[アクセシビリティ]]を[[視覚障害者]]やその他の[[障害者]]に提供することにも用いられる。あるクローキング行為が倫理的か否かを判定するよい基準のひとつは、その行為がアクセシビリティを高めているかどうかである。
==== リンクの売買 ====
検索エンジンでの結果を向上させることを目的として、他サイトからのリンクを購入し、あるいは自サイトからのリンクを販売したりすること。Googleはこれを禁じ<ref>[https://support.google.com/webmasters/answer/66356 リンク プログラム - Search Console ヘルプ]</ref>、不当な有料リンクの報告を募っている<ref>[https://support.google.com/webmasters/answer/93713?hl=ja スパム、有料リンク、マルウェアを報告する - Search Console ヘルプ]</ref><ref>[https://www.google.com/webmasters/tools/paidlinks Search Console - 有料リンクを報告]</ref>。
Googleはこの行為に対し、サイトからの不自然なリンクという個別のペナルティを設けている. これはgoogle 2020のアップデートです。<ref>[https://support.google.com/webmasters/answer/2604774?hl=ja サイトからの不自然なリンク - Search Console ヘルプ]</ref>
==== 無名な検索エンジンへの登録 ====
Googleは、無名な検索エンジンへ登録することをスパム行為であると認定している{{要出典|date=2017-10}}。
== Google ==
ユーザーが検索フィールドに入力する単語数の平均は3.1単語であり、Googleはこれらの入力をもとに、数千、場合によっては何百万ものページを検索結果として返す。Googleには、3つの単語をもとにして最良の検索結果を提供する高度な方法が用意されている。これらの結果のうち、10件のみが検索結果の最初のページに表示される<ref name="berkeley" />。
また、Googleはウェブページを[[クローラ|クロール]]するために膨大な数のコンピュータを使用しており、これを行うプログラムは[[Googlebot]]と呼ばれる<ref name="berkeley" />。
[[Google]]の[[検索エンジン]]の順位付けでは、ページ内のコンテンツと外部からの[[被リンク]](バックリンク)の量と質に重点が置かれる。なお、<code>rel="nofollow"</code> が付与されている発リンクは評価の対象とならない。[[Google]]にはほかにも200以上の要素を用いて順位付けを行っている<ref>{{Cite web|和書|author= Takeaki Kanaya |url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2013/07/seoqanda.html|title=選挙活動における検索エンジンを対象とした施策について Q&A編|publisher=Google ウェブマスター向け公式ブログ|accessdate=2017-10-17|date=2013-07-17}}</ref>が、それらの要素が与える影響はコンテンツや被リンクと比較すれば小さいものである。なお、これらの2つの要素が最重要視されているのは、コンテンツのないページが上位に表示されることを防ぐため、また被リンクがないとページを評価することができないためである<ref>{{Cite web|和書|author=ディーポ|url=https://seopack.jp/seoblog/20160824-top2/|title=【詳解レポ】ついに公式発言、Google検索順位2つの要因とは|publisher=SEO Pack|date=2017-04-11|accessdate=2017-07-29}}</ref>。
[[WebmasterWorld]]のフォーラムアドミニストレータによれば、[[被リンク]]は主にこれらの8つの要因によって評価される<ref>{{Cite web|和書|author=tedster|訳=鈴木謙一|url=https://www.suzukikenichi.com/blog/eight-factors-of-building-backlinks/|title=Googleバックリンクで重要な8つの要因|publisher=海外SEO情報ブログ|date=2009-08-05|accessdate=2017-07-29}}</ref>。
<blockquote cite="https://www.suzukikenichi.com/blog/eight-factors-of-building-backlinks/">
* リンクしているサイトのトラスト
* リンクしているサイトのオーソリティ
* リンクが出現するページの場所
* リンクの入れ替わり
* リンクしているサイトの多様性
* アンカーテキストの自然な多様性
* キーワードが入ったリンクの自然な増加率
* リンクの数
</blockquote>
[[Google]]は、検索エンジン最適化を行う業者を利用することは時間の節約になる一方で、サイトの信用が損なわれるおそれもあるとしている。また、Googleは不審なメールを配信する業者に注意を払うよう呼び掛けており、業者を探す前にまず[[検索エンジン]]の仕組みについて理解しておくことを推奨している<ref>{{Cite web|和書|author=Google|url=https://support.google.com/webmasters/answer/35291?hl=ja|title=SEO が必要なケース|publisher=Search Console ヘルプ|accessdate=2017-10-17}}</ref>。[[ページランク|PageRank]]を販売する悪質なSEO業者を利用しペナルティを受け、業者リンクの削除を依頼しても応じなかったり、リンクの削除に法外な料金を請求したりする業者に遭遇した場合は、再審査リクエスト<ref group="注">手動で行われたペナルティ(検索結果からの除外や著しい順位の低下)を受けた際に、ウェブマスター向けガイドラインの品質に関するガイドラインへの違反がなくなったことを通知し、ペナルティの解除を求めるリクエストのこと。</ref>のほかにリンク否認ツール<ref group="注">第三者が低品質な被リンクを作成した際に、それが自分の作成したものでないことを通知するツール。</ref>をあわせて利用することを呼び掛けている<ref>{{Cite web|和書|author= Google サーチ クオリティ チーム|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2013/10/seo-firms.html|title=ガイドライン違反を繰り返す SEO 業者への対応について|publisher=Google ウェブマスター向け公式ブログ|accessdate=2017-10-17|date=2013-10-25}}</ref>。
=== ウェブマスター向けガイドライン ===
[[Google]]は、ウェブマスター向けガイドラインと呼ばれる、[[ウェブページ]]の登録やランク付けをスムーズに行わせるためのウェブページの作り方を示したガイドラインを公開している。このガイドラインでは、Googleがウェブページを検出・理解しやすくするために行うべきことや、検索エンジン最適化においてGoogleに認められない手法などが記されている。品質に関するガイドラインでは、基本方針として「ユーザーの利便性を第一に考える」ことが挙げられている<ref>{{Cite web|和書|author=Google|url=https://support.google.com/webmasters/answer/35769?hl=ja|title=ウェブマスター向けガイドライン(品質に関するガイドライン)|publisher=Search Console ヘルプ|accessdate=2017-07-29}}</ref>。
[[Google]]は、ブラックハットSEOに分類される最適化のうちいくつかをこのウェブマスター向けガイドラインの品質に関するガイドラインの節で明示的に禁止しており、品質に関するガイドラインへの違反が確認された場合、ペナルティを与えられることがある。多くは掲載順位の低下で、場合によっては検索結果にまったく表示されなくなる[[Google八分]]を受けることもある<ref>{{Cite web|和書|author=日経DP|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20060630/242220/|title=グーグル村上社長“Google八分”を語る|publisher=ITpro|date=2006-06-30|accessdate=2017-07-29}}</ref>。また、Googleはブラックハットな手法について「サイトの評判を傷つける」と警告している<ref name="Google-6001181">{{Cite web|和書|author=Google|url=https://support.google.com/webmasters/answer/6001181?hl=ja|title=検索エンジン最適化について学ぶ|publisher=Search Console ヘルプ|accessdate=2017-07-29}}</ref>。
=== 常時SSL化の推進 ===
[[Google]]は[[ウェブサイト]]の常時SSL化を推進しており、常時SSL化されている[[ウェブサイト]]を(条件付きで)検索結果で待遇するとしている<ref>{{Cite web|和書|author= Zineb Ait Bahajji | coauthors=Gary Illyes |url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2014/08/https-as-ranking-signal.html|title=HTTPS をランキング シグナルに使用します|publisher=Google ウェブマスター向け公式ブログ|accessdate=2017-10-17|date=2014-08-07}}</ref>。また、HTTPSが用いられているページは優先的にGoogleのインデックスへ登録される<ref name="Google-index">{{Cite web|和書|author= Zineb Ait Bahajji, WTA, and the Google Security and Indexing teams|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2015/12/indexing-https-pages-by-default.html|title=HTTPS ページが優先的にインデックスに登録されるようになります|publisher=Google ウェブマスター向け公式ブログ|accessdate=2017-10-17|date=2015-12-18}}</ref>。
Googleによると、常時SSL化されているウェブサイトのインデックスを待遇する条件は次のとおりである<ref name="Google-index" />。
<blockquote cite="https://webmaster-ja.googleblog.com/2015/12/indexing-https-pages-by-default.html">
* セキュアでない依存関係が含まれていない。
* [[Robots Exclusion Standard|robots.txt]]によってクロールがブロックされていない。
* セキュアでない HTTP ページに(または HTTP ページを経由して)ユーザーをリダイレクトしていない。
* HTTP ページへの rel="canonical" リンクが含まれていない。
* noindex robots メタタグが含まれていない。
* 同一ホスト上の HTTP ページヘのリンクが含まれていない。
* サイトマップに HTTPS URL が掲載されている(または URL の HTTP バージョンが掲載されていない)。
* サーバーに有効な TLS 証明書がある。
</blockquote>
GoogleはHTTPサイトを安全でないと明示する計画を実行しており、この一環として、[[Google Chrome]]ではユーザーがHTTPサイトに機密情報を入力する際にユーザーに警告を出すようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2017/07/next-steps-toward-more-connection.html|title=Chrome の HTTP 接続におけるセキュリティ強化に向けて|publisher=[[Google]] ウェブマスター向け公式ブログ|author=Eiji Kitamura|date=2017-07-21|accessdate=2017-10-17}}</ref>。
=== モバイルファーストインデックス ===
モバイルファーストインデックス(MFI)とは、モバイル向けに提供されるウェブページを主な評価の対象とするGoogleのランキングシステムのことで、2018年3月27日より開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2018/03/rolling-out-mobile-first-indexing.html|title=モバイル ファースト インデックスを開始します|publisher=[[Google]] ウェブマスター向けブログ|date=2018-03-27|accessdate=2018-11-23}}</ref>。従来はコンピュータ向けのページをクロールして検索結果に表示する各種情報を算出してきたが、以降は主にモバイル向けのページに基づいて検索結果が作成されるようになる。これは、モバイルから検索するユーザーが増加したためである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suzukikenichi.com/blog/google-introduces-mobile-first-index/|title=Google、モバイルファーストインデックスの導入予定を正式発表。スマホ向けページを検索の評価対象に。SEOへの影響は?|publisher=海外SEO情報ブログ|last=Suzuki|first=Kenichi|date=2016-11-07|accessdate=2017-10-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2016/11/mobile-first-indexing.html|title=モバイル ファースト インデックスに向けて|publisher=[[Google]] ウェブマスター向けブログ|author= Doantam Phan |date=2016-11-05|accessdate=2017-10-17}}</ref>。
=== ページエクスペリエンス ===
ページエクスペリエンスとは、2020年にGoogleが発表したランキングシグナル。ウェブにおけるユーザー体験を快適にするための取り組みとして、Google検索のランキングにページエクスペリエンスシグナルを導入する計画<ref>Google 検索セントラル ブログ「[https://developers.google.com/search/blog/2020/11/timing-for-page-experience?hl=ja Google 検索へのページ エクスペリエンスの導入時期]」</ref>が発表された。これにより、サイト運営者はより高くGoogleから評価されるためにユーザー体験の向上に取り組み、ウェブ全体の改善が期待できる。
== テクニック ==
* [[ランディングページ最適化]]
* [[ミラーサイト]]
* [[ドアウェイページ]]
* [[クローキング]] ([[:en:Cloaking]])
* [[リンクファーム]]
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
<references responsive="" />
=== 注釈 ===
<references group="注" />
== 関連項目 ==
* ニグリチュード・ウルトラマリン ([[:en:Nigritude ultramarine]])
* セラフィム・プルードルダック ([[:en:Seraphim proudleduck]])
* グーグル・コンサルタント([[:en:Google consultant]])
*[[インターネットマーケティング]]
*[[SEOポイズニング]]
*[[ゴッゴル]]
*[[トップページ・ダウン・ペナルティー]]
== 外部リンク ==
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ボーリウム
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ボーリウム(英: bohrium)は、原子番号107の元素。元素記号は Bh。天然には存在しない人工放射性元素であり、名称はデンマークの物理学者ニールス・ボーアにちなむ。
既知の同位体はすべて非常に放射性が高い。知られている中で最も安定した同位体はBhであり半減期は約61秒であるが、未確認のBhの半減期は約690秒である可能性がある。
周期表では、Dブロック元素で超アクチノイド元素である。第7周期元素であり、遷移金属で6d系列の5番目の元素として第7族元素に属する。化学実験によりボーリウムは第7族のレニウムより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的特性は部分的にしか特徴づけられていないが、他の第7族元素の特性とよく比較される。
2つのグループがこの元素の発見を主張した。ボーリウムの証拠は最初1976年にユーリイ・オガネシアン率いるソ連の研究チームにより報告された。そこではビスマス209と鉛208のターゲットにそれぞれクロム54とマンガン55の加速された原子核が撃ち込まれた。2つの活動が見られ、1つは1-2ミリ秒の半減期を持ち、もう1つは約5秒の半減期を持っていた。これら2つの活動の強度比は実験を通じて一定であったため、1番目の活動は同位体ボーリウム261によるものであり、2番目はその娘のドブニウム257によるものであると提案された。後にドブニウムの同位体はドブニウム258に修正され、これの半減期は実際に5秒である(ドブニウム257の半減期は1秒である)。しかし、その親で観測された半減期は1981年にダルムシュタットでボーリウムが決定的に発見された後に観測された半減期よりもはるかに短い。IUPAC/IUPAP Transfermium Working Group (TWG)はドブニウム258はおそらくこの実験で見られたが、その親であるボーリウム262を生成したという証拠は十分な説得力がないと結論付けた。
1981年、ダルムシュタットにある重イオン研究所(GSI Helmholtzzentrum für Schwerionenforschung)のペーター・アルムブルスターとゴットフリート・ミュンツェンベルクに率いられたドイツの研究チームはビスマス209のターゲットにクロム54の加速した原子核を衝突させ、ボーリウム262の同位体の5つの原子を生成した。
この発見は、生成したボーリウム原子から既知であったフェルミウムとカリホルニウムの同位体へのアルファ崩壊連鎖を詳細に測定することでさらに裏付けられた。IUPAC/IUPAP Transfermium Working Group (TWG)は1992年の報告書でGSIの共同研究を公式の発見として認証した。
1992年9月、ドイツのグループはデンマークの物理学者ニールス・ボーアを称えてニールスボーリウム(記号Ns)という名前を提案した。ドゥブナ合同原子核研究所のソ連の科学者たちはこの名前を元素105に付けることを提案し(最終的に元素105はドブニウムと命名された)、ドイツのチームはボーアとドゥブナのチームが初めて低温核融合反応を提案し元素105の命名に関する議論されている問題を解決したという事実の両方を認めたいと考えていた。ドゥブナのチームはドイツのグループの元素107に対する命名の提案に同意した。
104から106の元素の命名については論争があった。IUPACはこの元素の一時的で系統的な名前としてウンニルセプチウム(英: Unnilseptium, Uns)を採っていた。1994年、IUPACの委員会は元素の名前に科学者の完全な名前を使用する前例がなかったため、元素107をニールスボーリウムではなくボーリウムとすることを勧めた。名前がホウ素(ボロン)と混同されるかもしれず特にそれぞれのオキソアニオンはともにボーレイト(bohrate, borate)となるため、ボーリウムは発見者らにより反対された。この問題はIUPACのデンマーク支部に引き渡されたが、これにもかかわらずボーリウムという名前に賛成したため1997年に元素107の名前としてボーリウムが国際的に認められた。ホウ素とボーリウムそれぞれのオキソアニオンの名前は英語で同音であるが、変更されていない。
2000年にスイスで塩化ボーリウム酸(BhO3Cl)が合成されている。沸点は151°C。
ボーリウムには安定同位体および自然に発生する同位体はない。実験室では2つの原子を融合させるかより重い元素の崩壊を観測することによりいくつかの放射性同位体が合成されている。異なる12個の同位体が原子質量260–262, 264–267, 270–272, 274, 278で報告されている。そのうち1つのボーリウム262は既知の準安定状態を持つ。未確認のBhを除くこれらすべての同位体はアルファ崩壊によってのみ崩壊するが、いくつか未知のボーリウム同位体は自発核分裂を起こすと予測されている。
軽い同位体の方が通常半減期が短く、Bh, Bh, Bh, Bhの半減期は100ms未満で観測されている。Bh, Bh, Bh, Bhは約1秒でより安定しており、BhとBhの半減期は約10秒である。最も重い同位体が最も安定しており、BhとBhの半減期はそれぞれ61 s と 40 sと測定されており、さらに重い未確認の同位体Bhは約690 sとさらに長い半減期を持つと思われる。
質量260, 261, 262の最も陽子が多い同位体は、低温核融合により直接生成され、質量が262と264の同位体はマイトネリウムとレントゲニウムの崩壊系列で報告され、質量が265, 266, 267の中性子が多い同位体はアクチノイドのターゲットに照射することで生成された。質量が270, 271, 272, 274, および278(未確認)の最も中性子の多い5つはそれぞれNh, Mc, Mc, Ts, およびFlの崩壊連鎖に現れる。これら11個の同位体の半減期はBhの約10ミリ秒からBhとBhの約1分まであり、未確認のBhでは約12分に達する。これは半減期が最も長い既知の超重核種の1つである。
ボーリウムやその化合物の特性はほとんど測定されていない。これは生産が非常に限られ高価であるのとボーリウム(およびその親)が非常に急速に崩壊するという事実による。いくつかの珍しい化学関連の特性が測定されたが、ボーリウム金属の特性は不明のままであり予測のみできる。
周期表において遷移金属の6d系列の5番目の元素であり、第7族で最も重い元素でありマンガン、テクネチウム、レニウムの下に位置する。この族の元素は全て酸化状態+7を容易にとり下るにつれて状態がより安定する。よって、ボーリウムは安定した+7状態を形成すると予想される。テクネチウムは安定した+4状態も示すが、レニウムは+4と+3状態を示す。したがってボーリウムはこれらの低い状態を示す可能性もある。高い+7酸化状態はオキシアニオンに存在する可能性が高く、例えば過マンガン酸塩、過テウネチウム酸塩、過レニウム酸塩と類似の過ボーリウム酸塩(BhO−4)である。しかしながら、ボーリウム(VII)は水溶液中で不安定である可能性が高く、おそらくより安定したボーリウム(IV)に容易に還元される。
テクネチウムとレニウムは揮発性の七酸化物M2O7 (M = Tc, Re)を形成することが知られているため、ボーリウムも揮発性の酸化物Bh2O7を形成するはずである。この酸化物は水に溶解し過ボーリウム酸塩HBhO4を形成するはずである。レニウムとテクネチウムは酸化物のハロゲン化により様々なオキシハロゲン化物を形成する。酸化物の塩素化によりオキシ塩化物MO3Clを形成するため、BhO3Clもこの反応で形成されるはずである。レニウム化合物ReOF5とReF7に加えてフッ素化により重い元素でMO3FとMO2F3が形成される。したがって、ボーリウムのオキシフッ化物形成はエカレニウムの特性を示すのに役立つ。オキシ塩化物は非対称であり、族で下にいくにつれて双極子モーメントは大きくなるはずであり、揮発性は小さくなる(TcO3Cl > ReO3Cl > BhO3Cl)。これはこれら3つの化合物の吸着エンタルピーを測定することにより実験的に確認された。TcO3ClとReO3Clの値はそれぞれ−51 kJ/molと−61 kJ/molである。BhO3Clの実験値は−77.8 kJ/molであり、理論的に予想される値である−78.5 kJ/molに非常に近い。
ボーリウムは通常の条件下では固体であると予想され、より軽い同族体であるレニウムと同様に六方最密結晶構造(/a = 1.62)と予想されている。密度が約37.1 g/cmの非常に重い金属であると考えられ、これは118の既知の元素の中で3番目に高く、上にはマイトネリウム (37.4 g/cm) とハッシウム (41 g/cm)があり、この2つは周期表でボーリウムの次2つの元素である。比較すると、密度が測定された元素の中で最も密度の高い既知の元素であるオスミウムの密度はわずか22.61 g/cmである。これはボーリウムの高い原子量、ランタノイドとアクチノイドの収縮、および相対論効果によるものであるが、この量を測定するのに十分なボーリウムを生産することは現実的ではなく、試料はすぐに崩壊するであろう。
原子半径は約128 pmと予想されている。7s軌道の相対論的安定化と6d軌道の不安定化により、Bhイオンは[Rn] 5f 6d 7sの電子配置を持つと予測され、7s電子ではなく6d電子を放出する。これはより軽い同族体であるマンガンとテクネチウムの挙動と反対である。一方でレニウムは同族体のボーリウムと同じく6s電子を放出する前に5d電子を放出する。これは相対論効果が第6周期までに大きくなるためであり、金の黄色や水銀の低い融点の原因でもある。Bhイオンの電子配置は[Rn] 5f 6d 7sであると予想される。これに対してReイオンは[Xe] 4f 5dという電子配置であることが予想され、この場合はマンガンやテクネチウムに類似している。6配位で7価のボーリウムのイオン半径は58 pmと予想される(7価のマンガン、テクネチウム、レニウムはそれぞれ46, 57, 53 pmである)。5価のボーリウムは83 pmと大きいイオン半径であると考えられている。
1995年、元素の分離の試みに関する最初の報告は不成功であり、ボーリウム(比較のために軽い同族体であるテクネチウムとレニウムを使用)を研究する最善の方法を研究する新たな理論研究を促し、3価アクチノイド、第5族元素、ポロニウムなどの不要な汚染元素を取り除いた。
2000年、相対論効果が重要であるにもかかわらず、ボーリウムは典型的な第7族元素のように振る舞いことが確認された。パウル・シェラー研究所(PSI)のチームはBkとNeイオン反応で生成したBhの6個の原子を用いて化学反応を行った。得られた原子は熱平衡化され、HCl/O2混合物と反応し揮発性のオキシ塩化物が形成された。この反応により軽い同族体であるテクネチウム(Tc)とレニウム(Re)の同位体も生成した。等温吸着曲線を測定すると、オキシ塩化レニウムと同様の性質を持つ揮発性オキシ塩化物が形成されている強い証拠が確認された。これによりボーリウムは第7族元素の典型となった。この実験ではテクネチウム、レニウム、ボーリウムのオキシ塩化物の吸着エントロピーが測定され、理論的予測とよく一致し、第7族でオキシ塩化物の揮発性が低下することを示唆している。
重い元素の娘として生成されたボーリウムの半減期が長く重い同位体は将来的な放射化学実験に有利な性質を持っている。重い同位体Bhは生産するときに希少で放射性の高いバークリウムのターゲットを必要とするが、同位体Bh, Bh, Bhはより容易に生成できるモスコビウムやニホニウムの同位体の娘として容易に生成することができる。
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"text": "周期表において遷移金属の6d系列の5番目の元素であり、第7族で最も重い元素でありマンガン、テクネチウム、レニウムの下に位置する。この族の元素は全て酸化状態+7を容易にとり下るにつれて状態がより安定する。よって、ボーリウムは安定した+7状態を形成すると予想される。テクネチウムは安定した+4状態も示すが、レニウムは+4と+3状態を示す。したがってボーリウムはこれらの低い状態を示す可能性もある。高い+7酸化状態はオキシアニオンに存在する可能性が高く、例えば過マンガン酸塩、過テウネチウム酸塩、過レニウム酸塩と類似の過ボーリウム酸塩(BhO−4)である。しかしながら、ボーリウム(VII)は水溶液中で不安定である可能性が高く、おそらくより安定したボーリウム(IV)に容易に還元される。",
"title": "予測される特性"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "テクネチウムとレニウムは揮発性の七酸化物M2O7 (M = Tc, Re)を形成することが知られているため、ボーリウムも揮発性の酸化物Bh2O7を形成するはずである。この酸化物は水に溶解し過ボーリウム酸塩HBhO4を形成するはずである。レニウムとテクネチウムは酸化物のハロゲン化により様々なオキシハロゲン化物を形成する。酸化物の塩素化によりオキシ塩化物MO3Clを形成するため、BhO3Clもこの反応で形成されるはずである。レニウム化合物ReOF5とReF7に加えてフッ素化により重い元素でMO3FとMO2F3が形成される。したがって、ボーリウムのオキシフッ化物形成はエカレニウムの特性を示すのに役立つ。オキシ塩化物は非対称であり、族で下にいくにつれて双極子モーメントは大きくなるはずであり、揮発性は小さくなる(TcO3Cl > ReO3Cl > BhO3Cl)。これはこれら3つの化合物の吸着エンタルピーを測定することにより実験的に確認された。TcO3ClとReO3Clの値はそれぞれ−51 kJ/molと−61 kJ/molである。BhO3Clの実験値は−77.8 kJ/molであり、理論的に予想される値である−78.5 kJ/molに非常に近い。",
"title": "予測される特性"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ボーリウムは通常の条件下では固体であると予想され、より軽い同族体であるレニウムと同様に六方最密結晶構造(/a = 1.62)と予想されている。密度が約37.1 g/cmの非常に重い金属であると考えられ、これは118の既知の元素の中で3番目に高く、上にはマイトネリウム (37.4 g/cm) とハッシウム (41 g/cm)があり、この2つは周期表でボーリウムの次2つの元素である。比較すると、密度が測定された元素の中で最も密度の高い既知の元素であるオスミウムの密度はわずか22.61 g/cmである。これはボーリウムの高い原子量、ランタノイドとアクチノイドの収縮、および相対論効果によるものであるが、この量を測定するのに十分なボーリウムを生産することは現実的ではなく、試料はすぐに崩壊するであろう。",
"title": "予測される特性"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "原子半径は約128 pmと予想されている。7s軌道の相対論的安定化と6d軌道の不安定化により、Bhイオンは[Rn] 5f 6d 7sの電子配置を持つと予測され、7s電子ではなく6d電子を放出する。これはより軽い同族体であるマンガンとテクネチウムの挙動と反対である。一方でレニウムは同族体のボーリウムと同じく6s電子を放出する前に5d電子を放出する。これは相対論効果が第6周期までに大きくなるためであり、金の黄色や水銀の低い融点の原因でもある。Bhイオンの電子配置は[Rn] 5f 6d 7sであると予想される。これに対してReイオンは[Xe] 4f 5dという電子配置であることが予想され、この場合はマンガンやテクネチウムに類似している。6配位で7価のボーリウムのイオン半径は58 pmと予想される(7価のマンガン、テクネチウム、レニウムはそれぞれ46, 57, 53 pmである)。5価のボーリウムは83 pmと大きいイオン半径であると考えられている。",
"title": "予測される特性"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1995年、元素の分離の試みに関する最初の報告は不成功であり、ボーリウム(比較のために軽い同族体であるテクネチウムとレニウムを使用)を研究する最善の方法を研究する新たな理論研究を促し、3価アクチノイド、第5族元素、ポロニウムなどの不要な汚染元素を取り除いた。",
"title": "実験化学"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2000年、相対論効果が重要であるにもかかわらず、ボーリウムは典型的な第7族元素のように振る舞いことが確認された。パウル・シェラー研究所(PSI)のチームはBkとNeイオン反応で生成したBhの6個の原子を用いて化学反応を行った。得られた原子は熱平衡化され、HCl/O2混合物と反応し揮発性のオキシ塩化物が形成された。この反応により軽い同族体であるテクネチウム(Tc)とレニウム(Re)の同位体も生成した。等温吸着曲線を測定すると、オキシ塩化レニウムと同様の性質を持つ揮発性オキシ塩化物が形成されている強い証拠が確認された。これによりボーリウムは第7族元素の典型となった。この実験ではテクネチウム、レニウム、ボーリウムのオキシ塩化物の吸着エントロピーが測定され、理論的予測とよく一致し、第7族でオキシ塩化物の揮発性が低下することを示唆している。",
"title": "実験化学"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "重い元素の娘として生成されたボーリウムの半減期が長く重い同位体は将来的な放射化学実験に有利な性質を持っている。重い同位体Bhは生産するときに希少で放射性の高いバークリウムのターゲットを必要とするが、同位体Bh, Bh, Bhはより容易に生成できるモスコビウムやニホニウムの同位体の娘として容易に生成することができる。",
"title": "実験化学"
}
] |
ボーリウムは、原子番号107の元素。元素記号は Bh。天然には存在しない人工放射性元素であり、名称はデンマークの物理学者ニールス・ボーアにちなむ。 既知の同位体はすべて非常に放射性が高い。知られている中で最も安定した同位体は270Bhであり半減期は約61秒であるが、未確認の278Bhの半減期は約690秒である可能性がある。 周期表では、Dブロック元素で超アクチノイド元素である。第7周期元素であり、遷移金属で6d系列の5番目の元素として第7族元素に属する。化学実験によりボーリウムは第7族のレニウムより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的特性は部分的にしか特徴づけられていないが、他の第7族元素の特性とよく比較される。
|
{{Elementbox
|name=bohrium
|pronounce={{IPAc-en|bohrium2009.ogg|ˈ|b|ɔər|i|əm}}
|number=107
|symbol=Bh
|left=[[シーボーギウム]]
|right=[[ハッシウム]]
|above=[[レニウム|Re]]
|below=[[ウンペントセプチウム|Ups]]
|series=遷移金属
|group=7
|period=7
|block=d
|appearance=不明
|atomic mass=[270]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>14</sup> 6d<sup>5</sup> 7s<sup>2</sup>(計算値)<ref name=ioniz/>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 32, 13, 2(推定)
|crystal structure=六方最密充填構造
|oxidation states=7
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=740(概算値)<ref name=ioniz>{{cite journal|last1=Johnson|first1=E.|last2=Fricke|first2=B.|last3=Jacob|first3=T.|last4=Dong|first4=C. Z.|last5=Fritzsche|first5=S.|last6=Pershina|first6=V.|title=Ionization potentials and radii of neutral and ionized species of elements 107 (bohrium) and 108 (hassium) from extended multiconfiguration Dirac–Fock calculations|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=116|pages=1862|year=2002|doi=10.1063/1.1430256}}</ref>
|2nd ionization energy=1690(概算値)<ref name=ioniz/>
|3rd ionization energy=2570(概算値)<ref name=ioniz/>
|CAS number=54037-14-8
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ボーリウム267|267]] | sym=Bh | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|17 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.83 | pn=[[ドブニウム263|263]] | ps=[[ドブニウム|Db]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ボーリウム270|270]] | sym=Bh| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|61 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.93 | pn=[[ドブニウム266|266]] | ps=[[ドブニウム|Db]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ボーリウム271|271]] | sym=Bh | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de= | pn=[[ドブニウム267|267]] | ps=[[ドブニウム|Db]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ボーリウム272|272]] | sym=Bh | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E0 s|9.8 s]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=9.02 | pn=[[ドブニウム268|268]] | ps=[[ドブニウム|Db]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ボーリウム274|274]] | sym=Bh | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl= 44s<ref name="274Bh">{{cite journal|last1=Oganessian |first1=Yuri Ts.|last2=Abdullin |first2=F. Sh.|last3=Bailey |first3=P. D.|last4=Benker |first4=D. E.|last5=Bennett |first5=M. E.|last6=Dmitriev |first6=S. N.|last7=Ezold |first7= J. G.|last8=Hamilton |first8= J. H.|last9=Henderson |first9= R. A. <!--| first10=M. G. |last10=Itkis | first11=Yuri V. |last11=Lobanov | first12=A. N. |last12=Mezentsev | first13=K. J. |last13=Moody | first14=S. L. |last14=Nelson | first15=A. N. |last15=Polyakov | first16=C. E. |last16=Porter | first17=A. V. |last17=Ramayya | first18=F. D. |last18=Riley | first19=J. B.|last19=Roberto | first20=M. A. |last20=Ryabinin | first21=K. P. |last21=Rykaczewski | first22=R. N. |last22=Sagaidak | first23=D. A. |last23=Shaughnessy | first24=I. V. |last24=Shirokovsky | first25=M. A. |last25=Stoyer | first26=V. G. |last26=Subbotin | first27=R. |last27=Sudowe | first28=A. M. |last28=Sukhov | first29=Yu. S. |last29=Tsyganov | first30=Vladimir K. |last30=Utyonkov | first31=A. A. |last31=Voinov | first32=G. K. |last32=Vostokin | first33=P. A. |last33=Wilk -->|title=Synthesis of a New Element with Atomic Number ''Z''=117 |date=2010-04-09 |journal=Physical Review Letters |publisher=American Physical Society |volume=104 <!--|issue=14 -->|number=142502 |doi=10.1103/PhysRevLett.104.142502 |pmid=20481935 |bibcode=2010PhRvL.104n2502O |url=https://www.researchgate.net/publication/44610795_Synthesis_of_a_new_element_with_atomic_number_Z__117 |displayauthors=3 }} (gives life-time of 1.3 min based on a single event; conversion to half-life is done by multiplying with ln(2).)</ref>
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=8.8 | pn=[[ドブニウム270|270]] | ps=[[ドブニウム|Db]]}}
|isotopes comment=[[半減期]][[1 E0 s|1 s]]以上の[[同位体]]のみ記載
|density gpcm3nrt 2=37.1|atomic radius=127|covalent radius=141}}
'''ボーリウム'''({{lang-en-short|bohrium}})は、[[原子番号]]107の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Bh'''。天然には存在しない[[人工元素|人工放射性元素]]であり<ref>{{Cite Kotobank |word=ボーリウム |encyclopedia=デジタル大辞泉 |access-date=2023-06-22}}</ref>、名称は[[デンマーク]]の物理学者[[ニールス・ボーア]]にちなむ<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=ボーリウム |encyclopedia=化学辞典 第2版 |access-date=2023-06-22}}</ref>。
既知の[[ボーリウムの同位体|同位体]]はすべて非常に[[放射能|放射性]]が高い。知られている中で最も安定した同位体は<sup>270</sup>Bhであり[[半減期]]は約61秒であるが、未確認の<sup>278</sup>Bhの半減期は約690秒である可能性がある。
[[周期表]]では、[[Dブロック元素]]で[[超アクチノイド元素]]である。[[第7周期元素]]であり、[[遷移金属]]で6d系列の5番目の元素として[[第7族元素]]に属する。化学実験によりボーリウムは第7族の[[レニウム]]より重い同族体として振る舞うことが確認されている。[[化学的特性]]は部分的にしか特徴づけられていないが、他の第7族元素の特性とよく比較される。
==歴史==
[[File:Niels Bohr.jpg|thumb|left|upright|元素107は当初デンマークの核物理学者[[ニールス・ボーア]]にちなんでニールスボーリウム(Ns)という名前が提案された。この名前はのちに[[IUPAC]]によりボーリウム(Bh)に変更された。]]
===発見===
2つのグループがこの元素の発見を主張した。ボーリウムの証拠は最初1976年に[[ユーリイ・オガネシアン]]率いるソ連の研究チームにより報告された。そこでは[[ビスマス209]]と[[鉛]]208のターゲットにそれぞれ[[クロム]]54と[[マンガン]]55の加速された原子核が撃ち込まれた<ref>{{cite journal|url=|doi=10.1016/0375-9474(76)90607-2|title= On spontaneous fission of neutron-deficient isotopes of elements | volume=273|year=1976|journal=Nuclear Physics A|pages=505–522 | last1 = Yu | first1 = | last2 = Demin | first2 = A.G. | last3 = Danilov | first3 = N.A. | last4 = Flerov | first4 = G.N. | last5 = Ivanov | first5 = M.P. | last6 = Iljinov | first6 = A.S. | last7 = Kolesnikov | first7 = N.N. | last8 = Markov | first8 = B.N. | last9 = Plotko | first9 = V.M. | last10 = Tretyakova | first10 = S.P.}}</ref>。2つの活動が見られ、1つは1-2ミリ秒の半減期を持ち、もう1つは約5秒の半減期を持っていた。これら2つの活動の強度比は実験を通じて一定であったため、1番目の活動は[[同位体]]ボーリウム261によるものであり、2番目はその娘の[[ドブニウム]]257によるものであると提案された。後にドブニウムの同位体はドブニウム258に修正され、これの半減期は実際に5秒である(ドブニウム257の半減期は1秒である)。しかし、その親で観測された半減期は1981年に[[ダルムシュタット]]でボーリウムが決定的に発見された後に観測された半減期よりもはるかに短い。[[IUPAC]]/IUPAP Transfermium Working Group (TWG)はドブニウム258はおそらくこの実験で見られたが、その親であるボーリウム262を生成したという証拠は十分な説得力がないと結論付けた<ref name=":0" /><ref name="93TWG"/>。
1981年、ダルムシュタットにある[[重イオン研究所]](GSI Helmholtzzentrum für Schwerionenforschung)の[[ペーター・アルムブルスター]]と[[ゴットフリート・ミュンツェンベルク]]に率いられたドイツの研究チームはビスマス209のターゲットにクロム54の加速した原子核を衝突させ、ボーリウム262の同位体の5つの原子を生成した<ref name=":0" /><ref name="262Bh">{{cite journal
|last1=Münzenberg
|first1=G.
|last2=Hofmann
|first2=S.
|last3=Heßberger
|first3=F. P.
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|first4=W.
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|first5=K. H.
|last6=Schneider
|first6=J. H. R.
|last7=Armbruster
|first7=P.
|last8=Sahm
|first8=C. C.
|last9=Thuma
|first9=B.
|year=1981
|title=Identification of element 107 by α correlation chains
|journal=Zeitschrift für Physik A
|volume=300
|issue=1
|pages=107–8
|doi=10.1007/BF01412623
|bibcode = 1981ZPhyA.300..107M
|url=https://www.researchgate.net/publication/238901044
|accessdate=24 December 2016
}}</ref>。
:{{nuclide|link=yes|bismuth|209}} + {{nuclide|link=yes|chromium|54}} → {{nuclide|link=yes|bohrium|262}} + n
この発見は、生成したボーリウム原子から既知であった[[フェルミウム]]と[[カリホルニウム]]の同位体へのアルファ崩壊連鎖を詳細に測定することでさらに裏付けられた。[[IUPAC]]/IUPAP Transfermium Working Group (TWG)は1992年の報告書でGSIの共同研究を公式の発見として認証した<ref name="93TWG">{{Cite journal
|doi=10.1351/pac199365081757
|title=Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements
|year=1993
|author=Barber, R. C.
|journal=Pure and Applied Chemistry
|volume=65
|pages=1757
|last2=Greenwood
|first2=N. N.
|last3=Hrynkiewicz
|first3=A. Z.
|last4=Jeannin
|first4=Y. P.
|last5=Lefort
|first5=M.
|last6=Sakai
|first6=M.
|last7=Ulehla
|first7=I.
|last8=Wapstra
|first8=A. P.
|last9=Wilkinson
|first9=D. H.
|issue=8}}</ref>。
===提案された名前===
1992年9月、ドイツのグループはデンマークの物理学者[[ニールス・ボーア]]を称えてニールスボーリウム(記号Ns)という名前を提案した。[[ドゥブナ合同原子核研究所]]のソ連の科学者たちはこの名前を元素105に付けることを提案し(最終的に元素105はドブニウムと命名された)、ドイツのチームはボーアとドゥブナのチームが初めて低温核融合反応を提案し元素105の命名に関する議論されている問題を解決したという事実の両方を認めたいと考えていた。ドゥブナのチームはドイツのグループの元素107に対する命名の提案に同意した<ref>{{cite journal |doi =10.1351/pac199365081815
|title =Responses on 'Discovery of the transfermium elements' by Lawrence Berkeley Laboratory, California; Joint Institute for Nuclear Research, Dubna; and Gesellschaft fur Schwerionenforschung, Darmstadt followed by reply to responses by the Transfermium Working Group |year =1993
|last1= Ghiorso
|first1=A.
|last2=Seaborg |first2=G. T.
|last3=Organessian |first3=Yu. Ts.
|last4=Zvara |first4=I.
|last5=Armbruster |first5=P.
|last6=Hessberger |first6=F. P.
|last7=Hofmann |first7=S.
|last8=Leino |first8=M.
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|last10=Reisdorf |first10=W.
|last11=Schmidt |first11=K.-H.
|journal =Pure and Applied Chemistry
|volume =65
|issue = 8
|pages =1815–1824
|doi-access=free
}}</ref>。
104から106の元素の命名については論争があった。[[IUPAC]]はこの元素の一時的で[[元素の系統名|系統的な名前]]としてウンニルセプチウム(英: Unnilseptium, Uns)を採っていた<ref name=IUPAC97>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997)|date=1997|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=69|pages=2471–2474|issue=12|author=Commission on Nomenclature of Inorganic Chemistry|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf}}</ref>。1994年、IUPACの委員会は元素の名前に科学者の完全な名前を使用する前例がなかったため、元素107をニールスボーリウムではなくボーリウムとすることを勧めた<ref name=IUPAC97/><ref name=IUPAC94>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199466122419|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1994)|date=1994|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=66|pages=2419–2421|issue=12}}</ref>。名前が[[ホウ素]](ボロン)と混同されるかもしれず特にそれぞれの[[オキソアニオン]]はともにボーレイト(bohrate, borate)となるため、ボーリウムは発見者らにより反対された。この問題はIUPACのデンマーク支部に引き渡されたが、これにもかかわらずボーリウムという名前に賛成したため1997年に元素107の名前としてボーリウムが国際的に認められた<ref name=IUPAC97/>。ホウ素とボーリウムそれぞれのオキソアニオンの名前は英語で同音であるが、変更されていない<ref>{{RedBook2005|pages=337–9}}</ref>。
2000年に[[スイス]]で[[塩化ボーリウム酸]](BhO<sub>3</sub>Cl)が合成されている。[[沸点]]は151℃<ref>[[ナツメ社]]『[[図解雑学シリーズ]] 元素』</ref>。
==同位体==
{{main|ボーリウムの同位体}}
{{clear}}
<div style="float:right; margin:1em; font-size:85%;">
{| class="wikitable sortable"
|+ボーリウムの同位体
! 同位体<br /> !! 半減期<br /><ref name=nuclidetable>{{cite web |url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=107&n=163 |title=Interactive Chart of Nuclides |publisher=Brookhaven National Laboratory |author=Sonzogni, Alejandro |location=National Nuclear Data Center |accessdate=2008-06-06}}</ref><ref name=periodictable>{{cite web |url=http://periodictable.com/ |title=The Photographic Periodic Table of the Elements |author=Gray, Theodore |date=2002–2010 |work=periodictable.com |accessdate=16 November 2012}}</ref> !! 崩壊モード<ref name=nuclidetable/><ref name=periodictable/> !! 発見年 !! 反応
|-
|<sup>260</sup>Bh||{{sort|00000035|35 ms}}||α||2007||<sup>209</sup>Bi(<sup>52</sup>Cr,n)<ref name="260Bh">{{cite journal|last1=Nelson|first1=S.|last2=Gregorich|first2=K.|last3=Dragojević|first3=I.|last4=Garcia|first4=M.|last5=Gates|first5=J.|last6=Sudowe|first6=R.|last7=Nitsche|first7=H.|title=Lightest Isotope of Bh Produced via the Bi209(Cr52,n)Bh260 Reaction|journal=Physical Review Letters|volume=100|date=2008|doi=10.1103/PhysRevLett.100.022501|issue=2|bibcode=2008PhRvL.100b2501N|pmid=18232860|page=022501|url=https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc895291/m2/1/high_res_d/923353.pdf}}</ref>
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|<sup>261</sup>Bh||{{sort|000000118|11.8 ms}}||α||1986||<sup>209</sup>Bi(<sup>54</sup>Cr,2n)<ref name="261Bh">{{cite journal|doi=10.1007/BF01565147|title=Element 107|date=1989|author=Münzenberg, G.|journal=Zeitschrift für Physik A|volume=333|pages=163
|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Hofmann|first3=S.|last4=Heßberger|first4=F. P.|last5=Folger|first5=H.|last6=Keller|first6=J. G.|last7=Ninov|first7=V.|last8=Poppensieker|first8=K.|last9=Quint|first9=A. B.|displayauthors=8
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|-
|<sup>262</sup>Bh||{{sort|00000084|84 ms}}||α||1981||<sup>209</sup>Bi(<sup>54</sup>Cr,n)<ref name="262Bh"/>
|-
|<sup>262m</sup>Bh||{{sort|000000096|9.6 ms}}||α||1981||<sup>209</sup>Bi(<sup>54</sup>Cr,n)<ref name="262Bh"/>
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|<sup>264</sup>Bh||{{sort|000097|0.97 s}}||α||1994||<sup>272</sup>Rg(—,2α)<ref name="264Bh">{{cite journal
|doi=10.1007/BF01291182
|title=The new element 111
|year=1995
|author=Hofmann, S.
|journal=Zeitschrift für Physik A
|volume=350
|pages=281
|last2=Ninov
|first2=V.
|last3=Heßberger
|first3=F. P.
|last4=Armbruster
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|first5=H.
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|first7=H. J.
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|bibcode = 1995ZPhyA.350..281H
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}}</ref>
|-
|<sup>265</sup>Bh||{{sort|00009|0.9 s}}||α||2004||<sup>243</sup>Am(<sup>26</sup>Mg,4n)<ref name="265Bh">{{cite journal|title=New isotope <sup>265</sup>Bh|doi=10.1140/epja/i2004-10020-2|date=2004|author=Gan, Z.G.|journal=The European Physical Journal A|volume=20|last2=Guo|first2=J. S.|last3=Wu|first3=X. L.|last4=Qin|first4=Z.|last5=Fan|first5=H. M.|last6=Lei|first6=X. G.|last7=Liu|first7=H. Y. |last8=Guo|first8=B.|last9=Xu|first9=H. G.|displayauthors=8
|pages=385|issue=3|bibcode = 2004EPJA...20..385G }}</ref>
|-
|<sup>266</sup>Bh||{{sort|00009|0.9 s}}||α||2000||<sup>249</sup>Bk(<sup>22</sup>Ne,5n)<ref name="266Bh">{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevLett.85.2697 |title=Evidence for New Isotopes of Element 107: <sup>266</sup>Bh and <sup>267</sup>Bh|date=2000|author=Wilk, P. A.|journal=Physical Review Letters|volume=85|pages=2697–700|pmid=10991211|last2=Gregorich|first2=K. E.|last3=Turler|first3=A.|last4=Laue|first4=C. A.|last5=Eichler|first5=R.|last6=Ninov V|first6=V.|last7=Adams|first7=J. L.|last8=Kirbach|first8=U. W.|last9=Lane|first9=M. R.|displayauthors=8 |issue=13|bibcode=2000PhRvL..85.2697W|url=https://zenodo.org/record/1233933}}</ref>
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|<sup>267</sup>Bh||{{sort|0017|17 s}}||α||2000||<sup>249</sup>Bk(<sup>22</sup>Ne,4n)<ref name="266Bh"/>
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|<sup>270</sup>Bh||{{sort|0061|61 s}}||α||2006||<sup>282</sup>Nh(—,3α)<ref name="270Bh">{{cite conference |doi=10.1063/1.2746600 |isbn=978-0-7354-0420-5 |book-title=AIP Conference Proceedings: International Symposium on Exotic Nuclei |date=2007 |last1=Oganessian |first1=Yu. Ts. |editor-last=Penionzhkevich |editor-first=Yu. E. |editor-last2=Cherepanov |editor-first2=E. A. |volume=912 |pages=235 |title=Heaviest Nuclei Produced in 48Ca-induced Reactions (Synthesis and Decay Properties)}}</ref>
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|<sup>271</sup>Bh||{{sort|00012|1.2 s}}||α||2003||<sup>287</sup>Mc(—,4α)<ref name="270Bh"/>
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|<sup>272</sup>Bh||{{sort|00098|9.8 s}}||α||2005||<sup>288</sup>Mc(—,4α)<ref name="270Bh"/>
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|<sup>274</sup>Bh||{{sort|00040|40 s}}||α||2009||<sup>294</sup>Ts(—,5α)<ref name="274Bh"/>
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|<sup>278</sup>Bh||{{sort|0690|11.5 min?}}||SF||1998?||<sup>290</sup>Fl(e<sup>−</sup>,ν<sub>e</sub>3α)?
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ボーリウムには安定同位体および自然に発生する同位体はない。実験室では2つの原子を融合させるかより重い元素の崩壊を観測することによりいくつかの放射性同位体が合成されている。異なる12個の同位体が原子質量260–262, 264–267, 270–272, 274, 278で報告されている。そのうち1つのボーリウム262は既知の[[準安定状態]]を持つ。未確認の<sup>278</sup>Bhを除くこれらすべての同位体はアルファ崩壊によってのみ崩壊するが、いくつか未知のボーリウム同位体は自発核分裂を起こすと予測されている<ref name=nuclidetable/>。
軽い同位体の方が通常半減期が短く、<sup>260</sup>Bh, <sup>261</sup>Bh, <sup>262</sup>Bh, <sup>262m</sup>Bhの半減期は100ms未満で観測されている。<sup>264</sup>Bh, <sup>265</sup>Bh, <sup>266</sup>Bh, <sup>271</sup>Bhは約1秒でより安定しており、<sup>267</sup>Bhと<sup>272</sup>Bhの半減期は約10秒である。最も重い同位体が最も安定しており、<sup>270</sup>Bhと<sup>274</sup>Bhの半減期はそれぞれ61 s と 40 sと測定されており、さらに重い未確認の同位体<sup>278</sup>Bhは約690 sとさらに長い半減期を持つと思われる。
質量260, 261, 262の最も陽子が多い同位体は、低温核融合により直接生成され、質量が262と264の同位体はマイトネリウムとレントゲニウムの崩壊系列で報告され、質量が265, 266, 267の中性子が多い同位体はアクチノイドのターゲットに照射することで生成された。質量が270, 271, 272, 274, および278(未確認)の最も中性子の多い5つはそれぞれ<sup>282</sup>Nh, <sup>287</sup>Mc, <sup>288</sup>Mc, <sup>294</sup>Ts, および<sup>290</sup>Flの崩壊連鎖に現れる。これら11個の同位体の半減期は<sup>262m</sup>Bhの約10ミリ秒から<sup>270</sup>Bhと<sup>274</sup>Bhの約1分まであり、未確認の<sup>278</sup>Bhでは約12分に達する。これは半減期が最も長い既知の超重核種の1つである<ref name="Doi_">{{cite book |last1=Münzenberg|first1=G.|last2=Gupta|first2=M. |chapter=Production and Identification of Transactinide Elements |editor-first=Attila |editor-last=Vértes |editor-first2=Sándor |editor-last2=Nagy |editor-first3=Zoltán |editor-last3=Klencsár |editor-first4=Rezső G. |editor-last4=Lovas |editor-first5=Frank |editor-last5=Rösch |title=Handbook of Nuclear Chemistry: Production and Identification of Transactinide Elements |page=877 |date=2011 |doi=10.1007/978-1-4419-0720-2_19 |isbn=978-1-4419-0719-6}}</ref>。
==予測される特性==
ボーリウムやその化合物の特性はほとんど測定されていない。これは生産が非常に限られ高価であるのと<ref name="Bloomberg">{{Cite web|last=Subramanian|first=S.|authorlink=Samanth Subramanian|url=https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist|title=Making New Elements Doesn't Pay. Just Ask This Berkeley Scientist|website=[[Bloomberg Businessweek]]|access-date=2020-01-18}}</ref>ボーリウム(およびその親)が非常に急速に崩壊するという事実による。いくつかの珍しい化学関連の特性が測定されたが、ボーリウム金属の特性は不明のままであり予測のみできる。
===化学的特性===
周期表において遷移金属の6d系列の5番目の元素であり、[[第7族元素|第7族]]で最も重い元素であり[[マンガン]]、[[テクネチウム]]、[[レニウム]]の下に位置する。この族の元素は全て酸化状態+7を容易にとり下るにつれて状態がより安定する。よって、ボーリウムは安定した+7状態を形成すると予想される。テクネチウムは安定した+4状態も示すが、レニウムは+4と+3状態を示す。したがってボーリウムはこれらの低い状態を示す可能性もある<ref name=BFricke>{{cite journal |last1=Fricke |first1=Burkhard |year=1975 |title=Superheavy elements: a prediction of their chemical and physical properties |journal=Recent Impact of Physics on Inorganic Chemistry |volume=21 |pages=89–144 |doi=10.1007/BFb0116498 |url=https://www.researchgate.net/publication/225672062_Superheavy_elements_a_prediction_of_their_chemical_and_physical_properties |accessdate=4 October 2013}}</ref>。高い+7酸化状態はオキシアニオンに存在する可能性が高く、例えば[[過マンガン酸塩]]、[[過テウネチウム酸塩]]、[[過レニウム酸塩]]と類似の過ボーリウム酸塩({{chem|BhO|4|-}})である。しかしながら、ボーリウム(VII)は水溶液中で不安定である可能性が高く、おそらくより安定したボーリウム(IV)に容易に還元される<ref name=Haire>{{cite book| title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last=Morss|editor2-first=Norman M.| editor2-last=Edelstein| editor3-last=Fuger|editor3-first=Jean| last1=Hoffman|first1=Darleane C. |last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |chapter=Transactinides and the future elements| publisher= [[Springer Science+Business Media]]| year=2006| isbn=1-4020-3555-1| location=Dordrecht, The Netherlands| edition=3rd| ref=CITEREFHaire2006}}</ref>。
テクネチウムとレニウムは揮発性の七酸化物M<sub>2</sub>O<sub>7</sub> (M = Tc, Re)を形成することが知られているため、ボーリウムも揮発性の酸化物Bh<sub>2</sub>O<sub>7</sub>を形成するはずである。この酸化物は水に溶解し過ボーリウム酸塩HBhO<sub>4</sub>を形成するはずである。レニウムとテクネチウムは酸化物のハロゲン化により様々なオキシハロゲン化物を形成する。酸化物の塩素化によりオキシ塩化物MO<sub>3</sub>Clを形成するため、BhO<sub>3</sub>Clもこの反応で形成されるはずである。レニウム化合物ReOF<sub>5</sub>とReF<sub>7</sub>に加えてフッ素化により重い元素でMO<sub>3</sub>FとMO<sub>2</sub>F<sub>3</sub>が形成される。したがって、ボーリウムのオキシフッ化物形成はエカレニウムの特性を示すのに役立つ<ref>Hans Georg Nadler "Rhenium and Rhenium Compounds" Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry, Wiley-VCH, Weinheim, 2000. {{DOI|10.1002/14356007.a23_199}}</ref>。オキシ塩化物は非対称であり、族で下にいくにつれて[[双極子]]モーメントは大きくなるはずであり、揮発性は小さくなる(TcO<sub>3</sub>Cl > ReO<sub>3</sub>Cl > BhO<sub>3</sub>Cl)。これはこれら3つの化合物の[[吸着]][[エンタルピー]]を測定することにより実験的に確認された。TcO<sub>3</sub>ClとReO<sub>3</sub>Clの値はそれぞれ−51 kJ/molと−61 kJ/molである。BhO<sub>3</sub>Clの実験値は−77.8 kJ/molであり、理論的に予想される値である−78.5 kJ/molに非常に近い<ref name=Haire/>。
===物理的特性・原子===
ボーリウムは通常の条件下では固体であると予想され、より軽い[[同族体]]であるレニウムと同様に六方最密結晶構造(<sup>''c''</sup>/<sub>''a''</sub> = 1.62)と予想されている<ref name=hcp>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.84.113104|title=First-principles calculation of the structural stability of 6d transition metals|year=2011|last1=Östlin|first1=A.|last2=Vitos|first2=L.|journal=Physical Review B|volume=84|issue=11|bibcode=2011PhRvB..84k3104O }}</ref>。[[密度]]が約37.1 g/cm<sup>3</sup>の非常に重い金属であると考えられ、これは118の既知の元素の中で3番目に高く、上には[[マイトネリウム]] (37.4 g/cm<sup>3</sup>) と[[ハッシウム]] (41 g/cm<sup>3</sup>)があり、この2つは周期表でボーリウムの次2つの元素である。比較すると、密度が測定された元素の中で最も密度の高い既知の元素である[[オスミウム]]の密度はわずか22.61 g/cm<sup>3</sup>である。これはボーリウムの高い原子量、[[ランタノイド収縮|ランタノイドとアクチノイドの収縮]]、および[[相対論効果]]によるものであるが、この量を測定するのに十分なボーリウムを生産することは現実的ではなく、試料はすぐに崩壊するであろう<ref name=Haire/>。
原子半径は約128 pmと予想されている<ref name=Haire/>。7s軌道の相対論的安定化と6d軌道の不安定化により、Bh<sup>+</sup>イオンは[Rn] 5f<sup>14</sup> 6d<sup>4</sup> 7s<sup>2</sup>の電子配置を持つと予測され、7s電子ではなく6d電子を放出する。これはより軽い同族体であるマンガンとテクネチウムの挙動と反対である。一方でレニウムは同族体のボーリウムと同じく6s電子を放出する前に5d電子を放出する。これは相対論効果が第6周期までに大きくなるためであり、[[金]]の黄色や[[水銀]]の低い融点の原因でもある。Bh<sup>2+</sup>イオンの電子配置は[Rn] 5f<sup>14</sup> 6d<sup>3</sup> 7s<sup>2</sup>であると予想される。これに対してRe<sup>2+</sup>イオンは[Xe] 4f<sup>14</sup> 5d<sup>5</sup>という電子配置であることが予想され、この場合はマンガンやテクネチウムに類似している<ref name=Haire/>。6配位で7価のボーリウムのイオン半径は58 pmと予想される(7価のマンガン、テクネチウム、レニウムはそれぞれ46, 57, 53 pmである)。5価のボーリウムは83 pmと大きいイオン半径であると考えられている<ref name=Haire/>。
==実験化学==
1995年、元素の分離の試みに関する最初の報告は不成功であり、ボーリウム(比較のために軽い同族体であるテクネチウムとレニウムを使用)を研究する最善の方法を研究する新たな理論研究を促し、3価[[アクチノイド]]、[[第5族元素]]、[[ポロニウム]]などの不要な汚染元素を取り除いた<ref>{{cite journal|title=Chemical Separation Procedure Proposed for Studies of Bohrium|last1=Malmbeck|first1=R.|last2=Skarnemark|first2=G.|last3=Alstad|first3=J.|last4=Fure|first4=K.|last5=Johansson|first5=M.|last6=Omtvedt|first6=J. P.|journal=Journal of Radioanalytical and Nuclear Chemistry|volume=246|pages=349|date=2000|doi=10.1023/A:1006791027906|issue=2}}</ref>。
2000年、相対論効果が重要であるにもかかわらず、ボーリウムは典型的な第7族元素のように振る舞いことが確認された<ref>{{cite journal|last1=Gäggeler|first1=H. W.|last2=Eichler|first2=R.|last3=Brüchle|first3=W.|last4=Dressler|first4=R.|last5=Düllmann|first5=Ch. E.|last6=Eichler|first6=B.|last7=Gregorich|first7=K. E.|last8=Hoffman|first8=D. C.|last9=Hübener|first9=S.|displayauthors=8 |title=Chemical characterization of bohrium (element 107)|journal=Nature|volume=407|issue=6800|pages=63–5|date=2000|pmid=10993071|doi=10.1038/35024044|bibcode=2000Natur.407...63E}}</ref>。[[パウル・シェラー研究所]](PSI)のチームは<sup>249</sup>Bkと<sup>22</sup>Neイオン反応で生成した<sup>267</sup>Bhの6個の原子を用いて化学反応を行った。得られた原子は熱平衡化され、HCl/O<sub>2</sub>混合物と反応し揮発性のオキシ塩化物が形成された。この反応により軽い同族体であるテクネチウム(<sup>108</sup>Tc)とレニウム(<sup>169</sup>Re)の同位体も生成した。等温吸着曲線を測定すると、オキシ塩化レニウムと同様の性質を持つ揮発性オキシ塩化物が形成されている強い証拠が確認された。これによりボーリウムは第7族元素の典型となった<ref name=00Ei01>{{cite web|url=http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2000/Chemistry/9/r_eichler_jb2000.pdf|title=Gas chemical investigation of bohrium (Bh, element 107)|last=Eichler |first=R. |display-authors=etal |work=GSI Annual Report 2000|accessdate=2008-02-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120219002121/http://www.gsi.de/informationen/wti/library/scientificreport2000/Chemistry/9/r_eichler_jb2000.pdf|archivedate=2012-02-19}}</ref>。この実験ではテクネチウム、レニウム、ボーリウムのオキシ塩化物の吸着エントロピーが測定され、理論的予測とよく一致し、第7族でオキシ塩化物の揮発性が低下することを示唆している<ref name=Haire/>。
:2 Bh + 3 {{chem|O|2}} + 2 HCl → 2 {{chem|BhO|3|Cl}} + {{chem|H|2}}
重い元素の娘として生成されたボーリウムの半減期が長く重い同位体は将来的な放射化学実験に有利な性質を持っている。重い同位体<sup>274</sup>Bhは生産するときに希少で放射性の高い[[バークリウム]]のターゲットを必要とするが、同位体<sup>272</sup>Bh, <sup>271</sup>Bh, <sup>270</sup>Bhはより容易に生成できる[[モスコビウム]]や[[ニホニウム]]の同位体の娘として容易に生成することができる<ref name=Moody>{{cite book |chapter=Synthesis of Superheavy Elements |last1=Moody |first1=Ken |editor1-first=Matthias |editor1-last=Schädel |editor2-first=Dawn |editor2-last=Shaughnessy |title=The Chemistry of Superheavy Elements |publisher=Springer Science & Business Media |edition=2nd |pages=24–8 |isbn=9783642374661|date=2013-11-30 }}</ref>。
==出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
{{Commons|Bohrium}}
== 書誌情報 ==
* {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |displayauthors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A |ref=CITEREFAudi2017}}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}-->
* {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418|ref=CITEREFBeiser2003}}
* {{cite book |last=Hoffman |first=D. C. |authorlink=Darleane C. Hoffman |last2=Ghiorso |first2=A. |authorlink2=アルバート・ギオルソ |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=[[World Scientific]] |isbn=978-1-78-326244-1 |ref=CITEREFHoffman2000}}
* {{cite book |last=Kragh |first=H. |authorlink=Helge Kragh |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]] |isbn=978-3-319-75813-8 |ref=CITEREFKragh2018}}
* {{cite journal|last=Zagrebaev|first=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=[[Journal of Physics: Conference Series]]|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|issn=1742-6588|ref=CITEREFZagrebaev2013}}
==外部リンク==
* [http://www.periodicvideos.com/videos/107.htm Bohrium] at ''[[The Periodic Table of Videos]]''
(University of Nottingham)
{{元素周期表}}
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[[Category:ボーリウム|*]]
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[[Category:遷移金属]]
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楠賞全日本アラブ優駿
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楠賞全日本アラブ優駿(くすのきしょうぜんにほんあらぶゆうしゅん)は、アングロアラブの全国3歳馬によるチャンピオン決定戦として、園田競馬場で行われていた競馬の競走である。
第1回は1961年とされるが(当時の資料がほとんど残っていないため不明な点も多い)、名称や距離などは度々変更された。
1967年から楠賞という競走名に、1973年からは「農林(水産)大臣省典楠賞・全日本アラブ優駿競走」として地方競馬全国交流競走となり、1985年から1995年にかけては中央競馬所属馬も出走可能であった。事実上アングロアラブ系の競走馬の日本ダービー的色合いが強かった。
1990年代には1着賞金は2000万円を超え、なかでも1992年は1着3400万、1着から5着までの賞金の合計は6800万円に達していた。1999年は1着2000万円。
アングロアラブ競走の規模縮小に伴い2003年は全日本の冠を外し、楠賞兵庫アラブ優駿として施行された。
翌2004年はサラブレッド系競走(兵庫県競馬でデビューした古馬限定重賞)に転換、楠賞として開催され、アングロアラブの全国規模の3歳根幹競走としての役割を終えた。新装した楠賞の競走回数はアラブ系競走として行われた回数を継続したため、初回の2004年度は第43回となった。
※当初と同じ条件で施行されたが、回数にはカウントされていない。
1986年(第25回) 1987年(第26回) 1988年(第27回) 1989年(第28回) 1991年(第30回) 1992年(第31回) 1996年(第35回) 1997年(第36回) 1998年(第37回) 1999年(第38回)
2000年(第39回) 2001年(第40回) 2002年(第41回) 2003年(第42回)
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楠賞全日本アラブ優駿(くすのきしょうぜんにほんあらぶゆうしゅん)は、アングロアラブの全国3歳馬によるチャンピオン決定戦として、園田競馬場で行われていた競馬の競走である。
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{{競馬の競走
|競走名 = 楠賞全日本アラブ優駿(廃止)
|開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]]
|主催者 = [[兵庫県競馬組合]](兵庫県公営)
|開催地 = [[園田競馬場]]
|施行時期 = 5月~6月の開催で年1回
|格付け = 重賞(全国交流競走)
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|馬場 = ダート
|距離 = 2300m(改修後は2400mに変更)
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|負担重量 = 牡馬55kg 牝馬53kg
}}
'''楠賞全日本アラブ優駿'''(くすのきしょうぜんにほんあらぶゆうしゅん)は、[[アングロアラブ]]の全国3歳[[ウマ|馬]]によるチャンピオン決定戦として、[[園田競馬場]]で行われていた[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]である。
== 概要 ==
第1回は[[1961年]]とされるが(当時の資料がほとんど残っていないため不明な点も多い)、名称や距離などは度々変更された。
[[1967年]]から'''楠賞'''という競走名に、[[1973年]]からは「農林(水産)大臣省典楠賞・全日本アラブ優駿競走」として[[地方競馬]]全国交流競走となり、[[1985年]]から[[1995年]]にかけては[[中央競馬]]所属馬も出走可能であった。事実上アングロアラブ系の[[競走馬]]の[[東京優駿|日本ダービー]]的色合いが強かった。
1990年代には1着賞金は2000万円を超え、なかでも1992年は1着3400万、1着から5着までの賞金の合計は6800万円に達していた。1999年は1着2000万円<ref name="JBIS-All"/><ref name="JBIS-1989"/><ref name="JBIS-1991"/><ref name="JBIS-1992"/><ref name="JBIS-1996"/><ref name="JBIS-1999"/>。
[[アングロアラブ]]競走の規模縮小に伴い[[2003年]]は全日本の冠を外し、'''楠賞兵庫アラブ優駿'''として施行された。
翌[[2004年]]は[[サラブレッド]]系競走(兵庫県競馬でデビューした[[古馬]]限定[[重賞]])に転換、'''[[楠賞]]'''として開催され、アングロアラブの全国規模の3歳根幹競走としての役割を終えた。新装した楠賞の競走回数はアラブ系競走として行われた回数を継続したため、初回の2004年度は第43回となった。
== 歴代優勝馬 ==
{| class="wikitable"
!回数!!開催日!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師
|-
|style="text-align:center"|第1回||[[1962年]][[5月3日]]||ミツカゼ||牡3||[[春木競馬場|春木]]||2:04.0||紺原保||
|-
|style="text-align:center"|第2回||[[1963年]][[5月1日]]||カチミタカラ||牡3||[[兵庫県競馬組合|兵庫]]||2:02.2||福地達晃||
|-
|style="text-align:center"|第3回||[[1964年]][[5月13日]]||リユーカス||牡3||兵庫||2:27.2||山崎一二三||
|-
|style="text-align:center"|第4回||[[1965年]][[5月10日]]||[[タガミホマレ]]||牡3||兵庫||2:31.0||藤原幸蔵||藤原幸蔵
|-
|style="text-align:center"|第5回||[[1966年]][[5月5日]]||ハヤブサヒカリ||牡3||兵庫||2:25.7||照井正雄||
|-
|style="text-align:center"|第6回||[[1967年]]5月3日||キヨノオー||牡3||兵庫||2:25.2||稲田礎||
|-
|style="text-align:center"|第7回||[[1968年]][[5月15日]]||スグロヒカリ||牡3||兵庫||2:30.5||北口国年||
|-
|style="text-align:center"|第8回||[[1969年]][[5月7日]]||ミスグラマン||牝3||兵庫||2:23.0||北口国年||
|-
|style="text-align:center"|第9回||[[1970年]][[5月17日]]||[[アサヒマロツト]]||牡3||兵庫||2:14.8||市来秀行||溝端弘
|-
|style="text-align:center"|第10回||[[1971年]][[5月12日]]||ゼネラルオー||牡3||兵庫||2:24.9||[[石川昇]]||
|-
|style="text-align:center"|第11回||[[1972年]][[5月24日]]||フジマンデン||牡3||兵庫||2:37:0||石川昇||
|-
|style="text-align:center"|第12回||[[1973年]][[5月16日]]||ワールドタカシ||牡3||[[大井競馬場|大井]]||2:34.5||[[花村通春]]||永井秀男
|-
|style="text-align:center"|第13回||[[1974年]][[6月25日]]||[[グリンフアスト]]||牡3||[[川崎競馬場|川崎]]||2:34.5||[[佐々木竹見]]||細川一吉
|-
|style="text-align:center"|第14回||[[1975年]][[5月20日]]||[[ホクトライデン]]||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||2:35.5||[[桑島孝春]]||平島好助
|-
|style="text-align:center"|第15回||[[1976年]][[5月25日]]||[[メイクマイウエー]]||牡3||[[浦和競馬場|浦和]]||2:37.2||[[本間光雄]]||相馬清次
|-
|style="text-align:center"|第16回||[[1977年]][[5月27日]]||ヒダカセイユウ||牡3||[[福山競馬場|福山]]||2:38.2||番園一男||部谷久司
|-
|style="text-align:center"|第17回||[[1978年]][[5月30日]]||トキノナノリ||牝3||兵庫||2:38.5||勝野誠一郎||大畠治
|-
|style="text-align:center"|第18回||[[1979年]][[5月17日]]||ヤングラツキー||牡3||兵庫||2:40.0||[[寺嶋正勝]]||福地達晃
|-
|style="text-align:center"|第19回||[[1980年]]5月27日||[[トライバルセンプー]]||牡3||川崎||2:38.3||佐々木竹見||村田六郎
|-
|style="text-align:center"|第20回||[[1981年]][[5月12日]]||コマツタイム||牡3||[[園田競馬場|園田]]||2:39.6||石川昇||藤本年夫
|-
|style="text-align:center"|第21回||[[1982年]][[6月8日]]||ダイヤロツク||牡3||園田||2:40.4||石川昇||鴨林武男
|-
|style="text-align:center"|第22回||[[1983年]][[6月9日]]||ハギノニユーグリン||牡3||園田||2:38.2||[[田中道夫]]||阿部和男
|-
|style="text-align:center"|第23回||[[1984年]][[6月13日]]||ニユーサラトガ||牡3||園田||2:40.9||寺嶋正勝||大畠治
|-
|style="text-align:center"|第24回||[[1985年]]5月17日||[[イソナンブ]]||牡3||川崎||2:34.8||[[森下博 (競馬)|森下博]]||[[井上宥蔵]]
|-
|style="text-align:center"|第25回||[[1986年]][[5月14日]]||[[ローゼンホーマ]]||牡3||福山||2:35.8||[[那俄性哲也]]||寺田忠
|-
|style="text-align:center"|第26回||[[1987年]]5月27日||ダンデイダイドウ||牡3||園田||2:36.8||尾原強||武田広臣
|-
|style="text-align:center"|第27回||[[1988年]][[5月18日]]||オタルホーマー||牡3||大井||2:37.3||佐々木竹見||物井榮
|-
|style="text-align:center"|第28回||[[1989年]]5月17日||[[アサリユウセンプー]]||牡3||福山||2:36.5||那俄性哲也||浜田輝和
|-
|style="text-align:center"|第29回||[[1990年]][[5月16日]]||[[ムサシボウホマレ]]||牡3||福山||2:40.4||[[石井幸男]]||石井勝教
|-
|style="text-align:center"|第30回||[[1991年]][[5月22日]]||ハギノメジャー||牡3||園田||2:39.0||田中道夫||永井秀男
|-
|style="text-align:center"|第31回||[[1992年]]5月20日||イナズマガッサン||牝3||[[愛知県競馬組合|愛知]]||2:39.6||[[兒島真二]]||松橋寛
|-
|style="text-align:center"|第32回||[[1993年]][[5月19日]]||[[ダイメイゴッツ]]||牡3||[[荒尾競馬場|荒尾]]||2:35.6||牧野孝光||和田保夫
|-
|style="text-align:center"|第33回||[[1994年]]5月18日||[[コノミテイオー]]||牡3||園田||2:40.6||[[小牧太]]||福地達晃
|-
|style="text-align:center"|第34回||[[1995年]][[6月7日]]||キタサンオーカン||牡3||園田||2:39.6||小牧太||[[曾和直榮]]
|-
|style="text-align:center"|第35回||[[1996年]][[5月29日]]||[[ケイエスヨシゼン]]||牡3||園田||2:37.2||[[岩田康誠]]||保利照美
|-
|style="text-align:center"|第36回||[[1997年]][[5月28日]]||ヤングメドウ||牡3||園田||2:37.3||岩田康誠||森澤憲一郎
|-
|style="text-align:center"|第37回||[[1998年]]5月27日||タッカースカレー||牡3||園田||2:38.0||小牧太||曾和直榮
|-
|style="text-align:center"|第38回||[[1999年]][[5月26日]]||[[ホマレスターライツ]]||牡3||[[宇都宮競馬場|宇都宮]]||2:41.9||鈴木正||中村憲和
|-
|style="text-align:center"|第39回||[[2000年]][[5月17日]]||[[コウザンハヤヒデ]]||牡3||荒尾||2:42.4||[[西村栄喜]]||福島幸広
|-
|style="text-align:center"|第40回||[[2001年]][[6月6日]]||ガバナマイウェー||牡3||園田||2:38.9||[[木村健]]||薮田勝也
|-
|style="text-align:center"|第41回||[[2002年]][[6月5日]]||チョウヨームサシ||牡3||[[金沢競馬場|金沢]]||2:42.4||蔵重浩一郎||清水博昭
|-
|style="text-align:center"|第42回||[[2003年]][[6月19日]]||サンクリント||牡3||[[兵庫県立西脇馬事公苑|西脇]]||2:41.6||[[田中学]]||西村守幸
|}
{| class="wikitable"
!開催日!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師
|-
|style="text-align:center"|[[1961年]][[5月3日]]||フクマサ||牡3||春木||2:02.2||岩崎良蔵||
|}
※当初と同じ条件で施行されたが、回数にはカウントされていない。
* 競走名:第1回 「園田銀盃」、第2回 「銀盃賞」、第3回 「春の銀盃賞」、第4回 「春の銀賞」、第5回 「園田アラブ優駿」、第6~11回 「楠賞」、第42回 「楠賞兵庫アラブ優駿」
* 距離:第1、2回 [[ダート]]1800[[メートル|m]]、第3~8、10回 ダート2130m、第9回 [[姫路競馬場|姫路]]ダート2000m、第11回 ダート2320m、第12~37回 ダート2300m、第38回~ ダート2400m
* 出走条件:[[アングロアラブ]]系3歳馬。第1~8回 兵庫・春木交流、第9~11回 兵庫所属馬限定、第12~23回・35回~ 地方全国交流、第24~33回 中央・地方全国交流、第34回 [[指定交流競走|指定交流]]
* 優勝馬の[[馬齢]]は[[2000年]]以前も現表記を用いている。
=== 競走各回の出典 ===
{{JBIS-raceresult|1986|0514|227|09}}(第25回)
{{JBIS-raceresult|1987|0527|227|09}}(第26回)
{{JBIS-raceresult|1988|0518|227|09}}(第27回)
{{JBIS-raceresult|1989|0517|227|09}}(第28回)
{{JBIS-raceresult|1991|0522|227|09}}(第30回)
{{JBIS-raceresult|1992|0520|227|09}}(第31回)
{{JBIS-raceresult|1996|0529|227|09}}(第35回)
{{JBIS-raceresult|1997|0528|227|10}}(第36回)
{{JBIS-raceresult|1998|0527|227|10}}(第37回)
{{JBIS-raceresult|1999|0526|227|10}}(第38回)
{{Netkeiba-raceresult|2000|50051710}}(第39回)
{{Netkeiba-raceresult|2001|50060610}}(第40回)
{{Netkeiba-raceresult|2002|50060510}}(第41回)
{{Netkeiba-raceresult|2003|50061910}}(第42回)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist |refs=
<!--賞金-->
*<ref name="JBIS-All">[http://www.jbis.or.jp/navi_search/?sid=race&keyword=%91S%93%FA%96%7B%83A%83%89%83u%97D%8Fx&x=24&y=10 JBIS 全日本アラブ優駿を含む競走一覧]2014年11月15日閲覧。</ref>
*<ref name="JBIS-1989">[http://www.jbis.or.jp/race/result/19890517/227/09/ JBIS 1989年 全日本アラブ優駿]2014年11月15日閲覧。</ref>
*<ref name="JBIS-1991">[http://www.jbis.or.jp/race/result/19910522/227/09/ JBIS 1991年 全日本アラブ優駿]2014年11月15日閲覧。</ref>
*<ref name="JBIS-1992">[http://www.jbis.or.jp/race/result/19920520/227/09/ JBIS 1992年 全日本アラブ優駿]2014年11月15日閲覧。</ref>
*<ref name="JBIS-1996">[http://www.jbis.or.jp/race/result/19960529/227/09/ JBIS 1996年 全日本アラブ優駿]2014年11月15日閲覧。</ref>
*<ref name="JBIS-1999">[http://www.jbis.or.jp/race/result/19990526/227/10/ JBIS 1999年 全日本アラブ優駿]2014年11月15日閲覧。</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 日本競馬の歩み・資料編 [[田島芳郎]]著([[サラブレッド血統センター]])
== 関連項目 ==
* [[楠賞]]
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[[Category:地方競馬の競走]]
[[Category:廃止された競馬の競走]]
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2023-04-28T17:38:26Z
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オグリキャップ
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オグリキャップ(欧字名:Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬。
1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年度のJRA賞特別賞、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」「芦毛の怪物」など多数。
中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と騎手である武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。
競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことができず、2007年に種牡馬を引退。種牡馬引退後は同施設で功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。
オグリキャップの母・ホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。
1984年のホワイトナルビーの交配相手には、小栗によると当初はトウショウボーイが種付けされる予定だったが、種付け予定に空きがなかったため断念した。そこで小栗の意向により、笠松競馬で優れた種牡馬成績を残していたダンシングキャップが選ばれた。鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、小栗は「ダンシングキャップ産駒は絶対によく走る」という確信と、ホワイトナルビーがこれまでに出産していた5頭の産駒が大人しい性格だったため大丈夫だろうと感じ、最終的に提案が実現した。
なお、オグリキャップは仔分けの馬で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。
オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。
ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。
1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場に移り、3か月間馴致を施された。当時の美山育成牧場では、従業員の吉田謙治が1人で30頭あまりの馬の管理をしていたため全ての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で1頭だけで離れて過ごすことが多かったため吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。
当時のハツラツの印象について吉田は、賢くて大人しく人懐っこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという。食欲は稲葉牧場にいた頃と変わらず旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった。
1987年1月28日に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」。
ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。
5月19日のデビュー戦では能力試験で記録したタイムが評価されて2番人気に支持されたが、スタートで出遅れ、3コーナーで他馬に大きく外に振られる不利を受け、最後の直線でマーチトウショウにクビ差で追い込んだものの2着に敗れた。しかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した。結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。ハナ差で勝利した7戦目のジュニアクラウン以外の全てのレースで2着を2馬身以上引き離して勝利し、4歳初戦のゴールドジュニアを勝利して「笠松には凄い大物がいるらしい」という評判が立つようになった。
前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れをした。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」という。マーチトウショウに敗れた2戦はいずれも追い込んだが届かずといった内容で距離不足が理由だったため、「オグリは特急、他の馬は鈍行。出遅れがちょうどいいハンデ」と言われた。
また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱を起こしていた。オグリキャップは痛む蹄をほじられることを嫌がって脚を上げることも拒み続け、その後も立ち上がって暴れたりしたが、川瀬が蹄を掃除し、薬を付けて内側を焼いて3日ほどで完治した。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。
なお、マーチトウショウは1989年に中央競馬へ移籍したが勝利を挙げられず、その後、笠松へ戻って1戦に出走した後高知競馬へ移籍した。
1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。
オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、特に中京競馬場の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信条を持っていたため、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。
なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた。
中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。
オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれ、鞍上は佐橋の希望により河内洋に決まった。地方での快進撃は知られていたものの、当日の単勝オッズは2番人気であった。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。レースで実況を担当した杉本清は最後の直線で「これは噂にたがわない強さだ」と実況した。なお、この日中京競馬場で行われた中日新聞杯では佐橋が所有するトキノオリエントが優勝し、佐橋は中央競馬史上初となる同一馬主による地方出身馬の同日開催重賞制覇を達成している。
移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。
オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことでクラシック登録をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。このレースでは翌1989年の全戦に騎乗することとなる南井克巳が鞍上を務め、オグリキャップ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。
クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりに「断念ダービー」と言われていたニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した。鞍上に河内が復帰したが、この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていたが、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムは同レースのレースレコードを記録し、このタイムは前月に同じ東京芝1600mで行われた古馬GIの安田記念で優勝馬のニッポーテイオーが記録したタイムよりも0秒2速かったにもかかわらず、河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)。
続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。
高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑 を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された。
毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録)。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)。
続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝中であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)。中央移籍後初黒星を喫したが、オグリキャップは天皇賞で初めて連対した4歳馬となった。
天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。レース後、次走の有馬記念で挽回を果たしたいと考えた佐橋は、瀬戸口を通じてこの時点で有馬記念での騎乗馬が決まっていなかった岡部幸雄を鞍上に希望し、瀬戸口を通じて騎乗依頼が出されたものの、岡部は「西(栗東)の馬はよくわからないから」と婉曲に断った。しかし瀬戸口が「一回だけ」という条件付きで依頼し、これを岡部が承知したことで有馬記念での騎乗が決まった。
有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位で出走が決まり、当日の単勝オッズもタマモクロスに次ぐ2番人気に支持された。瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、芦毛馬初の有馬記念優勝馬となった。作家の山口瞳は有馬記念の結果を受けて、「タマモクロスは日本一の馬、オグリキャップは史上最強の馬だ」といい、オグリキャップを称えた(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)。翌1989年1月10日には、1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。
タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した。厩務員の池江敏郎は、オグリキャップが寝藁を食べようとするほど食欲旺盛で太め残りとなるため、有馬記念前は汗取りをつけて調教していたと述べている。
前述のように、オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことでクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、日本中央競馬会に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。この事からオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。一方で毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。なお、前述のように1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度を導入した。
1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄に脱税容疑がかかり、将来馬主登録を抹消される可能性が浮上した。これを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は翌1989年2月22日、近藤俊典へオグリキャップを売却した。売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。また、売却価格の高さも指摘された。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。
陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(ヒトのかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所(福島県いわき市)にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江敏郎が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。
オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマーで復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。
その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる。しかし、南井は前走のオールカマーの時のようなデキではなく、理由としては馬体重が前走から8kg増だったため体が重かったのではないかと分析している(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)。
天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップに騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べ、またヤエノムテキが壁となって体勢を立て直してから外に持ち出して追い込まざるを得なくなったことが痛かったとしている(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)。
続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨み、勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)。
連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペースでレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)。
陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)。
夕刊フジの記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。
3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。
調教師の瀬戸口はマイルチャンピオンシップ後にジャパンカップにオグリキャップを出走させる際、このローテーションを巡って起きた議論に対し、「あの馬には常識は通用せんのや」と発言した。しかし、連闘に加えオールカマーに出走させたことについては「無理は少しあったと思います」と述べた。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。ただしジャパンカップでの調子自体については絶好調で「連闘の疲れなんてなかった」と述べている。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した。
しかしこの年最後の出走となった有馬記念では、近藤の主張に反してオグリキャップの体調に不安を感じる関係者もおり、パドックでは厩務員の池江がオグリキャップの歩く力の弱さを感じていた。同じくパドックで笠松時代の調教師であった鷲見が近藤からオグリキャップの状態を見るよう頼まれ、「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」と答えている。鷲見はまた、レース後にオグリキャップを訪ねた時の印象について「爪がすり減って、休ませなかったらパンクしてしまう所まで来ていた」と述べている。レース後には近藤や辻本の見解も変化し、近藤は「負けた原因はテキ(瀬戸口調教師)も辻本助手もわかっている。元気そうに見えてもやはり生き物だから」と述べ、オグリキャップに疲れがあった状態で出走させてしまったことを認めた。辻本も「少しは疲れはあったと思う」と認めて「ここまで本当によく頑張ってくれた」とオグリキャップの苦労を称えた。南井克巳も有馬記念直後のインタビューで、敗因は前に行きすぎた事かもしれないとしつつ、「追い切りがこの馬にしては物足りない気もした」と語った。南井は2010年7月29日に行われた「お別れ会」での挨拶の場において、この年のローテーションを回顧し、「天性のタフな資質に、厩舎の力が加わったからこそ、ああいうローテーションでも状態が維持できたのでしょう」と述べている。
一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている。
有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。1月22日にはアーリントンミリオンステークスの出走登録を行った。
オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された。この競走では武豊が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。
続く宝塚記念では武がスーパークリークへの騎乗を選択したため、岡潤一郎が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫を発症、7月12日にはアーリントンミリオンステークスへの出走登録が取り消され、7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。
陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定し、このレースでは増沢末夫が鞍上を務めたが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた(レースに関する詳細については第10回ジャパンカップを参照)。
ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、オグリキャップは「輝きを失ったヒーロー」「落ちた偶像」などと評されるようになった。さらに馬主の近藤に宛てた脅迫状が日本中央競馬会に届く事態にまで発展したが、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定し、また鞍上は安田記念以来となる武豊が騎乗して出走することが決まった。有馬記念のファン投票では14万6738票を集めて1位に支持された。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げるメジロライアンとホワイトストーンを抑えて1着でゴールインし、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。
限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。この現象についてライターの阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している。レース後に瀬戸口は「今の僕がこの馬に送るのは『ありがとう』の一言に尽きます」と語った(レースに関する詳細については「第35回有馬記念」参照)。
1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後、第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。
調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている。
精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。池江は撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。
それだけやない。馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。
池江によると、オグリキャップはテレビ取材のカメラに一日中追いかけられた事で「それまではカイバを食べている鼻先にカメラを近づけられても全然気にしていなかったのに、極端にカメラを怖がるようになってしまった」と述べている。
体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もパドックで跨った時の事について「あまり元気がないなという雰囲気でした」と、レース後には「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」とそれぞれ回顧している。作家の木村幸治は、レース前のパドックでオグリキャップを見た時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている。
しかし、厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ......」と囁きあったという。また小説家の高橋源一郎によると、有馬記念2日前の21日にサンケイスポーツ主催で催された「有馬記念前夜祭」に出席した際、打ち上げの席で野平祐二にオグリキャップの具合について訊ねたところ、野平は「私には悪いようには見えません。皆さんは色々おっしゃっていますが、私の見た限りでは、そんなに悪い状態には思えないのですよ」と答えたという。中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていたが大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた。
ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析し、笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いい時と比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントを全て引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した。武によると有馬記念では第3-4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は最後の直線入り口でオグリキャップの顔をわざと外に向けることで内にもたれることを防ぎつつ、左から鞭を入れることでうまく手前を替えさせることに成功した。
大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた条件戦(グッドラックハンデ)よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が折り合いを欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」とし、瀬戸慎一郎は「2着、3着に入った馬が、幾度となくジリ脚に泣いたメジロライアンとホワイトストーンであっただけに、相手関係にもかなり恵まれたといわなければならない」と述べ、また武豊が「調子は7、8分でも力が違います」と骨っぽい相手がいなかったことを匂わせるような発言をしていたといい、ペースが落ち着いて楽に追走できたことと「直線で素早く抜け出せる爆発的な瞬発力を持った馬」が出走していなかったことが大きかったと述べている。
武豊は1993年に同レースを振り返った際には「別に謙遜してるわけじゃなく、強い馬が走りやすいように走らせただけなんですよ。だから、勝っても驚きはしなかった。奇跡でも何でもないと思う」と語り、「あの馬の絶対能力がズバ抜けていた、というだけのことでしょうね。もしオグリがピークのデキだったら、ブッチぎって勝っていたでしょうね」と述べ、レース直後に受けたインタビューでは「強い馬は強いんです」というコメントを残している。
岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」、「想像以上に過酷な超スローペースで折り合いを保ち続けたオグリ。類稀なる精神力が生んだ勝利だ」と評している。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた。
1991年1月、オグリキャップの引退式が京都競馬場(13日)、笠松競馬場(15日)、東京競馬場(27日)の3箇所で行われた。
笠松競馬場での引退式翌日には1990年度のJRA賞の結果が発表され、オグリキャップは同年度の最優秀5歳以上牡馬、また記者投票180票中170票を獲得して年度代表馬に選出されたことが発表された。
引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで、所在地である岐阜県笠松町の当時の人口(2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる。この日、名鉄ではオグリキャップの顔入りプレートをつけて笠松駅に臨時停車する特急列車「オグリキャップ里帰り記念号」が2本運行され、また名鉄の主要駅ではオグリキャップの写真が付いた笠松駅までの記念乗車券も発売され、ほぼ完売した。オグリキャップは安藤勝己が騎乗して競馬場のコースを2周走行し、また岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した。東京競馬場での引退式では7万6000人のファンが集まり、武豊が騎乗して第35回有馬記念でのゼッケン「8番」を付けてコースを走行した。当日は東京競馬記者クラブ賞を受賞した瀬戸口勉、辻本光雄、池江敏郎の表彰式が行われた。各場での引退式においては、安西美穂子が作詞したバラード調の曲『オグリキャップの歌』(歌:YUKARI、作曲:青木美恵子)がBGMとして使用された。
引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。1991年1月28日に繋養先の優駿スタリオンステーションに到着。優駿スタリオンステーション到着時には300人以上が出席して歓迎セレモニーが行われて新冠町長が挨拶を行い、同夜にはテレビ番組『ニュースステーション』に生出演した。
種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった。当初は余勢をほぼ取らない方針だったものの、シンジケートに加入できなかった生産者・馬主がわずかに放出された株に殺到し、種付けシーズン直前の2月13日に行われたJSカンパニー主催のノミネーションセールでは、取引株の中で最高価格となる990万円の値が付いた。
3月12日にヤマタケダンサーを相手に初種付けを行い、翌日のスポーツ紙2紙の1面にはこの時の種付けを行っている写真がカラーで掲載された。ゴールデンウィーク中の5月5日にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた。オグリキャップの人気は種牡馬となった後も衰えず、優駿スタリオンステーション事務所には好物のニンジン、リンゴ、ハチミツが毎日届けられ、夏休みには見学のための観光バスが行列を作った。プレハブ建てのグッズショップも作られたが、すぐに手狭になったため豪華な店舗がオープンした。ライターの後藤正俊によると、新冠町がある日高地方は名所が少なく、それまで本州の観光客がほとんど訪れなかったが、オグリキャップが種牡馬入りしたことで地域経済に多大な影響をもたらしたという。同時にオグリキャップが種牡馬入りしたことをきっかけに競馬ファンが競走馬の「生涯」に興味を抱くようになり、競走馬育成ゲーム、POGを通じて競馬人気の沸騰につながったと述べている。
1994年に産駒がデビューし、JRA新種牡馬リーディングにおいては首位となったサンデーサイレンスに大きく水をあけられたものの、内国産種牡馬としては最上位となる6位にランクインし、アーニングインデックスは1.75を記録した。しかし、後述の喉嚢炎を発症したことがきっかけで年を経るごとに交配牝馬のレベルが徐々に低下し、シンジケートが再結成された1996年からは交配頭数も減少し、1998年にはわずか10頭にまで落ち込んだ。
1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱、咳、鼻水などの症状がみられるようになった。はじめは風邪と診断されたが、1か月が経過しても熱が下がらず、さらには飼い葉、水も飲み込めなくなるなど回復がみられず、精密検査の結果、喉嚢炎による咽頭麻痺と診断された。これを受けて8月からファンの見学は禁止となり、同月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する頸動脈が破れて馬房が血まみれになるほどの大量の出血を起こし、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットルの輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した。
1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。一時はダートグレード競走として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された。
2006年に2頭の繁殖牝馬と交配されたのを最後に種牡馬を事実上引退し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されていた。2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。2012年7月1日の金沢競馬の競走でアンドレアシェニエが予後不良となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した。
競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンステーションが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」、2005年4月29日と30日に笠松競馬場で行われた一般公開、2008年11月9日の「アジア競馬会議記念デー」に東京競馬場で行われた一般公開である。2010年5月1日より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された。
2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいたところを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた。オグリキャップ死亡のニュースは日本のみならず、共同通信を通じてイギリスの『レーシング・ポスト』などでも報じられた。優駿スタリオンステーションにはオグリキャップ死亡の真偽を確認しようというマスコミやファン、関係者からの問い合わせの電話が相次ぎ、翌日午前1時30分まで問い合わせが続いた。
オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。
7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、ファン、関係者ら800人が出席。土川健之JRA理事長が弔辞を述べ、全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。
第55回有馬記念が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。
一周忌となった2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された。
下記の内容は、netkeiba.comおよび『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)の情報に基づく。
産駒は1994年にデビューし、初年度産駒のオグリワン、アラマサキャップが中央競馬の重賞で2着し期待されたが、中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、リーディングサイアーでは最高成績が105位(中央競馬と地方競馬の総合)、血統登録された産駒は342頭であった。
唯一の後継種牡馬ノーザンキャップの産駒であるクレイドルサイアーが2013年に種牡馬登録されており、父系としてはかろうじて存続している。ノーザンキャップはクレイドルファームで種牡馬入りしたが生涯の種付け頭数はわずか2頭のみであり、そのうち1頭は不受胎となったため、クレイドルサイアーが唯一の産駒である。クレイドルサイアーは2戦してどちらも大敗、そのまま引退となったがその10年後となる2013年に突如種牡馬登録され、生まれ故郷のクレイドルファームに繋養された。クレイドルサイアーは2019年に5頭に種付けをしており、そのうちの1頭であるフォルキャップが2022年6月2日に門別競馬場でデビュー(4着)。同年9月29日には同競馬場で初勝利を挙げた。
繁殖入りした牝馬も少なく、34頭しかいない。2017年にラインミーティア(父メイショウボーラー、母の母の父がオグリキャップ)がアイビスサマーダッシュを勝利し、オグリキャップの血を引く馬としては初めて重賞を制覇した。しかし、34頭のうち産駒が繁殖牝馬となった馬もほとんどおらず、オグリキャップの血を引く繁殖牝馬は急激に減少している。
2020年10月にホワイトシスネ(母キョウワスピカ、母父オグリキャップ)がホッカイドウ競馬を登録抹消となり一旦はオグリキャップの孫世代の現役競走馬がいなくなった。その後、2021年4月にミンナノアイドルの産駒であるミンナノヒーロー(父ゴールドアリュール、母父オグリキャップ)が岩手競馬でデビュー。2021年5月に初勝利し、その後通算3勝目を挙げたが、同年7月20日の盛岡競馬第8競走で故障し、左第1指関節開放脱臼のため予後不良となり死亡した。
2021年6月19日、ミンナノアイドルの産駒であるレディアイコ(父モーリス、母父オグリキャップ)がJRAでデビューした(16着)。その後、岩手競馬を経て笠松競馬へ移籍したが調教中に骨折をして引退。身体が小さく繁殖入りも難しいということでヴェルサイユリゾートファームで功労馬として繋養されることになった。
ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒いことで知られていたが、オグリキャップは現3歳時に調教のために騎乗した河内洋と岡部幸雄が共に古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。岡部幸雄は1988年の有馬記念のレース後に「素晴らしい精神力だね。この馬は耳を立てて走るんだ。レースを楽しんでいるのかもしれない」と語り、1990年の有馬記念でスローペースの中で忍耐強く折り合いを保ち続けて勝利したことについて、「類稀なる精神力が生んだ勝利だ」と評したが、オグリキャップと対戦した競走馬の関係者からもオグリキャップの精神面を評価する声が多く挙がっている。オグリキャップに携わった者からは学習能力の高さなど、賢さ・利口さを指摘する声も多い。
オグリキャップはパドックで人を引く力が強く、中央競馬時代は全レースで厩務員の池江と調教助手の辻本が2人で手綱を持って周回していた。さらに力が強いことに加えて柔軟性も備えており、「普通の馬なら絶対に届かない場所」で尻尾の毛をブラッシングしていた厩務員の池江に噛みついたことがある。南井克巳と武豊は共に、オグリキャップの特徴として柔軟性を挙げている。
笠松在籍時の厩務員の塚本勝男は3歳時のオグリキャップを初めて見たとき、腿の内側に力があり下半身が馬車馬のようにガッシリしているという印象を受けたと述べている。最も河内洋によると、中央移籍当初のオグリキャップは前脚はしっかりしていたというものの、後脚がしっかりとしていなかった。河内はその点を考慮して後脚に負担をかけることを避けるためにゆっくりとスタートする方針をもって騎乗したため、後方からレースを進めることが多かったが、ニュージーランドT4歳Sに出走した際には後脚がかなりしっかりとしていたという。河内は後に「小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシや」と述べている。
オグリキャップの体力面について、競馬関係者からは故障しにくい点や故障から立ち直るタフさを評価する声が挙がっている。輸送時に体重が減りにくい体質でもあり、通常の競走馬が二時間程度の輸送で6キロから8キロ体重が減少するのに対し、1988年の有馬記念の前に美浦トレーニングセンターと中山競馬場を往復した上に同競馬場で調教を行った際に2キロしか体重が減少しなかった。オグリキャップは心臓や消化器官をはじめとする内臓も強く、普通の馬であればエンバクが未消化のまま糞として排出されることが多いものの、オグリキャップはエンバクの殻まで隈なく消化されていた。安藤勝己は、オグリキャップのタフさは心臓の強さからくるものだと述べている。獣医師の吉村秀之は、オグリキャップは中央競馬へ移籍してきた当初からスポーツ心臓を持っていたと証言している。
オグリキャップは走行時に馬場を掻き込む力が強く、その強さは調教中に馬場の地面にかかとをこすって出血したり、蹄鉄の磨滅が激しく頻繁に打ち替えられたために蹄が穴だらけになったことがあったほどであった。なお、栗東トレーニングセンター競走馬診療所の獣医師松本実は、5歳時に発症した右前脚の繋靭帯炎の原因を、生まれつき外向していた右脚で強く地面を掻き込むことを繰り返したことにあると分析している。
笠松在籍時の調教師鷲見昌勇は、調教のためにオグリキャップに騎乗した経験がある。その時の印象について鷲見は「筋肉が非常に柔らかく、フットワークにも無駄がなかった。車に例えるなら、スピードを上げれば重心が低くなる高級外車みたいな感じだよ」と感想を述べている。乗り味についても「他馬が軽トラックなら、(オグリキャップは)高級乗用車だ」と評し、「オグリキャップは全身がバネ。キャップが走ったらレースにならんて」と発言したこともある。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦は、「オグリキャップが走った四脚の足跡は一直線だった。軽いキャンターからスピードに乗るとき、ギアチェンジする瞬間の衝撃がすごかった」と述べている。オグリキャップは肢のキック力が強く、瞬発力の強さは一回の蹴りで前肢を目いっぱいに延ばし、浮くように跳びながら走るため、この走法によって普通の馬よりも20から30センチ前に出ることができた。一方で入厩当初は右前脚に骨膜炎を発症しており「馬場に出ると怖くてよう乗れん」という声もあった。
オグリキャップは首を良く使う走法で、沈むように首を下げ、前後にバランスを取りながら地面と平行に馬体を運んでいく走りから、笠松時代から「地を這う馬」と形容されることがあった。安藤勝己は秋風ジュニアのレース後、「重心が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという。瀬戸口勉もオグリキャップの走り方の特徴について、重心と首の位置が低いことを挙げている。
河内洋はオグリキャップのレースぶりについて、スピードタイプとは対照的な「グイッグイッと伸びる力タイプ」と評し、騎乗した当初からオグリキャップは「勝負所になると自ら上がっていくような感じで、もうオグリキャップ自身が競馬を知っていた」と述べている。また「一生懸命さがヒシヒシ伝わってくる馬」、「伸びきったかな、と思って追うと、そこからまた伸びてきよる」、「底力がある」とする一方、走る気を出し過ぎるところもあったとしている。一方でGIクラスを相手にした時のオグリキャップは抜け出すまでにモタつく面があるため多頭数のレースだとかなり不安が残る馬と分析し、「直線の入り口でスーッと行ける脚が欲しい」と要望していた。
河内の次に主戦騎手を務めた南井克巳は、オグリキャップを「力そのもの、パワーそのものを感じさせる馬」「どんなレースでもできる馬」「レースを知っている」と評し、1989年の毎日王冠のレース後には「この馬の勝負根性には本当に頭が下がる」と語った。同じく主戦騎手を務めたタマモクロスとの比較については「馬の強さではタマモクロスのほうが上だったんじゃないか」と語った一方で、「オグリキャップのほうが素直で非常に乗りやすい」と述べている。オグリキャップ引退後の1994年に自身が主戦騎手となってクラシック三冠を制したナリタブライアンにデビュー戦の直前期の調教で初めて騎乗した際には、その走りについて加速の仕方がオグリキャップに似ていると感じ、この時点で「これは走る」という感触を得ていたと述べている。
武豊によるとオグリキャップは右手前で走ることが好きで、左回りよりも右回りのコースのほうがスムーズに走れた。またコースの左右の回りを問わず、内側にもたれる癖があった。
野平祐二はオグリキャップの走り方について、「弾力性があり、追ってクックッと伸びる動き」が、自身が調教師として管理したシンボリルドルフとそっくりであると評した。
オグリキャップは休養明けのレースで好成績を挙げている。南井克巳はその理由として、オグリキャップはレース時には正直で手抜きを知らない性格であったことを挙げ、「間隔をあけてレースを使うとすごい瞬発力を発揮する」と述べている。一方で南井は、レース間隔が詰まると逆に瞬発力が鈍るとも述べている。
オグリキャップの距離適性について、河内は本来はマイラーであると述べている。毎日杯のレース後には「距離の2000mもこなしましたが、この馬に一番の似合いの距離は、前走のペガサスステークスのような1600メートル戦じゃないかな」とコメントし、「マイル戦では無敵だよ」と発言したこともある。同じく主戦騎手を務めていたサッカーボーイとの比較においては、「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」と述べている。岡部幸雄はベストは1600mで2500mがギリギリとし、瀬戸口勉は1988年の有馬記念に出走する前には血統からマイラーとみていたため、「2500mは長いのではないか」と感じ、後にベストの条件は1600mとし、マイル戦においては無敗だったため「マイルが一番強かったんじゃないかな」と述べている。競馬評論家の山野浩一は1989年のジャパンカップを世界レコードタイムで走った事を根拠に「オグリキャップをマイラー・タイプの馬と決めつけることはできない」と述べ、大川慶次郎は一見マイラーだが頭がよく、先天的なセンスに長けていたため長距離もこなせたと分析している。なお、父のダンシングキャップは一般的に「ダートの短距離血統」という評価をされていた。
鷲見昌勇はオグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている。安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬に「どえらい馬だね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」と言った。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすればフェートノーザンかワカオライデンのどちらか」と考えていた。
河内洋は初めて騎乗したペガサスステークスについて「とても長くいい脚を使えたし、これはかなり走りそうだと思ったよ。距離の融通も利きそうだったしね」と回顧し、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレース後に古馬との比較について問われた際、キャリアの違いはあったものの「この馬も相当の器だよ」とコメントした。自身が騎乗した4歳時のジャパンカップまではGIで勝利を挙げられなかったものの、次走の第33回有馬記念以降から長く厳しいレースをしながら最後まで丈夫に走り続けたことについて、「本当に野武士のような馬だったね」と述べている。
第33回有馬記念で騎乗した岡部幸雄は、オグリキャップとシンボリルドルフとを比較し、力を出す必要のない時に手を抜いて走ることができるかどうかの点で「オグリキャップは他の馬よりはそれができるけれど、ルドルフと比べるとまじめ過ぎる感じ」という評価を下し、また2000mから2200mがベスト距離のシンボリルドルフがオグリキャップのベスト距離である1600mで戦った場合についても、調教を通して短距離のペースに慣れさせることで勝つだろうと述べた。ただし岡部幸雄はオグリキャップの能力や環境の変化にすぐに馴染める精神力のタフさを高く評価し、アメリカでも必ず通用するとしてアメリカ遠征を強く勧めた。
南井克巳は初めて騎乗した京都4歳特別についてこの時にも強いと感じたが、オールカマーで騎乗した際には「本当に強い馬だなと感じましたね。とにかく力が抜けていました」と回顧し、自身が騎乗したレースの中で最も強さが出ていたレースとしてオールカマーを挙げている。自身がオグリキャップに騎乗したことについては「自分にとっても勉強になったし、瀬戸口先生がああいう馬を作られたことがすごいと思います」、「いろんないい馬に乗せていただきましたが、あれだけの馬に乗せてもらえて本当に良かったですよ」と述べている。
武豊は自身が騎乗するまでのオグリキャップに対して「にくいほど強い存在でしたし、あこがれの存在でもありました」と述べ、初めてコンビを組んだ安田記念は「自分でも乗っていて、ビックリするというか、あきれるくらいの強さでした」「当時海外遠征のプランもあったんですが、これなら十分通用するなという気持ちがありました」と回顧し、「どんな条件でも力を発揮するわけですから、競走馬としての総合能力は相当高かったと思います」と総評した。オグリキャップが自身に与えた影響についても「競馬の素晴らしさ、騎手という職業のすばらしさを感じさせてくれた馬です。オグリキャップに乗ることができたのは、自分にとって大きな財産です」と述べている。
大川慶次郎は、フジテレビが放送した第35回有馬記念の最後の直線でメジロライアンの競走馬名を連呼したことから競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」と評した。
競馬評論家の合田直弘は、日本国外においてアイドル的人気を博した競走馬との比較において「底辺から這い上がった馬である」「力量抜群ではあったが、一敗地にまみれることも少なくなかった」「最後の最後に極上のクライマックスが用意されていた」点で、オグリキャップに匹敵するのはシービスケットただ一頭であると述べている。
競馬ファンによる評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において2万7866票を獲得して第3位、2010年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第4位、2015年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では第3位に選ばれている。「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票においては、オグリキャップは第35回有馬記念が投票率73.6%を記録してベストレースに選ばれた。
競馬関係者による評価をみると、雑誌『Sports Graphic Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では第12位であった(第1位はシンザン)。同誌が同じく競馬関係者を対象に行った「最強馬アンケート 私が手がけた馬編」では瀬戸口のみがオグリキャップを挙げ、瀬戸口は「私の誇りです。」とコメントした。またシンザン、ハイセイコー、シンボリルドルフと共に、その時代に輝いた四大スーパーホースの1頭に選ばれている。2004年に『優駿』が行った「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」という特集の「年度別代表馬BEST10」において、オグリキャップは1980年代部門の第1位に選ばれた。
競馬関係者に競馬ファンの著名人を加えた評価では、雑誌『優駿増刊号 TURF』が1991年に行ったアンケートでは「マイラー部門」で第1位、「最強馬部門」で第5位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第2位(第1位はテンポイント)に選ばれている。また、日本馬主協会連合会が史誌『日本馬主協会連合会40年史』(2001年)の中で、登録馬主を対象に行ったアンケートでは、「一番印象に残る競走馬」の部門で第1位を獲得、「一番印象に残っているレース」の部門でも、ラストランの第35回有馬記念が第38回有馬記念(トウカイテイオー優勝)と同率での第1位(504票中19票)に選ばれた。「一番の名馬」部門では第5位(第1位はシンザン)、「一番好きな競走馬」部門では第9位(第1位はハイセイコー)だった。
競走馬名「オグリキャップ」の由来は、馬主の小栗が使用していた冠名「オグリ」に父ダンシングキャップの馬名の一部「キャップ」を加えたものである。
同馬の愛称としては「オグリ」が一般的だが、女性ファンの中には「オグリちゃん」、「オグリン」と呼ぶファンも存在し、その他「怪物」「新怪物」「白い怪物」「芦毛の怪物」と呼ばれた。またオグリキャップは前述のように生来食欲が旺盛で、「食べる競走馬」とも呼ばれた。
競走馬時代のオグリキャップの人気の高さについて、ライターの関口隆哉は「シンボリルドルフを軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評している。また岡部幸雄は「ハイセイコーを超えるほど」であったとしている(ハイセイコー#人気(ハイセイコーブーム)も参照)。
オグリキャップが人気を得た要因についてライターの市丸博司は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」「競馬ファンにもたらした感動は、恐らく同時代を過ごした者にしか理解できないものだろう」と述べ、山河拓也も市丸と同趣旨の見解を示している。斎藤修は、日本人が好む「田舎から裸一貫で出てきて都会で名をあげる」という立身出世物語に当てはまったことに加え、クラシックに出走することができないという挫折や、タマモクロス、イナリワン、スーパークリークというライバルとの対決がファンの共感を得たのだと分析している。お笑い芸人の明石家さんまは雑誌『サラブレッドグランプリ』のインタビューにおいて、オグリキャップについて「マル地馬で血統も良くない。それが中央に来て勝ち続ける。エリートが歩むクラシック路線から外されてね。ボクらみたいにイナカから出てきて東京で働いているもんにとっては希望の星ですよ」と述べている。
須田鷹雄は中央移籍3戦目のNZT4歳Sを7馬身差で圧勝して大きな衝撃を与えたことでオグリキャップは競馬人気の旗手を担うこととなったとし、その後有馬記念を優勝したことで競馬ブームの代名詞的存在となったと述べている。江面弘也は、5歳初戦のオールカマーでオグリキャップがパドックに姿を現しただけで拍手が沸き起こったことを振り返り、「後になって思えば、あれが『オグリキャップ・ブーム』の始まりだった」と回顧している。阿部珠樹は「オグリキャップのように、人の気持ちをグイグイ引っ張り、新しい場所に連れて行ってくれた馬はもう出ないのではないだろうか」と述べている。
調教師の瀬戸口勉は後に「自分の厩舎の馬だけではなく、日本中の競馬ファンの馬でもあった」と回顧し、オグリキャップが高松宮杯を勝ってからファンが増えていったことで「ファンの馬」と感じるようになったという。瀬戸口はオグリキャップはとにかく一生懸命に走ったことで、その点人気があったのではないかと述べている。
オグリキャップの人気は、ほぼ同時期にデビューした騎手の武豊の人気、JRAのCMによるイメージ戦略、およびバブル景気との相乗効果によって競馬ブームを巻き起こしたとされる。このブームは「第二次競馬ブーム」と呼ばれ、競馬の世界を通り越した社会現象と評されている。
第二次競馬ブームとオグリキャップの関係について、大川慶次郎は「競馬ブームを最終的に構築したのはオグリキャップだ」と評している。ライターの瀬戸慎一郎は、第二次競馬ブームの主役がオグリキャップであったのはいうまでもない、と述べている。
オグリキャップが中央競馬移籍後に出走したレースにおける馬券の売上額は、20レース中17レースで前年よりも増加し、単勝式の売上額は全てのレースで増加した。また、オグリキャップが出走した当日の競馬場への入場者数は、16レース中15レースで前年よりも増加した。中央競馬全体の年間の馬券売上額をみると、オグリキャップが笠松から移籍した1988年に2兆円に、引退した1990年に3兆円に、それぞれ初めて到達している。
なお、1988年の高松宮杯では馬券全体の売り上げは減少したものの、オグリキャップとランドヒリュウの枠連は中京競馬場の電光掲示板に売上票数が表示できないほどの売上額を記録した。第35回有馬記念では同年の東京優駿の売上額の397億3151万3500円を上回ってJRAレコードとなる480億3126万2100円を記録した。
オグリキャップ自身は出走した32レースのうち27レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。なお、中央競馬時代には12回単枠指定制度の適用を受けている。
第35回有馬記念のパドックにおいては47本の応援幕が張られたが、その中でもオグリキャップへの応援幕は20本張られ、全本数、1頭の馬が張り出した本数は共に史上最多を記録した。
第二次競馬ブーム期を中心にオグリキャップの人気に便乗する形で、様々な関連グッズが発売された。代表的なものはぬいぐるみで、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋が経営する会社が製造および販売を行い、大ヒット商品となった。初めてぬいぐるみが発売されたのは1989年の秋で、発売されてすぐに売り切れとなった。価格は、最も小柄な20センチメートルほどの商品で2000円、最も大きなサイズは4万円に設定された。売り上げは1989年10月の発売開始以降の1年間で160万個、金額に換算して60億円を記録し、最終的には300万個、クレーンゲーム用のものを含めると1100万個に及んだ。その後、競走馬のぬいぐるみは代表的な競馬グッズのひとつとなった(日本の競馬を参照)。ライターの山本徹美は、ぬいぐるみのブームが従来馬券愛好家が構成していた競馬ファンに騎手や競走馬を応援するために競馬場を訪れる層や女性ファンを取り込んだとしている。ぬいぐるみの他にも様々なグッズが発売されたが、売れ行きは全てのグッズも好調だった。
オグリキャップ没後の2022年10月、笠松競馬での冠レース「第1回オグリキャップ記念」に合わせて、カップ酒「オグリカップ」がお披露目された。笠松と同じ岐阜県の海津市にある酒販店の店主が、馬主だった小栗孝一との生前の約束を実現させたもので、製造は新澤醸造店(宮城県)に委託した。
『朝日新聞』のコラム『天声人語』はオグリキャップを「女性を競馬場に呼び込んだ立役者」と評している。競馬場においてはオグリキャップのぬいぐるみを抱いた若い女性が闊歩する姿が多くみられるようになり、パドックで女性ファンから厩務員の池江に声援が飛ぶこともあった。オグリキャップのファンの女性は「オグリギャル」と呼ばれた。
第35回有馬記念優勝後のオグリキャップは「日ごろ競馬とは縁がないアイドルタレントたちも、その走りを賛美するコメントをテレビ番組で口にし」「競馬に興味を持たない主婦たちでさえその名を知る」存在となった。当時の状況について競馬評論家の石川ワタルは、「あの頃が日本の競馬全盛時代だったのではないか。今後二度と訪れることのないような至福の競馬黄金時代だったのではないか」と回顧している。
一方で須田鷹雄は、優勝後の騒ぎが「オグリキャップの起こした奇跡を台なしに」してしまい、「それから後に残ったのは、虚像としてのオグリキャップだけではないか」としている。また山河拓也は「『オグリ=最後の有馬記念』みたいな語り方をされると、ちょっと待ってくれと言いたくなる」と述べている。武豊は1998年に受けたインタビューにおいて、同レースが「奇蹟」などと言われていることについて、「こんな言い方は失礼かもしれないけど、オグリよりも、あの時(翌1991年の有馬記念)のダイユウサクの脚のほうが『奇蹟』でしょう」と述べている。
第35回有馬記念はNHKとフジテレビが生放送し、ビデオリサーチの発表によると視聴率はそれぞれ11.7%と9.6%だった。前年の有馬記念はNHKが16.2%、フジテレビが10.4%を記録していたが、2局合わせた番組占拠率は50.3%を記録した。
オグリキャップの騎手は何度も交替した。以下、オグリキャップに騎乗した主な騎手と騎乗した経緯について記述する。
父・ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは「突然変異で生まれた」、もしくは「(2代父の)ネイティヴダンサーの隔世遺伝で生まれた競走馬である」と主張する者もいた。一方で血統評論家の山野浩一は、ダンシングキャップを「一発ある血統」と評し、ネイティヴダンサー系の種牡馬は時々大物を出すため、「オグリキャップに関しても、そういう金の鉱脈を掘り当てたんでしょう」と分析している。
母・ホワイトナルビーは現役時代は笠松で4勝を挙げ、産駒は全て競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母のクインナルビー(父:クモハタ)は1953年の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他にアンドレアモン、キョウエイマーチなどの重賞勝ち馬がいる。
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"text": "オグリキャップ(欧字名:Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬。",
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"text": "1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年度のJRA賞特別賞、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」「芦毛の怪物」など多数。",
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"text": "中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と騎手である武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。",
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"text": "競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことができず、2007年に種牡馬を引退。種牡馬引退後は同施設で功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。",
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"text": "オグリキャップの母・ホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。",
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"text": "1984年のホワイトナルビーの交配相手には、小栗によると当初はトウショウボーイが種付けされる予定だったが、種付け予定に空きがなかったため断念した。そこで小栗の意向により、笠松競馬で優れた種牡馬成績を残していたダンシングキャップが選ばれた。鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、小栗は「ダンシングキャップ産駒は絶対によく走る」という確信と、ホワイトナルビーがこれまでに出産していた5頭の産駒が大人しい性格だったため大丈夫だろうと感じ、最終的に提案が実現した。",
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"text": "なお、オグリキャップは仔分けの馬で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。",
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"text": "オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。",
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"text": "ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。",
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"text": "1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場に移り、3か月間馴致を施された。当時の美山育成牧場では、従業員の吉田謙治が1人で30頭あまりの馬の管理をしていたため全ての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で1頭だけで離れて過ごすことが多かったため吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。",
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"text": "当時のハツラツの印象について吉田は、賢くて大人しく人懐っこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという。食欲は稲葉牧場にいた頃と変わらず旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった。",
"title": "デビューまで"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1987年1月28日に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "5月19日のデビュー戦では能力試験で記録したタイムが評価されて2番人気に支持されたが、スタートで出遅れ、3コーナーで他馬に大きく外に振られる不利を受け、最後の直線でマーチトウショウにクビ差で追い込んだものの2着に敗れた。しかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した。結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。ハナ差で勝利した7戦目のジュニアクラウン以外の全てのレースで2着を2馬身以上引き離して勝利し、4歳初戦のゴールドジュニアを勝利して「笠松には凄い大物がいるらしい」という評判が立つようになった。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れをした。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」という。マーチトウショウに敗れた2戦はいずれも追い込んだが届かずといった内容で距離不足が理由だったため、「オグリは特急、他の馬は鈍行。出遅れがちょうどいいハンデ」と言われた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの蹄は蹄叉腐乱を起こしていた。オグリキャップは痛む蹄をほじられることを嫌がって脚を上げることも拒み続け、その後も立ち上がって暴れたりしたが、川瀬が蹄を掃除し、薬を付けて内側を焼いて3日ほどで完治した。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、マーチトウショウは1989年に中央競馬へ移籍したが勝利を挙げられず、その後、笠松へ戻って1戦に出走した後高知競馬へ移籍した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、特に中京競馬場の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信条を持っていたため、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれ、鞍上は佐橋の希望により河内洋に決まった。地方での快進撃は知られていたものの、当日の単勝オッズは2番人気であった。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。レースで実況を担当した杉本清は最後の直線で「これは噂にたがわない強さだ」と実況した。なお、この日中京競馬場で行われた中日新聞杯では佐橋が所有するトキノオリエントが優勝し、佐橋は中央競馬史上初となる同一馬主による地方出身馬の同日開催重賞制覇を達成している。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことでクラシック登録をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。このレースでは翌1989年の全戦に騎乗することとなる南井克巳が鞍上を務め、オグリキャップ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりに「断念ダービー」と言われていたニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した。鞍上に河内が復帰したが、この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていたが、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムは同レースのレースレコードを記録し、このタイムは前月に同じ東京芝1600mで行われた古馬GIの安田記念で優勝馬のニッポーテイオーが記録したタイムよりも0秒2速かったにもかかわらず、河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑 を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録)。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝中であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)。中央移籍後初黒星を喫したが、オグリキャップは天皇賞で初めて連対した4歳馬となった。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。レース後、次走の有馬記念で挽回を果たしたいと考えた佐橋は、瀬戸口を通じてこの時点で有馬記念での騎乗馬が決まっていなかった岡部幸雄を鞍上に希望し、瀬戸口を通じて騎乗依頼が出されたものの、岡部は「西(栗東)の馬はよくわからないから」と婉曲に断った。しかし瀬戸口が「一回だけ」という条件付きで依頼し、これを岡部が承知したことで有馬記念での騎乗が決まった。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位で出走が決まり、当日の単勝オッズもタマモクロスに次ぐ2番人気に支持された。瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、芦毛馬初の有馬記念優勝馬となった。作家の山口瞳は有馬記念の結果を受けて、「タマモクロスは日本一の馬、オグリキャップは史上最強の馬だ」といい、オグリキャップを称えた(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)。翌1989年1月10日には、1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した。厩務員の池江敏郎は、オグリキャップが寝藁を食べようとするほど食欲旺盛で太め残りとなるため、有馬記念前は汗取りをつけて調教していたと述べている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "前述のように、オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことでクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、日本中央競馬会に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。この事からオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。一方で毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。なお、前述のように1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度を導入した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄に脱税容疑がかかり、将来馬主登録を抹消される可能性が浮上した。これを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は翌1989年2月22日、近藤俊典へオグリキャップを売却した。売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。また、売却価格の高さも指摘された。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(ヒトのかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所(福島県いわき市)にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江敏郎が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマーで復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「\"怪物伝説\"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる。しかし、南井は前走のオールカマーの時のようなデキではなく、理由としては馬体重が前走から8kg増だったため体が重かったのではないかと分析している(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップに騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べ、またヤエノムテキが壁となって体勢を立て直してから外に持ち出して追い込まざるを得なくなったことが痛かったとしている(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨み、勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペースでレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "夕刊フジの記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "調教師の瀬戸口はマイルチャンピオンシップ後にジャパンカップにオグリキャップを出走させる際、このローテーションを巡って起きた議論に対し、「あの馬には常識は通用せんのや」と発言した。しかし、連闘に加えオールカマーに出走させたことについては「無理は少しあったと思います」と述べた。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。ただしジャパンカップでの調子自体については絶好調で「連闘の疲れなんてなかった」と述べている。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかしこの年最後の出走となった有馬記念では、近藤の主張に反してオグリキャップの体調に不安を感じる関係者もおり、パドックでは厩務員の池江がオグリキャップの歩く力の弱さを感じていた。同じくパドックで笠松時代の調教師であった鷲見が近藤からオグリキャップの状態を見るよう頼まれ、「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」と答えている。鷲見はまた、レース後にオグリキャップを訪ねた時の印象について「爪がすり減って、休ませなかったらパンクしてしまう所まで来ていた」と述べている。レース後には近藤や辻本の見解も変化し、近藤は「負けた原因はテキ(瀬戸口調教師)も辻本助手もわかっている。元気そうに見えてもやはり生き物だから」と述べ、オグリキャップに疲れがあった状態で出走させてしまったことを認めた。辻本も「少しは疲れはあったと思う」と認めて「ここまで本当によく頑張ってくれた」とオグリキャップの苦労を称えた。南井克巳も有馬記念直後のインタビューで、敗因は前に行きすぎた事かもしれないとしつつ、「追い切りがこの馬にしては物足りない気もした」と語った。南井は2010年7月29日に行われた「お別れ会」での挨拶の場において、この年のローテーションを回顧し、「天性のタフな資質に、厩舎の力が加わったからこそ、ああいうローテーションでも状態が維持できたのでしょう」と述べている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。1月22日にはアーリントンミリオンステークスの出走登録を行った。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された。この競走では武豊が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。",
"title": "競走馬時代"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "続く宝塚記念では武がスーパークリークへの騎乗を選択したため、岡潤一郎が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫を発症、7月12日にはアーリントンミリオンステークスへの出走登録が取り消され、7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定し、このレースでは増沢末夫が鞍上を務めたが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた(レースに関する詳細については第10回ジャパンカップを参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、オグリキャップは「輝きを失ったヒーロー」「落ちた偶像」などと評されるようになった。さらに馬主の近藤に宛てた脅迫状が日本中央競馬会に届く事態にまで発展したが、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定し、また鞍上は安田記念以来となる武豊が騎乗して出走することが決まった。有馬記念のファン投票では14万6738票を集めて1位に支持された。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げるメジロライアンとホワイトストーンを抑えて1着でゴールインし、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。この現象についてライターの阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している。レース後に瀬戸口は「今の僕がこの馬に送るのは『ありがとう』の一言に尽きます」と語った(レースに関する詳細については「第35回有馬記念」参照)。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後、第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。池江は撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "それだけやない。馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "池江によると、オグリキャップはテレビ取材のカメラに一日中追いかけられた事で「それまではカイバを食べている鼻先にカメラを近づけられても全然気にしていなかったのに、極端にカメラを怖がるようになってしまった」と述べている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もパドックで跨った時の事について「あまり元気がないなという雰囲気でした」と、レース後には「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」とそれぞれ回顧している。作家の木村幸治は、レース前のパドックでオグリキャップを見た時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "しかし、厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ......」と囁きあったという。また小説家の高橋源一郎によると、有馬記念2日前の21日にサンケイスポーツ主催で催された「有馬記念前夜祭」に出席した際、打ち上げの席で野平祐二にオグリキャップの具合について訊ねたところ、野平は「私には悪いようには見えません。皆さんは色々おっしゃっていますが、私の見た限りでは、そんなに悪い状態には思えないのですよ」と答えたという。中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていたが大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析し、笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いい時と比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントを全て引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した。武によると有馬記念では第3-4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は最後の直線入り口でオグリキャップの顔をわざと外に向けることで内にもたれることを防ぎつつ、左から鞭を入れることでうまく手前を替えさせることに成功した。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた条件戦(グッドラックハンデ)よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が折り合いを欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」とし、瀬戸慎一郎は「2着、3着に入った馬が、幾度となくジリ脚に泣いたメジロライアンとホワイトストーンであっただけに、相手関係にもかなり恵まれたといわなければならない」と述べ、また武豊が「調子は7、8分でも力が違います」と骨っぽい相手がいなかったことを匂わせるような発言をしていたといい、ペースが落ち着いて楽に追走できたことと「直線で素早く抜け出せる爆発的な瞬発力を持った馬」が出走していなかったことが大きかったと述べている。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "武豊は1993年に同レースを振り返った際には「別に謙遜してるわけじゃなく、強い馬が走りやすいように走らせただけなんですよ。だから、勝っても驚きはしなかった。奇跡でも何でもないと思う」と語り、「あの馬の絶対能力がズバ抜けていた、というだけのことでしょうね。もしオグリがピークのデキだったら、ブッチぎって勝っていたでしょうね」と述べ、レース直後に受けたインタビューでは「強い馬は強いんです」というコメントを残している。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」、「想像以上に過酷な超スローペースで折り合いを保ち続けたオグリ。類稀なる精神力が生んだ勝利だ」と評している。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1991年1月、オグリキャップの引退式が京都競馬場(13日)、笠松競馬場(15日)、東京競馬場(27日)の3箇所で行われた。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "笠松競馬場での引退式翌日には1990年度のJRA賞の結果が発表され、オグリキャップは同年度の最優秀5歳以上牡馬、また記者投票180票中170票を獲得して年度代表馬に選出されたことが発表された。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで、所在地である岐阜県笠松町の当時の人口(2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる。この日、名鉄ではオグリキャップの顔入りプレートをつけて笠松駅に臨時停車する特急列車「オグリキャップ里帰り記念号」が2本運行され、また名鉄の主要駅ではオグリキャップの写真が付いた笠松駅までの記念乗車券も発売され、ほぼ完売した。オグリキャップは安藤勝己が騎乗して競馬場のコースを2周走行し、また岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した。東京競馬場での引退式では7万6000人のファンが集まり、武豊が騎乗して第35回有馬記念でのゼッケン「8番」を付けてコースを走行した。当日は東京競馬記者クラブ賞を受賞した瀬戸口勉、辻本光雄、池江敏郎の表彰式が行われた。各場での引退式においては、安西美穂子が作詞したバラード調の曲『オグリキャップの歌』(歌:YUKARI、作曲:青木美恵子)がBGMとして使用された。",
"title": "競走馬時代"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。1991年1月28日に繋養先の優駿スタリオンステーションに到着。優駿スタリオンステーション到着時には300人以上が出席して歓迎セレモニーが行われて新冠町長が挨拶を行い、同夜にはテレビ番組『ニュースステーション』に生出演した。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった。当初は余勢をほぼ取らない方針だったものの、シンジケートに加入できなかった生産者・馬主がわずかに放出された株に殺到し、種付けシーズン直前の2月13日に行われたJSカンパニー主催のノミネーションセールでは、取引株の中で最高価格となる990万円の値が付いた。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "3月12日にヤマタケダンサーを相手に初種付けを行い、翌日のスポーツ紙2紙の1面にはこの時の種付けを行っている写真がカラーで掲載された。ゴールデンウィーク中の5月5日にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた。オグリキャップの人気は種牡馬となった後も衰えず、優駿スタリオンステーション事務所には好物のニンジン、リンゴ、ハチミツが毎日届けられ、夏休みには見学のための観光バスが行列を作った。プレハブ建てのグッズショップも作られたが、すぐに手狭になったため豪華な店舗がオープンした。ライターの後藤正俊によると、新冠町がある日高地方は名所が少なく、それまで本州の観光客がほとんど訪れなかったが、オグリキャップが種牡馬入りしたことで地域経済に多大な影響をもたらしたという。同時にオグリキャップが種牡馬入りしたことをきっかけに競馬ファンが競走馬の「生涯」に興味を抱くようになり、競走馬育成ゲーム、POGを通じて競馬人気の沸騰につながったと述べている。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1994年に産駒がデビューし、JRA新種牡馬リーディングにおいては首位となったサンデーサイレンスに大きく水をあけられたものの、内国産種牡馬としては最上位となる6位にランクインし、アーニングインデックスは1.75を記録した。しかし、後述の喉嚢炎を発症したことがきっかけで年を経るごとに交配牝馬のレベルが徐々に低下し、シンジケートが再結成された1996年からは交配頭数も減少し、1998年にはわずか10頭にまで落ち込んだ。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱、咳、鼻水などの症状がみられるようになった。はじめは風邪と診断されたが、1か月が経過しても熱が下がらず、さらには飼い葉、水も飲み込めなくなるなど回復がみられず、精密検査の結果、喉嚢炎による咽頭麻痺と診断された。これを受けて8月からファンの見学は禁止となり、同月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する頸動脈が破れて馬房が血まみれになるほどの大量の出血を起こし、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットルの輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。一時はダートグレード競走として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2006年に2頭の繁殖牝馬と交配されたのを最後に種牡馬を事実上引退し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されていた。2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。2012年7月1日の金沢競馬の競走でアンドレアシェニエが予後不良となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンステーションが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」、2005年4月29日と30日に笠松競馬場で行われた一般公開、2008年11月9日の「アジア競馬会議記念デー」に東京競馬場で行われた一般公開である。2010年5月1日より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいたところを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた。オグリキャップ死亡のニュースは日本のみならず、共同通信を通じてイギリスの『レーシング・ポスト』などでも報じられた。優駿スタリオンステーションにはオグリキャップ死亡の真偽を確認しようというマスコミやファン、関係者からの問い合わせの電話が相次ぎ、翌日午前1時30分まで問い合わせが続いた。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、ファン、関係者ら800人が出席。土川健之JRA理事長が弔辞を述べ、全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "第55回有馬記念が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "一周忌となった2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された。",
"title": "引退後"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "下記の内容は、netkeiba.comおよび『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)の情報に基づく。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "産駒は1994年にデビューし、初年度産駒のオグリワン、アラマサキャップが中央競馬の重賞で2着し期待されたが、中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、リーディングサイアーでは最高成績が105位(中央競馬と地方競馬の総合)、血統登録された産駒は342頭であった。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "唯一の後継種牡馬ノーザンキャップの産駒であるクレイドルサイアーが2013年に種牡馬登録されており、父系としてはかろうじて存続している。ノーザンキャップはクレイドルファームで種牡馬入りしたが生涯の種付け頭数はわずか2頭のみであり、そのうち1頭は不受胎となったため、クレイドルサイアーが唯一の産駒である。クレイドルサイアーは2戦してどちらも大敗、そのまま引退となったがその10年後となる2013年に突如種牡馬登録され、生まれ故郷のクレイドルファームに繋養された。クレイドルサイアーは2019年に5頭に種付けをしており、そのうちの1頭であるフォルキャップが2022年6月2日に門別競馬場でデビュー(4着)。同年9月29日には同競馬場で初勝利を挙げた。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "繁殖入りした牝馬も少なく、34頭しかいない。2017年にラインミーティア(父メイショウボーラー、母の母の父がオグリキャップ)がアイビスサマーダッシュを勝利し、オグリキャップの血を引く馬としては初めて重賞を制覇した。しかし、34頭のうち産駒が繁殖牝馬となった馬もほとんどおらず、オグリキャップの血を引く繁殖牝馬は急激に減少している。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2020年10月にホワイトシスネ(母キョウワスピカ、母父オグリキャップ)がホッカイドウ競馬を登録抹消となり一旦はオグリキャップの孫世代の現役競走馬がいなくなった。その後、2021年4月にミンナノアイドルの産駒であるミンナノヒーロー(父ゴールドアリュール、母父オグリキャップ)が岩手競馬でデビュー。2021年5月に初勝利し、その後通算3勝目を挙げたが、同年7月20日の盛岡競馬第8競走で故障し、左第1指関節開放脱臼のため予後不良となり死亡した。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2021年6月19日、ミンナノアイドルの産駒であるレディアイコ(父モーリス、母父オグリキャップ)がJRAでデビューした(16着)。その後、岩手競馬を経て笠松競馬へ移籍したが調教中に骨折をして引退。身体が小さく繁殖入りも難しいということでヴェルサイユリゾートファームで功労馬として繋養されることになった。",
"title": "成績"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒いことで知られていたが、オグリキャップは現3歳時に調教のために騎乗した河内洋と岡部幸雄が共に古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。岡部幸雄は1988年の有馬記念のレース後に「素晴らしい精神力だね。この馬は耳を立てて走るんだ。レースを楽しんでいるのかもしれない」と語り、1990年の有馬記念でスローペースの中で忍耐強く折り合いを保ち続けて勝利したことについて、「類稀なる精神力が生んだ勝利だ」と評したが、オグリキャップと対戦した競走馬の関係者からもオグリキャップの精神面を評価する声が多く挙がっている。オグリキャップに携わった者からは学習能力の高さなど、賢さ・利口さを指摘する声も多い。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップはパドックで人を引く力が強く、中央競馬時代は全レースで厩務員の池江と調教助手の辻本が2人で手綱を持って周回していた。さらに力が強いことに加えて柔軟性も備えており、「普通の馬なら絶対に届かない場所」で尻尾の毛をブラッシングしていた厩務員の池江に噛みついたことがある。南井克巳と武豊は共に、オグリキャップの特徴として柔軟性を挙げている。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "笠松在籍時の厩務員の塚本勝男は3歳時のオグリキャップを初めて見たとき、腿の内側に力があり下半身が馬車馬のようにガッシリしているという印象を受けたと述べている。最も河内洋によると、中央移籍当初のオグリキャップは前脚はしっかりしていたというものの、後脚がしっかりとしていなかった。河内はその点を考慮して後脚に負担をかけることを避けるためにゆっくりとスタートする方針をもって騎乗したため、後方からレースを進めることが多かったが、ニュージーランドT4歳Sに出走した際には後脚がかなりしっかりとしていたという。河内は後に「小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシや」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップの体力面について、競馬関係者からは故障しにくい点や故障から立ち直るタフさを評価する声が挙がっている。輸送時に体重が減りにくい体質でもあり、通常の競走馬が二時間程度の輸送で6キロから8キロ体重が減少するのに対し、1988年の有馬記念の前に美浦トレーニングセンターと中山競馬場を往復した上に同競馬場で調教を行った際に2キロしか体重が減少しなかった。オグリキャップは心臓や消化器官をはじめとする内臓も強く、普通の馬であればエンバクが未消化のまま糞として排出されることが多いものの、オグリキャップはエンバクの殻まで隈なく消化されていた。安藤勝己は、オグリキャップのタフさは心臓の強さからくるものだと述べている。獣医師の吉村秀之は、オグリキャップは中央競馬へ移籍してきた当初からスポーツ心臓を持っていたと証言している。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは走行時に馬場を掻き込む力が強く、その強さは調教中に馬場の地面にかかとをこすって出血したり、蹄鉄の磨滅が激しく頻繁に打ち替えられたために蹄が穴だらけになったことがあったほどであった。なお、栗東トレーニングセンター競走馬診療所の獣医師松本実は、5歳時に発症した右前脚の繋靭帯炎の原因を、生まれつき外向していた右脚で強く地面を掻き込むことを繰り返したことにあると分析している。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "笠松在籍時の調教師鷲見昌勇は、調教のためにオグリキャップに騎乗した経験がある。その時の印象について鷲見は「筋肉が非常に柔らかく、フットワークにも無駄がなかった。車に例えるなら、スピードを上げれば重心が低くなる高級外車みたいな感じだよ」と感想を述べている。乗り味についても「他馬が軽トラックなら、(オグリキャップは)高級乗用車だ」と評し、「オグリキャップは全身がバネ。キャップが走ったらレースにならんて」と発言したこともある。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦は、「オグリキャップが走った四脚の足跡は一直線だった。軽いキャンターからスピードに乗るとき、ギアチェンジする瞬間の衝撃がすごかった」と述べている。オグリキャップは肢のキック力が強く、瞬発力の強さは一回の蹴りで前肢を目いっぱいに延ばし、浮くように跳びながら走るため、この走法によって普通の馬よりも20から30センチ前に出ることができた。一方で入厩当初は右前脚に骨膜炎を発症しており「馬場に出ると怖くてよう乗れん」という声もあった。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは首を良く使う走法で、沈むように首を下げ、前後にバランスを取りながら地面と平行に馬体を運んでいく走りから、笠松時代から「地を這う馬」と形容されることがあった。安藤勝己は秋風ジュニアのレース後、「重心が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという。瀬戸口勉もオグリキャップの走り方の特徴について、重心と首の位置が低いことを挙げている。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "河内洋はオグリキャップのレースぶりについて、スピードタイプとは対照的な「グイッグイッと伸びる力タイプ」と評し、騎乗した当初からオグリキャップは「勝負所になると自ら上がっていくような感じで、もうオグリキャップ自身が競馬を知っていた」と述べている。また「一生懸命さがヒシヒシ伝わってくる馬」、「伸びきったかな、と思って追うと、そこからまた伸びてきよる」、「底力がある」とする一方、走る気を出し過ぎるところもあったとしている。一方でGIクラスを相手にした時のオグリキャップは抜け出すまでにモタつく面があるため多頭数のレースだとかなり不安が残る馬と分析し、「直線の入り口でスーッと行ける脚が欲しい」と要望していた。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "河内の次に主戦騎手を務めた南井克巳は、オグリキャップを「力そのもの、パワーそのものを感じさせる馬」「どんなレースでもできる馬」「レースを知っている」と評し、1989年の毎日王冠のレース後には「この馬の勝負根性には本当に頭が下がる」と語った。同じく主戦騎手を務めたタマモクロスとの比較については「馬の強さではタマモクロスのほうが上だったんじゃないか」と語った一方で、「オグリキャップのほうが素直で非常に乗りやすい」と述べている。オグリキャップ引退後の1994年に自身が主戦騎手となってクラシック三冠を制したナリタブライアンにデビュー戦の直前期の調教で初めて騎乗した際には、その走りについて加速の仕方がオグリキャップに似ていると感じ、この時点で「これは走る」という感触を得ていたと述べている。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "武豊によるとオグリキャップは右手前で走ることが好きで、左回りよりも右回りのコースのほうがスムーズに走れた。またコースの左右の回りを問わず、内側にもたれる癖があった。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "野平祐二はオグリキャップの走り方について、「弾力性があり、追ってクックッと伸びる動き」が、自身が調教師として管理したシンボリルドルフとそっくりであると評した。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップは休養明けのレースで好成績を挙げている。南井克巳はその理由として、オグリキャップはレース時には正直で手抜きを知らない性格であったことを挙げ、「間隔をあけてレースを使うとすごい瞬発力を発揮する」と述べている。一方で南井は、レース間隔が詰まると逆に瞬発力が鈍るとも述べている。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "オグリキャップの距離適性について、河内は本来はマイラーであると述べている。毎日杯のレース後には「距離の2000mもこなしましたが、この馬に一番の似合いの距離は、前走のペガサスステークスのような1600メートル戦じゃないかな」とコメントし、「マイル戦では無敵だよ」と発言したこともある。同じく主戦騎手を務めていたサッカーボーイとの比較においては、「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」と述べている。岡部幸雄はベストは1600mで2500mがギリギリとし、瀬戸口勉は1988年の有馬記念に出走する前には血統からマイラーとみていたため、「2500mは長いのではないか」と感じ、後にベストの条件は1600mとし、マイル戦においては無敗だったため「マイルが一番強かったんじゃないかな」と述べている。競馬評論家の山野浩一は1989年のジャパンカップを世界レコードタイムで走った事を根拠に「オグリキャップをマイラー・タイプの馬と決めつけることはできない」と述べ、大川慶次郎は一見マイラーだが頭がよく、先天的なセンスに長けていたため長距離もこなせたと分析している。なお、父のダンシングキャップは一般的に「ダートの短距離血統」という評価をされていた。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "鷲見昌勇はオグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている。安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬に「どえらい馬だね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」と言った。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすればフェートノーザンかワカオライデンのどちらか」と考えていた。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "河内洋は初めて騎乗したペガサスステークスについて「とても長くいい脚を使えたし、これはかなり走りそうだと思ったよ。距離の融通も利きそうだったしね」と回顧し、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレース後に古馬との比較について問われた際、キャリアの違いはあったものの「この馬も相当の器だよ」とコメントした。自身が騎乗した4歳時のジャパンカップまではGIで勝利を挙げられなかったものの、次走の第33回有馬記念以降から長く厳しいレースをしながら最後まで丈夫に走り続けたことについて、「本当に野武士のような馬だったね」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
},
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"paragraph_id": 100,
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"text": "第33回有馬記念で騎乗した岡部幸雄は、オグリキャップとシンボリルドルフとを比較し、力を出す必要のない時に手を抜いて走ることができるかどうかの点で「オグリキャップは他の馬よりはそれができるけれど、ルドルフと比べるとまじめ過ぎる感じ」という評価を下し、また2000mから2200mがベスト距離のシンボリルドルフがオグリキャップのベスト距離である1600mで戦った場合についても、調教を通して短距離のペースに慣れさせることで勝つだろうと述べた。ただし岡部幸雄はオグリキャップの能力や環境の変化にすぐに馴染める精神力のタフさを高く評価し、アメリカでも必ず通用するとしてアメリカ遠征を強く勧めた。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "南井克巳は初めて騎乗した京都4歳特別についてこの時にも強いと感じたが、オールカマーで騎乗した際には「本当に強い馬だなと感じましたね。とにかく力が抜けていました」と回顧し、自身が騎乗したレースの中で最も強さが出ていたレースとしてオールカマーを挙げている。自身がオグリキャップに騎乗したことについては「自分にとっても勉強になったし、瀬戸口先生がああいう馬を作られたことがすごいと思います」、「いろんないい馬に乗せていただきましたが、あれだけの馬に乗せてもらえて本当に良かったですよ」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "武豊は自身が騎乗するまでのオグリキャップに対して「にくいほど強い存在でしたし、あこがれの存在でもありました」と述べ、初めてコンビを組んだ安田記念は「自分でも乗っていて、ビックリするというか、あきれるくらいの強さでした」「当時海外遠征のプランもあったんですが、これなら十分通用するなという気持ちがありました」と回顧し、「どんな条件でも力を発揮するわけですから、競走馬としての総合能力は相当高かったと思います」と総評した。オグリキャップが自身に与えた影響についても「競馬の素晴らしさ、騎手という職業のすばらしさを感じさせてくれた馬です。オグリキャップに乗ることができたのは、自分にとって大きな財産です」と述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "大川慶次郎は、フジテレビが放送した第35回有馬記念の最後の直線でメジロライアンの競走馬名を連呼したことから競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」と評した。",
"title": "特徴・評価"
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"text": "競馬評論家の合田直弘は、日本国外においてアイドル的人気を博した競走馬との比較において「底辺から這い上がった馬である」「力量抜群ではあったが、一敗地にまみれることも少なくなかった」「最後の最後に極上のクライマックスが用意されていた」点で、オグリキャップに匹敵するのはシービスケットただ一頭であると述べている。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "競馬ファンによる評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において2万7866票を獲得して第3位、2010年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第4位、2015年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では第3位に選ばれている。「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票においては、オグリキャップは第35回有馬記念が投票率73.6%を記録してベストレースに選ばれた。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "競馬関係者による評価をみると、雑誌『Sports Graphic Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では第12位であった(第1位はシンザン)。同誌が同じく競馬関係者を対象に行った「最強馬アンケート 私が手がけた馬編」では瀬戸口のみがオグリキャップを挙げ、瀬戸口は「私の誇りです。」とコメントした。またシンザン、ハイセイコー、シンボリルドルフと共に、その時代に輝いた四大スーパーホースの1頭に選ばれている。2004年に『優駿』が行った「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」という特集の「年度別代表馬BEST10」において、オグリキャップは1980年代部門の第1位に選ばれた。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "競馬関係者に競馬ファンの著名人を加えた評価では、雑誌『優駿増刊号 TURF』が1991年に行ったアンケートでは「マイラー部門」で第1位、「最強馬部門」で第5位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第2位(第1位はテンポイント)に選ばれている。また、日本馬主協会連合会が史誌『日本馬主協会連合会40年史』(2001年)の中で、登録馬主を対象に行ったアンケートでは、「一番印象に残る競走馬」の部門で第1位を獲得、「一番印象に残っているレース」の部門でも、ラストランの第35回有馬記念が第38回有馬記念(トウカイテイオー優勝)と同率での第1位(504票中19票)に選ばれた。「一番の名馬」部門では第5位(第1位はシンザン)、「一番好きな競走馬」部門では第9位(第1位はハイセイコー)だった。",
"title": "特徴・評価"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "競走馬名「オグリキャップ」の由来は、馬主の小栗が使用していた冠名「オグリ」に父ダンシングキャップの馬名の一部「キャップ」を加えたものである。",
"title": "特徴・評価"
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{
"paragraph_id": 109,
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"text": "同馬の愛称としては「オグリ」が一般的だが、女性ファンの中には「オグリちゃん」、「オグリン」と呼ぶファンも存在し、その他「怪物」「新怪物」「白い怪物」「芦毛の怪物」と呼ばれた。またオグリキャップは前述のように生来食欲が旺盛で、「食べる競走馬」とも呼ばれた。",
"title": "特徴・評価"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "競走馬時代のオグリキャップの人気の高さについて、ライターの関口隆哉は「シンボリルドルフを軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評している。また岡部幸雄は「ハイセイコーを超えるほど」であったとしている(ハイセイコー#人気(ハイセイコーブーム)も参照)。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 111,
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"text": "オグリキャップが人気を得た要因についてライターの市丸博司は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」「競馬ファンにもたらした感動は、恐らく同時代を過ごした者にしか理解できないものだろう」と述べ、山河拓也も市丸と同趣旨の見解を示している。斎藤修は、日本人が好む「田舎から裸一貫で出てきて都会で名をあげる」という立身出世物語に当てはまったことに加え、クラシックに出走することができないという挫折や、タマモクロス、イナリワン、スーパークリークというライバルとの対決がファンの共感を得たのだと分析している。お笑い芸人の明石家さんまは雑誌『サラブレッドグランプリ』のインタビューにおいて、オグリキャップについて「マル地馬で血統も良くない。それが中央に来て勝ち続ける。エリートが歩むクラシック路線から外されてね。ボクらみたいにイナカから出てきて東京で働いているもんにとっては希望の星ですよ」と述べている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "須田鷹雄は中央移籍3戦目のNZT4歳Sを7馬身差で圧勝して大きな衝撃を与えたことでオグリキャップは競馬人気の旗手を担うこととなったとし、その後有馬記念を優勝したことで競馬ブームの代名詞的存在となったと述べている。江面弘也は、5歳初戦のオールカマーでオグリキャップがパドックに姿を現しただけで拍手が沸き起こったことを振り返り、「後になって思えば、あれが『オグリキャップ・ブーム』の始まりだった」と回顧している。阿部珠樹は「オグリキャップのように、人の気持ちをグイグイ引っ張り、新しい場所に連れて行ってくれた馬はもう出ないのではないだろうか」と述べている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "調教師の瀬戸口勉は後に「自分の厩舎の馬だけではなく、日本中の競馬ファンの馬でもあった」と回顧し、オグリキャップが高松宮杯を勝ってからファンが増えていったことで「ファンの馬」と感じるようになったという。瀬戸口はオグリキャップはとにかく一生懸命に走ったことで、その点人気があったのではないかと述べている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 114,
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"text": "オグリキャップの人気は、ほぼ同時期にデビューした騎手の武豊の人気、JRAのCMによるイメージ戦略、およびバブル景気との相乗効果によって競馬ブームを巻き起こしたとされる。このブームは「第二次競馬ブーム」と呼ばれ、競馬の世界を通り越した社会現象と評されている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 115,
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"text": "第二次競馬ブームとオグリキャップの関係について、大川慶次郎は「競馬ブームを最終的に構築したのはオグリキャップだ」と評している。ライターの瀬戸慎一郎は、第二次競馬ブームの主役がオグリキャップであったのはいうまでもない、と述べている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "オグリキャップが中央競馬移籍後に出走したレースにおける馬券の売上額は、20レース中17レースで前年よりも増加し、単勝式の売上額は全てのレースで増加した。また、オグリキャップが出走した当日の競馬場への入場者数は、16レース中15レースで前年よりも増加した。中央競馬全体の年間の馬券売上額をみると、オグリキャップが笠松から移籍した1988年に2兆円に、引退した1990年に3兆円に、それぞれ初めて到達している。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 117,
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"text": "なお、1988年の高松宮杯では馬券全体の売り上げは減少したものの、オグリキャップとランドヒリュウの枠連は中京競馬場の電光掲示板に売上票数が表示できないほどの売上額を記録した。第35回有馬記念では同年の東京優駿の売上額の397億3151万3500円を上回ってJRAレコードとなる480億3126万2100円を記録した。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "オグリキャップ自身は出走した32レースのうち27レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。なお、中央競馬時代には12回単枠指定制度の適用を受けている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "第35回有馬記念のパドックにおいては47本の応援幕が張られたが、その中でもオグリキャップへの応援幕は20本張られ、全本数、1頭の馬が張り出した本数は共に史上最多を記録した。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "第二次競馬ブーム期を中心にオグリキャップの人気に便乗する形で、様々な関連グッズが発売された。代表的なものはぬいぐるみで、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋が経営する会社が製造および販売を行い、大ヒット商品となった。初めてぬいぐるみが発売されたのは1989年の秋で、発売されてすぐに売り切れとなった。価格は、最も小柄な20センチメートルほどの商品で2000円、最も大きなサイズは4万円に設定された。売り上げは1989年10月の発売開始以降の1年間で160万個、金額に換算して60億円を記録し、最終的には300万個、クレーンゲーム用のものを含めると1100万個に及んだ。その後、競走馬のぬいぐるみは代表的な競馬グッズのひとつとなった(日本の競馬を参照)。ライターの山本徹美は、ぬいぐるみのブームが従来馬券愛好家が構成していた競馬ファンに騎手や競走馬を応援するために競馬場を訪れる層や女性ファンを取り込んだとしている。ぬいぐるみの他にも様々なグッズが発売されたが、売れ行きは全てのグッズも好調だった。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "オグリキャップ没後の2022年10月、笠松競馬での冠レース「第1回オグリキャップ記念」に合わせて、カップ酒「オグリカップ」がお披露目された。笠松と同じ岐阜県の海津市にある酒販店の店主が、馬主だった小栗孝一との生前の約束を実現させたもので、製造は新澤醸造店(宮城県)に委託した。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 122,
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"text": "『朝日新聞』のコラム『天声人語』はオグリキャップを「女性を競馬場に呼び込んだ立役者」と評している。競馬場においてはオグリキャップのぬいぐるみを抱いた若い女性が闊歩する姿が多くみられるようになり、パドックで女性ファンから厩務員の池江に声援が飛ぶこともあった。オグリキャップのファンの女性は「オグリギャル」と呼ばれた。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "第35回有馬記念優勝後のオグリキャップは「日ごろ競馬とは縁がないアイドルタレントたちも、その走りを賛美するコメントをテレビ番組で口にし」「競馬に興味を持たない主婦たちでさえその名を知る」存在となった。当時の状況について競馬評論家の石川ワタルは、「あの頃が日本の競馬全盛時代だったのではないか。今後二度と訪れることのないような至福の競馬黄金時代だったのではないか」と回顧している。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 124,
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"text": "一方で須田鷹雄は、優勝後の騒ぎが「オグリキャップの起こした奇跡を台なしに」してしまい、「それから後に残ったのは、虚像としてのオグリキャップだけではないか」としている。また山河拓也は「『オグリ=最後の有馬記念』みたいな語り方をされると、ちょっと待ってくれと言いたくなる」と述べている。武豊は1998年に受けたインタビューにおいて、同レースが「奇蹟」などと言われていることについて、「こんな言い方は失礼かもしれないけど、オグリよりも、あの時(翌1991年の有馬記念)のダイユウサクの脚のほうが『奇蹟』でしょう」と述べている。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "第35回有馬記念はNHKとフジテレビが生放送し、ビデオリサーチの発表によると視聴率はそれぞれ11.7%と9.6%だった。前年の有馬記念はNHKが16.2%、フジテレビが10.4%を記録していたが、2局合わせた番組占拠率は50.3%を記録した。",
"title": "人気"
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"paragraph_id": 126,
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"text": "オグリキャップの騎手は何度も交替した。以下、オグリキャップに騎乗した主な騎手と騎乗した経緯について記述する。",
"title": "騎手"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "父・ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは「突然変異で生まれた」、もしくは「(2代父の)ネイティヴダンサーの隔世遺伝で生まれた競走馬である」と主張する者もいた。一方で血統評論家の山野浩一は、ダンシングキャップを「一発ある血統」と評し、ネイティヴダンサー系の種牡馬は時々大物を出すため、「オグリキャップに関しても、そういう金の鉱脈を掘り当てたんでしょう」と分析している。",
"title": "血統"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "母・ホワイトナルビーは現役時代は笠松で4勝を挙げ、産駒は全て競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母のクインナルビー(父:クモハタ)は1953年の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他にアンドレアモン、キョウエイマーチなどの重賞勝ち馬がいる。",
"title": "血統"
}
] |
オグリキャップは、日本の競走馬、種牡馬。 1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年度のJRA賞特別賞、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」「芦毛の怪物」など多数。 中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と騎手である武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。 競走馬引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことができず、2007年に種牡馬を引退。種牡馬引退後は同施設で功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢脛骨を骨折し、安楽死の処置が執られた。
|
{{馬齢旧}}
{{競走馬
|名 = オグリキャップ
|英 = {{lang|en|Oguri Cap}}<ref name="jbis" />
|画 = [[ファイル:Oguri Cap in Yushun Stallion station.jpg|250px]]
|説 = 1994年8月、[[優駿スタリオンステーション]]にて
|時 = [[1987年]] - [[1990年]]
|性 = [[牡馬|牡]]<ref name="jbis" />
|色 = [[芦毛]]<ref name="jbis" />
|種 = [[サラブレッド]]<ref name="jbis" />
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|調 = [[鷲見昌勇]]([[笠松競馬場|笠松]])<br />→[[瀬戸口勉]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]])<ref name="jbis" />
|厩 = 三浦裕一(笠松)<br />→川瀬友光(笠松)<br />→[[池江敏郎]](栗東)
|冠 = [[JRA賞年度代表馬]](1990年)<br />[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]](1988年)<br />[[JRA賞特別賞]](1989年)<br />[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]](1990年)<br />[[NARグランプリ特別表彰馬]](1990年)<br />[[JRA顕彰馬|顕彰馬]](1991年選出)
|績 = 32戦22勝<ref name="jbis" /><br />[[地方競馬|地方]]:12戦10勝<br />[[中央競馬|中央]]:20戦12勝
|金 = 9億1251万2000円<ref name="jbis" /><br />地方:2281万円<br />中央:8億8970万2000円
|medaltemplates =
{{MedalGI|[[有馬記念]]|1988年・1990年}}
{{MedalGI|[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]|1989年}}
{{MedalGI|[[安田記念]]|1990年}}
{{MedalGII|[[ニュージーランドトロフィー|NZT4歳S]]|1988年}}
{{MedalGII|[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]|1988年}}
{{MedalGII|[[毎日王冠]]|1988年・1989年}}
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{{MedalGIII|[[毎日杯]]|1988年}}
{{MedalGIII|[[京都4歳特別]]|1988年}}
{{MedalGIII|[[オールカマー]]|1989年}}
}}
'''オグリキャップ'''(欧字名:{{lang|en|Oguri Cap}}、[[1985年]][[3月27日]] - [[2010年]][[7月3日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000177650/ |title=オグリキャップ |work=JBISサーチ |publisher=[[日本軽種馬協会|公益社団法人日本軽種馬協会]] |accessdate=2021-12-09}}</ref>。
[[1987年]]5月に[[岐阜県]]の[[地方競馬]]・[[笠松競馬場]]でデビュー。8連勝、[[重賞]]5勝を含む12戦10勝を記録した後、[[1988年]]1月に[[中央競馬]]へ移籍し、重賞12勝(うち[[競馬の競走格付け|GI]]4勝)を記録した。[[1988年]]度の[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]<ref group="†" name="JRA">JRA賞の部門名はいずれも当時の名称。</ref>、[[1989年]]度の[[JRA賞特別賞]]<ref name="JRA" group="†" />、[[1990年]]度の[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|JRA賞最優秀5歳以上牡馬]]および年度代表馬<ref group="†" name="JRA"/>。[[1991年]]、[[JRA顕彰馬]]に選出。愛称は「オグリ」「[[芦毛]]の怪物」など多数。
中央競馬時代は[[スーパークリーク]]、[[イナリワン]]の二頭とともに「[[平成三強]]」と総称され、自身と[[騎手]]である[[武豊]]の活躍を中心として起こった[[競馬ファン#第二次競馬ブーム|第二次競馬ブーム]]期において<ref name="東邦出版(編)2005-131-132">[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、131-132頁。</ref>、[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]の立役者とされる[[ハイセイコー]]に比肩するとも評される高い人気を得た<ref name="関口2002-15">[[#関口2002|関口2002]]、15頁。</ref>。
競走馬引退後は[[北海道]][[新冠町]]の[[優駿スタリオンステーション]]で[[種牡馬]]となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことができず、[[2007年]]に種牡馬を引退。種牡馬引退後は同施設で功労馬として繋養されていたが、2010年7月3日に右後肢[[脛骨]]を骨折し、[[安楽死]]の処置が執られた。
== デビューまで ==
=== 誕生に至る経緯 ===
オグリキャップの母・[[ホワイトナルビー]]は競走馬時代に[[馬主]]の[[小栗孝一]]が所有し、笠松競馬場の[[調教師]][[鷲見昌勇]]が管理した。ホワイトナルビーが[[繁殖牝馬]]となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた<ref name="オグリキャップよ、永遠に-34">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、34頁。)</ref>。
[[1984年]]のホワイトナルビーの[[交配]]相手には、小栗によると当初は[[トウショウボーイ]]が種付けされる予定だったが、種付け予定に空きがなかったため断念した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、25頁。</ref>。そこで小栗の意向により、笠松競馬で優れた種牡馬成績を残していた[[ダンシングキャップ]]が選ばれた{{#tag:ref|小栗がダンシングキャップを希望した理由としては、[[東海地方|東海地区]]([[名古屋競馬場|名古屋]]・[[中京競馬場|中京]])の大レースを目標に定めたという理由や<ref name="オグリキャップよ、永遠に-34"/>、「笠松競馬向きのダートコースに強い産駒を」という思わくがあった<ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、21頁。</ref>。|group="†"}}。鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが<ref name="渡瀬1992-60-61"/>、小栗は「ダンシングキャップ産駒は絶対によく走る」という確信と、ホワイトナルビーがこれまでに出産していた5頭の産駒が大人しい性格だったため大丈夫だろうと感じ<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、16-17頁。</ref>、最終的に提案が実現した{{#tag:ref|ホワイトナルビーを繋養していた[[稲葉牧場]]については小栗に賛同して鷲見を説得した<ref name="渡瀬1992-60-61">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、60-61頁。</ref>とも、そもそもダンシングキャップとの交配を提案したのは稲葉牧場だった<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、101頁。</ref>とも、一旦は交配を躊躇したものの小栗に押し切られる形で同意した<ref name="山本1992-60-65">[[#山本1992|山本1992]]、60-65頁。</ref>ともされている。|group="†"}}。
なお、オグリキャップは[[繁殖牝馬#所有形態|仔分け]]の馬<ref group="†">具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の[[所有権]]を半分ずつ持つ取り決めがなされていた。</ref>で、出生後に小栗が稲葉牧場に対して[[セリ市 (競馬)|セリ市]]に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円<ref name="光栄出版部(編)1995a-103-104">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、103-104頁。</ref><ref>[[#競馬ボロボロ読本|競馬ボロボロ読本]]、102-103頁。</ref>とも500万円<ref name="山本1992-60-65"/>ともされる。
=== 誕生・生い立ち ===
==== 稲葉牧場時代 ====
オグリキャップは[[1985年]][[3月27日]]の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向<ref group="†>脚が外側を向いていること。</ref>しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、62頁。</ref>。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、63頁。</ref>。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄<ref group="†">[[蹄]]を削ること。</ref>を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、64頁。</ref>。
ホワイトナルビーは[[馬乳|乳]]の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは[[雑草]]もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した<ref name="渡瀬1992-66-67">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、66-67頁。</ref>{{#tag:ref|稲葉牧場は近くに[[鳧舞川]]が流れ、肥沃な土地に生える良質な青草が生えていた<ref name="光栄出版部(編)1995a-103-104"/>。稲葉牧場は土も良く、場長の稲葉不奈男はある時、専門家に土質を検査してもらったことがあり、検査結果は当時理論的に土の改良を重ねていた[[メジロ牧場]]の土壌とその成分がほとんど同じだった<ref name="渡瀬1992-66-67"/>。稲葉はハツラツが生まれる以前の生産馬に50から70戦のレースに出走しても脚元が丈夫で故障する馬が少なかったことについて、土質の良いことを挙げている<ref name="結城1989-31">[[#結城1989|結城1989]](『優駿増刊号 TURF HERO '88』、31頁。)</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|成長したオグリキャップは熱が出たりコズミ(筋肉痛)が出たりして[[獣医師]]に栄養剤を注射されても食欲が衰えることがなく、引退までに下痢をしたことは一度もなかった<ref name="山本1992-180-182">[[#山本1992|山本1992]]、180-182頁。</ref>。|group="†"}}。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった<ref name="渡瀬1992-66-67"/>。
==== 美山育成牧場時代 ====
[[1986年]]の10月、ハツラツは岐阜県[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]][[美山町 (岐阜県)|美山町]](現:[[山県市]])にあった美山育成牧場<ref group="†">笠松競馬場の調教師後藤義亮の妻が笠松競馬の馬主会の支援を受けて運営していた育成牧場。現在は閉鎖されている。</ref>に移り、3か月間[[競走馬#馴致|馴致]]を施された。当時の美山育成牧場では、従業員の吉田謙治が1人で30頭あまりの馬の管理をしていたため全ての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で1頭だけで離れて過ごすことが多かったため吉田の目を引き、調教を施されることが多かった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、84-85頁。</ref>。
当時のハツラツの印象について吉田は、賢くて大人しく人懐っこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、86頁。</ref>。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、88頁。</ref>。食欲は稲葉牧場にいた頃と変わらず旺盛で、その点に惹かれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、89頁。</ref>。
== 競走馬時代 ==
=== 笠松競馬時代 ===
[[ファイル:kasamatsu racecourse.jpg|thumb|300px|笠松競馬場]]
==== 競走内容 ====
[[1987年]]1月28日に笠松競馬場の[[鷲見昌勇]][[厩舎]]に入厩<ref>[[#山本1992|山本1992]]、69頁。</ref>。登録馬名は「'''オグリキヤツプ'''」<ref group="†">地方競馬では、[[1990年]]まで馬名について[[促音]]・[[拗音]]の使用が認められていなかったため。なお、発音は「オグリキャップ」である。</ref>。
[[ダート]]800[[メートル|m]]で行われた[[能力試験]]を51.1秒で走り合格した<ref name="光栄出版部(編)1995a-18">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、18頁。</ref>。
[[5月19日]]のデビュー戦では能力試験で記録したタイムが評価されて2番人気に支持されたが、スタートで出遅れ<ref name="オグリキャップよ、永遠に-34" />、3コーナーで他馬に大きく外に振られる不利を受け、最後の直線でマーチトウショウにクビ差で追い込んだものの2着に敗れた<ref name="オグリキャップよ、永遠に-34"/>。しかし調教師の鷲見はオグリキャップの走りが速い馬によく見られる重心の低い走りであることと、その後2連勝から実戦経験を積めば速くなる馬と考え、短いときは2週間間隔でレースに起用した<ref group="†">中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当し、その心臓がいわゆる[[スポーツ心臓]]であったと指摘している獣医師の吉村秀之は、[[日本放送協会|NHK]]『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』の特別企画「競走馬・オグリキャップ」におけるインタビューで、このハイペースの起用がオグリキャップにスポーツ心臓を与えることになったと推測している。</ref>。結局デビュー4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れたものの、5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した<ref>[[#山本1992|山本1992]]、106頁。</ref>{{#tag:ref|師走特別では3歳馬ながら古馬相手に6馬身差で勝利した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-35" />。|group="†"}}。ハナ差で勝利した7戦目のジュニアクラウン以外の全てのレースで2着を2馬身以上引き離して勝利し、4歳初戦のゴールドジュニアを勝利して「笠松には凄い大物がいるらしい」という評判が立つようになった<ref name="阿部2006-52"/>。
前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ<ref group="†">スタート時に[[競馬場#発馬機|ゲート]]を出るタイミングが遅れること。</ref>をした<ref name="光栄出版部(編)1995a-18"/><ref name="渡瀬1992-93-95"/>。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」という<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、69頁。</ref>。マーチトウショウに敗れた2戦はいずれも追い込んだが届かずといった内容で距離不足が理由だったため、「オグリは特急、他の馬は鈍行。出遅れがちょうどいいハンデ」と言われた<ref name="優駿を愛する会(編)1991-31-33">[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、31-33頁。</ref>。
また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替している{{#tag:ref|理由は三浦が人間関係に苦しんで厩務員を辞めたため<ref name="渡瀬1992-96-97">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、96-97頁。</ref>。|group="†"}}が、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップの[[蹄]]は蹄叉腐乱<ref group="†">蹄の内側が腐る疾病。</ref>を起こしていた。オグリキャップは痛む蹄をほじられることを嫌がって脚を上げることも拒み続け、その後も立ち上がって暴れたりしたが、川瀬が蹄を掃除し、薬を付けて内側を焼いて3日ほどで完治した。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している<ref name="東邦出版(編)2005-70-71">[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、70-71頁。</ref>{{#tag:ref|蹄叉腐乱は、蹄の手入れを怠ったことが原因で発症する疾病であるため、川瀬は三浦を気遣い、この事実をオグリキャップの引退からおよそ15年後の2005年に出版された『[[#東邦出版(編)2005|いま、再びオグリキャップ]]』において初めて明らかにした<ref name="東邦出版(編)2005-70-71"/>。|group="†"}}。
なお、マーチトウショウは1989年に中央競馬へ移籍したが勝利を挙げられず、その後、笠松へ戻って1戦に出走した後[[高知競馬場|高知競馬]]へ移籍した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、144-146頁。</ref>。
=== 佐橋五十雄への売却と中央競馬への移籍 ===
[[1988年]]1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し<ref name="渡瀬1992-117-118">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、117-118頁。</ref>、佐橋は[[中央競馬]]への移籍を決定した。
オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、特に中京競馬場<ref group="†">当時は地方と中央の共同使用。</ref>の[[芝]]コースで行われた8戦目の[[中京盃]]を優勝{{#tag:ref|走破タイムは中央競馬の[[馬齢|古馬]][[日本の競馬の競走体系#平地競走|500万下]]に相当するものであった<ref name="光栄出版部(編)1995a-108">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、108頁。</ref>。|group="†"}}して以降は申込みが殺到した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、107頁。</ref>。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た<ref name="光栄出版部(編)1995a-108"/>。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信条を持っていたため<ref name="オグリキャップよ、永遠に-60">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、60頁。)</ref>{{#tag:ref|小栗は1994年に行われた[[杉本清]]との対談で、ダンシングキャップ産駒の特徴である発馬の悪さを理由に1200万円での売却を検討したが、交渉がまとまらなかったと述べている<ref>{{Cite journal|和書|title=杉本清の競馬対談(116) ゲスト 小栗孝一さん|year=1994|month=11|journal=優駿|page=83|publisher=日本中央競馬会}}</ref>。|group="†"}}、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、112-115・118-119頁。</ref><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、20頁。</ref><ref name="オグリキャップよ、永遠に-35">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、35頁。)</ref>。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際には[[競馬場#賞典台|ウイナーズサークル]]での記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した{{#tag:ref|実際に小栗はオグリキャップが優勝したレースの記念撮影に加わっている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、404頁。</ref>。|group="†"}}<ref>[[#山本1992|山本1992]]、131-132頁。</ref>。
なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった[[東海ダービー]]制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなった[[ゴールドジュニア]]のレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した{{#tag:ref|ただし鷲見は中央移籍後のオグリキャップのレースは積極的に観戦しており、[[ペガサスステークス]]を除き全て競馬場で観戦した<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、80頁。</ref>。|group="†"}}<ref name="渡瀬1992-117-118"/>。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった[[装蹄師]]の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた<ref name="東邦出版(編)2005-70-71"/>。
=== 中央競馬時代 ===
==== 4歳(1988年) ====
[[ファイル:Tsutomu-Setoguchi20100710.jpg|thumb|180px|瀬戸口勉(2010年)]]
中央競馬移籍後のオグリキャップは[[栗東トレーニングセンター]]の調教師[[瀬戸口勉]]の厩舎で管理されることが決まり、[[1月28日]]に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された<ref>[[#山本1992|山本1992]]、135頁。</ref><ref name="ありがとうオグリキャップ-19"/>。
===== 競走内容 =====
[[ファイル:Hiroshi-Kawachi20111001.jpg|thumb|180px|河内洋(2011年)]]
オグリキャップの中央移籍後の初戦には[[ペガサスステークス]]が選ばれ、鞍上は佐橋の希望により[[河内洋]]に決まった<ref>[[#山本1992|山本1992]]、143-144頁。</ref><ref>[[#寺山・遠藤ほか1998|寺山・遠藤ほか1998]]、321頁。</ref>。地方での快進撃は知られていたものの、当日の単勝[[オッズ]]は2番人気であった<ref>[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、24頁。)</ref>。レースでは序盤は後方に控え、第3[[競馬場#日本の場合|コーナー]]から[[馬群]]の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく{{#tag:ref|調教師の瀬戸口は「期待半分不安半分」、[[厩務員]]の[[池江敏郎]]は「最初だし、[[競馬の競走格付け|GIII]]で2、3着に来てくれたら充分」、鞍上を務めた河内は「強いことは確かだと思った。でも、どこまで強いかは未知数」と思っていた<ref name="渡瀬1992-137-139"/>。|group="†"}}、優勝は予想を上回る結果だった<ref name="渡瀬1992-137-139">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、137-139頁。</ref>。レースで実況を担当した[[杉本清]]は最後の直線で「これは噂にたがわない強さだ」と実況した<ref>[[#狩野1991|狩野1991]]、49頁。</ref><ref name="杉本1995-118-119">[[#杉本1995|杉本1995]]、118-119頁。</ref>{{#tag:ref|杉本によると、レース前にオグリキャップに対して「なんでこんなに人気なんだろう。たかが笠松の馬じゃないか」という気持ちがあったといい、レースでも勝つのは[[ラガーブラック]]、オグリキャップは3、4着と予想し、杉本曰く「ナメて実況していました」というが、オグリキャップが直線で見せた脚を見て「これは自分の見方がまちがっていた、こいつは噂どおりだ」と思い知らされたという<ref name="杉本1995-118-119"/>。|group="†"}}。なお、この日中京競馬場で行われた[[中日新聞杯]]では佐橋が所有するトキノオリエントが優勝し、佐橋は中央競馬史上初となる同一馬主による地方出身馬の同日開催重賞制覇を達成している<ref>[[#山本1992|山本1992]]、149頁。</ref>。
移籍2戦目には[[毎日杯]]が選ばれた。このレースでは[[馬場状態]]が[[脚質#追い込み|追い込み]]馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった<ref name="渡瀬1992-142-145">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、142-145頁。</ref><ref name="光栄出版部(編)1995a-34-35"/>。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。
オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことで[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録{{#tag:ref|中央競馬の[[クラシック (競馬)|クラシック]]競走に出走するため前年に行う予備登録。総額40万円を第1回(3歳<現2歳>10月締め切り)に1万円、第2回(4歳<現3歳>1月締め切り)に3万円、残りは当該クラシック競走の開催2週間前の金曜日までに36万円と3分割で払う必要があるが、当時は地方所属馬は中央への移籍手続きを完了させたうえで、第1回締め切り時までに申し込まなければ、内国産馬であってもクラシック競走に出走することは不可能であった<ref>[https://enjoy.jbis.or.jp/column/ariyoshi/2017/009847.html#:~:text=%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%96%99%E3%81%AF%E7%AC%AC%EF%BC%91,%E5%A3%B0%E3%82%82%E5%87%BA%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%80%82 第79回「追加登録」]JBISサーチ・[[有吉正徳]]「第5コーナー・競馬余話」(2022年12月29日閲覧)</ref>。なお、中央競馬は[[1992年]]からクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入、地方所属馬も中央との交流促進の一環として[[1995年]]以後は地方在籍のままでクラシック出走を可能とした。|group="†"}}をしていなかったため<ref name="オグリキャップよ、永遠に-36"/>、前哨戦である毎日杯を優勝して[[日本の競馬の競走体系#本賞金(中央競馬)|本賞金]]額では優位に立ったものの[[皐月賞]]に登録できず、代わりに[[京都4歳特別]]に出走した。このレースでは翌1989年の全戦に騎乗することとなる[[南井克巳]]が鞍上を務め<ref group="†" name="Soccer Boy">河内は同じ日に東京競馬場で行われたNHK杯でサッカーボーイに騎乗した。</ref><ref>[[#結城1989|結城1989]](『優駿増刊号 TURF HERO '89』19頁。)</ref>、オグリキャップ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方から[[脚質#まくり|まくり]]をかけ、優勝した<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、36-37頁。</ref>。
クラシック登録をしていないオグリキャップは[[東京優駿]](日本ダービー)にも出走することができず、代わりに「断念ダービー」と言われていた[[ニュージーランドトロフィー]]4歳ステークスに出走した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-36"/>{{#tag:ref|なお、競馬[[報道機関|マスコミ]]の一部にはGIの[[宝塚記念]]で[[馬齢|古馬]]と戦うべきだという意見もあった<ref name="渡瀬1992-153">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、153頁。</ref>。|group="†"}}。鞍上に河内が復帰したが、この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていた<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、45頁。</ref>が、レースでは序盤は最後方に位置したが[[競馬場#日本の場合|向こう正面]]で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムは同レースのレース[[レコード (曖昧さ回避)|レコード]]を記録し、このタイムは前月に同じ東京芝1600mで行われた古馬GIの安田記念で優勝馬の[[ニッポーテイオー]]が記録したタイムよりも0秒2速かったにもかかわらず<ref>[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、37頁。)</ref>、河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、38-39頁。</ref>{{#tag:ref|河内はレース後に「まったく追っていないのに(1分)34秒フラットでしょ。びっくりですよ」と語っている<ref name="阿部2006-52">[[#阿部2006|阿部2006]](『優駿』2006年2月号、52頁。)</ref>。|group="†"}}(レースに関する詳細については[[第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]を参照)。
続く[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]では、中央競馬移籍後初<ref group="†">笠松競馬場時代には、3歳時に10戦目の師走特別で古馬と対戦している。</ref>の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となった[[ランドヒリュウ]]との対戦に[[競馬ファン|ファン]]の注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って[[脚質#逃げ|逃げ]]たのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、[[中京競馬場]]芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝{{#tag:ref|従来の記録は[[1972年]]に[[ハイセイコー]]が記録した4連勝<ref name="ありがとうオグリキャップ-23">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、23頁。</ref>。|group="†"}}を達成した。
高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップの[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]を検討し、[[毎日王冠]]を経て[[天皇賞(秋)]]でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは[[避暑]] <ref group="†">中央競馬において顕著な実績を残している競走馬は、[[夏]]期は避暑のために[[北海道]]へ移送されることが多い。</ref>を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、158-159頁。</ref>、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に[[東京競馬場]]に移送された<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、62-63頁。</ref>。
毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時のJRA重賞連勝記録である6連勝を達成した([[メジロラモーヌ]]と並ぶタイ記録<ref name="ありがとうオグリキャップ-23"/><ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、64頁。</ref><ref group="†">この記録は[[2000年]]に重賞8連勝を達成した[[テイエムオペラオー]]によって破られた後、2018年にJRA障害競走重賞を9連勝した[[オジュウチョウサン]]によって再度更新されている。</ref>)。当時[[競馬評論家]]として活動していた[[大橋巨泉]]は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した<ref name="渡瀬1992-165-166">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、165-166頁。</ref>。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた<ref name="渡瀬1992-165-166"/>(レースに関する詳細については[[第39回毎日王冠]]を参照)。
続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝中<ref group="†">400万下、400万特別、重賞5勝(うちGIの[[天皇賞(春)]]と宝塚記念)。</ref>であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い[[上がり (競馬)|上がり]]を記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になった[[タマモクロス]]を抜くことができず、2着に敗れた<ref>[[#瀬戸1998|瀬戸1998]]、109頁。</ref>(レースに関する詳細については[[第98回天皇賞]]を参照)。中央移籍後初黒星を喫したが、オグリキャップは天皇賞で初めて連対した4歳馬となった<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(1991]]、68-69頁。</ref>。
天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスに[[リベンジ]]を果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていた[[ジャパンカップ]]が選ばれ<ref name="渡瀬1992-178">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、178頁。</ref>、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された<ref name="渡瀬1992-178"/>。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で[[脚質#先行|先行]]策をとり<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、72-73・76頁。</ref>、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で[[折り合い]]を欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したが[[ペイザバトラー]]とタマモクロスを抜けず3着に敗れた。レース後、次走の有馬記念で挽回を果たしたいと考えた佐橋は、瀬戸口を通じてこの時点で有馬記念での騎乗馬が決まっていなかった[[岡部幸雄]]を鞍上に希望し、瀬戸口を通じて騎乗依頼が出されたものの、岡部は「西(栗東)の馬はよくわからないから」と婉曲に断った<ref name="山本1992-166">[[#山本1992|山本1992]]、166頁。</ref><ref>[[#寺山・遠藤ほか1999|寺山・遠藤ほか1999]]、323頁。</ref><ref name="山本2017-44-45">[[#山本2017|山本2017]](『優駿』2018年1月号、44-45頁。)</ref>。しかし瀬戸口が「一回だけ」という条件付きで依頼し、これを岡部が承知したことで有馬記念での騎乗が決まった<ref name="山本1992-166"/><ref name="山本2017-44-45"/><ref name="渡瀬1992-188-191">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、188-191頁。</ref>。
[[ファイル:Yukio-Okabe2010.jpg|thumb|180px|岡部幸雄(2010年)]]
有馬記念までの間は[[美浦トレーニングセンター]]で調整を行うこととなった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、186頁。</ref>{{#tag:ref|ただしレース10日前の[[12月15日]]には岡部の提案により、[[スクーリング (競馬)|スクーリング]]のために有馬記念が行われる[[中山競馬場]]で[[調教]]が行われた<ref name="渡瀬1992-188-191"/><ref name="山本2017-45">[[#山本2017|山本2017]](『優駿』2018年1月号、45頁。)</ref>。これは瀬戸口が岡部にオグリキャップが輸送しても体重が減らないこと、冬場は太る傾向があること、中山競馬場ではまだ未出走であることを伝えたところ、岡部が中山での調整を提案して実現した<ref>[[#寺山・遠藤ほか1998|寺山・遠藤ほか1998]]、324頁。</ref>。|group="†"}}。オグリキャップはタマモクロスに次ぐファン投票2位で出走が決まり、当日の単勝オッズもタマモクロスに次ぐ2番人気に支持された<ref name="山本2017-45"/>。瀬戸口はレース前に岡部に「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示し<ref>[[#狩野1991|狩野1991]]、66頁。</ref>、レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し{{#tag:ref|瀬戸口にとっても1973年3月に調教師免許を得て以来、初のGIの勝利であった<ref name="山本2017-45"/>。|group="†"}}、芦毛馬初の有馬記念優勝馬となった<ref>[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、27頁。</ref>。作家の[[山口瞳]]は有馬記念の結果を受けて、「タマモクロスは日本一の馬、オグリキャップは史上最強の馬だ」といい、オグリキャップを称えた<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、71頁。</ref>(レースに関する詳細については[[第33回有馬記念]]を参照)。翌1989年1月10日には、1988年度の[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出された<ref name="ありがとうオグリキャップ-19"/>。
タマモクロスを担当した調教助手の[[井高淳一]]と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、[[麻雀]]仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、レースに使っている馬には必要がない体を太らせるための成分が含まれており、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した<ref name="狩野1991-70">[[#狩野1991|狩野1991]]、70頁。</ref>。厩務員の池江敏郎は、オグリキャップが寝藁を食べようとするほど食欲旺盛で太め残りとなるため、有馬記念前は汗取り<ref group="†">馬体重を落とすために、鞍の下に毛布を掛ける等して発汗量を増やす工夫。</ref>をつけて調教していたと述べている<ref name="優駿1989-139">[[#『優駿』1989年2月号|『優駿』1989年2月号]]、139頁。</ref>。
=== クラシック登録 ===
前述のように、オグリキャップは初代馬主の小栗孝一が中央で走らせるつもりがなかったことでクラシック登録をしていなかったため<ref name="オグリキャップよ、永遠に-36"/>、[[中央競馬クラシック三冠]]競走には出走できなかった{{#tag:ref|小栗はオグリキャップの活躍後に中央の馬主資格を取得し、1994年には半妹・[[オグリローマン]]が[[桜花賞]]を優勝している<ref name="オグリキャップよ、永遠に-60"/>。|group="†"}}。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だった[[ヤエノムテキ]]が皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、[[日本中央競馬会]]に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが<ref name="渡瀬1992-142-145"/>、実現しなかった。この事からオグリキャップは[[マルゼンスキー]]以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた<ref>[[#結城1989|結城1989]](『優駿増刊号 TURF HERO '88』、20頁。)</ref><ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、150頁。</ref>。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え<ref name="渡瀬1992-153"/>、また「もしクラシックに出られたら、[[中央競馬クラシック三冠]]を獲っていただろう」とも述べている<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、103頁。</ref>。一方で毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった<ref name="光栄出版部(編)1995a-34-35">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、34-35頁。</ref>。なお、前述のように[[1992年]]から、中央競馬はクラシックの追加登録制度<ref group="†">事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度。この制度が制定された後、1999年[[皐月賞]]において[[テイエムオペラオー]]が追加登録制度を利用した競走馬として初めて[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]を制覇した。</ref>を導入した。
=== 近藤俊典への売却 ===
1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄に脱税容疑がかかり<ref name="渡辺(監修)2000-155"/>、将来馬主登録を抹消される可能性が浮上した<ref>[[#山本1992|山本1992]]、155-156頁。</ref><ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、162-163頁。</ref>。これを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は翌1989年2月22日<ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、99頁。</ref><ref>[[#小栗1994|小栗1994]]、73頁。</ref>、近藤俊典へオグリキャップを売却した{{#tag:ref|佐橋は一時、アメリカで馬主資格を取得してオグリキャップを移籍させることや、競走馬を引退させ種牡馬にすることも考えたが、断念した<ref name="有吉・栗原1991-96-98">[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、96-98頁。</ref>。|group="†"}}。売却額については当初、1年あたり3億であったとされた<ref name="有吉・栗原1991-99-101">[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、99-101頁。</ref><ref name="山本1992-174-176">[[#山本1992|山本1992]]、174-176頁。</ref>が、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、159頁。</ref><ref>[[#競馬ボロボロ読本|競馬ボロボロ読本]]、107頁。</ref>{{#tag:ref|なお、佐橋と近藤の間にはオグリキャップが種牡馬となった際に佐橋が近藤に対し何らかの利益を得るという口約束も交わされており、実際にオグリキャップが引退した後、佐橋の所有する種付け権1株が近藤に無償で譲渡された<ref name="渡瀬1992-203-204・470">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、203-204・470頁。</ref>。|group="†"}}。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており<ref name="渡瀬1992-203-204・470"/>、実態は[[馬主#名義貸し|名義貸し]]であり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた{{#tag:ref|山本徹美によると1989年のジャパンカップ終了後、近藤は佐橋に翌1990年の[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]について相談をしている<ref>[[#山本1992|山本1992]]、212-213頁。</ref>。|group="†"}}<ref name="有吉・栗原1991-99-101"/>。また、売却価格の高さも指摘された{{#tag:ref|なお、近藤は購入時点で24年間中央競馬の馬主資格を保持していたが一度も重賞を優勝したことがなく、どうしても中央競馬の重賞やGIを勝ちたいということが購入の動機としてあった<ref name="山本1992-174-176"/><ref name="有吉・栗原1991-99-101"/>。|group="†"}}<ref name="有吉・栗原1991-99-101"/>。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消された<ref name="渡瀬1992-203-204・470"/><ref name="有吉・栗原1991-96-98"/>が、近藤は自らの[[勝負服 (競馬)|勝負服]]の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、107頁。</ref>。
==== 5歳(1989年) ====
===== 競走内容 =====
陣営は1989年前半のローテーションとして、[[大阪杯]]、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節([[ヒト]]の[[かかと]]にあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に[[繋靭帯炎]]を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から[[競走馬総合研究所]]常磐支所([[福島県]][[いわき市]])にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った<ref>[[#山本1992|山本1992]]、178頁。</ref>。療養施設へは厩務員の池江敏郎<ref group="†">[[メジロマックイーン]]や[[ディープインパクト_(競走馬)|ディープインパクト]]などを管理した[[池江泰郎]]の兄。</ref>が同行し温泉での療養のほか[[プール]]での運動、[[超音波]]治療機による治療<ref group="†">超音波治療機による治療は以後、温泉療養施設以外の場所でも常に行われた。</ref>が行われた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、205-208頁。</ref>。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、210頁。</ref><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、102-103頁。</ref>。
[[ファイル:Katsumi-Minai20110604.jpg|thumb|180px|南井克巳(2011年)]]
オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、106頁。</ref>、9月の[[オールカマー]]で復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した[[南井克巳]]が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった<ref>[[#木村幸1997|木村幸1997]]、43頁。</ref>。
その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された<ref name="渡瀬1992-218-219">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、218頁。</ref>。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した<ref name="渡瀬1992-218-219"/>。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。[[写真判定]]の結果オグリキャップが[[着差 (競馬)|ハナ差]]で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、52-53頁。</ref><ref>[[#瀬戸1998|瀬戸1998]]、121頁。</ref>。しかし、南井は前走のオールカマーの時のようなデキではなく、理由としては馬体重が前走から8kg増だったため体が重かったのではないかと分析している<ref>[[#瀬戸1998|瀬戸1998]]、123頁。</ref>(レースに関する詳細については[[第40回毎日王冠]]を参照)。
天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出した[[スーパークリーク]]を交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップに騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べ<ref name="ありがとうオグリキャップ-42">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、42頁。</ref>、またヤエノムテキが壁となって体勢を立て直してから外に持ち出して追い込まざるを得なくなったことが痛かったとしている<ref>[[#瀬戸1998|瀬戸1998]]、126頁。</ref>(レースに関する詳細については[[第100回天皇賞]]を参照)。
続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く{{#tag:ref|騎乗した南井はレース後、「中距離のゆるい流れのレースばかり使っていたので、マイル戦の速い流れに苦労したのでしょう。」と回顧している<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、130頁。</ref>。|group="†"}}、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、237頁。</ref>、「届くはずがない」<ref name="サラブレ編集部(編)2007-220-229"/>と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した<ref>[[#阿部2006|阿部2006]](『優駿』2006年2月号、54頁。)</ref>。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨み、勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した<ref name="ありがとうオグリキャップ-42"/>(レースに関する詳細については[[第6回マイルチャンピオンシップ]]を参照)。
連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース<ref group="†">逃げた[[イブンベイ]]の1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8を記録した。</ref>でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコード<ref group="†">ただし、競馬における計時方法(計測開始時点が異なる)、計測単位(1/100秒〜1/5秒)などは国・州などによって異なる。</ref>である2分22秒2で走破したものの[[ホーリックス]]の2着に敗れた<ref group="†">同タイムで走破したのに敗れたことから、ホーリックスが[[南半球]]の[[オセアニア]]産馬であることに引っ掛けて「[[北半球]]最速馬」と言う呼び方をしたファンもいた。</ref>{{#tag:ref|このタイムは2005年のジャパンカップで[[アルカセット]]が更新するまで17年に渡って保持された<ref name="阿部2006-55">[[#阿部2006|阿部2006]](『優駿』2006年2月号、55頁。)</ref>。|group="†"}}(レースに関する詳細については[[第9回ジャパンカップ]]を参照)。
陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で[[顎]]を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、259-260頁。</ref>。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、273-274頁。</ref>(レースに関する詳細については[[第34回有馬記念]]を参照)。
[[夕刊フジ]]の記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。
{{Quotation|最後の最後で屈辱を味わったオグリキャップの場合は、それ以前に連闘でジャパンカップを使い、目いっぱいの惜敗に終わった過酷なステップが、土壇場で影響したといわざるをえない。|[[#木村幸1997|木村幸1997]]、46-47頁。}}
===== 1989年のローテーション =====
3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップの[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、[[ホースマン|競馬関係者]]は否定的ないし批判的であった{{#tag:ref|栗東トレーニングセンターの競走馬診療所に勤務していた獣医師の[[松本実]]は「京都で走って、東京へ輸送して、そしてすぐにレースに臨むというのは、馬にとっては相当にこたえること」であり、「常識的に考えればちょっと過酷」と述べた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、234頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|競馬評論家の大川慶次郎は、「ああ、オグリはもう今年で終わりだな」と思ったと述べている<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、112頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|[[著作家|ライター]]の藤井幸介は「無茶苦茶だ」、「人の欲にまみれた使い方だ」と陣営を非難した<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、56頁。</ref>。|group="†"}}。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた<ref>[[#山本1992|山本1992]]、201頁。</ref><ref>[[#瀬戸1997|瀬戸1997]]、[https://web.archive.org/web/20080112001440/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1985102167/story-5.html 第5話「悲壮な戦い」]</ref>。
調教師の瀬戸口はマイルチャンピオンシップ後にジャパンカップにオグリキャップを出走させる際、このローテーションを巡って起きた議論に対し、「あの馬には常識は通用せんのや」と発言した<ref>[[#吉川2003|吉川2003]]、70頁。</ref>。しかし、連闘に加えオールカマーに出走させたことについては「無理は少しあったと思います」と述べた<ref name="渡瀬1992-239">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、239頁。</ref>。また連闘が決定した経緯について[[調教助手]]の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、240頁。</ref>。ただしジャパンカップでの調子自体については絶好調で「連闘の疲れなんてなかった」と述べている<ref name="狩野1991-82">[[#狩野1991|狩野1991]]、82頁。</ref>。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている<ref name="渡瀬1992-239"/>。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した<ref name="渡瀬1992-239"/>。
しかしこの年最後の出走となった有馬記念では、近藤の主張に反してオグリキャップの体調に不安を感じる関係者もおり、[[パドック]]では厩務員の池江がオグリキャップの歩く力の弱さを感じていた。同じくパドックで笠松時代の調教師であった鷲見が近藤からオグリキャップの状態を見るよう頼まれ、「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」と答えている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、265-266頁。</ref>。鷲見はまた、レース後にオグリキャップを訪ねた時の印象について「爪がすり減って、休ませなかったらパンクしてしまう所まで来ていた」と述べている<ref name="狩野1991-86">[[#狩野1991|狩野1991]]、86頁。</ref>。レース後には近藤や辻本の見解も変化し、近藤は「負けた原因はテキ(瀬戸口調教師)も辻本助手もわかっている。元気そうに見えてもやはり生き物だから」と述べ、オグリキャップに疲れがあった状態で出走させてしまったことを認めた<ref name="渡瀬1992-273-274">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、273-274頁。</ref>。辻本も「少しは疲れはあったと思う」と認めて「ここまで本当によく頑張ってくれた」とオグリキャップの苦労を称えた<ref name="渡瀬1992-273-274"/>。南井克巳も有馬記念直後のインタビューで、敗因は前に行きすぎた事かもしれないとしつつ、「追い切りがこの馬にしては物足りない気もした」と語った<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、209頁。</ref>。南井は2010年7月29日に行われた「お別れ会」での挨拶の場において、この年のローテーションを回顧し、「天性のタフな資質に、厩舎の力が加わったからこそ、ああいうローテーションでも状態が維持できたのでしょう」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、45頁。)</ref>。
==== 6歳(1990年) ====
===== 競走内容 =====
一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている<ref name="ありがとうオグリキャップ-46">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、46頁。</ref>。
有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに<ref>[[#木村幸1997|木村幸1997]]、47頁。</ref>、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、275頁。</ref>。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で行われるGI競走[[アーリントンミリオンステークス]]に出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった<ref name="渡瀬1992-307-308">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、307-308頁。</ref>{{#tag:ref|なお、2代目の馬主であった佐橋はオグリキャップの賞金獲得額を世界歴代1位にすることを目標とし、「馬に対する馬主の責任」と述べていた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、123頁。</ref>。また3代目の馬主であった近藤も、10億円をクリアすれば世界一として国際的に認められると述べ、また「ルドルフに強さではかないません。でも、ルドルフができなかったことはやってみたい。ぜひ、アメリカで勝たせたい」と述べた<ref name="渡瀬1992-307-308"/><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、151頁。</ref>。|group="†"}}。1月22日にはアーリントンミリオンステークスの出走登録を行った<ref name="ありがとうオグリキャップ-19">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、19頁。</ref>。
[[ファイル:Yutaka Take 2023 Osaka Hai.jpg|thumb|200px|武豊(2023年)]]
オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、[[安田記念]]に変更された<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、152-154頁。</ref>。この競走では[[武豊]]が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については[[第40回安田記念]]を参照)。
続く[[宝塚記念]]では武が[[スーパークリーク]]への騎乗を選択したため{{#tag:ref|ただしスーパークリークはレース1週間前に故障を発症して出走を取り消し<ref>[[#島田2014|島田2014]]、62頁。</ref>、武は当日のレースで[[シンウインド]]に騎乗した。|group="†"|name="Super Creek"}}、[[岡潤一郎]]が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、[[オサイチジョージ]]をかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については[[第31回宝塚記念]]を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に[[骨膜炎]]を発症し、さらにその後右の後ろ脚に[[飛節軟腫]]<ref group="†">脚の[[関節]]に柔らかい腫れが出る疾病。</ref>を発症、7月12日にはアーリントンミリオンステークスへの出走登録が取り消され<ref name="ありがとうオグリキャップ-19"/>、7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、342-344頁。</ref>。
[[ファイル:Sueo Masuzawa 20140419.JPG|thumb|180px|増沢末夫(2014年)]]
陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、347頁。</ref><ref>[[#山本1992|山本1992]]、251頁。</ref>。最終的に出走が決定し、このレースでは[[増沢末夫]]が鞍上を務めたが、レースでは序盤から[[折り合い]]を欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した[[日本の競馬の競走体系#平地競走|条件馬]]を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた(レースに関する詳細については[[第10回ジャパンカップ]]を参照)。
ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり{{#tag:ref|引退論は競馬ファンやマスコミのほか、翌年から種牡馬となることが決定していたオグリキャップの種付け権を持つ者からも上がった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、18・348-349・432頁。</ref><ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、69頁。</ref>。|group="†"}}、オグリキャップは「輝きを失ったヒーロー」「落ちた偶像」などと評されるようになった<ref name="優駿2015-12-12-13"/>。さらに馬主の近藤に宛てた[[脅迫状]]<ref group="†" name="脅迫状">出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容。</ref>が日本中央競馬会に届く事態にまで発展した<ref name="渡瀬1992-19">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、19頁。</ref><ref name="山本1992-256">[[#山本1992|山本1992]]、256頁。</ref>{{#tag:ref|ただし、近藤は脅迫状が届く以前にも深夜に自宅宛てに嫌がらせの電話がくるといった被害を受けていた<ref>[[#小栗1994|小栗1994]]、103頁。</ref>。|group="†"}}が、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定し、また鞍上は安田記念以来となる武豊が騎乗して出走することが決まった。有馬記念のファン投票では14万6738票を集めて1位に支持された<ref name="山本2017-47"/>。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げる[[メジロライアン]]と[[ホワイトストーン]]を抑えて1着でゴールインし、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。
限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前で[[ウイニングラン]]を行った際には[[中山競馬場]]にいた観衆から「オグリコール」が起こった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、24頁。</ref>。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった{{#tag:ref|当時200人強いたとされるスポーツ紙、競馬専門紙の予想家の中でオグリキャップに本命の◎を打ったのはわずかに4人だけであった<ref>第35回有馬記念復刻版DVD 鈴木淑子の有馬記念回顧</ref>。|group="†"}}。この現象についてライターの阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』という[[バブル時代]]の心情が、よく現れていた」と評している<ref>[[#阿部2003|阿部2003]]、82頁。</ref>。レース後に瀬戸口は「今の僕がこの馬に送るのは『ありがとう』の一言に尽きます」と語った<ref name="優駿2015-12-12-13"/>(レースに関する詳細については「[[第35回有馬記念]]」参照)。
===== 1990年後半の不振と復活 =====
1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後、第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。
====== 体調 ======
調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは[[骨膜炎#獣医学領域での骨膜炎|骨膜炎]]に苦しんでいたと述べている<ref name="渡瀬1992-346">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、346頁。</ref>。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた{{#tag:ref|競馬評論家の大川慶次郎は、この時期のオグリキャップの体調は一貫して悪かったとしており、天皇賞(秋)の前に栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見て体調が悪いと判断し、以降一貫して[[予想 (競馬)|予想]]において[[予想紙#問題外|無印]]とした<ref>[[#大川1997|大川1997]]、147-148頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|鷲見昌勇は天皇賞(秋)の後栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見た際、「馬(の体)が寂しく見えた。疲れが抜けておらんのやないか」という印象を抱いた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、400頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|岡部幸雄は「オグリを見ると、何か小さい感じがした」と述べている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、45頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|大阪日刊スポーツの競馬評論家・梶山隆平は「秋の2戦を見たら、かつての気迫が全く感じられなかった。顔つきがまるで違うし馬体も迫力が感じられない。えらくさびしい体に見えたよ」と振り返っている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、46頁。</ref>。|group="†"}}。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、390頁。</ref>。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている<ref name="藤野1994-193">[[#藤野1994|藤野1994]]、193頁。</ref>。
精神面に関しては、瀬戸口{{#tag:ref|この年の秋は以前ほどの気迫を感じなかったと述べている<ref name="渡瀬1992-346"/>。|group="†"}}と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた{{#tag:ref|ジャパンカップの前には馬がおとなしすぎる、昔ほど気合が乗ってこないと述べていた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、417頁。</ref>。|group="†"}}。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、376頁。</ref>{{#tag:ref|ストレスが原因で食欲が落ちているとも報道された<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、378頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|なお、ジャパンカップの前には厩舎スタッフからの要望によりマスコミの取材は自粛され<ref name="渡瀬1992-415-416"/>、さらに有馬記念の前には馬主の近藤が関係者以外の厩舎への立ち入りをすべて禁止した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、427頁。</ref>。|group="†"}}。池江は撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。
{{Quotation|テレビ局の取材攻勢はすごかった。密着取材とかいって、1週間ものあいだ24時間体制でオグリを撮りまくるんや。しかも、わしにとってもオグリにとっても不運やったんは、その取材陣というのがほとんど競走馬というものを知らない人たちで編成されていたことやった。密着取材いうても、通常は担当厩務員がいるあいだに取材なり撮影なりをして、厩務員が帰ったあとは取材側も自粛するもんや。しかし、この人たちはそうやなかった。文字どおり、24時間ぶっ続けでオグリを撮りまくったんやからね。
それだけやない。馬というのは、体調のよくないときやひとりでいたいときには馬房の奥に隠れて出てこない。そういうときには、そっとしておいてやるのが一番なんやが、この人たちはニンジンや草をちらつかせてオグリを誘い出したりもしたらしい。
しまった、と気がついたときには、もう手遅れやった。オグリがぱったりとカイバを食べんようになってしもたんや。|[[#藤野1994|藤野1994]]、193頁。}}
池江によると、オグリキャップはテレビ取材のカメラに一日中追いかけられた事で「それまではカイバを食べている鼻先にカメラを近づけられても全然気にしていなかったのに、極端にカメラを怖がるようになってしまった」と述べている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、39頁。</ref>。
体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行った[[オースミシャダイ]]の厩務員出口光雄{{#tag:ref|「元気なころのオグリとは様子が違う」「今のオグリとなら、うちのオースミでも勝負になるような気がする」と述べた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、438頁。</ref>。|group="†"}}や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員([[調教助手|持ち乗り調教助手]])の荻野功{{#tag:ref|「なんか元気ないね。昔は怖いくらいの迫力があったもんや。それが全然感じられんもんな」と述べた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、439頁。</ref>。|group="†"}}がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もパドックで跨った時の事について「あまり元気がないなという雰囲気でした」と<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45"/>、レース後には「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」とそれぞれ回顧している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、497頁。</ref>。作家の木村幸治は、レース前のパドックでオグリキャップを見た時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている<ref>[[#木村幸1997|木村幸1997]]、14頁。</ref>。
しかし、厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという<ref>[[#藤野1994|藤野1994]]、196頁。</ref>。また小説家の[[高橋源一郎]]によると、有馬記念2日前の21日に[[サンケイスポーツ]]主催で催された「有馬記念前夜祭」に出席した際、打ち上げの席で[[野平祐二]]にオグリキャップの具合について訊ねたところ、野平は「私には悪いようには見えません。皆さんは色々おっしゃっていますが、私の見た限りでは、そんなに悪い状態には思えないのですよ」と答えたという<ref>[[#寺山・遠藤ほか1998|寺山・遠藤ほか1998]]、297頁。</ref>。中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた[[獣医師]]の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、136頁。</ref>が大敗を続けた時期にはなくなっていた[[スポーツ心臓]]<ref group="†">2017年にNHKで放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』特別企画「競走馬・オグリキャップ」でのインタビューに、吉村はサラブレッドの安静時の心拍数は一般的に30~40と言われているが、オグリキャップの場合はそれが24~27と低かったことを証言している。同時に池江がもっと伸ばしたかったという温泉療養施設での休養について「あの休養はむしろオグリの心肺機能を落とす結果になったんじゃないか」と指摘している。</ref>を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた<ref name="渡瀬1992-407-408・429-430">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、407-408・429-430頁。</ref>{{#tag:ref|オグリキャップがスポーツ心臓を失った原因に関して吉村は、休養の影響以外にも取材の過熱によって受けたストレスによる[[自律神経失調症]]を疑っていた<ref name="渡瀬1992-407-408・429-430"/>。|group="†"}}。
====== 騎手との相性 ======
ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析し<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、389・466頁。</ref>、笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、448頁。</ref>。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いい時と比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントを全て引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、469頁。</ref>。武によると有馬記念では第3-4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は最後の直線入り口でオグリキャップの顔をわざと外に向けることで内にもたれることを防ぎつつ、左から鞭を入れることでうまく手前を替えさせることに成功した<ref name="武・島田2003-146-147・160-161">[[#武・島田2003|武・島田2003]]、146-147・160-161頁。</ref>。
====== 第35回有馬記念のレース内容 ======
大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた[[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|条件戦]](グッドラックハンデ)よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が[[折り合い]]を欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている<ref name="大川1997-149-150">[[#大川1997|大川1997]]、149-150頁。</ref>。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」とし<ref name="関口2002-18">[[#関口2002|関口2002]]、18頁。</ref>、瀬戸慎一郎は「2着、3着に入った馬が、幾度となくジリ脚に泣いたメジロライアンとホワイトストーンであっただけに、相手関係にもかなり恵まれたといわなければならない」と述べ、また武豊が「調子は7、8分でも力が違います」と骨っぽい相手がいなかったことを匂わせるような発言をしていたといい、ペースが落ち着いて楽に追走できたことと「直線で素早く抜け出せる爆発的な瞬発力を持った馬」が出走していなかったことが大きかったと述べている<ref>[[#瀬戸1998|瀬戸1998]]、136頁。</ref>。
武豊は1993年に同レースを振り返った際には「別に謙遜してるわけじゃなく、強い馬が走りやすいように走らせただけなんですよ。だから、勝っても驚きはしなかった。奇跡でも何でもないと思う」と語り、「あの馬の絶対能力がズバ抜けていた、というだけのことでしょうね。もしオグリがピークのデキだったら、ブッチぎって勝っていたでしょうね」と述べ<ref name="武・島田2003-146-147・160-161"/>、レース直後に受けたインタビューでは「強い馬は強いんです」というコメントを残している<ref>[[#武・島田2003|武・島田2003]]、42頁。</ref><ref>[[#武・島田2004|武・島田2004]]、233頁。</ref>。
岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」<ref name="有吉・栗原1991-178">[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、178頁。</ref>、「想像以上に過酷な超スローペースで折り合いを保ち続けたオグリ。類稀なる精神力が生んだ勝利だ」<ref name="渡辺(監修)2000-155">[[#渡辺(監修)2000|渡辺(監修)2000]]、155頁。</ref>と評している。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、175頁。</ref>。
==== 引退式 ====
[[1991年]]1月、オグリキャップの引退式が[[京都競馬場]](13日)、[[笠松競馬場]]{{#tag:ref|小栗と佐橋との間には「オグリキャップが引退した時には笠松競馬場に里帰りさせる」との取り決めがあった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、466頁。</ref>。|group="†"}}(15日)、[[東京競馬場]](27日)の3箇所で行われた<ref name="河村2015-45">[[#河村2015|河村2015]](『優駿』2015年8月号、45頁。)</ref>。
笠松競馬場での引退式翌日には1990年度の[[JRA賞]]の結果が発表され、オグリキャップは同年度の最優秀5歳以上牡馬、また記者投票180票中170票を獲得して年度代表馬に選出されたことが発表された<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、178頁。</ref>。
[[ファイル:Katsumi-Ando20110410.jpg|thumb|180px|安藤勝己(2011年)]]
引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで、所在地である岐阜県[[笠松町]]の当時の[[人口]](2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる<ref name="渡瀬1992-459">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、459頁。</ref>{{#tag:ref|笠松競馬場での引退式に参加した[[安藤勝己]]は、競馬場内が「普通ではない」と感じるほど盛り上がる中でもオグリキャップが動じる様子を見せることはなかったと振り返っている<ref name="安藤2003-110-111">[[#安藤2003|安藤2003]]、110-111頁。</ref>。|group="†"}}。この日、[[名古屋鉄道|名鉄]]ではオグリキャップの顔入りプレートをつけて[[笠松駅]]に臨時停車する特急列車「オグリキャップ里帰り記念号」が2本運行され、また名鉄の主要駅ではオグリキャップの写真が付いた笠松駅までの記念乗車券も発売され、ほぼ完売した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、176-177頁。</ref>。オグリキャップは安藤勝己が騎乗して競馬場のコースを2周走行し{{#tag:ref|安藤によると、当初は1周する予定であったが、あまりの乗り味の良さに2周したという<ref name="安藤2003-110-111"/>。また、久々に間近で見たオグリキャップは笠松時代よりも10cmほど体高が高くなっていたという<ref name="安藤2003-110-111"/><ref name="オグリキャップよ、永遠に-44">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、44頁。)</ref>。|group="†"}}、また岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した<ref name="渡瀬1992-459"/>。東京競馬場での引退式では7万6000人のファンが集まり<ref name="ありがとうオグリキャップ-19"/>、武豊が騎乗して第35回有馬記念でのゼッケン「8番」を付けてコースを走行した{{#tag:ref|武豊は「動きは全盛時と全く変わりません。これなら[[天皇賞(春)|春の天皇賞]]だっていけるのに」と感想を述べている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、175-176頁。</ref>。|group="†"}}。当日は[[東京競馬記者クラブ賞]]を受賞した瀬戸口勉、辻本光雄、池江敏郎の表彰式が行われた<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、102-103頁。</ref>。各場での引退式においては、[[安西美穂子]]が作詞した[[バラード]]調の曲『オグリキャップの歌』(歌:YUKARI、作曲:青木美恵子)が[[背景音楽|BGM]]として使用された<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、94-95頁。</ref>。
== 引退後 ==
=== 種牡馬となる ===
引退後は北海道[[新冠町]]の[[優駿スタリオンステーション]]で種牡馬となった。1991年1月28日に繋養先の優駿スタリオンステーションに到着<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、42頁。)</ref>。優駿スタリオンステーション到着時には300人以上が出席して歓迎セレモニーが行われて新冠町長が挨拶を行い、同夜にはテレビ番組『[[ニュースステーション]]』に生出演した<ref name="河村2015-45"/><ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、49頁。</ref>。
種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者に[[リース]]する形態がとられた。これは実質的には[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]に等しく<ref group="†">種牡馬の所有権が佐橋1人にある点が、権利株の所有者が種牡馬を共有するシンジケートと異なる。</ref>、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、348頁。</ref>。当初は[[種牡馬#シンジケート|余勢]]をほぼ取らない方針だったものの、シンジケートに加入できなかった生産者・馬主がわずかに放出された株に殺到し、種付けシーズン直前の2月13日に行われたJSカンパニー主催のノミネーションセールでは、取引株の中で最高価格となる990万円の値が付いた<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。
3月12日にヤマタケダンサーを相手に初種付けを行い<ref group="†">ヤマタケダンサーは翌年にオグリキャップの初仔となる[[オグリワン]]を出産した。</ref>、翌日のスポーツ紙2紙の1面にはこの時の種付けを行っている写真がカラーで掲載された<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。[[ゴールデンウィーク]]中の[[5月5日]]にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた<ref>[[#河村2003|河村2003]]、228頁。</ref>。オグリキャップの人気は種牡馬となった後も衰えず、優駿スタリオンステーション事務所には好物のニンジン、リンゴ、ハチミツが毎日届けられ、夏休みには見学のための観光バスが行列を作った<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。[[プレハブ工法|プレハブ建て]]のグッズショップも作られたが、すぐに手狭になったため豪華な店舗がオープンした<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。ライターの後藤正俊によると、新冠町がある[[日高振興局|日高地方]]は名所が少なく、それまで[[本州]]の観光客がほとんど訪れなかったが、オグリキャップが種牡馬入りしたことで地域経済に多大な影響をもたらしたという<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。同時にオグリキャップが種牡馬入りしたことをきっかけに競馬ファンが競走馬の「生涯」に興味を抱くようになり、競走馬育成ゲーム、[[ペーパーオーナーゲーム|POG]]を通じて競馬人気の沸騰につながったと述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。
1994年に産駒がデビューし、JRA新種牡馬リーディングにおいては首位となった[[サンデーサイレンス]]に大きく水をあけられたものの、内国産種牡馬としては最上位となる6位にランクインし、[[アーニングインデックス]]は1.75を記録した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>。しかし、後述の喉嚢炎を発症したことがきっかけで年を経るごとに交配牝馬のレベルが徐々に低下し、シンジケートが再結成された1996年からは交配頭数も減少し、1998年にはわずか10頭にまで落ち込んだ<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>。
=== 喉嚢炎を発症 ===
[[1991年]][[7月28日]]、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、[[発熱]]、[[咳嗽|咳]]、[[鼻水]]などの症状がみられるようになった<ref>[[#小栗1994|小栗1994]]、112-114頁。</ref>。はじめは[[風邪]]と診断されたが、1か月が経過しても熱が下がらず、さらには飼い葉、水も飲み込めなくなるなど回復がみられず<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>、精密検査の結果、喉嚢炎<ref group="†">[[ウマ|馬]]の後頭部にある袋状の器官の[[炎症]]。</ref>による[[咽頭]][[麻痺]]と診断された<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>。これを受けて8月からファンの見学は禁止となり<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>、同月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、[[9月11日]]には炎症の進行が原因で喉嚢に接する[[首|頸]][[動脈]]が破れて馬房が血まみれになるほどの大量の出血を起こし<ref name="オグリキャップよ、永遠に-43">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、43頁。)</ref>、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18[[リットル]]の[[輸血]]を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には[[放牧]]が可能な程度に病状が改善した<ref>[[#木村光1998|木村光1998]]、169-171頁。</ref>。
=== オグリキャップにちなんだレースの開催 ===
[[1992年]]、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「[[オグリキャップ記念]]」が創設された。一時は[[ダートグレード競走]]として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、[[2004年]][[11月21日]]には[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]]の「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された<ref group="†">施行条件は、かつてオグリキャップが優勝した[[マイルチャンピオンシップ]]と同じ[[京都競馬場]]芝1600m。</ref>。
=== 種牡馬を引退 ===
[[2006年]]に2頭の繁殖牝馬と交配されたのを最後に種牡馬を事実上引退<ref group="†">種牡馬登録自体は抹消されておらず、[[去勢]]もされていない。種付け料はプライベートとなっていた。</ref><ref name="オグリキャップよ、永遠に-43"/>し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されていた。[[2007年]][[5月1日]]にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。[[2012年]][[7月1日]]の[[金沢競馬]]の競走でアンドレアシェニエが[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した<ref name="オグリ最後の産駒が安楽死"/>。
;年度別の種付け頭数および誕生産駒数<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
!style="text-align:center;"|年度!!1991!!1992!!1993!!1994!!1995!!1996!!1997!!1998!!1999!!2000!!2001!!2002!!2003!!2004!!2005!!2006!!2007
|-
|style="text-align:center;"|種付け頭数||65||60||61||61||61||60||42||10||13||7||4||6||1||6||1||2||0
|-
|style="text-align:center;"|誕生産駒数|| - ||58||51||49||45||50||40||25||6||7||3||2||5||1||3||0||1
|}
=== 一般公開 ===
[[ファイル:Oguri Cap 20081109P1.jpg|thumb|[[2008年]][[11月9日]] [[東京競馬場]]での一般公開にて]]
{{Main2|優駿スタリオンステーション以外での一般公開の詳細については「[[オグリキャップの一般公開]]」を}}
競走馬を引退した後、オグリキャップは[[2002年]]に[[優駿スタリオンステーション]]が移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、166頁。</ref>。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。[[1998年]][[9月]]に[[よみうりランド]]で行われた「JRAフェスティバル」、[[2005年]][[4月29日]]と[[4月30日|30日]]に[[笠松競馬場]]で行われた一般公開<ref name="里帰り">{{Cite journal|和書|title=ニュース&トピックス [お披露目]オグリキャップが笠松に里帰り オグリキャップ記念のイベントで|year=2005|month=6|journal=優駿|page=67|publisher=日本中央競馬会}}</ref>{{#tag:ref|オグリキャップが笠松競馬場に来場したのは1991年の引退式以来14年ぶりのことで、[[4月29日]]には後述の[[オグリキャップ記念]]と、「[[芦毛]]伝説オグリキャップ賞」と銘打たれた芦毛馬限定のレースが開催された<ref name="里帰り"/>。|group="†"}}、[[2008年]][[11月9日]]の「[[アジア競馬会議]]記念デー」に[[東京競馬場]]で行われた一般公開である<ref name="河村2015-45"/>。[[2010年]][[5月1日]]より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された<ref name="優駿2020-08-4">[[#『優駿』2010年8月号|『優駿』2010年8月号]]、4頁。</ref>。
=== 骨折により安楽死 ===
[[2010年]][[7月3日]]午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用の[[パドック]]から馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいたところを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた<ref name="優駿2020-08-4"/><ref name="ありがとうオグリキャップ-8">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、8頁。</ref><ref>[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、22頁。)</ref>。オグリキャップ死亡のニュースは日本のみならず、[[共同通信社|共同通信]]を通じて[[イギリス]]の『[[レーシング・ポスト]]』などでも報じられた<ref>{{Cite web |url= http://www.racingpost.com/news/horse-racing/japan-death-of-legendary-racehorse-oguri-cap/737825/|title= Death of Japan's 1980s legend Oguri Cap|publisher= racingpost.com|accessdate= 2021-07-08}}</ref>。優駿スタリオンステーションにはオグリキャップ死亡の真偽を確認しようというマスコミやファン、関係者からの問い合わせの電話が相次ぎ、翌日午前1時30分まで問い合わせが続いた<ref name="ありがとうオグリキャップ-8"/>。
=== 追悼 ===
オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0401N_U0A700C1CC1000/|title=「オグリキャップありがとう」 岐阜・笠松競馬場に献花台|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2010年7月4日}}</ref>、7月19日にお別れ会を催した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1901E_Z10C10A7CC1000/|title=名馬オグリは永遠に 岐阜・笠松競馬場でお別れ会|publisher=日本経済新聞|accessdate=2010年7月19日}}</ref>。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み<ref name="各競馬場でオグリキャップ追悼行事">{{Cite web|和書|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=47346|title=各競馬場でオグリキャップ追悼行事|publisher=[[netkeiba.com]]|accessdate=2010年7月7日}}</ref>、感謝状を贈呈した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-47"/>。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された<ref>{{Cite web|和書|url = http://uma-furusato.com/news/detail/_id_54788|title =オグリキャップ専用放牧地の前に献花台が用意される|publisher = JBBA|accessdate = 2010年8月19日}}</ref>。さらに、中央競馬<ref name="各競馬場でオグリキャップ追悼行事"/>と[[ホッカイドウ競馬]]<ref>{{Cite web|和書|url = http://202.3.143.64/news/detail/_id_54986|title =勝馬投票券に「オグリキャップ追悼」の文字を記載|work=馬産地ニュース|publisher = JBBA|accessdate = 2010年8月19日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://keiba.radionikkei.jp/keiba/diary/entry-187278.html|date=2010-07-16|title =「門別でもオグリキャップの追悼競走を実施」ほか|publisher = 日経ラジオ社|accessdate = 2010年8月19日}}</ref>ではそれぞれ7月に[[追悼競走]]が施行された。
7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、ファン、関係者ら800人が出席<ref name="オグリキャップよ、永遠に-47">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、47頁。)</ref>。[[土川健之]]JRA理事長が弔辞を述べ、全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた<ref name="オグリキャップよ、永遠に-47"/>。
第55回[[有馬記念]]が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし<ref>{{Cite journal|和書|title=オグリキャップと有馬記念 彼が駆け抜けた"奇跡の時代"|year=2011|month=1|journal=優駿|page=42|publisher=日本中央競馬会}}</ref>、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。
一周忌となった2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された<ref>{{Cite journal|和書|title="芦毛の怪物"故郷・日高に勇姿を刻む―オグリキャップ一周忌法要、馬像除幕式リポート|year=2011|month=8|journal=優駿|page=52-53|publisher=日本中央競馬会}}</ref>{{#tag:ref|馬像建立のための募金にはのべ1274人が名を連ね、2831万円が集まった<ref name="優駿2015-03-22-23"/>。|group="†"}}。
== 成績 ==
=== 競走成績 ===
下記の内容は、netkeiba.com<ref>{{Cite web2 |url=http://db.netkeiba.com/horse/result/1985102167/ |title=オグリキャップの競走成績 |website=[[netkeiba.com]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>および『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)<ref>{{Cite book |和書 |author= |year=1996 |title=中央競馬全重賞競走成績集 GI編 |publisher=日本中央競馬会 |isbn= |ref=}} 675・678・680-681・758-759・836-839・855-875・940・958頁。</ref>の情報に基づく。
{| style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse;white-space:nowrap"
|-
!colspan="3"|競走日!!競馬場!!競走名!!格!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!人気!!オッズ!!着順!!距離(馬場)!!タイム!!(上り3F)!!騎手!!1着馬(2着馬)!!馬体重<br />[kg]
|-
|[[1987年|1987]].
|{{0}}5.
|19
|[[笠松競馬場|笠松]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|10
|5
|5
|2人
|
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|ダ800m(良)
|{{0}}0:50.1
|
|青木達彦
|マーチトウショウ
|452
|-
|
|{{0}}6.
|{{0}}2
|笠松
|3歳イ
|
|7
|1
|1
|1人
|1.1
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ800m(良)
|{{0}}0:51.1
|
|高橋一成
|(ノースヒーロー)
|450
|-
|
|{{0}}6.
|15
|笠松
|3歳イ
|
|9
|8
|8
|1人
|
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ800m(重)
|{{0}}0:49.8
|
|青木達彦
|(フェートチャールス)
|456
|-
|
|{{0}}7.
|26
|笠松
|3歳イ
|
|7
|7
|7
|1人
|
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|ダ800m(良)
|{{0}}0:50.3
|
|高橋一成
|マーチトウショウ
|470
|-
|
|{{0}}8.
|12
|笠松
|3歳イ
|
|8
|7
|7
|1人
|2.4
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ800m(良)
|{{0}}0:49.7
|
|高橋一成
|(マーチトウショウ)
|470
|-
|
|{{0}}8.
|30
|笠松
|秋風ジュニア
|
|10
|5
|5
|1人
|
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1400m(良)
|{{0}}1:30.3
|
|[[安藤勝己]]
|(マーチトウショウ)
|476
|-
|
|10.
|{{0}}4
|笠松
|[[ジュニアクラウン]]
|重賞
|9
|5
|5
|1人
|
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1400m(良)
|{{0}}1:29.4
|
|安藤勝己
|(マーチトウショウ)
|472
|-
|
|10.
|14
|[[中京競馬場|中京]]
|[[中京盃]]
|重賞
|12
|3
|3
|1人
|1.5
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1200m(良)
|{{0}}1:10.8
|
|安藤勝己
|(アーデントラブ)
|470
|-
|
|11.
|{{0}}4
|[[名古屋競馬場|名古屋]]
|[[ゴールドウィング賞|中日スポーツ杯]]
|重賞
|12
|4
|4
|1人
|1.2
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1400m(良)
|{{0}}1:29.8
|
|安藤勝己
|(ハロープリンセス)
|476
|-
|
|12.
|{{0}}7
|笠松
|師走特別
|
|10
|8
|9
|1人
|1.7
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(良)
|{{0}}1:44.4
|(39.9)
|安藤勝己
|(ヤングオージャ)
|482
|-
|
|12.
|29
|笠松
|[[ジュニアグランプリ (笠松競馬)|ジュニアグランプリ]]
|重賞
|9
|5
|5
|1人
|
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(良)
|{{0}}1:45.0
|
|安藤勝己
|(トウカイシャーク)
|482
|-
|[[1988年|1988]].
|{{0}}1.
|10
|笠松
|[[ゴールドジュニア]]
|重賞
|10
|6
|6
|1人
|1.1
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|ダ1600m(不)
|{{0}}1:41.8
|(37.0)
|安藤勝己
|(マーチトウショウ)
|486
|-
|
|{{0}}3.
|{{0}}6
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[ペガサスステークス|ペガサスS]]
|GIII
|10
|4
|4
|2人
|3.8
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|{{0}}1:35.6
|(35.9)
|[[河内洋]]
|([[ラガーブラック]])
|482
|-
|
|{{0}}3.
|27
|阪神
|[[毎日杯]]
|GIII
|10
|8
|10
|1人
|2.2
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(重)
|{{0}}2:04.8
|(38.3)
|河内洋
|(ファンドリデクター)
|476
|-
|
|{{0}}5.
|{{0}}8
|[[京都競馬場|京都]]
|[[京都4歳特別]]
|GIII
|15
|'''8'''
|'''15'''
|1人
|1.3
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(稍)
|{{0}}2:03.6
|(37.1)
|[[南井克巳]]
|(コウエイスパート)
|480
|-
|
|{{0}}6.
|{{0}}5
|[[東京競馬場|東京]]
|[[ニュージーランドトロフィー|NZT4歳S]]
|GII
|13
|'''7'''
|'''11'''
|1人
|1.2
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|{{color|darkred|R1:34.0}}
|(35.5)
|河内洋
|([[リンドホシ]])
|480
|-
|
|{{0}}7.
|10
|中京
|[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]
|GII
|8
|2
|2
|1人
|1.2
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(良)
|{{color|darkred|R1:59.0}}
|(34.5)
|河内洋
|([[ランドヒリュウ]])
|478
|-
|
|10.
|{{0}}9
|東京
|[[毎日王冠]]
|GII
|11
|'''6'''
|'''8'''
|1人
|1.7
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(稍)
|{{0}}1:49.2
|(35.5)
|河内洋
|([[シリウスシンボリ]])
|494
|-
|
|10.
|30
|東京
|[[天皇賞(秋)]]
|GI
|13
|'''1'''
|'''1'''
|1人
|2.1
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|芝2000m(良)
|{{0}}1:59.0
|(34.8)
|河内洋
|[[タマモクロス]]
|492
|-
|
|11.
|27
|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|GI
|14
|4
|8
|3人
|6.9
|{{0}}{{color|darkgreen|3着}}
|芝2400m(良)
|{{0}}2:25.8
|(35.7)
|河内洋
|[[ペイザバトラー]]
|494
|-
|
|12.
|25
|[[中山競馬場|中山]]
|[[有馬記念]]
|GI
|13
|'''6'''
|'''10'''
|2人
|3.7
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2500m(良)
|{{0}}2:33.9
|(35.6)
|[[岡部幸雄]]
|(タマモクロス)
|492
|-
|[[1989年|1989]].
|{{0}}9.
|17
|中山
|[[オールカマー]]
|GIII
|13
|'''7'''
|'''11'''
|1人
|1.4
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2200m(良)
|{{color|darkred|R2:12.4}}
|(34.7)
|南井克巳
|(オールダッシュ)
|490
|-
|
|10.
|{{0}}8
|東京
|毎日王冠
|GII
|8
|6
|6
|1人
|1.4
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1800m(稍)
|{{0}}1:46.7
|(34.8)
|南井克巳
|([[イナリワン]])
|498
|-
|
|10.
|29
|東京
|天皇賞(秋)
|GI
|14
|'''3'''
|'''4'''
|1人
|1.9
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|芝2000m(良)
|{{0}}1:59.1
|(34.4)
|南井克巳
|[[スーパークリーク]]
|496
|-
|
|11.
|19
|京都
|[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]
|GI
|17
|'''1'''
|'''1'''
|1人
|1.3
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|{{0}}1:34.6
|(35.7)
|南井克巳
|([[バンブーメモリー]])
|496
|-
|
|11.
|26
|東京
|ジャパンC
|GI
|15
|2
|3
|2人
|5.3
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|芝2400m(良)
|{{0}}2:22.2
|(35.9)
|南井克巳
|[[ホーリックス]]
|496
|-
|
|12.
|24
|中山
|有馬記念
|GI
|16
|'''1'''
|'''1'''
|1人
|1.8
|{{0}}5着
|芝2500m(良)
|{{0}}2:32.5
|(37.4)
|南井克巳
|イナリワン
|496
|-
|[[1990年|1990]].
|{{0}}5.
|13
|東京
|[[安田記念]]
|GI
|16
|'''5'''
|'''9'''
|1人
|1.4
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝1600m(良)
|{{color|darkred|R1:32.4}}
|(35.0)
|[[武豊]]
|([[ヤエノムテキ]])
|496
|-
|
|{{0}}6.
|10
|阪神
|[[宝塚記念]]
|GI
|10
|'''6'''
|'''6'''
|1人
|1.2
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|芝2200m(良)
|{{0}}2:14.6
|(37.5)
|[[岡潤一郎]]
|[[オサイチジョージ]]
|500
|-
|
|10.
|28
|東京
|天皇賞(秋)
|GI
|18
|'''6'''
|'''12'''
|1人
|2.0
|{{0}}6着
|芝2000m(良)
|{{0}}1:58.9
|(36.6)
|[[増沢末夫]]
|ヤエノムテキ
|500
|-
|
|11.
|25
|東京
|ジャパンC
|GI
|15
|4
|7
|4人
|7.3
|11着
|芝2400m(良)
|{{0}}2:24.1
|(35.4)
|増沢末夫
|[[ベタールースンアップ]]
|496
|-
|
|12.
|23
|中山
|[[第35回有馬記念|有馬記念]]
|GI
|16
|4
|8
|4人
|5.5
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2500m(良)
|{{0}}2:34.2
|(35.2)
|武豊
|([[メジロライアン]])
|494
|}
* タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
* 枠番・馬番の太字は単枠指定を示す。
=== 種牡馬成績 ===
産駒は[[1994年]]にデビューし、初年度産駒の[[オグリワン]]、アラマサキャップが中央競馬の重賞で2着し期待されたが、中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、[[リーディングサイアー]]では最高成績が105位(中央競馬と地方競馬の総合)、血統登録された産駒は342頭であった<ref name="オグリキャップよ、永遠に-42"/>。
==== 主な産駒 ====
* フルミネート - [[九州ジュニアグランプリ|サラブレッド系3歳優駿]]。後に馬術競技馬「ワダルコ」となる<ref>※記事名・掲載面不明※『[[読売新聞]]』2009年6月1日付</ref>。
* アラマサキャップ - [[クイーンステークス]]2着。孫に[[アイビスサマーダッシュ]]の勝ち馬[[ラインミーティア]]がいる。
* [[オグリワン]] - ききょうステークス、[[小倉2歳ステークス|小倉3歳ステークス]]2着。
* ノーザンキャップ - 中央競馬3勝、種牡馬。産駒のクレイドルサイアーが種牡馬登録されている。
* オグリエンゼル - 地方競馬27勝、如月賞
* アンドレアシェニエ - 地方競馬14勝、オグリキャップ産駒最後の現役競走馬。2012年7月死亡<ref name="オグリ最後の産駒が安楽死">{{Cite news2 |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20120703-976954.html |title=オグリ最後の現役産駒が安楽死 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2012-07-03 |accessdate= 2021-05-26}}</ref>。
* ミンナノアイドル - オグリキャップ最後の産駒<ref>{{Cite news2 |url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20120803-994328.html |title= オグリ最後の産駒の子 2年後デビューへ |newspaper=日刊スポーツ |date=2012-08-03 |accessdate= 2021-05-26}}</ref>。母グレイスクイン。馬主は[[ローレルレーシング|ローレルクラブ]]。
* Rocks Rule - 母のワカシラユキが[[アイルランド]]で出産。2010年3月9日、[[イギリス]]ニューカッスル競馬場の障害馬用の平地競走で初出走初勝利<ref>{{Cite journal|和書|journal=優駿|issue=2010年5月号|pages=110}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=Racing Post|url=https://www.racingpost.com/profile/horse/737379/rocks-rule|title=Rocks Rule(IRE)|accessdate=2023-07-22|language=en}}</ref>。
==== 子孫 ====
唯一の後継種牡馬ノーザンキャップの産駒であるクレイドルサイアーが2013年に種牡馬登録されており、父系としてはかろうじて存続している<ref>[http://www.jairs.jp/contents/archives/2013/43.html 登録審査の概況報告(静内地区)]</ref>。ノーザンキャップはクレイドルファームで種牡馬入りしたが生涯の種付け頭数はわずか2頭のみであり、そのうち1頭は不受胎となったため、クレイドルサイアーが唯一の産駒である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【血統値】オグリキャップの血がよみがえる “21歳の新種牡馬”クレイドルサイアーの産駒が初勝利 |url=https://tospo-keiba.jp/family-line/21048 |website=東スポ競馬 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref>。クレイドルサイアーは2戦してどちらも大敗、そのまま引退となったがその10年後となる2013年に突如種牡馬登録され、生まれ故郷のクレイドルファームに繋養された<ref name=":0" />。クレイドルサイアーは2019年に5頭に種付けをしており、そのうちの1頭であるフォルキャップが2022年6月2日に[[門別競馬場]]でデビュー(4着)<ref>{{Cite web|和書|title=【地方競馬】絶滅寸前のオグリキャップ直系の血を継ぐフォルキャップ、デビュー戦は4着 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=203733 |website=netkeiba.com |access-date=2022-06-02 |language=ja}}</ref>。同年9月29日には同競馬場で初勝利を挙げた<ref name=":0" />。
繁殖入りした牝馬も少なく、34頭<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/yomimono/bloodtopic/kiji/K20140910008901980.html 注目JRA初の新馬勝ち「母の父オグリキャップ」]</ref>しかいない。2017年に[[ラインミーティア]](父[[メイショウボーラー]]、母の母の父がオグリキャップ)が[[アイビスサマーダッシュ]]を勝利し、オグリキャップの血を引く馬としては初めて重賞を制覇した<ref>{{Cite news2 |url= https://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/play/keiba/201001-8491.html |title= オグリ血統ロマン、中央重賞初V |newspaper= [[岐阜新聞]]web - オグリの里 |date=2017-08-10 |accessdate= 2021-08-13}}</ref>。しかし、34頭のうち産駒が繁殖牝馬となった馬もほとんどおらず、オグリキャップの血を引く繁殖牝馬は急激に減少している。
2020年10月にホワイトシスネ(母キョウワスピカ、母父オグリキャップ)が[[ホッカイドウ競馬]]を登録抹消となり一旦はオグリキャップの孫世代の現役競走馬がいなくなった。その後、2021年4月にミンナノアイドルの産駒であるミンナノヒーロー(父[[ゴールドアリュール]]、母父オグリキャップ)が[[岩手競馬]]でデビュー。2021年5月に初勝利し<ref>{{Cite news2 |url= https://www.gifu-np.co.jp/news/20210518/20210518-70814.html |title=笠松競馬出身の名馬オグリの孫「ミンナノヒーロー」初勝利 けが乗り越え中央目指す |newspaper=岐阜新聞Web |accessdate= 2021-07-08}}</ref>、その後通算3勝目を挙げたが、同年7月20日の[[盛岡競馬場|盛岡競馬]]第8競走で故障し、左第1指関節開放脱臼のため[[予後不良]]となり死亡した<ref>{{Cite news2 |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/07/20/kiji/20210720s00004049493000c.html |title=オグリキャップの孫ミンナノヒーロー レース中に故障、予後不良に |newspaper=Sponichi Annex |date=2021-07-20 |accessdate=2021-07-20}}</ref>。
2021年6月19日、ミンナノアイドルの産駒であるレディアイコ(父[[モーリス (競走馬)|モーリス]]、母父オグリキャップ)がJRAでデビューした(16着)<ref>{{Cite web|和書|title=【オグリの孫がデビュー(1)】JRAで唯一“芦毛の怪物”の血を引くレディアイコ 尾関師「ロマンある」 - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/06/17/kiji/20210617s00004048390000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |accessdate=2022-02-07 |language=ja}}</ref>。その後、岩手競馬を経て笠松競馬へ移籍したが調教中に骨折をして引退<ref>{{Cite web|和書|title=【地方競馬】オグリキャップの孫娘 笠松競馬デビュー戦は6着 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=199440 |website=netkeiba.com |accessdate=2022-02-08 |language=ja}}</ref>。身体が小さく繁殖入りも難しいということで[[ヴェルサイユファーム|ヴェルサイユリゾートファーム]]で功労馬として繋養されることになった<ref>{{Cite web|和書|title=レディアイコ引退、前走4着がラストランに(笠松競馬) {{!}} 岐阜新聞Web |url=https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/60641 |website=レディアイコ引退、前走4着がラストランに(笠松競馬) {{!}} 岐阜新聞Web |access-date=2022-08-22 |language=ja}}</ref>。
== 特徴・評価 ==
=== 知能・精神面に関する特徴・評価 ===
ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒いことで知られていたが<ref name="渡瀬1992-60-61"/>、オグリキャップは現3歳時に調教のために騎乗した河内洋{{#tag:ref|初めて調教で騎乗した時に「4歳なのに古馬のようなどっしりした落ち着きがある」と感じ<ref name="渡瀬1992-137-139"/>、「すごく気性がしっかりとしていて、うるさいところもまったくなかった」<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>と回顧した。|group="†"}}と岡部幸雄{{#tag:ref|「ひとつ年齢が違うみたいに落ちついていて利口な馬」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、191頁。</ref>。|group="†"}}が共に古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく{{#tag:ref|このことについて[[ヤエノムテキ]]の厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功は「オグリキャップみたいな馬は信じられん」と述べている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、319頁。</ref>。|group="†"}}<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、134・299頁。</ref>、[[競馬場#発馬機|ゲート]]では落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった<ref name="渡瀬1992-93-95">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、93-95頁。</ref>。岡部幸雄は1988年の有馬記念のレース後に「素晴らしい精神力だね。この馬は耳を立てて走るんだ。レースを楽しんでいるのかもしれない」と語り<ref>[[#山本1992|山本1992]]、168頁。</ref>、1990年の有馬記念でスローペースの中で忍耐強く折り合いを保ち続けて勝利したことについて<ref name="有吉・栗原1991-178"/>、「類稀なる精神力が生んだ勝利だ」<ref name="渡辺(監修)2000-155"/>と評したが、オグリキャップと対戦した競走馬の関係者からもオグリキャップの精神面を評価する声が多く挙がっている{{#tag:ref|タマモクロスの管理調教師であった[[小原伊佐美]]は、タマモクロスとオグリキャップを比較して「タマモクロスは神経が細くて、やんちゃな馬だけど、向こうはドシッとして落ち着きがある。年齢とは反対に、オグリが中学生としたらうちのクロスは小学生みたいに見えた」と評価し、「二頭のうちどちらに乗りたいかと聞かれたら、迷わずオグリキャップと答えるでしょう」と述べた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、200頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|1989年のジャパンカップでホーリックスに騎乗した[[ランス・アンソニー・オサリバン]]は、オグリキャップがゴール板を過ぎた後もホーリックスの前へ出ようとする様子を見て、「あの勇気、真の意味で、レースホースと呼べるでしょう。ベスト・ルッキング・ホースであり、ベスト・レース・ホースです。一度でいいから、あんな馬に乗ってみたい」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、252頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|バンブーメモリーの管理調教師であった[[武邦彦]]は、オグリキャップを「オグリはレースに出ればいつでも一生懸命に走る。そこが偉い」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、355頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|イナリワンに騎乗してオグリキャップとの対戦経験を持つ[[柴田政人]]は、「オグリキャップの勝負根性は中途半端じゃない」「あの馬の勝負根性はすごいものがある」と評した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-54"/>。|group="†"}}。オグリキャップに携わった者からは学習能力の高さなど、賢さ・利口さを指摘する声も多い{{#tag:ref|笠松競馬場在籍時に主戦騎手を務めた安藤勝己は、最初から人の意思や競馬の仕組みを理解していたと述べている<ref name="安藤2003-110-111" />。|group="†"}}{{#tag:ref|笠松時代の担当[[厩務員]](2代目)であった川瀬友光は、[[スポーツ|運動]]をさせるときはおとなしく利口で、なんと扱いやすい馬かと思ったと述べている<ref name="渡瀬1992-96-97"/>。|group="†"}}{{#tag:ref|オグリキャップの調教を担当した調教助手の辻本光雄は、同馬の一番の長所として学習能力の高さ(同じ物に二度[[競走馬#物見|物見]]をしない、一度叱られると同じことをしない、など)を挙げた<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、114-115頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|栗東トレーニングセンターでオグリキャップの診察を担当していた[[獣医師]]の吉村秀之は、オグリキャップが厩舎の馬房の隅でじっと動かずにいることが多かったことについて、無駄な労力を使わないためであり賢さの現れとしている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、160-161頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|中央競馬時代の担当厩務員であった池江敏郎はオグリキャップについて、池江が厩舎に通勤する時に乗っていた車のエンジン音を聞き分けるなど賢い馬だったと述べている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、286頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|優駿スタリオンステーション主任の山崎努は、自身がオグリキャップの世話をすることになった際、オグリキャップの賢さ、冷静さ、理解力の高さが他に繋養されているどの種牡馬よりも優れていたという感覚を抱いたと述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-47"/>。|group="†"}}。
=== 身体面に関する特徴・評価 ===
オグリキャップは[[競馬場#パドック|パドック]]で人を引く力が強く、中央競馬時代は全レースで厩務員の池江と調教助手の辻本が2人で[[手綱]]を持って周回していた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、219-220頁。</ref>。さらに力が強いことに加えて柔軟性も備えており、「普通の馬なら絶対に届かない場所」で尻尾の毛をブラッシングしていた厩務員の池江に噛みついたことがある<ref>[[#山本1992|山本1992]]、141頁。</ref><ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、89頁。</ref>。南井克巳と武豊は共に、オグリキャップの特徴として柔軟性を挙げている<ref name="優駿増刊号 TURF-14">[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、14頁。</ref>。
笠松在籍時の厩務員の塚本勝男は3歳時のオグリキャップを初めて見たとき、腿の内側に力があり下半身が[[馬車|馬車馬]]のようにガッシリしているという印象を受けたと述べている<ref name="渡瀬1992-93-95"/>。最も河内洋によると、中央移籍当初のオグリキャップは前脚はしっかりしていたというものの、後脚がしっかりとしていなかった<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。河内はその点を考慮して後脚に負担をかけることを避けるためにゆっくりとスタートする方針をもって騎乗したため、後方からレースを進めることが多かったが、ニュージーランドT4歳Sに出走した際には後脚がかなりしっかりとしていたという<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。河内は後に「小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシや」と述べている<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、77-78頁。</ref>。
オグリキャップの体力面について、競馬関係者からは故障しにくい点や故障から立ち直るタフさを評価する声が挙がっている{{#tag:ref|調教助手の荻野功は「サラブレッドは一度故障したらもろいもんやけどね、それが立ち直って、いつも全力投球しとるんやから頭が下がる」「あのタフさは、怪物どころやないよ。化け物や」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、358頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|調教師の[[高松邦男]]は、過密なローテーションで出走するオグリキャップについて「よく壊れないものだと感心させられ(る)」、「オグリの持っている生命力そのものが凄い」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、349頁。</ref>。|group="†"}}。輸送時に体重が減りにくい体質でもあり、通常の競走馬が二時間程度の輸送で6キロから8キロ体重が減少するのに対し、1988年の有馬記念の前に美浦トレーニングセンターと中山競馬場を往復した上に同競馬場で調教を行った際に2キロしか体重が減少しなかった<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、81・122頁。</ref><ref>[[#山本1992|山本1992]]、200頁。</ref>。オグリキャップは[[心臓]]や[[消化器|消化器官]]をはじめとする内臓も強く、普通の馬であれば[[エンバク]]が未消化のまま糞として排出されることが多いものの、オグリキャップはエンバクの殻まで隈なく消化されていた<ref name="小栗1992-114-116">[[#小栗1992|小栗1992]]、114-116頁。</ref>{{#tag:ref|池江敏郎はこのことについて、「ボロを見ると、すごくよく消化されているんだ。こんな馬はいないよ」と言及している<ref name="結城1989-31"/>。1989年の有馬記念前には獣医から診断されたが、その際に獣医から「循環器系や消化器、そして肝心の心臓と肺。すべてがみごとに調和している」と絶賛された<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、36頁。</ref>。|group="†"}}。安藤勝己は、オグリキャップのタフさは心臓の強さからくるものだと述べている<ref>[[#安藤2003|安藤2003]]、104頁。</ref>。獣医師の吉村秀之は、オグリキャップは中央競馬へ移籍してきた当初から[[スポーツ心臓]]を持っていたと証言している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、135-136頁。</ref>。
=== 走行・レースぶりに関する特徴・評価 ===
オグリキャップは走行時に馬場を掻き込む力が強く、その強さは調教中に馬場の地面に[[かかと]]をこすって出血したり{{#tag:ref|出血の予防と治療のために厩務員の池江は常にかかとに薬を塗っていた<ref name="渡瀬1992-265-266">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、265-266頁。</ref>。|group="†"}}<ref name="渡瀬1992-265-266"/>、[[蹄鉄]]の磨滅が激しく頻繁に打ち替えられたために蹄が穴だらけになったことがあったほどであった<ref name="山本1992-180-182"/>{{#tag:ref|時期はニュージーランドトロフィー4歳ステークス出走後。以降対策として爪の成長を促すため[[ゼラチン]]が投与された<ref name="山本1992-180-182"/><ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、145頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|瀬戸口勉によるとオグリキャップの蹄は「ものすごく大きくて、底が薄い」といい、オグリキャップの装蹄を担当していた三輪勝はレース時に「あんまり鞭を入れないでくれ」という思いで見ていたという<ref name="オグリキャップよ、永遠に-55">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、55頁。)</ref>。|group="†"}}。なお、栗東トレーニングセンター競走馬診療所の獣医師松本実は、5歳時に発症した右前脚の繋靭帯炎の原因を、生まれつき外向していた右脚で強く地面を掻き込むことを繰り返したことにあると分析している<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、342頁。</ref>。
笠松在籍時の調教師鷲見昌勇は、調教のためにオグリキャップに騎乗した経験がある{{#tag:ref|通常調教は騎手や調教助手が行うが、ダンシングキャップの産駒はゲート試験(ゲートをスムーズに出られるかどうかの試験)を合格しないものが多かったため<ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、24頁。</ref>、鷲見自ら行うこととした。|group="†"}}。その時の印象について鷲見は「[[筋肉]]が非常に柔らかく、フットワークにも無駄がなかった。[[自動車|車]]に例えるなら、スピードを上げれば[[重心]]が低くなる高級外車みたいな感じだよ」と感想を述べている<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、105頁。</ref>。乗り味についても「他馬が[[軽トラック]]なら、(オグリキャップは)高級乗用車だ」と評し<ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、25頁。</ref>、「オグリキャップは全身がバネ。キャップが走ったらレースにならんて」と発言したこともある<ref name="優駿を愛する会(編)1991-31-33"/>。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦は、「オグリキャップが走った四脚の足跡は一直線だった。軽い[[歩法 (馬術)#駈歩|キャンター]]からスピードに乗るとき、ギアチェンジする瞬間の衝撃がすごかった」と述べている<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、68頁。</ref>。オグリキャップは肢のキック力が強く、瞬発力の強さは一回の蹴りで前肢を目いっぱいに延ばし、浮くように跳びながら走るため、この走法によって普通の馬よりも20から30センチ前に出ることができた<ref name="小栗1992-114-116"/>。一方で入厩当初は右前脚に[[骨膜炎]]を発症しており「馬場に出ると怖くてよう乗れん」という声もあった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、92頁。</ref>。
オグリキャップは首を良く使う走法で、沈むように首を下げ、前後にバランスを取りながら地面と平行に馬体を運んでいく走りから、笠松時代から「地を這う馬」と形容されることがあった<ref name="小栗1992-114-116"/><ref>[[#小栗1994|小栗1994]]、46頁。</ref>。安藤勝己は秋風ジュニアのレース後、「[[重心]]が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという<ref name="光栄出版部(編)1995a-106"/>。瀬戸口勉もオグリキャップの走り方の特徴について、重心と首の位置が低いことを挙げている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-53">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、53頁。)</ref>。
河内洋はオグリキャップのレースぶりについて、スピードタイプとは対照的な「グイッグイッと伸びる力タイプ」と評し<ref name="渡瀬1992-137-139"/>、騎乗した当初からオグリキャップは「勝負所になると自ら上がっていくような感じで、もうオグリキャップ自身が競馬を知っていた」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。また「一生懸命さがヒシヒシ伝わってくる馬」、「伸びきったかな、と思って追うと、そこからまた伸びてきよる」、「底力がある」とする一方、走る気を出し過ぎるところもあったとしている<ref name="渡瀬1992-181">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、181頁。</ref><ref>[[#山本1992|山本1992]]、152頁。</ref>。一方で[[競馬の競走格付け|GI]]クラスを相手にした時のオグリキャップは抜け出すまでにモタつく面があるため多頭数のレースだとかなり不安が残る馬と分析し、「直線の入り口でスーッと行ける脚が欲しい」と要望していた<ref name="狩野1991-76">[[#狩野1991|狩野1991]]、76頁。</ref>。
河内の次に主戦騎手を務めた南井克巳は、オグリキャップを「力そのもの、パワーそのものを感じさせる馬」「どんなレースでもできる馬」「レースを知っている」と評し<ref name="渡瀬1992-197・238・310">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、197・238・310頁。</ref>、1989年の毎日王冠のレース後には「この馬の勝負根性には本当に頭が下がる」と語った<ref>[[#阿部2006|阿部2006]](『優駿』2006年2月号、53頁。)</ref>。同じく主戦騎手を務めたタマモクロスとの比較については「馬の強さではタマモクロスのほうが上だったんじゃないか」<ref name="狩野1991-70"/>と語った一方で、「オグリキャップのほうが素直で非常に乗りやすい」と述べている<ref name="渡瀬1992-197・238・310"/><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、108頁。</ref>。オグリキャップ引退後の1994年に自身が主戦騎手となってクラシック三冠を制した[[ナリタブライアン]]にデビュー戦の直前期の調教で初めて騎乗した際には、その走りについて加速の仕方がオグリキャップに似ていると感じ、この時点で「これは走る」という感触を得ていたと述べている<ref>[[#木村幸2000|木村幸2000]]、101-102頁。</ref>。
武豊によるとオグリキャップは右[[手前]]で走ることが好きで、左回りよりも右回りのコースのほうがスムーズに走れた。またコースの左右の回りを問わず、内側にもたれる癖があった<ref name="武・島田2003-146-147・160-161"/>。
[[野平祐二]]はオグリキャップの走り方について、「弾力性があり、追ってクックッと伸びる動き」が、自身が調教師として管理した[[シンボリルドルフ]]とそっくりであると評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、168頁。</ref>。
オグリキャップは休養明けのレースで好成績を挙げている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、41-42頁。</ref>。南井克巳はその理由として、オグリキャップはレース時には正直で手抜きを知らない性格であったことを挙げ<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、63頁。</ref>、「間隔をあけてレースを使うとすごい瞬発力を発揮する」と述べている<ref name="ありがとうオグリキャップ-43">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、43頁。</ref>。一方で南井は、レース間隔が詰まると逆に瞬発力が鈍るとも述べている<ref name="ありがとうオグリキャップ-43"/>。
オグリキャップの距離適性について、河内は本来は[[競走馬#マイラー|マイラー]]であると述べている<ref name="渡瀬1992-181"/>。毎日杯のレース後には「距離の2000mもこなしましたが、この馬に一番の似合いの距離は、前走のペガサスステークスのような1600メートル戦じゃないかな」とコメントし<ref>[[#狩野1991|狩野1991]]、50頁。</ref>、「マイル戦では無敵だよ」と発言したこともある<ref name="狩野1991-85"/>。同じく主戦騎手を務めていた[[サッカーボーイ]]との比較においては、「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」と述べている<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、83頁。</ref>。岡部幸雄はベストは1600mで2500mがギリギリとし<ref name="有吉・栗原1991-88-91">[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、88-91頁。</ref>、瀬戸口勉は1988年の有馬記念に出走する前には血統からマイラーとみていたため、「2500mは長いのではないか」と感じ<ref name="山本2017-44-45"/>、後にベストの条件は1600mとし<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、101頁。</ref>、マイル戦においては無敗だったため「マイルが一番強かったんじゃないかな」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-54">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、54頁。)</ref>。競馬評論家の[[山野浩一]]は1989年のジャパンカップを世界レコードタイムで走った事を根拠に「オグリキャップをマイラー・タイプの馬と決めつけることはできない」と述べ<ref name="狩野1991-85">[[#狩野1991|狩野1991]]、85頁。</ref>、[[大川慶次郎]]は一見マイラーだが頭がよく、先天的なセンスに長けていたため長距離もこなせたと分析している<ref name="大川1997-149-150"/>。なお、父のダンシングキャップは一般的に「ダートの短距離血統」という評価をされていた<ref name="オグリキャップよ、永遠に-36">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、36頁。)</ref>。
=== 総合的な評価 ===
鷲見昌勇はオグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている<ref name="有吉・栗原1991-18-19">[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、18-19頁。</ref>。安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬に「どえらい馬だね。来年は間違いなく[[東海ダービー]]を取れる」と言った<ref name="光栄出版部(編)1995a-106">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、106頁。</ref>。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすれば[[フェートノーザン]]か[[ワカオライデン]]のどちらか」と考えていた<ref name="有吉・栗原1991-18-19"/>。
河内洋は初めて騎乗したペガサスステークスについて「とても長くいい脚を使えたし、これはかなり走りそうだと思ったよ。距離の融通も利きそうだったしね」と回顧し<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレース後に古馬との比較について問われた際、キャリアの違いはあったものの「この馬も相当の器だよ」とコメントした<ref name="阿部2006-52"/>。自身が騎乗した4歳時のジャパンカップまではGIで勝利を挙げられなかったものの、次走の第33回有馬記念以降から長く厳しいレースをしながら最後まで丈夫に走り続けたことについて、「本当に野武士のような馬だったね」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。
第33回有馬記念で騎乗した岡部幸雄は、オグリキャップとシンボリルドルフとを比較し、力を出す必要のない時に手を抜いて走ることができるかどうかの点で「オグリキャップは他の馬よりはそれができるけれど、ルドルフと比べるとまじめ過ぎる感じ」という評価を下し<ref group="†">この評価について、岡部は「ルドルフはシンボリ牧場と言う、競馬界のトレセンの枠にしばられない自由な鍛錬場所に恵まれたのが幸いした。その点オグリキャップはかわいそうな気がしないでもない」と付け加えた。</ref>、また2000mから2200mがベスト距離のシンボリルドルフがオグリキャップのベスト距離である1600mで戦った場合についても、調教を通して短距離のペースに慣れさせることで勝つだろうと述べた。ただし岡部幸雄はオグリキャップの能力や環境の変化にすぐに馴染める精神力のタフさを高く評価し、アメリカでも必ず通用するとしてアメリカ遠征を強く勧めた<ref name="有吉・栗原1991-88-91"/>。
南井克巳は初めて騎乗した京都4歳特別についてこの時にも強いと感じたが、オールカマーで騎乗した際には「本当に強い馬だなと感じましたね。とにかく力が抜けていました」と回顧し、自身が騎乗したレースの中で最も強さが出ていたレースとしてオールカマーを挙げている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45"/>。自身がオグリキャップに騎乗したことについては「自分にとっても勉強になったし、瀬戸口先生がああいう馬を作られたことがすごいと思います」、「いろんないい馬に乗せていただきましたが、あれだけの馬に乗せてもらえて本当に良かったですよ」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45"/>。
武豊は自身が騎乗するまでのオグリキャップに対して「にくいほど強い存在でしたし、あこがれの存在でもありました」と述べ、初めてコンビを組んだ安田記念は「自分でも乗っていて、ビックリするというか、あきれるくらいの強さでした」「当時海外遠征のプランもあったんですが、これなら十分通用するなという気持ちがありました」と回顧し、「どんな条件でも力を発揮するわけですから、競走馬としての総合能力は相当高かったと思います」と総評した<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45"/>。オグリキャップが自身に与えた影響についても「競馬の素晴らしさ、騎手という職業のすばらしさを感じさせてくれた馬です。オグリキャップに乗ることができたのは、自分にとって大きな財産です」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-45"/>。
大川慶次郎は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が放送した第35回有馬記念の最後の直線で[[メジロライアン]]の競走馬名を連呼したことから競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったというが、本人はこれを否定し<ref>[[#大川1997|大川1997]]、147頁。</ref><ref>[[#大川1998|大川1998]]、310頁。</ref>、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」<ref>[[#大川1997|大川1997]]、146頁。</ref>、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、113頁。</ref>と評した。
競馬評論家の[[合田直弘]]は、日本国外においてアイドル的人気を博した競走馬との比較において「底辺から這い上がった馬である」「力量抜群ではあったが、一敗地にまみれることも少なくなかった」「最後の最後に極上のクライマックスが用意されていた」点で、オグリキャップに匹敵するのは[[シービスケット]]ただ一頭であると述べている<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、57頁。</ref>。
=== 投票における評価 ===
競馬ファンによる評価をみると、[[2000年]]にJRAが行った「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」において2万7866票を獲得して第3位<ref>[[#『優駿』2000年10月号|『優駿』2000年10月号]]、13頁。</ref>、2010年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第4位<ref>[[#『優駿』2010年8月号|『優駿』2010年8月号]]、18-19頁。</ref>、2015年にJRAが行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」では第3位に選ばれている<ref name="優駿2015-03-22-23">[[#『優駿』2015年3月号|『優駿』2015年3月号]]、22-23頁。</ref>。「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票においては、オグリキャップは第35回有馬記念が投票率73.6%を記録してベストレースに選ばれた<ref name="優駿2015-12-12-13">[[#『優駿』2015年12月号|『優駿』2015年12月号]]、12-13頁。</ref>{{#tag:ref|以降1989年マイルチャンピオンシップが11.9%、1989年ジャパンカップが4.2%、1990年安田記念が3.1%、その他のレースが7.2%という結果となった<ref name="優駿2015-12-12-13"/>。|group="†"}}。
競馬関係者による評価をみると、雑誌『[[Sports Graphic Number]]』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では第12位であった{{#tag:ref|票数は1票で、オグリキャップの他にも[[メイヂヒカリ]]、[[メイズイ]]、[[トウメイ]]、[[カブラヤオー]]、[[トウショウボーイ]]、[[メジロラモーヌ]]、[[サクラスターオー]]、[[メジロマックイーン]]、[[ミホノブルボン]]、[[マチカネフクキタル]]が投票数1票で12位に選出された。オグリキャップに投票したのは[[和田竜二]]で、「少々条件が厳しくても、力の違いでねじ伏せる競馬にあこがれた」と述べている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、21頁。</ref>。|group="†"}}(第1位は[[シンザン]])。同誌が同じく競馬関係者を対象に行った「最強馬アンケート 私が手がけた馬編」では瀬戸口のみがオグリキャップを挙げ、瀬戸口は「私の誇りです。」とコメントした<ref name="競馬 黄金の蹄跡-22-23">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、22-23頁。</ref>{{#tag:ref|河内はメジロラモーヌ、岡部はシンボリルドルフ、南井はタマモクロス、武は[[サイレンススズカ]]、増沢は[[イシノヒカル]]を挙げた<ref name="競馬 黄金の蹄跡-22-23"/>。|group="†"}}。またシンザン<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、24-31頁。</ref>、ハイセイコー<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、32-37頁。</ref>、シンボリルドルフ<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、38-43頁。</ref>と共に、その時代に輝いた四大スーパーホースの1頭に選ばれている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、44-49頁。</ref>。2004年に『優駿』が行った「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」という特集の「年度別代表馬BEST10」において、オグリキャップは1980年代部門の第1位に選ばれた<ref>[[#『優駿』2004年3月号|『優駿』2004年3月号]]、23頁。</ref>。
競馬関係者に競馬ファンの著名人を加えた評価では、雑誌『[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]』が[[1991年]]に行ったアンケート<ref group="†">対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員[[OB・OG|OB]]、競馬ファンの著名人</ref>では「マイラー部門」で第1位<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、28頁。</ref>、「最強馬部門」で第5位<ref name="優駿増刊号 TURF-14"/>(第1位は[[シンボリルドルフ]])<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、4-7頁。</ref>、「思い出の馬部門」で第2位<ref name="優駿増刊号 TURF-46">[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、46頁。</ref>(第1位は[[テンポイント]]<ref name="優駿増刊号 TURF-46"/>)に選ばれている。また、[[日本馬主協会連合会]]が史誌『日本馬主協会連合会40年史』(2001年)の中で、登録馬主を対象に行ったアンケートでは、「一番印象に残る競走馬」の部門で第1位を獲得、「一番印象に残っているレース」の部門でも、ラストランの第35回有馬記念が[[第38回有馬記念]]([[トウカイテイオー]]優勝)と同率での第1位(504票中19票)に選ばれた。「一番の名馬」部門では第5位(第1位はシンザン)、「一番好きな競走馬」部門では第9位(第1位はハイセイコー)だった。
=== 競走馬名および愛称・呼称 ===
[[競走馬#競走馬名|競走馬名]]「オグリキャップ」の由来は、馬主の小栗が使用していた[[冠名]]「オグリ」に父[[ダンシングキャップ]]の馬名の一部「キャップ」を加えたものである。
同馬の愛称としては「オグリ」が一般的だが、女性ファンの中には「オグリちゃん」<ref>[[#長島2002|長島2002]]、232頁。</ref>、「オグリン」<ref>[[#冒険企画局(編)1994|冒険企画局(編)1994]]、100-101頁。</ref>と呼ぶファンも存在し、その他「怪物」「新怪物」「白い怪物」「芦毛の怪物」と呼ばれた。またオグリキャップは前述のように生来食欲が旺盛で、「食べる競走馬」とも呼ばれた<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、168頁。</ref>。
== 人気 ==
=== 概要 ===
競走馬時代のオグリキャップの人気の高さについて、ライターの関口隆哉は「シンボリルドルフを軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評している<ref name="関口2002-15"/>。また岡部幸雄は「ハイセイコーを超えるほど」であったとしている<ref>[[#岡部2006|岡部2006]]、10頁。</ref>([[ハイセイコー#人気(ハイセイコーブーム)]]も参照)。
オグリキャップが人気を得た要因についてライターの[[市丸博司]]は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」「競馬ファンにもたらした感動は、恐らく同時代を過ごした者にしか理解できないものだろう」と述べ<ref>[[#市丸1994|市丸1994]]、30-34頁。</ref>、[[山河拓也]]も市丸と同趣旨の見解を示している<ref name="サラブレ編集部(編)2007-220-229">[[#サラブレ編集部(編)2007|サラブレ編集部(編)2007]]、220-229頁。</ref>。斎藤修は、日本人が好む「田舎から裸一貫で出てきて都会で名をあげる」という立身出世物語に当てはまったことに加え、クラシックに出走することができないという挫折や、タマモクロス、イナリワン、スーパークリークというライバルとの対決がファンの共感を得たのだと分析している<ref name="東邦出版(編)2005-131-132"/>。お笑い芸人の[[明石家さんま]]は雑誌『サラブレッドグランプリ』のインタビューにおいて、オグリキャップについて「マル地馬で血統も良くない。それが中央に来て勝ち続ける。エリートが歩むクラシック路線から外されてね。ボクらみたいにイナカから出てきて東京で働いているもんにとっては希望の星ですよ」と述べている<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、100頁。</ref>。
[[須田鷹雄]]は中央移籍3戦目のNZT4歳Sを7馬身差で圧勝して大きな衝撃を与えたことでオグリキャップは競馬人気の旗手を担うこととなったとし、その後有馬記念を優勝したことで競馬ブームの代名詞的存在となったと述べている<ref name="須田2015-66">[[#須田2015|須田2015]](『優駿』2015年6月号、66頁。)</ref>。江面弘也は、5歳初戦のオールカマーでオグリキャップがパドックに姿を現しただけで拍手が沸き起こったことを振り返り、「後になって思えば、あれが『オグリキャップ・ブーム』の始まりだった」と回顧している<ref name="オグリキャップよ、永遠に-39">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、39頁。)</ref>。阿部珠樹は「オグリキャップのように、人の気持ちをグイグイ引っ張り、新しい場所に連れて行ってくれた馬はもう出ないのではないだろうか」と述べている<ref>[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、48頁。)</ref>。
調教師の瀬戸口勉は後に「自分の厩舎の馬だけではなく、日本中の競馬ファンの馬でもあった」と回顧し<ref>[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、49頁。</ref>、オグリキャップが高松宮杯を勝ってからファンが増えていったことで「ファンの馬」と感じるようになったという<ref name="オグリキャップよ、永遠に-54"/>。瀬戸口はオグリキャップはとにかく一生懸命に走ったことで、その点人気があったのではないかと述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-53"/>。
=== 第二次競馬ブームとの関係 ===
オグリキャップの人気は、ほぼ同時期にデビューした騎手の武豊の人気、JRAの[[コマーシャルメッセージ|CM]]によるイメージ戦略<ref name="オグリキャップよ、永遠に-24">[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、24頁。)</ref>、および[[バブル景気]]との[[相乗効果]]によって競馬ブームを巻き起こしたとされる<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、10頁。</ref><ref name="東邦出版(編)2005-139">[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、139頁。</ref>。このブームは「第二次競馬ブーム」と呼ばれ<ref>[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、13頁。</ref>、競馬の世界を通り越した社会現象と評されている<ref name="優駿増刊号 TURF-14"/>。
第二次競馬ブームとオグリキャップの関係について、大川慶次郎は「競馬ブームを最終的に構築したのはオグリキャップだ」と評している<ref>[[#大川1998|大川1998]]、306頁。</ref>。ライターの瀬戸慎一郎は、第二次競馬ブームの主役がオグリキャップであったのはいうまでもない、と述べている<ref>[[#瀬戸1997|瀬戸1997]]、[https://web.archive.org/web/20080110060934/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1985102167/story-1.html 第1話「オグリキャップ登場」]</ref>。
=== 馬券売り上げ・入場者数の増加 ===
オグリキャップが中央競馬移籍後に出走したレースにおける[[投票券 (公営競技)|馬券]]の売上額は、20レース中17レースで前年よりも増加し、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝式]]の売上額は全てのレースで増加した。また、オグリキャップが出走した当日の競馬場への入場者数は、16レース中15レースで前年よりも増加した<ref group="†">競馬場の改装のために入場制限が行われていた1988年、1989年の有馬記念、前年の施行競馬場が異なる1989年のオールカマーについては比較対象から除外。</ref>{{#tag:ref|須田鷹雄はこの改修期間を経て、「そこ(改装後の中山)へ若いファンが詰めかけ、パドックは熱気に包まれることになる」といったタイミングの良さもオグリキャップの人気につながったと指摘している<ref name="須田2015-66"/>。|group="†"}}<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、117-122頁。</ref>。中央競馬全体の年間の馬券売上額をみると、オグリキャップが笠松から移籍した1988年に2兆円に、引退した1990年に3兆円に、それぞれ初めて到達している<ref name="ありがとうオグリキャップ-46"/>。
なお、1988年の高松宮杯では馬券全体の売り上げは減少したものの、オグリキャップとランドヒリュウの[[投票券 (公営競技)#普通二連勝複式|枠連]]は[[中京競馬場]]の[[競馬場#オッズ板|電光掲示板]]に売上票数が表示できないほど<ref group="†">当時、中京競馬場の電光掲示板には9億9999万9900円まで表示が可能であったが、10億を超える(最終的な売上額は10億9088万3300円)売り上げを記録したことによる。</ref>の売上額を記録した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、154頁。</ref><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、48-49頁。</ref>。第35回有馬記念では同年の[[東京優駿]]の売上額の397億3151万3500円を上回ってJRAレコードとなる480億3126万2100円を記録した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、148頁。</ref>。
オグリキャップ自身は出走した32レースのうち27レースで[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝式馬券]]の1番[[人気]]に支持された。なお、中央競馬時代には12回<ref group="†">1988年の京都4歳特別、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス、毎日王冠、天皇賞(秋)、有馬記念、1989年のオールカマー、天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、有馬記念、1990年の安田記念、宝塚記念、天皇賞(秋)</ref>[[単枠指定制度]]の適用を受けている。
第35回有馬記念のパドックにおいては47本の応援幕が張られたが、その中でもオグリキャップへの応援幕は20本張られ、全本数、1頭の馬が張り出した本数は共に史上最多を記録した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、184頁。</ref>。
=== 関連グッズ ===
第二次競馬ブーム期を中心にオグリキャップの人気に便乗する形で、様々な関連グッズが発売された。代表的なものは[[ぬいぐるみ]]で、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋が経営する会社{{#tag:ref|[[株式会社]]アバンティー。佐橋はオグリキャップの競走馬名を[[商標]]登録し、さらに形態を[[意匠権|意匠]]登録したため、ぬいぐるみ以外のグッズの商品化の権限もアバンティーが握っていた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、370・390頁。</ref><ref name="山本1992-207-211">[[#山本1992|山本1992]]、207-211頁。</ref>。|group="†"}}が製造および販売を行い、大ヒット商品となった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、243-244頁。</ref>。初めてぬいぐるみが発売されたのは1989年の秋で、発売されてすぐに売り切れとなった<ref name="長島2002-239">[[#長島2002|長島2002]]、239頁。</ref>。価格は、最も小柄な20センチメートルほどの商品で2000円、最も大きなサイズは4万円に設定された<ref name="長島2002-239"/>。売り上げは1989年10月の発売開始以降の1年間で160万個、金額に換算して60億円を記録し<ref name="優駿を愛する会(編)1991-167-168">[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、167頁。</ref>、最終的には300万個、[[クレーンゲーム]]用のものを含めると1100万個に及んだ<ref name="ありがとうオグリキャップ-46"/>。その後、競走馬のぬいぐるみは代表的な競馬グッズのひとつとなった([[日本の競馬#競走馬のぬいぐるみ|日本の競馬]]を参照)。ライターの山本徹美は、ぬいぐるみのブームが従来馬券愛好家が構成していた競馬ファンに騎手や競走馬を応援するために競馬場を訪れる層や女性ファンを取り込んだとしている<ref name="山本1992-207-211"/>。ぬいぐるみの他にも様々なグッズが発売されたが、売れ行きは全てのグッズも好調だった<ref name="優駿を愛する会(編)1991-167-168"/>。
オグリキャップ没後の2022年10月、笠松競馬での冠レース「第1回オグリキャップ記念」に合わせて、[[日本酒|カップ酒]]「オグリカップ」がお披露目された<ref name=朝日新聞20221219>[https://www.asahi.com/articles/ASQDJ622FQD5OHGB00D.html 名馬に酔う「オグリカップ酒」デビューの地 岐阜の酒店 元馬主と交わした約束]『[[朝日新聞]]』夕刊2022年12月19日(社会面)2022年12月29日閲覧</ref>。笠松と同じ岐阜県の[[海津市]]にある酒販店の店主が、馬主だった小栗孝一との生前の約束を実現させたもので、製造は新澤醸造店([[宮城県]])に委託した<ref name=朝日新聞20221219/>。
=== 女性ファン ===
『[[朝日新聞]]』のコラム『[[天声人語]]』はオグリキャップを「女性を競馬場に呼び込んだ立役者」と評している<ref>[[#朝日新聞論説委員室2011|朝日新聞論説委員室2011]]、18頁。</ref>{{#tag:ref|例えば武とオグリのコンビが初めて実現した1990年の安田記念では、女性の観客が前年の約2倍の1万3488人に増え<ref>[[#山本1992|山本1992]]、229頁。</ref>、同年の有馬記念当日は総入場者数17万7779人中、全体の10%近くを占める1万5375人の女性客が入場した<ref name="優駿を愛する会(編)1991-150">[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、150頁。</ref>。これは有馬記念史上初の記録で<ref name="ありがとうオグリキャップ-42"/>、その2年前はわずか2%であった<ref name="優駿を愛する会(編)1991-150"/>。また東京競馬場で行われたオグリキャップの引退式当日(1991年1月27日)の女性の入場者数は前年比385.5%増の9456人であった<ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、28頁。</ref>。|group="†"}}。競馬場においてはオグリキャップのぬいぐるみを抱いた若い女性が闊歩する姿が多くみられるようになり<ref>[[#"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に|"芦毛の怪物"オグリキャップよ、永遠に]](『優駿』2010年9月号、40頁。)</ref>、パドックで女性ファンから厩務員の池江に声援が飛ぶこともあった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、266頁。</ref>。オグリキャップのファンの女性は「オグリギャル」と呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|author = |date = |url = http://local-keiba.com/moguri.html|title = 地方競馬場所属の名馬たち- オグリキャップ号|publisher = 地方競馬まるごと|accessdate = 2010年8月13日}}</ref>。
=== 第35回有馬記念優勝後の人気 ===
第35回有馬記念優勝後のオグリキャップは「日ごろ競馬とは縁がない[[アイドル]][[タレント#芸能人としてのタレント|タレント]]たちも、その走りを賛美するコメントをテレビ番組で口にし」「競馬に興味を持たない主婦たちでさえその名を知る」存在となった<ref name="関口2002-18"/>。当時の状況について競馬評論家の石川ワタルは、「あの頃が日本の競馬全盛時代だったのではないか。今後二度と訪れることのないような至福の競馬黄金時代だったのではないか」と回顧している<ref>[[#光栄出版部(編)1995b|光栄出版部(編)1995b]]、145頁。</ref>。
一方で須田鷹雄は、優勝後の騒ぎが「オグリキャップの起こした奇跡を台なしに」してしまい、「それから後に残ったのは、虚像としてのオグリキャップだけではないか」としている<ref>[[#光栄出版部(編)1995b|光栄出版部(編)1995b]]、131頁。</ref>。また山河拓也は「『オグリ=最後の有馬記念』みたいな語り方をされると、ちょっと待ってくれと言いたくなる」と述べている<ref name="サラブレ編集部(編)2007-220-229"/>。武豊は1998年に受けたインタビューにおいて、同レースが「奇蹟」などと言われていることについて、「こんな言い方は失礼かもしれないけど、オグリよりも、あの時(翌1991年の有馬記念)の[[ダイユウサク]]の脚のほうが『奇蹟』でしょう」と述べている<ref>[[#武・島田2003|武・島田2003]]、43頁。</ref>。
第35回有馬記念は[[日本放送協会|NHK]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が生放送し、[[ビデオリサーチ]]の発表によると[[視聴率]]はそれぞれ11.7%と9.6%だった。前年の有馬記念はNHKが16.2%、フジテレビが10.4%を記録していたが、2局合わせた番組占拠率<ref group="†">その時刻にテレビをつけている人の何パーセントがその番組を見ているかの確率。</ref>は50.3%を記録した<ref>[[#優駿を愛する会(編)1991|優駿を愛する会(編)1991]]、183頁。</ref>。
=== 関連作品 ===
* [[オグリの子]] - [[阿部夏丸]]による小説。[[日本放送協会|NHK]]の『[[ドラマ愛の詩]]』枠でテレビドラマ化。
== 騎手 ==
オグリキャップの騎手は何度も交替した。以下、オグリキャップに騎乗した主な騎手と騎乗した経緯について記述する。
;[[安藤勝己]]
:デビュー当初のオグリキャップには高橋一成(鷲見厩舎の所属騎手)と青木達彦が騎乗していたが、6戦目のレースではいずれも騎乗することができなかった{{#tag:ref|高橋は研修のため、青木は[[肩]]の[[脱臼]]のため<ref name="オグリキャップよ、永遠に-35"/>。|group="†"}}ため、当時笠松競馬場の[[リーディングジョッキー]]であった安藤が騎乗し、以降は安藤がオグリキャップの[[主戦騎手]]を務めた。安藤はオグリキャップに騎乗した中でもっとも思い出に残るレースとして、楽に勝たせようと思い早めに先頭に立った結果オグリキャップが気を抜いてマーチトウショウとの競り合いになり、目一杯に追う羽目になった7戦目のジュニアクラウンを挙げている<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、103-104頁。</ref>。1990年のジャパンカップで[[川崎競馬場]]所属の騎手[[河津裕昭]]がイブンベイに騎乗すると聞き、佐橋に対しオグリキャップへの騎乗を申し入れたが実現しなかった<ref name="渡瀬1992-415-416">[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、415-416頁。</ref>。安藤は後にJRAへ移籍したが、「オグリキャップがいたから中央競馬が地方馬にGI開放とかそういう流れになっていったんじゃないかと思いますし、(自身の中央移籍への道を作ってくれたのも)オグリキャップのお陰だと思っています」と述べ、自身にとってのオグリキャップの存在についても「自分の未来を切り開いてくれた馬だと思います。とても感謝しています」と述べている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。
;[[河内洋]]
:オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の主戦騎手。当時の馬主の佐橋の強い意向によりペガサスステークスに騎乗し、同年のジャパンカップまで主戦騎手を務めた。同年の有馬記念では、佐橋の意向により岡部幸雄に騎乗依頼が出され、それ以降、オグリキャップに騎乗することはなかった。河内は自身が騎乗したレースで最も印象に残っているレースとしてニュージーランドT4歳Sを挙げている<ref name="オグリキャップよ、永遠に-44"/>。
;[[岡部幸雄]]
:1988年の有馬記念で佐橋の意向から騎乗依頼を受け「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた<ref name="渡瀬1992-188-191"/><ref name="山本2017-44-45"/>。後に佐橋からオグリキャップを購入した近藤俊典が騎乗依頼を出したが、了解を得ることはできなかった<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、214頁。</ref>。その一因は、クリーンなイメージを大切にする岡部が佐橋の脱税問題<ref name="渡辺(監修)2000-155"/>が取りざたされたオグリキャップへの騎乗を嫌ったことにあるとされている<ref name="渡瀬1992-188-191"/><ref name="有吉・栗原1991-88-91"/>。調教師の[[高松邦男]]は、オグリキャップに騎乗した騎手の中で岡部がもっとも馬にフィットした乗り方をしたと評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、350頁。</ref>。岡部は有馬記念前に騎乗依頼を受けた際、「西(栗東)の馬はよくわからないから」と一度は婉曲に断っていたが<ref name="山本2017-44-45"/>、オグリキャップが引退して一年余り経ったときに、「僕はオグリキャップには乗ってみたかったんですよ。ひと口に強い馬といってもいろいろ癖がありますから。どんな馬か知りたかったですしね」とオグリキャップへの騎乗に興味を持っていたことを明かしている<ref>[[#小栗1992|小栗1992]]、92頁。</ref>。
;[[南井克巳]]
:1988年の京都4歳特別に、河内洋の代役<ref group="†" name="Soccer Boy"/>として騎乗した。翌1989年には前述のように岡部が近藤からの騎乗依頼を断った後で瀬戸口から騎乗依頼を受け<ref name="ありがとうオグリキャップ-42"/>、主戦騎手を務めた。1990年は[[バンブービギン]]に騎乗することを決断し、自ら降板を申し出た<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、292頁。</ref>。1989年の[[第34回有馬記念]]における騎乗について[[野平祐二]]と岡部は南井の騎乗ミスを指摘した<ref group="†">野平は具体的な理由として、逃げたダイナカーペンターを深追いし速いペースで走行したことと、スタート後手綱をしごいてまで2番手につけた結果折り合いを欠いたことを挙げた。</ref><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、147頁。</ref>。南井は有馬記念の騎乗について、オグリキャップの調子が悪くいつもの末脚を発揮することが難しいため、好位置の楽な競馬で気力を取り戻すことを期待したと説明している<ref name="狩野1991-86">[[#狩野1991|狩野1991]]、86頁。</ref>。
;[[武豊]]
:1990年にアメリカ遠征が決定した際、武豊が鞍上を務めることが決まったことで陣営は第40回安田記念にも騎乗を依頼し、同レースで騎乗することとなった<ref>[[#島田2014|島田2014]]、59頁。</ref>{{#tag:ref|ライターの阿部珠樹は、前年の時点でのオグリキャップと武豊を「因縁浅からぬ両者」と表現し、このコンビ結成は「大げさに言えば、歴史的和解といえたかもしれない」と述べている<ref name="阿部2006-55"/>。|group="†"}}。この起用は武がオグリキャップと共に第二次競馬ブームの象徴的存在であったことに加え、前年の有馬記念の開催3日前にテレビ番組「[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]」に出演した際<ref>[[#山本1992|山本1992]]、225-226頁。</ref><ref>[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、47頁。</ref>、「オグリキャップは何を考えているかわからないところがあって、嫌いです」と発言していた<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、297頁。</ref><ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、62-63頁。</ref>ことで話題となり、激しく反発するファンも現れた{{#tag:ref|安田記念のパドックでは武に対し「オグリのこと嫌いだったんじゃないのか」という罵声が浴びせられ<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、300頁。</ref>、「武は降りろ。オグリを南井に返せ」という[[横断幕]]が掲げられた<ref name="サラブレ編集部(編)2007-220-229"/>。ただし、武によると前年の第100回天皇賞(秋)でスーパークリークに騎乗してオグリキャップを破った際に嫌がらせの手紙が山のように届くなど、既にオグリキャップのファンからは酷い目にあっていたという<ref name="武・島田2004-109">[[#武・島田2004|武・島田2004]]、109頁。</ref><ref>[[#島田2014|島田2014]]、56頁。</ref>。|group="†"}}。武は第31回宝塚記念でスーパークリークに騎乗することを選択し<ref group="†" name="Super Creek"/>、さらにオグリキャップの海外遠征が中止となったことでコンビ解消となったが、当初第35回有馬記念で騎乗予定だったスーパークリークが故障により引退したため<ref name="小栗1992-193"/>、再びオグリキャップに騎乗した{{#tag:ref|作家の木村幸治は武豊にとってのスーパークリークとオグリキャップの位置づけについて、「安田記念にスーパークリークが出走していたら、豊は、迷わずクリークに乗っていたはずである。豊側から見れば、クリークが"正妻"であり、オグリは"[[側室]]"でしかなかった」と述べている<ref>[[#木村幸1997|木村幸1997]]、48頁。</ref>。|group="†"}}。武は[[平成三強]]全てに騎乗した経験を持つが{{#tag:ref|三頭については「本当に強かった。GIで当たり前のように本命になる馬に乗ったことはボクにとってすごい経験でした。強い馬とは、サラブレッドらしさとは、といったことを教えられました」と評している<ref name="武・島田2003-145">[[#武・島田2003|武・島田2003]]、145頁。</ref>。|group="†"}}{{#tag:ref|豊の父である武邦彦は「(平成三強の)すべてに騎乗した豊が羨ましい」と語り、「私にしてみれば、ターフビジョンのある所で乗れるだけでも羨ましいのに、あの年代の最強馬全部に乗れたなんて、騎手にしてみれば最高の栄誉でしょう」と述べている<ref>[[#武・島田2004|武・島田2004]]、110頁。</ref>。|group="†"}}、三頭の中で好みのタイプを挙げるとすればスーパークリークだと答えている<ref name="武・島田2003-145"/>{{#tag:ref|理由について、「競走馬はペットじゃないから、可愛い、という感情を持たないようにしてますけど、クリークには『強くなってくれるんじゃないかな』と思っていたら本当に強くなってくれた、という意味での思い入れはあります」と述べている<ref name="武・島田2003-145"/>。|group="†"}}。武は第35回有馬記念について、「有馬記念を勝ったとたん、アンチが一気に減った。オグリが、敵を味方にしてくれた感じですね」と述べ<ref name="武・島田2004-109"/><ref name="競馬 黄金の蹄跡-52">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、52頁。</ref>、「それまで僕の技術を認めてなかったファンやマスコミの評価が変わったのも感じますね」と語った<ref name="武・島田2003-146-147・160-161"/>。オグリキャップについては、「あの馬、強かったけど、一度走らなくなって最後に勝ったりとか、ずるいね。まるで自分で演出していたような(笑)」と評している<ref name="武・島田2004-109"/><ref name="競馬 黄金の蹄跡-52"/>。有馬記念での武の騎乗については、安藤勝己{{#tag:ref|「ほんとにスタートが上手いし、馬への当たりがいいね。正直いって、あれほどのレース見せられるとは思わなかった」と評した<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、447頁。</ref>。|group="†"}}と同期騎手の[[蛯名正義]]{{#tag:ref|『豊らしいレース』として思い浮かぶのがこの有馬記念だといい、「もしかしたら、違う騎手が乗っても勝ったかもしれない。だけど、そこにいたのは武豊だった。そして結果を出した。それが、他の人にはない輝きであり、スター性であり、豊らしさだと思う」と評した<ref name="武・島田2004-109"/>。|group="†"}}が高く評価している。前述のように1990年のジャパンカップ後にオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、近藤俊典に対する脅迫状<ref group="†" name="脅迫状"/>がJRAに届く事態までに発展したが<ref name="渡瀬1992-19"/><ref name="山本1992-256"/>、近藤はオグリキャップの引退後に第35回有馬記念における鞍上の選定について、「とりあえず最後だからね。増さんに乗ってもらうのも分かっていたけど、豊くんで負ければ納得いくんじゃないかと思って…」と語り、もし鞍上が武で決まらなかった場合は内心オグリキャップを有馬記念に出走させずに引退させようと思っていたことを明かしている<ref name="小栗1992-193">[[#小栗1992|小栗1992]]、193頁。</ref>。
;[[岡潤一郎]]
:1990年の宝塚記念で、前走の安田記念に騎乗した武がスーパークリークに騎乗し、南井がヨーロッパへ研修旅行に出た{{#tag:ref|オグリキャップへ再び騎乗することを拒否するための口実作りであったとも言われる<ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、309頁。</ref>。|group="†"}}ことを受けて近藤が騎乗依頼を出した。宝塚記念において必要以上に手綱を緩め{{#tag:ref|長手綱という。これで岡は「馬に遊ばれた」と酷評された<ref name="山本2017-47">[[#山本2017|山本2017]](『優駿』2018年1月号、47頁。)</ref>。|group="†"}}、その結果第3コーナーから第4コーナーにかけて[[手前]]を右手前に変えるべきであったのに左[[手前]]のまま走らせたこと、第4コーナーで外に膨れて走行したオグリキャップに鞭を入れた際、左から入れるべきであったのに右から入れたことを問題視する向きもあった<ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、161-162頁。</ref><ref>[[#山本1992|山本1992]]、240-241頁。</ref>。なお、近藤と岡はともに[[北海道浦河高等学校]]に在籍した経験を持つ<ref>[[#山本1992|山本1992]]、239頁。</ref><ref>[[#渡瀬1992|渡瀬1992]]、314頁。</ref>。岡は3年後の1993年に落馬事故で死去している。
;[[増沢末夫]]
:1990年の天皇賞(秋)およびジャパンカップに騎乗した。当時の馬主である近藤俊典は、増沢が非常に可愛がられていた馬主・近藤ハツ子の甥であり、増沢が若手騎手の頃から面識があった<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、69-70頁。</ref><ref group="†">ハツ子は増沢の初勝利馬ワンスターの馬主でもあった。</ref>。前述のように、安藤勝己、青木達彦、渡瀬夏彦は増沢とオグリキャップとの相性は良くなかったという見解を示している。一方、瀬戸口は「増沢騎手には本当に気の毒な思いをさせました。済まなかったと思います。あれほどの騎手に、オグリがいちばん体調がよくない時に乗ってもらったんですから」と、増沢を庇う言葉を残している<ref>[[#木村幸1998|木村幸1998]]、66頁。</ref>。
== 血統 ==
=== 血統的背景 ===
父・ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは「[[突然変異]]で生まれた」、もしくは「(2代父の)ネイティヴダンサーの[[隔世遺伝]]で生まれた競走馬である」と主張する者もいた<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、92頁。</ref><ref>[[#有吉・栗原1991|有吉・栗原1991]]、12頁。</ref>。一方で血統評論家の[[山野浩一]]は、ダンシングキャップを「一発ある血統」と評し、[[ネイティヴダンサー系]]の種牡馬は時々大物を出すため、「オグリキャップに関しても、そういう金の鉱脈を掘り当てたんでしょう」と分析している<ref>[[#結城1989|結城1989]](『優駿増刊号 TURF HERO '88』、18頁。)</ref>。
母・ホワイトナルビーは現役時代は笠松で4勝を挙げ<ref name="阿部2006-51">[[#阿部2006|阿部2006]](『優駿』2006年2月号、51頁。)</ref>、産駒は全て競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母の[[クインナルビー]](父:[[クモハタ]])は[[1953年]]の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他に[[アンドレアモン]]、[[キョウエイマーチ]]などの重賞勝ち馬がいる。
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = オグリキャップ
|f = *[[ダンシングキャップ]]<br />Dancing Cap<br />1968 芦毛<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|ff = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]]<br />1950 芦毛<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
|fff = [[ポリネシアン (競走馬)|Polynesian]]
|ffff = Unbreakable
|fffm = Black Polly
|ffm = Geisha
|ffmf = [[ディスカヴァリー (競走馬)|Discovery]]
|ffmm = Miyako
|fm = Merry Madcap<br />1962<br />Dark Bay or Brown<ref>{{Cite web |url= http://www.equineline.com/Free-5X-Pedigree.cfm?page_state=PROCESS_SUBMIT&horse_name=Merry%20Madcap%20II&foaling_year=1962&reference_number=307313&nicking_stats_indicator=Y|title= EQUINELINE Merry Madcap|publisher= EQUINELINE.com|accessdate= 2016-07-15}}</ref>あるいは[[黒鹿毛]]<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jbis.or.jp/horse/0000177650/pedigree/ |title= JBISサーチ - オグリキャップ5代血統表|publisher= [[日本軽種馬協会]]|accessdate= 2016-07-15}}</ref>
|fmf = [[グレイソヴリン|Grey Sovereign]]
|fmff = [[ナスルーラ|Nasrullah]]
|fmfm = Kong
|fmm = Croft Lady
|fmmf = Golden Cloud
|fmmm = Land of Hope
|m = [[ホワイトナルビー]]<br />1974 芦毛<br />[[北海道]][[新冠町]]
|mf = *[[シルバーシャーク (競走馬)|シルバーシャーク]]<br />Silver Shark<br />1963 芦毛<br />[[アイルランド]]
|mff = Bussion Ardent
|mfff = [[レリック|Relic]]
|mffm = Rose o'Lynn
|mfm = Palsaka
|mfmf = [[パレスタイン|Palestine]]
|mfmm = Masaka
|mm = ネヴァーナルビー<br />1969 [[黒鹿毛]]
|mmf = *[[ネヴァービート]]
|mmff = [[ネヴァーセイダイ|Never Say Die]]
|mmfm = Bride Elect
|mmm = センジュウ
|mmmf = *[[ガーサント]]
|mmmm = スターナルビー
|ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000177650/pedigree/ 血統情報:5代血統表|オグリキャップ|JBISサーチ]2020年1月3日閲覧。
|mlin = [[ネイティヴダンサー系]]
|ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1985102167/ オグリキャップの血統表|競走馬データ - netkeiba.com]2020年1月3日閲覧。
|flin = [[7号族]]
|FN = 7-d
|ref3 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000177650/pedigree/ 血統情報:5代血統表|オグリキャップ]2020年1月3日閲覧。
|inbr = Nasrullah 4×5、[[ネアルコ|Nearco]] 5×5
|ref4 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000177650/pedigree/ 血統情報:5代血統表|オグリキャップ]2020年1月3日閲覧。
}}
;[[競走馬の血統#兄弟・姉妹の関係|兄弟]]
* [[オグリローマン]] - 1994年[[桜花賞]]優勝馬
* オグリイチバン - オグリキャップの活躍を受けて[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]を組まれ種牡馬となった。
* オグリトウショウ - オグリキャップの活躍後に誕生し、デビュー前から話題を集めた。競走馬引退後はオグリイチバンと同様、種牡馬となった。
{{Main2|兄弟についての詳細は[[ホワイトナルビー]]を}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 出典 ===
{{reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
'''書籍'''
* {{Cite book|和書
|author = 朝日新聞論説委員室
|year = 2011
|title = 天声人語 2010年7月-12月
|publisher = [[朝日新聞出版]]
|isbn = 4022508469
|ref = 朝日新聞論説委員室2011
}}
* {{Cite book|和書
|author = 阿部珠樹
|year = 2003
|title = 有馬記念物語 世界最大のレースの魅力を追う
|publisher = [[青春出版社]]
|series = プレイブックス・インテリジェンス
|isbn = 4413040805
|ref = 阿部2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 有吉正徳・栗原純一
|year = 1991
|title = 2133日間のオグリキャップ 誕生から引退までの軌跡を追う
|publisher = ミデアム出版社
|isbn = 4944001215
|ref = 有吉・栗原1991
}}
* {{Cite book|和書
|author = 安藤勝己
|year = 2003
|title = 安藤勝己自伝 アンカツの真実
|publisher = [[エンターブレイン]]
|isbn = 4757714491
|ref = 安藤2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 市丸博司
|year = 1994
|title = サラブレッド怪物伝説―スーパーホース激走カタログ101
|publisher = [[廣済堂出版]]
|series = 広済堂文庫―ヒューマン・セレクト
|isbn = 4331652025
|ref = 市丸1994
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[大川慶次郎]]
|year = 1997
|title = 大川慶次郎殿堂馬を語る
|publisher = ゼスト
|isbn = 4916090527
|ref = 大川1997
}}
* {{Cite book|和書
|author = 大川慶次郎
|year = 1998
|title = 大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生
|publisher = [[日経ラジオ社|日本短波放送]]
|isbn = 4931367291
|ref = 大川1998
}}
**文庫版あり([[角川文庫]]、2000年)ISBN 4043542011
* {{Cite book|和書
|author = 岡部幸雄
|year = 2006
|title = 勝負勘
|publisher = [[角川書店]]
|series = [[角川oneテーマ21]]
|isbn = 4047100609
|ref = 岡部2006
}}
* {{Cite book|和書
|author = 小栗帽子
|year = 1992
|title = 天駆ける夢 オグリキャップ
|publisher = [[原書房]]
|isbn = 4562023899
|ref = 小栗1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = 小栗帽子
|year = 1994
|title = オグリキャップよ永遠に―不治の病を克服し、2世たちはターフに舞う
|publisher = [[徳間書店]]
|isbn = 4198600872
|ref = 小栗1994
}}
* {{Cite book|和書
|author = 狩野洋一
|year = 1991
|title = ターフの伝説 オグリキャップ
|publisher = 三心堂
|series = Humanics Essay Series
|isbn = 4915620409
|ref = 狩野1991
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[河村清明]]
|year = 2003
|title = 三度怒った競馬の神様 サラブレッドに魅入られた男たちの物語
|publisher = [[二見書房]]
|isbn = 4576032267
|ref = 河村2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 木村幸治
|year = 1997
|title = 馬は誰のために走るか オグリ、テイオー…の復活。その奇跡の秘密
|series = ノン・ポシェット
|publisher = [[祥伝社]]
|isbn = 4396310889
|ref = 木村幸1997
}}
* {{Cite book|和書
|author = 木村幸治
|year = 1998
|title = 調教師物語
|publisher = [[洋泉社]]
|isbn = 4896912926
|ref = 木村幸1998
}}
* {{Cite book|和書
|author = 木村幸治
|year = 2000
|title = 馬は知っていたか スペシャルウィーク、エルコンドル…手綱に込められた「奇跡」の秘密
|series = 祥伝社黄金文庫
|publisher = 祥伝社
|isbn = 4396312199
|ref = 木村幸2000
}}
* {{Cite book|和書
|author = 木村光男
|year = 1998
|title = 競馬事件簿
|publisher = ラジオたんぱ
|series = 馬劇場BOOKS
|isbn = 4931367380
|ref = 木村光1998
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[島田明宏]]
|title= 誰も書かなかった 武豊 決断
|publisher = 徳間書店
|year = 2014
|isbn = 4198637911
|ref = 島田2014
}}
**文庫版あり([[徳間文庫]]、2017年)ISBN 4198942595
* {{Cite book|和書
|author = 杉本清
|year = 1995
|title = 三冠へ向かって視界よし 杉本清・競馬名実況100選
|publisher = [[日本文芸社]]
|isbn = 4537024836
|ref = 杉本1995
}}
**文庫版あり(にちぶん文庫、2001年)ISBN 4537065427
* {{Cite book|和書
|author = 関口隆哉
|year = 2002
|title = THE LAST RUN―名馬たちが繰り広げた最後の戦い
|publisher = [[オークラ出版]]
|isbn = 4775500953
|ref = 関口2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = 瀬戸慎一郎
|year = 1998
|title = 綾―レースを決めたあの一瞬
|publisher = [[アスペクト (企業)|アスペクト]]
|isbn = 489366929X
|ref = 瀬戸1998
}}
* {{Cite book|和書
|author = 武豊(述)・島田明宏(著)
|year = 2003
|title = 武豊インタビュー集〈2〉美技
|series = 広済堂・競馬コレクション
|publisher = 広済堂出版
|isbn = 4331510077
|ref = 武・島田2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 武豊(述)・島田明宏(著)
|year = 2004
|title = 武豊インタビュー集〈3〉躍動
|series = 広済堂・競馬コレクション
|publisher = 広済堂出版
|isbn = 4331510646
|ref = 武・島田2004
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[寺山修司]]・[[遠藤周作]]ほか
|year = 1998
|title = 「優駿」観戦記で甦る 有馬記念十番勝負
|publisher = [[小学館]]
|series = [[小学館文庫]]
|isbn = 4094024832
|ref = 寺山・遠藤ほか1998
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[長島信弘]]
|year = 2002
|title = 新・競馬の人類学
|series= [[講談社+α文庫]]
|publisher = [[講談社]]
|isbn = 4062566192
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}}
* {{Cite book|和書
|author = 藤野広一郎
|year = 1994
|title = 喝采
|publisher = コスモヒルズ
|isbn = 4877038191
|ref = 藤野1994
}}
* {{Cite book|和書
|author = 増沢末夫
|year = 1992
|title = 鉄人ジョッキーと呼ばれて わが愛しの馬上人生
|publisher = [[学研ホールディングス|学研]]
|isbn = 4051064212
|ref = 増沢1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = 山本徹美
|year = 1992
|title = 夢、オグリキャップ
|publisher = [[日本経済新聞社]]
|isbn = 4532160405
|ref = 山本1992
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[吉川良]]
|year = 2003
|title = 人生をくれた名馬たち
|series = MYCOM競馬文庫
|publisher = [[毎日コミュニケーションズ]]
|isbn = 4839912270
|ref = 吉川2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 渡瀬夏彦
|year = 1992
|title = 銀の夢 オグリキャップに賭けた人々
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|isbn = 4062052822
|ref = 渡瀬1992
}}
**文庫版あり([[講談社文庫]]、1996年)ISBN 406263239X
* {{Cite book|和書
|editor = 光栄出版部
|year = 1995
|title = 名馬列伝 オグリキャップ
|publisher = 光栄
|isbn = 4877192042
|ref = 光栄出版部(編)1995a
}}
* {{Cite book|和書
|editor = 光栄出版部
|year = 1995
|title = 夢はターフを駆けめぐる〈11〉グランプリ有馬記念―涙と笑いの競馬バラエティー
|publisher = [[コーエー|光栄]]
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* {{Cite book|和書
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|title = 日本名馬物語 蘇る80年代の熱き伝説
|publisher = 講談社
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* {{Cite book|和書
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* {{Cite book|和書
|editor = [[冒険企画局]]
|year = 1994
|title = 競馬SLG種牡馬名鑑(ファイル)
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* {{Cite book|和書
|editor = 優駿を愛する会
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|series = ワニ文庫
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|ref = 優駿を愛する会(編)1991
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* {{Cite book|和書
|editor = 渡辺敬一郎
|year = 2000
|title = 星になった名馬たち
|publisher = オークラ出版
|series = OAK MOOK 37 ウルトラブック 12
|isbn = 4872785185
|ref = 渡辺(監修)2000
}}
* {{Cite book|和書
|year = 1991
|title = 競馬ボロボロ読本
|publisher = [[宝島社]]
|series = [[別冊宝島]] 132
|isbn = 4796691324
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}}
* {{Cite book|和書
|year = 1999
|title = 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡
|publisher = [[文藝春秋]]
|series = [[Sports Graphic Number]] PLUS
|isbn = 4160081088
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'''雑誌記事'''
* {{Cite journal|和書
|author = 阿部珠樹
|year = 2006
|title = サラブレッド・ヒーロー列伝(57) 時代の寵児 オグリキャップ
|journal = [[優駿]]
|issue = 2006年2月号
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|ref = 阿部2006
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* {{Cite journal|和書
|author = 河村清明
|year = 2015
|title = [特別読物]オグリキャップ 愛され続けるアイドルホース
|journal = 優駿
|issue = 2015年8月号
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|ref = 河村2015
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* {{Cite journal|和書
|author = [[須田鷹雄]]
|year = 2015
|title = 未来に語り継ぎたい名馬物語(3) 競馬ブームを牽引した絶対的エース オグリキャップとその時代
|journal = 優駿
|issue = 2015年5月号
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}}
* {{Cite journal|和書
|author = 瀬戸慎一郎
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|title = 怪物に流した涙 - ひとはそれを奇跡と言った……
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* {{Cite journal|和書
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|year = 2017
|title = オグリキャップと瀬戸口勉〜有馬記念の舞台で
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* {{Cite journal|和書
|author = 結城恵助
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|title = タマモクロス&オグリキャップ '88名勝負 グレート グレイホース ストーリー
|journal = 優駿増刊号 TURF HERO '88
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}}
* {{Cite journal|和書
|year = 2010
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|journal = 優駿
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* {{Cite book|和書
|year = 2010
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|series = Gallop臨時増刊
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* {{Cite journal|和書
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* {{Cite journal|和書
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* {{Cite journal|和書
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* {{Cite journal|和書
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|year = 2015
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* {{Cite journal|和書
|year = 1991
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|ref = 優駿増刊号 TURF
}}
== 外部リンク ==
*[http://www.kasamatsu-keiba.com/index.html 笠松競馬]
* {{競走馬成績|netkeiba=1985102167|yahoo=1985102167|jbis=0000177650|chihou=30044402023|racingpost=63919/oguri-cap}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000177650|オグリキャップ}}
* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse21.html オグリキャップ:競馬の殿堂 JRA]
* {{Wikinews-inline|オグリキャップの七回忌法要が実施される}} 【2016年7月5日】
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山口市
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山口市(やまぐちし)は、山口県の中部に位置する市。山口県の県庁所在地で、中枢中核都市に指定されている。
山口県の県庁所在地であるが、人口規模は関門都市圏構成都市である下関市に次ぐ2番目、市内総生産(総額ベース)では製造業の拠点を多く有する周南市・下関市に次ぐ県内3番目である。民間調査会社・ブランド総合研究所が2018年に調査した主要都市の「認知度」では、山口市は下関市や萩市を下回り、47都道府県の県庁所在地の中で最下位であった。
現在の山口市は3代目に当たり、平成の大合併で旧・山口市と吉敷郡3町(小郡町・阿知須町・秋穂町)及び佐波郡徳地町が合併して発足した。合併直前まで人口が約14万人に過ぎず、都道府県庁所在地最小(後述)にして、下関市、宇部市、周南市に次ぐ県内第4の都市であった。合併後、市域面積は県内最大となったが人口密度は県内19市町中12位の194.8人/kmであり、人口規模は20万人に満たない。なお旧・山口市と旧・小郡町、旧・阿知須町は戦時中に一度合併したのちに再び分離している(後述)。
隣接する防府市と共に都市雇用圏である山口都市圏を構成するが、特に徳地地区(旧・徳地町)は佐波川沿いにあり町村制時代に同じ佐波郡を構成していた防府市との交流が多く、また阿知須地区(旧・阿知須町)は隣接する宇部市との交流がある(宇部市西岐波・東岐波は町村制の時代には吉敷郡に属していた)。
湯田温泉周辺や山口県庁などが所在する地域を含む旧来からの山口市街地は、東西の主要幹線のひとつである山陽本線ではなく、支線である山口線の沿線にある(#鉄道も参照)。
市民歌は2006年の新設合併を記念して当年に制定された「ふるさとの風 〜山口市民の歌〜」で、2010年の阿東町編入に伴い歌詞が増補・改訂された。
山口県のほぼ中央に位置しており、市域は南北に長く南端は瀬戸内海(山口湾)に面し、北端は島根県と接する。道路網が整備されており、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来る。山口盆地の中央を南北に椹野川が貫き、その両岸に市街地が形成されている。
森林セラピー基地認定地域。
山口市の中・南部域は瀬戸内海式気候のため比較的温暖・少雨であるものの、北部域は中国山地の南西端となっており寒暖の差が激しい。冬季は比較的雪が降りやすく、関東以西太平洋側の県庁所在地としては岐阜市に次いで降雪量が多い。また市内に地方気象台は存在せず、下関市にある下関地方気象台が県内全域の気象観測を担っている。
山口市の人口は、1955年の国勢調査以降、全国の県庁所在地の中で長らく最下位であった。平成の大合併の動きの中、2005年10月に秋穂町・阿知須町・小郡町・徳地町・山口市が合併し3代目の山口市が誕生したことで人口が約5万人増加し、2005年の国勢調査では三重県津市を抜いて一時的に最下位ではなくなった。しかし2006年1月1日に津市が周辺9市町村と合併すると再び山口市が最下位となった。その後、2010年1月16日の阿東町との合併もあり2010年の国勢調査では島根県松江市を上回る46位。2015年の国勢調査では、鳥取県鳥取市、山梨県甲府市を上回る45位(全国の都市では112位)となっている(山口県内の最多は下関市の83位)。
全国の都道府県庁所在地47市区のうち、人口密度が都道府県全体のそれよりも低いのは山口市のみである。
山口市の地名を参照。
南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が大内氏の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。
天文21年12月9日(1552年12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。
大内氏の滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。
江戸時代の間、吉敷毛利家の領地となり萩と三田尻(現在の防府市中心部)を結ぶ萩往還の中継地として栄えた。幕末になると、長州藩は藩庁を萩から山口へ移す(この経緯については山口移鎮の項目を参照)。山口に移された藩庁は山口政事堂と呼ばれ、長州藩における討幕運動の拠点となった。
明治に入ると廃藩置県が実施され、長州(山口)藩庁は山口県庁にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったにもかかわらず、実現には至らなかった。山口は山口県成立から現在に至るまで、そのまま県政の中心地であり続けている。
一方、長州藩の藩校である明倫館は藩庁移転の際に私塾山口講堂(後に山口講習堂)を「山口明倫館」と改称(萩明倫館も存置)、旧制山口高などを経て、現在の山口大学へとつながっている。山口大学は1973年に平川へ移転完了したが、旧亀山校地(山口明倫館跡地)にはパークロード(県道203号)を中心に県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備されている。
山口市は、下記のように新設合併によって3度設置されている。前身の山口町については当該項目を参照。
2005年10月1日の合併以降の住所表記は以下の通りとなる。
市外局番は、083。MAが複数あるため、旧徳地(0835区域)・阿知須(0836区域)両町域を除き、2013年12月1日から統一されている。
旧山口市域は、おもに083-9xxが使われている。
宮野地区(旧宮野村)には、財産区である「宮野財産区」がある。これは旧山口市が旧宮野村と合併する際、旧宮野村有林の伐採益を宮野地区に限定して使うことを法制上確約したものである。実際に旧村有林の伐採益は山口市立宮野小学校の補修など宮野地区のために限定して使われている。財産区は特別地方公共団体の一種であり、地方自治法で定める議会が設置され、議員は公職選挙法に従って選挙されている。(ただし無投票が続いている。)
本庁である山口市役所の他、2005年の新設合併前の市町村域を単位として「総合支所」が設けられている(山口市役所本所内にも「山口総合支所」が設けられている。)。また、公民館である「地域交流センター」の大半に行政窓口(市役所出張所相当)を設けている。
山口市は県庁所在地ではあるものの、その他の主たる産業は公共施設や公共事業などを除くと、後述する観光業と流通業程度で日本では数少ない行政都市に特化した印象が強い。
小郡地区(旧小郡町)は、道路網や鉄道網が新山口駅を中心として四方へ広がっており、県央地域の交通拠点となっている。このため、同地区では小郡町時代から全国企業の山口県統括担当となる支店や営業所などが多く設置されており、商業、特に流通業に特徴がある。商業地の標準地公示地価も市内の他の標準地に比べて小郡高砂町(旧小郡町、JR新山口駅南側)が突出して高い。また、宇部市を中心とした宇部都市圏を主な商圏とする阿知須地区(旧阿知須町)が市内にあることもあり、山口市の年間商品販売額は山口県内第1位である(2006年度)。アパレル大手のファーストリテイリングは登記上本社を市南部の佐山地区に置いている。
瀬戸内海に面した地域に秋穂漁港、相原漁港、阿知須漁港、山口漁港の4つの漁港が存在し、椹野川では内水面漁業による鮎の養殖などが行われている。
山口駅周辺に山口市中心商店街が広がり、歓楽街である湯田温泉には宿泊施設が複数立地している。山口駅周辺の商店街内には百貨店の山口井筒屋(旧ちまきや)が存在することもあり、一定の集客力を持つが、商店街でもう一つの核となっていたダイエー山口店が閉店(現在は跡地に生活協同組合コープやまぐちが出店)したほか、市内の郊外や同一商圏内の近隣都市に広い駐車場を備えた大型ショッピングセンター(大内地区のゆめタウン山口やザ・ビッグ大内店、平川地区のフジグラン山口やハイパーモールメルクス山口、小郡地区のイオンタウン小郡、防府市のイオン防府店など)が林立したこともあり、最盛期に比べ衰退傾向にある。
一方、市内の阿知須地区にも旧阿知須町時代に地元商業者が中心となって開業させた大型ショッピングセンター「サンパークあじす」があるが、先述の通り同地区は隣接する宇部市を中心とした宇部都市圏および小郡地区が主な商圏であるため、中心部の商業への影響は少ない。
観光業は山口市の主要産業のひとつであり、2011年度に市内を訪れた観光客数は下関市に次ぐ4,284,090人である。市内の主な観光地については、後述の「観光」節を参照。
山口市は都道府県庁所在地で唯一銀行の本店が存在せず、都市銀行の支店もみずほ銀行山口支店が存在するのみであり、日本銀行の支店も下関市に置かれている。かつての第百十国立銀行(山口銀行の前身の一つ)は山口市にて設立されたものの、普通銀行転換前に下関市に移転している。信用金庫は萩山口信用金庫が本店を置くほか、西中国信用金庫(本店・下関市)は前身の吉南信用金庫が旧小郡町に本店を置いていた関係で店舗が複数存在する。
山口市内に本支店などを設置している主な金融機関は以下の通り。
県域放送局については、周南市に本社を置く山口放送以外の各社が山口市に放送局を置く。また山口市に本拠地を置く県域新聞社は存在しない(山口新聞を発行するみなと山口合同新聞社は福岡県と接する下関市に本社がある)。
ケーブルテレビ局の山口ケーブルビジョンでは福岡県域局のテレビ西日本(フジ系)・TVQ九州放送(テレ東系)による区域外再放送がそれぞれ行われており、加入率は70%を越えている。
山口市役所・山口県庁などが立地する当市の中心市街地の最寄り駅は山口駅であり、時刻表においても当市の中心駅として表記されている。一方、市内の駅で最も乗降客数の多いのは山陽新幹線および山陽本線が乗り入れる新山口駅(旧小郡駅)であり、当市は新山口駅周辺を産業交流拠点と位置づけ整備を進めている。
山陽本線が山口駅ではなく小郡駅を経由することになった経緯について、山口市内で発行される郷土誌では「三田尻から山口を経由して小郡に向かう計画を地元が反対し断念させた」などと主張するものもあるが、同線にあたる路線を建設した山陽鉄道の広島 - 赤間関(後の下関)間の経路の候補が示された公文書には、三田尻と山口のいずれかを経由する複数のルートが掲載されているものの、三田尻から山口へ向かうルートは掲載されていない。
山陽鉄道では1888年(明治21年)1月に神戸 - 赤間関(現・下関)間の鉄道建設免許を受けたが、1892年(明治25年)7月時点で広島以西の経由地は未決定であった。同社は当初から、工事の難易度や経済効果などから、山口を通過しない徳山(現・周南市) - 三田尻(現・防府市) - 小郡(後の新山口)を経由する現在線に近い海岸線ルートの認可を望んだが、参謀本部が軍事上の理由から、五日市付近より山間部に入り須万(現在の周南市須万)または津和野を経て山口に至り、そこから伊佐(現在の美祢駅付近)・吉田を経由して海岸付近を一切通らず赤間関に至る山間線ルートを主張した。最終的には参謀本部の提案した山間部を通るルートは技術的問題、経済的問題を解決できず、赤間関付近の軍事的にリスクのある箇所などを調整して概ね当初の海岸線ルートに敷設許可をした旨の経緯が閣議決定の資料に記されている。
最寄りの空港は山口宇部空港である。新山口駅などから連絡バスが運行されている。
市内では以下の路線バス、高速路線バスが運行されている。
太字は山口市内の停車地
山口市内を始発・終着とせず、山口市が途中停車の一部である高速バスも含む。
なお、かつては下関市に本社を置くサンデン交通が山口市を経由する下関発着の夜行高速バスや山口市と下関市を結ぶ高速バスを運行していたが、夜行高速バス「ふくふく東京号」は2006年11月30日限りで、同「ふくふく大阪号」は2013年6月30日限りで、下関 - 山口線は2014年9月30日限りで廃止されたため、現在は山口市内発着の高速バスは運行していない。
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"text": "山口県のほぼ中央に位置しており、市域は南北に長く南端は瀬戸内海(山口湾)に面し、北端は島根県と接する。道路網が整備されており、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来る。山口盆地の中央を南北に椹野川が貫き、その両岸に市街地が形成されている。",
"title": "地理・人口"
},
{
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"tag": "p",
"text": "森林セラピー基地認定地域。",
"title": "地理・人口"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "山口市の中・南部域は瀬戸内海式気候のため比較的温暖・少雨であるものの、北部域は中国山地の南西端となっており寒暖の差が激しい。冬季は比較的雪が降りやすく、関東以西太平洋側の県庁所在地としては岐阜市に次いで降雪量が多い。また市内に地方気象台は存在せず、下関市にある下関地方気象台が県内全域の気象観測を担っている。",
"title": "地理・人口"
},
{
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"text": "山口市の人口は、1955年の国勢調査以降、全国の県庁所在地の中で長らく最下位であった。平成の大合併の動きの中、2005年10月に秋穂町・阿知須町・小郡町・徳地町・山口市が合併し3代目の山口市が誕生したことで人口が約5万人増加し、2005年の国勢調査では三重県津市を抜いて一時的に最下位ではなくなった。しかし2006年1月1日に津市が周辺9市町村と合併すると再び山口市が最下位となった。その後、2010年1月16日の阿東町との合併もあり2010年の国勢調査では島根県松江市を上回る46位。2015年の国勢調査では、鳥取県鳥取市、山梨県甲府市を上回る45位(全国の都市では112位)となっている(山口県内の最多は下関市の83位)。",
"title": "地理・人口"
},
{
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"text": "全国の都道府県庁所在地47市区のうち、人口密度が都道府県全体のそれよりも低いのは山口市のみである。",
"title": "地理・人口"
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"text": "山口市の地名を参照。",
"title": "地理・人口"
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"text": "南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が大内氏の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。",
"title": "歴史"
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"text": "天文21年12月9日(1552年12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。",
"title": "歴史"
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"text": "大内氏の滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "江戸時代の間、吉敷毛利家の領地となり萩と三田尻(現在の防府市中心部)を結ぶ萩往還の中継地として栄えた。幕末になると、長州藩は藩庁を萩から山口へ移す(この経緯については山口移鎮の項目を参照)。山口に移された藩庁は山口政事堂と呼ばれ、長州藩における討幕運動の拠点となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "明治に入ると廃藩置県が実施され、長州(山口)藩庁は山口県庁にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったにもかかわらず、実現には至らなかった。山口は山口県成立から現在に至るまで、そのまま県政の中心地であり続けている。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、長州藩の藩校である明倫館は藩庁移転の際に私塾山口講堂(後に山口講習堂)を「山口明倫館」と改称(萩明倫館も存置)、旧制山口高などを経て、現在の山口大学へとつながっている。山口大学は1973年に平川へ移転完了したが、旧亀山校地(山口明倫館跡地)にはパークロード(県道203号)を中心に県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "山口市は、下記のように新設合併によって3度設置されている。前身の山口町については当該項目を参照。",
"title": "歴史"
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"text": "2005年10月1日の合併以降の住所表記は以下の通りとなる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "市外局番は、083。MAが複数あるため、旧徳地(0835区域)・阿知須(0836区域)両町域を除き、2013年12月1日から統一されている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "旧山口市域は、おもに083-9xxが使われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "宮野地区(旧宮野村)には、財産区である「宮野財産区」がある。これは旧山口市が旧宮野村と合併する際、旧宮野村有林の伐採益を宮野地区に限定して使うことを法制上確約したものである。実際に旧村有林の伐採益は山口市立宮野小学校の補修など宮野地区のために限定して使われている。財産区は特別地方公共団体の一種であり、地方自治法で定める議会が設置され、議員は公職選挙法に従って選挙されている。(ただし無投票が続いている。)",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "本庁である山口市役所の他、2005年の新設合併前の市町村域を単位として「総合支所」が設けられている(山口市役所本所内にも「山口総合支所」が設けられている。)。また、公民館である「地域交流センター」の大半に行政窓口(市役所出張所相当)を設けている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "山口市は県庁所在地ではあるものの、その他の主たる産業は公共施設や公共事業などを除くと、後述する観光業と流通業程度で日本では数少ない行政都市に特化した印象が強い。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "小郡地区(旧小郡町)は、道路網や鉄道網が新山口駅を中心として四方へ広がっており、県央地域の交通拠点となっている。このため、同地区では小郡町時代から全国企業の山口県統括担当となる支店や営業所などが多く設置されており、商業、特に流通業に特徴がある。商業地の標準地公示地価も市内の他の標準地に比べて小郡高砂町(旧小郡町、JR新山口駅南側)が突出して高い。また、宇部市を中心とした宇部都市圏を主な商圏とする阿知須地区(旧阿知須町)が市内にあることもあり、山口市の年間商品販売額は山口県内第1位である(2006年度)。アパレル大手のファーストリテイリングは登記上本社を市南部の佐山地区に置いている。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "瀬戸内海に面した地域に秋穂漁港、相原漁港、阿知須漁港、山口漁港の4つの漁港が存在し、椹野川では内水面漁業による鮎の養殖などが行われている。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "山口駅周辺に山口市中心商店街が広がり、歓楽街である湯田温泉には宿泊施設が複数立地している。山口駅周辺の商店街内には百貨店の山口井筒屋(旧ちまきや)が存在することもあり、一定の集客力を持つが、商店街でもう一つの核となっていたダイエー山口店が閉店(現在は跡地に生活協同組合コープやまぐちが出店)したほか、市内の郊外や同一商圏内の近隣都市に広い駐車場を備えた大型ショッピングセンター(大内地区のゆめタウン山口やザ・ビッグ大内店、平川地区のフジグラン山口やハイパーモールメルクス山口、小郡地区のイオンタウン小郡、防府市のイオン防府店など)が林立したこともあり、最盛期に比べ衰退傾向にある。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一方、市内の阿知須地区にも旧阿知須町時代に地元商業者が中心となって開業させた大型ショッピングセンター「サンパークあじす」があるが、先述の通り同地区は隣接する宇部市を中心とした宇部都市圏および小郡地区が主な商圏であるため、中心部の商業への影響は少ない。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "観光業は山口市の主要産業のひとつであり、2011年度に市内を訪れた観光客数は下関市に次ぐ4,284,090人である。市内の主な観光地については、後述の「観光」節を参照。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "山口市は都道府県庁所在地で唯一銀行の本店が存在せず、都市銀行の支店もみずほ銀行山口支店が存在するのみであり、日本銀行の支店も下関市に置かれている。かつての第百十国立銀行(山口銀行の前身の一つ)は山口市にて設立されたものの、普通銀行転換前に下関市に移転している。信用金庫は萩山口信用金庫が本店を置くほか、西中国信用金庫(本店・下関市)は前身の吉南信用金庫が旧小郡町に本店を置いていた関係で店舗が複数存在する。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "山口市内に本支店などを設置している主な金融機関は以下の通り。",
"title": "産業"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "県域放送局については、周南市に本社を置く山口放送以外の各社が山口市に放送局を置く。また山口市に本拠地を置く県域新聞社は存在しない(山口新聞を発行するみなと山口合同新聞社は福岡県と接する下関市に本社がある)。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ケーブルテレビ局の山口ケーブルビジョンでは福岡県域局のテレビ西日本(フジ系)・TVQ九州放送(テレ東系)による区域外再放送がそれぞれ行われており、加入率は70%を越えている。",
"title": "メディア"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "山口市役所・山口県庁などが立地する当市の中心市街地の最寄り駅は山口駅であり、時刻表においても当市の中心駅として表記されている。一方、市内の駅で最も乗降客数の多いのは山陽新幹線および山陽本線が乗り入れる新山口駅(旧小郡駅)であり、当市は新山口駅周辺を産業交流拠点と位置づけ整備を進めている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "山陽本線が山口駅ではなく小郡駅を経由することになった経緯について、山口市内で発行される郷土誌では「三田尻から山口を経由して小郡に向かう計画を地元が反対し断念させた」などと主張するものもあるが、同線にあたる路線を建設した山陽鉄道の広島 - 赤間関(後の下関)間の経路の候補が示された公文書には、三田尻と山口のいずれかを経由する複数のルートが掲載されているものの、三田尻から山口へ向かうルートは掲載されていない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "山陽鉄道では1888年(明治21年)1月に神戸 - 赤間関(現・下関)間の鉄道建設免許を受けたが、1892年(明治25年)7月時点で広島以西の経由地は未決定であった。同社は当初から、工事の難易度や経済効果などから、山口を通過しない徳山(現・周南市) - 三田尻(現・防府市) - 小郡(後の新山口)を経由する現在線に近い海岸線ルートの認可を望んだが、参謀本部が軍事上の理由から、五日市付近より山間部に入り須万(現在の周南市須万)または津和野を経て山口に至り、そこから伊佐(現在の美祢駅付近)・吉田を経由して海岸付近を一切通らず赤間関に至る山間線ルートを主張した。最終的には参謀本部の提案した山間部を通るルートは技術的問題、経済的問題を解決できず、赤間関付近の軍事的にリスクのある箇所などを調整して概ね当初の海岸線ルートに敷設許可をした旨の経緯が閣議決定の資料に記されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "最寄りの空港は山口宇部空港である。新山口駅などから連絡バスが運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "市内では以下の路線バス、高速路線バスが運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "太字は山口市内の停車地",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "山口市内を始発・終着とせず、山口市が途中停車の一部である高速バスも含む。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、かつては下関市に本社を置くサンデン交通が山口市を経由する下関発着の夜行高速バスや山口市と下関市を結ぶ高速バスを運行していたが、夜行高速バス「ふくふく東京号」は2006年11月30日限りで、同「ふくふく大阪号」は2013年6月30日限りで、下関 - 山口線は2014年9月30日限りで廃止されたため、現在は山口市内発着の高速バスは運行していない。",
"title": "交通"
}
] |
山口市(やまぐちし)は、山口県の中部に位置する市。山口県の県庁所在地で、中枢中核都市に指定されている。
|
{{日本の市
| 自治体名=山口市
| 画像 = Yamaguchi montage.jpg
| 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse">
<tr><td style="vertical-align:middle;">[[山口サビエル記念聖堂]]<td>[[山口県政資料館]]</tr>
<tr><td>[[瑠璃光寺]]<td>[[山口県庁|県庁]]から望む山口市街</tr>
<tr><td colspan="2">[[KDDI山口衛星通信センター]]</tr>
</table>
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Yamaguchi, Yamaguchi.svg|100px|山口市旗]]
| 市旗の説明 = 山口[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[File:Emblem of Yamaguchi, Yamaguchi.svg|75px|山口市章]]
| 市章の説明 = 山口[[市町村章|市章]]<br />[[2006年]][[10月1日]]制定
| 都道府県 = 山口県
| コード = 35203-9
| 隣接自治体 = [[周南市]]、[[美祢市]]、[[宇部市]]、[[防府市]]、[[萩市]]<br />[[島根県]]:[[鹿足郡]][[津和野町]]、[[吉賀町]]
| 木 = [[イチョウ]]
| 花 = [[アブラナ|菜の花]]
| シンボル名 = 市の花木
| 鳥など = [[サクラ]]
| 郵便番号 = 753-8650
| 所在地 = 山口市亀山町2番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-35|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=230|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Yamaguchi City Hall.JPG|250px|山口市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|35|203|image=Yamaguchi in Yamaguchi Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
'''山口市'''(やまぐちし)は、[[山口県]]の中部に位置する[[市]]。山口県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]で、[[中枢中核都市]]に指定されている。
== 概要 ==
[[ファイル:The cityscape of Yamaguchi 20130821.jpg|thumb|[[山口県庁舎]]から望む山口市街地]]
山口県の県庁所在地であるが、人口規模は[[関門都市圏]]構成都市である[[下関市]]に次ぐ2番目、[[国内総生産|市内総生産]](総額ベース)では製造業の拠点を多く有する[[周南市]]・下関市に次ぐ県内3番目<ref>{{PDFlink|[https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cmsdata/7/f/7/7f76c44b7d1ad431c115d78ebb354fa5.pdf 平成29年度市町民経済計算の概要]}} - 山口県統計分析課2020年3月31日</ref>である。民間調査会社・[[ブランド総合研究所]]が2018年に調査した主要都市の「認知度」では、山口市は[[下関市]]や[[萩市]]を下回り、47都道府県の県庁所在地の中で最下位であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/199732|title=47都道府県の県庁所在地「認知度」ランキング【完全版】|website=ダイヤモンドオンライン|date=2019-04-15|accessdate=2020-02-19}}</ref>。
現在の山口市は3代目に当たり、[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]で旧・山口市と[[吉敷郡]]3町([[小郡町]]・[[阿知須町]]・[[秋穂町]])及び[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[徳地町]]が合併して発足した。合併直前まで人口が約14万人に過ぎず、都道府県庁所在地最小(後述)にして、下関市、[[宇部市]]、周南市に次ぐ県内第4の都市であった。合併後、市域[[面積]]は県内最大となったが[[人口密度]]は県内19市町中12位の194.8人/[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]であり<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a12500/shihyo50/01/apd1_5_2011020323092556.xls 50の指標でみる市町のすがた(平成22年度版) 5 人口密度(1平方km当たり)]{{リンク切れ|date=2014年4月}} (XLSファイル、47KB) - 山口県統計分析課</ref>、人口規模は20万人に満たない。なお旧・山口市と旧・小郡町、旧・阿知須町は戦時中に一度合併したのちに再び分離している(後述)。
隣接する[[防府市]]と共に[[都市雇用圏]]である[[山口・防府地区|山口都市圏]]を構成するが、特に徳地地区(旧・徳地町)は[[佐波川]]沿いにあり町村制時代に同じ佐波郡を構成していた防府市との交流が多く、また阿知須地区(旧・阿知須町)は隣接する宇部市との交流がある(宇部市[[西岐波村|西岐波]]・[[東岐波村|東岐波]]は町村制の時代には吉敷郡に属していた)。
[[湯田温泉]]周辺や山口県庁などが所在する地域を含む旧来からの山口市街地は、東西の主要幹線のひとつである[[山陽本線]]ではなく、支線である[[山口線]]の沿線にある([[#鉄道]]も参照)。
[[市町村歌|市民歌]]は2006年の新設合併を記念して当年に制定された「[[ふるさとの風 〜山口市民の歌〜]]」で、2010年の[[阿東町]]編入に伴い歌詞が増補・改訂された。
== 地理・人口 ==
[[ファイル:椹野川(小郡付近).JPG|thumb|山口湾に注ぐ椹野川]]
山口県のほぼ中央に位置しており、市域は南北に長く南端は[[瀬戸内海]](山口湾)に面し、北端は[[島根県]]と接する。道路網が整備されており、県内のほぼ全域から1時間30分以内で到達することが出来る。山口盆地の中央を南北に[[椹野川]]が貫き、その両岸に市街地が形成されている。
[[森林セラピー基地]]認定地域。
=== 気候 ===
山口市の中・南部域は[[瀬戸内海式気候]]のため比較的温暖・少雨であるものの、北部域は中国山地の南西端となっており寒暖の差が激しい。冬季は比較的雪が降りやすく、関東以西太平洋側の県庁所在地としては岐阜市に次いで降雪量が多い。また市内に[[地方気象台]]は存在せず、下関市にある下関地方気象台が県内全域の気象観測を担っている。
{{Weather box|width=auto
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|source 1 = 気象庁(平均値:1991年-2020年、極値:1966年-現在)<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=81&block_no=47784&year=&month=&day=&view=
| title = 気象庁 / 平年値(年・月ごとの値)
| publisher = [[気象庁]]
| access-date = 2021-05-19}}</ref>
}}{{Weather box|location=徳佐(旧[[阿東町]])(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=16.8|Feb record high C=20.1|Mar record high C=23.4|Apr record high C=28.9|May record high C=32.2|Jun record high C=33.7|Jul record high C=36.1|Aug record high C=36.4|Sep record high C=35.1|Oct record high C=30.7|Nov record high C=25.0|Dec record high C=21.8|year record high C=36.4|Jan high C=6.4|Feb high C=7.9|Mar high C=12.2|Apr high C=18.1|May high C=23.0|Jun high C=25.7|Jul high C=29.1|Aug high C=30.4|Sep high C=26.3|Oct high C=21.0|Nov high C=15.2|Dec high C=9.0|year high C=18.7|Jan mean C=1.8|Feb mean C=2.8|Mar mean C=6.3|Apr mean C=11.7|May mean C=16.8|Jun mean C=20.5|Jul mean C=24.4|Aug mean C=25.1|Sep mean C=20.9|Oct mean C=14.8|Nov mean C=9.2|Dec mean C=3.9|year mean C=13.2|Jan low C=-2.1|Feb low C=-1.9|Mar low C=0.8|Apr low C=5.6|May low C=11.0|Jun low C=16.3|Jul low C=20.8|Aug low C=21.2|Sep low C=16.7|Oct low C=9.6|Nov low C=3.9|Dec low C=-0.4|year low C=8.5|Jan record low C=-12.9|Feb record low C=-16.0|Mar record low C=-9.5|Apr record low C=-4.1|May record low C=0.7|Jun record low C=4.6|Jul record low C=12.2|Aug record low C=13.1|Sep record low C=3.9|Oct record low C=-1.5|Nov record low C=-4.4|Dec record low C=-10.4|year record low C=-16.0|Jan precipitation mm=121.9|Feb precipitation mm=106.3|Mar precipitation mm=146.7|Apr precipitation mm=136.6|May precipitation mm=153.7|Jun precipitation mm=229.5|Jul precipitation mm=337.8|Aug precipitation mm=201.5|Sep precipitation mm=208.6|Oct precipitation mm=116.7|Nov precipitation mm=97.4|Dec precipitation mm=116.3|year precipitation mm=1973.0|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=15.8|Feb precipitation days=13.5|Mar precipitation days=13.7|Apr precipitation days=11.0|May precipitation days=10.0|Jun precipitation days=12.6|Jul precipitation days=13.1|Aug precipitation days=10.9|Sep precipitation days=11.6|Oct precipitation days=9.2|Nov precipitation days=10.7|Dec precipitation days=14.1|year precipitation days=146.2|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=81&block_no=0767&year=&month=&day=&view= |title=徳佐 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-08-04 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=74.8|Nov sun=112.3|Oct sun=150.5|Aug sun=171.3|Sep sun=129.6|Jun sun=127.0|Jul sun=136.0|Apr sun=172.5|May sun=193.0|Jan sun=66.5|Feb sun=86.6|Mar sun=133.7|year sun=1553.5}}
=== 人口 ===
{{See also|都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位}}
山口市の人口は、1955年の国勢調査以降、全国の県庁所在地の中で長らく最下位であった。[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]の動きの中、2005年10月に秋穂町・阿知須町・小郡町・徳地町・山口市が合併し3代目の山口市が誕生したことで人口が約5万人増加し、2005年の国勢調査では[[三重県]][[津市]]を抜いて一時的に最下位ではなくなった。しかし2006年1月1日に津市が周辺9市町村と合併すると再び山口市が最下位となった。その後、2010年1月16日の阿東町との合併もあり2010年の国勢調査では[[島根県]][[松江市]]を上回る46位。2015年の国勢調査では、[[鳥取県]][[鳥取市]]、[[山梨県]][[甲府市]]を上回る45位(全国の都市では112位)となっている(山口県内の最多は下関市の83位)。
全国の都道府県庁所在地47市区のうち、人口密度が都道府県全体のそれよりも低いのは山口市のみである。
{{人口統計|code=35203|name=山口市|image=Demography35203.svg}}
=== 地名 ===
[[山口市の地名]]を参照。
== 歴史 ==
[[File:Yamaguchi city center area Aerial photograph.2009.jpg|thumb|270px|山口市中心部周辺の空中写真。<br/>2009年9月7日撮影の12枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の延文5年/正平15年([[1360年]])に周防国を平定した[[大内弘世]]が[[大内氏]]の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている<ref group="注">当時、大内氏が周防国の中心地は[[防府市|防府]](佐波郡)であったのにもかかわらず、山口(吉敷郡)を選んだ背景として、大内氏が当時[[南朝 (日本)|南朝]]の一員として[[室町幕府]]と戦っており(後に服従)、[[瀬戸内海]]と[[山陽道]]に面した防府は平時には便利でも戦時の防衛には不向きだったこと、防府周辺にあった周防国の[[国衙領]]と[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]は当時奈良の[[東大寺]]の支配下にあり、東大寺の影響力が強い防府に本拠地を置いて同寺と摩擦を起こすことを避けたこと、山口は周囲を山に囲まれた盆地で防府よりも守りやすく、かつ地形が京都に似て[[四神相応]]の地とみなされたこと、などが考えられている(藤井崇『鎌倉遺文研究』21号、2008年。改題・改稿「弘世期の分国支配」『室町期大名権力論』同成社、2013年(原論文:「南北朝期長門国における厚東氏権力と弘世期大内氏権力」、2008年)P19)。</ref>。[[室町時代]]には大内館が築かれ、[[日明貿易]]が行われる。[[応仁の乱]]以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので[[大内文化]]、「'''西の京'''」として栄え、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[大内義興]]、[[大内義隆]]が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った[[室町幕府]]10代・12代[[征夷大将軍|将軍]]の[[足利義稙|足利義尹]](義稙)、[[雪舟]]、[[フランシスコ・ザビエル]]など、この町に縁のある人たちは多い。
[[天文 (元号)|天文]]21年12月9日([[1552年]]12月24日)に山口の宣教師[[コスメ・デ・トーレス|コスメ・デ・トルレス]]らが、司祭館に日本人信徒を招いて[[クリスマス]]の祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。
大内氏の滅亡後、[[毛利氏]]の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。[[関ヶ原の戦い]]ののち、防長二国に[[減封]]された[[毛利輝元]]が[[萩市|萩]]に居城([[萩城]])を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。
[[江戸時代]]の間、[[吉敷毛利家]]の領地となり萩と[[三田尻]](現在の[[防府市]]中心部)を結ぶ[[萩往還]]の中継地として栄えた。[[幕末]]になると、[[長州藩]]は藩庁を萩から山口へ移す(この経緯については[[山口移鎮]]の項目を参照)。山口に移された藩庁は[[山口城|山口政事堂]]と呼ばれ、長州藩における[[討幕運動]]の拠点となった。
[[明治]]に入ると[[廃藩置県]]が実施され、長州(山口)藩庁は[[山口県庁舎|山口県庁]]にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったにもかかわらず、実現には至らなかった。山口は山口県成立から現在に至るまで、そのまま県政の中心地であり続けている。
一方、長州藩の[[藩校]]である[[明倫館]]は藩庁移転の際に私塾山口講堂(後に山口講習堂)を「山口明倫館」と改称(萩明倫館も存置)、[[山口高等学校 (旧制)|旧制山口高]]などを経て、現在の[[山口大学]]へとつながっている。山口大学は[[1973年]]に平川へ移転完了したが、旧[[亀山公園 (山口市)|亀山]]校地(山口明倫館跡地)には[[山口県道203号厳島早間田線|パークロード(県道203号)]]を中心に[[山口県立山口図書館|県立図書館]]・[[山口県立山口博物館|県立博物館]]・[[山口県立美術館|県立美術館]]が整備されている。
=== 合併と分割の変遷 ===
{{日本の市 (廃止)
| 廃止日 = 2005年(平成17年)10月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''山口市'''(旧)、[[吉敷郡]][[小郡町]]、[[秋穂町]]、[[阿知須町]]、[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[徳地町]] → 山口市(新)
| 現在の自治体 = 山口市(新)
| よみがな = やまぐちし
| 自治体名 = 山口市
| 画像=
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Yamaguchi, Yamaguchi.svg|100px|山口市旗]]
| 市旗の説明 = 山口[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Yamaguchi, Yamaguchi.svg|75px|山口市章]]
| 市章の説明 = 山口[[市町村章|市章]]<br />[[1944年]][[11月5日]]制定
| 都道府県 = 山口県
| 支庁 =
| コード =
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 =
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 人口の時点 =
| 隣接自治体 = [[宇部市]]、[[防府市]]、[[萩市]]、吉敷郡小郡町、秋穂町、阿知須町、佐波郡[[徳地町]]、[[阿武郡]][[阿東町]]、[[美祢郡]][[美東町]]
| 木 = [[イチョウ]]
| 花 = [[キク]]
| シンボル名 = 市の花木
| 鳥など = [[キンモクセイ]]
| 郵便番号 = 753-8650
| 所在地 = 山口市亀山町2番1号
| 外部リンク =
| InternetArchive =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
山口市は、下記のように新設合併によって3度設置されている。前身の[[山口町]]については当該項目を参照。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行により、山口四十町<ref group="注">上金古曽町、下金古曽町、八幡馬場町、野田町、上竪小路町、下竪小路町、石観音町、道祖町、円政寺町、堂ノ前町、大市町、諸願小路町、久保小路町、銭湯小路町、新馬場町、後河原町、中河原町、早間田町、新町、米屋町、御局小路町、今小路町、中市町、相物小路町、太刀売町、松ノ木町、北ノ小路町、馬場殿小路町、米殿小路町、道場門前町、今市町、今道町、鰐石町、大附町、新橋町、西門前町、糸米小路町、荒高町、田町、中讃井町</ref>の区域をもって、[[吉敷郡]][[山口町]]が発足する。
* [[1905年]](明治38年)[[4月1日]] - 吉敷郡山口町及び[[上宇野令村]]が合併して、改めて吉敷郡山口町が発足する。
* [[1915年]](大正4年)[[7月1日]] - 吉敷郡山口町及び[[下宇野令村]]が合併して、改めて吉敷郡山口町が発足する。
* [[1929年]](昭和4年)[[4月10日]] - 吉敷郡山口町及び[[吉敷村]]が合併して、'''山口市'''が発足する。
* [[1941年]](昭和16年)[[4月1日]] - [[吉敷郡]][[宮野村 (山口県)|宮野村]]が山口市に編入する。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]] - 山口市、[[吉敷郡]][[大歳村]]、[[平川村 (山口県)|平川村]]、[[秋穂二島村]]、[[名田島村]]、[[陶村 (山口県)|陶村]]、[[小郡町]]、[[嘉川村]]、[[阿知須町]]及び[[佐山村 (山口県)|佐山村]]が合併して、改めて'''山口市'''が発足する。
* [[1947年]](昭和22年)[[11月23日]] - [[吉敷郡]][[阿知須町]]を分立する。
* [[1949年]](昭和24年)[[11月1日]] - [[吉敷郡]][[小郡町]]を分立する。
* [[1956年]](昭和31年)[[11月3日]] - [[吉敷郡]][[鋳銭司村]]を編入する。
* [[1963年]](昭和38年)[[5月1日]] - [[吉敷郡]][[大内町 (山口県)|大内町]]を編入する。
* [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] - 山口市、[[吉敷郡]][[小郡町]]、[[秋穂町]]、[[阿知須町]]及び[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[徳地町]]が合併して、改めて'''山口市'''が発足する。
* [[2010年]](平成22年)[[1月16日]] - [[阿武郡]][[阿東町]]を編入する。
=== 合併後の住所表記 ===
[[2005年]][[10月1日]]の[[日本の市町村の廃置分合|合併]]以降の住所表記は以下の通りとなる。
* 旧山口市は従前のとおり(但し、「大字」は冠称しない)。
* 旧5町は「○○郡××町△△」→「山口市××△△」とする(「大字」表記があった場合は削除する)。
* '''-例-'''
** 山口県山口市亀山町 → 山口県山口市亀山町
** 山口県山口市'''大字'''仁保中郷 → 山口県山口市仁保中郷
** 山口県'''佐波郡'''徳地'''町大字'''堀1111番地'''の'''1 → 山口県'''山口市'''徳地堀1111番地1
** 山口県'''吉敷郡'''秋穂'''町'''東1111番地'''の'''1 → 山口県'''山口市'''秋穂東1111番地1
** 山口県'''吉敷郡'''小郡'''町大字'''下郷1111番地'''の'''1 → 山口県'''山口市'''小郡下郷1111番地1
** 山口県'''吉敷郡'''阿知須'''町'''1111番地'''の'''1 → 山口県'''山口市'''阿知須1111番地1
** 山口県'''阿武郡'''阿東'''町大字'''徳佐中1111番地'''の'''1 → 山口県'''山口市'''阿東徳佐中1111番地1
=== 市外局番 ===
[[市外局番]]は、083。[[単位料金区域|MA]]が複数あるため、旧徳地(0835区域)・阿知須(0836区域)両町域を除き、[[2013年]]12月1日から統一されている。
旧山口市域は、おもに083-9xxが使われている。
== 行政 ==
===市長===
* [[伊藤和貴]](いとう かずき)
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller"
|+ 歴代山口市長<ref>歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1985年。『[[朝日新聞]]』。</ref>
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
! colspan="5" | 官選山口市長(1929年ー1944年)
|-
| 1 || [[八木宗十郎 (2代)|八木宗十郎]] || 1929年(昭和4年)5月10日|| 1929年(昭和4年)12月5日||
|-
| 2 || [[白銀市太郎]] || 1930年(昭和5年)1月31日|| 1932年(昭和7年)2月1日||
|-
| 3 || [[石崎哲二]] || 1932年(昭和7年)4月8日 || 1933年(昭和8年)6月26日 ||死去
|-
| 4 || [[中野治介]] || 1933年(昭和8年)8月5日 || 1935年(昭和10年)2月5日||
|-
| 5 || [[高橋忠治 (海軍軍人)|高橋忠治]] || 1935年(昭和10年)5月25日 || 1944年(昭和19年)3月31日||新設合併により罷免
|-
! colspan="5" | 官選山口市長(1944年ー2005年)
|-
| 1 || [[高安彦]] || 1944年(昭和19年)6月4日 || 1945年(昭和20年)10月12日||
|-
| 2 || [[井上武男]] || 1945年(昭和20年)11月24日 || 1947年(昭和22年)1月4日||
|-
! colspan="5" | 公選山口市長(1944年ー2005年)
|-
| 3 || [[山下太郎 (山口市長)|山下太郎]] || 1947年(昭和22年)4月5日 || 1953年(昭和28年)10月22日||
|-
| 4 || [[長井秋穂]] || 1953年(昭和28年)11月20日 || 1959年(昭和34年)6月16日||
|-
| 5 || [[兼行恵雄]] || 1959年(昭和34年)7月15日 || 1975年(昭和50年)7月11日||
|-
| 6 || [[堀泰夫]] || 1975年(昭和50年)7月12日 || 1987年(昭和62年)3月31日||
|-
| 7 || [[小林兼年]] || 1987年(昭和62年)4月26日 || 1990年(平成2年)3月27日||死去
|-
| 8 || [[佐内正治]] || 1990年(平成2年)5月13日 || 2002年(平成14年)5月12日||
|-
| 9 || [[合志栄一]] || 2002年(平成14年)5月13日 ||2005年(平成17年)9月30日||
|-
! colspan="5" | 山口市長(2005年ー)
|-
| 1 || [[渡辺純忠]] || 2005年(平成17年)11月13日 ||2021年(令和3年)11月12日||
|-
| 2 || [[伊藤和貴]] || 2021年(令和3年)11月13日 ||現職||
|}
=== 財産区 ===
宮野地区(旧[[宮野村 (山口県)|宮野村]])には、[[特別地方公共団体#財産区|財産区]]である「宮野財産区」がある。これは旧山口市が旧宮野村と合併する際、旧宮野村有林の伐採益を宮野地区に限定して使うことを法制上確約したものである。実際に旧村有林の伐採益は[[山口市立宮野小学校]]の補修など宮野地区のために限定して使われている。財産区は[[特別地方公共団体]]の一種であり、[[地方自治法]]で定める議会が設置され、議員は[[公職選挙法]]に従って選挙されている。(ただし[[無投票]]が続いている。)
=== 市庁舎 ===
{{main|山口市役所}}
本庁である[[山口市役所]]の他、[[2005年]]の新設合併前の市町村域を単位として「総合支所」が設けられている(山口市役所本所内にも「山口総合支所」が設けられている。)。また、[[公民館]]である「地域交流センター」の大半に行政窓口(市役所出張所相当)を設けている。
=== 公的機関 ===
==== 市の機関 ====
* [[山口市消防本部]]
** 中央消防署、南消防署、阿東消防署
==== 県の機関 ====
* [[山口県警察]]本部
** [[山口警察署]]:旧山口市北部地区、旧徳地・阿東町域
** [[山口南警察署]]:旧山口市南部地区、旧小郡・秋穂・阿知須町域
** 山口県[[警察学校]]
** [[山口県総合交通センター]]-運転免許試験場
==== 国の機関 ====
* [[警察庁]][[中国四国管区警察局]]山口県情報通信部
* [[総務省]]中国四国管区行政評価局山口行政監視行政相談センター
* [[法務省]]
** 山口[[地方法務局]]
** [[山口刑務所]]
** 山口少年鑑別所
** 山口保護観察所
** [[山口地方検察庁]] [[山口区検察庁]]、[[防府区検察庁]]
* [[財務省]]
** 中国財務局山口財務事務所
** 広島国税局山口税務署
** 中国四国厚生局山口事務所
* [[厚生労働省]]
** [[山口労働局]]
*** 山口労働基準監督署
*** 山口公共職業安定所
* [[農林水産省]]
** [[中国四国農政局]]山口県拠点
** [[近畿中国森林管理局]]山口森林管理事務所
* [[国土交通省]]
** [[中国運輸局]][[山口運輸支局]]
* [[防衛省]]
** [[自衛隊山口地方協力本部]]
** [[山口駐屯地]]- [[第17普通科連隊]]が駐屯。
== 文化施設 ==
[[ファイル:140720_Yamaguchi_Prefectural_Art_Museum_Yamaguchi_Japan01s3.jpg|thumb|[[山口県立美術館]]]]
* ホール
** [[山口市民会館]]
** [[クリエイティブ・スペース赤れんが]]
* 美術館・博物館
** [[山口情報芸術センター]](ビッグウェーブやまぐち)
** [[山口県立山口博物館]]
** [[山口県立美術館]]
** [[山口県政資料館]](国の[[重要文化財]])
** [[大隅企業グループ#おおすみ歴史美術館|おおすみ歴史美術館]]
* 図書館
** [[山口県立図書館]]
** [[山口市立図書館]] - 秋穂、阿知須、阿東、小郡、中央、徳地の6館体制。
* 研修施設
** [[山口県セミナーパーク]]
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|山口市議会}}
=== 山口県議会 ===
;2023年山口県議会議員選挙
* 選挙区:山口市選挙区
* 定数:6人
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:154,716人
* 投票率:41.64%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 吉田充宏 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 10,448票
|-
| 藤生宰 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 40 || 無所属 || align="center" | 現 || 10,203票
|-
| 合志栄一 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 73 || 無所属 || align="center" | 現 || align="right" | 7,921票
|-
| 曽田聡 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 60 || [[公明党]] || align="center" | 現 || align="right" | 7,737票
|-
| 河合喜代 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 62 || [[日本共産党]] || align="center" | 元 || align="right" | 7,406票
|-
| 小田村克彦 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 63 || 無所属 || align="center" | 現 || align="right" | 7,000票
|-
| 俵田祐児 || align="center" | 落 || align="center" | 51 || 自由民主党 || align="center" | 現 || align="right" | 6,746票
|-
| 重見秀和 || align="center" | 落 || align="center" | 52 || 自由民主党 || align="center" | 新 || align="right" | 6,174票
|}
=== 衆議院 ===
;山口県第1区
* 選挙区:[[山口県第1区|山口1区]](山口市(山口・[[小郡町|小郡]]・[[秋穂町|秋穂]]・[[阿知須町|阿知須]]・[[徳地町|徳地]]の各総合支所管内)、[[防府市]]、[[周南市]]の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:356,209人
* 投票率:48.50%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[高村正大]] || align="center" | 50 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 118,882票 || align="center" | ○
|-
| || 大内一也 || align="center" | 48 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ||align="center" | 新 || align="right" | 50,684票 || align="center" | ○
|}
;山口県第3区
* 選挙区:[[山口県第3区|山口3区]]([[宇部市]]、山口市(旧[[阿東町]]域)、[[萩市]]、[[美祢市]]、[[山陽小野田市]]、[[阿武郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:256,039人
* 投票率:50.14%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[林芳正]] || align="center" | 60 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 96,983票 || align="center" | ○
|-
| || 坂本史子 || align="center" | 66 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 29,073票 || align="center" | ○
|}
== 司法 ==
* [[山口地方裁判所]] 本庁
: (管轄地:山口市(旧山口市,旧[[吉敷郡]][[秋穂町]],[[小郡町]],[[阿知須町]],旧[[阿武郡]][[阿東町]])・[[美祢市]](旧[[美祢郡]][[美東町]],[[秋芳町]]))
* [[山口家庭裁判所]] 本庁
: (管轄地:山口市(旧山口市・旧吉敷郡秋穂町,小郡町,阿知須町・旧阿武郡阿東町)・美祢市(旧美祢郡美東町,秋芳町))
* [[山口簡易裁判所]] 本庁
: (管轄地:山口市(旧山口市・旧吉敷郡秋穂町,小郡町,阿知須町・旧阿武郡阿東町)・美祢市(旧美祢郡美東町,秋芳町))
== 産業 ==
[[ファイル:小郡市街地 (新山口駅周辺).JPG|thumb|新山口駅南側の市街地]]
山口市は県庁所在地ではあるものの、その他の主たる産業は公共施設や公共事業などを除くと、後述する観光業と流通業程度で日本では数少ない[[都市#行政都市・政治都市|行政都市]]に特化した印象が強い。
小郡地区(旧[[小郡町]])は、道路網や鉄道網が[[新山口駅]]を中心として四方へ広がっており、県央地域の交通拠点となっている。このため、同地区では小郡町時代から全国企業の山口県統括担当となる支店や営業所などが多く設置されており、商業、特に流通業に特徴がある。商業地の標準地[[公示地価]]も市内の他の標準地に比べて小郡高砂町(旧小郡町、JR新山口駅南側)が突出して高い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a10000/landprices2/kouji02.html|title=令和2年地価公示(山口県分)の結果について|publisher=山口県政策企画課 土地・水資源対策班|date=2020-03-25|accessdate=2020-10-06}}</ref>。また、[[宇部市]]を中心とした[[宇部都市圏]]を主な商圏とする阿知須地区(旧[[阿知須町]])が市内にあることもあり、山口市の[[日本の年間商品販売額一覧|年間商品販売額]]は山口県内第1位である(2006年度)<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a12500/toukeinenkan/nenkan23.html 平成23年刊山口県統計年鑑]</ref>。アパレル大手の[[ファーストリテイリング]]は登記上本社を市南部の佐山地区に置いている。
瀬戸内海に面した地域に秋穂漁港、相原漁港、阿知須漁港、山口漁港の4つの漁港が存在し、椹野川では内水面漁業による鮎の養殖などが行われている。
山口駅周辺に[[山口市中心商店街]]が広がり、歓楽街である[[湯田温泉]]には宿泊施設が複数立地している。山口駅周辺の商店街内には百貨店の[[山口井筒屋]](旧[[ちまきやホールディングス|ちまきや]])が存在することもあり、一定の集客力を持つが、商店街でもう一つの核となっていた[[ダイエー]]山口店が閉店(現在は跡地に[[生活協同組合コープやまぐち]]が出店)したほか、市内の郊外や同一商圏内の近隣都市に広い駐車場を備えた大型[[ショッピングセンター]](大内地区の[[ゆめタウン山口]]や[[ザ・ビッグ]]大内店、平川地区の[[フジグラン山口]]や[[ミスターマックス|ハイパーモールメルクス山口]]、小郡地区の[[イオンタウン|イオンタウン小郡]]、[[防府市]]の[[イオン防府店]]など)が林立したこともあり、最盛期に比べ衰退傾向にある。
一方、市内の阿知須地区にも旧[[阿知須町]]時代に地元商業者が中心となって開業させた大型ショッピングセンター「[[サンパークあじす]]」があるが、先述の通り同地区は隣接する宇部市を中心とした[[宇部都市圏]]および小郡地区が主な商圏であるため、中心部の商業への影響は少ない。
観光業は山口市の主要産業のひとつであり、2011年度に市内を訪れた観光客数は[[下関市]]に次ぐ4,284,090人である<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a16200/doutai/h23doutaityousa/apd1_2_2012020518215431.pdf 平成23年市町別観光客数]</ref>。市内の主な観光地については、後述の「観光」節を参照。
=== 金融機関 ===
山口市は'''都道府県庁所在地で唯一[[銀行]]の本店が存在せず'''<ref group="注">地方銀行の[[山口銀行]]は[[下関市]]に、第二地方銀行の[[西京銀行]]は[[周南市]]に本店を置く。</ref>、都市銀行の支店も[[みずほ銀行]]山口支店が存在するのみであり、[[日本銀行]]の支店も[[下関市]]に置かれている。かつての[[第百十国立銀行]](山口銀行の前身の一つ)は山口市にて設立されたものの、普通銀行転換前に[[下関市]]に移転している。[[信用金庫]]は[[萩山口信用金庫]]が本店を置くほか、[[西中国信用金庫]](本店・下関市)は前身の[[吉南信用金庫]]が旧小郡町に本店を置いていた関係で店舗が複数存在する。
山口市内に本支店などを設置している主な金融機関は以下の通り。
* [[みずほ銀行]] - 山口支店
* [[山口銀行]] - 小郡支店、大正町出張所、秋穂支店、阿知須支店、嘉川支店、山口支店、県庁内支店、米屋町出張所、西門前出張所、湯田支店、徳佐支店、堀支店、吉敷支店、大内支店
* [[西京銀行]] - 山口支店、小郡支店、県庁支店、湯田支店、ゆめタウン山口出張所、阿知須出張所
* [[萩山口信用金庫]] - 本店、竪小路支店、湯田支店、中市支店、大歳支店、大内支店、平川支店、宮野支店、吉敷支店、御堀支店、小郡支店
* [[西中国信用金庫]] - 小郡支店、阿知須支店、嘉川支店、秋穂支店、上郷支店、山口支店、山口大学前支店、ひめ山支店、徳佐支店
* [[信用組合広島商銀]] - 山口支店
* [[中国労働金庫]] - 山口支店
* [[山口県信用農業協同組合連合会]] - 本所、県庁内支所
* [[山口県農業協同組合]] - 本所(合併時に新設)、出雲支所、島地支所、八坂支所(以上旧防府とくぢ農業協同組合)、<br />小鯖支所、大内支所、宮野支所、山口支所、吉敷支所、大歳支所、平川支所、陶支所、鋳銭司支所<br />名田島支所、二島支所、嘉川支所、佐山支所、秋穂支所、秋穂大海支所、仁保支所、阿東支所、阿東生雲支所、阿東嘉年支所、阿東篠生支所、阿東地福支所、小郡支所、小郡上郷支所、山口統括本部支所(以上旧山口中央農業協同組合)、阿知須支店(旧[[山口宇部農業協同組合]])
=== 郵便局 ===
* [[山口郵便局 (山口県)|山口郵便局]]([[普通郵便局#地域区分局・起点局・集中局|地域区分局]])
{{Col|
* [[山口中央郵便局]]
* 山口湯田郵便局
* 山口中讃井郵便局
* 山口中市郵便局
* 山口吉敷郵便局
* 山口宮野郵便局
* 山口平川郵便局
* 山口後河原郵便局
* 山口桜畠郵便局
* 山口県庁内郵便局
* 山口神田郵便局
* 山口金古曽郵便局
* 仁保郵便局
* 小鯖郵便局
* 名田島郵便局
* 嘉川郵便局
* 大内郵便局
* 佐山郵便局
* 御堀郵便局
* 深溝郵便局
|
* [[小郡郵便局 (山口県)|小郡郵便局]]
* 小郡新町郵便局
* 小郡大正町郵便局
* 小郡黄金町郵便局
* 八坂郵便局
* 堀郵便局
* 島地郵便局
* 大原郵便局
* 串郵便局
* 大歳郵便局
* 二島郵便局
* 秋穂郵便局
* 大海郵便局
* 鋳銭司郵便局
* 阿知須郵便局
* 徳佐郵便局
* 嘉年郵便局
* 地福郵便局
* 篠生郵便局
* 生雲郵便局
|
* 山口大学内簡易郵便局
* 山口流通センター簡易郵便局
* 山口陶簡易郵便局
* 河内神簡易郵便局
* 引谷簡易郵便局
* 船路簡易郵便局
* 三谷簡易郵便局
}}{{clear|left}}
== 自治体交流 ==
=== 姉妹都市 ===
* {{Flagicon|ESP}} [[パンプローナ]]市(Pamplona)([[スペイン]]・[[ナバーラ州]]) - [[1980年]][[2月19日]]締結
* {{Flagicon|CHN}} [[済南市]](Jinan)([[中華人民共和国|中国]]・[[山東省]]) - [[1985年]][[9月20日]]締結
* {{Flagicon|KOR}} [[公州市]]({{Lang|ko|공주}} Gongju コンジュ)([[大韓民国|韓国]]・[[忠清南道]]) - [[1993年]][[2月23日]]締結
* {{Flagicon|CHN}} [[鄒平県]](Zouping)(中国・山東省[[浜州市]]) - [[1995年]][[5月13日]]締結<ref group="注">締結当時は[[小郡町]]</ref>
* {{Flagicon|KOR}} [[昌原市]] ({{Lang|ko|창원}} Changwon チャンウォン) (韓国・[[慶尚南道]]) - [[2009年]][[11月16日]]締結
=== 協定関係 ===
; 災害時における相互応援に関する協定
* [[ファイル:Flag of Fukushima, Fukushima.svg|border|25px|福島市旗]] [[福島市]] - [[2013年]][[2月7日]]締結
=== グループ ===
* [[市町村サミット|雪舟サミット]]
* [[市町村サミット|東大寺サミット]]
* [[小京都#全国京都会議加盟自治体|全国京都会議]]
== メディア ==
県域放送局については、周南市に本社を置く[[山口放送]]以外の各社が山口市に放送局を置く。また山口市に本拠地を置く県域新聞社は存在しない([[山口新聞]]を発行する[[みなと山口合同新聞社]]は[[福岡県]]と接する[[下関市]]に本社がある)。
ケーブルテレビ局の山口ケーブルビジョンでは福岡県域局の[[テレビ西日本]](フジ系)・[[TVQ九州放送]](テレ東系)による[[区域外再放送]]がそれぞれ行われており、加入率は70%を越えている<ref>[http://www.c-able.co.jp/gaiyo.html 会社概要] - 山口ケーブルビジョン(2012年1月5日現在)</ref>。
=== 放送局 ===
; 県域放送局
:* [[NHK山口放送局]]
:* [[テレビ山口]](tys・[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系テレビ局)
:* [[山口朝日放送]](yab・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系テレビ局)
:* [[エフエム山口]](FMY・[[全国FM放送協議会|JFN]]系FMラジオ局)
:* [[山口放送]]山口支社(KRY・[[日本ニュースネットワーク|NNN]]系テレビ局、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系ラジオ局、本社は周南市)
; 通信
:* [[山口ケーブルビジョン]](ケーブルテレビ局)
=== 新聞社・通信社 ===
; 新聞社
:* [[山口新聞]]([[みなと山口合同新聞社]])山口支社
:* [[読売新聞]]山口総局
:* [[朝日新聞]]山口総局
:* [[毎日新聞]]山口支局
:* [[日本経済新聞]]山口支局
:* [[中国新聞社|中国新聞]]防長本社
:* [[長周新聞]]山口支局
; 通信社
:* [[共同通信社]]山口支局
:* [[時事通信社]]山口支局
; 情報紙
* [[サンデー山口]](地域情報紙)
== 教育==
=== 大学・短期大学 ===
{{Col|
; 国公立
:* [[山口大学]]
:* [[山口県立大学]](旧・山口女子大学)
|
; 私立
:* [[山口学芸大学]]
:* [[山口芸術短期大学]]
}}{{clear|left}}
=== 高等学校 ===
{{Col|
; 公立
:* [[山口県立山口高等学校]]
:** [[山口県立山口高等学校徳佐分校|徳佐分校]]
:* [[山口県立山口中央高等学校]]
:* [[山口県立西京高等学校]]
:* [[山口県立山口農業高等学校]]
:* [[山口県立防府高等学校佐波分校]]
:* [[山口県立山口松風館高等学校]](2022年4月に[[新山口駅]]北地区に開校予定。午前、午後、夜間の3部制[[定時制高校]]。)<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.news24.jp/sp/nnn/news1021squdjjr04ajs5l5.html|title =NNNニュース 校名は「県立山口松風館高校」- 日テレNEWS24|accessdate =2021年2月19日}}</ref>
|
; 私立
:* [[中村女子高等学校]]
:* [[野田学園中学校・高等学校|野田学園高等学校]]
:* [[山口県鴻城高等学校]]
}}{{clear|left}}
=== 中学校 ===
; 国立
:* [[山口大学教育学部附属山口中学校]]
; 市立
{{Col|
:* [[山口市立仁保中学校|仁保中学校]](にほ)
:* [[山口市立大内中学校|大内中学校]](おおうち)
:** 氷上分校(ひかみ)
:* [[山口市立宮野中学校|宮野中学校]](みやの)
:* [[山口市立大殿中学校|大殿中学校]](おおどの)
:* [[山口市立白石中学校|白石中学校]](しらいし)
:* [[山口市立湯田中学校|湯田中学校]](ゆだ)
:* [[山口市立鴻南中学校|鴻南中学校]](こうなん)
:* [[山口市立平川中学校|平川中学校]](ひらかわ)
|
:* 潟上中学校(かたがみ)
:* [[山口市立二島中学校|二島中学校]](ふたじま)
:* 川西中学校(かわにし)
:* 小郡中学校(おごおり)
:* 秋穂中学校(あいお)
:* [[山口市立阿知須中学校|阿知須中学校]](あじす)
:* 徳地中学校(とくぢ)
:* 阿東中学校(あとう)
:* 阿東東中学校(あとうひがし)
}}{{clear|left}}
; 私立
:* [[野田学園中学校・高等学校|野田学園中学校]]
=== 小学校 ===
: 右肩に<sup>*</sup>の付く学校は、[[制服]]または標準服の指定校。
; 国立
:* [[山口大学教育学部附属山口小学校]]<sup>*</sup>
; 市立
{{Col|
:* [[山口市立仁保小学校|仁保小学校]]<sup>*</sup>(にほ)
:* [[山口市立小鯖小学校|小鯖小学校]]<sup>*</sup>(おさば)
:* [[山口市立大内小学校|大内小学校]]<sup>*</sup>(おおうち)
:** 氷上分室(ひかみ)
:* [[山口市立大内南小学校|大内南小学校]](おおうちみなみ)
:* [[山口市立宮野小学校|宮野小学校]]<sup>*</sup>(みやの)
:* [[山口市立大殿小学校|大殿小学校]](おおどの)
:* [[山口市立白石小学校|白石小学校]](しらいし)
:* [[山口市立湯田小学校|湯田小学校]]<sup>*</sup>(ゆだ)
:* [[山口市立良城小学校|良城小学校]]<sup>*</sup>(りょうじょう)
:* [[山口市立平川小学校|平川小学校]]<sup>*</sup>(ひらかわ)
:* 大歳小学校<sup>*</sup>(おおとし)
|
:* 陶小学校<sup>*</sup>(すえ)
:* 鋳銭司小学校<sup>*</sup>(すぜんじ)
:* 名田島小学校<sup>*</sup>(なたじま)
:* 二島小学校<sup>*</sup>(ふたじま)
:* 嘉川小学校<sup>*</sup>(かがわ)
:* 興進小学校<sup>*</sup>(こうしん)
:* 佐山小学校<sup>*</sup>(さやま)
:* 上郷小学校<sup>*</sup>(かみごう)
:* 小郡小学校(おごおり)
:* [[山口市立小郡南小学校|小郡南小学校]]<sup>*</sup>(おごおりみなみ)
:* 秋穂小学校<sup>*</sup>(あいお)
:* 大海小学校<sup>*</sup>(おおみ)
|
:* [[山口市立阿知須小学校|阿知須小学校]]<sup>*</sup>(あじす)
:* [[山口市立井関小学校|井関小学校]]<sup>*</sup>(いせき)
:* [[山口市立中央小学校|中央小学校]]<sup>*</sup>(ちゅうおう)
:* 島地小学校<sup>*</sup>(しまじ)
:* 串小学校<sup>*</sup>(くし)
:* 八坂小学校(やさか)
:* 柚野木小学校<sup>*</sup>(ゆのき)
:* 生雲小学校<sup>*</sup>(いくも)
:* [[山口市立さくら小学校|さくら小学校]]<sup>*</sup>
:* 徳佐小学校(とくさ)
:* 嘉年小学校<sup>*</sup>(かね)
}}{{clear|left}}
=== 幼稚園・保育園 ===
; 国立
:* [[山口大学教育学部附属幼稚園]]
{{Col|
; 市立
:* 仁保幼稚園
:* 小鯖幼稚園
:* 大内幼稚園
:* 宮野幼稚園
:* 吉敷幼稚園
:* 平川幼稚園
:* 鋳銭司幼稚園
:* 名田島幼稚園
:* 二島幼稚園
:* 秋穂幼稚園
:* 山口保育園
:* 東山保育園
:* 大内保育園
:* 陶保育園
:* 楠木保育園
:* 三の宮保育園
:* 山口第二保育園
:* 小郡上郷保育園
:* 小郡乳児保育園
:* 小郡保育園
:* 黒潟保育園
:* あじす保育園
:* 堀保育園
:* 八坂保育園
:* 地福保育園
:* 篠生保育園
:* 生雲保育園
:* 徳佐保育園
|
; 私立
:* 旭幼稚園
:* 亀山幼稚園
:* 西園寺幼稚園
:* 菅内幼稚園
:* [[野田学園中学校・高等学校|野田学園幼稚園]]
:* 明星幼稚園
:* [[山口天使幼稚園]]
:* 山口中央幼稚園
:* 湯田幼稚園
:* [[阿知須幼稚園]]
:* 小郡幼稚園
:* 山口県鴻城高等学校附属幼稚園
:* おおとり保育園
:* 大内光輪保育園
:* 嘉川保育園
:* さやま保育園
:* はあもにい保育園
:* ひかり園
:* 第二ひかり園
:* 三つ葉保育園
:* たんぽぽ保育園
:* 秋穂保育園
:* 大海保育園
:* 島地保育園
:* 花尾保育園
}}{{clear|left}}
=== 特別支援学校 ===
; 国立
:* [[山口大学教育学部附属特別支援学校]]
; 公立
:* [[山口県立山口南総合支援学校]]
:* [[山口県立山口総合支援学校]]
:** みほり分校
=== 専修学校・各種学校 ===
; 私立
:* 山口コア学園
:** 山口コアカレッジ
:** 山口コ・メディカル学園
:* YIC公務員専門学校(旧:山口情報ビジネス専門学校新山口校) - [[YICグループ]]の系列校
:* 山口調理師専門学校
=== 児童自立支援施設 ===
; 公立
:* [[山口県立育成学校]]
==交通 ==
=== 鉄道 ===
山口市役所・山口県庁などが立地する当市の中心市街地の最寄り駅は[[山口駅 (山口県)|山口駅]]であり、時刻表においても当市の中心駅として表記されている。一方、市内の駅で最も乗降客数の多いのは山陽新幹線および山陽本線が乗り入れる[[新山口駅]](旧小郡駅)であり、当市は新山口駅周辺を産業交流拠点と位置づけ整備を進めている<ref>{{Cite news | title = 安全祈願祭 JR新山口駅の自由通路、橋上駅舎工事 | url = http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2011/1124/10p.html | newspaper = [[山口新聞]] | publisher = 山口新聞社 | location = 下関市 | date = 2011-11-24 | accessdate = 2012-01-05 | language = 日本語 }}</ref>。
{{See also|新山口駅#新山口駅ターミナルパーク整備事業}}
山陽本線が山口駅ではなく小郡駅を経由することになった経緯について、山口市内で発行される郷土誌では「三田尻から山口を経由して小郡に向かう計画を地元が反対し断念させた」などと主張するものもあるが<ref>{{Cite book|和書|title = 郷土大歳のあゆみ|url = http://ootoshi-comm.info/kyoudo.html|date = 2002-12-10|publisher = 大歳自治振興会|id = 000004009651|page = 189}}</ref>、同線にあたる路線を建設した[[山陽鉄道]]の[[広島駅|広島]] - 赤間関(後の[[下関駅|下関]])間の経路の候補が示された公文書には、三田尻と山口のいずれかを経由する複数のルートが掲載されているものの、三田尻から山口へ向かうルートは掲載されていない<ref name="hbline">{{Cite web|和書|url=https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000001693315.html |title=広島ヨリ赤間関ニ達スル鉄道線路撰択ノ件(広島馬関線) |accessdate=2021-09-12 |author=参謀本部 |authorlink=参謀本部 (日本) |year=1893 |month=09 |language=jpn }}</ref>。
山陽鉄道では1888年(明治21年)1月に[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]] - 赤間関(現・[[下関駅|下関]])間の鉄道建設免許を受けたが、1892年(明治25年)7月時点で[[広島駅|広島]]以西の経由地は未決定であった<ref name="hbline" />。同社は当初から、工事の難易度や経済効果などから、山口を通過しない[[徳山市|徳山]](現・周南市) - [[三田尻]](現・防府市) - [[小郡町|小郡]](後の[[新山口駅|新山口]])を経由する現在線に近い海岸線ルートの認可を望んだが、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が軍事上の理由から、[[五日市駅|五日市]]付近より山間部に入り須万(現在の周南市須万)または[[津和野町|津和野]]を経て山口に至り、そこから伊佐(現在の[[美祢駅]]付近)・[[吉田 (下関市)|吉田]]を経由して海岸付近を一切通らず赤間関に至る山間線ルートを主張した<ref name="hbline" />。最終的には参謀本部の提案した山間部を通るルートは技術的問題、経済的問題を解決できず、赤間関付近の軍事的にリスクのある箇所などを調整して概ね当初の海岸線ルートに敷設許可をした旨の経緯が閣議決定の資料に記されている<ref name="hbline" />。
; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
:* {{color|mediumblue|■}}[[山陽新幹線]]:[[新山口駅]]
:* {{color|#0072bc|■}}[[山陽本線]]:[[四辻駅]] - 新山口駅 - [[嘉川駅]] - [[本由良駅]]
:* {{color|#ff6600|■}}[[山口線]]:新山口駅 - [[周防下郷駅]] - [[上郷駅]] - [[仁保津駅]] - [[大歳駅]] - [[矢原駅]] - [[湯田温泉駅]] - [[山口駅 (山口県)|山口駅]] - [[上山口駅]] - [[宮野駅]] - [[仁保駅]] - [[篠目駅]] - [[長門峡駅]] - [[渡川駅]] - [[三谷駅 (山口県)|三谷駅]] - [[名草駅]] - [[地福駅]] - [[鍋倉駅]] - [[徳佐駅]] - [[船平山駅]]
:* {{color|#990066|■}}[[宇部線]]:新山口駅 - [[上嘉川駅]] - [[深溝駅]] - [[周防佐山駅]] - [[岩倉駅 (山口県)|岩倉駅]] - [[阿知須駅]]
=== 空港 ===
最寄りの空港は[[山口宇部空港]]である。[[新山口駅]]などから連絡バスが運行されている。
=== 路線バス ===
市内では以下の路線バス、高速路線バスが運行されている。
==== 一般路線バス ====
; [[防長交通]]
: 新山口駅を拠点に[[秋芳洞]]・萩市を結ぶ路線と、防府方面を結ぶ路線を運行しているほか、1999年に廃止された[[山口市交通局]](山口市営バス)から路線・車両を譲り受けており、同局が運行していた旧市内各地や旧小郡町域、旧秋穂町域の路線バスを運行している。
: このほか、新山口駅 - 東萩駅の特急バス「[[はぎ号|スーパーはぎ号]]」を中国ジェイアールバスと共同運行している。
; [[中国ジェイアールバス]]
: [[防長線]]と秋吉線の2路線がある。防長線は元々防府市から山口市中心部を経て萩市を結ぶ路線で、現在は山口市中心部を起終点として防府方面と萩方面で運行系統が分かれている。
: 秋吉線は山口駅と美祢市の大田中央・秋芳洞・秋吉を結ぶ。
; [[宇部市交通局]]
: 旧阿知須町域を経て新山口駅と宇部市を結ぶ路線、新山口駅と山口宇部空港を結ぶ路線を運行する。
; [[山口市コミュニティバス]]
: 山口市が運行する[[コミュニティバス]]。防長交通に運行を委託している。
==== 高速バス ====
'''太字'''は山口市内の停車地
{| class="wikitable" style="font-size:90%; clear:both"
!愛称名
!運行会社
!運行区間
!昼/夜行
|-
|[[萩エクスプレス号]]
|[[防長交通]]
|[[東京都区部|東京]]([[東京駅]]・[[霞ヶ関]]) - '''宮野・西京橋・[[湯田温泉]]'''
|夜行
|-
|TenryoLiner
|[[天領バス]]
|東京(東京駅鍛冶橋駐車場・[[バスタ新宿]]) - '''新山口駅'''
|夜行
|-
|[[カルスト号]]
|[[近鉄バス]]<br />防長交通
|[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]([[梅田]])・[[神戸市|神戸]]([[三宮]]) - '''米屋町・湯田温泉'''
|夜行
|-
|(愛称名なし)
|防長交通
|[[広島市]]([[広島バスセンター|広島BC]]・[[広域公園前駅]]ほか) - [[玖珂インターチェンジ|玖珂IC]] - [[周南市]] - [[防府市]] - '''西京橋・湯田温泉・山口大学前'''
|昼行
|-
|[[福岡・山口ライナー]]
|[[中国ジェイアールバス|中国JRバス]]
|[[福岡市]]([[博多バスターミナル|博多BT]]・[[天神 (福岡市)|天神]]) - '''新山口駅・湯田温泉通・維新公園前・山口駅'''
|昼行
|-
|[[福岡・防府・周南ライナー]]
|防長交通
|福岡市(博多BT) - '''仁保津駅前'''
|昼行
|}
山口市内を始発・終着とせず、山口市が途中停車の一部である高速バスも含む。
なお、かつては下関市に本社を置く[[サンデン交通]]が山口市を経由する下関発着の夜行高速バスや山口市と下関市を結ぶ高速バスを運行していたが、夜行高速バス「[[ふくふく東京号]]」は2006年11月30日限りで、同「[[ふくふく大阪号]]」は2013年6月30日限りで、下関 - 山口線は2014年9月30日限りで廃止されたため、現在は山口市内発着の高速バスは運行していない。
=== タクシー ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[大隅企業グループ|大隅タクシー]]
* 山野タクシー
* 山口交通
* 日本交通山口営業所(日本交通産業グループ)
* 中司(なかつか)タクシー
* 湯田都(ゆだみやこ)タクシー
* 湯田タクシー
* フラワータクシー
{{Col-break}}
* 新山口タクシー
* 嘉川タクシー
* 阿知須中央交通
* 三谷タクシー
* 地福タクシー
* 徳佐タクシー
* いさむや第一交通([[山口第一交通グループ]])
{{Col-end}}
=== 道路 ===
; [[高速道路]]・[[自動車専用道路]]
:* [[中国自動車道]]:[[徳地インターチェンジ|徳地IC]] - [[荷卸峠パーキングエリア|荷卸峠PA]] - [[山口インターチェンジ|山口IC]] - [[湯田温泉パーキングエリア|湯田温泉PA/SIC]] - [[山口ジャンクション|山口JCT]] - [[小郡インターチェンジ (中国自動車道)|小郡IC]]
:* [[山陽自動車道]]:[[山口南インターチェンジ|山口南IC]] - [[山口ジャンクション|山口JCT]]
:* [[山口宇部道路]]:[[朝田インターチェンジ|朝田IC]] - [[流通センターインターチェンジ|流通センターIC]] - [[長谷インターチェンジ|長谷IC]] - [[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]] - [[由良インターチェンジ|由良IC]] - [[阿知須インターチェンジ|阿知須IC]]
:[[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]] - [[阿知須インターチェンジ|阿知須IC]]間は、2012年(平成24年)3月28日より無料開放された<ref>{{Cite web|和書|date=2011-11-16|url=http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a11000/interview/111114.html|title=知事記者会見録(平成23年11月14日実施分)|publisher=山口県広報広聴課|accessdate=2012-01-03}}</ref>。
; [[一般国道]]
:* [[国道2号]]
:** [[小郡道路]]:[[山口南インターチェンジ|山口南IC]] - [[陶インターチェンジ|陶IC]] - [[名田島インターチェンジ|名田島IC]] - [[小郡インターチェンジ (小郡道路)|小郡IC]] - [[大原インターチェンジ (山口県)|大原IC]] - [[岡屋インターチェンジ|岡屋IC]]- [[原条インターチェンジ|原条IC]] - [[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]]
:* [[国道9号]]
:** [[山口バイパス (山口県)|山口バイパス]]
:* [[国道190号]]
:* [[国道262号]]
:* [[国道315号]]
:* [[国道376号]]
:* [[国道435号]]
:* [[国道489号]]
== スポーツ ==
=== スポーツチーム ===
* [[レノファ山口FC]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]])- クラブオフィスとメインスタジアムが市内に所在。全県をホームタウンとしており、主たる練習場は[[山陽小野田市]]。
=== スポーツ施設 ===
* [[維新百年記念公園]]
** [[維新百年記念公園陸上競技場|維新みらいふスタジアム]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[レノファ山口FC]]のホームスタジアムの1つ。
* [[山口きらら博記念公園]]
** [[山口きらら博記念公園多目的ドーム]]
* [[山口市スポーツの森]]
** [[山口市スポーツの森#西京スタジアム|山口マツダ西京きずなスタジアム]]
* [[やまぐちサッカー交流広場]]
* [[宇部72カントリークラブ]]
== 観光 ==
=== 市内にある名所・旧跡 ===
[[ファイル:140720 Ruriko-ji Yamaguchi Yamaguchi pref Japan02s3.jpg|thumb|瑠璃光寺]]
[[ファイル:一の坂川桜並木.jpg|thumb|一の坂川桜並木]]
[[ファイル:Yamaguchi Xavier Memorial Church.JPG|thumb|山口サビエル記念聖堂]]
[[ファイル:140720 Jouei-ji Yamaguchi Yamaguchi pref Japan13s3.jpg|thumb|常栄寺雪舟庭]]
; 中心市街地周辺(一の坂川沿い・湯田)
:* 保寧山[[瑠璃光寺]] - [[室町時代]]に[[大内義弘]]が建立。[[五重塔]]は[[国宝]]。
:* 淸涼山[[月輪寺 (山口市)|月輪寺]]
:* [[香山町|香山]][[常栄寺 (山口市)|常栄寺]] – 庭園「雪舟庭」は国の[[名勝]]・[[史跡]]
:* 正宗山[[洞春寺]]・[[のむら美術館]]
:* 瑞雲山[[龍福寺 (山口市)|龍福寺]] – 釈迦堂(本堂)は国の重要文化財、庭園は[[山口県指定文化財一覧|県指定名勝]]
:* [[古熊神社]]
:* [[山口大神宮]]
:* [[豊榮神社・野田神社|豊栄神社・野田神社]] – [[別格官幣社]]
:* [[仁壁神社]]
:* [[木戸神社]]
:* [[山口サビエル記念聖堂]]
:* [[SLやまぐち号]]
:* [[湯田温泉]]
:* [[中原中也記念館]]
:* [[山口市民会館]]
:* [[大隅企業グループ#おおすみ歴史美術館|おおすみ歴史美術館]]
:* [[鴻ノ峰]]
:* [[一の坂川|一の坂川(後河原)]]
:* [[竪小路]]
:* [[山口市菜香亭]]
:* [[今八幡宮]]
:* [[八坂神社 (山口市)|八坂神社]]
; 旧市周辺部
:* [[象頭山 (山口県)|象頭山]]
:* [[姫山]]
:* [[豆子郎]]本店 (外郎販売)
:* [[鳴滝 (山口市)|鳴滝]]
:* [[鳴滝温泉]]
:* [[佐波山]]
:* [[赤田神社]]
:* [[土師八幡宮]]
:* 瀧塔山[[龍蔵寺 (山口市)|龍蔵寺]]
:* 月光山[[泰雲寺]]([[闢雲寺]]) – [[下小鯖]]2358<ref>[http://www.itokuji.sakura.ne.jp/sekiguti.htm 岩空山威徳寺公式]</ref>
:* [[中原中也]]の墓
; 南部(陶・鋳銭司・嘉川・佐山・小郡・阿知須・秋穂)
:* 陶ヶ岳 (火の山連峰)
:* [[長沢ガーデン]]
:* [[其中庵]]:俳人[[種田山頭火]]が住んだ庵。
:* [[中郷八幡宮]]
:* [[中領八幡宮]]
:* 正八幡宮
:* 阿知須温泉
:* [[きらら浜]]
:** 山口県立きらら浜自然観察公園
:** [[道の駅きらら あじす]]
:* [[道の駅あいお]]
:* [[秋穂八十八箇所]]
; 北部(仁保・徳地・阿東)
:* [[木戸峠]]
:* [[佐波川ダム|大原湖]](佐波川ダム)
:* [[重源の郷]]
:* [[長門峡]]
:* [[道の駅長門峡]]
:* [[道の駅仁保の郷]]
:* [[道の駅願成就温泉]]
:* 柚木慈生温泉
:* [[KDDI山口衛星通信センター]] その他、[[スカパーJSAT]]がSUPERBIRDの地上局(山口ネットワーク管制センター)を市中心部に近い荻町に、[[自治体衛星通信機構]]が地上局(山口管制局)を市内宮野上にそれぞれ設けている。後者については、[[全国瞬時警報システム]]など最重要ミッションを運用している。
:* [[十種ヶ峰ウッドパーク]](オートキャンプ場・スキー場)、船平山スキー場
:* 徳佐しだれざくら(特に、徳佐八幡宮周辺で見られる)
:* [[船方総合農場]](観光牧場)
:* 蔵目喜(ぞうめき)梨園
:* リンゴ狩り
:* 釣り堀(地福近辺)
:* 亀山の宝篋印塔(伝・[[静御前]]の墓)
=== 行事・イベント ===
* [[全日本実業団ハーフマラソン]](毎年[[2月]])
* 高倉荒神祭([[2月28日]])
* [[生活協同組合コープやまぐち#生協まつり|コープやまぐち 生協まつり]](毎年[[4月]])
* [[湯田温泉白狐まつり|湯田温泉白狐祭り]](4月上旬)
* [[青空天国いこいの広場]]([[5月5日]])
* 一の坂川 ほたる観賞Week(5月下旬 - 6月上旬の1週間)
* [[山口祇園祭]]([[7月20日]] - [[7月27日|27日]])
* ふしの夏祭り
* [[山口七夕ちょうちんまつり]]([[8月6日]]・[[8月7日|7日]])
* 陶八雲神社例祭(腰輪踊り)(例祭[[8月28日]])
* [[えび狩り世界選手権]](8月下旬)
* [[アートふる山口]](毎年[[10月]]または[[11月]])
* あいお花火祭り・あいお祭り(毎年10月)
* 嘉年土居神楽舞(毎年[[10月1日]] - [[10月2日|2日]])
* [[山口天神祭]]([[11月23日]])
* [[日本のクリスマスは山口から]](毎年[[12月]])
=== 名物・特産品 ===
* 大内人形
* 大内塗
* [[ういろう (菓子)|外郎]]([[豆子郎]]・[[御堀堂]]・本多屋・数井製菓)
* [[舌鼓]]([[銘菓]])
* 小郡饅頭
* [[しっちょる鍋]]
* [[豆腐|かみなり豆腐]](仁保地区)
* [[美術館通り (菓子)|山口美術館通り]](饅頭菓子)
* SLやまぐち号グッズ
* [[コロッケ|昭ちゃんコロッケ]]
* 山口饅頭([[きれん製菓]]・本多屋)
* [[麩|安平麩]](旧小郡町)
* [[シイタケ|徳地しいたけ]]
* [[ワサビ|わさび]](旧・徳地町・旧・阿東町)
* [[はなっこりー]](旧・阿東町)
* [[和牛|阿知須牛]]、[[カボチャ|かぼちゃ]]、あじすの外郎(旧・阿知須町)
* 阿東牛、[[牛乳]]、[[リンゴ]]、[[ナシ]]、[[アユ]]、[[トマト]](旧・阿東町)
* [[海苔]]、[[クルマエビ]](山口市南部の漁港で獲れる)
* [[蜂蜜]](旧・阿東町)
* [[米]]([[コシヒカリ]]が多い)(旧・阿東町)
== 著名な出身者 ==
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* [[鮎川義介]] - 実業家、[[日産自動車]]の創業者に当たる人物
* [[安藤方之]] - [[鷺流]]狂言師
* [[石川佳純]] - 卓球選手
* [[泉晶子]] - 女優、声優
* [[井上馨]] - [[武士]]、[[長州藩]]士、[[政治家]]、[[実業家]]
* [[上田鳳陽]] - [[儒学者]]・[[国学者]]。[[山口大学]]建学の祖
* [[上野英信]] - 記録作家
* [[大賀真一]] - [[警察庁刑事局]]長、[[警視庁]]副総監
* [[大谷晋二郎]] - プロレスラー
* [[大野将平]] - [[世界柔道選手権大会|世界柔道選手権]]73キロ級金メダリスト
* [[大村益次郎]] - [[医師]]、西洋学者、[[軍事学者|兵学者]]
* [[金森政雄]] - [[三菱重工業]]社長、[[日本経済団体連合会]]副会長
* [[上川大樹]] - [[世界柔道選手権大会|世界柔道選手権]]無差別級金メダリスト
* [[兼崎地橙孫]] - [[俳人]]・[[書家]]・[[弁護士]]
* [[嘉村礒多]] - 私小説家
* [[川野太郎]] - 俳優
* [[菊本侑希]] - [[フットサル]]選手
* [[岸信介]] - 政治家、第56・57代[[内閣総理大臣]]
* [[國重友美]] - [[書家]]
* [[久保裕也 (サッカー選手)|久保裕也]] - [[プロサッカー選手]]
* [[佐藤和雄]] - 元[[東京都]][[小金井市]]長、元[[朝日新聞]]記者
* [[沢山保羅]] - 牧師、教育者
* [[新村出]] - 言語学者、文献学者
* [[田中頼三]] - 軍人
* [[田中陽子 (サッカー選手)|田中陽子]] - [[女子サッカー|女子サッカー選手]]
* [[高邑勉]] - [[衆議院議員]]([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]・比例中国)
* [[寺内正毅]] - 第18代内閣総理大臣
* [[土井芳輔]] - [[南満州鉄道]][[京城]]出張所所長
* [[德田聡一朗]] - [[フジテレビ]]アナウンサー
* [[徳本恭敏]] - 声優
*[[徳力基彦]] - [[アジャイルメディア・ネットワーク]]共同創業者・元社長
* [[栃忠秀昭]] - [[十両]][[力士]]
* [[富永有隣]] - [[武士]]・[[長州藩]]士、[[儒学者]]
* [[中原貴之]] - プロサッカー選手
* [[中原中也]] - 詩人
* [[成瀬仁蔵]] - 教育者、[[日本女子大学]]創設者
* [[西川一三]] - 日本のスパイ
* [[濱村秀雄]] - 陸上競技選手([[ボストンマラソン]]優勝者)
* [[原川力]] - プロサッカー選手
* [[半田優希]] - 元プロサッカー選手
* [[日野原重明]] - [[医師]]
* [[福江俊喜]] - 元山口県[[労働組合]]総連合議長、元[[高等学校教員]]
* [[藤井旭]] - [[写真家]]
* [[藤井克典]] - [[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[藤本眞克]] - 天文学者
* [[桝屋敬悟]] - 元[[衆議院議員]]、元[[厚生労働副大臣]]
* [[松浦晃一郎]] - [[国際連合教育科学文化機関]]事務局長
* [[松本龍憲]] - [[プロ野球選手]]
* [[丸山誠治]] - [[映画監督]]
* [[村田四郎]] - 神学者、[[明治学院]]長
* モリワキユイ([[タレント]]、[[アイドル]]、[[山口活性学園]]のメンバー)
* [[山尾庸三]] - [[東京大学]]工学部の前身となる工学寮を創立
* [[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]] - 東洋史学者
* [[山本麻里]] - [[厚生労働省]][[社会・援護局]]長
* [[吉富簡一]] – 元衆議院議員、初代[[山口県議会|山口県会]]議長
* Yuly([[タレント]]、[[アイドル]]、[[山口活性学園]]のメンバー)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
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== 参考文献 == -->
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== 関連項目 ==
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* [[山口・防府地区]]
* [[山口市役所]]
* [[日本の音風景100選]]:山口線のSL
== 外部リンク ==
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* {{Official website}}
* [https://www.yamacci.or.jp/ 山口商工会議所]
* [https://www.yama-kenoh-shokokai.jp/ 山口県央商工会]
* [https://www.city.yamaguchi.lg.jp/soshiki/23/51387.html 大内文化まちづくり]
* [http://yamaguchi-nishida.org 山口西田読書会]
* {{ウィキトラベル インライン|山口市|山口市}}
* {{Googlemap|山口市}}
{{山口県の自治体}}
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[[Category:山口県の市町村]]
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メガCD
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メガCD(メガシーディー、MEGA-CD)は、セガ・エンタープライゼス(現:セガ)が発売したメガドライブ用の周辺機器。日本では1991年12月12日発売。価格は49,800円。
当時の家庭用ゲーム機としては最先端のゲーム制作環境を見越した作りになっており、当時画期的とも言えるフルCGやフルビデオムービーを多用する次世代ゲームへの方向性を示した。
メガCDをメガドライブに接続することで、メガCD用ゲームをプレイできるほか、オーディオCDおよびCD+G規格のCDを再生することが出来る。
メガドライブ本体側面の拡張用スロットを使用して、メガドライブ本体の下に接続する。初期型のメガCDのCD-ROMドライブは電動で開閉するトレイ式(フロントローディング式)で、後期型のメガCD2では手動で開閉するトップオープン式に改められた。メガCD・メガCD2はどちらもメガドライブ・メガドライブ2の両方の本体に接続可能。海外市場でリリースされているメガドライブ3(Genesis3)以降には接続できない。
本体内に大容量の6メガバッファRAMやスーパーファミコンを上回る2軸回転も可能な拡大縮小処理機能を装備。また、メガドライブよりも高速な68000CPUを搭載して、メガドライブと並列処理をさせることで、データと表示の同時処理を実現した。
NEC HEのPCエンジン CD-ROMが採用していたCLV方式とは違って、フロッピーディスクやハードディスクなどパソコン用記憶装置でも使われていたCAV方式を採用していた。内周と外周のトラックで回転速度を変えて制御するランダムアクセスとエラー補正機能を備えた。ただしCAVのCD-ROMはイエローブックの規格外となる。
主なタイトルとして、背景動画の上にワイヤーフレームで破壊可能なオブジェクトを表示させた『スターブレード』、当たり判定がある毎秒15コマの全編背景動画の上でリアルタイムポリゴンキャラクターを動かすCPU並列動作という手法をとった『シルフィード』のほか、海外ソフトでも、再生と静止による動画処理で背景を任意スクロールさせる事が出来る『Bram Stoker's Dracula(英語版)』や、時間軸で同時進行する複数の実写ムービーを切り替えるといった動画再生のインタラクティブ性を大幅に向上させた『ナイトトラップ』などが発売された。
日本で内々に開発されたメガCDは、1991年6月に開催された東京おもちゃショー'91にて初めて公表され、同年12月に発売となった。日本市場における販売台数は1994年5月の時点で38万台と推測されており、これは当時の日本におけるメガドライブユーザーの11%にあたる。
北米版メガCDであるSega CD(SCD)は1992年1月にシカゴで開催されたCESで発表された。同年11月と告知していた発売予定を繰り上げ、10月15日に発売された。メガCDではバックが雲の画像だった起動BIOS画面は、北米版Sega CDでは地球を背景とした宇宙空間画像に変更された。BGMも改められた。なお、SegaCDとSegaCDmodel2(日本のメガCD2に相当)でもBGMが異なる。
デザインは日本版とほぼ同一。日本のメガCDソフトは北米版セガCDでは起動しない。ただし日本版BIOS-ROMを装着すると日本版のメガCDソフトが動作する。
北米ではSEGA CD本体自体、やや高めの価格で設定されていたため、SEGA GENESIS本体程の売上は見せていないものの、最大のライバルであった任天堂はソニーと共同で開発していた「スーパーファミコン(日本国外ではSNES)」用CD-ROMドライブ(ソニーはスーパーファミコンとCD-ROMの一体型ゲーム機を「Playstation」として発売する計画であった。)の発売を中止、NECの「TurboDuo」やPhilipsの「CD-i」がほとんど普及しなかった事もあって、海外ではSEGA CDが事実上CD-ROMドライブユニットとしては一番手の売れ行きを見せた。
ヨーロッパでは日本と同様にMega-CDという名称にて1993年4月19日に発売された。既にメガCD2の登場後という時期に発売開始されたため、スペインなどでは最初からMega-CDではなくMega-CD 2が発売された。
欧州市場でも北米市場のSEGA CDと同様、本体自体がやや高価格で販売されていたため、多少売れあぐんでいたものの、北米市場と同様、CD-ROMドライブユニットとして高いシェアを獲得している。
ブラジルでは北米のSegaCDmodel2が北米と同じようにSega CDの名称で発売された。なお、ブラジル版メガドライブ本体は北米版のGenesisではなく日本や欧州と同じMega Driveの名称だったため、しばしば非公式にMega-CDの名称でも呼ばれる。製造販売はTectoy。
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メガCD(メガシーディー、MEGA-CD)は、セガ・エンタープライゼスが発売したメガドライブ用の周辺機器。日本では1991年12月12日発売。価格は49,800円。 当時の家庭用ゲーム機としては最先端のゲーム制作環境を見越した作りになっており、当時画期的とも言えるフルCGやフルビデオムービーを多用する次世代ゲームへの方向性を示した。
|
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{{画像提供依頼|
# 日本版メガドライブ2+日本版メガCD2
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{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = メガCD
|ロゴ = [[File:MEGA-CD logo.png|170px]]
|画像 = [[File:SEGA_MEGA_DRIVE_&_MEGA-CD.png|250px]]
|画像コメント = メガCD
|メーカー = [[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス]]
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|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1991年]][[12月12日]]<br />{{flagicon|USA}} [[1992年]][[10月15日]]<br />{{flagicon|EU}} [[1993年]][[4月19日]]<br />{{flagicon|AUS}} [[1993年]][[4月19日]]
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|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 38万台<ref name="名前なし-1">"MEGA". Future Publishing. August 1994. p. 24.</ref><br/>[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 600万台<ref>{{cite web |url=http://www.gamepro.com/gamepro/domestic/games/features/111822.shtml |title=The 10 Worst-Selling Consoles of All Time |accessdate=2007-11-25 |author=Blake Snow |publisher=[[GamePro]].com |date=2007-05-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070508014611/http://www.gamepro.com/gamepro/domestic/games/features/111822.shtml |archivedate=2007年5月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[シルフィード (ゲーム)|シルフィード]] /15万本<br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] [[ソニック・ザ・ヘッジホッグCD]] /150万本
|互換ハード = {{Flagicon|JPN}}{{flagicon|USA}} [[ワンダーメガ]](北米では「X-EYE」)<br />{{flagicon|USA}}{{flagicon|EU}} [[マルチメガ]](GENESIS CDX)<br />{{Flagicon|JPN}}{{flagicon|USA}} [[レーザーアクティブ]]
|前世代ハード =
|次世代ハード =
}}
'''メガCD'''(メガシーディー、''MEGA-CD'')は、セガ・エンタープライゼス(現:[[セガ]])が発売した[[メガドライブ]]用の[[周辺機器]]。日本では[[1991年]][[12月12日]]発売<ref name=Hard>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/mega-cd/index.html |title=メガCD |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2022-10-03}}</ref>。価格は49,800円。
当時の家庭用ゲーム機としては最先端のゲーム制作環境を見越した作りになっており、当時画期的とも言えるフルCGやフルビデオムービーを多用する次世代ゲームへの方向性を示した。
== ハードウェア ==
メガCDをメガドライブに接続することで、メガCD用ゲームをプレイできるほか、[[オーディオCD]]および[[CD+G]]規格のCDを再生することが出来る{{R|Hard}}。
メガドライブ本体側面の拡張用スロットを使用して、メガドライブ本体の下に接続する。初期型のメガCDの[[CD-ROM]]ドライブは電動で開閉する[[リムーバブルメディア#メディアの装填|トレイ式(フロントローディング式)]]で、後期型のメガCD2では手動で開閉するトップオープン式に改められた。メガCD・メガCD2はどちらもメガドライブ・メガドライブ2の両方の本体に接続可能。海外市場でリリースされているメガドライブ3(Genesis3)以降には接続できない。
本体内に大容量の6メガバッファRAMや[[スーパーファミコン]]を上回る2軸回転も可能な拡大縮小処理機能を装備{{疑問点|date=2020年3月|title=ソフトウェア処理では?}}。また、メガドライブよりも高速な68000CPUを搭載して、メガドライブと並列処理をさせることで、データと表示の同時処理を実現した。
[[日本電気ホームエレクトロニクス|NEC HE]]の[[PCエンジン]] [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]が採用していた[[CLV]]方式とは違って、[[フロッピーディスク]]や[[ハードディスク]]などパソコン用記憶装置でも使われていた[[CAV]]方式を採用していた<ref>[[太田出版]] CONTINUE 『メガドライブ大全』 Special Interview Vol.3 [[ゲームアーツ]]社長宮路洋一氏、p285参照</ref>{{疑問点|date=2020年4月|title=CD-ROMとロゴが付く以上記録方式はCLV。ドライブが等速である以上CAV的な読み取りも出来ない。元記事が明らかに間違っている}}。内周と外周のトラックで回転速度を変えて制御するランダムアクセス{{疑問点|date=2020年4月|title=内周と外周で回転速度を変えるのはCLVの特徴。CAVでは速度は変わらない}}とエラー補正機能を備えた。ただしCAVのCD-ROMはイエローブックの規格外となる。
=== 仕様 ===
* CPU : [[MC68000|MC68HC000]](12.5MHz)
* [[Random Access Memory|RAM]]
** プログラム、データ用 : 6Mbit
** PCM音源用 : 512Kbit
** CD-ROMデータ[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]] : 128Kbit
** バックアップメモリ : 64Kbit
* [[Read Only Memory|ROM]] 1Mbit([[Basic Input/Output System|BIOS]]、CD-G対応CDプレーヤー)
* サウンド : [[PCM音源]] ステレオ8ch(メガドライブ本体の[[FM音源]]6音、[[PSG]]3音、ノイズ1音を加えると18音)
* 電源 : ACアダプターとメガドライブより供給
== バリエーション ==
{{See also|メガドライブのバリエーション#メガドライブの派生ハード}}
=== 日本 ===
[[画像:Console-wondermega.jpg|thumb|250px|ワンダーメガ]]
[[File:MegaCDII.png|thumb|250px|メガドライブ2とメガCD2]]
[[画像:Victor-WonderMega-RG-M2-Console-Set.jpg|thumb|250px|ワンダーメガM2]]
; ワンダーメガ(RG-M1)<ref name=Devices>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/mega-cd/devices.html |title=関連・周辺機器 メガCD |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2022-10-03}}</ref>
: [[日本ビクター]]から[[1992年]][[4月1日]]に発売されたメガドライブ/メガCD一体型機。価格は82,800円で、メガドライブ+メガCDよりも高価だった。[[MIDI]]出力、[[S端子]]、音質向上を図った独自開発のDAP(デジタル・アコースティック・プロセッサー)や重低音再生のEX(エクストラ)バス・ポジションなどを装備しており、CDドライブの開閉は電動トップローディング方式を採用している。[[スーパー32X]]を接続する場合、ビクターにワンダーメガ本体のCDトレイ交換を有償で依頼する必要があった。
: 同年4月24日にセガからも「ワンダーメガS」として同一モデルの姉妹機が79,800円で登場し、発売当初はビクター製が家電販路ルートでセガ製は玩具販路ルートをとるなど共存する予定だったが、家庭用ゲーム機も取り扱う大手家電店や家電量販店などでは販売価格で競合したため、後にビクター製のみが販売を続ける事になった。なお、『[[フリッキー]]』など4つのゲームと4曲のカラオケが収録されたソフトウェア集『ワンダーメガコレクション』は日本ビクター製にしか付属していない。
: セガハード系統の中では唯一[[グッドデザイン賞]]を、発売同年に受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.g-mark.org/award/describe/19004 |title=テレビゲーム機 [VICTOR・WONDERMEGA(ワンダーメガ) RG-M1]|website=GOOD DESIGN AWRAD |publisher=日本デザイン振興会 |year=1992 |accessdate=2021-12-27}}</ref>。
; メガCD2{{R|Devices}}
: メガドライブ2の発売に合わせて[[1993年]][[4月23日]]に発売した[[廉価版]]。価格は29,800円で、CDドライブの開閉はコストダウンが図られて手動のトップオープン方式に改められた。メガドライブ2と組み合わせた際に収まりが良いサイズになっている。また、初代メガドライブとの組み合わせでも動作が可能であるが左側にスペースが出来る。これは付属の延長アタッチメントと金具の組み合わせで埋めることが可能。
; ワンダーメガM2(RG-M2)
: 日本ビクターから[[1993年]][[7月2日]]に発売されたワンダーメガの廉価版。価格は59,800円で、コストダウンが図られてMIDI端子などが省略された。CDドライブ開閉も電動式から手動式に変更された。ワイヤレス化された[[ゲームコントローラ|コントロールパッド]]が同梱されており、2人プレイ時はワイヤレスコントローラ下部に2P用端子があるため、デイジーチェーン方式での接続が可能。また、本体背面にもコントローラ接続端子が2つ装備されており、有線接続のコントローラーも使用可能。
; CSD-GM1
: [[アイワ]]から[[1994年]][[9月1日]]に発売されたメガドライブ/メガCD/CDラジカセ一体型機。価格は45,000円で、CDラジカセ部とラジカセ部底辺に装着されているメガドライブゲームユニットに分かれているため分離出来るのが特徴。電源供給はCDラジカセ部より行っているためメガドライブゲームユニット単体では動作しない。
; エデュケイションギア
: GENESIS CDXの国内版ハード。[[リンガフォン]]の英会話教材。英会話教材として出回ったため流通量は少ない。付属品にファイティングパッド6Bと専用ACアダプターとメガドライブ2用のステレオビデオケーブルが付属また、エディケイションギア用のカートリッジとしてメガドライブ版バーチャレーシングのカートリッジを流用したCD-ROMマルチセミナー音声解析・波形表示用カートリッジも存在する。
; PAC-S1
: [[パイオニア]]・[[レーザーアクティブ]]用アドオン。
=== 北米版 ===
[[File:Sega-CD-Model2-Set.png|thumb|250px|Genesis 2とSega CD model 2]]
[[File:Sega-CD-Base-Mk2-Bare-Front.jpg|thumb|250px|Sega CD model 2]]
; Sega CD
:
; Sega CD model2
: ジェネシス2(北米版メガドライブ2)発売に合せて登場した[[廉価版]]。先行発売された日本版メガCD2と同一ハードウェアでCD-ROMドライブはトップオープン式に改められている。なお、初代ジェネシスとの組み合わせでも動作が可能である。初代Sega CDと同じくSega CDの名称で販売された。
; X'EYE
: JVC(発売当時の日本ビクターの海外ブランド名)から発売されたジェネシス セガCDの一体型互換機。日本のワンダーメガM2に相当(北米では初代ワンダーメガに相当するハードの販売はなかった)。日本版との違いはコントロールパッドが3ボタンで有線(JVCのロゴ入り)そのためワンダーメガM2の前面にある受信機がパッドの接続端子に変更、起動画面のWがXに変更、また前期型はS端子が備え付けてある。他にもジェネシスモデル2と同じA/V出力端子とワンダーメガM2にはないX'EYE専用RFユニットとの接続端子が加えられ、A/V出力端子が加えられた影響かワンダーメガM2にあったA/Vマルチ端子が廃止になっている。ワンダーメガM2と同じくJVCがGENESIS32Xの対応改造を行うサポートがあった。
; GENESIS CDX
: ジェネシス(北米版メガドライブ)/SEGA CD一体型機。付属ソフトは『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグCD]](北米版)』、『エコー・ザ・ドルフィンCD』、『[[セガクラシック アーケードコレクション]] (北米版)』の3本。GENESIS32X開発当初は合体への対応が予定されていたが、GENESIS32X発売直前に対応しないことが発表された。これにより、GENESIS32Xの取扱説明書にはGENESIS CDXへの接続の仕方とその際のスペーサーが記述されていたが、一方でGENESIS32Xに付属する別紙にGENESIS CDXとの接続はしないことが記述されている。実際には、GENESIS CDXにGENESIS32Xを接続し遊ぶこと自体は可能であるものの、その際にGENESIS32X本体が安定せずぐらつく状態になる。
=== 欧州版 ===
[[画像:Sega Multi Mega.jpg|thumb|250px|マルチメガ]]
; Mega-CD
:
; Mega-CD2
: メガドライブ2発売に合せて登場した[[廉価版]]。先行発売された日本版メガCD2と同一ハードウェアでCD-ROMドライブはトップオープン式に改められている。なお、初代メガドライブとの組み合わせでも動作が可能である。
; Multi-Mega
: 北米のGENESIS CDXの欧州版ハード。メガドライブ/メガCD一体型機。
== 周辺機器 ==
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! style="width:5.5em | 型番 !! width=25% | 名称 !! 備考
|-
|HAA-2910
| メガCD
|
|-
|HAA-2912
| メガCD2
|
|-
|HAA-2931
| メガCDカラオケ{{R|Devices}}
| メガCD及びメガCD2を接続したメガドライブ、メガドライブ2と併用することで、家庭用のテレビで手軽にカラオケを楽しめる周辺機器。
|-
|HAA-2932
| カラオケマイク
|
|-
| G-2920
| バックアップ RAMカートリッジ{{R|Devices}}
| メガドライブのカートリッジスロットを使用し、メガCDの各種セーブデータを保存・管理する補助記憶装置。<br />記憶容量はメガCD内蔵バックアップRAMの約16倍に相当する2045ブロック1Mビット (128KB)。
|-
|SA-160
| ACアダプタ
| メガドライブ1、メガCD1、メガCD2、メガCDカラオケ用
|-
|SA-170
| ACアダプタ
| ワンダーメガ用
|-
|}
== ソフトウェア ==
{{Main|メガCDのゲームタイトル一覧}}
主なタイトルとして、背景動画の上にワイヤーフレームで破壊可能なオブジェクトを表示させた『[[スターブレード]]』、当たり判定がある毎秒15コマの全編背景動画の上でリアルタイムポリゴンキャラクターを動かすCPU並列動作という手法をとった『[[シルフィード (ゲーム)|シルフィード]]』のほか、海外ソフトでも、再生と静止による動画処理で背景を任意スクロールさせる事が出来る『{{仮リンク|Bram Stoker's Dracula|en|Bram Stoker's Dracula (video game)}}』や、時間軸で同時進行する複数の実写ムービーを切り替えるといった動画再生のインタラクティブ性を大幅に向上させた『[[ナイトトラップ]]』などが発売された。
== 展開 ==
=== 日本 ===
日本で内々に開発されたメガCDは、1991年6月に開催された[[東京おもちゃショー]]'91にて初めて公表され、同年12月に発売となった。日本市場における販売台数は1994年5月の時点で38万台と推測されており、これは当時の日本におけるメガドライブユーザーの11%にあたる<ref name="名前なし-1" />。
=== 北米 ===
[[File:Sega-CD-Model1-Set.jpg|thumb|250px|GenesisとSega CD]]
[[File:Sega-Genesis-CD-Model-1-Bare.jpg|thumb|250px|Sega CD]]
北米版メガCDである'''Sega CD'''(SCD)は1992年1月にシカゴで開催された[[CES]]で発表された。同年11月と告知していた発売予定を繰り上げ、[[10月15日]]に発売された。メガCDではバックが雲の画像だった起動BIOS画面は、北米版Sega CDでは地球を背景とした宇宙空間画像に変更された。BGMも改められた。なお、SegaCDとSegaCDmodel2(日本のメガCD2に相当)でもBGMが異なる。
デザインは日本版とほぼ同一。日本のメガCDソフトは北米版セガCDでは起動しない。ただし日本版BIOS-ROMを装着すると日本版のメガCDソフトが動作する。
北米ではSEGA CD本体自体、やや高めの価格で設定されていたため、SEGA GENESIS本体程の売上は見せていないものの、最大のライバルであった任天堂はソニーと共同で開発していた「[[スーパーファミコン]](日本国外では[[Super Nintendo Entertainment System|SNES]])」用CD-ROMドライブ(ソニーはスーパーファミコンとCD-ROMの一体型ゲーム機を「[[PlayStation_(ゲーム機)#開発の経緯|Playstation]]」として発売する計画であった。)の発売を中止、NECの「[[PCエンジンDuo|TurboDuo]]」や[[Philips]]の「[[CD-i]]」がほとんど普及しなかった事もあって、海外ではSEGA CDが事実上CD-ROMドライブユニットとしては一番手の売れ行きを見せた。
=== 欧州 ===
ヨーロッパでは日本と同様に'''Mega-CD'''という名称にて1993年4月19日に発売された。既にメガCD2の登場後という時期に発売開始されたため、スペインなどでは最初からMega-CDではなくMega-CD 2が発売された。
欧州市場でも北米市場のSEGA CDと同様、本体自体がやや高価格で販売されていたため、多少売れあぐんでいたものの、北米市場と同様、CD-ROMドライブユニットとして高いシェアを獲得している。
=== ブラジル ===
ブラジルでは北米のSegaCDmodel2が北米と同じように'''Sega CD'''の名称で発売された。なお、ブラジル版メガドライブ本体は北米版のGenesisではなく日本や欧州と同じMega Driveの名称だったため、しばしば非公式にMega-CDの名称でも呼ばれる。製造販売は[[Tectoy]]。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
{{デフォルトソート:めかCD}}
[[Category:メガドライブ]]
[[Category:コンピュータゲームの周辺機器]]
[[Category:1991年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:1990年代の玩具]]
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2003-06-30T07:36:52Z
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2023-11-24T22:21:09Z
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自然対数
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実解析において実数の自然対数(しぜんたいすう、英: natural logarithm)は、超越数であるネイピア数 e (≈ 2.718281828459) を底とする対数を言う。x の自然対数を ln x や、より一般に loge x あるいは単に(底を省略して)log x などと書く。 通常の函数の記法に則って引数を指示する丸括弧を明示的に付けて、ln(x) や log(x) などのように書いてもよい。
定義により、x の自然対数とは 冪 e が x 自身に一致するような冪指数 t のことに他ならない。例えば、ln(7.5) = 2.0149... となることは、e = 7.5 となることを理由とする。特に e の自然対数は ln(e) = 1, (⇔ e = e) であり、1 の自然対数は ln(1) = 0 (⇔ e = 1) である。
自然対数は、任意の正数 a に対して 逆数函数 y = 1/x の 1 から a までの間のグラフの下にある面積(a < 1 のときは面積にマイナス記号をつけた値)として定義することもできる。この定義の単純さは自然対数を含む多くの公式によく馴染むことから、「自然」の語が冠されているのである。自然対数のこの定義は、負数や任意の非零複素数に対しても拡張することができる(ただし、それは多価函数を導く。複素対数函数の項を参照)。
実変数実数値の函数と見た自然対数函数 log は自然指数函数 exp の逆函数であり、それは二つの恒等式 exp(log(x)) = x (x > 0) と log(exp(x)) = x の成立を意味する。
他の任意の対数がそうであるように、自然対数は
なる意味で乗法を加法へ写す。これにより自然対数函数は正の実数の乗法群 (R+, ×) から実数の加法群 (R, +) への写像 log: R+ → R として 群の準同型になる。
e 以外にも、任意の正数 a ≠ 1 に対して、それを底とする対数を定義することができるが、そのような対数は自然対数の定数倍として得ることができる(例えば二進対数は自然対数の 1/ln 2 倍である)し、通常はそうして自然対数から定義される。対数は未知の量がほかの適当な量の冪と見なされる問題を解く際に有用で、例えば指数函数的減衰問題における減衰定数としての半減期を求めるときなどに利用できる。このように対数は、数学や自然科学の多くの分野において重要であり、また金融経済において複利を含む問題にも利用できる。
リンデマン–ヴァイアシュトラスの定理により、1 でない任意の(正の)代数的数に対してその自然対数は超越数となる。
自然対数の概念が表立って現れるのは、1649年より以前にグレゴワール・ド・サン゠ヴァンサン(英語版)とアルフォンス・アントニオ・ド・サラサ(英語版)によるの成した業績においてであり、その中には双曲的扇形(英語版) の面積を決定することによる直交双曲線 xy = 1 の求積が含まれている。それら解法は、こんにち自然対数に結び付けられる性質を満足する「双曲対数」函数の必要から生じたものである。
自然対数への初期の言及はニコラス・メルカトルが1668年に著わした自身の著書 Logarithmotechnia(「対数の方法」) にあるが、既に1619年には数学教師のジョン・スパイデル(英語版)が事実上の自然対数表を編纂している
記法 "ln x" および "loge x" は何れも紛れなく x の自然対数を表しているが、底を明示しない記法 "log x" もまた自然対数を表すのに用いられることがある。このような記号の使い方は数学では広く用いられ、一部の自然科学の文脈やさまざまなプログラミング言語でも用いられる。ただし、別の文脈では "log x" が常用対数(底 10 の対数)を表すのに用いられる。
直観的には、常用の記数法が底 10 の位取りであるため、10を底とする「常用対数」がよほど「自然」に感じられるかもしれない。だが、数学的に見れば10は何ら著しい特徴を持つ数ではなく、10 を用いるのは文化的な理由(典型的には両手の指の数が10本あること)からだ。文化的な理由ではほかにも 5, 8, 12, 20, 60 などに基づく命数法がしばしば用いられる。
自然対数 loge が「自然」であるというのは、数学において自然に生じ、よく見かけるということを根拠とするものである。例えば対数函数の微分の問題
を考えるとき、底 b が e に等しいならば、この導函数は単に 1/x となり、x = 1 における微分係数は 1 に等しくなる。
別な意味で底 e の対数が最も自然と思わせる理由として、単純な積分やテイラー級数でそれが極めて容易に定義できること(それは他の対数ではできない)が挙げられる。この自然さの更なる意味は、微分積分学の中では見えてこないが、例えば自然対数を含む単純な級数が様々存在することによって知ることができる。ピエトロ・メンゴリ(英語版)とニコラス・メルカトルがそれを「自然対数」(羅: logarithmus naturalis) と呼んだのは、ニュートンとライプニッツが微分積分学を繰り広げるよりも、何十年か先んじる。
自然対数 ln は直交双曲線 1/x の面積として定義される。それは具体的には定積分として
と定めるということである。この函数は対数の基本性質 ln(ab) = ln(a) + ln(b) を満足するという意味において対数である。定数 e は ln(a) = 1 を満足する正数 a として定義される。
自然指数函数が先に(具体的には無限級数として)定義されている場合には、自然対数を自然指数函数の逆函数として定義することもできる。すなわち ln は exp(ln(x)) = x を満足する函数である。実数全体で定義された自然指数函数の値域は正数全体の集合に一致し、また自然指数函数は狭義単調増大(ゆえに一対一)であるから、ln はこの方法で任意の正数 x に対して矛盾なく定まる。
0 でない複素数 z を極座標表示して
と書けたとする。対数関数は指数関数の逆関数なので
ということになる(ln z と書くことはあまりない)が、この θ の選び方は一通りではなく 、2π の整数倍だけ異なる値を選ぶことができる。したがって、複素数の対数関数は多価正則関数である。
定義域を制限することによって、その定義域の上では正則な一価関数となるように θ の選び方を定めることができる。定義域は 0 を含まない単連結領域ならどれでもよいが、よく使われるのは複素平面から 0 と負の実数を除いた領域であり、変数の偏角を −π < θ < π の範囲にとる。このとき、r e ↦ ln r + iθ によって正則な一価関数が得られる。この関数を対数関数の主値と呼び、
と書く(Ln z と書くことはあまりない)。
複素対数関数は、実数での対数関数が満たす恒等式を満たすとは限らないので注意が必要である。例えば、Log e = z や Log (zw) = Log z + Log w は一般には成り立たない。
|x| < 1 を満たす x に対して、テイラー展開
が可能である。この級数展開も、1668年にメルカトルによって見出されたものである。
すべての固有値の絶対値が 1 より小さい正方行列 X が与えられたとき、このテイラー展開の変数に X を代入することにより、行列 I + X の対数 ln (I + X ) が定義される。ここで、I は X と同じサイズの単位行列である。これをさらに一般化して、和や積の構造と両立するノルムを持った完備な空間であるバナッハ環において、ノルムが 1 より小さい元 x に対し、上の式によって 1 + x の対数が定義できる。このとき、指数関数による ln (1+x ) の像は可逆元 1+x になっている。
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"text": "|x| < 1 を満たす x に対して、テイラー展開",
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"text": "が可能である。この級数展開も、1668年にメルカトルによって見出されたものである。",
"title": "一般化"
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"text": "すべての固有値の絶対値が 1 より小さい正方行列 X が与えられたとき、このテイラー展開の変数に X を代入することにより、行列 I + X の対数 ln (I + X ) が定義される。ここで、I は X と同じサイズの単位行列である。これをさらに一般化して、和や積の構造と両立するノルムを持った完備な空間であるバナッハ環において、ノルムが 1 より小さい元 x に対し、上の式によって 1 + x の対数が定義できる。このとき、指数関数による ln (1+x ) の像は可逆元 1+x になっている。",
"title": "一般化"
}
] |
実解析において実数の自然対数は、超越数であるネイピア数 e を底とする対数を言う。x の自然対数を ln x や、より一般に loge x あるいは単に(底を省略して)log x などと書く。 通常の函数の記法に則って引数を指示する丸括弧を明示的に付けて、ln(x) や log(x) などのように書いてもよい。 定義により、x の自然対数とは 冪 et が x 自身に一致するような冪指数 t のことに他ならない。例えば、ln(7.5) = 2.0149… となることは、e2.0149… = 7.5 となることを理由とする。特に e の自然対数は ln(e) = 1, であり、1 の自然対数は ln(1) = 0 である。 自然対数は、任意の正数 a に対して 逆数函数 y = 1/x の 1 から a までの間のグラフの下にある面積として定義することもできる。この定義の単純さは自然対数を含む多くの公式によく馴染むことから、「自然」の語が冠されているのである。自然対数のこの定義は、負数や任意の非零複素数に対しても拡張することができる(ただし、それは多価函数を導く。複素対数函数の項を参照)。 実変数実数値の函数と見た自然対数函数 log は自然指数函数 exp の逆函数であり、それは二つの恒等式 exp(log) = x と log(exp) = x の成立を意味する。 他の任意の対数がそうであるように、自然対数は なる意味で乗法を加法へ写す。これにより自然対数函数は正の実数の乗法群 から実数の加法群 への写像 log: R+ → R として
群の準同型になる。 e 以外にも、任意の正数 a ≠ 1 に対して、それを底とする対数を定義することができるが、そのような対数は自然対数の定数倍として得ることができるし、通常はそうして自然対数から定義される。対数は未知の量がほかの適当な量の冪と見なされる問題を解く際に有用で、例えば指数函数的減衰問題における減衰定数としての半減期を求めるときなどに利用できる。このように対数は、数学や自然科学の多くの分野において重要であり、また金融経済において複利を含む問題にも利用できる。 リンデマン–ヴァイアシュトラスの定理により、1 でない任意の(正の)代数的数に対してその自然対数は超越数となる。
|
{{出典の明記|date=2015年9月}}
[[File:Log.svg|thumb|right|自然対数函数のグラフ: この函数は {{mvar|x}} の増加に伴って緩やかに正の無限大に発散し、{{mvar|x}} が {{math|0}} に近づくにともなって緩やかに負の無限大へ発散する(つまり {{mvar|y}}-軸はひとつの[[漸近線]]となる)。ここに、「緩やか」とは任意の[[冪乗則]]([[冪函数]]あるいは[[多項式函数]]の増大度)との比較においてそれらよりも弱いことを意味する。]]
[[実解析]]において[[実数]]の'''自然対数'''(しぜんたいすう、{{lang-en-short|''natural logarithm''}})は、[[超越数]]である[[ネイピア数]] {{math|''e'' (≈ {{val|2.718281828459}})}} を底とする[[対数]]を言う。{{mvar|x}} の自然対数を {{math|ln ''x''}} や、より一般に {{math|log{{sub|''e''}} ''x''}} あるいは単に(底を省略して){{math|log ''x''}} などと書く<ref>{{cite book |title= Mathematics for physical chemistry |edition= 3rd |first1= Robert G. |last1= Mortimer |publisher= Academic Press |year= 2005 |isbn= 0-12-508347-5}}—{{google books quote|id=nGoSv5tmATsC|page=9|text= see pp. 9–11}}</ref>。 通常の函数の記法に則って引数を指示する丸括弧を明示的に付けて、{{math|ln(''x'')}} や {{math|log(''x'')}} などのように書いてもよい{{efn|特に、引数が単一の記号でない場合など、括弧を省けば引数の範囲が紛らわしくなるときには、括弧の省略は避けるべきである。}}。
定義により、{{mvar|x}} の自然対数とは [[冪乗|冪]] {{mvar|e{{exp|t}}}} が {{mvar|x}} 自身に一致するような冪指数 {{math|t}} のことに他ならない。例えば、{{math|1=ln(7.5) = 2.0149…}} となることは、{{math|1=''e''{{sup|2.0149…}} = 7.5}} となることを理由とする。特に {{mvar|e}} の自然対数は {{math|1=ln(''e'') = 1, (⇔ {{math|1=''e''{{sup|1}} = ''e''}})}} であり、{{math|1}} の自然対数は {{math|1=ln(1) = 0 (⇔ {{math|1=''e''{{sup|0}} = 1}})}} である。
自然対数は、任意の[[実数|正数]] {{mvar|a}} に対して [[逆数|逆数函数]] {{math|1=''y'' = 1/''x''}} の {{math|1}} から {{math|a}} までの間の[[定積分|グラフの下にある面積]]({{math|''a'' < 1}} のときは面積にマイナス記号をつけた値)として定義することもできる。この定義の単純さは自然対数を含む多くの公式によく馴染むことから、「自然」の語が冠されているのである。自然対数のこの定義は、負数や任意の非零[[複素数]]に対しても拡張することができる(ただし、それは[[多価函数]]を導く。[[複素対数函数]]の項を参照)。
[[実函数|実変数実数値の函数]]と見た自然対数函数 {{math|log}} は[[指数函数|自然指数函数]] {{math|exp}} の[[逆函数]]であり、それは二つの恒等式 {{math|1=exp(log(''x'')) = ''x'' (''x'' > 0)}} と {{math|1=log(exp(''x'')) = ''x''}} の成立を意味する。
他の任意の対数がそうであるように、自然対数は
: <math> \ln(xy) = \ln(x) + \ln(y)</math>
なる意味で乗法を加法へ写す。これにより自然対数函数は[[正の実数]]の[[乗法群]] {{math|('''R'''{{sub|+}}, ×)}} から実数の[[加法群]] {{math|('''R''', +)}} への[[写像]] {{math|log: '''R'''{{sub|+}} → '''R'''}} として
[[群 (数学)|群]]の[[群準同型|準同型]]になる。
{{mvar|e}} 以外にも、任意の正数 {{math|''a'' ≠ 1}} に対して、それを底とする対数を定義することができるが、そのような対数は自然対数の定数倍として得ることができる(例えば[[二進対数]]は自然対数の {{math|1/[[2の自然対数|ln 2]]}} 倍である)し、通常はそうして自然対数から定義される。対数は未知の量がほかの適当な量の冪と見なされる問題を解く際に有用で、例えば[[指数函数的減衰]]問題における減衰定数としての[[半減期]]を求めるときなどに利用できる。このように対数は、数学や自然科学の多くの分野において重要であり、また金融経済において[[複利]]を含む問題にも利用できる。
[[リンデマンの定理|リンデマン–ヴァイアシュトラスの定理]]により、{{math|1}} でない任意の(正の)[[代数的数]]に対してその自然対数は[[超越数]]となる。
{| class=infobox width=200px
|colspan=2 align=center| 自然対数
|-
|'''表式''' ||<math>\ln x</math>
|-
|'''逆函数''' ||<math>e^x</math>
|-
|'''導函数''' ||<math>\frac{1}{x}</math>
|-
|'''原始函数''' ||<math>x\ln x - x + C</math>
|}
{{E (mathematical constant)}}
== 歴史 ==
{{Main|{{仮リンク|対数の歴史|en|History of logarithms}}}}
自然対数の概念が表立って現れるのは、1649年より以前に{{仮リンク|グレゴワール・ド・サン゠ヴァンサン|en|Gregoire de Saint-Vincent}}と{{仮リンク|アルフォンス・アントニオ・ド・サラサ|en|Alphonse Antonio de Sarasa}}による<ref>{{citation | first= R. P. | last= Burn |year= 2001 | title= Alphonse Antonio de Sarasa and Logarithms | journal= [[Historia Mathematica]] |volume= 28 |pages= 1–17}}</ref>の成した業績においてであり、その中には{{仮リンク|双曲的扇形|en|hyperbolic sector}} の面積を決定することによる[[双曲線|直交双曲線]] {{math|1=''xy'' = 1}} の[[求積法|求積]]が含まれている。それら解法は、こんにち自然対数に結び付けられる性質を満足する「双曲対数」函数の必要から生じたものである。
自然対数への初期の言及は[[ニコラス・メルカトル]]が1668年に著わした自身の著書 ''Logarithmotechnia''(「対数の方法」)<ref>{{cite web |author=J J O'Connor and E F Robertson |url=http://www-history.mcs.st-and.ac.uk/HistTopics/e.html |title=The number e |publisher=The MacTutor History of Mathematics archive |date=September 2001 |accessdate=2009-02-02}}</ref> にあるが、既に1619年には数学教師の{{仮リンク|ジョン・スパイデル|en|John Speidell}}が事実上の自然対数表を編纂している<ref>{{cite book |last=Cajori |first=Florian |authorlink=Florian Cajori |title=A History of Mathematics, 5th ed |pages=152 |publisher=AMS Bookstore |year=1991 |isbn=0-8218-2102-4 |url={{google books|id=mGJRjIC9fZgC|plainurl=1}}}}</ref>
== 記法の慣習 ==
記法 "{{math|ln ''x''}}" および "{{math|log{{sub|''e''}} ''x''}}" は何れも紛れなく {{mvar|x}} の自然対数を表しているが、底を明示しない記法 "{{math|log ''x''}}" もまた自然対数を表すのに用いられることがある。このような記号の使い方は数学では広く用いられ、一部の自然科学の文脈やさまざまな[[プログラミング言語]]{{efn|[[C (programming language)|C]], [[C++]], [[SAS System|SAS]], [[MATLAB]], [[Mathematica]], <!--[[Pascal programming language|Pascal]], -->[[Fortran]], and [[BASIC programming language|BASIC]] などが含まれる。}}でも用いられる。ただし、別の文脈では "{{math|log ''x''}}" が[[常用対数]](底 {{math|10}} の対数)を表すのに用いられる。
=== 符号位置 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13265|33D1|-|SQUARE LN}}
|}
== 「自然」の意味 ==
[[File:1 over x integral.svg|thumb|right|双曲線 {{math|''y'' {{=}} 1/''x''}} (赤) と {{math|1=''x'' = 1}} から {{math|6}} までの面積 (橙の網掛け): この面積の値は {{math|6}} の自然対数と等しい]]
直観的には、常用の記数法が[[十進法|底 {{math|10}} の位取り]]であるため、[[10]]を底とする「[[常用対数]]」がよほど「自然」に感じられるかもしれない。だが、数学的に見れば10は何ら著しい特徴を持つ数ではなく、10 を用いるのは文化的な理由(典型的には両手の指の数が10本あること)からだ<ref name="Boyer_1991">{{cite book | author1-first=Carl Benjamin | author1-last=Boyer | author1-link=Carl Benjamin Boyer | author2-first=Uta C. | author2-last=Merzbach | title=A History of Mathematics | edition=2 | date=1991-03-06 | orig-year=1968 | publisher=[[John Wiley & Sons]] | location=New York, USA | isbn=978-0471543978 | id=0471543977}}</ref>。文化的な理由ではほかにも [[五進法|5]], [[八進法|8]], [[十二進法|12]], [[二十進法|20]], [[六十進法|60]] などに基づく命数法がしばしば用いられる<ref>{{cite journal | last=Harris | first=John | title=Australian Aboriginal and Islander mathematics | journal=Australian Aboriginal Studies | volume=2 |pages=29–37 | year=1987 | url=http://www1.aiatsis.gov.au/exhibitions/e_access/serial/m0005975_v_a.pdf| accessdate=2008-02-12 | format=PDF}}</ref><ref>{{cite journal | last=Large| first=J.J. | title=The vigesimal system of enumeration | journal=Journal of the Polynesian Society| volume=11|issue=4 |pages=260–261 | year=1902 | url=http://www.jps.auckland.ac.nz/document/?wid=636 | accessdate=30 March 2011}}</ref><ref>{{cite journal | last=Cajori| first=Florian| authorlink = Florian Cajori | title=Sexagesimal fractions among the Babylonians | journal=American Mathematical Monthly| volume=29 |pages=8–10 | year=1922| doi=10.2307/2972914 | jstor=2972914 | issue=1 }}</ref>。
自然対数 {{math|log{{sub|''e''}}}} が「自然」であるというのは、数学において自然に生じ、よく見かけるということを根拠とするものである。例えば対数函数の[[微分]]の問題<ref>{{cite book | title= Calculus: An Applied Approach | edition= 8th | first1= Ron | last1= Larson | publisher= Cengage Learning | year= 2007 | isbn= 0-618-95825-8 | page= 331 | url= {{google books|id=rbDG7V0OV34C|plainurl=1}}}}, {{google books quote|id=rbDG7V0OV34C|page=331|text= p. 331, §4.5}}</ref><math display="block">\frac{d}{dx}\log_b(x) = \frac{d}{dx} \left( \frac{\ln(x)}{\ln(b)} \right) = \frac{1}{\ln(b)} \cdot \frac{d}{dx}[\ln(x)] = \frac{1}{x\ln(b)}</math> を考えるとき、底 {{mvar|b}} が {{mvar|e}} に等しいならば、この導函数は単に {{math|1/''x''}} となり、{{math|1=''x'' = 1}} における微分係数は {{math|1}} に等しくなる。
別な意味で底 {{mvar|e}} の対数が最も自然と思わせる理由として、単純な積分や[[テイラー級数]]でそれが極めて容易に定義できること(それは他の対数ではできない)が挙げられる。この自然さの更なる意味は、[[微分積分学]]の中では見えてこないが、例えば自然対数を含む単純な級数が様々存在することによって知ることができる。{{仮リンク|ピエトロ・メンゴリ|en|Pietro Mengoli}}と[[ニコラス・メルカトル]]がそれを「自然対数」({{lang-la-short|''logarithmus naturalis''}}) と呼んだのは、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]と[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]が微分積分学を繰り広げるよりも、何十年か先んじる<ref>{{cite web | last=Ballew | first=Pat | title=Math Words, and Some Other Words, of Interest | url=http://www.pballew.net/arithme1.html#ln | accessdate=2007-09-16}}</ref>。
== 定義 ==
[[File:Log-pole-x 1.svg|thumb|right|{{math|ln(''a'')}} は曲線 {{math|1=''f''(''x'') = 1/''x''}} の {{math|1}} から {{mvar|a}} までの面積で視覚化できる。{{math|''a'' < 1}} では {{mvar|a}} から {{math|1}} までの面積を負で勘定する。]]
[[File:Log.gif|thumb|right|この双曲線の下にある面積は対数法則を満足する。ここでは {{math|''A''(''s'', ''t'')}} は {{mvar|s}} と {{mvar|t}} の間の双曲線下の面積を表している。]]
自然対数 {{math|ln}} は[[直交双曲線]] {{math|1/''x''}} の面積として定義される。それは具体的には[[定積分]]として
: <math>\ln(a) := \int_1^a \frac{1}{x}\,dx</math>
と定めるということである。この函数は対数の基本性質 {{math|1=ln(''ab'') = ln(''a'') + ln(''b'')}} を満足するという意味において対数である。定数 [[ネイピア数|{{mvar|e}}]] は {{math|1=ln(''a'') = 1}} を満足する正数 {{mvar|a}} として定義される。
[[指数函数|自然指数函数]]が先に(具体的には[[無限級数]]として)定義されている場合には、自然対数を自然指数函数の逆函数として定義することもできる。すなわち {{math|ln}} は {{math|1=exp(ln(''x'')) = ''x''}} を満足する函数である。実数全体で定義された自然指数函数の[[値域]]は正数全体の集合に一致し、また自然指数函数は[[単調函数|狭義単調増大]](ゆえに[[単射|一対一]])であるから、{{math|ln}} はこの方法で任意の正数 {{mvar|x}} に対して[[well-defined |矛盾なく定まる]]。
{{clr}}
== 一般化 ==
=== 複素数の対数 ===
{{main|複素対数函数}}
{{math|0}} でない複素数 {{mvar|z}} を極座標表示して
:{{math|1=''z'' = ''r'' e<sup>i''θ''</sup>}}
と書けたとする。対数関数は指数関数の逆関数なので
:{{math|1=log ''z'' = ln ''r'' + i''θ''}}
ということになる({{math|1=ln ''z''}} と書くことはあまりない)が、この {{mvar|θ}} の選び方は一通りではなく 、{{math|1=2π}} の整数倍だけ異なる値を選ぶことができる。したがって、複素数の対数関数は多価正則関数である。
定義域を制限することによって、その定義域の上では正則な一価関数となるように {{mvar|θ}} の選び方を定めることができる。定義域は 0 を含まない[[単連結空間|単連結]]領域ならどれでもよいが、よく使われるのは複素平面から 0 と負の実数を除いた領域であり、変数の偏角を {{math|1=−π < ''θ'' < π}} の範囲にとる。このとき、{{math|1=''r'' e<sup>i''θ''</sup> ↦ ln ''r'' + i''θ''}} によって正則な一価関数が得られる。この関数を対数関数の[[主値]]と呼び、
:{{math|1=Log ''z''}}
と書く({{math|1=Ln ''z''}} と書くことはあまりない)。
複素対数関数は、実数での対数関数が満たす恒等式を満たすとは限らないので注意が必要である。例えば、{{math|1=Log e<sup>''z''</sup> = ''z''}} や {{math|1=Log (''zw'') = Log ''z'' + Log ''w''}} は一般には成り立たない。{{efn|これらの数値例を挙げる。{{math|1=e<sup>2πi</sup> = 1}} となるので、{{math|1=Log e<sup>2πi</sup> = 0 ≠ 2πi}} である。また、{{math|1=''z'' = ''w'' = e<sup>(2/3)πi</sup>}} を例にとると、{{math|1=Log (''zw'') = −(2/3)πi}} なのに対して、{{math|1=Log ''z'' + Log ''w'' = (4/3)πi}} となる。}}
<gallery caption="複素平面上での対数関数の主値">
Image:NaturalLogarithmRe.png| {{math|1=''z'' = Re Log (''x'' +i''y'')}}
Image:NaturalLogarithmImAbs.png| {{math|1=''z'' = | Im Log (''x'' +i''y'') |}}
Image:NaturalLogarithmAbs.png| {{math|1=''z'' = | Log (''x'' +i''y'') |}}
Image:NaturalLogarithmAll.png| これらを重ね合わせた図
</gallery>
=== バナッハ環における対数関数 ===
{{main|行列の対数函数}}
{{math|1=|''x''| < 1}} を満たす {{mvar|x}} に対して、[[テイラー展開]]
:<math>\ln(1+x) = \sum_{n=1}^{\infin} (-1)^{n+1}\,{x^n \over n}=x-{x^2 \over 2}+{x^3 \over 3}-{x^4 \over 4}+\cdots</math>
が可能である。この級数展開も、1668年にメルカトルによって見出されたものである。
すべての固有値の絶対値が 1 より小さい[[正方行列]] {{mvar|X}} が与えられたとき、このテイラー展開の変数に {{mvar|X}} を代入することにより、行列 {{math|1=''I'' + ''X''}} の対数 {{math|1=ln (''I'' + ''X'' )}} が定義される。ここで、{{mvar|I}} は {{mvar|X}} と同じサイズの[[単位行列]]である。これをさらに一般化して、和や積の構造と両立する[[ノルム]]を持った完備な空間である[[バナッハ環]]において、ノルムが 1 より小さい元 {{mvar|x}} に対し、上の式によって {{math|1=1 + ''x''}} の対数が定義できる。このとき、指数関数による {{math|1=ln (1+''x'' )}} の像は可逆元 {{math|1=1+''x''}} になっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{div col}}
* [[常用対数]]
* [[二進対数]]
* [[オイラーの定数]]
* [[2の自然対数]]
* [[ジョン・ネイピア]]
* [[対数積分]]
* [[多重対数函数]]
* [[フォン・マンゴルト関数]]
{{div col end}}
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
* {{nlab|id=logarithm}}
* {{MathWorld|urlname=NaturalLogarithm|title=Natural Logarithim}}
* {{PlanetMath|urlname=naturallogarithm|title=natural logarithim}}
* {{SpringerEOM|urlname=Logarithm_of_a_number|title=Logarithm of a number}}
* {{SpringerEOM|urlname=Logarithmic_function|title=Logarithmic function}}
{{DEFAULTSORT:しせんたいすう}}
[[Category:初等解析学]]
[[Category:初等関数]]
[[Category:ネイピア数]]
[[Category:対数]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2022-07-05T13:03:33Z
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練習曲
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練習曲(れんしゅうきょく)とは、楽器や歌の演奏技巧を修得するための楽曲。フランス語風にエチュード(Étude、「学習」の意:英語のstudyに当たる)ともいう。技巧の習得のためだけでなく、音楽作品として充実した内容を持つものもある。
通例、曲により修得すべき演奏技巧が特定されており、その技巧を曲の中で繰り返し要求し、その技巧の修得を目指す。前者に挙げられているものは文字通りの「練習曲」であり、演奏技巧の学習を目的とした、教育用の練習曲である。
「文字通りの練習曲」には大きく分けて2つの種類があり、そのひとつが、ハノンやブラームスのピアノ練習曲に代表される、機械的な練習を主な目的とした練習曲である。これらの曲は、単純な音形を反復練習することにより機械的な演奏能力を向上させることを目指している。これらの練習曲はもっぱら技術的な面のみに関心が向けられるのが常であり、演奏会で鑑賞できるような音楽的内容は持っていない(これらを演奏会で演奏するような演奏家が存在しないわけではないが、そのような試みがなされる機会はごく限られている)。
もう一種が、単純な音形の反復が中心となりながらも、ある程度音楽的内容を持つ曲である。これにはツェルニーのピアノ練習曲などが挙げられる。これらのものは、ときに後述の演奏会用練習曲と厳密な区別が不可能な場合もある。
演奏会で演奏、鑑賞できるような充実した音楽的内容をもつものは「演奏会用練習曲」とも呼ばれる。このようなものの代表として、ショパンの練習曲 作品10、作品25やリストの超絶技巧練習曲などが知られている。
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練習曲(れんしゅうきょく)とは、楽器や歌の演奏技巧を修得するための楽曲。フランス語風にエチュードともいう。技巧の習得のためだけでなく、音楽作品として充実した内容を持つものもある。
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{{Otheruses||2007年の台湾映画|練習曲 (映画)}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''練習曲'''(れんしゅうきょく)とは、楽器や歌の演奏技巧を修得するための楽曲<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E7%B7%B4%E7%BF%92%E6%9B%B2-152133#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説] - [[コトバンク]]</ref>。[[フランス語]]風に'''エチュード'''(Étude、「学習」の意:英語のstudyに当たる)ともいう。技巧の習得のためだけでなく、音楽作品として充実した内容を持つものもある<ref name="nipponica"/>。
== 技巧修得のための練習曲 ==
通例、曲により修得すべき演奏技巧が特定されており、その技巧を曲の中で繰り返し要求し、その技巧の修得を目指す。前者に挙げられているものは文字通りの「練習曲」であり、演奏技巧の学習を目的とした、教育用の練習曲である。
「文字通りの練習曲」には大きく分けて2つの種類があり、そのひとつが、[[シャルル=ルイ・アノン|ハノン]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]のピアノ練習曲に代表される、機械的な練習を主な目的とした練習曲である。これらの曲は、単純な音形を反復練習することにより機械的な演奏能力を向上させることを目指している。これらの練習曲はもっぱら技術的な面のみに関心が向けられるのが常であり、演奏会で鑑賞できるような音楽的内容は持っていない(これらを演奏会で演奏するような演奏家が存在しないわけではないが、そのような試みがなされる機会はごく限られている)。
もう一種が、単純な音形の反復が中心となりながらも、ある程度音楽的内容を持つ曲である。これには[[カール・チェルニー|ツェルニー]]のピアノ練習曲などが挙げられる。これらのものは、ときに後述の演奏会用練習曲と厳密な区別が不可能な場合もある。
== 演奏会用練習曲 ==
演奏会で演奏、鑑賞できるような充実した音楽的内容をもつものは「演奏会用練習曲」とも呼ばれる。このようなものの代表として、ショパンの[[練習曲 (ショパン)|練習曲 作品10、作品25]]やリストの[[超絶技巧練習曲]]などが知られている。
== 主な作曲家と作品 ==
=== ピアノ ===
==== 技巧修得のための練習曲 ====
*[[カール・チェルニー|ツェルニー]]
**リトルピアニスト Op.823
**100番練習曲 Op.139 <small>(最も初歩的な練習曲であり、最初に学習する曲として広く使われている)</small>
**110番練習曲 Op.435
**30番練習曲(Etudes de Mecanisme) Op.849
**40番練習曲(Die Schule der Gelaeufigkeit) Op.299
**50番練習曲(Kunst der Fingerfertigkeit) Op.740(699)
**60番練習曲(Die Schule des Virtuosen) Op.365
**Practical Finger Exercises Op.802
**160番 Eight=bar Exercises Op.821
**24番練習曲(Vorschule der Fingerfertigkeit) Op.636
**左手のための24の練習曲(Etuden fur die Linke Hand) Op.718
**125 Passagen Ubungen Op.261
**毎日の練習曲(40 Taegliche Ubungen Op.337) など
*[[フェルディナント・バイエル|バイエル]] - ピアノ教則本 <small>(ツェルニー100番と同じように最初に学習する曲として広く使われている) </small>
*[[ヨハン・ブルグミュラー|ブルグミュラー]]
**25の練習曲 Op.100<small> (ツェルニー 100番を終えた後によく使われるものであり、小品としての芸術性も備えている)</small>
**18の練習曲 Op.109
**12の練習曲 Op.105
*[[シャルル=ルイ・アノン|ハノン]] - [[60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト|60の練習曲]]<small>(この練習曲集は、フィンガートレーニングを目的とした練習曲集である)</small>
*[[ヨセフ・ピシュナ|ピシュナ]]
**リトル・ピシュナ 48の基礎練習曲集(60の練習曲への導入)
**60の練習曲
*[[ムツィオ・クレメンティ|クレメンティ]] - [[グラドゥス・アド・パルナッスム]]
*[[イグナーツ・モシェレス|モシェレス]] - 24の練習曲 Op.70
*[[ヨハン・バプティスト・クラーマー|クラーマー]]=[[ハンス・フォン・ビューロー|ビューロー]] - 60の練習曲
*[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]] - 51の練習曲 [[WoO]].6
*[[モーリッツ・モシュコフスキ|モシュコフスキ]]
**15の練習曲 Op.72
**20の小練習曲 Op.91
**16の技術練習曲 Op.97
*[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]] - [[ミクロコスモス (バルトーク)|ミクロコスモス]]<small>(コンサート・レパートリーとなっている曲も含まれる)</small>
==== 演奏会用練習曲 ====
*[[フレデリック・ショパン|ショパン]] - [[練習曲 (ショパン)|練習曲集]] Op.10(12曲、『[[練習曲作品10-3 (ショパン)|別れの曲]]』、『黒鍵』、『[[練習曲作品10-12 (ショパン)|革命]]』 など)、Op.25(12曲、『[[練習曲作品25-1 (ショパン)|エオリアン・ハープ]]』、『[[練習曲作品25-11 (ショパン)|木枯らし]]』など)、3つの新練習曲
*[[ロベルト・シューマン|シューマン]] - [[交響的練習曲]] Op.13
*[[フランツ・リスト|リスト]] - [[超絶技巧練習曲]](12曲)、[[パガニーニによる大練習曲|パガニーニの主題による大練習曲]](初版は7曲、改訂版は6曲)、[[2つの演奏会用練習曲]]、[[3つの演奏会用練習曲]]
*[[シャルル=ヴァランタン・アルカン|アルカン]] - [[騎士 (アルカン)|騎士]] Op.17、[[鉄道 (アルカンの作品)|練習曲「鉄道」]] Op.27b、[[長調による12の練習曲]] Op.35、[[短調による12の練習曲]] Op.39、[[片手ずつと両手のための3つの大練習曲|3つの大練習曲]] Op.76
*[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]] - [[練習曲 (サン=サーンス)|練習曲集]] Op.52(6曲)、Op.111(6曲)、Op.135(6曲)<small>※作品135は左手のための練習曲</small>
*[[セルゲイ・リャプノフ|リャプノフ]] - [[超絶技巧練習曲#構成|超絶技巧練習曲]](12曲)
*[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]] - [[練習曲 (ドビュッシー)|練習曲集]](第1巻6曲、第2巻6曲)
*[[レオポルド・ゴドフスキー|ゴドフスキー]] - [[ショパンのエチュードによる練習曲]](53曲)
*[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]] - [[音の絵|練習曲集「音の絵」]] Op.33(9曲)、Op.39(9曲)
*[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]] - 練習曲集 Op.8(12曲)、Op.42(8曲)
*[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]] - 練習曲集 Op.4(4曲)、Op.33(12曲)
*[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]] - 練習曲集 Op.2(4曲)
*[[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ|ソラブジ]] - [[超絶技巧百番練習曲]](100曲)
*[[ジェルジ・リゲティ|リゲティ]] - 練習曲集第1巻(6曲)、同2巻(8曲)、同3巻(5曲)
*[[ニコライ・カプースチン|カプースチン]] - 8つの演奏会用練習曲
=== チェンバロ・クラヴィコード ===
*[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]
**[[インヴェンションとシンフォニア]](元々は自分の子供や弟子の教育のための曲集で、鍵盤楽器の技術習得だけでなく、作曲技法の修練も示唆されている)
**クラヴィーア練習曲集第1巻([[パルティータ (バッハ)|パルティータ]]BWV825-830が収録されている)
**クラヴィーア練習曲集第2巻([[イタリア協奏曲]]BWV971と[[フランス風序曲 (バッハ)|フランス風序曲]]BWV831が収録されている)
**クラヴィーア練習曲集第3巻(オルガンもしくは足鍵盤付き鍵盤楽器のための小曲が30曲程度収録されている)
**クラヴィーア練習曲集第4巻(2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏([[ゴルトベルク変奏曲]])BWV988が収録されている)
**[[平均律クラヴィーア曲集]] 第1巻、第2巻
=== ヴァイオリン ===
==== 技巧修得のための練習曲 ====
* [[ハインリヒ・エルンスト・カイザー|カイザー]] - [[練習曲 (カイザー)|練習曲]]Op.20(36曲)
* [[ロドルフ・クレゼール|クロイツェル]] - [[42の奇想曲もしくは練習曲]](42曲)
* [[ピエール・ロード|ローデ]] - 24の奇想曲
* [[ヤーコプ・ドント|ドント]] - 24の練習曲と奇想曲 Op.35、クロイツェルとローデの練習曲のための24の予備演習 Op.37<!--(ドントは9度や10度などが頻繁に出てくるため左指を柔らかくする訓練になる。だが、悪い練習(力が入ったまま長時間弾き続ける等)を続けた場合、手を痛めるおそれがあるので練習には十分な注意が必要である。)-->
* [[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]] - [[24の奇想曲]] Op.1
* [[ヤン・フジマリー|フリマリー]] - ヴァイオリン音階教本
* [[オタカール・シェフチーク|セヴシック]] - ヴァイオリン技巧教本 Op.1-9
* [[ヘンリ・シュラディーク|シュラディーク]] - ヴァイオリン技法の教程 I - II
=== ヴィオラ ===
* [[リリアン・フックス|フックス]]
* {{ill|バルトロメオ・カンパニョーリ|en|Bartolomeo Campagnoli|label=カンパニョーリ}}
* [[アンリ・ヴュータン|ヴュータン]]
===チェロ===
* [[ジャン=ルイ・デュポール|デュポール]]
* [[ユリウス・クレンゲル|クレンゲル]]
* [[フリードリヒ・ドッツァウアー|ドッツァウアー]]
* [[ダーヴィト・ポッパー|ポッパー]]
===コントラバス===
* [[フランツ・シマンドル|シマンドル]]
=== ギター ===
;技巧習得のための練習曲
*[[フェルナンド・ソル]]
**24の漸進的レッスン Op.31
**24の大変易しいエクササイズ Op.35(中級課題「[[月光]]」はこの22番ロ短調)
**24の漸進的小品 Op.44
**ギター練習への入門 Op.60 (ソル最晩年の作品)
**20の練習曲(ソルの100曲余りある各種難易度の練習課題から中上級課題を[[アンドレス・セゴビア]]が選んで編み直したもの)
*[[マウロ・ジュリアーニ]] - 右手のための120の課題 Op.1a
*[[マテオ・カルカッシ]] - 25の旋律的で漸進的な練習曲 Op.60(中級以降の最も重要な練習曲として広く認知されている)
;演奏会用練習曲
*[[フェルナンド・ソル]]
**12の練習曲 Op.6
**12の練習曲 Op.29
*[[ナポレオン・コスト]] - 25の練習曲 Op.38
*[[フランシスコ・タレガ]] - アラールによる練習曲,バッハのフーガによる練習曲
*[[エイトル・ヴィラ=ロボス]] - [[12の練習曲 (ヴィラ=ロボス)|12の練習曲]](上級練習曲のひとつ)
*[[アグスティン・バリオス]] - 演奏会用練習曲
=== 木管楽器 ===
{{節スタブ}}
*フルート
**[[テオバルト・ベーム|ベーム]]
*オーボエ
**[[ヒンケ]]
**[[ヴェーデマン]] - 45曲の練習曲
**[[フェルリンク]]
***18曲の練習曲
***48曲の練習曲
*クラリネット
**[[ヒヤシンセ・クローゼ|クローゼ]]
*ファゴット
**[[ワイセンボーン]]
*サクソフォン
**ラクール - 50の練習曲
**クローゼ - 25の日課技術練習課題
**フェルリンク - 48の練習曲([[マルセル・ミュール|ミュール]]編)
=== 金管楽器 ===
{{節スタブ}}
* ホルン
** [[ゲオルク・コップラッシュ|コプラッシュ]]:60の練習曲集
** マキシム・アルフォンス:200の新練習曲
** ランゲイ:ホルン教本
** ヘルマン・ノイリンク:低音ホルンのための30の練習曲
* トランペット
** [[ジャン=バティスト・アルバン|アーバン]]
* トロンボーン
** [[エモリー・レミントン|レミントン]]
* チューバ
=== 声楽 ===
* [[ジュゼッペ・コンコーネ|コンコーネ]]
** 50番 - 声楽の初心者の多くが学ぶ練習曲集である。
** 25番
* [[フランチェスコ・パオロ・トスティ|トスティ]]
** 50番
* [[フランツ・ヴュルナー]] - [[コールユーブンゲン]](合唱団のための練習曲集であったが、現在では声楽学習者向けの教材としても使用されている)
* [[松下耕]] - 合唱のためのたのしいエチュード、混声合唱のためのア・カペラエチュード
* [[間宮芳生]] - Etudes for Chorus(「[[合唱のためのコンポジション]]」に取り組むためのものとして作曲された)
* [[岩河三郎]]- 楽しい発声のドリル
==脚注==
<references />
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[[Category:楽式]]
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単気筒エンジン
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単気筒エンジン(たんきとうエンジン)とは、シリンダーの数が一つのエンジン。
各種内燃機関の発明当初から存在する、もっとも基本的な構造のエンジンである。
構造が単純で部品点数も少ないので、故障しにくく、メンテナンスがしやすい。同排気量の多気筒エンジンと比べた場合、軽量かつ小型にすることが可能で、運動部品の褶動摩擦による損失(フリクションロス)が少なく、燃焼室やシリンダー壁の総表面積も小さくなるので、熱損失が少なく熱効率の面でも優れている。この特徴を活かし、ロングストローク型としてさらなる高効率化を図ったものもある。
ただし単気筒エンジンは、同排気量の多気筒エンジンと比べた場合、運動部品の慣性が大きく、最高許容回転数が低く、最高出力が小さく、中高速域からの加速は緩慢になり最高速は低くなる。また、多気筒エンジンであればピストン同士の慣性力を相殺できるものもあるが、単気筒ではそれが不可能なため、振動が大きくなる傾向もある。バランサーシャフトにより振動を低減する手法もあるが、その場合、損失の増加と、質量増加によるスロットルレスポンスの鈍化と引き換えになる。また2ストロークで360°、4ストロークで720°と爆発間隔が広いため、低回転時の柔軟性を補う必要からフライホイールの質量も大きく採られており、これもレスポンスを鈍化させる。
単気筒エンジンは、単位排気量あたりの出力の大きさが神経質に求められない用途に適している。たとえば、持ち運びをするような小型の汎用エンジン、小型のポータブル発電機、小型の船外機、小型・軽量指向のオートバイなどに使われることが多い。
小型・軽量・低価格・低コストを求められる小 - 中排気量クラスのオフロード用オートバイや、50 cc以下の原動機付自転車、ミニカーに搭載されているエンジンはほとんどが単気筒エンジンである。またロードスポーツやアメリカンタイプにおいては、独特の出力特性や軽量という利点に加え、鼓動感や歯切れのよい排気音が好まれ単気筒エンジンが採用される場合もある。
競技の世界でも、ロードレース世界選手権では発足当初から単気筒エンジンのクラスがあり、現在でもMoto3クラスが単気筒エンジンを採用している。またオフロード競技全般(トライアル/モトクロス/エンデューロ/スーパーモタード/ラリーレイド)においては、最高出力よりも扱いやすいトルク特性と軽量さが重視されることから、単気筒以外はほぼ見られなくなっている。
構造が単純・最小限であることを活かし、研究機関やエンジンメーカーにおける燃焼室・燃焼特性の開発研究用にもしばしば用いられる。単気筒エンジンはパーツの作り替えに際してコストや時間を節約でき、台上試験なども実施しやすい(単気筒エンジンでの試験成績が良好であれば、同じ燃焼室構造の多気筒エンジン試作に移行できる)。この場合は「単筒エンジン」と呼ばれる場合もある。
2本、ないし構成によっては3本の複数のピストンにより、吸気 → 圧縮 → 爆発・膨張 → 掃気 の行程を分割した方式があり、スプリット・シングルと呼ばれる単気筒の一種として扱われる(同方式で、複数系統を持つものは2気筒などとして扱われるものもある)。
ピストン2本の場合、単気筒のシリンダーを2つに分けてダブルピストン構成とし、燃焼室は2つのピストンで共有するような設計となる。
1912年にイタリアのガレリにより考案されたものである。オーストリアのオートバイメーカー、プフ(現・シュタイア・ダイムラー・プフ)は、Y字型のコネクティングロッドを使用し構成した。同様の機構はイギリスのルーカス社やドイツのDKW社でも採用例がある。日本では、戦前には零細オートバイメーカーの手でU型気筒エンジン・U型燃焼室エンジンとして少数が製造された例、戦後ではホープ自動車のホープスターSU型のエンジンの例がある。
一覧は、英語版のList of motorcycles by type of engineを参照のこと。
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単気筒エンジン(たんきとうエンジン)とは、シリンダーの数が一つのエンジン。
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{{出典の明記|date=2015年7月}}
[[File:Malossi 70cc Morini cylinder.jpg|thumb|right|250px|単気筒エンジンを分解し、シリンダー内部が見える状態になった写真。[[シリンダー]](気筒。筒状の空間)がひとつである。マロッシ・70ccエンジン]]
'''単気筒エンジン'''(たんきとうエンジン)とは、[[シリンダー]]の数が一つの[[内燃機関|エンジン]]。
== 概説 ==
各種内燃機関の発明当初から存在する、もっとも基本的な構造のエンジンである。
構造が単純で部品点数も少ないので、故障しにくく、メンテナンスがしやすい。同[[排気量]]の多気筒エンジンと比べた場合、軽量かつ小型にすることが可能で、運動部品の褶動[[摩擦]]による損失(フリクションロス)が少なく、[[燃焼室]]や[[シリンダー]]壁の総表面積も小さくなるので、熱損失が少なく[[熱効率]]の面でも優れている。この特徴を活かし、[[ロングストローク]]型としてさらなる高効率化を図ったものもある。
ただし単気筒エンジンは、同排気量の多気筒エンジンと比べた場合、運動部品の[[慣性]]が大きく、[[タコメーター#レッドゾーン|最高許容回転数]]が低く、最高[[出力]]が小さく、中高速域からの加速は緩慢になり最高速は低くなる。また、多気筒エンジンであれば[[ピストン]]同士の慣性力を相殺できるものもあるが、単気筒ではそれが不可能なため、[[振動]]が大きくなる傾向もある。[[バランサーシャフト]]により振動を低減する手法もあるが、その場合、損失の増加と、質量増加による[[スロットル]]レスポンスの鈍化と引き換えになる。また[[2ストローク機関|2ストローク]]で360°、[[4ストローク機関|4ストローク]]で720°と爆発間隔が広いため、低回転時の柔軟性を補う必要から[[フライホイール]]の[[質量]]も大きく採られており、これもレスポンスを鈍化させる。
=== 用途 ===
単気筒エンジンは、単位排気量あたりの出力の大きさが神経質に求められない用途に適している。たとえば、持ち運びをするような小型の[[汎用エンジン]]、小型のポータブル[[発電機]]、小型の[[船外機]]、小型・軽量指向のオートバイなどに使われることが多い。
小型・軽量・低価格・低コストを求められる小 - 中排気量クラスの[[オフロード]]用[[オートバイ]]や、50 cc以下の[[原動機付自転車]]、[[ミニカー (車両)|ミニカー]]に搭載されているエンジンはほとんどが単気筒エンジンである。また[[スーパースポーツ|ロードスポーツ]]や[[クルーザー (オートバイ)|アメリカンタイプ]]においては、独特の出力特性や軽量という利点に加え、鼓動感や歯切れのよい排気音が好まれ単気筒エンジンが採用される場合もある。
競技の世界でも、[[ロードレース世界選手権]]では発足当初から単気筒エンジンのクラスがあり、現在でもMoto3クラスが単気筒エンジンを採用している。また[[オフロード]]競技全般([[トライアル (オートバイ)|トライアル]]/[[モトクロス]]/[[エンデューロ]]/[[スーパーモタード]]/[[ラリーレイド]])においては、最高出力よりも扱いやすいトルク特性と軽量さが重視されることから、単気筒以外はほぼ見られなくなっている。
構造が単純・最小限であることを活かし、研究機関やエンジンメーカーにおける燃焼室・燃焼特性の開発研究用にもしばしば用いられる。単気筒エンジンはパーツの作り替えに際してコストや時間を節約でき、台上試験なども実施しやすい(単気筒エンジンでの試験成績が良好であれば、同じ燃焼室構造の多気筒エンジン試作に移行できる)。この場合は「単筒エンジン」と呼ばれる場合もある。
{{Gallery
|title=単気筒エンジンがオートバイに用いられた例
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|File:2007-05-20 3 DKW RT 250 in Mendig (kl).JPG|単気筒エンジンの一例。[[DKW]] RT 250(1952年–1953年) の単気筒エンジン
|File:Honda_Super_Cub_at_Seattle_Children's_Museum1.jpg|単気筒エンジンのエンジン。[[ホンダ・カブ|ホンダ・スーパーカブ]]のエンジン(シアトル子供博物館の展示)
|File:Detail_view_of_a_large_single-cylinder_air-cooled_motorcycle_engine.jpg|同じく一例。[[ヤマハ・SR#SRXシリーズ|ヤマハ・SRX600]]のエンジン。
}}
== 特殊な単気筒エンジン ==
{{main|スプリット・シングル (内燃機関)}}
[[File:Puch_Doppelkolben.jpg|right|thumb|150px|2ストローク1シリンダー2ピストンエンジンの例(プフ オートバイ用)]]
2本、ないし構成によっては3本の複数のピストンにより、吸気 → 圧縮 → 爆発・膨張 → 掃気 の行程を分割した方式があり、[[スプリット・シングル (内燃機関)|スプリット・シングル]]と呼ばれる単気筒の一種として扱われる(同方式で、複数系統を持つものは2気筒などとして扱われるものもある)。
ピストン2本の場合、単気筒のシリンダーを2つに分けてダブルピストン構成とし、[[燃焼室]]は2つのピストンで共有するような設計となる。
[[1912年]]に[[イタリア]]の[[ガレリ]]により考案されたものである。[[オーストリア]]のオートバイメーカー、[[:en:Puch|プフ]](現・[[シュタイア・ダイムラー・プフ]])は、Y字型の[[コネクティングロッド]]を使用し構成した。同様の機構は[[イギリス]]の[[ルーカス]]社や[[ドイツ]]の[[DKW]]社でも採用例がある。日本では、[[戦前]]には零細オートバイメーカーの手で'''U型気筒エンジン'''・'''U型燃焼室エンジン'''として少数が製造された例、[[戦後]]では[[ホープ (企業)|ホープ自動車]]のホープスターSU型のエンジンの例がある。
== 単気筒エンジンを搭載したオートバイ ==
一覧は、英語版の[[:en:List of motorcycles by type of engine#Single cylinder|List of motorcycles by type of engine]]を参照のこと。
== 関連項目 ==
* [[機関 (機械)]]
* [[内燃機関]]
* [[オートバイ|バイク]]
* [[締固め用機械#ランマ]]
* [[マフラー_(原動機)|マフラー]](サイレンサー)
* [[ライトサイジングコンセプト]]
{{レシプロエンジンの気筒配置による分類}}
{{自動車の構成}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たんきとうえんしん}}
[[Category:単気筒エンジン| ]]
[[Category:往復動型内燃機関の形式|#01]]
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2003-06-30T09:13:15Z
|
2023-09-25T08:52:11Z
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"Template:レシプロエンジンの気筒配置による分類",
"Template:自動車の構成",
"Template:Normdaten"
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そろばん
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そろばん(漢字表記:算盤、十露盤など)とは、計算補助用具の一種であり、串で刺した珠を移動させ、その位置で数を表現し、計算の助けとするもの。
日本では珠を用いた計算補助用具(西洋式にはアバカスと呼ぶもの)全般を指す場合にも、「そろばん(ソロバン)」の語が使われることがあるが、本項では東アジア式のそろばんと日本式のそろばん(英語でsorobanまたはJapanese abacus)の双方を解説し、特に日本式のそろばんについて詳説する。
そろばんとは、物体に状態で数を記憶させるため、串で刺した珠などの位置で数を表現し、計算の助けとする道具である。ひとつ串(ひと筋の串)が数の「ひと桁」に対応しており、珠を指で上下に移動させることで各数字の表現や変更を行う。主として、加・減・乗・除などの計算が行える。
算術における計算には、使用する方便物により、何も使用しない暗算、紙や筆記具を使用する筆算、そろばんを使用する珠算(しゅざん)がある。計算法は器械的・客観的であるほど迅速かつ正確に計算することができる。
珠算は整数や小数を扱う場合には比較的桁数が多くても敏速かつ正確に計算できる長所がある。また、四則計算の主要部分などは簡易な加減法九九の適用によって計算することができる。
日本の伝統文化・和算の名残としての面もあり、電卓やコンピュータが登場した現在でも、計算器具としての主流からは外れつつも、後述の通り教育分野などでの再評価もあって使われ続けている。
起源については諸説あるが、アステカ起源説、アラブ起源説、バビロニア起源説、中国起源説などがある。
メソポタミアなどでは砂の絵に線を引き、そこに石を置いて計算を行っていた「砂そろばん」の痕跡がある。同様のものはギリシャなどにも残るが、ギリシャ時代には砂だけでなくテーブルの上などにも置いていた。このテーブルを「アバクス(abacus)」という。ローマ時代に持ち運びができるように小さな板に溝を作りその溝に珠を置く溝そろばんが発明された。この溝そろばんが中東を経て中国に伝わり現在の原型となったともいわれている。現存する最古のそろばんは1846年にギリシアのサラミス島で発見された「サラミスのそろばん」と呼ばれるもので、紀元前300年頃のものである。
中国では紀元前の頃から紐の結び目を使った計算方式や、算木を使用した籌算(ちゅうざん)と呼ばれる独自の計算方式があった。これらは紐や竹の棒や木の棒で計算していたものであり、桁を次々に増やせる利点はあるが珠の形ではない。珠の形になったのは2世紀ごろのことと考えられ、『数術記遺』という2世紀ごろの書籍に「珠算」の言葉がある。なお三国志の武将、関羽がそろばんの生みの親とする伝説があるが三国時代より前から中国と中東・ローマには交易の痕跡があるため関羽が発明したというのは伝説以上のものではない。ただし中国ではよく知られている伝説であり、関帝廟の壁や柱には絵や彫り物のそろばんが描かれている。
1000年ごろにはアステカにもそろばん状のものが存在していた。珠にとうもろこしの芯が使われ、紐に通していたと考えられている。
日本語の「そろばん」は「算盤」の中国読み「スワンパン」が変化したものだといわれている。中国から日本に伝わったのがいつ頃か詳しいことは分かっていないが、少なくとも15世紀初頭には使用されていた。『日本風土記』(1570年代)には「そおはん」という表現でそろばんのことが記されており、その頃には日本に既に伝来していたことがうかがえる。なお使用できる状態でという限定ではあるが、現存する日本最古のそろばんは前田利家所有の陣中で使ったといわれているのもので尊経閣文庫に保存されているもの(1桁に五玉2つ・一玉5つで9桁、縦7cm、横13cmの小型で、桁は銅線、珠は獣骨製)とされていた。2014年における珠算史研究学会の考察では、黒田藩家臣久野重勝の家に伝来した秀吉拝領の四兵衛重勝拝領算盤というそろばんの方が古いという。
なお、室町時代の「文安元年」(1444年)の墨書銘の残るそろばんが現存し、前田利家のそろばんに匹敵する古さとの見方がなされている。
そろばんが民衆に広まったのは豊臣秀吉に仕えた毛利重能が明に留学したのち、京都で開塾し、そろばんを教授するようになってからである。毛利重能は後の関孝和に連なる和算の始祖となっている。
江戸時代には「読み書きそろばん」といわれ寺子屋や私塾などで実用的な算術が教えられていた。
1872年の学制で小学校の算術は「洋法ヲ用フ」とされ、そろばんは小学校の算術から追放された。この急変には社会の実情に合わないとの声があり混乱が見られたため、明治6年文部省布達第37号の補則で珠算も併用する趣旨であるとの通達が出された。結局、この補則も1874年には廃止されたため、そろばんは小学校では教えられなくなった。しかし珠算の価値が再認識され、明治14年文部省令で筆算または珠算のいずれかを選択するか併用できるとする法令が発布された。1900年の小学校令施行規則では筆算を本体とし、土地の状況により珠算を併用することとされた。
日本では昭和中期くらいまでは、銀行の事務職や経理の職に就くにはそろばんによる計算(珠算)を標準以上にこなせることが採用されるための必須条件だった。小学生や中学生が珠算塾に通った他、珠算の協会の主催による珠算検定を受験し「○級」(4級〜1級など)を習得し、就職時に履歴書に書いた。珠算塾ではしばしば、そろばんを使った珠算だけではなく、暗算の講座も開かれており、そろばんを指で動かせるようになると、それを応用して習得でき、就職のために暗算検定の「級」も習得する人が多かった。なお、この時代、手動式アナログ計算器としては計算尺があり、理系の人間はそちらも使いこなした。
競技において計算機械より速く計算した、という記録もいくつか存在している。1946年11月11日、アーニー・パイル劇場(接収中の東京宝塚劇場)にて、『スターズ・アンド・ストライプス』紙の後援で逓信省一番のそろばんの達人であった貯金課の松崎喜義と、最新の電動機械式計算機を使うアメリカ陸軍所属でGHQの20th Finance Disbursing SectionのThomas Nathan Wood二等兵との間で計算勝負が行われ、4対1でそろばんが勝利を収めている。カシオ計算機の樫尾俊雄はこれを報じる新聞を前に「算盤は神経。されど計算機は技術なり」とメモした(勝負を見ていた、とする説もある)。物理学者のリチャード・ファインマンは自伝(R・P・ファインマン 1986, pp. 10–14)の中で、自身がそろばんの達人と計算のスピードを競い合ったエピソードを紹介した。
教育においては、十進法の概念を理解させるための格好の教材とされることもある。文部科学省(旧:文部省)が改定してきた小学校学習指導要領の算数の履修項目から、そろばんが外されたことはない。
ひとつの特長として、一定以上そろばん(珠算)の能力がある場合、特別な訓練を経なくてもその場にそろばんがなくても計算できるようになることが挙げられる。これを珠算式暗算という。一般にある程度習熟すれば、加減算においては電卓より早く計算ができる。なお、2019年現在「そろばんを習う」といえば「珠算、珠算式暗算、読み上げ算、読み上げ暗算、フラッシュ暗算」のすべてを習っていることがほとんどであり、珠算競技はこれらから出題される。
1955年より全国の高校生がそろばん技能を競う「全国高校珠算競技大会」(通称:そろばん甲子園)が、阪神・淡路大震災があった1995年を除いて毎年行われてきたが、競技人口の減少に伴い2009年8月19日の第55回大会で廃止となった。1980年代後半から1990年代前半のピーク時には約90校から600人前後が参加したが、2009年の参加は59校300人となっていた。
1960年から1990年代半ばにかけて、NHKラジオ第2放送では『そろばん教室』という珠算教育の番組も放送された。
そろばんに対する再評価にもかかわらず、そろばんの市場は縮小している。しかし、2000年代半ばより再び、そろばんが見直されてきており、そろばん塾の塾生は再び増加傾向にある。珠算検定と漢検、あるいは珠算検定と英検を同時に対策する、などといった複合型の学習塾が目立ってきたのも21世紀の特徴である。
2000年、eラーニングの「インターネットそろばん学校」が開発され、そろばん初のWEB学習が可能となった。
日本国外では、ハンガリーで1990年代に日系女性がそろばんを紹介してから、1割ほどの小学校で授業に採用されている。
そろばんは、珠(たま)、枠(わく)、芯(軸ともいう)を組み合わせて作られる。
珠はカバやツゲ(まれにソヨゴ、イスノキ、ウメなど)、枠は黒檀、芯は煤竹(すすたけ)のものが一般的であるが、時代が経るにつれ、原材料が入手しにくくなってきているため、廉価なものでは積層材やプラスチックが使われることもある。現代でもほとんどの製造工程が手作業で行われており、枠に製造者の銘が入っているものも多い。枠は上下左右の枠、梁(はり)または中棧(なかざん)といわれる横板、裏軸や裏板からなる。それぞれの芯(軸)には珠が通され、梁を挟んで外側の枠によって固定されている。1つの芯(軸)の梁の上下の珠の数は形式により異なる。
枠の左側を上(かみ)、右側を下(しも)という。珠を上下に滑らせることで計算が行われ、梁と接している珠の数が盤面に置かれている数字(布数)を表す。
近年では付加機能としてボタン1つでご破算(珠払い)ができるワンタッチそろばんなども存在し、各種競技会や検定試験で使用可能である。
芯(軸)ごとの珠の数は顆という単位を用いる。例えば天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置したそろばんであれば天1顆、地4顆(天一地四)の形式となる。天の1珠は梁に付くと5を表し、状態で0または5を表すため五珠(ごだま)、地の4珠は梁に付くと1つが1を表し、状態で0から4までを表すため一珠(いちだま)という。
枠が大きく珠の形状が丸い中国の算盤(さんばん)では天2顆・地5顆(天二地五)のそろばんが用いられていた。このそろばんは普通の置き方で五珠で0、5または10、一珠で0から5まで、1桁では0から15まで表せる。さらに上の五珠を半分下ろし、下の五珠を完全に下ろすという特殊な置き方(「懸珠」と呼ばれる)は15を表すので、1桁で最高20まで置けることになる。現代の中国で算盤がいまだに用いられることがあるのは、尺貫法が民間に根強く残っているからである。中国で発達した尺貫法では度量衡の重さの単位で1斤が16両と定められていたため、十六進数の計算をする必要があったのである。
日本では十六進数の計算は必要ではなかったが、江戸時代の乗算や除算の方法(尾乗法・中乗法・帰除法)では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあった(尾乗法・中乗法・帰除法では、一時的に1桁に最大18まで溜まる場合があり、16以上の場合は懸珠を使うことになる)ので、江戸時代まではこの五珠2つの形式が多く使われていた。明治時代になって、不要な五珠を1つ減らした天1顆・地5顆の五つ珠(いつつだま、天一地五ともいい、1桁に10までの数が置ける)の形が普及したが、地5顆の形はしばらく続いた。江戸時代中期には乳井貢などから四つ珠利用の提案があったが定着はしなかった。時代が下り、榊原孫太郎などの教育研究者の啓蒙運動により四つ珠そろばんが次第に認知されるようになる。
日本では昭和10年代に珠算教育に用いる児童用そろばんの標準型を天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠(天1顆、地4顆の形式)と定めた。
天1顆、地4顆の形式には次のような利点がある。
国際的にメートル法が使用されるようになり、中国でも天1顆・地4顆の四つ珠のそろばんが普及してきている。
珠の構成については特殊で変則的なものもある。10行の芯に10個の珠が並ぶ100珠そろばん(百玉計数器)は100個の珠が数そのものを表すというもので視覚的に数字と算数を理解するのに向いておりもっぱら低年齢層向けの教育補助具として用いられている。また、通常のそろばんの五珠の部分のみ(0と1のみ)とした2進法のそろばんもある。
日本では江戸時代にそろばんが広まっていくうち、枠の大きさが手の大きさに合わせて小さめに、そして珠の形状が素早く計算しやすいように円錐を2つ合わせた菱形のような形に変化していった。
珠を通す芯(軸)の数が桁(けた)となり奇数が一般的である。桁数は13桁、17桁、21桁、23桁、27桁、35桁のものが多い。一番多く作られているのは23桁のものである。桁数は多くなると持ち運びに不便である。反面、桁数が少なすぎると乗法や除法の計算に不便である。
梁には真ん中を基準として、左右の端まで一定の桁ごとに定位点が打たれている。標準的なそろばんでは定位点は4桁ごとに打たれている。
なお、実用に用いられたそろばんには、桁ごとに梁に金額(千、百、十、円、十、銭、厘)や体積(石、斗、升、合、勺)を記したものもある。
以下は天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置した天1顆、地4顆の形式のそろばんの計算法。
布数法とは数を表現するための珠の置き方である。天(梁の上側)にある1つの珠を五珠、地(梁の下側)にある4つの珠を一珠という。
一般的に一の位は枠上の定位点の付いた桁(軸の位置)に置くのが一般的で左に向かって十進法で位取りを行う。
そろばんの用語では、加法及び減法をまとめて見取り算と呼ぶ。
(例)1937+284
(例)1756-957
乗算・除算の場合は、特に慣れていない人の場合、乗数・除数を被乗数・被除数の左側に置くことが多いが、計算中は乗数・除数を全く操作しないので、乗数・除数については、紙に書いてある数字や印刷してある数字を使う方法もあり、あるいはある程度慣れている人の場合、記憶だけに留める方法(片落とし)を取ることが多い。また、そろばんの用語では、被乗数・被除数を実(じつ)、乗数・除数を法(ほう)という。
そろばんでの乗算・除算において、答えが出る位置を決めることを定位法と呼ぶ。
そろばんの乗法には実(被乗数)の尾桁から計算する留頭乗法と実(被乗数)の首桁から計算する破頭乗法がある。また、それぞれ法(乗数)の首位数から計算を始める頭乗法と法(乗数)の尾位数から計算を始める尾乗法がある。
以上の組み合わせにより主な乗法として留頭尾乗法、留頭頭乗法、破頭頭乗法、破頭尾乗法の四種がある。
またこの他に中乗法といって、法の次位数から尾位数まで計算した後、最後に法の首位数を計算する方法もある。
一般には留頭頭乗法の欠点を克服するため部分積を置く位置を改良した方法が用いられる。以下に示すのは新頭乗法と呼ばれる現在一般的な方法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。
(例)32×97
特にそろばんの上級者の乗算の場合は、法のみならず実もそろばんの布数から省略し、積のみをそろばんに置いていく両落としが用いられることも多い。
古式の尾乗法や中乗法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。
そろばんの除法は種類が多くはなく、割り算九九を用いる帰除法と掛け算九九を用いる商除法がある。
以下に示すのが現在一般的な商除法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。
(例)1416÷59
古式である帰除法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。
開法の計算は、次を参照。
日本国内では兵庫県小野市と島根県奥出雲町が二大産地である。小野市のそろばんは播州そろばん、奥出雲町のそろばんは雲州そろばんとして知られる。
播州そろばんは1976年に、雲州そろばんは1987年に伝統工芸品の指定を受けている。ともに指定を機に小野市で1983年に小野市伝統産業会館が、奥出雲町で1990年に雲州そろばん伝統産業会館開設され、国内外の様々なそろばんが展示されている。
珠の素材となる木材には国産材ではオノオレカンバなどカバノキ類やツゲ、イスノキ、ソヨゴ(福良木:フクラソウ)、マンサク、カナメモチ、スモモ、ケヤキ、モチノキ、クワ、ナツメ、クスノキ、輸入材ではコクタン類、シタン、ビャクダン、レッドサンダー(紅木紫檀)、リグナムバイタ、カリン、タガヤサン、ブラジリアン・ローズウッド、パオロッサ(ローズウッド)など硬質で狂いがでないものが用いられる。またかつてはウメ、ヒイラギ、ツバキ、ウバメガシ、チャンチンモドキ(楆:カナメノキ)も使われていた。また牛骨やラクト(ラクトロイド:カゼインプラスチック)など動物由来素材も使われる。
伝統工芸品の一環として作られる高級そろばんもある。
そろばんのトレーニングによって、以下のような効果があることが期待されています。
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"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "近年では付加機能としてボタン1つでご破算(珠払い)ができるワンタッチそろばんなども存在し、各種競技会や検定試験で使用可能である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "芯(軸)ごとの珠の数は顆という単位を用いる。例えば天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置したそろばんであれば天1顆、地4顆(天一地四)の形式となる。天の1珠は梁に付くと5を表し、状態で0または5を表すため五珠(ごだま)、地の4珠は梁に付くと1つが1を表し、状態で0から4までを表すため一珠(いちだま)という。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "枠が大きく珠の形状が丸い中国の算盤(さんばん)では天2顆・地5顆(天二地五)のそろばんが用いられていた。このそろばんは普通の置き方で五珠で0、5または10、一珠で0から5まで、1桁では0から15まで表せる。さらに上の五珠を半分下ろし、下の五珠を完全に下ろすという特殊な置き方(「懸珠」と呼ばれる)は15を表すので、1桁で最高20まで置けることになる。現代の中国で算盤がいまだに用いられることがあるのは、尺貫法が民間に根強く残っているからである。中国で発達した尺貫法では度量衡の重さの単位で1斤が16両と定められていたため、十六進数の計算をする必要があったのである。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本では十六進数の計算は必要ではなかったが、江戸時代の乗算や除算の方法(尾乗法・中乗法・帰除法)では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあった(尾乗法・中乗法・帰除法では、一時的に1桁に最大18まで溜まる場合があり、16以上の場合は懸珠を使うことになる)ので、江戸時代まではこの五珠2つの形式が多く使われていた。明治時代になって、不要な五珠を1つ減らした天1顆・地5顆の五つ珠(いつつだま、天一地五ともいい、1桁に10までの数が置ける)の形が普及したが、地5顆の形はしばらく続いた。江戸時代中期には乳井貢などから四つ珠利用の提案があったが定着はしなかった。時代が下り、榊原孫太郎などの教育研究者の啓蒙運動により四つ珠そろばんが次第に認知されるようになる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本では昭和10年代に珠算教育に用いる児童用そろばんの標準型を天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠(天1顆、地4顆の形式)と定めた。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "天1顆、地4顆の形式には次のような利点がある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "国際的にメートル法が使用されるようになり、中国でも天1顆・地4顆の四つ珠のそろばんが普及してきている。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "珠の構成については特殊で変則的なものもある。10行の芯に10個の珠が並ぶ100珠そろばん(百玉計数器)は100個の珠が数そのものを表すというもので視覚的に数字と算数を理解するのに向いておりもっぱら低年齢層向けの教育補助具として用いられている。また、通常のそろばんの五珠の部分のみ(0と1のみ)とした2進法のそろばんもある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本では江戸時代にそろばんが広まっていくうち、枠の大きさが手の大きさに合わせて小さめに、そして珠の形状が素早く計算しやすいように円錐を2つ合わせた菱形のような形に変化していった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "珠を通す芯(軸)の数が桁(けた)となり奇数が一般的である。桁数は13桁、17桁、21桁、23桁、27桁、35桁のものが多い。一番多く作られているのは23桁のものである。桁数は多くなると持ち運びに不便である。反面、桁数が少なすぎると乗法や除法の計算に不便である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "梁には真ん中を基準として、左右の端まで一定の桁ごとに定位点が打たれている。標準的なそろばんでは定位点は4桁ごとに打たれている。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、実用に用いられたそろばんには、桁ごとに梁に金額(千、百、十、円、十、銭、厘)や体積(石、斗、升、合、勺)を記したものもある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "以下は天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置した天1顆、地4顆の形式のそろばんの計算法。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "布数法とは数を表現するための珠の置き方である。天(梁の上側)にある1つの珠を五珠、地(梁の下側)にある4つの珠を一珠という。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一般的に一の位は枠上の定位点の付いた桁(軸の位置)に置くのが一般的で左に向かって十進法で位取りを行う。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "そろばんの用語では、加法及び減法をまとめて見取り算と呼ぶ。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "(例)1937+284",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "(例)1756-957",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "乗算・除算の場合は、特に慣れていない人の場合、乗数・除数を被乗数・被除数の左側に置くことが多いが、計算中は乗数・除数を全く操作しないので、乗数・除数については、紙に書いてある数字や印刷してある数字を使う方法もあり、あるいはある程度慣れている人の場合、記憶だけに留める方法(片落とし)を取ることが多い。また、そろばんの用語では、被乗数・被除数を実(じつ)、乗数・除数を法(ほう)という。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "そろばんでの乗算・除算において、答えが出る位置を決めることを定位法と呼ぶ。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "そろばんの乗法には実(被乗数)の尾桁から計算する留頭乗法と実(被乗数)の首桁から計算する破頭乗法がある。また、それぞれ法(乗数)の首位数から計算を始める頭乗法と法(乗数)の尾位数から計算を始める尾乗法がある。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以上の組み合わせにより主な乗法として留頭尾乗法、留頭頭乗法、破頭頭乗法、破頭尾乗法の四種がある。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "またこの他に中乗法といって、法の次位数から尾位数まで計算した後、最後に法の首位数を計算する方法もある。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一般には留頭頭乗法の欠点を克服するため部分積を置く位置を改良した方法が用いられる。以下に示すのは新頭乗法と呼ばれる現在一般的な方法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "(例)32×97",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "特にそろばんの上級者の乗算の場合は、法のみならず実もそろばんの布数から省略し、積のみをそろばんに置いていく両落としが用いられることも多い。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "古式の尾乗法や中乗法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "そろばんの除法は種類が多くはなく、割り算九九を用いる帰除法と掛け算九九を用いる商除法がある。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "以下に示すのが現在一般的な商除法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "(例)1416÷59",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "古式である帰除法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "開法の計算は、次を参照。",
"title": "計算法"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本国内では兵庫県小野市と島根県奥出雲町が二大産地である。小野市のそろばんは播州そろばん、奥出雲町のそろばんは雲州そろばんとして知られる。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "播州そろばんは1976年に、雲州そろばんは1987年に伝統工芸品の指定を受けている。ともに指定を機に小野市で1983年に小野市伝統産業会館が、奥出雲町で1990年に雲州そろばん伝統産業会館開設され、国内外の様々なそろばんが展示されている。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "珠の素材となる木材には国産材ではオノオレカンバなどカバノキ類やツゲ、イスノキ、ソヨゴ(福良木:フクラソウ)、マンサク、カナメモチ、スモモ、ケヤキ、モチノキ、クワ、ナツメ、クスノキ、輸入材ではコクタン類、シタン、ビャクダン、レッドサンダー(紅木紫檀)、リグナムバイタ、カリン、タガヤサン、ブラジリアン・ローズウッド、パオロッサ(ローズウッド)など硬質で狂いがでないものが用いられる。またかつてはウメ、ヒイラギ、ツバキ、ウバメガシ、チャンチンモドキ(楆:カナメノキ)も使われていた。また牛骨やラクト(ラクトロイド:カゼインプラスチック)など動物由来素材も使われる。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "伝統工芸品の一環として作られる高級そろばんもある。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "そろばんのトレーニングによって、以下のような効果があることが期待されています。",
"title": "効果"
}
] |
そろばんとは、計算補助用具の一種であり、串で刺した珠を移動させ、その位置で数を表現し、計算の助けとするもの。 日本では珠を用いた計算補助用具(西洋式にはアバカスと呼ぶもの)全般を指す場合にも、「そろばん(ソロバン)」の語が使われることがあるが、本項では東アジア式のそろばんと日本式のそろばんの双方を解説し、特に日本式のそろばんについて詳説する。
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{{Otheruseslist|珠を移動させて計算する道具|小惑星|そろばん (小惑星)|和算において算木とともに用いる算盤(さんばん)|算盤}}
[[ファイル:Ono City Tradition Industrial Hall05s4272.jpg|thumb|280px|そろばん]]
'''そろばん'''(漢字表記:'''算盤'''、'''十露盤'''など)とは、[[計算]]補助用具の一種であり、串で刺した珠を移動させ、その位置で[[数]]を表現し、計算の助けとするもの。
日本では珠を用いた計算補助用具(西洋式には[[アバカス]]と呼ぶもの)全般を指す場合にも、「'''そろばん'''('''ソロバン''')」の語が使われることがあるが、本項では[[東アジア]]式のそろばんと日本式のそろばん(英語で[[:en:soroban|soroban]]またはJapanese abacus)の双方を解説し、特に日本式のそろばんについて詳説する。
== 概説 ==
そろばんとは、物体に状態で数を記憶させるため、串で刺した珠などの位置で[[数]]を表現し、計算の助けとする道具である。ひとつ串(ひと筋の串)が数の「ひと[[桁]]」に対応しており、珠を指で上下に移動させることで各数字の表現や変更を行う。主として、[[加法|加]]・[[減法|減]]・[[乗法|乗]]・[[除法|除]]などの計算が行える。
[[算術]]における計算には、使用する方便物により、何も使用しない'''[[暗算]]'''、紙や筆記具を使用する'''[[筆算]]'''、そろばんを使用する'''[[珠算]]'''(しゅざん)がある<ref name="shintei43">{{harvnb|二階|1939|page=43 }}</ref>。計算法は器械的・客観的であるほど迅速かつ正確に計算することができる<ref name="shintei45">{{harvnb|二階|1939|page=45 }}</ref>。
珠算は整数や小数を扱う場合には比較的桁数が多くても敏速かつ正確に計算できる長所がある<ref name="shintei49" />。また、[[算術#四則演算|四則計算]]の主要部分などは簡易な[[九九#足し算と引き算の九九|加減法九九]]の適用によって計算することができる<ref>{{harvnb|二階|1939|page=46 }}</ref>。
日本の伝統文化・[[和算]]の名残としての面もあり、電卓やコンピュータが登場した現在でも、計算器具としての主流からは外れつつも、後述の通り教育分野などでの再評価もあって使われ続けている。
== 歴史 ==
=== 起源 ===
[[Image:Science museum 030.jpg|thumb|300px|上が中国で古くから使われた算盤で、各桁に、五玉が2個ずつある。また1の珠も5個ずつある。下は、現代日本のそろばん]]
起源については諸説あるが、[[アステカ]]起源説、[[アラブ]]起源説、[[バビロニア]]起源説、[[中国]]起源説などがある。
[[メソポタミア]]などでは砂の絵に線を引き、そこに石を置いて計算を行っていた「'''砂そろばん'''」の痕跡がある。同様のものはギリシャなどにも残るが、ギリシャ時代には砂だけでなくテーブルの上などにも置いていた。このテーブルを「アバクス(abacus)」という。ローマ時代に持ち運びができるように小さな板に溝を作りその溝に珠を置く溝そろばんが発明された。この溝そろばんが中東を経て中国に伝わり現在の原型となったともいわれている。現存する最古のそろばんは[[1846年]]にギリシアの[[サラミス島]]で発見された「'''サラミスのそろばん'''」と呼ばれるもので、[[紀元前300年代|紀元前300年]]頃のものである。
=== 中国での発展 ===
中国では[[紀元前]]の頃から紐の結び目を使った計算方式や、算木を使用した[[籌算]](ちゅうざん)と呼ばれる独自の計算方式があった。これらは紐や竹の棒や木の棒で計算していたものであり、桁を次々に増やせる利点はあるが珠の形ではない。珠の形になったのは[[2世紀]]ごろのことと考えられ、『[[数術記遺]]』という2世紀ごろの書籍に「珠算」の言葉がある。なお[[三国志]]の武将、[[関羽]]がそろばんの生みの親とする伝説があるが三国時代より前から中国と中東・ローマには交易の痕跡があるため関羽が発明したというのは伝説以上のものではない。ただし中国ではよく知られている伝説であり、[[関帝廟]]の壁や柱には絵や彫り物のそろばんが描かれている。
[[1000年]]ごろには[[アステカ]]にもそろばん状のものが存在していた。珠にとうもろこしの芯が使われ、紐に通していたと考えられている。
=== 日本への伝来 ===
[[ファイル:Soroban.jpg|thumb|300px|昭和以降に日本で一般的になったタイプのそろばん。五珠が1つ、一の珠も4つある。]]
日本語の「そろばん」は「算盤」の中国読み「スワンパン」が変化したものだといわれている。中国から日本に伝わったのがいつ頃か詳しいことは分かっていないが、少なくとも[[15世紀]]初頭には使用されていた<ref name="shintei2">{{CHarvnb|二階|1939|page=2}}.</ref>。『日本風土記』([[1570年代]])には「そおはん」という表現でそろばんのことが記されており、その頃には日本に既に伝来していたことがうかがえる。なお使用できる状態でという限定ではあるが、現存する日本最古のそろばんは[[前田利家]]所有の陣中で使ったといわれているのもので[[尊経閣文庫]]に保存されているもの(1桁に五玉2つ・一玉5つで9桁、縦7cm、横13cmの小型で、桁は銅線、珠は獣骨製)<ref>[http://shuzan-gakko.com/soroban/rekishi04.html 公益社団法人 全国珠算学校連盟 そろばんの歴史 日本への伝来]</ref>とされていた。2014年における珠算史研究学会の考察では、[[黒田藩]]家臣[[久野重勝]]の家に伝来した秀吉拝領の[[四兵衛重勝拝領算盤]]というそろばんの方が古いという<ref>{{Cite news|url=http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140726/20140726038.html|title=「幻のそろばん」由来判明 秀吉が家臣に授ける|newspaper=大阪日日新聞|accessdate=2014-08-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140729010224/http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/140726/20140726038.html|archivedate=2014年7月29日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref>{{Cite news|title=日本最古のそろばん、大阪で発見 16世紀末、秀吉から官兵衛側近への褒美|newspaper=産経新聞|url=https://www.sankei.com/life/news/140802/lif1408020002-n1.html|accessdate=2019-02-26}}</ref>。
なお、[[室町時代]]の「[[文安]]元年」([[1444年]])の墨書銘の残るそろばんが現存し、[[前田利家]]のそろばんに匹敵する古さとの見方がなされている<ref name="shintei2" /><ref>{{Cite web|和書
|date=2011-12-03
|url=http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20111203000065
|title=最古?そろばん、京へ 三重の男性が市に寄託(京都新聞)
|publisher=[[京都新聞]]
|language=日本語
|accessdate=2012-12-04 | archivedate=2013-05-01 |archiveurl=https://archive.is/www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20111203000065
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|date=2012-03-12
|url=http://soroban88.seesaa.net/article/257173474.html
|title=「吉見家旧蔵・文安算盤」について
|accessdate=2012-12-04
}}</ref>。
そろばんが民衆に広まったのは[[豊臣秀吉]]に仕えた[[毛利重能]]が[[明]]に留学したのち、京都で開塾し、そろばんを教授するようになってからである<ref name="shintei2" />。毛利重能は後の[[関孝和]]に連なる[[和算]]の始祖となっている。
[[File:Sharp-abacus-japan.jpg|thumb|1979年に発売された、そろばんと電卓を組み合わせた[[シャープ]]のソロカル(EL-8048)]]
[[File:Yoshida Soroban.jpg|thumb|塵劫記の、そろばん使用法を解説している頁]]
江戸時代には「'''読み書きそろばん'''」といわれ[[寺子屋]]や私塾などで実用的な算術が教えられていた<ref>{{harvnb|二階|1939|page=9 }}</ref>。
[[1872年]]の学制で小学校の算術は「'''洋法ヲ用フ'''」とされ、そろばんは小学校の算術から追放された<ref name="shintei12">{{harvnb|二階|1939|page=12 }}</ref>。この急変には社会の実情に合わないとの声があり混乱が見られたため、明治6年文部省布達第37号の補則で珠算も併用する趣旨であるとの通達が出された<ref name="shintei12" />。結局、この補則も[[1874年]]には廃止されたため、そろばんは小学校では教えられなくなった<ref name="shintei12" />。しかし珠算の価値が再認識され、明治14年文部省令で筆算または珠算のいずれかを選択するか併用できるとする法令が発布された<ref name="shintei12">{{harvnb|二階|1939|page=12 }}</ref>。[[1900年]]の小学校令施行規則では筆算を本体とし、土地の状況により珠算を併用することとされた<ref name="shintei12" />。
日本では[[昭和]]中期くらいまでは、[[銀行]]の事務職や[[経理]]の職に就くにはそろばんによる計算(珠算)を標準以上にこなせることが採用されるための必須条件だった。小学生や中学生が珠算塾に通った他、珠算の協会の主催による珠算検定を受験し「○級」(4級〜1級など)を習得し、就職時に履歴書に書いた。珠算塾ではしばしば、そろばんを使った珠算だけではなく、暗算の講座も開かれており、そろばんを指で動かせるようになると、それを応用して習得でき、就職のために暗算検定の「級」も習得する人が多かった。なお、この時代、手動式[[アナログ]]計算器としては[[計算尺]]があり、理系の人間はそちらも使いこなした。
=== 電卓やコンピュータの登場 ===
競技において[[計算機|計算機械]]より速く計算した、という記録もいくつか存在している。1946年11月11日<ref group="注釈">「12日」としている資料もある。</ref>、アーニー・パイル劇場(接収中の[[東京宝塚劇場]])にて、『[[星条旗新聞|スターズ・アンド・ストライプス]]』紙の後援で[[逓信省]]一番のそろばんの達人であった貯金課の松崎喜義<ref group="注釈">英文資料のkiyoshiから推測したためか「清」としている資料もあるが、おそらく同一人によると思われる書誌の著者情報があるので、「喜義」が正しいと思われる{{Harv|荒木|松崎|1953}}。</ref>と、最新の電動[[機械式計算機]]を使うアメリカ陸軍所属でGHQの20th Finance Disbursing SectionのThomas Nathan Wood二等兵との間で計算勝負が行われ、4対1でそろばんが勝利を収めている<ref>luis fernandes ''[http://www.ee.ryerson.ca/~elf/abacus/abacus-contest.html The Abacus vs. the Electric Calculator: Excerpted from the book, "The Japanese Abacus, Its Use and Theory"], by Takashi Kojima, Charles E. Tuttle Company Inc. 1954, reprint 1987. ISBN 0-8048-0278-5. ''{{Harv|Kojima|Tuttle|1954}}</ref>{{Sfn|バークレー|1957|p=27}}<ref name="名前なし-1">『計算機屋かく戦えり』カシオの節(ハードカバー版 {{Harvnb|遠藤}} p. 392)</ref>{{Sfn|ドクターアキヤマ |2013|pp=68-69}}。[[カシオ計算機]]の樫尾俊雄はこれを報じる新聞を前に「算盤は神経。されど計算機は技術なり」とメモした<ref name="名前なし-1"/>(勝負を見ていた、とする説もある<ref>{{Cite journal|和書|url=https://www.icom.co.jp/beacon/electronics/001451.html |journal=エレクトロニクス立国の源流を探る |issue=38 |title=日本のエレクトロニクスを支えた技術 「電卓」第11回 |publisher=[[アイコム]]}}</ref>)。[[物理学者]]の[[リチャード・ファインマン]]は自伝{{Harv|R・P・ファインマン|1986|pages=10-14}}の中で、自身がそろばんの達人と計算のスピードを競い合ったエピソードを紹介した。
=== 教育分野での再評価 ===
{{要出典範囲|date=2019年8月|[[教育]]においては、[[十進法]]の概念を理解させるための格好の教材とされることもある}}{{誰2|date=2019年8月}}。[[文部科学省]](旧:[[文部省]])が改定してきた小学校学習指導要領の算数の履修項目から、そろばんが外されたことはない。
ひとつの特長として、一定以上そろばん(珠算)の能力がある場合、特別な訓練を経なくてもその場にそろばんがなくても計算できるようになることが挙げられる。これを'''珠算式暗算'''という。一般にある程度習熟すれば、加減算においては電卓より早く計算ができる。なお、2019年現在「そろばんを習う」といえば「'''珠算、珠算式暗算、読み上げ算、読み上げ暗算、フラッシュ暗算'''」のすべてを習っていることがほとんどであり、珠算競技はこれらから出題される。
[[1955年]]より全国の高校生がそろばん技能を競う「'''全国高校珠算競技大会'''」(通称:そろばん甲子園)が、[[阪神・淡路大震災]]があった[[1995年]]を除いて毎年行われてきたが、競技人口の減少に伴い[[2009年]]8月19日の第55回大会で廃止となった。[[1980年代]]後半から[[1990年代]]前半のピーク時には約90校から600人前後が参加したが、[[2009年]]の参加は59校300人となっていた。
[[1960年]]から1990年代半ばにかけて、[[NHKラジオ第2放送]]では『'''[[そろばん教室]]'''』という珠算教育の番組も放送された。
そろばんに対する再評価にもかかわらず、そろばんの市場は縮小している。しかし、[[2000年代]]半ばより再び、そろばんが見直されてきており、そろばん塾の塾生は再び増加傾向にある<ref>{{Cite web|和書
|date=2010-05-31
|url=http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=25879
|title=「脳力アップ」そろばん復活 : はつらつ健康指南 |publisher=[[読売新聞]]
|language=ja|accessdate=2010-07-11}}</ref>。珠算検定と漢検、あるいは珠算検定と英検を同時に対策する、などといった複合型の学習塾が目立ってきたのも21世紀の特徴である。
[[2000年]]、eラーニングの「'''インターネットそろばん学校'''」が開発され、そろばん初のWEB学習が可能となった。
日本国外では、[[ハンガリー]]で1990年代に日系女性がそろばんを紹介してから、1割ほどの小学校で授業に採用されている<ref>[http://www.osaka-abacus.or.jp/readings/2013/07/20-3.html 『そろばん立ち話』ハンガリー見聞記 西川 善彰 常務理事] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160422000925/http://www.osaka-abacus.or.jp/readings/2013/07/20-3.html |date=2016年4月22日 }}</ref><ref>[http://imatore.com/数学大国ハンガリーを支えているそろばん/ 数学大国ハンガリーを支えているのは『そろばん』日本との意外な共通点とは?]</ref><ref>[http://mirai-anshin.jp/article/0205074.html 知られざる親日国シリーズ・ハンガリー]</ref>。
== 構成 ==
そろばんは、'''珠'''(たま)、'''枠'''(わく)、'''芯'''(軸ともいう)を組み合わせて作られる。
珠は[[カバノキ属|カバ]]や[[ツゲ]](まれに[[ソヨゴ]]、[[イスノキ]]、[[ウメ]]など)、枠は[[黒檀]]、芯は[[煤竹]](すすたけ)のものが一般的であるが、時代が経るにつれ、原材料が入手しにくくなってきているため、廉価なものでは[[積層材]]やプラスチックが使われることもある。現代でもほとんどの製造工程が手作業で行われており、枠に製造者の銘が入っているものも多い。枠は上下左右の枠、'''梁'''(はり)または中棧(なかざん)といわれる横板、裏軸や裏板からなる。それぞれの芯(軸)には珠が通され、梁を挟んで外側の枠によって固定されている。1つの芯(軸)の梁の上下の珠の数は形式により異なる。
枠の左側を'''上(かみ)'''、右側を'''下(しも)'''という。珠を上下に滑らせることで計算が行われ、梁と接している珠の数が盤面に置かれている数字(布数)を表す。
近年では付加機能としてボタン1つでご破算(珠払い)ができるワンタッチそろばんなども存在し<ref>[http://www.soroban.com/japanese/shopping/?ca2=1][[トモエ算盤]]、[http://www.unshudo.co.jp/products/index.html 雲州堂]など各社から販売されている。</ref>、各種競技会や検定試験で使用可能である。
=== 珠の数 ===
芯(軸)ごとの珠の数は顆という単位を用いる<ref name="shintei26" />。例えば天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置したそろばんであれば天1顆、地4顆(天一地四)の形式となる<ref name="shintei26" />。天の1珠は梁に付くと5を表し、状態で0または5を表すため'''五珠'''(ごだま)、地の4珠は梁に付くと1つが1を表し、状態で0から4までを表すため'''一珠'''(いちだま)という。
枠が大きく珠の形状が丸い中国の算盤(さんばん)では'''天2顆・地5顆(天二地五)'''のそろばんが用いられていた。このそろばんは普通の置き方で五珠で0、5または10、一珠で0から5まで、1桁では0から15まで表せる。さらに上の五珠を半分下ろし、下の五珠を完全に下ろすという特殊な置き方(「懸珠」と呼ばれる)は15を表すので、1桁で最高20まで置けることになる。現代の中国で算盤がいまだに用いられることがあるのは、[[尺貫法]]が民間に根強く残っているからである。中国で発達した尺貫法では[[度量衡]]の重さの単位で1[[斤]]が16[[両]]と定められていたため、[[十六進法|十六進数]]の計算をする必要があったのである。
日本では[[十六進数]]の計算は必要ではなかったが、江戸時代の乗算や除算の方法(尾乗法・中乗法・帰除法)では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあった(尾乗法・中乗法・帰除法では、一時的に1桁に最大18まで溜まる場合があり、16以上の場合は懸珠を使うことになる)ので、江戸時代まではこの五珠2つの形式が多く使われていた。明治時代になって、不要な五珠を1つ減らした天1顆・地5顆の五つ珠(いつつだま、天一地五ともいい、1桁に10までの数が置ける)の形が普及したが、地5顆の形はしばらく続いた。江戸時代中期には[[乳井貢]]などから四つ珠利用の提案があったが定着はしなかった。時代が下り、榊原孫太郎などの教育研究者の啓蒙運動により四つ珠そろばんが次第に認知されるようになる。
日本では昭和10年代に珠算教育に用いる児童用そろばんの標準型を天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠(天1顆、地4顆の形式)と定めた<ref name="shintei26">{{harvnb|二階|1939|page=26 }}</ref>。
天1顆、地4顆の形式には次のような利点がある。
*1桁で0から9までの数を表すことから筆用数字の記数法と一致し、暗算や筆算とも連携が良い<ref name="shintei28">{{harvnb|二階|1939|page=28 }}</ref>。
*珠の数が少なく数の認識が容易である<ref name="shintei28" />。
*珠の数が多いと誤謬がおきる確率が高くなる<ref name="shintei28" />。
*地5顆とすると同一の数に幾通りも表現があるため合理的でなく煩瑣である<ref name="shintei28" />。
*地5顆とすると計算上都合の良い場合があるが、そのような場合は極めて限定的である<ref name="shintei28" />。
国際的に[[メートル法]]が使用されるようになり、中国でも天1顆・地4顆の四つ珠のそろばんが普及してきている。
珠の構成については特殊で変則的なものもある。10行の芯に10個の珠が並ぶ100珠そろばん(百玉計数器)は100個の珠が数そのものを表すというもので視覚的に数字と算数を理解するのに向いておりもっぱら低年齢層向けの教育補助具として用いられている。また、通常のそろばんの五珠の部分のみ(0と1のみ)とした2進法のそろばんもある<ref>[http://www.unshudo.co.jp/story/etc/2008/10/003.html そろばん四方山話] 雲州堂 2014年1月6日閲覧</ref>。
=== 珠の形 ===
日本では[[江戸時代]]にそろばんが広まっていくうち、枠の大きさが手の大きさに合わせて小さめに、そして珠の形状が素早く計算しやすいように円錐を2つ合わせた菱形のような形に変化していった。
=== 桁の数 ===
珠を通す芯(軸)の数が'''桁'''(けた)となり奇数が一般的である。桁数は13桁、17桁、21桁、23桁、27桁、35桁のものが多い<ref name="shintei27">{{harvnb|二階|1939|page=27 }}</ref>。一番多く作られているのは23桁のものである。桁数は多くなると持ち運びに不便である<ref name="shintei27" />。反面、桁数が少なすぎると乗法や除法の計算に不便である<ref name="shintei27" />。
梁には真ん中を基準として、左右の端まで一定の桁ごとに'''定位点'''が打たれている。標準的なそろばんでは定位点は4桁ごとに打たれている<ref name="shintei26" />。
なお、実用に用いられたそろばんには、桁ごとに梁に'''金額(千、百、十、[[円 (通貨)|円]]、十、[[銭]]、[[厘]])'''や'''体積([[石 (単位)|石]]、[[斗]]、[[升]]、[[合]]、[[勺]])'''を記したものもある<ref>{{harvnb|二階|1939|page=29 }}</ref>。
== 計算法 ==
{{Main|珠算}}
以下は天(梁の上側)に1つの珠、地(梁の下側)に4つの珠を配置した天1顆、地4顆の形式のそろばんの計算法。
=== 布数法 ===
布数法とは数を表現するための珠の置き方である。天(梁の上側)にある1つの珠を五珠、地(梁の下側)にある4つの珠を一珠という。
{| cellspacing="10" style="text-align:center"
|[[画像:Soroban 0 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 1 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 2 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 3 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 4 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 5 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 6 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 7 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 8 cc.svg|20px]]||[[画像:Soroban 9 cc.svg|20px]]
|-
|0||1||2||3||4||5||6||7||8||9
|}
一般的に一の位は枠上の定位点の付いた桁(軸の位置)に置くのが一般的で左に向かって十進法で位取りを行う。
=== 加法及び減法 ===
そろばんの用語では、加法及び減法をまとめて'''見取り算'''と呼ぶ。
==== 加法 ====
(例)'''1937+284'''
{| style="text-align:right"
|{{そろばん|1937}}
|→||{{そろばん|2137}}
|→||{{そろばん|2217}}
|→||{{そろばん|2221}}
|
|-
|1937||||<nowiki>+200</nowiki>||||<nowiki>+80</nowiki>||||<nowiki>+4</nowiki>||='''2221'''
|}
==== 減法 ====
(例)'''1756-957'''
{| style="text-align:right"
|{{そろばん|1756}}
|→||{{そろばん/直接入力|6|5|8|0|}}
|→||{{そろばん|806}}
|→||{{そろばん|799}}
|
|-
|1756||||<nowiki>-900</nowiki>||||<nowiki>-50</nowiki>||||<nowiki>-7</nowiki>||='''799'''
|}
=== 乗法及び除法 ===
乗算・除算の場合は、特に慣れていない人の場合、乗数・除数を被乗数・被除数の左側に置くことが多いが、計算中は乗数・除数を全く操作しないので、乗数・除数については、紙に書いてある数字や印刷してある数字を使う方法もあり、あるいはある程度慣れている人の場合、記憶だけに留める方法(片落とし)を取ることが多い。また、そろばんの用語では、被乗数・被除数を'''実'''(じつ)、乗数・除数を'''法'''(ほう)という。
そろばんでの乗算・除算において、答えが出る位置を決めることを'''定位法'''と呼ぶ。
* 現在一般的な方法の乗算・除算(それぞれ新頭乗法・商除法)の場合、法が整数の場合には、法の桁数+1桁だけ実より乗算では右に、除算では左にずれて答え(積・商)が出てくる。
* 江戸時代~昭和初期に行われていた古式の乗算・除算(乗算では頭乗法・尾乗法・中乗法、除算では帰除法)の場合、法が整数の場合には、法の桁数だけ実より乗算では右に、除算では左にずれて答え(積・商)が出てくる。
==== 乗法 ====
そろばんの乗法には実(被乗数)の尾桁から計算する'''留頭乗法'''と実(被乗数)の首桁から計算する'''破頭乗法'''がある<ref name="shintei49">{{harvnb|二階|1939|page=49 }}</ref>。また、それぞれ法(乗数)の首位数から計算を始める'''頭乗法'''と法(乗数)の尾位数から計算を始める'''尾乗法'''がある<ref name="shintei49" />。
以上の組み合わせにより主な乗法として留頭尾乗法、留頭頭乗法、破頭頭乗法、破頭尾乗法の四種がある<ref name="shintei49" />。
またこの他に'''中乗法'''といって、法の次位数から尾位数まで計算した後、最後に法の首位数を計算する方法もある。
一般には留頭頭乗法の欠点を克服するため部分積を置く位置を改良した方法が用いられる<ref name="shintei54" />。以下に示すのは'''新頭乗法'''と呼ばれる現在一般的な方法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。
(例)'''32×97'''
{| style="text-align:right"
|{{そろばん/直接入力|2|3|-1=0|-2=0|-3=0|}}
|→||{{そろばん/直接入力|0|3|-1=0|-2=0|-3=0|}}
|→||{{そろばん/直接入力|0|3|-1=1|-2=8|-3=0|}}
|→||{{そろばん/直接入力|0|3|-1=1|-2=9|-3=4|}}
|-
|32||||2を消して||||2×90||||<nowiki>+2×7</nowiki>
|-
|||→||{{そろばん/直接入力|0|0|-1=1|-2=9|-3=4|}}
|→||{{そろばん/直接入力|2|0|-1=8|-2=9|-3=4|}}
|→||{{そろばん/直接入力|3|0|-1=1|-2=0|-3=4|}}
|
|-
|||||3を消して||||<nowiki>+30×90</nowiki>||||<nowiki>+30×7</nowiki>||='''3104'''
|}
特にそろばんの上級者の乗算の場合は、法のみならず実もそろばんの布数から省略し、積のみをそろばんに置いていく両落としが用いられることも多い。
古式の尾乗法や中乗法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。
==== 除法 ====
そろばんの除法は種類が多くはなく、[[割り算九九]]を用いる'''帰除法'''と[[掛け算九九]]を用いる'''商除法'''がある<ref name="shintei54">{{harvnb|二階|1939|page=54 }}</ref>。
以下に示すのが現在一般的な商除法(法を盤面に置いていない片落としの例)である。
(例)'''1416÷59'''
{| style="text-align:right"
|{{そろばん/直接入力|6|1|4|1|0}}
|→||{{そろばん|21416}}
|→||{{そろばん|20416}}
|→||{{そろばん|20236}}
|-
|1416||||2を置いて||||<nowiki>20×50</nowiki>を引く||||<nowiki>20×9</nowiki>を引く
|-
|||→||{{そろばん|24236}}
|→||{{そろばん|24036}}
|→||{{そろばん|24000}}
|
|-
|||||4を置いて||||<nowiki>4×50</nowiki>を引く||||<nowiki>4×9</nowiki>を引く||='''24'''
|}
古式である帰除法の場合は、一時的に1桁に10以上溜まる場合があるため、完全な布数には天二地五が必要となり、天一地五や天一地四ではそのような場合記憶に頼ることになる。
=== 開法 ===
[[冪根|開法]]の計算は、次を参照。
*[[開平法#珠算による開平法|開平]]
*[[開立法#珠算による開立法|開立]]
== 生産 ==
[[ファイル:Ono City Tradition Industrial Hall01n4272.jpg|thumb|[[小野市伝統産業会館]]]]
[[ファイル:Osumi Soroban 1949 1029.jpg|thumb|1949年頃のそろばん工場。「大隅そろばん」として知られたが現存しない([[鹿児島県]][[高山町 (鹿児島県)|高山町]]、現在の[[肝付町]])]]
日本国内では[[兵庫県]][[小野市]]と[[島根県]][[奥出雲町]]が二大産地である。小野市のそろばんは'''[[播州そろばん]]'''、奥出雲町のそろばんは'''雲州そろばん'''として知られる。
播州そろばんは1976年に、雲州そろばんは1987年に[[伝統工芸品]]の指定を受けている。ともに指定を機に小野市で1983年に[[小野市伝統産業会館]]が、奥出雲町で1990年に[[雲州そろばん伝統産業会館]]<ref>[https://www.okuizumogokochi.jp/340 雲州そろばん伝統産業会館](奥出雲観光文化協会公式サイト「奥出雲ごこち」)</ref>開設され、国内外の様々なそろばんが展示されている。
珠の素材となる木材には国産材では[[オノオレカンバ]]など[[カバノキ]]類<ref>[http://www.soroban.com/japanese/process/ そろばんのできるまで] トモエ算盤 2014年1月6日閲覧</ref>や[[ツゲ]]、[[イスノキ]]、[[ソヨゴ]](福良木:フクラソウ)、[[マンサク]]、[[カナメモチ]]、[[スモモ]]、[[ケヤキ]]、[[モチノキ]]、[[クワ]]、[[ナツメ]]、[[クスノキ]]、輸入材では[[コクタン]]類、[[シタン]]、[[ビャクダン]]、[[レッドサンダー (木材)|レッドサンダー]]([[紅木紫檀]])、[[リグナムバイタ]]、[[カリン]]、[[タガヤサン]]、[[ブラジリアン・ローズウッド]]、[[パオロッサ]]([[ローズウッド (木材)|ローズウッド]])<ref>木材図鑑 パオロッサ[https://wp1.fuchu.jp/~kagu/mokuzai/pao.htm]</ref>など硬質で狂いがでないものが用いられる。またかつては[[ウメ]]、[[ヒイラギ]]、[[ツバキ]]、[[ウバメガシ]]、[[チャンチンモドキ]](楆:カナメノキ)も使われていた。また[[牛骨]]やラクト(ラクトロイド:[[カゼインプラスチック]])<ref>桜沢工芸社 天然素材「ラクト」素材へのこだわり[http://sakurazawa-kougei.com/publics/index/10/]</ref>など動物由来素材も使われる<ref>[https://kinomemocho.com/zatu_soroban.html 精緻な工芸品としての算盤](木の雑記帳)</ref>。
伝統工芸品の一環として作られる高級そろばんもある。
== 文化 ==
*日程は地域により異なるが「はじき初め」を行う地域がある。
*[[8月8日]]はパチパチとそろばんの珠をはじく音に通じるため「そろばんの日」となっている。
*[[アーサー・C・クラーク]]のSF短編『彗星の中へ』{{Harv|アーサー・C・クラーク|1985}}<ref>{{Cite journal|last=Wang|first=Chunjie|last2=Weng|first2=Jian|last3=Yao|first3=Yuan|last4=Dong|first4=Shanshan|last5=Liu|first5=Yuqiu|last6=Chen|first6=Feiyan|date=2017-10|title=Effect of abacus training on executive function development and underlying neural correlates in Chinese children|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/hbm.23728|journal=Human Brain Mapping|volume=38|issue=10|pages=5234–5249|language=en|doi=10.1002/hbm.23728|issn=1065-9471|pmc=PMC6867117|pmid=28727223}}</ref>はコンピューターの故障により軌道計算のできなくなった宇宙船にたまたま日本人が乗り合わせており、乗員にそろばんを教えて総出で計算を行い危機を脱出するというストーリー。[[宮崎駿]]『[[天空の城ラピュタ]]』においても「東洋の計算器」としてドーラが[[タイガーモス号]]の[[航法]]計算に使う描写がある(現実では専用の計算尺「[[フライトコンピューター]]」が使われる)。
*本来そろばんは計算のための道具であるが、構造上、振ると音がするため[[シェイカー (楽器)|シェイカー]]のような使い方をすることがある。
**[[ボードビリアン]]の[[トニー谷]]は芸の一つとして使った。
**「そろばん踊り」は[[福岡県]][[久留米市]]の[[夏祭り]]の踊り、またその唄。特産の[[久留米絣]]にちなみ機織(はたおり)の音に見立ててそろばんを振ったり、珠を手で擦って音を出しながら踊る。
*そろばんをモチーフに上段の「五」と全部の「九」を組み合わせて「合格」を表す合格祈願グッズが販売されている。これは天1珠を下ろした位置で軸に接着、地4珠を相互に接着し必ず4つ一緒にしか動けないようにしたもので、その結果、表現できるのは「五」か「九」だけにし、「五か九」を「ごかく」から「合格」と読ませる。毎年受験の時期には「合格そろばん」として人気の商品である。
*慣用句として、商取引などの際にどの程度儲かるか試算することを「そろばんを弾く」という。
== 効果 ==
そろばんのトレーニングによって、以下のような効果があることが期待されています。
* 計算力・暗算力の向上
* 忍耐力・集中力の向上
* 実行機能の向上<ref>{{Cite journal|last=Wang|first=Chunjie|last2=Weng|first2=Jian|last3=Yao|first3=Yuan|last4=Dong|first4=Shanshan|last5=Liu|first5=Yuqiu|last6=Chen|first6=Feiyan|date=2017-10|title=Effect of abacus training on executive function development and underlying neural correlates in Chinese children|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/hbm.23728|journal=Human Brain Mapping|volume=38|issue=10|pages=5234–5249|language=en|doi=10.1002/hbm.23728|issn=1065-9471|pmc=PMC6867117|pmid=28727223}}</ref>
* ワーキングメモリーの向上<ref>{{Cite journal|last=Roy|first=Mansi Sinha|last2=Swarna|first2=Keerti|last3=Prabhu|first3=Prashanth|date=2020-05-01|title=Assessment of auditory working memory in children with abacus training|url=https://doi.org/10.1007/s00405-020-05840-z|journal=European Archives of Oto-Rhino-Laryngology|volume=277|issue=5|pages=1531–1536|language=en|doi=10.1007/s00405-020-05840-z|issn=1434-4726}}</ref>
* 障害をもつ子の数概念の学習<ref>{{Cite web|和書|title=そろばんは発達障害をもつ子どもにもおすすめ!7つのメリットと注意点を解説 |url=https://soroban-life.com/soroban-development/ |website=そろばん生活 |date=2023-05-27 |access-date=2023-06-15 |language=ja}}</ref>
* 各種脳活動の変化<ref>{{Cite journal|last=Wang|first=Chunjie|date=2020|title=A Review of the Effects of Abacus Training on Cognitive Functions and Neural Systems in Humans|url=https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fnins.2020.00913|journal=Frontiers in Neuroscience|volume=14|doi=10.3389/fnins.2020.00913/full|issn=1662-453X}}</ref>
== その他 ==
*[[通話表#和文通話表|和文通話表]]では、「[[そ]]」を送る際に「'''そろばんのソ'''」という。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin|2}}
*{{Cite book |和書 |title=新定珠算教授ノ実際 |publisher=培風館 |year=1939 |ref=harv |last=二階 |first=源市 |ncid=BA33792316}}
*{{Cite book |和書 |last=荒木 |first=初藏 |last2=松崎 |first2=喜義 |authorlink=荒木初藏 |authorlink2=松崎喜義 |year=1953 |title=そろばんの基礎手引 |publisher=通信教育振興会 |id={{全国書誌番号|20832132}} |ref=harv }}
*{{Cite book |first=Takashi |last=Kojima |first2=Charles E. |last2=Tuttle |year=1954 |title=The Japanese Abacus, Its Use and Theory |publisher=Company Inc. |language=英語 |oclc=523165 |isbn=0-8048-0278-5 |ref=harv }}
*{{Cite book |和書 |last=バークレー |year=1957 |authorlink=:en:Edmund Berkeley |translator=[[高橋秀俊]] |title=人工頭脳 |series=現代科学叢書 ; 第44 |publisher=みすず書房 |id={{全国書誌番号|57000106}} |ref=harv }}
*{{Cite book|和書 |author=アーサー・C・クラーク |authorlink=アーサー・C・クラーク |translator=斎藤伯好 |chapter=彗星の中へ |title=10の世界の物語 |origyear=1962 |publisher=早川書房 |series=ハヤカワ文庫, SF617 |ncid=BN07322430 |isbn=415-010617-7 |year=1985 |ref=harv}}
*{{Cite book |和書 |last=遠藤 |first=諭 |year= |title=計算機屋かく戦えり |edition=ハードカバー版 |publisher=アスキー |ref=harv }}
*{{Cite book |和書 |author=R・P・ファインマン |year=1986|translator=[[大貫昌子]] |title=[[ご冗談でしょう、ファインマンさん]] |publisher=岩波書店 |ncid=BN00231075}}
*{{Cite book |和書 |author=ドクターアキヤマ |year=2013 |title=愛しの昭和の計算道具 |publisher=東海大学出版会 |isbn=978-4486-03747-7 |ref=harv }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Columns-list|2|
*[[小野市伝統産業会館|算盤博物館]]
*[[暗算]]
*[[和算]]
*[[毛利重能]]
*[[前田利家]]
*[[計算機]]
*[[電卓]]
*[[計算尺]]
*[[アナログ]]
*[[デジタル]]
*[[乳井貢]]
*[[菱形]]
*[[アーガイル柄]](そろばん柄)
*[[トニー谷]]
*[[太鼓の達人]](このゲームの収録曲「十露盤2000」という曲は、名前通りそろばんがモチーフとなっている)
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Soroban}}
{{Refbegin|2}}
*[https://www.soroban.or.jp/ 全国珠算教育連盟]
*[https://www.shuzan.jp/ 日本珠算連盟]
*[https://shuzan-gakko.com/ 全国珠算学校連盟]
*{{Kotobank}}
{{Refend}}
{{DEFAULTSORT:そろはん}}
[[Category:算数]]
[[Category:アバカス]]
[[Category:事務用品]]
[[Category:デジタル技術]]
[[Category:コンピュータ史]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:音具]]
|
2003-06-30T09:20:06Z
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2023-12-11T16:38:46Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8D%E3%81%B0%E3%82%93
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オーケストラ
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オーケストラ(伊/英: Orchestra)は、管弦楽を多重編成で演奏する団体。
現在では、ロマン派音楽の頃に多かったオーケストラ編成が「標準的な編成」とされている。古典的な作品の演奏ではこれよりも若干小規模となり、それに対し近代的な作品の演奏ではより大規模なオーケストラとなる場合がある。これらの編成は、主要な管楽器の員数によって二管編成、三管編成、四管編成などと呼ぶ。団体としてのオーケストラの構成員の数は様々なので、団体と作品によっては通常の団員に加えて臨時参加の奏者を加えて演奏することもある。
→#編成
なお、演奏の質が高く評価されているオーケストラは主にプロフェッショナルのオーケストラであるが(→#評価)、それ以外にアマチュア・オーケストラも存在している。
「Orchestra」は、古代ギリシアのギリシャ語のオルケーストラ(ορχηστρα)に由来する。これは舞台と観客席の間の半円形のスペースを指しており、(そこにコロス(合唱隊。)が配置され)、舞踊、器楽、合唱などが行われた。
近代になり、「Orchestra」は劇場の平土間席(1階の舞台正面の席)の呼称になった。また、オペラの上演などでは、舞台と観客席の間で奏する器楽奏者のグループも「Orchestra」と呼ばれるようになった。
さらに時代が下ると、器楽奏者のグループがオペラから独立して演奏する場合でも「Orchestra」と呼ばれるようになった。
現在の弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽の起源としては、ヴェネツィア楽派の大規模な教会音楽や、その後のオペラの発展が重要である。古典派期には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽を増やし大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって、現在のような形となった。グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』において、ピッコロ、クラリネット、バスドラム、トライアングル、シンバルがオーケストラに加わった。
ロマン派音楽ではさらに管楽器の数や種類が増え、チャイムやマリンバ、グロッケンシュピールなどの打楽器が加えられた。時にはチェレスタ、ピアノなどの鍵盤楽器やハープが登場するようにもなった。
多くのプロ・オーケストラは常設かつ専門の団体である。
歌劇場のオーケストラピット内での活動を主とするオーケストラはドイツを中心に多数存在し、そのほとんどがオペラのみならず演奏会も行う。ウィーン国立歌劇場の管弦楽団員の中から組織されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、その一例である。ドイツ圏はあわせて下記の放送交響楽団や、いずれにも属さないコンサートオーケストラも非常に盛んなこともあり、世界でも群を抜いたオーケストラ大国となっている。東西ドイツ統一時にはプロオーケストラの合計数200といわれた(オーストリアやスイスは含まれない)が、現在は統合により若干減少している。ただし、税金の補助が厚いため、たとえば概ね自主運営に頼るロンドンの5大オーケストラが70~90名編成で大曲演奏の際はエキストラを入れているのに対し、人口7万の都市に拠るバンベルク交響楽団ですら110名編成を擁する(同団は元は大都市プラハを基盤にしていたという特殊な歴史的事情もあるが)など、全体にフル編成志向が強い。これは、ローテーション式が多い歌劇場管弦楽団の伝統も影響している。オーケストラは小編成で発足して徐々に拡充していく例が一般的で、大編成オーケストラは財政基盤が安定していることが多いため、編成の大きさがそのままオーケストラの格付けに結びつくように誤解されることもあるが、必ずしもそうではなく、あえて三管編成にとどまったまま世界一流と見なされる団体もロンドンなどをはじめ多く存在する。
また、放送局が専属のオーケストラを持つ例も多い(放送オーケストラ)。これはもともと、番組のテーマ曲、ドラマの伴奏、各種の放送用音楽を調達しやすくするために所有しはじめたのが根源であり、大小さまざまな放送局がそれぞれの経済規模にあったオーケストラを所有していた。大きな放送オーケストラは、主に国家予算で運営されてきた、世界の国営放送局や、それらにかわる公共放送局などであり、放送の歴史が長い欧州に多い。ラジオフランスに代表される各国の国営放送直営の楽団や、ドイツの各地域を担当する公共放送局の楽団(バイエルン、ベルリン、北ドイツなど)などがその例である。BBCも有名交響楽団を持つ公共放送局である。また、商業放送会社が所有したオーケストラの一例として米国のNBCが所有していたNBC交響楽団がある。日本においてはABCがABC交響楽団ほか複数の管弦楽団を所有し、演奏会のほかに、放送番組用の音楽を多数演奏した。また日本フィルハーモニー交響楽団は、当初文化放送の専属オーケストラとして誕生し、フジテレビジョンと専属契約を結んでいた。NHK交響楽団は独立した財団法人ではあるが、日本放送協会(NHK)と密接な関係を有しており、放送局付属オーケストラに準ずる存在となっている。また、ベルリンの米軍占領地から東ドイツに向けて放送されていたRIASが所有していたベルリン放送交響楽団などもあり、現在も名を変えて活動している。
地方都市に本拠を置く楽団の場合は、楽団の運営資金の多くを自治体に依存して運営されていることがある。この場合、自治体の財政状態に楽団の運営も左右されがちになっている。
反面、独立の団体としてのオーケストラは、オーナーからの定期的な演奏の発注がないため、定期演奏会の入場料やレコード録音の契約料を頼みにしなければならず、優れた契約スポンサーを持っているか、ごく一部の人気楽団や経営形態の改善に成功した楽団を除けば、これだけで存立することは難しい。オーナーやスポンサーの引き揚げによって、独立運営を強いられるケースもあり、これは直接オーケストラの存続に関わる。海外ではEMIの支援を失ったフィルハーモニア管弦楽団の解散、日本でも1972年の日本フィルハーモニー交響楽団の解散・分裂などの事例が発生している。上2件は再建に成功した例だが、NBC交響楽団はスポンサー撤退、新組織以降後9年で消滅した。日本のABC交響楽団に至っては名義の継承先が転々として解散時期すら明確に記録されていない。
以上のような常設楽団に対し、毎年の音楽祭などで臨時に集まる音楽家によって組織されるものも存在する。例えばバイロイト祝祭管弦楽団が有名なものであり、日本ではサイトウ・キネン・フェスティバル松本の際に結成されるサイトウ・キネン・オーケストラなどがある。これらは、その都度メンバーが変わることも多く、特にバイロイト祝祭管弦楽団はウィーン・フィル団員が多数を占めた時期、ベルリン国立歌劇場管弦楽団員が主体であった時期など、年度によって響きが大きく変わっているといわれる。また、通常は楽員が個別の音楽活動をし、コンサートの度に集まる形で運営されている非常設楽団も存在する。日本では静岡交響楽団や浜松フィルハーモニー管弦楽団、Meister Art Romantiker Orchesterなどがその例である。
2020年にはじまった新型コロナウイルス感染症の世界的流行で、世界各地のオーケストラは大きなダメージを受けた。観客を集めるコンサートが、感染防止のため開催できなくなり、その収入が途絶え、楽団員に給与として支払えるお金の総額が大幅減となったり途絶えるなどしたり、楽団員が大量解雇されることも世界各地で起きた。最低限の存続すら危うくなり、消滅の危機に瀕したオーケストラも多かった。
(なお、オーケストラに経済的ダメージが生じた因果関係の経路は複数あり)オーケストラの演奏を聴くために観客が国境を超えて旅をすることもパンデミック中は止まってしまったことも挙げられ、さらに言うと観光都市は観光客がすっかり途絶え、市の観光産業からもたらされる税収が激減してしまい市の財政が悪化し、これが市のあらゆる活動にダメージを与え、市によって運営されているオーケストラに割り当てるためのお金も減ったり無くなってしまうということが起きた。
ダメージの大きさが分かる事例を挙げると、たとえばアメリカのサンアントニオ交響楽団の運営の側は2021年9月、長期のパンデミックが原因の財政難を理由として楽団員を72人から42人へと大幅削減するうえに(解雇しない楽団員についても)給与を2/3に減額すると提案・告知。その判断に対して楽団員らの側はストライキで抵抗するということも起きた。
日本でもやはり大きなダメージがあり、日本オーケストラ連盟によると、加盟37楽団のうち、楽団員が給与だけで生計を立てられるのは元々約半数であったが、日本での新型コロナウイルス・パンデミックの社会的影響はやはり日本のオーケストラにも大きなダメージを与え、多くの公演が中止・延期になり、給与はさらに減少した。学校等で教える仕事も臨時休校で中止となり、楽団の収入減少により団体存続の危機が起きている。楽団に所属しない個人演奏家の場合はさらに深刻で、オーケストラにエキストラ出演するフリーランスの演奏家は必要不可欠だが、公演中止のほか講師の仕事もなくなり、自宅での個人レッスンのみで、個人収入が減っているという。
第1ヴァイオリンからコントラバスまでの弦五部は多くの場合、各部の人数が演奏者に任されているが、現代では一般的に次のようなパターンがある。
管楽器は原則として楽譜に書かれた各パートを1人ずつが受け持つ。ただし実際の演奏会では、倍管といって管楽器を2倍にしたり、「アシスタント」と呼ばれる補助の奏者がつくこともある。
楽譜に示されたオーケストラの編成の規模を示すのに、二管編成、三管編成、四管編成という言葉が使われる。いずれも木管楽器の各セクションのそれぞれの人数によっておおよその規模を示す。
この時代の西洋にはオーケストラは存在しないと言われている。しかし西洋以外では、当時の中国宮廷音楽は数百人の合奏による音楽が演奏されていることを示す資料が発掘されている。
モンテヴェルディはスコア序文に楽器編成を書いた世界初の作曲家である。そこにはオーケストラの黎明期の編成が記されている。
バロック期のオーケストラでは、管楽器は各パート1名、ヴァイオリンは2パート2〜3名ずつ、ヴィオラ、チェロ2名、コントラバス、ファゴット、鍵盤楽器各1名という程度の規模が多く、大規模でも総勢20名程度のものであった。弦楽を含めた全てのパートを各1名で奏することもある。そのため、バロック期のオーケストラは室内楽あるいは室内管弦楽の範疇とされることもある。なお、1749年ヘンデルによって作曲された管弦楽組曲「王宮の花火の音楽」では、大国イギリスの国家行事という特殊事情もあり、現在考えても膨大な100人という規模の楽団によって、式典の屋外会場で盛大に演奏された(参照:巨大編成の作品#そのほか)。
次に示すのは、18世紀前半頃の後期バロック音楽(J.S.バッハやテレマン、ヘンデル等の盛期)の曲に多く見られる、規模の大きめな管弦楽編成の例である。
古典派二管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名(ピッコロが加わるなどの多少の増減はあり得る)で、ホルンやトランペットも2名程度、ティンパニ、弦楽五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は「12型」で6-5-4-3-2プルト程度であり、オーケストラ総勢で60名ほどになる。
モーツァルトが交響曲第1番を父レオポルトの指導の下で作曲した際の編成は「オーボエ2、ホルン2、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バッソ」であった。当時、コントラバスのパートは「バッソ」あるいは「バッシ」と書かれ、チェロ、ファゴット、ヴィオローネまたはコントラバスで斉奏することが求められていた。エステルハージ家ではヴァイオリンは第1第2ともに2人に増やされていた。
以下は、古典派音楽の盛期頃(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)に多く見られる編成の例である。ただし、この頃は標準編成なるものは存在せず、オーボエ2とホルン2と弦五部に加え「パトロンからの命令」で決まった編成が多い。
後期ロマン派二管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名(それぞれの派生楽器であるピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットへの持ち替えもありうる)で、ホルンが4名、トランペットが2~3名程度、さらにトロンボーンが3名、チューバが加わる。ティンパニの他に若干の打楽器が4名程度加わる。さらに編入楽器としてハープが加わる。弦楽五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は現代のコンサートにおける標準的な編成で「14型」で7-6-5-4-3プルト程度であり、オーケストラ総勢で80名ほどになる。チャイコフスキーの作品は、現在このくらいの規模で演奏される。
音響空間次第で、弦の数を変えることは可能である。結果的に、二管編成を完成させた時期はチャイコフスキーが活躍した時代である。多くの作曲家がこの編成をベースに協奏曲を書いている。
三管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名にそれぞれの派生楽器が加わって、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが3名となる。ホルンは4名程度、トランペットとトロンボーンが各3名程度、チューバ1名となる。打楽器もティンパニ1〜2人を含む6名程度、編入楽器はハープ1名にさらにチェレスタが加わることがある。この編成に見合う弦楽五部の人数はいわゆる「16型」8-7-6-5-4プルト程度であり、総勢90名ほどである。
ワーグナーの「ジークフリート」はその最初の完全な形といわれている。
日本のオーケストラは三管に対して伝統的に16型で対応してきた(1980年代まで)が、近年では世界的な常識にあわせ14型に直しているオーケストラが優勢になった。結果的に三管編成を完成させた時期はラヴェルが活躍した時代である。最終的に、オーケストラに最も適したサイズとされ国際的な標準になった。近年は、14型を下回る3管編成も珍しくなくなってきている。
四管編成では、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが4名となる。ホルンも4から8人、トランペットとトロンボーンが3〜4人、チューバが1〜2人。打楽器もティンパニ1〜2人を含む7名程度。編入楽器は4名程度。弦楽五部もいわゆる「18型」の9-8-7-6-5プルト程度となり、総勢100名にものぼる。ワーグナー、マーラー、ストラヴィンスキー、ベルクの作品には、この規模の作品が多い。その最初の形はベルリオーズのレクイエム作品5や同じくテ・デウムであるが、当時はいわゆる倍管機能のユニゾンで、後年ワーグナーがその「ニーベルングの指環」や「パルジファル」でその編成を機能的にほぼ組織化した。
国際的には四管編成には16型で対応しており、18型は稀である。ホルンが4から8人に増えるのは、ホルンは通常1パートを2人で編成する為、四管編成だと倍の8人となる。その他ワーグナーやブルックナーなどの曲でホルン奏者の一部がワグナーチューバに持ち替える為、奏者が多数必要となる。チューバの本数が増えない理由は、増数したトロンボーンがバストロンボーンやコントラバストロンボーン、チンバッソなどチューバの音域を賄える楽器である為にチューバの数が増えないと考えられる。かつては3台ハープや3台ピアノも普通に見られたが、現在ではハープや鍵盤が二台を越えることはほとんどない。結果的に、四管編成を完成させた時期はリヒャルト・シュトラウスが活躍した時代である。
四管編成よりさらに大きく、各セクションが5人平均となるもの(五管編成相当)もある。ここでは、各セクション4本ずつのスタンダードの木管楽器の上に、ピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットが加わった形が多い。ホルンは8人以上。トランペットは5から6人。トロンボーンは差が大きく3人から5人。チューバは2人以上が多い。打楽器は7人以上。弦楽合奏は「20型」の10-9-7-6-5プルトが一般的でさらにオルガン・ピアノ・チェレスタ・4人以上のハープ・ギターやマンドリンが付くこともある。リヒャルト・シュトラウス、マーラー、ストラヴィンスキーの他に、シェーンベルク、ヴァレーズ、ケージ等がいる。管弦楽は120名を超える。
なお、これよりもさらに大きな編成で書かれた巨大編成の作品もある。リヒャルト・シュトラウスの「タイユフェ」作品52、ヴァレーズの「アメリカ」(1922年版)、メシアンの「アッシジの聖フランシスコ」や「閃光」、ハヴァーガル・ブライアンの交響曲、黛敏郎の「涅槃交響曲」などがそれにあたる。なおこのような木管楽器の編成は、各セクションが同程度の人数というような形式にあまり当てはまらず、フルートとクラリネットが多くなる割りには、オーボエとファゴットはあまり多くならない傾向があり、金管楽器も相当変則的になり、国際的な基準というものはない。
最も小さな編成に、木管楽器が1人ずつ程度の編成がある。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、基本的に木管各1名、ホルン2、トランペット1、打楽器は無しで、弦もワーグナー自宅での初演時は1人ずつであった。これは20世紀後半の室内オーケストラを先取りするものであったが、当時は「オーケストラ」とはみなされていなかった。
ヴェーベルンの「5つの小品」作品10のように多くの打楽器や鍵盤楽器が入っていたり、同じく作品21や29、シェーンベルクの室内交響曲第1番のような変則的なものも多い。しかし、この「変則」的な組み合わせが20世紀後半の音楽では優勢になる。室内オペラはこの編成で書かれることがある。
戦後はシェーンベルクに倣い、管楽器の数が弦楽器を上回った室内オーケストラは、20世紀後半以降数多い。ヘンツェのレクイエムは弦楽器の量を管楽器が優に上回る典型例である。
オーケストラの楽器配置(Setting, Aufstellung)にはさまざまなやりかたがある。時代によって、また指揮者の方針によって工夫が重ねられてきた。
20世紀前半から半ばにかけては、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右に分ける楽器配置が多かった。これは「ヴァイオリン両翼配置」「対向配置」などと通称されている。
一方、華麗なオーケストラ・サウンドを追究し続けた指揮者レオポルド・ストコフスキーは、1930年代に独自の楽器配置を造り出した。これは、客席から向かって左側から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが並び、チェロの後方にコントラバスが置かれる。つまり、客席から向かって左から右にかけて、弦楽器を高音から低音へと並べるのである。この配置は「ストコフスキー・シフト」と通称され、コンサートホールでの響きが豊潤になるという利点とともに、1950年代頃から一般的に行われるようになったレコードのステレオ録音にも適しているとみなされ、20世紀後半には世界中のオーケストラに広まっていった。
以下に、現在使われている近代的なオーケストラの配置の一例(方向は、客席側から見たもの)を示す。弦楽器は「ストコフスキー・シフト」によっている。
外部リンク: stage formation of orchestra (オーケストラの楽器の並べ方)
現在のオーケストラはチューバが指揮者のすぐ横にいる、またはハープが指揮者の真ん前にいる、などといった変則配置は当たり前になっている。
ルチアーノ・ベリオの「コロ」は声楽家と器楽奏者がペアを組んで座る。
前衛の時代は変則配置で当たり前、という時代だったが、現代音楽の退潮に合わせて本来の古典的な配置を好む作曲家も多い。
多くの場合、指揮者は(専属契約を結んでいる場合でも)オーケストラの一員ではない。演奏会ごとに違う指揮者が指揮をすることが多い。しかし同時に、多くのオーケストラは「常任指揮者」(あるいは「首席指揮者」「音楽監督」)と呼ばれる特定の指揮者と長期にわたって演奏を行うため、その指揮者の任期中は、その指揮者の得意なレパートリーや演奏の様式によってオーケストラの個性が特徴付けられることが多く、しばしば常任指揮者や音楽監督の名前を冠して「~時代」などと言及されることもある。このような関係として特に有名なもの例を下に挙げる。
日本人においては、
(団体名は在任当時)
常任指揮者以外の指揮者を「客演指揮者」と呼ぶ。多くのオーケストラでは、多数の客演指揮者を迎えることで、公演レパートリーの不足を補ったり、新しい共演により芸術的な向上を目指すことがある。しかし、かつてのフルトヴェングラーやカラヤンのように、常任指揮者の権限によって、自分の気にそぐわない指揮者に客演させないというケースも存在する。
2010年発行のグラモフォン誌において、"The world’s greatest orchestras"として、以下の20楽団が選出されている。
|
[
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"text": "オーケストラ(伊/英: Orchestra)は、管弦楽を多重編成で演奏する団体。",
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"text": "現在では、ロマン派音楽の頃に多かったオーケストラ編成が「標準的な編成」とされている。古典的な作品の演奏ではこれよりも若干小規模となり、それに対し近代的な作品の演奏ではより大規模なオーケストラとなる場合がある。これらの編成は、主要な管楽器の員数によって二管編成、三管編成、四管編成などと呼ぶ。団体としてのオーケストラの構成員の数は様々なので、団体と作品によっては通常の団員に加えて臨時参加の奏者を加えて演奏することもある。",
"title": "概要"
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"text": "→#編成",
"title": "概要"
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"text": "なお、演奏の質が高く評価されているオーケストラは主にプロフェッショナルのオーケストラであるが(→#評価)、それ以外にアマチュア・オーケストラも存在している。",
"title": "概要"
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"text": "「Orchestra」は、古代ギリシアのギリシャ語のオルケーストラ(ορχηστρα)に由来する。これは舞台と観客席の間の半円形のスペースを指しており、(そこにコロス(合唱隊。)が配置され)、舞踊、器楽、合唱などが行われた。",
"title": "概要"
},
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"text": "近代になり、「Orchestra」は劇場の平土間席(1階の舞台正面の席)の呼称になった。また、オペラの上演などでは、舞台と観客席の間で奏する器楽奏者のグループも「Orchestra」と呼ばれるようになった。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 6,
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"text": "さらに時代が下ると、器楽奏者のグループがオペラから独立して演奏する場合でも「Orchestra」と呼ばれるようになった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "現在の弦楽合奏に管楽器の加わった管弦楽の起源としては、ヴェネツィア楽派の大規模な教会音楽や、その後のオペラの発展が重要である。古典派期には交響曲や協奏曲、オペラの伴奏として大いに発展し、コンサートホールでの演奏に適応して弦楽を増やし大規模になり、またクラリネットなど新しい楽器が加わって、現在のような形となった。グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』において、ピッコロ、クラリネット、バスドラム、トライアングル、シンバルがオーケストラに加わった。",
"title": "歴史"
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"text": "ロマン派音楽ではさらに管楽器の数や種類が増え、チャイムやマリンバ、グロッケンシュピールなどの打楽器が加えられた。時にはチェレスタ、ピアノなどの鍵盤楽器やハープが登場するようにもなった。",
"title": "歴史"
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"text": "多くのプロ・オーケストラは常設かつ専門の団体である。",
"title": "運営・組織"
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"text": "歌劇場のオーケストラピット内での活動を主とするオーケストラはドイツを中心に多数存在し、そのほとんどがオペラのみならず演奏会も行う。ウィーン国立歌劇場の管弦楽団員の中から組織されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、その一例である。ドイツ圏はあわせて下記の放送交響楽団や、いずれにも属さないコンサートオーケストラも非常に盛んなこともあり、世界でも群を抜いたオーケストラ大国となっている。東西ドイツ統一時にはプロオーケストラの合計数200といわれた(オーストリアやスイスは含まれない)が、現在は統合により若干減少している。ただし、税金の補助が厚いため、たとえば概ね自主運営に頼るロンドンの5大オーケストラが70~90名編成で大曲演奏の際はエキストラを入れているのに対し、人口7万の都市に拠るバンベルク交響楽団ですら110名編成を擁する(同団は元は大都市プラハを基盤にしていたという特殊な歴史的事情もあるが)など、全体にフル編成志向が強い。これは、ローテーション式が多い歌劇場管弦楽団の伝統も影響している。オーケストラは小編成で発足して徐々に拡充していく例が一般的で、大編成オーケストラは財政基盤が安定していることが多いため、編成の大きさがそのままオーケストラの格付けに結びつくように誤解されることもあるが、必ずしもそうではなく、あえて三管編成にとどまったまま世界一流と見なされる団体もロンドンなどをはじめ多く存在する。",
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"text": "バロック期のオーケストラでは、管楽器は各パート1名、ヴァイオリンは2パート2〜3名ずつ、ヴィオラ、チェロ2名、コントラバス、ファゴット、鍵盤楽器各1名という程度の規模が多く、大規模でも総勢20名程度のものであった。弦楽を含めた全てのパートを各1名で奏することもある。そのため、バロック期のオーケストラは室内楽あるいは室内管弦楽の範疇とされることもある。なお、1749年ヘンデルによって作曲された管弦楽組曲「王宮の花火の音楽」では、大国イギリスの国家行事という特殊事情もあり、現在考えても膨大な100人という規模の楽団によって、式典の屋外会場で盛大に演奏された(参照:巨大編成の作品#そのほか)。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "次に示すのは、18世紀前半頃の後期バロック音楽(J.S.バッハやテレマン、ヘンデル等の盛期)の曲に多く見られる、規模の大きめな管弦楽編成の例である。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "古典派二管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名(ピッコロが加わるなどの多少の増減はあり得る)で、ホルンやトランペットも2名程度、ティンパニ、弦楽五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は「12型」で6-5-4-3-2プルト程度であり、オーケストラ総勢で60名ほどになる。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "モーツァルトが交響曲第1番を父レオポルトの指導の下で作曲した際の編成は「オーボエ2、ホルン2、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バッソ」であった。当時、コントラバスのパートは「バッソ」あるいは「バッシ」と書かれ、チェロ、ファゴット、ヴィオローネまたはコントラバスで斉奏することが求められていた。エステルハージ家ではヴァイオリンは第1第2ともに2人に増やされていた。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下は、古典派音楽の盛期頃(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)に多く見られる編成の例である。ただし、この頃は標準編成なるものは存在せず、オーボエ2とホルン2と弦五部に加え「パトロンからの命令」で決まった編成が多い。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "後期ロマン派二管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名(それぞれの派生楽器であるピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットへの持ち替えもありうる)で、ホルンが4名、トランペットが2~3名程度、さらにトロンボーンが3名、チューバが加わる。ティンパニの他に若干の打楽器が4名程度加わる。さらに編入楽器としてハープが加わる。弦楽五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は現代のコンサートにおける標準的な編成で「14型」で7-6-5-4-3プルト程度であり、オーケストラ総勢で80名ほどになる。チャイコフスキーの作品は、現在このくらいの規模で演奏される。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "音響空間次第で、弦の数を変えることは可能である。結果的に、二管編成を完成させた時期はチャイコフスキーが活躍した時代である。多くの作曲家がこの編成をベースに協奏曲を書いている。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "三管編成は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名にそれぞれの派生楽器が加わって、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが3名となる。ホルンは4名程度、トランペットとトロンボーンが各3名程度、チューバ1名となる。打楽器もティンパニ1〜2人を含む6名程度、編入楽器はハープ1名にさらにチェレスタが加わることがある。この編成に見合う弦楽五部の人数はいわゆる「16型」8-7-6-5-4プルト程度であり、総勢90名ほどである。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ワーグナーの「ジークフリート」はその最初の完全な形といわれている。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本のオーケストラは三管に対して伝統的に16型で対応してきた(1980年代まで)が、近年では世界的な常識にあわせ14型に直しているオーケストラが優勢になった。結果的に三管編成を完成させた時期はラヴェルが活躍した時代である。最終的に、オーケストラに最も適したサイズとされ国際的な標準になった。近年は、14型を下回る3管編成も珍しくなくなってきている。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "四管編成では、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが4名となる。ホルンも4から8人、トランペットとトロンボーンが3〜4人、チューバが1〜2人。打楽器もティンパニ1〜2人を含む7名程度。編入楽器は4名程度。弦楽五部もいわゆる「18型」の9-8-7-6-5プルト程度となり、総勢100名にものぼる。ワーグナー、マーラー、ストラヴィンスキー、ベルクの作品には、この規模の作品が多い。その最初の形はベルリオーズのレクイエム作品5や同じくテ・デウムであるが、当時はいわゆる倍管機能のユニゾンで、後年ワーグナーがその「ニーベルングの指環」や「パルジファル」でその編成を機能的にほぼ組織化した。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国際的には四管編成には16型で対応しており、18型は稀である。ホルンが4から8人に増えるのは、ホルンは通常1パートを2人で編成する為、四管編成だと倍の8人となる。その他ワーグナーやブルックナーなどの曲でホルン奏者の一部がワグナーチューバに持ち替える為、奏者が多数必要となる。チューバの本数が増えない理由は、増数したトロンボーンがバストロンボーンやコントラバストロンボーン、チンバッソなどチューバの音域を賄える楽器である為にチューバの数が増えないと考えられる。かつては3台ハープや3台ピアノも普通に見られたが、現在ではハープや鍵盤が二台を越えることはほとんどない。結果的に、四管編成を完成させた時期はリヒャルト・シュトラウスが活躍した時代である。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "四管編成よりさらに大きく、各セクションが5人平均となるもの(五管編成相当)もある。ここでは、各セクション4本ずつのスタンダードの木管楽器の上に、ピッコロ、イングリッシュホルン、バスクラリネット、コントラファゴットが加わった形が多い。ホルンは8人以上。トランペットは5から6人。トロンボーンは差が大きく3人から5人。チューバは2人以上が多い。打楽器は7人以上。弦楽合奏は「20型」の10-9-7-6-5プルトが一般的でさらにオルガン・ピアノ・チェレスタ・4人以上のハープ・ギターやマンドリンが付くこともある。リヒャルト・シュトラウス、マーラー、ストラヴィンスキーの他に、シェーンベルク、ヴァレーズ、ケージ等がいる。管弦楽は120名を超える。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、これよりもさらに大きな編成で書かれた巨大編成の作品もある。リヒャルト・シュトラウスの「タイユフェ」作品52、ヴァレーズの「アメリカ」(1922年版)、メシアンの「アッシジの聖フランシスコ」や「閃光」、ハヴァーガル・ブライアンの交響曲、黛敏郎の「涅槃交響曲」などがそれにあたる。なおこのような木管楽器の編成は、各セクションが同程度の人数というような形式にあまり当てはまらず、フルートとクラリネットが多くなる割りには、オーボエとファゴットはあまり多くならない傾向があり、金管楽器も相当変則的になり、国際的な基準というものはない。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "最も小さな編成に、木管楽器が1人ずつ程度の編成がある。ワーグナーの「ジークフリート牧歌」は、基本的に木管各1名、ホルン2、トランペット1、打楽器は無しで、弦もワーグナー自宅での初演時は1人ずつであった。これは20世紀後半の室内オーケストラを先取りするものであったが、当時は「オーケストラ」とはみなされていなかった。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヴェーベルンの「5つの小品」作品10のように多くの打楽器や鍵盤楽器が入っていたり、同じく作品21や29、シェーンベルクの室内交響曲第1番のような変則的なものも多い。しかし、この「変則」的な組み合わせが20世紀後半の音楽では優勢になる。室内オペラはこの編成で書かれることがある。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "戦後はシェーンベルクに倣い、管楽器の数が弦楽器を上回った室内オーケストラは、20世紀後半以降数多い。ヘンツェのレクイエムは弦楽器の量を管楽器が優に上回る典型例である。",
"title": "編成"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "オーケストラの楽器配置(Setting, Aufstellung)にはさまざまなやりかたがある。時代によって、また指揮者の方針によって工夫が重ねられてきた。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "20世紀前半から半ばにかけては、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右に分ける楽器配置が多かった。これは「ヴァイオリン両翼配置」「対向配置」などと通称されている。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方、華麗なオーケストラ・サウンドを追究し続けた指揮者レオポルド・ストコフスキーは、1930年代に独自の楽器配置を造り出した。これは、客席から向かって左側から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが並び、チェロの後方にコントラバスが置かれる。つまり、客席から向かって左から右にかけて、弦楽器を高音から低音へと並べるのである。この配置は「ストコフスキー・シフト」と通称され、コンサートホールでの響きが豊潤になるという利点とともに、1950年代頃から一般的に行われるようになったレコードのステレオ録音にも適しているとみなされ、20世紀後半には世界中のオーケストラに広まっていった。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "以下に、現在使われている近代的なオーケストラの配置の一例(方向は、客席側から見たもの)を示す。弦楽器は「ストコフスキー・シフト」によっている。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "外部リンク: stage formation of orchestra (オーケストラの楽器の並べ方)",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "現在のオーケストラはチューバが指揮者のすぐ横にいる、またはハープが指揮者の真ん前にいる、などといった変則配置は当たり前になっている。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ルチアーノ・ベリオの「コロ」は声楽家と器楽奏者がペアを組んで座る。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "前衛の時代は変則配置で当たり前、という時代だったが、現代音楽の退潮に合わせて本来の古典的な配置を好む作曲家も多い。",
"title": "楽器の配置"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "多くの場合、指揮者は(専属契約を結んでいる場合でも)オーケストラの一員ではない。演奏会ごとに違う指揮者が指揮をすることが多い。しかし同時に、多くのオーケストラは「常任指揮者」(あるいは「首席指揮者」「音楽監督」)と呼ばれる特定の指揮者と長期にわたって演奏を行うため、その指揮者の任期中は、その指揮者の得意なレパートリーや演奏の様式によってオーケストラの個性が特徴付けられることが多く、しばしば常任指揮者や音楽監督の名前を冠して「~時代」などと言及されることもある。このような関係として特に有名なもの例を下に挙げる。",
"title": "指揮者"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本人においては、",
"title": "指揮者"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "(団体名は在任当時)",
"title": "指揮者"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "常任指揮者以外の指揮者を「客演指揮者」と呼ぶ。多くのオーケストラでは、多数の客演指揮者を迎えることで、公演レパートリーの不足を補ったり、新しい共演により芸術的な向上を目指すことがある。しかし、かつてのフルトヴェングラーやカラヤンのように、常任指揮者の権限によって、自分の気にそぐわない指揮者に客演させないというケースも存在する。",
"title": "指揮者"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2010年発行のグラモフォン誌において、\"The world’s greatest orchestras\"として、以下の20楽団が選出されている。",
"title": "評価"
}
] |
オーケストラは、管弦楽を多重編成で演奏する団体。
|
{{Otheruses|クラシック音楽の管弦楽団}}
{{Portal クラシック音楽}}
[[File:Vienna Philharmonic Orchestra, Carnegie Hall, conducted by Michael Tilson Thomas (47258679582).jpg|thumb|right|300px|[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]]]
[[画像:Chicago Symphony Orchestra 2005.jpg|thumb|right|300px|[[シカゴ交響楽団]]]]
<!--[[画像:London Barbican Hall LSO a.jpg|thumb|right|300px|[[ロンドン交響楽団]]]]-->
<!--[[画像:Chilly Gonzales with the BBC Symphony Orchestra at the Barbican.jpg|thumb|right|300px|[[BBC交響楽団]]]]-->
<!--[[画像:Dublin Philharmonic Orchestra performing Tchaikovsky's Symphony No 4 in Charlotte, North Carolina.jpg|thumb|right|300px|{{ill|ダブリン・フィルハーモニー管弦楽団|en|Dublin Philharmonic Orchestra}}]]-->
'''オーケストラ'''([[イタリア語|伊]]/{{Lang-en-short|Orchestra}}<ref group="注">{{IPA-it|orˈkɛstra}} オル'''ケ'''ストゥラ</ref><ref group="注">{{IPA-en|ˈɔːrkɪstrə}} '''オ'''ーキストゥラ</ref>)は、[[管弦楽曲|管弦楽]]を多重編成で[[演奏]]する[[団体]]<ref>{{Cite Kotobank|word=オーケストラ|author=|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典|access-date=2023-7-24}}</ref>。
== 概要 ==
現在では、[[ロマン派音楽]]の頃に多かったオーケストラ編成が「標準的な編成」とされている。古典的な作品の演奏ではこれよりも若干小規模となり、それに対し近代的な作品の演奏ではより大規模なオーケストラとなる場合がある。これらの編成は、主要な管楽器の員数によって二管編成、三管編成、四管編成などと呼ぶ。団体としてのオーケストラの構成員の数は様々なので、団体と作品によっては通常の団員に加えて臨時参加の奏者を加えて演奏することもある。
→[[#編成]]
なお、演奏の質が高く評価されているオーケストラは主に[[プロフェッショナル]]のオーケストラであるが(→[[#評価]])、それ以外に[[アマチュア・オーケストラ]]も存在している。
=== 「Orchestra オーケストラ」という語の歴史 ===
「Orchestra」は、[[古代ギリシア]]の[[ギリシャ語]]のオルケーストラ({{lang|grc|ορχηστρα}})に由来する<ref name="nDHZ">『日本大百科全書』「オーケストラ」</ref>。これは[[舞台]]と[[観客席]]の間の[[半円]]形のスペースを指しており<ref name="nDHZ" />、(そこに[[コロス]](合唱隊。{{Efn|[[合唱|コーラス]]の語源}})が配置され)、[[舞踊]]、[[器楽]]、[[合唱]]などが行われた<ref name="nDHZ" />。
[[近代]]になり、「Orchestra」は[[劇場]]の平土間席(1階の舞台正面の席)の呼称になった<ref name="nDHZ" />。また、[[オペラ]]の上演などでは、舞台と観客席の間で奏する器楽奏者のグループも「Orchestra」と呼ばれるようになった<ref name="nDHZ" />。
さらに時代が下ると、器楽奏者のグループがオペラから独立して演奏する場合でも「Orchestra」と呼ばれるようになった<ref name="nDHZ" />。
{{Gallery
|width = 220px
|File:Ancient greek theater (gl).svg|[[古代ギリシアの演劇#ギリシア劇場|古代ギリシアの劇場]]のオルケストラ。この図ではOrquestraと書かれている。舞台と観客席の間の部分。
|File:Orchestra Pit in the Opera and Ballet Theater in Minsk 12 May 2014.jpg|近代になり、<u>オペラの舞台と観客席の間で演奏する器楽奏者のグループ</u>も「オーケストラ」と呼ばれるようになった。
|画像:Orquesta Filarmonica de Jalisco.jpg|現代のオーケストラ。この写真では<u>ステージ上</u>におり、主要な存在である。
}}
=== 種類と名称のバリエーション ===
[[画像:東京フィルハーモニー交響楽団201001.jpg|thumb|right|300px|[[東京フィルハーモニー交響楽団]]]]
[[画像:Münchner Philharmoniker im Gasteig.jpg|thumb|right|300px|[[ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団]]]]
*[[英語]]のSymphony orchestra シンフォニー・オーケストラ、[[ドイツ語]]のSymphoniker は日本語では「交響楽団」と訳される([[シカゴ交響楽団]]、[[ウィーン交響楽団]]など)。
*英語のPhilharmonic orchestra、[[ドイツ語]]の Philharmoniker、Philharmonie は日本語では「フィルハーモニー'''管弦楽団'''」と訳される([[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]など)。Philharmonic は「音楽を愛好する」という意味の[[ギリシャ語]]に由来している。なお英語圏でもPhilharmonicなどのみで「orchestra」含まない名称の管弦楽団も多数存在する([[ニューヨーク・フィルハーモニック]]など)。
*ロシアや日本では両者が混合した「フィルハーモニー交響楽団」という名称もある([[サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団]]、[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]など)。
::なおフィルハーモニーを含むかどうかの違いは「楽団の維持費が[[寄付]]によるかどうかである」とする説もあるが、現状では曖昧に使用されている。[[ポピュラー音楽]]と比べ、演奏に必要な楽員の数が圧倒的に多いため、その存立には演奏収入以外にも経済的根拠が必要であり、それが[[富裕層]]の[[私的所有権|私的]][[財産]]なのか、公的な[[補助金]]なのか、市民らの寄付なのかという違いもあり、名称にまで影響を与えている。
*ドイツ圏ではkapelleを名称末尾に置く団体もあり、管弦楽団(Staatskapelleであれば州立管弦楽団または国立管弦楽団)と訳される。
*室内オーケストラ(chamber orchestra)は10〜20名程度の小規模なオーケストラを指す<ref>{{Cite Kotobank|word=室内管弦楽団|author=|encyclopedia=|access-date=2023-7-24}}</ref>。
[[File:National Chamber Orchestra of Armenia-2.jpg|thumb|right|280px|室内オーケストラ(chamber orchestra)の例。アルメニア国立室内オーケストラ。]]
*一般的なオーケストラは1声部を複数で担当し、通常、[[指揮者]]により統制されて演奏する。各声部は[[弦楽器]]・[[管楽器]]([[木管楽器]]および[[金管楽器]])・[[打楽器]]があり、さらには[[鍵盤楽器]]や、現代的には[[電気楽器]]も加わる場合もある。主に[[クラシック音楽]]を演奏するが、[[ラテン音楽]]や[[ジャズ]]、その他のジャンルを演奏する団体もある。
**なおクラシックのオーケストラが母体となって、別名を名のりつつポップス・オーケストラとして活動することもあり、これは母体と同様の楽器編成であるが、軽めのクラシックやポピュラー音楽を演奏する。
*ポピュラー音楽専門のオーケストラは、イージーリスニングなど四部または五部のストリングス(四部の場合は五部からチェロかコントラバスのどちらかが省かれることが多い)に自由な編成の管楽器、打楽器、エレキギターを加える。
*[[ダンス]]音楽や[[行進曲]]などを演奏する小規模な編成のオーケストラは[[バンド (音楽)|バンド]]などとも呼ばれる。
*[[フルートオーケストラ]]や[[マンドリンオーケストラ]]、[[ウインドオーケストラ]](管楽器のみ)という言葉も使用されているが、それらは以下で述べる厳密な意味でのオーケストラではない。[[マハヴィシュヌ・オーケストラ]]、[[イエロー・マジック・オーケストラ]]などのように、3~5名編成でもあえてこの名を用いるバンドについても同様である。
== 歴史 ==
現在の弦楽合奏に管楽器の加わった[[管弦楽]]の起源としては、[[ヴェネツィア楽派]]の大規模な教会音楽や、その後の[[オペラ]]の発展が重要である。[[古典派音楽|古典派期]]には[[交響曲]]や[[協奏曲]]、[[オペラ]]の伴奏として大いに発展し、[[コンサートホール]]での演奏に適応して弦楽を増やし大規模になり、また[[クラリネット]]など新しい[[楽器]]が加わって、現在のような形となった。[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]のオペラ『[[オルフェオとエウリディーチェ]]』において、[[ピッコロ]]、[[クラリネット]]、[[バスドラム]]、[[トライアングル]]、[[シンバル]]がオーケストラに加わった。
[[ロマン派音楽]]ではさらに管楽器の数や種類が増え、[[チューブラーベル|チャイム]]や[[マリンバ]]、[[グロッケンシュピール]]などの打楽器が加えられた。時には[[チェレスタ]]、[[ピアノ]]などの鍵盤楽器や[[ハープ]]が登場するようにもなった。
== 運営・組織 ==
多くのプロ・オーケストラは常設かつ専門の団体である。
[[歌劇場]]のオーケストラピット内での活動を主とするオーケストラは[[ドイツ]]を中心に多数存在し<ref group="注">吉田秀和は著書『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』において、欧州のオペラ上演の半数以上がドイツで行われていると述べている。</ref>、そのほとんどが[[オペラ]]のみならず[[演奏会]]も行う。[[ウィーン国立歌劇場]]の[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団|管弦楽団]]員の中から組織される[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]は、その一例である。ドイツ圏はあわせて下記の放送交響楽団や、いずれにも属さないコンサートオーケストラも非常に盛んなこともあり、世界でも群を抜いたオーケストラ大国となっている。東西ドイツ統一時にはプロオーケストラの合計数200といわれた(オーストリアやスイスは含まれない)が、現在は統合により若干減少している。ただし、税金の補助が厚いため、たとえば概ね自主運営に頼るロンドンの5大オーケストラが70~90名編成で大曲演奏の際はエキストラを入れているのに対し、人口7万の都市に拠る[[バンベルク交響楽団]]ですら110名編成を擁する(同団は元は大都市[[プラハ]]を基盤にしていたという特殊な歴史的事情もあるが)など、全体にフル編成志向が強い。これは、ローテーション式が多い歌劇場管弦楽団の伝統も影響している。オーケストラは小編成で発足して徐々に拡充していく例が一般的で、大編成オーケストラは財政基盤が安定していることが多いため、編成の大きさがそのままオーケストラの格付けに結びつくように誤解されることもあるが、必ずしもそうではなく、あえて三管編成にとどまったまま世界一流と見なされる団体もロンドンなどをはじめ多く存在する。
また、[[放送局]]が専属のオーケストラを持つ例も多い([[放送管弦楽団|放送オーケストラ]])。これはもともと、番組のテーマ曲、ドラマの伴奏、各種の放送用音楽を調達しやすくするために所有しはじめたのが根源であり、大小さまざまな放送局がそれぞれの経済規模にあったオーケストラを所有していた。大きな放送オーケストラは、主に国家予算で運営されてきた、世界の[[国営放送]]局や、それらにかわる[[公共放送]]局などであり、放送の歴史が長い欧州に多い。[[フランス国立放送管弦楽団|ラジオフランス]]に代表される各国の国営放送直営の楽団や、[[ドイツ]]の各地域を担当する公共放送局の楽団([[バイエルン放送交響楽団|バイエルン]]、[[ベルリン放送交響楽団|ベルリン]]、[[北ドイツ放送交響楽団|北ドイツ]]など)などがその例である。[[英国放送協会|BBC]]も[[BBC交響楽団|有名交響楽団]]を持つ公共放送局である。また、商業放送会社が所有したオーケストラの一例として[[アメリカ合衆国|米国]]の[[NBC]]が所有していた[[NBC交響楽団]]がある。日本においては[[朝日放送グループホールディングス|ABC]]が[[近衛秀麿#戦後|ABC交響楽団]]ほか複数の管弦楽団を所有し、演奏会のほかに、放送番組用の音楽を多数演奏した。また[[日本フィルハーモニー交響楽団]]は、当初[[文化放送]]の専属オーケストラとして誕生し、[[フジテレビジョン]]と専属契約を結んでいた。[[NHK交響楽団]]は独立した[[財団法人]]ではあるが、[[日本放送協会|日本放送協会(NHK)]]と密接な関係を有しており、放送局付属オーケストラに準ずる存在となっている。また、ベルリンの米軍占領地から東ドイツに向けて放送されていた[[RIAS]]が所有していた[[ベルリン・ドイツ交響楽団|ベルリン放送交響楽団]]などもあり、現在も名を変えて活動している。
[[地方都市]]に本拠を置く楽団の場合は、楽団の運営資金の多くを[[地方政府|自治体]]に依存して運営されていることがある。この場合、自治体の[[財政]]状態に楽団の運営も左右されがちになっている。
反面、独立の団体としてのオーケストラは、オーナーからの定期的な演奏の発注がないため、定期演奏会の入場料や[[レコード]]録音の契約料を頼みにしなければならず、優れた契約スポンサーを持っているか、ごく一部の人気楽団や経営形態の改善に成功した楽団を除けば、これだけで存立することは難しい。オーナーやスポンサーの引き揚げによって、独立運営を強いられるケースもあり、これは直接オーケストラの存続に関わる。海外では[[EMI]]の支援を失った[[フィルハーモニア管弦楽団]]の解散<ref group="注">団員は解散に対抗して自主的演奏団体としての[[フィルハーモニア管弦楽団|ニュー・フィルハーモニア管弦楽団]]を結成。</ref>、日本でも[[1972年]]の[[日本フィルハーモニー交響楽団]]の解散・分裂などの事例が発生している。上2件は再建に成功した例だが、[[NBC交響楽団]]はスポンサー撤退、新組織以降後9年で消滅した。日本のABC交響楽団に至っては名義の継承先が転々として解散時期すら明確に記録されていない。
以上のような常設楽団に対し、毎年の[[音楽祭]]などで臨時に集まる[[音楽家]]によって組織されるものも存在する。例えば[[バイロイト祝祭管弦楽団]]が有名なものであり、日本では[[サイトウ・キネン・フェスティバル松本]]の際に結成される[[サイトウ・キネン・オーケストラ]]などがある。これらは、その都度メンバーが変わることも多く、特にバイロイト祝祭管弦楽団はウィーン・フィル団員が多数を占めた時期、ベルリン国立歌劇場管弦楽団員が主体であった時期など、年度によって響きが大きく変わっているといわれる。また、通常は楽員が個別の音楽活動をし、コンサートの度に集まる形で運営されている非常設楽団も存在する。日本では[[静岡交響楽団]]や[[浜松フィルハーモニー管弦楽団]]、Meister Art Romantiker Orchesterなどがその例である。
=== 新型コロナウイルスのパンデミックのダメージ ===
[[2020年]]にはじまった[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]で、世界各地のオーケストラは大きなダメージを受けた。観客を集めるコンサートが、感染防止のため開催できなくなり、その収入が途絶え、楽団員に給与として支払えるお金の総額が大幅減となったり途絶えるなどしたり、楽団員が大量[[解雇]]されることも世界各地で起きた。最低限の存続すら危うくなり、消滅の危機に瀕したオーケストラも多かった。
(なお、オーケストラに経済的ダメージが生じた因果関係の経路は複数あり)オーケストラの演奏を聴くために観客が国境を超えて旅をすることもパンデミック中は止まってしまったことも挙げられ、さらに言うと[[観光都市]]は観光客がすっかり途絶え、市の観光産業からもたらされる[[税収]]が激減してしまい市の[[財政]]が悪化し、これが市のあらゆる活動にダメージを与え、市によって運営されているオーケストラに割り当てるためのお金も減ったり無くなってしまうということが起きた<ref>https://www.nytimes.com/2021/12/21/arts/music/orchestra-labor-coronavirus.html</ref>。
ダメージの大きさが分かる事例を挙げると、たとえばアメリカの[[サンアントニオ交響楽団]]の運営の側は2021年9月、長期のパンデミックが原因の財政難を理由として楽団員を72人から42人へと大幅削減するうえに(解雇しない楽団員についても)給与を2/3に減額すると提案・告知。その判断に対して楽団員らの側はストライキで抵抗するということも起きた<ref>[https://www.nytimes.com/2021/12/21/arts/music/orchestra-labor-coronavirus.html The Pandemic Struck Orchestras With Underlying Conditions Hard]</ref>。
日本でもやはり大きなダメージがあり、[[日本オーケストラ連盟]]によると、加盟37楽団のうち、楽団員が給与だけで生計を立てられるのは元々約半数であったが、[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|日本での新型コロナウイルス・パンデミックの社会的影響]]はやはり日本のオーケストラにも大きなダメージを与え、多くの公演が中止・延期になり、給与はさらに減少した。学校等で教える仕事も臨時休校で中止となり、楽団の収入減少により団体存続の危機が起きている。楽団に所属しない個人演奏家の場合はさらに深刻で、オーケストラにエキストラ出演するフリーランスの演奏家は必要不可欠だが、公演中止のほか講師の仕事もなくなり、自宅での個人レッスンのみで、個人収入が減っているという<ref>[[中日新聞]]、2020年4月18日朝刊13面</ref>。
== 編成 ==
第1ヴァイオリンから[[コントラバス]]までの[[弦楽合奏#管弦楽の一部としての弦楽合奏|弦五部]]は多くの場合、各部の人数が演奏者に任されているが、現代では一般的に次のようなパターンがある。
{| class="wikitable"
|-
! 管楽器の規模の例 !! 型 !! 第1ヴァイオリン !! 第2ヴァイオリン !! ヴィオラ !! チェロ !! コントラバス !! プルト比率
|-
| 二管編成 || 8型 || 8人 || 6人 || 4人 || 3人 || 1~2人 || 4:3:2:1:1
|-
| 二管編成 || 10型 || 10人 || 8人 || 6人 || 4人 || 2~4人 || 5:4:3:2:1
|-
| 二管編成 || 12型 || 12人 || 10人 || 8人 || 6人 || 4人 || 6:5:4:3:2
|-
| 三管編成 || 14型 || 14人 || 12人 || 10人 || 8人 || 6人 || 7:6:5:4:3
|-
| 四管編成 || 16型 || 16人 || 14人 || 12人 || 10人 || 8人 || 8:7:6:5:4
|-
| 四管編成 || 18型 || 18人 || 16人 || 14人 || 12人 || 8~10人 || 9:8:7:6:5
|-
| 五管編成 || 20型 || 20人 || 18人 || 16人 || 14人 || 10人 || 10:9:8:7:5
|}
管楽器は原則として楽譜に書かれた各パートを1人ずつが受け持つ。ただし実際の演奏会では、[[倍管]]といって管楽器を2倍にしたり、「[[アシスタント (オーケストラ)|アシスタント]]」と呼ばれる補助の奏者がつくこともある。
[[楽譜]]に示されたオーケストラの編成の規模を示すのに、二管編成、三管編成、四管編成という言葉が使われる。いずれも木管楽器の各セクションのそれぞれの人数によっておおよその規模を示す。
=== 中世音楽 ===
この時代の西洋にはオーケストラは存在しないと言われている。しかし西洋以外では、当時の中国宮廷音楽は数百人の合奏による音楽が演奏されていることを示す資料が発掘されている<ref>Sharron Gu. A Cultural History of the Chinese Language. McFarland & Company. p. 24. ISBN 978-0-78646-649-8</ref>。
=== ルネサンス音楽 ===
[[モンテヴェルディ]]はスコア序文に楽器編成を書いた世界初の作曲家である。そこにはオーケストラの黎明期の編成が記されている<ref>{{Cite web |url = http://people.fas.harvard.edu/~lab51/orfeo/instruments.html|title = Monteverdi's Orchestra in L'Orfeo:Instruments Named in the 1615 Edition|website = people.fas.harvard.edu|publisher = Harvard University|date = |accessdate = 2020-08-27}}</ref>。
=== バロック音楽 ===
[[バロック]]期のオーケストラでは、管楽器は各パート1名、ヴァイオリンは2パート2〜3名ずつ、ヴィオラ、チェロ2名、コントラバス、ファゴット、鍵盤楽器各1名という程度の規模が多く、大規模でも総勢20名程度のものであった。弦楽を含めた全てのパートを各1名で奏することもある。そのため、バロック期のオーケストラは[[室内楽]]あるいは[[室内管弦楽]]の範疇とされることもある。なお、[[1749年]][[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]によって作曲された[[管弦楽組曲]]「[[王宮の花火の音楽]]」では、大国[[イギリス]]の国家行事という特殊事情もあり、現在考えても膨大な100人という規模の楽団によって、式典の屋外会場<ref>ニューグローブ音楽辞典・王宮の花火の音楽の項</ref>で盛大に演奏された(参照:[[巨大編成の作品#そのほか]])。
次に示すのは、18世紀前半頃の後期[[バロック音楽]]([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]や[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]等の盛期)の曲に多く見られる、規模の大きめな管弦楽編成の例である。
* [[木管楽器]]
** [[オーボエ]](曲によっては[[オーボエ・ダモーレ]]) 2 ほとんど欠かさず
** [[フルート]] 2 しばしば (曲によっては[[リコーダー]] 2)
** オーボエ・ダ・カッチャ([[コーラングレ]]の先祖) 時による
** [[ファゴット]]1 時により旋律楽器として。その場合もふつう通奏低音を兼ねる。
* [[金管楽器]]
** [[トランペット]](D管) 2~3 祝祭的な曲においてしばしば
** [[ホルン]] 2 時による
* [[打楽器]]
** [[ティンパニ]] 2(1対) 通常、トランペットとセットで
* [[弦楽器]]
** 第1[[ヴァイオリン]]
** 第2ヴァイオリン
** [[ヴィオラ]]
* [[通奏低音]]
** [[チェロ]]
** ファゴット しばしばチェロの補強として
** [[コントラバス]](または[[ヴィオローネ]]) チェロの8度下
** [[チェンバロ]] 低音部の旋律と、それに付随する和音を即興で奏でる
** [[オルガン|ポジティフ・オルガン]] 宗教的な曲においては欠かさず
=== 古典派音楽の二管編成 ===
古典派二管編成は、[[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ファゴット]]が各2名([[ピッコロ]]が加わるなどの多少の増減はあり得る)で、[[ホルン]]や[[トランペット]]も2名程度、[[ティンパニ]]、[[弦楽五部]](第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は「12型」<ref group="注">第1ヴァイオリンが12名。</ref>で6-5-4-3-2プルト<ref group="注">Pult:譜面台のことで、2人で1つの譜面台を見ることから、1プルトは2名に相当する。</ref>程度であり、オーケストラ総勢で60名ほどになる。
[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]が[[交響曲第1番 (モーツァルト)|交響曲第1番]]を父[[レオポルト・モーツァルト|レオポルト]]の指導の下で作曲した際の編成は「オーボエ2、ホルン2、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、バッソ」であった。当時、コントラバスのパートは「バッソ」あるいは「バッシ」と書かれ、チェロ、ファゴット、ヴィオローネまたはコントラバスで斉奏することが求められていた。エステルハージ家ではヴァイオリンは第1第2ともに2人に増やされていた<ref group="注">ハイドンの交響曲「告別」を参照。</ref>。
以下は、古典派音楽の盛期頃([[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、モーツァルト、ベートーヴェン)に多く見られる編成の例である。ただし、この頃は標準編成なるものは存在せず、オーボエ2とホルン2と弦五部に加え「パトロンからの命令」で決まった編成が多い。
* 木管楽器
** フルート 2
** オーボエ 2
** クラリネット 2
** ファゴット 2
* 金管楽器
** ホルン 2
** トランペット 2
* 打楽器
** ティンパニ(1対)
* 弦楽器
** 第1[[ヴァイオリン]]
** 第2ヴァイオリン
** [[ヴィオラ]]
** [[チェロ]]
** [[コントラバス]]
=== 盛期ロマン派音楽の二管編成 ===
後期ロマン派二管編成は、[[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ファゴット]]が各2名(それぞれの派生楽器である[[ピッコロ]]、[[コーラングレ|イングリッシュホルン]]、[[バスクラリネット]]、[[コントラファゴット]]への持ち替えもありうる)で、[[ホルン]]が4名、[[トランペット]]が2~3名程度、さらに[[トロンボーン]]が3名、[[チューバ]]が加わる。ティンパニの他に若干の打楽器が4名程度加わる。さらに編入楽器として[[ハープ]]が加わる。[[弦楽五部]](第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)である。この編成に見合う弦楽五部の人数は現代のコンサートにおける標準的な編成で「14型」<ref group="注">第1ヴァイオリンが14名。</ref>で7-6-5-4-3プルト程度であり、オーケストラ総勢で80名ほどになる。[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の作品は、現在このくらいの規模で演奏される。
音響空間次第で、弦の数を変えることは可能である。結果的に、二管編成を完成させた時期は[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が活躍した時代である。多くの作曲家がこの編成をベースに協奏曲を書いている。
* 木管楽器
** フルート 2 ピッコロへの持ち替えあり
** オーボエ 2 イングリッシュホルンへの持ち替えあり
** クラリネット 2 バスクラリネットへの持ち替えあり
** ファゴット 2 コントラファゴットへの持ち替えあり
* 金管楽器
** [[ホルン]] 4
** トランペット 2
** トロンボーン 3
** チューバ 1
* 打楽器
** [[ティンパニ]](1対)
** その他の[[打楽器]]
* 編入楽器
** [[ハープ]]
* 弦楽器
** 第1[[ヴァイオリン]]
** 第2ヴァイオリン
** [[ヴィオラ]]
** [[チェロ]]
** [[コントラバス]]
=== ロマン派から近代にかけての三管編成 ===
三管編成は、[[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ファゴット]]が各2名にそれぞれの派生楽器が加わって、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの各セクションが3名となる。[[ホルン]]は4名程度、[[トランペット]]と[[トロンボーン]]が各3名程度、[[チューバ]]1名となる。打楽器も[[ティンパニ]]1〜2人を含む6名程度、編入楽器は[[ハープ]]1名にさらに[[チェレスタ]]が加わることがある。この編成に見合う弦楽五部の人数はいわゆる「16型」<ref group="注">第1ヴァイオリンが16名。</ref>8-7-6-5-4プルト程度であり、総勢90名ほどである。
[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の「[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]」はその最初の完全な形<ref>リヒャルト・シュトラウス補筆ベルリオーズの管弦楽法、譜例1</ref>といわれている。
日本のオーケストラは三管に対して伝統的に16型で対応してきた(1980年代まで)が、近年では世界的な常識にあわせ14型に直しているオーケストラが優勢になった。結果的に三管編成を完成させた時期は[[ラヴェル]]が活躍した時代である。最終的に、オーケストラに最も適したサイズとされ国際的な標準になった。近年は、14型を下回る3管編成も珍しくなくなってきている<ref>{{Cite web|和書|url = https://archive.is/79jFO|title = セントラル愛知交響楽団|website = www.caso.jp|publisher = www.caso.jp|date = |accessdate = 2020-08-27}}</ref>。
* 木管楽器
** フルート 2
** [[ピッコロ]] 1
** オーボエ 2
** [[コーラングレ|イングリッシュホルン]] 1
** クラリネット 2
** [[バスクラリネット]] 1
** ファゴット 2
** [[コントラファゴット]] 1
* 金管楽器
** [[ホルン]] 4
** [[トランペット]] 3
** [[トロンボーン]] 3
** [[チューバ]] 1
* 打楽器
** [[ティンパニ]]
** その他の[[打楽器]]
* 編入楽器
** チェレスタ
** [[ハープ]] 1か2
* 弦楽器
** 第1[[ヴァイオリン]]
** 第2ヴァイオリン
** [[ヴィオラ]]
** [[チェロ]]
** [[コントラバス]]
=== 近代から20世紀中葉までの四管編成 ===
四管編成では、[[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ファゴット]]の各セクションが4名となる。[[ホルン]]も4から8人、[[トランペット]]と[[トロンボーン]]が3〜4人、[[チューバ]]が1〜2人。打楽器も[[ティンパニ]]1〜2人を含む7名程度。編入楽器は4名程度。弦楽五部もいわゆる「18型」<ref group="注">第1ヴァイオリンが18名。</ref>の9-8-7-6-5プルト程度となり、総勢100名にものぼる。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[アルバン・ベルク|ベルク]]の作品には、この規模の作品が多い。その最初の形は[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の[[レクイエム (ベルリオーズ)|レクイエム]]作品5や同じく[[テ・デウム (ベルリオーズ)|テ・デウム]]であるが、当時はいわゆる[[倍管]]機能のユニゾンで、後年ワーグナーがその「[[ニーベルングの指環]]」や「[[パルジファル]]」でその編成を機能的にほぼ組織化した。
国際的には四管編成には16型で対応しており、18型は稀である。ホルンが4から8人に増えるのは、ホルンは通常1パートを2人で編成する為、四管編成だと倍の8人となる。その他ワーグナーやブルックナーなどの曲でホルン奏者の一部が[[ワグナーチューバ]]に持ち替える為、奏者が多数必要となる。チューバの本数が増えない理由は、増数したトロンボーンが[[バストロンボーン]]やコントラバストロンボーン、[[チンバッソ]]などチューバの音域を賄える楽器である為にチューバの数が増えないと考えられる。かつては3台ハープや3台ピアノも普通に見られたが、現在ではハープや鍵盤が二台を越えることはほとんどない。結果的に、四管編成を完成させた時期は[[リヒャルト・シュトラウス]]が活躍した時代である。
* 木管楽器
** フルート 3 [[アルトフルート]]への持ち替えあり
** [[ピッコロ]] 1
** オーボエ 3
** [[コーラングレ|イングリッシュホルン]] 1
** クラリネット 3
** [[バスクラリネット]] 1
** [[ファゴット]] 3
** [[コントラファゴット]] 1
* 金管楽器
** ホルン 4か6、上記の理由や木管とのバランスを取るために8本のときもある。
** トランペット 3か4、補助を入れて5人使うこともある。
** トロンボーン 3か4
** チューバ 1、バランスの関係で2人のときもある。
* 打楽器 (約6人)
** ティンパニ 1か2、4個以上、普通は6個ないし8個
** その他の[[打楽器]] (4人ぐらい)
* 編入楽器
** [[チェレスタ]]
** [[ハープ]] 1か2、バランス上4人のときもある
* 弦楽器 (普通は16型)
** 第1[[ヴァイオリン]]、16
** 第2ヴァイオリン、14
** [[ヴィオラ]]、12
** [[チェロ]]、10
** [[コントラバス]]、8
=== 20世紀以降の五管以上の編成 ===
四管編成よりさらに大きく、各セクションが5人平均となるもの(五管編成相当)もある。ここでは、各セクション4本ずつのスタンダードの木管楽器の上に、[[ピッコロ]]、[[コーラングレ|イングリッシュホルン]]、[[バスクラリネット]]、[[コントラファゴット]]が加わった形が多い。[[ホルン]]は8人以上。[[トランペット]]は5から6人。[[トロンボーン]]は差が大きく3人から5人。[[チューバ]]は2人以上が多い。[[打楽器]]は7人以上。弦楽合奏は「20型」<ref group="注">第1ヴァイオリンが20名。</ref>の10-9-7-6-5プルトが一般的でさらに[[オルガン]]・[[ピアノ]]・[[チェレスタ]]・4人以上の[[ハープ]]・[[ギター]]や[[マンドリン]]が付くこともある。[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の他に、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[エドガー・ヴァレーズ|ヴァレーズ]]、[[ジョン・ケージ|ケージ]]等がいる。[[管弦楽]]は120名を超える。
なお、これよりもさらに大きな編成で書かれた[[巨大編成の作品]]もある。[[リヒャルト・シュトラウス]]の「タイユフェ」[[作品番号|作品]]52、[[エドガー・ヴァレーズ|ヴァレーズ]]の「アメリカ」(1922年版)、[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]の「アッシジの聖フランシスコ」や「閃光」、[[ハヴァーガル・ブライアン]]の[[交響曲]]、[[黛敏郎]]の「[[涅槃交響曲]]」などがそれにあたる。なおこのような[[木管楽器]]の編成は、各セクションが同程度の人数というような形式にあまり当てはまらず、[[フルート]]と[[クラリネット]]が多くなる割りには、[[オーボエ]]と[[ファゴット]]はあまり多くならない傾向があり、[[金管楽器]]も相当変則的になり、国際的な基準というものはない。
=== 20世紀後半以後の一管編成 ===
最も小さな編成に、木管楽器が1人ずつ程度の編成<ref group="注">一管編成相当。</ref>がある。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の「[[ジークフリート牧歌]]」は、基本的に木管各1名、[[ホルン]]2、[[トランペット]]1、[[打楽器]]は無しで、弦もワーグナー自宅での初演時は1人ずつであった。これは20世紀後半の室内オーケストラを先取りするものであったが、当時は「オーケストラ」とはみなされていなかった。
[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]の「[[5つの小品 (ヴェーベルン)|5つの小品]]」作品10のように多くの[[打楽器]]や[[鍵盤楽器]]が入っていたり、同じく作品21や29、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の[[室内交響曲]]第1番のような変則的なものも多い。しかし、この「変則」的な組み合わせが20世紀後半の音楽では優勢になる。室内オペラはこの編成で書かれることがある。
戦後はシェーンベルクに倣い、[[管楽器]]の数が[[弦楽器]]を上回った室内オーケストラは、20世紀後半以降数多い。[[ヘンツェ]]のレクイエムは弦楽器の量を管楽器が優に上回る典型例である。
== 楽器の配置 ==
[[ファイル:Diagram Modern symphony orchestra-en.svg|thumb|right|480px|オーケストラの楽器配置の一例(「ヴァイオリン両翼配置」)]]
オーケストラの楽器配置(Setting, Aufstellung)にはさまざまなやりかたがある。時代によって、また指揮者の方針によって工夫が重ねられてきた。
=== 古典的配置 ===
20世紀前半から半ばにかけては、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右に分ける楽器配置が多かった。これは「ヴァイオリン両翼配置」「対向配置」などと通称されている。
=== 現代における一般的な配置 ===
一方、華麗なオーケストラ・サウンドを追究し続けた指揮者[[レオポルド・ストコフスキー]]は、1930年代に独自の楽器配置を造り出した。これは、客席から向かって左側から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが並び、チェロの後方にコントラバスが置かれる。つまり、客席から向かって左から右にかけて、弦楽器を高音から低音へと並べるのである。この配置は「ストコフスキー・シフト」と通称され、[[コンサートホール]]での響きが豊潤になるという利点とともに、1950年代頃から一般的に行われるようになったレコードのステレオ録音にも適しているとみなされ、20世紀後半には世界中のオーケストラに広まっていった。
以下に、現在使われている近代的なオーケストラの配置の一例(方向は、客席側から見たもの)を示す。弦楽器は「ストコフスキー・シフト」によっている。
* 指揮者:最も前方の中央に立つ。
* 弦楽器:演奏者2人で[[プルト]]を組む。左側から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、右側後方にコントラバスが並ぶ。
**ただし、楽団によってはヴィオラとチェロの位置を入れ替えているところもある。
**[[コンサートマスター]]は、第1ヴァイオリン最前列、客席側に座る。
* 木管楽器:弦楽器後方に2列で並ぶ。前列左側からフルート、オーボエ、後列左側からクラリネット、ファゴットが並ぶ。
* 金管楽器:木管楽器後方に、左側からトランペット、トロンボーン、チューバが並ぶ。ホルンはトランペットの左側に2列で並ぶことが多いが、右側になることもある。
* 打楽器:金管楽器の後方、または舞台左奥に配置される。
* ピアノ、ハープ:第1ヴァイオリンの後方に配置される。
* 合唱:合唱が含まれる曲の場合、オーケストラの後方に合唱団が配置される。
外部リンク: [http://musiquest.la.coocan.jp/essays/oke_form.htm stage formation of orchestra (オーケストラの楽器の並べ方)]
=== 変則的配置 ===
現在のオーケストラはチューバが指揮者のすぐ横にいる<ref>木下正道・オーケストラのためのサラユーケル・武満徹作曲賞本選会</ref>、またはハープが指揮者の真ん前にいる<ref>江原修・「Les Fleaux」・日本音楽コンクール本選会</ref>、などといった変則配置は当たり前になっている。
[[ルチアーノ・ベリオ]]の「コロ」は声楽家と器楽奏者がペアを組んで座る<ref>[[ウニヴェルザール出版社]]の「Coro」スコア序文</ref>。
前衛の時代は変則配置で当たり前、という時代だったが、現代音楽の退潮に合わせて本来の古典的な配置を好む作曲家も多い。
== 指揮者 ==
{{Main|指揮者}}
多くの場合、指揮者は(専属契約を結んでいる場合でも)オーケストラの一員ではない。演奏会ごとに違う指揮者が指揮をすることが多い。しかし同時に、多くのオーケストラは「常任指揮者」(あるいは「首席指揮者」「音楽監督」)と呼ばれる特定の指揮者と長期にわたって演奏を行うため、その指揮者の任期中は、その指揮者の得意なレパートリーや演奏の様式によってオーケストラの個性が特徴付けられることが多く、しばしば常任指揮者や音楽監督の名前を冠して「~時代」などと言及されることもある。このような関係として特に有名なもの例を下に挙げる。
*[[ウィレム・メンゲルベルク|メンゲルベルク]]と[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団]](50年におよび、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルと並んで世界最長記録である)
*[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]と[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
*[[カール・ベーム|ベーム]]と[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[エルネスト・アンセルメ|アンセルメ]]と[[スイス・ロマンド管弦楽団]]
*[[ラファエル・クーベリック|クーベリック]]と[[バイエルン放送交響楽団]]
*[[フランツ・コンヴィチュニー|コンヴィチュニー]]と[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]
*[[カール・リヒター|リヒター]]と[[ミュンヘン・バッハ管弦楽団]]
*[[エフゲニー・ムラヴィンスキー|ムラヴィンスキー]]と[[レニングラード・フィルハーモニー交響楽団]](50年におよび、メンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と並んで世界最長記録である)
*[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]と[[NBC交響楽団]]
*[[ブルーノ・ワルター|ワルター]]と[[コロンビア交響楽団]]
*[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]と[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]
*[[レオポルド・ストコフスキー|ストコフスキー]]と[[フィラデルフィア管弦楽団]]
*[[ユージン・オーマンディ|オーマンディ]]とフィラデルフィア管弦楽団
*[[フランス・ブリュッヘン|ブリュッヘン]]と[[18世紀オーケストラ]]
*[[フリッツ・ライナー|ライナー]]と[[シカゴ交響楽団]]
*[[ゲオルク・ショルティ|ショルティ]]とシカゴ交響楽団
*[[ジョージ・セル|セル]]と[[クリーヴランド管弦楽団]]
*[[ウラジミール・フェドセーエフ|フェドセーエフ]]と[[モスクワ放送交響楽団]](現・モスクワ・チャイコフスキー交響楽団)
*[[エフゲニー・スヴェトラーノフ|スヴェトラーノフ]]と[[ソヴィエト国立交響楽団]](現・[[ロシア国立交響楽団]])
*[[セルジュ・チェリビダッケ|チェリビダッケ]]と[[ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団]]と[[シュトゥットガルト放送交響楽団]]
*[[ズービン・メータ|メータ]]と[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[シャルル・ミュンシュ|ミュンシュ]]と[[パリ管弦楽団]]と[[ボストン交響楽団]]
*[[アンドレ・クリュイタンス|クリュイタンス]]と[[パリ音楽院管弦楽団]](現在の[[パリ管弦楽団]]の設立母体)
*[[ヴァーツラフ・ノイマン|ノイマン]]と[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[クラウス・テンシュテット|テンシュテット]]と[[ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[サイモン・ラトル|ラトル]]と[[バーミンガム市交響楽団]]
*[[リッカルド・ムーティ|ムーティ]]と[[ミラノ・スカラ座管弦楽団]]
*[[シャルル・デュトワ|デュトワ]]と[[モントリオール交響楽団]]
*[[ギュンター・ヴァント|ヴァント]]と[[北ドイツ放送交響楽団]]
*[[マリス・ヤンソンス]]と[[オスロ・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[オスモ・ヴァンスカ]]と[[ラハティ交響楽団]]
日本人においては、
*[[大植英次]]と[[ミネソタ管弦楽団]]
*[[小澤征爾]]と[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]、[[ボストン交響楽団]]、[[サイトウ・キネン・オーケストラ]]
*[[小林研一郎]]と[[日本フィルハーモニー交響楽団]]
*[[秋山和慶]]と[[東京交響楽団]]
*[[朝比奈隆]]と[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]
*[[尾高忠明]]と[[札幌交響楽団]]
*[[高関健]]と[[群馬交響楽団]]
(団体名は在任当時)
常任指揮者以外の指揮者を「客演指揮者」と呼ぶ。多くのオーケストラでは、多数の客演指揮者を迎えることで、公演レパートリーの不足を補ったり、新しい共演により芸術的な向上を目指すことがある。しかし、かつてのフルトヴェングラーやカラヤンのように、常任指揮者の権限によって、自分の気にそぐわない指揮者に客演させないというケースも存在する。
== 用語 ==
; [[コンサートマスター|コンサートマスター/コンサートミストレス]]
: 多くの場合第1ヴァイオリンの首席奏者。オーケストラ全体の演奏をとりまとめ、指揮者に協力して様々な指示を出す。日本ではコンマス(コンミス)とも略称される。
; 首席
: トップともいい、楽器(ヴァイオリンの場合はパート)ごとの第一人目の演奏者のこと。他のパートと調整を行い、パート内に様々な指示を出す。職責としての首席と、演奏位置としてのトップが異なる場合もある。また、第1ヴァイオリンの首席は、コンサートマスターが第1ヴァイオリンの場合には、これを兼務せず、コンサートマスターと別に置く場合がある。
; 次席、副首席
: [[トップサイド]]ともいい、首席を補助する。場合によって、職責としての次席と演奏位置としてのトップサイドの異なる場合がある。
; ライブラリアン
: [[楽譜]]を管理する。
; インスペクター
: 演奏面以外のことで、楽団全体を取り仕切る。
; ステージマネージャー
: 公演にかかわるすべての舞台の準備および進行を取り仕切る。公演ごとの特殊楽器の手配(場合によっては製作することもある)、劇場、ホールとの舞台関係の打ち合わせを行い、指揮者および演奏者と打ち合わせた上での楽器配置を取り仕切る。指揮者、オーケストラの楽員、ソリストなどすべての動きを把握し、曲目にあわせてセットを変える責任を負う。日本においては、ステージマネージャーは、オーケストラおよびホールのステージマネージャーを指すことが多い。また、日本では各オーケストラの専属と劇場・音楽ホール専属、制作会社専属のステージマネージャーがいる。
== 評価 ==
[[2010年]]発行の[[グラモフォン (雑誌)|グラモフォン]]誌において、"The world’s greatest orchestras"として、以下の20楽団が選出されている<ref>{{Cite web
|url = http://www.gramophone.co.uk/editorial/the-world%E2%80%99s-greatest-orchestras
|title = The world’s greatest orchestras
|publisher = [[グラモフォン (雑誌)]]
|date = 2010-3-23
|accessdate = 2014-11-15 }}</ref>。
# [[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]]
# [[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]
# [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]
# [[ロンドン交響楽団]]
# [[シカゴ交響楽団]]
# [[バイエルン放送交響楽団]]
# [[クリーヴランド管弦楽団]]
# [[ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団]]
# [[ブダペスト祝祭管弦楽団]]
# [[ドレスデン・シュターツカペレ]]
# [[ボストン交響楽団]]
# [[ニューヨーク・フィルハーモニック]]
# [[サンフランシスコ交響楽団]]
# [[マリインスキー劇場管弦楽団]] (旧 キーロフ歌劇場管弦楽団)
# [[ロシア・ナショナル管弦楽団]]
# [[サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団]]
# [[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]
# [[メトロポリタン歌劇場管弦楽団]]
# [[サイトウ・キネン・オーケストラ]]
# [[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]
== オーケストラを題材にした作品 ==
* 映画
**[[オーケストラ!]](2009年、フランス)
**[[オーケストラの少女]](1937年、アメリカ)
**[[オーケストラ・リハーサル]](1979年、イタリア)
**[[ここに泉あり]](1955年、日本)
**[[日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章]](1981年、日本)
**[[誇り高き戦場]](1967年、アメリカ)
**[[リトル・マエストラ]](2012年、日本)
**{{仮リンク|ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて|de|Trip to Asia}}(英語原題:Trip to Asia: The Quest for Harmony)(2008年、ドイツ。ドキュメンタリー映画)<ref>[https://eiga.com/movie/53967/]</ref>
**{{仮リンク|クレッシェンド 音楽の架け橋|en|Crescendo (2019 film)}}(2019年、ドイツ)<ref>[https://eiga.com/movie/94774/]</ref>
* ミュージカル
**[[オケピ!]]
* 童話
**[[セロ弾きのゴーシュ]]
* 漫画
**[[のだめカンタービレ]]
**[[マエストロ_(漫画)|マエストロ]]
**[[青のオーケストラ]]
* ゲーム
**[[金色のコルダ スターライトオーケストラ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*Peter Raabe: Stadtverwaltung und Chorgesang, Rede bei einem Chorkongress in Essen (1928), in: Peter Raabe: Kulturwille im deutschen Musikleben, Kulturpolitische Reden und Aufsätze, Regensburg, 1936, S. 26-41.
*Malte Korff (Hrsg.): Konzertbuch Orchestermusik 1650–1800. Breitkopf und Härtel, Wiesbaden 1991, ISBN 3-7651-0281-4.
*Nina Okrassa: Peter Raabe - Dirigent, Musikschriftsteller und Präsident der Reichsmusikkammer (1872-1945), Köln 2004, ISBN 3-412-09304-1.
*Orchester, Spezialensembles und Musiktheater. In: Deutscher Musikrat (Hrsg.): Musik-Almanach. Daten und Fakten zum Musikleben in Deutschland, Bd. 7 (2007/08), 2006, S. 733–823, ISSN 0930-8954.
*Gerald Mertens: Kulturorchester, Rundfunkensembles und Opernchöre, Deutsches Musikinformationszentrum 2010 (Volltext; PDF; 963 kB)
*Raynor, Henry (1978). The Orchestra: a history. Scribner. ISBN 0-684-15535-4.
*Sptizer, John, and Neil Zaslaw (2004). The Birth of the Orchestra: History of an Institution, 1650-1815. Oxford University Press. ISBN 0-19-816434-3.
*Marcello Sorce Keller, “L’orchestra come metafora: riflessioni (anche un po’ divaganti) a partire da Gino Bartali”. Musica/Realtà, luglio 2010, no. 92, pp. 67-88.
*伊福部昭 完本・管絃楽法
*ニュー・グローブ音楽辞典第二版 Instrumentation and Orchestration
*MGG オーケストラの項
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Orchestras}}
{{Wiktionary|オーケストラ}}
*[[オーケストラの一覧]]
*[[クラシック音楽の指揮者一覧]]
*[[アマチュア・オーケストラ]]
*[[指揮 (音楽)]]
*[[総譜]]
*[[吹奏楽]]
== 外部リンク ==
*[http://www.miz.org/artikel_institutionen_vorbemerkungen_orchester.html Orchester Und Musiktheater In Deutschland](Liste Des Deutschen Musikinformationszentrums)
*[http://www.miz.org/download/topographie/kulturorchester.pdf Kartografische Darstellung Der Kulturorchester In Deutschland Des Deutschen Musikinformationszentrums](PDF; 746 kB)
*[http://www.dov.org/ Deutsche Orchestervereinigung](DOV)
*[http://www.orchesterstiftung.de/ Deutsche Orchester-Stiftung](DO-S)
*[http://musdata.info/ MusData – Orchesterverzeichnis] – Internationales Orchester- Und Musikerverzeichnis(Englisch)
*[http://www.buehnenverein.de/ Deutscher Bühnenverein] – Bundesverband Der Theater Und Orchester
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{{オーケストラの楽器}}
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[[Category:クラシック音楽]]
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黄金比
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黄金比(おうごんひ、英: golden ratio)とは、次の値で表される比のことである:
以下で述べるような数理的な性質は、有理数にならないこの値のみが持つ性質であり、有理近似等には基本的には意味が無い。「デザインを美しくする」などといった巷間よく見られる説については「用途」の節を参照。小数に展開すると 1 : 1.6180339887... あるいは 0.6180339887... : 1 といった値となる。
黄金比は貴金属比の一つである(第1貴金属比)。
幾何的には、a : b が黄金比ならば、
という等式が成り立つことから、縦横比が黄金比の矩形から最大正方形を切り落とした残りの矩形は、やはり黄金比の矩形となり、もとの矩形の相似になるという性質がある。正五角形の1辺と対角線との比は黄金比に等しい。数列 a, b, a + b は、等比数列をなす。そのため、(中項 b と末項 a + b の比という意味で)中末比(ちゅうまつひ)とも呼ばれる。
線分を2つに分け、短い部分と長い部分の長さの比が、長い部分と全体の長さの比に等しくなるようにしたときの比であるため、外中比(がいちゅうひ、英: extreme and mean ratio)とも呼ばれる。黄金比で長さなどを分けることを黄金比分割または黄金分割(英: golden section または 英: golden cut)という。
黄金比における
を黄金数(おうごんすう、英: golden number)という。しばしばギリシア文字の φ(ファイ)で表されるが、τ(タウ)を用いる場合もある。黄金数は、二次方程式 x − x − 1 = 0 の正の解である:
三角関数を使うと次のように表すことができる:
指数関数を使うと次のように表すことができる。
が成り立つ。
となり、係数にフィボナッチ数列が出現する。n番目のフィボナッチ数を Fn とすると、φ は次のようになる。
半径の比が
である3つの円が互いに外接する時、その3つの円の全てと外接する大小2つの円を描くことができ、それらを合わせた5つの円の半径の比は
である。
ここで
であり、隣接する円との半径の比が同じで、互いに密に接する円の列を螺旋状に無限に配置することができる。
(→デカルトの円定理)
最も簡単な作図方法は下記の通り。
正五角形や五芒星(星形:☆)(何れも作図可能)から容易に作図することができる。正五角形の一辺と対角線の比、五芒星の辺と隣接2頂点の距離の比は、黄金比に等しい。
五次方程式 x − 1 = 0 を解く過程で黄金数が出現する。
この後は x − 1 = 0 と2つの2次方程式から5つの解を求めることができる。
伝承では、古代ギリシアの彫刻家ペイディアス(Φειδίας, 紀元前490年頃 - 紀元前430年頃)が初めて使ったといわれる。黄金数の記号φは彼の頭文字であるが、使われ始めたのは20世紀である。なお、τはギリシア語の「分割」に由来し、やはり20世紀に使われ始めた。
同じく古代ギリシアの数学者ユークリッド(紀元前3世紀? - )の著書『ユークリッド原論』では第6巻の定義3で外中比の定義が記されている。『原論』第6巻の命題30で「与えられた線分を外中比に分ける作図法」が記されている。東京工芸大学教授の牟田淳によると、ローマ建築の理論にも、黄金比の考え方が見られる。
ルネサンス期イタリアの学者レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))も発見していた記録が残っている。彼が描いた有名な美人画『モナ・リザ』の顔は黄金比になっているという指摘もある。
ダ・ヴィンチの同時代人であったルカ・パチョーリは著書で『神聖比例論』として言及した。「黄金比」という用語が文献上に初めて登場したのは1835年刊行の、ドイツの数学者マルティン・オーム(「オームの法則」で有名なゲオルク・オームの弟)の著書『初等純粋数学』。また、1826年刊行の初版にはこの記載がないことから、1830年頃に誕生したと考えられる。
長方形は縦と横の長さの比が黄金比になるとき、安定した美感を与えるという説がある。これはグスタフ・フェヒナーの1867年の実験を論拠としている。しかし、フェヒナーの実験の解釈については否定的な様々な見解がある。1997年に国際経験美学会誌の黄金分割特集では、この実験結果を「永遠に葬るもの」とする見解が掲載された。また類似の(すなわち、同様に根拠が極めてあやしい)安定した比とされるものに白銀比がある。
黄金比は、長方形の形状の物の縦横比に利用されることが多い。例えば、名刺やクレジットカードをはじめとする様々なカード類などは、短辺と長辺の比率が1対1.6台であることが多い。
ディスプレイのアスペクト比には、WQXGA(解像度2560x1600)、WUXGA(同1920x1200)など、黄金比に近い8:5 (16:10) のものもある。
黄金比はパルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物や美術品の中に見出すとされてきたが、これらは後付けの都市伝説であるものが含まれる。一方で、意図的に黄金比を意識して創作した芸術家も数多い。
自然界に存在する植物の葉脈や巻貝の断面図など対数螺旋ではないが黄金比に近い例として度々挙げられる。工学分野では、自動車ではスポーツカーやオフロード、セミトレーラー用トラクタや軽トラックのトレッド(輪距)とホイールベース(軸距)の関係が黄金比に近い。具体的には 普通乗用車であれば1500 mm 程度のトレッドに対し、ホイールベースが2400 mm 前後とやや短い値となる。これは、いずれの車種においても旋回性能が重要視されるためである。
黄金比は、容姿の美しさの指標として美容業界でもよく用いられ、身体において足底から臍(へそ)までの長さと臍から頭頂までの長さの比が黄金比であれば美しい、また、顔面の構成要素である目、鼻、口などの長さや間隔、細かな形態も黄金比に合致すれば美しいとされている。そして、その黄金比は横1:縦1.618となっている顔である。 なお、黄金比に近い容貌はコーカソイド(白人)に多く、日本人を含むアジア人は黄金比とはかけ離れてることが多いため、日本においてはアジア人に近い「白銀比」(別名「大和比」)という比率で美しさを論じる審美観が存在し、白銀比が古代から現代までの建築、仏像の造形、さらには現代の創作などにおいて「かわいい」キャラクターデザインなど日本の文化の背景の一つになっているという分析もある。
φ = 1. 6180339887 4989484820 4586834365 6381177203 0917980576 2862135448 6227052604 6281890244 9707207204 1893911374 8475408807 5386891752 1266338622 2353693179 3180060766 7263544333 8908659593 9582905638 3226613199 2829026788 0675208766 8925017116 9620703222 1043216269 5486262963 1361443814 9758701220 3408058879 5445474924 6185695364 8644492410 4432077134 4947049565 8467885098 7433944221 2544877066 4780915884 6074998871 2400765217 0575179788 3416625624 9407589069 7040002812 1042762177 1117778053 1531714101 1704666599 1466979873 1761356006 7087480710 1317952368 9427521948 4353056783 0022878569 9782977834 7845878228 9110976250 0302696156 1700250464 3382437764 8610283831 2683303724 2926752631 1653392473 1671112115 8818638513 3162038400 5222165791 2866752946 5490681131 7159934323 5973494985 0904094762 1322298101 7261070596 1164562990 9816290555 2085247903 5240602017 2799747175 3427775927 7862561943 2082750513 1218156285 5122248093 9471234145 1702237358 0577278616 0086883829 5230459264 7878017889 9219902707 7690389532 1968198615 1437803149 9741106926 0886742962 2675756052 3172777520 3536139362 1076738937 6455606060 5921658946 6759551900 4005559089 ...
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"text": "自然界に存在する植物の葉脈や巻貝の断面図など対数螺旋ではないが黄金比に近い例として度々挙げられる。工学分野では、自動車ではスポーツカーやオフロード、セミトレーラー用トラクタや軽トラックのトレッド(輪距)とホイールベース(軸距)の関係が黄金比に近い。具体的には 普通乗用車であれば1500 mm 程度のトレッドに対し、ホイールベースが2400 mm 前後とやや短い値となる。これは、いずれの車種においても旋回性能が重要視されるためである。",
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"text": "φ = 1. 6180339887 4989484820 4586834365 6381177203 0917980576 2862135448 6227052604 6281890244 9707207204 1893911374 8475408807 5386891752 1266338622 2353693179 3180060766 7263544333 8908659593 9582905638 3226613199 2829026788 0675208766 8925017116 9620703222 1043216269 5486262963 1361443814 9758701220 3408058879 5445474924 6185695364 8644492410 4432077134 4947049565 8467885098 7433944221 2544877066 4780915884 6074998871 2400765217 0575179788 3416625624 9407589069 7040002812 1042762177 1117778053 1531714101 1704666599 1466979873 1761356006 7087480710 1317952368 9427521948 4353056783 0022878569 9782977834 7845878228 9110976250 0302696156 1700250464 3382437764 8610283831 2683303724 2926752631 1653392473 1671112115 8818638513 3162038400 5222165791 2866752946 5490681131 7159934323 5973494985 0904094762 1322298101 7261070596 1164562990 9816290555 2085247903 5240602017 2799747175 3427775927 7862561943 2082750513 1218156285 5122248093 9471234145 1702237358 0577278616 0086883829 5230459264 7878017889 9219902707 7690389532 1968198615 1437803149 9741106926 0886742962 2675756052 3172777520 3536139362 1076738937 6455606060 5921658946 6759551900 4005559089 ...",
"title": "黄金数の小数展開"
}
] |
黄金比とは、次の値で表される比のことである: 以下で述べるような数理的な性質は、有理数にならないこの値のみが持つ性質であり、有理近似等には基本的には意味が無い。「デザインを美しくする」などといった巷間よく見られる説については「用途」の節を参照。小数に展開すると 1 : 1.6180339887... あるいは 0.6180339887... : 1 といった値となる。 黄金比は貴金属比の一つである(第1貴金属比)。 幾何的には、a : b が黄金比ならば、 という等式が成り立つことから、縦横比が黄金比の矩形から最大正方形を切り落とした残りの矩形は、やはり黄金比の矩形となり、もとの矩形の相似になるという性質がある。正五角形の1辺と対角線との比は黄金比に等しい。数列 a, b, a + b は、等比数列をなす。そのため、中末比(ちゅうまつひ)とも呼ばれる。 線分を2つに分け、短い部分と長い部分の長さの比が、長い部分と全体の長さの比に等しくなるようにしたときの比であるため、外中比とも呼ばれる。黄金比で長さなどを分けることを黄金比分割または黄金分割という。 黄金比における を黄金数という。しばしばギリシア文字の φ(ファイ)で表されるが、τ(タウ)を用いる場合もある。黄金数は、二次方程式 x2 − x − 1 = 0 の正の解である:
|
{{参照方法|date=2013-03}}
'''黄金比'''(おうごんひ、{{lang-en-short|golden ratio}})とは、次の値で表される[[比]]のことである:
:<math display="block">
1 : \frac{1 + \sqrt{5}}{2} \,.
</math>
[[画像:FakeRealLogSpiral.svg|250px|thumb|[[黄金長方形]](縦横の長さの比が黄金比( 1: 1.618…)である長方形)から最大[[正方形]]を切り落とすと、元の長方形と[[図形の相似|相似]]になる。赤線は黄金[[螺旋]]、緑線は正方形内の四分円を接続したものである。黄色は重なっている部分を表す。]]
以下で述べるような数理的な性質は、[[有理数]]にならないこの値のみが持つ性質であり、有理近似等には基本的には意味が無い。「デザインを美しくする」などといった巷間よく見られる説については[[#用途|「用途」の節]]を参照。[[小数]]に展開すると 1 : {{val|1.6180339887|end=...}} あるいは {{val|0.6180339887|end=...}} : 1 といった値となる。
黄金比は'''[[貴金属比]]'''の一つである(第1貴金属比)。
幾何的には、{{math|''a'' : ''b''}} が黄金比ならば、
:{{math|''a'' : ''b'' {{=}} ''b'' : (''a'' + ''b'')}}
という等式が成り立つことから、縦横比が黄金比の[[長方形|矩形]]から最大[[正方形]]を切り落とした残りの矩形は、やはり黄金比の矩形となり、もとの矩形の[[図形の相似|相似]]になるという性質がある。[[正五角形]]の1[[辺]]と[[対角線]]との比は黄金比に等しい。数列 {{math2|''a'', ''b'', ''a'' + ''b''}} は、[[等比数列]]<!--かつ[[フィボナッチ数]]列-->をなす。そのため、(中項 {{mvar|b}} と末項 {{math|''a'' + ''b''}} の比という意味で)'''中末比'''(ちゅうまつひ)とも呼ばれる。
線分を2つに分け、短い部分と長い部分の長さの比が、長い部分と全体の長さの比に等しくなるようにしたときの比であるため、'''外中比'''(がいちゅうひ、{{lang-en-short|extreme and mean ratio}})とも呼ばれる。黄金比で長さなどを分けることを'''黄金比分割'''または'''黄金分割'''({{lang-en-short|golden section}} または {{lang-en-short|golden cut}})という。
黄金比における
:<math>\frac{1 + \sqrt{5}}{2}</math>
を'''黄金数'''(おうごんすう、{{lang-en-short|golden number}})という。しばしば[[ギリシア文字]]の {{mvar|[[φ]]}}(ファイ)で表されるが、{{mvar|[[τ]]}}(タウ)を用いる場合もある。黄金数は、[[二次方程式]] {{math|''x''{{sup|2}} − ''x'' − 1 {{=}} 0}} の正の[[方程式|解]]である:
:<math>\varphi = \frac{1+\sqrt{5}}{2} = 1.6180339887\cdots</math>
== 黄金数の性質 ==
=== 既約多項式 ===
*<math>\varphi^2 = \varphi + 1</math>
**すなわち、黄金数 {{mvar|φ}} の[[有理数]][[体 (数学)|体]] <math>\mathbb Q</math> 上の[[既約多項式]]は {{math|''x''{{sup|2}} − ''x'' − 1}} である。
** {{mvar|φ}} は[[無理数]]であり、
:: <math>\varphi = \frac{1 + \sqrt{5}}{2} = 1.6180339887\cdots</math>
*<math>\varphi^{-1} = \varphi -1 = \frac{-1+\sqrt{5}}{2} = 0.6180339887 \cdots</math>
<gallery widths="250px">
TomoyukiMogi GoldenRatio.gif|[[黄金長方形]]では、(長辺 - 短辺) : 短辺 = 短辺 : 長辺 が成り立つことを表した図。
TomoyukiMogi GoldenRatio DiagonalLine.gif|黄金長方形から最大正方形を切り取っていった図(残った長方形も黄金長方形になる)。
TomoyukiMogi GoldenRatio SameAreas.gif|黄金数 {{mvar|φ}} について、{{math2|''φ''(''φ'' − 1) {{=}} 1}} を、面積で表した図。青線が、縦横の長さ {{math2|1, ''φ''}} の[[黄金長方形]]2個を表し、右上にある赤色の網目部分が {{math2|''φ''(''φ'' − 1)}}、左下にある赤色の網目部分が {{math|1}} を表す。
TomoyukiMogi GoldenRatio Pythagorean.gif|黄金数 {{mvar|φ}} について、{{math2|''φ''(''φ'' − 1) {{=}} 1}} を、面積で表した図。縦横の長さが {{math2|1, ''φ''}} の[[黄金長方形]](青線)において、斜線部分が等積となる。また、赤色の網目部分は {{math2|{{sqrt|5}}''φ'' {{=}} 1 + ''φ''{{sup|2}}}} を表している。
</gallery>
=== 連分数表示 ===
*黄金数は次のような[[連分数]]表示を持つ:
:<math>\varphi = 1 + \cfrac{1}{1 + \cfrac{1}{1 + \cfrac{1}{1 + \cfrac{1}{\ddots}}}} = [1;1,1,1,1,\cdots]</math>
*次のような表示も持つ:
*<math>\varphi^{-1} = [0; 1, 1, 1, \cdots] = 0 + \cfrac{1}{1 + \cfrac{1}{1 + \cfrac{1}{1 + \ddots}}}</math>
*<math>\varphi = \sqrt{1 + \sqrt{1 + \sqrt{1 + \sqrt{1 + \sqrt{\cdots}}}}}</math>
=== 級数表示 ===
*<math>\varphi = \frac{13}{8} + \sum_{n=0}^{\infty} \frac{(-1)^{n+1} \, (2n+1)!}{(n+2)! \, n! \, 4^{2n+3}}</math>
=== 三角関数による表示 ===
[[三角関数]]を使うと次のように表すことができる:
*<math>\varphi = 2\cos \frac{\pi}{5} =2\cos 36^\circ</math>
*<math>\varphi = 2\sin \frac{3 \pi}{10} = 2\sin 54^\circ</math>
*<math>\varphi = -2\sin 666^\circ</math>
*<math>\varphi = 1+2\sin \frac{\pi}{10} = 1+2\sin 18^\circ</math>
*<math>\varphi = 1+2\cos \frac{2\pi}{5} = 1+2\cos 72^\circ</math>
*<math>\varphi = \frac{1}{2} \csc \frac{\pi}{10} = \frac{1}{2} \csc 18^\circ</math>
*<math>\varphi^{-1} = 2\sin \frac{\pi}{10} = 2\sin 18^\circ</math>
*<math>\varphi^{-1} = 2\cos \frac{2\pi}{5} = 2\cos 72^\circ</math>
=== 指数関数による表示 ===
[[指数関数]]を使うと次のように表すことができる。
*<math>\varphi = e^{\,i\frac{\pi}{5}} + e^{\,i\frac{-\pi}{5}}</math>
=== 黄金比に関する極限 ===
*<math> \sum_{n=1}^{\infty} \frac{n}{\varphi^{2n}}=1</math>
=== フィボナッチ数列との関連 ===
*[[フィボナッチ数]]列の隣接2項の比は黄金数に[[極限|収束]]する。
[[画像:TomoyukiMogi GoldenRatio Power.gif|250px|thumb|[[等比数列]] {{math2|1, ''φ'', ''φ''{{sup|2}}, ''φ''{{sup|3}}, ''φ''{{sup|4}}, ''φ''{{sup|5}}, …}} は、第3項以降がそれぞれ直前の2項の[[加法|和]]に等しい性質を[[幾何学]]的に表した図。青色、緑色、黄色、赤色の線分は階差を表し、同色どうしは長さが等しくなる。]]
*[[等比数列]] {{math2|1, ''φ'', ''φ''{{sup|2}}, ''φ''{{sup|3}}, …}} において、{{math2|1 + ''φ'' {{=}} ''φ''{{sup|2}}}} より
:{{math|''φ{{sup|n}}'' + ''φ''{{sup|''n''+1}} {{=}} ''φ''{{sup|''n''+2}}}}({{mvar|n}} は自然数)
が成り立つ。
:{{math|''φ''{{sup|2}} {{=}} ''φ'' + 1}},
:{{math|''φ''{{sup|3}} {{=}} 2''φ'' + 1}},
:{{math|''φ''{{sup|4}} {{=}} 3''φ'' + 2}},
:{{math|''φ''{{sup|5}} {{=}} 5''φ'' + 3}},
:{{math|''φ''{{sup|6}} {{=}} 8''φ'' + 5}},
:...
となり、係数にフィボナッチ数列が出現する。{{mvar|n}}番目のフィボナッチ数を {{mvar|F{{sub|n}}}} とすると、{{mvar|φ{{sup|n}}}} は次のようになる。
:{{math|''φ{{sup|n}}'' {{=}} ''F{{sub|n}} φ'' + ''F''{{sub|''n''−1}}}}
=== 幾何学的性質 ===
[[半径]]の比が
:<math>( \varphi - \sqrt{\varphi} ) : 1 : ( \varphi + \sqrt \varphi )</math>
である3つの円が互いに[[内接と外接|外接]]する時、その3つの円の全てと外接する大小2つの円を描くことができ、それらを合わせた5つの円の半径の比は
:<math>({\varphi - \sqrt \varphi })^2 : ( \varphi - \sqrt{\varphi} ) : 1 : ( \varphi + \sqrt \varphi ) : ( \varphi + \sqrt \varphi )^2</math>
である。
ここで
:<math>\varphi - \sqrt{\varphi} = \frac{1}{\varphi + \sqrt \varphi}</math>
であり、隣接する円との[[半径]]の比が同じで、互いに密に接する円の列を[[螺旋]]状に無限に配置することができる。
(→[[デカルトの円定理]])
<gallery>
GoldenRatioCirclesTouched Tomoyuki Mogi.gif|半径の比が黄金比である2円が外接しているとき、共通外接線2本の交点と、2円の接点の距離は、大きい方の円の直径に等しい。
TOMOYUKI MOGI GOLDEN RATIO CIRCLES 1 PHI_ROOT5.gif|半径 {{math|{{sqrt|5}}}} の円(青線)と半径1の円(緑線)が外接するとき、共通外接線2本の交点と半径1の[[円周]]上の点の距離で最短のものは、黄金数に等しい。
TomoyukiMogi ET GR SR With IRT.gif|合同な直角二等辺三角形を張り合わせて黄金長方形、白銀長方形(大和比)を作り、それらから正三角形を作った例。
RRSQ GOLDENRATIO TOMOYUKI MOGI.gif|互いに合同な正方形を活用して黄金比の[[線分]]を作り出せることを示した図。図中では同じ長さの辺を持つ正三角形、正方形、正五角形も示されている。
CircleDiv20WithGoldenRectangle Tomoyuki Mogi.gif|「半径 2 の正円」(緑色)と「辺の長さが 1 と φ の黄金長方形」(橙色)を活用すると図のように当該正円の円周を20等分する点を求めることができる。
</gallery>
== 作図 ==
[[画像:黄金比.svg|400px|右]]
最も簡単な作図方法は下記の通り。
# 正方形 abcd を描く。
# 辺 bc の中点 o を取る。
# 中心を o とし、d (a) を通る円を描き、辺 bc の延長との交点を e とする。
# 長方形 abef を描く。
# ab : be は黄金比となる(長方形 abef は黄金長方形)。
正[[五角形]]や[[五芒星]](星形:☆)(何れも作図可能)から容易に作図することができる。正五角形の一辺と対角線の比、五芒星の辺と隣接2頂点の距離の比は、黄金比に等しい。
<gallery>
TomoyukiMogi GoldenRectangle IRT.png|互いに合同な[[直角二等辺三角形]]を図のように並べると[[黄金長方形]]が出来る。
FivePointedStar GoldenRatio Parallel.gif|五芒星に現れる線分の組み合わせから様々な規模での黄金比が生じることを平行線で表した図。
CircleGradient2GoldenRectangle.png|正円とその中心を通る水平ならびに傾き2の直線との交点を活用すると図のように黄金長方形(赤色・青色・緑色)を描ける。
TomoyukiMogi Maximus Golden Rectangle.gif|幾何学的に或る長方形(灰色)からその長辺または短辺の全長を使い切った黄金長方形を切り取る方法の一例。青枠または緑枠で示される長方形が黄金長方形となっている。
Hexa-penta-goldenrect.png|同一の正円(青色)に内接する正五角形(黄色)と正六角形(緑色)を活用して[[黄金長方形]](橙色)を作り出す例。
File:Inscribed_penta_5prs_of_circle_bysq_TomoyukiMogi.png|正円(緑色)の半径と同じ長さの辺を持つ正方形(青色)を活用した正五角形(橙色)や五芒星(黄いろ)の描き方の例。赤色の円は描き上げ後の検証のためのもの。
File:PentaStar_Tomoyuki_Mogi_Circle_2_1.png|正円半径と同じ長さの辺の正方形を活用した[[内接と外接|内接]]正五角形(五芒星)の描き方の一例。赤色の円は描き上げ後の検証のためのもの。
</gallery>
== 応用 ==
[[五次方程式]] {{math|''x''{{sup|5}} − 1 {{=}} 0}} を解く過程で黄金数が出現する。
:{{math|(''x'' − 1)(''x''{{sup|4}} + ''x''{{sup|3}} + ''x''{{sup|2}} + ''x'' + 1) {{=}} 0}}
:{{math|(''x'' − 1)(''x''{{sup|2}} + ''φx'' + 1)(''x''{{sup|2}} + (1 − ''φ'')''x'' + 1) {{=}} 0}}
この後は {{math2|''x'' − 1 {{=}} 0}} と2つの2次方程式から5つの解を求めることができる。
== 歴史 ==
[[画像:Madame Récamier painted by Jacques-Louis David in 1800.jpg|250px|thumb|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の『[[ジュリエット・レカミエ|レカミエ]]像』(1800年)。構図が安定して見えるのは、夫人の横たわる姿が黄金比の長方形に収まるように構成されているからだという。]]
伝承では、[[古代ギリシア]]の彫刻家[[ペイディアス]]({{lang|el|Φειδίας}}, [[紀元前490年]]頃 - [[紀元前430年]]頃)が初めて使ったといわれる。黄金数の記号φは彼の頭文字であるが、使われ始めたのは20世紀である。なお、τはギリシア語の「分割」に由来し、やはり20世紀に使われ始めた。
同じく古代ギリシアの数学者[[エウクレイデス|ユークリッド]]([[紀元前3世紀]]? - )の著書『[[ユークリッド原論]]』では第6巻の定義3で'''外中比'''の定義が記されている。『原論』第6巻の命題30で「与えられた線分を外中比に分ける作図法」が記されている。[[東京工芸大学]]教授の牟田淳によると、[[ローマ建築]]の理論にも、黄金比の考え方が見られる<ref name=日経20221119/>。
[[ルネサンス]]期[[イタリア]]の学者[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]([[1452年]][[4月15日]] - [[1519年]][[5月2日]]([[ユリウス暦]]))も発見していた記録が残っている。彼が描いた有名な美人画『[[モナ・リザ]]』の顔は黄金比になっているという指摘もある<ref name=日経20221119/>。
ダ・ヴィンチの同時代人であった[[ルカ・パチョーリ]]は著書で『神聖比例論』として言及した<ref name=日経20221119/>。「黄金比」という用語が文献上に初めて登場したのは1835年刊行の、ドイツの数学者[[マルティン・オーム]](「[[オームの法則]]」で有名な[[ゲオルク・オーム]]の弟)の著書『初等純粋数学』。また、1826年刊行の初版にはこの記載がないことから、1830年頃に誕生したと考えられる。
== 用途 ==
[[長方形]]は縦と横の長さの比が黄金比になるとき、安定した美感を与えるという説がある。これは[[グスタフ・フェヒナー]]の[[1867年]]の実験を論拠としている。しかし、フェヒナーの実験の解釈については否定的な様々な見解がある。[[1997年]]に国際経験美学会誌の黄金分割特集では、この実験結果を「永遠に葬るもの」とする見解が掲載された。また類似の(すなわち、同様に根拠が極めてあやしい)安定した比とされるものに[[白銀比]]がある{{efn|美観についての話とは全く無関係に、白銀比は長辺を2分の1にすると、ちょうど逆の比になるという実用上の便利さは事実である。}}。
黄金比は、長方形の形状の物の縦横比に利用されることが多い。例えば、[[名刺]]や[[クレジットカード]]をはじめとする様々な[[カード]]類などは、短辺と長辺の比率が1対1.6台であることが多い<ref name=日経20221119>【くらし探検隊】「かわいい」白銀比 日本に宿る*欧米は黄金比優勢 好みに差『[[日本経済新聞]]』土曜朝刊別刷り「日経+1」2022年11月19日11面</ref><ref>{{Cite web|和書|title=名刺サイズは黄金比が基本|黄金比を意識したデザインの作り方 |url=https://media.cardie.jp/golden-ratio-business-card/ |website=レスタス名刺 |date=2021-04-27 |access-date=2022-05-20 |language=ja |last=レスタス名刺}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=国際規格で定められたクレジットカードのサイズとは?[ゼロからはじめるクレジットカード] 三井住友VISAカード |url=https://www.smbc-card.com/nyukai/magazine/column/size.jsp?dk=sn_fcb_08390065 |website=クレジットカードの三井住友VISAカード |access-date=2022-05-20}}</ref>。
[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]の[[アスペクト比]]には、WQXGA([[解像度]]2560x1600)、[[Ultra Extended Graphics Array|WUXGA]]([[解像度|同]]1920x1200)など、黄金比に近い8:5 ([[解像度|16:10]]) のものもある。
黄金比は[[パルテノン神殿]]<ref name=日経20221119/>や[[ピラミッド]]といった歴史的[[建築物|建造物]]や[[美術]]品の中に見出すとされてきたが、これらは後付けの[[都市伝説]]であるものが含まれる。一方で、意図的に黄金比を意識して創作した[[芸術家]]も数多い<ref>{{Cite web|和書|title=黄金比φについて(その2)-黄金比はどこで使用され、どんな場面で現れているのか- |url=https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=66158 |website=[[ニッセイ基礎研究所]] |access-date=2022-05-20 |language=ja}}</ref>。
自然界に存在する植物の[[葉脈]]や[[巻貝]]の断面図など[[対数螺旋]]ではないが黄金比に近い例として度々挙げられる。[[工学]]分野では、[[自動車]]では[[スポーツカー]]や[[オフロード]]、[[牽引自動車#セミトレーラー|セミトレーラー用トラクタ]]や[[軽トラック]]の[[トレッド]](輪距)と[[ホイールベース]](軸距)の関係が黄金比に近い。具体的には 普通乗用車であれば1500 mm 程度のトレッドに対し、ホイールベースが2400 mm 前後とやや短い値となる。これは、いずれの車種においても旋回性能が重要視されるためである。
黄金比は、[[容姿]]の美しさの指標として美容業界でもよく用いられ、身体において足底から[[臍]](へそ)までの長さと臍から頭頂までの長さの比が黄金比であれば美しい、また、顔面の構成要素である目、鼻、口などの長さや間隔、細かな形態も黄金比に合致すれば美しいとされている。そして、その黄金比は横1:縦1.618となっている顔である<ref>[https://spicomi.net/media/articles/918 イケメン顔の特徴と条件!顔の形・黄金比率は?]Spicomi(2021年12月14日公開)2022年12月3日閲覧</ref>。
なお、黄金比に近い[[容貌]]は[[コーカソイド]]([[白人]])に多く<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/2676573 A・ジョリーにはあてはまらない? 現代美人顔の基準「新黄金律」が判明、米加研究]」[[フランス通信社|AFP]](2009年12月19日)2022年12月3日閲覧</ref>、[[日本人]]を含む[[アジア人]]は黄金比とはかけ離れてることが多いため<ref>[https://ameblo.jp/koshoclinic/entry-12199201496.html 美人顔の黄金比率♡] 医療法人社団 孝昭クリニック(2016年9月12日)2022年12月3日閲覧</ref>、日本においてはアジア人に近い「[[白銀比]]」(別名「大和比」)という比率で美しさを論じる[[審美|審美観]]が存在し<ref name=日経20221119/><ref>[https://www.meikocosmetics.co.jp/beautycolumn/silver-ratio/#:~:text=%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E3%81%A7%E3%81%AF%E9%BB%84%E9%87%91%E6%AF%94%E3%81%AE,%E3%81%AE%E9%A1%94%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 日本人に似合う白銀比メイクとは?]メイコー化粧品 BEAUTY COLUMN(2022年12月3日閲覧)</ref><ref>[https://i-voce.jp/feed/9507/ 【プラチナ比メイクって何!?】旬なモテ顔になれる黄金比を超えた最新美人メイク【小田切ヒロ発】]VoCE(2018年4月22日)2022年12月3日閲覧</ref><ref>「[https://belcy.jp/40184 美人顔の条件&特徴6つ!可愛い顔になる方法はバランスにあり!黄金比/白銀比]」BELCY(2020年2月6日)2022年12月3日閲覧</ref>、白銀比が古代から現代までの建築、[[仏像]]の造形、さらには現代の創作などにおいて「[[可愛い|かわいい]]」キャラクターデザインなど[[日本の文化]]の背景の一つになっているという分析もある<ref name=日経20221119/>。
== 黄金数の小数展開 ==
{{Mono|{{math|''φ'' {{=}}}} 1.<br />
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<ref>({{OEIS|A001622}})</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
<!-- 著作者名の50音順 -->
*{{Cite book|和書
|author=ハンス・ヴァルサー
|translator=蟹江幸博
|date=2002-09
|title=黄金分割
|publisher=[[日本評論社]]
|isbn=978-4-535-78347-8
|ref={{Harvid|ヴァルサー|2002}}
}} - 注釈:原タイトル:''Der Goldene Schnitt.'' 原著第2版の翻訳
*{{Cite book|和書
|author=[[エウクレイデス]]
|others=[[斎藤憲]]・三浦伸夫 訳・解説
|date=2008-01
|title=エウクレイデス全集
|series=第1巻 原論 1-6
|publisher=[[東京大学出版会]]
|isbn=978-4-13-065301-5
|ref={{Harvid|エウクレイデス|2008}}
}} - 注釈:原タイトル:''Euclidis opera omnia.'' 世界最初の近代語訳全集
*{{Cite book|和書
|author=[[佐藤修一 (数学者)|佐藤修一]]
|date=1998-01
|title=自然にひそむ数学 自然と数学の不思議な関係
|series=[[ブルーバックス]] B-1201
|publisher=[[講談社]]
|isbn=978-4-06-257201-9
|ref={{Harvid|佐藤|1998}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=[[関隆志]]
|date=2008-05
|title=[[アッティカ#古代|古代アッティカ]]杯 [[ギリシア美術]]の比例と装飾の研究
|publisher=[[中央公論美術出版]]
|isbn=978-4-8055-0576-2
|ref={{Harvid|関|2008}}
}} - 注釈:著者は500点を超す、古代アッティカの[[容器|杯]]の実測調査から「黄金分割」伝説を否定し、新しく星形五角形を基準とする「魔除けの分割」という比例関係を発見。
*{{Cite book|和書
|author=[[高木貞治]]
|date=2002-04
|title=数学小景
|series=[[岩波現代文庫]] 学術 81
|publisher=[[岩波書店]]
|isbn=978-4-00-600081-3
|ref={{Harvid|高木|2002}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=R.A.ダンラップ
|translator=岩永恭雄・松井講介
|date=2003-06
|title=黄金比とフィボナッチ数
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78370-6
|ref={{Harvid|ダンラップ|2003}}
}} - 注釈:原書名:''The golden ratio and Fibonacci numbers.''
*{{Cite book|和書
|author=[[中村滋 (数学者)|中村滋]]
|date=2008-01
|title=フィボナッチ数の小宇宙([ミクロコスモス) フィボナッチ数,[[リュカ数]],黄金分割
|edition=改訂版
|publisher=日本評論社
|isbn=978-4-535-78492-5
|ref={{Harvid|中村|2008}}
}}
*{{Cite book|和書
|author1=アルブレヒト・ボイテルスパッヒャー
|author2=ベルンハルト・ペトリ
|translator=柳井浩
|date=2005-03
|title=黄金分割 自然と数理と芸術と
|publisher=[[共立出版]]
|isbn=978-4-320-01781-8
|ref={{Harvid|ボイテルスパッヒャー|ペトリ|2005}}
}} - 注釈:原タイトル:''Der Goldene Schnitt.'' 原著第2版の翻訳
*{{Cite book|和書
|author=[[ユークリッド]]
|others=[[中村幸四郎]]・[[寺阪英孝]]・[[伊東俊太郎]]・[[池田美恵]] 訳・解説
|date=2011-05
|title=[[ユークリッド原論]]
|edition=追補版
|publisher=共立出版
|isbn=978-4-320-01965-2
|ref={{Harvid|ユークリッド|2011}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=マリオ・リヴィオ
|translator=斉藤隆央
|date=2005-12
|title=黄金比はすべてを美しくするか? 最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語
|series=
|publisher=[[早川書房]]
|isbn=978-4-15-208691-4
|ref={{Harvid|リヴィオ|2005}}
}} - 注釈:原タイトル:''The golden ratio.''
**{{Cite book|和書
|author=マリオ・リヴィオ
|translator=斉藤隆央
|date=2012-01
|title=黄金比はすべてを美しくするか? 最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語
|series=ハヤカワ文庫 NF 377〈数理を愉しむ〉シリーズ
|publisher=早川書房
|isbn=978-4-15-050377-2
|ref={{Harvid|リヴィオ|2012}}
}} - 注釈:原タイトル:''THE GOLDEN RATIO.'' 国際ピタゴラス賞及びペアノ賞受賞。
*{{Citation
|last=Arakelian
|first=Hrant
|date=2014
|title=Mathematics and History of the Golden Section
|publisher=Logos
|language=ru
|isbn=978-5-98704-663-0
}}
*{{Citation
|last=Herz-Fischler
|first=Roger
|date=1998-01-29
|title=A Mathematical History of the Golden Number
|publisher=Dover Publications
|edition=Unabridged
|series=Dover Books on Mathematics
|isbn=978-0-486-40007-5
}}
== 関連項目 ==
<!--項目の50音順 -->
{{Div col}}
*[[黄金角]]
*[[黄金三角形]]
*[[黄金進法]]
*[[黄金分割探索]]
*[[貴金属比]]
**[[貴金属比#青銅比|青銅比]]
**[[白銀比]]
*[[五芒星]]
*[[数学的な美]]
*[[対数螺旋#黄金螺旋]]
*[[美人]]
*[[フィボナッチ数]]
*[[リュカ数]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
*{{高校数学の美しい物語|731|黄金比にまつわる話題}}
*{{Kotobank|黄金比}}
*{{Kotobank|黄金分割}}
*{{Kotobank|外中比}}
* {{MathWorld|title=Golden Ratio|urlname=GoldenRatio}}
* [https://www.wolframalpha.com/input/?i=Golden+ratio Golden Ratio] - [[Wolfram Alpha]]
* [https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html#SECTION5 黄金比の色々―黄金比を具体例や図形でわかりやすく解説したサイト]
{{Algebra-stub}}
{{代数的数}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おうこんひ}}
[[Category:数学定数]]
[[Category:代数的数]]
[[Category:無理数]]
[[Category:比]]
[[Category:美学]]
[[Category:美術の技法]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
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2023-12-05T20:09:39Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E6%AF%94
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10,647 |
エルビウム
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エルビウム (英: erbium [ˈɜrbiəm]) は原子番号68の元素。元素記号は Er。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。灰色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は9.05、融点は1497 °C (1529 °Cという実験値もあり)、沸点は2863 °C (2900 °Cという実験値もあり)。空気中で表面が酸化され、高温で燃えて Er2O3 となる。水にゆっくりと溶ける。酸に易溶。ハロゲンと反応する。常温で常磁性を示す。安定な原子価は3価。
イットリア鉱石の産地のイッテルビー (Ytterby) が語源。イッテルビーからはエルビウムの他、イットリウム、イッテルビウム、テルビウム、と合計四つの新元素が発見されている。これらの元素はいずれも、イッテルビーから名称の一部をとって命名された。
酸化エルビウム(III) Er2O3 がガラスの着色剤に使われる(きれいなピンク色になる)。光ファイバーに添加(ドープ)されたり(光信号増幅のため)、YAGレーザーにも添加して利用される(Er:YAGレーザー:医療分野で利用される)。
モサンデール (C.G.Mosander) が1843年に分離に成功。単体分離は1879年。
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"text": "モサンデール (C.G.Mosander) が1843年に分離に成功。単体分離は1879年。",
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エルビウム (英: erbium ) は原子番号68の元素。元素記号は Er。希土類元素の一つ(ランタノイドにも属す)。灰色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は9.05、融点は1497 ℃ (1529 ℃という実験値もあり)、沸点は2863 ℃ (2900 °Cという実験値もあり)。空気中で表面が酸化され、高温で燃えて Er2O3 となる。水にゆっくりと溶ける。酸に易溶。ハロゲンと反応する。常温で常磁性を示す。安定な原子価は3価。
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{{Expand English|Erbium|date=2023-11}}
{{Elementbox
|name=erbium
|japanese name=エルビウム
|number=68
|symbol=Er
|pronounce={{IPA-en|ˈɜrbiəm|}}
|left=[[ホルミウム]]
|right=[[ツリウム]]
|above=-
|below=[[フェルミウム|Fm]]
|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|image name=Erbium-crop.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=167.259
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 4f<sup>12</sup> 6s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 30, 8, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=9.066
|density gpcm3mp=8.86
|melting point K=1802
|melting point C=1529
|melting point F=2784
|boiling point K=3141
|boiling point C=2868
|boiling point F=5194
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|heat capacity=28.12
|vapor pressure 1=1504
|vapor pressure 10=1663
|vapor pressure 100=(1885)
|vapor pressure 1 k=(2163)
|vapor pressure 10 k=(2552)
|vapor pressure 100 k=(3132)
|vapor pressure comment=
|crystal structure=hexagonal
|japanese crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states=3(弱[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.24
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=589.3
|2nd ionization energy=1150
|3rd ionization energy=2194
|atomic radius=176
|covalent radius=189 ± 6
|magnetic ordering=[[常磁性]] (300 K)
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (poly) 0.860 µ
|thermal conductivity=14.5
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (poly) 12.2
|speed of sound rod at 20=2830
|Young's modulus=69.9
|Shear modulus=28.3
|Bulk modulus=44.4
|Poisson ratio=0.237
|Vickers hardness=589
|Brinell hardness=814
|CAS number=7440-52-0
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=160 | sym=Er
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=28.58 [[時間|h]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.330 | pn=160 | ps=[[ホルミウム|Ho]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=162 | sym=Er | na=0.139% | hl= >1.4×10<sup>14</sup> [[年|y]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=1.6460 | pn1=158 | ps1=[[ジスプロシウム|Dy]]
| dm2=[[二重ベータ崩壊|β+β+]] | de2=1.8445 | pn2=162 | ps2=[[ジスプロシウム|Dy]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=164 | sym=Er | na=1.601 % | n=96}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=165 | sym=Er
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=10.36 [[時間|h]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=0.376 | pn=165 | ps=[[ホルミウム|Ho]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=166 | sym=Er | na=33.503 % | n=98}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=167 | sym=Er | na=22.869 % | n=99}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=168 | sym=Er | na=26.978 % | n=100}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=169 | sym=Er
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=9.4 [[日|d]]
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.351 | pn=169 | ps=[[ツリウム|Tm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=170 | sym=Er | na=14.910% | hl= >3.2×10<sup>17</sup> [[年|y]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=0.0502 | pn1=166 | ps1=[[ジスプロシウム|Dy]]
| dm2=[[二重ベータ崩壊|β-β-]] | de2=0.6536 | pn2=170 | ps2=[[イッテルビウム|Yb]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=171 | sym=Er
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=7.516 [[時間|h]]
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=1.490 | pn=171 | ps=[[ツリウム|Tm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=172 | sym=Er
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=49.3 [[時間|h]]
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.891 | pn=172 | ps=[[ツリウム|Tm]]}}
|isotopes comment=
}}
'''エルビウム''' ({{lang-en-short|erbium}} {{IPA-en|ˈɜrbiəm|}}) は[[原子番号]]68の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Er'''。[[希土類元素]]の一つ(ランタノイドにも属す)。灰色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は9.05、[[融点]]は1497 ℃ (1529 ℃という実験値もあり)、[[沸点]]は2863 ℃ (2900 {{℃}}という実験値もあり)。空気中で表面が酸化され、高温で燃えて Er<sub>2</sub>O<sub>3</sub> となる。水にゆっくりと溶ける。[[酸]]に易溶。[[ハロゲン]]と反応する。常温で常磁性を示す。安定な原子価は3価。
== 名称 ==
イットリア鉱石の産地の[[イッテルビー]] (Ytterby) が語源。イッテルビーからはエルビウムの他、[[イットリウム]]、[[イッテルビウム]]、[[テルビウム]]、と合計四つの新元素が発見されている。これらの元素はいずれも、イッテルビーから名称の一部をとって命名された。
== 用途 ==
[[Image:Erbium(III)chloride sunlight.jpg|thumb|left|エルビウム(III)塩化物、紫外線を受けるとピンク色の蛍光を発する。]]
[[酸化エルビウム(III)]] Er<sub>2</sub>O<sub>3</sub> が[[ガラス]]の着色剤に使われる(きれいな[[ピンク]]色になる)。[[光ファイバー]]に添加([[ドープ]])されたり([[光増幅器|光信号増幅]]のため)、[[YAGレーザー]]にも添加して利用される(Er:YAGレーザー:[[医療]]分野で利用される)。
== 歴史 ==
[[カール・グスタフ・モサンデル|モサンデール]] (C.G.Mosander) が1843年に分離に成功。単体分離は1879年。
== 同位体 ==
{{main|エルビウムの同位体}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Erbium}}
== 外部リンク ==
* [http://www.natureasia.com/ja-jp/nchem/in-your-element/article/56916 エルビウムを解きほぐす] Nature Chemistry 6, 370 (2014年4月号), {{doi|10.1038/nchem.1908}}
{{元素周期表}}
{{エルビウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えるひうむ}}
[[Category:エルビウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:ランタノイド]]
[[Category:第6周期元素]]
|
2003-06-30T11:14:06Z
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2023-11-20T09:20:14Z
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[
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"Template:Main",
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"Template:Expand English",
"Template:IPA-en",
"Template:Commons",
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"Template:元素周期表",
"Template:Normdaten",
"Template:Elementbox",
"Template:Lang-en-short"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A6%E3%83%A0
|
10,648 |
近似アルゴリズム
|
近似アルゴリズム(きんじアルゴリズム、英: approximation algorithm)とは、組合せ最適化問題の近似解を得るためのアルゴリズムを言う。近似解とは、実行可能解(かつ問題の何らかの制約を満たす解)ではあるが、正解(厳密解)ではないものを言う。これは組合せ最適化問題の正解(すなわち最適解)であることが(厳密には)保証されないところの解を得るものである。なお、問題を変形した近似問題に対する正解を得るアルゴリズムも、元の問題に対する近似アルゴリズムと言える。
近似アルゴリズムの中でも、そのアルゴリズムの出力する解の目的関数値と最適解の目的関数値の比(近似度)がある範囲内に収まることが保証されているもののことを特に、精度保証付き近似アルゴリズムと呼ぶ。そのような保証のないアルゴリズムは発見的手法(ヒューリスティクス)と呼ばれる。前者と後者を区別し、前者のみを近似アルゴリズムと呼ぶ場合もある。
近似アルゴリズムは、主に多項式時間で厳密に解くことが難しいNP困難問題に対して考えられるが、多項式時間で計算可能な問題に対しても、より早い計算時間で解を求めるという目的で用いられることもある。アルゴリズム理論の分野においては近年の中心的話題のひとつで、さまざまな問題に対する近似アルゴリズムが考案されている。また、可能な近似度の下界値を示す近似不可能性に関する結果も多く得られており、PCP定理などが有名。
例えば、最小頂点被覆問題には近似度2の単純なアルゴリズムが存在するが、近似度が定数の多項式時間アルゴリズムがないと考えられている問題もある。
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近似アルゴリズムとは、組合せ最適化問題の近似解を得るためのアルゴリズムを言う。近似解とは、実行可能解(かつ問題の何らかの制約を満たす解)ではあるが、正解(厳密解)ではないものを言う。これは組合せ最適化問題の正解(すなわち最適解)であることが(厳密には)保証されないところの解を得るものである。なお、問題を変形した近似問題に対する正解を得るアルゴリズムも、元の問題に対する近似アルゴリズムと言える。
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'''近似アルゴリズム'''(きんじアルゴリズム、{{lang-en-short|approximation algorithm}})とは、[[組合せ最適化]]問題の[[近似]]解を得るための[[アルゴリズム]]を言う<ref>{{cite book
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== 概要 ==
近似アルゴリズムの中でも、そのアルゴリズムの出力する解の目的関数値と最適解の目的関数値の比(近似度)がある範囲内に収まることが保証されているもののことを特に、精度保証付き近似アルゴリズムと呼ぶ。そのような保証のないアルゴリズムは[[発見的手法]](ヒューリスティクス)と呼ばれる。前者と後者を区別し、前者のみを近似アルゴリズムと呼ぶ場合もある。
近似アルゴリズムは、主に[[多項式時間]]で厳密に解くことが難しい[[NP困難]]問題に対して考えられるが、多項式時間で計算可能な問題に対しても、より早い計算時間で解を求めるという目的で用いられることもある。[[アルゴリズム解析|アルゴリズム理論]]の分野においては近年の中心的話題のひとつで、さまざまな問題に対する近似アルゴリズムが考案されている。また、可能な近似度の下界値を示す近似不可能性に関する結果も多く得られており、[[PCP (計算複雑性理論)|PCP]]定理などが有名。
例えば、[[最小頂点被覆問題]]には近似度2の単純なアルゴリズムが存在するが、近似度が定数の多項式時間アルゴリズムがないと考えられている問題もある。
== 関連項目 ==
* [[組合せ最適化]]
* [[アルゴリズム]]
* [[NP困難]]
* [[巡回セールスマン問題]]
* [[近似]]
** [[近似値]]
** [[近似法]]
* [[ヒューリスティクス]]
== 参照 ==
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メンデレビウム
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メンデレビウム(英: mendelevium [ˌmɛndəˈlɛviəm, -ˈliːviəm])は、原子番号101の元素。元素記号は Md。アクチノイド系列の金属放射性超ウラン元素であり、今日、より軽い元素の中性子の衝突により巨視的量精製することができない元素のうち、原子番号が最も小さい元素である。最後から3番目のアクチノイドであり、9番目の超ウラン元素である。軽い元素に荷電粒子を衝突させることによってのみ、粒子加速器で生成することができる。17個のメンデレビウムの同位体が知られており、最も安定であるのはMdで半減期は51日である。しかし、より半減期の短いMd(半減期1.17時間)はより大規模に生産できるため、化学において最も一般的に使用される。
メンデレビウムは1955年にアインスタイニウムにアルファ粒子を衝突させることにより発見された。これは今日でも生産するのに使われる方法と同じである。名前は周期表の父であるドミトリー・メンデレーエフにちなんで名づけられた。使用可能なマイクログラム量の同位体アインスタイニウム253を使用すると、1時間に100万以上のメンデレビウム原子が生成される可能性がある。メンデレビウムの化学的性質は後半のアクチノイドの典型であり、+3の酸化状態が優勢であるが+2もとることができる。知られている全ての同位体は比較的半減期が短い。現在、基礎的な科学研究以外での用途はなく、少量しか生産されていない。
メンデレビウムは、合成された9番目の超ウラン元素である。1955年初頭にカリフォルニア大学バークレー校にてアルバート・ギオルソ、グレン・シーボーグ、Gregory Robert Choppin、Bernard G. Harvey、およびチームリーダーのStanley G. Thompsonにより最初に合成された。チームはローレンス・バークレー国立研究所の60インチのサイクロトロンで10億個(10個)のアインスタイニウム(Es)のターゲットにアルファ粒子(ヘリウム原子核)を衝突させることでターゲットの原子番号を2大きくしMd(半減期77分)を生成した。これによりMdは1つの原子から1ずつ合成された最初の同位体となった。合計で17個のメンデレビウム原子が生成された。この発見は1952年に始まったプルトニウムに中性子を照射してより重いアクチノイドに変えるプログラムの一部であった。それ以前に超ウラン元素を合成するために使用された方法である中性子捕獲は。次の元素であるメンデレビウムを生成するベータ崩壊するフェルミウムの同位体が知られていなかったため上手くいかず、また、Fmの自発核分裂までの半減期は非常に短く、このことが中性子捕獲プロセスの成功を難しくしていたため、この方法が必要であった。
メンデレビウムの生成が可能かどうかを予測するために、チームは大まかな計算を行った。生成される原子の数は、ターゲット材料の原子数、ターゲットの断面積、イオンビームの強度、および衝撃時間の積とほぼ等しくなる。この最後の項は生成物の半減期のオーダーの時間で衝突させたときの生成物の半減期に関連していた。これにより1実験ごとに1つの元素が得られることが分かった。よって、最適条件下では、1回の実験で原子番号101の1つの元素が生成されることが期待される。この計算により実験が実行可能であることが示された。ターゲット材料であるアインスタイニウム253はプルトニウムに照射することで簡単に生成することができた。1年間照射することで10億個の原子が得られ、半減期が3週間であることから原子番号101の実験は生成されたアインスタイニウムを分離精製しターゲットを作成した後1週間で行うことができた。しかし、毎秒10個のアルファ粒子という強度を得るためにサイクロトロンをアップデートする必要があった。そのためシーボーグは資金を申請する必要があった。
シーボーグが資金の申請をしている間、Harveyはアインスタイニウムのターゲットに取り組み、ThomsonとChoppinは化学的分離の方法に焦点を合わせ研究した。Choppinは軽いアクチノイドの原子からメンデレビウム原子を分離するためにαヒドロキシイソ酪酸を使用することを提案した。実際の合成はギオルソにより導入された反跳法により行われた。この手法では、アインスタイニウムがビームのターゲットの反対側に配置されたため、反跳するメンデレビウム原子はターゲットを離れ金でできたキャッチャー箔により捕らえられるのに十分な運動量を得る。この反跳ターゲットは、Alfred Chetham-Strodeにより開発された電気めっき法により作られた。この方法は非常に高い収率をもたらし、アインスタイニウムのターゲット材料などの珍しく貴重な生成物を研究する際に絶対的に必要なものであった。反跳ターゲットは、薄い金箔上に電解的に堆積されたEsの10個の原子で構成されていた。これにバークレーのサイクロトロン内で41 MeVのアルファ粒子が、0.05 cmの面積で毎秒6×10粒子という非常に高いビーム密度で当てられた。ターゲットは水または液体ヘリウムで冷却され、箔は交換することができた。
最初の実験は1954年9月に行われた。メンデレビウム原子からはアルファ崩壊は見られず、ゆえにギオルソはメンデレビウムは全て電子捕獲により崩壊してフェルミウムになり、代わりに実験を繰り返して、自発核分裂の事象を探す必要があることを提案した。繰り返しの実験は1955年2月に行われた。
発見した日である2月19日にはアインスタイニウムのターゲットのアルファ線照射が3時間のセッションで3度生じた。サイクロトロンはカリフォルニア大学のキャンパスにあり、放射線研究所は隣の丘にあったため、この状況を対処するために複雑な手順が使われた。ギオルソはキャッチャー箔(3つのターゲットと3つの箔があった)をサイクロトロンからハーベイに渡し、彼は王水を使用してそれを溶解し、陰イオン交換樹脂カラムに通し金や他の生成物から超ウラン元素を分離した。結果として生じた滴が試験管に入り、Choppinとギオルソはそれをできるだけ早く放射線研究所に運ぶために車で移動した。そこでThompsonとChoppinは陽イオン交換樹脂カラムとαヒドロキシイソ酪酸を使用した。溶液の滴を白金のディスクに集め、加熱ランプ下で乾燥させた。3つのディスクにはそれぞれフェルミウム、新しい元素なし、メンデレビウムが含まれていると予想されていた。最終的にそれらは自発核分裂の事象が崩壊の数と時間を示すグラフの巨大なふれとして記録されるように、レコーダーに接続された独自のカウンターに設置された。したがって、直接的には検出されなかったが、電子捕獲娘のFmから生じる自発核分裂の事象が観測された。最初の1つは「フレー」という声とともに同定され、その後「2番目のフレー」と「3番目のフレー」が続いた。4番目のものにより最終的に公式に101番目の元素であるメンデレビウムの化学的同定が証明された。合計で午前4時までに5つの崩壊が報告された。シーボーグはこのことが知らされ、チームは眠りについた。さらなる分析と実験により生成されたメンデレビウム同位体は質量256であり、電子捕獲により半減期1.5時間でフェルミウム256に崩壊することが示された。
これは原子番号101以上の最初の元素であり、周期表の父であるロシアの化学者ドミトリー・メンデレーエフにちなんで「メンデレビウム」と命名されることになった。この発見は冷戦中に行われたため、シーボーグはこの元素をロシア人にちなんで命名することを提案するように米国政府の許可を求める必要があったが、その後許可された 。「メンデレビウム」という名称は1955年に記号"Mv"でIUPACにより承認され、次のIUPACの総会(パリ、1957年)で"Md"に変更された。
周期表において、メンデレビウムはアクチノイドのフェルミウムの右、アクチノイドのノーベリウムの左、ランタノイドのツリウムの下に位置する。メンデレビウム金属はまだバルク量精製されておらず、バルク量の精製は現在不可能である。そうではあるが、その特性に関していくつかの予測といくつかの予備実験の結果が行われている。
ランタノイドとアクチノイドは金属状態では2価(ユーロピウムやイッテルビウムなど)または3価(他のほとんどのランタノイド)の金属として存在することができる。前者はfds配置であり、後者はfs配置である。1975年にJohanssonとRosengrenは金属ランタノイドとアクチノイドの凝集エネルギー(結晶化のエンタルピー)の測定値と予測値を、ともに2価金属と3価金属として調べた。結論は、メンデレビウムの[Rn]5f7s配置よりも[Rn]5f6d7s配置で結合エネルギーの増加分は、ずっと後半のアクチノイドにもあてはまるように1つの5f電子を6dに昇位させるのに必要なエネルギーを補償するには不十分であった。それゆえ、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウム、ノーベリウムは2価の金属であると予想されていた。アクチノイド系列が終わるずっと前に2価状態の優位性が増加しているのは、原子番号の増加と共に増加する5f電子の相対論的安定化に起因する。1976年から1982年までZvaraとHübenerによる微量のメンデレビウムを用いた熱クロマトグラフィー研究により、この予測が確認された。1990年、HaireとGibsonはメンデレビウム金属は134から142 kJ/molの間の昇華のエンタルピーを持っていると推定した。2価メンデレビウム金属の金属半径は約194±10 pmでなければならない。他の2価の後半のアクチノイドと同様に(再度3価のローレンシウムを除く)、金属メンデレビウムは面心立方結晶構造をとるはずである。融点は827 °Cと推定されており、隣接する元素であるノーベリウムで予測されたものと同じ値である。密度は約10.3±0.7 g/cmであると予測されている。
メンデレビウムの化学的特性はほとんどが溶液中でのみ知られており、+3または+2の酸化数をとることができる。+1の状態も報告されているが、まだ確認されていない。
メンデレビウムが発見される前に、グレン・シーボーグとKatzはそれが主に水溶液中で3価であるべきであり、したがって他の3陽性のランタノイドとアクチノイドと同様に振る舞うべきであると予測した。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。最初は樹脂の陽イオン交換カラムからの3価アクチノイド溶出順序でフェルミウムの直後に読王出したことが発見され、後の1967年にはメンデレビウムが3価のランタノイド塩と共沈する不溶性の水酸化物及びフッ化物を形成する可能性があることが観察された。陽イオン交換及び溶媒抽出の研究により、メンデレビウムがそれより前のアクチノイドであるフェルミウムよりもイオン半径がやや小さい3価のアクチノイドであるという結論にいたった。メンデレビウムは1,2-シクロヘキサンジニトリロ四酢酸(DCTA)と配位錯体を形成することができる。
還元条件では、メンデレビウム(III)は、水溶液中で安定なメンデレビウム(II)に容易に還元される。E°(Md→Md)の標準還元電位は1967年に−0.10 V や −0.20 Vとさまざまに推定された。2013年以降の実験では、値は−0.16±0.05 Vと確立された。比較すると、E°(Md→Md) は約−1.74 Vであり、E°(Md→Md) は約−2.5 Vであるべきである。メンデレビウム(II)の溶出挙動は、ストロンチウム(II)及びユウロピウム(II)の溶出挙動と比較されている。
1973年、メンデレビウム(I)はロシアの科学者たちによって、より高い酸化状態メンデレビウムをサマリウム(II)で還元することで得たと報告された。これは中性の水-エタノール溶液中で安定であり、セシウム(I)と同族であることがわかった。しかし、その後の実験ではメンデレビウム(I)の証拠は見つからず、メンデレビウムは還元されると一価のアルカリ金属ではなく二価の元素のように振る舞うことが分かった。それにもかかわらず、ロシアのチームはメンデレビウムをアルカリ金属の塩化物と共結晶化する熱力学についてさらに研究を行い、メンデレビウム(I)が形成され、二価の元素と混合結晶を形成し、それらと共結晶化すると結論付けた。+1の酸化状態は未だ仮説である。
E°(Md→Md) は1975年に+5.4 Vと予測され、このことはメンデレビウム(III)がメンデレビウム(IV)に酸化される可能性があることを示唆しているが、強力な酸化剤であるビスマス酸ナトリウムを使用した1967年の実験ではメンデレビウム(III)をメンデレビウム(IV)に酸化することができなかった。
メンデレビウム原子には101個の電子があり、そのうち少なくとも3個(そしておそらく4個)が価電子として機能する。これは電子配置[Rn]5f7s(基底状態の項記号F7/2)と予想されるが、この電子配置の実験的検証は2006年の時点ではまだ行われていない。化合物を形成する際に、3個の価電子が失われ、[Rn]5fコアが残る場合があるが、これは+3状態の[Rn] 5f電子配置を持つ他のアクチノイドにより定められた傾向に一致する。メンデレビウムの最初のイオン化ポテンシャルは、7s電子が5f電子より前にイオン化するという仮定に基づいて、1974年に最大(6.58 ± 0.07) eVであると測定された。この値は、その後メンデレビウムの希少性と高い放射性のために、さらなる精度の向上はない。六配位のMdのイオン半径は、1978年に事前に約91.2 pmと推定されていた。分配係数とイオン半径の間の対数傾向に基づく1988年の計算により、−3654±12 kJ/molの水和エンタルピーとともに、89.6pmというイオン半径が算出された。Mdのイオン半径は115 pm、水和エンタルピーが−1413 kJ/molである必要があり、Mdのイオン半径は117 pmである必要がある。
メンデレビウムの同位体は、質量数が244から260まで17個知られており、全てが放射性である。さらに、5つの核異性体、Md, Md, Md, Md, およびMdが知られている。これらのうち、半減期が最長の同位体はMdで、51.5日であり、半減期が最長の異性体はMdで58.0分である。それにもかかわらず、半減期の短いMd(1.17時間)は、アインスタイニウムのアルファ粒子照射から大量に生成できるため、化学実験でより頻繁に使用される。Mdの次に安定したメンデレビウムの同位体は、半減期が31.8日のMd、5.52時間のMd、1.60時間の、1.17時間のMdである。残りのメンデレビウムの同位体はすべて半減期が1時間未満であり、大部分は5分未満である。
メンデレビウムの同位体の半減期は、ほとんどがMd以降滑らかに増加し、Mdで最大となる。実験と予測によると、半減期は半減期が31.8日のMd以降は減少する。これは、アクチノイド系列において長寿命原子核の相対的安定の島に限界をもたらす陽子の相互反発が理由で、自発核分裂が支配的な崩壊モードになるためである。
化学的に重要なメンデレビウムの同位体であるメンデレビウム256は、電子捕獲により90%の確率で崩壊し、10%の確率でアルファ崩壊する。これは電子捕獲娘のフェルミウム256の自発核分裂によって最も簡単に検出されるが、自発核分裂を起こす他の核種の存在下ではメンデレビウム256の特徴的なエネルギー(7.205及び7.139 MeV)でのアルファ崩壊は、より有用な識別情報を提供しうる。
最も軽いメンデレビウムの同位体(MdからMd)は、主にビスマスのターゲットに重いアルゴンイオンを衝突させることにより生成されるが、わずかに重い同位体(MdからMd)はプルトニウムとアメリシウムのターゲットに軽い炭素と窒素のイオンを衝突させることにより生成される。最も重要で最も安定した同位体はMdからMdの範囲であり、アルファ粒子をアインスタイニウムの導体に衝突させることで生成される(アインスタイニウム253, 254, 255の全てが使用できる)。MdはNoの娘として生成され、Mdはアインスタイニウム254と酸素18の間の移動反応で生成される。通常、最も一般的に使用される同位体Mdはアインスタイニウム253, 254のいずれかにアルファ粒子を照射することにより生成される。アインスタイニウム254は半減期が長く、ターゲットとしてより長い間使用できるため、入手可能である場合好まれる。利用可能なマイクログラム量のアインスタイニウムを使用することで、フェムトグラム量のメンデレビウム256を生成することができる。
生成されたメンデレビウム256の反跳運動量は、それらが生成された元のアインスタイニウムのターゲットから物理的に遠く離し、真空中でターゲットのちょうど後ろの金属の薄い箔(通常、ベリリウム、アルミニウム、白金、または金)の上に付くのに使われる。これにより、費用がかかり高価なアインスタイニウムのターゲットの再利用を妨げる即時の化学的分離の必要性がなくなる。次に、メンデレビウムの原子は気体雰囲気(多くの場合ヘリウム)に閉じ込められ、反応室の小さな開口部からの気体ジェットがメンデレビウムを運ぶ。長い毛細管を使用し、ヘリウムガスに塩化カリウムエアロゾルを含めることで、メンデレビウム原子を数十メートル以上輸送して化学的に分析し、その量を決定することができる。次に、箔に酸を適用し、メンデレビウムをフッ化ランタンと共沈させ、塩酸で飽和させた10%エタノール溶液を含む陽イオン交換樹脂カラムを使用し溶離剤として働かせることで、箔材料及び他の核分裂生成物からメンデレビウムを分離することができる。ただし、箔が金でできており十分に薄い場合は、陰イオン交換クロマトグラフィーを使用して金から3価のアクチノイドを分離する(溶離液はM塩酸である)前に、王水に金を溶かすだけで十分である。
メンデレビウムは最終的に陽イオン交換樹脂カラムからの選択的溶出(溶離液はアンモニアα-HIB)を利用することで、他の3価のアクチノイドから分離できる。気体ジェット法を使用すると、最初の2つのステップが不要になることがしばしばある。上記の手順では超アインスタイニウム元素の分離に最も一般的に使用される手順である。
3価のアクチノイドを分離する別の可能な方法は、固定有機相としてビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略す)及び移動水相として硝酸を使用するという溶媒抽出クロマトグラフィーによるものである。アクチノイドの溶出の順序は陽イオン交換樹脂カラムにおいてとは逆になっているため、重いアクチノイドは後で溶出する。この方法で分離されたメンデレビウムには樹脂カラムと比較して有機錯化剤が含まれていないという利点がある。不利な点は、メンデレビウムがフェルミウムの後、溶出の順番の非常に遅い段階で溶出することである。
メンデレビウムを分離するもう1つの方法は、Es及びFmの溶出特性とは異なるMdの溶出特性を利用する。最初の段階は、上記と同じで、抽出クロマトグラフィーにHDEHPを使用するが、メンデレビウムをフッ化ランタンではなくフッ化テルビウムと共沈させる。次に、50 mgのクロムをメンデレビウムに加え、亜鉛または水銀を含む0.1M塩酸中で+2状態に還元する。次に、溶媒抽出が進み、3価および4価のランタノイドとアクチノイドがカラムに残るがメンデレビウム(II)は塩酸中に留まらない。次に、過酸化水素を使用して+3状態に再び酸化し、2M塩酸(クロム含む不純物を除去するため)、最終的には6M塩酸(メンデレビウムを除去するため)による選択的溶出で分離する。また、1M塩酸を溶離液として使用し、Md(III)をMd(II)に還元しアルカリ土類金属のように振る舞う、カチオナイトと亜鉛アマルガムのカラムを使用することもできる。サーモクロマトグラフィーによる化学的分離は、揮発性メンデレビウムヘキサフルオロアセチルアセトナートを使用することで達成できる。類似のフェルミウム化合物も知られており、揮発性である。
メンデレビウムと接触する人はほとんどいないが、国際放射線防護委員会は最も安定した同位体の年間曝露限界を設定している。メンデレビウム258の場合、摂取限界は9×10Bq(ベクレル、1ベクレルは1秒当たり1回の崩壊に相当)であり、吸入限界は6000Bqに設定されている。
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"text": "発見した日である2月19日にはアインスタイニウムのターゲットのアルファ線照射が3時間のセッションで3度生じた。サイクロトロンはカリフォルニア大学のキャンパスにあり、放射線研究所は隣の丘にあったため、この状況を対処するために複雑な手順が使われた。ギオルソはキャッチャー箔(3つのターゲットと3つの箔があった)をサイクロトロンからハーベイに渡し、彼は王水を使用してそれを溶解し、陰イオン交換樹脂カラムに通し金や他の生成物から超ウラン元素を分離した。結果として生じた滴が試験管に入り、Choppinとギオルソはそれをできるだけ早く放射線研究所に運ぶために車で移動した。そこでThompsonとChoppinは陽イオン交換樹脂カラムとαヒドロキシイソ酪酸を使用した。溶液の滴を白金のディスクに集め、加熱ランプ下で乾燥させた。3つのディスクにはそれぞれフェルミウム、新しい元素なし、メンデレビウムが含まれていると予想されていた。最終的にそれらは自発核分裂の事象が崩壊の数と時間を示すグラフの巨大なふれとして記録されるように、レコーダーに接続された独自のカウンターに設置された。したがって、直接的には検出されなかったが、電子捕獲娘のFmから生じる自発核分裂の事象が観測された。最初の1つは「フレー」という声とともに同定され、その後「2番目のフレー」と「3番目のフレー」が続いた。4番目のものにより最終的に公式に101番目の元素であるメンデレビウムの化学的同定が証明された。合計で午前4時までに5つの崩壊が報告された。シーボーグはこのことが知らされ、チームは眠りについた。さらなる分析と実験により生成されたメンデレビウム同位体は質量256であり、電子捕獲により半減期1.5時間でフェルミウム256に崩壊することが示された。",
"title": "発見"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "これは原子番号101以上の最初の元素であり、周期表の父であるロシアの化学者ドミトリー・メンデレーエフにちなんで「メンデレビウム」と命名されることになった。この発見は冷戦中に行われたため、シーボーグはこの元素をロシア人にちなんで命名することを提案するように米国政府の許可を求める必要があったが、その後許可された 。「メンデレビウム」という名称は1955年に記号\"Mv\"でIUPACにより承認され、次のIUPACの総会(パリ、1957年)で\"Md\"に変更された。",
"title": "発見"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "周期表において、メンデレビウムはアクチノイドのフェルミウムの右、アクチノイドのノーベリウムの左、ランタノイドのツリウムの下に位置する。メンデレビウム金属はまだバルク量精製されておらず、バルク量の精製は現在不可能である。そうではあるが、その特性に関していくつかの予測といくつかの予備実験の結果が行われている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ランタノイドとアクチノイドは金属状態では2価(ユーロピウムやイッテルビウムなど)または3価(他のほとんどのランタノイド)の金属として存在することができる。前者はfds配置であり、後者はfs配置である。1975年にJohanssonとRosengrenは金属ランタノイドとアクチノイドの凝集エネルギー(結晶化のエンタルピー)の測定値と予測値を、ともに2価金属と3価金属として調べた。結論は、メンデレビウムの[Rn]5f7s配置よりも[Rn]5f6d7s配置で結合エネルギーの増加分は、ずっと後半のアクチノイドにもあてはまるように1つの5f電子を6dに昇位させるのに必要なエネルギーを補償するには不十分であった。それゆえ、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウム、ノーベリウムは2価の金属であると予想されていた。アクチノイド系列が終わるずっと前に2価状態の優位性が増加しているのは、原子番号の増加と共に増加する5f電子の相対論的安定化に起因する。1976年から1982年までZvaraとHübenerによる微量のメンデレビウムを用いた熱クロマトグラフィー研究により、この予測が確認された。1990年、HaireとGibsonはメンデレビウム金属は134から142 kJ/molの間の昇華のエンタルピーを持っていると推定した。2価メンデレビウム金属の金属半径は約194±10 pmでなければならない。他の2価の後半のアクチノイドと同様に(再度3価のローレンシウムを除く)、金属メンデレビウムは面心立方結晶構造をとるはずである。融点は827 °Cと推定されており、隣接する元素であるノーベリウムで予測されたものと同じ値である。密度は約10.3±0.7 g/cmであると予測されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムの化学的特性はほとんどが溶液中でのみ知られており、+3または+2の酸化数をとることができる。+1の状態も報告されているが、まだ確認されていない。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムが発見される前に、グレン・シーボーグとKatzはそれが主に水溶液中で3価であるべきであり、したがって他の3陽性のランタノイドとアクチノイドと同様に振る舞うべきであると予測した。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。最初は樹脂の陽イオン交換カラムからの3価アクチノイド溶出順序でフェルミウムの直後に読王出したことが発見され、後の1967年にはメンデレビウムが3価のランタノイド塩と共沈する不溶性の水酸化物及びフッ化物を形成する可能性があることが観察された。陽イオン交換及び溶媒抽出の研究により、メンデレビウムがそれより前のアクチノイドであるフェルミウムよりもイオン半径がやや小さい3価のアクチノイドであるという結論にいたった。メンデレビウムは1,2-シクロヘキサンジニトリロ四酢酸(DCTA)と配位錯体を形成することができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "還元条件では、メンデレビウム(III)は、水溶液中で安定なメンデレビウム(II)に容易に還元される。E°(Md→Md)の標準還元電位は1967年に−0.10 V や −0.20 Vとさまざまに推定された。2013年以降の実験では、値は−0.16±0.05 Vと確立された。比較すると、E°(Md→Md) は約−1.74 Vであり、E°(Md→Md) は約−2.5 Vであるべきである。メンデレビウム(II)の溶出挙動は、ストロンチウム(II)及びユウロピウム(II)の溶出挙動と比較されている。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1973年、メンデレビウム(I)はロシアの科学者たちによって、より高い酸化状態メンデレビウムをサマリウム(II)で還元することで得たと報告された。これは中性の水-エタノール溶液中で安定であり、セシウム(I)と同族であることがわかった。しかし、その後の実験ではメンデレビウム(I)の証拠は見つからず、メンデレビウムは還元されると一価のアルカリ金属ではなく二価の元素のように振る舞うことが分かった。それにもかかわらず、ロシアのチームはメンデレビウムをアルカリ金属の塩化物と共結晶化する熱力学についてさらに研究を行い、メンデレビウム(I)が形成され、二価の元素と混合結晶を形成し、それらと共結晶化すると結論付けた。+1の酸化状態は未だ仮説である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "E°(Md→Md) は1975年に+5.4 Vと予測され、このことはメンデレビウム(III)がメンデレビウム(IV)に酸化される可能性があることを示唆しているが、強力な酸化剤であるビスマス酸ナトリウムを使用した1967年の実験ではメンデレビウム(III)をメンデレビウム(IV)に酸化することができなかった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウム原子には101個の電子があり、そのうち少なくとも3個(そしておそらく4個)が価電子として機能する。これは電子配置[Rn]5f7s(基底状態の項記号F7/2)と予想されるが、この電子配置の実験的検証は2006年の時点ではまだ行われていない。化合物を形成する際に、3個の価電子が失われ、[Rn]5fコアが残る場合があるが、これは+3状態の[Rn] 5f電子配置を持つ他のアクチノイドにより定められた傾向に一致する。メンデレビウムの最初のイオン化ポテンシャルは、7s電子が5f電子より前にイオン化するという仮定に基づいて、1974年に最大(6.58 ± 0.07) eVであると測定された。この値は、その後メンデレビウムの希少性と高い放射性のために、さらなる精度の向上はない。六配位のMdのイオン半径は、1978年に事前に約91.2 pmと推定されていた。分配係数とイオン半径の間の対数傾向に基づく1988年の計算により、−3654±12 kJ/molの水和エンタルピーとともに、89.6pmというイオン半径が算出された。Mdのイオン半径は115 pm、水和エンタルピーが−1413 kJ/molである必要があり、Mdのイオン半径は117 pmである必要がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムの同位体は、質量数が244から260まで17個知られており、全てが放射性である。さらに、5つの核異性体、Md, Md, Md, Md, およびMdが知られている。これらのうち、半減期が最長の同位体はMdで、51.5日であり、半減期が最長の異性体はMdで58.0分である。それにもかかわらず、半減期の短いMd(1.17時間)は、アインスタイニウムのアルファ粒子照射から大量に生成できるため、化学実験でより頻繁に使用される。Mdの次に安定したメンデレビウムの同位体は、半減期が31.8日のMd、5.52時間のMd、1.60時間の、1.17時間のMdである。残りのメンデレビウムの同位体はすべて半減期が1時間未満であり、大部分は5分未満である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムの同位体の半減期は、ほとんどがMd以降滑らかに増加し、Mdで最大となる。実験と予測によると、半減期は半減期が31.8日のMd以降は減少する。これは、アクチノイド系列において長寿命原子核の相対的安定の島に限界をもたらす陽子の相互反発が理由で、自発核分裂が支配的な崩壊モードになるためである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "化学的に重要なメンデレビウムの同位体であるメンデレビウム256は、電子捕獲により90%の確率で崩壊し、10%の確率でアルファ崩壊する。これは電子捕獲娘のフェルミウム256の自発核分裂によって最も簡単に検出されるが、自発核分裂を起こす他の核種の存在下ではメンデレビウム256の特徴的なエネルギー(7.205及び7.139 MeV)でのアルファ崩壊は、より有用な識別情報を提供しうる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "最も軽いメンデレビウムの同位体(MdからMd)は、主にビスマスのターゲットに重いアルゴンイオンを衝突させることにより生成されるが、わずかに重い同位体(MdからMd)はプルトニウムとアメリシウムのターゲットに軽い炭素と窒素のイオンを衝突させることにより生成される。最も重要で最も安定した同位体はMdからMdの範囲であり、アルファ粒子をアインスタイニウムの導体に衝突させることで生成される(アインスタイニウム253, 254, 255の全てが使用できる)。MdはNoの娘として生成され、Mdはアインスタイニウム254と酸素18の間の移動反応で生成される。通常、最も一般的に使用される同位体Mdはアインスタイニウム253, 254のいずれかにアルファ粒子を照射することにより生成される。アインスタイニウム254は半減期が長く、ターゲットとしてより長い間使用できるため、入手可能である場合好まれる。利用可能なマイクログラム量のアインスタイニウムを使用することで、フェムトグラム量のメンデレビウム256を生成することができる。",
"title": "生産・分離"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "生成されたメンデレビウム256の反跳運動量は、それらが生成された元のアインスタイニウムのターゲットから物理的に遠く離し、真空中でターゲットのちょうど後ろの金属の薄い箔(通常、ベリリウム、アルミニウム、白金、または金)の上に付くのに使われる。これにより、費用がかかり高価なアインスタイニウムのターゲットの再利用を妨げる即時の化学的分離の必要性がなくなる。次に、メンデレビウムの原子は気体雰囲気(多くの場合ヘリウム)に閉じ込められ、反応室の小さな開口部からの気体ジェットがメンデレビウムを運ぶ。長い毛細管を使用し、ヘリウムガスに塩化カリウムエアロゾルを含めることで、メンデレビウム原子を数十メートル以上輸送して化学的に分析し、その量を決定することができる。次に、箔に酸を適用し、メンデレビウムをフッ化ランタンと共沈させ、塩酸で飽和させた10%エタノール溶液を含む陽イオン交換樹脂カラムを使用し溶離剤として働かせることで、箔材料及び他の核分裂生成物からメンデレビウムを分離することができる。ただし、箔が金でできており十分に薄い場合は、陰イオン交換クロマトグラフィーを使用して金から3価のアクチノイドを分離する(溶離液はM塩酸である)前に、王水に金を溶かすだけで十分である。",
"title": "生産・分離"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムは最終的に陽イオン交換樹脂カラムからの選択的溶出(溶離液はアンモニアα-HIB)を利用することで、他の3価のアクチノイドから分離できる。気体ジェット法を使用すると、最初の2つのステップが不要になることがしばしばある。上記の手順では超アインスタイニウム元素の分離に最も一般的に使用される手順である。",
"title": "生産・分離"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "3価のアクチノイドを分離する別の可能な方法は、固定有機相としてビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略す)及び移動水相として硝酸を使用するという溶媒抽出クロマトグラフィーによるものである。アクチノイドの溶出の順序は陽イオン交換樹脂カラムにおいてとは逆になっているため、重いアクチノイドは後で溶出する。この方法で分離されたメンデレビウムには樹脂カラムと比較して有機錯化剤が含まれていないという利点がある。不利な点は、メンデレビウムがフェルミウムの後、溶出の順番の非常に遅い段階で溶出することである。",
"title": "生産・分離"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムを分離するもう1つの方法は、Es及びFmの溶出特性とは異なるMdの溶出特性を利用する。最初の段階は、上記と同じで、抽出クロマトグラフィーにHDEHPを使用するが、メンデレビウムをフッ化ランタンではなくフッ化テルビウムと共沈させる。次に、50 mgのクロムをメンデレビウムに加え、亜鉛または水銀を含む0.1M塩酸中で+2状態に還元する。次に、溶媒抽出が進み、3価および4価のランタノイドとアクチノイドがカラムに残るがメンデレビウム(II)は塩酸中に留まらない。次に、過酸化水素を使用して+3状態に再び酸化し、2M塩酸(クロム含む不純物を除去するため)、最終的には6M塩酸(メンデレビウムを除去するため)による選択的溶出で分離する。また、1M塩酸を溶離液として使用し、Md(III)をMd(II)に還元しアルカリ土類金属のように振る舞う、カチオナイトと亜鉛アマルガムのカラムを使用することもできる。サーモクロマトグラフィーによる化学的分離は、揮発性メンデレビウムヘキサフルオロアセチルアセトナートを使用することで達成できる。類似のフェルミウム化合物も知られており、揮発性である。",
"title": "生産・分離"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "メンデレビウムと接触する人はほとんどいないが、国際放射線防護委員会は最も安定した同位体の年間曝露限界を設定している。メンデレビウム258の場合、摂取限界は9×10Bq(ベクレル、1ベクレルは1秒当たり1回の崩壊に相当)であり、吸入限界は6000Bqに設定されている。",
"title": "毒性"
}
] |
メンデレビウムは、原子番号101の元素。元素記号は Md。アクチノイド系列の金属放射性超ウラン元素であり、今日、より軽い元素の中性子の衝突により巨視的量精製することができない元素のうち、原子番号が最も小さい元素である。最後から3番目のアクチノイドであり、9番目の超ウラン元素である。軽い元素に荷電粒子を衝突させることによってのみ、粒子加速器で生成することができる。17個のメンデレビウムの同位体が知られており、最も安定であるのは258Mdで半減期は51日である。しかし、より半減期の短い256Md(半減期1.17時間)はより大規模に生産できるため、化学において最も一般的に使用される。 メンデレビウムは1955年にアインスタイニウムにアルファ粒子を衝突させることにより発見された。これは今日でも生産するのに使われる方法と同じである。名前は周期表の父であるドミトリー・メンデレーエフにちなんで名づけられた。使用可能なマイクログラム量の同位体アインスタイニウム253を使用すると、1時間に100万以上のメンデレビウム原子が生成される可能性がある。メンデレビウムの化学的性質は後半のアクチノイドの典型であり、+3の酸化状態が優勢であるが+2もとることができる。知られている全ての同位体は比較的半減期が短い。現在、基礎的な科学研究以外での用途はなく、少量しか生産されていない。
|
{{Elementbox
|name=mendelevium
|japanese name=メンデレビウム
|pronounce={{IPAc-en|icon|ˌ|m|ɛ|n|d|ə|ˈ|l|ɛ|v|i|əm}}<br />{{IPAc-en|ˌ|m|ɛ|n|d|ə|ˈ|l|iː|v|i|əm}}
|number=101
|symbol=Md
|left=[[フェルミウム]]
|right=[[ノーベリウム]]
|above=[[ツリウム|Tm]]
|below=[[ウンペントウニウム|Upu]]
|series=アクチノイド
|group=n/a
|period=7
|block=f
|appearance=不明
|atomic mass=[258]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>13</sup> 7s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 31, 8, 2
|phase=固体
|melting point K=1100
|melting point C=827
|oxidation states=2, '''3'''
|electronegativity=1.3
|number of ionization energies=1
|1st ionization energy=635
|magnetic ordering=no data
|CAS number=7440-11-1
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[メンデレビウム257|257]] | sym=Md
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E4 s|5.52 h]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=0.406 | pn1=[[フェルミウム257|257]] | ps1=[[フェルミウム|Fm]]
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=7.558 | pn2=[[アインスタイニウム253|253]] | ps2=[[アインスタイニウム|Es]]
| dm3=[[自発核分裂|SF]] | de3=- | pn3= | ps3=-}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[メンデレビウム258|258]] | sym=Md
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|51.5 d]]
| dm=[[電子捕獲|ε]] | de=1.230 | pn=[[フェルミウム258|258]] | ps=[[フェルミウム|Fm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay4 | mn=[[メンデレビウム260|260]] | sym=Md
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|31.8 d]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=- | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=7.000 | pn2=[[アインスタイニウム256|256]] | ps2=[[アインスタイニウム|Es]]
| dm3=[[電子捕獲|ε]] | de3=- | pn3=[[フェルミウム260|260]] | ps3=[[フェルミウム|Fm]]
| dm4=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de4=1.000 | pn4=[[ノーベリウム260|260]] | ps4=[[ノーベリウム|No]]}}
|isotopes comment=
|covalent radius=173|melting point F=1521}}
'''メンデレビウム'''({{lang-en-short|mendelevium}} {{IPA-en|ˌmɛndəˈlɛviəm, -ˈliːviəm|}})は、[[原子番号]]101の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Md'''。[[アクチノイド]]系列の金属放射性[[超ウラン元素]]であり、今日、より軽い元素の[[中性子]]の衝突により巨視的量精製することができない元素のうち、原子番号が最も小さい元素である。最後から3番目のアクチノイドであり、9番目の超ウラン元素である。軽い元素に荷電粒子を衝突させることによってのみ、[[粒子加速器]]で生成することができる。17個の[[メンデレビウムの同位体]]が知られており、最も安定であるのは<sup>258</sup>Mdで[[半減期]]は51日である。しかし、より半減期の短い<sup>256</sup>Md(半減期1.17時間)はより大規模に生産できるため、化学において最も一般的に使用される。
メンデレビウムは1955年に[[アインスタイニウム]]に[[アルファ粒子]]を衝突させることにより発見された。これは今日でも生産するのに使われる方法と同じである。名前は[[周期表]]の父である[[ドミトリー・メンデレーエフ]]にちなんで名づけられた。使用可能なマイクログラム量の同位体アインスタイニウム253を使用すると、1時間に100万以上のメンデレビウム原子が生成される可能性がある。メンデレビウムの化学的性質は後半のアクチノイドの典型であり、+3の酸化状態が優勢であるが+2もとることができる。知られている全ての同位体は比較的半減期が短い。現在、基礎的な科学研究以外での用途はなく、少量しか生産されていない。
==発見==
[[File:Berkeley 60-inch cyclotron.jpg|thumb|upright=0.7|left|[[カリフォルニア大学バークレー校]]のローレンス放射線研究所の60インチのサイクロトロン(1939年8月)|alt=2人のオペレーターが横に座っている重機械の白黒写真]]
メンデレビウムは、合成された9番目の[[超ウラン元素]]である。1955年初頭にカリフォルニア大学バークレー校にて[[アルバート・ギオルソ]]、[[グレン・シーボーグ]]、[[:en:Gregory Robert Choppin|Gregory Robert Choppin]]、Bernard G. Harvey、およびチームリーダーの[[:en:Stanley G. Thompson|Stanley G. Thompson]]により最初に合成された。チームは[[ローレンス・バークレー国立研究所]]の60インチの[[サイクロトロン]]で10億個(10<sup>9</sup>個)の[[アインスタイニウム]](<sup>253</sup>Es)のターゲットに[[アルファ粒子]](ヘリウム原子核)を衝突させることでターゲットの原子番号を2大きくし<sup>256</sup>Md([[半減期]]77分<ref name="NUBASE2003"/>)を生成した。これにより<sup>256</sup>Mdは1つの原子から1ずつ合成された最初の同位体となった。合計で17個のメンデレビウム原子が生成された<ref name=discovery>{{cite book|doi=10.1103/PhysRev.98.1518|url=https://books.google.com/books?id=e53sNAOXrdMC&pg=PA101|title=New Element Mendelevium, Atomic Number 101|date=1955|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Harvey|first2=B.|last3=Choppin|first3=G.|last4=Thompson|first4=S.|last5=Seaborg|first5=Glenn T.|journal=Physical Review|volume=98|pages=1518–1519|bibcode = 1955PhRv...98.1518G|isbn=9789810214401|issue=5 }}</ref>。この発見は1952年に始まった[[プルトニウム]]に中性子を照射してより重いアクチノイドに変えるプログラムの一部であった<ref name="Choppin">{{cite journal|first = Gregory R.|last = Choppin|date = 2003 |title = Mendelevium|journal = Chemical and Engineering News|url = http://pubs.acs.org/cen/80th/mendelevium.html|volume = 81|issue = 36}}</ref>。それ以前に超ウラン元素を合成するために使用された方法である中性子捕獲は。次の元素であるメンデレビウムを生成する[[ベータ崩壊]]する[[フェルミウムの同位体]]が知られていなかったため上手くいかず、また、<sup>258</sup>[[フェルミウム|Fm]]の[[自発核分裂]]までの半減期は非常に短く、このことが中性子捕獲プロセスの成功を難しくしていたため、この方法が必要であった<ref name="NUBASE2003"/>。
{{External media
| align= left
| video1= [https://www.youtube.com/watch?v=DrssJRb301k バークレーにおけるメンデレビウムの発見の再現]
}}
メンデレビウムの生成が可能かどうかを予測するために、チームは大まかな計算を行った。生成される原子の数は、ターゲット材料の原子数、ターゲットの断面積、イオンビームの強度、および衝撃時間の積とほぼ等しくなる。この最後の項は生成物の半減期のオーダーの時間で衝突させたときの生成物の半減期に関連していた。これにより1実験ごとに1つの元素が得られることが分かった。よって、最適条件下では、1回の実験で原子番号101の1つの元素が生成されることが期待される。この計算により実験が実行可能であることが示された<ref name=discovery/>。ターゲット材料であるアインスタイニウム253は[[プルトニウム]]に照射することで簡単に生成することができた。1年間照射することで10億個の原子が得られ、[[半減期]]が3週間であることから原子番号101の実験は生成されたアインスタイニウムを分離精製しターゲットを作成した後1週間で行うことができた。しかし、毎秒10<sup>14</sup>個のアルファ粒子という強度を得るためにサイクロトロンをアップデートする必要があった。そのためシーボーグは資金を申請する必要があった<ref name=Choppin/>。
{{ external media | align=left | image1 = [[:en:File:Md datasheet.jpg|メンデレビウムの発見を証明するスタイラスのトレースとメモを示すデータシート]]}}
シーボーグが資金の申請をしている間、Harveyはアインスタイニウムのターゲットに取り組み、ThomsonとChoppinは化学的分離の方法に焦点を合わせ研究した。Choppinは軽いアクチノイドの原子からメンデレビウム原子を分離するために[[αヒドロキシイソ酪酸]]を使用することを提案した<ref name=Choppin/>。実際の合成はギオルソにより導入された反跳法により行われた。この手法では、アインスタイニウムがビームのターゲットの反対側に配置されたため、反跳するメンデレビウム原子はターゲットを離れ金でできたキャッチャー箔により捕らえられるのに十分な[[運動量]]を得る。この反跳ターゲットは、Alfred Chetham-Strodeにより開発された電気めっき法により作られた。この方法は非常に高い収率をもたらし、アインスタイニウムのターゲット材料などの珍しく貴重な生成物を研究する際に絶対的に必要なものであった<ref name=discovery/>。反跳ターゲットは、薄い金箔上に電解的に堆積された<sup>253</sup>Esの10<sup>9</sup>個の原子で構成されていた。これにバークレーのサイクロトロン内で41 [[MeV]]の[[アルファ粒子]]が、0.05 cm<sup>2</sup>の面積で毎秒6×10<sup>13</sup>粒子という非常に高いビーム密度で当てられた。ターゲットは水または[[液体ヘリウム]]で冷却され、箔は交換することができた<ref name=discovery/><ref name=book1>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=4KcVj3xqsrAC&pg=PA40|pages=40–42|title=On beyond uranium: journey to the end of the periodic table|author=Hofmann, Sigurd|publisher=CRC Press|isbn=978-0-415-28496-7|date=2002}}</ref>。
最初の実験は1954年9月に行われた。メンデレビウム原子からはアルファ崩壊は見られず、ゆえにギオルソはメンデレビウムは全て[[電子捕獲]]により崩壊して[[フェルミウム]]になり、代わりに実験を繰り返して、[[自発核分裂]]の事象を探す必要があることを提案した<ref name=Choppin/>。繰り返しの実験は1955年2月に行われた<ref name=Choppin/>。
[[File:DIMendeleevCab.jpg|thumb|right|この元素は[[ドミトリー・メンデレーエフ]]にその名を由来する。]]
発見した日である2月19日にはアインスタイニウムのターゲットのアルファ線照射が3時間のセッションで3度生じた。サイクロトロンは[[カリフォルニア大学]]のキャンパスにあり、放射線研究所は隣の丘にあったため、この状況を対処するために複雑な手順が使われた。ギオルソはキャッチャー箔(3つのターゲットと3つの箔があった)をサイクロトロンからハーベイに渡し、彼は[[王水]]を使用してそれを溶解し、[[陰イオン]]交換[[樹脂]]カラムに通し金や他の生成物から[[超ウラン元素]]を分離した<ref name=Choppin/><ref name=book2>{{cite book|url=https://archive.org/details/newchemistry00hall|url-access=registration|pages=[https://archive.org/details/newchemistry00hall/page/9 9]–11|title=The new chemistry|author=Hall, Nina|publisher=Cambridge University Press|date=2000|isbn=978-0-521-45224-3}}</ref>。結果として生じた滴が[[試験管]]に入り、Choppinとギオルソはそれをできるだけ早く放射線研究所に運ぶために車で移動した。そこでThompsonとChoppinは[[陽イオン]]交換樹脂カラムとαヒドロキシイソ酪酸を使用した。溶液の滴を[[白金]]のディスクに集め、加熱ランプ下で乾燥させた。3つのディスクにはそれぞれフェルミウム、新しい元素なし、メンデレビウムが含まれていると予想されていた。最終的にそれらは自発核分裂の事象が崩壊の数と時間を示すグラフの巨大なふれとして記録されるように、レコーダーに接続された独自のカウンターに設置された。したがって、直接的には検出されなかったが、電子捕獲娘の<sup>256</sup>Fmから生じる自発核分裂の事象が観測された。最初の1つは「フレー」という声とともに同定され、その後「2番目のフレー」と「3番目のフレー」が続いた。4番目のものにより最終的に公式に101番目の元素であるメンデレビウムの化学的同定が証明された。合計で午前4時までに5つの崩壊が報告された。シーボーグはこのことが知らされ、チームは眠りについた<ref name=Choppin/>。さらなる分析と実験により生成されたメンデレビウム同位体は質量256であり、電子捕獲により半減期1.5時間でフェルミウム256に崩壊することが示された<ref name="NUBASE2003"/>。
{{quotation|We thought it fitting that there be an element named for the Russian chemist Dmitri Mendeleev, who had developed the periodic table. In nearly all our experiments discovering transuranium elements, we'd depended on his method of predicting chemical properties based on the element's position in the table. But in the middle of the Cold War, naming an element for a Russian was a somewhat bold gesture that did not sit well with some American critics.<ref name="名前なし-1">[http://www.vanderkrogt.net/elements/element.php?sym=Md 101. Mendelevium - Elementymology & Elements Multidict]. Peter van der Krogt.</ref>|Glenn T. Seaborg}}
{{quotation|(日本語訳)われわれは周期表を発展させたドミトリー・メンデレーエフにちなんで名付けられた元素があるのはふさわしいことだと考えた。超ウラン元素を発見するほとんどすべての実験において、われわれは周期表内の元素の位置に基づいて化学的性質を予測する彼の手法に依存していた。しかし、冷戦の真っただ中に元素にロシア人の名前をつけることは、一部のアメリカの批評家にとっては納得できないやや大胆な振る舞いであった<ref name="名前なし-1"/>。|Glenn T. Seaborg}}
これは原子番号101以上の最初の元素であり、[[周期表]]の父であるロシアの化学者[[ドミトリー・メンデレーエフ]]にちなんで「メンデレビウム」と命名されることになった。この発見は[[冷戦]]中に行われたため、シーボーグはこの元素をロシア人にちなんで命名することを提案するように[[米国]]政府の許可を求める必要があったが、その後許可された<ref name=Choppin/> {{Anchors|rename}}。「メンデレビウム」という名称は1955年に記号"Mv"で[[IUPAC]]により承認され<ref>{{cite book |title=Comptes rendus de la confèrence IUPAC|date=1955|url=https://books.google.com/books?id=WJhYAAAAYAAJ |last1=Chemistry |first1=International Union of Pure and Applied}}</ref>、次のIUPACの総会(パリ、1957年)で"Md"に変更された<ref>{{cite book |title=Comptes rendus de la confèrence IUPAC|date=1957|url=https://books.google.com/books?id=f5hYAAAAYAAJ |last1=Chemistry |first1=International Union of Pure and Applied}}</ref>。
==特徴==
===物理的特性===
[[File:Fblock fd promotion energy.png|thumb|upright=1.6|right|fブロックランタノイドとアクチノイドのf電子をd亜殻に昇位するために必要なエネルギー。約210 kJ/molを超えるとこのエネルギーは高すぎて3価状態の[[結晶エネルギー]]が大きくなるため、アインスタイニウム、フェルミウム、メンデレビウムはランタノイドの[[ユーロピウム]]や[[イッテルビウム]]などと同様に2価の金属を形成する(ノーベリウムも2価の金属を形成すると予想されているが未だ確認されていない)<ref>{{cite book|first = Richard G.|last = Haire|ref=Haire|contribution = Einsteinium|title = The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements|editor1-first = Lester R.|editor1-last = Morss|editor2-first = Norman M.|editor2-last = Edelstein|editor3-first = Jean|editor3-last = Fuger|edition = 3rd|date = 2006|volume = 3|publisher = Springer|location = Dordrecht, the Netherlands|pages = 1577–1620|url = http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/einsteinium.pdf|doi = 10.1007/1-4020-3598-5_12|isbn = 978-1-4020-3555-5}}</ref>。]]
[[周期表]]において、メンデレビウムはアクチノイドの[[フェルミウム]]の右、アクチノイドの[[ノーベリウム]]の左、ランタノイドの[[ツリウム]]の下に位置する。メンデレビウム金属はまだバルク量精製されておらず、バルク量の精製は現在不可能である<ref name=Silva16345>Silva, pp. 1634–5</ref>。そうではあるが、その特性に関していくつかの予測といくつかの予備実験の結果が行われている<ref name=Silva16345/>。
ランタノイドとアクチノイドは金属状態では2価([[ユーロピウム]]や[[イッテルビウム]]など)または3価(他のほとんどのランタノイド)の金属として存在することができる。前者はf<sup>''n''</sup>d<sup>1</sup>s<sup>2</sup>配置であり、後者はf<sup>''n''+1</sup>s<sup>2</sup>配置である。1975年にJohanssonとRosengrenは金属[[ランタノイド]]と[[アクチノイド]]の[[凝集エネルギー]](結晶化の[[エンタルピー]])の測定値と予測値を、ともに2価金属と3価金属として調べた<ref name=Silva16268>Silva, pp. 1626–8</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.11.2836|title=Generalized phase diagram for the rare-earth elements: Calculations and correlations of bulk properties|date=1975|last1=Johansson|first1=Börje|last2=Rosengren|first2=Anders|journal=Physical Review B|volume=11|pages=2836–2857|bibcode = 1975PhRvB..11.2836J|issue=8 }}</ref>。結論は、メンデレビウムの[Rn]5f<sup>13</sup>7s<sup>2</sup>配置よりも[Rn]5f<sup>12</sup>6d<sup>1</sup>7s<sup>2</sup>配置で結合エネルギーの増加分は、ずっと後半のアクチノイドにもあてはまるように1つの5f電子を6dに昇位させるのに必要なエネルギーを補償するには不十分であった。それゆえ、[[アインスタイニウム]]、[[フェルミウム]]、メンデレビウム、[[ノーベリウム]]は2価の金属であると予想されていた<ref name=Silva16268/>。アクチノイド系列が終わるずっと前に2価状態の優位性が増加しているのは、原子番号の増加と共に増加する5f電子の[[相対性理論|相対論]]的安定化に起因する<ref>{{cite book|doi=10.1021/bk-1980-0131.ch012|title=Lanthanide and Actinide Chemistry and Spectroscopy|volume=131|pages=[https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse/page/239 239–263]|date=1980|isbn=9780841205680|author=Hulet, E. K.|editor=Edelstein, Norman M.|chapter=Chapter 12. Chemistry of the Heaviest Actinides: Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium|series=ACS Symposium Series|chapter-url=https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse|url=https://archive.org/details/lanthanideactini0000unse/page/239}}</ref>。1976年から1982年までZvaraとHübenerによる微量のメンデレビウムを用いた[[熱クロマトグラフィー]]研究により、この予測が確認された<ref name=Silva16345/>。1990年、HaireとGibsonはメンデレビウム金属は134から142 kJ/molの間の昇華のエンタルピーを持っていると推定した<ref name=Silva16345/>。2価メンデレビウム金属の[[金属半径]]は約{{val|194|10|u=[[ピコメートル|pm]]}}でなければならない<ref name=Silva16345/>。他の2価の後半のアクチノイドと同様に(再度3価の[[ローレンシウム]]を除く)、金属メンデレビウムは[[立方晶系|面心立方結晶]]構造をとるはずである<ref name=density>{{cite journal |last=Fournier |first=Jean-Marc |date=1976 |title=Bonding and the electronic structure of the actinide metals |journal=Journal of Physics and Chemistry of Solids |volume=37 |issue=2 |pages=235–244 |doi=10.1016/0022-3697(76)90167-0|bibcode=1976JPCS...37..235F }}</ref>。融点は827 °Cと推定されており、隣接する元素であるノーベリウムで予測されたものと同じ値である<ref>{{cite book|ref=Haynes|editor=Haynes, William M.|date=2011|title= CRC Handbook of Chemistry and Physics |edition=92nd|publisher= CRC Press|isbn=978-1439855119|pages=4.121–4.123}}</ref>。密度は約{{val|10.3|0.7|u=g/cm<sup>3</sup>}}であると予測されている<ref name=density/>。
===化学的特性===
メンデレビウムの化学的特性はほとんどが溶液中でのみ知られており、+3または+2の[[酸化数]]をとることができる。+1の状態も報告されているが、まだ確認されていない<ref name=Silva16356>Silva, pp. 1635–6</ref>。
メンデレビウムが発見される前に、[[グレン・シーボーグ]]とKatzはそれが主に水溶液中で3価であるべきであり、したがって他の3陽性のランタノイドとアクチノイドと同様に振る舞うべきであると予測した。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。1955年にメンデレビウムが合成された後、これらの予測が確認された。最初は樹脂の陽イオン交換カラムからの3価アクチノイド溶出順序でフェルミウムの直後に読王出したことが発見され、後の1967年にはメンデレビウムが3価のランタノイド塩と共沈する不溶性の[[水酸化物]]及び[[フッ化物]]を形成する可能性があることが観察された<ref name=Silva16356/>。陽イオン交換及び溶媒抽出の研究により、メンデレビウムがそれより前のアクチノイドであるフェルミウムよりもイオン半径がやや小さい3価のアクチノイドであるという結論にいたった<ref name=Silva16356/>。メンデレビウムは1,2-シクロヘキサンジニトリロ四酢酸(DCTA)と配位[[錯体]]を形成することができる<ref name=Silva16356/>。
還元条件では、メンデレビウム(III)は、水溶液中で安定なメンデレビウム(II)に容易に還元される<ref name=Silva16356/>。''E''°(Md<sup>3+</sup>→Md<sup>2+</sup>)の標準還元電位は1967年に−0.10 V や −0.20 Vとさまざまに推定された<ref name=Silva16356/>。2013年以降の実験では、値は{{val|−0.16|0.05|u=V}}と確立された<ref>
{{cite journal |last1=Toyoshima |first1=Atsushi |last2=Li |first2=Zijie |first3=Masato |last3=Asai |first4=Nozomi |last4=Sato |first5=Tetsuya K. |last5=Sato |first6=Takahiro |last6=Kikuchi |first7=Yusuke |last7=Kaneya |first8=Yoshihiro |last8=Kitatsuji |first9=Kazuaki |last9=Tsukada |first10=Yuichiro |last10=Nagame |first11=Matthias |last11=Schädel |first12=Kazuhiro |last12=Ooe |first13=Yoshitaka |last13=Kasamatsu |first14=Atsushi |last14=Shinohara |first15=Hiromitsu |last15=Haba |first16=Julia |last16=Even |date=11 October 2013 |title=Measurement of the Md<sup>3+</sup>/Md<sup>2+</sup> Reduction Potential Studied with Flow Electrolytic Chromatography |journal=Inorganic Chemistry |volume=52 |issue=21 |pages=12311–3 |doi=10.1021/ic401571h|pmid=24116851 }}</ref>。比較すると、''E''°(Md<sup>3+</sup>→Md<sup>0</sup>) は約−1.74 Vであり、''E''°(Md<sup>2+</sup>→Md<sup>0</sup>) は約−2.5 Vであるべきである<ref name=Silva16356/>。メンデレビウム(II)の溶出挙動は、[[ストロンチウム]](II)及び[[ユウロピウム]](II)の溶出挙動と比較されている<ref name=Silva16356/>。
1973年、メンデレビウム(I)はロシアの科学者たちによって、より高い酸化状態メンデレビウムを[[サマリウム]](II)で還元することで得たと報告された。これは中性の水-[[エタノール]]溶液中で安定であり、[[セシウム]](I)と同族であることがわかった。しかし、その後の実験ではメンデレビウム(I)の証拠は見つからず、メンデレビウムは還元されると一価の[[アルカリ金属]]ではなく二価の元素のように振る舞うことが分かった<ref name=Silva16356/>。それにもかかわらず、ロシアのチームはメンデレビウムをアルカリ金属の[[塩化物]]と共結晶化する[[熱力学]]についてさらに研究を行い、メンデレビウム(I)が形成され、二価の元素と混合結晶を形成し、それらと共結晶化すると結論付けた。+1の酸化状態は未だ仮説である<ref name=Silva16356/>。
''E''°(Md<sup>4+</sup>→Md<sup>3+</sup>) は1975年に+5.4 Vと予測され、このことはメンデレビウム(III)がメンデレビウム(IV)に酸化される可能性があることを示唆しているが、強力な酸化剤である[[ビスマス酸ナトリウム]]を使用した1967年の実験ではメンデレビウム(III)をメンデレビウム(IV)に酸化することができなかった<ref name=Silva16356/>。
===原子的性質===
メンデレビウム原子には101個の電子があり、そのうち少なくとも3個(そしておそらく4個)が[[価電子]]として機能する。これは電子配置[Rn]5f<sup>13</sup>7s<sup>2</sup>(基底状態の[[項記号]]<sup>2</sup>F<sub>7/2</sub>)と予想されるが、この電子配置の実験的検証は2006年の時点ではまだ行われていない<ref name=Silva16334>Silva, pp. 1633–4</ref>。化合物を形成する際に、3個の価電子が失われ、[Rn]5f<sup>12</sup>コアが残る場合があるが、これは+3状態の[Rn] 5f<sup>''n''</sup>電子配置を持つ他のアクチノイドにより定められた傾向に一致する。メンデレビウムの最初の[[イオン化ポテンシャル]]は、7s電子が5f電子より前にイオン化するという仮定に基づいて、1974年に最大(6.58 ± 0.07) [[電子ボルト|eV]]であると測定された<ref name=NIST>{{cite journal|first1=W. C. |last1=Martin |first2=Lucy |last2=Hagan |first3=Joseph |last3=Reader |first4=Jack |last4=Sugan |date=1974 |title=Ground Levels and Ionization Potentials for Lanthanide and Actinide Atoms and Ions |url=https://www.nist.gov/data/PDFfiles/jpcrd54.pdf |journal=J. Phys. Chem. Ref. Data |volume=3 |issue=3 |pages=771–9 |accessdate=2013-10-19 |doi=10.1063/1.3253147 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140211144635/https://www.nist.gov/data/PDFfiles/jpcrd54.pdf |archivedate=2014-02-11 |bibcode=1974JPCRD...3..771M }}</ref>。この値は、その後メンデレビウムの希少性と高い放射性のために、さらなる精度の向上はない<ref>David R. Lide (ed), ''CRC Handbook of Chemistry and Physics, 84th Edition''. CRC Press. Boca Raton, Florida, 2003; Section 10, Atomic, Molecular, and Optical Physics; Ionization Potentials of Atoms and Atomic Ions</ref>。[[配位数|六配位]]のMd<sup>3+</sup>のイオン半径は、1978年に事前に約91.2 pmと推定されていた<ref name=Silva16356/>。[[分配係数]]とイオン半径の間の対数傾向に基づく1988年の計算により、{{val|−3654|12|u=kJ/mol}}の水和エンタルピーとともに、89.6pmというイオン半径が算出された<ref name=Silva16356/>。Md<sup>2+</sup>のイオン半径は115 pm、水和エンタルピーが−1413 kJ/molである必要があり、Md<sup>+</sup>のイオン半径は117 pmである必要がある<ref name=Silva16356/>。
===同位体===
{{main|メンデレビウムの同位体}}
メンデレビウムの同位体は、質量数が244から260まで17個知られており、全てが放射性である<ref name=Silva16301>Silva, pp. 1630–1</ref>。さらに、5つの[[核異性体]]、<sup>245m</sup>Md, <sup>247m</sup>Md, <sup>249m</sup>Md, <sup>254m</sup>Md, および<sup>258m</sup>Mdが知られている<ref name="NUBASE2003"/><ref name=unc>{{cite web |url=http://www.nucleonica.net/unc.aspx |title=Universal Nuclide Chart |author=Nucleonica |date=2007–2014 |website=Nucleonica |accessdate=22 May 2011}}</ref>。これらのうち、半減期が最長の同位体は<sup>258</sup>Mdで、51.5日であり、半減期が最長の異性体は<sup>258m</sup>Mdで58.0分である<ref name="NUBASE2003">{{citation |title=The N<small>UBASE</small> evaluation of nuclear and decay properties |doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001 |last1=Audi |first1=Georges |last2=Bersillon |first2=Olivier |last3=Blachot |first3=Jean |last4=Wapstra |first4=Aaldert Hendrik |authorlink4=Aaldert Wapstra |journal=Nuclear Physics A |volume=729 |pages=3–128 |year=2003 |url=<!-- dead: http://amdc.in2p3.fr/nubase/Nubase2003.pdf -->https://hal.archives-ouvertes.fr/in2p3-00020241/document |bibcode=2003NuPhA.729....3A}}</ref><ref name=unc/>。それにもかかわらず、半減期の短い<sup>256</sup>Md(1.17時間)は、アインスタイニウムの[[アルファ粒子]]照射から大量に生成できるため、化学実験でより頻繁に使用される<ref name=Silva16301/>。<sup>258</sup>Mdの次に安定したメンデレビウムの同位体は、半減期が31.8日の<sup>260</sup>Md、5.52時間の<sup>257</sup>Md、1.60時間の<sup>259</sup>、1.17時間の<sup>256</sup>Mdである。残りのメンデレビウムの同位体はすべて半減期が1時間未満であり、大部分は5分未満である<ref name="NUBASE2003"/><ref name=Silva16301/><ref name=unc/>。
メンデレビウムの同位体の半減期は、ほとんどが<sup>244</sup>Md以降滑らかに増加し、<sup>258</sup>Mdで最大となる<ref name="NUBASE2003"/><ref name=Silva16301/><ref name=unc/>。実験と予測によると、半減期は半減期が31.8日の<sup>260</sup>Md以降は減少する<ref name="NUBASE2003"/><ref name=Silva16301/><ref name=unc/>。これは、[[アクチノイド]]系列において長寿命原子核の[[安定の島|相対的安定の島]]に限界をもたらす陽子の相互反発が理由で、[[自発核分裂]]が支配的な崩壊モードになるためである<ref name="NUBASE2003"/><ref name=Nurmia>{{cite journal|first = Matti|last = Nurmia|date = 2003 |title = Nobelium|journal = Chemical and Engineering News|url = http://pubs.acs.org/cen/80th/nobelium.html|volume = 81|issue = 36|page = 178|doi = 10.1021/cen-v081n036.p178}}</ref>。
化学的に重要なメンデレビウムの同位体であるメンデレビウム256は、[[電子捕獲]]により90%の確率で崩壊し、10%の確率で[[アルファ崩壊]]する<ref name=Silva16301/>。これは電子捕獲娘の[[フェルミウムの同位体|フェルミウム256]]の[[自発核分裂]]によって最も簡単に検出されるが、自発核分裂を起こす他の核種の存在下ではメンデレビウム256の特徴的なエネルギー(7.205及び7.139 [[電子ボルト|MeV]])でのアルファ崩壊は、より有用な識別情報を提供しうる<ref name=Silva16313/>。
==生産・分離==
最も軽いメンデレビウムの同位体(<sup>244</sup>Mdから<sup>247</sup>Md)は、主に[[ビスマス]]のターゲットに重い[[アルゴン]]イオンを衝突させることにより生成されるが、わずかに重い同位体(<sup>248</sup>Mdから<sup>253</sup>Md)は[[プルトニウム]]と[[アメリシウム]]のターゲットに軽い[[炭素]]と[[窒素]]のイオンを衝突させることにより生成される。最も重要で最も安定した同位体は<sup>254</sup>Mdから<sup>258</sup>Mdの範囲であり、[[アルファ粒子]]を[[アインスタイニウム]]の導体に衝突させることで生成される(アインスタイニウム253, 254, 255の全てが使用できる)。<sup>259</sup>Mdは<sup>259</sup>[[ノーベリウム|No]]の娘として生成され、<sup>260</sup>Mdはアインスタイニウム254と酸素18の間の移動反応で生成される<ref name=Silva16301/>。通常、最も一般的に使用される同位体<sup>256</sup>Mdはアインスタイニウム253, 254のいずれかにアルファ粒子を照射することにより生成される。アインスタイニウム254は半減期が長く、ターゲットとしてより長い間使用できるため、入手可能である場合好まれる<ref name=Silva16301/>。利用可能なマイクログラム量のアインスタイニウムを使用することで、[[フェムトグラム]]量のメンデレビウム256を生成することができる<ref name=Silva16301/>。
生成されたメンデレビウム256の反跳[[運動量]]は、それらが生成された元のアインスタイニウムのターゲットから物理的に遠く離し、真空中でターゲットのちょうど後ろの金属の薄い箔(通常、[[ベリリウム]]、[[アルミニウム]]、[[白金]]、または[[金]])の上に付くのに使われる<ref name=Silva16313>Silva, pp. 1631–3</ref>。これにより、費用がかかり高価なアインスタイニウムのターゲットの再利用を妨げる即時の化学的分離の必要性がなくなる<ref name=Silva16313/>。次に、メンデレビウムの原子は気体雰囲気(多くの場合[[ヘリウム]])に閉じ込められ、反応室の小さな開口部からの気体ジェットがメンデレビウムを運ぶ<ref name=Silva16313/>。長い[[毛細管]]を使用し、ヘリウムガスに[[塩化カリウム]]エアロゾルを含めることで、メンデレビウム原子を数十メートル以上輸送して化学的に分析し、その量を決定することができる<ref name=book2/><ref name=Silva16313/>。次に、箔に酸を適用し、メンデレビウムを[[フッ化ランタン]]と[[共沈]]させ、[[塩酸]]で飽和させた10%[[エタノール]]溶液を含む[[イオン交換|陽イオン交換]]樹脂カラムを使用し[[溶出|溶離剤]]として働かせることで、箔材料及び他の核分裂生成物からメンデレビウムを分離することができる。ただし、箔が金でできており十分に薄い場合は、[[イオン交換|陰イオン交換]][[クロマトグラフィー]]を使用して金から3価のアクチノイドを分離する(溶離液はM塩酸である)前に、[[王水]]に金を溶かすだけで十分である<ref name=Silva16313/>。
メンデレビウムは最終的に陽イオン交換樹脂カラムからの選択的溶出(溶離液はアンモニアα-HIB)を利用することで、他の3価のアクチノイドから分離できる<ref name=Silva16313/>。気体ジェット法を使用すると、最初の2つのステップが不要になることがしばしばある<ref name=Silva16313/>。上記の手順では超アインスタイニウム元素の分離に最も一般的に使用される手順である<ref name=Silva16313/>。
3価のアクチノイドを分離する別の可能な方法は、固定有機相としてビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略す)及び移動水相として[[硝酸]]を使用するという溶媒抽出クロマトグラフィーによるものである。アクチノイドの溶出の順序は陽イオン交換樹脂カラムにおいてとは逆になっているため、重いアクチノイドは後で溶出する。この方法で分離されたメンデレビウムには樹脂カラムと比較して有機錯化剤が含まれていないという利点がある。不利な点は、メンデレビウムがフェルミウムの後、溶出の順番の非常に遅い段階で溶出することである<ref name=book2/><ref name=Silva16313/>。
メンデレビウムを分離するもう1つの方法は、Es<sup>3+</sup>及びFm<sup>3+</sup>の溶出特性とは異なるMd<sup>2+</sup>の溶出特性を利用する。最初の段階は、上記と同じで、抽出クロマトグラフィーにHDEHPを使用するが、メンデレビウムをフッ化ランタンではなくフッ化テルビウムと共沈させる。次に、50 mgの[[クロム]]をメンデレビウムに加え、[[亜鉛]]または[[水銀]]を含む0.1M塩酸中で+2状態に還元する<ref name=Silva16313/>。次に、溶媒抽出が進み、3価および4価のランタノイドとアクチノイドがカラムに残るがメンデレビウム(II)は塩酸中に留まらない。次に、[[過酸化水素]]を使用して+3状態に再び酸化し、2M塩酸(クロム含む不純物を除去するため)、最終的には6M塩酸(メンデレビウムを除去するため)による選択的溶出で分離する<ref name=Silva16313/>。また、1M塩酸を溶離液として使用し、Md(III)をMd(II)に還元し[[アルカリ土類金属]]のように振る舞う、カチオナイトと亜鉛アマルガムのカラムを使用することもできる<ref name=Silva16313/>。サーモクロマトグラフィーによる化学的分離は、揮発性メンデレビウム[[ヘキサフルオロアセチルアセトナート]]を使用することで達成できる。類似のフェルミウム化合物も知られており、揮発性である<ref name=Silva16313/>。
==毒性==
メンデレビウムと接触する人はほとんどいないが、[[国際放射線防護委員会]]は最も安定した同位体の年間曝露限界を設定している。メンデレビウム258の場合、摂取限界は9×10<sup>5</sup>Bq([[ベクレル]]、1ベクレルは1秒当たり1回の崩壊に相当)であり、吸入限界は6000Bqに設定されている<ref>{{cite book|last1=Koch|first1=Lothar|title=Transuranium Elements, in Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry|publisher=Wiley|date=2000|doi=10.1002/14356007.a27_167|chapter=Transuranium Elements|isbn=978-3527306732}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
==書誌情報==
*{{cite book|last=Silva |first=Robert J. |chapter=Fermium, Mendelevium, Nobelium, and Lawrencium |title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements |editor1-first=Lester R. |editor1-last=Morss |editor2-first=Norman M. |editor2-last=Edelstein |editor3-first=Jean |editor3-last=Fuger |edition=3rd |date=2006 |volume=3 |publisher=Springer |location=Dordrecht |pages=1621–1651 |chapter-url=http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/Fm%20to%20Lr.pdf |doi=10.1007/1-4020-3598-5_13 |isbn=978-1-4020-3555-5 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100717155410/http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/Fm%20to%20Lr.pdf |archivedate=2010-07-17 }}
==関連文献==
* Hoffman, D.C., Ghiorso, A., Seaborg, G. T. The transuranium people: the inside story, (2000), 201–229
* Morss, L. R., Edelstein, N. M., Fuger, J., The chemistry of the actinide and transactinide element, 3, (2006), 1630–1636
* ''A Guide to the Elements – Revised Edition'', Albert Stwertka, (Oxford University Press; 1998) {{ISBN2|0-19-508083-1}}
==外部リンク==
{{Commons|Mendelevium}}
{{Wiktionary|mendelevium}}
*[https://periodic.lanl.gov/101.shtml Los Alamos National Laboratory – Mendelevium]
*[https://education.jlab.org/itselemental/ele101.html It's Elemental – Mendelevium]
* [http://www.periodicvideos.com/videos/101.htm Mendelevium] at ''[[The Periodic Table of Videos]]'' (University of Nottingham)
*[https://environmentalchemistry.com/yogi/periodic/Md.html Environmental Chemistry – Md info]
{{Commons|Mendelevium}}
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線型計画問題
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線型計画問題 (せんけいけいかくもんだい、英語:linear programming problem) とは、最適化問題において、目的関数が線型関数で、なおかつ線型関数の等式と不等式で制約条件が記述できる問題である。この問題を解く手法を線型計画法という。
行列やベクトルを用いて表現すると、行列Aとベクトルb,cが与えられたとき、制約条件Ax≤b, x≥0をみたしつつcxを最大化するベクトルxを求める問題のことである。
線型計画問題は次のように記述できる。
これを標準型といい、制約条件に線型不等式を含む問題も、スラック変数を加えることで、容易に上記の標準型に変換できる。最大化問題の場合は、目的関数の符号を反転させれば最小化問題となる。
この問題を解くアルゴリズムとしては、1947年にジョージ・ダンツィーグが提案したシンプレックス法(単体法)がよく知られている。このアルゴリズムは、実用上は高速であり、ほとんど常に変数の数・制約条件の数の大きい方のオーダーの反復回数で解が求まる。しかし、Dantzig が提唱したもの(ピボット規則)は理論的には多項式時間アルゴリズムではない。常に多項式時間で解が得られるピボット規則の存在性は、現在も未解決問題である。単体法という名前は、Dantzigが提案した特殊な図解法においては、アルゴリズムの進行に従って単体が下に落ちていくように見えることに由来する。
その後、1979年、Leonid Khachiyanが初めての多項式時間アルゴリズムである楕円体法(英語版)を提案する。さらに、1984年、ナレンドラ・カーマーカー(Narendra Karmarkar)はより効率の良いカーマーカー法を提案し、大規模な問題に対してはシンプレックス法よりも高速であると主張した。現代においては、カーマーカー法に触発された汎用の内点法で十分に高速に解ける。
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線型計画問題 とは、最適化問題において、目的関数が線型関数で、なおかつ線型関数の等式と不等式で制約条件が記述できる問題である。この問題を解く手法を線型計画法という。
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{{出典の明記|date=2011年11月}}
'''線型計画問題''' (せんけいけいかくもんだい、[[英語]]:linear programming problem) とは、[[最適化問題]]において、目的関数が[[線型関数]]で、なおかつ線型関数の等式と[[不等式]]で制約条件が記述できる問題である。この問題を解く手法を[[線型計画法]]という。
== 数学的表現 ==
行列やベクトルを用いて表現すると、[[行列 (数学)|行列]]''A''と[[数ベクトル空間|ベクトル]]''b'',''c''が与えられたとき、制約条件''Ax≤b'', ''x≥0''をみたしつつ''c<sup>T</sup>x''を最大化するベクトル''x''を求める問題のことである。
線型計画問題は次のように記述できる。
:<math>
\begin{matrix}
\text{maximize} & c^T x \\
\text{subject to} & Ax \le b \\
& x \ge 0
\end{matrix}
</math>
これを標準型といい、制約条件に[[線型不等式]]を含む問題も、スラック変数を加えることで、容易に上記の標準型に変換できる。最大化問題の場合は、目的関数の符号を反転させれば[[最適化問題|最小化問題]]となる。
== アルゴリズム ==
この問題を解く[[アルゴリズム]]としては、[[1947年]]に[[ジョージ・ダンツィーグ]]が提案した[[シンプレックス法]](単体法)がよく知られている。このアルゴリズムは、実用上は高速であり、ほとんど常に変数の数・制約条件の数の大きい方のオーダーの反復回数で解が求まる。しかし、Dantzig が提唱したもの(ピボット規則)は理論的には[[多項式時間]]アルゴリズムではない。常に[[多項式時間]]で解が得られるピボット規則の存在性は、現在も未解決問題である。単体法という名前は、Dantzigが提案した特殊な図解法においては、アルゴリズムの進行に従って単体が下に落ちていくように見えることに由来する。
その後、[[1979年]]、[[Leonid Khachiyan]]が初めての多項式時間アルゴリズムである{{仮リンク|楕円体法|en|Ellipsoid method}}を提案する。さらに、[[1984年]]、[[ナレンドラ・カーマーカー]](Narendra Karmarkar)はより効率の良い[[カーマーカーのアルゴリズム|カーマーカー法]]を提案し、大規模な問題に対しては[[シンプレックス法]]よりも高速であると主張した。現代においては、カーマーカー法に触発された汎用の[[内点法]]で十分に高速に解ける。
== 関連項目 ==
*[[双対問題]]
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銅貨
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銅貨(どうか Copper coin)とは、銅を素材として作られた貨幣をいう。
銅は卑金属ではあるが鉄や錫などに比してイオン化傾向が低く酸化しにくいとされ、錫との合金である青銅は古くから装飾品や武器などに広く使用されて、精錬法も良く知られた身近な金属であったため、貯蔵性や可搬性の利点から鋳造貨幣として広範に利用された。ただし厳密な意味での鋳造(鋳型に溶かした銅を流し込んで成形する)は東アジアに限られ、オリエントやヨーロッパではプレス加工による成形が主流であった。
耐食性に優れるとはいえ材質としての価値は貴金属としての金銀に比べ大きく劣るため、本位貨幣の少額決済における不便さを補填するための「補助貨幣」としての性質が大きかった。よって中国や日本では金銀が砂金や丁銀など秤量貨幣の体裁を取ることが多かったのに対して、銅は権威性を備えたコインとしての体裁が求められ、鋳造の品質が信用(=価値)に直結した。銅地金と額面との差額は貨幣発行益として政府の財政収入となるため、760年(天平宝字4)の万年通宝発行時には差益を狙って鋳造された私鋳銭が市場の半数を流通したという。中世日本では輸入銭である宋銭や永楽通宝が広く通用したが、品質を落とした私鋳銭も引き続き流通し、悪貨、鐚(びた)銭として撰銭(えりぜに)の慣習を引き起こした。
硬貨は金や銀の実質的価値から、額面に応じて大型で重くなっていたが、銅貨においても同様で、ヨーロッパ世界では近世に入ってからも大型で重い銅貨が流通していた。イギリスの車輪銭と呼ばれる2ペンス銅貨はその代表的な物である。
現在では金貨や銀貨は、もはや流通用には見られず、銅貨が世界の硬貨の中心をなしており、広く利用されている。一因としては、銅の軍事用途が飛躍的に拡大したため、銅貨類はその国家備蓄の意義が大きくなっている。銅やその合金は戦車や航空機などの主要素材ではないため使用量的にはやや少ないながらも使途は多岐にわたり、近世期には大砲のための青銅(砲金)、近代以後は銃砲弾の薬莢、20世紀からは特殊鋼や合金素材として重要となったニッケルを加えた白銅、21世紀現在ますます重要度を増しているハイテク製品の電気・電子部品など、戦略資源としての意義は上昇を続けている。
「銅貨」の語は、素材面から見ると、最も狭義には純銅~銅96%以上の合金(高銅合金)で作られているものをいい、日本の貨幣では1873年(明治6年)制定の竜2銭・竜1銭・竜半銭・1厘銅貨(品位は銅98%、錫1%、亜鉛1%)がこれに当たり、純銅製のものはアメリカの1793年–1857年の1セント銅貨やハーフセント銅貨などの例がある。しかし、銅貨が純銅で製造されることは少なく、多くは耐久性などの面から青銅貨として鋳造される。一般的には、銅貨というと、この青銅貨(現行の日本の硬貨では十円硬貨がこれに当たる)を指す場合が多いが、他にも銅を主体とする合金、例えば黄色い黄銅貨や白い白銅貨、洋銀貨やアルミニウム青銅貨、さらにはノルディック・ゴールド貨なども広義では銅貨の範疇に入る。
世界的には、一般的に高額硬貨は白銅貨が、また低額硬貨には青銅貨が用いられる場合が多くなっている。高額硬貨について、偽造防止などのため日本の2代目五百円硬貨のニッケル黄銅のような特殊な合金が用いられる場合もある。近年の銅価格の高騰により、英国の2ペンス銅貨(1992年以前鋳造分)は金属素材として額面以上の価値を持つに至っている。ちなみに青銅貨レベルよりも小さな額面の硬貨に関しては、ステンレスやメッキを施した鋼鉄(鉄貨)が用いられる場合が多く、日本の一円硬貨のようにアルミニウムが用いられる場合もある。
変わった例として、クラッドメタルというタイプのものも増えてきている。これは、アメリカの硬貨に代表されるように、「表面は白い白銅であるが中身は青銅(縁の部分を見ると赤茶色の銅の色が見られる)」などのように、2種類の金属の貼り合わせによる硬貨であり、素材面では普通広義の銅貨の範疇に入る。またバイメタル貨は外周と内側とで異なる2種類の金属を用いた硬貨で、これも素材面では普通広義の銅貨の範疇に入るものである。日本では、3代目五百円硬貨が銅を主体とするバイカラー・クラッド貨の例に当たる。
日本でも銅貨は銭(銅銭)と呼ばれ、律令国家によって、和銅元年(708年)から天徳2年(958年)の250年間の間に12種類の銅銭(皇朝十二銭)が通貨として発行されている。その中でも、和同開珎がよく知られている。後に貨幣経済が11世紀辺りで一時途絶えるが、12世紀後半から宋銭などが輸入されて使用されるようになり、江戸時代には寛永通宝を中心として、他にも文久永宝、天保通宝と呼ばれる長く定着する銅貨(一部真鍮や鉄製のものもある)が国内で鋳造、使用された。日本で明治以降に造幣局で製造された銅貨系の硬貨には、最も狭義の銅貨の他、青銅貨、白銅貨、黄銅貨、アルミニウム青銅貨、ニッケル黄銅貨などがあり、現在日本で流通している硬貨は、アルミニウム貨である一円硬貨を除いて全てが、銅を主体とする合金が利用されている。
三貨の交換比率は国と時代によって異なり、古代ローマのアウグストゥス帝治世下では、金貨:銀貨:銅貨の交換比率は1:25:400とされ(→「古代ローマの通貨」)、東ローマでは1:12:180、清朝では銀1両に対し銅銭1000文(1貫文)とされたが相場により日々変動した。日本初の鋳造貨幣といわれる和同開珎では銀貨1枚が銭貨25枚の価値を持つとされた。江戸時代には三貨制度で金1両=銀50匁=銭(銅銭)4貫文とされたがこれも相場による変動が激しかった。ローマでは金貨が本位貨幣、中国では銀本位制、江戸時代の日本だと江戸が金、大坂が銀本位制であった。
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"text": "三貨の交換比率は国と時代によって異なり、古代ローマのアウグストゥス帝治世下では、金貨:銀貨:銅貨の交換比率は1:25:400とされ(→「古代ローマの通貨」)、東ローマでは1:12:180、清朝では銀1両に対し銅銭1000文(1貫文)とされたが相場により日々変動した。日本初の鋳造貨幣といわれる和同開珎では銀貨1枚が銭貨25枚の価値を持つとされた。江戸時代には三貨制度で金1両=銀50匁=銭(銅銭)4貫文とされたがこれも相場による変動が激しかった。ローマでは金貨が本位貨幣、中国では銀本位制、江戸時代の日本だと江戸が金、大坂が銀本位制であった。",
"title": "金貨・銀貨との関係"
}
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銅貨とは、銅を素材として作られた貨幣をいう。
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[[File:Dio coin3.jpg|サムネイル|200px|ディオクレティアヌスのアス青銅貨]]
[[File:Ricimer monogram.jpg|サムネイル|200px|[[西ローマ帝国]]の銅貨([[アス]])。]]
'''銅貨'''(どうか Copper coin)とは、[[銅]]を素材として作られた[[貨幣]]をいう。
== 概要 ==
銅は[[卑金属]]ではあるが[[鉄]]や[[錫]]などに比して[[イオン化傾向]]が低く酸化しにくいとされ、錫との[[合金]]である[[青銅]]は古くから装飾品や武器などに広く使用されて、精錬法も良く知られた身近な金属であったため、貯蔵性や可搬性の利点から鋳造貨幣として広範に利用された。ただし厳密な意味での鋳造([[鋳型]]に溶かした銅を流し込んで成形する)は東アジアに限られ、オリエントやヨーロッパでは[[プレス加工]]による成形が主流であった。
[[File:Duit 1769 - Netherlands (Zeeland).jpg|サムネイル|200px|銅貨デュイ、1769年。 [[オランダ]]([[ゼーラント州]])。]]
耐食性に優れるとはいえ材質としての価値は貴金属としての金銀に比べ大きく劣るため、[[本位貨幣]]の少額決済における不便さを補填するための「[[補助貨幣]]」としての性質が大きかった。よって[[中国]]や[[日本]]では金銀が[[砂金]]や[[丁銀]]など[[秤量貨幣]]の体裁を取ることが多かったのに対して、銅は権威性を備えた[[コイン]]としての体裁が求められ、鋳造の品質が信用(=価値)に直結した。銅[[地金]]と額面との差額は[[貨幣発行益]]として政府の財政収入となるため、[[760年]]([[天平宝字]]4)の[[万年通宝]]発行時には差益を狙って鋳造された[[私鋳銭]]が市場の半数を流通したという。中世日本では輸入銭である[[宋銭]]や[[永楽通宝]]が広く通用したが、品質を落とした私鋳銭も引き続き流通し、悪貨、[[鐚銭|鐚(びた)銭]]として[[撰銭]](えりぜに)の慣習を引き起こした。
東アジアの[[銭貨|銅銭]]にみられる四角い穴は、鋳造後に棒を通して[[ろくろ]]で回転させ、型への溶銅の注入口(湯口)や型の隙間への銅のはみ出し(バリ)が銭の縁に残っているのを削り落とす工作に用いられる。これにより見目は良くなる反面、銭には多少の重量差が生じることになり、早期から[[計数貨幣]]寄りの性格であった。これに対し西洋の銅貨は特に古代のものではバリがついたままのものが多く出土しており秤量貨幣寄りの思考であったと言える。
[[硬貨]]は金や銀の実質的価値から、額面に応じて大型で重くなっていたが、銅貨においても同様で、ヨーロッパ世界では近世に入ってからも大型で重い銅貨が流通していた。[[イギリス]]の車輪銭と呼ばれる2[[ペニー|ペンス]]銅貨はその代表的な物である。
現在では[[金貨]]や[[銀貨]]は、もはや流通用には見られず、銅貨が世界の硬貨の中心をなしており、広く利用されている。一因としては、銅の軍事用途が飛躍的に拡大したため、銅貨類はその国家備蓄の意義が大きくなっている。銅やその合金は[[戦車]]や[[航空機]]などの主要素材ではないため使用量的にはやや少ないながらも使途は多岐にわたり、近世期には[[大砲]]のための[[青銅]]([[砲金]])、近代以後は銃砲弾の[[薬莢]]、20世紀からは特殊鋼や合金素材として重要となった[[ニッケル]]を加えた[[白銅]]、21世紀現在ますます重要度を増しているハイテク製品の電気・電子部品など、戦略資源としての意義は上昇を続けている。
== 銅貨の素材 ==
「銅貨」の語は、素材面から見ると、最も狭義には純銅~銅96%以上の合金(高銅合金)で作られているものをいい、日本の貨幣では[[1873年]]([[明治]]6年)制定の[[日本の補助貨幣#明治6年制定の銅貨|竜2銭・竜1銭・竜半銭・1厘銅貨]](品位は銅98%、[[錫]]1%、[[亜鉛]]1%)がこれに当たり、純銅製のものはアメリカの[[1793年]]–[[1857年]]の[[1セント硬貨 (アメリカ合衆国)|1セント銅貨]]や[[かつて流通していたアメリカ合衆国の硬貨|ハーフセント銅貨]]などの例がある。しかし、銅貨が純銅で製造されることは少なく、多くは耐久性などの面から[[青銅]]貨として鋳造される。一般的には、銅貨というと、この青銅貨(現行の[[日本の硬貨]]では[[十円硬貨]]がこれに当たる)を指す場合が多いが、他にも銅を主体とする合金、例えば黄色い[[黄銅]]貨や白い[[白銅]]貨、[[洋白|洋銀]]貨や[[アルミニウム青銅]]貨、さらには[[ノルディック・ゴールド]]貨なども広義では銅貨の範疇に入る。
世界的には、一般的に高額硬貨は白銅貨が、また低額硬貨には青銅貨が用いられる場合が多くなっている。高額硬貨について、偽造防止などのため日本の[[五百円硬貨#五百円ニッケル黄銅貨(2代目)|2代目五百円硬貨]]の[[ニッケル黄銅]]のような特殊な合金が用いられる場合もある。近年の銅価格の高騰により、英国の2ペンス銅貨([[1992年]]以前鋳造分)は金属素材として額面以上の価値を持つに至っている。ちなみに青銅貨レベルよりも小さな額面の硬貨に関しては、[[ステンレス]]や[[メッキ]]を施した[[鋼鉄]]([[鉄貨]])が用いられる場合が多く、日本の[[一円硬貨]]のように[[アルミニウム]]が用いられる場合もある。
変わった例として、[[クラッド貨幣|クラッドメタル]]というタイプのものも増えてきている。これは、アメリカの硬貨に代表されるように、「表面は白い白銅であるが中身は青銅(縁の部分を見ると赤茶色の銅の色が見られる)」などのように、2種類の金属の貼り合わせによる硬貨であり、素材面では普通広義の銅貨の範疇に入る。また[[バイメタル貨]]は外周と内側とで異なる2種類の金属を用いた硬貨で、これも素材面では普通広義の銅貨の範疇に入るものである。日本では、[[五百円硬貨#五百円バイカラー・クラッド貨(3代目)|3代目五百円硬貨]]が銅を主体とするバイカラー・クラッド貨の例に当たる。
== 日本 ==
{{main|日本の貨幣史}}
[[日本]]でも銅貨は[[銭貨|銭]]('''銅銭''')と呼ばれ、[[律令国家]]によって、[[和銅]]元年([[708年]])から[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])の250年間の間に12種類の銅銭([[皇朝十二銭]])が通貨として発行されている。その中でも、[[和同開珎]]がよく知られている。後に貨幣経済が[[11世紀]]辺りで一時途絶えるが、[[12世紀]]後半から[[宋銭]]などが輸入されて使用されるようになり、[[江戸時代]]には[[寛永通宝]]を中心として、他にも[[文久永宝]]、[[天保通宝]]と呼ばれる長く定着する銅貨(一部[[真鍮]]や[[鉄]]製のものもある)が国内で鋳造、使用された。日本で明治以降に[[造幣局 (日本)|造幣局]]で製造された銅貨系の硬貨には、最も狭義の銅貨の他、青銅貨、白銅貨、黄銅貨、アルミニウム青銅貨、ニッケル黄銅貨などがあり、現在日本で流通している[[硬貨]]は、[[アルミニウム]]貨である[[一円硬貨]]を除いて全てが、銅を主体とする合金が利用されている。
== 金貨・銀貨との関係 ==
[[画像:As-Nero-Ara pacis-RIC 0562.jpg|thumb|[[ネロ|ネロ皇帝]]の[[アス (青銅貨)|アス青銅貨]]]]
三貨の交換比率は国と時代によって異なり、[[古代ローマ]]の[[アウグストゥス|アウグストゥス帝]]治世下では、[[金貨]]:[[銀貨]]:銅貨の交換比率は1:25:400とされ(→「[[古代ローマの通貨]]」)、[[ビザンツ帝国|東ローマ]]では1:12:180、清朝では銀1[[両]]に対し銅銭1000[[文]](1[[貫文]])とされたが相場により日々変動した。日本初の鋳造貨幣といわれる和同開珎では銀貨1枚が銭貨25枚の価値を持つとされた。江戸時代には[[江戸時代の三貨制度|三貨制度]]で金1両=銀50匁=銭(銅銭)4貫文とされたがこれも相場による変動が激しかった。ローマでは金貨が本位貨幣、中国では[[銀本位制]]、江戸時代の日本だと江戸が[[金本位制|金]]、大坂が銀本位制であった。
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Bronze coins|銅貨}}
* [[貨幣学]]
* [[貨幣史]]
* [[銭貨]]
* [[鉄貨]]
*[[ドン (通貨)]] - かつて[[ベトナム]]で流通していた銅銭が通貨名の由来となっている。
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[[Category:銅貨|*]]
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銭貨
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銭貨(せんか)は、主に東アジアでかつて流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも書く。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや亜鉛等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。
銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。
四角の穴があいているために「穴あき銭(あなあきせん)」「穴銭(あなせん)」、あるいは「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」ともいう。
単に「ぜに(銭)」ともいう。江戸時代には「ちゃん」、「ちゃんころ」などとも呼ばれた。
中国における銭貨の歴史については中国の貨幣制度史を参照。とくに唐の開元通宝は、そのデザインや大きさ・重さの点で東アジアやベトナムの銭貨に強い影響を与えた。
日本(倭国)産の銭貨として最初に鋳造されたのは、無文銀銭または富本銭とされるが、実際に流通したかどうかは定かではなく、厭勝銭(まじない銭)や試作品の可能性もあり、よく分かっていない。
最初に正式な貨幣として発行されたのは708年(和銅元)の和同開珎である。これは律令国家の建設と軌を一にするものであり、中国王朝にならい貨幣発行権を国家のもとにおいたのである。律令政府は、蓄銭叙位法や献銭叙位法を施行するとともに、雑徭・調の銭納を認めるなど、銭貨の普及を強く推進した。以後、10世紀頃まで国産の銭貨である万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝が鋳造された。和同開珎から乾元大宝まで12種類なので、これらを皇朝十二銭と呼ぶ。しかし、銭貨の原料となる銅が十分に確保されないために、消費需要に見合うだけの銭貨を供給することができず、銭貨は次第に布や米などの物品貨幣へ代替されるようになり、11世紀初めごろまでに流通しなくなった。
なお、万年通宝の発行と同時に、金銭開基勝宝、銀銭大平元宝も鋳造されたが、これらは銅銭と異なり流通目的とは言い難く、銅銭の通用価値を高く設定するための見せ金と考えられている。またこれらと同時期に賈行銀銭が鋳造されたともいわれるが、これらの金銀銭はいずれも皇朝十二銭に含まれない。
平安時代後期に荘園公領制が成立すると、地域間の決済が増加していき、貨幣への需要が高まった。日宋貿易によりもたらされた宋銭・唐銭が次第に流通し始め、『百練抄』には、平安最末期の1179年(治承3)に「銭の病」が流行した記事が残っている。この「銭の病」を急激な宋銭普及に伴うインフレーションとする説もある。
本格的に銭貨流通が盛んになったのは鎌倉時代からである。13世紀中葉ごろからの社会変動に伴い、銭貨流通は社会に広く普及した。室町時代に明から永楽通宝が大量に輸入された。15世紀後半になると、これら宋銭・明銭といった中国銭に信用不安が発生しており(後述書 pp.254 - 255)、理由として、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したため、国家的保障を失い、日本にも波及したものと考えられている。当時、大内氏は撰銭令を出す対策を出しているが、その後を継いだ毛利氏の時代では、石見銀山によって、大量の銀を産出することに成功しているため、撰銭令を出す必要性が減じている(同書 pp.255 - 256)。
長らく中国から輸入した渡来銭や鐚銭などが流通していたが、江戸時代に入ると、初期には慶長通宝・元和通宝が鋳造され、ようやく安定的な貨幣供給体制が整えられた後には、寛永通宝を中心として、宝永通宝、天保通宝、文久永宝などが流通し、金・銀とともに三貨制度の一角を担った。寛永通宝・文久永宝は1953年(昭和28年)12月の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」施行まで、寛永通宝真鍮4文銭を2厘、銅1文銭を1厘、文久永宝を1厘5毛として、法的に通用していた。
以下の表は江戸時代の銭貨の一覧である(地方貨幣・試鋳貨幣等は除く)。
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銭貨(せんか)は、主に東アジアでかつて流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも書く。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや亜鉛等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。
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'''銭貨'''(せんか)は、主に[[東アジア]]でかつて流通した[[硬貨]]を指す。同音で'''泉貨'''とも書く。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。[[金貨]]や[[銀貨]]といった[[貴金属]]製の硬貨の対義語として、[[卑金属]]製の[[硬貨]]を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは[[銅貨]]であるが、[[銅]]の不足などにより、[[鉄]]製のものや[[亜鉛]]等との合金とした[[真鍮]]製の物が銭貨として発行されたこともある。
銭貨の[[通貨単位]]としては、一般に[[文 (通貨単位)|文]]が用いられた。
== 呼び名 ==
四角の穴があいているために「穴あき銭(あなあきせん)」「穴銭(あなせん)」、あるいは「方孔銭」「円形方孔銭」「方孔円銭」ともいう。
単に「ぜに(銭)」ともいう。江戸時代には「ちゃん」、「ちゃんころ」などとも呼ばれた<ref>大辞林、大辞泉などの辞典</ref>。
== 歴史 ==
中国における銭貨の歴史については[[中国の貨幣制度史]]を参照。とくに唐の[[開元通宝]]は、そのデザインや大きさ・重さの点で東アジアやベトナムの銭貨に強い影響を与えた。
日本(倭国)産の銭貨として最初に鋳造されたのは、[[無文銀銭]]または[[富本銭]]とされるが、実際に流通したかどうかは定かではなく、[[厭勝銭]](まじない銭)や試作品の可能性もあり、よく分かっていない。
最初に正式な貨幣として発行されたのは[[708年]]([[和銅]]元)の[[和同開珎]]である。これは[[律令国家]]の建設と軌を一にするものであり、中国王朝にならい貨幣発行権を国家のもとにおいたのである。律令政府は、蓄銭叙位法や献銭叙位法を施行するとともに、[[雑徭]]・[[租庸調|調]]の銭納を認めるなど、銭貨の普及を強く推進した。以後、[[10世紀]]頃まで国産の銭貨である[[万年通宝]]・[[神功開宝]]・[[隆平永宝]]・[[富寿神宝]]・[[承和昌宝]]・[[長年大宝]]・[[饒益神宝]]・[[貞観永宝]]・[[寛平大宝]]・[[延喜通宝]]・[[乾元大宝]]が鋳造された。和同開珎から乾元大宝まで12種類なので、これらを[[皇朝十二銭]]と呼ぶ。しかし、銭貨の原料となる銅が十分に確保されないために、消費需要に見合うだけの銭貨を供給することができず、銭貨は次第に布や米などの[[物品貨幣]]へ代替されるようになり、11世紀初めごろまでに流通しなくなった。
なお、万年通宝の発行と同時に、金銭[[開基勝宝]]、銀銭[[大平元宝]]も鋳造されたが、これらは銅銭と異なり流通目的とは言い難く、銅銭の通用価値を高く設定するための見せ金と考えられている。またこれらと同時期に[[賈行]]銀銭が鋳造されたともいわれるが、これらの金銀銭はいずれも皇朝十二銭に含まれない。
[[平安時代]]後期に[[荘園公領制]]が成立すると、地域間の決済が増加していき、貨幣への需要が高まった。[[日宋貿易]]によりもたらされた[[宋銭]]・[[唐朝銭|唐銭]]が次第に流通し始め、『[[百練抄]]』には、平安最末期の[[1179年]]([[治承]]3)に「銭の病」が流行した記事が残っている。この「銭の病」を急激な宋銭普及に伴う[[インフレーション]]とする説もある。
本格的に銭貨流通が盛んになったのは[[鎌倉時代]]からである。[[13世紀]]中葉ごろからの社会変動に伴い、銭貨流通は社会に広く普及した。[[室町時代]]に[[明]]から[[永楽通宝]]が大量に輸入された。[[15世紀]]後半になると、これら宋銭・[[明銭]]といった中国銭に信用不安が発生しており(後述書 pp.254 - 255)、理由として、15世紀半ばに明が国家的支払い手段を銭から銀に転換したため、国家的保障を失い、日本にも波及したものと考えられている<ref>[[久留島典子]] 『日本の歴史13 一揆と戦国時代』 講談社 2001年 pp.254 - 255.</ref>。当時、[[大内氏]]は[[撰銭令]]を出す対策を出しているが、その後を継いだ[[毛利氏]]の時代では、[[石見銀山]]によって、大量の銀を産出することに成功しているため、撰銭令を出す必要性が減じている(同書 pp.255 - 256)。
長らく中国から輸入した[[渡来銭]]や[[鐚銭]]などが流通していたが、[[江戸時代]]に入ると、初期には[[慶長通宝]]・[[元和通宝]]が鋳造され、ようやく安定的な貨幣供給体制が整えられた後には、[[寛永通宝]]を中心として、[[宝永通宝]]、[[天保通宝]]、[[文久永宝]]などが流通し、金・銀とともに[[江戸時代の三貨制度|三貨制度]]の一角を担った。[[寛永通宝]]・[[文久永宝]]は[[1953年]]([[昭和]]28年)[[12月]]の「[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]」[[施行]]まで、寛永通宝真鍮4[[文 (通貨単位)|文]]銭を2[[厘]]、銅1文銭を1厘、文久永宝を1厘5毛として、法的に通用していた。
以下の表は江戸時代の銭貨の一覧である([[地方貨幣]]・[[試鋳貨幣]]等は除く)。
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|-
!種類
!発行開始
!貨幣価値<ref>額面価値。実際には幕末には額面と乖離した相場による通用がなされていた。</ref>
!明治以降の通用価値
!通用停止
|-
! [[慶長通宝]]
|[[慶長]]11年([[1606年]])
|1文
|
|
|-
! [[元和通宝]]
|[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])頃
|1文
|
|
|-
! [[寛永通宝]](銅一文銭)
|[[寛永]]13年([[1636年]])<ref>公鋳銭として発行が開始された年。それ以前の寛永3年(1626年)に二水永が鋳造されたが、この時はまだ正式な官銭ではなかった。</ref>
|1文
|1厘
|[[昭和]]28年([[1953年]])
|-
! 寛永通宝(鉄一文銭)
|[[元文]]4年([[1738年]])
|1文
|1/16厘
|[[明治]]6年([[1873年]])<ref name="名前なし-1">太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った年。</ref>/明治30年([[1897年]])<ref name="名前なし-2">貨幣法により正式に通用停止となった年。</ref>
|-
! 寛永通宝(真鍮四文銭)
|[[明和]]5年([[1768年]])
|4文
|2厘
|昭和28年(1953年)
|-
! 寛永通宝(精鉄四文銭)
|[[万延]]元年([[1860年]])
|4文
|1/8厘
|明治6年(1873年)<ref name="名前なし-1"/>/明治30年(1897年)<ref name="名前なし-2"/>
|-
! [[宝永通宝]]
|[[宝永]]5年([[1708年]])
|10文
|
|宝永6年([[1709年]])
|-
! [[天保通宝]]
|[[天保]]6年([[1835年]])
|100文<ref>実際には80文に通用。</ref>
|8厘
|明治24年([[1891年]])
|-
! [[文久永宝]]
|[[文久]]3年([[1863年]])
|4文
|1厘5毛
|昭和28年(1953年)
|-
|}
== 備考 ==
* 『[[続日本紀]]』には、度々、銭百万文を献上したことで無位・下位の者が五位を与えられた記述があり、実質上、皇朝十二銭の登場や貴族身分の形成の早い段階から銭貨で身分を買えた([[蓄銭叙位令]]も参照)。記述例として、[[天平勝宝]]5年([[753年]])9月1日条には、無位の板持連真釣(いたもちのむらじまつり)が銭百万文を献上したので、外従五位下を授けられたとある(この他、銭百万文と共に稲一万束を献上したなど、銭と併用して献上し、五位を得る例が見られる)。
* 日本の中世期当時、朝鮮([[高麗]]・[[李氏朝鮮]])では銭貨を独自に自鋳し、[[ベトナム]]や[[琉球]]でも断続的ながら銭の自鋳を行っていたが(後述書)、これに対し、[[ジャワ]]では中世日本と同様に中国銭と模倣した[[私鋳銭]]が使用されており(後述書)、これは中国の影響力の強い国ほど銭を自鋳する傾向にあることを示しており(後述書)、その対極が中世日本とジャワであった<ref>[[五味文彦]] 『日本の中世』 財団法人放送大学教育振興会 第2刷1999年(1刷98年) ISBN 4-595-55432-X pp.157 - 158.</ref>。この差異は、朝鮮やベトナムが中国と隣接し、常に圧迫を受け、対外戦争の脅威にさらされていたことにもよる<ref>五味文彦 『日本の中世』 p.160.</ref>。
* 宋側は銅銭流出を禁じていたため、宋銭流出は基本的には密貿易であり、その担い手は民間商人であった<ref>五味文彦 『日本の中世』 p.156.</ref>。日宋貿易で輸入された銭の総量は2億[[貫]]にものぼり<ref name="名前なし-20230316134129">五味文彦 『日本の中世』 p.88.</ref>、土地売買の証文も[[鎌倉時代|鎌倉]]初期は、米による売買が60[[パーセント]]に対して銭40パーセントだったものが、末期([[14世紀]])には、米15パーセントに対して銭85パーセントに変化しており、依存度が高まっている<ref name="名前なし-20230316134129"/>。
* 漢字4文字が鋳出されている銭貨の読み方は、日本の特異な形・文字配置の天保通宝や地方貨幣の[[細倉当百]]のような例外的なものを除いて主に2種類あり、上右下左の廻読と上下右左の対読がある。[[皇朝十二銭]]は全て前者、[[宋銭]]も前者が多いが、[[明銭]]・[[清朝銭]]・日本の江戸時代の銭貨などのような後の時代の銭貨には後者が多く使われるようになった。なお[[開元通宝]](開通元宝)など銭銘の読みに2通りの説があるものもある。
* 銭貨のうち、寛永通宝や地方貨幣等の鉄銭のほか、[[南宋]]銭や日本の鐚銭等の一部には[[磁性]]を持つものが見られる。
* 銭貨の部位の名称としては次のようなものがある。
** 面(めん) - 銭貨の表面。
** 背(はい) - 銭貨の裏面。
** 穿(せん) - 銭貨の中央の穴。
** 郭(かく) - 穿の周りの盛り上がった部分。
** 輪(りん) - 銭貨の外側にあるリング状の部分。
** 内径(ないけい)・至輪径(しりんけい) - 輪の内側の直径。
** 外径(がいけい)・銭径(せんけい) - 銭貨自体の直径。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[冥銭]]
* [[銭紋]]
* [[日本の貨幣史]]
* [[中国の貨幣制度史]]
* 中国の時代別の銭貨
** [[古圜法]]
** [[古文銭]]
** [[唐朝銭]]
** [[五代十国時代の銭貨]]
** [[宋銭]]
** [[元朝銭]]
** [[明銭]]
** [[清朝銭]]
* [[民国通宝]] - 中国最後の銭貨。
* [[常平通宝]] - 朝鮮最後の銭貨。
* [[バオ・ダイ#保大通宝の発行|保大通宝]] - ベトナム最後の銭貨であるとともに、世界最後の方孔銭である(円形の孔の硬貨は日本の[[5円硬貨]]、[[50円硬貨]]がまだ流通している)。[[保大帝]]の頃に作られた。
{{DEFAULTSORT:せんか}}
[[Category:硬貨|せん]]
[[Category:貨幣史]]
[[Category:貨幣学]]
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2003-06-30T15:02:20Z
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2023-09-03T08:24:35Z
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購買力平価説
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購買力平価説(こうばいりょくへいかせつ、英: purchasing power parity、PPP)とは、外国為替レートの決定要因を説明する概念の一つ。為替レートは自国通貨と外国通貨の購買力の比率によって決定されるという説である。1921年にスウェーデンの経済学者、グスタフ・カッセルが『外国為替の購買力平価説』として発表した。
基準になるのは、米国での商品価格とUSドルである。理論上は対USドルだけではなく、どの通貨に対しても購買力平価は算出可能である。物やサービスの価格は、通貨の購買力を表し、財やサービスの取引が自由に行える市場では、同じ商品の価格は1つに決まる(一物一価の法則)。
一物一価が成り立つとき、国内でも海外でも、同じ商品の価格は同じ価格で取引されるので、2国間の為替相場は2国間の同じ商品を同じ価格にするように動き、均衡する。この均衡した為替相場を指して、購買力平価ということもある。
購買力平価=(1海外通貨単位[基軸通貨であるUSドルが使われることが多い]あたりの円貨額[やその他の海外通貨]で表示した)均衡為替相場=日本での価格(円)÷日本国外(米国)での価格(現地通貨)
これが厳密に成立するにはすべての財やサービスが自由に貿易されねばならない。
実際には、為替相場が厳密に購買力平価の状態になっていて、かつ2つの貨幣による経済のインフレーション、デフレーションなどがそのまま為替相場に反映され購買力平価の状態が保たれる、ということはないと考えられている。為替相場は購買力の他にも様々な要因によって影響されるためである。但し、購買力平価から大きく乖離した状態が長期的に続くことは難しいと考えられている。
第一勧銀総合研究所は「現実の為替相場と購買力平価が常に一致しているわけではなく、むしろ乖離するほうが普通である」と指摘している。
購買力平価説に則って、ドル円について「輸出物価ベースの購買力平価では1ドル=85円程度であるため大した問題ではない」という議論があるが、これは為替レート#実質実効為替レートと同じく貿易面での有利・不利を含意しており、円高を考える際には適切ではないことに留意すべきである。
経済学者の高橋洋一は「学者などがある時点で計算した購買力平価や実効為替レートなどの数字を掲げて議論したとしても、企業・財界など、輸出が困難になり国内で企業を維持できないため海外展開をしようと考える人達の意見とは全く違うものであり、意味のない議論である」と述べている。
為替相場は2国における物価水準の変化率に連動するという考え方。またはそれによって求められる為替相場。 正常な自由貿易が行われていたときの為替相場を基準にして、その後の物価上昇率の変化から求められる。現在はこの求め方が主流となっている。
A国の相対的購買力平価=基準時点の為替相場×A国の物価指数÷A国国外の物価指数
基準時点については、(日米間の場合)日米ともに経常収支が均衡し、政治的圧力も無く自然に為替取引が行われていた1973年(特に4-6月期の平均=1ドル265円)が選ばれている。
これが厳密に成立するには全ての財・サービスが同じ割合で変動しなければならない。
購買力平価から示唆される実質為替レートと実際の為替レートの間の乖離が長期間にわたって継続することを購買力平価のパズルと呼び、これに対して様々な説明が与えられている。
多くの研究者によって推計が試みられているが、国際連合の提唱により国際比較プログラム(ICP)が実施され 、現在は主にこの結果が利用されている。
ICP事業は主にGDP比較の目的で1969年から実施されており、1993年(1990年を対象とした調査)以降はOECD/Eurostatのみで続けられたが、2005年を対象に再び世界規模の調査が実施され、2007年末に世界銀行より結果が公表された(ただし2005年のみならず、過去一度も調査に参加していない国も多数ある)。
OECDは、家計最終消費支出と為替レートを考慮した購買力平価により、加盟各国の物価水準を毎月統計している。以下の表は、2022年9月時点で日本を100として換算した相対的購買力平価である。
購買力平価の一つ。マクドナルドが販売しているビッグマックの価格で各国の購買力を比較し、算出した購買力平価のこと。イギリスの経済誌『エコノミスト(The Economist)』が発表したものが起源となっている。
ビッグマックによる購買力平価=日本でのビッグマックの価格(円)÷海外でのビッグマックの価格(現地通貨)
物価感覚の比較の簡便で実用的方法ではあるが、次のような理由で、限界もある。
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"text": "OECDは、家計最終消費支出と為替レートを考慮した購買力平価により、加盟各国の物価水準を毎月統計している。以下の表は、2022年9月時点で日本を100として換算した相対的購買力平価である。",
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購買力平価説とは、外国為替レートの決定要因を説明する概念の一つ。為替レートは自国通貨と外国通貨の購買力の比率によって決定されるという説である。1921年にスウェーデンの経済学者、グスタフ・カッセルが『外国為替の購買力平価説』として発表した。
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[[File:Share_of_World_GDP_PPP_2014,_IMF.png |thumb|right|450px|PPP評価を調整した各国のGDP (2014年)]]
'''購買力平価説'''(こうばいりょくへいかせつ、{{lang-en-short|purchasing power parity}}、'''PPP''')とは、外国[[為替レート]]の決定要因を説明する概念の一つ。為替レートは自国通貨と外国通貨の[[購買力]]の比率によって決定されるという説である<ref>高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、156頁。</ref>。[[1921年]]に[[スウェーデン]]の[[経済学者]]、[[グスタフ・カッセル]]が『外国為替の購買力平価説』として発表した。
==絶対的購買力平価==
基準になるのは、米国での商品価格とUSドルである。理論上は対USドルだけではなく、どの通貨に対しても購買力平価は算出可能である。物やサービスの価格は、通貨の購買力を表し、財やサービスの取引が自由に行える市場では、同じ商品の価格は1つに決まる([[一物一価の法則]])。
一物一価が成り立つとき、国内でも海外でも、同じ商品の価格は同じ価格で取引されるので、2国間の為替相場は2国間の同じ商品を同じ価格にするように動き、均衡する。この均衡した為替相場を指して、購買力平価ということもある。
'''購買力平価'''=(1海外通貨単位[基軸通貨であるUSドルが使われることが多い]あたりの円貨額[やその他の海外通貨]で表示した)均衡為替相場=''日本での価格(円)''÷''日本国外(米国)での価格(現地通貨)''
これが厳密に成立するにはすべての財やサービスが自由に貿易されねばならない。
実際には、為替相場が厳密に購買力平価の状態になっていて、かつ2つの貨幣による経済の[[インフレーション]]、[[デフレーション]]などがそのまま為替相場に反映され購買力平価の状態が保たれる、ということはないと考えられている。為替相場は購買力の他にも様々な要因によって影響されるためである。但し、購買力平価から大きく乖離した状態が長期的に続くことは難しいと考えられている。
[[第一勧銀総合研究所]]は「現実の為替相場と購買力平価が常に一致しているわけではなく、むしろ乖離するほうが普通である」と指摘している<ref>第一勧銀総合研究所編 『基本用語からはじめる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、77頁。</ref>。
購買力平価説に則って、ドル円について「輸出物価ベースの購買力平価では1ドル=85円程度であるため大した問題ではない」という議論があるが、これは[[為替レート#実質実効為替レート]]と同じく貿易面での有利・不利を含意しており、円高を考える際には適切ではないことに留意すべきである<ref>{{Cite news|author=片岡剛士|title=円高は経済政策の失敗が原因だ|newspaper=[[シノドス (会社)|シノドス]]|language=日本語|date=2010-10-13|url=http://synodos.jp/economy/2298}}</ref>。
[[経済学者]]の[[高橋洋一 (経済学者)|高橋洋一]]は「学者などがある時点で計算した購買力平価や実効為替レートなどの数字を掲げて議論したとしても、企業・財界など、輸出が困難になり国内で企業を維持できないため海外展開をしようと考える人達の意見とは全く違うものであり、意味のない議論である」と述べている<ref>[http://www.fng-net.co.jp/itv/2012/121126.html 2012年インタビュー]FNホールディング</ref>。
==相対的購買力平価==
為替相場は2国における[[物価]]水準の変化率に連動するという考え方。またはそれによって求められる為替相場。
正常な自由貿易が行われていたときの為替相場を基準にして、その後の物価上昇率の変化から求められる。現在はこの求め方が主流となっている。
A国の'''相対的購買力平価'''=基準時点の為替相場×''A国の物価指数''÷''A国国外の物価指数''
基準時点については、(日米間の場合)日米ともに経常収支が均衡し、政治的圧力も無く自然に為替取引が行われていた[[1973年]](特に4-6月期の平均=1ドル265円)が選ばれている。
これが厳密に成立するには全ての財・サービスが同じ割合で変動しなければならない。
==購買力平価のパズル==
{{Main|購買力平価のパズル}}
購買力平価から示唆される実質為替レートと実際の為替レートの間の乖離が長期間にわたって継続することを[[購買力平価のパズル]]と呼び、これに対して様々な説明が与えられている。
==PPPレートの推計==
多くの研究者によって推計が試みられているが、[[国際連合]]の提唱により国際比較プログラム(ICP)が実施され<ref>{{Cite web|和書|last=統計局|first=総務省|authorlink=統計局|url=https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/kokusai/icp.html|title=国際比較プログラム(ICP)への参加|date=2017-02-06|website=総務省HP|accessdate=2019-11-11}}</ref>
<ref>{{Cite web|author=世界銀行|authorlink=世界銀行|url=https://www.worldbank.org/en/programs/icp|title=International Comparison Program (ICP)|accessdate=2019-11-11}}</ref>、現在は主にこの結果が利用されている。
ICP事業は主にGDP比較の目的で1969年から実施されており、1993年(1990年を対象とした調査)以降は[[経済協力開発機構|OECD]]/[[ユーロスタット|Eurostat]]のみで続けられたが、2005年を対象に再び世界規模の調査が実施され、2007年末に世界銀行より結果が公表された(ただし2005年のみならず、過去一度も調査に参加していない国も多数ある)。
===OECD統計の相対的物価水準===
[[OECD]]は、家計最終消費支出と為替レートを考慮した購買力平価により、加盟各国の物価水準を毎月統計している。以下の表は、'''2022年9月'''時点で'''日本を100'''として換算した相対的購買力平価である<ref>{{Cite web |url=http://stats.oecd.org/Index.aspx?DataSetCode=CPL |title=Monthly comparative price levels |accessdate=2022-11-17 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year=2022 |month=9 |format= |work= |publisher=[[経済協力開発機構]] |page= |pages= |quote= |language=[[英語]] |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。
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|-
! 国 !! 相対的購買力平価
|-
| オーストラリア || 141
|-
| オーストリア || 113
|-
| ベルギー || 115
|-
| カナダ || 135
|-
| チリ || 74
|-
| コロンビア || 49
|-
| コスタリカ || 77
|-
| チェコ || 90
|-
| デンマーク || 139
|-
| エストニア || 99
|-
| フィンランド || 124
|-
| フランス || 107
|-
| ドイツ || 108
|-
| ギリシャ || 89
|-
| ハンガリー || 65
|-
| アイスランド || 160
|-
| アイルランド || 138
|-
| イスラエル || 162
|-
| イタリア || 99
|-
| 日本 || 100
|-
| 韓国 || 92
|-
| ラトビア || 89
|-
| リトアニア || 82
|-
| ルクセンブルク || 128
|-
| メキシコ || 76
|-
| オランダ || 120
|-
| ニュージーランド || 132
|-
| ノルウェー || 142
|-
| ポーランド || 61
|-
| ポルトガル || 88
|-
| スロバキア || 94
|-
| スロベニア || 87
|-
| スペイン || 97
|-
| スウェーデン || 121
|-
| スイス || 173
|-
| トルコ || 39
|-
| 英国 || 121
|-
| 米国 || 140
|}
===ビッグマック指数===
[[Image:Big Mac hamburger - Japan (3).jpg|thumb|right|ビッグマック]]
{{Main|ビッグマック指数}}
購買力平価の一つ。[[マクドナルド]]が販売している[[ビッグマック]]の価格で各国の購買力を比較し、算出した購買力平価のこと。[[イギリス]]の経済誌『[[エコノミスト]](The Economist)』が発表したものが起源となっている。
'''ビッグマックによる購買力平価'''=''日本でのビッグマックの価格(円)''÷''海外でのビッグマックの価格(現地通貨)''
物価感覚の比較の簡便で実用的方法ではあるが、次のような理由で、限界もある。
* たった1品目では厳密な比較ができない。例えばビッグマック1つ分のお金を稼ぐのに必要な労働時間が世界一短いのは、比較的物価が高いはずの[[日本]]である。これは、[[ファストフード]]店が激しい価格競争に晒されているかそうでないか、といった各国独自の特殊な事情<ref group="注釈">人口密度に起因する土地代の影響等</ref>が絡むからである。
* 牛肉などの価格は、その国の農業政策による補助金などが影響するが、その分も考慮されていない。
* 間接税(消費税)の分は考慮されていない。したがって消費税が高率である国(北欧)では、価格がその分だけ高くなるが、それについての補正はされていない。
:そして、エコノミストによる2022年7月時点の[[ビッグマック指数]]<ref>{{Cite news|title=The Big Mac index|newspaper=The Economist |language=英語|date=2022-07-21|url=https://www.economist.com/news/2019/07/10/the-big-mac-index|accessdate=2022-11-17}}</ref> を見ると、ビッグマック価格の高い上位10カ国の内3カ国が間接税が高率である北欧であった。また、価格が5[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]以上の国は、高い順に[[スイス]](6.71米ドル)・[[ノルウェー]](6.26ドル)・[[ウルグアイ]](6.08ドル)・[[スウェーデン]](5.59米ドル)・[[カナダ]](5.25米ドル)・アメリカ(5.15米ドル)・[[レバノン]](5.08米ドル)の7カ国であった。なお日本の価格は、2.83ドルであり[[円 (通貨)|日本円]]で390円であった。
* エコノミストはビッグマック指数のほか、トール・ラテ指数(スターバックス指数)などの指数も発表している。
:エコノミストとは異なるサイト「finder」が発表した2019年9月時点のトール・ラテ指数の場合、アメリカ(ニューヨーク)は4.30米ドル、日本(東京)は3.79米ドルであった<ref>{{Cite news|author=Susannah Binsted|title=Starbucks Index 2019|newspaper=finder|language=英語|publisher=finder.com|date=2019-09-30|url=https://www.finder.com/starbucks-inde|accessdate=2019-11-11}}</ref>。また、この場合の円については、2019年9月時点のスターバックスのトール・ラテは380円<ref>{{Cite web|和書|author=スターバックス|authorlink=スターバックス|url=https://www.starbucks.co.jp/beverage/espresso/4524785000223/|title=スターバックス ラテ|accessdate=2019-11-11}}</ref>である為、ニューヨークの消費税8.875%<ref>{{Cite web|和書|author=財務省|authorlink=財務省|url=https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/itn_comparison/j04.htm#a01|title=HP> 税制 > わが国の税制の概要 > 国際比較 > 消費税など(消費課税)に関する資料 >付加価値税率(標準税率及び食料品に対する適用税率)の国際比較>備考3|date=2019-10|accessdate=2019-11-11}}</ref>を考慮して計算すると380÷(4.30÷1.08875)≒96.22(円)となり、ビッグマック指数と同様に円高となる。但し消費税の有無がある為、単純比較できないが、ビッグマック指数と比べて約28円の円安であり、ビッグマック指数とは結果が大きく異なっている。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==関連項目==
*[[国際経済学]]
*[[金利平価説]]
*[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|国の国内総生産順リスト]]
<!--本文で全く言及されていなかった文献がダラダラと増え続けそうなので思い切って全部削除しました-->
{{経済学}}
{{経済成長論}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうはいりよくへいかせつ}}
[[Category:経済指標]]
[[Category:外国為替]]
|
2003-06-30T15:32:56Z
|
2023-12-02T19:35:13Z
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[
"Template:Main",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:Cite web",
"Template:経済学",
"Template:Normdaten",
"Template:Lang-en-short",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:経済成長論"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%BC%E8%B2%B7%E5%8A%9B%E5%B9%B3%E4%BE%A1%E8%AA%AC
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10,658 |
特装車
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特装車(とくそうしゃ)とは、自動車メーカーが生産し、有効な「完成検査修了証」が添付された自動車(完成車)に対し、特定の用途や目的の為に部品や装置を取付けたり、ボディやシャシに対して改造を加えられたものを指す。
商用車においては、貨物自動車やトラックのシャーシの上に、一般的な屋根のない荷台(平ボデー)ではなく、多種多用途な装備を架装したりマイクロバスを改造した自動車のこと等を指す。 具体的にはアルミバン・冷凍冷蔵車・キャリアカー・タンクローリー・コンクリートミキサー・クレーン車などが挙げられるが、 これらの車両は、自動車メーカーにおいて製造された「運転台(キャビン)と車枠(シャシー)のみ、いわゆるキャブシャシー」の状態で架装メーカーに納入され、ユーザーが希望する用途に応じた装備の設計・製作・取付加工を施し、改造車検を通した上でユーザーに引き渡されるのが通常である。
特装車は新車のキャブシャシーに架装されるのが一般的であるが、事故等で廃車となった車両から取り外された荷台を別の中古車の荷台を取り外した上に架装する・使用過程車の特殊な荷箱を降ろして新車に架装する「再架装」、使用中の平ボディトラックにキャブバッククレーンを新規架装するといった「追架装・二次架装」も少なからず存在する(この場合も改造車検となる)。
完成車に対し自動車メーカー、あるいは自動車メーカー系の架装メーカーによって、専用エアロパーツやエンジン、サスペンション等への換装、ボディの改造が施されて販売される車両についても、自動車メーカーでは特装車として扱う事がある。また、高齢者や体の不自由な人向けの福祉車両に改造される車両も特装車の範疇に入る。
商用車の特装車は、需要の殆どが特定の仕様に集中する冷凍・冷蔵車やキャリアカー、クレーン車など、自動車メーカーによってある程度仕様を設定しカタログモデル化されているものもある。 カタログモデル化することで、メーカーからは半完成車として出荷でき納期短縮が可能となる、架装メーカーも量産効果が見込めることから価格の低廉化が可能となるなど、購入するユーザーのメリットも多い。
しかし、顧客から設定外の仕様を求められる場合もあり、あらゆる仕様を自動車メーカーがカタログモデル化することは非現実的である。 近年ではこれまで架装メーカーで改造を行っていた部分を含め、自動車メーカーの生産工場で標準車と同じライン上で生産する(つまり、生産工場を出荷後に架装メーカーによる改造を必要としない)ケースもある。
また予め自動車メーカー側で下記の様な架装に適したシャシを生産している。
これらの特装ベースシャシーを流用し、メーカーの想定とは異なる架装が行われることもある。
|
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"text": "特装車(とくそうしゃ)とは、自動車メーカーが生産し、有効な「完成検査修了証」が添付された自動車(完成車)に対し、特定の用途や目的の為に部品や装置を取付けたり、ボディやシャシに対して改造を加えられたものを指す。",
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"text": "商用車においては、貨物自動車やトラックのシャーシの上に、一般的な屋根のない荷台(平ボデー)ではなく、多種多用途な装備を架装したりマイクロバスを改造した自動車のこと等を指す。 具体的にはアルミバン・冷凍冷蔵車・キャリアカー・タンクローリー・コンクリートミキサー・クレーン車などが挙げられるが、 これらの車両は、自動車メーカーにおいて製造された「運転台(キャビン)と車枠(シャシー)のみ、いわゆるキャブシャシー」の状態で架装メーカーに納入され、ユーザーが希望する用途に応じた装備の設計・製作・取付加工を施し、改造車検を通した上でユーザーに引き渡されるのが通常である。",
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"text": "完成車に対し自動車メーカー、あるいは自動車メーカー系の架装メーカーによって、専用エアロパーツやエンジン、サスペンション等への換装、ボディの改造が施されて販売される車両についても、自動車メーカーでは特装車として扱う事がある。また、高齢者や体の不自由な人向けの福祉車両に改造される車両も特装車の範疇に入る。",
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特装車(とくそうしゃ)とは、自動車メーカーが生産し、有効な「完成検査修了証」が添付された自動車(完成車)に対し、特定の用途や目的の為に部品や装置を取付けたり、ボディやシャシに対して改造を加えられたものを指す。
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'''特装車'''(とくそうしゃ)とは、[[自動車メーカー]]が生産し、有効な「完成検査修了証」が添付された[[自動車]](完成車)に対し、特定の用途や目的の為に部品や装置を取付けたり、[[ボディ]]や[[シャシ (自動車)|シャシ]]に対して改造を加えられたものを指す。
== 商用車 ==
[[商用車]]においては、[[貨物自動車]]やトラックのシャーシの上に、一般的な屋根のない荷台(平ボデー)ではなく、多種多用途な装備を架装したり[[マイクロバス]]を改造した自動車のこと等を指す。
具体的にはアルミバン・[[冷凍冷蔵車]]・[[キャリアカー]]・[[タンクローリー]]・[[トラックミキサ|コンクリートミキサー]]・[[積載形トラッククレーン|クレーン車]]などが挙げられるが、
これらの車両は、自動車メーカーにおいて製造された「運転台(キャビン)と車枠([[シャシ (自動車)|シャシー]])のみ、いわゆるキャブシャシー」の状態で架装メーカーに納入され、ユーザーが希望する用途に応じた装備の設計・製作・取付加工を施し、[[自動車検査登録制度|改造車検]]を通した上でユーザーに引き渡されるのが通常である。
特装車は新車のキャブシャシーに架装されるのが一般的であるが、事故等で廃車となった車両から取り外された荷台を別の中古車の荷台を取り外した上に架装する・使用過程車の特殊な荷箱を降ろして新車に架装する「再架装」、使用中の平ボディトラックにキャブバッククレーンを新規架装するといった「追架装・二次架装」も少なからず存在する(この場合も改造車検となる)。
== 乗用車 ==
完成車に対し自動車メーカー、あるいは自動車メーカー系の架装メーカーによって、専用[[エアロパーツ]]や[[機関 (機械)|エンジン]]、[[サスペンション#自動車のサスペンション|サスペンション]]等への換装、ボディの改造が施されて販売される車両についても、自動車メーカーでは特装車として扱う事がある<ref group="注">[http://www.toyota-ttc.co.jp/business/special.html トヨタ テクノクラフト株式会社 特装車両紹介ページ (2015年8月13日閲覧)]に記載の「オープンカー」や[[日産・ライダー]]など。</ref>。また、[[高齢者]]や体の不自由な人向けの[[福祉]]車両に改造される車両も特装車の範疇に入る。
== その他 ==
商用車の特装車は、需要の殆どが特定の仕様に集中する[[冷凍冷蔵車|冷凍・冷蔵車]]や[[キャリアカー]]、[[積載形トラッククレーン|クレーン車]]など、自動車メーカーによってある程度仕様を設定しカタログモデル化されているものもある。<br>
カタログモデル化することで、メーカーからは半完成車として出荷でき納期短縮が可能となる、架装メーカーも量産効果が見込めることから価格の低廉化が可能となるなど、購入するユーザーのメリットも多い。
しかし、顧客から設定外の仕様を求められる場合もあり、あらゆる仕様を自動車メーカーがカタログモデル化することは非現実的である。<br>
近年ではこれまで架装メーカーで改造を行っていた部分を含め、自動車メーカーの生産工場で標準車と同じライン上で生産する(つまり、生産工場を出荷後に架装メーカーによる改造を必要としない)ケースもある<ref group="注">「インライン生産」とも言われる。[[ウェルキャブ|トヨタ・ウェルキャブシリーズの一部]]や[[日産・ハイウェイスター]]が該当。</ref>。
また予め自動車メーカー側で下記の様な架装に適した[[シャシ (自動車)|シャシ]]を生産している。<br>
* ダンプカー用(ホイールベースが短く最低地上高が高い2デフシャシ)
* コンクリートミキサー車用(ダンプシャシーにフライホイール[[パワーテイクオフ|PTO]]付き)
* タンクローリー用(運転台が低く車両前方に飛び出している前2軸・後1軸の高床シャシーでリアオーバーハングが短い)
* 冷凍冷蔵車用(冷凍機架装の為にシャシー側面の片一方が空けられており大容量の燃料タンクを複数装備)
* 高所作業車用(走行安定性向上のためワイドトレッド化するため、標準キャビン車にワイドキャビン車用の車軸が取り付けられている)
* 消防車用(総輪駆動・オートマチック・ダブルキャブ・フルパワーPTO付きシャシ)
* 救急車用(スーパーロングワイドボディ・専用ハイルーフ・専用サスペンション等)
* [[キャンピングカー]]用<ref group="注">トヨタ・カムロード(ダイナ / トヨエースベース)、いすゞ・びーかむ(エルフベース)など。</ref>(専用シャシ・専用サスペンション等)
これらの特装ベースシャシーを流用し、メーカーの想定とは異なる架装が行われることもある<ref group="注">車内が広い救急車専用ボディを使って消防指揮車やキャンピングカーに架装する場合など。</ref>。
== 主なメーカー ==
=== 自動車メーカー系 ===
==== トヨタ自動車・ダイハツ工業 ====
* [[トヨタカスタマイジング&ディベロップメント]](旧:[[トヨタテクノクラフト]])
* [[トヨタ車体]]
==== 日産自動車 ====
* [[日産モータースポーツ&カスタマイズ]](旧:オーテックジャパン)
* [[日産車体]]
** [[オートワークス京都]]
==== マツダ ====
* [[マツダE&T]]
==== 三菱自動車工業 ====
* [[三菱自動車ロジテクノ]]
* [[丸文]] - [[岡山県]][[倉敷市]]の企業。
==== ホンダ ====
* [[ホンダオートボディー]]
==== スバル(旧・富士重工業) ====
* [[桐生工業]] - 主に[[SUBARU_(自動車)|スバル]]ブランド車の架装や富士重工業で行ってきたバス車体架装車のアフターサービスを行う。
==== いすゞ ====
* [[いすゞ車体]]
==== 日野自動車 ====
* [[トランテックス]]
==== 三菱ふそう ====
* [[パブコ]]
* [[三菱ふそうバス製造]]
==== その他 ====
* [[ジェイ・バス]] - 旧・[[日野車体工業]]のバス製造部門と[[いすゞバス製造]]との合併。
* 富士重工業(現・[[SUBARU]]) - [[日本のバス車両|バス車体架装]]及び[[フジマイティー|塵芥車]]の生産を行っていたが現在はいずれも終了。塵芥車事業については新明和工業へ譲渡。
=== 架装車体製造メーカー ===
* [[飛鳥特装]]
* [[新明和工業]]
** 東邦車輛 - 前身は[[東急車輛製造]]から分社化された東急車輛特装で、東急車輛製造の廃業に伴い新明和工業に譲渡。
* [[極東開発工業]]
* [[モリタホールディングス|モリタ]]
** [[モリタエコノス]]
* [[タダノ]]
* [[加藤製作所]]
* [[古河ユニック]]
* [[アイチコーポレーション]]
* [[花見台自動車]]
* [[日本車輌製造]]
* [[矢野特殊自動車]]
** [[アルナ矢野特車]] - [[アルナ工機]]の特装車事業を継承。
* [[日本トレクス]]
* [[東プレ]]
* [[小平産業]]
* [[山田車体工業]] - ヤマダボデー
* [[日本フルハーフ]]
* [[北村製作所]]
* 須河車体
* 浜名車両コーポレーション
* 相互車輌
* [[昭和飛行機工業]]
* [[浜名ワークス]]
* 名自車体
* [[京成自動車工業]]
* [[東京特殊車体]]
* [[城東特種自工]]
* [[イズミ車体製作所]]
* [[坪井特殊車体]]
* [[富士車輌]]
* [[カヤバ]]
* 宇部特装車
* [[日本機械工業]]
* [[帝国繊維]]
* [[ジーエムいちはら工業]]
* [[日本ドライケミカル]]
* [[吉谷機械製作所]]
* 札幌ボデー工業
* 自動車精工
* [[タケクラフトコーポレーション]]
* [[トノックス]]
** [[ワイ・エンジニアリング]]
** [[ヤナセテック]]
* [[中京車体工業]]
* [[小川ポンプ工業]]
* いそのボデー
* ヤシカ車体
* 東洋車輌
* 細谷車体工業
* 赤城車体工業
* [[犬塚製作所]]
* [[協和機械製作所]]
* [[野口自動車]]
* 新和技研
* [[東洋ボデー]]
==== その他 ====
* [[エスマック]] - 建設現場向け高所作業車の架装を行っていた。[[2009年]]11月27日、破産手続開始申立。
* [[西日本車体工業]] - [[2010年]]10月、会社解散。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
== 関連項目 ==
* [[特種用途自動車]]
* [[商用車]]
* [[貨物自動車]]
* [[コーチビルダー]]
* [[特別仕様車]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jabia.or.jp/ 日本自動車車体工業会(JABIA)] - 業界団体。
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[[Category:自動車の形態]]
[[Category:特装車|*]]
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世界の歴史
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世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。
人類(※)は、数百万年前にアフリカ大陸で誕生した、とされている。
約540万年前アフリカ大陸で、現在のところ最古の猿人とよばれるアウストラロピテクス属が登場した。これが最初の人類とされている。東アフリカのタンザニアで、猿人の一種である、ジンジャントロプス(Zinjanthropus、en:Paranthropus boisei)の化石が発見された。
エチオピア北東部ハダール村付近では、318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人、en:Australopithecus afarensis)の化石骨が、1974年11月24日に発見された、「ルーシー(Lucy)」と名付けられた。
200万年前から100万年前、アフリカ大陸の北側から、陸地づたいに、地中海東岸(英語版)あたりに生活の場を広げ、ユーラシア大陸を西方(地中海北側を、ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方(中央アジア、東アジア方面)へ進む者に分かれて広がっていった、と考えられている。
約50万年前、アジアには北京原人、ジャワ原人などの原人がいたことが知られている。かれらの脳容量は猿人の約2倍(約1,000ミリリットル)あったと推定される。洞穴や河岸に住み、堅果の採集や狩猟を生業としていたことが知られ、礫石器や火の使用の痕跡も確認されている。
同じく約50万年には現在のヨーロッパあたりで、旧人の一種のネアンデルタール人(※)が暮らしており、その骨の化石が多数発見されている。(年代は、31万5000年前から80万年以上前までの様々な時期が示されている)ネアンデルタール人の脳の容量は現世人類とほぼ同じかそれよりも大きく(1,300-1,600ミリリットル)、剥片石器の使用が認められる。地質学上、氷河時代にあたっていたため、炉をともなう住居に住んだり、毛皮の衣服を着るなどの生活上の工夫がみられる。死者の埋葬もおこなわれており、たがいに協力しあって生活を営んでいたことが知られている。
現生人類が登場するのは約30万年前のこととされる。ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、ヨーロッパ人とアジア人の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された。Y染色体ハプログループの分析結果からも古くに分岐したハプログループA (Y染色体)、ハプログループB (Y染色体)がアフリカのみに見られることから、アフリカ単一起源説は疑いようのないものとなっている。
現生人類は長らくアフリカにとどまったが、7万年間に出アフリカを果たした。出アフリカ後、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・カフカス山脈付近へ)の3ルートで拡散した。すなわち南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイド、非出アフリカがネグロイドということになる。
化石人骨ではクロマニョン人が確認されている。クロマニョン人が描いたとされている壁画が、フランスのラスコーやスペインのアルタミラで発見された。なお、クロマニョン人は、現在のヨーロッパ人の祖先である。
現生人類は、次第に、狩猟や採集などの獲得経済から、農耕、牧畜などの生産経済へと移行していった。その中でも、狩猟や採集が比較的困難な、砂漠及び乾燥地帯などの地域かつ、農耕に必要な条件である、川が近くにある地域の人類が、いち早く集住をはじめ、そこで農耕や牧畜を行い、一定の食料を安定して生産できるように努めた。そしてそれが次第に文明へと進化して行った。日本の文明の発展が比較的遅れたのは、日本が森林や海など、食料を採集や狩猟で供給できる十分な環境があったため、集住や農耕をする必要性が比較的低かったためという説もある。
そして、いち早く文明を築き、発展していったものが主に4つあると言われている。今のイランなどの場所に位置するメソポタミア文明、ナイル川近辺を中心に発展したエジプト文明、中国本土の中国文明、そしてインド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川周辺に位置するインダス文明。これらを総称して世界四大文明という。また、これにアメリカ大陸のメソアメリカ文明とアンデス文明をくわえて、六大文明とすることもある。エジプト文明とメソポタミア文明をあわせて、オリエント文明と呼ぶこともある。オリエントとは「日ののぼるところ」及び「東方」を意味する。
メソポタミア文明は、ティグリス川流域やユーフラテス川流域、またはその間で発達した文明である。灌漑農業が発達したメソポタミア南部では、急激に人口が増え、数多くの大村落が成立し、それはやがて都市へと発展していった。
紀元前2700年頃までに、シュメール人という民族がウル、ウルクなどの都市国家を形成し、神権政治を行った。また、楔形文字とよばれる文字も発明された。
しかし、セム語系のアッカド人が彼らを征服しメソポタミアを統一した。アッカドの王ナラム・シンは「四方世界の王」と称し、この言葉は「四天王」の語源となった。そして、時は進み今度はセム語系のアムル人が古バビロニア(バビロン第一王朝)を建て、バビロン第一王朝のハンムラビ王は「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典をつくった。
その後、その頃には珍しい鉄製の武器をはやくから使用していたインド=ヨーロッパ語族のヒッタイトが彼らを滅ぼし、アナトリア高原(現在のトルコ付近)に国家を建国した。また、バビロン第一王朝滅亡後のバビロニアにはカッシート人、その北にはミタンニ王国、そして後述のエジプト新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生じ、しばらく続いた。
この時代の過程で、太陰暦が誕生し、これに修正を加えた太陰太陽暦も誕生し、天文、数学など様々な学問が発達した。
エジプト文明はナイル川を中心として発展した文明である。エジプト文明は、エジプト古王国、エジプト中王国、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。
エジプトでは、国家統一以前にノモスと呼ばれる地域の政治的まとまり(領土国家、領域国家)が複数存在した。
エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。紀元前3000年にメネスがエジプトを統一し、古王国では、王はファラオと呼ばれた。また、ギザにはピラミッドも誕生した。
中王国時代にはセム語系の戦士集団、ヒクソスがシリアから侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれるトトメス3世は、シリアとヌビアを征服したが、次第に衰退しアッシリアやアケメネス朝の侵入を受けて滅亡した。
新王国時代には、ツタンカーメンが存在した。また、神聖文字(ヒエログリフ)を使用し、太陽暦が誕生した。
インダス文明とは、インダス川流域で発展した文明のことであり、位置はインドよりも、どちらかと言えばパキスタン寄りである。
インダス文明はドラヴィダ人によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、モヘンジョダロ、ハラッパーなどがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。
また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。
やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人が侵入し、パンジャーブ地方に住み着いた。その後、ガンジス川に進出し、その後、今のカースト制と呼ばれる身分制につながるヴァルナ制やジャーティも誕生した。また、これらの制度を否定して、ブッダ(ガウタマ=シッダールタ)が仏教を、ヴァルダマーナがジャイナ教を開いた。
中国大陸には遼河文明、黄河文明、長江文明が起こった。
遼河文明からは大規模な竪穴建物や墳墓、祭壇などの神殿が発見されている。興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である。
長江文明は稲作の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
ヨーロッパでは、ルネサンス、宗教改革、大航海時代が幕を開け、絶対王政が確立した。
アメリカ合衆国の独立、フランス革命とナポレオンによるフランスの第一共和政、第一帝政の後、ウィーン会議、フランスの復古王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政、ドイツやイタリアの統一、アメリカの南北戦争、産業革命など
帝国主義で列強は世界各地に植民地を形成した。平等の思想である社会主義が台頭した。
二度の世界大戦は総力戦となった。ロシア革命でソビエト連邦が誕生した。アメリカ合衆国とソ連との間で冷戦が勃発した。
ソビエト連邦の解体とドイツ再統一によって、アメリカが勝利する形で冷戦は終結した。
注:細かい項目をたくさん並べることが目的ではないことを理解しておくこと。
以下はカテゴリ「世界史」に含まれるサブカテゴリまたは分類された個別記事の一覧である。
現生人類は「出アフリカ」をした後に、大まかに三方向に分かれ、地中海東岸あたりで西方面(ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方の中央アジア・南アジア方面へ進む者と、東欧やロシア方面へ進んだ者たちがいて、アジア方面へ進んだ者は東アジアへ進んだ者とオセアニア方面に進んだ者に分かれ、一方で、ロシア・シベリア経由であれ、中央アジア経由であれ東アジアにたどりついた者の一部は北へ進みベーリング海峡あたりをアラスカ方面へ渡り、北米大陸を南下して、ついには南米大陸へ渡り、その南端に至った者がいた、という壮大な人類史があったことを踏まえて配列する。
欧米で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスが紀元前5世紀頃に著したとされる『歴史』は、ヘロドトスが知りえた時代と地域の歴史に関するもので、自らが属するギリシア文明圏を超えた世界を展望した最初の歴史書といえるものであった。また、日本においては「日本史」と「世界史」が別ものとして、義務教育や高等学校、また大学の一般教養でも講じられ、大学の専攻も異なるが、それに対して欧米では「エジプトから始まって自国の近代、現代で終わる」一貫史が認識されていることも重要である。
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"text": "エジプト文明はナイル川を中心として発展した文明である。エジプト文明は、エジプト古王国、エジプト中王国、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。",
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"text": "エジプトでは、国家統一以前にノモスと呼ばれる地域の政治的まとまり(領土国家、領域国家)が複数存在した。",
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"text": "エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。紀元前3000年にメネスがエジプトを統一し、古王国では、王はファラオと呼ばれた。また、ギザにはピラミッドも誕生した。",
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"text": "中王国時代にはセム語系の戦士集団、ヒクソスがシリアから侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれるトトメス3世は、シリアとヌビアを征服したが、次第に衰退しアッシリアやアケメネス朝の侵入を受けて滅亡した。",
"title": "概要"
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"text": "新王国時代には、ツタンカーメンが存在した。また、神聖文字(ヒエログリフ)を使用し、太陽暦が誕生した。",
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"text": "インダス文明とは、インダス川流域で発展した文明のことであり、位置はインドよりも、どちらかと言えばパキスタン寄りである。",
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"text": "インダス文明はドラヴィダ人によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、モヘンジョダロ、ハラッパーなどがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。",
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"text": "また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。",
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"text": "やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ人が侵入し、パンジャーブ地方に住み着いた。その後、ガンジス川に進出し、その後、今のカースト制と呼ばれる身分制につながるヴァルナ制やジャーティも誕生した。また、これらの制度を否定して、ブッダ(ガウタマ=シッダールタ)が仏教を、ヴァルダマーナがジャイナ教を開いた。",
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"text": "中国大陸には遼河文明、黄河文明、長江文明が起こった。",
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"text": "遼河文明からは大規模な竪穴建物や墳墓、祭壇などの神殿が発見されている。興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。",
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"text": "黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である。",
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"text": "長江文明は稲作の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。",
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"text": "ヨーロッパでは、ルネサンス、宗教改革、大航海時代が幕を開け、絶対王政が確立した。",
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"text": "アメリカ合衆国の独立、フランス革命とナポレオンによるフランスの第一共和政、第一帝政の後、ウィーン会議、フランスの復古王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政、ドイツやイタリアの統一、アメリカの南北戦争、産業革命など",
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"text": "帝国主義で列強は世界各地に植民地を形成した。平等の思想である社会主義が台頭した。",
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"text": "二度の世界大戦は総力戦となった。ロシア革命でソビエト連邦が誕生した。アメリカ合衆国とソ連との間で冷戦が勃発した。",
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"text": "ソビエト連邦の解体とドイツ再統一によって、アメリカが勝利する形で冷戦は終結した。",
"title": "概要"
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"text": "",
"title": "概要"
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"text": "注:細かい項目をたくさん並べることが目的ではないことを理解しておくこと。",
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"text": "以下はカテゴリ「世界史」に含まれるサブカテゴリまたは分類された個別記事の一覧である。",
"title": "世界の歴史の一覧"
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"text": "現生人類は「出アフリカ」をした後に、大まかに三方向に分かれ、地中海東岸あたりで西方面(ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方の中央アジア・南アジア方面へ進む者と、東欧やロシア方面へ進んだ者たちがいて、アジア方面へ進んだ者は東アジアへ進んだ者とオセアニア方面に進んだ者に分かれ、一方で、ロシア・シベリア経由であれ、中央アジア経由であれ東アジアにたどりついた者の一部は北へ進みベーリング海峡あたりをアラスカ方面へ渡り、北米大陸を南下して、ついには南米大陸へ渡り、その南端に至った者がいた、という壮大な人類史があったことを踏まえて配列する。",
"title": "世界の歴史の一覧"
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{
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"text": "欧米で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスが紀元前5世紀頃に著したとされる『歴史』は、ヘロドトスが知りえた時代と地域の歴史に関するもので、自らが属するギリシア文明圏を超えた世界を展望した最初の歴史書といえるものであった。また、日本においては「日本史」と「世界史」が別ものとして、義務教育や高等学校、また大学の一般教養でも講じられ、大学の専攻も異なるが、それに対して欧米では「エジプトから始まって自国の近代、現代で終わる」一貫史が認識されていることも重要である。",
"title": "一体的な世界史を試みた歴史書"
}
] |
世界の歴史(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた人類が長い歴史を経て現代に至った経緯を、世界視点で、略述する。
|
{{Redirect|世界史|高等学校の教科|世界史 (科目)}}
'''世界の歴史'''(せかいのれきし)では、太古に地球上に現れた[[人類]]が長い[[歴史]]を経て現代に至った経緯を、<u>世界視点</u>で、略述する。
<!--地域・各国史や関係史、時代別歴史の集成とその要約(ダイジェスト){{要出典}}。さらには一国や一地域にとらわれず世界的規模で一体的な叙述を試みた歴史書のことを「世界の歴史」という{{要出典}}。世界の範囲はその記述された時点での時代と人物の属した地域的制約下で認識された地域に限定されていたが、現時点では全地球的規模である。-->
== 概要 ==
{{see|en:History of the world}}
{{see also|人の移動の歴史}}
=== 人類史のはじまり===
[[ファイル:Lucy_Mexico.jpg|thumb|最古の人類、[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]の骨(複製)]]
'''[[人類]]'''(※)'''は'''、'''数百万年前にアフリカ大陸で誕生した'''、とされている。
約540万年前[[アフリカ大陸]]で、現在のところ最古の[[猿人]]とよばれる[[アウストラロピテクス属]]が登場した。これが最初の人類とされている。東アフリカの[[タンザニア]]で、猿人の一種である、[[ジンジャントロプス]](Zinjanthropus、[[:en:Paranthropus boisei]])の化石が発見された。
[[エチオピア]]北東部ハダール村付近では、318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人、[[:en:Australopithecus afarensis]])の化石骨が、1974年11月24日に発見された、「[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー(Lucy)]]」と名付けられた。
:(※)人類と他の動物、他の霊長類の区別は、今日さまざまな見解があるが、[[直立二足歩行]]が基準であるとの考えが有力である。それは、記録のない時代のことを文書で判断することはできないが、化石骨とその出土層位さえ与えられれば直立二足歩行の可能性は[[解剖学]]、[[人類学]]の見地からの検討が可能となるのである。その年代は従来約400万年前といわれていたが、今日では約500万年前、学者によっては550万年前ないし600万年前の年代があたえられている。
:(※)現代の[[生物学]]では、地球上のすべての生物は[[原始生命体|原始生物]]から[[進化]]したものと理解されており([[進化論]])、ヒトを含む[[霊長類]]も同様である。最初は海中にいた動物の一部が、やがて陸上で暮らすようになった、と考えられており、人類もその子孫だということになる。
200万年前から100万年前、アフリカ大陸の北側から、陸地づたいに、{{仮リンク|地中海東岸|en|Eastern Mediterranean}}あたりに生活の場を広げ、[[ユーラシア大陸]]を西方(地中海北側を、ヨーロッパ方面)へ進む者と、東方(中央アジア、東アジア方面)へ進む者に分かれて広がっていった、と考えられている。
約50万年前、アジアには[[北京原人]]、[[ジャワ原人]]などの[[原人]]がいたことが知られている。かれらの脳容量は猿人の約2倍(約1,000ミリリットル)あったと推定される。[[洞穴]]や河岸に住み、[[堅果]]の[[採集]]や[[狩猟]]を[[生業]]としていたことが知られ、[[礫石器]]や火の使用の痕跡も確認されている。
同じく約50万年には現在のヨーロッパあたりで、[[旧人]]の一種の[[ネアンデルタール人]](※)が暮らしており、その骨の化石が多数発見されている。(年代は、31万5000年前から80万年以上前までの様々な時期が示されている)ネアンデルタール人の脳の容量は現世人類とほぼ同じかそれよりも大きく(1,300-1,600ミリリットル)、[[剥片石器]]の使用が認められる。[[地質学]]上、[[氷河時代]]にあたっていたため、[[炉]]をともなう住居に住んだり、[[毛皮]]の[[衣服]]を着るなどの生活上の工夫がみられる。死者の埋葬もおこなわれており、たがいに協力しあって生活を営んでいたことが知られている。
:(※)長らく「ネアンデルタール人は現生人類にはつながっていない」などと考えられていたが、最近のDNA研究で、数十万年前から数万年前まで「現生人類」はネアンデルタール人たちとたびたび「[[交雑]]」していたことが判明している。つまりネアンデルタール人と現生人類は数十万年前から数万年前までたびたび子をつくり、そのDNAが、何度も何度も重層的に現生人類内で広がり、現在に至るまで脈々と残っている、ということであり、ネアンデルタール人も現代の人類の、まぎれもない「先祖」(の一部)なのである。現代のヨーロッパ人、アジア人、いずれのDNAにもネアンデルタール人のDNAが4~2%ほど含まれている、という<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2020/12/03/not-so-hostile-takeover-human-y-chromosome-displaced-the-neanderthals-version/ |title=ネアンデルタール人と現生人類との交雑は、数十万年前から起きていた:研究結果 |access-date=2022-01-19 |publisher=WIRED |date=2020-12-03}}</ref>(ヨーロッパ人のほうが多めに含んでいる、というデータを示している研究もある)。(一方、アフリカの地から出ずアフリカに留まった いわゆる「アフリカ人」のDNAにはネアンデルタール人のDNAはわずか0.3%ほどしか含まれていないという)
===現生人類の誕生と拡散===
[[ファイル:Human migration routes following Out-of-Africa.png|サムネイル|450x450ピクセル|現生人類が「出アフリカ」をした後に移動した経路。(DNA研究などによる推定)]]
現生人類が登場するのは約30万年前のこととされる。ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年であり、[[ヨーロッパ人]]と[[アジア人]]の共通祖先の分岐年代は、7万年前±1万3000年であると推定された<ref>[https://www.nig.ac.jp/museum/evolution-x/02_d3.html DNA人類進化学〜4.現代人の起源/遺伝学電子博物館]</ref>。[[Y染色体ハプログループ]]の分析結果からも古くに分岐した[[ハプログループA (Y染色体)]]、[[ハプログループB (Y染色体)]]がアフリカのみに見られることから、[[アフリカ単一起源説]]は疑いようのないものとなっている。
現生人類は長らくアフリカにとどまったが、7万年間に[[出アフリカ]]を果たした。出アフリカ後、[[イラン]]付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランから[[アルタイ山脈]]付近へ)、西ルート(イランから中東・[[カフカス山脈]]付近へ)の3ルートで拡散した<ref name="名前なし-1">崎谷満(2009)『新日本人の起源』勉誠出版</ref><ref name="名前なし-2">崎谷満(2009)『DNA・考古・言語の学際研究が示す 新・日本列島史』勉誠出版</ref>。すなわち南ルートをとった集団が[[オーストラロイド]]、北ルートが[[モンゴロイド]]、西ルートが[[コーカソイド]]、非出アフリカが[[ネグロイド]]ということになる。
{{see|人種#Y染色体・mtDNAハプログループと人種}}
化石人骨では[[クロマニョン人]]が確認されている。クロマニョン人が描いたとされている壁画が、フランスの[[ラスコー]]やスペインの[[アルタミラ]]で発見された。なお、クロマニョン人は、現在のヨーロッパ人の祖先である。
=== 古代文明と諸地域世界の成立 ===
{{節スタブ}}
現生人類は、次第に、狩猟や採集などの[[獲得経済]]から、農耕、牧畜などの[[生産経済]]へと移行していった。その中でも、狩猟や採集が比較的困難な、[[砂漠]]及び[[乾燥地帯]]などの地域かつ、農耕に必要な条件である、川が近くにある地域の人類が、いち早く集住をはじめ、そこで農耕や牧畜を行い、一定の食料を安定して生産できるように努めた。そしてそれが次第に文明へと進化して行った。日本の文明の発展が比較的遅れたのは、日本が森林や海など、食料を採集や狩猟で供給できる十分な環境があったため、集住や農耕をする必要性が比較的低かったためという説もある。
==== 4大文明の誕生と盛衰 ====
{{節スタブ}}
そして、いち早く文明を築き、発展していったものが主に4つあると言われている。今の[[イラン]]などの場所に位置する[[メソポタミア文明]]、[[ナイル川]]近辺を中心に発展した[[エジプト文明]]、中国本土の[[中国文明]]、そして[[インド]]・[[パキスタン]]・[[アフガニスタン]]の[[インダス川]]周辺に位置する[[インダス文明]]。これらを総称して[[世界四大文明]]という。また、これに[[アメリカ大陸]]の[[メソアメリカ文明]]と[[アンデス文明]]をくわえて、[[六大文明]]とすることもある。エジプト文明とメソポタミア文明をあわせて、[[オリエント文明]]と呼ぶこともある。[[オリエント]]とは「日ののぼるところ」及び「東方」を意味する。
==== メソポタミア文明 ====
{{節スタブ}}
メソポタミア文明は、[[ティグリス川]]流域や[[ユーフラテス川]]流域、またはその間で発達した文明である。[[灌漑農業]]が発達した[[メソポタミア]]南部では、急激に人口が増え、数多くの大村落が成立し、それはやがて都市へと発展していった。
[[紀元前2700年]]頃までに、[[シュメール人]]という民族が[[ウル]]、[[ウルク]]などの都市国家を形成し、[[神権政治]]を行った。また、[[楔形文字]]とよばれる文字も発明された。
しかし、[[セム語]]系の[[アッカド人]]が彼らを征服しメソポタミアを統一した。アッカドの王ナラム・シンは「四方世界の王」と称し、この言葉は「四天王」の語源となった。そして、時は進み今度はセム語系の[[アムル人]]が[[古バビロニア]]([[バビロン第一王朝]])を建て、バビロン第一王朝の[[ハンムラビ王]]は「目には目を、歯には歯を」で有名な[[ハンムラビ法典]]をつくった。
その後、その頃には珍しい鉄製の武器をはやくから使用していた[[インド=ヨーロッパ語族]]の[[ヒッタイト]]が彼らを滅ぼし、[[アナトリア]]高原(現在の[[トルコ]]付近)に国家を建国した。また、バビロン第一王朝滅亡後の[[バビロニア]]には[[カッシート人]]、その北には[[ミタンニ王国]]、そして後述の[[エジプト新王国]]も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生じ、しばらく続いた。
この時代の過程で、[[太陰暦]]が誕生し、これに修正を加えた[[太陰太陽暦]]も誕生し、天文、数学など様々な学問が発達した。
==== エジプト文明 ====
{{節スタブ}}
エジプト文明は[[ナイル川]]を中心として発展した文明である。エジプト文明は、[[エジプト古王国]]、[[エジプト中王国]]、エジプト新王国、の3つの時代に分けられる。
エジプトでは、国家統一以前に[[ノモス]]と呼ばれる地域の政治的まとまり([[領土国家]]、[[領域国家]])が複数存在した。
エジプトではメソポタミアよりもはやく統一国家が成立した。[[紀元前3000年]]に[[メネス]]がエジプトを統一し、古王国では、王は[[ファラオ]]と呼ばれた。また、[[ギーザ|ギザ]]には[[ピラミッド]]も誕生した。
中王国時代にはセム語系の戦士集団、[[ヒクソス]]が[[シリア]]から侵入し、国内は一時混乱したが、新王国が起こって彼らを追放し、「エジプトのナポレオン」とも呼ばれる[[トトメス3世]]は、シリアと[[ヌビア]]を征服したが、次第に衰退し[[アッシリア]]や[[アケメネス朝]]の侵入を受けて滅亡した。
新王国時代には、[[ツタンカーメン]]が存在した。また、[[神聖文字]](ヒエログリフ)を使用し、[[太陽暦]]が誕生した。
====インダス文明====
{{節スタブ}}
インダス文明とは、[[インダス川]]流域で発展した文明のことであり、位置は[[インド]]よりも、どちらかと言えば[[パキスタン]]寄りである。
インダス文明は[[ドラヴィダ人]]によって作られたとされる、インド最古の文明で、遺跡としては、[[モヘンジョダロ]]、[[ハラッパー]]などがある。インダス文字が作られたが、いまだ解読されていない。
また、この頃のインダス文明では、強大な権力を示す、神殿や王宮が発見されていない。
やがて、滅亡し、インド=ヨーロッパ語族の[[アーリア人|アーリヤ人]]が侵入し、[[パンジャーブ地方]]に住み着いた。その後、[[ガンジス川]]に進出し、その後、今の[[カースト制]]と呼ばれる身分制につながる[[ヴァルナ]]制や[[ジャーティ]]も誕生した。また、これらの制度を否定して、[[ブッダ]]([[釈迦|ガウタマ=シッダールタ]])が[[仏教]]を、[[ヴァルダマーナ]]が[[ジャイナ教]]を開いた。
====中国文明====
{{節スタブ}}
中国大陸には[[遼河文明]]、[[黄河文明]]、[[長江文明]]が起こった。
遼河文明からは大規模な[[竪穴建物]]や[[墳墓]]、[[祭壇]]などの[[神殿]]が発見されている<ref name="chiefdom">[http://www.pitt.edu/~chifeng/text.html University of Pittsburgh, Pennsylvania: ''Regional Lifeways and Cultural Remains in the Northern Corridor: Chifeng International Collaborative Archaeological Research Project.''] Cited references: Drennan 1995; and Earle 1987, 1997.</ref>。[[興隆窪文化]]の遺跡からは中国最古の[[龍]]を刻んだ[[ヒスイ]]などの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣([[琵琶形銅剣]])や[[櫛目文土器]]などが出土している。
黄河文明では黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。後の漢民族拡散の中心となる文明である<ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>。
長江文明は[[稲作]]の発祥となる文明である。初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
=== ユーラシアの交流圏 ===
{{節スタブ}}
=== アジア諸帝国の繁栄 ===
{{節スタブ}}
=== ヨーロッパ世界の勃興と主権国家体制 ===
ヨーロッパでは、[[ルネサンス]]、[[宗教改革]]、[[大航海時代]]が幕を開け、[[絶対王政]]が確立した。
=== 近代の確立と帝国主義 ===
[[アメリカ合衆国]]の独立、[[フランス革命]]と[[ナポレオン]]による[[フランス]]の[[フランス第一共和政|第一共和政]]、[[フランス第一帝政|第一帝政]]の後、[[ウィーン会議]]、フランスの[[フランス復古王政|復古王政]]、[[フランス第二共和政|第二共和政]]、[[フランス第二帝政|第二帝政]]、[[フランス第三共和政|第三共和政]]、[[ドイツ]]や[[イタリア]]の統一、アメリカの[[南北戦争]]、[[産業革命]]など
[[帝国主義]]で列強は世界各地に植民地を形成した。平等の思想である[[社会主義]]が台頭した。
=== 20世紀世界へ ===
二度の[[世界大戦]]は総力戦となった。[[ロシア革命]]で[[ソビエト連邦]]が誕生した。[[アメリカ合衆国]]とソ連との間で[[冷戦]]が勃発した。
ソビエト連邦の解体とドイツ再統一によって、アメリカが勝利する形で冷戦は終結した。
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The 20th century opened with Europe at an apex of wealth and power, and with much of the world under its direct colonial control or its indirect domination. Much of the rest of the world was influenced by heavily Europeanized nations: the United States and Japan. As the century unfolded, however, the global system dominated by rival powers was subjected to severe strains, and ultimately yielded to a more fluid structure of independent nations organized on Western models.
[[Image:WWI.png|thumb|350px|第一次世界大戦における連合国(緑)、オレンジはドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国などより成る同盟国]]
World War I, fought between the Allies (green) and the Central Powers (orange), ended the German Empire, the Austro-Hungarian Empire, the Russian Empire and the Ottoman Empire.This transformation was catalyzed by wars of unparalleled scope and devastation. World War I destroyed many of Europe's empires and monarchies, and weakened France and Britain. In its aftermath, powerful ideologies arose. The Russian Revolution of 1917 created the first communist state, while the 1920s and 1930s saw militaristic fascist dictatorships gain control in Italy, Germany, Spain, Japan and elsewhere.
Ongoing national rivalries, exacerbated by the economic turmoil of the Great Depression, helped precipitate World War II. The militaristic dictatorships of Europe and Japan pursued an ultimately doomed course of imperialist expansionism. Their defeat opened the way for the advance of communism into Central Europe, Yugoslavia, Bulgaria, Romania, Albania, China, North Vietnam and North Korea.
[[Image:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|150px|第二次世界大戦の終結と冷戦の始まりとなった日本への原子爆弾投下(1945)]]
Nuclear weapons, used against Japan in 1945, ended World War II and opened the Cold War.Following World War II, in 1945, the United Nations was founded in the hope of allaying conflicts among nations and preventing future wars. The war had, however, left two nations, the United States and the Soviet Union, with principal power to guide international affairs. Each was suspicious of the other and feared a global spread of the other's political-economic model. This led to the Cold War, a forty-year stand-off between the United States, the Soviet Union, and their respective allies. With the development of nuclear weapons and the subsequent arms race, all of humanity were put at risk of nuclear war between the two superpowers. Such war being viewed as impractical, proxy wars were instead waged, at the expense of non-nuclear-armed Third World countries.
The Cold War lasted through the ninth decade of the twentieth century, when the Soviet Union's communist system began to collapse, unable to compete economically with the United States and western Europe; the Soviets' Central European "satellites" reasserted their national sovereignty, and in 1991 the Soviet Union itself disintegrated. This left the United States for the time being as the "sole remaining superpower," a status whose permanence came into question as that country's economic supremacy began to show signs of slippage.
In the early postwar decades, the African and Asian colonies of the Belgian, British, Dutch, French and other west European empires won their formal independence but faced challenges in the form of neocolonialism, poverty, illiteracy and endemic tropical diseases. Many of the Western and Central European nations themselves gradually merged into a superstate, the European Union, which subsequently expanded eastward to include former Soviet satellites.
[[Image:As17-140-21391c1.jpg|right|thumb|170px|アポロ17号の月面到達(1972)]]
The last exploration of the Moon — Apollo 17 (1972).The twentieth century saw exponential progress in science and technology, and increased life expectancy and standard of living for much of humanity. As the developed world shifted from a coal-based to a petroleum-based economy, new transport technologies, along with the dawn of the Information Age, led to increased globalization. Space exploration reached throughout the solar system. The structure of DNA, the very template of life, was discovered, and the human genome was sequenced, a major milestone in the understanding of human biology and the treatment of disease. Global literacy rates continued to rise, and the percentage of the world's labor pool needed to produce humankind's food supply continued to drop.
The century saw the development of new global threats, such as nuclear proliferation, epidemics of contagious diseases, environmental problems such as the greenhouse effect and deforestation, and the dwindling of global resources. It witnessed, as well, a dawning awareness of ancient hazards that had probably previously caused mass extinctions of lifeforms on the planet, such as near-earth asteroids and comets, supervolcano eruptions, and gamma-ray bursts. Meanwhile the life courses of many states continued to be accompanied by wars, with resulting loss of life, economic devastation, disease, famine and genocide. As of 2007, some 29 ongoing armed conflicts raged in various parts of the world.
-->
== 時代別・歴史の一覧 ==
注:細かい項目をたくさん並べることが目的ではないことを理解しておくこと。
{{Main2|各世紀ごとの細かい項目|年表}}
=== 人類以前~人類の祖先 ===
{{See also|宇宙の年表|地球史年の進化}}
* [[地質時代]] - [[古生物]]、[[化石]]、[[恐竜]]、[[ヒト]]
=== 20万年前 - 前10000年 ===
{{See also|紀元前11千年紀以前}}
* [[氷河時代]] - [[更新世]](洪積世)
: 約2万年前、[[氷期]]のピークに。以後、温暖化。
* [[石器時代]]
:: [[旧石器時代]]
=== 前10000年 - 紀元前6千年紀 ===
[[File:World population growth (lin-log scale).png|right|300px|thumb|前10000年から2000年までの世界の人口増加。 垂直(人口)軸は[[片対数グラフ|対数表記]]。]]
{{See also|紀元前10千年紀|紀元前9千年紀|紀元前8千年紀|紀元前7千年紀|紀元前6千年紀}}
* [[完新世]]
:: [[中石器時代]] - [[亜旧石器時代]]
:: [[新石器時代]]
: [[農耕]]の開始。温暖化進む。
* ヨーロッパ - [[新石器時代のヨーロッパ]]
* 西アジア - 農耕文化(ジャルモ遺跡など)、周壁の町の出現([[エリコ|イェリコ]]など)
* 中央アジア - [[アナウ]]遺跡
* 南アジア - [[メヘルガル]]文化
* 東南アジア - ホアビン文化
* 東アジア - [[黄河文明]]、[[長江文明]]
* 日本 - [[縄文時代]]始まる
* アメリカ - [[パレオ・インディアン]]の定着
* アフリカ - エルメンティタ文化
=== 紀元前5千年紀 - 紀元前3千年紀 ===
{{See also|紀元前5千年紀|紀元前4千年紀|紀元前3千年紀}}
: 温暖期。現在よりも暖かく、海面も若干高い。
: 初期の[[文明]]が出現し、地域によっては文字の記録が現れる。
* ヨーロッパ - [[新石器時代のヨーロッパ]]、[[鐘状ビーカー文化]]
* 地中海世界 - [[マルタ島]]の巨石神殿、[[キクラデス文明]]
** エジプト - [[ナカダ文化]]、初期王朝の成立、[[エジプト古王国]]、[[ピラミッド]]
* 西アジア - [[メソポタミア|メソポタミア文明]](ハラフ文化、ウバイド文化、シュメール都市国家)
* 中央アジア - ジロフト文明、[[サラズム]]遺跡
* 南アジア - [[クリ文化]]、[[インダス文明]]
* 東南アジア - タブート文化
* 東アジア - [[黄河文明]]、[[長江文明]]、[[遼河文明]]
* 日本 - 縄文時代前期~中期
* アメリカ -[[クローヴィス文化|クローヴィス]][[尖頭器]]の出現
* アフリカ - [[バントゥー系民族]]の移動
=== 紀元前2千年紀 - 紀元前7世紀 ===
{{See also|紀元前2千年紀|紀元前10世紀|紀元前9世紀|紀元前8世紀|紀元前7世紀}}
: 温暖期がピークを超え、やや寒冷化傾向。
: [[青銅器時代]]、[[鉄器時代]]
* ヨーロッパ - [[ウーニェチツェ文化]]、[[骨壺墓地文化]]
* 地中海世界 - [[エーゲ文明]]([[トロイア文明]]、[[ミノア文明]]、[[ミケーネ文明]])、[[前1200年のカタストロフ]]
** エジプト - [[エジプト中王国]]・[[エジプト新王国|新王国]]・[[エジプト末期王朝|末期王朝]]
* 西アジア - [[メソポタミア|メソポタミア文明]]([[バビロニア|バビロニア王国]]、[[ヒッタイト|ヒッタイト王国]]、[[アッシリア帝国]])
* 中央アジア - [[バクトリア・マルギアナ複合]]文化、[[アンドロノヴォ文化]]
* 南アジア - [[インダス文明]]、[[アーリア人]]の侵入、[[前期ヴェーダ時代]]、[[後期ヴェーダ時代]]
* 東南アジア - [[オーストロネシア人]]の移動
* 東アジア - [[黄河文明]]、[[夏商周年表|夏・殷・周]]、[[春秋時代]]
* 日本 - 縄文時代中期~後晩期
* アメリカ
** [[メキシコ湾]]岸 - [[オルメカ文化]]
** [[アンデス]]高地 - [[チャビン文化]]
* アフリカ - [[クシュ王国]]
=== 紀元前6世紀 - 紀元前3世紀 ===
{{See also|紀元前6世紀|紀元前5世紀|紀元前4世紀|紀元前3世紀}}
:「[[枢軸時代]]」 - 世界的宗教や思想・哲学の始まり
* ヨーロッパ - [[スキタイ]]文明、[[ハルシュタット文化]]、[[ルサチア文化]]
* 地中海世界 - [[古代ギリシア|ギリシアの都市国家]]、[[ギリシア哲学]]の登場、[[アレクサンドロス3世]]の東征
** パレスティナ - [[ユダヤ教]]の成立
** エジプト - [[プトレマイオス朝]]
* 西アジア - [[ゾロアスター教]]の成立、[[アケメネス朝]]、[[セレウコス朝]]
* 中央アジア - [[グレコ・バクトリア王国]]
* 南アジア - [[十六大国]]、[[仏教]]と[[ジャイナ教]]の成立、[[マウリヤ朝]]
* 東南アジア - [[ドンソン文化]]、サフィン文化
* 東アジア - [[春秋時代]]、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、[[儒教]]の成立、[[秦]]の中国統一([[始皇帝]])
* 日本 - 縄文時代晩期、[[弥生時代]]
* アメリカ
** 北アメリカ - [[アデナ文化]]の繁栄
** メキシコ湾岸 - [[先古典期]][[マヤ文明]]、[[エル・ミラドール]]の繁栄
** アンデス高地 - [[チャビン・デ・ワンタル]]建設
* 中南アフリカ - [[ナイジェリア]]に[[ノク文化]]の出現
=== 紀元前2世紀 - 2世紀 ===
{{See also|紀元前2世紀|紀元前1世紀|1世紀|2世紀}}
: 古代の超大国の出現
* ヨーロッパ - [[ラ・テーヌ文化]]、ローマの属州
* 地中海世界 - [[共和政ローマ]]から[[帝政ローマ]]へ、[[五賢帝]]時代
** エジプト - [[プトレマイオス朝]]からローマの属州へ
* 西アジア - [[ヘレニズム]]諸王国、ローマの属州、[[パルティア]]
* 中央アジア - [[ヘレニズム]]の影響、[[グレコ・バクトリア王国]]、[[トハラ]]、[[匈奴]]、[[大月氏]]
* 南アジア - [[クシャーナ朝]]、[[ガンダーラ美術]]、[[サータヴァーハナ朝]]
* 東南アジア - [[ドンソン文化]]、[[港市国家]]の誕生、[[海の道]]の成立
* 東アジア - [[前漢]]と[[後漢]]、[[儒教]]の国教化、[[シルクロード]]開通
* 日本 - [[弥生時代]]
* アメリカ
** 北アメリカ:[[ホープウェル文化]]
** [[メソアメリカ]]:[[テオティワカン]]の建設
** アンデス高地:[[モチェ文化]]、[[ナスカ文化]]
* アフリカ - [[アクスム王国]]の勃興
=== 3世紀 - 4世紀 ===
{{See also|3世紀|4世紀}}
* ヨーロッパ - [[オクシヴィエ文化]]、[[プシェヴォルスク文化]]、[[ヴィェルバルク文化]]
* 地中海世界 - 帝政ローマ([[軍人皇帝時代]]、[[ディオクレティアヌス]]帝、[[コンスタンティヌス1世]])
* 西アジア - [[サーサーン朝]]
* 中央アジア - {{仮リンク|キダーラ朝|en|Kidarites}}
* 南アジア - [[グプタ朝]]
* 東南アジア - [[チャンパー]]、[[扶南]]
* 東アジア - [[三国時代 (中国)|三国時代]]、[[西晋]]と[[東晋]]、[[五胡十六国時代]]
* 日本 - [[邪馬台国]]、[[古墳時代]]始まる
* アメリカ
** メソアメリカ - [[テオティワカン]]の[[マヤ地域]]支配([[ティカル]]など)
** アンデス高地 - [[モチェ文化]]、[[ナスカ文化]]
* アフリカ - [[アクスム王国]]のキリスト教化
=== 5世紀 - 6世紀 ===
{{See also|5世紀|6世紀}}
* ヨーロッパ - [[ゲルマン民族]]諸国家建設
* 地中海世界 - [[西ローマ帝国]]滅亡、[[東ローマ帝国]][[ユスティニアヌス帝]]の再統一
* 西アジア - [[サーサーン朝]]
* 中央アジア - [[エフタル]]、[[柔然]]
* 南アジア - [[グプタ朝]]
* 東南アジア - [[クタイ王国]]、[[タルマヌガラ王国]]
* 東アジア - [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]
* 日本 - [[古墳時代]]、[[仏教伝来]]
* アメリカ
** メソアメリカ - [[テオティワカン]]
** アンデス高地 - [[モチェ文化]]の全盛
* アフリカ - [[ヴァンダル王国]]
=== 7世紀 ===
{{See also|7世紀}}
* ヨーロッパ - [[メロヴィング朝]][[フランク王国]]、[[アングロサクソン]][[七王国]]
* 地中海世界 - [[西ゴート王国]]、[[ランゴバルト王国]]、[[スラブ人]]の[[バルカン半島]]南下
* 西アジア - サ-サ-ン朝滅亡、[[イスラム帝国]]の建設
* 中央アジア - 東西[[突厥]]、[[吐蕃]]、唐の西域支配
* 南アジア - [[ヴァルダナ朝]]、[[前期チャールキヤ朝]]、[[パラヴァ朝]]
* 東南アジア - [[シュリーヴィジャヤ王国]]
* 東アジア - [[隋]]の中国統一、[[唐]]の建国と繁栄([[太宗 (唐)|太宗]])、[[則天武后]]
* 日本 - [[飛鳥時代]]、[[大化の改新]]
* アメリカ
** メソアメリカ - テオティワカン放棄、[[マヤ文明|マヤ]]諸都市の繁栄
**アンデス高地 - モチェ文化衰退、[[ワリ文化]]の台頭
* アフリカ - イスラム帝国の北アフリカ・エジプト占領
=== 8世紀 ===
{{See also|8世紀}}
* ヨーロッパ - [[カロリング朝]]成立、[[カール大帝]]時代
* 地中海世界 - [[教皇領]]成立、東ローマ帝国(イサウロス朝)とアッバース朝の[[制海権]]争い、[[聖像破壊運動]]、[[後ウマイヤ朝]]成立
* 西アジア - [[アッバース朝]]建国、[[バグダード]]建設
* 中央アジア - 東西突厥、[[ウイグル]]、[[タラス河畔の戦い]]
* 南アジア - [[プラティーハーラ朝]]、[[パーラ朝]]、[[ラーシュトラクータ朝]]
* 東南アジア - シャイレンドラ朝、[[ボロブドール遺跡|ボロブドゥール]]建設、シュリーヴィジャヤ繁栄続く
* 東アジア - [[唐]]の繁栄([[玄宗 (唐)|玄宗]]、[[李白]]、[[杜甫]])、[[律令体制]]の崩壊、[[安史の乱]]
* 日本 - [[奈良時代]]、[[天平文化]]、[[平安遷都]]
* アメリカ
** メソアメリカ - [[トルテカ文明|トルテカ]]諸都市の建設と繁栄、
** アンデス高地 - ワリ文化の繁栄
* アフリカ - [[ガーナ王国]]繁栄
=== 9世紀 ===
{{See also|9世紀}}
* ヨーロッパ -フランク王国分裂、[[ヴァイキング]]の活躍、[[キエフ大公国]]建国、[[イギリスの歴史|イングランド]]統一
* 西アジア - [[アッバース朝]]の全盛と衰退
* 中央アジア - [[ウイグル#呼称|西ウイグル国]]、[[サーマーン朝]]、[[ハザール]]
* 南アジア - [[プラティハーラ朝]]、[[パーラ朝]]、[[ラーシュトラクータ朝]]
* 東南アジア - [[古マタラム王国]]で[[プランバナン寺院群]]の建設
* 東アジア - [[唐]]の衰退、[[藩鎮]]の割拠、[[黄巣|黄巣の乱]]
* 日本 - [[平安時代]]、貴族勢力の抗争、[[弘仁・貞観文化]]
* アメリカ
** メソアメリカ - [[マヤ文明]]の中部の諸都市の衰退
** アンデス高地 - ワリ文化の衰退、[[シカン王国]]の建国
* アフリカ - ナイジェリアで[[イヴォ=ウクウ文化]]
=== 10世紀 ===
{{See also|10世紀}}
* ヨーロッパ - [[神聖ローマ帝国]]成立、[[カペー朝]]フランスの成立
* 西アジア - アッバース朝の分裂([[ブワイフ朝]]の[[バグダード]]入城、[[ターヒル朝]] etc)
* 中央アジア - 西ウイグル国、[[カラハン朝]]
* 南アジア - [[ラーシュトラクータ朝]]
* 東南アジア - [[クディリ王国|クディリ朝]]、[[ミャンマー]]の[[パガン朝]]建国
* 東アジア - [[唐]]の滅亡、[[五代十国]]、[[遼]]・[[高麗]]・[[北宋]]建国
* 日本 - [[平安時代]]、[[藤原氏]]北家の台頭、[[王朝国家]]体制の成立
* アメリカ
** メソアメリカ - マヤ文明の北部諸都市及び[[トゥーラ=ヒココティトラン]]の繁栄
** アンデス高地 - [[チムー王国]]の建国(14世紀までペルー北部海岸支配)
* アフリカ - 北アフリカで[[ファーティマ朝]]、ナイジェリアで[[イヴォ=ウクウ文化]]
=== 11世紀 ===
{{See also|11世紀}}
* ヨーロッパ - 東西教会の分裂(相互破門)、[[第1回十字軍]]、[[ドイツ騎士団]]の植民、[[ノルマン・コンクェスト]]
* 西アジア - [[セルジューク朝]]
* 中央アジア -[[ガズナ朝]]
* 南アジア - [[チョーラ朝]]全盛、北西インドへ[[イスラム]]流入
* 東南アジア - [[ベトナム]]の[[李朝 (ベトナム)|李朝]]建国
* 東アジア - 北宋で[[王安石]]の改革、[[西夏]]建国
* 日本 - 藤原氏の全盛と衰退、[[院政]]が始まる、王朝国家体制の変質と再編、[[荘園公領制]]の成立
* アメリカ - マヤ文明の北部諸都市及びトゥーラ=ヒココティトランの繁栄
* アフリカ - モロッコで[[ムラービト朝]]強勢、[[ガーナ王国]]滅亡
=== 12世紀 ===
{{See also|12世紀}}
* ヨーロッパ - [[十字軍]]、[[ドイツ騎士団]]の植民、[[12世紀ルネサンス]]
* 西アジア - [[ホラズム・シャー朝]]
* 中央アジア - [[西遼]]
* 南アジア - 北西インドへ[[イスラーム]]流入続き、[[ゴール朝]]が[[北インド]]支配
* 東南アジア - [[クメール王朝]]繁栄、[[アンコール・ワット]]建設
* 東アジア - [[金 (王朝)|金]]の華北支配、[[南宋|宋]]の南渡、[[紹興の和議]]
* 日本 - [[院政]]続く、[[平氏]]の繁栄と滅亡、[[日宋貿易]]、[[鎌倉幕府]]成立
* アメリカ
** 北米 - [[カホキア]]をはじめ[[ミシシッピ文化]]の祭祀センターが繁栄する
** 中米 - [[チチメカ]]人の[[メソアメリカ]]侵略
* アフリカ - [[サラディン]]の[[アイユーブ朝]]建国、モロッコで[[ムワッヒド朝]]、ナイジェリアで[[イフェ文化]]始まる
=== 13世紀 ===
{{See also|13世紀}}
* ヨーロッパ - 教皇権の最盛期、神聖ローマ帝国の[[大空位時代]]、東部で[[モンゴル帝国]]の侵入
* 西アジア - [[モンゴル帝国]]の侵入([[イルハン朝]]成立)
* 中央アジア -モンゴル帝国においてオゴデイ家のウルスとチャガタイ家のウルスを包摂する形で[[カイドゥ]]の国が成立
* 南アジア - [[奴隷王朝]]、[[ハルジー朝]]
* 東南アジア -ベトナムの[[陳朝]]、インドネシアの[[シンガサリ朝]]、[[マジャパヒト王国]]建設
* 東アジア - [[モンゴル帝国]]の急拡大、[[南宋]]の滅亡、[[元 (王朝)|元]]の成立
* 日本 - [[承久の乱]]、[[モンゴル帝国]]の侵入([[元寇]])、[[永仁の徳政令]]、[[アイヌ]]文化の成立
* アメリカ
** 北米 - ミシシッピ文化の繁栄(カホキア、[[エトワー]]、[[マウンドヴィル]]など)、アメリカ南西部のプエブロ文化の繁栄([[メサ・ヴェルデ]]、[[チャコ・キャニオン]])など。
** 中米 - [[マヤパン]]の建設とユカタン支配の開始
** 南米 - [[インカ帝国]]成立
* 北アフリカ - [[マムルーク朝]]、[[ハフス朝]]
* 中南アフリカ -[[マリ帝国]]、[[カネム・ボルヌ帝国]]、[[マプングブエ]]
=== 14世紀 ===
{{See also|14世紀}}
* ヨーロッパ - 教皇権の動揺([[アヴィニョン捕囚]]、[[教会大分裂]])、[[黒死病]]、[[百年戦争]]、[[ハンザ同盟]]
* 西アジア - [[オスマン帝国]]黎明、[[ティムール朝]]による征服、イル・ハン朝滅亡
* 中央アジア - モンゴル帝国内でカイドゥの国を簒奪する形で[[チャガタイ・ハン国]]が成立するが、この政権の弱体化と共に王家の娘婿(キュレゲン)の資格で[[ティムール朝]]が勃興
* 南アジア - [[ハルジー朝]]及び[[トゥグルク朝]]のインド統一、[[バフマニー朝]]及び[[ヴィジャヤナガル王国]]の独立と建国
* 東南アジア - [[マジャパヒト王国]]繁栄
* 東アジア - [[中国本土]]に[[明]]が成立し元がモンゴル高原に退避して[[北元]]に、親モンゴル帝国の[[高麗]]が倒れ親明の[[李氏朝鮮]]へ
* 日本 - [[建武の新政]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝の成立と合一]]、[[室町幕府]]成立
* アメリカ
** 北米 - ミシシッピ文化([[サザン・カルト]]関連の副葬品)
** 中米 - [[アステカ王国]]成立
** 南米 - チムー帝国の拡大
* 北アフリカ - [[マリーン朝]]、[[ハフス朝]]
* 中南アフリカ - 西アフリカのマリ帝国、[[ジンバブウェ]]に[[グレート・ジンバブウェ遺跡|グレート・ジンバブウェ]]繁栄
=== 15世紀 ===
{{See also|15世紀}}
* ヨーロッパ - [[コンスタンティノープルの陥落|ビザンツ帝国の滅亡]]、[[大航海時代]]、イタリア=[[ルネサンス]]、[[モスクワ大公国]]独立
* 西アジア - [[オスマン帝国]]の隆盛、ティムール朝の文化的繁栄([[シャー・ルフ]]時代)
* 北アジア・中央アジア -[[オイラト|オイラート部]]全盛([[エセン・ハーン]])、[[タタール|タタール部]]台頭([[ダヤン・ハーン]])
* 南アジア - [[デリー・スルターン朝]]弱体化しつつ[[北インド]]支配。[[ヴィジャヤナガル王国]]の繁栄
* 東南アジア -[[マラッカ王国]]、ヴェトナム[[黎朝|後黎朝]]独立
* 東アジア - [[明]]の全盛、[[鄭和]]の南海遠征
* 日本 - 室町幕府の全盛と衰退、[[応仁の乱]]勃発し[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]へ
* アメリカ
** 中米 - マヤパン支配の崩壊、アステカ王国の勢力拡大
** 南米 - インカ帝国のチムー王国征服
* 北アフリカ -[[ハフス朝]]強勢
* 中南アフリカ - [[ソンガイ帝国]]全盛、ジンバブエの[[モノモタパ王国]]
=== 16世紀 ===
{{See also|16世紀}}
* ヨーロッパ - [[宗教改革]]、[[オスマン帝国]]の[[第一次ウィーン包囲]]、[[スペインの歴史|スペイン黄金時代]]、[[マニエリスム]]と北方[[ルネサンス]]
** [[重商主義]]
* 西アジア - [[オスマン帝国]]最盛期、サファヴィー朝建国
* アフリカ - オスマン帝国が北アフリカ征服、モロッコで[[サアド朝]]全盛、ソンガイ帝国滅ぼす
* 北アジア・中央アジア -タタール部の全盛(ダヤン・ハーン、[[アルタン・ハーン]])
* 南アジア - [[ムガル帝国]]成立
* 東南アジア - [[マタラム王国]]、[[ポルトガル海上帝国]]のマラッカ占領
* 東アジア - [[北虜南倭]]、[[明]]で[[一条鞭法]]実施、[[万暦の三征|万暦の三大征]]
* 日本 - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の群雄割拠から[[関ヶ原の戦い]]に至る統一政権の成立、ヨーロッパ人の来航と[[東南アジア]]との国交成立
* アメリカ - [[スペインの歴史|スペイン]]人による[[アステカ帝国]]及び[[インカ帝国]]の征服と植民地化
* オセアニア - [[マゼラン]]による[[太平洋]]横断、[[アカプルコ貿易]]の始まり
=== 17世紀 ===
{{See also|17世紀}}
* ヨーロッパ - [[オランダの歴史|オランダの独立と経済繁栄]]、[[フランス王国|フランス]]・[[ブルボン朝]]、[[バルト帝国|スウェーデン・バルト帝国]]の[[絶対王政|絶対主義]]化、[[三十年戦争]]と[[ヴェストファーレン体制|ウェストファリア体制]]、[[イギリスの歴史|イギリス]]の勃興、[[科学革命]]、[[バロック]]
* 西アジア - オスマン帝国最盛期から斜陽の兆し、[[サファヴィー朝]]全盛
* アフリカ - ナイジェリアの[[ベニン王国]]
* 中央アジア - [[ジュンガル部]]、[[チベット仏教]]の拡がり
* 南アジア - ムガル帝国全盛、[[タージ・マハル]]建設、[[マラーター王国]]
* 東南アジア - オランダがマラッカ占領し、ポルトガルを駆逐、[[オランダ領東インド]]成立
* 東アジア - [[明]]朝の崩壊、[[清]]朝の中国統一
* 日本 - [[江戸幕府]]成立、[[鎖国]]、[[元禄]]文化
* アメリカ - ヨーロッパ系移民が活発
* オセアニア - [[アベル・タスマン|タスマン]]の航海
=== 18世紀 ===
{{See also|18世紀}}
* ヨーロッパ - [[絶対王政]]、[[バロック]]から[[ロココ]]へ、[[農業革命]]、[[産業革命]]、[[フランス革命]]、[[大北方戦争]]、[[ロシア帝国]]の勃興、[[イギリス帝国]]の時代へ
* 西アジア - サファヴィー朝滅亡、オスマン帝国衰退
* 中央アジア - カザフ系国家のロシア帰服、[[雍正のチベット分割]]
* アフリカ - [[黒人奴隷]]貿易の最盛期
* 南アジア - [[ムガル帝国]]斜陽、[[マラーター同盟]](マラーター連合)、ヨーロッパによるインド植民
* 東南アジア - オランダ領東インド、ベトナム後黎朝滅亡
* 東アジア - 清朝の全盛([[康熙帝]]、[[雍正帝]]、[[乾隆帝]])
* 日本 - [[享保の改革]]、[[田沼意次]]、[[寛政の改革]]
* アメリカ - 英仏[[第二次百年戦争]]、合衆国独立
* オセアニア - イギリスの[[オーストラリア]]領有、[[ハワイ王国]]成立
=== 19世紀 ===
{{See also|19世紀}}
* 国際 - [[工業化]]、[[パックス・ブリタニカ]]
* ヨーロッパ - [[ナポレオン戦争]]、[[ウィーン体制]]、[[1848年革命]]、[[クリミア戦争]]、[[普仏戦争]]、[[イタリア王国]]と[[ドイツ帝国]]の成立
* 西アジア - オスマン帝国と[[ガージャール朝]]の半植民地化、[[タンジマート]]
* アフリカ - [[ムハンマド・アリー朝]]、「[[暗黒大陸]]」の探検、[[アフリカ分割]]始まる
* 中央アジア - ロシアの中央アジア進出、[[アフガン戦争]]、[[グレート・ゲーム]]
* 南アジア - イギリスのインド支配、[[インド大反乱]]
* 東南アジア - [[オランダ]]領東インド本国直轄化、ベトナム[[阮朝]]建国、[[海峡植民地]]成立
* 東アジア - 清朝の衰退([[アヘン戦争]]、[[太平天国の乱]]、[[洋務運動]])
* 日本 - [[天保の改革]]、[[日米和親条約|開国]]、[[明治維新]]、憲法制定、[[日清戦争]]
* 北アメリカ - [[フロンティア]]の時代、[[南北戦争]]、[[金ぴか時代]]
* 中南アメリカ - [[アメリカ大陸諸国の独立年表|中南米諸国の独立]]、[[パラグアイ戦争]]
* オセアニア - 太平洋分割、[[米西戦争]]とアメリカの[[ハワイ]]併合
=== 20世紀 ===
{{See also|20世紀}}
; 前半
* 国際 - [[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]
* 北アメリカ - 経済的繁栄、[[世界恐慌]]、[[ニューディール政策]]
* ヨーロッパ - ドイツ帝国・オーストリア帝国の崩壊、[[ヴェルサイユ体制]]、ロシア帝国の崩壊と[[ロシア革命]]
* 西アジア - オスマン帝国崩壊と[[トルコ共和国]]成立([[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ケマル・アタテュルク]])、[[パレスチナ問題]]
* アフリカ - アフリカ分割の完了、ヨーロッパ諸国による植民地支配
* 中央アジア - ロシア帝国からソヴィエト連邦の支配へ、[[バスマチ運動]]
* 南アジア - [[ヨーロッパ]]諸国による植民地支配、{{仮リンク|英印円卓会議|en|Round Table Conferences (India)}}
* 東南アジア - [[ヨーロッパ]]諸国による植民地支配、[[大東亜共栄圏]]
* 東アジア - [[韓国併合]]、[[辛亥革命]]([[中華民国]]樹立)、[[三・一運動]]、[[五・四運動]]、[[満州国]]の成立と崩壊、[[日中戦争]]、[[太平洋戦争]]
* 日本 - [[日露戦争]]、[[韓国併合]]、[[大正デモクラシー]]、[[日中戦争]]、[[太平洋戦争]]
* 中南アメリカ - モノカルチャー経済の発展
* オセアニア - イギリスと日本の太平洋再分割、[[ワシントン体制]]
; 後半
* 国際 - [[国際連盟]]から[[国際連合]]へ、[[冷戦]]、[[第三世界]]、[[代理戦争]]、[[南北問題]]、[[石油危機]]、[[グローバリゼーション]]
* 北アメリカ - [[自由主義|リベラリズム]]から[[新保守主義]]へ、宗教右派の台頭
* ヨーロッパ - [[民主主義|民主]]国家の[[西ヨーロッパ]]と[[共産党]]国家の[[東ヨーロッパ]]、[[欧州共同体]]から[[欧州連合]]へ、[[ベルリンの壁]]の成立と崩壊、[[ソビエト連邦の崩壊]]、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の発生
* 西アジア - [[中東戦争]]、[[イラン革命]]、[[湾岸戦争]]
* アフリカ - [[アフリカの年]](ヨーロッパによる植民地支配からの独立)
* 中央アジア - [[アフガン紛争]]、[[イスラム原理主義]]、[[カザフスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[タジキスタン]]、[[キルギスタン]]の独立
* 南アジア - ヨーロッパによる植民地支配の崩壊と独立([[印パ分離独立]]など)、[[印パ戦争]]、[[南アジア地域協力連合]]設立
* 東南アジア - ヨーロッパによる植民地支配の崩壊と独立、[[東南アジア諸国連合]]設立、[[ベトナム戦争]]、[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]([[フィリピン]])や[[スハルト]]([[インドネシア]])などの[[開発独裁]]政権
* 東アジア - [[国共内戦]]、[[軍事境界線 (朝鮮半島)|朝鮮半島分断]]、[[中華人民共和国]]の成立、[[中華民国]]政府の台湾遷都、[[中ソ対立]]、日本と韓国の[[アメリカ軍]]基地
* 日本 - [[連合国軍占領下の日本|GHQによる占領]]、[[55年体制]]、[[高度経済成長]]、[[バブル景気]]、[[連立政権]]の常態化
* 中南アメリカ - [[米州機構]]設立、[[中央情報局|CIA]]の援助を受けた[[軍事政権]]の乱立、[[チリ・クーデター]]、[[クラウス・バルビー]]による[[ボリビア]]の支配
* オセアニア - [[ANZUS]]の結成、大国の核実験場、太平洋諸国の独立。
=== 21世紀 ===
{{See also|21世紀}}
* 国際 - [[グローバリゼーション]]とその反動、[[インターネット]]の普及、[[リーマンショック]]、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)]]
* 北アメリカ - [[アメリカ同時多発テロ事件]]
* ヨーロッパ - [[ブレグジット]]、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]]
* 西アジア - [[イラク戦争]]、[[イスラム国]]
* アフリカ - [[アフリカ連合]]発足、[[アラブの春]]([[エジプト]]、[[チュニジア]]、[[リビア]]の政権交代)
* 中央アジア - [[色の革命]]、[[上海協力機構]]の発足
* 南アジア - アフガニスタンの親米政権崩壊
* 東南アジア - [[ASEAN]]10体制
* 東アジア - [[北朝鮮核問題]]、[[中華人民共和国]]の高度経済成長、[[一帯一路]]政策
* 日本 - 日本観測史上最大であるマグニチュード9.0の[[東北地方太平洋沖地震]]とそれに伴う大規模な津波や[[福島第一原子力発電所事故]]等が発生。
* 中南アメリカ - [[ベネズエラ危機]]
* オセアニア - [[2022年のフンガ・トンガ噴火|トンガ大噴火]]
== 世界の歴史の一覧 ==
=== 地域・各国史 ===
以下はカテゴリ「世界史」に含まれるサブカテゴリまたは分類された個別記事の一覧である。
現生人類は「出アフリカ」をした後に、大まかに三方向に分かれ、地中海東岸あたりで西方面([[ヨーロッパ]]方面)へ進む者と、東方の中央アジア・南アジア方面へ進む者と、東欧やロシア方面へ進んだ者たちがいて、アジア方面へ進んだ者は東アジアへ進んだ者とオセアニア方面に進んだ者に分かれ、一方で、ロシア・シベリア経由であれ、中央アジア経由であれ[[東アジア]]にたどりついた者の一部は北へ進み[[ベーリング海峡]]あたりを[[アラスカ]]方面へ渡り、[[北米大陸]]を南下して、ついには[[南米大陸]]へ渡り、その南端に至った者がいた、という壮大な人類史があったことを踏まえて配列する。
==== アフリカ ====
* [[アフリカ史]]
** [[アルジェリアの歴史]]
** [[アンゴラの歴史]]
** [[ウガンダの歴史]]
** [[エジプトの歴史]]
*** [[古代エジプト]]
** [[エチオピアの歴史]]
** [[エリトリアの歴史]]
** [[ガーナの歴史]]
** [[カメルーンの歴史]]
** [[カーボベルデの歴史]]
** [[ガボンの歴史]]
** [[ガンビアの歴史]]
** [[ギニアの歴史]]
** [[ギニアビサウの歴史]]
** [[ケニアの歴史]]
** [[コートジボワールの歴史]]
** [[コモロの歴史]]
** [[コンゴ共和国の歴史]]
** [[コンゴ民主共和国の歴史]]
** [[サントメ・プリンシペの歴史]]
** [[ザンビアの歴史]]
** [[シエラレオネの歴史]]
** [[ジブチの歴史]]
** [[ジンバブエの歴史]]
** [[スーダンの歴史]]
** [[スワジランドの歴史]]
** [[セーシェルの歴史]]
** [[セネガルの歴史]]
** [[ソマリアの歴史]]
** [[ソマリランドの歴史]]
** [[タンザニアの歴史]]
** [[チャドの歴史]]
** [[チュニジアの歴史]]
** [[トーゴの歴史]]
** [[ナイジェリアの歴史]]
** [[ナミビアの歴史]]
** [[ニジェールの歴史]]
** [[西サハラの歴史]]
** [[ブルキナファソの歴史]]
** [[ブルンジの歴史]]
** [[ベナンの歴史]]
** [[ボツワナの歴史]]
** [[マダガスカルの歴史]]
** [[マラウイの歴史]]
** [[マリの歴史]]
** [[モザンビークの歴史]]
** [[モーリシャスの歴史]]
** [[モーリタニアの歴史]]
** [[モロッコの歴史]]
** [[リビアの歴史]]
** [[リベリアの歴史]]
** [[ルワンダの歴史]]
** [[レソトの歴史]]
** [[赤道ギニアの歴史]]
** [[中央アフリカの歴史]]
** [[南アフリカ共和国の歴史]]
==== 西アジア ====
* [[西アジア史]]
** [[アフガニスタンの歴史]]
** [[アラブ首長国連邦の歴史]]
** [[イエメンの歴史]]
** [[イスラエルの歴史]]
** [[イラクの歴史]]
*** [[メソポタミア]]
** [[イランの歴史]]
** [[オマーンの歴史]]
** [[カタールの歴史]]
** [[北キプロスの歴史]]
** [[キプロスの歴史]]
** [[クウェートの歴史]]
** [[サウジアラビアの歴史]]
** [[シリアの歴史]]
** [[トルコの歴史]]
** [[バーレーンの歴史]]
** [[パレスチナの歴史]]
** [[ヨルダンの歴史]]
** [[レバノンの歴史]]
* [[:Category:カフカスの歴史|カフカース史]]
** [[アゼルバイジャンの歴史]]
** [[アブハジアの歴史]]
** [[アルメニアの歴史]]
** [[グルジアの歴史]]
** [[チェチェンの歴史]]
** [[南オセチアの歴史]]
** [[ナゴルノ・カラバフの歴史]]
==== ヨーロッパ・ロシア ====
* [[ヨーロッパ史]]
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== 一体的な世界史を試みた歴史書 ==
{{see|en:World History}}
欧米で「歴史の父」と呼ばれる[[ヘロドトス]]が[[紀元前5世紀]]頃に著したとされる『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』は、ヘロドトスが知りえた時代と地域の歴史に関するもので、自らが属する[[古代ギリシア|ギリシア文明圏]]を超えた世界を展望した最初の歴史書といえるものであった。また、日本においては「日本史」と「世界史」が別ものとして、義務教育や高等学校、また大学の一般教養でも講じられ、大学の専攻も異なるが、それに対して欧米では「エジプトから始まって自国の近代、現代で終わる」一貫史が認識されていることも重要である。
<!--なお、[[世界]]を一体的なものとして扱った歴史書の最初は、[[レオポルト・フォン・ランケ]]による『世界史』である{{要出典}}--><!--[[レオポルト・フォン・ランケ]]の記事の中でも彼の限界を指摘しているが、バイエルンの国王マクシミリアン2世の求めによって書かれたという「世界史の流れ」http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480084484/ ちくま学芸文庫版]によってでさえ、その展望は欧州及びオスマン帝国に限定されたものだったことと整合性が取れない。結局、独仏英の研究実績の上に「ドイツ連邦」圏が絡む範囲の国際関係の中で記されたものと見るべきではないか。ちくまの売り文句は「ヨーロッパ全史を展望する壮大な歴史叙述」であり、題名の「世界史」に囚われすぎた見解かと思う。ランケは「西洋史学科」は産んだが、「世界史学科」を産むまでには到っていない。--><!--というか、そもそも不要な節ではないか。ランケについては、おっしゃる通り。筆がすべった。ただ、ここでヘロドトスを出してくれば司馬遷も出さざるも得ないし、史学史を記述せざるを得なくなるのでは。まるごと削除で構わないと思います。-->
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テイラーの定理
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微分積分学において、テイラーの定理(テイラーのていり、英: Taylor's theorem)は、k 回微分可能な関数の与えられた点のまわりでの近似を k 次のテイラー多項式によって与える。解析関数に対しては、与えられた点におけるテイラー多項式は、そのテイラー級数を有限項で切ったものである。テイラー級数は関数を点のある近傍において完全に決定する。「テイラーの定理」の正確な内容は1つに定まっているわけではなくいくつかのバージョンがあり、状況に応じて使い分けられる。バージョンのいくつかは関数のテイラー多項式による近似誤差の明示的な評価を含んでいる。
テイラーの定理は1712年に1つのバージョンを述べた数学者ブルック・テイラー (Brook Taylor) にちなんで名づけられている。しかし誤差の明示的な表現はかなり後になってジョゼフ=ルイ・ラグランジュ (Joseph-Louis Lagrange) によってはじめて与えられた。結果の初期のバージョンはすでに1671年にジェームス・グレゴリー (James Gregory) によって言及されている。
テイラーの定理は微分積分学の入門レベルで教えられ、解析学の中心的な初等的道具の1つである。純粋数学ではより進んだ漸近解析(英語版)の入り口であり、より応用的な分野の数値解析や数理物理学においてよく使われている。テイラーの定理は任意次元 n, m の多変数ベクトル値関数 f: R → R にも一般化する。テイラーの定理のこの一般化は微分幾何学や偏微分方程式において現れるいわゆるジェット(英語版)の定義の基礎である。
テイラーの定理の最も基本的なバージョンの正確なステートメントは次のようになる:
テイラーの定理 ― k ≥ 1 を整数とし関数 f: R → R を点 a ∈ R で k 回微分可能とする。すると次を満たす関数 hk: R → R が存在する:
これはペアノの剰余項と呼ばれる。
テイラーの定理に現れる多項式は関数 f の点 a における k 次のテイラー多項式
である。テイラー多項式は次のような意味で「漸近的に最もフィットする」唯一の多項式である、すなわち、関数 hk: R → R と k 次多項式 p が存在して
となるならば、p = Pk である。テイラーの定理は剰余項
の漸近的な振る舞いを記述する。これは f をテイラー多項式で近似するときの近似誤差である。ランダウの記号を用いれば、テイラーの定理のステートメントは次のように書ける:
f へのより強い正則性の仮定のもとで、テイラー多項式の剰余項
に対するいくつかの正確な公式がある。最も一般的なものたちは以下のものである。
平均値形の剰余項 ― f: R → R を閉区間 [a, x] 上 k 回連続微分可能、開区間 (a, x) 上 k + 1 (k ≥ 0) 回微分可能であるとする。 (x<a のときは区間をそれぞれ [x, a], (x, a) とする。) このとき
となる実数 ξL が a と x の間(両端は含まない)に存在する。これはラグランジュの剰余項である。同様に、
となる実数 ξC が a と x の間に存在する。これはコーシーの剰余項である。 θ = ξ − a x − a ∈ ( 0 , 1 ) ( ξ = ξ L , ξ C ) {\displaystyle \theta ={\frac {\xi -a}{x-a}}\in (0,1)\;(\xi =\xi _{\mathrm {L} },\xi _{\mathrm {C} })} とおくことにより、剰余項はそれぞれ次の形と同値である。
テイラーの定理のこれらの改良は通常平均値の定理を用いて証明されるため、その名前がある。また他の同様の表示も見つけられる。例えば、G(t) が閉区間上連続、開区間上で微分可能で導関数の値が非0ならば、
となる数 ξ が存在する。このバージョンはラグランジュとコーシーの剰余項を特別な場合として含んでおり、以下でコーシーの平均値の定理を用いて証明される。
積分形の剰余のステートメントはこれまでのものより進んでおり完全な一般性にはルベーグ積分論の理解が要求される。しかしながら、f の (k + 1) 階微分が閉区間 [a, x] 上連続であるならば、リーマン積分の意味でも成り立つ。
積分形の剰余項 ― f を a と x の間の閉区間上絶対連続とする。すると
これはベルヌーイの剰余とも呼ばれる。閉区間上の f の絶対連続性により、導関数 f は L 関数として存在し、結果は微分積分学の基本定理と部分積分を用いた形式的な計算により証明できる。
テイラー近似に現れる項の剰余項の正確な公式があるよりはむしろそれを評価できることの方が実用上しばしば有用である。f が a を含む区間 I において (k + 1) 回連続微分可能とする。実定数 q, Q が存在して I 上
とする。このとき剰余項は x > a のとき不等式
を満たし、x < a のときも同様の評価が成り立つ。これはラグランジュの剰余の単純な帰結である。とくに、ある r > 0 で区間 I = (a−r, a+r) 上
ならば、すべての x ∈ (a−r, a+r) に対して
である。第二の不等式は一様評価と呼ばれる。区間 (a−r, a+r) 上すべての x に対して一様に成り立つからである。
関数 f(x) = e を区間 [−1, 1] 上で誤差が 10 を超えないように近似したいとしよう。この例で我々は指数関数の次の性質しか知らないとしよう:
これらの性質から次のことが従う。すべての k に対して f(x) = e であり、とくに、f(0) = 1 である。したがって f の 0 における k 次のテイラー多項式とそのラグランジュの剰余項は
によって与えられる、ただし ξ は 0 と x の間のある数である。e は (*) によって増加関数だから、部分区間 [−1, 0] 上で剰余項を評価するのに単純に e ≤ 1 (x ∈ [−1, 0]) を使うことができる。[0, 1] 上の剰余の上界を得るには、0<ξ<x に対して e<e という性質を用いて、二次のテイラー展開を用いて
と評価できる。e について解いて、単純に分子を最大化、分母を最小化して、
を得る。e に対するこれらの評価を組み合わせて、
となるので、要求された正確さは
のときに確かに達成されている。(値 9! = 362 880 および 10! = 3 628 800 は階乗を参照するか手計算せよ。)結論として、テイラーの定理から次の近似が導かれる:
例えば、この近似から小数点以下五桁まで正しい小数表示 e ≈ 2.71828 {\displaystyle e\approx 2.71828} が得られる。
関数 f: R → R が a ∈ R において微分可能であることは、次と同値である。
となるような線型汎関数 L: R → R と関数 h: R → R が存在する。
この条件が成り立つとき、L = df(a) は点 a における f の(一意的に定義される)微分である。さらに、このとき f の a における偏微分が存在し、f の a における微分は
によって与えられる。
次のような多重指数表記を導入する。α ∈ N と x ∈ R に対して、
f: R → R のすべての k 階偏導関数が a ∈ R において連続ならば、クレローの定理より、a における混合微分の順序を入れ替えることができ、したがって高階偏導関数に対する表記
がこの状況において正当化される。f のすべての (k − 1) 階偏導関数が a のある近傍において存在し a において微分可能であれば、同じことが正しい。このとき f は点 a において k 回微分可能であるという。
テイラーの定理の多変数版 ― f: R → R を点 a∈R において k 回微分可能な関数とする。このとき次を満たす hα: R→R が存在する:
関数 f: R → R が閉球 B において k + 1 回連続微分可能ならば、f の k + 1 階偏導関数を用いてこの近傍において剰余項の正確な公式を導出できる。すなわち、
このとき、コンパクト集合 B における k + 1 階偏導関数の連続性によって、ただちに次の一様評価を得る。
例えば、関数 f: R → R の三階のテイラー多項式は、x − a = v と書いて、
f は点 a ∈ R で k 回微分可能であることから a の適当な近傍で k-1 回微分可能である。この近傍の上で
と定める。ただし
ここで j = 0,1,...,k−1 に対し f ( j ) ( a ) − P k ( j ) ( a ) = 0 {\displaystyle f^{(j)}(a)-P_{k}^{(j)}(a)=0} であるから、ロピタルの定理を k−1 回適用すると
ここで最後の等式は点 a での微分の定義による。従って
簡単のために a<x とする。まず任意の実関数 G で閉区間 [a, x] で連続、開区間 (a, x) で微分可能、さらに導関数 G' の値が開区間上で非0となるものを考える。
次に関数 F を
と定めると、 F は閉区間 [a, x] で連続、開区間 (a, x) で微分可能である。するとコーシーの平均値の定理により
を満たす点 ξ∈(a,x) が存在する。F の導関数を計算すると、
これを(*)に代入して計算すると
ここで G ( t ) = ( t − x ) k + 1 {\displaystyle G(t)=(t-x)^{k+1}} と定めればラグランジュの剰余項、 G ( t ) = t − a {\displaystyle G(t)=t-a} と定めればコーシーの剰余項が得られる。
簡単のために a<x とする。まず f が閉区間 [a, x] で絶対連続 であることから、その導関数 f が L-関数 の意味で存在する。ここで部分積分を繰り返し用いると
最後の項 R k + 1 ( x ) = ∫ a x f ( k + 1 ) ( t ) k ! ( x − t ) k d t {\displaystyle R_{k+1}(x)=\int _{a}^{x}{\frac {f^{(k+1)}(t)}{k!}}(x-t)^{k}\,dt} が求める剰余項である。
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"text": "のときに確かに達成されている。(値 9! = 362 880 および 10! = 3 628 800 は階乗を参照するか手計算せよ。)結論として、テイラーの定理から次の近似が導かれる:",
"title": "一変数の場合"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "例えば、この近似から小数点以下五桁まで正しい小数表示 e ≈ 2.71828 {\\displaystyle e\\approx 2.71828} が得られる。",
"title": "一変数の場合"
},
{
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"tag": "p",
"text": "関数 f: R → R が a ∈ R において微分可能であることは、次と同値である。",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
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"text": "となるような線型汎関数 L: R → R と関数 h: R → R が存在する。",
"title": "テイラーの定理の一般化"
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{
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"tag": "p",
"text": "この条件が成り立つとき、L = df(a) は点 a における f の(一意的に定義される)微分である。さらに、このとき f の a における偏微分が存在し、f の a における微分は",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
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"text": "によって与えられる。",
"title": "テイラーの定理の一般化"
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{
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"text": "次のような多重指数表記を導入する。α ∈ N と x ∈ R に対して、",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
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"tag": "p",
"text": "f: R → R のすべての k 階偏導関数が a ∈ R において連続ならば、クレローの定理より、a における混合微分の順序を入れ替えることができ、したがって高階偏導関数に対する表記",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
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"text": "がこの状況において正当化される。f のすべての (k − 1) 階偏導関数が a のある近傍において存在し a において微分可能であれば、同じことが正しい。このとき f は点 a において k 回微分可能であるという。",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
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"text": "テイラーの定理の多変数版 ― f: R → R を点 a∈R において k 回微分可能な関数とする。このとき次を満たす hα: R→R が存在する:",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
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"tag": "p",
"text": "関数 f: R → R が閉球 B において k + 1 回連続微分可能ならば、f の k + 1 階偏導関数を用いてこの近傍において剰余項の正確な公式を導出できる。すなわち、",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このとき、コンパクト集合 B における k + 1 階偏導関数の連続性によって、ただちに次の一様評価を得る。",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "例えば、関数 f: R → R の三階のテイラー多項式は、x − a = v と書いて、",
"title": "テイラーの定理の一般化"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "f は点 a ∈ R で k 回微分可能であることから a の適当な近傍で k-1 回微分可能である。この近傍の上で",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "と定める。ただし",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ここで j = 0,1,...,k−1 に対し f ( j ) ( a ) − P k ( j ) ( a ) = 0 {\\displaystyle f^{(j)}(a)-P_{k}^{(j)}(a)=0} であるから、ロピタルの定理を k−1 回適用すると",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ここで最後の等式は点 a での微分の定義による。従って",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "簡単のために a<x とする。まず任意の実関数 G で閉区間 [a, x] で連続、開区間 (a, x) で微分可能、さらに導関数 G' の値が開区間上で非0となるものを考える。",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "次に関数 F を",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "と定めると、 F は閉区間 [a, x] で連続、開区間 (a, x) で微分可能である。するとコーシーの平均値の定理により",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "を満たす点 ξ∈(a,x) が存在する。F の導関数を計算すると、",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "これを(*)に代入して計算すると",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ここで G ( t ) = ( t − x ) k + 1 {\\displaystyle G(t)=(t-x)^{k+1}} と定めればラグランジュの剰余項、 G ( t ) = t − a {\\displaystyle G(t)=t-a} と定めればコーシーの剰余項が得られる。",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "簡単のために a<x とする。まず f が閉区間 [a, x] で絶対連続 であることから、その導関数 f が L-関数 の意味で存在する。ここで部分積分を繰り返し用いると",
"title": "証明"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "最後の項 R k + 1 ( x ) = ∫ a x f ( k + 1 ) ( t ) k ! ( x − t ) k d t {\\displaystyle R_{k+1}(x)=\\int _{a}^{x}{\\frac {f^{(k+1)}(t)}{k!}}(x-t)^{k}\\,dt} が求める剰余項である。",
"title": "証明"
}
] |
微分積分学において、テイラーの定理は、k 回微分可能な関数の与えられた点のまわりでの近似を k 次のテイラー多項式によって与える。解析関数に対しては、与えられた点におけるテイラー多項式は、そのテイラー級数を有限項で切ったものである。テイラー級数は関数を点のある近傍において完全に決定する。「テイラーの定理」の正確な内容は1つに定まっているわけではなくいくつかのバージョンがあり、状況に応じて使い分けられる。バージョンのいくつかは関数のテイラー多項式による近似誤差の明示的な評価を含んでいる。 テイラーの定理は1712年に1つのバージョンを述べた数学者ブルック・テイラー にちなんで名づけられている。しかし誤差の明示的な表現はかなり後になってジョゼフ=ルイ・ラグランジュ によってはじめて与えられた。結果の初期のバージョンはすでに1671年にジェームス・グレゴリー によって言及されている。 テイラーの定理は微分積分学の入門レベルで教えられ、解析学の中心的な初等的道具の1つである。純粋数学ではより進んだ漸近解析の入り口であり、より応用的な分野の数値解析や数理物理学においてよく使われている。テイラーの定理は任意次元 n, m の多変数ベクトル値関数 f: Rn → Rm にも一般化する。テイラーの定理のこの一般化は微分幾何学や偏微分方程式において現れるいわゆるジェットの定義の基礎である。
|
{{calculus}}
[[image:Mercator series.svg|thumb|right|関数 {{math|''f''(''x'') {{=}} log ''x''}} の点 {{math|''x'' {{=}} 1}} における多項式 {{math|''p''<sub>''n''</sub>(''x'') {{=}} Σ{{SubSup||''k'' {{=}} 0|''n''}}(''x'' − 1)<sup>''k''</sup>''f''<sup>(''k'')</sup>(1)/''k''!}} による近似]]
[[File:Taylorspolynomialexbig.svg|thumb|right|300px|指数関数 ''y'' = ''e''<sup>''x''</sup>(赤の実線)と原点のまわりでのその4次のテイラー多項式(緑の破線)。]]
[[微分積分学]]において、'''テイラーの定理'''(テイラーのていり、{{lang-en-short|Taylor's theorem}})は、''k'' 回[[微分可能関数|微分可能]]な[[関数 (数学)|関数]]の与えられた点のまわりでの近似を ''k'' 次の'''テイラー[[多項式]]'''によって与える。[[解析関数]]に対しては、与えられた点におけるテイラー多項式は、その[[テイラー級数]]を有限項で切ったものである。テイラー級数は関数を点のある近傍において完全に決定する。「テイラーの定理」の正確な内容は1つに定まっているわけではなくいくつかのバージョンがあり、状況に応じて使い分けられる。バージョンのいくつかは関数のテイラー多項式による近似誤差の明示的な評価を含んでいる。
テイラーの定理は[[1712年]]に1つのバージョンを述べた数学者[[ブルック・テイラー]] (Brook Taylor) にちなんで名づけられている。しかし誤差の明示的な表現はかなり後になって[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]] (Joseph-Louis Lagrange) によってはじめて与えられた。結果の初期のバージョンはすでに[[1671年]]に[[ジェームス・グレゴリー]] (James Gregory) によって言及されている<ref>{{harvnb|Kline|1972|pp=442, 464}}</ref>。
テイラーの定理は微分積分学の入門レベルで教えられ、[[解析学]]の中心的な初等的道具の1つである。純粋数学ではより進んだ{{仮リンク|漸近解析|en|asymptotic analysis}}の入り口であり、より応用的な分野の[[数値解析]]や[[数理物理学]]においてよく使われている。テイラーの定理は任意[[次元]] ''n'', ''m'' の[[多変数関数|多変数]][[空間ベクトル|ベクトル値]]関数 {{nowrap|''f'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R'''<sup>''m''</sup>}} にも一般化する。テイラーの定理のこの一般化は[[微分幾何学]]や[[偏微分方程式]]において現れるいわゆる{{仮リンク|ジェット (数学)|label=ジェット|en|Jet (mathematics)}}の定義の基礎である。
<!--
''R''<sub>''n''</sub> の大きさを評価することで、近似がどれだけ正確であるかが分かる。''f'' が無限回微分可能であり、''R''<sub>''n''</sub> が0に収束する場合、すなわち
:<math>\lim_{n \to \infty}R_n(x) = 0</math>
である場合、''f''(''x'') は[[テイラー展開]]が可能である。そのとき ''f'' は'''[[解析関数|解析的]]'''(analytic)であるといわれる。
テイラーの定理は[[平均値の定理]]を一般化したものになっている。実際、上の式において ''n'' = 1 としたもの、つまり
:<math>f(x) = f(a) + f'(c)(x-a)</math>
は平均値の定理に他ならない。また、テイラーの定理の証明には平均値の定理が用いられる。剰余項を積分表示したもの(ベルヌーイの剰余)を証明するには[[微積分学の基本定理]]を用いる。
-->
== 動機 ==
{{empty section}}
== 一変数の場合 ==
=== 定理の主張 ===
テイラーの定理の最も基本的なバージョンの正確なステートメントは次のようになる:
{{math theorem|name='''テイラーの定理'''<ref>{{ citation|first1=Angelo|last1=Genocchi|first2= Giuseppe|last2=Peano|title=Calcolo differenziale e principii di calcolo integrale|location=(N. 67, p.XVII-XIX)|publisher=Fratelli Bocca ed.|year=1884}}</ref><ref>{{Citation | last1=Spivak | first1=Michael | author1-link=Michael Spivak | title=Calculus | publisher=Publish or Perish | location=Houston, TX | edition=3rd | isbn=978-0-914098-89-8 | year=1994| page=383}}</ref><ref>{{springerEOM|title=Taylor formula|id=Taylor_formula}}</ref>
|1=''k'' ≥ 1 を[[整数]]とし[[関数 (数学)|関数]] {{nowrap|''f'': '''R''' → '''R'''}} を点 {{nowrap|''a'' ∈ '''R'''}} で ''k'' 回微分可能とする。すると次を満たす関数 {{nowrap|''h<sub>k</sub>'': '''R''' → '''R'''}} が存在する:
:<math> f(x) = f(a) + f'(a)(x-a) + \frac{f''(a)}{2!}(x-a)^2 + \cdots + \frac{f^{(k)}(a)}{k!}(x-a)^k + h_k(x)(x-a)^k,</math>
:<math>\lim_{x\to a}h_k(x)=0.</math>
これは'''[[ペアノ]]の剰余項'''と呼ばれる。}}
テイラーの定理に現れる多項式は関数 ''f'' の点 ''a'' における '''''k'' 次のテイラー多項式'''
:<math>P_k(x) = f(a) + f'(a)(x-a) + \frac{f''(a)}{2!}(x-a)^2 + \cdots + \frac{f^{(k)}(a)}{k!}(x-a)^k </math>
である。テイラー多項式は次のような意味で「漸近的に最もフィットする」唯一の多項式である、すなわち、関数 {{nowrap|''h<sub>k</sub>'': '''R''' → '''R'''}} と ''k'' 次多項式 ''p'' が存在して
:<math> f(x) = p(x) + h_k(x)(x-a)^k, \quad \lim_{x\to a}h_k(x)=0</math>
となるならば、''p'' = ''P<sub>k</sub>'' である。テイラーの定理は'''剰余項'''
:<math> r_k(x) = f(x) - P_k(x)</math>
の漸近的な振る舞いを記述する。これは ''f'' をテイラー多項式で近似するときの[[近似誤差]]である。[[ランダウの記号]]を用いれば、テイラーの定理のステートメントは次のように書ける:
:<math>r_k(x) = o(|x-a|^k), \quad x\to a.</math>
=== 剰余項の明示公式 ===
''f'' へのより強い正則性の仮定のもとで、テイラー多項式の剰余項
:<math>R_{k+1}(x)=r_k(x)=f(x) - P_k(x)</math>
に対するいくつかの正確な公式がある。最も一般的なものたちは以下のものである。
{{math theorem|name='''平均値形の剰余項'''|1=
{{nowrap|''f'': '''R''' → '''R'''}} を[[閉区間]] {{nowrap|[''a'', ''x'']}} 上 ''k'' 回[[滑らかな関数|連続微分可能]]、[[開区間]] {{nowrap|(''a'', ''x'')}} 上 ''k'' + 1 (''k'' ≥ 0) 回[[微分可能関数|微分可能]]であるとする。 (''x''<''a'' のときは区間をそれぞれ {{nowrap|[''x'', ''a'']}}, {{nowrap|(''x'', ''a'')}} とする。) このとき
:<math> R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(\xi_{\mathrm{L}})}{(k+1)!} (x-a)^{k+1} </math>
となる実数 ''ξ''<sub>L</sub> が ''a'' と ''x'' の間(両端は含まない)に存在する。これは'''[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]の剰余項'''<ref>{{harvnb|Kline|1998|loc=§20.3}}; {{harvnb|Apostol|1967|loc=§7.7}}.</ref>である。同様に、
:<math> R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(\xi_{\mathrm{C}})}{k!}(x-\xi_C)^k(x-a) </math>
となる実数 ''ξ''<sub>C</sub> が ''a'' と ''x'' の間に存在する。これは'''[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]の剰余項'''<ref>{{harvnb|Apostol|1967|loc=§7.7}}.</ref>である。<math>\theta=\frac{\xi-a}{x-a}\in(0,1)\;(\xi=\xi_{\mathrm{L}},\xi_{\mathrm{C}})</math> とおくことにより、剰余項はそれぞれ次の形と同値である{{sfn|ハイラー|ヴァンナー|2012|loc=定理(7.14)}}。
:<math>R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(a+\theta(x-a))}{(k+1)!} (x-a)^{k+1},</math>
:<math>R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(a+\theta(x-a))}{k!} (1-\theta)^{k} (x-a)^{k+1}.</math>
}}
テイラーの定理のこれらの改良は通常[[平均値の定理]]を用いて証明されるため、その名前がある。また他の同様の表示も見つけられる。例えば、''G''(''t'') が閉区間上連続、開区間上で微分可能で[[導関数]]の値が非0ならば、
:<math> R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(\xi)}{k!}(x-\xi)^k \frac{G(x)-G(a)}{G'(\xi)} </math>
となる数 ''ξ'' が存在する。このバージョンはラグランジュとコーシーの剰余項を特別な場合として含んでおり、以下で[[コーシーの平均値の定理]]を用いて証明される。
積分形の剰余のステートメントはこれまでのものより進んでおり完全な一般性には[[ルベーグ積分]]論の理解が要求される。しかしながら、''f'' の (''k'' + 1) 階微分が閉区間 [''a'', ''x''] 上連続であるならば、[[リーマン積分]]の意味でも成り立つ。
{{math theorem|name='''積分形の剰余項'''<ref>{{harvnb|Apostol|1967|loc=§7.5}}.</ref>|1=
''f''<sup>(''k'')</sup> を ''a'' と ''x'' の間の閉区間上[[絶対連続]]とする。すると
:<math> R_{k+1}(x) = \int_a^x \frac{f^{(k+1)} (t)}{k!} (x - t)^k \, dt. </math>}}
これはベルヌーイの剰余{{sfn|ハイラー|ヴァンナー|2012|loc=定理(7.13)}}とも呼ばれる。閉区間上の ''f''<sup>(''k'')</sup> の絶対連続性により、導関数 ''f''<sup>(''k''+1)</sup> は ''L''<sup>1</sup> 関数として存在し、結果は[[微分積分学の基本定理]]と[[部分積分]]を用いた形式的な計算により証明できる。
<!--
;ロッシュ-シュレミルヒの剰余
:<math>(0<p \le n)</math> となる任意の実数''p''について、
::<math>R_n(x) = \frac{f^{(n)}(a+\theta(x-a))}{(n-1)! p} (1-\theta)^{n-p} (x-a)^{n}</math>
:を満たすような''θ''が開区間 (''0'', ''1'') 内に存在する。
-->
=== 剰余項の評価 ===
テイラー近似に現れる項の剰余項の正確な公式があるよりはむしろそれを評価できることの方が実用上しばしば有用である。''f'' が ''a'' を含む区間 ''I'' において (''k'' + 1) 回連続微分可能とする。実定数 ''q'', ''Q'' が存在して ''I'' 上
:<math>q\le f^{(k+1)}(x)\le Q</math>
とする。このとき剰余項は {{nowrap|''x'' > ''a''}} のとき不等式
:<math>q\frac{(x-a)^{k+1}}{(k+1)!}\le R_{k+1}(x)\le Q\frac{(x-a)^{k+1}}{(k+1)!},</math>
を満たし<ref>{{harvnb|Apostol|1967|loc=§7.6}}</ref>、{{nowrap|''x'' < ''a''}} のときも同様の評価が成り立つ。これはラグランジュの剰余の単純な帰結である。とくに、ある ''r'' > 0 で区間 {{nowrap|''I'' {{=}} (''a''−''r'', ''a''+''r'')}} 上
:<math>|f^{(k+1)}(x)|\leq M</math>
ならば、すべての {{nowrap|''x'' ∈ (''a''−''r'', ''a''+''r'')}} に対して
:<math>|R_{k+1}(x)| \le M\frac{|x-a|^{k+1}}{(k+1)!}\le M\frac{r^{k+1}}{(k+1)!}</math>
である。第二の不等式は[[一様収束|一様評価]]と呼ばれる。区間 {{nowrap|(''a''−''r'', ''a''+''r'')}} 上すべての ''x'' に対して一様に成り立つからである。
=== 例 ===
[[File:Expanimation.gif|thumb|400px|right|''e''<sup>''x''</sup>(青)の ''x'' = 0 を中心とする次数 ''k'' = 1, ..., 7 のテイラー多項式 ''P<sub>k</sub>''(赤)による近似。]]
関数 {{nowrap|''f''(''x'') {{=}} ''e''<sup>''x''</sup>}} を区間 {{nowrap|[−1, 1]}} 上で誤差が 10<sup>−5</sup> を超えないように[[近似]]したいとしよう。この例で我々は[[指数関数]]の次の性質しか知らないとしよう:
:<math>(*) \qquad e^0=1, \qquad \frac{d}{dx} e^x = e^x, \qquad e^x>0, \qquad x\in\mathbb{R}.</math>
これらの性質から次のことが従う。すべての ''k'' に対して {{nowrap|''f''<sup>(''k'')</sup>(''x'') {{=}} ''e''<sup>''x''</sup>}} であり、とくに、{{nowrap|''f''<sup>(''k'')</sup>(0) {{=}} 1}} である。したがって ''f'' の 0 における ''k'' 次のテイラー多項式とそのラグランジュの剰余項は
:<math> P_k(x) = 1+x+\frac{x^2}{2!}+\cdots+\frac{x^k}{k!}, \qquad R_{k+1}(x)=\frac{e^\xi}{(k+1)!}x^{k+1}</math>
によって与えられる、ただし ''ξ'' は 0 と ''x'' の間のある数である。''e''<sup>''x''</sup> は (*) によって増加関数だから、部分区間 [−1, 0] 上で剰余項を評価するのに単純に ''e<sup>x</sup>'' ≤ 1 (''x'' ∈ [−1, 0]) を使うことができる。[0, 1] 上の剰余の上界を得るには、0<''ξ''<''x'' に対して {{nowrap|''e<sup>ξ</sup>''<''e<sup>x</sup>''}} という性質を用いて、二次のテイラー展開を用いて
:<math> e^x = 1 + x + \frac{e^\xi}{2}x^2 < 1 + x + \frac{e^x}{2}x^2, \qquad 0 < x\leq 1 </math>
と評価できる。''e<sup>x</sup>'' について解いて、単純に[[分子]]を最大化、[[分母]]を最小化して、
:<math> e^x \leq \frac{1+x}{1-\frac{x^2}{2}} = 2\frac{1+x}{2-x^2} \leq 4, \qquad 0 \leq x\leq 1 </math>
を得る。''e<sup>x</sup>'' に対するこれらの評価を組み合わせて、
:<math> |R_{k+1}(x)| \leq \frac{4|x|^{k+1}}{(k+1)!} \leq \frac{4}{(k+1)!}, \qquad -1\leq x \leq 1 </math>
となるので、要求された正確さは
:<math> \frac{4}{(k+1)!} < 10^{-5} \quad \Leftrightarrow \quad 4\cdot 10^5 < (k+1)! \quad \Leftrightarrow \quad k \geq 9 </math>
のときに確かに達成されている。(値 9! = 362 880 および 10! = 3 628 800 は[[階乗]]を参照するか手計算せよ。)結論として、テイラーの定理から次の近似が導かれる:
:<math> e^x = 1+x+\frac{x^2}{2!} + \ldots + \frac{x^9}{9!} + R_9(x), \qquad |R_9(x)| < 10^{-5}, \qquad -1\leq x \leq 1. </math>
例えば、この近似から小数点以下五桁まで正しい[[小数]]表示 <math>e \approx 2.71828</math> が得られる。
== 解析性との関連 ==
{{empty section}}
== テイラーの定理の一般化 ==
=== 高次の微分可能性 ===
関数 ''f'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R''' が '''''a''''' ∈ '''R'''<sup>''n''</sup> において[[導関数|微分可能]]であることは、次と[[同値]]である。
:<math>f(\boldsymbol{x}) = f(\boldsymbol{a}) + L(\boldsymbol{x}-\boldsymbol{a}) + h(\boldsymbol{x})|\mathbf{x}-\mathbf{a}|,
\qquad \lim_{\boldsymbol{x}\to\boldsymbol{a}}h(\boldsymbol{x})=0 </math>
となるような[[線型汎関数]] ''L'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R''' と関数 ''h'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R''' が存在する。
この条件が成り立つとき、''L'' = ''df''('''''a''''') は点 '''''a''''' における ''f'' の(一意的に定義される)[[関数の微分|微分]]である。さらに、このとき ''f'' の '''''a''''' における[[偏微分]]が存在し、''f'' の '''''a''''' における微分は
:<math> df( \boldsymbol{a} )( \boldsymbol{v} ) = \frac{\partial f}{\partial x_1}(\boldsymbol{a})v_1 + \cdots + \frac{\partial f}{\partial x_n}(\boldsymbol{a})v_n </math>
によって与えられる。
次のような[[多重指数]]表記を導入する。''α'' ∈ '''N'''<sup>''n''</sup> と '''''x''''' ∈ '''R'''<sup>''n''</sup> に対して、
:<math> |\alpha| = \alpha_1+\cdots+\alpha_n, \quad \alpha!=\alpha_1!\cdots\alpha_n!, \quad \boldsymbol{x}^\alpha=x_1^{\alpha_1}\cdots x_n^{\alpha_n}. </math>
{{nowrap|''f'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R'''}} のすべての ''k'' 階[[偏導関数]]が {{nowrap|'''''a''''' ∈ '''R'''<sup>''n''</sup>}} において連続ならば、[[二階微分の対称性|クレローの定理]]より、'''''a''''' における混合微分の順序を入れ替えることができ、したがって高階偏導関数に対する表記
:<math> D^\alpha f = \frac{\partial^{|\alpha|}f}{\partial x_1^{\alpha_1}\cdots \partial x_n^{\alpha_n}}, \qquad |\alpha|\leq k </math>
がこの状況において正当化される。''f'' のすべての (''k'' − 1) 階偏導関数が '''''a''''' のある近傍において存在し '''''a''''' において微分可能であれば、同じことが正しい<ref>このことは、関数 ''f'' の偏導関数が '''''a''''' の近傍において存在し '''''a''''' において連続であるならば関数は '''''a''''' において微分可能であるという定理を繰り返し適用することによって従う。例えば次を参照。{{harvnb|Apostol|1974|loc=Theorem 12.11}}.</ref>。このとき ''f'' は'''点 ''a'' において ''k'' 回微分可能である'''という。
=== 多変数関数に対するテイラーの定理 ===
{{math theorem|name=テイラーの定理の多変数版<ref>Königsberger Analysis 2, po. 64ff.</ref>|1=
{{nowrap|''f'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R'''}} を点 {{nowrap|'''''a'''''∈'''R'''<sup>''n''</sup>}} において ''k'' 回微分可能な関数とする。このとき次を満たす {{nowrap|''h''<sub>''α''</sub>: '''R'''<sup>n</sup>→'''R'''}} が存在する:
:<math>f(\boldsymbol{x}) = \sum_{|\alpha|\leq k} \frac{D^\alpha f(\boldsymbol{a})}{\alpha!} (\boldsymbol{x}-\boldsymbol{a})^\alpha + \sum_{|\alpha|=k} h_\alpha(\boldsymbol{x})(\boldsymbol{x}-\boldsymbol{a})^\alpha,</math>
:<math>\lim_{\boldsymbol{x}\to \boldsymbol{a}}h_\alpha(\boldsymbol{x})=0.</math>}}
関数 {{nowrap|''f'': '''R'''<sup>''n''</sup> → '''R'''}} が[[閉球]] ''B'' において ''k'' + 1 回[[連続微分可能]]ならば、''f'' の ''k'' + 1 階偏導関数を用いてこの近傍において剰余項の正確な公式を導出できる。すなわち、
:<math> \begin{align}& f( \boldsymbol{x} ) = \sum_{|\alpha|\leq k} \frac{D^\alpha f(\boldsymbol{a})}{\alpha!} (\boldsymbol{x}-\boldsymbol{a})^\alpha + \sum_{|\beta|=k+1} R_\beta(\boldsymbol{x})(\boldsymbol{x}-\boldsymbol{a})^\beta, \\&
R_\beta( \boldsymbol{x} ) = \frac{|\beta|}{\beta!} \int_0^1 (1-t)^{|\beta|-1}D^\beta f \big(\boldsymbol{a}+t( \boldsymbol{x}-\boldsymbol{a} )\big) \, dt. \end{align}
</math>
このとき、[[コンパクト集合]] ''B'' における ''k'' + 1 階偏導関数の[[連続関数|連続性]]によって、ただちに次の一様評価を得る。
:<math>\left|R_\beta(\boldsymbol{x})\right| \leq \frac{1}{\beta!} \max_{|\alpha|=|\beta|} \max_{\boldsymbol{y}\in B} |D^\alpha f(\boldsymbol{y})|, \qquad \boldsymbol{x}\in B. </math>
=== 2次元での例 ===
例えば、関数 ''f'': '''R'''<sup>''2''</sup> → '''R''' の三階のテイラー多項式は、'''''x''''' − '''''a''''' = '''''v''''' と書いて、
:<math>\begin{align}
P_3(\boldsymbol{x}) = f ( \boldsymbol{a} ) + &\frac{\partial f}{\partial x_1}( \boldsymbol{a} ) v_1 + \frac{\partial f}{\partial x_2}( \boldsymbol{a} ) v_2 + \frac{\partial^2 f}{\partial^2 x_1}( \boldsymbol{a} ) \frac {v_1^2}{2!} + \frac{\partial^2 f}{\partial x_1 \partial x_2}( \boldsymbol{a} ) v_1 v_2 + \frac{\partial^2 f}{\partial^2 x_2}( \boldsymbol{a} ) \frac{v_2^2}{2!} \\
& + \frac{\partial^3 f}{\partial x_1^3}( \boldsymbol{a} ) \frac{v_1^3}{3!} + \frac{\partial^3 f}{\partial^2 x_1 \partial x_2}( \boldsymbol{a} ) \frac{v_1^2 v_2}{2!} + \frac{\partial^3 f}{\partial x_1 \partial^2 x_2}( \boldsymbol{a} ) \frac{v_1 v_2^2}{2!} + \frac{\partial^3 f}{\partial^3 x_2}( \boldsymbol{a} ) \frac{v_2^3}{3!}
\end{align}</math>
== 証明 ==
=== 一変数の場合のテイラーの定理の証明 ===
''f'' は点 {{nowrap|''a'' ∈ '''R'''}} で ''k'' 回微分可能であることから ''a'' の適当な近傍で {{nowrap|''k''-1}} 回微分可能である。この近傍の上で
:<math>h_k(x) = \begin{cases}
\dfrac{f(x) - P_k(x)}{(x-a)^k} & x\not=a\\
0&x=a
\end{cases}
</math>
と定める。ただし
:<math>P_k(x) = f(a) + f'(a)(x-a) + \frac{f''(a)}{2!}(x-a)^2 + \cdots + \frac{f^{(k)}(a)}{k!}(x-a)^k</math>
ここで {{nowrap|''j'' {{=}} 0,1,...,''k''−1}} に対し <math>f^{(j)}(a)-P_k^{(j)}(a)=0</math> であるから、[[ロピタルの定理]]を {{nowrap|''k''−1}} 回適用すると
:<math>\begin{align}
\lim_{x\to a} \frac{f(x) - P_k(x)}{(x-a)^k}
&= \lim_{x\to a} \frac{(d/dx)(f(x) - P_k(x))}{(d/dx)(x-a)^k}
= \cdots
= \lim_{x\to a} \frac{(d/dx)^{k-1}(f(x) - P_k(x))}{(d/dx)^{k-1}(x-a)^k}\\
&=\frac{1}{k!}\lim_{x\to a} \left[ \frac{f^{(k-1)}(x) - f^{(k-1)}(a)}{x-a} - f^{(k)}(a)\right] \\
&=\frac{1}{k!}(f^{(k)}(a) - f^{(k)}(a))
= 0
\end{align}</math>
ここで最後の等式は点 ''a'' での微分の定義による。従って
:<math>\lim_{x\to a} h_k(x) =0</math>
=== 剰余項の明示公式の導出 ===
簡単のために {{nowrap|''a''<''x''}} とする。まず任意の実関数 ''G'' で[[区間 (数学)|閉区間]] {{nowrap|[''a'', ''x'']}} で[[連続 (数学)|連続]]、[[区間 (数学)|開区間]] {{nowrap|(''a'', ''x'')}} で微分可能、さらに[[微分|導関数]] ''G''' の値が開区間上で非0となるものを考える。
次に関数 ''F'' を
:<math>F(t) = f(t) + f'(t)(x-t) + \frac{f''(t)}{2!}(x-t)^2 + \cdots + \frac{f^{(k)}(t)}{k!}(x-t)^k</math>
と定めると、 ''F'' は閉区間 {{nowrap|[''a'', ''x'']}} で連続、開区間 {{nowrap|(''a'', ''x'')}} で微分可能である。すると[[コーシーの平均値の定理]]により
:<math>(*) \quad \frac{F'(\xi)}{G'(\xi)} = \frac{F(x)-F(a)}{G(x)-G(a)} = \frac{R_{k+1}(x)}{G(x)-G(a)}</math>
を満たす点 {{nowrap|''ξ''∈(''a'',''x'')}} が存在する。''F'' の導関数を計算すると、
:<math>\begin{align}
F'(t) = {} & f'(t) + \big(f''(t)(x-t) - f'(t)\big) + \left(\frac{f^{(3)}(t)}{2!}(x-t)^2 - \frac{f^{(2)}(t)}{1!}(x-t)\right) + \cdots \\
& \cdots + \left( \frac{f^{(k+1)}(t)}{k!}(x-t)^k - \frac{f^{(k)}(t)}{(k-1)!}(x-t)^{k-1}\right) \\
= {} & \frac{f^{(k+1)}(t)}{k!}(x-t)^k
\end{align}</math>
これを(*)に代入して計算すると
:<math>R_{k+1}(x) = \frac{f^{(k+1)}(\xi)}{k!}(x-\xi)^k \frac{G(x)-G(a)}{G'(\xi)}</math>
ここで <math>G(t)=(t-x)^{k+1}</math> と定めればラグランジュの剰余項、 <math>G(t)=t-a</math> と定めればコーシーの剰余項が得られる。
=== 積分形の剰余項の導出 ===
簡単のために {{nowrap|''a''<''x''}} とする。まず ''f''<sup>(''k'')</sup> が閉区間 {{nowrap|[''a'', ''x'']}} で[[絶対連続]] であることから、その導関数 ''f''<sup>(''k''+1)</sup> が [[Lp空間#Lp_空間|''L''<sup>1</sup>-関数]] の意味で存在する。ここで[[部分積分]]を繰り返し用いると
:<math>\begin{align}
f(x) &= f(a) + \int_a^x f'(t)\,dt \\
&= f(a) - \Big[(x-t)f'(t)\Big]_a^x + \int_a^x (x-t)f''(t)\,dt \\
&= f(a) + (x-a)f'(a) + \int_a^x (x-t)f''(t)\,dt \\
&= f(a) + (x-a)f'(a) + \frac{1}{2}(x-a)^2 f''(a) + \int_a^x \frac{1}{2}(x-t)^2f'''(t)\,dt \\
&= \dots \\
&= f(a) + \frac{f'(a)}{1!}(x-a) + \cdots + \frac{f^{(k)}(a)}{k!}(x-a)^k + \int_a^x \frac{f^{(k+1)} (t)}{k!} (x-t)^k\,dt
\end{align}</math>
最後の項 <math>R_{k+1}(x) = \int_a^x \frac{f^{(k+1)} (t)}{k!} (x-t)^k\,dt </math>が求める剰余項である。
== 関連項目 ==
* [[テイラー展開]]
* [[ローラン級数]]
* [[パデ近似]]
* {{仮リンク|ニュートン級数|en|Newton series}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book
|和書
|last1 = ハイラー
|first1 = E.
|last2 = ヴァンナー
|first2 = G.
|translator = 蟹江幸博
|year = 2012
|title = 解析教程
|url = {{google books|zML3A8iCmeUC|解析教程|page=98|plainurl=yes}}
|volume = 下
|publisher = 丸善出版
|isbn = 978-4-621-06190-9
|ref = harv
}}
* {{Cite book
| 和書
| last1 = 杉浦
| first1 = 光夫
| year = 1980
| title = 解析入門I
| series = 基礎数学2
| publisher = 東京大学出版会
| isbn = 978-4-13-062005-5
| ref = harv
}}
*{{citation
| title=Calculus
| authorlink=Tom Apostol
| first=Tom
| last=Apostol
| publisher=Wiley
| year=1967
| isbn=0-471-00005-1
}}.
*{{citation
| title=Mathematical analysis
| first=Tom
| last=Apostol
| publisher=Addison–Wesley
| year=1974
}}.
*{{citation
| first1=Robert G.
| last1=Bartle
| first2=Donald R.
| last2=Sherbert
| title=Introduction to Real Analysis
| edition=4th
| publisher=Wiley
| year=2011
| isbn=978-0-471-43331-6
}}.
*{{citation
| first=L.
| last=Hörmander
| authorlink=Lars Hörmander
| title=Linear Partial Differential Operators, Volume 1
| publisher=Springer
| year=1976
| isbn=978-3-540-00662-6
}}.
*{{citation
| title = Mathematical thought from ancient to modern times, Volume 2
| authorlink=Morris Kline
| first=Morris
| last=Kline
| publisher=Oxford University Press
| year=1972
}}.
*{{citation
| title=Calculus: An Intuitive and Physical Approach
| first=Morris
| last=Kline
| publisher=Dover
| year=1998
| isbn=0-486-40453-6
}}.
*{{citation
| last=Pedrick
| first=George
| year=1994
| title=A First Course in Analysis
| publisher=Springer
| isbn=0-387-94108-8
}}.
*{{citation
| last=Stromberg
| first=Karl
| title=Introduction to classical real analysis
| publisher=Wadsworth
| year=1981
| isbn=978-0-534-98012-2
}}.
*{{citation
| last=Rudin
| first=Walter
| title=Real and complex analysis
| edition=3rd
| publisher=McGraw-Hill
| year=1987
| isbn=0-07-054234-1
}}.
== 外部リンク ==
* [https://proofwiki.org/wiki/Taylor%27s_Theorem/One_Variable Proofs for a few forms of the remainder in one-variable case] at [https://proofwiki.org/ ProofWiki]
* [http://www.cut-the-knot.org/Curriculum/Calculus/TaylorSeries.shtml Taylor Series Approximation to Cosine] at [[cut-the-knot]]
* [http://cinderella.de/files/HTMLDemos/2C02_Taylor.html Trigonometric Taylor Expansion] interactive demonstrative applet
* [http://numericalmethods.eng.usf.edu/topics/taylor_series.html Taylor Series Revisited] at [http://numericalmethods.eng.usf.edu Holistic Numerical Methods Institute]
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[[Category:微分積分学の定理]]
[[Category:実解析の定理]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:証明を含む記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
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10,670 |
量子
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量子(りょうし、quantum)は、物理学において用いられる、様々な物理現象における物理量の最小単位である。主に巨視的な物理を取り扱う古典力学では、物理量は実数で表される連続量だが、量子力学では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば電気量は、電気素量の整数倍の値となる。
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量子(りょうし、quantum)は、物理学において用いられる、様々な物理現象における物理量の最小単位である。主に巨視的な物理を取り扱う古典力学では、物理量は実数で表される連続量だが、量子力学では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば電気量は、電気素量の整数倍の値となる。
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'''量子'''(りょうし、quantum)は、[[物理学]]において用いられる、様々な物理現象における[[物理量]]の最小[[単位]]である。主に巨視的な物理を取り扱う[[古典力学]]では、物理量は[[実数]]で表される'''連続[[量]]'''だが、[[量子力学]]では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば[[電荷|電気量]]は、[[電気素量]]の整数倍の値となる。
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[量子化 (物理学)]]
* [[量子化]] <!-- メインは物理学の内容ですが一応残しています -->
* [[量子コンピュータ]]
* [[量子暗号]]
* [[量子数]]
* [[量子状態]]
* [[量子もつれ]]
* [[量子テレポーテーション]]
* [[量子論]]
* [[場の量子論]]
** [[量子色力学]]
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[[Category:量子力学]]
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10,671 |
小陰唇
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小陰唇(しょういんしん、英: Labia minora)とは、陰核包皮と繋がる女性器の一部で、尿道口と膣口の両脇にある襞状の薄い肉びらのことである。女性が性的に興奮していない時は左右の小陰唇が閉じており、尿道や膣を保護している。男性における陰茎の皮膚に相当する。
性的興奮が起こると、閉じている小陰唇の血流が良くなり肉びらが膨張して左右に大きく開く。この時に、膣内および膣口が膣分泌液(バルトリン氏腺液やスキーン腺液)によって濡れている事が多く、男性器の挿入を容易にする。思春期頃に小陰唇は成長するが、型や長さは個人差が大きく陰核包皮の延長長に小さく見える女性もいれば、大陰唇からはみ出るほど大きく成長する女性もいる。
小陰唇の黒ずみや長さなどを気にする女性もおり、性交やオナニーのやり過ぎと言われる事があるが、これに関しては医学的な信憑性は一切ない。黒ずむ原因としては、下着や生理用品との摩擦により、メラニン色素が生成される事が挙げられる。他には、ホルモンバランスの乱れ、遺伝的な原因、加齢や不摂生も原因とされる。
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小陰唇とは、陰核包皮と繋がる女性器の一部で、尿道口と膣口の両脇にある襞状の薄い肉びらのことである。女性が性的に興奮していない時は左右の小陰唇が閉じており、尿道や膣を保護している。男性における陰茎の皮膚に相当する。 性的興奮が起こると、閉じている小陰唇の血流が良くなり肉びらが膨張して左右に大きく開く。この時に、膣内および膣口が膣分泌液(バルトリン氏腺液やスキーン腺液)によって濡れている事が多く、男性器の挿入を容易にする。思春期頃に小陰唇は成長するが、型や長さは個人差が大きく陰核包皮の延長長に小さく見える女性もいれば、大陰唇からはみ出るほど大きく成長する女性もいる。 小陰唇の黒ずみや長さなどを気にする女性もおり、性交やオナニーのやり過ぎと言われる事があるが、これに関しては医学的な信憑性は一切ない。黒ずむ原因としては、下着や生理用品との摩擦により、メラニン色素が生成される事が挙げられる。他には、ホルモンバランスの乱れ、遺伝的な原因、加齢や不摂生も原因とされる。
|
{{性的}}
{{Infobox 解剖学
| name=小陰唇
| 画像1=[[ファイル:Illu repdt female-nihongoban.png|300px]]
| 画像説明1=女性器の模式図
| 画像2=[[File:Vulva details.jpg|200px]]
| 画像説明2=小陰唇(画像内:labia minora)
| 英語=Labia minora
| ラテン語=labium minus pudendi
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| 動脈=
| 静脈=
| 神経=
}}
'''小陰唇'''(しょういんしん、{{lang-en-short|Labia minora}})とは、[[陰核包皮]]と繋がる[[女性器]]の一部で、[[尿道口]]と[[膣口]]の両脇にある襞状の薄い肉びらのことである。[[女性]]が性的に[[興奮]]していない時は左右の小陰唇が閉じており、[[尿道]]や[[膣]]を保護している。[[男性]]における[[陰茎]]の皮膚に相当する。
[[性的興奮]]が起こると、閉じている小陰唇の血流が良くなり肉びらが膨張して左右に大きく開く。この時に、膣内および膣口が[[膣分泌液]](バルトリン氏腺液やスキーン腺液)によって濡れている事が多く、[[男性器]]の挿入を容易にする。[[思春期]]頃に小陰唇は成長するが、型や長さは個人差が大きく[[陰核包皮]]の延長長に小さく見える女性もいれば、[[大陰唇]]からはみ出るほど大きく成長する女性もいる<ref>{{Wayback |url=http://www.miyake-clinic.gr.jp/sisyunki/sisyunki52.htm |title=三宅婦人科内科医院“思春期 外陰部の発育|date=20151122115253 }}</ref>。
小陰唇の黒ずみや長さなどを気にする女性もおり、[[性行為|性交]]や[[オナニー]]のやり過ぎと言われる事があるが、これに関しては'''医学的な信憑性は一切ない'''<ref name="PPAP">[https://otona.howcollect.jp/m/article/2342]</ref>。黒ずむ原因としては、下着や生理用品との摩擦により、メラニン色素が生成される事が挙げられる。他には、ホルモンバランスの乱れ、遺伝的な原因、加齢や不摂生も原因とされる<ref name="PPAP">[https://otona.howcollect.jp/m/article/2342]</ref>。
== 脚注 ==
<references />
== 関連画像 ==
<gallery>
ファイル:Female vulva 4 a.jpg|興奮前の小陰唇(左)と、性的興奮により膨張し左右に大きく開いた状態の小陰唇(右)
ファイル:大陰唇.jpg|図解による外性器の説明1
ファイル:Gray1229.png|図解による外性器の説明2
ファイル:Vulva anatomy.jpg|図解による外性器の説明3
</gallery>
== 関連項目 ==
* [[陰唇]]
* [[大陰唇]]
{{生殖器系}}
{{Medical-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しよういんしん}}
[[Category:外陰部]]
[[de:Schamlippe#Die kleinen (inneren) Schamlippen]]
[[sn:Hwabvu hutete]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%99%B0%E5%94%87
|
10,672 |
平均値の定理
|
微分積分学における平均値の定理(へいきんちのていり、英: mean-value theorem)または有限増分の定理 (仏: Théorème des accroissements finis) は、実函数に対して有界な領域上の積分に関わる大域的な値を、微分によって定まる局所的な値として実現する点が領域内に存在することを主張する。平均値の定理にはいくつかバリエーションがあるが、単に 「平均値の定理」 と言った場合は、ラグランジュの平均値の定理と呼ばれる微分に関する平均値の定理のことを指す場合が多い。
平均値の定理は微積分学の他の定理の証明(例えば、テイラーの定理、微分積分学の基本定理)にしばしば利用される、大変有用なものである。平均値の定理の証明自体にはロルの定理を用いる。その一方で、平均値の定理はそのまま多変数の関数に適用することはできない。また、もっと弱い条件の元でも同じ定理が成り立つ。その他種々の理由から、平均値の定理を使うこと避ける数学者もいる。多変数関数にも使えて、平均値の定理の代わりになるような定理として、有限増分不等式がある。これは存在型ではない。あるいは、積分を持ち込んで微積分学の基本定理で代用することもある。
平均値の定理の特別の場合について、最古の記述はインドのケーララ学派Parameshvara (1370–1460) によるGovindasvāmiおよびバースカラ2世に関する解説の中に見られる。制限された形の平均値定理は、1691年にミシェル・ロルが今日ロルの定理と呼ばれるものを、多項式に限って、微分積分学の手法を用いることなく示した。現代的な形の平均値定理を定式化し証明したのはオーギュスタン・ルイ・コーシーで、1823年のことである。
有限増分の定理と呼ばれる定理にもいくつか異なるバージョンがあり、後で述べる平均値の定理の別名でしかない場合もある
微分可能性に関しては、殆ど至る所微分可能や、殆ど至る所左側(resp. 右側)微分可能に緩めたもの、あるいは微分係数が∞となることを許す場合でも、適当な仮定のもとで成り立つ。また、絶対値をとれば結論の不等式を
のような形に書くこともできる。
a < b とし、f(x) を閉区間 [a, b] で連続で、開区間 (a, b) で微分可能な関数とする。このとき開区間 (a, b) 上に、ある点 c が存在して
が成り立つ。これを微分に関するラグランジュの平均値の定理という。左辺は、グラフにおいて (a, f(a)), (b, f(b)) を結ぶ線分(曲線の弦と呼ぶ)の傾き(= 平均変化率)であるから、ラグランジュの平均値の定理は弦と平行な接線(= 瞬間の変化率)を持つ点が a と b の間に存在するということがこの定理の主張である。つまり平均値の定理は存在型の定理である。
またラグランジュの平均値の定理は b = a + h {\displaystyle b=a+h} 、 c = a + θ h {\displaystyle c=a+\theta h} とおくと、(ただし 0 < θ < 1 )
とも表せる。
g ( x ) = f ( x ) − r x {\displaystyle g(x)=f(x)-rx} ( r {\displaystyle r} は定数)とすると、関数 f {\displaystyle f} が閉区間[a, b]で連続で、開区間(a, b)で微分可能ならば関数 g {\displaystyle g} も同様となる。
このとき、 g ( a ) = g ( b ) {\displaystyle g(a)=g(b)} となるならば、
だから、ロルの定理より g ′ ( c ) = 0 {\displaystyle g'(c)=0} となるc ∈ (a, b)が存在し、
∴ f ( b ) − f ( a ) b − a = f ′ ( c ) {\displaystyle {\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}=f'(c)} となるc ∈ (a, b)が存在する。
ラグランジュの平均値の定理の拡張として、f(x), g(x) を閉区間 [a, b] で連続で、開区間 (a, b) で微分可能な関数、区間内の各点 x において g' (x) ≠ 0, g(b) − g(a) ≠ 0 であるならば
なる c ∈ (a, b) が存在する。これをフランスの数学者コーシーにちなんでコーシーの平均値の定理という。特に g(x) = x である時がラグランジュの平均値の定理である。仮定「区間内の各点 x に対し g' (x) ≠ 0」はもう少し弱めて「区間内の各点 x で f' (x), g' (x) は同時に 0 にならない」としてよい。
コーシーの平均値の定理から極限をとると、系としてロピタルの定理(またはベルヌーイの定理)が導かれる。f(x), g(x) を f(a) = g(a) = 0 でありかつ a の十分近くで 0 にならない微分可能な関数とするとき、以下の定理を得る。
左の等号は f(a) = g(a) = 0 による。右の等号はコーシーの平均値の定理による。
関数 f(x) が有限の容積 vol(E) をもつ集合 E 上で有界かつ可積分ならば、f(x) の E における積分値を E において平均化した値は、 E における f(x) の上限 sup f(x) と下限 inf f(x) の間にある:
これを積分の第一平均値定理という。また、もう少し一般に拡張した形のものを指すこともあり、それは次のように述べられる。集合 E 上で f(x) が有界、g(x) が可積分ならば、積 f(x)g(x) は可積分であって、
となる定数 μ のうちに等式
を満たすものが存在する。ここで f(x) が連続ならば、E の点 ξ を適当に取れば μ = f(ξ) と書けることが中間値の定理から従う。特に一変数の場合を考えれば、有界な関数 f(x) が区間 [a, b] で連続かつ積分可能ならば
を満たす ξ が a < ξ < b の範囲に存在する。この式の左辺は、関数 f(x) が区間 [a, b] で掃く“符号付き”面積 ∫a f(x) dx を区間の全長(図形の横の長さ)b − a で割ったものである。したがってこの等式は、関数 f(x) が区間 [a, b] において掃く図形の平均の“符号付き”高さ(その符号付き面積を持つ図形を一定の符号付き高さに均したときの高さ)を実現する点が区間内に存在することを保証する。
第一平均値定理の系として、開区間 (a,b) において有界変動かつ連続な関数 F(x) と有界な単調関数 φ(x) に対して、φ(x) はルベーグ・スティルチェスの意味で F(x) に関して可積分であって、a < ξ < b で
を満たすものが存在することが示せる。これを第二平均値定理という。特に、開区間 (a,b) において、f(x) が可積分で φ(x) が有界かつ単調な関数であるならば、f(x) の不定積分が第二平均値定理にいう F(x) の条件を満たしているので、この場合の第二平均値定理の等式は
の形に表せる。
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"text": "微分積分学における平均値の定理(へいきんちのていり、英: mean-value theorem)または有限増分の定理 (仏: Théorème des accroissements finis) は、実函数に対して有界な領域上の積分に関わる大域的な値を、微分によって定まる局所的な値として実現する点が領域内に存在することを主張する。平均値の定理にはいくつかバリエーションがあるが、単に 「平均値の定理」 と言った場合は、ラグランジュの平均値の定理と呼ばれる微分に関する平均値の定理のことを指す場合が多い。",
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"text": "平均値の定理は微積分学の他の定理の証明(例えば、テイラーの定理、微分積分学の基本定理)にしばしば利用される、大変有用なものである。平均値の定理の証明自体にはロルの定理を用いる。その一方で、平均値の定理はそのまま多変数の関数に適用することはできない。また、もっと弱い条件の元でも同じ定理が成り立つ。その他種々の理由から、平均値の定理を使うこと避ける数学者もいる。多変数関数にも使えて、平均値の定理の代わりになるような定理として、有限増分不等式がある。これは存在型ではない。あるいは、積分を持ち込んで微積分学の基本定理で代用することもある。",
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"text": "平均値の定理の特別の場合について、最古の記述はインドのケーララ学派Parameshvara (1370–1460) によるGovindasvāmiおよびバースカラ2世に関する解説の中に見られる。制限された形の平均値定理は、1691年にミシェル・ロルが今日ロルの定理と呼ばれるものを、多項式に限って、微分積分学の手法を用いることなく示した。現代的な形の平均値定理を定式化し証明したのはオーギュスタン・ルイ・コーシーで、1823年のことである。",
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"text": "微分可能性に関しては、殆ど至る所微分可能や、殆ど至る所左側(resp. 右側)微分可能に緩めたもの、あるいは微分係数が∞となることを許す場合でも、適当な仮定のもとで成り立つ。また、絶対値をとれば結論の不等式を",
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"text": "のような形に書くこともできる。",
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"text": "a < b とし、f(x) を閉区間 [a, b] で連続で、開区間 (a, b) で微分可能な関数とする。このとき開区間 (a, b) 上に、ある点 c が存在して",
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"text": "が成り立つ。これを微分に関するラグランジュの平均値の定理という。左辺は、グラフにおいて (a, f(a)), (b, f(b)) を結ぶ線分(曲線の弦と呼ぶ)の傾き(= 平均変化率)であるから、ラグランジュの平均値の定理は弦と平行な接線(= 瞬間の変化率)を持つ点が a と b の間に存在するということがこの定理の主張である。つまり平均値の定理は存在型の定理である。",
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"text": "またラグランジュの平均値の定理は b = a + h {\\displaystyle b=a+h} 、 c = a + θ h {\\displaystyle c=a+\\theta h} とおくと、(ただし 0 < θ < 1 )",
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"text": "g ( x ) = f ( x ) − r x {\\displaystyle g(x)=f(x)-rx} ( r {\\displaystyle r} は定数)とすると、関数 f {\\displaystyle f} が閉区間[a, b]で連続で、開区間(a, b)で微分可能ならば関数 g {\\displaystyle g} も同様となる。",
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"text": "だから、ロルの定理より g ′ ( c ) = 0 {\\displaystyle g'(c)=0} となるc ∈ (a, b)が存在し、",
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"text": "∴ f ( b ) − f ( a ) b − a = f ′ ( c ) {\\displaystyle {\\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}=f'(c)} となるc ∈ (a, b)が存在する。",
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"text": "ラグランジュの平均値の定理の拡張として、f(x), g(x) を閉区間 [a, b] で連続で、開区間 (a, b) で微分可能な関数、区間内の各点 x において g' (x) ≠ 0, g(b) − g(a) ≠ 0 であるならば",
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"text": "なる c ∈ (a, b) が存在する。これをフランスの数学者コーシーにちなんでコーシーの平均値の定理という。特に g(x) = x である時がラグランジュの平均値の定理である。仮定「区間内の各点 x に対し g' (x) ≠ 0」はもう少し弱めて「区間内の各点 x で f' (x), g' (x) は同時に 0 にならない」としてよい。",
"title": "微分の平均値定理"
},
{
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"text": "コーシーの平均値の定理から極限をとると、系としてロピタルの定理(またはベルヌーイの定理)が導かれる。f(x), g(x) を f(a) = g(a) = 0 でありかつ a の十分近くで 0 にならない微分可能な関数とするとき、以下の定理を得る。",
"title": "微分の平均値定理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "左の等号は f(a) = g(a) = 0 による。右の等号はコーシーの平均値の定理による。",
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},
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"text": "関数 f(x) が有限の容積 vol(E) をもつ集合 E 上で有界かつ可積分ならば、f(x) の E における積分値を E において平均化した値は、 E における f(x) の上限 sup f(x) と下限 inf f(x) の間にある:",
"title": "積分の平均値定理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これを積分の第一平均値定理という。また、もう少し一般に拡張した形のものを指すこともあり、それは次のように述べられる。集合 E 上で f(x) が有界、g(x) が可積分ならば、積 f(x)g(x) は可積分であって、",
"title": "積分の平均値定理"
},
{
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"text": "となる定数 μ のうちに等式",
"title": "積分の平均値定理"
},
{
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"text": "を満たすものが存在する。ここで f(x) が連続ならば、E の点 ξ を適当に取れば μ = f(ξ) と書けることが中間値の定理から従う。特に一変数の場合を考えれば、有界な関数 f(x) が区間 [a, b] で連続かつ積分可能ならば",
"title": "積分の平均値定理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "を満たす ξ が a < ξ < b の範囲に存在する。この式の左辺は、関数 f(x) が区間 [a, b] で掃く“符号付き”面積 ∫a f(x) dx を区間の全長(図形の横の長さ)b − a で割ったものである。したがってこの等式は、関数 f(x) が区間 [a, b] において掃く図形の平均の“符号付き”高さ(その符号付き面積を持つ図形を一定の符号付き高さに均したときの高さ)を実現する点が区間内に存在することを保証する。",
"title": "積分の平均値定理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "第一平均値定理の系として、開区間 (a,b) において有界変動かつ連続な関数 F(x) と有界な単調関数 φ(x) に対して、φ(x) はルベーグ・スティルチェスの意味で F(x) に関して可積分であって、a < ξ < b で",
"title": "積分の平均値定理"
},
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"tag": "p",
"text": "を満たすものが存在することが示せる。これを第二平均値定理という。特に、開区間 (a,b) において、f(x) が可積分で φ(x) が有界かつ単調な関数であるならば、f(x) の不定積分が第二平均値定理にいう F(x) の条件を満たしているので、この場合の第二平均値定理の等式は",
"title": "積分の平均値定理"
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"text": "の形に表せる。",
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微分積分学における平均値の定理または有限増分の定理 は、実函数に対して有界な領域上の積分に関わる大域的な値を、微分によって定まる局所的な値として実現する点が領域内に存在することを主張する。平均値の定理にはいくつかバリエーションがあるが、単に 「平均値の定理」 と言った場合は、ラグランジュの平均値の定理と呼ばれる微分に関する平均値の定理のことを指す場合が多い。 平均値の定理は微積分学の他の定理の証明(例えば、テイラーの定理、微分積分学の基本定理)にしばしば利用される、大変有用なものである。平均値の定理の証明自体にはロルの定理を用いる。その一方で、平均値の定理はそのまま多変数の関数に適用することはできない。また、もっと弱い条件の元でも同じ定理が成り立つ。その他種々の理由から、平均値の定理を使うこと避ける数学者もいる。多変数関数にも使えて、平均値の定理の代わりになるような定理として、有限増分不等式がある。これは存在型ではない。あるいは、積分を持ち込んで微積分学の基本定理で代用することもある。
|
{{簡易区別|[[中間値の定理]]({{lang-en-short|intermediate value theorem}})}}
{{出典の明記|date=2015年11月}}
{{Calculus}}
[[ファイル:Mvt2.svg|thumb|right|346px|[''a'', ''b''] で連続かつ (''a'', ''b'') で微分可能な関数に対して、平均変化率に等しい傾きを持つ接線を与える点 ''c'' が (''a'', ''b'') 内に存在する。]]
[[微分積分学]]における'''平均値の定理'''(へいきんちのていり、{{lang-en-short|<em>mean-value theorem</em>}})または'''有限増分の定理''' ({{lang-fr-short|''Théorème des accroissements finis''}}{{efn|英語転写すれば theorem of finite increments}}) は、[[実函数]]に対して有界な領域上の[[積分]]に関わる大域的な値を、[[微分]]によって定まる局所的な値として実現する点が領域内に存在することを主張する。平均値の定理にはいくつかバリエーションがあるが、単に 「平均値の定理」 と言った場合は、'''ラグランジュの平均値の定理'''と呼ばれる微分に関する平均値の定理のことを指す場合が多い。
平均値の定理は微積分学の他の定理の証明(例えば、[[テイラーの定理]]、[[微分積分学の基本定理]])にしばしば利用される、大変有用なものである。平均値の定理の証明自体には[[ロルの定理]]を用いる。その一方で、平均値の定理はそのまま多変数の関数に適用することはできない。また、もっと弱い条件の元でも同じ定理が成り立つ。その他種々の理由から、平均値の定理を使うこと避ける数学者もいる。多変数関数にも使えて、平均値の定理の代わりになるような定理として、有限増分不等式がある。これは存在型ではない。あるいは、積分を持ち込んで微積分学の基本定理で代用することもある。
== 歴史 ==
平均値の定理の特別の場合について、最古の記述はインドの[[ケーララ学派]][[Parameshvara]] (1370–1460) による[[Govindasvāmi]]および[[バースカラ2世]]に関する解説の中に見られる<ref>J. J. O'Connor and E. F. Robertson (2000). [http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Biographies/Paramesvara.html Paramesvara], ''[[MacTutor History of Mathematics archive]]''.</ref>。制限された形の平均値定理は、1691年に[[ミシェル・ロル]]が今日[[ロルの定理]]と呼ばれるものを、多項式に限って、微分積分学の手法を用いることなく示した。現代的な形の平均値定理を定式化し証明したのは[[オーギュスタン・ルイ・コーシー]]で、1823年のことである<ref>A. Besenyei, Historical development of the mean value theorem, http://abesenyei.web.elte.hu/publications/meanvalue.pdf</ref>。
== 微分の平均値定理 ==
=== 有限増分の定理 ===
有限増分の定理と呼ばれる定理にもいくつか異なるバージョンがあり、後で述べる平均値の定理の別名でしかない場合もある<ref>高木『解析概論』改訂第三版 p. 48 「上記の公式{{interp|平均値の定理のこと}}をフランス系では`有限増加の公式’ともいう.」</ref>
; 弱い有限増分の定理
: 函数 {{mvar|f}} は閉区間 {{closed-closed|''a'', ''b''}} 上で有限かつ連続、開区間 {{open-open|''a'', ''b''}} で微分可能であるとき、<math display="inline">m:=\inf_{a<x<b} f', M:=\sup_{a<x<b} f'</math> とすれば <math display="block">m(b-a)\le f(b) - f(a)\le M(b-a)</math> が成立する。
; 強い有限増分の定理
: 函数 {{mvar|f, g}} は閉区間 {{closed-closed|''a'', ''b''}} 上で有限かつ連続、開区間 {{open-open|''a'', ''b''}} で微分可能であるとき、区間 {{closed-closed|''a'', ''b''}} 上で <math display="inline">mg'(x)\le f'(x)\le Mg'(x)</math> となる定数 {{mvar|m, M}} が存在するならば <math display="block">m(g(b)-g(a))\le f(b)-f(a)\le M(g(b)-g(a))</math> が成立する。
微分可能性に関しては、[[殆ど至る所]]微分可能や、殆ど至る所[[片側微分|左側(resp. 右側)微分可能]]に緩めたもの、あるいは微分係数が∞となることを許す場合でも、適当な仮定のもとで成り立つ<ref>ブルバキ数学原論「実一変数関数」pp. 18–19, 定理 2.</ref>。また、[[絶対値]]をとれば結論の不等式を <math display="block">|f(b) - f(a)| \le M(g(b)-g(a))\quad (M:= \sup_{a<x<b}|f(x)|)</math> のような形に書くこともできる。<ref>{{kotobank|平均値の定理|日本大百科全書}}</ref>
=== ラグランジュの平均値の定理 ===
''a'' < ''b'' とし、''f''(''x'') を[[区間 (数学)|閉区間]] [''a'', ''b''] で連続で、[[区間 (数学)|開区間]] (''a'', ''b'') で微分可能な関数とする。このとき開区間 (''a'', ''b'') 上に、ある点 ''c'' が存在して
: <math>\frac{f(b) - f(a)}{b - a} = f'(c)</math>
が成り立つ。これを微分に関する'''ラグランジュの平均値の定理'''という。左辺は、グラフにおいて (''a'', ''f''(''a'')), (''b'', ''f''(''b'')) を結ぶ線分(曲線の弦と呼ぶ)の傾き(= 平均変化率)であるから、ラグランジュの平均値の定理は弦と平行な接線(= 瞬間の変化率)を持つ点が ''a'' と ''b'' の間に存在するということがこの定理の主張である。つまり平均値の定理は[[存在定理|存在型の定理]]である。
またラグランジュの平均値の定理は <math>b=a+h</math>、<math>c=a+\theta h</math> とおくと、(ただし 0 < θ < 1 )
: <math>f(a+h)=f(a)+hf'(a+\theta h)</math>
とも表せる。
====証明====
<math>g(x)=f(x)-rx</math>(<math>r</math>は定数)とすると、関数<math>f</math>が閉区間{{closed-closed|''a'', ''b''}}で連続で、開区間{{open-open|''a'', ''b''}}で微分可能ならば関数<math>g</math>も同様となる。
このとき、<math>g(a)=g(b)</math>となるならば、
:<math>\begin{align}
g(a)=g(b)&\iff f(a)-ra=f(b)-rb\\
&\iff r(b-a)=f(b)-f(a) \\
&\iff r=\frac{f(b)-f(a)}{b-a} .
\end{align}</math>
だから、[[ロルの定理]]より<math>g'(c)=0</math>となる{{math|''c'' ∈ {{open-open|''a'', ''b''}}}}が存在し、
:<math>\begin{align}
&g'(x) = f'(x) -r \\
& g'(c) = 0\\
&g'(c) = f'(c) - r = 0 \\
&\Rightarrow f'(c) = r = \frac{f(b)-f(a)}{b-a}
\end{align}</math>
∴ <math>\frac{f(b) - f(a)}{b - a} = f'(c)</math>となる{{math|''c'' ∈ {{open-open|''a'', ''b''}}}}が存在する。
=== コーシーの平均値の定理 ===
{{main|[[コーシーの平均値定理]]}}
ラグランジュの平均値の定理の拡張として、''f''(''x''), ''g''(''x'') を閉区間 [''a'', ''b''] で連続で、開区間 (''a'', ''b'') で微分可能な関数、区間内の各点 ''x'' において ''g' ''(''x'') ≠ 0, ''g''(''b'') − ''g''(''a'') ≠ 0 であるならば
: <math>\frac{f(b)-f(a)}{g(b)-g(a)} = \frac{f'(c)}{g'(c)}</math>
なる ''c'' ∈ (''a'', ''b'') が存在する。これをフランスの数学者[[オーギュスタン・ルイ・コーシー|コーシー]]にちなんで'''コーシーの平均値の定理'''という。特に ''g''(''x'') = ''x'' である時がラグランジュの平均値の定理である。仮定「区間内の各点 ''x'' に対し ''g' ''(''x'') ≠ 0」はもう少し弱めて「区間内の各点 ''x'' で ''f' ''(''x''), ''g' ''(''x'') は同時に 0 にならない」としてよい。
=== ロピタルの定理 ===
{{main|ロピタルの定理}}
コーシーの平均値の定理から[[極限]]をとると、系として[[ロピタルの定理]](または'''ベルヌーイの定理''')が導かれる。''f''(''x''), ''g''(''x'') を ''f''(''a'') = ''g''(''a'') = 0 でありかつ ''a'' の十分近くで 0 にならない微分可能な関数とするとき、以下の定理を得る。
: <math>\lim_{x\to a}\frac{f(x)}{g(x)} = \lim_{x\to a}\frac{f(x)-f(a)}{g(x)-g(a)} = \lim_{x\to a}\frac{f'(x)}{g'(x)}</math>
左の等号は ''f''(''a'') = ''g''(''a'') = 0 による。右の等号はコーシーの平均値の定理による。
== 積分の平均値定理 ==
{{main|{{ill2|積分の平均値定理|de|Mittelwertsatz der Integralrechnung}}}}
関数 ''f''(''x'') が有限の[[指示関数|容積]] vol(''E'') をもつ集合 ''E'' 上で有界かつ可積分ならば、''f''(''x'') の ''E'' における積分値を ''E'' において平均化した値は、 ''E'' における ''f''(''x'') の上限 sup ''f''(''x'') と下限 inf ''f''(''x'') の間にある:
: <math>
\inf_{x \in E} f(x) \leq \frac{1}{\mathrm{vol}(E)}\int_E f(x)\, dx \leq \sup_{x \in E} f(x).
</math>
これを積分の'''第一平均値定理'''という。また、もう少し一般に拡張した形のものを指すこともあり、それは次のように述べられる。集合 ''E'' 上で ''f''(''x'') が有界、''g''(''x'') が可積分ならば、積 ''f''(''x'')''g''(''x'') は可積分であって、
: <math>\inf_{x \in E} f(x) \leq \mu \leq \sup_{x \in E} f(x)</math>
となる定数 μ のうちに等式
: <math>\int_E f(x)|g(x)|\,dx = \mu \int_E |g(x)|\, dx</math>
を満たすものが存在する。ここで ''f''(''x'') が連続ならば、''E'' の点 ξ を適当に取れば μ = ''f''(ξ) と書けることが中間値の定理から従う。特に一変数の場合を考えれば、有界な関数 ''f''(''x'') が区間 [''a'', ''b''] で連続かつ積分可能ならば
: <math> \frac{1}{b-a} \int_a^b f(x)\,dx = f(\xi)</math>
を満たす ξ が ''a'' < ξ < ''b'' の範囲に存在する。この式の左辺は、関数 ''f''(''x'') が区間 [''a'', ''b''] で掃く“符号付き”面積 ∫<sub>''a''</sub><sup>''b''</sup> ''f''(''x'') ''dx'' を区間の全長(図形の横の長さ)''b'' − ''a'' で割ったものである。したがってこの等式は、関数 ''f''(''x'') が区間 [''a'', ''b''] において掃く図形の平均の“符号付き”高さ(その符号付き面積を持つ図形を一定の符号付き高さに均したときの高さ)を実現する点が区間内に存在することを保証する。
第一平均値定理の系として、開区間 (''a'',''b'') において有界変動かつ連続な関数 ''F''(''x'') と有界な単調関数 φ(''x'') に対して、φ(''x'') はルベーグ・スティルチェスの意味で ''F''(''x'') に関して可積分であって、''a'' < ξ < ''b'' で
: <math>\int_a^b \varphi(x)\, dF(x)
= \varphi(a+0)\{F(\xi) - F(a+0)\} + \varphi(b-0)\{F(b-0) - F(\xi)\}
</math>
を満たすものが存在することが示せる。これを'''第二平均値定理'''という。特に、開区間 (''a'',''b'') において、''f''(''x'') が可積分で φ(''x'') が有界かつ単調な関数であるならば、''f''(''x'') の不定積分が第二平均値定理にいう ''F''(''x'') の条件を満たしているので、この場合の第二平均値定理の等式は
: <math> \int_a^b f(x)\varphi(x)dx
= \varphi(a+0) \int_a^\xi f(x)\,dx + \varphi(b-0) \int_\xi^b f(x)\,dx
</math>
の形に表せる。
== 注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[差商に対する平均値の定理]]
== 外部リンク ==
*{{kotobank|平均値の定理}}
*[https://examist.jp/mathematics/derivation2/heikintinoteiri-futousiki/ 平均値の定理を利用する不等式の証明] - 受験の月
*{{高校数学の美しい物語|title=ロルの定理,平均値の定理とその証明|urlname=rolle}}
*{{高校数学の美しい物語|title=平均値の定理とその応用例題2パターン|urlname=meanvalue}}
* {{nlab|urlname=mean+value+theorem|title=The Mean Value Theorem}}
* {{MathWorld|urlname=GausssMean-ValueTheorem|title=Gauss's Mean-Value Theorem}}
* {{MathWorld|urlname=Mean-ValueTheorem|title=Mean-Value Theorem}}
* {{PlanetMath|urlname=ComplexMeanValueTheorem|title=complex mean-value theorem}}
* {{PlanetMath|urlname=MeanValueTheorem|title=mean-value theorem}}
* {{ProofWiki|urlname=Mean_Value_Theorem|title=Mean Value Theorem}}
* {{SpringerEOM|urlname=Finite-increments_formula|title=Finite-increments formula|author= Kudryavtsev, L.D.}}
{{sci-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:へいきんちのていり}}
[[Category:実解析の定理]]
[[Category:微分積分学の定理]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2023-06-08T23:00:18Z
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萩市
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萩市(はぎし)は、中国地方西部、山口県の北部に位置する日本海に面した市。
江戸時代に毛利氏が治める長州藩の本拠地となった城下町(萩城下町)として有名である。
一方を日本海に面し、三方が山に囲まれており、道路・鉄道・港湾の整備も遅かったため、山陽側の市町村と比べると発展が弱かった(交通面では隣の長門市の方が発達している)。新制の萩市として発足後の2005年国勢調査においても、人口の減少が目立ち、特に合併前の旧町村での減少傾向が目立つ。
幕末から戦前にかけて政財界に関係する人物を多く出している。
司馬遼太郎の幕末小説である『世に棲む日日』『花神』や、大河ドラマ『花燃ゆ』は萩市が舞台になっている。
萩市中心部は、日本有数の規模を誇るデルタ地帯に発展している。旧・川上村から流れる阿武川(あぶがわ)は川島地区で2つに分かれ、橋本川と松本川となって日本海に注ぐ。また、両河川からは新堀川、藍場川といった小河川が分岐し、市街を流れている。
山口県北部の日本海に面し、東は島根県境から西は長門市まで、南は山口市、美祢市に接している。離島として見島(みしま)、大島(おおしま)、相島(あいしま)、櫃島(ひつしま)、羽島(はじま)、肥島(ひしま)、尾島(おしま)があり、そのうち見島、大島、相島、櫃島は有人島である。見島を除く6つの島を、市内では総称して「六島(ろくとう)」もしくは「萩・六島村(はぎろくとうそん)」とも呼ぶことがある。
主な山岳としては標高532.8mの高山(こうやま)がある。
なお隣接する阿武町は、萩市に囲まれている。
日本海側に位置しているが、大陸に非常に近いことや暖流である対馬海流の影響もあり、比較的温暖な気候である。また、冬季の日照時間が少ないが降水量も少なく、太平洋側気候九州型気候区といえる。
市花であるツバキの「ツ」の字が省かれて、ハギになったなどの説がある。
合併前の市町村は、旧萩広域市町村圏組合を構成し、消防、清掃などを広域で行っていた。
旧萩市中心部は平坦な地形が多いが、三見地区や旧町村部などは主に山間地にあり、特に旧旭村の佐々並地区、旧むつみ村、旧福栄村などは、標高100 - 400mの山に囲まれている。
旧市域。市制時の市域は町村制以前からの萩町と、1923年に周囲と合併して萩町になった地区からなる。萩町は32町5村がそれぞれ大字として扱われ、末尾が「町」(「丁目」)の地区においでも現在まで「大字」を表記する。
1923年に合併した3村は各々大字を設置していなかったため、合併をもって各々が大字となった。
昭和の大合併で合併した4村のうち、六島村は各々の島名を住所に表記しており、萩市においてもそれらを継承した。ほか3村は大字未設置であったが、合併後は旧村名を住所に表記している。これらには「大字」を表記しない。
平成の大合併で合併した地域はいずれの地区も旧自治体名を表記しない(川上村を除く)
合併前は大字を設置していなかったため、合併後は全域が「川上」となった。大字は表記しない。
元は単独村制で発足した須佐村。当時は大字を設置していなかったが、弥富村と合併した際に旧町域を大字須佐とした。
旭村として合併する以前はいずれも大字を設置していなかったため、合併前の各村域をもって新たに大字となった。
萩市の姉妹都市は6都市(国内3都市・国外3都市)。このほか、友好都市協定を結んだ都市がある。
国内の姉妹都市3市および交流のある30市町村(山口県内全市町村を含む)と災害応援協定を締結(2012年現在)。姉妹都市以外の遠隔(県外)自治体との協定としては以下がある。
7世紀には宇佐神宮の勧請により松崎八幡宮(650年、大化6年、須佐)が建立された。古代神社があることからすればその一帯には鉱山があり、古くから鉱業によって栄えたと見られる。
広大な市域のため、旧町村部にはそれぞれ総合事務所を置き、それぞれに地域振興部門、市民窓口部門、産業振興部門の3部門を配し、行政サービスを低下させることなく従来の業務ができるようになっている。 また、離島の見島と大島にそれぞれ支所と出張所が設置されている。
椿地区に医療機関と老人保健施設が併設した萩・健康維新の里(萩市民病院と福祉・複合施設かがやき)を、2000年4月に開設した。
また一時、萩医療圏から入院施設のある小児科がなくなるという事態があったが、住民の要望で市民病院に小児科を設置し、圏域で唯一の小児科病院となっている。また、離島や中心部から離れた旧町村部にはそれぞれ公立の診療所が設置されている。
なお萩市民病院は、山口県北部で唯一の結核医療機関である。
観光業と農業、漁業が多い。工業はほとんど発展していないが、山間のむつみ地区、旭地区、福栄地区では工業団地を造り誘致を行っている。しかし交通の利便性などの地理的条件から進出する企業は少ない。
観光業においては、東萩駅前にあった観光ホテルの廃業(現在は民事再生法の手続きにより、以前からあった土産物屋に加え、貸自転車屋・和食処・居酒屋・喫茶店・カラオケボックス・ゲームセンター・フィットネススタジオ・エステサロンのテナントが入った新たな観光ホテルとして、経営を再開している)や中心商店街などの衰退・全盛期に比べ観光客減少の不況感が漂っており、それらは萩市の大きな課題となっている。
萩市内には3校あり、いずれも中心部に設置している。
交通網の整備は、山口県内では最も遅い地域であり、特に新幹線、高速道路網、空港へのアクセスが著しく不便である。
新幹線は山陽新幹線新山口駅を利用する人が最も多いが、萩市街 - 新山口駅間を所要時間1時間程度で結ぶ路線バスしかない。ただ、新山口駅から市街地の萩バスセンターに乗換なしで直結する長所もある。戦前には萩と岩国を結ぶ鉄道計画があり、当時の首相であった田中義一は萩出身ということで計画も前向きだったが、田中義一内閣の総辞職とともに頓挫し、戦後、益田・日原経由での岩国連絡で工事が進捗していた岩日北線も1980年代の日本鉄道建設公団の工事が凍結された。一方、昭和40年代には鉄道で小郡(現在の山口市小郡)と萩を結ぶ「小萩線」の建設構想があったが、沿線町村の住民による反対や当時の国鉄の赤字路線整理の中で頓挫してしまった。
高速道路は、現在小倉方面へは中国自動車道美祢IC、広島方面へは山陽自動車道防府東ICを利用する場合が多い。ただし、どの最寄インターも車で最短約40分以上かかる。しかし、2011年(平成23年)5月28日に美祢市にある小郡萩道路絵堂ICから同じく美祢市の中国自動車道と小郡萩道路上にある美祢東JCTまでが全線開通した為(調査区間は除く)絵堂ICから乗れば、美祢ICまで30分台で行けるようになった。
空路は山口宇部空港または石見空港を利用する。なお石見空港は愛称が「萩・石見空港」となっているが、利用者はあまり多くない。車で市街から山口宇部空港まで2時間、石見空港まで1時間程度かかる。
山陰本線が海岸沿いを東西に通るが、市街地の中心である三角州に乗り入れることなく、その南を迂回している。本数は2 - 3時間に1本程度と少なく特に益田方面へは日中5時間程度運行がない時間があるほか、最終列車も20時台と早い。特急列車は2005年に『いそかぜ』が廃止されて以降定期運行がない(特急は東萩駅に停車していた)。2022年現在は観光列車『○○のはなし』が新下関駅と東萩駅の間を結んでいる。クルーズトレイン『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』はコースにより東萩駅・萩駅が停車駅となる。
東萩駅前と市中心部にある萩バスセンターを中心に、近距離、遠距離のバスが出ている。一般路線バスは市内全域を防長交通が、市中心部 - 旧旭村( - 山口駅)方面を中国ジェイアールバスが、旧須佐町・旧田万川町( - 益田駅)方面を石見交通が担当している。
益田市より国道191号が海岸線に沿って南下して市内中心部を横断する。須佐で国道315号が、市中心部の土原で国道262号が、郊外の山田で国道490号がそれぞれ分岐する。国道191号は市内中心部では片側2車線の4車線になり、国道262号も現在改良工事が行われている。
高速道路網については、国道191号のバイパス道路および、2011年(平成23年)9月23日に全線開通した萩・三隅道路(山陰自動車道)がある。国道490号のバイパス道路として、まだ調査区間段階だが小郡萩道路の未開通部分である、絵堂IC - 萩IC付近までの事業着手が2014年度に決定した。現在、絵堂IC - 萩IC付近の間が着工中である。
離島航路は萩市が主に出資している萩海運が運営しており、離島の見島、大島、相島の三島と市内浜崎にある萩商港を結んでいる。
なお、櫃島には航路がなく、島と本土の間の移動には住民所有の船舶を主に使用している。
観光地としては、松陰神社・松下村塾など幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩の志士たちの史跡、萩焼窯元など伝統工芸に関する施設などが主である。多くが江戸時代から幕末にかけてのものであるが、旧郡部は自然を生かした観光地が多い。また古い町並みの保存・活用が盛んで、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された地区が市内に4箇所あり、これは京都市・金沢市とともに全国最多である。
萩市は四季を通じて常にイベントを行っているが、伝統的な祭事はそれらのイベントの一部に組み込まれていることが多い。
例えば、山口県無形民俗文化財に指定されている「お船謡(おふなうた)」は夏祭りでのイベントの一つとして行われている。
萩市出身の幕末の3志士(吉田松陰・木戸孝允(桂小五郎)・高杉晋作)について、東京の企業が、食品などさまざまな商品で商標登録を行っていたことが発覚、同市は特許庁に異議申し立てを行った。同市は、3人の名声に便乗した、商標権による利益取得が目的と主張している。
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"text": "7世紀には宇佐神宮の勧請により松崎八幡宮(650年、大化6年、須佐)が建立された。古代神社があることからすればその一帯には鉱山があり、古くから鉱業によって栄えたと見られる。",
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"title": "行政"
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"text": "なお萩市民病院は、山口県北部で唯一の結核医療機関である。",
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"text": "観光業と農業、漁業が多い。工業はほとんど発展していないが、山間のむつみ地区、旭地区、福栄地区では工業団地を造り誘致を行っている。しかし交通の利便性などの地理的条件から進出する企業は少ない。",
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"text": "観光地としては、松陰神社・松下村塾など幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩の志士たちの史跡、萩焼窯元など伝統工芸に関する施設などが主である。多くが江戸時代から幕末にかけてのものであるが、旧郡部は自然を生かした観光地が多い。また古い町並みの保存・活用が盛んで、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定された地区が市内に4箇所あり、これは京都市・金沢市とともに全国最多である。",
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萩市(はぎし)は、中国地方西部、山口県の北部に位置する日本海に面した市。
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{{画像提供依頼|湊海水浴場|cat=萩市|date=2021年10月}}
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| 画像の説明 = [[松下村塾]]
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| 自治体名 = 萩市
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| 隣接自治体 = [[山口市]]、[[長門市]]、[[美祢市]]、[[阿武郡]][[阿武町]]<br />[[島根県]]:[[益田市]]、[[鹿足郡]][[津和野町]]
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| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|35|204|image=Hagi in Yamaguchi Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
'''萩市'''(はぎし)は、[[中国地方]]西部、[[山口県]]の北部に位置する[[日本海]]に面した[[市]]。
== 概要 ==
[[江戸時代]]に[[毛利氏]]が治める[[長州藩]]の本拠地となった[[城下町]]([[萩城下町]])として有名である。
一方を日本海に面し、三方が山に囲まれており、[[道路]]・[[鉄道]]・[[港湾]]の整備も遅かったため、[[山陽地方|山陽]]側の市町村と比べると発展が弱かった(交通面では隣の[[長門市]]の方が発達している)。新制の萩市として発足後の[[2005年]][[国勢調査 (日本)|国勢調査]]においても、[[人口]]の減少が目立ち、特に[[日本の市町村の廃置分合|合併]]前の旧町村での減少傾向が目立つ。
[[幕末]]から[[戦前]]にかけて政財界に関係する人物を多く出している。
[[司馬遼太郎]]の幕末小説である『[[世に棲む日日]]』『[[花神 (小説)|花神]]』や、[[大河ドラマ]]『[[花燃ゆ]]』は萩市が舞台になっている。
萩市中心部は、日本有数の規模を誇る[[三角州|デルタ地帯]]に発展している。旧・川上村から流れる[[阿武川]](あぶがわ)は川島地区で2つに分かれ、[[橋本川 (山口県)|橋本川]]と[[松本川]]となって日本海に注ぐ。また、両河川からは[[新堀川]]、藍場川といった小河川が分岐し、市街を流れている。
== 地理 ==
=== 地勢 ===
[[File:Hagicity aerialshot.jpg|300px|thumb|萩市中心部城下町の空中写真。画像中央の海に突き出した山が[[萩城]]のあった指月山。萩の城下町は東西を川に挟まれた三角州上に形成されている(2022年10月)]]
山口県北部の日本海に面し、東は[[島根県]]境から西は[[長門市]]まで、南は[[山口市]]、[[美祢市]]に接している。[[離島]]として[[見島]](みしま)、[[大島 (山口県萩市)|大島]](おおしま)、[[相島 (山口県)|相島]](あいしま)、[[櫃島]](ひつしま)、[[羽島 (山口県)|羽島]](はじま)、[[肥島 (山口県)|肥島]](ひしま)、[[尾島]](おしま)があり、そのうち見島、大島、相島、櫃島は有人島である。見島を除く6つの島を、市内では総称して「[[六島諸島|六島]](ろくとう)」もしくは「[[六島村|萩・六島村(はぎろくとうそん)]]」とも呼ぶ<ref group="注釈">見島は単独で見島村を構成していたため。1955年に見島村・六島村ともども萩市に編入合併している</ref>ことがある。
主な山岳としては標高532.8mの[[高山 (萩市)|高山]](こうやま)がある。
なお隣接する[[阿武町]]は、萩市に囲まれている。
=== 気候 ===
日本海側に位置しているが、大陸に非常に近いことや暖流である[[対馬海流]]の影響もあり、比較的温暖な気候である。また、冬季の日照時間が少ないが降水量も少なく、[[太平洋側気候]][[九州]]型気候区といえる。
{{Weather box
|location = 萩特別地域気象観測所(萩市大字土原字川島沖田、標高2m)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 19.2
|Feb record high C = 23.6
|Mar record high C = 25.9
|Apr record high C = 30.7
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|Oct record high C = 32.2
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|Dec record high C = 24.2
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|Jan low C = 2.4
|Feb low C = 2.5
|Mar low C = 4.6
|Apr low C = 8.8
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|Aug record low C = 15.2
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|Oct record low C = 3.9
|Nov record low C = 0.6
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|Jan precipitation mm = 94.5
|Feb precipitation mm = 76.3
|Mar precipitation mm = 124.5
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|May precipitation mm = 134.7
|Jun precipitation mm = 206.5
|Jul precipitation mm = 273.5
|Aug precipitation mm = 178.0
|Sep precipitation mm = 201.4
|Oct precipitation mm = 107.5
|Nov precipitation mm = 88.8
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|year precipitation mm = 1692.9
|Jan humidity = 70
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|Dec humidity = 71
|year humidity = 74
|unit precipitation days = 0.5 mm
|Jan precipitation days = 13.1
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|year sun = 1733.2
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1948年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=81&block_no=47754&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2023-08
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=81&block_no=47754&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2023-08
| publisher = 気象庁}}
</ref>
}}{{Weather box|location=須佐(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=19.5|Feb record high C=22.9|Mar record high C=25.0|Apr record high C=30.0|May record high C=30.9|Jun record high C=34.0|Jul record high C=36.2|Aug record high C=37.3|Sep record high C=35.5|Oct record high C=32.0|Nov record high C=26.1|Dec record high C=24.4|year record high C=37.3|Jan high C=8.9|Feb high C=9.8|Mar high C=12.9|Apr high C=17.8|May high C=22.4|Jun high C=25.3|Jul high C=29.2|Aug high C=30.6|Sep high C=26.5|Oct high C=21.7|Nov high C=16.7|Dec high C=11.4|year high C=19.4|Jan mean C=5.1|Feb mean C=5.4|Mar mean C=8.0|Apr mean C=12.6|May mean C=17.2|Jun mean C=21.0|Jul mean C=25.2|Aug mean C=26.0|Sep mean C=21.9|Oct mean C=16.4|Nov mean C=11.6|Dec mean C=7.1|year mean C=14.8|Jan low C=0.9|Feb low C=0.6|Mar low C=2.4|Apr low C=6.6|May low C=11.6|Jun low C=16.9|Jul low C=21.6|Aug low C=22.1|Sep low C=17.7|Oct low C=11.3|Nov low C=6.4|Dec low C=2.6|year low C=10.1|Jan record low C=-6.2|Feb record low C=-7.1|Mar record low C=-4.8|Apr record low C=-2.9|May record low C=1.1|Jun record low C=6.5|Jul record low C=12.6|Aug record low C=14.9|Sep record low C=7.1|Oct record low C=2.2|Nov record low C=-2.3|Dec record low C=-3.7|year record low C=-7.1|Jan precipitation mm=102.8|Feb precipitation mm=85.8|Mar precipitation mm=137.1|Apr precipitation mm=124.7|May precipitation mm=142.2|Jun precipitation mm=209.1|Jul precipitation mm=274.2|Aug precipitation mm=164.8|Sep precipitation mm=208.0|Oct precipitation mm=117.3|Nov precipitation mm=102.7|Dec precipitation mm=107.9|year precipitation mm=1776.6|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=12.8|Feb precipitation days=11.5|Mar precipitation days=12.5|Apr precipitation days=10.7|May precipitation days=9.7|Jun precipitation days=11.7|Jul precipitation days=11.3|Aug precipitation days=9.0|Sep precipitation days=10.7|Oct precipitation days=9.4|Nov precipitation days=10.9|Dec precipitation days=12.7|year precipitation days=133.1|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=81&block_no=0765&year=&month=&day=&view= |title=須佐 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-08-04 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=72.2|Nov sun=111.3|Oct sun=157.4|Aug sun=203.8|Sep sun=148.9|Jun sun=144.7|Jul sun=173.7|Apr sun=183.6|May sun=206.9|Jan sun=66.8|Feb sun=88.5|Mar sun=146.7|year sun=1704.6}}
=== 地名の由来 ===
市花である[[ツバキ]]の「ツ」の字が省かれて、'''ハギ'''になったなどの説がある。
=== 人口 ===
{{人口統計|code=35204|name=萩市|image=Demography35204.svg}}
== 地区 ==
[[ファイル:View of Hagi city.JPG|thumb|right|240px|指月山から臨む萩市街]]
[[ファイル:Ooshima(hagi city).jpg|thumb|right|245px|「萩[[六島村]]」の[[大島 (山口県萩市)|大島]]、[[櫃島]]]]
合併前の市町村は、旧萩広域市町村圏組合を構成し、消防、清掃などを広域で行っていた。
旧萩市中心部は平坦な地形が多いが、[[三見村|三見]]地区や旧町村部などは主に山間地にあり、特に旧旭村の佐々並地区、旧むつみ村、旧福栄村などは、標高100 - 400mの山に囲まれている。
; 旧市内(阿武川河口部周辺、離島)
: 阿武川の[[三角州]]に建設された城下町から発展した。[[山陰本線]]は三角州の外側を迂回するように走るが、幹線道路である[[国道191号]]は三角州中心部を経由し、[[下関市|下関]]方面へ向かっている。市内は旧城下町特有である碁盤目状の道路が多い。
: 三方を山、一方を海に囲まれており、中心市街地から周辺の市域・市町へ向かう際は必ず峠を越える必要がある。そのため、雨量が多い場合や積雪などで交通が遮断される場合が多々ある。[[萩城]]が建設された由来も、交通に不向きな地形を[[江戸幕府|徳川幕府]]が気に入ったためといわれている。
: 大雪の時に国道191号線は鎖峠(くさりとうげ)を中心に、隣接する長門市三隅上の宗頭(むねとう)地区 - 山田地区までが遮断される(大雨の際は崩落の危険があるため通行止め)。飯井(いい) - 玉江(たまえ)へ抜ける道は道幅は狭いものの雪が少ないことが多いが、凍結している可能性があるため要注意である。そのため、バイパスとして長門市三隅と椿の間を結ぶ[[萩・三隅道路]]が整備された。
: 旧萩市は三角州を含んで西から、「三見」(さんみ)→「山田」(やまだ)→'''「堀内」'''(ほりうち)→'''「江向」'''(えむかい)→'''「土原」'''(ひじわら)→「椿東」(ちんとう)→「大井」(おおい)の各地域に分けられ、南側は「椿」(つばき)、北は六島村となって幅が広い。その中で、太字の地域は三角州内にあるが三角州内はもっと細かく分かれることとなる。
: 見島や「萩六島村」の大島、櫃島などの日本海に浮かぶ離島群は萩港と定期航路で結ばれ、旧萩市の一部を構成していた。
; 川上地区(旧[[川上村 (山口県)|川上村]])
: 萩市中心部に隣接する山間部。中心部を阿武川が流れ、上流には阿武川ダムがある。
: [[国道262号]]が地域の端を通り、中心部は[[山口県道67号萩川上線|県道萩川上線]]が通っている。山地と阿武川ダムの流域面積が多いために可住面積が少なく、集落は山地を縫うように点在している。
: 山間部のため冬季は積雪があり、集落間の移動が困難になる。
; 江崎地区・小川地区(旧[[田万川町]])
: 国道191号沿いの地域。山口県の最北端に位置する。
: 島根県益田市に接し、経済圏・生活圏としては萩市中心部よりも近接する益田市との結びつきが強い。日本海に面しており、気候は比較的温暖だが、益田市との県境は冬季積雪がある。産業は主に漁業と農業であり、東部の小川地区では梨や桃等、果樹の生産が盛んである。
; 吉部地区・高俣地区(旧[[むつみ村]])
: 萩市中心部と島根県津和野町のほぼ中間の山間部に位置する。気候は内陸部特有の気候であり、冬季は積雪、凍結などが多い。中心部からそれたところに[[国道315号]]と[[山口県道11号萩篠生線|県道萩篠生線]]が走っているが、[[山口県道・島根県道13号萩津和野線|県道萩津和野線]]で連絡している。主な産業は農業で、大根の生産では当地区の一角にある千石台地区が2013年(平成25年)度は出荷量は約3,200tで山口県内の出荷量約3,370tのうち約95%を生産している<ref name="mainichi-np-2014-5-29">川上敏文(2014年5月29日). “千石台大根:県内最大産地の萩で出荷始まる”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。萩と津和野を結ぶ観光ルートであり、近年は道の駅([[道の駅うり坊の郷 katamata|うり坊の郷 katamata]])や[[むつみ昆虫王国]]の建設、観光牧場([[秋川牧園]])の開設など、観光にも力を入れている。
; 須佐地区・弥富地区(旧[[須佐町]])
: 隣接する田万川地域同様、[[益田市]]との結びつきが強く、生活圏は益田市に多くが依存している。
: 地域は日本海から東側に長く、海に面した須佐地区、山間部の弥富地区と鈴野川地区からなる。須佐地区は比較的温暖だが、山間地区は冬季に積雪もある。須佐地区に国道191号が、山間地区は国道315号が通り、交通状況は良い。
: [[第一次産業]]が多く、[[観光地]]数が他の地域より比較的多い。
: 剣先イカの活イカ漁港として有名。近年ローカルブランドとして商標を取得し、「[[須佐男命いか]]」として県内外に知られている。
; 明木地区・佐々並地区(旧[[旭村 (山口県)|旭村]])
: 国道262号沿い、萩市中心部と山口市のほぼ中間の山間部にあたる。明木地区と佐々並地区の間に山地があり、明木地区は萩市中心部の、佐々並地区は山口市の経済圏になっている。
: 両地区ともそれぞれの300 - 400m級の山に囲まれているが、冬季は明木地区より佐々並地区の方が寒冷であり、積雪が多い。
: 明木地区で[[山口県道32号萩秋芳線|県道萩秋芳線]]が分岐しており、萩市中心部から山口市方面、小郡・美祢方面へ向かう交通の要所である。
; 福井地区・紫福地区(旧[[福栄村 (山口県)|福栄村]])
: 中心となる福井地区には[[山口県道10号山口福栄須佐線|県道山口福栄須佐線]]と県道萩篠生線が、紫福(しぶき)地区には県道山口福栄須佐線が通っている。
: 山間の盆地に開けた土地であり、夏季は比較的暑く、冬季は寒冷である。
: 萩市でも屈指の米の生産地である。また、フライドチキン型のチーズケーキも地区内にある[[道の駅ハピネスふくえ]]で売っている。
=== 地名 ===
;旧萩市
旧市域。市制時の市域は町村制以前からの萩町と、1923年に周囲と合併して萩町になった地区からなる。萩町は32町5村がそれぞれ大字として扱われ、末尾が「町」(「丁目」)の地区においでも現在まで「大字」を表記する。
* 今古萩町(いまふるはぎちょう)
* 浜崎町(はまさきちょう)
* 浜崎新町(はまさきしんまち)
* 東浜崎町(ひがしはまさきちょう)
* 古萩町(ふるはぎちょう)
* 吉田町(よしだまち)
* 北古萩町(きたふるはぎちょう)
* 恵美須町(えびすちょう)
* 熊谷町(くまがいちょう)
* 細工町(さいくちょう)
* 塩屋町(しおやまち)
* 津守町(つもりまち)
* 御許町(おもとまち)
* 上五間町(かみごけんまち)
* 下五間町(しもごけんまち)
* 唐樋町(からひちょう)
* 米屋町(こめやまち)
* 西田町(にしたまち)
* 東田町(ひがしたまち)
* 油屋町(あぶらやまち)
* 今魚店町(いまうおのたなまち)
* 北片河町(きたかたがわまち)
* 樽屋町(たるやちょう)
* 春若町(はるわかまち)
* 古魚店町(ふるうおのたなまち)
* 橋本町(はしもとちょう)
* 瓦町(かわらまち)
* 呉服町1丁目・2丁目(ごふくちょう)
* 平安古町(ひやこまち)
* 南片河町(みなみかたがわまち)
* 南古萩町(みなみふるはぎまち)
* 土原(ひじわら)
* 川島(かわしま)
* 江向(えむかい)
* 堀内(ほりうち)
* 河添(こうぞえ)
1923年に合併した3村は各々大字を設置していなかったため、合併をもって各々が大字となった。
* 椿東(ちんとう)
** 上野(うえの)
** 中ノ倉(なかのくら)
** 無田ヶ原(むたがはら)
** 無田ヶ原口(むたがはらぐち)
** 中津江(なかつえ)
** 新川(しんかわ)
** 鶴江(つるえ)
** 前小畑(まえおばた)
** 中小畑(なかおばた)
** 後小畑(うしろおばた)
** 越ヶ浜(こしがはま)
* 椿(つばき)
* 山田(やまだ)
[[昭和の大合併]]で合併した4村のうち、六島村は各々の島名を住所に表記しており、萩市においてもそれらを継承した。ほか3村は大字未設置であったが、合併後は旧村名を住所に表記している。これらには「大字」を表記しない<ref group="注釈">角川日本地名大辞典においては「大字」ではなく「地区名」として扱われている</ref>。
* 尾島
* 羽島
* 相島
* 櫃島
* 大島
* 肥島(※以上が[[六島村]])
* 見島
* 大井(おおい)
* 三見(さんみ)
[[平成の大合併]]で合併した地域はいずれの地区も旧自治体名を表記しない(川上村を除く)
;旧川上村
合併前は大字を設置していなかったため、合併後は全域が「川上」となった。大字は表記しない。
* 川上
;旧田万川町
* 上田万(旧江崎町)
* 下田万(旧江崎町)
* 江崎(旧江崎町)
* 上小川西分(旧小川村)
* 上小川東分(旧小川村)
* 中小川(旧小川村)
* 下小川(旧小川村)
;旧むつみ村
* 片俣(旧高俣村)
* 高佐上(旧高俣村)
* 高佐下(旧高俣村)
* 吉部上(旧吉部村)
* 吉部下(旧吉部村)
;旧須佐町
元は単独村制で発足した須佐村。当時は大字を設置していなかったが、弥富村と合併した際に旧町域を大字須佐とした。
* 須佐
* 弥富上(旧弥富村)
* 弥富下(旧弥富村)
* 鈴野川(旧弥富村)
;旧旭村
旭村として合併する以前はいずれも大字を設置していなかったため、合併前の各村域をもって新たに大字となった。
* 佐々並(旧佐々並村)
* 明木(旧明木村)
;旧福栄村
* 福井上(旧福井村)
* 福井下(旧福井村)
* 黒川(旧福井村)
* 紫福(旧紫福村。同村時代は大字未設置)
=== 隣接する自治体 ===
* 島根県
** 益田市
** [[鹿足郡]][[津和野町]]
* 山口県
** 山口市
** 長門市
** [[阿武郡]]阿武町
** 美祢市
== 姉妹都市・友好都市ほか ==
萩市の姉妹都市は6都市(国内3都市・国外3都市)<ref name="Hagi-sistercity">{{Cite web|和書|url=http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/0/2803.html|title=萩市の概要(姉妹都市)|publisher=萩市| accessdate=2016-09-14 }}</ref>。このほか、友好都市協定を結んだ都市がある。
=== 姉妹都市 ===
==== 国内 ====
* {{Flagicon|静岡県}} [[下田市]]([[静岡県]])
**1975年10月28日 - 姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_8">{{Cite book | url=http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/life/13389_54163_misc.pdf | title=ふるさと萩のすがた | publisher=萩市 |format=PDF|page=8 | date=2015| accessdate=2016-09-14 }}</ref>。
:日本の「開国の地」(開港地)である下田と、明治維新胎動の地という縁<ref name="Hagi-sistercity" /><ref name="FurusatoHagi_8" />。[[1854年]]、[[吉田松陰]]は下田に入港中の米艦隊に米国への密航を懇請したが拒絶された。その後、自首した松陰がつながれた獄が下田にある。
* {{Flagicon|神奈川県}} [[鎌倉市]]([[神奈川県]])
**1979年11月2日 - 姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_8" />
:ともに日本史で重要な役割を果たした歴史のまちとして<ref name="FurusatoHagi_8" />。鎌倉市制40周年行事の一環として萩市が姉妹都市にふさわしいと選定される<ref name="FurusatoHagi_8" />。
* {{Flagicon|石川県}} [[輪島市]]([[石川県]])
**1990年10月16日 - 姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_8" />。
:伝統工芸品「萩焼」と「輪島塗」を受け継ぐ点、日本海側にあって漁業や観光が主要産業という共通性から<ref name="FurusatoHagi_8" />。2012年には災害時相互応援協定を締結<ref name="Hagi-2551">{{Cite web|和書|url=http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/7/2551.html|title=輪島市災害応援協定調印式|publisher=萩市| date=2012-11-21|accessdate=2016-09-14 }}</ref>。
==== 国外 ====
* {{Flagicon|KOR}} [[蔚山広域市]]([[大韓民国]])
**1968年10月29日 - 姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_7" /><ref name="clair">{{Cite web|和書| url=http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi | title=姉妹(友好)提携情報 | publisher=[[自治体国際化協会]] | accessdate=2016-08-31 }}</ref>
:日韓で最も近い距離の都市<ref name="clair" />。1962年に萩市長が視察に訪れて以後提携の打診が行われた<ref name="clair" />。なお、日本の都市と韓国の都市の提携として最初のものである<ref name="FurusatoHagi_7">{{Cite book | url=http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/life/13389_54163_misc.pdf | title=ふるさと萩のすがた | publisher=萩市 |format=PDF|page=7 | date=2015 | accessdate=2016-09-14 }}</ref>。
* {{Flagicon|KOR}} [[全羅南道]][[霊岩郡]]徳津面(大韓民国)
**2003年6月18日 - 旧[[福栄村 (山口県)|福栄村]]と姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_7" />
:1991年、福栄村に在住していた徳津面出身者の縁で、徳津面農協長が福栄村を訪問、以後交流が進展<ref name="clair" />。農業を中心とした産業構造が共通<ref name="FurusatoHagi_7" />。
* {{Flagicon|GER}} {{仮リンク|ユーリンゲン・ビルゲンドルフ|de|Ühlingen-Birkendorf}}([[ドイツ|ドイツ連邦共和国]])
**1992年6月12日 - 旧[[旭村 (山口県)|旭村]]と姉妹都市提携<ref name="FurusatoHagi_7" />
:ユーリンゲン・ビルゲンドルフはスイスとの国境に近い保養地として著名な村<ref name="Hagi-sistercity" /><ref name="FurusatoHagi_7" />。1989年に日独親善交換農村振興対策事情調査団員として訪独し同村に民泊した旭村村長が感銘を受けて交流開始<ref name="clair" />。「農村自然景観と歴史的な遺産の保全」を基調とした町づくりが共通するとして姉妹都市提携<ref name="Hagi-sistercity" /><ref name="FurusatoHagi_7" />。
=== 友好関係の都市 ===
* [[世田谷区]]([[東京都]])
**1996年10月26日 - 友好都市提携<ref name="FurusatoHagi_9">{{Cite book | url=http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/life/13389_54163_misc.pdf | title=ふるさと萩のすがた | publisher=萩市 |format=PDF|page=9 | date=2015|accessdate=2016-09-14 }}</ref>
:世田谷区は萩藩とも縁があり、ともに吉田松陰を祀る[[松陰神社]]がある縁<ref name="FurusatoHagi_9" />。1992年から商店街などの民間交流がはじまる<ref name="FurusatoHagi_9" />。松陰神社のある世田谷区[[若林 (世田谷区)|若林]]では「萩・世田谷幕末維新祭り」が開催される<ref name="FurusatoHagi_9" />。
* [[前橋市]]([[群馬県]])
** 2002年12月18日 - 友好都市提携<ref name="FurusatoHagi_9" /><ref name="Maebashi-Hagi">{{Cite web|和書| url=http://www.city.maebashi.gunma.jp/sisei/444/449/p001150.html | title=萩市(山口県) | publisher=前橋市 | accessdate=2016-08-31 }}</ref>
:萩市出身の[[楫取素彦]]が群馬県の初代県令となり、前橋への県庁誘致および同市の経済・教育振興などに貢献した縁による<ref name="FurusatoHagi_9" />。
*[[周南市]](山口県)
**2003年10月22日 - 旧須佐町と友好都市提携<ref name="FurusatoHagi_9" />
:国道315号線の起点・終点である縁<ref name="FurusatoHagi_9" />。禁門の変の責を負った須佐領主[[益田親施]]が周南市徳山で自決した縁もある<ref name="FurusatoHagi_9" />。
* [[鹿児島市]]([[鹿児島県]])
** 2016年1月21日 - 友好都市提携<ref name="FurusatoHagi_10">{{Cite book | url=http://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/life/13389_54163_misc.pdf | title=ふるさと萩のすがた | publisher=萩市 |format=PDF|page=10 | date=2015|accessdate=2016-09-14 }}</ref>
: 2015年に「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に認定されたこと<ref name="FurusatoHagi_10" />、2016年に[[薩長同盟]]締結150周年を迎えたのを記念して、友好交流に関する盟約を締結<ref name="FurusatoHagi_10" /><ref>{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/223893|title=「現代の薩長同盟」記念 萩市長らが鹿児島市でツバキ植樹|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2016-02-10|accessdate=2016-02-12}}</ref>。
* [[石巻市]]([[宮城県]])
** 2016年4月8日 - 友好都市提携
:[[仙台藩主]]の[[伊達政宗]]から命を受けた萩市出身の[[川村重吉|川村孫兵衛]](重吉)が主に手掛けた[[北上川]]の改修作業から400年の節目に当たるのをきっかけに両方の市が産業、歴史、教育、文化を皮切りに[[友好]]を深め、[[大規模災害]]の時には互いに支援し合う仲となった。
=== 友好都市提携を拒否された都市 ===
* {{Flagicon|福島県}} [[会津若松市]]([[福島県]])
** [[会津戦争]]で、[[会津藩]]と敵対した[[長州藩]]の首府が萩市である事から。
** [[1986年]]([[昭和]]61年)に、萩市が「敵として戦った[[戊辰戦争]]から120年を記念して、そろそろ[[和解]]を」と、会津若松市に友好都市提携を持ちかけたが、会津若松市側から「時期尚早である」「我々は恨みを忘れていない」「まだ120年しか経っていない」として、会津戦争の遺恨を理由に、会津若松市から友好関係の締結は拒否された。ただし[[1996年]]([[平成]]8年)の会津若松市市民アンケートで「こだわりはない」「どちらでもない」と答えた人は68%、「こだわりがある」と答えた人は32%であった。
** [[2011年]](平成23年)[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]において、[[会津若松市]]は萩市から[[義援金]]や[[福島第一原子力発電所]]事故避難者用の救援物資の提供を受けており<ref>{{cite news |author = 池田拓哉 |url= http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104020272.html|title=2011年4月2日 会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」| newspaper = [[朝日新聞デジタル]] | publisher = [[朝日新聞社]] | date = 2011-04-02 |accessdate=2016-03-26 }}</ref>、会津若松市長[[菅家一郎]]が萩市をお礼の意味で訪問したものの<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/detail.html?lif_id=32963|title=萩市 平成23年 萩市の主な出来事|accessdate=2012年11月25日}}</ref>、菅家一郎は「和解とか仲直りという話ではない」と述べている<ref name="post">{{Cite journal | 和書 | url = http://www.news-postseven.com/archives/20130828_206417.html | title = 会津VS長州だけじゃない日本の郷土紛争 彦根VS薩摩の争点 | journal = [[週刊ポスト]] | issue = 2013年8月30日号 | publisher = [[NEWSポストセブン]] | date = | accessdate = 2015-07-11 }}</ref>。
=== 災害時応援協定 ===
国内の姉妹都市3市<ref name="Hagi-2551" />および交流のある30市町村(山口県内全市町村を含む)と災害応援協定を締結(2012年現在)<ref name="Hagi-2551" />。姉妹都市以外の遠隔(県外)自治体との協定としては以下がある。
*[[鉾田市]]([[茨城県]])
**2012年3月15日 - 災害時応援協定締結<ref name="Hagi-2562">{{Cite web|和書|url=http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/7/2562.html|title=鉾田市災害応援協定調印式|publisher=萩市| date=2013-6-26|accessdate=2016-09-14 }}</ref>。
:山口県旭村(現・萩市)、茨城県旭村(現・鉾田市)、島根県旭村(現・浜田市)など「あさひ」の名を持つ7町村が結んだ「あさひ連邦相互協力協定」(1999年 - 2004年)の枠組みを引き継ぐもの<ref name="Hagi-2562" />。2011年3月の東日本大震災で被災した鉾田市に、萩市と浜田市が連携して支援物資を送った<ref name="Hagi-2562" />。
*[[丹波篠山市]]([[兵庫県]])
**2012年6月6日 - 丹波篠山市が篠山市時代に災害時応援協定締結<ref name="Hagi-2552">{{Cite web|和書|url=http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/7/2552.html|title=篠山市災害応援協定調印式|publisher=萩市| date=2012-6-6|accessdate=2016-09-14 }}</ref>。
:2008年度にともに「文化芸術創造都市部門」文化庁長官表彰を受けた縁<ref name="Hagi-2552" />。
== 歴史 ==
{{日本の市 (廃止)
| 廃止日 = 2005年(平成17年)3月6日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''萩市'''(旧)、[[阿武郡]][[川上村 (山口県)|川上村]]・[[田万川町]]・[[むつみ村]]・[[須佐町]]・[[旭村 (山口県)|旭村]]・[[福栄村 (山口県)|福栄村]] → 萩市(新)
| 現在の自治体 = 萩市(新)
| よみがな = はぎし
| 自治体名 = 萩市
| 画像=
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Hagi, Yamaguchi (1934–2005).svg|100px|萩市旗]]
| 市旗の説明 = 萩[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Hagi, Yamaguchi (1934–2005).svg|75px|萩市章]]
| 市章の説明 = 萩[[市町村章|市章]]<br />[[1934年]][[3月13日]]制定
| 都道府県 = 山口県
| 支庁 =
| コード =
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 =
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 人口の時点 =
| 隣接自治体 = 阿武郡川上村、[[阿武町]]、旭村、福栄村、[[大津郡]][[三隅町 (山口県)|三隅町]]、[[美祢郡]][[美東町]]
| 木 =
| 花 =
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 758-8555
| 所在地 = 萩市江向510番地
| 外部リンク =
| InternetArchive =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:萩市街鳥瞰顕義公園より0001.jpg|thumb|300px|顕義公園より市街を望む]]
[[ファイル:萩城址.jpg|thumb|300px|指月山 萩城跡]]
=== 古代 ===
7世紀には[[宇佐神宮]]の勧請により[[松崎八幡宮]](650年、大化6年、須佐)が建立された。古代神社があることからすればその一帯には[[辰砂|鉱山]]があり、古くから[[鉱業#日本|鉱業]]によって栄えたと見られる。
=== 中世から第二次大戦まで ===
* 古くは[[大内氏]]家臣であった[[吉見氏]]の領地であり、[[津和野城]]の出丸が築かれていた。
* [[関ヶ原の戦い]]の後の[[1608年]]、[[毛利輝元]]が日本海に張り出した指月山の麓に[[萩城]]を築城し、以後[[山口市|山口]]の政事堂に藩庁が移されるまでの約260年間、[[長州藩]]36万石の[[城下町]]として発展した。現在でも細工町、樽屋町など、城下町らしい地名が市内の至る所に残っている。
* 幕末には、吉田松陰が私塾の[[松下村塾]]で多くの人材を数多く育成し、そこから、[[吉田稔麿]]、[[高杉晋作]]、[[久坂玄瑞]]、[[伊藤博文]]らを出し、又彼らと友好があった[[井上馨|井上聞太(井上馨)]]らの、[[明治維新]]の指導者を出した。
* [[1876年]]([[明治]]9年) - [[萩の乱]]が起こる。
* [[1925年]]([[大正]]14年) [[4月3日]] - 美禰線(当時)[[長門三隅駅]] - 萩駅間が延伸されたことにより、萩町内初の鉄道が開通。萩駅前の椿原小学校(当時)で開通式<ref>「美祢線、肥薩線など開通」『時事新報』1925年4月3日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.474-475 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* 1925年(大正14年)[[11月1日]] - 美禰線萩駅 - [[東萩駅]]間が開通。萩公会堂で祝賀会が行われたほか、[[相撲]]や[[競馬]]の余興が行われた<ref>「萩 - 東萩間が開通」『山陰新聞』1925年11月12日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.475 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* 1929年([[昭和]]4年)[[4月24日]] - 美禰線東萩駅 - 奈古駅間が開通。これにより現在の萩市内の鉄道路線がすべて開通。
* [[1933年]](昭和8年)[[2月24日]] - [[山陰本線]][[須佐駅]] - [[宇田郷駅]]間が開通したことにより山陰本線が全通し、萩市と島根県・鳥取県が鉄道で直結された。
* [[1937年]](昭和12年)[[4月13日]] - 明木(旧明木村)の山中より出火して延焼。[[山火事]]により焼失した山林面積約4000町歩、焼失家屋42戸。また、これとは別に同日には川上(旧川上村)でも山火事。(焼失山林面積不詳)焼失家屋88戸の被害<ref>「四千町歩と百三十戸焼き、ようやく鎮火」『大阪毎日新聞』1937年4月15日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.731 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
=== 戦後 ===
* [[1971年]](昭和46年) - [[阿東町]]を除く阿武郡7町村と、萩広域市町村圏組合を設置。
* [[1975年]](昭和50年) - 旧川上村に[[阿武川ダム]]が完成。
* [[1996年]]([[平成]]8年)[[10月14日]] - [[山口県立萩美術館・浦上記念館]]が開館。
* [[2004年]](平成16年)[[3月31日]] - [[阿武町]]・[[須佐町]]が合併協議会から離脱。
* 2004年(平成16年)[[5月28日]] - 須佐町が合併協議会に復帰。現在の枠組みができる。
* 2004年(平成16年)[[11月11日]] - 萩開府400年を記念して[[萩博物館]]が開館。
=== 行政区域の変遷 ===
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[阿武郡]]萩町の区域をもって'''萩町'''が発足。
* [[1923年]]([[大正]]12年)4月1日 - 阿武郡[[椿東村]]・[[椿村 (山口県)|椿村]]・[[山田村 (山口県)|山田村]]と[[日本の市町村の廃置分合#合体|新設合併]]し、改めて'''萩町'''が発足。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)[[7月1日]] - 市制を施行して'''萩市'''となる。山口県内で四番目の市。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月1日]] - 阿武郡[[三見村]]・[[大井村 (山口県)|大井村]]・[[六島村]]・[[見島|見島村]]を編入。
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[3月6日]] - 阿武郡[[川上村 (山口県)|川上村]]・[[田万川町]]・[[むつみ村]]・[[須佐町]]・[[旭村 (山口県)|旭村]]・[[福栄村 (山口県)|福栄村]]と合併し、改めて'''萩市'''が発足<ref name="mainichi-np-2015-3-7">川上敏文(2015年3月7日). “萩市:合併10周年記念式典 市の振興発展貢献など、個人90人と21団体表彰”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。
== 行政 ==
=== 市政運営 ===
広大な市域のため、旧町村部にはそれぞれ総合事務所を置き、それぞれに地域振興部門、市民窓口部門、産業振興部門の3部門を配し、行政サービスを低下させることなく従来の業務ができるようになっている。
また、離島の見島と大島にそれぞれ支所と出張所が設置されている。
* 市長:[[田中文夫 (政治家)|田中文夫]](萩市長、元[[山口県議会]]議員)
** 任期:2021年3月27日 - 2025年3月26日
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller"
|+ 歴代市長<ref>歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1985年。『[[朝日新聞]]』。</ref>
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
! colspan="5" | 官選旧萩市長
|-
| 1 || [[豊田勝蔵]] || 1932年(昭和7年)8月8日|| 1936年(昭和11年)2月11日||
|-
| 2 || [[市川一郎 (萩市長)|市川一郎]] || 1936年(昭和11年)3月10日|| 1937年(昭和12年)6月7日||
|-
| 3 - 4 || [[古屋武助]] || 1937年(昭和12年)7月24日 || 1942年(昭和17年)12月29日 ||死去
|-
| 5 || [[藤田包助]] || 1943年(昭和18年)3月19日 || 1945年(昭和20年)1月22日||死去
|-
| 6 || [[光尾芳人]] || 1945年(昭和20年)3月7日 || 1946年(昭和21年)11月5日||
|-
! colspan="5" | 公選旧萩市長
|-
| 7 - 8 || [[安村正人]] || 1947年(昭和22年)4月5日 || 1955年(昭和30年)4月29日||
|-
| 9 || [[山下誠一]] || 1955年(昭和30年)4月30日 || 1959年(昭和34年)4月30日||
|-
| 10 - 15 || [[菊屋嘉十郎]] || 1959年(昭和34年)5月1日 || 1983年(昭和58年)2月10日||死去
|-
| 16 || [[林秀宣]] || 1983年(昭和58年)4月25日 || 1987年(昭和62年)4月25日||
|-
| 17 - 18 || [[小池春光]] || 1987年(昭和62年)4月26日 || 1993年(平成5年)8月24日||死去
|-
| 19 - 21 || [[野村興児]] || 1993年(平成5年)10月17日 ||2005年(平成17年)3月5日||
|-
! colspan="5" | 萩市長
|-
| 1 - 3 || [[野村興児]] || 2005年(平成17年)3月27日 ||2017年(平成29年)3月26日||
|-
| 4 || [[藤道健二]] || 2017年(平成29年)3月27日 || 2021年(令和3年)3月26日||
|-
| 5 || [[田中文夫 (政治家)|田中文夫]] || 2021年(令和3年)3月27日 ||現職||
|}
* 総合事務所
** [[川上村 (山口県)|川上総合事務所]]
** [[田万川町|田万川総合事務所]]
** [[むつみ村|むつみ総合事務所]]
** [[須佐町|須佐総合事務所]]
** [[旭村 (山口県)|旭総合事務所]]
** [[福栄村 (山口県)|福栄総合事務所]]
* 支所
** 見島支所、小川支所、高俣支所、弥富支所、佐々並支所、紫福支所
* 出張所
** 三見出張所、大井出張所、大島出張所
=== 医療行政 ===
椿地区に医療機関と老人保健施設が併設した萩・健康維新の里(萩市民病院と福祉・複合施設かがやき)を、[[2000年]]4月に開設した。
また一時、萩医療圏から入院施設のある小児科がなくなるという事態があったが、住民の要望で市民病院に小児科を設置し、圏域で唯一の小児科病院となっている。また、離島や中心部から離れた旧町村部にはそれぞれ公立の診療所が設置されている。
なお萩市民病院は、山口県北部で唯一の[[結核]]医療機関である。
==== 公立病院 ====
* 萩市民病院
==== 公立診療所 ====
; 旧萩市
:* 萩市見島診療所
:* 萩市見島診療所宇津分室
:* 萩市大島診療所
:* 萩市見島歯科診療所
; 旧川上村
:* 萩市川上診療所
; 旧田万川町
:* 萩市田万川歯科診療所
; 旧むつみ村
:* 萩市むつみ診療所
:* 萩市むつみ診療所高俣出張所
; 旧須佐町
:* 萩市弥富診療センター
:* 萩市弥富歯科診療所
; 旧旭村
:* 萩市明木診療所
:* 萩市佐々並診療所
; 旧福栄村
:* 萩市福川診療所
:* 萩市紫福診療所
=== 警察署 ===
* [[萩警察署]]
** かつては江崎地区に江崎警察署があったが、現在は萩警察署に統合され、[[江崎幹部交番]]に格下げとなっている。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
* 定数:20人
* 任期:2022年5月1日 - 2026年4月30日
* 議長:長岡肇太郎
* 副議長:石飛孝道
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[山口県第3区|山口3区]]([[宇部市]]、[[山口市]](旧[[阿東町]]域)、萩市、[[美祢市]]、[[山陽小野田市]]、[[阿武郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:256,039人
* 投票率:50.14%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[林芳正]] || align="center" | 60 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 96,983票 || align="center" | ○
|-
| || 坂本史子 || align="center" | 66 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 29,073票 || align="center" | ○
|}
== 経済 ==
=== 産業 ===
[[観光業]]と[[農業]]、[[漁業]]が多い。工業はほとんど発展していないが、山間のむつみ地区、旭地区、福栄地区では工業団地を造り誘致を行っている。しかし交通の利便性などの地理的条件から進出する企業は少ない。
観光業においては、[[東萩駅]]前にあった観光ホテルの廃業(現在は[[民事再生法]]の[[手続き]]により、[[以前]]からあった[[土産物屋]]に加え、[[貸自転車屋]]・[[和食処]]・[[居酒屋]]・[[喫茶店]]・[[カラオケボックス]]・[[ゲームセンター]]・[[フィットネススタジオ]]・[[エステサロン]]の[[テナント]]が入った新たな観光ホテルとして、[[経営]]を再開している)や[[萩市田町商店街|中心商店街]]などの衰退・全盛期に比べ観光客減少の不況感が漂っており、それらは萩市の大きな[[課題]]となっている。
=== 漁業 ===
{{col|
* 大井漁港
* 萩漁港
* 玉江漁港
* 三見漁港
* 大島漁港
|
* 相島漁港
* 見島漁港
* 須佐漁港
* 江崎漁港
|}}
=== 主な企業 ===
* [[日本果実工業]](萩加工場)
* [[萩本陣]]
* [[スナダフーヅ]](本部)
* [[柚子屋本店]]
* [[アトラス萩]]
* 井上商店
* サンリブ萩店
* ザ・ビッグ萩店
== 学校 ==
=== 大学 ===
; 私立
:* [[至誠館大学]]
=== 高等学校 ===
萩市内には3校あり、いずれも中心部に設置している。
; 公立
:* [[山口県立萩高等学校]]
:* [[山口県立萩商工高等学校]]
; 私立
:* [[萩光塩学院中学校・高等学校|萩光塩学院高等学校]] - 中高併設
=== 中学校 ===
{{col|
; 公立
:* [[萩市立萩東中学校|萩東中学校]]
:* [[萩市立萩西中学校|萩西中学校]]
:* [[萩市立越ヶ浜中学校|越ヶ浜中学校]]
|
:* [[萩市立大井中学校|大井中学校]]
:* [[萩市立大島中学校|大島中学校]]
:* [[萩市立見島中学校|見島中学校]]
:* [[萩市立川上中学校|川上中学校]]
:* [[萩市立田万川中学校|田万川中学校]]
|
:* [[萩市立むつみ中学校|むつみ中学校]]
:* [[萩市立須佐中学校|須佐中学校]]
:* [[萩市立明木中学校|明木中学校]]
:* [[萩市立佐々並中学校|佐々並中学校]]
:* [[萩市立福栄中学校|福栄中学校]]
|}}
; 私立
:* [[萩光塩学院中学校・高等学校|萩光塩学院中学校]] - 中高併設
=== 小学校 ===
{{col|
; 公立
:* [[萩市立明倫小学校|明倫小学校]]
:* [[萩市立椿東小学校|椿東小学校]]
:* [[萩市立越ヶ浜小学校|越ヶ浜小学校]]
:* [[萩市立椿西小学校|椿西小学校]]
:* [[萩市立白水小学校|白水小学校]]
:* [[萩市立大井小学校|大井小学校]]
|
:* [[萩市立大島小学校|大島小学校]]
:* [[萩市立相島小学校|相小学校]]
:* [[萩市立見島小学校|見島小学校]]
:* [[萩市立川上小学校|川上小学校]]
:* [[萩市立小川小学校|小川小学校]]
:* [[萩市立多磨小学校|多磨小学校]]
:* [[萩市立むつみ小学校|むつみ小学校]]
:* [[萩市立育英小学校|育英小学校]]
|
:* [[萩市立弥富小学校|弥富小学校]]
:* [[萩市立鈴野川小学校|鈴野川小学校]]
:* [[萩市立明木小学校|明木小学校]]
:* [[萩市立佐々並小学校|佐々並小学校]]
:* [[萩市立福川小学校|福川小学校]]
:* [[萩市立紫福小学校|紫福小学校]]
|}}
; 私立
;* [[萩光塩学院小学校]] - 休校中
=== 小中一貫校 ===
* [[三見小中学校]]
=== 閉校した学校 ===
==== 小学校 ====
* [[木間小学校]] - 2018年3月閉校、白水小学校に編入
==== 中学校 ====
* [[木間中学校]] - 2018年3月閉校、萩西中学校に編入<ref>{{Cite web|和書|title=萩市立木間中学校 閉校 |url=https://final-access.jp/10327 |website=ファイナルアクセス |date=2018-09-06 |access-date=2023-10-29 |language=ja}}</ref>
==== 大学 ====
* [[萩女子短期大学]] - 2000年7月28日閉校
=== 特別支援学校 ===
* [[山口県立萩総合支援学校]]
=== 専修学校 ===
* [[萩准看護学院]]
* [[山口県立萩看護学校]]
== 交通 ==
交通網の整備は、山口県内では最も遅い地域であり、特に新幹線、高速道路網、空港へのアクセスが著しく不便である。
新幹線は[[山陽新幹線]][[新山口駅]]を利用する人が最も多いが、萩市街 - 新山口駅間を所要時間1時間程度で結ぶ路線バスしかない。ただ、新山口駅から市街地の[[萩バスセンター]]に乗換なしで直結する長所もある。<br />戦前には萩と岩国を結ぶ鉄道計画があり、当時の首相であった[[田中義一]]は萩出身ということで計画も前向きだったが、[[田中義一内閣]]の総辞職とともに頓挫し、戦後、益田・日原経由での[[新岩国駅|岩国]]連絡で工事が進捗していた[[岩日北線]]も1980年代の[[日本鉄道建設公団]]の工事が凍結された。<br />一方、昭和40年代には鉄道で[[小郡町|小郡]](現在の山口市小郡)と萩を結ぶ「小萩線」の建設構想があったが、沿線町村の住民による反対や当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]の赤字路線整理の中で頓挫してしまった。
高速道路は、現在[[北九州市|小倉]]方面へは[[中国自動車道]][[美祢インターチェンジ|美祢IC]]、[[広島市|広島]]方面へは[[山陽自動車道]][[防府東インターチェンジ|防府東IC]]を利用する場合が多い。ただし、どの最寄インターも車で最短約40分以上かかる。しかし、[[2011年]](平成23年)[[5月28日]]に美祢市にある[[小郡萩道路]][[絵堂インターチェンジ|絵堂IC]]から同じく美祢市の中国自動車道と小郡萩道路上にある[[美祢東ジャンクション|美祢東JCT]]までが全線開通した為(調査区間は除く)絵堂ICから乗れば、美祢ICまで30分台で行けるようになった。
空路は[[山口宇部空港]]または[[石見空港]]を利用する。なお石見空港は愛称が「萩・石見空港」となっているが、利用者はあまり多くない。車で市街から山口宇部空港まで2時間、石見空港まで1時間程度かかる。
=== 鉄道 ===
山陰本線が海岸沿いを東西に通るが、市街地の中心である三角州に乗り入れることなく、その南を迂回している{{Refnest|group="注釈"|これをいわゆる[[鉄道と政治#鉄道忌避伝説|鉄道忌避伝説]]に結びつける向きがあるが<ref>{{cite book|author=浅井建爾|title=鉄道の歴史がわかる事典|publisher=日本実業出版社|year=2004|page=46 - 47}}</ref>、鉄道史研究家の[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]によると、萩市における山陰本線の開通年度が1925年と、鉄道の利便性が社会に十分認知されて久しい時期であることから鉄道忌避が起きる可能性はまずなく、土地取得が困難な市街地を避けて南側の水田地帯に線路を敷設したためである<ref>{{cite book|author=青木栄一|title=鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町|publisher=吉川弘文館|year=2006|page=205}}</ref>。}}。本数は2 - 3時間に1本程度と少なく特に[[益田駅|益田]]方面へは日中5時間程度運行がない時間があるほか、最終列車も20時台と早い。[[特急列車]]は[[2005年]]に『[[いそかぜ (列車)|いそかぜ]]』が廃止されて以降定期運行がない(特急は東萩駅に停車していた)。[[2022年]]現在は[[観光列車]]『[[○○のはなし]]』が[[新下関駅]]と東萩駅の間を結んでいる。[[クルーズトレイン]]『[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]』はコースにより東萩駅・萩駅が停車駅となる。
; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
* [[山陰本線]]
** [[江崎駅]] - [[須佐駅]] -(阿武町)- [[長門大井駅]] - [[越ケ浜駅]] - [[東萩駅]] - [[萩駅]] - [[玉江駅]] - [[三見駅]] - [[飯井駅]]
*中心となる駅:東萩駅
=== バス ===
[[ファイル:萩まぁーるバス0001.jpg|thumb|300px|right|コミュニティーバス 「まぁーるバス」(萩バスセンター前)]]
東萩駅前と市中心部にある[[萩バスセンター]]を中心に、近距離、遠距離のバスが出ている。一般路線バスは市内全域を[[防長交通]]が、市中心部 - 旧旭村( - [[山口駅 (山口県)|山口駅]])方面を[[中国ジェイアールバス]]が、旧須佐町・旧田万川町( - 益田駅)方面を[[石見交通]]が担当している。
; 長距離バス
:* 神戸・大阪・京都行き「[[カルスト号]]」(夜行/防長交通・[[近鉄バス]])
:* 東京行き「[[萩エクスプレス]]」(夜行/防長交通)
; 主な一般路線特急バス
:* 新山口駅行き「[[はぎ号]]」(中国ジェイアールバス・防長交通)
:* 萩・石見空港連絡バス(防長交通・石見交通)
; [[コミュニティーバス]]
:* [[萩循環まぁーるバス]]
=== 道路 ===
[[ファイル:Hagi Road 01.JPG|thumb|萩道路(山口県道32号萩秋芳線)]]
益田市より国道191号が海岸線に沿って南下して市内中心部を横断する。須佐で国道315号が、市中心部の土原で国道262号が、郊外の山田で[[国道490号]]がそれぞれ分岐する。国道191号は市内中心部では片側2車線の4車線になり、国道262号も現在改良工事が行われている。
高速道路網については、国道191号のバイパス道路および、2011年(平成23年)[[9月23日]]に全線開通した[[萩・三隅道路]]([[山陰自動車道]])がある。国道490号のバイパス道路として、まだ調査区間段階だが小郡萩道路の未開通部分である、絵堂IC - [[萩インターチェンジ|萩IC]]付近までの事業着手が[[2014年]]度に決定した。現在、絵堂IC - 萩IC付近の間が着工中である。
==== 高速道路 ====
; 高規格幹線道路([[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]])
* [[萩・三隅道路]] : (計画中) - [[萩インターチェンジ|萩IC]] - [[三見インターチェンジ|三見IC]] - [[明石インターチェンジ|明石IC]]/[[明石パーキングエリア|PA]]
==== 国道 ====
* [[国道191号]]
* [[国道262号]]
* [[国道315号]]
* [[国道490号]]
==== 主要地方道 ====
* [[山口県道10号山口福栄須佐線]]
* [[山口県道11号萩篠生線]]
* [[山口県道・島根県道13号萩津和野線|山口県道13号萩津和野線]]
* [[島根県道・山口県道14号益田阿武線|山口県道14号益田阿武線]]
* [[島根県道・山口県道17号津和野田万川線|山口県道17号津和野田万川線]]
* [[山口県道32号萩秋芳線]] - [[萩道路]]
* [[山口県道62号山口旭線]]
* [[山口県道64号萩三隅線]]
* [[山口県道67号萩川上線]]
==== 一般県道 ====
* [[島根県道・山口県道124号津和野須佐線|山口県道124号津和野須佐線]]
* [[山口県道196号宮野上佐々並線]]
* [[山口県道293号萩長門峡線]]
* [[山口県道294号笠山越ヶ浜線]]
* [[山口県道295号萩城趾線]]
* [[山口県道296号三見停車場三見市線]]
* [[山口県道299号萩港線]]
* [[山口県道305号須佐湾高山尾浦線]]
* [[山口県道306号弥富小川線]]
* [[山口県道308号明木美東線]]
* [[山口県道309号佐々並町絵美東線]]
* [[山口県道312号矢代佐々並線]]
* [[山口県道315号吉部下萩線]]
* [[山口県道316号高佐下阿武線]]
* [[山口県道317号高佐下阿東線]]
* [[山口県道328号福井上蔵目喜線]]
* [[山口県道337号田万川須佐線]]
* [[山口県道343号宇田須佐線]]
* [[山口県道344号吉部下篠目線]]
* [[山口県道359号大下日南瀬線]]
* [[山口県道360号笹尾筏場線]]
==== 市道渡船 ====
* [[鶴江の渡し]](市道浜崎鶴江線)
=== 離島航路 ===
* [[萩港]]([[地方港湾]])
離島航路は萩市が主に出資している[[萩海運]]が運営しており、離島の見島、大島、相島の三島と市内浜崎にある萩商港を結んでいる。
* 萩港 - 見島航路(「[[ゆりや]]」)
* 萩港 - 大島航路(「はぎおおしま」)
* 萩港 - 相島航路(「つばき2」)
なお、櫃島には航路がなく、島と本土の間の移動には住民所有の船舶を主に使用している。
== 観光 ==
=== 名所旧跡・観光地 ===
{{Right|
[[ファイル:松下村塾.jpg|thumb|none|松下村塾]]
[[ファイル:松下村塾講義室.jpg|thumb|none|松下村塾の講義室]]
[[ファイル:Hagi Uragami Mus.JPG|thumb|none|山口県立萩美術館・浦上記念館]]
[[ファイル:Hagi old town.jpg|thumb|none|萩城下町]]
}}
観光地としては、[[松陰神社]]・[[松下村塾]]など[[幕末]]から[[明治維新]]にかけて活躍した長州藩の志士たちの史跡、[[萩焼]]窯元など伝統工芸に関する施設などが主である。多くが江戸時代から幕末にかけてのものであるが、旧郡部は自然を生かした観光地が多い。また古い町並みの保存・活用が盛んで、[[重要伝統的建造物群保存地区]](重伝建)に選定された地区が市内に4箇所あり、これは京都市・金沢市とともに全国最多である。
; 旧市内(阿武川河口部周辺)、離島部
:* 萩城跡
:* [[萩城下町]]([[菊屋横丁]]など)- [[世界遺産]]「[[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業]]」の構成資産
:** [[重要文化財 菊屋家住宅]] - 藩の豪商・[[菊屋家]]の家。江戸初期の建築。
:** [[木戸孝允]]旧宅
:** [[高杉晋作]]誕生地
:** [[鍵曲]]
:** 堀内地区(全国で初めて重伝建に選定された地区の一つ)
:** 平安古地区(全国で初めて重伝建に選定された地区の一つ)
:* [[松陰神社]]
:* [[松下村塾]] - 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産
:* [[萩藩]]主毛利家墓所
:** 天樹院([[毛利輝元]]墓所)
:** [[黄檗宗]][[東光寺 (萩市)|東光寺]]
:** [[大照院]]
:* [[菊ヶ浜]]
:* [[萩反射炉]] - 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産
:* [[恵美須ヶ鼻造船所跡]] - 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産
:* [[明倫館]]水練池及び有備館附明倫館碑
:* [[伊藤博文]]旧宅
:* 旧萩藩御船倉
:* [[越ヶ浜]]
:* [[明神池 (萩市)|明神池]]
:* [[笠山]]
:* 南明寺
:* 見島ジーコンボ古墳
:* [[見島牛|見島のウシ]]
:* 大井円光寺古墳
:* [[菊ヶ浜海水浴場]]
:* 山口県立萩美術館・浦上記念館
:* 萩博物館
:* [[田床山]]
:* [[道の駅萩しーまーと]]
:* [[道の駅萩往還]]
:* [[明石パーキングエリア|道の駅萩・さんさん三見]]
:* [[萩本陣温泉]]
:* [[柚子屋本店|萩夏みかん工房]]
:* 浜崎(重伝建選定)
; 川上地区(旧・川上村)
:* [[長門峡]] - バス停は'''長門峡北口'''と名乗っている。[[道の駅長門峡]]近辺まで歩いても1時間以上かかる。
:* [[阿武川温泉]]
; 江崎地区・小川地区(旧・田万川町)
:* 田万川温泉
:* 西堂寺六角堂
:* [[道の駅ゆとりパークたまがわ]]
; 吉部地区・高俣地区(旧・むつみ村)
:* ひまわりロード
:* [[むつみ昆虫王国|昆虫王国]]
:* 秋川牧園(俗名・むつみ牧場)
:* 道の駅うり坊の郷 katamata
; 須佐地区(旧・須佐町)
:* [[須佐ホルンフェルス]]
:* [[高山 (萩市)|高山]]
:* 須佐湾
:* 紹孝寺
; 明木地区・佐々並地区(旧・旭村)
:* [[萩往還]]
:* 萩アクティビティパーク
:* [[農産物加工販売所「つつじ」]]
:* [[道の駅あさひ]]
:* [[はやし屋旅館]]
:* [[萩市佐々並市伝統的建造物群保存地区|萩市佐々並市]](重伝建選定)
; 福川地区・紫福地区(旧・福栄村)
:* 森田家住宅
:* [[大板山たたら製鉄遺跡]] - 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産
:* 道の駅ハピネスふくえ
;三見地区(旧・三見村)
;**三見橋(通称:眼鏡橋)- 国登録[[有形文化財]]<ref>{{Cite web|和書|title=萩市観光協会公式サイト|山口県萩市 |url=https://www.hagishi.com/ |website=萩市観光協会公式サイト|山口県萩市 |access-date=2023-10-29}}</ref>
;** [[三見吉広のバクチノキ]] - 県指定[[天然記念物]]<ref>{{Cite web|和書|title=山口県/社会教育・文化財課/文化財・山口県の文化財 |url=https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/detail.asp?mid=100035&pid=bl |website=bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp |access-date=2023-10-29}}</ref>
;** 道の駅萩・さんさん三見<ref>{{Cite web|和書|title=ホーム |url=https://www.akeishi.net/ |website=道の駅 萩・さんさん三見 |access-date=2023-10-29 |language=ja-JP}}</ref>
=== 主な祭り・イベント ===
萩市は四季を通じて常にイベントを行っているが、伝統的な祭事はそれらのイベントの一部に組み込まれていることが多い。
例えば、山口県無形民俗文化財に指定されている「お船謡(おふなうた)」は夏祭りでのイベントの一つとして行われている。
* [[萩・椿まつり]]([[2月]]中旬 - [[3月]]下旬まで)
* [[萩焼祭り]](主に[[5月]]上旬)
* [[おしくらごう]](和船競争)([[6月]]上旬)
* [[萩夏まつり]](毎年[[8月1日]] - [[8月3日|3日]])
** 萩[[花火]]大会(8月1日)
* [[万灯会]]([[8月13日]]は[[大照院 (萩市)|大照院]]、[[8月15日]]は[[東光寺 (萩市)|東光寺]])
* [[萩クロマグロトーナメント]]([[10月]]または[[11月]])
* [[萩時代まつり]]([[11月]]第2土曜・日曜)
* [[維新の里 萩城下町マラソン]]([[12月]]上旬)
=== 特産品 ===
* 萩焼 - 市内に多くの窯元があるが、その中でも三輪窯([[三輪休雪]])と坂窯([[坂高麗左衛門]])が二大窯元として有名である。
* [[ナツミカン|夏みかん]] - 明治期に武士への救済措置として栽培が奨励され、現在も城下町の土塀より枝を張った夏みかんを見ることが出来る。
* [[夏みかん菓子]]
* [[蒲鉾]]
* [[ごぼう巻き]]
* [[見島牛|見蘭牛]]
* [[しそわかめ]]
* [[須佐男命いか]]、[[赤米]](これらは旧須佐町)
* [[ユズ|柚]](旧川上村)
* [[モモ|桃]]、[[ナシ|梨]](これらは旧田万川町)
* [[ダイコン|大根]](千石台地区は2013年(平成25年)度の出荷量は約3,200tで山口県内の出荷量約3,370tのうち約95%を生産<ref name="mainichi-np-2014-5-29">川上敏文(2014年5月29日). “千石台大根:県内最大産地の萩で出荷始まる”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。)、[[マツタケ|松茸]]、[[豚肉|むつみ豚]](これらは旧むつみ村)
* [[豆腐|佐々並豆腐]]、[[醤油|明木醤油]](これらは旧旭村)
* [[そば饅頭]](これらは旧福栄村)
* [[ういろう (菓子)|ういろう]](外郎)は蒸し菓子の一つ。
== 萩市を舞台とした作品 ==
* [[赤かぶ検事奮戦記]]第3シリーズ(推理小説及びそれを原作とした[[テレビドラマ]])
* [[奥さまは魔法少女]]([[テレビアニメ]]。DVD特典に出演者による萩市観光紹介が収録されている)
* [[緋が走る]]([[漫画]]及びそれを原作としたテレビドラマ)
* [[おれは直角]]([[漫画]]及びそれを原作としたテレビアニメ。[[明倫館|萩明倫館]]が舞台)
* [[少女が大人になる時 その細き道]]([[1984年]]のテレビドラマ。ヒロインが萩市出身という設定で、オープニングでは萩の海岸、[[萩城|萩城跡]]、[[萩城下町]]が登場する)
* [[釣りバカ日誌12 史上最大の有給休暇]](松竹、2001年公開。萩市のシーンは後半から登場する)
* [[虹を織る]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])
* [[最終試験くじら]]([[CIRCUS]]制作のゲーム及びそれを原作としたアニメ、漫画。この他[[防府市]]の[[防府天満宮]]や[[阿武町]]、[[長門市]]の[[千畳敷 (山口県)|千畳敷]]も舞台{{要出典|date=2022年2月}})
* はじまりの歌(NHKの特集テレビドラマ。[[第63回NHK紅白歌合戦]]の白組司会を務めた[[嵐 (グループ)|嵐]]が当番組で歌った[[ふるさと (嵐の曲)|ふるさと]]を[[モチーフ (物語)|モチーフ]]に制作された)
* 花燃ゆ(NHK[[大河ドラマ]]。[[2015年]][[1月4日]]~[[12月13日]]まで放送された)
* [[朗読屋]](NHK[[NHK山口放送局|山口]]発[[地域発ドラマ]])
* [[八重子のハミング]]([[小学館文庫]]から出版された原作を映画化。[[2016年]][[10月29日]]の萩市での先行公開を皮切りに山口県内で公開され、[[2017年]][[5月6日]]から全国でも順次公開)
== メディア ==
* [[NHK山口放送局]]萩支局
* [[エフエム萩]](FM NANAKO。[[コミュニティ放送]])
* [[萩ケーブルネットワーク|萩テレビ]](はあぶビジョン。[[ケーブルテレビ局]])
* [[萩市総合情報施設]](旧・川上村・むつみ村・旭村・福栄村の地域をサービスエリアとする市営ケーブルテレビ施設)
* [[山口新聞]]萩支局
* [[はぎ時事新聞]]([[長門時事新聞]]を発行している長門市に本社を置く[[長門時事新聞社]]が萩市、阿武町を中心に発行しているローカル紙)
== 著名な出身者 ==
=== 第二次大戦まで ===
* [[阿武天風]] - 小説家、旧三見村出身
* [[飯田俊徳]]
* [[井上勝]]
* [[入江九一]]
* [[奥平謙輔]]
* [[桂太郎]] - 政治家、軍人、第11・13・15代内閣総理大臣
* [[木戸孝允]](桂小五郎)
* [[菊屋孫輔]] - 山口県多額納税者
* [[久坂玄瑞]]
* [[久原房之助]] - 実業家、政治家
* [[厚東常吉]]
* [[品川弥二郎]]
* [[高島北海]] - 画家
* [[高杉晋作]]
* [[田中義一]] - 政治家、軍人、第26代内閣総理大臣
* [[広沢真臣]]
* [[藤田伝三郎]] - [[藤田財閥]]の創立者
* [[正木退蔵]] - 東京職工学校(現・[[東京工業大学]])初代校長
* [[松林桂月]] - [[南画家]]
* [[森寛斎]] - [[日本画家]]
* [[山縣有朋]] - [[政治家]]、軍人、第3・9代内閣総理大臣
* [[山田顕義]]
* [[山根キク]] - ジャーナリスト、政治家、婦人参政権獲得運動に尽力。
* [[山根正次]] - 私立日本医学校(現・[[日本医科大学]])創立者、初代校長
* [[吉田松陰]]
* [[吉田稔麿]]
* [[佐久間左馬太]] - [[台湾総督]]
* [[手塚猛昌]] - 時刻表の父(旧・[[須佐町]])
* [[片山東熊]] - 建築家
=== 戦後 ===
* [[阿武教子]] - 元女子[[柔道]]選手(現在は全日本女子柔道の[[特別]][[コーチ]])
* [[阿武美和]] - 元女子[[柔道]]選手
* [[宇野亜由美]] - [[漫画家]]
* [[勝津正男]] - 元[[山口放送]]アナウンサー(現在はフリーアナウンサー)
* [[金崎睦美]] - [[俳優|女優]]
* [[河村建夫]] - 政治家、[[衆議院議員]]、元[[内閣官房長官]]、元[[文部科学大臣]]
* [[きただにひろし]] - アーティスト(旧・[[須佐町]])
* [[紀野一義]] - 仏教学者、宗教家
* [[佐伯かよの]] - 漫画家
* [[志賀義雄]] - 政治家、[[革命家]]、元[[日本共産党]]衆議院議員
* [[城野ゆき]] - 元女優
* [[瀧山久志]] - ミュージカル俳優
* [[田坂都]] - 元女優
* [[田中龍夫]] - 政治家、元文部大臣、元通産大臣、元衆議院議員、元山口県知事
* [[長安智子]] - [[NHK福岡放送局]]アナウンサー
* [[七瀬葵]] - イラストレーター、漫画家
* [[野坂参三]] - 政治家、革命家、元[[日本共産党]]議長、元[[参議院議員]]
* [[廣田浩章]] - 元[[プロ野球選手]]
* [[弘中勝久]] - 山口県[[副知事 (日本)|副知事]]
* [[松本実]] - 俳優
*[[陽捷行]] - 元[[農林水産省]][[農業環境技術研究所]]長、元[[北里大学]]副学長
* [[三輪休和]] - [[陶芸家]]
* [[三輪壽雪]] - 陶芸家
* [[山本和智]] - [[作曲家]]
* [[山本祐司]] - 元毎日新聞記者
* [[山下春江]] - 政治家、元衆議院議員、元参議院議員
* [[吉賀陶馬ワイス]] - ミュージカル俳優
* [[吉武恵市]] - 政治家、元衆議院議員、元参議院議員、元自治大臣・労働大臣
* [[長井紀幸]] - 元山口放送アナウンサー
* 入江一子 - 画家(旧・[[須佐町]])
* 大塚均 - 切手デザイナー(旧・[[須佐町]])
* [[吉岡治]] - 作詞家、放送作家(旧・[[田万川町]])
=== 出来事 ===
萩市出身の幕末の3[[志士]](吉田松陰・木戸孝允(桂小五郎)・高杉晋作)について、[[東京都|東京]]の[[企業]]が、[[食品]]などさまざまな商品で[[商標登録]]を行っていたことが発覚、同市は[[特許庁]]に異議申し立てを行った。同市は、3人の名声に便乗した、[[商標権]]による利益取得が目的と主張している。
== その他 ==
* [[かおり風景100選]]:萩城下町夏みかんの花
* [[水の郷百選]]:守ろう 育てよう ふるさとの川
* [[日本経済新聞社]]何でもランキング:散策したい歴史ある町並み 第1位
* 第六回ロケーションジャパン大賞ドラマ部門・特別賞〈地域の変化部門〉(NHK大河ドラマ 花燃ゆで)
* 萩市特産のナス「萩たまげなす」が2006年6月15日放送の[[日本テレビ系列]]「[[新どっちの料理ショー]]」で紹介された。
=== 周辺都市との距離 ===
* 山口市 45km
* [[下関市]] 105km
* 益田市 60km
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[長州藩]]
* [[幕末]]
* [[明治維新]]
* [[会津若松市]] - 萩市が[[友好都市]]協定を申し込んだが、会津若松市は[[会津戦争]]の遺恨を理由に拒否している。
* [[男なら]]([[民謡]])
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
* {{Official website}}
* [https://www.hagishi.com/ 萩市観光協会]
* {{Twitter|hagikankou|萩市観光課公式ツイッター}}
* {{Osmrelation|4018369}}
* {{ウィキトラベル インライン|萩市|萩市}}
* {{wikivoyage-inline|en:Hagi|萩市{{en icon}}}}
* {{Googlemap|萩市}}
{{山口県の自治体}}
{{Normdaten}}
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[[Category:山口県の市町村]]
[[Category:城下町]]
[[Category:萩市|*]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:1923年設置の日本の市町村]]
[[Category:2005年設置の日本の市町村]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%B8%82
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周南市
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周南市(しゅうなんし)は、山口県の東南部に位置する市。
南部は瀬戸内海に面し、臨海部は瀬戸内工業地域が広がっている。国際拠点港湾である徳山下松港とともに、主要産業である重化学工業企業が多数立地しており、これに接する形で市街地が形成されている。また、港は複数の島に囲まれており、一部は定期航路が設定されている。一方北部は中国山地の一部にあたり、農村地域が点々と存在している。
隣接する下松市や光市とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「周南地区」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針において、3市を人口約25万人の「周南広域都市圏」と定義している。
面積は約656.29kmで、県内19市町中、萩市に次ぐ第5位。
市域は旧都濃郡と近しいが、下松市が外れ熊毛郡熊毛町が入る。また、周南市発足以前の合併によって旧佐波郡の一部を含む。
北部は、錦川の上流にあたる鹿野盆地などでは冬季には積雪がある。一方、瀬戸内海に面した南部には平野が広がり、気候も比較的温暖で、年に数えるほどしか積雪することはない。
なお、気象庁の一次細分区域は、山口市や防府市と同じ中部にあたる。
周南市の地名を参照。
周南市は、2003年(平成15年)4月に徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町の2市2町が新設合併し発足した。市名は、2001年(平成13年)当時の3市2町(徳山市、下松市、新南陽市、熊毛町、鹿野町)合併協議会において決定したものを、下松市が合併協議から離脱した後に設立された2市2町合併協議会が引き継いだものである。
新市名の案は、当時の3市2町の住民からの公募で選ばれた。「周南」とは周防国の南部という意味で(方角地名)、山口県の瀬戸内海沿岸の広い地域を指す名称(広域地名)として使用されてきた。昭和後期以降、当時の4市4町(徳山市、下松市、光市、新南陽市、熊毛町、鹿野町、大和町、田布施町)において広域合併の議論が高まるにつれ、この合併構想が「周南合併」と呼称されるようになり、主に4市4町を指す呼称として浸透していった。
また、平成の大合併において人口10万人以上の市を含む合併(新設・編入は問わない)において、最大規模の市の名を引き継がなかったのは首都圏を除けば唯一の例である。なお、新市名の最終6候補には徳山市も含まれており、他には、とくやま市、のぞみ市、東山口市、毛利市が候補に挙がっていた。
周南地区の市町合併は周南合併と呼ばれ、 2003年(平成15年)4月の周南市の誕生は、いわゆる「平成の大合併」の、山口県内における初の事例となった。1980年代後半ごろから周南地域における市町の合併機運が高まり、4市4町(徳山市、下松市、光市、新南陽市、熊毛町、田布施町、大和町、鹿野町)を中心とした合併が模索されてきた。
2市2町合併協議会の設立の際、2市2町の合併は「先行合併」と位置付けられたが、2003年の合併以後、周南市、下松市、光市において合併を求める機運は薄くなっており、更なる合併に向けた目立った動きはみられない。
旧熊毛町においては、市外局番や、消防・警察の所轄が市内の他の地区と異なるほか、市役所本庁(旧徳山市中心部)へ最短で移動する場合に下松市を経由する必要がある状況となっている。
国立社会保障・人口問題研究所が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』では、2045年時点での周南市の人口予は107,540人(2015年を100とすると74.2)と推計されている。隣接する自治体では、下松市50,419人(同90.3)、光市35,636人(同69.4)、防府市101,202人(同87.3)、山口市178,452人(同90.4)、岩国市89,637人(同65.5)である。
周南市都市計画マスタープランに基づく7地域、周南市公共施設再配置計画に基づく31地区に分類される。
徳山駅周辺の中心市街地では、銀座、新宿、原宿、晴海、有楽町、代々木、千代田など、東京の地名が多く住居表示に使われている。これらは第二次世界大戦後に施工された戦災復興土地区画整理事業に伴い新たに命名された地名である。
2020年(令和2年)6月23日現在。
周南市の主要産業は重化学工業であり、旧徳山海軍燃料廠から発展した石油コンビナート(周南コンビナート)が形成されている。
徳山湾沿いの沿岸部には大手化学メーカーのトクヤマ・東ソーや石油元売りの出光興産、ステンレス鋼加工の日鉄日新製鋼が拠点事業所を置き、製造品出荷額等は山口県内第1位で、瀬戸内工業地域の重要な位置を占める。また、工場群の夜景は日本夜景遺産にも認定され、観光(工場萌え)の要素も持ち合わせる。
1960年代以降、徳山駅の北東に広がる中心市街地に、松下百貨店(のちの近鉄松下百貨店)、ダイエー徳山店(のちのトポス徳山店)、ニチイ徳山店(のちの徳山サティ)といった百貨店・総合スーパーの出店が相次ぎ、周南地区を代表する商業地として発展した。
1990年代以降は、モータリゼーションの進行に伴い、周辺部で郊外型ショッピングセンター(SC)やロードサイド店舗が発展した。旧新南陽市域でゆめタウン新南陽やイオンタウン周南が、隣接する下松市でザ・モール周南(現・ゆめタウン下松)やサンリブ下松などが開業した。一方、中心市街地の商業地は衰退が進み、それまで発展を支えた総合スーパーや百貨店はすべて姿を消した。
2012年(平成24年)に山口県が行った調査では、旧熊毛町域は下松市の第1次商圏、旧徳山市域・旧鹿野町域は下松市の第2次商圏となっており、市内から下松市への購買力の流出が顕著である実態が明らかとなった。一方、市内においても郊外型SCの立地する旧新南陽市域では、高い地元購買率を維持していた。
2010年代に入り、中心市街地では徳山駅周辺整備事業が着工された。平成末期の2014年から2017年頃には、旧徳山市域においても、ゆめタウン徳山やイオンタウン周南久米など、郊外型SCの出店が相次いだ。
店舗面積10,000mを以上の大規模小売店鋪を以下に記す。
南部は瀬戸内海に面しており、漁業が行われている。ふぐは下関市の特産品として有名であるが、周南市の粭島(すくもじま)は、ふぐの延縄漁法発祥地であることから、隠れたふぐの本場としても知られる。北部では農業が中心で、梨やぶどうが栽培されている。
第二地銀である西京銀行の本店のほか、県内外の銀行や、みずほ銀行・三菱UFJ銀行の2つの都市銀行が支店を構える。三菱UFJ銀行徳山支店は旧三菱銀行→東京三菱銀行の店舗で、東京三菱銀行時代は県内唯一の店舗だった(三菱UFJ銀行徳山支店は2023年2月20日で閉鎖され宇部支店に統合される)。
(旧徳山市域)
(旧新南陽市域)
(旧熊毛町域)
(旧鹿野町域)
(休校中)
全て市立小学校である。
(旧徳山市域)
(旧新南陽市域)
(旧熊毛町域)
(旧鹿野町域)
(休校中)
すべて防長交通による運行。
以下の路線が周南市内を発着・経由する。すべて防長交通による運行(カルスト号のみ近鉄バスとの共同運行)。
※太字は周南市内の停車地
市外局番は、旧熊毛町が0833(40 - 79、90 - 99)、その他が0834(20 - 69、80 - 89)となっている。
郵便番号は、以下の通りとなっている。
|
[
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"text": "周南市(しゅうなんし)は、山口県の東南部に位置する市。",
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"text": "南部は瀬戸内海に面し、臨海部は瀬戸内工業地域が広がっている。国際拠点港湾である徳山下松港とともに、主要産業である重化学工業企業が多数立地しており、これに接する形で市街地が形成されている。また、港は複数の島に囲まれており、一部は定期航路が設定されている。一方北部は中国山地の一部にあたり、農村地域が点々と存在している。",
"title": "地理"
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"text": "隣接する下松市や光市とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「周南地区」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針において、3市を人口約25万人の「周南広域都市圏」と定義している。",
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"text": "面積は約656.29kmで、県内19市町中、萩市に次ぐ第5位。",
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"text": "市域は旧都濃郡と近しいが、下松市が外れ熊毛郡熊毛町が入る。また、周南市発足以前の合併によって旧佐波郡の一部を含む。",
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"text": "北部は、錦川の上流にあたる鹿野盆地などでは冬季には積雪がある。一方、瀬戸内海に面した南部には平野が広がり、気候も比較的温暖で、年に数えるほどしか積雪することはない。",
"title": "地理"
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"text": "なお、気象庁の一次細分区域は、山口市や防府市と同じ中部にあたる。",
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"text": "周南市の地名を参照。",
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"text": "周南市は、2003年(平成15年)4月に徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町の2市2町が新設合併し発足した。市名は、2001年(平成13年)当時の3市2町(徳山市、下松市、新南陽市、熊毛町、鹿野町)合併協議会において決定したものを、下松市が合併協議から離脱した後に設立された2市2町合併協議会が引き継いだものである。",
"title": "歴史"
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"text": "新市名の案は、当時の3市2町の住民からの公募で選ばれた。「周南」とは周防国の南部という意味で(方角地名)、山口県の瀬戸内海沿岸の広い地域を指す名称(広域地名)として使用されてきた。昭和後期以降、当時の4市4町(徳山市、下松市、光市、新南陽市、熊毛町、鹿野町、大和町、田布施町)において広域合併の議論が高まるにつれ、この合併構想が「周南合併」と呼称されるようになり、主に4市4町を指す呼称として浸透していった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、平成の大合併において人口10万人以上の市を含む合併(新設・編入は問わない)において、最大規模の市の名を引き継がなかったのは首都圏を除けば唯一の例である。なお、新市名の最終6候補には徳山市も含まれており、他には、とくやま市、のぞみ市、東山口市、毛利市が候補に挙がっていた。",
"title": "歴史"
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"text": "周南地区の市町合併は周南合併と呼ばれ、 2003年(平成15年)4月の周南市の誕生は、いわゆる「平成の大合併」の、山口県内における初の事例となった。1980年代後半ごろから周南地域における市町の合併機運が高まり、4市4町(徳山市、下松市、光市、新南陽市、熊毛町、田布施町、大和町、鹿野町)を中心とした合併が模索されてきた。",
"title": "歴史"
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"text": "2市2町合併協議会の設立の際、2市2町の合併は「先行合併」と位置付けられたが、2003年の合併以後、周南市、下松市、光市において合併を求める機運は薄くなっており、更なる合併に向けた目立った動きはみられない。",
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"text": "旧熊毛町においては、市外局番や、消防・警察の所轄が市内の他の地区と異なるほか、市役所本庁(旧徳山市中心部)へ最短で移動する場合に下松市を経由する必要がある状況となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "国立社会保障・人口問題研究所が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』では、2045年時点での周南市の人口予は107,540人(2015年を100とすると74.2)と推計されている。隣接する自治体では、下松市50,419人(同90.3)、光市35,636人(同69.4)、防府市101,202人(同87.3)、山口市178,452人(同90.4)、岩国市89,637人(同65.5)である。",
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"text": "周南市都市計画マスタープランに基づく7地域、周南市公共施設再配置計画に基づく31地区に分類される。",
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"text": "徳山駅周辺の中心市街地では、銀座、新宿、原宿、晴海、有楽町、代々木、千代田など、東京の地名が多く住居表示に使われている。これらは第二次世界大戦後に施工された戦災復興土地区画整理事業に伴い新たに命名された地名である。",
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"text": "2020年(令和2年)6月23日現在。",
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"text": "周南市の主要産業は重化学工業であり、旧徳山海軍燃料廠から発展した石油コンビナート(周南コンビナート)が形成されている。",
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"title": "産業"
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"text": "第二地銀である西京銀行の本店のほか、県内外の銀行や、みずほ銀行・三菱UFJ銀行の2つの都市銀行が支店を構える。三菱UFJ銀行徳山支店は旧三菱銀行→東京三菱銀行の店舗で、東京三菱銀行時代は県内唯一の店舗だった(三菱UFJ銀行徳山支店は2023年2月20日で閉鎖され宇部支店に統合される)。",
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"text": "(旧徳山市域)",
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"text": "全て市立小学校である。",
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"title": "交通"
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"text": "市外局番は、旧熊毛町が0833(40 - 79、90 - 99)、その他が0834(20 - 69、80 - 89)となっている。",
"title": "電話・郵便"
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"text": "郵便番号は、以下の通りとなっている。",
"title": "電話・郵便"
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周南市(しゅうなんし)は、山口県の東南部に位置する市。
|
{{画像提供依頼|熊毛町の烏帽子岳|date=2021年10月|cat=周南市}}
{{日本の市
|画像 = Tokuyamazoo.jpg
|画像の説明 = [[周南市徳山動物園]]
|市旗 = [[ファイル:Flag of Shunan, Yamaguchi.svg|100px]]
|市旗の説明 = 周南[[市町村旗|市旗]]
|市章 = [[ファイル:Emblem of Shunan, Yamaguchi.svg|100px]]
|市章の説明 = 周南[[市町村章|市章]]
|自治体名 = 周南市
|都道府県 = 山口県
|コード = 35215-2
|隣接自治体 = [[下松市]]、[[光市]]、[[山口市]]、[[防府市]]、[[岩国市]]<br />[[島根県]][[鹿足郡]][[吉賀町]]
|木 = [[クスノキ]]
|花 = [[サルビア]]
|シンボル名 = 他のシンボル
|鳥など =
|郵便番号 = 745-8655
|所在地 = 周南市岐山通一丁目1番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-35|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[File:Shunan City Hall.jpg|250px]]
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|35|215|image=Shunan in Yamaguchi Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
|特記事項 =
}}
'''周南市'''(しゅうなんし)は、[[山口県]]の東南部に位置する[[市]]<ref>[https://www.city.shunan.lg.jp/soshiki/3/2104.html 周南市誕生までのあゆみ]</ref>。
== 地理 ==
[[File:Tokuyama district Shunan city Aerial photograph.2008.jpg|thumb|270px|徳山地区中心部周辺の空中写真。<br/>2008年4月21日撮影の27枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
南部は[[瀬戸内海]]に面し、臨海部は[[瀬戸内工業地域]]が広がっている。[[国際拠点港湾]]である[[徳山下松港]]とともに、主要産業である[[重化学工業]]企業が多数立地しており、これに接する形で市街地が形成されている。また、港は複数の島に囲まれており、一部は定期航路が設定されている。一方北部は[[中国山地]]の一部にあたり、農村地域が点々と存在している。
隣接する[[下松市]]や[[光市]]とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「[[周南地区]]」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針<ref>[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a18400/city-plan/kihonindex.html 山口県都市計画基本方針]</ref>において、3市を人口約25万人の「周南広域都市圏」と定義している。
面積は約656.29[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="tokei2015">{{Cite|title=平成27年刊山口県統計年鑑 |publisher=山口県 |date=2016-02-04 |url=http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a12500/nenkan-index/toukeinenkan27/nenkan27.html |format= |accessdate= 2016-07-24}}</ref>で、県内19市町中、[[萩市]]に次ぐ第5位。
市域は旧[[都濃郡]]と近しいが、[[下松市]]が外れ[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[熊毛町]]が入る。また、周南市発足以前の合併によって旧[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]の一部を含む。
=== 気候 ===
北部は、[[錦川]]の上流にあたる鹿野[[盆地]]などでは冬季には[[積雪]]がある。一方、[[瀬戸内海]]に面した南部には[[平野]]が広がり、気候も比較的温暖で、年に数えるほどしか積雪することはない。
なお、[[気象庁]]の一次細分区域は、[[山口市]]や[[防府市]]と同じ中部にあたる<ref name="saibunkuiki">{{Cite web|和書| date=2011-10-06 | url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/saibun/yamaguchi.pdf | format=PDF | title=警報・注意報や天気予報の発表区域図 山口県 | publisher=気象庁 | accessdate=2016-07-24 }}</ref>。
{{Weather box|location=和田(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan precipitation mm=75.2|Feb precipitation mm=101.2|Mar precipitation mm=170.7|Apr precipitation mm=217.6|May precipitation mm=252.6|Jun precipitation mm=302.8|Jul precipitation mm=355.1|Aug precipitation mm=195.1|Sep precipitation mm=195.5|Oct precipitation mm=106.6|Nov precipitation mm=93.3|Dec precipitation mm=75.7|year precipitation mm=2133.0|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=10.1|Feb precipitation days=10.5|Mar precipitation days=11.5|Apr precipitation days=10.4|May precipitation days=9.9|Jun precipitation days=12.6|Jul precipitation days=12.4|Aug precipitation days=10.3|Sep precipitation days=10.0|Oct precipitation days=7.1|Nov precipitation days=7.6|Dec precipitation days=9.7|year precipitation days=122.3|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=81&block_no=1261&year=&month=&day=&view= |title=和田 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-10-08 |publisher=気象庁}}</ref>}}
=== 隣接している自治体 ===
* 山口県
** [[下松市]]
** [[光市]]
** [[防府市]]
** [[山口市]]
** [[岩国市]]
* [[島根県]]
** [[鹿足郡]][[吉賀町]]
=== 地名 ===
[[周南市の地名]]を参照。
== 歴史 ==
=== 市名の由来 ===
周南市は、[[2003年]](平成15年)4月に[[徳山市]]、[[新南陽市]]、[[熊毛町]]、[[鹿野町 (山口県)|鹿野町]]の2市2町が[[市町村合併|新設合併]]し発足した。市名は、[[2001年]](平成13年)当時の3市2町(徳山市、[[下松市]]、新南陽市、熊毛町、鹿野町)合併協議会において決定した<ref name="22gappei1">[http://www.city.shunan.lg.jp/hp/gappei/pdf_file/g04-01a.k.pdf 第1回 徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町合併協議会 議案等関係資料]</ref>ものを、下松市が合併協議から離脱した後に設立された2市2町合併協議会が引き継いだものである<ref>[http://www.city.shunan.lg.jp/hp/gappei/pdf_file/g04-01c.pdf 第1回徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町合併協議会 会議録]</ref>。
新市名の案は、当時の3市2町の住民からの公募で選ばれた。「周南」とは[[周防国]]の南部という意味で([[方角地名]])、山口県の瀬戸内海沿岸の広い地域を指す名称([[広域地名]])として使用されてきた<ref name="yurai">[http://www.city.shunan.lg.jp/main/ayumi.html 周南市誕生までのあゆみ]</ref>。[[昭和]]後期以降、当時の4市4町(徳山市、下松市、[[光市]]、新南陽市、熊毛町、鹿野町、[[大和町 (山口県)|大和町]]、[[田布施町]])において広域合併の議論が高まるにつれ、この合併構想が「周南合併」と呼称されるようになり、主に4市4町を指す呼称として浸透していった<ref name="22gappei1" />。
また、平成の大合併において人口10万人以上の市を含む合併(新設・編入は問わない)において、最大規模の市の名を引き継がなかったのは首都圏を除けば唯一の例である。なお、新市名の最終6候補には徳山市も含まれており、他には、とくやま市、のぞみ市、東山口市、毛利市が候補に挙がっていた。
=== 年表 ===
==== 古代 ====
* [[622年]](推古天皇30年) - [[宇佐神宮|宇佐八幡宮]]の分霊社として、[[遠石八幡宮]]が建立。
==== 中世・近世 ====
* [[1374年]](応永7年) - [[漢陽寺]]が開山。
* [[1650年]](慶安3年)6月 - 下松藩庁が野上町に移され、野上を徳山と改称([[徳山藩]])。
* [[1715年]](正徳5年) - [[万役山事件]]。
* [[1716年]](正徳6年)4月 - 前年の万役山事件により徳山藩改易。
* [[1719年]](享保4年)5月 - 徳山藩再興。
==== 近代 ====
* [[1897年]]([[明治]]30年)9月 - [[山陽鉄道]]広島駅〜徳山駅間が延伸開業(現在の[[山陽本線]])。
* [[1898年]](明治31年)3月 - 山陽鉄道徳山駅〜三田尻駅間が開業。
* [[1904年]](明治37年) - 海軍煉炭製造所(後の海軍燃料廠)が設けられる。
* [[1918年]]([[大正]]7年)2月 - 日本曹達工業(現在の[[トクヤマ]])が設立。
** 7月 - 戦艦[[河内 (戦艦)|河内]]、徳山湾で爆沈。
* [[1922年]](大正11年) - [[児玉神社 (周南市)|児玉神社]]が創建。徳山港(後の[[徳山下松港]])開港。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)11月17日 - 徳山無尽共益株式会社([[西京銀行]]の前身)設立。
* [[1932年]](昭和7年)5月 - 岩徳西線として櫛ケ浜駅 - 周防花岡駅間が開業(現在の[[岩徳線]])。
* [[1936年]](昭和11年) - 東洋曹達工業(現在の[[東ソー]])南陽工場が操業開始。
* [[1940年]](昭和15年)10月 - [[向道ダム]]が竣工。
* [[1941年]](昭和16年)11月3日 - 都濃郡富岡村が都濃郡富田町に編入。
* [[1945年]](昭和20年)
** 5月 - 海軍燃料廠を狙った空襲([[日本本土空襲|徳山大空襲]])。
** 7月 - [[日本本土空襲|徳山空襲]]により徳山市街地が壊滅。
==== 現代 ====
* [[1953年]](昭和28年)8月 - [[徳山競艇場]]が開場。
* [[1956年]](昭和31年)4月 - 株式会社ラジオ山口(現在の[[山口放送]])が開局。
* [[1957年]](昭和32年)3月 - 旧海軍燃料廠跡地に[[出光興産]]徳山製油所が操業開始。
* [[1960年]](昭和35年)3月 - 徳山市立動物園(現在の[[周南市徳山動物園]])が開園。
* [[1962年]](昭和37年) - [[川上ダム (山口県)|川上ダム]]が竣工。
* [[1965年]](昭和40年) - [[菅野ダム]]が竣工。
* [[1971年]](昭和46年)4月 - [[徳山大学]]が開学。
* [[1973年]](昭和48年)7月7日 - 出光石油化学徳山工場で爆発火災事故。
* [[1975年]](昭和50年)6月 - [[周南バイパス]]が全通。
* [[1980年]](昭和55年)10月17日 - [[中国自動車道]]・[[鹿野インターチェンジ|鹿野IC]] - 山口IC間が開通。
* [[1982年]](昭和57年)11月 - 徳山市文化会館(現在の[[周南市文化会館]])が開館。
* [[1986年]](昭和61年)3月27日 - [[山陽自動車道]]・[[徳山西インターチェンジ|徳山西IC]]-防府東ICが開通。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 3月30日 - 山陽自動車道・[[徳山東インターチェンジ|徳山東IC]]-徳山西ICが開通。
** 12月20日 - 山陽自動車道・[[熊毛インターチェンジ|熊毛IC]]-徳山東ICが開通。
* [[1992年]](平成4年)7月 - 徳山市総合スポーツセンター(現在の[[周南市総合スポーツセンター]])が竣工。
* [[1995年]](平成7年)8月 - [[永源山公園]]にゆめ風車が竣工。
* [[1995年]](平成7年)9月4日 - 徳山市美術博物館(現在の[[周南市美術博物館]])が開館。
* [[2003年]](平成15年)4月21日 - [[徳山市]]・[[新南陽市]]・[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[熊毛町]]・[[都濃郡]][[鹿野町 (山口県)|鹿野町]]が合併して周南市が発足。
* [[2011年]](平成23年)11月13日 - 東ソー南陽事業所で爆発火災事故。
* [[2014年]](平成26年)3月14日 - 出光興産徳山製油所が原油の精製を終了(製油所の名称廃止は31日){{Refnest|group="注釈"|伊予灘を震源とする地震で常圧蒸留装置などが緊急停止したが、再稼働に時間が必要なため、予定の31日より早く精製を終えた<ref name="asahi-np-2014-3-30">角田要(2014年3月30日). “「海賊とよばれた男」の舞台に幕 出光・徳山製油所”. [[朝日新聞]](朝日新聞社)</ref>。従って、精製終了と製油所という名称の終了時期が結果としてずれることになった<ref name="asahi-np-2014-3-30" />。}}
=== 周南合併 ===
[[周南地区]]の市町合併は周南合併と呼ばれ、 2003年(平成15年)4月の周南市の誕生は、いわゆる「[[平成の大合併]]」の、山口県内における初の事例となった。[[1980年代]]後半ごろから周南地域における市町の合併機運が高まり、4市4町(徳山市、下松市、光市、新南陽市、熊毛町、[[田布施町]]、[[大和町 (山口県)|大和町]]、鹿野町)を中心とした合併が模索されてきた<ref>[http://www.city.shunan.lg.jp/mpsdata/web/4122/22shunancitynogaiyo.pdf 平成22年度周南市の概要(周南市議会)]</ref>。
* [[1991年]](平成2年)5月 - 徳山市、下松市、光市による周南都市合併調査研究会が発足。
* [[1992年]](平成3年) - 周南都市合併調査研究会に新南陽市、大和町、田布施町、鹿野町、熊毛町が参加。
* [[1999年]](平成11年)
** 1月 - 徳山市、下松市、新南陽市による3市合併協議会が設立。
** 7月 - 合併協議会に熊毛町、鹿野町が加入。3市2町合併協議会となる。
* [[2001年]](平成13年)
** 11月 - 3市2町合併協議会において、新市名が「周南市」に決定。
** 12月 - 3市2町合併協議会において、合併の期日が [[2003年]](平成15年)4月21日に決定。
*** 期日の決定を巡り対立した[[井川成正]]下松市長が抗議のため途中退席。
* [[2002年]](平成14年)
** 1月 - 下松市が3市2町合併協議会を欠席、事実上の離脱。
** 5月 - 3市2町合併協議会が休止。
** 6月 - 徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町による2市2町合併協議会が設立。
* [[2003年]](平成15年)4月 - 周南市の発足に伴い、2市2町合併協議会、3市2町合併協議会が解散。
2市2町合併協議会の設立の際、2市2町の合併は「先行合併」と位置付けられたが、2003年の合併以後、周南市、下松市、光市において合併を求める機運は薄くなっており、更なる合併に向けた目立った動きはみられない。
旧熊毛町においては、市外局番や、消防・警察の所轄が市内の他の地区と異なるほか、市役所本庁(旧徳山市中心部)へ最短で移動する場合に下松市を経由する必要がある状況となっている。
=== 市域の変遷 ===
{| class="wikitable" style="font-size:x-small"
! 町村制施行(1889年)
! 1889年 - 1926年
! colspan=4 | 1926年 - 1954年
! colspan=2 | 1955年 - 1989年
! 1989年 - 現在
! 現在
|-
| colspan=2 | 鹿野村
| colspan=5 | 1940年11月3日<br />鹿野町
| rowspan=2 | 鹿野町
| rowspan=23 colspan=2 style="background-color:#cfc;" | 2003年4月21日<br />周南市
|-
| rowspan=2 colspan=6 | 須金村
| 1955年7月20日<br />鹿野町に編入
|-
| rowspan=4 | 1955年7月20日<br />都濃町
| rowspan=4 | 1966年1月1日<br />德山市に編入
|-
| colspan=5 | 須々万村
| rowspan=3 | 1954年12月1日<br />都濃町
|-
| colspan=5 | 中須村
|-
| colspan=5 | 長穂村
|-
| colspan=6 | 向道村
| 1955年10月1日<br />德山市に編入
| rowspan=9 | 德山市
|-
| 德山村
| 1900年10月15日<br />德山町
| 1935年10月15日<br />德山市
| rowspan=11 | 1944年4月1日<br />德山市
| rowspan=8 colspan=3 | 德山市
|-
| colspan=2 | 加見村
| rowspan=2 | 1942年4月1日<br />德山市に編入
|-
| colspan=2 | 久米村
|-
| colspan=2 | 太華村
| 1940年4月29日<br />櫛浜町
|-
| colspan=3 | 大津島村
|-
| colspan=3 | 夜市村
|-
| colspan=3 | 戸田村
|-
| colspan=3 | 湯野村
|-
| 富田村
| colspan=2 | 1915年11月10日<br />富田町
| rowspan=2 | 1949年8月1日<br />富田町
| rowspan=3 colspan=2 | 1953年10月1日<br />南陽町
| rowspan=4 | 1970年11月1日<br />新南陽市
|-
| colspan=2 | 富岡村
| 1941年11月3日<br />富田町に編入
|-
| 福川村
| colspan=2 | 1912年1月1日<br />福川町
| 1949年9月1日<br />福川町
|-
| colspan=6 | 佐波郡<br />和田村
| 1955年11月1日<br />南陽町に編入
|-
| colspan=6 | 三丘村
| rowspan=4 colspan=2 | 1956年9月30日<br>熊毛町
|-
| colspan=6 | 高水村
|-
| colspan=6 | 勝間村
|-
| colspan=6 | 八代村
|}
== 地域 ==
=== 人口 ===
{{人口統計|code=35215|name=周南市|image=Population distribution of Shunan, Yamaguchi, Japan.svg}}
[[国立社会保障・人口問題研究所]]が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』では、2045年時点での周南市の人口予は107,540人(2015年を100とすると74.2)と推計されている。隣接する自治体では、下松市50,419人(同90.3)、光市35,636人(同69.4)、防府市101,202人(同87.3)、山口市178,452人(同90.4)、岩国市89,637人(同65.5)である<ref>{{PDFlink|[https://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson18/6houkoku/houkoku_5.pdf 結果表1 総人口および指数(平成27(2015)年=100とした場合)]}} - 日本の地域別将来推計人口 -平成27(2015)~57(2045)年- 平成30年推計, [[国立社会保障・人口問題研究所]] p.130</ref>。
=== 地域 ===
周南市都市計画マスタープランに基づく7地域、周南市公共施設再配置計画に基づく31地区に分類される。
* 中心地域
** 徳山小学校区、遠石地区、今宿地区、岐山地区、周陽地区、秋月地区、桜木地区、久米地区、櫛浜地区、富田東地区、富田西地区、福川地区
* 西部地域
** 湯野地区、戸田地区、夜市地区
* 北西部地域
** 菊川地区
* 東部地域
** 三丘地区、高水地区、勝間地区、大河内地区
* [[島嶼|島しょ部]]地域
** 鼓南地区、大津島地区
* 北部地域
** 須々万地区、長穂地区、中須地区、須金地区、大道理地区、大向地区、和田地区、八代地区
* [[中山間地域|中山間部]]地域<ref group="注釈">市の [http://www.city.shunan.lg.jp/section/kyodo/chusankan/index.html 地域振興部 地域づくり推進課 中山間地域振興室] が定める中山間地域とは異なる。中山間地域振興室では、鹿野に加え三丘、高水、大津島、須々万、長穂、中須、須金、大道理、大向、和田、八代の12地区を中山間地域と定めている。</ref>
**鹿野地区
徳山駅周辺の[[周南市中心市街地|中心市街地]]では、[[銀座]]、[[新宿]]、[[原宿]]、[[晴海 (東京都中央区)|晴海]]、[[有楽町]]、[[代々木]]、[[千代田 (千代田区)|千代田]]など、[[東京都区部|東京]]の地名が多く住居表示に使われている。これらは第二次世界大戦後に施工された[[戦災復興都市計画|戦災復興土地区画整理事業]]に伴い新たに命名された地名である。
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[市町村長|市長]]:[[藤井律子]]
** [[副市町村長|副市長]]:佐田邦男
==== 歴代市長 ====
{| class="wikitable"
! 代
! 氏名
! 就任
! 離任
! 任期数
! 市長就任前の主な経歴
|-
| 1 || [[河村和登]] || [[2003年]][[5月25日]] || [[2007年]][[5月24日]] || 1 || 徳山市長、徳山市議会議長、徳山市議会議員
|-
| 2 || [[島津幸男]] || [[2007年]][[5月25日]] || [[2011年]][[5月24日]] || 1 || 会社社長
|-
| 3 || [[木村健一郎]] || [[2011年]][[5月25日]] || [[2019年]][[5月24日]] || 2 || 元[[山口県議会]]議員、[[司法書士]]
|-
| 4 || [[藤井律子]] || [[2019年]][[5月25日]] || || || 元山口県議会議員
|}
=== 市役所・総合支所・支所 ===
==== 市役所 ====
* 本庁舎(本館)
==== [[総合支所]] ====
* 新南陽総合支所(仮庁舎:イオンタウン周南内)
* 熊毛総合支所
* 鹿野総合支所
*: 旧鹿野町役場(1971年建設)だが、老朽化により、旧鹿野公民館を解体して移転することになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://yama.minato-yamaguchi.co.jp/e-yama/articles/48073|title=鹿野に観光拠点整備へ 総合支所跡地を周南市、来月に検討会|date=|publisher=山口新聞|accessdate=2022-09-15}}</ref>。
==== 支所 ====
{{Col|
* 櫛浜支所
* 鼓南支所
* 大津島支所
* 久米支所
* 菊川支所
|
* 夜市支所
* 戸田支所
* 湯野支所
* 和田支所
* 向道支所
|
* 長穂支所
* 須々万支所
* 中須支所
* 須金支所
* 八代支所
}}{{clear|left}}
== 議会 ==
=== 市議会 ===
* 定数:30名
* 任期:2020年6月20日 - 2024年6月19日
* 議長:青木義雄
* 副議長:福田健吾
{| class="wikitable"
|-
!会派名!!議席数!!議員名(◎は代表者、○は副代表者)
|-
| アクティブ ||style="text-align:right"| 7 || ◎藤井康弘、○岩田淳司、井本義朗、清水芳将、土屋晴巳、細田憲司、山本真吾
|-
| 周南市議会[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] ||style="text-align:right"| 7 || ◎友田秀明、○島津幸男、尾﨑隆則、小林正樹、田中昭、福田健吾、𠮷安新太
|-
| [[公明党]] ||style="text-align:right"| 4 || ◎金子優子、○遠藤伸一、江﨑加代子、小池一正
|-
| 六合会 ||style="text-align:right"| 4 || ◎福田文治、○佐々木照彦、青木義雄、長嶺敏昭
|-
| 自由民主党周南 ||style="text-align:right"| 3 || ◎田村勇一、○古谷幸男、福田吏江子
|-
| [[日本共産党]] ||style="text-align:right"| 3 || ◎中村富美子、○魚永智行、渡辺君枝
|-
| 市民クラブ ||style="text-align:right"| 2 || ◎小林雄二、○篠田裕二郎
|-
| 計 ||style="text-align:right"| 30 ||
|}
2020年(令和2年)6月23日現在。
=== 衆議院 ===
;山口県第1区
* 選挙区:[[山口県第1区|山口1区]]([[山口市]](山口・[[小郡町|小郡]]・[[秋穂町|秋穂]]・[[阿知須町|阿知須]]・[[徳地町|徳地]]の各総合支所管内)、[[防府市]]、周南市の一部)
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:356,209人
* 投票率:48.50%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[高村正大]] || align="center" | 50 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 118,882票 || align="center" | ○
|-
| || 大内一也 || align="center" | 48 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ||align="center" | 新 || align="right" | 50,684票 || align="center" | ○
|}
;山口県第2区
* 選挙区:[[山口県第2区|山口2区]]([[下松市]]、[[岩国市]]、[[光市]]、[[柳井市]]、周南市(旧[[熊毛町]]域)、[[大島郡 (山口県)|大島郡]]、[[玖珂郡]]、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]])
* 投票日:2023年4月23日
* 当日有権者数:279,203人
* 投票率:42.41%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[岸信千世]] || align="center" | 31 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 61,369票
|-
| || [[平岡秀夫]] || align="center" | 69 || [[無所属]] ||align="center" | 元 || align="right" | 55,601票
|}
== 公共施設 ==
=== 図書館 ===
* [[周南市立図書館]]
** 中央図書館
** 新南陽図書館(周南市学び・交流プラザ内)
** 福川図書館(新南陽ふれあいセンター内)
** 熊毛図書館
** 鹿野図書館
** 徳山駅前図書館(周南市徳山駅前賑わい交流施設内)
=== 文化施設・ホール ===
[[ファイル:Kaitenkinenkan01.jpg|サムネイル|回天記念館]]
* [[周南市文化会館]]
* [[周南市美術博物館]]
* 周南市郷土美術資料館・尾崎正章記念館([[永源山公園]]内)
* [[回天記念館|周南市回天記念館]]
* 周南市大田原自然の家
=== 体育施設 ===
{{Col|
* [[周南緑地]]内
** [[周南市総合スポーツセンター]]
** 周南市陸上競技場
** [[周南市野球場]]
** 周南市水泳場
** 周南市庭球場
** 周南市ソフトボール球場
** 周南市サッカー場
** 周南市アーチェリー場
** 周南市補助競技場
** 周南市運動広場
|
* 周南市大道理地区体育館
* 周南市新南陽プール
* 周南市新南陽球場
* 周南市福川武道館
* 周南市新南陽体育センター
* 周南市高瀬サン・スポーツランド
* 周南市熊毛武道館
* 周南市熊毛体育センター
* 周南市鹿野プール
* 周南市鹿野庭球場
* 周南市鹿野総合体育館
}}{{clear|left}}
=== 社会教育施設 ===
* 周南市学び・交流プラザ
* 鶴いこいの里
=== 市民センター等 ===
{{Col|
* 桜木市民センター
* 周陽市民センター
* 秋月市民センター
* 遠石市民センター
* 岐山市民センター
* 中央地区市民センター
* 今宿市民センター
** 西松原分館
* 櫛浜市民センター
* 粭島市民センター
* 大島市民センター
* 久米市民センター
* 四熊市民センター
|
* 菊川市民センター
** 富岡分館
** 加見分館
* 小畑市民センター
* 夜市市民センター
* 戸田市民センター
** 四郎谷分館
** 津木分館
* 湯野市民センター
* 大向市民センター
* 大道理市民センター
* 長穂市民センター
* 中須市民センター
|
* 須々万市民センター
** 別館
* 須金市民センター
* 大津島市民センター
** 大津分館
* 和田市民センター
* 高水市民センター
* 勝間市民センター
* 大河内市民センター
* 三丘市民センター
* 新南陽ふれあいセンター
}}{{clear|left}}
=== 厚生施設 ===
* 周南市ゆめプラザ熊毛
* 周南市コアプラザかの
* 周南市子育て交流センター
=== 都市施設 ===
* [[周南市徳山駅前賑わい交流施設]]
* 周南市徳山駅南北自由通路
=== 地方卸売市場 ===
* [[周南市地方卸売市場]]
=== 地方公営企業 ===
* [[周南市上下水道局]]
* 周南市ボートレース事業局
** [[徳山競艇場]](ボートレース徳山)
=== 消防 ===
* [[周南市消防本部]]:旧徳山市・旧新南陽市・旧鹿野町の範囲を管轄
** 中央消防署
** 東消防署
** 西消防署
** 北消防署
* 周南市消防団:全域
=== 一部事務組合 ===
* [[光地区消防組合]]:旧熊毛町の範囲を管轄
** 北消防署
* [[周南地区福祉施設組合]]
* [[周南地区衛生施設組合]]
=== 第三セクター等 ===
* [[財団法人|公益財団法人]]周南市医療公社
** [[周南市立新南陽市民病院]]
* [[大津島巡航]]([[大津島]]へのフェリーと旅客船の運航)
* [[Kビジョン]]
* [[シティーケーブル周南]]
* 公益財団法人周南地域地場産業振興センター
== 国・県の機関 ==
=== 国出先機関 ===
; [[国土交通省]]
* [[中国運輸局]][[山口運輸支局]]徳山庁舎(徳山港湾合同庁舎内)
; [[海上保安庁]]
* [[第六管区海上保安本部]]徳山海上保安部
; [[財務省]]
* [[門司税関]]徳山税関支署(徳山港湾合同庁舎内)
; [[国税庁]]
* [[広島国税局]]徳山税務署
; [[防衛省]]
* [[自衛隊山口地方協力本部]]周南地域事務所
; [[厚生労働省]]
* [[山口労働局]]徳山労働基準監督署
* 山口労働局徳山公共職業安定所
* [[検疫所|広島検疫所]]徳山下松・岩国出張所(徳山港湾合同庁舎内)
* [[地域医療機能推進機構徳山中央病院]]
; [[法務省]]
* [[広島法務局#山口地方法務局|山口地方法務局]]周南支局
* [[山口刑務所]]周南拘置支所
* [[山口地方検察庁]]周南支部・周南区検察庁
; [[出入国在留管理庁]]
* [[広島出入国在留管理局]]周南出張所([[徳山港湾合同庁舎]]内)
=== 山口県出先機関 ===
* 総務部
** 周南県税事務所([[山口県庁|周南総合庁舎]]内)
** さくらホール(周南総合庁舎内)
* 総合企画部
** 周南県民局(周南総合庁舎内)
*健康福祉部
** 周南健康福祉センター(周南総合庁舎内)
*** 周南環境保健所
** 周南児童相談所
* 農林水産部
** 周南農林事務所(周南総合庁舎内)
* 土木建築部
** 周南土木建築事務所(周南総合庁舎内)
** 周南港湾管理事務所
** [[菅野ダム]]管理事務所
** [[向道ダム]]管理事務所
** [[川上ダム (山口県)|川上ダム]]管理事務所
* 企業局
** 東部発電事務所
** 周南工業用水道事務所
* [[山口県警察]]
** [[周南警察署]]:旧徳山市・旧新南陽市・旧鹿野町の範囲を管轄
*** [[周南西幹部交番]]:[[2006年]][[4月1日]]に[[周南西警察署]](旧[[新南陽警察署]])から幹部交番へ格下げ
* [[山口県立西部高等産業技術学校|山口県立東部高等産業技術学校]]
== 姉妹都市・提携都市 ==
=== 日本国内提携都市 ===
* {{Flagicon|愛知県}}[[常滑市]]([[愛知県]]) - [[1997年]](平成9年)[[3月27日]] 災害時相互応援協定締結
=== 海外姉妹都市 ===
* {{Flagicon|BRA}} [[サンベルナルド・ド・カンポ|サンベルナルド・ド・カンポ市]]([[ブラジル]][[サンパウロ州]]) - 旧徳山市から引き継ぎ
* {{Flagicon|AUS}} [[タウンズビル|タウンズビル市]]([[オーストラリア]][[クイーンズランド州]]) - 旧徳山市から引き継ぎ
* {{Flagicon|NED}}[[デルフザイル|デルフザイル市]]([[オランダ]][[フローニンゲン州]]) - 旧新南陽市から引き継ぎ。2021年、デルフザイル市は近隣自治体との合併によりエームスデルタ市[https://en.wikipedia.org/wiki/Eemsdelta#]となった。
== 産業 ==
=== 工業 ===
[[ファイル:Tokuyama.jpg|thumb|<center>徳山の工場群</center>]]
周南市の主要産業は[[重化学工業]]であり、旧[[海軍工廠#その他の海軍軍需工場|徳山海軍燃料廠]]から発展した[[コンビナート|石油コンビナート]]([[瀬戸内工業地域|周南コンビナート]])が形成されている。
徳山湾沿いの沿岸部には大手化学メーカーの[[トクヤマ]]・[[東ソー]]や石油元売りの[[出光興産]]、[[ステンレス鋼]]加工の[[日鉄日新製鋼]]が拠点事業所を置き、製造品出荷額等は山口県内第1位<ref name="tokei2015" />で、[[瀬戸内工業地域]]の重要な位置を占める。また、工場群の夜景は[[日本夜景遺産]]にも認定され、[[観光]]([[工場萌え]])の要素も持ち合わせる。
=== 商業 ===
[[ファイル:徳山銀座通り商店街.JPG|thumb|<center>徳山銀座商店街</center>]]
[[1960年代]]以降、[[徳山駅]]の北東に広がる[[周南市中心市街地|中心市街地]]に、松下百貨店(のちの[[近鉄松下百貨店]])、ダイエー徳山店(のちの[[トポス (ディスカウントストア)|トポス徳山店]])、ニチイ徳山店(のちの[[サティ (チェーンストア)|徳山サティ]])といった[[百貨店]]・[[総合スーパー]]の出店が相次ぎ、[[周南地区]]を代表する商業地として発展した。
[[1990年代]]以降は、[[モータリゼーション]]の進行に伴い、周辺部で郊外型[[ショッピングセンター]](SC)や[[ロードサイド店舗]]が発展した。旧新南陽市域で[[ゆめタウン新南陽]]や[[イオンタウン周南]]が、隣接する[[下松市]]で[[ザ・モール周南]](現・ゆめタウン下松)や[[サンリブ|サンリブ下松]]などが開業した。一方、中心市街地の商業地は衰退が進み、それまで発展を支えた総合スーパーや百貨店はすべて姿を消した。
[[2012年]](平成24年)に山口県が行った調査<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a16100/statistics/kaimono.html |title=平成24年度山口県買物動向調査 |publisher=山口県 |accessdate=2017-02-05}}</ref>では、旧熊毛町域は下松市の第1次商圏、旧徳山市域・旧鹿野町域は下松市の第2次商圏となっており、市内から下松市への購買力の流出が顕著である実態が明らかとなった。一方、市内においても郊外型SCの立地する旧新南陽市域では、高い地元購買率を維持していた。
[[2010年代]]に入り、中心市街地では[[徳山駅#徳山駅周辺整備事業|徳山駅周辺整備事業]]が着工された。平成末期の[[2014年]]から[[2017年]]頃には、旧徳山市域においても、[[ゆめタウン徳山]]や[[イオンタウン周南久米]]など、郊外型SCの出店が相次いだ。
店舗面積10,000m{{sup|2}}を以上の大規模小売店鋪を以下に記す。
* [[イオンタウン周南]]
* [[イオンタウン周南久米]]
* [[ゆめタウン新南陽]]
* [[ゆめタウン徳山]]
=== 農林水産業 ===
南部は瀬戸内海に面しており、漁業が行われている。[[フグ|ふぐ]]は[[下関市]]の特産品として有名であるが、周南市の[[粭島]](すくもじま)は、ふぐの[[延縄]]漁法発祥地であることから、隠れたふぐの本場としても知られる。北部では農業が中心で、[[ナシ|梨]]や[[ブドウ|ぶどう]]が栽培されている。
=== 名産・特産品 ===
* [[花崗岩|御影石]](徳山みかげ) - 黒髪島で採石され、[[国会議事堂]]の建設石材の一部としても採用されている。
* [[おみくじ]] - 日本国内で流通するおみくじの7割を鹿野地区の女子道社で奉製している。
* [[ナシ|梨]]
* [[ブドウ|ぶどう]](巨峰[[ワイン]])
* [[ヤマノイモ|自然薯]]
* [[わさび]]
* [[豚肉]]
* [[フグ|ふぐ]]
* 周南和牛
* 日本酒
* [[ナスジャム|なすびじゃむ]](熊毛農産物加工所)<ref>{{Cite web|和書|url=https://coco-iro.jp/?p=4017|title=30年続く加工所で地域の女性が作る山口みやげ「なすびじゃむ」|author=甲斐寛子|date=2019-10-07|work=ここいろ 山口、暮らしの自由帳。|publisher=データ・キュービック|accessdate=2021-09-24}}</ref>
=== 企業 ===
==== 市内に本社・本店を置く企業 ====
[[ファイル:SaikyoBank.JPG|thumb|[[西京銀行]]本店]]
[[ファイル:KRY_(Yamaguchi_Broadcasting).JPG|thumb|[[山口放送]]本社]]
* [[岩崎宏健堂]]
* [[西京銀行]]
* [[シマヤ]]
* [[スオーナダフェリー]]
* [[トクヤマ]]
* [[トヨタカローラ山口]]
* [[ネッツ店|ネッツ]]トヨタ山口
* [[日本ハウス]]
* [[防長交通]]
* [[山口放送]]
* [[山田石油]]
* [[洋林建設]]
* [[サードプラネット]]
* [[徳山コーヒーボーイ]]
* [[トクヤマ海陸運送]]
==== 市内に生産拠点を置くメーカー ====
* [[出光興産]](徳山事業所) - 2014年(平成26年)3月14日までは徳山製油所として石油精製を行っていた。現在は近隣への石油供給拠点となっている<ref name="asahi-np-2014-3-30" />。
* [[東ソー]](南陽事業所)
* トクヤマ(本店・徳山製造所)
* [[日新製鋼]](周南製鋼所)
* [[日本精蠟]](徳山工場)
* [[日本ゼオン]](徳山工場)
==== 金融機関 ====
第二地銀である[[西京銀行]]の本店のほか、県内外の銀行や、[[みずほ銀行]]・[[三菱UFJ銀行]]の2つの都市銀行が支店を構える。三菱UFJ銀行徳山支店は旧[[三菱銀行]]→[[東京三菱銀行]]の店舗で、東京三菱銀行時代は県内唯一の店舗だった{{Refnest|group="注釈"|三菱銀行時代は下関市にも店舗があったが、東京三菱銀行発足後に無人化されたため。}}(三菱UFJ銀行徳山支店は2023年2月20日で閉鎖され宇部支店に統合される<ref name="chugoku-np20221027" />)。
* 西京銀行 - 本店、周南支店、富田支店、桜木支店([[ブランチインブランチ]]を除く)
* [[山口銀行]] - 徳山支店、徳山西支店、徳山駅前支店、周南団地支店、都濃支店、櫛ケ浜支店、福川支店、富田支店、鹿野支店、呼坂支店
* [[東山口信用金庫]] - 周南支店・月丘町支店、徳山支店、遠石支店、富田支店、福川支店
* [[広島銀行]] - 徳山支店
* [[もみじ銀行]] - 徳山支店
* [[三菱UFJ銀行]] - 徳山支店(2023年2月20日で閉鎖され宇部支店に統合<ref name="chugoku-np20221027">{{Cite web|和書|author=|date=2022-10-27|url= https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/231235|title=三菱UFJ銀、徳山支店を閉鎖へ 2023年2月|accessdate=2022-10-27|publisher=中国新聞}}</ref>)
* [[みずほ銀行]] - 徳山支店
* [[伊予銀行]] - 徳山支店
* [[中国労働金庫]] - 徳山支店
* [[信用組合広島商銀]] - 徳山支店
* [[朝銀西信用組合]] - 徳山支店
* [[大和証券]] - 徳山支店
* [[野村證券]] - 徳山支店
* [[東洋証券]] - 徳山支店
* [[ひろぎん証券]] - 徳山支店
* [[ワイエム証券]] - 徳山支店
* [[商工組合中央金庫|商工中金]] - 徳山支店
* [[日本政策金融公庫]] - 徳山支店
== 教育 ==
=== 大学 ===
*公立
** [[周南公立大学]]
=== 高等専門学校 ===
* [[徳山工業高等専門学校]]
=== 高等学校 ===
* 県立
** [[山口県立徳山高等学校]]([[山口県立徳山高等学校徳山北分校|徳山北分校]]、[[山口県立徳山高等学校鹿野分校|鹿野分校]])
** [[山口県立新南陽高等学校]]
** [[山口県立熊毛北高等学校]]
** [[山口県立徳山商工高等学校]]
** [[山口県立南陽工業高等学校]]
* 私立
** [[山口県桜ケ丘高等学校・晃英館中学校|山口県桜ケ丘高等学校]]
=== 中学校 ===
* 市立
{{Col|
(旧徳山市域)
* 秋月中学校
* 菊川中学校
* [[周南市立岐陽中学校|岐陽中学校]]
* [[周南市立太華中学校|太華中学校]]
* 鼓南中学校
* 桜田中学校
* [[周南市立周陽中学校|周陽中学校]]
* 須々万中学校
* [[周南市立住吉中学校|住吉中学校]]
* 中須中学校
|
(旧新南陽市域)
* 富田中学校
* 福川中学校
|
(旧熊毛町域)
* 熊毛中学校
(旧鹿野町域)
* [[周南市立鹿野中学校|鹿野中学校]]
(休校中)
* 大津島中学校
* 須金中学校
}}{{clear|left}}
*私立
** [[山口県桜ケ丘高等学校・晃英館中学校|晃英館中学校]]
=== 小学校 ===
全て市立小学校である。
{{Col|
(旧徳山市域)
* 秋月小学校
* 今宿小学校
* 菊川小学校
* 岐山小学校
* 櫛浜小学校
* 久米小学校
* 鼓南小学校
* 桜木小学校
* 周陽小学校
* 須磨小学校
* 遠石小学校
* 徳山小学校
* 沼城小学校
* 戸田小学校
* 夜市小学校
* 湯野小学校
|
(旧新南陽市域)
* 富田西小学校
* 富田東小学校
* 福川小学校
* 福川南小学校
* 和田小学校
|
(旧熊毛町域)
* 大河内小学校
* 勝間小学校
* 高水小学校
* 三丘小学校
* 八代小学校
(旧鹿野町域)
* 鹿野小学校
}}{{clear|left}}
(休校中)
* 大津島小学校
* 大向小学校
* 小畑小学校
* 久米小学校譲羽分校
* 須磨小学校峰畑分校
* 四熊小学校
* 長穂小学校
* 中須小学校
=== 特別支援学校 ===
* [[山口県立周南総合支援学校]]
* [[山口県立徳山総合支援学校]]
=== 専修学校・各種学校 ===
* [[YICキャリアデザイン専門学校]]
* [[徳山看護専門学校]]
* [[徳山総合ビジネス専門学校]]
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
[[ファイル:West_Japan_Railway_-_Tokuyama_Station_-_01.JPG|thumb|徳山駅北口駅前広場]]
[[ファイル:West Japan Railway - Tokuyama Station - 03.JPG|thumb|徳山駅新幹線口(南口)]]
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** [[山陽新幹線]]:[[徳山駅]](中心となる駅)
** [[山陽本線]]:[[櫛ケ浜駅]] - 徳山駅 - [[新南陽駅]] - [[福川駅]] - [[戸田駅 (山口県)|戸田駅]]
** [[岩徳線]]:[[高水駅]] - [[勝間駅]] - [[大河内駅]] - (この間3駅は[[下松市]]) - 櫛ケ浜駅
=== バス ===
==== 路線バス ====
すべて[[防長交通]]による運行。
* 周南市内
* 周南市 - [[防府市]] - [[山口市]]
* 周南市 - 山口市旧[[徳地町]]域
* 周南市 - [[下松市]] - [[光市]] - [[柳井市]]
* 周南市旧[[熊毛町]]域 - 下松市
* 周南市旧熊毛町域 - 光市
==== 高速バス ====
以下の路線が周南市内を発着・経由する。すべて[[防長交通]]による運行(カルスト号のみ[[近鉄バス]]との共同運行)。
※'''太字'''は周南市内の停車地
{| class="wikitable" style="font-size:90%; clear:both"
!愛称名
!運行区間
!昼/夜行
|-
|[[萩エクスプレス]]
|[[東京都区部|東京]]([[東京駅]]・[[霞が関]]) - '''熊毛インター・徳山駅前'''
|夜行
|-
|[[カルスト号]]
|[[京都市]]・[[大阪市]]([[梅田]]・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]])・[[神戸市]]([[三宮]]) - '''熊毛インター・徳山駅前''' ※[[近鉄バス]]と共同運行
|夜行
|-
|[[福岡・防府・周南ライナー]]
|[[福岡市]]([[博多バスターミナル|博多BT]]) - '''道の駅ソレーネ周南・新南陽高校前・徳山駅前ほか'''
|昼行
|-
|(愛称名なし)
|[[広島市]]([[広島バスセンター|広島BC]]ほか) - [[玖珂インターチェンジ|玖珂インター]] - '''熊毛インター・徳山市役所前・徳山駅前・新南陽高校前・湯野温泉口ほか''' - [[防府市]] - [[山口市]]
|昼行
|}
=== 道路 ===
==== 高速道路 ====
* [[西日本高速道路]]([[NEXCO西日本]])
** [[中国自動車道]]([[鹿野インターチェンジ|鹿野IC]] - [[鹿野サービスエリア|鹿野SA]])
** [[山陽自動車道]]([[熊毛インターチェンジ|熊毛IC]] - [[徳山東インターチェンジ|徳山東IC]] - [[徳山西インターチェンジ|徳山西IC]])
==== 国道 ====
{{colbegin|3}}
* [[国道2号]]([[周南バイパス]])
* [[国道315号]]
* [[国道376号]]
* [[国道434号]]
* [[国道489号]]
{{colend}}
=== 港湾 ===
[[ファイル:Tokuyama-Kudamatsu_port.jpg|thumb|[[徳山下松港]]]]
* [[徳山下松港]]([[国際拠点港湾]])
==== 定期旅客航路 ====
* [[スオーナダフェリー]]
** 徳山港 - [[竹田津港]]([[大分県]][[国東市]][[国見町 (大分県)|国見町]]大字竹田津)
* 大津島巡航
** 徳山港 - [[大津島]](馬島・刈尾・瀬戸浜・本浦) - [[黒髪島]]
== 観光地 ==
[[ファイル:Eigenzan Park Windmill 01.JPG|thumb|<center>永源山公園</center>]]
[[ファイル:Gyoraitunnel01.jpg|サムネイル|大津島の魚雷実験場に続くトンネル]]
* 都心部・島しょ部
** [[瀬戸内工業地域|周南コンビナート]]の工場[[夜景]]
*** 晴海親水公園 - [[日本夜景遺産]]に選定
** [[周南市徳山動物園]]
** [[周南市美術博物館]]
** [[遠石八幡宮]] - 本殿など8件が国の[[登録有形文化財]]
** [[児玉神社 (周南市)|児玉神社]]
** [[祐綏神社]]
** 周南市市長公舎 - 国の登録有形文化財
** [[周南緑地]]
** [[太華山]]
** [[大津島]] - 旧海軍の[[人間魚雷]]「[[回天]]」の特攻基地があり、[[回天記念館]]や魚雷発射訓練基地跡がある。
** [[永源山公園]]・ゆめ風車
** 旧日下医院 - 国の登録有形文化財
** 四熊家住宅主屋及び診療棟 - 国の登録有形文化財
** [[若山城]]跡 - 県指定史跡
** 川崎観音
** 長田海浜公園
*西部
** [[道の駅ソレーネ周南]]
** [[湯野温泉]]
** 山田家本屋 - 県指定有形文化財
* 東部
** [[三丘温泉]]
** 呼鶴温泉
** 勝栄寺 - 土塁及び旧境内は県指定史跡
** 徳修館 - 県指定有形文化財
* 北部・中山間部
** 八代の[[ナベヅル|ツル]]およびその渡来地 - 国の[[特別天然記念物]]
*** 鶴いこいの里交流センター・野鶴監視所
** 須金フルーツランド
** [[漢陽寺]]
** 石船温泉
** 長野山緑地公園
** [[二所山田神社]]
** 鹿野ファミリーランド
** 潮音洞 - 県指定史跡
** [[氷見神社]]社叢 - 県指定天然記念物
=== イベント ===
* 永源山公園つつじ祭り(5月)
* 花☆ワイン周南まんま市場(5月)
* 徳山夏まつり(7月)
* サンフェスタしんなんよう(8月)
* 徳山大学ポプラ祭(11月)
* 冬花火・銀嶺の舞(12月)
* 周南冬のツリーまつり(12月)
* 周南萌えサミット(時期不定)
* 周南「絆」映画祭(時期不定)
== メディア ==
* 新聞
** [[山口新聞]]周南支社([[みなと山口合同新聞社]])
** [[中国新聞社|中国新聞]]周南支局
** [[読売新聞]]周南支局
** [[朝日新聞]]東山口支局
** [[毎日新聞]]周南支局
** [[日刊新周南]]本社
* [[ラテ兼営|ラジオ・テレビ兼営]]
** [[NHK山口放送局]]周南支局
** [[山口放送]](KRY)本社・スタジオ
* テレビ
** [[テレビ山口]](tys)山口東部本社・周南スタジオ
** [[山口朝日放送]](yab)周南支社・周南スタジオ
* ラジオ
** [[エフエム周南]]([[コミュニティ放送局|コミュニティFM]])本社・送信所(演奏所・スタジオは下松市)
* ケーブルテレビ
** [[シティーケーブル周南]](CCS)(旧熊毛町を除く)
** [[Kビジョン]](旧熊毛町)
** [[メディアリンク]]
== 出身者・ゆかりのある人物 ==
=== 政治 ===
* [[赤松克麿]] (国家社会主義運動家、[[衆議院議員]])
* [[赤松常子]] ([[労働運動家]]、[[参議院議員]]、赤松克麿の妹)
* [[井上哲士]]([[日本共産党]][[参議院議員]])
* [[高村坂彦]](元[[徳山市]]長、元[[衆議院議員]]、元[[文部省]][[政務次官]])
* [[高村正彦]](元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、元[[衆議院議員]]、高村坂彦の子)
* [[高村正大]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]]、高村正彦の子)
* [[児玉源太郎]]([[日露戦争]]で満州軍総参謀長、[[台湾]][[総督]])
* [[藤江弘一]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]]、元[[総務事務次官]])
* [[山中恒三]](元[[富山県知事]]、[[埼玉県知事]])
=== 司法 ===
* [[戸倉三郎]]([[最高裁判所長官]]、[[東京高等裁判所]]長官、[[最高裁判所事務総長]])
* [[林景一]](最高裁判所判事、駐[[イギリス]][[特命全権大使]]、[[内閣官房副長官補]])
=== 経済 ===
* [[高橋亀吉]]([[経済評論家]]、経済史研究者)
* [[藻谷浩介]](日本総合研究所調査部主席研究員、地域エコノミスト)
* [[山本寿宣]]([[東ソー]]社長、[[日本ソーダ工業会]]会長)
=== 学術 ===
* [[浅田栄次]](英学家)
* [[岩崎民平]](英語学者)
* [[飯田哲也 (環境学者)|飯田哲也]](エネルギー学者)
* [[井本農一]]([[国文学者]])
=== 文化 ===
* [[青木健作 (小説家)|青木健作]](小説家)
* [[木下龍也]](歌人)
* [[浜田敬子]](ジャーナリスト)
* [[笹戸千津子]](彫刻家)
* [[貞本義行]]([[キャラクターデザイナー]]、イラストレーター、[[漫画家]]、[[アニメーター]])
* [[林忠彦]](写真家)
* [[福田靖]]([[脚本家]]。[[HERO (テレビドラマ)|HERO]]、[[海猿]]の脚本で知られる)
* [[まど・みちお]]([[詩人]])
* [[光田康典]]([[作曲家]])
* [[森園みるく]](漫画家)
* [[渡辺おさむ]](現代美術家)
=== 芸能 ===
* [[いかちゃん (お笑い芸人)|いかちゃん]](お笑い芸人)
* 板野俊雄([[JOHNNYS' ジュニア・スペシャル]])
* [[伊東敏恵]]([[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]])
* [[今井麻美]]([[声優]])
* [[Hawaiian6|gure]]([[HAWAIIAN6|Hawaiian6]])
* [[大橋照子]](ラジオパーソナリティ)
* [[緒川たまき]]([[俳優#性別での分類|女優]])
* [[ガオ (歌手)|GAO]]([[歌手]])
* [[夏奈子]]([[タレント]]、[[アイドル]]・お掃除ユニット東京[[お掃除ユニットCLEAR'S|CLEAR'S]])
* [[香綾しずる]](元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]男役)
* [[斉藤まりあ]](元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー)
* [[佐倉薫]]([[声優]])
* [[佐藤良子]](日本テレビアナウンサー)
* [[白珠イチゴ]]([[お笑い芸人]])
* [[津田真澄]]([[俳優]]、[[声優]])
* [[戸田真紀子]](女優)
* [[武藤央子]] (フリー[[アナウンサー]])
* [[カステラ (バンド)|福田健治]] (前 [[カステラ (バンド)|カステラ]] 歌手)
* [[福田麻由子]] (女優)
* [[山口活性学園|藤井澪奈]]([[タレント]]、[[アイドル]]・[[山口活性学園]]メンバー)
* [[我こそは田中]](お笑い芸人)
=== スポーツ ===
* [[磯松大輔]]([[陸上競技選手]])
* [[伊藤繁雄]]([[卓球選手]]・世界選手権シングルス優勝および団体優勝)
* [[大中元気]]([[ボクシング]]選手)
* [[椎木匠]]([[プロ野球選手]]、元[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]他)
* [[重広恒夫]]([[登山家]])
* [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)|田中達也]](元[[サッカー選手]]、元[[サッカー日本代表|日本代表]]・[[オリンピックサッカー日本代表選手#アテネオリンピック(2004年)代表登録メンバー|アテネオリンピック出場]])
* [[土信田悠生]](サッカー選手)
* [[尾崎優成]](サッカー選手)
* [[長州力]]([[プロレスラー]])
* [[津田恒実]]([[プロ野球選手]]、元[[広島東洋カープ]])
* [[長岡三重子]]([[水泳]]選手、実業家、[[能楽師]])
* [[中村太地 (バスケットボール)|中村太地]](プロバスケットボール選手)
* [[原田裕花]]([[バスケットボール]]選手・元全日本代表主将・[[1996年アトランタオリンピックのバスケットボール競技|アトランタ五輪]]7位入賞)
* [[毛利昭彦]]([[格闘家]])
=== その他 ===
* [[有馬実成]]([[曹洞宗]]僧侶)
* [[飯田房太]] - 日本の海軍軍人、戦闘機操縦士
* [[弘中又一]]([[夏目漱石]]の小説「[[坊っちゃん]]」のモデルとなった人物)
== 周南市を舞台にした作品 ==
* 映画
** [[出口のない海]](大津島)
** [[ロボコン (映画)|ロボコン]]([[徳山工業高等専門学校]](実際の[[アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト|ロボコン]]出場経験あり。主人公たちの在籍する高専として実名で登場)、浦山国道2号歩道、周南市総合スポーツセンター、湯野温泉紫水園、徳山港)
* 絵本
** [[えんとつ町のプペル]](周南コンビナートが舞台「えんとつ町」のモデルの一つとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160722060409/https://lineblog.me/nishino/archives/5167320.html|title=渋谷の話|website=キングコング 西野 公式ブログ|date=2016-07-20|accessdate=2021-01-06}}</ref>)
== 電話・郵便 ==
=== 電話番号 ===
[[市外局番]]は、旧熊毛町が0833(40 - 79、90 - 99)、その他が0834(20 - 69、80 - 89)となっている。
* 0834(20 - 69、80 - 89)エリア
** 周南市(旧熊毛町を除く)
* 0833(40 - 79、90 - 99)エリア
** [[下松市]]・[[光市]](旧大和町を除く)・周南市(旧熊毛町)
=== 郵便 ===
[[日本の郵便番号|郵便番号]]は、以下の通りとなっている。
* [[徳山郵便局]]:745-00xx、745-08xx、745-85xx、745-86xx、745-87xx、745-11xx、746-00xx、746-85xx、746-86xx、746-87xx、746-01xx<ref group="注釈">「745-11xx」地域は元・戸田郵便局管轄、「746-00xx、746-85xx、746-86xx、746-87xx」地域は元・[[新南陽郵便局]]管轄、「746-01xx」地域は元・高瀬郵便局管轄。2006年に戸田郵便局・高瀬郵便局の無集配局化に伴って新南陽郵便局へ移管。2018年に[[新南陽郵便局]]の無集配局化に伴って徳山郵便局へ移管。</ref>
* 須々万郵便局:745-01xx、745-04xx、745-05xx<ref group="注釈">「745-04xx」地域は元・須金郵便局管轄、「745-05xx」地域は元・中須郵便局管轄。2006年に須金郵便局・中須郵便局の無集配局化に伴って須々万郵便局へ移管。</ref>
* [[鹿野郵便局 (山口県)|鹿野郵便局]]:745-03xx、745-02xx<ref group="注釈">「745-02xx」地域は元・向道郵便局管轄。2006年に向道郵便局の無集配局化に伴って鹿野郵便局へ移管。</ref>
* [[熊毛郵便局 (山口県)|熊毛郵便局]]:745-06xx<ref group="注釈">2006年に熊毛郵便局の無集配局化に伴って徳山郵便局へ移管されたが、2016年に熊毛郵便局の集配局化に伴って再移管された。</ref>
* 串郵便局(所在地は[[山口市]][[徳地町]]):747-06xx
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[全国市町村一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Official website|name=周南市}}
* [https://kanko-shunan.com/ 周南観光コンベンション協会]
{{山口県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しゆうなんし}}
[[Category:山口県の市町村]]
[[Category:周南市|*]]
[[Category:2003年設置の日本の市町村]]
|
2003-07-01T05:02:19Z
|
2023-12-28T06:36:52Z
| false | false | false |
[
"Template:Weather box",
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"Template:Colbegin",
"Template:Colend",
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"Template:Cite web",
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"Template:Normdaten",
"Template:日本の市",
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"Template:Col",
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"Template:Commonscat",
"Template:国土航空写真"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%8D%97%E5%B8%82
|
10,677 |
下松市
|
下松市(くだまつし)は、山口県東南部に位置する市。
周南市と光市に挟まれた、両市とともに周南地区を構成する市の一つである。
隣接する周南市や光市とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「周南地区」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針において、3市を人口約25万人の「周南広域都市圏」と定義している。
沖には、笠戸島および古島を配し、大きな内海を抱えたような地勢を形成している。南部は瀬戸内海に面し、国際拠点港湾である徳山下松港とともに、大規模工場が複数立ち並んでおり、瀬戸内工業地域に位置している(工業の項参照)。
1990年代頭までは末武地区を中心に田園地帯が広がっていたが、山口県道41号下松鹿野線のバイパス建設と、付随する道路の整備に伴い、ロードサイドの郊外型商業が目覚ましく発展した(商業の項参照)。住宅地としての人気も高く、山口県の基準地価順位(住宅地)においては上位にランクしている地点もある。
2015年(平成27年)の国勢調査(速報値)において、前回調査からの人口増減をみると、1.45%増の55,812人であり、増減率は県内19市町中首位。人口密度は624.6人/平方kmと県内で一番高い。
国立社会保障・人口問題研究所が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』において、2045年の総人口の予測値は 50,419人(2015年を100とすると90.3)との推計が出されている。
1939年、4町村の合併により発足。合併前の各町村の12大字が継承された。その後、1954年に米川村を編入し4大字を加え、1962年には都濃町中須南の一部を編入したため、合計で17大字となった。
1966年から1978年にかけて町名設置が行われた(この時期に設置された町名を下記に記す)。 その後の住居表示の実施により、町名の一部は消滅したが、大部分は現在まで残っている。 ☆印の町名は、住居表示未実施のまま残っているもの。
※年不詳とされている地区は、1984年以降に発足した可能性がある。
その後、1984年以降も住居表示が実施されている。 上記の町名も含めて実施され、町名が未設置だった大字地区にも、新たな町名が下記のとおり設置されている。
(第3代まで官選、第4代以降は公選)
(各施設の詳細は「下松市体育施設管理事務所」を参照)
(2022年4月20日現在)
推古天皇3年(595年)、鷲頭庄青柳浦の松の木に大星(北辰星ともいわれる)が降りてきて7日7晩輝き続け、「この地に百済の王子がやって来る」とのお告げがあった。その3年後、百済から聖王第3王子の琳聖太子が当地を訪れたという。この霊験に民衆が社を建てて大星を祭った。松に星が降ったことから「くだまつ(下松)」と言われる、との説がある。
他に、百済と交易する港の意味の「百済津」(くだらつ)に由来するという説もある。
下松市は隣接する旧徳山市や旧新南陽市、旧熊毛町、旧鹿野町との3市2町で合併協議会を構成し、協議を進めていた。 しかし、2000年の市長選挙で合併を推進してきた当時の現職河村憐次市長が落選し、新市長井川成正氏が合併に慎重な立場をとったことから、下松市における合併の機運は急速に冷め、合併期日を巡る下松市の主張が受け入れられず、合併協議会を脱退するに至った。 この方針は2004年の市長選挙で井川成正市長が、合併推進派の新人候補を大差で破り、再選を果たしたことにより、さらに固定化した。
大規模工場を複数擁し、徳山下松港一帯に広がる周南コンビナート(瀬戸内工業地域の一部)の一角を担う。
1980年代までは、徳山市(現・周南市)を中心とした近隣都市への購買流出が続いていたが、1990年代以降は、1993年(平成5年)のザ・モール周南(現・ゆめタウン下松)の開業を皮切りに、市内の道路整備も相まって、ロードサイド店舗の出店が相次ぎ、現在では、近隣の周南市や光市を含む周南地区における、商圏の中心となった。
2018年(平成30年)現在、市内の商業施設における大型店の占有率は85%となっている。人口に対する商業施設面積の割合が高く、東洋経済新報社の「住みよさランキング」において、本市が中国・四国ブロックの首位を10年以上にわたり維持し続けている要因となっている。
なお、かつては下松駅周辺に商店街が存在したが、現在はほとんど機能していない。
店舗面積10,000m以上の大規模小売店鋪を以下に記す。
市内の病院を以下に示す(その他の医療機関は「病院なび」などを参照されたい)。
市外局番は、0833 (40 - 79、90 - 99) となっている。
郵便番号は、以下の通りとなっている。
|
[
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"text": "下松市(くだまつし)は、山口県東南部に位置する市。",
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"text": "周南市と光市に挟まれた、両市とともに周南地区を構成する市の一つである。",
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"text": "隣接する周南市や光市とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「周南地区」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針において、3市を人口約25万人の「周南広域都市圏」と定義している。",
"title": "地理"
},
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"text": "沖には、笠戸島および古島を配し、大きな内海を抱えたような地勢を形成している。南部は瀬戸内海に面し、国際拠点港湾である徳山下松港とともに、大規模工場が複数立ち並んでおり、瀬戸内工業地域に位置している(工業の項参照)。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "1990年代頭までは末武地区を中心に田園地帯が広がっていたが、山口県道41号下松鹿野線のバイパス建設と、付随する道路の整備に伴い、ロードサイドの郊外型商業が目覚ましく発展した(商業の項参照)。住宅地としての人気も高く、山口県の基準地価順位(住宅地)においては上位にランクしている地点もある。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "2015年(平成27年)の国勢調査(速報値)において、前回調査からの人口増減をみると、1.45%増の55,812人であり、増減率は県内19市町中首位。人口密度は624.6人/平方kmと県内で一番高い。",
"title": "地理"
},
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"text": "国立社会保障・人口問題研究所が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』において、2045年の総人口の予測値は 50,419人(2015年を100とすると90.3)との推計が出されている。",
"title": "地理"
},
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"text": "1939年、4町村の合併により発足。合併前の各町村の12大字が継承された。その後、1954年に米川村を編入し4大字を加え、1962年には都濃町中須南の一部を編入したため、合計で17大字となった。",
"title": "地理"
},
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"text": "1966年から1978年にかけて町名設置が行われた(この時期に設置された町名を下記に記す)。 その後の住居表示の実施により、町名の一部は消滅したが、大部分は現在まで残っている。 ☆印の町名は、住居表示未実施のまま残っているもの。",
"title": "地理"
},
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"text": "※年不詳とされている地区は、1984年以降に発足した可能性がある。",
"title": "地理"
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"text": "その後、1984年以降も住居表示が実施されている。 上記の町名も含めて実施され、町名が未設置だった大字地区にも、新たな町名が下記のとおり設置されている。",
"title": "地理"
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"text": "(第3代まで官選、第4代以降は公選)",
"title": "行政"
},
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"text": "(各施設の詳細は「下松市体育施設管理事務所」を参照)",
"title": "行政"
},
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"text": "(2022年4月20日現在)",
"title": "議会"
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"text": "推古天皇3年(595年)、鷲頭庄青柳浦の松の木に大星(北辰星ともいわれる)が降りてきて7日7晩輝き続け、「この地に百済の王子がやって来る」とのお告げがあった。その3年後、百済から聖王第3王子の琳聖太子が当地を訪れたという。この霊験に民衆が社を建てて大星を祭った。松に星が降ったことから「くだまつ(下松)」と言われる、との説がある。",
"title": "歴史"
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"text": "他に、百済と交易する港の意味の「百済津」(くだらつ)に由来するという説もある。",
"title": "歴史"
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"text": "下松市は隣接する旧徳山市や旧新南陽市、旧熊毛町、旧鹿野町との3市2町で合併協議会を構成し、協議を進めていた。 しかし、2000年の市長選挙で合併を推進してきた当時の現職河村憐次市長が落選し、新市長井川成正氏が合併に慎重な立場をとったことから、下松市における合併の機運は急速に冷め、合併期日を巡る下松市の主張が受け入れられず、合併協議会を脱退するに至った。 この方針は2004年の市長選挙で井川成正市長が、合併推進派の新人候補を大差で破り、再選を果たしたことにより、さらに固定化した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "大規模工場を複数擁し、徳山下松港一帯に広がる周南コンビナート(瀬戸内工業地域の一部)の一角を担う。",
"title": "産業"
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"text": "1980年代までは、徳山市(現・周南市)を中心とした近隣都市への購買流出が続いていたが、1990年代以降は、1993年(平成5年)のザ・モール周南(現・ゆめタウン下松)の開業を皮切りに、市内の道路整備も相まって、ロードサイド店舗の出店が相次ぎ、現在では、近隣の周南市や光市を含む周南地区における、商圏の中心となった。",
"title": "産業"
},
{
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"text": "2018年(平成30年)現在、市内の商業施設における大型店の占有率は85%となっている。人口に対する商業施設面積の割合が高く、東洋経済新報社の「住みよさランキング」において、本市が中国・四国ブロックの首位を10年以上にわたり維持し続けている要因となっている。",
"title": "産業"
},
{
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"text": "なお、かつては下松駅周辺に商店街が存在したが、現在はほとんど機能していない。",
"title": "産業"
},
{
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"text": "店舗面積10,000m以上の大規模小売店鋪を以下に記す。",
"title": "産業"
},
{
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"text": "市内の病院を以下に示す(その他の医療機関は「病院なび」などを参照されたい)。",
"title": "医療"
},
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"text": "市外局番は、0833 (40 - 79、90 - 99) となっている。",
"title": "電話・郵便"
},
{
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"text": "郵便番号は、以下の通りとなっている。",
"title": "電話・郵便"
}
] |
下松市(くだまつし)は、山口県東南部に位置する市。
|
{{日本の市
| 画像 = [[File:KudamatsuKasadoBridge.jpg|250px]]<br />[[File:KudamatsuDaishougunView.jpg|250px]]
| 画像の説明 = 上:[[笠戸大橋]]<br/>下:大将軍山山頂から望む[[笠戸島]]・米泉湖
| 市旗 = [[ファイル:Flag_of_Kudamatsu_Yamaguchi.JPG|100px]]
| 市旗の説明 = 下松[[市町村旗|市旗]] <br />[[1940年]][[7月19日]]施行<ref name="https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kudahp/reiki/reiki_int/reiki_honbun/m408RG00000004.html">[https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kudahp/reiki/reiki_int/reiki_honbun/m408RG00000004.html 下松市章制定]</ref>
| 市章 = [[File:Emblem of Kudamatsu, Yamaguchi.svg|100px]]
| 市章の説明 = 下松[[市町村章|市章]]<br />[[1940年]][[7月19日]]施行<ref name="https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kudahp/reiki/reiki_int/reiki_honbun/m408RG00000004.html">[https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kudahp/reiki/reiki_int/reiki_honbun/m408RG00000004.html 下松市章制定]</ref>
| 自治体名 = 下松市
| 都道府県 = 山口県
| コード = 35207-1
| 隣接自治体 = [[周南市]]、[[光市]]
| 木 = [[ヤマモモ|やまもも]]
| 花 = [[サルビア]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 = 744-8585
| 所在地 = 下松市大手町三丁目3番3号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-35|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.01|frame-longitude=131.87|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:KudamatsuCityOffice2020.jpg|250px]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|35|207|image=Kudamatsu in Yamaguchi Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:KudamatsuTownCenter.jpg|代替文=|サムネイル|250x250ピクセル|下松タウンセンター([[ゆめタウン下松]][旧ザ・モール周南]ほか)]]
'''下松市'''(くだまつし)は、[[山口県]]東南部に位置する[[市]]。
== 地理 ==
[[File:Kudamatsu city center area Aerial photograph.2008.jpg|thumb|270px|下松市中心部周辺の空中写真。<br/>2008年4月21日撮影の18枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
[[周南市]]と[[光市]]に挟まれた、両市とともに[[周南地区]]を構成する市の一つである。
隣接する[[周南市]]や[[光市]]とは、産業・経済・交流面での結びつきが強く、3市は「[[周南地区]]」と呼称される(3市の市名から「周南・下松・光地区」と呼称されることもある)。山口県は、都市計画基本方針において、3市を人口約25万人の「[https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a18400/city-plan/20120501003.html 周南広域都市圏]」と定義している。
沖には、[[笠戸島]]および古島を配し、大きな内海を抱えたような地勢を形成している。南部は[[瀬戸内海]]に面し、[[国際拠点港湾]]である[[徳山下松港]]とともに、大規模工場が複数立ち並んでおり、[[瀬戸内工業地域]]に位置している([[下松市#工業|工業]]の項参照)。
[[1990年代]]頭までは末武地区を中心に田園地帯が広がっていたが、[[山口県道41号下松鹿野線]]のバイパス建設と、付随する道路の整備に伴い、[[ロードサイド店舗|ロードサイド]]の[[郊外]]型商業が目覚ましく発展した([[下松市#商業|商業]]の項参照)。住宅地としての人気も高く、山口県の基準地価順位(住宅地)においては上位にランクしている地点もある<ref name="chika15">{{Cite news|url=http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a10000/landprices/27-01.html |title=平成27年山口県地価調査結果の概要について |publisher=山口県 |date=2015-09-17 |accessdate=2016-07-24}}</ref>。
=== 気候 ===
{{Weather box|location=下松(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=17.9|Feb record high C=21.2|Mar record high C=24.2|Apr record high C=27.4|May record high C=30.7|Jun record high C=32.6|Jul record high C=35.8|Aug record high C=37.2|Sep record high C=35.9|Oct record high C=31.5|Nov record high C=28.0|Dec record high C=21.9|year record high C=37.2|Jan high C=9.4|Feb high C=10.4|Mar high C=13.9|Apr high C=19.2|May high C=23.6|Jun high C=26.3|Jul high C=30.2|Aug high C=31.8|Sep high C=28.3|Oct high C=23.2|Nov high C=17.5|Dec high C=11.8|year high C=20.5|Jan mean C=4.9|Feb mean C=5.5|Mar mean C=8.7|Apr mean C=13.7|May mean C=18.3|Jun mean C=21.8|Jul mean C=25.8|Aug mean C=27.0|Sep mean C=23.5|Oct mean C=18.0|Nov mean C=12.4|Dec mean C=7.1|year mean C=15.6|Jan low C=0.6|Feb low C=0.9|Mar low C=3.7|Apr low C=8.5|May low C=13.4|Jun low C=18.2|Jul low C=22.5|Aug low C=23.4|Sep low C=19.6|Oct low C=13.6|Nov low C=7.8|Dec low C=2.7|year low C=11.3|Jan record low C=-6.3|Feb record low C=-8.6|Mar record low C=-5.1|Apr record low C=-1.4|May record low C=4.7|Jun record low C=8.5|Jul record low C=15.9|Aug record low C=15.9|Sep record low C=7.4|Oct record low C=1.9|Nov record low C=-1.4|Dec record low C=-5.2|year record low C=-8.6|Jan precipitation mm=54.3|Feb precipitation mm=85.2|Mar precipitation mm=148.5|Apr precipitation mm=183.7|May precipitation mm=215.6|Jun precipitation mm=277.7|Jul precipitation mm=324.7|Aug precipitation mm=153.8|Sep precipitation mm=169.2|Oct precipitation mm=100.6|Nov precipitation mm=77.7|Dec precipitation mm=59.3|year precipitation mm=1850.1|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=6.5|Feb precipitation days=7.9|Mar precipitation days=10.0|Apr precipitation days=9.9|May precipitation days=9.7|Jun precipitation days=12.0|Jul precipitation days=10.8|Aug precipitation days=8.4|Sep precipitation days=9.0|Oct precipitation days=6.4|Nov precipitation days=6.9|Dec precipitation days=7.0|year precipitation days=104.5|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web |url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=81&block_no=0776&year=&month=&day=&view= |title=下松 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-10-08 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=154.2|Nov sun=163.2|Oct sun=184.0|Aug sun=222.0|Sep sun=173.6|Jun sun=156.4|Jul sun=181.3|Apr sun=199.4|May sun=217.7|Jan sun=148.9|Feb sun=150.8|Mar sun=183.8|year sun=2135.5}}
=== 人口 ===
{{人口統計|code=35207|name=下松市|image=Population distribution of Kudamatsu, Yamaguchi, Japan.svg}}
2015年(平成27年)の[[国勢調査]](速報値)において、前回調査からの人口増減をみると、1.45%増の55,812人であり、増減率は県内19市町中首位。人口密度は624.6人/平方kmと県内で一番高い。
[[国立社会保障・人口問題研究所]]が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』において、2045年の総人口の予測値は 50,419人(2015年を100とすると90.3)との推計が出されている<ref>{{PDFlink|[https://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson18/6houkoku/houkoku_5.pdf 結果表1 総人口および指数(平成27(2015)年=100とした場合)]}} - 日本の地域別将来推計人口 -平成27(2015)〜57(2045)年- 平成30年推計, [[国立社会保障・人口問題研究所]] p.130</ref>。
=== 地名 ===
[[1939年]]、4町村の合併により発足。合併前の各町村の12大字が継承された。その後、[[1954年]]に米川村を編入し4大字を加え、[[1962年]]には[[都濃町]]中須南の一部を編入したため、合計で17大字となった。
* 東豊井(旧下松町)
* 西豊井(旧下松町)
* 笠戸島(旧末武南村)
* 平田(旧末武南村)
* 末武下(旧末武南村)
* 末武中(旧花岡村)
* 末武上(旧花岡村)
* 生野屋(旧花岡村)
* 山田(旧久保村)
* 切山(旧久保村)
* 来巻(旧久保村)
* 河内(旧久保村)
* 下谷(旧米川村)
* 大藤谷(旧米川村)
* 瀬戸(旧米川村)
* 温見(旧米川村)
* 中須南(都濃町より一部を編入)
[[1966年]]から[[1978年]]にかけて町名設置が行われた(この時期に設置された町名を下記に記す)。
その後の住居表示の実施により、町名の一部は消滅したが、大部分は現在まで残っている。
☆印の町名は、住居表示未実施のまま残っているもの。
* 古川町1丁目~4丁目(1966年、東豊井・西豊井)
* 北斗町(1966年、西豊井)
* 栄町1丁目~3丁目(1966年、西豊井)
* 大手町1丁目~2丁目(1966年、西豊井)
* 東柳1丁目~2丁目(1966年、西豊井)
* <del>中市</del>(1966年、西豊井。[[2012年]]、中市1丁目に)
* <del>樋ノ上</del>(1966年、西豊井。2012年、中市1丁目に)
* 旗岡1丁目~5丁目([[1970年]]、東豊井・西豊井)
* 桃山町([[1973年]]、来巻・河内)☆
* 東和1丁目~2丁目(1973年、来巻)☆
* 東海岸通り([[1974年]]、東豊井)☆
* 青柳1丁目~2丁目([[1978年]]、東豊井)
* 琴平町1丁目~2丁目(1978年、東豊井)
* <del>青木町</del>(年不詳、末武下。[[1999年]]、美里町3丁目に)
* <del>白迫町</del>(年不詳、生野屋。[[2002年]]、生野屋南1丁目に)
* 葉山1丁目~2丁目(年不詳、来巻・河内)☆
* 星が丘1丁目~3丁目(年不詳、久保)
※年不詳とされている地区は、1984年以降に発足した可能性がある。
その後、[[1984年]]以降も住居表示が実施されている。
上記の町名も含めて実施され、町名が未設置だった大字地区にも、新たな町名が下記のとおり設置されている。
* 東陽1丁目~7丁目([[1984年]]、山田・切山)
* 古川町1丁目~4丁目、北斗町、栄町1丁目~3丁目、大手町1丁目~2丁目、東柳1丁目~2丁目、青柳1丁目~2丁目、琴平町1丁目~2丁目、旗岡1丁目~5丁目([[1986年]]。町名設置済区域に住居表示実施)
* 大手町3丁目([[1987年]]、西豊井)
* 昭和町1丁目~2丁目(1987年、河内)
* 西柳1丁目~2丁目([[1988年]]、西豊井)
* 中央町([[1989年]]、下末武)
* 若宮町([[1994年]]、河内)
* 美里町1丁目~4丁目(1999年、末武上・末武下・末武下・青木町)
* 望町1丁目~5丁目(1999年、末武上・末武中・末武下)
* 清瀬町1丁目~4丁目(1999年、末武中)
* 瑞穂町1丁目~4丁目(1999年、末武中・末武下)
* 潮音町1丁目~8丁目(1999年、末武中・末武下・平田)
* 生野屋1丁目~5丁目(2002年、生野屋)
* 生野屋西1丁目~4丁目(2002年、生野屋)
* 生野屋南1丁目~3丁目(2002年、生野屋・白迫町)
* 南花岡1丁目~7丁目([[2003年]]、末武上・末武中)
* 星が丘1丁目~3丁目([[2004年]]。町名設置済区域に住居表示実施)
* 桜町1丁目~3丁目([[2006年]]、西豊井・河内・末武下)
* 藤光町1丁目~2丁目(2006年、西豊井・末武下)
* 楠木町1丁目~2丁目(2006年、西豊井・末武下)
* 中市一丁目~二丁目(2012年、西豊井・中市・樋ノ口)
* 駅南一丁目~二丁目(2012年、西豊井)
* 新川一丁目~四丁目(2012年、西豊井・東豊井)
* 西柳3丁目([[2019年]]、西豊井)
* 中島町1丁目~2丁目(2019年、西豊井)
* せせらぎ町1丁目~3丁目(2019年、末武下)
* 西市1丁目~3丁目(2019年、末武下)
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[市長]]:[[国井益雄|國井益雄]](2016年4月25日就任、2期目)
**[[副市町村長|副市長]]:玉井哲郎
** [[教育長]]:玉川良雄
** 上下水道事業管理者:大野孝治
{| class="wikitable"
|+歴代市長
!代
!氏名
!就任
!離任
|-
|1
|[[弘中伝人]]
|<small>1939.12</small>
|<small>1943.12</small>
|-
|2
|[[田岡勝太郎]]
|<small>1943.12</small>
|<small>1946.3</small>
|-
|3
|[[武井謙助]]
|<small>1946.8</small>
|<small>1947.2</small>
|-
|4
|[[石井成就]]
|<small>1947.4</small>
|<small>1959.4</small>
|-
|5
|[[河口登]]
|<small>1959.5</small>
|<small>1964.4</small>
|-
|6
|[[山中健三]]
|<small>1964.5</small>
|<small>1976.4</small>
|-
|7
|[[藤田徳一]]
|<small>1976.4</small>
|<small>1984.4</small>
|-
|8
|[[河村憐次]]
|<small>1984.4</small>
|<small>2000.4</small>
|-
|9
|[[井川成正]]
|<small>2000.4</small>
|<small>2016.4</small>
|-
|10
|國井益雄
|<small>2016.4</small>
|
|}
(第3代まで官選、第4代以降は公選)
=== 公共施設 ===
==== 市役所 ====
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kouhou/shiseijouhou/honchousha/annaizu.html 本庁舎]
==== 公民館(出張所)など ====
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/gakusyuu/kyouiku/syakyou/hosirando.html ほしらんどくだまつ]([https://www.city.kudamatsu.lg.jp/chuuou/kyouiku/syakyou/kouminkan/chuou/chuou.html 下松中央公民館]、[[下松市立図書館]]併設)
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kubo/kyouiku/syakyou/kouminkan/kubo/kubo.html 久保公民館(出張所)]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/suetake/kyouiku/syakyou/kouminkan/suetake/suetake.html 末武公民館]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/hanaoka/kyouiku/syakyou/kouminkan/hanaoka/hanaoka.html 花岡公民館(出張所)]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/toyoi/kyouiku/syakyou/kouminkan/toyoi/toyoi.html 豊井公民館]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kouminkan/kasado/index.html 笠戸公民館]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kasado/kyouiku/syakyou/kouminkan/kasadojima/kasadojima.html 笠戸島公民館(出張所)]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kouminkan/fukaura/index.html 深浦公民館]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/yonegawa/kyouiku/syakyou/kouminkan/yonegawa/yonegawa.html 米川公民館(出張所)]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/nakamura/nakamura.html 中村総合福祉センター]([https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kouminkan/nakamura/index.html 中村公民館]併設)
==== 体育施設 ====
(各施設の詳細は「[http://k-kanrikousha.or.jp/sportspark/ 下松市体育施設管理事務所]」を参照)
* 下松市温水プール(アクアピアこいじ)
* 下松スポーツ公園体育館(トラックワンアリーナ)(総合グラウンド・球技場・ゲートボール場・冒険の森併設)
* 葉山グラウンド
* 市民体育館(市民武道館・公園プール併設)
* 市民運動場
* 恋ケ浜緑地庭球場
* 下松公園庭球場
==== 文化施設 ====
* [[スターピアくだまつ|下松市文化会館(スターピアくだまつ)]]
==== 一部事務組合など ====
*[https://www.hukusikumiai.com/ 周南地区福祉施設組合]([[養護老人ホーム]]、救護所):周南市と共同
*[https://www.shueishi.or.jp/koijicc/ 周南地区衛生施設組合](可燃ごみ焼却施設「恋路クリーンセンター」、[[火葬場]]「御屋敷山斎場」):周南市および光市と共同
*[http://www.kvision.ne.jp/~kvn1694341/ 周南東部環境施設組合](不燃ごみ処理施設「リサイクルセンター『えこぱーく』」):光市と共同
*[[Kビジョン]]([[第三セクター]]):周南市、下松市、光市、[[平生町]]および[[上関町]]と共同
*[[ゆめタウン下松|下松商業開発株式会社]]([[第三セクター]]):下松市・地元出店者・中小企業事業団(現・[[中小企業基盤整備機構]])が出資
*[http://k-kanrikousha.or.jp/ 下松市施設管理公社]
=== 下松市公式マスコットキャラクター ===
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kikaku/kudamaru.html くだまる] - 公募・市内小学生による選挙で選ばれ、2019年(令和元年)市政施行80周年記念式典でお披露目された。2021年(令和3年)「[https://kudamatsu-kanko.jp/kudamarunouta/ くだまるのうた]」が制作された。
== 議会 ==
=== 市議会 ===
* 定数:20名(現員20名)
* 任期:2022年(令和4年)4月20日 - 2026年(令和8年)4月19日
* 議長:中村隆征
* 副議長:松尾一生
{| class="wikitable"
|-
!会派名!!議席数!!議員名(◎は代表者)
|-
|新生クラブ|| align="right" |8||◎磯部孝義、永田憲男、中谷司朗、中村隆征、松尾一生、三浦徹也、村田丈生、森良介
|-
|鐵(くろがね)|| align="right" |2||◎金藤哲夫、山根栄子([[幸福実現党]])
|-
|政友会|| align="right" |3||◎浅本輝明、近藤康夫、藤井洋
|-
|[[公明党]]|| align="right" |2||◎堀本浩司、柳瀬秀明
|-
|[[日本共産党]]|| align="right" |2||◎田上茂好、渡辺敏之
|-
|無所属|| align="right" |3||木原愛子、斉藤マリ子、守田文美
|-
|計|| align="right" |20||
|}
(2022年4月20日現在)
=== 衆議院 ===
;2023年衆議院議員補欠選挙
* 選挙区:[[山口県第2区|山口2区]](下松市、[[岩国市]]、[[光市]]、[[柳井市]]、[[周南市]](旧[[熊毛町]]域)、[[大島郡 (山口県)|大島郡]]、[[玖珂郡]]、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]])
* 投票日:2023年4月23日
* 当日有権者数:279,203人
* 投票率:42.41%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[岸信千世]] || align="center" | 31 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 61,369票
|-
| || [[平岡秀夫]] || align="center" | 69 || [[無所属]] ||align="center" | 元 || align="right" | 55,601票
|}
;2021年衆議院議員総選挙
* 選挙区:山口2区(下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市(旧熊毛町域)、大島郡、玖珂郡、熊毛郡)
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:283,552人
* 投票率:51.61%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[岸信夫]] || align="center" | 62 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 109,914票 || align="center" | ○
|-
| || 松田一志 || align="center" | 64 || [[日本共産党]] ||align="center" | 新 || align="right" | 32,936票 ||
|}
== 歴史 ==
* [[1939年]]([[昭和]]14年)[[11月3日]] - [[都濃郡]][[下松町]]・[[久保村 (山口県)|久保村]]・[[末武南村]]・[[花岡村 (山口県)|花岡村]]が合併して発足。県下7番目の市制施行。
* [[1945年]](昭和20年) - [[下松空襲]]。[[太平洋戦争]]で[[アメリカ軍]]が行った[[無差別爆撃]]で250人以上の死傷者を出した。
* [[1954年]](昭和29年)[[11月1日]] - 都濃郡[[米川村 (山口県都濃郡)|米川村]]を編入。
* [[1962年]](昭和37年)[[4月1日]] - 都濃郡[[都濃町]]の一部([[大字]]中須南字滝ノ口)を編入。
=== 地名の由来 ===
[[推古天皇]]3年(595年)、[[鷲頭氏|鷲頭庄]]青柳浦の松の木に大星([[北極星|北辰星]]ともいわれる)が降りてきて7日7晩輝き続け、「この地に[[百済]]の王子がやって来る」とのお告げがあった。その3年後、百済から[[聖王 (百済)|聖王]]第3王子の[[琳聖太子]]が当地を訪れたという。この霊験に民衆が社を建てて大星を祭った。松に星が降ったことから「くだまつ(下松)」と言われる、との説がある<ref>[http://kankou.kudamatsu.info/history.html 下松の歴史]{{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160306134122/http://kankou.kudamatsu.info/history.html |date=2016-03-06|accessdate=2021-02-07}} 下松市観光協会。</ref>。
他に、百済と交易する港の意味の「百済津」(くだらつ)に由来するという説もある。
=== 平成の大合併 ===
下松市は隣接する旧[[徳山市]]や旧[[新南陽市]]、旧[[熊毛町]]、旧[[鹿野町 (山口県)|鹿野町]]との3市2町で[[日本の市町村の廃置分合#合併協議会|合併協議会]]を構成し、協議を進めていた。
しかし、2000年の市長選挙で合併を推進してきた当時の現職[[河村憐次]]市長が落選し、新市長[[井川成正]]氏が合併に慎重な立場をとったことから、下松市における合併の機運は急速に冷め、合併期日を巡る下松市の主張が受け入れられず、合併協議会を脱退するに至った。
この方針は2004年の市長選挙で[[井川成正]]市長が、合併推進派の新人候補を大差で破り、再選を果たしたことにより、さらに固定化した。
== 教育 ==
=== 高等学校 ===
[[ファイル:Kudamatsu HS.JPG|thumb|下松高等学校]]
* [[山口県立下松高等学校]]
* [[山口県立華陵高等学校]]
* [[山口県立下松工業高等学校]]
=== 中学校 ===
* 下松市立下松中学校
* 下松市立末武中学校
* 下松市立久保中学校
===小学校===
* 下松市立下松小学校
* 下松市立久保小学校
* 下松市立東陽小学校
* 下松市立公集小学校
* 下松市立花岡小学校
* 下松市立豊井小学校
* 下松市立中村小学校
* 下松市立米川小学校(令和2年度から休校、下松市立花岡小学校へ通学)
=== 認定こども園 ===
* 末光幼稚園
=== 廃校リスト ===
* 下松市立深浦中学校(下松市立下松中学校に統合)
* 下松市立笠戸小学校(下松市立下松小学校に統合、跡地は笠戸公民館)
* 下松市立深浦小学校(下松市立下松小学校に統合、跡地は深浦公民館)
* 下松市立江の浦小学校 (下松市立下松小学校に統合、耐震校舎は歴史民俗資料館に転用し、グラウンドに福祉施設建設予定)
=== 専門学校 ===
* [http://www.hda.ac.jp/kudamatsu/ 下松デンタルアカデミー専門学校](近年は、メディア出演もしている。)
== 警察・消防 ==
* [[下松警察署]]
* [[下松市消防本部]]
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
[[ファイル:KudamatsuStation2022.jpg|サムネイル|下松駅]]
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** [[山陽本線]]:[[下松駅 (山口県)|下松駅]](中心となる駅)
** [[岩徳線]]:[[周防久保駅]] - [[生野屋駅]] - [[周防花岡駅]]
=== バス ===
* [[防長交通]] - 市内各地域に路線網を持つほか、周辺の周南市・光市・田布施町・平生町・柳井市・岩国市と下松市を結ぶ路線もある。また、[[福岡市]]と下松市を結ぶ高速バス「[[福岡・防府・周南ライナー]]」を運行している。
* [[中国ジェイアールバス|中国JRバス]](光線) - 下松市の下松タウンセンター・下松駅と光駅・光市中心部・光市南東部(国道188号と周辺部)を結ぶ路線。
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kikaku/komibasu.html 米泉号] - 2019年(令和元年)10月1日運行開始。米川地区と花岡地区を結ぶコミュニティバス。
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/kikaku/220725.html 公共交通マップ] - 下松市と[[周南市]]が合同で、[[防長交通]]及び[[中国JRバス]]の[[路線図]]と[[時刻表]]を基に作成。
=== 道路 ===
* [[山陽自動車道]]が市内を通っており、[[下松サービスエリア|下松SA]]がある。[[インターチェンジ]]はなく、最寄りは[[徳山東インターチェンジ|徳山東IC]]と[[熊毛インターチェンジ|熊毛IC]]になる。
* [[国道2号]]
* [[国道188号]]
== 産業 ==
=== 工業 ===
大規模工場を複数擁し、[[徳山下松港]]一帯に広がる周南[[コンビナート]]([[瀬戸内工業地域]]の一部)の一角を担う。
* [[日立製作所笠戸事業所]] - [[新幹線]]や一般電車、[[地下鉄]]、[[モノレール]]など国内外の鉄道車両を生産。完成した車両は[[下松駅 (山口県)|下松駅]]から全国へ[[甲種輸送]]される。
* [[東洋鋼鈑]]下松事業所 - 飲料缶の素材や[[ハードディスク]]基板などを生産。
* [[中国電力]][[下松発電所]] - [[2023年]](令和5年)1月31日をもって廃止となった。
* [[新笠戸ドック]] - [[今治造船]]グループ傘下。
* [[JXTGエネルギー]]下松事業所 - 石炭中継基地。前身は昭和5年創業の[[日本石油]]下松製油所。
=== 商業 ===
[[1980年代]]までは、[[徳山市]](現・周南市)を中心とした近隣都市への購買流出が続いていたが<ref name="koudokajirei_chusho_h27">{{Cite|title=平成27年度高度化事業活用事例集 |publisher=独立行政法人中小企業基盤整備機構高度化事業部 |date= |url=http://www.smrj.go.jp/doc/research_case/H27_kodoka_katsuyo_jireishu.pdf |format=pdf |accessdate= 2018-08-13}}</ref>、[[1990年代]]以降は、[[1993年]](平成5年)のザ・モール周南(現・[[ゆめタウン下松]])の開業を皮切りに、市内の道路整備も相まって、[[ロードサイド店舗]]の出店が相次ぎ、現在では、近隣の周南市や光市を含む周南地区における、商圏の中心となった。
[[2018年]](平成30年)現在、市内の商業施設における大型店の占有率は85%となっている<ref name="kcci201802">{{Cite|url=http://www.kvision.ne.jp/~kuda-cci/info_event/img/eikyoutyousa.pdf|title=下松市内事業者・消費者の大型店・通販影響調査報告書(平成30年2月)|publisher=下松商工会議所|accessdate=2018-08-15}}</ref>。人口に対する商業施設面積の割合が高く、[[東洋経済新報社]]の「住みよさランキング」において、本市が中国・四国ブロックの首位を10年以上にわたり維持し続けている要因となっている<ref>{{Cite|url=https://toyokeizai.net/articles/-/226973|title=住みよさランキング2018、中四国・九州沖縄編||publisher=東洋経済新報社|date=2018-06-29|accessdate=2018-08-15}}</ref>。
なお、かつては[[下松駅 (山口県)|下松駅]]周辺に[[商店街]]が存在したが、現在はほとんど機能していない<ref name="kcci201802" />。
店舗面積10,000m{{sup|2}}以上の大規模小売店鋪を以下に記す。
* [[ゆめタウン下松]]
* [[サンリブ]]下松
* [[イオン (企業)|イオン]]下松山田ショッピングセンター([[マックスバリュ西日本]]、[[ナフコ (ホームセンター)|ナフコ]])
=== 農業 ===
* [[山口県農業協同組合]](JA山口県)周南統括本部
=== 林業 ===
* 周南[[森林組合]]下松事務所(市役所内)
=== 漁業 ===
* [[山口県漁業協同組合]]下松支店
* [https://www.ksai.info/ ひらめきパーク笠戸島(下松市栽培漁業センター)]
* 笠戸ひらめと食文化を広める会
=== 金融機関 ===
* [[山口銀行]](下松[[支店]]、下松支店下松駅南出張所、花岡支店)
* [[西京銀行]](下松支店、末武支店)
* [[広島銀行]](下松支店)
* [[東山口信用金庫]](下松支店、栄町支店)
* [[中国労働金庫]](下松支店)
=== 経済団体 ===
* [https://kudamatsu-cci.or.jp/ 下松商工会議所]
* 下松[[民主商工会]]
=== 市内に本社を置く主な企業 ===
* [[Kビジョン]](ケーブルテレビ局)
* [[上昇 (ゲームソフト販売)]](総合リサイクル・リユースチェーン)
* ツルガハマランド株式会社([[くだまつ健康パーク]]、くだまつパブリックゴルフ、くだまつスポーツセンターなどのレジャー・スポーツ施設を運営)
* [[TRUCK-ONE]](中古トラック販売・買取)
* [[高山石油]](石油製品販売)
== 社会団体 ==
* [http://www.tokuyama-e-rc.org/ 徳山東ロータリークラブ]
* [http://www.kudamatsu-lions.jp/ 下松ライオンズクラブ]
* [http://kclions.sakura.ne.jp/ 下松中央ライオンズクラブ]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/gakusyuu/bunka/bunkakyoukai.html 下松市文化協会]
* [https://kudamatsu-kanko.jp/ 下松市観光協会]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/gakusyuu/sportsdanntai.html 下松市スポーツ協会]
* [https://www.city.kudamatsu.lg.jp/gakusyuu/kyouiku/syakyou/fujinnkai.html 下松市連合婦人会]
== 医療 ==
市内の病院を以下に示す(その他の医療機関は「[https://byoinnavi.jp/yamaguchi/kudamatsushi 病院なび]」などを参照されたい)。
* [http://www.shunan-kinen.jp/ 周南記念病院] - 2000年に旧徳山記念病院と旧下松記念病院を統合して「ふくしの里」の核施設として開院。
* 下松病院
*[https://ryokuzankai.jp/grp/kudamatsu/ 下松中央病院]
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事・ご当地グルメ ==
* 下松市農業公園
* [[笠戸島|笠戸島 -]] 全島が[[瀬戸内海国立公園]]に含まれ、島全域が「[https://www.city.kudamatsu.lg.jp/chiiki/minatooasiskdmt.html みなとオアシスくだまつ☆笠戸島]」として登録されている。[http://www.oojou.jp/ 国民宿舎大城]や[http://www.kazoku-ryoko.jp/ 笠戸島家族旅行村]、[https://www.city.kudamatsu.lg.jp/sangyou/kankou/miru-asobu/hanaguri.html はなぐり海水浴場]などのレジャースポットがあり、「[https://kudamatsu-kanko.jp/kasadomatsuri/ 笠戸島まつり]」や「[http://kasadojima-islandtrail.com/ くだまつ笠戸島アイランドトレイル]」などのイベントが開催される。
* 米泉湖(末武川ダム) - [[ロックフィルダム]]によってできた人工湖。周辺は米泉湖公園として整備され、野外ステージビッグウィングではサマージャンボリーなどのイベントが開催される。外周はウォーキングコースとなっており、[[藤田三保子]]ら著名人や一般市民の作品を刻んだ文学碑プロムナードがある。
* [https://kudamatsu-kanko.jp/akaiboutahoutou/ 閼伽井坊]
* [https://kudamatsu-kanko.jp/kudamatsu-jinjya/ 降松神社]
* [[花岡八幡宮]]
* [https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_15197.html 妙見宮鷲頭寺]
* [[鶴ヶ浜温泉|鶴ヶ浜温泉 -]] [[くだまつ健康パーク]]内に湧出する。
* [[狐の嫁入り|キツネの嫁入り]]([http://www.h.do-up.com/home/taka0716/ 花岡福徳稲荷社]の稲穂祭) - [[キツネ|狐]]の面を着けた男女の嫁入り行列が練り歩く。
* [https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=60003&pid=bl&svalue=&bloop=&mloop=&floop=&shicyouson=&meisyou=&shitei=&kubun=&syurui=&jidai=&loopcnt=&m_mode=&m_value=&m_loopcnt= 切山歌舞伎] - 都道府県指定[[重要無形民俗文化財]]。2015(平成27)年度文部科学大臣表彰受賞<ref>{{cite news|url=http://www.ccsnet.ne.jp/~nikkanss/news/1512news/151203.html|title=260年の歴史を継承 切山歌舞伎保存会に文科大臣表彰後援会の支援実る|publisher=[[日刊新周南|新周南新聞社]]|date=2015-12-03|accessdate=2016-05-22}}</ref>
* [https://kudamatsu-kanko.jp/gyukotsuramen/ 牛骨ラーメン] - 牛骨ベースのスープは、後味の良いさっぱりとした口当たりで、独特な甘みと香ばしさが特徴。サイドメニューにいなり寿司がある。駅前など市内に店舗が点在する。
* [https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202208/yamaguchigaku/index.html 天王森古墳] - 2022年(令和4年)7月、“山口県初”のものを含む西日本有数の[[形象埴輪|形象埴輪群]]が出土した。
== ゆかりの著名人 ==
* [[石川達紘]] - [[弁護士]]、元[[東京地方検察庁]]特捜部長
* [[岩本賢太郎]] - 元[[日本石油]]社長
* [[上田咲花]] - [[タレント]]([[アイドル]]・[[山口活性学園]]メンバー)
* [[魚谷香織]] - [[競艇選手]]
* [[及川いぞう]] - [[俳優]](「[[法医学教室の事件ファイル]]」刑事役などで出演)
* 岡本修 - [[音楽家|ミュージシャン]](「Swamp Delta Rockcafe'(スワンプ・デルタ・ロックカフェ)」「OSAMUSIC」として活動)
* [[河村五良]] - 元山口県議会議長
* [[喜多川2tom]] - [[スーツアクター]]
* [[義山亭石鳥]] - [[漫画家]]
* [[櫻井麻七]] - [[俳優#性別での分類|女優]]
* [[清木元治]] - [[薬学者]]、[[東京大学]]名誉教授
* [[武居正能]] - [[映画監督]](2001年に『[[ウルトラマンコスモス]]』で[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を務め、以後[[ウルトラシリーズ]]の多くに参加。『[[ウルトラマンR/B]]』ではメイン監督を初担当)
* [[田嶋義介]] - [[島根県立大学]]総合政策学部教授、[[ローカルマニフェスト]]推進中国ネットワーク代表、元週刊誌「[[AERA]]」副編集長、元[[朝日新聞]]政治部次長
* [[東條正年]] - [[脚本家]]([[座頭市]]などを著作)
* [[長岡外史]] - 日本の[[スキー]]の創始者、元[[衆議院議員]](笠戸島の[http://www.oojou.jp/ 国民宿舎大城]近くの外史公園に銅像がある)
* Haiji - [[絵本作家]]
* [[橋本正之]] - 元[[山口県]][[知事]]、元[[衆議院議員]](笠戸島の「笠戸島ハイツ」(現在は閉館)に胸像がある)
* [[林聖二]] - [[漫画家]]
* [[平松重雄]] - [[国利民福の会事件|国利民福の会]]元会長、在住
* [[福島菊次郎]] - [[報道]][[写真家]]
* 福永富雄 - [[スポーツトレーナー]]([[1964年東京オリンピック|東京五輪]]にトレーナーとして派遣、[[日本プロ野球]]トレーナー協会会長、[[広島東洋カープ]]のトレーナー部アドバイザーなどを歴任)
* [[藤田勉 (ストラテジスト)|藤田勉]] - [[ストラテジスト]]、一橋大学特任教授、[[シティグループ証券]]副会長
* [[増田いずみ]] - [[ソプラノ歌手]]
* [[松村しのぶ]] - [[造形作家]]([[海洋堂]])
* [[真山一郎]] - [[浪曲師]]、[[歌手]]
* MIKKO - [[歌手]](くだまつ観光大使、「[https://www.city.kudamatsu.lg.jp/soumu/bousainouta.html くだまつぼうさいのうた]」「[https://kudamatsu-kanko.jp/kudamarunouta/ くだまるのうた]」を作曲)
* [[元木行哉]] - [[俳優]](下松市に移住、[https://starnavi.net/kfc/ 下松フィルム・コミッション]製作映画などに出演)
* [[山城宏]] - [[囲碁]]
* 山田宏 - 山田グループ七星会会長、下松商工会議所会頭、山口経済同友会代表幹事
* [[山田眞知子]] - 元国際[[ソロプチミスト]]アメリカ連盟会長
* [[山本宜久]] - [[総合格闘家]]
* [[吉弘充志]] - [[サッカー]]選手([[FCマルヤス岡崎]]所属、元[[サンフレッチェ広島]]、元[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]、元[[レノファ山口FC]])
* [[ブロードキャスト!!#メンバー|吉村憲二]] - [[お笑い芸人]]「[[ブロードキャスト!!]]」
== 電話・郵便 ==
[[市外局番]]は、0833 (40 - 79、90 - 99) となっている。
* 0833 (40 - 79、90 - 99) エリア
** 下松市・[[光市]]([[大和町 (山口県)|大和]]地区を除く)・[[周南市]]([[熊毛町|熊毛]]地区)
[[日本の郵便番号|郵便番号]]は、以下の通りとなっている。
* [[下松郵便局]] : 744-00xx、744-85xx、744-86xx、744-87xx、744-02xx
=== 郵便局 ===
* [[下松郵便局]]
* 下松東柳郵便局
* みずほ郵便局
* 下松花岡郵便局
* 下松東陽郵便局
* 下松豊井郵便局
* 笠戸島郵便局
* 米川郵便局
* 下松久保[[簡易郵便局]]
* 下松旗岡簡易郵便局
== 参照 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[笠戸丸]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Official website|name=山口県下松市ホームページ}}
* {{Facebook|mayor.of.kudamatsucity|下松市長の「くだまつ日記」}}(市公式アカウント)
* [https://twitter.com/Kudamatsu1939 下松市] (@Kudamatsu1939) - [[Twitter]](市公式アカウント)
* [https://www.youtube.com/channel/UCFDzlEVWOnBUT8b4gyjaD2Q 下松市公式YouTubeチャンネル]
* [https://kudamatsu-kanko.jp/ 下松市観光協会公式ホームページ]
* {{Facebook|kdmt1939|山口県下松市 - unofficial}}(非公式アカウント)
* {{Twitter|kdmt1939|下松市★非公式}}(非公式アカウント)
* [https://adeac.jp/kudamatsu-city/top/ 下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ]([[下松市立図書館]]が配信)
{{山口県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くたまつし}}
[[Category:山口県の市町村]]
[[Category:下松市|*]]
|
2003-07-01T05:18:31Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%BE%E5%B8%82
|
10,679 |
帝紀
|
帝紀(ていき)とは、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類、あるいはそれらをまとめた分野、特に『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『旧辞』と共に記紀の取材源になったと考えられているが、古くに散佚し、内容は伝わっていない。本項ではこれについて記述する。
681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。『旧辞』と共に天武天皇が稗田阿礼に暗誦させたといい、のちに記紀の基本史料となったという。
一般に、『帝紀』の内容は皇統譜であると考えられている。しかし異説も多く、
などがある。
また『帝紀』は一般に、
などと同じものであると考えられている。
ただし、「年紀」を意味する「紀」の文字を含む『帝紀』『帝王本紀』『先紀』と、「紀」の文字を含まない『日嗣』等は分けて考えるべきだとする説もある。また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「帝紀」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『帝紀』は明確に区別すべきだとする説もある。さらに、ほとんどの場合に『帝紀』と『旧辞』が並記されることなどから、これらは組み合わせることを前提にしており、二つの史書を組み合わせた日本独自の歴史叙述の形態が存在する可能性も指摘されている。
一方、古代天皇の称号には、居住した宮の名を冠して呼ぶほか、陵墓の所在地を冠して呼ぶときもあり、このことから関西大学の薗田香融は、帝紀とは名を羅列した単なる系図ではなく、「陵墓の所在地と陵墓名も記載され、そこに亡くなった年代・年齢も記されていたもの」と推測し、東京大学の井上光貞も同じ考えであると述べる。
いずれにしても、『帝紀』が重要視されたことは天武天皇の殯宮において帝皇日嗣が読み上げられたことからも分かる。
埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘にワカタケル(雄略天皇)に「杖刀人首」として奉仕したヲワケの始祖オホヒコに始まる八代の系譜が記されていた。オホヒコは崇神天皇の四道将軍の一人「大彦命」のことと思われ、このことは五世紀後半の雄略天皇の時代に崇神天皇から雄略天皇に至る、後の「帝紀」に発展する「原帝紀」とも言うべき王統譜が存在していたことを示唆しているという。
また「釈日本紀」「上宮記」逸文には「古事記」「日本書紀」の本文にはない応神天皇から継体天皇までの系譜が記されているが、この系譜は用字法から「記紀」よりも古い推古朝のものと判明している。このことは「記紀」とは別に各王族が別個に作成した系譜が存在していた可能性があることを表している。。
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帝紀(ていき)とは、歴代の天皇あるいは皇室の系譜類、あるいはそれらをまとめた分野、特に『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『旧辞』と共に記紀の取材源になったと考えられているが、古くに散佚し、内容は伝わっていない。本項ではこれについて記述する。
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'''帝紀'''(ていき)とは、歴代の[[天皇]]あるいは[[皇室]]の[[系譜]]類、あるいはそれらをまとめた分野、特に『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』以前に存在したと考えられている[[日本]]の[[歴史書]]の一つ。『[[旧辞]]』と共に[[記紀]]の[[情報源|取材源]]になったと考えられているが、古くに散佚し、内容は伝わっていない。本項ではこれについて記述する。
== 概要 ==
[[681年]]([[天武天皇]]10年)より[[天智天皇]]2子の[[川島皇子]]と[[忍壁皇子]]が[[勅命]]により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。『旧辞』と共に[[天武天皇]]が[[稗田阿礼]]に[[暗誦]]させたといい、のちに記紀の基本史料となったという。
一般に、『帝紀』の内容は[[皇統譜]]であると考えられている。しかし異説も多く、
* 『古事記』の中・下巻を指すという説。
* 特定の書物を指すのではなく皇室の系譜の伝承を記した書物全般を帝紀と呼ぶとする説。
* 書物になっていない天皇の系譜に関する伝承も帝紀と呼ばれるとの説。
*『帝紀』『旧辞』は別々の書物ではなく一体のものだったとする説。
などがある。
また『帝紀』は一般に、
* 『古事記』序文に書かれている『[[帝皇日嗣]]』、『[[先紀]]』
* 『日本書紀』[[欽明天皇]]2年3月条に記載がある『[[帝王本紀]]』
* 『日本書紀』[[持統天皇]]2年11月条に記載がある「古くは『[[日嗣]]』と呼ばれた」との注釈がついた「皇祖等之登極次第」
* 『[[正倉院文書]]』にある『[[帝紀日本書]]』や『[[日本帝紀]]』
* 『日本書紀私記甲本』にある『[[帝王記]]』
などと同じものであると考えられている。
ただし、「年紀」を意味する「紀」の文字を含む『帝紀』『帝王本紀』『先紀』と、「紀」の文字を含まない『日嗣』等は分けて考えるべきだとする説もある<ref>矢嶋泉『古事記の歴史意識』歴史文化ライブラリー260、[[吉川弘文館]]、2008年9月1日。 ISBN 978-4-642-05660-1 </ref><ref>[[神野志隆光]]『古事記の達成 その論理と方法』[[東京大学出版会]]、1983年9月。 ISBN 4-13-080032-9 </ref>。また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「帝紀」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『帝紀』は明確に区別すべきだとする説もある<ref>[[遠山美都男]]「根拠に乏しい『帝紀』『旧辞』の成立年代」『日本書紀は何を隠してきたか』洋泉社新書y035、[[洋泉社]]、2001年7月21日、pp. 196-204。ISBN 4-89691-549-6 もとは「『帝紀』『旧辞』を復元する」として「[[歴史読本]]」1999年4月号、[[新人物往来社]]に掲載</ref>。さらに、ほとんどの場合に『帝紀』と『旧辞』が並記されることなどから、これらは組み合わせることを前提にしており、二つの史書を組み合わせた日本独自の歴史叙述の形態が存在する可能性も指摘されている<ref>倉西裕子「『日本式紀伝体』は存在した - 二本の史書を一対とする編纂記述様式」『記紀はいかにして成立したか - 天の史書と地の史書』講談社選書メチエ、[[講談社]]、2004年6月10日、pp. 46-59。 ISBN 4-06-258301-1 </ref>。
一方、古代天皇の称号には、居住した宮の名を冠して呼ぶほか、[[陵墓]]の所在地を冠して呼ぶときもあり、このことから関西大学の[[薗田香融]]は、帝紀とは名を羅列した単なる系図ではなく、「陵墓の所在地と陵墓名も記載され、そこに亡くなった年代・年齢も記されていたもの」と推測し、東京大学の[[井上光貞]]も同じ考えであると述べる<ref>『「古事記」と「日本書紀」の謎』 [[学生社]] (4刷)1994年(初刷1992年) pp.110 - 111 ISBN 4-311-41016-6</ref>。
いずれにしても、『帝紀』が重要視されたことは天武天皇の[[殯宮]]において帝皇日嗣が読み上げられたことからも分かる<!-- 同学生社 p.111 -->。
== 考証 ==
埼玉県行田市の[[稲荷山古墳出土鉄剣]]銘にワカタケル([[雄略天皇]])に「杖刀人首」として奉仕したヲワケの始祖オホヒコに始まる八代の系譜が記されていた。オホヒコは[[崇神天皇]]の四道将軍の一人「[[大彦命]]」のことと思われ、このことは五世紀後半の雄略天皇の時代に崇神天皇から雄略天皇に至る、後の「帝紀」に発展する「原帝紀」とも言うべき王統譜が存在していたことを示唆しているという<ref>「ヤマト王権」岩波新書 2010 44‐46頁</ref>。
また「釈日本紀」「上宮記」逸文には「古事記」「日本書紀」の本文にはない応神天皇から継体天皇までの系譜が記されているが、この系譜は用字法から「記紀」よりも古い推古朝のものと判明している。このことは「記紀」とは別に各王族が別個に作成した系譜が存在していた可能性があることを表している。<ref>「倭の五王」河内春人 中公新書 196頁</ref>。
==出典==
<references/>
==参考文献==
*川副武胤「帝紀・旧辞」『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』[[吉川弘文館]]。
*山田秀雄「帝王本紀」『日本書紀』歴史新書日本史19、ニュートンプレス、1979年6月20日、pp. 42-43。 ISBN 4-315-40170-6
==関連項目==
*[[歴史書一覧]]
*[[天皇記]]
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札幌市営地下鉄南北線
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南北線(なんぼくせん)は、北海道札幌市北区の麻生駅から同市南区の真駒内駅までを結ぶ、札幌市営地下鉄の路線である。車体および路線図や乗換案内で使用されるラインカラーは「グリーン」(緑: )。駅ナンバリングにおける路線記号はN。
中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道であり、集電は架空電車線方式の東西線・東豊線とは異なり、第三軌条方式を採用している。
積雪寒冷地である札幌市ではモータリゼーションの進行で冬季の交通渋滞が深刻化していたことに加え、冬季オリンピックの開催が決定し、選手や観客の輸送にも対応可能な大量輸送交通機関の建設気運が高まったことが計画の端緒となった。1965年から札苗実験場でゴムタイヤ方式の試験車を使った各種試験に着手し、1967年に札幌市議会で建設が可決された。
かつての定山渓鉄道線の廃線跡を通る南平岸駅 - 真駒内駅間 (4.5km) は、建設費圧縮を目的に地上高架となっているが、雪を防ぐためにアルミ合金製のシェルター(南北線シェルター)で覆われている。このような高架上にある長大なものは世界で唯一の構造で、札幌市営地下鉄の特徴の一つにもなっている。このシェルターによって、豪雪地帯である札幌の厳しい気象条件に左右されない安定した輸送が実現しているほか、沿線の騒音防止にも役立っている。
シェルター導入が決まる前までは、雪への対策として軌道に熱線を通すロードヒーティングや外側への赤外線ヒーター設置により融雪する方法が検討されたり、また札幌市電のササラ電車をヒントにした除雪車両を開発し真冬は問題なかったものの春先になるとアイスバーン化した路面の影響でスリップする等の問題点が生じ、第一次世界大戦時のドイツ軍によるトンネル前後の鉄道路線に覆いを被せて隠密性を持たせた列車砲輸送のアイデアから着想を得てシェルターで覆う形式とした。シェルターには採光窓がついており、夏季には気温上昇の対策として駅部の窓を開けている。
利点の大きいシェルターであるが、経年劣化をはじめ、積雪対策、テレビやラジオの受信障害といった課題も抱えている。このうち、シェルター自体への積雪は、そのまま放置すると下方で交差している道や側道に落下する危険性があるため、深夜に手作業で雪下ろしを行っている。テレビの受信障害については、市交通局が設置した共聴アンテナにより対応している。
内容は2022年7月27日現在。
当路線の乗車人員は以下の通り。
当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。
ほとんどが全線通しで運転されているが、南車両基地への出入庫のため、一部の列車が麻生駅 - 自衛隊前駅で運転される(平日の朝8時台に1本、9時台に4本)。以前は自衛隊前発の麻生行が存在したが、現在では麻生発の自衛隊前行のみが設定されている。ただし、非常時および臨時列車では自衛隊前発の麻生行きが運行される場合がある。南車両基地からの出庫時は、南車両基地→自衛隊前駅(折り返し)→真駒内駅と回送され営業運転に就く。入庫の場合でも真駒内駅まで営業運転ののち自衛隊前駅まで回送されるものも存在する。
日中は 7分間隔、朝ラッシュ時は 4分間隔、夕ラッシュ時は5 - 6分間隔で運転される。
毎年夏に開催されている豊平川花火大会開催日には、南北線は見物客で非常に混雑するため、夕方から夜にかけて、4 - 5分間隔の特別ダイヤでの運行となる。
2008年12月15日始発より導入。札幌市営地下鉄では「女性専用車」と呼ばず、「女性と子どもの安心車両」という名称である。乗車できるのは「女性」「小学校6年生以下の男児」「身障者および身障者の介護人の男性」となっているがあくまでも任意であり、強制力はない。 対象時間は、平日ダイヤの始発から9時までの全区間となっており、9時をもって一斉解除される。該当する車両は、真駒内側の先頭車1号車である。 麻生行は最後尾(乗車位置番号は21 - 24番に該当)、真駒内行は先頭(乗車位置番号は1 - 4番に該当)になる。
かつて運行されていた3000形の乗車位置番号は、麻生行きは緑の15, 16番、真駒内行は緑の1, 2番に該当していた。
※距離標上の0キロ地点は、北24条駅にある。
当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)と東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)と東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。
札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来のワンマン運転に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている可動式ホーム柵(ホームドア)を各線に設置することを決定した。
南北線では2012年7月10日の麻生駅での稼働開始以降、麻生側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働させていった。そして2013年3月2日の真駒内駅での稼働開始を以って南北線全駅への設置が完了し、あわせて4月1日始発からワンマン運転が開始された。
開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は東西線のものと同じ三菱電機製で、同社製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了予告、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を使用している。
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"text": "中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道であり、集電は架空電車線方式の東西線・東豊線とは異なり、第三軌条方式を採用している。",
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"text": "積雪寒冷地である札幌市ではモータリゼーションの進行で冬季の交通渋滞が深刻化していたことに加え、冬季オリンピックの開催が決定し、選手や観客の輸送にも対応可能な大量輸送交通機関の建設気運が高まったことが計画の端緒となった。1965年から札苗実験場でゴムタイヤ方式の試験車を使った各種試験に着手し、1967年に札幌市議会で建設が可決された。",
"title": "歴史"
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"text": "かつての定山渓鉄道線の廃線跡を通る南平岸駅 - 真駒内駅間 (4.5km) は、建設費圧縮を目的に地上高架となっているが、雪を防ぐためにアルミ合金製のシェルター(南北線シェルター)で覆われている。このような高架上にある長大なものは世界で唯一の構造で、札幌市営地下鉄の特徴の一つにもなっている。このシェルターによって、豪雪地帯である札幌の厳しい気象条件に左右されない安定した輸送が実現しているほか、沿線の騒音防止にも役立っている。",
"title": "シェルター"
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"text": "シェルター導入が決まる前までは、雪への対策として軌道に熱線を通すロードヒーティングや外側への赤外線ヒーター設置により融雪する方法が検討されたり、また札幌市電のササラ電車をヒントにした除雪車両を開発し真冬は問題なかったものの春先になるとアイスバーン化した路面の影響でスリップする等の問題点が生じ、第一次世界大戦時のドイツ軍によるトンネル前後の鉄道路線に覆いを被せて隠密性を持たせた列車砲輸送のアイデアから着想を得てシェルターで覆う形式とした。シェルターには採光窓がついており、夏季には気温上昇の対策として駅部の窓を開けている。",
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"text": "利点の大きいシェルターであるが、経年劣化をはじめ、積雪対策、テレビやラジオの受信障害といった課題も抱えている。このうち、シェルター自体への積雪は、そのまま放置すると下方で交差している道や側道に落下する危険性があるため、深夜に手作業で雪下ろしを行っている。テレビの受信障害については、市交通局が設置した共聴アンテナにより対応している。",
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"text": "内容は2022年7月27日現在。",
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"text": "当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。",
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"text": "ほとんどが全線通しで運転されているが、南車両基地への出入庫のため、一部の列車が麻生駅 - 自衛隊前駅で運転される(平日の朝8時台に1本、9時台に4本)。以前は自衛隊前発の麻生行が存在したが、現在では麻生発の自衛隊前行のみが設定されている。ただし、非常時および臨時列車では自衛隊前発の麻生行きが運行される場合がある。南車両基地からの出庫時は、南車両基地→自衛隊前駅(折り返し)→真駒内駅と回送され営業運転に就く。入庫の場合でも真駒内駅まで営業運転ののち自衛隊前駅まで回送されるものも存在する。",
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"text": "日中は 7分間隔、朝ラッシュ時は 4分間隔、夕ラッシュ時は5 - 6分間隔で運転される。",
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"text": "毎年夏に開催されている豊平川花火大会開催日には、南北線は見物客で非常に混雑するため、夕方から夜にかけて、4 - 5分間隔の特別ダイヤでの運行となる。",
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"text": "2008年12月15日始発より導入。札幌市営地下鉄では「女性専用車」と呼ばず、「女性と子どもの安心車両」という名称である。乗車できるのは「女性」「小学校6年生以下の男児」「身障者および身障者の介護人の男性」となっているがあくまでも任意であり、強制力はない。 対象時間は、平日ダイヤの始発から9時までの全区間となっており、9時をもって一斉解除される。該当する車両は、真駒内側の先頭車1号車である。 麻生行は最後尾(乗車位置番号は21 - 24番に該当)、真駒内行は先頭(乗車位置番号は1 - 4番に該当)になる。",
"title": "女性と子どもの安心車両"
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"text": "かつて運行されていた3000形の乗車位置番号は、麻生行きは緑の15, 16番、真駒内行は緑の1, 2番に該当していた。",
"title": "女性と子どもの安心車両"
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"text": "※距離標上の0キロ地点は、北24条駅にある。",
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"text": "当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)と東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)と東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。",
"title": "東豊線との乗り換えについて"
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"text": "札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来のワンマン運転に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている可動式ホーム柵(ホームドア)を各線に設置することを決定した。",
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"text": "南北線では2012年7月10日の麻生駅での稼働開始以降、麻生側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働させていった。そして2013年3月2日の真駒内駅での稼働開始を以って南北線全駅への設置が完了し、あわせて4月1日始発からワンマン運転が開始された。",
"title": "可動式ホーム柵"
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"text": "開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は東西線のものと同じ三菱電機製で、同社製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了予告、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を使用している。",
"title": "可動式ホーム柵"
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南北線(なんぼくせん)は、北海道札幌市北区の麻生駅から同市南区の真駒内駅までを結ぶ、札幌市営地下鉄の路線である。車体および路線図や乗換案内で使用されるラインカラーは「グリーン」。駅ナンバリングにおける路線記号はN。 中央のレールをまたいでゴムタイヤで走行する方式の案内軌条式鉄道であり、集電は架空電車線方式の東西線・東豊線とは異なり、第三軌条方式を採用している。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:ST Logo.svg|26px|札幌市営地下鉄|link=札幌市営地下鉄]] 南北線
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|閉塞方式 = [[車内信号]]式
|保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]]、[[自動列車運転装置|ATO]]
|最高速度 = 70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="gaiyou">{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/st/subway/gaiyo/gaiyo.html|title=地下鉄(高速電車)の概要|publisher=札幌市|accessdate=2020-5-1}}</ref>
|路線図 =
|路線図名 =
|路線図表示 = <!--collapsed-->
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#008000}}
{{BS-table}}
{{BS||||←[[北海道旅客鉄道|JR北]]:[[札沼線]](学園都市線)→|}}
{{BS3|hSTRq|BHFq|O2=lhBHFq|hSTRq|||[[新琴似駅]]|}}
{{BS|utKINTa|2.2|N01 [[麻生駅]]||}}
{{BS|utBHF|1.2|N02 [[北34条駅]]||}}
{{BS|utBHF|0.0|N03 [[北24条駅]]||}}
{{BS|utBHF|0.9|N04 [[北18条駅]]||}}
{{BS|utBHF|1.7|N05 [[北12条駅]]||}}
{{BS5|||utSTR||utSTR+l|||↓[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]→|}}
{{BS5|||utSTR||utSTR|||←JR北:[[函館本線]]→|}}
{{BS5|||umtKRZh|BHFq|O4=lhBHFq|umtKRZh|||[[札幌駅]]|}}
{{BS5|||utINT|O3=HUBaq|HUBq|utINT|O5=HUBeq|2.7|N06 [[さっぽろ駅]]||}}
{{BS5||utSTR+l|utKRZt|utSTRq|utABZgr|||←連絡線→/→↑H07 東豊線|}}
{{BS5|utSTRq|utABZqr|utKRZt|utBHFq|O4=HUBa|utKRZt|||T09 ←[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]→|}}
{{BS5|uSTRq|uKHSTeq|O2=uKHSTa|P2=HUBaq|utBHF|O3=HUBq|HUBtg|utBHF|O5=HUBeq|3.3|N07 [[大通駅]]|→H08 東豊線|}}
{{BS5||uSTR|utSTR||utSTR|||↑←[[札幌市電|市電]][[西4丁目停留場]]|}}
{{BS5|HUBrg-L|uHST|O2=HUB-Rq|utSTR|O3=HUB-Rq|HUBlg-R|utSTR|||←市電[[狸小路停留場]]|}}
{{BS5|uSTR+l|O1=HUB-L|uKHSTeq|O2=uKHSTe|P2=HUBa|utBHF|HUB-R|utSTR|3.9|N08 [[すすきの駅]]||}}
{{BS5|uLSTR|O1=HUBlf-L|HUB-Lq|O2=HUB|utSTR|O3=HUB-Lq||O4=HUBrf-R|utSTR|||←市電[[すすきの駅|すすきの停留場]]|}}
{{BS5||HUBlf|utSTR|O3=HUBq|HUBq|utBHF|O5=HUBeq|||H09 [[豊水すすきの駅]]|}}
{{BS5|||utSTR||utSTRl|||↑東豊線→|}}
{{BS5|uLSTR||utKRZW|||||[[創成川|鴨々川]]/↓←[[山鼻9条停留場]]|}}
{{BS5|uHST|O1=HUBaq|HUBq|utBHF|O3=HUBeq|||4.6|N09 [[中島公園駅]]||}}
{{BS5|uLSTR||utSTR|||||↓←[[静修学園前停留場]]|}}
{{BS5|uHST|O1=HUBaq|HUBq|utBHF|O3=HUBeq|||5.6|N10 [[幌平橋駅]]||}}
{{BS5|uSTRr||utKRZW|||||[[豊平川]]/←市電↑|}}
{{BS|utBHF|6.1|N11 [[中の島駅]]}}
{{BS|utKRZW|||[[精進川]]}}
{{BS|utBHF|6.8|N12 [[平岸駅 (札幌市)|平岸駅]]}}
{{BS|utSTRe|}}
{{BS|uhSTRa@g|}}
{{BS|uBHF|O1=lhBHF|7.9|N13 [[南平岸駅]]}}
{{BS|uBHF|O1=lhBHF|9.1|N14 [[澄川駅]]}}
{{BS|uBHF|O1=lhBHF|10.4|N15 [[自衛隊前駅]]}}
{{BS|uhKRZW|||精進川}}
{{BS3||uhABZgl|uhSTR+r|}}
{{BS3||uhSTR|uKDSTe|O3=lhSTRe@g||南車両基地|}}
{{BS|uKBHFe|O1=lhKBHFe|12.1|N16 [[真駒内駅]]}}
|}
|}
'''南北線'''(なんぼくせん)は、[[北海道]][[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]]の[[麻生駅]]から同市[[南区 (札幌市)|南区]]の[[真駒内駅]]までを結ぶ、[[札幌市営地下鉄]]の路線である。車体および路線図や乗換案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「グリーン」(緑:[[ファイル:Subway_SapporoNamboku.svg|15px|■]] )。[[駅ナンバリング]]における路線記号は'''N'''。
中央のレールをまたいで[[ゴムタイヤ式地下鉄|ゴムタイヤで走行する方式]]の[[案内軌条式鉄道]]であり、集電は[[架空電車線方式]]の[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]・[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]とは異なり、[[第三軌条方式]]を採用している。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):14.3 km
* 駅数:16駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]750 V・[[第三軌条方式]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[車内信号]]式 ([[自動列車運転装置|ATO]])
* 最高速度:70 km/h<ref name="gaiyou" />
* 地上区間:平岸駅 - [[真駒内駅]]
== 歴史 ==
積雪寒冷地である札幌市ではモータリゼーションの進行で冬季の交通渋滞が深刻化していたことに加え、[[1972年札幌オリンピック|冬季オリンピック]]の開催が決定し、選手や観客の輸送にも対応可能な大量輸送交通機関の建設気運が高まったことが計画の端緒となった。1965年から[[札苗実験場]]でゴムタイヤ方式の試験車を使った各種試験に着手し、1967年に札幌市議会で建設が可決された。
{{Main|札幌市営地下鉄#開業前のエピソード}}
* [[1966年]](昭和41年)
** 6月 - 1985年度までの高速交通機関計画の一環として南北線藤の沢 - 茨戸間25kmの建設計画を策定<ref name="kenshin13">[https://e-kensin.net/news/114217.html 建設新聞で読み解く あのときの札幌 第13回「五輪を支えた都市施設〈地下鉄(高速軌道)(1)〉」] - 北海道建築新聞</ref>。
** 12月 - 地下鉄第一期建設計画の一環として南北線北24条 - 真駒内間の計画を策定<ref name="kenshin13"/>。
* [[1967年]](昭和42年)
** 6月 - 地下部分を西4丁目通り沿いの北10条-南7条間に決定<ref name="kenshin13"/>。
** 9月 - 南北線北24条-真駒内間12kmを緊急整備区間に指定<ref name="kenshin13"/>。
* [[1968年]](昭和43年)
** 1月26日 - 建設省からの指導を受け地下区間計画について北16条 - 中島公園間4.25kmから北24条-平岸間7.3kmへの延長案を審議<ref name="kenshin13"/>。
** 6月24日 - 北24条駅 - 平岸駅間地下区間7.3kmの地方鉄道敷設免許を取得<ref name="kenshin13"/><ref name="kenshin14"/>。
* [[1969年]](昭和44年)
** 2月7日 - 大通公園にて起工式開催<ref name="kenshin14">[https://e-kensin.net/news/114604.html 建設新聞で読み解く あのときの札幌 第14回「五輪を支えた都市施設〈地下鉄(高速軌道)(2)〉」] - 北海道建築新聞</ref>。
** 3月20日 - 北24条駅 - 平岸駅間着工。
** 10月22日 - 高架区間となる平岸駅 - 真駒内駅間の地方鉄道敷設免許を取得<ref name="kenshin15">[https://e-kensin.net/news/114992.html 建設新聞で読み解く あのときの札幌 第14回「五輪を支えた都市施設〈地下鉄(高速軌道)(3)〉」] - 北海道建築新聞</ref>。
* [[1970年]](昭和45年)
** 7月28日:平岸駅 - 真駒内駅間着工。
* [[1971年]](昭和46年)
** 札幌市長期総合計画にて建設計画を花畔 - 藤の沢間29kmに拡大<ref name="tohokensetsu1">札幌市高速鉄道 東豊線建設史 - 札幌市交通局(1989年)</ref>。
** [[9月3日]]:[[真駒内駅]]を発車した試運転列車がポイント部分で脱線し、シェルターへ激突。運転士2名と、試乗客3人が負傷。車両の前頭部とシェルターが大破<ref>北海道新聞 1971年9月4日、および同日夕刊より。完成検査を受ける前から一般市民を対象にした試乗会が頻繁に行われており、北海道運輸局から再三中止指導を受けていた最中の事故であった。</ref>。
** [[12月16日]]:[[北24条駅]] - 真駒内駅間 (12.1km) が開業。1000形(後に[[札幌市交通局2000形電車|2000形]]に改番)車両が営業運転開始。[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]の1か月半前に開業。開業当時から有人改札はおかず、全駅が[[自動改札]]であった。なお開業から数年間は、自動券売機で「[[五円硬貨]]」を使うことができた。
* [[1972年]](昭和47年)12月4日:北24条駅 - 麻生駅間延伸を市議会で可決<ref name="tohokensetsu1"/>。
* [[1973年]](昭和48年)
** 5月12日:北24条駅 - 麻生駅間の地方鉄道敷設免許取得<ref name="tohokensetsu1"/>。
** 6月29日:北24条駅 - 麻生駅間延伸工事着工<ref name="tohokensetsu1"/>。
* [[1974年]](昭和49年)[[8月18日]]:全車両6両編成化<ref>{{Cite news |和書|title=あすからオール6両編成に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-08-17 |page=1 }}</ref>。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[3月16日]]:北24条駅 - [[麻生駅]]間 (2.2km) が延伸開業。全車両8両編成化。
** [[10月1日]]:[[札幌市交通局3000形電車|3000形]]車両が営業運転開始。
* [[1994年]](平成6年)[[10月14日]]:霊園前駅が[[南平岸駅]]に名称変更。
* [[1995年]](平成7年)[[9月]]:北海道初の4扉車、[[札幌市交通局5000形電車|5000形]]車両が営業運転開始。
* [[1999年]](平成11年)[[6月27日]]:2000形(1000形)車両が全車運用終了。
* [[2008年]](平成20年)
** 8月18日:札幌市営地下鉄初の「[[女性専用車両]]」を試験導入。9月12日まで。
** [[12月15日]]:「[[#女性と子どもの安心車両|女性と子どもの安心車両]]」導入<ref name="anshin_sharyo">[http://www.city.sapporo.jp/st/subway/anshin_syaro/anshin_syaryo.html 女性と子どもの安心車両] - 札幌市交通局</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[1月30日]]:ICカード「[[SAPICA]]」導入。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月25日]]:3000形車両が全車運用終了。
** [[6月4日]]:[[自動列車運転装置|ATO]]による5000形車両の自動運転を開始。これと同時に、各駅の停車時間延長、麻生駅の折り返し方法を変更<ref>[http://www.city.sapporo.jp/st/namboku_dia_kaisei.html 平成24年6月4日(月曜日)南北線のダイヤを改正します] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120609033633/http://www.city.sapporo.jp/st/namboku_dia_kaisei.html |date=2012-06-09}} - 札幌市交通局(2012年5月3日閲覧)</ref><ref>{{Cite journal|和書 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |date=2012-08 |volume=46 |issue=8 |page=147 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]]}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月2日]]:可動式ホーム柵([[ホームドア]])を全駅に設置完了<ref>[http://www.city.sapporo.jp/st/subway/movable-safety-fences-namboku.html 南北線可動式ホーム柵の設置について] - 札幌市交通局</ref>。<!--また2000・3000形用の緑の乗車位置表示も撤去予定。(駅員さんに確認、出典として出せないのでコメントアウト)-->
** [[4月1日]]:[[ワンマン運転]]開始<ref>[http://www.city.sapporo.jp/st/movable-safety-fences-namboku/namboku_oneman_drive.html 南北線ワンマン運転開始について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130924033857/http://www.city.sapporo.jp/st/movable-safety-fences-namboku/namboku_oneman_drive.html |date=2013-09-24}} - 札幌市交通局</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[9月1日]]:さっぽろ駅における東豊線との乗り換え方法が改札外乗り換えに変更<ref name="passageway">[https://www.city.sapporo.jp/st/passageway.html 地下鉄さっぽろ駅連絡通路柵撤去について(9月1日~)札幌市交通局]</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[12月14日]]:北34条駅において漏水が発生し、麻生駅 - 北24条駅間で運休、同区間でバス代行を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/st/unnkyuu/r021214_nambokuline.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201215072730/https://www.city.sapporo.jp/st/unnkyuu/r021214_nambokuline.html|title=令和2年12月14日に発生した浸水に伴う地下鉄南北線の部分運休について【お詫び】|date=2020-12-15|archivedate=2020-12-15|accessdate=2020-12-15|publisher=札幌市交通局|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/491657/|archiveurl=https://archive.vn/iORPN|title=南北線復旧めどたたず 地下鉄北34条駅漏水 3万人に影響|newspaper=北海道新聞|date=2020-12-15|accessdate=2020-12-15|archivedate=2020-12-15}}</ref>。15日夕方には北34条駅通過で全線の運転再開<ref>{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/491957|archiveurl=https://archive.vn/UorHR|title=南北線不通区間の運行再開 北34条駅の再開未定 札幌市営地下鉄|newspaper=北海道新聞|date=2020-12-15|accessdate=2020-12-15|archivedate=2020-12-15}}</ref>。
** [[12月21日]]:北34条駅真駒内方面ホーム停車再開<ref name="hokkaido-np20201226" />。
** [[12月26日]]:北34条駅麻生方面ホーム停車再開で全面復旧<ref name="hokkaido-np20201226">{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/496112|title=札幌地下鉄12日ぶり全面復旧 北34条駅麻生行きホームの利用再開|newspaper=北海道新聞|date=2020-12-26|accessdate=2020-12-27}}</ref>。
== シェルター ==
かつての[[定山渓鉄道線]]の廃線跡を通る[[南平岸駅]] - [[真駒内駅]]間 (4.5km) は、建設費圧縮を目的に地上[[高架橋|高架]]となっている<ref group="注">このため、[[平岸駅 (札幌市)|平岸駅]] - 南平岸駅間では最大勾配43‰の急勾配になっている。</ref>が、[[雪]]を防ぐために[[アルミニウム合金|アルミ合金]]製の[[スノーシェルター|シェルター]](南北線シェルター<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://pucchi.net/hokkaido/closeup/subwayshelter.php |title=地下鉄なのにシェルター?! 南北線の一部区間が地上に出るワケとは |accessdate=2017-10-21 |author=石簾 マサ |date=2017-10-17 |publisher=北海道ファンマガジン}}</ref>)で覆われている。このような高架上にある長大なものは世界で唯一の構造で、札幌市営地下鉄の特徴の一つにもなっている<ref group="注">類似のものは日本の地下鉄では[[神戸市営地下鉄西神・山手線]]の[[板宿駅]] - [[妙法寺駅 (兵庫県)|妙法寺駅]]間にあるトンネルの間にも短いものが存在する。正式名称は護摩谷シェルター。</ref>。このシェルターによって、[[豪雪地帯]]である札幌の厳しい気象条件に左右されない安定した輸送が実現しているほか、沿線の[[騒音]]防止にも役立っている。
シェルター導入が決まる前までは、雪への対策として軌道に熱線を通す[[ロードヒーティング]]や外側への赤外線ヒーター設置により[[融雪]]する方法が検討されたり<ref>{{Twitter status|sapporokotsu_PR|1375383399888613385}}</ref>、また[[札幌市電]]の[[ササラ電車]]をヒントにした除雪車両を開発し真冬は問題なかったものの春先になると[[路面凍結|アイスバーン]]化した路面の影響でスリップする等の問題点が生じ、第一次世界大戦時のドイツ軍によるトンネル前後の鉄道路線に覆いを被せて隠密性を持たせた列車砲輸送のアイデアから着想を得てシェルターで覆う形式とした<ref>{{Cite journal |和書 | author=日本地下鉄史研究会 | title =ヒューマン・ストーリー 地下鉄の発展につくした人びとNo.4 大刀豊~19年間交通局長を務めた札幌市営地下鉄の父~ | journal = SUBWAY 日本地下鉄協会報 | issue = 209 | pages = 28-31 | publisher = 日本地下鉄協会 | date = 2016-05 | url = http://www.jametro.or.jp/upload/subway/NVlTfLGKvNBF.pdf | accessdate = 2020-02-22}}</ref>。シェルターには採光窓がついており、夏季には気温上昇の対策として駅部の窓を開けている<ref name=":0" />。
利点の大きいシェルターであるが、経年劣化をはじめ、積雪対策、テレビやラジオの[[電波障害|受信障害]]といった課題も抱えている。このうち、シェルター自体への[[積雪]]は、そのまま放置すると下方で交差している道や側道に落下する危険性があるため、深夜に手作業で[[雪下ろし]]を行っている。テレビの受信障害については、市交通局が設置した共聴アンテナにより対応している。
<gallery widths="200" heights="150">
SapporoNanbokusen.jpg|地上部分の高架シェルター(2004年1月)
Nanboku Line Ground Point.JPG|地下から地上に出る箇所(2012年5月)
Sapporo subway shelter.jpg|シェルター内部。転轍機も見える([[自衛隊前駅]]・2005年4月)
</gallery>
== 使用車両 ==
内容は2022年7月27日現在。
=== 現用車両 ===
* [[札幌市交通局5000形電車|5000形]]:20編成120両。6両編成で、片側4扉。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
Odori Station Sapporo01s3s3870.jpg|5000形
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[札幌市交通局2000形電車|2000形]]:[[1999年]][[6月27日]]限りで全車運用終了。最大時は20編成160両が在籍していた。8両編成(2車体[[連接台車|連接]])で、片側2扉。
* [[札幌市交通局3000形電車|3000形]]:[[2012年]][[3月25日]]限りで全車運用終了。最大時は5編成40両が在籍していた。2000形と同様に8両編成(2車体連接)で、片側2扉。
<gallery widths="180" style="font-size:90%">
ファイル:Sapporo10011002.JPG|1000形・2000形
ファイル:ST SN3104.jpg|3000形
</gallery>
== 車両基地 ==
; 南車両基地
: [[自衛隊前駅]]の南南東で本線に近接しており、地上(屋内)にある。5000形の全20編成120両が所属している。
== 利用状況 ==
当路線の[[乗車人員]]は以下の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!年度
!乗車人員(人/日)
!出典
|-
|2003
|227,661
|<ref name="databook-2016">{{PDFlink|[http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4.pdf 「札幌の都市交通データ」4. 地下鉄]}} - 札幌市、2016年10月11日閲覧</ref>
|-
|2004
|228,740
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2005
|236,345
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2006
|237,351
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2007
|235,797
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2008
|233,687
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2009
|226,208
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2010
|224,503
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2011
|219,161
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2012
|223,780
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2013
|227,909
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2014
|227,141
|<ref name="databook-2016" />
|-
|2015
|227,690
|<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/datebook2020zennhann.pdf |title=札幌の都市交通データブック2020 |accessdate=2022-2-14}}</ref>
|-
|2016
|233,749
|<ref name=":2" />
|-
|2017
|236,548
|<ref name=":2" />
|-
|2018
|236,580
|<ref name=":2" />
|-
|2019
|230,692
|<ref name=":2" />
|}
== 収支 ==
当路線の収支は以下の通り。収入には営業外収益、支出には人件費、経費、減価償却費、営業外費用を含む。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!年度!!収入!!支出!!損益!!出典
|-
|2014
|145億3400万円
|108億3700万円
|36億9700万円
|<ref>[http://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/kessan/kessan-kousoku.html 平成26年度決算の概要(高速電車)] - 札幌市交通局、2016年10月11日閲覧</ref>
|-
|2015
|
|
|
|
|-
|2016
|
|
|
|
|-
|2017
|
|
|
|
|-
|2018
|
|
|
|
|-
|2019
|
|
|
|
|-
|2020
|116億6100万円
|101億8600万円
|14億7500万円
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/kessan/kessan-kousoku.html |title=令和2年度決算の概要(高速電車) |accessdate=2022-2-14}}</ref>
|}
== 運行形態 ==
ほとんどが全線通しで運転されているが、南車両基地への出入庫のため、一部の列車が麻生駅 - 自衛隊前駅で運転される(平日の朝8時台に1本、9時台に4本)。以前は自衛隊前発の麻生行が存在したが、現在では麻生発の自衛隊前行のみが設定されている。ただし、非常時および[[臨時列車]]では自衛隊前発の麻生行きが運行される場合がある。南車両基地からの出庫時は、南車両基地→自衛隊前駅(折り返し)→真駒内駅と回送され営業運転に就く。入庫の場合でも真駒内駅まで営業運転ののち自衛隊前駅まで回送されるものも存在する。
日中は 7分間隔、朝ラッシュ時は 4分間隔、夕ラッシュ時は5 - 6分間隔で運転される。
毎年夏に開催されている[[豊平川]]花火大会開催日には、南北線は見物客で非常に混雑するため、夕方から夜にかけて、4 - 5分間隔の特別ダイヤでの運行となる。
== 女性と子どもの安心車両 ==
[[2008年]][[12月15日]]始発より導入。札幌市営地下鉄では「[[女性専用車両|女性専用車]]」と呼ばず、「女性と子どもの安心車両」という名称である。乗車できるのは「女性」「小学校6年生以下の男児」「身障者および身障者の介護人の男性」となっているがあくまでも任意であり、強制力はない。
対象時間は、平日ダイヤの始発から9時までの全区間となっており、9時をもって一斉解除される。該当する車両は、真駒内側の先頭車1号車である。 麻生行は最後尾(乗車位置番号は21 - 24番に該当)、真駒内行は先頭(乗車位置番号は1 - 4番に該当)になる。
かつて運行されていた3000形の乗車位置番号は、麻生行きは緑の15, 16番、真駒内行は緑の1, 2番に該当していた。
== 駅一覧 ==
* 全駅が[[北海道]][[札幌市]]内に所在。また当路線は札幌市営地下鉄の路線としては唯一、地上区間を有する。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px green"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px green"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px green"|接続路線
!style="width:1em;line-height:1.1em; border-bottom:solid 3px green"|{{縦書き|地上/地下}}
!style="border-bottom:solid 3px green"|所在地
|-
!N01
|[[麻生駅]]
|style="text-align:center"| -
|style="text-align:right"|0.0
|[[北海道旅客鉄道]]:{{color|#00a54f|■}}[[札沼線]](学園都市線) …[[新琴似駅]] (G05)
|rowspan="12" style="text-align:center; background-color:#ccc;width:1em"|{{縦書き|地下区間}}
|rowspan="5"|[[北区 (札幌市)|北区]]
|-
!N02
|[[北34条駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|1.0
|
|-
!N03
|[[北24条駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|2.2
|
|-
!N04
|[[北18条駅]]
|style="text-align:right"|0.9
|style="text-align:right"|3.1
|
|-
!N05
|[[北12条駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|3.9
|
|-
!N06
|[[さっぽろ駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|4.9
|[[札幌市営地下鉄]]:[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px|■]][[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] (H07)<br />北海道旅客鉄道:{{color|#ed1c23|■}}{{color|#f7931d|■}}[[函館本線]]・{{color|#0072bc|■}}[[千歳線]]・{{color|#00a54f|■}}札沼線(学園都市線)…[[札幌駅]] (01)
|rowspan="5"|[[中央区 (札幌市)|中央区]]
|-
!N07
|[[大通駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|5.5
|札幌市営地下鉄:[[File:Subway_SapporoTozai.svg|15px|■]][[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] (T09)、[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px|■]]東豊線 (H08)<br />[[札幌市電]]:一条線 …[[西4丁目停留場]]{{refnest|[[大通駅]]・[[すすきの駅]]における札幌市電との乗継割引は、[[2015年]][[12月20日]](札幌市電のループ化開業)以降においては、札幌市電の[[西4丁目停留場]]・[[狸小路停留場]]・[[すすきの駅|すすきの停留場]]のいずれの停留場と乗り継ぐ場合にも適用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/st/shiden/shiden_loop.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151219164413/http://www.city.sapporo.jp/st/shiden/shiden_loop.html|archivedate=2015年12月19日|title=市電のループ化開業に関するお知らせ|publisher=札幌市|accessdate=2015-12-21|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。|group=注|name=transfer-20151220}}
|-
!N08
|[[すすきの駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|6.1
|札幌市電:山鼻線 …[[すすきの駅|すすきの停留場]]<ref group="注" name="transfer-20151220" />
|-
!N09
|[[中島公園駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|6.8
|札幌市電:山鼻線 …[[山鼻9条停留場]]
|-
!N10
|[[幌平橋駅]]
|style="text-align:right"|1.0
|style="text-align:right"|7.8
|札幌市電:山鼻線 …[[静修学園前停留場]]
|-
!N11
|[[中の島駅]]
|style="text-align:right"|0.5
|style="text-align:right"|8.3
|
|rowspan="3"|[[豊平区]]
|-
!N12
|[[平岸駅 (札幌市)|平岸駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|9.0
|
|-
!N13
|[[南平岸駅]]
|style="text-align:right"|1.1
|style="text-align:right"|10.1
|
|rowspan="4" style="text-align:center;background:#fff;color:#000;width:1em"|{{縦書き|地上区間}}
|-
!N14
|[[澄川駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|11.3
|
|rowspan="3"|[[南区 (札幌市)|南区]]
|-
!N15
|[[自衛隊前駅]]
|style="text-align:right"|1.3
|style="text-align:right"|12.6
|
|-
!N16
|[[真駒内駅]]
|style="text-align:right"|1.7
|style="text-align:right"|14.3
|
|}
※[[距離標]]上の0キロ地点は、北24条駅にある。
=== 過去の接続路線 ===
* 北24条駅:[[札幌市電]]鉄北線 - 1974年廃止
** 鉄北線はもともと札幌駅前停留場 - [[新琴似駅|新琴似駅前停留場]]間で運行されていた路線で、南北線の北24条駅 - 真駒内駅間が開業した際、並行する札幌駅前停留場 - 北24条停留場間のみが廃止された。南北線のうち、残る北24条駅以北の部分に並行する部分が開業したのは1978年であり、その間北24条 - 麻生(新琴似)間の鉄道路線は空白となっていた。
* 大通駅:札幌市電西4丁目線(三越前停留場) - 1973年廃止
* すすきの駅:札幌市電西4丁目線 - 1973年廃止
== 東豊線との乗り換えについて ==
当初、大通駅とさっぽろ駅における南北線と東豊線の乗り換えは、いずれも改札内乗り換えの方法を採用していたが、2017年(平成29年)9月1日からさっぽろ駅での乗り換え方法が改札外乗り換えに変更された。これに伴い、両者の乗り換えは最短経路の場合を除いて不可能となった(乗車区間が重複することから、折り返しとなる駅から別途料金が発生することになる)。具体的には、南北線(麻生方面)と東豊線(栄町方面)はさっぽろ駅、南北線(真駒内方面)と東豊線(福住方面)は大通駅でしか乗り換えができない<ref name="passageway" />。なお、一日乗車券や全線定期券を利用の場合は、この限りではない。
== 可動式ホーム柵 ==
札幌市営地下鉄では、乗客の列車との接触・線路への転落を防ぐとともに、将来の[[ワンマン運転]]に対応させるため、東京・大阪・横浜・福岡などの地下鉄で既に採用されている[[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]](ホームドア)を各線に設置することを決定した。
南北線では2012年7月10日の[[麻生駅]]での稼働開始以降、麻生側から順に各駅で順次設置工事が行われ、設置が完了した駅から順次稼働させていった。そして2013年3月2日の[[真駒内駅]]での稼働開始を以って南北線全駅への設置が完了し、あわせて4月1日始発からワンマン運転が開始された。
開扉時はチャイムが、閉扉時にはアラームが鳴るが、その時にセンサーが障害物を感知した際には警告ブザーが鳴ると共にランプが点滅する。ホーム柵は東西線のものと同じ[[三菱電機]]製で、同社製エレベーターの『気配りアナウンス』用チャイム、開閉報知アラーム(強制戸閉、開延長終了予告、戸開中センサー感知)、警告用ブザー(満員、戸開前センサー長時間感知)を使用している。
== 備考 ==
[[File:Sapporo Nanboku platform.jpg|230px|thumb|2000・3000形用の緑色の乗車位置表示と5000形用の青色の乗車位置表示。2012年3月を以って5000形に統一されたため、同年12月に南北線のラインカラーである緑色のものを5000形のドア位置に移設し、青色のものは撤去された。ただし天井部にある乗車位置は、5000形用のドア位置に緑色のステッカーが貼り付けられ、旧型車両用のものが撤去された。]]
[[File:Sapporo Nanboku platform green only.jpg|230px|thumb|青色の乗車口撤去後。下と足元の標識も撤去された。]]
* 公式文書での呼び名は'''札幌市高速電車南北線'''である。現況は大半が地下線であるが、当初の計画では、中島公園以南および北12条<!--(北24条説も)-->以北を高架で建設する予定だったという。
*開業当初、南北線の読みは「なん'''ぽ'''くせん」が主流であった<ref name=":1">{{Cite news|title=たうんータウン 地下鉄南北線 ローマ字標識問題にケリ Nanpokuはダメ Nanbokuに統一しました|date=1982-09-11|newspaper=北海道新聞}}</ref>。駅の案内看板などにもローマ字は「Nanpoku」と表記された。しかし1976年6月に東西線が開業する際、国語辞典などを見ても「なん'''ぼ'''く」が正しく、直すべきではないかという見解が出され、以降の案内看板はローマ字が「Nanboku」表記となった。以降駅の案内看板にはしばらく両者が混在していたが、1982年7月末にローマ字が「Nanboku」に統一された<ref name=":1" /><ref group="注">現在、交通資料館の南北線営業第一号車看板のローマ字に「nan-poku」表記が残っている。</ref>。
* 1971年の開業以降、[[真駒内駅]]周辺の人口増加や同駅以南の住宅地化が進行しており、この地域の住民の中には[[自衛隊前駅]] - 真駒内駅間の新駅建設や、石山地区以南への路線延伸を望む声がある。実際、札幌市も計画当初は[[藤野 (札幌市)|藤野]]地区までの建設を計画し、定山渓鉄道線廃止時に該当区間の路線跡を買収していた。しかし札幌市交通局が巨額の累積赤字を抱えていることに加え、用地も既に一部が他の用途に転用されており、実現の見通しは全く立っていない。また、麻生駅から北に茨戸あるいは新札幌団地(現・花川南付近)までの延伸も検討されたが、こちらについても実現の見通しは立っていない。
* ドア数の異なる2000形・3000形(以上はすでに営業運転終了)と5000形では乗車位置が異なるため、各駅のホームには2000形・3000形用の「緑色の乗車位置」と5000形用の「青色の乗車位置」が設けられ、3000形が到着する際は「緑色の乗車位置」への整列を促す放送があった。5000形の方が少なかった1995年から1999年までの間は「青色の乗車位置」の放送もあった。2012年3月を以って運行車両が、5000形に統一されたため、同年12月に南北線のラインカラーである緑色の乗車位置表示を5000形のドア位置に移設し、青色のものは撤去された(ただし天井部にある乗車位置は、5000形用のドア位置に緑色のステッカーが貼り付けられ、旧型車両用のものが撤去された)。電光掲示板での乗車位置案内も廃止された。
* [[ホームドア|可動式ホーム柵]]が設置されたことにより、電車がホームに接近する際と、発車する際の案内放送も変更された。
** 電車接近時:「まもなく、○番ホームに○○行が到着します。白線より下がってお待ちください。」→「まもなく、○番ホームに○○行が到着します。'''ご注意ください'''」
** 発車時:「○番ホームから、○○行が発車します。ご注意ください。(♪ゲー)」→「○番ホームから、○○行が発車します。ご注意ください。」'''(♪ゲーというブザー音が廃止)'''
* [[さっぽろ駅]]での他路線への乗り換え階段は、[[北海道旅客鉄道|JR]][[札幌駅]]方面が黄色({{Color|yellow|■}})、[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]方面が青色({{Color|blue|■}})に塗り分けられている。またその旨を[[車内放送]]でも案内している。
* [[麻生駅]](あさぶえき)所在地の「[[麻生町 (札幌市)|麻生町]]」の読みは、札幌市役所の告示<ref>[http://www.city.sapporo.jp/shimin/koseki/jukyo-hyoji/genchomei/genchomei-kita.html 札幌市市民まちづくり局戸籍住民課]参照。</ref>によると『あさぶちょう』である(当然、駅名もこれに合わせている)が、麻生が栄え始め移住してきた市民の間で「あざぶ」と呼ばれるようになり、病院などの各種施設・店舗でも『あざぶ』を採用している例が多数あり、実態としてはどちらの読みも併用されている<ref group="注">有名な類似地名として「東京都港区[[麻布]]」(あざぶ)があり、混同に拍車をかけているとみられる。なお、同じ道内の例として「[[樺戸郡]][[月形町]]麻生」の『あざぶ』がある。</ref>。
* [[2012年]]夏季には[[北海道電力]][[泊発電所|泊原子力発電所]]の運転停止による電力需要逼迫による[[節電]]対策として、地上区間では日中の車内照明消灯が行われた。
* 車内放送アナウンス、駅の接近放送は元[[札幌テレビ放送|stv]]アナウンサーの[[坂本咲子]]である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[札幌市営地下鉄]]
* [[札幌市営地下鉄東西線]]
* [[札幌市営地下鉄東豊線]]
{{デフォルトソート:さつほろしえいちかてつなんほくせん}}
[[Category:日本の地下鉄路線|なんほく]]
[[Category:札幌市営地下鉄|なんほくせん]]
[[Category:1972年札幌オリンピック]]
[[Category:案内軌条式鉄道路線|なんほくせん]]
|
2003-07-01T07:47:16Z
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2023-12-23T09:51:19Z
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10,681 |
ヴェーダ
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ヴェーダ(梵: वेद、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」は「知識」の意。
バラモン教とヒンドゥー教の聖典である。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。
「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定しており、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
インドの聖典はシュルティ(天啓)とスムリティ(聖伝)に分かれる。ヴェーダはシュルティに属する。
広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。
更に、各々4部門が祭官毎に『リグ・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』などに分かれる。都合4X4の16種類となるが、実際には各ヴェーダは更に多くの部分に分かれ、それぞれに名称がついている。ヴェーダは一大叢書ともいうべきものである。現存ヴェーダ著作だけでもかなりの多さになるが、古代に失われた多くの学派の文献をあわせると更に膨大なものになると考えられている。
狭義では、以上のうちサンヒター(本集)の事をヴェーダと言い、以下の4種類がある。
付随的・応用的な知識をまとめたものをいう。
ヴェーダーンガはヴェーダの補助学であり、以下の6種類がある。
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ヴェーダとは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」は「知識」の意。 バラモン教とヒンドゥー教の聖典である。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。 「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定しており、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
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{{Otheruses|インドで編纂された宗教文書|その他|ベーダ}}
{{複数の問題
|出典の明記=2016年10月21日 (金) 13:26 (UTC)
|脚注の不足=2016年10月21日 (金) 13:26 (UTC)
}}
{{Hinduism}}
'''ヴェーダ'''({{lang-sa-short|वेद}}、Veda)とは、[[紀元前1000年]]頃から[[紀元前500年]]頃にかけて[[インド]]で編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」は「知識」の意。
[[バラモン教]]と[[ヒンドゥー教]]の聖典である{{refnest|name="ブリタニカ"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80-129443#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「ベーダ」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014年、Britannica Japan。}}。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。
「ヴェーダ詠唱の伝統」は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、[[無形文化遺産]]に登録されることが事実上確定しており、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。
== シュルティとスムリティ ==
インドの聖典はシュルティ(天啓)とスムリティ(聖伝)に分かれる。ヴェーダはシュルティに属する{{refnest|name="ニッポニカ"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E8%81%96%E5%85%B8%29-1591075#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「ベーダ」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。
* {{仮リンク|シュルティ|en|Śruti}}(天啓)
** 古代の[[リシ]](聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典)と呼ばれる。ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。
** ヴェーダ、ことにサンヒターの言語は、後の時代の[[サンスクリット]]とは異なる点が多くあり、特に[[ヴェーダ語]]と呼ばれる。[[アヴェスター語]]とも極めて近く、言語学的にも重要である(例えばホートリ祭官(Hotṛ/Hotar)はアヴェスター語のザオタル(Zaotar(司祭官))に、ヴェーダで祭祀そのものを示すyajñaはアヴェスター語のYasna(崇拝・祈祷)に対応する。ヴェーダ語の冒頭に置かれる定型句yajāmaheはアヴェスター語のyazamaide(われらは崇拝す)である)。
* {{仮リンク|スムリティ|en|Smriti}}(聖伝)
** 聖典には、他にリシ達によって作られたスムリティ(古伝書)があり、ヴェーダとは区別される。スムリティには、『[[マハーバーラタ]]』・『[[ラーマーヤナ]]』・『[[マヌ法典]]』などがある。
== ヴェーダの分類 ==
広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。
; [[サンヒター]](本集)
: 中心的な部分で、[[マントラ]](讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。
; [[ブラーフマナ]](祭儀書、梵書)
: 紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。
; [[アーラニヤカ]](森林書)
: 人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。
; [[ウパニシャッド]](奥義書)
: 哲学的な部分。[[インド哲学]]の源流でもある。[[紀元前500年]]頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。'''[[ヴェーダーンタ]]'''とも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。[[ヴェーダ語]]よりも古典サンスクリット語に近い。
更に、各々4部門が祭官毎に『リグ・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』などに分かれる。都合4X4の16種類となるが、実際には各ヴェーダは更に多くの部分に分かれ、それぞれに名称がついている。ヴェーダは一大叢書ともいうべきものである<ref group="注釈">参考文献に挙げてある辻直四郎『インド文明の曙』巻末には、横軸に各ヴェーダ毎、縦軸に分野毎に一覧表とし、現存するヴェーダ著作の全てを表に並べた資料が添付されている。ヴェーダ文献全体を一目で看取できるようになっている。</ref>。現存ヴェーダ著作だけでもかなりの多さになるが、古代に失われた多くの学派の文献をあわせると更に膨大なものになると考えられている。
== サンヒター ==
狭義では、以上のうちサンヒター(本集)の事をヴェーダと言い{{refnest|name="ブリタニカ"}}、以下の4種類がある。
; 『[[リグ・ヴェーダ]]』
: ホートリ祭官に所属。神々への韻文讃歌(リチ)集<ref name="インド神話伝説辞典p368">『[[#インド神話伝説辞典|インド神話伝説辞典]]』, p. 368.(インドの主要な古典)</ref>。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。全10巻。10巻は最新層のものだと考えられ、『アタルヴァ・ヴェーダ』の言語につながる。
; 『[[サーマ・ヴェーダ]]』
: ウドガートリ祭官に所属。『リグ・ヴェーダ』に材を取る詠歌(サーマン)集<ref name="インド神話伝説辞典p368" />。インド古典音楽の源流で、[[声明]]にも影響を及ぼしている。
; 『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』
: アドヴァリュ祭官に所属<ref name="インド神話伝説辞典p368" />。散文祭詞(ヤジュス)集。神々への呼びかけなど。『[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]』、『[[白ヤジュル・ヴェーダ]]』の2種類がある。
; 『[[アタルヴァ・ヴェーダ]]』
: ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい<ref name="インド神話伝説辞典p368" />。後になってヴェーダとして加えられた。
==一覧表==
{| class="wikitable" style="width:800px;"
|+
! colspan="2"|[[サンヒター]] !! [[ブラーフマナ]] !! [[アーラニヤカ]] !! [[ウパニシャッド]]
|-
! colspan="2"|[[リグ・ヴェーダ]]
| [[アイタレーヤ・ブラーフマナ|アイタレーヤ]]<br />[[カウシータキ・ブラーフマナ|カウシータキ]]<br/>
| [[アイタレーヤ・アーラニヤカ|アイタレーヤ]]<br />[[カウシータキ・アーラニヤカ|カウシータキ]]<br/>[[シャーンカーヤナ・アーラニヤカ|シャーンカーヤナ]]
| [[アイタレーヤ・ウパニシャッド|アイタレーヤ]]<br />[[カウシータキ・ウパニシャッド|カウシータキ]]<br/>
|-
! colspan="2"|[[サーマ・ヴェーダ]]
| [[パンチャヴィンシャ・ブラーフマナ|パンチャヴィンシャ]]<br />[[ジャイミニーヤ・ブラーフマナ|ジャイミニーヤ]]
| -<br />-
| [[チャーンドーギヤ・ウパニシャッド|チャーンドーギヤ]]<br />[[ケーナ・ウパニシャッド|ケーナ]]
|-
! rowspan="2"|[[ヤジュル・ヴェーダ]]
! [[黒ヤジュル・ヴェーダ|黒ヤジュル]]
|style="background-color:#ddd;"| [[タイッティリーヤ・サンヒター|タイッティリーヤ]]<br />[[カタ・サンヒター|カタ]]<br />-<br />[[マイトラーヤニー・サンヒター|マイトラーヤニー]]
| [[タイッティリーヤ・アーラニヤカ|タイッティリーヤ]]<br />[[カタ・アーラニヤカ|カタ]]<br />-<br />[[マイトラーヤニー・アーラニヤカ|マイトラーヤニー]]
| [[タイッティリーヤ・ウパニシャッド|タイッティリーヤ]]<br />[[カタ・ウパニシャッド|カタ]]<br />[[シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド|シュヴェーターシュヴァタラ]]<!--<br />[[マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド|マハーナーラーヤナ]]--><br />[[マイトリー・ウパニシャッド|マイトリー(マイトラーヤニーヤ)]]
|-
! [[白ヤジュル・ヴェーダ|白ヤジュル]]
| [[シャタパタ・ブラーフマナ|シャタパタ]]<br />-
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== ヴェーダ時代以降の文献 ==
=== ウパヴェーダ ===
付随的・応用的な知識をまとめたものをいう。
* 『[[アーユル・ヴェーダ]]』 - 『アタルヴァ・ヴェーダ』に付随する医術
* 『[[ガンダルヴァ・ヴェーダ]]』 - 『サーマ・ヴェーダ』に付随する音楽・舞踊
* 『[[スターパティア・ヴェーダ]]』 - 『ヤジュル・ヴェーダ』に付随する建築術
* 『[[ダヌル・ヴェーダ]]』 - 弓術
=== ヴェーダーンガ ===
{{main|ヴェーダーンガ}}
ヴェーダーンガはヴェーダの補助学であり、以下の6種類がある。
* [[シクシャー]]([[音声学]])
* {{仮リンク|カルパ (ヴェーダーンガ)|label=カルパ|en|Kalpa (Vedanga)}}([[儀式]])
* [[ヴィヤーカラナ]]([[文法]])
* [[ニルクタ]]([[語源]])
* {{仮リンク|チャンダス|en|Sanskrit prosody}}([[韻律 (韻文)]])
* {{仮リンク|ジヨーティシャ|en|Vedanga Jyotisha}}([[インド占星術]]、{{仮リンク|インド天文学|en|Indian astronomy}})
=== ウパーンガ ===
{{seealso|六派哲学}}
* [[プラーナ文献|プラーナ]] - 系図や世界の創造・破壊に関する伝承
* [[ニヤーヤ学派#ニヤーヤ・スートラの概観|ニヤーヤ]] - [[論理学]]
* ミーマーンサー - 祭式
* [[ダルマ・シャーストラ]] - [[法律]]
== 日本語訳 ==
=== 抄訳 ===
* {{Cite book|和書|author=辻直四郎|authorlink=辻直四郎 |year=1970 |title=リグ・ヴェーダ讃歌 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |isbn=4003206010}}<!--2013年11月18日 (月) 10:03 (UTC)-->
* {{Cite book|和書|author=辻直四郎 |year=1979 |title=アタルヴァ・ヴェーダ讃歌 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |isbn=4003206517}}<!--2013年11月18日 (月) 10:03 (UTC)-->
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
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* {{Cite book |和書 |editor=菅沼晃|editor-link=菅沼晃 |title=インド神話伝説辞典 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1985-03 |isbn=978-4-490-10191-1 |ref=インド神話伝説辞典 }}
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* {{Cite book |和書 |author=辻直四郎 |title=インド文明の曙 - ヴェーダとウパニシャッド |publisher=岩波書店 |series=[[岩波新書]] 青-619 |date=1967-01 |isbn=978-4-00-413012-3 |ref= }}<!--2012年4月18日 (水) 07:00 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=前田專學|authorlink=前田專學 |title=インド哲学へのいざない - ヴェーダとウパニシャッド |publisher=[[NHK出版]] |series=NHKライブラリー |date=2000-12 |isbn=978-4-14-084126-6 |ref= }}<!-- 2003年7月1日 (火) 08:04 (UTC)-->
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。編集時に参考にした際は参考文献の節に移動して下さい。
書籍の宣伝はおやめ下さい。-->
* {{Cite book |和書 |author1=上村勝彦 |author2=宮元啓一|authorlink2=宮元啓一|year=1994 |title=インドの夢・インドの愛 - サンスクリット・アンソロジー|chapter=神々の原風景 - ヴェーダ |publisher=[[春秋社]] |isbn=4393132696}}<!--2016年2月28日 (日) 04:17 (UTC)-->
* [[佐保田鶴治]] 『インド正統派哲学思想の始源』 創文社、1963年。ISBN 978-4-423-15008-5。<!--2008年6月18日 (水) 09:09 (UTC)-->
* [[服部正明]] 『古代インドの神秘思想 - 初期ウパニシャッドの世界』 [[講談社]]〈[[講談社学術文庫]] 1731〉、2005年10月。ISBN 978-4-06-159731-0。<!--2004年2月26日 (木) 00:30 (UTC)-->
* 松濤誠達 『ウパニシャッドの哲人』 講談社〈人類の知的遺産 2〉、1980年1月。ISBN 978-4-06-145302-9。<!--2004年2月26日 (木) 00:30 (UTC)-->
== 関連項目 ==
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* [[アーユル・ヴェーダ]] - 古代インドの医学書
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== 外部リンク ==
* [http://www.sacred-texts.com/hin/ Sacred-Texts Hinduism]<!--2003年7月1日 (火) 08:23 (UTC)--> - 4つのヴェーダ(本集のみ?)の英語訳の全文が置かれている。ウパニシャッドも一部置かれている。
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航空機
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航空機(こうくうき、英: aircraft)は、大気中を飛行する機械の総称である。
「軽航空機」(気球、飛行船等々)と「重航空機」(グライダー、飛行機等々)に大別される。軽航空機とは、空気よりも軽い気体が静浮力を持っていることを利用するものであり、重航空機とは翼に働く空気の動的揚力を利用するものである。飛行機、回転翼航空機、滑空機、飛行船などが含まれる。
航空機は、船舶と同じように国籍が登録され、常に機体記号を見やすい位置(胴体、主翼など)に表示するよう義務付けられている。これにより、その航空機の所属する国・地域や、管轄権・外交的保護権がどこにあるのかが識別されている。
航空機には法令上、さまざまな目的でさまざまな定義が与えられる。以下では、航空行政の観点による代表的な定義を例示する。
さまざまな分類法がある。 一般的に航空機は、平均の密度が空気より軽い軽航空機と、空気より重い重航空機の2つに大別される。他にも、航空機の運用者や運用目的などにもとづいて「民間機」/「軍用機」に分類する方法がある。また人(操縦者を含めた人員)を乗せるか否かで「有人機」/「無人機(無人航空機)」に分類される。またエンジンの種類によって「タービン(機)」/「ピストン(機)」(あるいは「レシプロ(機)」)に分ける(法的)分類法もある(この場合、非タービン・非ピストン電源電動(機)は何れにも属さない事になる)。
体積の大きな「気のう(風船のようなもの)」に、水素やヘリウム、加熱した空気といった、大気より軽い気体を充填することで、機体の平均比重を空気より軽くし、浮力(静的揚力)により飛行する航空機のこと。LTA(Lighter-Than-Air)機 あるいはエアロスタット(aerostat)とも呼ばれる。
翼周りの大気の流れによって生じる揚力(動的揚力)によって浮き、飛行する航空機のこと。翼のタイプにより固定翼機と回転翼機に分けられる。HTA(Heavier-Than-Air)機あるいはエアロダイン(aerodyne)とも。
飛行機は主に離着陸方法により分類した、分類の一例。
航空交通管制では後方乱気流のための飛行間隔を決定する際、最大離陸重量で4段階に区別している。
この分類はミディアムに該当する機体が多いため、航空管制の運用効率化を目指した「協調的意思決定(ACDM)」では6段階に細分化される予定。
人類は古くから空を飛ぶことにあこがれを持っており、さまざまな飛行機械の構想が立てられたものの、それが実現するまでには長い時間が必要だった。実際に人を乗せてはじめて空を飛んだ機械はフランスのモンゴルフィエ兄弟が発明した熱気球で、1783年11月21日に有人飛行に成功した。ほぼ同時にジャック・シャルルによってガス気球も発明され、モンゴルフィエの初飛行から10日後の12月1日に有人飛行を成功させている。気球の成功は一時ブームを巻き起こし、フランス革命後には一時フランス軍によって軍事目的にも使用されたものの、空中を自在に動くというわけにはいかなかったためすぐに利用されなくなった。一方、19世紀に入るとジョージ・ケイリーが航空学の研究を行い、1890年代にはオットー・リリエンタールがグライダーの実験を繰り返すなど、飛行研究は徐々に進歩していった。しかしこの頃の動力飛行機は研究段階にとどまっており、気球やグライダーなどの無動力航空機が主流となっていた。
1903年にはアメリカ合衆国のライト兄弟が動力によって飛行する、いわゆる飛行機を発明した。飛行機は急速に発達を遂げ、1914年にはじまった第一次世界大戦では激しい空中戦が行われた。第一次世界大戦後には余剰となった飛行機によって民間による商業飛行が盛んとなり、1919年には飛行船と飛行機による旅客定期運航がはじまっている。また飛行機の性能も長足の進歩を遂げ、1927年にはチャールズ・リンドバーグが大西洋横断単独無着陸飛行を成功させた。この時期は一般の飛行機だけでなくほかの航空機も商業化が目指されており、1930年代には長距離路線で飛行艇が多く採用され、また飛行船も重要な空運手段のひとつだった。しかし飛行船は1937年のヒンデンブルク号爆発事故以降使用されなくなっていき、また飛行艇も1940年代に入ると飛行機に取って代わられていった。1936年には、ドイツで初の実用的なヘリコプターであるフォッケウルフFw 61が開発されている。
第二次世界大戦後、1950年代後半に入るとボーイング707などの就航で旅客機でもジェット機が主流となり、さらに1969年には世界初のワイドボディ機であるボーイング747が就航して、旅客用飛行機の大型化と高速化が進んだ。さらに1968年にはソヴィエト連邦のTu-144、1969年にはイギリスとフランスによるコンコルドが超音速旅客機として開発され、高速化は頂点に達したものの、Tu-144はまもなく使用されなくなり、コンコルドも騒音や燃費の悪さなどさまざまな問題点から1976年には製造が中止され、以後超音速旅客機は製造されていない。2003年にはコンコルドが運航を終了して、超音速旅客機の運航そのものがなくなった。高速化が一段落した一方で、大型化や燃費の改善による効率化は一層進むようになった。
航空機によるフライトは世界で1日あたりおよそ10万回行われており、この数字は旅客航空、貨物航空、軍事航空を含んだものであり、そのうち9万回は旅客を乗せる飛行である。つまり統計的に見れば旅客運送という用途、民間航空の用途が圧倒的に多い。
飛行機は自動車、列車、船舶とともに現代社会において主力となる交通機関のひとつであり、この4種を組み合わせた交通体系が構築されている。700km以上の旅客輸送においては、主要交通機関の中で最も高速な飛行機の優位性が確立している。このため国家間や遠距離の大都市間輸送に、主に大型機が用いられるが、一方でその速度から小都市間や離島に就航する路線も多く、この場合小型機が多く用いられる。小都市間では小型のリージョナルジェットが、離島などではさらに小型のプロペラ機などが利用され、土地が狭小で空港が建設できない一部離島では、ヘリコプターによる旅客定期路線も設けられている。貨物輸送の場合、飛行機は運航コストが高いため、高価かつ迅速な輸送が求められる貨物に使用されることが多い。
定期路線輸送以外の民間航空は、一般航空(ゼネラル・アビエーション)と総称される。非常に人口稀薄で広大な土地の広がるオーストラリア大陸の一部などでは、個人で小型飛行機を所有して自家用車のように利用することも多い。また海外の大企業や富裕層はその機動性から、個人の移動用などでビジネスジェットを所有していることが多く、その利用は急増している。
移動や輸送以外に、遊覧飛行に航空機を用いることも多い。こうした観光用のフライトには、小型機やヘリコプターが主に用いられる。飛行船による遊覧飛行も行われている国があるが、日本では2007年に日本飛行船によって飛行船遊覧飛行が開始されたものの、2010年に同社が倒産して運航を停止した。
農薬や肥料、種子などを農地に効率的に散布する農業機も世界各国で使用される。小型飛行機を使用するところが多いが、日本においてはヤマハ発動機が1987年に世界初の産業用無人ヘリコプターを開発し、日本の水田の約4割で使用されるなど広く普及している。広告用には飛行船が用いられることがあり、第二次世界大戦後には長らく飛行船の主要な用途となっていた。日本でも1968年に日本初の広告用飛行船としてキドカラー号が就航して以降、レインボー号などさまざまな広告用飛行船がかつては就航していた。
航空機を利用するスポーツはスカイスポーツと総称され、曲技飛行やエアレース、熱気球競技、グライダーによる滑空競技、スカイダイビングなどさまざまなスポーツが含まれる。グライダー競技はスカイスポーツの中では古くから存在し、1930年代にはさまざまな飛行法が開発されてさらに発展した。主にヨーロッパで盛んに行われる競技で、2年に1度世界選手権が開催されている。熱気球競技では、1973年より熱気球世界選手権が隔年で開催されるようになり、また日本でも国内レースが開催されている。曲芸飛行は各地の航空ショーなどでアトラクションとして開催されることが多いが、軍が自らの技量を示し広報に活用するために曲技飛行隊を所持することも多く、日本の航空自衛隊もブルーインパルスというアクロバット・チームを保有している。エアレースは1909年にフランスではじめて開催され、以後世界各地で行われている。こうしたスカイスポーツは1905年に設立された国際航空連盟が統括しており、本部はスイスのローザンヌに置かれている。
飛行機は主力兵器の一つであり、主要な三軍種の一つである空軍の中核をなしている。なお軍用機を保有しているのは空軍だけではなく、海軍や陸軍もそれぞれ所持している。軍用機は、戦闘機や爆撃機などの戦闘用の飛行機と、輸送機などの直接戦闘に用いない飛行機が存在する。
気象観測にも航空機は利用されており、民間航空機から当該地域の気象データを受け取り観測に役立てているほか、高層大気の観測のために観測装置を取り付けた気球であるラジオゾンデが各地で飛ばされている。
航空機に関する工学を航空工学と言う。近年では、何かと重なる領域の多い宇宙工学と並び、航空宇宙工学の一部門と見なされている。
航空機産業には多くの企業が存在しているものの、寡占化がかなり進んでいる。
特に大型の旅客飛行機製造はアメリカのボーイングとヨーロッパのエアバスの2大企業にほぼ集約されている。ただし飛行機の場合、各部分は世界各地で分散して生産されている。
小型の旅客飛行機製造についてはこの両社はほとんど進出しておらず、リージョナル・ジェットはブラジルのエンブラエルとカナダのボンバルディア・エアロスペースが2大企業として長年しのぎを削っている。さらに小型の飛行機に関しては、エンブラエル・ボンバルディアの両社の他、セスナやガルフストリーム・エアロスペースなどいくつかの会社が製造を行っている。
なお航空機にとって重要な機材であるエンジン(航空機エンジン)は、自動車産業とは異なり機体メーカー自身が製造する事は稀であり、そのメーカーは基本的に別メーカーとして存在し、こちらも世界規模で集約化が進んでいる。その市場占有率は、2021年のデータでプラット・アンド・ホイットニーがおよそ30%、GEが23.5%、サフラン社が12%、ハネウェル・インターナショナルが約10%という状況である。
航空機は認定を受けた部品のみを使用し基本的に受注生産であるため、小型機であっても引き渡しまでに時間がかかり高価である。このためメーカーが自社機を再整備した認定中古機を販売したり、中古機を専門とする業者が多数存在するなど中古市場が発達しており、事故機であっても機械的な寿命が残っている部品がある限り資産価値がある。ボーイングとエアバスの大手2社はそれぞれリユースを促進する組織を設立している(AFRA、PAMELA)。また部品単位での売買も盛んで、生産が終了した機体の補修部品やアップグレードパーツを開発・販売する業者も多い。
大型旅客機の売買は航空会社の財務に大きく影響するが、大型機は非常に高価で引き渡しまでに数年を要し需要に合わせた調整が難しいことから、メーカーと航空会社の間に入る航空機リース専門の会社が多数存在するなど金融機関との関係も大きい。契約には確約の他にも「追加購入を一時的に契約し財務や需要に合わせて確定」する方法や、「航空会社間で購入権を売買する」など独特のスタイルがある。完成に時間がかかることから、注文後に航空会社の経営が悪化し代金を支払えずメーカー側に留め置かれた機体が新古機として売却される例もある。航空機は機械的な寿命と法定耐用年数の差が大きく部品単位でも販売できるため、航空業界とは無関係の会社が節税のために航空機のリース業を営んでいるなど節税としての取引も多く大きな市場が形成されている。小型機やビジネスジェットはフラクショナル・オーナーシップにより個人向けの市場が活性化した。
なお、航空機は保守・保管にも多額の費用がかかり、資格を持った専門家が多数必要であるため、航空機を製造するメーカーと各部品を製造する多数の企業以外にも、整備や保管など運用の専門会社、パイロットや整備士を派遣する人材派遣会社、航空会社やリース会社に情報を提供する専門メディアなども含めて(つまり機体以外を扱う周辺業界も含めて)「航空産業」が形成されている。
航空機の運航による事故を航空事故という。
航空関係の法律、用語、習慣などには、船舶が由来となっているものも多い。例えば、下記のような例が挙げられる。
航空機と船舶を両方製造しているメーカーは川崎重工業(1918年から)、サード(2015年に参入開始)、ツネイシホールディングス(2015年に航空機メーカーを買収)などごく少数である。
陸上の滑走路に離着陸できる水陸両用機は基本的に航空機として扱われる。
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"text": "航空機を利用するスポーツはスカイスポーツと総称され、曲技飛行やエアレース、熱気球競技、グライダーによる滑空競技、スカイダイビングなどさまざまなスポーツが含まれる。グライダー競技はスカイスポーツの中では古くから存在し、1930年代にはさまざまな飛行法が開発されてさらに発展した。主にヨーロッパで盛んに行われる競技で、2年に1度世界選手権が開催されている。熱気球競技では、1973年より熱気球世界選手権が隔年で開催されるようになり、また日本でも国内レースが開催されている。曲芸飛行は各地の航空ショーなどでアトラクションとして開催されることが多いが、軍が自らの技量を示し広報に活用するために曲技飛行隊を所持することも多く、日本の航空自衛隊もブルーインパルスというアクロバット・チームを保有している。エアレースは1909年にフランスではじめて開催され、以後世界各地で行われている。こうしたスカイスポーツは1905年に設立された国際航空連盟が統括しており、本部はスイスのローザンヌに置かれている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "飛行機は主力兵器の一つであり、主要な三軍種の一つである空軍の中核をなしている。なお軍用機を保有しているのは空軍だけではなく、海軍や陸軍もそれぞれ所持している。軍用機は、戦闘機や爆撃機などの戦闘用の飛行機と、輸送機などの直接戦闘に用いない飛行機が存在する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "気象観測にも航空機は利用されており、民間航空機から当該地域の気象データを受け取り観測に役立てているほか、高層大気の観測のために観測装置を取り付けた気球であるラジオゾンデが各地で飛ばされている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "航空機に関する工学を航空工学と言う。近年では、何かと重なる領域の多い宇宙工学と並び、航空宇宙工学の一部門と見なされている。",
"title": "工学"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "航空機産業には多くの企業が存在しているものの、寡占化がかなり進んでいる。",
"title": "航空機産業"
},
{
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"tag": "p",
"text": "特に大型の旅客飛行機製造はアメリカのボーイングとヨーロッパのエアバスの2大企業にほぼ集約されている。ただし飛行機の場合、各部分は世界各地で分散して生産されている。",
"title": "航空機産業"
},
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"text": "小型の旅客飛行機製造についてはこの両社はほとんど進出しておらず、リージョナル・ジェットはブラジルのエンブラエルとカナダのボンバルディア・エアロスペースが2大企業として長年しのぎを削っている。さらに小型の飛行機に関しては、エンブラエル・ボンバルディアの両社の他、セスナやガルフストリーム・エアロスペースなどいくつかの会社が製造を行っている。",
"title": "航空機産業"
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{
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"tag": "p",
"text": "なお航空機にとって重要な機材であるエンジン(航空機エンジン)は、自動車産業とは異なり機体メーカー自身が製造する事は稀であり、そのメーカーは基本的に別メーカーとして存在し、こちらも世界規模で集約化が進んでいる。その市場占有率は、2021年のデータでプラット・アンド・ホイットニーがおよそ30%、GEが23.5%、サフラン社が12%、ハネウェル・インターナショナルが約10%という状況である。",
"title": "航空機産業"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "航空機は認定を受けた部品のみを使用し基本的に受注生産であるため、小型機であっても引き渡しまでに時間がかかり高価である。このためメーカーが自社機を再整備した認定中古機を販売したり、中古機を専門とする業者が多数存在するなど中古市場が発達しており、事故機であっても機械的な寿命が残っている部品がある限り資産価値がある。ボーイングとエアバスの大手2社はそれぞれリユースを促進する組織を設立している(AFRA、PAMELA)。また部品単位での売買も盛んで、生産が終了した機体の補修部品やアップグレードパーツを開発・販売する業者も多い。",
"title": "航空機産業"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "大型旅客機の売買は航空会社の財務に大きく影響するが、大型機は非常に高価で引き渡しまでに数年を要し需要に合わせた調整が難しいことから、メーカーと航空会社の間に入る航空機リース専門の会社が多数存在するなど金融機関との関係も大きい。契約には確約の他にも「追加購入を一時的に契約し財務や需要に合わせて確定」する方法や、「航空会社間で購入権を売買する」など独特のスタイルがある。完成に時間がかかることから、注文後に航空会社の経営が悪化し代金を支払えずメーカー側に留め置かれた機体が新古機として売却される例もある。航空機は機械的な寿命と法定耐用年数の差が大きく部品単位でも販売できるため、航空業界とは無関係の会社が節税のために航空機のリース業を営んでいるなど節税としての取引も多く大きな市場が形成されている。小型機やビジネスジェットはフラクショナル・オーナーシップにより個人向けの市場が活性化した。",
"title": "航空機産業"
},
{
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"text": "なお、航空機は保守・保管にも多額の費用がかかり、資格を持った専門家が多数必要であるため、航空機を製造するメーカーと各部品を製造する多数の企業以外にも、整備や保管など運用の専門会社、パイロットや整備士を派遣する人材派遣会社、航空会社やリース会社に情報を提供する専門メディアなども含めて(つまり機体以外を扱う周辺業界も含めて)「航空産業」が形成されている。",
"title": "航空機産業"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "航空機の運航による事故を航空事故という。",
"title": "事故と安全策"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "航空関係の法律、用語、習慣などには、船舶が由来となっているものも多い。例えば、下記のような例が挙げられる。",
"title": "航空用語と船舶用語の関係"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "航空機と船舶を両方製造しているメーカーは川崎重工業(1918年から)、サード(2015年に参入開始)、ツネイシホールディングス(2015年に航空機メーカーを買収)などごく少数である。",
"title": "航空用語と船舶用語の関係"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "陸上の滑走路に離着陸できる水陸両用機は基本的に航空機として扱われる。",
"title": "航空用語と船舶用語の関係"
}
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航空機は、大気中を飛行する機械の総称である。
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[[File:Ballooning trip Morocco.JPG|thumb|right|200px|航空機の中でも特に歴史が長い[[気球]]。[[軽航空機]]に分類される。巨大な袋の中の空気を熱して膨張させ比重を軽くさせ、ぶら下がっているバスケットも含めて全体で空気よりも軽くなり[[浮力]]で浮上する。現代では主に遊覧と競技用]]
[[File:Zeppellin NT amk.JPG|thumb|right|200px|[[飛行船]]。空気より軽いガスを入れて浮力で浮く。熱気球とは違なり、原動機を備えており進行方向を選べる。開発当初は旅客機としても使われていたが、現代では大きな機体とゆっくりとした飛行の特長を活かして、広告媒体、観測、遊覧飛行に活用される]]
[[File:Dg800.jpg|thumb|right|200px|[[グライダー]]。空気よりも重い重航空機に分類される。基本的にエンジンを持たず滑空して降下するが、[[上昇気流]]があれば旋回しつつ高度をかせぐこともできる。現代では趣味、競技用として利用される。]]
[[File:Cessna_172_2.jpg|thumb|right|200px|[[飛行機]]([[固定翼機]])。エンジンを動力にして自力での上昇が可能。趣味から業務用まで様々な用途に用いられている。]]
[[File:Baltic Airlines Mil Mi-8 Aladyshkin.jpg|thumb|right|200px|[[ヘリコプター]]。回転翼により上昇下降旋回だけでなく、空中に静止することも可能。]]
'''航空機'''(こうくうき、{{lang-en-short|aircraft}}<ref name="bri">[[ブリタニカ百科事典]]「航空機」</ref>)は、[[大気]]中を[[飛翔|飛行]]する[[機械]]の[[総称]]である<ref name="koujien">広辞苑 第五版 p.889「航空機」</ref>。
== 概要 ==
「[[軽航空機]]」([[気球]]、[[飛行船]]等々)と「[[重航空機]]」([[グライダー]]、[[飛行機]]等々)に大別される<ref name="bri" /><ref name="koujien" />。軽航空機とは、空気よりも軽い気体が静浮力を持っていることを利用するものであり、重航空機とは[[翼]]に働く空気の動的[[揚力]]を利用するものである<ref name="bri" />。[[飛行機]]、[[回転翼機|回転翼航空機]]、[[グライダー|滑空機]]、[[飛行船]]などが含まれる。
航空機は、[[船|船舶]]と同じように[[国籍]]が登録され、常に[[機体記号]]を見やすい位置(胴体、主翼など)に表示するよう義務付けられている<ref name="bri" />。これにより、その航空機の所属する国・地域や、[[管轄権]]・[[外交的保護権]]がどこにあるのかが識別されている<ref name="bri" />。
== 法令上の定義 ==
航空機には法令上、さまざまな目的でさまざまな定義が与えられる。以下では、航空行政の観点による代表的な定義を例示する。
; ICAOによる定義
: [[シカゴ条約]](国際民間航空条約)には航空機についての一般的な定義が置かれていないが、[[国際民間航空機関]](ICAO)の定める同条約附属書のいくつかにおいては、「大気中における支持力を、地球の表面に対する空気の反作用以外の空気の[[反作用]]から得ることができる一切の機器」<ref>財団法人[[航空振興財団]]の和訳より</ref> としている。なお、「地球の表面に対する空気の反作用以外の」との文言は[[1967年]][[11月6日]]に追加されたものであり、これにより[[ホバークラフト]]は除外されることになる。
; 米国の航空行政上の定義
: [[アメリカ合衆国|米国]]の[[合衆国法典]]第49編第VII準編Part A(航空通商及び安全)においては「any contrivance invented, used, or designed to navigate, or fly in, the air(空中を航行し、または飛ぶために考案され、使用され、または設計された一切の仕掛け)」と定義されている(49 USC §40102(a)(6))。他方で、連邦規則集第14編第1章(運輸省連邦航空局)においては「a device that is used or intended to be used for flight in the air(空中の飛行のために使用され、または使用されることを意図された装置)」と定義されている(14 CFR §1.1)。
; 日本の航空行政上の定義
: [[日本]]の[[航空法]]では「人が乗って航空の用に供することができる[[飛行機]]、[[回転翼航空機]]、[[滑空機]]及び[[飛行船]]その他[[政令]]で定める航空の用に供することができる機器」とされる。(航空法2条1項)ただし、現在政令で定める機器に該当するものはない。また、[[気球]]、[[無人航空機]](航空法2条22項)、[[ロケット]]などはこの定義から外れるため航空機には含まれない<ref name="bri" />。
== 航空機の分類 ==
さまざまな分類法がある。
一般的に航空機は、平均の[[密度]]が[[空気]]より軽い'''軽航空機'''と、空気より重い'''重航空機'''の2つに大別される。他にも、航空機の運用者や運用目的などにもとづいて「[[民間機]]」/「[[軍用機]]」に分類する方法がある。また人(操縦者を含めた人員)を乗せるか否かで「有人機」/「[[無人機]]([[無人航空機]])」に分類される。また[[航空用エンジン|エンジン]]の種類によって「[[タービン]](機)」/「[[レシプロエンジン|ピストン]](機)」(あるいは「[[レシプロエンジン|レシプロ]](機)」)に分ける(法的)分類法もある(この場合、非タービン・非ピストン電源電動(機)は何れにも属さない事になる)。
=== 原理別 ===
==== 軽航空機 ====
[[体積]]の大きな「気のう([[風船]]のようなもの)」に、[[水素]]や[[ヘリウム]]、加熱した空気といった、大気より軽い[[気体]]を充填することで、機体の平均比重を空気より軽くし、浮力([[静的揚力]])により飛行する航空機のこと<ref>「飛行船の歴史と技術」p1 牧野光雄 成山堂書店 平成22年8月8日初版発行</ref>。LTA(Lighter-Than-Air)機<ref>「飛行船の歴史と技術」p2 牧野光雄 成山堂書店 平成22年8月8日初版発行</ref> あるいはエアロスタット(aerostat)とも呼ばれる。
; [[飛行船|軽飛行船]]
: 軽航空機の中で推進装置を持ち、操縦可能なもの。硬い骨組み構造を持つ'''[[硬式飛行船]]'''([[ツェッペリン]]など)と、骨組みをもたない'''[[軟式飛行船]]'''がある。また、軟式飛行船だが下部に[[竜骨]]を持つ[[半硬式飛行船]]も存在する<ref>「飛行船の歴史と技術」p8-9 牧野光雄 成山堂書店 平成22年8月8日初版発行</ref>。
; [[気球]]
: 軽航空機の中で推進装置をもたないもの。[[バーナー]]などで熱した空気を利用する'''[[熱気球]]'''と、水素やヘリウムなどを使用する'''ガス気球'''がある。
==== 重航空機 ====
[[翼]]周りの[[大気]]の[[流れ]]によって生じる[[揚力]](動的揚力)によって浮き、飛行する航空機のこと。翼のタイプにより固定翼機と回転翼機に分けられる。HTA(Heavier-Than-Air)機あるいはエアロダイン(aerodyne)とも。
; [[固定翼機]]
: 揚力を得るための翼が機体に固定されていて、大気中を移動することで揚力を得る航空機。主翼平面形が可変な機体([[可変翼機]])も含む。
:; [[飛行機]]
:: 固定翼機のうち推進装置を備えるもの。推進力を生み出すための[[航空用エンジン|エンジン]]は、有人機では[[ジェットエンジン]]、[[レシプロエンジン|ピストンエンジン]]などの[[内燃機関]]が主である。ICAOでの分類ではないが一般的に1,500[[キログラム|kg]]程度で2-6人乗りの単発レシプロ機のことを軽飛行機と呼ぶ。[[日本]]の航空法では着陸(水)装置および動力装置を装備した簡易構造の航行機は飛行機ではなく[[超軽量動力機]]と分類する。
::; [[垂直離着陸機]]
::: [[パワード・リフト]]とも称される、ヘリコプターのように垂直に離着陸が可能な飛行機。ジェット機ではエンジンノズルを下方に向けるものや、垂直離着陸用のリフトエンジンを推進用とは別に装備しているものなどある。ローターを傾けることで垂直離着陸をする[[ティルトローター|ティルトローター機]]などは、回転翼機の特徴も併せ持つ。また、垂直には離陸できないものの[[航空機の離着陸方法#STOVL|短距離離陸垂直着陸機(STOVL)]]と呼ばれるものも存在する。
:; [[グライダー]](滑空機)
:: 固定翼機のうち動力を持たないもの。別の飛行機による牽引や、地上の[[ウインチ]]によるケーブル巻き取りなどといった、外部の動力によって離陸し、離陸後は切り離されて滑空する<ref>「徹底図解 飛行機のしくみ」p48 新星出版社編集部編 新星出版社 2009年2月25日発行</ref>。離陸・再上昇用の推進装置を備えたものは[[モーターグライダー]]と呼ばれる。現在日本では乗員は2名までに制限されているが、海外及び過去の日本ではもっと多人数乗りの機体も作られた。
:: [[パラグライダー]]や[[ハンググライダー]]は、日本の航空法では航空機に該当しない。
:; [[ハイブリッド飛行船|重飛行船]]
:: 船体全体が[[リフティングボディ]]となり、プロペラなどで推進力を得て船体の[[揚力]]で浮上する。
:
; [[回転翼機]]
: 回転する翼(ローター)により揚力を発生させ、これにより空中に浮ぶ航空機。
:; [[ヘリコプター]]
:: エンジンの動力でローターを駆動するもの。推進力は回転翼の軸をわずかに傾けることで得る。
:; [[オートジャイロ]]
:: 回転翼に動力が伝達されていない航空機。前進用の推進装置を持つ。
:; [[複合ヘリコプター]]
:: 通常のヘリコプターに推進器を付けた物や、巡航飛行時にはリフト用回転翼の回転を止め固定翼として使うか別途装備した主翼で揚力を得る機体などが含まれる。
:
; [[オーニソプター]](羽ばたき機)
: 羽ばたきにより揚力を得るもの。動力飛行機が発明される前は、腕に翼を付けて羽ばたく試みがよくあった。ラジコンなどで存在している。有人機では未だ補助動力なしでの離陸には成功していない。
; [[ローター飛行機]]
: [[マグヌス効果]]を使ったもの。固定翼の代わりに「回転する円筒」を使って飛んでいる{{Refnest|="注釈"|マグヌス飛行機[http://www.kotaro269.com/articles/56256.html]}}。
:
; 揚力によらない重航空機
:; [[ロケット]]
:: [[ロケット推進|噴射]]の[[推力]]を下に向けることで上昇する。<!--翼を持ち横向きに飛ぶロケット弾や誘導弾が揚力を利用していないとするなら要出典、そもそもそれらは「航空機」なのかも怪しい-->
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: center;">航空機の分類表<ref>{{Cite web|和書|url=http://soranohi.net/popup/ctgry.shtml |title=航空機の分類 |publisher=「空の日」・「空の旬間」実行委員会|accessdate=2016-05-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jal.com/ja/jiten/dict/p018.html |title=航空実用事典 |publisher=[[日本航空]]株式会社 |accessdate=2016-05-26}}</ref></div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
飛行機は主に離着陸方法により[[分類]]した、分類の一例。
{{Clade
|label1=航空機|1=
{{Clade
|label1=[[軽航空機]]|1=
{{Clade
|label1=動力なし|1=
{{Clade
|label1=[[気球]]|1=
{{Clade
|1=[[熱気球]]
|2=[[ガス気球]]
}}
}}
|label2=動力あり|2=
{{Clade
|label1=軽[[飛行船]]|1=
{{Clade
|1=[[軟式飛行船]]
|2=[[半硬式飛行船]]
|3=[[硬式飛行船]]
}}
}}
}}
|label2=[[重航空機]]|2=
{{Clade
|label1=動力なし|1=
{{Clade
|1=[[凧]]
|label2=滑空機([[グライダー]])|2=
{{Clade
|1=滑空機
|2=動力滑空機([[モーターグライダー]])
}}
}}
|label2=動力あり|2=
{{Clade
|1=[[ハイブリッド飛行船]](重飛行船)
|label2=[[固定翼機]]・[[可変翼機]]([[飛行機]])|2=
{{Clade
|label1=[[垂直離着陸機]]<ref>運用の違いで同じ機体でもVTOL、STOVL、V/STOLに分けられる。</ref>|1=
{{Clade
|1=[[推力偏向]]式垂直離着陸機
|2=リフトエンジン形式垂直離着陸機
|3=[[ティルトローター]]機
|4={{仮リンク|ティルトジェット|en|Tiltjet}}
|5=[[ティルトウイング]]機
|6=テイルシッター機(コレオプター含む)
}}
|2=短距離離着陸機(STOL機)
|3=通常離着陸機(CTOL機)
|4=[[CATOBAR]]機(カタパルト補助離陸・拘束着艦機)
|5=短距離離陸拘束着艦機(STOBAR機)
}}
|label3=[[回転翼機]]|3=
{{Clade
|label1=[[ヘリコプター]]|1=
{{Clade
|label1=シングルローター式|1=
{{Clade
|1=テールローター
|2=[[ノーター]]
|3=[[フェネストロン]](ファンテイル)
}}
|label2=ツインローター式|2=
{{Clade
|1=[[同軸反転ローター式]]ヘリコプター
|2=[[タンデムローター]]式ヘリコプター
|3=サイドバイサイドローター式ヘリコプター
|4=[[交差反転式ローター]]ヘリコプター
}}
|label3=[[マルチローター]]式(マルチコプター)|3=
{{Clade
|1=[[トライコプター]]
|2=[[クアッドコプター]]
|3=ヘキサコプター
|4=オクトコプター
}}
|4=[[複合ヘリコプター]]
|5=[[オートジャイロ]]
}}
}}
|4=[[オーニソプター]](羽ばたき機)
|label5=[[ロケット]]|5=
{{Clade
|label1=化学ロケット|1=
{{Clade
|1=[[固体燃料ロケット]]
|2=[[液体燃料ロケット]]
|3=[[ハイブリッドロケット]]
}}
|label2=[[電気推進]]|2=
{{Clade
|1=静電加速型
|2=電熱加速型
|3=電磁加速型
}}
|label3=[[原子力推進]]|3=
{{Clade
|1=原子力蒸気機関ロケット
|2=原子力電気推進ロケット
|3=核熱ロケット
|label4=核パルス推進ロケット|4=
{{Clade
|1=核分裂パルス推進ロケット
|2=核融合パルス推進けろっと
}}
|5=核融合ロケット
}}
|4=水ロケット([[ペットボトルロケット]])
}}
}}
}}
}}
}}
</div></div>
=== サイズ別 ===
[[航空交通管制]]では[[後方乱気流]]のための飛行間隔を決定する際、[[最大離陸重量]]で4段階に区別している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/airline-25/ 航空トリビア(25) A380も787-8も同じ大型機!? 大型機・中型機・小型機の正しい基準って?] - マイナビニュース</ref>。
;ライト({{lang-en-short|Light}})
:7t未満、[[軽飛行機]]などの小型の単発機から[[ビーチクラフト キングエア]]のような双発のビジネス機が該当する。
==== ミディアム({{lang-en-short|Medium}}) ====
:7tから136t未満、[[リージョナルジェット]]から[[ボーイング737]]や[[エアバスA320]]などの[[ナローボディ機]]が該当する。
;ヘビー({{lang-en-short|Heavy}})
:136t以上、[[ボーイング747]]や[[エアバスA350]]などの[[ワイドボディ機]]が該当する。
;スーパー({{lang-en-short|Super}})
:[[エアバスA380]]専用のカテゴリー。
この分類はミディアムに該当する機体が多いため、航空管制の運用効率化を目指した「[[協調的意思決定]](ACDM)」では6段階に細分化される予定<ref>クローズアップ!航空管制官 村山哲也 著 イカロス出版 2018年 ISBN 978-4802206242 p122</ref>。
=== 用途別 ===
{{see|タイプ別の航空機一覧}}
<!--航空機の運用者や運用目的などにもとづいて「[[民間機]]」と「[[軍用機]]」に分類され、また民間用飛行機は[[旅客機]]と[[貨物機]]とに分かれる。-->
== 歴史 ==
{{Seealso|航空に関する年表}}
=== 気球とグライダー ===
人類は古くから空を飛ぶことにあこがれを持っており、さまざまな飛行機械の構想が立てられたものの、それが実現するまでには長い時間が必要だった。実際に人を乗せてはじめて空を飛んだ機械は[[フランス]]の[[モンゴルフィエ兄弟]]が発明した[[熱気球]]で、[[1783年]]11月21日に有人飛行に成功した。ほぼ同時に[[ジャック・シャルル]]によって[[ガス気球]]も発明され、モンゴルフィエの初飛行から10日後の12月1日に有人飛行を成功させている。気球の成功は一時ブームを巻き起こし、[[フランス革命]]後には一時フランス軍によって軍事目的にも使用されたものの、空中を自在に動くというわけにはいかなかったためすぐに利用されなくなった<ref>「ヴィジュアル歴史図鑑 世界の飛行機」p14-17 リッカルド・ニッコリ著 中川泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社 2014年8月30日初版発行</ref>。一方、19世紀に入ると[[ジョージ・ケイリー]]が航空学の研究を行い、1890年代には[[オットー・リリエンタール]]がグライダーの実験を繰り返すなど、飛行研究は徐々に進歩していった。しかしこの頃の動力飛行機は研究段階にとどまっており、気球やグライダーなどの無動力航空機が主流となっていた<ref>「ヴィジュアル歴史図鑑 世界の飛行機」p18-19 リッカルド・ニッコリ著 中川泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社 2014年8月30日初版発行</ref>。
=== 飛行機の登場 ===
[[1903年]]には[[アメリカ合衆国]]の[[ライト兄弟]]が動力によって飛行する、いわゆる[[飛行機]]を発明した<ref name="ReferenceB">「交通工学総論」p16 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。飛行機は急速に発達を遂げ、1914年にはじまった[[第一次世界大戦]]では激しい空中戦が行われた<ref>「ヴィジュアル歴史図鑑 世界の飛行機」p50-60 リッカルド・ニッコリ著 中川泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社 2014年8月30日初版発行</ref>。第一次世界大戦後には余剰となった飛行機によって民間による商業飛行が盛んとなり、1919年には飛行船と飛行機による旅客定期運航がはじまっている<ref>「ヴィジュアル歴史図鑑 世界の飛行機」p64 リッカルド・ニッコリ著 中川泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社 2014年8月30日初版発行</ref>。また飛行機の性能も長足の進歩を遂げ、1927年には[[チャールズ・リンドバーグ]]が[[大西洋横断飛行|大西洋横断単独無着陸飛行]]を成功させた<ref name="ReferenceB"/>。この時期は一般の飛行機だけでなくほかの航空機も商業化が目指されており、1930年代には長距離路線で[[飛行艇]]が多く採用され<ref name="ReferenceC">「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p76 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>、また飛行船も重要な空運手段のひとつだった。しかし飛行船は1937年の[[ヒンデンブルク号爆発事故]]以降使用されなくなっていき<ref>[https://www.autocar.jp/post/609726 「【詳細データテスト】ザ・グッドイヤー・ブリンプ 快適至極な空の旅 ファミリーカーの街乗りより静か 飛行機より船に近い乗り心地」] - AUTOCAR JAPAN 2020/12/19 2021年12月15日閲覧</ref>、また飛行艇も1940年代に入ると飛行機に取って代わられていった<ref name="ReferenceC"/>。1936年には、ドイツで初の実用的なヘリコプターである[[フォッケウルフ]][[Fw 61 (航空機)|Fw 61]]が開発されている<ref>「ヴィジュアル歴史図鑑 世界の飛行機」p171 リッカルド・ニッコリ著 中川泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社 2014年8月30日初版発行</ref>。
第二次世界大戦後、1950年代後半に入ると[[ボーイング707]]などの就航で旅客機でも[[ジェット機]]が主流となり<ref name="ReferenceC"/>、さらに1969年には世界初の[[ワイドボディ機]]である[[ボーイング747]]が就航して<ref name="ReferenceC"/>、旅客用飛行機の大型化と高速化が進んだ<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p71 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。さらに1968年にはソヴィエト連邦の[[Tu-144 (航空機)|Tu-144]]、1969年にはイギリスとフランスによる[[コンコルド]]が[[超音速旅客機]]として開発され、高速化は頂点に達したものの、Tu-144はまもなく使用されなくなり、コンコルドも騒音や燃費の悪さなどさまざまな問題点から1976年には製造が中止され、以後超音速旅客機は製造されていない<ref name="ReferenceD">「徹底図解 飛行機のしくみ」p30 新星出版社編集部編 新星出版社 2009年2月25日発行</ref>。2003年にはコンコルドが運航を終了して、超音速旅客機の運航そのものがなくなった<ref>「世界の民間航空図鑑 旅客機・空港・エアライン」p30 アンドリアス・フェッカー著 青木謙知監修 上原昌子訳 原書房 2013年11月28日初版第1刷発行</ref>。高速化が一段落した一方で、大型化や燃費の改善による効率化は一層進むようになった<ref name="ReferenceD"/>。
== 用途 ==
航空機による[[飛行|フライト]]は世界で1日あたりおよそ10万回行われており、この数字は旅客航空、貨物航空、軍事航空を含んだものであり、そのうち9万回は旅客を乗せる飛行である<ref>[https://www.trip.com/ask/travel-questions/how-many-flights-per-day.html ]</ref>。つまり統計的に見れば旅客運送という用途、民間航空の用途が圧倒的に多い。
=== 民間航空 ===
飛行機は[[自動車]]、[[列車]]、[[船舶]]とともに現代社会において主力となる交通機関のひとつであり、この4種を組み合わせた交通体系が構築されている<ref name="ReferenceA">「交通工学総論」p10-11 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。700km以上の旅客輸送においては、主要交通機関の中で最も高速な飛行機の優位性が確立している<ref>「交通工学総論」p11 高田邦道 成山堂書店 平成23年3月28日初版発行</ref>。このため国家間や遠距離の大都市間輸送に、主に大型機が用いられるが、一方でその速度から小都市間や離島に就航する路線も多く、この場合小型機が多く用いられる<ref>「新版 交通とビジネス【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール1)p87-88 澤喜司郎・上羽博人著 成山堂書店 平成24年6月28日改訂初版発行</ref>。小都市間では小型の[[リージョナルジェット]]が、離島などではさらに小型のプロペラ機などが利用され<ref>「地方を結び、人々を結ぶ リージョナルジェット」p33-37 鈴木与平 ダイヤモンド社 2014年7月10日第1刷発行</ref>、土地が狭小で空港が建設できない一部離島では、ヘリコプターによる旅客定期路線も設けられている<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0401A_U3A001C1CR0000/ 「伊豆離島結び20年 国内唯一のヘリ定期路線、生活支える」日本経済新聞 2013年10月5日 2021年3月30日閲覧</ref>。貨物輸送の場合、飛行機は運航コストが高いため、高価かつ迅速な輸送が求められる貨物に使用されることが多い<ref name="ReferenceA"/>。
=== 一般航空 ===
定期路線輸送以外の民間航空は、[[ゼネラル・アビエーション|一般航空]](ゼネラル・アビエーション)と総称される。非常に人口稀薄で広大な土地の広がるオーストラリア大陸の一部などでは、個人で小型飛行機を所有して自家用車のように利用することも多い<ref>「徹底図解 飛行機のしくみ」p50 新星出版社編集部編 新星出版社 2009年2月25日発行</ref>。また海外の大[[企業]]や[[富裕層]]はその機動性から、個人の移動用などで[[ビジネスジェット]]を所有していることが多く、その利用は急増している<ref>「航空産業とライフライン」(規制緩和と交通権3)p154-161 戸崎肇 学文社 2011年9月29日第1版第1刷発行</ref>。
移動や輸送以外に、遊覧飛行に航空機を用いることも多い。こうした[[観光]]用のフライトには、小型機やヘリコプターが主に用いられる<ref>「観光旅行と楽しい乗り物」(交通論おもしろゼミナール5)p75-76 澤喜司郎 成山堂書店 平成22年12月28日初版発行</ref>。飛行船による遊覧飛行も行われている国があるが、日本では2007年に[[日本飛行船]]によって飛行船遊覧飛行が開始されたものの<ref>https://ascii.jp/elem/000/000/077/77763/ 「飛行船で優雅に空中散歩!「飛行船遊覧クルーズ」が運航開始!」ASCII.jp 2007年10月24日 2021年3月30日閲覧</ref>、2010年に同社が倒産して運航を停止した<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3103L_R30C10A5CC1000/ 「日本飛行船が破産申し立てへ 東京遊覧開始2カ月」日本経済新聞 2010年5月31日 2021年3月30日閲覧</ref>。
[[農薬]]や[[肥料]]、[[種子]]などを農地に効率的に散布する[[農業機]]も世界各国で使用される。小型飛行機を使用するところが多いが、日本においては[[ヤマハ発動機]]が1987年に世界初の産業用無人ヘリコプターを開発し<ref>https://news.mynavi.jp/techplus/article/20131024-yamaha_uav/ 「ヤマハ、10年ぶりの産業用無人ヘリ最新モデル「FAZER」で攻めの農業に貢献」マイナビニュース 2013/10/24 2021年3月30日閲覧</ref>、日本の水田の約4割で使用されるなど広く普及している<ref>https://newswitch.jp/p/21020 「「森林も守る」産業用無人ヘリコプター、ヤマハ発が社会課題に向き合う新しいビジネスのカタチ 農薬散布から「空のラストワンマイル」まで」ニュースイッチ(日刊工業新聞社)2020年02月18日 2021年3月30日閲覧</ref>。[[広告]]用には飛行船が用いられることがあり、第二次世界大戦後には長らく飛行船の主要な用途となっていた<ref>「飛行船の歴史と技術」p117 牧野光雄 成山堂書店 平成22年8月8日初版発行</ref>。日本でも1968年に日本初の広告用飛行船として[[キドカラー (飛行船)|キドカラー号]]が就航して以降、[[レインボー号 (飛行船)|レインボー号]]などさまざまな広告用飛行船がかつては就航していた<ref>「飛行船の歴史と技術」p123-125 牧野光雄 成山堂書店 平成22年8月8日初版発行</ref>。
航空機を利用する[[スポーツ]]は[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]]と総称され、[[曲技飛行]]や[[エアレース]]、[[熱気球競技]]、[[グライダー]]による[[滑空競技]]、[[スカイダイビング]]などさまざまなスポーツが含まれる。グライダー競技はスカイスポーツの中では古くから存在し、1930年代にはさまざまな飛行法が開発されてさらに発展した。主にヨーロッパで盛んに行われる競技で、2年に1度世界選手権が開催されている<ref>https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/dictionary/glider.html 「グライダー」笹川スポーツ財団スポーツ辞典 2021年5月18日閲覧</ref>。熱気球競技では、1973年より[[熱気球世界選手権]]が隔年で開催されるようになり、また日本でも国内レースが開催されている<ref>https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/dictionary/ballooning.html 「気球」笹川スポーツ財団スポーツ辞典 2021年5月18日閲覧</ref>。曲芸飛行は各地の[[航空ショー]]などでアトラクションとして開催されることが多いが、軍が自らの技量を示し[[広報]]に活用するために[[曲技飛行隊]]を所持することも多く、日本の[[航空自衛隊]]も[[ブルーインパルス]]というアクロバット・チームを保有している<ref>https://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/about/index.html 「ブルーインパルスとは」日本国航空自衛隊 2021年5月18日閲覧</ref>。エアレースは1909年にフランスではじめて開催され、以後世界各地で行われている<ref name="toyokeizai.net">https://toyokeizai.net/articles/-/221556?page=2 「エアレース、「ついにフランス開催」の舞台裏」東洋経済オンライン 2018/05/23 2021年5月18日閲覧</ref>。こうしたスカイスポーツは1905年に設立された[[国際航空連盟]]が統括しており、本部は[[スイス]]の[[ローザンヌ]]に置かれている<ref name="toyokeizai.net"/>。
=== 軍事 ===
飛行機は主力兵器の一つであり、主要な三[[軍種]]の一つである[[空軍]]の中核をなしている<ref>「よくわかる!軍用機の基礎知識」p88-89 坪田敦史 イカロス出版 2008年12月15日発行</ref>。なお軍用機を保有しているのは空軍だけではなく、[[海軍]]や[[陸軍]]もそれぞれ所持している<ref>「よくわかる!軍用機の基礎知識」p96-105 坪田敦史 イカロス出版 2008年12月15日発行</ref>。軍用機は、[[戦闘機]]や[[爆撃機]]などの戦闘用の飛行機と、[[輸送機]]などの直接戦闘に用いない飛行機が存在する。
=== 他 ===
[[気象観測]]にも航空機は利用されており、民間航空機から当該地域の気象データを受け取り観測に役立てているほか<ref>https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/35340.html 「航空機の気象観測データ
半数以下に 技術開発遅れも」NHK 2020年4月30日 2021年6月22日閲覧</ref>、高層大気の観測のために観測装置を取り付けた気球である[[ラジオゾンデ]]が各地で飛ばされている<ref>「気象庁物語」p72-73 古川武彦 中公新書 2015年9月25日発行</ref>。
== 工学 ==
航空機に関する工学を[[航空工学]]と言う。近年では、何かと重なる領域の多い[[宇宙工学]]と並び、[[航空宇宙工学]]の一部門と見なされている。
== 航空機産業 ==
{{Main|{{仮リンク|航空機製造|fr|Construction aéronautique}}}}
航空機産業には多くの企業が存在しているものの、[[寡占]]化がかなり進んでいる。
[[File:At Boeing's Everett factory near Seattle (9130160595).jpg|thumb|200px|ボーイング社の工場]]
特に大型の旅客飛行機製造はアメリカの[[ボーイング]]とヨーロッパの[[エアバス]]の2大企業にほぼ集約されている<ref>「徹底図解 飛行機のしくみ」p130 新星出版社編集部編 新星出版社 2009年2月25日発行</ref>。ただし飛行機の場合、各部分は世界各地で分散して生産されている<ref>「徹底図解 飛行機のしくみ」p140 新星出版社編集部編 新星出版社 2009年2月25日発行</ref>。
{{Seealso|旅客機#旅客機の産業構造}}
小型の旅客飛行機製造についてはこの両社はほとんど進出しておらず、[[リージョナル・ジェット]]はブラジルの[[エンブラエル]]とカナダの[[ボンバルディア・エアロスペース]]が2大企業として長年しのぎを削っている<ref>「航空機産業のすべて」p273-275 中村洋明 日本経済新聞出版社 2012年12月7日1版1刷</ref>。さらに小型の飛行機に関しては、エンブラエル・ボンバルディアの両社の他、[[セスナ]]や[[ガルフストリーム・エアロスペース]]などいくつかの会社が製造を行っている<ref>「航空機産業のすべて」p281-283 中村洋明 日本経済新聞出版社 2012年12月7日1版1刷</ref>。
なお航空機にとって重要な機材であるエンジン(航空機エンジン)は、自動車産業とは異なり機体メーカー自身が製造する事は稀であり、そのメーカーは基本的に別メーカーとして存在し、こちらも世界規模で集約化が進んでいる。その市場占有率は、2021年のデータで[[プラット・アンド・ホイットニー]]がおよそ30%、[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]が23.5%、[[サフラングループ|サフラン]]社が12%、[[ハネウェル|ハネウェル・インターナショナル]]が約10%という状況である<ref>[https://deallab.info/aircraft-engine/ 航空機エンジン業界の市場シェア]</ref>。
航空機は認定を受けた部品のみを使用し基本的に受注生産であるため、小型機であっても引き渡しまでに時間がかかり高価である。このためメーカーが自社機を再整備した認定中古機を販売したり、中古機を専門とする業者が多数存在するなど中古市場が発達しており、事故機であっても機械的な寿命が残っている部品がある限り資産価値がある。[[ボーイング]]と[[エアバス]]の大手2社はそれぞれリユースを促進する組織を設立している([[:en:Aircraft Fleet Recycling Association|AFRA]]、[[:en:PAMELA Project|PAMELA]])。また部品単位での売買も盛んで<ref name=gentosha001>[https://gentosha-go.com/articles/-/22699 中古ボーイング747「旧政府専用機が約30億円」の本当の価値] - [[幻冬舎]]ゴールドオンライン</ref>、生産が終了した機体の補修部品やアップグレードパーツを開発・販売する業者も多い<ref group="注">たとえば [http://www.banyanair.com/airframe-and-engine-services/learjet-aircraft-maintenance/ Learjet Maintenance and Parts - Banyan Air Service] - 生産が終了した旧式の[[リアジェット]]機に対し、現代の騒音基準に対応する新エンジンへの換装、自社製ウィングレットの販売・取り付けをする会社。</ref>。
大型旅客機の売買は[[航空会社]]の[[財務]]に大きく影響するが、大型機は非常に高価で引き渡しまでに数年を要し需要に合わせた調整が難しいことから、メーカーと航空会社の間に入る[[航空機リース]]専門の会社が多数存在するなど金融機関との関係も大きい<ref>[http://www6.econ.hit-u.ac.jp/smbc/download/2018/180530.pdf 第7回 航空機ファイナンス] - [[一橋大学]][[三井住友銀行]]寄附講義</ref>。[[契約]]には確約の他にも「追加購入を一時的に契約し財務や需要に合わせて確定」する方法や、「航空会社間で購入権を売買する」など独特のスタイルがある。完成に時間がかかることから、注文後に航空会社の経営が悪化し代金を支払えずメーカー側に留め置かれた機体が[[新古]]機として売却される例もある<ref>[http://www.aviationwire.jp/archives/126485 米空軍、次期大統領専用機に元トランスアエロの747-8購入 新古機でコスト削減] - Aviation Wire 2017年8月6日</ref>。航空機は機械的な寿命と[[耐用年数|法定耐用年数]]の差が大きく部品単位でも販売できるため、航空業界とは無関係の会社が節税のために航空機のリース業を営んでいるなど[[節税]]としての取引も多く大きな市場が形成されている<ref name=gentosha001 />。小型機や[[ビジネスジェット]]は[[フラクショナル・オーナーシップ]]により個人向けの市場が活性化した。
{{See also|Category:航空機産業|日本の航空機産業}}
;周辺産業
なお、航空機は保守・保管にも多額の費用がかかり、資格を持った専門家が多数必要であるため、航空機を製造するメーカーと各部品を製造する多数の企業以外にも、[[メンテナンス|整備]]や保管など運用の専門会社、[[パイロット (航空)|パイロット]]や[[航空整備士|整備士]]を派遣する[[人材派遣会社]]、航空会社やリース会社に情報を提供する専門メディア<ref>[https://www.cnn.co.jp/business/35141329.html 日本の旧政府専用機ボーイング747、30億円で中古市場に] - [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]</ref>なども含めて(つまり機体以外を扱う周辺業界も含めて)「航空産業」が形成されている。
== 事故と安全策 ==
航空機の運航による事故を[[航空事故]]という。
{{Seealso|航空事故}}
{{節スタブ|section=1|date=2023年9月}}
;航空事故 関連項目
* [[飛行性]] - 飛行試験における指標の1つ。
* [[国家運輸安全委員会]](National Transportation Safety Board。略称 NTSB。アメリカの組織) / [[欧州運輸安全評議会]]([[:en:European Transport Safety Council]]。略称 ETSC。欧州の組織) / [[運輸安全委員会]](日本の組織。2008年10月に[[航空・鉄道事故調査委員会]]から改組)
== 航空用語と船舶用語の関係 ==
航空関係の法律、用語、習慣などには、[[船|船舶]]が由来となっているものも多い。例えば、下記のような例が挙げられる。
* [[旅客機]]では客船になぞらえ機体を「シップ([[:en:ship|ship]])」<ref>[http://autoc-one.jp/workcar/2150012/0002.html 【はたらくクルマ】トーイングカー ~JALの定時運行を支える、空港のはたらくクルマ Vol.1~(2/2)|はたらくクルマ【オートックワン】]</ref>、[[厨房]]を『[[ギャレー]]』と呼ぶ。
* [[英語]]では指揮者を「キャプテン([[:en:captain|captain]])」と呼ぶ。([[日本語]]では航空機は[[機長]]、船舶は[[船長]])
* 乗務員は「クルー([[:en:crew|crew]])」になぞらえ「エアクルー(air crew)と呼ぶ。また[[客室乗務員]]をスチュワード(スチュワーデス)と呼ぶのは客船の司厨員に由来する。
* 機体左側を「[[船体#船体の部位|ポートサイド]](port side)」、機体右側を「[[船体#船体の部位|スターボードサイド]](starboard side)」と呼ぶ。
* 空中では海上と同じく右側通行。[[スターボード艇優先の原則]]を元にしたルールがあり、左舷に赤色、右舷に緑色の灯火を掲げる。
* 発着場所を 「 空"[[港湾|港]]"(air"port")」と呼ぶ。法的に定めは無く両側にドアがあっても基本的には船舶と同じくポートサイドから乗り降りする。キャノピーを開いて乗り込む機種はヒンジを右側に付ける設計が主流である。
* [[用船契約]]と類似した[[航空機リース]]が行われる。
航空機と船舶を両方製造しているメーカーは[[川崎重工業]](1918年から)、[[サード (企業)|サード]](2015年に参入開始)、[[ツネイシホールディングス]](2015年に航空機メーカーを買収)などごく少数である。
陸上の滑走路に離着陸できる[[水陸両用機]]は基本的に航空機として扱われる。
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:HondaJet Ryabtsev.jpg|[[HondaJet]]。ホンダが製造する[[ビジネスジェット]]。主翼上面エンジン配置が「航空機の新しい形態を切り拓いた」として設計・開発責任者である藤野道格が「AIAA 航空機設計賞」の受賞 (2012年)を含めて3つの賞を受賞し、さらに他にも受賞多数。
File:Collection of military aircraft.jpg|[[アメリカ航空宇宙局]]の[[プロトタイプ|試作機]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Aircraft}}
* [[航空]]
* [[航空機メーカーの一覧]]
* [[タイプ別の航空機一覧]]
* [[航空に関する年表]]
* [[航空機の離着陸方法]]
* [[Airliners.net]]
* [[宇宙機]]
*[[フライトシェイム]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jadc.or.jp/index.htm 財団法人 日本航空機開発協会] 民間航空機の開発、製造、需要予想などの調査研究
* [https://www.airliners.net/ airliners.net](英語)
* {{Kotobank}}
{{航空機部品および航空機システム}}
{{公害}}
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[[Category:航空機|*]]
[[Category:機械]]
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ツェッペリン
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ツェッペリン(独: Zeppelin)とは、20世紀初頭、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(通称Z伯)が開発した硬式飛行船の一種を指す。
ツェッペリンの設計した船体は非常に成功した結果、「ツェッペリン」という語句は慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指すようになった。硬式飛行船は外殻の支持構造をもつ飛行船であり、ガス圧で外形を維持する軟式飛行船と区別される。
ツェッペリン飛行船は、アルミニウムなどの軽金属の外皮を被せた枠組構造内に、空気より軽い水素ガスを詰めた複数の気嚢を収容している。乗客や乗員の乗る居住空間(ゴンドラ)が枠組構造の底部に取り付けられている。動力源は、数基のレシプロエンジンである。
硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすく、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材と縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(亜麻、苧麻、木綿などの布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。
このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。
硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。空気の流れで揚力を生み出す飛行機と異なり、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるので、大型であるほどペイロードを増大できる。
硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年にはツェッペリン伯爵は飛行船製造事業とともに、DELAGという世界初の旅客を運ぶ商業航空会社を創立した。両方の会社とも本拠地はドイツ南部にあるボーデン湖畔のフリードリヒスハーフェンにあった。
後に、ツェッペリン伯爵はツェッペリン社の代表をフーゴー・エッケナーと交代した。エッケナーは宣伝の名人であるとともに極めて技量の優れた航空機の機長だった。ツェッペリン社がその絶頂期に達したのはエッケナーの功績によるところが大きい。
1928年、ツェッペリン社は技術の総力を結集し、巨大な飛行船を製作する。グラーフ ツェッペリン号である。この最新鋭のツェッペリン飛行船は、全長235m、航続距離1万kmという超弩級の飛行船であった。
同社は1930年代までは順調に経営され、ドイツからアメリカ合衆国や南米に至る長距離航空路線を維持した。しかし、大恐慌とナチス党の台頭が会社に災いした。特に、エッケナーとナチスとは犬猿の仲であった。そのため、ツェッペリン社はドイツ政府により1930年代なかばに国有化された。
また、従来の水素ガスの替わりに、爆発の危険がなく安全なヘリウムガスを使用する予定だった新造船ヒンデンブルク号は、独米関係の悪化によって、当時唯一のヘリウムガス生産国であったアメリカからの(アメリカは飛行船の軍事転用を恐れていた)供給が滞り、水素ガスを使用しなければならなかった。1937年5月6日、同社の旗艦であるヒンデンブルク号は、アメリカのレイクハースト飛行場に着陸作業中、火災を起こし墜落、多数の犠牲者を出した。これにより、ツェッペリン飛行船の定期旅客航路の運航は中止され、ツェッペリン社は惨事の数年後には事実上活動を停止した。事故当時は水素ガスの使用がこの事故の原因とされたが、現在ではこの説は否定されている(ヒンデンブルク号爆発事故の項目を参照)。
しかし、約20年間の航空会社の私企業としての運営の間、少なくとも幾分かは利益を生み、ヒンデンブルク号の事故が起こる前までは完全な安全記録を保持していた。
なお、第一次世界大戦においては、ツェッペリン飛行船は119隻建造されて、偵察目的のほかイギリスに対する長距離爆撃にも使用された。しかし、戦術的に有効な打撃を与えることはなく、主に空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意を削ぐ心理的な効果を狙ったものであった。
また、飛行船は低速で大きく、極めて燃えやすい水素浮揚ガスを使用していたため、イギリスの対空防御体勢が充実すると対空砲や戦闘機からの銃撃の容易な的となり撃墜されることも多く、またそれ以上の数の飛行船が往復途中の悪天候で遭難した。イギリスでは対飛行船用兵器としてランケン・ダートも開発した。
ツェッペリン飛行船のような硬式飛行船は、たとえそれがツェッペリン社と縁が無くともしばしばツェッペリンと呼ばれた。この種の飛行船はアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連で1920年代から1930年代にかけて製造された。しかし致死墜落事故が相次いだため製造は中止された。また、サービスでは船に劣り、速度では飛行機に劣る上、運賃は豪華客船並みという飛行船が旅客事業で生き残る事も難しかった。
数多く生産されたツェッペリン式飛行船の中でも、LZ127とLZ130は機体そのものの愛称としてグラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵号)を冠された、ただ2隻の飛行船である。LZ127は1929年に北半球周遊を行った。またこの際、日本の茨城県阿見町(霞ヶ浦)に寄港している(霞ヶ浦の歴史#軍事・航空を参照)。LZ130はLZ129ヒンデンブルク号の同型船で、1938年9月に進空したが、その後の開戦とそれによる諸事情の悪化でほとんど運用されること無く解体された。
ツェッペリンNTは、1990年代にドイツのツェッペリン・ルフトシフ・テヒニーク社によって開発された飛行船。NT()はドイツ語で「新しい技術」を意味する。
その名の通り、ツェッペリン型硬式飛行船を最先端の技術で現代に継承することを目的としており、外皮膜を新素材の化学繊維、骨格を炭素繊維で組み上げ軽量化しているほか、エンジン配置や制御方法を工夫し、従来の飛行船よりも地上要員を少なくして運用できるなどの次世代飛行船の名にふさわしい特徴を持つ。全長75m、乗員2名、乗客12名、巡航速度80km/h、最大航続距離900kmの性能を持つが、将来的には積載能力や航行能力の拡大も可能。
1997年9月にプロトタイプとして1番船フリードリヒスハーフェンが進空し、2001年8月に2番船ボーテンゼー(後に日本飛行船が購入し、JA101Zとして日本で保有)、そして3番船の計3隻が建造された。2019年現在、7番船までが建造されている。
しかし、2007年9月に1番船がボツワナで地上に係留中、突風により大破して修理不能と判定され、失われた。同船は2005年より2年の契約でダイヤモンドで有名なデビアスにリースされ、地質調査に従事していた。
2010年6月に日本飛行船が経営不振から事業停止、破産手続に入ったため、2番船は7月に埼玉県で解体された。解体された部材はドイツに売却されて再建造され、D-LZFNの機体記号でツェッペリン輸送会社の飛行事業に用いられている。
ロックバンドのレッド・ツェッペリンという名称は、「落ちる風船(つまり失敗)」を意味する「鉛の風船 (lead balloon)」という表現を、大事故を起こしたヒンデンブルク号のイメージから「ツェッペリン」に置き換える...という軽い冗談から生まれたものである。
1971年のイギリス映画『ツェッペリン』は、同型の飛行船を題材としているが、物語自体はフィクションであり、作品内に登場するLZ36号とその行動は架空のものである。
また、ウインドサーフィンのボードにツェッペリンという有名な製品がある。
古賀春江の代表作『海』には、当時日本に立ち寄ったツェッペリン号をモチーフとしたと見られる飛行船が描かれている。
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"text": "同社は1930年代までは順調に経営され、ドイツからアメリカ合衆国や南米に至る長距離航空路線を維持した。しかし、大恐慌とナチス党の台頭が会社に災いした。特に、エッケナーとナチスとは犬猿の仲であった。そのため、ツェッペリン社はドイツ政府により1930年代なかばに国有化された。",
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"text": "数多く生産されたツェッペリン式飛行船の中でも、LZ127とLZ130は機体そのものの愛称としてグラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵号)を冠された、ただ2隻の飛行船である。LZ127は1929年に北半球周遊を行った。またこの際、日本の茨城県阿見町(霞ヶ浦)に寄港している(霞ヶ浦の歴史#軍事・航空を参照)。LZ130はLZ129ヒンデンブルク号の同型船で、1938年9月に進空したが、その後の開戦とそれによる諸事情の悪化でほとんど運用されること無く解体された。",
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"text": "ツェッペリンNTは、1990年代にドイツのツェッペリン・ルフトシフ・テヒニーク社によって開発された飛行船。NT()はドイツ語で「新しい技術」を意味する。",
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"text": "古賀春江の代表作『海』には、当時日本に立ち寄ったツェッペリン号をモチーフとしたと見られる飛行船が描かれている。",
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] |
ツェッペリンとは、20世紀初頭、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(通称Z伯)が開発した硬式飛行船の一種を指す。 ツェッペリンの設計した船体は非常に成功した結果、「ツェッペリン」という語句は慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指すようになった。硬式飛行船は外殻の支持構造をもつ飛行船であり、ガス圧で外形を維持する軟式飛行船と区別される。
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{{otheruses|[[飛行船]]|その他の用法|ツェッペリン (曖昧さ回避)}}
{{脚注の不足|date=2021-03-06}}
{{右|
[[File:First Zeppelin ascent.jpg|thumb|250px|none|ツェッペリンの初飛行(1900年)]]
[[File:LZ7 passenger zeppelin enhanced.jpg|thumb|250px|none|{{lang|de|LZ}}7 旅客飛行船 ドイチュラント号]]
[[File:1912 Hansa jpl.jpg|thumb|250px|none|{{lang|de|LZ}}13 ハンザ号(1912年)]]
[[File:Airship Bodensee, making daily flight from Berlin to Friedrichschafen, Oct. 1919.jpg|thumb|250px|none|ベルリンとフリードリヒスハーフェンを結ぶ定期便 ボーデンゼー号(1919年)]]
[[File:ZeppelinLZ127a.jpg|thumb|250px|none|{{lang|de|LZ}} 127 グラーフ・ツェッペリン号(1930年)]]
[[File:USS Macon at Moffett Field.jpg|250px|thumb|none|[[アメリカ合衆国海軍|アメリカ海軍]]の飛行船 [[メイコン (飛行船)|メイコン(ZRS-5)]]号(1933年)。グッドイヤー・ツェッペリン社製]]
[[File:Hindenburg at lakehurst.jpg|250px|thumb|none|{{lang|de|LZ}} 129 ヒンデンブルク号(1937年)]]
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[[File:Zeppelin NT im Flug.jpg|250px|thumb|none|最新型ツェッペリン {{lang|de|NT}} 飛行船(2003年)]]
[[File:Zeppelin NT nac-nacairship.jpg|250px|thumb|none|日本飛行船のツェッペリン {{lang|de|NT}} 飛行船(2007年)]]
[[File:Zeppelin NT Japan.jpg|250px|thumb|none|日本飛行船のツェッペリン {{lang|de|NT}} 飛行船(2007年)]]
}}
'''ツェッペリン'''({{lang-de-short|Zeppelin}})とは、[[20世紀]]初頭、[[フェルディナント・フォン・ツェッペリン]]伯爵(通称{{lang|de|Z}}伯)が開発した[[硬式飛行船]]の一種を指す。
ツェッペリンの設計した船体は非常に成功した結果、「ツェッペリン」という語句は慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指すようになった。硬式飛行船は外殻の支持構造をもつ飛行船であり、ガス圧で外形を維持する[[軟式飛行船]]と区別される。
== 概要 ==
ツェッペリン飛行船は、[[アルミニウム]]などの[[軽金属]]の外皮を被せた枠組構造内に、空気より軽い[[水素]]ガスを詰めた複数の気嚢を収容している。乗客や乗員の乗る居住空間(ゴンドラ)が枠組構造の底部に取り付けられている。[[原動機|動力源]]は、数基の[[レシプロエンジン]]である。
硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすく、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船は[[アルミニウム合金]]の多角形横材と縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ[[羽布]]([[亜麻]]、[[カラムシ|苧麻]]、[[木綿]]などの布)を張って[[流線#流線型|流線形]]の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。
このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、[[駆逐艦]]には追尾できない高速を発揮した。飛行船は[[実用]]的な空の輸送手段となった。
硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。空気の流れで[[揚力]]を生み出す飛行機と異なり、ツェッペリン飛行船の[[浮力]]は寸法の3乗である体積に比例し、また、構造重量は寸法の3乗以下にとどめることができるので、大型であるほど[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を増大できる。
== 歴史 ==
硬式飛行船の第1号は1900年の{{lang|de|LZ1}}で、1909年にはツェッペリン伯爵は飛行船製造事業とともに、{{lang|de|DELAG}}<ref>{{lang-de-short|Deutsche Luftschiffahrt Aktiengesellschaft}}</ref>という世界初の旅客を運ぶ商業航空会社を創立した。両方の会社とも本拠地は[[ドイツ]]南部にある[[ボーデン湖]]畔の[[フリードリヒスハーフェン]]にあった。
後に、ツェッペリン伯爵はツェッペリン社の代表を[[フーゴー・エッケナー]]と交代した。エッケナーは宣伝の名人であるとともに極めて技量の優れた航空機の機長だった。ツェッペリン社がその絶頂期に達したのはエッケナーの功績によるところが大きい。
1928年、ツェッペリン社は技術の総力を結集し、巨大な飛行船を製作する。[[LZ 127 (飛行船)|グラーフ ツェッペリン号]]である。この最新鋭のツェッペリン飛行船は、全長235m、航続距離1万kmという超弩級の飛行船であった。
同社は[[1930年代]]までは順調に経営され、ドイツから[[アメリカ合衆国]]や[[南アメリカ|南米]]に至る長距離航空路線を維持した。しかし、大恐慌と[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]党の台頭が会社に災いした。特に、エッケナーとナチスとは犬猿の仲であった。そのため、ツェッペリン社はドイツ政府により1930年代なかばに国有化された。
また、従来の[[水素]]ガスの替わりに、爆発の危険がなく安全な[[ヘリウム]]ガスを使用する予定だった新造船[[LZ 129 (飛行船)|ヒンデンブルク号]]は、独米関係の悪化によって、当時唯一のヘリウムガス生産国であったアメリカからの(アメリカは飛行船の軍事転用を恐れていた)供給が滞り、水素ガスを使用しなければならなかった。[[1937年]]5月6日、同社の旗艦であるヒンデンブルク号は、アメリカのレイクハースト飛行場に着陸作業中、火災を起こし墜落、多数の犠牲者を出した。これにより、ツェッペリン飛行船の定期旅客航路の運航は中止され、ツェッペリン社は惨事の数年後には事実上活動を停止した。事故当時は水素ガスの使用がこの事故の原因とされたが、現在ではこの説は否定されている([[ヒンデンブルク号爆発事故]]の項目を参照)。
しかし、約20年間の航空会社の私企業としての運営の間、少なくとも幾分かは利益を生み、ヒンデンブルク号の事故が起こる前までは完全な安全記録を保持していた。
なお、[[第一次世界大戦]]においては、ツェッペリン飛行船は119隻建造されて、偵察目的のほかイギリスに対する長距離爆撃にも使用された。しかし、戦術的に有効な打撃を与えることはなく、主に空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意を削ぐ心理的な効果を狙ったものであった。
また、飛行船は低速で大きく、極めて燃えやすい水素浮揚ガスを使用していたため、イギリスの対空防御体勢が充実すると対空砲や[[戦闘機]]からの銃撃の容易な的となり撃墜されることも多く、またそれ以上の数の飛行船が往復途中の悪天候で遭難した。イギリスでは対飛行船用兵器として[[ランケン・ダート]]も開発した。
ツェッペリン飛行船のような硬式飛行船は、たとえそれがツェッペリン社と縁が無くともしばしばツェッペリンと呼ばれた。この種の飛行船はアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連で[[1920年代]]から1930年代にかけて製造された。しかし致死墜落事故が相次いだため製造は中止された。また、サービスでは船に劣り、速度では飛行機に劣る上、運賃は豪華客船並みという飛行船が旅客事業で生き残る事も難しかった。
== グラーフ・ツェッペリン ==
数多く生産されたツェッペリン式飛行船の中でも、[[LZ 127 (飛行船)|{{lang|de|LZ}}127]]と[[LZ 130 (飛行船)|{{lang|de|LZ}}130]]は機体そのものの愛称としてグラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵号)を冠された、ただ2隻の飛行船である。{{lang|de|LZ}}127は[[1929年]]に北半球周遊を行った。またこの際、日本の茨城県[[阿見町]]([[霞ヶ浦]])に寄港している([[霞ヶ浦の歴史#軍事・航空]]を参照)。{{lang|de|LZ}}130は{{lang|de|LZ}}129ヒンデンブルク号の同型船で、[[1938年]]9月に進空したが、その後の開戦とそれによる諸事情の悪化でほとんど運用されること無く解体された。
== ツェッペリンNT ==
{{Main|ツェッペリンNT}}
'''ツェッペリン{{lang|de|NT}}'''<ref>{{lang-de-short|Zeppelin NT}}</ref>は、[[1990年代]]にドイツのツェッペリン・ルフトシフ・テヒニーク社によって開発された飛行船。{{読み仮名|{{lang|de|NT}}|エヌ・テー}}はドイツ語で「新しい技術<ref>{{lang-de-short|Neue Technologie}}</ref>」を意味する。
その名の通り、ツェッペリン型硬式飛行船を最先端の技術で現代に継承することを目的としており、外皮膜を新素材の化学繊維、骨格を[[炭素繊維]]で組み上げ軽量化しているほか、エンジン配置や制御方法を工夫し、従来の飛行船よりも地上要員を少なくして運用できるなどの次世代飛行船の名にふさわしい特徴を持つ。全長75m、乗員2名、乗客12名、巡航速度80km/h、最大航続距離900kmの性能を持つが、将来的には積載能力や航行能力の拡大も可能。
[[1997年]]9月にプロトタイプとして1番船フリードリヒスハーフェンが進空し、[[2001年]]8月に2番船ボーテンゼー(後に[[日本飛行船]]が購入し、JA101Zとして日本で保有)、そして3番船の計3隻が建造された。2019年現在、7番船までが建造されている。
しかし、[[2007年]]9月に1番船がボツワナで地上に係留中、突風により大破して修理不能と判定され、失われた。同船は2005年より2年の契約でダイヤモンドで有名な[[デビアス]]にリースされ、地質調査に従事していた。
[[2010年]]6月に日本飛行船が経営不振から事業停止、破産手続に入ったため、2番船は7月に埼玉県で解体された。解体された部材はドイツに売却されて再建造され、D-LZFNの[[機体記号]]でツェッペリン輸送会社の飛行事業に用いられている。
== 備考 ==
ロックバンドの[[レッド・ツェッペリン]]という名称は、「落ちる風船(つまり失敗)」を意味する「鉛の風船 (lead balloon)」という表現を、大事故を起こしたヒンデンブルク号のイメージから「ツェッペリン」に置き換える…という軽い冗談から生まれたものである。
1971年のイギリス映画『[[ツェッペリン (映画)|ツェッペリン]]』は、同型の飛行船を題材としているが、物語自体はフィクションであり、作品内に登場する{{lang|de|LZ}}36号とその行動は架空のものである。
また、[[ウインドサーフィン]]のボードにツェッペリン<ref>{{lang-de-short|Zeppelin}}</ref>という有名な製品がある。
[[古賀春江]]の代表作『海』には、当時日本に立ち寄ったツェッペリン号をモチーフとしたと見られる飛行船が描かれている。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* 関根伸一郎『飛行船の時代 ツェッペリンのドイツ』(丸善ライブラリー、1993年) {{ISBN2|4621050788}}
* [[柘植久慶]]『ツェッペリン飛行船』
** (中央公論社、1998年) {{ISBN2|4120027449}}
** (中公文庫、2000年) {{ISBN2|4122036801}}
* ハンス・ベルトラム 著\遠藤龍雄 訳『空の先駆者』(朝日ソノラマ文庫航空戦史シリーズ、1983年) {{ISBN2|4257170239}}
== 関連項目 ==
{{commons|Zeppelin}}
* [[ツェッペリン飛行船一覧]]
* [[ツェップアンテナ]] - 搭載されたアンテナ。
* [[半硬式飛行船]]
* [[エアロスクラフト]]
* [[レッド・ツェッペリン]](イギリスのロックバンド)
== 外部リンク ==
* [http://www.zeppelin-nt.de/ {{lang|de|Zeppelin Luftschifftechnik GmbH}}] もともとのツェッペリン飛行船の会社で、同じ設計思想の飛行船を開発し続けている。
* [http://www.zeppelin-museum.de/ ドイツのツェッペリン博物館]
* [http://www.ezep.de/ ツェッペリン型飛行船のポスト]
* {{NHK放送史|D0009060014_00000|「飛行船ツェッペリン伯号」霞ヶ浦に着陸}}
* {{Kotobank|ツェッペリン飛行船}}
{{デフォルトソート:つえつへりん}}
[[Category:ドイツの航空機]]
[[Category:飛行船]]
[[Category:エポニム]]
[[Category:戦略爆撃]]
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2003-07-01T10:29:19Z
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リヒャルト・シュトラウス
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リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864年6月11日 - 1949年9月8日)は、ドイツの作曲家・指揮者。後期ロマン派を代表する作曲家の一人であり、リヒャルト・ワーグナーとフランツ・リストの後継者と言われている。交響詩とオペラの作曲で知られる。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。
シュトラウスは、1864年6月11日にバイエルン王国のミュンヘンでミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ・シュトラウス(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた。 母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。シュトラウスは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。1882年にミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこでシュトラウスは短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得て、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。
この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。
シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、シュトラウスの出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対して聴衆の半数は喝采し、残り半数は野次を浴びせた。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」として、交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。
1894年、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮する。シュトラウスはこの時、エリーザベトを歌っていたソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナ(ドイツ語版)とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの妻として幾つかの逸話を残している。代表的なものはマーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙であり、そこでマーラーはベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。 (以下マーラーの文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」 しかし、彼女が「主婦として、よくシュトラウスに尽くしていた」ことも指摘されている。なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』があり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルとされる。
1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。1903年には以前から成功していた管弦楽曲の分野に戻り『家庭交響曲』を完成させる。しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは1908年に完成した『エレクトラ』 (Elektra) で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。
そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、大成功をおさめ作曲家としての地歩を固める。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派や新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的に穏健派の立場に立つこととなる。1915年に『アルプス交響曲』を完成させた後も、最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』(1941年)に至るまで精力的にオペラを作曲した。
後期の作品は先進派からの評価は低いが、今日では時代の先端であった前期の作品を中心に多く演奏されている。最後の10年間は創作ペースが落ちたものの『カプリッチョ』『4つの最後の歌』(1948年)などの重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作を生み出した期間が60年におよんでいる。管弦楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在とする見解もある。
1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今日に至るも多くの議論がある。一方は、シュトラウスが第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子フランツ・シュトラウス(1897年 – 1980年)の妻がユダヤ人であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯し、自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚たちを救おうとしたとする見解もある。さらにはシュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする意見もある。
シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。
終戦後、シュトラウスは裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはやシュトラウスは“過去の人”であったが、自ら指揮棒を持ち健在ぶりをアピールしている。このときの演目は『家庭交響曲』(シュトラウス本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ人員が確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている(英国は非ドイツ語圏で最大のヨハン・シュトラウス協会を持つウィンナワルツ愛好国である)。
1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつである『4つの最後の歌』を作曲した(出版はシュトラウスの死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、これは恐らくシュトラウスの歌曲の中でもっとも有名なものの1つであろう。すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージといった前衛作曲家達が登場し始めていた時代にあって、シュトラウスの作品はあまりにも古風で時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にもかかわらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも高い人気を誇っている。他の作品においても、同時代の評価は年数が経過するごとに見えにくくなり、彼の名も忘れ去られるどころか今なお20世紀の作曲家としては最も演奏機会の多い1人となっている。
晩年のシュトラウスは庭の花を観てよく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。シュトラウスの最後の作品は歌曲「あおい」であった。
シュトラウスは1949年9月8日、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。
親交のあったマーラーと同様に、シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏した。指揮者としてのシュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘン、ベルリン及びウィーンの歌劇場で要職をも務めたほどである。(ただし後には自作の初演も他の指揮者に委ねるようになった)。
指揮の師はハンス・フォン・ビューローであり、彼のもとで指揮法の訓練を受けた。
若い頃のシュトラウスはフランスの作家ロマン・ロランに「気違いだ!」と評されるほど激しい身振りを身上とするダイナミックな指揮スタイルであった。しかし後年は、弟子のカール・ベームやジョージ・セルらから想像がつくように、簡潔で誇張の少ない抑制されたものになった。
またベームの証言によれば、『影のない女』を指揮した際、指揮姿を撮影していたカメラマンが「左手を出して、立って指揮をしてくれませんか?」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはいつもこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したという。ところが、ある日クライマックスでつい熱が入ってしまい、思わず左手を出して立ち上がって指揮をしたことがあった。公演終了後、ベームは「先生は、常日頃から自分の指揮法について『これは絶対に守らなければならない!』とおっしゃっていました。しかし今日ばっかりは先生自らその戒めを破ってしまいましたね?」とからかうと、シュトラウスはむっつりしたまま逃げ去るように帰っていったという。また別の逸話では「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」と、語ったともいわれる。
指揮者としての心構えをベームに対して「右手で拍子をとるのは外面的なことで、楽員が自らの場所を見失わないようにするためである。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」と語ったという。
もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりもトランプゲームの「スカート」を好んでいたらしく、ある時、オペラ『フィデリオ』の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではトランプの時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。
シュトラウスの演奏は自作自演も含め、数多くの録音が残されており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。
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"text": "リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864年6月11日 - 1949年9月8日)は、ドイツの作曲家・指揮者。後期ロマン派を代表する作曲家の一人であり、リヒャルト・ワーグナーとフランツ・リストの後継者と言われている。交響詩とオペラの作曲で知られる。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。",
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"text": "シュトラウスは、1864年6月11日にバイエルン王国のミュンヘンでミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ・シュトラウス(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた。 母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。シュトラウスは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。1882年にミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこでシュトラウスは短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得て、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。",
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"text": "この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。",
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"text": "シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、シュトラウスの出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対して聴衆の半数は喝采し、残り半数は野次を浴びせた。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」として、交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。",
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"text": "1894年、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮する。シュトラウスはこの時、エリーザベトを歌っていたソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナ(ドイツ語版)とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの妻として幾つかの逸話を残している。代表的なものはマーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙であり、そこでマーラーはベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。 (以下マーラーの文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」 しかし、彼女が「主婦として、よくシュトラウスに尽くしていた」ことも指摘されている。なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』があり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルとされる。",
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"text": "1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。1903年には以前から成功していた管弦楽曲の分野に戻り『家庭交響曲』を完成させる。しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは1908年に完成した『エレクトラ』 (Elektra) で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。",
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リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスは、ドイツの作曲家・指揮者。後期ロマン派を代表する作曲家の一人であり、リヒャルト・ワーグナーとフランツ・リストの後継者と言われている。交響詩とオペラの作曲で知られる。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。
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{{出典の明記|date=2013年7月22日 (月) 01:57 (UTC)|ソートキー=人1949年没}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = リヒャルト・シュトラウス<br />Richard Strauss
| Img = Max_Liebermann_Bildnis_Richard_Strauss.jpg
| Img_capt = シュトラウスの肖像画 ([[マックス・リーバーマン]]画)
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| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
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| Origin = ({{DEU1815}})<br />{{BAY}} [[ミュンヘン]]
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{{Portal クラシック音楽}}
'''リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス'''(Richard Georg Strauss、[[1864年]][[6月11日]] - [[1949年]][[9月8日]])は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]。後期[[ロマン派音楽|ロマン派]]を代表する作曲家の一人であり、[[リヒャルト・ワーグナー]]と[[フランツ・リスト]]の後継者と言われている<ref>Gilliam, Bryan; Youmans, Charles (2001). "Richard Strauss". ''Grove Music Online''. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.40117</ref>。[[交響詩]]と[[オペラ]]の作曲で知られる。[[ウィーン]]の[[シュトラウス家|ヨハン・シュトラウス一族]]とは血縁関係はない。<!--姓の末尾の綴りも異なる(ヨハン・シュトラウスの[[[ß]]]に対してリヒャルト・シュトラウスは[ss])--><!--下記「出生とその成長」のコメント参照。ドイツ語でßをssに置き換えるのは通例化しており、リヒャルトのssが置き換えでないという傍証がなく、なおかつßで綴った例もある以上、同じ綴りとみなすべきだと思います。ちなみにオスカー・シュトラウスはsが一つだけのため、しばしば一人だけ綴りの違う作曲家シュトラウスとして引き合いに出されます)。-->
== シュトラウスの生涯 ==
=== 出生とその成長 ===
[[Image:Der junge Richard Strauss.JPG|thumb|left|upright|青年期のシュトラウス]]
シュトラウスは、1864年6月11日に[[バイエルン王国]]の[[ミュンヘン]]で[[バイエルン国立歌劇場|ミュンヘン宮廷歌劇場]]の首席[[ホルン]]奏者であった[[フランツ・シュトラウス]](Franz Strauss, [[1822年]]-[[1905年]])の子として生まれた<!--([[ウィンナワルツ]]で有名な[[ヨハン・シュトラウス]]一家とは--><!--姓の綴りが異なることからも分かるように--><!-- 姓の綴りの違いについて:確かに通常は"Richard Strauss"と綴られますが,ドイツ語圏ではヨハン・シュトラウス一家と同様に"Strauß"と綴られる場合もあったようです。例えば http://okobay.ciao.jp/iblog/C255584223/E2106877294/index.html にはリヒャルト・シュトラウスの演奏会ポスター3枚の写真が出ていますが、いずれも"Strauß"と綴られています。従って"姓の綴りが異なる"という記述は正確ではないと考え、コメントアウトしました。--><!--親戚関係にはない)-->。
母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。シュトラウスは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。[[1882年]]に[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に入学するが、1年後に[[ベルリン]]に移った。そこでシュトラウスは短期間学んだ後、[[ハンス・フォン・ビューロー]]の補助指揮者の地位を得て、[[1885年]]にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。
=== 音楽の変化と発展 ===
この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]風のかなり保守的なものであった。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を崇敬しており、「[[交響曲第41番 (モーツァルト)|ジュピター交響曲]]は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲の[[フーガ]]を聞いたとき、私は天国にいる思いがした」<ref>[[渡辺護 (音楽学者)|渡辺護]] CD「モーツァルト交響曲第40番・第41番」({{ASIN|B000STC5LU}})に付属の解説書より</ref>と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。
シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れた[[ヴァイオリン|ヴァイオリン奏者]]で、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の姪の1人と結婚した[[アレクサンダー・リッター]]と出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、[[1889年]]に初演され、シュトラウスの出世作として最初に成功した作品、交響詩『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』(''Don Juan'')が生まれた。この作品に対して聴衆の半数は喝采し、残り半数は野次を浴びせた。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」として、交響詩の作曲を続けた。その中には『[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]』(''Till Eulenspiegels lustige Streiche'', [[1895年]])、シュトラウスの死後に映画『[[2001年宇宙の旅]]』で使われ有名になった『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはかく語りき]]』(''Also sprach Zarathustra'', [[1896年]])がある。
[[1894年]]、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『[[タンホイザー]]』を指揮する。シュトラウスはこの時、エリーザベトを歌っていたソプラノ歌手の{{ill|パウリーネ・デ・アーナ|de|Pauline Strauss-de Ahna}}とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、[[恐妻家]]シュトラウスの妻として幾つかの逸話を残している。代表的なものは[[グスタフ・マーラー|マーラー]]が妻[[アルマ・マーラー|アルマ]]に送った1907年1月の手紙であり、そこでマーラーはベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。 (以下マーラーの文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」<ref>Mahler, Alma: Erinnerungen und Briefe. Bermann; Fischer Verlag, 1949 (酒田健一訳、白水社、1973)</ref> しかし、彼女が「主婦として、よくシュトラウスに尽くしていた」ことも指摘されている<ref>田代櫂『リヒャルト・シュトラウス:鳴り響く落日』(春秋社、2014)267頁。パウリーネの詳細は同書263-270頁を参照。</ref>。なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇『[[インテルメッツォ]]』と『[[家庭交響曲]]』があり、『[[影のない女]]』の染物師の妻もパウリーネがモデルとされる。
[[1898年]]、最後の交響詩『[[英雄の生涯]]』(''Ein Heldenleben'')を書き上げたシュトラウスは、関心を[[オペラ]]に向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『[[グントラム (オペラ)|グントラム]]』([[1894年]]作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。続く『火の危機』([[1901年]]作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。[[1903年]]には以前から成功していた管弦楽曲の分野に戻り『家庭交響曲』を完成させる。しかし、[[1905年]]に[[オスカー・ワイルド]]の戯曲のドイツ語訳に作曲した『[[サロメ (楽劇)|サロメ]]』(''Salome'')を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン歌劇場]]がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。[[グスタフ・マーラー|マーラー]]ら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは[[1908年]]に完成した『[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]』 (''Elektra'') で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。この作品はシュトラウスが詩人[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]と協力した最初のオペラでもある。このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。
そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『[[ばらの騎士]]』(''Der Rosenkavalier'', [[1910年]])で、大成功をおさめ作曲家としての地歩を固める。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった[[新ウィーン楽派]]や[[新古典主義音楽]]などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的に穏健派の立場に立つこととなる。[[1915年]]に『[[アルプス交響曲]]』を完成させた後も、最後のオペラ作品となる『[[カプリッチョ (オペラ) |カプリッチョ]]』([[1941年]])に至るまで精力的にオペラを作曲した。
後期の作品は先進派からの評価は低いが、今日では時代の先端であった前期の作品を中心に多く演奏されている。最後の10年間は創作ペースが落ちたものの『カプリッチョ』『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]』([[1948年]])などの重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作を生み出した期間が60年におよんでいる。管弦楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在とする見解もある。
=== ナチスへの協力 ===
[[ファイル:Joseph Goebbels and Richard Strauss.jpg|250px|サムネイル|[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]とシュトラウス]]
1930年代以降の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今日に至るも多くの議論がある。一方は、シュトラウスが第三帝国の[[帝国音楽院]]総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である{{#tag:ref|ある時、ツヴァイクは帝国音楽院総裁となったシュトラウスの立場を慮り、シュトラウスに煮え切らない内容の手紙を送り、何かと人種問題を持ち出すツヴァイクに対し、シュトラウスはうんざりしたように次の言葉をなげている。{{Quotation|これがユダヤ的しつこさだ!誰しも反ユダヤ主義に走ろうというものだ!この人種という自尊心、群れたがるという心理!あなたは私が今まで「ドイツ人」という考えのもとで行動してきたと思っているのですか?貴方は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]が「アーリア人」として作曲をしたとでも思っているのですか?私にとって、この世には二つのタイプの人間しかいないのですよ。才能のある人と無い人です。}}|group=注釈}}。もう一方は、シュトラウスの息子フランツ・シュトラウス(1897年 – 1980年)の妻が[[ユダヤ人]]であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『[[無口な女 (オペラ)|無口な女]]』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家[[シュテファン・ツヴァイク]]の名前を外すことを拒否するという危険を犯し、自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚たちを救おうとしたとする見解もある。さらにはシュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする意見もある。
シュトラウスは[[第二次世界大戦]]終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、[[1940年]](昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、[[日独伊防共協定]]を結んだ[[日本]]のために「[[日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲]]」を書いている(当該項目を参照)。
=== 終戦後とその死 ===
[[ファイル:Special Film Project 186 - Richard Strauss 4.png|サムネイル|オペラの台本を読むシュトラウス(1945年)]]
終戦後、シュトラウスは裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはやシュトラウスは“過去の人”であったが、自ら指揮棒を持ち健在ぶりをアピールしている。このときの演目は『[[家庭交響曲]]』(シュトラウス本人は『[[アルプス交響曲]]』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ人員が確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『[[美しく青きドナウ]]』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている([[イギリス|英国]]は非ドイツ語圏で最大のヨハン・シュトラウス協会を持つウィンナワルツ愛好国である)。
[[1948年]]、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつである『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]』を作曲した(出版はシュトラウスの死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの[[歌曲]]を書いたが、これは恐らくシュトラウスの歌曲の中でもっとも有名なものの1つであろう。すでに[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]、[[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]、[[ルイジ・ノーノ|ノーノ]]、[[ジョン・ケージ|ケージ]]といった前衛作曲家達が登場し始めていた時代にあって、シュトラウスの作品はあまりにも古風で時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にもかかわらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも高い人気を誇っている。他の作品においても、同時代の評価は年数が経過するごとに見えにくくなり、彼の名も忘れ去られるどころか今なお20世紀の作曲家としては最も演奏機会の多い1人となっている。
晩年のシュトラウスは庭の花を観てよく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。シュトラウスの最後の作品は歌曲「[[あおい_(リヒャルト・シュトラウス)|あおい]]」であった。
シュトラウスは[[1949年]][[9月8日]]、ドイツの[[ガルミッシュ=パルテンキルヒェン]]で死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。
== 指揮者シュトラウス ==
親交のあった[[グスタフ・マーラー|マーラー]]と同様に、シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏した。指揮者としてのシュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘン、ベルリン及びウィーンの歌劇場で要職をも務めたほどである。(ただし後には自作の初演も他の指揮者に委ねるようになった)。
指揮の師は[[ハンス・フォン・ビューロー]]であり、彼のもとで指揮法の訓練を受けた。
若い頃のシュトラウスはフランスの作家[[ロマン・ロラン]]に「気違いだ!」と評されるほど激しい身振りを身上とするダイナミックな指揮スタイルであった。しかし後年は、弟子の[[カール・ベーム]]や[[ジョージ・セル]]らから想像がつくように、簡潔で誇張の少ない抑制されたものになった。[[ファイル:Strauss conducting.jpg|サムネイル|指揮するR・シュトラウス(1900年ごろ)]]またベームの証言によれば、『影のない女』を指揮した際、指揮姿を撮影していたカメラマンが「左手を出して、立って指揮をしてくれませんか?」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはいつもこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したという。ところが、ある日クライマックスでつい熱が入ってしまい、思わず左手を出して立ち上がって指揮をしたことがあった。公演終了後、ベームは「先生は、常日頃から自分の指揮法について『これは絶対に守らなければならない!』とおっしゃっていました。しかし今日ばっかりは先生自らその戒めを破ってしまいましたね?」とからかうと、シュトラウスはむっつりしたまま逃げ去るように帰っていったという。また別の逸話では「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」と、語ったともいわれる。
指揮者としての心構えをベームに対して「右手で拍子をとるのは外面的なことで、楽員が自らの場所を見失わないようにするためである。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」と語ったという。
もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりも[[スカート (トランプゲーム)|トランプゲームの「スカート」]]を好んでいたらしく、ある時、オペラ『[[フィデリオ]]』の指揮中に懐中時計を見たところ、このままでは[[トランプ]]の時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。
シュトラウスの演奏は自作自演も含め、数多くの録音が残されており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。
== シュトラウスの作品 ==
{{作品一覧|リヒャルト・シュトラウスの楽曲一覧}}
*年は作曲完了年(作曲年月日)【台本作家】
=== オペラ/舞台作品 ===
*『[[トーリードのイフィジェニー]]』AV186 [[1890年]](1890.9[[ヴァイマル]])独語版改作 --- 原曲:[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]
*『[[グントラム (オペラ)|グントラム]]』op.25 [[1892年]](1892.11.24)【作曲家自身】― 初演失敗、オペラ作曲を一度は諦める
*『{{仮リンク|火の危機|en|Feuersnot}}』(火の消えた町)op.50 [[1901年]] (1901.5.21)【エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲン】
*『[[サロメ (オペラ)|サロメ]]』op.54 [[1905年]](1905.6.20(サロメ舞曲なし)、1905.8月下旬;サロメ舞曲)【[[オスカー・ワイルド]]/H.ラハマン】
*『[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]』op.58 [[1908年]](1908. 9.22ガルミッシュ)【[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール|ホーフマンスタール]]】
*『[[ばらの騎士]]』op.59 [[1910年]](1910.9.26ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
*『[[ナクソス島のアリアドネ]]』op.60(I) [[1912年]](1910. 7.22)([[モリエール]]の[[戯曲]]「[[町人貴族]]」をホーフマンスタールが改作、シュトラウスの音楽つきで上演したさいに劇中で上演された)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
*『[[ナクソス島のアリアドネ]]』op.60(II) [[1916年]](1916. 6.19)(改訂版;町人貴族なし)【ホーフマンスタール】― 現在一般に上演されている版
*『[[影のない女]]』op.65 [[1917年]](1917.6.24)【ホーフマンスタール】
*喜劇『[[町人貴族 (リヒャルト・シュトラウス)|町人貴族]]』op.60(III) (1917.10.11)【[[モリエール]]/ホーフマンスタール】
*『[[インテルメッツォ (オペラ)|インテルメッツォ]]』op.72 [[1923年]](1923.8.21[[ブエノスアイレス]])【作曲家自身】
*劇音楽『アテネの廃墟』AV190 [[1924年]] ガルミッシュ ― [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]原曲【ホーフマンスタール】
*映画音楽『[[ばらの騎士|薔薇の騎士]]』op.112 [[1925年]](1925.10.18ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
*『[[エジプトのヘレナ]]』op.75 [[1927年]](第1稿;1927.10.8ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
*『[[イドメネオ]]』o.op.117/AV191 [[1930年]](1930.9.28ガルミッシュ)― モーツァルト原曲【L.ヴァラーシュタイン、作曲家】
*『[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]]』op.79 [[1932年]](1932.10.12)【1幕;ホーフマンスタール、2,3幕はホーフマンスタール死去のため作曲家による自由な改変】
*『{{仮リンク|エジプトのヘレナ|en|Die_ägyptische_Helena}}』op.75 [[1933年]](1933. 1.15ガルミッシュ;ウィーン改訂稿)― 現代最もポピュラーな版
*『{{仮リンク|無口な女 (オペラ)|label=無口な女|en|Die_schweigsame_Frau}}』op.80 [[1935年]](1935.1.17ガルミッシュ)【[[シュテファン・ツヴァイク]]】
*『{{仮リンク|平和の日|en|Friedenstag}}』op.81 [[1936年]](1936. 6.16ガルミッシュ)【シュテファン・ツヴァイク(原案)、{{仮リンク|ヨーゼフ・グレゴール|en|Joseph Gregor}}】
*『[[ダフネ (リヒャルト・シュトラウス)|ダフネ]]』op.82 [[1937年]](1937.12.24タオルミナ)【ヨーゼフ・グレゴール】
*『{{仮リンク|ダナエの愛|en|Die_Liebe_der_Danae}}』op.83 [[1940年]](1940.6.28ガルミッシュ)【ヨーゼフ・グレゴール】
*『[[カプリッチョ (オペラ)|カプリッチョ]]』op.85 [[1941年]](1941.8.3ガルミッシュ)【[[クレメンス・クラウス]]と作曲家自身】
*『[[ロバの影]]』AV300 [[1948年]](未完・オペレッタ・スイス;カールハウスナーによる管弦楽補完)【ハンス・アドラー】
=== バレエ音楽 ===
* バレエ音楽『[[ヨゼフ伝説]]』作品63 [[1914年]](1914.2.2ベルリン)【H.G.ケスラー、ホーフマンスタール】
* バレエ音楽『{{仮リンク|泡雪クリーム|en|Schlagobers}}』作品70 [[1922年]] (1922.9.16ガルミッシュ)【作曲家自身】
=== 歌曲 ===
* 『子守歌』[[1878年]]
* 『[[献呈 (リヒャルト・シュトラウス)|奉納(献呈)]]』作品10-1 [[1882年]]-[[1883年]]
* 『[[万霊節 (リヒャルト・シュトラウス)|万霊節]]』作品10-8 [[1883年]]
* 『[[セレナーデ (リヒャルト・シュトラウスの歌曲)|セレナーデ]]』作品17-2 [[1887年]]
* 『{{仮リンク|ツェツィーリエ (歌曲)|label=ツェツィーリエ|en|Cäcilie (Strauss)}}』作品27-2 [[1894年]]
* 『[[ひそやかな誘い]]』作品27-3 [[1894年]]
* 『[[明日! (歌曲)|あした]]』作品27-4 [[1894年]]
* 『[[黄昏の夢 (リヒャルト・シュトラウス)|黄昏の夢]]』作品29-1 [[1895年]]
* 『[[子守歌 (リヒャルト・シュトラウス)|子守歌]]』作品41-1 [[1899年]]
* 『{{仮リンク|商人の鑑|en|Der Krämerspiegel}}』作品66 [[1918年]]
* 『[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)|4つの最後の歌]]』Vier Letzte Lieder [[1948年]]
** 第1曲『春(Frühling)』1948.7.18
** 第2曲『九月(September)』1948.9.20
** 第3曲『眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)』1948.8.4
** 第4曲『夕映えの中で(Im Abendrot)』1948.5.6
*『[[あおい (リヒャルト・シュトラウス)|あおい]]』(遺作)1948年
=== 合唱曲 ===
* 『さすらい人の嵐の歌』作品14(混声合唱と管弦楽)
* 『2つの歌』 作品34(無伴奏混声合唱)
** 夕 Der Abend
** 讃歌 Hymne
* 『オリンピック讃歌』(混声合唱と管弦楽) - オリンピックの開会式と閉会式などで必ず演奏されるサマラス作曲の『[[オリンピック賛歌]]』とは別の曲。
* 『タイユフェ』作品52(ソプラノ・テナー・バス独唱・混声合唱と6管編成の管弦楽のためのバラード)
* 『ドイツモテット』 作品62(無伴奏混声合唱)
* 『[[フリードリヒ・リュッケルト|リュッケルト]]による3つの男声合唱曲』(無伴奏男声合唱)
=== 交響詩 ===
* 『[[ドン・ファン (交響詩)|ドン・ファン]]』[[1888年]]
* 『[[マクベス (交響詩)|マクベス]]』[[1890年]]
* 『[[死と変容]]』[[1889年]]
* 『[[ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら]]』op.28[[1895年]]
* 『[[ツァラトゥストラはこう語った (交響詩)|ツァラトゥストラはこう語った]]』[[1896年]]
* 『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』(''Don Quixote'')[[1897年]]([[チェロ]]と[[ヴィオラ]]の協奏的作品)
* 『[[英雄の生涯]]』(''Ein Heldenleben'')[[1898年]]
=== 交響曲 ===
* [[交響曲第1番 (リヒャルト・シュトラウス)|交響曲(第1番)ニ短調]] [[1880年]]
* [[交響曲第2番 (リヒャルト・シュトラウス)|交響曲第2番ヘ短調 作品12]] [[1884年]]
* [[家庭交響曲]](''Sinfonia domestica'') [[1903年]]
* [[アルプス交響曲]](''Eine Alpensinfonie'') [[1915年]]
=== 協奏曲 ===
* [[ヴァイオリン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品8]] [[1882年]]
* [[ブルレスケ|ブルレスケ ニ短調(ピアノと管弦楽)]] [[1885年]]
* [[家庭交響曲#家庭交響曲余録|家庭交響曲余録]] 作品73(左手ピアノと管弦楽)
* パンアテネの大祭 作品74(左手ピアノと管弦楽)
* ロマンツェ ヘ長調(チェロと管弦楽)
* [[ホルン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)#第1番|ホルン協奏曲第1番変ホ長調]] 作品11 [[1883年]]
* [[ホルン協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)#第2番|ホルン協奏曲第2番変ホ長調]] [[1942年]][[11月28日]]
* [[オーボエ協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|オーボエ協奏曲]] [[1945年]][[10月25日]]
* [[二重小協奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|二重小協奏曲]]([[クラリネット]]、[[ファゴット]]、[[ハープ]]、[[弦楽合奏]])[[1947年]][[12月16日]]
=== その他の管弦楽曲 ===
* 交響的幻想曲『[[イタリアから]]』作品16 [[1886年]]
* 組曲『[[町人貴族 (リヒャルト・シュトラウス)|町人貴族]]』作品60 1917年(劇音楽から抜粋)
* [[祝典前奏曲]] 作品61 [[1913年]]
* [[日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲]] 作品84 [[1940年]]
* 『[[メタモルフォーゼン]]』(''Metamorphosen'')[[1945年]]([[弦楽合奏]])
=== 管楽合奏曲 ===
* [[13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス)|13管楽器のためのセレナード]] 作品7 1881年
* [[13管楽器のための組曲]] 作品4 1884年
* [[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィルハーモニー]]のためのファンファーレ([[金管]]と[[ティンパニ]])
* ウィーン市民のためのファンファーレ([[金管]]と[[ティンパニ]])
* ヨハネ騎士修道会の荘重な入場([[金管]]と[[ティンパニ]])
* 16管楽器のためのソナチネ第1番「傷病兵の仕事場から」
* 16管楽器のためのソナチネ第2番「楽しい仕事場」
=== 室内楽曲 ===
* [[チェロソナタ (リヒャルト・シュトラウス)|チェロ・ソナタ ヘ長調]] 作品6 [[1883年]]
* [[ヴァイオリンソナタ (リヒャルト・シュトラウス)|ヴァイオリン・ソナタ]] 作品18 [[1888年]]
* 『[[イノック・アーデン]]』作品38([[ピアノ]]と[[朗読]]) ― [[アルフレッド・テニソン]]の詩による
* [[弦楽四重奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|弦楽四重奏曲 イ長調]] 作品2 [[1880年]]
* [[ピアノ四重奏曲 (リヒャルト・シュトラウス)|ピアノ四重奏曲 ハ短調]] 作品13 [[1885年]]
== 著作 ==
* ヘルタ=ブラウコップ編『マーラーとシュトラウス ― ある世紀末の対話 往復書簡集1888〜1911』([[塚越敏]]訳/[[音楽之友社]]/1982年)
* 大野誠監修『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密 ― R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』(堀内美江訳/[[河出書房新社]]/1999年)
* ヴィリー・シュー編『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』([[中島悠爾]]訳/音楽之友社、2001年)
* [[エクトル・ベルリオーズ|エクトール・ベルリオーズ]]、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』([[小鍛冶邦隆]]監修、広瀬大介訳/音楽之友社/2006年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Richard Strauss}}
*[[オスカー・ワイルド]]
*[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]
*[[シュテファン・ツヴァイク]]
*{{仮リンク|ヨーゼフ・グレゴール|en|Joseph Gregor}}
*{{仮リンク|セオドロス・パンガロス|en|Theodoros Pangalos (general)}}[[ギリシャ第二共和政]]時代の独裁者。[[1926年]]、ギリシャにシュトラウス祝祭劇場の建設を計画した。
*[[クレメンス・クラウス]]
*[[ロマン・ロラン]]
*[[ドイツ音楽著作権協会]]
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Strauss%2C_Richard|cname=リヒャルト・シュトラウス}}
{{先代次代|[[マイニンゲン宮廷楽団]]<br />指揮者|1885年 - 1886年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]|[[フリッツ・シュタインバッハ]]}}
{{先代次代|[[ワイマール宮廷歌劇場]]<br />音楽監督|1889年 - 1894年|[[エドゥアルト・ラッセン]]|[[ペーター・ラーベ]]}}
{{先代次代|[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]<br />客演指揮者|1893年 - 1895年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]<br />(常任指揮者)|[[アルトゥール・ニキシュ]]<br />(常任指揮者)}}
{{先代次代|[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]<br />客演指揮者|1903年 - 1908年|[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世]]<br />(常任指揮者)|[[フェリックス・ワインガルトナー]]<br />(常任指揮者)}}
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{{バイエルン国立歌劇場 音楽総監督}}
{{ベルリン国立歌劇場 音楽総監督}}
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[[Category:ドイツの作曲家]]
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整数計画問題
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整数計画問題(せいすうけいかくもんだい)は、線型計画問題において、解ベクトルxの各要素を整数に限定した問題をいう。これはNP困難な問題に該当する。線型計画問題には多項式時間アルゴリズムが存在するのに対し、整数計画問題ではまだ見つかっていない。
解ベクトルxの各要素を0または1のみに限定したものを、特に0-1整数計画問題という。
和書:
洋書:
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整数計画問題(せいすうけいかくもんだい)は、線型計画問題において、解ベクトルxの各要素を整数に限定した問題をいう。これはNP困難な問題に該当する。線型計画問題には多項式時間アルゴリズムが存在するのに対し、整数計画問題ではまだ見つかっていない。 解ベクトルxの各要素を0または1のみに限定したものを、特に0-1整数計画問題という。
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'''整数計画問題'''(せいすうけいかくもんだい)は、[[線型計画問題]]において、解ベクトル''x''の各要素を[[整数]]に限定した問題をいう。これは[[NP困難]]な問題に該当する。線型計画問題には[[多項式時間]][[アルゴリズム]]が存在するのに対し、整数計画問題ではまだ見つかっていない。
解ベクトル'''x'''の各要素を'''0'''または'''1'''のみに限定したものを、特に'''0-1整数計画問題'''という。
== 整数計画問題として解かれる問題の例 ==
*[[頂点被覆問題]]
*[[ナップサック問題]]
*[[ハミルトン閉路問題]]
*[[巡回セールスマン問題]]
*[[集合被覆問題]]
*[[施設配置問題]]
*[[最大独立集合問題]]
*[[最小極大マッチング問題]]
*[[最大クリーク問題]]
*[[支配集合問題]]
*[[辺支配集合問題]]
*[[ビンパッキング問題]]
*[[一般化割当問題]]
== 参考になり得る図書 ==
和書:
* 今野浩:「整数計画法」,産業図書,1981.
* 今野浩・鈴木久敏編:「整数計画と組合せ最適化」,日科技連,1982.
* 久保幹雄,田村明久,松井知己(編):「応用数理計画ハンドブック」,朝倉書店,2002.
洋書:
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[[Category:最適化]]
[[Category:数学に関する記事]]
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ネプツニウム
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ネプツニウム (英: neptunium [nɛpˈtjuːniəm]) は原子番号93の元素。元素記号は Np。アクチノイド元素の一つ。また最も軽い超ウラン元素でもある。銀白色の金属で、展性、延性に富んでいる。常温、常圧(25°C、1atm)での安定な結晶構造は斜方晶系。280 °C付近から正方晶系となり、更に580 °C付近より体心立方構造 (BCC) が安定となる。比重は20.45、融点は640 °C、沸点は3900 °C。原子価は+3から+7価(+5価が安定)。
ネプツニウム239の半減期は2.4日。ウラン238は天然にも存在するので、ネプツニウム239、プルトニウム239は天然にもごく僅かに存在する。他にネプツニウム236(半減期15.4万年)、ネプツニウム237(半減期214万年)などがある。
ネプツニウム237はネプツニウム系列(ネプツニウム237からタリウム205までの崩壊過程の系列)の親核種である。この系列の元素で半減期が一番長いネプツニウム237でも半減期が214万年しかないため、この系列は天然には極めて稀にしか存在しないが、最終系列核種のビスマス、タリウムはごく普遍的に天然に存在する。また、ウラン鉱の中から極微量のネプツニウムが核種崩壊の際の副産物としてしばしば発見される。ネプツニウム237は、核兵器の爆発によって生成する。
海王星の neptune が語源となり、ネプツニウムと名付けられた。
奇しくも、その元素記号はかつて幻に終わったニッポニウムと同じ Np があてがわれた。なお21世紀初頭現在では、過去に提案された名前は混乱回避の観点から新元素の名前としては使えなくなっている。
1934年にエンリコ・フェルミらのグループは様々な物質に中性子を当てる実験を行い、質量数が1つ大きな同位体となったのちにベータ崩壊して原子番号の1つ大きな原子になることを観察している。その中でウランから生じた核種の中に、鉛以上の核種としては同定できないものが1つあったため、93番元素の可能性が示唆された。これについてオットー・ハーンやリーゼ・マイトナーらが詳しく調べたところ多くのベータ崩壊が見付かり、93番以降も97番元素まで合成が進んでいた可能性が示された。だが1938年の末頃になって、観察された多くのベータ崩壊はウランの核分裂で生じたバリウムなどの放射性同位体に由来することが判明した。しかしながら少なくとも半減期23分のウラン同位体のベータ崩壊については確認されたため、93番元素の可能性は残された。
ネプツニウムはまた、ニッポニウムの事例に続いて日本人が発見に関わっていた元素としても知られる。1940年に理化学研究所(理研)では逆にウラン238から中性子を1個取り除いたウラン237の合成実験を独自に行っている。そのベータ崩壊が確認できたことからネプツニウム237が生じたことになり、仁科芳雄は93番元素の存在を見出した。しかし当時理研では単離まで行かなかったため発見とは認められず、第2のニッポニウム実現には至らなかった。
その直後、1940年の暮れになると、マクミラン、アベルソン(アーベルソン)がウラン238に中性子を当てて、ネプツニウム239を作った。こちらは単離が実現したため、人工的に作られた最初の超ウラン元素として認められた。
ネプツニウムは外観は銀のようで、ほかの元素と活発に化学反応を起こす。 また、ネプツニウムは温度によって結晶構造が異なる。
また、ネプツニウムは四つの酸化状態が存在する。
ネプツニウムはプルトニウム238製造の際に用いられる。
また、ネプツニウムは、燃えないウラン238が中性子を浴びて原子力発電等に使用されるプルトニウム239に「中性子捕獲核種変換」する中間生成物でもある。(高速増殖炉のブランケットで劣化ウランをプルトニウムに変えるのがこの反応である)
なお、アイソトープ電池に使用されるプルトニウム238はウラン238の (d,2n) 反応でネプツニウム238を作ることで生産されている。
ネプツニウムは核分裂性で、理論上、核燃料として使用することができる。1992年には、アメリカ合衆国のエネルギー省がネプツニウム237が「核起爆装置のために使用できる。」という機密扱いの事項を解禁した。なお、核兵器製造には利用されていない。
前述のように戦時中は理研がネプツニウムの発見を自力で行っている。その技術は核開発に繋がる懸念を生み、戦後処理の一環として理研の加速器は破壊処理された。以降、日本はニホニウムの発見まで60年近くにわたり元素発見の最前線から遠ざかることになる。
ネプツニウムはウラン鉱の中から極微量見つかる。特にネプツニウム237は、ウラン鉱中に於いてプルトニウム239生成の際の副産物としてしばしば発見される。このため、プルトニウム239の親核種としてネプツニウム239の存在も確認されている。
ネプツニウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性同位体である。ネプツニウムには19の同位体が存在し、質量範囲はネプツニウム225からネプツニウム244まで及ぶ。比較的安定している同位体は214万年の半減期を持つネプツニウム237、15万4000年の半減期を持つネプツニウム236、396日の半減期を持つネプツニウム235が存在する。残りの同位体は4.5日未満の半減期を持っており、また大多数これらの同位体のほとんどが50分未満の半減期を持っている。また、ネプツニウムには4つの核異性体の同位体が存在し、もっとも長い半減期を持つのは Np で22.5時間の半減期を持っている。
このような化合物は土の中やウラン鉱の中に極微量含まれている。
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"text": "ネプツニウムは核分裂性で、理論上、核燃料として使用することができる。1992年には、アメリカ合衆国のエネルギー省がネプツニウム237が「核起爆装置のために使用できる。」という機密扱いの事項を解禁した。なお、核兵器製造には利用されていない。",
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"text": "前述のように戦時中は理研がネプツニウムの発見を自力で行っている。その技術は核開発に繋がる懸念を生み、戦後処理の一環として理研の加速器は破壊処理された。以降、日本はニホニウムの発見まで60年近くにわたり元素発見の最前線から遠ざかることになる。",
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"text": "ネプツニウムはウラン鉱の中から極微量見つかる。特にネプツニウム237は、ウラン鉱中に於いてプルトニウム239生成の際の副産物としてしばしば発見される。このため、プルトニウム239の親核種としてネプツニウム239の存在も確認されている。",
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"text": "ネプツニウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性同位体である。ネプツニウムには19の同位体が存在し、質量範囲はネプツニウム225からネプツニウム244まで及ぶ。比較的安定している同位体は214万年の半減期を持つネプツニウム237、15万4000年の半減期を持つネプツニウム236、396日の半減期を持つネプツニウム235が存在する。残りの同位体は4.5日未満の半減期を持っており、また大多数これらの同位体のほとんどが50分未満の半減期を持っている。また、ネプツニウムには4つの核異性体の同位体が存在し、もっとも長い半減期を持つのは Np で22.5時間の半減期を持っている。",
"title": "同位体"
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"text": "このような化合物は土の中やウラン鉱の中に極微量含まれている。",
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ネプツニウム は原子番号93の元素。元素記号は Np。アクチノイド元素の一つ。また最も軽い超ウラン元素でもある。銀白色の金属で、展性、延性に富んでいる。常温、常圧(25℃、1atm)での安定な結晶構造は斜方晶系。280 °C付近から正方晶系となり、更に580 °C付近より体心立方構造 (BCC) が安定となる。比重は20.45、融点は640 °C、沸点は3900 °C。原子価は+3から+7価(+5価が安定)。 ネプツニウム239の半減期は2.4日。ウラン238は天然にも存在するので、ネプツニウム239、プルトニウム239は天然にもごく僅かに存在する。他にネプツニウム236(半減期15.4万年)、ネプツニウム237(半減期214万年)などがある。 ネプツニウム237はネプツニウム系列(ネプツニウム237からタリウム205までの崩壊過程の系列)の親核種である。この系列の元素で半減期が一番長いネプツニウム237でも半減期が214万年しかないため、この系列は天然には極めて稀にしか存在しないが、最終系列核種のビスマス、タリウムはごく普遍的に天然に存在する。また、ウラン鉱の中から極微量のネプツニウムが核種崩壊の際の副産物としてしばしば発見される。ネプツニウム237は、核兵器の爆発によって生成する。
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{{Expand English|Neptunium|date=2023-11}}
{{Elementbox
|name=neptunium
|japanese name=ネプツニウム
|pronounce={{IPAc-en|n|ɛ|p|ˈ|t|juː|n|i|əm}}<br />{{respell|nep|TEW|nee-əm}}
|number=93
|symbol=Np
|left=[[ウラン]]
|right=[[プルトニウム]]
|above=[[プロメチウム|Pm]]
|below=[[ウンクアドトリウム|Uqt]]
|series=アクチノイド
|group=n/a
|period=7
|block=f
|image name=neptunium2.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=[237]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 7s<sup>2</sup> 6d<sup>1</sup> 5f<sup>4</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 22, 9, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=20.25 (20℃,α-Np)
19.86 (313℃,β-Np)
|melting point K=910
|melting point C=637
|melting point F=1179
|boiling point K=4273
|boiling point C=4000
|boiling point F=7232
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|vapor pressure 1=2194
|vapor pressure 10=2437
|vapor pressure 100=
|vapor pressure 1 k=
|vapor pressure 10 k=
|vapor pressure 100 k=
|vapor pressure comment=
|crystal structure comment=斜方晶系 (α-Np)
正方晶系 (β-Np)
体心立方格子 (γ-Np)
|oxidation states=7, 6, '''5''', 4, 3([[両性酸化物]])
|electronegativity=1.36
|number of ionization energies=1
|1st ionization energy=604.5
|atomic radius=155
|covalent radius=190 ± 1
|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012年1月12日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
|electrical resistivity=(22 {{℃}}) 1.220 µ
|thermal conductivity=6.3
|CAS number=7439-99-8
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ネプツニウム235|235]] | sym=Np | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|396.1 d]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=5.192 | pn1=[[プロトアクチニウム231|231]] | ps1=[[プロトアクチニウム|Pa]]
| dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2=0.124 | pn2=[[ウラン235|235]] | ps2=[[ウラン|U]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[ネプツニウム236|236]] | sym=Np | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E12 s|1.54 × 10<sup>5</sup> y]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=0.940 | pn1=[[ウラン236|236]] | ps1=[[ウラン|U]]
| dm2=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de2=0.940 | pn2=[[プルトニウム236|236]] | ps2=[[プルトニウム|Pu]]
| dm3=[[アルファ崩壊|α]] | de3=5.020 | pn3=[[プロトアクチニウム232|232]] | ps3=[[プロトアクチニウム|Pa]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ネプツニウム237|237]] | sym=Np | na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E13 s|2.144 × 10<sup>6</sup> y]]
| dm=[[自発核分裂|SF]]/[[アルファ崩壊|α]] | de=4.959 | pn=[[プロトアクチニウム233|233]] | ps=[[プロトアクチニウム|Pa]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ネプツニウム239|239]] | sym=Np | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E5 s|2.356 d]]
| dm=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de=0.218 | pn=[[プルトニウム239|239]] | ps=[[プルトニウム|Pu]]}}
|isotopes comment=
}}
'''ネプツニウム''' ({{lang-en-short|neptunium}} {{IPA-en|nɛpˈtjuːniəm|}}) は[[原子番号]]93の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Np'''。[[アクチノイド]]元素の一つ。また最も軽い[[超ウラン元素]]でもある。銀白色の[[金属]]で、展性、延性に富んでいる。常温、常圧(25℃、1atm)での安定な結晶構造は[[斜方晶系]]。280 {{℃}}付近から[[正方晶系]]となり、更に580 {{℃}}付近より[[体心立方構造]] (BCC) が安定となる。[[比重]]は20.45、[[融点]]は640 {{℃}}、[[沸点]]は3900 {{℃}}。[[原子価]]は+3から+7価(+5価が安定)。
ネプツニウム239の[[半減期]]は2.4日。[[ウラン238]]は天然にも存在するので、ネプツニウム239、プルトニウム239は天然にもごく僅かに存在する。他にネプツニウム236(半減期15.4万年)、ネプツニウム237(半減期214万年)などがある。
ネプツニウム237は[[ネプツニウム系列]](ネプツニウム237から[[タリウム205]]までの崩壊過程の系列)の親核種である。この系列の元素で半減期が一番長いネプツニウム237でも半減期が214万年しかないため、この系列は天然には極めて稀にしか存在しないが、最終系列核種の[[ビスマス]]、[[タリウム]]はごく普遍的に天然に存在する。また、[[天然ウラン|ウラン鉱]]の中から極微量のネプツニウムが核種崩壊の際の副産物としてしばしば発見される。ネプツニウム237は、核兵器の爆発によって生成する<ref>[http://www.cnic.jp/knowledge/2608 "原子力資料情報室."原発きほん知識-放射能ミニ知識- ネプツニウム-237(237Np)"]</ref>。
== 名称 ==
[[海王星]]の ''neptune'' が語源<ref name="sakurai" />となり、ネプツニウムと名付けられた。
奇しくも、その元素記号はかつて幻に終わったニッポニウムと同じ '''Np''' があてがわれた。なお[[21世紀]]初頭現在では、過去に提案された名前は混乱回避の観点から新元素の名前としては使えなくなっている<ref name="113history" />。
== 歴史 ==
[[1934年]]に[[エンリコ・フェルミ]]らのグループは様々な物質に中性子を当てる実験を行い、質量数が1つ大きな同位体となったのちにベータ崩壊して原子番号の1つ大きな原子になることを観察している。その中で[[ウラン]]から生じた核種の中に、鉛以上の核種としては同定できないものが1つあったため、93番元素の可能性が示唆された。これについて[[オットー・ハーン]]や[[リーゼ・マイトナー]]らが詳しく調べたところ多くのベータ崩壊が見付かり、93番以降も97番元素まで[[元素合成|合成]]が進んでいた可能性が示された。だが[[1938年]]の末頃になって、観察された多くのベータ崩壊はウランの核分裂で生じたバリウムなどの放射性同位体に由来することが判明した。しかしながら少なくとも半減期23分のウラン同位体のベータ崩壊については確認されたため、93番元素の可能性は残された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_16-02-02-03.html|title=超ウラン元素の発見|publisher=原子力百科事典(高度情報科学技術研究機構)|accessdate=2016-02-22}}</ref>
ネプツニウムはまた、[[レニウム#歴史|ニッポニウム]]の事例に続いて日本人が発見に関わっていた元素としても知られる<ref name="113history">{{Cite web|和書|url=http://www.nishina.riken.jp/113/history.html|title=元素発見の歴史/113番元素特設ページ|publisher=理化学研究所 仁科加速器研究センター|accessdate=2016-02-17}}</ref>。[[1940年]]に[[理化学研究所]](理研)では逆にウラン238から中性子を1個取り除いたウラン237の合成実験を独自に行っている。そのベータ崩壊が確認できたことからネプツニウム237が生じたことになり、[[仁科芳雄]]は93番元素の存在を見出した。しかし当時理研では単離まで行かなかったため発見とは認められず、第2のニッポニウム実現には至らなかった。
その直後、1940年の暮れになると、[[エドウィン・マクミラン|マクミラン]]、[[フィリップ・アベルソン|アベルソン]](アーベルソン)が[[ウラン]]238に[[中性子]]を当てて、ネプツニウム239を作った<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 379 - 380|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。こちらは単離が実現したため、人工的に作られた最初の[[超ウラン元素]]として認められた。
== 特徴 ==
ネプツニウムは外観は[[銀]]のようで、ほかの[[元素]]と活発に[[化学反応]]を起こす。
また、ネプツニウムは温度によって[[結晶構造]]が異なる。
; αネプツニウム
: 280 {{℃}}以下の状態のネプツニウムで、[[斜方晶系]]である。
: 密度は20250 kg/m<sup>3</sup>
; βネプツニウム
: 280 {{℃}}以上577 {{℃}}以下の状態のネプツニウムで、[[正方晶系]]である。
: 密度は19360 kg/m<sup>3</sup>
; γネプツニウム
: 577 {{℃}}以上の状態のネプツニウムで、[[立方晶系]]である。
: 密度は18000 kg/m<sup>3</sup>
また、ネプツニウムは四つの酸化状態が存在する。
; Np<sup>3+</sup>
: 淡い紫色をしており、[[プロメチウム|Pm]]<sup>3+</sup> に類似している。
; Np<sup>4+</sup>
: 黄緑色をしており、Pm<sup>4+</sup> に類似している。
== 用途 ==
ネプツニウムはプルトニウム238製造の際に用いられる。
また、ネプツニウムは、燃えないウラン238が中性子を浴びて原子力発電等に使用される[[プルトニウム239]]に「[[中性子捕獲]]核種変換」する中間生成物でもある。([[高速増殖炉]]のブランケットで劣化ウランをプルトニウムに変えるのがこの反応である)
:ウラン238+中性子 → ウラン239 → [[β崩壊]] → ネプツニウム239 → ベータ崩壊 → プルトニウム239。
:「ウラン238+中性子 → ウラン239 → [[β崩壊]] → ネプツニウム239」の部分は[[中性子捕獲]]反応。
なお、アイソトープ電池に使用されるプルトニウム238はウラン238の (d,2n) 反応でネプツニウム238を作ることで生産されている。
=== 核兵器の製造 ===
ネプツニウムは[[核分裂反応|核分裂]]性で、理論上、[[核燃料]]として使用することができる。1992年には、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ合衆国エネルギー省|エネルギー省]]がネプツニウム237が「核起爆装置のために使用できる。」という機密扱いの事項を解禁した。なお、核兵器製造には利用されていない。
前述のように戦時中は理研がネプツニウムの発見を自力で行っている。その技術は核開発に繋がる懸念を生み、戦後処理の一環として理研の加速器は破壊処理された。以降、日本は[[ニホニウム]]の発見まで60年近くにわたり元素発見の最前線から遠ざかることになる。
== 天然での存在 ==
ネプツニウムはウラン鉱の中から極微量見つかる。特にネプツニウム237は、ウラン鉱中に於いてプルトニウム239生成の際の副産物としてしばしば発見される。このため、プルトニウム239の親核種としてネプツニウム239の存在も確認されている。
== 同位体 ==
{{main|ネプツニウムの同位体}}
ネプツニウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性同位体である。ネプツニウムには19の同位体が存在し、質量範囲はネプツニウム225からネプツニウム244まで及ぶ。比較的安定している同位体は214万年の半減期を持つネプツニウム237、15万4000年の半減期を持つネプツニウム236、396日の半減期を持つネプツニウム235が存在する。残りの同位体は4.5日未満の半減期を持っており、また大多数これらの同位体のほとんどが50分未満の半減期を持っている。また、ネプツニウムには4つの[[核異性体]]の同位体が存在し、もっとも長い半減期を持つのは <sup>236m</sup>Np で22.5時間の半減期を持っている。
== ネプツニウムの化合物 ==
* ネプツニル(V)イオン (<chem>NpO2^+</chem>) - 青緑色をしている。
* ネプツニル(VI)イオン (<chem>NpO2^{2+}</chem>) - 淡いピンク色をしている。
* [[酸化ネプツニウム(IV)]] (<chem>NpO2</chem>) - 緑色の結晶である。
* [[八酸化三ネプツニウム]] (<chem>Np3O8</chem>)
このような化合物は土の中やウラン鉱の中に極微量含まれている。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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* [[小川正孝]]
* [[テクネチウム]]
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{{ネプツニウムの化合物}}
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スティーブン・クック
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スティーブン・クック(Stephen A. Cook, 1939年12月14日 - )は、米国・カナダの計算機科学者・数学者。専門は計算理論、特に計算複雑性理論の論理学的側面や証明複雑性(英語版)の研究に従事している。2012年現在、トロント大学計算機科学科と数学科の教授である。
ニューヨーク州バッファロー生まれ。1961年ミシガン大学卒業。ハーバード大学で1962年に修士号、1966年に博士号取得。同年カリフォルニア大学バークレー校数学科助教授となったが、1970年には在職権を更新できなかった。バークレーの電気工学・計算機科学科の30周年式典でのスピーチで、チューリング賞受賞者で同大学教授リチャード・カープは「数学科を説得して彼に在職権を与えさせられなかったのは、我々の永遠の恥辱である」と述べた。同年トロント大学計算機科学・数学科の准教授となり、1975年には教授、1985年には大学教授 (University Professor) となった(現職)。
博士課程では、関数、特に乗法の複雑性を研究。1966年に博士号を取得した。数年後の1971年の論文 "The Complexity of Theorem Proving Procedures"(定理証明手続きの複雑性)で、多項式時間変換(チューリング還元)の記法とNP完全性を定式化し、充足可能性問題 (SAT) がNP完全だと示すことでNP完全問題の存在を証明した。特に後者の件はソビエト連邦のレオニード・レビン(英語版)も独自に発見しており、クック-レビンの定理(英語版)と呼ばれている。その論文では計算機科学最大の問題である「P対NP問題」も定式化している。「P対NP問題」は非形式的には、答えの正しさや最適さを効率的に確認できるあらゆる最適化問題について効率的アルゴリズムで最適に解くことができるかどうか、という問題である。日常生活におけるそのような最適化問題は豊富に存在するので、「P対NP問題」への肯定的な答えが得られれば、実用的にも哲学的にも意義深い結果となる。
クックは、(容易に解を検証可能な)最適化問題の中に効率的アルゴリズムで解けないものがある、すなわち P と NP は等しくないと予想した。この予想は計算複雑性理論の研究を活発化させ、それによって計算問題の本質的複雑性への理解が深まり、効率的に計算できる問題についても理解が深まった。クックのP≠NP予想は今も証明されておらず、有名な7つのミレニアム懸賞問題の1つとされている。
その計算複雑性理論への多大な貢献により、82年のチューリング賞を受賞。 受賞理由は次の通り。
重要かつ意義深い方法で我々の計算複雑性への理解を高めさせた貢献に対して。彼の重要な論文 The Complexity of Theorem Proving Procedures は1971年 ACM SIGACT 計算理論シンポジウムで発表され、NP完全性の理論の基礎となった。過去10年間、この領域は計算機科学の中でも最も活発な研究の場となった。
1975年に発表した論文 "Feasibly Constructive Proofs and the Propositional Calculus"で、多項式時間の概念のみを使った証明の記述を定式化するPV (Polynomial-time Verifiable) 方程式理論を提唱。1979年には指導学生 Robert A. Reckhow と連名の論文 "The Relative Efficiency of Propositional Proof Systems"では、p-simulation と効率的な命題証明系(英語版)の記法を定式化し、そこから命題論理証明複雑性(英語版)と呼ばれる分野が生まれた。彼らは「あらゆる真の論理式について短い証明がある証明系の存在」と NP = coNP が等価であることを証明した。クックはこの分野について指導学生 Phuong The Nguyen と共同で "Logical Foundations of Proof Complexity" という本を執筆している。
クックの主な研究領域は計算複雑性理論と証明複雑性(英語版)であり、プログラム意味論、並列計算、人工知能にも関心を寄せている。
王立協会とカナダ王立協会のフェローである。また、米国科学アカデミーとアメリカ芸術科学アカデミーの会員にも選ばれている。これまでに30人の学生が彼の指導で博士号を取得している。
子どもは2人おり、2012年現在は妻と共にトロント在住。趣味はヴァイオリンとセーリング。
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スティーブン・クックは、米国・カナダの計算機科学者・数学者。専門は計算理論、特に計算複雑性理論の論理学的側面や証明複雑性の研究に従事している。2012年現在、トロント大学計算機科学科と数学科の教授である。
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{{Infobox Scientist
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'''スティーブン・アーサー・クック'''(''Stephen Arthur. Cook'', [[1939年]][[12月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国|米国]]・[[カナダ]]の[[計算機科学者]]・[[数学者]]。専門は[[計算理論]]、特に[[計算複雑性理論]]の[[数理論理学|論理学]]的側面や{{仮リンク|証明複雑性|en|proof complexity}}の研究に従事している。2012年現在、[[トロント大学]]計算機科学科と数学科の[[教授]]である。
== 経歴 ==
[[ニューヨーク州]][[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]生まれ。[[1961年]][[ミシガン大学]]卒業。[[ハーバード大学]]で1962年に修士号、1966年に[[博士号]]取得。同年[[カリフォルニア大学バークレー校]]数学科[[助教授]]となったが、1970年には在職権を更新できなかった。バークレーの電気工学・計算機科学科の30周年式典でのスピーチで、チューリング賞受賞者で同大学教授[[リチャード・カープ]]は「数学科を説得して彼に在職権を与えさせられなかったのは、我々の永遠の恥辱である」と述べた<ref>[http://www.eecs.berkeley.edu/BEARS/CS_Anniversary/karp-talk.html A Personal View of Computer Science at Berkeley - Richard Karp]</ref>。同年[[トロント大学]]計算機科学・数学科の[[准教授]]となり、1975年には[[教授]]、1985年には大学教授 (University Professor) となった(現職)。
== 研究 ==
博士課程では、関数、特に乗法の複雑性を研究。1966年に博士号を取得した。数年後の1971年の論文 "The Complexity of Theorem Proving Procedures"(定理証明手続きの複雑性)<ref>[http://www.cs.toronto.edu/~sacook/homepage/1971.pdf "The Complexity of Theorem Proving Procedures"], PDF file of a scanned version</ref><ref>[http://4mhz.de/cook.html "The Complexity of Theorem Proving Procedures"], PDF file of a retyped version</ref>で、[[多項式時間変換]]([[チューリング還元]])の記法と[[NP完全問題|NP完全]]性を定式化し、[[充足可能性問題]] (SAT) がNP完全だと示すことで[[NP完全問題]]の存在を証明した。特に後者の件は[[ソビエト連邦]]の{{仮リンク|レオニード・レビン|en|Leonid Levin}}も独自に発見しており、{{仮リンク|クック-レビンの定理|en|Cook-Levin theorem}}と呼ばれている。その論文では計算機科学最大の問題である「[[P≠NP予想|P対NP問題]]」も定式化している。「P対NP問題」は非形式的には、答えの正しさや最適さを効率的に確認できるあらゆる最適化問題について効率的アルゴリズムで最適に解くことができるかどうか、という問題である。日常生活におけるそのような最適化問題は豊富に存在するので、「P対NP問題」への肯定的な答えが得られれば、実用的にも哲学的にも意義深い結果となる。
クックは、(容易に解を検証可能な)最適化問題の中に効率的アルゴリズムで解けないものがある、すなわち [[P (計算複雑性理論)|P]] と [[NP]] は等しくないと予想した。この予想は[[計算複雑性理論]]の研究を活発化させ、それによって計算問題の本質的複雑性への理解が深まり、効率的に計算できる問題についても理解が深まった。クックの[[P≠NP予想]]は今も証明されておらず、有名な7つの[[ミレニアム懸賞問題]]の1つとされている<ref>[http://www.claymath.org/millennium/P_vs_NP/ P vs. NP] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131014194456/http://www.claymath.org/millennium/P_vs_NP/ |date=2013年10月14日 }} problem on [[ミレニアム懸賞問題|Millennium Prize Problems]] page - [[クレイ数学研究所|Clay Mathematics Institute]]</ref><ref>[http://www.claymath.org/millennium/P_vs_NP/pvsnp.pdf P vs. NP] problem's official description by Stephen Cook on [[ミレニアム懸賞問題|Millennium Prize Problems]]</ref>。
その計算複雑性理論への多大な貢献により、[[1982年|82年]]の[[チューリング賞]]を受賞。 受賞理由は次の通り。
<blockquote>重要かつ意義深い方法で我々の計算複雑性への理解を高めさせた貢献に対して。彼の重要な論文 ''The Complexity of Theorem Proving Procedures'' は1971年 ACM SIGACT 計算理論シンポジウムで発表され、NP完全性の理論の基礎となった。過去10年間、この領域は計算機科学の中でも最も活発な研究の場となった。</blockquote>
1975年に発表した論文 "Feasibly Constructive Proofs and the Propositional Calculus"<ref>[http://doi.acm.org/10.1145/800116.803756 "Feasibly Constructive Proofs and the Propositional Calculus"] on ACM</ref>で、多項式時間の概念のみを使った証明の記述を定式化するPV (Polynomial-time Verifiable) 方程式理論を提唱。1979年には指導学生 Robert A. Reckhow と連名の論文 "The Relative Efficiency of Propositional Proof Systems"<ref>[http://www.jstor.org/stable/2273702 "The Relative Efficiency of Propositional Proof Systems"] on JStore</ref>では、p-simulation と効率的な{{仮リンク|命題証明系|en|propositional proof system}}の記法を定式化し、そこから命題論理{{仮リンク|証明複雑性|en|proof complexity}}と呼ばれる分野が生まれた。彼らは「あらゆる真の論理式について短い証明がある証明系の存在」と [[NP]] = [[Co-NP|coNP]] が等価であることを証明した。クックはこの分野について指導学生 Phuong The Nguyen と共同で "Logical Foundations of Proof Complexity" という本を執筆している<ref>[http://www.cup.es/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521517294 "Logical Foundations of Proof Complexity"]'s official page</ref>。
クックの主な研究領域は[[計算複雑性理論]]と{{仮リンク|証明複雑性|en|proof complexity}}であり、[[プログラム意味論]]、[[並列計算]]、[[人工知能]]にも関心を寄せている。
== 受賞歴 ==
* 1977年 - Steacie Fellowship
* 1982年 - Killam Research Fellowship
* 1982年 - [[チューリング賞]]
* 1999年 - [[:en:CRM-Fields-PIMS prize|CRM-Fields-PIMS prize]]
* 2006年 - [[:en:John L. Synge Award|John L. Synge Award]]
* 2008年 - [[Association for Computing Machinery]] (ACM) フェロー<ref>[http://fellows.acm.org/fellow_citation.cfm?id=N991950&srt=year&year=2008 Stephen Cook] on ACM Fellows</ref>
* 2010年 - [[ヘルツバーグメダル]]
[[王立協会]]と[[カナダ王立協会]]のフェローである。また、[[米国科学アカデミー]]と[[アメリカ芸術科学アカデミー]]の会員にも選ばれている。これまでに30人の学生が彼の指導で博士号を取得している。
== 私生活 ==
子どもは2人おり、2012年現在は妻と共に[[トロント]]在住。趣味は[[ヴァイオリン]]と[[セーリング]]。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ハーバード大学の人物一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.cs.toronto.edu/~sacook/ 本人のウェブページ(英語)]
* [http://purl.umn.edu/107226 Oral history interview with Stephen Cook] at [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota.
* {{MathGenealogy|id=14011|title=Stephen Cook}}
* [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/c/Cook:Stephen_A=.html Stephen Cook] at [[:en:DBLP|DBLP]]
{{チューリング賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くつく すていふん}}
[[Category:カナダの数学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の数学者]]
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[[Category:カナダの計算機科学者]]
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[[Category:ハーバード大学出身の人物]]
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[[Category:1939年生]]
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ジョン・バッカス
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ジョン・ワーナー・バッカス(John Warner Backus, 1924年12月3日 - 2007年3月17日)は、アメリカ合衆国の数学者。初期の高水準プログラミング言語 (FORTRAN) の発明者、(形式言語の文法の定義に汎用的に用いられる)バッカス・ナウア記法の発明者、また関数レベルプログラミング(英語版) (Function-level Programming) の提唱者でもある。
ペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれ、デラウェア州ウィルミントンで育った。ペンシルベニア州ポッツタウンの The Hill School で学んだが、まじめな学生だったとは言えない。化学を学ぶためにバージニア大学に進学したが挫折し、アメリカ陸軍に入隊。ハバフォード大学で医療を学びはじめ、病院でのインターン時代に頭蓋の骨腫瘍と診断されたものの、手術は成功した。手術で頭にプレートを入れられ、9カ月で医療の道をあきらめたが、後に自分が設計したプレートに入れ替える手術を行った。
ニューヨーク市に移り住み、ラジオ技術者としての訓練を受け始め、数学が向いていることに気づいた。彼は1949年にコロンビア大学で数学の修士号を取得し、1950年にIBMに入社した。IBMでの最初の3年間、彼はSSECを使った仕事に従事した。最初の大きな仕事は月の位置を計算するプログラムを作成することだった。1953年、プログラミング言語 Speedcoding を開発。IBMのコンピュータで動作する初の高水準言語だった。
プログラミングが難しいことから、1954年になるとバッカスはチームを結成して IBM 704 コンピュータのためのFORTRANの設計と開発を行った。これは世界初の高水準プログラミング言語ではないものの、広く使われた世界初の高水準言語となった。
1950年代後半、バッカスは ALGOL 58 を開発した国際委員会の一員としても働いた。ALGOLはアルゴリズムを記述する際の世界的なデファクトスタンダードとなった。また1959年、UNESCOレポートにおける ALGOL 58 の言語仕様記述のためバッカス・ナウア記法 (BNF) を考案。BNFは任意の文脈自由な形式言語の文法(形式文法)を記述でき、その後のプログラミング言語の開発に重要な役割を果たした。これらの貢献からチューリング賞を受賞した。
その後彼は「関数レベル」プログラミング言語(英語版) FP に取り組んだ。これはチューリング賞受賞の際の講演 "Can Programming be Liberated from the von Neumann Style?"(プログラミングはフォン・ノイマン的スタイルから解放されるか?)で述べられている。この論文は FORTRAN を生み出したことへのバッカスの謝罪と受け取られることもあり、彼の研究していた FP そのものよりも関数型プログラミング一般の研究を盛んにする結果となった。FPインタプリタは 4.2BSD 上に実装されている。FP はケネス・アイバーソンのAPLの影響を強く受けており、標準的でない文字も使っている。その後のバッカスは FP言語の後継の FL (Function Level) の開発に注力した。FL はIBM内部のプロジェクトであり、プロジェクト終了とともに言語の開発も終了し、論文もわずかしか発表されていない。しかし、この言語の革新的で重要なアイデアの数々はアイバーソンのJ言語に実装された。
バッカスは1963年にIBMフェローとなった。1993年にはチャールズ・スターク・ドレイパー賞を授与された。1991年から引退生活に入り、2007年3月17日、オレゴン州アシュランドで死去した。
2007年6月1日、小惑星 6830 にバッカスの名がつけられた(6830 Johnbackus)
チューリング賞の受賞理由は以下の通り:
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ジョン・ワーナー・バッカスは、アメリカ合衆国の数学者。初期の高水準プログラミング言語 (FORTRAN) の発明者、(形式言語の文法の定義に汎用的に用いられる)バッカス・ナウア記法の発明者、また関数レベルプログラミング の提唱者でもある。
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{{Infobox Scientist
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}}
'''ジョン・ワーナー・バッカス'''(John Warner Backus, [[1924年]][[12月3日]] - [[2007年]][[3月17日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学者]]。初期の[[高水準言語|高水準]][[プログラミング言語]] ([[FORTRAN]]) の発明者<ref>{{Cite news|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20070321000022|title=ジョン・バッカス氏死去/コンピューター言語の開発者|publisher=四国新聞社|date=2017-03-21|accessdate=2020-01-25}}</ref>、([[形式言語]]の[[統語論|文法]]の定義に汎用的に用いられる)[[バッカス・ナウア記法]]の発明者、また{{仮リンク|関数レベルプログラミング|en|function-level programming}} (Function-level Programming) の提唱者でもある。
== 生涯 ==
[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]で生まれ、[[デラウェア州]][[ウィルミントン (デラウェア州)|ウィルミントン]]で育った。ペンシルベニア州[[ポッツタウン (ペンシルベニア州)|ポッツタウン]]の [[:en:The Hill School|The Hill School]] で学んだが、まじめな学生だったとは言えない<ref name="nytobit">{{Cite news| first = Steve | last = Lohr | title = John W. Backus, 82, Fortran Developer, Dies | url = http://www.nytimes.com/2007/03/20/business/20backus.html | work = New York Times | date = March 20, 2007 | accessdate = 2007-03-21 }}</ref>。化学を学ぶために[[バージニア大学]]に進学したが挫折し、[[アメリカ陸軍]]に入隊<ref name="nytobit"/>。[[ハバフォード大学]]で医療を学びはじめ<ref>{{Cite web| url = http://web.mit.edu/invent/iow/backus.html | title = Inventor of the Week Archive John Backus | date = 2006-02 | accessdate =2011-08-25 }}</ref>、病院でのインターン時代に頭蓋の[[骨腫瘍]]と診断されたものの、手術は成功した。手術で頭にプレートを入れられ、9カ月で医療の道をあきらめたが、後に自分が設計したプレートに入れ替える手術を行った<ref>{{Cite web| url = http://archive.computerhistory.org/resources/text/Oral_History/Backus_John/Backus_John_1.oral_history.2006.102657970.pdf | format = pdf | title = Oral History of John Backus | author = Grady Booch (interviewer) | date = September 25, 2006 | accessdate =2009-08-17 }}</ref>。
[[ニューヨーク市]]に移り住み、ラジオ技術者としての訓練を受け始め、[[数学]]が向いていることに気づいた。彼は1949年に[[コロンビア大学]]で数学の修士号を取得し、1950年に[[IBM]]に入社した。IBMでの最初の3年間、彼は[[Selective Sequence Electronic Calculator|SSEC]]を使った仕事に従事した。最初の大きな仕事は[[月]]の位置を計算するプログラムを作成することだった。1953年、プログラミング言語 [[:en:Speedcoding|Speedcoding]] を開発。IBMのコンピュータで動作する初の高水準言語だった<ref>{{Cite journal|last=Allen|first=F.E.|title=The History of Language Processor Technology in IBM|journal=IBM Journal of Research Development|volume=25|issue=5, September 1981}}</ref>。
プログラミングが難しいことから、[[1954年]]になるとバッカスはチームを結成して [[IBM 704]] コンピュータのための[[FORTRAN]]の設計と開発を行った。これは世界初の高水準プログラミング言語ではないものの、広く使われた世界初の高水準言語となった。
1950年代後半、バッカスは [[ALGOL|ALGOL 58]] を開発した国際委員会の一員としても働いた。ALGOLは[[アルゴリズム]]を記述する際の世界的なデファクトスタンダードとなった。また[[1959年]]、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]レポートにおける ALGOL 58 の言語仕様記述のため[[バッカス・ナウア記法]] (BNF) を考案。BNFは任意の[[文脈自由言語|文脈自由]]な[[形式言語]]の文法([[形式文法]])を記述でき、その後の[[プログラミング言語]]の開発に重要な役割を果たした。これらの貢献から[[チューリング賞]]を受賞した。
その後彼は{{仮リンク|関数レベルプログラミング|en|Function-level programming|label=「関数レベル」プログラミング言語}} [[FP (プログラミング言語)|FP]] に取り組んだ。これはチューリング賞受賞の際の講演 "Can Programming be Liberated from the von Neumann Style?"(プログラミングはフォン・ノイマン的スタイルから解放されるか?)で述べられている。この論文は FORTRAN を生み出したことへのバッカスの謝罪と受け取られることもあり、彼の研究していた FP そのものよりも[[関数型言語|関数型プログラミング]]一般の研究を盛んにする結果となった。FP[[インタプリタ]]は [[Berkeley Software Distribution|4.2BSD]] 上に実装されている。FP は[[ケネス・アイバーソン]]の[[APL]]の影響を強く受けており、標準的でない文字も使っている。その後のバッカスは FP言語の後継の [[:en:FL (programming language)|FL]] (Function Level) の開発に注力した。FL はIBM内部のプロジェクトであり、プロジェクト終了とともに言語の開発も終了し、論文もわずかしか発表されていない。しかし、この言語の革新的で重要なアイデアの数々はアイバーソンの[[J (プログラミング言語)|J言語]]に実装された。
バッカスは1963年に[[IBMフェロー]]となった<ref name="IBM">{{Cite web| title=John Backus | work=IBM Archives | url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/builders/builders_backus.html | accessdate=March 21, 2007}}</ref>。1993年には[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]]を授与された<ref name="Draper">{{Cite web |url= http://www.nae.edu/Activities/Projects/Awards/DraperPrize/DraperWinners/page1993/55073.aspx |title=Recipients of the Charles Stark Draper Prize |accessdate=2007-03-26}}</ref>。1991年から引退生活に入り、2007年3月17日、[[オレゴン州]]アシュランドで死去した<ref name="nytobit"/>。
== 受賞歴 ==
* 1963年 - IBMフェロー<ref name="IBM" />
* 1967年 - [[:en:McDowell Award|W.W. McDowell Award]]<ref name="McDowell">{{Cite web| title=John Warner Backus - 1967 W. Wallace McDowell Award Recipient| url= http://www.computer.org/portal/web/awards/backus | accessdate= 2008-04-15}}</ref>
* 1975年 - [[アメリカ国家科学賞]]<ref name="National Science Foundation">{{Cite web| title = The President's National Medal of Science: John Backus | publisher = National Science Foundation | url = http://www.nsf.gov/od/nms/recip_details.cfm?recip_id=25 | accessdate =2007-03-21}}</ref>
* 1977年 - [[チューリング賞]]<ref name="ACM" />
* 1985年 - [[アメリカ芸術科学アカデミー]]のフェロー<ref name=AAAS>{{Cite web |title=Book of Members, 1780–2010: Chapter B |url= http://www.amacad.org/publications/BookofMembers/ChapterB.pdf |publisher=American Academy of Arts and Sciences |accessdate=2011-04-28}}</ref>
* 1989年 - [[名誉学位]]({{仮リンク|アンリ・ポアンカレ大学|en|Université Henri Poincaré}})<ref name="honoris causa">{{Cite web| title=John Backus| url= http://www.thocp.net/biographies/backus_john.htm| accessdate= 2008-04-15}}</ref>
* 1993年 - [[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]]<ref name="Draper" />
* 1997年 - [[コンピュータ歴史博物館]]フェロー(コンピュータの殿堂)<ref>{{Cite web| title=Fellow Awards 1997 Recipient John Backus| url= http://www.computerhistory.org/fellowawards/hall/bios/John,Backus/| accessdate=April 15, 2008}}</ref>
2007年6月1日、[[小惑星]] 6830 にバッカスの名がつけられた([[:en:6830 Johnbackus|6830 Johnbackus]])
チューリング賞の受賞理由は以下の通り:
* ''特にFORTRANの研究によって行われた、実用的な高水準プログラミングシステムの設計への深く、影響力のある恒久的貢献に対して。そして、プログラミング言語の仕様記述の形式的手法についての強い影響力のある出版に対して。''
* (原文) ''For profound, influential, and lasting contributions to the design of practical high-level programming systems, notably through his work on FORTRAN, and for seminal publication of formal procedures for the specification of programming languages.''<ref name="ACM">[http://awards.acm.org/citation.cfm?id=0703524&srt=alpha&alpha=B&aw=140&ao=AMTURING&yr=1977 1977 – John Backus See the ACM Author Profile in the Digital Library]</ref>
== 注釈・出典 ==
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 外部リンク ==
* [http://www-gap.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Backus.html Biography at School of Mathematics and Statistics University of St Andrews, Scotland]
* [http://www.thocp.net/biographies/backus_john.htm Biography at The History of Computing Project]
* [http://www.thocp.net/biographies/papers/backus_turingaward_lecture.pdf ''Can Programming Be Liberated From the von Neumann Style?''] 1977年チューリング賞講演
* [http://www.nytimes.com/2007/03/20/business/20backus.html?_r=1&hp&oref=slogin ''New York Times'' obituary for John W. Backus]
* [http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/builders/builders_backus.html IBM Archives]
* [http://cui.unige.ch/db-research/Enseignement/analyseinfo/AboutBNF.html About BNF]
* [http://www.computerhistory.org/fellowawards/hall/bios/John,Backus/ Hall of Fellows] [[コンピュータ歴史博物館]]
* [http://theory.stanford.edu/~aiken/other/backus.pdf Memorial delivered at the 2007 Conference on Programming Language Design and Implementation]
{{チューリング賞}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:はつかす しよん}}
[[Category:アメリカ合衆国の数学者]]
[[Category:アメリカ合衆国のプログラミング言語研究者]]
[[Category:アメリカ合衆国のプログラミング言語設計者]]
[[Category:アメリカ国家科学賞受賞者]]<!-- 1975年 -->
[[Category:チューリング賞受賞者]]<!-- 1977年 -->
[[Category:ハロルド・ペンダー賞の受賞者]]<!-- 1983年 -->
[[Category:IRIアチーブメント賞の受賞者]]<!-- 1984年 -->
[[Category:チャールズ・スターク・ドレイパー賞受賞者]]<!-- 1993年 -->
[[Category:米国科学アカデミー会員]]
[[Category:IBMフェロー]]
[[Category:コンピュータ歴史博物館フェロー]]
[[Category:デラウェア州の科学者]]
[[Category:オレゴン州の科学者]]
[[Category:ペンシルベニア州の数学者]]
[[Category:コロンビア大学出身の人物]]
[[Category:フィラデルフィア出身の人物]]
[[Category:1924年生]]
[[Category:2007年没]]
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ロバート・タージャン
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ロバート・タージャン(Robert Endre Tarjan、1948年4月30日 - )は、アメリカ合衆国の計算機科学者。
タージャンのオフライン最小共通祖先アルゴリズム(英語版)などのグラフアルゴリズムを発見し、スプレー木とフィボナッチヒープというデータ構造を共同で発明した。2012年現在はプリンストン大学で計算機科学の教授を務めており、ヒューレット・パッカードのシニアフェローでもある。
カリフォルニア州ポモナで生まれる。父は精神薄弱が専門の小児精神科医で、州立病院の院長を務めていた。子どものころSFをよく読んだタージャンは、天文学者になりたいと思っていた。その後サイエンティフィック・アメリカン誌に連載されていたマーティン・ガードナーの「数学ゲーム」を読んで数学に興味を持つようになる。8年生のころ「非常に刺激的な」教師の影響で真剣に数学を志すようになる。
高校のとき、パンチカードの照合の仕事を経験。1964年の Summer Science Program で天文学を学ぶ中で、初めて実際のコンピュータに触れている。
1969年、カリフォルニア工科大学で数学の学士号を取得。スタンフォード大学に進学して計算機科学を専攻し、1971年には修士号、1972年には Ph.D. を取得した。スタンフォードでの指導教官はロバート・フロイドとドナルド・クヌースで、どちらも有名な計算機科学者である。博士論文は An Efficient Planarity Algorithm と題したものだった。タージャンは、数学が実用的インパクトを持つことができる分野として計算機科学を専門とすることを選択したという。
その後、コーネル大学 (1972–73)、カリフォルニア大学バークレー校 (1973–1975) を経て、1977年からスタンフォード大学助教授、1981年からニューヨーク大学準教授、1985年からプリンストン大学教授を務めた。また1989年から1997年まで、NECの研究所のフェローを務めていた。
ベル研究所 (1980–1989)、InterTrust Technologies (1997–2001)、コンパック (2002) にも席を置いたことがあり、2006年以降はヒューレット・パッカードに在席している。ACMとIEEEのいくつかの委員会で委員を務め、学会誌の編集も務めたことがある。
タージャンは様々な分野の問題を解くのに適した効率的なアルゴリズムやデータ構造を多数設計している。
グラフ理論のアルゴリズムとデータ構造についての先駆的業績がよく知られている。例えば、タージャンのオフライン最小共通祖先アルゴリズム(英語版)やタージャンの強連結成分アルゴリズム(英語版)がある。ホップクロフト-タージャン平面性判定(英語版)アルゴリズムは、世界初の線形時間の(グラフの)平面性判定アルゴリズムである。
また、フィボナッチヒープ(木構造群からなるヒープデータ構造)とスプレー木(平衡2分探索木の一種で、ダニエル・スレイター(英語版)と共同開発)という重要なデータ構造を開発した。素集合データ構造の分析でも多大な貢献をしている。また、初めて逆アッカーマン関数の最適実行時間を証明した。
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ロバート・タージャンは、アメリカ合衆国の計算機科学者。 タージャンのオフライン最小共通祖先アルゴリズムなどのグラフアルゴリズムを発見し、スプレー木とフィボナッチヒープというデータ構造を共同で発明した。2012年現在はプリンストン大学で計算機科学の教授を務めており、ヒューレット・パッカードのシニアフェローでもある。
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{{Infobox Scientist
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'''ロバート・タージャン'''(Robert Endre Tarjan、[[1948年]][[4月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学者]]。
{{仮リンク|タージャンのオフライン最小共通祖先アルゴリズム|en|Tarjan's off-line least common ancestors algorithm}}などの[[グラフ理論|グラフ]]アルゴリズムを発見し、[[スプレー木]]と[[フィボナッチヒープ]]というデータ構造を共同で発明した。2012年現在は[[プリンストン大学]]で計算機科学の教授を務めており、[[ヒューレット・パッカード]]のシニアフェローでもある<ref name="HPfellow">{{Cite web| url = http://www.hpl.hp.com/about/honors/HPfellows/tarjan.html | title = HP Fellows: Robert Endre Tarjan | publisher = Hewlett-Packard | accessdate = 2008-01-09}}</ref>。
== 学生時代まで ==
[[カリフォルニア州]][[ポモナ (カリフォルニア州)|ポモナ]]で生まれる。父は精神薄弱が専門の小児精神科医で、州立病院の院長を務めていた<ref name="Out_of_Their_Minds">{{Cite book| last = Shasha | first = Dennis Elliott | coauthors = Lazere, Cathy A. | title = Out of Their Minds: The Lives and Discoveries of 15 Great Computer Scientists | publisher = Copernicus/Springer | origyear = 1995 | year = 1998 | isbn = 978-0-387-97992-2 | oclc = 32240355 | chapter = Robert E. Tarjan: In Search of Good Structure | pages = 102–119}}</ref>。子どものころSFをよく読んだタージャンは、[[天文学者]]になりたいと思っていた。その後[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌に連載されていた[[マーティン・ガードナー]]の「数学ゲーム」を読んで[[数学]]に興味を持つようになる。8年生のころ「非常に刺激的な」教師の影響で真剣に数学を志すようになる<ref name="HP_art_of_algo"/>。
高校のとき、[[パンチカード]]の照合の仕事を経験。1964年の [[:en:Summer Science Program|Summer Science Program]] で天文学を学ぶ中で、初めて実際のコンピュータに触れている<ref name="Out_of_Their_Minds"/>。
1969年、[[カリフォルニア工科大学]]で数学の[[学士]]号を取得。[[スタンフォード大学]]に進学して計算機科学を専攻し、1971年には[[修士]]号、1972年には [[Ph.D.]] を取得した。スタンフォードでの指導教官は[[ロバート・フロイド]]<ref>{{Cite web| url = http://genealogy.math.ndsu.nodak.edu/id.php?id=53460 | title = Robert Endre Tarjan | publisher = Mathematics Genealogy Project | accessdate = 2008-01-09}}</ref>と[[ドナルド・クヌース]]<ref>{{Cite web |last=Robert |first=Tarjan |title=Curriculum Vitae |url= http://www.cs.princeton.edu/~ret/Vitae2010.doc |accessdate=2012-08-21}}</ref>で、どちらも有名な計算機科学者である。博士論文は ''An Efficient Planarity Algorithm'' と題したものだった。タージャンは、数学が実用的インパクトを持つことができる分野として計算機科学を専門とすることを選択したという<ref name="HP_art_of_algo">{{Cite web| url = http://www.hpl.hp.com/news/2004/oct_dec/tarjan.html | title = Robert Endre Tarjan: The art of the algorithm (interview) | date = September 2004 | publisher = Hewlett-Packard | accessdate = 2008-01-09}}</ref>。
== 経歴 ==
その後、[[コーネル大学]] (1972–73)、[[カリフォルニア大学バークレー校]] (1973–1975) を経て、1977年から[[スタンフォード大学]]助教授、1981年から[[ニューヨーク大学]]準教授、1985年から[[プリンストン大学]]教授を務めた<ref name="HP_art_of_algo"/>。また1989年から1997年まで、[[日本電気|NEC]]の研究所のフェローを務めていた{{要出典|date=2012年7月}}。
[[ベル研究所]] (1980–1989)、InterTrust Technologies (1997–2001)、[[コンパック]] (2002) にも席を置いたことがあり、2006年以降は[[ヒューレット・パッカード]]に在席している。[[Association for Computing Machinery|ACM]]と[[IEEE]]のいくつかの委員会で委員を務め、学会誌の編集も務めたことがある{{要出典|date=2012年7月}}。
=== アルゴリズムとデータ構造 ===
タージャンは様々な分野の問題を解くのに適した効率的なアルゴリズムやデータ構造を多数設計している。
グラフ理論のアルゴリズムとデータ構造についての先駆的業績がよく知られている。例えば、{{仮リンク|タージャンのオフライン最小共通祖先アルゴリズム|en|Tarjan's off-line least common ancestors algorithm}}や{{仮リンク|タージャンの強連結成分アルゴリズム|en|Tarjan's strongly connected components algorithm}}がある。ホップクロフト-タージャン{{仮リンク|平面性判定|en|planarity testing}}アルゴリズムは、世界初の線形時間の(グラフの)平面性判定アルゴリズムである<ref>{{Cite book| last = Kocay | first = William | coauthors = Kreher, Donald L | title = Graphs, algorithms, and optimization | publisher = Chapman & Hall/CRC | location = Boca Raton | year = 2005 | isbn = 978-1-58488-396-8 | oclc = 56319851 | chapter = Planar Graphs | page = 312}}</ref>。
また、[[フィボナッチヒープ]](木構造群からなるヒープデータ構造)と[[スプレー木]]([[平衡2分探索木]]の一種で、{{仮リンク|ダニエル・スレイター|en|Daniel Sleator}}と共同開発)という重要なデータ構造を開発した。[[素集合データ構造]]の分析でも多大な貢献をしている。また、初めて逆[[アッカーマン関数]]の最適実行時間を証明した。
== 受賞歴 ==
* 1982年 - [[ネヴァンリンナ賞]]受賞
* 1984年 - [[:en:NAS Award for Initiatives in Research|NAS Award for Initiatives in Research]]
* 1986年 - [[チューリング賞]]。[[ジョン・ホップクロフト]]と共同受賞。「アルゴリズムとデータ構造の設計と分析における基礎的貢献に対して」。
* 1994年 - [[Association for Computing Machinery]] フェロー
* 1999年 - [[:en:Paris Kanellakis Award|Paris Kanellakis Award]] ([[Association for Computing Machinery|ACM]])
* 2004年 - {{仮リンク|ブレーズ・パスカル・メダル|de|Blaise-Pascal-Medaille}}({{仮リンク|ヨーロッパ科学アカデミー|en|European Academy of Sciences}})
* 2010年 - Caltech Distinguished Alumni Award([[カリフォルニア工科大学]])<ref>http://media.caltech.edu/press_releases/13332</ref>
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book| last = Tarjan | first = Robert E. | title = Data structures and network algorithms | publisher = Society for Industrial and Applied Mathematics | location = Philadelphia | year = 1983 | isbn = 978-0-89871-187-5 | oclc = 10120539}}
* {{Cite book| last = Tarjan | first = Robert E. | coauthors = Polya, George; Woods, Donald R | title = Notes on introductory combinatorics | publisher = Birkhauser | location = Boston | year = 1983 | isbn = 978-0-8176-3170-3 | oclc = 10018128}}
* [http://worldcat.org/search?q=au%3ARobert+E+Tarjan OCLC entries] for Robert E Tarjan
* [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/t/Tarjan:Robert_Endre.html DBLP entry] for Robert Endre Tarjan
== 関連項目 ==
* [[スプレー木]]
* [[素集合データ構造]]
== 外部リンク ==
* [http://dblp.uni-trier.de/db/indices/a-tree/t/Tarjan:Robert_Endre.html DBLP: Robert Endre Tarjan]
* [http://www.ipexl.com/directory/en/inventor/Tarjan_Robert_E_1.html List of Robert Tarjan's patents on IPEXL's Patent Directory]
* [http://www.cs.princeton.edu/~ret/ Robert Tarjan's home page at Princeton].
* [http://genealogy.math.ndsu.nodak.edu/id.php?id=53460 Mathematics Genealogy Project entry] for Robert Endre Tarjan.
{{チューリング賞}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:たあしやん ろはあと}}
[[Category:アメリカ合衆国の数学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の計算機科学者]]
[[Category:オライリー・オープン・ソース賞の受賞者]]<!-- 1982年 -->
[[Category:ネヴァンリンナ賞の受賞者]]<!-- 1982年 -->
[[Category:チューリング賞受賞者]]<!-- 1986年 -->
[[Category:パリス・カネラキス実践的理論賞の受賞者]]<!-- 1999年 -->
<!-- 2004年 -->
[[Category:20世紀の数学者|480430]]
[[Category:21世紀の数学者|-480430]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:プリンストン大学の教員]]
[[Category:ニューヨーク大学の教員]]
[[Category:ベル研究所の人物]]
[[Category:ACMフェロー]]
[[Category:米国科学アカデミー会員]]
[[Category:全米技術アカデミー会員]]
[[Category:カリフォルニア工科大学出身の人物]]
[[Category:ポモナ出身の人物]]
[[Category:1948年生]]
[[Category:存命人物]]
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10,700 |
ネヴァンリンナ賞
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ロルフ・ネヴァンリンナ賞(ロルフ・ネヴァンリンナしょう、Rolf Nevanlinna Prize)は、以下のような情報科学の数学的側面における優れた貢献に対して、4年に一度の国際数学者会議において授与される賞である。2022年より、IMUアバカス・メダル(IMU Abacus Medal)に改称された。
国際数学連合の実行委員会によって1981年に創設された賞で、創設の前年に亡くなったフィンランドの数学者ロルフ・ネヴァンリンナに因んで命名された。受賞者には金メダルと報奨金が授与される。フィールズ賞と同様に若手の数学者を対象としており、受賞年の1月1日時点で40歳未満の数学者のみが対象となっている。
メダルの表面には、ネヴァンリンナの横顔、"Rolf Nevanlinna Prize"という文字、そして"RH 83"という非常に小さな文字が刻まれている。"RH"はメダルをデザインしたライモ・ヘイノ(英語版)の名前を、"83"は初鋳造年を表している。裏面には、賞のスポンサーであるヘルシンキ大学に関係する2人の人物が刻印されている。メダルの縁には受賞者の名前が刻まれる。
世界数学競技連盟会長のアレクサンダー・ソイファー(英語版)は、ネヴァンリンナがヒトラーの支持者であり、第二次世界大戦中に武装親衛隊フィンランド義勇大隊(英語版)の代表として活動していたことから、ネヴァンリンナに因んだこの賞の名称に苦言を呈していた。ソイファーは2015年の著書の中でネヴァンリンナの戦時中の活動について論じており、個人的にも組織的にも賞の名称変更を求めるべきだとする要望をIMUの実行委員会に送った。2018年7月、IMUの第18回総会で、ロルフ・ネヴァンリンナの名前を賞の名称から外すことが決定された。その後、この賞はIMUアバカス・メダルに改称されることが発表された。
ネヴァンリンナ賞
アバカス・メダル
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ロルフ・ネヴァンリンナ賞は、以下のような情報科学の数学的側面における優れた貢献に対して、4年に一度の国際数学者会議において授与される賞である。2022年より、IMUアバカス・メダルに改称された。 計算複雑性理論、プログラミング言語の論理、アルゴリズム解析、暗号理論、コンピュータビジョン、パターン認識、情報処理、知能のモデル化など、計算機科学の全ての数学的側面。
計算科学と数値解析。数理最適化と制御理論の計算的側面。計算機代数。 国際数学連合の実行委員会によって1981年に創設された賞で、創設の前年に亡くなったフィンランドの数学者ロルフ・ネヴァンリンナに因んで命名された。受賞者には金メダルと報奨金が授与される。フィールズ賞と同様に若手の数学者を対象としており、受賞年の1月1日時点で40歳未満の数学者のみが対象となっている。
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[[ファイル:Médaille_Nevanlinna.jpg|代替文=Médaille_Nevanlinna|サムネイル|ロルフ・ネヴァンリンナ賞のメダル]]
'''ロルフ・ネヴァンリンナ賞'''(ロルフ・ネヴァンリンナしょう、Rolf Nevanlinna Prize)は、以下のような[[情報科学]]の[[数学]]的側面における優れた貢献に対して、4年に一度の[[国際数学者会議]]において授与される賞である。2022年より、'''IMUアバカス・メダル'''(IMU Abacus Medal)に改称された<ref name="abacus" />。
#[[計算複雑性理論]]、[[プログラミング言語]]の論理、[[アルゴリズム解析]]、[[暗号理論]]、[[コンピュータビジョン]]、[[パターン認識]]、[[情報処理]]、知能のモデル化など、[[計算機科学]]の全ての数学的側面。
#[[計算科学]]と[[数値解析]]。[[数理最適化]]と[[制御理論]]の計算的側面。{{仮リンク|計算機代数|en|Computer algebra|redirect=1}}。
[[国際数学連合]]の実行委員会によって1981年に創設された賞で、創設の前年に亡くなった[[フィンランド]]の数学者[[ロルフ・ネヴァンリンナ]]に因んで命名された。受賞者には金メダルと報奨金が授与される。[[フィールズ賞]]と同様に若手の数学者を対象としており、受賞年の1月1日時点で40歳未満の数学者のみが対象となっている<ref name="RNP-IMU">{{cite web
|title = Rolf Nevanlinna Prize
|publisher = International Mathematical Union
|date = 2004-09-07
|url = http://www.mathunion.org/general/prizes/nevanlinna/details/
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}}</ref>。
== メダル ==
メダルの表面には、ネヴァンリンナの横顔、"Rolf Nevanlinna Prize"という文字、そして"RH 83"という非常に小さな文字が刻まれている。"RH"はメダルをデザインした{{仮リンク|ライモ・ヘイノ|en|Raimo Heino}}の名前を、"83"は初鋳造年を表している。裏面には、賞のスポンサーである[[ヘルシンキ大学]]に関係する2人の人物が刻印されている。メダルの縁には受賞者の名前が刻まれる<ref>{{cite web |title = History of the Rolf Nevanlinna Prize |last = Lehto |first = Olli |publisher = International Mathematical Union |date = August 12, 1998 |url = http://www.mathunion.org/general/prizes/nevanlinna/details/ |accessdate = 2007-01-30 |url-status = dead |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080513204140/http://www.mathunion.org/general/prizes/nevanlinna/details/ |archivedate = May 13, 2008}}</ref>。
== 名称の変更 ==
世界数学競技連盟会長の{{仮リンク|アレクサンダー・ソイファー|en|Alexander Soifer}}は、ネヴァンリンナがヒトラーの支持者であり、[[第二次世界大戦]]中に{{仮リンク|武装親衛隊フィンランド義勇大隊|en|Finnish Volunteer Battalion of the Waffen-SS}}の代表として活動していたことから、ネヴァンリンナに因んだこの賞の名称に苦言を呈していた。ソイファーは2015年の著書の中でネヴァンリンナの戦時中の活動について論じており、個人的にも組織的にも賞の名称変更を求めるべきだとする要望をIMUの実行委員会に送った<ref>{{cite web |title = The Secretive Life of the International Mathematics Union |publisher = Alexander Soifer |date = 2017-07-01 |url = https://geombina.uccs.edu/?page_id=1715|accessdate=2020-04-29}}</ref><ref>{{cite web |title = The Scholar and the State: In Search of Van der Waerden, pages 189 and 286-288 |work = Alexander Soifer |publisher = Birkhäuser, Basel; 1st edition |date = 2015 |url = https://www.springer.com/us/book/9783034807111|accessdate=2020-04-29}}</ref>。2018年7月、IMUの第18回総会で、ロルフ・ネヴァンリンナの名前を賞の名称から外すことが決定された<ref>{{cite web | url=https://www.mathunion.org/fileadmin/IMU/Organization/GA/Resolutions/Resolutions2018r.pdf | title=Resolutions of the IMU General Assembly 2018 – Resolution 7 | publisher=International Mathematical Union | accessdate=March 12, 2019}}</ref>。その後、この賞はIMUアバカス・メダルに改称されることが発表された<ref name=abacus>{{cite magazine|url=https://scilogs.spektrum.de/hlf/imu-abacus-medal/|first=Katie|last=Steckles|date=May 23, 2019|magazine=Spektrum der Wissenschaft|department=Heidelberg Laureate Forum Blog|title=IMU Abacus Medal}}</ref>。
== 受賞者 ==
ネヴァンリンナ賞
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|-
! 年
! 受賞者
! 国籍
|-
| 1982年
| [[ロバート・タージャン]]
| {{USA}}
|-
| 1986年
| [[レスリー・ヴァリアント]]
| {{GBR}}
|-
| 1990年
| {{仮リンク|アレクサンドル・ラズボロフ|en|Alexander Razborov}}
| {{RUS}}
|-
| 1994年
| [[アヴィ・ヴィグダーソン]]
| {{ISR}}
|-
| 1998年
| [[ピーター・ショア]]
| {{USA}}
|-
| 2002年
| {{仮リンク|マデュ・スーダン|en|Madhu Sudan}}
| {{IND}}/{{USA}}
|-
| 2006年
| {{仮リンク|ジョン・クレインバーグ|en|Jon Kleinberg}}
| {{USA}}
|-
| 2010年
| [[ダニエル・スピールマン]]<ref>[http://www.icm2010.com/livevideo.asp Live video of ICM 2010] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100818075327/http://www.icm2010.com/livevideo.asp |date=2010-08-18 }}</ref>
| {{USA}}
|-
| 2014年
| {{仮リンク|スバス・コート|en|Subhash Khot}}<ref>{{cite web |url=https://www.mathunion.org/imu-awards/rolf-nevanlinna-prize/rolf-nevanlinna-prize-2014 |title=Rolf Nevanlinna Prize 2014 |website=mathunion.org|accessdate=2020-04-29}}</ref>
| {{IND}}/{{USA}}
|-
| 2018年
| {{仮リンク|コンスタンティノス・ダスカラキス|en|Constantinos Daskalakis}}<ref>{{cite web |url=https://www.mathunion.org/imu-awards/rolf-nevanlinna-prize/rolf-nevanlinna-prize-2018 |title=Rolf Nevanlinna Prize 2018 |website=mathunion.org|accessdate=2020-04-29}}</ref>
|{{GRE}}
|}
アバカス・メダル
{| align="center" class="wikitable sortable"
|-
! 年
! 受賞者
! 国籍
|-
| 2022年
| {{仮リンク|マーク・ブレイヴァーマン|en|Mark Braverman (mathematician)}}<ref>{{cite web |url=https://www.mathunion.org/imu-awards/imu-abacus-medal/abacus-medal-2022 |title=Abacus Medal 2022 {{!}} International Mathematical Union (IMU)|website=mathunion.org|accessdate=2022-12-25}}</ref>
|{{ISR}}
|}
==関連項目==
*[[国際数学者会議]]
** [[ガウス賞]]
** [[チャーン賞]]
** [[フィールズ賞]]
* [[チューリング賞]]
* [[ゲーデル賞]]
* [[アーベル賞]]
* [[ショック賞]]
* [[ウルフ賞数学部門]]
* {{仮リンク|計算機科学の賞の一覧|en|List of computer science awards}}
* {{仮リンク|数学の賞の一覧|en|List of mathematics awards}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==外部リンク==
*[https://www.mathunion.org/imu-awards/rolf-nevanlinna-prize Rolf Nevanlinna Prize | International Mathematical Union (IMU)]{{en icon}}
*[https://www.mathunion.org/imu-awards/imu-abacus-medal IMU Abacus Medal | International Mathematical Union (IMU)]{{en icon}}
{{DEFAULTSORT:ねうあんりんなしよう}}
[[Category:数学の賞]]
[[Category:計算機科学の賞]]
[[Category:人名を冠した賞]]
[[Category:1981年開始のイベント]]
[[Category:ロルフ・ネヴァンリンナ]]
[[Category:数学に関する記事]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%8A%E8%B3%9E
|
10,702 |
マルク=ヴィヴィアン・フォエ
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マルク=ヴィヴィアン・フォエ(フランス語: Marc-Vivien Foé, 1975年5月1日 - 2003年6月26日)は、カメルーン出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。
フォエのプロとしてのキャリアは、カメルーンリーグのキャノン・ヤウンデから始まった。1994年のワールドカップ・アメリカ大会にカメルーン代表として出場し世界に存在をアピールしたフォエは、フランスリーグ・ディヴィジョン1のRCランスへ移籍し、1998年にはリーグ優勝を経験している。当時マンチェスター・ユナイテッドがフォエの獲得に興味を示していたが、フォエは脚の故障に見舞われてしまい移籍は実現せず、ワールドカップ・フランス大会にも出場できなかった。回復後の1999年にフォエはイングランド・プレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドに移籍した。
2000年、フォエはオリンピック・リヨンに移籍し、フランスへ復帰した。フォエはこの年マラリアに感染するも回復し、フランスリーグカップを制した。翌シーズンには再びリーグ優勝を果たしている。その後、マンチェスター・シティにレンタル移籍し、再びイングランドでプレーする。2003年に移転する前のホームスタジアムであったメイン・ロード・スタジアムでの最後のゴールを決めるなど活躍した。
2003年6月26日、フォエはかつて在籍していたオリンピック・リヨンのホームスタジアムで、FIFAコンフェデレーションズカップ2003準決勝、カメルーン対コロンビア戦の試合が行われた。フォエはこの最後の試合の2、3日ほど前から腹痛や赤痢などを起こすなど体調を崩しており、試合に出られないほどのコンディションだったが、この試合の会場がかつてフォエが所属したことのあるホームタウンのリヨンであったことから、出場を強行した。当時カメルーン代表の監督だったヴィンフリート・シェーファーも、倒れる直前まで交代を呼びかけたが、フォエはその度に断ったという。ハーフタイム中にフォエはチームメイトに対して「この試合は、たとえ死んでも勝たなければならない」と檄を飛ばした。ところが、後半27分(試合開始から72分)、フォエは誰もいないセンターサークル内で、突然意識を失った。医療関係者は、フォエが倒れてからおよそ45分間、心肺蘇生を試みたが、迅速な措置も虚しく、スタジアム内のメディカルセンターにて28歳で死去した。その後、死因は肥大型心筋症だったことがわかった。
同日にパリで行われたもう一試合の準決勝、フランス対トルコ戦では、フランス代表のティエリ・アンリがゴールを決めた後に喜んで駆け寄るチームメートを制し、彼らと共にフォエの死を悼む意味を込めて空を指差した。
カメルーン代表は準決勝に1-0で勝利し、決勝戦のフランス戦では試合前のウォームアップ時にフォエの背番号である17をつけたユニフォームを着用、また対戦相手であるフランス代表と共にセンターサークル内で円を作り、黙祷した(当時のフランス代表監督ジャック・サンティニや、代表選手のグレゴリー・クーペ、シドニー・ゴヴ、スティーブ・マルレはフォエがオリンピック・リヨンに在籍していた際の監督・チームメートでもあった)。
フォエの最終所属クラブとなったマンチェスター・シティはフォエの死を悼んでフォエの背番号23を永久欠番とし、ホームスタジアムにはフォエのメモリアルが作られた。またRCランスは、ホームスタジアム近くの通りの名をフォエにちなんだものに改名した。
FIFAコンフェデレーションズカップもフォエの死によって超過密日程が問題視され、一時は大会の廃止までもが議論の焦点となったが、最終的には大会間隔や試合間隔を見直して継続されることとなった。
カメルーン代表(1993年-2003年)
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"text": "2000年、フォエはオリンピック・リヨンに移籍し、フランスへ復帰した。フォエはこの年マラリアに感染するも回復し、フランスリーグカップを制した。翌シーズンには再びリーグ優勝を果たしている。その後、マンチェスター・シティにレンタル移籍し、再びイングランドでプレーする。2003年に移転する前のホームスタジアムであったメイン・ロード・スタジアムでの最後のゴールを決めるなど活躍した。",
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"text": "2003年6月26日、フォエはかつて在籍していたオリンピック・リヨンのホームスタジアムで、FIFAコンフェデレーションズカップ2003準決勝、カメルーン対コロンビア戦の試合が行われた。フォエはこの最後の試合の2、3日ほど前から腹痛や赤痢などを起こすなど体調を崩しており、試合に出られないほどのコンディションだったが、この試合の会場がかつてフォエが所属したことのあるホームタウンのリヨンであったことから、出場を強行した。当時カメルーン代表の監督だったヴィンフリート・シェーファーも、倒れる直前まで交代を呼びかけたが、フォエはその度に断ったという。ハーフタイム中にフォエはチームメイトに対して「この試合は、たとえ死んでも勝たなければならない」と檄を飛ばした。ところが、後半27分(試合開始から72分)、フォエは誰もいないセンターサークル内で、突然意識を失った。医療関係者は、フォエが倒れてからおよそ45分間、心肺蘇生を試みたが、迅速な措置も虚しく、スタジアム内のメディカルセンターにて28歳で死去した。その後、死因は肥大型心筋症だったことがわかった。",
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"text": "カメルーン代表は準決勝に1-0で勝利し、決勝戦のフランス戦では試合前のウォームアップ時にフォエの背番号である17をつけたユニフォームを着用、また対戦相手であるフランス代表と共にセンターサークル内で円を作り、黙祷した(当時のフランス代表監督ジャック・サンティニや、代表選手のグレゴリー・クーペ、シドニー・ゴヴ、スティーブ・マルレはフォエがオリンピック・リヨンに在籍していた際の監督・チームメートでもあった)。",
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"text": "フォエの最終所属クラブとなったマンチェスター・シティはフォエの死を悼んでフォエの背番号23を永久欠番とし、ホームスタジアムにはフォエのメモリアルが作られた。またRCランスは、ホームスタジアム近くの通りの名をフォエにちなんだものに改名した。",
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マルク=ヴィヴィアン・フォエは、カメルーン出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。
|
{{出典の明記|date=2019年5月}}
{{サッカー選手
|名前=マルク=ヴィヴィアン・フォエ
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|画像の説明=フォエの墓所
|本名=マルク=ヴィヴィアン・フォエ
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|カタカナ表記=マルク=ヴィヴィアン・フォエ
|アルファベット表記=Marc-Vivien FOÉ
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|原語表記=
|国={{CMR}}
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|監督チーム=
}}
'''マルク=ヴィヴィアン・フォエ'''({{Lang-fr|Marc-Vivien Foé}}, [[1975年]][[5月1日]] - [[2003年]][[6月26日]])は、[[カメルーン]]出身の元[[サッカー選手]]。ポジションは[[ミッドフィールダー]]。
== 経歴 ==
===選手経歴===
フォエのプロとしてのキャリアは、カメルーンリーグの[[キャノン・ヤウンデ]]から始まった。[[1994年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アメリカ大会]]に[[サッカーカメルーン代表|カメルーン代表]]として出場し世界に存在をアピールしたフォエは、[[リーグ・アン|フランスリーグ・ディヴィジョン1]]の[[RCランス]]へ移籍し、[[1998年]]にはリーグ優勝を経験している。当時[[マンチェスター・ユナイテッド]]がフォエの獲得に興味を示していたが、フォエは脚の故障に見舞われてしまい移籍は実現せず、[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・フランス大会]]にも出場できなかった。回復後の[[1999年]]にフォエは[[FAプレミアリーグ|イングランド・プレミアリーグ]]の[[ウェストハム・ユナイテッド]]に移籍した。
[[2000年]]、フォエは[[オリンピック・リヨン]]に移籍し、[[フランス]]へ復帰した。フォエはこの年[[マラリア]]に感染するも回復し、フランスリーグカップを制した。翌シーズンには再びリーグ優勝を果たしている。その後、[[マンチェスター・シティ]]にレンタル移籍し、再びイングランドでプレーする。[[2003年]]に移転する前のホームスタジアムであったメイン・ロード・スタジアムでの最後のゴールを決めるなど活躍した。
=== 突然の死 ===
[[ファイル:FoeFlowers.jpg|thumb|[[メイン・ロード]]の正門前に手向けられた贈り物]]
[[2003年]][[6月26日]]、フォエはかつて在籍していたオリンピック・リヨンのホームスタジアムで、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2003]]準決勝、カメルーン対[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦の試合が行われた。フォエはこの最後の試合の2、3日ほど前から腹痛や[[赤痢]]などを起こすなど体調を崩しており、試合に出られないほどのコンディションだったが、この試合の会場がかつてフォエが所属したことのあるホームタウンのリヨンであったことから、出場を強行した。当時カメルーン代表の監督だった[[ヴィンフリート・シェーファー]]も、倒れる直前まで交代を呼びかけたが、フォエはその度に断ったという。ハーフタイム中にフォエはチームメイトに対して「この試合は、たとえ死んでも勝たなければならない」と檄を飛ばした<ref>{{Cite book|和書|author=岩永修幸|title=蹴球神髄―サッカーの名言集|publisher=出版芸術社|year=2005|isbn=4882932695|page=56}}</ref>。ところが、後半27分(試合開始から72分)、フォエは誰もいないセンターサークル内で、突然意識を失った。医療関係者は、フォエが倒れてからおよそ45分間、心肺蘇生を試みたが、迅速な措置も虚しく、スタジアム内のメディカルセンターにて28歳で死去した。その後、死因は[[肥大型心筋症]]だったことがわかった。
同日にパリで行われたもう一試合の準決勝、フランス対[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦では、[[サッカーフランス代表|フランス代表]]の[[ティエリ・アンリ]]がゴールを決めた後に喜んで駆け寄るチームメートを制し、彼らと共にフォエの死を悼む意味を込めて空を指差した。
カメルーン代表は準決勝に1-0で勝利し、決勝戦のフランス戦では試合前のウォームアップ時にフォエの背番号である17をつけた[[ユニフォーム]]を着用、また対戦相手であるフランス代表と共にセンターサークル内で円を作り、黙祷した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/3028578.stm France overcome Cameroon], ''BBC Sport''</ref>(当時のフランス代表監督[[ジャック・サンティニ]]や、代表選手の[[グレゴリー・クーペ]]、[[シドニー・ゴヴ]]、スティーブ・マルレはフォエがオリンピック・リヨンに在籍していた際の監督・チームメートでもあった<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/internationals/3019126.stm France 3-2 Turkey], ''BBC Sport''</ref>)。
フォエの最終所属クラブとなったマンチェスター・シティはフォエの死を悼んでフォエの背番号23を[[永久欠番]]とし、ホームスタジアムにはフォエのメモリアルが作られた。またRCランスは、ホームスタジアム近くの通りの名をフォエにちなんだものに改名した。
[[FIFAコンフェデレーションズカップ]]もフォエの死によって超過密日程が問題視され、一時は大会の廃止までもが議論の焦点となったが、最終的には大会間隔や試合間隔を見直して継続されることとなった。
== 代表歴 ==
'''カメルーン代表'''(1993年-2003年)
* [[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦でデビュー
* 代表キャップ数: 65
* ワールドカップ出場: [[1994 FIFAワールドカップ|1994アメリカ大会]], [[2002 FIFAワールドカップ|2002日韓大会]]
== 個人成績 ==
{{サッカー選手国内成績表 top|yy}}
{{サッカー選手国内成績表 th|フランス|all}}
|-
|1994-95||rowspan=5|[[RCランス|ランス]]||||rowspan=5|[[リーグ・アン|ディヴィジョン・アン]]||15||3||||||||||||
|-
|1995-96||||19||2||||||||||||
|-
|1996-97||||28||2||||||||||||
|-
|1997-98||||18||2||||||||||||
|-
|1998-99||||5||2||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 th|イングランド|all}}
|-
|[[プレミアリーグ1998-1999|1998-99]]||rowspan=2|[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハム]]||||rowspan=2|[[プレミアリーグ|プレミア]]||13||0||||||||||||
|-
|[[プレミアリーグ1999-2000|1999-00]]||||25||1||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 th|フランス|all}}
|-
|2000-01||rowspan=2|[[オリンピック・リヨン|リヨン]]||||rowspan=2|ディヴィジョン・アン||25||1||||||||||||
|-
|2001-02||||18||2||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 th|イングランド|all}}
|-
|[[プレミアリーグ2002-2003|2002-03]]||[[マンチェスター・シティ|マンチェスター・C]]||||プレミア||35||9||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算始|2|フランス|ディヴィジョン・アン}}128||14||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算行|イングランド|プレミア}}73||10||||||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算終}}201||24||||||||||||
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アントニオ・プエルタ]]
* [[フェヘール・ミクローシュ]]
* [[フィル・オドネル]]
* [[ダニエル・ハルケ]]
* [[松田直樹]]
* [[パトリック・エケング]]
{{Navboxes
|title = カメルーン代表 - 出場大会
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|list1=
{{1994 FIFAワールドカップカメルーン代表}}
{{アフリカネイションズカップ1996 カメルーン代表}}
{{アフリカネイションズカップ1998 カメルーン代表}}
{{アフリカネイションズカップ2000 カメルーン代表}}
{{FIFAコンフェデレーションズカップ2001カメルーン代表}}
{{アフリカネイションズカップ2002 カメルーン代表}}
{{2002 FIFAワールドカップカメルーン代表}}
{{FIFAコンフェデレーションズカップ2003カメルーン代表}}
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふおえ まるくひひあん}}
[[Category:カメルーンのサッカー選手]]
[[Category:サッカーカメルーン代表選手]]
[[Category:キャノン・ヤウンデの選手]]
[[Category:RCランスの選手]]
[[Category:ウェストハム・ユナイテッドFCの選手]]
[[Category:オリンピック・リヨンの選手]]
[[Category:マンチェスター・シティFCの選手]]
[[Category:FIFAワールドカップカメルーン代表選手]]
[[Category:1994 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場選手]]
[[Category:2002 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ2003出場選手]]
[[Category:競技中に死亡したサッカー選手]]
[[Category:1975年生]]
[[Category:2003年没]]
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2023-02-28T12:05:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A8
|
10,707 |
地金型金貨
|
地金型金貨(じがねがたきんか、英: Bullion gold coin)とは、投資用に発行されている金貨の一種。
以下は地金型として発行された主な金貨である。
また、ナポレオン金貨やソブリン金貨など、19世紀 ヨーロッパの金本位制時代に流通していた古金貨も、地金型金貨に含める場合もある。これらは、大量に現存している為、希少価値・歴史価値が低く、金地金なみの価格で小口投資用に取引されてきた為である。戦争に伴う被占領やハイパーインフレーションを経験したヨーロッパ大陸諸国では、リスク回避のため、資産の一部を金貨で保有する志向が強いとされる。
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"text": "また、ナポレオン金貨やソブリン金貨など、19世紀 ヨーロッパの金本位制時代に流通していた古金貨も、地金型金貨に含める場合もある。これらは、大量に現存している為、希少価値・歴史価値が低く、金地金なみの価格で小口投資用に取引されてきた為である。戦争に伴う被占領やハイパーインフレーションを経験したヨーロッパ大陸諸国では、リスク回避のため、資産の一部を金貨で保有する志向が強いとされる。",
"title": "主な地金型金貨"
}
] |
地金型金貨とは、投資用に発行されている金貨の一種。
|
{{出典の明記|date=2023年1月4日 (水) 11:59 (UTC)}}
{{貨幣学}}
'''地金型金貨'''(じがねがたきんか、{{Lang-en-short|Bullion gold coin}})とは、[[金投資|投資用]]に発行されている[[金貨]]の一種。
==概要==
[[File:Philharmoniker 99 front.jpg|thumb|170px|地金型金貨の例(ウィーン金貨) 通常の硬貨と同様の発行国(オーストリア)・発行年(2008年)・額面(100ユーロ)の表示の他に金貨特有の量目(1オンス)・品位(999.9)が刻まれている]]
; プレミアム
: いわゆる「記念金貨」のような[[収集型金貨]]が[[金]]地金価格よりはるかに高額で売買されるのに対し、金[[地金]]の時価相当分に、少額の上乗せ金を加算した時価で売買される。この上乗せ金を'''プレミアム'''と言う。
: プレミアムの額は、'''含まれる金の純分'''によって決まる。純分1[[トロイオンス]]の金貨では5[[パーセント]]、1/2トロイオンスでは7パーセント、1/4トロイオンスでは9パーセント、1/10トロイオンスでは11パーセントとなっている。
; 量目の表示
: 近年において地金型金貨として発行されたものには[[法定通貨]]としての額面表示と共に、含有する金の量目の表示が刻まれていることが普通である。品位([[金#純度|純度]])が表示されていることもある。
; 額面
: 額面と量目は必ずしも比例しない。また額面は金貨の市価と比べて極めて低く設定されているので、実質的な意味はない。最も代表的な[[メイプルリーフ金貨]]では、額面は市場価格の10分の1以下である(2007年9月現在)。
==主な地金型金貨==
以下は地金型として発行された主な金貨である。
{|class ="wikitable"
|+主な地金型金貨
! 通称 !! 初発行年 !! 発行国 !! 保証品位
|-
| [[クルーガーランド金貨]] || [[1967年]] || [[南アフリカ共和国]] || .917
|-
| [[メイプルリーフ金貨]] || [[1979年]] || [[カナダ]] || .9999
|-
|[[パンダ金貨]] || [[1982年]] || [[中華人民共和国]] || .999
|-
|[[カンガルー金貨]] <br />※別名ナゲット金貨 || [[1986年]] || [[オーストラリア]] || .9999
|-
|[[イーグル金貨]] || 1986年 || [[アメリカ合衆国]] || .9167
|-
|{{仮リンク|ブリタニア金貨|en|Britannia (coin)}} || [[1987年]] || [[イギリス]] || .917 (2013年〜 .9999)
|-
|[[ウィーン金貨]] || [[1989年]] || [[オーストリア]] || .9999
|-
|{{仮リンク|バッファロー金貨|en|American Buffalo (coin)}} || [[2006年]] || アメリカ合衆国 || .9999
|}
また、[[ナポレオン金貨]]や[[ソブリン金貨]]など、[[19世紀]] [[ヨーロッパ]]の[[金本位制]]時代に流通していた古金貨も、地金型金貨に含める場合もある。これらは、大量に現存している為、希少価値・歴史価値が低く、金地金なみの価格で小口投資用に取引されてきた為である。戦争に伴う被占領や[[ハイパーインフレーション]]を経験したヨーロッパ大陸諸国では、[[代替投資|リスク回避]]のため、資産の一部を金貨で保有する志向が強いとされる。
==関連項目==
*[[金貨]]
*[[収集型金貨]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちかねかたきんか}}
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|
2003-07-01T15:12:24Z
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|
10,709 |
商学
|
商学(しょうがく、英: Commercial Science)とは、販売者と消費者を結びつける商業そのものについて学ぶ学問であり、それに伴う「マーケティング」「流通」「金融」「会計」などを研究の対象とする。近似の分野として、社会全体の経済の動きや仕組みを研究する経済学や、経済活動を行う組織の仕組みやマネジメントを研究する経営学などがある。
交換と取引に関する学問に注目した歴史学であるという説もある。福澤諭吉により江戸時代の商取引慣習に簿記を初めて導入した簿記講習所、現在の一橋大学の源流である商法講習所、三菱財閥が設立した三菱商業学校(慶應義塾分校)、桐原捨三(慶應義塾出身)を所長として設立された大阪商業講習所(現・大阪公立大学、大阪市立大学)等の官民の教育機関を通して、明治期から商学に関する学問体系が確立してきた。
現在、大きく分けて3つの分野に大別される。
他にも、必要に応じ経済法や労働法といった法律制度、地理学、通信、観光、また貿易実務英語など、商業に関することのほとんどが研究対象とされる。実際の商業と深く結びついており、もともと実学の性格が色濃い学問であると言える。学術団体については、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された。
通常、大学では、商学部あるいは経営学部でこれを学ぶことが出来る。経済学部のなかに「商学科」がある大学もある。かつては、東京大学経済学部にも、商業学科があったが「経営学科」に改称された。
商学部(又は経営学部)において、取り扱う分野の幅が広いのも一つの特徴で、各大学の商学部・経営学部によって開講科目が異なっていたり、分野によっては開講科目の豊富さにばらつきも見られる。この辺りの事情が経済学部と対照的である。
経済学関連については、ミクロ経済学(かつては、マルクス経済学とドイツ商業学)を重視し、必須又は選択必須科目であることが多い。
|
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商学とは、販売者と消費者を結びつける商業そのものについて学ぶ学問であり、それに伴う「マーケティング」「流通」「金融」「会計」などを研究の対象とする。近似の分野として、社会全体の経済の動きや仕組みを研究する経済学や、経済活動を行う組織の仕組みやマネジメントを研究する経営学などがある。
|
'''商学'''(しょうがく、{{lang-en-short|Commercial Science}})とは、販売者と消費者を結びつける商業そのものについて学ぶ学問であり、それに伴う「マーケティング」「流通」「金融」「会計」などを研究の対象とする。近似の分野として、社会全体の経済の動きや仕組みを研究する[[経済学]]や、経済活動を行う組織の仕組みやマネジメントを研究する[[経営学]]などがある<ref>{{Cite web|和書|title=経済・経営・商学の学び|専修大学|url=https://www.senshu-u.ac.jp/education/howto/education03.html|website=www.senshu-u.ac.jp|accessdate=2021-01-30}}</ref>。
== 概要 ==
交換と[[取引]]に関する学問に注目した歴史学であるという説もある。[[福澤諭吉]]により江戸時代の商取引慣習に簿記を初めて導入した[[簿記講習所]]、現在の一橋大学の源流である[[商法講習所]]、三菱財閥が設立した[[三菱商業学校]]([[慶應義塾]]分校)、[[桐原捨三]](慶應義塾出身)を所長として設立された[[大阪商業講習所]](現・[[大阪公立大学]]、大阪市立大学)等の官民の教育機関を通して、明治期から商学に関する学問体系が確立してきた。
現在、大きく分けて3つの分野に大別される。
# 流通・マーケティング
# 会計
# 金融・財政
他にも、必要に応じ経済法や労働法といった法律制度、地理学、通信、観光、また貿易実務英語など、商業に関することのほとんどが研究対象とされる。実際の商業と深く結びついており、もともと実学の性格が色濃い学問であると言える<ref>{{Cite web|和書|title=商学とは? 大学で学ぶことや就職先は? {{!}} 職業情報サイト キャリアガーデン|url=https://careergarden.jp/column/syougaku-major/|website=キャリアガーデン|accessdate=2021-01-30|language=ja}}</ref>。学術団体については、1951年4月21日、[[日本商業学会]]が慶應義塾大学教授[[向井鹿松]]を初代会長として設立された<ref name=hp>{{Cite web|和書|url=http://jsmd.jp/|title=学会HP|publisher=日本商業学会|date=|accessdate=2022-01-23}} 個人会員1,072名,賛助会員11社・団体,購読会員32件 (2019年7月現在)</ref>。
== 大学の科目としての「商学」==
通常、[[大学]]では、[[商学部]]あるいは[[経営学部]]でこれを学ぶことが出来る。[[経済学部]]のなかに「[[商学科]]」がある大学もある<ref>[http://www.komazawa-u.ac.jp/cms/gakubu_keizai/ 駒澤大学ホームページ経済学部の頁]</ref>。かつては、[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|東京大学経済学部]]にも、商業学科があったが「経営学科」に改称された<ref>{{Cite web|和書|title=東京大学大学院経済学研究科・経済学部の沿革|url=https://www.e.u-tokyo.ac.jp/kenkyuka/enkaku.html|website=www.e.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2021-01-30|publisher=東京大学}}</ref>。
商学部(又は経営学部)において、取り扱う分野の幅が広いのも一つの特徴で、各大学の商学部・経営学部によって開講科目が異なっていたり、分野によっては開講科目の豊富さにばらつきも見られる。この辺りの事情が経済学部と対照的である。
[[経済学]]関連については、[[ミクロ経済学]](かつては、[[マルクス経済学]]と[[ドイツ]]商業学)を重視し、必須又は選択必須科目であることが多い。
== 学問領域 ==
{|
|-
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* [[経済学]]
** [[マルクス経済学]]
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*** [[産業組織論]]
** [[マクロ経済学]]
** [[計量経済学]]
** [[国際経済貿易|国際経済貿易学]]
** [[ゲーム理論]]
** [[行動経済学]]
*** [[行動ファイナンス理論]]
** [[国際経済学]]
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** [[社会経済学]]
** [[経済地理学]]
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** [[経済史]]
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** [[経済政策]]
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* [[数学]]
** [[代数学]]
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** [[労働法]]
** [[独占禁止法]]
** [[租税法]]
** [[金融商品取引法]]
** [[国際法]]
*** [[国際経済法]]
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* [[社会科学]]
** [[社会学]]
*** [[産業社会学]]
|-
|}
*
== 脚注 ==
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== 研究文献 ==
{{参照方法|date=2016-6-2}}
* [[福田敬太郎]](1966年)『商学原理』[[千倉書房]]。
* [[荒川祐吉]](1983年)『商学原理』[[中央経済社]]。
* [[森下二次也]]編(1967年)『商業概論』[[有斐閣]]。
* [[久保村隆祐]]・原田俊夫(1973年)『商業学を学ぶ』有斐閣。
* [[林周二]](1999年)『現代の商学』[[有斐閣]]
* [[黒田重雄]]・佐藤芳彰・坂本英樹(2000年)『現代商学原論:交換や取引の方式を考える』千倉書房。
* [[石原武政]]・[[忽那憲治]]編(2013年)『商学への招待』有斐閣。
* 神戸大学経済経営学会編著(2016年)『ハンドブック経営学[改訂版]』、[[ミネルヴァ書房]]。ISBN 978-4623076734。
* 上林憲雄編著『経営学の開拓者たち: 神戸大学経営学部の軌跡と挑戦』[[中央経済社]] (2021年)。ISBN 978-4502377518
== 関連項目 ==
* [[会計]]
* [[会計学]]
* [[仕訳]]
* [[伝票]]
* [[財務諸表]]
* [[簿記検定]]
* [[公認会計士]]
* [[税理士]]
* [[マーケティング]]
* [[日本経営学会]]
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政治体制
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政治体制(せいじたいせい)とは、ある国家における政治的諸制度の総体のことを指す。
政治体制(political regime)は多くの場合「政治システム」(political system/政治体系)と区別され別個に規定されている(政治システムについてはデイヴィッド・イーストンも参照)。
第一には、政治体制を制度の集合と見たうえで静態的な構造概念として捉える見方によって区別されている。特にイーストンの「政治システム」のうち、機能的側面を捨象した構造概念として捉えられることが多い。
第二には、政治体制を支配-服従関係の側面に注目した概念と捉える見方によって区別されている。政治体制を政治制度の総体と言う場合、服従を確保し安定した支配を持続している諸制度を前提として考えることが一般的であり、特に「体制」という語によって、そのなかにおける支配-服従関係を捉えようとすることが多い。
第三に、政治システムが自己再生産的に可変的であるのに対して、政治体制はしばしば変動し、放棄され、新たなものに移行するものと捉えられている点が政治システム概念との大きな違いである。政治体制を構成する諸制度は相互に連関した1つのセットとして把握され、支配-服従関係のあり方を表現するものとして把握される。一つの政治体制が放棄されたときには支配-服従関係の変化とも捉えられる。
近代以降における政治体制の類型として最も広く流布するものは、ホアン・リンスによる民主主義体制、権威主義体制、全体主義体制の三分法である。ほぼ全ての体制はこの三つのいずれかに分類できる。しかしリンス自身による修正も含め、政治体制の類型と特徴付けは他にも多数ある。例えば、リンスはこの三つにポスト全体主義体制、スルタン主義体制を加え、若干の修正を行っている。
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政治体制(せいじたいせい)とは、ある国家における政治的諸制度の総体のことを指す。
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'''政治体制'''(せいじたいせい)とは、ある[[国家]]における[[政治]]的諸[[制度]]の総体のことを指す。
== 政治学上の定義 ==
政治体制(political regime)は多くの場合「[[政治システム]]」(political system/政治体系)と区別され別個に規定されている(政治システムについては[[デイヴィッド・イーストン]]も参照)。
第一には、政治体制を制度の集合と見たうえで静態的な構造概念として捉える見方によって区別されている。特にイーストンの「政治システム」のうち、機能的側面を捨象した構造概念として捉えられることが多い<ref>[[山口定]]『政治体制』東京大学出版会、[[1989年]]、13頁。</ref>。
第二には、政治体制を支配-服従関係の側面に注目した概念と捉える見方によって区別されている。政治体制を政治制度の総体と言う場合、服従を確保し安定した支配を持続している諸制度を前提として考えることが一般的であり<ref>[[阿部斉]]・[[内田満]]編『現代政治学小辞典』、[[1978年]]。</ref>、特に「体制」という語によって、そのなかにおける支配-服従関係を捉えようとすることが多い<ref>高橋昌二「資本主義と社会主義は収斂するか」秋元律郎他編『政治社会学入門─市民デモクラシーの条件』有斐閣、[[1980年]]、280頁。</ref>。
第三に、政治システムが自己再生産的に可変的であるのに対して、政治体制はしばしば変動し、放棄され、新たなものに移行するものと捉えられている点が[[政治システム]]概念との大きな違いである。政治体制を構成する諸制度は相互に連関した1つのセットとして把握され、支配-服従関係のあり方を表現するものとして把握される。一つの政治体制が放棄されたときには支配-服従関係の変化とも捉えられる。
== 政治体制分類 ==
近代以降における政治体制の類型として最も広く流布するものは、[[ホアン・リンス]]による'''民主主義体制'''、'''権威主義体制'''、'''全体主義体制'''の三分法である。ほぼ全ての体制はこの三つのいずれかに分類できる。しかしリンス自身による修正も含め、政治体制の類型と特徴付けは他にも多数ある。例えば、リンスはこの三つに'''ポスト全体主義体制'''、'''スルタン主義体制'''を加え、若干の修正を行っている。
== 脚注 ==
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<references />
== 関連項目 ==
* [[政治システム]]
* [[政治イデオロギーの一覧]]
* [[全体主義体制]]
* [[スルタン主義体制]]
* [[蹄鉄理論]]
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欧州中央銀行
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欧州中央銀行(おうしゅうちゅうおうぎんこう、英:European Central Bank、略称:ECB/欧州央銀)は、ユーロ圏20か国の金融政策を担う中央銀行。欧州中央銀行の組織はドイツ連邦銀行およびドイツの州立銀行をモデルにしている。世界金融危機以降はドイツ連銀の牽引力が低下している。
欧州中央銀行は総裁を長とする役員会(英:Executive Board、仏:Directoire、独:Direktorium)と、役員会の構成員および欧州中央銀行制度のもとにおかれる各国の中央銀行総裁からなる政策理事会(英:Governing Council、仏:Conseil des Gouverneurs、独:EZB-Rat)によって運営されている。1999年、オランダ銀行総裁、オランダ大蔵大臣を歴任したウィム・ドイセンベルクが初代総裁に就任。2003年11月には元フランス銀行総裁のジャン=クロード・トリシェが第2代総裁就任。2011年11月には、前イタリア銀行総裁のマリオ・ドラギが第3代総裁就任。2019年11月1日に、前国際通貨基金専務理事のクリスティーヌ・ラガルドが第4代総裁就任。役員会は中央銀行としての方針を策定する6人で構成される。役員はユーロ圏各国の全会一致での決定を受けて指名される。
2005年には暗黙のうちに合意された結果として、役員6名のうち4名はユーロ圏でも大国とされるフランス、ドイツ、イタリア、スペインの中央銀行出身者で占めることとなった。
ユーロシステム(Eurosystem)と呼ばれるユーロ圏の金融政策を目的としては、欧州中央銀行制度が欧州中央銀行および欧州連合加盟27か国の中央銀行で構成される。
欧州中央銀行制度がユーロ圏内の民間銀行に対して行う買いオペは、世界金融危機から担い手を交代した。従来ドイツ連銀がオペ総額でほぼ半分の資金を供給してきた。2008年以降その割合は急降下、2011年にスペイン銀行とイタリア銀行の2行がほぼ半分を供給した。
ギリシャ財政危機をめぐり、ドイツのメルケル首相はギリシャ債務のヘアカット(リスケジュール)は違法との考えを示している。リスボン条約に盛り込まれているノーベイルアウト(非救済)条項で、「EUは加盟国の中央政府の責任を引き受けない」と規定されているため。ただし、欧州安定メカニズム(ESM)というシャドー・バンキング・システムにはノーベイルアウト条項の適用がない。この条項は2010年末のEU首脳会議でESM設立のために改正されたからである。
このような経緯を経て、欧州のロビー活動監視団体(Corporate Europe Observatory)は、欧州中央銀行が重要な議題をメガバンクの代表団へ諮問しているため利益相反の危険があるとの見解を示した。欧州中央銀行が擁する22の諮問組織は合計517人で構成され、そのうち508人は金融業界の代表である。欧州中央銀行の監督対象となっている銀行はその過半数を占める。諮問組織メンバーの出身で最も多くを占めるのはユーロクリアである。ドイツ銀行、BNPパリバとソシエテ・ジェネラルがそれに続く。
欧州中央銀行の主たる業務は、上記の目的を追求するためのユーロ圏における金融政策の実施である。 これらの目的を実施するために、以下の手段が挙げられる。
このほかに以下の業務が挙げられる。
次に上げる業務は欧州中央銀行の付帯的業務とされている。
2013年7月10日、欧州委員会は銀行同盟に向けた単一破綻処理制度(SRM)を提案した。この提案は、EU加盟国の銀行を欧州中央銀行が直接監督するという単一監督制度(SSM)を補完する。
預金ファシリティ金利を-0.4%としている。
欧州中央銀行はイングランド銀行のように対称性をもつインフレターゲットを採用するべきだとする経済学者が多くいる。イングランド銀行はインフレターゲットを2%±1%としているのに対して、欧州中央銀行は「2%以下であり2%近くにする」と、曖昧なものとしている。欧州中央銀行に課せられた目標が低いという批判は存在する。しかし欧州中央銀行はインフレ率を抑制する立場にある。そういうこだわりが、欧州経済情勢のより広いニーズに応えない金利決定がなされていると考える者もいる。
このようなインフレターゲットに関する批判は欧州中央銀行に限らず、多くの中央銀行でも言われるものである。イングランド銀行が採用していることも考えると、この論点が連合軍軍政期に英米が対立した延長にあると評価できる。
欧州中央銀行による低金利設定は地価バブルが起っているヨーロッパの地域では適当なものではないという批判があり、この低金利はアイルランドの地価バブルの要因となった。低金利はユーロ圏全体としてデフレーション回避のために設定されている。
欧州中央銀行の低金利政策(実際マイナス金利が主流)にせよ、インフレターゲットにせよ、通貨の実質的価値を漸減させて交換手段としての活用を促し投資・消費へ使わせようとする目的で共通している。
インフレしない経済成長に直接効果のある自由通貨は学界で議論されるにとどまっている。
欧州中央銀行は政治的介入を受けずに、独自に業務を行う中央銀行と規定されている。その目的と権限は英米の確執で政治的に妥協して定められたものである。ともかく目標達成のために権限をどのように行使するかについての意思決定は欧州中央銀行自体で行われ、業務上の独立性が保障されている。欧州連合域内の各国の中央銀行の多くはユーロ圏外にあり独立性を有している。デンマーク国立銀行、イングランド銀行にも類似規定が存在する。
経済学者には一致した見解として、独立した地位を持つ中央銀行の存在は政治的目的でマクロ経済の操作を回避するためには最良の手段であるというものがある。他方で、一部の国において中央銀行が独立性も非独立性も有していないことがある。この背景には経済運営上の都合やインフレ阻止のための信頼性確保などがあるが、このような状況でも民主主義の観点から説明責任は存在する(例示すると、カナダ銀行やニュージーランド準備銀行などがある)。
一部では欧州中央銀行の独立性は非民主的なものであるという見方があり、また意思決定の過程や目標に対する批判の声もある。その内容は、欧州中央銀行は連合域内の市民の大多数に対して情報を提供することが少なく、独立した地位を有していることから融通性がなく、また人権侵害や自然環境といった点から貨幣経済をとらえたときのその影響力に関してフィードバックのメカニズムから分断されているというものである。実際、諮問組織からのフィードバックが優先されている。
欧州中央銀行は自身の提唱する案件に関してコメントを発表したり求めるといったことをしていない。自身の行為や決定の発表後でも市民に対して直接意見を求めるといったことをウェブページ上で行っていないのである。内部における会議の詳細も、役員会の内部分裂を隠すために明らかにしないのだと言われている。
欧州中央銀行は欧州議会と欧州連合理事会に対して説明責任を負っている。欧州連合理事会は欧州中央銀行総裁、副総裁およびほかの役員会の役員を指名する権限を持っている。指名された候補者はまず欧州議会の承認を受けなければならず、続いて欧州連合理事会の承認を経て、各役員の担当分野を決定する。欧州中央銀行総裁は法の定めにより、欧州議会総会において年間報告書を提出することとされている。さらに総裁および役員会の代表は年4回、欧州議会経済通貨委員会において報告することとされている。このような報告は欧州議会または欧州中央銀行の求めに応じ定例外に行うことができる。
欧州連合の市民は国政選挙を通じて欧州中央銀行の政策決定に影響力を持つ。だが経済の見通しの変動が民主的な手段によって示された場合、選ばれた政治家は直接その変動を欧州中央銀行に伝えられないという限界がある。
連合軍軍政期のドイツにおいて、フランスとソ連が四区にまたがる中央銀行の設立に反対した。そこでアメリカが第三次ドッジプランにおいて州中央銀行委員会(Länder Central Bank Commission)の設置を提案したが、それさえ決裂したのでイギリスと協議した。しかし、ドイツの金融制度をライヒスバンクと切り離そうとするアメリカと、接続させようとするイギリスは鋭く対立することになった。一応イギリスは譲歩の姿勢を示したが、相応の条件をつけた。イギリスの占領地域ではルール地方の石炭・鉄鋼業を再建する目的で補助金を支出しており、これが大きな財政負担となっていた。地方財政から補助金を交付するとき、ハンブルク営業本部は決定的なリファイナンス機関となった。それで要するに、英米地区全体を管轄する中央銀行の設立を認めてやるから財政負担をアメリカでも融通してくれというのであった。
分権的制度を志向していたクレイ将軍(Lucius D. Clay)であったが、1948年1月に全ての州中央銀行が出資してフランクフルトの「州連合銀行」を創設することに合意した。イギリスは同年2月にハンブルク営業本部の廃止と銀行分権化を決め、管轄区の各州に州中央銀行を設立した。3月に「州連合銀行」はドイチェ・レンダー銀行(英語版)と命名された。やがてフランス地区の三州各中央銀行も3月25日に遡及しドイチェ・レンダー銀行の傘下となった。
ドイチェ・レンダー銀行は多忙であった。唯一の発券銀行であり、州中央銀行の決済・再割引、裁定準備金の預託を行う清算機関であった。ドイチェ・レンダー銀行は連邦準備制度と異なる仕組みであった。イギリスの要望で日常運営にあたる役員会(Direktorium)がおかれ、アメリカの要望では独立性を担保する機関(Zentralbankrat)がおかれた。この理事会は、役員会総裁と理事会議長と11州の州中央銀行総裁から構成された。役員会とイギリス地区州中央銀行総裁はライヒスバンク出身者から選ばれた。逆にアメリカ地区では忌避された。西ドイツのドイチェ・レンダー銀行は、6月の通貨改革に先立ち公定歩合を5%に設定したときの運営ぶりで、完全な集権体制の確立を示した。
1957年、イングランド銀行がポンド危機や交換性喪失にあえぐ中、ドイツ連邦銀行に権限が委譲された。マルクの通貨価値を安定させる目的であった。こうしなければ、各州の財政に振り回された運営が行われてインフレを招くだろうとみられていたのである。
欧州中央銀行および欧州中央銀行制度の主たる目的も、ユーロ圏における物価の安定であり、たとえばインフレーション率を低く抑えるというものが挙げられ、現在の目標水準は2%程度としている。
物価安定の目的を妨げない限りにおいては欧州連合の経済政策を支援するという目的もある。欧州連合条約第3条以下には欧州連合の政策について、高い水準での雇用の創出とインフレーションによらない経済成長の維持がうたわれている。
欧州中央銀行はユーロ圏最大の金融センターであるフランクフルトに本店を構えており、その所在地は他の欧州連合の諸機関とともにアムステルダム条約で定められている。
2003年1月5日、一人の男性がモーターグライダーを盗み、そのグライダーでフランクフルト中心街の高層ビル群を旋回し、欧州中央銀行に突っ込みそうになるという事件が発生した。その男性は2時間後に無事着陸し、その後逮捕された。男性は31歳の精神障害者で、テレビ報道に対してチャレンジャー号爆発事故で死亡したアメリカ人宇宙飛行士ジュディス・レズニックの気をひきたかったと話している。
欧州中央銀行はフランクフルトの新本店ビルが建設されるまで、同じくフランクフルトにあるユーロタワーに本店を置くことになっていた。1999年、欧州中央銀行は国際建築コンペティションを開いて新本店ビルのデザインを募集した。結果、ウィーンを拠点に活動する設計事務所コープ・ヒンメルブラウが優勝した。新本店の本館ビルおよび周辺に建てられる関連ビルは約180メートルの高さを持ち、フランクフルト東部の卸売市場跡を臨む眺望を持つ計画となった。建設は2008年10月から始まり、2014年に完成、同年に新本店での業務を開始した。
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"text": "経済学者には一致した見解として、独立した地位を持つ中央銀行の存在は政治的目的でマクロ経済の操作を回避するためには最良の手段であるというものがある。他方で、一部の国において中央銀行が独立性も非独立性も有していないことがある。この背景には経済運営上の都合やインフレ阻止のための信頼性確保などがあるが、このような状況でも民主主義の観点から説明責任は存在する(例示すると、カナダ銀行やニュージーランド準備銀行などがある)。",
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"text": "ドイチェ・レンダー銀行は多忙であった。唯一の発券銀行であり、州中央銀行の決済・再割引、裁定準備金の預託を行う清算機関であった。ドイチェ・レンダー銀行は連邦準備制度と異なる仕組みであった。イギリスの要望で日常運営にあたる役員会(Direktorium)がおかれ、アメリカの要望では独立性を担保する機関(Zentralbankrat)がおかれた。この理事会は、役員会総裁と理事会議長と11州の州中央銀行総裁から構成された。役員会とイギリス地区州中央銀行総裁はライヒスバンク出身者から選ばれた。逆にアメリカ地区では忌避された。西ドイツのドイチェ・レンダー銀行は、6月の通貨改革に先立ち公定歩合を5%に設定したときの運営ぶりで、完全な集権体制の確立を示した。",
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欧州中央銀行は、ユーロ圏20か国の金融政策を担う中央銀行。欧州中央銀行の組織はドイツ連邦銀行およびドイツの州立銀行をモデルにしている。世界金融危機以降はドイツ連銀の牽引力が低下している。
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{{Infobox Central bank
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[[アイルランド中央銀行・金融サービス機構|アイルランド中央銀行]]<br />
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[[スロベニア銀行]]<br />
[[スペイン銀行]]
}}
}}
{{欧州連合}}
'''欧州中央銀行'''(おうしゅうちゅうおうぎんこう、英:European Central Bank、略称:'''ECB/欧州央銀''')は、[[ユーロ圏]]20か国の[[金融政策]]を担う[[中央銀行]]。欧州中央銀行の組織は[[ドイツ連邦銀行]]およびドイツの州立銀行をモデルにしている。[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]以降はドイツ連銀の牽引力が低下している。
==概要==
[[ファイル:Lagarde,_Christine_(official_portrait_2011).jpg|thumb|right|欧州中央銀行総裁<br />[[クリスティーヌ・ラガルド]]]]
欧州中央銀行は総裁を長とする役員会(英:Executive Board、仏:Directoire、独:Direktorium)と、役員会の構成員および[[欧州中央銀行制度]]のもとにおかれる各国の中央銀行総裁からなる政策理事会(英:Governing Council、仏:Conseil des Gouverneurs、独:EZB-Rat)によって運営されている。1999年、[[オランダ銀行]]総裁、[[オランダ]][[大蔵大臣]]を歴任した[[ウィム・ドイセンベルク]]が初代総裁に就任。2003年11月には元[[フランス銀行]]総裁の[[ジャン=クロード・トリシェ]]が第2代総裁就任。2011年11月には、前[[イタリア銀行]]総裁の[[マリオ・ドラギ]]が第3代総裁就任。[[2019年]]11月1日に、前[[国際通貨基金]]専務理事の[[クリスティーヌ・ラガルド]]が第4代総裁就任。役員会は中央銀行としての方針を策定する6人で構成される。役員はユーロ圏各国の全会一致での決定を受けて指名される。
2005年には暗黙のうちに合意された結果として、役員6名のうち4名はユーロ圏でも大国とされる[[フランス]]、ドイツ、[[イタリア]]、[[スペイン]]の中央銀行出身者で占めることとなった<ref>Carter Dougherty [http://www.nytimes.com/2005/05/27/business/worldbusiness/27iht-wbspot28.html?_r=1 Spotlight: Optimist joins ECB in gloomy times], ''[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]'', 2005年5月28日(英語)</ref>。
ユーロシステム([[:en:Eurosystem|Eurosystem]])と呼ばれるユーロ圏の金融政策を目的としては、欧州中央銀行制度が欧州中央銀行および[[欧州連合]][[欧州連合加盟国|加盟27か国]]の中央銀行で構成される。
欧州中央銀行制度がユーロ圏内の民間銀行に対して行う買いオペは、[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]から担い手を交代した。従来ドイツ連銀がオペ総額でほぼ半分の資金を供給してきた。2008年以降その割合は急降下、2011年に[[スペイン銀行]]と[[イタリア銀行]]の2行がほぼ半分を供給した。<ref>Cour-Thimann, Philippine, "[https://hdl.handle.net/10419/166558 CESifo Forum Special Issue April 2013: Target Balances and the Crisis in the Euro Area]", p.13, Figure6: Take-up by NCBs in liquidity-providing monetary policy operations in euro</ref>
[[ギリシャ財政危機]]をめぐり、ドイツのメルケル首相はギリシャ債務のヘアカット(リスケジュール)は違法との考えを示している。[[リスボン条約]]に盛り込まれているノーベイルアウト(非救済)条項で、「EUは加盟国の中央政府の責任を引き受けない」と規定されているため。ただし、欧州安定メカニズム([[:en:European Stability Mechanism|ESM]])という[[シャドー・バンキング・システム]]にはノーベイルアウト条項の適用がない。この条項は2010年末のEU首脳会議でESM設立のために改正されたからである。
このような経緯を経て、欧州のロビー活動監視団体([[:en:Corporate Europe Observatory|Corporate Europe Observatory]])は、欧州中央銀行が重要な議題を[[メガバンク]]の代表団へ諮問しているため利益相反の危険があるとの見解を示した。欧州中央銀行が擁する22の諮問組織は合計517人で構成され、そのうち508人は金融業界の代表である。欧州中央銀行の監督対象となっている銀行はその過半数を占める。諮問組織メンバーの出身で最も多くを占めるのは[[ユーロクリア]]である。[[ドイツ銀行]]、[[BNPパリバ]]と[[ソシエテ・ジェネラル]]がそれに続く。<ref>[[ロイター]] [https://jp.reuters.com/article/ecb-banks-idJPKCN1C8027 ECB、諮問組織通じて金融業界と過度に親密になる恐れ=監視団体] 2017年10月3日</ref><ref>Reuters [https://www.reuters.com/article/us-ecb-banks-ethics/ecb-reliance-on-bankers-feedback-raises-capture-risk-activist-group-idUSKCN1C72T2 ECB reliance on bankers' feedback raises capture risk: activist group] October 3, 2017</ref>
==業務==
[[File:Euro bank notes centered (50s, 100s, 500s), maestro card, master card — Mattes 2006-05-12.jpg|thumb|欧州中央銀行は各国のユーロ紙幣を発行している]]
欧州中央銀行の主たる業務は、上記の目的を追求するためのユーロ圏における金融政策の実施である<ref>[http://www.ecb.europa.eu/ecb/legal/pdf/l_03020060202en00260029.pdf GUIDELINE OF THE EUROPEAN CENTRAL BANK] - 現行の欧州中央銀行の金融政策に関するガイドライン 2005年12月30日 (英語、PDF形式)</ref>。
これらの目的を実施するために、以下の手段が挙げられる。
* [[公開市場操作]]
* 預託機関 - 民間銀行の資金預託
* 資金貸付機関 - 民間企業に対する資金貸付
このほかに以下の業務が挙げられる。
* [[外国為替市場]]への介入およびユーロ圏諸国の[[準備通貨]]の保有と運用。外貨準備高の合計は400億ユーロにのぼり、その30%以上はドイツ連邦銀行の、およそ20%はフランス銀行のそれぞれ金準備である。各国の中央銀行は準備金および準備外貨を保有しているが、マーストリヒト条約のもとでこれらは欧州中央銀行に預託されている。
* 決済システムの円滑な運営の促進
次に上げる業務は欧州中央銀行の付帯的業務とされている。
* [[紙幣]] - 欧州中央銀行はユーロ圏の紙幣発行について排他的権限を有する。
* 統計 - 欧州中央銀行は各国の中央銀行と協力して自らの業務の実行のために、各国の当局や、あるいは直接的に経済主体から統計情報を収集する。
* 金融安定・監督 - ユーロシステムは金融機関に対する慎重な監督や金融システムの安定に携わる当局による円滑な政策実行に寄与する。
* 国際・欧州内協力 - 欧州中央銀行はユーロシステムに委託された業務について、欧州連合域内においても、また国際的にも関連機関との協力関係の維持に当たる。
2013年7月10日、[[欧州委員会]]は銀行同盟に向けた単一破綻処理制度(SRM)を提案した。この提案は、EU加盟国の銀行を欧州中央銀行が直接監督するという単一監督制度(SSM)を補完する<ref>駐日欧州連合代表部 [http://www.euinjapan.jp/media/news/news2013/20130710/103414/ 欧州委員会、単一の銀行破たん処理制度を提案] 2013/07/10 IP/13/674 ブリュッセル</ref>。
預金ファシリティ金利を-0.4%としている。
==通貨価値の漸減をめぐる議論==
欧州中央銀行は[[イングランド銀行]]のように対称性をもつ[[インフレターゲット]]を採用するべきだとする経済学者が多くいる<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/1423946.stm Treasury doubts on the euro] [[英国放送協会]] 2006年7月5日</ref>。イングランド銀行はインフレターゲットを2%±1%としているのに対して、欧州中央銀行は「2%以下であり2%近くにする」と、曖昧なものとしている。欧州中央銀行に課せられた目標が低いという批判は存在する。しかし欧州中央銀行はインフレ率を抑制する立場にある。そういうこだわりが、欧州経済情勢のより広いニーズに応えない金利決定がなされていると考える者もいる。
このようなインフレターゲットに関する批判は欧州中央銀行に限らず、多くの中央銀行でも言われるものである。イングランド銀行が採用していることも考えると、この論点が連合軍軍政期に英米が対立した延長にあると評価できる。
欧州中央銀行による低金利設定は地価バブルが起っているヨーロッパの地域では適当なものではないという批判があり、この低金利は[[アイルランド]]の地価バブルの要因となった。低金利はユーロ圏全体として[[デフレーション]]回避のために設定されている。
欧州中央銀行の低金利政策(実際マイナス金利が主流)にせよ、インフレターゲットにせよ、通貨の実質的価値を漸減させて交換手段としての活用を促し投資・消費へ使わせようとする目的で共通している。
インフレしない経済成長に直接効果のある[[自由通貨]]は学界で議論されるにとどまっている。
==独立性をめぐる議論==
欧州中央銀行は政治的介入を受けずに、独自に業務を行う中央銀行と規定されている。その目的と権限は英米の確執で政治的に妥協して定められたものである。ともかく目標達成のために権限をどのように行使するかについての意思決定は欧州中央銀行自体で行われ、業務上の独立性が保障されている。欧州連合域内の各国の中央銀行の多くはユーロ圏外にあり独立性を有している。[[デンマーク国立銀行]]、イングランド銀行にも類似規定が存在する。
経済学者には一致した見解として、独立した地位を持つ中央銀行の存在は政治的目的でマクロ経済の操作を回避するためには最良の手段であるというものがある。他方で、一部の国において中央銀行が独立性も非独立性も有していないことがある。この背景には経済運営上の都合やインフレ阻止のための信頼性確保などがあるが、このような状況でも民主主義の観点から説明責任は存在する(例示すると、[[カナダ銀行]]や[[ニュージーランド準備銀行]]などがある)<ref>Michael King [http://www.carleton.ca/economics/seminar%20papers/King-20Jun2001.pdf Politicians and the Bank of Canada: Inflation Targeting as an Alternative to Independence] [[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]] (英語、PDF形式)</ref><ref>J. Matthew Clark [http://ideas.repec.org/a/cpp/issued/v22y1996i4p330-341.html The Bank of Canada, Accountability and Legitimacy: Some Proposals for Reform] pp.330-341 [[トロント大学|トロント大学出版局]] 1996年 (英語、PDF形式)</ref>。
一部では欧州中央銀行の独立性は非民主的なものであるという見方があり、また意思決定の過程や目標に対する批判の声もある。その内容は、欧州中央銀行は連合域内の市民の大多数に対して情報を提供することが少なく、独立した地位を有していることから融通性がなく、また[[人権]]侵害や[[自然環境]]といった点から貨幣経済をとらえたときのその影響力に関してフィードバックのメカニズムから分断されているというものである。実際、諮問組織からのフィードバックが優先されている。
欧州中央銀行は自身の提唱する案件に関してコメントを発表したり求めるといったことをしていない。自身の行為や決定の発表後でも市民に対して直接意見を求めるといったことをウェブページ上で行っていないのである。内部における会議の詳細も、役員会の内部分裂を隠すために明らかにしないのだと言われている。
欧州中央銀行は[[欧州議会]]と[[欧州連合理事会]]に対して説明責任を負っている。欧州連合理事会は欧州中央銀行総裁、副総裁およびほかの役員会の役員を指名する権限を持っている。指名された候補者はまず欧州議会の承認を受けなければならず、続いて欧州連合理事会の承認を経て、各役員の担当分野を決定する。欧州中央銀行総裁は法の定めにより、欧州議会総会において年間報告書を提出することとされている。さらに総裁および役員会の代表は年4回、欧州議会経済通貨委員会において報告することとされている。このような報告は欧州議会または欧州中央銀行の求めに応じ定例外に行うことができる。
[[欧州連合の市民]]は国政選挙を通じて欧州中央銀行の政策決定に影響力を持つ。だが経済の見通しの変動が民主的な手段によって示された場合、選ばれた政治家は直接その変動を欧州中央銀行に伝えられないという限界がある。
==州立銀行の過去==
[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]]のドイツにおいて、[[フランス]]と[[ソ連]]が四区にまたがる中央銀行の設立に反対した。そこでアメリカが第三次ドッジプランにおいて州中央銀行委員会(Länder Central Bank Commission)の設置を提案したが、それさえ決裂したので[[イギリス]]と協議した。しかし、ドイツの金融制度を[[ライヒスバンク]]と切り離そうとするアメリカと、接続させようとするイギリスは鋭く対立することになった。一応イギリスは譲歩の姿勢を示したが、相応の条件をつけた。イギリスの占領地域では[[ルール地方]]の石炭・鉄鋼業を再建する目的で補助金を支出しており、これが大きな財政負担となっていた。地方財政から補助金を交付するとき、ハンブルク営業本部は決定的なリファイナンス機関となった。それで要するに、英米地区全体を管轄する中央銀行の設立を認めてやるから財政負担をアメリカでも融通してくれというのであった。<ref name=ishizaka />
分権的制度を志向していたクレイ将軍([[:en:Lucius D. Clay|Lucius D. Clay]])であったが、1948年1月に全ての州中央銀行が出資してフランクフルトの「州連合銀行」を創設することに合意した。イギリスは同年2月にハンブルク営業本部の廃止と銀行分権化を決め、管轄区の各州に州中央銀行を設立した。3月に「州連合銀行」は{{仮リンク|ドイチェ・レンダー銀行|en|Bank deutscher Länder}}と命名された。やがてフランス地区の三州各中央銀行も3月25日に遡及しドイチェ・レンダー銀行の傘下となった。<ref name=ishizaka>石坂綾子 「ドイツ連邦銀行制度の成立過程(1945-1957)」 土地制度史学 158号 1998年1月 1-17頁</ref>
ドイチェ・レンダー銀行は多忙であった。唯一の発券銀行であり、州中央銀行の決済・再割引、裁定準備金の預託を行う清算機関であった。ドイチェ・レンダー銀行は[[連邦準備制度]]と異なる仕組みであった。イギリスの要望で日常運営にあたる役員会(Direktorium)がおかれ、アメリカの要望では独立性を担保する機関(Zentralbankrat)がおかれた。この理事会は、役員会総裁と理事会議長と11州の州中央銀行総裁から構成された。役員会とイギリス地区州中央銀行総裁はライヒスバンク出身者から選ばれた。逆にアメリカ地区では忌避された。[[西ドイツ]]のドイチェ・レンダー銀行は、6月の通貨改革に先立ち公定歩合を5%に設定したときの運営ぶりで、完全な集権体制の確立を示した。<ref name=ishizaka />
1957年、[[イングランド銀行]]がポンド危機や交換性喪失にあえぐ中、ドイツ連邦銀行に権限が委譲された。マルクの通貨価値を安定させる目的であった。こうしなければ、各州の財政に振り回された運営が行われてインフレを招くだろうとみられていたのである。
欧州中央銀行および欧州中央銀行制度の主たる目的も、ユーロ圏における物価の安定であり、たとえば[[インフレーション]]率を低く抑えるというものが挙げられ、現在の目標水準は2%程度としている。
物価安定の目的を妨げない限りにおいては欧州連合の経済政策を支援するという目的もある。[[マーストリヒト条約|欧州連合条約]]第3条以下には欧州連合の政策について、高い水準での[[雇用]]の創出とインフレーションによらない[[経済成長]]の維持がうたわれている。
==本店==
[[File:European central bank euro frankfurt germany.jpg|thumb|200px|旧本店所在地のユーロタワー]]
欧州中央銀行はユーロ圏最大の[[金融センター]]であるフランクフルトに本店を構えており、その所在地は他の欧州連合の諸機関とともに[[アムステルダム条約]]で定められている<ref>[http://www.ecb.europa.eu/ecb/legal/pdf/en_statute_2.pdf 欧州中央銀行制度および欧州中央銀行に関する欧州連合条約付帯議定書] (英語、PDF形式)</ref>。
2003年1月5日、一人の男性が[[グライダー|モーターグライダー]]を盗み、そのグライダーでフランクフルト中心街の高層ビル群を旋回し、欧州中央銀行に突っ込みそうになるという事件が発生した。その男性は2時間後に無事着陸し、その後逮捕された。男性は31歳の精神障害者で、テレビ報道に対して[[チャレンジャー号爆発事故]]で死亡したアメリカ人[[宇宙飛行士]][[ジュディス・レズニック]]の気をひきたかったと話している<ref>[https://edition.cnn.com/2003/WORLD/europe/01/05/germany.plane.ecb/ Frankfurt crash threat ends safely] CNN 2003年1月6日 (英語)</ref>。
欧州中央銀行はフランクフルトの新本店ビルが建設されるまで、同じくフランクフルトにあるユーロタワーに本店を置くことになっていた<ref>Carter Dougherty [http://www.nytimes.com/2004/11/16/news/16iht-ecb_ed3_.html In ECB future, a new home to reflect all of Europe] インターナショナル・ヘラルド・トリビューン 2004年11月16日 (英語)</ref>。1999年、欧州中央銀行は国際建築コンペティションを開いて新本店ビルのデザインを募集した。結果、[[ウィーン]]を拠点に活動する設計事務所[[コープ・ヒンメルブラウ]]が優勝した。新本店の本館ビルおよび周辺に建てられる関連ビルは約180メートルの高さを持ち、フランクフルト東部の卸売市場跡を臨む眺望を持つ計画となった。建設は2008年10月から始まり<ref>[http://www.ecb.europa.eu/press/pr/date/2007/html/pr070710_3.en.html Launch of a public tender for a general contractor to construct the new ECB premises] 欧州中央銀行プレスリリース 2007年7月10日 (英語ほか21言語)</ref>、2014年に完成、同年に新本店での業務を開始した<ref>{{cite news | title = ドイツは資産バブルへ向かうか 「ゼロ金利」が巻き起こす格差論| url = http://diamond.jp/articles/-/68186| publisher = ダイヤモンド社 | date = 2015-3-11 | accessdate = 2015-6-23}}</ref>。
==関連項目==
{{Commons|Category:European Central Bank}}
* [[欧州連合の経済]]
* [[欧州連合の機構]]
* [[欧州中央銀行制度]]
* [[欧州為替相場メカニズム]]
* [[欧州連合の経済通貨統合]]
==脚注==
{{Reflist}}
==外部リンク==
* [https://www.ecb.europa.eu/ 欧州中央銀行]
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/eu/ecb_gaiyou.html ユーロ圏の金融政策と欧州中央銀行制度] - 日本国外務省による
* [https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_1999/ron9902c.htm 欧州中央銀行月報の創刊号より(資料)] - 日本銀行国際局国際調査課による
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メトロポリス法
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メトロポリス法(英語: Metropolis method )は、モンテカルロ法によるシミュレーションにおいて、乱数発生により作った新しい状態を棄却するか採択するかの基準の与え方、あるいは重点サンプリング(英語版)による分配関数の近似計算の方法。具体的には、系のエネルギー E の変化 ΔE によって、
ならば確率 1 で、
ならば確率 e で採択する。ここで β = (k BT ) は逆温度、kB はボルツマン定数、Tは系の熱力学温度である。
一般に、詳細釣り合いの原理、非周期性 (aperiodicity) がある棄却採択法ならば、熱平衡状態のアンサンブルが得られる。
系の時間発展がマスター方程式によって記述されるとする。
ここで P (E , t ) は時刻 t におけるエネルギー E の分布、すなわち確率密度関数である。右辺の積分の第一項はエネルギー E' の状態からエネルギー E へ遷移する流れを、第二項はエネルギー E の状態からエネルギー E' へ遷移する流れを表す。つまり、P (E ) を E でラベルづけされた物質の量だと思えば、第一項は単位時間当たりの流入量、第二項は単位時間当たりの流出量に相当する。係数の W (E, E' ) はエネルギー E' の状態からエネルギー E の状態への遷移確率(頻度)を表す。
定常状態の確率密度関数はマスター方程式の左辺が 0 となる場合を考えれば充分だが、一般の遷移確率 W に対してこれを解くことはできない。平衡状態を仮定するならば、更に条件を強めることができ、次の詳細釣り合いの条件を考えればよいことになる。
これは次のように変形することができる。
ここで P は平衡状態における確率密度関数 P である。今は熱力学系について考えているので、統計力学の設定を持ち込めば、系のエネルギー状態の分布はカノニカル分布になるべきであり、平衡状態の確率密度 P はボルツマン因子 e と分配関数 Z の比に書き換えられる。
詳細釣り合いの式について確率密度をボルツマン因子に置き換えれば、分配関数は消去され次の関係を得る。
この関係を満たすように状態を変化させることで、平衡状態において典型的な状態を重点サンプリングすることができる。
特に、遷移確率 W (E , E' ) を次のように与えればメトロポリス法を得る(ΔE := E − E' とすればこれは冒頭の式に一致する)。
τ0 は適当な定数であり、系の時間スケールに相当する。実際の計算では τ0 = 1 とすることが多いが、系のカイネティクスを考える場合には実際の大きさを推定する必要がある。ただし、メトロポリス法の場合、エネルギー的に安定な状態を見つけたとき、確率 1 で遷移するモデルを扱っているので、実際の系のカイネティクスは無視されていると思ってよい。
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メトロポリス法は、モンテカルロ法によるシミュレーションにおいて、乱数発生により作った新しい状態を棄却するか採択するかの基準の与え方、あるいは重点サンプリングによる分配関数の近似計算の方法。具体的には、系のエネルギー E の変化 ΔE によって、 ならば確率 1 で、 ならば確率 e−β ΔE で採択する。ここで β =−1 は逆温度、kB はボルツマン定数、Tは系の熱力学温度である。 一般に、詳細釣り合いの原理、非周期性 (aperiodicity) がある棄却採択法ならば、熱平衡状態のアンサンブルが得られる。
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{{出典の明記|date=2021年10月2日 (土) 04:26 (UTC)}}
'''メトロポリス法'''({{lang-en|''Metropolis method''}} )は、[[モンテカルロ法]]による[[シミュレーション]]において、[[乱数]]発生により作った新しい状態を棄却するか採択するかの基準の与え方、あるいは{{仮リンク|重点サンプリング|en|importance sampling}}による[[分配関数]]の[[近似|近似計算]]の方法。具体的には、[[系 (自然科学)|系]]の[[エネルギー]] {{mvar|E}} の変化 {{math|Δ''E''}} によって、
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ならば確率 {{math|e{{sup|−''β'' Δ''E''}}}} で採択する。ここで {{math|''β'' {{=}} (''k'' {{sub|B}}''T'' ){{sup|−1}}}} は[[逆温度]]、{{math|''k''{{sub|B}}}} は[[ボルツマン定数]]、{{mvar|T}}は系の[[熱力学温度]]である。
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{{main|メトロポリス・ヘイスティングス法}}
== 導出 ==
系の[[時間発展]]が[[マスター方程式]]によって記述されるとする。
:<math>\frac{\partial P(E,t)}{\partial t} = \int_{-\infty}^{\infty}\Bigl\{W(E,E')P(E',t) - W(E',E)P(E,t) \Bigr\}\,\mathrm{d}E\,.</math>
ここで {{math|''P'' (''E'' , ''t'' )}} は時刻 {{mvar|t}} における[[エネルギー]] {{mvar|E}} の分布、すなわち[[確率密度関数]]である。右辺の[[積分]]の第一項はエネルギー {{mvar|E{{'}}}} の状態からエネルギー {{mvar|E}} へ遷移する流れを、第二項はエネルギー {{mvar|E}} の状態からエネルギー {{mvar|E{{'}}}} へ遷移する流れを表す。つまり、{{math|''P'' (''E'' )}} を {{mvar|E}} でラベルづけされた物質の量だと思えば、第一項は単位時間当たりの流入量、第二項は単位時間当たりの流出量に相当する。[[係数]]の {{math|''W'' (''E'', ''E{{'}}'' )}} はエネルギー {{mvar|E{{'}}}} の状態からエネルギー {{mvar|E}} の状態への[[遷移確率]](頻度)を表す。
[[定常状態]]の確率密度関数はマスター方程式の左辺が {{math|0}} となる場合を考えれば充分だが、一般の遷移確率 {{mvar|W}} に対してこれを解くことはできない。[[熱力学的平衡|平衡状態]]を仮定するならば、更に条件を強めることができ、次の[[詳細釣り合い]]の条件を考えればよいことになる。
:<math>0 = W(E,E')P^\mathrm{eq}\!(E') - W(E',E)P^\mathrm{eq}\!(E).</math>
これは次のように変形することができる。
:<math>\frac{P^\mathrm{eq}\!(E)}{P^\mathrm{eq}\!(E')} = \frac{W(E,E')}{W(E'\!,E)}.</math>
ここで {{math|''P'' {{sup|eq}}}} は平衡状態における確率密度関数 {{mvar|P}} である。今は[[熱力学]]系について考えているので、[[統計力学]]の設定を持ち込めば、系のエネルギー状態の分布は[[カノニカル分布]]になるべきであり、平衡状態の確率密度 {{math|''P'' {{sup|eq}}}} は[[ボルツマン因子]] {{math|e{{sup|−''βE''}}}} と[[分配関数]] {{mvar|Z}} の比に書き換えられる。
:<math>P^\mathrm{eq}\!(E) = \frac{\mathrm{e}^{-\beta E}}{Z(\beta)}.</math>
詳細釣り合いの式について確率密度をボルツマン因子に置き換えれば、分配関数は消去され次の関係を得る。
:<math>\mathrm{e}^{-\beta(E-E')} = \frac{W(E,E')}{W(E'\!,E)}.</math>
この関係を満たすように状態を変化させることで、平衡状態において典型的な状態を重点サンプリングすることができる。
特に、遷移確率 {{math|''W'' (''E , E{{'}}'' )}} を次のように与えればメトロポリス法を得る({{math|Δ''E'' :{{=}} ''E'' − ''E{{'}}''}} とすればこれは冒頭の式に一致する)。
:<math>
W(E,E') = \begin{cases}
{\tau_0}^{-1}\quad & \mbox{for}~~ E \leq E'\, \\
{\tau_0}^{-1}\mathrm{e}^{-\beta(E-E')}\quad & \mbox{for}~~ E > E'\,.
\end{cases}
</math>
{{math|''τ''{{sub|0}}}} は適当な定数であり、系の時間スケールに相当する。実際の計算では {{math|''τ''{{sub|0}} {{=}} 1}} とすることが多いが、系のカイネティクスを考える場合には実際の大きさを推定する必要がある。ただし、メトロポリス法の場合、エネルギー的に安定な状態を見つけたとき、確率 {{math|1}} で遷移するモデルを扱っているので、実際の系のカイネティクスは無視されていると思ってよい。
==関連記事==
*[[計算物理学]]
*[[マルコフ連鎖モンテカルロ法]]
*[[メトロポリス・ヘイスティングス法]]
*[[焼きなまし法]] - メトロポリス法を利用した最適化アルゴリズム
*[[詳細釣り合い]]
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地政学
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地政学(ちせいがく、独: Geopolitik)は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である。
19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説と環境決定論を理論的基盤とし、ドイツ・イギリス・日本・アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある。
1980年代以降に勃興した批判地政学(英語版)は、地理に関する政治的言説そのものを研究対象とする学問であり、ある空間に対する政治的イメージがいかに構築されるかについて論ずる。
日本語の「地政学」という用語は、ドイツ語「ゲオポリティク(Geopolitik)」の翻訳語として導入されたものである。この用語は、1899年にスウェーデンの国家学者・政治家であるルドルフ・チェレーンにより提唱された。チェレーンは当初、ゲオポリティクの語をラッツェルの政治地理学と同義で用いたが、後に「政治地理学が人類の居住地としての地球を他の性質との関係において研究するのに対して、地政学は国家の体躯として領土を扱う」ものであると規定した。
1930年代前半ごろまで、「ゲオポリティク」の訳語としては「地政学」と「地政治学」の2つが主だって用いられていたが、両語が並立していた背景には、ゲオポリティクの学問的性質に関する当時の齟齬があったと考えられている。すなわち、地政学を地理学の一部とみなし、「地理政治学」の短縮語として「地政学」を用いようとする研究者と、地政学を政治学の一部とみなし、「地政治学」を用いようとする研究者の対立である。とはいえ、十五年戦争期、国内の地理学者がゲオポリティクの実践的側面に着目し、地理学の一部として、極端な場合には地理学のありかたそのものとして「地政学」を推挙し、著作や学術団体の名称として積極的に「地政学」を用いたことにより、「地政学」の訳語は定着し、「地政治学」の語は1941年を境にほとんど使われなくなった。しかし、1940年代以降においても、「地政学」の訳語が完全に定着していたわけではなく、1941年にゲオポリティクが「普遍性を持たない一種の技術論」であるとして、新しく「地政論」の訳語を挙げた木内信蔵などの人物も存在した。
山﨑孝史は、批判地政学における英語「Geopolitics」は、「地政治」と訳すのが適切であると主張している。同様に、高木彰彦は「ジオポリティクス」の語は「geography(地理/地理学)」、「politics(政治/政治学)」といった言葉と同様、世界や国際情勢の見方や捉え方を意味する場合には「地政学」、実践的ないし政策的な意味合いで使われる場合には「地政治」と訳しわけることを提唱している。
伝統地政学の理論的基盤を用意したのは、地理学者のフリードリヒ・ラッツェルであると考えられている。生物学者でもあった彼は、進化論の枠組みを国家においても適用し、諸国家は自らの「生存圏」を拡張しようとする生物的本性を有しているとする、国家有機体説を唱えた。ラッツェルは、国家の成長の基礎は地理的基礎の領土に規定されると考え、次の7原則を唱えた。
2.国家の成長は国民の成長に従う。国民の成長は必然的に国家の成長に先立たねばならない。 3.国家の成長は小国の合併によって進行する。 4.国境は国家の周辺的器官であり、国家の成長と防御の担い手であり、国家という有機体の変化のすべてに携わる。 5.国家は、その成長過程において、政治的に価値のある位置を囲い込む方へとせめぎ合う。 6.国家の空間的成長に対する最初の刺激は外部からもたらされる。
国家は成長ないし衰退する有機体であり、環境に応じて版図を広げていくとするこの学説は、統一および植民地獲得によって特徴づけられる、当時のドイツの歴史を色濃く反映するものであった。
「地政学」(独: Geopolitik)の用語は、1899年にスウェーデンの国家学者・政治家であるルドルフ・チェレーンにより提唱された。彼は、ラッツェルの有機体的な国家観を踏襲しながら、有機体としての国家の行動を分析するシステムについて思索を深めた。チェレーンは、国家の本質は法律的要素と勢力的要素から成り立っていると考え、国内においては国家の法的な側面を重視するべきであるのに対して、対外的には国家を領土を肉体、国民を精神とする生命体であると定義する、有機体的な国家概念を強調するべきだと主張した。
アメリカの海軍士官・歴史家であったアルフレッド・マハンは、1890年に『海上権力史論』を発表し、「シーパワー」の概念を唱えた。彼は、国家権力の決定的要因は海軍力をはじめとした海上権力(シーパワー)を持つ勢力によって決定されると考えた。マハンは、国家の地理的位置・自然的形態・領土の範囲・住民の数・国民性・政府の計画の6条件がシーパワーに影響すると主張し、米国はシーパワーたるべきであると説いた。
イギリスの地理学者・政治家であるハルフォード・マッキンダーは、1904年に「ハートランド」の概念を唱えたことから、英米圏地政学の祖として位置づけられている。マッキンダーは世界を「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」に区分し、コロンブス以前のヨーロッパはユーラシア大陸中央部(ハートランド)を拠点とする騎馬民族に蹂躙されていたと述べた。マッキンダーいわく、新大陸発見により、ヨーロッパ人が世界の海洋に進出するようになると、シーパワーがランドパワーを優越する時代が到来した。彼は、19世紀後半以降、鉄道の発達にともない、再びランドパワーが優位に経とうとしているが、シーパワー国家であるイギリスはこの変化に対応できておらず、ハートランドを占拠する勢力であるドイツとロシアが同盟することを阻止しなければならないと主張した。
1919年の『デモクラシーの理想と現実』においてもマッキンダーは「東欧を支配するものはハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」と、ハートランドの脅威を強く主張した。彼は、第一次世界大戦後の東欧に緩衝国家群を作ろうと尽力したが、これは実現しなかった。1907年の「帝国的に考えること」における、「私たちの目的は、すべての人々が帝国的に考えられる、つまり、世界大に広がる空間で考えるようになることです」という主張に象徴されるように、マッキンダーの関心は、マクロ的な地理観をもって、世界における大英帝国の地位を守ることにあった。
ヴェルサイユ条約における国境制定に関わったイザイア・ボウマンは1921年に『新世界:政治地理学における問題』を上梓し、「主観的」なドイツ地政学とは異なる、実証的、客観的、非イデオロギー的な科学としての地理学を米国のエリートは学ばなければならないと主張した。しかし、この著作についても米国中心的な視点から描かれたものであることが指摘されており、この視点では普遍的価値感を代表する米国が、他国を支配することは合理的な行為であるとみなされる。両者の地理学は、1ラッツェルの思想を理論的骨組みとしていること、2他者からは文字通り一線を画した自国という場所から世界を観察していること、3類似した観察方法を有し、結論の差異は学術的方法よりもむしろ歴史的地理的視座の差にほかならないという3つの点において類似点を見出すことができ、ボウマンは本人の意に反して「アメリカのハウスホーファー」と呼ばれることもあった。第二次世界大戦期、フランクリン・ルーズベルトのアドバイザーとして重用されたボウマンは、国際連合の創設にも携わったが、国連本部がニューヨークに立地されたことは、ボウマンのような地理学者が、より普遍的なものを代弁しつつ、一方ではアメリカの国益を促進するような動きを展開していたことを示唆する。
冷戦期のアメリカにおいては、地政学的視点が実際の政治と結びつく形で、政治家や外交・軍事政策アドバイザーに継承された。アメリカが戦後の世界大国としてその役割を発展させはじめるにつれて、外交・軍事戦略論の文脈から、アメリカの行為を導き正当化するような地政学的世界観が生み出された。
20世紀中葉の代表的地政学者としては、ニコラス・スパイクマンがいる。スパイクマンは「国力のみが対外政策の目標を達成できるため、その相対的向上が国家の対外政策の第一目的である」と述べ、国家は勢力均衡を保つためにパワーポリティクスに専念すべきだと考えた。彼はマッキンダーの「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」のうち後者2つを「リムランド」「沖合」と改称し、ハートランドの拡大を防ぐためにはリムランドへの介入が不可欠であるとした。スパイクマンのこの主張は、アメリカが戦後、孤立主義から、封じ込め政策に代表される介入主義へと、政策の舵を切る理論的基盤となった。
第一次世界大戦により、ドイツは全植民地と西部領土・北部領土・北東部領土および南東部領土を喪失した。新しい民主的政府がヴェルサイユ条約に調印せざるをえなかったという事実は、民主主義への訴えを弱め、国内におけるナショナリズムと地政学に対する興味を醸成した。
当時のドイツ地政学の中心人物となったのが、カール・ハウスホーファーである。イギリス人であるマッキンダーがドイツとロシアの連携を危惧したのに対して、ドイツ人であるハウスホーファーは同様の世界観から両国の同盟の必要性を訴えた。新しく誕生した共産主義国家である、ソビエト連邦との密接な協力を積極的に支持するのは不適切とみなされていた時期にあって、彼はソ連・日本との密接な協力により、ユーラシア大陸を横断する政治的ブロックを作り上げることこそが、大国としてのドイツを再興するための最良の手段であると主張した。
ハウスホーファーはルドルフ・ヘスと親交を深め、「国境を越えたドイツ人の生存のために働く」ためナチスに積極的に協力した。総統アドルフ・ヒトラーは、ハウスホーファーの思想から「生存圏」の概念を援用し、第三帝国が領土を拡張することの理論的根拠とした。しかし、人種主義に重きを置かない彼の思想は、1930年代にはすでに求心力を失っており、ヒトラーの政策とハウスホーファーの地政学は、独ソ戦が開戦される1941年には、食い違うものになっていた。ハウスホーファーはドイツの降伏後、占領軍による尋問を受けたものの起訴はされず、1946年に妻とともに服毒自殺した。
フレデリック・ソンダーン(Frederic Sondern)が1941年に、『リーダーズ・ダイジェスト』において「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという、事実ではない主張を展開したことに代表されるように、戦争中の英米における刊行物において、ハウスホーファーはナチスの政治戦略に事実以上に強い影響力をもたらしている人物として描写された。地政学とナチスの強い結びつきに関する言説は、アメリカやソ連をはじめとする他の国々の地理学者の多くに、この用語を使うことをためらわせた。
1980年前後になると、「地政学」という言葉は再び広く用いられるようになる。この一因として、ヘンリー・キッシンジャーが「地政学的(geopolitical)」という用語を多用したことが挙げられる。コリン・グレイをはじめとする知識人は地政学立場より、勢力をユーラシア大陸全体に延ばそうとするソ連に対して攻撃的アプローチを取るべきだとジミー・カーターを批判し、この政策はロナルド・レーガン政権において受け入れられた。1980年代中期までには、アメリカにおける「地政学」は、アメリカの権力を維持したいという強い意欲を持った研究者によって主導されるようになり、アメリカが国益を追求する際の合言葉としての役割を持った。
また、この時代には学生運動の影響を受けた若手研究者が政治分野の研究に取り組みだすようになった。彼らは、従来の政治的意識に欠ける研究者を「政治地理学者(英: Political geographers)」に対して自らを「政治的な地理学者(英: political geographers)」と呼んだ。こうした研究者のひとりであったピーター・テイラーは1985年に『世界システムの政治地理』を発刊し、同著において「地政学の再考」を主張した。テイラーは、国家の意思決定は、
1目下の同盟国および潜在的な同盟国はどの国か 2目下の敵国および潜在的な敵国はどの国か 3どのようにして同盟関係を維持し、潜在的な同盟関係を促進するのか 4目下の敵国にどうやって対処し、脅威の出現にどのように対処するのか 5以上の4つの規定を国民とグローバル社会に対してどのように正当化するのか
という5つの想定をもとにした「地政的コード」に規定されると論じた。テイラーを中心とした「新しい政治地理学」の再興は英語圏を中心に多くの研究者に刺激を与え、「新しい地政学」の潮流を生み出した。
ヘルマン・ファンデアヴステン(Herman van der Wusten)とジョン・オロッコリン(John O'Loughlin)は1986年に「Claiming new territory for a stable peace : how geography can contribute」を発表し、世界システム論を踏まえた空間分析という経験主義的アプローチを基礎としながら、戦争と平和の研究を政治地理学における新しい研究課題として位置づけた。これに対して、ガローゲ・オトゥホールは「経験主義に根ざす道具主義的な問題解決モデルからは既存の社会政治的関係を問うことができない」とオロッコリンらの方法論を批判し、批判理論を導入することで戦争・暴力・平和といった概念の国家的解釈や国家システムそのものを問題化するべきであると論じた。
1990年代のポストモダン的言説は、従来の人文・社会学的知の真実性・客観性を疑問視した。こうした潮流を組む、それまで国際政治において日常的に見いだされてきた地理的諸根拠や、地理的言説・表象といったコンテクストが、既存の支配的な国際政治の政策や実践をどのように正当化するかを明らかにする地政学を「批判地政学」と呼ぶ。オトゥホールとジョン・アグニューは、1992年に『地政学と言説』を発表し、地政学の実践は「客観的で不変の自然環境という地理的現実」に立脚するのではなく、官僚・外交官・外交評論家といった国政に携わる識者が、対象の地域に特定のイメージをもち、国際政治を「特定のタイプの場所や人々やドラマによって特徴づけられた一つの『世界』として表象すること」であるという主張のもと、地政学の再構築に取り組んだ。
1997年の全米地理学者協会年次大会においては、オトゥホールの批判地政学について、1テキストデータに過度に依存し、その他の実証的資料を軽視している、2研究対象が男性・英米人の言説に偏っている、3エリートによる国政術以外の地政言説を軽視している、という3つの批判がなされた。また、2000年代後半からは古典地政学的な観点からの批判地政学批判が展開されはじめた。テレンス・ハバルク(Terrence Haverluk)らは批判地政学の背景には体制変革への志向という政治的意図が存在するとして、「新古典地政学」を提唱した。
日本における地政学の輸入は第一次世界大戦中に始まり、1917年にチェレーンの『欧州戦争と民族主義』、1918年に『現代の八大強国』が邦訳された。彼の主著である『生活形態としての国家』は1925年に藤沢親雄によって紹介され、国家学の新基軸をうちだすものとして評価された。また、飯本信之は1925年の地理学評論に「人種争闘の事実と地政学的考察」を連載した。飯本は、当時活発化していた欧米諸国による排日運動に反対し、「人口圧が高い集団はそれにふさわしい生活空間が必要だ」という地政学的主張をもとに移民の正当性を主張した。阿部市五郎は1933年に『地政治学入門』を出版した。これは日本人による地政学の教科書としては最初のものだった。
1920年代の日本の地政学における議論は、地政学という新しい学問をいかように位置づけるかを主題とするものが主であったが、1930年代に入り、ドイツの地政学者が積極的に翻訳され、日本でも地政学の展開が図られるようになると、それを批判する学者も現れるようになった。小原敬士は1939年に『社会地理学の基礎問題』を発表し、地政学は国家有機体説と地理的唯物論というすでに否定された学説に依存する疑似科学であり、すでに克服されたはずの両学説が亡霊のように復活しているのは、現在のドイツの社会情勢がそれらを欲しているからだと主張した。
1930年代後半以降、日本が総力戦体制に入ると、地政学は国策迎合的な運動としての側面を持ち始める。柴田陽一は、いわゆる「南洋」地域と日本を一体の概念として捉えることが、従来の日本の思想の援用だけでは難しかったこと、国内においては1920年代に制度化された、若い学問である地理学が、戦時期において地政学的言説にアイデンティティを求めたことがこの動きの背景にあると述べている。
小牧実繁は陸軍参謀本部の高嶋辰彦の依頼を受け、1938年に総合地理研究会を創設し、地政学の研究を開始した。小牧は1940年に『日本地政学宣言』を上梓し、当時日本に輸入されていたドイツ地政学の思想はヨーロッパ特有の覇道主義に貫かれているとし、それとは異なる、皇道を指導理念とする日本流の独自の地政学を追求しようとした。『日本地政学宣言』をはじめとする彼の著書は7万4500部を売り上げたほか、小牧は大日本言論報国会の理事としても活動した。高木彰彦はこれを指して「地理学エリートによる大衆の扇動」であると評した。
また、飯本信之はみずから努めていた文検の出題仲間や東京大学の同窓生に声をかけ、海軍中将・上田良武を会長として1940年に日本地政学協会を発足した。また、彼らは帝国書院より出版されていた文検受験誌『地理歴史教育』を改組して機関紙『地政学』を発刊した。同誌は1942年から1944年まで刊行されたが、その内容には、教師向けの地誌学的内容や、地政学概念の解説が多いことに特色がある。同協会の評議員であった江沢譲爾は、地政学の国土計画や自然地理学を重視する側面に関心を持ち、経済地理学の空間概念に地政学の動態的・計画論的側面を取り込もうとした。
敗戦直後、小牧や江沢ら国内の地政学者の多くは公職追放処分にあった。しかし、追放解除後には多くが学界に復帰し、戦後においても影響力を持ち続けた。このことは、国内において地政学がタブー視され、地政学に対する学問的検討や批判すらはばかられる原因となった。この時期の地政学批判は、飯塚浩二によって行われた。飯塚は1947年に『地政学批判』を上梓し、地政学がロマン主義に彩られた国家有機体説と地理的決定論の形骸にほかならず、「主観的・希望的判断への誘惑から自己を守るために十分に武装していなかった」と述べた。さらに、飯塚は、ハウスホーファーの自殺について「少くともこの『使徒』の生涯にあっては、ゲオポリティクが、その亜流に於けるが如くに、処世のポリティクではなかったことの証拠とみたい」と記述し、「非常時意識の下に我が国で行われた精神乃至思想動員の全過程が、ナチ独逸に於ける如く真理の客観性への挑戦というような苛烈な形にまで突き詰められるどころか、極めて妥協的に『日本古来』の価値体系の強調という単純な線に沿って益々と進められた事実、所謂東亜新秩序の理念として提唱されたところの『八紘一宇』の教義が、家族主義或いは家族国家の理念をそのまま空間的に推しひろげたものに過ぎず、その神話的内容をついに近代の科学用語によって世界に向かって説明することが出来ぬような性質乃至は段階のものとして終わったという事実」についても批判した。
戦前日本の地政学の本格的再検討は、1970年代後半に始まった。この契機になったのは、当時の経済地理学に対して、マルクス主義地理学の観点から、方法論の一部に地政学に類する概念が復活しているという批判がなされたことである。竹内啓一は「現代的課題として地政学批判を展開するためには、事実の確定と前提作業が必要である」として日本地政学史の研究の嚆矢を放ち、これに触発される形で戦前・戦中における地政学の実態の解明が進んだ。1990年代に入ると冷戦終結によるイデオロギーからの解放、大半の地政学者の逝去、一部の地政学者の回顧録の出版やインタビューへの応答、戦前資料の発見などにより戦前地政学のニュートラルな視点からの再検討がはじまった。たとえば、福嶋依子は、1970年代の研究が同時代の地理学批判に急なあまり、学説それ自体の研究がおろそかになっているという問題意識から、江沢譲爾の学説を再検討した。2020年現在において、戦前地政学史研究は、単に当時の学説の妥当性や、侵略戦争への加担を批判するだけではなく、そうした言説が生産され、支持されるに至った背景と、その社会的な影響を同時代的な視点から解明しようとしている。
キッシンジャーによる、国際政治を語る用語としての「地政学」の再興は、日本語圏にも影響を与え、1977年には倉前盛通の『悪の論理―ゲオポリティク(地政学)とは何か』、1980年には『新・悪の論理―変転する超大国のゲオポリティク』といった一般書が出版された。また、2000年代以降には地政学を題した一般書の販売が出版が急増し、「空前の地政学ブーム」というべき状況が起きている。高木彰彦は、奥山真司が2010年に出版した『“悪の論理”で世界は動く! 地政学――日本属国化を狙う中国、捨てる米国』を例に挙げながら、日本で出版される地政学の一般書の多くが1980年代以来の地政学を「悪の論理」とする価値観を受け継いだものであることを指摘し、アカデミックな議論が活発化する欧米の状況とは全く異なることを「例外主義」と呼称した。
香川貴志は2016年の人文地理学会学界展望総説において、「我われ地理学に携わる者の多くは,地域研究や政治地理学における地政学への注目」を知っているが、「地理学研究者は、かつて翼賛的な政策に地理学が地政学を以って加担したという苦々しい過去のことも熟知している」ため、地政学について、社会一般の持つそれとはことなる眼差しを向けざるをえないことを述べつつ、「さりながら、改めて地政学を説明する段になると,多くの地理学研究者が自信を持って語れないのも事実であろう」と語っている。柴田陽一は、「香川ら多くの地理学者が『過去』を『熟知している』と言いながら、なぜ『翼賛的な政策』に『加担』し、なぜ『社会の潮流に乗り過ぎ』たのかを、ひいてはそもそも地政学それ自体を、ほとんどの地理学者が『語れない』こと」を強く問題視し、『スパイクマン地理学』の訳者・渡邉公太による「多くの日本人が『地政学』に魅了されながらも,実は沙漠の中の蜃気楼のような、実体のない『地政学』という幻覚に惑わされている」という指摘は多くの地理学者にも当てはまるものであるとした。
また柴田は、日本地理学会が2018年に承認した「新ビジョン(中期目標)」に「第2次世界大戦において軍事関連研究に意図せず巻き込まれたという不幸な歴史をもっている」という一節があることを指摘し、学会という場においても地政学の正確な歴史が認識されていない現状を変えるためにも、戦前日本の地政学史の研究と、英語圏の新しい地政学の吸収が必要であると訴える。
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"text": "地政学(ちせいがく、独: Geopolitik)は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である。",
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"text": "19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説と環境決定論を理論的基盤とし、ドイツ・イギリス・日本・アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある。",
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"text": "1980年代以降に勃興した批判地政学(英語版)は、地理に関する政治的言説そのものを研究対象とする学問であり、ある空間に対する政治的イメージがいかに構築されるかについて論ずる。",
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"text": "日本語の「地政学」という用語は、ドイツ語「ゲオポリティク(Geopolitik)」の翻訳語として導入されたものである。この用語は、1899年にスウェーデンの国家学者・政治家であるルドルフ・チェレーンにより提唱された。チェレーンは当初、ゲオポリティクの語をラッツェルの政治地理学と同義で用いたが、後に「政治地理学が人類の居住地としての地球を他の性質との関係において研究するのに対して、地政学は国家の体躯として領土を扱う」ものであると規定した。",
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"text": "1930年代前半ごろまで、「ゲオポリティク」の訳語としては「地政学」と「地政治学」の2つが主だって用いられていたが、両語が並立していた背景には、ゲオポリティクの学問的性質に関する当時の齟齬があったと考えられている。すなわち、地政学を地理学の一部とみなし、「地理政治学」の短縮語として「地政学」を用いようとする研究者と、地政学を政治学の一部とみなし、「地政治学」を用いようとする研究者の対立である。とはいえ、十五年戦争期、国内の地理学者がゲオポリティクの実践的側面に着目し、地理学の一部として、極端な場合には地理学のありかたそのものとして「地政学」を推挙し、著作や学術団体の名称として積極的に「地政学」を用いたことにより、「地政学」の訳語は定着し、「地政治学」の語は1941年を境にほとんど使われなくなった。しかし、1940年代以降においても、「地政学」の訳語が完全に定着していたわけではなく、1941年にゲオポリティクが「普遍性を持たない一種の技術論」であるとして、新しく「地政論」の訳語を挙げた木内信蔵などの人物も存在した。",
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"text": "山﨑孝史は、批判地政学における英語「Geopolitics」は、「地政治」と訳すのが適切であると主張している。同様に、高木彰彦は「ジオポリティクス」の語は「geography(地理/地理学)」、「politics(政治/政治学)」といった言葉と同様、世界や国際情勢の見方や捉え方を意味する場合には「地政学」、実践的ないし政策的な意味合いで使われる場合には「地政治」と訳しわけることを提唱している。",
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"text": "伝統地政学の理論的基盤を用意したのは、地理学者のフリードリヒ・ラッツェルであると考えられている。生物学者でもあった彼は、進化論の枠組みを国家においても適用し、諸国家は自らの「生存圏」を拡張しようとする生物的本性を有しているとする、国家有機体説を唱えた。ラッツェルは、国家の成長の基礎は地理的基礎の領土に規定されると考え、次の7原則を唱えた。",
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"text": "2.国家の成長は国民の成長に従う。国民の成長は必然的に国家の成長に先立たねばならない。 3.国家の成長は小国の合併によって進行する。 4.国境は国家の周辺的器官であり、国家の成長と防御の担い手であり、国家という有機体の変化のすべてに携わる。 5.国家は、その成長過程において、政治的に価値のある位置を囲い込む方へとせめぎ合う。 6.国家の空間的成長に対する最初の刺激は外部からもたらされる。",
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"text": "国家は成長ないし衰退する有機体であり、環境に応じて版図を広げていくとするこの学説は、統一および植民地獲得によって特徴づけられる、当時のドイツの歴史を色濃く反映するものであった。",
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"text": "「地政学」(独: Geopolitik)の用語は、1899年にスウェーデンの国家学者・政治家であるルドルフ・チェレーンにより提唱された。彼は、ラッツェルの有機体的な国家観を踏襲しながら、有機体としての国家の行動を分析するシステムについて思索を深めた。チェレーンは、国家の本質は法律的要素と勢力的要素から成り立っていると考え、国内においては国家の法的な側面を重視するべきであるのに対して、対外的には国家を領土を肉体、国民を精神とする生命体であると定義する、有機体的な国家概念を強調するべきだと主張した。",
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"text": "アメリカの海軍士官・歴史家であったアルフレッド・マハンは、1890年に『海上権力史論』を発表し、「シーパワー」の概念を唱えた。彼は、国家権力の決定的要因は海軍力をはじめとした海上権力(シーパワー)を持つ勢力によって決定されると考えた。マハンは、国家の地理的位置・自然的形態・領土の範囲・住民の数・国民性・政府の計画の6条件がシーパワーに影響すると主張し、米国はシーパワーたるべきであると説いた。",
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"text": "イギリスの地理学者・政治家であるハルフォード・マッキンダーは、1904年に「ハートランド」の概念を唱えたことから、英米圏地政学の祖として位置づけられている。マッキンダーは世界を「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」に区分し、コロンブス以前のヨーロッパはユーラシア大陸中央部(ハートランド)を拠点とする騎馬民族に蹂躙されていたと述べた。マッキンダーいわく、新大陸発見により、ヨーロッパ人が世界の海洋に進出するようになると、シーパワーがランドパワーを優越する時代が到来した。彼は、19世紀後半以降、鉄道の発達にともない、再びランドパワーが優位に経とうとしているが、シーパワー国家であるイギリスはこの変化に対応できておらず、ハートランドを占拠する勢力であるドイツとロシアが同盟することを阻止しなければならないと主張した。",
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"text": "1919年の『デモクラシーの理想と現実』においてもマッキンダーは「東欧を支配するものはハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」と、ハートランドの脅威を強く主張した。彼は、第一次世界大戦後の東欧に緩衝国家群を作ろうと尽力したが、これは実現しなかった。1907年の「帝国的に考えること」における、「私たちの目的は、すべての人々が帝国的に考えられる、つまり、世界大に広がる空間で考えるようになることです」という主張に象徴されるように、マッキンダーの関心は、マクロ的な地理観をもって、世界における大英帝国の地位を守ることにあった。",
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"text": "ヴェルサイユ条約における国境制定に関わったイザイア・ボウマンは1921年に『新世界:政治地理学における問題』を上梓し、「主観的」なドイツ地政学とは異なる、実証的、客観的、非イデオロギー的な科学としての地理学を米国のエリートは学ばなければならないと主張した。しかし、この著作についても米国中心的な視点から描かれたものであることが指摘されており、この視点では普遍的価値感を代表する米国が、他国を支配することは合理的な行為であるとみなされる。両者の地理学は、1ラッツェルの思想を理論的骨組みとしていること、2他者からは文字通り一線を画した自国という場所から世界を観察していること、3類似した観察方法を有し、結論の差異は学術的方法よりもむしろ歴史的地理的視座の差にほかならないという3つの点において類似点を見出すことができ、ボウマンは本人の意に反して「アメリカのハウスホーファー」と呼ばれることもあった。第二次世界大戦期、フランクリン・ルーズベルトのアドバイザーとして重用されたボウマンは、国際連合の創設にも携わったが、国連本部がニューヨークに立地されたことは、ボウマンのような地理学者が、より普遍的なものを代弁しつつ、一方ではアメリカの国益を促進するような動きを展開していたことを示唆する。",
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"text": "冷戦期のアメリカにおいては、地政学的視点が実際の政治と結びつく形で、政治家や外交・軍事政策アドバイザーに継承された。アメリカが戦後の世界大国としてその役割を発展させはじめるにつれて、外交・軍事戦略論の文脈から、アメリカの行為を導き正当化するような地政学的世界観が生み出された。",
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"text": "20世紀中葉の代表的地政学者としては、ニコラス・スパイクマンがいる。スパイクマンは「国力のみが対外政策の目標を達成できるため、その相対的向上が国家の対外政策の第一目的である」と述べ、国家は勢力均衡を保つためにパワーポリティクスに専念すべきだと考えた。彼はマッキンダーの「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」のうち後者2つを「リムランド」「沖合」と改称し、ハートランドの拡大を防ぐためにはリムランドへの介入が不可欠であるとした。スパイクマンのこの主張は、アメリカが戦後、孤立主義から、封じ込め政策に代表される介入主義へと、政策の舵を切る理論的基盤となった。",
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"text": "第一次世界大戦により、ドイツは全植民地と西部領土・北部領土・北東部領土および南東部領土を喪失した。新しい民主的政府がヴェルサイユ条約に調印せざるをえなかったという事実は、民主主義への訴えを弱め、国内におけるナショナリズムと地政学に対する興味を醸成した。",
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"text": "当時のドイツ地政学の中心人物となったのが、カール・ハウスホーファーである。イギリス人であるマッキンダーがドイツとロシアの連携を危惧したのに対して、ドイツ人であるハウスホーファーは同様の世界観から両国の同盟の必要性を訴えた。新しく誕生した共産主義国家である、ソビエト連邦との密接な協力を積極的に支持するのは不適切とみなされていた時期にあって、彼はソ連・日本との密接な協力により、ユーラシア大陸を横断する政治的ブロックを作り上げることこそが、大国としてのドイツを再興するための最良の手段であると主張した。",
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"text": "ハウスホーファーはルドルフ・ヘスと親交を深め、「国境を越えたドイツ人の生存のために働く」ためナチスに積極的に協力した。総統アドルフ・ヒトラーは、ハウスホーファーの思想から「生存圏」の概念を援用し、第三帝国が領土を拡張することの理論的根拠とした。しかし、人種主義に重きを置かない彼の思想は、1930年代にはすでに求心力を失っており、ヒトラーの政策とハウスホーファーの地政学は、独ソ戦が開戦される1941年には、食い違うものになっていた。ハウスホーファーはドイツの降伏後、占領軍による尋問を受けたものの起訴はされず、1946年に妻とともに服毒自殺した。",
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"text": "フレデリック・ソンダーン(Frederic Sondern)が1941年に、『リーダーズ・ダイジェスト』において「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという、事実ではない主張を展開したことに代表されるように、戦争中の英米における刊行物において、ハウスホーファーはナチスの政治戦略に事実以上に強い影響力をもたらしている人物として描写された。地政学とナチスの強い結びつきに関する言説は、アメリカやソ連をはじめとする他の国々の地理学者の多くに、この用語を使うことをためらわせた。",
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"text": "1980年前後になると、「地政学」という言葉は再び広く用いられるようになる。この一因として、ヘンリー・キッシンジャーが「地政学的(geopolitical)」という用語を多用したことが挙げられる。コリン・グレイをはじめとする知識人は地政学立場より、勢力をユーラシア大陸全体に延ばそうとするソ連に対して攻撃的アプローチを取るべきだとジミー・カーターを批判し、この政策はロナルド・レーガン政権において受け入れられた。1980年代中期までには、アメリカにおける「地政学」は、アメリカの権力を維持したいという強い意欲を持った研究者によって主導されるようになり、アメリカが国益を追求する際の合言葉としての役割を持った。",
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"text": "また、この時代には学生運動の影響を受けた若手研究者が政治分野の研究に取り組みだすようになった。彼らは、従来の政治的意識に欠ける研究者を「政治地理学者(英: Political geographers)」に対して自らを「政治的な地理学者(英: political geographers)」と呼んだ。こうした研究者のひとりであったピーター・テイラーは1985年に『世界システムの政治地理』を発刊し、同著において「地政学の再考」を主張した。テイラーは、国家の意思決定は、",
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"text": "1目下の同盟国および潜在的な同盟国はどの国か 2目下の敵国および潜在的な敵国はどの国か 3どのようにして同盟関係を維持し、潜在的な同盟関係を促進するのか 4目下の敵国にどうやって対処し、脅威の出現にどのように対処するのか 5以上の4つの規定を国民とグローバル社会に対してどのように正当化するのか",
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"text": "という5つの想定をもとにした「地政的コード」に規定されると論じた。テイラーを中心とした「新しい政治地理学」の再興は英語圏を中心に多くの研究者に刺激を与え、「新しい地政学」の潮流を生み出した。",
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"text": "ヘルマン・ファンデアヴステン(Herman van der Wusten)とジョン・オロッコリン(John O'Loughlin)は1986年に「Claiming new territory for a stable peace : how geography can contribute」を発表し、世界システム論を踏まえた空間分析という経験主義的アプローチを基礎としながら、戦争と平和の研究を政治地理学における新しい研究課題として位置づけた。これに対して、ガローゲ・オトゥホールは「経験主義に根ざす道具主義的な問題解決モデルからは既存の社会政治的関係を問うことができない」とオロッコリンらの方法論を批判し、批判理論を導入することで戦争・暴力・平和といった概念の国家的解釈や国家システムそのものを問題化するべきであると論じた。",
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"text": "1990年代のポストモダン的言説は、従来の人文・社会学的知の真実性・客観性を疑問視した。こうした潮流を組む、それまで国際政治において日常的に見いだされてきた地理的諸根拠や、地理的言説・表象といったコンテクストが、既存の支配的な国際政治の政策や実践をどのように正当化するかを明らかにする地政学を「批判地政学」と呼ぶ。オトゥホールとジョン・アグニューは、1992年に『地政学と言説』を発表し、地政学の実践は「客観的で不変の自然環境という地理的現実」に立脚するのではなく、官僚・外交官・外交評論家といった国政に携わる識者が、対象の地域に特定のイメージをもち、国際政治を「特定のタイプの場所や人々やドラマによって特徴づけられた一つの『世界』として表象すること」であるという主張のもと、地政学の再構築に取り組んだ。",
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"text": "敗戦直後、小牧や江沢ら国内の地政学者の多くは公職追放処分にあった。しかし、追放解除後には多くが学界に復帰し、戦後においても影響力を持ち続けた。このことは、国内において地政学がタブー視され、地政学に対する学問的検討や批判すらはばかられる原因となった。この時期の地政学批判は、飯塚浩二によって行われた。飯塚は1947年に『地政学批判』を上梓し、地政学がロマン主義に彩られた国家有機体説と地理的決定論の形骸にほかならず、「主観的・希望的判断への誘惑から自己を守るために十分に武装していなかった」と述べた。さらに、飯塚は、ハウスホーファーの自殺について「少くともこの『使徒』の生涯にあっては、ゲオポリティクが、その亜流に於けるが如くに、処世のポリティクではなかったことの証拠とみたい」と記述し、「非常時意識の下に我が国で行われた精神乃至思想動員の全過程が、ナチ独逸に於ける如く真理の客観性への挑戦というような苛烈な形にまで突き詰められるどころか、極めて妥協的に『日本古来』の価値体系の強調という単純な線に沿って益々と進められた事実、所謂東亜新秩序の理念として提唱されたところの『八紘一宇』の教義が、家族主義或いは家族国家の理念をそのまま空間的に推しひろげたものに過ぎず、その神話的内容をついに近代の科学用語によって世界に向かって説明することが出来ぬような性質乃至は段階のものとして終わったという事実」についても批判した。",
"title": "日本における歴史"
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"text": "戦前日本の地政学の本格的再検討は、1970年代後半に始まった。この契機になったのは、当時の経済地理学に対して、マルクス主義地理学の観点から、方法論の一部に地政学に類する概念が復活しているという批判がなされたことである。竹内啓一は「現代的課題として地政学批判を展開するためには、事実の確定と前提作業が必要である」として日本地政学史の研究の嚆矢を放ち、これに触発される形で戦前・戦中における地政学の実態の解明が進んだ。1990年代に入ると冷戦終結によるイデオロギーからの解放、大半の地政学者の逝去、一部の地政学者の回顧録の出版やインタビューへの応答、戦前資料の発見などにより戦前地政学のニュートラルな視点からの再検討がはじまった。たとえば、福嶋依子は、1970年代の研究が同時代の地理学批判に急なあまり、学説それ自体の研究がおろそかになっているという問題意識から、江沢譲爾の学説を再検討した。2020年現在において、戦前地政学史研究は、単に当時の学説の妥当性や、侵略戦争への加担を批判するだけではなく、そうした言説が生産され、支持されるに至った背景と、その社会的な影響を同時代的な視点から解明しようとしている。",
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"text": "キッシンジャーによる、国際政治を語る用語としての「地政学」の再興は、日本語圏にも影響を与え、1977年には倉前盛通の『悪の論理―ゲオポリティク(地政学)とは何か』、1980年には『新・悪の論理―変転する超大国のゲオポリティク』といった一般書が出版された。また、2000年代以降には地政学を題した一般書の販売が出版が急増し、「空前の地政学ブーム」というべき状況が起きている。高木彰彦は、奥山真司が2010年に出版した『“悪の論理”で世界は動く! 地政学――日本属国化を狙う中国、捨てる米国』を例に挙げながら、日本で出版される地政学の一般書の多くが1980年代以来の地政学を「悪の論理」とする価値観を受け継いだものであることを指摘し、アカデミックな議論が活発化する欧米の状況とは全く異なることを「例外主義」と呼称した。",
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"text": "香川貴志は2016年の人文地理学会学界展望総説において、「我われ地理学に携わる者の多くは,地域研究や政治地理学における地政学への注目」を知っているが、「地理学研究者は、かつて翼賛的な政策に地理学が地政学を以って加担したという苦々しい過去のことも熟知している」ため、地政学について、社会一般の持つそれとはことなる眼差しを向けざるをえないことを述べつつ、「さりながら、改めて地政学を説明する段になると,多くの地理学研究者が自信を持って語れないのも事実であろう」と語っている。柴田陽一は、「香川ら多くの地理学者が『過去』を『熟知している』と言いながら、なぜ『翼賛的な政策』に『加担』し、なぜ『社会の潮流に乗り過ぎ』たのかを、ひいてはそもそも地政学それ自体を、ほとんどの地理学者が『語れない』こと」を強く問題視し、『スパイクマン地理学』の訳者・渡邉公太による「多くの日本人が『地政学』に魅了されながらも,実は沙漠の中の蜃気楼のような、実体のない『地政学』という幻覚に惑わされている」という指摘は多くの地理学者にも当てはまるものであるとした。",
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"text": "また柴田は、日本地理学会が2018年に承認した「新ビジョン(中期目標)」に「第2次世界大戦において軍事関連研究に意図せず巻き込まれたという不幸な歴史をもっている」という一節があることを指摘し、学会という場においても地政学の正確な歴史が認識されていない現状を変えるためにも、戦前日本の地政学史の研究と、英語圏の新しい地政学の吸収が必要であると訴える。",
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地政学は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である。 19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説と環境決定論を理論的基盤とし、ドイツ・イギリス・日本・アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある。 1980年代以降に勃興した批判地政学は、地理に関する政治的言説そのものを研究対象とする学問であり、ある空間に対する政治的イメージがいかに構築されるかについて論ずる。
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'''地政学'''(ちせいがく、{{lang-de-short|Geopolitik}})は、[[国際政治]]を考察するにあたって、その地理的条件を重視する[[学問]]である{{Sfn|高木|2014a}}。
[[19世紀]]から[[20世紀]]初期にかけて形成された伝統的地政学は[[国家有機体説]]と[[環境決定論]]を理論的基盤とし、[[ドイツ]]・[[イギリス]]・[[日本]]・[[アメリカ合衆国]]などにおいて、自国の利益を拡張するための[[方法論]]的道具として用いられてきた。[[第二次世界大戦]]後の国際社会において、地政学という言葉は[[ナチス・ドイツ]]の侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある{{Sfn|ドッズ|2012|page=68}}。
[[1980年代]]以降に勃興した{{仮リンク|批判地政学|en|Critical geopolitics}}は、地理に関する政治的言説そのものを研究対象とする学問であり、ある空間に対する政治的イメージがいかに構築されるかについて論ずる。
== 呼称 ==
日本語の「地政学」という用語は、[[ドイツ語]]「ゲオポリティク(Geopolitik)」の[[翻訳語]]として導入されたものである{{Sfn|柴田|2019}}。この用語は、[[1899年]]に[[スウェーデン]]の国家学者・政治家である[[ルドルフ・チェレーン]]により提唱された。チェレーンは当初、ゲオポリティクの語を[[フリードリヒ・ラッツェル|ラッツェル]]の[[政治地理学]]と[[同義]]で用いたが、後に「政治地理学が人類の居住地としての地球を他の性質との関係において研究するのに対して、地政学は国家の体躯として領土を扱う」ものであると規定した{{Sfn|高木|2020b}}。
[[1930年代]]前半ごろまで、「ゲオポリティク」の訳語としては「地政学」と「地政治学」の2つが主だって用いられていたが、両語が並立していた背景には、ゲオポリティクの学問的性質に関する当時の齟齬があったと考えられている。すなわち、地政学を地理学の一部とみなし、「地理政治学」の[[短縮語]]として「地政学」を用いようとする研究者と、地政学を政治学の一部とみなし、「地政治学」を用いようとする研究者の対立である{{Sfn|柴田|2019}}。とはいえ、[[十五年戦争]]期、国内の地理学者がゲオポリティクの実践的側面に着目し、地理学の一部として、極端な場合には地理学のありかたそのものとして「地政学」を推挙し、著作や学術団体の名称として積極的に「地政学」を用いたことにより、「地政学」の訳語は定着し、「地政治学」の語は[[1941年]]を境にほとんど使われなくなった{{Sfn|柴田|2019}}。しかし、[[1940年代]]以降においても、「地政学」の訳語が完全に定着していたわけではなく、[[1941年]]にゲオポリティクが「普遍性を持たない一種の技術論」であるとして、新しく「地政論」の訳語を挙げた[[木内信蔵]]などの人物も存在した{{Sfn|柴田|2019}}。
[[山﨑孝史]]は、批判地政学における英語「Geopolitics」は、「地政治」と訳すのが適切であると主張している{{Sfn|山﨑|2013|page=146}}。同様に、[[高木彰彦]]は「ジオポリティクス」の語は「geography(地理/地理学)」、「politics(政治/政治学)」といった言葉と同様、世界や国際情勢の見方や捉え方を意味する場合には「地政学」、実践的ないし政策的な意味合いで使われる場合には「地政治」と訳しわけることを提唱している{{Sfn|高木|2014b}}。
== 歴史 ==
=== 伝統地政学の誕生 ===
{{Double image aside|right|Bundesarchiv Bild 183-R35179, Prof. Friedrich Ratzel (cropped).jpg|136|Rudolfk.jpg|178|フリードリヒ・ラッツェル|ルドルフ・チェレーン}}
伝統地政学の理論的基盤を用意したのは、地理学者の[[フリードリヒ・ラッツェル]]であると考えられている{{Sfn|渡辺|2020}}{{Sfn|高木|2020a}}。[[生物学者]]でもあった彼は、進化論の枠組みを国家においても適用し、諸国家は自らの「[[生存圏]]」を拡張しようとする生物的本性を有しているとする、[[国家有機体説]]を唱えた{{Sfn|北川|2013}}。ラッツェルは、国家の成長の基礎は地理的基礎の[[領土]]に規定されると考え、次の7原則を唱えた{{Sfn|高木|2020e|page=22-23}}。
{{Quotation|1.国家の規模は文化とともに成長する。<br />
2.国家の成長は国民の成長に従う。国民の成長は必然的に国家の成長に先立たねばならない。<br />
3.国家の成長は小国の合併によって進行する。<br />
4.国境は国家の周辺的器官であり、国家の成長と防御の担い手であり、国家という有機体の変化のすべてに携わる。<br />
5.国家は、その成長過程において、政治的に価値のある位置を囲い込む方へとせめぎ合う。<br />
6.国家の空間的成長に対する最初の刺激は外部からもたらされる。<br />
7.領土の併合から合併へと向かう一般的傾向は国から国へと伝えられ、次第に強められる。}}
国家は成長ないし衰退する有機体であり、環境に応じて版図を広げていくとするこの学説は、[[ドイツ統一|統一]]および[[ドイツ植民地帝国|植民地獲得]]によって特徴づけられる、当時の[[ドイツ]]の歴史を色濃く反映するものであった{{Sfn|シュパング|2019}}。
「地政学」({{lang-de-short|Geopolitik}})の用語は、[[1899年]]に[[スウェーデン]]の国家学者・政治家である[[ルドルフ・チェレーン]]により提唱された{{Sfn|高木|2020b}}。彼は、ラッツェルの有機体的な国家観を踏襲しながら、有機体としての国家の行動を分析するシステムについて思索を深めた{{Sfn|高木|2020e|page=16}}。チェレーンは、国家の本質は法律的要素と勢力的要素から成り立っていると考え、国内においては国家の法的な側面を重視するべきであるのに対して、対外的には国家を領土を肉体、国民を精神とする生命体であると定義する、有機体的な国家概念を強調するべきだと主張した{{Sfn|高木|2020e|page=16-20}}。
=== 英語圏伝統地理学の発達 ===
{{Double image aside|right|Portrait of Sir Halford John Mackinder.jpg|150|Alfred_thayer_mahan.jpg|145|ハルフォード・マッキンダー|アルフレッド・マハン}}
[[ファイル:Heartland.png|サムネイル|300px|1904年にマッキンダーが唱えた「ハートランド」の模式図]]
[[アメリカ]]の海軍士官・歴史家であった[[アルフレッド・マハン]]は、[[1890年]]に『[[海上権力史論]]』を発表し、「[[シーパワー]]」の概念を唱えた。彼は、国家権力の決定的要因は海軍力をはじめとした海上権力(シーパワー)を持つ勢力によって決定されると考えた{{Sfn|ギレム|1997}}{{Sfn|谷|2020}}。マハンは、国家の地理的位置・自然的形態・領土の範囲・住民の数・国民性・政府の計画の6条件がシーパワーに影響すると主張し{{Sfn|谷|2020}}、米国はシーパワーたるべきであると説いた{{Sfn|高木|2020e|page=35}}。
[[イギリス]]の地理学者・政治家である[[ハルフォード・マッキンダー]]は、[[1904年]]に「[[ハートランド]]」の概念を唱えたことから{{Refnest|group="注"|1904年当初、マッキンダーは「ハートランド」を「中軸地域」(Pivot area)と呼称したが、この呼び名は、第一次世界大戦後の国際情勢を語るにあたって弱々しいと考えられたため、本人により改称された{{Sfn|高木|2020d}}。}}、英米圏地政学の祖として位置づけられている{{Refnest|group="注"|ただし、マッキンダーは自ら「地政学者」と名乗ったことはなく、むしろこの用語を嫌っていた。今日マッキンダーが地政学者とみなされるのはハウスホーファーが自著において彼の記述を先行研究のひとつとして紹介しているからである{{Sfn|高木|2020c}}。}}{{Sfn|高木|2020c}}。マッキンダーは世界を「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」に区分し、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]以前のヨーロッパはユーラシア大陸中央部(ハートランド)を拠点とする騎馬民族に蹂躙されていたと述べた。マッキンダーいわく、新大陸発見により、ヨーロッパ人が世界の海洋に進出するようになると、シーパワーがランドパワーを優越する時代が到来した。彼は、19世紀後半以降、[[鉄道]]の発達にともない、再びランドパワーが優位に経とうとしているが、シーパワー国家であるイギリスはこの変化に対応できておらず、ハートランドを占拠する勢力であるドイツとロシアが同盟することを阻止しなければならないと主張した{{Sfn|高木|2020d}}。
[[1919年]]の『[[デモクラシーの理想と現実]]』においてもマッキンダーは「[[東ヨーロッパ|東欧]]を支配するものはハートランドを制し、ハートランドを支配する者は[[世界島]]を制し、世界島を支配する者は世界を制する」と、ハートランドの脅威を強く主張した。彼は、[[第一次世界大戦]]後の東欧に緩衝国家群を作ろうと尽力したが、これは実現しなかった。[[1907年]]の「帝国的に考えること」における、「私たちの目的は、すべての人々が帝国的に考えられる、つまり、世界大に広がる空間で考えるようになることです」という主張に象徴されるように、マッキンダーの関心は、マクロ的な地理観をもって、世界における[[大英帝国]]の地位を守ることにあった{{Sfn|高木|2020c}}。
=== 戦中の英語圏地政学 ===
[[File:نيكولاس سبيكمان.jpg|thumb|150px|[[ニコラス・スパイクマン]](1893 - 1943)]]
[[File:Хартленд_и_Римленд.jpg|thumb|300px|リムランドの模式図]]
[[ヴェルサイユ条約]]における国境制定に関わった[[イザイア・ボウマン]]は[[1921年]]に『新世界:政治地理学における問題』を上梓し、「主観的」なドイツ地政学とは異なる、実証的、客観的、非イデオロギー的な科学としての地理学を米国のエリートは学ばなければならないと主張した。しかし、この著作についても米国中心的な視点から描かれたものであることが指摘されており、この視点では普遍的価値感を代表する米国が、他国を支配することは合理的な行為であるとみなされる。両者の地理学は、①ラッツェルの思想を理論的骨組みとしていること、②他者からは文字通り一線を画した自国という場所から世界を観察していること、③類似した観察方法を有し、結論の差異は学術的方法よりもむしろ歴史的地理的視座の差にほかならないという3つの点において類似点を見出すことができ、ボウマンは本人の意に反して「アメリカのハウスホーファー」と呼ばれることもあった{{Sfn|渡辺|2020b}}。第二次世界大戦期、[[フランクリン・ルーズベルト]]のアドバイザーとして重用されたボウマンは、[[国際連合]]の創設にも携わったが、[[国連本部]]が[[ニューヨーク]]に立地されたことは、ボウマンのような地理学者が、より普遍的なものを代弁しつつ、一方ではアメリカの国益を促進するような動きを展開していたことを示唆する{{Sfn|ドッズ|2012|page=171}}。
冷戦期のアメリカにおいては、地政学的視点が実際の政治と結びつく形で、政治家や外交・軍事政策アドバイザーに継承された{{Sfn|山﨑|2006}}。アメリカが戦後の世界大国としてその役割を発展させはじめるにつれて、外交・軍事戦略論の文脈から、アメリカの行為を導き正当化するような地政学的世界観が生み出された{{Sfn|フリント|2014|page=15}}{{Sfn|山﨑|2019}}。
20世紀中葉の代表的地政学者としては、[[ニコラス・スパイクマン]]がいる。スパイクマンは「国力のみが対外政策の目標を達成できるため、その相対的向上が国家の対外政策の第一目的である」と述べ、国家は[[勢力均衡]]を保つためにパワーポリティクスに専念すべきだと考えた{{Sfn|高木|2020g}}。彼はマッキンダーの「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」のうち後者2つを「[[リムランド]]」「沖合」と改称し、ハートランドの拡大を防ぐためにはリムランドへの介入が不可欠であるとした。スパイクマンのこの主張は、アメリカが戦後、[[孤立主義]]から、[[封じ込め政策]]に代表される介入主義へと、政策の舵を切る理論的基盤となった{{Sfn|高木|2020f}}。
=== ハウスホーファーの地政学 ===
[[ファイル:German losses after WWI.svg|サムネイル|左|第一次世界大戦によりドイツが失った領土]]
[[File:KarlHaushofer_RudolfHess.jpg|サムネイル|左|ハウスホーファーと[[ルドルフ・ヘス]]]]
第一次世界大戦により、ドイツは全植民地と西部領土・北部領土・北東部領土および南東部領土を喪失した。[[ヴァイマル共和政|新しい民主的政府]]が[[ヴェルサイユ条約]]に調印せざるをえなかったという事実は、民主主義への訴えを弱め、国内におけるナショナリズムと地政学に対する興味を醸成した{{Sfn|シュパング|2019}}。
当時のドイツ地政学の中心人物となったのが、[[カール・ハウスホーファー]]である。イギリス人であるマッキンダーがドイツとロシアの連携を危惧したのに対して、ドイツ人であるハウスホーファーは同様の世界観から両国の同盟の必要性を訴えた{{Sfn|シュパング|2019}}{{Refnest|group="注"|ハウスホーファーは[[1913年]]の『大日本』においてすでにドイツ・オーストリア・ロシア・日本の四国同盟を提案しているが、この著作にマッキンダーは引用されていない。彼が大陸横断的ブロック概念を発案するに至ったのは、[[1909年]]から[[1910年]]までの東アジア滞在の影響が大きいと考えられている{{Sfn|シュパング|2019}}。}}。新しく誕生した共産主義国家である、[[ソビエト連邦]]との密接な協力を積極的に支持するのは不適切とみなされていた時期にあって、彼はソ連・日本との密接な協力により、ユーラシア大陸を横断する政治的ブロックを作り上げることこそが、大国としてのドイツを再興するための最良の手段であると主張した{{Sfn|シュパング|2019}}。
ハウスホーファーは[[ルドルフ・ヘス]]と親交を深め、「国境を越えたドイツ人の生存のために働く」ため[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]に積極的に協力した{{Sfn|シュパング|2019}}。[[総統#ドイツ|総統]][[アドルフ・ヒトラー]]は、ハウスホーファーの思想から「生存圏」の概念を援用し、[[第三帝国]]が領土を拡張することの理論的根拠とした{{Sfn|春名|2020}}。しかし、[[人種主義]]に重きを置かない彼の思想は、[[1930年代]]にはすでに求心力を失っており{{Sfn|ドッズ|2012|page=47}}、ヒトラーの政策とハウスホーファーの地政学は、[[独ソ戦]]が開戦される[[1941年]]には、食い違うものになっていた{{Sfn|シュパング|2019}}。ハウスホーファーはドイツの降伏後、占領軍による尋問を受けたものの起訴はされず、[[1946年]]に妻とともに[[服毒自殺]]した{{Sfn|シュパング|2019}}。
フレデリック・ソンダーン(Frederic Sondern)が[[1941年]]に、『[[リーダーズ・ダイジェスト]]』において「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという、事実ではない主張を展開したことに代表されるように、戦争中の英米における刊行物において、ハウスホーファーはナチスの政治戦略に事実以上に強い影響力をもたらしている人物として描写された{{Sfn|シュパング|2019}}{{Sfn|ドッズ|2012|page=33-34}}。地政学とナチスの強い結びつきに関する言説は、アメリカやソ連をはじめとする他の国々の地理学者の多くに、この用語を使うことをためらわせた{{Sfn|ドッズ|2012|page=32}}。
=== 「地政学」の復活 ===
[[1980年]]前後になると、「地政学」という言葉は再び広く用いられるようになる。この一因として、[[ヘンリー・キッシンジャー]]が「地政学的(geopolitical)」という用語を多用したことが挙げられる{{Sfn|高木|2020f}}。[[コリン・グレイ]]をはじめとする知識人は地政学立場より、勢力をユーラシア大陸全体に延ばそうとするソ連に対して攻撃的アプローチを取るべきだと[[ジミー・カーター]]を批判し、この政策は[[ロナルド・レーガン]]政権において受け入れられた。1980年代中期までには、アメリカにおける「地政学」は、アメリカの権力を維持したいという強い意欲を持った研究者によって主導されるようになり、アメリカが国益を追求する際の合言葉としての役割を持った{{Sfn|ドッズ|2012|page=55-56}}。
また、この時代には[[学生運動]]の影響を受けた若手研究者が政治分野の研究に取り組みだすようになった。彼らは、従来の政治的意識に欠ける研究者を「政治地理学者({{lang-en-short|Political geographers}})」に対して自らを「政治的な地理学者({{lang-en-short|political geographers}})」と呼んだ。こうした研究者のひとりであった[[ピーター・テイラー (地理学者)|ピーター・テイラー]]は[[1985年]]に『世界システムの政治地理』を発刊し、同著において「地政学の再考」を主張した{{Sfn|高木|2020e|page=245-246}}。テイラーは、国家の意思決定は、
{{Quotation|
①目下の同盟国および潜在的な同盟国はどの国か<br />
②目下の敵国および潜在的な敵国はどの国か<br />
③どのようにして同盟関係を維持し、潜在的な同盟関係を促進するのか<br />
④目下の敵国にどうやって対処し、脅威の出現にどのように対処するのか<br />
⑤以上の4つの規定を国民とグローバル社会に対してどのように正当化するのか
}}
という5つの想定をもとにした「地政的コード」に規定されると論じた{{Sfn|高木|2020i}}。テイラーを中心とした「新しい政治地理学」の再興は英語圏を中心に多くの研究者に刺激を与え、「新しい地政学」の潮流を生み出した{{Sfn|山﨑|2001}}{{Sfn|山﨑|2006}}。
=== 批判地政学の誕生 ===
{{See also|{{仮リンク|批判地政学|en|Critical geopolitics}}}}
[[File:地政学の構成.png|thumb|300px|オトゥホールによる地政学の構成の模式図。国家構造におけるエリートの作り出す地政言説は、①指導者や官僚による実践地政学(practical geopolitics)、②戦略集団の形式地政学(formal geopolitics)、③大衆雑誌や小説、映画などに見られる大衆地政学(popular geopolitics)という3つの形で大衆に広がる{{Sfn|高木|2020e|page=8-9}}。]]
ヘルマン・ファンデアヴステン(Herman van der Wusten)とジョン・オロッコリン(John O'Loughlin)は[[1986年]]に「Claiming new territory for a stable peace : how geography can contribute」を発表し、世界システム論を踏まえた空間分析という経験主義的アプローチを基礎としながら、戦争と平和の研究を政治地理学における新しい研究課題として位置づけた。これに対して、[[ジェラルド・トール|ガローゲ・オトゥホール]]は「経験主義に根ざす[[道具主義]]的な問題解決モデルからは既存の社会政治的関係を問うことができない」とオロッコリンらの方法論を批判し、[[批判理論]]を導入することで戦争・暴力・平和といった概念の国家的解釈や国家システムそのものを問題化するべきであると論じた{{Sfn|山﨑|2006}}。
[[1990年代]]の[[ポストモダン]]的言説は、従来の人文・社会学的知の真実性・客観性を疑問視した。こうした潮流を組む、それまで国際政治において日常的に見いだされてきた地理的諸根拠や、地理的言説・表象といったコンテクストが、既存の支配的な国際政治の政策や実践をどのように正当化するかを明らかにする地政学を「批判地政学」と呼ぶ{{Sfn|北川|2020}}。オトゥホールと[[ジョン・アグニュー]]は、[[1992年]]に『地政学と言説』を発表し、地政学の実践は「客観的で不変の自然環境という地理的現実」に立脚するのではなく、官僚・外交官・外交評論家といった国政に携わる識者が、対象の地域に特定のイメージをもち、国際政治を「特定のタイプの場所や人々やドラマによって特徴づけられた一つの『世界』として表象すること」であるという主張のもと、地政学の再構築に取り組んだ{{Sfn|高木|2020e|page=245-246}}。
[[1997年]]の全米地理学者協会年次大会においては、オトゥホールの批判地政学について、①テキストデータに過度に依存し、その他の実証的資料を軽視している、②研究対象が男性・英米人の言説に偏っている、③エリートによる国政術以外の地政言説を軽視している、という3つの批判がなされた{{Sfn|山﨑|2020a}}。また、[[2000年代]]後半からは古典地政学的な観点からの批判地政学批判が展開されはじめた。テレンス・ハバルク(Terrence Haverluk)らは批判地政学の背景には体制変革への志向という政治的意図が存在するとして、「新古典地政学」を提唱した{{Sfn|山﨑|2020b}}。
== 日本における歴史 ==
=== 日本における伝統地政学の受容 ===
日本における地政学の輸入は[[第一次世界大戦]]中に始まり、[[1917年]]にチェレーンの『欧州戦争と民族主義』、[[1918年]]に『現代の八大強国』が[[邦訳]]された{{Sfn|高木|2020e|page=46}}。彼の主著である『生活形態としての国家』は[[1925年]]に[[藤沢親雄]]によって紹介され、国家学の新基軸をうちだすものとして評価された{{Sfn|柴田|2020a}}。また、[[飯本信之]]は1925年の[[地理学評論]]に「人種争闘の事実と地政学的考察」を連載した。飯本は、当時活発化していた欧米諸国による[[排日運動]]に反対し、「人口圧が高い集団はそれにふさわしい生活空間が必要だ」という地政学的主張をもとに移民の正当性を主張した{{Sfn|高木|2020e|page=48-50}}。[[阿部市五郎]]は1933年に『地政治学入門』を出版した。これは日本人による地政学の教科書としては最初のものだった{{Sfn|高木|2020e|page=62}}。
[[1920年代]]の日本の地政学における議論は、地政学という新しい学問をいかように位置づけるかを主題とするものが主であったが、[[1930年代]]に入り、ドイツの地政学者が積極的に翻訳され、日本でも地政学の展開が図られるようになると、それを批判する学者も現れるようになった{{Sfn|高木|2020e|page=69-70}}。[[小原敬士]]は[[1939年]]に『社会地理学の基礎問題』を発表し、地政学は国家有機体説と地理的唯物論というすでに否定された学説に依存する[[疑似科学]]であり、すでに克服されたはずの両学説が亡霊のように復活しているのは、現在のドイツの社会情勢がそれらを欲しているからだと主張した{{Sfn|柴田|2020a}}。
=== 戦時期の地政学 ===
[[File:日本地政学的に見た東亜共栄圏.jpg|thumb|『[[週刊朝日]]』編輯部主催の座談会に臨む[[小牧実繁]]・[[室賀信夫]]ら綜合地理研究会のメンバー(1941年11月)]]
1930年代後半以降、日本が[[総力戦]]体制に入ると、地政学は国策迎合的な運動としての側面を持ち始める{{Sfn|柴田|2020a}}。柴田陽一は、いわゆる「[[南洋]]」地域と日本を一体の概念として捉えることが、従来の日本の[[思想]]の援用だけでは難しかったこと、国内においては[[1920年代]]に制度化された、若い学問である[[地理学]]が、戦時期において地政学的言説にアイデンティティを求めたことがこの動きの背景にあると述べている{{Sfn|柴田|2014}}。
[[小牧実繁]]は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の[[高嶋辰彦]]の依頼を受け、[[1938年]]に総合地理研究会を創設し、地政学の研究を開始した{{Sfn|柴田|2020a}}。小牧は[[1940年]]に『日本地政学宣言』を上梓し、当時日本に輸入されていたドイツ地政学の思想はヨーロッパ特有の覇道主義に貫かれているとし、それとは異なる、皇道を指導理念とする日本流の独自の地政学を追求しようとした{{Sfn|柴田|2006}}。『日本地政学宣言』をはじめとする彼の著書は7万4500部を売り上げたほか、小牧は[[大日本言論報国会]]の理事としても活動した。高木彰彦はこれを指して「地理学エリートによる大衆の扇動」であると評した{{Sfn|高木|2020e|page=130-132}}。
また、飯本信之はみずから努めていた[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|文検]]の出題仲間や東京大学の同窓生に声をかけ、海軍中将・[[上田良武]]を会長として[[1940年]]に日本地政学協会を発足した。また、彼らは[[帝国書院]]より出版されていた文検受験誌『地理歴史教育』を改組して機関紙『地政学』を発刊した。同誌は[[1942年]]から[[1944年]]まで刊行されたが、その内容には、教師向けの地誌学的内容や、地政学概念の解説が多いことに特色がある{{Sfn|高木|2013}}。同協会の評議員であった[[江沢譲爾]]は、地政学の[[国土計画]]や自然地理学を重視する側面に関心を持ち{{Sfn|高木|2013}}、[[経済地理学]]の空間概念に地政学の動態的・計画論的側面を取り込もうとした{{Sfn|柴田|2020a}}。
=== 戦後の地政学批判と地政学史研究 ===
敗戦直後、小牧や江沢ら国内の地政学者の多くは[[公職追放]]処分にあった{{Refnest|group="注"|小牧は終戦の日の夜、家族を集めて京都帝大教授を辞すことを宣言し、同年の[[12月27日]]に大学教授の職を退いた。これに対して、飯本はGHQの尋問に「地政学を冠する本は一冊も上梓していない」「自分は学閥の均衡上、地政学協会の理事になっていただけであり、影響力はない」などと言い逃れ、公職追放を免れた。高木彰彦は、確信犯の京都学派・大衆迎合主義の日本地政学協会と、戦時下の地政学を主導した両グループの特色は2人の態度によく現れていると著述している{{Sfn|高木|2020e|page=214}}。}}。しかし、追放解除後には多くが学界に復帰し、戦後においても影響力を持ち続けた。このことは、国内において地政学が[[タブー]]視され、地政学に対する学問的検討や批判すらはばかられる原因となった{{Sfn|柴田|2020b}}。この時期の地政学批判は、[[飯塚浩二]]によって行われた。飯塚は[[1947年]]に『地政学批判』を上梓し、地政学が[[ロマン主義]]に彩られた[[国家有機体説]]と[[環境決定論|地理的決定論]]の形骸にほかならず、「主観的・希望的判断への誘惑から自己を守るために十分に武装していなかった」と述べた。さらに、飯塚は、[[ハウスホーファー]]の自殺について「少くともこの『使徒』の生涯にあっては、ゲオポリティクが、その亜流に於けるが如くに、処世のポリティクではなかったことの証拠とみたい」と記述し、「非常時意識の下に我が国で行われた精神乃至思想動員の全過程が、ナチ独逸に於ける如く[[真理]]の客観性への挑戦というような苛烈な形にまで突き詰められるどころか、極めて妥協的に『日本古来』の価値体系の強調という単純な線に沿って益々と進められた事実、所謂東亜新秩序の理念として提唱されたところの『[[八紘一宇]]』の教義が、家族主義或いは家族国家の理念をそのまま空間的に推しひろげたものに過ぎず、その神話的内容をついに近代の科学用語によって世界に向かって説明することが出来ぬような性質乃至は段階のものとして終わったという事実」についても批判した{{Sfn|高木|2020e|page=217-223}}。
戦前日本の地政学の本格的再検討は、[[1970年代]]後半に始まった。この契機になったのは、当時の[[経済地理学]]に対して、[[マルクス主義地理学]]の観点から、方法論の一部に地政学に類する概念が復活しているという批判がなされたことである{{Sfn|柴田|2020b}}{{Sfn|高木|2020e|page=232-237}}。[[竹内啓一]]は「現代的課題として地政学批判を展開するためには、事実の確定と前提作業が必要である」として日本地政学史の研究の嚆矢を放ち、これに触発される形で戦前・戦中における地政学の実態の解明が進んだ{{Sfn|高木|2020e|page=238-239}}。[[1990年代]]に入ると冷戦終結によるイデオロギーからの解放、大半の地政学者の逝去、一部の地政学者の[[回顧録]]の出版やインタビューへの応答、戦前資料の発見などにより戦前地政学のニュートラルな視点からの再検討がはじまった。たとえば、[[福嶋依子]]は、1970年代の研究が同時代の地理学批判に急なあまり、学説それ自体の研究がおろそかになっているという問題意識から、江沢譲爾の学説を再検討した{{Sfn|柴田|2020b}}{{Sfn|福嶋|1991}}。2020年現在において、戦前地政学史研究は、単に当時の学説の妥当性や、侵略戦争への加担を批判するだけではなく、そうした言説が生産され、支持されるに至った背景と、その社会的な影響を同時代的な視点から解明しようとしている{{Sfn|柴田|2020b}}。
=== 地政学ブーム ===
[[ヘンリー・キッシンジャー|キッシンジャー]]による、国際政治を語る用語としての「地政学」の再興は、日本語圏にも影響を与え、[[1977年]]には[[倉前盛通]]の『悪の論理―ゲオポリティク(地政学)とは何か』、[[1980年]]には『新・悪の論理―変転する超大国のゲオポリティク』といった一般書が出版された{{Sfn|高木|2014a}}{{Sfn|柴田|2020b}}。また、[[2000年代]]以降には地政学を題した一般書の販売が出版が急増し、「空前の地政学ブーム」というべき状況が起きている{{Sfn|柴田|2020b}}。高木彰彦は、[[奥山真司 (戦略学者)|奥山真司]]が[[2010年]]に出版した『“悪の論理”で世界は動く! 地政学――日本属国化を狙う中国、捨てる米国』を例に挙げながら、日本で出版される地政学の一般書の多くが1980年代以来の地政学を「悪の論理」とする価値観を受け継いだものであることを指摘し、アカデミックな議論が活発化する[[欧米]]の状況とは全く異なることを「例外主義」と呼称した{{Sfn|高木|2020e|page=269-270}}。
[[香川貴志]]は[[2016年]]の[[人文地理学会]]学界展望総説において、「我われ地理学に携わる者の多くは,地域研究や政治地理学における地政学への注目」を知っているが、「地理学研究者は、かつて翼賛的な政策に地理学が地政学を以って加担したという苦々しい過去のことも熟知している」ため、地政学について、社会一般の持つそれとはことなる眼差しを向けざるをえないことを述べつつ、「さりながら、改めて地政学を説明する段になると,多くの地理学研究者が自信を持って語れないのも事実であろう」と語っている{{Sfn|香川|2017}}。[[柴田陽一]]は、「香川ら多くの地理学者が『過去』を『熟知している』と言いながら、なぜ『翼賛的な政策』に『加担』し、なぜ『社会の潮流に乗り過ぎ』たのかを、ひいてはそもそも地政学それ自体を、ほとんどの地理学者が『語れない』こと」を強く問題視し、『スパイクマン地理学』の訳者・渡邉公太による「多くの日本人が『地政学』に魅了されながらも,実は沙漠の中の蜃気楼のような、実体のない『地政学』という幻覚に惑わされている」という指摘は多くの地理学者にも当てはまるものであるとした{{Sfn|柴田|2019}}。
また柴田は、[[日本地理学会]]が[[2018年]]に承認した「新ビジョン(中期目標)」に「第2次世界大戦において軍事関連研究に意図せず巻き込まれたという不幸な歴史をもっている」という一節があることを指摘し{{Sfn|柴田|2019}}、[[学会]]という場においても地政学の正確な歴史が認識されていない現状を変えるためにも、戦前日本の地政学史の研究と、英語圏の新しい地政学の吸収が必要であると訴える{{Sfn|柴田|2020b}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|3}}
== 参考文献 ==
{{Wikisource|東洋史上に於ける満鮮の位置|東洋史上に於ける満鮮の位置(白鳥庫吉、新更会刊行部、1932年)}}
* 稲垣文昭・玉井良尚・[[宮脇昇|宮𦚰昇]]編『資源地政学』[[法律文化社]]、2020年
* {{Cite journal|和書|author=香川貴志|authorlink= 香川貴志 |year=2017|title=学界展望 総説|journal=人文地理|volume=69|page=303|doi=10.4200/jjhg.69.03_303|ref={{SfnRef|香川|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|year=1997|author2=大山正史訳|author=アラン・ギレム|title=地政学と海の戦略 : マハン提督と海軍力|page=29-43|journal=関西大学社会学部紀要|volume=29|issue=1|ref={{SfnRef|ギレム|1997}}}}
* {{Cite book|和書|year=2020|editor=現代地政学事典編集委員会編|title=現代地政学事典|publisher=[[丸善出版]]|isbn=9784621304631}}
**{{Cite book|和書|title=帝国主義と地政学|author=渡辺敦子|authorlink= 渡辺敦子 (政治学者)|page=230-231|ref={{SfnRef|渡辺|2020}}}}
**{{Cite book|和書|title=政治地理学と地政学|author=高木彰彦|page=236-237|ref={{SfnRef|高木|2020a}}}}
**{{Cite book|和書|title=チェレーン|author=高木彰彦|page=250-251|ref={{SfnRef|高木|2020b}}}}
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**{{Cite book|和書|title=マッキンダー|author=高木彰彦|page=258-259|ref={{SfnRef|高木|2020c}}}}
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**{{Cite book|和書|title=スパイクマン|author=高木彰彦|page=274-275|ref={{SfnRef|高木|2020f}}}}
**{{Cite book|和書|title=ボウマン|author=渡辺敦子|page=262-263|ref={{SfnRef|渡辺|2020b}}}}
**{{Cite book|和書|title=ハートランド理論|author=高木彰彦|page=272-273|ref={{SfnRef|高木|2020d}}}}
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**{{Cite book|和書|title=生存圏|author=春名展生|page=286-287|ref={{SfnRef|春名|2020}}}}
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**{{Cite book|和書|title=オトゥホールの批判地政学|author=山﨑孝史|page=402-403|ref={{SfnRef|山﨑|2020b}}}}
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* {{Cite journal|和書|year=2019|author2=高木彰彦訳|author=クリスティアン・W・シュパング|title=カール・ハウスホーファーとドイツの地政学|page=29-43|journal=空間・社会・地理思想|volume=22|doi=10.24544/ocu.20190401-014|ref={{SfnRef|シュパング|2019}}}}
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* {{Cite journal|和書|year=2014|author=高木彰彦|title=欧米地政学の最近の展開 : フリント著『地政学入門』を中心に|journal=史淵|volume=151|page=111-136|doi=10.15017/1468023|ref={{SfnRef|高木|2014a}}}}
* {{Cite book|和書|year=2020|author=高木彰彦|title=日本における地政学の受容と展開|publisher=大学出版部協会|isbn=9784798502809|ref={{SfnRef|高木|2020e}}}}
* {{Cite book|和書|year=2012|author=クラウス・ドッズ|translator=野田牧人|title=地政学とは何か|publisher=原書房|isbn=9784757142961|ref={{SfnRef|ドッズ|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|year=2019|author1=浜由樹子|author2=羽根次郎|title=地政学の(再)流行現象とロシアのネオ・ユーラシア主義
|journal=RRC Working Paper Series|volume=81|page=1-16|url=https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/30406/|ref={{SfnRef|浜&羽根|2019}}}}
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* {{Cite book|和書|year=2014|author=コーリン・フリント|translator=高木彰彦|title=地政学入門 : グローバル時代の新しいアプローチ|publisher=原書房|isbn=9784562091973|ref={{SfnRef|フリント|2014}}}}
**{{Cite book|和書|title=編訳者あとがき|author=高木彰彦|page=344-350|ref={{SfnRef|高木|2014b}}}}
* {{Cite journal|和書|year=2001|author=山﨑孝史|title=英語圏政治地理学の争点|journal=人文地理|volume=53|issue=6|page=532-555|doi=10.4200/jjhg1948.53.532|ref={{SfnRef|山﨑|2001}}}}
* {{Cite journal|和書|year=2006|author=山﨑孝史|title=地理学のポリティクスと政治地理学|journal=人文地理|volume=58|issue=4|page=377-398|doi=10.4200/jjhg.58.4_377|ref={{SfnRef|山﨑|2006}}}}
* {{Cite book|和書|year=2013|author=山﨑孝史|title=政治・空間・場所―「政治の地理学」に向けて|publisher=ナカニシヤ出版|isbn=9784779507953|ref={{SfnRef|山﨑|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|year=2019|author=山﨑孝史|title=「環境」と地政学の100年―成立・応用・批判・新しい地平―|journal=2019年人文地理学会大会|doi=10.11518/hgeog.2019.0_160|ref={{SfnRef|山﨑|2019}}}}
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埼玉西武ライオンズ
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埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama SEIBU Lions)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。
埼玉県をフランチャイズとし、所沢市にあるベルーナドームを本拠地、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は、ドームと同じ敷地内にあるCAR3219フィールドである。
1950年のリーグ分裂時、福岡市に本拠地を置き西日本鉄道(西鉄)を親会社とする西鉄クリッパースとして発足、翌年に西鉄ライオンズと改称し、1972年に西鉄が撤退したあと1973年から1978年までは福岡野球の運営でチーム名が太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと変遷した。その後西武グループに買収され、1979年から本拠地を所沢市に移して西武ライオンズとなり、2008年からは球団名を埼玉西武ライオンズに変更して現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
リーグ優勝23回、日本一13回はいずれもパ・リーグ1位である。
西日本鉄道(西鉄)は第二次世界大戦中の1943年、それまでの大洋軍を譲り受け、(旧)日本野球連盟に加盟する西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散した。また、連盟自体は1944年で活動を休止した。
1945年8月に第二次世界大戦で日本が降伏し、アメリカ合衆国を中心とした連合国占領下で連盟の活動が再開されると、1946年6月に西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから、1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に連盟から復帰申請を却下されている。
ところが、1949年オフにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。
なお、西鉄は1948年11月15日にアメリカのパンアメリカン航空と航空代理店契約を締結し、国際航空物流事業に参入していた。球団名の由来は第二次世界大戦期に長距離旅客輸送用飛行艇として活用されたボーイング314の愛称「クリッパー」(Clipper)と考えられ、球団旗の原案には西鉄の社章の上に飛行艇が置かれたデザインも提示されていた。
1月下旬に運営会社西鉄野球株式会社を設立登記した。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守、深見安博、河野昭修、塚本悦郎ら、八幡製鐵の鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツの川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。
シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。
同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、または西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できず、収益を興行師に持ち逃げされることもあり、経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。
翌年1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパース出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパースの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパースの選手を使い続けることで、クリッパース出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇したりしている。
首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる。
シーズン途中に契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。この年は首位の南海と8.5ゲーム差の3位。
Bクラスの4位に終わるも、中西太が本塁打王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。
西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗 とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月19日の阪急戦(平和台野球場)に勝利したことで、西鉄は初優勝を本拠地で飾った。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。
前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度にわたって首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。
4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。巨人との日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。
この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。
南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月19日の東映戦(駒沢野球場)で、西村貞朗が球団初の完全試合を達成したものの、7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。
稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。
中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。
この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。
稲尾が序盤から勝利を重ね、7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝 を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが、チームは2年連続3位に終わり川崎が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。
前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾の復調など投手陣が踏ん張り3年連続の3位となる。しかし、共に故障を抱えながら欠場した中西と出場した豊田との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。
序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男と安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れた。
序盤は首位に立つことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫がノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの5年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。
8年ぶりに開幕戦に敗れ序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの前年未勝利の稲尾が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ3位となる。
5月12日の南海戦(大阪)で完全試合を達成した田中が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾など安定した投手陣に比べ打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。
開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗が続き8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永ら投手陣の活躍で2位となった。これが西鉄にとって最後のAクラス入りとなった。
開幕から4連敗を喫し、6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位に終わった。池永が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。
5月に9連敗で中西が一時監督を休養、9月には4位まで上がるものの最終的には5位でシーズン終了となった。10月には永易将之が八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾が現役を引退し、監督に就任。
開幕直前、前年追放された永易が池永ら西鉄の6選手が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細については、「黒い霧事件 (日本プロ野球)」を参照されたい)。投手では東尾修、三輪悟、打者では東田正義、竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用、東尾も防御率5点台ながら11勝を挙げるがチームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となった。
巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾と河原明が共に16敗で、リーグ最多敗になるなど一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランを立て続けに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず、15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わった。
東尾が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ、新人王を獲得するが2年連続全球団負け越しに終わる。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位となった。観客動員数も激減するなど経営が悪化した上、ついに西鉄本社の吉本弘次社長は球団経営を手放すことを決断した。11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映の売却話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに売却されることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により、破談となった。東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに売却することも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村自らがライオンズを買収することになる。この買収で野球協約で定める1人または1団体による複数球団の保有禁止条項に抵触することに伴い、中村はロッテオリオンズのオーナーを辞任し、福岡野球株式会社のオーナーに就任することになる。資金面強化のため、小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となった(11月9日のパ・リーグ実行委員会で会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。
この年からパ・リーグは前後期制度となり、開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げてしまい前期は4位。後期も序盤は好調だったが、5位に終わり通年4位となった。この年から翌年にかけてロッテの金田正一監督との遺恨対決が話題となった。オフには、メジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードの獲得に成功する
期待されたハワードが開幕戦に出場しただけで離脱し、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感が無く前期3位、後期4位、通年では4位に終わった。シーズン終了後、稲尾は監督を解任された。後任には大洋から江藤慎一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得する。
54人中17人が新戦力となり、江藤新監督による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井、白らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの後期は打線に疲れが出て4位に終わる。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井が本塁打王、白が首位打者、東尾が最多勝を獲得した。オフには、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤も選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発し、退団してロッテに移籍した。
新監督に就任したドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし、「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし、契約を解除。また、新ユニフォームも「派手すぎ」「アメフトみたい」と選手やファンからは全くの不評であった。
ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し、監督に就任。だが、戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もあり、前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者となった。この年は前期・後期ともに最下位に終わった。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名がクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions)に改まることが決定した(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうために省略。10月15日にパ・リーグより承認)。しかし、太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。
投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど、健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任。
真弓明信、立花義家など若手が台頭し、レギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈した。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることはなかったが、通年では2年連続の最下位を免れ、5位。
10月12日、廣済堂クラウンがライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。西武鉄道グループの国土計画(後のコクド)の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズ球団を買い取り、西武ライオンズ(Seibu Lions)となり、資金力も増して強化に乗り出す。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。堤は買収発表の記者会見の席で、球団の買収話は数日前にプロ野球コミッショナーらの訪問を受け、短期間のうちに決まったと語っている。
10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日には、後述するプリンスホテル野球部での活用を想定した西武園遊園地球場として当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテから監督要請を固辞して自由契約となった野村克也に加えて主力の遊撃手だった山崎裕之、阪神から竹之内雅明・真弓明信・若菜嘉晴ら主力選手との大規模トレードで田淵幸一を獲得。川上哲治への社長就任要請、クラウン時代の77年ドラフトで1位指名して交渉権を得ていた江川卓入団にも執念を燃やしたが、失敗。これにより、読売グループとの関係が悪化した(詳細については江川事件を参照)。
なお、当時の国土計画(後のコクド)は大洋ホエールズの株式を45%保有していたが、ライオンズの買収により、複数球団の保有を禁止する野球協約に抵触することになるため、保有していた大洋球団の株式をニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に売却している。
球団施設、環境や選手の待遇も改善されると、当初は苦戦したものの、新戦力が台頭して優勝、日本一を果たすと常勝軍団となった。クラウンライター最終年から引き続き初代監督となった根本陸夫は退任後のフロント時代を通じて、選手獲得に奔走し他球団を出し抜く戦略で有力選手を集めた。同時に誕生したプリンスホテル野球部を含めて西武グループの組織力を活かしたチーム運営で90年代まで西武黄金時代を築くことになる。
西武ライオンズとして最初のシーズンは春季キャンプでの調整不足もあり、前期は開幕から2引き分けを挟み、12連敗(1955年のトンボユニオンズと並ぶ開幕戦からの連敗記録のNPB歴代ワーストタイ)を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や『がんばれライオンズ』(TBSで関東一円で放送)などのミニ番組を放送してPRに努めた結果、観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。
前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが、終盤6連敗し、後期優勝を逃し、結局4位となった。通算でも4位。野村克也、伊原春樹が現役を引退した。
この年から2020年にかけて40年間、1度もリーグ最下位を経験しなかった。
前期は終盤まで優勝を争うも、ロッテに敗れ、2位に終わる。だが、後期は失速して5位に沈み、通算では4位。ドラフト1位の石毛宏典が新人王。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任し、以降は管理部長としてチーム運営に携わる。
この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。
序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続かつ前身を含め本拠地で初の日本一に達成した。
アリゾナ州メサで春季キャンプを敢行(日本の球団でメサでキャンプを行ったのは1980年の横浜大洋ホエールズ以来)。日本ハムから江夏を獲得するも、田淵や山崎など、2連覇を支えたベテラン選手が衰え、序盤から低迷し、チームもルーキー辻発彦を抜擢するなど若手主体に切り替え、その結果3位に終わった。このシーズン終了後、江夏、田淵、山崎が現役を引退した。
中日の田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二が本塁打王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、一軍ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末に交渉権を獲得している。
この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」を築いた。
ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。永射、片平が大洋へトレードとなり、大田卓司が引退。
8月5日に球団事務所を現在の西武ライオンズ球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は引き続きサンシャイン60と同地に残る)。
秋山が外野、石毛が三塁へコンバート。序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。阪急の山田久志は同年のオールスター休みに行われた落合博満との対談の中で、優勝の行方を「自分と東尾の勝利数の差が優勝の行方を左右する」との見解を述べたが、この年15勝を挙げた東尾に対して山田は7勝にとどまり、皮肉にも自身の予想を的中させる結果となった。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し、2年連続日本一。しかし、オフに東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。
開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると、工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。2年目の森山良二が10勝で新人王。東尾は現役引退。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、西武は「昭和最後のパ・リーグ優勝・日本一球団」となった。
序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続本塁打を打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。新人の渡辺智男は10勝と奮闘した。
オフに一軍作戦兼バッテリーコーチの黒田正宏がダイエーへ移り、黒江透修が一軍ヘッドコーチとして球団に復帰。
3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶり、平成最初のパ・リーグ日本一球団となった。デストラーデは本塁打、打点の2冠、秋山は盗塁王、渡辺久が最多勝(近鉄・野茂と同時)となる。
開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝を飾る。この年にはオフに日本ハムに所属していた若菜嘉晴が現役を引退したことにより、西鉄ライオンズに所属した選手が全員引退した。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。郭はMVP、デストラーデは2年連続で本塁打、打点の2冠、渡辺智が最優秀防御率を受賞。
1998年から西武ライオンズ球場をドーム球場として西武ドームに改称するため、西武ライオンズ球場および本拠地での日本一もこの年が最後となった。
6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り、3年連続日本一に輝いた。日本シリーズでも活躍した石井丈裕は15勝を挙げてMVP、デストラーデは3年連続本塁打王。管理部長の根本陸夫がダイエー監督就任のため退団。
デストラーデがメジャー復帰のため、退団し、攻撃力低下が懸念されたものの、工藤がシーズンMVPになり辻が首位打者を獲得、新人の杉山賢人が新人王に輝く活躍。日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。
シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がエースコックのスーパーカップのCMに起用された。
オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが、西武が9月に抜け出すと、そのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。
東尾修が監督に就任し、デストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し、戦力が低下、残った主力もベテランが増え、成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。また、ロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり、連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため、退団してヤクルトに移籍。この年にはオフに阪神に所属していた真弓明信が現役を引退したことにより、太平洋クラブ→クラウンライターライオンズに所属した選手と、平和台球場時代に在籍した選手が全員引退した。
序盤から低迷し、Bクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝を挙げ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり、田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。
不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。
シーズン終盤までは2連覇中のオリックスとデッドヒートを繰り広げていたが、松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり、8月下旬からは約1か月で7試合にサヨナラ勝ちを収める勝負強さを発揮。さらにマジック1で迎えた試合でも鈴木健のサヨナラ本塁打で1994年以来3年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ、日本一を逃した。
オフに2連覇中のオリックスからFA宣言した中嶋聡を獲得。
西武ライオンズ球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称された。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制し、リーグ2連覇を達成する。日本シリーズでは横浜ベイスターズと対戦し、下馬評は西武有利と予想されたが、2勝4敗で敗れた。
ドラフトではこの年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し、日本ハム、横浜との競合の末に抽選で交渉権を獲得した。
西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝を挙げ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。
前年に続き、ダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかし、オリックスには1994年以来6年ぶりに勝ち越した。
ドラフトでは系列企業のプリンスホテル硬式野球部から
の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球に加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い、救済措置・特例でプロ入り。
松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝を挙げ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾が監督を勇退し、オフに伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため、伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督、伊東が総合コーチ兼捕手に昇格した。10月6日にはミゲール・デルトロが事故死、現役中の選手が死亡する事例は2000年の藤井将雄(当時ダイエー)以来の悲劇となった。
ドラフトでは後に球界を代表する選手となる中村剛也と栗山巧を指名。
開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差で1998年以来4年ぶり19回目のリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズは巨人に4連敗を喫した。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した。
オフに横浜から中嶋聡、富岡久貴との2対2トレードで石井義人、細見和史を獲得。
開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく、札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。
ダイエーと優勝を争ったが、投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に総合コーチから監督に昇格。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。
西武は札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に当時東京ドームを本拠地としていた日本ハムが翌年から北海道に移転することにより、札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局この年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、翌年以降は西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。
日本ハムは札幌移転の翌年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては日本ハムの札幌ドーム移転前の9月28日の試合後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた。
松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの、投打にわたり、全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも二死二、三塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の松中信彦を迎え撃つ(ただし、松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここで走者が帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り、2002年2年ぶり20回目のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは中日と対戦し、先に王手をかけられるものの、4勝3敗で1992年以来12年ぶりの日本一に輝いた。
この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。
この年から二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは開幕直後出遅れたことやロッテ、ソフトバンクとの上位争いに加わることが出来ず、シーズン中盤から終盤にかけてオリックス、日本ハムと3位争いを繰り広げ、最終的に3位となるもプレーオフでロッテに敗れた。
オフにリリーフの中心として活躍した抑えの豊田清がFAで巨人、中継ぎの森慎二がポスティングシステムでタンパベイ・デビルレイズに移籍。
コクドの事業低下に加え、その系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により、財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件のため、交渉はまとまらず、結局この年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ、再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていた諸井虔が売却に反対して計画が立ち消えとなり、翌年以降も球団を保有することとなった。11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来25年ぶりの開催となった(以後、毎年原則同日に開催する)。
日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずか1ゲーム差で2位に終わった。プレーオフでは第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。オフにエースの松坂大輔がボストンレッドソックスに移籍。
12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現:テクノプロ・ホールディングス)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、4日の実行委員会で正式に承認された。
1月1日から西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に改称した。1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田清司埼玉県知事(当時)に翌年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「武蔵国の西部」として地域名もしくは西武線沿線を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、翌年以降、西武線沿線地域ではないさいたま市(大宮区)にある埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。堤オーナー時代には埼玉県との関係は薄く、「西武線沿線地域のチーム」という位置付けでの集客活動が展開されてきたが、鉄道経営陣の交代により、東京都内を含む西武線沿線と埼玉県全域の双方で活動を行うとする地域密着の方針が変化した。
スカウト活動中にアマチュア選手に金銭供与するなどの不正行為を行ったことに対し、5月29日、同年秋の高校生ドラフト上位2選手について西武の指名権を剥奪し、制裁金3000万円の処分を科すと発表した。チームは交流戦で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど、低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。伊東は最終戦の直前に不振の責任を取り、辞意を表明し、監督を退任した。オフに和田一浩が中日にFA移籍。中日にFA移籍した和田の人的補償として岡本真也を獲得。
11月6日、翌年から「埼玉西武ライオンズ」への球団名変更をプロ野球実行委員会に申請し、14日のプロ野球オーナー会議で承認された。
この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により、命名権取得契約を解除することが決定された。
2023年現在、西武ライオンズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は中村剛也・栗山巧・炭谷銀仁朗(いずれも西武)・中島宏之・涌井秀章(いずれも中日)・岸孝之(楽天)の6人。
球団名が2008年1月1日付で埼玉西武ライオンズに変更された(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、さらなる地域密着を図った。1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、9日より本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍と同様、「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。
渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチ、大久保博元を打撃コーチにするなど、コーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。6月27日には大宮球場での公式戦がライオンズ主催としては初めて、パ・リーグ公式戦としては1954年以来54年ぶり、セ・リーグを含めても1955年以来53年ぶりに開催された。7月22日にはさいたま市に本拠地を置くJリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属選手の岡野雅行と堀之内聖がライオンズ球場で始球式を行った。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分立後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分立後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、2004年以来4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは日本ハムとファイナルステージで対戦。第1戦は大宮開催となったこのシリーズの結果は4勝2敗で2004年以来4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたものの、その後連勝し、4勝3敗で2004年以来4年ぶり13回目の日本一になった。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズをサヨナラ勝ちで下し、初優勝を達成した。なお、西武はこの年を最後に日本シリーズ出場・日本一になっておらず、現在の球団名になってから日本シリーズ出場・日本一になったのはこの年が唯一であり、日本シリーズ出場は現存12球団で最も遠ざかっている。
この年、彩の国特別功労賞を受賞。同賞は1997年に岡野雅行を第一号表彰者として制定されていたが、西武ライオンズは2004年の日本一の際には同賞および彩の国スポーツ功労賞を受賞していなかった。
1月1日、公式ホームページにてチームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された。ただし、球団旗およびマスコットは変更しない。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている。
昨シーズンの守護神であったアレックス・グラマンの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、東北楽天ゴールデンイーグルスやソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として1959年以来50年ぶりとなった。オフに岡本慎也が自由契約となった(LGツインズに移籍)。
ドラフトでは花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。
前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも、前半戦を首位で折り返した。だが、終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。クライマックスシリーズはファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。
ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。オフに細川亨がソフトバンクにFA移籍。
東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった。セ・パ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし、9月は19勝5敗2分の成績で、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し、68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため、勝率を5糸(0.5毛)上回り、3位が確定し、クライマックスシリーズ出場を決めた。クライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフに帆足和幸がソフトバンク、許銘傑がオリックスにFA移籍。
5月1日には2007年に死去した稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した。開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり、涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録を抹消され、チームも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3か月で貯金を19とし8月19日に首位に立った。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し、3ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズではファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退となった。中村剛也が本塁打王を獲得した。
オフに平尾博嗣、佐藤友亮、マイケル中村、大島裕行が現役を引退した。中島裕之が海外FA権を行使し、オークランド・アスレチックスに移籍。
リーグ一番乗りで10勝に到達するなど、開幕ダッシュには成功したものの、5月9日ロッテに連敗したことで、4月10日から守り続けた首位を明け渡し、交流戦開始後の同月22日には楽天に抜かれて3位に転落、6月8日には交流戦で優勝したソフトバンクにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり、6月29日には最大9あった貯金が一旦なくなった。7月28日には再び2位浮上するが、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落し、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上し、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで、年間3位以上が確定し、4年連続でクライマックスシリーズ進出が決定した。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し、8連勝で2位に浮上し、本拠地でのクライマックスシリーズファーストステージ開催権を獲得したが、クライマックスシリーズファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し、ファーストステージ終了の15日、渡辺が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことと球団シニアディレクターに就任することを発表した。10月22日、後任には2年間西武ライオンズの監督を務めた伊原春樹の就任が発表された。
オフに片岡治大が巨人、涌井秀章がロッテにFA移籍。巨人にFA移籍した片岡の人的補償として脇谷亮太、ロッテにFA移籍した涌井の人的補償として中郷大樹を獲得。
開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗に到達するなど、監督の伊原の前時代的な指導や練習法が選手の心の離反を生み、序盤から最下位に低迷し、5月5日に打線のテコ入れのために新外国人としてエルネスト・メヒアを獲得。しかし、6月3日に監督の伊原が成績不振と右ひざ痛悪化のため、自ら球団に休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対DeNA戦の試合後に監督の伊原の休養と、打撃コーチの田辺徳雄が監督代行として指揮を執ること、チーフ兼バッテリーコーチの袴田英利がヘッド兼バッテリーコーチ、二軍野手総合兼打撃コーチの高木浩之が打撃コーチ、二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の嶋重宣が二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチに就任することを発表した。
※2014年の監督代行時代も含める。
6月27日に休養していた監督の伊原が辞任を申し入れ、了承され、7月1日付での球団本部付アドバイザーに就任することを発表した。打撃コーチの田辺が監督代行のまま指揮を執る。途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となったが、9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)、27日の対楽天戦(コボスタ宮城)に敗れ、2007年以来7年ぶりの負け越しと2009年以来5年ぶりのBクラスと5位が確定した。監督代行の田辺が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した。
ドラフトでは髙橋光成らを指名。
開幕より中村・森友哉・メヒアなどをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った。交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つなど、10勝6敗2分の3位となり、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり、前半戦を3位でターンした。しかし、後半戦になると失速し、後に球団ワースト記録となる13連敗を喫し、最大11もあった貯金がなくなってしまった。連敗中は抑えを髙橋朋己から牧田和久に配置転換した。8月29日、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である。また、2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目。西口文也が現役を引退した。終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるが、ロッテが逆転したため、最終順位は4位となり、CS進出を逃した上、球団としては1981年以来34年ぶりの2年連続Bクラスが確定した。秋山翔吾がシーズン216安打の日本記録を樹立した。
オフに脇谷亮太が巨人にFA移籍。田中靖洋が自由契約となった(ロッテに移籍)。
開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投、メヒアら打撃陣の好調により、一時は首位に立つが、岸孝之の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、5月5日には最下位に転落してしまう。これらを受け、森慎二二軍投手コーチが一軍投手コーチに昇格し、先発要員のために新外国人としてフェリペ・ポーリーノ、ブライアン・ウルフを獲得。しかし、9月11日のソフトバンク戦で2014年以来2年ぶりの負け越し、9月21日のオリックス戦で3年連続Bクラスが確定した。シーズン最終戦で田辺の監督退任が正式発表され、後任にはOBの辻発彦が就任。金子侑司が自身初の盗塁王を獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト)・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど、課題の多く残るシーズンとなった。また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天を相手に初めて負け越した。この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ現存5球団を相手に負け越しを免れたが、CS争いには加われず、2年連続4位が確定した。
オフに岸孝之が楽天にFA移籍。
1月16日、西武の本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から『メットライフドーム』にすることを発表した。4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。6月28日に森投手コーチが急死。外崎修汰が3年目でレギュラーに定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わって山川穂高が4番に座った。チームもこの間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成している。8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると、その後はシーズン終了まで2位を維持し、2013年以来4年ぶりのAクラス入りを果たした。
クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦、第1戦ではエース菊池が完封して10-0で大勝するが、第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。エースの菊池がリーグ最優秀防御率および最多勝を達成、新人の源田壮亮が1961年以来56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞、秋山が打率.322で首位打者となった。
オフに楽天から松井稼頭央がテクニカルコーチ兼外野手として15年ぶりに復帰。野上亮磨が巨人にFA移籍。牧田和久がポスティングシステムでサンディエゴ・パドレスに移籍。
所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、西武球団でも様々な催しや事業が実施された。中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である。
4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた。4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり、球団初の記録となった。また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は1954年、1955年に続く63年ぶりの球団3回目となった。4月22日にロッテに勝ち、西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした。4月25日にソフトバンク戦で5試合連続9得点を挙げ、パ・リーグ新記録を達成した。また、2002年以来14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった。強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速し、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたが、マジック対象チームである2位のソフトバンクがロッテに負けたため、2008年以来10年ぶり22度目のリーグ優勝が決まった。1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来となり、開幕から首位のまま優勝をしたのは、2リーグ制では1953年の巨人、1962年の東映、1997年のヤクルトに続く4例目の記録だった。771得点、191本塁打、2割7分3厘の打率と攻撃面はリーグトップを記録した一方、防御率4.27と636失点、84エラーはいずれもパ・リーグワーストで、この内防御率が最下位で優勝したのは2001年の近鉄以来となった。
クライマックスシリーズファイナルステージでは2位のソフトバンクと対戦するが、不安材料の4.27の防御率とそのアキレス腱だった投手陣が5試合で合計44失点と甚だしく壊滅した。初戦で敗れ、第2戦でようやく勝利したが、第3戦から第5戦にかけてソフトバンクを相手に3連敗を喫してしまい、アドバンテージ1勝を含めた2勝4敗で敗れた。監督の辻は試合後に行われたシーズン最終戦セレモニーで「悔しいです。まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした。」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり、涙を流し続けた。10月21日にメットライフドームで行われた第5戦を最後に松井稼頭央が現役を引退した。松井の引退により、西武ライオンズ球場時代に在籍した選手が全員引退した。
オフに藤原良平、坂田遼、福倉健太郎が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。浅村栄斗が楽天、炭谷銀仁朗が巨人にFA移籍。新外国人としてザック・ニール、巨人にFA移籍した炭谷の人的補償として内海哲也を獲得。菊池がポスティングシステムでシアトル・マリナーズに移籍。
この年は平成最後のペナントレースだったので、西武は「平成最後のパ・リーグ優勝球団」と同時に巨人と共に「平成時代に1度もリーグ最下位を経験しなかった球団」となった。
巨人から移籍した内海を含め、開幕前に先発陣で故障者が相次いだ。開幕以来一度も首位を譲らず、優勝した前年とは異なり、開幕カードのソフトバンク3連戦で3連敗を喫し、リーグ最下位からのスタートとなった。しかし、令和に入ると、5月1日に山川がパ・リーグの令和初となる本塁打を放ち、5月5日に今井達也が令和初の完封勝利を果たした。7月9日に首位とのゲーム差が最大8・5まで開いたが、8月に入って打線が奮起。9月11日、ソフトバンクとの首位攻防戦に勝って初めて首位に立つ。9月24日、マジックを「2」としていた西武が対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)に勝利し、2位のソフトバンクが東北楽天に2-4で敗れたため、2年連続23度目のリーグ優勝を果たした。浅村や菊池、炭谷と主力の移籍でチーム状況は決して万全とは言えなかったものの、前評判を覆し、防御率はリーグワーストの4.35だったが12球団トップの756得点を挙げる圧倒的な打力を武器に優勝を勝ち取った。パ・リーグの2連覇は2014 - 2015年のソフトバンク以来、球団では1997 - 1998年以来となった。なお、この年の5月1日に元号が平成から令和に改元されたことで、西武はプロ野球史上初めて元号をまたいだ連覇となった。これまで西暦の末尾“9”の年のみ優勝を果たしていなかったが、これで西暦末尾0から9の全てで優勝を成し遂げたことになった。山川120打点、中村123打点、森105打点で球団史上初の100打点トリオを形成し、パ・リーグでは2003年のダイエー以来の快挙となった。さらに山川が本塁打王(2年連続)、中村が打点王(4度目)、森が首位打者(初)、金子が盗塁王(2度目)、秋山が最多安打(4度目)と6部門中5部門で西武がそれぞれトップを占め、打撃タイトルを総なめにした。だが、勇躍臨んだソフトバンクとのクライマックスシリーズファイナルステージでは3連敗を喫してしまうと、第4戦では今宮健太にも3本の本塁打を許すなど4連敗を喫した(アドバンテージ1勝を含む)。シーズン756得点の強力な打線もわずか13得点と振るわず、投手陣も32失点(自責29)、防御率7.25と試合を全く作れなかった。前年同様にソフトバンクを相手に計1勝8敗と短期決戦でのもろさが際立ち、本拠地4連敗という屈辱的な“逆スウィープ”で2年連続で年間勝率1位ながら日本シリーズ進出を逃した。翌年から三軍制を導入することを発表した。
オフに中日を退団した松坂大輔が14年ぶりに復帰。新外国人としてショーン・ノリン、リード・ギャレット、コーリー・スパンジェンバーグを獲得。秋山翔吾がシンシナティ・レッズにFA移籍。
開幕から主砲の山川が打撃不振に陥り、スパンジェンバーグも開幕直後は低調だった。中盤には中村が死球を受けて故障離脱、前年首位打者の森もシーズン全体を通して打率2割5分前後に留まり、外崎も不振に陥るなど前年までの強力打線も影を潜めた。課題の先発投手陣も、前年チーム最多勝のニールを筆頭に軒並み防御率4点台から5点台と不調で夏場には借金生活に入り、8月には5位まで後退した。しかしながらシーズン後半になると、救援投手陣で7回森脇亮介、8回平良海馬、9回増田達至の必勝リレーが確立してシーズン終盤の接戦を落とさなかったことで、10月下旬に借金を完済し、失速した2位のロッテにも迫ったが、11月8日のロッテとの直接対決の末に敗れ、3位が確定したため、クライマックスシリーズを逃した(この年のクライマックスシリーズはコロナ禍のため、2位対3位戦の中止が決定していた)。楽天とロッテには勝ち越したものの、チーム防御率が最下位であり、ソフトバンクと日本ハムとオリックスにも負け越すなど、3連覇を逃す原因となった。しかし、相内誠と佐藤龍世の両名が不祥事を起こしてシーズン終了までの対外試合禁止処分が下され、相内は戦力外として格闘家に転向、佐藤は翌年シーズン途中に日本ハムへと放出されてしまう。その中で平良がパ・リーグ新人王を受賞した。
オフにノリンが自由契約となった(ワシントン・ナショナルズに移籍)。日本ハムから金銭トレードで吉川光夫、新外国人としてマット・ダーモディを獲得。
この年に開催された東京オリンピックの日本代表選手として西武からは平良、源田が選出された。
序盤から低迷し、5月13日に水上由伸を支配下選手に登録させ、7月26日にメヒアがウェイバー公示され、8月12日に日本ハムから木村文紀、佐藤龍世との2対2トレードで公文克彦、平沼翔太を獲得。10月19日にメットライフドームで行われた引退試合を最後に松坂大輔が現役を引退した。その後、最終盤にシーズン中のトレード相手の日本ハムとの5位争いを繰り広げる中、10月30日のシーズン最終戦でその日本ハムが2位のロッテに勝利したことで、1979年以来42年ぶり、球団名変更後初の最下位が確定した。最終的には5位の日本ハムとは1ゲーム差、首位のオリックスにも15ゲーム差をつけられてしまい、そのオリックスと3位の楽天にもそれぞれ8勝15敗と大きく負け越した。これにより、昭和時代に創設したパ・リーグ現存5球団全てが21世紀にリーグ最下位を経験した。ドラフトでは隅田知一郎を1位、佐藤隼輔を2位で獲得した。オフに小川龍也、吉川光夫が自由契約となり(小川はモンテレイ・サルタンズ、吉川は栃木ゴールデンブレーブスに移籍)、メヒア以外の外国人選手4人が退団した(ニールはコロラド・ロッキーズ、スパンジェンバーグはセントルイス・カージナルス、ギャレットはワシントン・ナショナルズに移籍、ダーモディはシカゴ・カブスに復帰)。新外国人としてディートリック・エンス、ブライアン・オグレディ、ボー・タカハシ、ジャンセン・ウィティ、バーチ・スミスを獲得。
1月15日付で居郷肇球団社長が退任し、翌16日付で後任に奥村剛が球団社長に就任した。メットライフが西武ドームとのネーミングライツ契約の満了に伴い、新たにベルーナとネーミングライツ契約を結び、3月1日付で「ベルーナドーム」に改称された。5月に新外国人としてロマー・コドラド、ジャシエル・ヘレラと育成契約を結んだ。シーズン中盤から後半にかけて調子を上げ、7月下旬からソフトバンクとの首位争いを繰り広げる中、8月28日には球団通算5000勝を達成。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である。9月12日から19日にかけて7連敗を喫し、貯金がなくなり、順位も4位に後退した。この間、源田壮亮・衛藤美彩夫妻が誹謗中傷の被害に遭い、調査したところ、山田遥楓の妻が加害者だったことが発覚し、山田が日本ハムへと放出されてしまい、佐藤龍世が日本ハムから1年半ぶりに復帰する原因となった。その後、9月20日からの4連勝などにより、楽天との3位争いを制したことで、9月29日に2019年以来3年ぶりとなるクライマックスシリーズ進出を決めた。内海哲也、十亀剣、武隈祥太が現役を引退した。7回水上由伸、8回平良海馬、9回増田達至の必勝パターンを形成、水上と平良が最優秀中継ぎのタイトルを分け合った。
クライマックスシリーズファーストステージでは2位ソフトバンクに2連敗を喫し、敗退した。クライマックスシリーズファーストステージ終了後、辻監督の退任が発表され、後任にはヘッドコーチの松井稼頭央が昇格する形で就任した。ドラフト会議では蛭間拓哉を1位、甲子園を湧かせた山田陽翔を5位で獲得した。オフに熊代聖人が戦力外通告を受け、その後現役を引退し、ジャンセンら外国人選手3人が自由契約となった(オグレディとスミスの両外国人選手はハンファ・イーグルスに移籍)。日本ハムから山田遥楓とのトレードで佐藤龍世が1年半ぶりに復帰。森友哉がオリックスにFA移籍。オリックスにFA移籍した森の人的補償として張奕、新外国人としてヘスス・ティノコ、デビッド・マキノン、マーク・ペイトンを獲得。
ワールド・ベースボール・クラシックでは源田と山川が日本代表、呉念庭がチャイニーズタイペイ代表、へレラがコロンビア代表として選出された。
育成選手から4月14日に古市尊を、7月21日に豆田泰志をそれぞれ支配下登録した。7月27日には、前年DeNAで活躍しオフにカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んでいたブルックス・クリスキーと契約、支配下登録した。
7月20日、中日から川越誠司とトレードで髙松渡を獲得した。
だが、5月から山川が警視庁に強制わいせつ致傷の容疑で捜査されていることが報じられ、8月23日に強制性交等の容疑で送検されるも同月29日に不起訴になっている。山川は5月の報道以降、公での活動を自粛していたが練習を再開、同月31日にはフリー打撃で柵越えを披露した。
オフに公文克彦が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
1992年に沢村栄治賞を受賞した石井丈裕より前の時代だと、稲尾和久が投手三冠王を2度達成するなど記録を残しているが、当時、パシフィック・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、稲尾は受賞出来なかった。
ライオンズでの投手三冠王の達成者は1人。また稲尾和久が複数回達成している。2回達成はプロ野球最多タイ記録となっている。
2022年シーズン終了時点で達成者はいない。
ライオンズの投手で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。他球団での受賞も含めると工藤公康がライオンズ時代に1回、ホークス時代に1回で複数回受賞を達成している。
2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。
1950年は西日本が平和台、西鉄は春日原を一応の本拠地と定めるが、県内での試合数は極端に少なかった(西日本7試合、西鉄27試合)。
1965年からは小倉球場(現:北九州市民球場)、1973年からは藤崎台県営野球場を準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。
パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、本拠地(西武ライオンズ球場→西武ドーム)での試合開催率が高い西武の方針は異例だった。特に1993年までの15年間では、西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982年から1986年と1989年から1993年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだった。1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。なお、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。ただし、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。
福岡で球団創設してのちの1951年にチーム名がクリッパースからライオンズに変更して70周年に当たる2020年には、広瀬香美がカヴァーした「吠えろライオンズ」が6月9日にリリースされた。リニューアルにあたり、歌詞が「西武ライオンズ」から「埼玉西武ライオンズ」に改められている。
ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。
ほか文化放送が「文化放送ライオンズナイター」用の挿入歌としてばんばひろふみ・梶原しげる(当時同局アナウンサー)がそれぞれ歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」(作詞・作曲:チャゲ&飛鳥 編曲:村上啓介)という楽曲が1985年に発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。
ライオンズのマスコットキャラクターは、埼玉移転後に制定された以下の2体である。どちらもデザインは手塚治虫が手掛けた。詳しくは当該項目を参照されたい。
なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをペットマークに使用。西鉄時代にもライオンをデザインしたペットマークを使用された。当時のジャンパーの胸部にワッペンが縫い付けられていた。
ドーム化前の西武ライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、西武鉄道の利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武ライオンズ球場に屋根をかけドーム化させた。
西武による買収以降、当時の堤義明オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。
球団の公式記録は、全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった。また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のOBとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。
ところが、2005年に堤が西武鉄道株をめぐる証券取引法違反で失脚し、2007年に後藤高志がオーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる。2008年は西武球団創設(埼玉移転)30周年(30シーズン目)と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6月から8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も福岡野球時代や西武時代初期なども対象に加えて、年度により不定期で行われることがある。
これを契機に、公式ウェブサイト内年表において西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。さらに、2012年には西鉄時代の選手である稲尾和久の「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初の永久欠番に指定された。
またチームカラーも、西鉄時代の黒と西武時代前期の青を融合させた紺色が「レジェンドブルー」の名称で採用された。差し色として使われている赤も、特に明確な採用意図が説明されていないが、福岡野球(太平洋クラブ・クラウンライター)時代のチームカラーだった。
一方の西鉄側でも、売却以降ライオンズの歴史はタブー視していたが、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった。2011年には両社の系列である西鉄高速バスと西武観光バスの共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両によりLions Expressが運行を開始し(2015年5月に運行廃止)、西鉄公式ホームページでも「にしてつwebミュージアム」で過去の電車やバスの画像と共に西鉄ライオンズを紹介している。
ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ - サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「ワッショイ」×3、「1・2・3・ダー」と続く(1992年開始以来変更無し)。5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏される。応援のリードにバスドラムが用いられる。トランペットの使用が禁止されている宮城球場では攻撃開始前及び出塁時のファンファーレの代わりに「埼玉!西武!Let's Go Let's Go ライオンズ」の掛け声が使われる。
主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。勝利時には福岡時代からの名残で「炭坑節」が演奏される。
2013年までは「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続けていた。ただし、中村剛也の打席のときは中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。
2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。
1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立ったとき、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。チャンステーマとしては背番号7の選手(2008年から2013年までは片岡易之、2014年から2015年までは脇谷亮太)及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、外国人選手の打席でアレックス・カブレラの応援歌やホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた(小関竜也や佐藤友亮など)。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。
7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際などに使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。
アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。
7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。
汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が一軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。なお、2019年から汎用テーマの使用開始に伴い、代打テーマは廃止されている。
1969年から1971年にかけて起きた八百長事件で、主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。
2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(東京ガスの投手木村雄太と早稲田大学の清水勝仁)に対するスカウト行動で、現金1,300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。さらに、2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたこともわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6,000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。
この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。
2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。
日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3,000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとすることを処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。
スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。
本拠地であるベルーナドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスはベルーナドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。
このうち、ともに移転前の本川越と所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。
球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・レギュラーC・ジュニアの5コースがある。ベルーナドームの飲食売店やグッズショップでLポイントを貯めることができる。グッズショップや西武鉄道の主要駅で入会申し込みができる。
親会社である西武鉄道沿線にアニメ制作会社が多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。
コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当した声優が来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『ダイヤのA』や『ドラゴンボール超』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。
2018年4月からは、本拠地・所沢にところざわサクラタウン(アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手KADOKAWAとコラボしたフリーマガジンを発行している。
なお、西武ライオンズを題材としたアニメとして、西武移籍当初の田淵幸一をモデルとした『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち原作)が存在する。作中では選手や監督のみならず当時のオーナーであった堤義明をイジる描写も多数見られたが、堤本人や球団、グループ会社からの言及や抗議は一切なかった。こちらも2009年に開催されたライオンズ・クラシックで上映が行われている。
太字は、埼玉県を舞台とした作品。
括弧内は、その作品を制作したアニメ制作会社。
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"text": "埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、英語: Saitama SEIBU Lions)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。",
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"text": "埼玉県をフランチャイズとし、所沢市にあるベルーナドームを本拠地、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は、ドームと同じ敷地内にあるCAR3219フィールドである。",
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"text": "1950年のリーグ分裂時、福岡市に本拠地を置き西日本鉄道(西鉄)を親会社とする西鉄クリッパースとして発足、翌年に西鉄ライオンズと改称し、1972年に西鉄が撤退したあと1973年から1978年までは福岡野球の運営でチーム名が太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと変遷した。その後西武グループに買収され、1979年から本拠地を所沢市に移して西武ライオンズとなり、2008年からは球団名を埼玉西武ライオンズに変更して現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。",
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"text": "リーグ優勝23回、日本一13回はいずれもパ・リーグ1位である。",
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"text": "西日本鉄道(西鉄)は第二次世界大戦中の1943年、それまでの大洋軍を譲り受け、(旧)日本野球連盟に加盟する西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散した。また、連盟自体は1944年で活動を休止した。",
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"text": "1945年8月に第二次世界大戦で日本が降伏し、アメリカ合衆国を中心とした連合国占領下で連盟の活動が再開されると、1946年6月に西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから、1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に連盟から復帰申請を却下されている。",
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"text": "ところが、1949年オフにプロ野球再編問題が発生した。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。",
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"text": "なお、西鉄は1948年11月15日にアメリカのパンアメリカン航空と航空代理店契約を締結し、国際航空物流事業に参入していた。球団名の由来は第二次世界大戦期に長距離旅客輸送用飛行艇として活用されたボーイング314の愛称「クリッパー」(Clipper)と考えられ、球団旗の原案には西鉄の社章の上に飛行艇が置かれたデザインも提示されていた。",
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"text": "1月下旬に運営会社西鉄野球株式会社を設立登記した。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。",
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"text": "選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守、深見安博、河野昭修、塚本悦郎ら、八幡製鐵の鬼頭政一ら、星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツの川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。",
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"text": "シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。",
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"text": "同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、または西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できず、収益を興行師に持ち逃げされることもあり、経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。",
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"text": "翌年1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。当初は旧クリッパース出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパースの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパースの選手を使い続けることで、クリッパース出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇したりしている。",
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"text": "首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる。",
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"text": "シーズン途中に契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博、緒方俊明とのトレードで獲得。この年は首位の南海と8.5ゲーム差の3位。",
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"text": "Bクラスの4位に終わるも、中西太が本塁打王・打点王・最多安打。トリプルスリーも達成している。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。",
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"text": "西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗 とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月19日の阪急戦(平和台野球場)に勝利したことで、西鉄は初優勝を本拠地で飾った。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。",
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"text": "前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度にわたって首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。",
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"paragraph_id": 18,
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"text": "4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。巨人との日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月19日の東映戦(駒沢野球場)で、西村貞朗が球団初の完全試合を達成したものの、7月22日からの大阪球場での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。",
"title": "球団の歴史"
},
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"text": "稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "稲尾が序盤から勝利を重ね、7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝 を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが、チームは2年連続3位に終わり川崎が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾の復調など投手陣が踏ん張り3年連続の3位となる。しかし、共に故障を抱えながら欠場した中西と出場した豊田との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男と安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "序盤は首位に立つことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫がノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの5年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "8年ぶりに開幕戦に敗れ序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの前年未勝利の稲尾が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ3位となる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "5月12日の南海戦(大阪)で完全試合を達成した田中が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾など安定した投手陣に比べ打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れて2位に終わる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗が続き8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永ら投手陣の活躍で2位となった。これが西鉄にとって最後のAクラス入りとなった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "開幕から4連敗を喫し、6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位に終わった。池永が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "5月に9連敗で中西が一時監督を休養、9月には4位まで上がるものの最終的には5位でシーズン終了となった。10月には永易将之が八百長行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「黒い霧事件」の発端となった。稲尾が現役を引退し、監督に就任。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "開幕直前、前年追放された永易が池永ら西鉄の6選手が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細については、「黒い霧事件 (日本プロ野球)」を参照されたい)。投手では東尾修、三輪悟、打者では東田正義、竹之内雅史(トンタケコンビ)ら若手を起用、東尾も防御率5点台ながら11勝を挙げるがチームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾と河原明が共に16敗で、リーグ最多敗になるなど一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒットノーランを立て続けに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず、15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "東尾が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ、新人王を獲得するが2年連続全球団負け越しに終わる。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位となった。観客動員数も激減するなど経営が悪化した上、ついに西鉄本社の吉本弘次社長は球団経営を手放すことを決断した。11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映の売却話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに売却されることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により、破談となった。東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに売却することも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村自らがライオンズを買収することになる。この買収で野球協約で定める1人または1団体による複数球団の保有禁止条項に抵触することに伴い、中村はロッテオリオンズのオーナーを辞任し、福岡野球株式会社のオーナーに就任することになる。資金面強化のため、小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、一種の命名権契約で球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となった(11月9日のパ・リーグ実行委員会で会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この年からパ・リーグは前後期制度となり、開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げてしまい前期は4位。後期も序盤は好調だったが、5位に終わり通年4位となった。この年から翌年にかけてロッテの金田正一監督との遺恨対決が話題となった。オフには、メジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードの獲得に成功する",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "期待されたハワードが開幕戦に出場しただけで離脱し、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感が無く前期3位、後期4位、通年では4位に終わった。シーズン終了後、稲尾は監督を解任された。後任には大洋から江藤慎一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得する。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "54人中17人が新戦力となり、江藤新監督による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井、白らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの後期は打線に疲れが出て4位に終わる。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井が本塁打王、白が首位打者、東尾が最多勝を獲得した。オフには、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘、江藤も選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発し、退団してロッテに移籍した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "新監督に就任したドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし、「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし、契約を解除。また、新ユニフォームも「派手すぎ」「アメフトみたい」と選手やファンからは全くの不評であった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "ヘッドコーチの鬼頭政一が緊急昇格し、監督に就任。だが、戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もあり、前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者となった。この年は前期・後期ともに最下位に終わった。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名がクラウンライターライオンズ(Crown-Lighter Lions)に改まることが決定した(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうために省略。10月15日にパ・リーグより承認)。しかし、太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "投手陣は大洋から移籍の山下律夫がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の古賀正明がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、ボブ・ハンセンの.269がチーム規定打席到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど、健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では法政大学の江川卓を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には根本陸夫が監督に就任。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "真弓明信、立花義家など若手が台頭し、レギュラー定着、中日から移籍のウィリー・デービスも打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈した。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることはなかったが、通年では2年連続の最下位を免れ、5位。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "10月12日、廣済堂クラウンがライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。西武鉄道グループの国土計画(後のコクド)の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズ球団を買い取り、西武ライオンズ(Seibu Lions)となり、資金力も増して強化に乗り出す。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。堤は買収発表の記者会見の席で、球団の買収話は数日前にプロ野球コミッショナーらの訪問を受け、短期間のうちに決まったと語っている。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日には、後述するプリンスホテル野球部での活用を想定した西武園遊園地球場として当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテから監督要請を固辞して自由契約となった野村克也に加えて主力の遊撃手だった山崎裕之、阪神から竹之内雅明・真弓明信・若菜嘉晴ら主力選手との大規模トレードで田淵幸一を獲得。川上哲治への社長就任要請、クラウン時代の77年ドラフトで1位指名して交渉権を得ていた江川卓入団にも執念を燃やしたが、失敗。これにより、読売グループとの関係が悪化した(詳細については江川事件を参照)。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "なお、当時の国土計画(後のコクド)は大洋ホエールズの株式を45%保有していたが、ライオンズの買収により、複数球団の保有を禁止する野球協約に抵触することになるため、保有していた大洋球団の株式をニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に売却している。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "球団施設、環境や選手の待遇も改善されると、当初は苦戦したものの、新戦力が台頭して優勝、日本一を果たすと常勝軍団となった。クラウンライター最終年から引き続き初代監督となった根本陸夫は退任後のフロント時代を通じて、選手獲得に奔走し他球団を出し抜く戦略で有力選手を集めた。同時に誕生したプリンスホテル野球部を含めて西武グループの組織力を活かしたチーム運営で90年代まで西武黄金時代を築くことになる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "西武ライオンズとして最初のシーズンは春季キャンプでの調整不足もあり、前期は開幕から2引き分けを挟み、12連敗(1955年のトンボユニオンズと並ぶ開幕戦からの連敗記録のNPB歴代ワーストタイ)を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や『がんばれライオンズ』(TBSで関東一円で放送)などのミニ番組を放送してPRに努めた結果、観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが、終盤6連敗し、後期優勝を逃し、結局4位となった。通算でも4位。野村克也、伊原春樹が現役を引退した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この年から2020年にかけて40年間、1度もリーグ最下位を経験しなかった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "前期は終盤まで優勝を争うも、ロッテに敗れ、2位に終わる。だが、後期は失速して5位に沈み、通算では4位。ドラフト1位の石毛宏典が新人王。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任し、以降は管理部長としてチーム運営に携わる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続かつ前身を含め本拠地で初の日本一に達成した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アリゾナ州メサで春季キャンプを敢行(日本の球団でメサでキャンプを行ったのは1980年の横浜大洋ホエールズ以来)。日本ハムから江夏を獲得するも、田淵や山崎など、2連覇を支えたベテラン選手が衰え、序盤から低迷し、チームもルーキー辻発彦を抜擢するなど若手主体に切り替え、その結果3位に終わった。このシーズン終了後、江夏、田淵、山崎が現役を引退した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "中日の田尾安志をトレードで獲得、5年目の秋山幸二が本塁打王を争い投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、一軍ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任した。この年のドラフトで甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末に交渉権を獲得している。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙、田辺徳雄、バークレオ、安部理など)がそろい、特に渡辺久信(最多勝利1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「西武黄金時代」を築いた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。永射、片平が大洋へトレードとなり、大田卓司が引退。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "8月5日に球団事務所を現在の西武ライオンズ球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は引き続きサンシャイン60と同地に残る)。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "秋山が外野、石毛が三塁へコンバート。序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。阪急の山田久志は同年のオールスター休みに行われた落合博満との対談の中で、優勝の行方を「自分と東尾の勝利数の差が優勝の行方を左右する」との見解を述べたが、この年15勝を挙げた東尾に対して山田は7勝にとどまり、皮肉にも自身の予想を的中させる結果となった。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し、2年連続日本一。しかし、オフに東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると、工藤、渡辺、郭泰源、松沼博久ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のバークレオが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダーの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。日本シリーズでは4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。2年目の森山良二が10勝で新人王。東尾は現役引退。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この年は昭和最後のペナントレースだったので、西武は「昭和最後のパ・リーグ優勝・日本一球団」となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤よりオレステス・デストラーデが加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続本塁打を打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。新人の渡辺智男は10勝と奮闘した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "オフに一軍作戦兼バッテリーコーチの黒田正宏がダイエーへ移り、黒江透修が一軍ヘッドコーチとして球団に復帰。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、日本シリーズでは巨人を4連勝で破り2年ぶり、平成最初のパ・リーグ日本一球団となった。デストラーデは本塁打、打点の2冠、秋山は盗塁王、渡辺久が最多勝(近鉄・野茂と同時)となる。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝を飾る。この年にはオフに日本ハムに所属していた若菜嘉晴が現役を引退したことにより、西鉄ライオンズに所属した選手が全員引退した。日本シリーズでは山本浩二監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。郭はMVP、デストラーデは2年連続で本塁打、打点の2冠、渡辺智が最優秀防御率を受賞。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
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"text": "1998年から西武ライオンズ球場をドーム球場として西武ドームに改称するため、西武ライオンズ球場および本拠地での日本一もこの年が最後となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り、3年連続日本一に輝いた。日本シリーズでも活躍した石井丈裕は15勝を挙げてMVP、デストラーデは3年連続本塁打王。管理部長の根本陸夫がダイエー監督就任のため退団。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "デストラーデがメジャー復帰のため、退団し、攻撃力低下が懸念されたものの、工藤がシーズンMVPになり辻が首位打者を獲得、新人の杉山賢人が新人王に輝く活躍。日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "シリーズ終了後、福岡ダイエーホークスと秋山幸二、渡辺智、内山智之と佐々木誠、橋本武広、村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がエースコックのスーパーカップのCMに起用された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが、西武が9月に抜け出すと、そのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "東尾修が監督に就任し、デストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し、戦力が低下、残った主力もベテランが増え、成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、イチローを擁する首位オリックスの独走を許す。また、ロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり、連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため、退団してヤクルトに移籍。この年にはオフに阪神に所属していた真弓明信が現役を引退したことにより、太平洋クラブ→クラウンライターライオンズに所属した選手と、平和台球場時代に在籍した選手が全員引退した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "序盤から低迷し、Bクラスをさまよっていたが、2年目の西口文也が最多勝のキップ・グロス(日本ハム)より1勝少ない16勝を挙げ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり、田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "不動の4番として活躍した清原がシーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "シーズン終盤までは2連覇中のオリックスとデッドヒートを繰り広げていたが、松井稼頭央・大友進・髙木大成・石井貴・豊田清といった若手の台頭もあり、8月下旬からは約1か月で7試合にサヨナラ勝ちを収める勝負強さを発揮。さらにマジック1で迎えた試合でも鈴木健のサヨナラ本塁打で1994年以来3年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ、日本一を逃した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "オフに2連覇中のオリックスからFA宣言した中嶋聡を獲得。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "西武ライオンズ球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称された。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制し、リーグ2連覇を達成する。日本シリーズでは横浜ベイスターズと対戦し、下馬評は西武有利と予想されたが、2勝4敗で敗れた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ドラフトではこの年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目で指名し、日本ハム、横浜との競合の末に抽選で交渉権を獲得した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝を挙げ、新人王に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "前年に続き、ダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかし、オリックスには1994年以来6年ぶりに勝ち越した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "ドラフトでは系列企業のプリンスホテル硬式野球部から",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球に加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い、救済措置・特例でプロ入り。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 81,
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"text": "松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の許銘傑が11勝を挙げ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾が監督を勇退し、オフに伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため、伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督、伊東が総合コーチ兼捕手に昇格した。10月6日にはミゲール・デルトロが事故死、現役中の選手が死亡する事例は2000年の藤井将雄(当時ダイエー)以来の悲劇となった。",
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},
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"paragraph_id": 82,
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"text": "ドラフトでは後に球界を代表する選手となる中村剛也と栗山巧を指名。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差で1998年以来4年ぶり19回目のリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズは巨人に4連敗を喫した。個人記録では10月2日にアレックス・カブレラが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "オフに横浜から中嶋聡、富岡久貴との2対2トレードで石井義人、細見和史を獲得。",
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},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく、札幌ドームで行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 86,
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"text": "ダイエーと優勝を争ったが、投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に総合コーチから監督に昇格。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "西武は札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に当時東京ドームを本拠地としていた日本ハムが翌年から北海道に移転することにより、札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局この年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、翌年以降は西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。",
"title": "球団の歴史"
},
{
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"text": "日本ハムは札幌移転の翌年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては日本ハムの札幌ドーム移転前の9月28日の試合後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 89,
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"text": "松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの、投打にわたり、全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも二死二、三塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の松中信彦を迎え撃つ(ただし、松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここで走者が帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り、2002年2年ぶり20回目のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは中日と対戦し、先に王手をかけられるものの、4勝3敗で1992年以来12年ぶりの日本一に輝いた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "この年から二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは開幕直後出遅れたことやロッテ、ソフトバンクとの上位争いに加わることが出来ず、シーズン中盤から終盤にかけてオリックス、日本ハムと3位争いを繰り広げ、最終的に3位となるもプレーオフでロッテに敗れた。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "オフにリリーフの中心として活躍した抑えの豊田清がFAで巨人、中継ぎの森慎二がポスティングシステムでタンパベイ・デビルレイズに移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "コクドの事業低下に加え、その系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により、財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件のため、交渉はまとまらず、結局この年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ、再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていた諸井虔が売却に反対して計画が立ち消えとなり、翌年以降も球団を保有することとなった。11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来25年ぶりの開催となった(以後、毎年原則同日に開催する)。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずか1ゲーム差で2位に終わった。プレーオフでは第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。オフにエースの松坂大輔がボストンレッドソックスに移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現:テクノプロ・ホールディングス)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、4日の実行委員会で正式に承認された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1月1日から西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に改称した。1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田清司埼玉県知事(当時)に翌年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「武蔵国の西部」として地域名もしくは西武線沿線を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、翌年以降、西武線沿線地域ではないさいたま市(大宮区)にある埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。堤オーナー時代には埼玉県との関係は薄く、「西武線沿線地域のチーム」という位置付けでの集客活動が展開されてきたが、鉄道経営陣の交代により、東京都内を含む西武線沿線と埼玉県全域の双方で活動を行うとする地域密着の方針が変化した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "スカウト活動中にアマチュア選手に金銭供与するなどの不正行為を行ったことに対し、5月29日、同年秋の高校生ドラフト上位2選手について西武の指名権を剥奪し、制裁金3000万円の処分を科すと発表した。チームは交流戦で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど、低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。伊東は最終戦の直前に不振の責任を取り、辞意を表明し、監督を退任した。オフに和田一浩が中日にFA移籍。中日にFA移籍した和田の人的補償として岡本真也を獲得。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "11月6日、翌年から「埼玉西武ライオンズ」への球団名変更をプロ野球実行委員会に申請し、14日のプロ野球オーナー会議で承認された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により、命名権取得契約を解除することが決定された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2023年現在、西武ライオンズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は中村剛也・栗山巧・炭谷銀仁朗(いずれも西武)・中島宏之・涌井秀章(いずれも中日)・岸孝之(楽天)の6人。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "球団名が2008年1月1日付で埼玉西武ライオンズに変更された(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、さらなる地域密着を図った。1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、9日より本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍と同様、「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチ、大久保博元を打撃コーチにするなど、コーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。6月27日には大宮球場での公式戦がライオンズ主催としては初めて、パ・リーグ公式戦としては1954年以来54年ぶり、セ・リーグを含めても1955年以来53年ぶりに開催された。7月22日にはさいたま市に本拠地を置くJリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属選手の岡野雅行と堀之内聖がライオンズ球場で始球式を行った。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分立後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分立後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、2004年以来4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは日本ハムとファイナルステージで対戦。第1戦は大宮開催となったこのシリーズの結果は4勝2敗で2004年以来4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたものの、その後連勝し、4勝3敗で2004年以来4年ぶり13回目の日本一になった。アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズをサヨナラ勝ちで下し、初優勝を達成した。なお、西武はこの年を最後に日本シリーズ出場・日本一になっておらず、現在の球団名になってから日本シリーズ出場・日本一になったのはこの年が唯一であり、日本シリーズ出場は現存12球団で最も遠ざかっている。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "この年、彩の国特別功労賞を受賞。同賞は1997年に岡野雅行を第一号表彰者として制定されていたが、西武ライオンズは2004年の日本一の際には同賞および彩の国スポーツ功労賞を受賞していなかった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1月1日、公式ホームページにてチームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された。ただし、球団旗およびマスコットは変更しない。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 105,
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"text": "昨シーズンの守護神であったアレックス・グラマンの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、東北楽天ゴールデンイーグルスやソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として1959年以来50年ぶりとなった。オフに岡本慎也が自由契約となった(LGツインズに移籍)。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "ドラフトでは花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも、前半戦を首位で折り返した。だが、終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。クライマックスシリーズはファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。オフに細川亨がソフトバンクにFA移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった。セ・パ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし、9月は19勝5敗2分の成績で、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し、68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため、勝率を5糸(0.5毛)上回り、3位が確定し、クライマックスシリーズ出場を決めた。クライマックスシリーズではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフに帆足和幸がソフトバンク、許銘傑がオリックスにFA移籍。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 110,
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"text": "5月1日には2007年に死去した稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した。開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり、涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録を抹消され、チームも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3か月で貯金を19とし8月19日に首位に立った。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し、3ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズではファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退となった。中村剛也が本塁打王を獲得した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "オフに平尾博嗣、佐藤友亮、マイケル中村、大島裕行が現役を引退した。中島裕之が海外FA権を行使し、オークランド・アスレチックスに移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "リーグ一番乗りで10勝に到達するなど、開幕ダッシュには成功したものの、5月9日ロッテに連敗したことで、4月10日から守り続けた首位を明け渡し、交流戦開始後の同月22日には楽天に抜かれて3位に転落、6月8日には交流戦で優勝したソフトバンクにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり、6月29日には最大9あった貯金が一旦なくなった。7月28日には再び2位浮上するが、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落し、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上し、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで、年間3位以上が確定し、4年連続でクライマックスシリーズ進出が決定した。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し、8連勝で2位に浮上し、本拠地でのクライマックスシリーズファーストステージ開催権を獲得したが、クライマックスシリーズファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し、ファーストステージ終了の15日、渡辺が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことと球団シニアディレクターに就任することを発表した。10月22日、後任には2年間西武ライオンズの監督を務めた伊原春樹の就任が発表された。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "オフに片岡治大が巨人、涌井秀章がロッテにFA移籍。巨人にFA移籍した片岡の人的補償として脇谷亮太、ロッテにFA移籍した涌井の人的補償として中郷大樹を獲得。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗に到達するなど、監督の伊原の前時代的な指導や練習法が選手の心の離反を生み、序盤から最下位に低迷し、5月5日に打線のテコ入れのために新外国人としてエルネスト・メヒアを獲得。しかし、6月3日に監督の伊原が成績不振と右ひざ痛悪化のため、自ら球団に休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対DeNA戦の試合後に監督の伊原の休養と、打撃コーチの田辺徳雄が監督代行として指揮を執ること、チーフ兼バッテリーコーチの袴田英利がヘッド兼バッテリーコーチ、二軍野手総合兼打撃コーチの高木浩之が打撃コーチ、二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の嶋重宣が二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチに就任することを発表した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 115,
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"text": "※2014年の監督代行時代も含める。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "6月27日に休養していた監督の伊原が辞任を申し入れ、了承され、7月1日付での球団本部付アドバイザーに就任することを発表した。打撃コーチの田辺が監督代行のまま指揮を執る。途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となったが、9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)、27日の対楽天戦(コボスタ宮城)に敗れ、2007年以来7年ぶりの負け越しと2009年以来5年ぶりのBクラスと5位が確定した。監督代行の田辺が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "ドラフトでは髙橋光成らを指名。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "開幕より中村・森友哉・メヒアなどをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った。交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つなど、10勝6敗2分の3位となり、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり、前半戦を3位でターンした。しかし、後半戦になると失速し、後に球団ワースト記録となる13連敗を喫し、最大11もあった貯金がなくなってしまった。連敗中は抑えを髙橋朋己から牧田和久に配置転換した。8月29日、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である。また、2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目。西口文也が現役を引退した。終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるが、ロッテが逆転したため、最終順位は4位となり、CS進出を逃した上、球団としては1981年以来34年ぶりの2年連続Bクラスが確定した。秋山翔吾がシーズン216安打の日本記録を樹立した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "オフに脇谷亮太が巨人にFA移籍。田中靖洋が自由契約となった(ロッテに移籍)。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 120,
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"text": "開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投、メヒアら打撃陣の好調により、一時は首位に立つが、岸孝之の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、5月5日には最下位に転落してしまう。これらを受け、森慎二二軍投手コーチが一軍投手コーチに昇格し、先発要員のために新外国人としてフェリペ・ポーリーノ、ブライアン・ウルフを獲得。しかし、9月11日のソフトバンク戦で2014年以来2年ぶりの負け越し、9月21日のオリックス戦で3年連続Bクラスが確定した。シーズン最終戦で田辺の監督退任が正式発表され、後任にはOBの辻発彦が就任。金子侑司が自身初の盗塁王を獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト)・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど、課題の多く残るシーズンとなった。また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天を相手に初めて負け越した。この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ現存5球団を相手に負け越しを免れたが、CS争いには加われず、2年連続4位が確定した。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 121,
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"text": "オフに岸孝之が楽天にFA移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "1月16日、西武の本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から『メットライフドーム』にすることを発表した。4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。6月28日に森投手コーチが急死。外崎修汰が3年目でレギュラーに定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わって山川穂高が4番に座った。チームもこの間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成している。8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると、その後はシーズン終了まで2位を維持し、2013年以来4年ぶりのAクラス入りを果たした。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦、第1戦ではエース菊池が完封して10-0で大勝するが、第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。エースの菊池がリーグ最優秀防御率および最多勝を達成、新人の源田壮亮が1961年以来56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞、秋山が打率.322で首位打者となった。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 124,
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"text": "オフに楽天から松井稼頭央がテクニカルコーチ兼外野手として15年ぶりに復帰。野上亮磨が巨人にFA移籍。牧田和久がポスティングシステムでサンディエゴ・パドレスに移籍。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 125,
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"text": "所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、西武球団でも様々な催しや事業が実施された。中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 126,
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"text": "4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた。4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり、球団初の記録となった。また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は1954年、1955年に続く63年ぶりの球団3回目となった。4月22日にロッテに勝ち、西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした。4月25日にソフトバンク戦で5試合連続9得点を挙げ、パ・リーグ新記録を達成した。また、2002年以来14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった。強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速し、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたが、マジック対象チームである2位のソフトバンクがロッテに負けたため、2008年以来10年ぶり22度目のリーグ優勝が決まった。1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来となり、開幕から首位のまま優勝をしたのは、2リーグ制では1953年の巨人、1962年の東映、1997年のヤクルトに続く4例目の記録だった。771得点、191本塁打、2割7分3厘の打率と攻撃面はリーグトップを記録した一方、防御率4.27と636失点、84エラーはいずれもパ・リーグワーストで、この内防御率が最下位で優勝したのは2001年の近鉄以来となった。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 127,
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"text": "クライマックスシリーズファイナルステージでは2位のソフトバンクと対戦するが、不安材料の4.27の防御率とそのアキレス腱だった投手陣が5試合で合計44失点と甚だしく壊滅した。初戦で敗れ、第2戦でようやく勝利したが、第3戦から第5戦にかけてソフトバンクを相手に3連敗を喫してしまい、アドバンテージ1勝を含めた2勝4敗で敗れた。監督の辻は試合後に行われたシーズン最終戦セレモニーで「悔しいです。まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした。」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり、涙を流し続けた。10月21日にメットライフドームで行われた第5戦を最後に松井稼頭央が現役を引退した。松井の引退により、西武ライオンズ球場時代に在籍した選手が全員引退した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 128,
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"text": "オフに藤原良平、坂田遼、福倉健太郎が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。浅村栄斗が楽天、炭谷銀仁朗が巨人にFA移籍。新外国人としてザック・ニール、巨人にFA移籍した炭谷の人的補償として内海哲也を獲得。菊池がポスティングシステムでシアトル・マリナーズに移籍。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "この年は平成最後のペナントレースだったので、西武は「平成最後のパ・リーグ優勝球団」と同時に巨人と共に「平成時代に1度もリーグ最下位を経験しなかった球団」となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 130,
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"text": "巨人から移籍した内海を含め、開幕前に先発陣で故障者が相次いだ。開幕以来一度も首位を譲らず、優勝した前年とは異なり、開幕カードのソフトバンク3連戦で3連敗を喫し、リーグ最下位からのスタートとなった。しかし、令和に入ると、5月1日に山川がパ・リーグの令和初となる本塁打を放ち、5月5日に今井達也が令和初の完封勝利を果たした。7月9日に首位とのゲーム差が最大8・5まで開いたが、8月に入って打線が奮起。9月11日、ソフトバンクとの首位攻防戦に勝って初めて首位に立つ。9月24日、マジックを「2」としていた西武が対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)に勝利し、2位のソフトバンクが東北楽天に2-4で敗れたため、2年連続23度目のリーグ優勝を果たした。浅村や菊池、炭谷と主力の移籍でチーム状況は決して万全とは言えなかったものの、前評判を覆し、防御率はリーグワーストの4.35だったが12球団トップの756得点を挙げる圧倒的な打力を武器に優勝を勝ち取った。パ・リーグの2連覇は2014 - 2015年のソフトバンク以来、球団では1997 - 1998年以来となった。なお、この年の5月1日に元号が平成から令和に改元されたことで、西武はプロ野球史上初めて元号をまたいだ連覇となった。これまで西暦の末尾“9”の年のみ優勝を果たしていなかったが、これで西暦末尾0から9の全てで優勝を成し遂げたことになった。山川120打点、中村123打点、森105打点で球団史上初の100打点トリオを形成し、パ・リーグでは2003年のダイエー以来の快挙となった。さらに山川が本塁打王(2年連続)、中村が打点王(4度目)、森が首位打者(初)、金子が盗塁王(2度目)、秋山が最多安打(4度目)と6部門中5部門で西武がそれぞれトップを占め、打撃タイトルを総なめにした。だが、勇躍臨んだソフトバンクとのクライマックスシリーズファイナルステージでは3連敗を喫してしまうと、第4戦では今宮健太にも3本の本塁打を許すなど4連敗を喫した(アドバンテージ1勝を含む)。シーズン756得点の強力な打線もわずか13得点と振るわず、投手陣も32失点(自責29)、防御率7.25と試合を全く作れなかった。前年同様にソフトバンクを相手に計1勝8敗と短期決戦でのもろさが際立ち、本拠地4連敗という屈辱的な“逆スウィープ”で2年連続で年間勝率1位ながら日本シリーズ進出を逃した。翌年から三軍制を導入することを発表した。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 131,
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"text": "オフに中日を退団した松坂大輔が14年ぶりに復帰。新外国人としてショーン・ノリン、リード・ギャレット、コーリー・スパンジェンバーグを獲得。秋山翔吾がシンシナティ・レッズにFA移籍。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 132,
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"text": "開幕から主砲の山川が打撃不振に陥り、スパンジェンバーグも開幕直後は低調だった。中盤には中村が死球を受けて故障離脱、前年首位打者の森もシーズン全体を通して打率2割5分前後に留まり、外崎も不振に陥るなど前年までの強力打線も影を潜めた。課題の先発投手陣も、前年チーム最多勝のニールを筆頭に軒並み防御率4点台から5点台と不調で夏場には借金生活に入り、8月には5位まで後退した。しかしながらシーズン後半になると、救援投手陣で7回森脇亮介、8回平良海馬、9回増田達至の必勝リレーが確立してシーズン終盤の接戦を落とさなかったことで、10月下旬に借金を完済し、失速した2位のロッテにも迫ったが、11月8日のロッテとの直接対決の末に敗れ、3位が確定したため、クライマックスシリーズを逃した(この年のクライマックスシリーズはコロナ禍のため、2位対3位戦の中止が決定していた)。楽天とロッテには勝ち越したものの、チーム防御率が最下位であり、ソフトバンクと日本ハムとオリックスにも負け越すなど、3連覇を逃す原因となった。しかし、相内誠と佐藤龍世の両名が不祥事を起こしてシーズン終了までの対外試合禁止処分が下され、相内は戦力外として格闘家に転向、佐藤は翌年シーズン途中に日本ハムへと放出されてしまう。その中で平良がパ・リーグ新人王を受賞した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "オフにノリンが自由契約となった(ワシントン・ナショナルズに移籍)。日本ハムから金銭トレードで吉川光夫、新外国人としてマット・ダーモディを獲得。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 134,
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"text": "この年に開催された東京オリンピックの日本代表選手として西武からは平良、源田が選出された。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 135,
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"text": "序盤から低迷し、5月13日に水上由伸を支配下選手に登録させ、7月26日にメヒアがウェイバー公示され、8月12日に日本ハムから木村文紀、佐藤龍世との2対2トレードで公文克彦、平沼翔太を獲得。10月19日にメットライフドームで行われた引退試合を最後に松坂大輔が現役を引退した。その後、最終盤にシーズン中のトレード相手の日本ハムとの5位争いを繰り広げる中、10月30日のシーズン最終戦でその日本ハムが2位のロッテに勝利したことで、1979年以来42年ぶり、球団名変更後初の最下位が確定した。最終的には5位の日本ハムとは1ゲーム差、首位のオリックスにも15ゲーム差をつけられてしまい、そのオリックスと3位の楽天にもそれぞれ8勝15敗と大きく負け越した。これにより、昭和時代に創設したパ・リーグ現存5球団全てが21世紀にリーグ最下位を経験した。ドラフトでは隅田知一郎を1位、佐藤隼輔を2位で獲得した。オフに小川龍也、吉川光夫が自由契約となり(小川はモンテレイ・サルタンズ、吉川は栃木ゴールデンブレーブスに移籍)、メヒア以外の外国人選手4人が退団した(ニールはコロラド・ロッキーズ、スパンジェンバーグはセントルイス・カージナルス、ギャレットはワシントン・ナショナルズに移籍、ダーモディはシカゴ・カブスに復帰)。新外国人としてディートリック・エンス、ブライアン・オグレディ、ボー・タカハシ、ジャンセン・ウィティ、バーチ・スミスを獲得。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "1月15日付で居郷肇球団社長が退任し、翌16日付で後任に奥村剛が球団社長に就任した。メットライフが西武ドームとのネーミングライツ契約の満了に伴い、新たにベルーナとネーミングライツ契約を結び、3月1日付で「ベルーナドーム」に改称された。5月に新外国人としてロマー・コドラド、ジャシエル・ヘレラと育成契約を結んだ。シーズン中盤から後半にかけて調子を上げ、7月下旬からソフトバンクとの首位争いを繰り広げる中、8月28日には球団通算5000勝を達成。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である。9月12日から19日にかけて7連敗を喫し、貯金がなくなり、順位も4位に後退した。この間、源田壮亮・衛藤美彩夫妻が誹謗中傷の被害に遭い、調査したところ、山田遥楓の妻が加害者だったことが発覚し、山田が日本ハムへと放出されてしまい、佐藤龍世が日本ハムから1年半ぶりに復帰する原因となった。その後、9月20日からの4連勝などにより、楽天との3位争いを制したことで、9月29日に2019年以来3年ぶりとなるクライマックスシリーズ進出を決めた。内海哲也、十亀剣、武隈祥太が現役を引退した。7回水上由伸、8回平良海馬、9回増田達至の必勝パターンを形成、水上と平良が最優秀中継ぎのタイトルを分け合った。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "クライマックスシリーズファーストステージでは2位ソフトバンクに2連敗を喫し、敗退した。クライマックスシリーズファーストステージ終了後、辻監督の退任が発表され、後任にはヘッドコーチの松井稼頭央が昇格する形で就任した。ドラフト会議では蛭間拓哉を1位、甲子園を湧かせた山田陽翔を5位で獲得した。オフに熊代聖人が戦力外通告を受け、その後現役を引退し、ジャンセンら外国人選手3人が自由契約となった(オグレディとスミスの両外国人選手はハンファ・イーグルスに移籍)。日本ハムから山田遥楓とのトレードで佐藤龍世が1年半ぶりに復帰。森友哉がオリックスにFA移籍。オリックスにFA移籍した森の人的補償として張奕、新外国人としてヘスス・ティノコ、デビッド・マキノン、マーク・ペイトンを獲得。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "ワールド・ベースボール・クラシックでは源田と山川が日本代表、呉念庭がチャイニーズタイペイ代表、へレラがコロンビア代表として選出された。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 139,
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"text": "育成選手から4月14日に古市尊を、7月21日に豆田泰志をそれぞれ支配下登録した。7月27日には、前年DeNAで活躍しオフにカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んでいたブルックス・クリスキーと契約、支配下登録した。",
"title": "球団の歴史"
},
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"paragraph_id": 140,
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"text": "7月20日、中日から川越誠司とトレードで髙松渡を獲得した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 141,
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"text": "だが、5月から山川が警視庁に強制わいせつ致傷の容疑で捜査されていることが報じられ、8月23日に強制性交等の容疑で送検されるも同月29日に不起訴になっている。山川は5月の報道以降、公での活動を自粛していたが練習を再開、同月31日にはフリー打撃で柵越えを披露した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 142,
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"text": "オフに公文克彦が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 143,
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"text": "1992年に沢村栄治賞を受賞した石井丈裕より前の時代だと、稲尾和久が投手三冠王を2度達成するなど記録を残しているが、当時、パシフィック・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、稲尾は受賞出来なかった。",
"title": "沢村栄治賞受賞者"
},
{
"paragraph_id": 144,
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"text": "ライオンズでの投手三冠王の達成者は1人。また稲尾和久が複数回達成している。2回達成はプロ野球最多タイ記録となっている。",
"title": "三冠王(投手・打者)"
},
{
"paragraph_id": 145,
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"text": "2022年シーズン終了時点で達成者はいない。",
"title": "三冠王(投手・打者)"
},
{
"paragraph_id": 146,
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"text": "ライオンズの投手で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。他球団での受賞も含めると工藤公康がライオンズ時代に1回、ホークス時代に1回で複数回受賞を達成している。",
"title": "最優秀選手受賞者(複数回)"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。",
"title": "最優秀選手受賞者(複数回)"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "1950年は西日本が平和台、西鉄は春日原を一応の本拠地と定めるが、県内での試合数は極端に少なかった(西日本7試合、西鉄27試合)。",
"title": "歴代本拠地"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "1965年からは小倉球場(現:北九州市民球場)、1973年からは藤崎台県営野球場を準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。",
"title": "歴代本拠地"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、本拠地(西武ライオンズ球場→西武ドーム)での試合開催率が高い西武の方針は異例だった。特に1993年までの15年間では、西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982年から1986年と1989年から1993年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだった。1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。なお、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。ただし、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。",
"title": "歴代本拠地"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "※太字はリーグ優勝、◎は日本一",
"title": "歴代監督"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。",
"title": "主な歴代の球団歌・応援歌"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "福岡で球団創設してのちの1951年にチーム名がクリッパースからライオンズに変更して70周年に当たる2020年には、広瀬香美がカヴァーした「吠えろライオンズ」が6月9日にリリースされた。リニューアルにあたり、歌詞が「西武ライオンズ」から「埼玉西武ライオンズ」に改められている。",
"title": "主な歴代の球団歌・応援歌"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。",
"title": "主な歴代の球団歌・応援歌"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "ほか文化放送が「文化放送ライオンズナイター」用の挿入歌としてばんばひろふみ・梶原しげる(当時同局アナウンサー)がそれぞれ歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」(作詞・作曲:チャゲ&飛鳥 編曲:村上啓介)という楽曲が1985年に発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。",
"title": "主な歴代の球団歌・応援歌"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "ライオンズのマスコットキャラクターは、埼玉移転後に制定された以下の2体である。どちらもデザインは手塚治虫が手掛けた。詳しくは当該項目を参照されたい。",
"title": "マスコット"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをペットマークに使用。西鉄時代にもライオンをデザインしたペットマークを使用された。当時のジャンパーの胸部にワッペンが縫い付けられていた。",
"title": "マスコット"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "ドーム化前の西武ライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、西武鉄道の利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武ライオンズ球場に屋根をかけドーム化させた。",
"title": "お台場ドーム構想"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "西武による買収以降、当時の堤義明オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "球団の公式記録は、全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった。また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のOBとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "ところが、2005年に堤が西武鉄道株をめぐる証券取引法違反で失脚し、2007年に後藤高志がオーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる。2008年は西武球団創設(埼玉移転)30周年(30シーズン目)と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6月から8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も福岡野球時代や西武時代初期なども対象に加えて、年度により不定期で行われることがある。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 162,
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"text": "これを契機に、公式ウェブサイト内年表において西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。さらに、2012年には西鉄時代の選手である稲尾和久の「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初の永久欠番に指定された。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 163,
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"text": "またチームカラーも、西鉄時代の黒と西武時代前期の青を融合させた紺色が「レジェンドブルー」の名称で採用された。差し色として使われている赤も、特に明確な採用意図が説明されていないが、福岡野球(太平洋クラブ・クラウンライター)時代のチームカラーだった。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
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"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "一方の西鉄側でも、売却以降ライオンズの歴史はタブー視していたが、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった。2011年には両社の系列である西鉄高速バスと西武観光バスの共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両によりLions Expressが運行を開始し(2015年5月に運行廃止)、西鉄公式ホームページでも「にしてつwebミュージアム」で過去の電車やバスの画像と共に西鉄ライオンズを紹介している。",
"title": "福岡時代の歴史の取り扱い"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ - サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「ワッショイ」×3、「1・2・3・ダー」と続く(1992年開始以来変更無し)。5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏される。応援のリードにバスドラムが用いられる。トランペットの使用が禁止されている宮城球場では攻撃開始前及び出塁時のファンファーレの代わりに「埼玉!西武!Let's Go Let's Go ライオンズ」の掛け声が使われる。",
"title": "応援スタイル"
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"text": "主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。勝利時には福岡時代からの名残で「炭坑節」が演奏される。",
"title": "応援スタイル"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2013年までは「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続けていた。ただし、中村剛也の打席のときは中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 168,
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"text": "2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。",
"title": "応援スタイル"
},
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"paragraph_id": 169,
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"text": "1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立ったとき、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。チャンステーマとしては背番号7の選手(2008年から2013年までは片岡易之、2014年から2015年までは脇谷亮太)及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、外国人選手の打席でアレックス・カブレラの応援歌やホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた(小関竜也や佐藤友亮など)。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 170,
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"text": "7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際などに使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 171,
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"text": "アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 173,
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"text": "汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が一軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。なお、2019年から汎用テーマの使用開始に伴い、代打テーマは廃止されている。",
"title": "応援スタイル"
},
{
"paragraph_id": 174,
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"text": "1969年から1971年にかけて起きた八百長事件で、主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(東京ガスの投手木村雄太と早稲田大学の清水勝仁)に対するスカウト行動で、現金1,300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。さらに、2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたこともわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6,000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3,000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとすることを処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 179,
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"text": "スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "本拠地であるベルーナドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスはベルーナドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。",
"title": "グッズショップ"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "このうち、ともに移転前の本川越と所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。",
"title": "グッズショップ"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・レギュラーC・ジュニアの5コースがある。ベルーナドームの飲食売店やグッズショップでLポイントを貯めることができる。グッズショップや西武鉄道の主要駅で入会申し込みができる。",
"title": "ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "親会社である西武鉄道沿線にアニメ制作会社が多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
},
{
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"tag": "p",
"text": "コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当した声優が来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『ダイヤのA』や『ドラゴンボール超』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
},
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"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "2018年4月からは、本拠地・所沢にところざわサクラタウン(アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手KADOKAWAとコラボしたフリーマガジンを発行している。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "なお、西武ライオンズを題材としたアニメとして、西武移籍当初の田淵幸一をモデルとした『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち原作)が存在する。作中では選手や監督のみならず当時のオーナーであった堤義明をイジる描写も多数見られたが、堤本人や球団、グループ会社からの言及や抗議は一切なかった。こちらも2009年に開催されたライオンズ・クラシックで上映が行われている。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "太字は、埼玉県を舞台とした作品。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "括弧内は、その作品を制作したアニメ制作会社。",
"title": "アニメとのコラボレーション"
}
] |
埼玉西武ライオンズは、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。 埼玉県をフランチャイズとし、所沢市にあるベルーナドームを本拠地、同さいたま市大宮区にある埼玉県営大宮公園野球場を準本拠地としている。また二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は、ドームと同じ敷地内にあるCAR3219フィールドである。 1950年のリーグ分裂時、福岡市に本拠地を置き西日本鉄道(西鉄)を親会社とする西鉄クリッパースとして発足、翌年に西鉄ライオンズと改称し、1972年に西鉄が撤退したあと1973年から1978年までは福岡野球の運営でチーム名が太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと変遷した。その後西武グループに買収され、1979年から本拠地を所沢市に移して西武ライオンズとなり、2008年からは球団名を埼玉西武ライオンズに変更して現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 リーグ優勝23回、日本一13回はいずれもパ・リーグ1位である。
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{{Pathnav|西武ホールディングス|西武鉄道|frame=1}}
{{野球チーム
| ページ名 = 埼玉西武ライオンズ
| チーム名 = 埼玉西武ライオンズ
| 英語表記 = Saitama Seibu Lions
| 会社名 = 株式会社西武ライオンズ
| 加盟団体 = [[パシフィック・リーグ]]
| 創設年度 = {{start date and age|1949|11|26}}
| ロゴデザイン = [[ファイル:Seibu lions insignia.png|150px]]
| チーム名の遍歴 =
* 西鉄クリッパース(1950年)
: [[西日本パイレーツ]]を吸収合併(1951年・開幕直前)
* 西鉄ライオンズ(1951年 - 1972年)
* 太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)
* クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)
* 西武ライオンズ(1979年 - 2007年)
* 埼玉西武ライオンズ(2008年 - 現在)
| フランチャイズの遍歴 =
* [[福岡県]](1952年 - 1978年)
* 埼玉県(1979年 - 現在)
| 本拠地 = [[西武ドーム|ベルーナドーム]]([[埼玉県]][[所沢市]])<br />※画像は「メットライフドーム」時代[[File:Moment of Saitama Seibu Lions Victory at MetLife Dome.jpg|300px|center]]
| キャパ = 33,556人(ベルーナドーム)
| 永久欠番 = '''[[稲尾和久|24:稲尾和久]]'''
| オーナー = [[後藤高志]]<br />([[西武ホールディングス]][[代表取締役]][[会長]])
| スポンサー = [[西武鉄道]]<br />(西武ホールディングスの子会社)
| 球団社長 = [[奥村剛]]
| GM = [[渡辺久信]]
| 監督 = [[松井稼頭央]]
| 選手会長 = [[髙橋光成]]
| キャプテン = [[源田壮亮]]
| リーグ優勝回数 = 23
| リーグ優勝 =
* [[1954年の野球|1954]]
* [[1956年の野球|1956]]
* [[1957年の野球|1957]]
* [[1958年の野球|1958]]
* [[1963年の野球|1963]]
* [[1982年の野球|1982]]
* [[1983年の野球|1983]]
* [[1985年の野球|1985]]
* [[1986年の野球|1986]]
* [[1987年の野球|1987]]
* [[1988年の野球|1988]]
* [[1990年の野球|1990]]
* [[1991年の野球|1991]]
* [[1992年の野球|1992]]
* [[1993年の野球|1993]]
* [[1994年の野球|1994]]
* [[1997年の野球|1997]]
* [[1998年の野球|1998]]
* [[2002年の野球|2002]]
* [[2004年の野球|2004]]
* [[2008年の野球|2008]]
* [[2018年の野球|2018]]
* [[2019年の野球|2019]]
| 日本一回数 = 13
| 日本一 =
* [[1956年の日本シリーズ|1956]]
* [[1957年の日本シリーズ|1957]]
* [[1958年の日本シリーズ|1958]]
* [[1982年の日本シリーズ|1982]]
* [[1983年の日本シリーズ|1983]]
* [[1986年の日本シリーズ|1986]]
* [[1987年の日本シリーズ|1987]]
* [[1988年の日本シリーズ|1988]]
* [[1990年の日本シリーズ|1990]]
* [[1991年の日本シリーズ|1991]]
* [[1992年の日本シリーズ|1992]]
* [[2004年の日本シリーズ|2004]]
* [[2008年の日本シリーズ|2008]]
| アジアシリーズ優勝回数 = 1
| アジアシリーズ優勝 = [[2008年のアジアシリーズ|2008]]
| アジアシリーズ出場回数 = 1
| アジアシリーズ出場 = '''[[2008年のアジアシリーズ|2008]]'''
| シリーズ出場回数 = 21
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* [[1954年の日本シリーズ|1954]]
* '''[[1956年の日本シリーズ|1956]]'''
* '''[[1957年の日本シリーズ|1957]]'''
* '''[[1958年の日本シリーズ|1958]]'''
* [[1963年の日本シリーズ|1963]]
* '''[[1982年の日本シリーズ|1982]]'''
* '''[[1983年の日本シリーズ|1983]]'''
* [[1985年の日本シリーズ|1985]]
* '''[[1986年の日本シリーズ|1986]]'''
* '''[[1987年の日本シリーズ|1987]]'''
* '''[[1988年の日本シリーズ|1988]]'''
* '''[[1990年の日本シリーズ|1990]]'''
* '''[[1991年の日本シリーズ|1991]]'''
* '''[[1992年の日本シリーズ|1992]]'''
* [[1993年の日本シリーズ|1993]]
* [[1994年の日本シリーズ|1994]]
* [[1997年の日本シリーズ|1997]]
* [[1998年の日本シリーズ|1998]]
* [[2002年の日本シリーズ|2002]]
* '''[[2004年の日本シリーズ|2004]]'''
* '''[[2008年の日本シリーズ|2008]]'''
| プレーオフ(前後期制)回数 = 1
| プレーオフ(前後期制) = 1勝0敗
* '''[[1982年のパシフィック・リーグプレーオフ|1982]]'''
| プレーオフ(2004-2006)回数 = 3
| プレーオフ(2004-2006) = 1勝2敗<br />
* '''[[2004年のパシフィック・リーグプレーオフ|2004]]'''
* ''[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|2005]]''
* ''[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|2006]]''
| クライマックスシリーズ回数 = 9
| クライマックスシリーズ = 1勝8敗<br />
* '''[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2008]]'''
* ''[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2010]]''
* [[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2011]]
* ''[[2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2012]]''
* ''[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2013]]''
* ''[[2017年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2017]]''
* [[2018年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2018]]
* [[2019年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2019]]
* ''[[2022年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2022]]''
|副キャプテン=外崎修汰}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社西武ライオンズ
| 英文社名 = SEIBU LIONS
| ロゴ =
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 西武ライオンズ、西武、ライオンズ
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 359-1153
| 本社所在地 = [[埼玉県]][[所沢市]]上山口2135番地
| 本店郵便番号 = 171-0022
| 本店所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南池袋]]一丁目16-15
| 設立 = [[1950年]]1月28日<br />(西鉄野球株式会社)
| 業種 = 9050
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = [[日本プロ野球|プロ野球]]球団運営ほか
| 代表者 = [[後藤高志]](オーナー)<br />[[奥村剛]]([[代表取締役]][[社長]])
| 資本金 = 1億円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 100億円(2010年3月期)
|営業利益 =
|経常利益 =
|純利益 = 15億1027万8000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/b62b0/305367 株式会社西武ライオンズ 第74期決算公告]</ref>
|純資産 =
|総資産 = 95億2569万8000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 74人(2010年3月31日時点)
| 決算期 = 3月末日
| 主要株主 = [[西武鉄道]] 100%
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[西亦次郎]]、[[中村長芳]]、[[堤義明]]、[[坂井保之]]、[[根本陸夫]]
| 外部リンク = https://www.seibulions.jp/
| 特記事項 = 1978年10月25日に[[福岡野球|福岡野球株式会社]]から現商号に変更。[[西武ホールディングス]]の[[連結子会社]]である。
}}
{{Portal|野球}}
{{Infobox YouTube personality
| name = 埼玉西武ライオンズ
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| birth_name =
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| channel_name =
| channel_url = UChLK3zS3-kR21JVTaNovPIg
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| channel_display_name = 埼玉西武ライオンズ
| years_active = [[2009年]][[6月18日]] -
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}}
'''埼玉西武ライオンズ'''(さいたませいぶライオンズ、{{Lang-en|Saitama SEIBU Lions}})は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]。[[パシフィック・リーグ]]に所属している。
[[埼玉県]]を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]とし、[[所沢市]]にある[[西武ドーム|ベルーナドーム]]を[[専用球場|本拠地]]、同[[さいたま市]][[大宮区]]にある[[埼玉県営大宮公園野球場]]を[[専用球場#2016年の準本拠地|準本拠地]]としている。また[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|二軍]]<ref group="注釈">かつては「'''インボイス'''」、「'''グッドウィル'''」という二軍独自の球団名が使われたことがあった。</ref>([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は、ドームと同じ敷地内にある[[CAR3219フィールド]]である。
1950年のリーグ分裂時、[[福岡市]]に本拠地を置き[[西日本鉄道]](西鉄)を親会社とする'''西鉄クリッパース'''として発足、翌年に'''西鉄ライオンズ'''と改称し、1972年に西鉄が撤退したあと1973年から1978年までは[[福岡野球]]の運営でチーム名が'''太平洋クラブライオンズ'''→'''クラウンライターライオンズ'''と変遷した。その後[[西武グループ]]に買収され、1979年から本拠地を所沢市に移して'''西武ライオンズ'''となり、2008年からは球団名を'''埼玉西武ライオンズ'''に変更して現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
リーグ優勝23回、日本一13回はいずれもパ・リーグ1位である。
== 球団の歴史 ==
=== 球団創立 ===
西日本鉄道(西鉄)は[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]、それまでの[[西鉄軍|大洋軍]]<ref group="注釈">戦後の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]とは無関係。</ref>を譲り受け、[[日本野球連盟 (プロ野球)|(旧)日本野球連盟]]に加盟する'''西鉄軍'''として経営していたが、同年限りで解散した<ref group="注釈">戦後のライオンズとは後述の事情もあり、球団としての系譜のつながりはない。</ref>。また、連盟自体は[[1944年]]で活動を休止した。
[[1945年]]8月に第二次世界大戦で日本が降伏し、[[アメリカ合衆国]]を中心とした[[連合国軍占領下の日本|連合国占領下]]で連盟の活動が再開されると、[[1946年]]6月に西鉄はノンプロチームを立ち上げ、[[1948年]]には[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の[[村上巧児]]は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから、1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、[[1949年]]3月に連盟から復帰申請を却下されている。
ところが、[[1949年]]オフに[[プロ野球再編問題 (1949年)|プロ野球再編問題]]が発生した。1リーグ体制だった連盟が[[セントラル・リーグ]]と[[パシフィック・リーグ]]の2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り<ref>[http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/077/10.html]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>、[[福岡県]][[福岡市]]で'''西鉄クリッパース'''(にしてつ-、''Nishitetsu Clippers'')を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。
なお、西鉄は1948年11月15日に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[パンアメリカン航空]]と航空代理店契約を締結し<ref group="注釈">その後も航空物流事業は西鉄の経営における重要部門として存在し、2022年度決算においては西鉄グループ全体の連結営業収益約49億円の45%にあたる23億円が物流事業で占められ、そのうち95%が国際物流事業となっている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishitetsu.co.jp/ja/group/company/history/1946-1955.html |title=沿革 1946~1955年 |access-date=2023-06-23 |publisher=西鉄グループ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishitetsu.co.jp/ja/ir/i_news/i_news20230522/main/0/link/20230522.pdf |title=「2022年度決算及び第16次中期経営計画説明会」 2022年決算概要 |access-date=2023-06-23 |publisher=西日本鉄道株式会社 |date=2023-05-22}}</ref>、国際航空物流事業に参入していた。球団名の由来は第二次世界大戦期に長距離旅客輸送用[[飛行艇]]として活用された[[ボーイング314]]の愛称「クリッパー」(Clipper)と考えられ、球団旗の原案には西鉄の社章の上に飛行艇が置かれたデザインも提示されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/860555/ |title=西鉄「野武士軍団」の軌跡 櫛田神社で展示、"幻の球団旗原案"も |access-date=2023-06-23 |publisher=[[西日本新聞]] |date=2022-01-13}}</ref>。
=== 福岡時代 ===
==== 西鉄時代 ====
; [[1950年の西鉄クリッパース|1950年]]
1月下旬に運営会社'''西鉄野球株式会社'''を設立登記した<ref group="注釈">設立日については『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』では28日、「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ([[2000年代]]途中頃までの発行分)では29日となっている。</ref>。当初は[[西日本新聞社]]と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として[[西日本パイレーツ]]を立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる[[宮崎要]]を始め[[大津守]]、[[深見安博]]、[[河野昭修]]、[[塚本悦郎]]ら、[[新日本製鐵八幡硬式野球部|八幡製鐵]]の[[鬼頭政一]]ら、[[星野組硬式野球部|星野組]]の新留国良ら[[九州地方]]のノンプロ選手に加え、[[佐賀県]]出身で[[読売ジャイアンツ]]の[[川崎徳次]]、福岡県出身で前年度[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]で20勝を挙げた[[武末悉昌]]、同じく福岡出身の[[野口正明]]ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。
シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。
同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、または西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できず、収益を興行師に持ち逃げされることもあり、経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している<ref group="注釈">西日本新聞の体面を考え「吸収合併」ではなく「球団合併」だったが、事実上の吸収合併であった。</ref>。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた[[三原脩]]を迎え入れようとするが元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。
翌年1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して'''西鉄ライオンズ'''(にしてつ-、''Nishitetsu Lions'')となる(球団名変更は3月1日)<ref group="注釈">チーム名は西日本新聞紙で募集し、1週間で53,000通の応募があったとされる。</ref>。西日本からは後の黄金時代の主力となる[[関口清治]]・[[日比野武]]が加入。当初は旧クリッパース出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパースの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパースの選手を使い続けることで、クリッパース出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇したりしている。
===== 三原監督時代 =====
; [[1951年の西鉄ライオンズ|1951年]]
首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる<ref>ここまでの出典は特記以外は{{Cite book |和書 |author= 立石泰則|authorlink=立石泰則 |title = 魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ |year = 1999 |publisher = [[文藝春秋社]] |pages = 132-148 |isbn = 416355100X }}</ref>。
; [[1952年の西鉄ライオンズ|1952年]]
シーズン途中に契約が難航していた[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]の大スター[[大下弘]]を[[深見安博]]、[[緒方俊明]]との[[トレード#プロ野球|トレード]]で獲得。この年は首位の南海と8.5ゲーム差の3位。
; [[1953年の西鉄ライオンズ|1953年]]
Bクラスの4位に終わるも、[[中西太]]が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]・[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]・[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]。[[トリプルスリー]]も達成している。川崎徳次が[[最多勝利|最多勝]]・[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。
[[ファイル:1954 Nishitetsu-Lions 1st-Pacific-League-Champion.jpg|thumb|パシフィック・リーグ初優勝の様子(1954年)]]
; [[1954年の西鉄ライオンズ|1954年]]<ref>この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|宇佐美徹也|1993|p=135}}と、{{harvnb|ホークス四十年史|1978|pp=145 - 149}}。</ref>
西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月22日から10月5日にかけて26勝1敗<ref group="注釈">8月22日から9月21日にかけて18連勝。9月22日の西鉄戦に2-7で敗れた後、翌日から8連勝。</ref> とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月19日の阪急戦([[平和台野球場]])に勝利したことで、西鉄は初優勝を本拠地で飾った<ref>朝日新聞1954年10月20日6面「プロ野球 両リーグの優勝決る 栄冠、中日と西鉄へ」朝日新聞縮刷版1954年10月p90</ref>。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者[[豊田泰光]]の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、[[1954年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[中日ドラゴンズ]]に3勝4敗で敗れる。
; [[1955年の西鉄ライオンズ|1955年]]<ref>この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ホークス四十年史|1978|pp=150 - 154 }}。</ref>
前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度にわたって首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で[[大津守]]が球団初の[[ノーヒットノーラン]]を達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。
; [[1956年の西鉄ライオンズ|1956年]]<ref>この年の記述の出典は特記無い場合{{harvnb|宇佐美徹也|1993|p=135}}と、{{harvnb|ホークス四十年史|1978|pp=155 - 159 }}。</ref>
4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7.5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。巨人との[[1956年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。
; [[1957年の西鉄ライオンズ|1957年]]<ref>この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ホークス四十年史|1978|pp=160 - 163 }}。</ref>
この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日に[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]ダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成{{Sfn|宇佐美徹也|1993|p=135}}。2年連続の対戦となった巨人との[[1957年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。
; [[1958年の西鉄ライオンズ|1958年]]<ref>この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ホークス四十年史|1978|pp=163 - 166 }}と、{{harvnb|宇佐美徹也|1993|p=135}}。</ref>
南海が新人の[[杉浦忠]]が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。7月19日の東映戦(駒沢野球場)で、[[西村貞朗]]が球団初の完全試合を達成したものの、7月22日からの[[大阪球場]]での南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11.5ゲーム差をつけられた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、[[稲尾和久]]が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。
稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・[[仰木彬]]・[[高倉照幸]]らの好選手を擁し「'''野武士軍団'''」と呼ばれた。
; [[1959年の西鉄ライオンズ|1959年]]<ref name="ls36">この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ライオンズ60年史|2010|pp=36 - 37}}。</ref>
中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外は[[島原幸雄]]が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原は監督を辞任し、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]の監督に就任。西鉄の次期監督には川崎が就任。
===== 川崎監督時代 =====
; [[1960年の西鉄ライオンズ|1960年]]<ref name="ls36" />
この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]や2位の南海に大きく負け越しての結果となった。
; [[1961年の西鉄ライオンズ|1961年]]<ref name="ls36" />
稲尾が序盤から勝利を重ね、7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた<ref name="mb1311">{{Cite journal |和書 |journal = [[ベースボールマガジン]] |date = 2013-11 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |pages = 60 - 63 }}</ref>。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝<ref group="注釈">達成当時は[[ヴィクトル・スタルヒン]]の40勝がシーズン最多勝とされ、稲尾が新記録とされていた。</ref> を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが<ref name="mb1311" />、チームは2年連続3位に終わり川崎が監督を辞任。シーズン終了後、[[選手兼任監督]]の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。
===== 中西監督時代 =====
; [[1962年の西鉄ライオンズ|1962年]]<ref name="ls36" />
前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾の復調など投手陣が踏ん張り3年連続の3位となる。しかし、共に故障を抱えながら欠場した中西と出場した豊田との間がかみ合わず、オフには豊田は[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]へ金銭トレードにより移籍。
; [[1963年の西鉄ライオンズ|1963年]]<ref name="ls36" />
序盤から独走状態だった南海に6月には最大14.5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4の[[サヨナラゲーム]]で3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では[[若生忠男]]と[[安部和春]]の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。[[1963年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れた。
; [[1964年の西鉄ライオンズ|1964年]]<ref name="ls44">この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ライオンズ60年史|2010|p=44}}。</ref>
序盤は首位に立つことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾が故障で0勝2敗に終わり、[[井上善夫]]が[[ノーヒットノーラン]]を含む17勝、[[田中勉 (野球)|田中勉]]が15勝を挙げるものの5年ぶりのBクラスとなる5位に終わった。
; [[1965年の西鉄ライオンズ|1965年]]<ref name="ls44" />
8年ぶりに開幕戦に敗れ序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの前年未勝利の稲尾が13勝、新人の[[池永正明]]が20勝を挙げ3位となる。
; [[1966年の西鉄ライオンズ|1966年]]<ref name="ls44" />
5月12日の南海戦(大阪)で[[完全試合]]を達成した田中が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾など安定した投手陣に比べ打撃陣は振るわなかった。優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]戦に敗れて2位に終わる。
; [[1967年の西鉄ライオンズ|1967年]]<ref name="ls44" />
開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗が続き8月末には一時5位に転落。打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永ら投手陣の活躍で2位となった。これが西鉄にとって最後のAクラス入りとなった。
; [[1968年の西鉄ライオンズ|1968年]]<ref name="ls45">この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ライオンズ60年史|2010|p=45}}。</ref>
開幕から4連敗を喫し、6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位に終わった。池永が2年連続23勝。4年ぶりの5位となる。
; [[1969年の西鉄ライオンズ|1969年]]<ref name="ls45" />
5月に9連敗で中西が一時監督を休養、9月には4位まで上がるものの最終的には5位でシーズン終了となった。10月には[[永易将之]]が[[八百長]]行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]」の発端となった。稲尾が現役を引退し、監督に就任。
===== 稲尾監督時代 =====
; [[1970年の西鉄ライオンズ|1970年]]<ref name="ls45" />
開幕直前、前年追放された永易が池永ら西鉄の6選手<ref group="注釈">池永の他には[[与田順欣]]、[[益田昭雄]]、[[村上公康]]、[[船田和英]]、[[基満男]]。</ref>が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永が挙げた。5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分<ref group="注釈">池永は2005年に復権。</ref><ref group="注釈">船田と村上はシーズン活動停止処分、基は厳重注意。</ref>が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細については、「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)]]」を参照されたい)。投手では[[東尾修]]、[[三輪悟]]、打者では[[東田正義]]、[[竹之内雅史]](トンタケコンビ)ら若手を起用、東尾も防御率5点台ながら11勝を挙げるがチームは43勝78敗9分、勝率.355、首位の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]と34ゲーム差の球団初の最下位となった。
; [[1971年の西鉄ライオンズ|1971年]]<ref name="ls45" />
巨人から移籍の[[高橋明 (投手)|高橋明]]が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾と[[河原明]]が共に16敗で、リーグ最多敗になるなど一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日には[[高橋善正]]に完全試合、9月9日には[[鈴木啓示]]にノーヒットノーランを立て続けに記録される。全球団に対し10勝以上挙げることができず、15敗以上を喫する負け越し。勝率も前年を下回る.311で首位の阪急とは43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わった。
; [[1972年の西鉄ライオンズ|1972年]]<ref name="ls45" />
東尾が300イニングを投げ18勝、[[加藤初]]が17勝を挙げ、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得するが2年連続全球団負け越しに終わる。首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位となった。観客動員数も激減するなど経営が悪化した上、ついに西鉄本社の[[吉本弘次]]社長は球団経営を手放すことを決断した<ref group="注釈">当時の西鉄は[[軌道 (鉄道)|軌道線]]([[路面電車]])である[[西鉄福岡市内線]]の収支が悪化したため、その廃止とバス転換(同時に[[福岡市交通局]]が地下鉄を建設)という、本業の輸送部門での事業再編が迫っていた。福岡市内線は1973年に一部、1979年に全線が廃止された。</ref>。11月に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]の[[中村長芳]]オーナーが球団を買い取り、「[[福岡野球|福岡野球株式会社]]」に商号変更。[[ペプシコ]]日本法人(日本の[[ペプシコーラ]]販売会社)に買収させる案があったが、東映の売却話が出てきたため(翌[[1973年]]2月、[[日拓グループ|日拓ホーム]]に売却されることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により、破談となった。東映の買収を検討していた音響機器メーカーの[[パイオニア]]に売却することも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村自らがライオンズを買収することになる。この買収で[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]で定める1人または1団体による複数球団の保有禁止条項に抵触することに伴い、中村はロッテオリオンズのオーナーを辞任し、福岡野球株式会社のオーナーに就任することになる。資金面強化のため、[[小宮山英蔵]]が創業したゴルフ場開発会社の[[太平洋クラブ]]と提携し、一種の[[命名権]]契約で球団名が'''太平洋クラブライオンズ'''(たいへいよう-、''Taiheiyo-Club Lions'')となった(11月9日のパ・リーグ実行委員会で会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。
==== 太平洋クラブ時代 ====
; [[1973年の太平洋クラブライオンズ|1973年]]<ref name="ls50">この年の記述の出典は特記無い場合、{{harvnb|ライオンズ60年史|2010|p=50}}。</ref>
この年からパ・リーグは[[プレーオフ#日本プロ野球|前後期制度]]となり、開幕戦で新外国人の[[ドン・ビュフォード]]のサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げてしまい前期は4位。後期も序盤は好調だったが、5位に終わり通年4位となった。この年から翌年にかけてロッテの[[金田正一]]監督との[[ライオンズとオリオンズの遺恨|遺恨対決]]が話題となった。オフには、[[メジャーリーグ・ベースボール|メジャーリーグ]]382本塁打の[[フランク・ハワード]]の獲得に成功する<ref group="注釈">2013年、434本の[[アンドリュー・ジョーンズ]]が来るまで、日本プロ野球に来るまでのメジャーリーグ最多本塁打記録。</ref>
; [[1974年の太平洋クラブライオンズ|1974年]]<ref name="ls50" />
期待されたハワードが開幕戦に出場しただけで離脱し、5月にはアメリカに帰国している。東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感が無く前期3位、後期4位、通年では4位に終わった。シーズン終了後、稲尾は監督を解任された<ref>{{Cite book |和書 |author= 稲尾和久|authorlink=稲尾和久 |title = 神様、仏様、稲尾様 私の履歴書 |year = 2002 |publisher = [[日本経済新聞出版社]] |page = 228 |isbn = 4532164117 }}</ref>。後任には大洋から[[江藤慎一]]をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から[[土井正博]]、日本ハムから[[白仁天]]をトレードで獲得する。
===== 江藤監督時代 =====
; [[1975年の太平洋クラブライオンズ|1975年]]<ref name="ls50" />
54人中17人が新戦力となり、江藤新監督による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井、白らの打線は「[[山賊打線]]」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの後期は打線に疲れが出て4位に終わる。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井が本塁打王、白が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]、東尾が最多勝を獲得した。オフには、メジャーリーグで名将として知られる[[レオ・ドローチャー]]を監督に招聘、江藤も選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発し、退団してロッテに移籍した<ref>{{Cite web|和書|date = 2008-12-11 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201191.html |title = 【12月17日】1975年(昭50) えっ「五分五分」なのに発表!ライオンズ、幻のドローチャー監督 |publisher = [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]] |accessdate = 2015-10-24 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081218203922/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201191.html |archivedate = 2008年12月18日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。
===== ドローチャー・鬼頭監督時代 =====
; [[1976年の太平洋クラブライオンズ|1976年]]<ref name="ls50" />
新監督に就任したドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。しかし、「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし、契約を解除。また、新ユニフォームも「派手すぎ」「アメフトみたい」と選手やファンからは全くの不評であった。
ヘッドコーチの[[鬼頭政一]]が緊急昇格し、監督に就任。だが、戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もあり、前後期とも6位の最下位に終わる。[[吉岡悟]]がプロ入り9年目で初の首位打者となった。この年は前期・後期ともに最下位に終わった。10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いる[[廣済堂]]グループ傘下の[[クラウンガスライター]]と提携し、球団名が'''クラウンライターライオンズ'''(''Crown-Lighter Lions'')に改まることが決定した(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうために省略。10月15日にパ・リーグより承認)。しかし、太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。
==== クラウンライター時代 ====
; [[1977年のクラウンライターライオンズ|1977年]]<ref name="ls50" />
投手陣は大洋から移籍の[[山下律夫]]がチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝の[[古賀正明]]がそろって不調。打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、[[ボブ・ハンセン]]の.269がチーム[[規定打席]]到達者で最高打率だったなど打線が低迷。前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど、健闘したものの、最終的には5位に転落。通年では2年連続6位の最下位に終わる。11月のドラフト会議では[[法政大学]]の[[江川卓 (野球)|江川卓]]を指名するものの入団を拒否される。鬼頭監督が辞任し、後任には[[根本陸夫]]が監督に就任。
===== 根本監督時代 =====
; [[1978年のクラウンライターライオンズ|1978年]]<ref name="ls50" />
[[真弓明信]]、[[立花義家]]など若手が台頭し、レギュラー定着、中日から移籍の[[ウィリー・デービス (野球)|ウィリー・デービス]]も打率.293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈した。前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることはなかったが、通年では2年連続の最下位を免れ、5位。
10月12日、廣済堂クラウン<ref group="注釈">クラウンガスライターは6月に関東クラウン工業、廣済堂印刷と合併し、廣済堂クラウンに社名変更した。</ref>がライオンズ球団の売却・[[埼玉県]][[所沢市]]への移転を発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071008200.html |title=【10月12日】1978年(昭53) “福岡”ライオンズの歴史に幕、西武がついに球界進出|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2007-10-12|accessdate=2012-09-28}}</ref>。[[西武グループ|西武鉄道グループ]]の[[コクド|国土計画(後のコクド)]]の[[堤義明]]社長(当時)がクラウンライターライオンズ球団を買い取り、'''西武ライオンズ'''(''Seibu Lions'')となり、資金力も増して強化に乗り出す。堤の[[仲人|媒酌人]][[福田赳夫]]が名誉会長就任。堤は買収発表の記者会見の席で、球団の買収話は数日前に[[プロ野球コミッショナー]]らの訪問を受け、短期間のうちに決まったと語っている<ref>西武「クラウン」を買収 所沢新球場に本拠地『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月13日朝刊、13版、23面</ref>。
10月17日、球団事務所を[[東京都]][[豊島区]][[東池袋]]の[[サンシャイン60]]内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から現在の「'''株式会社西武ライオンズ'''」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日には、後述するプリンスホテル野球部での活用を想定した[[西武園ゆうえんち|西武園遊園地]]球場として当時建設中であった新本拠地球場の名前が'''[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]'''に決定。堤は新球団の目玉にロッテから監督要請を固辞して自由契約となった[[野村克也]]に加えて主力の遊撃手だった[[山崎裕之]]、阪神から竹之内雅明・真弓明信・若菜嘉晴ら主力選手との大規模トレードで[[田淵幸一]]を獲得。[[川上哲治]]への社長就任要請、クラウン時代の77年ドラフトで1位指名して交渉権を得ていた[[江川卓 (野球)|江川卓]]入団にも執念を燃やしたが、失敗<ref>『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月13日朝刊、13版、23面</ref>。これにより、[[読売グループ]]との関係が悪化した(詳細については[[江川事件]]を参照)。
なお、当時の国土計画(後のコクド)は[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]の株式を45%保有していたが、ライオンズの買収により、複数球団の保有を禁止する[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]に抵触することになるため、保有していた大洋球団の株式を[[ニッポン放送]]と[[TBSホールディングス|TBS(現・TBSホールディングス)]]に売却している。
=== 所沢時代 ===
[[画像:Seibu Lions - Pennant champion flag 1983-1985-1986-1987.jpg|250px|thumb|パ・リーグ優勝 ペナント<br />1983年 - 1985年 - 1986年 - 1987年]]
[[画像:Seibu Lions - Pennant champion flag 1997-1998-2002.jpg|250px|thumb|パ・リーグ優勝 ペナント<br />1997年 - 1998年 - 2002年]]
球団施設、環境や選手の待遇も改善されると、当初は苦戦したものの、新戦力が台頭して優勝、日本一を果たすと常勝軍団となった。クラウンライター最終年から引き続き初代監督となった根本陸夫は退任後のフロント時代を通じて、選手獲得に奔走し他球団を出し抜く戦略で有力選手を集めた。同時に誕生した[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル野球部]]を含めて西武グループの組織力を活かしたチーム運営で90年代まで'''西武黄金時代'''を築くことになる。
==== 西武ライオンズ時代 ====
; [[1979年の西武ライオンズ|1979年]]
西武ライオンズとして最初のシーズンは春季キャンプでの調整不足<ref group="注釈">この年は米国でのキャンプ。オープン戦も国内で開催しない異例の日程となっていた。</ref>もあり、前期は開幕から2引き分けを挟み、12連敗([[1955年のトンボユニオンズ]]と並ぶ開幕戦からの連敗記録のNPB歴代ワーストタイ<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202204030000079.html 【データ】阪神が開幕8連敗 9連敗でセ記録更新 最長記録はトンボと西武の12連敗](日刊スポーツ)</ref>)を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。しかし、斬新な球場や『[[レッツゴー!ライオンズ|がんばれライオンズ]]』(TBSで関東一円で放送)などのミニ番組を放送してPRに努めた結果、観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。
; [[1980年の西武ライオンズ|1980年]]
前期最下位、[[スティーブ・オンティベロス (内野手)|スティーブ・オンティベロス]]が加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが、終盤6連敗し、後期優勝を逃し、結局4位となった。通算でも4位。[[野村克也]]、[[伊原春樹]]が現役を引退した。
この年から2020年にかけて40年間、1度もリーグ最下位を経験しなかった。
; [[1981年の西武ライオンズ|1981年]]
前期は終盤まで優勝を争うも、ロッテに敗れ、2位に終わる。だが、後期は失速して5位に沈み、通算では4位。ドラフト1位の[[石毛宏典]]が新人王。このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任し、以降は管理部長としてチーム運営に携わる。
===== 広岡監督時代 =====
; [[1982年の西武ライオンズ|1982年]]
この年より監督に就任した[[広岡達朗]]の下、チームの改革を実施した。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤つまずくと残り試合を[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]対策に費やし、[[1982年のパシフィック・リーグプレーオフ]]では後期優勝の日本ハムの[[江夏豊]]を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。[[1982年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[中日ドラゴンズ]]を4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。
; [[1983年の西武ライオンズ|1983年]]
序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続かつ前身を含め本拠地で初の日本一に達成した。
; [[1984年の西武ライオンズ|1984年]]
[[アリゾナ州]][[メサ]]で春季キャンプを敢行(日本の球団でメサでキャンプを行ったのは[[1980年]]の横浜大洋ホエールズ以来)。日本ハムから江夏を獲得するも、田淵や山崎など、2連覇を支えたベテラン選手が衰え、序盤から低迷し、チームもルーキー[[辻発彦]]を抜擢するなど若手主体に切り替え、その結果3位に終わった。このシーズン終了後、江夏、田淵、山崎が現役を引退した。
; [[1985年の西武ライオンズ|1985年]]
中日の[[田尾安志]]をトレードで獲得、5年目の[[秋山幸二]]が本塁打王を争い投手陣では2年目の[[渡辺久信]]、4年目の[[工藤公康]]が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[阪神タイガース]]の前に2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題([[痛風]])などを理由に契約年数を1年残して辞任した。後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、一軍ヘッドコーチを務めた[[森祇晶|森昌彦]]が就任した。この年のドラフトで[[高校野球全国大会の記録一覧#個人記録|甲子園通算本塁打記録]]を持つ[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]の[[清原和博]]を6球団競合の末<ref group="注釈">この時競合したのは、近鉄、南海、日本ハム、阪神、中日。</ref>に交渉権を獲得している。
===== 森監督時代 =====
この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、[[オレステス・デストラーデ]]、清原和博、[[石毛宏典]]、[[伊東勤]]、[[辻発彦]]、[[平野謙 (野球)|平野謙]]、[[田辺徳雄]]、[[タイラー・リー・バンバークレオ|バークレオ]]、[[安部理]]など)がそろい、特に渡辺久信([[最多勝利]]1986年、1988年、1990年、[[最高勝率 (野球)|勝率第1位]]1986年)、[[郭泰源]]([[最優秀選手 (野球)|シーズンMVP]]1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、[[石井丈裕]](シーズンMVP、勝率第1位、[[沢村栄治賞|沢村賞]]1992年)、[[渡辺智男]]([[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]1991年)、[[鹿取義隆]]([[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]1990年)などを擁した投手陣や、[[AK砲]]と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「'''[[西武黄金時代]]'''」<ref>[http://baseballking.jp/ns/column/60251 “常勝西武”をもう一度…強かったレオの黄金時代を振り返る] - ベースボールキング、2016年2月25日</ref>を築いた。
; [[1986年の西武ライオンズ|1986年]]
ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。[[1986年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[広島東洋カープ]]と対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。永射、片平が大洋へトレードとなり、大田卓司が引退。
8月5日に球団事務所を現在の西武ライオンズ球場敷地内に移転した。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て[[埼玉県]][[所沢市]]上山口に集まった(会社の登記上本店は引き続きサンシャイン60と同地に残る)。
; [[1987年の西武ライオンズ|1987年]]
秋山が外野、石毛が三塁へコンバート。序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。阪急の[[山田久志]]は同年のオールスター休みに行われた[[落合博満]]との対談の中で、優勝の行方を「自分と東尾の勝利数の差が優勝の行方を左右する」との見解を述べたが、この年15勝を挙げた東尾に対して山田は7勝にとどまり、皮肉にも自身の予想を的中させる結果となった。[[1987年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人と対戦、4勝2敗で勝利し、2年連続日本一。しかし、オフに東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。
; [[1988年の西武ライオンズ|1988年]]
開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると、工藤、渡辺、郭泰源、[[松沼博久]]ら安定した投手陣に、この年より一軍出場の[[タイラー・リー・バンバークレオ|バークレオ]]が加わった打線で開幕から貯金を重ねた。29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1.5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となった[[10.19|10月19日の川崎球場でのロッテ対近鉄のダブルヘッダー]]の第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。[[1988年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。2年目の[[森山良二]]が10勝で新人王。東尾は現役引退。
この年は[[昭和]]最後のペナントレースだったので、西武は「昭和最後のパ・リーグ優勝・日本一球団」となった。
; [[1989年の西武ライオンズ|1989年]]
序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。シーズン中盤より[[オレステス・デストラーデ]]が加入する。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーで[[ラルフ・ブライアント]]に4打席連続本塁打を打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0.5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。新人の[[渡辺智男]]は10勝と奮闘した。
オフに一軍作戦兼バッテリーコーチの[[黒田正宏]]がダイエーへ移り、[[黒江透修]]が一軍ヘッドコーチとして球団に復帰。
; [[1990年の西武ライオンズ|1990年]]
3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。巨人から[[鹿取義隆]]、ドラフトで[[潮崎哲也]]を獲得。この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、[[1990年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人を4連勝で破り2年ぶり、平成最初のパ・リーグ日本一球団となった<ref group="注釈">この当時の巨人の主力選手の1人であった[[原辰徳]]は、「苦手を通り越してコンプレックス。トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた[[2002年の日本シリーズ]]直前の合宿地で印象を述べている。{{G5000|p.86}}</ref>。デストラーデは本塁打、打点の2冠、秋山は盗塁王、渡辺久が最多勝(近鉄・野茂と同時)となる。
; [[1991年の西武ライオンズ|1991年]]
開幕から8連勝を果たした。序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝を飾る。この年にはオフに日本ハムに所属していた[[若菜嘉晴]]が現役を引退したことにより、西鉄ライオンズに所属した選手が全員引退した。[[1991年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[山本浩二]]監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。郭はMVP、デストラーデは2年連続で本塁打、打点の2冠、渡辺智が最優秀防御率を受賞。
1998年から西武ライオンズ球場をドーム球場として西武ドームに改称するため、西武ライオンズ球場および本拠地での日本一もこの年が最後となった。
; [[1992年の西武ライオンズ|1992年]]
6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、[[1992年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り、3年連続日本一に輝いた<ref group="注釈">この年以後、同一チームの日本シリーズの連覇は2014年-2015年に[[福岡ソフトバンクホークス]]が達成するまで23年間なかった。また、この年はゴールデングラブ9部門中、西武は8部門を独占。</ref>。日本シリーズでも活躍した[[石井丈裕]]は15勝を挙げてMVP、デストラーデは3年連続本塁打王。管理部長の根本陸夫がダイエー監督就任のため退団。
; [[1993年の西武ライオンズ|1993年]]
デストラーデがメジャー復帰のため、退団し、攻撃力低下が懸念されたものの、工藤がシーズンMVPになり辻が首位打者を獲得、新人の[[杉山賢人]]が新人王に輝く活躍。日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではヤクルトに3勝4敗で敗れた。
シリーズ終了後、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]と[[秋山幸二]]、渡辺智、[[内山智之]]と[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]、[[橋本武広]]、[[村田勝喜]]による3対3の交換トレードが成立する。また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原が[[エースコック]]のスーパーカップのCMに起用された。
; [[1994年の西武ライオンズ|1994年]]
オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが、西武が9月に抜け出すと、そのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人に2勝4敗で敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退した。
===== 東尾監督時代 =====
; [[1995年の西武ライオンズ|1995年]]
[[東尾修]]が監督に就任し、デストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し、戦力が低下、残った主力もベテランが増え、成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、[[イチロー]]を擁する首位オリックスの独走を許す。また、ロッテにも抜かれ、オリックスと12.5ゲーム差、ロッテと0.5ゲーム差の3位に終わり、連続優勝も途絶えた。辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため、退団してヤクルトに移籍。この年にはオフに阪神に所属していた[[真弓明信]]が現役を引退したことにより、太平洋クラブ→クラウンライターライオンズに所属した選手と、平和台球場時代に在籍した選手が全員引退した。
; [[1996年の西武ライオンズ|1996年]]
序盤から低迷し、Bクラスをさまよっていたが、2年目の[[西口文也]]が最多勝の[[キップ・グロス]](日本ハム)より1勝少ない16勝を挙げ活躍。6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり、田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。
不動の4番として活躍した清原がシーズン後に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]で巨人に移籍した。
; [[1997年の西武ライオンズ|1997年]]
シーズン終盤までは2連覇中のオリックスとデッドヒートを繰り広げていたが、[[松井稼頭央]]・[[大友進]]・[[髙木大成]]・[[石井貴]]・[[豊田清]]といった若手の台頭もあり、8月下旬からは約1か月で7試合にサヨナラ勝ちを収める勝負強さを発揮。さらにマジック1で迎えた試合でも[[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]のサヨナラ本塁打で1994年以来3年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではヤクルトに1勝4敗で敗れ、日本一を逃した。
オフに2連覇中のオリックスからFA宣言した[[中嶋聡]]を獲得。
; [[1998年の西武ライオンズ|1998年]]
西武ライオンズ球場がドーム球場化工事の一部を施され、西武ドームに改称された。チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制し、リーグ2連覇を達成する<ref group="注釈">同年、一時期は2位であってもマジックが点灯していたことがある。これは西武の残り試合数が日本ハムの残り試合数よりも多かったことによるもので、一時期は3位転落でもマジックが点灯していたことがある。現時点では3位球団におけるマジック点灯は同年の西武しか前例がない。</ref>。[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]と対戦し、下馬評は西武有利と予想されたが<ref>[[ベースボールマガジン]]2009年3月号、91頁</ref>、2勝4敗で敗れた。
ドラフトではこの年の高校野球春夏連覇を果たした[[横浜中学校・高等学校|横浜高校]]の[[松坂大輔]]を1巡目で指名し、日本ハム、横浜との競合の末に抽選で交渉権を獲得した。
; [[1999年の西武ライオンズ|1999年]]
西武ドームのドーム球場化工事が完成。ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝を挙げ、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に選ばれる。松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。
; [[2000年の西武ライオンズ|2000年]]
前年に続き、ダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2.5ゲーム差の2位。しかし、オリックスには1994年以来6年ぶりに勝ち越した。
ドラフトでは系列企業のプリンスホテル硬式野球部から
* [[大沼幸二]]:投手(ドラフト1位→横浜・DeNA)
* [[水田圭介]]:内野手([[松坂世代]]:ドラフト7位→阪神→中日→ヤクルト)
* [[福井強]]:投手(松坂世代:ドラフト8位)
の3人を獲得。松坂世代の2人は「高卒で社会人野球に加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い、救済措置・特例でプロ入り。
; [[2001年の西武ライオンズ|2001年]]
松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目の[[許銘傑]]が11勝を挙げ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。この年を最後に東尾が監督を勇退し、オフに伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため、伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督、伊東が総合コーチ兼捕手に昇格した。10月6日には[[ミゲール・デルトロ]]が事故死、現役中の選手が死亡する事例は2000年の[[藤井将雄]](当時ダイエー)以来の悲劇となった。
ドラフトでは後に球界を代表する選手となる[[中村剛也]]と[[栗山巧]]を指名。
===== 伊原監督時代(西武ライオンズ時代) =====
; [[2002年の西武ライオンズ|2002年]]
開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16.5ゲーム差をつける大差で1998年以来4年ぶり19回目のリーグ優勝を果たす<ref>{{Cite web|和書|url = https://npb.jp/bis/yearly/pacificleague_2002.html |title = 年度別成績 2002年 パシフィック・リーグ |publisher = [[日本野球機構]] |accessdate = 2015-05-30 }}</ref>。しかし、[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は巨人に4連敗を喫した<ref>{{Cite web|和書|url = https://npb.jp/bis/scores/nipponseries/linescore2002.html |title = 2002年度日本シリーズ 試合結果 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-05-30 }}</ref>。個人記録では10月2日に[[アレックス・カブレラ]]が日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した<ref>『ALL STAR SERIES JAPAN 2002 日米野球公式プログラム』 53頁 読売新聞東京本社発行</ref>。
オフに横浜から中嶋聡、[[富岡久貴]]との2対2トレードで[[石井義人]]、[[細見和史]]を獲得。
開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく、[[札幌ドーム]]で行った。これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、[[東京ドーム|東京]]、[[ナゴヤドーム|名古屋]]、[[大阪ドーム|大阪]]、[[広島市民球場 (初代)|広島]]、[[福岡ドーム|福岡]])で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。
; [[2003年の西武ライオンズ|2003年]]
ダイエーと優勝を争ったが、投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。シーズン終了直前に伊東勤が現役引退を表明し、同時に総合コーチから監督に昇格。伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。
西武は札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に当時[[東京ドーム]]を本拠地としていた日本ハムが翌年から北海道に移転することにより、札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし、結局この年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、翌年以降は西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない<ref group="注釈">西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催する札幌ドームでの試合は2004年以降行われず、2009年の巨人主催を最後にセ・リーグ球団各球団が主催する札幌ドームでの試合は行われていない。</ref>。
日本ハムは札幌移転の翌年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては日本ハムの札幌ドーム移転前の9月28日の試合後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた<ref group="注釈">日本ハム以外のパ・リーグ球団の東京ドームでの主催試合に関しては、西武は2007年にオリックス、2012年にソフトバンク、2014年に楽天の主催試合の対戦相手として行ったことがある。また交流戦では巨人主催試合での対戦相手として行われている。</ref>。
===== 伊東監督時代 =====
; [[2004年の西武ライオンズ|2004年]]
松井のメジャー移籍。開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの、投打にわたり、全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。この年導入された[[2004年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]の第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも二死二、三塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王の[[松中信彦]]を迎え撃つ(ただし、松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。ここで走者が帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り、2002年2年ぶり20回目のリーグ優勝を果たす。[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では中日と対戦し、先に王手をかけられるものの、4勝3敗で1992年以来12年ぶりの日本一に輝いた。
この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としている[[インボイス (企業)|インボイス]]が取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。
; [[2005年の西武ライオンズ|2005年]]
この年から二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは開幕直後出遅れたことやロッテ、ソフトバンクとの上位争いに加わることが出来ず、シーズン中盤から終盤にかけてオリックス、日本ハムと3位争いを繰り広げ、最終的に3位となるもプレーオフでロッテに敗れた。
オフにリリーフの中心として活躍した抑えの[[豊田清]]がFAで巨人、中継ぎの[[森慎二]]が[[ポスティングシステム]]で[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]に移籍。
コクドの事業低下に加え、その系列会社で現在の親会社である[[西武鉄道]]の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により、財務体質の悪化が進行したため、[[西武グループ]]の経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を[[楽天グループ|楽天]]と争って敗れた[[ライブドア]]など複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件のため、交渉はまとまらず、結局この年も'''西武ライオンズ'''として引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ、再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていた[[諸井虔]]が売却に反対して計画が立ち消えとなり、翌年以降も球団を保有することとなった。11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来25年ぶりの開催となった(以後、毎年原則同日に開催する)。
; [[2006年の西武ライオンズ|2006年]]
日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずか1ゲーム差で2位に終わった。[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では第1ステージで[[福岡ソフトバンクホークス]]に1勝2敗で敗退となった。オフにエースの松坂大輔が[[ボストンレッドソックス]]に移籍。
12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり[[人材派遣]]・[[介護]]サービス大手のグッドウィル・グループ(現:[[テクノプロ・ホールディングス]])と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、4日の実行委員会で正式に承認された。
; [[2007年の西武ライオンズ|2007年]]
[[画像:Saitama Seibu Lions in Seibu Dome November 23-2007-01.jpg|250px|thumb|2007年ファン感謝の集い・渡辺監督の就任挨拶風景。(西武ドーム)]]
1月1日から西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に改称した。1月17日、[[太田秀和]]球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、[[上田清司]]埼玉県知事(当時)に翌年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-051119-0001.html |title=西武鉄道の後藤社長がチーム名変更を検討 |publisher=日刊スポーツ |date=2005-11-19 |accessdate=2021-05-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051124065835/https://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-051119-0001.html |archivedate=2005-11-24}}</ref>、「'''[[武蔵国]]の西部'''」として地域名もしくは西武線沿線を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、翌年以降、西武線沿線地域ではない[[さいたま市]]([[大宮区]])にある[[埼玉県営大宮公園野球場]]で一軍の公式戦や[[クライマックスシリーズ]]を開催する方針であることも伝えられた。堤オーナー時代には埼玉県との関係は薄く、「西武線沿線地域のチーム」という位置付けでの集客活動が展開されてきたが、鉄道経営陣の交代により、東京都内を含む西武線沿線と埼玉県全域の双方で活動を行うとする[[地域密着]]の方針が変化した。
スカウト活動中にアマチュア選手に金銭供与するなどの不正行為を行ったことに対し、5月29日、同年秋の高校生ドラフト上位2選手について西武の指名権を剥奪し、制裁金3000万円の処分を科すと発表した。チームは[[セ・パ交流戦|交流戦]]で10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど、低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2.5ゲーム差の5位に終わった。伊東は最終戦の直前に不振の責任を取り、辞意を表明し、監督を退任した。オフに[[和田一浩]]が中日にFA移籍。中日にFA移籍した和田の人的補償として[[岡本真也]]を獲得。
11月6日、翌年から「'''埼玉西武ライオンズ'''」への球団名変更をプロ野球実行委員会に申請し、14日のプロ野球オーナー会議で承認された。
この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により、命名権取得契約を解除することが決定された。
2023年現在、西武ライオンズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は中村剛也<ref name=":0" group="注釈">他球団への移籍を1度も挟むことなく、球団名に「埼玉」がつく前から一貫して西武に在籍し続けている[[フランチャイズ・プレイヤー]]でもある。</ref>・栗山巧<ref name=":0" group="注釈" />・[[炭谷銀仁朗]](いずれも西武)・[[中島宏之]]・[[涌井秀章]](いずれも中日)・[[岸孝之]](楽天)の6人。
==== 埼玉西武ライオンズ時代 ====
球団名が2008年1月1日付で'''埼玉西武ライオンズ'''に変更された(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、さらなる地域密着を図った。1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、9日より本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍と同様、「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。
===== 渡辺監督時代 =====
; [[2008年の埼玉西武ライオンズ|2008年]]
[[ファイル:Korakuen Stadium-4.jpg|thumb|2008年日本シリーズ 西武vs巨人 スコアーボード(2008年11月9日撮影)]]
[[ファイル:Korakuen Stadium-5.jpg|thumb|2008年日本シリーズ 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影)]]
[[渡辺久信]]が二軍監督から一軍監督に昇格し、[[黒江透修]]をヘッドコーチ、[[大久保博元]]を打撃コーチにするなど、コーチ陣を一新した。その結果、打撃力がアップし、渡辺は[[No Limit打線]]と名付けた。6月27日には大宮球場での公式戦がライオンズ主催としては初めて、パ・リーグ公式戦としては1954年以来54年ぶり、セ・リーグを含めても1955年以来53年ぶりに開催された。7月22日にはさいたま市に本拠地を置く[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[浦和レッドダイヤモンズ]]所属選手の[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]と[[堀之内聖]]がライオンズ球場で始球式を行った。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分立後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分立後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、2004年以来4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では日本ハムとファイナルステージで対戦。第1戦は大宮開催となったこのシリーズの結果は4勝2敗で2004年以来4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたものの、その後連勝し、4勝3敗で2004年以来4年ぶり13回目の日本一になった。[[2008年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]では決勝戦の台湾の[[統一ライオンズ]]をサヨナラ勝ちで下し、初優勝を達成した。なお、西武はこの年を最後に日本シリーズ出場・日本一になっておらず、現在の球団名になってから日本シリーズ出場・日本一になったのはこの年が唯一であり、日本シリーズ出場は現存12球団で最も遠ざかっている。
この年、[[彩の国功労賞|彩の国特別功労賞]]を受賞。同賞は1997年に岡野雅行を第一号表彰者として制定されていたが<ref group="注釈">同年に行われた[[1998 FIFAワールドカップ|1998 FIFAワールドカップ・フランス大会]]の[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|アジア最終予選]]のアジア第3代表決定戦、後に「[[ジョホールバルの歓喜]]」と呼ばれた[[サッカーイラン代表|イラン代表]]との対戦で、延長で「[[ゴールデンゴール]]」を決め、[[サッカー日本代表|日本代表]]を史上初めて[[FIFAワールドカップ]]本大会出場に導いたことへの表彰。</ref>、西武ライオンズは2004年の日本一の際には同賞および彩の国スポーツ功労賞を受賞していなかった。
; [[2009年の埼玉西武ライオンズ|2009年]]
1月1日、公式ホームページにてチームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、[[ペットマーク]]、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された。ただし、[[球団旗]]およびマスコットは変更しない。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている<ref>{{Cite web|和書|date = 2008-12-26 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/1108.html |title = ホーム側変更のお知らせ |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。
昨シーズンの守護神であった[[アレックス・グラマン]]の故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には[[帆足和幸]]が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として1959年以来50年ぶりとなった。オフに岡本慎也が自由契約となった([[LGツインズ]]に移籍)。
ドラフトでは花巻東高校の[[菊池雄星]]との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。
; [[2010年の埼玉西武ライオンズ|2010年]]
前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも、前半戦を首位で折り返した。だが、終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった<ref group="注釈">(プレーオフで最終順位を決定していた年次を除き)通年の勝ち星で優勝チームを2勝以上、上回りながら優勝を逸した例は、1982年巨人・1986年巨人・当年西武・2014年オリックス・2021年阪神の史上5例しかなく、24年ぶりの出来事であった。</ref>。[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]はファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。
ドラフトでは1位希望の早稲田大学の[[大石達也 (野球)|大石達也]]を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。オフに[[細川亨]]がソフトバンクにFA移籍。
; [[2011年の埼玉西武ライオンズ|2011年]]
[[東日本大震災]]による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった<ref group="注釈">球団はロッテなどのように、平日のデーゲームでの検討も行ったが、照明なしでのプレーは白球が見えづらく、西武ドームでは困難と判断した。</ref><ref group="注釈">4月中は、4月12日からの開幕2連戦を西武ドームから日本ハム本拠地の[[札幌ドーム]]に変更し、ホームゲームは[[滋賀県]]の[[皇子山球場]]の2試合(うち1試合は雨天中止)のみ行われた。</ref>。[[セ・パ交流戦]]の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし、9月は19勝5敗2分の成績で<ref>{{Cite web|和書|date=2011-10-18|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/110928/bsg1109280505000-n2.htm |title=西武10連勝!逆転CSへ驚異の追い上げ|publisher=SANSPO.COM|accessdate=2011-10-18 |deadlinkdate = 2015-10-25 }}</ref>、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し、68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため、勝率を5[[糸 (数)|糸]](0.5[[毛 (数)|毛]])上回り、3位が確定し、クライマックスシリーズ出場を決めた<ref>{{Cite news|date=2011-10-18|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/111018/bsr1110182111004-n1.htm|title=西武が大逆転でCS進出! パの順位確定|newspaper=サンケイスポーツ|accessdate=2011-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111022164813/http://www.sanspo.com/baseball/news/111018/bsr1110182111004-n1.htm|archivedate=2011年10月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。オフに[[帆足和幸]]がソフトバンク、許銘傑がオリックスにFA移籍。
; [[2012年の埼玉西武ライオンズ|2012年]]
5月1日には2007年に死去した[[稲尾和久]]の背番号「24」を永久欠番とすることを発表<ref name="ketsuban_24">{{Cite web|和書|date = 2012-05-01 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/6099.html |title = ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム 〜背番号「24」の記憶〜 |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2014-07-31 }}</ref>、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した<ref>{{Cite news |title = 「稲尾デー」西武み〜んな背番「24」生誕75周年 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-07-02 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/02/kiji/K20120702003587740.html |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり、涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録を抹消され、チームも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3か月で貯金を19とし8月19日に首位に立った。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し<ref>{{Cite news |title = 逆転Vならず…渡辺監督「こういう形で優勝が決まって残念」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-10-02 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/02/kiji/K20121002004245450.html |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>、3ゲーム差の2位に終わった。[[2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ではファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退となった<ref>{{Cite web|和書|date = 2012-10-15 |url = http://www.seibulions.jp/gamelive/result/2012101501/ |title = 2012年10月15日 埼玉西武 対 福岡ソフトバンク |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。中村剛也が本塁打王を獲得した。
オフに[[平尾博嗣]]、[[佐藤友亮]]、[[マイケル中村]]、[[大島裕行]]が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|title=平尾博嗣・佐藤友亮 2選手が引退を表明|埼玉西武ライオンズ |url=https://sp.seibulions.jp/news/detail/6818.html |website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |accessdate=2022-04-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中村マイケル・大島裕行 2選手が引退を表明|埼玉西武ライオンズ |url=https://sp.seibulions.jp/news/detail/6823.html |website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |accessdate=2022-04-07 |language=ja}}</ref>。中島裕之が海外FA権を行使し、[[オークランド・アスレチックス]]に移籍<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/sports/news/20121218k0000e050141000c.html |title=中島裕之:アスレチックスへ 2年契約5億5000万円|work=毎日.jp|publisher=毎日新聞|date=2012-12-18}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/sports/news/20121219k0000e050153000c.html|title=アスレチックス:中島が入団会見 「この場にいて光栄」|work=毎日.jp|publisher=毎日新聞|date=2012-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121230222810/http://mainichi.jp/sports/news/20121219k0000e050153000c.html|archivedate=2012年12月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
; [[2013年の埼玉西武ライオンズ|2013年]]
リーグ一番乗りで10勝に到達するなど、開幕ダッシュには成功したものの<ref>{{cite news|date=2013-04-14|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130414-1112454.html |title=【西武】開幕ダッシュ成功で10勝一番乗り|newspaper=nikkansports.com|publisher = [[日刊スポーツ新聞社]]|accessdate=2013-10-09}}</ref>、5月9日ロッテに連敗したことで、4月10日から守り続けた首位を明け渡し<ref>{{cite news|date=2013-05-09|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/09/kiji/K20130509005771910.html |title=ミスミス陥落に渡辺監督さばさば 「ずるずるいきそう」危機感も|newspaper=SponichiAnnex |publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>、交流戦開始後の同月22日には楽天に抜かれて3位に転落<ref>{{cite news|date=2013-05-09|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/22/kiji/K20130522005858710.html |title=西武 ミス響き1カ月ぶり零敗で3位に後退|newspaper=SponichiAnnex|publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>、6月8日には交流戦で優勝したソフトバンクにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり<ref>{{Cite web|和書|url = https://npb.jp/bis/2013/stats/std_inter.html |title = 2013年度 交流戦 チーム勝敗表 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>、6月29日には最大9あった貯金が一旦なくなった<ref>{{cite news|date=2013-06-29|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/06/29/kiji/K20130629006113910.html |title=西武、3連敗で貯金すべて吐き出す…渡辺監督は「必ず上がってくる」|newspaper=SponichiAnnex|publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>。7月28日には再び2位浮上するが<ref>{{cite news|date=2013-07-28|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/28/kiji/K20130728006312710.html |title=西武 15安打7点でオリックスを圧倒 2位に浮上|newspaper=SponichiAnnex|publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落し<ref>{{cite news|date=2013-08-15|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/15/kiji/K20130815006426560.html |title=西武 同一カード3連敗…7月4日以来の4位|newspaper=SponichiAnnex|publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが<ref>{{cite news|date=2013-10-09|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20131009/lio13100905060003-n1.html|title=埼玉でCS!西武、最終決戦10点爆勝&今季初8連勝で2位|newspaper=SANSPO.COM|publisher=産業経済新聞社|accessdate=2013-10-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131012035026/http://www.sanspo.com/baseball/news/20131009/lio13100905060003-n1.html|archivedate=2013年10月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上し<ref>{{cite news|date=2013-10-03|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/04/kiji/K20131004006742360.html |title=おかわり弾で逆転CS圏!3位浮上 直接対決でソフトBを連破4連勝|newspaper=SponichiAnnex|publisher = スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2013-10-09}}</ref>、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで、年間3位以上が確定し、4年連続で[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定した<ref>{{Cite news |title = 西武4年連続CS進出!おかわり9回V弾 岸139球熱投実った |newspaper = SponichiAnnex |publisher = スポーツニッポン新聞社 |date = 2013-10-5 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/05/kiji/K20131005006753080.html |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し、8連勝で2位に浮上し、本拠地でのクライマックスシリーズファーストステージ開催権を獲得した<ref>{{Cite news |title = 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めた |newspaper = SponichiAnnex |date = 2013-10-08 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>が、クライマックスシリーズファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し<ref>{{Cite news |title = パも下克上!ロッテ、西武下して3年ぶりファイナルS進出 |newspaper = SponichiAnnex |date = 2013-10-14 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/14/kiji/K20131014006808990.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、ファーストステージ終了の15日、渡辺が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことと球団シニアディレクターに就任することを発表した<ref>{{Cite web|和書|date = 2013-10-15 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/8296.html |title = 渡辺久信監督が辞意を表明 |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date = 2013-10-18 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/8303.html |title = 渡辺前監督シニアディレクターに就任 |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。10月22日、後任には2年間西武ライオンズの監督を務めた伊原春樹の就任が発表された<ref>{{Cite web|和書|date = 2013-10-22 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/8315.html |title = 伊原春樹監督 就任のお知らせ |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。
オフに[[片岡治大]]が巨人、涌井秀章がロッテにFA移籍。巨人にFA移籍した片岡の人的補償として[[脇谷亮太]]、ロッテにFA移籍した涌井の人的補償として[[中郷大樹]]を獲得。
===== 伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代) =====
; [[2014年の埼玉西武ライオンズ|2014年]]
開幕から3連敗スタートで、両リーグ最速の30敗に到達するなど、監督の伊原の前時代的な指導や練習法が選手の心の離反を生み<ref>{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/443672/ |title=選手の心が離反して最下位独走。西武・伊原監督休養 |access-date=2021-07-28 |website=[プロ野球] All About |language=ja}}</ref>、序盤から最下位に低迷し、5月5日に打線のテコ入れのために新外国人として[[エルネスト・メヒア]]を獲得。しかし、6月3日に監督の伊原が成績不振と右ひざ痛悪化のため、自ら球団に休養を申し入れ、翌4日に了承され、開幕から53試合目となる同日の対DeNA戦の試合後に監督の伊原の休養と、打撃コーチの田辺徳雄が監督代行として指揮を執ること<ref>{{Cite news |title = 西武 伊原監督が休養 残り試合は田辺コーチが代行 |newspaper = SponichiAnnex |date = 2014-06-04 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/06/04/kiji/K20140604008300810.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、チーフ兼バッテリーコーチの[[袴田英利]]がヘッド兼バッテリーコーチ、二軍野手総合兼打撃コーチの[[高木浩之]]が打撃コーチ、二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の[[嶋重宣]]が二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチに就任することを発表した。
===== 田辺監督時代 =====
※2014年の監督代行時代も含める。
; 2014年
6月27日に休養していた監督の伊原が辞任を申し入れ、了承され、7月1日付での球団本部付アドバイザーに就任することを発表した<ref>{{Cite news |title = 西武 伊原氏退任 球団本部付アドバイザーに 田辺代行そのまま指揮 |newspaper = SponichiAnnex |date = 2014-06-27 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/06/27/kiji/K20140627008453540.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。打撃コーチの田辺が監督代行のまま指揮を執る。途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となったが、9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)、27日の対楽天戦(コボスタ宮城)に敗れ、2007年以来7年ぶりの負け越しと2009年以来5年ぶりのBクラスと5位が確定した<ref>{{Cite news |title = 西武、7年ぶり負け越し決定…田辺監督代行「俺の責任」 |newspaper = SANSPO.COM |date = 2014-09-22 |url = https://www.sanspo.com/article/20140922-LV62RP6SPRIQTNDGJCUYOJU7JU/ |accessdate = 2015-10-25 |publisher = [[産業経済新聞社]] }}</ref><ref>{{Cite news |title = 西武 5年ぶりBクラス決定も…田辺代行「全力尽くしてやるしか」 |newspaper = SponichiAnnex |date = 2014-09-27 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/27/kiji/K20140927009006730.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。監督代行の田辺が翌年から正式に監督として指揮を執ることを発表した<ref>{{Cite web|和書|date = 2014-10-02 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/9414.html |title = 田辺 徳雄監督 就任のお知らせ |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。
ドラフトでは[[髙橋光成]]らを指名。
; [[2015年の埼玉西武ライオンズ|2015年]]
開幕より中村・[[森友哉]]・メヒアなどをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った<ref>{{Cite news |title = おかわり連発 田辺監督24歳以来の西武開幕5連勝 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-04-03 |url = https://www.nikkansports.com/baseball/news/1455964.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つ<ref>{{Cite news |title = 西武中村 交流戦8本目の本塁打 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-06-14 |url = https://www.nikkansports.com/baseball/news/1492253.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>など、10勝6敗2分の3位となり<ref>{{Cite news |title = 西武・おかわり19号!観戦家族の前で三男バースデー祝砲 |newspaper = サンケイスポーツ |date = 2015-06-14 |url = https://www.sanspo.com/article/20150615-3OMLR66BUJII7FQEL5TLJRISBU/ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり、前半戦を3位でターンした。しかし、後半戦になると失速し、後に球団ワースト記録となる13連敗を喫し、最大11もあった貯金がなくなってしまった。連敗中は抑えを[[髙橋朋己]]から[[牧田和久]]に配置転換した。8月29日、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した<ref>{{Cite news |title = CS進出へ必死の白星!西武、球団通算4500勝 |newspaper = サンケイスポーツ |date = 2015-08-29 |url = https://www.sanspo.com/article/20150829-F2I6ETEFGNJYJOJFRSUNVOPXKE/ |accessdate = 2015-10-25 }}</ref>。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である<ref>{{Cite news |title = 西武 パ最速4500勝 高橋朋、信頼回復へ52日ぶり22S |newspaper = SponichiAnnex |date = 2015-08-29 |url = https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/08/29/kiji/K20150829011023280.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = スポーツニッポン新聞社 }}</ref><ref>{{Cite news |title = 西武4500勝!十亀が自己最多9勝 |newspaper = デイリースポーツONLINE |date = 2015-08-29 |url = https://www.daily.co.jp/baseball/2015/08/29/0008346535.shtml |accessdate = 2015-10-25 |publisher = [[神戸新聞社]] }}</ref>。また、2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目<ref>{{Cite news |title = 西武4500勝「序盤ムダな失点なかった」十亀9勝 |newspaper = nikkansports.com |date = 2015-08-28 |url = https://www.nikkansports.com/baseball/news/1529880.html |accessdate = 2015-10-25 |publisher = 日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。西口文也が現役を引退した。終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるが、ロッテが逆転したため、最終順位は4位となり、CS進出を逃した上、球団としては1981年以来34年ぶりの2年連続Bクラスが確定した<ref>{{Cite news |title = CS逃した西武・田辺監督「大事な試合で勝ちきれなかった」 |newspaper = 東スポWeb |date = 2015-10-04 |url = https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/132912 |accessdate = 2015-11-06 |publisher = [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]] }}</ref>。[[秋山翔吾]]がシーズン216安打の日本記録を樹立した。
オフに脇谷亮太が巨人にFA移籍。[[田中靖洋]]が自由契約となった(ロッテに移籍)。
; [[2016年の埼玉西武ライオンズ|2016年]]
開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投、メヒアら打撃陣の好調により、一時は首位に立つが、岸孝之の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、5月5日には最下位に転落してしまう。これらを受け、[[森慎二]]二軍投手コーチが一軍投手コーチに昇格し、先発要員のために新外国人として[[フェリペ・ポーリーノ]]、[[ブライアン・ウルフ]]を獲得。しかし、9月11日のソフトバンク戦で2014年以来2年ぶりの負け越し、9月21日のオリックス戦で3年連続Bクラスが確定した。シーズン最終戦で田辺の監督退任が正式発表され、後任にはOBの辻発彦が就任。[[金子侑司]]が自身初の[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]を獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト<ref>[http://npb.jp/bis/2016/stats/tmf_p.html 2016年度 パシフィック・リーグ チーム守備成績] 日本野球機構ホームページ</ref>)・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど、課題の多く残るシーズンとなった。また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天を相手に初めて負け越した<ref name="西武 楽天に初の負け越し、田辺監督淡々「こういう時もある」">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/18/kiji/K20160918013381560.html 西武 楽天に初の負け越し、田辺監督淡々「こういう時もある」] スポニチ 2016年9月18日</ref>。この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ現存5球団を相手に負け越しを免れたが、[[2016年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|CS]]争いには加われず、2年連続4位が確定した。
オフに岸孝之が楽天にFA移籍<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170212-OHT1T50244.html]</ref>。
===== 辻監督時代 =====
; [[2017年の埼玉西武ライオンズ|2017年]]
1月16日、西武の本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から'''『[[メットライフ生命保険|メットライフ]]ドーム』'''にすることを発表した<ref>{{Cite news|title=西武D名称は「メットライフドーム」に!命名権5年間取得|date=2017-01-16|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/01/16/kiji/20170116s00001173154000c.html|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-01-17}}</ref>。4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。6月28日に森投手コーチが急死。[[外崎修汰]]が3年目でレギュラーに定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わって[[山川穂高]]が4番に座った。チームもこの間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成している<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1867232.html 西武止まらない13連勝 58年西鉄以来59年ぶり] - 日刊スポーツ、2017年8月5日</ref>。8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1880798.html 西武2位浮上、楽天キラー8連勝「まだまだ先長い」] - 日刊スポーツ、2017年8月31日</ref>、その後はシーズン終了まで2位を維持し、2013年以来4年ぶりのAクラス入りを果たした。
クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦、第1戦ではエース菊池が完封して10-0で大勝するが、第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。エースの菊池がリーグ最優秀防御率および最多勝を達成<ref>[https://full-count.jp/2017/10/10/post87394/ 西武・菊池雄星がダブルで初タイトル、最優秀防御率&最多勝利の2冠に輝く] - Full-Count、2017年10月10日</ref>、新人の[[源田壮亮]]が1961年以来56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞<ref>[https://baseballking.jp/ns/138788 西武・源田と中日・京田が新人王!両リーグ遊撃手は史上初] - ベースボールキング、2017年11月20日</ref>、秋山が打率.322で首位打者となった。
オフに楽天から松井稼頭央がテクニカルコーチ兼外野手として15年ぶりに復帰。[[野上亮磨]]が巨人にFA移籍。牧田和久が[[ポスティングシステム]]で[[サンディエゴ・パドレス]]に移籍。
; [[2018年の埼玉西武ライオンズ|2018年]]
所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、西武球団でも様々な催しや事業が実施された<ref>[http://www.seibulions.jp/40th/ 西武ライオンズ 40周年記念事業]</ref>。中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である<ref>[http://v4.eir-parts.net/DocumentTemp/20171115_074834723_zgxwa0zexhy0yn454wbxpd55_0.pdf 株式会社西武ライオンズ 40周年記念事業]</ref><ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/00001133.html 株式会社西武ライオンズ 40周年事業の実施を発表 メットライフドームエリアの改修計画・周年イベントの内容が決定! 〜過去最大規模となる改修を実施、2021年春完成へ〜]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23511570V11C17A1X12000/ 西武HD、ライオンズの本拠地を改修 ]</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171115/k10011224901000.html 西武 球場観客席など大幅改修を発表]</ref>。
4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた<ref>[https://www.seibulions.jp/news/detail/00001303.html 4/17(火)、球団史上初の東京ドーム主催試合で来場者全員に「ライオンズ・クラシック2018」ユニフォームを配布!]</ref>。4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり、球団初の記録となった<ref>{{Cite news|title=西武球団初、本拠開幕8連勝 栗山弾で3戦連続逆転!!|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/baseball_lions/article/410497/|accessdate=2018-04-22|language=ja-JP|work=西日本新聞Web}}</ref>。また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は[[1954年の野球|1954年]]、[[1955年の野球|1955年]]に続く63年ぶりの球団3回目となった<ref>{{Cite news|title=西武63年ぶり貯金10 怪童中西太氏も強さに◎ - プロ野球 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804220000078.html|accessdate=2018-04-22|language=ja-JP|work=nikkansports.com}}</ref>。4月22日にロッテに勝ち、西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし<ref>{{Cite news|title=西武 11点快勝!球団記録更新の開幕から本拠地9連勝 - スポニチ Sponichi Annex 野球|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/22/kiji/20180422s00001173254000c.html|accessdate=2018-04-22|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした<ref>{{Cite news|title=西武、本拠地連勝が「12」でストップ|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20180510/lio18051005000003-n1.html|accessdate=2018-10-06|language=ja-JP|work=サンケイスポーツ}}</ref>。4月25日にソフトバンク戦で5試合連続9得点を挙げ、パ・リーグ新記録を達成した<ref>{{Cite news|title=西武、5試合連続9得点!パ・リーグ新記録達成! - スポニチ Sponichi Annex 野球|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180425s00001173311000c.html|accessdate=2018-04-25|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>。また、2002年以来14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった<ref>{{Cite news|title=西武、14年ぶり4月に2度目の5連勝!山川の2本塁打などで12点圧勝 - スポニチ Sponichi Annex 野球|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/04/25/kiji/20180425s00001173358000c.html|accessdate=2018-04-25|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>。強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速し、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたが、マジック対象チームである2位のソフトバンクがロッテに負けたため、2008年以来10年ぶり22度目のリーグ優勝が決まった<ref>{{Cite news|title=【西武】10年ぶり22度目のリーグ優勝 「獅子おどし打線」でパ制圧…辻監督8度舞う|date=2018-09-30|url=https://hochi.news/articles/20180930-OHT1T50233.html |accessdate=2018-09-30|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref>。1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来となり、開幕から首位のまま優勝をしたのは、2リーグ制では1953年の巨人、1962年の東映、1997年のヤクルトに続く4例目の記録だった。771得点、191本塁打、2割7分3厘の打率と攻撃面はリーグトップを記録した一方、防御率4.27と636失点、84エラーはいずれもパ・リーグワーストで、この内防御率が最下位で優勝したのは2001年の近鉄以来となった。
クライマックスシリーズファイナルステージでは2位のソフトバンクと対戦するが、不安材料の4.27の防御率とそのアキレス腱だった投手陣が5試合で合計44失点と甚だしく壊滅した。初戦で敗れ、第2戦でようやく勝利したが、第3戦から第5戦にかけてソフトバンクを相手に3連敗を喫してしまい、[[アドバンテージ]]1勝を含めた2勝4敗で敗れた。監督の辻は試合後に行われたシーズン最終戦セレモニーで「'''悔しいです。まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした。'''」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり、涙を流し続けた<ref>{{Cite news|title=西武の辻発彦監督がCS敗退に男泣き 嗚咽がスタジアム内に響き渡る - ライブドアニュース|url=https://news.livedoor.com/article/detail/15477192/|accessdate=2018-10-21|language=ja-JP|work=ライブドアニュース}}</ref>。10月21日にメットライフドームで行われた第5戦を最後に松井稼頭央が現役を引退した。松井の引退により、西武ライオンズ球場時代に在籍した選手が全員引退した。
オフに[[藤原良平]]、[[坂田遼]]、[[福倉健太郎]]が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。[[浅村栄斗]]が楽天、[[炭谷銀仁朗]]が巨人にFA移籍。新外国人として[[ザック・ニール]]、巨人にFA移籍した炭谷の人的補償として[[内海哲也]]を獲得。菊池がポスティングシステムで[[シアトル・マリナーズ]]に移籍。
この年は[[平成]]最後のペナントレースだったので、西武は「平成最後のパ・リーグ優勝球団」と同時に巨人と共に「平成時代に1度もリーグ最下位を経験しなかった球団」となった。
; [[2019年の埼玉西武ライオンズ|2019年]]
巨人から移籍した内海を含め、開幕前に先発陣で故障者が相次いだ。開幕以来一度も首位を譲らず、優勝した前年とは異なり、開幕カードのソフトバンク3連戦で3連敗を喫し、リーグ最下位からのスタートとなった。しかし、[[令和]]に入ると、5月1日に山川がパ・リーグの令和初となる本塁打を放ち、5月5日に[[今井達也]]が令和初の完封勝利を果たした。7月9日に首位とのゲーム差が最大8・5まで開いたが、8月に入って打線が奮起。9月11日、ソフトバンクとの首位攻防戦に勝って初めて首位に立つ。9月24日、マジックを「2」としていた西武が対ロッテ戦([[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]])に勝利し、2位のソフトバンクが東北楽天に2-4で敗れたため、2年連続23度目のリーグ優勝を果たした。浅村や菊池、炭谷と主力の移籍でチーム状況は決して万全とは言えなかったものの、前評判を覆し、防御率はリーグワーストの4.35だったが12球団トップの756得点<ref group="注釈">2位の巨人が663得点で93得点差と圧倒。</ref>を挙げる圧倒的な打力を武器に優勝を勝ち取った。パ・リーグの2連覇は2014 - 2015年のソフトバンク以来、球団では1997 - 1998年以来となった<ref>{{Cite news|title=西武、2年連続23度目のリーグv 最大8・5差を逆転|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9S6HKDM9SUTQP02R.html |newspaper=朝日新聞DIGITAL|accessdate=2019-09-24|date=2019-09-24|publisher=朝日新聞社}}</ref>。なお、この年の5月1日に[[元号]]が平成から令和に改元されたことで、西武はプロ野球史上初めて元号をまたいだ連覇となった。これまで西暦の末尾“9”の年のみ優勝を果たしていなかったが、これで西暦末尾0から9の全てで優勝を成し遂げたことになった。山川120打点、中村123打点、森105打点で球団史上初の100打点トリオを形成し、パ・リーグでは2003年のダイエー以来の快挙となった。さらに山川が本塁打王(2年連続)、中村が打点王(4度目)、森が首位打者(初)、金子が盗塁王(2度目)、秋山が最多安打(4度目)と6部門中5部門で西武がそれぞれトップを占め、打撃タイトルを総なめにした<ref>{{Cite web|和書|title=西武、個人打撃タイトル6部門中5部門を占める。中村剛也は「『ランナーをかえす』ということを意識して打席に入った結果」、山川穂高は「正直悔しい」|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/72136/|website=ベースボールチャンネル(BaseBall Channel)|accessdate=2019-09-30|language=ja}}</ref>。だが、勇躍臨んだソフトバンクとのクライマックスシリーズファイナルステージでは3連敗を喫してしまうと、第4戦では[[今宮健太]]にも3本の本塁打を許すなど4連敗を喫した(アドバンテージ1勝を含む)。シーズン756得点の強力な打線もわずか13得点と振るわず、投手陣も32失点(自責29)、防御率7.25と試合を全く作れなかった。前年同様にソフトバンクを相手に計1勝8敗と短期決戦でのもろさが際立ち、本拠地4連敗という屈辱的な“逆[[スウィープ]]”で2年連続で年間勝率1位ながら日本シリーズ進出を逃した<ref>{{Cite web|和書|title=ソフトバンクに下剋上を許した西武の辻発彦監督「強かったな」|url=https://news.livedoor.com/article/detail/17227845/|website=ライブドアニュース|accessdate=2019-10-15|language=ja}}</ref>。翌年から三軍制を導入することを発表した。
オフに中日を退団した松坂大輔が14年ぶりに復帰。新外国人として[[ショーン・ノリン]]、[[リード・ギャレット]]、[[コーリー・スパンジェンバーグ]]を獲得。秋山翔吾が[[シンシナティ・レッズ]]にFA移籍。
; [[2020年の埼玉西武ライオンズ|2020年]]
開幕から主砲の山川が打撃不振に陥り、スパンジェンバーグも開幕直後は低調だった。中盤には中村が死球を受けて故障離脱、前年首位打者の森もシーズン全体を通して打率2割5分前後に留まり、外崎も不振に陥るなど前年までの強力打線も影を潜めた。課題の先発投手陣も、前年チーム最多勝のニールを筆頭に軒並み防御率4点台から5点台と不調で夏場には借金生活に入り、8月には5位まで後退した。しかしながらシーズン後半になると、救援投手陣で7回[[森脇亮介]]、8回[[平良海馬]]、9回[[増田達至]]の必勝リレーが確立してシーズン終盤の接戦を落とさなかったことで、10月下旬に借金を完済し、失速した2位のロッテにも迫ったが、11月8日のロッテとの直接対決の末に敗れ、3位が確定したため、クライマックスシリーズを逃した(この年のクライマックスシリーズは[[コロナ禍]]のため、2位対3位戦の中止が決定していた<ref>[https://baseballking.jp/ns/232414 プロ野球・2020年シーズンの全日程発表 CSはセなし・パありに] - BASEBALLKING</ref>)。楽天とロッテには勝ち越したものの、チーム防御率が最下位であり、ソフトバンクと日本ハムとオリックスにも負け越すなど、3連覇を逃す原因となった。しかし、[[相内誠]]と[[佐藤龍世]]の両名が不祥事を起こしてシーズン終了までの対外試合禁止処分が下され、相内は戦力外として格闘家に転向、佐藤は翌年シーズン途中に日本ハムへと放出されてしまう。その中で平良が[[最優秀新人 (日本プロ野球)|パ・リーグ新人王]]を受賞した。
オフにノリンが自由契約となった([[ワシントン・ナショナルズ]]に移籍)。日本ハムから金銭トレードで[[吉川光夫]]、新外国人として[[マット・ダーモディ]]を獲得。
; [[2021年の埼玉西武ライオンズ|2021年]]
この年に開催された[[2020年東京オリンピックの野球競技|東京オリンピック]]の[[2020年東京オリンピックの日本選手団|日本代表選手]]として西武からは平良、源田が選出された。
序盤から低迷し、5月13日に[[水上由伸]]を支配下選手に登録させ、7月26日にメヒアが[[ウェイバー公示]]され、8月12日に日本ハムから[[木村文紀]]、佐藤龍世との2対2トレードで[[公文克彦]]、[[平沼翔太]]を獲得。10月19日にメットライフドームで行われた引退試合を最後に松坂大輔が現役を引退した。その後、最終盤にシーズン中のトレード相手の日本ハムとの5位争いを繰り広げる中、10月30日のシーズン最終戦でその日本ハムが2位のロッテに勝利したことで、1979年以来42年ぶり、球団名変更後初の最下位が確定した。最終的には5位の日本ハムとは1ゲーム差、首位のオリックスにも15ゲーム差をつけられてしまい、そのオリックスと3位の楽天にもそれぞれ8勝15敗と大きく負け越した。これにより、[[昭和]]時代に創設したパ・リーグ現存5球団全てが[[21世紀]]にリーグ最下位を経験した。ドラフトでは[[隅田知一郎]]を1位、[[佐藤隼輔]]を2位で獲得した。オフに小川龍也、吉川光夫が自由契約となり(小川は[[モンテレイ・サルタンズ]]、吉川は[[栃木ゴールデンブレーブス]]に移籍)、メヒア以外の外国人選手4人が退団した(ニールは[[コロラド・ロッキーズ]]、スパンジェンバーグは[[セントルイス・カージナルス]]、ギャレットはワシントン・ナショナルズに移籍、ダーモディは[[シカゴ・カブス]]に復帰)。新外国人として[[ディートリック・エンス]]、[[ブライアン・オグレディ]]、[[ボー・タカハシ]]、[[ジャンセン・ウィティ]]、[[バーチ・スミス]]を獲得。
; [[2022年の埼玉西武ライオンズ|2022年]]
1月15日付で[[居郷肇]]球団社長が退任し、翌16日付で後任に[[奥村剛]]が球団社長に就任した。メットライフが西武ドームとのネーミングライツ契約の満了に伴い、新たに[[ベルーナ]]とネーミングライツ契約を結び、3月1日付で「'''ベルーナドーム'''」に改称された。5月に新外国人として[[ロマー・コドラド]]、[[ジャシエル・ヘレラ]]と育成契約を結んだ。シーズン中盤から後半にかけて調子を上げ、7月下旬からソフトバンクとの首位争いを繰り広げる中、8月28日には球団通算5000勝を達成<ref>埼玉西武ライオンズが球団通算5000勝に到達。史上6球団目|パ・リーグ.com|プロ野球 https://pacificleague.com/news/44764</ref><ref>球団通算5,000勝を達成!|埼玉西武ライオンズ https://www.seibulions.jp/news/detail/00006039.html</ref>。1リーグ制時代からの球団である巨人、阪神、中日、オリックス、ソフトバンクの5球団に次ぐ6球団目の到達で、1950年の日本プロ野球2リーグ制発足時に誕生した球団では初である<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202208280000666.html 【西武】球団通算5000勝達成!史上6球団目 2リーグ分裂後に誕生した球団では最速到達] - 日刊スポーツ、2022年8月28日</ref>。9月12日から19日にかけて7連敗を喫し、貯金がなくなり、順位も4位に後退した。この間、源田壮亮・[[衛藤美彩]]夫妻が誹謗中傷の被害に遭い、調査したところ、[[山田遥楓]]の妻が加害者だったことが発覚し、山田が日本ハムへと放出されてしまい、佐藤龍世が日本ハムから1年半ぶりに復帰する原因となった。その後、9月20日からの4連勝などにより、楽天との3位争いを制したことで、9月29日に2019年以来3年ぶりとなる[[2022年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出を決めた<ref>[https://full-count.jp/2022/09/29/post1288130/ 西武、3位確定で3年ぶりCS進出が決定 試合なしも楽天がソフトバンクに敗れる] - full-count、2022年9月29日</ref>。内海哲也、[[十亀剣]]、[[武隈祥太]]が現役を引退した。7回水上由伸、8回平良海馬、9回増田達至の必勝パターンを形成、水上と平良が最優秀中継ぎのタイトルを分け合った。
クライマックスシリーズファーストステージでは2位ソフトバンクに2連敗を喫し、敗退した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202210090000846.html 【西武】連敗で敗退 ソフトバンク柳田に連日の1発浴びる 辻監督CS8連敗、4度目も勝てず] - 日刊スポーツ、2022年10月9日</ref>。クライマックスシリーズファーストステージ終了後、辻監督の退任が発表され、後任にはヘッドコーチの松井稼頭央が昇格する形で就任した。ドラフト会議では[[蛭間拓哉]]を1位、甲子園を湧かせた[[山田陽翔]]を5位で獲得した。オフに[[熊代聖人]]が戦力外通告を受け、その後現役を引退し、ジャンセンら外国人選手3人が自由契約となった(オグレディとスミスの両外国人選手は[[ハンファ・イーグルス]]に移籍)。日本ハムから山田遥楓とのトレードで佐藤龍世が1年半ぶりに復帰。森友哉がオリックスにFA移籍。オリックスにFA移籍した森の人的補償として[[張奕]]、新外国人として[[ヘスス・ティノコ]]、[[デビッド・マキノン]]、[[マーク・ペイトン]]を獲得。
===== 松井監督時代 =====
; [[2023年の埼玉西武ライオンズ|2023年]]
[[ワールド・ベースボール・クラシック]]では源田<ref group="注釈">源田は、本大会における小指の骨折を理由に本シーズン開幕一軍を見送られた。</ref>と山川が日本代表、[[呉念庭]]がチャイニーズタイペイ代表、へレラがコロンビア代表として選出された。
育成選手から4月14日に[[古市尊]]を、7月21日に[[豆田泰志]]をそれぞれ支配下登録した。7月27日には、前年[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]で活躍しオフに[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]とマイナー契約を結んでいた[[ブルックス・クリスキー]]と契約、支配下登録した。
7月20日、中日から[[川越誠司]]とトレードで[[髙松渡]]を獲得した。
だが、5月から山川が警視庁に強制わいせつ致傷の容疑で捜査されていることが報じられ、8月23日に強制性交等の容疑で送検されるも同月29日に不起訴になっている。山川は5月の報道以降、公での活動を自粛していたが練習を再開、同月31日にはフリー打撃で柵越えを披露した。
オフに公文克彦が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
== 所属選手・監督・コーチ ==
{{Main|埼玉西武ライオンズの選手一覧}}
{{埼玉西武ライオンズの選手・スタッフ|state=expanded}}
== チーム成績・記録 ==
[[ファイル:Seibu Lions Ranking.svg|320px|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]]
{{See also|埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の年度別成績一覧}}
* リーグ優勝 23回<ref group="注釈">年間最高勝率は下記から1982年と2004年を除く21回。</ref>
: (1954年、1956年 - 1958年、1963年、1982年<ref group="注釈">1982年は日本ハムとの[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]を制して優勝(年間最高勝率は日本ハム)。</ref> - 1983年、1985年 - 1988年、1990年 - 1994年、1997年、1998年、2002年、2004年<ref group="注釈">2004年はレギュラーシーズン2位ながら、プレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・福岡ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝(年間最高勝率はダイエー)。</ref>、2008年、2018年、2019年)
* 日本一 13回
: (1956年 - 1958年、1982年、1983年、1986年 - 1988年、1990年 - 1992年、2004年、2008年)
* クライマックスシリーズ優勝 1回
: (2008年)
* 前期優勝 1回
: (1982年)
* Aクラス 50回
: (1951年、1952年、1954年 - 1958年、1960年 - 1963年、1965年 - 1967年、1975年、1982年 - 2006年、2008年、2010年 - 2013年、2017年 - 2020年、2022年)
* Bクラス 24回
: (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年 - 1974年、1976年 - 1981年、2007年、2009年、2014年 - 2016年、2021年、2023年)
* 最下位 7回
: (1970年 - 1972年、1976年 - 1977年、1979年、2021年)
* 連続Aクラス入り最長記録 25年(1982年 - 2006年)※日本プロ野球記録
* 連続Bクラス最長記録 7年(1968年 - 1974年)
* 最多勝 96勝(1956年)
* 最多敗 84敗(1971年)
* 最多引分 18分(2021年)<ref group="注釈">2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1959年・1978年の14分が最多。</ref>
* 最高勝率 .683(1983年)
* 最低勝率 .311(1971年)
=== その他の記録 ===
* 最小ゲーム差 0.0ゲーム([[2010年の埼玉西武ライオンズ|2010年]])
* 最大ゲーム差 43.5ゲーム([[1971年の西鉄ライオンズ|1971年]])
* 最多本塁打 219本([[1980年の西武ライオンズ|1980年]])
* 最少本塁打 63本([[1951年の西鉄ライオンズ|1951年]])
* 最高打率 .281([[1986年の西武ライオンズ|1986年]]、[[1997年の西武ライオンズ|1997年]])
* 最低打率 .222([[1967年の西鉄ライオンズ|1967年]])
* 最高防御率 1.87([[1956年の西鉄ライオンズ|1956年]])
* 最低防御率 4.60([[1979年の西武ライオンズ|1979年]])
* 最多連勝 14([[1957年の西鉄ライオンズ|1957年]])※2引き分けを挟む
** 引き分けを挟まない連勝記録は13([[2017年の埼玉西武ライオンズ|2017年]])
* 最多連敗 13([[2015年の埼玉西武ライオンズ|2015年]])
== 永久欠番 ==
[[ファイル:Kazuhisa inao no.24.jpg|thumb|150px|right|[[稲尾和久]]の背番号24]]
* '''24''':[[稲尾和久]]
*: 引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社への売却時に稲尾が背番号を81に変更した事から欠番となった。当時球団は稲尾が永久欠番を辞退したため、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」としてしばらく欠番とした<ref name=shube210131>{{Cite web|和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20210131-13&rf=yamp|title=【背番号物語】西武「#24」振り返られた西鉄の栄光。“鉄腕”の永久欠番が西武を黄金時代に導いた?|work=[[週刊ベースボール]]ONLINE|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|date=2021-01-31|accessdate=2023-06-27}}</ref>後、1976年に[[古賀正明]]が着用した。その後、[[秋山幸二]]、[[平野謙 (野球)|平野謙]]、[[小野和義]]、[[金村義明]]などさまざまな選手が着用した<ref name=shube210131/>が、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年は永久欠番指定が報じられる前から欠番となっていた。)<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/28/kiji/K20120428003139200.html |title=西武「24」永久欠番に 西鉄エースの鉄腕・稲尾氏しのび|newspaper=スポーツニッポン|date=2012-04-28|access=2012-04-28}}</ref>。
{{-}}
== 沢村栄治賞受賞者 ==
[[1992年]]に[[沢村栄治賞]]を受賞した[[石井丈裕]]より前の時代だと、[[稲尾和久]]が[[三冠王|投手三冠王]]を2度達成するなど記録を残しているが、当時、[[パシフィック・リーグ]]は沢村賞の選考対象外だった為、稲尾は受賞出来なかった<ref name="名前なし-20231105131109">[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b0916054ddac843989a696eba0ca114a71dde34e 投手三冠で沢村賞を逃したのは1人だけ。千賀滉大は2人目になる!?]</ref>。
* [[石井丈裕]] :1回(1992年)
* [[西口文也]] :1回(1997年)
* [[松坂大輔]] :1回(2001年)
* [[涌井秀章]] :1回(2009年)
== 三冠王(投手・打者) ==
=== 投手三冠王 ===
ライオンズでの[[三冠 (野球)|投手三冠王]]の達成者は1人。また[[稲尾和久]]が複数回達成している。2回達成はプロ野球最多タイ記録となっている<ref name="名前なし-20231105131109"/>。
* [[稲尾和久]] :2回(1958年、1961年)※最多タイ記録
=== 打者三冠王 ===
2022年シーズン終了時点で達成者はいない<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |title=三冠王 <nowiki>|</nowiki> 各種記録達成者一覧 <nowiki>|</nowiki> 達成記録 |access-date=2022-10-05 |publisher=日本野球機構 |date=2022-10 |website=NPB.jp |archive-url=https://web.archive.org/web/20221005152919/https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |archive-date=2022-10-05}}</ref>。
== 最優秀選手受賞者(複数回) ==
=== 投手の複数回受賞者 ===
ライオンズの投手で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]を複数回受賞しているのは2人。他球団での受賞も含めると[[工藤公康]]がライオンズ時代に1回、[[福岡ソフトバンクホークス|ホークス]]時代に1回で複数回受賞を達成している<ref name="名前なし_2-20231105131109">[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。
* [[稲尾和久]] :2回(1957年、1958年)
* [[東尾修]]:2回(1983年、1987年)
=== 打者の複数回受賞者 ===
2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない<ref name="名前なし_2-20231105131109"/>。
== 歴代本拠地 ==
[[画像:Seibu Lions baseball teamTokorozawa office.jpg|250px|thumb|球団事務所(所沢市・2007年撮影)]]
* 1950年 - [[春日原球場]]、[[平和台野球場]]
* 1951年 - 1978年 - 平和台野球場
** 1952年より正式なフランチャイズ制が敷かれる。なお、1950年は西日本パイレーツの本拠地としても規定されていた。
* 1979年 - 1997年 - 西武ライオンズ球場
* 1998年 - 現在 - [[西武ドーム]]
** 命名権による名称変更で2005年・2006年は「[[インボイス (企業)|インボイス]]SEIBUドーム」、2007年は「[[テクノプロ・ホールディングス|グッドウィル]]ドーム」、2015年・2016年は「西武[[プリンスホテル|プリンス]]ドーム」、2017年から2021年は「メットライフドーム」、2022年からは「[[ベルーナ]]ドーム」
** 西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンド外周部に屋根を架設する工事)が完成した1998年に「西武ドーム」に変更されており、同年は雨天による中止試合があった。
1950年は西日本が平和台、西鉄は春日原を一応の本拠地と定めるが、県内での試合数は極端に少なかった(西日本7試合、西鉄27試合)<ref name="npb">[https://npb.jp/news/detail/20210324_02.html 【記録員コラム】29都道府県、52球場を駆け巡った西日本パイレーツ](日本野球機構)</ref>。
1965年からは小倉球場(現:[[北九州市民球場]])、1973年からは[[藤崎台県営野球場]]を準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。
パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、本拠地(西武ライオンズ球場→西武ドーム)での試合開催率が高い西武の方針は異例だった<ref group="注釈">参照:[[千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧]]</ref>。特に1993年までの15年間では、西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982年から1986年と1989年から1993年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだった。1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は[[長野オリンピックスタジアム]]での開催が毎年続けられたほか、1996年からは[[群馬県立敷島公園野球場]]でも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。なお、2008年からは[[埼玉県営大宮公園野球場]]でも毎年主催試合を行っている(参照:[[埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧]])。ただし、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。
== 歴代監督 ==
※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一
{| class="wikitable"
|-
!!!代!!氏名!!就任<ref group="※">日付はシーズン途中で就任した場合のみ記載。</ref>!!退任<ref group="※">日付はシーズン途中で退任した場合のみ記載(休養は含まない)。その他は原則として年度末退任。</ref>!!備考
|-
!rowspan="5"|{{縦書き|西鉄}}
|1||[[宮崎要]]<ref group="※">登録上は1951年 - 1952年も監督だが、その間は三原が総監督を務めた。</ref>||1950年||1950年||登録上は1951年 - 1952年も監督<br/>1950年から'''西鉄クリッパーズ'''
|-
|2||'''[[三原脩]]'''◎||1951年||1959年||1951年 - 1952年の登録は総監督<br/>1951年から'''西鉄ライオンズ'''
|-
|3||[[川崎徳次]]||1960年||1961年||
|-
|4||'''[[中西太]]'''<ref group="※">1965年4月19日 - 5月10日は病気療養のため[[深見安博]]が監督代行。1969年5月23日 - 6月13日と、10月9日以降は鬼頭政一が監督代行。</ref>||1962年||1969年||[[選手兼任監督|選手兼任]]
|-
|rowspan="2"|5||rowspan="2"|[[稲尾和久]]||rowspan="2"|1970年||rowspan="2"|1974年||rowspan="2"|1973年から'''太平洋クラブライオンズ'''
|-
!rowspan="4"|{{縦書き|太平洋}}
|-
|6||[[江藤慎一]]||1975年||1975年||選手兼任
|-
| - ||[[レオ・ドローチャー]]|| - || - ||就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約が解除された。
|-
|rowspan="2"|7||rowspan="2"|[[鬼頭政一]]||rowspan="2"|1976年||rowspan="2"|1977年||rowspan="2"|1977年から'''クラウンライターライオンズ'''
|-
!rowspan="2"|{{縦書き|クラウン}}
|-
|rowspan="2"|8||rowspan="2"|[[根本陸夫]]||rowspan="2"|1978年||rowspan="2"|1981年||rowspan="2"|1979年から'''西武ライオンズ'''
|-
!rowspan="6"|{{縦書き|西武}}
|-
|9||'''[[広岡達朗]]'''◎||1982年||1985年||
|-
|10||'''[[森祇晶]]'''◎||1986年||1994年||
|-
|11||'''[[東尾修]]'''<ref group="※">1997年7月11日 - 13日までは[[須藤豊]]が監督代行。</ref>||1995年||2001年||
|-
|12||'''[[伊原春樹]]'''(第1期)||2002年||2003年||
|-
|13||'''[[伊東勤]]'''◎||2004年||2007年||
|-
!rowspan=6"|{{縦書き|埼玉西武}}
|-
|14||'''[[渡辺久信]]'''◎||2008年||2013年||2008年から'''埼玉西武ライオンズ'''
|-
|15||伊原春樹(第2期)<ref group="※">6月5日から休養し、シーズン終了までは田邊徳雄が監督代行を務めた。</ref>||2014年||2014年||
|-
|16||[[田辺徳雄|田邊徳雄]]||2015年||2016年||
|-
|17||'''[[辻発彦]]'''||2017年||2022年||
|-
|18||[[松井稼頭央]]||2023年||||
|}
{{Reflist|group="※"}}
== チームの特徴 ==
* 西鉄時代は三原脩、川崎徳次以外はチーム生え抜きだった選手が監督を務めた。太平洋から西武時代は長らく[[外様]]監督が続いたが、1995年就任の東尾修以降は、生え抜き及びチーム出身者の監督が続いている。[[堤義明]]オーナー退任以降は監督の生え抜き及びチーム出身者重視が非常に強く、完全外様であっても[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]出身者でなければ監督候補に挙がらないほどである(例:[[宮本慎也]])。また歴代監督は森祇晶(右投左打)、松井稼頭央(右投両打)以外右投右打であり、左投はいない(近鉄を含めた13球団で唯一)。
* 西鉄クリッパースの[[愛称|ニックネーム]]の由来はニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時[[パンアメリカン航空]]の日本販売代理店だったことからパンナム機の愛称「[[パンアメリカン航空#太平洋横断路線開設|クリッパー]]」から採用されたと言われる<ref>[http://homepage2.nifty.com/rbc/rbc96c.htm スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。
* 埼玉移転以降、「'''西武'''」を名乗っているが元々は[[西武グループ|'''西武'''グループ]]の意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後の[[コクド]])、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している[[地域密着]]の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を所沢市内に移転していた[[西武鉄道|'''西武'''鉄道]]に変更することが承認された<ref>{{Cite web|和書|date = 2008-11-21 |url = https://ssl4.eir-parts.net/doc/9024/announcement/17264/00.pdf |title = 西武ライオンズ株式のグループ内異動について |publisher = [[西武ホールディングス]] |format = PDF |accessdate = 2020-4-12 }}</ref>。
* 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深い漫画家の[[手塚治虫]]の人気漫画『[[ジャングル大帝]]』の主人公・レオを採用している。
** 作者の手塚の談話によると、西武の堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか?」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい。」との意向も示され<ref group="注釈">1980年代から1990年代の一時期、子供のレオ(レオの子供のルネとも解釈可。)の着ぐるみが登場したこともあった。</ref>、球団マスコットとして[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|レオ]]が(人型で)登場した。発表後、手塚の周囲では「あれは、レオじゃなくて父親のパンジャじゃないですか。パンジャ球団にでもするのか」などと冷やかされたそうで、マスコットには他に女性キャラの[[ライナ (埼玉西武ライオンズ)|ライナ]]がいるがこちらは球団としてのオリジナルキャラクターとなるため、鼻の頭の色や目の大きさなど何度も作りなおした末に仕上げ、思い出深いキャラクターになったという。実際その後、手塚の自室ではさまざまなライナの失敗作を飾っていたとのこと<ref>{{Cite journal |和書 |author = [[手塚治虫]] |title = “私のレオ”がマスコットで復活した喜び |journal = [[Sports Graphic Number]] |issue = 191 |date = 1988-03-20 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 56}}</ref>。共に当初は背番号無し(のちにユニフォームのスポンサー・[[ナイキ]]→[[マジェスティック・アスレティック]]のロゴが入る)。ちなみに、このマスコットは「異競技交流」の一環として[[2003年|2003]]-[[2004年]]シーズンに[[西武鉄道アイスホッケー部]]を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが[[SEIBUプリンス ラビッツ|西武プリンスラビッツ]]となった[[2006年]]からは使用せず)。
** このレオマークは[[西武山口線]]の[[西武8500系電車|8500系]]の前面にも取り付けられたほか(車両愛称もレオライナー)、西武鉄道のプリペイドカードシステムである「[[レオカード]]」(共通SFカードシステム「[[パスネット]]」加盟後は「SFレオカード」)にも使用された。
* 2015年までは[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に11球団で唯一シーズン負け越しがない球団だったが、2016年に初めて楽天に負け越した。これにより、年間の対戦成績で一つの球団にのみ負け越しがないという事例はなくなった<ref name="西武 楽天に初の負け越し、田辺監督淡々「こういう時もある」"/>。
* [[20世紀]]末に現存する球団では最後に日本一連覇を達成した球団でもある。1990年、1991年、1992年の日本一3連覇が20世紀では最後の日本シリーズ連覇となった。
* 生え抜き選手での200勝投手は稲尾和久(276勝)、東尾修(251勝)がいたが、長年黄金期を築いた球団では珍しく2000本安打達成者が2020年までいなかった。しかしながら、2021年に栗山巧<ref group="注釈">2021年9月4日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で達成。</ref>が生え抜き選手として初めて達成した<ref group="注釈">[[秋山幸二]]、[[清原和博]]、[[和田一浩]]など西武でプロのキャリアをスタートさせた彼らはそれぞれ移籍先で達成しており、西武球団のみで2000本安打を達成したのは栗山が初めてとなった。</ref>。
* 日本シリーズ出場は12球団で2番目に多い球団ながらも、2023年シーズン終了時点で西武の最後の日本シリーズ出場は2008年で12球団で日本シリーズから最も長い期間遠ざかっている球団でもある。
* FA流出人数が2022年オフ時点で12球団トップの20人となっており、チームも毎年選手のFA流出に頭を悩ませている<ref>{{Cite web|和書|url= https://full-count.jp/2022/11/16/post1307881/|title= ついに20人目…止まらない西武の“FA悲劇” 失われる主力たち、来年も戦々恐々|date= 2022-11-16|accessdate= 2023-8-7|website= Full-Count|language= ja|ref=}}</ref>。
== 球団旗の変遷 ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
=== 球団旗(一軍) ===
; 福岡時代
* 1950年 - 上が青・下が黄色のセパレート型。上に西鉄の[[社章]]。下に青字で「CLIPPERS」。書体は前述の事情でパンアメリカン航空が使用していたものとなる。
* 1951年 - 1972年 - 球団名が西鉄ライオンズへの変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。書体はその後数度にわたって変更されている。
* 1973年 - 1976年 - 球団買収により、球団名が太平洋クラブライオンズへの変更に伴い、上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。上には太平洋クラブの社章。下には白文字の筆記体で「Lions」。
* 1977年 - 1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、球団名がクラウンライターライオンズへの変更に伴い、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。白文字の筆記体で「Lions」のロゴが大きくなる。
; 埼玉時代
* 1979年 - 西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズへの変更に伴い、ライオンズブルー(水色)が地色。中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「Lions」。総合デザインはユニフォームを含めて[[細谷巖]]が担当。
=== 球団旗(二軍) ===
* 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、白地にインボイスのマーク。
* 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更され、白地にグッドウィルのマーク。
== ユニフォームの変遷 ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
=== ユニフォーム(一軍) ===
==== 西鉄時代 ====
[[ファイル:1954 npb-allstargame sadao nishimura and futoshi nakanishi.jpg|right|thumb|西鉄ライオンズのユニフォームを着た[[西村貞朗]]・[[中西太]](1954年)]]
[[ファイル:Kazuhisa makita.jpg|200px|right|thumb|西鉄ライオンズ誕生当時の復刻ユニフォームを着た[[牧田和久]](2011年)]]
* [[1950年]] -1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。
* 1951年 - [[1952年]] - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
** 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。
* 1952年 - [[1954年]] - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の[[ブラックレター]](飾り文字)が登場。
* 1954年 - [[1961年]] - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」は'''i'''の黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは1960年から1961年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。[[1958年]]シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。[[1960年]]には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。
* [[1962年]] - [[1965年]] - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。
* [[1966年]] - [[1968年]] - ユニフォームにオレンジ色を採用(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。左袖には[[エジプト]][[壁画]]風のライオンマークが登場。球団史上初の背ネームを採用。
** [[1968年]]途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、左袖には[[ライオン (紋章学)|立ち姿のライオン]]([[西鉄グランドホテル]]のマークと同デザイン)を入れた[[紋章]]風[[ワッペン]]を装着。
** 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後は練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた[[榎本喜八]]がビジター用を着ている写真が残っている<ref>『ベースボールマガジン』2002年夏季号ほか。</ref>)。
** 1970年には左袖に足を1本突き出すライオンのイラストワッペンを装着。ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年から1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。
* [[1971年]] - [[1972年]] - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の[[1973年]]春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。
==== 太平洋クラブライオンズ時代 ====
[[ファイル:Yasuyuki Kataoka 2010.jpg|thumb|right|200px|太平洋時代の復刻ユニフォームを着る[[片岡易之]](2010年)]]
* [[1973年]] - [[1975年]] - メインスポンサーが太平洋クラブとなり、ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〈上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〉)が登場。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した<ref>[[週刊ベースボール#別冊|週刊ベースボール別冊]] よみがえる1970年代のプロ野球 [Part.1] 1974年編 長嶋茂雄、引退 [[ベースボール・マガジン社]].2022年.P101</ref>。ホーム用は胸番号の上に「Lions」、ビジター用は胸番号の上に「TAIHEIYO CLUB」。帽子は、ホーム用が白地につばは青、ビジター用は青地に赤のつばと赤地に青のつばの2種類。帽子マーク・左袖に、太平洋クラブのシンボルマーク([[社章]])<ref>[[週刊ベースボール]]5月11日号 [完全保存版]12球団ユニフォーム大図鑑 [[ベースボール・マガジン社]].2020年.P126</ref>。
* [[1976年]] - 前期のものは最初で最後の[[アメリカンフットボール]]風ユニフォーム。ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用し左袖には「FUKUOKA」、右袖にはライオンのイラストワッペンが付く。帽子はワインレッドに青の鍔でマークは「T」と「L」の組み合わせ文字。袖・ベルト・パンツのラインは青地に白2本のストライプ。ユニフォーム前面にアメフトのユニフォームよろしく大きく番号が入った{{Refnest|group="注釈"|これには当時の球団社長、[[坂井保之]]の「番号はファンへの認識を大事にしたい」「この情報化時代ユニフォームの球団名なんか不要」という意向によるものであった<ref>[[週刊ベースボール]]5月11日号 [完全保存版]12球団ユニフォーム大図鑑 [[ベースボール・マガジン社]].2020年.P127</ref>。}}。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活(胸番号なし)。いずれも背番号の上には選手名が入った。
** 二軍は1975年までのユニフォームを継続使用したが、帽子のみ青地に赤のつばの物のマークを、社章から黄色の「T」と「L」の組み合わせ文字に変えていた。
==== クラウン時代 ====
* [[1977年]] - [[1978年]] - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も赤地に前部が白となって「C」と「L」の組み合わせ文字に変更。ユニホームも白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。なお右袖には引き続き太平洋クラブのマーク(若干の援助を受けていたため)、左袖は帽子をクラウン仕様に変更したライオンのイラストワッペンが付く。これが福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなってしまった。
==== 西武時代 ====
* [[1979年]] - [[2003年]] - 球団名が「'''西武ライオンズ'''」となり[[細谷巖]]によるデザインに一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは[[2003年]]まで使用された。
** 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。
** 帽子は緑の楕円の中に[[手塚治虫]]デザインのレオマークがつき、下に白文字で'''Lions'''のロゴが刺繍される。ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)に'''SEIBU'''のロゴが入る<ref group="注釈">「ライオンズ・クラシック」等の復刻企画では広告ステッカー貼付の都合上この仕様通りに再現されない場合がある。</ref>。
** 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
*** ただし背番号「'''1'''」の書体については、[[秋山幸二]]のみ本人の希望で「_([[セリフ (文字)|セリフ]])」の付いた書体が使用された<ref group="注釈">24番から変更した当初は「_」のないユニフォームを着用していた。「_」付いた時期は不明。その後秋山との交換でダイエーから加入した[[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]]も、当初は「_」の付いた書体のユニフォームを着用したが、オープン戦途中で「_」のない物に変更された。一方、秋山はダイエー移籍当初「_」がなかったが、その後「_」のついた物に変更された。</ref>。
** スパイクはつま先、[[かかと|踵]]および紐通し部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。紐は青<ref group="注釈">紐部が[[マジックテープ]]留めとなる場合はそれも濃紺となる。</ref>。
*** ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖にライトブルーの文字で[[西武百貨店]]のマークが入る。
*** ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖には白文字でLionsのロゴが入った(1995年まで使用されたが、イースタンでは1996年まで使用された)。
**** [[1980年]]より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。
***** 1981年に入団した[[石毛宏典]]は、全身ブルーのビジター用を[[パジャマ]]みたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からは「ビジター用の方が強そうに見える」という感想を聞いている<ref name="ベースボールマガジン7月28日">{{Cite journal |和書 |title = 復刻ユニフォーム物語 |journal = 週刊ベースボール |date = 2008-07-28 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |pages = 22 - 23 }}</ref> というエピソードが存在する。
**** [[1990年]]より、ユニフォームのボタンが、乳白色半透明から地色と同色のボタン(製造メーカー[[デサント]]のロゴが入る)になる。
**** [[2001年]]より、ホーム用がデサント社から、[[ナイキ]]社の製造になり、左胸にナイキの[[スウッシュ]]マークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)<ref group="注釈">このマークは広告扱いのため、交流戦ビジターゲームで着用するユニフォームには入らない。</ref>。
**** [[2002年]]より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになる。胸のLionsのロゴが太くなって大きさが縮小され、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。
* [[1996年]]からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルー(端部に緑と赤が付く)ラインになる。なお、このビジター用ユニフォームは4つのデザインの中からファン投票によって選ばれたものであった<ref>[[週刊ベースボール#別冊|週刊ベースボール別冊]] よみがえる1990年代のプロ野球[Part.3] 1996年編 長嶋巨人大逆転V [[ベースボール・マガジン社]].2021年.P101</ref>。
* 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキの製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、当初は札幌、長野での主催ゲーム用という位置づけで<ref group="注釈">実際は夏期などに西武ドームでのホームゲームでも着用した。</ref>サード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。
* [[2004年]] - [[2008年]] - [[伊東勤]]監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームを変更。3月15日、開幕まで約2週間のタイミングでの発表となった<ref>{{Cite news|title=西武が新ユニホーム発表/胸にLIONS|url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20040315000292|publisher=四国新聞社 SHIKOKU NEWS|date=2004-03-15|accessdate=2022-06-22}}</ref>。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSにアンダーラインの付いたもの<ref group="注釈">この当時のロゴが2017年まで[[西武球場前駅]]の[[プラットホーム]]上に残されていた。</ref> となる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。
** [[2005年]]よりプライド・ロゴの星の数が9個となる(前年度日本一になったため)。
** [[2008年]]は埼玉移転30周年記念ロゴが右胸に入る。
* [[2009年]] - [[2014年]] - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。また、「Lions」のロゴも一新される<ref group="注釈">このロゴを「[[ワードマーク]]」と命名。</ref> ことが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。左胸に「L」のイニシャルが付く。ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsとほぼ同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。また、帽子・ヘルメットもレオマークから紺地に白で「L」の一文字に変更。
* スパイクは黒地に白のラインとなる。
** ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは前年までのライトブルーの時代のものを使用。
** [[2012年]]より県営大宮球場での試合に「大宮リミテッドキャップ」を着用。キャップは、通常の帽子デザインをさいたま市大宮区の色・オレンジを使ってアレンジしたもの。空気坑・頭頂部のボタン・つばの端をオレンジ色に。ユニフォームは変更なしで、2013年の1試合のみ3rdユニフォームの併用。
** [[2013年]]より新たに「Saitama」ユニフォームを3rdユニフォームとして使用することとなった。レジェンド・ブルーをベースとし、脇からわき腹にかけて白。襟から胸へ流れるラケットラインと袖口のラインは、埼玉県のカラーを意識した赤色を使用。胸に白で「Saitama」の文字と胸番号、左袖にペットマーク、右袖に[[埼玉県旗|埼玉県章]]が入っている。ユニフォームに県章を用いるのは日本プロ野球では初のこととなる<ref>{{Cite web|和書|date = 2012-11-28 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/7058.html |title = ライオンズ 3rdユニフォームとして「Saitama」ユニフォームを2013シーズン着用! |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。なお、翌2014年も継続して使用<ref>{{Cite web|和書|date = 2014-01-24 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/8531.html |title = 球界初の県章を配した「Saitama」ユニフォーム!2014シーズンも着用決定!! |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
* [[2015年]] ホーム用の胸ロゴが前ビジター用の「Lions」ワードマークのみに変更された。胸番号はなし。右袖のエンブレムは左袖のペットマークと組み合わせる形で移動し、これを「プライマリーマーク」と命名。右袖には西鉄時代を含む日本一の数「13」を☆に散りばめた西鉄ブラック・先代ライオンズブルー・レジェンドブルーの3色のフラッグエンブレムに「i believe lions.」のスローガンが下部に入る「コンセプトマーク」が新たに入った。選手名・背番号ロゴは「ライオンズの力強さ」をイメージした新タイプに変更。ビジター用は前年までの3rdユニフォームに変更。これも選手名・背番号ロゴはホーム用と同じである。新たな3rdユニフォームは制定せず。
* [[2016年]]よりユニホームが[[ナイキ]]社製から[[マジェスティック・アスレティック|マジェスティック]]社製になる<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/11028.html マジェスティック社とのオフィシャルサプライヤー契約締結のお知らせ] 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト 2016年1月15日配信</ref>。基本的なデザインは、ホーム・ビジターともに2015年シーズンのものと同じであるが、右胸のナイキのロゴがマジェスティックのロゴとなる他、選手名・背番号の字体が[[ヒューストン・アストロズ]](2013年に[[アメリカン・リーグ]]へ移動した直後の)仕様に変更される。
** 2016年よりパンツ部分に広告が入り、[[そごう・西武]]のプライベートブランド「リミテッド エディション」の広告が入る<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/11079.html ユニフォームのパンツスポンサーが西武・そごうのプライベートブランド「リミテッド エディション」に決定] 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト 2016年1月29日配信</ref>。
** [[2017年]]シーズンよりロゴが昇華プリント方式に変更された。
** [[2018年]]より[[群馬県]][[甘楽町]]に本社を置く食品会社「ヨコオデイリーフーズ」とキャップスポンサー契約を締結し、同社が運営する「こんにゃくパーク」のロゴが入ったキャップを着用する。キャップへの広告掲出は球団初の取り組みとなる<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/00001299.html 球団初!キャップ広告決定「こんにゃくパーク」を運営するヨコオデイリーフーズとスポンサー契約を締結] 埼玉西武ライオンズ 2018年1月29日配信</ref>。また、ユニフォームの左袖には埼玉移転40周年ロゴが入れられた。
** [[2019年]]、6年ぶりにサードユニフォームが導入。「球団創立70年を迎え、伝統と栄光、そして悲願のリーグ制覇が融合した時代(カラー)を身に纏い、新たなる戦いへと挑むユニフォーム」として、身頃はレジェンドブルーを基調に、両肩には西鉄ライオンズのブラック(右側)と西武ライオンズのブルー(左側)がグラデーションで入れられている。胸ロゴは「Seibu」の右上に小さく「Saitama」と入れられたものが白文字で入れられた。キャップとヘルメットもブラック、ブルー、レジェンドブルーの三色を取り入れたほか、ツバの右側には西鉄時代を含む日本一の回数を示す13個の星が入れられた(通常のホーム・ビジター用ヘルメットとは異なり、つや消し加工はされていない)。また、新たに『ビクトリーエンブレム「WE ARE ONE」』が導入され、2019シーズンのホームユニフォーム及びサードユニフォームの右袖に刻み込まれることになった<ref>{{Cite news|title=ファンと選手がひとつとなり勝利を目指すビクトリーエンブレムとサードユニフォームを発表!|埼玉西武ライオンズ|url=http://www.seibulions.jp/news/detail/00002249.html|accessdate=2018-11-23|language=ja|work=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト}}</ref>。
** [[2021年]]、ビジター用が再び前年までのサードユニフォームに変更。新たなサードユニフォームは制定せず。
* [[2023年]]、右胸のロゴがマジェスティックから親会社の[[ファナティクス|ファナティクス・ジャパン]]に変更、キャップ右側にもつけられた。同時にホームユニフォームをマイナーチェンジ。ユニフォームの中心に「Legend Line」と名付けられた西鉄ブラック・先代ライオンズブルー・レジェンドブルーがグラデーションで描かれた一本線。袖とパンツには「Legend Circle」と名付けられた先代ライオンズブルーとレジェンドブルーが入った二本線。キャップとヘルメット側面、右袖には15年ぶりにレオマークが復活(キャップとヘルメットはシルエット)。またキャップつばのふちの色が先代ライオンズブルーとなり、背番号、胸番号(ビジターのみ)およびネームも変更となった<ref>{{Cite news|title=2023シーズンよりホームユニフォームが新しく!新ホームユニフォーム発表!|埼玉西武ライオンズ|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00006285.html|accessdate=2023-03-10|language=ja|work=埼玉西武ライオンズ}}</ref>。
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Hiroyuki_Nakajima_2009.jpg|1979年~2003年のホームユニフォーム(復刻版)
2014年バッティング.JPG|1979年~1995年のビジターユニフォーム(復刻版)
SL-Kaima Taira20220910.jpg|1996年~2001年のビジターユニフォーム(復刻版)
WakuiHideaki01.jpg|2002年~2008年のビジターユニフォーム
SL-Takeya-Nakamura20180630.jpg|2004年~2008年のホームユニフォーム(復刻版)
Nishiguchi fumiya 13.jpg|2009年~2014年のホームユニフォーム
Wu Nien-ting.jpg|2015年~2020年のビジターユニフォーム(2013年~2014年のサードユニフォーム)
Konatakahashi.jpg|2015年~2022年のホームユニフォーム
Saitama_Seibu_Lions_Kuroda_Satoshi_20220415.jpg|2021年~現在のビジターユニフォーム(2019年~2020年のサードユニフォーム)
2023年7月21日髙松渡選手.jpg|2023年~現在のホームユニフォーム
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=== ユニフォーム(二軍) ===
* 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。
* 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークがインボイス社の[[社章]]に変更。ロゴも「'''INVOICE'''」となる(書体は従来と同じ)。
* [[2007年]] - 二軍の球団名がグッドウィルに変更。胸のロゴが「'''GoodWill'''」となり、ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。帽子マークはグッドウィルの社章に変更。
=== 期間限定ユニフォーム ===
* 2007年に夏季特別企画として、7月10日から8月30日の主催ホームゲームで特別ユニフォームと1979年から1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版を使用。特別ユニフォームはフロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの。
* 2008年に交流戦限定ユニフォームを着用。肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。右胸に所沢移転30周年記念ロゴのワッペン、肩の上には黒縁に白の☆、背番号の下に2008年のスローガン「No Limit!」をあしらったもの。
* 2008年より「[[ライオンズ・クラシック]]」が開始され、期間中は復刻版のユニフォームを着用している。詳細は、[[ライオンズ・クラシック]]を参照。
* 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集<ref name="100th">{{Cite web|和書|url = http://www.seibulions.jp/100th_uniform/index.php |title = ライオンズユニフォームデザイン大募集! |publisher = 埼玉西武ライオンズ公式 |accessdate = 2012-05-27}}</ref>。採用案がデザインされたユニホームを、8月11日・12日の日本ハム戦と同月17日 - 19日の楽天戦で着用した<ref name="100th" />。その後、ファンから「もう一度、100周年記念ユニフォームで戦って欲しい」という要望が多かったため、9月25日 - 27日の楽天戦でも着用した<ref>{{Cite web|和書|date = 2012-09-04 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/6703.html |title = あの感動と興奮を再び!9/25~27 西武鉄道創立100周年記念ユニフォームを再着用! |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
** 採用案のタイトルは「4000系とスマイルトレインユニフォーム」<ref name="100th" />。西武鉄道が保有する鉄道車両である[[西武4000系電車|4000系電車]]ならびに[[西武30000系電車|30000系電車]]「スマイルトレイン」の車体塗装をモチーフとし、スマイルトレインの帯色であるブルーとグリーンのグラデーションをベースに胸部分には「SEIBU」ロゴ(2003年までのビジター用のものと同一)をあしらい、首・袖周りには4000系電車の帯色である青・赤・緑3色の[[ライオンズカラー]]が入る<ref name="100th" />。原案においては右袖に西武鉄道のコーポレートロゴがあしらわれていたが、同部分についてはリーグ規定により通常ユニフォームと同様「saitama seibu」ロゴが貼付される<ref name="100th" />。
** 8月11日についてはライト外野自由以外のすべての入場者に対してレプリカユニフォームのプレゼントが行われた<ref name="100th present">{{Cite web|和書|date = 2012-06-19 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/6353.html |title = 球団初!記念ユニフォームの来場者配布も!!「西武鉄道創立100周年記念シリーズ」開催日程決定 |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2013-02-11 }}</ref>。
* 2013年、パリーグ6球団共同企画「[[レジェンド・シリーズ2013]]」において、1980から1990年代にかけてライオンズ黄金期にホーム用として使用したユニフォームの復刻版を着用。ただし、復刻ユニフォーム左胸には、ナイキのマークが付く。
* [[2014年]]、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、[[手塚プロダクション]]デザインの「ジャングル大帝ユニフォーム」を着用。球団旗やマスコットなどをデザインした漫画家の[[手塚治虫]]の代表作でもある『[[ジャングル大帝]]』をモチーフに、球団マスコットのレオが描かれている。ネイビーをベースに球団マスコットのレオが胴部と右肩にあしらわれており、右肩と背中に地平を駆けるレオ、左胸の下にはたけだけしくほえるレオがデザインされた<ref>{{Cite web|和書|date = 2013-12-19 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/8465.html |title = ジャングル大帝シリーズ開催!手塚プロダクションがユニフォームをデザイン!! |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。チーム及び背番号ロゴは独自にデザインされたものとなり、選手ネームは入らない背番号のみのスタイルとなった。
* [[2015年]]、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、西武鉄道の車両カラーとして長く親しまれている西武イエローをメインカラーとして、西武が現在所有する[[西武2000系電車|2000系電車]](いわゆる「黄色い電車」)をモチーフにしたユニフォームを着用。シャツや帽子のロゴ等に黄色を配した。チームロゴ・背番号などは2002年から2008年のビジター用と同一のもので、色は濃紺に白色の縁取りとなる。ちなみに、黄色のユニホームは球団史上初であった<ref>{{Cite web|和書|date = 2015-04-21 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/10024.html |title = 西武鉄道の「黄色い電車」をモチーフにしたユニフォームを着用!西武鉄道100年アニバーサリー企画開催決定 |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
* [[2016年]]、西武鉄道100年アニバーサリー企画の終了に伴い、新たに「ライオンズ フェスティバルズ 2016」の開催を発表。それに伴い7月18日‐8月21日の公式戦28試合(ビジターゲーム含む)とイースタン・リーグ12試合(ホームゲームのみ)において、西武プリンスドーム周辺の木々や[[多摩湖]]・[[狭山湖]]の湖面といった大自然を表現した『エメラルドユニフォーム』を着用する。テンプレートはラケットラインがない以外はホームユニフォームとほぼ同様。この企画では西武鉄道がキャップスポンサーとなり、選手が着用するキャップには西武鉄道のコーポレートメッセージ「あれも、これも、かなう。西武鉄道」が入ったロゴが掲げられる<ref>{{Cite web|和書|date = 2016-05-20 |url = http://www.seibulions.jp/news/detail/11469.html |title =2016年夏の新シリーズ「ライオンズ フェスティバルズ 2016」開催決定!LIONSの夏は「エメラルド」! |publisher = 埼玉西武ライオンズ |accessdate = 2016-06-13 }}</ref>。なお、開催期間中のチーム成績が好調だったことから、9月17日‐19日の3連戦において再び使用された<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/11912.html 9/17・18・19エメラルドユニフォームの再着用が決定!スタンドをもう一度“エメラルド”に!] 埼玉西武ライオンズ 2016年8月26日配信</ref>。
* [[2017年]]、前年に引き続き「ライオンズ フェスティバルズ 2017」を開催。それに伴い7月21日‐8月17日の公式戦24試合(ビジターゲーム含む)にて、球団歌「[[地平を駈ける獅子を見た]]」の歌詞の一節である「空青く、風白く、地は緑、炎の色の獅子を見た」に由来する赤色の“炎獅子【えんじし】”ユニフォームを着用する<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/00000267.html 炎の色の獅子を見よ!「ライオンズ フェスティバルズ 2017」期間限定ユニフォームは真っ赤に燃える“炎獅子【えんじし】”ユニフォームに決定!] 埼玉西武ライオンズ 2017年4月8日配信</ref>。このユニフォームを着用してから、球団が西武になってからは初めてで、西鉄時代の1958年以来となる13連勝を記録した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/08/04/kiji/20170804s00001173261000c.html 西武59年ぶり13連勝!“絶好調男”山川V打で首位ソフトB下す] スポーツニッポン 2017年8月4日</ref>。結果は20勝4敗、勝率.833と好成績を残した<ref>[https://www.sanspo.com/article/20170818-MJGZFVEGENL7TPTVRZ6JAVVA54/ 強すぎる!西武、“戦闘服”炎獅子ユニで20勝4敗締め] サンケイスポーツ 2017年8月18日</ref>。
** 対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦では、楽天側がビジターユニフォームだと見分けがつかないため、楽天がホームユニフォームを着用する。
** 上述したとおり、好成績を残したことから8月27日、9月13日~9月21日の公式戦8試合での炎獅子ユニフォーム再着用が発表された。
** 10月8日、4年ぶりに進出したクライマックスシリーズ(CS)に向けて、選手や監督からの要望により、CSファーストステージとファイナルステージ(進出の場合)で再々着用することが発表された(レギュラーシーズンと異なりファーストステージの対戦相手となる楽天はビジターユニフォームを着用するため同系色のユニフォームでの対決となる)。限定ユニフォームでCSを戦うのはクライマックスシリーズ創設以来初めてのこととなる。
* [[2018年]]、「ライオンズ フェスティバルズ 2018」の開催に伴い、7月20日-8月16日の公式戦21試合(ビジターゲーム含む)にて、2016年から続く「ライオンズ フェスティバルズユニフォーム」三部作の集大成として、球団歌「地平を駈ける獅子を見た」の歌詞"空青く、風白く"に由来する、ブルーを基調とし、白き風と無数のチャンピオンフラッグがデザインされた『獅子風流≪ししぶる≫ユニフォーム』を着用する<ref>{{Cite news|title=「ライオンズ フェスティバルズ2018」期間限定“獅子風流≪ししぶる≫”ユニフォームを発表!この夏はライオンズが辻風を巻き起こす!!|埼玉西武ライオンズ|url=http://www.seibulions.jp/news/detail/00001504.html|accessdate=2018-04-10|language=ja|work=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト}}</ref>。
* [[2019年]]、「ライオンズ フェスティバルズ 2019」の開催に伴い、7月19日-8月15日の公式戦24試合(ビジターゲーム含む)にて、「平成時代の王者だったライオンズが、新たな時代([[令和]])においても王者であり続けるように」という願いを込めた『令王≪レオ≫ユニフォーム』を着用する。球団歌「地平を駈ける獅子を見た」をテーマにしたユニフォーム3部作の完結に伴い、メインテーマをチームの象徴である「ライオン」に定め、胸ロゴと背番号にライオンのたてがみをイメージしたゴールドを使用。胸元には躍動する青き獅子を配置した他、チームがファンと一つになって戦う姿をライオンの群れになぞらえ、頭文字の”L”を躍動感あるデザインで柄として採用した<ref>{{Cite web|和書|title=7/19(金)~「ライオンズ フェスティバルズ 2019」は期間限定“令王≪レオ≫”ユニフォームで、新時代“令和”初の王座をつかみ獲る!|埼玉西武ライオンズ|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00002694.html|accessdate=2019-05-06|language=ja|work=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=西武、夏の企画ユニホーム発表 「令王《レオ》」ユニで“令和初王座”つかむ|url=https://full-count.jp/2019/05/06/post365970/|website=Full-Count|accessdate=2019-05-06|language=ja}}</ref>。
* [[2020年]]、ライオンズ命名70周年を記念した2020シーズン中の16試合において「ライオンズ70周年シリーズ」を開催し、当該試合において9度のリーグ優勝を達成した1985~94年の”黄金期”を彷彿とさせる「70周年ユニフォーム」を着用すと発表<ref>{{Cite web|和書|title=“ライオンズ70周年ユニフォーム”&“サードユニフォーム”チーム着用日と“各種ユニフォーム付きチケット”販売のお知らせ|埼玉西武ライオンズ|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00003824.html|website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト|accessdate=2021-03-18|language=ja}}</ref>。長年ファンに親しまれた水色基調のライオンズブルーをベースに、胸には筆記体の「Lions」ロゴ(胸番号、背番号と共にライオンズブルーからネイビーへのグラデーション仕様)が入り、左袖には70周年仕様のレオマーク、右袖にはビクトリーエンブレム「WE ARE ONE」があしらわれた<ref>{{Cite web|和書|title=西武、2020年出陣式開催で“黄金期ユニ”披露 年間16試合で70周年シリーズ開催|url=https://full-count.jp/2020/01/28/post673089/|website=Full-Count|accessdate=2020-02-03|language=ja}}</ref>。後に日程変更で15試合での着用となった<ref>{{Cite web|和書|title=ライオンズ70周年「SPIRIT of KING」が始動!70周年ユニフォーム発表&4/21東京ドーム開催を含む3試合でビジター外野除く来場者全員配布(※)|埼玉西武ライオンズ|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00003410.html|website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト|accessdate=2020-02-03|language=ja}}</ref>。[[2021年]]も継続して使用(試合数未定)。
* [[2021年]]、2年ぶりに「ライオンズ フェスティバルズ 2021」を開催。それに伴い7月13日-8月29日の公式戦17試合(ビジターゲーム含む)にて、「『最高』の結果を出し、彩の国で再び王者に返り咲くこと」への想いを込めた、色鮮やかな「彩虹(さいこう)ユニフォーム」を着用する<ref>{{Cite web|和書|title=7/13(火)~「ライオンズ フェスティバルズ 2021」を2年ぶりに開催!色鮮やかな「彩虹(さいこう)ユニフォーム」で真夏のお祭りを楽しもう!|埼玉西武ライオンズ|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00004572.html|website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト|accessdate=2021-05-05|language=ja}}</ref>。球団歌「地平を駈ける獅子を見た」の歌詞"激しく 雄々しく 美しく たてがみ虹の尾をひいて"をもとに、ライオンの誇りであるたてがみに、選手たちの多様な個性を、今年のライオンズフェスティバルズ全体のテーマである「[[持続可能な開発目標|SDGs]]」の色等でカラフルに表現した<ref>{{Cite web|和書|title=西武が夏季限定「彩虹ユニフォーム」お披露目 7~8月の計17試合で着用予定 | BASEBALL KING|url=https://baseballking.jp/ns/276525|website=BASEBALL KING|accessdate=2021-05-05|language=ja}}</ref>。胸ロゴと背ネーム・番号は白抜き文字、袖はレジェンドブルーで、袖口とサイドにはゴールドのラインが入れられている。
* [[2022年]]、「ライオンズ フェスティバルズ 2022」の開催に伴い、7月22日-8月21日の公式戦24試合(ビジターゲーム含む)にて、「WILD WILD SUMMER 野性に還る夏」をテーマにした「WILD WILD ユニフォーム」を着用する。大自然のワイルドさ、灼熱のサバンナを想起させるカーキを基調とし、逞しい獅子の強さを表す爪痕や、仲間と競い合い、しのぎを削るグラウンドを颯爽と駈ける選手をイメージしたデザインとなった<ref>{{Cite web|和書|title=7/22(金)~「ライオンズ フェスティバルズ 2022」を開催!今年のテーマは「WILD WILD SUMMER 野性に還る夏」!|埼玉西武ライオンズ |url=https://www.seibulions.jp/news/detail/00005678.html |website=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |access-date=2022-09-10 |language=ja}}</ref>。
* 2023年、公式戦6試合において「西武特急シリーズ」を開催。これに伴い、チームスローガンである「走魂」と西武鉄道の新型特急「[[Laview]]」をモチーフとしたデザインのユニフォームを着用する(イースタン・リーグでも4試合で着用)<ref>{{Cite web|和書|title=6/30(金)~「西武特急シリーズ」開催決定!西武鉄道の新型特急Laview(ラビュー)をイメージした限定ユニフォームを発表 |url=https://www.seibulions.jp/news/detail/202300245246.html |website=埼玉西武ライオンズ |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。全身は車体をイメージした白銀を基調とし、ロゴ・ネーム・番号は内装をイメージした黄色となった<ref>{{Cite web|和書|title=【西武】西武特急シリーズ限定ユニホームを発表 松井稼頭央監督「スピード感あふれるプレーで躍動してほしい」 |url=https://hochi.news/articles/20230312-OHT1T51045.html |website=スポーツ報知 |date=2023-03-12 |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。
* 同年の「ライオンズ フェスティバルズ 2023」では、8月1日-27日の公式戦23試合とイースタン・リーグ18試合(いずれもビジターゲーム含む)にて「蒼空ユニフォーム」を着用する。「突き抜けろ。蒼く、強く、高く。」をコンセプトに定め、晴れ渡った夏の蒼空を表現したライオンズブルーの下地に、飛行機雲を想起させるライオンズ初の「ピンストライプ」を採用した<ref>{{Cite web|和書|title=8/1(火)~「ライオンズ フェスティバルズ 2023」を開催!期間限定ユニフォーム「蒼空ユニフォーム」の販売も本日スタート! |url=https://www.seibulions.jp/news/detail/202300282423.html |website=埼玉西武ライオンズ |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。
== ユニフォームのスポンサー ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
* ヘルメット - [[ジャパンエナジー|JOMO ジャパンエナジー]](2001年 - 2003年)→[[ピザーラ]](2004年 - 2007年)→[[ディップ (企業)|バイトルドットコム]](2008年 - 2010年)→カナディアン・ソーラー(2011年 - 2012年・オールスター戦前)→[[ベルーナ]](2015年 - )
* キャップ - ヨコオデイリーフーズ(同社が運営する「こんにゃくパーク」のロゴを掲出、2018年 - 2022年)→日本管材センター(2023年 - )
* ユニフォーム左胸 - [[ナイキ]](ホーム用2001年 - 2015年、ビジター用2002年 - 2015年)→[[マジェスティック・アスレティック|マジェスティック]](2016年 - 2022年 )→[[ファナティクス]](2023年 - )
* ユニフォーム右袖 - ヨコオデイリーフーズ(同社が運営する「こんにゃくパーク」のロゴを掲出、2023年 - )
* パンツ左腰 - [http://www.arc-q.com/colantotte/index.htm コラントッテ]{{リンク切れ|date=2015年10月}}(2010年 - 2011年)→[[そごう・西武]](2016年 - 、2017年まではブランド「リミテッド エディション」表記)
== 主な歴代の球団歌・応援歌 ==
* 球団歌
** 「[[地平を駈ける獅子を見た]]」(作詞:[[阿久悠]]/作曲:[[小林亜星]]/歌:[[松崎しげる]]/[[1979年]]発表、[[2018年]]リメイク発表)
* 応援歌
** 「若き獅子たち〜ウィー・アー・ザ・ライオンズ」(作詞:[[門谷憲二]]/作曲:[[伊藤薫 (作曲家)|伊藤薫]]/歌:西武ライオンズ応援合唱団/[[1986年]]発表、[[ブルー・メガホンズ]]/[[1992年]]カヴァー発表)
** 「吠えろライオンズ」(作詞・作曲:[[石川優子]]/歌:[[成田洋明]]、ライオンズ応援合唱団/[[1996年]]発表、[[広瀬香美]]/[[2020年]]カヴァー発表)
「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:[[長戸大幸]])もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている<ref group="注釈">[[テレビ埼玉]]では[[TBSテレビ]]・[[TBSビジョン]]との提携関係にあったとき([[1990年代]]初めまで)に、[[TVSライオンズアワー]]の中継において、この楽曲を中継のエンディングテーマソングとして使ったことがある。</ref>。
福岡で球団創設してのちの1951年にチーム名がクリッパースからライオンズに変更して70周年に当たる2020年には、広瀬香美がカヴァーした「吠えろライオンズ」が6月9日にリリースされた。リニューアルにあたり、歌詞が「西武ライオンズ」から「埼玉西武ライオンズ」に改められている<ref>"[https://www.seibulions.jp/news/detail/00003708.html 球団応援歌を初のリニューアル!「吠えろライオンズ LIONS 70th バージョン」歌い手は広瀬香美さん!ラッキー7を一緒に盛り上げてくれるファンクラブ会員も募集!]"(日本語). 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト. 2020年6月8日閲覧。</ref>。
[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」([[日本スポーツ出版社]]→[[廣済堂|廣済堂出版→廣済堂あかつき]])では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。
ほか[[文化放送]]が「[[文化放送ライオンズナイター]]」用の挿入歌として[[ばんばひろふみ]]・[[梶原しげる]](当時同局アナウンサー)がそれぞれ歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」(作詞・作曲:[[CHAGE and ASKA|チャゲ&飛鳥]] 編曲:[[村上啓介]])という楽曲が[[1985年]]に発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。
* 福岡時代の主な球団歌
** 「[[西鉄野球団歌|西鉄野球団歌(西鉄クリッパースの歌)]]」([[1950年]]発表。[[サトウハチロー]]作詞・[[古賀政男]]作曲。古賀政男音楽記念館に楽譜・歌詞・再録音源が存在する。)<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nnp/anatoku/article/504892/ 西武ライオンズの先祖に“幻の球団歌” 1950年に1シーズンだけ存在「西鉄クリッパース」] - [[西日本新聞]]、2019年4月23日、6時00分。</ref>
** 「[[西鉄ライオンズの歌]]」([[1951年]]発表。[[1958年]]の主力選手=[[稲尾和久]]、[[豊田泰光]]らが歌った音源も存在する。)
** 「[[君こそライオンズ]]」([[1974年]]発表。[[西郷輝彦]] 太平洋→クラウン時代。[[今陽子]]が歌った未発売音源も存在する。)
** 「惚れたぜライオンズ」([[1975年]]発表。[[中村基樹]]=当時[[RKB毎日放送]]アナウンサー 太平洋時代)
** 「ぼくらの憧れライオンズ」([[子門真人]]・少年ライオンズ 太平洋時代。シングルレコード盤「惚れたぜライオンズ」のB面に収録。)
== 主なキャンプ地 ==
* [[宮崎県]][[南郷町中央公園野球場|日南市南郷中央公園野球場]](一軍春季、秋季)
* [[西武第二球場]]
* [[高知県立春野運動公園野球場]](二軍春季)
=== 過去 ===
* [[長崎県]][[島原市営球場]](福岡時代)
* [[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]][[ブレイデントン]]<ref group="注釈">当時の報道では「ブラデントン」という表記が一般的であった。</ref>(1979年のみ)
* アメリカ合衆国[[ハワイ州]][[マウイ島]](1990年代前半)
== 1982年以降のチームスローガン ==
{{Div col}}
; 広岡監督時代
* 1982年:新風
* 1983年:闘球
* 1984年:鋭球
* 1985年:爽球
; 森監督時代
* 1986年:飛躍
* 1987年:前進
* 1988年:鍛える
* 1989年:魅せる
* 1990年:燃えて
* 1991年:雄々しく
* 1992年:初心
* 1993年:新たに
* 1994年:チャレンジ
; 東尾監督時代
* 1995年:感動のドラマがある
* 1996年:熱く、激しい感動。
* 1997年:Hit!Foot!Get!
* 1998年:夢へHit!Foot!Get!
* 1999年:栄光へ、Hit!Foot!Get!
* 2000年:Hit!Foot!Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。
* 2001年:Hit!Foot!Get!栄光への挑戦
; 伊原監督時代(西武ライオンズ時代)
* 2002年:全力 To The Best
* 2003年:栄光へ全力!
; 伊東監督時代
* 2004年:'04挑戦はじまる。
* 2005年:'05挑戦ふたたび。
* 2006年:'06挑戦あるのみ。
* 2007年:心を、ひとつに。力を、ひとつに。
; 渡辺監督時代
* 2008年:No Limit!2008
* 2009年:No Limit!2009
* 2010年:No Limit!2010 逆襲の獅子
* 2011年:No Limit!2011 勝利への執念
* 2012年:出しきれ!ライオンズ - このスローガンは、「朝日ニュースター」の野球中継のタイトルにも使用されている。
* 2013年:骨太!ライオンズ イズム 2013
; 伊原監督時代(埼玉西武ライオンズ時代)
* 2014年:全力! ライオンズ 攻めも、守りも、応援も。
; 田邊監督時代
* 2015年:ガチ!マジ! ガチで戦う、マジで熱く。それがライオンズだ!
* 2016年:BEAST! 強く、猛々しく。
; 辻監督時代
* 2017年:CATCH the ALL つかみ獲れ! - シーズン終盤は「つかみ獲れ!」を「栄光をつかみ獲れ!」に変更。
* 2018年:CATCH the FLAG 2018 栄光をつかみ獲れ!
* 2019年:CATCH the GLORY 新時代、熱狂しろ!
* 2020年:Leolution!
* 2021年:BREAK IT
* 2022年:Change UP!
; 松井監督時代
* 2023年:走魂
{{Div col end}}
== マスコット ==
ライオンズの[[マスコットキャラクター]]は、埼玉移転後に制定された以下の2体である。どちらもデザインは[[手塚治虫]]が手掛けた。詳しくは当該項目を参照されたい。
* [[レオ (埼玉西武ライオンズ)|レオ]]
* [[ライナ (埼玉西武ライオンズ)|ライナ]]
なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンを[[ペットマーク]]に使用<ref group="注釈">太平洋からクラウンに球団名が変更された後も、同じデザインのキャラクター(帽子のマークを変えて)を使用。</ref>。西鉄時代にもライオンをデザインしたペットマークを使用された。当時のジャンパーの胸部にワッペンが縫い付けられていた。
==お台場ドーム構想==
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月}}
ドーム化前の西武ライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため、本拠地を所沢から都心である東京の[[台場 (東京都港区)|台場]]に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団<ref group="注釈">[[読売ジャイアンツ]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の3球団であった。2004年以降は日本ハムが札幌に移転したため、東京都を保護地域とする球団は現在ではセ・リーグのみの2球団である。</ref>もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、西武鉄道の利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武ライオンズ球場に屋根をかけドーム化させた。
== 福岡時代の歴史の取り扱い ==
[[ファイル:Nishitetsu Kosoku bus Lions Express01.jpg|250px|right|thumb|[[西鉄高速バス]]「[[Lions Express]]」(2011年から2015年まで運行)]]
西武による買収以降、当時の[[堤義明]]オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した<ref name="kyushu6">{{Cite news |title = 九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (6/8ページ)|newspaper = msn産経ニュース |date = 2013-12-17 |url = http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131217/biz13121722550025-n6.htm |accessdate = 2014-03-13 |publisher = 産業経済新聞社 }}</ref> ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。
球団の公式記録は、全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった<ref group="注釈">例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創立からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。</ref>。また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団の[[OB・OG|OB]]として認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった<ref group="注釈">1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない[[豊田泰光]]は上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。なお、豊田は2016年8月14日に誤嚥(ごえん)性肺炎のため、81歳で死去した。</ref><ref group="注釈">西鉄時代から在籍していた東尾修と大田卓司や、その他相当数残っていた太平洋・クラウン時代から在籍した選手([[鈴木葉留彦]]・[[立花義家]]など)は球団生え抜きとは扱われず、クラウンから「トレード」された扱いであった。</ref>。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。
ところが、[[2005年]]に堤が西武鉄道株をめぐる[[証券取引法]]違反で失脚し、2007年に[[後藤高志]]がオーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる<ref name="kyushu6" />。2008年は西武球団創設(埼玉移転)30周年(30シーズン目)と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6月から8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「[[ライオンズ・クラシック]]」企画が[[豊田泰光]]監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の[[福岡ソフトバンクホークス]]本拠地である[[福岡ドーム|福岡Yahoo! JAPANドーム]])でも2試合着用した。これは2009年以降も福岡野球時代や西武時代初期なども対象に加えて、年度により不定期で行われることがある。
これを契機に、公式ウェブサイト内年表において西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが<ref>[https://web.archive.org/web/20080203084903/http://www.seibulions.jp/company/ 球団情報 | 西武ライオンズ (Internet Archive 2008年2月3日時点でのアーカイブ)]</ref>、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。さらに、[[2012年]]には西鉄時代の選手である[[稲尾和久]]の「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初の[[永久欠番]]に指定された<ref name="ketsuban_24" />。
またチームカラーも、西鉄時代の黒と西武時代前期の青を融合させた紺色が「レジェンドブルー」の名称で採用された。差し色として使われている赤も、特に明確な採用意図が説明されていないが、福岡野球(太平洋クラブ・クラウンライター)時代のチームカラーだった。
一方の西鉄側でも、売却以降ライオンズの歴史はタブー視していたが<ref name="kyushu6" />、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった<ref>{{Cite news |title = 九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (7/8ページ) |newspaper = msn産経ニュース |date = 2013-12-17 |url = http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131217/biz13121722550025-n7.htm |accessdate = 2014-03-13 |publisher = 産業経済新聞社 }}</ref>。[[2011年]]には両社の系列である[[西鉄高速バス]]と[[西武観光バス]]の共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両により<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2011/11_141.pdf |title=夜行高速バス 福岡〜横浜・池袋(大宮)線「Lions Express」 デザイン決定!|format=PDF|publisher=西鉄高速バス・西武観光バス|date=2011-12-01 |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>[[Lions Express]]が運行を開始し(2015年5月に運行廃止)<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2011/11_127.pdf |title=[高速バス]福岡〜横浜・池袋(大宮)線「Lions Express」 12/8から運行開始|format=PDF|publisher=西鉄高速バス・西武観光バス|date=2011-11-11 |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>、西鉄公式ホームページでも「にしてつwebミュージアム」で過去の電車やバスの画像と共に西鉄ライオンズを紹介している<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.nishitetsu.co.jp/museum/index2.html |title = にしてつwebミュージアム |accessdate = 2014-12-04 }}</ref>。
== 応援スタイル ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月}}
{{See also|チャンステーマ}}
ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。得点時には球団歌の「[[地平を駈ける獅子を見た]]」のBメロ - サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「ワッショイ」×3、「1・2・3・ダー」と続く(1992年開始以来変更無し)。5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「[[白いボールのファンタジー]]」が代わりに演奏される。応援のリードに[[バスドラム]]が用いられる。トランペットの使用が禁止されている[[宮城球場]]では攻撃開始前及び出塁時のファンファーレの代わりに「埼玉!西武!Let's Go Let's Go ライオンズ」の掛け声が使われる。
主催試合では[[オルガン]]の演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。勝利時には福岡時代からの名残で「[[炭坑節]]」が演奏される。
2013年までは「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続けていた。ただし、[[中村剛也]]の打席のときは中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。
2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。
1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。[[西武ドーム]]で[[細川亨]]がチャンスで打席に立ったとき、[[伊東勤]]元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。[[チャンステーマ]]としては背番号7の選手(2008年から2013年までは[[片岡易之]]、2014年から2015年までは[[脇谷亮太]])及び[[中島裕之]]の打席で[[石毛宏典]]の応援歌、外国人選手の打席で[[アレックス・カブレラ]]の応援歌や[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]の応援歌が使用されている。2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた([[小関竜也]]や[[佐藤友亮]]など)。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかった[[アレックス・カブレラ]]の応援歌は[[マイク・パグリアルーロ]]以降、[[ダリン・ジャクソン]]、[[ドミンゴ・マルティネス]]など歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、[[和田一浩]]の応援歌は[[仲田秀司]]の曲の流用(歌詞は異なる)である。
7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「[[#主な歴代の球団歌・応援歌|若き獅子たち]]」も相手投手交代の際などに使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。
アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。
7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時に[[ジェット風船]]を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。
汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が一軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の[[炭谷銀仁朗]]以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。なお、2019年から汎用テーマの使用開始に伴い、代打テーマは廃止されている。<ref>http://wakajishi-seibulions.com/archives/90</ref>
== 不祥事 ==
=== 黒い霧事件 ===
{{Main|黒い霧事件 (日本プロ野球)}}
1969年から1971年にかけて起きた[[八百長]]事件で、主力だった[[池永正明]]などが関与して池永は[[永久追放]]処分を受けた(後に解除)。詳細については上記を参照とのこと。
=== 2007年裏金問題 ===
2007年3月9日、[[太田秀和]]球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手([[東京ガス硬式野球部|東京ガス]]の投手[[木村雄太]]<ref>{{Cite web|和書|title=「あの事件で大人に」ロッテ木村が7年目でプロ1勝 - 野球 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1458836.html|website=nikkansports.com|accessdate=2020-03-12|language=ja}}</ref><ref group="注釈">その後、[[2008年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2008年のドラフト会議]]で[[千葉ロッテマリーンズ]]からドラフト1位で指名されて入団したが、現在は引退している。</ref>と早稲田大学の清水勝仁<ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com:「本人、知らなかったことに」西武が偽装指示 早大会見 - ドラフト裏金|url=http://www.asahi.com/special/070313/TKY200703150159.html|website=www.asahi.com|accessdate=2020-03-12}}</ref>)に対するスカウト行動で、現金1,300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。さらに、2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたこともわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6,000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事<ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com:西武調査委が最終報告書 処分は連休明け以降に - ドラフト裏金|url=http://www.asahi.com/special/070313/TKY200704250321.html|website=www.asahi.com|accessdate=2020-03-12}}</ref>、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。
この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。
2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦([[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。
[[日本プロフェッショナル野球組織]]は5月29日、球団に対し制裁金3,000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋の[[高校生ドラフト]]での指名は3巡目からとすることを処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。
スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。
== グッズショップ ==
本拠地であるベルーナドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスはベルーナドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。
* ライオンズ チームストア フラッグス(埼玉県所沢市、ベルーナドーム前の2階建て建物、2019年7月に球団創設40周年事業の一環で建設。)
* [[アルシェ|大宮アルシェ]](埼玉県[[さいたま市]][[大宮区]])
* [[所沢駅|所沢ステーション]](埼玉県所沢市、グランエミオ所沢2階)
* [[ペペ (商業施設)|本川越ペペ]](埼玉県[[川越市]]、西武本川越ペペ3階)
* [[西武の店舗一覧#池袋本店|西武池袋本店]](東京都[[豊島区]]、[[池袋駅|西武池袋駅]]直結・8階)
このうち、ともに移転前の本川越と所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。
== ファンサービス ==
=== ファンクラブ ===
球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・レギュラーC・ジュニアの5コースがある。ベルーナドームの飲食売店やグッズショップで'''Lポイント'''を貯めることができる。グッズショップや[[西武鉄道]]の主要駅で入会申し込みができる。
==アニメとのコラボレーション==
親会社である西武鉄道沿線に[[アニメ制作会社]]が多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。
コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当した[[声優]]が来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『[[ダイヤのA]]』や『[[ドラゴンボール超]]』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。
[[2018年]]4月からは、本拠地・所沢に[[ところざわサクラタウン]](アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手[[KADOKAWA]]とコラボしたフリーマガジンを発行している。
なお、西武ライオンズを題材としたアニメとして、西武移籍当初の[[田淵幸一]]をモデルとした『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』([[いしいひさいち]]原作)が存在する。作中では選手や監督のみならず当時のオーナーであった堤義明をイジる描写も多数見られたが、堤本人や球団、グループ会社からの言及や抗議は一切なかった。こちらも2009年に開催された[[ライオンズ・クラシック]]で上映が行われている。
=== 主なコラボ作品 ===
'''太字'''は、埼玉県を舞台とした作品。
括弧内は、その作品を制作したアニメ制作会社。
* '''[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]]'''([[A-1 Pictures]])
* [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん]]([[シンエイ動画]])
* '''[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]'''(シンエイ動画)
* '''[[心が叫びたがってるんだ。]]'''(A-1 Pictures)
* [[ダイヤのA]]([[マッドハウス|MADHOUSE]]、[[プロダクション・アイジー|Prodaction I.G]])
* [[ドラゴンボール超]]([[東映アニメーション]])
* '''[[らき☆すた (アニメ)|らき☆すた]]'''([[京都アニメーション]])
* '''[[ヤマノススメ (アニメ)|ヤマノススメ]]'''([[エイトビット]])
* [[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]]([[オー・エル・エム]])
* [[アイドルマスターシリーズ]](A-1 Pictures)(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]([[トムス・エンタテインメント]])
* [[あたしンち]](シンエイ動画)
* '''[[月がきれい]]'''([[フィール (アニメ制作会社)|feel.]])
* [[ALL OUT!!]](トムス・エンタテインメント、MADHOUSE)
* [[メジャーセカンド]](オー・エル・エム)
* [[BanG Dream!]](ISSEN、[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]])(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)
* [[アニマエール!]]([[動画工房]])
* [[機動戦士ガンダム]]([[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]])(西武単独ではなくNPBとして実施)
* [[MIX (漫画)|MIX]](オー・エル・エム)
* '''[[空の青さを知る人よ]]'''([[CloverWorks]])
* [[ラブライブ!シリーズ]](サンライズ)(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)
* [[SPY×FAMILY]](WIT STUDIO、CloverWorks)(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)
== 放送 ==
; 地上波テレビ(関東キー局)およびBSの[[放映権 (日本プロ野球)|放映権]](2023年の放映実績)
* [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[テレビ朝日]]・[[BS朝日]])- BS朝日は交流戦の対巨人戦・対巨人戦以外の地上波放送時(生中継・録画中継問わず)・[[クライマックスシリーズ]]のみ映像は球団制作映像と独自映像を併用し、スコア表示も自社で差し替える一方、それ以外のカードはスコア表示を含めて球団制作映像を使用する。
* [[S☆1 BASEBALL]]([[TBSテレビ]]・[[BS-TBS]]) - 球団制作映像を使用する場合でもテロップは自社のものに差し替える。
* [[NHKプロ野球]]([[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]・[[NHK BS1|BS1]]・[[NHKラジオ第1放送|ラジオ第1]])
* [[BS12 プロ野球中継]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12トゥエルビ]])- 主催・ビジターとも球団制作中継を放送。2022年からは西武主催時も主音声の実況を独自制作。
* [[野球道 (フジテレビ系列)|野球道]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[BSフジ]])※ - 球団制作だが解説、実況は自社での差し替えを実施。
* [[ALWAYS Baseball]]([[テレビ東京]]・[[BSテレビ東京|BSテレ東]])※ - 映像は球団制作と独自制作を併用し、実況は自社制作だが、[[TVQ九州放送]]で対ソフトバンク戦を放送する際は地上波福岡県ローカルとの同時ネットで放送する場合がある。
: ※ [[テレビ東京]](地上波)は埼玉移転から1980年代中頃まで中継を実施し、その後は中継を実施していなかったが2006年9月18日に1試合のみ中継した(対戦相手はソフトバンクだったが、その地元福岡県では同系列のTVQ九州放送では無くTBS系列の[[RKB毎日放送]]が別途乗り込んだ)。また、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]は「フジテレビTWO」に対する球団制作中継の放映権を保有しているが、地上波については年度により西武主催の試合を中継したことがある。ただし、試合毎の個別契約のため、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]](自社では1983年・1999年に数試合中継)を含めた地上波5局のビジター側地元系列局やテレビ東京系列のBSテレ東では年度により西武主催の試合を中継することがある。
: そのことから、[[日本選手権シリーズ#地上波系列全国放送|日本シリーズ]]中継は1980年代中期まではTBSテレビが、それ以後はテレビ朝日が多く推薦されている。
=== 現在放送しているライオンズの冠番組 ===
; 試合中継
* ラジオ
** [[文化放送ライオンズナイター]]([[文化放送]])- 平日(月〜金曜日)のラジオ放送。
** [[NACK5 SUNDAY LIONS]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]])- 日曜日のラジオ放送。
*** ライオンズのラジオによる実況中継放送は、[[広域放送|関東広域圏]]・[[埼玉県]]を[[放送対象地域]]としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、4月から9月までの大半の試合が放送されている。ラジオ放送のない土曜・祝日のデーゲームも、一部のカードを除いて文化放送が番組公式サイトでWeb配信を実施している。
* テレビ
** [[TVSライオンズアワー]]([[テレビ埼玉]])- 映像は球団制作の物をベースに使用し、実況は独自。球団制作映像のスコア表示にスポンサーロゴが入った場合は、スコア表示も自社で差し替え。
** [[LIONS BASEBALL L!VE]]([[フジテレビTWO]])- 西武球団制作で放送。
; 応援番組
* [[LIONS CHANNEL]](テレビ埼玉)
* LTV〜ライオンズ徹底応援宣言!〜([[ジュピターテレコム|J:COMチャンネル]]|埼玉、東京、群馬の一部地域) 旧:埼玉西武ライオンズTV
=== かつて放送されていた番組 ===
* [[レッツゴー!ライオンズ]](TBSテレビ)
* はつらつライオンズ(テレビ埼玉)
* [[プロ野球熱闘ライオンズ]](BS朝日)
* [[断然 パ・リーグ主義!!|プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター]]([[日本BS放送|BS11デジタル]])
** BS12トゥエルビと分担して球団制作中継を放送していたが、BS11デジタルのプロ野球中継撤退により、BS12トゥエルビに一本化した。
* [[J SPORTS STADIUM]]([[J SPORTS]])
* [[プロ野球完全中継 ライオンズ|プロ野球完全中継 ○○!ライオンズ]]([[テレ朝チャンネル#テレ朝チャンネル2 ニュース・情報・スポーツ|テレ朝チャンネル2]]<ref group="注釈">旧・[[朝日ニュースター]]。</ref>)- 球団制作で放送。
** 上記2番組は球団制作中継を放送していたが、実況アナウンサーや解説者はテレビ朝日から派遣されることがあった。
==== 福岡時代の番組 ====
; テレビ
* [[DRAMATIC BASEBALL|プロ野球ナイター]]([[テレビ西日本]]→[[福岡放送]])<ref group="注釈">[[1965年]]-[[1968年]]は、本来福岡県をカバーする日本テレビ系だった[[テレビ西日本]]がフジテレビ系にネットチェンジした後も、特例で対巨人のオープン戦などフジテレビ系がローカルセールス枠となるデーゲームを中心に、日本テレビ系向けの中継を制作し、[[1969年]]の福岡放送移行まで継続した。</ref>
* [[がんばれ太平洋ライオンズ]]([[福岡放送]])
; ラジオ
* [[RKBエキサイトホークス|RKBエキサイトナイター]]([[RKBラジオ|RKB毎日放送]])
* [[KBCホークスナイター|KBCジャンボナイター]]([[KBCラジオ|九州朝日放送]])
== 埼玉西武ライオンズ・レディース ==
{{Main|埼玉西武ライオンズ・レディース}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連書籍 ==
* {{Cite book |和書
|editor = 南海ホークス
|title = 南海ホークス四十年史
|year = 1978
|publisher = [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]
|ref = {{SfnRef|ホークス四十年史|1978}}
}}
* {{Cite book |和書
|author= 宇佐美徹也|authorlink=宇佐美徹也
|title = 日本プロ野球記録大鑑
|year = 1993
|publisher = [[講談社]]
|isbn = 4062061082
|ref = harv
}}
* {{Cite book |和書
|editor = 南海ホークス
|title = ライオンズ60年史―獅子の記憶―「西鉄」から「埼玉西武」まで
|year = 2010
|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]
|series = B.B MOOK 672 スポーツシリーズ NO.544
|isbn = 9784583616858
|ref = {{SfnRef|ライオンズ60年史|2010}}
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Saitama Seibu Lions}}
* [[埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧]]
* [[埼玉西武ライオンズのタイトルホルダー]]
* [[ライオンズ・クラシック]] - 球団の歴史を振り返るために行うイベント
* [[BLUE LEGENDS]](チアリーディングチーム)
* [[Lism]] -埼玉西武ライオンズの季刊情報誌。
* [[LIONS MAGAZINE]] - [[西武鉄道]]の駅等で無料配布されている埼玉西武ライオンズの[[フリーペーパー]]。
* [[ときめきドットコム]] - かつて株式会社西武ライオンズが運営委託していた、ライオンズグッズのインターネット物販会社
* [[狭山不動尊]] - 西武ドームに近くの毎年開幕前に必勝祈願を行う寺
* [[Lions Express]] - 現在の本拠地・所沢と前身球団の本拠地・福岡を結ぶことにちなんで名付けられ、西武観光バスと西鉄高速バスが共同運行していた高速バス路線。
* [[UDトラックス]](旧・日産ディーゼル工業) - ライオンズの後援企業であった。この関係で[[西武バス]]でも一時期は日産ディーゼル車のみを導入していた。また、西武バス車内に掲示されていた、大宮発着のライオンズ応援バスの広告下部には日産ディーゼル製バスの広告が入っていた。
* [[さいたまブロンコス]] - 所沢市を本拠地とするプロバスケットボールチーム。埼玉西武ライオンズと始球式などコラボレーション企画を展開する他、親会社西武鉄道も2010年よりオフィシャルスポンサーに就いている。なお、ライオンズの試合を放送している[[文化放送]]でもライオンズが縁で2021年より業務資本提携を結んでいる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://broncos20.jp/news/210216.php |title=東京のラジオ局 文化放送と資本業務提携が決定|publisher=公式サイト|date=2021-2-16|accessdate=2021-2-28}}</ref>。
* [[埼玉武蔵ヒートベアーズ]] - 埼玉県熊谷市を本拠地とする[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|BCリーグ]]に所属するプロ野球チーム。
* [[プライドドリームス埼玉]] - 埼玉県内のプロスポーツチームで結成された組織。
* [[翼軍]](東京セネタース) - 旧・西武鉄道が戦前に杉並区上井草を本拠地に設立したプロ野球創成期のチームの一つ。親会社が源流企業の一つという縁で「[[ライオンズ・クラシック]]2013」のメインに採用される。ちなみにセネタースは、ライオンをペットマークに使用していた。
* [[西鉄ライオンズ研究会]]
* [[セゾングループ]] - [[コクド]]が球団を買収した時には既に[[西武鉄道グループ]]から分離した後だったが、優勝記念セールなどは[[西武百貨店]]・[[西友]]などのセゾングループ各店で行っていた。
* [[セブン&アイ・ホールディングス|セブン&アイ・グループ]]
** [[そごう・西武]] - 旧西武百貨店の後身で球団スポンサーの1つ<ref name="ball2021">[https://www.seibulions.jp/news/detail/00004401.html 2021シーズンのライオンズ主催試合は「そごう・西武」企業ロゴ入り統一試合球を使用](2021年3月18日 '''埼玉西武ライオンズ'''、2021年3月20日閲覧)</ref>。セブン&アイHDの子会社。セブン&アイと西武グループは株式を持ち合っており、優勝時には[[西武の店舗一覧|西武]](旧西武百貨店)や関東地区の[[そごうの店舗一覧|そごう]]だけでなく一部の[[イトーヨーカ堂]]などでも優勝セールを行っている<ref>[https://www.itoyokado.co.jp/__resources__/66e121b3-8fe9-4f14-8c43-10cb1268c0b5.pdf ~2018パシフィック・リーグ~埼玉西武ライオンズ「優勝おめでとう」セール](2018年9月28日 イトーヨーカ堂、2021年3月20日閲覧)</ref>。
==外部リンク==
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千葉ロッテマリーンズ
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千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。株式会社千葉ロッテマリーンズは、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
1950年のリーグ分裂時に毎日新聞社を親会社とする毎日オリオンズとして発足したのち、大映ユニオンズを合併して毎日大映オリオンズ(大毎)となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が東京→ロッテと変遷し、本拠地も東京都→仙台市→川崎市と変遷したが、1992年より千葉市を本拠地とし球団名も千葉ロッテマリーンズとなり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと、昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成した。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請する。
リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。
この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成し、2リーグ制初代日本一球団になった。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。なお、プレーオフを介さない1シーズン制において、年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」になっている。
首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し、故意に試合をノーゲームにする毎日側の策略に観客が激怒し、暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。
首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる。
3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。
山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率を挙げ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
シーズン成績は3位。
1957年11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し、毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任する「逆さ合併」だった。
葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。オフにはこの年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。
優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。
西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で1950年以来10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。
この年で毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。毎日の撤退は戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズの記述が著しく少ないと指摘がある。
3年連続Bクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。
1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。1962年限りで監督の宇野光雄が解任。
1964年より球団名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策ではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している。この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も1965年1月に引き上げ、後援も1966年度シーズンで打ち切っている。球団は完全に永田が掌握したが会社名は「毎日大映球団」を維持した。
4年連続Bクラス(1964年・4位→1965年・5位→1966年・4位→1967年・5位)。
1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し、チームも1960年以来8年ぶりのAクラス、3位入りしている。
1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名をロッテオリオンズに改称。ただ、正式な球団買収ではないので、球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行い、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば、命名権の制度に近い)を取得する形として留まった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
首位阪急と5.5ゲーム差の3位。
1960年以来10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗退した。なお、ロッテはこの年を最後にプレーオフを介さない1シーズン制において、1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をしておらず、本拠地については1973年から「宮城球場」、1978年から「川崎球場」、1992年から「千葉マリンスタジアム」に移転するため、東京球場および本拠地での年間勝率1位によるリーグ優勝はこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている。
1967年に巨額の負債が表面化して以来続いていた大映の経営状態はいよいよ切迫し、1月25日をもって大映は球団経営から撤退。永田もオーナーを辞任する。永田から直々に社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請されたロッテは岸の秘書で副オーナー・個人株主として球団に参加していた中村長芳と共に正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になった。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。重光は当時野球にさほど興味を持っていなかったため、オーナー職は中村に委ねた一方、これまでの球団経営の労苦に配慮し、オーナーを退いた永田を取締役として残した。
7月13日、西宮での対阪急戦で江藤慎一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され、二軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった。
前年と一転、Bクラスの5位に転落。オフに中村がオーナーを辞任し、後任に重光が新オーナーに就任。東京球場は永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し、球場の買い取りを要求したが、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、オフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから、交渉は決裂。東京球場は閉鎖されたため、本拠地球場を失った。観客動員は31万人で本拠地東京球場は閑古鳥が鳴いていた。金田が監督に就任したのは同じ在日韓国人の重光に「ワシをロッテオリオンズの監督にして下さい。必ず客を呼んで見せます。一流の球団にしてみせます。カネやんのいうこと信用して下さい。」と頭を下げた事がきっかけにになっている。国民的英雄の在日同胞が頼んできたのに感銘した重光は金田と男の約束を交わし、監督に起用したばかりか破格の権限を与えた。金田の年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった。金田の監督就任は前年オフに大沢と交わしていた5年契約を破棄してのもので、球団は大沢に違約金を支払う事態になった。金田の方針で小山が大洋にトレードされるが、小山は中村との約束を理由に難色を示し、球団が功労金を支払う事で、決着を見た。
1973年から宮城県仙台市宮城野区の宮城球場を中心に、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ、主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年までに続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。
パ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で、総合では3位に終わる。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)。その効果はパリーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し、理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった。オフに日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるも、これを拒否した。このため、日拓ホームフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。中村前オーナーが西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズの経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、保有していた株式をロッテに譲渡した。
金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では金田留広、木樽正明、村田兆治、成田文男らが活躍して後期優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破り、1970年以来4年ぶり4回目のリーグ優勝。中日との日本シリーズではジョージ・アルトマンを負傷で欠き、有藤もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが、4勝2敗で1950年以来24年ぶりの日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から、宮城球場ではなく、後楽園球場で行われた。この年と1977年のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城球場で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた。日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで、仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、ロッテはこの年を最後に1度も年間勝率1位になっておらず、2シーズン制において、プレーオフで後期1位からリーグ優勝・日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位から遠ざかっている球団」になっている。
前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも、総合4位に終わる。
前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。この年には9月2日にナゴヤ球場で行われた公式戦を最後に広島に所属していた若生智男が現役を引退したことにより、毎日オリオンズに所属した選手が全員引退した。
前期は5位に終わるも、後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが、3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後、同県川崎市から誘致を受け、1977年10月4日、翌年から保護地域を宮城県から同県、専用球場を同県同市川崎区の川崎球場に移転することが承認された。しかし、この14年間でリーグ優勝は1度もなかった。
移転1年目は総合4位に終わる。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝ができ、終盤に金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任し、非常勤の球団取締役となった。前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していた野村克也に選手兼任監督として後任を打診するも、金田の後任は荷が重いと固辞し、そのまま退団。
山内一弘が監督に就任。就任1年目は4位に終わった。監督の山内がルーキーの落合博満を積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。
山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し、前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。
村田が11連勝し、19勝で最多勝利のタイトルを獲得、落合はレギュラーに定着し、首位打者のタイトルも獲得。エース村田の活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、前評判は圧倒的有利だったが、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、重光武雄オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、鶴岡一人に相談し、次期監督に山本一義を推薦し、山本が監督に就任した。金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。この年にはオフに西武に所属していた長谷川一夫が現役を引退したことにより、毎日大映オリオンズ(大毎)に所属した選手と、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。
落合博満が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者三冠王となる。順位は5位に終わる。
投手陣強化を図るためレオンを放出してまでスティーブ・シャーリーを獲得するものの、村田が故障で1年間公式戦に登板できずに打線も弱体して球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。
張本勲に監督要請するも断られ、重光オーナーに監督候補を出してほしいと言われた張本は土橋正幸と稲尾和久を推薦、土橋はヤクルト投手コーチ就任が決まっており稲尾が監督に就任した。稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。石川賢が最高勝率。
落合、西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割を記録してチーム打率1位になり、投手陣は肘の手術から復帰した村田が開幕11連勝を記録し17勝5敗の成績を挙げ、仁科、新外国人の荘勝雄も2桁勝利を挙げるものの、前年最高勝率の石川、石川と同じく15勝を挙げた深沢恵雄がそろって不振に陥るなど全体的には軒並み不振だった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでもランディ・バース(阪神)が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。
落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で盗塁王。リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目の愛甲猛とバラエティに富んだ打線は前年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣は仁科時成は3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向した荘勝雄は18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり、チーム防御率5位に終わった。球団の福岡移転を熱望していたが、実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。来年はどこと契約しているのかわからない。」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた。落合は牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍した。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。
有藤道世が監督就任。女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという。この年は落合が抜け、レロン・リーが不振で、4番は若手の古川慎一や高沢秀昭らが務めたが力不足は顕著で、打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が最優秀救援投手に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。有藤と不仲だったレロン・リーが冷遇され、不調に陥り、解雇された。
この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇ったビル・マドロックは、.263 19本塁打と期待を裏切りこの年限りで解雇。高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、牛島は2年連続セーブ王に輝く。小川、村田兆治、荘勝雄、園川一美の4人が二桁勝利を挙げた。
二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)のロッテ浦和球場に移転。
村田兆治が5月13日の山形県野球場での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。防御率1位に輝く。西村は外野手転向、新加入のマイク・ディアズは.301、39本塁打、105打点の成績を残し、愛甲も3割をマーク。
順位は球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。主力の高沢、水上善雄と広島・高橋慶彦、白武佳久ら3選手とのトレードが成立。
ディアズを一時捕手で起用するなど復帰した金田監督のパフォーマンスや退場劇が注目されたがチーム成績は5位。2年目の初芝清が三塁に定着、西村が首位打者になる。10月13日に川崎球場で行われた引退試合を最後に村田兆治、袴田英利が現役を引退した。村田の引退により、東京オリオンズに所属した選手と、毎日大映球団時代に在籍した選手と、東京球場時代に在籍した選手が全員引退した。高橋慶は成績が振るわずに阪神へ移籍。8球団競合でドラフト1位指名の小池秀郎が入団拒否。
首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など、川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。8月9日の対日本ハムファイターズ戦(川崎球場)で、谷保恵美が初めて一軍試合のアナウンスを担当。9月4日、保護地域を神奈川県から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認された。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。
シーズン中に広島から高沢が復帰、平井光親が首位打者を獲得し、堀幸一は二塁に定着して20本塁打を放つ。オフに金田が監督を解任された。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が再び八木沢に追い出された形となった。監督の八木沢によると、西武コーチだった1991年の夏にオーナー代行の重光昭夫同席の下、「監督をやってくれ」と言われたという。
本拠地移転に伴う新しい球団名は当初は地名をつけた「千葉ロッテオリオンズ」となる予定だった。しかし、1991年11月1日に一転して一般公募により、改称されることとなった。11月21日、新しい球団名は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。監督の八木沢は「ドルフィンズ」を推していた。
本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。
現存12球団と楽天を除く同11球団の中で「現在の本拠地と球団名になってから1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になっていない唯一の球団」になっている。
本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、ディアズは不振で途中退団し、千葉移転初年度は前年に続き、最下位となった。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。新人の河本育之は19セーブで抑えに定着。しかし、この年にはオフにダイエーに所属していた水上善雄が現役を引退したことにより、宮城球場時代に在籍した選手が全員引退した。
この年もメル・ホールや地元出身の宇野勝を獲得し、補強を行ったが、チームの地力は上がらず、5位に終わると、移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。オフに当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、八木沢は球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した、その後は、中西太が代理監督を務め、やや持ち直すも5位に終わる。八木沢は監督時代を「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引けを取らなかったが、打線が点を取れなかった。」 と述べている。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団。伊良部秀輝は自己最多の15勝挙げて最多勝、最多奪三振を獲得。
日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していたピンク色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインに開幕からリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。代わりにフリオ・フランコ、ピート・インカビリアを獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながら1番打者に起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀、打点王を獲得した初芝清、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。
バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの、大学で広岡の後輩だったとのことで、「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。投手陣は伊良部が最優秀防御率を獲得し、ヒルマンが防御率2位、成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きを見せ、2年目の黒木知宏が奮闘したが、開幕投手を務めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪化するなどそれ以外が計算出来なかった。野手陣も外国人が活躍出来ず、初芝もマークが厳しくなって勝負強さを発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水でチームは5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍した。
横浜ベイスターズ元監督だった近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった。横浜ベイスターズ時代のスクイズの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、佐々木主浩らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。投手陣は伊良部とヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかし、ストッパーの成本が大怪我によりシーズン途中でリタイア。野手陣は新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足で、初芝と堀も不振。前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦や田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦で先発マスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打にわたり駒不足でチームは最下位に終わる。
近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱し、セットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言し、ロッテを去った。
1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組み、前年「七夕の悲劇」となった日に勝利し首位に浮上したがこの試合直後に8連敗し優勝争いからも脱落した。チームはその後も球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗と大型連敗を経験した。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、自由契約で横浜ベイスターズに移籍した。90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願で読売ジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け、退団した。2001年に福浦和也が首位打者、ミンチーが最優秀防御率を獲得した。2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している。2003年は特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。山本功児は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わるも、年々勝率を上げ、2002年・2003年は4位、2003年にはシーズン最終成績を68勝69敗3分と、借金1にまでチームを戻したところで退団。成績不振による事実上の解任だった。その際、シーズン最終戦で当時ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きた。しかし、山本功児監督時代に福浦和也、サブロー、里崎智也、小林宏之、小林雅英などを起用し、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。オフに韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃したが、シーズン全体では勝率5割を記録した。
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し、3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日に2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、1995年以来10年ぶりの勝ち越しを決めると、同時に1971年以来34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利したことで、プレーオフ進出と1995年以来10年ぶりのAクラスが確定した。9月19日、1971年以来34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージでは西武、第2ステージでは2戦先勝するも、第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り、1974年以来31年ぶりのリーグ優勝を果たした。10月22日からの日本シリーズでは第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏一死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、1974年以来31年ぶり3度目の日本一を達成した。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し、優勝している。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し、優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。なお、ロッテはこの年を最後に1度もリーグ優勝をしておらず、対外試合、ペナントレース、ポストシーズン全てにおいて、これまでにない躍動ぶりを発揮したのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている。
小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフに福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け。翌日も延長12回で引き分け。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得した。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
先発投手陣が揃って不調に陥り、開幕直後に捕手の里崎智也、橋本将、田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位に終わった。チーム防御率はリーグワースト。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、当時の契約最終年であった4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。バレンタインとの契約を同年限りとする前年12月の球団声明を受けて、長らく球団の応援活動を牽引したファングループのMVPおよび外野応援団のメンバーを中心に、バレンタインの残留を求め、球団フロント関係者を糾弾する活動がシーズン開幕前後から繰り広げられ、終盤戦では行き過ぎた言動を咎めた西岡剛への中傷・応援ボイコットにまで発展。グラウンド内外での騒動の影響もあって、チームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終えた。バレンタインは球団方針通りシーズン終了を以て監督を退任し、一連のトラブルを招いたMVP・外野応援団は解散に追い込まれた。バレンタインの後任には一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチの西村徳文が監督に昇格した。オフに韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。
序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった。日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、2005年以来5年ぶり4度目の日本一となり、パ・リーグで初めてリーグ優勝せずに日本シリーズを制した球団となった。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフに小林宏之が阪神、西岡がミネソタ・ツインズにFA移籍。堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーはなく、現役を引退した。堀の引退により、ロッテオリオンズに所属した選手と、川崎球場時代に在籍した選手が全員引退した。
3月11日に発生した東日本大震災ではQVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが、周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり、4対6で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として 以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落。交流戦は8勝14敗2分の10位。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラス、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで、最下位が確定した。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。得点は球団史上最低記録となる432、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブローがFA移籍で半年でロッテに復帰。
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど、序盤から首位争いをし、5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し、首位浮上。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。しかし、後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に3対5に敗れ、2か月半ぶりに首位陥落し、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラドーム)に1対2で敗れたことで、2年連続Bクラスが確定し、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団。10月18日、監督に伊東勤が就任。
5月9日に2006年7年ぶりの8連勝で首位に立ち、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると、6日に4連敗で2位に、前半戦を2位で折り返した。7月27日には当時13連勝中だった田中将大相手に9回表終了時点でリードを奪うもその裏に守護神益田直也が失点、サヨナラ負けを喫し田中の連勝は続いた。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで、楽天の優勝が決まり、優勝を逃すが、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの2010年以来3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。オフに西武からFA宣言した涌井秀章を獲得。
1月1日付けで球団社長に前みずほ銀行執行役員の山室晋也が就任した。
開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり、6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、下位に低迷した。シーズン途中にキューバ出身でリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得。9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退した。成瀬がヤクルトにFA移籍。DeNAを自由契約となった陳冠宇を獲得。
開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが、4月中盤から徐々に低迷した。交流戦では一時は首位に立つも、最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れて6連敗となり、自力優勝の可能性が消滅した。その後、連敗を7で止めるも、前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなり、10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上し、4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し、3位が確定し、2013年以来2年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した。
クライマックスシリーズファーストステージではシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期なことから、「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分を除く)で敗退した。オフに今江がFAで楽天、クルーズが巨人に移籍。ソフトバンクを退団したジェイソン・スタンリッジを獲得。
2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。
開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われると、以降はソフトバンクの後塵を拝する状況が続いた。しかし、その後は3位をキープし続け9月24日に3位が確定し、クライマックスシリーズ進出と1985年以来31年ぶりの2年連続Aクラスが決定した。クライマックスシリーズでは2位のソフトバンクと対戦するも、2戦全敗で敗退した。角中が首位打者と最多安打を獲得、石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞した。サブローが現役を引退、デスパイネも金銭面の関係で退団となり、ソフトバンクへの移籍が決まった。
オープン戦を首位で終えたが、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のジミー・パラデスとマット・ダフィーの不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も前年に最優秀防御率のタイトルを獲得したエースの石川の大乱調などで、4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ、最下位に転落すると、5月16日の西武戦にも敗れて6連敗を喫し、通算37試合目にしてロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した。5月から6月にかけてWBCキューバ代表のロエル・サントス、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャを相次いで獲得。秋口になると、チームも復調し、9月は12勝10敗でシーズン初の月間勝ち越しを達成するが、 シーズン終了まで一度も最下位を脱出することができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったため、2011年以来6年ぶりの最下位が確定した。10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督は辞任し、井口が現役を引退した。オフに大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。コーチ陣も刷新し、10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して翌年のコーチ契約を行わないことを通告した。10月12日に現役を引退した井口がロッテの監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された。井口のダイエー時代のチームメイトであった鳥越裕介が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、的場直樹が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。
2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日、韓国で贈賄の罪で収監された ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ、同日付でロッテホールディングス取締役の河合克美が代表取締役オーナー代行に就任した。
この年は4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉、ルーキーの藤岡裕大や新外国人のマイク・ボルシンガーが活躍した。5月10日に一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの小坂誠が一軍内野守備・走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦和也がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラス、10月5日の楽天戦に勝利し、5位が確定したが、球団史上初めてパ・リーグ5球団を相手に負け越しが決まった。
チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録した。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。
大隣憲司、金澤岳、根元俊一、岡田幸文が現役を引退した。オフに平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。
11月6日、ケニス・バルガスの獲得を発表した。その他にも元楽天の細川亨、元日本ハムのブランドン・レアード、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューした元横浜・DeNAのブランドン・マン、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビンを獲得。広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツとの争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。長年の課題であった長打力不足を解消するため、ZOZOマリンスタジアムにホームランラグーンを新設した。このホームランラグーンは、いわゆるラッキーゾーンにより、外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。
この年は平成最後のペナントレースだったので、ロッテは現存12球団の中で阪神、DeNA、オリックスと共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズを1位で通過しなかった球団」となった。
開幕戦では楽天を相手に中村、加藤、レアードの3本の本塁打、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利。この試合では酒居が1球勝利投手を記録している。4月11日には一時最下位へ転落したが、そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛を高野圭佑とのトレードで獲得。7月14日、レオネス・マーティンの獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。7月30日の対オリックス・バファローズ13回戦(ZOZOマリンスタジアム)の5回終了(試合成立)時点で、谷保恵美は公式戦通算1800試合アナウンス担当を達成した。9月23日にZOZOマリンスタジアムで行われた引退試合を最後に福浦和也が現役を引退した。福浦の引退により、ピンクユニフォーム時代に在籍した選手が全員引退した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた上、楽天に僅差で躱され、4位が確定。2位のソフトバンクには17勝8敗と大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分と負け越した。荻野貴司がベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は前年の78本から158本へと大幅に増加した。
プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海、山本大貴、安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希、原嵩、松田進の三選手を派遣。
ドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末、獲得に成功した。
オフに引退した福浦和也が翌年より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチ、阿部和成が二軍サブマネージャー、伊志嶺翔大が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任することが発表された。
補強にも積極的に動き、荻野貴司、益田直也がFA権を行使せずに残留、鈴木大地が楽天にFA移籍したが、その楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは、球団初のことである。楽天からFAの人的補償として小野郁を獲得した一方、涌井秀章が金銭トレード、酒居もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。その他、自由契約となった西巻賢二とフランク・ハーマン、元広島のジェイ・ジャクソン、育成選手として元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元富山GRNサンダーバーズのホセ・フローレスを獲得。
シーズン終了後の12月1日付で山室晋也球団社長が退任し、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された。
1月1日、球団設立70周年を機にユニフォーム左袖のプライマリーマークを更新。二重丸を赤から黒に変更し、ベージュの影色が入っていたカモメの大半を白一色とした。
1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄が韓国のソウル特別市で老衰のため享年98で他界する。
3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、三木亮と平沢大河がコンディション不良であったことから、前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得。
3月24日、球団の株主総会と取締役会において1月に死去した重光の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。昭夫は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった。
6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが同一カード6連勝はプロ野球史上初となった が、8回を任されたジャクソンが7月9日に突如退団し、10日に大麻所持の容疑で逮捕された。開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発しレアードや種市篤暉、松永昂大、ハーマンなどが相次いで離脱した。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一 がシーズン終盤にブルペンを支えた。一方、9月21日にマイアミ・マーリンズを解雇された陳偉殷を獲得。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位のソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。ところが、10月4日に岩下大輝とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表、それを受けて一軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、ベテランの鳥谷のほかにも、荻野貴司、角中勝也、清田育宏、菅野剛士、藤岡裕大、三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表した。岩下の濃厚接触者も含めこれら全員が一軍登録を抹消される緊急事態となり、21日の西武戦で主砲のマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱した。それでも、10月8日には首位のソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったが、ソフトバンクが10月10日から22日まで破竹の12連勝と波に乗った一方で失速し、一気に離されてしまった。22日にはロッテの自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)にも敗れ、ソフトバンクの優勝決定。前年に引き続き目の前で優勝を決められた。ソフトバンクに対しては10月9日までは11勝5敗1分だったが10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、対ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。11月に入ると西武との2位争いとなり、一時的に3位に転落するが11月8日に西武との直接対決を制し、2007年以来13年ぶりに2位となり、クライマックスシリーズ進出が確定した。しかし、2016年以来4年ぶりの出場となったクライマックスシリーズではエラーをきっかけに流れを掴まれ、ソフトバンクの前に2連敗を喫してしまい、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたために敗退した。
12月、庄司こなつの退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも(現・坂井美萌々)が揃って退団した。一方、2日に陳偉殷が自由契約となった(阪神に移籍)。24日にアデイニー・エチェバリアを獲得。
1月15日、清田が前年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明したため清田を無期限謹慎(無期限活動停止)とし、松本尚樹球団本部長に厳重注意したことを発表した。清田は5月1日に無期限謹慎処分が解除となったが解除後、再び球団ルールに反する行動を行っていたことが判明したため、「度重なる不適切な行動及びチームに対する背信行為」を理由として5月23日付けで清田との契約を解除した。清田はこれを不服として法廷闘争に出、2023年2月に自身のInstagramにて、球団と和解したことを発表。
3月7日の対ライオンズ戦にて、2005年から16年間スタジアムDJを務めていた野田美弘が卒業し、後任にはYUI(ゆい)がスタジアムMCとして担当することになった。
開幕5連敗でスタートダッシュには失敗したものの、それ以降は持ち直した。しかし、交流戦では苦戦して負け越しとなり、6月14日から16日にかけてDeNAから有吉優樹とのトレードで国吉佑樹、中日から加藤翔平とのトレードで加藤匠馬、元中日のエンニー・ロメロを獲得。8月31日には千葉移転後の主催試合で通算1000勝を達成した。9月5日の日本ハム戦に勝利し、オリックスが敗れたため、シーズン初の首位に立ち、8日の対オリックス18回戦(ほっともっとフィールド神戸)で7回裏にマーティンがオリックスの吉田凌から3ランホームランを放ち、球団通算8000本塁打を達成した。10月14日に首位・オリックスとの直接対決に勝利して残り試合数の関係上、2位でありながら優勝した1970年以来51年ぶりとなるマジックナンバーが点灯したが、27日のビジターでの対楽天戦(仙台)に1-2で敗れた。
クライマックスシリーズファーストステージでは本拠地のZOZOマリンスタジアムで3位の楽天と対戦。第1戦では8回裏2死からエチェバリアが松井裕樹から同点のソロ本塁打を放ち、9回裏には1死2塁から佐藤都志也が楽天のセットアッパー・宋家豪からサヨナラ適時打を放って試合を決めると、2015年のファイナルステージ第1戦から続いたポストシーズンでの連敗を7で止めた。続く第2戦は2回表に炭谷銀仁朗、山崎剛に2点適時打を打たれ先制されたが、その裏に無死1,3塁から岡の併殺打の間に1点を返すと、4回裏に1死1塁から山口の適時打で同点とする。更に6回裏には山口のソロ本塁打で勝ち越した。直後の7回表、炭谷にソロ本塁打、島内宏明に適時打を打たれ逆転されるがその裏、主砲のマーティンが酒居知史からソロ本塁打を放って同点とし、その後は両者無得点で同点のまま9回表が終了した。この時点で前日に勝利したため、ファイナルステージ進出を決めた。大会ルールにより、9回裏の攻撃を行わず試合は引き分けとなった。
そして迎えたオリックスとのファイナルステージでは第1戦でエースの山本由伸、第2戦で田嶋大樹とオリックスのリリーフ陣の前に完封負けを喫した。後のない第3戦では3回表に中村奨の犠飛で先制した。ところが6回裏、先発の岩下が宗佑磨に逆転の2点本塁打を打たれたものの、7回表、二死二塁で佐藤都の適時打で同点。8回表に一死から中村奨がソロ本塁打を放って勝ち越しに成功した。が、9回裏にクローザーの益田が無死1,2塁のピンチを迎えると続く小田裕也にも同点のタイムリーを打たれた。この時点ですでに3勝しているオリックスの1996年以来25年ぶりの日本シリーズ進出が決定したため、2年連続でファイナルステージ敗退となった。オフに新外国人としてタイロン・ゲレーロを獲得した。
オリックスが1996年以来25年ぶり、近鉄との球団合併後初のリーグ優勝を果たしたことにより、ロッテはパ・リーグ現存6球団の中で「2005年のプレーオフで年間勝率2位からしかリーグ優勝をしていない唯一の球団」となった。
4月10日の対オリックス戦で佐々木朗希が21世紀初・令和初の完全試合を達成した。さらに13連続奪三振で日本記録をマークし、19回奪三振で日本記録タイに並んだ。通算14試合目の登板(史上最速)、20歳5ヶ月(NPB史上最年少記録)、プロ初完投・初完封だった試合が完全試合(史上初)など様々な記録が残った。だが、前年に打線の主軸を担ったレアードとマーティンの両外国人が打撃不振に陥り、最終的に5位に終わった。また、投手陣が好投しても打線が援護できず敗戦するという試合が目立った。特に小島はチームで唯一規定投球回に到達し、防御率3.14を記録したものの、3勝11敗と大きく負け越した。髙部瑛斗が盗塁王のタイトルを獲得し、美馬が規定投球回未到達ながら10勝を挙げた。シーズン最終戦となる10月2日、ホーム最終戦セレモニーで井口監督が突如退任を発表し、後任としてピッチングコーディネーターの吉井理人が監督に就任。オフに巨人からC.C.メルセデスとグレゴリー・ポランコ、および新外国人としてルイス・ペルドモとルイス・カスティーヨを獲得した。
オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初の日本一を達成したことにより、ロッテはパ・リーグ現存6球団の中で「2010年のクライマックスシリーズで年間勝率3位からしか日本一になっていない唯一の球団」となった。
監督の吉井がMLB経験者として選手の状態やデータ重視で「スタメンはすべて日替わり」「勝ちパターンの中継ぎは固定せず」という采配をするようになった。その起用が当たり、序盤は5月時点で首位と好調であったが、交流戦が7勝9敗と振るわなかったこともあり、中盤以降は首位のオリックスに突き放され、楽天との負ければ4位となる最終戦を制して何とか2位に食い込んだ。
クライマックスシリーズではZOZOマリンスタジアムで3位のソフトバンクと対戦。2勝1敗でファイナルステージに進出したが、オリックスに1勝4敗(オリックスに1勝のアドバンテージあり)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。
ポランコが球団としては1986年の落合以来37年ぶり、千葉移転後では史上初そして自身初となる本塁打王を、ペルドモが最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続47シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。
横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超えてNPB最長記録となっている。「年間勝率首位で出場した日本シリーズで日本一」と「年間勝率首位によるリーグ優勝」は2023年現在、前者は1950年から73年連続、後者は1970年から53年連続と優勝条件がセ・リーグとは異なっていた時期があったとはいえ、どちらもNPB最長記録である。
東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地で球団創設初の日本一を達成したことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「本拠地で日本一になっていない最後の球団」となった。
2018年は平成最後のペナントレースだったので、現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む13球団の中で「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝ができなかった唯一の球団」かつ同12球団の中で中日ドラゴンズ、阪神タイガース、広島東洋カープと共に「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になれなかった球団」となった。
オリックス・バファローズが1996年以来25年ぶり、大阪近鉄バファローズとの球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝を果たしたことにより、パ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む7球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった。
オリックス・バファローズが1996年以来26年ぶり、大阪近鉄バファローズとの球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になったことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」となった。
阪神タイガースが2005年以来18年ぶりのリーグ優勝、1985年以来38年ぶりの日本一になったことにより、昭和時代に創設した現存11球団の中で広島と共に「最後の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一が昭和時代となる球団」となった。
以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。
大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも、「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし、実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた。
1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。英語の名詞形marineは「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。公募の際に「パラダイス」票が最終選考まで残った。変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームのため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
かつては所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフの初芝清と堀幸一)、2017年オフの涌井秀章以降は再契約を認めるようになっている。
2000年代後半以降は、長距離打者の不足に悩まされることが増え、2019年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年の李承燁と2019年のブランドン・レアードのみである。本塁打王も2023年にグレゴリー・ポランコ(26本)が受賞するまで、37年間ロッテ在籍選手が獲得することが無かった。日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない。これに関しては、本拠地の千葉マリンスタジアムに吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである。これに対し、千葉マリンスタジアムでは2018年シーズン後に「ホームランラグーン」を設定して外野席を4m前方へ近づける改修を行った。
2006年から2015年までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。2016年に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、東京ドームを会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアムでの試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった(試合は4-0でホークスが勝っている)。
2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアム、8月21日に2年ぶりに東京ドームで地方開催を行った。
2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアム、9月8日に水戸市民球場(茨城県)での地方開催を予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した。水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった。
2023年は4年ぶりに地方開催を行うことを2022年12月に発表し、2023年7月6日の対埼玉西武ライオンズ戦を東京ドームにて行った。
現在のマスコットであるマーくんは3代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国のKBOリーグ、ロッテ・ジャイアンツにもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似しユニフォーム類を改変したヌリがペットマークに使用されている。後述のクールが登場していた頃は、野球マスコットとしては珍しくキャラクターショーで声があてられていた(声優不明)。
他にもイベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。
ファンサービスの向上は本拠地を千葉市に移転した翌年の1993年頃から取り組み始めており、外野席のホーム・ビジターの区分けやレプリカのユニフォームを着用しての応援などはプロ野球界ではロッテが一番早く導入した。ロッテの内野応援団員を経て、ロッテマリーンズ球団職員を長年勤めた横山健一によれば、同時期に発足したサッカー・Jリーグを始め、メジャーリーグやアイスホッケーなど、国内外のスポーツ応援を参考に球団と応援団が新しい応援スタイルを確立していった。
1996年にはビジター用のレプリカユニフォームがファン達の要望によって作られた。当初は「よその球場で着るユニフォームをなぜ作るんだ」と反対されていたものの、横山の説得もあり実現となった。
瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題により、ロッテが千葉を去る可能性が取り沙汰されたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。過去は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らなかった。2004年以降は県と市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置し、動物とふれあう場所を設け、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始し、スタンド内にベビーベッドが設けた。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想ではロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、2006年度から指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっとフィールド神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のフルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城の例がある。2016年には管理許可のもとで横浜スタジアムを運営していた第三セクターの株式会社横浜スタジアムを、横浜DeNAベイスターズが友好的TOBにより買収している。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。この結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される。販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
球団公式ファンクラブ『TEAM26』があり、ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・無料会員の5コースがある。チケット購入(前売りチケット含む)やオンラインショップ、スタジアム内各売店での購入でMポイントを貯めることが出来る。貯めたポイントは、観戦チケットやスタジアム内各売店で使用可能な金券チケット、各会員の入会特典グッズ、日程ポスターに交換できる。2010年度(2011年1月31日)までの「TEAM26」会員証は全日本空輸との提携による楽天Edy機能搭載のAMCカード一体型だった。
2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の瀬戸山隆三は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(池田健、宮本裕司、小林憲幸、白川大輔、大谷龍次)は支配下登録を受けた1名(宮本)を除き、2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた長崎セインツへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。
約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープ・オリックス・バファローズ・中日ドラゴンズ・東北楽天ゴールデンイーグルス・埼玉西武ライオンズ)。
2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツと業務提携を行い、ロッテ球団職員の荘勝雄がトレーニングコーチとして派遣されることになった。
2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した「ALL for CHIBA」という特別試合時に、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用する。
2022年までの「ALL FOR CHIBAユニフォーム」を2023年に「CLMユニフォーム」へ名称を変更した。
「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベントで着用する。
乳がん撲滅の啓発を目的としたピンクリボン活動のPRとして、ピンク色がユニフォームの一部に取り入れられ、年に一度「MOTHER’S DAY」と題してイベントが行なわれる際に着用される。ピンクリボンデザインのベースが使用される。
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年、広告代理店の博報堂がデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。ビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。
ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、綱島理友の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
沢村栄治賞は、2022年シーズン終了時点の現存する12球団ではロッテのみ未選出である。過去には小野正一、村田兆治が沢村賞クラスの活躍をしたが当時、パシフィック・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、受賞できなかった。
2022年シーズン終了時点で達成者はいない。
ロッテでの三冠王の達成者は1人。また、落合博満が日本人打者史上初の複数回達成し、日本プロ野球史上初および日本プロ野球最多記録となる3回三冠王を達成している。2022年シーズン終了時点で3回達成者は落合のみ。
2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。
ロッテの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは1人。
1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
のちに日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で敗れ、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、1リーグ制へ移行を画策し始めた。
当時ロッテはジプシー生活を強いられて首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。ロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測され、合併調印は時間の問題といわれていた。関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
重光はこの合併を否定して合併もほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した。詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照。
2004年には大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらに球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは当時親会社ダイエーの経営難から、球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案も報じられたが、結局実現には至らなかった。ロッテと西武ライオンズを合併して「ロッテライオンズ」、ロッテとヤクルトスワローズを合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため、実現しなかった。
結局、同年オフにダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図ることとなり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2005年現在、パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台野球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。
ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。1987年に2年前(1985年)の阪神タイガース優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やすバーター取引、更には神戸市または福岡市(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。
しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していた南海電気鉄道では、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に仲介を依頼。その結果、ダイエー社長の中内㓛は買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断。オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した。
1998年、6月13日から7月8日までの19試合で日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている。
2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球を記録し、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。
ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。この間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸が日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。
結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で、記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上を記録した。
ロッテは、2010年6月7日の対ヤクルト4回戦(明治神宮野球場)で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに南竜介の左前安打から連打攻勢がスタートした。代打の青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発・村中恭兵をKOした。今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2点本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。そして南がこの回2本目の中前安打を放ち、10者連続安打の新記録を達成している。
青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。同日、ロッテがこの記録を達成した直後には、オリックスが対広島4回戦(福山市民球場)の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。
ロッテは宮城県仙台市の宮城球場での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。
平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の1950年代までは頻繁に、それ以後も少なくとも1980年代まではリーグ順位決定後の消化試合やポストシーズンを中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の東日本大震災発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム に繰り上げたことがあった。
その3年後の2014年、今度は春休みのファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初 となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった。
このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、楽天も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている。ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く日本ハムと西武も後に平日デーゲームを開催する。
球団の親会社であるロッテは、当初は業務提携であったが1969年から球団経営に参画した。詳細は前述。長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細はパシフィック・リーグの項目を参照)球団は毎年赤字決算が続いていたものの、2000年代に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善していった。2018年は観客動員、グッズ、飲食など全てで過去最高益を更新したことで、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初めて、親会社による補填に頼らず黒字化を果たした。2019年4月15日に公表した第70期決算公告によると、2018年度の純利益額は3億8,513万円、利益剰余金は4億1,767万円であった。2020年4月15日に公表した第71期決算公告でも、2019年度の純利益額は7億5,536万円、利益剰余金は11億7,303万円となり、2年連続で黒字となり最高益を更新した。
テレビ中継は全てハイビジョン制作
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団がさまざまな形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た。GyaOは日本国外の視聴不可である。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
2015年からCS放送の配信先がTBSテレビ運営のTBSニュースバードに変更されたが、TBSテレビは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコア表示のフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
J:COM 千葉セントラル制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJ:COMグループのケーブルテレビ局のJ:COMチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「マリーンズ狂」を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。ゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している。司会進行は庄司こなつが担当している。
2012年9月21日と9月22日にQVCマリンフィールドにてホワイトスペースを利用するワンセグ型エリア放送が実施された。
会場内に地上一般放送局1局が設置されていた。
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#施設概要を参照。
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"text": "千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。株式会社千葉ロッテマリーンズは、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。",
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"text": "千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。",
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"text": "1950年のリーグ分裂時に毎日新聞社を親会社とする毎日オリオンズとして発足したのち、大映ユニオンズを合併して毎日大映オリオンズ(大毎)となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が東京→ロッテと変遷し、本拠地も東京都→仙台市→川崎市と変遷したが、1992年より千葉市を本拠地とし球団名も千葉ロッテマリーンズとなり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。",
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"text": "1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと、昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成した。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請する。",
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"text": "リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。",
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"text": "この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。",
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"text": "パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成し、2リーグ制初代日本一球団になった。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。なお、プレーオフを介さない1シーズン制において、年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」になっている。",
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"text": "首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。",
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"text": "7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し、故意に試合をノーゲームにする毎日側の策略に観客が激怒し、暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。",
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"text": "首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる。",
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"text": "3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。",
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"text": "山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率を挙げ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。",
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"text": "首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。",
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"text": "シーズン成績は3位。",
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"text": "1957年11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し、毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任する「逆さ合併」だった。",
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"text": "葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。オフにはこの年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。",
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"text": "優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。",
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"text": "西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で1950年以来10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "この年で毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。毎日の撤退は戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズの記述が著しく少ないと指摘がある。",
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"text": "3年連続Bクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。1962年限りで監督の宇野光雄が解任。",
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"text": "1964年より球団名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策ではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している。この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も1965年1月に引き上げ、後援も1966年度シーズンで打ち切っている。球団は完全に永田が掌握したが会社名は「毎日大映球団」を維持した。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "4年連続Bクラス(1964年・4位→1965年・5位→1966年・4位→1967年・5位)。",
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"text": "1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し、チームも1960年以来8年ぶりのAクラス、3位入りしている。",
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"text": "1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名をロッテオリオンズに改称。ただ、正式な球団買収ではないので、球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行い、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば、命名権の制度に近い)を取得する形として留まった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。",
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"text": "首位阪急と5.5ゲーム差の3位。",
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"text": "1960年以来10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗退した。なお、ロッテはこの年を最後にプレーオフを介さない1シーズン制において、1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をしておらず、本拠地については1973年から「宮城球場」、1978年から「川崎球場」、1992年から「千葉マリンスタジアム」に移転するため、東京球場および本拠地での年間勝率1位によるリーグ優勝はこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている。",
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"text": "1967年に巨額の負債が表面化して以来続いていた大映の経営状態はいよいよ切迫し、1月25日をもって大映は球団経営から撤退。永田もオーナーを辞任する。永田から直々に社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請されたロッテは岸の秘書で副オーナー・個人株主として球団に参加していた中村長芳と共に正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になった。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。重光は当時野球にさほど興味を持っていなかったため、オーナー職は中村に委ねた一方、これまでの球団経営の労苦に配慮し、オーナーを退いた永田を取締役として残した。",
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"text": "7月13日、西宮での対阪急戦で江藤慎一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され、二軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった。",
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"text": "前年と一転、Bクラスの5位に転落。オフに中村がオーナーを辞任し、後任に重光が新オーナーに就任。東京球場は永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し、球場の買い取りを要求したが、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、オフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから、交渉は決裂。東京球場は閉鎖されたため、本拠地球場を失った。観客動員は31万人で本拠地東京球場は閑古鳥が鳴いていた。金田が監督に就任したのは同じ在日韓国人の重光に「ワシをロッテオリオンズの監督にして下さい。必ず客を呼んで見せます。一流の球団にしてみせます。カネやんのいうこと信用して下さい。」と頭を下げた事がきっかけにになっている。国民的英雄の在日同胞が頼んできたのに感銘した重光は金田と男の約束を交わし、監督に起用したばかりか破格の権限を与えた。金田の年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった。金田の監督就任は前年オフに大沢と交わしていた5年契約を破棄してのもので、球団は大沢に違約金を支払う事態になった。金田の方針で小山が大洋にトレードされるが、小山は中村との約束を理由に難色を示し、球団が功労金を支払う事で、決着を見た。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "1973年から宮城県仙台市宮城野区の宮城球場を中心に、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ、主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年までに続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。",
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"text": "パ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で、総合では3位に終わる。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)。その効果はパリーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し、理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった。オフに日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるも、これを拒否した。このため、日拓ホームフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。中村前オーナーが西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズの経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、保有していた株式をロッテに譲渡した。",
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"text": "金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では金田留広、木樽正明、村田兆治、成田文男らが活躍して後期優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破り、1970年以来4年ぶり4回目のリーグ優勝。中日との日本シリーズではジョージ・アルトマンを負傷で欠き、有藤もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが、4勝2敗で1950年以来24年ぶりの日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から、宮城球場ではなく、後楽園球場で行われた。この年と1977年のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城球場で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた。日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで、仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、ロッテはこの年を最後に1度も年間勝率1位になっておらず、2シーズン制において、プレーオフで後期1位からリーグ優勝・日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位から遠ざかっている球団」になっている。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも、総合4位に終わる。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。この年には9月2日にナゴヤ球場で行われた公式戦を最後に広島に所属していた若生智男が現役を引退したことにより、毎日オリオンズに所属した選手が全員引退した。",
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"text": "前期は5位に終わるも、後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが、3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後、同県川崎市から誘致を受け、1977年10月4日、翌年から保護地域を宮城県から同県、専用球場を同県同市川崎区の川崎球場に移転することが承認された。しかし、この14年間でリーグ優勝は1度もなかった。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "移転1年目は総合4位に終わる。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝ができ、終盤に金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任し、非常勤の球団取締役となった。前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していた野村克也に選手兼任監督として後任を打診するも、金田の後任は荷が重いと固辞し、そのまま退団。",
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"text": "山内一弘が監督に就任。就任1年目は4位に終わった。監督の山内がルーキーの落合博満を積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し、前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "村田が11連勝し、19勝で最多勝利のタイトルを獲得、落合はレギュラーに定着し、首位打者のタイトルも獲得。エース村田の活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、前評判は圧倒的有利だったが、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、重光武雄オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、鶴岡一人に相談し、次期監督に山本一義を推薦し、山本が監督に就任した。金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。この年にはオフに西武に所属していた長谷川一夫が現役を引退したことにより、毎日大映オリオンズ(大毎)に所属した選手と、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "落合博満が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者三冠王となる。順位は5位に終わる。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "投手陣強化を図るためレオンを放出してまでスティーブ・シャーリーを獲得するものの、村田が故障で1年間公式戦に登板できずに打線も弱体して球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。",
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"paragraph_id": 43,
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"text": "張本勲に監督要請するも断られ、重光オーナーに監督候補を出してほしいと言われた張本は土橋正幸と稲尾和久を推薦、土橋はヤクルト投手コーチ就任が決まっており稲尾が監督に就任した。稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。石川賢が最高勝率。",
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"paragraph_id": 44,
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"text": "落合、西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割を記録してチーム打率1位になり、投手陣は肘の手術から復帰した村田が開幕11連勝を記録し17勝5敗の成績を挙げ、仁科、新外国人の荘勝雄も2桁勝利を挙げるものの、前年最高勝率の石川、石川と同じく15勝を挙げた深沢恵雄がそろって不振に陥るなど全体的には軒並み不振だった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでもランディ・バース(阪神)が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。",
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"paragraph_id": 45,
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"text": "落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で盗塁王。リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目の愛甲猛とバラエティに富んだ打線は前年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣は仁科時成は3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向した荘勝雄は18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり、チーム防御率5位に終わった。球団の福岡移転を熱望していたが、実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。来年はどこと契約しているのかわからない。」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた。落合は牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍した。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。",
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"paragraph_id": 46,
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"text": "有藤道世が監督就任。女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという。この年は落合が抜け、レロン・リーが不振で、4番は若手の古川慎一や高沢秀昭らが務めたが力不足は顕著で、打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が最優秀救援投手に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。有藤と不仲だったレロン・リーが冷遇され、不調に陥り、解雇された。",
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"paragraph_id": 47,
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"text": "この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇ったビル・マドロックは、.263 19本塁打と期待を裏切りこの年限りで解雇。高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、牛島は2年連続セーブ王に輝く。小川、村田兆治、荘勝雄、園川一美の4人が二桁勝利を挙げた。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 48,
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"text": "二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)のロッテ浦和球場に移転。",
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"paragraph_id": 49,
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"text": "村田兆治が5月13日の山形県野球場での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。防御率1位に輝く。西村は外野手転向、新加入のマイク・ディアズは.301、39本塁打、105打点の成績を残し、愛甲も3割をマーク。",
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"paragraph_id": 50,
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"text": "順位は球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。主力の高沢、水上善雄と広島・高橋慶彦、白武佳久ら3選手とのトレードが成立。",
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"paragraph_id": 51,
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"text": "ディアズを一時捕手で起用するなど復帰した金田監督のパフォーマンスや退場劇が注目されたがチーム成績は5位。2年目の初芝清が三塁に定着、西村が首位打者になる。10月13日に川崎球場で行われた引退試合を最後に村田兆治、袴田英利が現役を引退した。村田の引退により、東京オリオンズに所属した選手と、毎日大映球団時代に在籍した選手と、東京球場時代に在籍した選手が全員引退した。高橋慶は成績が振るわずに阪神へ移籍。8球団競合でドラフト1位指名の小池秀郎が入団拒否。",
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"paragraph_id": 52,
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"text": "首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など、川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。8月9日の対日本ハムファイターズ戦(川崎球場)で、谷保恵美が初めて一軍試合のアナウンスを担当。9月4日、保護地域を神奈川県から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認された。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。",
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"paragraph_id": 53,
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"text": "シーズン中に広島から高沢が復帰、平井光親が首位打者を獲得し、堀幸一は二塁に定着して20本塁打を放つ。オフに金田が監督を解任された。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が再び八木沢に追い出された形となった。監督の八木沢によると、西武コーチだった1991年の夏にオーナー代行の重光昭夫同席の下、「監督をやってくれ」と言われたという。",
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"paragraph_id": 54,
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"text": "本拠地移転に伴う新しい球団名は当初は地名をつけた「千葉ロッテオリオンズ」となる予定だった。しかし、1991年11月1日に一転して一般公募により、改称されることとなった。11月21日、新しい球団名は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。監督の八木沢は「ドルフィンズ」を推していた。",
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"paragraph_id": 55,
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"text": "本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。",
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "現存12球団と楽天を除く同11球団の中で「現在の本拠地と球団名になってから1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になっていない唯一の球団」になっている。",
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},
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"paragraph_id": 57,
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"text": "本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、ディアズは不振で途中退団し、千葉移転初年度は前年に続き、最下位となった。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。新人の河本育之は19セーブで抑えに定着。しかし、この年にはオフにダイエーに所属していた水上善雄が現役を引退したことにより、宮城球場時代に在籍した選手が全員引退した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "この年もメル・ホールや地元出身の宇野勝を獲得し、補強を行ったが、チームの地力は上がらず、5位に終わると、移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。オフに当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、八木沢は球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した、その後は、中西太が代理監督を務め、やや持ち直すも5位に終わる。八木沢は監督時代を「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引けを取らなかったが、打線が点を取れなかった。」 と述べている。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団。伊良部秀輝は自己最多の15勝挙げて最多勝、最多奪三振を獲得。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していたピンク色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインに開幕からリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。代わりにフリオ・フランコ、ピート・インカビリアを獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながら1番打者に起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀、打点王を獲得した初芝清、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの、大学で広岡の後輩だったとのことで、「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。投手陣は伊良部が最優秀防御率を獲得し、ヒルマンが防御率2位、成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きを見せ、2年目の黒木知宏が奮闘したが、開幕投手を務めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪化するなどそれ以外が計算出来なかった。野手陣も外国人が活躍出来ず、初芝もマークが厳しくなって勝負強さを発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水でチームは5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍した。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "横浜ベイスターズ元監督だった近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった。横浜ベイスターズ時代のスクイズの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、佐々木主浩らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。投手陣は伊良部とヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかし、ストッパーの成本が大怪我によりシーズン途中でリタイア。野手陣は新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足で、初芝と堀も不振。前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦や田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦で先発マスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打にわたり駒不足でチームは最下位に終わる。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱し、セットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言し、ロッテを去った。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組み、前年「七夕の悲劇」となった日に勝利し首位に浮上したがこの試合直後に8連敗し優勝争いからも脱落した。チームはその後も球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗と大型連敗を経験した。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、自由契約で横浜ベイスターズに移籍した。90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願で読売ジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け、退団した。2001年に福浦和也が首位打者、ミンチーが最優秀防御率を獲得した。2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している。2003年は特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。山本功児は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わるも、年々勝率を上げ、2002年・2003年は4位、2003年にはシーズン最終成績を68勝69敗3分と、借金1にまでチームを戻したところで退団。成績不振による事実上の解任だった。その際、シーズン最終戦で当時ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きた。しかし、山本功児監督時代に福浦和也、サブロー、里崎智也、小林宏之、小林雅英などを起用し、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。オフに韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 65,
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"text": "バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃したが、シーズン全体では勝率5割を記録した。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し、3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日に2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、1995年以来10年ぶりの勝ち越しを決めると、同時に1971年以来34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利したことで、プレーオフ進出と1995年以来10年ぶりのAクラスが確定した。9月19日、1971年以来34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージでは西武、第2ステージでは2戦先勝するも、第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り、1974年以来31年ぶりのリーグ優勝を果たした。10月22日からの日本シリーズでは第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏一死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、1974年以来31年ぶり3度目の日本一を達成した。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し、優勝している。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し、優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。なお、ロッテはこの年を最後に1度もリーグ優勝をしておらず、対外試合、ペナントレース、ポストシーズン全てにおいて、これまでにない躍動ぶりを発揮したのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフに福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け。翌日も延長12回で引き分け。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得した。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "先発投手陣が揃って不調に陥り、開幕直後に捕手の里崎智也、橋本将、田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位に終わった。チーム防御率はリーグワースト。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、当時の契約最終年であった4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。バレンタインとの契約を同年限りとする前年12月の球団声明を受けて、長らく球団の応援活動を牽引したファングループのMVPおよび外野応援団のメンバーを中心に、バレンタインの残留を求め、球団フロント関係者を糾弾する活動がシーズン開幕前後から繰り広げられ、終盤戦では行き過ぎた言動を咎めた西岡剛への中傷・応援ボイコットにまで発展。グラウンド内外での騒動の影響もあって、チームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終えた。バレンタインは球団方針通りシーズン終了を以て監督を退任し、一連のトラブルを招いたMVP・外野応援団は解散に追い込まれた。バレンタインの後任には一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチの西村徳文が監督に昇格した。オフに韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった。日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、2005年以来5年ぶり4度目の日本一となり、パ・リーグで初めてリーグ優勝せずに日本シリーズを制した球団となった。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフに小林宏之が阪神、西岡がミネソタ・ツインズにFA移籍。堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーはなく、現役を引退した。堀の引退により、ロッテオリオンズに所属した選手と、川崎球場時代に在籍した選手が全員引退した。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "3月11日に発生した東日本大震災ではQVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが、周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり、4対6で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として 以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落。交流戦は8勝14敗2分の10位。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラス、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで、最下位が確定した。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。得点は球団史上最低記録となる432、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブローがFA移籍で半年でロッテに復帰。",
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"text": "開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど、序盤から首位争いをし、5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し、首位浮上。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。しかし、後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に3対5に敗れ、2か月半ぶりに首位陥落し、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラドーム)に1対2で敗れたことで、2年連続Bクラスが確定し、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団。10月18日、監督に伊東勤が就任。",
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"text": "5月9日に2006年7年ぶりの8連勝で首位に立ち、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると、6日に4連敗で2位に、前半戦を2位で折り返した。7月27日には当時13連勝中だった田中将大相手に9回表終了時点でリードを奪うもその裏に守護神益田直也が失点、サヨナラ負けを喫し田中の連勝は続いた。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで、楽天の優勝が決まり、優勝を逃すが、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの2010年以来3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。オフに西武からFA宣言した涌井秀章を獲得。",
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"text": "1月1日付けで球団社長に前みずほ銀行執行役員の山室晋也が就任した。",
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"text": "開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり、6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、下位に低迷した。シーズン途中にキューバ出身でリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得。9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退した。成瀬がヤクルトにFA移籍。DeNAを自由契約となった陳冠宇を獲得。",
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"text": "開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが、4月中盤から徐々に低迷した。交流戦では一時は首位に立つも、最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れて6連敗となり、自力優勝の可能性が消滅した。その後、連敗を7で止めるも、前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなり、10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上し、4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し、3位が確定し、2013年以来2年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した。",
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"text": "クライマックスシリーズファーストステージではシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期なことから、「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分を除く)で敗退した。オフに今江がFAで楽天、クルーズが巨人に移籍。ソフトバンクを退団したジェイソン・スタンリッジを獲得。",
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"text": "2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。",
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"text": "開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われると、以降はソフトバンクの後塵を拝する状況が続いた。しかし、その後は3位をキープし続け9月24日に3位が確定し、クライマックスシリーズ進出と1985年以来31年ぶりの2年連続Aクラスが決定した。クライマックスシリーズでは2位のソフトバンクと対戦するも、2戦全敗で敗退した。角中が首位打者と最多安打を獲得、石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞した。サブローが現役を引退、デスパイネも金銭面の関係で退団となり、ソフトバンクへの移籍が決まった。",
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"text": "オープン戦を首位で終えたが、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のジミー・パラデスとマット・ダフィーの不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も前年に最優秀防御率のタイトルを獲得したエースの石川の大乱調などで、4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ、最下位に転落すると、5月16日の西武戦にも敗れて6連敗を喫し、通算37試合目にしてロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した。5月から6月にかけてWBCキューバ代表のロエル・サントス、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャを相次いで獲得。秋口になると、チームも復調し、9月は12勝10敗でシーズン初の月間勝ち越しを達成するが、 シーズン終了まで一度も最下位を脱出することができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったため、2011年以来6年ぶりの最下位が確定した。10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督は辞任し、井口が現役を引退した。オフに大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。コーチ陣も刷新し、10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して翌年のコーチ契約を行わないことを通告した。10月12日に現役を引退した井口がロッテの監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された。井口のダイエー時代のチームメイトであった鳥越裕介が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、的場直樹が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。",
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"text": "2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日、韓国で贈賄の罪で収監された ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ、同日付でロッテホールディングス取締役の河合克美が代表取締役オーナー代行に就任した。",
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"paragraph_id": 83,
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"text": "この年は4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉、ルーキーの藤岡裕大や新外国人のマイク・ボルシンガーが活躍した。5月10日に一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの小坂誠が一軍内野守備・走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦和也がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラス、10月5日の楽天戦に勝利し、5位が確定したが、球団史上初めてパ・リーグ5球団を相手に負け越しが決まった。",
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"paragraph_id": 84,
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"text": "チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録した。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。",
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"text": "大隣憲司、金澤岳、根元俊一、岡田幸文が現役を引退した。オフに平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。",
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"paragraph_id": 86,
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"text": "11月6日、ケニス・バルガスの獲得を発表した。その他にも元楽天の細川亨、元日本ハムのブランドン・レアード、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューした元横浜・DeNAのブランドン・マン、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビンを獲得。広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツとの争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。長年の課題であった長打力不足を解消するため、ZOZOマリンスタジアムにホームランラグーンを新設した。このホームランラグーンは、いわゆるラッキーゾーンにより、外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。",
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"text": "この年は平成最後のペナントレースだったので、ロッテは現存12球団の中で阪神、DeNA、オリックスと共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズを1位で通過しなかった球団」となった。",
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"paragraph_id": 88,
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"text": "開幕戦では楽天を相手に中村、加藤、レアードの3本の本塁打、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利。この試合では酒居が1球勝利投手を記録している。4月11日には一時最下位へ転落したが、そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛を高野圭佑とのトレードで獲得。7月14日、レオネス・マーティンの獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。7月30日の対オリックス・バファローズ13回戦(ZOZOマリンスタジアム)の5回終了(試合成立)時点で、谷保恵美は公式戦通算1800試合アナウンス担当を達成した。9月23日にZOZOマリンスタジアムで行われた引退試合を最後に福浦和也が現役を引退した。福浦の引退により、ピンクユニフォーム時代に在籍した選手が全員引退した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた上、楽天に僅差で躱され、4位が確定。2位のソフトバンクには17勝8敗と大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分と負け越した。荻野貴司がベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は前年の78本から158本へと大幅に増加した。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 89,
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"text": "プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海、山本大貴、安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希、原嵩、松田進の三選手を派遣。",
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"paragraph_id": 90,
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"text": "ドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末、獲得に成功した。",
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"paragraph_id": 91,
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"text": "オフに引退した福浦和也が翌年より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチ、阿部和成が二軍サブマネージャー、伊志嶺翔大が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任することが発表された。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 92,
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"text": "補強にも積極的に動き、荻野貴司、益田直也がFA権を行使せずに残留、鈴木大地が楽天にFA移籍したが、その楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは、球団初のことである。楽天からFAの人的補償として小野郁を獲得した一方、涌井秀章が金銭トレード、酒居もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。その他、自由契約となった西巻賢二とフランク・ハーマン、元広島のジェイ・ジャクソン、育成選手として元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元富山GRNサンダーバーズのホセ・フローレスを獲得。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "シーズン終了後の12月1日付で山室晋也球団社長が退任し、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された。",
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"text": "1月1日、球団設立70周年を機にユニフォーム左袖のプライマリーマークを更新。二重丸を赤から黒に変更し、ベージュの影色が入っていたカモメの大半を白一色とした。",
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"paragraph_id": 95,
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"text": "1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄が韓国のソウル特別市で老衰のため享年98で他界する。",
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"paragraph_id": 96,
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"text": "3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、三木亮と平沢大河がコンディション不良であったことから、前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得。",
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"text": "3月24日、球団の株主総会と取締役会において1月に死去した重光の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。昭夫は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった。",
"title": "球団の歴史"
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"text": "6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが同一カード6連勝はプロ野球史上初となった が、8回を任されたジャクソンが7月9日に突如退団し、10日に大麻所持の容疑で逮捕された。開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発しレアードや種市篤暉、松永昂大、ハーマンなどが相次いで離脱した。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一 がシーズン終盤にブルペンを支えた。一方、9月21日にマイアミ・マーリンズを解雇された陳偉殷を獲得。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位のソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。ところが、10月4日に岩下大輝とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表、それを受けて一軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、ベテランの鳥谷のほかにも、荻野貴司、角中勝也、清田育宏、菅野剛士、藤岡裕大、三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表した。岩下の濃厚接触者も含めこれら全員が一軍登録を抹消される緊急事態となり、21日の西武戦で主砲のマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱した。それでも、10月8日には首位のソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったが、ソフトバンクが10月10日から22日まで破竹の12連勝と波に乗った一方で失速し、一気に離されてしまった。22日にはロッテの自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)にも敗れ、ソフトバンクの優勝決定。前年に引き続き目の前で優勝を決められた。ソフトバンクに対しては10月9日までは11勝5敗1分だったが10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、対ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。11月に入ると西武との2位争いとなり、一時的に3位に転落するが11月8日に西武との直接対決を制し、2007年以来13年ぶりに2位となり、クライマックスシリーズ進出が確定した。しかし、2016年以来4年ぶりの出場となったクライマックスシリーズではエラーをきっかけに流れを掴まれ、ソフトバンクの前に2連敗を喫してしまい、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたために敗退した。",
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"text": "12月、庄司こなつの退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも(現・坂井美萌々)が揃って退団した。一方、2日に陳偉殷が自由契約となった(阪神に移籍)。24日にアデイニー・エチェバリアを獲得。",
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"text": "1月15日、清田が前年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明したため清田を無期限謹慎(無期限活動停止)とし、松本尚樹球団本部長に厳重注意したことを発表した。清田は5月1日に無期限謹慎処分が解除となったが解除後、再び球団ルールに反する行動を行っていたことが判明したため、「度重なる不適切な行動及びチームに対する背信行為」を理由として5月23日付けで清田との契約を解除した。清田はこれを不服として法廷闘争に出、2023年2月に自身のInstagramにて、球団と和解したことを発表。",
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"text": "3月7日の対ライオンズ戦にて、2005年から16年間スタジアムDJを務めていた野田美弘が卒業し、後任にはYUI(ゆい)がスタジアムMCとして担当することになった。",
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"paragraph_id": 102,
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"text": "開幕5連敗でスタートダッシュには失敗したものの、それ以降は持ち直した。しかし、交流戦では苦戦して負け越しとなり、6月14日から16日にかけてDeNAから有吉優樹とのトレードで国吉佑樹、中日から加藤翔平とのトレードで加藤匠馬、元中日のエンニー・ロメロを獲得。8月31日には千葉移転後の主催試合で通算1000勝を達成した。9月5日の日本ハム戦に勝利し、オリックスが敗れたため、シーズン初の首位に立ち、8日の対オリックス18回戦(ほっともっとフィールド神戸)で7回裏にマーティンがオリックスの吉田凌から3ランホームランを放ち、球団通算8000本塁打を達成した。10月14日に首位・オリックスとの直接対決に勝利して残り試合数の関係上、2位でありながら優勝した1970年以来51年ぶりとなるマジックナンバーが点灯したが、27日のビジターでの対楽天戦(仙台)に1-2で敗れた。",
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"paragraph_id": 103,
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"text": "クライマックスシリーズファーストステージでは本拠地のZOZOマリンスタジアムで3位の楽天と対戦。第1戦では8回裏2死からエチェバリアが松井裕樹から同点のソロ本塁打を放ち、9回裏には1死2塁から佐藤都志也が楽天のセットアッパー・宋家豪からサヨナラ適時打を放って試合を決めると、2015年のファイナルステージ第1戦から続いたポストシーズンでの連敗を7で止めた。続く第2戦は2回表に炭谷銀仁朗、山崎剛に2点適時打を打たれ先制されたが、その裏に無死1,3塁から岡の併殺打の間に1点を返すと、4回裏に1死1塁から山口の適時打で同点とする。更に6回裏には山口のソロ本塁打で勝ち越した。直後の7回表、炭谷にソロ本塁打、島内宏明に適時打を打たれ逆転されるがその裏、主砲のマーティンが酒居知史からソロ本塁打を放って同点とし、その後は両者無得点で同点のまま9回表が終了した。この時点で前日に勝利したため、ファイナルステージ進出を決めた。大会ルールにより、9回裏の攻撃を行わず試合は引き分けとなった。",
"title": "球団の歴史"
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"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "そして迎えたオリックスとのファイナルステージでは第1戦でエースの山本由伸、第2戦で田嶋大樹とオリックスのリリーフ陣の前に完封負けを喫した。後のない第3戦では3回表に中村奨の犠飛で先制した。ところが6回裏、先発の岩下が宗佑磨に逆転の2点本塁打を打たれたものの、7回表、二死二塁で佐藤都の適時打で同点。8回表に一死から中村奨がソロ本塁打を放って勝ち越しに成功した。が、9回裏にクローザーの益田が無死1,2塁のピンチを迎えると続く小田裕也にも同点のタイムリーを打たれた。この時点ですでに3勝しているオリックスの1996年以来25年ぶりの日本シリーズ進出が決定したため、2年連続でファイナルステージ敗退となった。オフに新外国人としてタイロン・ゲレーロを獲得した。",
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"paragraph_id": 105,
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"text": "オリックスが1996年以来25年ぶり、近鉄との球団合併後初のリーグ優勝を果たしたことにより、ロッテはパ・リーグ現存6球団の中で「2005年のプレーオフで年間勝率2位からしかリーグ優勝をしていない唯一の球団」となった。",
"title": "球団の歴史"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "4月10日の対オリックス戦で佐々木朗希が21世紀初・令和初の完全試合を達成した。さらに13連続奪三振で日本記録をマークし、19回奪三振で日本記録タイに並んだ。通算14試合目の登板(史上最速)、20歳5ヶ月(NPB史上最年少記録)、プロ初完投・初完封だった試合が完全試合(史上初)など様々な記録が残った。だが、前年に打線の主軸を担ったレアードとマーティンの両外国人が打撃不振に陥り、最終的に5位に終わった。また、投手陣が好投しても打線が援護できず敗戦するという試合が目立った。特に小島はチームで唯一規定投球回に到達し、防御率3.14を記録したものの、3勝11敗と大きく負け越した。髙部瑛斗が盗塁王のタイトルを獲得し、美馬が規定投球回未到達ながら10勝を挙げた。シーズン最終戦となる10月2日、ホーム最終戦セレモニーで井口監督が突如退任を発表し、後任としてピッチングコーディネーターの吉井理人が監督に就任。オフに巨人からC.C.メルセデスとグレゴリー・ポランコ、および新外国人としてルイス・ペルドモとルイス・カスティーヨを獲得した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初の日本一を達成したことにより、ロッテはパ・リーグ現存6球団の中で「2010年のクライマックスシリーズで年間勝率3位からしか日本一になっていない唯一の球団」となった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "監督の吉井がMLB経験者として選手の状態やデータ重視で「スタメンはすべて日替わり」「勝ちパターンの中継ぎは固定せず」という采配をするようになった。その起用が当たり、序盤は5月時点で首位と好調であったが、交流戦が7勝9敗と振るわなかったこともあり、中盤以降は首位のオリックスに突き放され、楽天との負ければ4位となる最終戦を制して何とか2位に食い込んだ。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "クライマックスシリーズではZOZOマリンスタジアムで3位のソフトバンクと対戦。2勝1敗でファイナルステージに進出したが、オリックスに1勝4敗(オリックスに1勝のアドバンテージあり)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ポランコが球団としては1986年の落合以来37年ぶり、千葉移転後では史上初そして自身初となる本塁打王を、ペルドモが最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。",
"title": "球団の歴史"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続47シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超えてNPB最長記録となっている。「年間勝率首位で出場した日本シリーズで日本一」と「年間勝率首位によるリーグ優勝」は2023年現在、前者は1950年から73年連続、後者は1970年から53年連続と優勝条件がセ・リーグとは異なっていた時期があったとはいえ、どちらもNPB最長記録である。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地で球団創設初の日本一を達成したことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「本拠地で日本一になっていない最後の球団」となった。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2018年は平成最後のペナントレースだったので、現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む13球団の中で「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝ができなかった唯一の球団」かつ同12球団の中で中日ドラゴンズ、阪神タイガース、広島東洋カープと共に「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になれなかった球団」となった。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "オリックス・バファローズが1996年以来25年ぶり、大阪近鉄バファローズとの球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝を果たしたことにより、パ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む7球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "オリックス・バファローズが1996年以来26年ぶり、大阪近鉄バファローズとの球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になったことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」となった。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "阪神タイガースが2005年以来18年ぶりのリーグ優勝、1985年以来38年ぶりの日本一になったことにより、昭和時代に創設した現存11球団の中で広島と共に「最後の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一が昭和時代となる球団」となった。",
"title": "チーム成績・記録"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも、「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし、実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。英語の名詞形marineは「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。公募の際に「パラダイス」票が最終選考まで残った。変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームのため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "かつては所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフの初芝清と堀幸一)、2017年オフの涌井秀章以降は再契約を認めるようになっている。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半以降は、長距離打者の不足に悩まされることが増え、2019年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年の李承燁と2019年のブランドン・レアードのみである。本塁打王も2023年にグレゴリー・ポランコ(26本)が受賞するまで、37年間ロッテ在籍選手が獲得することが無かった。日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない。これに関しては、本拠地の千葉マリンスタジアムに吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである。これに対し、千葉マリンスタジアムでは2018年シーズン後に「ホームランラグーン」を設定して外野席を4m前方へ近づける改修を行った。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2006年から2015年までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。2016年に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、東京ドームを会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアムでの試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった(試合は4-0でホークスが勝っている)。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアム、8月21日に2年ぶりに東京ドームで地方開催を行った。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアム、9月8日に水戸市民球場(茨城県)での地方開催を予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した。水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "2023年は4年ぶりに地方開催を行うことを2022年12月に発表し、2023年7月6日の対埼玉西武ライオンズ戦を東京ドームにて行った。",
"title": "チームの特徴"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "現在のマスコットであるマーくんは3代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国のKBOリーグ、ロッテ・ジャイアンツにもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似しユニフォーム類を改変したヌリがペットマークに使用されている。後述のクールが登場していた頃は、野球マスコットとしては珍しくキャラクターショーで声があてられていた(声優不明)。",
"title": "マスコット"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "他にもイベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。",
"title": "マスコット"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。",
"title": "マスコット"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ファンサービスの向上は本拠地を千葉市に移転した翌年の1993年頃から取り組み始めており、外野席のホーム・ビジターの区分けやレプリカのユニフォームを着用しての応援などはプロ野球界ではロッテが一番早く導入した。ロッテの内野応援団員を経て、ロッテマリーンズ球団職員を長年勤めた横山健一によれば、同時期に発足したサッカー・Jリーグを始め、メジャーリーグやアイスホッケーなど、国内外のスポーツ応援を参考に球団と応援団が新しい応援スタイルを確立していった。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "1996年にはビジター用のレプリカユニフォームがファン達の要望によって作られた。当初は「よその球場で着るユニフォームをなぜ作るんだ」と反対されていたものの、横山の説得もあり実現となった。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題により、ロッテが千葉を去る可能性が取り沙汰されたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。過去は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らなかった。2004年以降は県と市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置し、動物とふれあう場所を設け、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始し、スタンド内にベビーベッドが設けた。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "2004年のプロ野球再編問題における10球団構想ではロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、2006年度から指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっとフィールド神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のフルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城の例がある。2016年には管理許可のもとで横浜スタジアムを運営していた第三セクターの株式会社横浜スタジアムを、横浜DeNAベイスターズが友好的TOBにより買収している。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。この結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される。販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "球団公式ファンクラブ『TEAM26』があり、ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・無料会員の5コースがある。チケット購入(前売りチケット含む)やオンラインショップ、スタジアム内各売店での購入でMポイントを貯めることが出来る。貯めたポイントは、観戦チケットやスタジアム内各売店で使用可能な金券チケット、各会員の入会特典グッズ、日程ポスターに交換できる。2010年度(2011年1月31日)までの「TEAM26」会員証は全日本空輸との提携による楽天Edy機能搭載のAMCカード一体型だった。",
"title": "営業・ファンサービス"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の瀬戸山隆三は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。",
"title": "独立リーグへの派遣構想(2007年)"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(池田健、宮本裕司、小林憲幸、白川大輔、大谷龍次)は支配下登録を受けた1名(宮本)を除き、2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた長崎セインツへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。",
"title": "独立リーグへの派遣構想(2007年)"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープ・オリックス・バファローズ・中日ドラゴンズ・東北楽天ゴールデンイーグルス・埼玉西武ライオンズ)。",
"title": "独立リーグへの派遣構想(2007年)"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツと業務提携を行い、ロッテ球団職員の荘勝雄がトレーニングコーチとして派遣されることになった。",
"title": "独立リーグへの派遣構想(2007年)"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した「ALL for CHIBA」という特別試合時に、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用する。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "2022年までの「ALL FOR CHIBAユニフォーム」を2023年に「CLMユニフォーム」へ名称を変更した。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベントで着用する。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "乳がん撲滅の啓発を目的としたピンクリボン活動のPRとして、ピンク色がユニフォームの一部に取り入れられ、年に一度「MOTHER’S DAY」と題してイベントが行なわれる際に着用される。ピンクリボンデザインのベースが使用される。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年、広告代理店の博報堂がデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。ビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、綱島理友の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。",
"title": "ユニフォームの変遷"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "※太字はリーグ優勝、◎は日本一",
"title": "歴代監督"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "沢村栄治賞は、2022年シーズン終了時点の現存する12球団ではロッテのみ未選出である。過去には小野正一、村田兆治が沢村賞クラスの活躍をしたが当時、パシフィック・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、受賞できなかった。",
"title": "沢村栄治賞受賞者"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "2022年シーズン終了時点で達成者はいない。",
"title": "三冠王(投手・打者)"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "ロッテでの三冠王の達成者は1人。また、落合博満が日本人打者史上初の複数回達成し、日本プロ野球史上初および日本プロ野球最多記録となる3回三冠王を達成している。2022年シーズン終了時点で3回達成者は落合のみ。",
"title": "三冠王(投手・打者)"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。",
"title": "最優秀選手受賞者(複数回)"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "ロッテの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは1人。",
"title": "最優秀選手受賞者(複数回)"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "のちに日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で敗れ、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、1リーグ制へ移行を画策し始めた。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "当時ロッテはジプシー生活を強いられて首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。ロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測され、合併調印は時間の問題といわれていた。関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "重光はこの合併を否定して合併もほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した。詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "2004年には大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらに球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "この過程でロッテは当時親会社ダイエーの経営難から、球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案も報じられたが、結局実現には至らなかった。ロッテと西武ライオンズを合併して「ロッテライオンズ」、ロッテとヤクルトスワローズを合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため、実現しなかった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "結局、同年オフにダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図ることとなり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2005年現在、パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台野球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。1987年に2年前(1985年)の阪神タイガース優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やすバーター取引、更には神戸市または福岡市(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していた南海電気鉄道では、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に仲介を依頼。その結果、ダイエー社長の中内㓛は買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断。オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "1998年、6月13日から7月8日までの19試合で日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球を記録し、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。この間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸が日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で、記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上を記録した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "ロッテは、2010年6月7日の対ヤクルト4回戦(明治神宮野球場)で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに南竜介の左前安打から連打攻勢がスタートした。代打の青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発・村中恭兵をKOした。今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2点本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。そして南がこの回2本目の中前安打を放ち、10者連続安打の新記録を達成している。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。同日、ロッテがこの記録を達成した直後には、オリックスが対広島4回戦(福山市民球場)の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "ロッテは宮城県仙台市の宮城球場での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の1950年代までは頻繁に、それ以後も少なくとも1980年代まではリーグ順位決定後の消化試合やポストシーズンを中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の東日本大震災発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム に繰り上げたことがあった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "その3年後の2014年、今度は春休みのファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初 となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、楽天も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている。ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く日本ハムと西武も後に平日デーゲームを開催する。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "球団の親会社であるロッテは、当初は業務提携であったが1969年から球団経営に参画した。詳細は前述。長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細はパシフィック・リーグの項目を参照)球団は毎年赤字決算が続いていたものの、2000年代に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善していった。2018年は観客動員、グッズ、飲食など全てで過去最高益を更新したことで、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初めて、親会社による補填に頼らず黒字化を果たした。2019年4月15日に公表した第70期決算公告によると、2018年度の純利益額は3億8,513万円、利益剰余金は4億1,767万円であった。2020年4月15日に公表した第71期決算公告でも、2019年度の純利益額は7億5,536万円、利益剰余金は11億7,303万円となり、2年連続で黒字となり最高益を更新した。",
"title": "主なトピック"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "テレビ中継は全てハイビジョン制作",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "各球団がさまざまな形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た。GyaOは日本国外の視聴不可である。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "2015年からCS放送の配信先がTBSテレビ運営のTBSニュースバードに変更されたが、TBSテレビは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコア表示のフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "J:COM 千葉セントラル制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJ:COMグループのケーブルテレビ局のJ:COMチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「マリーンズ狂」を示す。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。ゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している。司会進行は庄司こなつが担当している。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "2012年9月21日と9月22日にQVCマリンフィールドにてホワイトスペースを利用するワンセグ型エリア放送が実施された。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "会場内に地上一般放送局1局が設置されていた。",
"title": "放送"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#施設概要を参照。",
"title": "ミュージアム"
}
] |
千葉ロッテマリーンズは、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。株式会社千葉ロッテマリーンズは、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。 千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。 1950年のリーグ分裂時に毎日新聞社を親会社とする毎日オリオンズとして発足したのち、大映ユニオンズを合併して毎日大映オリオンズ(大毎)となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が東京→ロッテと変遷し、本拠地も東京都→仙台市→川崎市と変遷したが、1992年より千葉市を本拠地とし球団名も千葉ロッテマリーンズとなり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
|
{{Pathnav|ロッテホールディングス|frame=1}}
{{野球チーム
| ページ名 = 千葉ロッテマリーンズ
| チーム名 = 千葉ロッテマリーンズ
| 英語表記 = Chiba Lotte Marines
| 会社名 = 株式会社千葉ロッテマリーンズ
| 加盟団体 = [[パシフィック・リーグ]]
| 創設年度 = {{start date and age|1949|9|21}}
| ロゴデザイン = [[ファイル:Chiba Lotte Marines insignia.svg|150px]]
| チーム名の遍歴 =
* 毎日オリオンズ(1950年 - 1957年)
: [[大映ユニオンズ]]と対等合併(1958年・開幕直前)
* 毎日大映オリオンズ(1958年 - 1963年)
* 東京オリオンズ(1964年 - 1968年)
* ロッテオリオンズ(1969年 - 1991年)
* 千葉ロッテマリーンズ(1992年 - 現在)
| フランチャイズの遍歴 =
* [[東京都]](1952年 - 1972年)
* [[宮城県]](1973年 - 1977年)
* [[神奈川県]](1978年 - 1991年)
* [[千葉県]](1992年 - 現在)
| 本拠地 = [[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]([[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]])<br />[[ファイル:ZOZOマリンスタジアム 内景.jpg|280px|千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)]]
| キャパ = 29,916人(ZOZOマリンスタジアム)
| 永久欠番 = '''[[#永久欠番|26:ファンナンバー]]'''
| 準永久欠番 = '''[[#永久欠番|9:福浦和也]]'''
| オーナー = [[重光昭夫]]<br />(代行:[[玉塚元一]])
| スポンサー = [[ロッテホールディングス]]
| 球団社長 = [[高坂俊介]]
| 監督 = [[吉井理人]]
| アジアシリーズ優勝回数 = 1
| アジアシリーズ優勝 = [[2005年のアジアシリーズ|2005]]
| 日韓クラブチャンピオンシップ優勝回数 = 1
| 日韓クラブチャンピオンシップ優勝 = [[日韓クラブチャンピオンシップ#2010年|2010]]
| シリーズ優勝回数 = 4
| シリーズ優勝 =
* [[1950年の日本シリーズ|1950]]
* [[1974年の日本シリーズ|1974]]
* [[2005年の日本シリーズ|2005]]
* [[2010年の日本シリーズ|2010]]
|リーグ優勝回数 = 5
|リーグ優勝 =
* [[1950年の野球|1950]]
* [[1960年の野球|1960]]
* [[1970年の野球|1970]]
* [[1974年の野球|1974]]
* [[2005年の野球|2005]]
| 交流戦優勝回数 = 2
| 交流戦優勝 =
* [[2005年の野球|2005]]
* [[2006年の野球|2006]]
| アジアシリーズ出場回数 = 1
| アジアシリーズ出場 =
* '''[[2005年のアジアシリーズ|2005]]'''
| 日韓クラブチャンピオンシップ出場回数 = 1
| 日韓クラブチャンピオンシップ出場 =
* '''[[日韓クラブチャンピオンシップ#2010年|2010]]'''
| シリーズ出場回数 = 6
| シリーズ出場 = 4勝2敗
* '''[[1950年の日本シリーズ|1950]]'''
* [[1960年の日本シリーズ|1960]]
* [[1970年の日本シリーズ|1970]]
* '''[[1974年の日本シリーズ|1974]]'''
* '''[[2005年の日本シリーズ|2005]]'''
* '''[[2010年の日本シリーズ|2010]]'''
| クライマックスシリーズ回数 = 8
| クライマックスシリーズ = 1勝7敗
* [[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2007]]
* [[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|'''2010''']]
* [[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2013]]
* [[2015年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2015]]
* ''[[2016年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2016]]''
* [[2020年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2020]]
* [[2021年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2021]]
* [[2023年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|2023]]
| プレーオフ(2004-2006)回数 = 1
| プレーオフ(2004-2006) = 1勝
* '''[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|2005]]'''
| プレーオフ(前後期制)回数 = 4
| プレーオフ(前後期制) = 1勝3敗
* '''''[[1974年のパシフィック・リーグプレーオフ|1974]]'''''
* ''[[1977年のパシフィック・リーグプレーオフ|1977]]''
* [[1980年のパシフィック・リーグプレーオフ|1980]]
* [[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|1981]]
| 選手会長 = [[益田直也]]
| キャプテン = [[中村奨吾]]
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社千葉ロッテマリーンズ
| 英文社名 = Chiba Lotte Marines
| ロゴ =
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = ロッテ、マリーンズ
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 261-8587
| 本社所在地 = [[千葉市]][[美浜区]]美浜1番地 ZOZOマリンスタジアム
| 本店郵便番号 = 160-0023
| 本店所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[西新宿]]三丁目20-1
| 設立 = 1950年1月<br />(株式会社毎日球団)
| 業種 = サービス業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など
| 代表者 = [[重光昭夫]](代表取締役会長オーナー)<br />[[高坂俊介]](代表取締役社長)
| 資本金 = 6,000万円(2017年12月31日現在)
| 発行済株式総数 =
| 売上高 =
| 営業利益 =
| 経常利益 =
| 純利益 = ▲1億6074万円(2022年12月31日時点)<ref name="fy">{{Cite web|和書|title=株式会社千葉ロッテマリーンズ 第74期決算公告 {{!}} 官報決算データベース |url=https://catr.jp/settlements/020bc/294279 |website=catr.jp |accessdate=2023-04-09 |language=ja}}</ref>
|純資産 = 5億0386万9000円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
|総資産 = 44億9252万8000円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 55人(2009年12月31日時点)
| 決算期 = 12月末日
| 主要株主 = [[ロッテホールディングス]]
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[永田雅一]]([[大映]]創業者、現球団法人設立時オーナー)<br />[[中村長芳]](大映からロッテへ球団移譲時のオーナー)<br />[[重光武雄]](ロッテグループ創業者・初代代表取締役社長、元球団オーナー)
| 外部リンク = https://www.marines.co.jp/
| 特記事項 = 1957年11月に大映野球株式会社を吸収合併。
}}
{{Portal|野球}}
{{Infobox YouTube personality
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}}
'''千葉ロッテマリーンズ'''(ちばロッテマリーンズ、{{Lang-en|Chiba Lotte Marines}})は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]。[[パシフィック・リーグ]]に所属している。'''株式会社千葉ロッテマリーンズ'''は、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。
[[千葉県]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、同県[[千葉市]][[美浜区]]にある[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]を[[専用球場]](本拠地)としている。[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]]にある[[ロッテ浦和球場]]である。
1950年のリーグ分裂時に[[毎日新聞社]]を親会社とする'''毎日オリオンズ'''として発足したのち、[[大映ユニオンズ]]を合併して'''毎日大映オリオンズ'''('''大毎''')となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が'''東京'''→'''ロッテ'''と変遷し、本拠地も[[東京都]]→[[仙台市]]→[[川崎市]]と変遷したが、1992年より[[千葉市]]を本拠地とし球団名も'''千葉ロッテマリーンズ'''となり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
== 球団の歴史 ==
=== 球団創立 ===
{{by|1949年}}9月、[[毎日新聞社]]を親会社とする毎日球団が設立され、'''毎日オリオンズ'''(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと、昭和初期にセミプロ野球チーム『[[大阪毎日野球団]]』を組織していた。[[戦後]]、[[正力松太郎]]からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に自ら主催する[[都市対抗野球]]の有力選手をスカウトして球団を結成した。9月21日、[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]に加盟を申請する。
リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった[[読売新聞社]]([[読売ジャイアンツ]]の親会社)・[[中日新聞社|中部日本新聞社]]([[中日ドラゴンズ]]の親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]・[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]・[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]・[[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]]・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]の7球団からなる太平洋野球連盟([[パシフィック・リーグ]])と毎日オリオンズ加盟反対派の[[阪神タイガース|大阪タイガース]]・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・[[松竹ロビンス]]・[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]・[[広島東洋カープ|広島カープ]]・[[西日本パイレーツ]]・[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]の8球団からなるセントラル野球連盟([[セントラル・リーグ]])が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。
{{Main|プロ野球再編問題 (1949年)}}
この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった[[若林忠志]]・[[別当薫]]・[[土井垣武]]・[[本堂保弥|本堂保次]]・[[呉昌征]]が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
=== 毎日時代 ===
; [[1950年の毎日オリオンズ|1950年]]
パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は[[後楽園球場]]。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は[[明治大学]]のエースから前述の大毎野球団の一員となった[[湯浅禎夫]]を総監督、前大阪監督の[[若林忠志]]を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋漁業(後の大洋ホエールズ)]]から獲得した[[河内卓司]]・[[戸倉勝城]]を加えて「[[ミサイル打線]]」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した[[星野組硬式野球部|星野組]]のエース[[荒巻淳]]や、大洋から獲得した[[野村武史]]が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、[[1950年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[松竹ロビンス]]を4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成し、2リーグ制初代日本一球団になった。打者では別当薫が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠王を獲得し[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]となり、投手では荒巻淳が[[最多勝利|最多勝]]、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]の二冠王で[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]となっている。なお、[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]を介さない1シーズン制において、年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」になっている<ref name=":1" group="注釈">ただし、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年にはプレーオフで年間勝率2位からリーグ優勝をした上で日本一になっており、日本一から最も長く遠ざかっているのは[[広島東洋カープ]]で、最後の日本一は1984年まで遡る。</ref>。
; [[1951年の毎日オリオンズ|1951年]]
首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
; [[1952年の毎日オリオンズ|1952年]]
7月16日、[[福岡市|福岡]]・[[平和台野球場]]での対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦で、雨天と日没を悪用し、故意に試合をノーゲームにする毎日側の策略に観客が激怒し、暴動が発生([[平和台事件]])。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/company/history.php |title=チームヒストリー 1952 |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-26 }}</ref>。
; [[1953年の毎日オリオンズ|1953年]]
首位南海と14.5ゲーム差の5位。[[西宮球場]]での対阪急戦が、[[日本放送協会|NHK]]によるプロ野球初のテレビ中継となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/company/history.php |title=チームヒストリー 1953 |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-26 }}</ref>。
; [[1954年の毎日オリオンズ|1954年]]
3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。
; [[1955年の毎日オリオンズ|1955年]]
[[山内一弘|山内和弘]]が打率リーグ2位の.325と打点王、[[中川隆 (野球)|中川隆]]が最優秀防御率を挙げ、新人の[[榎本喜八]]が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
; [[1956年の毎日オリオンズ|1956年]]
首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
; [[1957年の毎日オリオンズ|1957年]]
シーズン成績は3位。
=== '''毎日大映'''(大毎)→東京オリオンズ時代 ===
1957年11月28日、成績が低迷していた[[大映ユニオンズ]](大映野球)と[[合併 (企業)#対等合併|対等合併]]し、'''毎日大映オリオンズ'''(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は'''大毎オリオンズ'''(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団<ref group="注釈">一部の資料{{要出典|date=2015年10月}}では「株式会社大映毎日球団」とする記述もある。</ref>が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には[[毎日新聞社]]と[[大映]]の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の[[永田雅一]]がオーナーに就任する「[[逆さ合併]]」だった。
; [[1958年の毎日大映オリオンズ|1958年]]
[[葛城隆雄]]が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった<ref>{{harvnb|井上章一|2001|p=164}}。ここでは1958年に『[[SPA!|週刊サンケイ]]』に載った[[中澤不二雄]]の意見と、1959年の『[[読売ウィークリー|週刊読売]]』の記事が紹介されている。</ref>。オフにはこの年セ・リーグの[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となった[[田宮謙次郎]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)#10年選手制度|A級10年選手]]の権利で阪神より移籍する。
; [[1959年の毎日大映オリオンズ|1959年]]
優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。
; [[1960年の毎日大映オリオンズ|1960年]]
[[西本幸雄]]が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「[[ミサイル打線]]」で1950年以来10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの[[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では4連敗で敗退。その時の[[バント]]戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。
この年で毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた<ref>{{harvnb|井上章一|2001|p=163}}および{{harvnb|永井良和 |橋爪紳也|2003|p=155}}。</ref>。毎日の撤退は戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズの記述が著しく少ないと指摘がある<ref group="注釈">毎日新聞社がオリオンズの経営から手を引いたのち、元毎日新聞社副社長の[[工藤信一良]]や元社長の[[小池唯夫]]がパ・リーグ会長を務めた時期がある。</ref><ref>{{harvnb|井上章一|2001|p=166}}および{{harvnb|永井良和|橋爪紳也|2003|p=155}}。</ref>。
; [[1961年の毎日大映オリオンズ|1961年]] - [[1963年の毎日大映オリオンズ|1963年]]
3年連続Bクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。
1962年より本拠地は永田が私財を投じて[[荒川区]][[南千住]]に建設した専用球場・[[東京スタジアム (野球場)|東京球場]]に移転。1962年限りで監督の[[宇野光雄]]が解任<ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180627-02 週刊ベースボール60周年記念企画 阪急・西本幸雄監督就任/週べ1962年11月26日号【243】][[週刊ベースボール]]</ref>。
1964年より球団名を'''東京オリオンズ'''(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策ではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から[[東京ヤクルトスワローズ]]に改称している。この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も1965年1月に引き上げ、後援も1966年度シーズンで打ち切っている。球団は完全に永田が掌握したが会社名は「毎日大映球団」を維持した。
; [[1964年の東京オリオンズ|1964年]] - [[1968年の東京オリオンズ|1968年]]
4年連続Bクラス(1964年・4位→1965年・5位→1966年・4位→1967年・5位)。
1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷。原因として、主砲の[[山内一弘]]や、[[葛城隆雄]]といった主力選手をトレードで放出し、[[田宮謙次郎]]が引退するなど、それまでの[[ミサイル打線]]を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年に[[ジョージ・アルトマン]]、[[アルト・ロペス]]などを獲得してようやくこの数字を逆転し<ref group="注釈">本塁打95本、被本塁打76本。</ref>、チームも1960年以来8年ぶりのAクラス、3位入りしている<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|pp=427 - 428}}。</ref>。
=== ロッテ時代 ===
==== 東京時代 ====
1969年1月18日、永田は友人である[[岸信介]]の斡旋により、[[ロッテ]]をスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を'''ロッテオリオンズ'''に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001190000942.html |title=記者に逆取材も、第三者の声聞く柔軟さ/重光氏悼む |accessdate=2020年1月19日 |publisher=日刊スポーツ(2020年1月19日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200119/k00/00m/040/190000c |title=「球団黒字」夢見て奔走 他業界も研究 ロッテオーナー重光武雄さん死去 |accessdate=2020年1月19日 |publisher=毎日新聞(2020年1月19日作成)}}</ref>。ただ、正式な球団買収ではないので、球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行い、ロッテは球団名の[[スポンサー|冠スポンサー]](現在に置き換えれば、[[命名権]]の制度に近い)を取得する形として留まった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
===== 濃人監督時代 =====
; [[1969年のロッテオリオンズ|1969年]]
首位阪急と5.5ゲーム差の3位。
; [[1970年のロッテオリオンズ|1970年]]
1960年以来10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった[[1970年の日本シリーズ|日本シリーズ]](東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗退した。なお、ロッテはこの年を最後にプレーオフを介さない1シーズン制において、1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をしておらず、本拠地については1973年から「'''宮城球場'''」、1978年から「'''川崎球場'''」、1992年から「'''千葉マリンスタジアム'''」に移転するため、東京球場および本拠地での年間勝率1位によるリーグ優勝はこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている<ref group="注釈" name=":0">ただし、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年にはプレーオフで年間勝率2位からリーグ優勝をしており、リーグ優勝から最も長く遠ざかっているのは[[横浜DeNAベイスターズ]]で、最後のリーグ優勝は横浜ベイスターズ時代の1998年まで遡る。</ref>。
===== 濃人→大沢監督時代 =====
; [[1971年のロッテオリオンズ|1971年]]
1967年に巨額の負債が表面化して以来続いていた大映の経営状態はいよいよ切迫し、1月25日をもって大映は球団経営から撤退。永田もオーナーを辞任する。永田から直々に社長の[[重光武雄]]に球団経営の肩代わりを要請されたロッテは岸の秘書で副オーナー・個人株主として球団に参加していた[[中村長芳]]と共に正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「'''ロッテオリオンズ'''」になった<ref group="注釈">球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては2001年の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]が挙げられる(球団を[[マルハ]]から[[TBSホールディングス]]に譲渡した時、連盟登記の球団名やユニフォームなどは全て従来のままとした)。</ref>。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。重光は当時野球にさほど興味を持っていなかったため、オーナー職は中村に委ねた一方、これまでの球団経営の労苦に配慮し、オーナーを退いた永田を取締役として残した。
7月13日、西宮での対阪急戦で[[江藤慎一]]のハーフスイングの判定をめぐり[[濃人渉]]監督が猛抗議、[[没収試合|放棄試合]]を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され、二軍監督に降格、後任に[[大沢啓二]]二軍監督が就任。この年は優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打した[[ジョージ・アルトマン]]など<ref group="注釈">他に[[有藤通世]]27本、江藤愼一25本、[[アルト・ロペス]]24本、[[山崎裕之]]21本。</ref> チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|pp=427 - 428 }}。</ref>。
===== 大沢監督時代 =====
; [[1972年のロッテオリオンズ|1972年]]
前年と一転、Bクラスの5位に転落。オフに中村がオーナーを辞任し、後任に重光が新オーナーに就任。東京球場は永田と共通の友人である[[児玉誉士夫]]の斡旋で[[国際興業]]社主の[[小佐野賢治]]が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し、球場の買い取りを要求したが、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、オフに監督に就任した[[金田正一]]が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから、交渉は決裂。東京球場は閉鎖されたため、本拠地球場を失った。観客動員は31万人で本拠地東京球場は閑古鳥が鳴いていた<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に">[[週刊ベースボール]]2023年11月27日号、1972年11月17日、崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に、59頁</ref>。金田が監督に就任したのは同じ[[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]の重光に「ワシをロッテオリオンズの監督にして下さい。必ず客を呼んで見せます。一流の球団にしてみせます。カネやんのいうこと信用して下さい。」と頭を下げた事がきっかけにになっている。国民的英雄の在日同胞が頼んできたのに感銘した重光は金田と男の約束を交わし、監督に起用したばかりか破格の権限を与えた<ref>[[週刊現代]]2021年2月6日号、昭和の怪物研究/金田正一 本当は海を渡りたかった、187-188頁</ref>。金田の年俸は2400万円で巨人・[[川上哲治]]に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。金田の監督就任は前年オフに大沢と交わしていた5年契約を破棄してのもので、球団は大沢に違約金を支払う事態になった。金田の方針で小山が大洋にトレードされるが、小山は中村との約束を理由に難色を示し、球団が功労金を支払う事で、決着を見た。
==== 仙台時代 ====
{{See also|ジプシー・ロッテ}}
1973年から[[宮城県]][[仙台市]][[宮城野区]]の[[宮城球場]]を中心に、首都圏では後楽園球場、[[明治神宮野球場]]、[[川崎球場]]を転々としつつ、主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年までに続き、この5年間は「[[ジプシー]]球団」などと揶揄された([[#歴代本拠地|歴代本拠地]]参照)。
===== 第1次金田監督時代 =====
; [[1973年のロッテオリオンズ|1973年]]
パ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で、総合では3位に終わる。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />。その効果はパリーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し、理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった。オフに日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるも、これを拒否した。このため、日拓ホームフライヤーズは[[日本ハム]]に売却されることになった(現在の[[北海道日本ハムファイターズ]])。中村前オーナーが[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ]]の経営に参画・[[福岡野球]]株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い<ref group="注釈">野球協約が制定される以前は[[阪神電気鉄道]]が[[読売ジャイアンツ|東京ジャイアンツ]]の株式、[[読売新聞社]]が[[阪神タイガース|大阪タイガース]]の株式を互いに持ち合った事例がある。</ref>、保有していた株式をロッテに譲渡した。
; [[1974年のロッテオリオンズ|1974年]]
金田監督の下で[[有藤通世]]、[[山崎裕之]]、[[弘田澄男]]、投手では[[金田留広]]、[[木樽正明]]、[[村田兆治]]、[[成田文男]]らが活躍して後期優勝。[[1974年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では前期優勝の[[阪急ブレーブス]]を3連勝で破り、1970年以来4年ぶり4回目のリーグ優勝。中日との[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[ジョージ・アルトマン]]を負傷で欠き、有藤もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが<ref>[[永谷脩]]著、監督論 日本シリーズを制した27人の名将、[[廣済堂出版]]、2013年、P298</ref>、4勝2敗で1950年以来24年ぶりの日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題{{Efn|当時の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の実施要項に「使用球場は3万人以上の収容能力を有すること」と明記されていることから、日本シリーズの運営委員会もその規則に準ずる形で使用球場を決定しているが、当時の宮城球場の収容人数は3万人未満であり、施設が未整備なことが背景にあった<ref>{{Cite news|title=仙台育英初優勝、東北108年目の悲願「白河越え」達成/東北の野球史|url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202208230000092.html |newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2022-08-28|date=2022-08-23}}</ref>。}}から、宮城球場ではなく、後楽園球場で行われた。この年と1977年のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城球場で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた。日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで、仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、ロッテはこの年を最後に1度も年間勝率1位になっておらず、2シーズン制において、プレーオフで後期1位からリーグ優勝・日本一になったのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最も年間勝率1位から遠ざかっている球団」になっている。
; [[1975年のロッテオリオンズ|1975年]]
前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも、総合4位に終わる。
; [[1976年のロッテオリオンズ|1976年]]
前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。この年には9月2日にナゴヤ球場で行われた公式戦を最後に広島に所属していた[[若生智男]]が現役を引退したことにより、毎日オリオンズに所属した選手が全員引退した。
; [[1977年のロッテオリオンズ|1977年]]
前期は5位に終わるも、後期は優勝。[[1977年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが、3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
==== 川崎時代 ====
[[神奈川県]][[横浜市]]で[[横浜スタジアム]]の建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後、同県[[川崎市]]から誘致を受け、1977年10月4日、翌年から保護地域を宮城県から同県、専用球場を同県同市[[川崎区]]の川崎球場に移転することが承認された。しかし、この14年間でリーグ優勝は1度もなかった。
; [[1978年のロッテオリオンズ|1978年]]
移転1年目は総合4位に終わる。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝ができ<ref name="崩壊寸前だったパリーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテの監督に" />、終盤に金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任し<ref>[[スポーツニッポン]]、[[村田兆治]]の我が道2017年7月15日</ref>、非常勤の球団取締役となった。前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していた[[野村克也]]に[[選手兼任監督]]として後任を打診するも、金田の後任は荷が重いと固辞し、そのまま退団。
===== 山内監督時代 =====
; [[1979年のロッテオリオンズ|1979年]]
山内一弘が監督に就任。就任1年目は4位に終わった。監督の山内がルーキーの[[落合博満]]を積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。
; [[1980年のロッテオリオンズ|1980年]]
山内の下、[[レロン・リー]]、[[レオン・リー]]のリー兄弟、投手陣では[[仁科時成]]、[[水谷則博]]、[[倉持明]]が活躍し、前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。
; [[1981年のロッテオリオンズ|1981年]]
村田が11連勝し、19勝で[[最多勝利]]のタイトルを獲得、落合はレギュラーに定着し、[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルも獲得<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編] (週刊ベースボール別冊初冬号)、ベースボール・マガジン社、2020年、76頁</ref>。エース村田の活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、前評判は圧倒的有利だったが<ref>[[落合博満]]著、決断=実行、[[ダイヤモンド社]]、2018年、40頁</ref>、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、[[土橋正幸]]、[[豊田泰光]]と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、[[重光武雄]]オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、[[鶴岡一人]]に相談し、次期監督に[[山本一義]]を推薦し、山本が監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|title=【虎番疾風録(39)】仰天ロッテ山本監督決定 |url=https://www.sankei.com/article/20181010-UIUE3BHRGVNA3KD54PDSSNZWQY/ |website=産経ニュース |date=2018-10-10 |accessdate=2020-06-30 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。この年にはオフに西武に所属していた[[長谷川一夫 (野球)|長谷川一夫]]が現役を引退したことにより、毎日大映オリオンズ(大毎)に所属した選手と、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。
===== 山本一義監督時代 =====
; [[1982年のロッテオリオンズ|1982年]]
[[落合博満]]が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者[[三冠 (野球)|三冠王]]となる。順位は5位に終わる。
; [[1983年のロッテオリオンズ|1983年]]
投手陣強化を図るためレオンを放出してまで[[スティーブ・シャーリー]]を獲得するものの、村田が故障で1年間公式戦に登板できずに打線も弱体して球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任<ref>{{Cite book |和書 |title=俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ BBMタイムトラベル いま蘇る「川崎劇場」の14年間! |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |series=B.B.MOOK |year=2013 |page=47 |isbn=9784583620473 }}</ref>。
===== 稲尾監督時代 =====
; [[1984年のロッテオリオンズ|1984年]]
[[張本勲]]に監督要請するも断られ、重光オーナーに監督候補を出してほしいと言われた張本は[[土橋正幸]]と[[稲尾和久]]を推薦、土橋はヤクルト投手コーチ就任が決まっており稲尾が監督に就任した<ref>[[週刊ベースボール]] 2021年12月27日号 連載『張本勲の喝!!』47頁</ref>。稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。[[石川賢 (1960年生の投手)|石川賢]]が[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]。
; [[1985年のロッテオリオンズ|1985年]]
落合、[[西村徳文]]、レロン・リー、新人の[[横田真之]]が打率3割を記録してチーム打率1位になり、投手陣は肘の手術から復帰した村田が開幕11連勝を記録し17勝5敗の成績を挙げ、仁科、新外国人の[[荘勝雄]]も2桁勝利を挙げるものの、前年最高勝率の石川、石川と同じく15勝を挙げた[[深沢恵雄]]がそろって不振に陥るなど全体的には軒並み不振だった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでも[[ランディ・バース]]([[阪神タイガース|阪神]])が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。
; [[1986年のロッテオリオンズ|1986年]]
落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]。リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目の[[愛甲猛]]とバラエティに富んだ打線は前年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣は[[仁科時成]]は3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向した[[荘勝雄]]は18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)[[ベースボール・マガジン社]]、2019年、61頁</ref>、チーム防御率5位に終わった。球団の福岡移転を熱望していたが、実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。来年はどこと契約しているのかわからない。」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)[[ベースボール・マガジン社]]、2019年、40頁</ref>。落合は[[牛島和彦]]・[[上川誠二]]・[[平沼定晴]]・[[桑田茂]]の4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍した<ref>{{Cite web|和書|date=2007-12-11 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211158.html |title=【12月23日】1986年(昭61)ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表 |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している<ref>{{Cite book |和書 |author=落合博満|authorlink=落合博満 |title=野球人 |year=1998 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |page=78 |isbn=4583035691 }}</ref>。
===== 有藤監督時代 =====
; [[1987年のロッテオリオンズ|1987年]]
[[有藤通世|有藤道世]]が監督就任。女性向けの[[フリーペーパー]]「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pは[[ロッテリア]]などで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2005 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 11 |publisher=講談社 }}</ref>。この年は落合が抜け、レロン・リーが不振で、4番は若手の[[古川慎一]]や[[高沢秀昭]]らが務めたが力不足は顕著で、打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。有藤と不仲だったレロン・リーが冷遇され、不調に陥り、解雇された。
; [[1988年のロッテオリオンズ|1988年]]
この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は[[10.19]]参照)。この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇った[[ビル・マドロック]]は、.263 19本塁打と期待を裏切りこの年限りで解雇。[[高沢秀昭]]が首位打者・[[小川博]]が[[最多奪三振 (日本プロ野球)|奪三振王]]、牛島は2年連続セーブ王に輝く。小川、[[村田兆治]]、[[荘勝雄]]、[[園川一美]]の4人が二桁勝利を挙げた。
; [[1989年のロッテオリオンズ|1989年]]
二軍の本拠地が[[東京都]][[青梅市]]の[[青梅スタジアム|青梅球場]]から[[埼玉県]]浦和市(現:[[さいたま市]]南区)の[[ロッテ浦和球場]]に移転<ref group="注釈">その後、1998年に現在の球団寮が竣工した。</ref>。
村田兆治が5月13日の[[山形県野球場]]での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|防御率1位]]に輝く。西村は外野手転向、新加入の[[マイク・ディアズ]]は.301、39本塁打、105打点の成績を残し、愛甲も3割をマーク。
順位は球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。主力の高沢、[[水上善雄]]と広島・[[高橋慶彦]]、[[白武佳久]]ら3選手とのトレードが成立。
===== 第2次金田監督時代 =====
; [[1990年のロッテオリオンズ|1990年]]
ディアズを一時捕手で起用するなど復帰した金田監督のパフォーマンスや退場劇が注目されたがチーム成績は5位。2年目の[[初芝清]]が三塁に定着、西村が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]になる。10月13日に川崎球場で行われた引退試合を最後に村田兆治、袴田英利が現役を引退した。村田の引退により、東京オリオンズに所属した選手と、毎日大映球団時代に在籍した選手と、東京球場時代に在籍した選手が全員引退した。高橋慶は成績が振るわずに阪神へ移籍。8球団競合でドラフト1位指名の[[小池秀郎]]が入団拒否。
; [[1991年のロッテオリオンズ|1991年]]
首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への[[人工芝]]敷設、スコアボードの電光化など、川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の[[新語・流行語大賞]]表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。8月9日の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦(川崎球場)で、[[谷保恵美]]が初めて一軍試合の[[スタジアムDJ|アナウンス]]を担当<ref name="daily20190730">{{Cite news|和書 |title=ロッテ名物ウグイス嬢1800試合到達「こんなに幸せを感じた日はありません」 |newspaper=デイリースポーツ |date=2019-07-30 |access-date=2023-10-12 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2019/07/30/0012563700.shtml |archive-date=2023-10-03 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231003111923/https://www.daily.co.jp/baseball/2019/07/30/0012563700.shtml}}</ref>。9月4日、保護地域を神奈川県から[[千葉県]]、専用球場を同県[[千葉市]][[美浜区]]の[[千葉マリンスタジアム]]に移転することがオーナー会議によって承認された。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|p=1082}}。</ref>。
シーズン中に広島から高沢が復帰、[[平井光親]]が首位打者を獲得し、[[堀幸一]]は二塁に定着して20本塁打を放つ。オフに金田が監督を解任された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/company/history.php |title=チームヒストリー 1991 |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-26 }}</ref>。後任に球団OBの[[八木沢荘六]]が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が再び八木沢に追い出された形となった。監督の八木沢によると、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]コーチだった1991年の夏にオーナー代行の[[重光昭夫]]同席の下、「監督をやってくれ」と言われたという{{refnest|group="注釈"|[[デイリースポーツ]]によると、次期監督にはOBからは八木沢と[[醍醐猛夫]](当時二軍監督)、[[木樽正明]](当時スカウト部長代理、千葉県出身)、[[村田兆治]]、[[ジム・ラフィーバー]]、OB以外からは[[掛布雅之]]、[[谷沢健一]](いずれも千葉県出身)が候補になっていたと報道されていた<ref>[[デイリースポーツ]] 1991年11月6日 1面、1991年11月8日 1面</ref>。1991年11月12日に次期監督に八木沢が正式に決定したことが発表された<ref>デイリースポーツ 1991年11月13日 2面</ref>。}}<ref name="八木沢荘六の我が道㉗"/>。
==== 千葉時代(千葉ロッテマリーンズ時代) ====
本拠地移転に伴う新しい球団名は当初は地名をつけた「千葉ロッテオリオンズ」となる予定だった。しかし、1991年11月1日に一転して一般公募により、改称されることとなった<ref>「さらば、川崎球場」[[週刊ベースボール#別冊|週刊ベースボール別冊]] よみがえる1990年代のプロ野球 Part8 1991年編 圧巻の西武連覇 [[ベースボール・マガジン社]].2021年.P32-33</ref>。11月21日、新しい球団名は'''千葉ロッテマリーンズ'''(英語で海兵隊)に決定した。監督の八木沢は「ドルフィンズ」を推していた<ref name="八木沢荘六の我が道㉗">[[スポーツニッポン]]2021年11月27日9版、八木沢荘六の我が道㉗、伊良部に救われた監督時代</ref>。
本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・[[球団旗]]・[[ペットマーク]]・マスコットを一新。
現存12球団と楽天を除く同11球団の中で「現在の本拠地と球団名になってから1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で日本一になっていない唯一の球団」になっている<ref group="注釈">ただし、[[横浜DeNAベイスターズ]]は1998年にリーグ優勝・日本一になった時はすでに本拠地が横浜スタジアム、親会社がマルハ(現・マルハニチロ)、球団名が横浜ベイスターズになっていたため、「現在の親会社と球団名になってからリーグ優勝・日本一になっていない」にすぎない。</ref>。
===== 八木沢監督時代 =====
; [[1992年の千葉ロッテマリーンズ|1992年]]
本来開幕権は[[オリックス・ブルーウェーブ]]が持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、ディアズは不振で途中退団し、千葉移転初年度は前年に続き、最下位となった。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。新人の[[河本育之]]は19セーブで抑えに定着。しかし、この年にはオフにダイエーに所属していた水上善雄が現役を引退したことにより、宮城球場時代に在籍した選手が全員引退した。
; [[1993年の千葉ロッテマリーンズ|1993年]]
この年も[[メル・ホール]]や地元出身の[[宇野勝]]を獲得し、補強を行ったが、チームの地力は上がらず、5位に終わると、移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。オフに当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
; [[1994年の千葉ロッテマリーンズ|1994年]]
首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、八木沢は球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した<ref name="八木沢荘六の我が道㉗"/>、その後は、[[中西太]]が代理監督を務め、やや持ち直すも5位に終わる。八木沢は監督時代を「投手は伊良部の他に[[牛島和彦]]、[[小宮山悟]]、[[園川一美]]、[[前田幸長]]、[[吉田篤史]]、[[河本育之]]らがいて他チームに引けを取らなかったが、打線が点を取れなかった。」<ref name="八木沢荘六の我が道㉗"/> と述べている。オーナーの[[重光武雄]]が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団<ref>[[井箟重慶]]、オリックス元代表 球界への遺言、中西太さんは年俸5000万円と聞くなり「この話は終わり」 2017年7月4日、[[日刊ゲンダイ]]</ref>。[[伊良部秀輝]]は自己最多の15勝挙げて[[最多勝利|最多勝]]、[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]を獲得。
===== 第1次バレンタイン監督時代 =====
; [[1995年の千葉ロッテマリーンズ|1995年]]
日本球界初のGM([[ゼネラルマネージャー]])として[[広岡達朗]]が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のある[[ボビー・バレンタイン]]監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していた[[ピンク]]色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインに開幕からリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇<ref group="注釈">その後、ホールは中日ドラゴンズに移籍するも、両膝を故障した影響で途中退団。</ref>。代わりに[[フリオ・フランコ]]、[[ピート・インカビリア]]を獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながら1番打者に起用された[[諸積兼司]]、リーグ打率2位の堀、打点王を獲得した初芝清{{Refnest|group="注釈"|[[イチロー]]([[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]])、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]])と3人並んで80打点のタイ記録。}}、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、[[小宮山悟]]、[[エリック・ヒルマン]]の先発三本柱、河本育之、[[成本年秀]]のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。
===== 江尻監督時代 =====
; [[1996年の千葉ロッテマリーンズ|1996年]]
バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた[[江尻亮]]が昇格したものの、[[早稲田大学|大学]]で広岡の後輩だったとのことで、「広岡の[[傀儡政権]]」と陰口を叩かれる。投手陣は伊良部が最優秀防御率を獲得し、ヒルマンが防御率2位、成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きを見せ、2年目の[[黒木知宏]]が奮闘したが、開幕投手を務めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪化するなどそれ以外が計算出来なかった。野手陣も外国人が活躍出来ず、初芝もマークが厳しくなって勝負強さを発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水でチームは5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され<ref>[[広岡達朗]]著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道 幻冬舎、2016年、P75</ref>、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍([[伊良部メジャーリーグ移籍騒動]])。ヒルマンも巨人へ移籍した。
===== 近藤監督時代 =====
; [[1997年の千葉ロッテマリーンズ|1997年]]
[[横浜ベイスターズ]]元監督だった[[近藤昭仁]]が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の[[藤田元司]]に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-04-04 |url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160404-OHT1T50126.html |title=【あの時・98年ロッテあぁ18連敗】(4)倒れるまで、やらせて下さい |publisher=[[スポーツ報知]] |accessdate=2016-04-04 }}</ref>。[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]時代の[[スクイズ]]の多用に代表される采配のまずさによる成績不振、[[佐々木主浩]]らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。投手陣は伊良部とヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、[[薮田安彦]]が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかし、ストッパーの成本が大怪我によりシーズン途中でリタイア。野手陣は新人の[[小坂誠]]が新人王に輝き、投手から打者に転向した[[福浦和也]]が台頭したが、外国人は長打不足で、初芝と堀も不振。前年まで多くのマスクを被っていた[[定詰雅彦]]や[[田村藤夫]]が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された[[清水将海]]が開幕戦で先発マスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打にわたり駒不足でチームは最下位に終わる。
; [[1998年の千葉ロッテマリーンズ|1998年]]
近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた<ref>{{Cite book |和書 |title='98プロ野球選手写真名鑑 |publisher=[[日刊スポーツ出版社]] |date=1998-04-18 |series=日刊スポーツグラフ |isbn=978-4817205421 |page=152}}</ref>。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱し、セットアッパーの[[吉田篤史]]も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は[[#悪夢の18連敗|後述]])。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人の[[ブライアン・ウォーレン]]が加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言し、ロッテを去った。
===== 山本功児監督時代 =====
; [[1999年の千葉ロッテマリーンズ|1999年]] - [[2003年の千葉ロッテマリーンズ|2003年]]
1999年には[[山本功児]]が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組み、前年「七夕の悲劇」となった日に勝利し首位に浮上したがこの試合直後に8連敗し優勝争いからも脱落した。チームはその後も球団の資金難や貧打線、[[黒木知宏]]頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗と大型連敗を経験した。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使する意向を球団に伝え、自由契約で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]に移籍した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20110101Z00001050.html |website=www.sponichi.co.jp |title=【1月4日】1999年(平11) 小宮山悟、ケンカ売る「球団改革しなけりゃ出て行く」 |accessdate=2020-06-30}}</ref>。90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願で[[読売ジャイアンツ]]に移籍、成本も怪我で満足な投球ができず2000年に戦力外通告を受け、退団した。2001年に[[福浦和也]]が首位打者、[[ネイサン・ミンチー|ミンチー]]が最優秀防御率を獲得した。2002年オフには2000年限りで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]を退団した[[ロバート・ローズ]]を獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している<ref>{{Cite web|和書|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/column/200302/0219sn_02.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2011年4月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120121155753/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/column/200302/0219sn_02.html |archivedate=2012年1月21日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。2003年は特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。山本功児は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わるも、年々勝率を上げ、2002年・2003年は4位、2003年にはシーズン最終成績を68勝69敗3分と、借金1にまでチームを戻したところで退団。成績不振による事実上の解任だった<ref>{{cite news|author = |url = https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20030929000415|title = ロッテ山本監督が退任/5年間でAクラスなし|newspaper =四国新聞社|publisher = |date=2003-09-29|accessdate=2023-10-28}}</ref>。その際、シーズン最終戦で当時ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きた<ref>{{Cite news |title=ロッテ・山本監督が試合前のスタッフ解雇通告に激怒 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2003-10-13 }}</ref>。しかし、山本功児監督時代に[[福浦和也]]、[[サブロー]]、[[里崎智也]]、[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]、[[小林雅英]]などを起用し、この時期にドラフトで獲得した[[清水直行]]、[[渡辺俊介]]、[[今江敏晃]]、[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。オフに韓国・[[三星ライオンズ]]から[[李承燁 (野球)|李承燁]]を獲得。
===== 第2次バレンタイン監督時代 =====
; [[2004年の千葉ロッテマリーンズ|2004年]]
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃したが、シーズン全体では勝率5割を記録した。
; [[2005年の千葉ロッテマリーンズ|2005年]]
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて'''<u>「[[マリンガン打線]]」</u>'''と呼ばれ、4番に[[サブロー]]を起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]と対戦し、3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日に2リーグ制以降[[千葉ロッテマリーンズ 26-0 東北楽天ゴールデンイーグルス|最多得点差となる26-0で楽天に圧勝]]している。この年から導入された[[セ・パ交流戦]]では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対[[埼玉西武ライオンズ]]戦に勝ち、1995年以来10年ぶりの勝ち越しを決めると、同時に1971年以来34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利したことで、[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]進出と1995年以来10年ぶりのAクラスが確定した。9月19日、1971年以来34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ第1ステージ]]では西武、第2ステージでは2戦先勝するも、第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に[[里崎智也]]の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、[[福岡ソフトバンクホークス]]を破り、1974年以来31年ぶりのリーグ優勝を果たした<ref group="注釈">プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた。</ref>。10月22日からの[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1戦([[千葉マリンスタジアム]])は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏一死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、[[コールドゲーム]]となる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、1974年以来31年ぶり3度目の日本一を達成した。11月10日から[[東京ドーム]]で行われた第一回[[アジアシリーズ]]に出場。決勝で韓国の[[三星ライオンズ]]を5-3で下して勝利し、優勝している<ref group="注釈">この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの'''初代王者'''の称号を手に入れたことになる。</ref>。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し、優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる'''日替わり打線'''などを駆使していた。その采配がしばしば成功するので、'''ボビーマジック'''と言われた。この年、[[渡辺俊介]](15勝)、[[小林宏之 (野球)|小林宏之]](12勝)、[[ダン・セラフィニ]](11勝)、[[清水直行]](10勝)、[[久保康友]](10勝)、[[小野晋吾]](10勝)が2ケタ勝利を挙げた<ref group="注釈">同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]以来である。</ref>。久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の[[荒巻淳]](26勝)・[[榎原好]](16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。なお、ロッテはこの年を最後に1度もリーグ優勝をしておらず、対外試合、ペナントレース、[[ポストシーズン#日本|ポストシーズン]]全てにおいて、これまでにない躍動ぶりを発揮したのはこの年が唯一であり、現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」になっている<ref name=":0" group="注釈" />。
; [[2006年の千葉ロッテマリーンズ|2006年]]
[[小坂誠]]が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフに[[福岡ソフトバンクホークス]]を退団した[[フリオ・ズレータ]]を獲得。
; [[2007年の千葉ロッテマリーンズ|2007年]]
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦)が降雨コールドで引き分け<ref group="注釈">パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。</ref>。翌日も延長12回で引き分け<ref group="注釈">開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。</ref>。投手陣は、中継ぎ陣が[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の防御率10点台を超える乱調や、[[小林雅英]]の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38[[ホールド#ホールドポイント|HP]]で[[最優秀中継ぎ投手]]賞を獲得した[[薮田安彦]]がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の[[川崎雄介]]と新人の[[荻野忠寛]]が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして[[成瀬善久]]が16勝1敗、防御率1.817で、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]と[[最優秀投手]]の2冠を獲得した。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は[[福浦和也]]、[[今江敏晃]]、[[フリオ・ズレータ]]の故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、[[早川大輔]]の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。[[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ1stステージ]]ではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
; [[2008年の千葉ロッテマリーンズ|2008年]]
先発投手陣が揃って不調に陥り、開幕直後に捕手の[[里崎智也]]、[[橋本将]]、[[田中雅彦]]が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位に終わった。チーム防御率はリーグワースト。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、当時の契約最終年であった4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに[[井口資仁]]を獲得。
; [[2009年の千葉ロッテマリーンズ|2009年]]
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、[[淑徳大学]]とパートナーシップ包括協定を締結。バレンタインとの契約を同年限りとする前年12月の球団声明を受けて、長らく球団の応援活動を牽引したファングループの[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]および外野応援団のメンバーを中心に、バレンタインの残留を求め、球団フロント関係者を糾弾する活動がシーズン開幕前後から繰り広げられ、終盤戦では行き過ぎた言動を咎めた[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]への中傷・応援ボイコットにまで発展。グラウンド内外での騒動の影響もあって、チームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終えた。バレンタインは球団方針通りシーズン終了を以て監督を退任し、一連のトラブルを招いたMVP・外野応援団は解散に追い込まれた。バレンタインの後任には一軍ヘッド兼外野守備走塁コーチの[[西村徳文]]が監督に昇格した。オフに韓国・[[ハンファ・イーグルス]]からFA宣言した[[金泰均 (1982年生の内野手)|金泰均]]を獲得。
===== 西村監督時代 =====
; [[2010年の千葉ロッテマリーンズ|2010年]]
序盤はルーキー[[荻野貴司]]や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と[[唐川侑己]]の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]のファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]以来37年ぶりとなった<ref group="注釈">当時は前後期の首位同士の[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]の結果で優勝チームを決定しており、1973年のプレーオフに勝利した南海はシーズン3位扱いではなく、リーグ優勝扱いであった点が異なる。シーズン3位として日本シリーズに進出したのは2010年ロッテが初。</ref>。日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、2005年以来5年ぶり4度目の日本一となり、パ・リーグで初めてリーグ優勝せず<ref group="注釈">シーズンの年間勝率2位以下で日本一となった例は1975年の阪急、1982年の西武、2005年のロッテがあるが、各当時のルールでは全てリーグ優勝の扱いとなっていた。</ref>に日本シリーズを制した球団となった<ref group="注釈">セ・リーグでは2007年の中日が2位から日本一となっている。</ref>。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、[[日韓クラブチャンピオンシップ]]では[[SKワイバーンズ]]を3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・[[QVC|QVCジャパン]]による[[命名権]]導入に伴い、名称を「'''QVCマリンフィールド'''」に改めることを発表した。オフに小林宏之が阪神、西岡が[[ミネソタ・ツインズ]]にFA移籍。堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーはなく、現役を引退した。堀の引退により、ロッテオリオンズに所属した選手と、川崎球場時代に在籍した選手が全員引退した。
; [[2011年の千葉ロッテマリーンズ|2011年]]
3月11日に発生した[[東日本大震災]]ではQVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが、周辺が[[液状化現象]]を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/company/history.php |title=チームヒストリー 2011 |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-26 }}</ref>。開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり<ref group="注釈">本来は3月25日のKスタ宮城での楽天戦だった。</ref>、4対6で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として<ref>{{Cite news |title=連夜の逆転負け…ロッテ3連敗で貯金なくなった |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-05-19 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/19/kiji/K20110519000848440.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref> 以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落<ref>{{Cite news |title=ロッテ ついにリーグ、交流戦でダブル最下位 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-06-09 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/09/kiji/K20110609000984770.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。交流戦は8勝14敗2分の10位<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2011/stats/std_inter.html |title=2011年度 交流戦 チーム勝敗表|publisher=[[日本野球機構]] |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。6月29日にはサブローが[[工藤隆人]]プラス金銭で巨人にトレードされる<ref>{{Cite web|和書|date=2011-06-29 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/7324.html |title=サブロー選手と読売ジャイアンツ・工藤隆人選手プラス金銭でのトレードについて |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成<ref>{{Cite news |title=唐川、連敗止めた!ロッテ、通算4000勝に到達 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-09-08 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/08/kiji/K20110908001577950.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録<ref>{{Cite news |title=ついに11連敗 西村監督「みんな空回りしている」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-09-29 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/29/kiji/K20110929001717620.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラス<ref>{{Cite news |title=ロッテ、サヨナラ勝ちも…CS進出の可能性消滅 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-09-30 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/30/kiji/K20110930001732200.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで、最下位が確定した。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて<ref>{{Cite news |title=日本一から最下位…ロッテ パ史上初の屈辱 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-10-09 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001789110.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2011/stats/ |title=2011年度公式戦成績 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。得点は球団史上最低記録となる432<ref group="注釈">これまでの記録は1958年の435。</ref>、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の[[中村剛也]](西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった<ref group="注釈">同年は近鉄が27本、[[中西太]](西鉄)31本、[[山内和弘]](毎日)28本。</ref><ref>{{Cite news |title=ロッテ2桁アーチ0人おかわり以下のチーム合計46発 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-10-23 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/23/kiji/K20111023001873580.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している<ref>{{Cite news |title=〈野球〉金泰均「日本では野球の面白さを感じることができなかった」 |newspaper=[[中央日報]] |date=2011-09-19 |url=http://japanese.joins.com/article/873/143873.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー<ref group="注釈">巨人時代の登録名は本名の大村三郎。</ref>がFA移籍で半年でロッテに復帰<ref>{{Cite web|和書|date=2011-12-23 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/8461.html |title=大村三郎選手との契約について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。
; [[2012年の千葉ロッテマリーンズ|2012年]]
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど<ref>{{Cite news |title=60年ぶり!ロッテ開幕4連勝…最下位から下克上再び |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-04-05 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/05/kiji/K20120405002981370.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、序盤から首位争いをし、5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し、首位浮上<ref>{{Cite news |title=ロッテ逃げ切り首位浮上!通算千投球回の成瀬が3勝目 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-05-11 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/11/kiji/K20120511003232420.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した<ref>{{Cite news |title=ロッテ前半戦サヨナラ締め“快足”荻野貴ダイブ生還 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-07-19 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710600.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。しかし、後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に3対5に敗れ、2か月半ぶりに首位陥落し<ref>{{Cite news |title=グライ背信で首位陥落も…西村監督「あした頑張ればいい」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-07-31 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/31/kiji/K20120731003802970.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり<ref>{{Cite news |title=ロッテ6試合連続1得点以下リーグワーストにあと1 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-09-10 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/10/kiji/K20120910004084270.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラドーム)に1対2で敗れたことで、2年連続Bクラスが確定し<ref>{{Cite news |title=ロッテCS消滅 今季5度目のサヨナラ負けでBクラス確定 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-10-04 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/04/kiji/K20121004004252780.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。[[角中勝也]]が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった<ref>{{Cite news |title=角中初の首位打者!出身独立Lへ「活躍することが恩返しになる」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-10-09 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/09/kiji/K20121009004297420.html |accessdate=2012-10-21 }}</ref>。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている<ref>{{Cite news|title=ロッテ弟V!“中田キラー”植松今季ベス投|newspaper=スポーツニッポン|date=2012-10-07|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/07/kiji/K20121007004271990.html |accessdate=2012-10-21}}</ref>。[[益田直也]]が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-08 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/10235.html |title=西村監督退団について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2012-10-08 }}</ref>、10月15日にはヘッドコーチの[[高橋慶彦]]ら8コーチも退団<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-15 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/10269.html |title=コーチ契約に関するお知らせ |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2012-10-15 }}</ref>。10月18日、監督に[[伊東勤]]<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-18 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/10279.html |title=伊東勤新監督 就任記者会見について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2012-10-18 }}</ref>が就任。
===== 伊東監督時代 =====
; [[2013年の千葉ロッテマリーンズ|2013年]]
5月9日に2006年7年ぶりの8連勝で首位に立ち<ref>{{Cite news |title=ロッテ 8連勝!奪首 延長11回、暴投でサヨナラ勝ち |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-05-09 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/09/kiji/K20130509005770810.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると、6日に4連敗で2位に<ref>{{Cite news |title=ロッテ 今季ワーストタイの4連敗…2位に転落 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-07-06 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/06/kiji/K20130706006162310.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>、前半戦を2位で折り返した<ref>{{Cite news |title=ロッテ2年連続2位以上ターンは42年ぶり |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-07-18 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/18/kiji/K20130718006242180.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。7月27日には当時13連勝中だった[[田中将大]]相手に9回表終了時点でリードを奪うもその裏に守護神[[益田直也]]が失点、サヨナラ負けを喫し田中の連勝は続いた。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで、楽天の優勝が決まり、優勝を逃すが<ref>{{Cite news |title=楽天 7月上旬から首位快走!星野監督 史上3人目の3球団V |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-26 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006694700.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref><ref>{{Cite news |title=マー君どうする?胴上げ投手プラン実現なら記録はストップ |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-26 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006690480.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの2010年以来3年ぶりの[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定した<ref>{{Cite news |title=ロッテ CS進出決定 伊東監督「日本一への挑戦権が取れたことはひと安心」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-10-04 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/04/kiji/K20131004006749300.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった<ref>{{Cite news |title=西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めた |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-10-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが<ref>2013年10月15日朝日新聞夕刊スポーツ面</ref>、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した<ref>{{ Cite news |title=楽天 日本シリーズ初進出!26日から34度目進出の巨人と対戦 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-10-22 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/21/kiji/K20131021006854620.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。オフに西武からFA宣言した[[涌井秀章]]を獲得。
; [[2014年の千葉ロッテマリーンズ|2014年]]
1月1日付けで球団社長に前[[みずほ銀行]][[役員 (会社)#執行役員|執行役員]]の山室晋也が就任した<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20131206-QSF2HSPJWJM6BBKFHJAYFFE6XE/ |title=球界版「半沢直樹」ロッテ・山室新社長、西武に“倍返し”する|accessdate=2020-1-21|publisher=産業経済新聞社|date=2013-12-6|newspaper=サンスポ}}</ref>。
開幕から5連敗を喫し、チームは5月の[[ルイス・クルーズ]]から始まり、6月の荻野、7月の[[クレイグ・ブラゼル]]と主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、下位に低迷した。シーズン途中にキューバ出身で[[リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル]]の大砲・[[アルフレド・デスパイネ]]を獲得<ref>{{Cite web|和書|date=2014-07-15 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/13778.html |title=アルフレド・デスパイネ・ロドリゲス選手の獲得について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった<ref>{{Cite news |title=日本ハム 対ロッテ勝ち越し ロッテ4位以下が確定 |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-09-25 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/25/kiji/K20140925008993240.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。最終結果は4位に終わった。[[里崎智也]]が現役を引退した<ref>{{Cite news |title=ロッテ 里崎 引退あいさつで投手陣に謝罪「もっと良い成績残せたのに」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-09-28 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/28/kiji/K20140928009011330.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。成瀬がヤクルトにFA移籍。DeNAを自由契約となった[[陳冠宇]]を獲得。
; [[2015年の千葉ロッテマリーンズ|2015年]]
開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが、4月中盤から徐々に低迷した。交流戦では一時は首位に立つ<ref>{{Cite news |title=ロッテ交流戦首位浮上!角中 球団25年ぶり9回2死逆転満弾 |newspaper=スポーツニッポン |date=2015-06-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/06/03/kiji/K20150603010469480.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>も、最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れて6連敗となり、自力優勝の可能性が消滅した<ref>{{Cite news |title=ロッテ伊東監督、自力V消滅「諦める数字じゃない」 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2015-07-13 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1506626.html |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。その後、連敗を7で止めるも、前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に[[独立リーグ]]の[[白嗟承|ベク・チャスン]]を獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなり、10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上し、4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し、3位が確定し、2013年以来2年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した<ref>{{Cite news |title=ロッテが逆転勝ちで2年ぶりCS進出決定 “5年周期”で下克上の日本一なるか |newspaper=Full-Count |date=2015-10-04 |url=http://full-count.jp/2015/10/04/post19357/ |accessdate=2015-10-27 }}</ref>。
[[2015年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファーストステージではシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期なことから、「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分を除く)で敗退した。オフに今江がFAで楽天、クルーズが巨人に移籍。ソフトバンクを退団した[[ジェイソン・スタンリッジ]]を獲得。
; [[2016年の千葉ロッテマリーンズ|2016年]]
2月21日、新外国人の[[ヤマイコ・ナバーロ]]が銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。
開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われると、以降はソフトバンクの後塵を拝する状況が続いた。しかし、その後は3位をキープし続け9月24日に3位が確定し、クライマックスシリーズ進出と1985年以来31年ぶりの2年連続Aクラスが決定した<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160925/k00/00m/050/024000c プロ野球:ロッテがCS進出…パ・リーグ] - 毎日新聞 2016年9月24日</ref>。クライマックスシリーズでは2位のソフトバンクと対戦するも、2戦全敗で敗退した。角中が首位打者と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]を獲得、[[石川歩]]が2.16で最優秀防御率を初受賞した。サブローが現役を引退、デスパイネも金銭面の関係で退団となり、ソフトバンクへの移籍が決まった。
; [[2017年の千葉ロッテマリーンズ|2017年]]
オープン戦を首位で終えたが、シーズンに入ると打撃陣は新外国人の[[ジミー・パラデス]]と[[マット・ダフィー (1989年生の内野手)|マット・ダフィー]]の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も前年に最優秀防御率のタイトルを獲得したエースの石川の大乱調などで、4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ、最下位に転落すると<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/05/04/kiji/20170503s00001173255000c.html ロッテ 3連敗で最下位転落 伊東監督「はい上がるしかない」] - スポニチアネックス、2017年5月4日</ref>、5月16日の西武戦にも敗れて6連敗を喫し、通算37試合目にしてロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170517-OHT1T50027.html 【ロッテ】異例!37戦目で自力V消滅…今季初の6連敗] - スポーツ報知、2017年5月17日</ref>。5月から6月にかけて[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック・キューバ代表|WBCキューバ代表]]の[[ロエル・サントス]]<ref>[https://www.baseballchannel.jp/npb/32557/ ロッテ、WBCキューバ代表のサントス獲得を正式発表! 林本部長「リードオフマンが絶対ほしいという大きな課題に見合った」] - ベースボールチャンネル、2017年5月18日</ref>、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーした[[ウィリー・モー・ペーニャ]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/06/kiji/20170606s00001173194000c.html ロッテ 元楽天のペーニャ獲得!日本で4球団目 今週中に来日へ] - スポニチアネックス、2017年6月6日</ref>を相次いで獲得。秋口になると、チームも復調し、9月は12勝10敗でシーズン初の月間勝ち越しを達成するが<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201709300000826.html ロッテ伊東監督「本当?」今季初めての月間勝ち越し] - 日刊スポーツ、2017年9月30日</ref>、 シーズン終了まで一度も最下位を脱出することができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったため、2011年以来6年ぶりの最下位が確定した。10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督は辞任し、井口が現役を引退した。オフに大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。コーチ陣も刷新し、10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの[[山下徳人]]ら7コーチに対して翌年のコーチ契約を行わないことを通告した<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001533.html コーチ契約について] - 千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト 2017年10月11日</ref>。10月12日に現役を引退した井口がロッテの監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001535.html 井口新監督就任合意のお知らせ]</ref>。井口のダイエー時代のチームメイトであった[[鳥越裕介]]が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、[[的場直樹]]が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。
===== 井口監督時代 =====
; [[2018年の千葉ロッテマリーンズ|2018年]]
2月23日、[[重光昭夫]]代表取締役オーナー代行が同月13日、韓国で贈賄の罪で収監された<ref>{{Cite news|date=2018-02-13|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26846820T10C18A2MM8000/ |title=韓国ロッテ会長に実刑判決朴・前大統領への賄賂認定 懲役2年6月 ソウル地裁|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2018-02-27}}</ref> ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ、同日付で[[ロッテホールディングス]]取締役の[[河合克美]]が代表取締役オーナー代行に就任した<ref>{{Cite news|date=2018-02-23|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27298790T20C18A2000000/ |title=千葉ロッテ、重光昭夫氏が代表権とオーナー代行を返上|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2018-02-27}}</ref>。
この年は4年目の[[中村奨吾]]、5年目の[[井上晴哉]]、ルーキーの[[藤岡裕大]]や新外国人の[[マイク・ボルシンガー]]が活躍した。5月10日に一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの[[小坂誠]]が一軍内野守備・走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった[[福浦和也]]がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラス、10月5日の楽天戦に勝利し、5位が確定したが、球団史上初めてパ・リーグ5球団を相手に負け越しが決まった<ref name=":0">{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20181013-OHT1T50260.html |title=【ロッテ】最終戦でリーグワースト本拠地14連敗&球団初のパ全5球団負け越し|accessdate=2019-4-22|newspaper=スポーツ報知|date=2018-10-13|publisher=[[報知新聞社]]}}</ref>。
チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録した。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。
[[大隣憲司]]、[[金澤岳]]、[[根元俊一]]、[[岡田幸文]]が現役を引退した。オフに[[平沢大河]]、[[酒居知史]]、[[種市篤暉]]の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属する[[オークランド・トゥアタラ]]に派遣されることが決まった。
11月6日、[[ケニス・バルガス]]の獲得を発表した。その他にも元楽天の[[細川亨]]、元日本ハムの[[ブランドン・レアード]]、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューした元横浜・DeNAの[[ブランドン・マン]]、メジャーリーグ出場経験のある[[ジョシュ・レイビン]]を獲得。[[広島東洋カープ]]からFA宣言した[[丸佳浩]]の獲得にも乗り出したが、[[読売ジャイアンツ]]との争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。長年の課題であった長打力不足を解消するため、ZOZOマリンスタジアムにホームランラグーンを新設した。このホームランラグーンは、いわゆるラッキーゾーンにより、外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。
この年は[[平成]]最後のペナントレースだったので、ロッテは現存12球団の中で阪神、DeNA、オリックスと共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズを1位で通過しなかった球団」となった。
; [[2019年の千葉ロッテマリーンズ|2019年]]
開幕戦では楽天を相手に中村、加藤、レアードの3本の本塁打、[[藤原恭大]]のプロ初ヒットなどもあり勝利。この試合では酒居が1球勝利投手を記録している。4月11日には一時最下位へ転落したが、そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、[[阪神タイガース]]から[[石崎剛]]を[[高野圭佑]]とのトレードで獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00004427.html |title=高野投手と阪神・石崎投手の交換トレードについて |accessdate=2019年11月19日 |publisher=千葉ロッテマリーンズ(2019年7月4日作成)}}</ref>。7月14日、[[レオネス・マーティン]]の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。7月30日の対[[オリックス・バファローズ]]13回戦(ZOZOマリンスタジアム)の5回終了(試合成立){{efn|name="試合成立"|5回裏の攻防が終わる前に何らかの理由で試合が中止された場合は当該試合は不成立([[ノーゲーム]])になる。}}時点で、[[谷保恵美]]は公式戦通算1800試合[[スタジアムDJ|アナウンス担当]]を達成した<ref name="daily20190730" />。9月23日にZOZOマリンスタジアムで行われた引退試合を最後に福浦和也が現役を引退した。福浦の引退により、ピンクユニフォーム時代に在籍した選手が全員引退した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた上、[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]に僅差で躱され、4位が確定。2位のソフトバンクには17勝8敗と大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分と負け越した。[[荻野貴司]]が[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]、[[ゴールデングラブ賞]]を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は前年の78本から158本へと大幅に増加した。
プエルトリコで行われるウインターリーグに[[岡大海]]、[[山本大貴 (1995年生の投手)|山本大貴]]、[[安田尚憲]]の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに[[鎌田光津希]]、[[原嵩]]、[[松田進]]の三選手を派遣。
[[ドラフト会議]]では「令和の怪物」と評された[[佐々木朗希]]を4球団競合の末、獲得に成功した。
オフに引退した福浦和也が翌年より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチ、[[阿部和成]]が二軍サブマネージャー、[[伊志嶺翔大]]が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任することが発表された。
補強にも積極的に動き、[[荻野貴司]]、[[益田直也]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使せずに残留、[[鈴木大地 (野球)|鈴木大地]]が楽天にFA移籍したが、その楽天から[[美馬学]]、ソフトバンクから[[福田秀平]]をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは、球団初のことである。楽天からFAの人的補償として[[小野郁]]を獲得した一方、[[涌井秀章]]が金銭トレード、酒居もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。その他、自由契約となった[[西巻賢二]]と[[フランク・ハーマン]]、元広島の[[ジェイ・ジャクソン]]、育成選手として元ドミニカ共和国空軍の[[ホセ・アコスタ (1993年生の投手)|ホセ・アコスタ]]、元[[富山GRNサンダーバーズ]]の[[ホセ・フローレス (投手)|ホセ・フローレス]]を獲得。
シーズン終了後の12月1日付で山室晋也球団社長が退任し{{Refnest|group="注釈"|後にサッカー[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[清水エスパルス]]の社長職に就くことが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019122700815&g=scr |title=J1清水新社長に山室氏 プロ野球ロッテ前社長 |accessdate=2020年1月21日 |publisher=時事通信(2019年12月27日作成)}}</ref>。}}、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された<ref>{{Cite news2 |title=ロッテ黒字化成功の山室社長退任「次のステージへ」 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201911220000437.html |newspaper=ニッカンスポーツ・コム |agency=日刊スポーツ新聞社 |date=2019-11-22 |accessdate=2020-01-21}}</ref>。
; [[2020年の千葉ロッテマリーンズ|2020年]]
1月1日、球団設立70周年を機にユニフォーム左袖のプライマリーマークを更新。二重丸を赤から黒に変更し、ベージュの影色が入っていたカモメの大半を白一色とした<ref>{{Cite web|和書|title=プライマリーマーク更新のお知らせ |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00005066.html |work=千葉ロッテマリーンズ 公式サイト |date=2019-12-26 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。
1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた[[重光武雄]]が[[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市]]で老衰のため享年98で他界する<ref>{{Cite news2 |title=ロッテ重光武雄オーナー死去、本社創業 98歳 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001190000594.html |newspaper=ニッカンスポーツ・コム |agency=日刊スポーツ新聞社 |date=2020-01-19 |accessdate=2020-01-21}}</ref>。
3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、[[三木亮]]と[[平沢大河]]がコンディション不良であったことから、前年まで[[阪神タイガース]]に在籍していた[[鳥谷敬]]を獲得<ref>{{Cite web|和書|title=鳥谷敬選手 入団について |url=https://sp.marines.co.jp/news/detail/00005261.html |work=千葉ロッテ 公式サイト |date=2020-03-10 |accessdate=2020-03-10}}</ref>。
3月24日、球団の株主総会と取締役会において1月に死去した重光の次男で、3月18日に親会社[[ロッテホールディングス]]の会長職に選任されたばかりの昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。昭夫は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanese.joins.com/JArticle/263902 |title=辛東彬氏、韓日ロッテ掌握…コロナ禍の克服、ホテルロッテ上場が課題 |accessdate=2020年3月26日 |publisher=中央日報(2020年3月20日作成)}}</ref><ref>{{Cite news2 |title=
プロ野球ロッテ オーナーに重光昭夫氏就任 親会社の経営トップ |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200324/k10012348051000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001 |publisher=NHK NEWS WEB |agency=日本放送協会 |date=2020-03-24 |accessdate=2020-03-25}}</ref>。
6月28日、対オリックス戦において6連勝。[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが同一カード6連勝はプロ野球史上初となった<ref>{{Cite news |title=オリックスが史上初の屈辱“6タテ”くらう 頼みの山本が5失点KO |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2020/06/29/0013464995.shtml |newspaper=[[デイリースポーツ]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2020-06-29 |accessdate=2020-07-11 }}</ref> が、8回を任されたジャクソンが7月9日に突如退団し、10日に大麻所持の容疑で逮捕された。開幕から新戦力の[[福田秀平]]を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発し[[ブランドン・レアード|レアード]]や[[種市篤暉]]、[[松永昂大]]、[[フランク・ハーマン|ハーマン]]などが相次いで離脱した。その中で9月7日に[[読売ジャイアンツ]]から[[香月一也]]とのトレードで獲得した[[澤村拓一]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/09/07/kiji/20200907s00001173215000c.html 巨人・沢村、ロッテ・香月と電撃トレード!「これまで応援していただきありがとうございました」] スポーツニッポン 2020年9月7日</ref> がシーズン終盤にブルペンを支えた。一方、9月21日に[[マイアミ・マーリンズ]]を解雇された[[陳偉殷]]を獲得。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位のソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。ところが、10月4日に[[岩下大輝]]とチームスタッフ1人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表、それを受けて一軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われた[[ポリメラーゼ連鎖反応|PCR検査]]の結果、ベテランの鳥谷のほかにも、[[荻野貴司]]、[[角中勝也]]、[[清田育宏]]、[[菅野剛士]]、[[藤岡裕大]]、[[三木亮]]の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/10/06/kiji/20201006s00001173150000c.html |title=激震!ロッテ新たに鳥谷、角中ら1軍7選手感染 優勝争いへ影響必至|accessdate=2020-10-07|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2020-10-06|newspaper=Sponichi Annex}}</ref>。岩下の濃厚接触者も含めこれら全員が一軍登録を抹消される緊急事態となり、21日の西武戦で主砲のマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱した。それでも、10月8日には首位のソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったが、ソフトバンクが10月10日から22日まで破竹の12連勝と波に乗った一方で失速し、一気に離されてしまった。22日にはロッテの自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦([[福岡ドーム|PayPayドーム]])にも敗れ、ソフトバンクの優勝決定。前年に引き続き目の前で優勝を決められた。ソフトバンクに対しては10月9日までは11勝5敗1分だったが10月10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の11月5日に勝ち、対ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。11月に入ると西武との2位争いとなり、一時的に3位に転落するが11月8日に西武との直接対決を制し、2007年以来13年ぶりに2位となり、クライマックスシリーズ進出が確定した。しかし、2016年以来4年ぶりの出場となったクライマックスシリーズではエラーをきっかけに流れを掴まれ、ソフトバンクの前に2連敗を喫してしまい、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたために敗退した。
12月、[[庄司こなつ]]の退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも(現・[[坂井美萌々]])が揃って退団した。一方、2日に陳偉殷が自由契約となった(阪神に移籍)。24日に[[アデイニー・エチェバリア]]を獲得。
; [[2021年の千葉ロッテマリーンズ|2021年]]
1月15日、清田が前年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明したため清田を無期限謹慎(無期限活動停止)とし、[[松本尚樹]]球団本部長に厳重注意したことを発表した<ref>{{Cite press release |和書 |title=球団処分について |publisher=千葉ロッテマリーンズ公式サイト |date=2021-01-15 |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00006172.html |accessdate=2021-01-15}}</ref>。清田は5月1日に無期限謹慎処分が解除となったが解除後、再び球団ルールに反する行動を行っていたことが判明したため、「度重なる不適切な行動及びチームに対する背信行為」を理由として5月23日付けで清田との契約を解除した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202105230000590.html |title=ロッテ清田育宏が契約解除「度重なる不適切な行動及び背信行為」で判断 |publisher=日刊スポーツ |date=2021-05-23 |accessdate=2021-05-31}}</ref>。清田はこれを不服として法廷闘争に出、2023年2月に自身の[[Instagram]]にて、球団と和解したことを発表。{{main|清田育宏#ロッテ退団後}}
3月7日の対ライオンズ戦にて、2005年から16年間スタジアムDJを務めていた野田美弘が卒業し、後任にはYUI(ゆい)がスタジアムMCとして担当することになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00006204.html |title=スタジアムDJ 野田美弘さん 卒業のお知らせ |publisher=千葉ロッテマリーンズ公式サイト |date=2021-02-28 |accessdate=2023-04-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00006312.html |title=スタジアムMC YUI就任のお知らせ |publisher=千葉ロッテマリーンズ公式サイト |date=2021-03-09 |accessdate=2023-04-24}}</ref>。
開幕5連敗でスタートダッシュには失敗したものの、それ以降は持ち直した。しかし、交流戦では苦戦して負け越しとなり、6月14日から16日にかけてDeNAから[[有吉優樹]]とのトレードで[[国吉佑樹]]、中日から[[加藤翔平]]とのトレードで[[加藤匠馬]]、元中日の[[エニー・ロメロ|エンニー・ロメロ]]を獲得。8月31日には千葉移転後の主催試合で通算1000勝を達成した。9月5日の日本ハム戦に勝利し、オリックスが敗れたため、シーズン初の首位に立ち<ref group="注釈">9月に首位に立つのは実に51年ぶり。</ref>、8日の対オリックス18回戦([[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]])で7回裏にマーティンがオリックスの[[吉田凌]]から3ランホームランを放ち、球団通算8000本塁打を達成した。10月14日に首位・オリックスとの直接対決に勝利して残り試合数の関係上、2位でありながら優勝した1970年以来51年ぶりとなるマジックナンバーが点灯したが、27日のビジターでの対楽天戦([[楽天生命パーク宮城|仙台]])に1-2で敗れた。
[[2021年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファーストステージでは本拠地のZOZOマリンスタジアムで3位の楽天と対戦。第1戦では8回裏2死からエチェバリアが[[松井裕樹]]から同点のソロ本塁打を放ち、9回裏には1死2塁から[[佐藤都志也]]が楽天のセットアッパー・[[宋家豪]]からサヨナラ適時打を放って試合を決めると、2015年のファイナルステージ第1戦から続いたポストシーズンでの連敗を7で止めた。続く第2戦は2回表に[[炭谷銀仁朗]]、[[山崎剛 (内野手)|山崎剛]]に2点適時打を打たれ先制されたが、その裏に無死1,3塁から岡の併殺打の間に1点を返すと、4回裏に1死1塁から山口の適時打で同点とする。更に6回裏には山口のソロ本塁打で勝ち越した。直後の7回表、炭谷にソロ本塁打、[[島内宏明]]に適時打を打たれ逆転されるがその裏、主砲のマーティンが[[酒居知史]]からソロ本塁打を放って同点とし、その後は両者無得点で同点のまま9回表が終了した。この時点で前日に勝利したため、ファイナルステージ進出を決めた。大会ルールにより、9回裏の攻撃を行わず試合は引き分けとなった。
そして迎えたオリックスとのファイナルステージでは第1戦でエースの[[山本由伸]]、第2戦で[[田嶋大樹]]とオリックスのリリーフ陣の前に完封負けを喫した。後のない第3戦では3回表に中村奨の犠飛で先制した。ところが6回裏、先発の岩下が[[宗佑磨]]に逆転の2点本塁打を打たれたものの、7回表、二死二塁で佐藤都の適時打で同点。8回表に一死から中村奨がソロ本塁打を放って勝ち越しに成功した。が、9回裏にクローザーの益田が無死1,2塁のピンチを迎えると続く[[小田裕也]]にも同点のタイムリーを打たれた。この時点ですでに3勝しているオリックスの1996年以来25年ぶりの日本シリーズ進出が決定したため、2年連続でファイナルステージ敗退となった。オフに新外国人として[[タイロン・ゲレーロ]]を獲得した。
; [[2022年の千葉ロッテマリーンズ|2022年]]
4月10日の対オリックス戦で[[佐々木朗希]]が21世紀初・[[令和]]初の[[完全試合]]を達成した。さらに13連続奪三振で日本記録をマークし、19回奪三振で日本記録タイに並んだ。通算14試合目の登板(史上最速)、20歳5ヶ月(NPB史上最年少記録)、プロ初完投・初完封だった試合が完全試合(史上初)など様々な記録が残った。だが、前年に打線の主軸を担ったレアードとマーティンの両外国人が打撃不振に陥り、最終的に5位に終わった。また、投手陣が好投しても打線が援護できず敗戦するという試合が目立った。特に小島はチームで唯一規定投球回に到達し、防御率3.14を記録したものの、3勝11敗と大きく負け越した。[[髙部瑛斗]]が盗塁王のタイトルを獲得し、美馬が規定投球回未到達ながら10勝を挙げた。[[10.2決戦#千葉ロッテマリーンズ対福岡ソフトバンクホークス第25回戦|シーズン最終戦]]となる10月2日、ホーム最終戦セレモニーで井口監督が突如退任を発表し、後任としてピッチングコーディネーターの[[吉井理人]]が監督に就任。オフに巨人から[[C.C.メルセデス]]と[[グレゴリー・ポランコ]]、および新外国人として[[ルイス・ペルドモ (1993年生の投手)|ルイス・ペルドモ]]と[[ルイス・カスティーヨ (1995年生の投手)|ルイス・カスティーヨ]]を獲得した。
===== 吉井監督時代 =====
; [[2023年の千葉ロッテマリーンズ|2023年]]
監督の吉井がMLB経験者として選手の状態やデータ重視で「スタメンはすべて日替わり」「勝ちパターンの中継ぎは固定せず」という采配をするようになった。その起用が当たり、序盤は5月時点で首位と好調であったが、交流戦が7勝9敗と振るわなかったこともあり、中盤以降は首位のオリックスに突き放され、楽天との負ければ4位となる最終戦を制して何とか2位に食い込んだ。
[[2023年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ではZOZOマリンスタジアムで3位の[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]と対戦。2勝1敗でファイナルステージに進出したが、オリックスに1勝4敗(オリックスに1勝のアドバンテージあり)で敗れ、[[2023年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出はならなかった。
ポランコが球団としては1986年の落合以来37年ぶり、千葉移転後では史上初そして自身初となる本塁打王を、ペルドモが最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。
== 所属選手・監督・コーチ ==
{{See also|千葉ロッテマリーンズの選手一覧}}
{{千葉ロッテマリーンズの選手・スタッフ|state=expanded}}
== チーム成績・記録 ==
[[画像:Chiba Lotte Marines Ranking.svg|320px|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本一を示す。]]
{{See also|千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の年度別成績一覧}}
* リーグ優勝 5回<ref group="注釈">年間最高勝率はプレーオフを制した2005年を除く4回。</ref>
: (1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)
* 日本一 4回
: (1950年、1974年、2005年、2010年)
* セ・パ交流戦優勝 2回
: (2005年、2006年)
* クライマックスシリーズ優勝 1回
: (2010年)
* アジアシリーズ優勝 1回
: (2005年)
* 日韓クラブチャンピオンシップ<ref group="注釈">アジアシリーズの振り替え大会。</ref> 優勝 1回
: (2010年)
* 前期優勝 2回
: (1980年、1981年)
* 後期優勝 2回
: (1974年、1977年)
* Aクラス 31回
: (1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年 - 1960年、1968年 - 1971年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年、1980年 - 1981年、1984年 - 1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年、2020年 - 2021年、2023年)
* Bクラス 43回
: (1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年、2012年、2014年、2017年 - 2019年、2022年)
* 最下位 9回
: (1983年、1988年、1989年、1991年、1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)
* 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)
* 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)
* 最多勝利 85勝(1955年)
* 最多敗戦 87敗(2017年)
* 最多引分 19分(2021年)<ref group="注釈">2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1978年・1980年・1984年の15分が最多。</ref>
* 最高勝率 .704(1950年)
* 最低勝率 .361(1983年)
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続47シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。
[[横浜DeNAベイスターズ]]が大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超えて[[日本野球機構|NPB]]最長記録となっている。「年間勝率首位で出場した日本シリーズで日本一」と「年間勝率首位によるリーグ優勝」は2023年現在、前者は1950年から73年連続、後者は1970年から53年連続と優勝条件がセ・リーグとは異なっていた時期があったとはいえ、どちらもNPB最長記録である。
[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が本拠地で球団創設初の日本一を達成したことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「本拠地で日本一になっていない最後の球団」となった。
2018年は平成最後のペナントレースだったので、現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む13球団の中で「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝ができなかった唯一の球団」かつ同12球団の中で[[中日ドラゴンズ]]、[[阪神タイガース]]、[[広島東洋カープ]]と共に「平成時代に1度も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になれなかった球団」となった<ref group="注釈">ただし、2005年には年間勝率2位の状態でプレーオフを制してリーグ優勝し、そのまま日本一になっている。</ref>。
[[オリックス・バファローズ]]が1996年以来25年ぶり、[[大阪近鉄バファローズ]]との球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝を果たしたことにより、パ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む7球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった<ref name=":0" group="注釈" />。
[[オリックス・バファローズ]]が1996年以来26年ぶり、[[大阪近鉄バファローズ]]との球団合併後初の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上で日本一になったことにより、パ・リーグ現存6球団の中で「最も年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一から遠ざかっている球団」となった<ref name=":1" group="注釈" />。
[[阪神タイガース]]が2005年以来18年ぶりのリーグ優勝、1985年以来38年ぶりの日本一になったことにより、[[昭和]]時代に創設した現存11球団の中で広島と共に「最後の年間勝率首位によるリーグ優勝をした上での日本一が昭和時代となる球団」となった。
=== その他の記録 ===
* 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
* 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
* 最多本塁打 193本(1971年)
* 最少本塁打 46本(2011年)
* 最高打率 .287(1985年)
* 最低打率 .231(2022年)
* 最高防御率 2.40(1956年)
* 最低防御率 5.12(1983年)
* 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年)
* 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年)
* 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏)※日本プロ野球記録
== チームの特徴 ==
* 1982年まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。前・後期制だった1975年前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位は1983年が球団史上初である。
* チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格する[[読売ジャイアンツ]]や[[広島東洋カープ]]などと比べ、千葉ロッテマリーンズに在籍したことのない監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は[[西本幸雄]]・[[有藤道世]]・[[八木沢荘六]]・[[西村徳文]]の4人で(西本・西村は後に八木沢は前後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、[[戸倉勝城]]・[[大沢啓二]]・[[山内一弘]]・[[山本功児]]・[[井口資仁]]・[[吉井理人]]を加えた10人である。反面、コーチはオリオンズ・マリーンズ[[OB・OG|OB]]が多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。
* 過去に4回、[[日本シリーズ]]を優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった1950年以外の3回はいずれもロードの球場(1974年・[[ナゴヤ球場|中日球場]]、2005年・[[阪神甲子園球場]]、2010年・[[ナゴヤドーム]])で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。ただし、リーグ優勝における胴上げはある(1970年・東京、1974年・仙台=プレーオフ優勝。他に年間優勝ではないが、1980年前期と1981年前期の優勝を川崎で達成している。)。本拠地での日本一の胴上げを成し遂げられていないのは、現存する12球団では他に[[阪神タイガース]](2023年京セラドーム、1985年[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])のケースしかない。また、同様に[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|2005年のプレーオフ]]・セカンドステージも、チームは年間勝率2位だったためビジターゲームになり([[福岡ドーム|福岡ヤフードーム]])、本拠地が1992年に千葉マリンスタジアム(現・[[ZOZOマリンスタジアム]])に移転後、リーグ優勝の胴上げを成し遂げていない。これは同年以降、リーグ優勝が1回のみの[[東北楽天ゴールデンイーグルス]](2013年・西武ドーム)を除く現存11球団と、2004年に消滅した[[大阪近鉄バファローズ]]を含む12球団の中で、[[横浜DeNAベイスターズ]]のみ当てはまる(1998年・阪神甲子園球場){{Efn|なお、あくまで「'''1992年以降、本拠地で'''リーグ優勝の胴上げをしたか否か」のため、[[北海道日本ハムファイターズ]]は[[2023年]]からの本拠地・『[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]』でのリーグ優勝の胴上げは未達成だが、『[[札幌ドーム]]』でのリーグ優勝の胴上げは[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|2006年のプレーオフ]]優勝時に行っている(ロッテとは正反対)。}}。
* 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した投手が誰もいない(2023年現在)。
* 完全制覇<ref group="注釈">1年を通してレギュラーシーズン1位の状態で日本一。</ref>は活動1年目の1950年しかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。
* パ・リーグでは勝率3位から[[クライマックスシリーズ]]を突破して[[日本シリーズ]]に進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である<ref group="注釈">2010年のこと。</ref>。2005年はシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一に輝いたが、年間勝率2位と3位の両方で日本シリーズに進出したことのある球団は12球団の中でロッテだけで、2回日本一になっているのも唯一である<ref group="注釈">2018年と2019年に日本一になったソフトバンクはこの両年はいずれもリーグ2位から日本シリーズに進出し、日本一を達成している。</ref>。シーズンAクラスの1位から3位までの全順位で日本シリーズに進出してAクラス全順位のシリーズ進出で日本一になったことがある唯一の球団である。
* 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも2017年まで1度も無く、2018年に初の屈辱を味わった<ref group="注釈">因みに、消滅した9球団で全球団に負け越したシーズンの経験がある球団は[[松竹ロビンス]]・[[大和軍]]・[[大阪近鉄バファローズ]]・[[高橋ユニオンズ]]・[[大映ユニオンズ]]の5球団である。</ref><ref name=":0" />。
=== 東京・仙台・川崎時代 ===
[[File:Honda Chikao 1953.jpg|thumb|190px|球団創立者・初代オーナーの本田親男(毎日新聞社長)]]
以前のニックネーム「オリオンズ」は[[星座]]の[[オリオン座]]が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・[[毎日新聞社]]の[[社章]]でもあることから付けられた。
大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも、「以前、毎日新聞は『大毎』([[大阪毎日新聞]]の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし、実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した<ref name="mnp140426">[http://mainichi.jp/area/osaka/news/20140426ddlk27040386000c.html 喫茶店「茶房オリオンズ」」:閉店の名残惜しむ 感謝の集い /大阪]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 毎日新聞大阪版2014年4月26日</ref><ref>「余録」毎日新聞2014年4月28日、1面</ref>。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた<ref name="mnp140426" />。
=== 千葉時代 ===
{{by|1992年}}から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、[[綱島理友]]が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。英語の名詞形marineは「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも[[海兵隊]]の文字が散見される。オーナー企業である[[ロッテ]]は菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。公募の際に「パラダイス」票が最終選考まで残った。変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『[[すすめ!!パイレーツ]]』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中での[[千葉パイレーツ|パイレーツ]]が(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームのため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
かつては所属選手で[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフの[[初芝清]]と[[堀幸一]])、2017年オフの[[涌井秀章]]以降は再契約を認めるようになっている。
2000年代後半以降は、長距離打者の不足に悩まされることが増え、2019年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年の[[李承燁 (野球)|李承燁]]と2019年の[[ブランドン・レアード]]のみである<ref>[https://baseballking.jp/ns/141922 スンヨプ以来の30発を…ロッテ、ドミンゲス獲得で長打力不足解消なるか] - BASEBALL KING</ref>。[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]も2023年に[[グレゴリー・ポランコ]](26本)が受賞<ref group="注釈">[[浅村栄斗]](東北楽天)、[[近藤健介]](福岡ソフトバンク)との同時受賞。</ref>するまで、37年間ロッテ在籍選手が獲得することが無かった<ref>{{Cite web|和書|title=本塁打王が同時に3人、2リーグ制以降初 ソフトバンク・近藤健介は2冠【パ・リーグ】 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/785829 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-10-11 |date=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【パ・リーグ最多本塁打】2リーグ制後初の3人同時受賞 ロッテのHR王は落合博満以来37年ぶり |url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/0f4054256f5f4f95b1a6d11417c09dfd |website=日テレNEWS NNN |access-date=2023-10-11 |author=日本テレビ |date=2023-10-11}}</ref>。日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=30HRの日本人、四半世紀ゼロはロッテだけ 悩みの風 |url=https://www.asahi.com/articles/ASN666JYXN66UTQP00K.html |website=朝日新聞 |accessdate=2020-06-07 |publisher= |date=2020-06-07}}</ref>。これに関しては、本拠地の千葉マリンスタジアムに吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=千葉ロッテ、日本人30本塁打は「1986年・落合博満」まで遡ってしまう理由! |url=https://www.asagei.com/96734 |website=アサ芸プラス |accessdate=2020-06-07 |publisher= |date=2018-01-19}}</ref>。これに対し、千葉マリンスタジアムでは2018年シーズン後に「ホームランラグーン」を設定して外野席を4m前方へ近づける改修を行った<ref>https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/04/kiji/20190304s00001173219000c.html</ref>。
==== 地方開催 ====
2006年から2015年までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。2016年に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、[[東京ドーム]]を会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した[[石川県立野球場]]、[[富山市民球場アルペンスタジアム]]での試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった<ref>{{Cite web|和書|date=2015-12-11 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/16528.html |title=東京ドーム主催試合について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-12-24 }}</ref><ref>{{Cite news |title=東京Dで主催試合 千葉ロッテ |newspaper=[[千葉日報]] |date=2015-12-11 |url=http://www.chibanippo.co.jp/sports/lotte/293181 |accessdate=2015-12-24 }}</ref>(試合は4-0でホークスが勝っている)。
2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアム、8月21日に2年ぶりに東京ドームで地方開催を行った<ref>{{Cite web|和書|title=パシフィック・リーグ試合日程についてお知らせ |publisher=[[日本野球機構|NPB]] |date=2017-11-23 |url=http://npb.jp/news/detail/20171123_01.html |accessdate=2017-12-08 }}</ref>。
2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアム、9月8日に[[水戸市民球場]]([[茨城県]])での地方開催を予定していたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00004535.html |title=2020年度公式戦試合日程について |accessdate=2019年7月29日 |publisher=株式会社千葉ロッテマリーンズ(2019年7月29日作成)}}</ref>、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した<ref>{{Cite web|和書|title=パ・リーグ 一部地方開催の球場変更を発表 コロナ感染拡大が影響 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2020/04/13/0013267829.shtml |website=デイリースポーツ |accessdate=2020-04-13 |publisher= |date=2020-04-13}}</ref>。水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/07/29/kiji/20190729s00001173157000c.html |title=ロッテ 61年ぶり水戸開催を復活 来年9月に日本ハム戦 |accessdate=2019年7月29日 |publisher=スポーツニッポン(2019年7月29日作成)}}</ref>。
2023年は4年ぶりに地方開催を行うことを2022年12月に発表し、2023年7月6日の対埼玉西武ライオンズ戦を東京ドームにて行った<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテが2023年7月6日の西武戦を東京ドームで開催 4年ぶり4度目 |url=https://www.sanspo.com/article/20221216-WZB33ZQAYZLXVIHLGH73LUF64I/ |website=サンケイスポーツ |date=2022-12-16 |access-date=2022-12-17}}</ref>。
== チームスローガン ==
<!-- ; 1992年: -->
* 1993年:「心・技・体 '93」
* 1994年:「激闘」
<!-- ; 1995年: -->
* 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」
<!-- ; 1997年: -->
* 1998年:「Play Hard '98」
* 1999年:「For The Team」
* 2000年:「For the Team 2000」
* 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」
* 2002年:「For the Team」
* 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」
* 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」
* 2005年:「BUILDING OUR DREAM!〜夢をみんなで〜」
*: 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)!」の文字が公式サイトに現れた。
* 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」
* 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」
* 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」
* 2009年:「Remember 〜1969―2008、2009〜」
* 2010年:「和」
* 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」
*: 「今こそみんなで和の力」は[[東日本大震災]]復興スローガン。
* 2012年:「和のもとともに戦おう」
* 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」
* 2014年:「翔破〜頂点へ、今年こそ。〜」
* 2015年:「翔破〜熱く!勇ましく!!泥臭く!!!〜」
* 2016年:「翔破~熱き心で~」
* 2017年:「翔破~限界を超えろ!~」
* 2018年:「マクレ」
* 2019年:「マウエ↑」
* 2020年:「突ッパ!」
* 2021年:「この1点を、つかみ取る。」
* 2022年:「頂点を、つかむ。」
* 2023年:「今日をチャンスに変える。」
== マスコット ==
{{Infobox baseball player
|選手名 = マーくん
|所属球団 = 千葉ロッテマリーンズ
|役職 = マスコット
|背番号 =
|選手写真ファイル名 =
|写真サイズ =
|写真のコメント =
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = 幕張の浜
|生年月日 = 8月9日
|没年月日 =
|身長 =
|体重 =
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = [[マスコット]]
|プロ入り年度 =
|ドラフト順位 =
|初出場 =
|最終出場 =
|経歴 =
* 千葉ロッテマリーンズ(1992 - )
}}
現在のマスコットである'''マーくん'''は3代目で[[カモメ]]がモチーフ。[[ペットマーク]]等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている<ref>[http://www.city.chiba.jp/senkyo/poster.Jpg 千葉市]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国の[[KBOリーグ]]、[[ロッテ・ジャイアンツ]]にもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似しユニフォーム類を改変した'''ヌリ'''がペットマークに使用されている。後述のクールが登場していた頃は、野球マスコットとしては珍しくキャラクターショーで声があてられていた(声優不明)。
; マーくん
: 6歳・メインキャラクター
: 1992年に初登場。1993年に公募で「マーくん」の愛称がつけられた<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/17140.html マーくん1500試合出場達成間近!!] - 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
: 背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ
: 着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックスとなった。2018年のロッテオリオンズ50周年記念企画では1992年時点でのデザインを「初代カモメマスコット」としてマーくんとは別のキャラクターとして位置付けている<ref name="lo50pi"/>。
:* 1993年 - 2021年 - 帽子・ユニフォーム姿。
:* 2022年 - しっぽの先の色が水色から黒へ変更。
: [[チーム・マイナス6%]]メンバー(744号)
: 千葉ロッテマリーンズの公式[[Twitter]]アカウントでつぶやいていたが、2012年3月1日からは専用アカウントが開設された<ref>{{Cite web|和書|date=2012-03-01 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/8743.html |title=マリーンズ公式マスコットキャラクター『マーくん』公式twitterアカウントを開設!! |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2012-04-02 }}</ref>。つぶやく際には毎回「マーです」と名乗っている。[[東京ヤクルトスワローズ]]の[[つば九郎]]の妹・[[つばみ]]に想いを寄せられており、交流戦で神宮球場へ行くたびに猛アタックされる(『[[婚姻届|こんいん届]]』を渡されるなど)が、本人は興味を持つことなく、恐怖感を持って逃げ出したり、冷たい目で見ることが多い。[[ハロー!プロジェクト]]のアイドルが好きであることを公言しており、共演も果たしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/expansion/entertainment/chara/mar-kun.php|title=キャラクター・MC|publisher=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト|accessdate=2022-3-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/64680/1|title=鈴木愛理と℃-uteを踊る 千葉ロッテマスコット・マーくんはハロヲタ!?|publisher=クランクイン!|date=2019-5-7|accessdate=2022-3-16}}</ref>。
: 2017年のシーズンオフから、つば九郎、[[中日ドラゴンズ]]の[[ドアラ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]の[[ホークファミリー|ハリーホーク]]と共に全国主要都市の[[ホテル]]にて[[ディナーショー]]を開催しており、4マスコット共同の[[ブログ]]も開設している<ref>{{Cite web|和書|title=つば九郎&ドアラwithマーくん・ハリーホーク オフィシャルブログ Powered by Ameba |url=https://ameblo.jp/mascot-dinnershow/ |website=ameblo.jp |accessdate=2020-10-09}}</ref>。
: 2023年6月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で通算2000試合出場<ref group="注釈">出場記録は命名当日(1993年7月4日)に開催された主催試合からカウントしている。そのため、命名前の初登場時からのプレー歴ではつば九郎やドアラよりも長い。</ref>を達成<ref>{{Cite web|和書|title=【ロッテ】「マーくん」が史上2羽目の大記録!主催2000試合出場「記念グッズ買ってね~」 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306300001295.html |website=日刊スポーツ |access-date=2023-07-24 |author=鎌田直秀 |date=2023-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ロッテのマスコット『マーくん』が通算2000試合出場達成 記念グッズ販売も開始 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/720134 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-07-24 |date=2023-06-30}}</ref>。同年7月24日の対福岡ソフトバンクホークス戦で表彰式が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテのマーくん通算2000試合出場祝福で「初代カモメ」登場に場内爆笑 ハリーホークら各球団マスコットからもお祝いコメント |url=https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/791753 |website=西日本スポーツ |access-date=2023-07-24 |date=2023-07-24}}</ref>。
; リーンちゃん
: 4歳・マーくんの彼女
: 1993年に初登場。
: 背番号なしでネーム「RINE-CHAN」のみ
:* 1993年 - 2021年 - [[ポニーテール]]でピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・ピンクの靴・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。
:* 2022年 - しっぽの先の色が水色から黒へ変更。サンバイザー・スカート・靴を黒へ変更され、上はホームユニフォーム姿になった。
: 「マリーンズダンスアカデミー」の校長を務めている。
: チーム・マイナス6%メンバー(745号)
: 2020年度は地域振興活動が中心となり、ホームゲームでの出演は「ALL for CHIBA」シリーズを中心とした地域振興企画のみとなっていた<ref name="submascot20">[https://www.marines.co.jp/news/detail/00005089.html マスコットキャラクター リーンちゃん&ズーちゃんについて]</ref>。
; ズーちゃん
: 3歳・マーくんの弟
: 1998年に初登場。
: 背番号なしでネーム「ZU-CHAN」のみ
:* 1998年 - 2021年 - 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で茶色の靴、左頬に絆創膏。
:* 2022年 - しっぽの先の色が水色から黒へ変更。靴の色は黒へ変更、ホームユニフォームのストライプの[[オーバーオール]]姿になった。絆創膏も無くなった。
: チーム・マイナス6%メンバー(746号)
: 2020年度はリーンちゃんとともに地域振興活動を中心として出演となっていた<ref name="submascot20"/>。
他にもイベント限定キャラクターとして、まれに[[コアラ]]の「チャンスくん」(「[[コアラのマーチ]]」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には[[浴衣]]を着たり、[[アロハシャツ]]に[[半ズボン]]・麦藁帽子姿になったりする。
=== 過去のキャラクター ===
* 東京オリオンズ→ロッテオリオンズ - 1966年に桃太郎をモチーフとしたマスコットマークを制定。刀の代わりにバットを持ったデザインとしていた。ロッテオリオンズへの移行後も1974年時点では継続使用されていたが、どの時点で下記のバブル坊やに交代したかは不明。
* ロッテオリオンズ - 風船ガムを膨らませた男の子「バブル坊や」を制定<ref name="lo50pi">[https://insight.official-pacificleague.com/news/6737 ロッテオリオンズ誕生50年記念。8月21日に往年のマスコットキャラが復活] - パ・リーグインサイト(2018年8月16日)</ref>。選手着用のグランドコート胸部分に付けられていた。なお、版権は球団ではなくロッテ本社に属していた。トナカイをモチーフにした「さわやかディーンくん」のマスコットもいた<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/1banboshi_/status/994134689966309376 |url=https://twitter.com/1banboshi_/status/994134689966309376 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。
; クール(COOL)
: [[イワトビペンギン]]をモチーフに[[サングラス]](登場当初はビン底メガネ。環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。
: 「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたハッピや[[チーム・マイナス6%]]のロゴ入りのビジターユニフォーム(背番号なし)などを着用。
: マリーンズ誕生後の1992年、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。2005年8月3日、謎の新マスコットとして突然デビュー。8月24日に名前が正式発表される。登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。
: 2006年8月に[[小池百合子]][[環境大臣]](当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。チーム・マイナス6%メンバー(546号)。
: 2007年4月にテーマ曲「COOLだぜ!」(作詞・作曲・演奏 [[伝承歌劇団-エウロパの軌跡-]])が作られた。
: [[運転免許]](普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
: 2017年2月、引退。
: ロッテ「[[クールミントガム]]」のパッケージに描かれたペンギンがモチーフとされていた。
; 謎の魚
: 2017年5月より登場した新キャラクター。名前は「魚」としか表記されていないが、ファンには「謎の魚」と呼ばれていた。第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]のサイトでも紹介された。そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。この際は、再び第二形態に戻って退場している。その後、2018年6月12日には大型化した骨の頭に緑の足が生えた第四形態、6月26日にはチョウチンアンコウ型の頭と緑地に黒のピンストライプの手足が生え胴体にホームユニフォームと背中に虹色の模様とひれをあしらった第五形態、2021年4月6日には青い顔面・虹色の鱗・緑のひれの魚の頭と灰色・白の横縞の胴体と第五形態同様の手足を持った最終形態が登場した。
: [[ハワイアン航空]]とのコラボレーションを行うなど、野球外へのプロモーションも行っている。
: 2021年4月24日に「謎の魚feat.ともだち」のアーティスト名で『ナゾノサカナ』のタイトルで[[avex trax]]からCDデビューすることが同年2月21日に発表され<ref>{{Cite news |title=ロッテ「謎の魚」 4・24にまさかの歌手デビュー |newspaper=Sponichi Annex |date=2021-02-21 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/02/21/kiji/20210221s00001173265000c.html |agency=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2021-02-27}}</ref>、同曲のジャケットには第五形態、ミュージックビデオには全形態が登場した。
:2021年12月、「最近は体力の限界を感じるようになった」として、引退<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテ名物キャラ“謎の魚”が引退表明|url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/986946|website=日テレNEWS24|accessdate=2021-12-06|author=日本テレビ|date=2021-12-05}}</ref>。
== 営業・ファンサービス ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
ファンサービスの向上は本拠地を千葉市に移転した翌年の1993年頃から取り組み始めており、外野席のホーム・ビジターの区分けやレプリカのユニフォームを着用しての応援などはプロ野球界ではロッテが一番早く導入した。ロッテの内野応援団員を経て、ロッテマリーンズ球団職員を長年勤めた横山健一によれば、同時期に発足した[[サッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]を始め、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]や[[アイスホッケー]]など、国内外のスポーツ応援を参考に球団と応援団が新しい応援スタイルを確立していった<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテが起こした応援革命。王貞治が激怒した桜吹雪の演出秘話 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/09/15/___split_172/ |website=スポルティーバ |accessdate=2020-09-15 |date=2020-09-15 |author=浜田哲男 |pages=1-3}}</ref>。
1996年にはビジター用のレプリカユニフォームがファン達の要望によって作られた。当初は「よその球場で着るユニフォームをなぜ作るんだ」と反対されていたものの、横山の説得もあり実現となった<ref>[[ベースボールマガジン]]別冊新緑号 1992-2009 千葉ロッテマリーンズ ボビー旋風 [[ベースボール・マガジン社]].2021年.P58</ref>。
[[瀬戸山隆三]]が球団代表に就任し、[[ボビー・バレンタイン]]が監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]により、ロッテが千葉を去る可能性が取り沙汰されたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。[[セ・パ交流戦]]の際にこれを見た[[阪神タイガース]]前オーナーの[[久万俊二郎]]は「これこそファンサービス」と感動したという。[[京葉線]]の最寄り駅の[[海浜幕張駅]]の[[発車メロディ]]も2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
=== ボールパーク化構想 ===
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、[[幕張海浜公園]]の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。過去は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らなかった。2004年以降は県と市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置し、動物とふれあう場所を設け、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始し、スタンド内にベビーベッドが設けた。
[[プロ野球再編問題 (2004年)#第2の合併|2004年のプロ野球再編問題における10球団構想]]ではロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、2006年度から[[指定管理者]]制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの[[指定管理者]]に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、[[広島東洋カープ]]が同年開場した本拠地の[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]の指定管理者となった他、[[都市公園法]]に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、[[オリックス・バファローズ]]が2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていた[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]と、2005年以後の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地の[[宮城球場|フルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城]]の例がある。2016年には管理許可のもとで[[横浜スタジアム]]を運営していた[[第三セクター]]の株式会社横浜スタジアム<!--球場自体と区別するために「株式会社」まで入れています-->を、[[横浜DeNAベイスターズ]]が[[株式公開買付け|友好的TOB]]により買収している。
=== 360度全席自由席 ===
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対[[福岡ソフトバンクホークス]])が中止となったことから([[#韓国での公式戦開催構想|後述]])、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、[[ビアガーデン]]のように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。この結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。ゲストとして[[渡辺真知子]]を招聘するなど(一部[[#マスコット|後述]])、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される。販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
=== その他の営業・ファンサービス ===
* 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)のZOZOマリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後に[[花火]]が打ち上げられる。そのうちの1試合で開催される「[[京成グループ]]花火ナイター」は毎年恒例となっている。
** 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は18時からの開始となっていた。2009年度は金曜日以外の平日は18時15分、金曜ナイターのみ週末の初日で多くのファンを確保したいという観点で18時30分の開始<ref group="注釈">18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグでは[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]が1989年まで[[明治神宮野球場|神宮]]での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]も2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった。</ref> となった。週末開催のナイターは土曜日のみ18時からは変わらないが、日曜日は薄暮デーゲームとして17時から行う<ref group="注釈">平日のナイターで開始を15分ずれこませているのは、当初の18時開始では仕事終了後だと「試合開始に間に合わない」、18時30分開始では「帰宅時間が遅れる」という苦情が出たことや、駅からやや時間がかかるためでもある。</ref>。
** この時期は[[冠スポンサー]]の[[京成グループ]]([[京成電鉄]]・[[新京成電鉄]]{{#tag:ref|2013年からはペナントレース期間中に球団のラッピング電車を独自に運行している<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2013/04/88008801.html |title=【新京成】8800形8801編成 "伊東マリーンズ号"として運行開始 |work=鉄道ホビダス |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |date=2013-04-01 |accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/news/detail/12981.html |title=新京成電鉄にてラッピング電車「2014マリーンズ号」を運行!! |publisher=千葉ロッテマリーンズ |date=2014-03-25 |accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinkeisei.co.jp/topics/2015/3020/ |title=千葉ロッテマリーンズのラッピング電車「2015マリーンズ号」を運行(3/24〜9月末) |publisher=新京成電鉄 |date=2015-03-26 |accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/news/detail/17025.html |title=新京成電鉄にてラッピング電車「2016マリーンズ号」を運行!! |publisher=千葉ロッテマリーンズ |date=2016-04-05 |accessdate=2016-12-03}}</ref>。|group="注釈"}}・[[北総鉄道]])の車両で「花火ナイター号」が運行される。
* [[始球式]]は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置に就く前に行われる。
* [[チアリーダー|チア・パフォーマー]]チーム[[M☆Splash!!]]がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
* 2005年、楽天が「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。
* 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「[[Take Me Out to the Ball Game]]」が演奏されていた(現在は「[[We Love Marines]]」)。
* 地元千葉県の[[地方銀行]]である[[千葉興業銀行]]が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団[[定期預金]]」を販売している。
* 2010年、2013年の[[クライマックスシリーズ]]では全試合において千葉マリンスタジアムで[[パブリックビューイング]]が行われた。入場無料ながら特別ゲストに[[立川隆史]]を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長の[[熊谷俊人]]も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3,000人の観客が訪れた。
* 2005年から2008年と、2013年から2019年に開幕戦および交流戦時に他球団を挑発するポスターの制作がされていた<ref>{{Cite news |title= ロッテ“過激”挑発ポスター作製 鈴木「剛さんに怒られないかな」 |newspaper=スポニチ |date=2013-05-17 |url= https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/17/kiji/K20130517005816910.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref> <ref>{{Cite news |title= 今年もロッテの交流戦“挑発ポスター”が面白い 6球団に対するコピーは… |newspaper= Full-Count |date=2019-06-04 |url= https://full-count.jp/2019/06/04/post396841/ |accessdate=2023-04-19 }}</ref>。2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した<ref>{{Cite news |title= ロッテ下克上へ、挑発ポスター「タカ狩りの前に…ハム食べてこう」 |newspaper=スポニチ |date=2015-10-10 |url= https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/10/kiji/K20151010011293330.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref>。結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。ポスター内にあった[[下克上]]を意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった<ref>{{Cite news |title= 「いい思い出しか…」…ロッテ、挑発ポスター第2弾も過激に |newspaper=スポニチ |date=2015-10-14 |url= https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/14/kiji/K20151014011318310.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref>。2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが<ref> {{Cite news |title= ロッテ挑発ポスター復活「神ってるとも戦いたい!」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2020-10-08 |url= https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1721346_m.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref>、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である<ref> {{Cite news |title= ロッテ幻の挑発ポスター公開「二刀流vs伊東流」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2020-12-06 |url= https://www.nikkansports.com/baseball/news/1747926.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref>。2020年は、コロナの影響により交流戦が開催されなかったこともあり、2020年以降は制作されていない<ref>{{Cite news |title= 交流戦中止で、あの「挑発」ポスターも ロッテ人気企画 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2020-04-21 |url= https://www.asahi.com/sp/articles/ASN4N5Q1GN4NUTQP00K.html |accessdate=2023-04-19 }}</ref>。
* 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接する[[幕張メッセ]]で同日開催された「[[ニコニコ超会議|ニコニコ超会議2016]]」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。当日は、7回裏直前にフィールド内での[[ジェット風船]]片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された<ref>{{Cite web|和書|title=“ニコニコ超会議2016”の詳細情報が発表! 今年は幕張メッセ全エリアに加え、QVCマリンフィールドも会場に |publisher=ファミ通.com |date=2016-02-17 |url=http://www.famitsu.com/news/201602/17099624.html |accessdate=2016-02-18 }}</ref>。
* 12球団の中では禁煙に積極的に取り組んでおり、2019年7月26日から本拠地ZOZOマリンスタジアムの喫煙所を[[加熱式たばこ]]専用に切り替え、[[紙巻きたばこ]]の全面禁煙に踏み切った<ref>{{Cite web|和書|title=煙のないスタジアムへ ZOZOマリンスタジアム喫煙ルールの変更について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |date=2019-07-05 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/00004423.html |accessdate=2020-06-26 }}</ref>。2020年シーズンからは選手・コーチ・球団職員も含めた全スタッフに対し、勤務時間中の禁煙が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテ、12球団初の全面禁煙!“煙害”から佐々木朗を守れ! |publisher=サンケイスポーツ |date=2020-01-30 |url=https://www.sanspo.com/article/20200130-2WTHD3IJ5ZMLVGFT4FZ2LNDN7E/ |accessdate=2020-06-26 }}</ref><ref group="注釈">日本のプロ野球チーム関係者に対する禁煙対策は、ロッテ以外では[[横浜DeNAベイスターズ]]が2012年以降の新人選手に入団から2年間の禁煙を義務づけた例がある。</ref>。
=== 公式ファンクラブ『TEAM26』 ===
球団公式ファンクラブ『'''TEAM26'''』があり、ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・無料会員の5コースがある。チケット購入(前売りチケット含む)やオンラインショップ、スタジアム内各売店での購入で'''Mポイント'''を貯めることが出来る。貯めたポイントは、観戦チケットやスタジアム内各売店で使用可能な金券チケット、各会員の入会特典グッズ、日程ポスターに交換できる。2010年度(2011年1月31日)までの「'''TEAM26'''」会員証は[[全日本空輸]]との提携による[[楽天Edy]]機能搭載の[[ANAマイレージクラブ|AMC]]カード一体型だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/6348.html |title=TEAM26 ANAとの提携終了に伴うサービス内容変更のご案内 |accessdate=2019年4月14日 |publisher=千葉ロッテマリーンズ(2011年1月19日作成)}}</ref>。
== 独立リーグへの派遣構想(2007年) ==
2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の[[瀬戸山隆三]]は、5 - 8人程度の[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]を獲得した上で、[[独立リーグ]]である四国アイランドリーグ(現:[[四国アイランドリーグplus]])の[[徳島インディゴソックス]]に派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「[[イースタン・リーグ]]の混成チームであるフューチャーズ<!-- リンク先は曖昧さ回避のページであるためリンクしない -->の活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、[[日本野球機構|NPB]]内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名([[池田健 (野球)|池田健]]、[[宮本裕司]]、[[小林憲幸]]、[[白川大輔]]、[[大谷龍次]])は支配下登録を受けた1名(宮本)を除き、2009年のシーズン終了後に[[戦力外通告]]を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた[[長崎セインツ]]へ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。
約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusと[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]]へ選手の派遣を認めた<ref>{{Cite web|和書|author=石田洋之 |date=2012-03-01 |url=https://www.ninomiyasports.com/archives/5730 |title=育成選手の独立リーグ派遣OKに |publisher=スポーツコミュニケーション |accessdate=2015-10-28 }}</ref>。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は[[広島東洋カープ]]・[[オリックス・バファローズ]]・[[中日ドラゴンズ]]・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]・[[埼玉西武ライオンズ]])。
2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの[[福井ミラクルエレファンツ]]と業務提携を行い、ロッテ球団職員の[[荘勝雄]]がトレーニングコーチとして派遣されることになった<ref>{{Cite news |title=ロッテ、BCリーグの福井と指導者派遣の業務提携で合意 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2014-03-06 |url=https://www.sanspo.com/article/20140307-OG43TSU56ZJXZLO6Z2VEWIITPA/ |accessdate=2015-10-28 |publisher=産業経済新聞社 }}</ref>。
== ユニフォームの変遷 ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
=== 東京・仙台・川崎時代 ===
==== 毎日時代 ====
* 1950年(シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。
** 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。
** 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。
*** 胸マークについては、2005年発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』(著:[[綱島理友]]・絵:綿谷寛)では、赤となっているジン着写真(当時発売されたブロマイド)が掲載されているが、著者の綱島は「胸マークには赤は無かったとも思われる」として、綱島が推定した上で濃紺に塗り変えた写真も一緒に掲載している。
* 1950年 - 1957年 - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時の[[ロサンゼルス・ドジャース]]をイメージして作られた。1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(1951年からは[[月桂樹]]の枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。1952年シーズン途中から1955年は[[平和台事件]]を起こした責任を取る形で廃止したが、1956年には「Orions」ロゴが入る形で復活)。
** シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。
** アンダーシャツは、濃紺。
** 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。濃紺。1950年)、「Orions」(セリフ風書体。濃紺・白縁取り。1950年シーズン後半より使用)。
** 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。1950年には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。
** 1956年には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、1957年には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク([[ニューヨーク・ヤンキース]]の「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。
==== '''毎日大映'''(大毎)→東京オリオンズ時代 ====
* 1958年 - 1965年 - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。大映からゴシック体の番号フォントが継承された。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、1960年から「TOKYO」に変更される。この間、[[野球の背番号|腰番号や胸番号]]が付く。
** 帽子マークは、1958年に「D」と「M」を重ねたマークが採用。1960年は左上よりに「D」右下よりに「M」の字を絡ませたマーク、その後1961年、1962年(「O」マーク)、1965年(「T」と「O」を絡ませたようなマーク)に帽子マークの変更を行った(いずれも白色)。
** ビジター用は最初上下グレー地だったが、1960年はブルーグレー地に白の縦じまが入ったものを使用。翌年以降は再びグレー地となった。
* 1966年 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中の6月22日の対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持った[[桃太郎]]のイラストが描かれたもの)がつく。
** 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。
* 1967年 - 1968年 - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年に廃止されてドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。帽子は、濃紺地に白文字の「T」。
==== ロッテ時代 ====
* 1969年 - 1972年 - 株式会社[[ロッテ]]が[[命名権|スポンサー]](1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲(ただし、紺→青になる)。ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「'''LOTTE'''」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。背番号(赤色)はオリジナル書体。帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。
* 1973年 - 1991年 - [[金田正一]]の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。「LOTTE」の胸ロゴは赤に紺の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり「Orions」のロゴは消滅する<ref>綱島理友 『日本プロ野球ユニフォーム大図鑑 中』 ベースボール・マガジン社、2013年、151頁。</ref>。基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみ表した。背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る<ref group="注釈">このときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。</ref>。
** ホーム用はオフホワイト地。
** ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。
** 1974年から、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。
** 1984年より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。
** 1989年より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。
*** 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。
** 背番号の書体の中で「'''1'''」については、下に「'''_'''」の付かないスタイルであったが、背番号1の選手([[ジム・ラフィーバー]]→[[ラファエル・バチスタ]]→[[高橋博士]]→[[愛甲猛]])については「_」が付いていた。
=== 千葉時代 ===
* 1992年 - 1994年 - 本拠地が[[千葉市]]に移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。
** 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。
** シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。
*** 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。
** 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。
** 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。
** 背番号の「'''1'''」の書体は、「_」の無いもの(ただし、左上の欠けていない書体)が引き続き採用されたが、背番号1の愛甲猛については引き続きオリオンズ時代と同様の書体が採用された。
** 背番号「'''29'''」は、1992年の[[世界少年野球大会]]で行われた日米OBオールスターゲームでの[[村田兆治]](千葉移転後の在籍経験なし)と、1995年のキャンプからオープン戦までの[[内藤尚行]]の着用のみで、公式戦での着用者はいなかった(後述の復刻時の[[小野晋吾]]の着用と、公式戦出場については不明)。
* 1995年 - 2003年 - [[千葉ロッテマリーンズ#先祖返りのユニフォーム|後述]]する事情から、[[広岡達朗]][[ゼネラルマネージャー|GM]]の提案によりユニフォームを一新。チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、[[シカゴ・ホワイトソックス]]を模したデザインになる。当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークの[[刺繍]]が入る)。ちなみにビジターユニフォームの胸の文字はホームユニフォームの“M”に対し、“Marines”の文字が入ったものだった。スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。広岡GMが解任された1997年からは、パンツ裾を足首まで下げるスタイルが解禁されている。
** 1997年 - 夏季の週末のホームゲーム限定で白地に黒の「M」マークを入れた「サンデーキャップ」を採用。(初登場は7月20日のダイエー18回戦<ref>[https://www.marines.co.jp/company/history.php チームヒストリー1997]</ref>。)
** 1998年 - 夏季の週末のホームゲーム限定で「サマーユニフォーム」を採用。日本では中日に次いで2チーム目の採用となるノースリーブでロゴはビジター用と同じ「Marines」。キャップはつばの部分をグレーに変更。
* 2000年 - 2004年 - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。
** 2003年 - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用。翌年はセカンドビジターユニフォーム。このサードユニフォームの胸の文字はホームユニフォームと同じ“M”であり、胸番号は無く、背番号の上には選手の名前が書かれていないものだった。このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。おおむね、同時期の[[阪神タイガース]]のビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。
* 2004年 - 2007年 - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせで背ネーム無しだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場し、背ネームも入った。
** 2005年よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「'''誠'''(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「'''侍'''(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「'''戦'''(いくさ)」とした。上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。黒地のビジターユニフォームの胸の文字が“Marines”から帽子のマークと同じ“M”に変更され、濃いピンクのラケットラインが入る。パンツも「誠」と同じものへ変更。「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。(基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択する[[清水直行]]さえ縁起担ぎで「誠」を使用。ポストシーズン([[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]・[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]・[[アジアシリーズ]])のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。
** しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中の5月14日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦の1回だけで、先発の[[ダン・セラフィニ]]がこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。
** 2006年 - 2009年 - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。
* 2008年 - 2009年 - [[デサント]]社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。ビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。
** 2009年 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。図案は“ORIONS-MARINES”のアーチと“40th ANNIVERSARY”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。
* 2010年 - 2013年 - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。チームカラーの一つとされていた赤が消えた。ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。帽子は従来の黒帽子で統一された。右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。右胸のワッペンスポンサーが[[ハートフォード生命保険]]から[[ネクソン]]に変わる。サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。
* 2014年 - 2019年 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。胸ロゴが「Marines」(胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り)、背ネームは白字。両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。帽子は黒でロゴが「M」(白字で赤で縁取り)、ツバの縁が赤。ホーム、ビジター共にズボンに[[オカムラホーム]]の広告が入る<ref>{{Cite web|和書|date=2014-01-26 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/12721.html |title=新ビジターユニフォーム発表のお知らせ |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-28 }}</ref>。ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。
** 2015年 - キャップへの広告表示が認められ、キャップ左即部に[[ダイユウホーム]]の広告が入る。
** 2017年 - サプライヤーがデサントから[[マジェスティック・アスレティック]]に変更される。大きなデザインの変更はないが、刺繍から昇華プリントに変更され軽量化が図られた他、選手名・背番号の字体などが変更される。広告はキャップ左即部が[[住宅情報館]]、右胸のワッペンが[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|GungHo]]、ズボンが[[GMOインターネット|GMO]]にそれぞれ変更。
** 2018年 - ビジター用のズボンがグレーから白に変更<ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-10 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/00001943.html |title=ビジターユニフォーム(パンツ)変更について |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2018-02-13}}</ref>。スポンサーも[[フクダ電子]]に。
* 2020年 - 現在 - サプライヤーがユニフォームは[[ミズノ]]に、キャップは[[:en:'47 (brand)|'47]]に変更される('47がNPBのサプライヤーになるのは初めてとなる)。
** 2020年より、「PINSTRIPE PRIDE」というコンセプトの下、ビジターユニフォームにもピンストライプを採用し、ビジターマリーンズの象徴である「ブラック」と掛け合わせることで強さと威厳、相手チームへの威圧感を兼ね備えたデザインに変更した。キャップもビジター用は「M」が黒文字となっている。パンツに黒のラインが入った。<ref>{{Cite web|和書|title=2020年ユニホームを発表 新サプライヤーはミズノと'47に決定|千葉ロッテマリーンズ |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/.html |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2019-11-19 |language=ja}}</ref>。
** 2021年 - キャップの左即部にあった住宅情報館の広告が廃止された。
** 2023年 - 全てのユニフォームの胸番号・背番号・ロゴは昇華プリントではなく、刺繍に変更された。ビジターユニフォームはストライプが廃止され、純黒の生地に変更。左胸には白の「M」ロゴへ変更された。両袖口には「勝利への挑戦」を意味する黒、「勝利の熱狂」を意味する白、「勝利の結束」を意味するグレーのマリーンズの信条を象徴する3色のラインデザインが追加された。パンツにも同様の3色のラインを使用した。ビジターの帽子はホームの帽子を着用する<ref>{{Cite web|和書|title= CHIBA LOTTE MARINES UNIFORM 2023 |url= https://www.marines.co.jp/goods/uniform2023/ |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-20 |language=ja}}</ref>。
=== 限定ユニフォーム ===
* 2008年 - 8月13日 - 18日の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した<ref group="注釈">この年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。</ref>。
** 「'''1'''」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
* 2009年 - 8月18日 - 20日のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。
* 2011年 - 千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。
** 上記の2008年のユニフォーム同様、「'''1'''」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
* 2013年 - パ・リーグ共同企画「[[レジェンド・シリーズ2013]]」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニフォームを復刻。ただし、復刻ユニフォームの右胸には[[ネクソン]]、パンツ左側には[[君津住宅]]の広告が付く。
==== ALL FOR CHIBAユニフォーム ====
2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した「ALL for CHIBA」という特別試合時に、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用する。
* 2012年 - 2015年 - 千葉移転20周年を記念した「Thanks 20 years “ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、白をベースに両肩と両わき腹に黒いライン、胸に黒文字で「CHIBA」と記したロゴが入ったユニホーム(通称:CHIBAユニフォーム)を着用する。マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。2013年から2015年は「埼玉VS千葉シリーズ」で[[西武ドーム]]でも着用された。2015年は4月の3連戦において[[宮城球場]]でも着用されている。
* 2016年 - 千葉移転25年目を記念した「“ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、CHIBAユニフォームを一新。千葉県公式マスコットキャラクターの[[チーバくん]]の赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/news/detail/16635.html |title=「ALL for CHIBA」新ユニフォームについて |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2016-01-27}}</ref>。胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。
* 2017年 - 2019年 - 「CHIBAユニフォーム」をマイナーチェンジ。胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での二軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する<ref>[http://www.marines.co.jp/special/2017allforchiba/ 「ALL for CHIBA 2017」特設サイト|千葉ロッテマリーンズ]</ref>。2018年は二軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出<ref>[http://www.marines.co.jp/special/2018allforchiba/ 「ALL for CHIBA 2018」特設サイト|千葉ロッテマリーンズ]</ref>。
* 2020年 - 2021年 - 両肩から脇の部分の黒の太いラインを廃止し、ユニフォームやキャップの全面に「サンライズレッド」を施すデザインを使用<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00005448.html CHIBAユニホーム デザインリニューアル!!] - 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
* 2022年 - 大幅なリニューアルを行った。白のホーム、黒のビジターユニフォームのレガシーを継承し、グレーに変更。選手名は黒、背番号を白とし、ユニフォームの左胸と帽子に1992年のロゴマークを再構築した白の「CLM」のロゴマークが入れられ、両袖口に黒のライン、左袖には千葉移転30周年を記念したロゴマークが入れられた<ref>[https://www.marines.co.jp/special/allforchiba/index.html 「ALL FOR CHIBA リニューアル」特設サイト|千葉ロッテマリーンズ]</ref>。
==== CLMユニフォーム ====
2022年までの「ALL FOR CHIBAユニフォーム」を2023年に「CLMユニフォーム」へ名称を変更した。
* 2023年 - 2022年の「ALL FOR CHIBAユニフォーム」のベースは同じだが、胸番号・背番号・選手名・ロゴは、ホーム・ビジター用と同様のタイプに変更された。千葉移転30周年記念ロゴを廃止し、ボタンの色を黒に変更された。両袖口のラインは、ビジターと同様の3色のラインデザインに変更された。パンツのラインにも同様の3色のラインを使用した<ref>{{Cite web|和書|title= 2023年ユニホームリニューアル |url= https://www.marines.co.jp/news/detail/202300216753.html |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-20 |language=ja}}</ref>。
==== マリンフェスタユニフォーム ====
「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベントで着用する。
* 2015年 - 「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/event/2015marinefesta/uniform.php |title=マリンフェスタ2015 UNIFORM |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-28 }}</ref>。胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。脇から袖の部分に黒いラインが入る。
* 2016年 - 前年同様の2コンセプトに加え、「海の上に広がる空」をイメージした青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。ロッテがグラデーションタイプのユニフォームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニフォーム以来となる。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る<ref>[http://www.marines.co.jp/event/2016marinefesta/uniform.php 「マリンフェスタ2016」ユニホームについて] 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
* 2017年 - 胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00000120.html 「マリンフェスタ2017」新ユニフォームについて] 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
* 2018年 - 井口資仁監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001924.html 「マリンフェスタ2018」新ユニフォームについて] 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
* 2019年 - 本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージした淡いブルーを基調に、白のストライプを球団の象徴として採用しストライプの細部に数多くのカモメを入れたデザインとし、背ネームには親近感を高めるべくニックネームを表記する<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/00003682.html 「マリンフェスタ2019」新ユニフォームについて] 千葉ロッテマリーンズ</ref>。
* 2020年 - 本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージしたブルー色にチームカラーであるホワイトを合わせ爽やかな幕張の海と青空を表現したものとし、背ネームのニックネームは一般から公募した<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00005091.html 「マリンフェスタ2020」新ユニホーム決定とニックネーム募集のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ</ref>。キャップやヘルメットをユニフォームと同じブルーに統一。
==== 夏季限定ユニフォーム ====
* 1998年、初めて通常のホームユニフォームをノースリーブとしたノースリーブユニフォームを夏季に使用した。
;MAKUHARI SUMMER STADIUM
:* 2018年7月7日 - 9月2日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、オーストラリアのサーフブランド・ビラボン([[:en:Billabong (clothing)|en]])による[[タコノキ属|パンダナス]]をモチーフとしたボタニタル柄デザインのユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=サマーユニフォームデザイン決定!!|千葉ロッテマリーンズ |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00002417.html |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2020-06-30 |language=ja}}</ref>。
:* 2019年7月7日 - 8月12日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、ビラボンによるハワイをテーマに「TRADEWINDS(貿易風)」のコンセプトで貿易風がもたらす自然や文化をヴィンテージ風に表したデザインのユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=2019年サマーユニフォーム デザイン決定!!|千葉ロッテマリーンズ |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00004062.html |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2020-06-30 |language=ja}}</ref>。
;BLACK SUMMER WEEKEND
:2021年よりチームカラーの黒を基調とした夏季限定のユニフォームを着用。
:* 2021年7月2日 - 8月15日のホーム9試合にて、「魅惑のボールパークで自由に遊ぶ、特別な夏」をコンセプトにチーム名・背番号部・帽子のマーク部にミントカラーをあしらったユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=BLACK SUMMER WEEKEND|url=https://www.marines.co.jp/expansion/2021BlackSummerWeekend |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-18 |language=ja}}</ref>。
:* 2022年7月16日 - 8月14日のホーム9試合にて、「心躍る、夏のボールパーク」をコンセプトにチーム名・背番号部・帽子のマーク部に夏の夜空に映えるイメージのライトパープルをあしらったユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=BLACK SUMMER WEEKEND|url=https://www.marines.co.jp/expansion/2022BlackSummerWeekend |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-18 |language=ja}}</ref>。
;BLACK SUMMER WEEK
:BLACK SUMMER WEEKENDと変わらずチームカラーの黒を基調とした夏季限定のユニフォームを着用。昨年までは、週末限定で着用されていたが2023年から平日の着用も行うということで名称を変更された。
:* 2023年7月6日 - 8月13日のホーム15試合にて、チーム名・背番号部・帽子のマーク部にさまざまな色彩に染まる夕焼けの空とビーチをイメージのグラデーションカラーをあしらったユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=BLACK SUMMER WEEK|url=https://www.marines.co.jp/expansion/2023BlackSummerWeek |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-18 |language=ja}}</ref>。
==== MOTHER’S DAY(母の日)ユニフォーム====
[[乳がん]]撲滅の啓発を目的とした[[ピンクリボン]]活動のPRとして、ピンク色がユニフォームの一部に取り入れられ、年に一度「MOTHER’S DAY」と題してイベントが行なわれる際に着用される<ref group="注釈">ZOZOマリンスタジアムで行われるホーム時のみ作成および着用の為、その年がビジターの場合は通常のビジターユニフォームでプレイされる。</ref>。ピンクリボンデザインのベースが使用される。
* 2021年5月9日の[[母の日]]に初めて「ピンクユニフォーム」を着用した。ホームユニフォームをベースとしてロゴ・背番号・胸番号・選手名・帽子のマーク部がピンク色となったユニフォームを着用。右袖にはピンクリボンが入る<ref>{{Cite web|和書|title=ロッテ、母の日5・9にピンクユニホーム着用 荻野「かわいい」益田「新鮮」 |url=https://full-count.jp/2021/04/12/post1072270/ |website=full-count |accessdate=2023-04-20 |language=ja}}</ref>。
* 2022年5月8日の母の日に、ホームユニフォームをベースとして両袖にピンク色を取り入れ[[フランクミュラー]]の腕時計の文字盤に使用しているビザン数字を散りばめたデザインを採用し、背番号・胸番号にもビザン数字へ変更されたユニフォームを着用<ref>{{Cite web|和書|title=5/8(日)母の日イベントでピンクユニホームを着用 |url=https://www.marines.co.jp/news/detail/00007697.html |website=千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト |accessdate=2023-04-20 |language=ja}}</ref>。
=== 先祖返りのユニフォーム ===
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年、広告代理店の[[博報堂]]がデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された<ref name="pink-2020">{{Cite news |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=001-20200511-37&page=2 |title=ロッテ・今年で26年目となる“ピンストライプ”/12球団歴代ユニフォーム事情 |publisher=週刊ベースボールonline |accessdate=2020-06-08}}</ref>。ビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「[[千葉県]]沖合における[[親潮]]と[[黒潮]]のぶつかり合い」と定義付けられた。
* OBの[[小宮山悟]]が2018年に『[[ベースボールマガジン]]』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。しかし結果的にはオーナー代行の[[重光昭夫]]の鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている{{Refnest|group="注釈"|また小宮山は、最終的な選考結果は選手にもまったく知らされず、知ったのはお披露目記者発表の時が初めてだったと語っている。}}。
ところが、1995年に監督に就任した[[ボビー・バレンタイン]]はピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判<ref name="pink-2020"/>。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、[[綱島理友]]の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている<ref>{{Cite book |和書 |author=綱島理友|authorlink=綱島理友 |coauthors=綿谷寛 |title=プロ野球ユニフォーム物語 |year=2005 |publisher=ベースボール・マガジン社 |page=221 |isbn=4583038070 }}</ref><ref group="注釈">このデザインのホーム用ユニフォームは2021年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2021年で使用27シーズン目となり、1973年から1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている(ただし提供メーカー・素材・背番号および胸番号のフォントなどの細かいマイナーチェンジは行われている)。</ref>。
<!-- ** この変更については、[[フリオ・フランコ]]の批判により行われたという説もある(当時の[[やくみつる]]の漫画より<ref>「やくやくスポーツらんど」第1巻参照。</ref>) ←これは漫画のネタなのでは? -->
* ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのは[[フリオ・フランコ]]であるという。
=== その他 ===
* 2012年8月17日 - 8月19日の日本ハム戦([[札幌ドーム]])で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニフォームを着用するのに伴い、通常のホームユニフォームを着用した。
* 「ブラックブラック」と呼ばれるイベント<ref group="注釈"> 2014年のみ「ブラックブラックナイト」</ref>で、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を2014年から毎年1から3試合程度行っている<ref group="注釈"> 2014年、2015年は年2試合、2016年から2020年は年1試合、2021年からは年3試合行われている。 </ref>。 2015年と2016年の対戦相手だった[[福岡ソフトバンクホークス]]はビジター用ユニホームが同じ配色だった為、ホーム用ユニフォームでプレイしている。
== 球団旗の変遷 ==
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
* 1950年 - 1970年 - 上から赤・白・青の[[色の三原色|トリコロール]]、左端に☆を三つ。中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。
** ちなみに、このトリコロールは当時の親会社・[[毎日新聞社]]のグループ企業にも波及しており[[毎日放送]]や[[スポーツニッポン新聞社]]の[[社旗]]にも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。
* 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。
* 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。
* 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。
== [[ペットマーク|プライマリーマーク]]の変遷 ==
* 1950年 - 1957年 - 毎日オリオンズが結成され、左から青・白・赤のラインのデザインを採用。
* 1958年 - 1963年 - 球団名が毎日大映オリオンズとなる。左から青・白・赤のラインデザインを背景に、それぞれの色の上部に黄色の「★」を配置。真ん中に黄色で「Orions」の文字。
* 1964年 - 1968年 - 球団名が東京オリオンズとなる。バットを持った桃太郎のようなキャラクターを真ん中へ配置。それを囲むように、赤の文字で上に「TOKYO」下に「Orions」を配置。右と左に赤の「★」を配置。全体は円形のデザイン。ロッテオリオンズへの改名後は「TOKYO」を「LOTTE」に改めたものが1971年のアメリカ春季キャンププログラムの表紙で使用され、1974年時点の「ロッテオリオンズ子供の会」の会員証にも違うポーズのものが描かれていたが、どの時点まで使用されていたかは不明。
* 不明 - 1991年 - どの時点で使用が開始されたかは不明。バブル坊やを真ん中へ配置し、上から赤・白・青のラインデザインを背景に、一番下に「LOTTE Orions」の文字を配置。文字色は「LOTTE」は赤「Orions」は白。全体は四角のデザイン。
* 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。[[帆船]]を真ん中へ配置し、背景はピンク。その下にカモメが1羽。カモメの下に海をイメージした青色。それを囲むように青の文字で左上に「CHIBA」右上に「LOTTE」下側に「MARINES」をそれぞれ配置。全体は円形のデザイン。
* 1995年 - 2019年 - 真ん中に野球ボールと黒と黄色で描いた大きなカモメが1羽、カモメの頭側(左上)に「MARINES」カモメの足側(右下)に「CHIBA LOTTE」それを囲むように濃いピンクの円が描かれている。
* 2020年 - 現在 - 球団設立70周年を機に、マイナーチェンジを行った。野球ボール・カモメ・文字など配置変更は無いが、カモメに沿って描かれていた黄色のラインを廃止し、ボールの縫い目のデザインを変更し、濃いピンクで描かれていた円を黒へ変更。全体的に以前よりシンプルになった。
== マリーンズファンと応援スタイル ==
{{Main|マリーンズファン}}
== スポンサー ==
* ユニフォーム右袖 [[ロッテ|LOTTE]](1992年度 - 。ビジター用ユニは1992年度 - 2013年度、2019年度 - )
* ユニフォーム左袖 [[千葉興業銀行|ちば興銀]](2023年度 - )
* ユニフォーム右胸 [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|Gungho]](2017年度 - )
* パンツ右側 [[フクダ電子]](2018年度 - )
* ヘルメット [[ロッテ|LOTTE]]、[[新昭和]](2020年度 - )
* キャップ左側 [[:en:'47 (brand)|'47]](2020年度 - )
== 歴代本拠地 ==
* 1950年 - 1962年 [[後楽園球場]] ※1
* 1962年 - 1972年 [[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]] ※1
* 1973年 - 1977年 [[宮城球場]] ※2
* 1978年 - 1991年 [[川崎球場]]
* 1992年 - [[千葉マリンスタジアム]] ※3
: ※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
: ※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。1973年シーズンは[[プロ野球地域保護権|地域保護権]]を[[東京都]]に置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上の[[専用球場]]としての届け出はこの年できなかった)。同年12月21日の実行委員会で翌1974年から暫定的に保護地域を[[宮城県]]に移転することが決まり、1974年から1977年の間は同県を保護地域とした。しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。
: ※3 呼称は2011年3月から2016年11月までは「QVCマリンフィールド」、2016年12月からは「ZOZOマリンスタジアム」
: 埼玉県さいたま市南区には二軍本拠地として[[ロッテ浦和球場]]が存在する。
== 歴代監督 ==
※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一
{| class="wikitable"
|-
!!!代!!氏名!!就任<ref group="※">日付はシーズン途中で就任した場合のみ記載。</ref>!!退任<ref group="※">日付はシーズン途中で退任した場合のみ記載(休養は含まない)。その他は原則として年度末退任。</ref>!!備考
|-
!rowspan="4"|{{縦書き|毎日オリオンズ}}
|1||'''[[湯浅禎夫]]'''◎<ref group="※">登録上は総監督。1952年は[[平和台事件]]の責任を取り辞任。</ref>||1950年||1952年7月27日||1950年のみ[[選手兼任監督]]<br/>ここから'''毎日オリオンズ'''
|-
|2||[[別当薫]](第1次)||1952年7月30日||1952年||選手兼任監督
|-
|3||[[若林忠志]]<ref group="※">登録上は1950年 - 1952年も監督だが、実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。1952年は[[平和台事件]]の責任を取り、湯浅と共に7月27日までで辞任。</ref>||1953年||1953年||
|-
|rowspan="2"|4||rowspan="2"|別当薫(第2次)||rowspan="2"|1954年||rowspan="2"|1959年||rowspan="2"|ここから'''毎日大映オリオンズ'''
|-
!rowspan="4"|{{縦書き|毎日大映オリオンズ}}
|-
|5||'''[[西本幸雄]]'''||1960年||1960年||
|-
|6||[[宇野光雄]]||1961年||1962年||
|-
|rowspan="2"|7||rowspan="2"|[[本堂保次]]<ref group="※">1965年は6月17日から7月1日まで病気休養。その間は[[濃人渉]]が代行。</ref>||rowspan="2"|1963年||rowspan="2"|1965年||rowspan="2"|ここから'''東京オリオンズ'''
|-
!rowspan="4"|{{縦書き|東京オリオンズ}}
|-
|8||[[田丸仁]]||1966年||1966年||
|-
|9||[[戸倉勝城]]<ref group="※">1967年は6月20日から7月31日まで休養。その間は[[濃人渉]]が代行。その後、8月14日に解任。</ref>||1967年||1967年8月14日||
|-
|rowspan="2"|10||rowspan="2"|'''[[濃人渉]]'''<ref group="※">1971年は7月13日の[[没収試合|放棄試合]]の責任を問われ、7月23日に二軍監督に降格。</ref>||rowspan="2"|1967年8月15日||rowspan="2"|1971年7月23日||rowspan="2"|ここから'''ロッテオリオンズ'''<br/>1971年7月24日から終了まで二軍監督
|-
!rowspan="8"|{{縦書き|ロッテオリオンズ}}
|-
|11||[[大沢啓二]]||1971年7月24日||1972年||1969年から1971年7月23日まで二軍監督
|-
|12||'''[[金田正一]]'''(第1次)◎<ref group="※">1975年は4月23日から5月5日まで病気療養。その間[[高木公男]]が代行。</ref>||1973年||1978年||
|-
|13||[[山内一弘]]||1979年||1981年||
|-
|14||[[山本一義]]||1982年||1983年||
|-
|15||[[稲尾和久]]||1984年||1986年||
|-
|16||[[有藤通世|有藤道世]]||1987年||1989年||
|-
|17||金田正一(第2次)<ref group="※">1990年は6月24日から30日間の出場停止処分を受けたため、その間は[[徳武定之]]が代行。</ref>||1990年||1991年||
|-
!rowspan="11"|{{縦書き|千葉ロッテマリーンズ}}
|-
|18||[[八木沢荘六]]<ref group="※">1994年は8月2日から休養、残り試合は[[中西太]]が代行。</ref>||1992年||1994年||ここから'''千葉ロッテマリーンズ'''
|-
|19||[[ボビー・バレンタイン]](第1次)||1995年||1995年||
|-
|20||[[江尻亮]]<ref group="※">1996年は8月23日から25日まで病気療養、その間は[[江藤省三]]が代行。</ref>||1996年||1996年||
|-
|21||[[近藤昭仁]]||1997年||1998年||
|-
|22||[[山本功児]]||1999年||2003年||
|-
|23||'''ボビー・バレンタイン'''(第2次)◎<ref group="※">レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位。</ref>||2004年||2009年||
|-
|24||[[西村徳文]]◎<ref group="※">優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。</ref>||2010年||2012年||
|-
|25||[[伊東勤]]||2013年||2017年||
|-
|26||[[井口資仁]]||2018年||2022年||
|-
|27||[[吉井理人]]||2023年||||
|}
{{Reflist|group="※"}}
== 永久欠番 ==
[[ファイル:Chibalottemarines no26.svg|thumb|150px|right|マリーンズファンの背番号26]]
* '''26''' [[マリーンズファン]](2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは2005年度以降、[[野球の背番号|背番号]]26を[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の10番同様にファンのための欠番としている([[出場選手登録|ベンチ入り]]25人に次ぐ「[[支配下選手登録|26番目]]の戦士」の意)。最後に26を付けた選手は[[酒井泰志]](2003年 - 2004年)。試合中はダッグアウトの壁に、個人ネームがなく背番号26だけが付いたユニフォームシャツがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、'''TEAM26'''と命名する。
== 沢村栄治賞受賞者 ==
[[沢村栄治賞]]は、2022年シーズン終了時点の現存する12球団では'''ロッテ'''のみ未選出である<ref group="注釈">なお、2004年に消滅した[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]についても、1990年に[[野茂英雄]]が受賞している。</ref>。過去には[[小野正一]]、[[村田兆治]]が沢村賞クラスの活躍をしたが当時、[[パシフィック・リーグ]]は沢村賞の選考対象外だった為、受賞できなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://baseballking.jp/ns/93581 |title=沢村賞を受賞したことがない球団といえば… |publisher=BASEBALL KING |date=2016-10-25 |accessdate=2021-05-23}}</ref>。
== 三冠王(投手・打者) ==
=== 投手三冠王 ===
2022年シーズン終了時点で達成者はいない<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b0916054ddac843989a696eba0ca114a71dde34e 投手三冠で沢村賞を逃したのは1人だけ。千賀滉大は2人目になる!?]</ref>。
=== 打者三冠王 ===
ロッテでの[[三冠 (野球)|三冠王]]の達成者は1人。また、[[落合博満]]が日本人打者史上初の複数回達成し、日本プロ野球史上初および日本プロ野球最多記録となる3回三冠王を達成している<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |title=三冠王 <nowiki>|</nowiki> 各種記録達成者一覧 <nowiki>|</nowiki> 達成記録 |access-date=2022-10-05 |publisher=日本野球機構 |date=2022-10 |website=NPB.jp |archive-url=https://web.archive.org/web/20221005152919/https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |archive-date=2022-10-05}}</ref>。2022年シーズン終了時点で3回達成者は落合のみ。
* [[落合博満]] :3回(1982年、1985年、1986年)※最多記録
== 最優秀選手受賞者(複数回) ==
=== 投手の複数回受賞者 ===
2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。
=== 打者の複数回受賞者 ===
ロッテの打者で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]を複数回受賞しているのは1人<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。
* [[落合博満]] :2回(1982年、1985年)
== 主な歴代の球団歌・応援歌 ==
* 戦う男達のテーマ([[1960 (音楽グループ)|1960]])
* [[わがオリオンズ]](毎日球団の歌)
* われらロッテ親衛隊
* ビバ!オリオンズ!
* [[We Love Marines]]
* マリンに集う我ら
*: 2010年に作られ、当時の[[千葉マリンスタジアム]]での試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変更後は少なくなったが7月に復活し、2012年から2014年は7回裏攻撃前に流れ、2015年は試合開始前、2016年は5回終了後とビジターユニで開催時の試合開始前に流れ、2017年と2018年も同じく、2018年以降は9回終了後の延長戦入る前に流れるほか、2019年は試合終了後に勝利した場合に流れる。
* マリンフィールドの風
* 千葉、心つなげよう
* ONE HEART MARINES
== 主なキャンプ地 ==
* [[鹿児島市]][[鹿児島県立鴨池野球場|県立鴨池球場]]ほか(1972年 - 1995年、1997年 - 2007年)
* [[アメリカ合衆国]]・[[アリゾナ州]][[ピオリア (アリゾナ州)|ピオリア]](1995年 - 1998年)
* [[オーストラリア]]・[[ジーロング]](2006年 - 2007年)
* [[沖縄県]][[石垣市]][[石垣市営球場]](2008年 - 、一軍・二軍春季キャンプ)
* [[沖縄県]][[糸満市]][[糸満市西崎球場]](2022年 - 、一軍春季二次キャンプ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/05/21/0014346666.shtml |title=ロッテ 沖縄県糸満市を春季2次キャンプ候補地に選定 2022年以降 |accessdate=2021-05-22 |date=2021-05-21 |publisher=デイリースポーツ}}</ref>)
* [[千葉県]][[鴨川市]][[鴨川市営球場]](秋季キャンプ)
* [[鹿児島県]][[薩摩川内市総合運動公園]](二軍春季キャンプ)
== 主なトピック ==
=== 最長試合 ===
1969年10月10日、[[日本生命球場]]での[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦の[[ダブルヘッダー]]第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
のちに日本最長記録は更新(全て[[セントラル・リーグ]]、または[[セ・パ交流戦]])されているが、2009年7月2日、[[西武ドーム]]での[[埼玉西武ライオンズ]]戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
ポストシーズンでは1981年の[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]、[[川崎球場]]での[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]との第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]、[[ナゴヤドーム]]での[[中日ドラゴンズ]]との第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
=== 幻の合併計画 ===
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に[[大映ユニオンズ]]と合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
; 1973年、日拓との合併構想
1973年、ロッテオリオンズは[[ジプシー・ロッテ|ジプシー時代]]最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]はオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が[[東映]]から[[日拓ホーム]]に譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]も[[読売ジャイアンツ]](巨人)の前に1勝4敗で敗れ、巨人の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、1リーグ制へ移行を画策し始めた。
当時ロッテはジプシー生活を強いられて首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。ロッテのオーナー・[[重光武雄]]も球団経営にあまり執心がないと憶測され、合併調印は時間の問題といわれていた。関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
重光はこの合併を否定して合併もほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を[[日本ハム]]に売却、事態は収束した。詳細は[[プロ野球再編問題 (1973年)]]を参照。
; 2004年の球界再編問題
2004年には[[大阪近鉄バファローズ]]とオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらに球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した。詳細は[[プロ野球再編問題 (2004年)]]を参照)。
この過程でロッテは当時親会社[[ダイエー]]の経営難から、球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は[[福岡ドーム]]、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案も報じられたが、結局実現には至らなかった。ロッテと[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を合併して「ロッテライオンズ」、ロッテと[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが<ref group="注釈">両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。</ref>、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため、実現しなかった。
結局、同年オフにダイエーは[[産業再生機構]]の支援を受けて経営再建を図ることとなり<ref group="注釈">2015年1月に千葉ロッテの本拠地と同じ[[幕張新都心]]に本社がある[[イオン (企業)|イオン]]の傘下となった。</ref>、ホークスは[[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]に売却されて[[福岡ソフトバンクホークス]]となった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており([[命名権|球団名のスポンサー]]としては1969年から)、2005年現在、パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、[[平和台野球場]]への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。
=== ライオンズとの遺恨 ===
{{Main|ライオンズとオリオンズの遺恨}}
=== 幻となったダイエーへの球団売却構想 ===
ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。1987年に2年前(1985年)の[[阪神タイガース]]優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やす[[物々交換|バーター取引]]、更には[[神戸市]]または[[福岡市]](後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。
しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していた[[南海電気鉄道]]では、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった[[三和銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])に仲介を依頼。その結果、ダイエー社長の[[中内㓛]]は買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data-max.co.jp/article/23551 |title=中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(6)~プロ野球に参入 |accessdate=2019年6月4日 |publisher=NETIB-NEWS(2018年7月4日作成)}}</ref>。オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した<ref>[[新潮社]]「1988年のパ・リーグ」第1章 - 第4章 [[山室寛之]]。2019年7月16日発売。ISBN 9784103527312</ref>。
=== 悪夢の18連敗 ===
{{See also|1998年の千葉ロッテマリーンズ}}
1998年、6月13日から7月8日までの19試合で日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「'''悪夢の18連敗'''」と記されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marines.co.jp/company/history.php |title=チームヒストリー 1998 |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2015-10-26 }}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!試合日!!ビジター!!スコア!!ホーム!!備考!!開催球場!!勝敗!!責任投手
|-
|6月12日||オリックス||1 - 2||'''ロッテ'''||||千葉マリン||○||[[黒木知宏]]
|-
|6月13日||'''オリックス'''||6 - 4||ロッテ||||千葉マリン||●||[[小宮山悟]]
|-
|6月16日||ロッテ||8 - 12||'''近鉄'''||||[[藤井寺球場|藤井寺]]||●||[[竹清剛治]]
|-
|6月17日||ロッテ||6 - 9||'''近鉄'''||||藤井寺||●||[[近藤芳久]]
|-
|6月18日||ロッテ||5 - 7x||'''近鉄'''||延長11回||藤井寺||●||竹清剛治
|-
|6月19日||ロッテ||0 - 7||'''日本ハム'''||||[[東京ドーム]]||●||小宮山悟
|-
|6月20日||ロッテ||2 - 3||'''日本ハム'''||||東京ドーム||●||黒木知宏
|-
|6月21日||ロッテ||10 - 11x||'''日本ハム'''||||東京ドーム||●||黒木知宏
|-
|6月23日||ロッテ||0 - 4||'''西武'''||||[[富山市民球場アルペンスタジアム|富山市民]]||●||[[薮田安彦]]
|-
|6月24日||ロッテ||5 - 6x||'''西武'''||延長11回||富山市民||●||竹清剛治
|-
|6月26日||'''近鉄'''||3 - 1||ロッテ||延長11回||千葉マリン||●||[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]
|-
|6月27日||'''近鉄'''||3 - 1||ロッテ||||千葉マリン||●||[[武藤潤一郎]]
|-
|6月28日||'''近鉄'''||6 - 2||ロッテ||||千葉マリン||●||[[ジョー・クロフォード|クロフォード]]
|-
|6月30日||西武||5 - 5||ロッテ||延長12回||[[福井県営球場|福井県営]]||△||--
|-
|7月1日||'''西武'''||7 - 4||ロッテ||||[[石川県立野球場|石川県立]]||●||[[礒恒之]]
|-
|7月3日||'''ダイエー'''||4 - 3||ロッテ||||千葉マリン||●||小宮山悟
|-
|7月4日||'''ダイエー'''||10 - 7||ロッテ||延長11回||千葉マリン||●||礒恒之
|-
|7月5日||'''ダイエー'''||10 - 3||ロッテ||||千葉マリン||●||クロフォード
|-
|7月7日||ロッテ||3 - 7x||'''オリックス'''||延長12回||[[神戸総合運動公園野球場|GS神戸]]||●||藤田宗一
|-
|7月8日||ロッテ||4 - 6||'''オリックス'''||||GS神戸||●||薮田安彦
|-
|7月9日||'''ロッテ'''||9 - 6||オリックス||||GS神戸||○||小宮山悟
|}
=== 1試合最多得点完封勝利試合 ===
{{main|千葉ロッテマリーンズ 26-0 東北楽天ゴールデンイーグルス}}
2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球を記録し、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の[[渡辺俊介]]が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、[[富山県]]の[[高岡工業専門学校 (旧制)|高岡工業専門学校]]グラウンドでの公式戦で[[福岡ソフトバンクホークス|近畿グレートリング]]が[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]を相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
! !!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
|-
!楽天
|0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-style="background-color: pink;"
!ロッテ
|2||11||1||0||1||4||0||7||x||26
|}
=== 韓国での公式戦開催構想 ===
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から[[大韓民国|韓国]]と[[台湾]]での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、[[釜山広域市|釜山]]の[[社稷野球場|社稷(サジク)野球場]]、[[ソウル特別市|ソウル]]の[[蚕室総合運動場野球場|蚕室(チャムシル)総合運動場野球場]]で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球の[[LGツインズ]]と[[斗山ベアーズ]]の2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である[[仁川広域市|仁川]]の[[文鶴野球場|文鶴(ムナク)野球場]]での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は[[#360度全席自由席|前述]])。
=== 1イニング最多記録を7つ樹立 ===
ロッテは2009年6月11日の対[[広島東洋カープ]]4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の'''太字'''は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・'''1イニング打者20人'''はこれまでの18人を更新する新記録。'''1イニング15得点'''、'''1イニング15打点'''も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の[[井口資仁]]から15人目の[[里崎智也]]まで3四死球を挟んで記録した'''10打数連続安打'''は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後には[[チェイス・ランビン]]と[[今江敏晃]]も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する'''15者連続出塁'''の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。この間、井口からランビンまで記録した'''14連続得点'''も、1992年7月26日に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]21回戦([[神戸総合運動公園野球場|GS神戸]])で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
この回先頭の[[福浦和也]]は2打席目に代走を送られたが、続く[[大松尚逸]]が日本プロ野球史上初の'''1イニング3打席'''を記録した。だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。
結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に[[読売ジャイアンツ]]が対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]6回戦([[東京ドーム]])で、記録した19得点を更新する'''セ・パ交流戦最多得点'''の新記録となり、交流戦初の20得点以上を記録した。
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
! !!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
|-
!広島
|0||2||0||0||0||0||0||0||0||'''2'''
|-style="background-color: pink;"
!ロッテ
|0||2||5||0||0||'''15'''||1||0||x||'''23'''
|}
* ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)
** 福浦 左前安打
** 大松 三飛
** 井口 中前安打
** 橋本将 右前安打 (1)
** サブロー 四球
** 里崎 中前安打 (1)
** ランビン 左前安打 (1)
** 今江 四球 (1)
** 早坂 死球 (1)
** 福浦 右前安打 (1)
** 大松 右二塁打 (2)
** 塀内 右前安打 (2)
** 橋本将 中前安打
** サブロー 中前安打 (1)
** 里崎 中前安打 (1)
** ランビン 死球
** 今江 遊ゴロ失策 (1)
** 田中雅 中犠飛 (1)
** 堀 中前安打 (1)
** 大松 右飛
=== 1イニング最多連続打席安打 ===
ロッテは、2010年6月7日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]4回戦([[明治神宮野球場]])で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに[[南竜介]]の左前安打から連打攻勢がスタートした。代打の[[青野毅]]が中前安打で満塁とすると、[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発・[[村中恭兵]]をKOした。今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて[[金泰均 (1982年生の内野手)|金泰均]]が15号、[[サブロー]]も10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回った[[フアン・ムニス]]が二塁打で出塁すると、里崎も8号2点本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。そして南がこの回2本目の中前安打を放ち、10者連続安打の新記録を達成している。
青野の代打で送られた[[岡田幸文]]が三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。同日、ロッテがこの記録を達成した直後には、オリックスが対広島4回戦([[福山市民球場]])の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
! !!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
|- style="background-color: pink;"
!ロッテ
|0||0||1||0||0||0||'''10'''||3||0||'''14'''
|-
!ヤクルト
|0||0||0||0||2||0||0||0||0||'''2'''
|}
* ロッテ7回表の攻撃(括弧内は得点数)
** ムニス 投ゴロ
** 里崎 四球
** 南 左前安打
** 青野 中前安打
** 西岡 左前安打 (2)
** 今江 中前安打
** 井口 三塁安打 (1)
** 金泰均 左本塁打 (4)
** サブロー 左本塁打 (1)
** ムニス 左中間二塁打
** 里崎 右中間本塁打 (2)
** 南 中前安打
** 岡田 三ゴロ
** 西岡 遊飛
=== 鬼門の仙台 ===
ロッテは宮城県仙台市の[[宮城球場]]での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に[[郡山総合運動場開成山野球場]]で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた<ref group="注釈">ロッテはこの他、[[東京ドーム]]で開催された2010年4月20日の同4回戦でも2-8で敗れている。</ref>。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]が[[後楽園球場]]での対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦で記録した21連敗である。
=== 平日デーゲーム ===
平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の[[1950年代]]までは頻繁に、それ以後も少なくとも[[1980年代]]まではリーグ順位決定後の[[消化試合]]や[[ポストシーズン]]を中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の[[東日本大震災]]発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム<ref>{{Cite web|和書|author=荒木重雄 |date=2011-04-17 |url=http://www.plus-blog.sportsnavi.com/kusaon/article/19 |title=平日デーゲームの集客は昨対比何%だったか? |work=草野球オンライン編集長・荒木重雄の“野球界系” |publisher=SportsNavi |accessdate=2015-10-28 }}</ref> に繰り上げたことがあった<ref group="注釈">なお同様例は巨人と西武(ドームを本拠としているため、天然光だけではボールが見えにくいなどにより開催が困難なため、主管開催の会場変更・開催日程の変更などが生じた)を除く他の在関東球団のホームスタジアムにおける主管試合でも行われた。</ref>。
その3年後の2014年、今度は[[春休み]]のファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初<ref group="注釈">震災前にも、消化試合の日程の関係で、[[ダブルヘッダー]]を含めたデーゲームとなった試合が数例ある。</ref> となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった<ref>{{Cite news |title=ロッテ 今季も本拠地開幕カードで平日デーゲーム実施 |newspaper=スポーツニッポン |date=2015-01-22 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/22/kiji/K20150122009675270.html |accessdate=2015-10-28 }}</ref>。
このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス#平日デーゲーム開催|楽天]]も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている<ref group="注釈">但し楽天の場合、[[仙台市|仙台]]では春先でも夜間は冷えるため開幕当初の平日ナイターは極力避けたいという事情の方が大きい。なお、2015年はこれとは別に、コボスタ花火大会を行うため1試合だけ16時開始の試合を組んでいたが、試合が長引いたため花火大会は後日延期となった。また2016年度は開幕戦・3月25日のソフトバンク戦を16時、4月1日の西武戦を13時開始に設定した。</ref>。ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]と[[埼玉西武ライオンズ|西武]]も後に平日デーゲームを開催する<ref group="注釈">日本ハムは、本拠地が札幌ドーム時代、週末・休日は札幌ドームでの開催を優先したため、地方開催のうち道内にある[[釧路市民球場|釧路]]・[[帯広の森野球場|帯広]]・[[千代台公園野球場|函館]]での主催試合は球場に照明設備がないこともあり平日デーゲームで開催した。西武はファンサービスで4月に平日デーゲームを実施するようになった。</ref>。
=== 50年目で初の黒字決算 ===
球団の親会社であるロッテは、当初は業務提携であったが1969年から球団経営に参画した。詳細は[[#ロッテ時代|前述]]。長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細は[[パシフィック・リーグ]]の項目を参照)球団は毎年赤字決算が続いていた{{refnest |group="注釈" |そのため、球団は親会社から毎年「広告宣伝費」名目で赤字を補填してもらっていた。プロ野球球団は社会の公器でもあることから、親会社としては保有する球団が自社の宣伝媒体と認められれば、球団の赤字を補填する金額分は非課税扱いとされるなど税制上の優遇措置が受けられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/49091?page=3 |title=実態は“松田家”の私有球団…それなのに「広島“東洋”カープ」が「広島“マツダ”カープ」と呼ばれないワケ(3ページ目) |publisher=[[文藝春秋]] |date=2021-10-19 |accessdate=2021-10-20 }}</ref>。 }}ものの、[[2000年代]]に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善していった。2018年は観客動員、グッズ、飲食など全てで過去最高益を更新したことで、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初めて、親会社による補填に頼らず黒字化を果たした<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201812260000753.html |title=ロッテ50年目で初黒字、2億円投じ「戦略部」新設 |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2018-12-27 |accessdate=2018-12-27 }}</ref>。2019年4月15日に公表した第70期決算公告によると、2018年度の純利益額は3億8,513万円、利益剰余金は4億1,767万円であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://verepo.com/chibalotte/ |title=【決算】千葉ロッテマリーンズ、2018年度は3億8513万円の純利益(黒字)を計上 |publisher=Verepo |date=2019-04-25 |accessdate=2019-10-19 }}</ref>。2020年4月15日に公表した第71期決算公告でも、2019年度の純利益額は7億5,536万円、利益剰余金は11億7,303万円となり<ref>{{Cite web|和書|url=http://verepo.com/chibalotte19/ |title=【決算】千葉ロッテマリーンズ、2019年度は7億5536万円の純利益(黒字)を計上 |publisher=Verepo |date=2019-05-11 |accessdate=2020-07-09 }}</ref>、2年連続で黒字となり最高益を更新した。
== 放送 ==
=== テレビ・ラジオ中継 ===
テレビ中継は全てハイビジョン制作
* [[マリーンズナイター (千葉テレビ放送)|マリーンズナイター]]([[千葉テレビ放送|チバテレ]]):千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像(解説・実況はチバテレ制作)
* [[J SPORTS STADIUM]]([[J SPORTS]]):球団公式映像(解説・実況はJ SPORTS制作。かつては千葉マリンスタジアムビジョン制作協力。その後[[エキスプレス (制作プロダクション)|Express]]を経て[[東京フィルム・メート]]が制作協力)2012年で終了
* [[FOXスポーツジャパン]]([[ビーエスFOX|FOX bs238]]・[[FOXチャンネル]]):球団公式映像。2013年から2014年まで
* [[BS12 プロ野球中継]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12トゥエルビ]]):2008年シーズンからTwellVでマリーンズ主催試合(公式戦)の内およそ60試合をハイビジョンで生中継。(チバテレ、J SPORTSと同じ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像。解説・実況は球団制作で、後述の動画中継と同じものだが、独自にビジターチーム応援の副音声を実施)
* [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[テレビ朝日]]・[[BS朝日]]):BS朝日の中継についてはCTCマリーンズナイターの同時中継(2007年まで)、2008年からは上記のBS12トゥエルビでも使われる球団制作の中継を放送。ただし交流戦の対巨人戦ではクレジット上BS朝日・テレビ朝日の自社制作扱いとして、実況・解説・スコア表示と一部映像を自社で差し替える他、2019年以降は対巨人戦以外の試合でも同様に自社での差し替えを実施。
* [[S☆1 BASEBALL]]([[TBSテレビ]]・[[BS-TBS]]・[[TBS NEWS (CS放送)|TBSニュースバード]]):地上波とBS-TBSは実況・解説・スコア表示は自社で用意するが、映像は公式映像も利用するため、制作クレジットは球団とTBSテレビの連名。TBSニュースバードでは2015年から2017年まで後述の動画中継と同じ球団公式映像(スコア表示はTBSテレビに準拠したデザイン)により主催全試合を中継<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-26 |url=http://www.tbs.co.jp/newsbird/lineup/baseball/20141226release.pdf |title=CS放送「TBSニュースバード」でプロ野球千葉ロッテマリーンズ主催公式戦全試合を完全生中継 |publisher=[[TBSテレビ|TBS]] |format=PDF |accessdate=2014-12-26 |deadlinkdate=2017年9月 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141226084344/http://www.tbs.co.jp/newsbird/lineup/baseball/20141226release.pdf |archivedate=2014年12月26日 }}</ref>。
* [[野球道 (フジテレビ系列)|野球道]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[BSフジ]]):年度により放送の有無あり。実況・解説・スコア表示は自社で用意するが、映像は公式映像も利用する。
* [[ALWAYS Baseball]]([[テレビ東京]]・[[BSテレビ東京|BSテレ東]]):年度により放送の有無あり(BS単独時は主に対巨人戦を放送)。実況・解説は自社で用意するが、映像は公式映像も利用するか、完全独自とするかはその時々により異なる。
* [[NHKプロ野球]]([[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]・[[NHK BS1|BS1]]):BS1の中継のみ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像を利用する。
* [[ラジオ日本マリーンズナイター]]([[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]):同局は[[読売新聞グループ]]の一員であり「[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]」を放送していることにも見られるように、通常は[[読売ジャイアンツ]]戦が主である。2018年で自社での放送を中止し、以降は土・日曜の対広島戦デーゲームでは[[中国放送]]「[[RCCカープナイター|Veryカープ! RCCカープデーゲーム中継]]」への裏送りおよび自社制作時の制作協力を実施。
* [[文化放送ライオンズナイター]]([[文化放送]]):自社では対西武戦(主催球団を問わず)を中心に放送。俳優・[[かわのをとや]]をマリーンズ専任リポーターとして起用。2018年以降はTBSラジオの野球中継全国配信撤退および制作業務の縮小により、ロッテ主催試合において、対ソフトバンク戦では[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]「[[RKBエキサイトホークス]]」への、対日本ハム戦では[[HBCラジオ|北海道放送]]「[[HBCファイターズナイター]]」への、対中日戦では[[CBCラジオ]]「[[CBCドラゴンズナイター|CBCラジオ ドラゴンズナイター]]」<ref name="CBC" group="注釈">CBCラジオに加えて、東海ラジオ「[[東海ラジオ ガッツナイター]]」も金 - 日曜日に自社乗り込みを行う場合は、土・日曜でも金曜日に合わせてCBCラジオが文化放送への、ニッポン放送が東海ラジオへの技術協力を行うことが多い。</ref> への同時ネットまたは裏送り、自社制作時の制作協力を原則として平日に実施。
* [[ニッポン放送ショウアップナイター]]([[ニッポン放送]]):平日開催時にNRN全国ネットとなることが多い対巨人戦を除き、はNRN系列局への裏送りと素材収録待機を兼ねた予備カードが中心。2018年以降は上述の理由により、NRN全国中継担当とならない土・日曜日にRKB毎日放送・北海道放送・CBCラジオ<ref name="CBC" group="注釈" /> への裏送りおよび制作協力を実施。
* [[DRAMATIC BASEBALL]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[BS日本|BS日テレ]]・[[日テレNEWS24]]・[[日テレジータス]]):2018年シーズンから日テレNEWS24により主催試合を中継<ref group="注釈">編成上の都合により録画放送となり、生放送については[[スカチャン]]で迂回放送することがある。</ref>。BS日テレでも2018年は数試合をBS12トゥエルビ・後述の動画中継同様球団制作で放送したが、2019年は日程の都合上7月までの時点では巨人主催の交流戦(日本テレビ制作)のみ放送<ref group="注釈">1970年から1972年まで日本テレビで解説者を務めた[[金田正一]]がロッテの監督に就任した1973年以降は、週末デーゲームを中心に中継を増加させ、時折全国中継も実施したが、千葉移転以後徐々に減少し、2010年代以降はビジター側地元系列局への技術協力による放送のみとなっていた。</ref>。交流戦のロッテ主催の対巨人戦では、日テレNEWS24と日テレジータスと並列で生放送する際、前者は球団制作のものをそのまま放送し、後者は日本テレビが別に自社のアナウンサーと解説者を用意して、巨人側の視点を中心とした内容で放送する。
* [[パ・リーグ応援宣言!ホークス中継]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]):2022年シーズンに一部の土・日曜の対ソフトバンク戦デーゲームにおいて生中継を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://s.mxtv.jp/bangumi/program.html?date=20220507&ch=2&hm=1400 |title=プロ野球 パ・リーグ応援宣言!ホークス中継2022 「千葉ロッテマリーンズ×福岡ソフトバンクホークス」~ZOZOマリンスタジアム |access-date=2022-09-10 |date=2022-05-07 |website=TOKYO MX}}</ref>。
* よしもとBASEBALL LIVE 2022([[BSよしもと]])<ref>{{Cite web|和書|title=【よしもとBASEBALL LIVE 2022】千葉ロッテマリーンズ VS オリックス・バファローズ |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001686.000029501.html |website=PR TIMES |access-date=2022-08-31 |date=2022-08-26 |author=吉本興業株式会社}}</ref>
* プロ野球中継([[BSJapanext]])<ref>{{Cite web|和書|title=生中継決定!9/15(木)プロ野球「千葉ロッテマリーンズvs埼玉西武ライオンズ」 |url=https://www.bsjapanext.co.jp/20220909-01/ |website=株式会社ジャパネットブロードキャスティング |access-date=2022-09-10 |date=2022-09-09}}</ref>
* BS松竹東急ベースボールシアター([[BS松竹東急]]):2023年シーズンに一部の対オリックス・バファローズ戦の生中継を行う予定<ref>{{Cite web|和書|title=オリックス・バファローズ本拠地開幕3連戦ほか公式戦20試合を生中継! |url=https://www.shochiku-tokyu.co.jp/notice/10889/ |website=株式会社BS松竹東急 |access-date=2023-04-03 |date=2023-04-03}}</ref>。
; 東京球場・ジプシー・川崎球場時代
* [[CTCダイナミックナイター]](千葉テレビ。東京球場時代。1971年5月1日開局の事実上第1号番組は東京球場でのロッテ対東映戦のデーゲーム生放送だった)
* [[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE|TVKハイアップ・ナイター(パ・リーグナイター)]]([[テレビ神奈川]]。宮城を主戦場としたジプシー時代と川崎球場時代)<ref group="注釈">不定期。テレビ神奈川が担当する大洋(DeNA)、ヤクルトの試合放送がない時に行っていたが、巨人主催試合との重複開催である場合、18時台と21時前からは日本テレビとのリレーナイターをしていたため、ネット局があればその時間は裏送りだった。</ref>
* [[TVSヒットナイター]]([[テレビ埼玉]]。川崎を本拠とした時代に年間数試合放送<ref group="注釈">テレビ埼玉は基本的に西武に絡む試合(西武主管は[[TBSビジョン]]との提携で「[[TVSライオンズアワー]]」として放送)、または後楽園・東京ドームで行われた日本ハムの主管試合([[東京ケーブルネットワーク]]と提携)をメインとして編成したため、ロッテがビジター扱いとなる西武・日本ハム主催試合の中継で多数登場しているが、西武・日本ハムの試合中継がないか、どちらかがロッテとのビジターゲームとなり、かつテレビ神奈川が大洋・ヤクルトの試合中継と重複して放送に空きがなかった時に、テレビ埼玉が川崎球場や平和台球場などの地方球場に乗り込んで試合を放送した事例が何度かあった。</ref>)
* [[TBCパワフルベースボール|TBCダイナミックナイター]]([[東北放送]]ラジオ。ジプシー時代、及び川崎球場を本拠としたあとも準本拠として使用していた時代)
; 応援番組(いずれも[[文化放送]]のワイド番組で長く放送していたが2017年4月改編を境に応援番組は終了している{{Refnest|group="注釈"|なお、文化放送ライオンズナイターでの対ロッテ戦におけるベンチサイドリポーターであるマリーンズ熱血応援レポーター・かわのをとやの起用は継続している。}}。)
* [[くにまるジャパン]]
* [[千田正穂のありがとう!]]→[[高田純次 日曜テキトォールノ]]
=== インターネット中継 ===
[[パシフィック・リーグ]]は[[セントラル・リーグ]]の球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や[[インターネットテレビ|動画配信]]が非常に盛んであり、IT系の資本である[[福岡ソフトバンクホークス]]や[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]はもちろん、[[北海道日本ハムファイターズ]]も2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団がさまざまな形で主催試合を[[ネット配信|インターネット配信]]している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビ[[GYAO!#GyaO|GyaO]](ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た。GyaOは日本国外の視聴不可である。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信における[[ポータルサイト]]としての性格が強く、6種類の[[コンテンツ]]をテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。[[東日本電信電話|NTT東日本]]のインターネット接続サービス「[[フレッツ]]」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
2015年からCS放送の配信先が[[TBSテレビ]]運営の[[TBSニュースバード]]に変更されたが、TBSテレビは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコア表示のフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
=== ロッテレビ ===
[[ジェイコム千葉セントラル|J:COM 千葉セントラル]]制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内の[[ジュピターテレコム|J:COMグループ]]の[[ケーブルテレビ局]]の[[J:COMチャンネル]](コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「'''ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜'''」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「'''マリーンズ狂'''」を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。ゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
=== マリーンズ・ベースボール・アカデミー ===
{{Main|マリーンズ・ベースボール・アカデミー}}
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、[[少年野球]]向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日から[[フジテレビジョン]]にて[[東京ヤクルトスワローズ]]が制作協力にあたっている「[[スワローズキッズアカデミー]]」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている[[武藤一邦]]・[[高沢秀昭]]・[[園川一美]]・[[平井光親]]の他、現役のロッテ選手も登場を予定している<ref>{{Cite web|和書|date=2010-03-02 |url=http://www.marines.co.jp/news/detail/4188.html |title=テレビ野球教室番組『マリーンズ・ベースボール・アカデミー』放送開始のお知らせ |publisher=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2010-03-05 }}</ref>。司会進行は[[庄司こなつ]]が担当している。
=== エリア放送 ===
[[2012年]][[9月21日]]と[[9月22日]]に[[千葉マリンスタジアム|QVCマリンフィールド]]にて[[ホワイトスペース (電波)|ホワイトスペース]]を利用する[[ワンセグ]]型[[エリア放送]]が実施された<ref>{{Wayback|url=www.marines.co.jp/news/detail/10090.html|title=9/21(金)22(土)QVCマリンにてワンセグ型エリア放送を試験実施|千葉ロッテマリーンズ|date=20200923084605}}</ref>。
会場内に[[地上一般放送局]]1局が設置されていた<ref>{{WAP|pid=4002126|url=www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/bc/eria/index.html|title=エリア放送を行う地上一般放送局の免許状況(関東総合通信局)|date=2012年11月15日}}</ref>。
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![[免許人]]!!局名!![[日本の呼出符号|呼出符号]]!![[テレビ周波数チャンネル|物理ch]]!![[電波の周波数による分類|周波数]]!![[空中線電力]]!![[実効輻射電力|ERP]]!![[一般放送事業者#業務区域|業務区域]]
|-
|株式会社<br>千葉ロッテマリーンズ
|マリーンズ<br>エリア放送
|JOXZ3AM-AREA
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|QVCマリンフィールド<br>スタンド内
|}
== ミュージアム ==
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。[[千葉マリンスタジアム#施設概要]]を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連文献 ==
* {{Cite book |和書
|author= 宇佐美徹也|authorlink=宇佐美徹也
|title = 日本プロ野球記録大鑑
|publisher = [[講談社]]
|year = 1993
|isbn = 4062061082
|ref = harv
}}
* {{Cite book |和書
|author= 井上章一|authorlink=井上章一
|title = 阪神タイガースの正体
|publisher = [[太田出版]]
|year = 2001
|isbn = 4872335651
|ref = harv
}}
* {{Cite book |和書
|author1=永井良和|authorlink1=永井良和 (社会学者)|author2=橋爪紳也|authorlink2=橋爪紳也|title = 南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史
|publisher = [[紀伊國屋書店]]
|year = 2003
|isbn = 4314009470
|ref = harv
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Chiba Lotte Marines}}
* [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]]
* [[千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧]]
* [[ロッテ・ジャイアンツ]](韓国のプロ野球球団)
* [[淑徳大学]] - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
* [[千葉日報]]・[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]] - 応援をしている地元マスコミ。
* [[スポーツニッポン]] - [[毎日新聞社]]がかつてオーナー企業だった関係で、祝勝紙面を提供する。
* [[千葉ロッテマリーンズの応援団]]
* [[千葉商科大学]] - サービス創造学部の公式サポーター企業
* [[アストロ球団]] - 漫画作品。アストロ球場のフランチャイズ権(1年間)を賭けて、金田正一監督率いるロッテがアストロ球団と対戦。
* [[アストロ球団 (テレビドラマ)]] - 上記のテレビドラマ版。
* [[マリーンズマスク]] - 球団をモチーフとした[[覆面レスラー]]。千葉県を活動拠点とする[[KAIENTAI DOJO]]に所属している。
* [[浦安鉄筋家族]] - 梅星涙と梅星球道(涙の父)が応援する千葉ロッテマリーンズのトレンドが漫画に現れる。
* [[弁当の呪い]]
* [[柴田柚菜]] - [[乃木坂46]]のメンバー。小学生の時にマリーンズ・ダンスアカデミー生徒としてチアリーダーをしていた。
* [[川崎フロンターレ]] - かつての本拠地川崎市をホームタウンとするJリーグクラブで、ロッテもパートナーのひとつとして参加している。
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
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出版取次
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出版取次(しゅっぱん とりつぎ)とは、出版とその関連業界で、出版社と書店の間をつなぐ流通業者を指す言葉。単に取次とも。
取次と書店との関係は、卸売問屋と小売店の関係に当たるが、委託販売制度により、書店が在庫管理を考えなくて済むのが、他の業種との大きな違いである。
20世紀の出版業は、他業界に比して取り扱う商品の種類が極端に多く、出版社や書店は多数の個別取引や商品管理の煩雑を抱えることになった、また書店は、雑誌などの商品が売れ残った場合の損失リスクが大きかった。このため、日本の出版流通は取次主導型の体制により、取引の仲介、配本・返品の管理、代金回収などを一手に引き受けるほか、取次が出版社と書店の仲に入って信用保証を行うことにより、再販売価格維持、委託販売制度といった日本独自の業界制度を実質的に維持する役割を担った。
また、雑誌、新刊本、人気本などで書店の仕入れ希望数合計が発行部数よりも多くなることもある書籍は、取次が一元的に各書店への配本数を調整し、全国に安定して配本する役割を果たした。
また、必要に応じて、書店に対して品揃えの調整・販売促進イベントやフェアの実施の助言をしたり、出版社に市況に合った書籍の助言をしたりするなど、コンサルティング機能を担うこともあった。
また、書店への代金回収の繰り延べや出版社への委託販売代金の見込払いといった、実質的な金融機能を担うこともあった。
一方で、中小出版社や書店も多い書籍関連業界において安定した流通を維持するためには、取次により徹底管理された護送船団方式的な横並びシステムとならざるを得ない面もあった。21世紀に入り、オンライン書店の台頭や電子書籍の普及といった情報革命が書籍関連業界に及んでも、中小出版社・書店での流通システム面でのイノベーションによる対応は緩慢であった。
取次は出版社や書店に対してパターナリズム的な支配関係を維持していたため、時には書店側の意向や公正な取引慣行を無視した要求が批判・摘発されることもある。平成10年2月25日には書籍流通システムの更新費用の負担を書店に強要したとして、出版取次大手の日本出版販売およびトーハンが公正取引委員会から警告を受けている。
出版社、小売書店の両サイドで、取次を介さない相互の直接取引を増やすことを志向する企業がある。出版社ではディスカヴァー・トゥエンティワンやトランスビューなど。 小売ではアマゾンジャパンや丸善ジュンク堂書店などである。
大手出版社ではKADOKAWAが自社から直接書店に配送する会社の設立を予定、講談社でもアマゾンジャパンと取次を介さない直接取引を開始した。
明治の初めは出版社や書店が取次を兼業していたが、雑誌販売の増加にともなって専業取次が現われる。
大正時代には雑誌・書籍を取り扱う大取次、書籍を地方まで運ぶ中取次、市内の書店を小刻みに取り次ぐ小取次や、せどりやなどへと分化しており、その数も全国で300社余りもあった。
1941年、太平洋戦争(第二次世界大戦)に伴う戦時統制の一環として全国の取次が強制的に解散させられ、日本出版配給(日配)に統合された。この時点で、それまでの取次はほとんど消滅した。戦後の1949年に日配は解体され、現在も続く取次会社の多くがこの頃に創業している。
取引形態は当初は買い切り、値引き販売が基本だった。
という流れを経て、書籍・雑誌流通の一体化、返品制、定価販売(再販売価格維持制度)という現在の方式に移行している。この方式は大量生産、大量流通を可能にした。これ以後、日本の経済発展に合わせて出版も規模を拡大、取次も成長していく。
ところが定価販売制の元では価格競争が起こらず、流通システムの効率化がなかなか進まなかった。その結果が書店の過剰出店や返品の増加となって現われ、近年の出版不況とあいまって、書店や出版社だけでなく取次をも苦しめている。
こうした状況を打破するための取り組みも行われている。1990年には須坂共同倉庫構想(須坂ジャパンブックセンター計画)が持ち上がり、2005年には日販ほか取次数社による出版共同流通や、トーハンの桶川計画(トーハン桶川SCMセンター)が始まっている。
1990年代以降は電子書籍発行の試みが積極的に行われ、また2000年代には携帯電話(フィーチャーフォン)向け携帯コミック配信サイトが多数開設されたことによって、コンテンツ調達の問題が発生したため、2006年10月には凸版印刷から分社したビットウェイ(現 出版デジタル機構)により電子書籍専門の取次が開始された。
2013年以降、インターネット・コンテンツの台頭に伴う出版売上減、書店数激減により、トーハンと日販の寡占化が加速。業界3位の大阪屋が楽天や大日本印刷や大手出版社の資本参加により経営立て直しを計る。
2015年6月 当時業界4位だった栗田出版販売が東京地方裁判所に民事再生法適用を申請。
2016年2月5日 栗田出版販売に次ぐ存在とされていた太洋社が自主廃業を発表。取引書店を別取次会社に帳合変更してもらうことで書店への影響解消をめざすとしたが、2月11日には友朋堂吾妻店(茨城県つくば市)が、同月14日にはコミック専門店ひょうたん書店(鹿児島市)が閉店し、書店側は太洋社の廃業が理由と表明した。3月15日、太洋社は自主廃業を断念し、東京地方裁判所に破産を申請した。
戦後日本の取次会社数は100社あまりと推定されていたが、業界団体である日本出版取次協会の加盟会社数は2019年9月時点で19社 であり、減少傾向にある。
このうち2社でシェアの70%以上を占めるといわれるトーハンと日販が二大取次と呼ばれる。また、出版社や書店、古書店が集積する東京の神田神保町とその周辺に中小取次が集中しており、これを通称神田村という。
総合取次(あらゆる分野の出版物を扱う取次)
専門取次(特定分野の出版物を扱う取次)
新聞、特にスポーツ新聞の即売(俗に言う「スタンド売り」「駅売り」。「宅配」の対義語)流通から発祥し、私鉄駅売店やコンビニエンスストアなどいわゆる書店以外への新聞・雑誌・書籍流通を主とする取次会社は特に即売と呼ばれる。
首都圏においては主要4社(たきやま、東都春陽堂、東京即売、啓徳社)が寡占しており、「即売4社」「4即」とまとめて呼称される場合もある。
首都圏以外では、関西ではやはり主要4社(新販、近販、かんそく、大読社)がそれらを担っている。東海地区においてはスポットセール中部という即売会社がやはり、新聞流通及び精算・帳合を行っている。
なおJR各社の駅キヨスク関連売店への流通は鉄道弘済会が独占的に担っていたが、コンビニエンスストアへの売店の移行などもあり売上は減少していた。2018年10月には鉄道弘済会が同業務から撤退しトーハンが引き継いでいる。
学校などには地域の書店のほか、日教販を通して書籍が流通する。
公共図書館へは、地域の書店のほか、日本図書館協会から分離した図書館流通センター(TRC)を通じて書籍が流通する。
大学や職場、地域などの各生活協同組合や通信販売などを通じて、消費者に直接販売されるルートもある。
出版社から預かった電子書籍データを、販売サイトの仕様に合うように加工・編集(ファイル形式の変更・画像サイズの調整・書誌情報の追加・アダルト漫画のぼかしの追加など)し、販売サイトに供給し、売り上げの集金・出版社への支払いを代行している。電子書籍取次は従来の取次と競合する関係にあるため、ほとんどは大手印刷会社や大手・中堅出版社の出資によって設立されている。
なお出版物の電子書籍化作業・書店営業の受託、販売サイトのバックエンドシステムの提供や、会社設立時の経緯から電子書籍販売サイトを自社運営している企業もある。
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"text": "という流れを経て、書籍・雑誌流通の一体化、返品制、定価販売(再販売価格維持制度)という現在の方式に移行している。この方式は大量生産、大量流通を可能にした。これ以後、日本の経済発展に合わせて出版も規模を拡大、取次も成長していく。",
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"text": "ところが定価販売制の元では価格競争が起こらず、流通システムの効率化がなかなか進まなかった。その結果が書店の過剰出店や返品の増加となって現われ、近年の出版不況とあいまって、書店や出版社だけでなく取次をも苦しめている。",
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"text": "こうした状況を打破するための取り組みも行われている。1990年には須坂共同倉庫構想(須坂ジャパンブックセンター計画)が持ち上がり、2005年には日販ほか取次数社による出版共同流通や、トーハンの桶川計画(トーハン桶川SCMセンター)が始まっている。",
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"text": "1990年代以降は電子書籍発行の試みが積極的に行われ、また2000年代には携帯電話(フィーチャーフォン)向け携帯コミック配信サイトが多数開設されたことによって、コンテンツ調達の問題が発生したため、2006年10月には凸版印刷から分社したビットウェイ(現 出版デジタル機構)により電子書籍専門の取次が開始された。",
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"text": "2013年以降、インターネット・コンテンツの台頭に伴う出版売上減、書店数激減により、トーハンと日販の寡占化が加速。業界3位の大阪屋が楽天や大日本印刷や大手出版社の資本参加により経営立て直しを計る。",
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"text": "2016年2月5日 栗田出版販売に次ぐ存在とされていた太洋社が自主廃業を発表。取引書店を別取次会社に帳合変更してもらうことで書店への影響解消をめざすとしたが、2月11日には友朋堂吾妻店(茨城県つくば市)が、同月14日にはコミック専門店ひょうたん書店(鹿児島市)が閉店し、書店側は太洋社の廃業が理由と表明した。3月15日、太洋社は自主廃業を断念し、東京地方裁判所に破産を申請した。",
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"text": "戦後日本の取次会社数は100社あまりと推定されていたが、業界団体である日本出版取次協会の加盟会社数は2019年9月時点で19社 であり、減少傾向にある。",
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"text": "このうち2社でシェアの70%以上を占めるといわれるトーハンと日販が二大取次と呼ばれる。また、出版社や書店、古書店が集積する東京の神田神保町とその周辺に中小取次が集中しており、これを通称神田村という。",
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"text": "総合取次(あらゆる分野の出版物を扱う取次)",
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"text": "専門取次(特定分野の出版物を扱う取次)",
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"text": "新聞、特にスポーツ新聞の即売(俗に言う「スタンド売り」「駅売り」。「宅配」の対義語)流通から発祥し、私鉄駅売店やコンビニエンスストアなどいわゆる書店以外への新聞・雑誌・書籍流通を主とする取次会社は特に即売と呼ばれる。",
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"text": "首都圏においては主要4社(たきやま、東都春陽堂、東京即売、啓徳社)が寡占しており、「即売4社」「4即」とまとめて呼称される場合もある。",
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"text": "首都圏以外では、関西ではやはり主要4社(新販、近販、かんそく、大読社)がそれらを担っている。東海地区においてはスポットセール中部という即売会社がやはり、新聞流通及び精算・帳合を行っている。",
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"text": "なおJR各社の駅キヨスク関連売店への流通は鉄道弘済会が独占的に担っていたが、コンビニエンスストアへの売店の移行などもあり売上は減少していた。2018年10月には鉄道弘済会が同業務から撤退しトーハンが引き継いでいる。",
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"text": "学校などには地域の書店のほか、日教販を通して書籍が流通する。",
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"text": "公共図書館へは、地域の書店のほか、日本図書館協会から分離した図書館流通センター(TRC)を通じて書籍が流通する。",
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"text": "大学や職場、地域などの各生活協同組合や通信販売などを通じて、消費者に直接販売されるルートもある。",
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"text": "出版社から預かった電子書籍データを、販売サイトの仕様に合うように加工・編集(ファイル形式の変更・画像サイズの調整・書誌情報の追加・アダルト漫画のぼかしの追加など)し、販売サイトに供給し、売り上げの集金・出版社への支払いを代行している。電子書籍取次は従来の取次と競合する関係にあるため、ほとんどは大手印刷会社や大手・中堅出版社の出資によって設立されている。",
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"text": "なお出版物の電子書籍化作業・書店営業の受託、販売サイトのバックエンドシステムの提供や、会社設立時の経緯から電子書籍販売サイトを自社運営している企業もある。",
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] |
出版取次とは、出版とその関連業界で、出版社と書店の間をつなぐ流通業者を指す言葉。単に取次とも。 取次と書店との関係は、卸売問屋と小売店の関係に当たるが、委託販売制度により、書店が在庫管理を考えなくて済むのが、他の業種との大きな違いである。
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'''出版取次'''(しゅっぱん とりつぎ)とは、[[出版]]とその関連業界で、[[出版社]]と[[書店]]の間をつなぐ[[流通]]業者を指す言葉。単に'''取次'''とも。
取次と書店との関係は、[[卸売]]問屋と[[小売]]店の関係に当たるが、[[委託販売]]制度により、書店が[[在庫]]管理を考えなくて済むのが、他の業種との大きな違いである。
== 機能 ==
20世紀の出版業は、他業界に比して取り扱う商品の種類が極端に多く、出版社や書店は多数の個別取引や商品管理の煩雑を抱えることになった、また書店は、[[雑誌]]などの商品が売れ残った場合の損失リスクが大きかった。このため、日本の出版流通は取次主導型の体制により、取引の仲介、配本・[[本の返品率|返品]]の管理、代金回収などを一手に引き受けるほか、取次が出版社と書店の仲に入って信用保証を行うことにより、[[再販売価格維持]]、委託販売制度といった日本独自の業界制度を実質的に維持する役割を担った。
また、雑誌、新刊本、人気本などで書店の仕入れ希望数合計が発行部数よりも多くなることもある書籍は、取次が一元的に各書店への配本数を調整し、全国に安定して配本する役割を果たした。
また、必要に応じて、書店に対して品揃えの調整・販売促進イベントやフェアの実施の助言をしたり、出版社に市況に合った書籍の助言をしたりするなど、[[コンサルティング]]機能を担うこともあった。
また、書店への代金回収の繰り延べや出版社への委託販売代金の見込払いといった、実質的な[[金融]]機能を担うこともあった。
一方で、中小出版社や書店も多い書籍関連業界において安定した流通を維持するためには、取次により徹底管理された[[護送船団方式]]的な横並びシステムとならざるを得ない面もあった。21世紀に入り、[[オンライン書店]]の台頭や[[電子書籍]]の普及といった[[情報革命]]が書籍関連業界に及んでも、中小出版社・書店での流通システム面での[[イノベーション]]による対応は緩慢であった。
取次は出版社や書店に対して[[パターナリズム]]的な支配関係を維持していたため、時には書店側の意向や公正な取引慣行を無視した要求が批判・摘発されることもある。平成10年2月25日には書籍流通システムの更新費用の負担を書店に強要したとして、出版取次大手の[[日本出版販売]]および[[トーハン]]が[[公正取引委員会]]から警告を受けている<ref>{{Cite web|和書|author=公正取引委員会 |url=https://www.jftc.go.jp/info/nenpou/h09/top_h09.html |title=平成9年度 公正取引委員会年次報告 |publisher=公正取引委員会 |accessdate=2021-09-16}}</ref>。
出版社、小売書店の両サイドで、取次を介さない相互の直接取引を増やすことを志向する企業がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=講談社とアマゾン、直接取引を開始へ 「異例の事態」に衝撃広がる:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP9J4V2RP9FUTIL02Q.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-09-19|language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=講談社とアマゾン、「異例」直接取引の背景は 待ったなしの流通改革:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP9J5CJVP8NUTIL051.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-09-19|language=ja}}</ref>。出版社では[[ディスカヴァー・トゥエンティワン]]や[[トランスビュー]]など<ref>「書店と直接取引」存在感/出版不況の中、地道な営業奏功/ディスカヴァー・全国5000店をカバー/トランスビュー・2500店と、配送代行も『[[日経MJ]]』2018年4月13日(ライフスタイル面)</ref>。 小売では[[Amazon.co.jp|アマゾンジャパン]]や丸善[[ジュンク堂書店]]などである<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO25048500V21C17A2TJ1000/ 17年出版市場 減少幅最大に/書店、生き残りへ再編/丸善ジュンク堂 直接取引を開始]『日本経済新聞』朝刊2017年12月26日</ref>。
大手出版社では[[KADOKAWA]]が自社から直接書店に配送する会社の設立を予定<ref name=":1" />、[[講談社]]でも[[Amazon.co.jp|アマゾンジャパン]]と取次を介さない直接取引を開始した<ref name=":0" />。
== 歴史 ==
明治の初めは出版社や書店が取次を兼業していたが、雑誌販売の増加にともなって専業取次が現われる。
[[大正時代]]には雑誌・書籍を取り扱う大取次、書籍を地方まで運ぶ中取次、市内の書店を小刻みに取り次ぐ小取次や、[[せどり|せどりや]]などへと分化しており、その数も全国で300社余りもあった。
1941年、[[太平洋戦争]]([[第二次世界大戦]])に伴う[[戦時体制|戦時統制]]の一環として全国の取次が強制的に解散させられ、[[日本出版配給]](日配)に統合された。この時点で、それまでの取次はほとんど消滅した。戦後の1949年に日配は解体され、現在も続く取次会社の多くがこの頃に創業している。
取引形態は当初は買い切り、値引き販売が基本だった。
* 1909年 - [[実業之日本社]]が雑誌の返品制([[委託販売]]制)を初めて採用して成功を収め、以後他社も追随して雑誌の返品制が確立する。
* 1919年 - 東京書籍商組合が定価販売制を導入。
* 1926年 - [[円本]]時代始まる。書籍の大量流通が始まって雑誌流通と一体化、書籍の返品制が始まる。
* 1953年 - [[再販売価格維持|再販制度]]制定。
<!--
* 1954年 地方定価廃止
* 1959年 書協と取協の間で運賃を原価に繰り入れる(全国均一書籍運賃込み正味制)が取り決められる。
-->
という流れを経て、書籍・雑誌流通の一体化、返品制、[[定価]]販売([[再販売価格維持]]制度)という現在の方式に移行している。この方式は大量生産、大量流通を可能にした。これ以後、日本の経済発展に合わせて出版も規模を拡大、取次も成長していく。
ところが定価販売制の元では価格競争が起こらず、流通システムの効率化がなかなか進まなかった。その結果が書店の過剰出店や返品の増加となって現われ、近年の[[出版不況]]とあいまって、書店や出版社だけでなく取次をも苦しめている。
こうした状況を打破するための取り組みも行われている。1990年には須坂共同倉庫構想(須坂[[ジャパンブックセンター]]計画)が持ち上がり、2005年には日販ほか取次数社による[[出版共同流通]]や、[[トーハン]]の[[桶川市|桶川]]計画(トーハン桶川SCMセンター<ref>[https://www.tohan.jp/works/distribution/ssystem_01.html トーハン桶川SCMセンター](2018年5月11日閲覧)</ref>)が始まっている。
1990年代以降は[[電子書籍]]発行の試みが積極的に行われ、また2000年代には携帯電話([[フィーチャーフォン]])向け[[携帯コミック]]配信サイトが多数開設されたことによって、コンテンツ調達の問題が発生したため、2006年10月には[[凸版印刷]]から分社した[[ビットウェイ]](現 [[出版デジタル機構]])により電子書籍専門の取次が開始された<ref>{{Cite press release |和書 |title = 会社設立 |publisher = 株式会社BookLive |date = 2011-01-28 |url = https://www.booklive.co.jp/release/2011/01/281814.html |accessdate = 2016-06-06 }}</ref>。
2013年以降、インターネット・コンテンツの台頭に伴う出版売上減、書店数激減により、トーハンと日販の寡占化が加速。業界3位の[[大阪屋]]が[[楽天グループ|楽天]]や[[大日本印刷]]や大手[[出版社]]の資本参加により経営立て直しを計る<ref name="kinyoubi20160219">{{Cite journal |和書 |author=岩本太郎 |title=メディア一撃 草の根www.第290回 中堅の取次「太洋社」が「自主廃業」表明 憂慮される出版業界 |date=2016-02-19 |publisher=株式会社金曜日 |journal=週刊金曜日 |volume=1076 |pages=38-39 |accessdate=2017-04-27 }}</ref><ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/52895 楽天が出版取次「大阪屋」に出資する事情] 東洋経済オンライン 2014年11月09日</ref>。
2015年6月 当時業界4位だった[[栗田出版販売]]が[[東京地方裁判所]]に[[民事再生法]]適用を申請<ref name="kinyoubi20160219" />。
2016年2月5日 栗田出版販売に次ぐ存在とされていた[[太洋社 (出版取次)|太洋社]]が自主廃業を発表。取引書店を別取次会社に帳合変更してもらうことで書店への影響解消をめざすとしたが、2月11日には友朋堂吾妻店(茨城県[[つくば市]])が、同月14日にはコミック専門店ひょうたん書店([[鹿児島市]])が閉店し、書店側は太洋社の廃業が理由と表明した<ref name="kinyoubi20160219" />。3月15日、太洋社は自主廃業を断念し、東京地方裁判所に破産を申請した。<ref>[http://www.shinbunka.co.jp/news2016/03/160315-01.htm 太洋社、破産手続き開始決定受ける]-[[新文化]],2016年3月15日</ref>
== 主な出版取次会社 ==
戦後日本の取次会社数は100社あまりと推定されていたが、業界団体である[[日本出版取次協会]]の加盟会社数は2019年9月時点で19社<ref>{{Cite web|和書|title=日本出版取次協会|取協概況|会員名簿|url=http://www.torikyo.jp/gaiyo/kaiin.html|website=www.torikyo.jp|accessdate=2019-09-28}}</ref> であり、減少傾向にある。
このうち2社でシェアの70%以上を占めるといわれるトーハンと日販が二大取次と呼ばれる。また、出版社や書店、[[古書店]]が集積する東京の[[神田神保町]]とその周辺に中小取次が集中しており、これを通称'''[[神田村]]'''という。
総合取次(あらゆる分野の出版物を扱う取次)
* '''[[日本出版販売]]'''('''日販''')(業界最大手。日本出版配給が母体)
* '''[[トーハン]]'''(旧:東京出版販売)(業界第2位。日本出版配給が母体)
** 協和出版販売(非連結子会社<ref>[http://www.tohan.jp/news/20150216_339.html 協和出版販売株式会社との資本・業務提携に関するお知らせ] トーハンニュースリリース 2015年2月16日</ref>)
* [[楽天ブックスネットワーク]](業界第3位。旧社名は大阪屋栗田)
* [[中央社 (出版取次)|中央社]](トーハンと物流業務の協業)
専門取次(特定分野の出版物を扱う取次)
* 日教販(教科書・学習参考書)
* 共栄図書(教科書・学習参考書)
* 中央本社(教科書・学習参考書)
* 鍬谷書店(医書・看護書を中心に自然科学書)
* 西村書店(自然科学書)
* [[JRC (出版取次)|JRC]](人文書・社会科学書)
* 八木書店(文学・歴史・人文書)
* [[ツバメ出版流通]](文学・思想・芸術書)
* 大学図書(法律書)
* 全国官報販売協同組合(政府刊行物)
* 東京官書普及(政府刊行物)
* [[文苑堂 (出版社)|文苑堂]](コミック・ゲーム攻略本等)
* [[地方・小出版流通センター]](総合取次不扱の地方出版社・小出版社の刊行書)
* 松沢書店(楽譜・音楽書)
* 大阪村上楽器(楽譜・音楽書)
* 子どもの文化普及協会(児童書等)
=== 書店以外対象 ===
====駅・コンビニ====
新聞、特に[[スポーツ新聞]]の即売(俗に言う「スタンド売り」「駅売り」。「宅配」の対義語)流通から発祥し、私鉄駅売店や[[コンビニエンスストア]]などいわゆる書店以外への新聞・雑誌・書籍流通を主とする取次会社は特に'''即売'''と呼ばれる。
[[首都圏 (日本)|首都圏]]においては主要4社(たきやま、東都春陽堂、東京即売、啓徳社)が寡占しており、「即売4社」「4即」とまとめて呼称される場合もある。
首都圏以外では、[[関西]]ではやはり主要4社(新販、近販、かんそく、大読社)がそれらを担っている。東海地区においてはスポットセール中部という即売会社がやはり、新聞流通及び精算・帳合を行っている。
なお[[JR]]各社の[[鉄道駅|駅]][[キヨスク]]関連売店への流通は[[鉄道弘済会]]が独占的に担っていたが、[[コンビニエンスストア]]への売店の移行などもあり売上は減少していた。2018年10月には[[鉄道弘済会]]が同業務から撤退し[[トーハン]]が引き継いでいる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34710470Y8A820C1000000/ キヨスク雑誌消滅の危機 売上高9割減で卸が撤退] 日本経済新聞 電子版2018年8月29日</ref>。
====教育機関====
学校などには地域の書店のほか、[[日教販]]を通して書籍が流通する。
====図書館====
公共図書館へは、地域の書店のほか、[[日本図書館協会]]から分離した[[図書館流通センター]](TRC)を通じて書籍が流通する。
====生協・直販====
大学や職場、地域などの各[[生活協同組合]]や通信販売などを通じて、消費者に直接販売されるルートもある。
===電子書籍取次===
出版社から預かった[[電子書籍]]データを、販売サイトの仕様に合うように加工・編集(ファイル形式の変更・画像サイズの調整・書誌情報の追加・アダルト漫画のぼかしの追加など)し、販売サイトに供給し、売り上げの集金・出版社への支払いを代行している。電子書籍取次は従来の取次と競合する関係にあるため、ほとんどは大手印刷会社や大手・中堅出版社の出資によって設立されている。
なお出版物の電子書籍化作業・書店営業の受託、販売サイトのバックエンドシステムの提供や<ref>「2.5.2 電子書籍における取次事業の展開」『[https://current.ndl.go.jp/report/no11 図書館調査研究リポートNo.11 電子書籍の流通・利用・保存に関する調査研究]』国立国会図書館、2009年3月</ref><ref>「PART.4 12 電子書籍における取次の動向」『電子書籍の基本からカラクリまでわかる本』洋泉社、2010年、ISBN 978-4-86248-570-0</ref>、会社設立時の経緯から電子書籍販売サイトを自社運営している企業もある。
*[[メディアドゥ]](業界最大手。[[トーハン]]と資本業務提携)
*[[モバイルブック・ジェーピー]]([[大日本印刷]]の子会社)
*[[ブックウォーカー]]([[KADOKAWAグループ]])
*クリーク・アンド・リバー社
* [[ブックリスタ]] ([[ソニー]]、[[KDDI]]、[[凸版印刷]]、[[朝日新聞社]]が出資)
* デジタルカタパルト([[共同印刷]]の子会社)
* 兼松グランクス([[兼松]]グループ)
* 暁NEXT([[共立印刷]]グループ)
* アルド・エージェンシー・グローバル([[パピレス]]とアムタスの共同出資会社、海外市場専門取次)
===かつて存在した出版取次===
*[[KRT (出版取次)|KRT]] - 旧社名:栗田出版販売。2015年6月26日、民事再生法適用。
*[[太洋社 (出版取次)|太洋社]] - 2016年2月、自主廃業の方針を表明したが3月には断念し破産を申請した。
*鈴木書店 - 2001年12月7日、破産を申請した。
*日本地図共販
*日本洋書販売
*日本雑誌販売
*三和図書
*東邦書籍
*不退書店
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* トーハン『よくわかる出版流通のしくみ 改訂版』([[メディアパル]]、2009年)
* 荒木國臣 「[http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/paper/book_it01.htm デジタル情報ネットワーク戦略と産業構造の変容]」 (東海デジタルアーカイブ研究センター、2000年)
* 小田光雄『書店の近代』(平凡社、2003年)
* 小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』([[ぱる出版]]、1999年)
== 関連項目 ==
* [[星雲社]] - 総合取次不扱の小出版社に[[日本図書コード]]を貸して販売代行をしている会社で「中取次」とも呼ばれることがある。
* [[雑誌コード]]
* [[有害図書]]
* [[ダイレクト・マーケット]] - [[アメリカン・コミック]]の取次ネットワーク。
== 外部リンク ==
* [http://www.torikyo.jp/ 日本出版取次協会]
* [http://www.kandamura-k.com/ 神田村] - 東京出版物卸業組合
* [http://neil.chips.jp/chihosho/ 地方・小出版流通センター]
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[[Category:出版取次|*]]
[[Category:流通]]
[[Category:卸売業]]
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[
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"Template:Reflist"
] |
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10,728 |
津市
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津市(つし)は、三重県の県庁所在地であり、中勢地域に位置する市。
津市は伊勢平野のほぼ中心部にあり、海沿いに市街地がある臨海都市でもある。人口は四日市市に次いで県内第2位で、面積は県内最大である。都市雇用圏の人口は約50万人。日本で最初に市制施行した31市の中の一つである。計量特定市に指定されている。
江戸時代には、藤堂家が治める津藩の城下町として栄えた。旧津市は日本で最初(1889年〈明治22年〉4月1日)に市制施行した31市の1つで、この時点で市制施行をしたのは東海3県(愛知県、岐阜県、三重県)では津市のみである。三重県内の官公庁や国の出先機関、文教施設が集約されており、三重県の行政・文教の中心地となっている。また、周辺自治体と共に人口50万人の津都市圏を形成し、広義での中京圏に属している。
日本三大観音の一つである津観音や、建造物としては三重県で初めて国宝に指定された真宗高田派専修寺がある。また津駅前にある地上18階地下1階の高層複合ビル「アスト津」は、津市のランドマークとなっている。
現在、日本で唯一の読みがなが1文字である自治体でもある。
森林セラピー基地に認定されている。
津の市街地は、藤堂高虎が中世以前からの既存の町に大改造を施して建設した城下町を起源とする。高虎は北を流れる安濃川(塔世川)と、南を流れる岩田川を天然の外堀として利用し、川に挟まれた中央に津城を置き、海寄りの東側に町人地、西側に武家地を配置し、町人地に伊勢参宮街道を引き入れることで繁栄の基礎を築いた。このため城下町へ入る北側の塔世橋と南側の岩田橋が地域感覚の基礎となり、塔世橋以北を橋北(きょうほく)、岩田橋以南を橋南(きょうなん)、塔世橋と岩田橋の間を橋内(きょうない)と呼んでいる。岩田橋の周囲には高札場や道路元標が設けられ、津松菱もここに建っている。市街地の核は 丸之内や大門を擁する橋内であり、橋南も江戸時代初期から町場化していた。一方、県政の中心となる三重県庁や都市の玄関口である津駅は、かつての「町外れ」である橋北にある。三重県庁は所在地が明治期に四日市に一時移転して津に戻ってきたという事情もあり、既に数多くの公共施設や商業施設が建設されていた橋内に適地が見つからなかった。また津駅も建設当時、北側から延伸してきた鉄道の終着駅であったため県庁と同様にそれぞれ津の入り口にあたる橋北に建設された。以上のような歴史的経緯もあり、橋北地区は明治期以降に新しい都市核として成長していった。
江戸時代の伊勢参宮街道だったころ、屈曲していた塔世橋と岩田橋を結ぶ国道23号は明治期に直線化され、1939年(昭和14年)に幅員20 mに拡幅、更に戦後復興で幅員50 m・片側4車線の道路になった。またこれに直交する形で幅員36 m・片側2車線のフェニックス通りが建設され、橋内の東西軸が完成した。一方で、幅の広い国道23号の完成によって市街が東西に分断されてしまい、幹線道路から外れた大門の賑いが削がれ、津城跡も目立たない存在になったという側面もある。
年平均気温は16.3°C。
「津」とは、「船舶の碇泊する所。ふなつき。港」の意味である。古くは安濃津として文献にも記される良港であり、平安京にとって重要な港だったことから単に「津」とも呼ばれていた。しかし明応7年(1498年)の明応地震(東海地震)に伴う地盤の上昇と津波のため、港は崩壊した。
津藩藤堂氏の城下町として栄え、ポルトガル人やスペイン人の衣装を模した仮装行列を起源とし、後には「朝鮮通信使」などの影響も受けたとされる「唐人おどり」が伝承され(現在、三重県の無形民俗文化財である。)、毎年秋に行われる津まつりで披露されている。
江戸時代には伊勢参りの宿場町としても栄え、伊勢音頭の歌詞に「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」と歌われるほどの活況を呈した。
国学者の谷川士清(たにがわ・ことすが)の生家が中心街の西方の旧道沿いの八町という町並みにある。
津市の設置・管理する公共施設は約800か所に及び、ホール10か所、公民館53か所など同じ機能を持つ施設が重複しており、維持管理費がかさんでいる。
合併直前の2006年(平成18年)1月1日時点の(旧)津市の人口は約16万人であり、日本全国の都道府県庁所在地の中で最少だった。ただし、人口密度は1626人/km2で県内最大であった。
「このまちが好きさ」
当市の常備消防組織。2006年に合併されるまでは、安芸郡と香良洲町の消防事務を委託していた。2006年の市町村合併で久居市や一志郡で構成していた久居地区広域消防組合(以下、久居消防)と合併。新しい津市消防本部が発足した。 消防本部は、旧津市では中消防署(寿町)に置かれていた。しかし、老朽化やスペースなどの問題から合併を契機に、施設が新しい久居消防署に新消防本部を設置した。
津市ではその地域特性(道が入り組んで狭い)などから、1988年(昭和63年)から独自にオリジナルの小型消防車・装備の開発を行っており、消防関係者の間では「津消式」として知られている。消防車では珍しい3人乗りのシングルキャブを採用している他、PTOの問題などでほとんどの車両が三菱車をベースにしている。最近は緊急消防援助隊に登録したことにより国庫補助が増額したことや技術の進歩に伴い、旧津市の区域を管轄する中消防署・北消防署でも総務省の規格に沿った一般的な消防車が導入されたため、「津消式」消防車は減少している。
パナソニック津工場
市内に空港は存在しない。最寄りの空港は愛知県常滑市にある中部国際空港となる。津なぎさまちから津エアポートラインで結ばれている。
かつては他に、伊勢電気鉄道本線(1961年全廃)、安濃鉄道(1944年廃止)、中勢鉄道(1942年廃止)などといった鉄道路線も存在した。
東海地方の都道府県庁所在地では唯一、また近畿地方の都道府県庁所在地では奈良市とともに過去にも現在にも路面電車が一度も存在しなかった。また、ライトレールの計画については2007年(平成19年)に百五銀行シンクタンクの百五経済研究所によって、中部国際空港への海上アクセス港である津なぎさまちから、津市を代表する大通りであるフェニックス通り上にLRT(次世代型路面電車)を通し、大門地区、津駅前を経て西部丘陵地とを結ぶ計画が提案されたが、現在のところ実現化への動きはない。
「津八幡宮 神輿渡御」「唐人踊り」「しゃご馬」「八幡獅子舞」「入江和歌囃子」など(10月第2月曜日の前々日と前日)
「津八幡宮 例祭」(10月15日)
旧津市域は、人口比で日本一鰻屋が多い都市であり、人口1人あたりの鰻消費量も日本一である。これは、元々は江戸時代に藤堂藩が藩士の滋養強壮と士気向上のために鰻食を奨励し、各地から鰻屋を津城下に集めたことに端を発する。その名残で以前は津市周辺には養鰻場が存在したが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風で打撃を受け、その多くは廃業したものの、市民に広く浸透していた鰻の食習慣は残った。津市においては、他地域とは異なり鰻が大衆食となっており、特に中心街の大門・丸之内地区などでは、2010年代以降の鰻の価格高騰を迎える以前は、最上級の「特上」丼(鰻五切入り、肝入り吸物付き)でも1,500円程度で食すことができた。
津ぎょうざとは、直径15cmの大きな皮で餡を包み、油で揚げた揚げ餃子である。起源は学校給食であり、1985年ごろに考案され現在も提供されている。2008年から飲食店やイベントで販売されるようになった。いわゆるB級グルメのひとつである。
|
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"text": "津市(つし)は、三重県の県庁所在地であり、中勢地域に位置する市。",
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"text": "津市は伊勢平野のほぼ中心部にあり、海沿いに市街地がある臨海都市でもある。人口は四日市市に次いで県内第2位で、面積は県内最大である。都市雇用圏の人口は約50万人。日本で最初に市制施行した31市の中の一つである。計量特定市に指定されている。",
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"text": "江戸時代には、藤堂家が治める津藩の城下町として栄えた。旧津市は日本で最初(1889年〈明治22年〉4月1日)に市制施行した31市の1つで、この時点で市制施行をしたのは東海3県(愛知県、岐阜県、三重県)では津市のみである。三重県内の官公庁や国の出先機関、文教施設が集約されており、三重県の行政・文教の中心地となっている。また、周辺自治体と共に人口50万人の津都市圏を形成し、広義での中京圏に属している。",
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"text": "日本三大観音の一つである津観音や、建造物としては三重県で初めて国宝に指定された真宗高田派専修寺がある。また津駅前にある地上18階地下1階の高層複合ビル「アスト津」は、津市のランドマークとなっている。",
"title": "概要"
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"text": "現在、日本で唯一の読みがなが1文字である自治体でもある。",
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"text": "森林セラピー基地に認定されている。",
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"text": "津の市街地は、藤堂高虎が中世以前からの既存の町に大改造を施して建設した城下町を起源とする。高虎は北を流れる安濃川(塔世川)と、南を流れる岩田川を天然の外堀として利用し、川に挟まれた中央に津城を置き、海寄りの東側に町人地、西側に武家地を配置し、町人地に伊勢参宮街道を引き入れることで繁栄の基礎を築いた。このため城下町へ入る北側の塔世橋と南側の岩田橋が地域感覚の基礎となり、塔世橋以北を橋北(きょうほく)、岩田橋以南を橋南(きょうなん)、塔世橋と岩田橋の間を橋内(きょうない)と呼んでいる。岩田橋の周囲には高札場や道路元標が設けられ、津松菱もここに建っている。市街地の核は 丸之内や大門を擁する橋内であり、橋南も江戸時代初期から町場化していた。一方、県政の中心となる三重県庁や都市の玄関口である津駅は、かつての「町外れ」である橋北にある。三重県庁は所在地が明治期に四日市に一時移転して津に戻ってきたという事情もあり、既に数多くの公共施設や商業施設が建設されていた橋内に適地が見つからなかった。また津駅も建設当時、北側から延伸してきた鉄道の終着駅であったため県庁と同様にそれぞれ津の入り口にあたる橋北に建設された。以上のような歴史的経緯もあり、橋北地区は明治期以降に新しい都市核として成長していった。",
"title": "地理"
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"text": "江戸時代の伊勢参宮街道だったころ、屈曲していた塔世橋と岩田橋を結ぶ国道23号は明治期に直線化され、1939年(昭和14年)に幅員20 mに拡幅、更に戦後復興で幅員50 m・片側4車線の道路になった。またこれに直交する形で幅員36 m・片側2車線のフェニックス通りが建設され、橋内の東西軸が完成した。一方で、幅の広い国道23号の完成によって市街が東西に分断されてしまい、幹線道路から外れた大門の賑いが削がれ、津城跡も目立たない存在になったという側面もある。",
"title": "地理"
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"text": "年平均気温は16.3°C。",
"title": "地理"
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"text": "「津」とは、「船舶の碇泊する所。ふなつき。港」の意味である。古くは安濃津として文献にも記される良港であり、平安京にとって重要な港だったことから単に「津」とも呼ばれていた。しかし明応7年(1498年)の明応地震(東海地震)に伴う地盤の上昇と津波のため、港は崩壊した。",
"title": "歴史"
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"text": "津藩藤堂氏の城下町として栄え、ポルトガル人やスペイン人の衣装を模した仮装行列を起源とし、後には「朝鮮通信使」などの影響も受けたとされる「唐人おどり」が伝承され(現在、三重県の無形民俗文化財である。)、毎年秋に行われる津まつりで披露されている。",
"title": "歴史"
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"text": "江戸時代には伊勢参りの宿場町としても栄え、伊勢音頭の歌詞に「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」と歌われるほどの活況を呈した。",
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"text": "国学者の谷川士清(たにがわ・ことすが)の生家が中心街の西方の旧道沿いの八町という町並みにある。",
"title": "歴史"
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"text": "津市の設置・管理する公共施設は約800か所に及び、ホール10か所、公民館53か所など同じ機能を持つ施設が重複しており、維持管理費がかさんでいる。",
"title": "行政"
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"text": "合併直前の2006年(平成18年)1月1日時点の(旧)津市の人口は約16万人であり、日本全国の都道府県庁所在地の中で最少だった。ただし、人口密度は1626人/km2で県内最大であった。",
"title": "行政"
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"text": "「このまちが好きさ」",
"title": "行政"
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"text": "当市の常備消防組織。2006年に合併されるまでは、安芸郡と香良洲町の消防事務を委託していた。2006年の市町村合併で久居市や一志郡で構成していた久居地区広域消防組合(以下、久居消防)と合併。新しい津市消防本部が発足した。 消防本部は、旧津市では中消防署(寿町)に置かれていた。しかし、老朽化やスペースなどの問題から合併を契機に、施設が新しい久居消防署に新消防本部を設置した。",
"title": "施設"
},
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"text": "津市ではその地域特性(道が入り組んで狭い)などから、1988年(昭和63年)から独自にオリジナルの小型消防車・装備の開発を行っており、消防関係者の間では「津消式」として知られている。消防車では珍しい3人乗りのシングルキャブを採用している他、PTOの問題などでほとんどの車両が三菱車をベースにしている。最近は緊急消防援助隊に登録したことにより国庫補助が増額したことや技術の進歩に伴い、旧津市の区域を管轄する中消防署・北消防署でも総務省の規格に沿った一般的な消防車が導入されたため、「津消式」消防車は減少している。",
"title": "施設"
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"text": "パナソニック津工場",
"title": "経済"
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"text": "市内に空港は存在しない。最寄りの空港は愛知県常滑市にある中部国際空港となる。津なぎさまちから津エアポートラインで結ばれている。",
"title": "交通"
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"text": "かつては他に、伊勢電気鉄道本線(1961年全廃)、安濃鉄道(1944年廃止)、中勢鉄道(1942年廃止)などといった鉄道路線も存在した。",
"title": "交通"
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"text": "東海地方の都道府県庁所在地では唯一、また近畿地方の都道府県庁所在地では奈良市とともに過去にも現在にも路面電車が一度も存在しなかった。また、ライトレールの計画については2007年(平成19年)に百五銀行シンクタンクの百五経済研究所によって、中部国際空港への海上アクセス港である津なぎさまちから、津市を代表する大通りであるフェニックス通り上にLRT(次世代型路面電車)を通し、大門地区、津駅前を経て西部丘陵地とを結ぶ計画が提案されたが、現在のところ実現化への動きはない。",
"title": "交通"
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"text": "「津八幡宮 神輿渡御」「唐人踊り」「しゃご馬」「八幡獅子舞」「入江和歌囃子」など(10月第2月曜日の前々日と前日)",
"title": "文化・名物"
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"text": "「津八幡宮 例祭」(10月15日)",
"title": "文化・名物"
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"text": "旧津市域は、人口比で日本一鰻屋が多い都市であり、人口1人あたりの鰻消費量も日本一である。これは、元々は江戸時代に藤堂藩が藩士の滋養強壮と士気向上のために鰻食を奨励し、各地から鰻屋を津城下に集めたことに端を発する。その名残で以前は津市周辺には養鰻場が存在したが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風で打撃を受け、その多くは廃業したものの、市民に広く浸透していた鰻の食習慣は残った。津市においては、他地域とは異なり鰻が大衆食となっており、特に中心街の大門・丸之内地区などでは、2010年代以降の鰻の価格高騰を迎える以前は、最上級の「特上」丼(鰻五切入り、肝入り吸物付き)でも1,500円程度で食すことができた。",
"title": "文化・名物"
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"text": "津ぎょうざとは、直径15cmの大きな皮で餡を包み、油で揚げた揚げ餃子である。起源は学校給食であり、1985年ごろに考案され現在も提供されている。2008年から飲食店やイベントで販売されるようになった。いわゆるB級グルメのひとつである。",
"title": "文化・名物"
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津市(つし)は、三重県の県庁所在地であり、中勢地域に位置する市。 津市は伊勢平野のほぼ中心部にあり、海沿いに市街地がある臨海都市でもある。人口は四日市市に次いで県内第2位で、面積は県内最大である。都市雇用圏の人口は約50万人。日本で最初に市制施行した31市の中の一つである。計量特定市に指定されている。
|
{{Otheruses|日本の都市|中華人民共和国にある県級市|津市市}}
{{日本の市
| 都道府県 = 三重県
| 自治体名 = 津市
| 画像 = Tsu Montage.jpg
| 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse">
<tr><td style="vertical-align:middle">[[津城]]<td style="vertical-align:middle;" width=50%>[[津観音]]</tr>
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<tr><td colspan="2">[[津なぎさまち]]</tr>
</table>
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Tsu, Mie.svg|border|100px|津市旗]]
| 市旗の説明 = 津[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Tsu, Mie.svg|75px|津市章]]
| 市章の説明 = 津[[市町村章|市章]]<br /><small>[[2006年]][[1月1日]]制定</small>
| コード = 24201-2
| 隣接自治体 = [[鈴鹿市]]、[[亀山市]]、[[松阪市]]、[[伊賀市]]、[[名張市]]<br />[[奈良県]]:[[宇陀郡]][[曽爾村]]、[[御杖村]]
| 木 = [[ケヤキ]]
| 花 = [[ツツジ]]
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = [[ウグイス]]
| 郵便番号 = 514-8611
| 所在地 = 津市西丸之内23番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-24|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Tsu City Hall Main Building.jpg|250px|津市役所]]{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.658020|frame-longitude=136.463353|text=市庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|24|201|image=Tsu in Mie prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:Down Town of Tsu City.jpg|thumb|中心市街地の一つである橋北地区の街並み]]
[[ファイル:mie prefecture office.jpg|thumb|[[三重県庁]]]]
'''津市'''(つし)は、[[三重県]]の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]であり、[[中勢]]地域に位置する[[都市|市]]。
津市は[[伊勢平野]]のほぼ中心部にあり、海沿いに市街地がある臨海都市でもある。人口は[[四日市市]]に次いで[[第二都市|県内第2位]]で、面積は県内最大である。[[都市雇用圏]]の人口は約50万人。日本で最初に[[市制]]施行した31市の中の一つである。[[計量特定市]]に指定されている。
== 概要 ==
[[江戸時代]]には、[[藤堂家]]が治める[[津藩]]の[[城下町]]として栄えた。旧津市は日本で最初([[1889年]]〈[[明治]]22年〉[[4月1日]])に[[市制]]施行した31市の1つで、この時点で市制施行をしたのは[[東海3県]]([[愛知県]]、[[岐阜県]]、三重県)では津市のみである。三重県内の[[官公庁]]や国の[[出先機関]]、文教施設が集約されており、三重県の行政・文教の中心地となっている。また、周辺[[地方公共団体|自治体]]と共に人口50万人の[[都市雇用圏|津都市圏]]を形成し<ref>{{Cite web|和書|title=都市雇用圏-Urban Employment Area-|url=https://www.csis.u-tokyo.ac.jp/UEA/uea_data.htm|website=www.csis.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2020-02-13}}</ref>、広義での[[中京圏]]に属している<ref>{{Cite web|和書|title=国勢調査 平成27年国勢調査 大都市圏・都市圏 {{!}} ファイル {{!}} 統計データを探す|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00200521&tstat=000001080615&cycle=0&tclass1=000001110216&result_page=1|website=政府統計の総合窓口|accessdate=2020-02-13|language=ja}}</ref>。
[[日本三大観音]]の一つである[[津観音]]や、建造物としては三重県で初めて[[国宝]]に指定された[[真宗高田派]][[専修寺]]がある。また[[津駅]]前にある地上18階地下1階の高層複合ビル「[[アスト津]]」は、津市のランドマークとなっている。
現在、日本で唯一の読みがなが1文字である自治体でもある。
== 地理 ==
[[ファイル:Tsu city center area Aerial photograph.1982.jpg|thumb|津市中心部周辺の空中写真。1982年撮影の26枚を合成作成。{{国土航空写真}}]]
=== 地形 ===
==== 河川 ====
;[[一級河川]]
*[[雲出川]]水系
**[[長野川 (三重県)|長野川]]
*[[淀川]]水系
**[[名張川]]
;[[二級河川]]
*[[志登茂川]]
*[[安濃川]] - 津市の[[人口集中地区]]を流れる川。
*[[岩田川]] - 津市の人口集中地区を流れる川。
*[[相川 (三重県)|相川]]
*[[田中川]]
*中ノ川
==== 山地 ====
[[森林セラピー基地]]に認定されている。
;主な山
*錫杖ヶ岳
*摺鉢山
*笠取山
*長谷山
*矢頭山
*[[尼ヶ岳]]
*[[三峰山 (三重県・奈良県)|三峰山]]
*[[大洞山 (三重県)|大洞山]]
*[[倶留尊山]]
*高須ノ峰
*高所山
*国見山
*髯山
==== 湖沼 ====
;主な湖
*錫杖湖
*君ヶ野ダム湖
;主な池
*風早池
*大沢(澤)池
*横山池
=== 市街地 ===
津の市街地は、[[藤堂高虎]]が[[中世]]以前からの既存の町に大改造を施して建設した[[城下町]]を起源とする{{sfn|西村|2018|p=175}}。高虎は北を流れる[[安濃川]](塔世川)と、南を流れる[[岩田川]]を天然の外堀として利用し、川に挟まれた中央に[[津城]]を置き、海寄りの東側に町人地、西側に武家地を配置し、町人地に[[伊勢参宮街道]]を引き入れることで繁栄の基礎を築いた{{sfn|西村|2018|pp=175-176}}。このため城下町へ入る北側の[[塔世橋]]と南側の[[岩田橋]]が地域感覚の基礎となり、塔世橋以北を'''橋北'''(きょうほく)、岩田橋以南を'''橋南'''(きょうなん)、塔世橋と岩田橋の間を'''橋内'''(きょうない)と呼んでいる{{sfn|西村|2018|p=177}}。岩田橋の周囲には[[高札|高札場]]や[[道路元標]]が設けられ、[[津松菱]]もここに建っている{{sfn|西村|2018|p=177}}。市街地の核は [[丸之内 (津市)|丸之内]]や[[大門 (津市)|大門]]を擁する橋内であり、橋南も江戸時代初期から町場化していた{{sfn|西村|2018|pp=177-178}}。一方、県政の中心となる[[三重県庁]]や都市の玄関口である[[津駅]]は、かつての「町外れ」である橋北にある{{sfn|西村|2018|pp=179-180}}。三重県庁は[[都道府県庁所在地|所在地]]が明治期に[[四日市市|四日市]]に一時移転して津に戻ってきたという事情もあり、既に数多くの[[公共施設]]や商業施設が建設されていた橋内に適地が見つからなかった。また津駅も建設当時、北側から延伸してきた鉄道の[[終着駅]]であったため県庁と同様にそれぞれ津の入り口にあたる橋北に建設された。以上のような歴史的経緯もあり、橋北地区は明治期以降に新しい都市核として成長していった{{sfn|西村|2018|p=180}}。
江戸時代の伊勢参宮街道だったころ、屈曲していた塔世橋と岩田橋を結ぶ[[国道23号]]は明治期に直線化され、[[1939年]](昭和14年)に幅員20 mに拡幅、更に戦後復興で幅員50 m・片側4車線の道路になった{{sfn|西村|2018|pp=177-178}}。またこれに直交する形で幅員36 m・片側2車線の[[フェニックス通り (三重県津市)|フェニックス通り]]が建設され、橋内の東西軸が完成した{{sfn|西村|2018|pp=178-179}}。一方で、幅の広い国道23号の完成によって市街が東西に分断されてしまい、幹線道路から外れた[[大門 (津市)|大門]]の賑いが削がれ、津城跡も目立たない存在になったという側面もある{{sfn|西村|2018|p=179}}。
=== 気候 ===
年平均気温は16.3℃。
{{Weather box
|location = 津地方気象台(津市島崎町、標高3m)
|metric first = yes
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|Jan record high C = 19.0
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|Jul record high C = 39.1
|Aug record high C = 39.5
|Sep record high C = 37.7
|Oct record high C = 31.0
|Nov record high C = 27.2
|Dec record high C = 23.7
|year record high C = 39.5
|Jan high C = 9.5
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|Feb mean C = 5.9
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|Sep record low C = 8.7
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|Dec record low C = -6.4
|year record low C = -7.8
|Jan precipitation mm = 48.5
|Feb precipitation mm = 57.1
|Mar precipitation mm = 104.5
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|May precipitation mm = 167.3
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|Aug precipitation mm = 144.5
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|Oct precipitation mm = 186.1
|Nov precipitation mm = 76.4
|Dec precipitation mm = 47.2
|year precipitation mm = 1612.9
|Jan snow cm = 2
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|Mar snow cm = 0
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|Nov snow cm = 0
|Dec snow cm = 1
|year snow cm = 6
|Jan humidity = 61
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|Jun humidity = 74
|Jul humidity = 75
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|Oct humidity = 69
|Nov humidity = 65
|Dec humidity = 63
|year humidity = 67
|unit precipitation days = 0.5 mm
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|Jul precipitation days = 12.3
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|Nov precipitation days = 6.8
|Dec precipitation days = 6.5
|year precipitation days = 115.7
|Jan snow days = 9.2
|Feb snow days = 9.8
|Mar snow days = 4.3
|Apr snow days = 0.1
|May snow days = 0.0
|Jun snow days = 0.0
|Jul snow days = 0.0
|Aug snow days = 0.0
|Sep snow days = 0.0
|Oct snow days = 0.0
|Nov snow days = 0.0
|Dec snow days = 3.3
|year snow days = 26.5
|Jan sun = 162.9
|Feb sun = 156.2
|Mar sun = 186.1
|Apr sun = 192.7
|May sun = 197.8
|Jun sun = 146.9
|Jul sun = 180.2
|Aug sun = 220.7
|Sep sun = 165.3
|Oct sun = 164.5
|Nov sun = 163.7
|Dec sun = 171.5
|year sun = 2108.6
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1889年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=53&block_no=47651&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2021-06
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=53&block_no=47651&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2021-06
| publisher = 気象庁}}
</ref>
}}
===人口===
{{人口統計|code=24201|name=津市|image=Population distribution of Tsu, Mie, Japan.svg}}
===隣接している自治体===
;{{Flagicon|三重県}}三重県
*[[鈴鹿市]]
*[[亀山市]]
*[[松阪市]]
*[[伊賀市]]
*[[名張市]]
;{{Flagicon|奈良県}}[[奈良県]]
*[[宇陀郡]]
**[[曽爾村]]
**[[御杖村]]
== 歴史 ==
=== 近世以前 ===
「津」とは、「船舶の碇泊する所。ふなつき。港」の意味<ref>[[岩波書店]]『[[広辞苑]](第六版)』より</ref>である。古くは[[安濃津]]として文献にも記される良港であり、[[平安京]]にとって重要な港だったことから単に「津」とも呼ばれていた。しかし[[明応]]7年([[1498年]])の[[明応地震]]([[東海地震]])に伴う地盤の上昇と津波のため、港は崩壊した。
[[津藩]][[藤堂氏]]の城下町として栄え、ポルトガル人やスペイン人の衣装を模した仮装行列を起源とし、後には「[[朝鮮通信使]]」などの影響も受けたとされる「[[唐人おどり]]」が伝承され(現在、三重県の無形民俗文化財である。)、毎年秋に行われる[[津まつり]]で披露されている。
[[江戸時代]]には[[伊勢参り]]の[[宿場町]]としても栄え、[[伊勢音頭]]の歌詞に「'''[[伊勢国|伊勢]]は津でもつ 津は伊勢でもつ [[尾張国|尾張]][[名古屋市|名古屋]]は[[城]]でもつ'''」と歌われるほどの活況を呈した。
国学者の[[谷川士清]](たにがわ・ことすが)の生家が中心街の西方の旧道沿いの八町という町並みにある。
=== 近現代 ===
* [[明治]]4年([[1871年]])に'''安濃津県'''が設置され県庁舎が置かれたが、翌年[[三重県庁舎|県庁舎]]が県中央に近い[[三重郡]]四日市町(現・[[四日市市]])に移転し、'''三重県'''と改称した後、その翌年に再び県庁舎が戻された経緯がある<ref group="注">名称は戻されなかったため、県名と県庁所在地名が一致しなくなった。</ref>。その後、[[度会県]]との合併によって津は三重県中央部に位置するようになった。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月24日]]、[[7月28日]] - [[津大空襲]]発生、死者1,239人。[[第二次世界大戦]]末期にアメリカ軍の[[B-29 (航空機)|B-29]]による大規模な空襲を受け、旧市街の全域及び橋北地区の工場地帯が焼失。この空襲では[[宝塚歌劇団]]在団中より[[歌手]]として活躍、その年の春結婚退団し、当市内の夫の家で生活していた[[糸井しだれ]]も犠牲となった。
* [[1959年]](昭和34年)[[9月26日]]、[[伊勢湾台風]]により多大なる被害が出る。
* [[1964年]](昭和39年) - 市制75周年を記念し「[[津市民歌]]」および「津音頭」を制定。
* [[2007年]]([[平成]]19年)[[4月15日]] - 午後0時19分の[[三重県中部地震]]で津市内では島崎町、河芸町浜田、[[芸濃町椋本]]、美里町三郷、安濃町東観音寺で[[震度|震度5弱]]、片田薬王寺町、西丸之内、久居東鷹跡町、香良洲町、一志町田尻、[[白山町川口]]で震度4を観測した。
* [[2009年]](平成21年)[[2月1日]] - 新市民歌「[[このまちが好きさ]]」を制定。
=== 行政区画の変遷 ===
[[ファイル:Tsu City Expansion.gif|thumb|津市域の変遷]]
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[市制]]の施行により、[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]津城下(津京口町・津立町・津大門町・津中ノ番町・津宿屋町・津蔵町・津千歳町・津入江町・津堀川町・津沢之上町・津新中町・津魚町・津北浜町・津地頭領町・津分部町・津新魚町・津山之世古町・津大世古町・津南浜町・津南世古町・津片浜町・津築地町・津極楽町・津贄崎町・津西検校町・津東検校町・津北堀端・津玉置町・津新道・津西新道・津中新町・津西堀端・津丸ノ内・津南堀端・津一番町・津二番町・津三番町・津枕町・津五軒町・津松之下・津西町・津塔世町・津門前町・津釜屋町・津万町・津北町・津東町・津西来寺町・津宝禄町・津新立町・津東新町・津鷹匠町・西ノ口出屋敷・栄町)・伊予町・岩田村・津興村・八幡町および下部田村の一部(余慶町)・乙部村の一部(字川田・北浦・札ノ辻・七ツ家・南浦の各一部)・塔世村の一部(字新地・榎之下・川田・栄町・徳田および字清原・岡瀬谷・矢下の各一部)・古河村の一部(字東河原・宮元屋敷・東新屋敷の各一部)・藤方村の一部(枝郷藤枝町)・[[奄芸郡]]大部田村の区域をもって'''津市'''が発足。
* [[1909年]](明治42年)4月1日 - 安濃郡[[建部村 (三重県)|建部村]]・[[塔世村]]を編入。
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[6月1日]] - 安濃郡[[新町 (三重県)|新町]]を編入。
* [[1936年]](昭和11年)[[3月1日]] - 安濃郡[[藤水村]]を編入。
* [[1939年]](昭和14年)[[7月1日]] - [[一志郡]][[高茶屋|高茶屋村]]を編入。
* [[1943年]](昭和18年)[[8月31日]] - 安濃郡[[安東村 (三重県)|安東村]]・[[神戸村 (三重県安濃郡)|神戸村]]・[[櫛形村 (三重県)|櫛形村]]を編入。
* [[1952年]](昭和27年)[[6月15日]] - 一志郡[[雲出村]]を編入。
* [[1954年]](昭和29年)[[1月15日]] - [[河芸郡]][[一身田町]]を編入。
* [[1954年]](昭和29年)[[8月1日]] - 河芸郡[[白塚町]]・[[栗真村]]・安濃郡[[片田村]]を編入。
* [[1973年]](昭和48年)[[2月1日]] - [[安芸郡 (三重県)|安芸郡]][[豊里村 (三重県)|豊里村]]を編入。
* [[2006年]]([[平成]]18年)[[1月1日]] - [[久居市]]・安芸郡[[河芸町]]・[[芸濃町]]・[[美里村 (三重県)|美里村]]・[[安濃町]]・一志郡[[香良洲町]]・[[一志町]]・[[白山町]]・[[美杉村]]と合併し、改めて'''津市'''が発足。
== 行政 ==
津市の設置・管理する公共施設は約800か所に及び、ホール10か所、公民館53か所など同じ機能を持つ施設が重複しており、維持管理費がかさんでいる<ref>「似た公共施設 重い負担 合併10年 統廃合の議論停滞」朝日新聞2015年4月23日付朝刊、[[朝日新聞名古屋本社|名古屋本社]]版34ページ</ref>。
=== 市長 ===
*市長:[[前葉泰幸]]
**任期:[[2011年]](平成23年)[[4月25日]]就任 3期目
*副市長:野口正
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 歴代市長<ref>『[[朝日新聞]]』、津市ホームページ。</ref>
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
! colspan="5" | 津市長
|-
| - || [[近藤康雄]] || 2006年(平成18年)1月1日 ||2006年(平成18年)2月5日||市長職務執行者
|-
| 1 || [[松田直久]] || 2006年(平成18年)2月6日 ||2011年(平成23年)2月23日||
|-
| 2 - 3 || [[前葉泰幸]] || 2011年(平成23年)4月25日 ||現職||
|}
=== 旧津市 ===
{{日本の市 (廃止)
| 廃止日 = 2006年1月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''津市'''・[[久居市]]・[[安芸郡 (三重県)|安芸郡]][[安濃町]]・[[河芸町]]・[[芸濃町]]・[[美里村 (三重県)|美里村]]・[[一志郡]][[一志町]]・[[香良洲町]]・[[白山町]]・[[美杉村]] → '''津市'''
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Former Tsu Mie.JPG|75px|center]]
| 市旗の説明 = 旧・津[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[File:Former Emblem of Tsu, Mie.svg|75px|center]]
| 市章の説明 = 旧・津[[市町村章|市章]]<br /><small>[[1906年]]([[明治]]39年)<br />[[10月27日]]制定</small>
| 現在の自治体 = 津市
| よみがな = つし
| 自治体名 = 津市
| 都道府県 = 三重県
| コード = 24201-2
| 面積 = 101.89
| 境界未定 = なし
| 人口 = 165695
| 人口の時点 = 2005年6月1日
| 隣接自治体 = [[鈴鹿市]]、[[亀山市]]、久居市、[[松阪市]]<br />安芸郡河芸町、芸濃町、安濃町、美里村<br />一志郡香良洲町
| 木 = [[ツツジ]]
| 花 = ツツジ
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 514-8611
| 所在地 = 津市西丸之内23番1号
| 外部リンク =
| 位置画像 =
| 特記事項 =
}}
合併直前の[[2006年]](平成18年)[[1月1日]]時点の(旧)津市の人口は約16万人であり、日本全国の都道府県庁所在地の中で最少だった。ただし、人口密度は1626人/㎢で県内最大であった。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 歴代市長<ref>歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。『[[朝日新聞]]』。</ref>
! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考
|-
! colspan="5" | 官選旧津市長
|-
| 1 || [[伊東祐賢 (三重県の政治家)|伊東祐賢]] || 1889年(明治22年)5月13日||1889年(明治22年)11月||
|-
| 2 || [[長井氏克]] || 1890年(明治23年)2月18日||1901年(明治34年)11月||
|-
| 3 || [[黒川佐太郎]]|| 1901年(明治34年)11月28日 ||1907年(明治40年)11月||
|-
| 4 || [[内多正雄]]|| 1907年(明治40年)11月 || 1916年(大正5年)8月||
|-
| 5|| [[有田義資]] || 1916年(大正5年)10月14日|| 1921年(大正10年)11月||
|-
| 6 || [[御厨規三]] || 1922年(大正11年)2月27日 || 1925年(大正14年)10月||
|-
| 7 || [[須山栄]]|| 1926年(大正15年)1月 || 1930年(昭和5年)1月||
|-
| 8 || [[堀川美哉]] || 1930年(昭和5年)1月 || 1945年(昭和20年)8月||
|-
| 9 || [[石原雅二郎]] || 1945年(昭和20年)11月9日 || 1946年(昭和21年)5月||
|-
| 10 || [[堀川美哉]] || 1946年(昭和21年)7月 || 1946年(昭和21年)11月||
|-
! colspan="5" | 公選旧津市長
|-
| 11 || [[酒井萬馬]]|| 1947年(昭和22年)4月8日 || 1951年(昭和26年)4月||
|-
| 12 || [[志田勝]]|| 1951年(昭和26年)4月 || 1953年(昭和28年)3月||
|-
| 13 || [[堀川美哉]] || 1953年(昭和28年)5月 || 1957年(昭和32年)5月||
|-
| 14 || [[角永清]]|| 1957年(昭和32年)5月 || 1974年(昭和49年)6月||
|-
| 15 || [[岡村初博]] || 1974年(昭和49年)7月14日 || 1994年(平成16年)7月13日||
|-
| 16 || [[近藤康雄]] || 1994年(平成16年)7月14日 || 2005年(平成17年)12月31日||
|}
=== 市民歌 ===
「このまちが好きさ」
*いわゆる[[平成の大合併]]時に新しい「津市」にふさわしい歌を公募のうえ2009年(平成21年)2月1日に制定。
*[[作詞]]・[[作曲]] : 村田幸一(津市在住)
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|津市議会}}
=== 県議会 ===
{{main|2023年三重県議会議員選挙}}
* 選挙区:津市選挙区
* 定数:7人
* 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:222,057人
* 投票率:43.86%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 青木謙順 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 66 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 14,199票
|-
| 今井智広 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 55 || [[公明党]] || align="center" | 現 || 13,823票
|-
| 杉本熊野 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 69 || [[無所属]] || align="center" | 現 || 13,716票
|-
| 舟橋裕幸 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 68 || [[新政みえ]] || align="center" | 現 || 11,741票
|-
| 川口円 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 51 || 無所属 || align="center" | 現 || 10,076票
|-
| 吉田紋華 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 25 || [[日本共産党]] || align="center" | 新 || 10,032票
|-
| 龍神啓介 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 35 || 自由民主党 || align="center" | 新 || align="right" | 9,455票
|-
| 村主英明 || align="center" | 落 || align="center" | 63 || 自由民主党 || align="center" | 新 || align="right" | 7,981票
|-
| [[小林貴虎]] || align="center" | 落 || align="center" | 49 || 無所属 || align="center" | 現 || align="right" | 5,247票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[三重県第1区|三重1区]](津市、[[松阪市]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:359,419人
* 投票率:54.88%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[田村憲久]] || align="center" | 56 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 122,772票 || align="center" | ○
|-
| || [[松田直久]] || align="center" | 67 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 元 || align="right" | 64,507票 || align="center" | ○
|-
| || 山田いずみ || align="center" | 35 || <small>[[政治家女子48党|NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 7,329票 || align="center" | ○
|}
== 国家機関 ==
=== 裁判所 ===
*[[津地方裁判所]]
*[[津家庭裁判所]]
*[[津簡易裁判所]]
=== 警察庁 ===
* [[中部管区警察局]]三重県情報通信部
=== 総務省 ===
* 中部[[管区行政評価局]]三重行政監視行政相談センター
=== 法務省 ===
* 津[[地方法務局]]
*[[三重刑務所]]
*津[[少年鑑別所]]
*津[[保護観察所]]
;[[検察庁]]
* [[津地方検察庁]]
* [[津区検察庁]]
* [[鈴鹿区検察庁]]
=== 財務省 ===
* [[東海財務局]]津財務事務所
* [[名古屋税関]]四日市税関支署津出張所
;[[国税庁]]
* [[名古屋国税局]] [[名古屋国税局#三重県|津税務署]]
=== 厚生労働省 ===
*[[東海北陸厚生局]]三重事務所
*[[三重労働局]]
**津労働基準監督署
**津公共職業安定所
=== 農林水産省 ===
*[[東海農政局]]三重県拠点
*東海農政局木曽川水系土地改良調査管理事務所中勢支所
=== 国土交通省 ===
*[[中部地方整備局]]三重河川国道事務所
*[[中部運輸局]]三重運輸支局
;[[気象庁]]
*[[津地方気象台]]
=== 防衛省・自衛隊 ===
*[[自衛隊三重地方協力本部]]
*[[陸上自衛隊]] [[久居駐屯地]]
*[[航空自衛隊]][[笠取山分屯基地]]
*航空自衛隊[[白山分屯基地]]
=== 独立行政法人 ===
*[[国立研究開発法人]][[農業・食品産業技術総合研究機構]]野菜花き研究部門安濃野菜研究拠点
=== 特殊法人 ===
*[[日本年金機構]] 津年金事務所
== 施設 ==
=== 警察 ===
;本部
*[[三重県警察]][[警察本部]]
*[[三重県警察]] [[津警察署]]
*[[三重県警察]][[津南警察署]]
;交番
{| class="wikitable"
|-
! 交番 !! 自治体 !! 所在地
|-
|一身田
|rowspan="9"|津市
|一身田町
|-
|[[津駅]]前
|羽所町
|-
|[[大門 (津市)|大門]]
|大門
|-
|[[津新町駅]]前
|新町
|-
|[[岩田橋]]
|本町
|-
|河芸町
|河芸町一色
|-
|南郊
|高茶屋
|-
|[[久居駅]]前
|久居新町
|-
|美杉幹部
|美杉町八知
|}
;駐在所
{| class="wikitable"
|-
! 警察官駐在所 !! 自治体 !! 所在地
|-
|高野尾
|rowspan="22"|津市
|[[高野尾町]]
|-
|櫛形
|殿村
|-
|片田
|片田井戸町
|-
|神戸
|神戸
|-
|椋本
|[[芸濃町椋本]]
|-
|安西
|芸濃町北神山
|-
|曽根
|安濃町曽根
|-
|東観
|安濃町東観音寺
|-
|美里
|美里町三郷
|-
|香良洲
|香良洲町馬場
|-
|庄田
|庄田町
|-
|榊原
|榊原町
|-
|川合
|一志町八太
|-
|高岡
|一志町田尻
|-
|大井
|一志町大仰
|-
|家城
|白山町南家城
|-
|川口
|白山町川口
|-
|倭
|白山町中ノ村
|-
|八ツ山
|白山町八対野
|-
|大三
|白山町二本木
|-
|奥津
|美杉町奥津
|-
|太郎生
|美杉町太郎生
|}
;その他
*[[三重県運転免許センター]]
*[[三重県警察航空隊]]
=== 消防 ===
;本部
{{Main|津市消防本部}}
当市の常備消防組織。2006年に合併されるまでは、安芸郡と香良洲町の消防事務を委託していた。2006年の市町村合併で久居市や一志郡<ref group="注">香良洲町を除く。</ref>で構成していた久居地区広域消防組合(以下、久居消防)と合併。新しい[[津市消防本部]]が発足した。<br>
消防本部は、旧津市では中消防署(寿町)に置かれていた。しかし、老朽化やスペースなどの問題から合併を契機に、施設が新しい久居消防署に新消防本部を設置した。
;消防署
*久居消防署- 旧久居市、旧一志町を所轄。消防本部と施設を共有
*中消防署 - 津市中部(市役所・県庁周辺)、旧香良洲町を所轄。
*北消防署 - 津市北部、旧安芸郡を所轄。
*白山消防署 - 旧一志郡(旧一志町、旧香良洲町を除く)を所轄。
;オリジナル消防車(旧久居消防を除く)
津市ではその地域特性(道が入り組んで狭い)などから、[[1988年]](昭和63年)から独自にオリジナルの小型消防車・装備の開発を行っており、消防関係者の間では「津消式」として知られている。消防車では珍しい3人乗りのシングルキャブを採用している他、[[パワーテイクオフ|PTO]]の問題などでほとんどの車両が三菱車をベースにしている。最近は[[緊急消防援助隊]]に登録したことにより国庫補助が増額したことや技術の進歩に伴い、旧津市の区域を管轄する中消防署・北消防署でも総務省の規格に沿った一般的な消防車が導入されたため、「津消式」消防車は減少している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/photo/daily/news/141010/dly1410100008-n1.html |title=まだ現役「津消式」 |access-date=2022-05-14 |website=[[産経新聞]] |date=2014-10-10 |deadlinkdate=2021-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141011171816/https://www.sankei.com/photo/daily/news/141010/dly1410100008-n1.html |archive-date=2014-10-11}}</ref>。
===医療===
;主な病院
*[[国立病院機構榊原病院]]
*[[国立病院機構三重中央医療センター]]
*[[国立病院機構三重病院]]
*[[藤田医科大学七栗記念病院]]
*[[三重大学病院]]
*[[三重県立一志病院]]
;医師会
*[[三重県医師会]]
*[[三重県歯科医師会]]
*[[三重県獣医師会]]
*[[三重県薬剤師会]]
=== 郵便局 ===
;主な郵便局
*[[日本郵便]]
*:[[津中央郵便局|津中央]]、七栗・美里・椋本・安濃・一志・白山・家城・竹原・上多気・美杉・奥津の12の[[集配郵便局]]と、合わせて68の郵便局(うち簡易郵便局13か所)があり、三重県庁、三重大学の各施設内にも郵便局が設置されている。
*[[ゆうちょ銀行]]
*:津市内には簡易郵便局を除く各郵便局(雲出簡易郵便局には設置)など合わせて58か所にATMが設置されており、うち20か所ではホリデーサービスも実施している。
*:ただし、直営店は津市内に存在せず、すべて[[日本郵便]]がゆうちょ銀行の代理店(簡易郵便局の貯金窓口は、日本郵便から簡易郵便局受託者への再委託による代理店)として郵便局の貯金窓口の形で運営されている。ちなみに、[[都道府県庁所在地]]でゆうちょ銀行の店舗が存在しないのは、津市が唯一である。
===文化施設===
[[File:Mie Center For the Arts 2020-11 ac (1).jpg|thumb|三重県総合文化センター]]
* [[三重県立美術館]]
* [[三重県総合博物館]]
* [[三重県総合文化センター]]
* [[三重県立図書館]]
* [[津市図書館]]
* 津リージョンプラザ
* サンヒルズ安濃
* 津市一志図書館
* 津市河芸図書館
* [[津市サンデルタ香良洲]]
* 津市久居ふるさと文学館
* 津市久居アルスプラザ
* 芸濃総合文化センター
* 白山総合文化センター
* [[ルーブル彫刻美術館]]
* [[石水博物館]]
* 樋口友好ミュージアム
=== 運動施設 ===
*[[津市産業・スポーツセンター]]
**[[メッセウイング・みえ]] - 多目的[[コンベンションセンター]]。
**[[サオリーナ]] - 屋内総合スポーツ施設。施設名は[[吉田沙保里]]にちなんだ正式名称。
*[[津球場公園内野球場]]
== 対外関係 ==
=== 姉妹都市・提携都市 ===
====海外====
;姉妹都市
*{{Flagicon|BRA}}[[オザスコ (サンパウロ州)|オザスコ市]]([[ブラジル連邦共和国]] [[サンパウロ州]])
*:[[1976年]][[10月18日]] 旧津市と姉妹都市提携
*{{Flagicon|CHN}}[[鎮江市]]([[中華人民共和国]] [[江蘇省]])
*:[[1984年]][[6月11日]] 旧津市と姉妹都市提携
====国内====
;姉妹都市
*{{Flagicon|岐阜県}}[[東白川村]]([[岐阜県]][[加茂郡]])
*:1989年6月28日に旧香良洲町が姉妹都市提携
;提携都市
*{{Flagicon|山口県}}[[周南市]]([[山口県]])
*:1990年5月8日に旧久居市が旧新南陽市と友好都市提携
*{{Flagicon|愛知県}}[[常滑市]]([[愛知県]])
*:1997年3月27日 災害時相互応援協定締結
*{{Flagicon|北海道}}[[上富良野町]]([[北海道]] [[上川総合振興局]] [[空知郡]])
*:1997年7月30日 友好都市提携
;その他
*{{Flagicon|JPN}}[[全国門前町サミット]]
*:全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。
*{{Flagicon|JPN}}[[外国人集住都市会議]]
*:[[静岡県]][[浜松市]]が中心に呼びかけ、日本国内の[[外国人]]が多く住む街の自治体や[[国際交流協会]]などが集まり、外国人住民が多数居住する都市の行政と地域の国際交流のために設立された組織。
== 経済 ==
=== 産業 ===
[[ファイル:tsu shipyard.jpg|thumb|ジャパン マリンユナイテッド津事業所]]
[[ファイル:Tsu Matsubishi 2020-11 ac.jpg|thumb|[[津松菱|津松菱百貨店]]]]
[[ファイル:Tsu Daimon Street 2020-11 ac.jpg|thumb|[[大門 (津市)|大門商店街]]]]
[[ファイル:Mie prefectural road No.19 start.jpg|thumb|[[津駅|津駅前通]]]]
===第一次産業===
;農業組合
*[[津安芸農業協同組合]]
*[[みえなか農業協同組合]]
=== 第二次産業 ===
; 造船/重工
*[[ジャパン マリンユナイテッド]]津事業所/[[JFEエンジニアリング]]津製作所
; 食品メーカー
*[[井村屋グループ]](本社)
*[[おやつカンパニー]](本社) - [[ベビースターラーメン]]の製造販売元
; 電気関連
[[パナソニック]]津工場
; 工業
*[[凸版印刷]]
;その他産業
*赤塚植物園
*[[倉敷紡績]]
*[[久居焼]]
*[[パイロットインキ]]津工場
=== 第三次産業 ===
;主な繁華街
* [[中心業務地区]] - [[丸之内 (津市)|丸之内]]、羽所町・栄町・広明町(津駅周辺)
* [[歓楽街]] - [[大門 (津市)|大門]]
;百貨店
* [[津松菱]]
;大規模ショッピングセンター
* [[イオンタウン津河芸]]
* セノパーク
* [[イオン津ショッピングセンター]]
* ベイスクエア津 ラッツ
* [[イオンモール津南]]
* [[イオンタウン津城山]]
* イオン久居ショッピングセンター
* [[イオンタウン芸濃]]
* [[ヤマナカ]]アルテ津新町店
* 久居インターガーデン
=== 金融機関 ===
;主な金融機関
*[[百五銀行]](本社)
*[[中京銀行]]
*[[三菱UFJ銀行]]
*[[みずほ銀行]]
*[[りそな銀行]]
*[[三十三銀行]]
*[[津信用金庫]](本店)
=== 市内に本社・拠点を置く主な企業 ===
{{See also|Category:津市の企業}}
==== 上場企業 ====
*[[井村屋グループ]]
*[[日本土建]]
*[[百五銀行]]
*[[三重交通グループホールディングス]]
*[[メディカル一光]]
==== その他の主な企業 ====
*[[おやつカンパニー]]
*[[ビーイング (ソフトウェア)|ビーイング]]
*[[パナソニック エコソリューションズ電材三重]]
*[[松阪鉄工所]]
*[[三重いすゞ自動車]]
*[[三重スバル自動車]]
*[[三重日産自動車]]
*[[日本通運]] 津ロジスティクスセンター事業所
*[[中日三重サービスセンター]]
== マスメディア ==
=== 新聞 ===
* [[伊勢新聞]]本社 - 三重県の地元紙。
* [[中日新聞社]]三重総局
* [[朝日新聞社]]([[朝日新聞名古屋本社|名古屋本社]])津総局
* [[毎日新聞社]]([[毎日新聞中部本社|中部本社]])津支局
* [[読売新聞東京本社]]([[読売新聞中部支社|中部支社]])津支局
* [[日本経済新聞社]]([[日本経済新聞名古屋支社|名古屋支社]])津支局
* [[産業経済新聞社]]([[産経新聞大阪本社]])津支局
* [[中部経済新聞社]]三重支社
===放送===
* [[NHK津放送局]]
* [[三重テレビ放送]]本社
* [[三重エフエム放送]]本社
* [[ZTV]]本社
* [[東海ラジオ放送]]三重支局(現在は閉鎖) - 源流企業のラジオ三重→[[近畿東海放送]]の本社所在地である。
* [[東海テレビ放送]]三重支局
* [[中部日本放送]]([[CBCテレビ]] / [[CBCラジオ]]) 三重支社
* [[名古屋テレビ放送]]三重支社
* [[中京テレビ放送]]三重支局
== 教育 ==
[[ファイル:MieDai Garden.jpg|thumb|[[三重大学]]]]
=== 大学 ===
;[[国立大学|国立]]
*[[三重大学]]
;県立
*[[三重県立看護大学]]
;[[私立学校|私立]]
*[[藤田医科大学]] [[藤田医科大学七栗記念病院|七栗記念病院]]
*[[放送大学#学習センター|放送大学三重学習センター]]([[三重県総合文化センター]]内)
=== 短期大学 ===
;[[公立大学|公立]]
*[[三重短期大学]](津市立の短大)
;私立
*[[高田短期大学]]([[学校法人高田学苑]])
=== 高等学校 ===
{{col|
* [[三重県立津高等学校]]
* [[三重県立津西高等学校]]
* [[三重県立津東高等学校]]
* [[三重県立津工業高等学校]]
* [[三重県立津商業高等学校]]
* [[三重県立みえ夢学園高等学校]]
|
* [[三重県立久居高等学校]]
* [[三重県立久居農林高等学校]]
* [[三重県立白山高等学校]]
* [[高田中学校・高等学校|高田高等学校]](私立)
* [[セントヨゼフ女子学園高等学校・中学校|セントヨゼフ女子学園高等学校]](私立)
* [[一志学園高等学校]](私立)
* [[青山高等学校 (三重県)|青山高等学校]](旧 日生学園第二高等学校 私立)
}}
=== 義務教育学校 ===
*[[津市立みさとの丘学園]]
=== 中学校 ===
{{colbegin|3}}
* [[三重大学教育学部附属中学校]]
* [[津市立一身田中学校]]
* [[津市立橋南中学校]]
* [[津市立橋北中学校]]
* [[津市立西橋内中学校]]
* [[津市立西郊中学校]]
* [[津市立東橋内中学校]]
* [[津市立南が丘中学校]]
* [[津市立南郊中学校]]
* [[津市立豊里中学校]]
* [[津市立久居中学校]]
* [[津市立久居西中学校]]
* [[津市立久居東中学校]]
* [[津市立朝陽中学校]]
* [[津市立芸濃中学校]]
* [[津市立東観中学校]]
* [[津市立香海中学校]]
* [[津市立一志中学校]]
* [[津市立白山中学校]]
* [[津市立美杉中学校]]
* [[高田中学校・高等学校|高田中学校]](私立)
* [[セントヨゼフ女子学園高等学校・中学校|セントヨゼフ女子学園中学校]](私立)
{{Colend}}{{clear|left}}
=== 小学校 ===
{{colbegin|3}}
* [[三重大学教育学部附属小学校]]
* [[津市立安東小学校]]
* [[津市立育生小学校]]
* [[津市立一身田小学校]]
* [[津市立大里小学校]]
* [[津市立片田小学校]]
* [[津市立神戸小学校]]
* [[津市立北立誠小学校]]
* [[津市立櫛形小学校]]
* [[津市立雲出小学校]]
* [[津市立栗真小学校]]
** 国児分校
* [[津市立敬和小学校]]
* [[津市立修成小学校]]
* [[津市立白塚小学校]]
* [[津市立新町小学校]]
* [[津市立高茶屋小学校]]
* [[津市立高野尾小学校]]
* [[津市立豊が丘小学校]]
* [[津市立西が丘小学校]]
* [[津市立藤水小学校]]
* [[津市立南が丘小学校]]
* [[津市立南立誠小学校]]
* [[津市立養正小学校]]
* [[津市立成美小学校]]
* [[津市立桃園小学校]]
* [[津市立立成小学校]]
* [[津市立誠之小学校]]
* [[津市立戸木小学校]]
* [[津市立栗葉小学校]]
* [[津市立榊原小学校]]
* [[津市立上野小学校]]
* [[津市立黒田小学校]]
* [[津市立千里ヶ丘小学校]]
* [[津市立豊津小学校]]
* [[津市立明小学校]]
* [[津市立芸濃小学校]]
* [[津市立草生小学校]]
* [[津市立村主小学校]]
* [[津市立安濃小学校]]
* [[津市立明合小学校]]
* [[津市立香良洲小学校]]
* [[津市立一志西小学校]]
* [[津市立一志東小学校]]
* [[津市立家城小学校]]
* [[津市立川口小学校]]
* [[津市立大三小学校]]
* [[津市立倭小学校]]
* [[津市立八ッ山小学校]]
* [[津市立美杉小学校]]
{{Colend}}{{clear|left}}
=== 特別支援学校 ===
* [[三重大学教育学部附属特別支援学校]]
* [[三重県立盲学校]]
* [[三重県立聾学校]]
* [[三重県立城山特別支援学校]]
* [[三重県立かがやき特別支援学校]]
** 草の実分校
** あすなろ分校
* [[三重県立稲葉特別支援学校]]
=== [[インターナショナルスクール]] ===
* 三重インターナショナルスクール<ref>https://mieinternationalschool.com/</ref>
== 交通 ==
[[ファイル:Tsu-STA East.jpg|thumb|[[津駅]]]]
[[ファイル:Miekaikan.jpg|thumb|[[三重会館|三重会館バスターミナル]]]]
[[ファイル:Ano Service Area Nobori.JPG|thumb|[[安濃サービスエリア|安濃SA]]]]
[[ファイル:Phoenix street in Tsu.jpg|thumb|[[フェニックス通り (三重県津市)|フェニックス通り]]]]
[[ファイル:TsuYachtHarbor.jpg|thumb|津ヨットハーバー]]
=== 空路 ===
* [[津市伊勢湾ヘリポート]]
市内に空港は存在しない。最寄りの空港は[[愛知県]][[常滑市]]にある[[中部国際空港]]となる。[[津なぎさまち]]から[[津エアポートライン]]で結ばれている。
=== 鉄道 ===
; [[東海旅客鉄道]](JR東海)
* [[紀勢本線]]
** [[一身田駅]] - [[津駅]] - [[阿漕駅]] - [[高茶屋駅]]
* [[名松線]]
** [[伊勢八太駅]] - [[一志駅]] - [[井関駅]] - [[伊勢大井駅]] - [[伊勢川口駅]] - [[関ノ宮駅]] - [[家城駅]] - [[伊勢竹原駅]] - [[伊勢鎌倉駅]] - [[伊勢八知駅]] - [[比津駅]] - [[伊勢奥津駅]]
; [[近畿日本鉄道]](近鉄)
* [[近鉄大阪線|大阪線]]
** [[東青山駅]] - [[榊原温泉口駅]] - [[大三駅]] - [[伊勢石橋駅]] - [[川合高岡駅]]
* [[近鉄名古屋線|名古屋線]]
** [[千里駅 (三重県)|千里駅]] - [[豊津上野駅]] - [[白塚駅]] - [[高田本山駅]] - [[江戸橋駅]] - 津駅 - [[津新町駅]] - [[南が丘駅]] - [[久居駅]] - [[桃園駅]]
; [[伊勢鉄道]]
* [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]
** [[伊勢上野駅]] - [[河芸駅]] - [[東一身田駅]] - 津駅
かつては他に、[[伊勢電気鉄道]]本線([[1961年]]全廃)、[[安濃鉄道]]([[1944年]]廃止)、[[中勢鉄道]]([[1942年]]廃止)などといった鉄道路線も存在した。
東海地方の都道府県庁所在地では唯一、また近畿地方の都道府県庁所在地では[[奈良市]]とともに過去にも現在にも[[路面電車]]が一度も存在しなかった。また、[[ライトレール]]の計画については2007年(平成19年)に百五銀行シンクタンクの百五経済研究所によって、[[中部国際空港]]への海上アクセス港である[[津なぎさまち]]から、津市を代表する大通りである[[フェニックス通り (三重県津市)|フェニックス通り]]上に[[ライトレール|LRT]](次世代型路面電車)を通し、大門地区、津駅前を経て西部丘陵地とを結ぶ計画が提案されたが、現在のところ実現化への動きはない。
=== バス ===
==== 高速バス ====
* [[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京高速バス]]: [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[池袋駅]]・[[新宿駅]]・[[立川駅]]・[[横浜駅]] - '''[[津駅|津駅前]]'''・'''[[三重会館]]'''・[[伊勢市駅|伊勢市駅前]]・鳥羽BC ([[三重交通]]、[[三交伊勢志摩交通]]、[[西武観光バス]]) ※夜行
* [[WILLER EXPRESS|東京・川崎 - 三重線]]:[[川崎駅]]・[[新宿駅]] - [[近鉄四日市駅]]・[[白子駅]]・'''[[津駅]]'''(ベイラインエクスプレス) ※夜行
* [[京都 - 四日市・津・伊勢線|京都高速バス]]: '''[[津駅|津駅前]]'''・'''[[三重会館]]''' - [[土山サービスエリア|土山BS]]・[[京都駅]] ([[三重交通]]、[[近鉄バス]])
==== 一般路線バス ====
* [[三重交通]]
* [[ぐるっと・つーバス]]
* [[津市コミュニティバス (河芸地域)]](旧河芸町内)
* [[津市コミュニティバス (芸濃地域)]](旧芸濃町内)
* [[津市コミュニティバス (美里地域)]](旧美里村内)
* [[津市コミュニティバス (安濃地域)]](旧安濃町内)
* [[津市コミュニティバス (白山地域)]](旧白山町内)
* [[津市コミュニティバス (美杉地域)]](旧美杉村内)
=== 道路 ===
==== 高速道路 ====
*[[伊勢自動車道]]
:(亀山市) - [[伊勢関インターチェンジ|伊勢関IC]] - [[芸濃インターチェンジ|芸濃IC]] - [[安濃サービスエリア|安濃SA]] - [[津インターチェンジ|津IC]] - [[久居インターチェンジ|久居IC]] - (亀山市)
;地域高規格道路
*[[中勢バイパス]]
==== 国道 ====
*[[国道23号]]([[伊勢街道]])
*[[国道163号]]([[初瀬街道]])
*[[国道165号]]([[伊賀街道]])
*[[国道306号]](巡見街道)
*[[国道368号]]([[伊勢本街道]])
*[[国道369号]](伊勢本街道)
*[[国道422号]]
==== 県道 ====
*[[三重県道10号津関線]](伊勢別街道)
*[[三重県道19号津停車場線]]
*[[三重県道24号松阪久居線]]
*[[三重県道28号亀山白山線]]
*[[三重県道30号嬉野美杉線]]
*[[三重県道39号青山美杉線]]
*[[三重県道42号津芸濃大山田線]]
*[[三重県道43号一志美杉線]]
*[[三重県道55号久居河芸線]]
*[[三重県道58号松阪一志線]]
*[[三重県道67号一志嬉野線]]
=== 港湾 ===
*[[津松阪港]]([[重要港湾]])
*:贄崎地区([[津なぎさまち]]):[[高速船]]発着
*:[[津エアポートライン]] - [[中部国際空港]]行。津なぎさまちより高速船で結ばれている。
== 名所・旧跡・観光スポット ==
[[ファイル:北畠氏館跡庭園.jpg|thumb|[[北畠神社|北畠氏館]]]]
[[ファイル:Tsu Kannon 2020-11 ac (3).jpg|thumb|[[日本三大観音]]の[[津観音]]]]
[[ファイル:辰水神社の辰.jpeg|thumb|right|辰水神社ジャンボ干支]]
[[ファイル:A Nagisamachi harbor is seen Mie, JAPAN.jpg|thumb|[[津なぎさまち]]]]
[[File:Mitake no Sakura.JPG|thumb|三多気の桜]]
=== 名所・旧跡 ===
;名勝
*[[日本さくら名所100選#近畿地方|三多気]](桜の名勝)
*福祉と環境を融合した花園の「梅園」「藤棚」「あじさい園」([[社会福祉法人正寿会]])
;街並み保存地区
*伊賀街道(街並み保存)
*一身田寺内町(町並み保存)
*[[美杉町奥津|奥津]](伊勢本街道、街並み保存)
*常夜灯(伊勢街道江戸橋付近〔伊勢街道・伊勢別街道交点〕)
;主な城郭
*[[家城城]]
*[[上野城 (伊勢国)|上野城]]
*[[津城]]:県史跡
*[[長野城 (伊勢国)|長野城]]:国史跡
*[[霧山城]]趾:国史跡。
*[[北畠神社|北畠氏館跡]]:[[続日本100名城]]
*[[戸木城]]
*長野氏城跡
;主な寺院
* [[浄土真宗|真宗]][[高田派]] [[専修寺]]
* [[津観音]]([[日本三大観音]])
* [[成願寺 (津市)|成願寺]]([[天台真盛宗]])
* [[西来寺 (津市)|西来寺]]([[天台真盛宗]]別格本山)
* [[蓮光院初馬寺]]
* [[四天王寺 (津市)|四天王寺]]
;主な神社
*[[三重県護国神社|三重縣護國神社]]-広明町。三重県の守り神として県内各地から篤い崇敬を集める。
*県社 [[高山神社 (三重県)|高山神社]] – [[丸之内 (津市)|丸之内]]([[津城]]址)
* 県社 [[香良洲神社]] – [[香良洲町]]
* 別格官幣社・別表神社 [[結城神社]] – [[藤方]]2341
* [[津八幡宮]] – [[八幡町 (津市)|八幡町]]藤方2339<ref>[https://yaokami.jp/1240049/ 津八幡宮三重県津市] 八百万の神、2021年1月16日閲覧</ref>
* 別格官幣社・別表神社 [[北畠神社]] – [[美杉町]][[上多気]]
** 多芸神社
** 留魂社
* [[川上山若宮八幡宮]] – [[美杉町]][[美杉町川上|川上]]3498
* [[辰水神社]] – [[美里町 (津市)|美里町]][[家所]]。ジャンボ干支が有名<ref>[https://yaokami.jp/1240068/ 辰水神社 三重県津市] 八百万の神、2021年1月16日閲覧</ref>。
*[[野邊野神社]] – [[久居]][[二ノ町|二ノ町1855]]。<ref>[http://www.nobeno.jp/ 野邊野神社], [https://yaokami.jp/1240060/], [http://www.komainu.org/mie/hisai/nobeno/yuisho.html], [http://siomihyo.exblog.jp/18409420/]</ref>
=== 観光スポット ===
;観光スポット
* [[日神石仏群]]
* [[青山高原]]
* [[青山高原ウインドファーム]](発電用風車24基。本州最大級)
* 美里ウインドパーク(発電用風車8基)
* [[津なぎさまち]]
* [[錫杖湖]]
* [[道の駅]] - [[道の駅美杉|美杉]]、[[道の駅津かわげ|津かわげ]]
* [[おやつタウン]]([[ベビースターラーメン]]のテーマパーク)
;温泉
* [[榊原温泉]]
* [[猪の倉温泉]]
* [[火の谷温泉]]
* [[一志温泉]]
* [[磨洞温泉]]
;公園
* [[室生赤目青山国定公園]]
** [[東青山四季のさと]]
* [[赤目一志峡県立自然公園]]
* [[偕楽公園]]
** [[国鉄D51形蒸気機関車]] 499号機が[[静態保存]]されている。また、春の行楽シーズンになると公園一帯の桜が満開となり、お花見の有名スポットとなる。
** この公園の土から抗生物質[[ビスタマイシン]]が作られた<ref>{{PDFlink|[http://medical.meiji.co.jp/medical/product_med/item/000140/upload/revision/interview/000140_ITV_20100521085439.pdf 医薬品インタビューフォーム] 日本標準商品分類番号876134}}([[明治製菓]])</ref>。すぐそばを走る近鉄線[[ビスタカー]]にちなんでビスタマイシンと名前が付けられた。
* [[津球場公園]]
** [[岩田橋]]の近くにある。公園内には、[[津球場公園内野球場]]がある。
* 津城跡 お城公園
* [[石山観音公園]]
* [[中勢グリーンパーク]]
* 河芸町民の森公園
* [[お城西公園]]
* [[久居市民中央スポーツ公園]]
* [[香良洲公園]]
* 雲出川緑地
* [[リバーパーク真見]]
* [[城山クラインガルテン]]
* [[古道公園]]
=== レジャー ===
* [[伊勢の海県立自然公園]]
** [[御殿場海岸]]
** [[阿漕浦海浜公園]](伊勢湾海洋スポーツセンター、海水浴場)
** [[伊勢湾海洋センター]](津ヨットハーバー) - 日本最大級の公共[[ヨットハーバー|マリーナ]]
** [[津競艇場]] 日本初の公認[[競艇場]]
** [[マリーナ河芸]]・[[三重マリンセンター海の学舎]]
* [[大門 (津市)|大門]] 代表的[[歓楽街]]
* ココパリゾート
* [[セラピーロード]]
* [[東海自然歩道]]
* [[美杉リゾート]]
== 文化・名物 ==
[[ファイル:Mie-Fireworks.jpg|thumb|[[津花火大会]]]]
[[ファイル:イルミネーションファンタジー2013.JPG|thumb|right|イルミネーションファンタジー]]
=== 祭事・催事 ===
* [[津まつり]](津八幡宮 例大祭)
「津八幡宮 神輿渡御」「唐人踊り」「しゃご馬」「八幡獅子舞」「入江和歌囃子」など(10月第2月曜日の前々日と前日)
「津八幡宮 例祭」(10月15日)
* 高田本山専修寺お七夜(1月9日 - 16日)
* [[津花火大会]](阿漕浦海岸沖)
* カンコ踊り(盆)
* ビーチバレーボール大会(御殿場海岸)
* 高虎楽座(フェニックス通り)
* [[久居花火大会]](旧・サマーフェスタ イン ひさい、[[陸上自衛隊]][[第10師団 (陸上自衛隊)|第10師団]][[第33普通科連隊]]グラウンド、8月第1週土曜日)
* [[ひさい版仮装大笑|ひさい祭り]](10月)
* 小野獅子舞 白山町川口小野地区(正月)
* やぶねり
** 白塚町旧市街地で7月11日に行われる神事。
===食文化===
[[ファイル:Hitsumabushi by Daikantei.jpg|thumb|津のうなぎ([[ひつまぶし]])]]
[[ファイル:Tsu Jiaozi by Tenhana.jpg|thumb|津ぎょうざ]]
;津が発祥地の食べ物
* [[天むす]]
* [[いちご大福]](全国各地に発祥を表明している店があり、津市の「とらや本家」もそのひとつ。正確にはわかっていない)
* [[味噌カツ]](諸説あり)
* [[ひつまぶし]](諸説あり)
* [[芸濃ずいき]]
;うなぎ
旧津市域は、人口比で日本一[[ウナギ|鰻]]屋が多い都市であり、人口1人あたりの鰻消費量も日本一である<ref name="鰻">[[#るるぶ伊勢志摩 '07|『るるぶ伊勢志摩 '07』2006年。]]p95)</ref>。これは、元々は江戸時代に藤堂藩が藩士の滋養強壮と士気向上のために鰻食を奨励し、各地から鰻屋を津城下に集めたことに端を発する。その名残で以前は津市周辺には養鰻場が存在したが、[[1959年]]([[昭和34年]])9月の[[伊勢湾台風]]で打撃を受け、その多くは廃業したものの、市民に広く浸透していた鰻の食習慣は残った。津市においては、他地域とは異なり鰻が大衆食となっており、特に中心街の[[大門 (津市)|大門]]・[[丸之内 (津市)|丸之内]]地区などでは、2010年代以降の鰻の価格高騰を迎える以前は、最上級の「特上」丼(鰻五切入り、肝入り吸物付き)でも1,500円程度で食すことができた<ref name="鰻"/>。
;津ぎょうざ
津ぎょうざとは、直径15cmの大きな皮で餡を包み、油で揚げた揚げ餃子である。起源は学校給食であり、[[1985年]]ごろに考案され現在も提供されている。2008年から飲食店やイベントで販売されるようになった。いわゆる[[B級グルメ]]のひとつである。
== 出身・関連著名人 ==
=== 政治家 ===
* [[生悦住求馬]]:[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]図書課長、[[佐賀県知事|佐賀]]・[[宮城県知事|宮城]]・[[千葉県知事]](官選)
* [[坂口力]]:[[公明党]][[衆議院議員]]、元[[厚生労働大臣]]
* [[高橋千秋]]:[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]元[[参議院議員]]
* [[長井氏克]]:衆議院議員、津市長
* [[前葉泰幸]]:現・津市長、元[[官僚]]
* [[松田直久]]:前・津市長
*[[橋本侑樹]]:[[渋谷区議会]]議員、元[[ライブアイドル]]
=== 経済人 ===
* [[奥田碩]] : [[トヨタ自動車]]代表取締役社長、[[国際協力銀行]]代表取締役総裁、[[日本経団連]]会長
* [[奥田務]] : [[J.フロント リテイリング]]代表取締役会長兼CEO、[[大丸]]代表取締役会長兼CEO、[[関西経済同友会]]代表幹事
* [[清水信次]] : [[ライフコーポレーション]]代表取締役会長、[[日本チェーンストア協会]]会長
* [[馬瀬紀夫]] : [[ハーゲンダッツジャパン]]代表取締役社長
=== 学者・文化人 ===
* [[赤塚孝三]] : 浮遊生物学者、京都大学および三重県立大学
* [[イケムラレイコ]]:[[画家]]、[[彫刻家]]、[[ベルリン芸術大学]]教授
* [[上野英三郎]] : 農業土木学の創始者、[[忠犬ハチ公]]の主人
* [[江戸川乱歩]] : [[小説家]](旧・[[名張町]]生まれだが、生家は代々の[[津藩]]士)
* [[加藤佳子]]:[[日本画家]]、[[日本画]]教室講師
* [[川喜田半泥子]] : 陶芸家
* [[川喜田二郎]] : [[文化人類学者]]、[[KJ法]]の考案者
* [[河角龍典]] : [[地理学者]]<ref>{{Cite web|和書|author=[[京都新聞]]|url=http://www.47news.jp/localnews/kyoto/2015/04/post_20150415004720.html|title=河角龍典氏死去 立命館大文学部教授|work=[[47NEWS]]|date=2015-04-14|accessdate=2017-04-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170401182333/http://www.47news.jp/localnews/kyoto/2015/04/post_20150415004720.html|archivedate=2017-04-01}}</ref>
* [[倉本一宏]]:[[歴史学者]]、[[国際日本文化研究センター]]教授
* [[小久保修]]:作家
* [[駒田信二]]:作家、[[中国文学者]]([[大阪市]]生まれだが、津で育つ)
* [[斎藤拙堂]]:[[朱子学者]](旧[[武蔵国]][[江戸]]生まれだが、生家は代々の[[津藩]]士)
* [[杉田陽平]]:[[画家]]、[[現代美術家]]
* [[谷川士清]]:国学者
* [[中谷孝雄]]:作家(『[[日本浪曼派]]』創刊メンバー)
* [[中村麻美 (画家)|中村麻美]]:画家
* [[西岡兄妹]]:漫画家
* [[西田半峰]]:画家(旧・一志郡[[七栗村]]出身)
* [[野田暉行]]:作曲家
* [[三浦佑之]]:[[国文学者]](古代文学・伝承文学)、[[千葉大学]]名誉教授、[[立正大学]]教授、[[三浦しをん]]の父。
* [[森川八洲男]]:[[会計学者]]、[[明治大学]]名誉教授、元[[日本簿記学会]]会長
* [[山路芳久]]:[[テノール]]歌手
* [[吉村英夫]]:映画評論家、元[[愛知淑徳大学]]教授
* [[米川みちこ]]:児童文学作家
* [[浅田政志]]:[[写真家]]
=== 芸能・放送 ===
* [[AZU]] : 歌手
* [[いとうあこ]] : [[グラビアアイドル]]
* [[うたまろ]] : 歌手
* [[浦口史帆]] : [[東海テレビ放送]]アナウンサー
* [[岡あゆみ]] : 女優
* [[久野誠]]:元[[CBCテレビ]]アナウンサー
* [[粉川真一]] : [[宮崎放送]]アナウンサー
* [[下條由香里]]:元[[中京テレビ放送]]アナウンサー
* [[春風亭昇市]]:落語家
* [[田中美都子]] : フリーキャスター。[[TBSニュースバード]]に出演
* [[多森成子]] : [[ローカルタレント]]、[[気象予報士]]
* [[成田ゆうこ]]: タレント
* [[橋爪秀範]]:[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[藤神敬也]] : 歌手
* [[本田恵美]] : 元中京テレビ放送アナウンサー
* [[満仲由紀子]]:声優(旧・[[久居市]])
* [[水分貴雅]]:CBCテレビアナウンサー
* [[三輪秀香]] : NHKアナウンサー
* [[望木聡子]]:[[名古屋テレビ放送]]アナウンサー
* [[RIO (ディスクジョッキー)|RIO]]:ディスクジョッキー
* [[太田磨理]]:元[[NHK津放送局]][[アナウンサー]] 現[[NHK大津放送局]][[アナウンサー]]
=== スポーツ選手 ===
* [[伊藤大輔 (レーサー)|伊藤大輔]]:レーシングドライバー
* [[岩出玲亜]]:[[陸上競技]]選手<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/p-sp-tp0-20141117-1397249.html|title=眼相がいい 岩出玲亜が10代日本最高記録|publisher=[[ニッカンスポーツ]]|date=2014-11-17|author=渡辺佳彦|accessdate=2014-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141118151044/http://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/p-sp-tp0-20141117-1397249.html|archivedate=2014-11-18}}</ref>
* [[川崎貴弘]]:[[プロ野球選手]]([[中日ドラゴンズ]]所属)、[[津市消防本部]][[消防吏員]]
* [[金崎夢生]] : [[サッカー選手]]([[名古屋グランパス]]所属)
* [[金村キンタロー]] : [[プロレスラー]]([[XWF]])
* [[北尾光司]]([[双羽黒]]) : プロレスラー、元[[関取]]([[横綱]])
* [[琴風豪規]](尾車親方) : 相撲指導者、元[[大関]]
* [[御給匠]] : サッカー選手([[FC大阪]]所属)
* [[妹尾直哉]]:サッカー選手([[AC長野パルセイロ]]所属)
* [[野崎陽介]]:サッカー選手([[横浜FC]]所属)
* [[林一章]]:サッカー選手([[デッツォーラ島根]]所属)
* [[平井香菜子]] : バレーボール選手([[久光製薬スプリングス]]所属)
* [[宮崎茂三郎]] : [[剣道]][[範士]]、[[昭和天覧試合]]出場
* [[森島貴之]] : 騎手([[笠松競馬場]])
* [[山口直子]]:女子プロボクサー選手、前WBA女子世界スーパーフライ級王者(第5代)、第2代OPBF東洋太平洋女子同級王者。
* [[吉田沙保里]] : 女子レスリング選手、アテネ・北京・ロンドン五輪[[金メダル|金メダリスト]]、[[国民栄誉賞]]受賞
* [[西岡良仁]] : テニス選手
* [[前川右京]]:プロ野球選手([[阪神タイガース]]所属)
=== その他の出身人物 ===
* [[萩美香]] : 2007年度[[ミス日本]]受賞者
* [[山崎三四造]] : 縄文時代の生活を再現していた一人者。アマチュア[[考古学者]]・歴史研究家
* [[杉山和一]] : [[検校]]、[[管鍼法]]の発明者。世界初の[[盲学校]]設立者と言われている
* [[澤木興道]] : [[曹洞宗]][[僧|僧侶]]
* [[小西良幸|ドン小西]]:ファッションデザイナー
* [[茨木政彦]] - 集英社漫画雑誌元編集長
* [[今井智大]]:TikToker
== 津市を舞台にした作品 ==
*『[[神去なあなあ日常]]』([[三浦しをん]])
*『[[なぎさ港]]』(作詞:[[森本アキラ]] 作曲:[[くにひろし]] 歌:[[藤原和歌子]])
*『[[津の女]]』([[レ・ロマネスク]])
*『[[浅田家!]]』
== その他 ==
* [[平成の大合併]]において[[都道府県庁所在地]]が新設合併した事例は、[[埼玉県]][[さいたま市]]、[[静岡県]][[静岡市]]、[[青森県]][[青森市]]、[[富山県]][[富山市]]、[[島根県]][[松江市]]、[[山口県]][[山口市]]、[[佐賀県]][[佐賀市]]に次いで8例目である。
* 2005年10月1日に山口県山口市が周辺自治体と合併したために、当市が全国の県庁所在地としては一番人口の少ない都市となった。その後、当市と周辺自治体の合併により、県庁所在地として一番人口の少ない都市は再び山口市となった。
* 1955年7月末、市内の橋北中学校で大規模な水難事故([[橋北中学校水難事件]])が発生した。以来、三重県内の中学校には全て水泳場の設置が急がれた。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=西村幸夫|authorlink=西村幸夫|title=県都物語―47都心空間の近代をあるく|publisher=有斐閣|date=2018-03-15|isbn=978-4-641-16516-8|page=334|ref={{sfnref|西村|2018|}}}}
* {{Cite book |和書 |author = |title = るるぶ伊勢志摩 '07 |date = 2006-05 |publisher = [[JTBパブリッシング]] |isbn = 978-4-533-06329-9 |ref = るるぶ伊勢志摩 '07 }}
== 関連項目 ==
{{Multimedia|津市の画像}}
{{Sisterlinks|commons=津市|commonscat=Tsu, Mie|voy=ja:津市|d=Q203027}}
{{See also|Category:津市}}
* [[三重建設図書館]]
* [[日本の地方公共団体一覧]]
*[[津地鎮祭訴訟]]
== 外部リンク ==
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; 行政
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* {{Facebook|tsu.city.promotion}}
* [https://www.tokyo.city.tsu.mie.jp/ 津市東京事務所 - おいない伊勢の国]
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ソビエト
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ソビエト(ロシア語: Совет [sɐˈvjet] ( 音声ファイル)、発音は「サヴィェート」)は、ロシア革命時のロシア帝国において、社会主義者の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会(理事会)。もしくはそれらの(建前ないし名目上の)後継組織であるソビエト連邦の議会。ラテン文字表記や英語では「Soviet」が一般的である。日本語のカタカナ表記としては「ソビエト」や「ソヴィエト」が比較的よく用いられるが、古い資料などでは「ソヴェト」「ソヴェート」という表記もある。
ソビエト(Совет)とはロシア語で「会議」や「評議会」を意味する語である。労働者・農民の自主組織としての「ソビエト」は1905年の民主化運動の中で初めて出現し、その起源に定説はないが、宗教改革後に生まれた反動組織である「古儀式派」との関連が指摘されている。
古儀式派は元々ロマノフ王朝に弾圧されていたため、ロシア革命では、王朝を打倒したいボリシェヴィキと皇帝を嫌う古儀式派の利害は一致していた。古儀式派はボリシェヴィキに資金を出すなどの協力をしており、古儀式派の共産党員も多数存在していた。(ルイコフ、モロトフ、カリーニン、ヴォロシーロフ、シュベルニクなど)しかし革命後、「ソ連は無神論を掲げる社会主義国家である」という主張や、教会の影響力を恐れる人々、また経済的理由によって教会の資産を没収したい党の方針などにより、古儀式派は弾圧されることになる。ソビエト連邦成立後も彼らへの迫害は続き、レーニンの妻のナデジダ・クルプスカヤは「富農階級との闘争とはすなわち古儀式派との闘争である(борьба с кулачеством есть одновременно борьба со старообрядчеством)」というテーゼを打ち出した。古儀式派は聖職者だけではなく一般信徒までもが多数死亡することとなった。
1905年の第一次ロシア革命の際、労働者によるゼネラル・ストライキが始まる直前の10月10日に、労働者を幅広く包括する無党派の大衆組織を創設することをペテルブルクのメンシェヴィキが提案した。数日後に労働者代表ソビエトがつくられた。議長はフルスタリョーフ・ノサーリだったが、実際に宣言や決議文を起草していたのはレフ・トロツキーだった。
ボリシェヴィキは当初、ソビエトに対して否定的な態度をとった。10月27日、党中央委員会は「ソヴェトに関して社会民主主義者の任務は、党の綱領と戦術的指導をうけいれさせることにある」という決議を採択した。ソヴェトが党の指導を受け入れない場合は脱退する、とした。しかし亡命先から帰国中のレーニンはソヴェトを「臨時革命政府の萌芽」と評価した。11月以降、ボリシェヴィキのソヴィエトに対する否定的評価は消えていった。
10月のストライキは政府から十月詔書を引き出し、一定の成功をおさめた。しかし11月に行われたストライキは十分な広がりをもたず、失敗に終わった。ソビエトは退潮に向かい、11月末にはフルスタリョーフ・ノサーリが逮捕され、12月には他の幹部も逮捕されて壊滅した。12月にはモスクワのソビエトが武装蜂起したが、やはり失敗に終わった。
ソビエトは、1917年の二月革命の際に再び結成された。2月27日のペトログラード・労働者代表ソビエト設立会議では、メンシェヴィキのチヘイゼが議長として選ばれた。3月1日の総会では兵士の代表も加わり、労働者・兵士代表ソビエトとなった。この総会はペトログラード守備隊に対する「命令第一号」を決定した。これは「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴェトの命令と決定に反する場合をのぞいて履行すべきである」「一切の武器、小銃、機関銃、装甲車などは中隊、大隊委員会の管理と統制のもとにおかれ、要求があっても将校には決して引き渡してはならない」などといった内容を含んでおり、国家権力の一部を分有する姿勢を示すものだった。結果として臨時政府とソビエトの二重権力状態が生じた。
4月に帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(四月テーゼ)で、労働者代表ソヴィエトを「ただ一つ可能な革命政府の形態」と評価し、臨時政府打倒と全権力のソビエトへの移行を主張した。ソビエトはパリ・コミューンと同じ型の権力と評価された。
8月から9月にかけ、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワのソビエトで多数派の支持を獲得した。それを受けてレーニンはボリシェヴィキ内で武装蜂起による権力奪取を呼びかけた。ペトログラード・ソビエトの議長だったトロツキーはソビエトの軍事革命員会を率いて蜂起の準備を進め、10月25日の労働者・兵士ソビエト第二回全ロシア大会の直前に実行して権力を奪取した。
ソビエトは十月革命により国家機関となったが、レーニンが構想した通りのコミューン型国家は実現されず、むしろそこから急速に離れていった。
政府機関として、ソヴィエトとは別に人民委員会議が設立され、レーニンが議長に就任した。ボリシェヴィキ党内で反対意見があったにもかかわらず、この制度はそのまま恒常化し、1918年の憲法にも書き込まれた。人民委員会議は「全体として全ロシア・ソビエト大会および全ロシア・ソビエト中央執行委員会にたいして責任を負う」と規定された(第46条)。ソヴィエトは人民委員会議を権威づけるだけの存在になっていった。
ソビエトの全ロシア中央執行委員会は、1918年6月14日、社会革命党とメンシェヴィキをソビエトから追放する布告を出した。つづく7月には左翼社会革命党がボリシェヴィキ政権に対して反乱を起こした。ソビエトにはボリシェヴィキだけが残り、その結果、政策決定はボリシェヴィキ党内で完結するようになっていった。
ロシア語以外の言語では、「ソビエト」という単語は「ソ連」の同意語、ないし「ソ連型社会主義」や「共産主義」に類した語、もしくはそれらと密接な関係を持った語として扱われる場合が多い。しかし、ロシア語においては「ソビエト(совет)」という単語は、「忠告、助言」、「会議、協議、評議」、「協議会、評議会、理事会」などを意味する一般名詞であり、日常会話のなかでは(国家としての)「ソ連」や「共産主義」と特に関係のない文脈において用いられる場合が多い。
例えば、「会議、評議会」としての「совет」は、帝政時代から現在まで国内外の会議・議会等に用いられている。また、ソ連の各級立法・行政機関も「ソビエト」と呼ばれていた。現在のロシア連邦議会上院も「Совет Федерации」(サヴィェート・フェデラーツィイ、連邦会議)と表現される。同様に、帝政ロシアや現在のロシアを含む各国の国務院は「Государственный Совет」(ガスダールストヴェンヌィイ・サヴィェート)と呼ばれている。また、国際組織としては、国際連合安全保障理事会が「Совет Безопасности」、欧州連合理事会が「Совет Европейского Союза」、といった形で表現される。
また、この一般名詞「совет」から展開される語としては、「忠告者」、「顧問、参事」を意味する名詞「советник」(サヴィェートニク)や「совечик(女性形:совечица)」(サヴィェーチク:サヴィェーチッツァ)、「忠告する」を意味する動詞「советовать」(サヴィェータヴァチ)及び「посоветовать」(パサヴィェータヴァチ)、「助言を求める」を意味する動詞「советоваться」(サヴィェータヴァッツァ)及び「посоветоваться」(パサヴィェータヴァッツァ)、「会議、審議会」を意味する「совещание」(サヴィシシャーニイェ)、その形容詞の「совещательный」(サヴィシシャーチェリヌィイ)、「協議する」という動詞の「совещаться」(サヴィシシャーッツァ)などがある。
一方、(固有名詞から展開される形容詞)「ソ連の」「ソビエトの」は、「советский」(サヴィェーツキイ)と表現される。
「ソビエト」はロシア語においては本来は一般名詞であるが、「ソビエト」という語は日本語や英語のような他言語においては意味的な訳語を用いることなく固有名詞的に音そのままに「ソビエト」と表現され用いられる場合が多い(音訳)。中国語における漢字表記も音訳の「蘇維埃」であり、1931年に中国共産党の樹立した中華ソビエト共和国も漢字表記は「中華蘇維埃共和國」である。
ただし、いくつかの言語においては意味的な訳語が用いられている(意訳)。ウクライナ語では「議会」を意味する「ラーダ(рада)」がソビエトの訳語として用いられており、「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」もウクライナ語では「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国(Українська Радянська Соціалістична Республіка)」となる(ただし、非ウクライナ語圏においては、単に「ラーダ」といった場合は反ボリシェヴィキ派の組織であるウクライナ中央ラーダを指すことが多い)。また、バルト三国のリトアニア語(taryba)、ラトビア語(padome)、エストニア語(nõukogu)でも訳語が用いられている。ソ連国外ではフィンランド語、モンゴル語等で訳語が用いられる。
また、ドイツ革命時に作られたソビエトに相当する労兵評議会は、ドイツ語で「レーテ」(Räte, ロシア語の一般名詞としての「ソビエト」とほぼ同じ意味)と呼ばれた。ただし現在のドイツ語でソ連やソ連のソビエトを指す「ソビエト」はそのまま「Sowjet」である。
ロシア革命からその後のロシア内戦期にかけてロシアとその周辺には、次表のように「ソビエト」の名を冠した国家組織ないし政権(統治機関)が旧ロシア帝国内外に誕生した。
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ソビエトは、ロシア革命時のロシア帝国において、社会主義者の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会(理事会)。もしくはそれらの(建前ないし名目上の)後継組織であるソビエト連邦の議会。ラテン文字表記や英語では「Soviet」が一般的である。日本語のカタカナ表記としては「ソビエト」や「ソヴィエト」が比較的よく用いられるが、古い資料などでは「ソヴェト」「ソヴェート」という表記もある。
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{{Otheruses|評議会|その他の用法|ソビエト (曖昧さ回避)}}
'''ソビエト'''({{Lang-ru|'''Совет'''}} {{IPA-ru|sɐˈvʲet||Ru-совет.ogg}}、発音は「サヴィェート」)は、[[ロシア革命]]時の[[ロシア帝国]]において、[[社会主義|社会主義者]]の働きかけもありながら、主として自然発生的に形成された[[労働者]]・[[農民]]・[[兵士]]の'''評議会'''(理事会)。もしくはそれらの(建前ないし名目上の)後継組織である[[ソビエト連邦]]の[[議会]]。[[ラテン文字]]表記や英語では「Soviet」が一般的である。[[日本語]]の[[カタカナ]]表記としては「'''ソビエト'''」や「'''ソヴィエト'''」が比較的よく用いられるが、古い資料などでは「'''ソヴェト'''」「'''ソヴェート'''」という表記もある。
== 歴史 ==
=== ソビエトの起源 ===
ソビエト(Совет)とはロシア語で「会議」や「評議会」を意味する語である<ref>{{Cite Kotobank|word=ソビエト|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022-12-19}}</ref>。労働者・農民の自主組織としての「ソビエト」は1905年の民主化運動の中で初めて出現し、その起源に定説はないが、[[宗教改革]]後に生まれた[[反動]]組織である「[[古儀式派]]」との関連が指摘されている<ref>[[下斗米伸夫]]『図説 ソ連の歴史』[[河出書房新社]]、2011年, pp10-11.</ref>。
{{要出典範囲|古儀式派は元々[[ロマノフ朝|ロマノフ王朝]]に[[弾圧]]されていたため、[[ロシア革命]]では、王朝を打倒したい[[ボリシェヴィキ]]と皇帝を嫌う古儀式派の利害は一致していた。古儀式派はボリシェヴィキに資金を出すなどの協力をしており、古儀式派の共産党員も多数存在していた。(ルイコフ、モロトフ、カリーニン、[[クリメント・ヴォロシーロフ|ヴォロシーロフ]]、シュベルニクなど)しかし革命後、「ソ連は[[無神論]]を掲げる[[社会主義国|社会主義国家]]である」という主張や、教会の影響力を恐れる人々、また経済的理由によって教会の資産を没収したい党の方針などにより、古儀式派は弾圧されることになる。[[ソビエト連邦]]成立後も彼らへの迫害は続き、[[レーニン]]の妻の[[ナデジダ・クルプスカヤ]]は「富農階級との闘争とはすなわち古儀式派との闘争である(борьба с кулачеством есть одновременно борьба со старообрядчеством)」というテーゼを打ち出した。古儀式派は[[聖職者]]だけではなく一般信徒までもが多数死亡することとなった|date=2022年12月}}。
=== 第一次ロシア革命期 ===
[[1905年]]の[[第一次ロシア革命]]の際、労働者による[[ゼネラル・ストライキ]]が始まる直前の[[10月10日]]に、労働者を幅広く包括する[[無党派]]の大衆組織を創設することを[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]の[[メンシェヴィキ]]が提案した<ref>『第二期トロツキー選集 第2巻 1905年』、現代思潮社、1969年、112ページ</ref>。数日後に労働者代表ソビエトがつくられた。議長はフルスタリョーフ・ノサーリだったが、実際に宣言や決議文を起草していたのは[[レフ・トロツキー]]だった。
[[ボリシェヴィキ]]は当初、ソビエトに対して否定的な態度をとった。[[10月27日]]、党中央委員会は「ソヴェトに関して[[社会民主主義|社会民主主義者]]の任務は、党の綱領と戦術的指導をうけいれさせることにある」という決議を採択した。ソヴェトが党の指導を受け入れない場合は脱退する、とした<ref>広瀬健夫「1905年革命におけるソヴェトの形成」、江口朴郎編『ロシア革命の研究』、中央公論社、1968年、171ページ</ref>。しかし[[亡命]]先から帰国中の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]はソヴェトを「臨時革命政府の萌芽」<ref>「われわれの任務と労働者代表ソヴェト」、『レーニン全集』第10巻、大月書店、1955年、5ページ</ref>と評価した。[[11月]]以降、ボリシェヴィキのソヴィエトに対する否定的評価は消えていった。
[[10月]]の[[ストライキ]]は政府から[[十月詔書]]を引き出し、一定の成功をおさめた。しかし11月に行われたストライキは十分な広がりをもたず、失敗に終わった。ソビエトは退潮に向かい、11月末にはフルスタリョーフ・ノサーリが[[逮捕]]され、[[12月]]には他の幹部も逮捕されて壊滅した。12月には[[モスクワ]]のソビエトが武装蜂起したが、やはり失敗に終わった。
=== 二月革命から十月革命へ ===
ソビエトは、[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]の際に再び結成された。2月27日のペトログラード・労働者代表ソビエト設立会議では、メンシェヴィキのチヘイゼが議長として選ばれた。[[3月1日]]の総会では兵士の代表も加わり、労働者・兵士代表ソビエトとなった。この総会はペトログラード守備隊に対する「命令第一号」を決定した。これは「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴェトの命令と決定に反する場合をのぞいて履行すべきである」「一切の[[武器]]、[[小銃]]、[[機関銃]]、[[装甲車]]などは[[中隊]]、[[大隊]]委員会の管理と統制のもとにおかれ、要求があっても[[将校]]には決して引き渡してはならない」などといった内容を含んでおり、国家権力の一部を分有する姿勢を示すものだった。結果として[[ロシア臨時政府|臨時政府]]とソビエトの二重権力状態が生じた。
[[4月]]に帰国したレーニンは、「現在の革命における[[プロレタリアート]]の任務について」([[四月テーゼ]])で、労働者代表ソヴィエトを「ただ一つ可能な革命政府の形態」と評価し、臨時政府打倒と全権力のソビエトへの移行を主張した<ref>『レーニン全集』第24巻、大月書店、1957年、5ページ</ref>。ソビエトは[[パリ・コミューン]]と同じ型の権力と評価された。
{{quotation|この型の基本的な標識はつぎのようなものである。(一)権力の源泉は、あらかじめ議会によって審議され承認された法律ではなくて、下からの、各地における人民大衆の直接の発意であり、流行の用語をつかっていえば、直接の「奪取」である。(二)人民からはなれ、人民に対立する機関としての[[警察]]と[[軍隊]]が、全人民の直接の武装に代えられる。こういう権力のもとで国家秩序を維持するのは、武装した労働者・農民それ自身、武装した人民それ自身である。(三)官吏・官僚も、これまた人民自身の直接の権力に代えられるか、すくなくとも特別の監督のもとにおかれ、人民に選出されるばかりか、人民が要求すればいつでも代えることができるものとなり、単なる代理人の地位に引きおろされる。彼らは、その「地位」にたいして[[ブルジョワジー|ブルジョア]]なみの高給をもらう特権層ではなくなって、熟練労働者の普通の[[賃金]]をこえない俸給をもらう特別の「兵種」の労働者となる<ref>『レーニン全集』第24巻、大月書店、1957年、22ページ</ref>。}}
[[8月]]から[[9月]]にかけ、ボリシェヴィキは[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]とモスクワのソビエトで多数派の支持を獲得した。それを受けてレーニンはボリシェヴィキ内で武装蜂起による権力奪取を呼びかけた。ペトログラード・ソビエトの議長だったトロツキーはソビエトの軍事革命員会を率いて蜂起の準備を進め、[[10月25日]]の労働者・兵士ソビエト第二回全ロシア大会の直前に実行して権力を奪取した。
=== 十月革命以後 ===
ソビエトは[[十月革命]]により国家機関となったが、レーニンが構想した通りのコミューン型国家は実現されず、むしろそこから急速に離れていった。
政府機関として、ソヴィエトとは別に人民委員会議が設立され、レーニンが議長に就任した。ボリシェヴィキ党内で反対意見があったにもかかわらず<ref>稲子恒夫『ソビエト国家組織の歴史』、日本評論社、1964年、16ページ</ref>、この制度はそのまま恒常化し、[[1918年]]の[[憲法]]にも書き込まれた。人民委員会議は「全体として全ロシア・ソビエト大会および全ロシア・ソビエト中央執行委員会にたいして責任を負う」と規定された(第46条)。ソヴィエトは人民委員会議を権威づけるだけの存在になっていった。
ソビエトの全ロシア中央執行委員会は、1918年[[6月14日]]、[[社会革命党]]とメンシェヴィキをソビエトから追放する布告を出した。つづく7月には[[左翼]]社会革命党がボリシェヴィキ[[政権]]に対して反乱を起こした。ソビエトにはボリシェヴィキだけが残り、その結果、政策決定はボリシェヴィキ党内で完結するようになっていった。
== 表現・用例に関する留意点 ==
=== ロシア語の一般名詞としてのソビエト ===
ロシア語以外の言語では、「ソビエト」という単語は「ソ連」の同意語、ないし「[[ソ連型社会主義]]」や「[[共産主義]]」に類した語、もしくはそれらと密接な関係を持った語として扱われる場合が多い。しかし、ロシア語においては「ソビエト({{lang|ru|совет}})」という単語は、「忠告、助言」、「会議、協議、評議」、「協議会、評議会、[[理事会]]」<!--、「(古語で)強調」-->などを意味する一般[[名詞]]であり、日常会話のなかでは(国家としての)「ソ連」や「共産主義」と特に関係のない文脈において用いられる場合が多い。
例えば、「会議、評議会」としての「{{lang|ru|совет}}」は、帝政時代から現在まで国内外の会議・議会等に用いられている。また、ソ連の各級立法・行政機関も「ソビエト」と呼ばれていた。現在の[[ロシア連邦議会]][[上院]]も「{{lang|ru|Совет Федерации}}」(<small>サヴィェート・フェデラーツィイ</small>、[[連邦会議 (ロシア)|連邦会議]])と表現される。同様に、帝政ロシアや現在のロシアを含む各国の[[国務院]]は「{{lang|ru|Государственный Совет}}」(<small>ガスダールストヴェンヌィイ・サヴィェート</small>)と呼ばれている。また、国際組織としては、[[国際連合安全保障理事会]]が「{{lang|ru|Совет Безопасности}}」、[[欧州連合理事会]]が「{{lang|ru|Совет Европейского Союза}}」、といった形で表現される。
また、この一般名詞「{{lang|ru|совет}}」から展開される語としては、「忠告者」、「顧問、参事」を意味する名詞「{{lang|ru|советник}}」(<small>サヴィェートニク</small>)や「{{lang|ru|совечик}}(女性形:{{lang|ru|совечица}})」(<small>サヴィェーチク</small>:<small>サヴィェーチッツァ</small>)、「忠告する」を意味する[[動詞]]「{{lang|ru|советовать}}」(<small>サヴィェータヴァチ</small>)及び「{{lang|ru|посоветовать}}」(<small>パサヴィェータヴァチ</small>)、「助言を求める」を意味する動詞「{{lang|ru|советоваться}}」(<small>サヴィェータヴァッツァ</small>)及び「{{lang|ru|посоветоваться}}」(<small>パサヴィェータヴァッツァ</small>)、「会議、審議会」を意味する「{{lang|ru|совещание}}」(<small>サヴィシシャーニイェ</small>)、その形容詞の「{{lang|ru|совещательный}}」(<small>サヴィシシャーチェリヌィイ</small>)、「協議する」という動詞の「{{lang|ru|совещаться}}」(<small>サヴィシシャーッツァ</small>)などがある。
一方、(固有名詞から展開される[[形容詞]])「ソ連の」「ソビエトの」は、「{{lang|ru|советский}}」(<small>サヴィェーツキイ</small>)と表現される。
=== 他言語におけるソビエト ===
「ソビエト」はロシア語においては本来は一般名詞であるが、「ソビエト」という語は[[日本語]]や[[英語]]のような他言語においては意味的な訳語を用いることなく固有名詞的に音そのままに「ソビエト」と表現され用いられる場合が多い([[音訳]])。[[中国語]]における漢字表記も音訳の「蘇維埃」であり、[[1931年]]に[[中国共産党]]の樹立した[[中華ソビエト共和国]]も漢字表記は「中華蘇維埃共和國」である。
ただし、いくつかの言語においては意味的な訳語が用いられている([[意訳]])。[[ウクライナ語]]では「議会」を意味する「[[ラーダ]]({{lang|uk|рада}})」がソビエトの訳語として用いられており、「[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]」もウクライナ語では「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国({{lang|uk|Українська Радянська Соціалістична Республіка}})」となる(ただし、非ウクライナ語圏においては、単に「ラーダ」といった場合は反ボリシェヴィキ派の組織である[[ウクライナ中央ラーダ]]を指すことが多い)。また、[[バルト三国]]の[[リトアニア語]]({{lang|lt|taryba}})、[[ラトビア語]]({{lang|lv|padome}})、[[エストニア語]]({{lang|et|nõukogu}})でも訳語が用いられている。ソ連国外では[[フィンランド語]]、[[モンゴル語]]等で訳語が用いられる。
また、[[ドイツ革命]]時に作られたソビエトに相当する労兵評議会は、[[ドイツ語]]で「[[レーテ]]」({{lang|de|Räte}}, ロシア語の一般名詞としての「ソビエト」とほぼ同じ意味)と呼ばれた。ただし現在のドイツ語でソ連やソ連のソビエトを指す「ソビエト」はそのまま「{{lang|de|Sowjet}}」である。
== 各地のソビエト ==
ロシア革命からその後のロシア内戦期にかけてロシアとその周辺には、次表のように「ソビエト」の名を冠した国家組織ないし政権([[統治機関]])が旧ロシア帝国内外に誕生した。
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==脚注==
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== 関連項目 ==
*[[最高ソビエト|最高会議]]
*[[中国共産党革命根拠地]]
*[[世界ソビエト社会主義共和国]]
*[[レーテ]] - [[ドイツ革命]]で発生した兵士と労働者による評議会組織
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京急
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京急(けいきゅう)は、日本の陸運業者およびグループ企業の冠称・略称である。
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京急(けいきゅう)は、日本の陸運業者およびグループ企業の冠称・略称である。 東京都および神奈川県内に路線網を有する大手私鉄、京浜急行電鉄の略称。
同社を中核とする企業群については、京急グループを参照。
大阪府に本社を置き、貸切輸送および路線バス事業を営む京都急行バスの旧称「京急バス」。上記の京浜急行電鉄より苦情があったことなどから再改名した。
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'''京急'''(けいきゅう)は、日本の陸運業者およびグループ企業の冠称・略称である。
* 東京都および神奈川県内に路線網を有する大手私鉄、[[京浜急行電鉄]]の略称。
** 同社を中核とする企業群については、[[京急グループ]]を参照。
* 大阪府に本社を置き、貸切輸送および路線バス事業を営む[[京都急行バス]]の旧称「京急バス」。上記の京浜急行電鉄より苦情があったことなどから再改名した。
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装飾
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装飾(そうしょく)
一般には物品、建築物、身体等を装い飾ること、またそれに用いる飾り。特にそれ自体が機能を持たず、視覚的美感に訴えるものをいう。以下を参照
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装飾(そうしょく) 一般には物品、建築物、身体等を装い飾ること、またそれに用いる飾り。特にそれ自体が機能を持たず、視覚的美感に訴えるものをいう。以下を参照 一般の装飾 → デコレーション、デザイン、工芸、模様、装飾美術
室内装飾 → インテリア
身体 → 身体装飾、服飾、装身具
文字 → 書体、セリフ (文字)、明朝体、カリグラフィー
その他 → 装飾古墳、装飾経、装飾写本など
聴覚的な装飾 → 装飾音、効果音
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'''装飾'''(そうしょく)
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一般には物品、建築物、身体等を装い飾ること、またそれに用いる飾り。特にそれ自体が[[機能]]を持たず、[[視覚]]的美感に訴えるものをいう。以下を参照
* 一般の装飾 → [[デコレーション]]、[[デザイン]]、[[工芸]]、[[模様]]、[[装飾美術]]
* 室内装飾 → [[インテリア]]
* 身体 → [[身体装飾]]、[[服飾]]、[[装身具]]
* 文字 → [[書体]]、[[セリフ (文字)]]、[[明朝体]]、[[カリグラフィー]]
* その他 → [[装飾古墳]]、[[装飾経]]、[[装飾写本]]など
* [[聴覚]]的な装飾 → [[装飾音]]、[[効果音]]
== 装飾で明言されていること ==
*[[ヴァイオリン]]のスクロール - 先端の渦巻き(スクロール)は装飾であり、一般には音に影響しないとされている。
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アスコルビン酸
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アスコルビン酸(アスコルビンさん、英: ascorbic acid)は、栄養素のビタミンCとしてはたらく、ラクトン構造を持つ有機化合物の1種である。光学活性化合物であり、ビタミンCとして知られるのはL体の方である。食品添加物の酸化防止剤として、広く使用される。IUPAC命名法では、フランの誘導体と見なして、(R)-3,4-ジヒドロキシ-5-((S)-1,2-ジヒドロキシエチル)フラン-2(5H)-オンと表される。
L-アスコルビン酸はグルコースを原料として、主に2通りの経路で製造される。1930年代に開発された ライヒシュタイン法では、1段階の発酵のあとに、化学合成へ移る。より新しい2段階発酵法は、もとは1960年代に中国で開発された方法であるが、そこではその化学合成の後ろのほうの段階も酵素反応で置き換えている。どちらの経路も、用いたグルコースから約60%の収率でアスコルビン酸を産出する。全世界におけるアスコルビン酸の年間の生産量は約110,000トンにのぼる。
アスコルビン酸はビニル性カルボン酸のように振る舞い、二重結合のπ電子がヒドロキシ基とカルボニル基の間に伝わることにより高い酸性を示す (pKa1 = 4.17、pH = 2 (50 mg/mL))。これは、プロトンを放出した後の共役塩基が共鳴構造を持ち、負電荷を非局在化させて安定化できるためである。
アスコルビン酸は還元性を示す。適当な酸化剤(空気中の酸素およびハロゲンなど)の作用により、プロトンを2個放出してデヒドロアスコルビン酸に変わる。この性質により、酸化防止剤として用いられる。
アスコルビン酸イオンは、典型的な生物学的pH値における優勢種である。 マイルドな還元剤及び抗酸化物質 (酸化防止剤)である。 酸化で1番目の電子が失われることによりラジカルカチオンが形成され、次に2番目の電子が失われることによりデヒドロアスコルビン酸が形成される。 通常、ヒドロキシルラジカルなどの活性酸素種の酸化剤と反応する。
アスコルビン酸は、セミデヒドロアスコルビン酸と呼ばれるそれ自体のラジカルイオンの共鳴安定化された性質により、単一の電子を転送することができるという特質をもつ。 化学反応式は以下のとおり:
酸素にさらされると、アスコルビン酸はさらに酸化分解されて、ジケトグロン酸、キシロン酸、トレオン酸、シュウ酸などのさまざまな生成物になる。
活性酸素種は、核酸、タンパク質、脂質との相互作用の可能性があるため、分子レベルで動植物に損傷を与えるものであり、これらのラジカルが連鎖反応を開始することがある。 アスコルビン酸塩は、電子移動反応によってこれらの連鎖ラジカル反応を終わらせることができる。 アスコルビン酸塩の酸化型は比較的非反応性であり、細胞の損傷を引き起こさない。
しかしながら、アスコルビン酸塩は優れた電子供与体であるので、遊離金属イオンの存在下での過剰なアスコルビン酸塩は、フリーラジカル反応を促進するだけでなく開始することもできるため、特定の代謝状況において潜在的に危険な酸化促進化合物になり得る。
アスコルビン酸とアスコルビン酸ナトリウム、アスコルビン酸カリウム、アスコルビン酸カルシウム塩、アスコルビン酸グルコシドは、食品添加物である酸化防止剤として一般的に使用されている。 ただし、これらの化合物は水溶性であるため、脂肪を酸化から保護することはできない。この目的のために、アスコルビン酸と長鎖脂肪酸の脂溶性エステル(パルミチン酸アスコルビルまたはステアリン酸アスコルビル)を食品の抗酸化剤として使用することができる。
なお食品が、その加工中や保存中などに、その色が褐変する事を防止するために、アスコルビン酸自身が酸化されて、食品の側を還元する作用を利用する方法もある。
アスコルビン酸はプロトンの移動によって不安定なジケトンに互変異性する。この場合、エノール側が優勢である。エノールがプロトンを失うと、その二重結合からπ電子を受け取り、ジケトンが生成する。この互変異性では1,2-ジケトンと1,3-ジケトンが生成可能である。
アスコルビン酸の定量分析は、酸化還元滴定により行える。試料をメタリン酸水溶液に溶かし 0.05 mol/L ヨウ素溶液で滴定する。指示薬は、デンプン試液を用いる。この方法の中で、ヨウ素は酸化剤としてはたらく。
ドイツ連邦リスク評価研究所 (BfR) の報告によれば、清涼飲料水中に安息香酸とアスコルビン酸が共存する場合には微量のベンゼンが生成する可能性があり、生成量は pH、温度、他の不純物(主に金属イオンが影響するものと思われる)、紫外線の影響を受けると言う。
アスコルビン酸の構造を決定したウォルター・ハースは、1937年にノーベル賞を受賞した。
アスコルビン酸の名前の由来は、壊血病 (scurvy) の治療に効果があったことによる【a(否定)+ scorbutic(壊血病に罹った)】。
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アスコルビン酸(アスコルビンさん、英: ascorbic acid)は、栄養素のビタミンCとしてはたらく、ラクトン構造を持つ有機化合物の1種である。光学活性化合物であり、ビタミンCとして知られるのはL体の方である。食品添加物の酸化防止剤として、広く使用される。IUPAC命名法では、フランの誘導体と見なして、(R)-3,4-ジヒドロキシ-5-((S)-1,2-ジヒドロキシエチル)フラン-2(5H)-オンと表される。
|
{{Otheruses|アスコルビン酸の有機化合物としての側面|栄養素としての役割|ビタミンC}}
{{Chembox
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| ImageFile1 =L-ascorbic-acid-3D-balls.png
| IUPACName = (''R'')-3,4-ジヒドロキシ-5-((''S'')- 1,2-ジヒドロキシエチル)フラン-2(5''H'')-オン
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| 日化辞番号 = J2.301I
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| Section2 = {{Chembox Properties
| 分子式 = C<sub>6</sub>H<sub>8</sub>O<sub>6</sub>
| MolarMass = 176.1241 g/mol
| Appearance = 白色または淡黄色の固体
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| MainHazards =
| FlashPt =
| Autoignition =
| LD50 = 11.9 g/kg(経口、ラット)<ref>{{cite web |url=http://physchem.ox.ac.uk/MSDS/AS/ascorbic_acid.html |title=Safety (MSDS) data for ascorbic acid |accessdate= 2007-02-21 |date= 2005-10-09 | publisher= [[オックスフォード大学]]}}</ref>
}}
}}
'''アスコルビン酸'''(アスコルビンさん、{{lang-en-short|ascorbic acid}})は、[[栄養素]]の[[ビタミンC]]としてはたらく、[[ラクトン]]構造を持つ[[有機化合物]]の1種である。[[光学活性]]化合物であり、ビタミンCとして知られるのは<small>L</small>体の方である。[[食品添加物]]の[[酸化防止剤]]として、広く使用される。[[IUPAC命名法]]では、[[フラン (化学)|フラン]]の誘導体と見なして、'''(''R'')-3,4-ジヒドロキシ-5-((''S'')-1,2-ジヒドロキシエチル)フラン-2(5''H'')-オン'''と表される。
== 工業的製造法 ==
<small>L</small>-アスコルビン酸は[[グルコース]]を原料として、主に2通りの経路で製造される。[[1930年代]]に開発された ライヒシュタイン法では、1段階の[[発酵]]のあとに、化学合成へ移る。より新しい2段階発酵法は、もとは[[1960年代]]に中国で開発された方法であるが、そこではその化学合成の後ろのほうの段階も酵素反応で置き換えている。どちらの経路も、用いたグルコースから約60%の収率でアスコルビン酸を産出する。全世界におけるアスコルビン酸の年間の生産量は約110,000トンにのぼる{{いつ|date=2018年9月}}。
== 化学的性質 ==
=== 酸性 ===
アスコルビン酸は[[ビニル性]][[カルボン酸]]のように振る舞い、[[二重結合]]のπ電子が[[ヒドロキシ基]]と[[カルボニル基]]の間に伝わることにより高い酸性を示す ({{pKa}}{{sub|1}} = 4.17、pH = 2 (50 mg/mL))。これは、プロトンを放出した後の共役塩基が[[共鳴理論|共鳴構造]]を持ち、負電荷を非局在化させて安定化できるためである。
[[File:Ascorbic acidity.PNG|center|450px|アスコルビン酸の共鳴構造]]
アスコルビン酸は還元性を示す。適当な酸化剤(空気中の酸素およびハロゲンなど)の作用により、プロトンを2個放出して[[デヒドロアスコルビン酸]]に変わる。この性質により、酸化防止剤として用いられる。
=== 酸化 ===
アスコルビン酸イオンは、典型的な生物学的pH値における優勢種である。 マイルドな[[還元剤]]及び[[抗酸化物質]] ([[酸化防止剤]])である。 酸化で1番目の電子が失われることにより[[ラジカル (化学)|ラジカル]][[カチオン]]が形成され、次に2番目の電子が失われることにより[[デヒドロアスコルビン酸]]が形成される。 通常、[[ヒドロキシルラジカル]]などの[[活性酸素]]種の酸化剤と反応する。
アスコルビン酸は、[[セミデヒドロアスコルビン酸]]と呼ばれるそれ自体のラジカルイオンの共鳴安定化された性質により、単一の電子を転送することができるという特質をもつ。
化学反応式は以下のとおり:
:RO<sup>•</sup> + {{chem|C|6|H|7|O|6|−}} → RO<sup>−</sup> + C<sub>6</sub>H<sub>7</sub>O{{su|b=6|p=•}} → ROH + C<sub>6</sub>H<sub>6</sub>O<sub>6</sub>
酸素にさらされると、アスコルビン酸はさらに酸化分解されて、[[ジケトグロン酸]]、[[キシロン酸]]、[[トレオン酸]]、[[シュウ酸]]などのさまざまな生成物になる。
活性酸素種は、核酸、タンパク質、脂質との相互作用の可能性があるため、分子レベルで動植物に損傷を与えるものであり、これらのラジカルが連鎖反応を開始することがある。 アスコルビン酸塩は、[[電子移動反応]]によってこれらの連鎖ラジカル反応を終わらせることができる。 アスコルビン酸塩の酸化型は比較的非反応性であり、細胞の損傷を引き起こさない。
しかしながら、アスコルビン酸塩は優れた電子供与体であるので、遊離金属イオンの存在下での過剰なアスコルビン酸塩は、フリーラジカル反応を促進するだけでなく開始することもできるため、特定の代謝状況において潜在的に危険な酸化促進化合物になり得る。
アスコルビン酸と[[アスコルビン酸ナトリウム]]、[[アスコルビン酸カリウム]]、[[アスコルビン酸カルシウム]]塩、[[アスコルビン酸グルコシド]]は、[[食品添加物]]である[[酸化防止剤]]として一般的に使用されている。 ただし、これらの化合物は水溶性であるため、脂肪を酸化から保護することはできない。この目的のために、アスコルビン酸と長鎖脂肪酸の脂溶性エステル([[パルミチン酸アスコルビル]]または[[ステアリン酸アスコルビル]])を食品の抗酸化剤として使用することができる。
なお食品が、その加工中や保存中などに、その色が褐変する事を防止するために、アスコルビン酸自身が酸化されて、食品の側を還元する作用を利用する方法もある<ref>日本海水学会(編)『塩のことば辞典』 p.89(「褐変防止」の項目) 素朴社 2007年6月10日発行 ISBN 978-4-903773-03-2</ref><ref group="注釈">ただし、食品の褐変を防止する方法は、1つだけではない。例えば、[[クエン酸]]の場合は、クエン酸が金属イオンを捕えて食品の褐変を防いでいるのであって、アスコルビン酸とは機序が異なる。もちろん、例えば果皮を剥いたリンゴの褐変を防止するために[[食塩水]]を用いた場合は、リンゴが持つ[[ポリフェノールオキシターゼ]]の作用を食塩水が阻害する事を利用して褐変を防いでいるのであって、やはり全く機序が異なる。</ref>。
=== 互変異性 ===
[[File:Ascorbic diketone.png|center|274px|アスコルビン酸のエノールをプロトンが求核攻撃し、1,3-ジケトンを与える。]]
アスコルビン酸はプロトンの移動によって不安定な[[ジケトン]]に互変異性する。この場合、エノール側が優勢である。エノールがプロトンを失うと、その二重結合からπ電子を受け取り、ジケトンが生成する。この互変異性では1,2-ジケトンと1,3-ジケトンが生成可能である。
=== 定量法 ===
アスコルビン酸の定量分析は、[[酸化還元滴定]]により行える。試料を[[メタリン酸]]水溶液に溶かし 0.05 mol/L [[ヨウ素]]溶液で[[滴定]]する。指示薬は、[[デンプン]]試液を用いる。この方法の中で、ヨウ素は酸化剤としてはたらく。<!--前の版にあった記述を文章体に直したものですが、裏はとれておりません-->
== その他 ==
ドイツ連邦リスク評価研究所 (BfR) の報告によれば、清涼飲料水中に[[安息香酸]]とアスコルビン酸が共存する場合には微量の[[ベンゼン]]が生成する可能性があり、生成量は [[水素イオン指数|pH]]、温度、他の不純物(主に[[金属]][[イオン]]が影響するものと思われる)、[[紫外線]]の影響を受けると言う<ref>
{{PDFlink|[http://www.bfr.bund.de/cm/208/hinweise_auf_eine_moegliche_bildung_von_benzol_aus_benzoesaeure_in_lebensmitteln.pdf BfRによる原著文献(ドイツ語)]}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.nihs.go.jp/hse/food-info/foodinfonews/2006/foodinfo200605.pdf P30に国立医薬品食品衛生研究所安全情報部による日本語の摘要]}}</ref>。
アスコルビン酸の構造を決定した[[ウォルター・ハース]]は、[[1937年]]に[[ノーベル賞]]を受賞した。
アスコルビン酸の名前の由来は、[[壊血病]] (scurvy) の治療に効果があったことによる【a(否定)+ scorbutic(壊血病に罹った)】。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ビタミンC誘導体]]
* [[エリソルビン酸]]
* [[クエン酸]]
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|
10,739 |
光明
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光明(こうみょう)とは、明るい光のこと。対義語は暗黒または無明。
光明(くゎうみゃう)とは、仏が発する光で、大乗仏典では智慧や慈悲の象徴として、瞑想中の全身から光明を放つ場面が描かれる。転じて「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表すこともある。
『倶舎論』によると自ら光を発するもの(太陽など)を光といい、その光を反射するもの(月など)を明という。
チベット仏教においてはいくつかの意味が存在する。密教の修行である究竟次第の修行法の一つに「光明」(楽現覚次第)がある。また、経典『無上瑜伽タントラ』に説かれる光明は、大楽(マハースカ)が認識対象としての空性を理解し一つになった楽空無別の智慧を指す。
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光明(こうみょう)とは、明るい光のこと。対義語は暗黒または無明。
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'''光明'''(こうみょう)とは、明るい[[光]]のこと。対義語は[[暗黒]]または[[無明]]。
== 仏教用語としての光明 ==
'''光明'''(くゎうみゃう)とは、[[仏]]が発する光で、大乗仏典では[[智慧]]や[[慈悲]]の象徴として、瞑想中の全身から光明を放つ場面が描かれる。転じて「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表すこともある。
『[[倶舎論]]』によると自ら光を発するもの(太陽など)を光といい、その光を反射するもの(月など)を明という。
[[チベット仏教]]においてはいくつかの意味が存在する。密教の修行である[[秘密集会タントラ#究竟次第|究竟次第]]の修行法の一つに「光明」(楽現覚次第)がある{{Sfn|正木|1996|p=194}}{{Sfn|田中|2022|p=220}}。また、経典『[[無上瑜伽タントラ]]』に説かれる光明は、大楽(マハースカ)が認識対象としての[[空 (仏教)|空性]]を理解し一つになった楽空無別の智慧を指す{{Sfn|福田&伏見|2019|p=168}}。
{{Seealso|ナーローパの六法}}
== 関連項目==
* [[光明真言]]
* {{Prefix}}
* [[光明寺]]
* [[光明院]]
* [[光明宗]]
* [[光明山]]
* [[ニューソート]]
* [[ルシファー]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |title=新アジア仏教史09 チベット 須弥山の仏教世界 |date=2010-04-27 |publisher=[[佼成出版社]] |ASIN=B081GB5VQQ |editor=沖本克己 |ref={{SfnRef|沖本編|2010}} |year=2019 |edition=電子版}}
** {{Cite book|和書 |title= |publisher= |chapter=第3章 宗派概説 |author=福田洋一、伏見英俊 |ref={{SfnRef|福田&伏見|2019}} |pages=160-177}}
** {{Cite book|和書 |title= |publisher= |chapter=第6章 文化 現代チベット仏教の諸相 |author=野村清次郎、[[平岡宏一]]、三宅伸一郎 |pages=318-379}}
* {{Cite book|和書 |title=インド密教史 |date=2022-10-30 |publisher=春秋社 |isbn=978-4-393-13458-0 |ref={{SfnRef|田中|2022}} |author=[[田中公明]] |edition=初}}
* {{Cite journal|author=[[正木晃]]|year=1996|title=快楽と叡智|url=https://doi.org/10.15055/00005908|journal=現代生命論研究|volume=9|pages=191-205|publisher=[[国際日本文化研究センター]]|ref={{SfnRef|正木|1996}}}}
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10,740 |
ビタミンC
|
ビタミンC (vitamin C, VC) は、水溶性ビタミンの1種。物質としては L-アスコルビン酸(単にアスコルビン酸とも)を指す。欠乏状態が続くと壊血病を発症する。ビタミンEの再利用やコラーゲンの合成に必要であるほか、発症した壊血病の治療にも使われる。WHO必須医薬品モデル・リスト収録品。特に野菜や果物に含まれ、サプリメントも利用されている。
風邪をひいてからビタミンCを摂取する「治療」効果は、7件のランダム化比較試験 (RCT) からはっきりせず、31件のRCTから日常的なビタミンC摂取では風邪の発症率は低下しない(予防しない)が、風邪の重症度と期間は減少させ、スポーツ選手や寒冷地の兵士といった特定の集団では予防効果があるとされる。鉄分やカルシウムなどミネラルの吸収を高める効果がある。鉄過剰症(ヘモクロマトーシス)の人でビタミンCの摂取過剰では鉄過剰が促進されるが、健康な成人であれば影響はない。
ビタミンCは、コラーゲンの合成に深く関与している。プロリン・リジン残基を含めた形でコラーゲンのタンパク質が合成され、タンパク質鎖が形成された後で酸化酵素によりプロリン・リジン残基がそれぞれヒドロキシル化(水酸化)を受けてヒドロキシプロリン・ヒドロキシリジン残基に変化し、これらは水素結合によってタンパク質鎖同士を結び、コラーゲンの3重螺旋構造を保つ働きがある。またこの反応の際にはビタミンCを必要とするため、ビタミンCを欠いた食事を続けていると正常なコラーゲン合成ができなくなり、壊血病を引き起こすものである。
ビタミンCは、水溶性で強い還元能力を有し、スーパーオキシド(O)、ヒドロキシラジカル(・OH)、過酸化水素(H2O2)などの活性酸素類を消去する。ビタミンCの過酸化水素の消去は、グルタチオン-アスコルビン酸回路によって行われる。この回路に代表されるように、ビタミンCがデヒドロアスコルビン酸に酸化されても各種酵素によりビタミンC(アスコルビン酸)に還元・再生されて触媒的に機能する。
ビタミンCは、ビタミンEの再生機能がある。ビタミンEは、脂質中のフリーラジカルを消失させることにより自らがビタミンEラジカルとなり、フリーラジカルによる脂質の連鎖的酸化を阻止する。発生したビタミンEラジカルは、ビタミンCによりビタミンEに再生される。
その他のビタミンCの機能としては、生体異物を代謝するシトクロムP450の活性化、チロシンからノルアドレナリンへの代謝(ドーパミンヒドロキシラーゼ)、消化器官中で鉄イオンを2価に保つことによる鉄の吸収の促進、脂肪酸の分解に関与するカルニチンがリジンから生合成される過程のヒドロキシ酵素の補酵素としての参画、コレステロールをヒドロキシ化し7α-ヒドロキシコレステロールを経た胆汁酸の合成等の様々な反応に関与している。
人体を構成するタンパク質や脂質、DNAを酸化させる活性酸素種を素早く取り除く効果がある。活性酸素種は、糖尿病や動脈硬化、白内障などのいわゆる老化関連疾患の悪化につながる。
紫外線により発生する活性酸素の影響でメラニンが合成される。ビタミンCはメラニン生成時に働く酵素チロシナーゼの活性化を阻害し、黒色メラニン合成を抑制するとされている。また、酸化型の黒色メラニンを還元型の淡色メラニンにするため、黒色メラニンの脱色効果も期待できる。 また、高濃度ビタミンC療法では、過剰な皮脂の分泌を抑えてニキビを発生しにくくしたり、皮脂腺の働きを抑えることで毛穴を引き締めたりする効果もあるとされる。
免疫をつかさどったり、体内に侵入したウイルスや細菌と戦ったりする白血球やリンパ球を活性化させる働きがある。 風邪をひきにくくする身体を作り、免疫力の強化とともに、ウイルスを撃退して治癒を早める働きがあるとされる。
人間がストレスを感じると、副腎からストレスに対抗するホルモンが生成される。ビタミンCはこのホルモンの生成に使われるため、定期的にビタミンC を摂取することで、ストレスが与える精神的・身体的な影響の予防に役立つとされる。
ハムやソーセージ、練り製品などの食肉・魚肉製品の食品添加物として使われる亜硝酸ナトリウムが、肉や魚などのたんぱく質食品を食べると体内で生成されるアミンと結合すると、体内で発がん性物質「ニトロソアミン」が形成される。ビタミンCはニトロソアミンの形成を抑えたり、発がん性を弱めたりするとの報告があり、抗がん作用が期待されている。
ビタミンCは皮膚や骨、血管に多く含まれるコラーゲン繊維の構築に必要であり、それぞれの強度を保つ働きを持つ。 ビタミンCが不足すると、コラーゲンが合成されずに血管がもろくなって出血を起こすようになる(壊血病)。出血のほかにも、イライラや貧血、筋肉減少、心臓障害、呼吸困難などを引き起こすおそれがあり、適切なビタミンCの摂取で壊血病を防止することが重要になる。
壊血病の予防・治療に用いられる。ビタミンCを含まない食事を約60 - 90日間続けた場合、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり、軽度の欠乏症状である疲労、倦怠感や筋肉痛を感じ、易怒性を呈し数カ月後に出血性の障害をもたらす重度の欠乏症である壊血病を発症する。
ノーベル化学賞を受賞したライナス・ポーリングが、1970年代に、毎日100mg以上のビタミンCの摂取によって、風邪の発生率と期間を意味する「風邪の総負担」の減少が、4件のランダム化比較試験 (RCT) を分析した「統合された罹患率」よって裏付けられているとした。その後、予防、治療、対象集団を変えて賛否両論のある形で研究が続いてきた。ポーリングによって一般大衆にまで興味を引き、1972年から1979年まで約8400人が参加した29件のRCTが実施されたが、その後、関心は薄れ1985年以降にはわずかにしか実施されず参加者の数も小規模となっている。2008年の世界保健機関 (WHO) の処方薬一覧の簡単な記載には、風邪の治療効果には証拠が確認されていないと記されているが、この記載には証拠の引用はない。
アメリカ国立衛生研究所 (NIH) の医療向けサプリメントの解説ページでは、2018年時点で、2007年のコクランレビューやそれ以外の研究も引用し、総合的には、風邪をひいてからではおそらく効果はないが、毎日200mgの定期的なビタミンCでは一般集団の風邪の発生率には影響しないが、風邪の期間や重症度を下げ、寒冷地や激しい運動、高齢者や喫煙者のようにビタミンCが少なくなっている人では予防効果があるかもしれないとしている。
米国家庭医学会 (AAFP) の2012年ガイドラインでは、ビタミンCの200mgから2グラムは小児の風邪の予防に効果ありとし、成人の風邪治療にはビタミンCは効果を示さないということを効果なしの研究一覧にも、効果ありの研究一覧にも、同じ2007年のコクランレビューを記載している。なおこのガイドラインは医薬品にも効果なしを判定しており厳格なものとなっている。
2013年に改訂されたコクランレビューでは同じような内容だが、31研究の合計9745人から定期的にビタミンCを200mg摂取することで、一般集団では発症率の低下はないが、重症度を下げ、回復までの日数は成人8%、小児14%減少し、スポーツ選手や寒冷地の兵士では発症率は半減していた。治療薬としてビタミンCを投与した場合、7件のランダム化比較試験があったが結果は一貫しておらず、回復までの期間減少も再現されていないが、日常的な服用で効果があることとビタミンCが安全で安いことから、治療薬としてのビタミンCの研究も実施すべきだとしている。それまでの治療薬としてのビタミンCの研究は、定期摂取で有望な小児での研究は実施されておらず、成人では初日に5グラムや、2-3日間に2-4グラムなど一貫したものではない。
2018年の9件のRCTを分析したメタアナリシスでは、発症時にのみ高用量のビタミンCを摂取した場合には効果はなく、定期的なビタミンCの摂取があり、風邪の発症後に毎日1グラムから6グラムを追加して服用したグループでは、胸痛、発熱、悪寒の減少、平均10時間の風邪の期間の短縮がみられた。
2013年のコクランレビューは、肺炎を予防したという3件のRCT、治療したという2件のRCTを発見している。
重症の敗血症では、比較群の治療による約40%の死亡率よりも、静脈内ビタミンCでは8.5%と生存率を大きく向上させ、重症化も防いでいる。
食品中のビタミンC摂取は多くのコホート研究で様々ながんの発症の減少と関連しており、ビタミンCサプリメントは様々なランダム化比較試験でがんの発生率と無関係だとされている。
1976年にライナス・ポーリングとキャメロンは、様々な末期がん患者に100名に対し10日間ビタミンC10グラムを「静脈注射」し、その後経口摂取したことで、生存期間を延長すると報告した。また、1974年には分子矯正医学研究所のキャメロン・キャンベルらは様々ながん患者50名に対し最初10日間ビタミンC10グラムを静注し、それから経口のビタミンCを摂取したことで、標準的な治療法を補助する手段だと報告した。1985年にはメイヨークリニックのMoertelらが、「経口」のビタミンCを使った偽薬対照のランダム化比較試験を実施し、進行性の結腸直腸がん患者で効果が見られなかったと報告した。前者の肯定的研究は静注であり、後者のような否定的研究は経口投与したものだったが、人々の注目は小さくなり、しかし静注の方が血中濃度が高くなるという事実から後に再び関心を集めることになる。
アメリカ国立がん研究所の公開情報では、静脈投与では経口投与よりも血中ビタミンCが高くなり、副作用は非常に少なくQOLの向上が見られ、がん治療の副作用を軽減させる効果も見られるとされている。2019年のレビューでは、経口・静脈含め症例報告などを除外し、既に紹介した1980年代の研究から、2010年代までの賛否両方の合計19件の試験があり、そのうち偽薬対照が設けられていたのは4件で、これら全研究から非常に軽い副作用しか害はなさそうだが、効果を裏付けるには研究は足りていないので、続くランダム化比較試験が計画されているとした。
その4件のRCT
Yun J, Mullarky E ら(2015)は高濃度のビタミンCは、がん細胞のアポトーシスを引き起こすとする研究結果を発表しているが、作用機序は未解明であるため臨床応用が可能かは不明である。
日本でも戦後の1940年代には、栄養欠乏によってビタミンC欠乏による色素沈着になる人も多く、ビタミンCが使われ、医薬品の「ハイシー」には以下の効能がある:ビタミンCの欠乏の関与が推定される、肝斑・雀卵斑・炎症後の色素沈着。1950年代になると栄養状態は改善され、同じく肝斑・雀卵斑や日焼け後の色素沈着の予防について報告されるようになった。RCTで、紫外線照射後の色素沈着は、ビタミンCを600mgを単独で摂取するよりもパントテン酸 (9mg) を併用した方が抑制された。26名を対象とした試験でビタミンCが200mg、ビタミンEが100mgの合剤を6か月服用し、肝斑に対し「有効」19.2%、「やや有効」23%であった。内服では、肝斑に対しトラネキサム酸配合錠で改善率は約60%、ビタミンC製剤で26.5%である。
ヒトを含む類人猿はアスコルビン酸を体内で合成できないため、必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要があるビタミンの一種類として扱われている。一方、多くの動物にとっては、アスコルビン酸は生体内で生合成できる物質であるため、必ずしも外界から摂取する必要はない。体内でアスコルビン酸を合成できないのは、ヒトを含むサル目の一部やモルモットなどだけである。
風邪やインフルエンザ、その他の感染症に対してアスコルビン酸粉末などとして医薬品と併用される。その理由としては、これらの肉体的ストレスや治癒に際してはアスコルビン酸の要求量が増大するからというものである。喫煙等のストレスによっても血中濃度が低下するため、結果的にアスコルビン酸の要求量が増大する。
成人の1日あたり摂取量としての厚生労働省による推奨量(RDA)は100mgであるが、喫煙者の場合は、ニコチンがビタミンCの吸収を妨げるといわれているため更に35mg多く摂取する必要があると考えられている。
血漿中ビタミンC濃度基準値を0.7mg/100ml以上に設定して、ビタミンCの1日あたり適正摂取量は成人で100mg(妊婦は+10mg、授乳婦は+40mg ) である。血漿中ビタミンC濃度の正常範囲は 0.5-1.5mg/100mL である。0.2mg/100mL を下回ると、各種の欠乏症状が現れる可能性がある。
なお、ヒトの母乳のビタミンC濃度は0.5mg/100gとの報告がある。
健康な成人であれば 2000mg の摂取量まで毒性はなく、体内で吸収されなかった余剰なビタミンCは尿中に排出されるが、数グラムレベルで一度に大量摂取し、腸管耐容量を超えると下痢を起こす可能性がある。
厚生労働省による2015年の日本人の食事摂取基準では、広い摂取範囲でも安全だと考えられるため、上限量は設定していないが、通常の食品から摂取することを基本とし、サプリメント(健康食品)から 1日あたり1g以上の量を摂取することは推奨できないとしており、生活習慣病の発症予防についても、ビタミンCの摂取量と血液中濃度と体外排泄からは1g以上の摂取には意味がないことが示されているが、病気発症との関連については不明確だとしている。毎日、数グラムの摂取では腎臓でのシュウ酸結石のリスクがあるとしている。
体内でビタミンCの一部がシュウ酸に代謝されるとして、毎日4グラム摂取した者でシュウ酸塩の結晶より腎臓が損傷することで腎不全を発症したという症例報告がある。腎臓移植を受けた31歳の女性が毎日2グラム摂取し、続発性シュウ酸症となった症例が報告されており、腎不全患者のビタミンCの大量摂取については注意が必要であるとする考え方もある。
2019年現在、アメリカ食品医薬品局 (FDA) はビタミンCを癌の治療薬として認可していない。ビタミンCは単に補助食品として利用されている。
多くの食品やサプリメントにおいて、「レモン何個分のビタミンC」という表現が用いられるが、このとき「レモン1個分のビタミンC」は 20mg に換算される。この表記は農林水産省によって1987年に制定された「ビタミンC含有菓子の品質表示ガイドライン」によるものであるが、ビタミンCが主成分であるビタミン添加菓子を対象とするものであり、それ以外の食品やサプリメントに対して用いることは適当でない。また、このことから「レモンはビタミンCを豊富に含む果物である」と誤解されがちだが、実際には同じ柑橘類であるグレープフルーツやユズよりも含有量は低い。
レモン・ライム・オレンジ・グレープフルーツなどの柑橘類のほか、カムカム、柿、アセロラ、キウイフルーツ、トマトはビタミンCの含有量が非常に多い。その他にビタミンCの多く含まれる食品としては、グァバ、パパイヤ、ブロッコリー、芽キャベツ、ブラックベリー、イチゴ、カリフラワー、ほうれん草、マスクメロン、ブルーベリー、パセリ、ジャガイモ、ピーマン、サツマイモなどがある。
ビタミンCそのものは強い癖のある味で、柑橘類でもすっぱい物のほうが含有量は多い傾向にあるため「酸味の強い果物ほどビタミンCが豊富だ」と思われがちだが、実際にはそれらの酸味の多くはクエン酸によるものである。上記のように、酸味がまったくないのにビタミンCが豊富な食品も多い。
乳酸菌は発酵の際にビタミンCも産生し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる。牛乳にはビタミンCがほとんど含まれていない。その理由は、子牛が自らビタミンCを合成できるので牛乳から摂取する必要がないためである。牛乳を発酵して作ったヨーグルトでは若干ながらビタミンCが含まれている。牛乳のみならず肉にもビタミンCは含まれていないので、野菜や果物を摂取できないモンゴル遊牧民は、大人のみならず子供を含め馬乳を乳酸発酵させ微量のビタミンCを生成した馬乳酒を大量に飲むことでビタミンCを補っている。アフリカの遊牧民族であるマサイ族も日常的に発酵乳を飲む。
ビタミンCは、加熱すると空気中の酸素や水分との反応が促進され、酸化されてデヒドロアスコルビン酸となり、さらに加水分解されたジケトグロン酸へ分解しやすくなる。デヒドロアスコルビン酸は人体内でアスコルビン酸に還元され利用されるが、ジケトグロン酸にはビタミンCのような生理活性はないとされる。ジャガイモやさつまいもに含まれるビタミンCのように、デンプンに保護されて酸素に接触しない場合には、加熱してもビタミンCは壊れにくいとの指摘もあるが、ジャガイモの加熱時間に従いビタミンC残存量が顕著に減少し、ゆで加熱では28%程度のビタミンC残存量となる。酸素と接する加熱過程を有する、果汁100%の加熱型濃縮還元ジュースでは、ビタミンCの大半は壊れてしまうことになる。ただし現在では、加熱型濃縮還元は探すことが困難なほどでほぼ絶えており、超音波による果汁濃縮が主流となっている(超音波加湿器の原理で、果汁液の水分のみを飛ばすことによって果汁を濃縮するシステム(超音波霧化分離装置)。加熱式にくらべ、エネルギー効率が良く、工場の冷房費用もかからないため主流となった)。しかし、この方式でも加熱殺菌は行われるため、やはりビタミンCは壊れてしまう。そのため高栄養価を謳う野菜ジュースは別途ビタミン類が添加されている。
ビタミンCは体内の消化器にて吸収されたのちに、血液によっていくつかの臓器に送られる。
ヒトでは経口摂取した量が、30mgから180mg では 70-80% が吸収される。1.5g では 50% が吸収されるが、3g で飽和するとの報告がある。また、飲酒により吸収が阻害される、しかし飲酒により血中濃度は低下しない。
別の研究ではビタミンCを毎日2グラム摂取し、4週間時点で1週間時点よりも血中ビタミンC濃度が上昇しているが、それ以降はそれ以上の血中濃度の増加はなく飽和したと考えられ、1週間では飽和までは不十分だと考察された。
ビタミンC錠剤を飲むよりビタミンC入りのガムを噛んだ場合、血中のビタミンCの上昇が速やかに起こり、また吸収量が多いことが分かった。サプリメントや野菜ジュースは、野菜サラダに比べて尿への排出速度が速く、食物繊維などと同時に摂取することで体内に長くとどまるとされる。
アスコルビン酸は、尿を介して排泄される。ヒトでは、ビタミンCの摂取量が少ないときは、ビタミンCを排泄せずに腎臓で再吸収する。ビタミンCの血漿濃度が1.4mg/dL以上の場合にのみ、再吸収が低下し、過剰な量が尿に移行する。この回収機構は、ビタミンCの欠乏を遅延させる。 アスコルビン酸は、デヒドロアスコルビン酸に可逆的に変換し、その化合物から非可逆的に2,3-ジケトグルコン酸に変換されてからシュウ酸に変換される。これらの3つの化合物も尿を介して排泄される。ヒトはモルモットよりもデヒドロアスコルビン酸をアスコルビン酸に変換する能力が優れているため、ビタミンCの欠乏をより遅延させることができる。
細胞内への輸送について。ビタミンCは腸管上部で吸収され、ナトリウム依存性輸送体が存在するが、そのナトリウム依存性輸送体は、グルコース輸送体、特に、アスコルビン酸に戻るリサイクルにおいて必要な酵素補因子と細胞内抗酸化物質を生成する体のほとんどの細胞でビタミンC(その酸化型であるデヒドロアスコルビン酸)の輸送を担当するものがGLUT1で、特殊化した細胞内に主に存在する。
脳への輸送について。脳は、ビタミンCの最大濃度をもつ器官の一つであるが、ビタミンCは血流から脳への関門を通過しない。このためアスコルビン酸に代わって、デヒドロアスコルビン酸がGLUT1トランスポーターを介して血液脳関門を通過して輸送され、その後にアスコルビン酸に変換される。
ミトコンドリアへの輸送について。ビタミンCは、グルコーストランスポーターGLUT1を介してデヒドロアスコルビン酸が輸送され、還元され、フリーラジカルの大部分が生成される場所であるミトコンドリアに蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアのゲノムと膜を保護する。
ビタミンCの外用はビタミンCの経口摂取によって血中のビタミンC濃度が飽和していない人に効果的だと考えられる。
ビタミンC(アスコルビン酸)ではpH3.5以下にする必要があり、活性を持つには理想的には濃度は8%以上にし、逆に濃度が20%以上でも皮膚への刺激性のみが増加すると考えられるため、一般的な製品は10-20%の濃度となっている。
顔の皮膚を光損傷(光老化)し、その程度が軽症から中等度の19人にランダム化比較試験 (RCT) を実施し3か月後、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、シワ、たるみなどを改善した。RCTで、光老化した20人の50代女性に、5%濃度のビタミンCを含むクリームを塗り6か月後、深いシワが偽薬に比較して大きく減少した。
二重盲検ではない80人での試験は、ビタミンC含有のシリコン製ジェルを6か月使用することで、アジア人の顔面の手術後に、瘢痕の隆起や紅斑を減少させ、メラニン色素の指数を低下させていた。
RCTにて肝斑(シミ)に対し、(多い)4%濃度のハイドロキノンでは93%が良い結果に改善し副作用は68.7%に起こり、同5%ビタミンCは良い結果62.5%と副作用6.2%で、研究者は副作用が少ない点を評価している。別のRCTでは、肝斑に対しビタミンC単体よりもビタミンEと併用した方が効果があった。25%ビタミンCを使い、4か月で肝斑を有意に減少させたという比較対象のない試験がある。イオン導入も有効である。
1%濃度のビタミンE(αトコフェロール)と同15%ビタミンCは、それぞれ単独でも日焼けによる紅斑や日焼け細胞数を減少させたが、併用した方が効果があった。フェルラ酸は、ビタミンC、ビタミンEの化学的な安定性を向上させ、太陽光に対する防御性を数倍にする。10名のランダム化比較試験で、ビタミンC(15%濃度)、フェルラ酸(2%)、フロレチンを含有する外用薬を、紫外線による皮膚損傷に備えて事前に塗ることで防御作用があった。12名の中国人女性を用いて、ビタミンC、ビタミンE、フェルラ酸からなる外用薬は、これを塗った部分は、塗っていない部分に比較して光から防御された。
ビタミンC誘導体が開発されておりアスコルビン酸(ビタミンC)の不安定な性質を改良したり、保湿性を持たせている。
16世紀から18世紀の大航海時代には、壊血病の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられた。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡している。
1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防ができることを見出した。その成果を受けて、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海(1768年 - 1771年)で、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた。
しかし、当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている(濃縮オレンジジュースは加熱されていて、ビタミンCは失われている)。結局、おもにザワークラウトのおかげだったことは当時は不明で、あげく帰還後にクックは麦汁を推薦したりしたもので、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まなかった。
1920年、ジャック・ドラモンド(英語版)がオレンジ果汁から還元性のある抗壊血病因子を抽出し、これをビタミンCと呼ぶことを提案した。1927年にはセント-ジェルジがウシの副腎から強い還元力のある物質を単離し、「ヘキスロ酸」として発表したが、1932年にこれがビタミンCであることが判明した。1933年にハースによってビタミンCの構造式が決定されてアスコルビン酸と命名され、1933年にはライヒシュタインが有機合成によるビタミンCの合成に成功した。
L-グロノラクトンオキシダーゼ(ビタミンC合成酵素)遺伝子の活性は、いくつかの種の進化史のなかでそれぞれ独立に失われている。哺乳類ではテンジクネズミや霊長目の直鼻亜目がこの遺伝子の活性を失っており、そのためにビタミンCを合成できないが、その原因となった突然変異は別のものである。どちらの系統でも、活性を失った遺伝子は多数の変異を蓄積しつつ、偽遺伝子として残っている。スズメ目の鳥類では、活性の喪失が何度か起こっており、またおそらくは再獲得も起こったために、種によってビタミンC合成能力が異なる。他に、コウモリ類もこの遺伝子の活性を失っている。これらの動物が遺伝子変異によるビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、これらの動物が果物、野菜等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためである。なお、鳥類のビタミンC合成能力について、原始的な鳥類は腎臓でビタミンCを合成しており、さらに進化した高等な鳥類(スズメ目)では、肝臓で合成するようになった。これは、酸素消費量の増大に伴う過酸化物質産生から身を守るため、より多くのビタミンC合成を行う必要があり、ビタミンC合成部位が腎臓よりも大きな肝臓に移行したと推測されることを示す文献もある。
霊長目でこの酵素の活性が失われたのは約6300万年前であり、直鼻亜目(酵素活性なし)と曲鼻亜目(酵素活性あり)の分岐が起こったのとほぼ同時である。ビタミンC合成能力を失った直鼻亜目にはメガネザル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。ビタミンC合成能力を有する曲鼻亜目には、キツネザルなどが含まれる。
ヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、2800万年から2400万年前頃であると推定されている。ヒト上科の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定されている。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が抗酸化物質として部分的にビタミンCの代用となるためである。
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"text": "ビタミンC (vitamin C, VC) は、水溶性ビタミンの1種。物質としては L-アスコルビン酸(単にアスコルビン酸とも)を指す。欠乏状態が続くと壊血病を発症する。ビタミンEの再利用やコラーゲンの合成に必要であるほか、発症した壊血病の治療にも使われる。WHO必須医薬品モデル・リスト収録品。特に野菜や果物に含まれ、サプリメントも利用されている。",
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"text": "風邪をひいてからビタミンCを摂取する「治療」効果は、7件のランダム化比較試験 (RCT) からはっきりせず、31件のRCTから日常的なビタミンC摂取では風邪の発症率は低下しない(予防しない)が、風邪の重症度と期間は減少させ、スポーツ選手や寒冷地の兵士といった特定の集団では予防効果があるとされる。鉄分やカルシウムなどミネラルの吸収を高める効果がある。鉄過剰症(ヘモクロマトーシス)の人でビタミンCの摂取過剰では鉄過剰が促進されるが、健康な成人であれば影響はない。",
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"text": "ビタミンCは、コラーゲンの合成に深く関与している。プロリン・リジン残基を含めた形でコラーゲンのタンパク質が合成され、タンパク質鎖が形成された後で酸化酵素によりプロリン・リジン残基がそれぞれヒドロキシル化(水酸化)を受けてヒドロキシプロリン・ヒドロキシリジン残基に変化し、これらは水素結合によってタンパク質鎖同士を結び、コラーゲンの3重螺旋構造を保つ働きがある。またこの反応の際にはビタミンCを必要とするため、ビタミンCを欠いた食事を続けていると正常なコラーゲン合成ができなくなり、壊血病を引き起こすものである。",
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"text": "ビタミンCは、水溶性で強い還元能力を有し、スーパーオキシド(O)、ヒドロキシラジカル(・OH)、過酸化水素(H2O2)などの活性酸素類を消去する。ビタミンCの過酸化水素の消去は、グルタチオン-アスコルビン酸回路によって行われる。この回路に代表されるように、ビタミンCがデヒドロアスコルビン酸に酸化されても各種酵素によりビタミンC(アスコルビン酸)に還元・再生されて触媒的に機能する。",
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"text": "ビタミンCは、ビタミンEの再生機能がある。ビタミンEは、脂質中のフリーラジカルを消失させることにより自らがビタミンEラジカルとなり、フリーラジカルによる脂質の連鎖的酸化を阻止する。発生したビタミンEラジカルは、ビタミンCによりビタミンEに再生される。",
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"text": "その他のビタミンCの機能としては、生体異物を代謝するシトクロムP450の活性化、チロシンからノルアドレナリンへの代謝(ドーパミンヒドロキシラーゼ)、消化器官中で鉄イオンを2価に保つことによる鉄の吸収の促進、脂肪酸の分解に関与するカルニチンがリジンから生合成される過程のヒドロキシ酵素の補酵素としての参画、コレステロールをヒドロキシ化し7α-ヒドロキシコレステロールを経た胆汁酸の合成等の様々な反応に関与している。",
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"text": "人体を構成するタンパク質や脂質、DNAを酸化させる活性酸素種を素早く取り除く効果がある。活性酸素種は、糖尿病や動脈硬化、白内障などのいわゆる老化関連疾患の悪化につながる。",
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"text": "紫外線により発生する活性酸素の影響でメラニンが合成される。ビタミンCはメラニン生成時に働く酵素チロシナーゼの活性化を阻害し、黒色メラニン合成を抑制するとされている。また、酸化型の黒色メラニンを還元型の淡色メラニンにするため、黒色メラニンの脱色効果も期待できる。 また、高濃度ビタミンC療法では、過剰な皮脂の分泌を抑えてニキビを発生しにくくしたり、皮脂腺の働きを抑えることで毛穴を引き締めたりする効果もあるとされる。",
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"text": "免疫をつかさどったり、体内に侵入したウイルスや細菌と戦ったりする白血球やリンパ球を活性化させる働きがある。 風邪をひきにくくする身体を作り、免疫力の強化とともに、ウイルスを撃退して治癒を早める働きがあるとされる。",
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"text": "人間がストレスを感じると、副腎からストレスに対抗するホルモンが生成される。ビタミンCはこのホルモンの生成に使われるため、定期的にビタミンC を摂取することで、ストレスが与える精神的・身体的な影響の予防に役立つとされる。",
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"text": "ハムやソーセージ、練り製品などの食肉・魚肉製品の食品添加物として使われる亜硝酸ナトリウムが、肉や魚などのたんぱく質食品を食べると体内で生成されるアミンと結合すると、体内で発がん性物質「ニトロソアミン」が形成される。ビタミンCはニトロソアミンの形成を抑えたり、発がん性を弱めたりするとの報告があり、抗がん作用が期待されている。",
"title": "主な効能"
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"text": "ビタミンCは皮膚や骨、血管に多く含まれるコラーゲン繊維の構築に必要であり、それぞれの強度を保つ働きを持つ。 ビタミンCが不足すると、コラーゲンが合成されずに血管がもろくなって出血を起こすようになる(壊血病)。出血のほかにも、イライラや貧血、筋肉減少、心臓障害、呼吸困難などを引き起こすおそれがあり、適切なビタミンCの摂取で壊血病を防止することが重要になる。",
"title": "主な効能"
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"text": "壊血病の予防・治療に用いられる。ビタミンCを含まない食事を約60 - 90日間続けた場合、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり、軽度の欠乏症状である疲労、倦怠感や筋肉痛を感じ、易怒性を呈し数カ月後に出血性の障害をもたらす重度の欠乏症である壊血病を発症する。",
"title": "適応"
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"text": "ノーベル化学賞を受賞したライナス・ポーリングが、1970年代に、毎日100mg以上のビタミンCの摂取によって、風邪の発生率と期間を意味する「風邪の総負担」の減少が、4件のランダム化比較試験 (RCT) を分析した「統合された罹患率」よって裏付けられているとした。その後、予防、治療、対象集団を変えて賛否両論のある形で研究が続いてきた。ポーリングによって一般大衆にまで興味を引き、1972年から1979年まで約8400人が参加した29件のRCTが実施されたが、その後、関心は薄れ1985年以降にはわずかにしか実施されず参加者の数も小規模となっている。2008年の世界保健機関 (WHO) の処方薬一覧の簡単な記載には、風邪の治療効果には証拠が確認されていないと記されているが、この記載には証拠の引用はない。",
"title": "適応"
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"text": "アメリカ国立衛生研究所 (NIH) の医療向けサプリメントの解説ページでは、2018年時点で、2007年のコクランレビューやそれ以外の研究も引用し、総合的には、風邪をひいてからではおそらく効果はないが、毎日200mgの定期的なビタミンCでは一般集団の風邪の発生率には影響しないが、風邪の期間や重症度を下げ、寒冷地や激しい運動、高齢者や喫煙者のようにビタミンCが少なくなっている人では予防効果があるかもしれないとしている。",
"title": "適応"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "米国家庭医学会 (AAFP) の2012年ガイドラインでは、ビタミンCの200mgから2グラムは小児の風邪の予防に効果ありとし、成人の風邪治療にはビタミンCは効果を示さないということを効果なしの研究一覧にも、効果ありの研究一覧にも、同じ2007年のコクランレビューを記載している。なおこのガイドラインは医薬品にも効果なしを判定しており厳格なものとなっている。",
"title": "適応"
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"text": "2013年に改訂されたコクランレビューでは同じような内容だが、31研究の合計9745人から定期的にビタミンCを200mg摂取することで、一般集団では発症率の低下はないが、重症度を下げ、回復までの日数は成人8%、小児14%減少し、スポーツ選手や寒冷地の兵士では発症率は半減していた。治療薬としてビタミンCを投与した場合、7件のランダム化比較試験があったが結果は一貫しておらず、回復までの期間減少も再現されていないが、日常的な服用で効果があることとビタミンCが安全で安いことから、治療薬としてのビタミンCの研究も実施すべきだとしている。それまでの治療薬としてのビタミンCの研究は、定期摂取で有望な小児での研究は実施されておらず、成人では初日に5グラムや、2-3日間に2-4グラムなど一貫したものではない。",
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"text": "2018年の9件のRCTを分析したメタアナリシスでは、発症時にのみ高用量のビタミンCを摂取した場合には効果はなく、定期的なビタミンCの摂取があり、風邪の発症後に毎日1グラムから6グラムを追加して服用したグループでは、胸痛、発熱、悪寒の減少、平均10時間の風邪の期間の短縮がみられた。",
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"text": "2013年のコクランレビューは、肺炎を予防したという3件のRCT、治療したという2件のRCTを発見している。",
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"text": "重症の敗血症では、比較群の治療による約40%の死亡率よりも、静脈内ビタミンCでは8.5%と生存率を大きく向上させ、重症化も防いでいる。",
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"text": "食品中のビタミンC摂取は多くのコホート研究で様々ながんの発症の減少と関連しており、ビタミンCサプリメントは様々なランダム化比較試験でがんの発生率と無関係だとされている。",
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"text": "1976年にライナス・ポーリングとキャメロンは、様々な末期がん患者に100名に対し10日間ビタミンC10グラムを「静脈注射」し、その後経口摂取したことで、生存期間を延長すると報告した。また、1974年には分子矯正医学研究所のキャメロン・キャンベルらは様々ながん患者50名に対し最初10日間ビタミンC10グラムを静注し、それから経口のビタミンCを摂取したことで、標準的な治療法を補助する手段だと報告した。1985年にはメイヨークリニックのMoertelらが、「経口」のビタミンCを使った偽薬対照のランダム化比較試験を実施し、進行性の結腸直腸がん患者で効果が見られなかったと報告した。前者の肯定的研究は静注であり、後者のような否定的研究は経口投与したものだったが、人々の注目は小さくなり、しかし静注の方が血中濃度が高くなるという事実から後に再び関心を集めることになる。",
"title": "適応"
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"text": "アメリカ国立がん研究所の公開情報では、静脈投与では経口投与よりも血中ビタミンCが高くなり、副作用は非常に少なくQOLの向上が見られ、がん治療の副作用を軽減させる効果も見られるとされている。2019年のレビューでは、経口・静脈含め症例報告などを除外し、既に紹介した1980年代の研究から、2010年代までの賛否両方の合計19件の試験があり、そのうち偽薬対照が設けられていたのは4件で、これら全研究から非常に軽い副作用しか害はなさそうだが、効果を裏付けるには研究は足りていないので、続くランダム化比較試験が計画されているとした。",
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"text": "その4件のRCT",
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"text": "Yun J, Mullarky E ら(2015)は高濃度のビタミンCは、がん細胞のアポトーシスを引き起こすとする研究結果を発表しているが、作用機序は未解明であるため臨床応用が可能かは不明である。",
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"text": "日本でも戦後の1940年代には、栄養欠乏によってビタミンC欠乏による色素沈着になる人も多く、ビタミンCが使われ、医薬品の「ハイシー」には以下の効能がある:ビタミンCの欠乏の関与が推定される、肝斑・雀卵斑・炎症後の色素沈着。1950年代になると栄養状態は改善され、同じく肝斑・雀卵斑や日焼け後の色素沈着の予防について報告されるようになった。RCTで、紫外線照射後の色素沈着は、ビタミンCを600mgを単独で摂取するよりもパントテン酸 (9mg) を併用した方が抑制された。26名を対象とした試験でビタミンCが200mg、ビタミンEが100mgの合剤を6か月服用し、肝斑に対し「有効」19.2%、「やや有効」23%であった。内服では、肝斑に対しトラネキサム酸配合錠で改善率は約60%、ビタミンC製剤で26.5%である。",
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"text": "ヒトを含む類人猿はアスコルビン酸を体内で合成できないため、必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要があるビタミンの一種類として扱われている。一方、多くの動物にとっては、アスコルビン酸は生体内で生合成できる物質であるため、必ずしも外界から摂取する必要はない。体内でアスコルビン酸を合成できないのは、ヒトを含むサル目の一部やモルモットなどだけである。",
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"text": "風邪やインフルエンザ、その他の感染症に対してアスコルビン酸粉末などとして医薬品と併用される。その理由としては、これらの肉体的ストレスや治癒に際してはアスコルビン酸の要求量が増大するからというものである。喫煙等のストレスによっても血中濃度が低下するため、結果的にアスコルビン酸の要求量が増大する。",
"title": "摂取"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "成人の1日あたり摂取量としての厚生労働省による推奨量(RDA)は100mgであるが、喫煙者の場合は、ニコチンがビタミンCの吸収を妨げるといわれているため更に35mg多く摂取する必要があると考えられている。",
"title": "摂取"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "血漿中ビタミンC濃度基準値を0.7mg/100ml以上に設定して、ビタミンCの1日あたり適正摂取量は成人で100mg(妊婦は+10mg、授乳婦は+40mg ) である。血漿中ビタミンC濃度の正常範囲は 0.5-1.5mg/100mL である。0.2mg/100mL を下回ると、各種の欠乏症状が現れる可能性がある。",
"title": "摂取"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "なお、ヒトの母乳のビタミンC濃度は0.5mg/100gとの報告がある。",
"title": "摂取"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "健康な成人であれば 2000mg の摂取量まで毒性はなく、体内で吸収されなかった余剰なビタミンCは尿中に排出されるが、数グラムレベルで一度に大量摂取し、腸管耐容量を超えると下痢を起こす可能性がある。",
"title": "摂取"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "厚生労働省による2015年の日本人の食事摂取基準では、広い摂取範囲でも安全だと考えられるため、上限量は設定していないが、通常の食品から摂取することを基本とし、サプリメント(健康食品)から 1日あたり1g以上の量を摂取することは推奨できないとしており、生活習慣病の発症予防についても、ビタミンCの摂取量と血液中濃度と体外排泄からは1g以上の摂取には意味がないことが示されているが、病気発症との関連については不明確だとしている。毎日、数グラムの摂取では腎臓でのシュウ酸結石のリスクがあるとしている。",
"title": "摂取"
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{
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"tag": "p",
"text": "体内でビタミンCの一部がシュウ酸に代謝されるとして、毎日4グラム摂取した者でシュウ酸塩の結晶より腎臓が損傷することで腎不全を発症したという症例報告がある。腎臓移植を受けた31歳の女性が毎日2グラム摂取し、続発性シュウ酸症となった症例が報告されており、腎不全患者のビタミンCの大量摂取については注意が必要であるとする考え方もある。",
"title": "摂取"
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{
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"text": "2019年現在、アメリカ食品医薬品局 (FDA) はビタミンCを癌の治療薬として認可していない。ビタミンCは単に補助食品として利用されている。",
"title": "摂取"
},
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"tag": "p",
"text": "多くの食品やサプリメントにおいて、「レモン何個分のビタミンC」という表現が用いられるが、このとき「レモン1個分のビタミンC」は 20mg に換算される。この表記は農林水産省によって1987年に制定された「ビタミンC含有菓子の品質表示ガイドライン」によるものであるが、ビタミンCが主成分であるビタミン添加菓子を対象とするものであり、それ以外の食品やサプリメントに対して用いることは適当でない。また、このことから「レモンはビタミンCを豊富に含む果物である」と誤解されがちだが、実際には同じ柑橘類であるグレープフルーツやユズよりも含有量は低い。",
"title": "摂取"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "レモン・ライム・オレンジ・グレープフルーツなどの柑橘類のほか、カムカム、柿、アセロラ、キウイフルーツ、トマトはビタミンCの含有量が非常に多い。その他にビタミンCの多く含まれる食品としては、グァバ、パパイヤ、ブロッコリー、芽キャベツ、ブラックベリー、イチゴ、カリフラワー、ほうれん草、マスクメロン、ブルーベリー、パセリ、ジャガイモ、ピーマン、サツマイモなどがある。",
"title": "摂取"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ビタミンCそのものは強い癖のある味で、柑橘類でもすっぱい物のほうが含有量は多い傾向にあるため「酸味の強い果物ほどビタミンCが豊富だ」と思われがちだが、実際にはそれらの酸味の多くはクエン酸によるものである。上記のように、酸味がまったくないのにビタミンCが豊富な食品も多い。",
"title": "摂取"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "乳酸菌は発酵の際にビタミンCも産生し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる。牛乳にはビタミンCがほとんど含まれていない。その理由は、子牛が自らビタミンCを合成できるので牛乳から摂取する必要がないためである。牛乳を発酵して作ったヨーグルトでは若干ながらビタミンCが含まれている。牛乳のみならず肉にもビタミンCは含まれていないので、野菜や果物を摂取できないモンゴル遊牧民は、大人のみならず子供を含め馬乳を乳酸発酵させ微量のビタミンCを生成した馬乳酒を大量に飲むことでビタミンCを補っている。アフリカの遊牧民族であるマサイ族も日常的に発酵乳を飲む。",
"title": "摂取"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ビタミンCは、加熱すると空気中の酸素や水分との反応が促進され、酸化されてデヒドロアスコルビン酸となり、さらに加水分解されたジケトグロン酸へ分解しやすくなる。デヒドロアスコルビン酸は人体内でアスコルビン酸に還元され利用されるが、ジケトグロン酸にはビタミンCのような生理活性はないとされる。ジャガイモやさつまいもに含まれるビタミンCのように、デンプンに保護されて酸素に接触しない場合には、加熱してもビタミンCは壊れにくいとの指摘もあるが、ジャガイモの加熱時間に従いビタミンC残存量が顕著に減少し、ゆで加熱では28%程度のビタミンC残存量となる。酸素と接する加熱過程を有する、果汁100%の加熱型濃縮還元ジュースでは、ビタミンCの大半は壊れてしまうことになる。ただし現在では、加熱型濃縮還元は探すことが困難なほどでほぼ絶えており、超音波による果汁濃縮が主流となっている(超音波加湿器の原理で、果汁液の水分のみを飛ばすことによって果汁を濃縮するシステム(超音波霧化分離装置)。加熱式にくらべ、エネルギー効率が良く、工場の冷房費用もかからないため主流となった)。しかし、この方式でも加熱殺菌は行われるため、やはりビタミンCは壊れてしまう。そのため高栄養価を謳う野菜ジュースは別途ビタミン類が添加されている。",
"title": "摂取"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ビタミンCは体内の消化器にて吸収されたのちに、血液によっていくつかの臓器に送られる。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ヒトでは経口摂取した量が、30mgから180mg では 70-80% が吸収される。1.5g では 50% が吸収されるが、3g で飽和するとの報告がある。また、飲酒により吸収が阻害される、しかし飲酒により血中濃度は低下しない。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "別の研究ではビタミンCを毎日2グラム摂取し、4週間時点で1週間時点よりも血中ビタミンC濃度が上昇しているが、それ以降はそれ以上の血中濃度の増加はなく飽和したと考えられ、1週間では飽和までは不十分だと考察された。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ビタミンC錠剤を飲むよりビタミンC入りのガムを噛んだ場合、血中のビタミンCの上昇が速やかに起こり、また吸収量が多いことが分かった。サプリメントや野菜ジュースは、野菜サラダに比べて尿への排出速度が速く、食物繊維などと同時に摂取することで体内に長くとどまるとされる。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "アスコルビン酸は、尿を介して排泄される。ヒトでは、ビタミンCの摂取量が少ないときは、ビタミンCを排泄せずに腎臓で再吸収する。ビタミンCの血漿濃度が1.4mg/dL以上の場合にのみ、再吸収が低下し、過剰な量が尿に移行する。この回収機構は、ビタミンCの欠乏を遅延させる。 アスコルビン酸は、デヒドロアスコルビン酸に可逆的に変換し、その化合物から非可逆的に2,3-ジケトグルコン酸に変換されてからシュウ酸に変換される。これらの3つの化合物も尿を介して排泄される。ヒトはモルモットよりもデヒドロアスコルビン酸をアスコルビン酸に変換する能力が優れているため、ビタミンCの欠乏をより遅延させることができる。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "細胞内への輸送について。ビタミンCは腸管上部で吸収され、ナトリウム依存性輸送体が存在するが、そのナトリウム依存性輸送体は、グルコース輸送体、特に、アスコルビン酸に戻るリサイクルにおいて必要な酵素補因子と細胞内抗酸化物質を生成する体のほとんどの細胞でビタミンC(その酸化型であるデヒドロアスコルビン酸)の輸送を担当するものがGLUT1で、特殊化した細胞内に主に存在する。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "脳への輸送について。脳は、ビタミンCの最大濃度をもつ器官の一つであるが、ビタミンCは血流から脳への関門を通過しない。このためアスコルビン酸に代わって、デヒドロアスコルビン酸がGLUT1トランスポーターを介して血液脳関門を通過して輸送され、その後にアスコルビン酸に変換される。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ミトコンドリアへの輸送について。ビタミンCは、グルコーストランスポーターGLUT1を介してデヒドロアスコルビン酸が輸送され、還元され、フリーラジカルの大部分が生成される場所であるミトコンドリアに蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアのゲノムと膜を保護する。",
"title": "体内動態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ビタミンCの外用はビタミンCの経口摂取によって血中のビタミンC濃度が飽和していない人に効果的だと考えられる。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ビタミンC(アスコルビン酸)ではpH3.5以下にする必要があり、活性を持つには理想的には濃度は8%以上にし、逆に濃度が20%以上でも皮膚への刺激性のみが増加すると考えられるため、一般的な製品は10-20%の濃度となっている。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "顔の皮膚を光損傷(光老化)し、その程度が軽症から中等度の19人にランダム化比較試験 (RCT) を実施し3か月後、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、シワ、たるみなどを改善した。RCTで、光老化した20人の50代女性に、5%濃度のビタミンCを含むクリームを塗り6か月後、深いシワが偽薬に比較して大きく減少した。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "二重盲検ではない80人での試験は、ビタミンC含有のシリコン製ジェルを6か月使用することで、アジア人の顔面の手術後に、瘢痕の隆起や紅斑を減少させ、メラニン色素の指数を低下させていた。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "RCTにて肝斑(シミ)に対し、(多い)4%濃度のハイドロキノンでは93%が良い結果に改善し副作用は68.7%に起こり、同5%ビタミンCは良い結果62.5%と副作用6.2%で、研究者は副作用が少ない点を評価している。別のRCTでは、肝斑に対しビタミンC単体よりもビタミンEと併用した方が効果があった。25%ビタミンCを使い、4か月で肝斑を有意に減少させたという比較対象のない試験がある。イオン導入も有効である。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1%濃度のビタミンE(αトコフェロール)と同15%ビタミンCは、それぞれ単独でも日焼けによる紅斑や日焼け細胞数を減少させたが、併用した方が効果があった。フェルラ酸は、ビタミンC、ビタミンEの化学的な安定性を向上させ、太陽光に対する防御性を数倍にする。10名のランダム化比較試験で、ビタミンC(15%濃度)、フェルラ酸(2%)、フロレチンを含有する外用薬を、紫外線による皮膚損傷に備えて事前に塗ることで防御作用があった。12名の中国人女性を用いて、ビタミンC、ビタミンE、フェルラ酸からなる外用薬は、これを塗った部分は、塗っていない部分に比較して光から防御された。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ビタミンC誘導体が開発されておりアスコルビン酸(ビタミンC)の不安定な性質を改良したり、保湿性を持たせている。",
"title": "外用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "16世紀から18世紀の大航海時代には、壊血病の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられた。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防ができることを見出した。その成果を受けて、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海(1768年 - 1771年)で、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかし、当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている(濃縮オレンジジュースは加熱されていて、ビタミンCは失われている)。結局、おもにザワークラウトのおかげだったことは当時は不明で、あげく帰還後にクックは麦汁を推薦したりしたもので、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1920年、ジャック・ドラモンド(英語版)がオレンジ果汁から還元性のある抗壊血病因子を抽出し、これをビタミンCと呼ぶことを提案した。1927年にはセント-ジェルジがウシの副腎から強い還元力のある物質を単離し、「ヘキスロ酸」として発表したが、1932年にこれがビタミンCであることが判明した。1933年にハースによってビタミンCの構造式が決定されてアスコルビン酸と命名され、1933年にはライヒシュタインが有機合成によるビタミンCの合成に成功した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "L-グロノラクトンオキシダーゼ(ビタミンC合成酵素)遺伝子の活性は、いくつかの種の進化史のなかでそれぞれ独立に失われている。哺乳類ではテンジクネズミや霊長目の直鼻亜目がこの遺伝子の活性を失っており、そのためにビタミンCを合成できないが、その原因となった突然変異は別のものである。どちらの系統でも、活性を失った遺伝子は多数の変異を蓄積しつつ、偽遺伝子として残っている。スズメ目の鳥類では、活性の喪失が何度か起こっており、またおそらくは再獲得も起こったために、種によってビタミンC合成能力が異なる。他に、コウモリ類もこの遺伝子の活性を失っている。これらの動物が遺伝子変異によるビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、これらの動物が果物、野菜等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためである。なお、鳥類のビタミンC合成能力について、原始的な鳥類は腎臓でビタミンCを合成しており、さらに進化した高等な鳥類(スズメ目)では、肝臓で合成するようになった。これは、酸素消費量の増大に伴う過酸化物質産生から身を守るため、より多くのビタミンC合成を行う必要があり、ビタミンC合成部位が腎臓よりも大きな肝臓に移行したと推測されることを示す文献もある。",
"title": "ビタミンC合成能を失った動物種"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "霊長目でこの酵素の活性が失われたのは約6300万年前であり、直鼻亜目(酵素活性なし)と曲鼻亜目(酵素活性あり)の分岐が起こったのとほぼ同時である。ビタミンC合成能力を失った直鼻亜目にはメガネザル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。ビタミンC合成能力を有する曲鼻亜目には、キツネザルなどが含まれる。",
"title": "ビタミンC合成能を失った動物種"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、2800万年から2400万年前頃であると推定されている。ヒト上科の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、尿酸オキシダーゼ活性が消失したものと推定されている。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が抗酸化物質として部分的にビタミンCの代用となるためである。",
"title": "ビタミンC合成能を失った動物種"
}
] |
ビタミンC は、水溶性ビタミンの1種。物質としては L-アスコルビン酸(単にアスコルビン酸とも)を指す。欠乏状態が続くと壊血病を発症する。ビタミンEの再利用やコラーゲンの合成に必要であるほか、発症した壊血病の治療にも使われる。WHO必須医薬品モデル・リスト収録品。特に野菜や果物に含まれ、サプリメントも利用されている。 風邪をひいてからビタミンCを摂取する「治療」効果は、7件のランダム化比較試験 (RCT) からはっきりせず、31件のRCTから日常的なビタミンC摂取では風邪の発症率は低下しない(予防しない)が、風邪の重症度と期間は減少させ、スポーツ選手や寒冷地の兵士といった特定の集団では予防効果があるとされる。鉄分やカルシウムなどミネラルの吸収を高める効果がある。鉄過剰症(ヘモクロマトーシス)の人でビタミンCの摂取過剰では鉄過剰が促進されるが、健康な成人であれば影響はない。
|
{{精度|講義資料、自主公表されたサイトがWikipediaの科学的な信頼できる出典として不適|date=2015年2月}}
{{drugbox
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| routes_of_administration = 経口
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| excretion = 腎臓
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<!--Identifiers-->
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}}
'''ビタミンC''' (vitamin C, VC) は、[[水溶性ビタミン]]の1種。物質としては '''[[アスコルビン酸|<small>L</small>-アスコルビン酸]]'''(単にアスコルビン酸とも)を指す<ref name="各論2015"/><ref name=NIH2016/>。欠乏状態が続くと[[壊血病]]を発症する<ref name="各論2015"/>。[[ビタミンE]]の再利用や[[コラーゲン]]の合成に必要であるほか、発症した壊血病の治療にも使われる<ref name="AHFS2016"/>。[[WHO必須医薬品モデル・リスト]]収録品。特に野菜や果物に含まれ、[[サプリメント]]も利用されている。
風邪をひいてからビタミンCを摂取する「治療」効果は、7件の[[ランダム化比較試験]] (RCT) からはっきりせず<ref name="HemiläChalker2013"/>、31件のRCTから日常的なビタミンC摂取では[[風邪]]の発症率は低下しない(予防しない)が、風邪の重症度と期間は減少させ、スポーツ選手や寒冷地の兵士といった特定の集団では予防効果があるとされる<ref name=NIH2016/>。[[鉄分]]や[[カルシウム]]など[[ミネラル]]の吸収を高める効果がある。[[鉄過剰症]](ヘモクロマトーシス)の人でビタミンCの摂取過剰では鉄過剰が促進されるが<ref name=MSD />、健康な成人であれば影響はない<ref name=vso.72.1_19 />。
==機能==
<!--
[[File:Glutathione-ascorbate_cycle_4.png|thumb|right|300px|[[グルタチオン-アスコルビン酸回路]]、[[NADPH]]、[[NADP+]]、GR:[[グルタチオンレダクターゼ]]、GSH:[[グルタチオン]]、GSSG:[[グルタチオンジスルフィド]]、DHAR:[[デヒドロアスコルビン酸レダクターゼ]]、DHA:[[デヒドロアスコルビン酸]]、MDAR:[[モノデヒドロアスコルビン酸レダクターゼ (NADH)]]、MDA:[[モノデヒドロアスコルビン酸]]、ASC:[[アスコルビン酸]]、APX:[[アスコルビン酸ペルオキシダーゼ]]、[[過酸化水素|H2O2]]、[[水|H2O]]]]
-->
ビタミンCは、[[コラーゲン]]の合成に深く関与している<ref name=NIH2016 />。[[プロリン]]・[[リジン]][[残基]]を含めた形でコラーゲンの[[タンパク質]]が合成され、タンパク質鎖が形成された後で[[酸化酵素]]によりプロリン・リジン残基がそれぞれ[[ヒドロキシル化]](水酸化)を受けて[[ヒドロキシプロリン]]・[[ヒドロキシリジン]]残基に変化し、これらは[[水素結合]]によってタンパク質鎖同士を結び、コラーゲンの3重[[螺旋]]構造を保つ働きがある。またこの反応の際にはビタミンCを必要とするため、ビタミンCを欠いた食事を続けていると正常なコラーゲン合成ができなくなり、[[壊血病]]を引き起こすものである<ref name=NIH2016 />。
ビタミンCは、水溶性で強い還元能力を有し、スーパーオキシド({{chem|O|2-}})、ヒドロキシラジカル(・OH)、[[過酸化水素]]({{chem|H|2|O|2}})などの[[活性酸素]]類を消去する。ビタミンCの過酸化水素の消去は、[[グルタチオン-アスコルビン酸回路]]によって行われる。この回路に代表されるように、ビタミンCが[[デヒドロアスコルビン酸]]に酸化されても各種酵素によりビタミンC(アスコルビン酸)に還元・再生されて[[触媒]]的に機能する。
ビタミンCは、[[ビタミンE]]の再生機能がある。ビタミンEは、脂質中のフリーラジカルを消失させることにより自らがビタミンEラジカルとなり、フリーラジカルによる脂質の連鎖的酸化を阻止する。発生したビタミンEラジカルは、ビタミンCによりビタミンEに再生される<ref>平原文子、[https://doi.org/10.5264/eiyogakuzashi.52.205 ビタミンEと抗酸化性] 『栄養学雑誌』 1994年 52巻 4号 p.205-206, {{doi|10.5264/eiyogakuzashi.52.205}}</ref>。
その他のビタミンCの機能としては、[[生体異物]]を代謝する[[シトクロムP450]]の活性化、[[チロシン]]から[[ノルアドレナリン]]への代謝(ドーパミンヒドロキシラーゼ)、消化器官中で鉄イオンを2価に保つことによる鉄の吸収の促進、脂肪酸の分解に関与する[[カルニチン]]が[[リジン]]から生合成される過程のヒドロキシ酵素の[[補酵素]]としての参画、[[コレステロール]]をヒドロキシ化し[[7α-ヒドロキシコレステロール]]を経た[[胆汁酸]]の合成等の様々な反応に関与している<ref name="s5-16-5">重岡成、武田徹、村上恵 [http://www.shc.usp.ac.jp/shibata/5-16-5.pdf ビタミンC-多様な働きから所要量まで] 第4回「日本人の水溶性ビタミン必要量に関する基礎的研究」講演会 元気なカラダとビタミン摂取―水溶性ビタミンの必要量について―(近畿大学 農学部 食品栄養学科)</ref>。
== 主な効能 ==
=== 抗酸化作用 ===
人体を構成するタンパク質や脂質、DNAを酸化させる活性酸素種を素早く取り除く効果がある。活性酸素種は、糖尿病や動脈硬化、白内障などのいわゆる老化関連疾患の悪化につながる<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンCが足りないと老化が進む!?|地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター研究所 |url=https://www.tmghig.jp/research/topics/201606-3386/ |website=www.tmghig.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。
=== 美白・美肌効果 ===
紫外線により発生する活性酸素の影響でメラニンが合成される。ビタミンCはメラニン生成時に働く酵素チロシナーゼの活性化を阻害し、黒色メラニン合成を抑制するとされている。また、酸化型の黒色メラニンを還元型の淡色メラニンにするため、黒色メラニンの脱色効果も期待できる<ref>{{Cite web|和書|title=No.088 ビタミンCの美白効果 {{!}} アンチエイジングトピックス {{!}} 田中消化器科クリニック|炎症性腸疾患診療や胃・大腸カメラ(内視鏡検査)を静岡市で実施 |url=https://www.tanaka-cl.or.jp/aging-topics/topics-088/ |website=www.tanaka-cl.or.jp |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。 また、⾼濃度ビタミンC療法では、過剰な皮脂の分泌を抑えてニキビを発生しにくくしたり、皮脂腺の働きを抑えることで毛穴を引き締めたりする効果もあるとされる<ref>{{Cite web|和書|title=高濃度ビタミンC療法 {{!}} ヒロクリニック美容皮膚科・美容外科の施術 |url=https://www.hiro-clinic.or.jp/beauty/treatments/vitamin/ |website=www.hiro-clinic.or.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。
=== 免疫力の向上 ===
免疫をつかさどったり、体内に侵入したウイルスや細菌と戦ったりする白血球やリンパ球を活性化させる働きがある<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンCにはどんな働きがあるの?おすすめ食品や食べ方なども紹介 {{!}} 健達ねっと |url=https://www.mcsg.co.jp/kentatsu/health-care/11767,%20https://www.mcsg.co.jp/kentatsu/health-care/11767 |website=www.mcsg.co.jp |date=2022-02-20 |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。 風邪をひきにくくする身体を作り、免疫力の強化とともに、ウイルスを撃退して治癒を早める働きがあるとされる<ref>{{Cite web|和書|title=風邪予防|インフルエンザ|ビタミンA|ビタミンC|注意 |url=https://www.minamitohoku.or.jp/up/news/1pointmemo/1pointmemo83.htm |website=www.minamitohoku.or.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。
=== ストレスに対する抵抗力の向上 ===
人間がストレスを感じると、副腎からストレスに対抗するホルモンが生成される。ビタミンCはこのホルモンの生成に使われるため、定期的にビタミンC を摂取することで、ストレスが与える精神的・身体的な影響の予防に役⽴つとされる<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンCはストレス解消に効果がある?ストレスによるリスクも紹介 {{!}} 健達ねっと |url=https://www.mcsg.co.jp/kentatsu/health-care/12110,%20https://www.mcsg.co.jp/kentatsu/health-care/12110 |website=www.mcsg.co.jp |date=2022-03-05 |access-date=2023-09-06 |language=ja}}</ref>。
=== 抗がん作用 ===
ハムやソーセージ、練り製品などの食肉・魚肉製品の食品添加物として使われる亜硝酸ナトリウムが、肉や魚などのたんぱく質食品を食べると体内で生成されるアミンと結合すると、体内で発がん性物質「ニトロソアミン」が形成される。ビタミンCはニトロソアミンの形成を抑えたり、発がん性を弱めたりするとの報告があり、抗がん作用が期待されている<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンまめ知識 ビタミンC がんの予防とビタミンC |url=http://www.vic-japan.gr.jp/fact&figure/c/c_cancer.html |website=www.vic-japan.gr.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。
=== 壊血病の防止 ===
ビタミンCは皮膚や骨、血管に多く含まれるコラーゲン繊維の構築に必要であり、それぞれの強度を保つ働きを持つ<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンCが足りないと老化が進む!?|地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター研究所 |url=https://www.tmghig.jp/research/topics/201606-3386/ |website=www.tmghig.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。 ビタミンCが不足すると、コラーゲンが合成されずに血管がもろくなって出血を起こすようになる(壊血病)。出血のほかにも、イライラや貧血、筋肉減少、心臓障害、呼吸困難などを引き起こすおそれがあり、適切なビタミンCの摂取で壊血病を防止することが重要になる<ref>{{Cite web|和書|title=ビタミンCの働きと1日の摂取量 {{!}} 健康長寿ネット |url=https://www.tyojyu.or.jp/net/kenkou-tyoju/eiyouso/vitamin-c.html |website=www.tyojyu.or.jp |access-date=2023-09-06}}</ref>。
== 適応 ==
=== 壊血病 ===
{{main|壊血病}}
壊血病の予防・治療に用いられる<ref name="AHFS2016">{{cite web|title=Ascorbic Acid|url=https://www.drugs.com/monograph/ascorbic-acid.html|publisher=The American Society of Health-System Pharmacists|accessdate= 8 December 2016}}</ref><ref name=WHO2008/>。ビタミンCを含まない食事を約60 - 90日間続けた場合、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり<ref>佐藤安訓, 石神昭人「[https://doi.org/10.20632/vso.82.11_609 壊血病は過去の病気ではない]」『ビタミン』 82巻11号、2008年、609-611頁、{{doi|10.20632/vso.82.11_609}}</ref>、軽度の欠乏症状である疲労、倦怠感や筋肉痛を感じ、易怒性を呈し数カ月後に出血性の障害をもたらす重度の欠乏症である壊血病を発症する<ref name=MSD />。
=== 風邪 ===
{{See also|風邪#予防|風邪#治療}}
ノーベル化学賞を受賞した[[ライナス・ポーリング]]が、1970年代に、毎日100mg以上のビタミンCの摂取によって、風邪の発生率と期間を意味する「風邪の総負担」の減少が、4件の[[ランダム化比較試験]] (RCT) を分析した「統合された罹患率」よって裏付けられているとした<ref name="pmid4941984">{{cite journal |authors=Pauling L |title=The significance of the evidence about ascorbic acid and the common cold |journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. |volume=68 |issue=11 |pages=2678–81 |date=November 1971 |pmid=4941984 |pmc=389499 |doi=10.1073/pnas.68.11.2678 }}</ref>。その後、予防、治療、対象集団を変えて賛否両論のある形で研究が続いてきた<ref name=NIH2016/>。ポーリングによって一般大衆にまで興味を引き、1972年から1979年まで約8400人が参加した29件のRCTが実施されたが、その後、関心は薄れ1985年以降にはわずかにしか実施されず参加者の数も小規模となっている<ref name="pmid28353648"/>。2008年の[[世界保健機関]] (WHO) の処方薬一覧の簡単な記載には、風邪の治療効果には証拠が確認されていないと記されているが、この記載には証拠の引用はない<ref name=WHO2008>{{cite book|title=WHO Model Formulary 2008|date=2009|publisher=World Health Organization|isbn=9789241547659|page=496|url=https://apps.who.int/medicinedocs/documents/s16879e/s16879e.pdf |accessdate= 8 December 2016}}</ref>。
[[アメリカ国立衛生研究所]] (NIH) の医療向けサプリメントの解説ページでは、2018年時点で、2007年のコクランレビューやそれ以外の研究も引用し、総合的には、風邪をひいてからではおそらく効果はないが、毎日200mgの定期的なビタミンCでは一般集団の風邪の発生率には影響しないが、風邪の期間や重症度を下げ、寒冷地や激しい運動、高齢者や喫煙者のようにビタミンCが少なくなっている人では予防効果があるかもしれないとしている<ref name=NIH2016>{{cite report|title=Office of Dietary Supplements - Vitamin C|url=https://ods.od.nih.gov/factsheets/VitaminC-HealthProfessional/|publisher=[[アメリカ国立衛生研究所]] |date=2018-09-18}}</ref>。
[[米国家庭医学会]] (AAFP) の2012年ガイドラインでは、ビタミンCの200mgから2グラムは小児の風邪の予防に効果ありとし、成人の風邪治療にはビタミンCは効果を示さないということを効果なしの研究一覧にも、効果ありの研究一覧にも、同じ2007年のコクランレビューを記載している<ref name="AAFP">{{cite journal |author=Fashner J, Ericson K, Werner S |title=Treatment of the common cold in children and adults |journal=Am Fam Physician |volume=86 |issue=2 |pages=153–9 |year=2012 |pmid=22962927 |url=https://www.aafp.org/afp/2012/0715/p153.html }}</ref>。なおこのガイドラインは医薬品にも効果なしを判定しており厳格なものとなっている。
2013年に改訂された[[コクランレビュー]]では同じような内容だが、31研究の合計9745人から定期的にビタミンCを200mg摂取することで、一般集団では発症率の低下はないが、重症度を下げ、回復までの日数は成人8%、小児14%減少し、スポーツ選手や寒冷地の兵士では発症率は半減していた<ref name="HemiläChalker2013">{{cite journal|last1=Hemilä|first1=Harri|last2=Chalker|first2=Elizabeth|last3=Hemilä|first3=Harri|title=Vitamin C for preventing and treating the common cold|year=2013|doi=10.1002/14651858.CD000980.pub4}}</ref><!--2018年のPMID:30113569も同じく31件で重複なので省略-->。治療薬としてビタミンCを投与した場合、7件のランダム化比較試験があったが結果は一貫しておらず、回復までの期間減少も再現されていないが、日常的な服用で効果があることとビタミンCが安全で安いことから、治療薬としてのビタミンCの研究も実施すべきだとしている<ref name="HemiläChalker2013"/><!--2018年のPMID:30339136も同じく7件で重複なので省略-->。それまでの治療薬としてのビタミンCの研究は、定期摂取で有望な小児での研究は実施されておらず、成人では初日に5グラムや、2-3日間に2-4グラムなど一貫したものではない<ref name="pmid28353648"/>。
2018年の9件のRCTを分析した[[メタアナリシス]]では、発症時にのみ高用量のビタミンCを摂取した場合には効果はなく、定期的なビタミンCの摂取があり、風邪の発症後に毎日1グラムから6グラムを追加して服用したグループでは、胸痛、発熱、悪寒の減少、平均10時間の風邪の期間の短縮がみられた<ref name="pmid30069463">{{cite journal|author=Ran L, Zhao W, Wang J, et al.|title=Extra Dose of Vitamin C Based on a Daily Supplementation Shortens the Common Cold: A Meta-Analysis of 9 Randomized Controlled Trials|journal=Biomed Res Int|pages=1837634|date=2018|pmid=30069463|pmc=6057395|doi=10.1155/2018/1837634|url=https://doi.org/10.1155/2018/1837634}}</ref>。
2013年のコクランレビューは、肺炎を予防したという3件のRCT、治療したという2件のRCTを発見している<ref name="pmid28353648">{{cite journal |authors=Hemilä H |title=Vitamin C and Infections |journal=Nutrients |volume=9 |issue=4 |pages= |date=March 2017 |pmid=28353648 |pmc=5409678 |doi=10.3390/nu9040339 |url=https://doi.org/10.3390/nu9040339}}</ref>。
重症の[[敗血症]]では、比較群の治療による約40%の死亡率よりも、静脈内ビタミンCでは8.5%と生存率を大きく向上させ、重症化も防いでいる<ref>{{Cite journal|last=Marik|first=Paul E.|last2=Khangoora|first2=Vikramjit|last3=Rivera|first3=Racquel|last4=Hooper|first4=Michael H.|last5=Catravas|first5=John|date=06 2017|title=Hydrocortisone, Vitamin C, and Thiamine for the Treatment of Severe Sepsis and Septic Shock: A Retrospective Before-After Study|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27940189|journal=Chest|volume=151|issue=6|pages=1229–1238|doi=10.1016/j.chest.2016.11.036|issn=1931-3543|pmid=27940189}}</ref>。
=== がん(癌) ===
食品中のビタミンC摂取は多くのコホート研究で様々ながんの発症の減少と関連しており、ビタミンCサプリメントは様々なランダム化比較試験でがんの発生率と無関係だとされている<ref name=NIH2016/>。
1976年にライナス・ポーリングとキャメロンは、様々な末期がん患者に100名に対し10日間ビタミンC10グラムを「[[静脈注射]]」し、その後経口摂取したことで、生存期間を延長すると報告した<ref name="pmid1068480">{{cite journal |authors=Cameron E, Pauling L |title=Supplemental ascorbate in the supportive treatment of cancer: Prolongation of survival times in terminal human cancer |journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. |volume=73 |issue=10 |pages=3685–9 |date=October 1976 |pmid=1068480 |pmc=431183 |doi=10.1073/pnas.73.10.3685 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC431183/ |quote=intravenous infusion for about 10 days and orally thereafter}}</ref>。また、1974年には分子矯正医学研究所のキャメロン・キャンベルらは様々ながん患者50名に対し最初10日間ビタミンC10グラムを静注し、それから経口のビタミンCを摂取したことで、標準的な治療法を補助する手段だと報告した<ref name="pmid4430016">{{cite journal |authors=Cameron E, Campbell A |title=The orthomolecular treatment of cancer. II. Clinical trial of high-dose ascorbic acid supplements in advanced human cancer |journal=Chem. Biol. Interact. |volume=9 |issue=4 |pages=285–315 |date=October 1974 |pmid=4430016 |doi=10.1016/0009-2797(74)90019-2 |url= |quote=In many of the patients here reported, treatment was initiated in hospital by the continuous intravenous infusion of ascorbic acid for periods up to 10 days.}}</ref>。1985年には[[メイヨークリニック]]のMoertelらが、「経口」のビタミンC<!--各カプセルは500mgで経口摂取とか書いてあるがどう計上して10gなのか不明-->を使った偽薬対照のランダム化比較試験を実施し、進行性の結腸直腸がん患者で効果が見られなかったと報告した<ref name="pmid3880867">{{cite journal |authors=Moertel CG, Fleming TR, Creagan ET, Rubin J, O'Connell MJ, Ames MM |title=High-dose vitamin C versus placebo in the treatment of patients with advanced cancer who have had no prior chemotherapy. A randomized double-blind comparison |journal=N. Engl. J. Med. |volume=312 |issue=3 |pages=137–41 |date=January 1985 |pmid=3880867 |doi=10.1056/NEJM198501173120301 |url= |quote=10 g of vitamin C daily or placebo (lactose). Both were prepared in identical opaque gelatin capsules and dispensed in the bottles.}}</ref>。前者の肯定的研究は静注であり、後者のような否定的研究は経口投与したものだったが、人々の注目は小さくなり、しかし静注の方が血中濃度が高くなるという事実から後に再び関心を集めることになる<ref name=NIH2016/><ref name="pmid31035414"/>。
[[アメリカ国立がん研究所]]の公開情報では、静脈投与では経口投与よりも血中ビタミンCが高くなり、副作用は非常に少なく[[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]]の向上が見られ、がん治療の副作用を軽減させる効果も見られるとされている<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2018-6-21 |url=http://cancerinfo.tri-kobe.org/pdq/summary/japanese.jsp?Pdq_ID=CDR0000742253 |title=高用量ビタミンC PDQ |website=がん情報サイト |publisher= |accessdate=2019-05-21}}</ref>。2019年のレビューでは、経口・静脈含め症例報告などを除外し、既に紹介した1980年代の研究から、2010年代までの賛否両方の合計19件の試験があり、そのうち偽薬対照が設けられていたのは4件で、これら全研究から非常に軽い副作用しか害はなさそうだが、効果を裏付けるには研究は足りていないので、続くランダム化比較試験が計画されているとした<ref name="pmid31035414">{{cite journal |authors=van Gorkom GNY, Lookermans EL, Van Elssen CHMJ, Bos GMJ |title=The Effect of Vitamin C (Ascorbic Acid) in the Treatment of Patients with Cancer: A Systematic Review |journal=Nutrients |volume=11 |issue=5 |pages= |date=April 2019 |pmid=31035414 |doi=10.3390/nu11050977 |url=https://doi.org/10.3390/nu11050977 }}</ref><!--以下を含む doi=10.1016/j.pmu.2012.05.008|issn=2186-4950 --><!--pmid=25360419は2014年のレビューなので少し古い-->。
その4件のRCT
*1970年と1985年の経口摂取によって効果がなかった2研究がある<ref name="pmid3880867"/><ref name="pmid384241">{{cite journal |authors=Creagan ET, Moertel CG, O'Fallon JR, Schutt AJ, O'Connell MJ, Rubin J, Frytak S |title=Failure of high-dose vitamin C (ascorbic acid) therapy to benefit patients with advanced cancer. A controlled trial |journal=N. Engl. J. Med. |volume=301 |issue=13 |pages=687–90 |date=September 1979 |pmid=384241 |doi=10.1056/NEJM197909273011303 |url=}}</ref>。
*2014年の[[有意]]ではないが比較群の約17か月に比較しビタミンC静脈注射では25.5か月と長い生存期間だったという研究と<ref name="pmid24500406">{{cite journal |authors=Ma Y, Chapman J, Levine M, Polireddy K, Drisko J, Chen Q |title=High-dose parenteral ascorbate enhanced chemosensitivity of ovarian cancer and reduced toxicity of chemotherapy |journal=Sci Transl Med |volume=6 |issue=222 |pages=222ra18 |date=February 2014 |pmid=24500406 |doi=10.1126/scitranslmed.3007154 |url=}}</ref>、2018年の高濃度ビタミンCの静脈投与によって完全治癒率の上昇・生存期間の延長が見られた研究がある<ref name="pmid29331774">{{cite journal |authors=Zhao H, Zhu H, Huang J; et al |title=The synergy of Vitamin C with decitabine activates TET2 in leukemic cells and significantly improves overall survival in elderly patients with acute myeloid leukemia |journal=Leuk. Res. |volume=66 |issue= |pages=1–7 |date=March 2018 |pmid=29331774 |doi=10.1016/j.leukres.2017.12.009 |url=}}</ref>。
Yun J, Mullarky E ら(2015)<ref name=science.aaa5004>Jihye Yun1, Edouard Mullarky, Changyuan Lu, Kaitlyn N. Bosch, A,. "[https://science.sciencemag.org/content/350/6266/1391 Vitamin C selectively kills KRAS and BRAF mutant colorectal cancer cells by targeting GAPDH.]" ''Science'' 11 Dec 2015: Vol.350, Issue 6266, pp.1391-1396, {{doi|10.1126/science.aaa5004 }}</ref>は高濃度のビタミンCは、がん細胞の[[アポトーシス]]を引き起こすとする研究結果を発表しているが、作用機序は未解明であるため臨床応用が可能かは不明である<ref name=science.aaa5004 /><ref>森下雄太, 田井章博「[https://doi.org/10.20632/vso.90.8_398 ビタミンC 再生経路と酸化ストレス]」『ビタミン』90巻8号、2016年、398-401頁、{{doi|10.20632/vso.90.8_398}}</ref>。
=== 皮膚 ===
{{See also|#外用}}
日本でも戦後の1940年代には、栄養欠乏によってビタミンC欠乏による色素沈着になる人も多く、ビタミンCが使われ、医薬品の「ハイシー」には以下の効能がある:ビタミンCの欠乏の関与が推定される、[[肝斑]]・[[雀卵斑]]・炎症後の[[色素沈着]]<ref name="色素沈着抑制">{{Cite journal |和書|author=伊東忍 |date=2012-11 |title=プロビタミンC(13)美白とプロビタミンC : ビタミンC誘導体と色素沈着抑制 |journal=フレグランスジャーナル |volume=40 |issue=11 |pages=66-72}}</ref>。1950年代になると栄養状態は改善され、同じく肝斑・雀卵斑や日焼け後の色素沈着の予防について報告されるようになった<ref name="色素沈着抑制"/>。RCTで、紫外線照射後の色素沈着は、ビタミンCを600mgを単独で摂取するよりも[[パントテン酸]] (9mg) を併用した方が抑制された<ref>{{Cite journal |和書|author1=麻生和雄 |author2=穂積豊 |date=1980 |title=紫外線照射後の皮膚色素沈着にたいするビタミンC、パントテン酸カルシウムの併用効果 |journal=西日本皮膚科 |volume=42 |issue=5 |pages=885-892 |doi=10.2336/nishinihonhifu.42.885 }}</ref>。26名を対象とした試験でビタミンCが200mg、ビタミンEが100mgの合剤を6か月服用し、肝斑に対し「有効」19.2%、「やや有効」23%であった<ref>{{Cite journal |和書|author1=山本幸代 |author2=須貝哲郎 |author3=麻生五月 |author4=渡辺加代子 |date=1982 |title=肝斑、炎症後色素沈着に対するユベラC顆 粒の治療効果 |journal=皮膚 |volume=24 |issue=3 |pages=405-412 |doi=10.11340/skinresearch1959.24.405 |url=https://doi.org/10.11340/skinresearch1959.24.405}}</ref>。内服では、肝斑に対し[[トラネキサム酸]]配合錠で改善率は約60%、ビタミンC製剤で26.5%である<ref>{{Cite book |和書 |author=日本形成外科学会 |coauthors=日本創傷外科学会、日本頭蓋顎顔面外科学会 |date=2015 |title=形成外科診療ガイドライン1 皮膚疾患 |url=http://www.jsprs.or.jp/member/committee/module/21/pdf/keiseigeka2.pdf |format=PDF |publisher=金原出版 |isbn=978-4-307-25714-5 |page=137 }}</ref>。
*紫外線防御
:紫外線によって紅斑を生じさせる最小紅斑線量 (MED) について。ビタミンCと[[ビタミンE]]をともに摂取し、それぞれ別の研究として1週間でMEDは21%増加(毎日Eを1000IUとCを2g<!--{{PMID|9448204}}-->)、7週間でMED77.6%増加(E3g/C3g<!--{{PMID|9870553}}-->)、12週間で41%増加(E1000IU/C2g<ref name="pmid15675947"/>)、別の研究でも12週間で41%増加(同<!--15675947-->)<ref name="pmid29998107"/>。なお、ビタミンCやE単体の摂取ではMEDの変化はなかったという研究がある<ref name="pmid29998107">{{Cite journal |author=Parrado C, Philips N, Gilaberte Y et al |title=Oral Photoprotection: Effective Agents and Potential Candidates |journal=Frontiers in medicine |volume=5 |pages=188 |date=2018 |doi=10.3389/fmed.2018.00188 |pmid=29998107 |pmc=6028556 |url=https://doi.org/10.3389/fmed.2018.00188 }}</ref>。
== 摂取 ==
[[File:Oranges and orange juice.jpg|thumb|right|160px|一杯の[[オレンジジュース]](248g)で、米国[[食生活指針|成人栄養摂取目標]]を149%満たすことができる<ref>{{Cite web|publisher=米国農務省 |title=Orange juice, raw (Includes foods for USDA's Food Distribution Program) |website=FoodData Central Search Results |url=https://fdc.nal.usda.gov/fdc-app.html#/food-details/169098/nutrients |accessdate=2019-04}}</ref>]]
[[ヒト]]を含む類人猿はアスコルビン酸を体内で合成できないため、必要量をすべて[[食事]]などによって外部から摂取する必要がある[[ビタミン]]の一種類として扱われている。一方、多くの動物にとっては、アスコルビン酸は生体内で[[生合成]]できる物質であるため、必ずしも外界から摂取する必要はない。体内でアスコルビン酸を合成できないのは、ヒトを含む[[サル目]]の一部や[[テンジクネズミ|モルモット]]などだけである。
[[風邪]]や[[インフルエンザ]]、その他の感染症に対してアスコルビン酸粉末などとして[[医薬品]]と併用される。その理由としては、これらの肉体的[[ストレス (生体)|ストレス]]や治癒に際してはアスコルビン酸の要求量が増大するからというものである。[[喫煙]]<ref>今木雅英、三好保、多田敏子 ほか「[https://doi.org/10.3861/jshhe.57.19 青年における喫煙と血清ビタミンC量の関係について]」『民族衛生』、1991年、57巻1号、19-23頁、{{doi|10.3861/jshhe.57.19}}</ref>等のストレスによっても血中濃度が低下するため<ref>石神昭人「[https://doi.org/10.20632/vso.85.8_400 災害時におけるビタミンCの不足と摂取の必要性]」『ビタミン』2011年、85巻8号、400-404頁、{{doi|10.20632/vso.85.8_400}}</ref>、結果的にアスコルビン酸の要求量が増大する。
=== 推奨量 ===
成人の1日あたり摂取量としての厚生労働省による推奨量([[RDA]])は100mgである<ref>[https://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/11/h1122-2.html 厚生労働省「日本人の食事摂取基準について」] 厚生労働省の第6次改定「日本人の栄養所要量」</ref>が、[[喫煙]]者の場合は、ニコチンがビタミンCの吸収を妨げるといわれているため更に35mg多く摂取する必要があると考えられている<ref>{{Cite web|和書|title=たばこと健康 |url=https://www.eiyou-chiba.or.jp/commons/shokuji-kou/health_and_diet/tabaco/ |publisher=千葉県栄養士会 |date=2021-12-11 |accessdate=2022-08-24 }}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin-left:1em"
|+ ビタミンCの[[血液検査の参考基準値]]
!rowspan=2|項目
!rowspan=2|被験者の<br>タイプ
!colspan=2|標準範囲
!rowspan=2|単位
!colspan=2|最適範囲
|-
!下限値!!上限値!!下限値!!上限値
|-
|rowspan=2| '''ビタミンC'''<br>(アスコルビン酸)
|rowspan=2| || 0.4<ref name=bloodbook>[http://www.bloodbook.com/ranges.html Blood Test Results - Normal Ranges] Bloodbook.Com</ref> || 1.5<ref name=bloodbook/> || mg/dL || 0.9<ref name=adeeva>[http://www.adeeva.com/resources/bloodtestscomplete.html Adëeva Nutritionals Canada > Optimal blood test values] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090529032656/http://adeeva.com/resources/bloodtestscomplete.html |date=2009年5月29日 }} Retrieved on July 9, 2009</ref> ||
|-
| 23<ref name=c-mass>Derived from mass values using molar mass of 176 grams per mol</ref> || 85<ref name=c-mass/> || μmol/L || 50<ref name=adeeva/> ||
|}
血漿中ビタミンC濃度基準値を0.7mg/100ml以上に設定して、ビタミンCの1日あたり適正摂取量は成人で100mg(妊婦は+10mg、授乳婦は+40mg ) である。血漿中ビタミンC濃度の正常範囲は 0.5-1.5mg/100mL である<ref>GARRY PJ. Nutritional status in a healthy elderly population : vitamin C. Am J Clin Nutr. (1982) vol.36, p.332-339, {{PMID|7102589}}, {{DOI|10.1093/ajcn/36.2.332}}</ref>。0.2mg/100mL を下回ると、各種の欠乏症状が現れる可能性がある<ref>荒金和美, 北浦奈由, 北田修 ほか. 「{{PDFlink|[http://www.jrs.or.jp/quicklink/journal/nopass_pdf/040120941j.pdf 肺胞出血を伴った壊血病の一例]}}」 日本呼吸器学会雑誌 2002年 vol.40, no.12, p.941-944., {{PMID|12692944}}</ref>。
なお、ヒトの[[母乳]]のビタミンC濃度は0.5mg/100gとの報告がある。
=== 大量摂取 ===
健康な成人であれば 2000mg の摂取量まで毒性はなく、体内で吸収されなかった余剰なビタミンCは[[尿]]中に排出されるが、数グラムレベルで一度に大量摂取し、腸管耐容量を超えると[[下痢]]を起こす可能性がある<ref name="MSD">[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル/09-栄養障害/ビタミン欠乏症,依存症,および中毒/ビタミンc ビタミン欠乏症,依存症,および中毒 ビタミンC] MDSマニュアル プロフェッショナル版</ref>。
厚生労働省による2015年の[[日本人の食事摂取基準]]では、広い摂取範囲でも安全だと考えられるため、上限量は設定していないが、通常の食品から摂取することを基本とし、サプリメント(健康食品)から 1日あたり1g以上の量を摂取することは推奨できないとしており、生活習慣病の発症予防についても、ビタミンCの摂取量と血液中濃度と体外排泄からは1g以上の摂取には意味がないことが示されているが、病気発症との関連については不明確だとしている<ref name="各論2015">「{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000067134.pdf 各論 ビタミン(水溶性ビタミン)]}}」、「[https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041824.html 日本人の食事摂取基準 (2015年版) 策定検討会]」厚生労働省、2014年3月28日。</ref>。毎日、数グラムの摂取では腎臓でのシュウ酸結石のリスクがあるとしている<ref name="各論2015"/>。
体内でビタミンCの一部がシュウ酸に代謝されるとして、毎日4グラム摂取した者で[[シュウ酸塩]]の結晶より腎臓が損傷することで腎不全を発症したという症例報告がある<ref name="hfnet1037" />。腎臓移植を受けた31歳の女性が毎日2グラム摂取し、続発性シュウ酸症となった症例が報告されており、腎不全患者のビタミンCの大量摂取については注意が必要であるとする考え方もある。<ref name="hfnet1037">{{Hfnet|1037|香港衛生署がビタミンサプリメントの過剰摂取に注意喚起}}</ref>
2019年現在、[[アメリカ食品医薬品局]] (FDA) はビタミンCを癌の治療薬として認可していない。ビタミンCは単に[[サプリメント|補助食品]]として利用されている。
=== 含有食品 ===
[[File:Ambersweet oranges.jpg|thumb|right|柑橘類]]
多くの[[食品]]やサプリメントにおいて、「[[レモン]]何個分のビタミンC」という表現が用いられるが、このとき「レモン1個分のビタミンC」は 20mg に換算される。この表記は[[農林水産省]]によって1987年に制定された「ビタミンC含有菓子の品質表示ガイドライン」によるものであるが、ビタミンCが主成分である[[ビタミン]]添加菓子を対象とするものであり、それ以外の食品やサプリメントに対して用いることは適当でない。また、このことから「レモンはビタミンCを豊富に含む果物である」と誤解されがちだが、実際には同じ[[柑橘類]]であるグレープフルーツやユズよりも含有量は低い。
レモン・ライム・オレンジ・グレープフルーツなどの柑橘類のほか、[[カムカム]]、[[カキノキ|柿]]、[[アセロラ]]、[[キウイフルーツ]]、トマトはビタミンCの含有量が非常に多い。その他にビタミンCの多く含まれる食品としては、グァバ、パパイヤ、ブロッコリー、芽キャベツ、ブラックベリー、イチゴ、カリフラワー、ほうれん草、マスクメロン、ブルーベリー、パセリ、ジャガイモ、ピーマン、サツマイモなどがある。<!--含有食品の単純な列挙は止めましょう。標準成分表等を出典にした含有量を伴った記述は歓迎です。-->
ビタミンCそのものは強い癖のある味で、柑橘類でもすっぱい物のほうが含有量は多い傾向にあるため「酸味の強い果物ほどビタミンCが豊富だ」と思われがちだが、実際にはそれらの酸味の多くは[[クエン酸]]によるものである。上記のように、酸味がまったくないのにビタミンCが豊富な食品も多い。
[[乳酸菌]]は[[発酵]]の際にビタミンCも産生し、発酵前の[[生乳]]等のビタミンCよりも濃度が高くなる<ref name=kyoto>石井智美「[http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/img/publish/alpub/jcas_ren/REN_04/REN_04_009.pdf 内陸アジアの遊牧民の製造する乳酒に関する微生物学的研究]」『国立民族学博物館地域研』JCAS連携研究成果報告4、2002年、103-123頁。</ref>。[[牛乳]]にはビタミンCがほとんど含まれていない。その理由は、子牛が自らビタミンCを合成できるので牛乳から摂取する必要がないためである。牛乳を発酵して作った[[ヨーグルト]]では若干ながらビタミンCが含まれている。牛乳のみならず肉にもビタミンCは含まれていないので、野菜や果物を摂取できない[[モンゴル]][[遊牧民]]は、大人のみならず子供を含め[[馬乳]]を[[乳酸発酵]]させ微量のビタミンCを生成した[[馬乳酒]]を大量に飲むことでビタミンCを補っている<ref name=kyoto/>。アフリカの遊牧民族である[[マサイ族]]も日常的に発酵乳を飲む。
==== 加熱に弱い ====
ビタミンCは、加熱すると空気中の[[酸素]]や水分との反応が促進され、酸化されてデヒドロアスコルビン酸となり、さらに加水分解されたジケトグロン酸へ分解しやすくなる<ref>[http://pharm.ph.sojo-u.ac.jp/genometalk/genometalk11-20.pdf げのむトーク(11-20)]</ref>{{信頼性要検証|date=2019-08}}。デヒドロアスコルビン酸は人体内でアスコルビン酸に還元され利用されるが、ジケトグロン酸にはビタミンCのような生理活性はないとされる。[[ジャガイモ]]や[[サツマイモ|さつまいも]]に含まれるビタミンCのように、[[デンプン]]に保護されて酸素に接触しない場合には、加熱してもビタミンCは壊れにくいとの指摘もある<ref>[http://co-4gun.eiyo.ac.jp/food%20database/3gun/foods-dic-3-jagaimo.html ジャガイモ] KNU ダイエット 食材百科事典</ref>{{信頼性要検証|date=2019-08}}が、ジャガイモの加熱時間に従いビタミンC残存量が顕著に減少し、ゆで加熱では28%程度のビタミンC残存量となる<ref>{{Cite journal|和書|author=大羽 和子 |title=貯蔵、切断および加熱調理に伴うジャガイモのビタミンC含量の変化」|journal=日本家政学会誌 |vol=39 |date=1988 |issue=10 |pages=1051-1057 |doi=10.11428/jhej1987.39.1051}}</ref>。酸素と接する加熱過程を有する、果汁100%の加熱型[[濃縮還元]]ジュースでは、ビタミンCの大半は壊れてしまうことになる。ただし現在では、加熱型濃縮還元は探すことが困難なほどでほぼ絶えており、超音波による果汁濃縮が主流となっている(超音波[[加湿器]]の原理で、果汁液の水分のみを飛ばすことによって果汁を濃縮するシステム([[超音波霧化分離]]装置)。加熱式にくらべ、エネルギー効率が良く、工場の冷房費用もかからないため主流となった)。しかし、この方式でも加熱殺菌は行われるため、やはりビタミンCは壊れてしまう。そのため高栄養価を謳う野菜ジュースは別途ビタミン類が添加されている。
== 体内動態 ==
=== 吸収 ===
ビタミンCは体内の消化器にて吸収されたのちに、血液によっていくつかの臓器に送られる。
ヒトでは経口摂取した量が、30mgから180mg では 70-80% が吸収される<ref name=vso.72.1_19 />。1.5g では 50% が吸収されるが、3g で飽和するとの報告がある<ref name=vso.72.1_19 />。また、飲酒により吸収が阻害される<ref name=vso.77.12_625>村田晃、小林千恵、白石育子 ほか「[https://doi.org/10.20632/vso.77.12_625 飲酒の血漿ビタミンC濃度に及ぼす影響]」『ビタミン』77巻12号、2003年、625-632頁、{{doi|10.20632/vso.77.12_625}}</ref>、しかし飲酒により血中濃度は低下しない<ref name=vso.77.12_625 />。
別の研究ではビタミンCを毎日2グラム摂取し、4週間時点で1週間時点よりも血中ビタミンC濃度が上昇しているが、それ以降はそれ以上の血中濃度の増加はなく飽和したと考えられ、1週間では飽和までは不十分だと考察された<ref name="pmid15675947">{{Cite journal |author=Placzek M, Gaube S, Kerkmann U |title=Ultraviolet B-induced DNA damage in human epidermis is modified by the antioxidants ascorbic acid and D-alpha-tocopherol |journal=The Journal of investigative dermatology |volume=124 |issue=2 |pages=304–307 |date=2005-2 |doi=10.1111/j.0022-202X.2004.23560.x |pmid=15675947 |url=https://doi.org/10.1111/j.0022-202X.2004.23560.x }}</ref>。
ビタミンC錠剤を飲むよりビタミンC入りのガムを噛んだ場合、血中のビタミンCの上昇が速やかに起こり、また吸収量が多いことが分かった<ref>安田和人「チューインガム中のビタミンCの吸収」『医療と検査機器・試薬』27(2)、2004年、71-74頁、{{naid|10029766059}}。</ref>。サプリメントや野菜ジュースは、野菜サラダに比べて尿への排出速度が速く、食物繊維などと同時に摂取することで体内に長くとどまるとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://camp.toho-u.ac.jp/portal/headline/view.php?no=6742&site_no=nc&camp_no=all |title=【薬学部生化学教室・石神昭人准教授】食の健康学 ビタミンC サプリよりサラダ(9/28 朝日)|accessdate=2018-11-26 |first=|date=2009-9-28|website=東邦大学キャンパスポータルサイト|publisher=東邦大学|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140407081336/http://camp.toho-u.ac.jp/portal/headline/view.php?no=6742&site_no=nc&camp_no=all |archivedate=2014-4-7 }}</ref>。
=== 排泄・代謝 ===
アスコルビン酸は、尿を介して排泄される。ヒトでは、ビタミンCの摂取量が少ないときは、ビタミンCを排泄せずに[[腎臓]]で再吸収する。ビタミンCの血漿濃度が1.4mg/dL以上の場合にのみ、再吸収が低下し、過剰な量が尿に移行する。この回収機構は、ビタミンCの欠乏を遅延させる<ref name="pmid8263270">{{cite journal |authors=Oreopoulos DG, Lindeman RD, VanderJagt DJ; et al |title=Renal excretion of ascorbic acid: effect of age and sex |journal=Journal of the American College of Nutrition |volume=12 |issue=5 |pages=537–542 |date=October 1993 |pmid=8263270 |doi=10.1080/07315724.1993.10718349 }}</ref>。
アスコルビン酸は、デヒドロアスコルビン酸に可逆的に変換し、その化合物から非可逆的に2,3-ジケトグルコン酸に変換されてから[[シュウ酸]]に変換される。これらの3つの化合物も尿を介して排泄される。ヒトは[[モルモット]]よりもデヒドロアスコルビン酸をアスコルビン酸に変換する能力が優れているため、ビタミンCの欠乏をより遅延させることができる<ref name=Linster2007>{{cite journal |authors=Linster CL, Van Schaftingen E |title=Vitamin C. Biosynthesis, recycling and degradation in mammals |journal=The FEBS Journal |volume=274 |issue=1 |pages=1–22 |date=January 2007 |pmid=17222174 |doi=10.1111/j.1742-4658.2006.05607.x }}</ref>。
===分布===
細胞内への輸送について。ビタミンCは腸管上部で吸収され<ref name=vso.72.1_19>美濃眞、五十嵐脩、糸川嘉則 ほか(1998年)「[https://doi.org/10.20632/vso.72.1_19 ビタミンCの安全性]」『ビタミン』、72巻1号、19-24頁、{{doi|10.20632/vso.72.1_19}}</ref>、[[ナトリウム]]依存性輸送体が存在するが、そのナトリウム依存性輸送体は、[[グルコース輸送体]]、特に、アスコルビン酸に戻る[[リサイクル]]において必要な[[酵素]][[補因子]]と細胞内[[抗酸化物質]]を生成する体のほとんどの細胞でビタミンC(その酸化型である[[デヒドロアスコルビン酸]])<ref>{{cite journal|author=KC, S.; Carcamo, J. M.; Golde, D. W.|year= 2005|title=Vitamin C enters mitochondria via facilitative glucose transporter 1 (Glut1) and confers mitochondrial protection against oxidative injury|journal=FASEB J.|volume= 19 |issue=12|pages= 1657–67|doi=10.1096/fj.05-4107com|pmid= 16195374}}</ref>の輸送を担当するものがGLUT1で、特殊化した細胞内に主に存在する。
脳への輸送について。脳は、ビタミンCの最大濃度をもつ器官の一つであるが、ビタミンCは血流から脳への関門を通過しない。このためアスコルビン酸に代わって、デヒドロアスコルビン酸がGLUT1トランスポーターを介して[[血液脳関門]]を通過して輸送され、その後にアスコルビン酸に変換される<ref name="ascorBBB">{{cite journal |author=Huang, J.; Agus, D. B.; Winfree, C. J.; et al |title=Dehydroascorbic acid, a blood-brain barrier transportable form of vitamin C, mediates potent cerebroprotection in experimental stroke |url=http://www.pnas.org/cgi/content/full/98/20/11720 |journal=[[米国科学アカデミー紀要|Proc. Natl. Acad. Sci. USA]] |volume=98 |issue=20 |pages=11720–11724 |year=2001 |pmid=11573006 |doi=10.1073/pnas.171325998 |pmc=58796}}</ref>。
ミトコンドリアへの輸送について。ビタミンCは、[[グルコーストランスポーター]]GLUT1を介してデヒドロアスコルビン酸が輸送され、還元され、[[フリーラジカル]]の大部分が生成される場所である[[ミトコンドリア]]に蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアの[[ゲノム]]と[[膜]]を保護する<ref name="MitoGolde">{{cite journal |author=KC S, Carcamo JM, Golde DW |title=Vitamin C enters mitochondria via facilitative glucose transporter 1 (Glut1) and confers mitochondrial protection against oxidative injury |url=http://www.fasebj.org/cgi/content/full/19/12/1657 |journal=FASEB J |volume=19 |issue=12 |pages=1657–67 |year=2005 |pmid=16195374 |doi=10.1096/fj.05-4107com}}</ref>。
==外用==
ビタミンCの外用はビタミンCの経口摂取によって血中のビタミンC濃度が飽和していない人に効果的だと考えられる<ref name="pmid28805671">{{cite journal|author=Pullar JM, Carr AC, Vissers MCM |title=The Roles of Vitamin C in Skin Health |journal=Nutrients |volume=9 |issue=8 |date=2017 |pages=866 |pmid=28805671 |pmc=5579659 |doi=10.3390/nu9080866 |url=https://doi.org/10.3390/nu9080866 }}</ref>。
ビタミンC(アスコルビン酸)ではpH3.5以下にする必要があり<ref name="pmid11207686">{{Cite journal |author=S. R. Pinnell, H. Yang, M. Omar |coauthors=et al |title=Topical L-ascorbic acid: percutaneous absorption studies |journal=Dermatologic surgery : official publication for American Society for Dermatologic Surgery [et al.] |volume=27 |issue=2 |pages=137–142 |date=2001-2 |pmid=11207686 }}</ref>、活性を持つには理想的には濃度は8%以上にし、逆に濃度が20%以上でも皮膚への刺激性のみが増加すると考えられるため、一般的な製品は10-20%の濃度となっている<ref name="pmid29104718">{{Cite journal |author=Firas Al-Niaimi, Nicole Yi Zhen Chiang |title=Topical Vitamin C and the Skin: Mechanisms of Action and Clinical Applications |journal=The Journal of clinical and aesthetic dermatology |volume=10 |issue=7 |pages=14–17 |date=2017-7 |pmid=29104718 |pmc=5605218 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5605218/ }}</ref>。
顔の皮膚を[[光老化|光損傷]](光老化)し、その程度が軽症から中等度の19人に[[ランダム化比較試験]] (RCT) を実施し3か月後、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、[[皺|シワ]]、[[顔のたるみ|たるみ]]などを改善した<ref name="pmid10522500">{{cite journal|author=Traikovich SS|title=Use of topical ascorbic acid and its effects on photodamaged skin topography|journal=Arch. Otolaryngol. Head Neck Surg.|issue=10|pages=1091–8|date=October 1999 |pmid=10522500}}</ref>。RCTで、光老化した20人の50代女性に、5%濃度のビタミンCを含むクリームを塗り6か月後、深いシワが偽薬に比較して大きく減少した<ref name="pmid12823436">{{Cite journal |author=Philippe G. Humbert, Marek Haftek, Pierre Creidi |coauthors=et al |title=Topical ascorbic acid on photoaged skin. Clinical, topographical and ultrastructural evaluation: double-blind study vs. placebo |journal=Experimental dermatology |volume=12 |issue=3 |pages=237–244 |date=2003-6 |pmid=12823436 |doi=10.1034/j.1600-0625.2003.00008.x |url=https://hdl.handle.net/2268/39190 }}</ref>。
二重盲検ではない80人での試験は、ビタミンC含有のシリコン製ジェルを6か月使用することで、アジア人の顔面の手術後に、[[瘢痕]]の隆起や紅斑を減少させ、メラニン色素の指数を低下させていた<ref name="pmid24091488">{{cite journal|author=Yun IS, Yoo HS, Kim YO, Rah DK |title=Improved scar appearance with combined use of silicone gel and vitamin C for Asian patients: a comparative case series |journal=Aesthetic Plast Surg |issue=6|pages=1176–81 |date=December 2013|pmid=24091488 |doi=10.1007/s00266-013-0210-5}}</ref>。
RCTにて[[肝斑]](シミ)に対し、(多い)4%濃度の[[ハイドロキノン]]では93%が良い結果に改善し副作用は68.7%に起こり、同5%ビタミンCは良い結果62.5%と副作用6.2%で、研究者は副作用が少ない点を評価している<ref name="pmid15304189">{{Cite journal |author=Liliana Elizabeth Espinal-Perez, Benjamin Moncada, Juan Pablo Castanedo-Cazares |title=A double-blind randomized trial of 5% ascorbic acid vs. 4% hydroquinone in melasma |journal=International journal of dermatology |volume=43 |issue=8 |pages=604–607 |date=2004-8 |doi=10.1111/j.1365-4632.2004.02134.x |pmid=15304189 }}</ref>。別のRCTでは<ref name="pmid7027767">{{Cite journal |author=Hayakawa R, Ueda H, Nozaki T |coauthors=et al |title=Effects of combination treatment with vitamins E and C on chloasma and pigmented contact dermatitis. A double blind controlled clinical trial |journal=Acta vitaminologica et enzymologica |volume=3 |issue=1 |pages=31–38 |date=1981 |pmid=7027767 }}</ref>、肝斑に対しビタミンC単体よりもビタミンEと併用した方が効果があった<!--外用薬の論文だという出典--><ref name="pmid23723597">{{cite journal |last1=Sarkar |first1=Rashmi |last2=Arora |first2=Pooja |last3=Garg |first3=KVijay |title=Cosmeceuticals for hyperpigmentation: What is available? |journal=Journal of Cutaneous and Aesthetic Surgery |volume=6 |issue=1 |date=2013 |pages=4 |pmid=23723597 |pmc=3663177 |doi=10.4103/0974-2077.110089 |url=https://doi.org/10.4103/0974-2077.110089 }}</ref>。25%ビタミンCを使い、4か月で肝斑を有意に減少させたという比較対象のない試験がある<ref name="pmid19298775">{{cite journal |last1=Hwang |first1=Seon-Wook |last2=Oh |first2=Doo-Jin |last3=Lee |first3=Deborah |coauthors=et al |title=Clinical Efficacy of 25% l-Ascorbic Acid (C'ensil) in the Treatment of Melasma |journal=Journal of Cutaneous Medicine and Surgery |volume=13 |issue=2 |date=2009 |pages=74–81 |pmid=19298775 |doi=10.2310/7750.2008.07092 }}</ref>。イオン導入も有効である<ref name="pmid12771472">{{cite journal |last1=Huh |first1=Chang-Hun |last2=Seo |first2=Koo-Il |last3=Park |first3=Je-Young |coauthors=et al |title=A Randomized, Double-Blind, Placebo-Controlled Trial of Vitamin C Iontophoresis in Melasma |journal=Dermatology |volume=206 |issue=4 |date=2003 |pages=316–320 |pmid=12771472 |doi=10.1159/000069943 }}</ref>。
1%濃度のビタミンE(αトコフェロール)と同15%ビタミンCは、それぞれ単独でも日焼けによる紅斑や日焼け細胞数を減少させたが、併用した方が効果があった<ref name="pmid12789176">{{cite journal |last1=Lin |first1=Jing-Yi |last2=Selim |first2=M.Angelica |last3=Shea |first3=Christopher R. |coauthors=et al |title=UV photoprotection by combination topical antioxidants vitamin C and vitamin E |journal=Journal of the American Academy of Dermatology |volume=48 |issue=6 |date=2003 |pages=866–874 |pmid=12789176 |doi=10.1067/mjd.2003.425 }}</ref>。[[フェルラ酸]]は、ビタミンC、ビタミンEの化学的な安定性を向上させ、太陽光に対する防御性を数倍にする<ref name="pmid16185284">{{cite journal|author=Lin FH, Lin JY, Gupta RD, et al. |title=Ferulic acid stabilizes a solution of vitamins C and E and doubles its photoprotection of skin |journal=J. Invest. Dermatol. |issue=4 |pages=826–32 |date=October 2005 |pmid=16185284 |doi=10.1111/j.0022-202X.2005.23768.x }}</ref>。10名のランダム化比較試験で、ビタミンC(15%濃度)、フェルラ酸(2%)、フロレチンを含有する外用薬を、紫外線による皮膚損傷に備えて事前に塗ることで防御作用があった<ref name="pmid19146606">{{cite journal|author=Oresajo C, Stephens T, Hino PD, et al.|title=Protective effects of a topical antioxidant mixture containing vitamin C, ferulic acid, and phloretin against ultraviolet-induced photodamage in human skin |journal=J Cosmet Dermatol |issue=4 |pages=290–7 |date=December 2008 |pmid=19146606 |doi=10.1111/j.1473-2165.2008.00408.x }}</ref>。12名の中国人女性を用いて、ビタミンC、ビタミンE、フェルラ酸からなる外用薬は、これを塗った部分は、塗っていない部分に比較して光から防御された<ref name="pmid23652896">{{cite journal |authors=Wu Y, Zheng X, Xu XG, etal |title=Protective effects of a topical antioxidant complex containing vitamins C and E and ferulic acid against ultraviolet irradiation-induced photodamage in Chinese women |journal=J Drugs Dermatol |volume=12 |issue=4 |pages=464–8 |date=April 2013 |pmid=23652896 |doi= |url=http://jddonline.com/articles/dermatology/S1545961613P0464X}}</ref>。
[[ビタミンC誘導体]]が開発されておりアスコルビン酸(ビタミンC)の不安定な性質を改良したり、保湿性を持たせている<ref>{{Cite journal |和書|author1=松岡桓準 |author2=平徳久 |author3=中村清香 |author4=勝山雄志 |author5=吉岡正人 |date=2014 |title=新規保湿型ビタミンC誘導体グリセリル化アスコルビン酸の有用性 |journal=日本化粧品技術者会誌 |volume=48 |issue=3 |pages=200-207 |doi=10.5107/sccj.48.200 |url=https://doi.org/10.5107/sccj.48.200}}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:A case of Scurvy journal of Henry Walsh Mahon.jpg|thumb|right|壊血病の報告(1841年)]]
[[16世紀]]から[[18世紀]]の[[大航海時代]]には、[[壊血病]]の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられた。[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]によるインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡している。
1753年にイギリス海軍省の[[ジェームズ・リンド]]は、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特に[[ミカン]]や[[レモン]]を摂ることによってこの病気の予防ができることを見出した。その成果を受けて、[[ジェームズ・クック|キャプテン・クック]]の[[南太平洋]]探検の第一回航海(1768年 - 1771年)で、[[ザワークラウト]]や果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた。
しかし、当時の航海では新鮮な[[柑橘類]]を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として[[麦汁]]、[[ポータブルスープ]]、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている(濃縮オレンジジュースは加熱されていて、ビタミンCは失われている)。結局、おもに[[ザワークラウト]]のおかげだったことは当時は不明で、あげく帰還後にクックは麦汁を推薦したりしたもので、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まなかった。
1920年、{{仮リンク|ジャック・ドラモンド|en|Jack Drummond}}が[[オレンジ]]果汁から還元性のある抗壊血病因子を抽出し、これをビタミンCと呼ぶことを提案した。1927年には[[セント=ジェルジ・アルベルト|セント-ジェルジ]]がウシの[[副腎]]から強い還元力のある物質を単離し、「ヘキスロ酸」として発表したが、1932年にこれがビタミンCであることが判明した。1933年に[[ウォルター・ハース|ハース]]によってビタミンCの[[構造式]]が決定されてアスコルビン酸と命名され、1933年には[[タデウシュ・ライヒスタイン|ライヒシュタイン]]が[[有機合成]]によるビタミンCの合成に成功した。
==ビタミンC合成能を失った動物種==
[[L-グロノラクトンオキシダーゼ]](ビタミンC合成酵素)[[遺伝子]]の活性は、いくつかの[[種 (分類学)|種]]の[[進化]]史のなかでそれぞれ独立に失われている。哺乳類ではテンジクネズミや霊長目の直鼻亜目がこの遺伝子の活性を失っており、そのためにビタミンCを合成できないが、その原因となった[[突然変異]]は別のものである。どちらの[[系統]]でも、活性を失った遺伝子は多数の変異を蓄積しつつ、[[偽遺伝子]]として残っている<ref name="pmid1400507">{{cite journal |author=Nishikimi M, Kawai T, Yagi K | title=Guinea pigs possess a highly mutated gene for L-gulono-gamma-lactone oxidase, the key enzyme for L-ascorbic acid biosynthesis missing in this species | journal=J. Biol. Chem. | volume=267 |issue=30 |pages=21967–72 |date=1992-10 |pmid=1400507 |doi= |url=}}</ref>。[[スズメ目]]の鳥類では、活性の喪失が何度か起こっており、またおそらくは再獲得も起こったために、種によってビタミンC合成能力が異なる。他に、[[コウモリ]]類もこの遺伝子の活性を失っている<ref>{{cite journal |author=Martinez del Rio C |date=1997 |title=Can Passerines Synthesize Vitamin C? |journal=The Auk |volume=114 |issue=3 |pages=513-516 | url=http://elibrary.unm.edu/sora/Auk/v114n03/p0513-p0516.pdf |format=PDF}}</ref>。これらの動物が遺伝子変異によるビタミンC合成能力を失ったにもかかわらず継続的に生存し得た最大の理由は、これらの動物が果物、野菜等のビタミンCを豊富に含む食餌を日常的に得られる環境にあったためである。なお、鳥類のビタミンC合成能力について、原始的な鳥類は[[腎臓]]でビタミンCを合成しており、さらに進化した高等な鳥類(スズメ目)では、[[肝臓]]で合成するようになった。これは、酸素消費量の増大に伴う過酸化物質産生から身を守るため、より多くのビタミンC合成を行う必要があり、ビタミンC合成部位が腎臓よりも大きな肝臓に移行したと推測されることを示す文献もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://ocw.kyoto-u.ac.jp/ja/faculty-of-agriculture-jp/5112000/pdf/13.pdf |format=PDF |title=資源生物科学概論 A 2012年 講義ノート 5章 動物の栄養 |publisher=京都大学OCW |accessdate=2015-3-26}}</ref>。
霊長目でこの酵素の活性が失われたのは約6300万年前であり、直鼻亜目(酵素活性なし)と曲鼻亜目(酵素活性あり)の分岐が起こったのとほぼ同時である。ビタミンC合成能力を失った直鼻亜目にはメガネザル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。ビタミンC合成能力を有する曲鼻亜目には、キツネザルなどが含まれる<ref name="pmid3113259">{{cite journal |author=Pollock JI, Mullin RJ |title=Vitamin C biosynthesis in prosimians: evidence for the anthropoid affinity of Tarsius |journal=Am. J. Phys. Anthropol |volume=73 |issue=1 |pages=65–70 |date= 1987-5 |pmid=3113259 |doi=10.1002/ajpa.1330730106 |url= }}</ref>。
ヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、2800万年から2400万年前頃であると推定されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2741112?pid=5970393 サルとヒトとの進化の分岐、定説より最近か ミシガン大] AFPBB News 2010年7月16日</ref><ref>''[[ネイチャー|Nature]]''、2010年7月15日号</ref>。ヒト上科の共通の祖先が旧世界のサルから分枝した際に、[[尿酸オキシダーゼ]]活性が消失したものと推定されている<ref>{{cite journal |author=Friedman TB, Polanco GE, Appold JC, Mayle JE |title=On the loss of uricolytic activity during primate evolution--I. Silencing of urate oxidase in a hominoid ancestor |journal=Comp. Biochem. Physiol., B |volume=81 |issue=3 |pages=653?9 |year=1985 |pmid=3928241}}</ref>。尿酸オキシダーゼ活性の消失の意味付けは、尿酸が[[抗酸化物質]]として部分的にビタミンCの代用となるためである<ref name="proctor1970">Peter Proctor [http://www.drproctor.com/rev/ascorbicuric.htm Similar Functions of Uric Acid and Ascorbate in ManSimilar Functions of Uric Acid and Ascorbate in Man] ''Nature'' vol 228, 1970, p868.</ref>。
==出典==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[ビタミンC誘導体]]
* [[アスコルビン酸]]
* [[ライナス・ポーリング]] > 臨床医学におけるビタミン治療の研究 超高用量のビタミンCの投与
==外部リンク==
*{{PaulingInstitute|mic/vitamins/vitamin-C|Vitamin C}}
*{{PaulingInstitute|mic/health-disease/skin-health/vitamin-C|C and Skin Health|nolink=yes}}
*{{Hfnet|179|ビタミンC解説}}[https://web.archive.org/web/20220806101952/https://hfnet.nibiohn.go.jp/contents/detail179.html]
*{{Hfnet|45|ビタミンC(アスコルビン酸)|nolink=yes}}
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練馬区
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練馬区(ねりまく)は、東京都の区部北西部に位置する特別区。
東京23区の中で唯一、特別区を規定した地方自治法の施行後、すなわち、他の22区が東京都の行政区から特別区へ移行した後に、板橋区から分区して新設された区である。板橋区の一部だった旧北豊島郡練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村の区域が1947年8月1日に分離して発足した。当時22区最大の面積だった板橋区の区役所までの経路が遠く、著しく不便であったことが分割が決まった要因とされている。板橋区は練馬、石神井に行政派出所(後に支所)を設けたが、行政サービスは極めて限られていたため、西武池袋線沿線を中心として生活する住民の要望にこたえる形で分離された。
大学関連では武蔵大学、日本大学藝術学部、武蔵野音楽大学、上智大学といった大学のキャンパス、「学生街として知られる江古田」などのエリアが存在する。
練馬区は緑の多い閑静な住宅街であり、最低居住面積水準未満の世帯率は東京23区で最も低い。練馬区民の男性の平均寿命は81.2歳で全国で第5位、東京23区で第1位である。また刑法犯認知件数は、人口が60万人以上のほぼ同規模の特別区の中で大田区に次いで少ない。人口は約70万人で、23区の中で世田谷区に次いで多い。近年は副都心線や大江戸線などの開通に伴って、マンション建設ラッシュに沸いている。
東大泉(大泉学園駅)の東映東京撮影所に付随した東映動画が存在したことから、日本のカラー長編アニメ(又は民間アニメ)の発祥地、日本初の30分連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(当時は「テレビまんが」と称された)を製作した、日本のアニメ産業の礎となった地である。隣接する杉並区や中野区などとともに日本一のアニメ関連企業の集積地でもある。
2021年4月以降に区内で行われる予定の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)へのワクチンの集団接種モデルとして、区は2021年1月、「練馬区モデル」と呼ばれる小規模診療所主体とし、公共施設での大規模接種を組み合わせたモデルを発表し、厚生労働省は先行事例として全国の自治体に情報提供しており、他自治体でも京都府京都市や栃木県佐野市など全国各地で「練馬区モデル」が採用される見込みである。
練馬区のウェブサイトには以下の説が掲載されている。
他にも諸説存在する。
東京23区の北西に位置する。東西は約10km、南北は約4kmから7kmのほぼ長方形をしてお り、面積は48.08kmである。23区の総面積の約7.7%に当たり、23区の中では5番目の広さである。
区内全域が武蔵野台地に属する。埼玉県南部とともに、今ものどかな風景を残している。河川は石神井川と白子川が中心で土地の高低差は小さい。かつては貫井川や田柄川が流れていた。
23区内の最高標高地点は練馬区関町南四丁目(武蔵関公園南方)で、標高約58mである。
北西には埼玉県新座市に囲まれた飛地(西大泉町1179番地)がある。区としてはこの飛地を埼玉県へ編入する方向で調整しているが、住民は反対している。
年間の平均気温は16°C前後で、ここ20年ほどはほぼ横ばいである。最高気温もほぼ横ばいで推移しているが、1日の最高気温が30°Cを越える日数、および1日の最低気温が25°Cを超える日数は、1990年以降、増加傾向にある。
夏場に都内最高気温を記録することが多く、ニュースでもよく取り上げられている。
これは、もともと練馬区が比較的気温の上がりやすい内陸部に位置している上、都心部で発生したヒートアイランド現象による高温の空気が、夏場に吹く南風によって練馬区・埼玉県・群馬県方面に運ばれてくるためである、と考えられている。
ただし、「練馬」が都内最高気温であったと報じられることについては、気象庁のアメダス観測所の配置にも留意する必要がある。「練馬」の気温とは、当区に設置されたアメダス観測所の観測データのことであり、23区内のアメダス観測所は「練馬」のほかには、東京(千代田区)、世田谷(世田谷区)、江戸川臨海(江戸川区)、羽田(大田区)のみの設置である。あくまでもこれらの観測所のデータとの比較でしかないため、「練馬」が都内最高気温であったと報じられた場合でも、練馬区近隣の区が練馬区より気温が高くなかったとは必ずしもいい切れない。アメダス観測所については、近年高層マンションが建ち並んだことで風通しが悪くなったため、2012年12月、武蔵大学・江古田キャンパスから日本銀行石神井運動場跡地へ、7km西に移転した。石神井公園内に設置され、ヒートアイランド効果が弱いため夏の最高気温は旧アメダス付近とは約1°C、冬の最低気温は約2°C程度低くなることが多い。夏の最高気温は近隣の府中(アメダス)が38°C(2016年)、37.6°C(2017年)、38.4°C(2022年)で、練馬は37.7°C(2016年)、37.1°C(2017年)、38.2°C(2022年)と府中と同じか低く出ることが多くなった。
なお、年間降水量は約1,000mmから約2,000mmの間で増減しており、顕著な傾向は見られない。
しかし、近年は夏場に多く発生するゲリラ豪雨による冠水や浸水の被害が報告されることもあり、その対策の一環として雨水貯留施設を埋設する工事を進めている。
冬場は、都心の区と比べ、寒さが厳しい。2018年には-7°Cを記録している。毎年1~3月にかけて南岸低気圧が到来する際は、都心は雨やみぞれであっても、気温が低くなりやすい練馬区では雪となり、積雪を伴う場合もある。
春、秋は、都心の区と比べて、日中と夜の寒暖差が大きい。これを生かし、キャベツの栽培が盛んにおこなわれている。
光が丘は都内有数の集合住宅が集まったエリア、光ヶ丘団地・光が丘パークタウンとして有名。また、練馬区内には都営住宅が多く点在している。
公園や緑地を合わせると約640箇所に上る。
練馬区では、一部の地域を除き住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
練馬区の人口は、区制施行時の1948年(昭和23年)にはわずか123,158人であった。その後、戦後の宅地化で一貫して人口が増加し約60年後の2009年(平成21年)には70万人を突破した。この間の人口増加率は470.74%である。2023年11月1日現在、753,424人。
区西部(石神井・大泉地区)の住民の便宜を図るため、石神井公園駅近くに石神井庁舎(しゃくじいちょうしゃ)が設置されており、戸籍や住民票に係る届出や証明書発行、納税証明書の発行が、夜間・休日でも行うことができる。休日急患診療所も併設している(石神井町三丁目30-26)。
区役所出張所と区民ホールなどとの複合施設である区民センターが区内3箇所に設置されている。
練馬区の出先機関。「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」としての機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。「区民センター」と呼ばれる複合施設内に設置されていることもある。
なお出張所は2016年度限り(平成29年3月31日)を以て全廃(業務を近隣の郵便局に委託)となり、その多くは地域集会所へと模様替えしている。
平成29年3月31日を以て廃止された。
1人あたりの債権額が全国の区市町村で10番目に少ない。
練馬区は住宅都市としての性格から、木造住宅の密集地帯が多く、道路も細く曲がったものが多い。そのため地震が起きたときに火災が広がりやすく、災害弱者の人などが逃げ遅れる危険性が高くなっている。関東大震災級の大地震が起きた場合、区内の6割の面積が焼失し、被災者は34万人にもなるというデータも発表されている。そのため、練馬区では一時集合場所や避難道路、避難場所を指定し、集団で避難するため住民組織の結成を急いでいる。
豊島園駅、中村橋駅および鷺ノ宮駅近辺の救急医療機関が、手薄である。
地域医療振興協会練馬光が丘病院、順天堂大学医学部附属練馬病院、練馬総合病院は、練馬区役所のある練馬駅から乗り換えなしで行ける、光が丘駅や練馬高野台駅、江古田駅近くに建設され、練馬区保健所、練馬休日急患診療所、練馬区医師会訪問介護ステーションも練馬区役所のある練馬駅最寄に建設された。区の北側の東武東上線や東京メトロ有楽町線沿線の近くには、このような区の関わった医療機関がなく(豊島区、板橋区、埼玉県内の医療機関を含めれば充実している)、訪問介護も手薄である。人工透析を受けられる医院は、区内に4院ある。
練馬区役所が練馬駅前に所在しているため、区の主な機関や病院、福祉施設、交通機関などのインフラは、西武池袋線沿線に集中する傾向があり、東武東上線や有楽町線、西武新宿線沿線はインフラ整備が遅れている。西武池袋線石神井公園駅から徒歩10分には、巨大な石神井庁舎があり、急患の受け入れが休日・24時間可能な診療所まで設置されている。証明書発行などの行政手続きも同様のサービスが受けられる。また、西武池袋線練馬高野台駅前には、病床数約400の大病院、順天堂大学医学部附属練馬病院が区の働き掛けで建設された。さらには、西武池袋線だけが高架化工事が行われ、いわゆる、「開かずの踏み切り」問題が解消されている。他方、東武東上線や西武新宿線沿線住民は放置されたままである。このように、特に区内北部の住民への行政サービスは行き届いておらず、年々低下する一方であり、近年、新たに浮上した深刻なインフラの格差として、早急な是正が求められている。
郵便番号
西武鉄道
東京地下鉄(東京メトロ)
東京都交通局(都営地下鉄)
東京23区内でJR線が通っていないのは、当区と世田谷区のみである。
また、東武東上線が練馬区内を走行する箇所があるが、東武練馬駅の所在地は両区の境界線の板橋区側である。
2009年7月16日から、下記3種類あったものがみどりバスに愛称が統一された。
他に、西東京市運営のはなバスにも区民利用がある。
練馬区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。
2012年8月1日からは、原動機付自転車のナンバープレートに、「メーテル」と「ねり丸」のカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。
※管轄事務所は、関東運輸局東京運輸支局練馬自動車検査登録事務所のまま。
練馬区は、日本初のカラー長編劇場アニメ『白蛇伝』が制作された日本カラーアニメ発祥地である。また、1963年に世界初の毎週放送の本格的テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(モノクロ)、1965年に日本初の(長期間の)本格的フルカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』が生まれた、テレビアニメの発祥地でもある。『風の谷のナウシカ』やスタジオジブリ作品、『新世紀エヴァンゲリオン』、『ポケットモンスター』などの制作に関わったアニメプロダクションも多い。
東映動画(現東映アニメーション)の大泉スタジオからは、宮崎駿、高畑勲、りんたろう、大塚康生、細田守など、多くのアニメ関係者が巣立っていった。
練馬区は、東映アニメーション(旧:東映動画)や、手塚治虫の虫プロダクション(手塚プロダクションとは現在は無関係)など、アニメ関連企業数が94社(2007年現在)を数え、日本一のアニメ関連企業の集積地でもあり、これまでに数多くの作品が制作され、またその舞台となった(後述)。
アニメのみならず30年続くスーパー戦隊シリーズをはじめ、東映の得意とする特撮もこの地でのロケが多い。
2002年からは、年一回のペースで『練馬アニメフェスティバル』が大泉学園で開催され、商店街やNPOなどと連携し、アニメ振興を図っている。
2004年には、練馬アニメーション協議会が、虫プロや東映アニメーションなど、約50の事業所で設立され、練馬区のアニメ振興を計っている。同協議会は、前身のNPO法人「アニメミュージアムの会」(1994年設立)の時代から区内へのアニメミュージアムの建設を目指している。だが、東映アニメーションが2003年、独自に東映アニメーションギャラリー(現東映アニメーションミュージアム)を作ったため、重複論が浮上し、足踏み状態が続いている。
2006年、練馬アニメ協議会がフランスのアニメ企業との交流事業で渡仏、フランスからも2007年3月アニメ関係者が練馬区を訪問するなどの交流事業がきっかけとなり、2007年6月11日からフランスのアヌシーで毎年開催されているアヌシー国際アニメ見本市に、練馬区のアニメ企業10社が出展する運びとなった。今後、アニメの売買や共同制作など具体的な事業交流を深める案が出ている。
2007年11月より、練馬区独立60周年記念の一環として、練馬区誕生アニメ紹介番組、ねりたんアニメワークスがJ:COM東京で放送された。
練馬区は、出版社の多い千代田区一ツ橋や神田神保町、文京区音羽などに程好く交通の便が良かったこと、必要な画材を取り扱っている店や街まで近かったこと、誘惑の多い繁華街から少し離れていることもあり落ちついて作業に集中できるなどの利点から、手塚治虫や石ノ森章太郎をはじめ、多くの漫画家が住居や仕事場を構えた。また、トキワ荘(所在地は豊島区)の最寄の駅、椎名町のある西武池袋線の沿線に住まうことも、後進の漫画家には一種の憧れがあったという。編集部が地方在住の新人漫画家を上京させる際に、上記の理由に加え家賃が比較的安い練馬区の物件を用意することが多かった。松本零士は上京にあたって、市外局番が「03」で、緑が多く静かな住環境を条件に住居を探した結果、大泉学園を選んだという。島田啓三、馬場のぼる、太田じろう、赤塚不二夫、古谷三敏、ちばてつや、ちばあきお、高森朝雄(梶原一騎)、藤子不二雄、萩尾望都、竹宮惠子(大泉サロンも参照)、吉沢やすみ、弘兼憲史、柴門ふみ、吾妻ひでお、高橋留美子、小林よしのりなど、多くの有名・無名の漫画家も永住、または一時的に居住したことがある。漫画作品の中には練馬区を思わせる設定や背景が描かれているものも数多くある。
練馬区大泉には、女性漫画家版トキワ荘ともいえる大泉サロンが存在し、萩尾望都や竹宮惠子ら多くの著名女性漫画家が巣立っていった。
その他
アニメ/歴史、アニメの歴史も参照
※ 練馬区の公式ホームページに「練馬区が登場する小説や漫画」の項目が設けられている。
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"text": "ただし、「練馬」が都内最高気温であったと報じられることについては、気象庁のアメダス観測所の配置にも留意する必要がある。「練馬」の気温とは、当区に設置されたアメダス観測所の観測データのことであり、23区内のアメダス観測所は「練馬」のほかには、東京(千代田区)、世田谷(世田谷区)、江戸川臨海(江戸川区)、羽田(大田区)のみの設置である。あくまでもこれらの観測所のデータとの比較でしかないため、「練馬」が都内最高気温であったと報じられた場合でも、練馬区近隣の区が練馬区より気温が高くなかったとは必ずしもいい切れない。アメダス観測所については、近年高層マンションが建ち並んだことで風通しが悪くなったため、2012年12月、武蔵大学・江古田キャンパスから日本銀行石神井運動場跡地へ、7km西に移転した。石神井公園内に設置され、ヒートアイランド効果が弱いため夏の最高気温は旧アメダス付近とは約1°C、冬の最低気温は約2°C程度低くなることが多い。夏の最高気温は近隣の府中(アメダス)が38°C(2016年)、37.6°C(2017年)、38.4°C(2022年)で、練馬は37.7°C(2016年)、37.1°C(2017年)、38.2°C(2022年)と府中と同じか低く出ることが多くなった。",
"title": "地理"
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"text": "なお、年間降水量は約1,000mmから約2,000mmの間で増減しており、顕著な傾向は見られない。",
"title": "地理"
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"text": "しかし、近年は夏場に多く発生するゲリラ豪雨による冠水や浸水の被害が報告されることもあり、その対策の一環として雨水貯留施設を埋設する工事を進めている。",
"title": "地理"
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"text": "冬場は、都心の区と比べ、寒さが厳しい。2018年には-7°Cを記録している。毎年1~3月にかけて南岸低気圧が到来する際は、都心は雨やみぞれであっても、気温が低くなりやすい練馬区では雪となり、積雪を伴う場合もある。",
"title": "地理"
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"text": "春、秋は、都心の区と比べて、日中と夜の寒暖差が大きい。これを生かし、キャベツの栽培が盛んにおこなわれている。",
"title": "地理"
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"text": "光が丘は都内有数の集合住宅が集まったエリア、光ヶ丘団地・光が丘パークタウンとして有名。また、練馬区内には都営住宅が多く点在している。",
"title": "地理"
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"text": "公園や緑地を合わせると約640箇所に上る。",
"title": "地理"
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"text": "練馬区では、一部の地域を除き住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。",
"title": "地理"
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"text": "練馬区の人口は、区制施行時の1948年(昭和23年)にはわずか123,158人であった。その後、戦後の宅地化で一貫して人口が増加し約60年後の2009年(平成21年)には70万人を突破した。この間の人口増加率は470.74%である。2023年11月1日現在、753,424人。",
"title": "地理"
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"text": "区西部(石神井・大泉地区)の住民の便宜を図るため、石神井公園駅近くに石神井庁舎(しゃくじいちょうしゃ)が設置されており、戸籍や住民票に係る届出や証明書発行、納税証明書の発行が、夜間・休日でも行うことができる。休日急患診療所も併設している(石神井町三丁目30-26)。",
"title": "行政"
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"text": "区役所出張所と区民ホールなどとの複合施設である区民センターが区内3箇所に設置されている。",
"title": "行政"
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"text": "練馬区の出先機関。「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」としての機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。「区民センター」と呼ばれる複合施設内に設置されていることもある。",
"title": "行政"
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"text": "なお出張所は2016年度限り(平成29年3月31日)を以て全廃(業務を近隣の郵便局に委託)となり、その多くは地域集会所へと模様替えしている。",
"title": "行政"
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"text": "平成29年3月31日を以て廃止された。",
"title": "行政"
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"text": "1人あたりの債権額が全国の区市町村で10番目に少ない。",
"title": "行政"
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"text": "練馬区は住宅都市としての性格から、木造住宅の密集地帯が多く、道路も細く曲がったものが多い。そのため地震が起きたときに火災が広がりやすく、災害弱者の人などが逃げ遅れる危険性が高くなっている。関東大震災級の大地震が起きた場合、区内の6割の面積が焼失し、被災者は34万人にもなるというデータも発表されている。そのため、練馬区では一時集合場所や避難道路、避難場所を指定し、集団で避難するため住民組織の結成を急いでいる。",
"title": "行政"
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"text": "豊島園駅、中村橋駅および鷺ノ宮駅近辺の救急医療機関が、手薄である。",
"title": "行政"
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"text": "地域医療振興協会練馬光が丘病院、順天堂大学医学部附属練馬病院、練馬総合病院は、練馬区役所のある練馬駅から乗り換えなしで行ける、光が丘駅や練馬高野台駅、江古田駅近くに建設され、練馬区保健所、練馬休日急患診療所、練馬区医師会訪問介護ステーションも練馬区役所のある練馬駅最寄に建設された。区の北側の東武東上線や東京メトロ有楽町線沿線の近くには、このような区の関わった医療機関がなく(豊島区、板橋区、埼玉県内の医療機関を含めれば充実している)、訪問介護も手薄である。人工透析を受けられる医院は、区内に4院ある。",
"title": "行政"
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"text": "練馬区役所が練馬駅前に所在しているため、区の主な機関や病院、福祉施設、交通機関などのインフラは、西武池袋線沿線に集中する傾向があり、東武東上線や有楽町線、西武新宿線沿線はインフラ整備が遅れている。西武池袋線石神井公園駅から徒歩10分には、巨大な石神井庁舎があり、急患の受け入れが休日・24時間可能な診療所まで設置されている。証明書発行などの行政手続きも同様のサービスが受けられる。また、西武池袋線練馬高野台駅前には、病床数約400の大病院、順天堂大学医学部附属練馬病院が区の働き掛けで建設された。さらには、西武池袋線だけが高架化工事が行われ、いわゆる、「開かずの踏み切り」問題が解消されている。他方、東武東上線や西武新宿線沿線住民は放置されたままである。このように、特に区内北部の住民への行政サービスは行き届いておらず、年々低下する一方であり、近年、新たに浮上した深刻なインフラの格差として、早急な是正が求められている。",
"title": "行政"
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"text": "郵便番号",
"title": "施設"
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"text": "西武鉄道",
"title": "交通"
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{
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"text": "東京地下鉄(東京メトロ)",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "東京都交通局(都営地下鉄)",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "東京23区内でJR線が通っていないのは、当区と世田谷区のみである。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "また、東武東上線が練馬区内を走行する箇所があるが、東武練馬駅の所在地は両区の境界線の板橋区側である。",
"title": "交通"
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"text": "2009年7月16日から、下記3種類あったものがみどりバスに愛称が統一された。",
"title": "交通"
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"text": "他に、西東京市運営のはなバスにも区民利用がある。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "練馬区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。",
"title": "交通"
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{
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"text": "2012年8月1日からは、原動機付自転車のナンバープレートに、「メーテル」と「ねり丸」のカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。",
"title": "交通"
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"text": "※管轄事務所は、関東運輸局東京運輸支局練馬自動車検査登録事務所のまま。",
"title": "交通"
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"text": "練馬区は、日本初のカラー長編劇場アニメ『白蛇伝』が制作された日本カラーアニメ発祥地である。また、1963年に世界初の毎週放送の本格的テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(モノクロ)、1965年に日本初の(長期間の)本格的フルカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』が生まれた、テレビアニメの発祥地でもある。『風の谷のナウシカ』やスタジオジブリ作品、『新世紀エヴァンゲリオン』、『ポケットモンスター』などの制作に関わったアニメプロダクションも多い。",
"title": "文化・名物"
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"text": "東映動画(現東映アニメーション)の大泉スタジオからは、宮崎駿、高畑勲、りんたろう、大塚康生、細田守など、多くのアニメ関係者が巣立っていった。",
"title": "文化・名物"
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"text": "練馬区は、東映アニメーション(旧:東映動画)や、手塚治虫の虫プロダクション(手塚プロダクションとは現在は無関係)など、アニメ関連企業数が94社(2007年現在)を数え、日本一のアニメ関連企業の集積地でもあり、これまでに数多くの作品が制作され、またその舞台となった(後述)。",
"title": "文化・名物"
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"text": "アニメのみならず30年続くスーパー戦隊シリーズをはじめ、東映の得意とする特撮もこの地でのロケが多い。",
"title": "文化・名物"
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"text": "2002年からは、年一回のペースで『練馬アニメフェスティバル』が大泉学園で開催され、商店街やNPOなどと連携し、アニメ振興を図っている。",
"title": "文化・名物"
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"text": "2004年には、練馬アニメーション協議会が、虫プロや東映アニメーションなど、約50の事業所で設立され、練馬区のアニメ振興を計っている。同協議会は、前身のNPO法人「アニメミュージアムの会」(1994年設立)の時代から区内へのアニメミュージアムの建設を目指している。だが、東映アニメーションが2003年、独自に東映アニメーションギャラリー(現東映アニメーションミュージアム)を作ったため、重複論が浮上し、足踏み状態が続いている。",
"title": "文化・名物"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "2006年、練馬アニメ協議会がフランスのアニメ企業との交流事業で渡仏、フランスからも2007年3月アニメ関係者が練馬区を訪問するなどの交流事業がきっかけとなり、2007年6月11日からフランスのアヌシーで毎年開催されているアヌシー国際アニメ見本市に、練馬区のアニメ企業10社が出展する運びとなった。今後、アニメの売買や共同制作など具体的な事業交流を深める案が出ている。",
"title": "文化・名物"
},
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"text": "2007年11月より、練馬区独立60周年記念の一環として、練馬区誕生アニメ紹介番組、ねりたんアニメワークスがJ:COM東京で放送された。",
"title": "文化・名物"
},
{
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"text": "練馬区は、出版社の多い千代田区一ツ橋や神田神保町、文京区音羽などに程好く交通の便が良かったこと、必要な画材を取り扱っている店や街まで近かったこと、誘惑の多い繁華街から少し離れていることもあり落ちついて作業に集中できるなどの利点から、手塚治虫や石ノ森章太郎をはじめ、多くの漫画家が住居や仕事場を構えた。また、トキワ荘(所在地は豊島区)の最寄の駅、椎名町のある西武池袋線の沿線に住まうことも、後進の漫画家には一種の憧れがあったという。編集部が地方在住の新人漫画家を上京させる際に、上記の理由に加え家賃が比較的安い練馬区の物件を用意することが多かった。松本零士は上京にあたって、市外局番が「03」で、緑が多く静かな住環境を条件に住居を探した結果、大泉学園を選んだという。島田啓三、馬場のぼる、太田じろう、赤塚不二夫、古谷三敏、ちばてつや、ちばあきお、高森朝雄(梶原一騎)、藤子不二雄、萩尾望都、竹宮惠子(大泉サロンも参照)、吉沢やすみ、弘兼憲史、柴門ふみ、吾妻ひでお、高橋留美子、小林よしのりなど、多くの有名・無名の漫画家も永住、または一時的に居住したことがある。漫画作品の中には練馬区を思わせる設定や背景が描かれているものも数多くある。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "練馬区大泉には、女性漫画家版トキワ荘ともいえる大泉サロンが存在し、萩尾望都や竹宮惠子ら多くの著名女性漫画家が巣立っていった。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "その他",
"title": "ゆかりのある人物・団体"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "アニメ/歴史、アニメの歴史も参照",
"title": "練馬を舞台とした作品"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "※ 練馬区の公式ホームページに「練馬区が登場する小説や漫画」の項目が設けられている。",
"title": "練馬を舞台とした作品"
}
] |
練馬区(ねりまく)は、東京都の区部北西部に位置する特別区。
|
{{東京都の特別区
| 自治体名 = 練馬区
| 画像 = ファイル:三宝寺池と厳島神社(2021年5月).jpg
| 画像の説明 = [[石神井公園]]
| 区旗 = [[File:Flag of Nerima, Tokyo.svg|border|100px]]
| 区旗の説明 = 練馬[[市町村旗|区旗]]<br />[[1984年]][[1月1日]]制定
| 区章 = [[File:Emblem of Nerima, Tokyo.svg|70px]]
| 区章の説明 = 練馬[[市町村章|区章]]<br />[[1953年]][[12月31日]]制定
| コード = 13120-2
| 隣接自治体 = [[中野区]]、[[杉並区]]、[[豊島区]]、[[板橋区]]、[[武蔵野市]]、[[西東京市]]<br />[[埼玉県]]:[[朝霞市]]、[[和光市]]、[[新座市]]
| 木 = [[コブシ]]
| 花 = [[ツツジ]]
| シンボル名 =
| 郵便番号 = 176-8501
| 所在地 = 練馬区[[豊玉北]]六丁目12番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[File:Nerima Ward Office 2023-02-12.jpg|250px|border]]<br />練馬区役所([[2023年]]2月)
| 外部リンク = {{Official website}} {{Ja icon}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|120|image=Location of Nerima ward Tokyo Japan.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
| 特記事項 =
}}
'''練馬区'''(ねりまく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]北西部に位置する[[特別区]]。
== 概要 ==
[[東京都区部|東京23区]]の中で唯一、特別区を規定した[[地方自治法]]の施行後、すなわち、他の22区が東京都の[[行政区]]から特別区へ移行した後に、[[板橋区]]から分区して新設された区である。板橋区の一部だった旧[[北豊島郡]][[練馬町]]・[[上練馬村]]・[[中新井村]]・[[石神井村]]・[[大泉村 (東京府)|大泉村]]の区域が[[1947年]][[8月1日]]に分離して発足した。当時22区最大の面積だった板橋区の区役所までの経路が遠く、著しく不便であったことが分割が決まった要因とされている。板橋区は練馬、石神井に行政派出所(後に支所)を設けたが、行政サービスは極めて限られていたため、[[西武池袋線]]沿線を中心として生活する住民の要望にこたえる形で分離された<ref>[https://jmapps.ne.jp/nerima_archives/bookpager.html?data_id=625&shiryo_data_id=7&data_idx=0&referer_id=0&lang=ja 練馬区独立60周年記念誌「ねりま60」第二章練馬独立史] 練馬わがまち資料館 区政資料データベース</ref>。
大学関連では[[武蔵大学]]、[[日本大学藝術学部]]、[[武蔵野音楽大学]]、[[上智大学]]といった大学のキャンパス、「学生街として知られる[[江古田]]」などのエリアが存在する。
練馬区は緑の多い閑静な住宅街であり、[[住生活基本法|最低居住面積水準未満]]の世帯率は東京23区で最も低い。練馬区民の男性の平均寿命は81.2歳で全国で第5位、東京23区で第1位である<ref>[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/ckts05/02.html 平成17年市区町村別生命表 2 市区町村別にみた平均寿命] 厚生労働省 平成17年市区町村別生命表の概況</ref>。また刑法犯認知件数は、人口が60万人以上のほぼ同規模の特別区<ref group="注釈">世田谷区、練馬区、大田区、江戸川区、足立区。</ref>の中で[[大田区]]に次いで少ない<ref>{{PDFlink|[http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/keiho/pdf/keiho.pdf 平成23年行政区別刑法犯認知件数]}}</ref>。<!--60万以上で区切って記載する意味は?出典元はそういった比較になっていません。-->人口は約70万人で、23区の中で[[世田谷区]]に次いで多い。近年は[[東京メトロ副都心線|副都心線]]や[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]などの開通に伴って、マンション建設ラッシュに沸いている。
[[東大泉]]([[大泉学園駅]])の[[東映東京撮影所]]に付随した[[東映アニメーション|東映動画]]が存在したことから、日本のカラー長編[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]](又は民間アニメ)の[[発祥]]地<ref>2004年8月10日読売新聞「ジブリの挑戦 宮崎駿の原点『白蛇伝』」</ref>、日本初の30分連続[[テレビアニメ]]シリーズ『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』(当時は「テレビまんが」と称された)を製作した、日本のアニメ産業の[[礎石|礎]]となった地である<ref>[http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/animesangyo/index.html 練馬区役所ホームページ『ジャパンアニメーション発祥の地 練馬区』]</ref>。隣接する[[杉並区]]や[[中野区]]などとともに日本一のアニメ関連企業の集積地<ref>(独)中小企業基盤整備機構「平成18年度ナレッジリサーチ事業 コンテンツ産業の方向性に関する調査研究(アニメ制作会社の現状と課題)」より。</ref>でもある。
[[2021年]]4月以降に区内で行われる予定の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]への[[COVID-19ワクチン|ワクチン]]の集団接種モデルとして、区は[[2021年]]1月、「[[練馬区モデル]]」と呼ばれる小規模[[診療所]]主体とし、公共施設での大規模接種を組み合わせたモデルを発表し、[[厚生労働省]]は先行事例として全国の自治体に情報提供しており、他自治体でも[[京都府]][[京都市]]や[[栃木県]][[佐野市]]など全国各地で「練馬区モデル」が採用される見込みである<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP1Z677ZP1ZUTIL00P.html|title=ワクチン接種に「練馬モデル」 安心・近場・短期集中|publisher=朝日新聞|date=2021年1月30日}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20210202/k00/00m/040/232000c|title=「練馬区モデル」採用へ 京都市「ワクチン接種部」が初会合 新型コロナ|publisher=毎日新聞|date=2021年2月2日}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/413894|title=かかりつけ医で接種可能に 問診短縮、短期完了目指す 佐野市 ワクチン体制方針|publisher=下野新聞|date=2021年2月3日}}</ref>。
===地名について===
;練馬区の由来
練馬区のウェブサイトには以下の説が掲載されている。
*[[練馬城]](後の[[としまえん]])から。
*[[ローム (土壌)|関東ローム層]]の赤土をねったところを「'''ねり場'''」といった。
* [[石神井川]]流域の低地の奥まったところに「沼」=「'''根沼'''」が多かった。
* 奈良時代、武蔵国にあった「'''のりぬま'''('''乗潴''')」という[[宿場|宿駅]]が「ねりま」に転訛した(乗潴は、[[白山神社 (練馬区)|白山神社]]付近であったとされる。ただし、乗潴を'''あまぬま'''と読み、現在の[[杉並区]][[天沼]]に比定する説もある)。
* 中世、豊島氏の家臣に馬術の名人がいた(馬を馴らすことを「ねる」といった。すなわち「'''練り馬'''」)。
他にも諸説存在する。
== 地理 ==
=== 地勢 ===
[[東京都区部|東京23区]]の北西に位置する。東西は約10km、南北は約4kmから7kmのほぼ長方形をしてお り、面積は48.08km{{sup|2}}である。23区の総面積の約7.7%に当たり、23区の中では5番目の広さである。
区内全域が[[武蔵野台地]]に属する。[[埼玉県]]南部とともに、今ものどかな風景を残している。河川は[[石神井川]]と[[白子川]]が中心で土地の高低差は小さい。かつては[[貫井川]]や[[田柄川 (東京都)|田柄川]]が流れていた。
23区内の最高標高地点は練馬区[[関町南]]四丁目([[武蔵関公園]]南方)で、標高約58mである。
北西には[[埼玉県]][[新座市]]に囲まれた[[飛地]]([[西大泉町]]1179番地)がある。区としてはこの飛地を埼玉県へ[[編入]]する方向で調整しているが、住民は反対している。<ref>{{Cite web|和書|title=練馬区「西大泉町」なぜ飛び地? |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20220403-OYTNT50188/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-04-04 |access-date=2023-04-02 |language=ja}}</ref>
===地形===
====河川====
;主な川
*[[石神井川]]
*[[白子川]]
=== 気候 ===
年間の平均気温は16℃前後で、ここ20年ほどはほぼ横ばいである。最高気温もほぼ横ばいで推移しているが、1日の最高気温が30℃を越える日数、および1日の最低気温が25℃を超える日数は、1990年以降、増加傾向にある。
夏場に都内最高気温を記録することが多く、ニュースでもよく取り上げられている。
これは、もともと練馬区が比較的気温の上がりやすい内陸部に位置している上、都心部で発生した[[ヒートアイランド]]現象による高温の空気が、夏場に吹く南風によって練馬区・埼玉県・群馬県方面に運ばれてくるためである、と考えられている<ref>練馬よ、なぜ暑い… 都市化・ヒートアイランド現象影響 朝日新聞 2010年8月31日</ref>。
ただし、「練馬」が都内最高気温であったと報じられることについては、[[気象庁]]の[[アメダス]]観測所の配置[https://www.jma.go.jp/jp/amedas_h/map30.html?areaCode=206#explain]にも留意する必要がある。「練馬」の気温とは、当区に設置されたアメダス観測所[http://amedas.log-life.net/index.php?%E7%B7%B4%E9%A6%AC]の観測データのことであり、23区内のアメダス観測所は「練馬」のほかには、東京([[千代田区]])、世田谷([[世田谷区]])、江戸川臨海([[江戸川区]])、羽田([[大田区]])のみの設置である。あくまでもこれらの観測所のデータとの比較でしかないため、「練馬」が都内最高気温であったと報じられた場合でも、練馬区近隣の区が練馬区より気温が高くなかったとは必ずしもいい切れない。アメダス観測所については、近年高層マンションが建ち並んだことで風通しが悪くなったため、2012年12月、武蔵大学・江古田キャンパスから日本銀行石神井運動場跡地へ、7km西に移転した。[[石神井公園]]内に設置され、ヒートアイランド効果が弱いため夏の最高気温は旧アメダス付近とは約1℃、冬の最低気温は約2℃程度低くなることが多い。夏の最高気温は近隣の府中(アメダス)が38℃(2016年)、37.6℃(2017年)、38.4℃(2022年)で、練馬は37.7℃(2016年)、37.1℃(2017年)、38.2℃(2022年)と府中と同じか低く出ることが多くなった。
なお、年間降水量は約1,000mmから約2,000mmの間で増減しており、顕著な傾向は見られない。
しかし、近年は夏場に多く発生する[[ゲリラ豪雨]]による冠水や浸水の被害が報告されることもあり、その対策の一環として雨水貯留施設を埋設する工事を進めている<ref group="注釈">過去、成増飛行場建設時点に田柄川と呼ばれる川筋があり暗渠となっていた。集中豪雨の結果、付近に水が溢れた。その後、太い埋設管を設置する工事が行われている。</ref>。
冬場は、都心の区と比べ、寒さが厳しい。2018年には-7℃を記録している。毎年1~3月にかけて南岸[[低気圧]]が到来する際は、都心は雨や[[霙|みぞれ]]であっても、気温が低くなりやすい練馬区では雪となり、積雪を伴う場合もある。
春、秋は、都心の区と比べて、日中と夜の寒暖差が大きい。これを生かし、[[キャベツ]]の栽培が盛んにおこなわれている。
{{Nerima, Tokyo weatherbox}}
===地域===
===商業地===
* [[光が丘 (練馬区)|光が丘]]地区
===住宅地===
[[光が丘 (練馬区)|光が丘]]は都内有数の集合住宅が集まったエリア、[[光ヶ丘団地]]・光が丘パークタウンとして有名。また、練馬区内には都営住宅が多く点在している。
<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0">
<div class="NavHead" style="text-align:left">主な住宅団地</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left">
{{columns-list|colwidth=18em|
* 東京都住宅供給公社、都市再生機構赤塚光が丘団地:板橋区・練馬区・東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営住宅[[光が丘 (練馬区)|光が丘]](都営、都市再生機構、東京都住宅供給公社、一団地の住宅施設):東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営光が丘第1アパート(旭町 1-33、1980年)
* 都営光が丘第2アパート(光が丘 5-5、1981年)
* 都営光が丘第3アパート(光が丘 2-8、1982 - 1986年)
* 光が丘パークタウンいちょう通り(旧住宅・都市整備公団 環総合設計)、フリープラン賃貸、1986年)
* 都営錦一丁目アパート(錦 1-27、1975年)
* 都営錦一丁目第2アパート(錦 1-38、1991 - 1995年)
* 都営錦一丁目第3アパート(錦 1-34、1995年)
* 都営錦二丁目アパート(錦 2-12、1988年)
* 都市再生機構錦団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* にしき平和台団地(旧住宅・都市整備公団)、建替え、1998年)
* 都営平和台団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営平和台二丁目アパート(平和台 2-45、1981 - 1983年)
* 都営平和台二丁目第2アパート(平和台 2-18、1989年)
* 都営平和台二丁目第3アパート(平和台 2-34、1997 - 2002年)
* むつみ台団地(光が丘1、1973年)
* 都営練馬富士見台アパート(富士見台 2-26、1966年)
* 都営練馬富士見台一丁目アパート(富士見台 1-4、1984年)
* 都営練馬富士見台三丁目アパート(富士見台 3-48、1971 - 1972年)
* 都営練馬富士見台三丁目第2アパート(富士見台 3-13、1977年)
* 都営練馬富士見台三丁目第3アパート(富士見台 3-16、1984年)
* 都営練馬富士見台二丁目アパート(富士見台 2-13、1990 - 1992年)
* 練馬グリーンタウン
* 都営練馬関町一丁目アパート(関町南 2-15、1976 - 1986年)
* 都営練馬関町一丁目第2アパート(関町南 2-12、1980年)
* 都営練馬関町東一丁目アパート(関町東 1-22、1990年)
* 都営練馬関町東二丁目アパート(関町東 2-4、1988年)
* 都営練馬関町南四丁目アパート(関町南 4-16、1988年)
* 都営関町南団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営練馬関町南四丁目第2アパート(関町南 4-22、2000 - 2001年)
* 都営練馬関町北一丁目アパート(関町北 1-4、1984年)
* 都営練馬関町北一丁目第2アパート(関町北 1-9、1998年)
* 都営関町北三丁目団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営練馬関町北三丁目アパート(関町北 3-33、1976年)
* 都営練馬関町北三丁目第2アパート(関町北 3-9、1980 - 1983年)
* 都営練馬関町北三丁目第3アパート(関町北 3-31、1985年)
* 都営練馬関町北三丁目第4アパート(関町北 3-14、1987年)
* 都営練馬関町北三丁目第5アパート(関町北 3-22、1991年)
* 都営練馬関町北三丁目第6アパート(関町北 3-28、1991年)
* 都営関町北四丁目団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営練馬関町北四丁目アパート(関町北 4-14、1987年)
* 都営練馬関町北四丁目第2アパート(関町北 4-9、1991年)
* 都営練馬関町北四丁目第3アパート(関町北 4-28、1995年)
* 都営練馬関町北四丁目第4アパート(関町北 4-23、1997 - 2000年)
* 都営練馬関町北二丁目第2アパート(関町北 2-12、1991年)
* 都営練馬関町北二丁目第3アパート(関町北 2-34、1991年)
* 都営上石神井団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営上石神井アパート(上石神井 4-21、1964 - 1988年)
* 都営上石神井一丁目アパート(上石神井 1-43、1982年)
* 都営上石神井三丁目アパート(上石神井 3-16、1990年)
* 都営上石神井二丁目アパート(上石神井 2-13、1984年)
* 都営上石神井二丁目第2アパート(上石神井 2-32、1993年)
* 東京都住宅供給公社上石神井団地:東京都市計画事(一団地の住宅施設)
* 都市再生機構[[上石神井団地]]:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)(旧日本住宅公団、市浦建築設計事務所)、1966年)
* 都市再生機構石神井公園団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営石神井町団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)(石神井台、賃貸330 1960年)
* 都営石神井台七丁目アパート(石神井台 7-20、1978年)
* 都営石神井台七丁目第2アパート(石神井台 7-21、1980年)
* 都営石神井町二丁目アパート(石神井町 2-3、1988年)
* 都営石神井町二丁目第2アパート(石神井町 2-11、1990年)
* 都営石神井町二丁目第3アパート(石神井町 2-18、2000年)
* 都営石神井町八丁目アパート(石神井町 8-1、1982 - 1987年)
* 都営石神井町八丁目第2アパート(石神井町 8-43、1993年)
* パークサイド石神井
* 都営春日町団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営練馬春日町三丁目アパート(春日町 3-27、1977 - 1978年)
* 都営練馬春日町三丁目第2アパート(春日町 3-3、1978年)
* 都営練馬春日町三丁目第3アパート(春日町 3-31、1978年)
* 都営練馬春日町三丁目第4アパート(春日町 3-18、1980年)
* 都営練馬春日町四丁目アパート(春日町 4-14、1977年)
* 都営練馬春日町四丁目第2アパート(春日町 4-12、1978年)
* 都営練馬春日町四丁目第3アパート(春日町 4-4、1978年)
* 都営練馬春日町五丁目アパート(春日町 5-30、1975 - 1977年)
* 都営練馬春日町五丁目第2アパート(春日町 5-30、1977年)
* 都営大泉学園町二丁目アパート(大泉学園町 2-2、1993年)
* 都営東大泉団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営東大泉アパート(東大泉 3-58、1962 - 1968年)
* 都営東大泉一丁目第2アパート(東大泉 1-23、1987年)
* 都営東大泉一丁目第3アパート(東大泉 1-3、1989年)
* 都営東大泉五丁目アパート(東大泉 5-14、1993 - 1996年)
* 都営東大泉三丁目アパート(東大泉 3-53、1981 - 1991年)
* 都営東大泉三丁目第2アパート(東大泉 3-10、1997年)
* 都営東大泉三丁目第3アパート(東大泉 3-34、1997年)
* 都営東大泉七丁目アパート(東大泉 7-25、1991年)
* 都営東大泉第2アパート(東大泉 6-35、1969 - 1970年)
* 都営東大泉六丁目アパート(東大泉 6-36、1987 - 1991年)
* 都営東大泉六丁目第2アパート(東大泉 6-38、1991年)
* 都営東大泉六丁目第3アパート(東大泉 6-45、1991年)
* 都営東大泉六丁目第4アパート(東大泉 6-39、1992年)
* 都営東大泉六丁目第5アパート(東大泉 6-49、1993年)
* 都営西大泉三丁目アパート(西大泉 3-3、1989年)
* 都営南大泉一丁目アパート(南大泉 1-41、1992年)
* 都営南田中アパート(南田中 3-31、1966 - 1984年)
* 都営南田中団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営南田中三丁目アパート(南田中 3-3、1983年)
* 都営豊玉中三丁目西団地:東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営豊玉中一丁目アパート(豊玉中 1-23、1975年)
* 都営豊玉中一丁目第2アパート(豊玉中 1-9、1978年)
* 都営豊玉中一丁目第3アパート(豊玉中 1-14、1992年)
* 都営豊玉中一丁目第4アパート(豊玉中 1-20、1992年)
* 都営豊玉中三丁目アパート(豊玉中 3-19、1997 - 2004年)
* 都営豊玉中四丁目アパート(豊玉中 4-6、1980年)
* 都営豊玉中四丁目第2アパート(豊玉中 4-8、1986 - 1988年)
* 都営豊玉仲町三丁目アパート(豊玉中 3-5、1971年)
* 都営豊玉南三丁目第2アパート(豊玉南 3-14、1997年)
* 都営豊玉南二丁目アパート(豊玉南 2-18、1989年)
* 都営豊玉北一丁目第2アパート(豊玉北 1-22、1989年)
* 都営豊玉北三丁目アパート(豊玉北 3-7、1975年)
* 都営豊玉北二丁目アパート(豊玉北 2-19、1994年)
* 都営豊玉北二丁目第2アパート(豊玉北 2-6、1995 - 1998 年)
* 都営北町団地・北町都営住宅 [[東京都庁]]都営住宅経営部・東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営練馬北町アパート(北町 8-30、1959年)
* 都営練馬北町三丁目アパート(北町 3-3、2000年)
* 都営練馬北町二丁目アパート(北町 2-9、1965年)
* 都営練馬北町二丁目第2アパート(北町 2-11、1966 - 1968年)
* 都営練馬北町二丁目第3アパート(北町 2-28、1997年)
* 都営練馬北町六丁目アパート(北町 6-7、1976 - 1987年)
* 都営練馬北町八丁目アパート(北町 8-31、1977 - 1983年)
* 練馬北町団地(北町、賃貸240 1959年 錦に改称後、建替)
* 東武練馬団地(北町 市街地住宅 賃貸45 1963年 現存 譲渡返還)
* 都営旭町二丁目アパート(旭町 2-33、1968年)
* 都営旭町二丁目第2アパート(旭町 2-35、1969 - 1971年)
* 都営旭町二丁目第3アパート(旭町 2-18、1986年)
* 都営旭町二丁目第4アパート(旭町 2-39、1986 - 1988年)
* 都営旭町二丁目第5アパート(旭町 2-45、1989年)
* 都営旭町二丁目第6アパート(旭町 2-37、1990年)
* 都営羽沢二丁目アパート(羽沢 2-22、1998年)
* 都営貫井一丁目アパート(貫井 1-8、1977年)
* 都営貫井一丁目第2アパート(貫井 1-25、1979年)
* 都営貫井一丁目第3アパート(貫井 1-45、1979年)
* 都営貫井二丁目アパート(貫井 2-18、1981年)
* 都営貫井四丁目アパート(貫井 4-36、1980年)
* 都営江古田第2アパート(旭丘 1-1、1958年)
* 都営高野台一丁目アパート(高野台 1-1、1971年)
* 都営高野台五丁目アパート(高野台 5-33、1992年)
* 都営高野台五丁目第2アパート(高野台 5-24、1999年)
* 都営桜台六丁目第2アパート(桜台 6-10、1987年)
* 都営小竹町二丁目第2アパート(小竹町 2-11、1984 - 1987年)
* 都営小竹町二丁目第3アパート(小竹町 2-28、1994年)
* 都営早宮一丁目アパート(早宮 1-12、1984年)
* 都営早宮一丁目第2アパート(早宮 1-25、1986年)
* 都営早宮三丁目アパート(早宮 3-39、1980年)
* 都営早宮三丁目第2アパート(早宮 3-36、1980 - 1990年)
* 都営早宮三丁目第4アパート(早宮 3-34、1994年)
* 都営早宮四丁目アパート(早宮 4-17、1980年)
* 都営谷原三丁目アパート(谷原 3-11、1995年)
* 都営中村北四丁目アパート(中村北 4-19、1997年)
* 都営田柄二丁目アパート(田柄 2-43、1972年)
* 都営氷川台四丁目アパート(氷川台 4-32、1984 - 1991年)
* 都営立野町アパート(立野町 13-6、1978 - 1979年)
* 都営練馬二丁目アパート(練馬 2-29、1985年)
* 都営練馬二丁目第2アパート(練馬 2-13、1987年)
* 都営練馬二丁目第3アパート(練馬 2-4、1990年)
* 都営練馬二丁目第4アパート(練馬 2-24、1993年)
* 都営練馬四丁目アパート(練馬 4-30、1993年)
}}</div></div>
=== 公園・緑地 ===
{{Vertical images list
|幅 = 210px
|枠幅 = 210px
|1 = Johoku-Chuo-Park-2010.jpg
|2 = 城北中央公園
|3 = Tateno park nerima 3.jpg
|4 = 立野公園
|5 = 武蔵関公園「富士見池」(中之橋から北東ボート乗り場方面)練馬区.jpg
|6 = 富士見池 (武蔵関公園)}}
公園や緑地を合わせると約640箇所に上る。
;都立公園
* [[光が丘公園]] - 野球場、サッカー場、弓道場、図書館、噴水広場などがある。[[尾崎豊]]の「米軍キャンプ」(アルバム『[[壊れた扉から]]』収録)で「米軍キャンプ跡の崩れかけた工場」と唄われているのは、光が丘の風景である。『仮面ライダー』をはじめとする石ノ森章太郎原作の特撮作品の舞台としてもたびたび登場した。
* [[石神井公園]] - 石神井池、三宝寺池があり、ボート遊び、魚釣りなどができる。また、[[Mr.Children]]の[[桜井和寿]]はここをジョギングしている時にダブル[[ミリオンセラー|ミリオン]]を記録した曲「[[Tomorrow never knows (Mr.Childrenの曲)|Tomorrow never knows]]」の中の、「勝利も敗北もない孤独なレース」という歌詞を思いついた、というエピソードがある。漫画『[[課長島耕作]]』に、島が同公園でボートを漕ぐ場面がある。漫画『[[ど根性ガエル]]』は、石神井公園周辺が舞台である。[[出雲優生]]の小説『[[石神井橋]]』に登場する石神井橋は、三宝寺池の橋がモデルである。
* [[城北中央公園]] - テニスコートやサイクリング場などがあり、板橋区にもまたがる。
* [[大泉中央公園]]
* [[練馬城址公園]] - としまえん跡地の一角(西側エリア)に開園。園内中心部には石神井川が流れている。
;区立公園
* [[立野公園]] - 中国風の庭園があることで有名。
* [[武蔵関公園]] - ボート池で有名。
* [[春の風公園]] - カルガモが見られる池、300メートルに及ぶ桜並木、つつじ山などがある。
* [[夏の雲公園]] - ナイター照明付のテニスコートがある。
* [[秋の陽公園]] - 区内で唯一、田んぼのある公園。ため池やせせらぎなどもあり、かつての田園風景を再現している。
* [[四季の香公園]] - 温室植物園のほか、バラ園、ハーブ園、マグノリア園などがある。
* [[田柄梅林公園]] - 白梅(白加賀)や紅梅など60本余りのウメのほか、マンサク、サンシュユ、フクジュソウ、ボケなどが植えられている。
* [[大泉交通公園]]
* [[平成つつじ公園]]
* [[土支田農業公園]] - 4月から翌1月まで農業教室が開かれている。
* [[石神井松の風文化公園]] - 石神井公園に隣接しており、かつては[[日本銀行]]石神井運動場であったものを買収し整備したもの<ref>{{Cite web|和書|title=日本銀行石神井運動場の公園整備にかかる基本計画 |url=http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keikaku/shisaku/kankyo/shakujiiundojo/nichigin.html |date=2010-08 |publisher=練馬区役所 |accessdate=2014-11-07}}</ref>。
* [[牧野記念庭園]]
* [[向山庭園]] - ひょうたんの形を模した池や、それを望むことのできる茶室を備えた日本庭園。
* [[向山公園 (練馬区)|向山公園]] - 上記「向山庭園」と誤認されることもあるが、こちらは児童公園である。[[尾崎豊]]が中学生時代によく立ち寄り、「[[15の夜]]」の歌詞の舞台になった公園としても知られている。
====町名====
練馬区では、一部の地域を除き[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
=====練馬区役所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+練馬区役所管内(46町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[旭丘 (練馬区)|旭丘]]'''|あさひがおか}}'''一丁目'''
|1987年1月1日
|
|旭丘1・2
|町名の成立は1960年、直前は江古田町、小竹町
|-
|'''旭丘二丁目'''
|1987年1月1日
|
|旭丘1・2
|町名の成立は1960年、直前は江古田町、小竹町
|-
|{{ruby|'''[[向山 (練馬区)|向山]]'''|こうやま}}'''一丁目'''
|1965年4月1日
|
|向山町、中村北2・3、貫井町
|
|-
|'''向山二丁目'''
|1965年4月1日
|
|向山町、中村北2・3、貫井町
|
|-
|'''向山三丁目'''
|1965年4月1日
|
|向山町、中村北2・3、貫井町
|
|-
|'''向山四丁目'''
|1965年4月1日
|
|向山町、中村北2・3、貫井町
|
|-
|{{ruby|'''[[小竹町 (練馬区)|小竹町]]'''|こたけちょう}}'''一丁目'''
|1987年1月1日
|
|小竹町1・2(全)
|町名の成立は1960年、直前は小竹町
|-
|'''小竹町二丁目'''
|1987年1月1日
|
|小竹町1・2(全)
|町名の成立は1960年、直前は小竹町
|-
|{{ruby|'''[[栄町 (練馬区)|栄町]]'''|さかえちょう}}
|1987年1月1日
|
|栄町(全)
|町名の成立は1962年、直前は南町一丁目
|-
|{{ruby|'''[[桜台 (練馬区)|桜台]]'''|さくらだい}}'''一丁目'''
|1987年11月1日
|
|桜台1〜3(全)
|1962年
|-
|'''桜台二丁目'''
|1987年11月1日
|
|桜台1〜3(全)
|1962年
|-
|'''桜台三丁目'''
|1987年11月1日
|
|桜台1〜3(全)
|1962年
|-
|'''桜台四丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町3(全)、南町4
|直前は南町二丁目
|-
|'''桜台五丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町3(全)、南町4
|直前は南町二丁目
|-
|'''桜台六丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町3(全)、南町4
|直前は南町二丁目
|-
|{{ruby|'''[[豊玉上]]'''|とよたまかみ}}'''一丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉上1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉上二丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉上1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|{{ruby|'''[[豊玉北]]'''|とよたまきた}}'''一丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉北二丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1
|-
|'''豊玉北三丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉北四丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉北五丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉北六丁目'''
|1990年1月1日
|
|豊玉北1〜6(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|{{ruby|'''[[豊玉中]]'''|とよたまなか}}'''一丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉中1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉中二丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉中1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉中三丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉中1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉中四丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉中1〜4(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|{{ruby|'''[[豊玉南]]'''|とよたまみなみ}}'''一丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉南1〜3(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉南二丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉南1〜3(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|'''豊玉南三丁目'''
|1989年1月1日
|
|豊玉南1〜3(全)
|町名の成立は1941年(当時は板橋区)、直前は板橋区中新井町1〜4
|-
|{{ruby|'''[[中村 (練馬区)|中村]]'''|なかむら}}'''一丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村1〜3(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村二丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村1〜3(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村三丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村1〜3(全)
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|{{ruby|'''[[中村北]]'''|なかむらきた}}'''一丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村北1(全)、中村北2〜4
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村北二丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村北1(全)、中村北2〜4
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村北三丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村北1(全)、中村北2〜4
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村北四丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村北1(全)、中村北2〜4
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|{{ruby|'''[[中村南 (練馬区)|中村南]]'''|なかむらみなみ}}'''一丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村南1〜3
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村南二丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村南1〜3
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|'''中村南三丁目'''
|1972年9月1日
|
|中村南1〜3
|町名の成立は1940年(当時は板橋区)、直前は板橋区中村町1〜3
|-
|{{ruby|'''[[練馬 (練馬区)|練馬]]'''|ねりま}}'''一丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町5(全)、南町3・4
|
|-
|'''練馬二丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町5(全)、南町3・4
|
|-
|'''練馬三丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町5(全)、南町3・4
|
|-
|'''練馬四丁目'''
|1963年2月1日
|
|南町5(全)、南町3・4
|
|-
|{{ruby|'''[[羽沢 (練馬区)|羽沢]]'''|はざわ}}'''一丁目'''
|1987年1月1日
|
|羽沢1〜3(全)
|町名の成立は1962年、直前は南町一丁目
|-
|'''羽沢二丁目'''
|1987年1月1日
|
|羽沢1〜3(全)
|町名の成立は1962年、直前は南町一丁目
|-
|'''羽沢三丁目'''
|1987年1月1日
|
|羽沢1〜3(全)
|町名の成立は1962年、直前は南町一丁目
|-
|}
{{Reflist|group="a"}}
=====早宮区民事務所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+早宮区民事務所管内(33町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[早宮]]'''|はやみや}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町4・6(全)、仲町3・5、春日町1
|
|-
|'''早宮二丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町4・6(全)、仲町3・5、春日町1
|
|-
|'''早宮三丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町4・6(全)、仲町3・5、春日町1
|
|-
|'''早宮四丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町4・6(全)、仲町3・5、春日町1
|
|-
|{{ruby|'''[[春日町 (練馬区)|春日町]]'''|かすがちょう}}'''一丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|'''春日町二丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|'''春日町三丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|'''春日町四丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|'''春日町五丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|'''春日町六丁目'''
|1967年1月1日
|
|春日町1・2
|
|-
|{{ruby|'''[[北町 (練馬区)|北町]]'''|きたまち}}'''一丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町二丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町三丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町四丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町五丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町六丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町七丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|'''北町八丁目'''
|1966年6月1日
|
|北町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[田柄]]'''|たがら}}'''一丁目'''
|1967年10月1日
|
|田柄町1・2、旭町、春日町1
|1983年3月1日、光が丘の一部を田柄二丁目に編入
|-
|'''田柄二丁目'''
|1967年10月1日
|
|田柄町1・2、旭町、春日町1
|1983年3月1日、光が丘の一部を田柄二丁目に編入
|-
|'''田柄三丁目'''
|1967年10月1日
|
|田柄町1・2、旭町、春日町1
|1983年3月1日、光が丘の一部を田柄二丁目に編入
|-
|'''田柄四丁目'''
|1967年10月1日
|
|田柄町1・2、旭町、春日町1
|1983年3月1日、光が丘の一部を田柄二丁目に編入
|-
|'''田柄五丁目'''
|1967年10月1日
|
|田柄町1・2、旭町、春日町1
|1983年3月1日、光が丘の一部を田柄二丁目に編入
|-
|-
|{{ruby|'''[[平和台 (練馬区)|平和台]]'''|へいわだい}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町2・3・5
|
|-
|'''平和台二丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町2・3・5
|
|-
|'''平和台三丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町2・3・5
|
|-
|'''平和台四丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町2・3・5
|
|-
|{{ruby|'''[[氷川台]]'''|ひかわだい}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町1〜3
|-
|'''氷川台二丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町1〜3
|-
|'''氷川台三丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町1〜3
|-
|'''氷川台四丁目'''
|1965年7月1日
|
|仲町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[錦 (練馬区)|錦]]'''|にしき}}'''一丁目'''
|1965年7月1日
|
|北町1、仲町1・2
|
|-
|'''錦二丁目'''
|1965年7月1日
|
|北町1、仲町1・2
|
|-
|}
=====光が丘区民事務所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+光が丘区民事務所管内(48町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[光が丘 (練馬区)|光が丘]]'''|ひかりがおか}}'''一丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘二丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘三丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘四丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘五丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘六丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|'''光が丘七丁目'''
|1983年3月1日
|
|光が丘
|前身町名の光が丘(丁目なし)1969年9月1日住居表示実施、直前は田柄町1・2、旭町、高松町1・2
|-
|{{ruby|'''[[旭町 (練馬区)|旭町]]'''|あさひちょう}}'''一丁目'''
|1968年10月1日
|
|旭町、高松町2
|1983年3月1日、光が丘の一部を旭町一・二丁目に編入
|-
|'''旭町二丁目'''
|1968年10月1日
|
|旭町、高松町2
|1983年3月1日、光が丘の一部を旭町一・二丁目に編入
|-
|'''旭町三丁目'''
|1968年10月1日
|
|旭町、高松町2
|1983年3月1日、光が丘の一部を旭町一・二丁目に編入
|-
|{{ruby|'''[[土支田]]'''|どしだ}}'''一丁目'''
|1975年1月1日
|
|土支田町、東大泉町、北大泉町、高松町2、旭町
|
|-
|'''土支田二丁目'''
|1975年1月1日
|
|土支田町、東大泉町、北大泉町、高松町2、旭町
|
|-
|'''土支田三丁目'''
|1975年1月1日
|
|土支田町、東大泉町、北大泉町、高松町2、旭町
|
|-
|'''土支田四丁目'''
|1975年1月1日
|
|土支田町、東大泉町、北大泉町、高松町2、旭町
|
|-
|{{ruby|'''[[高松 (練馬区)|高松]]'''|たかまつ}}'''一丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|'''高松二丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|'''高松三丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|'''高松四丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|'''高松五丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|'''高松六丁目'''
|1969年9月1日
|
|高松町1・2、土支田町、旭町
|1983年3月1日、光が丘の一部を高松五丁目に編入
|-
|{{ruby|'''[[谷原]]'''|やはら}}'''一丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|'''谷原二丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|'''谷原三丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|'''谷原四丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|'''谷原五丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|'''谷原六丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、北田中町、土支田町、高松町2
|
|-
|{{ruby|'''[[三原台 (練馬区)|三原台]]'''|みはらだい}}'''一丁目'''
|1971年8月1日
|
|北田中町、東大泉町、土支田町
|
|-
|'''三原台二丁目'''
|1971年8月1日
|
|北田中町、東大泉町、土支田町
|
|-
|'''三原台三丁目'''
|1971年8月1日
|
|北田中町、東大泉町、土支田町
|
|-
|{{ruby|'''[[貫井]]'''|ぬくい}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|
|貫井町、高松町1、谷原町1、中村北3・4
|
|-
|'''貫井二丁目'''
|1965年1月1日
|
|貫井町、高松町1、谷原町1、中村北3・4
|
|-
|'''貫井三丁目'''
|1965年1月1日
|
|貫井町、高松町1、谷原町1、中村北3・4
|
|-
|'''貫井四丁目'''
|1965年1月1日
|
|貫井町、高松町1、谷原町1、中村北3・4
|
|-
|'''貫井五丁目'''
|1965年1月1日
|
|貫井町、高松町1、谷原町1、中村北3・4
|
|-
|{{ruby|'''[[富士見台 (練馬区)|富士見台]]'''|ふじみだい}}'''一丁目'''
|1964年11月1日
|
|谷原町1・2、南田中町
|-
|'''富士見台二丁目'''
|1964年11月1日
|
|谷原町1・2、南田中町
|-
|'''富士見台三丁目'''
|1964年11月1日
|
|谷原町1・2、南田中町
|-
|'''富士見台四丁目'''
|1964年11月1日
|
|谷原町1・2、南田中
|
|-
|{{ruby|'''[[高野台 (練馬区)|高野台]]'''|たかのだい}}'''一丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、南田中町、下石神井2
|
|-
|'''高野台二丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、南田中町、下石神井2
|
|-
|'''高野台三丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、南田中町、下石神井2
|
|-
|'''高野台四丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、南田中町、下石神井2
|
|-
|'''高野台五丁目'''
|1965年4月1日
|
|谷原町2、南田中町、下石神井2
|
|-
|{{ruby|'''[[南田中]]'''|みなみたなか}}'''一丁目'''
|1973年8月1日
|
|南田中町、下石神井1
|
|-
|'''南田中二丁目'''
|1973年8月1日
|
|南田中町、下石神井1
|
|-
|'''南田中三丁目'''
|1973年8月1日
|
|南田中町、下石神井1
|
|-
|'''南田中四丁目'''
|1973年8月1日
|
|南田中町、下石神井1
|
|-
|'''南田中五丁目'''
|1973年8月1日
|
|南田中町、下石神井1
|
|-
|}
{{Reflist|group="b"}}
=====石神井区民事務所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+石神井区民事務所管内(26町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[上石神井]]'''|かみしゃくじい}}'''一丁目'''
|1985年6月1日
|
|上石神井1・2、下石神井1、関町1・2
|
|-
|'''上石神井二丁目'''
|1985年6月1日
|
|上石神井1・2、下石神井1、関町1・2
|
|-
|'''上石神井三丁目'''
|1985年6月1日
|
|上石神井1・2、下石神井1、関町1・2
|
|-
|'''上石神井四丁目'''
|1985年6月1日
|
|上石神井1・2、下石神井1、関町1・2
|
|-
|{{ruby|'''[[上石神井南町]]'''|かみしゃくじい<br/>みなみちょう}}
|1984年6月1日
|
|下石神井1、上石神井1、関町1
|
|-
|{{ruby|'''[[下石神井]]'''|しもしゃくじい}}'''一丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|'''下石神井二丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|'''下石神井三丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|'''下石神井四丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|'''下石神井五丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|'''下石神井六丁目'''
|1973年8月1日
|
|下石神井1、南田中町
|
|-
|{{ruby|'''[[石神井台]]'''|しゃくじいだい}}'''一丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台二丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台三丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台四丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台五丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台六丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台七丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|'''石神井台八丁目'''
|1970年7月1日
|
|上石神井2、下石神井2、南大泉町
|
|-
|{{ruby|'''[[石神井町]]'''|しゃくじいまち}}'''一丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町二丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町三丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町四丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町五丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町六丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町七丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|'''石神井町八丁目'''
|1970年1月1日
|
|下石神井2、上石神井2、南田中町、谷原2、東大泉町
|
|-
|}
=====大泉区民事務所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+大泉区民事務所管内(35町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[大泉学園町]]'''|おおいずみ<br/>がくえんちょう}}'''一丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町二丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町三丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町四丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町五丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町六丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町七丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町八丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|'''大泉学園町九丁目'''
|1982年12月1日
|
|大泉学園町、北大泉町、西大泉町
|
|-
|{{ruby|'''[[大泉町 (練馬区)|大泉町]]'''|おおいずみまち}}'''一丁目'''
|1980年1月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''大泉町二丁目'''
|1980年1月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''大泉町三丁目'''
|1980年1月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''大泉町四丁目'''
|1982年12月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''大泉町五丁目'''
|1980年1月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''大泉町六丁目'''
|1980年1月1日
|
|北大泉町、大泉学園町
|
|-
|{{ruby|'''[[西大泉]]'''|にしおおいずみ}}'''一丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''西大泉二丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''西大泉三丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''西大泉四丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''西大泉五丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|'''西大泉六丁目'''
|1981年8月1日
|
|西大泉町、東大泉町、大泉学園町
|
|-
|{{ruby|'''[[西大泉町]]'''|にしおおいずみまち}}
|未実施
|
|埼玉県新座市に囲まれた練馬区の飛地
|-
|-
|{{ruby|'''[[東大泉]]'''|ひがしおおいずみ}}'''一丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉二丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉三丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉四丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉五丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉六丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|'''東大泉七丁目'''
|1980年8月1日
|
|東大泉町、北大泉町、上石神井2
|
|-
|{{ruby|'''[[南大泉]]'''|みなみおおいずみ}}'''一丁目'''
|1981年8月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|-
|'''南大泉二丁目'''
|1981年8月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|-
|'''南大泉三丁目'''
|1981年8月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|-
|'''南大泉四丁目'''
|1981年8月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|-
|'''南大泉五丁目'''
|1981年8月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|-
|'''南大泉六丁目'''
|1986年4月1日
|
|南大泉町、西大泉町
|
|-
|}
{{Reflist|group="c"}}
=====関区民事務所管内=====
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|-関区民事務所管内(12町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[関町北]]'''|せきまちきた}}'''一丁目'''
|1978年1月1日
|
|関町5・6(全)、関町2〜4、上石神井2
|
|-
|'''関町北二丁目'''
|1978年1月1日
|
|関町5・6(全)、関町2〜4、上石神井2
|
|-
|'''関町北三丁目'''
|1978年1月1日
|
|関町5・6(全)、関町2〜4、上石神井2
|
|-
|'''関町北四丁目'''
|1978年1月1日
|
|関町5・6(全)、関町2〜4、上石神井2
|
|-
|'''関町北五丁目'''
|1978年1月1日
|
|関町5・6(全)、関町2〜4、上石神井2
|
|-
|{{ruby|'''[[関町東]]'''|せきまちひがし}}'''一丁目'''
|1985年6月1日
|
|関町2、上石神井1
|
|-
|'''関町東二丁目'''
|1985年6月1日
|
|関町2、上石神井1
|
|-
|{{ruby|'''[[関町南]]'''|せきまちみなみ}}'''一丁目'''
|1984年6月1日
|
|関町1・3・4、上石神井1、立野町
|
|-
|'''関町南二丁目'''
|1984年6月1日
|
|関町1・3・4、上石神井1、立野町
|
|-
|'''関町南三丁目'''
|1984年6月1日
|
|関町1・3・4、上石神井1、立野町
|
|-
|'''関町南四丁目'''
|1984年6月1日
|
|関町1・3・4、上石神井1、立野町
|
|-
|{{ruby|'''[[立野町 (練馬区)|立野町]]'''|たてのちょう}}
|1984年6月1日
|
|立野町、関町4
|
|-
|}
{{Reflist|group="d"}}
===人口===
練馬区の人口は、区制施行時の1948年(昭和23年)にはわずか123,158人であった。その後、戦後の[[都市化|宅地化]]で一貫して人口が増加し約60年後の2009年(平成21年)には70万人を突破した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/gyokaku/kuseikaikakusuisin/19suisin.files/5.pdf |title=練馬区の人口の現状と将来推計 |access-date=2022-05-06}}</ref>。この間の人口増加率は'''470.74%'''である。{{自治体人口/東京都|date}}現在、{{formatnum:{{自治体人口/東京都|練馬区}}}}人。{{人口統計|code=13120|name=練馬区|image=Population distribution of Nerima, Tokyo, Japan.svg}}
===隣接自治体===
;[[東京都]]
*[[中野区]]
*[[杉並区]]
*[[豊島区]]
*[[板橋区]]
*[[武蔵野市]]
*[[西東京市]]
;[[埼玉県]]
*[[朝霞市]]
*[[和光市]]
*[[新座市]]
== 歴史 ==
{{Wikisource|東京都板橋区の中練馬及石神井両支所の所管区域を分け練馬区設置|東京都板橋区の中練馬及石神井両支所の所管区域を分け練馬区設置|内務省告示文}}
[[File:Nerima Ward Independence Monument 220530.jpg|thumb|練馬区独立記念碑]]
===近現代===
;昭和時代
* [[1947年]]([[昭和]]22年) - [[板橋区]]から分区し、23番目の区として誕生
* [[1949年]](昭和24年) - [[練馬区役所]]が現在地に移転
* [[1951年]](昭和26年) - [[自衛隊]][[練馬駐屯地]]ができる。
* [[1953年]](昭和28年) - 板橋区との境界を変更する<ref>[[s:特別区の境界変更 (昭和28年総理府告示第251号)|昭和28年2月21日、総理府告示第251号]]</ref>。
* [[1957年]](昭和32年) - 一部を板橋区へ編入する<ref>[[s:特別区の境界変更 (昭和32年総理府告示第341号)|昭和32年7月20日、総理府告示第341号]]</ref>。
* [[1961年]](昭和36年) - [[白子川]]改修に伴い、[[和光市|大和町]]との境界を変更する<ref>[[s:都県の境界にわたる特別区と町の境界変更 (昭和36年自治省告示第213号)|昭和36年7月1日、自治省告示第213号]]</ref>。
* [[1973年]](昭和48年) - [[アメリカ軍]]から[[グラントハイツ]]([[光が丘 (練馬区)|光が丘]])が返還される。
* [[1983年]](昭和58年) - 非核都市練馬区宣言
===現代===
;平成時代
* [[1998年]]([[平成]]10年) - 交通安全都市練馬区宣言
* [[2001年]](平成13年) - 健康都市練馬区宣言
* [[2006年]](平成18年) - 環境都市練馬区宣言
* [[2007年]](平成19年) - 人口70万人に到達
== 行政 ==
=== 区長 ===
* 区長:[[前川燿男]](3期目)
* 任期:2014年4月20日 - 2026年4月19日(予定)<ref name="任期満了日">[https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ 東京都選挙管理委員会 | 任期満了日(定数)一覧]</ref>
=== 役所 ===
;石神井庁舎
{{Anchors|石神井庁舎}}区西部(石神井・大泉地区)の住民の便宜を図るため、[[石神井公園駅]]近くに'''石神井庁舎'''(しゃくじいちょうしゃ)が設置されており、[[戸籍]]や[[住民票]]に係る届出や証明書発行、納税証明書の発行が、夜間・休日でも行うことができる。休日急患[[診療所]]も併設している(石神井町三丁目30-26)。
;区民センター
区役所出張所と区民ホールなどとの複合施設である区民センターが区内3箇所に設置されている。
* 中村橋区民センター(貫井一丁目9-1)
* 関区民センター(関町北一丁目7-2)
* 光が丘区民センター(光が丘二丁目9-6)
=== 事務所 ===
練馬区の出先機関。「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」としての機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。「区民センター」と呼ばれる複合施設内に設置されていることもある。
なお出張所は2016年度限り(平成29年3月31日)を以て全廃(業務を近隣の郵便局に委託)となり、その多くは地域集会所へと模様替えしている。
;区民事務所
{{columns-list|colwidth=25em|
* 練馬区民事務所(豊玉北六丁目12-1 練馬区役所内)
* 早宮区民事務所(早宮一丁目44-19)
* 光が丘区民事務所(光が丘二丁目9-6 光が丘区民センター内)
* 石神井区民事務所(石神井町三丁目30-26 石神井庁舎内)
* 大泉区民事務所(東大泉一丁目28-1リズモ大泉学園4階)
* 関区民事務所(関町北一丁目7-2 関区民センター内)
}}
;出張所
平成29年3月31日を以て廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.nerima.tokyo.jp/kurashi/koseki/omonatetsuduki/shucchojo.html|title=出張所業務は平成29年3月31日をもって終了しました。4月以降、新たな施設に変わります。|publisher=練馬区公式ホームページ|date=2017-09-29|accessdate=2018-07-13}}</ref>。
{{columns-list|colwidth=25em|
* 桜台出張所→桜台地域集会所(桜台一丁目22-9)
* 第二出張所→早宮地域集会所(早宮一丁目44-19 早宮区民事務所併設)
* 第三出張所→廃止(貫井一丁目9-1 中村橋区民センター内)
* 第四出張所→春日町地域集会所(春日町五丁目30-1)
* 第五出張所→土支田中央地域集会所(土支田二丁目32-8)
* 第六出張所→旭町地域集会所(旭町三丁目11-6)
* 第七出張所→田柄地域集会所(田柄二丁目6-22)
* 第八出張所→廃止(北町二丁目26-1 北町地区区民館併設)
* 谷原出張所→練馬高野台駅前地域集会所(高野台一丁目7-29)
* 関出張所→関区民事務所に昇格(関町北一丁目7-2 関区民センター内)
* 上石神井出張所→上石神井南地域集会所(上石神井一丁目6-16)
* 大泉西出張所→南大泉地域集会所(南大泉五丁目26-19)
* 大泉北出張所→大泉北地域集会所(大泉学園町四丁目21-1)
}}
=== 財政 ===
1人あたりの債権額が全国の区市町村で10番目に少ない。
===区政の課題===
{{出典の明記|section=1|date=2019-02-06}}
====災害対策====
練馬区は[[住宅都市]]としての性格から、木造住宅の密集地帯が多く、道路も細く曲がったものが多い。そのため[[地震]]が起きたときに火災が広がりやすく、[[災害弱者]]の人などが逃げ遅れる危険性が高くなっている。[[関東大震災]]級の大地震が起きた場合、区内の6割の面積が焼失し、被災者は34万人にもなるというデータも発表されている。そのため、練馬区では一時集合場所や避難道路、避難場所を指定し、集団で避難するため住民組織の結成を急いでいる。
====医療対策====
[[豊島園駅]]、[[中村橋駅]]および[[鷺ノ宮駅]]近辺の救急医療機関が、手薄である。
[[地域医療振興協会練馬光が丘病院]]、[[順天堂大学医学部附属練馬病院]]、[[練馬総合病院]]は、[[練馬区役所]]のある[[練馬駅]]から乗り換えなしで行ける、[[光が丘駅]]や[[練馬高野台駅]]、[[江古田駅]]近くに建設され、練馬区保健所、練馬休日急患診療所、練馬区医師会訪問介護ステーションも練馬区役所のある練馬駅最寄に建設された。区の北側の[[東武東上本線|東武東上線]]や[[東京メトロ有楽町線]]沿線の近くには、このような区の関わった医療機関がなく(豊島区、板橋区、埼玉県内の医療機関を含めれば充実している)、訪問介護も手薄である。[[人工透析]]を受けられる医院は、区内に4院ある。
====インフラの区役所近辺への偏在====
[[練馬区役所]]が[[練馬駅]]前に所在しているため、区の主な機関や病院、福祉施設、交通機関などのインフラは、西武池袋線沿線に集中する傾向があり、東武東上線や有楽町線、[[西武新宿線]]沿線はインフラ整備が遅れている。西武池袋線[[石神井公園駅]]から徒歩10分には、巨大な石神井庁舎があり、急患の受け入れが休日・24時間可能な診療所まで設置されている。証明書発行などの行政手続きも同様のサービスが受けられる。また、西武池袋線練馬高野台駅前には、病床数約400の大病院、順天堂大学医学部附属練馬病院が区の働き掛けで建設された。さらには、西武池袋線だけが[[高架橋|高架]]化工事が行われ、いわゆる、「開かずの踏み切り」問題が解消されている。他方、東武東上線や西武新宿線沿線住民は放置されたままである。このように、特に区内北部の住民への行政サービスは行き届いておらず、年々低下する一方であり、近年、新たに浮上した深刻なインフラの格差として、{{誰範囲2|早急な是正が求められている|date=2014年2月}}。
====交通対策====
*[[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]の区西部([[大泉学園町]])方面への延伸は、鉄道の僻地解消のため長年の課題とされているが、建設費や住宅地の地下を掘削するための諸手続きなどが難航。計画はあるものの具体的な日程は明らかに出来ない状況である。
*[[東武練馬駅]]を北口の不動通りから南口の[[川越街道]]([[国道254号]])に抜ける道路建設、地下道建設、エスカレーター導入、車の交通規制なども計画が頓挫し、実現していない。
*[[東京メトロ有楽町線#概要|東京8号線]]に関する「答申第15号」では、保谷 - 練馬間で西武池袋線を複々線化するよう示されていたものの中村橋 - 護国寺間は削除されている。
==議会==
===区議会===
{{main|練馬区議会}}
===都議会===
;2021年東京都議会議員選挙
* 選挙区:練馬区選挙区
* 定数:7人(※2021年の選挙から6人→7人に変更)
* 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日
* 投票日:2021年7月4日
* 当日有権者数:610,630人
* 投票率:43.68%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 小林健二 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 51 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 37,209票
|-
| 藤井智教 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 35,286票
|-
| 戸谷英津子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 57 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 32,963票
|-
| 尾島紘平|| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 32 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 26,341票
|-
| 村松一希 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 現 || 25,183票
|-
| 柴崎幹男 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 20,839票
|-
| [[山加朱美]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 67 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 元 || 20,460票
|-
| 池尻成二 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 66 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 19,695票
|-
| 小川佳子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 53 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 17,718票
|-
| 若旅啓太 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 31 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || 17,119票
|-
| 松田美樹 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 34 || 諸派 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 3,669票
|-
| 成田遼介 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 29 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 3,368票
|-
| 岩江志朗 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 61 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,344票
|-
| 須澤秀人 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 67 || 嵐党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 959票
|}
;2017年東京都議会議員選挙
* 選挙区:練馬区選挙区
* 定数:6人
* 投票日:2017年7月2日
* 当日有権者数:595,935人
* 投票率:51.99%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 村松一希 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 36 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 53,948票
|-
| 尾島紘平 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 28 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 53,780票
|-
| 小林健二 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 47 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 43,577票
|-
| 戸谷英津子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 53 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 34,238票
|-
| 柴崎幹男 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 61 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 32,624票
|-
| 藤井智教 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || [[民進党]] || style="text-align:center" | 新 || 29,339票
|-
| 山加朱美 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 63 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 27,098票
|-
| 菊地靖枝 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 54 || [[生活者ネットワーク]] || style="text-align:center" | 新 || 15,931票
|-
| 浅野克彦 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 42 || 民進党 || style="text-align:center" | 現 || 13,442票
|-
| 渋谷誠 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 53 || 環境党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,274票
|}
===衆議院===
;東京都第9区
* 選挙区:[[東京都第9区|東京9区]](練馬区の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:478,743人
* 投票率:57.71%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[山岸一生]] || align="center" | 40 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 109,489票 || align="center" | ○
|-
| || [[安藤高夫]] || align="center" | 62 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || align="right" | 95,284票 || align="center" | ○
|-
| || 南純 || align="center" | 38 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 47,842票 || align="center" | ○
|-
| || [[小林興起]] || align="center" | 77 || [[新党やまと]] || align="center" | 元 || align="right" | 15,091票 ||
|}
;東京都第10区
* 選挙区:[[東京都第10区|東京10区]]([[新宿区]]の一部、[[中野区]]の一部、[[豊島区]]の一部、練馬区の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:479,088人
* 投票率:56.50%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[鈴木隼人 (政治家)|鈴木隼人]] || align="center" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 115,122.<small>887</small>票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd"
| 比当 || [[鈴木庸介]] || align="center" | 45 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 107,920.<small>109</small>票 || align="center" | ○
|-
| || 藤川隆史 || align="center" | 65 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 30,574票 || align="center" | ○
|-
| || 小山徹 || align="center" | 46 || [[無所属]] || align="center" | 新 || align="right" | 4,684票 ||
|-
| || 沢口祐司 || align="center" | 67 || 新党日本のこころ || align="center" | 新 || align="right" | 4,552票 ||
|}
==国家機関==
===防衛省===
;[[自衛隊]]
*[[陸上自衛隊]]
**[[陸上総隊]]
***陸上総隊[[司令部]]([[朝霞駐屯地]])
**[[東部方面隊 (陸上自衛隊)|東部方面隊]]
***東部方面総監部(朝霞駐屯地)
***[[第1師団 (陸上自衛隊)|第1師団]]司令部([[練馬駐屯地]])
*[[自衛隊東京地方協力本部]]練馬地域事務所
===法務省===
*[[東京法務局]]練馬出張所
*[[東京少年鑑別所]]
===厚生労働省===
*上石神井庁舎‐本省の[[職業安定局]]及び[[労働基準局]]に属する一部部署が使用。
===国土交通省===
*[[関東運輸局]][[東京運輸支局]] 練馬自動車検査登録事務所 - 自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の練馬ナンバーはここで登録されたもの。
===国税庁===
*練馬西税務署
*練馬東税務署
===独立行政法人===
*[[労働政策研究・研修機構]]([[厚生労働省]]上石神井庁舎隣接)
==施設==
===警察===
*[[警視庁]]
**[[練馬警察署]]
**[[光が丘警察署]]
**[[石神井警察署]]
===消防===
*[[東京消防庁]]
**[[東京消防庁第十消防方面本部|第十方面本部]](石神井町2-16-1)※ 石神井消防署石神井公園出張所併設
;消防署
*[[練馬消防署]](豊玉北5-1-8)[[特別救助隊]]1・救急隊1
**平和台出張所(平和台4-9-3)救急隊1
**貫井出張所(貫井5-17-4)[[特別消火中隊]]・救急隊1
*光が丘消防署(光が丘2-9-1)救急隊1
**北町出張所(北町2-35-5)特別消火中隊・救急隊1
*石神井消防署(下石神井5-16-8)特別救助隊・救急隊1
**関町出張所(関町北1-5-14)救急隊1
**大泉出張所(東大泉6-34-44)特別消火中隊・救急隊1
**大泉学園出張所(大泉学園町1-7-11)救急隊1
**石神井公園出張所(石神井町2-16-1)救急隊1
===医療===
;救急病院
* [[順天堂大学医学部附属練馬病院]](高野台三丁目)
* [[地域医療振興協会練馬光が丘病院]](光が丘二丁目)
* [[練馬総合病院]](旭丘一丁目)
*[[大泉生協病院]](東大泉六丁目)
* 北町病院(北町二丁目)
* 小山病院(石神井町三丁目)
* 練馬休日急患診療所(豊玉北六丁目) [[練馬区役所]]東庁舎2階
* 練馬区夜間救急こどもクリニック(豊玉北六丁目) 練馬区役所東庁舎2階
* 石神井休日急患診療所(石神井町三丁目) 石神井庁舎地下1階
===郵便局===
郵便番号
* 区内全域が170番台で、練馬区では上3桁は'''176'''、'''177'''、'''178'''、'''179'''に分かれる。
** 176-XXXX [[練馬郵便局]]
** 177-XXXX [[石神井郵便局]]
** 178-XXXX [[大泉郵便局 (東京都)|大泉郵便局]]
** 179-XXXX [[光が丘郵便局]]
===文化施設===
;図書館
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[練馬区立練馬図書館]]
* [[練馬区立石神井図書館]]
* [[練馬区立大泉図書館]]
* [[練馬区立光が丘図書館]]
* [[練馬区立平和台図書館]]
* [[練馬区立関町図書館]]
* [[練馬区立貫井図書館]]
* [[練馬区立稲荷山図書館]]
* [[練馬区立小竹図書館]]
* [[練馬区立春日町図書館]]
* [[練馬区立南田中図書館]]
* [[練馬区立南大泉図書館]]
* [[練馬区立南大泉図書館分室こどもと本のひろば]]
}}
: その他、[[高野台 (練馬区)|高野台]]、[[豊玉]]、[[石神井公園駅]]、[[大泉学園駅]]、[[北町 (練馬区)|北町]]、[[上石神井]]の各受取窓口を設置している。
* [[労働政策研究・研修機構|労働図書館]]
;美術館・博物館
[[File:Nerima art museum.JPG|thumb|練馬区立美術館]]
* [[東映アニメーションミュージアム]]
* [[練馬区立美術館]]
* [[練馬区立石神井公園ふるさと文化館]] - 2010年(平成22年)3月28日開館。元練馬区郷土資料館。
* [[ちひろ美術館・東京]] - 世界初の絵本美術館
<!--* 練馬区立温室植物園(光が丘 四季の香公園内) - 清掃工場の余熱を利用。
:『花とみどりの相談所』を併設。園芸相談などができる。入場無料。-->
* [[武蔵野音楽大学]]楽器博物館
* [[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]]芸術資料館
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
====国内====
*{{Flagicon|長野県}}[[長野県]][[上田市]]
**旧[[武石村 (長野県)|武石村]]のときから友好都市となっている。区立の教育施設である「ベルデ武石」も設置している。
====海外====
*{{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア連邦]] [[クイーンズランド州]][[イプスウィッチ (クイーンズランド州)|イプスウィッチ]]
*{{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]] [[北京市]][[海淀区]]
==経済==
===第一次産業===
====農業====
[[File:A field in Hazawa Nerima.jpg|thumb|練馬区の畑(練馬区[[羽沢 (練馬区)|羽沢]]三丁目)]]
* 農地面積 - 342haで、23区内では最大となる。
* 農家総数 - 671戸
** 販売農家 - 443戸
*** 専業 - 87戸
*** 兼業 - 356戸
** 自給的農家 - 228戸
* 農作物 - [[キャベツ]]・芝生・草花などが主流。キャベツは都内の生産量の約40%を占めている。
* [[練馬大根]] - 主に[[漬物]]用に栽培されているが生産量は少ない。
===第二次産業===
====工業====
;製造業
* 工場数 - 858(平成15年12月現在・練馬区統計書平成17年版 工業統計調査)
* 従業者数 - 6,484(同上)
** 常用労働者 - 5,994人
** 事業主・家族従業者 - 490人
* 製造品出荷額 - 1025億円(同上)
* 付加価値額 - 536億円
** 小工場が圧倒的に多く従業者数が1 - 3人の工場が全体の約53%を占める。従業者数が20人以上の工場は全体の8%に過ぎず、300人以上の工場は存在しない。練馬区の製造業は厳しい状況が続いており、工場数は昭和53年の2,194をピークにほぼ一貫して減少を続けている。平成15年には昭和42年以来、初めて工場数が3桁台に突入した。また、製造品出荷額も昭和60年、1906億円に達して以来同様に減少傾向が続いている。
** 工場の分布は[[西武池袋線]]の江古田駅・富士見台駅・大泉学園駅、[[東武東上本線|東武東上線]]<!--「東武東上線」では東上本線・越生線の総称とされており、項目名でもこの「東上本線」を用いているための措置-->の東武練馬駅の周辺に多くある。
* 製造業の種類(産業別)は、衣服・その他繊維製品の工場が17%と最も多く、出版・印刷 (16%)、食料品 (8%) と続く。
===第三次産業===
====商業====
* 卸売業(平成16年・練馬区統計書平成17年版 商業統計調査)
** 商店数 1300
** 従業者数 10881
** 年間販売額 585,061(百万円)
* 小売業(同上)
** 商店数 4,291
** 従業者数 29,161
** 年間販売額 466,572(百万円)
* 飲食店(平成4年・版練馬区統計書平成17年 商業統計調査)
** 商店数 1,722
** 従業者数 10,264
** 年間販売額 51,734(百万円)
;主な商業施設
[[File:Yumeria-Fente.jpg|thumb|250px|right|ゆめりあフェンテ(大泉学園駅前)]]
* ココネリ(Coconeri)
* [[いなげや]](練馬上石神井南店、練馬南大泉店)
* [[いなげや|ina21]](練馬中村南店、練馬東大泉店)
* 大泉学園ゆめりあフェンテ
* [[オオゼキ]]練馬店
* [[クイーンズ伊勢丹]]石神井公園店
* [[ジェーソン]](練馬春日町店、練馬石神井台店、練馬高松店、練馬中村橋店、練馬西大泉店、練馬氷川台店)
* スーパーバリュー(旧大川ホームセンター)練馬大泉店
* [[西友]](練馬店、豊玉南店、中村橋店、桜台店、上石神井店、関町店)
* [[ダイクマ]]平和台店
* [[大丸ピーコック]]高野台店
* [[東武ストア]]練馬豊玉店
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]](練馬店、エッセンス関町店)
* [[PC DEPOT]]平和台店
* [[コモディイイダ]](大泉店、中村橋店、氷川台店)
* [[光が丘IMA]]([[リヴィン|LIVIN]]光が丘店・[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]練馬店・専門店街・[[大創産業|ダイソー]]・光ケ丘サザン)
* [[マルエツ]](南大泉店、大泉学園店、練馬高松店、田柄店)
* [[ヤマダデンキ]]テックランド(練馬本店、大泉学園店、平和台駅前店)
* [[コジマ]]NEW豊玉店
* [[ヨークマート]](石神井店、練馬平和台店)
* [[ライフコーポレーション|ライフ]](石神井公園店、石神井台店、西大泉店、エクストラ大泉学園駅前店、平和台店、氷川台店、土支田店、練馬中村北店、新桜台駅前店、ココネリ練馬駅前店)
* [[サミット (チェーンストア)|サミットストア]](大泉学園店、環八南田中店、石神井公園店、石神井台店、練馬春日町店、氷川台駅前店)
* LIVINオズ大泉店
* [[アキダイ]]関町本店
===拠点を置く企業===
;東証プライム
*[[太陽ホールディングス|太陽インキ製造]]
*[[タムラ製作所]]
*[[日本高純度化学]]
;東証スタンダード
*[[鈴茂器工]]
*[[東映アニメーション]]
*[[平賀(企業)|平賀]]
;非上場
*[[虫プロダクション]]
*[[三笠製薬]]
*株式会社[[ケーアイ・フレッシュアクセス]]([[伊藤忠商事]]・[[住友商事]]グループ)
*[[櫻井音楽工房]]
*[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]](ハピネットの連結子会社)
*[[品川電線]]
*[[かちどき製粉|かちどき製粉株式会社]]
*[[アカオアルミ]]
*ナムコ - [[自動販売機]]向け食品サービス業。同名の[[バンダイナムコホールディングス]]傘下の[[バンダイナムコアミューズメント|企業]]とは別法人。
*株式会社ドワーフ - [[日本放送協会|NHK]]の[[テレビ局のマスコットキャラクター|マスコットキャラクター]]・「[[どーもくん]]」や「[[こまねこ]]」など[[ストップモーション・アニメーション]]を主に手掛けている。
*[[ソシオコーポレーション]] - [[ロケットニュース24]]の配信元。
* [[B&V]](カラオケ館を運営)
** [[シダックス・コミュニティー]]
*[[日立空調関東]]([[日立グループ]])
*[[セイキ総業]]
*ジョッキ([[極洋]]のグループ会社)
==情報・生活==
===マスメディア===
====放送局====
;ケーブルテレビ
*[[J:COM_東京|J:COM東京]]
*練馬放送([[インターネットラジオ]])
*練馬TV([[YouTube]] & [[Ustream]]配信)
===ライフライン===
====電力====
*[[東京電力]]
====ガス====
*[[東京ガス]]
====上下水道====
*[[東京都庁]]
====電信====
*[[NTT東日本]]
;市外局番
*練馬区の大半は'''「03」'''であるが、陸上自衛隊朝霞駐屯地内(大泉学園町9-4)の一般電話、および埼玉県新座市に囲まれた飛地である西大泉町1179番地における市外局番は'''「048」'''である。
*'''「03」'''地域の市内局番は大半が上から2桁目が'''「9」'''(39XX、59XX、69XX)となっているが、同じく「9」が使われる[[豊島区]]や[[板橋区]]と同様に[[1984年]]以降は枯渇対策で'''「5」'''や'''「8」'''(35XX、38xx、58XXなど)も割り当てられている。
==教育==
===大学===
;私立
*[[武蔵大学]] 江古田キャンパス
*[[武蔵野音楽大学]] 江古田キャンパス
*[[日本大学]] 芸術学部。江古田キャンパス
*[[上智大学]] 石神井キャンパス
:上智大学は[[西武新宿線]][[武蔵関駅]]に近く、他3校はいずれも[[西武池袋線]][[江古田駅]]から程近い。
=== 中等教育学校 ===
;国立
* [[東京学芸大学附属国際中等教育学校]]
=== 高等学校 ===
;都立
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[東京都立大泉高等学校・附属中学校|大泉高等学校]]
* [[東京都立石神井高等学校|石神井高等学校]]
* [[東京都立井草高等学校|井草高等学校]]
* [[東京都立大泉桜高等学校|大泉桜高等学校]]
* [[東京都立田柄高等学校|田柄高等学校]]
* [[東京都立練馬高等学校|練馬高等学校]]
* [[東京都立光丘高等学校|光丘高等学校]]
* [[東京都立練馬工科高等学校|練馬工科高等学校]]
* [[東京都立第四商業高等学校|第四商業高等学校]]
}}
;私立
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]
* [[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院]]
* [[富士見中学高等学校|富士見高等学校]]
* [[東京女子学院中学校・高等学校|東京女子学院高等学校]]
}}
:本区の高校は、高校野球においては西東京大会に出場する。
=== 中学校 ===
{{右|
[[File:Nerima-Ku Shakujii-nishi junior high school.jpg|thumb|180px|石神井西中学校]]
[[File:Oizumi 2nd Primary school Nerima.jpg|thumb|180px|大泉第二小学校]]}}
;都立
* [[東京都立大泉高等学校・附属中学校|大泉高等学校附属中学校]]
;区立
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[練馬区立旭丘中学校|旭丘中学校]]
* [[練馬区立大泉中学校|大泉中学校]]
* [[練馬区立大泉第二中学校|大泉第二中学校]]
* [[練馬区立大泉西中学校|大泉西中学校]]
* [[練馬区立大泉北中学校|大泉北中学校]]
* [[練馬区立大泉学園中学校|大泉学園中学校]]
* [[練馬区立開進第一中学校|開進第一中学校]]
* [[練馬区立開進第二中学校|開進第二中学校]]
* [[練馬区立開進第三中学校|開進第三中学校]]
* [[練馬区立開進第四中学校|開進第四中学校]]
* [[練馬区立北町中学校|北町中学校]]
* [[練馬区立上石神井中学校|上石神井中学校]]
* [[練馬区立石神井中学校|石神井中学校]]
* [[練馬区立石神井西中学校|石神井西中学校]]
* [[練馬区立石神井東中学校|石神井東中学校]]
* [[練馬区立石神井南中学校|石神井南中学校]]
* [[練馬区立関中学校|関中学校]]
* [[練馬区立田柄中学校|田柄中学校]]
* [[練馬区立豊玉中学校|豊玉中学校]]
* [[練馬区立豊玉第二中学校|豊玉第二中学校]]
* [[練馬区立中村中学校|中村中学校]]
* [[練馬区立貫井中学校|貫井中学校]]
* [[練馬区立練馬中学校|練馬中学校]]
* [[練馬区立練馬東中学校|練馬東中学校]]
* [[練馬区立光が丘第一中学校|光が丘第一中学校]]
* [[練馬区立光が丘第二中学校|光が丘第二中学校]]
* [[練馬区立光が丘第三中学校|光が丘第三中学校]]
* [[練馬区立豊渓中学校|豊渓中学校]]
* [[練馬区立南が丘中学校|南が丘中学校]]
* [[練馬区立三原台中学校|三原台中学校]]
* [[練馬区立八坂中学校|八坂中学校]]
* [[練馬区立谷原中学校|谷原中学校]]
}}
;私立
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学校]]
* [[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院中学部]]
* [[富士見中学高等学校|富士見中学校]]
* [[東京女子学院中学校・高等学校|東京女子学院中学校]]
}}
=== 小学校 ===
;国立
* [[東京学芸大学附属大泉小学校]]
;区立
{{columns-list|colwidth=12em|
* [[練馬区立旭丘小学校|旭丘小学校]]
* [[練馬区立旭町小学校|旭町小学校]]
* [[練馬区立大泉小学校|大泉小学校]]
* [[練馬区立大泉第一小学校|大泉第一小学校]]
* [[練馬区立大泉第二小学校|大泉第二小学校]]
* [[練馬区立大泉第三小学校|大泉第三小学校]]
* [[練馬区立大泉第四小学校|大泉第四小学校]]
* [[練馬区立大泉第六小学校|大泉第六小学校]]
* [[練馬区立大泉北小学校|大泉北小学校]]
* [[練馬区立大泉西小学校|大泉西小学校]]
* [[練馬区立大泉東小学校|大泉東小学校]]
* [[練馬区立大泉南小学校|大泉南小学校]]
* [[練馬区立大泉学園小学校|大泉学園小学校]]
* [[練馬区立大泉学園緑小学校|大泉学園緑小学校]]
* [[練馬区立開進第一小学校|開進第一小学校]]
* [[練馬区立開進第二小学校|開進第二小学校]]
* [[練馬区立開進第三小学校|開進第三小学校]]
* [[練馬区立開進第四小学校|開進第四小学校]]
* [[練馬区立春日小学校|春日小学校]]
* [[練馬区立北原小学校|北原小学校]]
* [[練馬区立北町小学校|北町小学校]]
* [[練馬区立北町西小学校|北町西小学校]]
* [[練馬区立向山小学校|向山小学校]]
* [[練馬区立光和小学校|光和小学校]]
* [[練馬区立小竹小学校|小竹小学校]]
* [[練馬区立上石神井小学校|上石神井小学校]]
* [[練馬区立上石神井北小学校|上石神井北小学校]]
* [[練馬区立下石神井小学校|下石神井小学校]]
* [[練馬区立石神井小学校|石神井小学校]]
* [[練馬区立石神井東小学校|石神井東小学校]]
* [[練馬区立石神井西小学校|石神井西小学校]]
* [[練馬区立石神井台小学校|石神井台小学校]]
* [[練馬区立関町小学校|関町小学校]]
* [[練馬区立関町北小学校|関町北小学校]]
* [[練馬区立泉新小学校|泉新小学校]]
* [[練馬区立高松小学校|高松小学校]]
* [[練馬区立田柄小学校|田柄小学校]]
* [[練馬区立田柄第二小学校|田柄第二小学校]]
* [[練馬区立立野小学校|立野小学校]]
* [[練馬区立豊玉小学校|豊玉小学校]]
* [[練馬区立豊玉第二小学校|豊玉第二小学校]]
* [[練馬区立豊玉東小学校|豊玉東小学校]]
* [[練馬区立豊玉南小学校|豊玉南小学校]]
* [[練馬区立仲町小学校|仲町小学校]]
* [[練馬区立中村小学校|中村小学校]]
* [[練馬区立中村西小学校|中村西小学校]]
* [[練馬区立練馬小学校|練馬小学校]]
* [[練馬区立練馬第二小学校|練馬第二小学校]]
* [[練馬区立練馬第三小学校|練馬第三小学校]]
* [[練馬区立練馬東小学校|練馬東小学校]]
* [[練馬区立橋戸小学校|橋戸小学校]]
* [[練馬区立早宮小学校|早宮小学校]]
* [[練馬区立光が丘四季の香小学校|光が丘四季の香小学校]]
* [[練馬区立光が丘春の風小学校|光が丘春の風小学校]]
* [[練馬区立光が丘夏の雲小学校|光が丘夏の雲小学校]]
* [[練馬区立光が丘秋の陽小学校|光が丘秋の陽小学校]]
* [[練馬区立光が丘第八小学校|光が丘第八小学校]]
* [[練馬区立富士見台小学校|富士見台小学校]]
* [[練馬区立豊渓小学校|豊渓小学校]]
* [[練馬区立南が丘小学校|南が丘小学校]]
* [[練馬区立南田中小学校|南田中小学校]]
* [[練馬区立南町小学校|南町小学校]]
* [[練馬区立八坂小学校|八坂小学校]]
* [[練馬区立谷原小学校|谷原小学校]]
}}
;私立
* [[東京三育小学校]]
=== 小中一貫教育校 ===
;区立
*[[練馬区立小中一貫教育校大泉桜学園|練馬区立小中一貫教育校 大泉桜学園]]
=== 特別支援学校 ===
;都立
{{columns-list|colwidth=15em|
*[[東京都立大泉特別支援学校]]
*[[東京都立石神井特別支援学校]]
*[[東京都立練馬特別支援学校]]
}}
=== インターナショナル・スクール ===
* [[アオバ・ジャパン・インターナショナルスクール]] 光が丘キャンパス
=== その他の教育機関 ===
* [[東京カトリック神学院]]
==交通==
[[File:Seibu Nerima-STA South.jpg|thumb|200px|[[練馬駅]]]]
[[File:石神井公園駅南口ロータリー.jpg|thumb|200px|[[石神井公園駅]]]]
<!---===空路===
練馬区内に空港は存在しない。最寄りの空港は[[東京国際空港]]又は[[成田国際空港]]。--->
===空港===
*かつて、現在の光が丘に旧[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[特別攻撃隊|特攻隊]]出撃基地、[[成増飛行場]]があった。
===鉄道===
<!---
====鉄道路線====--->
'''[[西武鉄道]]'''
: [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|17px|SI]] [[西武池袋線|池袋線]]
::* [[江古田駅]] - [[桜台駅 (東京都)|桜台駅]] - [[練馬駅]] - [[中村橋駅]] - [[富士見台駅]] - [[練馬高野台駅]] - [[石神井公園駅]] - [[大泉学園駅]]
:::*[[保谷駅]]([[西東京市]])はホーム東側3分の1程が練馬区に跨っている。
: [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|17px|SI]] [[西武有楽町線]]
::* [[小竹向原駅]] - [[新桜台駅]] - 練馬駅 (全線区内)
: [[File:Seibu_ikebukuro_logo.svg|17px|SI]] [[西武豊島線|豊島線]]
::* 練馬駅 - [[豊島園駅]](全線区内)
: [[File:SeibuShinjuku.svg|17px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]
::* [[上石神井駅]] - [[武蔵関駅]]
'''[[東京地下鉄]](東京メトロ)'''
: [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|17px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]
::* 小竹向原駅 - [[氷川台駅]] - [[平和台駅 (東京都)|平和台駅]] - [[地下鉄赤塚駅]]
: [[File:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|17px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]]:練馬区内では有楽町線と同一の線路を用いている。
::* 小竹向原駅 - 氷川台駅 - 平和台駅 - 地下鉄赤塚駅
:::*小竹向原駅、地下鉄赤塚駅は駅の一部が[[板橋区]]に跨がっているが、所在地は練馬区である。
'''[[東京都交通局]](都営地下鉄)'''
: [[File:Toei Oedo line symbol.svg|17px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]]
::* ([[新江古田駅]]) - 練馬駅 - 豊島園駅 - [[練馬春日町駅]] - [[光が丘駅]]
::* 新江古田駅の正式な所在地は東京都中野区江原である。
東京23区内で[[JR線]]が通っていないのは、当区と[[世田谷区]]のみである<ref group="注釈">[[目黒区]]にはJRの駅はないが([[目黒駅]]は[[品川区]]にある)、[[山手線]]が通っている。同様に[[文京区]]もJRの駅はないが山手線が通っているほか、[[常磐緩行線]]の車両が[[東京メトロ千代田線]]に乗り入れる形で通っている。なお、世田谷区では2016年3月26日よりダイヤ改正により、[[小田急小田原線|小田急線]]をJR所属車両が直通運転という形で通るようになったことから、直通運転を含めて東京23区でJRの車両が通らない区は練馬区が唯一となった。</ref>。
また、[[東武東上本線|東武東上線]]が練馬区内を走行する箇所があるが、[[東武練馬駅]]の所在地は両区の境界線の板橋区側である。
===バス===
====路線バス====
;一般路線バス営業所
[[File:Seibu Bus A7-196 20091022 Hikarigaoka.jpg|thumb|みどりバス(西武バス所有の小型車タイプ)]]
* [[西武バス]]
** [[西武バス練馬営業所|練馬営業所]]
** [[西武バス上石神井営業所|上石神井営業所]]
** [[西武バス滝山営業所|滝山営業所]]・吉64系統の関町・立野町付近を担当している。
** [[西武バス新座営業所|新座営業所]]・大泉学園駅発の便を営業している。
* [[都営バス]]
** [[都営バス練馬支所|北自動車営業所練馬支所]]
** [[都営バス杉並支所|小滝橋自動車営業所杉並支所]]・王78系統の豊玉付近を担当している。
* [[国際興業バス]]
** [[国際興業バス練馬営業所|練馬営業所]]
** [[国際興業バス赤羽営業所|赤羽営業所]]・赤31系統の豊玉付近を担当している。
** [[国際興業バス池袋営業所|池袋営業所]]・池07系統の江古田二又から練馬総合病院付近を担当している。
* [[関東バス]]
** [[関東バス青梅街道営業所|青梅街道営業所]]
** [[関東バス丸山営業所|丸山営業所]]・江古田駅付近の系統と練馬駅及び中村橋駅から中野駅行きを担当している。
** [[関東バス阿佐谷営業所|阿佐谷営業所]]・練馬駅や中村橋駅、石神井公園駅から荻窪駅、阿佐ヶ谷駅行きの便を担当している。
** [[関東バス五日市街道営業所|五日市街道営業所]]・練馬駅と[[高円寺駅]]間の便を担当している。
** [[関東バス武蔵野営業所|武蔵野営業所]]・武蔵関駅と三鷹駅間の便を担当している。営業所の建て替えに伴い2016年9月1日付けで青梅街道営業所に移管されたが、2022年4月16日付けで復帰した。
* [[京王バス]]
** [[京王バス東・中野営業所|中野営業所]]・練馬駅から豊玉経由で[[中野駅 (東京都)|中野駅]]行きの便を担当している。
;コミュニティバス
2009年7月16日から、下記3種類あったものが[[みどりバス]]に愛称が統一された。
* 練馬区シャトルバス
* 練馬区バス交通実験
* 練馬区福祉コミュニティバス
他に、西東京市運営の[[はなバス]]にも区民利用がある。
=== 道路 ===
====高速道路====
;[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)
*{{Ja Exp Route Sign|E17}}[[関越自動車道]]
**- [[練馬インターチェンジ|練馬IC]] -
*{{Ja Exp Route Sign|C3}}[[東京外環自動車道]]
** - [[大泉インターチェンジ|大泉IC]] - [[大泉ジャンクション|大泉JCT]] -
*首都高速道路は当区は一切通っていない。東京23区で首都高速道路が通っていない区は他は荒川区のみである。
====国道====
* [[国道17号]]([[新大宮バイパス]])
* [[国道254号]]([[川越街道]])
====都道====
* [[東京都道318号環状七号線|環七通り]]
* [[東京都道311号環状八号線|環八通り]]
* [[笹目通り]]
* [[東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線|目白通り]] - かつての[[清戸道]]。
* [[東京都道441号池袋谷原線|富士街道]] - かつての[[大山道#ふじ大山道|ふじ大山道]]。
* [[東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線|旧早稲田通り]] - かつての[[所沢道]]。
* [[東京都道439号椎名町上石神井線|千川通り]] - かつての[[千川上水]]が[[溝渠|暗渠]]化されたもの。
* [[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線|青梅街道]]
* [[東京都道245号杉並田無線|新青梅街道]]
=== ナンバープレート ===
練馬区は、練馬ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 東京運輸支局管轄区域 ] - 関東運輸局 東京運輸支局</ref>。
;練馬ナンバー割り当て地域
*新宿区・文京区・中野区・豊島区・北区・練馬区
2012年8月1日からは、原動機付自転車のナンバープレートに、「[[メーテル]]」と「ねり丸」のカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。
;練馬ナンバーから分離した地域<br/>
※管轄事務所は、関東運輸局東京運輸支局練馬自動車検査登録事務所のまま。
*2014年11月17日に杉並区が割り当て地域から分離、杉並ナンバーの運用開始。
*2020年5月11日に板橋区が割り当て地域から分離、板橋ナンバーの運用開始。
==観光==
===名所・旧跡===
{{See also|練馬区指定・登録文化財一覧}}
* [[愛染院 (練馬区)|練月山愛染院]]
* [[牧野記念庭園]] - 世界的に有名な植物学者、[[牧野富太郎]]博士の住居跡を整備した庭園。
* [[氷川神社 (練馬区氷川台)|氷川神社]]
* 江古田の富士塚 - [[浅間神社 (練馬区小竹町)|茅原浅間神社]]境内にある[[重要有形民俗文化財]]の[[富士塚]]。
* [[キャンプ・ドレイク]]跡 - 現在は和光市内に一部残るのみ。
===観光スポット===
;レジャー施設
[[ファイル:「スタジオツアー東京 エクスプレス」の側面.jpg|サムネイル|ワーナー ブラザース スタジオツアー東京 – メイキング・オブ・ハリー・ポッターが2023年に開業した。]]
*[[豊島園 庭の湯]]
*[[ユナイテッド・シネマ]]としまえん
*[[ティ・ジョイ|Tジョイ]]大泉 - 大泉学園の東映撮影所の敷地内にある。
*[[ワーナーブラザース スタジオツアー東京 ‐ メイキング・オブ・ハリー・ポッター]]
;主なスポーツジム・アミューズメント施設など
*[[スポーツジム]]
**[[ティップネス]](練馬店、大泉学園前店、東武練馬店、氷川台店)
**[[ルネサンス (スポーツクラブ)|ルネサンス]](石神井公園、富士見台、練馬高野台、光が丘)
**[[セントラルスポーツ]]南大泉
**JOYFIT24(光が丘、平和台、富士見台)
**スポーツクラブNANKO
**スポーツクラブNAS光が丘
**愛和スポーツクラブ
**成増ロンドスイミングスクール
**大泉スワロー体育クラブ
**大泉レッツスイミングスクール
**田柄スイミングクラブ
**東京イトマンスイミングスクール(富士見台校)
**東京ドルフィンクラブ/桜台スイミングスクール
**ゆーポッポ(北町)
**お風呂の王様 光が丘店(名称は「光が丘店」であるが住所は板橋区赤塚新町である)
**豊島園「庭の湯」トーホープラザ([[ボウリング]]場、カー用品、[[ドン・キホーテ (企業)|ドンキホーテ]]など)
==文化・名物==
===祭事・催事===
{{Vertical images list
|幅 = 250px
|枠幅 = 250px
|1 = Teruhime festival returns ceremony 2009.jpg
|2 = 照姫まつり
|3 = Seki-no-boroichi.jpg
|4 = 関のボロ市}}
* [[照姫 (豊島氏)|照姫まつり]] - 石神井公園にて4月下旬(みどりの日付近)に行われる。
* [[ハワリンバヤル]] - [[モンゴル]]を紹介する日本最大級のモンゴルのフェスティバル。[[ゴールデンウィーク]]期間中に[[光が丘公園]]で開催。
* よさこい祭り in [[光が丘公園]] - 7月
* [[練馬まつり]] - 10月
* [[酉の市]] - 11月
* [[関のボロ市]] - 12月
*中村橋阿波踊り
*きたまち阿波踊り
*練馬こぶしハーフマラソン- 3月
===名産・特産===
* [[キャベツ]]
* [[練馬大根]]
* [[沢庵漬け]]を中心とした漬物
* 練馬大根をモチーフにした最中やまんじゅうなどの菓子
* 東京手描友禅
* 練馬音頭
===アニメーション===
====日本アニメ発祥の地====
練馬区は、日本初のカラー長編劇場アニメ『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』が制作された日本カラーアニメ発祥地である。また、1963年に世界初の毎週放送の本格的テレビアニメシリーズ『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』(モノクロ)、1965年に日本初の(長期間の)本格的フルカラーテレビアニメシリーズ『[[ジャングル大帝]]』が生まれた、テレビアニメの発祥地でもある。『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』<ref group="注釈">制作はスタジオジブリの前身である[[トップクラフト]]。</ref>や[[スタジオジブリ]]作品、『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』、『[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]』などの制作に関わったアニメプロダクションも多い。
東映動画(現東映アニメーション)の大泉スタジオからは、[[宮崎駿]]、[[高畑勲]]、[[りんたろう]]、[[大塚康生]]、[[細田守]]など、多くのアニメ関係者が巣立っていった。
==== 日本一のアニメ企業集積地 ====
[[File:TOEI ANIMATION Oizumi Studio.JPG|thumb|230px|東映アニメーション 旧・大泉スタジオ(2014年当時)]]
練馬区は、[[東映アニメーション]](旧:東映動画)や、[[手塚治虫]]の[[虫プロダクション]]([[手塚プロダクション]]とは現在は無関係)など、アニメ関連企業数が94社(2007年現在)を数え、日本一のアニメ関連企業の集積地でもあり、これまでに数多くの作品が制作され、またその舞台となった([[練馬区#漫画・アニメ・小説など|後述]])。
アニメのみならず30年続く[[スーパー戦隊シリーズ]]をはじめ、東映の得意とする特撮もこの地でのロケが多い。
2002年からは、年一回のペースで『[[練馬アニメフェスティバル]]』が[[大泉学園町|大泉学園]]で開催され、商店街やNPOなどと連携し、アニメ振興を図っている。
2004年には、[[練馬アニメーション協議会]]が、虫プロや東映アニメーションなど、約50の事業所で設立され、練馬区のアニメ振興を計っている。同協議会は、前身のNPO法人「アニメミュージアムの会」(1994年設立)の時代から区内へのアニメミュージアムの建設を目指している。だが、東映アニメーションが2003年、独自に東映アニメーションギャラリー(現[[東映アニメーションミュージアム]])を作ったため、重複論が浮上し、足踏み状態が続いている。
2006年、練馬アニメ協議会が[[フランス]]のアニメ企業との交流事業で渡仏、フランスからも2007年3月アニメ関係者が練馬区を訪問するなどの交流事業がきっかけとなり、2007年6月11日からフランスの[[アヌシー]]で毎年開催されている[[アヌシー国際アニメーション映画祭|アヌシー国際アニメ見本市]]に、練馬区のアニメ企業10社が出展する運びとなった。今後、アニメの売買や共同制作など具体的な事業交流を深める案が出ている。
2007年11月より、練馬区独立60周年記念の一環として、練馬区誕生アニメ紹介番組、[[ねりたんアニメワークス]]が[[ジュピターテレコム|J:COM]]東京で放送された。
===漫画===
====漫画家の街====
練馬区は、出版社の多い[[千代田区]][[一ツ橋]]や[[神田神保町]]、[[文京区]][[音羽]]などに程好く交通の便が良かったこと、必要な画材を取り扱っている店や街まで近かったこと、誘惑の多い繁華街から少し離れていることもあり落ちついて作業に集中できるなどの利点から、[[手塚治虫]]や[[石ノ森章太郎]]をはじめ、多くの漫画家が住居や仕事場を構えた。また、[[トキワ荘]](所在地は豊島区)の最寄の駅、椎名町のある西武池袋線の沿線に住まうことも、後進の漫画家には一種の憧れがあったという。編集部が地方在住の新人漫画家を上京させる際に、上記の理由に加え家賃が比較的安い練馬区の物件を用意することが多かった。[[松本零士]]は上京にあたって、[[日本の市外局番|市外局番]]が「03」で、緑が多く静かな住環境を条件に住居を探した結果、大泉学園を選んだという。[[島田啓三]]、[[馬場のぼる]]、[[太田じろう]]、[[赤塚不二夫]]、[[古谷三敏]]、[[ちばてつや]]、[[ちばあきお]]、[[高森朝雄]]([[梶原一騎]])、[[藤子不二雄]]、[[萩尾望都]]、[[竹宮惠子]]([[大泉サロン]]も参照)、[[吉沢やすみ]]、[[弘兼憲史]]、[[柴門ふみ]]、[[吾妻ひでお]]、[[高橋留美子]]、[[小林よしのり]]など、多くの有名・無名の漫画家も永住、または一時的に居住したことがある。漫画作品の中には練馬区を思わせる設定や背景が描かれているものも数多くある。
;大泉サロン
練馬区[[大泉町 (練馬区)|大泉]]には、女性漫画家版[[トキワ荘]]ともいえる[[大泉サロン]]が存在し、[[萩尾望都]]や[[竹宮惠子]]ら多くの著名女性漫画家が巣立っていった。
===宗教===
====キリスト教====
;教会・神学校
*[[聖書キリスト教会]] [[福音主義]]プロテスタント
*[[東京神学校]]
*[[日本カトリック神学院]]東京キャンパス
== ゆかりのある人物・団体 <!--大田区の構成を参照。出身者は全くと言えるほど居ない、少ない。-->==
=== 人物 ===
;漫画家・アニメーター
{{columns-list|colwidth=18em|
* [[手塚治虫]]
* [[石ノ森章太郎]]
* [[馬場のぼる]]
* [[松本零士]] - 2008年、名誉区民に選定<ref name="nerima.tokyo">{{Cite web|和書|title=練馬区名誉区民の顕彰(平成20年11月5日)|website=練馬区|url=https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/kunogaiyo/meiyokumin/h20kensho.html|accessdate=2022-08-08}}</ref>
* [[ちばてつや]] - 2017年、名誉区民に選定<ref name="nerima.keizai"/>
* [[ちばあきお]]
* [[モンキー・パンチ]]
* [[白土三平]]
* [[安彦良和]]
* [[あだち充]]
* [[弘兼憲史]]
* [[石川賢 (漫画家)|石川賢]]
* [[池上遼一]]
* [[吉沢やすみ]]
* [[すがやみつる]]
* [[ゆうきまさみ]]
* [[大島やすいち]]
* [[吾妻ひでお]]
* [[山上たつひこ]]
* [[村上もとか]]
* [[石川サブロウ]]
* [[はしもとみつお]]
* [[魚戸おさむ]]
* [[本庄敬]]
* [[三田紀房]]
* [[新谷かおる]]
* [[のむらしんぼ]]
* [[荘司としお]]
* [[西岸良平]]
* [[古谷三敏]]
* [[畑健二郎]]
* [[和月伸宏]]
* [[小畑健]]
* [[奥浩哉]]
* [[尾田栄一郎]]
* [[大和田秀樹]]
* [[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]]
* [[ハロルド作石]]
* [[大井昌和]]
* [[いづみかつき]]
* [[竹宮惠子]]
* [[萩尾望都]]
* [[山岸凉子]]
* [[大島弓子]]
* [[牧美也子]]
* [[高橋留美子]]
* [[柴門ふみ]]
* [[いがらしゆみこ]]
* [[立野真琴]]
* [[森園みるく]]
* [[大島永遠]]
* [[大月悠祐子]]
* [[黒丸 (漫画家)|黒丸]]
* [[流水凛子]]
}}
:他にも非常に多くの漫画家が練馬区在住あるいは在住歴を持つ。また、女性版[[トキワ荘]]と称された『[[大泉サロン]]』があったことでも知られている。
;文学者
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[辰野隆]] - フランス文学者。晩年、立野町に居住した。
* [[草野心平]] - 詩人。1949年から1952年まで[[下石神井]]に居住した。練馬区内小中学校の校歌の作詞を手掛けた。
* [[松本清張]] - 作家。1954年から1961年まで現在の[[関町南]](当時は関町)および[[関町東]](当時は上石神井)に居住した。
* [[檀一雄]] - 小説家、作詞家。長女は女優の[[檀ふみ]]。
* [[五味康祐]] - 小説家。1952年から晩年まで居住した。
* [[田中小実昌]] - 小説家。1986年から晩年まで早宮で居住した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/bunka/furusato/20230617.html|title=企画展「田中小実昌―物語を超えた作家―」(令和5年6月17日から8月13日まで)|website=練馬区役所公式ホームページ|publisher=練馬区|data=2023-05-12|accessdate=2023-05-22}}</ref>。また、次女で作家の[[田中りえ]]、孫で実業家の田中開も練馬区育ち。
* [[梶原一騎]](高森朝雄) - 漫画原作者。
* [[平井和正]] - 小説家、SF作家。
* [[新井素子]] - 作家。生まれも育ちも練馬区で、練馬にまつわるエッセイ集も書いている。
* [[村崎百郎]] - 作家、フリーライター、[[漫画原作]]者。
* [[柳田理科雄]] - 作家、漫画原作者、大学教員、『空想科学研究所』主任研究員<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/yanagitarikao/20221106-00322816|title=『天気の子』では、雨が降り続いて東京が水没! その雨量を計算してみると、オソロシイ結論になった!|publisher=Yhoo!ニュース|date=2022-11-06|accessdate=2022-11-07}}</ref>。
* [[森奈津子]] - 小説家。
* [[渋谷直角]] - ライター、[[コラムニスト]]・漫画家
* [[萩原慎一郎]] - 歌人。『[[歌集 滑走路]]』作者。[[武蔵中学]]に通い、母の実家がある。
* [[丘野ゆうじ]] - 小説家
* [[春日晴樹]] - 著作家、講演者。
}}
;映画・アニメ関係者
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[石黒昇]] - [[アニメ監督]]、[[演出家]]、[[アニメーター]]。
* [[イシグロキョウヘイ]] - アニメ監督、演出家。
* [[是枝裕和]] - [[映画監督]]・テレビ[[ドキュメンタリー]]演出家。北町生まれ<ref>是枝裕和公式Twitter{{Twitter status|hkoreeda|104847170456395776|2011年8月20日発言}}</ref>。
* [[手塚眞]] - 映画監督。
* [[手塚るみ子]] - 手塚プロダクション取締役、プランニングプロデューサー。上記手塚眞は実兄。
* [[門馬直人]] - 映画監督。
}}
;芸術家
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[いわさきちひろ]] - [[画家]]、[[絵本作家]]。中年期以降、下石神井に在住。死後、自宅跡地は[[ちひろ美術館・東京]]に。
* [[大竹伸朗]] - [[現代美術]]家。
* [[村上隆]] - 現代美術家。
* [[のぶみ]] - 絵本作家。
* [[神田日勝]] - [[洋画家]]。練馬生まれ。
* [[佐藤可士和]] - グラフィックデザイナー。クリエイティブディレクター。
* [[おーくん・あきら]] - デザイナー。大学教員。
* [[野見山暁治]] - 洋画家。2017年、名誉区民に選定<ref name="nerima.keizai">{{Cite web|和書|url=https://nerima.keizai.biz/headline/1283/|title=練馬区、名誉区民を選定 画家・野見山暁治さん、漫画家・ちばてつやさん|publisher=練馬経済新聞|date=2017-06-09|accessdate=2017-06-10}}</ref>。
* [[假屋崎省吾]] - フラワーアーティスト。石神井出身。
* [[森住惣一郎]] - ゲームクリエイター。
* [[中島盛夫]] - [[銭湯#ペンキ絵|銭湯絵師]]
}}
;音楽家
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[石川拓磨]] - [[音楽プロデューサー]]、[[クリエイター|映像クリエイター]]
* [[尾崎豊]] - シンガーソングライター。春日町出身
* [[桜井和寿]] - 歌手。貫井出身。[[Mr.Children]]。
* [[HIROSHI (ピアニスト)|HIROSHI]] - ピアニスト。早宮出身
* [[玉森裕太]] - 歌手。[[Kis-My-Ft2]]。
* [[千葉和臣]] - 歌手。[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]の[[ギタリスト]]。
* [[増田貴久]] - 歌手。[[NEWS (グループ)|NEWS]]。
* [[立道聡子]] - 視覚障害のあるシンガーソングライター
* [[山口達也]] - ベーシスト。元[[TOKIO]]。
* [[萩原健也]] - ギタリスト。上石神井にスタジオがある。
* [[野川晴義]] - 現代音楽の作曲家。
* [[山下達郎]] - 歌手。生まれは[[豊島区]]
* [[大谷康子]] - [[ヴァイオリニスト]]。在住。2016年より公益財団法人練馬区文化振興協会理事長就任。
* [[角松敏生]] - シンガーソングライター。生まれは[[渋谷区]]
* [[古内東子]] - 歌手。
* [[練マザファッカー]] - HIPHOPグループ。
* 渡邊崇尉 - ベーシスト。元音楽ユニット[[SCRIPT]]。
* [[渡辺岳夫]] - 作曲家・音楽家・詩人。
* [[西谷国登]] - バイオリニスト、指揮者、音楽プロデューサー。石神井出身
* 一噌幸弘 - [[一噌流]]笛方([[能管]])
* [[諫山実生]] - シンガーソングライター
* [[小坂忠]] - シンガーソングライター
* [[井口一彦]] - ロック歌手
* [[寺沢功一]] - ベーシスト。[[ブリザード (バンド)|BLIZARD]]。田柄出身
}}
;芸能人
{{columns-list|colwidth=18em|
* [[ディック・ミネ]]
* [[野村万作]] - [[狂言]]方[[和泉流]]の[[能楽師]]。2008年、名誉区民に選定<ref name="nerima.tokyo"/>。
* [[志田房子]] - [[琉球舞踊]]家
* [[立川談志]] - [[落語家]]
* [[宮内幸平]] - [[俳優]]、[[声優]]
* [[和田文夫]] - 俳優、声優
* [[早野凡平]] - [[大道芸|大道芸人]]、[[ヴォードヴィル|ボードビリアン]]、[[タレント]]
* [[江原真二郎]] - 俳優。妻である女優の[[中原ひとみ]]と40年以上在住。娘の[[土家里織]]も同区出身
* [[ケイ・グラント]] - ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]・[[ナレーター]]。[[グラントハイツ]]出身
* [[黒田治]] - ラジオパーソナリティー
* [[深沢邦之]]([[Take2]]) - [[お笑いタレント]]
* [[土田晃之]] - お笑いタレント
* [[いしだ壱成]] - 俳優。三原台中学校卒業
* [[つるの剛士]] - 俳優、歌手、タレント。生まれは[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]
* [[石垣佑磨]] - 俳優
* [[若葉竜也]] - 俳優、[[大衆演劇]]役者
* [[若葉克実]] - 俳優、大衆演劇役者
* [[大泉山勇希]] - 元俳優、タレント。大泉学園出身
* [[森枝天平]]([[エレファントジョン]]) - 構成作家、元お笑いタレント
* [[崎本大海]] - 俳優、タレント
* [[持丸加賀]] - 俳優、声優
* [[やすひさてっぺい]] - [[料理研究家]]、[[日本唐揚協会]]会長兼理事長。西大泉出身(生まれは[[鹿児島県]][[種子島]])
* [[小宮浩信]]([[三四郎 (お笑いコンビ)|三四郎]]) - お笑いタレント
* [[スパナペンチ|永田敬介]] - お笑いタレント
* [[ママタルト|大鶴肥満]]([[ママタルト]]) - お笑いタレント
* [[令和ロマン|髙比良くるま]]([[令和ロマン]]) - お笑いタレント
* [[矢部昌暉]]([[DISH//]]) - ダンスユニットメンバー
* [[佐久間良子]] - 俳優
* [[丘野かおり]] - 俳優
* [[大原麗子]] - 俳優
* [[桃井かおり]] - 俳優。北町自衛隊官舎出身
* [[檀ふみ]] - 俳優、[[エッセイスト]]
* [[玉川砂記子]] - 俳優、声優。中村出身
* [[若村麻由美]] - 俳優
* [[小林綾子]] - 俳優
* [[宮沢りえ]] - 俳優
* [[上戸彩]] - 俳優。光が丘出身
* [[観月ありさ]] - 俳優、歌手
* [[小沢なつき]] - 俳優、歌手、[[AV女優]]
* [[鈴木蘭々]] - 俳優、歌手、実業家
* [[吉川ひなの]] - 俳優、[[ファッションモデル|モデル]]
* [[沢尻エリカ]] - 俳優
* [[井川遥]] - 俳優。生まれは[[墨田区]]
* [[岩佐真悠子]] - 元俳優、元タレント。石神井出身
* [[田島穂奈美]] - 元俳優
* [[田山真美子]] - 元俳優。生まれは[[岩手県]]
* [[伊藤歩]] - 俳優、声優
* [[橋本麗香]] - 俳優、モデル
* [[島田奈央子]] - 元俳優、歌手。10代のころの芸名は島田奈美
* [[だいたひかる]] - お笑い芸人。大泉学園出身
* [[立川明日香]] - 元モデル、政治家。[[埼玉県]][[新座市]]議会議員選挙に立候補するまで住民票があった
* [[岩﨑名美]] - モデル、タレント
* [[佐野史郎]] - 俳優、ミュージシャン
* [[草場有輝]] - [[ミュージカル]]俳優、[[バレエ]]ダンサー
* [[香山美子 (女優)|香山美子]] - 俳優
* [[日美野梓|若奈まりえ]] - 俳優
* [[扇けい]] - 元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役
* [[愛花ちさき]] - 元宝塚歌劇団[[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役
* [[風色日向]] - 宝塚歌劇団宙組男役
* [[きよら羽龍]] - 宝塚歌劇団[[月組 (宝塚歌劇)|月組]]娘役
* [[北村匠海]] - 歌手、俳優
* 登坂武雄 - [[能楽#シテ方|能楽師シテ方]]
* [[梁田清之]] - 声優
* [[吉田理保子]] - 元声優、女性実業家
}}
;政治関係者
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[中村梅吉]] - 第57代[[衆議院議長]]
* [[下稲葉耕吉]] - 第73代[[警視総監]]、第64代[[法務大臣]]。
* [[長妻昭]] - 第11・12代[[厚生労働大臣]](現在の選挙区は区外であるが、住民票は区内)
* [[小川敏夫]] - 第32代[[参議院議長|参議院副議長]]、第89代[[法務大臣]]
* [[小林興起]] - 政治家
* [[松本善明]] - 政治家(選挙区は区外(旧衆議院東京都第4区))。いわさきちひろの夫で元の自宅が「ちひろ美術館・東京」になっている。
* [[小林いずみ]] - [[多数国間投資保証機関長官]]、[[みずほフィナンシャルグループ]]取締役会議長、[[メリルリンチ日本証券]]社長
* [[山本剛嗣]] - [[弁護士]]、[[日本弁護士連合会]]副会長、[[法務省]][[司法試験考査委員]]、[[国家公安委員]]
* [[小池百合子]] - 政治家、元[[ニュースキャスター]]、第20・21代[[東京都知事]]<ref>{{Cite web|和書|title=練馬区で従兄弟一家と同居する都知事のご自宅訪問|小池百合子の「グランマの部屋」へようこそ|url=https://courrier.jp/news/archives/80498/|website=クーリエ・ジャポン |accessdate=2020-08-23|publisher=講談社|date=2017-03-24}}</ref>(出身は[[兵庫県]][[芦屋市]])
* [[菅原一秀]] - 第24代[[経済産業大臣]]
}}
;マスコミ関係者
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[荒川強啓]] - [[フリーアナウンサー]] - [[オフィス・トゥー・ワン]]所属(元・[[山形放送]])
* [[小倉智昭]] - [[フリーアナウンサー]] - [[オーケープロダクション]]所属(元・[[テレビ東京]])
* [[松平定知]] - [[フリーアナウンサー]](元・[[日本放送協会|NHK]])
* [[宇賀なつみ]] - [[フリーアナウンサー]](元・[[テレビ朝日]])
* [[延友陽子]] - 元[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー
* [[村山直之]] - [[フリーアナウンサー]](元・[[群馬テレビ]])
* [[北尾好孝]] - 元[[四国放送]]アナウンサー
* [[坪内一樹]] - [[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]アナウンサー
* [[吉村真理子]] - [[フリーアナウンサー]]
* [[植村なおみ]] - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]アナウンサー
* [[菅原知弘]] - [[テレビ朝日]]アナウンサー
* [[加藤暁]] - フリーアナウンサー
* [[向坂樹興]] - フリーアナウンサー
* [[桃井真]] - 国際[[政治学]]者、軍事[[アナリスト]]。女優・桃井かおりの父
* [[筑紫哲也]] - [[ニュースキャスター]]、[[ジャーナリスト]]。
* [[池上彰]] - ニュースキャスター、ジャーナリスト。大泉中高卒
* [[田原総一朗]] - ジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター
* [[尾木直樹]] - 教育評論家。練馬中学校教諭時代に在住
* [[小野員裕]] - フードライター。「[[横濱カレーミュージアム]]」初代名誉館長
}}
;学者
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[牧野富太郎]] - [[植物学者]]。練馬区東大泉の自宅跡地を整備し、『牧野記念庭園記念館』として一般公開している
* [[長沢工]] - 天文学者
* [[風間綾平]] - [[日本語字幕|字幕]][[翻訳]]家<ref>{{Cite web|和書|url=http://kacce.co.jp/blog/kacce-bohemianrhapsody|title=大ヒット映画「ボヘミアン・ラプソディ」の字幕を手がけたのは、光が丘に住む字幕翻訳家!|publisher=kacce|date=2018-12-28|accessdate=2019-02-17}}</ref>
* [[村上勝三]] - [[哲学者]]([[東京大学]]大学院卒)。[[東洋大学]]大学院特任教授
* [[能見俊賢]] - 血液型人間学
* [[入山章栄]] - [[経済学者]]。[[早稲田大学ビジネススクール|早稲田大学大学院経営管理研究科]]教授
* [[吉田豪]] - プロ書評家
* [[飯島洋一]] - 建築評論家
* [[鈴木俊貴]] - [[生物学者]]。[[東京大学先端科学技術研究センター]]准教授、動物言語学の開拓の第一人者
}}
;文化人
* [[佐藤慎一 (棋士)|佐藤慎一]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* [[田中綾華]] - [[田中綾華#ROSE_LABO|ROSE LABO]]創業者
;スポーツ選手
{{columns-list|colwidth=36em|
* [[安藤毅]] - プロ[[バスケットボール選手]]([[bjリーグ]]・[[埼玉ブロンコス]]所属)
* [[待井昇]] - 元[[プロ野球選手]]
* [[三浦敬三]] - 100歳まで現役のプロスキーヤー。[[三浦雄一郎]]の父。
* [[豊田誠佑]] - 元プロ野球選手
* [[河田雄祐]] - 元プロ野球選手・現[[東京ヤクルトスワローズ]]外野守備走塁コーチ
* [[川島堅]] - 元プロ野球選手
* [[杉谷拳士]] - 元プロ野球選手
* [[万波中正]] - プロ野球選手・北海道日本ハムファイターズ所属 外野手
* [[伊藤拓郎 (野球)|伊藤拓郎]] - 元プロ野球選手
* [[岡田明丈]] - プロ野球選手・[[広島東洋カープ]]所属 [[投手]]
* [[藤田大清]] - プロ野球選手・北海道日本ハムファイターズ所属 外野手
* [[甲斐田陽菜]] - 元女子プロ野球選手
* [[中田久美]] - 元[[バレーボール]]選手・日本代表
* [[斎藤真由美]] - 元バレーボール選手・日本代表
* [[飯尾和也]] - 元[[サッカー選手]]
* [[横山知伸]] - 元サッカー選手
* [[荒川恵理子]] - [[女子サッカー選手]]・[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]
* [[黒木克昌]] - 元[[プロレスラー]]:マグナムTOKYO([[大道塾]]所属)
* [[新井健一郎]] - プロレスラー(DRAGON GATE所属)
* [[K-ness.]] - プロレスラー(DRAGON GATE所属)
* [[渡辺雄二 (ボクサー)|渡辺雄二]] - 元[[プロボクサー]](日本スーパーフェザー級、[[東洋太平洋ボクシング連盟|OPBF]]フェザー級・ライト級王者)
* [[高山涼深]] - [[プロボクサー]](日本スーパーフライ級[[ユース王座|ユース王者]])
* [[栃丸正典]] - [[大相撲]]力士。2022年5月場所新十両。
* [[福元弘二]] - 元地方競馬騎手。競馬評論家。
* [[川島信二]] - [[騎手]]
* [[三浦皇成]] - [[騎手]]
* [[小久保志乃]] - 女子プロ野球・[[京都アストドリームス]]所属。また、キャプテンでもある。小学校時代は練馬区軟式[[少年野球]]チームのイースタンボーイズに所属していた。
* [[高尾千穂]] - [[フリースタイルスキー]]選手。[[2014年ソチオリンピックの日本選手団|ソチオリンピック日本選手団]]・女子スロープスタイルスキー代表
* [[田辺陽子]] - [[柔道家]]。[[日本オリンピアンズ協会]]理事
* [[高橋佑汰]] - [[空手家]]
* [[船津直輝]] - サッカー選手・[[セレッソ大阪]]所属
* [[平岩優奈]] - [[体操競技]]選手([[2020年東京オリンピックの日本選手団|2020東京五輪]]日本代表)
* [[岩渕幸洋]] - [[パラ卓球]]選手([[2016年リオデジャネイロパラリンピック]]、[[2020年東京パラリンピック]]日本代表)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nerimakanko.jp/review/detail.php?article_id=SPE0000088|title=ねりま人#128 岩渕幸洋さん(東京2020パラリンピック卓球 日本代表選手)|publisher=とっておきの練馬|date=2021-01-20|accessdate=2022-11-07}}</ref>。
* [[松谷綺]] - [[キックボクシング|キックボクサー]]
}}
'''その他'''
* [[青山まり]] - ブラジャー研究家
* [[佐竹美帆]] - チアリーダー
===団体===
* [[練馬アニメーション|一般社団法人練馬アニメーション]] - 2022年8月31日解散。
==マスコットキャラクター==
; [[ねり丸]]
: 「アニメのまち 練馬区」を区の内外にPRする練馬区[[公式]][[アニメキャラクター]]。
: 特産品の「[[練馬大根]]」と区名から「馬」のイメージでキャラクターを作成。
: 練馬の「ねり」と、愛らしく丸みのある容姿から『ねり丸』と命名。2011年2月にキャラクター選定と名前の募集を行い、選考結果を同年3月18日に公式発表。
: キャラクターの制作会社は区内にあるアニメ制作会社、[[スタジオコメット]]が担う。
; ゆめーてるちゃん[https://oizumi.gr.jp/blog/2012/08/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%80%8C%E3%82%86%E3%82%81%E3%83%BC%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%80%8D%E7%99%BA/]
:「アニメと映像・銀河鉄道999の街」をキャッチコピーに掲げる大泉学園に誕生したマスコットキャラクター。
: それまでは[[メーテル]]を起用していたが、松本零士自らが新たにキャラクターをデザイン、2012年8月3日に発表された。
: キャラクターに関する版権その他は「地域活性化のためになるなら」と無償提供されている。
; らぽ
: 練馬区の[[生涯学習]]推進マスコット。
: 愛称の「らぽ」は大根を意味する古い中国語。頭は大根の白い根、体は薄緑の葉、ネクタイは新芽。イラストは1993年11月に全国公募で、愛称は1994年11月に区内公募で決定。
; だいくん、ねねちゃん[https://web.archive.org/web/20120518080715/http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/koho/hodo/h17/4th/index.files/20051016.pdf]
: [[練馬まつり]]のイメージキャラクター。
: 大根をイメージした男女ペアのキャラクターで、名前は大根の「大(だい)」と「根(ね)」から。
; ぴいちゃん
: 「練馬みどりの葉っぴい基金(練馬区みどりを育む基金)」のキャラクター。
: 練馬の森の妖精。2005年10月23日に開催された「ねりまグリーンフェスティバル」来場者の投票で愛称決定<ref>{{PDFlink|[http://www.city.nerima.tokyo.jp/kaigi/record/171207.pdf 第107回練馬区緑化委員会 会議の記録]}}</ref>。
; ブルン、ベルン、リルン[https://megalodon.jp/2010-1007-1133-11/www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/nogyo/blueberry/namae.html]
: 練馬区[[ブルーベリー]][[観光農園]]のイメージキャラクター。
: クマの3兄弟。ブルンはおにいさんクマで、陽気で明るいしっかり者。得意なのはジャム作り。ベルンはおとうとクマで、食いしん坊でいたずら好き。得意なのは木登り。リルンはいもうとクマで、優しくてちょっぴり恥ずかしがり屋。大好きなのはお花。2009年7月1日から愛称を募集し、同年8月7日に決定。
==練馬を舞台とした作品==
''[[アニメ_(日本のアニメーション作品)#歴史|アニメ/歴史]]、[[アニメの歴史]]も参照''
=== 実写作品・バラエティなど ===
* [[スーパー戦隊シリーズ]]や[[石ノ森章太郎]]原作作品([[仮面ライダーシリーズ]]、[[東映不思議コメディーシリーズ|不思議コメディーシリーズ]]など)といった、[[東映]]製作のほとんどの特撮作品。
**「[[がんばれ!!ロボコン]]」は練馬区西部及び、[[東映東京撮影所]]の周辺や[[石神井公園]]での撮影が多かった。また、[[由利徹]]演じる町田巡査が勤務する交番には「警視庁石神井警察署・高野台派出所」と記されている。
**「[[仮面ライダー龍騎]]」以降は別のロケ地であるが、「[[秘密戦隊ゴレンジャー]]」から「[[百獣戦隊ガオレンジャー]]」までの約26年間は、[[光が丘公園]]で、屋外シーンの多くを撮影していた<!--大泉学園界隈や石神井公園、東映撮影所なども撮影に多く使われていたので「ロケ地が固定…」は、やや適当ではない。-->。
**「[[有言実行三姉妹シュシュトリアン]]」では自宅宛ての年賀状に「〒178東京都練馬区七面町二-十」と記されている(七面町は存在しない)。
**「[[ペットントン]]」「[[うたう!大龍宮城]]」などでは[[武蔵関駅]]周辺が舞台となっていた。
* [[キッズ・ウォー]] - パート1からパート4までは子供達の通学先として、練馬区立にじが丘中学校・練馬区立東にじが丘小学校が設定されていた<ref>[[TV LIFE|テレビライフ]]編集室・編「今井家周辺マップ」『キッズ・ウォー〜ざけんなよ〜 SPECIAL BOOK』学習研究社、2002年 pp.96-97</ref>。
* [[Shall we ダンス?]] - 主人公の通うダンス教室(外観)が[[西武池袋線]][[江古田駅]]南口にあった(2018年に解体)。
* [[呪怨]] - 怨念の発端となった、佐伯剛雄による妻子惨殺事件に始まる惨劇は、練馬区内にある住宅が舞台となっている。
* [[テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ]] - 近年の同枠ドラマは東映が製作しており、前述のように東映東京撮影所が練馬区に所在している関係上、「[[相棒]]」・「[[臨場 (テレビドラマ)|臨場]]」・「[[警視庁捜査一課9係]]」などにおいて、練馬区の住所が頻繁に登場し、ロケも多く行われている。
* [[リング (鈴木光司の小説)#リング〜最終章〜|リング〜最終章〜]] - 主役の浅川和行の家が練馬区桜台にある。
* [[いぬやしき]] - [[奥浩哉]]の原作漫画による映画。主人公達が住む舞台として石神井公園や大泉学園などが出てくる。
* [[火花 (小説)|火花]] - [[又吉直樹]]による小説を原作とした映画とドラマで、神谷が住む[[吉祥寺]]から近いアパートとして、上石神井が舞台として出てくる。
* [[歌集 滑走路|映画 滑走路]] - 練馬区の名門中高一貫校でいじめを受けながらも短歌に希望を託した[[萩原慎一郎]]をモチーフとした映画。
* [[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]] [[らんまん]] - [[牧野富太郎]]をモチーフとしたドラマで、終盤では主人公・槇野万太郎が晩年居住した[[大泉村 (東京府)|大泉村]](現在の東大泉6丁目に[[牧野記念庭園]]が所在)が舞台となっている。
=== 漫画・アニメ・小説など ===
{{出典の明記|section=1|date = 2014年1月}}
* [[ドラえもん]]([[藤子・F・不二雄]]) - 練馬区が舞台という設定が随所に見られる。[[骨川スネ夫|スネ夫]]の住所は東京都練馬区月見台すすきヶ原3-10-5であることを示す描写も存在する。またテレビ朝日系のドラえもん特番([[筋肉少女帯]]の[[大槻ケンヂ]]がゲスト)では「ドラえもんの家は何処にあるの?」という視聴者質問に、テレ朝アナウンサーが「練馬区です」と答えている。一方で練馬区に程近い[[田無市]]([[西東京市]]の前身)が舞台であることを示す描写もある。{{See|野比のび太#住所}}また、[[1987年]]公開の[[映画]]『[[ドラえもん のび太と竜の騎士]]』では、練馬区には存在しない[[多摩川]]をもじった「多奈川」や[[小田急電鉄|小田急線]]の電車のイラストが登場しているなど、[[神奈川県]][[川崎市]]が舞台となっている描写もある(川崎市には[[藤子・F・不二雄ミュージアム]]があるほか、地元を走る小田急電鉄や[[川崎市交通局]]がドラえもんとの[[タイアップ]]も行っている)。
* [[ど根性ガエル]]([[吉沢やすみ]]) - 練馬区の石神井が舞台。
* [[タッチ (漫画)|タッチ]]([[あだち充]])- 上杉・浅倉の両家の住所は練馬区という設定になっている。また作中にも、練馬駅南口(高架化前)、プラザときわ(当時)、中大グラウンド跡地(現[[練馬総合運動場]])、練馬区役所旧中央館([[目白通り]]沿いにあり、タッチの主人公の弟、和也が交通事故で亡くなった地点)など、練馬区内の光景が多く描かれている。
* [[みゆき (漫画)|みゆき]](あだち充)- 連載当時の練馬駅など、練馬区内の光景が多く出てくる。
* [[H2 (漫画)|H2]](あだち充) - 練馬駅・大泉学園駅など西武池袋線沿線が多数舞台となっている。
* [[クロスゲーム]](あだち充) - 富士見台、練馬駅、石神井公園、練馬区役所前歩道橋、また、隣りの板橋区の[[城北中学校・高等学校|城北高校]]や、その付近[[石神井川]]の風景が登場する。
* [[ナイン (漫画)|ナイン]](あだち充) - ヒロイン・中尾百合が使用していた[[定期乗車券|通学定期券]]の通用区間に、[[練馬駅]] - [[江古田駅]]とある。
* [[MIX (漫画)|MIX]](あだち充) - 上記「タッチ」から約30年後の[[明星学園]]野球部が舞台。作中や扉絵<!--第115話に富士見台通り(貫井3丁目)-->など、練馬区内の光景が多く描かれている。
* [[マコとルミとチイ]]([[手塚治虫]])
* [[石ノ森章太郎]]の諸作品 - 桜台駅近くにあった喫茶店ラタンが「星の伝説アガルタ」や「チャーイ」といった作品に登場する。
* [[涼風 (漫画)|涼風]] - 光が丘・成増などが舞台になっている。
* [[うる星やつら]]([[高橋留美子]]) - 失踪した自衛隊の飛行機のニュースで「練馬区で失踪した自衛隊機」という台詞が出て来る。「練馬区諸星家宛」と書かれた小包が届くシーンもある。
* [[めぞん一刻]](高橋留美子) - 原作では、郵便物などに「練馬区めぞん一刻館」宛と書かれている。
* [[らんま1/2]](高橋留美子)- 連載第1回、主人公の居候先に届いたハガキの宛先に「Tokyo NERIMA」とある。また、[[大泉学園町]]近辺の住宅街が描かれている。
* [[魔女っ子チックル]] - 第21話で小森家に届く郵便物に「東京都練馬区」と書かれている。
* [[がきデカ]]([[山上たつひこ]]) - 大泉が舞台。大泉学園駅や保谷駅が作品内に何度も登場した。こまわり君の通う小学校は大泉第二小学校の校舎が模写されている。
* [[のの美捜査中!]]([[重野なおき]]) - 練馬区の桜台警察署(架空)を舞台とする[[4コマ漫画]]。
* [[究極超人あ〜る]]([[ゆうきまさみ]]) - 主人公たちの通う春風高校の所在地が練馬区諌坂町(架空)。諌坂駅が[[江古田駅]]と[[桜台駅 (東京都)|桜台駅]]の間にある。
* [[鉄腕バーディー]](ゆうきまさみ) - 練馬区が舞台であり練馬北署(架空)などの名称が出てくるほか、主人公ら多くの登場人物の名前が区内の地名からとられている(千川、早宮、氷川(氷川台)、羽沢、正久保など)。
* [[松本零士]]の諸作品 - 「練馬帝国大学時航学研究所」([[漂流幹線000]])や「練馬放送」([[超時空戦艦まほろば]])など、たびたび作中に練馬の名を冠した組織や施設が登場する。
* [[ツヨシしっかりしなさい]]([[永松潔]]) - 大泉が舞台。大泉学園駅がモデルの大泉公園駅がある。
* [[BARレモン・ハート]]([[古谷三敏]]) - 大泉学園が舞台。
* [[練馬大根ブラザーズ]]([[アニプレックス]]・スタジオ雲雀)
* [[のだめカンタービレ]] - 主人公らの通った「桃ヶ丘音楽大学」は練馬区羽沢の[[武蔵野音楽大学]]がモデル。
* [[バンパイヤ]] - 富士見台の「[[虫プロダクション]]」が舞台の一つとなっている。
* [[よつばと!]] - 練馬区石神井公園駅周辺の建物が頻繁に描かれている(ただしあくまで架空の土地という設定で、県立高校や水田地帯など練馬区にはない風景も描かれている)。
* [[万能文化猫娘]] - OVAのみ練馬が舞台、第4・5話では実在のガスタンク・豊島園など本区の風景が使われている。
* [[錬金3級 まじかる?ぽか〜ん]] - 練馬区内の背景が多い。「どこから来たの?」と聞かれ、主人公が「光が丘」と答えるシーンがある。(第10話)
* [[女子高生 (漫画)|女子高生 GIRL'S-HIGH]] - 中村橋駅周辺が舞台となっている。また、作者が[[富士見中学高等学校]]に在学していたことから、高校の制服などが同校のものと酷似している点が見受けられる。
* [[臨死!!江古田ちゃん]] - [[江古田駅|江古田]]が舞台。
* [[デジモンアドベンチャー]] - 主人公・八神太一ら選ばれし子供たちの共通点が光が丘で1995年に起きた爆発テロの目撃者ということ。作品中でもかなり重要な場所である。
* [[機動戦士ガンダムさん]] - 作者の大和田秀樹が区内在住であるため、設定や背景に度々使用されている。
* [[ねりまより愛をこめて]] - [[いがらしゆみこ]]の読みきり作品。[[講談社]][[少年マガジン]][[1982年]]8月号に掲載。
* [[少女ファイト]] - 豊島園駅周辺が舞台となっている。
* [[ハヤテのごとく!]] - [[三千院ナギ]]が住む三千院家の別邸が、光が丘を中心とする東練馬全体となっている。
* [[ギャラクティックマンション]] - 練馬にある架空のアパートが舞台。
* [[ラーゼフォン]] - 劇場版で石神井公園と思われる池や、西武池袋線に乗る主人公、バスで「石神井公園」とアナウンスしている。
* [[ミラクル☆トレイン]] - 鉄道駅を美麗男子に擬人化した漫画・ノベル。その一章に大江戸線をモチーフにした「大江戸線版」があり、『ミラクル☆トレイン〜大江戸線へようこそ〜』のタイトルでアニメ化もされている。練馬区内にある駅を擬人化した『豊島園』『練馬』『練馬春日町』『光が丘』という青年が登場する。
* [[石神井橋]] - 作中に登場する石神井橋は三宝寺池(石神井公園)に架かる橋がモデルである。また主人公は石神井中学校の卒業生ということになっている。
* [[インド人と練馬で子育て。]] - [[流水凛子]]のエッセイ漫画。インド人の夫と区内に在住し、練馬区役所近くで南インド料理店<!--「KERALA BHAVAN(ケララバワン)」-->を経営していることもあり練馬駅界隈の様子が時々描かれている。著者の他のエッセイにも多く練馬が登場する。
* [[東京自転車少女。]] - とある離島から練馬に引っ越してきた女子高生の物語。[[桜台 (練馬区)|桜台]]を拠点に<!--作者は桜台在住-->、練馬に実在する場所を自転車で巡る内容。
* [[東のエデン]] - 東のエデンメンバーの乗っている乗用車のナンバープレートが「大泉学園 お E9-Y68」になっている<ref group="注釈">2012年現在、ご当地ナンバーにも大泉学園の表記はない。</ref>。
* [[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]] - 富士見台・貫井周辺が舞台。主人公の高梨奈緒・修輔の自宅もその界隈にある設定。特にアニメ版第1話、2話では登校シーンに西武池袋線の高架下の背景がほぼトレースされていることが分かる。
* [[ロボットガールズZ]] - 舞台は大泉学園をモデルとした「大泉学園光子力町」。背景は実際の大泉学園をトレースしたものが多い。
* [[ハピネスチャージプリキュア!]] - 物語の主舞台となるぴかりが丘が存在している(16話にて、登場人物が持つ取材許可証に「練馬区」と書かれている)。
* [[東京喰種トーキョーグール]] - 物語の主舞台であり、重要な位置づけにされている。作中では「20区」と[[東京都区部#特別区|市町村コード]]で呼称されている。
* [[四月は君の嘘]] - 物語の主舞台となっており、実在の施設や公園、鉄道([[西武鉄道]])などが描かれている。
* [[オイ!! オバさん]] - 大泉学園が舞台で、実在のお店なども登場している。また、同じく大泉学園在住の松本零士が登場する回がある。
* [[ひねもすのたり日記]] - [[ちばてつや]]のエッセイ漫画。毎回カラー4ページの連載で、たびたび石神井公園や練馬高野台でのエピソードが登場する。
* [[火花 (小説)|火花 ]] - 又吉直樹による小説。神谷が住むアパートとして、上石神井が舞台として出てくる。
* [[チェンソーマン]] - [[藤本タツキ]]による作品。練馬駅前などが出てくる。
===音楽===
* 練馬音頭 - 1967年昭和42年に制定された練馬区の区民歌謡。当時区内に住んでいた[[浪曲師]]、[[演歌歌手]]の[[三波春夫]]に依頼し収録されている([[テイチクレコード]])。
* 米軍キャンプ - 尾崎豊のアルバム『[[壊れた扉から]]』に収録。1980年代初めまで『[[グラントハイツ]]』と呼ばれていた、現在の[[光が丘 (練馬区)|光が丘]]が作品の背景になっている。
* [[みんなでうた|練馬のうた]] - [[テレビ神奈川]]制作の音楽情報番組「[[saku saku]]」のコーナーにおいて作られた曲。第二楽章まである。
* 練馬美人 - [[KAN]]の楽曲。19枚目のシングル『[[東京に来い]]』のカップリング曲(カップリング曲を集めたアルバム『[[Songs Out of Bounds]]』にも収録されている)。NHK総合テレビ『作法の極意』のエンディング曲。練馬に住んでいる愛しの女性への想いを歌った内容。
* 歩き出せ、クローバー - [[スピッツ (バンド)|スピッツ]]のアルバム『[[ハチミツ (アルバム)|ハチミツ]]』に収録。作詞した草野マサムネが阿佐ヶ谷から石神井公園に向かうバスに乗っているときに思い付いた。仮タイトルは『石神井への道』。
* 練馬Calling! - [[真野恵里菜]]のベストアルバム『[[BEST FRIENDS (真野恵里菜のアルバム)|BEST FRIENDS]]』に収録。
※ 練馬区の公式ホームページに「練馬区が登場する小説や漫画」の項目が設けられている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
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== 外部リンク ==
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* {{Official website|name=練馬区公式}}
* [https://www.nerimakanko.jp/ ねりま観光センター]
* {{Twitter|nerimaru_nerima|ねり丸}}
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[[Category:練馬区|*]]
[[Category:東京都の特別区]]
[[Category:板橋区の歴史]]
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板橋区
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板橋区(いたばしく)は、東京都の区部北西部の荒川沿いに位置する特別区。
東京都豊島区・練馬区・北区、埼玉県和光市と隣接しており、荒川を挟んで戸田市と接している。
1932年に東京府東京市板橋区として誕生し、1947年に特別区となった。板橋区は非常に大きな面積を有していたが、同年に西武池袋線を中心とした同区西部の地域が練馬区として分区した。
江戸時代には中山道の宿場町である板橋宿が置かれていた。板橋宿は、内藤新宿や品川宿、千住宿とともに江戸四宿の一つであった。
2005年に夜間人口(居住者)は507,799人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は456,425人で昼は夜の0.899倍の人口になる。通勤者で見ると区内から区外への通勤者は141,961人、区外から区内への通勤者は94,337人と労働人口の通勤では区内から区外へ出る通勤者のほうが多い。東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行138 - 139ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)
基本的には東京都心と同じ、温暖湿潤気候に該当し、日本国内における気候区分は太平洋側気候に属する(詳細は東京都の気候を参照)。 ただ都心より郊外に位置するため最低気温は、ヒートアイランド現象の影響が小さく、都心より2°Cから4°C低い。 夏は都心のヒートアイランド現象の熱が東京湾の海風に運ばれ、最高気温が2°Cから4°Cほど高い。 また、板橋区内でも最低気温が板橋地域より赤塚地域では1°Cほど低い。 因みに最低気温は、東京都心とさいたま市の中間の場合が多い。
板橋区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。 旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
五穀豊穣と子孫繁栄を願って、板橋区内の二つの神社で年の初めに行われる伝統芸能。「板橋の田遊び」参照のこと。
1951年(昭和26年)に、埼玉県戸田市との間の境界線が確定したことを記念して開催。毎年8月第1土曜日に開催されている。
上記の通り、おおむね旧板橋町、旧上板橋村、旧志村、旧赤塚村の4地域に分かれるが、他に南部(板橋)と北部(志村)の2地域分類、板橋・志村・赤塚の3地域分類、板橋・上板橋(常盤台)・志村・赤塚・高島平の5地域分類もよく使われる。板橋区において地域の分類は便宜的なものでしかなく、受け持つ行政機関によって異なるのが現状である。
例えば、通常の板橋地域(旧板橋町地域)と上板橋地域(旧上板橋村地域)とあわせて広義の板橋地域(板橋区南部地域)とすることも多い(警察、郵便、消防、土木、公園、水道、福祉など)。また、上板橋地域を常盤台地域と呼ぶ場合もある(都市計画など)。
また、通常の志村地域(旧志村地域)と赤塚地域(旧赤塚村地域)とあわせて広義の志村地域(板橋区北部地域)とすることもある(消防、土木、公園、水道など)。これは歴史的に、志村地域に設置された行政機関が赤塚地域も含めて担当することが多かったためである。
かつての徳丸ヶ原に相当する高島平、新河岸、三園を高島平地域として独立させる場合もある(都市計画など)。これらの地域の大半は旧赤塚村のため、通常は赤塚地域に含むが、志村地域に含む場合もある(福祉など)。逆に西台、中台、若木などの西台地域を赤塚地域に含むこともしばしばある(福祉など)。
さらに、志村地域の内、坂下、蓮根、東坂下、舟渡などの地域を蓮根地域あるいは坂下地域と呼ぶこともあり、西台地域を除く志村地域と合わせたり(福祉など)、高島平地域に含める場合もある。
赤塚地域は埼玉県南部とともに近郊の風景を残している。区では赤塚に支所を設け利便を図っている。しかし区が南北に分かれてしまい、行事も板橋区民祭り・板橋農業祭りと二本立てになっている。
これ以外にも区民事務所や地域センターによる分類、また大山地域や大谷口地域、徳丸地域などといった細かい分類方法もある。
板橋区は、2020年(令和2年)5月11日から板橋ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。
「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」的な機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。
地域活動にかかわる幅広い業務を行う。 板橋・熊野・仲宿・仲町・富士見・大谷口・常盤台・清水・志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野・桜川・下赤塚・成増・徳丸・高島平の18箇所に設置。
※出典
集配郵便局
無集配郵便局
市外局番は03。 市内局番は大半が39XX、59XX、69XX。枯渇対策で35XX、53XXも割り当て。
板橋区教育委員会が担っている。
都立
私立
都立
私立(中高一貫校を含む)
区立
区立
私立
区立
私立
国立
都立
区立
区制施行70周年を記念して、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを板橋十景候補として募集し、2003年2月に識者などで構成した「板橋十景選定委員会」で、以下の10件が「板橋十景」として選定された。
都内有数の住宅団地、高島平団地があることで有名。また、板橋区内には都営住宅や集合住宅が多く点在している。
製造業が多く町工場が多い。販売小売業も日用雑貨品を扱う事業が多くものづくりの街である。
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"text": "2005年に夜間人口(居住者)は507,799人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は456,425人で昼は夜の0.899倍の人口になる。通勤者で見ると区内から区外への通勤者は141,961人、区外から区内への通勤者は94,337人と労働人口の通勤では区内から区外へ出る通勤者のほうが多い。東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行138 - 139ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)",
"title": "人口"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "基本的には東京都心と同じ、温暖湿潤気候に該当し、日本国内における気候区分は太平洋側気候に属する(詳細は東京都の気候を参照)。 ただ都心より郊外に位置するため最低気温は、ヒートアイランド現象の影響が小さく、都心より2°Cから4°C低い。 夏は都心のヒートアイランド現象の熱が東京湾の海風に運ばれ、最高気温が2°Cから4°Cほど高い。 また、板橋区内でも最低気温が板橋地域より赤塚地域では1°Cほど低い。 因みに最低気温は、東京都心とさいたま市の中間の場合が多い。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "板橋区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。 旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。",
"title": "町名"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "五穀豊穣と子孫繁栄を願って、板橋区内の二つの神社で年の初めに行われる伝統芸能。「板橋の田遊び」参照のこと。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)に、埼玉県戸田市との間の境界線が確定したことを記念して開催。毎年8月第1土曜日に開催されている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "上記の通り、おおむね旧板橋町、旧上板橋村、旧志村、旧赤塚村の4地域に分かれるが、他に南部(板橋)と北部(志村)の2地域分類、板橋・志村・赤塚の3地域分類、板橋・上板橋(常盤台)・志村・赤塚・高島平の5地域分類もよく使われる。板橋区において地域の分類は便宜的なものでしかなく、受け持つ行政機関によって異なるのが現状である。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "例えば、通常の板橋地域(旧板橋町地域)と上板橋地域(旧上板橋村地域)とあわせて広義の板橋地域(板橋区南部地域)とすることも多い(警察、郵便、消防、土木、公園、水道、福祉など)。また、上板橋地域を常盤台地域と呼ぶ場合もある(都市計画など)。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、通常の志村地域(旧志村地域)と赤塚地域(旧赤塚村地域)とあわせて広義の志村地域(板橋区北部地域)とすることもある(消防、土木、公園、水道など)。これは歴史的に、志村地域に設置された行政機関が赤塚地域も含めて担当することが多かったためである。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "かつての徳丸ヶ原に相当する高島平、新河岸、三園を高島平地域として独立させる場合もある(都市計画など)。これらの地域の大半は旧赤塚村のため、通常は赤塚地域に含むが、志村地域に含む場合もある(福祉など)。逆に西台、中台、若木などの西台地域を赤塚地域に含むこともしばしばある(福祉など)。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "さらに、志村地域の内、坂下、蓮根、東坂下、舟渡などの地域を蓮根地域あるいは坂下地域と呼ぶこともあり、西台地域を除く志村地域と合わせたり(福祉など)、高島平地域に含める場合もある。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "赤塚地域は埼玉県南部とともに近郊の風景を残している。区では赤塚に支所を設け利便を図っている。しかし区が南北に分かれてしまい、行事も板橋区民祭り・板橋農業祭りと二本立てになっている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "これ以外にも区民事務所や地域センターによる分類、また大山地域や大谷口地域、徳丸地域などといった細かい分類方法もある。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "板橋区は、2020年(令和2年)5月11日から板橋ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」的な機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。",
"title": "区政"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "地域活動にかかわる幅広い業務を行う。 板橋・熊野・仲宿・仲町・富士見・大谷口・常盤台・清水・志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野・桜川・下赤塚・成増・徳丸・高島平の18箇所に設置。",
"title": "区政"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "※出典",
"title": "区政"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "集配郵便局",
"title": "郵便"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "無集配郵便局",
"title": "郵便"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "市外局番は03。 市内局番は大半が39XX、59XX、69XX。枯渇対策で35XX、53XXも割り当て。",
"title": "電話番号"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "板橋区教育委員会が担っている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "都立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "私立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "都立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "私立(中高一貫校を含む)",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "区立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "区立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "私立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "区立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "私立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "国立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "都立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "区立",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "区制施行70周年を記念して、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを板橋十景候補として募集し、2003年2月に識者などで構成した「板橋十景選定委員会」で、以下の10件が「板橋十景」として選定された。",
"title": "名所・旧跡"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "都内有数の住宅団地、高島平団地があることで有名。また、板橋区内には都営住宅や集合住宅が多く点在している。",
"title": "住宅団地"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "製造業が多く町工場が多い。販売小売業も日用雑貨品を扱う事業が多くものづくりの街である。",
"title": "企業"
}
] |
板橋区(いたばしく)は、東京都の区部北西部の荒川沿いに位置する特別区。
|
{{Otheruses||台湾の行政区分|板橋区 (新北市)}}
{{東京都の特別区
|画像 = Itabashi2.jpg
|画像の説明 = 区名の由来とされる[[板橋 (石神井川)|板橋]]
|区旗 = [[File:Flag of Itabashi, Tokyo.svg|border|100px]]
|区旗の説明 = 板橋[[市町村旗|区旗]]
|区章 = [[File:Emblem of Itabashi, Tokyo.svg|75px]]
|区章の説明 = 板橋[[市町村章|区章]]<div style="font-size:smaller">[[1952年]][[4月1日]]制定
|自治体名 = 板橋区
|コード = 13119-9
|隣接自治体 = [[豊島区]]、[[北区 (東京都)|北区]]、[[練馬区]]<br />[[埼玉県]]:[[戸田市]]、[[和光市]]
|木 = [[ケヤキ]]
|花 = [[ニリンソウ]]
|シンボル名 = 区の鳥
|鳥など = [[ハクセキレイ]]
|郵便番号 = 173-8501
|所在地 = 板橋区[[板橋 (板橋区)|板橋]]2丁目66番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Itabashikuyakushoseimon.jpg|250px|center]]
|電話番号 =
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|119|image=Itabashi-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br/>{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
|特記事項 =
}}
'''板橋区'''(いたばしく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]北西部の[[荒川 (関東)|荒川]]沿いに位置する[[特別区]]<ref>大辞林 第三版</ref>。
== 概要 ==
東京都[[豊島区]]・[[練馬区]]・[[北区 (東京都)|北区]]、[[埼玉県]][[和光市]]と隣接しており、[[荒川 (関東)|荒川]]を挟んで[[戸田市]]と接している。
[[1932年]]に[[東京府]][[東京市]]板橋区として誕生し、[[1947年]]に特別区となった。板橋区は非常に大きな面積を有していたが、同年に[[西武池袋線]]を中心とした同区西部の地域が[[練馬区]]として分区した。
[[江戸時代]]には[[中山道]]の[[宿場]]町である[[板橋宿]]が置かれていた。板橋宿は、[[内藤新宿]]や[[品川宿]]、[[千住宿]]とともに[[江戸四宿]]の一つであった。
== 人口 ==
{{人口統計|code=13119|name=板橋区|image=Population distribution of Itabashi, Tokyo, Japan.svg}}
2005年に夜間人口(居住者)は507,799人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する[[人口]]の合計である[[昼間人口]]は456,425人で[[昼]]は[[夜]]の0.899倍の人口になる。通勤者で見ると区内から区外への通勤者は141,961人、区外から区内への通勤者は94,337人と労働人口の通勤では区内から区外へ出る通勤者のほうが多い。東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行138 - 139ページ 国勢調査では[[年齢]]不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)
== 地理 ==
* [[武蔵野台地]]の北端と東京低地の境目にあたり、概ね北部は低地、南部は台地となっている。北で[[荒川 (関東)|荒川]]、北西で[[白子川]]によって[[埼玉県]]と接する。荒川に近い北部では、[[新河岸川]]が西から東に流れる。南部では[[石神井川]]が西から東に横切る。区内は[[東京]]の市街地で、[[住宅地]]・[[商業地]]のほか、北部には工場が多い。
=== 位置・面積 ===
* 板橋区は、東京23区のうち北西部に位置し、東経139度37分から同44分、北緯35度43分から同48分の間にあり、面積は32.22[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、23区中9番目である。
=== 地形・地質 ===
==== 地形 ====
* 東西は北部で約7.1km、南部で約4.5km、南北は東部で約6.7km、西部で約3.4kmあり、南東から北西に長い地形。北は埼玉県に接しており、[[関東ローム層]]が隔絶に厚くなっている。{{要出典|date=2018年1月}}
* 武蔵野台地と荒川低地の境をなす崖線が、小豆沢 - 志村 - 中台 - 西台 - 赤塚にかけて区の中央部をほぼ東西に貫き、付近は高低差に富み、坂道が多く作られている。前野町・中台・西台地区では、若木通りを尾根筋とする形で、すりばち状の谷戸(やと)地形が見られ、かつては、各所で[[地下水]]が湧き出ており、薬師の泉(小豆沢3丁目)、出井の泉跡(泉町)などにその名残が見られる。また、見次公園(前野町4丁目)の池は、自然の湧水によって形成されたものである。
==== 地質 ====
* 現在の板橋区に相当する地域は、およそ12万年前の[[間氷期]]には海面上昇により、海の底にあったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の下の、東京層と言われる地層から貝化石が発掘されているが、これはおよそ15万年前のもので、この地域が当時海底であったことを物語っている。およそ10万年前から気候の寒冷化により海面が後退、陸地化が起こり、武蔵野台地(成増台)の原型が形成された。その当時の武蔵野台地は、古[[荒川 (関東)|荒川]]や古[[多摩川]]、後に古[[利根川]]などが流れる{{読み仮名|氾濫原|はんらんげん}}であったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の砂利は、当時の川が積み残した川砂利である。その後さらに寒冷化・海面後退が進行したことにより、川の流れが氾濫原を掘り下げ、およそ10万年前から[[氷期]]最盛のおよそ2万年前までの間に、連続した崖地が形成された。およそ1万年前に氷期が終わると海面がやや上昇し、崖地の下部では川から運ばれてきた堆積物が今日の荒川・新河岸川沿いの低地を形成。一方、崖地の上部には[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]などから飛来した[[火山]]灰([[関東ローム層]])が堆積し、今日の武蔵野台地辺縁の高台地域を形成するに至ったと考えられている。
* 主な河川:[[荒川 (関東)|荒川]]、[[新河岸川]]、[[白子川]]、[[石神井川]]、[[出井川]](暗渠化)、[[前谷津川]](暗渠化)、[[蓮根川]](暗渠化)、[[千川上水]](暗渠化)
* 主な湖沼:[[浮間公園|浮間ヶ池]]
* [[地盤]]は強固で、[[南関東直下地震|首都直下地震]]が起きた場合[[東京都区部|23区]]で最も安全と言われている<ref>[[ダウンタウンなう]]2015年6月19日放送</ref>。
=== 気候 ===
基本的には東京都心と同じ、温暖湿潤気候に該当し、[[日本]]国内における気候区分は太平洋側気候に属する(詳細は[[東京都#気候|東京都の気候]]を参照)。
ただ都心より郊外に位置するため最低気温は、[[ヒートアイランド現象]]の影響が小さく、都心より2℃から4℃低い。
夏は都心のヒートアイランド現象の熱が[[東京湾]]の海風に運ばれ、最高気温が2℃から4℃ほど高い。
また、板橋区内でも最低気温が板橋地域より赤塚地域では1℃ほど低い。
因みに最低気温は、東京[[都心]]と[[さいたま市]]の中間の場合が多い。
== 歴史 ==
* 地名の由来や[[安土桃山時代]]以前については[[板橋郷]]を参照。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)以前については[[板橋町]]、[[上板橋村]]、[[志村 (東京府)|志村]]、[[赤塚村 (東京府)|赤塚村]]を参照。
* 板橋区設立当時は、現在の練馬区も含む広大な地域であり、田畑地が多く、「東京の満州」とも呼ばれていた。
* [[平安時代]]、[[石神井川]]にかけられていた[[板橋 (石神井川)|板橋]]が当時としては珍しかったため、そのまま地名になったという説が有力である。<!--当時は板橋といえば上板橋の事を指したらしい。-->[[江戸時代]]以降は[[中山道]]が下板橋を通るようになったためにそちらを指すようになった。[[板橋宿]]は[[江戸四宿]]のうちのひとつであり、中山道の[[江戸]]を発ってから最初の[[宿場|宿場町]]。[[加賀藩]]下屋敷があった。
=== 年表 ===
* 1932年(昭和7年)[[10月1日]]:[[東京府]][[北豊島郡]]板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、[[練馬町]]、[[上練馬村]]、[[中新井村]]、[[石神井村]]、[[大泉村 (東京府)|大泉村]]の9町村が[[東京市]]に編入、左記9町村の区域をもって'''板橋区'''となる。
* [[1935年]](昭和10年):田園区画の整理に伴い、板橋三丁目(旧・板橋町大字中丸字中原、現・南町)と[[豊島区]]長崎東町三丁目(旧・[[長崎町 (東京府)|長崎町]]大字長崎字高松、現・[[高松 (豊島区)|高松]]二・三丁目)の間で境界変更。
* [[1939年]](昭和14年):田園区画の整理が完了し、板橋三丁目(旧・板橋町大字中丸字中原、現・南町)と豊島区高松町二丁目(旧・長崎町大字長崎字前高松、現・高松二丁目)の間で境界変更。
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]:[[東京都制]]施行により東京府と東京市が合併し[[東京都]]が誕生、東京都板橋区となる。
* [[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]:[[地方自治法]]施行、板橋区は22[[特別区]]のひとつとなる。
{{Wikisource|東京都板橋区の中練馬及石神井両支所の所管区域を分け練馬区設置|東京都板橋区の中練馬及石神井両支所の所管区域を分け練馬区設置|内務省告示文}}
* 1947年(昭和22年)[[8月1日]]:旧・練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村のほぼ全域及び[[小竹町 (練馬区)|小竹町]](旧・上板橋村大字上板橋字小竹)、[[旭丘 (練馬区)|江古田町]](旧・上板橋村大字上板橋字江古田、現・[[旭丘 (練馬区)|旭丘]])を[[練馬区]]として分区。
* [[1948年]](昭和23年)[[2月10日]]:区内の[[営団住宅]]の住民など800人が[[食中毒]]を発症。原因は[[配給 (物資)|配給]]された[[ダイズ|大豆粉]]。4人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=69 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)[[4月1日]]:[[埼玉県]][[北足立郡]]戸田町(現・[[戸田市]])大字上戸田の一部約0.2平方キロメートルが移譲され、舟渡三丁目(現・四丁目の一部)となる。
* [[1951年]](昭和26年)8月:第一回[[いたばし花火大会]]が開催される。
* [[2008年]]([[平成]]20年)10月30日:観光キャラクター(ゆるキャラ)として、区花の二輪草をモチーフにした「[[りんりんちゃん]]」を採用。
* [[2012年]](平成24年)7月26日:「板橋区オフィシャルロゴ」および「区制施行80周年ロゴマーク」を制定。デザインしたのは区内に事務所「ドーンデザイン研究所」を置く、工業デザイナー・[[水戸岡鋭治]]([[九州旅客鉄道]]の各車両のデザインなどで知られる)<ref>[https://www.city.itabashi.tokyo.jp/kusei/profile/about/1006705.html 板橋区オフィシャルロゴ等を制定しました。](板橋区 2012年7月26日)</ref>。
==町名==
板橋区では、全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。
旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
{{See also|板橋区の町名}}
===板橋区役所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+板橋区役所管内(9町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[板橋 (板橋区)|板橋]]'''|いたばし}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町1(全)、板橋町2・5・6・8
|
|-
|'''板橋二丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町1(全)、板橋町2・5・6・8
|
|-
|'''板橋三丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町1(全)、板橋町2・5・6・8
|
|-
|'''板橋四丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町1(全)、板橋町2・5・6・8
|
|-
|{{ruby|'''[[稲荷台]]'''|いなりだい}}
|1970年10月1日
|
|稲荷台(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町7・10、志村清水町
|-
|{{ruby|'''[[加賀 (板橋区)|加賀]]'''|かが}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町6〜8
|
|-
|'''加賀二丁目'''
|1965年1月1日
|
|板橋町6〜8
|
|-
|{{ruby|'''[[本町 (板橋区)|本町]]'''|ほんちょう}}
|1970年10月1日
|
|本町(全)
|町名成立は1956年、直前は板橋町10、志村清水町
|-
|{{ruby|'''[[仲宿]]'''|なかじゅく}}
|1970年10月1日
|
|仲宿(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町5・6・8・10
|-
|}
{{Reflist|group="d"}}
===仲町区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+仲町区民事務所管内(25町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[仲町 (板橋区)|仲町]]'''|なかちょう}}
|1971年1月1日
|
|仲町(全)
|町名成立は1959年、直前は板橋町9、上板橋町1
|-
|{{ruby|'''[[大谷口 (板橋区)|大谷口]]'''|おおやぐち}}'''一丁目'''
|1971年10月1日
|
|大谷口1・2(全)
|町名成立は1959年、直前は大谷口町、向原町
|-
|'''大谷口二丁目'''
|1971年10月1日
|
|大谷口1・2(全)
|町名成立は1959年、直前は大谷口町、向原町
|-
|{{ruby|'''[[大谷口上町]]'''|おおやぐちかみちょう}}
|1971年10月1日
|
|大谷口上町(全)
|町名成立は1959年、直前は上板橋町1、板橋町4、大谷口町
|-
|{{ruby|'''[[大谷口北町]]'''|おおやぐちきたちょう}}
|1971年10月1日
|
|大谷口北町(全)
|町名成立は1959年、直前は大谷口町、上板橋町1
|-
|{{ruby|'''[[大山金井町]]'''|おおやまかないちょう}}
|1971年1月1日
|
|板橋町4・9
|町名成立は1958年、直前は板橋町4・9
|-
|{{ruby|'''[[大山町 (板橋区)|大山町]]'''|おおやまちょう}}
|1971年1月1日
|
|大山町(全)
|町名成立は1958年、直前は板橋町4・9
|-
|{{ruby|'''[[大山西町]]'''|おおやまにしちょう}}
|1971年1月1日
|
|大山西町(全)
|町名成立は1958年、直前は板橋町4、大谷口町
|-
|{{ruby|'''[[大山東町]]'''|おおやまひがしちょう}}
|1971年1月1日
|
|大山東町(全)
|町名成立は1960年、直前は板橋町2・4・5
|-
|{{ruby|'''[[熊野町 (板橋区)|熊野町]]'''|くまのちょう}}
|1971年1月1日
|
|熊野町(全)
|町名成立は1958年、直前は板橋町2〜4
|-
|{{ruby|'''[[小茂根]]'''|こもね}}'''一丁目'''
|1965年5月1日
|
|小山町(全)、茂呂町(全)、根ノ上町、向原町
|
|-
|'''小茂根二丁目'''
|1965年5月1日
|
|小山町(全)、茂呂町(全)、根ノ上町、向原町
|
|-
|'''小茂根三丁目'''
|1965年5月1日
|
|小山町(全)、茂呂町(全)、根ノ上町、向原町
|
|-
|'''小茂根四丁目'''
|1965年5月1日
|
|小山町(全)、茂呂町(全)、根ノ上町、向原町
|
|-
|'''小茂根五丁目'''
|1965年5月1日
|
|小山町(全)、茂呂町(全)、根ノ上町、向原町
|
|-
|{{ruby|'''[[幸町 (板橋区)|幸町]]'''|さいわいちょう}}
|1971年10月1日
|
|幸町(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町2・4、大谷口町
|-
|{{ruby|'''[[栄町 (板橋区)|栄町]]'''|さかえちょう}}
|1970年10月1日
|
|栄町(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町8・9
|-
|{{ruby|'''[[中板橋]]'''|なかいたばし}}
|1970年10月1日
|
|中板橋(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町9、上板橋町1
|-
|{{ruby|'''[[中丸町 (板橋区)|中丸町]]'''|なかまるちょう}}
|1971年1月1日
|
|中丸町(全)
|町名成立は1958年、直前は板橋町2・3
|-
|{{ruby|'''[[南町 (板橋区)|南町]]'''|みなみちょう}}
|1971年1月1日
|
|南町(全)
|町名成立は1957年、直前は板橋町2〜4
|-
|{{ruby|'''[[向原 (板橋区)|向原]]'''|むかいはら}}'''一丁目'''
|1965年5月1日
|
|向原町、根ノ上町
|
|-
|'''向原二丁目'''
|1965年5月1日
|
|向原町、根ノ上町
|
|-
|'''向原三丁目'''
|1965年5月1日
|
|向原町、根ノ上町
|
|-
|{{ruby|'''[[弥生町 (板橋区)|弥生町]]'''|やよいちょう}}
|1971年10月1日
|
|弥生町(全)
|町名成立は1959年、直前は板橋町10、上板橋町1、大谷口町
|-
|{{ruby|'''[[氷川町 (板橋区)|氷川町]]'''|ひかわちょう}}
|1970年10月1日
|
|氷川町(全)
|町名成立は1956年、直前は板橋町8
|-
|}
{{Reflist|group="d"}}
===常盤台区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+常盤台区民事務所管内(18町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|{{ruby|'''[[常盤台 (板橋区)|常盤台]]'''|ときわだい}}'''一丁目'''
|1970年3月1日
|
|常盤台1・2、板橋町10、上板橋町2
|
|-
|'''常盤台二丁目'''
|1970年3月1日
|
|常盤台1・2、板橋町10、上板橋町2
|
|-
|'''常盤台三丁目'''
|1970年3月1日
|
|常盤台1・2、板橋町10、上板橋町2
|
|-
|'''常盤台四丁目'''
|1970年3月1日
|
|常盤台1・2、板橋町10、上板橋町2
|
|-
|{{ruby|'''[[南常盤台]]'''|みなみときわだい}}'''一丁目'''
|1971年10月1日
|
|南常盤台1・2(全)
|町名成立は1960年、直前は上板橋町2〜4
|-
|'''南常盤台二丁目'''
|1971年10月1日
|
|南常盤台1・2(全)
|町名成立は1960年、直前は上板橋町2〜4
|-
|{{ruby|'''[[桜川 (板橋区)|桜川]]'''|さくらがわ}}'''一丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|'''桜川二丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|'''桜川三丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|{{ruby|'''[[東山町 (板橋区)|東山町]]'''|ひがしやまちょう}}
|1971年10月1日
|
|東山町(全)
|町名成立は1960年、直前は上板橋町3・5
|-
|{{ruby|'''[[上板橋]]'''|かみいたばし}}'''一丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|'''上板橋二丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|'''上板橋三丁目'''
|1965年5月1日
|
|上板橋町6・7
|
|-
|{{ruby|'''[[東新町 (板橋区)|東新町]]'''|とうしんちょう}}'''一丁目'''
|1971年10月1日
|
|東新町1・2(全)
|町名は1960年成立、直前は上板橋町5・6
|-
|'''東新町二丁目'''
|1971年10月1日
|
|東新町1・2(全)
|町名は1960年成立、直前は上板橋町5・6
|-
|{{ruby|'''[[富士見町 (板橋区)|富士見町]]'''|ふじみちょう}}
|1970年10月1日
|
|富士見町、双葉町
|町名成立は1956年、直前は板橋町10、志村清水町、常盤台1
|-
|{{ruby|'''[[双葉町 (板橋区)|双葉町]]'''|ふたばちょう}}
|1970年10月1日
|
|双葉町、富士見町
|町名成立は1956年、直前は板橋町10、上板橋町2
|-
|{{ruby|'''[[大和町 (板橋区)|大和町]]'''|やまとちょう}}
|1970年10月1日
|
|大和町(全)
|町名成立は1956年、直前は板橋町8・10、志村清水町
|-
|}
{{Reflist|group="a"}}
===志村坂上区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+志村坂上区民事務所管内(28町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[志村 (板橋区)|志村]]'''|しむら}}'''一丁目'''
|1966年1月1日
|
|志村1〜4、小豆沢1
|
|-
|'''志村二丁目'''
|1966年1月1日
|
|志村1〜4、小豆沢1
|
|-
|'''志村三丁目'''
|1966年1月1日
|
|志村1〜4、小豆沢1
|
|-
|{{ruby|'''[[小豆沢]]'''|あずさわ}}'''一丁目'''
|1966年1月1日
|
|小豆沢1〜4、志村町1〜3
|
|-
|'''小豆沢二丁目'''
|1966年1月1日
|
|小豆沢1〜4、志村町1〜3
|
|-
|'''小豆沢三丁目'''
|1966年1月1日
|
|小豆沢1〜4、志村町1〜3
|
|-
|'''小豆沢四丁目'''
|1966年1月1日
|
|小豆沢1〜4、志村町1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[前野町]]'''|まえのちょう}}'''一丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|'''前野町二丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|'''前野町三丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|'''前野町四丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|'''前野町五丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|'''前野町六丁目'''
|1972年1月1日
|
|前野町1〜6(全)
|町名成立は1962年、直前は志村前野町1〜6、志村清水町、志村中台町、小豆沢1
|-
|{{ruby|'''[[泉町 (板橋区)|泉町]]'''|いずみちょう}}
|1972年1月1日
|
|泉町(全)
|町名成立は1961年、直前は志村清水町、志村小豆沢町
|-
|{{ruby|'''[[大原町 (板橋区)|大原町]]'''|おおはらちょう}}
|1972年1月1日
|
|大原町(全)
|町名成立は1961年、直前は志村清水町、志村本蓮沼町、志村小豆沢町、志村前野町
|-
|{{ruby|'''[[宮本町 (板橋区)|宮本町]]'''|みやもとちょう}}
|1972年1月1日
|
|宮本町(全)
|町名成立は1961年、直前は志村清水町
|-
|{{ruby|'''[[清水町 (板橋区)|清水町]]'''|しみずちょう}}
|1972年1月1日
|
|清水町(全)
|町名成立は1961年、直前は志村清水町、志村本蓮沼町
|-
|{{ruby|'''[[中台 (板橋区)|中台]]'''|なかだい}}'''一丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町
|
|-
|'''中台二丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町
|
|-
|'''中台三丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町
|
|-
|{{ruby|'''[[若木 (板橋区)|若木]]'''|わかぎ}}'''一丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町、志村西台町、上板橋町7
|
|-
|'''若木二丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町、志村西台町、上板橋町7
|
|-
|'''若木三丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村中台町、志村西台町、上板橋町7
|
|-
|{{ruby|'''[[蓮沼町]]'''|はすぬまちょう}}
|1972年1月1日
|
|蓮沼町(全)
|町名成立は1961年、直前は志村清水町、志村本蓮沼町、志村小豆沢町、小豆沢1
|-
|{{ruby|'''[[西台 (板橋区)|西台]]'''|にしだい}}'''一丁目'''
|1963年11月1日
|
|志村西台町、志村中台町、徳丸町、徳丸本町
|
|-
|'''西台二丁目'''
|1968年3月1日
|
|志村西台町、志村中台町、徳丸町、徳丸本町
|
|-
|'''西台三丁目'''
|1968年3月1日
|
|志村西台町、志村中台町、徳丸町、徳丸本町
|
|-
|'''西台四丁目'''
|1968年3月1日
|
|志村西台町、志村中台町、徳丸町、徳丸本町
|
|-
|}
===蓮根区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+蓮根区民事務所管内(11町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[蓮根 (板橋区)|蓮根]]'''|はすね}}'''一丁目'''
|1966年5月1日
|
|蓮根1〜3、志村西台町、志村蓮根町
|三丁目28番は1969年3月1日住居表示実施
|-
|'''蓮根二丁目'''
|1966年5月1日
|
|蓮根1〜3、志村西台町、志村蓮根町
|三丁目28番は1969年3月1日住居表示実施
|-
|'''蓮根三丁目'''
|1966年5月1日
|
|蓮根1〜3、志村西台町、志村蓮根町
|三丁目28番は1969年3月1日住居表示実施
|-
|{{ruby|'''[[坂下 (板橋区)|坂下]]'''|さかした}}'''一丁目'''
|1966年5月1日
|
|長後1・2、志村町3・4、蓮根1〜3
|
|-
|'''坂下二丁目'''
|1966年5月1日
|
|長後1・2、志村町3・4、蓮根1〜3
|
|-
|'''坂下三丁目'''
|1966年5月1日
|
|長後1・2、志村町3・4、蓮根1〜3
|
|-
|{{ruby|'''[[相生町 (板橋区)|相生町]]'''|あいおいちょう}}
|1963年11月1日
|
|志村中台町
|
|-
|{{ruby|'''[[舟渡 (板橋区)|舟渡]]'''|ふなど}}'''一丁目'''
|1966年10月1日
|
|舟渡1〜3、志村西台町
|
|-
|'''舟渡二丁目'''
|1966年10月1日
|
|舟渡1〜3、志村西台町
|
|-
|{{ruby|'''[[東坂下]]'''|ひがしさかした}}'''一丁目'''
|1966年5月1日
|
|長後1・2、志村町3、小豆沢4
|
|-
|'''東坂下二丁目'''
|1966年5月1日
|
|長後1・2、志村町3、小豆沢4
|
|-
|}
{{Reflist|group="b"}}
===下赤塚区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+下赤塚区民事務所管内(27町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:14%"|町区域新設年月日
!style="width:14%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[赤塚 (板橋区)|赤塚]]'''|あかつか}}'''一丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚二丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚三丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚四丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚五丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚六丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚七丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|'''赤塚八丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町、徳丸本町、成増町
|
|-
|{{ruby|'''[[赤塚新町]]'''|あかつかしんまち}}'''一丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町
|
|-
|'''赤塚新町二丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町
|
|-
|'''赤塚新町三丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、四葉町、徳丸町
|
|-
|{{ruby|'''[[成増]]'''|なります}}'''一丁目'''
|1969年10月1日
|
|成増町、上赤塚町、下赤塚町
|
|-
|'''成増二丁目'''
|1969年10月1日
|
|成増町、上赤塚町、下赤塚町
|
|-
|'''成増三丁目'''
|1969年10月1日
|
|成増町、上赤塚町、下赤塚町
|
|-
|'''成増四丁目'''
|1969年10月1日
|
|成増町、上赤塚町、下赤塚町
|
|-
|'''成増五丁目'''
|1969年10月1日
|
|成増町、上赤塚町、下赤塚町
|
|-
|{{ruby|'''[[大門 (板橋区)|大門]]'''|だいもん}}
|1972年12月1日
|
|下赤塚町
|
|-
|{{ruby|'''[[四葉 (板橋区)|四葉]]'''|よつば}}'''一丁目'''
|1972年12月1日
|
|四葉町、徳丸町、徳丸本町、下赤塚町
|
|-
|'''四葉二丁目'''
|1972年12月1日
|
|四葉町、徳丸町、徳丸本町、下赤塚町
|
|-
|{{ruby|'''[[徳丸]]'''|とくまる}}'''一丁目'''
|1968年3月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸二丁目'''
|1968年3月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸三丁目'''
|1968年3月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸四丁目'''
|1968年3月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸五丁目'''
|1972年12月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸六丁目'''
|1972年12月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸七丁目'''
|1972年12月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|'''徳丸八丁目'''
|1972年12月1日
|
|徳丸町、徳丸本町、志村西台町、四葉町、下赤塚町
|
|-
|}
===高島平区民事務所管内===
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
|+高島平区民事務所管内(16町丁)
!style="width:14%"|町名
!style="width:12%"|町区域新設年月日
!style="width:12%"|住居表示実施年月日
!style="width:32%"|住居表示実施前の町名など
!style="width:18%"|備考
|-
|{{ruby|'''[[高島平]]'''|たかしまだいら}}'''一丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平二丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平三丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平四丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平五丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平六丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平七丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平八丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|'''高島平九丁目'''
|1969年3月1日
|
|下赤塚町、上赤塚町、三園町2・3、四葉町、徳丸町、徳丸本町、志村西台町
|
|-
|{{ruby|'''[[新河岸 (板橋区)|新河岸]]'''|しんがし}}'''一丁目'''
|1966年10月1日
|
|新河岸町、志村西台町、徳丸町、上赤塚町、下赤塚町、四葉町、成増町
|
|-
|'''新河岸二丁目'''
|1966年10月1日
|
|新河岸町、志村西台町、徳丸町、上赤塚町、下赤塚町、四葉町、成増町
|
|-
|'''新河岸三丁目'''
|1966年10月1日
|
|新河岸町、志村西台町、徳丸町、上赤塚町、下赤塚町、四葉町、成増町
|
|-
|{{ruby|'''[[三園 (板橋区)|三園]]'''|みその}}'''一丁目'''
|1969年3月1日
|
|三園町1(全)、三園町2・3、上赤塚町、成増町
|
|-
|'''三園二丁目'''
|1969年3月1日
|
|三園町1(全)、三園町2・3、上赤塚町、成増町
|
|-
|'''三園三丁目'''
|1969年3月1日
|
|三園町1(全)、三園町2・3、上赤塚町、成増町
|
|-
|'''三園四丁目'''
|1969年3月1日
|
|三園町1(全)、三園町2・3、上赤塚町、成増町
|
|-
|}
{{Reflist|group="c"}}
== 地域 ==
=== 主な祭事、イベント ===
* '''[[板橋の田遊び|田遊び]]'''(たあそび) (国の[[重要無形民俗文化財]])
[[五穀豊穣]]と子孫繁栄を願って、板橋区内の二つの神社で年の初めに行われる[[伝統芸能]]。「[[板橋の田遊び]]」参照のこと。
* '''[[いたばし花火大会]]'''
1951年(昭和26年)に、埼玉県戸田市との間の境界線が確定したことを記念して開催。毎年8月第1[[土曜日]]に開催されている。
* '''[[板橋区民祭り]]'''
* '''[[板橋農業祭り]]'''
* '''[[板橋Cityマラソン]]'''
=== 特産物 ===
* 志村みの{{ruby|早生|わせ}}大根
* {{ruby|清水|しみず}}大根
=== 地域区分の特徴 ===
{{板橋区の町名}}
上記の通り、おおむね旧[[板橋町]]、旧[[上板橋村]]、旧[[志村 (東京府)|志村]]、旧[[赤塚村 (東京府)|赤塚村]]の4地域に分かれるが、他に南部(板橋)と北部(志村)の2地域分類、板橋・志村・赤塚の3地域分類、板橋・上板橋(常盤台)・志村・赤塚・高島平の5地域分類もよく使われる。板橋区において地域の分類は便宜的なものでしかなく、受け持つ行政機関によって異なるのが現状である。
例えば、通常の[[板橋町|板橋]]地域(旧板橋町地域)と[[上板橋村|上板橋]]地域(旧上板橋村地域)とあわせて広義の[[板橋郷|板橋]]地域(板橋区南部地域)とすることも多い([[日本の警察|警察]]、[[郵便]]、[[日本の消防|消防]]、[[土木]]、[[公園]]、[[水道]]、[[福祉]]など)。また、上板橋地域を常盤台地域と呼ぶ場合もある(都市計画など)。
また、通常の[[志村 (東京府)|志村]]地域(旧志村地域)と[[赤塚村 (東京府)|赤塚]]地域(旧赤塚村地域)とあわせて広義の志村地域(板橋区北部地域)とすることもある(消防、土木、公園、水道など)。これは歴史的に、志村地域に設置された[[行政機関]]が赤塚地域も含めて担当することが多かったためである。
かつての[[徳丸ヶ原]]に相当する[[高島平]]、[[新河岸 (板橋区)|新河岸]]、[[三園 (板橋区)|三園]]を高島平地域として独立させる場合もある(都市計画など)。これらの地域の大半は旧赤塚村のため、通常は赤塚地域に含むが、志村地域に含む場合もある(福祉など)。逆に[[西台 (板橋区)|西台]]、[[中台 (板橋区)|中台]]、[[若木 (板橋区)|若木]]などの西台地域を赤塚地域に含むこともしばしばある(福祉など)。
さらに、志村地域の内、[[坂下 (板橋区)|坂下]]、[[蓮根 (板橋区)|蓮根]]、[[東坂下]]、[[舟渡 (板橋区)|舟渡]]などの地域を蓮根地域あるいは坂下地域と呼ぶこともあり、西台地域を除く志村地域と合わせたり(福祉など)、高島平地域に含める場合もある。
赤塚地域は[[埼玉県]]南部とともに[[郊外|近郊]]の風景を残している。区では[[赤塚 (板橋区)|赤塚]]に支所を設け利便を図っている。しかし区が南北に分かれてしまい、行事も板橋区民祭り・板橋農業祭りと二本立てになっている。
これ以外にも区民[[事務所]]や地域センターによる分類、また大山地域や大谷口地域、[[徳丸村|徳丸]]地域などといった細かい分類方法もある。
=== ナンバープレート ===
板橋区は、[[2020年]](令和2年)[[5月11日]]から板橋ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.itabashi.tokyo.jp/kusei/promotion/senryaku/1020588.html |title= 「板橋の自動車は板橋ナンバーです」ご当地ナンバー板橋のご案内 |publisher=板橋区 |date=2021-05-14 |accessdate=2022-07-09}}</ref>。
=== ケーブルテレビ ===
* [[J:COM 板橋]]
== 区政 ==
=== 区長 ===
* 区長:[[坂本健]] (5期目)
* 任期:2007年(平成19年)4月27日 - 2027年(令和9年)4月26日<ref name="任期満了日">[https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ 任期満了日(定数)一覧 | 東京都選挙管理委員会]</ref>
; 歴代区長
* 東京市板橋区時代:
** 初代:上田 房吉(1932年(昭和7年)10月 - 1933年(昭和8年)11月)
** 第2代:[[中野浩 (青森市長)|中野浩]](1933年(昭和8年)11月 - 1934年(昭和9年)6月)
** 第3代:児玉 益治(1934年(昭和9年)6月 - 1936年(昭和11年)10月)
** 第4代:福島 正守(1936年(昭和11年)10月 - 1937年(昭和12年)12月)
** 第5代:渡辺 徳三郎(1937年(昭和12年)12月 - 1939年(昭和14年)6月)
** 第6代:藤原 誠(1939年(昭和14年)6月 - 1943年(昭和18年)6月)
** 第7代:河原田 覚次郎(1943年(昭和18年)7月 - 1944年(昭和19年)6月)
** 第8代:丸山 貞二(1944年(昭和19年)6月 - 1944年(昭和19年)10月)
** 第9代:竹内 虎雄(1944年(昭和19年)10月 - 1945年(昭和20年)9月)
** 第10代:鈴木 嘉寿一(1945年(昭和20年)9月 - 1946年(昭和21年)3月)
** 第11代:牛田 正憲(1946年(昭和21年)3月 - 1947年(昭和22年)3月)
* 特別区成立以降:
** 初代:牛田 正憲(公選:1947年(昭和22年)4月5日 - 1951年(昭和26年)4月22日)
** 第2代:渋谷 常三郎(公選:1951年(昭和26年)4月23日 - 1955年(昭和30年)8月12日)
** 第3代:村田 哲雄(区議会選任:1955年(昭和30年)8月13日 - 1959年(昭和34年)8月12日)
** 第4代:村田 哲雄(区議会選任:1959年(昭和34年)8月13日 - 1963年(昭和38年)8月12日)
** 第5代:村田 哲雄(区議会選任:1963年(昭和38年)8月13日 - 1963年(昭和38年)12月31日)
** 第6代:加部 明三郎(区議会選任:1964年(昭和39年)1月22日 - 1968年(昭和43年)1月28日)
** 第7代:加部 明三郎(区議会選任:1968年(昭和43年)1月29日 - 1972年(昭和47年)2月18日)
** 第8代:加部 明三郎(区議会選任:1972年(昭和50年)2月19日 - 1975年(昭和50年)4月26日)
** 第9代:加部 明三郎(公選:1975年(昭和50年)4月27日 - 1979年(昭和54年)4月26日)
** 第10代:[[栗原敬三]](公選:1979年(昭和54年)4月27日 - 1983年(昭和58年)4月26日)
** 第11代:栗原 敬三(公選:1983年(昭和58年)4月27日 - 1987年(昭和62年)4月26日)
** 第12代:栗原 敬三(公選:1987年(昭和62年)4月27日 - 1991年(平成3年)4月26日)
** 第13代:[[石塚輝雄]](公選:1991年(平成3年)4月27日 - 1995年(平成7年)4月26日)
** 第14代:石塚 輝雄(公選:1995年(平成7年)4月27日 - 1999年(平成11年)4月26日)
** 第15代:石塚 輝雄(公選:1999年(平成11年)4月27日 - 2003年(平成15年)4月26日)
** 第16代:石塚 輝雄(公選:2003年(平成15年)4月27日 - 2007年(平成19年)4月26日)
** 第17代:[[坂本健]](公選:2007年(平成19年)4月27日 - 2011年(平成23年)4月26日)
** 第18代:坂本健(公選:2011年(平成23年)4月27日 - 2015年(平成27年)4月26日)
** 第19代:坂本健(公選:2015年(平成27年)4月27日 - 2019年 (平成31年) 4月26日)
** 第20代:坂本健(公選:2019年(平成31年) 4月27日- 2023年 (令和5年) 4月26日)
** 第21代:坂本健(公選:2023年(令和5年) 4月27日- 2027年 (令和9年) 4月26日)
=== 区民事務所・地域センター ===
==== 区民事務所 ====
「区」の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」的な機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。
* 仲町区民事務所:仲町20-5
* 常盤台区民事務所:常盤台3-27-1
* 志村坂上区民事務所:小豆沢2-19-15
* 蓮根区民事務所:坂下2-18-1
* 下赤塚区民事務所:赤塚6-38-1
* 高島平区民事務所:3-12-28
==== 地域センター ====
地域活動にかかわる幅広い業務を行う。
板橋・熊野・仲宿・仲町・富士見・大谷口・常盤台・清水・志村坂上・中台・蓮根・舟渡・前野・桜川・下赤塚・成増・徳丸・高島平の18箇所に設置。
=== 姉妹都市・提携都市・交流協定 ===
* {{Flagicon|JPN}} {{Flagicon|栃木県}}旧[[栗山村]](現・[[日光市]])
** [[1983年]]6月7日 「みどりと文化の交流協定」
** [[1984年]]6月9日 「[[災害]]時における相互援助に関する協定」
* {{Flagicon|CAN}}{{Flagicon|Ontario}} [[バーリントン (オンタリオ州)|バーリントン市]]([[カナダ]] [[オンタリオ州]])
** [[1989年]]5月 姉妹都市提携
* {{Flagicon|MAS}}{{Flagicon|Penang}} [[ペナン州|ペナン州立ペナン植物園]]([[マレーシア]])
** [[1994年]]9月 「友好提携に関する共同声明」調印
* {{Flagicon|MNG}} [[モンゴル|モンゴル国文部省]]([[モンゴル国]])
** [[1996年]]10月 文化・教育交流協定を締結
* {{Flagicon|CHN}} [[北京市]][[石景山区]]([[中華人民共和国|中国]])
** [[1997年]]10月 友好都市提携
* {{Flagicon|ITA}}{{Flagicon|Emilia-Romagna}} [[ボローニャ|ボローニャ市]]([[イタリア]] [[エミリア=ロマーニャ州]])
** [[2005年]]7月 友好都市提携
* {{Flagicon|JPN}} {{Flagicon|石川県}}[[金沢市]]
** [[2008年]]7月9日 「友好交流都市協定」
*他に{{Flagicon|新潟県}}[[妙高市]]、同[[田上町]]などとも姉妹都市になっている。
※出典[http://www.city.itabashi.tokyo.jp/kidspages/ksub1_a4.html]
== 議会 ==
=== 板橋区議会 ===
{{main|板橋区議会}}
* 定数:46名
* 任期:2019年(令和元年)5月1日 - 2023年(令和5年)4月30日<ref name="任期満了日" />
* 議長:元山芳行(板橋区議会[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]議員団)
* 副議長:大田ひろし(板橋区議会[[公明党]])
{| class="wikitable"
! 会派名 !! 議席数 !! 議員名
|-
| style="width:13em" | 板橋区議会[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]議員団 || style="width:4em; text-align:right;" | 16 || 佐々木としたか、川口雅敏、茂野善之、杉田ひろし、大野治彦、元山芳行、田中やすのり、坂本あずまお、安井一郎、田中しゅんすけ、山田貴之、中村とらあき、間中りんぺい、しのだつよし、小野田みか、内田けんいちろう
|-
| 板橋区議会[[公明党]] || align="right" | 10 || 大田ひろし、なんば英一、かいべとも子、田中いさお、しば佳代子、鈴木こうすけ、成島ゆかり、いしだ圭一郎、さかまき常行、寺田ひろし
|-
| [[日本共産党]]板橋区議会議員団 || align="right" | 9 || かなざき文子、小林おとみ、竹内愛、いわい桐子、荒川なお、吉田豊明、山内えり、山田ひでき、石川すみえ
|-
| 民主クラブ || align="right" | 4 || 中妻じょうた、高沢一基、おばた健太郎、渡辺よしてる
|-
| 市民クラブ || align="right" | 3 || 長瀬達也、五十嵐やす子、南雲由子
|-
| 無所属の会 || align="right" | 2 || 井上温子、しいなひろみ
|-
| [[無所属]] || align="right" | 2 || こんどう秀人 高山しんご
|-
| 計 || align="right" | 46 ||
|}
=== 東京都議会 ===
;2021年東京都議会議員選挙
* 選挙区:板橋区選挙区
* 定数:5人
* 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日
* 投票日:2021年7月4日
* 当日有権者数:466,395人
* 投票率:41.68%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 鎌田悦子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 48 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 新 || 33,835票
|-
| 宮瀬英治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 31,201票
|-
| [[木下富美子]]<ref group="注釈">2021年11月22日に辞職。</ref> || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 29,767票
|-
| 松田康将 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 元 || 25,703票
|-
| 徳留道信 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 25,027票
|-
| 河野雄紀 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 51 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 元 || 24,066票
|-
| 前田順一郎 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 46 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || 13,091票
|-
| 橋本久美 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 51 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 6,788票
|-
| 太田雅一 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 62 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 902票
|-
| 内山美津子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 69 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 836票
|}
;2017年東京都議会議員選挙
* 選挙区:板橋区選挙区
* 定数:5人
* 投票日:2017年7月2日
* 当日有権者数:457,587人
* 投票率:51.60%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 木下富美子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 新 || 39,230票
|-
| 橘正剛 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 64 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 38,351票
|-
| [[平慶翔]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 29 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 36,732票
|-
| 徳留道信 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 31,396票
|-
| 宮瀬英治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || [[民進党]] || style="text-align:center" | 現 || 28,003票
|-
| 松田康将 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 40 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 27,521票
|-
| 河野雄紀 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 23,383票
|-
| 熊木美奈子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 55 || 無所属 || style="text-align:center" | 元 || style="text-align:right" | 6,283票
|-
| 安原宏史 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 27 || [[幸福実現党]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 983票
|-
| 佐上彰浩 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 46 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 823票
|}
=== 衆議院 ===
;東京都第11区
* 選挙区:[[東京都第11区|東京11区]](板橋区の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:462,626人
* 投票率:54.97%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[下村博文]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 67 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 122,465票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || [[阿久津幸彦]] || style="text-align:center;" | 65 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 87,635票 || style="text-align:center;" | ○
|-
| || 西之原修斗 || style="text-align:center;" | 27 || [[日本共産党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 29,304票 ||
|-
| || 桑島康文 || style="text-align:center;" | 60 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 5,639票 ||
|}
;東京都第12区
* 選挙区:[[東京都第12区|東京12区]]([[北区 (東京都)|北区]]、[[豊島区]]の一部、[[足立区]]の一部、板橋区の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:462,732人
* 投票率:57.45%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[岡本三成]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 56 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[公明党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 101,020票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ×
|-
| style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[阿部司]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 39 || style="background-color:#ffdddd;" | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffdddd; text-align:right;" | 80,323票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○
|-
| || [[池内沙織]] || style="text-align:center;" | 39 || [[日本共産党]] || style="text-align:center;" | 元 || style="text-align:right;" | 71,948票 || style="text-align:center;" | ○
|}
== 消防 ==
* [[東京消防庁]] [[東京消防庁第十消防方面本部|第十方面本部]]
** 板橋[[消防署]](板橋2-60-15)[[特別救助隊]]・[[救急隊]]1
*** 常盤台出張所(南常盤台2-5-12)救急隊1
*** 小茂根出張所(小茂根2-14-10)[[特別消火中隊]]・救急隊1
** 志村消防署(相生町17-1)特別消火中隊・救急隊1
*** 蓮根出張所(坂下2-32-88)救急隊1
*** 成増出張所(成増1-30-12)救急隊無
*** 赤塚出張所(赤塚3-1-10)救急隊1
*** 志村坂上出張所(志村1-10-5)[[化学機動中隊]]・救急隊1
*** 高島平出張所(高島平3-12-10)救急隊1
== 警察 ==
* [[警視庁]]
** [[板橋警察署]](板橋2-60-13)
** [[志村警察署]](小豆沢1-11-6)
** [[高島平警察署]](高島平3-12-32)
== 医療 ==
* [[帝京大学医学部附属病院]]
* [[日本大学医学部附属板橋病院]]
* [[東京都保健医療公社豊島病院]](旧東京都立豊島病院)
* [[東京都健康長寿医療センター]]
* [[東京武蔵野病院]]
* [[板橋中央総合病院]]
* [[高島平中央総合病院]]
* 区内に板橋区[[保健所]]が設置されている<ref>{{Cite web|和書|title=板橋区保健所のご案内|url=http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/009/009051.html|work=板橋区|date=2017-04-01|accessdate=2019-09-28}}</ref>
== 郵便 ==
'''集配郵便局'''
* [[板橋郵便局]] - 〒173-xxxxの集配を担当
* [[板橋北郵便局]] - 〒174-xxxxの集配を担当
* [[板橋西郵便局]] - 〒175-xxxxの集配を担当、[[ゆうちょ銀行]]板橋店を併設
'''無集配郵便局'''
{{columns-list|colwidth=14em|
* 板橋四郵便局
* 新板橋郵便局
* 大山駅前郵便局
* 中板橋郵便局
* 板橋弥生郵便局
* 板橋ハッピーロード郵便局
* 板橋中丸郵便局
* 板橋大谷口北郵便局
* 板橋大谷口郵便局
* 板橋大山郵便局
* 板橋幸町郵便局
* 板橋向原郵便局
* 板橋小茂根郵便局
* 板橋舟渡郵便局
* 板橋坂下郵便局
* 板橋坂下一郵便局
* 志村橋郵便局
* 板橋蓮根郵便局
* 板橋蓮沼郵便局
* 板橋清水郵便局
* 板橋志村郵便局
* 板橋富士見郵便局
* 板橋前野郵便局
* 板橋中台郵便局
* 板橋中台二郵便局
* 板橋常盤台郵便局
* 板橋常盤台三郵便局
* 板橋南常盤台郵便局
* 板橋東新町郵便局
* 上板橋郵便局
* 板橋西台郵便局
* 板橋新河岸団地内郵便局
* 板橋高島平郵便局
* 板橋高島平七郵便局
* 板橋西台駅前郵便局
* 大東文化学園内郵便局
* 板橋徳丸郵便局
* 板橋徳丸五郵便局
* 板橋徳丸三郵便局
* 板橋三園郵便局
* 赤塚三郵便局
* 板橋赤塚郵便局
* 板橋赤塚新町郵便局
* 板橋成増郵便局
* 板橋成増ヶ丘郵便局}}
== 電話番号 ==
市外局番は03。
市内局番は大半が39XX、59XX、69XX。枯渇対策で35XX、53XXも割り当て。
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
* 区役所最寄駅:板橋区役所前駅(都営地下鉄三田線)
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
: [[ファイル:JR JA line symbol.svg|17px|JA|left]] [[埼京線]]([[赤羽線]]):[[日本鉄道]]により品川 - 赤羽間路線として1885年(明治18年)3月1日開通。当時の途中駅は[[目黒駅]]・[[渋谷駅]]・[[新宿駅]]・[[目白駅]]・[[板橋駅]]であった。国有化を経て[[山手線]]と命名され、1972年(昭和47年)池袋 - 赤羽間を赤羽線に改称。埼京線は路線案内用通称で、1985年(昭和60年)より用いられている。
::* ([[板橋駅]])
: [[ファイル:JR JA line symbol.svg|17px|JA|left]] 埼京線(東北本線支線):[[日本国有鉄道]](国鉄)により1985年(昭和60年)9月30日開通。
::* ([[浮間舟渡駅]])
::
; [[東京都交通局]](都営地下鉄)
: [[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|17px|I|left]] [[都営地下鉄三田線|三田線]]:板橋区内の区間は高島平駅以南が1968年(昭和43年)12月27日、高島平 - 西高島平間が1976年(昭和51年)5月6日開通。
::* [[新板橋駅]]・[[板橋区役所前駅]]・[[板橋本町駅]]・[[本蓮沼駅]]・[[志村坂上駅]]・[[志村三丁目駅]]・[[蓮根駅]]・[[西台駅]]・[[高島平駅]]・[[新高島平駅]]・[[西高島平駅]]
; [[東京地下鉄]](東京メトロ)
: [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|17px|Y|left]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]:板橋区内の区間は[[帝都高速度交通営団]]により、営団成増駅(開業当時)以東は1983年(昭和58年)6月24日、営団成増 - 和光市間は1987年(昭和62年)8月25日開通。
::* ([[小竹向原駅]])・([[地下鉄赤塚駅]])・[[地下鉄成増駅]]
: [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|17px|F|left]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]]:板橋区内では有楽町線と同一の線路を用いている。
::* (小竹向原駅)・(地下鉄赤塚駅)・地下鉄成増駅
; [[西武鉄道]]
: [[ファイル:SeibuIkebukuro.svg|17px|SI|left]] [[西武有楽町線]]:板橋区内では東京メトロ有楽町線と同一の線路を用いている。
::* (小竹向原駅)
; [[東武鉄道]]
: [[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|17px|TJ|left]] [[東武東上本線|東武東上線]]:板橋区内の区間は東上鉄道により1914年(大正3年)5月1日開通。
::* [[大山駅 (東京都)|大山駅]]・[[中板橋駅]]・[[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]]・[[上板橋駅]]・[[東武練馬駅]]・[[下赤塚駅]]・[[成増駅]]
* その他(駅所在地について)
** 下板橋駅は豊島区、東武練馬駅は板橋区が駅所在地である。
** 浮間舟渡駅のホームは北区との区境にあるが、正式所在地は駅事務室のある北区とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=208 |title=駅の情報(浮間舟渡駅)基本情報 |accessdate=2023-07-23 |publisher=東日本旅客鉄道 |language=日本語}}</ref>。
** 小竹向原駅、地下鉄赤塚駅も練馬区とまたがっているが、正式所在地は練馬区とされている。
** 板橋駅は滝野川口が北区、ホームの大半が豊島区にあるが、正式所在地は北区とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=132 |title=駅の情報(板橋駅)基本情報 |accessdate=2023-07-23 |publisher=東日本旅客鉄道 |language=日本語}}</ref>。
** 区内に駅は設置されていないが、[[東北新幹線]]も[[上野駅]]と[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]の間で一部通過している(前述の埼京線と並走)。
==== かつて営業していた路線 ====
* [[都電志村線]]
* [[東武啓志線]]
==== かつて営業していた駅 ====
* [[金井窪駅]]:東武東上線 下板橋 - 大山間。
==== かつて計画された路線 ====
* [[東武西板線]]:西新井(現・足立区) - 上板橋間。東武鉄道により、1922年(大正11年)に計画。用地買収困難により1932年(昭和7年)起業廃止。
* 地下鉄6号支線:大和町(やまとちょう。現・板橋本町駅) - 上板橋間。[[都市交通審議会答申第6号]](1962年)による。1964年(昭和39年)、次項の東武東上支線に計画変更。
* [[東武東上支線]]:大和町(やまとまち。現・[[和光市駅]]) - 笹目橋(現・西高島平駅) - 志村(現・高島平駅)間。1964年の東武鉄道・東京都交通局・東急電鉄「6号線建設および相互直通運転に関する覚書」による。1965年(昭和40年)に計画撤回。笹目橋 - 志村間は、東京都交通局が東武鉄道から免許を譲受した上で建設された。
* 地下鉄6号線:[[大宮市]]西部 - 高島平間。[[都市交通審議会答申第15号]](1972年)による。[[運輸政策審議会答申第7号]](1985年)により撤回。
=== バス ===
==== 路線バス ====
* [[国際興業バス]] - 区内に[[国際興業バス志村営業所|志村営業所]]が設けられている。
* [[都営バス]] - [[都営バス杉並支所|杉並支所]]に所属している王78系統([[王子駅]]ー[[新宿駅]]西口)が唯一同区を走行している。ただし、起点・終点となる停留所や営業所は存在しない<ref group="注釈">[[1982年]]3月29日までは[[都営バス志村営業所|志村営業所]]が存在した。</ref>。
* [[関東バス]]
* [[西武バス]]
* [[東武バス|東武バスウェスト]]
==== コミュニティバス ====
* [[国際興業バス志村営業所#コミュニティバス|板橋区コミュニティバス「りんりんGO」]]
** [[国際興業バス志村営業所]]が運行受託
** 板橋市場 - [[新高島平駅]] - 区立美術館入口 - [[下赤塚駅]] - おいせ坂上 - 赤塚高速下 - 新高島平駅 - 板橋市場(循環運転)
=== 道路 ===
* [[首都高速道路]]
** [[首都高速5号池袋線|5号池袋線]]
** [[首都高速中央環状線|中央環状線]](中央環状王子線、都道首都高速板橋足立線)
* [[国道17号]]([[中山道#東京都通称道路名|中山道]])
** [[新大宮バイパス]]
* [[国道254号]]([[川越街道#現在、川越街道新道(国道254号)と旧川越街道|川越街道]])
* [[東京都道68号練馬川口線]]([[笹目通り]])
* [[東京都道317号環状六号線]](山手通り)
* [[東京都道318号環状七号線]](環七通り)
* [[東京都道311号環状八号線]](環八通り)
* [[東京都道420号鮫洲大山線]](大谷口中央通り、[[ハッピーロード大山]])
* [[東京都道441号池袋谷原線]]([[東京都道441号池袋谷原線|要町通り]]、[[富士街道]])
* [[東京都道445号常盤台赤羽線]](前野中央通り、福寿通り)
* [[東京都道446号長後赤塚線]]([[高島通り]]、松月院通り)
* [[東京都道447号赤羽西台線]](高島通り)
* 旧[[東京都道448号荒川堤防線]](都道としては廃止され欠番)
* [[高岩寺#旧中山道|旧中山道]]
* 旧[[川越街道]]
* 王子新道
=== 水上バス ===
* [[東京都公園協会]]
** [[東京水辺ライン]]:[[小豆沢発着場]]([[国際興業バス]][[国際興業バス志村営業所|志村営業所]]管内 赤02、赤83、赤84系統「小豆沢公園前」停留所より徒歩1分、[[北赤羽駅]]赤羽口より徒歩15分、[[志村坂上駅]]A3-4出口より徒歩15分)
== 教育 ==
板橋区教育委員会が担っている。
=== 大学 ===
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[帝京大学]]板橋キャンパス
* [[淑徳大学]]東京キャンパス
* [[淑徳大学短期大学部]]
* [[大東文化大学]]板橋キャンパス
* [[東京家政大学]]板橋校舎
* [[東京家政大学短期大学部]]
* [[東洋大学]]総合スポーツセンター
* [[日本大学]]医学部キャンパス
}}
=== 専修学校 ===
'''都立'''
* 東京都立板橋看護専門学校
'''私立'''
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[日本大学医学部附属看護専門学校]]
* [[帝京高等看護学院]]
* 板橋中央看護専門学校
* 成増高等看護学校
* 上板橋看護専門学校
* 彰栄リハビリテーション専門学校
* [[日本ウェルネス歯科衛生専門学校]]
* 愛歯技工専門学校
* [[資生堂美容技術専門学校]]
* [[日本ペット&アニマル専門学校]]
}}
=== 高校 ===
'''都立'''
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[東京都立板橋高等学校]]
* [[東京都立板橋有徳高等学校]]
* [[東京都立大山高等学校]]
* [[東京都立北園高等学校]]
* [[東京都立北豊島工科高等学校]]
* [[東京都立高島高等学校]]
}}
'''私立(中高一貫校を含む)'''
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[帝京中学校・高等学校]]
* [[淑徳中学校・高等学校]]
* [[城北中学校・高等学校]]
* [[大東文化大学第一高等学校]]
* [[東京家政大学附属女子中学校・高等学校]]
* [[日本大学豊山女子中学校・高等学校]]
* [[ウィッツ青山学園高等学校]]東京LETSキャンパス
* [[日本ウェルネス高等学校]]東京キャンパス
}}
=== 中学校 ===
'''区立'''
{{columns-list|colwidth=10em|
* 赤塚第一中学校
* 赤塚第二中学校
* [[板橋区立赤塚第三中学校|赤塚第三中学校]]
* [[板橋区立板橋第一中学校|板橋第一中学校]]
* 板橋第二中学校
* 板橋第三中学校
* 板橋第五中学校
* [[板橋区立加賀中学校|加賀中学校]]
* [[板橋区立上板橋第一中学校|上板橋第一中学校]]
* [[板橋区立上板橋第二中学校|上板橋第二中学校]]
* 上板橋第三中学校
* [[板橋区立桜川中学校|桜川中学校]]
* [[板橋区立志村第一中学校|志村第一中学校]]
* 志村第二中学校
* 志村第三中学校
* [[板橋区立志村第四中学校|志村第四中学校]]
* [[板橋区立志村第五中学校|志村第五中学校]]
* 高島第一中学校
* 高島第二中学校
* 高島第三中学校
* 中台中学校
* [[板橋区立西台中学校|西台中学校]]}}
=== 小学校 ===
'''区立'''
{{columns-list|colwidth=10em|
* 赤塚小学校
* 赤塚新町小学校
* [[板橋区立板橋第一小学校|板橋第一小学校]]
* 板橋第二小学校
* [[板橋区立板橋第四小学校|板橋第四小学校]]
* 板橋第五小学校
* [[板橋区立板橋第六小学校|板橋第六小学校]]
* 板橋第七小学校
* [[板橋区立板橋第八小学校|板橋第八小学校]]
* 板橋第十小学校
* 大谷口小学校
* [[板橋区立加賀小学校|立加賀小学校]]
* [[板橋区立金沢小学校|金沢小学校]]
* [[板橋区立上板橋小学校|上板橋小学校]]
* 上板橋第二小学校
* 上板橋第四小学校
* 北野小学校
* 北前野小学校
* [[板橋区立紅梅小学校|紅梅小学校]]
* 桜川小学校
* 志村小学校
* 志村坂下小学校
* 志村第一小学校
* 志村第二小学校
* 志村第三小学校
* [[板橋区立志村第四小学校|志村第四小学校]]
* 志村第五小学校
* 志村第六小学校
* 下赤塚小学校
* 新河岸小学校
* 高島第一小学校
* 高島第二小学校
* 高島第三小学校
* 高島第五小学校
* 高島第六小学校
* 常盤台小学校
* 徳丸小学校
* 中台小学校
* [[板橋区立中根橋小学校|中根橋小学校]]
* [[板橋区立成増小学校|成増小学校]]
* 成増ケ丘小学校
* 蓮根小学校
* 蓮根第二小学校
* [[板橋区立富士見台小学校|富士見台小学校]]
* [[板橋区立舟渡小学校|舟渡小学校]]
* [[板橋区立前野小学校|前野小学校]]
* [[板橋区立緑小学校|緑小学校]]
* 三園小学校
* 向原小学校
* 弥生小学校
* 若木小学校}}
'''私立'''
* [[淑徳小学校]]
=== 幼稚園 ===
'''区立'''
* 高島幼稚園
* 新河岸幼稚園
'''私立'''
{{columns-list|colwidth=15em|
* 帝京幼稚園
* 明星幼稚園
* 大東文化大学附属青桐幼稚園
* まるやま幼稚園
* 松月院幼稚園
* 淑徳幼稚園
}}
=== 特別支援学校 ===
'''国立'''
* [[筑波大学附属桐が丘特別支援学校]]
'''都立'''
* 東京都立志村学園([[東京都立志村高等学校]]跡地に2013年設立)
* 東京都立板橋特別支援学校
* 東京都立高島特別支援学校
'''区立'''
* [[板橋区立天津わかしお学校|天津わかしお学校]](所在地は千葉県鴨川市)
=== 各種学校 ===
* [[東京朝鮮第三初級学校]]
* 淑徳日本語学校
== 文化施設 ==
* [[グリーンカレッジホール]]([[板橋区立シニア学習プラザ]]) 志村3丁目。3階4階。1階2階に「[[志村ふれあい館]]」併設。
* [[浮間公園]] - 舟渡2丁目。北区にもまたがる。
* [[城北中央公園]] - 桜川1丁目および小茂根5丁目。練馬区にもまたがる。
* [[見次公園]] - 前野町4丁目。湧水池。
* [[東板橋公園]] - 板橋3丁目。「[[板橋区立こども動物園]]」併設。
* [[東京都立赤塚公園|赤塚公園]] - 高島平3丁目。野球場併設。バーベキューパーティを行える場所として有名。
* [[城北交通公園]] - 坂下2丁目。ナイター設備のある[[城北野球場]]併設。
* [[板橋区立教育科学館]] 常盤台4丁目。プラネタリウム併設。
* [[板橋区立平和公園]] 常盤台4丁目。[[東京教育大学]]宿舎跡地。
* [[板橋区ホタル生態環境館]] 高島平4丁目。「ホタル飼育施設」を改称。
* [[板橋区立赤塚植物園]] 赤塚5丁目。
* [[板橋区立郷土資料館]] 赤塚5丁目。
* [[板橋区立美術館]] 赤塚5丁目。
* [[板橋区立熱帯環境植物館]] 高島平8丁目。
* [[板橋区立エコポリスセンター]] 前野町4丁目。
* [[板橋区立文化会館]] 大山東町。
* [[板橋区立グリーンホール]] 栄町。
* [[板橋区立成増アクトホール]] 成増3丁目。
* [[大原社会教育会館]] 大原町5丁目。
* [[成増社会教育会館]] 成増1丁目。
* [[板橋区公文書館]]、[[櫻井徳太郎文庫]]、[[いたばしボローニャ子ども絵本館]] 本町。廃校した旧板橋区立板橋第三小学校校舎を転用。
* [[小豆沢体育館]] 小豆沢3丁目。[[和弓場・洋弓場]]、テニスコート併設。
* [[赤塚体育館]] 赤塚5丁目。温水プール併設。
* [[板橋区立植村記念加賀スポーツセンター]](旧板橋区立東板橋体育館) 加賀1丁目。
** [[植村冒険館]] 2021年、蓮根2丁目から植村記念加賀スポーツセンター内に移転。
* [[高島平温水プール]] 高島平8丁目。
* [[新河岸陸上競技場]] 新河岸3丁目。
* [[戸田硬軟兼用野球場]] 舟渡3丁目。
== その他の公共施設 ==
* [[東京都中央卸売市場]][[板橋市場]] 高島平6丁目。
* [[東京都交通局]][[志村車両検修場]](高島平乗務管理所及び交通局志村寮を併設) 高島平9丁目。
* [[東京都水道局]][[三園浄水場]] 三園2丁目。
* [[東京都下水道局]][[新河岸水再生センター]] 新河岸3丁目。施設の上部が[[新河岸陸上競技場]]となっている。
* [[板橋清掃工場]] 高島平9丁目。
* [[東京ガス]]北部支社 北区滝野川5丁目。かつて円筒形のガスタンク(有水式ガスホルダー)2基が設置されていて、都電志村線の車窓や池袋の百貨店屋上からの展望でひときわ目立つ建造物であった。所在地は北区であるが、板橋区との境を走る国鉄赤羽線脇の立地であり、「板橋のガスタンク」と呼びならわされていた。1986年(昭和61年)廃止・解体。
* [[東京ガス]]板橋整圧所 新河岸2丁目。球形のガスタンク3基と、[[新河岸川]]を越えるように設置された2本の太いガスパイプが特徴。整圧器室は新河岸川を越えた先の高島平8丁目にある。
== 名所・旧跡==
*[[板橋郷#地名の由来|板橋]]:[[石神井川]]に架かる、名前の由来になったとされる橋。桜の名所。
* [[茂呂遺跡]]:旧石器が都内で初めて確認された、東京都指定史跡。小茂根5丁目。
* 志村一里塚:中山道の3番目の一里塚。二基一対の江戸時代当時の状態を残存する貴重な遺構として、国の[[史跡]]に指定。
* 縁切榎:本町の旧中山道沿いにある神木。かつて槻木(つきのき)と共に、板橋宿入口の大六天神社に生えていたことにより「縁が尽きる」という伝承が生まれた。1861年(文久元年)に、[[和宮親子内親王]](静寛院宮)が[[徳川家茂]]将軍との婚儀に赴くため、板橋宿に宿泊した際には、現在の清水町付近から富士見町バス停、日曜寺、愛染通りを経て上宿に至る迂回路が普請されたと伝えられている。現在は人間関係・疾病などの悪縁断ち切り・良縁祈願の願掛けが行われている。
** 「木を菰で覆い隠した」という伝承もあるが、少なくとも和宮親子内親王宿泊の際にはこの措置は行われていない。
* 縁結びの欅:縁切榎の伝説にちなみ、板橋駅前にある欅(板橋区の木)を「むすびの欅」としたもの。
* [[志村城]]址 志村2丁目。跡地に建立された熊野神社境内に空堀跡が遺されている。前野原、中台、西台はこの城から見て手前にある野原、中央および西側の台地という意味の地名である。
* [[赤塚城]]址 赤塚5丁目。
=== 主な宗教施設 ===
* [[冨士大石寺顕正会|顕正会]]東京会館 常盤台1-14-1。届け出上はこの会館が顕正会の本部である(実質的な本部はさいたま市にある)。[[公安調査庁#国内関係|公安調査庁]]調査対象の団体である。
* [[文殊院 (板橋区)|文殊院]] 仲宿。板橋区登録有形文化財、飯田静の碑がある。
* [[乗蓮寺]] 赤塚5丁目。1973年(昭和48年)に、首都高速道路5号線建設・国道17号線拡幅工事により、仲宿より移転。1977年に[[東京大仏]]建立。
* [[松月院]] 赤塚8丁目。中世[[赤塚城]]主の[[千葉自胤]]墓、江戸時代末期に活躍した西洋砲術家の[[高島秋帆]]記念碑がある。
* [[観明寺 (板橋区)|観明寺]] 板橋3丁目。加賀藩下屋敷から移設された赤門がある。
* [[日曜寺]] 大和町。本尊[[愛染明王]]。藍染業者の信仰が厚い。
* [[北野神社 (板橋区)|徳丸北野神社]](徳丸天神) 徳丸6丁目。旧徳丸地区(徳丸、高島平、新河岸)氏神。田遊び神事は国の[[重要無形民俗文化財]]に指定。
* [[南蔵院 (板橋区)|南蔵院]] 蓮沼町。[[しだれ桜]]の名所。板橋区登録有形民俗文化財の庚申地蔵がある。
* [[氷川神社 (板橋区氷川町)|氷川神社]] 氷川町。板橋宿の鎮守として信仰されてきた。
* [[氷川神社 (板橋区双葉町)|板橋双葉氷川神社]] 双葉町。[[稲荷台]]から出土したといわれる稲荷像を安置している。
* [[蓮根氷川神社]] 蓮根2丁目。上蓮沼村と根葉村が合併した際に蓮根村の鎮守となった。
* [[天祖神社 (板橋区南常盤台)|天祖神社]] 南常盤台2丁目。文人蜀山人(大田南畝)が訪れた、旧上板橋村の[[産土神]]。
* [[志村熊野神社|熊野神社]] 志村2丁目。志村城址に建立されている。
* [[信泉寺 (板橋区)|信泉寺]] 西台にあり、近代建築とモザイク画で知られる。
=== <span id="板橋十景"></span>板橋十景 ===<!-- リダイレクト「板橋十景」の転送先にしています -->
区制施行70周年を記念して、板橋ならではの自然景観、都市景観、名所・旧跡、イベントを板橋十景候補として募集し、2003年2月に識者などで構成した「板橋十景選定委員会」で、以下の10件が「板橋十景」として選定された<ref>[https://www.city.itabashi.tokyo.jp/kusei/profile/kanko/jyukei/1006819.html 板橋十景について|板橋区公式ホームページ]</ref>。
* [[赤塚城|赤塚溜池公園周辺]]
* [[板橋 (石神井川)|板橋]](区名由来の橋)
* [[いたばし花火大会]]
* [[志村一里塚]]
* [[石神井川]]の桜並木
* [[松月院]]
* [[田遊び]](徳丸・赤塚)
* [[高島平団地]]とけやき並木
* [[東京大仏]]([[乗蓮寺]])
* [[南蔵院 (板橋区)|南蔵院]]のしだれ桜
== 観光商業スポット ==
* [[イオン板橋ショッピングセンター|イオンシネマ]](2013年6月まで、ワーナー・マイカル・シネマズ板橋)徳丸2丁目。
* [[セブンタウン小豆沢]] 小豆沢3丁目。
* [[ラウンドワン]]スタジアム板橋店 相生町。
* [[トミコシ高島平ボウル]] 西台。
* [[ハタプラザ|ハタスポーツプラザ]] 南町。(2011年閉館)
* [[板橋温泉]] 宮本町。
* [[さやの湯]] 前野町3丁目。
* [[おふろの王様]]光が丘店 赤塚新町3丁目。(借地期限により2018年閉館)
* [[仲宿商店街]]
* [[ハッピーロード大山]]
* [[遊座大山商店街]]
== 住宅団地 ==
都内有数の[[住宅]][[団地]]、[[高島平団地]]があることで有名。また、板橋区内には[[公営住宅|都営住宅]]や[[集合住宅]]が多く点在している。
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0">
<div class="NavHead" style="text-align: left">主な住宅団地</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left">
{{columns-list|colwidth=25em|
* 都営宮本町アパート(宮本町 58-1、1968年)
* 都営幸町アパート(幸町 45-11、1962 - 1990 年)
* UR [[高島平]]・[[高島平団地]](旧日本住宅公団)、1971年
* 都営高島平三丁目アパート(高島平 3-12、1997年)
* 都営坂下住宅
* 都営坂下一丁目アパート(坂下 1-11、1968 - 1982 年)
* 都営坂下一丁目第2アパート(坂下 1-15、1972年)
* 都営坂下一丁目第3アパート(坂下 1-14、1973年)
* 都営坂下一丁目第4アパート(坂下 1-36、1973 - 1975 年)
* 都営坂下一丁目第5アパート(坂下 1-16、1983年)
* 都営坂下三丁目アパート(坂下 3-16、1972 - 1974 年)
* 都営坂下三丁目第2アパート(坂下 3-17、1974年)
* 都営坂下三丁目第3アパート(坂下 3-24、1976年)
* 都営坂下二丁目アパート(坂下 2-8、1967年)
* 都営坂下二丁目第2アパート(坂下 2-10、1995年)
* 都営志村三丁目アパート(志村 3-9、1969 - 1977 年)
* 都営志村三丁目第2アパート(志村 3-19、1971年)
* 都営志村第2アパート(小豆沢 3-10、1960年)
* 都営若木一丁目アパート(若木 1-12、1979 - 1980 年)
* 都営若木二丁目アパート(若木 2-31、1966年)
* 都営舟渡一丁目アパート(舟渡 1-14、1983 - 1985 年)
* 都営舟渡三丁目アパート(舟渡 3-5、1991年)
* 都営舟渡三丁目第2アパート(舟渡 3-22、1991年)
* 都営舟渡二丁目アパート(舟渡 2-13、1965年)
* UR 小豆沢一丁目団地(志村 市街地住宅 賃貸65 1964年 現存、現志村一丁目。譲渡返還)
* [[日本住宅公団]] 小豆沢団地(小豆沢、賃貸 1956年)
* 都営小豆沢一丁目アパート(小豆沢 1-19、1971年)
* 都営小豆沢一丁目第2アパート(小豆沢 1-20、1971年)
* 都営小豆沢三丁目アパート(小豆沢 3-7、1996年)
* 都営小豆沢二丁目アパート(小豆沢 2-11、1971年)
* 都営小茂根一丁目アパート(小茂根 1-6、1978 - 1986 年)
* UR 常盤台第一団地(南常盤台 市街地住宅 賃貸40 1960年 現存 譲渡返還)
* UR 常盤台第二団地(常盤台 市街地住宅 賃貸33 1961年 現存 譲渡返還)
* 都営常盤台一丁目アパート(常盤台 1-59、1971年)
* 都営常盤台四丁目アパート(常盤台 4-7、1977年)
* 都営新河岸一丁目アパート(新河岸 1-3、1975年)
* 都営新河岸二丁目アパート(新河岸 2-10、1968 - 1974 年)
* 都営成増団地 - 昭和43年 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営成増アパート(成増 5-19、1962 - 1967 年)
* 都営成増一丁目アパート(成増 1-3、1977年)
* 都営成増三丁目アパート(成増 3-33、1992年)
* 都営成増五丁目アパート(成増 5-3、1995 - 1996 年)
* 都営住宅西台アパートおよび東京都住宅供給公社西台住宅([[高島平]])
* 都営西台アパート(高島平 9-1、1970年)
* 都営西台一丁目アパート(西台 1-21、1997 - 2005 年)
* 都営西台四丁目アパート(西台 4-4、1993年)
* 都営西台二丁目アパート(西台 2-14、2001年)
* 都営赤塚六丁目アパート(赤塚 6-20、1988年)
* 都営赤塚六丁目第2アパート(赤塚 6-8、1991年)
* 都営前野町一丁目アパート(前野町 1-41、1970 - 1971 年)
* 都営前野町一丁目第2アパート(前野町 1-7、1994年)
* 都営前野町二丁目アパート(前野町 2-26、1976年)
* 都営前野町三丁目アパート(前野町 3-19、1969 - 1971 年)
* 都営前野町第2アパート(前野町 4-15、1954年)
* 都営前野町四丁目アパート(前野町 4-25、1969 - 1970 年)
* 都営前野町四丁目第2アパート(前野町 4-36、1973年)
* 都営前野町四丁目第3アパート(前野町 4-9、1992年)
* 都営前野町四丁目第4アパート(前野町 4-40、1995年)
* 都営前野町四丁目第5アパート(前野町 4-15、2007年)
* 都営前野町五丁目アパート(前野町 5-25、1973年)
* 都営前野町五丁目第2アパート(前野町 5-13、1979年)
* 都営前野町五丁目第3アパート(前野町 5-18、1981年)
* 都営前野町五丁目第4アパート(前野町 5-36、1985 - 1987 年)
* 都営前野町五丁目第5アパート(前野町 5-50、1961年)
* 都営前野町六丁目アパート(前野町 6-31、1973 - 1975 年)
* 都営前野町六丁目第2アパート(前野町 6-51、1978年)
* 都営前野町六丁目第3アパート(前野町 6-53、1983年)
* 都営前野町六丁目第4アパート(前野町 6-13、1992年)
* 都営双葉町アパート(双葉町 31-2、1963 - 1964 年)
* 都営双葉町第2アパート(双葉町 18-2、1988 - 1992 年)
* 都営相生町アパート(相生町 24-1、1973年)
* 都営相生町第2アパート(相生町 8-15、1985年)
* 都営大山西町アパート(大山西町 21-1、1959 - 1961 年)
* 都営大山西町第2アパート(大山西町 18-5、1989年)
* 都営大谷口二丁目アパート(大谷口 2-38、1987 - 1989 年)
* 都営大谷口北町アパート(大谷口北町 60-1、1989年)
* 都営大谷口北町第2アパート(大谷口北町 30-9、1992年)
* 都営第2舟渡二丁目アパート(舟渡 2-17、1967 - 1969 年)
* 都営第2長後町アパート(坂下 2-17、1960 - 1961 年)
* 都営第2板橋富士見町アパート(富士見町 27-3、1963 - 1967 年)
* 都営第3板橋富士見町アパート(富士見町 26-1、1964 - 1966 年)
* 都営第4板橋富士見町アパート(富士見町 24-17、1976年)
* 都営中台アパート(相生町 23-7、1961 - 1962 年)
* 都営仲宿アパート(仲宿 24-4、1990年)
* 都営長後町アパート(坂下 1-37、1959年)
* 都営東坂下二丁目アパート(東坂下 2-9、1974年)
* 都営徳丸二丁目アパート(徳丸 2-23、1975年)
* 都営南常盤台二丁目第2アパート(南常盤台 2-9、1988年)
* 都営板橋栄町アパート(栄町 12-2、1969年)
* 都営板橋栄町第2アパート(栄町 16-7、1994年)
* 都営板橋清水町アパート(清水町 91-1、2004年)
* UR 板橋一丁目団地(板橋 市街地住宅 賃貸42 1959年)
* 都営板橋二丁目第2アパート(板橋 2-3、1994年)
* 都営板橋富士見町アパート(富士見町 20-1、1960 - 1962 年)
* 都営板橋本町アパート(本町 8-1、1971 - 1978 年)
* 都営氷川町アパート(氷川町 23-1、1967 - 1968 年)
* 日本住宅公団 [[蓮根団地]](蓮根 2-28〜2-30、1957年)
** 八王子市の都市再生機構(UR)都市住宅技術研究所内に、2DK55型住居として復元されている。
* 都営蓮根三丁目アパート(蓮根 3-15、1975年)
* 都営蓮根三丁目第2アパート(蓮根 3-6、1976 - 1978 年)
* 都営蓮根三丁目第3アパート(蓮根 3-16、1995年)
* UR 新蓮根団地(蓮根 2-28〜2-30、1991 - 1993 年)
** 蓮根団地老朽化による建て替え。
* 東京都住宅供給公社向原住宅 : 向原団地(公社向原団地 - 昭和34年:東京都板橋区・東京都市計画事業(一団地の住宅施設)、向原第2団地 - 昭和43年:東京都板橋区・東京都市計画事業(一団地の住宅施設)
* 都営板橋向原一丁目アパート(向原 1-6、1992年)</div></div>
}}
== 企業 ==
[[製造業]]が多く町[[工場]]が多い。販売小売業も日用雑貨品を扱う事業が多く[[ものづくり]]の街である。
* [[エスビー食品]]スパイスセンター(本社事務所、宮本町。登記上の本社は[[中央区 (東京都)|中央区]])
* [[チタカ・インターナショナル・フーズ|パステル]](東京本部、前野町)
* [[ペンタックス]](本社、前野町)-2016年1月に大田区に移転
* [[日本製鉄]](東京製造所、舟渡)
* [[アステラス製薬]](蓮根事業所。臨床開発、信頼性保証部門)
* [[山芳製菓]](本社、常盤台)
* [[湖池屋]](本社、成増)
* [[東京カリント]](本社、坂下)
* [[トプコン]](本社、蓮沼町)
* [[タニタ]](本社、前野町)
* [[凸版印刷]](工場、志村)
* [[DIC (企業)|DIC]](東京工場、登記上の本店。本社は東京都中央区)
* [[日本電産コパル]](本社、志村)
* [[東武ストア]](本社、上板橋。その他各店舗)
* [[ユニオンホールディングス]](本社、志村)
* [[オリエンタル酵母工業]](本社、小豆沢)
* [[リンテック]](本社、本町)
* [[共立印刷]](本社、清水町)
* [[よしや]](本社、中板橋)
* [[東洋インキSCホールディングス|東洋インキ]](十条センター、加賀)
* [[LSIメディエンス]](志村事業所及びアンチドーピングラボラトリー、志村; 治験センター、清水町; 食品検査動物検査センター、小豆沢)
* [[第一硝子]](本社、舟渡)
* [[ビッグ・エー]](本社、大山東町。その他各店舗)
* [[チノー]](本社、熊野町)
* [[トヤマ楽器製造]](本社、大原町)
* [[柳澤管楽器]](本社、志村)
* [[高橋製作所]](本社、大原町)
* [[アニメイト]](本社、弥生町)
* [[グリーンマックス]](本社、大山東町)
== スポーツチーム ==
* [[東京エクセレンス]]
* [[東京ヴェルディ1969]]
* [[日テレ・東京ヴェルディベレーザ]]
== ゆかりの人物 ==
* 櫻田慧([[モスバーガー]]創始者:1号店は板橋区成増)
* [[下村博文]](区内で学習塾を経営:後、区内を選挙地盤としている)
* [[高津住男]](妻、[[真屋順子]]とともに劇団樹間舎を区内で旗揚げ)
* [[石川貴之]](作曲家:在住歴あり)
* [[いっこく堂]](区内在住の縁から[[J:COM 板橋]]でコミュニティ番組を担当)
* [[水戸岡鋭治]](区内在住の縁から板橋区のロゴを制作)
=== 著名な出身者 ===
* 政治家・官僚
** [[三原じゅん子]]:大原町
** [[池田真紀 (政治家)|池田真紀]]
** [[トミオ・オカムラ]]
** [[松原仁]]
** [[長沼明]]
** [[瀬戸健一郎]]
** [[角野然生]]<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180814/ddl/k11/020/062000c|title=「現場主義で丁寧に」 角野・新局長が抱負 /埼玉|date=2018-08-14|accessdate=2021-09-06|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref>
** [[平野清]]
* 実業家
** [[岡田和生]]
** [[木下斉]]
* 研究者
** [[松島法明]]
** [[伊藤比呂美]]
** 奥田太郎
* 現代美術家
** [[村上隆]]
* ワークショップクリエイター
** [[島崎直也]]
* 漫画家
** [[清野とおる]]:小豆沢
** [[平田弘史]]
** [[芳谷圭児]]
** [[みずしな孝之]]:高島平(出身は[[大田区]])
** [[風間やんわり]]:赤塚
** [[流星ひかる]]:大原町
* アニメーター
** [[FROGMAN]]
* 映画監督
** [[牧口雄二]]
* キャスター
** [[幸田シャーミン]]
* アナウンサー
** [[登坂淳一]](フリーアナウンサー)
** [[中山裕子]](フリーアナウンサー)
** [[田中瞳 (アナウンサー)|田中瞳]]([[テレビ東京]]アナウンサー)
* 弁護士
** [[八代英輝]]:赤塚
* アイドル
** [[高木延秀]](元[[忍者 (グループ)|忍者]])
** [[稲垣吾郎]](元[[SMAP]]):高島平
** [[辻希美]](元[[モーニング娘。]]、現ソロ)
** [[野呂佳代]](元[[AKB48]]、[[SDN48]]、現ソロ):蓮根
**[[峯岸みなみ]](元AKB48、現ソロ):高島平
* 俳優
** [[小向美奈子]]
** [[寺田農]]:志村高校
** [[古谷一行]]
** [[野村宏伸]]
** [[黒田福美]]
** [[酒井和歌子]]
** [[生田智子]]:板橋第三中学校
** [[中山美穂]]:北園高校
** [[丹野未結]]
** [[江守徹]]:北園高校
** [[山﨑賢人]]:蓮根、志村第五中学校
** [[吉沢京子]]<ref>{{Wayback|url=http://yoshizawakyoko.jp/profile.html |date=20170716124100 |title= 吉沢京子 - オフィシャル・サイト - プロフィール }}</ref>
** [[新木優子]]
** [[青山ゆり華]](声優)
** [[藤川清彦]](元俳優)
** [[阿部祐二]]
* タレント
** [[石橋貴明]]([[とんねるず]]):小豆沢→成増、区内[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]出身
** [[山田邦子]]:高島平
** [[グッチ裕三]]
** [[小木博明]]([[おぎやはぎ]]):常盤台
** [[城咲仁]]:大山
** [[ぶるうたす]]
** [[舟山久美子]]
* スポーツ選手
** [[松山佳弘]](元[[大相撲力士]])
** [[栗橋茂]](元プロ野球選手)
** [[大島公一]](元プロ野球選手)
** [[戸川健太]](Jリーグ[[福島ユナイテッドFC]]DF):西台
** [[馬場憂太]](Jリーグ[[FC東京]]MF):板橋
** [[落合真理]](バレーボール選手):高島平
** [[高田秀一]] - プロ[[バスケットボール選手]]([[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]・[[高松ファイブアローズ]]所属):[[中台 (板橋区)|中台]]
** [[渡辺陽介|ヨースケ♡サンタマリア]](プロレスラー)
** [[石川慧亮]](プロ野球選手)
** [[石川翔]](プロ野球選手)
** [[近藤廉]](プロ野球選手)
** [[田中教仁]](プロボクサー)
** [[山下賢哉]](プロボクサー)
** [[鈴木なな子]](プロボクサー)
** [[Sareee]](女子プロレスラー)
* 音楽
:; 歌手
:* [[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]:成増(出生地)
:* [[おかもとえみ]](シンガーソングライター)
:* [[坂本真綾]](兼声優)
:* [[ちあきなおみ]]
:* [[PUNPEE]] (ラッパー、DJ)
:* 喜矢武豊([[ゴールデンボンバー_(バンド)|ゴールデンボンバー]])
:* [[松本理恵]](作詞家、シンガーソングライター)
:* [[六本木じろう]]
:; 作曲家
:* [[伊藤賢治]]
:* 藤田隆二([[Le Couple]])
:; プロデューサー
:* [[橋元恵一]]
:* [[佐藤浩輝]]
:* [[福田裕彦]]
* 棋士
** [[安西勝一]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]])
* 狂言師
** [[和泉元彌]]:東新町
* モデル
** [[黒田百合香]]([[1979年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]])
* 放送局
** [[高橋一晃]]([[TBSテレビ]] [[プロデューサー]])
* YouTuber
** [[スーツ (YouTuber)|スーツ]]:高島平
** [[安積君]]:高島平
** [[ンダホ]]
** [[HIKAKIN]]:高島平
** [[BREAKING DOWN出場者一覧|こめお]]([[BREAKING DOWN]]、[[格闘家]][[YouTuber]])
== 所縁のある作品 ==
* [[怪談乳房榎]] : [[怪談噺]]。乳房榎は赤塚の松月院にあった。
* [[ハロー張りネズミ]] : [[講談社]]・[[週刊ヤングマガジン]]に連載されていた(連載時・[[1980年]] - [[1989年]])[[弘兼憲史]]原作のちょっと変った[[推理漫画]]で「あかつか探偵事務所」の事務所が[[下赤塚]]にある。[[2017年]]に[[テレビドラマ]]化され、東武東上本線の下赤塚駅周辺でロケが行われた。
* [[わ〜お!ケンちゃん]] : 漫画。主人公の志村ケン太が通う小学校が「板橋区志村小学校」
* [[板橋マダムス]] : 連続ドラマ。仲宿商店街、志村などでほぼ毎回ロケが行われた。
* [[涼風 (漫画)|涼風]] : 漫画、アニメ。物語は東武東上本線の成増駅周辺が舞台になっている。
* [[君のいる町]] : 漫画、アニメ。物語は東武東上本線の成増駅周辺が舞台になっている。
* [[風夏]] : 漫画、アニメ。物語は東武東上本線の成増駅周辺が舞台になっている。
== 板橋の歌 ==
* 板橋音頭
* 板橋区町会連合会の唄
* 板橋区町会連合会音頭
* 板橋音頭行進曲
* 愛するふるさと
* みどりの一里塚
* 板橋二輪草音頭
* 舞い上がれITABASHI
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{Sisterlinks|wikt=no|b=|q=|s=|commons=板橋区|commonscat=Itabashi, Tokyo|n=|v=no|voy=Itabashi|species=no}}
{{Multimedia|板橋区の画像}}
* 板橋区 - [[板橋駅]] - [[下板橋駅]]
** [[板橋 (石神井川)]]
** [[板橋 (板橋区)]]
** [[新板橋]] - [[新板橋駅]]
** [[中板橋]] - [[中板橋駅]]
** [[上板橋]] - [[上板橋駅]]
* [[板橋郷]]
** [[板橋町]] - [[板橋宿]]
** [[上板橋村]] - [[上板橋宿]]
== 外部リンク ==
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* {{Official website|name=板橋区公式ページ}}
* {{YouTube|user=cityitabashi|板橋区公式チャンネル}}
* [https://itabashi-kanko.jp/ 板橋区観光協会]
{{Geographic Location
|Centre = 板橋区
|North = [[埼玉県]][[和光市]] [[戸田市]]
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[[Category:板橋区|*]]
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グスタフ・マーラー
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グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。
1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。
夫妻の間には14人の子供が産まれている。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという。
父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した。
母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた。
ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている。
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという。1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である。1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移りユダヤ人商人のモーリッツ・グリューンフェルトのもとに下宿する。
1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った。
1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ。この年に弟エルンストが死去する。1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した。1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』を作曲する。
1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。
1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。
1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。
1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。
12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。
夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。
1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。
1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月に再び渡米。体調も回復し旺盛な指揮活動を続ける。
1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。10月にニューヨークに戻る。
1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)にも発熱。連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断され、パリで治療を受けるが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)!」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない。
なお、アルマの墓はその斜め後ろにあり、アルマの2番目の夫との娘でアルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲を捧げたマノン・グロピウスと共に埋葬されている。
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている。
酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった。しかし本人はあまり酒に強くなかった。
アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。
マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき、そのことについて後年までマーラーに感謝していた。そのほか、オスカー・フリートやウィレム・メンゲルベルクなど当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した。
一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。
なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している。
加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い...など)を否定している。
マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ。
しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である。
マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した。
マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ、1892年1月にハンブルクでオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者チャイコフスキーが友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。
マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている。もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。
オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。
指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている。
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている。
ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している。
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。
彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モルが男を押さえ込んだ。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」
シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている。
ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった。
マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である。
マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。
楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)
歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。
多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された。
現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにもかかわらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている。
以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。
小惑星(4406) Mahlerはマーラーの名前にちなんで命名された。
|
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"text": "グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。",
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"text": "1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。",
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"text": "夫妻の間には14人の子供が産まれている。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという。",
"title": "生涯"
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"text": "父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した。",
"title": "生涯"
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"text": "母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている。",
"title": "生涯"
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"text": "本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという。1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である。1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移りユダヤ人商人のモーリッツ・グリューンフェルトのもとに下宿する。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ。この年に弟エルンストが死去する。1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した。1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』を作曲する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 9,
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"text": "1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 10,
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"text": "1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。",
"title": "生涯"
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"text": "夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月に再び渡米。体調も回復し旺盛な指揮活動を続ける。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。10月にニューヨークに戻る。",
"title": "生涯"
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"text": "1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)にも発熱。連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断され、パリで治療を受けるが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)!」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない。",
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"text": "なお、アルマの墓はその斜め後ろにあり、アルマの2番目の夫との娘でアルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲を捧げたマノン・グロピウスと共に埋葬されている。",
"title": "生涯"
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"text": "出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている。",
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"text": "酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった。しかし本人はあまり酒に強くなかった。",
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"text": "アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。",
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"paragraph_id": 30,
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"text": "マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ、1892年1月にハンブルクでオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者チャイコフスキーが友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。",
"title": "指揮者として"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている。もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。",
"title": "指揮者として"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。",
"title": "指揮者として"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている。",
"title": "指揮者として"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。",
"title": "指揮者として"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。",
"title": "ブルックナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている。",
"title": "ブルックナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している。",
"title": "ブルックナーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。",
"title": "シェーンベルクとの関係"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モルが男を押さえ込んだ。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」",
"title": "シェーンベルクとの関係"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている。",
"title": "シェーンベルクとの関係"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった。",
"title": "シェーンベルクとの関係"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにもかかわらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている。",
"title": "作風"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。",
"title": "主要作品"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "小惑星(4406) Mahlerはマーラーの名前にちなんで命名された。",
"title": "マーラーに関連する事物"
}
] |
グスタフ・マーラーは、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。
|
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = グスタフ・マーラー<br /><small>Gustav Mahler</small>
| Img = Gustav Mahler 1909.jpg
| Img_capt = 1909年のマーラー
| Img_size = 250px<!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
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| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = <!-- 個人のみ -->
| Born = {{生年月日と年齢|1860|7|7|no}}
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1860|7|7|1911|5|18}}<br />{{AUT1867}}、[[ウィーン]]
| Origin = {{AUT1804}}、[[ボヘミア王国]]、[[カリシチェ (ペルフジモフ郡)|カリシュト]]
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
| Genre = [[クラシック音楽]]
| Occupation = 作曲家・指揮者
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}}
{{Portal クラシック音楽}}
[[ファイル:Mahler-signature.svg|thumb|right|280px|マーラーのサイン]]
'''グスタフ・マーラー'''(Gustav Mahler, [[1860年]][[7月7日]] - [[1911年]][[5月18日]])は、主に[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で活躍した[[作曲家]]、[[指揮者]]。[[交響曲]]と[[歌曲]]の大家として知られる。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[ファイル:Jihlava 2007.jpg|thumb|200px|right|マーラーの生家]]
[[ファイル:Gustav mahler as child.jpg|thumb|200px|right|1865年のマーラー]]
[[ファイル:Gustav-Mahler-Kohut.jpg|thumb|200px|right|1892年のマーラー]]
[[ファイル:Gustav Mahler Emil Orlik 1902.jpg|thumb|200px|right|1902年のマーラー]]
[[1860年]] [[7月7日]]、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、[[オーストリア帝国]]に属する[[ボヘミア王国]]のイーグラウ(Iglau、現[[チェコ]]の[[イフラヴァ]] Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコの[[カリシチェ (ペルフジモフ郡)|カリシュチェ]] Kaliště)に生まれた。
夫妻の間には14人の子供が産まれている<ref group="注釈">イージドール、グスタフ、エルンスト、レオポルディーネ、カール、ルドルフ、アロイス、ユスティーネ、アルノルト、フリードリヒ、アルフレート、オットー、エマ、コンラート。</ref>。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し{{Sfn|船山|1987|p=10}}<ref group="注釈">当時のヨーロッパは乳幼児の死亡率が極めて高かった。</ref>第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか[[心臓]][[水腫]]に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは[[視覚障害者|盲目]]のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという{{Sfn|アルマ|1987|p=18}}。
父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業([[行商]])を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」という[[愛称|あだ名]]で呼ばれていた{{Sfn|船山|1987|p=12}}。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウには[[キリスト教]][[ドイツ人]]も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフは[[ドイツ語]]を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた<ref>船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 11頁より。</ref>。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した{{Sfn|船山|1987|p=12}}。
母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが[[心臓]]が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。[[アルマ・マーラー]]は「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった{{Sfn|アルマ|1987|p=16}}」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた{{Sfn|船山|1987|p=12}}。
ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな[[籠]]を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちに[[ウィーン]]へ赴き[[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]に[[直訴]]する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている{{Sfn|船山|1987|p=17}}。
=== 成長と音楽家への歩み ===
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、[[アコーディオン]]を巧みに演奏したとされる{{Sfn|村井|2004|p=5}}。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏で[[ピアノ]]をいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという{{Sfn|アルマ|1987|p=17-18}}。[[1869年]](9歳)にイーグラウの[[ギムナジウム]]に入学。10歳となった[[1870年]]10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会に[[ピアニスト]]として出演した。ただし曲目は不明である{{Sfn|村井|2004|p=5}}。[[1871年]](11歳)には[[プラハ]]のギムナジウムに移りユダヤ人商人のモーリッツ・グリューンフェルトのもとに下宿する{{Sfn|村井|2004|p=36}}。
[[1872年]](12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った{{Sfn|文藝別冊|2011|p=190}}<ref group="注釈">曲は[[フランツ・リスト]]編曲『結婚行進曲と妖精の踊り』</ref>。
[[1875年]](15歳)、[[ウィーン楽友協会]]音楽院(現[[ウィーン国立音楽大学]])に入学{{Sfn|村井|2004|p=41}}。[[ピアノ]]を[[ユリウス・エプシュタイン]]に、[[和声]]学を[[ロベルト・フックス]]に、[[対位法]]と[[作曲]]を[[フランツ・クレン]]に学んだ{{Sfn|船山|1987|p=22}}。この年に弟エルンストが死去する。[[1876年]](16歳)には[[ピアノ四重奏曲 (マーラー)|ピアノ四重奏曲]]を作曲。またウィーン楽友協会音楽院で[[フランツ・シューベルト]]のピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した{{Sfn|村井|2004|p=6}}。[[1877年]](17歳)、[[ウィーン大学]]にて[[アントン・ブルックナー]]の和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。[[1878年]](18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。[[1883年]]9月(23歳)、カッセル王立劇場の[[楽長]](カペルマイスター)となる。[[1884年]](23歳)、[[ハンス・フォン・ビューロー]]に弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の『第9交響曲』と[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。[[1885年]]1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハの[[プラハ国立歌劇場|ドイツ劇場]]の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。[[1886年]]8月(26歳)、[[ライプツィヒ歌劇場]]で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』を作曲する。
=== 指揮者・交響曲作曲家としての活躍 ===
[[ファイル:Staatsoper (ca.1898).jpg|thumb|200px|left|ウィーン宮廷歌劇場]]
[[ファイル:Metropolitan opera 1905.jpg|thumb|200px|right|メトロポリタン歌劇場]]
[[1888年]](28歳)、『[[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番ニ長調]]』の第1稿が完成。10月、[[ハンガリー国立歌劇場|ブダペスト王立歌劇場]]の[[芸術監督]]となる。[[1889年]]1月(28歳)、[[リヒャルト・ワーグナー]]の『[[ラインの黄金]]』と『[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。[[1891年]]4月(30歳)、[[ハンブルク・フィルハーモニカー|ハンブルク歌劇場]]の第一楽長となる。[[1892年]]1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われた[[ピョートル・チャイコフスキー]]のオペラ『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』の[[ドイツ]]初演を指揮。
[[1894年]]12月18日(34歳)、『[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番ハ短調]]』が完成。[[1895年]]2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。[[1896年]](36歳)、シュタインバッハ([[ザルツカンマーグート]]の[[アッター湖]]近く)にて『[[交響曲第3番 (マーラー)|交響曲第3番ニ短調]]』を書く。
[[1897年]]春(36歳)、結婚などのために[[ユダヤ教]]から[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に[[改宗]]。5月、[[ウィーン国立歌劇場|ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)]]第一[[楽長]]に任命され、10月(37歳)に[[芸術監督]]となった。[[1898年]](38歳)には[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィルハーモニー]]の指揮者となる。[[1899年]]、南オーストリア・[[ヴェルター湖]]岸の{{仮リンク|マイアーニック|de|Maiernigg}}(Maiernigg)に作曲のための山荘([[別荘]])を建て『[[交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番ト長調]]』に着手(翌年に完成)。
[[1901年]]4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。
12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか<ref>船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 125頁より。</ref>」と結婚前の[[アルマ・マーラー|アルマ・シントラー]]に作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマは[[アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー]]に作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これは[[ウニヴェルザール出版社]]より出版されている。[[1902年]]3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。
夏にマイアーニックの山荘で『[[交響曲第5番 (マーラー)|交響曲第5番嬰ハ短調]]』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ([[愛称]]プッツィ)が誕生する。[[1903年]]には、オーストリア[[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。[[1904年]]4月、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]とツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『[[交響曲第6番 (マーラー)|交響曲第6番イ短調]]』を書き上げ、『[[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番ホ短調]]』の2つの「夜曲」を作曲。[[1905年]]夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。
=== 晩年と死 ===
[[ファイル:Gustav Mahler (1860–1911) und Alma Mahler (1879–1964) 1909 OeNB 12881075.jpg|サムネイル|夏休みに別荘付近を散歩するマーラー夫妻(1909)]]
[[ファイル:Grinzinger Friedhof - Gustav Mahler.jpg|thumb|200px|left|マーラーの眠る墓]]
[[1907年]](47歳)、長女マリア・アンナが[[ジフテリア]]で亡くなり、マーラー自身も[[心臓病]]と診断された。12月、[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン歌劇場]]から招かれ渡米し、『[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番変ホ長調]]』を完成。しかし翌[[1908年]]5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在の[[ドロミーティ|ドロミテ・アルプス]]北[[ドッビアーコ]])にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。
[[1909年]](49歳)、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]の指揮者となる。春、[[ヨーロッパ]]に帰る。夏にトーブラッハで『[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番ニ長調]]』に着手し、約2カ月で完成させた。10月に再び渡米。体調も回復し旺盛な指揮活動を続ける。
[[1910年]]4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際[[クロード・ドビュッシー]]や[[ポール・デュカス]]と会う。8月(50歳)、自ら精神分析医[[ジークムント・フロイト]]の診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。[[9月12日]]には[[ミュンヘン]]で『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。10月にニューヨークに戻る。
1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたが、冬に[[咽頭炎|咽喉炎]]を患い、翌[[1911年]]2月(50歳)にも発熱。[[レンサ球菌|連鎖球菌]]による[[感染性心内膜炎]]と診断され、[[パリ]]で治療を受けるが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に[[敗血症]]で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルトル]](Mozarterl)!{{Sfn|村井|2004|p=166}}<ref group="注釈">“erl”は、南ドイツおよびオーストリア[[方言]]における[[指小辞]]の変種である。「モーツァルト」を愛称形にしている。</ref>」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない{{Sfn|船山|1987|p=183}}{{Sfn|アルマ|1987|p=228}}。
なお、アルマの墓はその斜め後ろにあり、アルマの2番目の夫との娘で[[アルバン・ベルク]]が[[ヴァイオリン協奏曲 (ベルク)|ヴァイオリン協奏曲]]を捧げたマノン・グロピウスと共に埋葬されている。
== 人物 ==
[[ファイル:Gustav Mahler 1909 2.jpg|thumb|200px|left|1909年のマーラー]]
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている{{Sfn|船山|1987|p=19}}<ref group="注釈">マーラーが生まれ育った時期は、長らくドイツ民族地域の盟主として君臨してきたオーストリアが[[普墺戦争]]で敗戦し、[[プロイセン]]によって統一ドイツから除外されるという激動の時代だった。さらに[[アウスグライヒ]]でハンガリー人に内政面での大幅な譲歩を強いられ、チェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。</ref>。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず<ref group="注釈">マーラーの交響曲作品がウィーンで評価されるようになったのは晩年からである。それ以前は、マーラーの自作演奏についてウィーンのジャーナリズムなどから「自作の宣伝に憂き身をやつしてばかりいる」と中傷されることすらあった。</ref>、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、[[ニューヨーク]]でドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私は[[ボヘミアン]]です(Ich bin ein Böhme.)」と答えている<ref>Mathis-Rosenzweig, Alfred. Gustav Mahler: New Insights into His Life, Times and Work 14頁より。</ref>{{Sfn|船山|1987|p=19}}<ref group="注釈">この「ボヘミアン」という表現には、「ボヘミア地方の出身者」という文字通りの意味のほかに、ヨーロッパでは「流浪者」「自由奔放の民」([[ボヘミアニズム]])を表す比喩でもあり、いささか侮蔑的ながらも特別な含意がある。実際にボヘミア地方の出身者であると同時に「定住の地・定職がないが自由な芸術家」という意味を掛けており、一種の自嘲あるいはユーモアを込めた回答であると解することもできる。</ref>。
酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の[[ビール|黒ビール]]が好物だった{{Sfn|アルマ|1987|p=101}}。しかし本人はあまり酒に強くなかった{{Sfn|船山|1987|p=154}}。
[[アマチュアリズム]]を大いに好んだとされ、[[チャールズ・アイヴズ]]の[[交響曲第3番 (アイヴズ)|交響曲第3番]]を褒めちぎったのは、「彼も[[アマチュア]]だから」という理由が主なものだったと言われている。
マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家である[[ブルーノ・ワルター]]、[[オットー・クレンペラー]]らに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき{{Sfn|シュトンポア|1998|p=112}}<ref>ルーペルト・シェトレ 『指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝』 喜多尾道冬訳 191頁より。</ref>、そのことについて後年までマーラーに感謝していた{{Sfn|シュトンポア|1998|p=123}}<ref group="注釈">クレンペラーはこの件について、交響曲第8番になぞらえマーラーを「創造主なる精霊」(creator spiritus)であると賛美している。</ref>。そのほか、[[オスカー・フリート]]や[[ウィレム・メンゲルベルク]]など当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した{{Sfn|船山|1987|p=184}}。
一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度([[リハーサル]]で我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、[[音程]]の悪い団員や[[アインザッツ]]が揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の[[反ユダヤ主義]]の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、[[ヴァイオリン]]奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。[[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]]もひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ<ref group="注釈">「ユダヤ人ではない」という意味。</ref>。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った{{Sfn|アルマ|1987|p=32}}。当時のウィーンの音楽[[報道|ジャーナリズム]]からも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。
なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している{{Sfn|シュトンポア|1998|p=112}}。
:“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”
加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ{{Sfn|シュトンポア|1998|p=119}}、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。
マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ<ref>『マーラー 音楽の手帖』「立ったまま夢見る男」([[堤清二|辻井喬]])14頁より。</ref>。
しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、[[リヒャルト・シュトラウス]]のことに触れた際に登場している。以下がその一文である{{Sfn|アルマ|1987|p=259}}{{Sfn|船山|1987|p=184}}。
:“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”
== 指揮者として ==
[[ファイル:Mahler conducting caricature.jpg|thumb|200px|right|カリカチュア『超モダンな指揮者』(ハンス・シュリースマン作)]]
マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在な[[テンポ]]変化、激しい身振りと小節線に囚われない[[草書体|草書]]的な指揮法は、[[カリカチュア]]化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな[[絵画]]のようだった」(ワルターによる証言)と変化した。
マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月に[[ブダペスト]]で上演された『[[ドン・ジョヴァンニ]]』を聴いた[[ヨハネス・ブラームス]]は、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ{{Sfn|船山|1987|p=54}}、1892年1月に[[ハンブルク]]でオペラ『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。
マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]はマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという[[逸話]]が残っている<ref>Taubman, Howard (1977). The Maestro: The Life of Arturo Toscanini. 119頁より。</ref><ref group="注釈">これはマーラーとトスカニーニの指揮者としての姿勢の違いを考慮する必要がある。マーラーが活躍した時代、指揮者は「作曲者がいま生きていたらこうするはず」と、楽器や演奏技術の進歩を念頭に置いた「主観的修正」をし演奏することが作法であり教養だった。当然、その姿勢は(マーラーとは6年半しか年齢差がないとはいえ)「新しい指揮者」であるトスカニーニとは全く違う。</ref>。もっとも、[[ロベルト・シューマン]]の『[[交響曲第2番 (シューマン)|交響曲第2番]]』『[[交響曲第3番 (シューマン)|交響曲第3番]]』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。
[[オーケストラ]]演奏の[[録音]]は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いた[[ピアノロール]](最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。
指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている{{Sfn|アルマ|1987|p=100}}。
:“全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい”
:“音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる”
:“識別できる極限のところが[[wikt:presto|プレスト]]の正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である”
:“聴衆が[[wikt:adagio|アダージョ]]についてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよ”
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、[[ハンガリー語]]で統一したワーグナーを上演した{{Sfn|船山|1987|p=54}}。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーは[[クラック (オペラ)|さくら]]を廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した{{Sfn|船山|1987|p=99}}。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、[[やらせ]]の[[拍手]]や[[ブラヴォー]]をし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。
== ブルックナーとの関係 ==
ウィーンを中心に活動した[[交響曲作曲家]]の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている([[#成長と音楽家への歩み|前出]])。同年マーラーは『[[交響曲第3番 (ブルックナー)|ブルックナーの交響曲第3番]]』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている{{Sfn|船山|1987|p=26-27}}。
ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが<ref>船山隆 『グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯』 27頁より。</ref>、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している<ref>アルマ・マーラー 『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』 石井宏訳 194頁より</ref>。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の[[印税]]を放棄している<ref name="名前なし-8">土田英三郎 『ブルックナー カラー版作曲家の生涯』 155頁より。</ref>。
== シェーンベルクとの関係 ==
マーラーは14歳年下である[[アルノルト・シェーンベルク]]の才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。
彼の『[[弦楽四重奏曲第1番 (シェーンベルク)|弦楽四重奏曲第1番]]』と『[[室内交響曲第1番 (シェーンベルク)|室内交響曲第1番ホ長調]]』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していた[[カール・モル]]が男を押さえ込んだ<ref group="注釈">小柄なマーラーに対し、モルは大男だった。</ref>。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた{{Sfn|アルマ|1987|p=200}}{{Sfn|村井|2004|p=130}}。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わっての[[ブーイング]]の中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った{{Sfn|アルマ|1987|p=201}}{{Sfn|村井|2004|p=130}}{{Sfn|船山|1987|p=156}}。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」
シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している<ref name="名前なし-8"/>。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている{{Sfn|アルマ|1987|p=428}}。
ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった{{Sfn|船山|1987|p=154}}。
== 作風 ==
マーラーは、[[ポリフォニー]]について独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である{{Sfn|船山|1987|p=148}}。
:“諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、[[リズム]]の性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”
[[ファイル:Mahler Composition Hut Klagenfurt.jpg|thumb|200px|left|マーラーの作曲小屋]]
マーラーの交響曲は大規模なものが多く、[[声楽]]パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。
楽器に関し、マーラーは[[カウベル]]、[[鞭]]、[[チェレスタ]]、[[マンドリン]]、[[鉄琴]]や[[木琴]]など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型の[[槌|ハンマー]]は、人々の度肝を抜いた{{Sfn|村井|2004|p=231}}。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」([[:en:Gustav Mahler#Reception|英語版]]参照)
歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家の[[ルチアーノ・ベリオ]]は、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。
多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に[[多調]]・[[無調]]的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「[[新ロマン主義音楽|新ロマン主義]]」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり<ref>長木誠司 『クラシック音楽の20世紀 第2巻』 234頁より。</ref>、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、[[アルバン・ベルク|ベルク]]などが再評価された<ref>長木誠司 『クラシック音楽の20世紀 第2巻』 113頁より。</ref>。
現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにもかかわらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、[[ゲオルク・ショルティ]]はこう述べている<ref>ゲオルク・ショルティ 『ショルティ自伝』 255、256頁より。</ref>。
:“マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲なら[[コンサートホール]]は必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”
== 主要作品 ==
[[ファイル:Zasche-Theo Gustav-Mahler-1906.jpg|thumb|300px|right|自作の交響曲第1番を指揮するマーラーを描いたカリカチュア(テオ・ツァッシェ作)マーラーの勇猛な指揮ぶりと型破りな作品が共に皮肉られている]]
[[ファイル:Gustav_Mahler_silhouette_Otto_Böhler.jpg|thumb|300px|right|{{仮リンク|オットー・ベーラー|en|Otto Böhler}}による[[影絵]]]]
{{main|グスタフ・マーラーの作品一覧}}
=== 交響曲・管弦楽曲 ===
* [[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番ニ長調]](1884-88) - [[ジャン・パウル]]の小説に由来する副題『巨人』は、最終的にマーラー自身により削除されている。
* [[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番ハ短調]](1888-94) - 独唱([[ソプラノ]]、[[アルト]])と合唱を伴う。広く知られる副題『復活』は、マーラーによって付けられたものではない。
* [[交響曲第3番 (マーラー)|交響曲第3番ニ短調]](1893-96) - 独唱(コントラルト)、合唱と少年合唱を伴う。
* [[交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番ト長調]](1899-1900) - 独唱(ソプラノ)付。独唱は終曲である第4楽章で歌われる。
* [[交響曲第5番 (マーラー)|交響曲第5番嬰ハ短調]](1901-02) - マーラー絶頂期の作品。
* [[交響曲第6番 (マーラー)|交響曲第6番イ短調]](1903-04) - 広く知られる副題『悲劇的』は、マーラーによって付けられたものか不明。中間楽章の配置(演奏順)には、今なお議論がある。
* [[交響曲第7番 (マーラー)|交響曲第7番ホ短調]](1904-05) - 第2、第4楽章『夜曲(''Nachtmusik'')』に由来する『夜の歌(''Lied der Nacht'')』という通称は、後世のものであり、マーラーおよび作品には無関係である<ref>[[前島良雄]] 『マーラーを識る』 144頁から。</ref>。
* [[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番変ホ長調]](1906) - 独唱(各8声部)、2群の合唱、少年合唱付と大オーケストラのための。『千人の交響曲』という名でも知られるが、これは初演時の興行主であるエミール・グートマンが話題づくりのために付けたものであり、マーラー自身はこの呼び名を認めていない<ref>[[前島良雄]] 『マーラーを識る』 174頁から。</ref>。
* [[大地の歌|交響曲イ短調『大地の歌』]](1908) - 独唱([[テノール]]、コントラルトまたは[[バリトン]])付、最後の歌曲としての分類もある。
* [[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番ニ長調]](1909)
* [[交響曲第10番 (マーラー)|交響曲第10番嬰ヘ長調]](1910) - 未完成。[[デリック・クック]]らによる補作(完成版)あり。
=== 声楽曲 ===
* カンタータ『[[嘆きの歌]]』(Das klagende Lied, 1878-80)
* 歌曲集『[[若き日の歌]]』(Lieder und Gesänge, 1880-91) - 全3集14曲
* 歌曲集『[[さすらう若者の歌]]』(Lieder eines fahrenden Gesellen, 1883-85) - 全4曲
* 歌曲集『[[少年の魔法の角笛 (マーラー)|少年の魔法の角笛]]』(Des Knaben Wunderhorn, 1892-98) - 全12曲
* [[リュッケルト歌曲集|リュッケルトの詩による5つの歌]](Rückert-Lieder, 1901-03) - 全5曲
* 歌曲集『[[亡き子をしのぶ歌]]』(Kindertotenlieder, 1901-04) - 全5曲
=== その他の作品 ===
* [[ピアノ四重奏曲 (マーラー)|ピアノ四重奏曲断章 イ短調]](1876) - ウィーン音楽院に在籍していた頃の室内楽曲。1973年に再発見されている。
* 交響的前奏曲ハ短調(1876頃) - 偽作とみなされることが多い。[[ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲#交響的前奏曲|ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲]]も参照のこと。
* 交響詩『葬礼』(Todtenfeier, 1891) - 本来、[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番]]の第1楽章の初稿である。
* 花の章(Blumine, 1884-88) - 本来、[[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番]]の第2楽章として作曲されたが、1896年の改訂で削除された。
=== オペラ ===
以下の3曲の[[オペラ]]はいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。
* 『シュヴァーベン侯エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben, 1875-78)
* 『アルゴー船の人々』(Die Argonauten, 1878-80)
* 『リューベツァール』(Rübezahl, 1879-83)
=== 編曲作品 ===
* [[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]:オペラ『3人のピント』の補筆
:原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補筆を依頼し、1887年に完成された。補筆版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。
* ブルックナー:[[交響曲第3番 (ブルックナー)|交響曲第3番 ニ短調『ワーグナー』]]
:[[1878年]]に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの。
* ベートーヴェン:[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』]]・[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|第5番 ハ短調 作品67『運命』]]・[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|第7番 イ長調 作品92]]・[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第9番 ニ短調 作品125『合唱付き』]]
:交響曲第9番の第1楽章にトロンボーンやチューバを取り入れている。
* ベートーヴェン:[[弦楽四重奏曲第11番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第11番『セリオーソ』]]
:原曲を弦楽合奏版にしたもの。
* シューベルト:[[交響曲第8番 (シューベルト)|交響曲第8番ハ長調『ザ・グレート』 D944]]
* シューベルト:[[弦楽四重奏曲第14番 (シューベルト)|弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』]]
:原曲を弦楽合奏版にしたもの。
* シューマン:交響曲全曲
:近年では[[リッカルド・シャイー]]がこの編曲版を全曲録音している。
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]:[[管弦楽組曲]](1909年)
:原曲の第2番と第3番のなかから5曲を選び、新しい組曲の形式へと編曲したもの。
== マーラーに関連する事物 ==
=== 楽団 ===
* [[グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団]] - 1986年に[[クラウディオ・アバド]]により設立されたオーケストラ。ユーゲント(若者)の名称通り、団員資格は26歳以下である。
* [[マーラー室内管弦楽団]] - 1997年に、アバドとグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団のOBにより設立された[[重奏|室内管弦楽団]]。
=== 芸術作品 ===
* 『[[マーラー (映画)|マーラー]]』 - 1974年、[[ケン・ラッセル]]監督の映画。
* [[グスタフ・クリムト|クリムト]]『ベートーヴェン・フリーズ』 - マーラーをモデルとした人物が描かれているとされる。
* [[トーマス・マン]]の小説『[[ヴェニスに死す]]』 - 主人公(グスタフ・フォン・アッシェンバッハ Gustav von Aschenbach)は、マーラーにインスピレーションを得て創作された人物とされている。
* 『[[ベニスに死す (映画)|ベニスに死す]]』 - 上記小説の映画化。[[ルキノ・ヴィスコンティ]]監督作品。原作での小説家という設定は作曲家に変更されて更にマーラーを思わせるものになっただけでなく、マーラーの交響曲第5番の第4楽章(および交響曲第3番の第4楽章)が映画音楽として使われた。さらに劇中、原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、主人公と音楽論を戦わせるシーンを用意している。
* 同じくマンの小説『[[ファウストゥス博士]]』 - 主人公(アドリアン・レーヴァーキューン Adrian Leverkühn)が作曲家に設定されており、こちらもマーラーを想定しているとされている。
* [[サントリーローヤル]] [[テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]](1986年)
* 『Bride of the Wind』 - 2001年、[[ブルース・ベレスフォード]]監督の映画(日本未公開)。『Bride of the Wind』(風の花嫁)は、アルマ未亡人の恋人になった画家、[[オスカー・ココシュカ]]の代表作(1914年)のタイトルでもある。
* 『グスタフ・マーラー 時を越える旅』(Gustav Mahler - Sterben werd'ich um zu leben) - 1987年、[[:de:Wolfgang Lesowsky|ヴォルフガング・レゾウスキー]]監督のオーストリア・西ドイツ合作映画(原題は交響曲第2番終楽章の歌詞「私は生きるために死のう」にもとづく)
* 『[[マーラー 君に捧げるアダージョ]]』 - 2010年、[[:en:Percy Adlon|パーシー・アドロン]]、フェリックス・アドロン監督のドイツ・オーストリア合作映画
* 『Requiem in Vienna』 - 2010年、J・シドニー・ジョーンズ(J. Sydney Jones)作のウィーンを舞台にしたミステリー・シリーズの第2作。- ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督グスタフ・マーラーの命を狙う事件が続発し……。
* 『The Premiere: A Case of the Ridiculous and the Sublime』- 2012年、スティーヴン・リース(Stephen Lees)作の小説。1910年、交響曲第8番のロンドン初演をめぐる物語。語り手はマーラーの友人のフリードリヒ・レーア。
* ジェイソン・スター([[:en:Jason_Starr_(filmmaker)]])監督がマーラー作品にまつわる映画(''What the Universe Tells Me: Unraveling the Mysteries of Mahler's Third Symphony''; ''Of Love, Death and Beyond – Exploring Mahler's "Resurrection" Symphony''; ''Everywhere and Forever – Mahler's Song of the Earth'')、マーラー研究家のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記映画 (''For the Love of Mahler: The Inspired Life of Henry-Louis de la Grange'')、さらにマーラー作品のコンサート映像をいくつか製作している。
=== その他 ===
[[小惑星]][[マーラー (小惑星)|(4406) Mahler]]はマーラーの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4406|title=(4406) Mahler = 1933 HF = 1978 GA5 = 1978 JJ3 = 1979 OD4 = 1983 CS5 = 1987 YD1 = 1989 FN|publisher=MPC|accessdate=2021-10-08}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |translator= |year=1980 |title=マーラー 音楽の手帖 |publisher=[[青土社]] |page= |id= |isbn= |quote= }}
* {{Cite book|和書 |author=[[アルマ・マーラー]] |authorlink= |coauthors= |translator=[[石井宏 (音楽評論家)|石井宏]] |year=1987 |title=グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想 |publisher=[[中公文庫]] |page= |id= |isbn=4122014484 |quote= |ref={{SfnRef|アルマ|1987}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[船山隆]] |coauthors= |translator= |year=1987 |title=グスタフ・マーラー カラー版作曲家の生涯 |publisher=[[新潮社]] |page= |id= |isbn=4101038112 |quote= |ref={{SfnRef|船山|1987}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[土田英三郎]] |coauthors= |translator= |year=1988 |title=ブルックナー カラー版作曲家の生涯 |publisher=新潮社 |page= |id= |isbn=4101066116 |quote=}}
* {{Cite book|和書 |author=[[長木誠司]] |coauthors= |translator= |year=1993 |title=クラシック音楽の20世紀 第2巻 |publisher=[[音楽之友社]] |page= |id= |isbn=9784276121928 |quote=}}
* {{Cite book|和書 |author=ゲオルク・ショルティ |coauthors= |translator=[[木村博江]] |year=1998 |title=ショルティ自伝 |publisher=[[草思社]] |page= |id= |isbn=4794208537 |quote=}}
* {{Cite book|和書 |author=シュテファン・シュトンポア |coauthors= |translator=[[野口剛夫]] |year=1998 |title=クレンペラー 指揮者の本懐 |publisher=[[春秋社]] |page= |id= |isbn=4393934504 |quote= |ref={{SfnRef|シュトンポア|1998}}}}
* {{Cite book|和書 |author=アルマ・マーラー |coauthors= |translator=酒田健一 |year=1999 |title=マーラーの思い出 |publisher=[[白水社]] |page= |id= |isbn=4560037442 |quote=}}
* {{Cite book |和書 |last= |first= |author=ルーペルト・シェトレ |authorlink= |coauthors= |translator=[[喜多尾道冬]] |year=2003 |title=指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝 |publisher=音楽之友社 |page= |id= |isbn=4276217849 |quote= }}
* {{Cite book|和書 |author=[[村井翔]] |coauthors= |translator= |year=2004 |title=マーラー(作曲家・人と作品シリーズ) |publisher=音楽之友社 |page= |id= |isbn=4276221889 |quote= |ref={{SfnRef|村井|2004}}}}
* {{Cite book|和書 |coauthors= |translator= |year=2011 |title=文藝別冊 マーラー |publisher=[[河出書房新社]] |page= |id= |isbn=4309977502 |quote= |ref={{SfnRef|文藝別冊|2011}}}}
* {{Cite book |和書 |last= |first= |author=[[前島良雄]] |authorlink= |coauthors= |translator= |year=2014 |title=マーラーを識る |publisher=アルファベータブックス |page= |id= |isbn=4871983137 |quote= }}
* {{Cite book | |last=Taubman |first=Howard |author= |authorlink= |coauthors= |translator= |year=1977 |title=The Maestro: The Life of Arturo Toscanini |publisher=Greenwood Press Reprint |page= |id= |isbn=0837194342 |quote= }}
* {{Cite book | |last=Mathis-Rosenzweig |first=Alfred |author= |authorlink= |coauthors= |translator= |year=2007 |title=Gustav Mahler: New Insights into His Life, Times and Work |publisher=Routledge |page= |id= |isbn=0754653536 |quote= }}
== 関連項目 ==
* [[レナード・バーンスタイン]]
* [[ブルーノ・ワルター]]
* [[オットー・クレンペラー]]
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]
* [[グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団]]
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Mahler%2C_Gustav|cname=グスタフ・マーラー}}
* {{Kotobank|マーラー}}
{{先代次代|[[ライプツィヒ歌劇場]]<br>総監督|1886年 - 1888年|[[アルトゥル・ニキシュ]]|[[オットー・ローゼ]]}}
{{先代次代|[[プラハ国立歌劇場]]<br>指揮者|1888年 - 1891年|初代|[[カール・ムック]]}}
{{先代次代|[[ハンブルク・フィルハーモニカー|ハンブルク市立歌劇場]]<br>音楽監督|1891年 - 1897年|[[ハンス・フォン・ビューロー]]|[[オットー・クレンペラー]]}}
{{ウィーン国立歌劇場監督}}
{{ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 首席指揮者}}
{{メトロポリタン歌劇場指揮者}}
{{ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まあらあ くすたふ}}
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常用対数
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常用対数(じょうようたいすう、英: common logarithm)あるいはブリッグスの対数(英: Briggsian logarithm)は 10 を底とする対数のことである。
任意の正の数 x に対し、x = 10 により定められる実数 a を、10 を底 (base) とする x の常用対数 (common logarithm) といい、記号 log10 x で表す。つまり、
となる。このとき、x を真数 (antilogarithm) という(用語などの詳細 は、おおもとの対数の項を参照されたい)。
数学者ヘンリー・ブリッグスが、ネイピアの対数を発案したジョン・ネイピアと議論をして、この定義のような改良を提案し常用対数表を作成したことによりブリッグスの対数とも呼ばれる。
例えば、log10 100 = 2, log10 1000 = 3, log10 2 ≒ 0.3010, log10 3 ≒ 0.4771 である。ある常用対数(例えば log10 200 ≒ 2.3010)の整数部分 (2) をその常用対数の指標または標数 (characteristic)、小数部分 (0.301) を仮数 (mantissa) と言う。
マグニチュード、水素イオン指数、デシベルのように、科学的な調査における測定値の対数的な性質を調べる場合に用いられている事が多い。
ほとんどの場合に常用対数しか使わず、誤解の無い分野や文献では、底である 10 はしばしば省略を受け、単に log x と書かれる。ISO 80000-2はlg xという記法を推奨している(その他の底に関する略記に関しては、対数の項を参照)。
常用対数の値は、その真数の十進法表示の桁数の目安になる。実際、x が自然数のとき、x の桁数は、log x の整数部分 ⌊log x⌋ に 1 を足した数に等しい(⌊ ⌋ は床関数)。すなわち、n − 1 ≦ log x < n(n は自然数)の時、x は n 桁の自然数であると断定できる。また、0 < x < 1 の実数のとき、x の小数首位(小数点以下に最初に現れる、0 でない桁)は、−⌊log x⌋ で与えられる。
底の変換公式 loga x logb a = logb x を用いれば、常用対数の値は同じ真数に対する自然対数の log10 e ≒ 0.43 倍となることがわかる。
常用対数のもっとも身近な例のひとつが、化学で使われる水素イオン指数である。これは次のように定義されている。
任意の正の数 x は、x = a × 10 (1 ≦ a < 10, s は整数)の形で表せる。したがって、任意の真数 x に対する常用対数 log10 x の値を知りたいときには、log10 x = s + log10 a より、真数が 1 以上 10 未満のときの値から算出することができる。
下記の常用対数表は、左の列に真数の小数第1位までが、上の行に真数の小数第2位が書かれている。例えば、log10 1.23 の値は、1.2 の行と 3 の列を読むことより、約 0.0899 とわかる。
常用対数を利用して、非常に大きい数や非常に小さい数の位を求めることができる。例えば、x が自然数の場合、x の桁数を n (n = ⌊log10 x⌋ + 1) とすると、x の最高位の数字 a (a = 1~9) は
すなわち
で与えられる。それを知るには、
を用いればよい。これを用いて、例えば log10 5 = 1 − log10 2 などにより、1桁 (1~9) の常用対数の概数が求まる。
10 の冪およびその逆数(..., 0.01, 0.1, 1, 10, 100, ...)でない有理数の常用対数は無理数である(無理数の中でも超越数に分類される)。したがって、常用対数表に現れる数値は log10 1.00 = 0.0000 以外すべて無理数であり、たとえば上記の表は小数第5位で四捨五入されている。
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"text": "10 の冪およびその逆数(..., 0.01, 0.1, 1, 10, 100, ...)でない有理数の常用対数は無理数である(無理数の中でも超越数に分類される)。したがって、常用対数表に現れる数値は log10 1.00 = 0.0000 以外すべて無理数であり、たとえば上記の表は小数第5位で四捨五入されている。",
"title": "有理性"
}
] |
常用対数あるいはブリッグスの対数は 10 を底とする対数のことである。
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'''常用対数'''(じょうようたいすう、{{lang-en-short|common logarithm}})あるいは'''ブリッグスの対数'''({{lang-en-short|''Briggsian logarithm''}})は [[10]] を[[底]]とする[[対数]]のことである。
== 定義と概要 ==
任意の正の数 {{mvar|x}} に対し、{{math|1=''x'' = 10<sup>''a''</sup>}} により定められる実数 {{mvar|a}} を、{{math|10}} を'''底''' ({{en|base}}) とする {{mvar|x}} の'''常用対数''' ({{en|common logarithm}}) といい、記号 {{math|log{{sub|10}} ''x''}} で表す。つまり、
:{{math|1=''x'' = 10<sup>''a''</sup> ⇔ ''a'' = log{{sub|10}} ''x''}}
となる。このとき、{{mvar|x}} を'''真数''' ({{en|antilogarithm}}) という(用語などの詳細
は、おおもとの[[対数]]の項を参照されたい)。
数学者[[ヘンリー・ブリッグス]]が、[[対数|ネイピアの対数]]を発案した[[ジョン・ネイピア]]と議論をして、この定義のような改良を提案し常用対数表を作成したことにより'''ブリッグスの対数'''とも呼ばれる。
例えば、{{math|1=log{{sub|10}} 100 = 2}}, {{math|1=log{{sub|10}} 1000 = 3}}, {{math|log{{sub|10}} 2 ≒ 0.3010}}, {{math|log{{sub|10}} 3 ≒ 0.4771}} である。ある常用対数(例えば {{math|1=log{{sub|10}} 200 ≒ 2.3010}})の整数部分 (2) をその常用対数の[[数量の比較|'''指標''']]または'''標数''' ({{en|characteristic}})、小数部分 (0.301) を'''[[仮数]]''' ({{en|mantissa}}) と言う。
[[マグニチュード]]、[[水素イオン指数]]、[[デシベル]]のように、科学的な調査における測定値の対数的な性質を調べる場合に用いられている事が多い。
ほとんどの場合に常用対数しか使わず、誤解の無い分野や文献では、底である 10 はしばしば省略を受け、単に {{math|log ''x''}} と書かれる。[[ISO 80000-2]]は{{math|lg ''x''}}という記法を推奨している(その他の底に関する略記に関しては、[[対数]]の項を参照)。
常用対数の値は、その真数の十進法表示の桁数の目安になる。実際、{{mvar|x}} が自然数のとき、{{mvar|x}} の桁数は、{{math|log ''x''}} の整数部分 {{math|⌊log ''x''⌋}} に 1 を足した数に等しい(⌊ ⌋ は[[床関数と天井関数|床関数]])。すなわち、{{math|''n'' − 1 ≦ log ''x'' < ''n''}}({{mvar|n}} は[[自然数]])の時、{{mvar|x}} は {{math|''n''}} 桁の自然数であると断定できる。また、{{math|0 < ''x'' < 1}} の[[実数]]のとき、{{mvar|x}} の小数首位(小数点以下に最初に現れる、0 でない桁)は、{{math|−⌊log ''x''⌋}} で与えられる。
底の変換公式 {{math|1=log<sub>''a''</sub> ''x'' log<sub>''b''</sub> ''a'' = log<sub>''b''</sub> ''x''}} を用いれば、常用対数の値は同じ真数に対する[[自然対数]]の {{math|log{{sub|10}} e ≒ 0.43}} 倍となることがわかる。
常用対数のもっとも身近な例のひとつが、[[化学]]で使われる[[水素イオン指数]]である。これは次のように定義されている。
:<math>\mathrm{pH} =-\log_{10} \frac{[\mathrm{H}^+]}{\mathrm{mol/L}}.</math>
=== 常用対数表 ===
任意の正の数 {{mvar|x}} は、{{math|1=''x'' = ''a'' × 10<sup>''s''</sup>}} ({{math|1=1 ≦ ''a'' < 10}}, {{mvar|s}} は整数<ref>負の整数も含むことに注意。</ref>)の形で表せる。したがって、任意の真数 {{mvar|x}} に対する常用対数 {{math|1=log{{sub|10}} ''x''}} の値を知りたいときには、{{math|1=log{{sub|10}} ''x'' = ''s'' + log{{sub|10}} ''a''}} より、真数が 1 以上 10 未満のときの値から算出することができる。
下記の常用対数表は、左の列に真数の小数第1位までが、上の行に真数の小数第2位が書かれている。例えば、{{math|log{{sub|10}} 1.23}} の値は、1.2 の行と 3 の列を読むことより、約 0.0899 とわかる。
<pre>
数 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
1.0 .0000 .0043 .0086 .0128 .0170 .0212 .0253 .0294 .0334 .0374
1.1 .0414 .0453 .0492 .0531 .0569 .0607 .0645 .0682 .0719 .0755
1.2 .0792 .0828 .0864 .0899 .0934 .0969 .1004 .1038 .1072 .1106
1.3 .1139 .1173 .1206 .1239 .1271 .1303 .1335 .1367 .1399 .1430
1.4 .1461 .1492 .1523 .1553 .1584 .1614 .1644 .1673 .1703 .1732
1.5 .1761 .1790 .1818 .1847 .1875 .1903 .1931 .1959 .1987 .2014
1.6 .2041 .2068 .2095 .2122 .2148 .2175 .2201 .2227 .2253 .2279
1.7 .2304 .2330 .2355 .2380 .2405 .2430 .2455 .2480 .2504 .2529
1.8 .2553 .2577 .2601 .2625 .2648 .2672 .2695 .2718 .2742 .2765
1.9 .2788 .2810 .2833 .2856 .2878 .2900 .2923 .2945 .2967 .2989
2.0 .3010 .3032 .3054 .3075 .3096 .3118 .3139 .3160 .3181 .3201
2.1 .3222 .3243 .3263 .3284 .3304 .3324 .3345 .3365 .3385 .3404
2.2 .3424 .3444 .3464 .3483 .3502 .3522 .3541 .3560 .3579 .3598
2.3 .3617 .3636 .3655 .3674 .3692 .3711 .3729 .3747 .3766 .3784
2.4 .3802 .3820 .3838 .3856 .3874 .3892 .3909 .3927 .3945 .3962
2.5 .3979 .3997 .4014 .4031 .4048 .4065 .4082 .4099 .4116 .4133
2.6 .4150 .4166 .4183 .4200 .4216 .4232 .4249 .4265 .4281 .4298
2.7 .4314 .4330 .4346 .4362 .4378 .4393 .4409 .4425 .4440 .4456
2.8 .4472 .4487 .4502 .4518 .4533 .4548 .4564 .4579 .4594 .4609
2.9 .4624 .4639 .4654 .4669 .4683 .4698 .4713 .4728 .4742 .4757
3.0 .4771 .4786 .4800 .4814 .4829 .4843 .4857 .4871 .4886 .4900
3.1 .4914 .4928 .4942 .4955 .4969 .4983 .4997 .5011 .5024 .5038
3.2 .5051 .5065 .5079 .5092 .5105 .5119 .5132 .5145 .5159 .5172
3.3 .5185 .5198 .5211 .5224 .5237 .5250 .5263 .5276 .5289 .5302
3.4 .5315 .5328 .5340 .5353 .5366 .5378 .5391 .5403 .5416 .5428
3.5 .5441 .5453 .5465 .5478 .5490 .5502 .5514 .5527 .5539 .5551
3.6 .5563 .5575 .5587 .5599 .5611 .5623 .5635 .5647 .5658 .5670
3.7 .5682 .5694 .5705 .5717 .5729 .5740 .5752 .5763 .5775 .5786
3.8 .5798 .5809 .5821 .5832 .5843 .5855 .5866 .5877 .5888 .5899
3.9 .5911 .5922 .5933 .5944 .5955 .5966 .5977 .5988 .5999 .6010
4.0 .6021 .6031 .6042 .6053 .6064 .6075 .6085 .6096 .6107 .6117
4.1 .6128 .6138 .6149 .6160 .6170 .6180 .6191 .6201 .6212 .6222
4.2 .6232 .6243 .6253 .6263 .6274 .6284 .6294 .6304 .6314 .6325
4.3 .6335 .6345 .6355 .6365 .6375 .6385 .6395 .6405 .6415 .6425
4.4 .6435 .6444 .6454 .6464 .6474 .6484 .6493 .6503 .6513 .6522
4.5 .6532 .6542 .6551 .6561 .6571 .6580 .6590 .6599 .6609 .6618
4.6 .6628 .6637 .6646 .6656 .6665 .6675 .6684 .6693 .6702 .6712
4.7 .6721 .6730 .6739 .6749 .6758 .6767 .6776 .6785 .6794 .6803
4.8 .6812 .6821 .6830 .6839 .6848 .6857 .6866 .6875 .6884 .6893
4.9 .6902 .6911 .6920 .6928 .6937 .6946 .6955 .6964 .6972 .6981
5.0 .6990 .6998 .7007 .7016 .7024 .7033 .7042 .7050 .7059 .7067
5.1 .7076 .7084 .7093 .7101 .7110 .7118 .7126 .7135 .7143 .7152
5.2 .7160 .7168 .7177 .7185 .7193 .7202 .7210 .7218 .7226 .7235
5.3 .7243 .7251 .7259 .7267 .7275 .7284 .7292 .7300 .7308 .7316
5.4 .7324 .7332 .7340 .7348 .7356 .7364 .7372 .7380 .7388 .7396
5.5 .7404 .7412 .7419 .7427 .7435 .7443 .7451 .7459 .7466 .7474
5.6 .7482 .7490 .7497 .7505 .7513 .7520 .7528 .7536 .7543 .7551
5.7 .7559 .7566 .7574 .7582 .7589 .7597 .7604 .7612 .7619 .7627
5.8 .7634 .7642 .7649 .7657 .7664 .7672 .7679 .7686 .7694 .7701
5.9 .7709 .7716 .7723 .7731 .7738 .7745 .7752 .7760 .7767 .7774
6.0 .7782 .7789 .7796 .7803 .7810 .7818 .7825 .7832 .7839 .7846
6.1 .7853 .7860 .7868 .7875 .7882 .7889 .7896 .7903 .7910 .7917
6.2 .7924 .7931 .7938 .7945 .7952 .7959 .7966 .7973 .7980 .7987
6.3 .7993 .8000 .8007 .8014 .8021 .8028 .8035 .8041 .8048 .8055
6.4 .8062 .8069 .8075 .8082 .8089 .8096 .8102 .8109 .8116 .8122
6.5 .8129 .8136 .8142 .8149 .8156 .8162 .8169 .8176 .8182 .8189
6.6 .8195 .8202 .8209 .8215 .8222 .8228 .8235 .8241 .8248 .8254
6.7 .8261 .8267 .8274 .8280 .8287 .8293 .8299 .8306 .8312 .8319
6.8 .8325 .8331 .8338 .8344 .8351 .8357 .8363 .8370 .8376 .8382
6.9 .8388 .8395 .8401 .8407 .8414 .8420 .8426 .8432 .8439 .8445
7.0 .8451 .8457 .8463 .8470 .8476 .8482 .8488 .8494 .8500 .8506
7.1 .8513 .8519 .8525 .8531 .8537 .8543 .8549 .8555 .8561 .8567
7.2 .8573 .8579 .8585 .8591 .8597 .8603 .8609 .8615 .8621 .8627
7.3 .8633 .8639 .8645 .8651 .8657 .8663 .8669 .8675 .8681 .8686
7.4 .8692 .8698 .8704 .8710 .8716 .8722 .8727 .8733 .8739 .8745
7.5 .8751 .8756 .8762 .8768 .8774 .8779 .8785 .8791 .8797 .8802
7.6 .8808 .8814 .8820 .8825 .8831 .8837 .8842 .8848 .8854 .8859
7.7 .8865 .8871 .8876 .8882 .8887 .8893 .8899 .8904 .8910 .8915
7.8 .8921 .8927 .8932 .8938 .8943 .8949 .8954 .8960 .8965 .8971
7.9 .8976 .8982 .8987 .8993 .8998 .9004 .9009 .9015 .9020 .9025
8.0 .9031 .9036 .9042 .9047 .9053 .9058 .9063 .9069 .9074 .9079
8.1 .9085 .9090 .9096 .9101 .9106 .9112 .9117 .9122 .9128 .9133
8.2 .9138 .9143 .9149 .9154 .9159 .9165 .9170 .9175 .9180 .9186
8.3 .9191 .9196 .9201 .9206 .9212 .9217 .9222 .9227 .9232 .9238
8.4 .9243 .9248 .9253 .9258 .9263 .9269 .9274 .9279 .9284 .9289
8.5 .9294 .9299 .9304 .9309 .9315 .9320 .9325 .9330 .9335 .9340
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8.8 .9445 .9450 .9455 .9460 .9465 .9469 .9474 .9479 .9484 .9489
8.9 .9494 .9499 .9504 .9509 .9513 .9518 .9523 .9528 .9533 .9538
9.0 .9542 .9547 .9552 .9557 .9562 .9566 .9571 .9576 .9581 .9586
9.1 .9590 .9595 .9600 .9605 .9609 .9614 .9619 .9624 .9628 .9633
9.2 .9638 .9643 .9647 .9652 .9657 .9661 .9666 .9671 .9675 .9680
9.3 .9685 .9689 .9694 .9699 .9703 .9708 .9713 .9717 .9722 .9727
9.4 .9731 .9736 .9741 .9745 .9750 .9754 .9759 .9763 .9768 .9773
9.5 .9777 .9782 .9786 .9791 .9795 .9800 .9805 .9809 .9814 .9818
9.6 .9823 .9827 .9832 .9836 .9841 .9845 .9850 .9854 .9859 .9863
9.7 .9868 .9872 .9877 .9881 .9886 .9890 .9894 .9899 .9903 .9908
9.8 .9912 .9917 .9921 .9926 .9930 .9934 .9939 .9943 .9948 .9952
9.9 .9956 .9961 .9965 .9969 .9974 .9978 .9983 .9987 .9991 .9996
</pre>
== 位(くらい)の求値 ==
常用対数を利用して、非常に大きい数や非常に小さい数の位を求めることができる。例えば、{{mvar|x}} が自然数の場合、{{mvar|x}} の桁数を {{mvar|n}} ({{math|1=''n'' = ⌊log{{sub|10}} ''x''⌋ + 1}}) とすると、{{mvar|x}} の最高位の数字 {{mvar|a}} ({{math|1=''a'' = 1~9}}) は
:{{math|1=''a'' × 10<sup>''n'' − 1</sup> ≦ ''x'' < (''a'' + 1) × 10<sup>''n'' − 1</sup>}}
すなわち
:{{math|1=log{{sub|10}} ''a'' ≦ log{{sub|10}} ''x'' − (''n'' − 1) < log{{sub|10}} (''a'' + 1)}}
で与えられる。それを知るには、
:{{math|log{{sub|10}} 2 ≒ 0.3010}}
:{{math|log{{sub|10}} 3 ≒ 0.4771}}
:{{math|log{{sub|10}} 7 ≒ 0.8451}}
を用いればよい。これを用いて、例えば {{math|1=log{{sub|10}} 5 = 1 − log{{sub|10}} 2}} などにより、1桁 (1~9) の常用対数の概数が求まる。
== 有理性 ==
10 の冪およびその逆数(…, 0.01, 0.1, 1, 10, 100, …)でない有理数の常用対数は[[無理数]]である(無理数の中でも[[超越数]]に分類される)。したがって、常用対数表に現れる数値は {{math|1=log{{sub|10}} 1.00 = 0.0000}} 以外すべて無理数であり、たとえば上記の表は小数第5位で[[四捨五入]]されている。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13266|33D2|-|SQUARE LOG}}
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== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[対数]]
*[[自然対数]]
*[[二進対数]]
*[[片対数グラフ]]
*[[レベル表現]] - [[デシベル]]
{{sci-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようようたいすう}}
[[Category:初等数学]]
[[Category:初等関数]]
[[Category:対数]]
[[Category:数学に関する記事]]
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ラーマクリシュナ
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ラーマクリシュナ(Sri Ramakrishna Paramahamsa, ベンガル語:রামকৃষ্ণ পরমহংস Ramkrishno Pôromôhongsho)、本名ガダーダル・チャットーパーディヤーエ(Gadadhar Chattopadhyay, ベンガル語:গদাধর চট্টোপাধ্যায় Gôdadhor Chôţţopaddhae、1836年2月18日 - 1886年8月16日)はインドのヒンドゥー教の出家者、弟子のヴィヴェーカーナンダらが創始した宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖。「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれるが、「シュリ」は「聖」に当たる称号で、パラマハンサは聖者に対する尊称。インドでは中間層のグル、女優・劇場の守護聖人として慕われている。子供のような特異な人柄で、多くの人を魅了した。
知性ではなく神に純粋な信仰を捧げるバクティ(信愛)運動の系譜にあり、キリスト教・西洋思想の影響を受けたブラフモ・サマージらとは異なるヒンドゥー教改革運動(英語版)の流れがラーマクリシュナの影響下で生じた。田舎の土俗のバラモンの生まれで、高度な教育を受ける機会はなく、聖典に興味を持たず、複雑な神学を説くこともなかった。様々な宗派・宗教での神秘体験によって、神々が多くの化身で現れる民衆のヒンドゥー教と、愛されるべき絶対万能の神、ブラフマンへの信仰を融合させており、ヴェーダーンタ学派に連なる思想であるとも言われる。ただし、ラーマクリシュナの思想と、師の示した真理であるという弟子のヴィヴェーカーナンダの思想はひとまとめに論じられてきたという経緯があり、ラーマクリシュナは聖人・宗祖として神聖視されているため、実際の思想の研究には困難が伴う。近年では、彼の信仰は慈悲深い母神としてのカーリー女神へのバクティを中核に形成されており、タントラ的な性格を持つことが分かってきている。
西ベンガル州フグリー県の、コルカタ(カルカッタ)の北西100キロに位置するカーマールプクルという村に生まれた。都市の周辺にあり、農村に接する場所だった。父のクデラーム・チャタジーは貧しいバラモンだった。棍棒を持つもの、を意味するガダーダルと名付けられた。母チャンドラーにとっては2人目の息子で、兄ラームクマールは30歳年上だった。
学校よりもヒンドゥーの神々の物語を覚えることに興味を持っており、エクスタシー的なトランス状態を経験するようになったという。6歳の時に最初の神秘体験をしたと主張するようになった。
彼が7歳のとき父が死亡し、兄のラームクマールが保護者になったになった。生活が苦しかったため、兄はカルカッタに出稼ぎに行って僧となり、その間にラーマクリシュナは女性のようなふるまいをし、女性の服を身に着けるようになった。この時から生涯、ラーマクリシュナのセクシュアリティ、ジェンダーに関して様々な疑問が持たれた。
16歳になると、兄の祭司の手伝いとしてコルカタに呼ばれた。コルカタでは、裕福な未亡人ラーニー・ラーシュマニーがカーリー女神からダクシネーショワルに寺院を作るように告げられる夢を見てカーリー寺院を建て、兄はそこの寺院僧になっており、ラーマクリシュナはここで兄を手伝った。田舎の聖地ではなくコルコタを拠点にしたことが、近代インドの聖者として支持を集める重要な条件になった。ラーマクリシュナはカーリー女神のカルトに加わり、この時期からラーマクリシュナの名で知られるようになった。
1855年もしくは1856年に保護者である兄が急死し、ラーマクリシュナはカーリー寺院の寺院僧になった。ラーマクリシュナはバクティを行い、ハタ・ヨーガも実践して見神の探究に没頭するようになり、弟子たちと数時間静坐し、食事も睡眠もあまり取らなくなった。カーリー女神に熱烈な信仰を抱き、一日数時間、時に数十時間もカーリー女神に話しかけ、歌い、カーリー女神を自分の母、また宇宙の母と信じ、生きる母にするように接した。カーリー女神を見ることができないことに苦しみ、ある日、カーリー女神と離れている人生に生きる意味はないと感じ、命を絶とうと寺院の女神像の前にあった刀をつかんだ。すると突然カーリー女神が現れ気を失い、カーリー女神の実在を感じるようになった。カーリー女神に抱かれ、無我・脱我・自失の状態、エクスタシー、ヒンドゥー教でいう三昧に達するようになり、カーリー女神との母子のような関係、神秘体験に没頭した。カーリー女神は、彼が避難できる唯一のところであったと述べている。
彼はバラモンであったが、下層のカーストが料理したものも喜んで食べ、犬の糞まで食べた。周囲からは正気でないと思われるようになり、寺院僧としての仕事も十分行えなかったため解雇され、母親が故郷に連れ帰った。いくらか回復すると、母は23歳のラーマクリシュナを5歳もしくは6歳の幼女サーラダー・デーヴィーと結婚させた。1859年に正式に結婚したが、幼い彼女は妻として十分な年になるまで両親のもとにとどまることになった。ラーマクリシュナは妻を置いて、サニヤーシン(遊行者)となった。
1860年に寺に戻ると、ラーマクリシュナの神秘体験、奇妙な行動が再び見られるようになった。様々な宗教の師に教えを乞うようになり、新しい宗教体験の在り方を探求するようになった。
シャクティ派の女性行者バイラヴィ・ブラフマーニー(ヨーゲースワリ)が寺院を訪れると、彼女を指導者として受け入れ、ラーマクリシュナは自身の異常な体験や身体の不具合を打ち明けた。バイラヴィ・ブラフマーニーは、ヨーガによれば狂気ではないと断言し、タントラ・サーダナ(タントラ行法)やヨーガを教えた。「ブラフマーニーは六十四のタントラに示された方法で導いてくれた。これらは難しいものであって、多くのものは足場を失ってしまい、不道徳な堕落と思われる危険なものであった。しかし母神の無限の慈悲はそれらを行っても私を無傷のままにしてくれた」という。
さらにヴァイシナバ・サーダナ(ヴィシュヌ派の行法)の幾つかの方法を修め、ハヌマーンとの同一化、シータの見神、ヴァートサルヤ・サーダナを行ってクリシュナを友として見た。最高のヴァイシナバ・サーダナを行ってクリシュナの愛人ラーダーと同一化し、クリシュナの情熱的な愛で恍惚として失神する体験をし、数日間ラーダーとなり、女性として女性達と共に生活したという。
1864年の終わり頃、哲学者で実践家である僧トーター・プリーがダクシネーシュワルを訪れた。ラーマクリシュナはカーリー女神の許可を得て、トーター・プリーの下でアドヴァイタ・ヴェーダーンタを11か月学んだ。神の実在について、人間精神は本性上神と同一であること、目に見え感じられる現実はマーヤー(幻)であることを学んだ。ラーマクリシュナがアドヴァイタ・サーダナをやっていると、最高の神秘体験であるとニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)に入ったが、それは死んだような状態で、3日も続き、トーター・プリーは自分が40年も厳しい修行をしてたどり着いた境地を弟子が易々と達成したことに非常に驚き喜んだという。こうしてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学んだことで、バクティだけでなくジュニャーナ(知恵)の面でも進歩があった。ニルヴィカルパ・サマーディを達成したラーマクリシュナは、心の中に残るカースト意識を克服すべく、自身をカースト外賤民チャンダーラと見做して、不浄な仕事に奉仕した。
他の宗教の理解・体得を目指し、1866年にはイスラム神秘主義を取り入れるようになり、グルの指導のもとアッラーの名を唱えてメッカに礼拝し、ヒンドゥーの神はカーリー女神も顧みなくなった。
1872年頃、妻の立場にあるサーラダー・デーヴィーをカーリー寺院に迎えた。以後彼女はラーマクリシュナと彼の取り巻きの少年・青年達に仕え、台所の片隅で家事をして暮らした。夫との間に性的関係はなかったと考えられており、生涯一般的な夫婦関係になることはなかった。
1874年にはキリスト教に接し、イエス・キリストのヴィジョンを見た。
ラーマクリシュナは、易々と神秘体験に入ることでコルコタ周辺で徐々に知られるようになった。
やがてラーマクリシュナの教えを聴くために、ある程度の人が集まった。その中には、のちにラーマクリシュナの高弟となり教えを引き継ぐことになるナレーンドラナート・ダッタ、のちのヴィヴェーカーナンダや、パンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)のイーシュワラ・チャンドラ・ヴィジャーサーガルなどがいた。詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールやブラフモ・サマージのケシャプ・センとも交流した。主要な弟子の1人で、地元の高等学校の校長を務めていたマヘーンドラナート・グプターは、ラーマクリシュナの言行を書きとどめ、コメントや思想の解釈を加えて『不滅の言葉(コタムリト)』として出版した。(英訳の際に、ラーマクリシュナの言葉のタントラ的な部分、性的な部分の多くが、意識的にか無意識的にか削除されたり、あいまいな表現、象徴的な表現に置き換えられている。)
ラーマクリシュナは女装することがあり、女のしなを作って信徒たちを笑わせることもあった。時に女性の身体中にすべてを呑み込む女性器の幻を見て恐怖を感じることもあり、女性への嫌悪や女性蔑視を指摘する学者もいる。妻と夫婦関係を持たず、女性たちを退け、少年・青年の弟子たちに囲まれて暮らし、はっきりしないがヴィヴェーカーナンダへの少年愛を暗示させるようなエピソードもあったことから、同性愛者だったのではという意見もあるが、明確な答えはない。女性的な面があったことは確かである。
ラーマクリシュナは、コルコタの中間層に積極的に接して支持を集めた。家庭の妻も娼婦も同じく性的な女であり修行の妨げであると考えたため、逆に娼婦出身の舞台女優であっても嫌悪せずに祝福を与えた。そのため女優や娼婦に慕われる聖者となり、女優・劇場の守護聖人となった。
1886年8月16日、コシポルのガーデンハウスにて逝去。死因は喉頭がんであった。
弟子で後継者のヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの様々な宗教での神秘体験を基盤に、あらゆる宗教が一つに帰するものであると説き、これを発展させて普遍宗教的宗教観を提示した。ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナを宗祖と仰ぐラーマクリシュナ・ミッションを設立し、この組織は「真理は一つ。賢者はそれをさまざまに呼びなす」という標語を掲げている。
ラーマクリシュナの死後、妻のサーラダー・デーヴィーは「聖母」として宗教的な活動をするようになり、ラーマクリシュナ・ミッションで亡き夫と共に崇敬されるようになった。
日本には、1944年にインド学・仏教学者の渡辺照宏が「ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動」(『民族研究所紀要 第一冊』掲載)という論文を発表して紹介した。
様々な宗教・神の神秘体験を通し、あらゆる宗教には同じ神的な神秘体験があり、全ての宗教で奉じられるそれぞれの神は、最高・唯一・絶対の存在の形の違う顕現であり、あらゆる宗教は道は異なれど同じ到達点に達するものであると説くようになった。ただし、ラーマクリシュナの思想に「超存在」としての神概念はなく、あくまでカーリー女神を特別視し、カーリ女神こそ神の主要な顕現であると信じていた。
ラーマクリシュナの思想は、後継者のヴィヴェーカーナンダら弟子たちによって解釈され紹介された。ラーマクリュシュナは、他宗教への寛容さを徹底し、次のように説いたという。
弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教・イスラム・キリスト教の内側に飛び込んで各々の宗教の神と合一したというラーマクリシュナの神秘体験をベースに、あらゆる宗教が一つに帰するものであると主張し、「個我的な自己と絶対者ブラフマンの完全合一」というヒンドゥー教の伝統的真理に立脚する教義、ヴェーダーンタ哲学のアドヴァイタ(不二一元論)という由緒正しい境地を、ラーマクリシュナの権威と共に語り、その教えは全インド、さらに欧米にまで広まった。ラーマクリシュナの思想と、ラーマクリシュナの教えた真理を広めることを使命とするというヴィヴェーカーナンダの思想を別々に論じることは難しく、ひとまとめに論じられてきたが、東海大学のインド近代史研究者の臼田雅之によると、近年の研究でラーマクリシュナの宗教心はカーリー女神へのバクティ(信愛)を中核に形成されており、タントラ的な性格を持つことが明らかになりつつある。タントラ行法がラーマクリシュナの修行の根幹であったと考えられているが、彼はこれを「汚い道(ノングラ・ポト)」だと語っており、性交を欠かせない修行の一環とする左道タントラは生理的に受け付けなかったらしく、カーリー女神は性的存在ではなく、慈愛に満ちた母神として信仰されている。
カミニ・カンチョン、女と金、性的な魅力のある女性と貨幣を、修行の妨げとなるため避けなければならないと説いた。在家の家長たちにカミニ・カンチョンを避けるよう戒め、カミニである妻からより多くのカンチョン(金銭)を稼ぐように迫られ、官庁やイギリス人が経営する商会などで、屈辱的で奴隷的な職に就くことになると考えた。カミニ・カンチョンが支配する家庭は、幸福どころか救いのない地獄であるという。ラーマクリシュナの「ただ神への信仰のみ」を強調するバクティは、社会活動を忌避するものであり、一般社会では逃避主義という批判を受ける態度であるとも言える。彼にとっては、19世紀に行われた様々な社会改革運動も、そのための組織の運営もむなしい努力に過ぎず、おもちゃ遊びであった。こうしたラーマクリシュナの社会を認識する以前の子供に近い感性は人々を惹きつけたが、当然社会に積極的に働きかける可能性もなかった。ラーマクリシュナは社会活動をひどく揶揄したが、ヴィヴェーカーナンダはこうした師の現世放棄主義を180度転換させ、現世利益に縛られない出家者たちは無私の奉仕が可能であると考え、ラーマクリシュナ・ミッションは社会奉仕にいそしんで上流中間層の支持を得た。ただし、これは社会改革ではなく、政治活動は行っていない。
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"text": "ラーマクリシュナ(Sri Ramakrishna Paramahamsa, ベンガル語:রামকৃষ্ণ পরমহংস Ramkrishno Pôromôhongsho)、本名ガダーダル・チャットーパーディヤーエ(Gadadhar Chattopadhyay, ベンガル語:গদাধর চট্টোপাধ্যায় Gôdadhor Chôţţopaddhae、1836年2月18日 - 1886年8月16日)はインドのヒンドゥー教の出家者、弟子のヴィヴェーカーナンダらが創始した宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖。「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれるが、「シュリ」は「聖」に当たる称号で、パラマハンサは聖者に対する尊称。インドでは中間層のグル、女優・劇場の守護聖人として慕われている。子供のような特異な人柄で、多くの人を魅了した。",
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"text": "知性ではなく神に純粋な信仰を捧げるバクティ(信愛)運動の系譜にあり、キリスト教・西洋思想の影響を受けたブラフモ・サマージらとは異なるヒンドゥー教改革運動(英語版)の流れがラーマクリシュナの影響下で生じた。田舎の土俗のバラモンの生まれで、高度な教育を受ける機会はなく、聖典に興味を持たず、複雑な神学を説くこともなかった。様々な宗派・宗教での神秘体験によって、神々が多くの化身で現れる民衆のヒンドゥー教と、愛されるべき絶対万能の神、ブラフマンへの信仰を融合させており、ヴェーダーンタ学派に連なる思想であるとも言われる。ただし、ラーマクリシュナの思想と、師の示した真理であるという弟子のヴィヴェーカーナンダの思想はひとまとめに論じられてきたという経緯があり、ラーマクリシュナは聖人・宗祖として神聖視されているため、実際の思想の研究には困難が伴う。近年では、彼の信仰は慈悲深い母神としてのカーリー女神へのバクティを中核に形成されており、タントラ的な性格を持つことが分かってきている。",
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"text": "西ベンガル州フグリー県の、コルカタ(カルカッタ)の北西100キロに位置するカーマールプクルという村に生まれた。都市の周辺にあり、農村に接する場所だった。父のクデラーム・チャタジーは貧しいバラモンだった。棍棒を持つもの、を意味するガダーダルと名付けられた。母チャンドラーにとっては2人目の息子で、兄ラームクマールは30歳年上だった。",
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"text": "学校よりもヒンドゥーの神々の物語を覚えることに興味を持っており、エクスタシー的なトランス状態を経験するようになったという。6歳の時に最初の神秘体験をしたと主張するようになった。",
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"text": "彼が7歳のとき父が死亡し、兄のラームクマールが保護者になったになった。生活が苦しかったため、兄はカルカッタに出稼ぎに行って僧となり、その間にラーマクリシュナは女性のようなふるまいをし、女性の服を身に着けるようになった。この時から生涯、ラーマクリシュナのセクシュアリティ、ジェンダーに関して様々な疑問が持たれた。",
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"text": "16歳になると、兄の祭司の手伝いとしてコルカタに呼ばれた。コルカタでは、裕福な未亡人ラーニー・ラーシュマニーがカーリー女神からダクシネーショワルに寺院を作るように告げられる夢を見てカーリー寺院を建て、兄はそこの寺院僧になっており、ラーマクリシュナはここで兄を手伝った。田舎の聖地ではなくコルコタを拠点にしたことが、近代インドの聖者として支持を集める重要な条件になった。ラーマクリシュナはカーリー女神のカルトに加わり、この時期からラーマクリシュナの名で知られるようになった。",
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"text": "1855年もしくは1856年に保護者である兄が急死し、ラーマクリシュナはカーリー寺院の寺院僧になった。ラーマクリシュナはバクティを行い、ハタ・ヨーガも実践して見神の探究に没頭するようになり、弟子たちと数時間静坐し、食事も睡眠もあまり取らなくなった。カーリー女神に熱烈な信仰を抱き、一日数時間、時に数十時間もカーリー女神に話しかけ、歌い、カーリー女神を自分の母、また宇宙の母と信じ、生きる母にするように接した。カーリー女神を見ることができないことに苦しみ、ある日、カーリー女神と離れている人生に生きる意味はないと感じ、命を絶とうと寺院の女神像の前にあった刀をつかんだ。すると突然カーリー女神が現れ気を失い、カーリー女神の実在を感じるようになった。カーリー女神に抱かれ、無我・脱我・自失の状態、エクスタシー、ヒンドゥー教でいう三昧に達するようになり、カーリー女神との母子のような関係、神秘体験に没頭した。カーリー女神は、彼が避難できる唯一のところであったと述べている。",
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"text": "彼はバラモンであったが、下層のカーストが料理したものも喜んで食べ、犬の糞まで食べた。周囲からは正気でないと思われるようになり、寺院僧としての仕事も十分行えなかったため解雇され、母親が故郷に連れ帰った。いくらか回復すると、母は23歳のラーマクリシュナを5歳もしくは6歳の幼女サーラダー・デーヴィーと結婚させた。1859年に正式に結婚したが、幼い彼女は妻として十分な年になるまで両親のもとにとどまることになった。ラーマクリシュナは妻を置いて、サニヤーシン(遊行者)となった。",
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"text": "1860年に寺に戻ると、ラーマクリシュナの神秘体験、奇妙な行動が再び見られるようになった。様々な宗教の師に教えを乞うようになり、新しい宗教体験の在り方を探求するようになった。",
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"text": "シャクティ派の女性行者バイラヴィ・ブラフマーニー(ヨーゲースワリ)が寺院を訪れると、彼女を指導者として受け入れ、ラーマクリシュナは自身の異常な体験や身体の不具合を打ち明けた。バイラヴィ・ブラフマーニーは、ヨーガによれば狂気ではないと断言し、タントラ・サーダナ(タントラ行法)やヨーガを教えた。「ブラフマーニーは六十四のタントラに示された方法で導いてくれた。これらは難しいものであって、多くのものは足場を失ってしまい、不道徳な堕落と思われる危険なものであった。しかし母神の無限の慈悲はそれらを行っても私を無傷のままにしてくれた」という。",
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"text": "さらにヴァイシナバ・サーダナ(ヴィシュヌ派の行法)の幾つかの方法を修め、ハヌマーンとの同一化、シータの見神、ヴァートサルヤ・サーダナを行ってクリシュナを友として見た。最高のヴァイシナバ・サーダナを行ってクリシュナの愛人ラーダーと同一化し、クリシュナの情熱的な愛で恍惚として失神する体験をし、数日間ラーダーとなり、女性として女性達と共に生活したという。",
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"text": "1864年の終わり頃、哲学者で実践家である僧トーター・プリーがダクシネーシュワルを訪れた。ラーマクリシュナはカーリー女神の許可を得て、トーター・プリーの下でアドヴァイタ・ヴェーダーンタを11か月学んだ。神の実在について、人間精神は本性上神と同一であること、目に見え感じられる現実はマーヤー(幻)であることを学んだ。ラーマクリシュナがアドヴァイタ・サーダナをやっていると、最高の神秘体験であるとニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)に入ったが、それは死んだような状態で、3日も続き、トーター・プリーは自分が40年も厳しい修行をしてたどり着いた境地を弟子が易々と達成したことに非常に驚き喜んだという。こうしてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学んだことで、バクティだけでなくジュニャーナ(知恵)の面でも進歩があった。ニルヴィカルパ・サマーディを達成したラーマクリシュナは、心の中に残るカースト意識を克服すべく、自身をカースト外賤民チャンダーラと見做して、不浄な仕事に奉仕した。",
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"text": "他の宗教の理解・体得を目指し、1866年にはイスラム神秘主義を取り入れるようになり、グルの指導のもとアッラーの名を唱えてメッカに礼拝し、ヒンドゥーの神はカーリー女神も顧みなくなった。",
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"text": "1872年頃、妻の立場にあるサーラダー・デーヴィーをカーリー寺院に迎えた。以後彼女はラーマクリシュナと彼の取り巻きの少年・青年達に仕え、台所の片隅で家事をして暮らした。夫との間に性的関係はなかったと考えられており、生涯一般的な夫婦関係になることはなかった。",
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"text": "1874年にはキリスト教に接し、イエス・キリストのヴィジョンを見た。",
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"text": "ラーマクリシュナは、易々と神秘体験に入ることでコルコタ周辺で徐々に知られるようになった。",
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"text": "やがてラーマクリシュナの教えを聴くために、ある程度の人が集まった。その中には、のちにラーマクリシュナの高弟となり教えを引き継ぐことになるナレーンドラナート・ダッタ、のちのヴィヴェーカーナンダや、パンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)のイーシュワラ・チャンドラ・ヴィジャーサーガルなどがいた。詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールやブラフモ・サマージのケシャプ・センとも交流した。主要な弟子の1人で、地元の高等学校の校長を務めていたマヘーンドラナート・グプターは、ラーマクリシュナの言行を書きとどめ、コメントや思想の解釈を加えて『不滅の言葉(コタムリト)』として出版した。(英訳の際に、ラーマクリシュナの言葉のタントラ的な部分、性的な部分の多くが、意識的にか無意識的にか削除されたり、あいまいな表現、象徴的な表現に置き換えられている。)",
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"text": "ラーマクリシュナは女装することがあり、女のしなを作って信徒たちを笑わせることもあった。時に女性の身体中にすべてを呑み込む女性器の幻を見て恐怖を感じることもあり、女性への嫌悪や女性蔑視を指摘する学者もいる。妻と夫婦関係を持たず、女性たちを退け、少年・青年の弟子たちに囲まれて暮らし、はっきりしないがヴィヴェーカーナンダへの少年愛を暗示させるようなエピソードもあったことから、同性愛者だったのではという意見もあるが、明確な答えはない。女性的な面があったことは確かである。",
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"text": "ラーマクリシュナは、コルコタの中間層に積極的に接して支持を集めた。家庭の妻も娼婦も同じく性的な女であり修行の妨げであると考えたため、逆に娼婦出身の舞台女優であっても嫌悪せずに祝福を与えた。そのため女優や娼婦に慕われる聖者となり、女優・劇場の守護聖人となった。",
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"text": "1886年8月16日、コシポルのガーデンハウスにて逝去。死因は喉頭がんであった。",
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"text": "弟子で後継者のヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの様々な宗教での神秘体験を基盤に、あらゆる宗教が一つに帰するものであると説き、これを発展させて普遍宗教的宗教観を提示した。ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナを宗祖と仰ぐラーマクリシュナ・ミッションを設立し、この組織は「真理は一つ。賢者はそれをさまざまに呼びなす」という標語を掲げている。",
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"text": "ラーマクリシュナの死後、妻のサーラダー・デーヴィーは「聖母」として宗教的な活動をするようになり、ラーマクリシュナ・ミッションで亡き夫と共に崇敬されるようになった。",
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"text": "日本には、1944年にインド学・仏教学者の渡辺照宏が「ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動」(『民族研究所紀要 第一冊』掲載)という論文を発表して紹介した。",
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"text": "様々な宗教・神の神秘体験を通し、あらゆる宗教には同じ神的な神秘体験があり、全ての宗教で奉じられるそれぞれの神は、最高・唯一・絶対の存在の形の違う顕現であり、あらゆる宗教は道は異なれど同じ到達点に達するものであると説くようになった。ただし、ラーマクリシュナの思想に「超存在」としての神概念はなく、あくまでカーリー女神を特別視し、カーリ女神こそ神の主要な顕現であると信じていた。",
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"text": "ラーマクリシュナの思想は、後継者のヴィヴェーカーナンダら弟子たちによって解釈され紹介された。ラーマクリュシュナは、他宗教への寛容さを徹底し、次のように説いたという。",
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"text": "弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教・イスラム・キリスト教の内側に飛び込んで各々の宗教の神と合一したというラーマクリシュナの神秘体験をベースに、あらゆる宗教が一つに帰するものであると主張し、「個我的な自己と絶対者ブラフマンの完全合一」というヒンドゥー教の伝統的真理に立脚する教義、ヴェーダーンタ哲学のアドヴァイタ(不二一元論)という由緒正しい境地を、ラーマクリシュナの権威と共に語り、その教えは全インド、さらに欧米にまで広まった。ラーマクリシュナの思想と、ラーマクリシュナの教えた真理を広めることを使命とするというヴィヴェーカーナンダの思想を別々に論じることは難しく、ひとまとめに論じられてきたが、東海大学のインド近代史研究者の臼田雅之によると、近年の研究でラーマクリシュナの宗教心はカーリー女神へのバクティ(信愛)を中核に形成されており、タントラ的な性格を持つことが明らかになりつつある。タントラ行法がラーマクリシュナの修行の根幹であったと考えられているが、彼はこれを「汚い道(ノングラ・ポト)」だと語っており、性交を欠かせない修行の一環とする左道タントラは生理的に受け付けなかったらしく、カーリー女神は性的存在ではなく、慈愛に満ちた母神として信仰されている。",
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"text": "カミニ・カンチョン、女と金、性的な魅力のある女性と貨幣を、修行の妨げとなるため避けなければならないと説いた。在家の家長たちにカミニ・カンチョンを避けるよう戒め、カミニである妻からより多くのカンチョン(金銭)を稼ぐように迫られ、官庁やイギリス人が経営する商会などで、屈辱的で奴隷的な職に就くことになると考えた。カミニ・カンチョンが支配する家庭は、幸福どころか救いのない地獄であるという。ラーマクリシュナの「ただ神への信仰のみ」を強調するバクティは、社会活動を忌避するものであり、一般社会では逃避主義という批判を受ける態度であるとも言える。彼にとっては、19世紀に行われた様々な社会改革運動も、そのための組織の運営もむなしい努力に過ぎず、おもちゃ遊びであった。こうしたラーマクリシュナの社会を認識する以前の子供に近い感性は人々を惹きつけたが、当然社会に積極的に働きかける可能性もなかった。ラーマクリシュナは社会活動をひどく揶揄したが、ヴィヴェーカーナンダはこうした師の現世放棄主義を180度転換させ、現世利益に縛られない出家者たちは無私の奉仕が可能であると考え、ラーマクリシュナ・ミッションは社会奉仕にいそしんで上流中間層の支持を得た。ただし、これは社会改革ではなく、政治活動は行っていない。",
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ラーマクリシュナ、本名ガダーダル・チャットーパーディヤーエはインドのヒンドゥー教の出家者、弟子のヴィヴェーカーナンダらが創始した宗教団体ラーマクリシュナ・ミッションの宗祖。「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれるが、「シュリ」は「聖」に当たる称号で、パラマハンサは聖者に対する尊称。インドでは中間層のグル、女優・劇場の守護聖人として慕われている。子供のような特異な人柄で、多くの人を魅了した。 知性ではなく神に純粋な信仰を捧げるバクティ(信愛)運動の系譜にあり、キリスト教・西洋思想の影響を受けたブラフモ・サマージらとは異なるヒンドゥー教改革運動の流れがラーマクリシュナの影響下で生じた。田舎の土俗のバラモンの生まれで、高度な教育を受ける機会はなく、聖典に興味を持たず、複雑な神学を説くこともなかった。様々な宗派・宗教での神秘体験によって、神々が多くの化身で現れる民衆のヒンドゥー教と、愛されるべき絶対万能の神、ブラフマンへの信仰を融合させており、ヴェーダーンタ学派に連なる思想であるとも言われる。ただし、ラーマクリシュナの思想と、師の示した真理であるという弟子のヴィヴェーカーナンダの思想はひとまとめに論じられてきたという経緯があり、ラーマクリシュナは聖人・宗祖として神聖視されているため、実際の思想の研究には困難が伴う。近年では、彼の信仰は慈悲深い母神としてのカーリー女神へのバクティを中核に形成されており、タントラ的な性格を持つことが分かってきている。
|
{{Infobox 哲学者
| region = {{BIN}}
| era = [[19世紀]]
| image_name = Ramakrishna at studio.jpg
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| image_alt = 1881年、コルカタにて
| image_caption = 1881年、コルカタにて
| name = ラーマクリシュナ<br />Ramakrishna Paramahamsa
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| birth_date = {{生年月日と年齢|1836|2|18|no}}
| birth_place = [[File:Flag of the British East India Company (1801).svg|25px|border]] [[イギリス東インド会社|イギリス東インド会社領]]<br />カーマールプクル
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{{Hinduism}}
'''ラーマクリシュナ'''(Sri Ramakrishna Paramahamsa, [[ベンガル語]]:রামকৃষ্ণ পরমহংস Ramkrishno Pôromôhongsho)、本名ガダーダル・チャットーパーディヤーエ(Gadadhar Chattopadhyay, ベンガル語:গদাধর চট্টোপাধ্যায় Gôdadhor Chôţţopaddhae、[[1836年]][[2月18日]] - [[1886年]][[8月16日]])はインドの[[ヒンドゥー教]]の出家者、弟子の[[ヴィヴェーカーナンダ]]らが創始した宗教団体[[ラーマクリシュナ・ミッション]]の宗祖。「シュリ・ラーマクリシュナ・パラマハンサ」とも呼ばれるが、「シュリ」は「聖」に当たる称号で、パラマハンサは聖者に対する尊称。インドでは中間層のグル、女優・劇場の守護聖人として慕われている{{sfn|臼田|2000|p=211}}。子供のような特異な人柄で、多くの人を魅了した{{sfn|セーン|1999|pp=174-175}}。
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== 生涯 ==
=== 生誕から結婚まで ===
[[File:Kamarpukur Ramakrishna Hut.jpg|サムネイル|ラーマクリシュナが生まれた小屋|左|170px]]
[[西ベンガル州]]フグリー県の、[[コルカタ]](カルカッタ)の北西100キロに位置するカーマールプクルという村に生まれた。都市の周辺にあり、農村に接する場所だった{{sfn|臼田|2000|p=224}}。父のクデラーム・チャタジーは貧しい[[バラモン]]だった{{sfn|斎藤|1982|p=60}}。棍棒を持つもの、を意味するガダーダルと名付けられた{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=241}}。母チャンドラーにとっては2人目の息子で、兄ラームクマールは30歳年上だった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=241}}。
学校よりもヒンドゥーの神々の物語を覚えることに興味を持っており、[[エクスタシー]]的な[[トランス (意識)|トランス]]状態を経験するようになったという{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=241}}。6歳の時に最初の[[神秘主義|神秘体験]]をしたと主張するようになった。
彼が7歳のとき父が死亡し、兄のラームクマールが保護者になったになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=241}}。生活が苦しかったため、兄はカルカッタに出稼ぎに行って僧となり、その間にラーマクリシュナは女性のようなふるまいをし、女性の服を身に着けるようになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|pp=241-242}}。この時から生涯、ラーマクリシュナの[[セクシュアリティ]]、[[ジェンダー]]に関して様々な疑問が持たれた{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。
16歳になると、兄の祭司の手伝いとしてコルカタに呼ばれた。コルカタでは、裕福な未亡人[[ラーニー・ラーシュマニー]]がカーリー女神からダクシネーショワルに寺院を作るように告げられる夢を見て[[ダクシネーシュワル・カーリー寺院|カーリー寺院]]を建て、兄はそこの寺院僧になっており、ラーマクリシュナはここで兄を手伝った{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}{{sfn|斎藤|1982|p=60}}。田舎の聖地ではなくコルコタを拠点にしたことが、近代インドの聖者として支持を集める重要な条件になった{{sfn|臼田|2000|p=224}}。ラーマクリシュナはカーリー女神のカルトに加わり、この時期からラーマクリシュナの名で知られるようになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。
1855年もしくは1856年に保護者である兄が急死し、ラーマクリシュナはカーリー寺院の寺院僧になった{{sfn|斎藤|1982|p=60}}{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。ラーマクリシュナは[[バクティ]]を行い、[[ハタ・ヨーガ]]も実践して見神の探究に没頭するようになり、弟子たちと数時間静坐し、食事も睡眠もあまり取らなくなった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}{{sfn|斎藤|1982|p=61}}。カーリー女神に熱烈な信仰を抱き、一日数時間、時に数十時間もカーリー女神に話しかけ、歌い、カーリー女神を自分の母、また宇宙の母と信じ、生きる母にするように接した{{sfn|増原|1967|p=342}}。カーリー女神を見ることができないことに苦しみ、ある日、カーリー女神と離れている人生に生きる意味はないと感じ、命を絶とうと寺院の女神像の前にあった刀をつかんだ。すると突然カーリー女神が現れ気を失い、カーリー女神の実在を感じるようになった{{sfn|斎藤|1982|pp=60-61}}。カーリー女神に抱かれ、無我・脱我・自失の状態、エクスタシー、ヒンドゥー教でいう三昧に達するようになり、カーリー女神との母子のような関係、神秘体験に没頭した{{sfn|増原|1967|p=342}}{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。カーリー女神は、彼が避難できる唯一のところであったと述べている{{sfn|斎藤|1982|p=61}}。
彼はバラモンであったが、下層のカーストが料理したものも喜んで食べ、犬の糞まで食べた{{sfn|斎藤|1982|p=61}}。周囲からは正気でないと思われるようになり、寺院僧としての仕事も十分行えなかったため解雇され、母親が故郷に連れ帰った{{sfn|増原|1967|p=342}}{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。いくらか回復すると、母は23歳のラーマクリシュナを5歳もしくは6歳の幼女[[サーラダー・デーヴィー]]と結婚させた。1859年に正式に結婚したが、幼い彼女は妻として十分な年になるまで両親のもとにとどまることになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。ラーマクリシュナは妻を置いて、サニヤーシン(遊行者)となった{{sfn|増原|1967|p=342}}。
=== 修行 ===
[[File:Ramakrishna_trance_1879.jpg|サムネイル|トランス状態に入るラーマクリシュナ(1879年)|170px|右]]
[[File:Panchavati Ramakrishna.jpg|サムネイル|ラーマクリシュナが修行を行った小屋(ナーシク)|右|170px]]
1860年に寺に戻ると、ラーマクリシュナの神秘体験、奇妙な行動が再び見られるようになった。様々な宗教の師に教えを乞うようになり、新しい宗教体験の在り方を探求するようになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。
[[シャクティ]]派の女性行者バイラヴィ・ブラフマーニー(ヨーゲースワリ{{sfn|田中|1980|p=83}})が寺院を訪れると、彼女を指導者として受け入れ、ラーマクリシュナは自身の異常な体験や身体の不具合を打ち明けた{{sfn|斎藤|1982|p=62}}{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。バイラヴィ・ブラフマーニーは、ヨーガによれば狂気ではないと断言し、タントラ・サーダナ(タントラ行法)やヨーガを教えた{{sfn|斎藤|1982|p=62}}{{sfn|増原|1967|p=342}}。「ブラフマーニーは六十四のタントラに示された方法で導いてくれた。これらは難しいものであって、多くのものは足場を失ってしまい、不道徳な堕落と思われる危険なものであった。しかし母神の無限の慈悲はそれらを行っても私を無傷のままにしてくれた」という{{sfn|斎藤|1982|p=62}}。
さらにヴァイシナバ・サーダナ([[ヴィシュヌ]]派の行法)の幾つかの方法を修め、[[ハヌマーン]]との同一化、[[シータ]]{{要曖昧さ回避|date=2020年2月}}の見神、ヴァートサルヤ・サーダナを行って[[クリシュナ]]を友として見た{{sfn|斎藤|1982|p=62}}。最高のヴァイシナバ・サーダナを行ってクリシュナの愛人[[ラーダー]]と同一化し、クリシュナの情熱的な愛で恍惚として失神する体験をし、数日間ラーダーとなり、女性として女性達と共に生活したという{{sfn|斎藤|1982|p=62}}。
1864年の終わり頃、哲学者で実践家である僧トーター・プリーがダクシネーシュワルを訪れた。ラーマクリシュナはカーリー女神の許可を得て、トーター・プリーの下で[[アドヴァイタ・ヴェーダーンタ]]を11か月学んだ{{sfn|斎藤|1982|pp=62-63}}。神の実在について、人間精神は本性上神と同一であること、目に見え感じられる現実は[[マーヤー]](幻)であることを学んだ{{sfn|増原|1967|p=342}}。ラーマクリシュナがアドヴァイタ・サーダナをやっていると、最高の神秘体験であるとニルヴィカルパ・サマーディ(無分別[[三昧]])に入ったが、それは死んだような状態で、3日も続き、トーター・プリーは自分が40年も厳しい修行をしてたどり着いた境地を弟子が易々と達成したことに非常に驚き喜んだという{{sfn|斎藤|1982|pp=62-63}}。こうしてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学んだことで、バクティだけでなくジュニャーナ(知恵)の面でも進歩があった{{sfn|斎藤|1982|pp=62-63}}。ニルヴィカルパ・サマーディを達成したラーマクリシュナは、心の中に残るカースト意識を克服すべく、自身をカースト外[[賤民]][[旃陀羅|チャンダーラ]]と見做して、不浄な仕事に奉仕した{{sfn|増原|1967|p=342}}。
他の宗教の理解・体得を目指し、1866年には[[イスラム神秘主義]]を取り入れるようになり、グルの指導のもと[[アッラー]]の名を唱えて[[メッカ]]に礼拝し、ヒンドゥーの神はカーリー女神も顧みなくなった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}{{sfn|増原|1967|p=342}}。
1872年頃、妻の立場にある[[サーラダー・デーヴィー]]をカーリー寺院に迎えた。以後彼女はラーマクリシュナと彼の取り巻きの少年・青年達に仕え、台所の片隅で家事をして暮らした。夫との間に性的関係はなかったと考えられており、生涯一般的な夫婦関係になることはなかった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}{{sfn|臼田|2000|pp=208-210}}。
1874年にはキリスト教に接し、イエス・キリストのヴィジョンを見た{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}{{sfn|増原|1967|p=342}}。
=== 教祖として ===
[[画像:Ramakrishna 1883 image.jpg|サムネイル|1883年の写真|left|190px]]
[[画像:Ramakrishna_Monastic_Disciples_1899.jpg|サムネイル|弟子たち。中央がヴィヴェーカーナンダ(1899年)|left|190px]]
ラーマクリシュナは、易々と神秘体験に入ることでコルコタ周辺で徐々に知られるようになった{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。
やがてラーマクリシュナの教えを聴くために、ある程度の人が集まった。その中には、のちにラーマクリシュナの高弟となり教えを引き継ぐことになるナレーンドラナート・ダッタ、のちの[[ヴィヴェーカーナンダ]]や、[[パンディット]](伝統的スタイルのバラモン学者)のイーシュワラ・チャンドラ・ヴィジャーサーガルなどがいた。詩人・思想家の[[ラビンドラナート・タゴール]]や[[ブラフモ・サマージ]]のケシャプ・センとも交流した{{sfn|斎藤|1982|pp=62-63}}。主要な弟子の1人で、地元の高等学校の校長を務めていた[[マヘーンドラナート・グプター]]は、ラーマクリシュナの言行を書きとどめ、コメントや思想の解釈を加えて『不滅の言葉([[コタムリト]])』として出版した。(英訳の際に、ラーマクリシュナの言葉の[[タントラ]]的な部分、性的な部分の多くが、意識的にか無意識的にか削除されたり、あいまいな表現、象徴的な表現に置き換えられている{{sfn|臼田|2000|p=215}}。)
ラーマクリシュナは女装することがあり、女のしなを作って信徒たちを笑わせることもあった{{sfn|臼田|2000|pp=208-210}}。時に女性の身体中にすべてを呑み込む女性器の幻を見て恐怖を感じることもあり、女性への嫌悪や女性蔑視を指摘する学者もいる{{sfn|臼田|2000|pp=208-210}}。妻と夫婦関係を持たず、女性たちを退け、少年・青年の弟子たちに囲まれて暮らし、はっきりしないがヴィヴェーカーナンダへの[[少年愛]]を暗示させるようなエピソードもあったことから、同性愛者だったのではという意見もあるが、明確な答えはない{{sfn|臼田|2000|pp=208-210}}。女性的な面があったことは確かである{{sfn|臼田|2000|pp=208-210}}。
[[File:Disciples at Ramakrishna's funeral.jpg|サムネイル|ラーマクリシュナの葬儀に集まった弟子と信者(1886年)]]
ラーマクリシュナは、コルコタの中間層に積極的に接して支持を集めた{{sfn|臼田|2000|p=224}}。家庭の妻も娼婦も同じく性的な女であり修行の妨げであると考えたため、逆に娼婦出身の舞台女優であっても嫌悪せずに祝福を与えた。そのため女優や娼婦に慕われる聖者となり、女優・劇場の守護聖人となった{{sfn|臼田|2000|pp=210-211}}。
1886年8月16日、コシポルのガーデンハウスにて逝去。死因は喉頭がんであった。
===死後===
[[File:Holy Mother worshipping at Udbodhan.jpg|サムネイル|サーラダー・デーヴィー|右|150px]]
弟子で後継者の[[ヴィヴェーカーナンダ]]は、ラーマクリシュナの様々な宗教での神秘体験を基盤に、あらゆる宗教が一つに帰するものであると説き、これを発展させて[[普遍宗教]]的宗教観を提示した{{sfn|増原|1967|p=344}}。ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナを宗祖と仰ぐ[[ラーマクリシュナ・ミッション]]を設立し、この組織は「真理は一つ。賢者はそれをさまざまに呼びなす」という標語を掲げている{{sfn|増原|1967|p=342}}。
ラーマクリシュナの死後、妻の[[サーラダー・デーヴィー]]は「聖母」として宗教的な活動をするようになり、ラーマクリシュナ・ミッションで亡き夫と共に崇敬されるようになった{{sfn|臼田|2000|pp=208-209}}。
日本には、1944年にインド学・仏教学者の[[渡辺照宏]]が「ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動」(『民族研究所紀要 第一冊』掲載)という論文を発表して紹介した{{sfn|田中|1980|p=6}}。
== 思想 ==
[[File:Ramakrishna_Marble_Statue.jpg|サムネイル|ラーマクリシュナの大理石の像(ベルールマト)|左|150px]]
様々な宗教・神の神秘体験を通し、あらゆる宗教には同じ神的な神秘体験があり、全ての宗教で奉じられるそれぞれの神は、最高・唯一・絶対の存在の形の違う顕現であり、あらゆる宗教は道は異なれど同じ到達点に達するものであると説くようになった{{sfn|増原|1967|p=342}}{{sfn|Burnett, 冨澤かな 訳|2009|p=242}}。ただし、ラーマクリシュナの思想に「超存在」としての神概念はなく、あくまでカーリー女神を特別視し、カーリ女神こそ神の主要な顕現であると信じていた{{sfn|増原|1967|pp=342-343}}。
ラーマクリシュナの思想は、後継者の[[ヴィヴェーカーナンダ]]ら弟子たちによって解釈され紹介された。ラーマクリュシュナは、他宗教への寛容さを徹底し、次のように説いたという。
#宇宙の根本神は万能であるからして有形、無形のいずれの相をとっても存在できる。
#時代・地域・民族の違いに相応した形式と教えを通じ、神は自己をさまざまに顕現する。万神は唯一神の具現にして、万教は一真理の多彩な表現である。
#人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になり得る。その時、自分の信じる神のみが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。信者が自分の宗教の正しさを信じるのはいいが、他の宗教についてはわからないというのが最も自然な態度であろう。
#自分の宗教を通じて神と合体する方法や道はいろいろある。しかし、方法や道は手段であり、目的や到達点である神そのもとと混同してはならない。
#どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神や究極の実在を求める気持ちがあればよい。{{sfn|マヘンドラナーグプタ, 田中・奈良 訳|1980|p=13}}
弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教・イスラム・キリスト教の内側に飛び込んで各々の宗教の神と合一したというラーマクリシュナの神秘体験をベースに、あらゆる宗教が一つに帰するものであると主張し、「個我的な自己と絶対者ブラフマンの完全合一」という[[ヒンドゥー教]]の伝統的真理に立脚する教義、[[ヴェーダーンタ]]哲学の[[アドヴァイタ]](不二一元論)という由緒正しい境地を、ラーマクリシュナの権威と共に語り、その教えは全インド、さらに欧米にまで広まった{{sfn|臼田|2000|pp=207-208}}{{sfn|増原|1967|pp=341-345}}。ラーマクリシュナの思想と、ラーマクリシュナの教えた真理を広めることを使命とするというヴィヴェーカーナンダの思想を別々に論じることは難しく、ひとまとめに論じられてきたが、東海大学のインド近代史研究者の臼田雅之によると、近年の研究でラーマクリシュナの宗教心は[[カーリー]]女神への[[バクティ]](信愛)を中核に形成されており、[[タントラ]]的な性格を持つことが明らかになりつつある{{sfn|臼田|2000|pp=207-208}}。タントラ行法がラーマクリシュナの修行の根幹であったと考えられているが、彼はこれを「汚い道(ノングラ・ポト)」だと語っており、性交を欠かせない修行の一環とする[[左道]][[タントラ]]は生理的に受け付けなかったらしく、カーリー女神は性的存在ではなく、慈愛に満ちた母神として信仰されている{{sfn|臼田|2000|pp=208-214}}。
カミニ・カンチョン、女と金、性的な魅力のある女性と貨幣を、修行の妨げとなるため避けなければならないと説いた{{sfn|臼田|2000|pp=210-211}}。在家の家長たちにカミニ・カンチョンを避けるよう戒め、カミニである妻からより多くのカンチョン(金銭)を稼ぐように迫られ、官庁やイギリス人が経営する商会などで、屈辱的で奴隷的な職に就くことになると考えた{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。カミニ・カンチョンが支配する家庭は、幸福どころか救いのない地獄であるという{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。ラーマクリシュナの「ただ神への信仰のみ」を強調するバクティは、社会活動を忌避するものであり、一般社会では逃避主義という批判を受ける態度であるとも言える{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。彼にとっては、19世紀に行われた様々な社会改革運動も、そのための組織の運営もむなしい努力に過ぎず、おもちゃ遊びであった{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。こうしたラーマクリシュナの社会を認識する以前の子供に近い感性は人々を惹きつけたが、当然社会に積極的に働きかける可能性もなかった{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。ラーマクリシュナは社会活動をひどく揶揄したが、ヴィヴェーカーナンダはこうした師の現世放棄主義を180度転換させ、現世利益に縛られない出家者たちは無私の奉仕が可能であると考え、ラーマクリシュナ・ミッションは社会奉仕にいそしんで上流中間層の支持を得た{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。ただし、これは社会改革ではなく、政治活動は行っていない{{sfn|臼田|2000|pp=210-212}}。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 堀内みどり 『ラーマクリシュナ 新装版』 <Century Books 人と思想 157> [[清水書院]] 2016年(原著2011年) ISBN 978-4-389-42157-1
*{{Cite book|和書 |others={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} 編、[[井上順孝]] 監訳、井上順孝・井上まどか・[[冨澤かな]]・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=[[悠書館]]|date=2009}}
**{{Cite journal|和書|ref={{SfnRef|Burnett, 冨澤かな 訳|2009}} |author=David Burnett 執筆|title = ラーマクリシュナとラーマクリシュナ・ミッション}}
*{{Cite book ja-jp |author=臼田雅之|editor=[[島岩]]・[[坂田貞二]]|chapter=ラーマクリシュナと近代インド|title =聖者たちのインド|publisher=春秋社|year=2000|ref={{Harvid|臼田|2000}} }}
* {{Cite book|和書 |author={{仮リンク|クシティ・モーハン・セーン|en|Kshitimohan Sen}}|title=ヒンドゥー教 - インド三〇〇〇年の生き方・考え方|publisher=[[講談社現代新書]]|date=1999|others=中川正生 訳|isbn=4-06-149469-4|ref={{Harvid|セーン|1999}}}}
* [[中村元 (哲学者)|中村元]] 『現代インドの思想』(中村元選集 - 決定版、第32巻) [[春秋社]]、1997年6月、538頁
* [[奈良康明]]、『ラーマクリシュナ』 <人類の知的遺産53>[[講談社]]、1983年
*{{Cite book|和書 |author=斎藤昭俊|authorlink=斎藤昭俊|title=近代インドの宗教運動|publisher=[[吉川弘文館]]|date=1982|ref={{Harvid|斎藤|1982}}}}
* [[佐保田鶴治]] 『ヨーガの宗教理念』 [[平河出版社]]、1976年10月 ISBN 4-89203-021-X
* {{Cite book ja-jp |author=[[増原良彦]]|editor=[[宇野精一]]、[[中村元 (哲学者)|中村元]]、[[玉城康四郎]]|chapter=第6章 近代インド思想 第1節 神秘思想の展開 |title =講座 東洋思想 1 インド思想 |publisher=東京大学出版会|year=1967|ref={{Harvid|増原|1967}} }}
==関連文献==
* 日本ヴェーダーンタ協会 著・翻訳 『ラーマクリシュナ僧団の三位一体と理想と活動』 "The Holy Trinity and the Ideals and Activities of The Ramakrishna Order" 日本ヴェーダーンタ協会 2001年6月3日 /改訂版 2007年6月10日 130頁
*{{Cite book|和書 |author=田中嫺玉|authorlink=田中嫺玉 |title=インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯|publisher=三学出版|date=1980|ref={{Harvid|田中|1980}}}}
*{{Cite book|和書 |author=マヘンドラナート・グプタ |others=田中嫺玉・[[奈良毅]] 共訳 |title=不滅の言葉(コタムリト)|publisher=三学出版|date=1980|ref={{SfnRef|マヘンドラナーグプタ, 田中・奈良 訳|1980}}}}
* [[マヘーンドラナート・グプター|マヘンドラナート・グプタ]] 『ラーマクリシュナの福音』(Swami Nikhilananda 英訳 "The Gospel of Sri Ramakrishna" 1942年) 日本ヴェーダーンタ協会 1987年12月24日 1135頁
* [[ロマン・ロラン]]、宮本正清 訳 『ラーマクリシュナの生涯』 <ロマンロラン全集15> [[みすず書房]]、1980年
* Colin Wilson ''The Outsider'' (Victor Gollancz,London 1956)
**[[コリン・ウィルソン]]著、[[福田恆存]]・[[中村保男]] 訳 『アウトサイダー』、紀伊國屋書店、1957年
**[[コリン・ウィルソン]]著、中村保男 訳 『アウトサイダー』 集英社文庫、集英社、1988年
== 関連項目 ==
[[画像:RamakrishnaTemple_ProvidenceRI_20150725_(21983726640).jpg|サムネイル|ラーマクリシュナの主要な弟子たちによって設立されたラーマクリシュナ・ミッションの紋章]]
* [[ブラマーナンダ]]
* [[ニキラーナンダ]]
* [[マヘーンドラナート・グプター]]
* [[ラーニー・ラーシュマニー]]
* [[ダクシネーシュワル・カーリー寺院]]
* [[ラーマクリシュナ・ミッション]]
* [[ヴィヴェーカーナンダ大学]]
* [[ラーマクリシュナ僧院]]
== 外部リンク ==
{{Wikiquote|ja:ラーマクリシュナ}}
{{Wikisource|en:Author:Ramakrishna|ラーマクリシュナ{{en icon}}}}
* [http://www.vedantajp.com/ 日本ヴェーダーンタ協会] ラーマクリシュナ・ミッション日本支部
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江戸四宿
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江戸四宿(えどししゅく)、または単に四宿は、江戸時代に五街道の各々について江戸・日本橋(北緯35度41分2.5秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.684028度 東経139.77444度 / 35.684028; 139.77444 (日本橋))に最も近い宿場町の総称で、五街道の起点である日本橋から2里(約8 km)以内のところにあった。江戸と地方を結ぶ各街道の最初の宿場町であり、江戸の出入り口として重要な役割を担い、人・物資・情報・文化の集散地として機能し、周辺地域と異なった街並みや風格をもっていた。
各々に岡場所と呼ばれる非公認の遊廓があり、飯盛女(めしもりおんな)という名目で遊女を置いていた。
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{{座標一覧}}
'''江戸四宿'''(えどししゅく)、または単に'''四宿'''は、[[江戸時代]]に[[五街道]]の各々について[[江戸]]・[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]({{Coord|35|41|2.5|N|139|46|28|E|region:JP|name=日本橋}})に最も近い[[宿場町]]の総称で、五街道の起点である日本橋から2里(約8 [[キロメートル|km]])以内のところにあった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=144}}。江戸と地方を結ぶ各街道の最初の宿場町であり、江戸の出入り口として重要な役割を担い{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=144}}、人・物資・情報・文化の集散地として機能し、周辺地域と異なった街並みや風格をもっていた<ref name=sue>[http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/4080/1/20010-02-007.pdf 旧宿場町の歴史資源を活かしたまちづくりの構造とその地域性 : 品川宿と千住宿の比較研究]末吉恵・菊地俊夫,首都大学東京 『観光科学研究(2)』. 2009-03-30</ref>。
各々に[[岡場所]]と呼ばれる非公認の[[遊廓]]があり、[[飯盛女]](めしもりおんな)という名目で[[遊女]]を置いていた。
== 一覧 ==
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!rowspan="2" |四宿!!rowspan="2" |位置!!colspan="2" |接続する街道・[[港|湊]]!!rowspan="2" |[[飯盛女]]<br />の上限
|-
![[五街道]]!!その他
|-
![[千住宿]]
|{{ウィキ座標|35|45|2.2|N|139|48|10|E|region:JP|地図|name=千住宿 本陣(奥州道中/日光道中/水戸街道)}}||[[奥州街道|奥州道中]]<br />[[日光街道|日光道中]]||[[水戸街道]]||150人
|-
![[板橋宿]]
|{{ウィキ座標|35|45|18.6|N|139|42|33.2|E|region:JP|地図|name=板橋宿 本陣(中山道/川越街道)}}||[[中山道]]||[[川越街道]]||150人
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![[内藤新宿]]
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![[品川宿]]
|{{ウィキ座標|35|37|7.7|N|139|44|39.3|E|region:JP|地図|name=品川宿 本陣(東海道/品川湊)}}||[[東海道]]||[[品川湊]]||500人
|}
== 江戸四宿を題材とした作品 ==
*四宿の屁([[古典落語]])
*明治期から大正前期に活躍した落語家・初代[[柳家小せん]](盲小せん)の演目には、品川や新宿の岡場所を舞台にしたものがあるが、現在では昔の遊郭を知っている人がほとんどいなくなったため、<!--全く演じられなくなっている。-->一部を除き演じられる機会は少なくなって来ている。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[コナーベーション]]
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[[Category:宿場]]
[[Category:日本の名数4]]
[[Category:東京都の交通史]]
[[Category:江戸時代の東京]]
[[Category:東京の花街|+歴えとししゆく]]
[[Category:遊廓]]
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アメリシウム
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アメリシウム (英: americium [ˌæməˈrɪsiəm]) は原子番号95の元素。元素記号は Am。アクチノイド元素の一つ。第3の超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は13.67で、融点は995 °C (850-1200 °C)、沸点は2600 °C。展性、延性があり、希酸に溶ける。原子価は、+2〜+6価(+3価が安定)。化学的性質はユウロピウムに類似する。発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、アメリシウム243の7370年である。
元素名は、周期表上でヨーロッパ大陸にちなんだユウロピウムの下に位置することから、アメリカ大陸の名にちなんで付けられた。
アメリシウムはおそらくそれ以前の原子核実験でも生成されていたが、それが最初に意図的に、合成、単離されたのは、1944年の晩秋、カリフォルニア大学バークレー校でグレン・シーボーグ 等 によっての事だった。 原子炉内のプルトニウム239に2個の中性子を当てると、プルトニウム241ができ、これがβ崩壊して、アメリシウム241(半減期432.2年)となる。 元素は、化学的にシカゴ大学の冶金研究所(現アルゴンヌ国立研究所)で同定された。 ネプツニウム、プルトニウム、キュリウムに続いて、アメリシウムが発見されたのは超ウラン元素として四番目だった。
アメリシウムとキュリウムの発見は、マンハッタン計画と密接に関連していたため、1945年になるまで機密情報だった。 最初にそれが公表されたのは1945年11月11日にグレン・シーボーグが、アメリカの子供のためのラジオ番組、Quiz Kidsに出演した際、リスナーの1人に、「戦争の間にプルトニウムとネプツニウムの隣の新しい超ウラン元素が見つかった?」と質問された時だったが、それはアメリカ化学会の会議で公式発表する五日前の出来事だった。
アメリシウムは剥離性がある銀白色をした放射性の金属で空気中に放置すると白く曇る。純粋なアメリシウムはネプツニウムやプルトニウムより輝いている。アメリシウム241から放出されるα線は約5.4 MeV、ガンマ線のエネルギーは非常に低く (0.06 MeV)、低エネルギーガンマ線源として蛍光X線分析装置などに用いられる。
アメリシウムには3つの同素体があり(α、β、γ)、それぞれ六方最密充填構造、体心立方格子、面心立方格子が安定である。
核爆弾の爆発に伴う生成量は爆弾の種類により変わり、大気中への放出量は不明である。半減期が最も長いアメリシウム243でも半減期は7370年のため、地球の形成時に存在していたアメリシウムは、今ではすべて崩壊している。したがって、現存しているアメリシウムは、チェルノブイリ原子力発電所事故のような原子力事故現場や大気圏核実験のため1945年から1980年の間に使用された領域と核燃料再処理施設周辺に集中している。例えば、アメリカ合衆国最初の水素爆弾アイビー作戦マイク実験(1952年11月1日、エニウェトク環礁)の核実験で使用された地点で回収された破片を分析したところ、高濃度のアメリシウムを含むアクチノイドが検出されたが、軍事機密のために検出の事実が公表されたのは1956年であった。
原子力発電の使用済み核燃料を再処理した際に発生する廃液(高レベル放射性廃棄物)中には、アメリシウムなどの核種が含まれる。これら核種はマイナーアクチニドと呼ばれる。アメリシウムを含む高レベル放射性廃棄物はガラス固化体に加工され、日本の場合は高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターで保管。ゆくゆくは地層処分されることとなるが、一方で、放射性廃棄物の低減を目的に、高速炉を利用した核変換の研究も行われている。
アメリシウム241 は、煙感知器や、厚さ計に利用される。アメリシウム242は中性子ラジオグラフィーの中で使用される。しかしアメリシウムの合成は難しく、強い放射能のため非常に高価である。
ベリリウムとの混合物は、中性子源となる。そのほか、放射線源としての利用もある。
化学的に分離精製した測定試料から放出されるアルファ線を、シリコン半導体検出器で測定する。
アメリシウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性である。アメリシウムには18の同位体が確認されており、質量範囲はアメリシウム231からアメリシウム249までがある。
発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、アメリシウム243の7370年である。ほかに432年の半減期を持つアメリシウム241、141年のアメリシウム242、が比較的安定している。残りは全てアメリシウム240の51時間よりも短い。さらにアメリシウムの同位体には八つの核異性体の同位体が存在している。
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"text": "アメリシウム (英: americium [ˌæməˈrɪsiəm]) は原子番号95の元素。元素記号は Am。アクチノイド元素の一つ。第3の超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は13.67で、融点は995 °C (850-1200 °C)、沸点は2600 °C。展性、延性があり、希酸に溶ける。原子価は、+2〜+6価(+3価が安定)。化学的性質はユウロピウムに類似する。発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、アメリシウム243の7370年である。",
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"text": "アメリシウムとキュリウムの発見は、マンハッタン計画と密接に関連していたため、1945年になるまで機密情報だった。 最初にそれが公表されたのは1945年11月11日にグレン・シーボーグが、アメリカの子供のためのラジオ番組、Quiz Kidsに出演した際、リスナーの1人に、「戦争の間にプルトニウムとネプツニウムの隣の新しい超ウラン元素が見つかった?」と質問された時だったが、それはアメリカ化学会の会議で公式発表する五日前の出来事だった。",
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アメリシウム は原子番号95の元素。元素記号は Am。アクチノイド元素の一つ。第3の超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は13.67で、融点は995 °C、沸点は2600 °C。展性、延性があり、希酸に溶ける。原子価は、+2〜+6価(+3価が安定)。化学的性質はユウロピウムに類似する。発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、アメリシウム243の7370年である。
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{{Expand English|Americium|date=2021年3月|fa=yes}}
{{Elementbox
|name=americium
|japanese name=アメリシウム
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|number=95
|symbol=Am
|left=[[プルトニウム]]
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|above=[[ユウロピウム|Eu]]
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|atomic mass=[243]
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|crystal structure=六方最密充填構造 (α-Am)
体心立方格子 (β-Am)
面心立方格子 (γ-Am)
|japanese crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states=7, 6, 5, 4, '''3''', 2([[両性酸化物]])
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|1st ionization energy=578
|atomic radius=[[1 E-10 m|173]]
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|Van der Waals radius=
|magnetic ordering=[[常磁性]]
|electrical resistivity=0.69<ref name=res>{{cite journal|last1=Muller|first1=W.|last2=Schenkel|first2=R.|last3=Schmidt|first3=H. E.|last4=Spirlet|first4=J. C.|last5=McElroy|first5=D. L.|last6=Hall|first6=R. O. A.|last7=Mortimer|first7=M. J.|title=The electrical resistivity and specific heat of americium metal|journal=Journal of Low Temperature Physics|volume=30|pages=561|year=1978|doi=10.1007/BF00116197}}</ref> µ
|electrical resistivity at 0=
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|thermal expansion at 25=
|speed of sound=
|speed of sound rod at 20=
|speed of sound rod at r.t.=
|Young's modulus=
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|Mohs hardness=
|Vickers hardness=
|Brinell hardness=
|CAS number=7440-35-9
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[アメリシウム241|241]] | sym=Am
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{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[アメリシウム242m|242m]] | sym=Am
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| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=5.637 | pn2=[[ネプツニウム238|238]] | ps2=[[ネプツニウム|Np]]
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{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[アメリシウム243|243]] | sym=Am
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| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=- | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=5.275 | pn2=[[ネプツニウム239|239]] | ps2=[[ネプツニウム|Np]]}}
|isotopes comment=
}}
'''アメリシウム''' ({{lang-en-short|americium}} {{IPA-en|ˌæməˈrɪsiəm|}}) は[[原子番号]]95の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Am'''。[[アクチノイド元素]]の一つ。第3の[[超ウラン元素]]でもある。安定同位体は存在しない。銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は[[六方最密充填構造]] (HCP)。比重は13.67で、[[融点]]は995 {{℃}} (850-1200 {{℃}})、[[沸点]]は2600 {{℃}}。展性、延性があり、希酸に溶ける。[[原子価]]は、+2〜+6価(+3価が安定)。化学的性質は[[ユウロピウム]]に類似する。発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、[[アメリシウム243]]の7370年である。
== 名称 ==
元素名は、周期表上で[[ヨーロッパ大陸]]にちなんだユウロピウムの下に位置することから、[[アメリカ大陸]]の名にちなんで付けられた<ref>Seaborg, Glenn T. (1946). "The Transuranium Elements". Science 104 (2704): 379–386.</ref>。
== 歴史 ==
アメリシウムはおそらくそれ以前の原子核実験でも生成されていたが、それが最初に意図的に、合成、単離されたのは、1944年の晩秋、[[カリフォルニア大学バークレー校]]で[[グレン・シーボーグ]] 等<ref>グレン・シーボーグ、レオン・モルガン、ラルフ・ジェームズ、アルバート・ギオルソ</ref> によっての事だった。
原子炉内の[[プルトニウム239]]に2個の[[中性子]]を当てると、[[プルトニウム241]]ができ、これが[[β崩壊]]して、アメリシウム241([[半減期]]432.2年)となる。
元素は、化学的にシカゴ大学の冶金研究所(現[[アルゴンヌ国立研究所]])で同定された。
[[ネプツニウム]]、[[プルトニウム]]、[[キュリウム]]に続いて、アメリシウムが発見されたのは[[超ウラン元素]]として四番目だった。
アメリシウムと[[キュリウム]]の発見は、[[マンハッタン計画]]と密接に関連していたため、1945年になるまで機密情報だった。
最初にそれが公表されたのは1945年11月11日に[[グレン・シーボーグ]]が、アメリカの子供のためのラジオ番組、Quiz Kidsに出演した際、リスナーの1人に、「戦争の間にプルトニウムとネプツニウムの隣の新しい[[超ウラン元素]]が見つかった?」と質問された時だったが、それは[[アメリカ化学会]]の会議で公式発表する五日前の出来事だった。
== 特徴 ==
アメリシウムは剥離性がある銀白色をした放射性の金属で空気中に放置すると白く曇る。純粋なアメリシウムは[[ネプツニウム]]や[[プルトニウム]]より輝いている。アメリシウム241から放出される[[α線]]は約5.4 MeV、[[ガンマ線]]のエネルギーは非常に低く (0.06 MeV)、低エネルギーガンマ線源として[[蛍光X線]]分析装置などに用いられる。
アメリシウムには3つの同素体があり(α、β、γ)、それぞれ六方最密充填構造、体心立方格子、面心立方格子が安定である。
== 発生 ==
核爆弾の爆発に伴う生成量は爆弾の種類により変わり、大気中への放出量は不明である。半減期が最も長いアメリシウム243でも半減期は7370年のため、地球の形成時に存在していたアメリシウムは、今ではすべて崩壊している。したがって、現存しているアメリシウムは、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]のような原子力事故現場や大気圏核実験のため[[1945年]]から[[1980年]]の間に使用された領域と[[再処理工場|核燃料再処理施設]]周辺に集中している。例えば、[[アメリカ合衆国]]最初の[[水素爆弾]][[アイビー作戦|アイビー作戦マイク実験]]([[1952年]][[11月1日]]、[[エニウェトク環礁]])の核実験で使用された地点で回収された破片を分析したところ、高濃度のアメリシウムを含む[[アクチノイド]]が検出されたが、軍事機密のために検出の事実が公表されたのは[[1956年]]であった。
[[原子力発電]]の[[使用済み核燃料]]を再処理した際に発生する廃液([[高レベル放射性廃棄物]])中には、アメリシウムなどの核種が含まれる。これら核種はマイナーアクチニドと呼ばれる。アメリシウムを含む高レベル放射性廃棄物は[[ガラス固化体]]に加工され、日本の場合は[[高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター]]で保管。ゆくゆくは[[地層処分]]されることとなるが<ref>{{Cite web |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaesjb/62/8/62_438/_pdf/-char/ja |title=第4回 今こそ,高速炉の話:持続性あるエネルギー供給へ |publisher=日本原子力開発機構 |date=2020年 |accessdate=2023-11-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.jnfl.co.jp/ja/business/about/hlw/summary/return-vitrified-object.html |title=返還されるガラス固化体について |publisher=日本原燃 |date= |accessdate=2023-11-08}}</ref>、一方で、[[放射性廃棄物]]の低減を目的に、[[高速炉]]を利用した[[核変換]]の研究も行われている<ref>{{Cite web |url=https://rdreview.jaea.go.jp/review_jp/2022/pdf/j2022_7_5.pdf |title=放射性廃棄物の低減を目指した高速炉燃料の開発 |publisher=原子力機構 |date=2022 |accessdate=2023-11-08}}</ref>。
== 用途 ==
アメリシウム241 は、[[自動火災報知設備#煙感知器|煙感知器]]{{Refnest|group="注釈"|日本の煙感知器にはアメリシウムを使ったイオン化式は少なく、光電式が主流となっている。<ref>{{Cite book |和書 |author=セオドア・グレイ |others=ニック・マン写真 |translator=武井摩利 |year=2010 |title=世界で一番美しい元素図鑑 |publisher=創元社 |isbn=978-4422420042 }}</ref>}}や、厚さ計<ref>[https://doi.org/10.11499/sicejl1962.9.543 アメリシウム厚み計 (TOSGAEG 153)] 計測と制御 Vol.9 (1970) No.7 P543-544</ref>に利用される。アメリシウム242は中性子ラジオグラフィーの中で使用される。しかしアメリシウムの合成は難しく、強い放射能のため非常に高価である。
[[ベリリウム]]との混合物は、中性子源となる。そのほか、放射線源としての利用もある。
== 検出 ==
化学的に分離精製した測定試料から放出されるアルファ線を、シリコン半導体検出器で測定する。
== 同位体 ==
{{main|アメリシウムの同位体}}
アメリシウムには安定同位体が存在せず、すべてが放射性である。アメリシウムには18の同位体が確認されており、質量範囲はアメリシウム231からアメリシウム249までがある。
発見された同位体の中で最も半減期が長いのは、[[アメリシウム243]]の7370年である。ほかに432年の半減期を持つ[[アメリシウム241]]、141年の[[アメリシウム242]]、が比較的安定している。残りは全て[[アメリシウム240]]の51時間よりも短い。さらにアメリシウムの同位体には八つの[[核異性体]]の同位体が存在している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Americium}}{{-}}
== 外部リンク ==
* [https://archive.ph/r0JI 使用済燃料再処理工程におけるネプツニウム及びアメリシウムの分離に関する研究] 鴨志田守
* [https://web.archive.org/web/20130515092041/https://www.kankyo-hoshano.go.jp/series/main_pdf_series_30.html 放射能測定法シリーズ No.30 環境試料中アメリシウム241、キュリウム迅速分析法] 公益財団法人日本分析センター
* [https://doi.org/10.3327/taesj.J06.074 プルトニウム抽出残液からのアメリシウムの分離および酸化物転換] 日本原子力学会和文論文誌 Vol.6 (2007) No.4 P476-483
{{元素周期表}}
{{アメリシウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あめりしうむ}}
[[Category:アメリシウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
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2003-07-02T11:13:32Z
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2023-11-20T10:45:42Z
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10,751 |
ツリウム
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ツリウム (英: thulium [ˈθjuːliəm]) は原子番号69の元素。元素記号は Tm。ランタノイド系列の13番目の元素である。他のランタノイドと同様に、もっとも一般的な酸化数は+3であり、酸化物、ハロゲン化物などの化合物で見られる。ただし、系列の後半であるため、+2の酸化数も結果生じるほぼ完全な4f殻によっても安定化される。水溶液中では、ほかの後半のランタノイドの化合物と同様に、可溶性のツリウム化合物は9つの水分子と錯体を形成する。
1879年、スウェーデンの化学者ペール・テオドール・クレーベは希土類酸化物であるエルビアからそれまで知られていなかった2つの成分を分離し、これをホルミアとツリアと呼んだ。これらはそれぞれホルミウムとツリウムの酸化物である。ツリウム金属の比較的純粋な試料は、1911年に初めて得られた。
地球上で微量にしか見られない放射能的に不安定なプロメチウムに次いで、ランタノイドで2番目に少ない元素である。加工が簡単な金属で、明るく銀灰色の光沢がある。かなり柔らかく空気中でゆっくりと変色する。高価で希少であるにもかかわらず、持ち運びできるX線装置や一部の固体レーザーの放射線源として使用されている。生物学的に重要な役割はなく、特に毒性はない。
ツリウムは1879年にスウェーデンの化学者ペール・テオドール・クレーベにより、他の希土類元素の酸化物に含まれる不純物を探すことで発見された(この方法はこのとき以前にいくつかの希土類元素を発見するためにカール・グスタフ・モサンデルが使用した方法と同じであった)。クレーベは、エルビア(Er2O3)の混合物のうち知られているものをすべて取り除くことから始めた。追加処理により、茶色と緑色の2つの新たな物質を得た。茶色の物質はホルミウムの酸化物であり、クレーベによりホルミアと呼ばれた。緑の物質は未知の元素の酸化物であり、この酸化物をツリアと呼んだ。元素名であるツリウムは、スカンジナビアまたはアイスランドに関連する古代ギリシア語の地名であるトゥーレにちなんで命名された。ツリウムの元素記号はTuであったが、Tmに変更された。
ツリウムは非常に珍しかったため、初期の研究者は実際に緑色を見るのに十分な量を精製することができなかった。エルビウムが次第に除かれるにつれて、2つの特徴的な吸収帯の強度が強くなるのを分光的に観察するのに甘んじるしかなかった。ほぼ純粋なツリウムを得た最初の研究者は、ダーラムのニューハンプシャー大学で大規模な研究を行ったチャールズ・ジェームス(英語版)であった。彼は1911年に自身で発見した臭素酸分別再結晶法を使用して精製を行った結果を報告した。材料が均質であることを確立するために15,000回の精製操作を必要とした。
高純度の酸化ツリウムは、イオン交換分離技術が採用されて1950年代後半に初めて商業的に提供された。American Potash & Chemical CorporationのLindsay Chemical Divisionは純度99%と99.9%の酸化ツリウムを提供していた。純度99.9%の1キログラムあたりの価格は1959年から1998年までで4,600米ドルから13,300米ドルの間で推移し、ランタノイドの中ではルテチウムに次いで2番目に高かった。
純粋なツリウム金属は明るく銀色の光沢があり、空気にさらされると変色する。モース硬度が2から3であるため、ナイフで切ることができる。展性と延性がある。32 Kでは強磁性、32~56 Kでは反強磁性、56 K以上では常磁性である。
2つの主な同素体、正方晶のα-Tmとより安定な六方晶のβ-Tmがある。
ツリウムは空気中でゆっくりと変色し、150 °Cで容易に燃焼して酸化ツリウム(III)を形成する:
かなり電気陽性であり、冷水とはゆっくり、温水とはかなり速く反応して水酸化ツリウムを形成する:
ツリウムはすべてのハロゲンと反応する。反応は室温で遅いが、200 °Cを超えると激しくなる。:
ツリウムは、希硫酸に容易に溶解し、[Tm(OH2)9]錯体として存在する淡緑色のTm(III)イオンを含む溶液を形成する。
ツリウムは様々な金属および非金属元素と反応し様々な二元化合物を形成する。例えばTmN, TmS, TmC2, Tm2C3, TmH2, TmH3, TmSi2, TmGe3, TmB4, TmB6, TmB12である。これらの化合物ではツリウムは原子価状態+2および+3を示すが、+3の状態が最も一般的であり、この状態のみがツリウム溶液で観察されている。ツリウムは溶液中でTmイオンとして存在する。この状態ではツリウムイオンは9個の水分子に囲まれている。Tmイオンは明るい青色の発光を示す。
唯一知られているツリウムの酸化物はTm2O3である。この酸化物は「ツリア」と呼ばれることもある。赤みがかった紫色のツリウム(II)化合物はツリウム(III)化合物の還元により作ることができる。ツリウム(II)化合物の例には、ハロゲン化物(フッ化物除く)がある。TmCl3·7H2OやTm2(C2O4)3·6H2Oなどの一部の水和ツリウム化合物は、緑色もしくは緑がかった白色である。二塩化ツリウムは水と非常に激しく反応する。この反応により水素ガスと赤みがかった退色を示すTm(OH)3が生じる。ツリウムとカルコゲンを組み合わせると、カルコゲン化物が生成される。
ツリウムは塩化水素と反応して水素ガスと塩化ツリウムを生成する。硝酸を使用すると、硝酸ツリウム(Tm(NO3)3)が生成される。
ツリウムの同位体はTmからTmの範囲である。最も豊富で安定な同位体であるTmの前の主要な崩壊モードは電子捕獲であり、後の主要な崩壊モードはベータ崩壊である。Tmの前の主な崩壊生成物は元素68(エルビウム)同位体であり、後の主な生成物は元素70(イッテルビウム)である。
ツリウム169は唯一の原始同位体であり、安定であると考えられている唯一の同位体である。半減期が非常に長く、ホルミウム165にアルファ崩壊することが予測されている。最も半減期が長い放射性同位体は、半減期1.92年のツリウム171と半減期128.6日のツリウム170である。他のほとんどの同位体の半減期は数分以下である。これまでに35個の同位体と26個の核異性体が検出されている。169統一原子質量単位より軽いツリウムのほとんどの同位体は、電子捕獲やベータプラス崩壊を介して崩壊するが、有意なアルファ崩壊や陽子放出を示すものもある。重い同位体はベータマイナス崩壊する。
ツリウムにはいくつかの用途がある。
ホルミウム-クロム-ツリウムトリプルドープトイットリウム・アルミニウム・ガーネット(Ho:Cr:Tm:YAG, or Ho,Cr,Tm:YAG) は、高効率のアクティブレーザー媒質材料である。2080 nmの波長の光を放出し、軍事用途、医学、気象学で幅広く使用されている。単元素ツリウムドープトYAG (Tm:YAG) レーザーは2010nmで動作する。ツリウムを基にしたレーザーの波長は、空気中や水中での凝固深度を最小限に抑え、組織の表面的な切除に非常に有効である。このため、ツリウムレーザーはレーザーに基づいた手術にとって好適である。
高価であるが、持ち運びのできるX線装置は原子炉で衝突され作られたツリウムを放射線源として使用している。これらの放射線源の耐用年数は約1年で、医療や歯科の診断の道具として、また、見ることのできない機械部品や電子部品の欠陥を検出するために使用されている。このような放射線源には大規模な放射線防護は必要なく、小さい鉛のカップがあればよい。
ツリウム170は、小線源治療(密封線源治療)によるがん治療のX線源としての人気が高まっている。この同位体の半減期は128.6日であり、強度が同等の5つの主要な輝線 (7.4, 51.354, 52.389, 59.4, 84.253 keV)がある。ツリウム170は、放射線透過検査で使用される最も人気のある4つの放射性同位元素の1つである。
イットリウムと同様に高温超伝導体に使用されてきた。マイクロ波機器で使用されるフェライト、セラミック磁性材料で使用される可能性を持つ。また、スカンジウムと同様に他の元素ではカバーできない緑色の発光線という珍しいスペクトルを持つため、アーク照明に使用されている。紫外線にさらされると青色の蛍光を発するため、偽造防止のためにユーロ紙幣に入れられている。ツリウムをドープした硫酸カルシウムの青色蛍光は、個人線量計で放射線の目視監視に使用されている。ツリウムが2+の価電子状態にあるツリウムドープトハロゲン化物は、発光型太陽集光器の原理に基づいた効率的な発電ウィンドウ(electricity generating window)を可能にする有望な発光材料である。
自然界に純粋な形で見られることはないが、他の希土類とともに鉱物の中に少量含まれている。イットリウムやガドリニウムを含む鉱物と一緒に見られることが多い。特に、ガドリン石という鉱物に含まれるが、モナズ石、ゼノタイム、ユークセン石という鉱物にも含まれている。他の希土類に比べて広い範囲の鉱物に見られるわけではない。地球の地殻における存在量は重量にして0.5 mg/kgであり、モルで50ppbである。土壌の約0.4-0.8ppmを構成する。海水の250ppq(1000兆分の1)を構成する。太陽系においては、重量にして200ppt、モルで1pptの濃度で存在する。ツリウムの鉱石は中国で最も一般的に見られるが、オーストラリア、ブラジル、グリーンランド、インド、タンザニアおよびアメリカ合衆国にも大量に埋蔵されている。総埋蔵量は約10万トンである。放射性プロメチウムを除き地球上で最も少ないランタノイドである。
主に川の砂に含まれるモナズ石(0.007%のツリウムを含む)からイオン交換により抽出される。新しいイオン交換および溶媒抽出技術により希土類の分離が容易になり、ツリウム生産のコストが大幅に削減された。今日の主な出所は中国南部のイオン吸着粘土である。これらの中に含まれる全ての希土類のうち約3分の2がイットリウムであり、ツリウムは約0.5%である(もしくは希少であるためルテチウムとほぼ結びついている)。ツリウム酸化物をランタン金属または密閉容器内でカルシウムにより還元することで分離することができる。ツリウムの天然化合物はどれも商業的に重要ではない。年間約50トンの酸化ツリウムが生成される。1996年の酸化ツリウムの価格は1グラム当たり20米ドルであり、2005年の純度99%のツリウム金属粉末の価格は1グラムあたり70米ドルである。
可溶性のツリウム塩は軽度の毒性があるが、不溶性のツリウム塩は全く毒性がない。注射すると、肝臓や脾臓の変性を起こし、ヘモグロビン濃度が変動することもある。ツリウムによる肝損傷は、雌のマウスよりも雄のマウスの方が一般的である。このようなことはあるが、ツリウムの毒性レベルは低い。ヒトではツリウムは肝臓、腎臓、骨で最も多く見られる。ヒトは通常年間数マイクログラムのツリウムを消費する。植物の根はツリウムを吸収せず、野菜の乾燥重量には通常1ppbのツリウムが含まれている。ツリウムの粉塵および粉末は吸収もしくは摂取すると有毒であり、爆発を引き起こす可能性がある。
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"text": "ツリウム (英: thulium [ˈθjuːliəm]) は原子番号69の元素。元素記号は Tm。ランタノイド系列の13番目の元素である。他のランタノイドと同様に、もっとも一般的な酸化数は+3であり、酸化物、ハロゲン化物などの化合物で見られる。ただし、系列の後半であるため、+2の酸化数も結果生じるほぼ完全な4f殻によっても安定化される。水溶液中では、ほかの後半のランタノイドの化合物と同様に、可溶性のツリウム化合物は9つの水分子と錯体を形成する。",
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"text": "1879年、スウェーデンの化学者ペール・テオドール・クレーベは希土類酸化物であるエルビアからそれまで知られていなかった2つの成分を分離し、これをホルミアとツリアと呼んだ。これらはそれぞれホルミウムとツリウムの酸化物である。ツリウム金属の比較的純粋な試料は、1911年に初めて得られた。",
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"text": "地球上で微量にしか見られない放射能的に不安定なプロメチウムに次いで、ランタノイドで2番目に少ない元素である。加工が簡単な金属で、明るく銀灰色の光沢がある。かなり柔らかく空気中でゆっくりと変色する。高価で希少であるにもかかわらず、持ち運びできるX線装置や一部の固体レーザーの放射線源として使用されている。生物学的に重要な役割はなく、特に毒性はない。",
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"text": "ツリウムは1879年にスウェーデンの化学者ペール・テオドール・クレーベにより、他の希土類元素の酸化物に含まれる不純物を探すことで発見された(この方法はこのとき以前にいくつかの希土類元素を発見するためにカール・グスタフ・モサンデルが使用した方法と同じであった)。クレーベは、エルビア(Er2O3)の混合物のうち知られているものをすべて取り除くことから始めた。追加処理により、茶色と緑色の2つの新たな物質を得た。茶色の物質はホルミウムの酸化物であり、クレーベによりホルミアと呼ばれた。緑の物質は未知の元素の酸化物であり、この酸化物をツリアと呼んだ。元素名であるツリウムは、スカンジナビアまたはアイスランドに関連する古代ギリシア語の地名であるトゥーレにちなんで命名された。ツリウムの元素記号はTuであったが、Tmに変更された。",
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"text": "ツリウムは非常に珍しかったため、初期の研究者は実際に緑色を見るのに十分な量を精製することができなかった。エルビウムが次第に除かれるにつれて、2つの特徴的な吸収帯の強度が強くなるのを分光的に観察するのに甘んじるしかなかった。ほぼ純粋なツリウムを得た最初の研究者は、ダーラムのニューハンプシャー大学で大規模な研究を行ったチャールズ・ジェームス(英語版)であった。彼は1911年に自身で発見した臭素酸分別再結晶法を使用して精製を行った結果を報告した。材料が均質であることを確立するために15,000回の精製操作を必要とした。",
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"text": "高純度の酸化ツリウムは、イオン交換分離技術が採用されて1950年代後半に初めて商業的に提供された。American Potash & Chemical CorporationのLindsay Chemical Divisionは純度99%と99.9%の酸化ツリウムを提供していた。純度99.9%の1キログラムあたりの価格は1959年から1998年までで4,600米ドルから13,300米ドルの間で推移し、ランタノイドの中ではルテチウムに次いで2番目に高かった。",
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"text": "純粋なツリウム金属は明るく銀色の光沢があり、空気にさらされると変色する。モース硬度が2から3であるため、ナイフで切ることができる。展性と延性がある。32 Kでは強磁性、32~56 Kでは反強磁性、56 K以上では常磁性である。",
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"text": "ツリウムは様々な金属および非金属元素と反応し様々な二元化合物を形成する。例えばTmN, TmS, TmC2, Tm2C3, TmH2, TmH3, TmSi2, TmGe3, TmB4, TmB6, TmB12である。これらの化合物ではツリウムは原子価状態+2および+3を示すが、+3の状態が最も一般的であり、この状態のみがツリウム溶液で観察されている。ツリウムは溶液中でTmイオンとして存在する。この状態ではツリウムイオンは9個の水分子に囲まれている。Tmイオンは明るい青色の発光を示す。",
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"text": "主に川の砂に含まれるモナズ石(0.007%のツリウムを含む)からイオン交換により抽出される。新しいイオン交換および溶媒抽出技術により希土類の分離が容易になり、ツリウム生産のコストが大幅に削減された。今日の主な出所は中国南部のイオン吸着粘土である。これらの中に含まれる全ての希土類のうち約3分の2がイットリウムであり、ツリウムは約0.5%である(もしくは希少であるためルテチウムとほぼ結びついている)。ツリウム酸化物をランタン金属または密閉容器内でカルシウムにより還元することで分離することができる。ツリウムの天然化合物はどれも商業的に重要ではない。年間約50トンの酸化ツリウムが生成される。1996年の酸化ツリウムの価格は1グラム当たり20米ドルであり、2005年の純度99%のツリウム金属粉末の価格は1グラムあたり70米ドルである。",
"title": "生産"
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"text": "可溶性のツリウム塩は軽度の毒性があるが、不溶性のツリウム塩は全く毒性がない。注射すると、肝臓や脾臓の変性を起こし、ヘモグロビン濃度が変動することもある。ツリウムによる肝損傷は、雌のマウスよりも雄のマウスの方が一般的である。このようなことはあるが、ツリウムの毒性レベルは低い。ヒトではツリウムは肝臓、腎臓、骨で最も多く見られる。ヒトは通常年間数マイクログラムのツリウムを消費する。植物の根はツリウムを吸収せず、野菜の乾燥重量には通常1ppbのツリウムが含まれている。ツリウムの粉塵および粉末は吸収もしくは摂取すると有毒であり、爆発を引き起こす可能性がある。",
"title": "生物学的役割と注意点"
}
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ツリウム は原子番号69の元素。元素記号は Tm。ランタノイド系列の13番目の元素である。他のランタノイドと同様に、もっとも一般的な酸化数は+3であり、酸化物、ハロゲン化物などの化合物で見られる。ただし、系列の後半であるため、+2の酸化数も結果生じるほぼ完全な4f殻によっても安定化される。水溶液中では、ほかの後半のランタノイドの化合物と同様に、可溶性のツリウム化合物は9つの水分子と錯体を形成する。 1879年、スウェーデンの化学者ペール・テオドール・クレーベは希土類酸化物であるエルビアからそれまで知られていなかった2つの成分を分離し、これをホルミアとツリアと呼んだ。これらはそれぞれホルミウムとツリウムの酸化物である。ツリウム金属の比較的純粋な試料は、1911年に初めて得られた。 地球上で微量にしか見られない放射能的に不安定なプロメチウムに次いで、ランタノイドで2番目に少ない元素である。加工が簡単な金属で、明るく銀灰色の光沢がある。かなり柔らかく空気中でゆっくりと変色する。高価で希少であるにもかかわらず、持ち運びできるX線装置や一部の固体レーザーの放射線源として使用されている。生物学的に重要な役割はなく、特に毒性はない。
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{{Elementbox
|name=thulium
|japanese name=ツリウム
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{{Elementbox_isotopes_stable | mn=169 | sym=Tm | na=100 % | n=100}}
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|isotopes comment=
}}
'''ツリウム''' ({{lang-en-short|thulium}} {{IPA-en|ˈθjuːliəm|}}) は[[原子番号]]69の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Tm'''。[[ランタノイド]]系列の13番目の元素である。他のランタノイドと同様に、もっとも一般的な酸化数は+3であり、酸化物、ハロゲン化物などの化合物で見られる。ただし、系列の後半であるため、+2の酸化数も結果生じるほぼ完全な4f殻によっても安定化される。水溶液中では、ほかの後半のランタノイドの化合物と同様に、可溶性のツリウム化合物は9つの水分子と[[錯体]]を形成する。
1879年、スウェーデンの化学者[[ペール・テオドール・クレーベ]]は希土類酸化物である[[酸化エルビウム(III)|エルビア]]からそれまで知られていなかった2つの成分を分離し、これを[[酸化ホルミウム(III)|ホルミア]]と[[酸化ツリウム(III)|ツリア]]と呼んだ。これらはそれぞれ[[ホルミウム]]とツリウムの酸化物である。ツリウム金属の比較的純粋な試料は、1911年に初めて得られた。
地球上で微量にしか見られない放射能的に不安定な[[プロメチウム]]に次いで、[[ランタノイド]]で2番目に少ない元素である。加工が簡単な[[金属]]で、明るく銀灰色の光沢がある。かなり柔らかく空気中でゆっくりと変色する。高価で希少であるにもかかわらず、持ち運びできる[[X線]]装置や一部の[[固体レーザー]]の放射線源として使用されている。生物学的に重要な役割はなく、特に毒性はない。
== 歴史 ==
ツリウムは1879年にスウェーデンの化学者[[ペール・テオドール・クレーベ]]により、他の希土類元素の酸化物に含まれる不純物を探すことで発見された(この方法はこのとき以前にいくつかの希土類元素を発見するために[[カール・グスタフ・モサンデル]]が使用した方法と同じであった)<ref>関連:
* {{cite journal|last1=Cleve|first1=P. T.|title=Sur deux nouveaux éléments dans l'erbine|journal=Comptes rendus|date=1879|volume=89|pages=478–480|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951d00008409h;view=1up;seq=484|trans-title=Two new elements in the oxide of erbium|language=French}} Cleve named thulium on p. 480: ''"Pour le radical de l'oxyde placé entre l'ytterbine et l'erbine, qui est caractérisé par la bande ''x'' dans la partie rouge du spectre, je propose la nom de ''thulium'', dérivé de Thulé, le plus ancien nom de la Scandinavie."'' (For the radical of the oxide located between the oxides of ytterbium and erbium, which is characterized by the ''x'' band in the red part of the spectrum, I propose the name of "thulium", [which is] derived from ''Thule'', the oldest name of Scandinavia.)
* {{cite journal|last1=Cleve|first1=P. T.|title=Sur l'erbine|journal=Comptes rendus|date=1879|volume=89|pages=708–709|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951d00008409h;view=1up;seq=714|trans-title=On the oxide of erbium|language=French}}
* {{cite journal|last1=Cleve|first1=P. T.|title=Sur le thulium|journal=Comptes rendus|date=1880|volume=91|pages=328–329|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951d00008411u;view=1up;seq=332|trans-title=On thulium|language=French}}</ref>。クレーベは、[[エルビア]]([[エルビウム|Er]]<sub>2</sub>[[酸素|O]]<sub>3</sub>)の混合物のうち知られているものをすべて取り除くことから始めた。追加処理により、茶色と緑色の2つの新たな物質を得た。茶色の物質は[[ホルミウム]]の酸化物であり、クレーベによりホルミアと呼ばれた。緑の物質は未知の元素の酸化物であり、この酸化物を[[ツリア]]と呼んだ。元素名であるツリウムは、スカンジナビアまたは[[アイスランド]]に関連する古代ギリシア語の地名である[[トゥーレ]]にちなんで命名された。ツリウムの[[元素記号]]はTuであったが、Tmに変更された<ref name=history/><ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=Owuv-c9L_IMC&pg=PA1061|page=1061 |title=Concise Encyclopedia Chemistry |isbn=978-3-11-011451-5 |last1=Eagleson |first1=Mary |date=1994|publisher=Walter de Gruyter}}</ref><ref name="Weeks">{{cite book |last1=Weeks |first1=Mary Elvira |title=The discovery of the elements |date=1956 |publisher=Journal of Chemical Education |location=Easton, PA |url=https://archive.org/details/discoveryoftheel002045mbp |edition=6th }}</ref><ref name="XVI">{{cite journal | author = Weeks, Mary Elvira |authorlink=Mary Elvira Weeks| title = The discovery of the elements: XVI. The rare earth elements | journal = Journal of Chemical Education | year = 1932 | volume = 9 | issue = 10 | pages = 1751–1773 | doi = 10.1021/ed009p1751 | bibcode=1932JChEd...9.1751W}}</ref><ref name="Virginia">{{cite journal |last1=Marshall |first1=James L. Marshall |last2=Marshall |first2=Virginia R. Marshall |title=Rediscovery of the elements: The Rare Earths–The Confusing Years |journal=The Hexagon |date=2015 |pages=72–77 |url=http://www.chem.unt.edu/~jimm/REDISCOVERY%207-09-2018/Hexagon%20Articles/rare%20earths%20II.pdf |accessdate=30 December 2019}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Piguet|first=Claude|year=2014|title=Extricating erbium|url=http://www.nature.com/naturechemistry|journal=Nature Chemistry|volume=6|issue=4|page=370|doi=10.1038/nchem.1908|bibcode=2014NatCh...6..370P|pmid=24651207}}</ref><ref name="RSThulium">{{cite web |title=Thulium |url=https://www.rsc.org/periodic-table/element/69/thulium |website=Royal Society of Chemistry|date= 2020 |accessdate=4 January 2020}}</ref>。
ツリウムは非常に珍しかったため、初期の研究者は実際に緑色を見るのに十分な量を精製することができなかった。エルビウムが次第に除かれるにつれて、2つの特徴的な吸収帯の強度が強くなるのを[[分光法|分光的]]に観察するのに甘んじるしかなかった。ほぼ純粋なツリウムを得た最初の研究者は、[[ダーラム (ニューハンプシャー州)|ダーラム]]の[[ニューハンプシャー大学]]で大規模な研究を行った{{仮リンク|チャールズ・ジェームス (化学者)|label=チャールズ・ジェームス|en|Charles James (chemist)}}であった。彼は1911年に自身で発見した臭素酸分別再結晶法を使用して精製を行った結果を報告した。材料が均質であることを確立するために15,000回の精製操作を必要とした<ref>{{cite journal|last=James|first=Charles|date=1911|title=Thulium I|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=33|issue=8|pages=1332–1344|url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044103069787;view=1up;seq=314|doi=10.1021/ja02221a007}}</ref>。
高純度の酸化ツリウムは、[[イオン交換]]分離技術が採用されて1950年代後半に初めて商業的に提供された。American Potash & Chemical CorporationのLindsay Chemical Divisionは純度99%と99.9%の酸化ツリウムを提供していた。純度99.9%の1キログラムあたりの価格は1959年から1998年までで4,600米ドルから13,300米ドルの間で推移し、[[ランタノイド]]の中では[[ルテチウム]]に次いで2番目に高かった<ref>{{cite news |publisher= U.S. Geological Survey |title= Rare-Earth Metals |author= Hedrick, James B. |accessdate= 2009-06-06 |url= https://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/740798.pdf}}</ref><ref>{{cite news |title= Rare Earth Elements |author= Castor, Stephen B. |author2= Hedrick, James B. |last-author-amp= yes |accessdate= 2009-06-06 |url= http://www.rareelementresources.com/i/pdf/RareEarths-CastorHedrickIMAR7.pdf}}</ref>。
==性質==
===物理的性質===
純粋なツリウム金属は明るく銀色の光沢があり、空気にさらされると変色する。[[モース硬度]]が2から3であるため、ナイフで切ることができる<ref name=history/>。展性と延性がある<ref name=CRC/>。32{{nbsp}}Kでは[[強磁性]]、32~56{{nbsp}}Kでは[[反強磁性]]、56{{nbsp}}K以上では[[常磁性]]である<ref>{{cite journal |author= Jackson, M. |title= Magnetism of Rare Earth |url= http://www.irm.umn.edu/quarterly/irmq10-3.pdf |journal= The IRM Quarterly |volume= 10 |issue= 3 |page= 1 |date= 2000}}</ref>。
2つの主な[[同素体]]、[[正方晶系|正方晶]]のα-Tmとより安定な[[六方晶系|六方晶]]のβ-Tmがある<ref name= CRC/>。
===化学的性質===
ツリウムは空気中でゆっくりと変色し、150{{nbsp}}[[摂氏|°C]]で容易に燃焼して[[酸化ツリウム(III)]]を形成する:
:4 Tm + 3 O<sub>2</sub> → 2 Tm<sub>2</sub>O<sub>3</sub>
かなり[[電気陰性度|電気陽性]]であり、冷水とはゆっくり、温水とはかなり速く反応して水酸化ツリウムを形成する:
:2 Tm (s) + 6 H<sub>2</sub>O (l) → 2 Tm(OH)<sub>3</sub> (aq) + 3 H<sub>2</sub> (g)
ツリウムはすべての[[第17族元素|ハロゲン]]と反応する。反応は室温で遅いが、200{{nbsp}}°Cを超えると激しくなる。:
:2 Tm (s) + 3 F<sub>2</sub> (g) → 2 TmF<sub>3</sub> (s) (白)
:2 Tm (s) + 3 Cl<sub>2</sub> (g) → 2 TmCl<sub>3</sub> (s) (黄)
:2 Tm (s) + 3 Br<sub>2</sub> (g) → 2 TmBr<sub>3</sub> (s) (白)
:2 Tm (s) + 3 I<sub>2</sub> (g) → 2 TmI<sub>3</sub> (s) (黄)
ツリウムは、希[[硫酸]]に容易に溶解し、[Tm(OH<sub>2</sub>)<sub>9</sub>]<sup>3+</sup>錯体として存在する淡緑色のTm(III)イオンを含む溶液を形成する<ref>{{cite web |url= https://www.webelements.com/thulium/chemistry.html |title= Chemical reactions of Thulium |publisher=Webelements |accessdate=2009-06-06}}</ref>。
:2 Tm (s) + 3 H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub> (aq) → 2 Tm<sup>3+</sup> (aq) + 3 {{chem|SO|4|2-}} (aq) + 3 H<sub>2</sub> (g)
ツリウムは様々な金属および非金属元素と反応し様々な二元化合物を形成する。例えばTmN, TmS, TmC<sub>2</sub>, Tm<sub>2</sub>C<sub>3</sub>, TmH<sub>2</sub>, TmH<sub>3</sub>, TmSi<sub>2</sub>, TmGe<sub>3</sub>, TmB<sub>4</sub>, TmB<sub>6</sub>, TmB<sub>12</sub>である{{citation needed|date=March 2014}}。これらの化合物ではツリウムは原子価状態+2および+3を示すが、+3の状態が最も一般的であり、この状態のみがツリウム溶液で観察されている<ref name=patnaik>{{cite book |last= Patnaik |first= Pradyot |date= 2003 |title= Handbook of Inorganic Chemical Compounds |publisher= McGraw-Hill |page= 934 |isbn= 0-07-049439-8 |url= https://books.google.com/books?id=Xqj-TTzkvTEC&pg=PA934}}</ref>。ツリウムは溶液中でTm<sup>3+</sup>イオンとして存在する。この状態ではツリウムイオンは9個の水分子に囲まれている<ref name=history/>。Tm<sup>3+</sup>イオンは明るい青色の発光を示す<ref name= "history"/>。
唯一知られているツリウムの酸化物は[[酸化ツリウム|Tm<sub>2</sub>O<sub>3</sub>]]である。この酸化物は「ツリア」と呼ばれることもある<ref name= "hist and use">{{cite book |url= https://books.google.com/books?id=yb9xTj72vNAC&pg=PA300 |title= The History and Use of Our Earth's Chemical Elements: A Reference Guide |isbn= 978-0-313-33438-2 |author= Krebs, Robert E |date= 2006}}</ref>。赤みがかった紫色のツリウム(II)化合物はツリウム(III)化合物の[[還元]]により作ることができる。ツリウム(II)化合物の例には、ハロゲン化物(フッ化物除く)がある。TmCl<sub>3</sub>'''·'''7H<sub>2</sub>OやTm<sub>2</sub>(C<sub>2</sub>O<sub>4</sub>)<sub>3</sub>'''·'''6H<sub>2</sub>Oなどの一部の水和ツリウム化合物は、緑色もしくは緑がかった白色である<ref name= "concise encyclopedia">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=Owuv-c9L_IMC&pg=PA1105 |title=Concise Encyclopedia Chemistry |isbn=978-3-11-011451-5 |last1=Eagleson |first1=Mary |date=1994|publisher=Walter de Gruyter|page=1105}}</ref>。二塩化ツリウムは水と非常に激しく反応する。この反応により[[水素]]ガスと赤みがかった退色を示す[[水酸化ツリウム|Tm(OH)<sub>3</sub>]]が生じる{{citation needed|date=March 2014}}。ツリウムと[[第16族元素|カルコゲン]]を組み合わせると、[[カルコゲン化物]]が生成される<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=es-Pu2hI5swC&printsec=frontcover |title=Advances in Inorganic Chemistry and Radiochemistry |isbn=978-0-08-057869-9 |last1=Emeléus |first1=H. J. |last2=Sharpe |first2=A. G. |date=1977|publisher=Academic Press}}</ref>。
ツリウムは[[塩化水素]]と反応して水素ガスと塩化ツリウムを生成する。[[硝酸]]を使用すると、硝酸ツリウム(Tm(NO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>)が生成される<ref name= "cool">[http://www.chemicool.com/elements/thulium.html Thulium]. Chemicool.com. Retrieved on 2013-03-29.</ref>。
===同位体===
{{main|ツリウムの同位体}}
ツリウムの同位体は<sup>145</sup>Tmから<sup>179</sup>Tmの範囲である。最も豊富で安定な同位体である<sup>169</sup>Tmの前の主要な[[崩壊モード]]は[[電子捕獲]]であり、後の主要な崩壊モードは[[ベータ崩壊]]である。<sup>169</sup>Tmの前の主な[[崩壊生成物]]は元素68([[エルビウム]])同位体であり、後の主な生成物は元素70([[イッテルビウム]])である<ref name="hand">
{{cite book |last= Lide |first= David R. |date= 1998
|title= Handbook of Chemistry and Physics
|edition= 87th |location= Boca Raton, FL |publisher= CRC Press |isbn= 0-8493-0594-2 |chapter= Section 11, Table of the Isotopes}}</ref>。
ツリウム169は唯一の[[原始同位体]]であり、安定であると考えられている唯一の同位体である。半減期が非常に長く、[[ホルミウム]]165に[[アルファ崩壊]]することが予測されている<ref name=history/><ref name=bellidecay>{{cite journal |last1=Belli |first1=P. |last2=Bernabei |first2=R. |last3=Danevich |first3=F. A. |last4=Incicchitti |first4=A. |last5=Tretyak |first5=V. I. |displayauthors=3 |title=Experimental searches for rare alpha and beta decays |journal=European Physical Journal A |date=2019 |volume=55 |issue=8 |pages=140–1–140–7 |doi=10.1140/epja/i2019-12823-2 |issn=1434-601X |arxiv=1908.11458|bibcode=2019EPJA...55..140B }}</ref>。最も半減期が長い放射性同位体は、半減期1.92年のツリウム171と半減期128.6日のツリウム170である。他のほとんどの同位体の半減期は数分以下である<ref name= "Nudat">
{{cite web
|first=Alejandro
|last=Sonzogni
|url=https://www.nndc.bnl.gov/nudat2/reCenter.jsp?z=69&n=97
|title=Untitled
|publisher=[[National Nuclear Data Center]]
|accessdate=2013-02-20
}}</ref>。これまでに35個の同位体と26個の[[核異性体]]が検出されている<ref name=history/>。169[[統一原子質量単位]]より軽いツリウムのほとんどの同位体は、[[電子捕獲]]や[[陽電子放出|ベータプラス崩壊]]を介して崩壊するが、有意な[[アルファ崩壊]]や[[陽子放出]]を示すものもある。重い同位体は[[ベータ崩壊|ベータマイナス崩壊]]する<ref name= "Nudat"/>。
== 用途 ==
ツリウムにはいくつかの用途がある。
===レーザー===
[[ホルミウム]]-[[クロム]]-ツリウムトリプルドープト[[イットリウム・アルミニウム・ガーネット]](Ho:Cr:Tm:YAG, or Ho,Cr,Tm:YAG) は、高効率のアクティブレーザー媒質材料である。2080 nmの波長の光を放出し、軍事用途、医学、気象学で幅広く使用されている。単元素ツリウムドープトYAG (Tm:YAG) レーザーは2010nmで動作する<ref>{{cite book |page=49|url= https://books.google.com/books?id=8yM4yF_B72QC&pg=PA49 |title= Solid-state laser engineering |author= Koechner, Walter |publisher= Springer |date= 2006 |isbn= 0-387-29094-X}}</ref>。ツリウムを基にしたレーザーの波長は、空気中や水中での凝固深度を最小限に抑え、組織の表面的な切除に非常に有効である。このため、ツリウムレーザーはレーザーに基づいた手術にとって好適である<ref>{{cite book |page=214 |url=https://books.google.com/books?id=FCDPZ7e0PEgC&pg=PA214 |title= Tunable laser applications |author= Duarte, Frank J. |publisher= CRC Press |date= 2008 |isbn=978-1-4200-6009-6 |authorlink= F. J. Duarte}}</ref>。
===X線源===
高価であるが、持ち運びのできるX線装置は[[原子炉]]で衝突され作られたツリウムを[[放射線]]源として使用している。これらの[[放射線源]]の耐用年数は約1年で、医療や歯科の診断の道具として、また、見ることのできない機械部品や電子部品の欠陥を検出するために使用されている。このような放射線源には大規模な放射線防護は必要なく、小さい[[鉛]]のカップがあればよい<ref name=appl>{{cite book |page= 32 |url= https://books.google.com/books?id=F0Bte_XhzoAC&pg=PA32 |title= Extractive metallurgy of rare earths |author= Gupta, C. K. |author2= Krishnamurthy, Nagaiyar |last-author-amp= yes |publisher= CRC Press |date= 2004 |isbn= 0-415-33340-7}}</ref>。
ツリウム170は、[[小線源治療]](密封線源治療)によるがん治療のX線源としての人気が高まっている<ref>{{cite journal
|last= Krishnamurthy
|first= Devan
|author2= Vivian Weinberg
|author3= J. Adam M. Cunha
|author4= I-Chow Hsu
|author5= Jean Pouliot
|title= Comparison of high–dose rate prostate brachytherapy dose distributions with iridium-192, ytterbium-169, and thulium-170 sources
|journal= Brachytherapy
|volume= 10
|issue= 6
|pages= 461–465
|date= 2011
|doi= 10.1016/j.brachy.2011.01.012
|pmid= 21397569}}</ref>。この同位体の半減期は128.6日であり、強度が同等の5つの主要な輝線 (7.4, 51.354, 52.389, 59.4, 84.253 keV)がある<ref>Ayoub, Amal Hwaree ''et al.'' [http://www.rooj.com/TM-170%20Brachytherapy.htm Development of New Tm-170 Radioactive Seeds for Brachytherapy], Department of Biomedical Engineering, Ben-Gurion University of the Negev</ref>。ツリウム170は、[[放射線透過検査]]で使用される最も人気のある4つの放射性同位元素の1つである<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=lOCjakwiRWAC&pg=PA55 |title=Practical Radiography |isbn=978-1-84265-188-9 |last1=Raj |first1=Baldev |last2=Venkataraman |first2=Balu |date=2004}}</ref>。
===他===
[[イットリウム]]と同様に[[高温超伝導]]体に使用されてきた。[[マイクロ波]]機器で使用される[[フェライト (磁性材料)|フェライト]]、セラミック磁性材料で使用される可能性を持つ<ref name=appl/>。また、[[スカンジウム]]と同様に他の元素ではカバーできない緑色の発光線という珍しいスペクトルを持つため、アーク照明に使用されている<ref>{{cite book |page= [https://archive.org/details/elementsvisualex0000gray/page/159 159] |url= https://archive.org/details/elementsvisualex0000gray/page/159 |title= The Elements: A Visual Exploration of Every Known Atom In The Universe |author= Gray, Theodore W. |author2= Mann, Nick |last-author-amp= yes |publisher= Black Dog & Leventhal Publishers |date= 2009 |isbn= 978-1-57912-814-2 }}</ref>。[[紫外線]]にさらされると青色の[[蛍光]]を発するため、偽造防止のために[[ユーロ紙幣]]に入れられている<ref name= "Photochemistry">{{cite book |url= https://books.google.com/books?id=XAjIWgENf5UC&pg=PA75 |page= 75 |title= Principles and Applications of Photochemistry |isbn= 978-0-470-71013-5 |last1= Wardle |first1= Brian |date= 2009-11-06}}</ref>。ツリウムをドープした硫酸カルシウムの青色蛍光は、個人線量計で放射線の目視監視に使用されている<ref name=history/>。ツリウムが2+の価電子状態にあるツリウムドープトハロゲン化物は、発光型太陽集光器の原理に基づいた効率的な発電ウィンドウ(electricity generating window)を可能にする有望な発光材料である<ref>{{cite journal|last=ten Kate|first=O.M.|last2=Krämer|first2=K.W.|last3=van der Kolk|first3=E.|title=Efficient luminescent solar concentrators based on self-absorption free, Tm<sup>2+</sup> doped halides|date=2015|journal=Solar Energy Materials & Solar Cells|volume=140|pages=115–120|doi=10.1016/j.solmat.2015.04.002|url=https://www.researchgate.net/publication/275330805}}</ref>。
==存在比==
[[File:Monazit - Madagaskar.jpg|thumb|ツリウムはモナズ石に見られる。]]
自然界に純粋な形で見られることはないが、他の希土類とともに[[鉱物]]の中に少量含まれている。[[イットリウム]]や[[ガドリニウム]]を含む鉱物と一緒に見られることが多い。特に、[[ガドリン石]]という鉱物に含まれるが<ref name= "handbook of metals">{{cite book|author=Walker, Perrin|author2=Tarn, William H.|last-author-amp=yes |title=CRC Handbook of Metal Etchants|url=https://books.google.com/books?id=-2ObmTZTq2QC&pg=PA1241|date=2010|publisher=CRC Press|isbn=978-1-4398-2253-1|pages=1241–}}</ref>、[[モナズ石]]、[[ゼノタイム]]、[[ユークセン石]]という鉱物にも含まれている。他の希土類に比べて広い範囲の鉱物に見られるわけではない<ref>{{cite web |url=https://www.mindat.org/ |title=Mindat.org |author=Hudson Institute of Mineralogy |date=1993–2018 |website=www.mindat.org |access-date=14 January 2018}}</ref>。地球の地殻における存在量は重量にして0.5 mg/kgであり、[[モル]]で50ppbである。[[土壌]]の約0.4-0.8ppmを構成する。[[海水]]の250ppq(1000兆分の1)を構成する<ref name=history>{{cite book |pages=442–443 |url= https://books.google.com/books?id=Yhi5X7OwuGkC&pg=PA442 |title= Nature's building blocks: an A-Z guide to the elements |author= Emsley, John |publisher=Oxford University Press |location= US |date= 2001 |isbn= 0-19-850341-5}}</ref>。[[太陽系]]においては、重量にして200ppt、モルで1pptの濃度で存在する<ref name= "cool"/>。ツリウムの鉱石は[[中国]]で最も一般的に見られるが、[[オーストラリア]]、[[ブラジル]]、[[グリーンランド]]、[[インド]]、[[タンザニア]]および[[アメリカ合衆国]]にも大量に埋蔵されている。総埋蔵量は約10万トンである。放射性[[プロメチウム]]を除き地球上で最も少ない[[ランタノイド]]である<ref name=history/>。
==生産==
主に川の砂に含まれる[[モナズ石]](0.007%のツリウムを含む)から[[イオン交換]]により抽出される。新しいイオン交換および溶媒抽出技術により希土類の分離が容易になり、ツリウム生産のコストが大幅に削減された。今日の主な出所は中国南部のイオン吸着粘土である。これらの中に含まれる全ての希土類のうち約3分の2がイットリウムであり、ツリウムは約0.5%である(もしくは希少であるためルテチウムとほぼ結びついている)。ツリウム酸化物を[[ランタン]]金属または密閉容器内で[[カルシウム]]により還元することで分離することができる。ツリウムの天然[[化合物]]はどれも商業的に重要ではない。年間約50トンの酸化ツリウムが生成される<ref name=history/>。1996年の酸化ツリウムの価格は1グラム当たり20米ドルであり、2005年の純度99%のツリウム金属粉末の価格は1グラムあたり70米ドルである<ref name=CRC>{{cite book |author= Hammond, C. R. |chapter=The Elements|title= Handbook of Chemistry and Physics|edition= 81st |publisher= CRC press |date= 2000 |isbn= 0-8493-0481-4}}</ref>。
==生物学的役割と注意点==
可溶性のツリウム塩は軽度の[[毒性]]があるが、不溶性のツリウム塩は全く毒性がない<ref name=history/>。注射すると、[[肝臓]]や[[脾臓]]の変性を起こし、[[ヘモグロビン]]濃度が変動することもある。ツリウムによる肝損傷は、雌のマウスよりも雄のマウスの方が一般的である。このようなことはあるが、ツリウムの毒性レベルは低い{{citation needed|date=September 2013}}<!--The following refs don't exactly support the statemtent here, which needs to be rewritten slightly: <ref>{{cite journal |pmid=1141999 |year=1975 |last1=Hutcheson |first1=D. P. |last2=Gray |first2=D. H. |last3=Venugopal |first3=B. |last4=Luckey |first4=T. D. |title=Studies of nutritional safety of some heavy metals in mice |volume=105 |issue=6 |pages=670–5 |journal=The Journal of Nutrition}}</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1016/0041-008X(63)90014-0 |title=Pharmacology and toxicology of terbium, thulium, and ytterbium chlorides |year=1963 |last1=Haley |first1=Thomas J. |last2=Komesu |first2=N. |last3=Flesher |first3=A. M. |last4=Mavis |first4=L. |last5=Cawthorne |first5=J. |last6=Upham |first6=H. C. |journal=Toxicology and Applied Pharmacology |volume=5 |issue=4 |pages=427–436}}</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1002/jps.2600540502 |title=Pharmacology and toxicology of the rare earth elements |year=1965 |last1=Haley |first1=Thomas J. |journal=Journal of Pharmaceutical Sciences |volume=54 |issue=5 |pages=663–70 |pmid=5321124}}</ref><ref>{{cite journal |doi=10.1016/0041-008X(63)90067-X |title=The acute mammalian toxicity of rare earth nitrates and oxides |year=1963 |last1=Bruce |first1=David W. |last2=Hietbrink |first2=Bernard E. |last3=Dubois |first3=Kenneth P. |journal=Toxicology and Applied Pharmacology |volume=5 |issue=6 |pages=750–759 |pmid=14082480}}</ref>-->。ヒトではツリウムは肝臓、[[腎臓]]、[[骨]]で最も多く見られる。ヒトは通常年間数マイクログラムのツリウムを消費する。植物の根はツリウムを吸収せず、野菜の[[乾燥重量]]には通常1[[ppb]]のツリウムが含まれている<ref name=history/>。ツリウムの[[粉塵]]および[[粉|粉末]]は吸収もしくは摂取すると有毒であり、[[爆発]]を引き起こす可能性がある。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==外部リンク==
{{Commons|Thulium}}
{{Wiktionary|thulium}}
*{{cite book|author=Poole, Charles P. Jr.|title=Encyclopedic Dictionary of Condensed Matter Physics|url=https://books.google.com/books?id=CXwrqM2hU0EC&pg=PA1395|date=2004|publisher=Academic Press|isbn=978-0-08-054523-3|page=1395}}
{{元素周期表}}
{{ツリウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:つりうむ}}
[[Category:ツリウム|*]]
[[Category:元素]]
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ハミルトニアン
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ハミルトニアン(英語: Hamiltonian)あるいはハミルトン関数、特性関数(とくせいかんすう)は、物理学におけるエネルギーに対応する物理量である。各物理系の持つ多くの性質は、ハミルトニアンによって特徴づけられる。名称はイギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンに因む。
ここでは、古典力学(解析力学)と量子力学の2つの体系に分けて説明するが、量子力学が古典力学から発展した経緯から、両者は密接に関連する。ハミルトニアンはそれぞれの体系に応じて関数または演算子もしくは行列の形式をとる。例えば、古典力学においてはハミルトニアンは正準変数の関数であり、量子力学では正準変数を量子化した演算子(もしくは行列)の形をとる。
解析力学または古典力学においてハミルトニアン H とは、T を運動エネルギー、V をポテンシャルエネルギーとして、全エネルギー を
のように一般化座標 q 、一般化運動量 p によって表した関数のことである。但し t は時間とする。
ハミルトニアンは、ラグランジュ形式の解析力学におけるラグランジアンをルジャンドル変換することで構成される。その具体的な方法は次のとおりである。 まず、対象とする系に対してラグランジアン L = L ({qi}, {·qi}; t) を構成する。次に正準運動量を
で定義する。この正準運動量を用いて、ラグランジアンに対して、変数の組 (qi, ·qi) から (qi, pi) へのルジャンドル変換を行う。その結果、ハミルトニアン
が得られる。ここで、右辺に現れる {·qi} は正準運動量の定義式を通じて、{pi} で書き直し、ハミルトニアンを ({qi}, {pi}) の関数として表す必要がある。 なお、ラグランジアンの全微分が、
となることに着目すると
であり、この表式からハミルトンの正準方程式が導かれる。
対象とする系に対し、いろいろな座標系の取り方が可能である。例を挙げると、中心力場の問題では、極座標系で記述されることが多い。これはその方が問題を解く上で通常の直交座標系を使うより便利なためである。扱う系により、扱うのに適した座標系はまちまちとなる。
量子力学においてもハミルトニアンは、系の全エネルギーを表す。ただし量子力学では、正準量子化に従って位置と運動量を演算子で表す。従って、位置と運動量の関数であるハミルトニアンは演算子としての性質を持つ。また、両側を基底関数で挟むことによって無限次元の行列としても表現される。この表現の異なり方をシュレーディンガーの波動方程式とハイゼンベルクの行列力学が争ったが最終的には等価であることが証明された。すなわち解く状況に応じて都合のいいように取ればよいのである。
具体例として時間に依存しない場合のシュレーディンガー方程式を扱う。時間に依存しない場合のシュレーディンガー方程式は固有関数または固有状態を Ψ、エネルギー固有値を E とする固有値問題の形をとる。
行列 H に対角化を行うと、上記方程式を解くことができる。現実に解く場合は、無限次元行列を有限な行列に変換して解く。固有値 E が実際に観測される量であるためには、H はエルミート(行列)である必要がある。
ハミルトニアンのスペクトルは、系の全エネルギーを測定したときの可能な測定値の組となる。系の時間発展に密接に関連するため、量子論の定式化の多く部分で重要な働きをする。
相互作用のない自由粒子系を考える。3次元空間を運動する1粒子の場合、運動エネルギーは以下で与えられる。
但し、正準運動量 px は
であり、py, pz も同様に与えられるものとする。ポテンシャル V は、ゼロであることから、ハミルトニアンは
となる。N 粒子系であれば、
である。H は時間 t に対して不変である。
3次元空間の1質点系で、ポテンシャル場 U による保存力が作用する場合を考える。このとき、ハミルトニアンは
となる。U は時間 t に依存しないので、H も t に対して不変である。極座標 (r , θ, φ) による表示を行えば
より、
となる。また、正準量子化すると
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ハミルトニアンあるいはハミルトン関数、特性関数(とくせいかんすう)は、物理学におけるエネルギーに対応する物理量である。各物理系の持つ多くの性質は、ハミルトニアンによって特徴づけられる。名称はイギリスの物理学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンに因む。 ここでは、古典力学(解析力学)と量子力学の2つの体系に分けて説明するが、量子力学が古典力学から発展した経緯から、両者は密接に関連する。ハミルトニアンはそれぞれの体系に応じて関数または演算子もしくは行列の形式をとる。例えば、古典力学においてはハミルトニアンは正準変数の関数であり、量子力学では正準変数を量子化した演算子(もしくは行列)の形をとる。
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{{出典の明記|date=2013年12月29日 (日) 05:33 (UTC)}}
'''ハミルトニアン'''({{lang-en|Hamiltonian}})あるいは'''ハミルトン関数'''、'''特性関数'''(とくせいかんすう)は、[[物理学]]におけるエネルギーに対応する物理量である。各物理系の持つ多くの性質は、ハミルトニアンによって特徴づけられる。名称はイギリスの物理学者[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]に因む。
ここでは、[[古典力学]]([[解析力学]])と[[量子力学]]の2つの体系に分けて説明するが、量子力学が古典力学から発展した経緯から、両者は密接に関連する。ハミルトニアンはそれぞれの体系に応じて[[関数 (数学)|関数]]または[[作用素|演算子]]もしくは[[行列 (数学)|行列]]の形式をとる。例えば、古典力学においてはハミルトニアンは正準変数の関数であり、量子力学では正準変数を量子化した演算子(もしくは行列)の形をとる。
==解析力学(古典力学)==
解析力学または古典力学においてハミルトニアン {{mvar|H}} とは、{{mvar|T}} を[[運動エネルギー]]、{{mvar|V}} を[[ポテンシャルエネルギー]]として、全エネルギー を
:<math> H = H(q,p;t) \, = T + V </math>
のように[[一般化座標]] {{mvar|q}} 、一般化運動量 {{mvar|p}} によって表した関数のことである。但し {{mvar|t}} は時間とする。
===構成方法===
ハミルトニアンは、[[ラグランジュ力学|ラグランジュ形式]]の[[解析力学]]におけるラグランジアンを[[ルジャンドル変換]]することで構成される。その具体的な方法は次のとおりである。
まず、対象とする系に対してラグランジアン {{math|''L'' {{=}} ''L'' ({''q{{sub|i}}''}, {''{{dot|q}}{{sub|i}}''}; ''t'')}} を構成する。次に正準運動量を
:<math> p_i= {\partial L \over {\partial \dot{q}_i } } </math>
で定義する。この正準運動量を用いて、ラグランジアンに対して、変数の組 {{math|(''q{{sub|i}}'', ''{{dot|q}}{{sub|i}}'')}} から {{math|(''q{{sub|i}}'', ''p{{sub|i}}'')}} へのルジャンドル変換を行う。その結果、ハミルトニアン
:<math> H(\{q_i \},\{p_i \};t) =\sum_{i} p_i\dot{q}_i - L(\left \{q_i \right \},\left \{\dot{q}_i\right \};t) </math>
が得られる。ここで、右辺に現れる {{math|{''{{dot|q}}{{sub|i}}''}}} は正準運動量の定義式を通じて、{{math|{''p{{sub|i}}''}}} で書き直し、ハミルトニアンを {{math|({''q{{sub|i}}''}, {''p{{sub|i}}''})}} の関数として表す必要がある。
なお、ラグランジアンの全微分が、
:<math> dL = \sum_i \left \{ p_id\dot{q}_i + \dot{p}_idq_i \right \} </math>
となることに着目すると
:<math>dH = \sum_i \left \{dp_i \cdot \dot{q}_i + p_id\dot{q}_i\right \}-dL =\sum_i \left \{ \dot{q}_idp_i - \dot{p}_idq_i \right \}</math>
であり、この表式から[[ハミルトンの正準方程式]]が導かれる。
対象とする系に対し、いろいろな座標系の取り方が可能である。例を挙げると、[[中心力]]場の問題では、[[極座標系]]で記述されることが多い。これはその方が問題を解く上で通常の[[直交座標系]]を使うより便利なためである。扱う系により、扱うのに適した座標系はまちまちとなる。
==量子力学==
量子力学においてもハミルトニアンは、系の全エネルギーを表す。ただし量子力学では、[[正準量子化]]に従って[[位置]]と[[運動量]]を演算子で表す。従って、位置と運動量の関数であるハミルトニアンは演算子としての性質を持つ。また、両側を基底関数で挟むことによって無限次元の行列としても表現される。この表現の異なり方を[[エルヴィン・シュレーディンガー|シュレーディンガー]]の[[波動方程式]]と[[ヴェルナー・ハイゼンベルク|ハイゼンベルク]]の[[行列力学]]が争ったが最終的には等価であることが証明された。すなわち解く状況に応じて都合のいいように取ればよいのである。
具体例として時間に依存しない場合の[[シュレーディンガー方程式]]を扱う。時間に依存しない場合のシュレーディンガー方程式は[[固有関数]]または[[固有状態]]を {{mvar|Ψ}}、[[エネルギー]][[固有値]]を {{mvar|E}} とする[[固有値問題]]の形をとる。
:<math> \hat{H} \Psi = E \Psi </math>
行列 {{mvar|H}} に[[対角化]]を行うと、上記方程式を解くことができる。現実に解く場合は、無限次元行列を有限な行列に変換して解く。固有値 {{mvar|E}} が実際に観測される量であるためには、{{mvar|H}} は[[エルミート作用素|エルミート]](行列)である必要がある。
ハミルトニアンの[[スペクトル (関数解析学)|スペクトル]]は、系の全エネルギーを測定したときの可能な測定値の組となる。系の[[時間発展]]に密接に関連するため、量子論の定式化の多く部分で重要な働きをする。
{{Sectstub}}
== ハミルトニアンの代表例==
=== 自由粒子系 ===
相互作用のない自由粒子系を考える。3次元空間を運動する1粒子の場合、運動エネルギーは以下で与えられる。
:<math> T = {m \over 2} (\dot{x}^2 + \dot{y}^2 + \dot{z}^2)= {1 \over {2m}} ( p_x^2 + p_y^2 + p_z^2 )</math>
但し、正準運動量 {{math|''p{{sub|x}}''}} は
: <math>p_x = { {\partial T} \over {\partial \dot{x} } } = m \dot{x} </math>
であり、{{math|''p{{sub|y}}'', ''p{{sub|z}}''}} も同様に与えられるものとする。ポテンシャル {{mvar|V}} は、ゼロであることから、ハミルトニアンは
:<math> H = {1 \over {2m}} ( p_x^2 + p_y^2 + p_z^2 ) </math>
となる。{{mvar|N}} 粒子系であれば、
:<math> H = \sum_{i=1}^{N} {1 \over {2m}} ( p_{xi}^2 + p_{yi}^2 + p_{zi}^2 ) </math>
である。{{mvar|H}} は時間 {{mvar|t}} に対して不変である。
=== 保存力が存在する場合 ===
3次元空間の1質点系で、ポテンシャル場 {{mvar|U}} による[[保存力]]が作用する場合を考える。このとき、ハミルトニアンは
: <math> H = {1 \over {2m}} ( {p_x}^2 + {p_y}^2 + {p_z}^2 ) + U(x,y,z) </math>
となる。{{mvar|U}} は時間 {{mvar|t}} に依存しないので、{{mvar|H}} も {{mvar|t}} に対して不変である。[[極座標]] {{math|(''r'' , θ, φ)}} による表示を行えば
: <math>\begin{align}
& T = {m \over 2} (\dot{r}^2 + r^2 \dot{\theta}^2 + r^2 \sin^2{\theta} \dot{\phi}^2 ), \\
& p_r = { {\partial T} \over {\partial \dot{r}} } = m \dot{r}, \quad
p_{\theta} = { {\partial T} \over {\partial \dot{\theta}} } = mr^2 \dot\theta, \quad
p_{\phi} = { {\partial T} \over {\partial \dot{\phi} } } = mr^2 \sin^2{\theta} \dot\phi
\end{align}</math>
より、
: <math> H = \frac{1}{2m} \left( p_r^2 + \frac{1}{r^2} p_{\theta}^2 + \frac{1}{r^2 \sin^2 \theta} p_\phi^2 \right) + U(r,\theta,\phi) </math>
となる。また、[[正準量子化]]すると
: <math> \hat{H} = - \frac{\hbar^2}{2m} \left(\frac{\partial^2}{\partial x^2} + \frac{\partial^2}{\partial y^2} + \frac{\partial^2}{\partial z^2} \right)
+ U(x,y,z) </math>
となる。
==関連項目==
* [[ハミルトン力学]]
* [[ラグランジアン (場の理論)|ラグランジアン]]
{{物理学の演算子}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はみるとにあん}}
[[Category:力学]]
[[Category:ハミルトン力学]]
[[Category:ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]
[[Category:量子力学]]
[[Category:数学に関する記事]]
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関数一覧
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この記事は、数学の中で、特別の名前を冠する関数の各記事を参照する一覧である。
ジョゼフ・リウヴィルは初等関数を次のように定義した。多項式を第 0 級初等関数、指数関数 e と対数関数 log(z) を第 1 級初等関数、両者をあわせて、たかだか第 1 級初等関数と呼ぶ。以下、関数の合成を行うことで、たかだか第 n 級初等関数を帰納的に構成できる。たかだか第 n 級初等関数であって、たかだか第 n−1 級初等関数でないものを、第 n 級初等関数と呼ぶ。
主に整数論で使われる関数の一覧。
固有の名前がついた関数を特殊関数というが、ここは他の分類に収まらないものの一覧。
ここは固有の名前がついた関数ではなく、名前のついた性質をもった関数の一覧。
|
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"text": "主に整数論で使われる関数の一覧。",
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"text": "固有の名前がついた関数を特殊関数というが、ここは他の分類に収まらないものの一覧。",
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"text": "ここは固有の名前がついた関数ではなく、名前のついた性質をもった関数の一覧。",
"title": "関数のクラス"
}
] |
この記事は、数学の中で、特別の名前を冠する関数の各記事を参照する一覧である。
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この記事は、[[数学]]の中で、特別の名前を冠する[[関数 (数学)|関数]]の各記事を参照する一覧である。
== 初等関数 ==
[[ジョゼフ・リウヴィル]]は[[初等関数]]を次のように定義した。多項式を第 {{math|0}} 級初等関数、指数関数 {{math|''e{{sup|z}}''}} と対数関数 {{math|log(''z'')}} を第 {{math|1}} 級初等関数、両者をあわせて、[[高々 (数学)|たかだか]]第 {{math|1}} 級初等関数と呼ぶ。以下、関数の合成を行うことで、たかだか第 {{math|''n''}} 級初等関数を帰納的に構成できる。たかだか第 {{math|''n''}} 級初等関数であって、たかだか第 {{math|''n''−1}} 級初等関数でないものを、第 {{math|''n''}} 級初等関数と呼ぶ。
* [[多項式|多項式関数]]: 多項式は不定元の[[冪乗|べき]]の定数倍と、それらの和のみからなり、不定元への値の代入が関数を定める。べき関数とも呼ばれる。多項式の次数 {{math|''n''}} により 「{{math|''n''}} 次関数」のようにも呼ばれる。
** [[一次関数]]
** [[二次関数]]
** [[三次関数]]
* [[有理関数]]: 多項式の[[除法|商]]で与えられる関数。分数関数、代数関数とも。
<!-- これは特定の関数ではなく、関数のクラス。 -->
* [[平方根]]: 二乗すると与えられた数になるような数を返す。
* [[立方根]]: 三乗すると与えられた数になるような数を返す。
* [[指数関数]]: ある定数の[[冪乗]]。特に、[[ネイピア数|自然対数の底 {{math|''e''}}]] の冪乗を扱うことが多い。
* [[対数]]関数: 指数関数の[[逆関数]]であり、指数を含む[[方程式]]を解くのに便利。
* [[三角関数]]: [[正弦関数]] ({{math|sin}})、[[余弦関数]] ({{math|cos}})、[[正接関数]] ({{math|tan}})など。[[幾何学]]や、周期的な現象を記述するために使われる。
* [[双曲線関数]]: 双曲正弦関数 ({{math|sinh}})、双曲余弦関数 ({{math|cosh}}) など。三角関数に似た関係式を持つ。
** [[逆双曲線関数]]: 双曲線関数の逆関数。
* [[グーデルマン関数]]: 双曲線関数と逆三角関数の合成関数。
== 整数論的関数 ==
主に[[整数論]]で使われる関数の一覧。
{{div col|rules=yes}}
* [[σ関数|{{math|''σ''}} 関数]]: 与えられた[[自然数]]の、各[[約数]]の[[累乗]]の総和。
* [[オイラーのφ関数|オイラーの {{math|''φ''}} 関数]]: 与えられた自然数以下で、その自然数と[[互いに素 (整数論)|互いに素]]な自然数の個数。
* [[分割関数]]: 与えられた正整数を、正整数の和で書き表す方法が、順序をのぞいて何通りあるか。そのパターン数を与える関数。
* [[メビウス関数]]:{{math|''n''}} が[[平方因子]]を持つ数ならば {{math|''μ''(''n'') {{=}} 0}}、{{math|''n''}} が相異なる[[偶数]]個の素数の積ならば {{math|''μ''(''n'') {{=}} 1}}、{{math|''n''}} が相異なる[[奇数]]個の素数の積ならば {{math|''μ''(''n'') {{=}} −1}} と {{math|''n''}} によって3通りの値をとる関数。
* [[ゼータ関数]]<ref>[[荒川恒男]], 伊吹山知義, & 金子昌信. (2001). [[ベルヌーイ数]]とゼータ関数. 牧野書店.</ref>およびその類似物である[[L関数]]:これらの関数と素数の間に深い関係があることは、[[リーマン予想]]で示唆されている。[[リーマン予想]]を仮定すると [[素数|素数の個数]](与えられた数以下の[[素数]] の個数。しばしば {{math|{{pi}}(''x'')}} と記す)も精度の高い式が得られることが知られている。[[ディリクレ級数]]のひとつでもある。
{{div col end}}
== その他の特殊関数 ==
{{節スタブ}}
固有の名前がついた関数を特殊関数というが、ここは他の分類に収まらないものの一覧。
{{div col|rules=yes}}
* [[絶対値]]: 与えられた数の符号を取り払ったもの。
* [[床関数]]: 与えられた実数を越えない最大の[[整数]]を返す。
* [[天井関数]]: 与えられた実数を下まわらない最小の[[整数]]を返す。
* [[ガンマ関数]]: [[階乗]]の実数全体に対する一般化。
* [[楕円積分]]: 楕円の[[周の長さ]]から生じる。多くの応用において重要である。
* [[楕円関数]]<ref name="ume">[[梅村浩]]. (2000). [[楕円関数]]論: [[楕円曲線]]の[[解析学]], [[東京大学出版会]].</ref><ref name="toda">[[戸田盛和]]. (2001). [[楕円関数]]入門, [[日本評論社]].</ref>: 楕円積分の逆関数。二重周期を持つ現象のモデル化に用いられる。
* [[指数積分]]: 指数関数を含む積分で定義される。
* [[ベッセル関数]]<ref name="watson">Watson, G. N. (1995). A treatise on the theory of Bessel functions. Cambridge University Press.</ref><ref name="bessel">平野鉄太郎. (1963). [[ベッセル関数]]入門, 日新出版.</ref>: [[微分方程式]]により定義される。[[天文学]]、[[電磁気学]]、[[工学]]でよく使われる。
* [[対数積分]]: 「対数関数分の 1」の不定積分。[[素数定理]]において重要。
* [[ランベルトのW関数|ランベルトの {{math|W}} 関数]]: {{math|''f'' (''w'') {{=}} ''w'' exp(''w'')}} の逆関数。
* [[誤差関数]]: [[正規分布|正規乱数]]で重要な積分。
* [[ベータ関数]]: ガンマ関数を用いて表現できる。
* [[アッカーマン関数]] (Ackermann function): [[計算理論]]において、[[原始帰納的]]でない帰納的関数。
* [[クヌースの矢印表記]]:[[巨大数]]の表示に利用される表記法あるいは関数。アッカーマン関数の値はクヌースの矢印表記を用いて表すことができる。
* [[ヘヴィサイドの階段関数]] (Heaviside step function): 負の値に対し {{math|0}} を、{{math|0}} に対し {{math|{{sfrac|1|2}}}} を、正の値に対し {{math|1}} をそれぞれ対応させる不連続な実数値関数。ディラックのデルタ関数を[[確率密度関数]]としたときの[[累積分布関数]]にあたる。
* [[ディリクレの関数]]: {{math|''x''}} が[[有理数]]であれば {{math|1}} を、[[無理数]]であれば {{math|0}} を返す関数。{{math|'''R'''}} 上のいたる点で[[不連続]]である関数の典型例。[[リーマン積分]]不可能 ([[ルベーグ積分]]は可能) な関数として、よく引き合いに出される。
* [[多重対数関数]]: [[対数]]関数の一般化<ref>Lewin, L. (1991). Structural properties of polylogarithms (No. 37). American Mathematical Soc..</ref>。
{{div col end}}
== 超関数 ==
* [[ディラックのデルタ関数]]: {{math|0}} 以外の任意の実数に対しては {{math|0}} が対応し、{{math|0}} を内点とする任意の区間上で独立変数を変化させていくときの(広義)積分の値が {{math|1}} であるような[[超関数]]。普通の意味での関数ではないが[[確率分布]]ではある。
== 関数のクラス ==
ここは固有の名前がついた関数ではなく、名前のついた性質をもった関数の一覧。
{{div col|rules=yes}}
* [[一方向性関数]] (oneway function): 簡単に計算できるが、逆関数の計算が非常に困難な関数。[[暗号理論]]で用いられる概念。
* [[行列値関数]]:[[行列 (数学)|行列]]を変数として持つ関数<ref>Higham, N. J. (2008). Functions of matrices: theory and computation. SIAM.</ref>、例えば[[行列指数関数]]・[[行列の対数]]・[[行列の平方根]]などがある。
* [[グリーン関数]]: [[波動方程式]]を解くのに用いられる<ref>松浦武信, 吉田正廣, & 小泉義晴. (2003). 物理・工学のためのグリーン関数入門.</ref>。
* 加法関数: 因数の積と和が等しい
* [[解析関数]]: 局所的に収束するベキ級数で定義される<ref>Ahlfors, L. V., Ahlfors, L. V., Ahlfors, L. V., & Ahlfors, L. V. (1966). Complex analysis: an introduction to the theory of analytic functions of one complex variable (Vol. 2). New York: McGraw-Hill.</ref><ref>Nevanlinna, R., Behnke, H., Grauert, H., Ahlfors, L. V., Spencer, D. C., Bers, L., ... & Jenkins, J. A. (1970). Analytic functions (Vol. 11). Berlin: Springer.</ref>
* [[整関数]]: 定義域が複素平面であるような正則関数
* [[偶関数]]: {{math|''f'' (−''x'') {{=}} ''f'' (''x'')}} が成り立つ
* [[奇関数]]: {{math|''f'' (−''x'') {{=}} −''f'' (''x'')}} が成り立つ
* [[正則関数]]: 領域内のすべての点で微分可能な複素関数
* [[単調関数]]: 順序を保存する関数
{{div col end}}
==脚注==
{{reflist|2}}
{{数学}}
{{デフォルトソート:かんすういちらん}}
[[category:数学の一覧|かんすう]]
[[Category:曲線あてはめ]]
[[Category:関数|**いちらん]]
[[Category:関数の種類|*]]
[[Category:数学に関する記事]]
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一分金
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一分金(いちぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。
金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり、『三貨図彙』には一歩判と記載されている。「判」は金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ。一方『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。「一分金」の名称は、一分銀と区別するために普及するようになったのであり、幕末の天保8年(1837年)以降のことである。
形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている。
額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨的な貨幣として流通した。
江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い。
これに対し、一朱判金、二朱判金、二分判金は臨時貨幣と呼ぶべきもので、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、元禄期に発行された元禄二朱判金は、一分判金と同様に本位貨幣的である)。京師より西の西日本では俗称「小粒」といえば豆板銀を指したが、東日本ではこのような角型の小額金貨を指した。
江戸時代では慶長6年(1601年)に初めて発行されたとされるが、天正年間頃から鋳造されたとされる丸一分判や額一分判も現存している。以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、幕府および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、江戸時代後期には、一分判と等価の額面表記銀貨、一分銀が発行されて以降、一分判の発行高は激減した。特に小型化した万延一分判は製造効率も低いためと思われ発行高は少ない。
括弧内は発行年、量目、金含有率(規定)。発行高は小判に含まれる。
地方貨幣で一分の額面を持つ金貨としては、筑前一分金がある。
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一分金(いちぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。 金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり、『三貨図彙』には一歩判と記載されている。「判」は金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ。一方『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。「一分金」の名称は、一分銀と区別するために普及するようになったのであり、幕末の天保8年(1837年)以降のことである。
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'''一分金'''(いちぶきん)とは、[[江戸時代]]に流通した[[金貨]]の一種。
[[金座]]などで用いられた公式の名称は'''一分判'''(いちぶばん)であり、『三貨図彙』には'''一歩判'''と記載されている。「判」は金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p65, p239-240.]]</ref>。一方『[https://web.archive.org/web/20080501023150/http://www.imes.boj.or.jp/cm/digitalroom/senpu/ao1-1-1/index.htm 金銀図録]』および『大日本貨幣史』などの古銭書には'''一分判金'''/'''壹分判金'''(いちぶばんきん)という名称で収録されており、[[貨幣]][[収集]]界では「一分判金」の名称が広く用いられる<ref>[[#JNDA2008|日本貨幣商協同組合(2008), p84-87.]]</ref>。「一分金」の名称は、[[一分銀]]と区別するために普及するようになったのであり、幕末の[[天保]]8年(1837年)以降のことである<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p66.]]</ref>。
== 概要 ==
形状は長方形。表面には、上部に[[扇]]枠に五三の[[桐紋]]、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と[[花押]]が刻印されている<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p106-107.]]</ref>。これは鋳造を請け負っていた金座の[[後藤光次]]の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p1102-111.]]</ref>。
額面は1[[分 (曖昧さ回避)|分]]。その貨幣価値は1/4[[両]]に相当し、また4[[朱]]に相当する[[計数貨幣]]である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p125.]]</ref>、品位(金の純度)は同時代に発行された[[小判|小判金]]と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに[[基軸通貨]]的な貨幣として流通した<ref name="Mikami1996-202">[[#Mikami1996|三上(1996), p202.]]</ref>。
江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い<ref name="Taya1973">田谷博吉、「[https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261 江戸時代貨幣表の再検討]」 『社会経済史学』 1973年 39巻 3号 p.261-279, {{doi|10.20624/sehs.39.3_261}}, 社会経済史学会</ref>。
これに対し、[[一朱金|一朱判金]]、[[二朱金|二朱判金]]、[[二分金|二分判金]]は臨時貨幣と呼ぶべきもので、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、[[元禄]]期に発行された[[元禄小判#元禄二朱判|元禄二朱判金]]は、一分判金と同様に本位貨幣的である)<ref name="Mikami1996-202" />。[[京都|京師]]より西の[[西日本]]では俗称「小粒」といえば[[豆板銀]]を指したが、[[東日本]]ではこのような角型の小額金貨を指した<ref>近藤守重 『[https://web.archive.org/web/20080501023150/http://www.imes.boj.or.jp/cm/digitalroom/senpu/ao1-1-1/index.htm 金銀図録]』 1810年</ref>。
江戸時代では慶長6年([[1601年]])に初めて発行されたとされるが、[[天正]]年間頃から鋳造されたとされる丸一分判や額一分判も現存している<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p235-237.]]</ref>。以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、[[江戸幕府|幕府]]および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、[[江戸時代]]後期には、一分判と等価の額面表記[[銀貨]]、一分銀が発行されて以降、一分判の発行高は激減した。特に小型化した万延一分判は製造効率も低いためと思われ発行高は少ない<ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p115.]]</ref>。
== 種類 ==
括弧内は発行年、量目、[[金]]含有率(規定)。発行高は[[小判]]に含まれる<ref name=kyukingin>『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 [[大蔵省]]、1875年</ref><ref>佐藤治左衛門 『貨幣秘録』 1843年</ref><ref>[[勝海舟]] 『吹塵録』 1887年</ref>。
=== 安土桃山時代 ===
* '''[[慶長小判#丸一分判|丸一分判]]'''([[天正]] - [[文禄]]年間、1.2[[匁]]、84.3%)
* '''[[慶長小判#額一分判|額一分判]]'''([[慶長]]4年(1599年)頃、1.2匁、84.3%)
=== 江戸時代 ===
* '''[[慶長小判#慶長一分判|慶長一分判]]'''(慶長6年(1601年)頃、1.19匁、84.3%→86.8%)
* '''[[元禄小判#元禄一分判|元禄一分判]]'''([[元禄]]8年(1695年)9月、1.19匁、57.4%)
* '''[[宝永小判#宝永一分判|宝永一分判]]'''([[宝永]]7年(1710年)4月、0.625匁、84.3%)
* '''[[正徳小判#正徳一分判|正徳一分判]]'''([[正徳 (日本)|正徳]]4年(1714年)5月、1.19匁、84.3%)
* '''[[享保小判#享保一分判|享保一分判]]'''(正徳4年(1714年)8月、1.19匁、86.8%)
* '''[[元文小判#元文一分判|元文一分判]]'''([[元文]]元年(1736年)5月、0.875匁、65.7%)
* '''[[文政小判#文政一分判|文政一分判]]'''([[文政]]2年(1819年)6月、0.875匁、56.4%)
* '''[[天保小判#天保一分判|天保一分判]]'''([[天保]]8年(1837年)7月、0.75匁、56.8%)
* '''[[安政小判#安政一分判|安政一分判]]'''([[安政]]6年(1859年)5月、0.60匁、56.8%)
* '''[[万延小判#万延一分判|万延一分判]]'''([[万延]]元年(1860年)2月、0.22匁、56.8%)
<gallery>
ファイル:Keicho-1buban.jpg|慶長一分判
ファイル:Shotokukoki-1buban.jpg|享保一分判
ファイル:Bunzi-1buban.jpg|元文一分判
ファイル:Shinbunzi-1buban.jpg|文政一分判
ファイル:Hozi-1buban.jpg|天保一分判
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== 地方貨幣 ==
[[地方貨幣]]で一分の額面を持つ金貨としては、[[筑前一分金]]がある<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p293-297.]]</ref><ref>[[#Shimizu1996|清水(1996), p77.]]</ref>。
{{江戸時代の貨幣}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=清水恒吉 |title=南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜 |publisher=南鐐コイン・スタンプ社 |date=1996 |isbn= |ref=Shimizu1996}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本貨幣カタログ |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=2008 |isbn= |ref=JNDA2008}}
== 外部リンク ==
* 上田道男、「江戸期小判の品位をめぐる問題と非破壊分析結果について」『金融研究』 12(2), p103-125, 1993-06, {{naid|40004439883}}
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[[Category:江戸時代の金貨]]
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収集型金貨
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収集型金貨(しゅうしゅうがたきんか)とは、記念硬貨などの形で発行される金貨の種類である。金地金による資産管理の一形態として購入される地金型金貨に対し、趣味的な収集や稀少品に対する付加価値の増大への期待によって購入される事からこう呼ばれている。収集型・地金型とも、現代の金貨は通貨としての流通を目的として発行されるものではない。強制通用力はあるものの、性格はメダルに近い。
一般に、金の地金価格および通貨としての額面の双方を大きく上回る価格で発売され、発行当局は鋳造原価との差額を利益として得る。例えば、愛・地球博の記念金貨の額面は1万円だが、販売価格は4万円である。このように貴金属を含む記念貨幣のうち、その製造に要する費用がその額面価格を超えるものは造幣局ではプレミアム貨幣とされ、通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第10条第1項第1号に基づき造幣局が販売している。ただし希少性が必要なため、地金型金貨のように大量に発行することはできない。金相場の影響はあまり受けず、収集者の嗜好によって価格が変動する。
地金型金貨が、政情激変による現行通貨の廃止やハイパーインフレーションといった事態に備えるための資産保全・リスクヘッジの目的で保有されることが多いのに対し、資産運用目的での収集型金貨保有はより投機的な性格が強い。
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[[ファイル:Aichi-Expo2005-10000yen.jpg|thumb|300px|[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の記念金貨。額面1万円に対して4万円で販売された。]]
'''収集型金貨'''(しゅうしゅうがたきんか)とは、記念硬貨などの形で発行される[[金貨]]の種類である。[[金]]地金による資産管理の一形態として購入される[[地金型金貨]]に対し、趣味的な[[収集]]や稀少品に対する付加価値の増大への期待によって購入される事からこう呼ばれている。収集型・地金型とも、現代の金貨は通貨としての流通を目的として発行されるものではない。[[強制通用力]]はあるものの、性格は[[メダル]]に近い。
一般に、[[金]]の地金価格および[[通貨]]としての額面の双方を大きく上回る価格で発売され、発行当局は鋳造原価との差額を利益として得る。例えば、[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の記念金貨の額面は1万円だが、販売価格は4万円である。このように[[貴金属]]を含む[[記念貨幣]]のうち、その製造に要する費用がその額面価格を超えるものは[[造幣局 (日本)|造幣局]]ではプレミアム貨幣とされ、[[通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律]]第10条第1項第1号に基づき造幣局が販売している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mint.go.jp/faq-list/faq_coin#faq27|title=造幣局:貨幣Q&A|accessdate=2020/03/07|publisher=}}</ref>。ただし希少性が必要なため、地金型金貨のように大量に発行することはできない。金相場の影響はあまり受けず、収集者の嗜好によって価格が変動する。
地金型金貨が、政情激変による現行通貨の廃止や[[ハイパーインフレーション]]といった事態に備えるための資産保全・[[ヘッジファンド|リスクヘッジ]]の目的で保有されることが多いのに対し、資産運用目的での収集型金貨保有はより[[投機]]的な性格が強い。
== 脚注 ==
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[ミントセット]]
== 外部リンク ==
* [http://www.mint.go.jp/data/kinenkahei_set/index.html 記念貨幣セット](独立行政法人造幣局サイト内)
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慈照寺
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慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
1952年(昭和27年)3月29日には庭園が、国の特別史跡および特別名勝に指定された。1994年(平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。
かつて浄土寺の鎮守社で、後に慈照寺の鎮守社となった八神社が境内地の北にある。
慈照寺観音殿(以下「銀閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489年)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺で、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)
初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになる。初層東側には落縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となり、こちら側が正面であることを示している。初層の南半部(正面から見て左側)は、手前を4畳大の吹き放しの広縁とし、その奥を8畳大の仏間とする。仏間は板敷で、天井は吹き寄せ格天井とする。初層の北半部は手前が畳敷の6畳、その奥は3畳大の板敷の小室が南北に並ぶ。このうち北側の室には上層への階段と勝手口、南側の室には押入がある。階段は上層の北側の回縁に通じている。なお、この3畳間2室は部屋としての役割が曖昧であるうえに後世の改造の痕跡があり、当初とは間取りや階段の位置が異なっているとみられる。
初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの障子窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。仏間正面と6畳間正面は腰高障子を入れ、広縁・6畳境は杉戸を用いる。上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室で観音菩薩坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。創建当初の上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。
鹿苑寺金閣の三層が東西南北とも同形式で、柱間も等間隔に割り付けているのに対し、銀閣の上層は東面と西面のみ形式が同一で、南面と北面は異なっている。金閣の三層は4面の中央に戸を設けるが、銀閣の上層は南面と北面のみに桟唐戸を設ける。上層南面は中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取る。東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。前述の花頭窓はこの張り出し部に設けられている。東西の張り出し部は、室内では造り付けの腰掛となっている。
二層内部は板敷、格天井の1室で、西寄りに須弥壇を置き、観音菩薩坐像(洞中観音)を東向きに安置する。上層の建築様式は禅宗様を基調とするが、縁の高欄は和様の刎高欄である。初層は東を正面とし、上層の観音菩薩像も東向きに安置されているが、上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある。ただし、平成21年(2009年)に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された。
金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである。万治元年(1658年)に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる。
金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。また、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説もあったが、平成19年(2007年)1月5日に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったともいわれている。
屋根は約30年ごとに葺き替えられている。平成20年(2008年)2月から平成22年(2010年)3月まで、杮葺の屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、耐震補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るといった、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。
修復に際し、京都府教育委員会は老朽化を防ぐために銀閣の外壁に黒漆を塗り創建当時の姿に戻すことを提案したが、所有者である慈照寺の意向により現在の外観を維持する方針で修理が行われることになった。また、工事と同時に調査も実施され、1階の「心空殿」からは創建当時のものとみられる仏像を安置するための「仏間構え」の痕跡や、2階の外壁の軒下部分からは花などの模様をかたどった赤や青に彩色された跡も見つかった。総事業費は約1億4000万円。修復終了後の平成22年(2010年)4月12日、住職の有馬頼底らによって落慶法要が営まれた。
東求堂(とうぐどう)は一重入母屋造、檜皮葺で、文明18年(1486年)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。
平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも襖とする。
仏間は正面奥に須弥壇を設け、阿弥陀如来立像を安置。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は狩野正信筆の十僧図があった。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 - 40年(1964年 - 1965年)の解体修理時に復元したものである。『蔭涼軒日録』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を連子窓に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。
東北に位置する4畳半(同仁斎)は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院(出文机)を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである。
解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。 茶道史では江戸時代以来、同仁斎は四畳半茶室の始まりと伝えられており、堀口捨己は『君台観左右帳記』に描写される同仁斎の座敷飾りを論拠として義政時代の同仁斎茶室説を支持している。
「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三(おうせんけいさん)が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする。
扁額「東求堂」は足利義政の筆、扁額「隔簾」は相国寺派5代管長大津櫪堂の筆である。
現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている。
前述の通り、観音殿を「銀閣」と称するほか、寺院全体の通称は「銀閣寺」として知られている。一方、入学試験で当寺が正答となる問題が出題された際に「銀閣寺」と解答すると、誤答とされた事例があった。
1977年(昭和52年)3月に実施された北海道公立高校入学試験(北海道教育委員会作成)においては、「銀閣」「慈照寺」は正答とされた(ひらがな表記を含む)が、「銀閣寺」は誤答だった。この設問についての出題者の見解は、「銀閣は、慈照寺という寺のいくつかの建物の一つで、教科書でも銀閣寺とは記述されていない。『銀閣』または『銀閣(慈照寺)』と示されている」としている。なお、当寺の近隣には「銀閣寺前」「銀閣寺道」を称する電停(当時)やバス停があるほか、修学旅行などのガイドも銀閣寺と呼称していたことを挙げて「入試問題の落とし穴」とした報道もあった。なお、2002年(平成14年)に実施された横浜中学校の入学試験における選択肢では「慈照寺銀閣」と記述されている。
なお同じ相国寺の塔頭として京都市上京区烏丸通今出川東入上るに「慈照院」がある。慈照寺と慈照院はどちらも足利義政にゆかりがあるが、別の寺院である。
背後の銀閣寺山に銀閣寺山国有林(面積23.89ha)がある。銀閣寺山国有林は森林法の土砂流出防備保安林である。また、銀閣寺山国有林は都市計画法の風致地区、古都保存法の歴史的風土特別保存地区、鳥獣保護法の鳥獣保護区となっている。
この林は慈照寺(銀閣寺)庭園の背景林であり、慈照寺(銀閣寺)の旧寺領だったが、明治時代の社寺上知令により国有林に編入された。なお、銀閣寺山(銀閣寺山国有林)は五山送り火の大文字山(大文字保存会共有林)に隣接する。
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"text": "平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも襖とする。",
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"text": "仏間は正面奥に須弥壇を設け、阿弥陀如来立像を安置。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は狩野正信筆の十僧図があった。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 - 40年(1964年 - 1965年)の解体修理時に復元したものである。『蔭涼軒日録』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を連子窓に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。",
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"text": "東北に位置する4畳半(同仁斎)は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院(出文机)を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである。",
"title": "東求堂"
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"text": "解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。 茶道史では江戸時代以来、同仁斎は四畳半茶室の始まりと伝えられており、堀口捨己は『君台観左右帳記』に描写される同仁斎の座敷飾りを論拠として義政時代の同仁斎茶室説を支持している。",
"title": "東求堂"
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"text": "「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三(おうせんけいさん)が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする。",
"title": "東求堂"
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"text": "扁額「東求堂」は足利義政の筆、扁額「隔簾」は相国寺派5代管長大津櫪堂の筆である。",
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"text": "現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている。",
"title": "東求堂"
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"text": "前述の通り、観音殿を「銀閣」と称するほか、寺院全体の通称は「銀閣寺」として知られている。一方、入学試験で当寺が正答となる問題が出題された際に「銀閣寺」と解答すると、誤答とされた事例があった。",
"title": "「銀閣」と「銀閣寺」"
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"text": "1977年(昭和52年)3月に実施された北海道公立高校入学試験(北海道教育委員会作成)においては、「銀閣」「慈照寺」は正答とされた(ひらがな表記を含む)が、「銀閣寺」は誤答だった。この設問についての出題者の見解は、「銀閣は、慈照寺という寺のいくつかの建物の一つで、教科書でも銀閣寺とは記述されていない。『銀閣』または『銀閣(慈照寺)』と示されている」としている。なお、当寺の近隣には「銀閣寺前」「銀閣寺道」を称する電停(当時)やバス停があるほか、修学旅行などのガイドも銀閣寺と呼称していたことを挙げて「入試問題の落とし穴」とした報道もあった。なお、2002年(平成14年)に実施された横浜中学校の入学試験における選択肢では「慈照寺銀閣」と記述されている。",
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"text": "なお同じ相国寺の塔頭として京都市上京区烏丸通今出川東入上るに「慈照院」がある。慈照寺と慈照院はどちらも足利義政にゆかりがあるが、別の寺院である。",
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"text": "背後の銀閣寺山に銀閣寺山国有林(面積23.89ha)がある。銀閣寺山国有林は森林法の土砂流出防備保安林である。また、銀閣寺山国有林は都市計画法の風致地区、古都保存法の歴史的風土特別保存地区、鳥獣保護法の鳥獣保護区となっている。",
"title": "銀閣寺山国有林"
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"text": "この林は慈照寺(銀閣寺)庭園の背景林であり、慈照寺(銀閣寺)の旧寺領だったが、明治時代の社寺上知令により国有林に編入された。なお、銀閣寺山(銀閣寺山国有林)は五山送り火の大文字山(大文字保存会共有林)に隣接する。",
"title": "銀閣寺山国有林"
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] |
慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。 「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
|
{{Otheruses|銀閣寺として知られる京都市の寺院|その他の寺院}}
{{混同|慈照院}}
{{日本の寺院
|名称 = 慈照寺
|画像 =[[ファイル:Ginkakuji Kyoto03-r.jpg|300px]]
|画像説明=観音殿(銀閣)
|地図 = Japan Kyoto city#Japan
|地図2 = {{Maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=14|frame-align=center|frame-width=240|marker=place-of-worship}}
|位置 = {{coord|35|1|36.75|N|135|47|53.7|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=慈照寺}}
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[左京区]]銀閣寺町2
|山号 = 東山(とうざん)
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|寺号 = 慈照寺
|宗旨 =
|宗派 = [[臨済宗#相国寺派|臨済宗相国寺派]]
|寺格 = [[相国寺]]境外[[塔頭]]
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|創建年 = [[延徳]]2年([[1490年]])
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|開基 = [[足利義政]]
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|別称 = 銀閣寺、銀閣<br />東山殿、東山山荘
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|公式HP = https://www.shokoku-ji.jp/ginkakuji/
|公式HP名 = 臨済宗相国寺派 銀閣寺
}}
[[File:Ginkaku-ji Plan.jpg|thumb|220px|境内図 1.総門、2.中門、3.庫裡、4.方丈(本堂)、5.東求堂、6.弄清亭、7.向月台、8.銀沙灘、9.錦鏡池、10.白鶴島、赤色は銀閣。]]
'''慈照寺'''(じしょうじ)は、[[日本]]の[[京都市]][[左京区]]銀閣寺町にある[[臨済宗#相国寺派|臨済宗相国寺派]]の[[寺院]]。[[本山|大本山]][[相国寺]]の境外[[塔頭]]。[[山号]]は東山(とうざん<ref>[[小学館]]『[[日本大百科全書]]』内、[[平井俊榮]]「慈照寺」。[https://kotobank.jp/word/慈照寺-73355 コトバンク版](2021年10月18日閲覧。)</ref>)。[[本尊]]は[[釈迦如来]]。観音殿(銀閣)から別名、'''銀閣寺'''(ぎんかくじ)として知られている。正式には、'''東山慈照禅寺'''(とうざんじしょうぜんじ)と号する。[[開山 (仏教)#開基|開基]](創立者)は[[足利義政]]、[[開山 (仏教)|開山]]は[[夢窓疎石]]とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。
「[[古都京都の文化財]]」の一部として[[世界遺産|ユネスコ世界遺産]]に登録されている。'''銀閣'''は、[[鹿苑寺|金閣]]、[[西本願寺#国宝の建造物|飛雲閣]]([[西本願寺]][[境内]])とあわせて'''京の三閣'''と呼ばれる。
== 歴史 ==
[[室町幕府]]8代将軍[[足利義政]]は[[文明 (日本)|文明]]5年([[1473年]])に子の[[足利義尚]]に将軍職を譲り、 文明14年([[1482年]])から[[東山 (京都府)|東山]]の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、[[応仁の乱]]で焼亡した浄土寺(現・[[浄土院 (京都市左京区)|浄土院]])のあったところであり、近代以降も[[左京区]]浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初([[1465年]])は、実際の造営地の約1キロメートル南、[[南禅寺]][[末寺|子院]]の一つであった[[恵雲院]]([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[廃寺]])の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57118050T20C20A3CR8000/ 「銀閣寺 予定地1キロ南だった 古文書から判明」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年3月24日社会面掲載の[[共同通信]]記事(2020年3月25日閲覧)</ref>。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に[[段銭]](臨時の税)や[[夫役]](労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や[[茶道|茶の湯]]に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年([[1483年]])にはここに移り住んでいた。東山殿には[[会所 (中世)|会所]]、[[常御所]]、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍[[足利義満]]が建てた北山殿(後の[[鹿苑寺]])ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
[[延徳]]2年([[1490年]])2月、同年1月に死去した義政の[[菩提]]を弔うため東山殿を禅寺に改め、[[相国寺]]の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた<ref>臨済宗相国寺派サイト/銀閣寺のあゆみ/開創[http://www.shokoku-ji.jp/h_g.html](2019年8月1日閲覧)</ref>。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]中期の[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])には第12代将軍[[足利義晴]]とその子で第13代将軍[[足利義輝|義輝]]により慈照寺の裏山に[[中尾城]]が築かれ(短期間で廃城)<ref>今谷、P154 - P160</ref>、末期には前[[関白]][[近衛前久]]の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる<ref>(村上、1977)、p.116</ref>。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。
[[1952年]]([[昭和]]27年)[[3月29日]]には庭園が、国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]および[[名勝#特別名勝|特別名勝]]に指定された。[[1994年]]([[平成]]6年)[[12月17日]]には「[[古都京都の文化財]]」として [[世界遺産|ユネスコ世界遺産]]に登録されている。
かつて浄土寺の[[鎮守神#鎮守社|鎮守社]]で、後に慈照寺の鎮守社となった[[八神社]]が境内地の北にある。
== 観音殿(銀閣) ==
[[File:Ginkaku-ji after being restored in 2008.jpg|thumb|200px|銀閣(東正面)]]
[[File:Ginkakuji Kyoto10-r.jpg|thumb|200px|銀閣(北東から)]]
慈照寺観音殿(以下「銀閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。[[長享]]3年([[1489年]])の上棟である。屋根は[[宝形造]]、[[こけら葺|杮葺]]で、屋頂に[[銅]]製[[鳳凰]]を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた<ref name="宮上">(宮上、1992)、p.124</ref>。
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り[[金箔]]を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。これには色々な説がある。上層は当初は内外とも[[漆|黒漆]]塗であった<ref name="宮上"/>。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)
初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになる。初層東側には[[縁側|落縁]]が設けられ、[[庇|軒]]も二軒(ふたのき)となり、こちら側が正面であることを示している<ref name="宮上"/>。初層の南半部(正面から見て左側)は、手前を4[[畳]]大の吹き放しの広縁とし、その奥を8畳大の仏間とする。仏間は板敷で、天井は吹き寄せ格天井とする。初層の北半部は手前が畳敷の6畳、その奥は3畳大の板敷の小室が南北に並ぶ。このうち北側の室には上層への階段と勝手口、南側の室には[[押入]]がある。階段は上層の北側の回縁に通じている。なお、この3畳間2室は部屋としての役割が曖昧であるうえに後世の改造の痕跡があり、当初とは間取りや階段の位置が異なっているとみられる<ref>(宮上、1992)、pp.124 - 125</ref>。
初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの[[障子]]窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。仏間正面と6畳間正面は腰高障子を入れ、広縁・6畳境は杉戸を用いる。上層は「潮音閣」と称し、初層とは異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室で[[観音菩薩]]坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。創建当初の上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。
鹿苑寺金閣の三層が東西南北とも同形式で、柱間も等間隔に割り付けているのに対し、銀閣の上層は東面と西面のみ形式が同一で、南面と北面は異なっている。金閣の三層は4面の中央に戸を設けるが、銀閣の上層は南面と北面のみに桟唐戸を設ける。上層南面は中央間を桟唐戸、両脇間を[[火灯窓|花頭窓]]とする。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取る<ref>(宮上、1992)、pp.123 - 124</ref>。東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。前述の花頭窓はこの張り出し部に設けられている。東西の張り出し部は、室内では造り付けの腰掛となっている。
二層内部は板敷、格天井の1室で、西寄りに須弥壇を置き、観音菩薩坐像(洞中観音)を東向きに安置する<ref>『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp.54 - 55</ref>。上層の建築様式は禅宗様を基調とするが、縁の高欄は和様の刎高欄である。初層は東を正面とし、上層の観音菩薩像も東向きに安置されているが、上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている<ref>(引原、2010)p.363</ref>。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある<ref>(宮上、1992)、pp.124 - 131</ref>。ただし、平成21年([[2009年]])に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された<ref>(引原、2010)p.361</ref><ref>本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。
* (宮上、1992)、pp.123 - 131
* 『週刊朝日百科 日本の国宝68』、pp.7 - 229 - 7 -230
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』、pp.142 - 144</ref>。
金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは[[江戸時代]]以降のことである<ref>[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka10.html 銀閣寺(慈照寺)] - 京都市情報館([[京都市]]公式サイト、2010年11月28日閲覧)</ref>。[[万治]]元年([[1658年]])に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる<ref>[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=099-0055 洛陽名所集](1658年) - 国文学研究資料館 ※ 慈照寺についての記述は[[データベース]]の49コマ目に収録されている。</ref>。
金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。<!--慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が[[茶道]]趣味と[[禅宗]]文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高い。(考察が含まれています。)-->また、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説<ref>{{PDFlink|[http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/pdf/100-113.pdf われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要がある]}}(対談)『インターネットエディション』No.25(1998年夏号、[[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]) ISBN 雑誌01771-07</ref>もあったが、平成19年([[2007年]])[[1月5日]]に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている<ref>[http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70107a.htm 「銀閣寺に銀箔なし 創建時から 科学調査で検出されず」][[読売新聞|YOMIURI ONLINE]](2007年1月7日付) {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070109035429/http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70107a.htm |date=2007年1月9日 }}</ref>。ちなみに、義政の妻・[[日野富子]]は資金援助を一切しなかったともいわれている。
屋根は約30年ごとに葺き替えられている。平成20年([[2008年]])2月から平成22年([[2010年]])3月まで、杮葺の屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、[[耐震]]補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るといった、[[大正]]初期以来の大規模な修復作業が行われた。
修復に際し、京都府[[教育委員会]]は老朽化を防ぐために銀閣の外壁に黒漆を塗り創建当時の姿に戻すことを提案したが、所有者である慈照寺の意向により現在の外観を維持する方針で修理が行われることになった<ref>「枯淡の銀閣維持 老朽化修理方針 創建時の黒漆塗りには戻さず」『[[京都新聞]]』2008年6月11日付</ref>。また、工事と同時に調査も実施され、1階の「心空殿」からは創建当時のものとみられる仏像を安置するための「仏間構え」の痕跡や、2階の外壁の軒下部分からは花などの模様をかたどった赤や青に彩色された跡も見つかった。総事業費は約1億4000万円。修復終了後の平成22年(2010年)[[4月12日]]、[[住職]]の[[有馬頼底]]らによって[[落慶法要]]が営まれた。
<gallery>
ファイル:Ginkakuji04.jpg|銀閣雪景
File:Jishoji kannonden1.jpg|銀閣(東正面の俯瞰)
File:Jishoji kannonden3.jpg|銀閣(北面)
</gallery>
== 東求堂 ==
[[File:Togu do.jpg|thumb|200px|東求堂]]
[[ファイル:Ginkakuji Kyoto08-r.jpg|thumb|right|200px|東求堂と庭園]]
東求堂(とうぐどう)は一重[[入母屋造]]、[[檜皮葺]]で、文明18年([[1486年]])の建立である。軒は疎[[垂木]]、[[組物]]は舟肘木を用いる。義政の[[持仏堂]]として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。
平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模である(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。南を正面とし、内部は4室に分かれる。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室とする。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の[[書斎]]である。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井とする。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井とし、室境はいずれも[[襖]]とする。
仏間は正面奥に[[須弥壇]]を設け、[[阿弥陀如来]]立像を安置<ref name="仏間">『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p.70</ref>。西側は襖の奥に位牌棚を設け、南寄りに法体の足利義政像を安置する<ref name="仏間"/>。仏間の襖は現在は白紙が貼られているが、当初は[[狩野正信]]筆の十僧図があった<ref>(宮上、1992)、p.114</ref>。東求堂の西側外面、仏間の外にあたる位置では外壁の一部が床の間状に後退し、その部分が縁に面した腰掛になっている。これは昭和39年 - 40年([[1964年]] - [[1965年]])の解体修理時に復元したものである。『[[蔭涼軒日録]]』に「西向きの床」と記されていたものがこの腰掛にあたる。仏間正面は中央間を桟唐戸両開き、その両脇を[[連子窓]]に腰板壁とするが、それ以外の堂の外面は舞良戸か壁とする。
東北に位置する4畳半(同仁斎)は、北面の左側に半間幅の違棚、その右に一間幅の書院(出文机)を設ける。棚と書院は回縁に張り出す形で設けられ、書院部分の外側は舞良戸、内側は明障子とする。この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、[[書院造]]の源流といえるものである<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝68』p.7 - 232</ref>。
解体修理時に同仁斎の部材から「[[囲炉裏|いろり]]の間」の墨書が見つかっており、当初は室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる<ref>(宮上、1992)、p.123</ref>。
[[茶道]]史では江戸時代以来、同仁斎は四畳半[[茶室]]の始まりと伝えられており、[[堀口捨己]]は『[[君台観左右帳記]]』に描写される同仁斎の座敷飾りを論拠として義政時代の同仁斎茶室説を支持している<ref>[[中村昌生]]『図説 茶室の歴史:基礎がわかるQ&A』([[淡交社]] 1998年 ISBN 4473016145)p.20-23.</ref>。
「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で[[横川景三]](おうせんけいさん)<!--「よこかわけいぞう」と誤読されないために読み仮名は必要。-->が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」([[韓愈]])を出典とする<ref>(宮上、1992)、p.122</ref>。
扁額「東求堂」は足利義政の筆、扁額「隔簾」は相国寺派5代管長大津櫪堂の筆である。
現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝68』p.7 - 227</ref><ref>本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。
* (宮上、1992)、pp.121 - 123
* 『週刊朝日百科 日本の国宝68』pp.7 - 232 - 7 -233
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』pp.124 - 127</ref>。
== 境内 ==
* 方丈(本堂) - [[寛永]]元年([[1624年]])再建。内部にある襖絵は[[与謝蕪村]]、[[池大雅]]が描いたもの。
* 宝処関 - 寛永年間([[1624年]] - [[1644年]])建立。
* 大玄関
* 庫裏 - [[天保]]8年([[1837年]])再建。
* 書院 - [[1993年]]([[平成]]5年)11月建立。大広間の襖絵は[[富岡鉄斎]]が描いたものである。旧庫裏にあった茶室「集芳軒」を移築している。
* 土蔵
* 中庭庭園
* 観音殿(銀閣、[[国宝]]) - [[長享]]3年([[1489年]])建立。解説は既出。
* 八幡社
* 東求堂(国宝) - [[文明 (日本)|文明]]18年([[1486年]])建立。解説は既出。
[[ファイル:Ginkakuji_Kyoto09-r.jpg|thumb|150px|室町時代の創建当時の石組み、お茶の井]]
* 庭園(国の[[史跡#特別史跡|特別史跡]]・[[名勝#特別名勝|特別名勝]]) - 錦鏡池(きんきょうち)を中心とする[[回遊式庭園|池泉回遊式庭園]]。「苔寺」の通称で知られる[[西芳寺]]庭園([[夢窓疎石]]作庭)を模して造られたとされるが、[[江戸時代]]に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。[[1967年]]([[昭和]]42年)7月9日、庭園の東山側の樹木が根こそぎ倒れ、しばらくの間、一部の拝観が中止となった<ref>「銀閣寺でも被害」『朝日新聞』昭和42年(1967年)7月10日夕刊、3版、11面</ref>。[[1972年]](昭和47年)7月12日、[[昭和47年7月豪雨]]により被害発生。東求堂の裏手の山が崩れ、庭園の半分以上が土砂で埋まる被害が生じた<ref>「文化財もメチャクチャ ゲリラ豪雨、八つ当たり」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月13日夕刊、3版、11面</ref>。
** 銀沙灘 - 白砂を段形に盛り上げ、平面に波紋を表現したもの。
** 向月台 - 白砂を円錐台形に盛り上げたもの。
* 洗月泉
* 弄清亭(香席) - [[1895年]]([[明治]]28年)再建。襖絵は[[奥田元宋]]が描いたもの。
* [[弁才天|弁財天]]社
* お茶の井
* [[枯山水]]庭園 - [[1931年]](昭和6年)に発掘されたもので、[[室町時代]]の面影を残すとされている。
* 漱蘚亭跡
* 集芳軒 - [[1854年]](嘉永7年)に庫裏に建てられた茶室。[[1993年]](平成5年)に新築された書院に移築。
* 洗月亭 - [[1934年]](昭和9年)に庫裏宝物陳列室に連接して新築、北側に茶庭があり、北側外に[[扁額]]を掲げた円相床を有す茶室があった<ref>『数寄屋聚成 11 近代数寄屋名席聚 現代茶室』 北尾春道 洪洋社 昭和10年(1935年)</ref>。
* 中門 - 寛永年間(1624年 - 1644年)再建。
* 銀閣寺垣 - 総門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣(ぎんかくじがき)と呼ばれている。
* 総門 - [[寛政]]12年([[1800年]])再建。
<gallery>
File:Ginkakuji togudo hall.jpg|東求堂(南西から望む、左方に縁に面した「腰掛」が見える)
File:Ginkakuji Kyoto02-r.jpg|慈照寺境内 左は銀閣、右方は手前から東求堂、方丈、庫裏
ファイル:Ginkakuji01.jpg|銀閣寺垣
File:向月台 or Kogetsudai.JPG|向月台
File:銀沙灘 or Ginshadan.JPG|銀沙灘
File:Ginkaku-syuufuku20080324-2.JPG|修復中の銀閣 ([[2008年]]3月24日撮影)
File:Restoring Jisho-ji roof.JPG|修復中の銀閣の屋根 ([[2008年]]5月15日撮影)
</gallery>
== 文化財 ==
=== 国宝 ===
* 慈照寺銀閣
* 慈照寺東求堂(附:棟札)
=== 重要文化財 ===
* 絹本著色[[春屋妙葩]]像
=== 国の特別史跡・特別名勝 ===
* 慈照寺(銀閣寺)庭園
=== 国の史跡 ===
* 慈照寺(銀閣寺)旧境内 - 特別史跡・特別名勝の「慈照寺(銀閣寺)庭園」とは別件で史跡に指定されている。指定範囲は「慈照寺(銀閣寺)庭園」より広く、北側にある[[浄土院 (京都市左京区)|浄土院]]の境内も指定対象に含まれている<ref>『図説日本の史跡 6 中世』同朋舎、1991年</ref>。
== 前後の札所 ==
; [[神仏霊場巡拝の道]]
: 108 [[曼殊院]] - '''109 慈照寺''' - 110 [[吉田神社]]
== 交通・拝観料 ==
* 所在地 - 京都市左京区銀閣寺町
* 交通 - 「銀閣寺前」([[京都市営バス]][[京都市営バス梅津営業所#32号系統|32]]・[[京都市営バス梅津営業所#急行100号系統|急行100]]号系統)下車徒歩6分、「銀閣寺道」(京都市営バス[[京都市営バス九条営業所#5号系統|5]]・[[京都市営バス錦林出張所#17号系統|17]]・[[京都市営バス梅津営業所#32号系統|32]]・[[京都市営バス梅津営業所#急行100号系統|急行100]]・[[京都市営バス錦林出張所#急行102号系統|急行102]]・[[京都市営バス錦林出張所#203号系統|203]]・[[京都市営バス烏丸営業所#204号系統|204]]号系統、[[京都バス]][[京都バス高野営業所#大原線|18]]・[[京都バス嵐山営業所#比叡山線(比叡山ドライブバス)|51]]・[[京都バス高野営業所#左京区総合庁舎循環線|56]]系統、[[京阪バス]][[京阪バス山科営業所#京都比叡平線|56・56A]]系統)下車徒歩10分。
* 拝観料 - 大人・高校生500円、中学・小学生300円。(観音殿内部は拝観できない)
== 「銀閣」と「銀閣寺」 ==
前述の通り、観音殿を「銀閣」と称するほか、寺院全体の通称は「銀閣寺」として知られている。一方、[[入学試験]]で当寺が正答となる問題が出題された際に「銀閣寺」と解答すると、誤答とされた事例があった。
[[1977年]](昭和52年)3月に実施された北海道公立高校入学試験([[北海道教育委員会]]作成)においては、「銀閣」「慈照寺」は正答とされた(ひらがな表記を含む)が、「銀閣寺」は誤答だった。この設問についての出題者の見解は、「銀閣は、慈照寺という寺のいくつかの建物の一つで、[[教科書]]でも銀閣寺とは記述されていない。『銀閣』または『銀閣(慈照寺)』と示されている」としている。なお、当寺の近隣には「銀閣寺前」「銀閣寺道」を称する[[鉄道駅|電停]](当時)や[[バス停留所|バス停]]があるほか、[[修学旅行]]などの[[ガイド]]も銀閣寺と呼称していたことを挙げて「入試問題の落とし穴」とした報道もあった<ref>「足利義政が建てたのは ×銀閣寺 ○銀閣 [[公立学校|公立高]]入試 “落とし穴”もあった」『[[北海道新聞]]』1977年3月6日付17面(16版)</ref>。なお、[[2002年]](平成14年)に実施された[[横浜中学校・高等学校|横浜中学校]]の入学試験における選択肢では「慈照寺銀閣」と記述されている。
なお同じ[[相国寺]]の塔頭として京都市[[上京区]][[烏丸通]][[今出川通|今出川]]東入上るに「慈照'''院'''」がある。慈照寺と慈照院はどちらも足利義政にゆかりがあるが、別の寺院である。
== 銀閣寺山国有林 ==
背後の銀閣寺山に銀閣寺山国有林(面積23.89ha)がある<ref name="kyoto">{{Cite web|和書| url = https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/evrepo/220414kyoutohyakukaten-ginkaku/pdf/sannkasya-siryou.pdf | title = 銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について| date = | website = | publisher =京都大阪森林管理事務所 | accessdate = 2022-09-26}}</ref>。銀閣寺山国有林は[[森林法]]の土砂流出防備保安林である<ref name="kyoto" />。また、銀閣寺山国有林は[[都市計画法]]の風致地区、[[古都保存法]]の歴史的風土特別保存地区、[[鳥獣保護法]]の鳥獣保護区となっている<ref name="kyoto" />。
この林は慈照寺(銀閣寺)庭園の背景林であり、慈照寺(銀閣寺)の旧寺領だったが、[[明治時代]]の社寺上知令により国有林に編入された<ref name="kyoto" />。なお、銀閣寺山(銀閣寺山国有林)は[[五山送り火]]の[[如意ヶ嶽|大文字山]](大文字保存会共有林)に隣接する<ref name="kyoto" />。
== 周囲の名所 ==
* [[哲学の道]]
* [[法然院]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[井上靖]]・[[塚本善隆]] 監修、[[竹中郁]]・村上慈海 著『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』[[淡交社]]、1977年
* [[竹村俊則]] 著『昭和京都名所図会 洛東下』[[駸々堂]]、1981年
* 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号(慈照寺ほか)[[朝日新聞社]]、1998年(解説執筆は伊藤毅)
* 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』[[新潮社]]、1992年
** 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」
* 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』淡交社、1977年
** 村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」
* 引原茂治「国宝慈照寺銀閣発掘調査と予察」『京都府埋蔵文化財論集 第6集 創立三十周年記念誌』京都府埋蔵文化財調査研究センター、2010年(参照:[http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/31hikihara.pdf])
* 『[[日本歴史地名大系]] 京都市の地名』[[平凡社]]
* 『[[角川日本地名大辞典]] 京都府』[[角川書店]]
* 『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』[[吉川弘文館]]
* [[今谷明]]『戦国[[三好氏|三好一族]] <small>天下に号令した戦国大名</small>』[[洋泉社]]、2007年
== 関連項目 ==
* [[古都京都の文化財]]([[世界遺産]])
* [[臨済宗]]・[[臨済宗#相国寺派]]
** [[相国寺]]
** [[鹿苑寺]](金閣寺)
* [[耕三寺]] - 銀閣を模した「銀龍閣」が建つ。
* [[田中泰阿弥]] - 出入りが認められた[[庭師]]<!--<ref>{{Cite web |format=PDF |url=https://www.city.kashiwazaki.lg.jp/jinbutsukan/kyoiku/bunka/furusato/documents/tayori51.pdf |title=第51号平成28年2月発行『ふるさと人物館たより』 |publisher=[[柏崎市]]|page=3 |date=2016-02 |accessdate=2018-02-02}}</ref>-->
* [[興聖寺 (高島市)|興聖寺]] - 旧秀隣寺庭園は、京から落ち延びた[[足利義晴]]将軍を慰めるため、銀閣寺をもとに建てられたとも言われている。義晴の息子、[[足利義輝]]も京の戦乱を逃れるため、たびたびこの地に逃れてきた。
== 外部リンク ==
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* [https://www.shokoku-ji.jp/ 相国寺 | 臨済宗相国寺派]
** [https://www.shokoku-ji.jp/ginkakuji/ 銀閣寺]
* {{Kotobank}}
* [https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005310784_00000 銀閣] - [[NHK for School]]
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スラップスティック・コメディ
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スラップスティック・コメディ(英: slapstick comedy)とは、コメディのジャンルの一つ。観客を笑わせることおよび観客の笑いを引き出すことを主目的とした喜劇の中でも、とくに体を張った表現形態を指す。サイレント映画において盛んに制作され、「映画独自の形式をもった喜劇」としてコメディ映画の一ジャンルと定義づけられることもある。日本では「ドタバタ喜劇」と訳されることが多いが、厳密には異なる。単にスラップスティック、スラプスティックとも。
アメリカのサイレント映画で、マック・セネットがプロデュースしたキーストン喜劇が代表的なもの。
「スラップスティック」とは、叩く(スラップ)棒(スティック)の意。もともとはアメリカ合衆国の道化芝居で相手をひっぱたくときに使われた、先が二つに割れた棒のこと(振るった時の音は大きいがあまり痛くなく、日本のハリセンのようなものと考えて差し支えない。使う時は跳ねて音を出す可動側を上にする)。これが転じて舞台喜劇のドタバタ芸を指すようになり、さらに転じて、動きの多いコメディ映画をそう呼ぶようになった。
叩いたり叩かれたり、追いかけたり追いかけられたり、あるいはパイを投げ合ったりといった体を張った演技は、映画が音声・音響、特に俳優の語る言葉を持たなかったサイレント時代初期に広く流行した。
しかし、映画の主流が短編から長編へと移行するにつれ、物語の比重が重要になり、さらにトーキーに移行することで、大げさな体技による笑いから、セリフによる笑いへと変化していったことなどから徐々に廃れていき、現在ではほとんど作られることがなくなっている。
(参考:年代別リスト(英語版))
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スラップスティック・コメディとは、コメディのジャンルの一つ。観客を笑わせることおよび観客の笑いを引き出すことを主目的とした喜劇の中でも、とくに体を張った表現形態を指す。サイレント映画において盛んに制作され、「映画独自の形式をもった喜劇」としてコメディ映画の一ジャンルと定義づけられることもある。日本では「ドタバタ喜劇」と訳されることが多いが、厳密には異なる。単にスラップスティック、スラプスティックとも。 アメリカのサイレント映画で、マック・セネットがプロデュースしたキーストン喜劇が代表的なもの。
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アメリカの[[サイレント映画]]で、[[マック・セネット]]がプロデュースした[[キーストン・スタジオ|キーストン]]喜劇が代表的なもの<ref>{{Cite Kotobank|word=スラップスティック・コメディ|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022年2月6日}}</ref>。
== 名前の由来 ==
[[File:Bic (instrument).jpg|thumb|スラップスティック。画像は上下が逆]]
「スラップスティック」とは、叩く(スラップ)棒(スティック)の意。もともとは[[アメリカ合衆国]]の[[笑劇|道化芝居]]で相手をひっぱたくときに使われた、先が二つに割れた棒のこと(振るった時の音は大きいがあまり痛くなく、日本の[[ハリセン]]のようなものと考えて差し支えない。使う時は跳ねて音を出す可動側を上にする)。これが転じて舞台喜劇のドタバタ芸を指すようになり、さらに転じて、動きの多いコメディ映画をそう呼ぶようになった。
== 映画における流行と廃れ ==
叩いたり叩かれたり、追いかけたり追いかけられたり、あるいは[[パイ投げ#映画における起源・発展|パイを投げ合ったり]]といった体を張った演技は、映画が音声・音響、特に俳優の語る言葉を持たなかった[[サイレント映画|サイレント]]時代初期に広く流行した。
{{要出典範囲|しかし、映画の主流が短編から長編へと移行するにつれ、物語の比重が重要になり、さらに[[トーキー]]に移行することで、大げさな体技による笑いから、[[台詞|セリフ]]による笑いへと変化していったことなどから徐々に廃れていき、現在{{いつ|date=2022年7月}}ではほとんど作られることがなくなっている|date=2022年9月}}。
(参考:[[:en:Slapstick film#:en:Slapstick_films_and_television_series|年代別リスト(英語版)]])
== 代表的なコメディアン ==
*[[チャーリー・チャップリン]]
*[[バスター・キートン]]
*[[ハロルド・ロイド]]
*[[ロスコー・アーバックル]]
*[[メーベル・ノーマンド]]
*[[キーストン・コップス]]([[ハンク・マン]]、[[フォード・スターリング]] 他多数)
*[[ベン・ターピン]]
*[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー・チャップリン]]
*{{仮リンク|ジミー・オーブリー|en|Jimmy Aubrey}}
*{{仮リンク|ハリー・ラングドン|en|Harry Langdon}}
*{{仮リンク|アル・セント・ジョン|en|Al St. John}}
*[[ラリー・シモン]]
*{{仮リンク|モンティ・バンクス|en|Monty Banks}}
*[[ローレル&ハーディ]]
*[[マルクス兄弟]]
*[[三ばか大将]]
*{{仮リンク|リッツ兄弟|en|Ritz Brothers}}
*[[アボット&コステロ]]
*[[ビング・クロスビー]]&[[ボブ・ホープ]]([[珍道中シリーズ]])
*[[ジャック・タチ]]
*[[底抜けコンビ]]([[ディーン・マーティン]]&[[ジェリー・ルイス]])
*[[ルイ・ド・フュネス]]
*[[ピーター・セラーズ]]
*[[ダン・エイクロイド]]
*[[ジム・キャリー]]
*[[チェビー・チェイス]]
*[[スティーヴ・マーティン]]
*[[レスリー・ニールセン]]
*[[ローワン・アトキンソン]]
*[[ベン・スティラー]]
*[[ジャッキー・チェン]]
*[[チャウ・シンチー]]
*ホイ3兄弟([[マイケル・ホイ]]、[[リッキー・ホイ]]、[[サミュエル・ホイ]])
*[[榎本健一|榎本健一(エノケン)]]
*[[古川ロッパ]]
*[[小倉繁]]
*[[清水金一]]
*[[大村崑]]
*[[フランキー堺]]
*[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]
*[[フランキー堺]]
*[[コント55号]]
*[[ザ・ドリフターズ]]
*[[ビートたけし]](北野武)
*[[志村けん]]
== コメディアン以外でスラップスティック・コメディー制作に関わった主な人々 ==
=== プロデューサー ===
*{{仮リンク|ハル・ローチ|en|Hal Roach}} - ハロルド・ロイド主演作品など
*[[ジョセフ・M・シェンク]] - バスター・キートン主演作品など
*[[アーヴィング・タルバーグ]] - マルクス兄弟主演作品など
=== 監督 ===
*[[マック・セネット]] - [[キーストン・スタジオ]]等で多数
*{{仮リンク|フレッド・C・ニューメイヤー|en|Fred C. Newmeyer}} - ハロルド・ロイド主演作品など
*{{仮リンク|サム・テイラー (映画監督)|en|Sam Taylor (director)}} - ハロルド・ロイド主演作品など
*{{仮リンク|エドワード・クライン|en|Edward F. Cline}} - バスター・キートン主演作品など
*{{仮リンク|クライド・ブルックマン|en|Clyde Bruckman}} - バスター・キートン主演作品など
*{{仮リンク|ジェームズ・W・ホートン|en|James W. Horne}} - バスター・キートン主演作品など
*{{仮リンク|エドワード・セジウィック|en|Edward Sedgwick}} - バスター・キートン主演作品など
*{{仮リンク|ジュールス・ホワイト|en|Jules White}} - バスター・キートン、三ばか大将主演作品など
*{{仮リンク|チャールズ・ラモント|en|Charles Lamont}} - バスター・キートン、アボット&コステロ主演作品など
*{{仮リンク|チャールズ・ライスナー|en|Charles Reisner}} - バスター・キートン、マルクス兄弟、アボット&コステロ主演作品など(俳優としても活動し、チャップリン作品にも出演)
*[[フランク・キャプラ]] - ハリー・ラングドン主演作品など
*[[レオ・マッケリー]] - ローレル&ハーディ、マルクス兄弟、ハロルド・ロイド各主演作品など
*[[サム・ウッド]] - マルクス兄弟主演作品など
*{{仮リンク|エドワード・バゼル|en|Edward Buzzell}} - マルクス兄弟主演作品など
*{{仮リンク|アーサー・ルービン|en|Arthur Lubinl}} - アボット&コステロ主演作品など
*[[プレストン・スタージェス]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199846/1/hes_23_43.pdf |title=プレストン・スタージェス作品に おけるアメリカの悲喜劇 --『偉大 なるマッギンティ』と『サリヴァ ンの旅』を中心として-- |access-date=2023年6月5日 |author=有森由紀子 |quote=スタージェス作品の特徴としてしばしば指摘されるのは,①脚本家としての才能を感じさせるウィットに富んだ台詞回し,②スラ ップスティック・コメディの影響を強く受けた派手なドタバタ騒動,そして③アメリカ社会に対する痛烈な風刺である.
.}}</ref> - 「[[結婚五年目]]」<ref>{{Cite web|和書|title=『結婚五年目』(1942年・パラマウント・プレストン・スタージェス)|佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所 |url=https://note.com/toshiakis/n/nb41ccffed382 |website=note(ノート) |date=2022-03-19 |access-date=2023-06-05 |language=ja |quote=社会的なメッセージやメロドラマ要素を排して、ひたすらドライに、スラップスティックとソフスティケイテッドな味わいを追求。}}</ref>など
*[[ノーマン・タウログ]] - ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス主演作品など
*[[フランク・タシュリン]] - ジェリー・ルイス主演作品など
*[[ブレイク・エドワーズ]] - 「[[ピンク・パンサー]]」シリーズなど
*[[ルイ・マル]] - 「[[地下鉄のザジ (映画)|地下鉄のザジ]]」
*[[リチャード・レスター]] - [[ザ・ビートルズ|ビートルズ]]主演作品など
*[[ジョン・ランディス]] - 「[[ブルース・ブラザース]]」など
*[[山本嘉次郎]] - 榎本健一主演作品など
*[[斎藤寅次郎]] - 「[[子宝騒動]]<ref>{{Cite web |title=子宝騒動 |url=https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/01725/ |website=www.shochiku.co.jp |access-date=2023-12-09 |language=ja}}</ref>」など
*[[川島雄三]] - 「[[幕末太陽傳]]」など<ref>{{Cite book|和書 |title=日本の喜劇人 |year=1982年 |publisher=新潮社 |isbn=4101158045 |chapter=第四章 その後のスラップスティック アメリカ フランス ソ連 日本 |author=小林信彦}}</ref>
*[[中平康]] - 「[[牛乳屋フランキー]]」<ref>{{Cite book|和書 |title=日本の喜劇人 |year=1982年 |publisher=新潮社 |chapter=第四章 その後のスラップスティック アメリカ フランス ソ連 日本 |author=小林信彦}}</ref>
*[[前田陽一 (映画監督)|前田陽一]] - コント55号主演作品など
== 参考資料 ==
* 『世界の喜劇人』(小林信彦著、1983年、[[新潮社]] ISBN 4101158061)
* 『サイレント・コメディ全史』(新野敏也著、1992年、[[喜劇映画研究会]] ISBN 978-4906409013)
* 『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』([[マック・セネット]]著、石野たき子訳/新野敏也監訳、2014年、[[作品社]] ISBN 978-4861824722)
== 外部リンク ==
* [https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3-1552647 スラプスティック・コメディ] - [[コトバンク]]
* 『喜劇の王様たち([[iarchive:when-comedy-was-king|When Comedy Was King]])』 - ロバート・ヤングソン([[:en:Robert Youngson|Robert Youngson]])編集のサイレント・コメディのアンソロジー。ハロルド・ロイドを除く当時の代表的コメディアンのほとんどが見られる<ref name="名前なし" />。1960年。
* 『喜劇の大将([[iarchive:30yearsoffun_201705|30 Years of Fun]]』 - ロバート・ヤングソン監督。1962年<ref>{{Citation|title=30 Years of Fun|last=Youngson|first=Robert|date=1963-02-10|url=https://www.imdb.com/title/tt0056799/|publisher=Robert Youngson Productions|access-date=2023-01-15}}</ref>。サイレント・コメディのアンソロジー。
* 『[https://eiga.com/movie/45260/ シネブラボー!(Cine Bravo!)]』 - ロバート・ヤングソン製作。1972年。サイレント・コメディのアンソロジー。
* [http://www.kigeki-eikenn.com/index.html 喜劇映画研究会]
* [https://archive.org/details/hollywood-pt-1-13/Hollywood+Pt.+08+Comedy+a+Serious+Business.m4v|Hollywood Hollywood Pt. 08 Comedy a Serious Business] - [[インターネットアーカイブ|インターネット・アーカイブ]]。テムズ・テレビジョンの『Hollywood』で採り上げられたサイレント・スラップスティックコメディのドキュメンタリー。
* [https://www.empireonline.com/movies/features/greatest-cinematic-slapstick-moments/ 16 Of Cinema’s Greatest Slapstick Moments] - 2012年の英[[エンパイア (雑誌)|エンパイア]]誌が選出した「最高のスラップスティックシーン16」。
* [https://scrapsfromtheloft.com/movies/comedys-greatest-era-james-agee/ COMEDY’S GREATEST ERA – BY JAMES AGEE] - 1949年、雑誌"[[ライフ (雑誌)|ライフ]]"に掲載された映画評論家の[[ジェームズ・エイジー|ジェームス・エイジー]]のエッセイ([[小林信彦]]の「世界の喜劇人」で「喜劇華やかなりし頃」の邦題で紹介している)。この中でサイレント・コメディの黄金時代を振り返り、このジャンルの「4人の最も著名な巨匠」はチャーリー・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイド、そしてハリー・ラングドンである、と宣言した。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 脚注 ===
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[[Category:コメディ映画|*すらつふすていつく]]
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サイレント映画
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サイレント映画(サイレントえいが)は、音声・音響、特に俳優の語るセリフが入っていない映画のことである。
無声映画(むせいえいが、無聲映畫)とも呼び、対概念はトーキー(発声映画)である。サイレント映画のフィルムには音声トラックが存在しないが、トーキーフィルム登場後に音声トラックに劇伴を収録したサイレント映画を「サウンド版」、さらに日本では活動弁士による解説も収録したサウンド版を「解説版」と呼ぶ。このように、映画はもともとサイレントであったので、サイレント映画という呼称はレトロニムである。
19世紀後期の映画の発明以降の約40年間、1927年(昭和2年)に世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』が発表・実用化されるまで、商業的に世界各国で製作・公開されていた映画はすべてがサイレント映画であった。サイレント期の劇映画は、パントマイム演技とカットタイトルの字幕によるセリフ・ト書きで表現する芸術であったが、日本では、各常設活動館(現在の映画館)に常駐した活動弁士による生の解説に負うところが大きかった。
日本では、1930年代前半(昭和初期)にトーキーに移行し始めたが、剣戟映画を中心に1938年(昭和13年)まではサウンド版を含めたサイレント映画が製作・公開されていた。
世界最初の映画は、1888年(明治21年)にルイ・ル・プランスが生み出した。オークウッド・グランジ庭園を歩き回る人々を撮影した上映時間2秒の作品で、タイトルは『ラウンドヘイ・ガーデン・シーン』 Roundhay Garden Scene である。モーション・ピクチャー(活動写真)の芸術・技術は、「サイレント期」と呼ばれる時代に全面的に成熟し、その後1920年代末に、発声映画(トーキー)にとって替わった。多くの映画学者らは、新しく到来した「トーキー」に監督や俳優、スタッフたちが適応するまでの数年間、映画の美的クォリティは減少したと指摘している。
サイレント映画の映像美、とりわけ1920年代に製作された作品のクォリティは極めて高度である。しかしながら、一般には、原始的なものであり現代人の鑑賞に堪える代物ではないとの誤解が広く存在する。誤った速度で映写されるなどの技術的エラー(サイレント映画標準の16fpsで撮影されているにもかかわらず24fpsで映写される等)や、オリジナルプリントの消失による質の低いデューププリントやフィルム断片しか現存していないなどの保存状態の悪さに由来する誤解である。
1927年(昭和2年)に世界初の長編商業トーキーとされる『ジャズ・シンガー』が出現するまでは、ほとんどがサイレント映画であった。音声がないという制約から様々な映画的テクニックが開発され、それは現代の映画にも引き継がれている。登場人物のせりふは字幕を挿入することで表現したが、俳優の演技は大袈裟なものにならざるを得なかった。
上映に際してはオーケストラやバンドによる音楽伴奏が付くことが多かった。日本では、上映中の映画の進行に合わせて、その内容を解説する活動弁士(活弁士)が活躍し、徳川夢声のような人気弁士も現れた。
トーキーが実用化されてからは、サイレント映画に音楽のサウンドトラックを付加したものが上映され、これをサウンド版という。トーキー以後の時代にも、サイレント映画(多くは厳密にはサウンド版)として製作された作品も存在する。ジャック・タチ、メル・ブルックス、アキ・カウリスマキらが、「その後のサイレント映画」を監督した映画作家である。
Category:サイレント映画の監督
Category:サイレント映画の俳優
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サイレント映画(サイレントえいが)は、音声・音響、特に俳優の語るセリフが入っていない映画のことである。
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[[File:Battle of Chemulpo Bay edison.ogv|thumb|200px|サイレント映画の動画]]
{{Portal|映画}}
'''サイレント映画'''(サイレントえいが)は、[[音声]]・[[音響]]、特に[[俳優]]の語る[[台詞|セリフ]]が入っていない[[映画]]のことである<ref name="koto無声">[http://kotobank.jp/word/{{urlencode:無声映画}} 無声映画]、[[デジタル大辞泉]]、[[小学館]]、[[コトバンク]]、2010年2月4日閲覧。</ref>。
== 概要 ==
'''無声映画'''(むせいえいが、'''無聲映畫''')とも呼び、対概念は[[トーキー]](発声映画)である<ref name="koto無声" />。サイレント映画のフィルムには音声トラックが存在しないが、トーキーフィルム登場後に音声トラックに[[劇伴]]を収録したサイレント映画を「[[サウンド版]]」<ref>[http://kotobank.jp/word/{{urlencode:サウンド版}} サウンド版]、デジタル大辞泉、小学館、コトバンク、2010年2月4日閲覧。</ref>、さらに日本では[[活動弁士]]による解説も収録したサウンド版を「[[解説版]]」と呼ぶ。このように、映画はもともとサイレントであったので、サイレント映画という呼称は[[レトロニム]]である。
[[19世紀]]後期の映画の発明以降の約40年間、[[1927年]](昭和2年)に世界初のトーキー『[[ジャズ・シンガー]]』が発表・実用化されるまで、商業的に世界各国で製作・公開されていた映画はすべてがサイレント映画であった。サイレント期の劇映画は、[[パントマイム]]演技とカットタイトルの[[字幕]]によるセリフ・[[ト書き]]で表現する芸術であったが、日本では、各常設活動館(現在の[[映画館]])に常駐した活動弁士による生の解説に負うところが大きかった<ref>[http://kotobank.jp/word/{{urlencode:活弁士}} 活弁士]、[[朝日新聞]] 2007年10月23日 夕刊2社会面「キーワード」、コトバンク、2010年2月4日閲覧。</ref>。
日本では、1930年代前半(昭和初期)にトーキーに移行し始めたが、[[剣戟映画]]を中心に1938年(昭和13年)まではサウンド版を含めたサイレント映画が製作・公開されていた<ref>例 : [http://www.jmdb.ne.jp/1938/bn003930.htm 大前田英五郎](1938年)、[[日本映画データベース]]、2010年2月4日閲覧。</ref>。
また、トーキー・サウンド版定着初期はトーキー・サウンド版作品を上映できる設備がまだ整っていない映画館も多く、その映画館向けにトーキー・サウンド版作品を無声映画仕様に編集して上映していた。
== 歴史 ==
[[File:LouisLePrinceFirstFilmEver RoundhayGardenScene.png|thumb|200px|[[ギネス世界記録]]が認定した世界初の映画『[[ラウンドヘイの庭の場面|ラウンドヘイ・ガーデン・シーン]]』(1888年)の1カット。]]
[[File:Griffith intolerance.jpg|thumb|200px|巨大なセットが組まれた『[[イントレランス]]』(1916年)。]]
{{main|映画史}}
世界最初の映画は、[[1888年]](明治21年)に[[ルイ・ル・プランス]]が生み出した。オークウッド・グランジ庭園を歩き回る人々を撮影した上映時間2秒の作品で、タイトルは『[[ラウンドヘイの庭の場面|ラウンドヘイ・ガーデン・シーン]]』 ''Roundhay Garden Scene'' である<ref>[[:en:Guinness World Records|Guinness Book of Records]], all editions.</ref>。モーション・ピクチャー(活動写真)の芸術・技術は、「サイレント期」と呼ばれる時代に全面的に成熟し、その後1920年代末に、発声映画(トーキー)にとって替わった。多くの映画学者らは、新しく到来した「トーキー」に監督や俳優、スタッフたちが適応するまでの数年間、映画の美的クォリティは減少したと指摘している<ref name=filmsite>[http://www.filmsite.org/20sintro.html Film History of the 1920s, Part 1.] {{en icon}}、2009年5月6日閲覧。</ref>。
サイレント映画の映像美、とりわけ1920年代に製作された作品のクォリティは極めて高度である。しかしながら、一般には、原始的なものであり現代人の鑑賞に堪える代物ではないとの誤解が広く存在する。誤った速度で映写されるなどの技術的エラー(サイレント映画標準の16[[フレームレート|fps]]で撮影<ref group="注">18fpsの場合もある。</ref>されているにもかかわらず24fpsで映写される等)や、オリジナルプリントの消失による質の低いデューププリントやフィルム断片しか現存していないなどの保存状態の悪さに由来する誤解である<ref name=filmsite />。
[[1927年]](昭和2年)に世界初の長編商業[[トーキー]]とされる『[[ジャズ・シンガー]]』が出現するまでは、ほとんどがサイレント映画であった。音声がないという制約から様々な映画的テクニックが開発され、それは現代の映画にも引き継がれている。登場人物のせりふは[[字幕]]を挿入することで表現したが、[[俳優]]の演技は大袈裟なものにならざるを得なかった。
上映に際しては[[オーケストラ]]や[[バンド (音楽)|バンド]]による[[音楽]]伴奏が付くことが多かった。日本では、上映中の映画の進行に合わせて、その内容を解説する[[活動弁士]](活弁士)が活躍し、[[徳川夢声]]のような人気弁士も現れた。
トーキーが実用化されてからは、サイレント映画に音楽の[[サウンドトラック]]を付加したものが上映され、これを[[サウンド版]]という。トーキー以後の時代にも、サイレント映画(多くは厳密にはサウンド版)として製作された作品も存在する。[[ジャック・タチ]]、[[メル・ブルックス]]、[[アキ・カウリスマキ]]らが、「その後のサイレント映画」を監督した映画作家である。
== おもなサイレント映画 ==
{{See also|Category:サイレント映画}}
===外国映画===
{{Div col|cols=2}}
* [[月世界旅行 (映画)|月世界旅行]](1902年、フランス、[[ジョルジュ・メリエス]]監督)
* [[大列車強盗 (1903年の映画)|大列車強盗]](1903年、アメリカ、[[エドウィン・S・ポーター]]監督)
* [[アントニーとクレオパトラ (1913年の映画)|アントニーとクレオパトラ]](1913年、イタリア、[[エンリコ・ガッツォーニ]]監督)
* [[カビリア]](1914年、イタリア、{{仮リンク|ジョヴァンニ・ペストローネ|it|Giovanni Pastrone}}監督)
* [[レ・ヴァンピール 吸血ギャング団]](1915年、フランス、[[ルイ・フイヤード]]監督)
* [[國民の創生]](1915年、アメリカ、[[D・W・グリフィス]]監督)
* [[チート (映画)|チート]](1915年、アメリカ、[[セシル・B・デミル]]監督)
* [[イントレランス]](1916年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
* [[散り行く花]](1919年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
* [[カリガリ博士]](1919年、ドイツ、[[ロベルト・ヴィーネ]]監督)
* [[東への道]](1920年、アメリカ、D・W・グリフィス監督)
* [[霊魂の不滅]](1921年、スウェーデン、[[ヴィクトル・シェストレム]]監督・主演)
* [[キッド (1921年の映画)|キッド]](1921年、アメリカ、[[チャールズ・チャップリン]]監督・主演)
* {{仮リンク|愚なる妻|en|Foolish Wives}}(1922年、アメリカ、[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]監督)
* [[吸血鬼ノスフェラトゥ]](1922年、ドイツ、[[F・W・ムルナウ]]監督)
* [[ドクトル・マブゼ]](1922年、ドイツ、[[フリッツ・ラング]]監督)
* {{仮リンク|鉄路の白薔薇|fr|La Roue (film, 1923)}}(1923年、フランス、[[アベル・ガンス]]監督)
* [[ロイドの要心無用]](1923年、アメリカ、[[フレッド・ニューメイヤー]]&{{仮リンク|サム・テイラー (監督)|label=サム・テイラー|en|Sam Taylor (director)}}監督)
* [[幌馬車 (1923年の映画)|幌馬車]](1923年、アメリカ、{{仮リンク|ジェームズ・クルーズ|en|James Cruze}}監督)
* [[十誡 (映画)|十誡]](1923年、アメリカ、セシル・B・デミル監督)
* [[アイアン・ホース]](1924年、アメリカ、[[ジョン・フォード]]監督)
* {{仮リンク|幕間|en|Entr'acte (film)}}(1924年、フランス、[[ルネ・クレール]]監督)
* [[結婚哲学]](1924年、アメリカ、[[エルンスト・ルビッチ]]監督)
* [[グリード (1924年の映画)|グリード]](1924年、アメリカ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督)
* {{仮リンク|最後の人|de|Der letzte Mann (1924)}}(1924年、ドイツ、F・W・ムルナウ監督)
* {{仮リンク|ニーベルンゲン (1924年の映画)|en|Die Nibelungen|label=ニーベルンゲン}}(1924年、ドイツ、フリッツ・ラング監督)
* [[バグダッドの盗賊 (1924年の映画)|バグダッドの盗賊]](1924年、アメリカ、[[ラオール・ウォルシュ]]監督)
* [[キートンの探偵学入門]](1924年、アメリカ、[[バスター・キートン]]監督・主演)
* [[黄金狂時代]](1925年、アメリカ、チャーリー・チャップリン監督・主演)
* [[オペラの怪人 (1925年の映画)|オペラの怪人]](1925年、アメリカ、[[ルパート・ジュリアン]]監督)
* [[ビッグ・パレード]](1925年、アメリカ、[[キング・ヴィダー]]監督)
* [[戦艦ポチョムキン]](1925年、ソ連、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]監督)
* [[ベン・ハー (1925年の映画)|ベン・ハー]](1925年、アメリカ、[[フレッド・ニブロ]]監督)
* [[喜びなき街]](1925年、ドイツ、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト]]監督)
* [[母 (1926年の映画)|母]](1926年、ソ連、[[フセヴォロド・プドフキン]]監督)
* [[肉体と悪魔]](1926年、アメリカ、[[クラレンス・ブラウン]]監督)
* [[キートンの大列車追跡]](1926年、アメリカ、バスター・キートン監督・主演)
* {{仮リンク|ナポレオン (1927年の映画)|fr|Napoléon (film, 1927)|label=ナポレオン}}(1927年、フランス、アベル・ガンス監督)
* [[アッシャー家の末裔]](1927年、フランス、[[ジャン・エプスタン]]監督)
* {{仮リンク|女優ナナ (1926年の映画)|fr|Nana (film, 1926)|label=女優ナナ}}(1927年、フランス、[[ジャン・ルノワール]]監督)
* [[暗黒街 (1927年の映画)|暗黒街]](1927年、アメリカ、[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督)
* [[つばさ (映画)|つばさ]](1927年、アメリカ、[[ウィリアム・A・ウェルマン]]監督)
* [[第七天国 (1927年の映画)|第七天国]](1927年、アメリカ、[[フランク・ボーゼイジ]]監督)
* [[サンライズ (映画)|サンライズ]](1927年、アメリカ、F・W・ムルナウ監督)
* [[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]](1927年、ドイツ、フリッツ・ラング監督)
* {{仮リンク|群衆 (1928年の映画)|en|The Crowd (1928 film)|label=群衆}}(1928年、アメリカ、キング・ヴィダー監督)
* [[風 (映画)|風]](1928年、アメリカ、ヴィクトル・シェストレム監督)
* [[裁かるゝジャンヌ]](1928年、フランス、[[カール・ドライヤー|カール・テオドール・ドライヤー]]監督)
* [[アンダルシアの犬]](1928年、フランス、[[ルイス・ブニュエル]]監督)
* {{仮リンク|紐育の波止場|en|The Docks of New York}}(1928年、アメリカ、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)
* [[パンドラの箱 (映画)|パンドラの箱]](1929年、ドイツ、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督)
* [[カメラを持った男]](1929年、ソ連、[[ジガ・ヴェルトフ]]監督)
* [[大地 (1930年の映画)|大地]](1930年、ソ連、[[オレクサンドル・ドヴジェンコ]]監督)
* [[街の灯]](1931年、アメリカ、チャーリー・チャップリン監督・主演)※サウンド版
{{Div col end}}
===日本映画===
{{Div col|cols=2}}
* [[生の輝き]](1918年、[[帰山教正]]監督)※現存せず
* [[路上の霊魂]](1921年、[[村田実]]監督)
* [[京屋襟店]](1923年、[[田中栄三]]監督)※現存せず
* [[雄呂血]](1925年、[[二川文太郎]]監督)
* [[村の先生]](1925年、[[島津保次郎]]監督)※現存せず
* [[狂つた一頁]](1926年、[[衣笠貞之助]]監督)
* [[狂恋の女師匠]](1926年、[[溝口健二]]監督)※現存せず
* [[足にさはつた女]](1926年、[[阿部豊]]監督)※現存せず
* [[長恨]](1926年、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督)
* [[忠次旅日記]](1927年、伊藤大輔監督)
* [[からくり娘]](1927年、[[五所平之助]]監督)※現存せず
* [[新版大岡政談]](1928年、伊藤大輔監督)
* [[血煙高田馬場]](1928年、伊藤大輔監督)
* [[忠魂義烈 実録忠臣蔵]](1928年、[[牧野省三]]監督)
* [[浪人街]](1928年、[[マキノ雅弘]]監督)※現存せず
* [[村の花嫁]](1928年、五所平之助監督)※現存せず
* [[十字路 (1928年の映画)|十字路]](1928年、衣笠貞之助監督)
* [[生ける人形 (1929年の映画)|生ける人形]](1929年、[[内田吐夢]]監督)※現存せず
* [[斬人斬馬剣]](1929年、伊藤大輔監督)
* [[首の座]](1929年、マキノ雅弘監督)※現存せず
* [[何が彼女をさうさせたか]](1930年、[[鈴木重吉]]監督)
* [[仇討選手]](1931年、内田吐夢監督)※現存せず
* [[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]](1932年、[[小津安二郎]]監督)
* [[磯の源太 抱寝の長脇差]](1932年、[[山中貞雄]]監督)※現存せず
* [[國士無双]](1932年、[[伊丹万作]]監督)
* [[盤嶽の一生#映画|盤嶽の一生]](1933年、山中貞雄監督)※現存せず
* [[恋の花咲く 伊豆の踊子]](1933年、五所平之助監督)
* [[滝の白糸]](1933年、溝口健二監督)
* [[夜ごとの夢]](1933年、[[成瀬巳喜男]]監督)
* [[浮草物語]](1934年、小津安二郎監督)
* [[子宝騒動]](1935年、[[斎藤寅次郎]]監督){{Div col end}}
===トーキー以降===
* [[ぼくの伯父さんの休暇]](1952年、フランス、[[ジャック・タチ]]監督)
* [[メル・ブルックスのサイレント・ムービー]](1976年、アメリカ、[[メル・ブルックス]]監督)
* [[クレイジー・ナッツ 早く起きてよ]](1998年、アメリカ、[[アイリス・イリオプロス]]監督)
* [[白い花びら]](1999年、[[フィンランド]]、[[アキ・カウリスマキ]]監督)
* [[アーティスト (映画)|アーティスト]](2011年、[[フランス]]、[[ミシェル・アザナヴィシウス]]監督)
* [[ブランカニエベス]](2012年、[[スペイン]]・[[フランス]]、[[パブロ・ベルヘル]]監督)
* [[草原の実験]](2014年、[[ロシア]]、[[アレクサンドル・コット]]監督)
* [[レッドタートル ある島の物語]](2016年、[[フランス]]・[[日本]]、[[マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット]]監督)
* [[エンジェルサイン]](2019年、日本、[[北条司]]監督)
* [[Away]](2020年、[[ラトビア]]、[[ギンツ・ジルバロディス]]監督)
* [[幾多の北]](2021年、日本、[[山村浩二]]監督)
<!--
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-->
== おもな監督 ==
''[[:Category:サイレント映画の監督]]''
===外国映画===
{{Div col|cols=2}}
* [[ジョルジュ・メリエス]](1861-1938)
* [[D・W・グリフィス]](1875-1948)
* [[ヴィクトル・シェストレム]](1979-1960)
* [[マック・セネット]](1980-1960)
* [[セシル・B・デミル]](1881-1959)
* [[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]](1885-1957)
* [[F・W・ムルナウ]](1888-1931)
* [[チャールズ・チャップリン]](1889-1977)
* [[カール・テオドア・ドライヤー]](1889-1968)
* [[アベル・ガンス]](1889-1981)
* [[フリッツ・ラング]](1890-1976)
* [[エルンスト・ルビッチ]](1892-1947)
* [[フセヴォロド・プドフキン]](1893-1953)
* [[ジョン・フォード]](1894-1973)
* [[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]](1894-1969)
* [[キング・ヴィダー]](1894-1982)
* [[バスター・キートン]](1895-1966)
* [[ジガ・ヴェルトフ]](1896-1954)
* [[ウィリアム・A・ウェルマン]](1896-1975)
* [[セルゲイ・エイゼンシュテイン]](1898-1948)
* [[レフ・クレショフ]] (1899-1970)
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===日本映画===
{{Div col|cols=2}}
* [[牧野省三]](1878-1929)
* [[野村芳亭]](1880-1934)
* [[トーマス・栗原]](1885-1926)
* [[田中栄三]](1886-1968)
* [[ヘンリー・小谷]](1887-1972)
* [[帰山教正]](1893-1964)
* [[村田実]](1894-1937)
* [[衣笠貞之助]](1896-1982)
* [[島津保次郎]](1897-1945)
* [[牛原虚彦]](1897-1985)
* [[溝口健二]](1898-1956)
* [[内田吐夢]](1898-1970)
* [[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]](1898-1981)
* [[伊丹万作]](1900-1946)
* [[五所平之助]](1902-1981)
* [[小津安二郎]](1903-1963)
* [[成瀬巳喜男]](1905-1969)
* [[斎藤寅次郎]](1905-1982)
* [[稲垣浩]](1905-1980)
* [[マキノ雅弘]] (1908-1993)
* [[山中貞雄]](1909-1938)
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== おもな製作者 ==
* [[ジョルジュ・メリエス]](1861-1938)
* [[カール・レムリ]](1867-1939)
* [[アドルフ・ズーカー]](1873-1976)
* [[牧野省三]](1878-1929):[[マキノ・プロダクション]]を主宰、「日本映画の父」。
* [[ジョセフ・M・シェンク]](1878-1961)
* [[ウィリアム・フォックス (映画プロデューサー)|ウィリアム・フォックス]](1879-1952)
* [[サミュエル・ゴールドウィン]](1879-1974)
* [[ジェシー・L・ラスキー]](1880-1958)
* [[ルイス・B・メイヤー]](1884-1957)
* [[エーリッヒ・ポマー]](1889-1966)
* [[B・P・シュールバーグ]](1892-1957)
* [[ジャック・L・ワーナー]](1892-1978)
* [[アーヴィング・タルバーグ]](1899-1936)
== おもな俳優 ==
''[[:Category:サイレント映画の俳優]]''
===外国映画===
{{Div col|cols=2}}
* [[ウィリアム・S・ハート]](1864-1946)
* [[アラ・ナジモヴァ]](1879-1945)
* [[トム・ミックス]](1880-1940)
* [[アスタ・ニールセン]](1881-1972)
* [[ジョン・バリモア]](1882-1942)
* [[マックス・ランデー]](1883-1925)
* [[ロン・チェイニー]](1883-1930)
* [[ダグラス・フェアバンクス]](1883-1939)
* [[エミール・ヤニングス]](1884-1950)
* [[セダ・バラ]](1885-1955)
* [[メイ・マレー]](1885-1965)
* [[フローレンス・ローレンス]] (1886-1938)
* [[ロスコー・アーバックル]](1887-1933)
* [[パール・ホワイト]](1889-1938)
* [[チャールズ・チャップリン]](1889-1977)
* [[ロナルド・コールマン]](1891-1958)
* [[メーベル・ノーマンド]](1892-1930)
* [[メアリー・ピックフォード]](1892-1979)
* [[フランチェスカ・ベルティーニ]] (1892-1985)
* [[ハロルド・ロイド]](1893-1971)
* [[リリアン・ギッシュ]](1893-1993)
* [[ノーマ・タルマッジ]](1894-1957)
* [[ルドルフ・ヴァレンティノ]](1895-1926)
* [[バスター・キートン]](1895-1966)
* [[ジョン・ギルバート (俳優)|ジョン・ギルバート]](1897-1936)
* [[マリオン・デイヴィス]](1897-1961)
* [[ポーラ・ネグリ]](1897-1987)
* [[グロリア・スワンソン]](1899-1983)
* [[コリーン・ムーア]](1899-1988)
* [[ビーブ・ダニエルズ]](1901-1971)
* [[ノーマ・シアラー]](1902-1983)
* [[ドロレス・デル・リオ]](1904-1983)
* [[アンナ・メイ・ウォン]](1905-1961)
* [[クララ・ボウ]](1905-1965)
* [[グレタ・ガルボ]](1905-1990)
* [[ジョーン・クロフォード]](1906-1977)
* [[ジャネット・ゲイナー]](1906-1984)
* [[ルイーズ・ブルックス]](1906-1985)
* [[ブリギッテ・ヘルム]](1906-1996)
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===日本映画===
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* [[尾上松之助]](1875-1926)
* [[井上正夫]](1881-1950)
* [[早川雪洲]](1886-1973)
* [[岩田祐吉]](1887-1980)
* [[青木鶴子]](1889-1961)
* [[五月信子]](1894-1959)
* [[川田芳子]](1895-1970)
* [[酒井米子]](1898-1958)
* [[大河内傳次郎]](1898-1962)
* [[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]](1898-1977)
* [[松井千枝子]](1899-1929)
* [[藤間林太郎]](1899-1970)
* [[高田稔]](1899-1977)
* [[鈴木傳明]](1900-1985)
* [[阪東妻三郎]](1901-1953)
* [[環歌子]](1901-1983)
* [[澤村春子]](1901-1989)
* [[柳さく子]](1902-1963)
* [[月形龍之介]](1902-1970)
* [[江川宇礼雄]](1902-1970)
* [[栗島すみ子]](1902-1987)
* [[浦辺粂子]](1902-1989)
* [[岡田嘉子]](1902-1992)
* [[岡田時彦]](1903-1934)
* [[歌川八重子]](1903-1943)
* [[梅村蓉子]](1903-1944)
* [[龍田静枝]](1903-1962)
* [[嵐寛寿郎]](1903-1980)
* [[片岡千恵蔵]](1903-1983)
* [[鈴木澄子]](1904-1985)
* [[笠智衆]](1904-1993)
* [[筑波雪子]](1906-1977)
* [[市川百々之助]](1906-1978)
* [[市川右太衛門]](1907-1999)
* [[大日方傳]](1907-1980)
* [[伏見直江]](1908-1982)
* [[長谷川一夫]](1908-1984)
* [[田中絹代]](1909-1977)
* [[夏川静江]](1909-1999)
* [[森静子]](1909-2004)
* [[原駒子]](1910-1968)
* [[及川道子]](1911-1938)
* [[琴糸路]](1911-1956)
* [[入江たか子]](1911-1995)
* [[川崎弘子]](1912-1976)
* [[市川春代]](1913-2004)
* [[飯塚敏子]](1914-1991)
* [[山田五十鈴]](1917-2012)
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[活動弁士]]
* [[活動写真]]
* [[サウンド版]]
* [[トーキー]]
* [[映画音楽]]
* [[ルイ・ル・プランス]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Silent films}}
* [http://www.imdb.com/keyword/silent-film/ keyword silent-film] - [[Internet Movie Database]] {{en icon}}
* [https://silent-film.org 無声映画振興会]
* [http://www.matsudafilm.com/ マツダ映画社 公式ウェブサイト][https://web.archive.org/web/20030201164357/http://www.infoasia.co.jp/subdir/matsuda.html]
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[[Category:サイレント映画|*]]
[[Category:映画史]]
[[Category:レトロニム]]
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醉いどれ天使
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『醉いどれ天使』(よいどれてんし)は、1948年(昭和23年)4月27日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬・三船敏郎。モノクロ、スタンダード、98分。
闇市を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。黒澤・三船コンビの最初の作品であると同時に、志村が黒澤作品で初主演した。第22回キネマ旬報ベスト・テン第1位。
反骨漢で一途な貧乏医師・真田は、闇市のやくざ・松永の鉄砲傷を手当てしたことがきっかけで、松永が結核に冒されているのを知り、その治療を必死に試みる。しかし若く血気盛んな松永は素直になれず威勢を張るばかり。更に、出獄して来た兄貴分の岡田との縄張りや情婦を巡る確執の中で急激に命を縮めていく。弱り果て追い詰められていく松永。吐血し真田の診療所に運び込まれ、一旦は養生を試みるが、結局は窮余の殴り込みを仕掛けた末、返り討ちで死ぬ。真田はそんな松永の死を、毒舌の裏で哀れみ悼む。闇市は松永などもとからいなかったように、賑わい活気づいている。真田は結核が治癒したとほほ笑む女学生に再会し、一縷の光を見出した気分で去る。
東京(明治座 / 2021年9月5日 - 20日)と大阪(新歌舞伎座 / 2021年10月1日 - 11日)で公演。当初、明治座での公演は9月3日に初日を迎える予定であったが、8月中旬の定期検査で公演関係者の新型コロナウイルス陽性が判明。稽古を休止し、1週間後にあらためて関係者にPCR検査を実施。26日までに全員の陰性を確認したという。しかし、初日を迎えるまでの十分な準備期間が確保できないため、公演初日が9月5日に延期となった。
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『醉いどれ天使』(よいどれてんし)は、1948年(昭和23年)4月27日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬・三船敏郎。モノクロ、スタンダード、98分。 闇市を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。黒澤・三船コンビの最初の作品であると同時に、志村が黒澤作品で初主演した。第22回キネマ旬報ベスト・テン第1位。
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{{Infobox Film
| 作品名 = 醉いどれ天使
| 原題 =
| 画像=Yoidore tenshi poster.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像解説 =
| 監督 = [[黒澤明]]
| 脚本 = [[植草圭之助]]<br />黒澤明
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[本木荘二郎]]
| 出演者 = [[志村喬]]<br />[[三船敏郎]]
| 音楽 = [[早坂文雄]]
| 撮影 = [[伊藤武夫]]
| 編集 = [[河野秋和]]
| 製作会社 = [[東宝]]
| 配給 = 東宝
| 公開 = {{flagicon|JPN}} [[1948年]][[4月27日]]
| 上映時間 = 98分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 制作費 =
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''醉いどれ天使'''』(よいどれてんし)は、[[1948年]](昭和23年)[[4月27日]]公開の[[日本映画]]である。[[東宝]]製作・配給。監督は[[黒澤明]]、主演は[[志村喬]]・[[三船敏郎]]。[[モノクローム|モノクロ]]、[[画面アスペクト比|スタンダード]]、98分。
[[闇市]]を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。黒澤・三船コンビの最初の作品であると同時に、志村が黒澤作品で初主演した。第22回[[キネマ旬報ベスト・テン]]第1位。
== あらすじ ==
[[File:Kinema-Junpo-1963-October-special-1.jpg|thumb|220px|[[三船敏郎]]、[[志村喬]]]]
反骨漢で一途な貧乏医師・真田は、闇市のやくざ・松永の鉄砲傷を手当てしたことがきっかけで、松永が[[結核]]に冒されているのを知り、その治療を必死に試みる。しかし若く血気盛んな松永は素直になれず威勢を張るばかり。更に、出獄して来た兄貴分の岡田との縄張りや情婦を巡る確執の中で急激に命を縮めていく。弱り果て追い詰められていく松永。吐血し真田の診療所に運び込まれ、一旦は養生を試みるが、結局は窮余の殴り込みを仕掛けた末、返り討ちで死ぬ。真田はそんな松永の死を、毒舌の裏で哀れみ悼む。闇市は松永などもとからいなかったように、賑わい活気づいている。真田は結核が治癒したとほほ笑む女学生に再会し、一縷の光を見出した気分で去る。
== スタッフ ==
* 監督:[[黒澤明]]
* 製作:[[本木荘二郎]]
* 脚本:[[植草圭之助]]、黒澤明
* 撮影:[[伊藤武夫]]
* 美術:[[松山崇]]
* 録音:[[小沼渡]]
* 演出補佐:[[小林恒夫 (映画監督)|小林恒夫]]
* 照明:[[吉沢欣三]]
* 音響効果:[[三縄一郎]]
* 編集:[[河野秋和]]
* 現像:東宝フィルムラボラトリー
* 特殊効果:東宝特殊技術部
* 音楽:[[早坂文雄]]
* 挿入歌:「[[ジャングル・ブギー|ジャングル・ブギ]]」(作詞:黒澤明、作曲:[[服部良一]]、歌:笠置シヅ子)
* [[ギター]]演奏:[[伊藤翁介]]
* 演奏:[[東宝交響楽団]]、東宝モダンニャーズ
== キャスト ==
*真田:[[志村喬]]
*松永:[[三船敏郎]]
*岡田:[[山本礼三郎]]
*奈々江:[[木暮実千代]]
*美代:[[中北千枝子]]
*ぎん:[[千石規子]]
*ブギを唄う女:[[笠置シヅ子]]
*高浜:[[進藤英太郎]]
*親分:[[清水将夫]]
*ひさごの親爺:[[殿山泰司]]
*セーラー服の少女:[[久我美子]]
*婆や:[[飯田蝶子]]
*チンピラ:[[生方功]]
*ヤクザの子分:[[谷晃]]
*ギターの与太者:[[堺左千夫]]
*ヤクザの子分:[[大村千吉]]
*花屋:[[河崎堅男]]
*花屋の娘:[[木匠マユリ|木匠久美子]]
*ダンサー:[[川久保とし子]]、[[登山晴子]]、[[南部雪枝]]
*姉御:[[城木すみれ]]
*ヤクザの子分:[[宇野晃司]](ノンクレジット)
==評価==
===受賞===
*第22回[[キネマ旬報ベスト・テン]] 第1位
*第3回[[毎日映画コンクール]] 日本映画大賞、撮影賞、音楽賞
===ランキング===
*[[1959年]]:「日本映画60年を代表する最高作品ベスト・テン」([[キネマ旬報]]発表)第4位
*[[1989年]]:「大アンケートによる日本映画ベスト150」([[文藝春秋]]発表)第18位
*[[1995年]]:「日本映画 オールタイムベストテン」(キネマ旬報発表)第43位
*[[1999年]]:「オールタイム・ベスト100 日本映画編」(キネマ旬報発表)第82位
== 逸話 ==
*[[清水将夫]]の腕に刺青のメイクは[[うしおそうじ|鷺巣富雄]]が担当した<ref name="特秘3">{{Cite journal|和書|author=但馬オサム|date=2016-03-13<!--奥付表記-->|title=[[うしおそうじ]]&[[ピー・プロダクション|ピープロダクション]]年表|journal=別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝|volume=vol.3|pages=pp.102-109|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4-8003-0865-8}}</ref>。
*大詰めで、ペンキに滑ってのたうち回りながら乱闘するのは、[[近松門左衛門]]作の[[人形浄瑠璃]]『[[女殺油地獄]]』がヒントになっている。
*[[勝新太郎]]が出演した映画の中に[[スラム|裏町]]に住む医師が主人公でタイトルの似た『酔いどれ博士』というものが存在するが(シリーズ化され3作が作られた)、当作品との直接的な繋がりはない。
== 舞台 ==
東京([[明治座]] / [[2021年]]9月5日 - 20日)と大阪([[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]] / 2021年10月1日 - 11日)で公演。当初、明治座での公演は9月3日に初日を迎える予定であったが、8月中旬の定期検査で公演関係者の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]陽性が判明。稽古を休止し、1週間後にあらためて関係者に[[PCR検査]]を実施。26日までに全員の陰性を確認したという。しかし、初日を迎えるまでの十分な準備期間が確保できないため、公演初日が9月5日に延期となった<ref>{{Cite web|和書|title=明治座「醉(よ)いどれ天使」初日を9月3日から5日に延期、関係者のコロナ感染で|url=https://hochi.news/articles/20210827-OHT1T51170.html|website=スポーツ報知|date=2021-08-27|accessdate=2021-08-28}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://hochi.news/articles/20210905-OHT1T51163.html |title= 桐谷健太、舞台「醉いどれ天使」初日迎え「劇場でギンギンに感じていただきたい」 |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2021-09-05 |accessdate= 2021-09-05 }}</ref>。
=== キャスト (舞台) ===
* 松永 - [[桐谷健太]]
* 真田 - [[高橋克典]]
* ぎん - [[佐々木希]]
* 美代 - [[田畑智子]]
* 奈々江 - [[篠田麻里子]]
* 岡田 - [[髙嶋政宏]]
=== スタッフ (舞台) ===
* 脚本 - [[蓬莱竜太]]
* 演出 - [[三池崇史]]
* 美術 - 堀尾幸男
* 音楽 - [[遠藤浩二]]
* 振付 - [[南流石]]
* 人物デザイン監修 - [[柘植伊佐夫]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書
|author = [[都築政昭]]
|year = 2010
|title = 黒澤明 全作品と全生涯
|publisher = 、[[東京書籍]]
|isbn = 9784487804344
|ref = 都築2010
}}
== 外部リンク ==
{{commonscat|Drunken Angel}}
* {{jmdb title|1948|bx000440|醉いどれ天使}}
* {{Allcinema title|135116|醉いどれ天使}}
* {{Kinejun title|26928|醉いどれ天使}}
* {{IMDb title|0040979|醉いどれ天使}}
* [https://www.yoidoretenshi.jp/ 舞台『酔いどれ天使』公式サイト]
**{{Twitter|yoidore_stage|舞台『醉いどれ天使』公式}}
{{黒澤明監督作品}}
{{キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン}}
{{毎日映画コンクール日本映画大賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:よいとれてんし}}
[[Category:1948年の映画]]
[[Category:東宝製作の映画作品]]
[[Category:日本のドラマ映画]]
[[Category:日本の白黒映画]]
[[Category:黒澤明の監督映画]]
[[Category:早坂文雄の作曲映画]]
[[Category:医療を題材とした映画]]
[[Category:闇市を扱った作品]]
[[Category:三船敏郎]]
|
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2023-12-03T11:28:47Z
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[
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"Template:Cite news",
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"Template:キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン",
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"Template:黒澤明監督作品",
"Template:毎日映画コンクール日本映画大賞",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%89%E3%81%84%E3%81%A9%E3%82%8C%E5%A4%A9%E4%BD%BF
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10,767 |
1619年
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1619年(1619 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1619年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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{{年代ナビ|1619}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元和 (日本)|元和]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2279年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]47年
*** [[李新 (明初)|李新]] : [[洪武 (李新)|洪武]]元年4月
** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天命 (後金)|天命]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]11年
** [[檀君紀元|檀紀]]3952年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]20年、[[永祚 (黎朝)|永祚]]元年6月 -
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]27年
* [[仏滅紀元]] : 2161年 - 2162年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1028年 - 1029年
* [[ユダヤ暦]] : 5379年 - 5380年
* [[ユリウス暦]] : 1618年12月22日 - 1619年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1619}}
== できごと ==
<!--旧暦、それともユリウス暦?-->
* [[サルフの戦い]]で、[[後金]]の[[ヌルハチ]]が[[明]]に勝利。
* [[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝フェルディナント2世]]が即位。
* [[オランダ東インド会社]]が[[ジャカルタ]]を獲得し[[バタヴィア]]と改名。
* 記録に残る最初の[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|アフリカ人奴隷]]が[[北アメリカ]]に連れてこられる。
=== 日本 ===
* [[7月18日]] - [[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]]主・[[浅野長晟]]が[[安芸国|安芸]][[広島藩]]に[[移封]]
* [[7月19日]] - [[駿河国|駿河]][[駿府藩|府中藩]]主・[[徳川頼宣]]が[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]]に移封
* [[福島正則]]が[[改易]]され、[[浅野氏]]が[[広島藩]]主に。
* [[江戸幕府]]が[[大坂城代]]及び[[大坂町奉行]]を設置。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1619年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月24日]](元和4年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[山崎闇斎]]、[[儒教|儒学]]者・[[神道家]](+[[1682年]])
* [[2月24日]] - [[シャルル・ルブラン]]、[[フランス]]の[[画家]](+[[1690年]])
* [[3月6日]] - [[シラノ・ド・ベルジュラック]]、フランスの[[西洋剣術|剣術家]]、作家(+[[1655年]])
* [[8月29日]] - [[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]、フランスの[[政治家]]・[[重商主義]]者(+[[1683年]])
* [[10月7日]](万暦47年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[王夫之]]、[[清]]初の[[学者]](+[[1692年]])
* [[熊沢蕃山]]、[[儒学者]](+[[1691年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1619年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[ニコラス・ヒリアード]]、金銀細工師・ミニアチュール作家(* [[1547年]]頃)
* [[3月20日]] - [[マティアス (神聖ローマ皇帝)]]、[[ハプスブルク家]]の[[皇帝]](* [[1557年]])
* [[8月30日]](元和5年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[島津義弘]]、薩摩の[[戦国大名]](* [[1535年]])
* [[9月22日]](元和5年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[亀井政矩]]、[[大名]]、[[石見国]][[津和野藩]]第2代藩主(* [[1590年]])
* [[10月19日]](元和5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[藤原惺窩]]、[[儒学者]](* [[1561年]])
* [[11月13日]] - [[ルドヴィコ・カラッチ]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1555年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1619}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1619%E5%B9%B4
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床関数と天井関数
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床関数(ゆかかんすう、英: floor function)と天井関数(てんじょうかんすう、英: ceiling function)は、実数に対しそれぞれそれ以下の最大あるいはそれ以上の最小の整数を対応付ける関数である。
“floor”や“ceiling”といった名称や” ⌊ ⌋ {\displaystyle \lfloor \quad \rfloor } ”、” ⌈ ⌉ {\displaystyle \lceil \quad \rceil } ”などの記法は、1962年にケネス・アイバーソンによって導入された。
床関数は、実数 x に対して x 以下の最大の整数と定義され、
などと書かれる。3つめの記号はガウス記号と呼ばれる。カール・フリードリヒ・ガウスが7つの証明を示した平方剰余の相互法則の3番目の証明に用いた(1808年)ことに由来する。日本、中国、ドイツなどでよく使われている。日本の高校数学や大学入試ではガウス記号が使われることがほとんどである。
床関数を数式で表すと次のようになる。
⌊ x ⌋ = max { n ∈ Z ∣ n ≤ x } . {\displaystyle \lfloor x\rfloor =\max\{n\in \mathbb {Z} \mid n\leq x\}.}
実数 x に対し、 ⌊ x ⌋ {\displaystyle \lfloor x\rfloor } を整数部分、 x − ⌊ x ⌋ {\displaystyle x-\lfloor x\rfloor } を小数部分と呼ぶ。小数部分は x mod 1 や {x} とも書かれる。整数部分の値は床関数の値そのものであるから、例えば −2.3 の整数部分は −2 ではなく −3 であること、また小数部分は −0.3 ではなく 0.7 であることに注意が必要である(ただし、−2.3 の整数部分を −2 と定義する流儀(「0への丸め」)もあるが一般的ではない。またプログラミング言語によっては「0への丸め」を採用しているものがある)。任意の実数の小数部分は、0 以上 1 未満である。
例えば、以下のようになる。
任意の有理数は帯分数で表せる、すなわち整数と真分数とに分解して表示できるが、この整数と真分数との関係は実数の整数部分と小数部分の関係に拡張され、任意の実数は整数部分と小数部分とに分解して表示できる。
床関数と密接に関係しているのが天井関数である。天井関数は実数 x に対して x 以上の最小の整数と定義され、
などと書かれる。これを数式で表すと次のようになる。
⌈ x ⌉ = min { n ∈ Z ∣ x ≤ n } . {\displaystyle \lceil x\rceil =\min\{n\in \mathbb {Z} \mid x\leq n\}.}
例えば、以下のようになる。
以下 x は任意の実数とする。次の式が成り立つ。
床関数は実数から整数への関数であるが、一般に実数の切り捨てとは任意の桁においても行われるものであり、小数第1位での切り捨てとは限らない。
床関数は ⌊ x ⌋ {\displaystyle \lfloor x\rfloor } 、天井関数は ⌈ x ⌉ {\displaystyle \lceil x\rceil } と上下の欠けた角括弧で表される。これらは、LaTeX では \lfloor, \rfloor, \lceil, \rceil と書かれる。Unicode では U+2308 から U+230B に割り当てられている。
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床関数と天井関数は、実数に対しそれぞれそれ以下の最大あるいはそれ以上の最小の整数を対応付ける関数である。 “floor”や“ceiling”といった名称や” ⌊ ⌋ ”、” ⌈ ⌉ ”などの記法は、1962年にケネス・アイバーソンによって導入された。
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{{Otheruses|数学関数|プログラミング言語の関数|端数処理}}
{{出典の明記|date=2016年11月}}
[[Image:Floor function.svg|thumb|right|床関数]]
[[Image:Ceiling function.svg|thumb|right|天井関数]]
'''床関数'''(ゆかかんすう、{{lang-en-short|floor function}})と'''天井関数'''(てんじょうかんすう、{{lang-en-short|ceiling function}})は、[[実数]]に対しそれぞれそれ以下の最大あるいはそれ以上の最小の[[整数]]を対応付ける[[関数 (数学)|関数]]である。
“{{lang|en|floor}}”や“{{lang|en|ceiling}}”といった名称や”<math>\lfloor \quad \rfloor</math>”、”<math>\lceil \quad \rceil</math>”などの記法は、[[1962年]]に[[ケネス・アイバーソン]]によって導入された<ref>{{Harvnb|Iverson|1962}}</ref>。
==床関数==
'''床関数'''は、[[実数]] {{mvar|x}} に対して {{mvar|x}} 以下の最大の[[整数]]と定義され、
* <math>\lfloor x \rfloor</math>
* <math>\operatorname{floor}(x)</math>
* <math>[x]</math>
などと書かれる。3つめの[[記号]]は'''ガウス記号'''と呼ばれる。[[カール・フリードリヒ・ガウス]]が7つの証明を示した[[平方剰余の相互法則]]の3番目の証明に用いた(1808年)ことに由来する<ref>{{Harvnb|ガウス|2012|pp=13-19}}</ref><ref>{{Harvnb|Gauss|1808|pp=5-8}}</ref>。日本、中国、ドイツなどでよく使われている。日本の高校数学や大学入試ではガウス記号が使われることがほとんどである。
床関数を数式で表すと次のようになる。
{{indent|<math>\lfloor x \rfloor=\max\{n\in\mathbb{Z}\mid n\le x\}.</math>}}
実数 {{mvar|x}} に対し、<math>\lfloor x \rfloor</math> を'''整数部分'''、<math>x - \lfloor x \rfloor</math> を'''[[小数]]部分'''と呼ぶ。小数部分は {{math|''x'' mod 1}} や {{math|{{mset|''x''}}}} とも書かれる。整数部分の値は床関数の値そのものであるから、例えば {{math|−2.3}} の整数部分は {{math|−2}} ではなく {{math|−3}} であること、また小数部分は {{math|−0.3}} ではなく {{math|0.7}} であることに注意が必要である(ただし、{{math|−2.3}} の整数部分を {{math|−2}} と定義する流儀(「[[端数処理|0への丸め]]」)もあるが一般的ではない。また[[プログラミング言語]]によっては「0への丸め」を採用しているものがある)。任意の実数の小数部分は、0 以上 1 未満である。
例えば、以下のようになる。
*<math>\lfloor 4.68 \rfloor = 4,\;\{4.68\}=0.68</math>
*<math>\lfloor 5 \rfloor = 5,\;\{5\}=0</math>
*<math>\lfloor e \rfloor = \lfloor\mathrm{2.71828\ldots}\rfloor = 2,\;\{e\}=0.71828\ldots</math>
*<math>\lfloor \sqrt{53} \rfloor = \lfloor 7.2801\ldots \rfloor = 7,\;\{\sqrt{53}\}=0.2801\ldots</math>
*<math>\lfloor -4 \rfloor = -4,\;\{-4\}=0</math>
*<math>\lfloor -4.68 \rfloor = -5,\;\{-4.68\}=0.32</math>
*<math>\lfloor -\pi \rfloor = \lfloor -3.14159\ldots \rfloor = -4,\;\{-\pi\}=0.8584\ldots</math>
任意の[[有理数]]は[[帯分数]]で表せる、すなわち整数と[[真分数]]とに分解して表示できるが、この整数と真分数との関係は実数の整数部分と小数部分の関係に拡張され、任意の実数は整数部分と小数部分とに分解して表示できる。
==天井関数==
床関数と密接に関係しているのが'''天井関数'''である。天井関数は実数 {{mvar|x}} に対して {{mvar|x}} 以上の最小の整数と定義され、
*<math>\lceil x \rceil</math>
*<math>\operatorname{ceil} (x)</math>
*<math>\operatorname{ceiling} (x) </math>
などと書かれる。これを数式で表すと次のようになる。
{{indent|<math> \lceil x \rceil=\min\{n\in\mathbb{Z}\mid x\le n\}.</math>}}
例えば、以下のようになる。
*<math>\lceil 4.68 \rceil = 5</math>
*<math>\lceil 5 \rceil = 5</math>
*<math>\lceil e \rceil = \lceil 2.71828\ldots \rceil = 3</math>
*<math>\lceil \sqrt{3} \rceil = \lceil 1.732\ldots \rceil = 2</math>
*<math>\lceil -\pi \rceil = \lceil -3.14159\ldots \rceil = -3</math>
==床関数と天井関数の性質==
以下 {{mvar|x}} は任意の実数とする。次の式が成り立つ。
*<math> \lfloor x \rfloor \le x < \lfloor x \rfloor + 1</math>
*<math> x -1 < \lfloor x \rfloor \le x </math>
*<math> \lceil x \rceil - 1 \le \lfloor x\rfloor \le x \le \lceil x \rceil \le \lfloor x \rfloor + 1</math>
*<math>\lceil x \rceil = - \lfloor - x \rfloor</math>
*<math>\lfloor x \rfloor = - \lceil - x \rceil</math>
*任意の整数 {{mvar|k}} に対し、
*:<math>\left\lfloor \frac{k}{2} \right\rfloor + \left\lceil \frac{k}{2} \right\rceil = k</math>.
* 床関数と天井関数は[[単調写像#広義と狭義|広義単調増加関数]]である、すなわち
*:<math> x_{1} \le x_{2} \Rightarrow \lfloor x_{1} \rfloor \le \lfloor x_{2} \rfloor </math>
*:<math> x_{1} \le x_{2} \Rightarrow \lceil x_{1} \rceil \le \lceil x_{2} \rceil </math>
*床関数と天井関数は[[冪等]]である、すなわち
*:<math>\left\lfloor \left\lfloor \cdots \left\lfloor x \right\rfloor \cdots \right\rfloor \right\rfloor = \left\lfloor \lfloor x\rfloor \right\rfloor=\lfloor x\rfloor</math>
*:<math>\left\lceil \left\lceil \cdots \left\lceil x \right\rceil \cdots \right\rceil \right\rceil = \left\lceil \lceil x\rceil \right\rceil=\lceil x\rceil</math>
*任意の整数 {{mvar|k}} に対し、
*:<math> \lfloor {k+x} \rfloor = k + \lfloor x\rfloor</math>
*:<math> \lceil {k+x} \rceil = k + \lceil x\rceil</math>
*床関数も天井関数も[[連続関数|連続]]ではないが、[[半連続]](床関数は上半連続、天井関数は下半連続)である。床関数と天井関数は[[区分的]]に[[定数関数]]であり、[[微分#微分係数|微分係数]]が存在する {{mvar|x}}(すなわち、整数でない {{mvar|x}})では微分係数は {{math|0}} である。
*{{mvar|x}} の小数点以下を四捨五入した値は、次の式で表される。
*:<math> \lfloor x + 0.5 \rfloor \quad (x \ge 0)</math>
*:<math> \lceil x - 0.5 \rceil \quad (x \le 0)</math>
*{{mvar|x}} が整数でないとき、床関数と天井関数は次のように[[フーリエ級数]]展開できる。
*:<math>\lfloor x\rfloor = x - \frac{1}{2} + \frac{1}{\pi} \sum_{k=1}^\infty \frac{\sin(2 \pi k x)}{k}.</math>
*:<math>\lceil x\rceil = x + \frac{1}{2} + \frac{1}{\pi} \sum_{k=1}^\infty \frac{\sin(2 \pi k x)}{k}.</math>
*同様に ''{{mvar|x}}'' が整数でないとき、[[逆三角関数|逆正接関数]]と[[三角関数|正接関数]]を用いて次のように表せる。<math>\lfloor x\rfloor=x-
\frac{1}{\pi}\arctan\Biggl(\tan\Bigl(x\pi+\frac{\pi}{2}\Bigr)\Biggr)-\frac{1}{2}.</math><math>\lceil x\rceil=x-
\frac{1}{\pi}\arctan\Biggl(\tan\Bigl(x\pi+\frac{\pi}{2}\Bigr)\Biggr)+\frac{1}{2}.</math>
*床関数と天井関数の平均は次のようにフーリエ級数展開できる。
*:<math> \frac 1 2 \left( \lfloor x\rfloor + \lceil x\rceil \right) = x + \frac{1}{\pi} \sum_{k=1}^\infty \frac{\sin(2 \pi k x)}{k}.</math>
=== 床関数の性質 ===
* {{math|''x'' > 0}} かつ {{math|''n'' > 0}} のとき、次の式が成り立つ。
*:<math> \left\lfloor \frac{n}{x} \right\rfloor \geq \frac{n}{x} - \frac{x-1}{x} .</math>
*{{mvar|n}} が整数のとき、{{math|''n'' ≤ ''x''}} と <math>n \le \lfloor x \rfloor</math> は同値である。意匠を凝らした言い方では、床関数は[[ガロア接続]]の片翼を担っており、整数を実数へ埋め込む関数の上随伴である。
*床関数を用いると、いくつかの[[素数]]生成式をつくることができる (ただしこれらは実際の計算には役立たない)。1つの例として、<math display="inline">n</math>番目の素数<math display="inline">p(n)</math>は<math>p(n) = 1 + \sum_{j=1}^{2^n} \left\lfloor \sqrt[n]{ \frac{n}{\sum_{i=1}^{j} \left\lfloor \cos^2 \frac{(i-1)! + 1}{i} \pi \right\rfloor } } \right\rfloor.</math>
*[[互いに素 (整数論)|互いに素]]である[[正の数と負の数|正]]の整数 {{math|''m'', ''n''}} に対し、次の式が成り立つ。
*:<math>\sum_{i=1}^{n-1} \left\lfloor \frac{im}{n} \right\rfloor = \frac{(m - 1)(n - 1)}{2}.</math>
*[[ビーティの定理]]は、任意の正の[[無理数]]が、床関数を用いて[[自然数]]の集合を2つに分ける方法を表している。
*正の整数 {{mvar|k}} を {{mvar|n}} [[位取り記数法|進法]]で表すと、<math>\lfloor \log_n k \rfloor + 1</math> 桁となる。
==切り捨て==
床関数は実数から整数への関数であるが、一般に実数の[[端数処理#切り捨て・切り上げ|切り捨て]]とは任意の桁においても行われるものであり、小数第1位での切り捨てとは限らない。
==組版==
床関数は <math>\lfloor x \rfloor</math>、天井関数は<math>\lceil x \rceil</math> と上下の欠けた角括弧で表される。これらは、[[LaTeX|{{LaTeX}}]] では <code>\lfloor</code>, <code>\rfloor</code>, <code>\lceil</code>, <code>\rceil</code> と書かれる。{{lang|en|Unicode}} では <code>U+2308</code> から <code>U+230B</code> に割り当てられている。
{| class="wikitable" style="text-align:center; lang:en; xml:lang="
|- lang="ja" xml:lang="ja"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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{{CharCode|8969|2309|-|RIGHT CEILING|rceil}}
{{CharCode|8970|230A|-|LEFT FLOOR|lfloor}}
{{CharCode|8971|230B|-|RIGHT FLOOR|rfloor}}
|}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|last=Iverson|first=Kenneth E.|authorlink=ケネス・アイバーソン|title=A Programming Language|language=English|publisher=Wiley|year=1962|isbn=0-471-43014-5|oclc=523128}}
*{{Citation|last=Gauss|first=Carl Friedrich|author-link=カール・フリードリヒ・ガウス|year=1808|title=Theorematis arithmetici demonstratio nova|publisher=Commentations societatis regiae scientiarum Gottingensis|volume=16|pages=5-8|language=Latin|url=http://gdz.sub.uni-goettingen.de/dms/load/img/?PID=PPN23599524X|LOG_0006&physid=PHYS_0009}}
*{{Cite book|和書|author=J.C.F.ガウス|authorlink=カール・フリードリヒ・ガウス|others=[[高瀬正仁]] 訳|date=2012-07-10|title=ガウス 数論論文集|series=ちくま学芸文庫|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-09474-2|ref={{Harvid|ガウス|2012}}}}
== 外部リンク ==
*{{高校数学の美しい物語|907|ガウス記号の定義と3つの性質}}
*{{Kotobank|階段関数|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
*{{MathWorld|title=Floor Function|urlname=FloorFunction}}
*{{MathWorld|title=Ceiling Function|urlname=CeilingFunction}}
{{DEFAULTSORT:ゆかかんすう}}
[[Category:特殊関数]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-07-03T00:00:10Z
|
2023-12-30T11:05:27Z
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[
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"Template:Citation"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%8A%E9%96%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E5%A4%A9%E4%BA%95%E9%96%A2%E6%95%B0
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10,771 |
ウパニシャッド
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ウパニシャッド(梵: उपनिषद्、upaniṣad )は、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物。一般には奥義書と訳される。
約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る。
ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年以前に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である(ウパニシャッド哲学)。ただし、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる。
成立時期によって、以下に分類される。
ウパニシャッド哲学(ウパニシャッドてつがく)は、古代インドの後期ヴェーダ時代(紀元前1000年 - 紀元前500年)の文献『ウパニシャッド』にもとづく哲学である。バラモン教が形式的になり、バラモンが単に祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきた。それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。ウパニシャッド哲学によると宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であり、その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている。後期ヴェーダ時代に現れたこの内面的思索の重視と、業・輪廻の死生観は、次の時代にバラモン教に対抗する二つの宗教(仏教とジャイナ教)を誕生させた。
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ウパニシャッドは、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物。一般には奥義書と訳される。
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'''ウパニシャッド'''({{lang-sa-short|उपनिषद्}}、{{transl|sa|upaniṣad}} )は、[[サンスクリット]]で書かれた[[ヴェーダ]]の関連書物。一般には'''奥義書'''と訳される。
== 概要 ==
約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは[[仏教]]以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。もっとも、ウパニシャッドの最も独創的要素は、仏教興起以前に属するので、その中心思想は遅くとも西暦前7世紀ないし前6世紀に遡る<ref>辻直四郎(1953)『ヴェーダとウパニシャッド』182頁。</ref>。
ウパニシャッドの[[語源]]について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは[[紀元前500年]]以前に成立し、[[ゴータマ・ブッダ]]以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドは[[バラモン教]]の教典[[ヴェーダ]]の最後の部分に属し、'''ヴェーダーンタ'''とも言われる。
ウパニシャッドの中心は、[[ブラフマン]](宇宙我)と[[アートマン]](個人我)の本質的一致([[梵我一如]])の思想である([[ウパニシャッド哲学]])。ただし、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる<ref>辻直四郎(1953)『ヴェーダとウパニシャッド』149頁。</ref>。
== 古ウパニシャッド ==
成立時期によって、以下に分類される。
;初期:[[紀元前800年]]から[[紀元前500年]]にかけて成立。古散文ウパニシャッド。
;中期:[[紀元前500年]]から[[紀元前200年]]にかけて成立。韻文ウパニシャッド。
;後期:[[紀元前200年]]以降に成立。新散文ウパニシャッド。
=== 古ウパニシャッド一覧 ===
==== 初期 ====
*[[ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド]]:[[白ヤジュル・ヴェーダ]]:初期 第1期
*:[[ヤージュニャヴァルキヤ]]の教えが含まれる。
*[[チャーンドーギヤ・ウパニシャッド]]:[[サーマ・ヴェーダ]]:初期 第1期
*:[[シャーンディリヤ]]や[[ウッダーラカ・アールニ]]の思想など。
*[[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]]:[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]:初期 第2期
*[[アイタレーヤ・ウパニシャッド]]:[[リグ・ヴェーダ]]:初期 第2期
*[[カウシータキ・ウパニシャッド]]:[[リグ・ヴェーダ]]:初期 第2期
*[[ケーナ・ウパニシャッド]]:[[サーマ・ヴェーダ]]:初期 第3期
==== 中期 ====
*[[カタ・ウパニシャッド]](カータカ・ウパニシャッド):[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
*[[イーシャー・ウパニシャッド]]:[[白ヤジュル・ヴェーダ]]:中期
*[[シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド]]:[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
*[[ムンダカ・ウパニシャッド]]:[[アタルヴァ・ヴェーダ]]:中期
<!--*[[マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド]]:[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]:中期-->
==== 後期 ====
*[[プラシュナ・ウパニシャッド]]:[[アタルヴァ・ヴェーダ]]:後期
*[[マイトリー・ウパニシャッド]](マイトラーヤニーヤ・ウパニシャッド):[[黒ヤジュル・ヴェーダ]]:後期(紀元前200年頃)
*[[マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド]]:[[アタルヴァ・ヴェーダ]]:後期(1年から200年頃)
== 日本語訳 ==
=== 完訳 ===
*{{Cite book|和書|author=湯田豊|authorlink=湯田豊 |year=2000 |title=ウパニシャッド 翻訳および解説 |publisher=[[大東出版社]] |isbn=4-500-00656-7}}
*: 上記一覧に挙げられている13ウパニシャッドの全訳。 ※以下の抄訳本および「ウパニシャッドの思想中村元」(春秋社)と照合した結果、1部欠落箇所アリ。
=== 抄訳 ===
*{{Cite book|和書|author=服部正明|authorlink=服部正明 |year=1979 |title=ウパニシャッド |publisher=[[中央公論社]]〈[[世界の名著]]1, 中公バックス〉 |isbn=412400611X}}
**{{Cite book|和書|author=服部正明 |year=1969 |title=ウパニシャッド |publisher=中央公論社〈世界の名著1〉 |isbn=}}
**: ブリハッド・アーラニヤカ、チャーンドーギヤ、カウシータキ、カタ(全訳)の主要4ウパニシャッドの抄訳(一部全訳)。
*{{Cite book|和書|author=岩本裕|authorlink=岩本裕 |year=2013 |title=原典訳 ウパニシャッド |publisher=[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉 |isbn=4-480-09519-5}}
**{{Cite book|和書|author=岩本裕 |year=1967 |title=ウパニシャッド |publisher=筑摩書房〈[[世界古典文学全集]]3〉 |isbn=}}
**: ブリハッド・アーラニヤカ、チャーンドーギヤ(全訳)、カウシータキ、カタ(全訳)、プラシュナ(全訳)の主要5ウパニシャッドの抄訳(一部全訳)。
*{{Cite book|和書|author=佐保田鶴治|authorlink=佐保田鶴治 |year=1979 |title=ウパニシャッド |publisher=[[平河出版社]] |isbn=4892030260}}
*: 上記一覧の13ウパニシャッドの内、ケーナだけを除いた主要12ウパニシャッドの抄訳。
* {{Cite book|和書|author1=日野紹運|authorlink1=日野紹運|author2=奥村文子|authorlink2=奥村文子 |year=2009 |title=ウパニシャッド |publisher=日本ヴェーダンタ協会 |isbn=4931148409}}
: 上記一覧の13ウパニシャッドの内、カウシータキ、マイトリーを除き、カイヴァルヤを追加した主要12ウパニシャッドの抄訳。
* {{Cite book|和書|author=向井田みお|authorlink=向井田みお |year=2016 |title=やさしく学ぶYOGA哲学 ウパニシャッド |publisher=アンダーザライト YOGA BOOKS |isbn=9784904980170}}
: カタ、ケーナ、カイヴァルヤに、全ウパニシャッドの入門編となるタットヴァボーダを加えたサンスクリット原文対訳。
== ウパニシャッド哲学 ==
'''ウパニシャッド哲学'''(ウパニシャッドてつがく)は、古代インドの後期ヴェーダ時代(紀元前1000年 - 紀元前500年)の文献『ウパニシャッド』にもとづく哲学である。バラモン教が形式的になり、バラモンが単に祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきた。それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。ウパニシャッド哲学によると宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であり、その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている<ref>{{Cite book|和書 |author1=木村靖二|authorlink1=木村靖二|author2= 岸本美緒|authorlink2=岸本美緒|author3= 小松久男|authorlink3=小松久男 |year = 2017 |title = 詳説世界史 改訂版 |publisher = [[山川出版社]] |page = 56 |isbn = 978-4-634-70034-5}}</ref>。後期ヴェーダ時代に現れたこの内面的思索の重視と、業・輪廻の死生観は、次の時代にバラモン教に対抗する二つの宗教(仏教とジャイナ教)を誕生させた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=佐保田鶴治|authorlink=佐保田鶴治 |year=1977 |title=ウパニシャッドからヨーガへ |publisher=平河出版社}}
*{{Cite book|和書|author=辻直四郎|authorlink=辻直四郎 |year=1990 |title=ウパニシャッド |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 |isbn=4-06-158934-2}}
*{{Cite book|和書|author=前田專學|authorlink=前田專學 |year=2000 |title=インド哲学へのいざない |publisher=日本放送出版協会 |series=NHKライブラリー |isbn=4-14-084126-5}}
* 辻直四郎『ヴェーダとウパニシャッド』創元社、1953年 東京
{{参照方法|date=2017年7月|section=1}}
*[[山崎元一]]『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』[[中央公論新社|中央公論社]]、[[1997年]]、p.84 ISBN 4124034032
== 関連項目 ==
*[[ヴェーダ]]
*[[梵我一如]]
*[[ヴェーダーンタ学派]]
*[[ブラーフマナ]]
*[[インド神話]]
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{{Authority control}}
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[[Category:ウパニシャッド|*]]
[[Category:ヴェーダ]]
[[Category:バラモン教]]
[[Category:ヒンドゥー教]]
[[Category:古代哲学の文献]]
[[Category:古代インド哲学]]
[[Category:汎神論]]
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ごみ (プログラミング)
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コンピュータにおいて、ごみ、あるいはガベージ (garbage) と呼ばれるものには、以下がある。
次のC言語のプログラムにおいて、変数xは宣言だけされていて、値が代入されないまま使用される。このとき、「xには“ごみ”が入っている」という。
xの値の内容は何であるかは保障されず、どんな値が print されるかは定かではない。この例のように単純であれば大きな問題は起きないであろうが(厳密には問題はある。後述する)、例えば何らかの判断条件に使っている値がこのようになっていれば、プログラムの異常な動作の原因の、バグとなる。しかし、ごみの内容は、短い期間に繰り返し実行した場合は同じ値になることが多い。このため、デバッグ時にごみを入れた状態で何度も実行を行っても、同じ動作になり、バグに気がつかないことも多い。一部の言語では、あらかじめなんらかの値で初期化されることが保証される、という仕様とすることで回避したり、初期化も代入もされないまま使用される可能性があればエラーとなる言語もある。また近年の、フロー解析などのような高度なコンパイラ最適化により、バグの可能性を検出できるパターンもあり、警告オプションを付けることで警告を出させることができる場合もある。
例に示したコードでは単に値を見るだけのため問題は少ないが、C言語ではポインタによって、メモリの中のどこかわからない所にメチャメチャな値を書き込むということができてしまう(しばしば「爆撃」と形容される)。大規模であればすぐ発覚するのでむしろ運が良い方で、バグがある箇所とは全く関係がない場所で誤動作を起こすような「ピンポイント爆撃」になっていると、しばしばデバッグが極めて困難な不具合となる。
なお厳密には、例に示したコードにおけるxの値は、標準規格では「不定」(indeterminate) としており、標準規格ではそのような変数の使用は「未定義」である。未定義とは、プログラマの鼻から悪魔を飛び出させてもよい、という意味であり(en:Undefined behaviorを参照)、普通は避けなければならない。
また、このような「ごみ」は「コンピュータ・アーキテクチャと情報セキュリティ」の観点からは、より深刻な問題がある。キャッシュや、メモリをプロセスに割り当てる単位である「ページ」は、マルチプロセスのシステムでは一般に他のプロセスやカーネルと共通のことがあり、パスワードなどの機微情報を含んでいるかもしれない。従って、ハードウェアないしOSの層のどこかで、ゼロあるいはランダムで潰すか、フラグ等によりそのプロセスからまだ書き込みがされていないアドレスからの読み出しを禁止しなければならない。
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コンピュータにおいて、ごみ、あるいはガベージ (garbage) と呼ばれるものには、以下がある。 ユーザー利用レベルにおける、処理上意味のないデータ入力、またはそのデータ自体のこと。Garbage in, garbage out参照。
メモリ管理において、不要となった領域のこと。ガベージコレクション参照。
初期化がされていない記憶領域に入っているデータまたはオブジェクト。その内容は実行するたびに異なる可能性がある。
プログラミングにおいて、一見してバグやエラーを見いだせないが、処理上の問題をもたらしかねないミスのこと。後述。
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{{Redirect3|ガベージ|コンピュータ用語|garbageの一般的な意味|ごみ}}
{{出典の明記|date=2015年2月21日 (土) 11:01 (UTC)}}
[[コンピュータ]]において、'''ごみ'''、あるいは'''ガベージ''' (garbage) と呼ばれるものには、以下がある。
# ユーザー利用レベルにおける、処理上意味のない[[データ]]入力、またはそのデータ自体のこと。[[Garbage in, garbage out]]参照。
# [[メモリ管理]]において、不要となった領域のこと。[[ガベージコレクション]]参照。
# [[初期化]]がされていない記憶領域に入っているデータまたは[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]。その内容は実行するたびに異なる可能性がある。
# [[プログラミング]]において、一見して[[バグ]]や[[エラー]]を見いだせないが、処理上の問題をもたらしかねないミスのこと。後述。
== プログラムにおける「ごみ」の例 ==
次の[[C言語]]のプログラムにおいて、変数xは宣言だけされていて、値が代入されないまま使用される。このとき、「xには“ごみ”が入っている」という。
<syntaxhighlight lang="c">
int main() {
int x;
printf("%d\n",x);
}
</syntaxhighlight>
xの値の内容は何であるかは保障されず、どんな値が print されるかは定かではない。この例のように単純であれば大きな問題は起きないであろうが(厳密には問題はある。後述する)、例えば何らかの判断条件に使っている値がこのようになっていれば、プログラムの異常な動作の原因の、[[バグ]]となる。しかし、ごみの内容は、短い期間に繰り返し実行した場合は同じ値になることが多い。このため、[[デバッグ]]時にごみを入れた状態で何度も実行を行っても、同じ動作になり、バグに気がつかないことも多い<ref>近年では積極的に、ランダムあるいは何らかの変化するパターンを使い、バグの顕在化を図るようなシステムもある。</ref>。一部の言語では、あらかじめなんらかの値で初期化されることが保証される、という仕様とすることで回避したり、初期化も代入もされないまま使用される可能性があれば<ref>これは構造的に、たとえば if - else if - が羅列されていた場合、最後の else で必ず初期化する、といったようになっている必要がある。</ref>エラーとなる言語もある。また近年の、フロー解析などのような高度な[[コンパイラ最適化]]により、バグの可能性を検出できるパターンもあり、警告オプションを付けることで警告を出させることができる場合もある。
例に示したコードでは単に値を見るだけのため問題は少ないが、C言語ではポインタによって、メモリの中のどこかわからない所にメチャメチャな値を書き込むということができてしまう(しばしば「爆撃」と形容される)。大規模であればすぐ発覚するのでむしろ運が良い方で、バグがある箇所とは全く関係がない場所で誤動作を起こすような「ピンポイント爆撃」になっていると、しばしばデバッグが極めて困難な不具合となる。
なお厳密には、例に示したコードにおけるxの値は、標準規格では「不定」(indeterminate) としており、標準規格ではそのような変数の使用は「未定義」である。未定義とは、プログラマの鼻から悪魔を飛び出させてもよい、という意味であり([[:en:Undefined behavior]]を参照)、普通は避けなければならない。
また、このような「ごみ」は「コンピュータ・アーキテクチャと[[情報セキュリティ]]」の観点からは、より深刻な問題がある。キャッシュや、メモリをプロセスに割り当てる単位である「ページ」は、マルチプロセスのシステムでは一般に他のプロセスやカーネルと共通のことがあり、パスワードなどの機微情報を含んでいるかもしれない。従って、ハードウェアないしOSの層のどこかで、ゼロあるいはランダムで潰すか、フラグ等によりそのプロセスからまだ書き込みがされていないアドレスからの読み出しを禁止しなければならない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
[[Category:プログラミング|こみ]]
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新川崎駅
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新川崎駅(しんかわさきえき)は、神奈川県川崎市幸区鹿島田一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
1980年10月1日に横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、東戸塚駅とともに開業した。
横須賀線電車および湘南新宿ラインの宇都宮線 - 横須賀線直通列車のみが停車する。線路名称上は東海道本線の支線であり「品鶴線」の通称を持つ(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、東海道線列車は当駅を経由せず、旅客案内では「東海道(本)線」や「品鶴線」とは案内されない。
相鉄線直通列車は貨物線の線路を使用するため、新川崎駅横を通過するが、当駅 - 武蔵小杉駅間に区間外乗車の特例が設けられている。区間外乗車#特定の分岐区間に対する区間外乗車も参照。
また当駅には、各路線ごとに駅番号が与えられている。
同じ川崎市内の川崎駅はJRの特定都区市内制度における「横浜市内」の駅として属しているが、当駅は属していない。
設置が決定された当時、付近の地名と南武線の最寄り駅を元に仮称「新鹿島田」とされた。しかし、その名称だとどこにあるのかわかりづらいという意見や、もともとは東海道本線であることからSM分離時に川崎駅の代替駅として開業したことにより、名称が「新川崎」となった。
しかし、2010年3月13日に武蔵小杉駅に横須賀線ホームが設置され、川崎駅へ通じる南武線と直接乗り換えができるようになったことから、駅名の「川崎駅の代替」という意味合いは徐々に薄れてきている。
駅誕生当時は「新川崎」という地名はなかったが、2007年12月15日に実施された住居表示の実施に伴う町名変更で、隣接する小倉・北加瀬地区の一部が「新川崎」という地名になった。
島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。ホームはカーブ上に位置している。
武蔵小杉駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。
駅舎は耐震補強工事が行われた。エレベーターとエスカレーターが設置されている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
崎陽軒により販売されている主な駅弁は下記の通り。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は22,611人である。
近年の推移は下記の通り。
この場所は長く新鶴見操車場(現・新鶴見信号場)の外れにあり、駅の出入口も鹿島田跨線橋に面しているため、いわゆる「駅前商店街」は陸橋を降りた所になり、駅出口からは少し離れている。横須賀線の西側には長らく新鶴見操車場跡の空き地が広がっていたが、徐々に再開発が進められている。2000年には、当駅の南側に慶應義塾大学の新川崎タウンキャンパス(K(ケイスクエア)タウンキャンパス)が開設され、2007年にはパイオニアが事業所を開設(2016年に文京区に移転し、ヒューリックに売却、富士通が全棟借り上げ)するなど、「新川崎・創造のもり」構想の中核として先端技術研究を進めている。
|
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"text": "新川崎駅(しんかわさきえき)は、神奈川県川崎市幸区鹿島田一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。",
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"text": "1980年10月1日に横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、東戸塚駅とともに開業した。",
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"text": "横須賀線電車および湘南新宿ラインの宇都宮線 - 横須賀線直通列車のみが停車する。線路名称上は東海道本線の支線であり「品鶴線」の通称を持つ(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、東海道線列車は当駅を経由せず、旅客案内では「東海道(本)線」や「品鶴線」とは案内されない。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "相鉄線直通列車は貨物線の線路を使用するため、新川崎駅横を通過するが、当駅 - 武蔵小杉駅間に区間外乗車の特例が設けられている。区間外乗車#特定の分岐区間に対する区間外乗車も参照。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "また当駅には、各路線ごとに駅番号が与えられている。",
"title": "乗り入れ路線"
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"text": "同じ川崎市内の川崎駅はJRの特定都区市内制度における「横浜市内」の駅として属しているが、当駅は属していない。",
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"text": "設置が決定された当時、付近の地名と南武線の最寄り駅を元に仮称「新鹿島田」とされた。しかし、その名称だとどこにあるのかわかりづらいという意見や、もともとは東海道本線であることからSM分離時に川崎駅の代替駅として開業したことにより、名称が「新川崎」となった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、2010年3月13日に武蔵小杉駅に横須賀線ホームが設置され、川崎駅へ通じる南武線と直接乗り換えができるようになったことから、駅名の「川崎駅の代替」という意味合いは徐々に薄れてきている。",
"title": "歴史"
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"text": "駅誕生当時は「新川崎」という地名はなかったが、2007年12月15日に実施された住居表示の実施に伴う町名変更で、隣接する小倉・北加瀬地区の一部が「新川崎」という地名になった。",
"title": "歴史"
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"text": "島式ホーム1面2線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。ホームはカーブ上に位置している。",
"title": "駅構造"
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"text": "武蔵小杉駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅舎は耐震補強工事が行われた。エレベーターとエスカレーターが設置されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
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"text": "崎陽軒により販売されている主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅構造"
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は22,611人である。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "近年の推移は下記の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
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"text": "この場所は長く新鶴見操車場(現・新鶴見信号場)の外れにあり、駅の出入口も鹿島田跨線橋に面しているため、いわゆる「駅前商店街」は陸橋を降りた所になり、駅出口からは少し離れている。横須賀線の西側には長らく新鶴見操車場跡の空き地が広がっていたが、徐々に再開発が進められている。2000年には、当駅の南側に慶應義塾大学の新川崎タウンキャンパス(K(ケイスクエア)タウンキャンパス)が開設され、2007年にはパイオニアが事業所を開設(2016年に文京区に移転し、ヒューリックに売却、富士通が全棟借り上げ)するなど、「新川崎・創造のもり」構想の中核として先端技術研究を進めている。",
"title": "駅周辺"
}
] |
新川崎駅(しんかわさきえき)は、神奈川県川崎市幸区鹿島田一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 1980年10月1日に横須賀線のいわゆる「SM分離」に際して、東戸塚駅とともに開業した。
|
{{Otheruses|JR東日本の駅|地名としての新川崎|新川崎}}
{{駅情報
|駅名 = 新川崎駅
|よみがな = しんかわさき
|ローマ字 = Shin-Kawasaki
|社色 = green
|画像 = Bahnhof Shin-Kawasaki.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2008年2月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|33|5|N|139|40|18.2|E}}}}
|所在地 = [[川崎市]][[幸区]][[鹿島田]]一丁目2-1
|座標 = {{coord|35|33|5|N|139|40|18.2|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|電報略号 = シキ
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所属路線 = {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]<br />{{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]([[宇都宮線]]直通){{Refnest|group="*"|[[高崎線]] - [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]系統は通過。}}<br />(線路名称上は[[東海道本線]]([[品鶴線]]))
|キロ程 = 12.7 km([[品川駅|品川]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から19.5
|前の駅 = JO 15 JS 15 [[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]
|駅間A = 2.7
|駅間B = 12.2
|次の駅= [[横浜駅|横浜]]{{Refnest|group="*"|この間に[[新鶴見信号場]](品川起点 13.9 km)と[[鶴見駅]](品川起点 17.8 km)があるが、旅客列車は停車しない。}} JO 13 JS 13
|駅番号 = {{駅番号r|JO|14|#0067c0|1}}<br />{{駅番号r|JS|14|#e21f26|1}}
|開業年月日 = [[1980年]]([[昭和]]55年)[[10月1日]]<ref name="yomi_1" />
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 1面2線
|乗車人員 = 22,611
|統計年度 = 2022年
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="名前なし-1">[https://www.je-ss.co.jp/pdf/jess_service_area.pdf 事業エリアマップ] - JR東日本ステーションサービス.2021年9月14日閲覧</ref>
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
'''新川崎駅'''(しんかわさきえき)は、[[神奈川県]][[川崎市]][[幸区]][[鹿島田]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。
[[1980年]][[10月1日]]に[[横須賀線]]のいわゆる「[[横須賀・総武快速線#SM分離|SM分離]]」に際して、[[東戸塚駅]]とともに開業した<ref name="yomi_1" />。
== 乗り入れ路線 ==
[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]電車および[[湘南新宿ライン]]の[[宇都宮線]] - 横須賀線直通列車のみが停車する。線路名称上は[[東海道本線]]の支線であり「[[品鶴線]]」の通称を持つ(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)が、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]列車は当駅を経由せず、旅客案内では「東海道(本)線」や「品鶴線」とは案内されない。
[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]は貨物線の線路を使用するため、新川崎駅横を通過する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sotetsu.co.jp/news_release/pdf/190716_01.pdf|title=相鉄・JR直通線の運行計画の概要について|date=2019-07-16|accessdate=2019-12-01|publisher=相模鉄道株式会社・東日本旅客鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>が、当駅 - 武蔵小杉駅間に区間外乗車の特例が設けられている。[[区間外乗車#特定の分岐区間に対する区間外乗車]]も参照。
また当駅には、各路線ごとに駅番号が与えられている。
* [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線:東海道本線([[品鶴線]]経由)を経て、下り列車は大船駅より線路名称上の[[横須賀線]]を走る。上り列車は多くの列車が東京駅を経由し、総武快速線へ直通する。 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JO 14'''」
* [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン:東海道本線(品鶴線経由)を経て、[[西大井駅]]まで横須賀線と同一の線路を使用し、[[新宿駅]]経由で宇都宮線へ直通する。 - 駅番号「'''JS 14'''」 (一部の湘南新宿ラインのみ停車)
同じ川崎市内の[[川崎駅]]はJRの[[特定都区市内]]制度における「横浜市内」の駅として属しているが、当駅は属していない。
== 歴史 ==
* [[1971年]]([[昭和]]46年)[[7月5日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)が新鶴見操車場鹿島田道路橋付近に新川崎駅(仮称)の設置を決定<ref>{{Cite news|title=東海道新線に新川崎|newspaper=[[読売新聞]]|publisher=[[読売新聞社]]|date=1971-07-06|page=14 朝刊}}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)3月:建設費を全額地元負担とする[[請願駅]]として着工<ref name=交通1976-0630>{{Cite news |title=新鹿島田駅(仮称)が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1976-06-30 |page=2 }}</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)6月:営業開始時に施工するものを除き、駅舎が完成{{R|交通1976-0630}}。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[8月27日]]:駅名を「'''新川崎駅'''」に決定する<ref>{{Cite news|title=「新川崎」と「東戸塚」 国鉄横須賀線の新駅|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=1980-08-28|page=22 朝刊}}</ref>。
** [[10月1日]]:'''新川崎駅'''が開業(旅客営業のみ)<ref name="yomi_1">{{Cite news|title=新川崎-東戸塚 新設二駅の開業式|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=1980-09-30|page=10 夕刊}}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本の駅となる。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[6月25日]]:[[自動改札機]]を設置し、使用を開始する<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。
* [[2021年]]([[令和]]3年)[[9月28日]]:この日をもって[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="information">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=858|title=駅の情報(新川崎駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-08-18|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210818125836/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=858|archivedate=2021-08-18}}</ref><ref name="pr20210602">{{Cite web|和書|url=http://jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/60b74f40fe5050643d84ee34.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602142918/http://jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/60b74f40fe5050643d84ee34.pdf|title=「2021年度駅業務執行体制の再構築について」提案受ける!②|date=2021-06-02|archivedate=2021-06-03|accessdate=2021-06-03|publisher=JR東労組横浜地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
設置が決定された当時、付近の地名と[[南武線]]の最寄り駅を元に仮称「新鹿島田」とされた。しかし、その名称だとどこにあるのかわかりづらいという意見や、もともとは東海道本線であることからSM分離時に[[川崎駅]]の代替駅として開業したことにより、名称が「新川崎」となった。
しかし、[[2010年]][[3月13日]]に[[武蔵小杉駅]]に横須賀線ホームが設置され、川崎駅へ通じる南武線と直接乗り換えができるようになったことから、駅名の「川崎駅の代替」という意味合いは徐々に薄れてきている<ref group="注釈">不通により[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]が品鶴線経由となった場合は、当駅ではなく武蔵小杉駅に停車する。</ref>。
駅誕生当時は「新川崎」という地名はなかったが、[[2007年]][[12月15日]]に実施された[[住居表示]]の実施に伴う町名変更で、隣接する[[小倉 (川崎市)|小倉]]・[[北加瀬]]地区の一部が「新川崎」という地名になった。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を持つ[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。ホームはカーブ上に位置している。
[[武蔵小杉駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[JR東日本ステーションサービス]]委託)<ref name="名前なし-1"/>。
駅舎は耐震補強工事が行われた。[[エレベーター]]と[[エスカレーター]]が設置されている。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!rowspan="2"|1
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]]
|style="text-align:center;"|上り
|[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[千葉駅|千葉]]方面
|-
|[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
|style="text-align:center;"|北行
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|-
!2
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線
|style="text-align:center;"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[逗子駅|逗子]]・[[久里浜駅|久里浜]]方面
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/858.html JR東日本:駅構内図])
=== 駅構内設備 ===
* 売店など - [[駅弁]]([[崎陽軒]]など、改札外)の販売も行われている。
* [[自動券売機#指定券自動券売機|指定席券売機]]が設置されている。
** [[NewDays]]新川崎中央店 - 改札内正面
** NewDays新川崎店 - 改札外。改札を出て右手
<gallery>
JR Shin-Kawasaki Station Gates.jpg|改札口(2019年6月)
Shinnkawasaki1.JPG|駅構内、左から順に改札、みどりの窓口(2021年9月末で閉鎖)、自動券売機
JR Shin-Kawasaki Station Platform.jpg|ホーム(2019年6月)
</gallery>
=== 駅弁 ===
[[崎陽軒]]により販売されている主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=227-228}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* 幕の内弁当
* 横濱中華弁当
* かながわ味わい弁当(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬)
* [[シウマイ弁当]]
* しょうが焼弁当
* おべんとう(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬)
* 横濱チャーハン
* 横濱ピラフ
* いなり寿司
{{Div col end}}
== 利用状況 ==
2022年(令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''22,611人'''である<ref group="利用客数">[http://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
近年の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/51-4-15-0-0-0-0-0-0-0.html 川崎市統計書] - 川崎市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|19,725
|<ref group="乗降データ">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 17ページ</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|20,195
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|19,620
|
|-
|1998年(平成10年)
|20,037
|<ref group="神奈川県統計">平成12年 - 220ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|20,932
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>21,468
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>22,613
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 220ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>23,563
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 220ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>24,376
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 220ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>24,598
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>25,544
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 222ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>26,087
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 224ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>27,727
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 228ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>27,989
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 238ページ</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>27,072
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>25,159
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>25,227
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}} - 232ページ</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>25,347
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}} - 234ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>25,392
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>25,416
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>27,085
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 244ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>27,264
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 236ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>28,820
|
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>29,407
|
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>30,255
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>21,904
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>20,666
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>22,611
|
|}
== 駅周辺 ==
{{See also|鹿島田|小倉 (川崎市)|北加瀬|南加瀬|鹿島田駅#駅周辺}}
この場所は長く新鶴見操車場(現・[[新鶴見信号場]])の外れにあり、駅の出入口も鹿島田[[跨線橋]]に面しているため、いわゆる「駅前商店街」は陸橋を降りた所になり、駅出口からは少し離れている。横須賀線の西側には長らく新鶴見操車場跡の空き地が広がっていたが、徐々に再開発が進められている。[[2000年]]には、当駅の南側に[[慶應義塾大学]]の[[慶應義塾大学#施設|新川崎タウンキャンパス]](K<sup>2</sup>(ケイスクエア)タウンキャンパス)が開設され、[[2007年]]には[[パイオニア]]が事業所を開設([[2016年]]に文京区に移転し、[[ヒューリック]]に売却、富士通が全棟借り上げ)するなど、「新川崎・創造のもり」構想の中核として先端技術研究を進めている<ref>{{Cite news |title=川崎市と慶大 知的資源協定=神奈川 |newspaper=読売新聞 朝刊|date=2009-11-15|author=|page=35}}</ref>。
; 西側(加瀬側)
{{columns-list|2|
* 鹿島田跨線歩道橋(2013年10月7日加瀬側を一部供用開始、屋根付き 延長123m、幅員6m)
* 新川崎交通広場(2015年3月開設、上記歩道橋で接続、階段、エレベータあり、歩行者の動線には屋根あり)
** バス乗降場2か所、タクシー乗降場各1か所(ユニバーサルデザインタクシー対応)
** 身体障害者用車両乗降場1か所
** 一般乗用車用乗降場1か所
* シンカモール(上記歩道橋にて接続、階段及びエレベーターあり)
** [[京急ストア]]新川崎店
** [[スポーツクラブNAS]]新川崎
* コトニアガーデン新川崎 - スーパーやカフェ、塾、病院などの全13ショップが併設されている。2018年3月に3ショップが先行開業。その後、同年4月に残り10ショップが開業し、全面開業した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2018/03/f25ee761c9a5a3480672be6b5f1d8336.pdf|title=コトニアガーデン新川崎 一部ショップ先行開業!|format=PDF|publisher=ジェイアール東日本都市開発|date=2018-03-05|accessdate=2020-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408054420/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2018/03/f25ee761c9a5a3480672be6b5f1d8336.pdf|archivedate=2020-04-08}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2018/03/b014b43a9b6b45afe3160c3be0dbc218.pdf|title=コトニアガーデン新川崎 全13ショップ開業!!|format=PDF|publisher=ジェイアール東日本都市開発|date=2018-03-28|accessdate=2020-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408054452/http://www.jrtk.jp/topics/wp-content/uploads/2018/03/b014b43a9b6b45afe3160c3be0dbc218.pdf|archivedate=2020-04-08}}</ref>。
* 慶應義塾大学 新川崎タウンキャンパス(通称 K<sup>2</sup>(ケイスクエア)タウンキャンパス)
* 幸区日吉合同庁舎(幸区役所日吉出張所、幸市民館・幸図書館日吉分館)
* [[夢見ヶ崎動物公園]]
* [[三菱ふそうトラック・バス]]川崎製作所・技術センター
|}}
; 東側(鹿島田側)
{{columns-list|2|
* 新川崎と鹿島田駅間の歩行者専用通路(新川崎スクエアを経由する[[ペデストリアンデッキ]]が2016年11月15日全面供用開始)
* 新川崎スクエア(駅から屋根付き歩行者専用通路にて接続、エレベーターが駅舎外なので注意)
** [[マルエツ]]新川崎店
** [[りそな銀行]]新川崎支店
* パークタワー新川崎(47階地下2階建のマンション)
* [[新川崎三井ビルディング]](31階建てオフィス2棟)
* [[パークシティ新川崎]](9棟からなるマンション)
** パークシティ新川崎内郵便局
* 鹿島大神(かしまだいじん)
* JR[[南武線]][[鹿島田駅]] ‐ 制度上の[[乗換駅]]には指定されていない(駅の案内で徒歩6分)。なお、2010年3月13日に横須賀線用ホームが設置された[[武蔵小杉駅]]は、制度上における南武線と横須賀線の乗換駅に指定されている。
* 川崎鹿島田郵便局
|}}
<gallery>
File:Shin-Kawasaki-1.jpg|新川崎駅前
File:Shin-Kawasaki-2.jpg|西側より跨線橋を見た景色
</gallery>
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="3"|新川崎駅
|-
|style="text-align:center;"|[[川崎市交通局]]
|[[川崎市バス上平間営業所#小倉循環線|'''川83''']]:[[川崎駅]]西口 / 江川町
|
|-
|style="text-align:center;"|[[川崎鶴見臨港バス]]
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川60系統(塚越線)|'''川60''']]:川崎駅西口 / [[元住吉駅|元住吉]]
|日中のみ運行
|-
!colspan="3"|新川崎交通広場
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[東急バス]]|[[川崎鶴見臨港バス]]}}
|[[東急バス新羽営業所#新川崎線|'''日95''']]:[[日吉駅 (神奈川県) |日吉駅東口]]
|-
|style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|{{Unbulleted list|[[川崎鶴見臨港バス鶴見営業所#鶴04(新川崎線)|'''鶴04''']]:[[鶴見駅]]西口 / [[川崎鶴見臨港バス鶴見営業所|駒岡車庫]]|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#原62系統(中原線)|'''原62''']]:[[武蔵中原駅|中原駅前]]|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#元02系統(元住吉小倉循環線)|'''元02''']]:元住吉}}
|{{Unbulleted list|「原62」は土曜1本のみ運行|「元02」は平日朝のみ運行}}
|-
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|'''川83''':新川崎駅
|平日1本のみ運行
|-
!colspan="3"|新川崎駅入口
|-
|style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|{{Unbulleted list|'''鶴04''':鶴見駅西口 / 駒岡車庫|'''原62''':中原駅前|'''元02''':元住吉}}
|{{Unbulleted list|「原62」は土曜1本のみ運行|「元02」は平日朝のみ運行}}
|-
!colspan="3"|鹿島田陸橋
|-
|style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|{{Unbulleted list|'''川60''':川崎駅西口 / 元住吉|'''鶴04''':鶴見駅西口|'''原62''':中原駅前}}
|{{Unbulleted list|「川60」は日中のみ運行|「原62」は土曜1本のみ運行}}
|}
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線
::: [[武蔵小杉駅]] (JO 15) - '''新川崎駅 (JO 14)''' - ([[鶴見駅]]) - [[横浜駅]] (JO 13)
: [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速(いずれも高崎線直通)
:::; 通過
:::※ダイヤが乱れた場合は快速が臨時停車を行う場合がある。
:: {{Color|#18a629|■}}普通(宇都宮線直通、一部は宇都宮線内快速)
::: 武蔵小杉駅 (JS 15) - '''新川崎駅 (JS 14)''' - (鶴見駅) - 横浜駅 (JS 13)
:::※鶴見駅は運賃計算上の分岐点である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist|3}}
=== 利用状況 ===
; JR東日本の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|23em}}
; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|20em}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Shin-Kawasaki Station}}
* [[新川崎A地区]]
* [[横須賀・総武快速線#SM分離]]
* [[東海道貨物線]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=858|name=新川崎}}
* [http://www.rinkobus.co.jp 川崎鶴見臨港バス]
* [http://www.city.kawasaki.jp/500/page/0000018051.html 川崎市 新川崎地区整備事業]
* [http://www.city.kawasaki.jp/280/page/0000036039.html 川崎市 新川崎・創造のもり]
{{総武快速線・横須賀線}}
{{湘南新宿ライン_(宇都宮線・横須賀線)}}
{{DEFAULTSORT:しんかわさき}}
[[Category:幸区の建築物|しんかわさきえき]]
[[Category:幸区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|んかわさき]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:横須賀・総武快速線]]
[[Category:1980年開業の鉄道駅]]
|
2003-07-03T04:27:50Z
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2023-12-05T17:17:15Z
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10,776 |
インド哲学
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インド哲学(インドてつがく、darśana、ダルシャナ)は、哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。
古来の伝統と思われる宗教会議が現在も各地で頻繁に行われている様子で、会議では時には宗派を別にする著名な人々が宗教的な議論を行う。これは数万人の観衆を前にして行われることもあり、白熱した議論が数日にかけて、勝敗が明らかになるまで行われることもある。この場合、判定をする人物がいるわけではなく、議論をする当人が議論の成行きをみて、自らの負けを認める形を取るようである。
インドの宗教、哲学はこのような伝統の中で磨かれたものと思われる。ジャイナ教、仏教、ヨーガ学派、シヴァ派、ヴェーダーンタ学派といった学派は現在まで生き残ったが、アジャナ派、順世派、アージーヴィカ教などの学派は生き残らなかった。
インド哲学の研究、特にインド仏教学(チベット仏教学も内包する)では、第二次世界大戦前にはドイツがリードしていたが、現代では日本の学会が世界の研究をリードしている。
インド哲学は、ダルマ(法)、カルマ(業)、輪廻、ドゥッカ(苦)、転生、瞑想など多くの概念を共有しており、ほぼすべての哲学が、多様な精神的修行を通じてドゥッカと輪廻から個人を解放するという究極の目標に焦点を当てている(解脱、涅槃)。存在の本質に関する仮定や、究極の解放への道の具体性が異なるため、互いに意見の異なる多くの学派が存在することになった。彼らの古代の教義は、他の古代文化に見られる多様な哲学の範囲にまたがっている。
中世において正統派と分類されたのは以下6つの学派であり、六派哲学(ろっぱてつがく、梵: Ṣad-darśana [シャッド・ダルシャナ]))と呼ばれインドでは最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。六派哲学という言葉は古いが、取り上げられる六派は一定していない。
現代では以下の六派の総称として使われている。この選択は、おそらくフリードリヒ・マックス・ミュラーや木村泰賢に始まると思われる
ミーマーンサーとヴェーダーンタ、サーンキヤとヨーガ、ニヤーヤとヴァイシェーシカはそれぞれ補完しあう関係になっている。
これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカ(āstika आस्तिक, 正統派, 有神論者)と呼ぶ。一方で、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などの先行する思想派閥をナースティカ(nāstika नास्तिक, 非正統派、無神論者)として区別する。
紀元前6世紀以前にはいくつかのサマナ(沙門)運動が存在し、インド哲学のアースティカとナースティカの両伝統に影響を与えた。サマナ運動によって、アートマンの受容/否定、原子論、反知性主義、唯物論、不可知論、運命論から自由意志、極端な禁欲主義から家庭生活の理想化、厳しいアヒンサーと菜食主義から暴力や肉食の容認まで、多様な異教徒的信念を生んでいる。
サマナ運動から生まれた著名な哲学はジャイナ教、初期仏教、順世派、アージーヴィカ教であった。
インドの伝統では、多様な哲学を信奉し、アースティカとナースティカ、正統派における六派哲学などの形のように、互いに大きく意見を異にしていた。その違いは、全ての個人がアートマンを持っていると信じる派もあれば、アートマンは存在しないと主張する派もあり禁欲生活を説く派もあれば快楽主義派もあり、輪廻はあると説く派もあれば、消滅すると説く派もあり、多種多様であった。
マハーヴィーラ、釈迦、ガウダパーダ、シャンカラ、ラーマーナンダ、マーダヴァ、ヴァッラバ、カビール、ナーナク、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、オーロビンド・ゴーシュ、タゴール
アーリヤ・サマージ、ブラフモ・サマージ
日本における「インド哲学」(印度哲学、印哲)の研究は、西洋のインド学(インドロジー)とは異なり、インドそのもの研究ではなく仏教研究を中心に発達してきた。東京大学では、そのような仏教研究を中心とする「インド哲学」研究が行われてきた。東大印哲の主な教授には、村上専精、宇井伯寿、中村元がいる。
他方で京都大学は、西洋のインド学を模範として実証的な文献学を志向し、フランスのシルヴァン・レヴィやルイ・ルヌー(ともに日仏会館館長)の影響が見られる。京大印哲の主な教授には、黎明期の長尾雅人と足利惇氏のほか、「munitraya」(「三聖」の意)と称された梶山雄一、服部正明、大地原豊がいる。
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"text": "マハーヴィーラ、釈迦、ガウダパーダ、シャンカラ、ラーマーナンダ、マーダヴァ、ヴァッラバ、カビール、ナーナク、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、オーロビンド・ゴーシュ、タゴール",
"title": "主なトピック"
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"text": "アーリヤ・サマージ、ブラフモ・サマージ",
"title": "主なトピック"
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"text": "日本における「インド哲学」(印度哲学、印哲)の研究は、西洋のインド学(インドロジー)とは異なり、インドそのもの研究ではなく仏教研究を中心に発達してきた。東京大学では、そのような仏教研究を中心とする「インド哲学」研究が行われてきた。東大印哲の主な教授には、村上専精、宇井伯寿、中村元がいる。",
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"text": "他方で京都大学は、西洋のインド学を模範として実証的な文献学を志向し、フランスのシルヴァン・レヴィやルイ・ルヌー(ともに日仏会館館長)の影響が見られる。京大印哲の主な教授には、黎明期の長尾雅人と足利惇氏のほか、「munitraya」(「三聖」の意)と称された梶山雄一、服部正明、大地原豊がいる。",
"title": "インド哲学の研究"
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] |
インド哲学(インドてつがく、darśana、ダルシャナ)は、哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。 古来の伝統と思われる宗教会議が現在も各地で頻繁に行われている様子で、会議では時には宗派を別にする著名な人々が宗教的な議論を行う。これは数万人の観衆を前にして行われることもあり、白熱した議論が数日にかけて、勝敗が明らかになるまで行われることもある。この場合、判定をする人物がいるわけではなく、議論をする当人が議論の成行きをみて、自らの負けを認める形を取るようである。 インドの宗教、哲学はこのような伝統の中で磨かれたものと思われる。ジャイナ教、仏教、ヨーガ学派、シヴァ派、ヴェーダーンタ学派といった学派は現在まで生き残ったが、アジャナ派、順世派、アージーヴィカ教などの学派は生き残らなかった。 インド哲学の研究、特にインド仏教学(チベット仏教学も内包する)では、第二次世界大戦前にはドイツがリードしていたが、現代では日本の学会が世界の研究をリードしている。
|
{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学文てつかく}}
{{哲学のサイドバー}}
'''インド哲学'''(インドてつがく、{{Lang|en|darśana}}、'''ダルシャナ''')は、[[哲学]]の中でも[[インド]]を中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは[[宗教]]と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教[[聖典]]でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。
古来の伝統と思われる宗教会議が現在も各地で頻繁に行われている様子で、会議では時には宗派を別にする著名な人々が宗教的な議論を行う。これは数万人の観衆を前にして行われることもあり、白熱した議論が数日にかけて、勝敗が明らかになるまで行われることもある。この場合、判定をする人物がいるわけではなく、議論をする当人が議論の成行きをみて、自らの負けを認める形を取るようである。
インドの宗教、哲学はこのような伝統の中で磨かれたものと思われる。[[ジャイナ教]]、[[仏教]]、[[ヨーガ学派]]、[[シヴァ派]]、[[ヴェーダーンタ学派]]といった学派は現在まで生き残ったが、[[サンジャヤ・ベーラッティプッタ|アジャナ派]]、[[順世派]]、[[アージーヴィカ教]]などの学派は生き残らなかった。
インド哲学の研究、特に[[インドの仏教|インド仏教]]学([[チベット仏教]]学も内包する)では、[[第二次世界大戦]]前にはドイツがリードしていたが、現代では日本の学会が世界の研究をリードしている。
==共通のテーマ==
インド哲学は、[[ダルマ (インド発祥の宗教)|ダルマ]](法)、[[カルマ]](業)、[[輪廻]]、[[ドゥッカ]](苦)、[[転生]]、[[瞑想]]など多くの概念を共有しており、ほぼすべての哲学が、多様な精神的修行を通じてドゥッカと輪廻から個人を解放するという究極の目標に焦点を当てている([[解脱]]、[[涅槃]])<ref>{{cite book|author=Kathleen Kuiper |title=The Culture of India |url=https://books.google.com/books?id=c8PJFLeURhsC |year=2010|publisher=The Rosen Publishing Group |isbn=978-1-61530-149-2 |pages=174–178 }}</ref>。[[存在論|存在の本質]]に関する仮定や、究極の解放への道の具体性が異なるため、互いに意見の異なる多くの学派が存在することになった。彼らの古代の教義は、他の古代文化に見られる多様な哲学の範囲にまたがっている<ref>{{cite book|author=Sue Hamilton |title=Indian Philosophy: A Very Short Introduction |url=https://books.google.com/books?id=YWu4ygkh_O8C |year=2001|publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-157942-4 |pages=1–17, 136–140 }}</ref>。
== 正統派 ==
{{Main|ヒンドゥー哲学|ヒンドゥー教#六派哲学}}
中世において正統派と分類されたのは以下6つの学派であり、'''六派哲学'''(ろっぱてつがく、{{lang-sa-short|Ṣad-darśana}} [{{fontsize|small|シャッド・ダルシャナ}}]))と呼ばれ[[インド]]では最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。六派哲学という言葉は古いが、取り上げられる六派は一定していない<ref name="ブリタニカ"/>。
現代では以下の六派の総称として使われている。この選択は、おそらく[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]や[[木村泰賢]]に始まると思われる<ref name="ブリタニカ">{{Cite web|和書| publisher= ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典| title = 六派哲学| url = https://kotobank.jp/word/六派哲学-153104#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8| accessdate = 2020-08-23}}</ref>
*[[ミーマーンサー学派]] - 祭祀の解釈
*[[ヴェーダーンタ学派]] - 宇宙原理との一体化を説く神秘主義
*[[サーンキヤ学派]] - 精神原理・非精神原理の二元論
*[[ヨーガ学派]] - 身心の訓練で解脱を目指す。
*[[ニヤーヤ学派]] - 論理学
*[[ヴァイシェーシカ学派]] - 自然哲学
ミーマーンサーとヴェーダーンタ、サーンキヤとヨーガ、ニヤーヤとヴァイシェーシカはそれぞれ補完しあう関係になっている。
これらヴェーダの権威を認める学派を[[アースティカ]]({{lang|sa|āstika}} आस्तिक, 正統派, 有神論者)と呼ぶ。一方で、ヴェーダから離れていった[[仏教]]、[[ジャイナ教]]、[[順世派]]などの先行する思想派閥を[[ナースティカ]]({{lang|sa|nāstika}} नास्तिक, 非正統派、無神論者)として区別する。
{{Seealso|アースティカとナースティカ}}
== 異端派 ==
{{Main|沙門}}
紀元前6世紀以前にはいくつかのサマナ(沙門)運動が存在し、インド哲学の[[アースティカとナースティカ]]の両伝統に影響を与えた<ref name=reginaldray247>Reginald Ray (1999), Buddhist Saints in India, Oxford University Press, {{ISBN2|978-0195134834}}, pages 237-240, 247-249</ref>。サマナ運動によって、アートマンの受容/否定、原子論、反知性主義、唯物論、不可知論、運命論から自由意志、極端な禁欲主義から家庭生活の理想化、厳しい[[アヒンサー]]と[[菜食主義]]から暴力や肉食の容認まで、多様な異教徒的信念を生んでいる。
サマナ運動から生まれた著名な哲学はジャイナ教、初期仏教、[[順世派]]、[[アージーヴィカ教]]であった<ref>AL Basham (1951), History and Doctrines of the Ajivikas - a Vanished Indian Religion, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120812048}}, pages 94-103</ref>。
*[[仏教]] - [[仏教哲学]]
* [[ジャイナ教]] - [[ジャイナ哲学]]
==比較==
インドの伝統では、多様な哲学を信奉し、アースティカとナースティカ、正統派における[[六派哲学]]などの形のように、互いに大きく意見を異にしていた。その違いは、全ての個人が[[アートマン]]を持っていると信じる派もあれば、アートマンは存在しないと主張する派もあり[[禁欲生活]]を説く派もあれば快楽主義派もあり、[[輪廻]]はあると説く派もあれば、消滅すると説く派もあり、多種多様であった<ref name=collins>{{cite book|author1=Randall Collins|title=The sociology of philosophies: a global theory of intellectual change|year=2000|publisher=Harvard University Press|pages=199–200|isbn=9780674001879|url=https://books.google.com/books?id=2HS1DOZ35EgC&pg=PA199}}</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:95%"
|+古代インド哲学の比較
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!style="min-width:7em| !! [[アージーヴィカ教]] !! [[初期仏教]] !! [[順世派]] !! [[ジャイナ教]] !! 正統派六派哲学<br />(非[[沙門]])
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|{{rh}}| [[業]](カルマ) || 否定する<ref name=philtarajiv>[http://www.philtar.ac.uk/encyclopedia/hindu/ascetic/ajiv.html Ajivikas] World Religions Project, [[University of Cumbria]], United Kingdom</ref><ref>Gananath Obeyesekere (2005), Karma and Rebirth: A Cross Cultural Study, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120826090}}, page 106</ref> || 肯定する<ref name=collins/> || 否定する<ref name=collins/> || 肯定する<ref name=collins/> || 肯定する
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|{{rh}}|[[輪廻]]と再生 || 肯定する || 肯定する<ref>Damien Keown (2013), Buddhism: A Very Short Introduction, 2nd Edition, Oxford University Press, {{ISBN2|978-0199663835}}, pages 32-46</ref> || 否定する<ref>Haribhadrasūri (Translator: M Jain, 1989), Saddarsanasamuccaya, Asiatic Society, {{oclc|255495691}}</ref> || 肯定する<ref name=collins/> || 肯定する学派もあれば、<br>否定する学派もある<ref>Halbfass, Wilhelm (2000), Karma und Wiedergeburt im indischen Denken, Diederichs, München, {{ISBN2|978-3896313850}}</ref>
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|{{rh}}| [[禁欲主義|禁欲生活]] || 肯定する || 肯定する || 否定する<ref name=collins/> || 肯定する || {{仮リンク|サンニャーサ|en|Sannyasa}}として肯定<ref name=patrickolivelle278>Patrick Olivelle (2005), ''The Blackwell Companion to Hinduism'' (Editor: Flood, Gavin), Wiley-Blackwell, {{ISBN2|978-1405132510}}, pages 277-278</ref>
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|{{rh}}|献身主義<br>[[バクティ]] || 肯定する || 一つの選択として肯定<ref>Karel Werner (1995), Love Divine: Studies in Bhakti and Devotional Mysticism, Routledge, {{ISBN2|978-0700702350}}, pages 45-46</ref><br />({{lang-pi|Bhatti}}) || 否定する || 一つの選択として肯定<ref>John Cort, Jains in the World : Religious Values and Ideology in India, Oxford University Press, ISBN, pages 64-68, 86-90, 100-112</ref> || 有神論派: 一つの選択として肯定<ref>Christian Novetzke (2007), Bhakti and Its Public, International Journal of Hindu Studies, Vol. 11, No. 3, page 255-272</ref><br />その他: 否定<ref>'''[a]''' Knut Jacobsen (2008), Theory and Practice of Yoga : 'Essays in Honour of Gerald James Larson, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120832329}}, pages 15-16, 76-78;<br />'''[b]''' Lloyd Pflueger, Person Purity and Power in Yogasutra, in Theory and Practice of Yoga (Editor: Knut Jacobsen), Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120832329}}, pages 38-39</ref><ref>'''[a]''' Karl Potter (2008), Encyclopedia of Indian Philosophies Vol. III, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120803107}}, pages 16-18, 220;<br />'''[b]''' Basant Pradhan (2014), Yoga and Mindfulness Based Cognitive Therapy, Springer Academic, {{ISBN2|978-3319091044}}, page 13 see A.4</ref>
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|{{rh}}|[[アヒンサー]]と<br>[[菜食主義]] || 肯定する || 肯定する。<br />肉食については不明<ref>U Tahtinen (1976), Ahimsa: Non-Violence in Indian Tradition, London, {{ISBN2|978-0091233402}}, pages 75-78, 94-106</ref> || || アヒンサーを至上とする。動物へのアヒンサーのため菜食主義<ref>U Tahtinen (1976), Ahimsa: Non-Violence in Indian Tradition, London, {{ISBN2|978-0091233402}}, pages 57-62, 109-111</ref> || 最高の美徳として肯定するが、[[正戦論]]を認める。菜食主義は奨励されるが選択は任意<ref>U Tahtinen (1976), Ahimsa: Non-Violence in Indian Tradition, London, {{ISBN2|978-0091233402}}, pages 34-43, 89-97, 109-110</ref><ref>Christopher Chapple (1993), Nonviolence to Animals, Earth, and Self in Asian Traditions, State University of New York Press, {{ISBN2|0-7914-1498-1}}, pages 16-17</ref>
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|{{rh}}|[[自由意志]]の<br>存在 || 否定する<ref name=james22>James Lochtefeld, "Ajivika", The Illustrated Encyclopedia of Hinduism, Vol. 1: A–M, Rosen Publishing. {{ISBN2|978-0823931798}}, page 22</ref> || 肯定する<ref>Karin Meyers (2013), Free Will, Agency, and Selfhood in Indian Philosophy (Editors: Matthew R. Dasti, Edwin F. Bryant), Oxford University Press, {{ISBN2|978-0199922758}}, pages 41-61</ref> || 肯定する || 肯定する || 肯定する<ref>Howard Coward (2008), The Perfectibility of Human Nature in Eastern and Western Thought, State University of New York Press, {{ISBN2|978-0791473368}}, pages 103-114;<br />Harold Coward (2003), Encyclopedia of Science and Religion, Macmillan Reference, see Karma, {{ISBN2|978-0028657042}}</ref>
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|{{rh}}|[[マーヤー]] || 肯定する<ref>AL Basham (1951), History and Doctrines of the Ajivikas - a Vanished Indian Religion, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120812048}}, pages 237</ref> || 肯定する<br />(''prapañca'')<ref>Damien Keown (2004), A Dictionary of Buddhism, Oxford University Press, {{ISBN2|978-0198605607}}, Entry for ''Prapañca'', Quote: "Term meaning ‘proliferation’, in the sense of the multiplication of erroneous concepts, ideas, and ideologies which obscure the true nature of reality".</ref> || 否定する || 肯定する || 肯定する<ref>Lynn Foulston and Stuart Abbott (2009), Hindu Goddesses: Beliefs and Practices, Sussex Academic Press, {{ISBN2|978-1902210438}}, pages 14-16</ref><ref>Wendy Doniger O'Flaherty (1986), Dreams, Illusion, and Other Realities, University of Chicago Press, {{ISBN2|978-0226618555}}, page 119</ref>
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|{{rh}}|[[アートマン]]<br/>(我) || 肯定する || 否定する<ref name=5sources>'''[a]''' Steven Collins (1994), Religion and Practical Reason (Editors: Frank Reynolds, David Tracy), State Univ of New York Press, {{ISBN2|978-0791422175}}, page 64; "Central to Buddhist soteriology is the doctrine of not-self (Pali: anattā, Sanskrit: anātman, the opposed doctrine of ātman is central to Brahmanical thought). Put very briefly, this is the [Buddhist] doctrine that human beings have no soul, no self, no unchanging essence.";<br />'''[b]'''KN Jayatilleke (2010), Early Buddhist Theory of Knowledge, {{ISBN2|978-8120806191}}, pages 246-249, from note 385 onwards;<br />'''[c]'''John C. Plott et al. (2000), Global History of Philosophy: The Axial Age, Volume 1, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120801585}}, page 63, Quote: "The Buddhist schools reject any Ātman concept. As we have already observed, this is the basic and ineradicable distinction between Hinduism and Buddhism";<br />'''[d]'''Katie Javanaud (2013), [https://philosophynow.org/issues/97/Is_The_Buddhist_No-Self_Doctrine_Compatible_With_Pursuing_Nirvana Is The Buddhist ‘No-Self’ Doctrine Compatible With Pursuing Nirvana?], Philosophy Now;<br />'''[e]'''[http://www.britannica.com/topic/anatta Anatta] Encyclopædia Britannica, Quote:"In Buddhism, the doctrine that there is in humans no permanent, underlying substance that can be called the soul. (...) The concept of anatta, or anatman, is a departure from the Hindu belief in atman (self)."</ref> || 否定する<ref>Ramkrishna Bhattacharya (2011), Studies on the Carvaka/Lokayata, Anthem, {{ISBN2|978-0857284334}}, page 216</ref> || 肯定する<ref name=jaini>{{cite book|author1=Padmanabh S. Jaini|title=Collected papers on Buddhist studies|year=2001|publisher=Motilal Banarsidass Publications|isbn=9788120817760}}</ref>{{rp|119}} || 肯定する<ref>[http://www.britannica.com/topic/anatta Anatta] Encyclopædia Britannica, Quote:"In Buddhism, the doctrine that there is in humans no permanent, underlying substance that can be called the soul. (...) The concept of anatta, or anatman, is a departure from the Hindu belief in atman (self)."</ref>
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|{{rh}}| 創造神 || 否定する || 否定する || 否定する || 否定する || 有神論派は肯定<ref>Oliver Leaman (2000), Eastern Philosophy: Key Readings, Routledge, {{ISBN2|978-0415173582}}, page 251</ref>、<br />その他は否定<ref>Mike Burley (2012), Classical Samkhya and Yoga - An Indian Metaphysics of Experience, Routledge, {{ISBN2|978-0415648875}}, page 39</ref><ref>Paul Hacker (1978), Eigentumlichkeiten dr Lehre und Terminologie Sankara: Avidya, Namarupa, Maya, Isvara, in Kleine Schriften (Editor: L. Schmithausen), Franz Steiner Verlag, Weisbaden, pages 101-109 (in German), also pages 69-99</ref>
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|{{rh}}|[[認識論]]<br />([[プラマーナ]]) || Pratyakṣa,<br /> Anumāṇa,<br /> Śabda || Pratyakṣa,<br />Anumāṇa<ref name=johngrimes238/><ref>D Sharma (1966), Epistemological negative dialectics of Indian logic — Abhāva versus Anupalabdhi, Indo-Iranian Journal, 9(4): 291-300</ref> || Pratyakṣa<ref>MM Kamal (1998), The Epistemology of the Carvaka Philosophy, Journal of Indian and Buddhist Studies, 46(2), pages 13-16</ref> || Pratyakṣa,<br />Anumāṇa,<br />Śabda<ref name=johngrimes238/> || [[ヴァイシェーシカ学派]]([[六元論]])から[[ヴェーダーンタ学派]]([[二元論]])まで様々。<ref name=johngrimes238>John A. Grimes, A Concise Dictionary of Indian Philosophy: Sanskrit Terms Defined in English, State University of New York Press, {{ISBN2|978-0791430675}}, page 238</ref><ref>Eliott Deutsche (2000), in Philosophy of Religion : Indian Philosophy Vol 4 (Editor: Roy Perrett), Routledge, {{ISBN2|978-0815336112}}, pages 245-248</ref><br />Pratyakṣa (perception),<br />Anumāṇa (inference),<br />Upamāṇa (comparison and analogy),<br />Arthāpatti (postulation, derivation),<br />Anupalabdi (non-perception, negative/cognitive proof),<br />Śabda (Reliable testimony)
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|{{rh}}|[[認識論的権威]] || ヴェーダの否定 || 仏典を肯定<ref name=bartley46>Christopher Bartley (2011), An Introduction to Indian Philosophy, Bloomsbury Academic, {{ISBN2|978-1847064493}}, pages 46, 120</ref><br />ヴェーダの否定||ヴェーダの否定 ||[[アーガマ (ジャイナ教)|アーガマ]]を肯定<br />ヴェーダの否定||[[ヴェーダ]]と[[ウパニシャッド]]の肯定{{refn|group=note|Elisa Freschi (2012): The Vedas are not deontic authorities and may be disobeyed, but still recognized as an epistemic authority by a Hindu.<ref>Elisa Freschi (2012), ''Duty, Language and Exegesis in Prabhakara Mimamsa'', BRILL, {{ISBN2|978-9004222601}}, page 62</ref> Such a differentiation between epistemic and deontic authority is true for all Indian religions.}}<br />他の文献を肯定<ref name=bartley46/><ref>Catherine Cornille (2009), Criteria of Discernment in Interreligious Dialogue, Wipf & Stock, {{ISBN2|978-1606087848}}, pages 185-186</ref>
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|{{rh}}|救い、[[救済論]]|| Samsdrasuddhi<ref>AL Basham (1951), History and Doctrines of the Ajivikas - a Vanished Indian Religion, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120812048}}, pages 227</ref> || [[涅槃]]<br />([[空 (仏教)|シューニャ]]の理解)<ref>Jerald Gort (1992), On Sharing Religious Experience: Possibilities of Interfaith Mutuality, Rodopi, {{ISBN2|978-0802805058}}, pages 209-210</ref> || || [[シッダ]],<ref>John Cort (2010), Framing the Jina: Narratives of Icons and Idols in Jain History, Oxford University Press, {{ISBN2|978-0195385021}}, pages 80, 188</ref>[[涅槃]]
| 解脱、涅槃、{{仮リンク|カイヴァリヤ|en|Kaivalya}}<br />[[不二一元論]]、[[ヨーガ]]、{{仮リンク|ジーヴァンムクティ|en|enJivanmukti}}<ref>Andrew Fort (1998), Jivanmukti in Transformation, State University of New York Press, {{ISBN2|978-0791439043}}</ref><br />{{仮リンク|ドゥバイタ|en|Dvaita}}、[[解脱|離身解脱]]
|-
|{{rh}}|[[形而上学]]<br />(究極の現実)|| || [[空 (仏教)|シューニャ]]<ref>Masao Abe and Steven Heine (1995), Buddhism and Interfaith Dialogue, University of Hawaii Press, {{ISBN2|978-0824817527}}, pages 105-106</ref><ref>Chad Meister (2009), Introducing Philosophy of Religion, Routledge, {{ISBN2|978-0415403276}}, page 60; Quote: "In this chapter, we looked at religious metaphysics and saw two different ways of understanding Ultimate Reality. On the one hand, it can be understood as an absolute state of being. Within Hindu absolutism, for example, it is Brahman, the undifferentiated Absolute. Within Buddhist metaphysics, fundamental reality is Sunyata, or the Void."</ref> || ||[[アネーカーンタヴァーダ]]<ref>Christopher Key Chapple (2004), Jainism and Ecology: Nonviolence in the Web of Life, Motilal Banarsidass, {{ISBN2|978-8120820456}}, page 20</ref><br />||[[ブラフマン]]<ref>PT Raju (2006), Idealistic Thought of India, Routledge, {{ISBN2|978-1406732627}}, page 426 and Conclusion chapter part XII</ref><ref>Roy W Perrett (Editor, 2000), Indian Philosophy: Metaphysics, Volume 3, Taylor & Francis, {{ISBN2|978-0815336082}}, page xvii;<br />AC Das (1952), Brahman and Māyā in Advaita Metaphysics, Philosophy East and West, Vol. 2, No. 2, pages 144-154</ref>
|}
== 主なトピック ==
* [[ヴェーダ]] - 最も古くに文書化された4つの聖典(『[[リグ・ヴェーダ]]』、『[[サーマ・ヴェーダ]]』、『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』、『[[アタルヴァ・ヴェーダ]]』)の名称。ヴェーダの本書([[サンヒター]])は、更に古い時代から文書化を避け口伝で伝わっていたものを文書化したもので、インド哲学の最古層といえる。
** ウパヴェーダ - 副ヴェーダ。上記の4つの正のヴェーダに対しての『[[アーユル・ヴェーダ]]』、『[[ガンダルヴァ・ヴェーダ]]』、『[[ダヌル・ヴェーダ]]』、『[[スタハパティア・ヴェーダ]]』の4つ。ヴェーダの応用編。
*[[ウパニシャッド]] - 宗教的な聖典の中でも、より哲学的な要素が多い書籍類の総称で、200種類を超え、紀元前800年に書かれたものから、16世紀に書かれたものまである。奥義書とも翻訳される。
* [[インド神話]]
* [[インドの宗教]]
* [[インド文学]]
*{{仮リンク|文法学派|en|Vyākaraṇa}}
*[[インド論理学]]
*[[インドの数学]]
*[[インドの文化]]
*[[インド・イスラーム哲学]]
=== 思想家 ===
[[マハーヴィーラ]]、[[釈迦]]、[[ガウダパーダ]]、[[シャンカラ]]、[[ラーマーナンダ]]、[[マーダヴァ]]、[[ヴァッラバ]]、[[カビール]]、[[グル・ナーナク|ナーナク]]、[[ラーマクリシュナ]]、[[ヴィヴェーカーナンダ]]、[[オーロビンド・ゴーシュ]]、[[ラビンドラナート・タゴール|タゴール]]
=== 集団 ===
[[アーリヤ・サマージ]]、[[ブラフモ・サマージ]]
== インド哲学の研究 ==
=== 日本 ===
日本における「'''インド哲学'''」('''印度哲学'''、'''印哲''')の研究は、西洋の[[インド学]](インドロジー)とは異なり、インドそのもの研究ではなく仏教研究を中心に発達してきた<ref name=":0">{{Cite journal|author=[[片岡啓]]|year=2008|title=「印哲」は何を目指してきたのか?|journal=南アジア研究|volume=第20号}}</ref>。[[東京大学]]では、そのような仏教研究を中心とする「インド哲学」研究が行われてきた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=東京大学インド哲学仏教学研究室 |url=https://www.l.u-tokyo.ac.jp/intetsu/ |website=www.l.u-tokyo.ac.jp |access-date=2022-05-31}}</ref>。東大印哲の主な教授には、[[村上専精]]、[[宇井伯寿]]、[[中村元 (哲学者)|中村元]]がいる<ref name=":0" />。
他方で[[京都大学]]は、西洋のインド学を模範として実証的な文献学を志向し、フランスの[[シルヴァン・レヴィ]]や[[ルイ・ルヌー]](ともに[[日仏会館]]館長)の影響が見られる<ref name=":0" />。京大印哲の主な教授には、黎明期の[[長尾雅人]]と[[足利惇氏]]のほか、「munitraya」(「三聖」の意)と称された[[梶山雄一]]、[[服部正明]]、[[大地原豊]]がいる<ref name=":0" />。
==== 主な研究室 ====
*[[北海道大学]]宗教学インド哲学講座
*[[東北大学]]インド文化学講座
*[[東洋大学]]文学部東洋思想文化学科
*[[東京大学]]インド哲学仏教学研究室
*[[名古屋大学]]インド文化学研究室
*[[京都大学]]インド古典学研究室
*[[大阪大学]]インド学仏教学研究室
*[[広島大学]]インド哲学研究室
*[[九州大学]]インド哲学史研究室
*[[大正大学]]仏教学研究科梵文学研究室
*[[龍谷大学]]現代インド研究センター
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="note"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[東洋哲学]]
*[[仏教学]]
*[[パキスタン哲学]]
* [[インド思想史学会]]
* [[日本印度学仏教学会]]
== 外部リンク ==
* [http://rindas.ryukoku.ac.jp/research/workingpaper/ 龍谷大学現代インド研究センターHP]
* [http://www.vedantajp.com/ 日本ヴェーダーンタ協会]
{{インド哲学}}
{{哲学}}
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[[Category:インド哲学|*]]
[[Category:東洋哲学|いんと]]
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アートマン
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アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
インド哲学の様々な学派における中心的な概念であり、アートマン、個人の自己(Jīvātman)、至高の自己(Paramātmā)、究極の現実(Brahman)の関係について学派によって異なる見解を持っている。これらは、完全に同一である(Advaita, 非二元論者)、完全に異なる(Dvaita, 二元論者)、非異なると同時に異なる(Bhedabheda, 非二元論者+二元論者)、などといった見解らがある。
ヒンドゥー教の6つの正統派では、すべての生命体(Jiva)にはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は仏教と大きく異なる点であり、仏教では常一主宰(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して無我説を立てた。
梵: ātmanの本来の語義は「呼吸」であったが、そこから転じて生命、自己、身体、自我、自我の本質、物一般の本質自性、全てのものの根源に内在して個体を支配し統一する独立の永遠的な主体などを意味する。
最も内側 (the innermost) を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
アートマンの語は『リグ・ヴェーダ』以来用いられた。『シャタパタ・ブラーフマナ』では、言語、視力、聴力などの生命現象はアートマンを基礎としアートマンによって統一されているとされ、またアートマンは造物主(Prajāpati)と全く同一ともされた。
ウパニシャッドの時代には、アートマンが宇宙を創造したと説かれた。また、アートマンは個人我(小我)であるとともに宇宙の中心原理(大我)であるともされた。ブラフマン(宇宙原理、梵: brahman)とアートマンが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンが同一である(梵我一如)とされたり、真の実在はアートマンのみであって他は幻(梵: māyā、マーヤー)であるとされた。
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。それは、宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものであるという考えであった。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。これに従うならば、個人の肉体が死を迎えても、自我意識は永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得るという輪廻の根拠でもあった。
アートマンはヒンドゥー教徒にとって形而上学的・精神的な概念であり、しばしば聖典の中でブラフマンの概念と一緒に語られる。ヒンドゥー教の主要な正統派(六派哲学)である、サムキヤ派、ヨーガ派、ニャーヤ派、ヴァイセシカ派、ミマムサ派、ヴェーダンタ派のすべてが、「アートマンは存在する」というヴェーダやウパニシャッドの基礎的前提を受け入れている。
ヒンドゥー哲学、特にヴェーダンタ学派では、アートマンは第一原理である。ジャイナ教もこの前提を受け入れているが、その意味するところは独自の考えを持っている。これに対して、仏教およびシャルヴァカ派は、「アートマン/魂/自己」というものの存在を否定している。
仏教では常一主宰な我を否定し、無我の立場に立つ。無我を知ることが悟りの道に含まれる。
パーリ仏典無記相応の『アーナンダ経』では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている。
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている。一切漏経でも同様に説く。
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"text": "ウパニシャッドの時代には、アートマンが宇宙を創造したと説かれた。また、アートマンは個人我(小我)であるとともに宇宙の中心原理(大我)であるともされた。ブラフマン(宇宙原理、梵: brahman)とアートマンが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンが同一である(梵我一如)とされたり、真の実在はアートマンのみであって他は幻(梵: māyā、マーヤー)であるとされた。",
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"text": "ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。これに従うならば、個人の肉体が死を迎えても、自我意識は永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得るという輪廻の根拠でもあった。",
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"text": "アートマンはヒンドゥー教徒にとって形而上学的・精神的な概念であり、しばしば聖典の中でブラフマンの概念と一緒に語られる。ヒンドゥー教の主要な正統派(六派哲学)である、サムキヤ派、ヨーガ派、ニャーヤ派、ヴァイセシカ派、ミマムサ派、ヴェーダンタ派のすべてが、「アートマンは存在する」というヴェーダやウパニシャッドの基礎的前提を受け入れている。",
"title": "インド哲学において"
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"text": "ヒンドゥー哲学、特にヴェーダンタ学派では、アートマンは第一原理である。ジャイナ教もこの前提を受け入れているが、その意味するところは独自の考えを持っている。これに対して、仏教およびシャルヴァカ派は、「アートマン/魂/自己」というものの存在を否定している。",
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"text": "仏教では常一主宰な我を否定し、無我の立場に立つ。無我を知ることが悟りの道に含まれる。",
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"text": "パーリ仏典無記相応の『アーナンダ経』では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている。",
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"text": "この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている。一切漏経でも同様に説く。",
"title": "インド哲学において"
}
] |
アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。 インド哲学の様々な学派における中心的な概念であり、アートマン、個人の自己(Jīvātman)、至高の自己(Paramātmā)、究極の現実(Brahman)の関係について学派によって異なる見解を持っている。これらは、完全に同一であるにはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は仏教と大きく異なる点であり、仏教では常一主宰(じょういつしゅさい)(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して無我説を立てた。
|
{{Otheruses|ヴェーダの宗教の用語|仏教用語としての我|我|関東地方で展開する生活雑貨店|京王アートマン}}
{{Infobox Hindu term
| title = アートマン
| en = Self or self-existent essence of human beings
| sa = आत्मन्
| sa-Latn = Ātman
| as =
| as-Latn =
| ja = 我
}}
{{Hinduism}}
'''アートマン'''('''आत्मन्''' ''Ātman'')は、[[ヴェーダの宗教]]で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。'''真我'''とも訳される。
[[インド哲学]]の様々な学派における中心的な概念であり、アートマン、個人の自己(Jīvātman)、至高の自己(Paramātmā)、究極の現実(Brahman)の関係について学派によって異なる見解を持っている。これらは、完全に同一である(Advaita, 非二元論者){{sfn|Lorenzen|2004|p=208-209}}<ref>Richard King (1995), Early Advaita Vedanta and Buddhism, State University of New York Press, {{ISBN2|978-0791425138}}, page 64, '''Quote:''' "Atman as the innermost essence or soul of man, and Brahman as the innermost essence and support of the universe. (...) Thus we can see in the Upanishads, a tendency towards a convergence of microcosm and macrocosm, culminating in the equating of atman with Brahman".</ref>、完全に異なる(Dvaita, 二元論者)、非異なると同時に異なる(Bhedabheda, 非二元論者+二元論者)<ref>* Advaita: {{cite web |title=Hindu Philosophy: Advaita |url=https://www.iep.utm.edu/hindu-ph/#SSH3f.iii |website=[[Internet Encyclopedia of Philosophy]] |access-date=9 June 2020}} and {{cite web |title=Advaita Vedanta |url=https://www.iep.utm.edu/adv-veda/ |website=[[Internet Encyclopedia of Philosophy]] |access-date=9 June 2020}}<br>* Dvaita: {{cite web |title=Hindu Philosophy: Dvaita |url=https://www.iep.utm.edu/hindu-ph/#SSH3f.v |website=[[Internet Encyclopedia of Philosophy]] |access-date=9 June 2020}} and {{cite web |title=Madhva (1238—1317) |url=https://www.iep.utm.edu/madhva/ |website=[[Internet Encyclopedia of Philosophy]] |access-date=9 June 2020}}<br>* Bhedabheda: {{cite web |title=Bhedabheda Vedanta |url=https://www.iep.utm.edu/bhed-ved/ |website=[[Internet Encyclopedia of Philosophy]] |access-date=9 June 2020}}</ref>、などといった見解らがある。
ヒンドゥー教の6つの正統派では、すべての生命体(Jiva)にはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は[[仏教]]と大きく異なる点であり、仏教では{{Ruby|'''常一主宰'''|じょういつしゅさい}}(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して'''[[無我]]'''説を立てた<ref name="総合仏教大辞典158" />。
== 語源 ==
{{lang-sa-short|ātman}}の本来の語義は「[[呼吸]]」であったが、そこから転じて[[生命]]、[[自己]]、[[身体]]、[[自我]]、自我の[[本質]]、物一般の本質自性、全てのものの根源に[[内在]]して個体を支配し統一する独立の永遠的な[[主体]]などを意味する<ref name="総合仏教大辞典158" />。
最も内側 (the innermost) を意味する [[サンスクリット]]語の Atma(アートマ)を語源としており、アートマンは個の中心にあり[[認識]]をするものである。それは、知るものと知られるものの[[二元性]]を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
== 概念の発展 ==
=== ヴェーダ ===
アートマンの語は『[[リグ・ヴェーダ]]』以来用いられた<ref name="総合仏教大辞典158" />。『[[シャタパタ・ブラーフマナ]]』では、[[言語]]、視力、聴力などの生命現象はアートマンを基礎としアートマンによって統一されているとされ、またアートマンは[[造物主]](Prajāpati)と全く同一ともされた<ref name="総合仏教大辞典158">{{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=上巻 |page=158-159 }}</ref>。
=== ウパニシャッド ===
[[ウパニシャッド]]の時代には、アートマンが[[宇宙]]を創造したと説かれた<ref name="総合仏教大辞典158" />。また、アートマンは個人我(小我)であるとともに宇宙の中心[[原理]](大我)であるともされた<ref name="総合仏教大辞典158" />。[[ブラフマン]](宇宙原理、{{lang-sa-short|brahman}})とアートマンが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンが同一である([[梵我一如]])とされたり、真の[[実在]]はアートマンのみであって他は幻({{lang-sa-short|māyā}}、[[マーヤー]])であるとされた<ref name="総合仏教大辞典158" />。
また、アートマンは、宇宙の根源原理である[[ブラフマン]]と同一であるとされる([[梵我一如]])<ref name=fukita>{{Cite |和書|title=ブッダとは誰か |author=吹田隆道 |date=2013|isbn=978-4393135686 |pages=41-44}}</ref>。それは、宇宙の全てを司る[[ブラフマン]]は不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものであるという考えであった<ref name=fukita />。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。これに従うならば、個人の肉体が死を迎えても、自我意識は永遠に存続するということであり<ref name=fukita />、またアートマンが死後に新しい肉体を得るという'''[[輪廻]]'''の根拠でもあった<ref name=fukita />。
== インド哲学において ==
{{Seealso|インド哲学#比較}}
=== ヒンドゥー教 正統派 ===
アートマンは[[ヒンドゥー教]]徒にとって形而上学的・精神的な概念であり、しばしば聖典の中でブラフマンの概念と一緒に語られる<ref>{{cite book|author=A. L. Herman |title=An Introduction to Indian Thought |url=https://archive.org/details/introductiontoin00alhe |url-access=registration |year=1976|publisher=Prentice-Hall |isbn=978-0-13-484477-0 |pages=[https://archive.org/details/introductiontoin00alhe/page/110 110]–115 }}</ref><ref>{{cite book|author=Jeaneane D. Fowler |title=Hinduism: Beliefs and Practices |url=https://books.google.com/books?id=RmGKHu20hA0C |year=1997|publisher=Sussex Academic Press |isbn=978-1-898723-60-8|pages=109–121 }}</ref><ref>{{cite book|author=Arvind Sharma |title=Advaita Vedānta: An Introduction |url=https://archive.org/details/advaitavedanta00arvi |url-access=registration |year=2004|publisher=Motilal Banarsidass |isbn=978-81-208-2027-2 |pages=[https://archive.org/details/advaitavedanta00arvi/page/24 24]–43 }}</ref>。ヒンドゥー教の主要な正統派([[六派哲学]])である、サムキヤ派、ヨーガ派、ニャーヤ派、ヴァイセシカ派、ミマムサ派、ヴェーダンタ派のすべてが、「アートマンは存在する」というヴェーダやウパニシャッドの基礎的前提を受け入れている<ref name="名前なし-1">Deussen, Paul and Geden, A. S. The Philosophy of the Upanishads. Cosimo Classics (June 1, 2010). P. 86. {{ISBN2|1616402407}}.</ref>。
[[ヒンドゥー哲学]]、特にヴェーダンタ学派では、アートマンは[[第一原理]]である<ref name="名前なし-1"/>。ジャイナ教もこの前提を受け入れているが、その意味するところは独自の考えを持っている。これに対して、仏教およびシャルヴァカ派は、「アートマン/魂/自己」というものの存在を否定している{{sfn|Plott|2000|p=60-62}}。
=== 仏教 ===
{{Seealso|常見|断見}}
仏教では'''常一主宰な我'''を否定し、[[無我]]の立場に立つ。[[無我]]を知ることが[[悟り]]の道に含まれる。
[[パーリ仏典]][[無記相応]]の『アーナンダ経』では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている<ref name="uokawa">{{Cite|和書|title=仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か |author=魚川祐司 |publisher=新潮社 |isbn=978-4103391715 |date=2015-04 |pages=84-88}}</ref>。
# [[我]](attā)はあるか?
# 我はないのか?
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば[[常見|常住論者]](sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば[[断見|断滅論者]](ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている<ref name=uokawa />。[[一切漏経]]でも同様に説く。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation | last =Plott | first =John C. | year =2000 | title =Global History of Philosophy: The Axial Age, Volume 1 | publisher =Motilal Banarsidass | isbn =978-8120801585}}
== 関連項目 ==
* [[中観派]]
* [[唯識派]]
* [[密教]]
* [[我思う、ゆえに我あり]]
* [[マハートマー]]
{{インド哲学}}
{{Hinduism2}}
{{DEFAULTSORT:あとまん}}
[[Category:ヒンドゥー教]]
[[Category:インド哲学]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
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10,782 |
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド
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『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(梵: बृहदारण्यकोपनिषत् bṛhadāraṇyaka-upaniṣad)は、ウパニシャッドの1つ。『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる文献のひとつで、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる。
思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などを含む。
引用文は断りなければ服部正明訳。
ヤージュニャヴァルキヤのアートマンについての8人のバラモンたちと対話。
アートマンは「..ではない」という言い方で表現するしかない。とらえられないから。
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補足編。
補足編。
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『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』は、ウパニシャッドの1つ。『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる文献のひとつで、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる。 思想家ヤージュニャヴァルキヤの思想などを含む。
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{{Hinduism}}
『'''ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド'''』({{lang-sa-short|बृहदारण्यकोपनिषत् bṛhadāraṇyaka-upaniṣad}})は、[[ウパニシャッド]]の1つ。『[[白ヤジュル・ヴェーダ]]』に含まれる文献のひとつで、古ウパニシャッドの中では初期の「古散文ウパニシャッド」に分類され、『[[チャーンドーギヤ・ウパニシャッド]]』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる<ref>『原典訳ウパニシャッド』岩本裕 ちくま学芸文庫 p349</ref>。
思想家[[ヤージュニャヴァルキヤ]]の思想などを含む。
==内容==
引用文は断りなければ[[服部正明]]訳<ref>服部正明訳 ウパニシャッド 『バラモン教典・原始仏典 世界の名著1』 中央公論社 1969</ref><ref>服部正明 『古代インドの神秘思想』 講談社現代新書 1979 </ref>。
===第1編 (全6章)===
;世界の誕生 (1.2-1.4)
:[[プラジャーパティ]]が世界を創造した。
太初に、この世にはただ人間の形をしたアートマンのみが存在していた。 (1.4.1)
太初には、この世は実にブラフマンのみであった。それは自分自身を「われはブラフマンなり」と自覚した。 (1.4.10)
===第2編 (全6章)===
;[[アジャータシャトル]]王のアートマン論 (2.1-2.3)
「このアートマンから、すべての機能、すべての世界、すべての神、すべての存在物が諸方に出てゆくのである。」 (2.1.20)
===第3編 (全9章)===
[[ヤージュニャヴァルキヤ]]のアートマンについての8人のバラモンたちと対話。
アートマンは「..ではない」という言い方で表現するしかない。とらえられないから。
「この『あらず、あらず』というアートマンは、不可捉である。それは把捉されないから。不壊である。それは破壊されないから。」 (3.9.26)
===第4編 (全6章)===
ヤージュニャヴァルキヤの対話の続き。
;ジャナカ王との対話 (4.1-4.4)
「このように知る者は、安らかで、自制があり、平静で、忍耐強く、心を統一した者となり、自己のなかにアートマンを認め、いっさいをアートマンとみる。」 (4.4.23)
;妻マイトレーイーとの対話 (4.5)
「アートマンが見られ、聞かれ、思考され、認識されるとき、この世のすべては知られるのである。」 (4.5.6)
===第5編 (全15章)===
補足編。
===第6編 (全5章)===
補足編。
;家庭内の祭祀 (6.4)
:性交・出産時の儀式
==日本語訳==
=== 全訳 ===
*{{Cite book|和書|author=湯田豊|authorlink=湯田豊 |year=2000 |title=ウパニシャッド 翻訳および解説 |publisher=[[大東出版社]] |isbn=4-500-00656-7}}
=== 抄訳 ===
*{{Cite book|和書|author=服部正明|authorlink=服部正明 |year=1979 |title=ウパニシャッド |publisher=[[中央公論社]]〈[[世界の名著]]1, [[中公バックス]]〉 |isbn=412400611X}}
**{{Cite book|和書|author=服部正明 |year=1969 |title=ウパニシャッド |publisher=中央公論社〈世界の名著1〉 |isbn=}}
*{{Cite book|和書|author=岩本裕|authorlink=岩本裕 |year=2013 |title=原典訳 ウパニシャッド |publisher=[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉 |isbn=4-480-09519-5}}
**{{Cite book|和書|author=岩本裕 |year=1967 |title=ウパニシャッド |publisher=筑摩書房〈[[世界文学古典全集]]3〉 |isbn=}}
*{{Cite book|和書|author=佐保田鶴治|authorlink=佐保田鶴治 |year=1979 |title=ウパニシャッド |publisher=[[平河出版社]] |isbn=4892030260}}
*{{Cite book|和書|author1=日野紹運|authorlink1=日野紹運|author2=奥村文子|authorlink2=奥村文子|year=2009 |title=ウパニシャッド |publisher=[[日本ヴェーダンタ協会]] |isbn=4931148409}}
==脚注・出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[ウパニシャッド]]
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[[Category:ウパニシャッド]]
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EBCDIC
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EBCDIC (英語: Extended Binary Coded Decimal Interchange Code、エビシディック、拡張二進化十進コード) はIBMにより定義された8ビットのコード化文字セットである。ASCII普及前の1963年に、BCD(Binary-coded decimal、二進化十進コード)を拡張する形で作られ、主にIBM系のメインフレームやオフィスコンピュータなどで使用されている。
IBMのCDRA(Character Data Representation Architecture; 文字データ表現体系)では、EBCDICは符号化方法(Encoding Scheme)の1つと位置づけられている。各国語などの文字集合であるコードページを、EBCDICなどの符号化方式で符号化するが、EBCDICの符号化にもシングルバイト、ダブルバイト、マルチバイトの構造がある。これらの組み合わせがCCSIDとして定義されており、例えば日本用のEBCDICのCCSIDは、ひらがなや漢字を含まない組み合わせも含めると、10以上定義されている。
この他、IBM以外の互換メーカーなどのEBCDICをベースとした各種の文字コードまたは符号化方法も、EBCDICまたはEBCDIC系と呼ばれる場合がある。
EBCDICはSystem/360と同時に発表された。
IBMはASCII標準化委員会の主提案社であったが、BCDをベースとしたのは、当時のデータの大多数はパンチカードの形でBCDの形式で保管されていたため、蓄積データの互換性を優先したためである。
System/360がベストセラーとなると、そのクローンであるRCA Spectra、ICL System 4、富士通 FACOM、日立製作所 HITACなどもEBCDICを採用した。
EBCDICを標準の文字コードとするオペレーティングシステムには、IBMメインフレーム用のz/OS、z/VSE、z/VMや、IBMミッドレンジコンピュータ用のOS/400、IBM iなどがある。ただし、IBMメインフレーム上でもz/OS上のUSS(UNIX互換環境)や、Linux、あるいはAS/400やPower Systems i Edition上で稼動するLinuxやAIXなどは、ASCIIである。EBCDICと、ASCII、シフトJIS、Unicodeなどの主要な文字コード間は、オペレーティングシステム、ミドルウェア、各種ツール、アプリケーション・ソフトウェアなどの機能を使用したコード変換が行われている。
IBM以外ではBS2000、HP MPE、Unisys MCPなどもEBCDICをベースにしている。日立製作所はEBCDICをベースとした自社の文字コードをEBCDIKと呼んでいる。上述のようにIBMの日本用EBCDICの組み合わせ(CCSID)は10以上定義されているが、他メーカーでは細部が異なるため、いわゆるEBCDIC系統では多数の文字コードが存在している。
上述のように、IBM CDRA上ではEBCDICは「文字コード」ではなく「符号化方法」の1つであり、具体的なコード配置(各文字と符号位置の配置)はコードページによっても異なる。符号化方法にEBCDIC (1100)を使用したコードページとCCSIDの例には以下がある。なお CCSID 5026(日本語カタカナ拡張)にはコードページが2つあり(混合CCSID)、切り替えて使用する。
EBCDICにもASCIIと同様、通信処理の制御や周辺機器の制御などの目的に用いる文字コードが存在する。割り当て範囲は、16進数表現の00hから3Fhの間と0FFh。
ASCIIと共通の機能名称を持つ制御文字コードがある反面、プリンタ等の基本的な改行制御に関わる制御文字コードの個数に差異があるといった違いもある。
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"tag": "p",
"text": "System/360がベストセラーとなると、そのクローンであるRCA Spectra、ICL System 4、富士通 FACOM、日立製作所 HITACなどもEBCDICを採用した。",
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"text": "EBCDICを標準の文字コードとするオペレーティングシステムには、IBMメインフレーム用のz/OS、z/VSE、z/VMや、IBMミッドレンジコンピュータ用のOS/400、IBM iなどがある。ただし、IBMメインフレーム上でもz/OS上のUSS(UNIX互換環境)や、Linux、あるいはAS/400やPower Systems i Edition上で稼動するLinuxやAIXなどは、ASCIIである。EBCDICと、ASCII、シフトJIS、Unicodeなどの主要な文字コード間は、オペレーティングシステム、ミドルウェア、各種ツール、アプリケーション・ソフトウェアなどの機能を使用したコード変換が行われている。",
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"text": "IBM以外ではBS2000、HP MPE、Unisys MCPなどもEBCDICをベースにしている。日立製作所はEBCDICをベースとした自社の文字コードをEBCDIKと呼んでいる。上述のようにIBMの日本用EBCDICの組み合わせ(CCSID)は10以上定義されているが、他メーカーでは細部が異なるため、いわゆるEBCDIC系統では多数の文字コードが存在している。",
"title": "歴史"
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"text": "上述のように、IBM CDRA上ではEBCDICは「文字コード」ではなく「符号化方法」の1つであり、具体的なコード配置(各文字と符号位置の配置)はコードページによっても異なる。符号化方法にEBCDIC (1100)を使用したコードページとCCSIDの例には以下がある。なお CCSID 5026(日本語カタカナ拡張)にはコードページが2つあり(混合CCSID)、切り替えて使用する。",
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"text": "EBCDICにもASCIIと同様、通信処理の制御や周辺機器の制御などの目的に用いる文字コードが存在する。割り当て範囲は、16進数表現の00hから3Fhの間と0FFh。",
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"text": "ASCIIと共通の機能名称を持つ制御文字コードがある反面、プリンタ等の基本的な改行制御に関わる制御文字コードの個数に差異があるといった違いもある。",
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] |
EBCDIC はIBMにより定義された8ビットのコード化文字セットである。ASCII普及前の1963年に、BCD(Binary-coded decimal、二進化十進コード)を拡張する形で作られ、主にIBM系のメインフレームやオフィスコンピュータなどで使用されている。 IBMのCDRAでは、EBCDICは符号化方法の1つと位置づけられている。各国語などの文字集合であるコードページを、EBCDICなどの符号化方式で符号化するが、EBCDICの符号化にもシングルバイト、ダブルバイト、マルチバイトの構造がある。これらの組み合わせがCCSIDとして定義されており、例えば日本用のEBCDICのCCSIDは、ひらがなや漢字を含まない組み合わせも含めると、10以上定義されている。 この他、IBM以外の互換メーカーなどのEBCDICをベースとした各種の文字コードまたは符号化方法も、EBCDICまたはEBCDIC系と呼ばれる場合がある。
|
'''EBCDIC''' ({{lang-en|Extended Binary Coded Decimal Interchange Code}}{{Sfn|J.DONOVAN|1972|p=65}}、エビシディック、拡張二進化十進コード<ref>[https://web.archive.org/web/20060505194213/http://publib.boulder.ibm.com/html/as400/v4r5/ic2962/info/RZAATMST08.HTM AS/400用語集]</ref>) は[[IBM]]により定義された[[8ビット]]の[[文字コード|コード化文字セット]]である<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/terminology/e.html#x5635785 Extended Binary-Coded Decimal Interchange Code (EBCDIC) - IBM Terminology]</ref>。[[ASCII]]普及前の1963年に、[[二進化十進表現|'''BCD'''(Binary-coded decimal、二進化十進コード)]]を拡張する形で作られ、主にIBM系の[[メインフレーム]]や[[オフィスコンピュータ]]などで使用されている<ref>[http://www.wisegeek.com/what-is-ebcdic.htm What is EBCDIC? - wiseGEEK]</ref><ref>[http://publib.boulder.ibm.com/infocenter/zos/basics/index.jsp?topic=/com.ibm.zos.zappldev/zappldev_14.htm The EBCDIC character set - Application programming on z/OS]</ref><ref>[http://publib.boulder.ibm.com/infocenter/dzichelp/v2r2/topic/com.ibm.db2z10.doc.char/src/tpc/db2z_ebcdic.htm EBCDIC - DB2 10 for z/OS]</ref>。
IBMの[[CDRA]](''Character Data Representation Architecture''; 文字データ表現体系)では、EBCDICは[[符号化方式|符号化方法]](Encoding Scheme)の1つと位置づけられている<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/cdra/appendix_a.html Appendix A. Encoding Schemes - IBM CDRA]</ref>。各国語などの文字集合である[[コードページ]]を、EBCDICなどの符号化方式で符号化するが、EBCDICの符号化にも[[1バイト言語|シングルバイト]]、[[2バイト言語|ダブルバイト]]、[[マルチバイト文字|マルチバイト]]の構造がある。これらの組み合わせが[[CCSID]]として定義されており、例えば日本用のEBCDICのCCSIDは、[[ひらがな]]や[[漢字]]を含まない組み合わせも含めると、10以上定義されている<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/ccsid/ccsid_registered.html Coded character set identifiers - IBM CDRA]</ref>。
この他、IBM以外の互換メーカーなどのEBCDICをベースとした各種の文字コードまたは符号化方法も、EBCDICまたはEBCDIC系と呼ばれる場合がある。
== 歴史 ==
EBCDICは[[System/360]]と同時に発表された。
IBMはASCII標準化委員会の主提案社であったが<ref>[http://www.wps.com/projects/codes/X3.4-1963/page4.JPG They had 4 staff on the final 21-member ASA X3.2 sub-committee]</ref>、BCDをベースとしたのは、当時のデータの大多数は[[パンチカード]]の形でBCDの形式で保管されていたため、蓄積データの互換性を優先したためである。
System/360がベストセラーとなると、その[[クローン]]である[[RCA]] Spectra、ICL System 4、[[富士通]] [[FACOM]]、[[日立製作所]] [[HITAC]]などもEBCDICを採用した。
EBCDICを標準の文字コードとする[[オペレーティングシステム]]には、IBMメインフレーム用の[[z/OS]]、[[z/VSE]]、[[z/VM]]や、IBM[[ミッドレンジコンピュータ]]用の[[OS/400]]、[[IBM i]]などがある。ただし、IBMメインフレーム上でもz/OS上のUSS(UNIX互換環境)や、[[Linux]]、あるいは[[AS/400]]や[[Power Systems|Power Systems i Edition]]上で稼動するLinuxや[[AIX]]などは、ASCIIである。EBCDICと、ASCII、[[Shift_JIS|シフトJIS]]、[[Unicode]]などの主要な文字コード間は、オペレーティングシステム、[[ミドルウェア]]、各種ツール、[[アプリケーション・ソフトウェア]]などの機能を使用したコード変換が行われている。
IBM以外では[[:en:BS2000|BS2000]]、[[MPE|HP MPE]]、[[:en:Burroughs MCP|Unisys MCP]]などもEBCDICをベースにしている。日立製作所はEBCDICをベースとした自社の文字コードを'''EBCDIK'''と呼んでいる<ref>[http://itdoc.hitachi.co.jp/manuals/3020/30203J3820/ISUS0268.HTM 付録K.4 EBCDIC/EBCDIKのコード表 - 日立製作所]</ref>。上述のようにIBMの日本用EBCDICの組み合わせ(CCSID)は10以上定義されているが、他メーカーでは細部が異なるため、いわゆるEBCDIC系統では多数の文字コードが存在している。
== 詳細 ==
=== CCSID、コードページとの関係 ===
上述のように、IBM CDRA上ではEBCDICは「文字コード」ではなく「符号化方法」の1つであり、具体的なコード配置(各文字と符号位置の配置)はコードページによっても異なる。符号化方法にEBCDIC (1100)を使用したコードページとCCSIDの例には以下がある。なお CCSID 5026(日本語カタカナ拡張)にはコードページが2つあり(混合CCSID)、切り替えて使用する。
{| class="wikitable"
|+ EBCDICを使用したCCSID、コードページの例
! CCSID !! コードページ(CPGID) !! 符号化方法(ES) !! コードページ名 !! 備考
|-
| 37<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/ccsid/ccsid37.html CCSID 37 - IBM CDRA]</ref> || 37 || 1100 || USA/Canada - CECP || USA英語(EBCDIC)
|-
| 500<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/ccsid/ccsid500.html CCSID 500 - IBM CDRA]</ref> || 500 || 1100 || International #5 || 多国語英語(EBCDIC)
|-
|ROWSPAN=2 |5026/930/1390<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/ccsid/ccsid5026.html CCSID 5026 - IBM CDRA]</ref> || 290 || 1100 || Japanese (Katakana) Extended || SBCS日本語カナ(EBCDIC)
|-
| 300 || 1100 || Japan (Kanji) - Host, DBCS || DBCS日本語(EBCDIC)
|-
|ROWSPAN=2 |5035/939/1399<ref>[http://www-01.ibm.com/software/globalization/ccsid/ccsid5035.html CCSID 5035 - IBM CDRA]</ref> || 01027 || 1100 || Japanese (Latin) Extended || SBCS日本語英小文字カナ(EBCDIC)
|-
| 300 || 1100 || Japan (Kanji) - Host, DBCS || DBCS日本語(EBCDIC)
|}
=== コード配置 ===
* EBCDICを使用した全てのコードページで、共通の符号位置を持つ文字 (例えば、'SP'(ブランク) = X'40'は共通だが、以下に記載の無い英小文字の有無や位置はコードページにより異なる)
<table border="1" class="wikitable">
<tr><th> </th><th>00</th><th>10</th><th>20</th><th>30</th><th>40</th><th>50</th><th>60</th><th>70</th><th>80</th><th>90</th><th>A0</th><th>B0</th><th>C0</th><th>D0</th><th>E0</th><th>F0</th></tr>
<tr><th>0</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>sp</td><td>&</td><td>-</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>0</td></tr>
<tr><th>1</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>/</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>A</td><td>J</td><td> </td><td>1</td></tr>
<tr><th>2</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>B</td><td>K</td><td>S</td><td>2</td></tr>
<tr><th>3</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>C</td><td>L</td><td>T</td><td>3</td></tr>
<tr><th>4</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>D</td><td>M</td><td>U</td><td>4</td></tr>
<tr><th>5</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>E</td><td>N</td><td>V</td><td>5</td></tr>
<tr><th>6</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>F</td><td>O</td><td>W</td><td>6</td></tr>
<tr><th>7</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>G</td><td>P</td><td>X</td><td>7</td></tr>
<tr><th>8</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>H</td><td>Q</td><td>Y</td><td>8</td></tr>
<tr><th>9</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>I</td><td>R</td><td>Z</td><td>9</td></tr>
<tr><th>A</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>:</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>B</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>.</td><td> </td><td>,</td><td>#</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>C</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td><</td><td>*</td><td>%</td><td>@</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>D</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>(</td><td>)</td><td>_</td><td>'</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>E</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>+</td><td>;</td><td>></td><td>=</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>F</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>?</td><td>"</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
</table>
*カナ拡張されたEBCDICコードの例(IBMによるカナ拡張の一例;[[コードページ]]:298の場合)
<table border="1" class="wikitable">
<tr><th> </th><th>00</th><th>10</th><th>20</th><th>30</th><th>40</th><th>50</th><th>60</th><th>70</th><th>80</th><th>90</th><th>A0</th><th>B0</th><th>C0</th><th>D0</th><th>E0</th><th>F0</th></tr>
<tr><th>0</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>sp</td><td>&</td><td>-</td><td>コ</td><td>テ</td><td>ハ</td><td>ム</td><td>リ</td><td>{</td><td>}</td><td>¥</td><td>0</td></tr>
<tr><th>1</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>ゥ</td><td>/</td><td>サ</td><td>a</td><td>j</td><td>~</td><td>ル</td><td>A</td><td>J</td><td> </td><td>1</td></tr>
<tr><th>2</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>。</td><td>ェ</td><td>イ</td><td>シ</td><td>b</td><td>k</td><td>s</td><td>レ</td><td>B</td><td>K</td><td>S</td><td>2</td></tr>
<tr><th>3</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>「</td><td>ォ</td><td>ウ</td><td>ス</td><td>c</td><td>l</td><td>t</td><td>ロ</td><td>C</td><td>L</td><td>T</td><td>3</td></tr>
<tr><th>4</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>」</td><td>ャ</td><td>エ</td><td>セ</td><td>d</td><td>m</td><td>u</td><td>ワ</td><td>D</td><td>M</td><td>U</td><td>4</td></tr>
<tr><th>5</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>、</td><td>ュ</td><td>オ</td><td>ソ</td><td>e</td><td>n</td><td>v</td><td>ン</td><td>E</td><td>N</td><td>V</td><td>5</td></tr>
<tr><th>6</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>・</td><td>ョ</td><td>カ</td><td>タ</td><td>f</td><td>o</td><td>w</td><td>゛</td><td>F</td><td>O</td><td>W</td><td>6</td></tr>
<tr><th>7</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>ヲ</td><td>ッ</td><td>キ</td><td>チ</td><td>g</td><td>p</td><td>x</td><td>゜</td><td>G</td><td>P</td><td>X</td><td>7</td></tr>
<tr><th>8</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>ァ</td><td>ー</td><td>ク</td><td>ツ</td><td>h</td><td>q</td><td>y</td><td> </td><td>H</td><td>Q</td><td>Y</td><td>8</td></tr>
<tr><th>9</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>ィ</td><td>ア</td><td>ケ</td><td>`</td><td>i</td><td>r</td><td>z</td><td> </td><td>I</td><td>R</td><td>Z</td><td>9</td></tr>
<tr><th>A</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>¢</td><td>!</td><td>¦</td><td>:</td><td>ト</td><td>ヒ</td><td>メ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>B</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>.</td><td>$</td><td>,</td><td>#</td><td>ナ</td><td>フ</td><td>モ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>C</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td><</td><td>*</td><td>%</td><td>@</td><td>ニ</td><td>ヘ</td><td>ヤ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>D</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>(</td><td>)</td><td>_</td><td>'</td><td>ヌ</td><td>ホ</td><td>ユ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>E</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>+</td><td>;</td><td>></td><td>=</td><td>ネ</td><td>マ</td><td>ヨ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>F</th><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>│</td><td>¬</td><td>?</td><td>"</td><td>ノ</td><td>ミ</td><td>ラ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
</table>
=== 制御文字コードの配置 ===
EBCDICにもASCIIと同様、通信処理の制御や周辺機器の制御などの目的に用いる文字コードが存在する。割り当て範囲は、16進数表現の00hから3Fhの間と0FFh。
*IBMによるカナ拡張の一例(コードページ:298)と組み合わせた場合のコード表
<table border="1" class="wikitable">
<tr><th> </th><th>00</th><th>10</th><th>20</th><th>30</th><th>40</th><th>50</th><th>60</th><th>70</th><th>80</th><th>90</th><th>A0</th><th>B0</th><th>C0</th><th>D0</th><th>E0</th><th>F0</th></tr>
<tr><th>0</th><td>NUL</td><td>DLE</td><td>DS</td><td>(予約)</td><td>sp</td><td>&</td><td>-</td><td>コ</td><td>テ</td><td>ハ</td><td>ム</td><td>リ</td><td>{</td><td>}</td><td>¥</td><td>0</td></tr>
<tr><th>1</th><td>SOH</td><td>DC1</td><td>SOS</td><td>(予約)</td><td> </td><td>ゥ</td><td>/</td><td>サ</td><td>a</td><td>j</td><td>~</td><td>ル</td><td>A</td><td>J</td><td> </td><td>1</td></tr>
<tr><th>2</th><td>STX</td><td>DC2</td><td>FS</td><td>SYN</td><td>。</td><td>ェ</td><td>イ</td><td>シ</td><td>b</td><td>k</td><td>s</td><td>レ</td><td>B</td><td>K</td><td>S</td><td>2</td></tr>
<tr><th>3</th><td>ETX</td><td>DC3</td><td>WUS</td><td>IR</td><td>「</td><td>ォ</td><td>ウ</td><td>ス</td><td>c</td><td>l</td><td>t</td><td>ロ</td><td>C</td><td>L</td><td>T</td><td>3</td></tr>
<tr><th>4</th><td>SEL</td><td>RES/ENP</td><td>BYP/INP</td><td>PP</td><td>」</td><td>ャ</td><td>エ</td><td>セ</td><td>d</td><td>m</td><td>u</td><td>ワ</td><td>D</td><td>M</td><td>U</td><td>4</td></tr>
<tr><th>5</th><td>HT</td><td>NL</td><td>LF</td><td>TRN</td><td>、</td><td>ュ</td><td>オ</td><td>ソ</td><td>e</td><td>n</td><td>v</td><td>ン</td><td>E</td><td>N</td><td>V</td><td>5</td></tr>
<tr><th>6</th><td>RNL</td><td>BS</td><td>ETB</td><td>NBS</td><td>・</td><td>ョ</td><td>カ</td><td>タ</td><td>f</td><td>o</td><td>w</td><td>゛</td><td>F</td><td>O</td><td>W</td><td>6</td></tr>
<tr><th>7</th><td>DEL</td><td>POC</td><td>ESC</td><td>EOT</td><td>ヲ</td><td>ッ</td><td>キ</td><td>チ</td><td>g</td><td>p</td><td>x</td><td>゜</td><td>G</td><td>P</td><td>X</td><td>7</td></tr>
<tr><th>8</th><td>GE</td><td>CAN</td><td>SA</td><td>SBS</td><td>ァ</td><td>ー</td><td>ク</td><td>ツ</td><td>h</td><td>q</td><td>y</td><td> </td><td>H</td><td>Q</td><td>Y</td><td>8</td></tr>
<tr><th>9</th><td>SPS</td><td>EM</td><td>SFE</td><td>IT</td><td>ィ</td><td>ア</td><td>ケ</td><td>`</td><td>i</td><td>r</td><td>z</td><td> </td><td>I</td><td>R</td><td>Z</td><td>9</td></tr>
<tr><th>A</th><td>RPT</td><td>UBS</td><td>SM/SW</td><td>RFF</td><td>¢</td><td>!</td><td>¦</td><td>:</td><td>ト</td><td>ヒ</td><td>メ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>B</th><td>VT</td><td>CU1</td><td>CSP</td><td>CU3</td><td>.</td><td>$</td><td>,</td><td>#</td><td>ナ</td><td>フ</td><td>モ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>C</th><td>FF</td><td>IFS</td><td>MFA</td><td>DC4</td><td><</td><td>*</td><td>%</td><td>@</td><td>ニ</td><td>ヘ</td><td>ヤ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>D</th><td>CR</td><td>IGS</td><td>ENQ</td><td>NAK</td><td>(</td><td>)</td><td>_</td><td>'</td><td>ヌ</td><td>ホ</td><td>ユ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>E</th><td>SO/LS1</td><td>IRS</td><td>ACK</td><td>(予約)</td><td>+</td><td>;</td><td>></td><td>=</td><td>ネ</td><td>マ</td><td>ヨ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td></tr>
<tr><th>F</th><td>SI/LS0</td><td>IUS/ITB</td><td>BEL</td><td>SUB</td><td>│</td><td>¬</td><td>?</td><td>"</td><td>ノ</td><td>ミ</td><td>ラ</td><td> </td><td> </td><td> </td><td> </td><td>EO</td></tr>
</table>
ASCIIと共通の機能名称を持つ制御文字コードがある反面、プリンタ等の基本的な改行制御に関わる制御文字コードの個数に差異があるといった違いもある。
*EBCDIC:CR=Carriage Return、NL=New Line、LF=Line Feed、FF=Form Feed(計4種類)
*ASCII:CR=Carriage Return、LF=Line Feed、FF=Form Feed(計3種類)
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* {{cite book|title=systems programming|last=J.DONOVAN|first=JOHN|isbn=0-07-085175-1|year=1972|date=|publisher=|ref=harv }}
== 外部リンク ==
* {{cite web|url=http://www-01.ibm.com/software/globalization/g11n-res.html
|title=IBM Globalization - Resources
|publisher=IBM Corporation
|date=2017-03-17
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181031091219/http://www-01.ibm.com/software/globalization/g11n-res.html|archivedate=2018-10-31
|accessdate=2019-08-23}} - IBMの文字コード全体の資料と、EBCDICを含む各文字コードのコード表
** {{cite web|url=http://www-01.ibm.com/software/globalization/cs/cs01172.html
|title=IBM Globalization - Character set identifiers - GCSGID 01172
|publisher=IBM Corporation
|date=2016-11-03
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170610232058/http://www-01.ibm.com/software/globalization/cs/cs01172.html|archivedate=2017-06-10
|accessdate=2019-08-23}} - コードページ 1172(日本語拡張,EBCDIC/汎用PC)
* {{cite web|url=http://massangeana.com/mas/charsets/ebcdic.htm
|title=IBM EBCDIC 日本語符号化文字集合
|author=益山
|date=1998-06-14
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111220204324/http://massangeana.com/mas/charsets/ebcdic.htm|archivedate=2011-12-20
|accessdate=2019-08-23}}
* [http://www-01.ibm.com/support/docview.wss?uid=jpn1J1002529 SJIS(IBM943)、EBCDIC(IBM930)の文字コードMAPについて]{{リンク切れ|date=2019年8月}} (リンク先に日本語コード一覧表)
<!-- ↑Webアーカイブにもないです。 -->
{{文字コード}}
[[Category:文字コード]]
[[Category:IBM]]
| null |
2022-12-17T17:16:58Z
| false | false | false |
[
"Template:Cite web",
"Template:リンク切れ",
"Template:文字コード",
"Template:Lang-en",
"Template:Sfn",
"Template:Cite book"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/EBCDIC
|
10,784 |
いろは歌
|
いろは歌(いろはうた)とは、仮名文字を重複させず使って作られた47字の誦文。七五調の韻文で、作者は不明だが10世紀末から11世紀半ばの間に成立したとされる。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。転じて「いろは」は初歩に習得しておくべき事という意味も持つ。またその仮名の配列は字母表の「いろは順」として、中世から近世の辞書類や番号付け等に広く利用された。
現代に伝わるいろは歌の内容は、以下の通りである。
七五調の歌謡である今様の形式で、仮名を重複させることなく作られているが、これがいかなる内容を意味するのかは定かではない(後述)。古くから「いろは四十七文字」として知られるが、最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがある。四十七文字の最後に「京」の字を加えることは、弘安10年(1287年)成立の了尊の著『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあり、この当時すでに行われている。「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の直音に対して「京」の字で拗音の発音を覚えさせるためだという説がある。いろは順には「京」を伴うのが広く受け入れられ、いろはかるたの最後においても「京の夢大坂の夢」となっている。
天禄元年(970年)成立の『口遊』(源為憲著)には、同じく仮名を重複させない誦文天地の詞と大為爾の歌については記すが、いろは歌には触れておらず、またいろは歌を記した文献としては最古とされる『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)は、承暦3年(1079年)の成立であることから、いろは歌は10世紀末から11世紀中葉までの間に成立したものとされている。
いろは歌の文献上最古の用例は、『金光明最勝王経音義』(大東急記念文庫所蔵)である。著者は不明、「承暦三年己未四月十六日抄了」という奥書を持つ。「音義」とは、経典に記される漢字の字義や発音について説明した書物のことで、これは『金光明最勝王経』にある語句についてのものである。いろは歌は「先可知所付借字」(先づ付する所の借字を知るべし)という但し書きを最初に置き、以下のように仮名ではなく借字で書かれており、音訓の読みとして使われる文字の一覧となっている。七字区切りにして大きく書かれた各字の下に、小さく書かれた同音の借字(〈 〉内の文字)一つ乃至二つが添えられる(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。
それぞれの文字には声点が朱で記されており、それぞれの文字のアクセントがわかるようになっている。小松英雄は各文字のアクセントの高低の配置を分析し、このいろは歌が漢語の声調を訓練するための目的に使われたのではないかと考察している(後述)。なお声点の付けられたいろは歌は、真言宗や声明に関わる古文献でも見られるが、この『金光明最勝王經音義』のものとはアクセントの高低がそれぞれ異なる。
三重県明和町の斎宮跡で、平成22年(2010年)に平仮名でいろは歌が書かれた4片の土器が発見された。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の土師器であり、出土物として平仮名で記されたいろは歌としては国内最古のものである。4個の破片をつなぎあわせると縦6.7センチ、横4.3センチほどになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨書されている。繊細な筆跡と土器両面に書かれていることから、斎宮歴史博物館では斎王の女官が文字の勉強のために記したと推定している。いろは歌を記した土器は佐賀県小城市の社遺跡からも見つかっており、これは12世紀中頃のものとされる。また木簡に記したものも各地から出土している。
仮名を網羅したいろは歌は、11世紀ごろから仮名を手習いをするための手本としても使われるようになり、江戸時代に入るとさらに仮名の手本として広く用いられた。大正時代に3,065の寺子を対象に行われた調査では、いろは歌を手習いに用いていたところは2,347箇所におよび、それに次ぐ「村名」(近隣の地名を列挙するもの)より850箇所も多い。
明治時代以前の平仮名は、ひとつの仮名に複数の異字体(変体仮名)を有するものであったが、いろは歌が手習いに用いられるときの字体は、そのばらつきがほとんどないことが知られている。その字体はほとんどが現代の平仮名と一致するものであって「え」「お」「そ」のみ異なる。このことから山田孝雄は、現代の平仮名の成立にこのいろは歌の字体が影響したことを指摘している。
いろは歌の作者について確定した説は無く不明である。
『河海抄』には「江談云」、すなわち大江匡房の言として、いろは歌は弘法大師空海(774 - 835年)の作であるとし、「大女御」が仮名文字で法華経を写し供養する際、僧都源信が法華経の講義をする中で、弘法大師が梵字を伝えたのち仏の教えによっていろは歌を作ったと説明した、という話を引用している。なおこの「江談」とされる話については、匡房の言説をまとめた『江談抄』には現存しない。また近世では伴信友がその著『仮字本末』上巻において、『凌雲集』に収める仲雄王の詩に「字母弘三乗 真言演四句」とあるのが、空海がいろは歌を作った証であるとしている。他にもいろは歌が空海の作であるとする文献はいくつかあり、明治時代においても空海作とする言説が見られる。
しかし江戸時代には村田春海や黒川春村から空海作であることを否定する意見が出されており、明治時代の学者大矢透はその著『音図及手習詞歌考』において、いろは歌は空海の時代に作られたものではないと断定している。その理由は空海の活躍していた時代、七五調の四句で構成される今様形式の韻文がまだ存在しなかったということもあるが、何より問題となるのは、空海の時代には上代特殊仮名遣における「こ」の甲乙の区別がまだ存在したと考えられるが、いろは歌にはその「こ」の甲乙の区別が無く、あ行の「え /e/」と「や行のえ /je/」の区別もされておらず「や行のえ」しか無いことである。また上でも述べたように、天禄元年成立の『口遊』はあめつちの詞と大為爾の歌のことについては記すが、いろは歌には言及していないので、いろは歌はそれらよりも後にできたものと考えられる。ただし破格となっている「わかよたれそ」に注目し、あ行の「え」があった可能性(わがよたれそえ つねならむ)を指摘する説も出されている。上記『凌雲集』の仲雄王の詩についても、大矢透は「字母といへば、普通には梵字をいひ、四句といへば涅槃経の諸行無常の偈に限りたるにもあらねば」と、この詩がいろは歌について述べているとは言い難いとする。
小松英雄もいろは歌が空海の作であるという話は俗信に過ぎず、「大矢透によって否定されて以後、すくなくとも国語史研究の領域では、その俗信が問題にされることはなくなった」と述べているが、なぜ空海が作者とされたかについては、
といった理由をあげ、いろは歌の作者は真言宗系の学僧であると推定している。しかし空海よりさらに古い時代の柿本人麻呂を作者としたり 、讒言で大宰府に左遷された源高明が作ったとする話もある。
いろは歌にある「うゐ」とは「有為」という仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物(サンスカーラ)。転じて「有為の奥山」とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。
いろは歌の内容については中世から現代にいたるまで、各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、儚い夢をみたり、酔いに耽ったりすまい」と、仏教的な無常を述べたものと解釈されてきた。新義真言宗の祖である覚鑁(1095 - 1144年)はその著『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中で、いろは歌は『大般涅槃経』にある、以下の「諸行無常」と始まる無常偈(むじょうげ)の意訳であると説明している。
Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino, Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。 生滅(へのとらわれを)滅しおわりぬ、寂滅をもって楽と為す。
すなわち、
と、この四句の意をあらわしたものであるとした。
しかし語句の具体的な意味については諸説ある。前述の『悉曇輪略図抄』においては「いろは」は「色は」ではなく「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指すとする。また清音か濁音かにより文の意味は異なるが、『悉曇輪略図抄』は「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と濁音に読み、すなわち「夢見じ」という打消しの意とする。一方『密厳諸秘釈』はこの「し」を清音とするので、これは助動詞「き」の連体形「し」にあたる。17世紀の僧観応著の『補忘記』(ぶもうき)では最後の「ず」以外すべて清音とするなど、この誦文は古文献においても清濁の表記が確定していない。「夢」や「酔ひ」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ内容や文脈についての確定した説明は、現時点でも存在しない。
小松英雄はこの無常偈といろは歌を結びつける解釈について、「かなりこじつけがましいが、さりとて積極的にそれを否定するだけの根拠があるわけでもない」としながらも、「ただし、こういう結び付けを前提として、さらにその上に論を立てることは危険なので、ひかえておいた方がよい」と述べている。
大矢透は『音図及手習詞歌考』の中で、いろは歌の「製作の理由」について次のように述べている。
要するにいろは歌は「或る僧徒」が「わが宗旨を布及せん」とするため「子女の、習字の手本に適せしめたる」ものとして作られたということである。大矢透のこうした解釈が濫觴となり、いろは歌は手習いをするための手本として作られ、用いられたと現在一般にはみなされている。しかしいろは歌の現存最古の例である『金光明最勝王経音義』は、「子女の、習字の手本に適せしめたる」用例とは明らかに言い難いものである。
上でも触れたように『金光明最勝王経音義』のいろは歌には、各々の文字に四声をあらわす声点という点が付いている(付いていない文字もある)。四声とは、漢字のひとつひとつに備わっているアクセントである(六声ともいう)。この四声で、漢字の音のどの部分が高いか低いかを示す。
日本語と中国語は音節の構造が異なるので、日本語で読む漢字の音は中国語そのままの発音にはならない。たとえば漢字の「天」(Tiān)は、日本語では「テン」と2音節にして発音するしかなかった。それでも平安時代には、漢字の音を中国語の原音になるべく近づけて発音しようとしており、個々の漢字に定まっている四声もその一環として、そのアクセントの型通りに発音するよう学習されていた。
この『金光明最勝王経音義』には和訓、すなわち日本語にも四声の声点がアクセントの高低を示すために利用され付けられている。しかしいろは歌に付けられた声点は、アクセントの高低が各字各行ばらばらであり、これといった決まりや約束に基づいて付けられてはいないようにみえる。
小松英雄は、いろは歌とは手習いの手本ではなく、もとは漢字音のアクセントを習得するための誦文だったと主張している。それは「ことばの抑揚についての感覚を鋭敏にし、音節相互間の高低関係を容易に把握できるようにして、漢語の声調を身につけさせよう」としたものであった。つまり、いろは歌を唱えることによって音の高低がどのようなものかを学び、それをもとに漢語のアクセントの高低を覚えさせる。『金光明最勝王経音義』で出鱈目に付されているように見えるいろは歌の声点も、いろいろなアクセントの型に合わせて唱えられるようにするためのものであった。『金光明最勝王経音義』より後に伝わる真言宗系の文献にあるいろは歌も、このような用途で使われた。小松英雄は声点によって施されたいろは歌のアクセントを、「旋律」と仮に呼んでいる。
また『金光明最勝王経音義』を含む古い文献において、いろは歌が七字区切りになっているのは、この「旋律」を唱える上で七文字が都合のよいひとまとまりだったことによるものであり、同じ音が重複しない理由についても、重複させない事で音の高低を、どの音が高いか低いかを速やかに指し示すためであるとした。そして音の重複しない誦文を覚えるには、文脈があったほうが覚えやすい。文脈があって音(文字)の重複が無いことにより、いろは歌はのちに手習いの手本としても使われるようになったのである。小松英雄はあめつちの詞や大為爾の歌も、本来こうした目的のために作られ、用いられたとして次のように述べている。
『古今和歌集』には「同じ文字なきうた」という詞書のある以下の和歌がある。
すなわちこれも、仮名を重複させずに詠まれたものである。作者の物部良名(もののべのよしな)については生没年、経歴とも不明だが、『古今和歌集』は10世紀初頭の成立であり、この頃すでに仮名を重複させない韻文を作る発想があったと知られる。韻文の作例として大為爾の歌やいろは歌に先行するものである。
赤穂事件をもとにした忠臣蔵の芝居には、その題名に「いろは」という言葉が入るものがある。これは赤穂義士四十七士をいろは四十七文字になぞらえたことによるもので、享保20年(1735年)9月の江戸市村座『忠臣いろは軍記』、寛保元年(1741年)9月の大坂中の芝居『粧武者いろは合戦』などがある。寛延元年(1748年)8月に大坂で初演された『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」も、いろは四十七文字と四十七士を意味したものである。ちなみに元禄の豪商で淀屋辰五郎の家の蔵を「いろは蔵」と称した例などから、『仮名手本忠臣蔵』という題名が生まれたといわれている。忠臣蔵の芝居に「いろは」を付けることは、『仮名手本忠臣蔵』の後も行われた。
いろは歌は『金光明最勝王経音義』などの古文献において、七五調の区切りではなく七文字ごとに区切って書かれることがあるが、七字区切りで以下のように各行の最後の文字を拾って読むと、「とかなくてしす」即ち「咎無くて死す」と読める。
『和訓栞』(谷川士清著)の「大綱」には、「いろはは、涅槃経諸行無常の四句の偈を訳して同字なしの長歌によみなし、七字づゝ句ぎりして陀羅尼になずらへぬ。韻字にとがなくてしすと置けるも偈の意成べし」とあり、「咎無くて死す」とは「罪を犯すことなく生を終える」という意味であり、七字区切りにすると「咎無くて死す」と読まれるようにいろは歌は作られたとしている。
この「咎無くて死す」を「罪無くして(無実の罪で)自分は死ぬのだ」と解釈し、源高明をいろは歌の作者とする話について大矢透は「付会」としている。江戸時代には「とがなくてしす」とあるいろは歌は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあった。
なお『黒甜瑣語』にはこの「とがなくてしす」について、赤穂浪士にまつわる以下の話を伝えている(以下要約)。
高野山に光台院了覚道人という老僧がおり、博識で占いに詳しい人物として知られていた。赤穂浪士の吉田、原、小野寺の三人は用があって紀州に来た途中、了覚に面談しようと高野山を登りその庵を訪ねた。庵では五、六人の子供が手習いをしていた。吉田たち三人は了覚に会い、心中に秘した大事(仇討の事)について占ってくれるよう頼んだ。了覚はそれを辞したが、吉田たちの懇願により次の四句を書いて示した。
吉田たちはこの四句の意味がわからず了覚に尋ねたが、了覚はもはや何も話そうとはしなかったので、仕方なく山を下りた。その後、この四句の事を大石良雄に話すと、大石はしばらく考えて次のように言った。「これは吉田たちを庵にいた子供たちになぞらえ、仇討の事について示したものだろう。塗抹何時終作工というのは、最後には仇討は成功するということ。字母有神看所脚の字母とはいろは歌のことで、いろは歌は七字区切りにすると、脚(行の末尾)がとがなくてしすと読める。すなわち、我々がいずれ仇討を果たし、罪無くして死ぬ運命であるという意味なのだ」と言って大石は涙し、その場にいた者はこの了覚の四句に感じ入ったという。
史実では赤穂義士が高野山で了覚に会ったという事実はない。他の史料(了覚の著作『開堂録』や義士の記録『江赤見聞記』など)には全く見られない話である。
いろは歌の先頭行と最終行の最初の文字と最終文字の3文字で「いゑす」、各行の最初の文字を順に読むと「いちよらやあゑ」であり、「やあゑ」はユダヤ教の神の名、「いちよらやあゑ」はヘブル・アラム語で「神ヤハウェの人」を意味する「イーシ・エル・ヤハウェ」と読め、まとめると「神ヤハウェの人イエス、咎無くて死す」となる。
そして、いろは歌は次の聖書の言葉を想起するという見方もある。
田布施・亀ヶ城主となった島津忠良は郷士教育の核となるものの必要性を痛感し、独自の「いろは歌」を作成した。西郷隆盛も鹿児島城下の加治屋町郷中において学んだとされる。
行政地名には符号としての「イロハ」が採用されている地域がある。いろは順の記事を参照。
明治36年(1903年)2月11日、新聞萬朝報に「国音の歌を募る」という記事が掲載された。これはいろは歌に使われている仮名に「ん」を加えた48文字で、いろは歌と同じように同じ仮名を二度使わず、文脈のある文を新たに募集したもので、その出来栄えによって一等から二十等までを決め、それぞれ懸賞金を出すとした。その後一万もの作が万朝報に寄せられ、選考の結果、応募作を同年7月15日の紙面で発表している。一等の作は、以下の埼玉県児玉郡青柳村在住の坂本百次郎の歌であった。
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"text": "七五調の歌謡である今様の形式で、仮名を重複させることなく作られているが、これがいかなる内容を意味するのかは定かではない(後述)。古くから「いろは四十七文字」として知られるが、最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがある。四十七文字の最後に「京」の字を加えることは、弘安10年(1287年)成立の了尊の著『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあり、この当時すでに行われている。「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の直音に対して「京」の字で拗音の発音を覚えさせるためだという説がある。いろは順には「京」を伴うのが広く受け入れられ、いろはかるたの最後においても「京の夢大坂の夢」となっている。",
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"text": "天禄元年(970年)成立の『口遊』(源為憲著)には、同じく仮名を重複させない誦文天地の詞と大為爾の歌については記すが、いろは歌には触れておらず、またいろは歌を記した文献としては最古とされる『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)は、承暦3年(1079年)の成立であることから、いろは歌は10世紀末から11世紀中葉までの間に成立したものとされている。",
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"text": "いろは歌の文献上最古の用例は、『金光明最勝王経音義』(大東急記念文庫所蔵)である。著者は不明、「承暦三年己未四月十六日抄了」という奥書を持つ。「音義」とは、経典に記される漢字の字義や発音について説明した書物のことで、これは『金光明最勝王経』にある語句についてのものである。いろは歌は「先可知所付借字」(先づ付する所の借字を知るべし)という但し書きを最初に置き、以下のように仮名ではなく借字で書かれており、音訓の読みとして使われる文字の一覧となっている。七字区切りにして大きく書かれた各字の下に、小さく書かれた同音の借字(〈 〉内の文字)一つ乃至二つが添えられる(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。",
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"text": "それぞれの文字には声点が朱で記されており、それぞれの文字のアクセントがわかるようになっている。小松英雄は各文字のアクセントの高低の配置を分析し、このいろは歌が漢語の声調を訓練するための目的に使われたのではないかと考察している(後述)。なお声点の付けられたいろは歌は、真言宗や声明に関わる古文献でも見られるが、この『金光明最勝王經音義』のものとはアクセントの高低がそれぞれ異なる。",
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"text": "三重県明和町の斎宮跡で、平成22年(2010年)に平仮名でいろは歌が書かれた4片の土器が発見された。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の土師器であり、出土物として平仮名で記されたいろは歌としては国内最古のものである。4個の破片をつなぎあわせると縦6.7センチ、横4.3センチほどになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨書されている。繊細な筆跡と土器両面に書かれていることから、斎宮歴史博物館では斎王の女官が文字の勉強のために記したと推定している。いろは歌を記した土器は佐賀県小城市の社遺跡からも見つかっており、これは12世紀中頃のものとされる。また木簡に記したものも各地から出土している。",
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"text": "また『金光明最勝王経音義』を含む古い文献において、いろは歌が七字区切りになっているのは、この「旋律」を唱える上で七文字が都合のよいひとまとまりだったことによるものであり、同じ音が重複しない理由についても、重複させない事で音の高低を、どの音が高いか低いかを速やかに指し示すためであるとした。そして音の重複しない誦文を覚えるには、文脈があったほうが覚えやすい。文脈があって音(文字)の重複が無いことにより、いろは歌はのちに手習いの手本としても使われるようになったのである。小松英雄はあめつちの詞や大為爾の歌も、本来こうした目的のために作られ、用いられたとして次のように述べている。",
"title": "手習いではない用途"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "『古今和歌集』には「同じ文字なきうた」という詞書のある以下の和歌がある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "すなわちこれも、仮名を重複させずに詠まれたものである。作者の物部良名(もののべのよしな)については生没年、経歴とも不明だが、『古今和歌集』は10世紀初頭の成立であり、この頃すでに仮名を重複させない韻文を作る発想があったと知られる。韻文の作例として大為爾の歌やいろは歌に先行するものである。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "赤穂事件をもとにした忠臣蔵の芝居には、その題名に「いろは」という言葉が入るものがある。これは赤穂義士四十七士をいろは四十七文字になぞらえたことによるもので、享保20年(1735年)9月の江戸市村座『忠臣いろは軍記』、寛保元年(1741年)9月の大坂中の芝居『粧武者いろは合戦』などがある。寛延元年(1748年)8月に大坂で初演された『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」も、いろは四十七文字と四十七士を意味したものである。ちなみに元禄の豪商で淀屋辰五郎の家の蔵を「いろは蔵」と称した例などから、『仮名手本忠臣蔵』という題名が生まれたといわれている。忠臣蔵の芝居に「いろは」を付けることは、『仮名手本忠臣蔵』の後も行われた。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "いろは歌は『金光明最勝王経音義』などの古文献において、七五調の区切りではなく七文字ごとに区切って書かれることがあるが、七字区切りで以下のように各行の最後の文字を拾って読むと、「とかなくてしす」即ち「咎無くて死す」と読める。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "『和訓栞』(谷川士清著)の「大綱」には、「いろはは、涅槃経諸行無常の四句の偈を訳して同字なしの長歌によみなし、七字づゝ句ぎりして陀羅尼になずらへぬ。韻字にとがなくてしすと置けるも偈の意成べし」とあり、「咎無くて死す」とは「罪を犯すことなく生を終える」という意味であり、七字区切りにすると「咎無くて死す」と読まれるようにいろは歌は作られたとしている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この「咎無くて死す」を「罪無くして(無実の罪で)自分は死ぬのだ」と解釈し、源高明をいろは歌の作者とする話について大矢透は「付会」としている。江戸時代には「とがなくてしす」とあるいろは歌は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあった。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお『黒甜瑣語』にはこの「とがなくてしす」について、赤穂浪士にまつわる以下の話を伝えている(以下要約)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "高野山に光台院了覚道人という老僧がおり、博識で占いに詳しい人物として知られていた。赤穂浪士の吉田、原、小野寺の三人は用があって紀州に来た途中、了覚に面談しようと高野山を登りその庵を訪ねた。庵では五、六人の子供が手習いをしていた。吉田たち三人は了覚に会い、心中に秘した大事(仇討の事)について占ってくれるよう頼んだ。了覚はそれを辞したが、吉田たちの懇願により次の四句を書いて示した。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "吉田たちはこの四句の意味がわからず了覚に尋ねたが、了覚はもはや何も話そうとはしなかったので、仕方なく山を下りた。その後、この四句の事を大石良雄に話すと、大石はしばらく考えて次のように言った。「これは吉田たちを庵にいた子供たちになぞらえ、仇討の事について示したものだろう。塗抹何時終作工というのは、最後には仇討は成功するということ。字母有神看所脚の字母とはいろは歌のことで、いろは歌は七字区切りにすると、脚(行の末尾)がとがなくてしすと読める。すなわち、我々がいずれ仇討を果たし、罪無くして死ぬ運命であるという意味なのだ」と言って大石は涙し、その場にいた者はこの了覚の四句に感じ入ったという。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "史実では赤穂義士が高野山で了覚に会ったという事実はない。他の史料(了覚の著作『開堂録』や義士の記録『江赤見聞記』など)には全く見られない話である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "いろは歌の先頭行と最終行の最初の文字と最終文字の3文字で「いゑす」、各行の最初の文字を順に読むと「いちよらやあゑ」であり、「やあゑ」はユダヤ教の神の名、「いちよらやあゑ」はヘブル・アラム語で「神ヤハウェの人」を意味する「イーシ・エル・ヤハウェ」と読め、まとめると「神ヤハウェの人イエス、咎無くて死す」となる。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そして、いろは歌は次の聖書の言葉を想起するという見方もある。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "田布施・亀ヶ城主となった島津忠良は郷士教育の核となるものの必要性を痛感し、独自の「いろは歌」を作成した。西郷隆盛も鹿児島城下の加治屋町郷中において学んだとされる。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "行政地名には符号としての「イロハ」が採用されている地域がある。いろは順の記事を参照。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "明治36年(1903年)2月11日、新聞萬朝報に「国音の歌を募る」という記事が掲載された。これはいろは歌に使われている仮名に「ん」を加えた48文字で、いろは歌と同じように同じ仮名を二度使わず、文脈のある文を新たに募集したもので、その出来栄えによって一等から二十等までを決め、それぞれ懸賞金を出すとした。その後一万もの作が万朝報に寄せられ、選考の結果、応募作を同年7月15日の紙面で発表している。一等の作は、以下の埼玉県児玉郡青柳村在住の坂本百次郎の歌であった。",
"title": "その他"
}
] |
いろは歌(いろはうた)とは、仮名文字を重複させず使って作られた47字の誦文(ずもん)。七五調の韻文で、作者は不明だが10世紀末から11世紀半ばの間に成立したとされる。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。転じて「いろは」は初歩に習得しておくべき事という意味も持つ。またその仮名の配列は字母表の「いろは順」として、中世から近世の辞書類や番号付け等に広く利用された。
|
{{混同|いろは唄|x1=2009年のボーカロイド曲}}
[[ファイル:Brockhaus-Efron Japanese Characters 2.jpg|thumb|280px|七字区切りに改行したいろは歌。]]
'''いろは歌'''(いろはうた)とは、[[仮名 (文字)|仮名文字]]を重複させず使って作られた47字の{{Ruby|誦文|ずもん}}。[[七五調]]の[[韻文]]で、作者は不明だが[[10世紀]]末から[[11世紀]]半ばの間に成立したとされる。のちに[[手習い]]の手本として広く受容され、[[近代]]にいたるまで用いられた。転じて「いろは」は初歩に習得しておくべき事という意味も持つ。またその仮名の配列は字母表の「[[いろは順]]」として、[[中世]]から[[近世]]の[[辞書]]類や番号付け等に広く利用された<ref>{{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
== 内容 ==
現代に伝わるいろは歌の内容は、以下の通りである。
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
: いろはにほへと ちりぬるを
: わかよたれそ つねならむ
: うゐのおくやま けふこえて
: あさきゆめみし ゑひもせす
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
: 色は匂へど 散りぬるを
: 我が世誰ぞ 常ならむ
: 有為の奥山 今日越えて
: 浅き夢見し 酔ひもせず<!--(中学教科書)-->
</div>{{clear|left}}
七五調の歌謡である[[今様]]の形式で、仮名を重複させることなく作られているが、これがいかなる内容を意味するのかは定かではない(後述)。古くから「いろは四十七文字」として知られるが、最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「[[ん]]」を加えることがある。四十七文字の最後に「京」の字を加えることは、[[弘安]]10年([[1287年]])成立の了尊の著『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあり、この当時すでに行われている。「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の[[直音]]に対して「京」の字で[[拗音]]の発音を覚えさせるためだという説がある<ref>大矢透『音図及手習詞歌考』([[大日本図書]]、1918年)87頁以降。</ref>。[[いろは順]]には「京」を伴うのが広く受け入れられ、[[かるた|いろはかるた]]の最後においても「'''京'''の夢大坂の夢」となっている<ref group="注">京の夢とは[[朝廷 (日本)|朝廷]]で官位を極める「出世」、大坂の夢とは商売で財を築く「富貴」の夢。夢物語をする前に唱える諺。</ref>。
== 歴史 ==
[[天禄]]元年([[970年]])成立の『[[口遊]]』([[源為憲]]著)には、同じく仮名を重複させない誦文[[天地の詞]]と[[大為爾の歌]]については記すが、いろは歌には触れておらず、またいろは歌を記した文献としては最古とされる『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)は、[[承暦]]3年([[1079年]])の成立であることから、いろは歌は10世紀末から11世紀中葉までの間に成立したものとされている。
=== 金光明最勝王経音義のいろは歌 ===
いろは歌の文献上最古の用例は、『金光明最勝王経音義』([[大東急記念文庫]]所蔵)である。著者は不明、「承暦三年己未四月十六日抄了」という[[奥書]]を持つ。「音義」とは、経典に記される漢字の字義や発音について説明した書物のことで、これは『[[金光明最勝王経]]』にある語句についてのものである。いろは歌は「先可知所付借字」(先づ付する所の借字を知るべし)という但し書きを最初に置き、以下のように仮名ではなく[[借字]]で書かれており、音訓の読みとして使われる文字の一覧となっている。七字区切りにして大きく書かれた各字の下に、小さく書かれた同音の借字(〈 〉内の文字)一つ乃至二つが添えられる(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。
{| class="margin-left:5em"
|-
| <span style="font-size:120%">以</span><span style="font-size:85%">〈伊〉</span> || <span style="font-size:120%">呂</span><span style="font-size:85%">〈路〉</span> || <span style="font-size:120%">波</span><span style="font-size:85%">〈八〉</span> || <span style="font-size:120%">耳</span><span style="font-size:85%">〈尓〉</span> || <span style="font-size:120%">本</span><span style="font-size:85%">〈保〉</span> || <span style="font-size:120%">へ</span><span style="font-size:85%">〈反〉</span> || <span style="font-size:120%">止</span><span style="font-size:85%">〈都〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">千</span><span style="font-size:85%">〈知〉</span> || <span style="font-size:120%">利</span><span style="font-size:85%">〈理〉</span> || <span style="font-size:120%">奴</span><span style="font-size:85%">〈沼〉</span> || <span style="font-size:120%">流</span><span style="font-size:85%">〈留〉</span> || <span style="font-size:120%">乎</span><span style="font-size:85%">〈遠〉</span> || <span style="font-size:120%">和</span><span style="font-size:85%">〈王〉</span> || <span style="font-size:120%">加</span><span style="font-size:85%">〈可〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">餘</span><span style="font-size:85%">〈与〉</span> || <span style="font-size:120%">多</span><span style="font-size:85%">〈太〉</span> || <span style="font-size:120%">連</span><span style="font-size:85%">〈礼〉</span> || <span style="font-size:120%">曽</span><span style="font-size:85%">〈租〉</span> || <span style="font-size:120%">津</span><span style="font-size:85%">〈ツ〉</span> || <span style="font-size:120%">祢</span><span style="font-size:85%">〈年〉</span> || <span style="font-size:120%">那</span><span style="font-size:85%">〈奈〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">良</span><span style="font-size:85%">〈羅〉</span> || <span style="font-size:120%">牟</span><span style="font-size:85%">〈无〉</span> || <span style="font-size:120%">有</span><span style="font-size:85%">〈宇〉</span> || <span style="font-size:120%">為</span><span style="font-size:85%">〈謂〉</span> || <span style="font-size:120%">能</span><span style="font-size:85%">〈乃〉</span> || <span style="font-size:120%">於</span> || <span style="font-size:120%">久</span><span style="font-size:85%">〈九〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">耶</span><span style="font-size:85%">〈也〉</span> || <span style="font-size:120%">万</span><span style="font-size:85%">〈末/麻〉</span> || <span style="font-size:120%">計</span><span style="font-size:85%">〈介/気〉</span> || <span style="font-size:120%">不</span><span style="font-size:85%">〈布/符〉</span> || <span style="font-size:120%">己</span><span style="font-size:85%">〈古〉</span> || <span style="font-size:120%">衣</span><span style="font-size:85%">〈延〉</span> || <span style="font-size:120%">天</span><span style="font-size:85%">〈弖〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">阿</span><span style="font-size:85%">〈安〉</span> || <span style="font-size:120%">佐</span><span style="font-size:85%">〈作〉</span> || <span style="font-size:120%">伎</span><span style="font-size:85%">〈畿〉</span> || <span style="font-size:120%">喩</span><span style="font-size:85%">〈由〉</span> || <span style="font-size:120%">女</span><span style="font-size:85%">〈馬/面〉</span> || <span style="font-size:120%">美</span><span style="font-size:85%">〈弥〉</span> || <span style="font-size:120%">之</span><span style="font-size:85%">〈志/士〉</span>
|-
| <span style="font-size:120%">恵</span><span style="font-size:85%">〈會/廻〉</span> || <span style="font-size:120%">比</span><span style="font-size:85%">〈皮/非〉</span> || <span style="font-size:120%">毛</span><span style="font-size:85%">〈文/裳〉</span> || <span style="font-size:120%">勢</span><span style="font-size:85%">〈世〉</span> || <span style="font-size:120%">須</span><span style="font-size:85%">〈寸〉</span> || ||
|}
それぞれの文字には[[日本漢字音の声調|声点]]が朱で記されており、それぞれの文字のアクセントがわかるようになっている。[[小松英雄]]は各文字のアクセントの高低の配置を分析し、このいろは歌が漢語の[[声調]]を訓練するための目的に使われたのではないかと考察している(後述)。なお声点の付けられたいろは歌は、真言宗や[[声明]]に関わる古文献でも見られるが、この『金光明最勝王經音義』のものとはアクセントの高低がそれぞれ異なる。
=== 出土物 ===
[[三重県]][[明和町 (三重県)|明和町]]の[[斎宮]]跡で、平成22年([[2010年]])に[[平仮名]]でいろは歌が書かれた4片の土器が発見された。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の[[土師器]]であり、出土物として平仮名で記されたいろは歌としては国内最古のものである。4個の破片をつなぎあわせると縦6.7センチ、横4.3センチほどになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨書されている。繊細な筆跡と土器両面に書かれていることから、[[斎宮歴史博物館]]では[[斎王]]の女官が文字の勉強のために記したと推定している<!--<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120118k0000m040124000c.html 斎宮跡:出土土師器の破片にいろは歌 平仮名としては最古] (毎日新聞、2012年1月18日付)、[https://web.archive.org/web/20120121072033/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120118-OYT1T00135.htm 土器にひらがな「いろは歌」…国内最古] (読売新聞、2012年1月18日付)</ref>--><!--←リンク切れ--><ref>[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/68192036286.htm 日本最古のひらがな「いろは歌」墨書土器について] 斎宮歴史博物館</ref>。いろは歌を記した土器は[[佐賀県]][[小城市]]の社遺跡からも見つかっており、これは12世紀中頃のものとされる<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/432193 社遺跡出土いろは歌墨書土器] 文化遺産オンライン</ref>。また[[木簡]]に記したものも各地から出土している<ref>[http://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/ 木簡庫]</ref><!--<ref>[http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/201201012225.pdf いろは歌墨書木簡一覧]</ref>--><!--←リンク切れ-->。
=== 手習いの手本としてのいろは歌 ===
仮名を網羅したいろは歌は、11世紀ごろから仮名を手習いをするための手本としても使われるようになり、江戸時代に入るとさらに仮名の手本として広く用いられた。[[大正時代]]に3,065の寺子を対象に行われた調査では、いろは歌を手習いに用いていたところは2,347箇所におよび、それに次ぐ「村名」(近隣の地名を列挙するもの)より850箇所も多い<ref>乙竹岩造『日本庶民教育史』(1929。臨川書店、1970、下、p. 968)</ref>。
[[明治時代]]以前の平仮名は、ひとつの仮名に複数の異字体([[変体仮名]])を有するものであったが、いろは歌が手習いに用いられるときの字体は、そのばらつきがほとんどないことが知られている<ref>矢田勉「いろは歌書写の平仮名字体」『国語と国文学』72巻12号、1995年。</ref>。その字体はほとんどが現代の平仮名と一致するものであって「え」「お」「そ」のみ異なる。このことから[[山田孝雄]]は、現代の平仮名の成立にこのいろは歌の字体が影響したことを指摘している<ref>山田孝雄『国語史 文字篇』(刀江書院、1932年)。</ref>。
== 作者 ==
いろは歌の作者について確定した説は無く不明である。
『[[河海抄]]』には「江談云」、すなわち[[大江匡房]](1041 - 1111年)の言として、いろは歌は弘法大師[[空海]](774 - 835年)の作であるとし、「大女御」が仮名文字で[[法華経]]を写し供養する際、僧都[[源信]]が法華経の講義をする中で、弘法大師が[[梵字]]を伝えたのち仏の教えによっていろは歌を作ったと説明した、という話を引用している。なおこの「江談」とされる話については、匡房の言説をまとめた『[[江談抄]]』には存在しない。また近世では[[伴信友]]がその著『仮字本末』上巻において、『[[凌雲集]]』に収める[[仲雄王]]の詩に「字母弘三乗 真言演四句」とあるのが、空海がいろは歌を作った証であるとしている<ref>『国語学大系』第七巻(厚生閣、1939年)217 - 218頁。</ref>。他にもいろは歌が空海の作であるとする文献はいくつかあり<ref>黒川春村著『碩鼠漫筆』巻之六、「伊呂波仮字」[{{NDLDC|991485/62}}]。</ref>、明治時代においても空海作とする言説が見られる<ref>『奈良朝史』(重野安繹 早稲田大学出版部)[{{NDLDC|1082563/75}}]、『日本文学史』(関根正直 哲学館、1899年)[{{NDLDC|871960/25}}]。</ref>。
しかし江戸時代には[[村田春海]]や[[黒川春村]]から空海作であることを否定する意見が出されており<ref>『碩鼠漫筆』巻之六、「伊呂波仮字」。</ref>、明治時代の学者[[大矢透]]はその著『音図及手習詞歌考』において、いろは歌は空海の時代に作られたものではないと断定している。その理由は空海の活躍していた時代、七五調の四句で構成される今様形式の韻文がまだ存在しなかったということもあるが、何より問題となるのは、空海の時代には[[上代特殊仮名遣]]における「こ」の甲乙の区別がまだ存在したと考えられるが、いろは歌にはその「こ」の甲乙の区別が無く、あ行の「[[え]] /e/」と「[[や行え|や行のえ]] /je/」の区別もされておらず「や行のえ」しか無いことである。また上でも述べたように、天禄元年成立の『口遊』は[[あめつちの詞]]と大為爾の歌のことについては記すが、いろは歌には言及していないので、いろは歌はそれらよりも後にできたものと考えられる<ref>『音図及手習詞歌考』(大日本図書、1918年)141 - 144頁。</ref>。ただし破格となっている「わかよたれそ」に注目し、あ行の「え」があった可能性(わがよたれそえ つねならむ)を指摘する説も出されている<ref>[[亀井孝 (国語学者)|亀井孝]]「いろはうた」 『言語』、1978年12月。</ref>。上記『凌雲集』の仲雄王の詩についても、大矢透は「字母といへば、普通には梵字をいひ、四句といへば涅槃経の諸行無常の偈に限りたるにもあらねば」と、この詩がいろは歌について述べているとは言い難いとする<ref>『音図及手習詞歌考』(大日本図書、1918年)129 - 131頁。</ref>。
小松英雄もいろは歌が空海の作であるという話は[[俗信]]に過ぎず、「大矢透によって否定されて以後、すくなくとも国語史研究の領域では、その俗信が問題にされることはなくなった」と述べているが、なぜ空海が作者とされたかについては、
#書の[[三筆]]のひとりである。
#用字上の制約のもとに、これほどすぐれた仏教的な内容をよみこめるのは空海のような天才に違いない。
#いろは歌はもともと[[真言宗]]系統の学僧の間で学問的用途に使われており、それが世間に流布したが、真言宗においてまず有名な僧侶といえば空海であることから。
といった理由をあげ、いろは歌の作者は真言宗系の学僧であると推定している<ref>小松英雄『いろはうた』(中公新書、1979年)142 - 143頁。</ref>。しかし空海よりさらに古い時代の[[柿本人麻呂]]を作者としたり<ref>[[篠原央憲]]『柿本人麻呂いろは歌の謎』([[三笠書房]]、1986年)</ref> 、讒言で大宰府に左遷された[[源高明]]が作ったとする話もある<ref name="名前なし">『音図及手習詞歌考』(大日本図書、1918年)88 - 89頁。</ref>。
== 内容の解釈 ==
いろは歌にある「うゐ」とは「有為」という[[仏教用語]]で、[[因縁]]によって起きる一切の事物([[サンスカーラ]])。転じて「有為の奥山」とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである<ref>小学館 デジタル大辞泉 - コトバンク</ref>。
いろは歌の内容については中世から現代にいたるまで、各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、儚い夢をみたり、酔いに耽ったりすまい」と、仏教的な[[無常]]を述べたものと解釈されてきた。[[新義真言宗]]の祖である[[覚鑁]](1095 - 1144年)はその著『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中で、いろは歌は『[[大般涅槃経]]』にある、以下の「諸行無常」と始まる無常偈(むじょうげ)<!--「[[諸行無常]]、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)-->の意訳であると説明している。
{{Quote|
Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino, <br>
Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho
諸行無常 是生滅法<br>
生滅滅已 寂滅為楽
[[サンスカーラ|諸行]]は無常なり、是れ[[生 (仏教)|生]]滅の法なり。<br>
生滅(へのとらわれを)滅しおわりぬ、寂滅をもって[[楽 (仏教)|楽]]と為す。
| {{SLTP|長部16, [[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]] }} }}
すなわち、
:諸行無常→色は匂へど散りぬるを
:是生滅法→我が世誰ぞ常ならむ
:生滅滅已→有為の奥山今日こえて
:寂滅為楽→浅き夢見し酔ひもせず
と、この四句の意をあらわしたものであるとした。
しかし語句の具体的な意味については諸説ある。前述の『悉曇輪略図抄』においては「いろは」は「色は」ではなく「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指すとする。また清音か濁音かにより文の意味は異なるが、『悉曇輪略図抄』は「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と[[濁音]]に読み、すなわち「夢見じ」という打消しの意とする。一方『密厳諸秘釈』はこの「し」を[[清音]]とするので、これは[[助動詞 (国文法)|助動詞]]「き」の[[連体形]]「し」にあたる。[[17世紀]]の僧[[観応]]著の『補忘記』(ぶもうき)では最後の「ず」以外すべて清音とするなど、この誦文は古文献においても清濁の表記が確定していない。「夢」や「酔ひ」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ内容や文脈についての確定した説明は、現時点でも存在しない。
小松英雄はこの無常偈といろは歌を結びつける解釈について、「かなりこじつけがましいが、さりとて積極的にそれを否定するだけの根拠があるわけでもない」としながらも、「ただし、こういう結び付けを前提として、さらにその上に論を立てることは危険なので、ひかえておいた方がよい」と述べている<ref>小松英雄『いろはうた』(中公新書、1979年)15頁。</ref>。
== 手習いではない用途 ==
大矢透は『音図及手習詞歌考』の中で、いろは歌の「製作の理由」について次のように述べている。
{{Quotation|或る時代に於いて、当時普通に使用せる仮名の一音中、最も普通なるを撰びて、四十七字を得、以て寂滅為楽の教旨を意味せる七五四句の歌体となして、口誦に便し、以て子女の、習字の手本に適せしめたるなり。是或る僧徒が、人世必須の事項を利用し、わが宗旨を布及せんとする手段と為せるものなり<ref>『音図及手習詞歌考』(大日本図書、1918年)80頁。</ref>。}}
要するにいろは歌は「或る僧徒」が「わが宗旨を布及せん」とするため「子女の、習字の手本に適せしめたる」ものとして作られたということである。大矢透のこうした解釈が濫觴となり、いろは歌は手習いをするための手本として作られ、用いられたと現在一般にはみなされている。しかしいろは歌の現存最古の例である『金光明最勝王経音義』は、「子女の、習字の手本に適せしめたる」用例とは明らかに言い難いものである。
上でも触れたように『金光明最勝王経音義』のいろは歌には、各々の文字に[[四声]]をあらわす声点という点が付いている(付いていない文字もある)。四声とは、漢字のひとつひとつに備わっている[[アクセント]]である(六声ともいう)。この四声で、漢字の音のどの部分が高いか低いかを示す。
日本語と中国語は音節の構造が異なるので、日本語で読む漢字の音は中国語そのままの発音にはならない。たとえば漢字の「天」(Tiān)は、日本語では「テン」と2音節にして発音するしかなかった。それでも平安時代には、漢字の音を中国語の原音になるべく近づけて発音しようとしており、個々の漢字に定まっている四声もその一環として、そのアクセントの型通りに発音するよう学習されていた。
この『金光明最勝王経音義』には和訓、すなわち日本語にも四声の声点がアクセントの高低を示すために利用され付けられている。しかしいろは歌に付けられた声点は、アクセントの高低が各字各行ばらばらであり、これといった決まりや約束に基づいて付けられてはいないようにみえる。
小松英雄は、いろは歌とは手習いの手本ではなく、もとは漢字音のアクセントを習得するための誦文だったと主張している。それは「ことばの抑揚についての感覚を鋭敏にし、音節相互間の高低関係を容易に把握できるようにして、漢語の声調を身につけさせよう」としたものであった<ref>小松英雄『いろはうた』(中公新書、1979年)127頁。</ref>。つまり、いろは歌を唱えることによって音の高低がどのようなものかを学び、それをもとに漢語のアクセントの高低を覚えさせる。『金光明最勝王経音義』で出鱈目に付されているように見えるいろは歌の声点も、いろいろなアクセントの型に合わせて唱えられるようにするためのものであった。『金光明最勝王経音義』より後に伝わる真言宗系の文献にあるいろは歌も、このような用途で使われた。小松英雄は声点によって施されたいろは歌のアクセントを、「旋律」と仮に呼んでいる。
また『金光明最勝王経音義』を含む古い文献において、いろは歌が七字区切りになっているのは、この「旋律」を唱える上で七文字が都合のよいひとまとまりだったことによるものであり、同じ音が重複しない理由についても、重複させない事で音の高低を、どの音が高いか低いかを速やかに指し示すためであるとした。そして音の重複しない誦文を覚えるには、文脈があったほうが覚えやすい。文脈があって音(文字)の重複が無いことにより、いろは歌はのちに手習いの手本としても使われるようになったのである。小松英雄はあめつちの詞や大為爾の歌も、本来こうした目的のために作られ、用いられたとして次のように述べている。
{{Quotation|これら誦文<small>(あめつちの詞、大為爾の歌、いろは歌)</small>を一括して「手習詞歌」と呼ぶことは、おそらく、大矢透に始まるのであろう。もし先蹤があったとしても、それが定着したのは右の書名<small>(『音図及手習詞歌考』)</small>からである。そして、その名称とともに、これらの誦文の基本的役割についての認識も学界に定着した。しかし、阿女都千<small>(あめつち)</small>や以呂波が手習に使われた証拠をあげ、また、その目的にふさわしい外的な特質をそなえていることを指摘してみても、それらの誦文が、まさにその目的に供するために作られたことの証明にはならない。それはちょうど、ブランディーが外傷の消毒のために醸造されたことを証明するのと同じような誤りをおかすことになる<ref>小松英雄『いろはうた』(中公新書、1979年)139 - 140頁。</ref>。}}
== その他 ==
=== 同じ文字なきうた ===
『[[古今和歌集]]』には「同じ文字なきうた」という詞書のある以下の和歌がある。
:よのうきめ みえぬやまぢへ いらむには おもふひとこそ ほだしなりけれ(物部良名 巻第十八・雑歌下)
すなわちこれも、仮名を重複させずに詠まれたものである。作者の物部良名(もののべのよしな)については生没年、経歴とも不明だが<ref>『平安時代史事典 下』(角川書店、1995年)、「物部良名」の項(2561頁)。</ref>、『古今和歌集』は[[10世紀]]初頭の成立であり、この頃すでに仮名を重複させない韻文を作る発想があったと知られる。韻文の作例として大為爾の歌やいろは歌に先行するものである。
=== 「いろは」と忠臣蔵 ===
[[赤穂事件]]をもとにした[[忠臣蔵]]の芝居には、その題名に「いろは」という言葉が入るものがある。これは[[赤穂義士]]四十七士をいろは四十七文字になぞらえたことによるもので、[[享保]]20年(1735年)9月の江戸[[市村座]]『忠臣いろは軍記』、[[寛保]]元年(1741年)9月の大坂[[中の芝居]]『粧武者いろは合戦』などがある。[[寛延]]元年(1748年)8月に大坂で初演された『[[仮名手本忠臣蔵]]』の「仮名手本」も、いろは四十七文字と四十七士を意味したものである。ちなみに元禄の豪商で[[淀屋|淀屋辰五郎]]の家の蔵を「いろは蔵」と称した例などから、『仮名手本忠臣蔵』という題名が生まれたといわれている<ref>[[松島栄一]]『忠臣蔵―その成立と展開』(『岩波新書』、1964年)155 - 156頁。</ref>。忠臣蔵の芝居に「いろは」を付けることは、『仮名手本忠臣蔵』の後も行われた。
=== 「とがなくてしす」 ===
いろは歌は『金光明最勝王経音義』などの古文献において、七五調の区切りではなく七文字ごとに区切って書かれることがあるが、七字区切りで以下のように各行の最後の文字を拾って読むと、「とかなくてしす」即ち「咎無くて死す」と読める。
:いろはにほへ'''と'''
:ちりぬるをわ'''か'''
:よたれそつね'''な'''
:らむうゐのお'''く'''
:やまけふこえ'''て'''
:あさきゆめみ'''し'''
:ゑひもせ'''す'''
『和訓栞』([[谷川士清]]著)の「大綱」には、「いろはは、涅槃経諸行無常の四句の偈を訳して同字なしの長歌によみなし、七字づゝ句ぎりして陀羅尼になずらへぬ。韻字にとがなくてしすと置けるも偈の意成べし」とあり[{{NDLDC|863677/14}}]、「咎無くて死す」とは「罪を犯すことなく生を終える」という意味であり、七字区切りにすると「咎無くて死す」と読まれるようにいろは歌は作られたとしている。
この「咎無くて死す」を「罪無くして(無実の罪で)自分は死ぬのだ」と解釈し、源高明をいろは歌の作者とする話について大矢透は「付会」としている<ref name="名前なし"/>。江戸時代には「とがなくてしす」とあるいろは歌は縁起が悪いから、手習いに用いるべきではないという意見もあった<ref>「和訓栞の大網に、いろは文字七行の韻には、とがなくてしすと云語をふめりといへり。こはさくじりたる説<small>(出過ぎた意見)</small>にても有べけれど、さるにても今手習ふ始に、これをまづ習はしむるは、いまはしきともいまはしき業なり…諸行無常の四句の偈といふをば、など忌まむともおもはざるにか」(『碩鼠漫筆』巻之六、「伊呂波仮字」[{{NDLDC|991485/66}}])。</ref>。
なお『黒甜瑣語』にはこの「とがなくてしす」について、赤穂浪士にまつわる以下の話を伝えている(以下要約)。
[[高野山]]に光台院[[了翁道覚|了覚]]道人という老僧がおり、博識で占いに詳しい人物として知られていた。赤穂浪士の吉田、[[原元辰|原]]、小野寺の三人は用があって[[紀州]]に来た途中、了覚に面談しようと高野山を登りその庵を訪ねた。庵では五、六人の子供が手習いをしていた。吉田たち三人は了覚に会い、心中に秘した大事(仇討の事)について占ってくれるよう頼んだ。了覚はそれを辞したが、吉田たちの懇願により次の四句を書いて示した。
:南邨北落悉痴童 塗抹何時終作工 字母有神看所脚 一生前定在其中
吉田たちはこの四句の意味がわからず了覚に尋ねたが、了覚はもはや何も話そうとはしなかったので、仕方なく山を下りた。その後、この四句の事を[[大石良雄]]に話すと、大石はしばらく考えて次のように言った。「これは吉田たちを庵にいた子供たちになぞらえ、仇討の事について示したものだろう。塗抹何時終作工というのは、最後には仇討は成功するということ。字母有神看所脚の字母とはいろは歌のことで、いろは歌は七字区切りにすると、脚(行の末尾)がとがなくてしすと読める。すなわち、我々がいずれ仇討を果たし、罪無くして死ぬ運命であるという意味なのだ」と言って大石は涙し、その場にいた者はこの了覚の四句に感じ入ったという<ref>『黒甜瑣語』第一編巻之四、「字母謎語」[{{NDLDC|898465/65}}]。</ref>。
史実では赤穂義士が高野山で了覚に会ったという事実はない。<!--また、義士たちは「とがありて死す」<ref>「主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み」「重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける」(赤穂事件『幕府申渡全文』より)</ref>であり矛盾する。[[明治]]時代に人見蕉雨が作った創作であり-->他の史料(了覚の著作『開堂録』や義士の記録『江赤見聞記』など)には全く見られない話である。
いろは歌の先頭行と最終行の最初の文字と最終文字の3文字で「いゑす」、各行の最初の文字を順に読むと「いちよらやあゑ」であり、「やあゑ」はユダヤ教の神の名、「いちよらやあゑ」はヘブル・アラム語で「神ヤハウェの人」を意味する「イーシ・エル・ヤハウェ」と読め、まとめると「神ヤハウェの人イエス、咎無くて死す」となる。
:'''い*'''ろはにほへ'''と'''
:'''ち'''りぬるをわ'''か'''
:'''よ'''たれそつね'''な'''
:'''ら'''むうゐのお'''く'''
:'''や'''まけふこえ'''て'''
:'''あ'''さきゆめみ'''し'''
:'''ゑ*'''ひもせ'''す*'''
そして、いろは歌は次の聖書の言葉を想起するという見方もある。
:「すべての人は草、その栄光はみな野の花のようだ」(イザヤ書40-6)
:「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かして下さい」(詩篇119-37)<ref>{{Cite book|title=Seisho ni kakusareta Nihon, Yudaya fūin no kodaishi.|url=https://www.worldcat.org/oclc/69684871|publisher=Tokuma Shoten|date=1999-|location=Tōkyō|isbn=4-19-860965-9|oclc=69684871|others=Marvin Tokayer, Arimasa Kubo, Ken Kenichi Phillip Joseph, 久保有政}}</ref>
=== 薩摩藩の郷中教育「いろは歌」 ===
[[田布施]]・亀ヶ城主となった[[島津忠良]]は郷士教育の核となるものの必要性を痛感し、独自の「いろは歌」を作成した<ref>鹿児島県史料『旧記雑録追録八』巻百六十五、247</ref>。[[西郷隆盛]]も鹿児島城下の加治屋町郷中において学んだとされる。
=== 地名でのイロハ ===
行政地名には符号としての「イロハ」が採用されている地域がある。[[いろは順#地名・地番にいろは順を用いた例|いろは順]]の記事を参照。
=== 鳥啼歌(とりなくうた) ===
[[明治]]36年(1903年)2月11日、新聞[[万朝報|萬朝報]]に「国音の歌を募る」という記事が掲載された。これはいろは歌に使われている仮名に「ん」を加えた48文字で、いろは歌と同じように同じ仮名を二度使わず、文脈のある文を新たに募集したもので、その出来栄えによって一等から二十等までを決め、それぞれ懸賞金を出すとした。その後一万もの作が万朝報に寄せられ、選考の結果、応募作を同年7月15日の紙面で発表している。一等の作は、以下の埼玉県児玉郡青柳村在住の坂本百次郎の歌であった<ref>『萬朝報』42・44(「萬朝報」刊行会編 日本図書センター、1985年・1986年)。</ref>。
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
: とりなくこゑす ゆめさませ
: みよあけわたる ひんかしを
: そらいろはえて おきつへに
: ほふねむれゐぬ もやのうち
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
: 鳥啼く聲す 夢覚ませ
: 見よ明け渡る 東を
: 空色映えて 沖つ辺に
: 帆船群れゐぬ 靄の中
</div>{{clear|left}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* 大矢透 『音図及手習詞歌考』 大日本図書、1918年 ※[[国立国会図書館デジタルコレクション]]に本文あり[{{NDLDC|926012}}]。
* 高橋愛次 『伊呂波歌考』 三省堂、1974年
* 小松英雄 『いろはうた <small>日本語史へのいざない</small>』
** [[中公新書]]、1979年 ISBN 4-12-100558-9
** [[講談社学術文庫]]、2009年 ISBN 978-4-06-291941-8
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|古典文学/いろは歌|いろは歌}}
* [[五十音]]
* [[天地の詞]]・[[大為爾の歌]] - このふたつの誦文もいろは歌とともに[[手習い歌]]とされる。
* [[いろは順]]
* [[いろは坂]]
* [[パングラム]]
* [[かるた#古典的ないろはかるた]]
* [[島津忠良]] - 考案した独自のいろは歌を、[[薩摩藩]]における[[道徳]]教育として普及。
* [[童学寺]]
* [[バカリズム]] - コント「言葉に関する案・いろは問題」で、新しいいろは歌を考案・発表している。
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20160304233932/http://homepage3.nifty.com/KGEC/IROHA/history.htm History of Iroha]
* [https://www.ntt-i.net/IROHA/index.html 現代いろはうた]
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085709/46 日新公(島津忠良)いろは歌]『自分を築き上ぐる書』白仁武著 (二松堂書店, 1938)
{{日本語}}
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[[Category:日本語の文化]]
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シャチ
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シャチ(鯱、学名: Orcinus orca)は、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ属の海獣である。
日本列島では伝説上の生物「鯱」にちなんだ「シャチ」という標準和名の他にも、「サカマタ」と「タカマツ」を筆頭に、「シャチホコ」「シャカマ」「タカ」「クジラトウシ」「クロトンボ」「オキノカンヌシ」など多様な別名が存在した。
海洋における食物連鎖の頂点に立ち肉食性が強いことから、英語では「killer whale」とも呼ばれるほか、種小名の「オルカ」、「グランパス」、「ブラックフィッシュ」などの呼び名も存在する。
アイヌ語での名称は「レプンカムイ」のほかに、「アトゥイコロカムイ」「カムイフンペ」「イコイキカムイ」などがある。樺太の方言では「レポルン(タ)カムイ」「トマリコロカムイ」「チオハヤク」「カムイチㇱ」とも呼ばれる。礼文地方では「イコイキフンペ」「モハチャンクㇽ」「シハチャンクㇽ」「イモンカヌカルクㇽ」「カムイオッテナ」といった名称があり、幌別地方では「トミンカㇽカムイ」「カムインカㇽクㇽ」「イソヤンケクㇽ」「カムイラメトㇰ」といった名称がある。 これらのアイヌ語名のうち、「イコイキカムイ」「イコイキフンペ」「イソヤンケクㇽ」については、後述の「狩り」に由来する名称である。
中国語では、「虎鯨」「殺手鯨」「殺人鯨」などの表記が存在する。
シャチ属に属するのはシャチ1種のみである。
体の大きさでは小型のクジラに分類される。もちろん、体の大きさでクジラとイルカを分けるのは系統的ではなく、系統的には同じく小型のクジラであるゴンドウ類と共にイルカ系統の内部に位置し、最も近縁なカワゴンドウと共にマイルカ科シャチ亜科に分類される。オキゴンドウに近縁とする説もある。
ゴンドウとは近縁で、現在はゴンドウの一種とはされないが、歴史的にはゴンドウと呼ばれることもあった。
尚、現在では一種とされるシャチであるが、複数の種に分割する見解もある(特徴を参照)。
マイルカ科の仲間では最大の種であり、平均ではオスの体長は5.8 - 6.7メートル、メスの体長は4.9 - 5.8メートル、オスの体重は3,628 - 5,442キログラム、メスの体重は1,361 - 3,628キログラム。最大級のオスでは体長は9.8メートル、体重は10トンに達する。
背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を大きく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。
背びれの根元にサドルパッチと呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる。
長さ8 - 13センチメートルの円錐状の鋭い歯が上下の顎に計44 - 48本並んでいる。歯の形状は全体的にほぼ均一であり、獲物を咀嚼することよりも噛みちぎることに特化したものになっている。
現時点では一種として扱われているものの、少なくとも南極海だけで1万年ほど前から混血のない3タイプに分化しており、食性、サイズが異なる。南極海海域のシャチについて区別の必要がある場合、以下のような分類がなされることがある。現在、タイプBとCを別種とすべきという研究が提出されつつある。
北太平洋付近の観測もある。研究の進んでいるカナダのブリティッシュ・コロンビア州で、定住型(レジデント)、回遊型(トランジェント)、沖合型(オフショア)の3タイプの個体群が知られている。定住型は主に魚を餌とし、大抵は十数頭の家族群を形成して生活する。魚の豊富な季節になると、特定の海域に定住し、餌を追うことから定住型と呼ばれる。それに比べ、回遊型は小さな群れまたは1頭のみで生活し、決まった行動区域を持たず、餌も海に住む哺乳類に限られる。沖合型は文字通り沖合に生息し、何十頭もの巨大な群れを形成する。3タイプの中で最もデータが少なく、餌についてもほとんど分かっていないが、傷が多かったり歯がすり減ったりしているという特徴があるため、手強い獲物(サメなど)を食しているとも考えられている。
上に挙げた3タイプのシャチ間での交配は報告されておらず、遺伝子も異なることがわかっている。
地球上で最も広く分布する哺乳類の一種と言われる。
餌になる動物が多いことなどから、特に極地付近の沿岸など一般的に冷水帯を好むが、熱帯をふくむ世界中の海に生息し、地中海やアラビア海などにも生息する。時には餌を求めて、数百キロメートルも川を遡上することも報告されている。
主にカナダのブリティッシュコロンビア州、ノルウェーのティスフィヨルド、アルゼンチンのパタゴニア、インド洋のクローゼット諸島、ニュージーランド、オーストラリア、北海道の知床半島、ロシア、ブリテン諸島、ジブラルタル海峡などに分布する個体群の研究や個体識別などが行われている。
現代の日本列島の周辺では、北方四島から北海道で際立って目撃が多いが、仙台湾、山形県や新潟県、銚子市、相模湾や駿河湾、熊野灘(和歌山県)、見島(萩市)、玄界灘、対馬市、南西諸島、朝鮮半島、中国(黄海など)、台湾など各地域にて時折目撃されている。しかし、第二次世界大戦の終了後から1960年代にかけて日本列島の各地で1,600頭以上が捕獲されたため、現在の生息数と分布はこれらの捕獲以前よりは大きく制限されていると思われる。
シャチは、魚類全般、サメだけでなく、自分の倍以上の大きさであるヒゲクジラ亜目のうち最大のシロナガスクジラを含むクジラなどを群れで襲って食べる。寿命が長く、年長のメスを中心とする母系社会を形成する社会性を持つ動物。
非常に活発な動物であり、ブリーチング、スパイホッピングなど、多彩な行動が水上でも観察されている。また泳ぐ速さは時速50km以上に及び、バンドウイルカと並んで、最も速く泳ぐことができる哺乳類の一つである。餌を求めて1日に100キロメートル以上も移動することが知られている。また、好奇心も旺盛で、興味を持ったものには近寄って確かめる習性もある。
他のハクジラと同様、2つの種類の音を使い分けていることが知られている。1つはコールと呼ばれ、群れのメンバー同士のコミュニケーションに使用される。もう1つはクリック音と呼ばれ、噴気孔の奥にある溝から、メロンと呼ばれる脂肪で凝縮して発射する音波である。この音波は物質に当たるまで水中を移動するため、シャチはその反響音を下顎の骨から感じ取ることで、前方に何があるか判断することができる。この能力をエコーロケーション(反響定位)と呼ぶ。クリック音の性能は高く、わずか数ミリメートルしか離れていない2本の糸を認識したり、反響音の波形の違いから物質の成分、果ては内容物まで認識したりすることが可能だという。
オスの平均寿命は30歳、最高寿命は約50歳で、メスの平均寿命は50歳、最高寿命は80歳あまりである。世界最高齢のシャチ「グラニー」は105歳まで生存したとされている。
野生のシャチの死因についての調査が少ないが、幼い個体は感染症と栄養不良、若いものや成体の場合は細菌感染症を含む病気、鈍的外傷が報告されている。この報告では、全年齢での最大の死因は、人間が関係するものが多く、釣り針の飲み込み、漁網に絡む、漁船との衝突などであった。
肉食性で、知能が非常に高い。海洋系での食物連鎖の頂点に立つ。武器を使うヒトを例外にすると自然界での天敵は存在しない。ただし弱った個体や体の小さな個体がサメや他の大型のクジラに攻撃されたり、シャチの体内から別のシャチが発見されたりしたこともある(共食い)。利益にならない戦闘は避ける傾向もあり、特に人間を襲うことは少ないと考えられている。一方で、遊び目的で虐殺するなどの行為も見られることもあり、アザラシやオタリアを襲うとき、海面上に放り投げ必要以上の苦痛を与えることがある。目的ははっきりしたことは未だわかっていない。
各タイプのメインの獲物だけでなく、小さいものでは魚、イカ、海鳥、ペンギン、比較的大きなものではオタリア、アザラシ、イルカ、ホッキョクグマ、時にはクジラやサメなど、捕食する動物は多岐にわたるとされる。一部を別種とする学説すらあることからわかるように、1頭のシャチが様々な種類の動物を捕食するというより、個体ごとに様々な好みを持った生物であると理解した方が現実に近い。個体ごとに見れば、どちらかといえば偏食な動物である。ヒゲクジラ類では、比較的小さいミンククジラやコククジラの幼獣をよく狙い、まれに未成熟のザトウクジラやシロナガスクジラなども狙う。ヒゲクジラ類はシャチよりも体が遥かに大きく、幼獣には大抵は母クジラが側にいて守ろうとするため、シャチにとっても手強い獲物となる。また、マッコウクジラやヒゲクジラ類の成獣は身体が大きく力も強いため、シャチ自身が致命傷を負いかねないこともあり滅多に襲うことはない。2023年には、合計30頭のシャチが2頭の成熟したコククジラを約6時間にわたって攻撃しつづけたが、結局は捕食に失敗した観察例が記録されている。他にも、ザトウクジラがシャチを攻撃して他の種類の鯨類や鰭脚類やマンボウなどを助けたり、シャチの群れに襲撃されたマッコウクジラの雌と子供の群れを近くにいた未成熟の雄のマッコウクジラが襲撃場面に乱入・救助して共に脱出したり、ヒレナガゴンドウやコビレゴンドウはシャチの声を察知すると集団でシャチの群れを追跡して追い回し、シャチの群れがその海域から退散する等、他の鯨種が対抗手段を見せる事例もある。
氷の下からの奇襲、群れでの協力、挟み撃ちなど、高度な狩りの技術を持つ。前述のクリック音を通常より凝縮させて獲物に当てて麻痺させ、捕食しやすくする行動も知られている。また、アルゼンチンのバルデス半島においては、海中から浜辺へ突進し這い上がり、浜辺にいるアシカやオタリアなどを捕食する「オルカアタック」と呼ばれる行動がみられる。水面下を遊泳していた3メートルほどのサメを真下から攻撃して一撃で仕留めた例を、海洋学者のジャック=イヴ・クストーの海洋探査船が報告している。サメやエイを捕食する場合、獲物の身体をひっくり返し擬死状態にすることで抵抗出来なくしてから食べる。軟骨魚類特有の性質を用いた有効な狩猟方法だが、エイの尾にある猛毒によって致命傷を負うこともある。口に入れた魚を吐き出してカモメをおびき寄せ、集まってきたカモメを食した例も報告されている。また、氷上にいたアザラシに対し、群れで氷の下を何度も通過し、大きな波を起こして海中に落としてから捕食した事例も報告されている。クジラの幼獣を襲う際は、幼獣の上から繰り返し圧し掛かって呼吸を妨害し、窒息させて仕留めることが多い。だがその際、前述の通り母クジラが幼獣を守ろうとするため、場合によっては仕留めるのに何時間もかかるうえ、失敗することも多い。 好物はクジラの舌、口付近であり、他の多くの部分は放置されるが、しばしばシャチがクジラの死体のある場所に訪れて死体を食べることがある。
シャチは高い知能を持つ動物であり、確実にとは言えないが無駄な狩りを行わないので、好奇心があり、じゃれようとした際にけがをさせたという例が多い。
シャチが、仲間に危害を加えた人間に報復したと見られるケースは報告されている。また、サーファーが足を噛まれた例があるが、これもじゃれたり、シャチ特有の好奇心の強さによるアプローチだったりとされ、捕食目的とは違うと見られる。ただし、もしシャチが現実に人間を捕食目的で襲ったとすれば、歯と顎の大きさからひとたまりもなく捕食される。また、水族館で飼育されているシャチがステージ上にいた飼育員を水中に引きずり込み溺死させる事件も起こっている。この事例の個体は過去にも飼育員と客を死なせており、三人目の犠牲者だった。
これまでにシャチが意図的に人を食い殺したというはっきりした事例は知られていないが、その巨体ゆえにじゃれる程度でも場合によっては被害に遭う可能性もあり、安全とは言いがたい部分もあるので、触れる場合にも細心の注意をするに越したことはない。これはシャチに限らず、大型の動物類すべてに言えることでもある。
また、経済面では漁業被害も発生しており、日本の北海道では漁獲対象の魚を食べられたり、漁網を破られたりした事例が報告されている。道東の釧路町では、シャチが漁網ごと魚を食いちぎる動画を地元漁業者が撮影し、被害の深刻さを訴えている。これも動物が生活をしていくうえでは欠かせない食事という行為であり、人間のルールを野生の動物に適応させるのはほとんど無理であるため、難しい問題である。
捕鯨が広く行われていた時代には、仕留めたクジラ(鯨)を食いにやってきたシャチによる食害もあり、ノルウェーなどの日本以外の捕鯨国では、シャチ撃退用にライフルマンを雇っていたこともあったほどだった。
単体、または数頭から数十頭ほどの群れ(ポッド)を作って生活し、非常に社会的な生活を営む。
群れは多くの場合、母親を中心とした血の繋がった家族のみで構成され、オスは通常一生を同じ群れで過ごし、メスも自身の群れを新しく形成するものの、生まれた群れから離れることは少ない(これらの情報は主に、研究の比較的進んでいるカナダのレジデント個体群から集められたものであり、同海域でのほかの2タイプ、または他の海域のシャチ全てに当てはまるわけではない)。それぞれの群れは、その家族独自の「方言」とも呼ばれるコールを持ち、それにより情報を互いに交換し合っている。「方言」は親から子へ、代々受け継がれていく。群れの中でのじゃれ合いなどのほかにも、違う群れ同士が交じり合い、特に若い個体間での揉み合いや、激しいコールの交換なども観察されている。ある特定の海域では年に1回、いくつもの家族が100頭以上の群れを形成する「スーパーポッド」という行動も知られている。この行動は、複数の家族が任意な交配を行うことで、それぞれの家族の血が濃くなるのを防ぐためだと考えられている。
特に、生まれたばかりの個体に対する「気配り」とも取れる行動は多く観察されている。母親が餌取りに専念している間、他のメスが若い個体の面倒を見る「ベビーシッティング」的な行動や、自身のとった獲物を若い個体に譲ったり、狩りの練習をさせるためにわざと獲物を放ったりすることも知られている。一般に、生まれたばかりの若い個体のいる群れは移動速度が遅く、潜水時間も短い。このあたりから、バンドウイルカなどと非常に似通った習性を持つと考えられる。
2018年には、生後間もなく死んだ子供のシャチを3日間にわたり浮き上がらせようとする母シャチが確認された。
捕鯨(直接の捕殺や飼育目的の捕獲を含む)以外では、混獲や船舶との衝突などの人間社会に由来する数々の脅威に晒されている。
一方で、ホエールウォッチングなどエコツーリズムにおける観察対象としても人気である。
特異な例として、19世紀下旬から20世紀上旬にかけてオーストラリアのニューサウスウェールズ州の沿岸にいた「オールド・トム(英語版)」とその一族は、地元の捕鯨業者と協力関係を結び、ヒゲクジラ類を湾内に追い込んで褒美として肉を与えられていた。
人間には懐きやすく訓練への適応も高いので、幾つかの水族館で飼育され、ショーにも利用される。日本での初飼育は、1970年の鴨川シーワールドである。「水族館生まれで二世を誕生させた日本初」は、鴨川シーワールド産の「ラビー」(1998年産・メス)である。
日本、アメリカ合衆国、カナダ、フランス、スペイン、アルゼンチンの6ヶ国11施設で、計42頭が飼育されている(2008年)。うち、野生個体(野生状態から捕獲した個体)13頭、繁殖個体(飼育下で出産された個体)29頭である。日本国内での捕獲は学術目的以外では禁止されている。
過去には伊豆三津シーパラダイス、太地町立くじらの博物館、アドベンチャーワールドで飼育されていたが、死亡により扱う施設は減少し、日本でシャチが見られる水族館は2021年9月時点で鴨川シーワールドと名古屋港水族館の2館のみである。
アメリカ海軍や海上自衛隊において、潜水艦乗組員の徽章はシャチをあしらったデザインだが、「ドルフィンマーク」と呼ばれている。
大阪市に本社を置く大和冷機工業株式会社はシンボルマークにシャチを採用しており、冷蔵庫や製氷機に掲げている。
Jリーグ・名古屋グランパスエイトの公式マスコットグランパスくん、およびその家族の「グランパスファミリー」は、いずれもシャチをモチーフにしている。
関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)の和歌山ウェイブスは、チームのロゴにシャチをあしらっている。
シャチはその知名度故に、海を舞台にした映画や、漫画などの作品に多く登場する。
|
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"text": "シャチ(鯱、学名: Orcinus orca)は、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ属の海獣である。",
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"text": "日本列島では伝説上の生物「鯱」にちなんだ「シャチ」という標準和名の他にも、「サカマタ」と「タカマツ」を筆頭に、「シャチホコ」「シャカマ」「タカ」「クジラトウシ」「クロトンボ」「オキノカンヌシ」など多様な別名が存在した。",
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"text": "海洋における食物連鎖の頂点に立ち肉食性が強いことから、英語では「killer whale」とも呼ばれるほか、種小名の「オルカ」、「グランパス」、「ブラックフィッシュ」などの呼び名も存在する。",
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"text": "アイヌ語での名称は「レプンカムイ」のほかに、「アトゥイコロカムイ」「カムイフンペ」「イコイキカムイ」などがある。樺太の方言では「レポルン(タ)カムイ」「トマリコロカムイ」「チオハヤク」「カムイチㇱ」とも呼ばれる。礼文地方では「イコイキフンペ」「モハチャンクㇽ」「シハチャンクㇽ」「イモンカヌカルクㇽ」「カムイオッテナ」といった名称があり、幌別地方では「トミンカㇽカムイ」「カムインカㇽクㇽ」「イソヤンケクㇽ」「カムイラメトㇰ」といった名称がある。 これらのアイヌ語名のうち、「イコイキカムイ」「イコイキフンペ」「イソヤンケクㇽ」については、後述の「狩り」に由来する名称である。",
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"text": "中国語では、「虎鯨」「殺手鯨」「殺人鯨」などの表記が存在する。",
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"text": "シャチ属に属するのはシャチ1種のみである。",
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"text": "体の大きさでは小型のクジラに分類される。もちろん、体の大きさでクジラとイルカを分けるのは系統的ではなく、系統的には同じく小型のクジラであるゴンドウ類と共にイルカ系統の内部に位置し、最も近縁なカワゴンドウと共にマイルカ科シャチ亜科に分類される。オキゴンドウに近縁とする説もある。",
"title": "分類と系統"
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"text": "ゴンドウとは近縁で、現在はゴンドウの一種とはされないが、歴史的にはゴンドウと呼ばれることもあった。",
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"text": "尚、現在では一種とされるシャチであるが、複数の種に分割する見解もある(特徴を参照)。",
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"text": "マイルカ科の仲間では最大の種であり、平均ではオスの体長は5.8 - 6.7メートル、メスの体長は4.9 - 5.8メートル、オスの体重は3,628 - 5,442キログラム、メスの体重は1,361 - 3,628キログラム。最大級のオスでは体長は9.8メートル、体重は10トンに達する。",
"title": "特徴"
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"text": "背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を大きく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。",
"title": "特徴"
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"text": "背びれの根元にサドルパッチと呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる。",
"title": "特徴"
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"text": "長さ8 - 13センチメートルの円錐状の鋭い歯が上下の顎に計44 - 48本並んでいる。歯の形状は全体的にほぼ均一であり、獲物を咀嚼することよりも噛みちぎることに特化したものになっている。",
"title": "特徴"
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"text": "現時点では一種として扱われているものの、少なくとも南極海だけで1万年ほど前から混血のない3タイプに分化しており、食性、サイズが異なる。南極海海域のシャチについて区別の必要がある場合、以下のような分類がなされることがある。現在、タイプBとCを別種とすべきという研究が提出されつつある。",
"title": "特徴"
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"text": "北太平洋付近の観測もある。研究の進んでいるカナダのブリティッシュ・コロンビア州で、定住型(レジデント)、回遊型(トランジェント)、沖合型(オフショア)の3タイプの個体群が知られている。定住型は主に魚を餌とし、大抵は十数頭の家族群を形成して生活する。魚の豊富な季節になると、特定の海域に定住し、餌を追うことから定住型と呼ばれる。それに比べ、回遊型は小さな群れまたは1頭のみで生活し、決まった行動区域を持たず、餌も海に住む哺乳類に限られる。沖合型は文字通り沖合に生息し、何十頭もの巨大な群れを形成する。3タイプの中で最もデータが少なく、餌についてもほとんど分かっていないが、傷が多かったり歯がすり減ったりしているという特徴があるため、手強い獲物(サメなど)を食しているとも考えられている。",
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"text": "上に挙げた3タイプのシャチ間での交配は報告されておらず、遺伝子も異なることがわかっている。",
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"text": "地球上で最も広く分布する哺乳類の一種と言われる。",
"title": "分布"
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"text": "餌になる動物が多いことなどから、特に極地付近の沿岸など一般的に冷水帯を好むが、熱帯をふくむ世界中の海に生息し、地中海やアラビア海などにも生息する。時には餌を求めて、数百キロメートルも川を遡上することも報告されている。",
"title": "分布"
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"text": "主にカナダのブリティッシュコロンビア州、ノルウェーのティスフィヨルド、アルゼンチンのパタゴニア、インド洋のクローゼット諸島、ニュージーランド、オーストラリア、北海道の知床半島、ロシア、ブリテン諸島、ジブラルタル海峡などに分布する個体群の研究や個体識別などが行われている。",
"title": "分布"
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"text": "現代の日本列島の周辺では、北方四島から北海道で際立って目撃が多いが、仙台湾、山形県や新潟県、銚子市、相模湾や駿河湾、熊野灘(和歌山県)、見島(萩市)、玄界灘、対馬市、南西諸島、朝鮮半島、中国(黄海など)、台湾など各地域にて時折目撃されている。しかし、第二次世界大戦の終了後から1960年代にかけて日本列島の各地で1,600頭以上が捕獲されたため、現在の生息数と分布はこれらの捕獲以前よりは大きく制限されていると思われる。",
"title": "分布"
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"text": "シャチは、魚類全般、サメだけでなく、自分の倍以上の大きさであるヒゲクジラ亜目のうち最大のシロナガスクジラを含むクジラなどを群れで襲って食べる。寿命が長く、年長のメスを中心とする母系社会を形成する社会性を持つ動物。",
"title": "生態"
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"text": "非常に活発な動物であり、ブリーチング、スパイホッピングなど、多彩な行動が水上でも観察されている。また泳ぐ速さは時速50km以上に及び、バンドウイルカと並んで、最も速く泳ぐことができる哺乳類の一つである。餌を求めて1日に100キロメートル以上も移動することが知られている。また、好奇心も旺盛で、興味を持ったものには近寄って確かめる習性もある。",
"title": "生態"
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"text": "他のハクジラと同様、2つの種類の音を使い分けていることが知られている。1つはコールと呼ばれ、群れのメンバー同士のコミュニケーションに使用される。もう1つはクリック音と呼ばれ、噴気孔の奥にある溝から、メロンと呼ばれる脂肪で凝縮して発射する音波である。この音波は物質に当たるまで水中を移動するため、シャチはその反響音を下顎の骨から感じ取ることで、前方に何があるか判断することができる。この能力をエコーロケーション(反響定位)と呼ぶ。クリック音の性能は高く、わずか数ミリメートルしか離れていない2本の糸を認識したり、反響音の波形の違いから物質の成分、果ては内容物まで認識したりすることが可能だという。",
"title": "生態"
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"text": "オスの平均寿命は30歳、最高寿命は約50歳で、メスの平均寿命は50歳、最高寿命は80歳あまりである。世界最高齢のシャチ「グラニー」は105歳まで生存したとされている。",
"title": "生態"
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"text": "野生のシャチの死因についての調査が少ないが、幼い個体は感染症と栄養不良、若いものや成体の場合は細菌感染症を含む病気、鈍的外傷が報告されている。この報告では、全年齢での最大の死因は、人間が関係するものが多く、釣り針の飲み込み、漁網に絡む、漁船との衝突などであった。",
"title": "生態"
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"text": "肉食性で、知能が非常に高い。海洋系での食物連鎖の頂点に立つ。武器を使うヒトを例外にすると自然界での天敵は存在しない。ただし弱った個体や体の小さな個体がサメや他の大型のクジラに攻撃されたり、シャチの体内から別のシャチが発見されたりしたこともある(共食い)。利益にならない戦闘は避ける傾向もあり、特に人間を襲うことは少ないと考えられている。一方で、遊び目的で虐殺するなどの行為も見られることもあり、アザラシやオタリアを襲うとき、海面上に放り投げ必要以上の苦痛を与えることがある。目的ははっきりしたことは未だわかっていない。",
"title": "生態"
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"text": "各タイプのメインの獲物だけでなく、小さいものでは魚、イカ、海鳥、ペンギン、比較的大きなものではオタリア、アザラシ、イルカ、ホッキョクグマ、時にはクジラやサメなど、捕食する動物は多岐にわたるとされる。一部を別種とする学説すらあることからわかるように、1頭のシャチが様々な種類の動物を捕食するというより、個体ごとに様々な好みを持った生物であると理解した方が現実に近い。個体ごとに見れば、どちらかといえば偏食な動物である。ヒゲクジラ類では、比較的小さいミンククジラやコククジラの幼獣をよく狙い、まれに未成熟のザトウクジラやシロナガスクジラなども狙う。ヒゲクジラ類はシャチよりも体が遥かに大きく、幼獣には大抵は母クジラが側にいて守ろうとするため、シャチにとっても手強い獲物となる。また、マッコウクジラやヒゲクジラ類の成獣は身体が大きく力も強いため、シャチ自身が致命傷を負いかねないこともあり滅多に襲うことはない。2023年には、合計30頭のシャチが2頭の成熟したコククジラを約6時間にわたって攻撃しつづけたが、結局は捕食に失敗した観察例が記録されている。他にも、ザトウクジラがシャチを攻撃して他の種類の鯨類や鰭脚類やマンボウなどを助けたり、シャチの群れに襲撃されたマッコウクジラの雌と子供の群れを近くにいた未成熟の雄のマッコウクジラが襲撃場面に乱入・救助して共に脱出したり、ヒレナガゴンドウやコビレゴンドウはシャチの声を察知すると集団でシャチの群れを追跡して追い回し、シャチの群れがその海域から退散する等、他の鯨種が対抗手段を見せる事例もある。",
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"text": "氷の下からの奇襲、群れでの協力、挟み撃ちなど、高度な狩りの技術を持つ。前述のクリック音を通常より凝縮させて獲物に当てて麻痺させ、捕食しやすくする行動も知られている。また、アルゼンチンのバルデス半島においては、海中から浜辺へ突進し這い上がり、浜辺にいるアシカやオタリアなどを捕食する「オルカアタック」と呼ばれる行動がみられる。水面下を遊泳していた3メートルほどのサメを真下から攻撃して一撃で仕留めた例を、海洋学者のジャック=イヴ・クストーの海洋探査船が報告している。サメやエイを捕食する場合、獲物の身体をひっくり返し擬死状態にすることで抵抗出来なくしてから食べる。軟骨魚類特有の性質を用いた有効な狩猟方法だが、エイの尾にある猛毒によって致命傷を負うこともある。口に入れた魚を吐き出してカモメをおびき寄せ、集まってきたカモメを食した例も報告されている。また、氷上にいたアザラシに対し、群れで氷の下を何度も通過し、大きな波を起こして海中に落としてから捕食した事例も報告されている。クジラの幼獣を襲う際は、幼獣の上から繰り返し圧し掛かって呼吸を妨害し、窒息させて仕留めることが多い。だがその際、前述の通り母クジラが幼獣を守ろうとするため、場合によっては仕留めるのに何時間もかかるうえ、失敗することも多い。 好物はクジラの舌、口付近であり、他の多くの部分は放置されるが、しばしばシャチがクジラの死体のある場所に訪れて死体を食べることがある。",
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シャチは、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ属の海獣である。
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{{otheruses|動物}}
{{生物分類表
|名称 = シャチ
|status = DD
|status_ref = <ref name="iucn">{{IUCN2008
|assessors = Taylor, B.L., Baird, R., Barlow, J., Dawson, S.M., Ford, J., Mead, J.G., Notarbartolo di Sciara, G., Wade, P. & Pitman, R.L.
|year = 2008
|id = 15421
|title = Orcinus orca
|downloaded = 2008-12-14}}</ref>
|画像 = [[ファイル:Orque Marineland.jpg|250px|シャチ]]
|画像キャプション = '''シャチ''' ''Orcinus orca''
|省略 = 哺乳綱
|目 = [[鯨偶蹄目]] {{sname||Cetartiodactyla}}
|亜目 =[[ハクジラ亜目]] {{sname||Odontoceti}}
|上科 = [[マイルカ上科]] {{sname||Delphinoidea}}
|科 = [[マイルカ科]] {{sname||Delphinidae}}
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|属 = シャチ属 {{snamei|Orcinus}}
|種 = '''シャチ''' {{snamei|O. orca}}
|学名 = ''Orcinus'' {{AUY|Fitzinger|1860}}<br/>''Orcinus orca'' {{AU|({{AUY|[[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]]|1758}})}}
|和名 = シャチ(鯱)<br/>サカマタ(逆叉、逆戟)<br/>オルカ
|英名 = [[w:Killer Whale|Killer Whale]]<br />Orca
|生息図 = [[ファイル:Cypron-Range Orcinus orca.svg|250px]]
|生息図キャプション = {{legend2|#0577AF| シャチの生息域 |outline=gray}}
}}
'''シャチ'''(鯱、[[学名]]: {{lang|la|''Orcinus orca''}})は、[[哺乳綱]][[鯨偶蹄目]][[マイルカ科]]シャチ属の[[海獣]]<ref name="広辞苑"/>である。
== 名称 ==
[[日本列島]]では伝説上の生物「[[鯱]]」にちなんだ「シャチ」という標準[[和名]]の他にも、「サカマタ」<ref group="注釈">「逆叉」または「逆戟」。</ref><ref name="広辞苑">『[[広辞苑]]』第3版「さか-また【逆叉・逆戟】」九四四頁</ref>と「タカマツ」<ref group="注釈">「高松鯨」または「高松海馬」。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=32 |title=科博登録ID:32|work=海棲哺乳類ストランディングデータベース|pages=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>森田勝昭, 1997年, 「『大日本水産会報(告)』における鯨・捕鯨関連記事(1)明治15年(1882)から明治26年(1893)まで」, 甲南女子大学研究紀要, 34号, 13-29項</ref>を筆頭に、「[[シャチホコ]]」「シャカマ」「タカ」「クジラトウシ」「クロトンボ」「オキノカンヌシ」など多様な別名が存在した<ref name=biodic>{{Cite web|和書|author=環境庁自然保護局|date=1998-03|url=https://www.biodic.go.jp/reports2/5th/kaisei_h10/5_kaisei_h10.pdf |title=シャチ|work=海域自然環境保全基礎調査 - 海棲動物調査報告書|pages=54|website=[[生物多様性センター]]([[環境省]])|access-date=2023-12-07}}</ref>。
海洋における食物連鎖の頂点に立ち肉食性が強いことから、英語では「killer whale<ref group="注釈">「殺し屋クジラ」</ref>」(意味は殺し屋クジラ)とも呼ばれるほか、[[学名|種小名]]の「[[オルカ]]」、「[[グランパス]]」、「[[ブラックフィッシュ]]」などの呼び名も存在する。学名は「Orcinus orca」。
[[アイヌ語]]での名称は「{{lang|ain-kana|レプンカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|repun kamuy}}(沖の神)</ref>」のほかに、「{{lang|ain-kana|アトゥイコロカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|atuy koro kamuy}}(海持つ神)</ref>」「{{lang|ain-kana|カムイフンペ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|kamuy humpe}}(神鯨)</ref>」「{{lang|ain-kana|イコイキカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|ikoyki kamuy}}</ref>」などがある。[[樺太]]の方言では「{{lang|ain-kana|レポルン(タ)カムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|reporun(ta) kamuy}}</ref>」「{{lang|ain-kana|トマリコロカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|tomarikoro kamuy}}</ref>」「{{lang|ain-kana|チオハヤク}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|ciohayaku}}</ref>」「{{lang|ain-kana|カムイチㇱ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|kamuy cis}}</ref>」とも呼ばれる。[[豊浦町|礼文地方]]では「{{lang|ain-kana|イコイキフンペ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|ikoyki humpe}}</ref>」「{{lang|ain-kana|モハチャンクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|mohacan kur}}</ref>」「{{lang|ain-kana|シハチャンクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|sihacan kur}}</ref>」「{{lang|ain-kana|イモンカヌカルクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|imonkanukar kur}}</ref>」「{{lang|ain-kana|カムイオッテナ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|kamuy ottena}}</ref>」といった名称があり、[[登別市|幌別地方]]では「{{lang|ain-kana|トミンカㇽカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|tominkar kamuy}}</ref>」「{{lang|ain-kana|カムインカㇽクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|kamuinkar kur}}</ref>」「{{lang|ain-kana|イソヤンケクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|isoyanke kur}}</ref>」「{{lang|ain-kana|カムイラメトㇰ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|kamuy rametok}}</ref>」といった名称がある。
これらのアイヌ語名のうち、「{{lang|ain-kana|イコイキカムイ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|i koyki kamuy}}</ref>」「{{lang|ain-kana|イコイキフンペ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|i koyki humpe}}</ref>」「{{lang|ain-kana|イソヤンケクㇽ}}<ref group="注釈">{{lang|ain-latn|iso yanke kur}}</ref>」については、後述の「狩り」に由来する名称である<ref>{{Cite book|和書|author=知里真志保|authorlink=知里真志保|title=分類アイヌ語辞典|date=1953|publisher=日本常民文化研究所|asin=B000JB3WQ4}}</ref>。
[[中国語]]では、「虎鯨」「殺手鯨」「殺人鯨」などの表記が存在する<ref name=Taiwan />。
==分類と系統==
[[シャチ属]]に属するのはシャチ1種のみである。
体の大きさでは小型の[[クジラ]]に分類される。もちろん、体の大きさでクジラと[[イルカ]]を分けるのは系統的ではなく、系統的には同じく小型のクジラである[[ゴンドウ]]類と共にイルカ系統の内部に位置し、最も近縁な[[カワゴンドウ]]と共に[[マイルカ科]][[シャチ亜科]]に分類される<ref>{{cite|first=Laura|last=May‐Collado|first2=Ingi|last2=Agnarsson|title=Cytochrome ''b'' and Bayesian inference of whale phylogeny|journal={{interlang|en|Molecular Phylogenetics and Evolution}}|volume=38|issue=2|year=2006|pages=344–354|url=http://theridiidae.com/pdf/MayColladoandAgnarsson2006.pdf}}</ref>。[[オキゴンドウ]]に近縁とする説もある。
{{Clade
|label1=[[マイルカ上科]]
|{{Clade
|label1=[[マイルカ科]]
|{{Clade
|label1=[[シャチ亜科]]
|{{Clade|'''シャチ'''|[[カワゴンドウ]]}}
|[[ゴンドウ亜科]](その他の[[ゴンドウ]])
|マイルカ科の[[イルカ]]
}}
|{{Clade|[[ネズミイルカ科]]|[[イッカク科]]}}
}}
}}
ゴンドウとは近縁で、現在はゴンドウの一種とはされないが、歴史的にはゴンドウと呼ばれることもあった<ref>{{cite book|和書|last=祖一誠|chapter=題2章 シャチとの出会い|title=海獣水族館 |publisher=[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]|date=2010 |page=28|isbn=978-4-486-01857-5 }}(1970年の『[[東京新聞]]』からの引用)</ref>。
尚、現在では一種とされるシャチであるが、複数の種に分割する見解もある(特徴を参照)。
== 特徴 ==
[[File:Orca size-2.svg|thumb|left|典型的な人間との大きさの比較]]
[[File:Killer Whale Types.jpg|thumb|シャチの分類例]]
[[File:Type C Orcas.jpg|thumb|Type Cとされる個体。アイパッチが他と比べ小さい。]]
[[マイルカ科]]の仲間では最大の種であり、平均ではオスの体長は5.8 - 6.7[[メートル]]、メスの体長は4.9 - 5.8メートル、オスの体重は3,628 - 5,442[[キログラム]]、メスの体重は1,361 - 3,628キログラム。最大級のオスでは体長は9.8メートル、体重は10[[トン]]に達する<ref>[http://www.seaworld.org/animal-info/animal-bytes/animalia/eumetazoa/coelomates/deuterostomes/chordata/craniata/mammalia/cetacea/killer-whale.htm Animals explore discover.connect] SeaWorld/Busch Gardens ANIMALS</ref>。
背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を大きく見せたりする効果があると言われている。大きな[[背びれ]]を持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。
背びれの根元にサドルパッチと呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる。
長さ8 - 13[[センチメートル]]<ref>{{cite book|和書|last=笠松不二男 |chapter=1.5 現生のクジラ類とその特性 |title=クジラの生態|publisher=[[恒星社厚生閣]]|date=2000|page=26}}</ref>の円錐状の鋭い歯が上下の[[顎]]に計44 - 48本並んでいる。歯の形状は全体的にほぼ均一であり、獲物を[[咀嚼]]することよりも噛みちぎることに特化したものになっている。
=== タイプ ===
現時点では一種として扱われているものの、少なくとも[[南極海]]だけで1万年ほど前から混血のない3タイプに分化しており、[[食性]]、サイズが異なる。南極海海域のシャチについて区別の必要がある場合、以下のような分類がなされることがある。現在、タイプBとCを別種とすべきという研究が提出されつつある<ref name="Pitman2003">Pitman, Robert L. and Ensor, Paul. "Three forms of killer whales (''Orcinus orca'') in Antarctic waters" ''Journal of Cetacean Research and Management'' 5(2):131–139, 2003</ref><ref>[http://www.acspugetsound.org/whulj/newsletters/Whulj-v5-n2-2004-may.pdf Newsletter of the Puget Sound Chapter of the American Cetacean Society] Spring 2004</ref>。
;タイプA
:最近の論文などでは「''{{lang|en|whale eater}}''」と記述されることが多い。一般的にイメージされるシャチであり、[[クロミンククジラ]]等を主食とする。アイパッチの大きさは中間的。[[流氷]]の少ない沖合に棲む。<!-- <ref>{{要出典範囲||date=2014-6-22|title=何の論文?|1=論文中offshore killer whaleと形容されるが、結論部で[[北太平洋]]のシャチとしてトラジエントとレジデントにのみ触れておりかつ全く食性が違うため、下記の北太平洋のオフショア型に対応するという意図ではないと思われる}}</ref> -->
;タイプB
:最近の論文などでは「''{{lang|en|mammal eater}}''」と記述されることが多い。タイプAよりやや小型であり、[[海獣|海生哺乳類]]を主食とする。[[クロミンククジラ]]、[[ナガスクジラ]]、[[ペンギン]]、[[アザラシ]]なども捕食する。アイパッチがAの2倍ほど大きく、白色部がやや黄色い。流氷のある沿岸近くに棲む。食性や体長などの違いから、ラージタイプBとスモールタイプBに分ける説もある<ref>[https://swfsc.noaa.gov/MMTD-KillerWhale/ Killer Whale] Northwest Fisheries Science Center(2015年4月28日閲覧)</ref>。
;タイプC
:最近の論文などでは「''{{lang|en|fish eater}}''」と記述されること多く、「{{lang|la|''Orcinus glacialis''}}」という学名が新たに提案されている。最も小さいタイプであり、タイプAと比較してオスで100センチメートル、メスで60センチメートルほど小さいと思われる。[[タラ]]を中心とした魚食性。最も大きな群れを作る。アイパッチが他と比べ小さく、体の中心部の黒白の境界面に対して大きな角度を持つ。白色部がやや黄色い。流氷のある沿岸近くに棲む。
;タイプD
:2004年以降、提唱されるようになった種。通常よりも小さいアイパッチ、短い背びれ、[[ゴンドウクジラ]]に似る丸みを帯びた頭部によって認識される。活動範囲は[[南緯40度線]] - [[南緯60度]]の間の[[亜南極]]海域で、[[地球]]を回るように周回していると考えられている。主な食事については知られていないが、魚類を捕食することが報告されている。
[[北太平洋]]付近の観測もある。研究の進んでいる[[カナダ]]の[[ブリティッシュ・コロンビア州]]で、定住型(レジデント)、回遊型(トランジェント)、沖合型(オフショア)の3タイプの[[個体群]]が知られている。定住型は主に魚を餌とし、大抵は十数頭の家族群を形成して生活する。魚の豊富な季節になると、特定の海域に定住し、餌を追うことから定住型と呼ばれる。それに比べ、回遊型は小さな群れまたは1頭のみで生活し、決まった行動区域を持たず、餌も海に住む哺乳類に限られる。沖合型は文字通り沖合に生息し、何十頭もの巨大な群れを形成する。3タイプの中で最もデータが少なく、餌についてもほとんど分かっていないが、傷が多かったり歯がすり減ったりしているという特徴があるため、手強い獲物(サメなど)を食しているとも考えられている。
上に挙げた3タイプのシャチ間での[[交配]]は報告されておらず、[[遺伝子]]も異なることがわかっている。
== 分布 ==
地球上で最も広く分布する哺乳類の一種と言われる。
餌になる[[動物]]が多いことなどから、特に極地付近の沿岸など一般的に冷水帯を好むが、[[熱帯]]をふくむ世界中の海に生息し、[[地中海]]や[[アラビア海]]などにも生息する。時には餌を求めて、数百キロメートルも川を遡上することも報告されている。
主に[[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]]、[[ノルウェー]]の[[ティスフィヨルド]]、[[アルゼンチン]]の[[パタゴニア]]<ref group="注釈">[[バルデス半島]]など。</ref>、[[インド洋]]の[[クローゼット諸島]]、[[ニュージーランド]]、[[オーストラリア]]、[[北海道]]の[[知床半島]]、[[ロシア]]<ref group="注釈">[[千島列島]]、[[カムチャッカ半島]]、[[コマンドルスキー諸島]]、[[オホーツク海]]など。</ref>、[[ブリテン諸島]]、[[ジブラルタル海峡]]などに分布する個体群の研究や個体識別などが行われている。
現代の[[日本列島]]の周辺では、[[北方地域|北方四島]]から[[北海道]]<ref group="注釈">とくに[[根室海峡]]を中心とした[[知床半島]]から[[網走市]]や[[根室市]]に至る海域、[[釧路市]]の沿岸、[[噴火湾]]([[室蘭]]から[[函館市]])で目撃が多いが、[[礼文島]]周辺、[[襟裳岬]]、[[檜山郡]]、[[積丹町]]、[[津軽海峡]]など道内の全域で確認されている。</ref><ref>佐藤晴子, 石川聖江, 江崎逸郎, 笹森琴絵, 高橋俊男, 増田泰, 吉田孝哉, 2006年, 「1990o2005年の偶発的な目視情報に基づく,知床・根室海峡海域におけるシャチ(Orcinusorca)の出現傾向と写真識別カタログ」, 知床博物館研究報告, 27号, 9-36項</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/fs/2/0/6/9/3/4/3/_/iju-okushiri.pdf |title=檜山管内各町基本情報|work=[[奥尻町]]|pages=|website=|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>市森大地, 鈴木駿介, 小島千里, 石森 謙太郎, 杉谷舞, 松田純佳, 小野雄大, 松石隆, 2013年, 「10年間にわたる津軽海峡鯨類目視調査にもとづく鯨類出現の季節性と経年変化」, 日本セトロジー研究, 23号, 29-33項</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/fs/2/0/6/9/3/4/3/_/iju-okushiri.pdf |title=檜山管内各町基本情報|work=[[奥尻町]]|pages=|website=|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>中岡利泰, 2015年,「2015年北海道襟裳岬に出現したシャチの行動記録」. えりも研究, 第12号, 27-32項, [[えりも町]]</ref>で際立って目撃が多いが、[[仙台湾]]、[[山形県]]や[[新潟県]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2013-06-02|url=http://tori-nan.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-bba7.html |title=南防波堤でソイのちシャチ?|work=[[奥尻町]]|pages=|website=|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>本間義治, 岩尾一, 箕輪一博, 中村幸弘, 青栁彰, 岩下雅彦, 大原 淳一, 2011年, 「新潟県沿岸・沖合における海生哺乳類の漂着・混獲・目撃記録(2009 年 1 月~ 2010 年 5 月)」, 日本セトロジー研究, 21号, 19-22項</ref>、[[銚子市]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2020-01-08|url=https://choshi-iruka-watching.co.jp/2020/01/08/%E6%BC%81%E5%B8%AB%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%81%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A3%EF%BC%81%EF%BC%81-%EF%BE%9F%D0%B4%EF%BE%9F/ |title=漁師さんより“シャチ”情報がっっ!!( ゚Д゚)|work=|pages=|website=銚子海洋研究所|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[相模湾]]や[[駿河湾]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=8980 |title=科博登録ID:8980|work=海棲哺乳類ストランディングデータベース|pages=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=10417 |title=科博登録ID:10417|work=海棲哺乳類ストランディングデータベース|pages=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[熊野灘]]([[和歌山県]])、[[見島]]([[萩市]])<ref>{{Cite web|和書|author=石川創, 渡邉俊輝|date=2014|url=https://web.archive.org/web/20150109080006/http://whalelab.org/ishikawa2014.pdf |title=山口県鯨類目録 |work=下関鯨類研究室報告 No.2|pages=1-14|website=|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[玄界灘]]<ref>{{Cite web|和書|author=祝迫勝之|date=2019-03-17|url=https://www.asahi.com/articles/ASM365FX6M36TTHB00S.html |title=玄界灘に巨大シャチ 人気遊漁船の船長、ジャンプ撮った|work=|pages=|website=[[朝日新聞]]|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[対馬市]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2023-03-06|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230306-OYT1T50083/ |title=長崎・対馬沖にシャチとイルカの群れ、海保巡視艇が相次ぎ確認…波乗りや並走も|work=|pages=|website=[[読売新聞]]|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=2013-06-01|url=http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20130601000041 |title=対馬沖でイルカ500頭/シャチに追われ逃げる|work=|pages=|website=[[四国新聞]]|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[南西諸島]]<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2017-03-06|url=https://jisin.jp/region/1597973/ |title=沖縄県久米島沖、まさかの遭遇!悠々と泳ぐシャチの群れ|work=|pages=|website=[[女性自身]]|access-date=2023-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=2008-12-29|url=http://www.bluefi.com/uminikki_2/?p=1836 |title=沖縄の慶良間でシャチ発見!|work=|pages=|website=ブルーフィールド|access-date=2023-12-07}}</ref>、[[朝鮮半島]]、[[中国]]([[黄海]]など)<ref>{{Cite web|和書|author=齐鲁网|date=2019-07-24|url=https://sd.ifeng.com/a/20190724/7629171_0.shtml |title=罕见!长岛海域迎来鲸鱼群 体长近20米|work=|pages=|website=凤凰网 |access-date=2023-12-07}}</ref>、[[台湾]]<ref name=Taiwan>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.oca.gov.tw/ch/home.jsp?id=289&parentpath=0,5&mcustomize=ocamaritime_view.jsp&dataserno=202103160006 |title=虎鯨-臺灣百種海洋動物|work=|pages=|website=Ocean Conservation Administration |access-date=2023-12-07}}</ref>など各地域にて時折目撃されている。しかし、[[第二次世界大戦]]の終了後から1960年代にかけて日本列島の各地<ref group="注釈">とくに捕獲が多かったのは[[北海道]]、[[三陸]]、[[房総半島]]だが、[[東京湾]]や[[瀬戸内海]]など各地で散発的な捕獲が存在した。東京湾では、1970年4月に現れた11頭の中の5頭が[[市原市]]で捕殺されている。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=水産庁・水産総合研究センター |date=2015|url=https://kokushi.fra.go.jp/H26/H26_54.pdf |title=シャチ 北西太平洋|work=平成26 年度国際漁業資源の現況|pages=|website=国際漁業資源の現況|access-date=2023-12-07}}</ref><ref name=Sumasui>[https://www.city.kobe.lg.jp/documents/33639/umisui201503.pdf スマスイいきもの History - シャチ(骨格標本)]</ref><ref>宇仁義和, 谷田部明子, 石川創, 2015年,『NHKアーカイブス保存映像のなかの鯨類ストランディング』, 日本セトロジー研究第25号, 1-6項</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=263 |title=科博登録ID:263|work=海棲哺乳類ストランディングデータベース|pages=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-12-09}}</ref>で1,600頭以上が捕獲されたため、現在の生息数と分布はこれらの捕獲以前よりは大きく制限されていると思われる<ref name=biodic />。
== 生態 ==
[[ファイル:Orca 2.jpg|thumb|ブリーチングするシャチ]]
シャチは、[[魚類]]全般、[[サメ]]だけでなく、自分の倍以上の大きさである[[ヒゲクジラ亜目]]のうち最大の[[シロナガスクジラ]]を含む[[クジラ]]などを[[群れ]]で襲って食べる。寿命が長く、年長のメスを中心とする[[母系社会]]を形成する社会性を持つ動物<ref>{{Cite web|和書|title=追撃し、嚙みちぎり、溺れさせ…シャチのシロナガスクジラ狩りを初確認 |url=http://japan.hani.co.kr/arti/culture/42414.html |website=japan.hani.co.kr |access-date=2022-06-26 |last=한겨레}}</ref>。
非常に活発な動物であり、ブリーチング<ref group="注釈">海面へ自らの体を打ちつけるジャンプ。</ref>、スパイホッピング<ref group="注釈">頭部を海面に出し、辺りを見渡すためと言われる行動。</ref>など、多彩な行動が水上でも観察されている。また泳ぐ速さは時速50㎞以上に及び、[[バンドウイルカ]]と並んで、最も速く泳ぐことができる哺乳類の一つである。餌を求めて1日に100キロメートル以上も移動することが知られている。また、[[好奇心]]も旺盛で、興味を持ったものには近寄って確かめる習性もある。
他のハクジラと同様、2つの種類の音を使い分けていることが知られている。1つはコールと呼ばれ、群れのメンバー同士のコミュニケーションに使用される。もう1つはクリック音と呼ばれ、[[噴気孔 (生物学)|噴気孔]]の奥にある溝から、[[メロン (動物学)|メロン]]と呼ばれる[[脂肪]]で凝縮して発射する[[音波]]である。この音波は物質に当たるまで水中を移動するため、シャチはその反響音を下顎の骨から感じ取ることで、前方に何があるか判断することができる。この能力をエコーロケーション([[反響定位]])と呼ぶ。クリック音の性能は高く、わずか数ミリメートルしか離れていない2本の糸を認識したり、反響音の[[波形]]の違いから物質の成分、果ては内容物まで認識したりすることが可能だという。
オスの平均寿命は30歳、最高寿命は約50歳で、メスの平均寿命は50歳、最高寿命は80歳あまりである。世界最高齢のシャチ「グラニー」は105歳まで生存したとされている。
野生のシャチの死因についての調査が少ないが、幼い個体は感染症と栄養不良、若いものや成体の場合は細菌感染症を含む病気、鈍的外傷が報告されている<ref>{{Cite journal|author=Stephen Raverty et al.|year=2020|date=2020-12-02|title=Pathology findings and correlation with body condition index in stranded killer whales (Orcinus orca) in the northeastern Pacific and Hawaii from 2004 to 2013|url=https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0242505|journal=PLOS ONE|volume=|page=|DOI=10.1371/journal.pone.0242505}}</ref><ref>{{Cite news|title=シャチの天敵は海にはいない。その最大の敵は陸にいる(カナダ・アメリカ共同研究)|date=2020-12-05|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52297141/?period=1|newspaper=ガラパイア}}</ref>。この報告では、全年齢での最大の死因は、人間が関係するものが多く、釣り針の飲み込み、[[漁網]]に絡む、[[漁船]]との衝突などであった。
=== 食性 ===
[[File:Orca Schaedel Senckenberg.jpg|thumb|[[骨格標本]]]]
[[肉食動物|肉食性]]で、知能が非常に高い。海洋系での[[食物連鎖]]の頂点に立つ。武器を使う[[ヒト]]を例外にすると自然界での[[天敵]]は存在しない。ただし弱った個体や体の小さな個体がサメや他の大型のクジラに攻撃されたり、シャチの体内から別のシャチが発見されたりしたこともある([[共食い]])。利益にならない戦闘は避ける傾向もあり、特に人間を襲うことは少ないと考えられている。一方で、遊び目的で虐殺するなどの行為も見られることもあり、[[アザラシ]]や[[オタリア]]を襲うとき、海面上に放り投げ必要以上の苦痛を与えることがある。目的ははっきりしたことは未だわかっていない。
各タイプのメインの獲物だけでなく、小さいものでは魚、[[イカ]]、[[海鳥]]、[[ペンギン]]、比較的大きなものではオタリア、アザラシ、[[イルカ]]、[[ホッキョクグマ]]、時にはクジラやサメなど、捕食する動物は多岐にわたるとされる。一部を別種とする学説すらあることからわかるように、1頭のシャチが様々な種類の動物を捕食するというより、個体ごとに様々な好みを持った生物であると理解した方が現実に近い。個体ごとに見れば、どちらかといえば[[偏食]]な動物である。ヒゲクジラ類では、比較的小さい[[ミンククジラ]]や[[コククジラ]]の幼獣をよく狙い、まれに未成熟の[[ザトウクジラ]]や[[シロナガスクジラ]]なども狙う。ヒゲクジラ類はシャチよりも体が遥かに大きく、幼獣には大抵は母クジラが側にいて守ろうとするため、シャチにとっても手強い獲物となる<ref>{{cite book|和書|last=水口博也編集 |title=シャチ生体ビジュアル百科|date=2015|page=77 }}</ref>。また、[[マッコウクジラ]]や[[ヒゲクジラ]]類の成獣は身体が大きく力も強いため、シャチ自身が致命傷を負いかねないこともあり滅多に襲うことはない。2023年には、合計30頭のシャチが2頭の成熟した[[コククジラ]]を約6時間にわたって攻撃しつづけたが、結局は捕食に失敗した観察例が記録されている<ref name=Spivack>{{cite web|author=Elana Spivack |date=2023-05-02 |url=https://www.livescience.com/animals/whales/in-rare-attack-30-orcas-badly-wounded-2-adult-gray-whales-in-california|title=In rare attack, 30 orcas 'badly wounded' 2 adult gray whales in California |publisher=ライブ・サイエンス([[:en:Live Science|英語版]]) |access-date=2023-07-10}}</ref>。他にも、[[ザトウクジラ]]がシャチを攻撃して他の種類の鯨類や[[鰭脚類]]や[[マンボウ]]などを助けたり<ref>{{Cite web|author=Tia Ghose |date=2017-05-04|url=https://www.livescience.com/58960-humpbacks-stop-orca-killing-spree-video.html|title=Humpbacks Block Killer Whale Feeding Frenzy in Wild Video|website=ライブ・サイエンス([[:en:Live Science|英語版]]) |access-date=2023-07-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Jason Bittel, 鈴木和博(訳)|date=2016-08-10|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/080900301/|title=ザトウクジラはシャチから他の動物を守る、研究報告|website=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本語版|access-date=2023-07-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Jason Bittel, 鈴木和博(訳)|date=2023-09-11|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/091100466/|title=【動画】シャチのアザラシ狩りになんとクジラが乱入、なぜ?|website=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)#ナショナルジオグラフィック日本版|ナショナルジオグラフィック日本版]]|access-date=2023-10-09}}</ref>、シャチの群れに襲撃された[[マッコウクジラ]]の雌と子供の群れを近くにいた未成熟の雄のマッコウクジラが襲撃場面に乱入・救助して共に脱出したり<ref>栗田壽男, 2010年,「シャチに襲われたマッコウクジラの行動」, 日本セトロジー研究会ニューズレター, 第25号</ref>、[[ヒレナガゴンドウ]]や[[コビレゴンドウ]]はシャチの声を察知すると集団でシャチの群れを追跡して追い回し、シャチの群れがその海域から退散する<ref>{{Cite web|author=Charlotte Curé ,Ricardo Antunes, Filipa Samarra, Ana Catarina Alves, Fleur Visser, Petter H. Kvadsheim, Patrick J. O. Miller|date=2012-12-16|url=https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0052201|title=Pilot Whales Attracted to Killer Whale Sounds: Acoustically-Mediated Interspecific Interactions in Cetaceans|website=[[PLOS]]|access-date=2023-10-09}}</ref><ref>{{Cite web|author=Renaud de Stephanis, Joan Giménez, Ruth Esteban, Pauline Gauffier, Susana García-Tiscar, Mikkel-Holger Strander Sinding, Philippe Verborgh|date=2014-04-16|url=https://link.springer.com/article/10.1007/s10211-014-0189-1|title=Mobbing-like behavior by pilot whales towards killer whales: a response to resource competition or perceived predation risk?|website=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア]]|access-date=2023-10-09}}</ref>等、他の鯨種が対抗手段を見せる事例もある。
氷の下からの[[奇襲]]、群れでの協力、挟み撃ちなど、高度な狩りの技術を持つ。前述のクリック音を通常より凝縮させて獲物に当てて麻痺させ、捕食しやすくする行動も知られている。また、アルゼンチンの[[バルデス半島]]においては、海中から浜辺へ突進し這い上がり、浜辺にいる[[アシカ]]やオタリアなどを捕食する「オルカアタック」と呼ばれる行動がみられる。水面下を遊泳していた3メートルほどのサメを真下から攻撃して一撃で仕留めた例を、海洋学者の[[ジャック=イヴ・クストー]]の海洋探査船が報告している。サメや[[エイ]]を捕食する場合、獲物の身体をひっくり返し[[擬死]]状態にすることで抵抗出来なくしてから食べる<ref>[http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1231454/Killer-whales-Death-karate-chop-deadly-tactic-used-orcas-sharks.html The moment a whale delivers a deadly 'karate chop' blow to a killer shark]</ref>。[[軟骨魚綱|軟骨魚類]]特有の性質を用いた有効な狩猟方法だが、エイの尾にある猛毒によって致命傷を負うこともある。口に入れた魚を吐き出して[[カモメ]]をおびき寄せ、集まってきたカモメを食した例も報告されている。また、氷上にいたアザラシに対し、群れで氷の下を何度も通過し、大きな波を起こして海中に落としてから捕食した事例も報告されている。クジラの幼獣を襲う際は、幼獣の上から繰り返し圧し掛かって呼吸を妨害し、窒息させて仕留めることが多い。だがその際、前述の通り母クジラが幼獣を守ろうとするため、場合によっては仕留めるのに何時間もかかるうえ、失敗することも多い。
<!-- {{要出典範囲|date=2013年8月|モントレー湾の観察では、超音波を放って[[サケ]]類を麻痺させて食べる事も報告されている。}}{{要出典範囲|date=2013年8月|多頭でうずを巻くようにニシンなどの比較的小さな魚を一箇所に集めた上に尻尾でたたきつけ気絶させやすやすと捕食する例も報告されている}}。{{要出典範囲|date=2013年8月|大型のクジラを襲う場合は、一頭がクジラの頭上に陣取って海面での呼吸を妨げ、もう一頭はクジラを底から押し上げて潜水を妨げるなどの行動が観察されている。}} -->
好物はクジラの舌、口付近であり、他の多くの部分は放置されるが、しばしばシャチがクジラの死体のある場所に訪れて死体を食べることがある<ref>{{cite book|和書|last=水口博也編集 |title=シャチ生体ビジュアル百科|date=2015|page=79}}</ref>。
===人への危害===
{{See also|ティリクム (シャチ)}}
シャチは高い知能を持つ動物であり、確実にとは言えないが無駄な狩りを行わないので、好奇心があり、じゃれようとした際にけがをさせたという例が多い。
シャチが、仲間に危害を加えた人間に報復したと見られるケースは報告されている。また、[[サーファー]]が足を噛まれた例があるが、これもじゃれたり、シャチ特有の好奇心の強さによるアプローチだったりとされ、捕食目的とは違うと見られる。ただし、もしシャチが現実に人間を捕食目的で襲ったとすれば、歯と顎の大きさからひとたまりもなく捕食される。また、[[水族館]]で飼育されているシャチがステージ上にいた飼育員を水中に引きずり込み[[溺死]]させる事件も起こっている<ref>「[https://web.archive.org/web/20100227055849/http://www.asahi.com/international/update/0225/TKY201002250032.html 観客の目の前、シャチが女性調教係死なす-米の水族館]」『[[朝日新聞]]』2010年2月25日</ref>。この事例の個体は過去にも飼育員と客を死なせており、三人目の犠牲者だった<ref name="NationalGeographic">{{Cite web|和書|url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/2359/ |title=調教師の溺死、通常と違うシャチの行動 |accessdate=2015-07-02 |author=Ker Than |date=2010-02-26 |publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]]}}</ref>。
これまでにシャチが意図的に人を食い殺したというはっきりした事例は知られていないが、その巨体ゆえにじゃれる程度でも場合によっては被害に遭う可能性もあり、安全とは言いがたい部分もあるので、触れる場合にも細心の注意をするに越したことはない。これはシャチに限らず、大型の動物類すべてに言えることでもある。
また、経済面では[[漁業]]被害も発生しており、日本の北海道では漁獲対象の魚を食べられたり、漁網を破られたりした事例が報告されている<ref>「シャチ被害 年3500万円/道調査 2[[漁協]]から報告」『[[北海道新聞]]』朝刊2021年1月28日5面</ref>。[[道東]]の[[釧路町]]では、シャチが漁網ごと魚を食いちぎる動画を地元漁業者が撮影し、被害の深刻さを訴えている<ref name="道新20200611">[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/429535 「シャチ漁業被害の瞬間 昆布森漁協漁師が動画 網ごと魚食いちぎる」]『北海道新聞』朝刊2020年6月11日(社会面)2020年6月24日閲覧</ref>。これも動物が生活をしていくうえでは欠かせない食事という行為であり、人間のルールを野生の動物に適応させるのはほとんど無理であるため、難しい問題である。
[[捕鯨]]が広く行われていた時代には、仕留めたクジラ(鯨)を食いにやってきたシャチによる食害もあり、[[ノルウェー]]などの日本以外の捕鯨国では、シャチ撃退用にライフルマンを雇っていたこともあったほどだった。
=== 社会性 ===
[[ファイル:Orca pod southern residents.jpg|thumb|群れるシャチ]]
{{listen
|filename = Killer whale.ogg
|title = シャチの鳴き声
|filename2 = Killer whale simple.ogg
|title2 = 遠方に呼びかけるときの声
|filename3 = Killer whale residents broadband.ogg
|title3 = シャチの発声
}}
単体、または数頭から数十頭ほどの[[群れ]](ポッド)を作って生活し、非常に社会的な生活を営む。
群れは多くの場合、母親を中心とした血の繋がった家族のみで構成され、オスは通常一生を同じ群れで過ごし、メスも自身の群れを新しく形成するものの、生まれた群れから離れることは少ない(これらの情報は主に、研究の比較的進んでいるカナダのレジデント個体群から集められたものであり、同海域でのほかの2タイプ、または他の海域のシャチ全てに当てはまるわけではない)。それぞれの群れは、その家族独自の「[[方言]]」とも呼ばれるコールを持ち、それにより情報を互いに交換し合っている。「方言」は親から子へ、代々受け継がれていく。群れの中でのじゃれ合いなどのほかにも、違う群れ同士が交じり合い、特に若い個体間での揉み合いや、激しいコールの交換なども観察されている。ある特定の海域では年に1回、いくつもの家族が100頭以上の群れを形成する「スーパーポッド」という行動も知られている。この行動は、複数の家族が任意な交配を行うことで、それぞれの家族の血が濃くなるのを防ぐためだと考えられている。
特に、生まれたばかりの個体に対する「気配り」とも取れる行動は多く観察されている。母親が餌取りに専念している間、他のメスが若い個体の面倒を見る「ベビーシッティング」的な行動や、自身のとった獲物を若い個体に譲ったり、狩りの練習をさせるためにわざと獲物を放ったりすることも知られている<ref group="注釈">このときに獲物は殺さず、教え終わったら逃がすケースも見られている。</ref>。一般に、生まれたばかりの若い個体のいる群れは移動速度が遅く、潜水時間も短い。このあたりから、バンドウイルカなどと非常に似通った習性を持つと考えられる。
2018年には、生後間もなく死んだ子供のシャチを3日間にわたり浮き上がらせようとする母シャチが確認された<ref>{{Cite news|title=死んだ子どもに寄り添い続ける母親、シャチの窮状物語る カナダ |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35123252.html |date=2018-7-30|accessdate=2018-08-02|work=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]].co.jp }}</ref>。
== 人間との関係 ==
[[File:Killer Whale (Old Tom) and whalers.jpeg|thumb|[[ザトウクジラ]]の子供を追い込む「オールド・トム([[:en:Old Tom (orca)|英語版]])」と捕鯨業者([[:en:Eden, New South Wales|イーデン]])。]]
捕鯨(直接の捕殺や飼育目的の捕獲を含む)以外では、[[混獲]]や船舶との衝突などの人間社会に由来する数々の脅威に晒されている。
一方で、[[ホエールウォッチング]]など[[エコツーリズム]]における観察対象としても人気である。
特異な例として、19世紀下旬から20世紀上旬にかけて[[オーストラリア]]の[[ニューサウスウェールズ州]]の沿岸にいた「オールド・トム([[:en:Old Tom (orca)|英語版]])」とその一族は、地元の捕鯨業者と協力関係を結び、[[ヒゲクジラ]]類を湾内に追い込んで褒美として肉を与えられていた。
=== 飼育 ===
[[ファイル:Orcinus orca show in kamogawa sea world.jpg|thumb|[[鴨川シーワールド]]でのシャチショー]]
[[ファイル:Miamiseaquariumlolita.jpg|thumb|[[マイアミ・シークアリウム|マイアミ水族館]]で芸をするロリータという名のシャチ]]
人間には懐きやすく訓練への適応も高いので、幾つかの[[水族館]]で飼育され、ショーにも利用される。日本での初飼育は、1970年の[[鴨川シーワールド]]である<ref name=bo20080605 />。「水族館生まれで二世を誕生させた日本初」は、鴨川シーワールド産の「ラビー」(1998年産・メス)である<ref name=bo20080605>{{Cite news |title=シャチのラビーおめでた 鴨川シーワールド |newspaper=『[[房日新聞]]』 |date=2008-6-5 |url=http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=1351 |accessdate=2013-4-23 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0423-2311-58/www.bonichi.com/News/item.htm?iid=1351 |archivedate=2013-4-23 23:11 }}</ref>。
日本、[[アメリカ合衆国]]、カナダ、[[フランス]]、[[スペイン]]、アルゼンチンの6ヶ国11施設で、計42頭が飼育されている(2008年)。うち、野生個体(野生状態から捕獲した個体)13頭、繁殖個体(飼育下で出産された個体)29頭である<ref>{{Cite book|和書|last=祖一誠 |chapter=題2章 シャチとの出会い|title=海獣水族館 |publisher=[[東海大学出版会]] |date=2010|page=37 |isbn=978-4-486-01857-5}}</ref>。日本国内での捕獲は学術目的以外では禁止されている<ref name="道新20200611"/>。
過去には[[伊豆三津シーパラダイス]]、[[太地町立くじらの博物館]]、[[アドベンチャーワールド]]で飼育されていたが、死亡により扱う施設は減少し、日本でシャチが見られる水族館は2021年9月時点で鴨川シーワールドと[[名古屋港水族館]]の2館のみである。
===シンボル===
[[アメリカ海軍]]や[[海上自衛隊]]において、[[潜水艦]]乗組員の徽章はシャチをあしらったデザインだが、「[[ドルフィン]]マーク」と呼ばれている<ref>[https://www.mod.go.jp/msdf/hatinohe/fashion/classchapter/medal.html 徽章 階級章等アクセサリー 海自のファッション] 海上自衛隊[[八戸航空基地]]</ref><ref name=nhk_001>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201029/k10012686151000.html 「海上自衛隊の潜水艦で初の女性乗組員 広島 呉」][[日本放送協会|NHK]]</ref>。
[[大阪市]]に本社を置く[[大和冷機工業]]株式会社はシンボルマークにシャチを採用しており、冷蔵庫や製氷機に掲げている。
Jリーグ・[[名古屋グランパスエイト]]の公式マスコット[[グランパスくん]]、およびその家族の「グランパスファミリー」は、いずれもシャチをモチーフにしている<ref>[https://nagoya-grampus.jp/fan/mascot/ 公式マスコット] - 名古屋グランパスエイト</ref>。
[[関西独立リーグ (2代目)|関西独立リーグ]](さわかみ関西独立リーグ)の[[和歌山ウェイブス]]は、チームのロゴにシャチをあしらっている<ref>[https://wakayama-waves.jp/ 和歌山ウェイブス]</ref>。
=== フィクション ===
シャチはその知名度故に、海を舞台にした映画や、漫画などの作品に多く登場する。
*映画『[[オルカ (映画)|オルカ]]』では家族の復讐のために[[怪獣]]並みの破壊行為を行う。
*映画『[[テンタクルズ]]』では人を襲う巨大な[[タコ]]に立ち向かう。
*シャチと子どもの愛情を描いた映画『[[フリー・ウィリー]]』シリーズもある。
*[[世界名作劇場]]の[[テレビアニメ]]『[[七つの海のティコ]]』では、物語全般で主人公らと共に行動、活躍する姿が描かれている。
*[[熊谷達也]]の小説『モビィ・ドール』では「モビィ・ドール」とあだ名されたシャチがイルカ・ウォッチングのための大事なイルカたちを襲う。
*[[谷甲州]]の小説『[[航空宇宙軍史]]』シリーズ内に、シャチの頭脳を組み込んだ兵器『[[無人砲艦ヴァルキリー]]』が登場する。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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[[Category:ハクジラ類]]
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垂仁天皇
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垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。
御間城天皇(崇神天皇)の第三皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命〈孝元天皇皇子〉の娘)である。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后とした。即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
即位2年、狭穂姫を立后。
即位5年、天皇の従弟にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられた。断ることができなかった皇后は、しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ誉津別命を連れて狭穂彦の元に走った。長らく攻めあぐねた天皇がついに狭穂彦の稲城に火をつけると狭穂姫が飛び出してきた。しかし皇后は誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、そのまま兄と共に焼け死んでしまった。
『古事記』では狭穂彦の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、皇后は兄と共に焼死した。
即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を皇后とした。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人)。大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった(『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺)。
即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)。
即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。
即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り石上神宮に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。
即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた。現在、その神宝は出石神社で祭られている。
即位99年、崩御。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致している。
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。
なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。
陵(みささぎ)の名は菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」に治定されている。墳丘長227メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式』諸陵寮では「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」として兆域は東西2町・南北2町、陵戸2烟、守戸1烟で遠陵としている。現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。
崇神天皇48年、父の御間城天皇(崇神天皇)は活目尊(後の垂仁天皇)とその兄の豊城入彦命のどちらかを皇太子にしたいと考えていた。そこで二人が見た夢から決めることにした。兄の豊城命は東に向かって武器を振るう夢を見た。弟の活目尊は縄を四方に張って雀を追い払う夢を見た。兄は東しか向いていないが弟は四方を見ていると判断した父帝は活目尊を皇太子にした。
狭穂彦の謀反で焼死した皇后狭穂姫が遺した誉津別命は、大人になっても言葉を話すことができず振舞いも子供のようだった。即位23年、天皇は群臣に相談したが解決策は浮かばなかった。その翌月、白鳥がやってきたのを見た誉津別命は「あれはなんだ」と初めて言葉を発した。喜んだ天皇は天湯河板挙にその白鳥を捕まえるよう命じた。湯河板挙は出雲で白鳥を捕まえて天皇に献上した。誉津別命は白鳥を遊び相手にしているうちに言葉を話せるようになったので、ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けた。『古事記』では天湯河板挙は山辺大鶙という名で登場する。越国まで行って白鳥を捕まえるものの本牟智和気王(誉津別命)は一向にしゃべる気配を見せなかった。その後に天皇は出雲大社の神殿を改築せよという大国主神の託宣を受けて従ったところ本牟智和気王は言葉を話せるようになったという。
即位7年、天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚した。当麻村に当麻蹴速という強者がいたからである。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。これが相撲節会の起源だとされる。天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。
それからしばらくたった即位32年、皇后の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。なお考古学的には人型や馬型の埴輪は埴輪の中でもかなり後になって出てくるものであり、人型が始まりというこの説話は正しくないことがわかっている。『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。
即位34年、天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と誓約(うけい)をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸辺は後宮に召された。
晩年の即位90年、天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。また垂仁天皇陵の周堀には小島があるが、これは江戸時代の修陵で田道間守の墓に擬して削り遺された外堤であり拝所も設けられている。『古事記』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされ、大后は天皇崩御後まで生きていたことになる。
『日本書紀』、『古事記』に歴史的事実と認められる伝承は少ない。事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、近年においては実在を認めることも多い。
『日本書紀』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。
『日本書紀』の垂仁天皇99年7月条によると垂仁天皇は7月1日に崩じたとある。ところが景行天皇即位前紀によると99年2月に崩じたとあり、垂仁紀と景行紀で依拠した資料が異なると推察される。
『日本書紀』で田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると61年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者は垂仁天皇を倭奴国王、田道間守を大夫と考えていたことが推測される。
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"text": "垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。",
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"text": "御間城天皇(崇神天皇)の第三皇子。生母は皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと、大彦命〈孝元天皇皇子〉の娘)である。兄の豊城入彦命をこえて、24才で皇太子に立てられる。",
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"text": "父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后とした。即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した。即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、倭姫命らを得た。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。",
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"text": "漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。",
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"text": "即位2年、狭穂姫を立后。",
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"text": "即位5年、天皇の従弟にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられた。断ることができなかった皇后は、しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ誉津別命を連れて狭穂彦の元に走った。長らく攻めあぐねた天皇がついに狭穂彦の稲城に火をつけると狭穂姫が飛び出してきた。しかし皇后は誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、そのまま兄と共に焼け死んでしまった。",
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"text": "『古事記』では狭穂彦の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、皇后は兄と共に焼死した。",
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"text": "即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を皇后とした。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人)。大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった(『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺)。",
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"text": "即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)。",
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"text": "即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。",
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"text": "即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。",
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"text": "即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り石上神宮に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。",
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"text": "即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた。現在、その神宝は出石神社で祭られている。",
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"text": "即位99年、崩御。『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致している。",
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"text": "『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。",
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"text": "宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市穴師周辺。",
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"text": "なお京都府久世郡久御山町市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と和気清麻呂を祭った珠城神社(久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。",
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"text": "陵(みささぎ)の名は菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある遺跡名「宝来山古墳」に治定されている。墳丘長227メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。",
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"text": "『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」とある。『延喜式』諸陵寮では「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」として兆域は東西2町・南北2町、陵戸2烟、守戸1烟で遠陵としている。現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。",
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"text": "また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。",
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"text": "※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。",
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"text": "崇神天皇48年、父の御間城天皇(崇神天皇)は活目尊(後の垂仁天皇)とその兄の豊城入彦命のどちらかを皇太子にしたいと考えていた。そこで二人が見た夢から決めることにした。兄の豊城命は東に向かって武器を振るう夢を見た。弟の活目尊は縄を四方に張って雀を追い払う夢を見た。兄は東しか向いていないが弟は四方を見ていると判断した父帝は活目尊を皇太子にした。",
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"text": "狭穂彦の謀反で焼死した皇后狭穂姫が遺した誉津別命は、大人になっても言葉を話すことができず振舞いも子供のようだった。即位23年、天皇は群臣に相談したが解決策は浮かばなかった。その翌月、白鳥がやってきたのを見た誉津別命は「あれはなんだ」と初めて言葉を発した。喜んだ天皇は天湯河板挙にその白鳥を捕まえるよう命じた。湯河板挙は出雲で白鳥を捕まえて天皇に献上した。誉津別命は白鳥を遊び相手にしているうちに言葉を話せるようになったので、ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けた。『古事記』では天湯河板挙は山辺大鶙という名で登場する。越国まで行って白鳥を捕まえるものの本牟智和気王(誉津別命)は一向にしゃべる気配を見せなかった。その後に天皇は出雲大社の神殿を改築せよという大国主神の託宣を受けて従ったところ本牟智和気王は言葉を話せるようになったという。",
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"text": "即位7年、天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚した。当麻村に当麻蹴速という強者がいたからである。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。これが相撲節会の起源だとされる。天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。",
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"text": "それからしばらくたった即位32年、皇后の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。なお考古学的には人型や馬型の埴輪は埴輪の中でもかなり後になって出てくるものであり、人型が始まりというこの説話は正しくないことがわかっている。『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。",
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"text": "即位34年、天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と誓約(うけい)をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸辺は後宮に召された。",
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"text": "晩年の即位90年、天皇は田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。また垂仁天皇陵の周堀には小島があるが、これは江戸時代の修陵で田道間守の墓に擬して削り遺された外堤であり拝所も設けられている。『古事記』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされ、大后は天皇崩御後まで生きていたことになる。",
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"text": "『日本書紀』、『古事記』に歴史的事実と認められる伝承は少ない。事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、近年においては実在を認めることも多い。",
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"text": "『日本書紀』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。",
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"text": "『日本書紀』の垂仁天皇99年7月条によると垂仁天皇は7月1日に崩じたとある。ところが景行天皇即位前紀によると99年2月に崩じたとあり、垂仁紀と景行紀で依拠した資料が異なると推察される。",
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"text": "『日本書紀』で田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると61年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた57年に近いため、書紀の編者は垂仁天皇を倭奴国王、田道間守を大夫と考えていたことが推測される。",
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垂仁天皇は、日本の第11代天皇。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。
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{{基礎情報 天皇
| 名 = 垂仁天皇
| 代数= 第11
| 画像= Emperor Suinin.jpg
| 説明= 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「垂仁天皇」
| 在位= 垂仁天皇元年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]] - 垂仁天皇99年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]
| 年号=
| 首都=
| 時代= [[原史時代|伝承の時代]]([[古墳時代]])
| 皇居= 纒向珠城宮
| 漢風諡号= 垂仁天皇
| 和風諡号= 活目入彦五十狭茅天皇
| 諱 = 活目尊
| 幼称=
| 別名= 活目入彦五十狭茅尊<br/>[[上宮記|伊久牟尼利比古大王]]
| 印 =
| 生年= 崇神天皇29年
| 生地=
| 没年= 垂仁天皇99年 140歳
| 没地=
| 陵墓= 菅原伏見東陵
| 先代= [[崇神天皇]]
| 次代= [[景行天皇]]
| 子 = [[景行天皇]] 他
| 皇后= [[狭穂姫命]]([[開化天皇]]皇孫)<br/>[[日葉酢媛命]]([[開化天皇]]皇曾孫)
| 中宮=
| 女御=
| 更衣=
| 夫人=
| 夫 =
| 父親= [[崇神天皇]]
| 母親= [[御間城姫]]([[孝元天皇]]皇孫)
| 注釈=
}}
'''垂仁天皇'''(すいにんてんのう、[[崇神天皇]]29年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]] - 垂仁天皇99年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]])は、[[日本]]の第11代[[天皇]](在位:垂仁天皇元年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]] - 垂仁天皇99年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]])。『[[日本書紀]]』での名は'''活目入彦五十狭茅天皇'''。治世には様々な起源伝承が語られる。考古学上、実在したとすれば[[3世紀]]後半から[[4世紀]]前半ごろの[[大王 (ヤマト王権)|大王]]と推定されるが、定かではない。
== 略歴 ==
御間城天皇([[崇神天皇]])の第三皇子。生母は皇后の[[御間城姫]]命(みまきひめのみこと、[[大彦命]]〈[[孝元天皇]]皇子〉の娘)である<ref name=naoki13>[[#直木|直木(1979)p.13]]</ref>。兄の[[豊城入彦命]]をこえて、24才で皇太子に立てられる<ref name=naoki13/>。
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位<ref name=naoki13/>。即位2年に[[彦坐王]](天皇の伯父)の娘の[[狭穂姫命]]を皇后とした<ref name=naoki13/>。即位5年に皇后の兄の[[狭穂彦王]]が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した<ref name=naoki13/>。即位15年2月、[[丹波道主王]]の娘の[[日葉酢媛命]]を新たな皇后として大足彦尊([[景行天皇]])、[[倭姫命]]らを得た<ref name=naoki13/>。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、[[伊勢神宮]]、武器奉納、[[相撲]]、[[埴輪]]、[[鳥飼]]といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位37年、大足彦尊を立太子。即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。
== 名 ==
* 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』
* 活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀』
* 活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀』
* 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『[[古事記]]』
* 伊久米天皇 - 『[[常陸国風土記]]』
* 生目天皇 - 『[[令集解]]』所引「古記」
* 伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王 - 『[[上宮記]]』
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に[[淡海三船]]によって撰進された。
== 事績 ==
=== 狭穂彦の謀反 ===
即位2年、狭穂姫を立后。
即位5年、天皇の従弟にあたる狭穂彦は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられた。断ることができなかった皇后は、しかしもう少しというところでどうしてもできず天皇にすべてを打ち明けた。天皇は狭穂彦を討伐することにしたが、兄を見捨てられない狭穂姫は自分が生んだ[[誉津別命]]を連れて狭穂彦の元に走った。長らく攻めあぐねた天皇がついに狭穂彦の[[稲城]]に火をつけると狭穂姫が飛び出してきた。しかし皇后は誉津別命だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、そのまま兄と共に焼け死んでしまった。
『[[古事記]]』では狭穂彦の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、皇后は兄と共に焼死した。
即位15年、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を皇后とした<ref name=naoki13/>。しかし末娘の[[竹野媛]]だけは醜かったので故郷に返した(『古事記』では歌凝比売と[[真砥野媛|円野比売]]の2人)。大いに恥じた竹野媛は[[葛野郡|葛野]]で輿から投身自殺してしまった(『古事記』では円野比売。[[相楽郡|相楽]]で自殺未遂、[[乙訓郡|弟国]]で自殺)。
=== 祭祀の振興 ===
即位25年、[[武渟川別]]・[[彦国葺]]・[[国摩大鹿島命|大鹿嶋]]・[[物部十千根]]・[[大伴武日]]の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓った。同年、[[天照大神]]の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の[[倭姫命]]に託した。宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き[[伊勢神宮]]を建立した([[元伊勢]]伝承)<ref name=naoki13/>。
即位27年、初めて[[屯倉]](天皇の直轄地)を作った。また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。
即位35年、子の[[五十瓊敷入彦命]]に[[河内国]]の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした<ref name=naoki13/>。
即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り[[石上神宮]]に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。
即位88年、[[アメノヒボコ|天日槍]]の曾孫の[[但馬清彦]]に但馬の神宝を献上させた<ref name=naoki13/>。現在、その神宝は[[出石神社]]で祭られている<ref name=naoki13/>。
即位99年、崩御。『[[住吉大社神代記]]』には、在位53年で[[辛未]]年に崩御したとある。この干支は『書紀』の[[庚午]]年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が[[辛未]]のため一致している。
== 系譜 ==
=== 系図 ===
{{皇室古墳時代}}
== 后妃・皇子女 ==
[[画像:Emperor family tree8-15.png|thumb|right|150px|天皇系図 8~15代]]
* [[皇后]](前):[[狭穂姫命]]([[彦坐王]]〈[[開化天皇]]の皇子〉の女)。垂仁天皇5年に崩御(焼死)したとされる
** [[誉津別命]]
* 皇后(後):[[日葉酢媛命]]([[丹波道主王]]〈[[開化天皇]]の皇孫〉の女)。
** [[五十瓊敷入彦命]]
** 大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、'''[[景行天皇]]''')
** [[大中姫命]](おおなかつひめのみこと、『古事記』には大中津日子命)
** [[倭姫命]]。初代[[斎宮]]
** [[稚城瓊入彦命]](わかきにいりひこのみこと)
* 妃:[[渟葉田瓊入媛]](ぬばたにいりひめ。日葉酢媛命の妹)
** [[鐸石別命]](ぬてしわけのみこと)。[[和気氏]]の祖
** [[胆香足姫命]](いかたらしひめのみこと)
* 妃:[[真砥野媛]](まとのひめ。日葉酢媛命の妹)
* 妃:[[薊瓊入媛]](あざみにいりひめ。同上)
** [[息速別命]]
** [[稚浅津姫命]](わかあさつひめのみこと)
* 妃:[[迦具夜比売]](かぐやひめ。[[大筒木垂根王]]の女)。 - [[開化天皇]]の曾孫。[[竹取物語#登場人物と時代|かぐや姫]]の[[題材|モデル]]説有
** [[袁那弁王]](おなべのみこ、『古事記』のみ)
* 妃:[[綺戸辺]](かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
** [[磐衝別命]]。[[三尾氏]]の祖であり、'''[[継体天皇]]'''の母方の7世祖。
** [[両道入姫命]](ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)。垂仁天皇の曾孫にあたる'''[[仲哀天皇]]'''の母(垂仁天皇の孫である[[日本武尊]]の妃)。
* 妃:[[苅幡戸辺]](かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
** [[祖別命]](おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)。[[伊賀国|伊賀]][[国造]]・[[小槻氏]]の祖
** [[五十日足彦命]](いかたらしひこのみこと)。石田君らの祖。
** [[胆武別命]](伊登志別王)
* 母親未詳
** [[円目王]](つぶらめのみこ)。遊部君の祖。
== 年譜 ==
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである<ref name="iwanami">『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427</ref>。機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。
* 崇神天皇29年
** 1月1日、誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、[[御間城姫]]はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
* 崇神天皇48年
** 4月、[[皇太子]]に立てられる。
* 垂仁天皇元年
** 1月、即位。
* 垂仁天皇2年
** 2月、[[狭穂姫命]]を立后。
** 10月、纒向に遷都。
* 垂仁天皇3年
** [[3月 (旧暦)|3月]]、[[新羅]]王子の[[アメノヒボコ|天日槍]]が神宝を奉じて来朝。
* 垂仁天皇5年
** [[10月 (旧暦)|10月]]、皇后の兄の[[狭穂彦王]]が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
* 垂仁天皇7年
** 7月、[[野見宿禰]]が[[当麻蹴速]]と[[相撲]]をとり蹴殺す([[相撲節会]]の起源説話)。
* 垂仁天皇15年
** 2月、[[丹波道主王]]の女たちを後宮に入れる。
** 8月、後宮に入れた丹波道主王の女たちから[[日葉酢媛命]]を皇后とした。
* 垂仁天皇23年
** 鳥取部・鳥養部・誉津部が設けられた(狭穂姫の遺児の[[誉津別命]]が初めて言葉を発した記念とされる)。
* 垂仁天皇25年
** 3月、[[天照大神]]の祭祀を皇女の倭姫命に託す([[元伊勢]]伝承)。
* 垂仁天皇27年
** 8月、諸神社に武器を献納し神地の[[神戸 (民戸)|神戸]]を定める。
** 来目([[橿原市|奈良県橿原市]]久米町)に初めて[[屯倉]]を興す。
* 垂仁天皇28年
** [[殉死]]の禁令。
* 垂仁天皇32年
** 7月、日葉酢媛命が[[薨去]]。野見宿禰の進言に従い、殉死の風習に替えて[[埴輪]]を埋納する(埴輪の起源説話)。
* 垂仁天皇35年
** [[五十瓊敷入彦命]]に[[河内国]]の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
* 垂仁天皇37年
** [[景行天皇|大足彦尊]]を皇太子とする。
* 垂仁天皇39年
** 10月、五十瓊敷入彦命が剣千振を作り[[石上神宮]]に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
* 垂仁天皇88年
** 7月、天日槍の[[曾孫]]の[[但馬清彦]]に但馬の神宝を献上させる。
* 垂仁天皇90年
** 2月、天日槍の[[玄孫]]の[[田道間守]]に命じて[[常世国]]の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
* 垂仁天皇99年
** 7月、[[崩御]]。140歳(『古事記』では153歳。崇神天皇29年から数えれば139歳の筈であり、『[[大日本史]]』はこれによって139歳とする)。
** 12月、菅原伏見陵に葬られた。
* 景行天皇元年
** 3月、田道間守が帰国。
== 宮 ==
[[File:Legendary Imperial Palace of Emperor Suinin.jpg|thumb|220px|right|{{center|垂仁天皇 纒向珠城宮跡碑<br />([[奈良県]][[桜井市]])}}]]
宮([[皇居]])の名称は、『日本書紀』では'''纒向珠城宮'''(まきむくのたまきのみや)、『古事記』では'''師木玉垣宮'''(しきのたまかきのみや)。伝承地は[[奈良県]][[桜井市]]穴師周辺。
なお[[京都府]][[久世郡]][[久御山町]]市田の地には宮城跡とされる地域があり、その地には垂仁天皇と[[和気清麻呂]]を祭った[[珠城神社]](久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1)がある。
== 陵・霊廟 ==
[[File:Horai-yama Kofun, haisho-2.jpg|thumb|220px|right|{{center|垂仁天皇 [[宝来山古墳|菅原伏見東陵]]<br />(奈良県[[奈良市]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''菅原伏見東陵'''(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[奈良市]]尼辻西町にある遺跡名「[[宝来山古墳]]」に治定されている。墳丘長227メートルの[[前方後円墳]]である。宮内庁上の形式は[[前方後円墳|前方後円]]。
『古事記』には「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』には「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『[[続日本紀]]』には「櫛見山陵」とある。『[[延喜式]]』[[諸陵寮]]では「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」として兆域は東西2町・南北2町、陵戸2烟、守戸1烟で遠陵としている。現在の宝来山古墳の濠の中、南東に[[田道間守]]の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、[[戸田忠至]]等による[[文久]]の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
== 伝承 ==
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る<ref name=iwanami/>。
=== 夢占い ===
崇神天皇48年、父の御間城天皇([[崇神天皇]])は活目尊(後の垂仁天皇)とその兄の豊城入彦命のどちらかを皇太子にしたいと考えていた。そこで二人が見た夢から決めることにした。兄の豊城命は東に向かって武器を振るう夢を見た。弟の活目尊は縄を四方に張って雀を追い払う夢を見た。兄は東しか向いていないが弟は四方を見ていると判断した父帝は活目尊を皇太子にした。
=== 誉津別命と白鳥 ===
狭穂彦の謀反で焼死した皇后狭穂姫が遺した誉津別命は、大人になっても言葉を話すことができず振舞いも子供のようだった。即位23年、天皇は群臣に相談したが解決策は浮かばなかった。その翌月、白鳥がやってきたのを見た誉津別命は「あれはなんだ」と初めて言葉を発した。喜んだ天皇は[[天湯河板挙]]にその白鳥を捕まえるよう命じた。湯河板挙は出雲で白鳥を捕まえて天皇に献上した。誉津別命は白鳥を遊び相手にしているうちに言葉を話せるようになったので、ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けた。『[[古事記]]』では[[天湯河板挙]]は[[山辺大鶙]]という名で登場する。[[越国]]まで行って白鳥を捕まえるものの本牟智和気王(誉津別命)は一向にしゃべる気配を見せなかった。その後に天皇は出雲大社の神殿を改築せよという[[大国主神]]の託宣を受けて従ったところ本牟智和気王は言葉を話せるようになったという。
=== 野見宿禰 ===
即位7年、天皇は[[出雲国造家]]の[[野見宿禰]]を召喚した。当麻村に[[当麻蹴速]]という強者がいたからである。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。これが[[相撲節会]]の起源だとされる。天皇は当麻蹴速が持っていた[[大和国]]当麻の地(現[[奈良県]][[葛城市]][[當麻]])を野見宿禰に与えた。
それからしばらくたった即位32年、[[皇后]]の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった[[倭彦命]]の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は[[殉死]]の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる<ref name=naoki13/>。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の[[カバネ|姓]]を与えた。なお考古学的には人型や馬型の埴輪は埴輪の中でもかなり後になって出てくるものであり、人型が始まりというこの説話は正しくないことがわかっている。『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る[[部民]]や赤土で種々の器を作る部民を定めたという意味である。
=== 山背行幸 ===
即位34年、天皇が山背(京都府南部)に行幸したときのことである。[[綺戸辺]](かにはたとべ)という美人がいると聞いた天皇は「もしその人と縁があるならば瑞兆があるはずだ」と[[うけい|誓約(うけい)]]をした。もうすぐ行宮(宿)に着くというところで大きな亀を見つけた天皇は矛を取って突き刺した。すると亀は白い石へと変わった。なるほど、これが瑞兆なのだろうということで綺戸辺は後宮に召された。
=== 非時香菓 ===
晩年の即位90年、天皇は田道間守を[[常世国]]へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。この実は今の[[橘]]であると『[[日本書紀]]』に書かれているが諸説ある。また垂仁天皇陵の周堀には小島があるが、これは江戸時代の修陵で田道間守の墓に擬して削り遺された外堤であり拝所も設けられている。『[[古事記]]』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされ、大后は天皇崩御後まで生きていたことになる。
== 考証 ==
=== 実在性 ===
『[[日本書紀]]』、『古事記』に歴史的事実と認められる伝承は少ない<ref name=naoki13/>。事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、近年においては実在を認めることも多い<ref>[[吉村武彦]]「列島の文明化と律令制国家の形成(稿)」『古代学研究所紀要』第21号(2014)明治大学日本古代学研究所</ref>。
=== 生年、立太子年 ===
『[[日本書紀]]』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。
=== 崩御の月 ===
『日本書紀』の垂仁天皇99年7月条によると垂仁天皇は7月1日に崩じたとある。ところが景行天皇即位前紀によると99年2月に崩じたとあり、垂仁紀と景行紀で依拠した資料が異なると推察される。
=== 倭奴国との関連 ===
『日本書紀』で田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇90年を機械的に西暦に換算すると[[61年]]になる。これは倭(委)[[奴国]]王が[[後漢]]の[[光武帝]]から[[漢委奴国王印|金印]]を授けられた[[57年]]に近いため、書紀の編者は垂仁天皇を倭奴国王、田道間守を[[大夫]]と考えていたことが推測される。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=直木孝次郎|authorlink=直木孝次郎|chapter=垂仁天皇|editor=日本歴史大辞典編集委員会|year=1979|month=11|title=日本歴史大辞典第6巻 す-ち|publisher=[[河出書房新社]]|ref=直木}}
== 外部リンク ==
* [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/011/index.html 菅原伏見東陵] - 宮内庁
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[[Category:古墳時代以前の天皇]]
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軽井沢町
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軽井沢町(かるいざわまち)は、長野県東信地方の町。北佐久郡に属し、浅間山東南麓に位置する。
19世紀末からの高原リゾート都市であり、歴史ある避暑地・別荘地として知られる。
町の北側は森林に広く覆われ、浅間山や上信越高原国立公園へと続いており、南側は草原や田園やゴルフ場が多く分布し、雄大なパノラマ風景が広がっている。町内には別荘、教会、リゾートホテル、レストラン、カフェ、美術館などが点在しており、年間を通じてハイキング、サイクリング、乗馬、ドライブ、ショッピング、ガストロノミー(グルメ)などを楽しむことができ、夏はゴルフやテニス、冬はスキーやスケートといった屋外レクリエーションに適する。
江戸時代までは中山道の宿場町として栄え、軽井沢宿・沓掛宿・追分宿の3宿が置かれたが、明治時代に入ると交通事情の変化により衰退した。そんな中イギリス系カナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーによって、その西洋に似た気候風土から1880年代に避暑地・別荘地として開拓され、それ以降高い人気を博している。
明治から昭和前期にかけて、「日本の中の西洋」と言われるまでに聖職者や外交官など毎夏千数百名の外国人が滞在、全国で最も外国人に人気のある夏のリゾート地となり(「日本三大外国人避暑地」も参照)、キリスト教をはじめとする西洋文化が流入した。大正期からは、外国人に倣って日本の上流階級も数多く滞在、皇族や華族、政財界の要人らの別荘が次々と建設され、社交界の舞台となった。加えて同時期から学者や小説家、画家、音楽家などの文化人も数多く滞在し、サロンの舞台にもなる。第二次世界大戦下には、枢軸国・中立国13ヵ国の大公使館と一般外国人千数百名の疎開先となり、連合国軍による空襲は行われなかった。戦後になると、外国人避暑客は減少するもののその知名度は日本人の間で全国的に拡大、高度経済成長期からバブル期にかけての別荘ブーム、アンノン族によるペンションブーム、平成期における通年型観光地への脱皮などを経て、今日に至るまでに発展した。
町全体が別荘地として整備されており、現在では町内における別荘・保養施設数が1万6000軒を超え、持ち家数の1.5倍以上に及んでいる。別荘所有者による固定資産税の納入(全体の約80%)などから、財務状況が優良な地方自治体であり、県内唯一の地方交付税不交付自治体となっている。
また別荘地であるとともに、三大都市圏や海外などから大勢の観光客が訪れる一大観光地でもあり、「新日本旅行地100選」(1966年)および「新日本観光地100選」(1987年)にも選出されている。2019年には、約840万人の観光客が訪れた。町の観光ビジョンは、堀辰雄による当地を舞台とした小説の題名より、『美しい村』とする。
近年では、静養や観光目的以外に、ワーケーションや移住先としても大きな関心が寄せられている。
地方自治研究機構が2012年に発表した「軽井沢町観光振興調査研究事業報告書」によれば、人々が軽井沢に対して抱いているイメージや魅力として、美しい自然や景勝地が豊富で、街並みが美しく、気候や風土が健康に良い避暑地、洗練されていて、おしゃれ、国際的で高級感や上質感もあり、文化的で芸術的な雰囲気、ショッピングが楽しめ、魅力的な料理店やレストランもある、アクティビティ活動が豊富、などが特筆して挙げられている。ブランド総合研究所が毎年発表している「市区町村魅力度ランキング」では、調査開始時(2007年)より全国1000市区町村の中で常にトップ20にランクインしており、長野県下では1位を維持している。
日本で初めて「高原」と冠された場所とされ、日本における高原野菜、林間学校、テニスブーム、キリスト教式結婚式ブーム、リゾートウェディングの発祥となった町ともされる。また、現在では日本を代表する一大企業グループとなった『西武グループ』の土地開発事業の原点となった町であり、現在では世界中に展開されているホテルチェーンである『星野リゾート』や『プリンスホテル』の誕生の地でもある。日本初と言える分譲別荘地の開発や建売別荘の販売も行われている。また「日本三大野鳥生息地」の一つに数えられ、町内には日本初の『国設野鳥の森』がある。上皇明仁と上皇后美智子が出会った町、ジョン・レノンが長く滞在した町としても知られている。教会の数が仏閣を上回っている珍しい町でもある。さらに、世界選手権出場経験のあるカーリングチーム『SC軽井沢クラブ』『中部電力カーリング部』の本拠地であるほか、世界最高峰の料理コンクール『ボキューズ・ドール』の日本代表に町内から歴代3名を輩出している。
人口約2万人の小さな都市ながら、古くから国際交流が盛んであり、1951年の特別法により「国際観光文化都市」に指定されている。特別法の第一条には、「軽井沢町が世界において稀にみる高原美を有し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的実績を有する」と明記されている。1917年から毎年開催されている軽井沢国際テニストーナメントは、現存する日本最古のテニストーナメントである。1964年東京オリンピックでは馬術、1998年長野オリンピックではカーリングの競技会場になり、世界で初めて、夏季・冬季両方のオリンピック競技会場とされた町である。2014年には、軽井沢国際カーリング選手権大会がアジア初となるワールドカーリングツアーへの参加を果たした。2014年からは日本初の全寮制インターナショナル・スクールで国内唯一のUWC加盟校である『UWC ISAK Japan』が開校している。また、2016年と2023年にはG7関係閣僚会合、2019年にはG20関係閣僚会合の開催地となった。
健康保養地(保健休養地)としての特性から、条例などによってあらゆる面で独自の制限がかけられている。景観面では厳しい建築規制が設けられており、生活面では深夜営業や風俗営業・性風俗関連特殊営業の禁止、歓楽街の排除などが行われている。それに関連して、景観保護活動や自然保護運動が複数の団体によって活発に行われており、著名人も多く参加している。また、町内には主に明治から昭和前期にかけての歴史的建造物が多数現存しており、「ナショナル・トラスト」「ブルー・プラーク」等による保存運動も活発である。
「かるいさわ」と発音されることもある。地名の由来など、詳細は「軽井沢#語源」を参照。
四方を山や丘陵に囲まれた高原であり、起伏豊かな地形を形成している。また水資源が豊富であり、町内には滝や、河川を堰き止めた湖・池が多く見られる(#景勝地参照)。町の北側一帯は上信越高原国立公園であり、重要野鳥生息地(IBA)、国指定鳥獣保護区に指定されている。
ケッペンの気候区分によると、軽井沢町は湿潤大陸性気候または亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。7月から8月にかけての日平均気温は東京と比べて6°C程度低く、冷涼である。12月から2月にかけては日平均気温が氷点下となり、寒さが厳しい。冬季は-15°C前後の気温が観測されることも珍しくない。
降水量は夏季に多く、冬季は少ない。また、冬季は降雪量もさほど多くなく、夏季に比べて日照時間が長い。年間100日以上霧が発生し、湿度は年平均で80%程度となる。ただし、寒冷地であるため、不快感をもたらすことは少ない。
2021年現在まで、人口、別荘数ともに長らく増加傾向が続いてきたが、特に新型コロナウイルスが流行して以降、その増加率は高まりを見せている。地方移住の需要増加により、2020年の同町の人口(転入)は全国の町村で最も高くなり、住宅地、商業地ともに地価は上昇、住宅地の上昇率は県内トップであった。また、国内リゾートの需要増加により、別荘地の地価も上昇、一部報道では物件不足とまで言われている。この傾向は、コロナ収束後も急に冷え込むとは考えにくいとされており、町は歓迎しつつも、乱開発やブランドイメージ低下につながらないよう、注意深く見守るとしている。
わたくしたちは、雄大な浅間山にいだかれた高原の町軽井沢の町民です。 わたくしたちは、国際親善文化観光都市の住民にふさわしい世界的視野と未来への展望に立って、ここに町民憲章を制定します。
出典:
など
一部冬季休館する施設がある。
北陸新幹線やしなの鉄道線、浅間サンラインや日本ロマンチック街道を介して隣接する、長野県の御代田町・小諸市・佐久市・東御市・上田市、群馬県の嬬恋村・長野原町・草津町・安中市・下仁田町と大規模な経済圏を形成しており、軽井沢町はその中核をなす(近年では「大軽井沢経済圏」という呼称がある)。また軽井沢町は、東日本からの長野県への玄関口としての役割も担っている。
ほか多数
町内に大規模な工場を建設することは規制されているため、軽井沢と称する企業や軽井沢に所在する企業などによる大規模な工場は、近隣の自治体に置かれている(御代田町#産業などを参照)。
歴史的に避暑客のために別地域から夏季限定で出店する形をとる商店が多かった軽井沢町では、軽井沢町にある店舗が最も著名であっても創業地や本社・本店は別地域にあるという企業が少なくなく、大きな特色となっている。その一例として、浅野屋やミカドコーヒーがある。
また、軽井沢の大正期以降のリゾート地としての大きな発展は、西武グループとともにあるといっても過言ではなく、現在でも西武は軽井沢に広大な土地を所有・管理しており、同地のリゾート産業を支えている。
ウイスキーの銘柄『軽井沢』は世界トップの評価を受けたことで世界的にも知られるが、その蒸留所(メルシャン軽井沢美術館)は、実際には隣接する自治体の御代田町に存在していた。同じく町内に本社を構えるクラフトビール製造会社の『ヤッホーブルーイング』『軽井沢ブルワリー』の2社についても、その醸造所は隣接する自治体の佐久市に存在している。これらの理由については、前述の#立地企業で記したとおり。
ほか多数
以下は、戦前に外国人向けに出版された軽井沢への旅行案内の一部である。
以下、軽井沢町公式ホームページの町の施設のご案内も参照。
避暑地・別荘地となって多くの著名人が訪れた経緯から、近現代の人物に関する碑が多いのが特徴である。一部を挙げる。
見晴台は江戸時代以来の景勝地で、群馬県安中市松井田町側に跨る峠町の茶店各店も当時から営業。他は軽井沢が避暑地になってから造成されたり、人の手が加えられている場所が多い。雲場池・レマン湖((南)軽井沢湖)・塩沢湖は近代以降の人造湖。白糸の滝も人工的に拡張・改変されている。
町内には12の教会とその他複数の修道院・キリスト教信徒修養施設が存在する。以下に主な教会を挙げる。
いずれもそれぞれ数施設の立ち寄り湯と温泉宿があるのみであり、他の地域でいう温泉街に当たるものは存在しない。
など
6大字3地区・30区がある。
小字名は別に存在する。別荘地の名称や観光案内のエリア区分等とは一致しない。また各地域の各別荘地では軽井沢郵便局が配達の便宜上別荘や別荘地内を区分し、個々の別荘に「ハウス番号」と呼ばれる数字やアルファベットなどを付けており、宅配業者などもこれを利用している。1926年(大正15年)以来行われており、別荘にも住居表示のように掲げられている。なおこれらは住居表示に関する法律とは無関係の記号であり、住民基本台帳法上の住所・地番とも異なる。
不動産業者・観光業者などが概ね下記のような名称を用いてエリア分けを行っているが、これらは土地・別荘開発・販売業者が付けた別荘地の呼称や、観光案内等において用いられている名称であり、行政上の地名・地域区分として存在しているものではない。
以下は町外
特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。
特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。
なお、かつての別荘所有者の多くは、夏になると生活拠点を完全に別荘に移し、秋にかけて数ヶ月間そこで暮らしていたため、その意味では、避暑に訪れた多くの著名人が、夏の期間は軽井沢町在住者であった。近年では、その代替として海外や都市圏との二拠点生活を送る者が増えている。
ほか多数
ほか
ほか
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"text": "地方自治研究機構が2012年に発表した「軽井沢町観光振興調査研究事業報告書」によれば、人々が軽井沢に対して抱いているイメージや魅力として、美しい自然や景勝地が豊富で、街並みが美しく、気候や風土が健康に良い避暑地、洗練されていて、おしゃれ、国際的で高級感や上質感もあり、文化的で芸術的な雰囲気、ショッピングが楽しめ、魅力的な料理店やレストランもある、アクティビティ活動が豊富、などが特筆して挙げられている。ブランド総合研究所が毎年発表している「市区町村魅力度ランキング」では、調査開始時(2007年)より全国1000市区町村の中で常にトップ20にランクインしており、長野県下では1位を維持している。",
"title": "概要・特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本で初めて「高原」と冠された場所とされ、日本における高原野菜、林間学校、テニスブーム、キリスト教式結婚式ブーム、リゾートウェディングの発祥となった町ともされる。また、現在では日本を代表する一大企業グループとなった『西武グループ』の土地開発事業の原点となった町であり、現在では世界中に展開されているホテルチェーンである『星野リゾート』や『プリンスホテル』の誕生の地でもある。日本初と言える分譲別荘地の開発や建売別荘の販売も行われている。また「日本三大野鳥生息地」の一つに数えられ、町内には日本初の『国設野鳥の森』がある。上皇明仁と上皇后美智子が出会った町、ジョン・レノンが長く滞在した町としても知られている。教会の数が仏閣を上回っている珍しい町でもある。さらに、世界選手権出場経験のあるカーリングチーム『SC軽井沢クラブ』『中部電力カーリング部』の本拠地であるほか、世界最高峰の料理コンクール『ボキューズ・ドール』の日本代表に町内から歴代3名を輩出している。",
"title": "概要・特徴"
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"text": "人口約2万人の小さな都市ながら、古くから国際交流が盛んであり、1951年の特別法により「国際観光文化都市」に指定されている。特別法の第一条には、「軽井沢町が世界において稀にみる高原美を有し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的実績を有する」と明記されている。1917年から毎年開催されている軽井沢国際テニストーナメントは、現存する日本最古のテニストーナメントである。1964年東京オリンピックでは馬術、1998年長野オリンピックではカーリングの競技会場になり、世界で初めて、夏季・冬季両方のオリンピック競技会場とされた町である。2014年には、軽井沢国際カーリング選手権大会がアジア初となるワールドカーリングツアーへの参加を果たした。2014年からは日本初の全寮制インターナショナル・スクールで国内唯一のUWC加盟校である『UWC ISAK Japan』が開校している。また、2016年と2023年にはG7関係閣僚会合、2019年にはG20関係閣僚会合の開催地となった。",
"title": "概要・特徴"
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"text": "健康保養地(保健休養地)としての特性から、条例などによってあらゆる面で独自の制限がかけられている。景観面では厳しい建築規制が設けられており、生活面では深夜営業や風俗営業・性風俗関連特殊営業の禁止、歓楽街の排除などが行われている。それに関連して、景観保護活動や自然保護運動が複数の団体によって活発に行われており、著名人も多く参加している。また、町内には主に明治から昭和前期にかけての歴史的建造物が多数現存しており、「ナショナル・トラスト」「ブルー・プラーク」等による保存運動も活発である。",
"title": "概要・特徴"
},
{
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"text": "「かるいさわ」と発音されることもある。地名の由来など、詳細は「軽井沢#語源」を参照。",
"title": "概要・特徴"
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{
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"text": "四方を山や丘陵に囲まれた高原であり、起伏豊かな地形を形成している。また水資源が豊富であり、町内には滝や、河川を堰き止めた湖・池が多く見られる(#景勝地参照)。町の北側一帯は上信越高原国立公園であり、重要野鳥生息地(IBA)、国指定鳥獣保護区に指定されている。",
"title": "地理"
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"text": "ケッペンの気候区分によると、軽井沢町は湿潤大陸性気候または亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。7月から8月にかけての日平均気温は東京と比べて6°C程度低く、冷涼である。12月から2月にかけては日平均気温が氷点下となり、寒さが厳しい。冬季は-15°C前後の気温が観測されることも珍しくない。",
"title": "気候"
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"text": "降水量は夏季に多く、冬季は少ない。また、冬季は降雪量もさほど多くなく、夏季に比べて日照時間が長い。年間100日以上霧が発生し、湿度は年平均で80%程度となる。ただし、寒冷地であるため、不快感をもたらすことは少ない。",
"title": "気候"
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"text": "2021年現在まで、人口、別荘数ともに長らく増加傾向が続いてきたが、特に新型コロナウイルスが流行して以降、その増加率は高まりを見せている。地方移住の需要増加により、2020年の同町の人口(転入)は全国の町村で最も高くなり、住宅地、商業地ともに地価は上昇、住宅地の上昇率は県内トップであった。また、国内リゾートの需要増加により、別荘地の地価も上昇、一部報道では物件不足とまで言われている。この傾向は、コロナ収束後も急に冷え込むとは考えにくいとされており、町は歓迎しつつも、乱開発やブランドイメージ低下につながらないよう、注意深く見守るとしている。",
"title": "人口"
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"text": "わたくしたちは、雄大な浅間山にいだかれた高原の町軽井沢の町民です。 わたくしたちは、国際親善文化観光都市の住民にふさわしい世界的視野と未来への展望に立って、ここに町民憲章を制定します。",
"title": "環境"
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"text": "出典:",
"title": "環境"
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{
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"text": "など",
"title": "教育"
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{
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"text": "一部冬季休館する施設がある。",
"title": "教育"
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{
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"text": "北陸新幹線やしなの鉄道線、浅間サンラインや日本ロマンチック街道を介して隣接する、長野県の御代田町・小諸市・佐久市・東御市・上田市、群馬県の嬬恋村・長野原町・草津町・安中市・下仁田町と大規模な経済圏を形成しており、軽井沢町はその中核をなす(近年では「大軽井沢経済圏」という呼称がある)。また軽井沢町は、東日本からの長野県への玄関口としての役割も担っている。",
"title": "産業"
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"text": "ほか多数",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "町内に大規模な工場を建設することは規制されているため、軽井沢と称する企業や軽井沢に所在する企業などによる大規模な工場は、近隣の自治体に置かれている(御代田町#産業などを参照)。",
"title": "産業"
},
{
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"text": "歴史的に避暑客のために別地域から夏季限定で出店する形をとる商店が多かった軽井沢町では、軽井沢町にある店舗が最も著名であっても創業地や本社・本店は別地域にあるという企業が少なくなく、大きな特色となっている。その一例として、浅野屋やミカドコーヒーがある。",
"title": "産業"
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{
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"text": "また、軽井沢の大正期以降のリゾート地としての大きな発展は、西武グループとともにあるといっても過言ではなく、現在でも西武は軽井沢に広大な土地を所有・管理しており、同地のリゾート産業を支えている。",
"title": "産業"
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{
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"text": "ウイスキーの銘柄『軽井沢』は世界トップの評価を受けたことで世界的にも知られるが、その蒸留所(メルシャン軽井沢美術館)は、実際には隣接する自治体の御代田町に存在していた。同じく町内に本社を構えるクラフトビール製造会社の『ヤッホーブルーイング』『軽井沢ブルワリー』の2社についても、その醸造所は隣接する自治体の佐久市に存在している。これらの理由については、前述の#立地企業で記したとおり。",
"title": "産業"
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"text": "ほか多数",
"title": "産業"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "以下は、戦前に外国人向けに出版された軽井沢への旅行案内の一部である。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "以下、軽井沢町公式ホームページの町の施設のご案内も参照。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "避暑地・別荘地となって多くの著名人が訪れた経緯から、近現代の人物に関する碑が多いのが特徴である。一部を挙げる。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "見晴台は江戸時代以来の景勝地で、群馬県安中市松井田町側に跨る峠町の茶店各店も当時から営業。他は軽井沢が避暑地になってから造成されたり、人の手が加えられている場所が多い。雲場池・レマン湖((南)軽井沢湖)・塩沢湖は近代以降の人造湖。白糸の滝も人工的に拡張・改変されている。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "町内には12の教会とその他複数の修道院・キリスト教信徒修養施設が存在する。以下に主な教会を挙げる。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "いずれもそれぞれ数施設の立ち寄り湯と温泉宿があるのみであり、他の地域でいう温泉街に当たるものは存在しない。",
"title": "名所・旧跡・観光スポット"
},
{
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"text": "など",
"title": "行事"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "6大字3地区・30区がある。",
"title": "大字・地区"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "小字名は別に存在する。別荘地の名称や観光案内のエリア区分等とは一致しない。また各地域の各別荘地では軽井沢郵便局が配達の便宜上別荘や別荘地内を区分し、個々の別荘に「ハウス番号」と呼ばれる数字やアルファベットなどを付けており、宅配業者などもこれを利用している。1926年(大正15年)以来行われており、別荘にも住居表示のように掲げられている。なおこれらは住居表示に関する法律とは無関係の記号であり、住民基本台帳法上の住所・地番とも異なる。",
"title": "大字・地区"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "不動産業者・観光業者などが概ね下記のような名称を用いてエリア分けを行っているが、これらは土地・別荘開発・販売業者が付けた別荘地の呼称や、観光案内等において用いられている名称であり、行政上の地名・地域区分として存在しているものではない。",
"title": "大字・地区"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "以下は町外",
"title": "大字・地区"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。",
"title": "ゆかりのある外国人"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。",
"title": "ゆかりのある日本人"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、かつての別荘所有者の多くは、夏になると生活拠点を完全に別荘に移し、秋にかけて数ヶ月間そこで暮らしていたため、その意味では、避暑に訪れた多くの著名人が、夏の期間は軽井沢町在住者であった。近年では、その代替として海外や都市圏との二拠点生活を送る者が増えている。",
"title": "在住の著名人"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "ほか多数",
"title": "ゆかりのある作品"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ほか",
"title": "ゆかりのある作品"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ほか",
"title": "ゆかりのある作品"
}
] |
軽井沢町(かるいざわまち)は、長野県東信地方の町。北佐久郡に属し、浅間山東南麓に位置する。 19世紀末からの高原リゾート都市であり、歴史ある避暑地・別荘地として知られる。
|
{{Otheruseslist|自治体としての軽井沢|地域としての軽井沢|軽井沢|その他|軽井沢 (曖昧さ回避)}}
{{日本の町村
| 画像 = {{Multiple image
| border = infobox
| total_width = 290
| image_style = border:1;
| perrow = 1/2/2
| image1 = 220929 Mt Asama Karuizawa Nagano pref Japan01s3.jpg
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}}
| 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse">
<tr><td colspan="2">町内より[[浅間山]]を望む</tr><tr><td>[[旧軽井沢メインストリート|旧軽井沢メイン<br>ストリート]]<td>[[軽井沢聖パウロカトリック教会|軽井沢聖パウロ<br />カトリック教会]]</tr><tr><td>[[白糸の滝 (長野県)|白糸の滝]]<td>町内の[[別荘地]]</tr>
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| 旗 = [[ファイル:Flag of Karuizawa, Nagano.svg|100px|軽井沢町旗]]
| 旗の説明 = 軽井沢町旗<br />[[1960年]][[12月22日]]制定
| 紋章 = [[ファイル:Emblem of Karuizawa, Nagano.svg|80px|軽井沢町章]]
| 紋章の説明 = 軽井沢町章<br />1960年12月22日制定
| 自治体名 = 軽井沢町
| 区分 = 町
| 都道府県 = 長野県
| 郡 = [[北佐久郡]]
| コード = 20321-1
| 隣接自治体 = [[佐久市]]、[[北佐久郡]][[御代田町]]<br />[[群馬県]]:[[高崎市]]、[[安中市]]、[[甘楽郡]][[下仁田町]]、[[吾妻郡]][[長野原町]]、[[嬬恋村]]
| 木 =[[コブシ]]
| 花 = [[サクラソウ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など = 町の鳥:[[アカハラ]]<br />町の動物:[[ニホンリス]]
| 郵便番号 = 389-0192
| 所在地 = 北佐久郡軽井沢町大字[[長倉 (軽井沢町)|長倉]]2381-1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-20|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Karuizawa town office.JPG|250px]]<br />軽井沢町役場
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|20|321|image=Karuizawa in Nagano Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}{{Infobox mapframe|zoom=10}}
| 特記事項 =
}}
'''軽井沢町'''(かるいざわまち)は、[[長野県]][[東信地方]]の[[町]]。[[北佐久郡]]に属し、[[浅間山]]東南麓に位置する。
[[19世紀]]末からの[[高原]][[リゾート|リゾート都市]]であり、歴史ある[[避暑地]]・[[別荘地]]として知られる<ref>Machteld Huber, Hans Peter Jung, Karolien van den Brekel-Dijkstra, ''Handbook Positive Health in Primary Care: The Dutch Example'', Bohn Stafleu Van Loghum, p.277, 2021.</ref><ref>Jarrold Baedeker, Baedeker’s Japan, Prentice Hall, p.227, 1993.</ref><ref>筑波大学人文地理学研究 第17-20号, 筑波大学地球科学系, p.160, 1993.</ref><ref>Kiyohide Yamashita, Japan and People, Nichibei Keizai-Domei Kenkyu-Kai, p.202, 1960.</ref>。
== 概要・特徴 ==
[[ファイル:Kyu-Karuizawa Golf Club colorized.jpg|thumb|200px|1923年の[[旧軽井沢ゴルフクラブ]]([[昭和天皇|摂政宮]]御一行)]]
[[ファイル:Kyu-Karuizawa Main Street, Vintage Photos colorized.jpg|thumb|200px|1930年代の[[旧軽井沢メインストリート]]]]
{{Main|軽井沢#避暑地・別荘地としての特徴}}
町の[[北]]側は[[森林]]に広く覆われ、[[浅間山]]や[[上信越高原国立公園]]へと続いており、[[南]]側は[[草原]]や田園や[[ゴルフ場]]が多く分布し、雄大な[[パノラマ]]風景が広がっている。町内には[[別荘]]、[[教会]]、[[リゾートホテル]]、[[レストラン]]、[[カフェ]]、[[美術館]]などが点在しており、年間を通じて[[ハイキング]]、[[サイクリング]]、[[乗馬]]、[[ドライブ]]、[[買物|ショッピング]]、[[ガストロノミー]]([[グルメ]])などを楽しむことができ、[[夏]]は[[ゴルフ]]や[[テニス]]、[[冬]]は[[スキー]]や[[スケート]]といった屋外[[レクリエーション]]に適する。
[[江戸時代]]までは[[中山道]]の[[宿場町]]として栄え、[[軽井沢宿]]・[[沓掛宿]]・[[追分宿]]の3宿が置かれたが、[[明治|明治時代]]に入ると交通事情の変化により衰退した。そんな中[[イギリス系]][[カナダ人]][[宣教師]]の[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]によって、その[[西洋]]に似た[[気候]][[風土]]から[[1880年代]]に[[避暑地]]・[[別荘地]]として開拓され、それ以降高い人気を博している。
明治から[[昭和]]前期にかけて、「日本の中の西洋」と言われるまでに[[聖職者]]や[[外交官]]など毎夏千数百名の外国人が滞在、全国で最も外国人に人気のある夏のリゾート地となり(「[[避暑地#日本三大外国人避暑地|日本三大外国人避暑地]]」も参照)、[[キリスト教]]をはじめとする西洋文化が流入した。[[大正]]期からは、外国人に倣って日本の[[上流階級]]も数多く滞在、[[皇族]]や[[華族]]、[[政治家|政]][[実業家|財]]界の要人らの別荘が次々と建設され、[[社交界]]の舞台となった。加えて同時期から[[学者]]や[[小説家]]、[[画家]]、[[音楽家]]などの[[文化人]]も数多く滞在し、[[サロン]]の舞台にもなる。[[第二次世界大戦]]下には、[[枢軸国]]・[[中立国]]13ヵ国の[[大使館|大公使館]]と一般外国人千数百名の[[疎開]]先となり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による[[日本本土空襲|空襲]]は行われなかった。[[戦後]]になると、外国人避暑客は減少するもののその知名度は[[日本人]]の間で全国的に拡大、[[高度経済成長|高度経済成長期]]から[[バブル経済|バブル期]]にかけての別荘ブーム、[[アンノン族]]による[[ペンション]]ブーム、[[平成]]期における通年型[[観光地]]への脱皮などを経て、今日に至るまでに発展した。
町全体が別荘地として[[整備]]されており、現在では町内における別荘・[[保養所|保養施設]]数が1万6000軒を超え、[[住宅|持ち家]]数の1.5倍以上に及んでいる<ref name ="one"> [https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/index.html 軽井沢町の統計] 軽井沢町</ref>。別荘所有者による[[固定資産税]]の納入(全体の約80%<ref>“[https://www.karuizawa.co.jp/newspaper/news/2020/10/4.php 固定資産税の納入者 79・4%は町外住民]”軽井沢ウェブ(2020年10月6日配信)2021年7月15日閲覧。</ref>)などから、財務状況が優良な地方自治体であり、県内唯一の[[地方交付税]]不交付[[地方公共団体|自治体]]となっている。
また別荘地であるとともに、[[三大都市圏]]や[[海外]]などから大勢の観光客が訪れる一大[[観光地]]でもあり、「[[新日本旅行地100選]]」(1966年)および「[[新日本観光地100選]]」(1987年)にも選出されている。2019年には、約840万人の観光客が訪れた<ref name ="one/>。町の観光ビジョンは、[[堀辰雄]]による当地を舞台とした小説の題名より、『[[美しい村]]』とする。
近年では、静養や観光目的以外に、[[ワーケーション]]や[[移住]]先としても大きな関心が寄せられている<ref name ="nikkei20210921">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC152FU0V10C21A9000000/ 新潟市・軽井沢町で地価上昇 新潟・長野、二極化鮮明] 日本経済新聞(2021年9月21日)</ref>。
[[地方自治研究機構]]が2012年に発表した「軽井沢町観光振興調査研究事業報告書」によれば、人々が軽井沢に対して抱いているイメージや魅力として、美しい[[自然]]や[[景勝地]]が豊富で、街並みが美しく、[[気候]]や[[風土]]が健康に良い避暑地、洗練されていて、おしゃれ、国際的で高級感や上質感もあり、[[文化]]的で[[芸術]]的な雰囲気、ショッピングが楽しめ、魅力的な料理店やレストランもある、[[アウトドア|アクティビティ]]活動が豊富、などが特筆して挙げられている<ref>地方自治研究機構「[http://fields.canpan.info/report/detail/16409 軽井沢町観光振興調査研究事業報告書]」(平成24年3月)65-67頁</ref>。[[ブランド総合研究所]]が毎年発表している「[[市区町村]]魅力度ランキング」では、調査開始時(2007年<ref group ="注釈">調査自体は2006年に開始されたが、2006年は軽井沢町が調査対象外であったため、当該地を含めた調査の開始は2007年となる。</ref>)より全国1000市区町村の中で常にトップ20にランクインしており、長野県下では1位を維持している。
日本で初めて「[[高原]]」と冠された場所とされ<ref>[https://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/271/ 軽井沢高原の風土] 軽井沢観光協会</ref>、日本における[[高原野菜]]<ref>世界大百科事典 第2版「高原野菜」の解説</ref>、[[林間学校]]<ref name ="satosaito">{{Cite journal|和書|author=佐藤大祐, 斎藤功|title=明治・大正期の軽井沢における高原避暑地の形成と別荘所有者の変遷 |url=|journal=歴史地理学 |publisher=歴史地理学会|year=2004|month=jun|volume=46|issue=3|pages=1 - 20|naid= 40006378788 |issn= 03887464}}</ref>、テニスブーム<ref>[https://www.jta-tennis.or.jp/history/tabid/382/Default.aspx 写真が語る日本テニス史 【昭和20(1945)年】~6]日本テニス協会</ref>、[[結婚式#キリスト教(教会)式|キリスト教式結婚式]]ブーム<ref>[https://yumenavi.info/lecture_sp.aspx?GNKCD=g009699&OraSeq=44&ProId=WNA002&SerKbn=Z&SearchMod=2&Page=1&KeyWord=宗教 独自の進化を遂げた日本のブライダルビジネス] 夢ナビ</ref>、リゾートウェディング<ref>増田榮美「現代結婚式の歴史 —リゾートウェディングの誕生に焦点をあてて—」(紀要 (39), 37-52, 2016-01-31
上田女子短期大学)pp.33-34</ref>の発祥となった町ともされる。また、現在では日本を代表する一大企業グループとなった『[[西武グループ]]』の土地開発事業の原点となった町であり、現在では世界中に展開されている[[ホテル]][[チェーンストア|チェーン]]である『[[星野リゾート]]』や『[[プリンスホテル]]』の誕生の地でもある。日本初と言える[[分譲]]別荘地の開発<ref name ="satosaito"/>や[[建売]]別荘の販売<ref>[https://www.seibuholdings.co.jp/assets/pdf/history/SeibuHD_history_02-02.pdf 写真で見る西武ヒストリー(前編)II 西武グループ土地開発創始期(1893 - 1969)] 西武ホールディングス</ref>も行われている。また「日本三大[[野鳥]]生息地」の一つに数えられ<ref>『福島県民百科』(福島民友新聞社, 1980年)885頁</ref>、町内には日本初<ref>森田敏隆『日本国立公園 第2巻』(毎日新聞社, 1985年)128頁</ref>の『国設野鳥の森』がある。[[上皇明仁]]と[[上皇后美智子]]が出会った町、[[ジョン・レノン]]が長く滞在した町としても知られている。[[教会 (キリスト教)|教会]]の数が[[仏閣]]を上回っている珍しい町でもある<ref>”[https://www.karuizawa.co.jp/editor/2021/12/post-713.php 軽井沢のクリスマス]”軽井沢ウェブ(軽井沢新聞社)</ref>。さらに、[[世界カーリング選手権|世界選手権]]出場経験のある[[カーリング]]チーム『[[SC軽井沢クラブ]]』『[[中部電力カーリング部]]』の本拠地であるほか、世界最高峰の[[料理]][[コンクール]]『[[ボキューズ・ドール]]』の日本代表に町内から歴代3名<ref group="注釈">2011年 : 中洲達郎(軽井沢ホテルブレストンコート)、2013年 : 浜田統之(軽井沢ホテルブレストンコート)、2021年 : 戸枝忠孝(レストランTOEDA)。なお、2001年大会日本代表の濱野弘典は、2018年より[[軽井沢プリンスホテル|ザ・プリンス軽井沢]]の料理長を務めている。</ref>を輩出している。
[[人口]]約2万人の小さな[[都市]]ながら、古くから[[国際交流]]が盛んであり、1951年の特別法により「[[国際観光文化都市]]」に指定されている。特別法の第一条には、「軽井沢町が世界において稀にみる高原美を有し、すぐれた保健地であり、国際親善に貢献した歴史的実績を有する」と明記されている。1917年から毎年開催されている[[軽井沢会テニスコート#軽井沢国際テニストーナメント|軽井沢国際テニストーナメント]]は、現存する日本最古<ref>[http://karuto.org/past/index.html 「軽トー」の歴史・歴代優勝者] 軽井沢国際テニストーナメント</ref>のテニス[[トーナメント方式|トーナメント]]である。[[1964年東京オリンピック]]では[[オリンピックの馬術競技|馬術]]、[[1998年長野オリンピック]]では[[1998年長野オリンピックのカーリング競技|カーリング]]の競技会場になり、世界で初めて<ref>George Cantor, Anne Jannette Johnson, The Olympic Factbook: A Spectator's Guide to the Winter Games, p.64, Visible Ink Press, 1997.</ref>、[[夏季オリンピック|夏季]]・[[冬季オリンピック|冬季]]両方の[[近代オリンピック|オリンピック]]競技会場とされた町である。2014年には、[[軽井沢国際カーリング選手権大会]]がアジア初<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20141119-DSKOT76RVZIUJJ77F64KJRTFU4/ |title=「軽井沢国際カーリング選手権」がワールドツアーにアジアで初の参加 |website=産経ニュース |date=2014-11-19 |access-date=2022-05-23}}</ref>となる[[ワールドカーリングツアー]]への参加を果たした。2014年からは日本初の全寮制[[インターナショナル・スクール]]で国内唯一の[[ユナイテッド・ワールド・カレッジ|UWC]]加盟校である『[[ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン|UWC ISAK Japan]]』が開校している。また、2016年と2023年には[[主要国首脳会議|G7]]関係閣僚会合、2019年には[[G20]]関係閣僚会合の開催地となった。
[[健康]][[保養地]](保健休養地)としての特性から、[[条例]]などによってあらゆる面で独自の制限がかけられている。景観面では厳しい[[建築]]規制が設けられており、生活面では[[深夜]]営業や[[風俗営業]]・[[性風俗関連特殊営業]]の禁止、[[歓楽街]]の排除などが行われている。それに関連して、景観保護活動や自然保護運動が複数の団体によって活発に行われており、著名人も多く参加している。また、町内には主に明治から昭和前期にかけての歴史的建造物が多数現存しており、「[[ナショナル・トラスト]]」「[[ブルー・プラーク]]」等による保存運動も活発である。
「かるい'''さ'''わ」と発音されることもある。地名の由来など、詳細は「[[軽井沢#語源]]」を参照。
== 地理 ==
[[ファイル:Karuizawa and Mt. Asama (51744767255).jpg|thumb|200px|矢ヶ崎公園から離山と浅間山を望む]]
[[ファイル:Muro Saisei literary monument - Karuizawa, Japan - DSC01972.JPG|thumb|200px|矢ヶ崎川と[[室生犀星]]碑]]
[[ファイル:Road near Yagasaki River - Karuizawa, Japan - DSC02010.JPG|thumb|200px|霧に包まれた小径]]
{{see also|軽井沢#地理}}
四方を[[山]]や[[丘陵]]に囲まれた[[高原]]であり、起伏豊かな地形を形成している。また[[水資源]]が豊富であり、町内には[[滝]]や、[[河川]]を堰き止めた[[湖]]・[[池]]が多く見られる([[#景勝地]]参照)。町の北側一帯は[[上信越高原国立公園]]であり、[[重要野鳥生息地]](IBA)、[[国指定鳥獣保護区]]に指定されている。
* 最高地点 2,568メートル(浅間山山頂)
* 最低地点 798.7メートル
*[[軽井沢駅]]は標高約940メートル。
=== 山地 ===
* [[浅間山]]
* [[碓氷峠]]
* [[石尊山]]
* [[小浅間山]]
* [[一ノ字山]]
* [[留夫山]]
* [[鼻曲山]]
* [[風越山 (軽井沢町)|風越山]]
* [[離山 (長野県)|離山]]
* [[愛宕山 (軽井沢町)|愛宕山]]
* [[軽井沢プリンスホテルスキー場#矢ヶ崎山|矢ヶ崎山]]
* [[押立山]]
* [[八風山]]
=== 河川 ===
* [[湯川 (北佐久郡)|湯川]]
* [[濁川 (長野県)|濁川]]
* [[精進場川]]
* [[矢ヶ崎川]]
* [[泥川]]
* [[雲場池|雲場川]]
* [[茂沢川]]
* [[中沢川]]
* [[熊沢川 (長野県)|熊沢川]]
* [[発地川]]
=== 隣接する自治体 ===
* 長野県
** [[佐久市]]
** 北佐久郡:[[御代田町]]
* [[群馬県]]
** [[高崎市]]
** [[安中市]]
** [[甘楽郡]]:[[下仁田町]]
** [[吾妻郡]]:[[長野原町]]、[[嬬恋村]]
{{-}}
== 気候 ==
[[ケッペンの気候区分]]によると、軽井沢町は[[湿潤大陸性気候]]または[[亜寒帯湿潤気候]](Dfb)に属する。7月から8月にかけての日平均気温は東京と比べて6℃程度低く、冷涼である。12月から2月にかけては日平均気温が氷点下となり、寒さが厳しい。冬季は-15℃前後の気温が観測されることも珍しくない。
降水量は夏季に多く、冬季は少ない。また、冬季は降雪量もさほど多くなく、夏季に比べて日照時間が長い。年間100日以上[[霧]]が発生し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/sp/contents/1001000000280/index.html |title= 気象|website=軽井沢町HP|publisher=軽井沢町役場|accessdate=2021-10-01}}</ref>、[[湿度]]は年平均で80%程度となる。ただし、寒冷地であるため、[[不快指数|不快感]]をもたらすことは少ない。
* 日最高気温 - 34.2℃([[1946年]][[7月16日]])
* 日最低気温 - -21.0℃([[1936年]][[3月1日]])
* 最大降水量 - 318.8mm([[1949年]][[8月31日]])
* 最大瞬間風速 - 36.3m([[1959年]][[8月14日]])
* 最深積雪 - 99cm([[2014年]][[2月15日]])
* 夏日最多日数 - 85日([[2010年]])
* 真夏日最多日数 - 22日([[1995年]])
* 猛暑日最多日数 - 0日([[1955年]]~[[2013年]])
* 熱帯夜最多日数 - 0日
* 冬日最多日数 - 180日([[1943年]]寒候年)
{{Weather box
|location = 軽井沢町大字追分(軽井沢特別地域気象観測所、標高999m)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 16.1
|Feb record high C = 18.8
|Mar record high C = 22.6
|Apr record high C = 28.3
|May record high C = 29.5
|Jun record high C = 32.1
|Jul record high C = 34.2
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|Sep record high C = 31.3
|Oct record high C = 27.7
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|year record high C = 34.2
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|year high C = 14.6
|Jan mean C = -3.3
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|Jun mean C = 16.0
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|Jan low C = -8.2
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|Jan precipitation mm = 36.8
|Feb precipitation mm = 36.8
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|Oct precipitation mm = 151.1
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|Jan snow cm = 44
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|Nov snow cm = 1
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|year snow cm = 141
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|year humidity = 80
|unit precipitation days = 0.5 mm
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|Jan sun = 181.6
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|Dec sun = 171.9
|year sun = 2022.0
|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1925年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=48&block_no=47622&year=&month=&day=&view=
| title = 平年値ダウンロード
| accessdate = 2021-06
| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
| url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=48&block_no=47622&year=&month=&day=&view=
| title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)
| accessdate = 2021-06
| publisher = 気象庁}}
</ref>
}}<div style="font-size:smaller">
{{climate chart|'''軽井沢'''
|-8.2|2.3|36.8
|-8.0|3.5|36.8
|-4.5|7.8|68.3
|0.6|14.3|81.0
|6.3|19.2|108.8
|11.8|21.5|154.6
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|float=right
|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=48&block_no=47622&year=&month=&day=&view= 気象庁]
}}
</div>
== 歴史 ==
{{右|
[[ファイル:Alexander Croft Shaw.jpg|thumb|none|[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]。当地を生涯の避暑地とし、その魅力を国内外に紹介した。]]
[[ファイル:Ame-mia u1.jpg|thumb|none|[[雨宮敬次郎]]。明治期に大規模な開墾事業を行う。]]
[[ファイル:Nozawa Genjirou.jpg|thumb|none|[[野澤源次郎]]。当地での転地療養をきっかけに別荘地開発に乗り出す。]]
[[ファイル:Yasujiro Tsutsumi 02.jpg|thumb|none|[[堤康次郎]]。大正期より大規模な別荘地開発、観光地開発を行う。]]
[[ファイル:Norman family.jpg|thumb|none|[[ダニエル・ノーマン]](中央)。[[軽井沢会]]の理事として清潔な軽井沢をつくるのに貢献。「軽井沢の村長さん」と呼ばれ親しまれた。]]
}}
{{main|軽井沢#歴史}}
* [[縄文時代]]中期から後期 - 当町の南部に、北方文化形式の最南端の遺跡が所在<ref name="kadokawa">「角川日本地名大辞典」編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]]』20.長野県、1990年、{{ISBN2|4-04-001200-3}}</ref>。
* [[鎌倉時代]](1250年頃) - [[信濃国#勅旨牧|長倉牧]]が置かれる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1596年]]-[[1615年]]([[慶長]]年間) - [[中山道]]が整備され、これ以降、浅間三宿([[軽井沢宿]]・[[沓掛宿]]・[[追分宿]])が繁栄する<ref name="kadokawa"/>。
* [[江戸時代]] - [[小諸藩]]領となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年) - [[徳川忠長]]領となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1624年]]([[寛永]]元年) - 小諸藩領へ戻る<ref name="kadokawa"/>。
* [[1662年]]([[寛文]]2年) - [[甲府藩]]領となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年) - [[坂木藩]]領となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1688年]]-[[1704年]]([[元禄]]年間) - [[天領|幕府領]]となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1783年]][[8月5日]]([[天明]]3年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[浅間山]]が[[天明大噴火|天明の大噴火]]を起こす。
* [[1884年]]5月 - 碓氷新道が竣工<ref name="kadokawa"/>。
* [[1885年]] - 横川-軽井沢間に馬車が通る<ref name="kadokawa"/>。
* [[1886年]] - [[カナダ|カナダ人]]の宣教師[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]と[[東京帝国大学]]英文科講師[[ジェームズ・メイン・ディクソン]]が軽井沢を避暑地として紹介<ref name="kadokawa"/>。
* [[1888年]][[9月5日]] - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間で[[碓氷馬車鉄道]]が営業開始。
* 1888年[[12月1日]] - [[直江津駅]] - 軽井沢駅間の[[信越本線#官設鉄道|官設鉄道]](後の信越本線→しなの鉄道線)の駅として、軽井沢駅開設。
* [[1893年]][[4月1日]] - 官設鉄道 横川駅 - 軽井沢駅間([[碓氷峠]]区間)、[[アプト式]][[ラックレール]]を採用し開業。これに伴い、碓氷馬車鉄道は廃線。
* [[1893年]] - [[八田裕二郎]]が日本人として初めて別荘を建てる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1894年]] - 亀屋ホテル(後の[[万平ホテル]])創業。
* [[1906年]] - [[旧三笠ホテル|三笠ホテル]]が開業。
* [[1909年]] - [[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定に伴い、[[高崎駅]] - [[新潟駅]]間を[[信越線]](しんえつせん)と命名。
* [[1912年]] - 信越線 横川駅 - 軽井沢駅間が電化。
* [[1912年]] - [[半田善四郎]]が土地分譲・別荘分譲を始める<ref name="kadokawa"/>。
* [[1914年]] - 信越線 高崎駅-新潟駅間が[[信越本線]]に改称。
* [[1916年]] - [[野澤源次郎]]<ref>[{{NDLDC|1704004/827}} 『人事興信録. 7版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が土地分譲・別荘分譲を始め、[[島田三郎]]らにより軽井沢避暑団が設立される<ref name="kadokawa"/>。
* [[1918年]] - [[堤康次郎]]が沓掛区有林を買収し、千ヶ滝一帯に別荘地を形成<ref name="kadokawa"/>。
* [[1920年]] - 堤康次郎が鬼押出しを買収する<ref name="kadokawa"/>。
* [[1920年]] - 堤康次郎が大字発地の原野を買収、南軽井沢と名付け一帯に別荘地・競馬場・飛行場を形成。
* [[1923年]] - 東長倉村が町制施行・改称して軽井沢町となる。
* [[1926年]] - [[草軽電気鉄道]]の延伸が終了し、軽井沢から[[草津温泉]]まで列車に乗って向かうことができるようになる。
* [[1941年]]ころ - 外国人の強制疎開、各国大使館・民間人・学童疎開などで人口が急増<ref name="kadokawa"/>。
* [[1945年]] - ホテルやゴルフ場が米軍へ接収される<ref name="kadokawa"/>。
* [[1947年]] - [[満州]]からの大日向開拓団が借宿の[[日本の国有林|国有林]]に入植<ref name="kadokawa"/>。避暑客のための臨時列車が運行開始<ref name="kadokawa"/>。
* [[1951年]] - [[国際観光文化都市|国際親善文化観光都市]]指定。
* [[1956年]] - 軽井沢スケートセンター営業開始<ref name="kadokawa"/>。
* [[1963年]] - [[世界オールラウンドスピードスケート選手権大会]]開催<ref name="kadokawa"/>。
* [[1964年]] - [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催(総合馬術)。
* [[1962年]] - [[コクド|国土計画]]が南軽井沢に「レイクニュータウン」の造成を開始。
* [[1970年]][[3月18日]] - 軽井沢駅前で火災が発生。商店、住宅などの密集地に加え水の便が悪かったため28戸が全焼<ref>軽井沢駅前で28戸焼く『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月19日朝刊 12版 15面</ref>。
* [[1971年]][[11月11日]] - [[碓氷バイパス]]開通。
* [[1972年]][[2月19日]] - [[2月28日|28日]] - [[あさま山荘事件]]。
* [[1973年]]8月1日 - 町民憲章制定
* [[1974年]] - 「レイクニュータウン」に[[三越百貨店]]ファッション館「三越シュベルニー城」が開業。
* [[1981年]][[4月1日]] - [[防災行政無線]]運用開始。
* [[1993年]][[3月27日]] - [[上信越自動車道]][[藤岡IC]]-[[佐久IC]]間開通。[[碓氷軽井沢IC]]([[群馬県]][[碓氷郡]][[松井田町]](現・[[安中市]])内)開設。
* [[1995年]][[7月22日]] - [[西武プロパティーズ]]([[2009年]]7月1日まで西武商事株式会社)が軽井沢駅南口前に[[アウトレットモール]]「[[軽井沢・プリンスショッピングプラザ]]」を開業。
* [[1997年]][[10月1日]] - [[北陸新幹線]]高崎駅 - [[長野駅]]間開業。これに伴い、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間は廃止され、[[ジェイアールバス関東]][[碓氷線]]に転換。軽井沢駅 - [[篠ノ井駅]]間は[[しなの鉄道]]に移管し、[[しなの鉄道線]]に改称。
* [[1998年]] - [[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]開催(カーリング)。
* [[2001年]]9月 - 三越ファッション館「三越シュベルニー城」が閉館。
* [[2002年]][[11月1日]] - 青少年委員会などにより、防災行政無線放送等変更。
* [[2009年]]7月11日 - [[星野リゾート]]が中軽井沢・星野地区に「ハルニレテラス」を開業。
* [[2015年]]4月1日 - 防災行政無線放送等変更。
* [[2023年]]3月 - [[カルチュアコンビニエンスクラブ]]が中軽井沢・鳥井原地区に「軽井沢コモングラウンズ」を開業。
=== 行政区域の変遷 ===
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[旧軽井沢|軽井沢村]]・峠町および長倉村の一部(沓掛・塩沢新田・借宿)の区域をもって'''東長倉村'''が発足。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[8月1日]] - 東長倉村が町制施行・改称して'''軽井沢町'''となる。村制時の3大字を継承<ref name="kadokawa"/>。
* [[1942年]]([[昭和]]17年)[[5月8日]] - [[西長倉村]]を編入。同村大字長倉を当町大字長倉に編入。他に2大字を加えて5大字となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1957年]](昭和32年)[[2月1日]] - [[御代田町]]の一部(茂沢の一部)を編入<ref>同年[[1月31日]]、[[総理府]][[告示]]第42号「町の境界変更」</ref>。大字茂沢が起立して6大字となる<ref name="kadokawa"/>。
* [[1959年]](昭和34年)4月1日 - 追分の一部(西鰍沢)が御代田町に編入<ref>同年[[3月31日]]、総理府告示第95号「町の境界変更」</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)3月 - 沓掛区を「[[中軽井沢]]」に改称。大字長倉の一部より中軽井沢地区が起立<ref name="kadokawa"/>。
* [[1971年]] - 区画整理事業により、大字軽井沢の一部より軽井沢地区が起立<ref name="kadokawa"/>。
* [[1973年]] - 区画整理事業により、大字軽井沢の一部より軽井沢東地区が起立し、6大字・3地区となる<ref name="kadokawa"/>。
== 人口 ==
2021年現在まで、人口<ref>[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/2.jinkou.pdf 令和3年度 軽井沢町の統計 人口] 長野県軽井沢町公式ホームページ</ref>、別荘数<ref>[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1528425604611/simple/12.kensetsu.pdf 令和3年度 軽井沢町の統計 建設] 長野県軽井沢町公式ホームページ</ref>ともに長らく増加傾向が続いてきたが、特に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスが流行]]して以降、その増加率は高まりを見せている<ref name ="shinano20210430">[https://www.shinmai.co.jp/housing/news/2021/0430HS027653..html 軽井沢の土地に熱視線 新型コロナ下、地価上昇] 信濃毎日新聞2021年4月30日</ref>。地方移住の需要増加により、2020年の同町の人口(転入)は全国の[[町村]]で最も高くなり<ref>[https://toyokeizai.net/articles/amp/428941?page=3 23区民が引越した「非」大都市トップ10ランキング] 東洋経済オンライン2021年5月19日</ref>、[[住宅地]]、[[商業地]]ともに[[地価]]は上昇、住宅地の上昇率は県内トップであった<ref name ="nikkei20210921/>。また、国内リゾートの需要増加により、別荘地の地価も上昇、一部報道では物件不足とまで言われている<ref name ="nikkei20210807">[https://style.nikkei.com/article/DGXMZO74001650Z10C21A7000000/?page=2 高級リゾート物件が絶好調 価格2倍、軽井沢は品薄] NIKKEI STYLE2021年8月7日</ref>。この傾向は、コロナ収束後も急に冷え込むとは考えにくいとされており<ref name ="nikkei20210807"/>、町は歓迎しつつも、乱開発や[[ブランド]]イメージ低下につながらないよう、注意深く見守るとしている<ref name ="shinano20210430"/>。
{{人口統計|code=20321|name=軽井沢町|image=Population distribution of Karuizawa, Nagano, Japan.svg}}
== 環境 ==
=== 軽井沢町民憲章 ===
わたくしたちは、雄大な浅間山にいだかれた高原の町軽井沢の町民です。<br/>
わたくしたちは、国際親善文化観光都市の住民にふさわしい世界的視野と未来への展望に立って、ここに町民憲章を制定します。
:一 世界に誇る清らかな環境と風俗を守りつづけましょう
:一 すべての来訪者に心あたたかく接しましょう
:一 かおり高い伝統と文化を育てあげましょう
:一 緑ゆたかな高原の自然を愛しまもりましょう
:一 明るい家庭と伸びゆく町を築きあげましょう
出典:<ref>[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1001000000242/simple/01aisatumokuji.pdf 軽井沢町民憲章] 軽井沢町 2021年10月10日閲覧。</ref>
=== 法令・宣言 ===
* [[国際観光文化都市|軽井沢国際親善文化観光都市建設法]]
* [[自然公園法]] [[上信越高原国立公園]]地域
* 長野県景観条例 浅間山麓景観育成重点地域
** 軽井沢町景観育成基準ガイドライン
** 景観住民育成協定6地区認定
* 長野県屋外広告物条例 特別規制地域
* 長野県自然環境保全条例
* 軽井沢町環境基本条例
* 軽井沢町まちづくり基本条例
* 自然保護のための土地利用行為の手続き等に関する条例及び同施行規則
* 軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例及び同要綱
* 軽井沢町自然保護対策要綱
* 保健休養地軽井沢100宣言
* マンション軽井沢メソッド宣言
* 軽井沢まちなみ宣言
* 軽井沢町CO2排出実質ゼロ宣言
* 良質な軽井沢の別荘地宣言
== 行政 ==
{{節スタブ|1=1991年以前の歴代町長|date=2023年1月}}
* [[軽井沢町役場]]
** 歴代町長
*** [[松葉邦男]](1991年2月10日就任-1999年2月9日退任)<ref>『人事興信録:第38巻 第2号』(人事興信所、1995年)154頁.</ref>
*** [[佐藤雅義]](1999年2月10日就任-2011年2月9日退任)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.karuizawa.co.jp/topics/2011/02/312.php|title=「今後はゆっくり身体を休める」3期12年務めた佐藤雅義町長が退任|publisher=軽井沢ウェブ|date=2011-02-09 |accessdate=2023-01-28 }}</ref>
*** [[藤巻進]](2011年2月10日就任-2023年2月9日退任)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1424778016823/index.html |title=軽井沢町長プロフィール |publisher=軽井沢町 |date=2019-02-18 |accessdate=2019-06-02 }}</ref>
*** [[土屋三千夫]](2023年2月10日就任 -)<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/135bc6e3edc3d4940ca55c7fc4f79911f6be942a|title=軽井沢町長選で新人・土屋三千夫さん初当選 次点の現職に約1400票差 新庁舎整備計画凍結など訴え |publisher=長野放送(Yahoo!ニュース)|date=2023-01-23 |accessdate=2023-01-28 }}</ref>
== 議会 ==
=== 町議会 ===
{{Main|軽井沢町議会}}
=== 長野県議会 ===
;2023年長野県議会議員選挙
* 選挙区:佐久市・北佐久郡選挙区
* 定数:4人
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:117,053人
* 投票率:44.40%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 花岡賢一 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 43 || 無所属 || align="center" | 現 || 11,164票
|-
| 大井岳夫 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 46 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 10,744票
|-
| 小山仁志 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 47 || 無所属 || align="center" | 現 || 10,253票
|-
| 藤岡義英 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 51 || [[日本共産党]] || align="center" | 元 || align="right" | 9,996票
|-
| 竹花美幸 || style="text-align:center;" | 落 || align="center" | 57 || 自由民主党 || align="center" | 現 || align="right" | 9,140票
|}
;2019年長野県議会議員選挙
* 選挙区:佐久市・北佐久郡選挙区
* 定数:4人
* 投票日:2019年4月7日
* 当日有権者数:116,508人<ref>{{Cite web|和書|date=2019-4-9 |url=https://www.pref.nagano.lg.jp/senkan/kengi2019/documents/toukekka.pdf |title=平成31年4月7日執行長野県議会議員一般選挙 市町村別投票結果確定速報 |publisher=長野県庁 |format=PDF |accessdate=2019-10-20 }}</ref>
* 投票率:50.96%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 大井岳夫 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 42 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 12,693票
|-
| 花岡賢一 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 39 || 無所属 || align="center" | 現 || 11,285票
|-
| 小山仁志 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 43 || 無所属 || align="center" | 現 || 11,264票
|-
| 竹花美幸 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 53 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 8,716票
|-
| 藤岡義英 || style="text-align:center;" | 落 || align="center" | 47 || 日本共産党 || align="center" | 現 || align="right" | 8,603票
|-
| 市川将明 || style="text-align:center;" | 落 || align="center" | 38 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 6,093票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[長野県第3区|長野3区]]([[上田市]]、[[小諸市]]、[[佐久市]]、千曲市、[[東御市]]、[[南佐久郡]]、[[北佐久郡]]、[[小県郡]]、[[埴科郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:399,168人
* 投票率:59.32%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[井出庸生]] || align="center" | 43 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 120,023票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd;"
| 比当 || [[神津健]] || align="center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 109,179票 || align="center" | ○
|-
| || 池高生 || align="center" | 53 || <small>[[NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 3,722票 || align="center" | ○
|}
== 姉妹都市 ==
* {{Flagicon|BRA}} [[カンポス・ド・ジョルドン|カンポス・ド・ジョルドン市]]([[ブラジル]]・[[サンパウロ州]])1968年6月締結
* {{Flagicon|CAN}} [[ウィスラー (ブリティッシュコロンビア州)|ウィスラー市]]([[カナダ]]・[[ブリティッシュコロンビア州]])1999年3月3日締結
* {{Flagicon|PHI}} [[バギオ|バギオ市]]([[フィリピン]]・[[ベンゲット州]])2005年締結
== 教育 ==
{{右|
[[ファイル:Karuizawa Town Public Library.JPG|thumb|none|軽井沢町立図書館(離山)]]
[[ファイル:Shaw house02s2040.jpg|thumb|none|ショーハウス記念館]]
[[ファイル:160729 Le Vent Museum of Contemporary Art Karuizawa Nagano pref Japan05s3.jpg|thumb|none|ルヴァン美術館]]
[[ファイル:Karuizawa Museum of Picture Books01s3872.jpg|thumb|none|ムーゼの森(軽井沢絵本の森美術館)]]
}}
===学校===
* [[信州大学]]軽井沢オフィス
* [[長野県軽井沢高等学校]]
* [[軽井沢町立軽井沢中学校]]
**学区:町内全区域
* [[軽井沢町立軽井沢東部小学校]]
**学区:峠町区、小瀬区、旧軽井沢区、新軽井沢区、成沢区、南ケ丘区、南軽井沢区、離山区
* [[軽井沢町立軽井沢中部小学校]]
**学区:塩沢区、中軽井沢区、古宿区、星野区、塩壷区、千ヶ滝中区、千ヶ滝西区、鳥井原区、油井区、馬取区、上発地区、下発地区、杉瓜区、風越団地区、ニュータウン区
* [[軽井沢町立軽井沢西部小学校]]
**学区:借宿区、大日向区、追分区、三ツ石区、茂沢区、浅間台団地区、つくしヶ丘区
* [[軽井沢風越学園]](私立)
* [[ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン]](私立)
* 軽井沢西保育園
* 軽井沢中保育園
* 軽井沢東保育園
* 軽井沢南保育園
* 聖ヨゼフ保育園
* 聖パウロ幼稚園
=== 学校の保養施設 ===
* 追分寮([[学校法人東洋英和女学院|東洋英和女学院]])<ref>[https://www.toyoeiwa.ac.jp/publications/pdf/fuen070.pdf 特集一軽井沢追分寮]2013年1月30日 楓園</ref>
* 追分寮([[東京都立八潮高等学校]])<ref>[http://www.yashio-kai.jp/karuizawa.html 軽井沢追分寮のご案内一都立八潮高等学校同窓会]</ref>
* 追分寮([[青山学院中等部・高等部|青山学院高等部]])<ref>[http://www.agh.aoyama.ed.jp/school_life/environment/index.html 施設・設備紹介一青山学院高等部]</ref>
* 追分寮([[三輪田学園中学校・高等学校]])<ref>[https://www.miwada.ac.jp/whatsnew/2015/08/post-977.html 追分寮生活 その1一三輪田学園]</ref>
* 追分山荘([[鷗友学園女子中学校・高等学校]])<ref>[https://www.ohyu-llc.com/oiwake.html 鴎友学園追分山荘]</ref>
* 軽井沢寮([[学校法人共立女子学園|共立女子学園]])<ref>[https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/institute/kenshu/karuizawa.html 軽井沢寮一共立女子大学]</ref>
* 軽井沢寮([[学校法人東京女学館|東京女学館]])<ref>[https://www.tjk.jp/mh/tjk/%E4%B8%AD%EF%BC%91%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2%E5%AD%A6%E7%BF%92%E5%AF%AE/ 中1軽井沢学習寮 東京女学館高等学校・中学校]</ref>
* 三泉寮([[日本女子大学]])<ref>[https://oufusrv.jwu.ac.jp/event/102 軽井沢三泉寮のご案内一日本女子大学教育文化振興桜楓会]</ref>
など
=== 社会教育施設 ===
一部冬季休館する施設がある。
==== 町立 ====
* [[軽井沢町立図書館]](中軽井沢図書館、離山図書館)
* [[軽井沢町歴史民俗資料館]]
* [[軽井沢町追分宿郷土館]]
** 旧[[近衛文麿]]別荘・市村記念館
* 軽井沢町植物園(風越公園内)
* 軽井沢型絵染美術館(個人のギャラリーであるが、[[2000年]](平成12年)に施設・所蔵品全部が町に寄贈され開館した)
* [[室生犀星]]記念館([[金沢市]]の施設とは別)
* [[堀辰雄文学記念館]]
* [[ショーハウス記念館]]
* 大日向開拓記念館(大日向公民館内)
* 旧[[雨宮敬次郎|雨宮]]邸・蔵「ギャラリー蔵」(貸しスペース)
* (旧)軽井沢駅舎記念館([[2017年]](平成29年)3月31日閉館。建物は町有のまましなの鉄道に貸し出され駅舎に改装された。同年10月27日よりしなの鉄道軽井沢駅旧駅舎口となった。同日、駅舎内に子供向けレクリエーション施設「森の小リスキッズくらぶ」が開業した。[[2018年]](平成30年)3月には「森の小リスキッズステーションin軽井沢」や[[駅ナカ]]商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」もオープンした<ref>[http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180316/KT180315SJI090014000.php しなの鉄道軽井沢駅、「駅ナカ」一新プロジェクト完了]2018年3月14日 信濃毎日新聞</ref>。
==== 私立 ====
* [[中山道69次資料館]]
* [[セゾン現代美術館]]
* [[ルヴァン美術館]]
* [[軽井沢タリアセン]] - [[軽井沢高原文庫]]、[[ペイネ美術館]]、[[深沢紅子野の花美術館]]、旧[[朝吹常吉|朝吹]]山荘「睡鳩荘」
* [[ムーゼの森]] - [[軽井沢絵本の森美術館]]、[[エルツおもちゃ博物館]]
* [[小さな美術館軽井沢草花館]]
* [[千住博#軽井沢千住博美術館|軽井沢千住博美術館]]
* 軽井沢現代美術館
* [[軽井沢ニューアートミュージアム]]
* [[田崎美術館]]
* 旧軽井沢森ノ美術館(トリックアートミュージアム旧軽井沢)
* [[脇田美術館]]
* [[軽井沢安東美術館]]
* 軽井沢小さなカルタ館
* 軽井沢上野美術館
* 南ヶ丘美術館・三五荘資料館
* [[浅見光彦]]記念館・浅見光彦倶楽部クラブハウス
* BITOHAエフェクト・アート&デザイン(貸しスペース)
* [[軽井沢ワールドトイミュージアム]]([[2007年]](平成19年)11月26日閉館)
== 産業 ==
[[北陸新幹線]]や[[しなの鉄道線]]、[[浅間サンライン]]や[[日本ロマンチック街道]]を介して隣接する、長野県の[[御代田町]]・[[小諸市]]・[[佐久市]]・[[東御市]]・[[上田市]]、群馬県の[[嬬恋村]]・[[長野原町]]・[[草津町]]・[[安中市]]・[[下仁田町]]と大規模な経済圏を形成しており、軽井沢町はその中核をなす(近年では「大軽井沢経済圏」という呼称がある)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27412170W8A220C1L31000/ 地域活性化へ「大軽井沢経済圏」 フォーラム開設] 日本経済新聞2018/02/26</ref><ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/41570/1/1/1 宿泊・発電事業でスタートした100年企業、プリンスグランドリゾート軽井沢の壮大な次世代戦略とは?] フォーブス・ジャパン</ref>。また軽井沢町は、[[東日本]]からの長野県への玄関口としての役割も担っている<ref>[https://machimura-nagano.jp/introduction/east/karuizawa.php 軽井沢町] 長野県町村会</ref>。
=== 立地企業 ===
* [[星野リゾート]]
* [[エフエム軽井沢|FM軽井沢]]
* [[協和ビジョン]]
* [[ヤッホーブルーイング]]
* [[軽井沢ブルワリー]]
* [[フォンス (会社)|フォンス]]
* 丸山珈琲
* 笹沢建設(町内の建築を多数手掛ける)
ほか多数
町内に大規模な[[工場]]を建設することは規制されているため、軽井沢と称する企業や軽井沢に所在する企業などによる大規模な工場は、近隣の自治体に置かれている([[御代田町#産業]]などを参照)。
歴史的に避暑客のために別地域から夏季限定で出店する形をとる商店が多かった軽井沢町では、軽井沢町にある店舗が最も著名であっても創業地や本社・本店は別地域にあるという企業が少なくなく、大きな特色となっている。その一例として、[[浅野屋]]や[[ミカドコーヒー]]がある。
また、軽井沢の[[大正]]期以降のリゾート地としての大きな発展は、[[西武グループ]]とともにあるといっても過言ではなく、現在でも西武は軽井沢に広大な土地を所有・管理しており、同地のリゾート産業を支えている。
=== 特産品 ===
* [[軽井沢彫]]
: 明治時代に外国人向けに始められた伝統工芸。
* 霧下野菜
: 軽井沢で栽培される[[高原野菜]]のブランド名(ブランド野菜)。[[レタス]]、[[キャベツ]]、[[クレソン]]、[[トマト]]などの[[西洋野菜]]であり、明治時代に外国人向けに栽培が始まった。
* [[天然氷]]
: 明治時代に、外国人の食生活に必須な[[冷蔵庫]]の冷却機能として使うため、天然氷を[[氷室]]に貯蔵し、各別荘の冷蔵庫の大きさに合わせて切断した氷を定期的に配達したのが始まり<ref name ="kanko">”[https://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/285/ 軽井沢の風土と観光産業]”軽井沢観光協会</ref>。町内にある蔵元は、現在では1ヶ所(渡辺商会)のみ。
* [[ジャム]]
: 明治時代に外国人向けに生産が始まった。原材料である[[イチゴ]]、[[ブルーベリー]]、[[ルバーブ]]などの[[果物]]の栽培から町内で行われているものがある。
[[ウイスキー]]の銘柄『[[軽井沢 (ウイスキー)|軽井沢]]』は世界トップの評価を受けたことで世界的にも知られるが、その蒸留所([[メルシャン軽井沢美術館]])は、実際には隣接する自治体の[[御代田町]]に存在していた。同じく町内に本社を構える[[クラフトビール]]製造会社の『[[ヤッホーブルーイング]]』『[[軽井沢ブルワリー]]』の2社についても、その醸造所は隣接する自治体の[[佐久市]]に存在している。これらの理由については、前述の[[#立地企業]]で記したとおり。
=== 企業の保養施設 ===
* [[東レ]]
* [[豊田通商]]
* [[文藝春秋]]
* [[吉野石膏]]
* [[ブリヂストン]]
* [[東芝]]
* [[TDK]]
* [[東京地下鉄|東京メトロ]]
* [[博報堂]]
* [[三陽商会]]
ほか多数
== 交通 ==
{{右|
[[ファイル:160730 Karuizawa Station Karuizawa Nagano pref Japan03s3.jpg|thumb|none|軽井沢駅]]
[[ファイル:160730 Naka-Karuizawa Station Karuizawa Nagano pref Japan00bs3.jpg|thumb|none|中軽井沢駅]]
[[ファイル:070922 Old Karuizawa rotary Karuizawa Nagano pref Japan03s3.jpg|thumb|none|県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線(旧軽井沢ロータリー)]]
}}
=== 鉄道 ===
; [[東日本旅客鉄道]]
* [[北陸新幹線]]:[[軽井沢駅]]
; [[しなの鉄道]]
* [[しなの鉄道線]]:軽井沢駅 - [[中軽井沢駅]] - [[信濃追分駅]]
=== 道路 ===
* [[上信越自動車道]]
: 町内に[[インターチェンジ]]はない。最寄りICは[[碓氷軽井沢インターチェンジ|碓氷軽井沢IC]](群馬県安中市松井田町)。
* [[国道18号]]
* [[国道146号]]([[日本ロマンチック街道]])
* [[群馬県道・長野県道43号下仁田軽井沢線|県道43号下仁田軽井沢線]]([[プリンス通り]])
* [[長野県道80号小諸軽井沢線|県道80号小諸軽井沢線]]([[浅間サンライン]])
* [[群馬県道・長野県道92号松井田軽井沢線|県道92号松井田軽井沢線]]
* [[長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線|県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線]]
* [[長野県道137号借宿小諸線|県道137号借宿小諸線]]
* [[長野県道157号豊昇茂沢中軽井沢停車場線|県道157号豊昇茂沢中軽井沢停車場線]]
* [[鬼押ハイウェー|浅間-白根火山ルート鬼押ハイウェー]](有料道路)
* [[白糸ハイランドウェイ]]
* [[妙義荒船林道]]
=== バス ===
* [[西武観光バス]]
* [[草軽交通]]
* [[千曲バス]]
* [[ジェイアールバス関東]]([[碓氷線]])
* 軽井沢町内循環バス
** 東・南廻り線(西武観光バスに[[管理の受委託 (バス)|委託]])
** 北廻り線(草軽交通に委託)
** 西コース(千曲バスに委託)
== 名所・旧跡・観光スポット ==
{{右|
[[File:Shaw memorial chapel05bs3200.jpg|thumb|none|軽井沢ショー記念礼拝堂]]
[[ファイル:160729 Kumoba-ike Karuizawa Japan05s3.jpg|thumb|none|雲場池]]
[[ファイル:Karuizawa Foreigners Cemetery 1.jpg|thumb|none|軽井沢外国人墓地]]
[[ファイル:Old mikasa hotel02s3872.jpg|thumb|none|旧三笠ホテル]]
[[ファイル:Yagasaki park04n3872.jpg|thumb|none|矢ヶ崎公園]]
[[ファイル:Karuizawa tennis coat01s1920.jpg|thumb|none|軽井沢会テニスコート]]
[[ファイル:160730 Oiwake-shuku Karuizawa Nagano pref Japan02n.jpg|thumb|none|追分宿]]
[[ファイル:Ishinokyoukai01.jpg|thumb|none|石の教会・内村鑑三記念堂]]
[[ファイル:KPSP01s3200.jpg|thumb|none|軽井沢プリンスショッピングプラザ]]
[[ファイル:Curling rink - Karuizawa Ice Park.jpg|thumb|none|軽井沢アイスパーク(風越公園)]]
[[ファイル:160730 Harunire Terrace Karuizawa Nagano pref Japan04n.jpg|thumb|none|ハルニレテラス]]
}}
以下は、戦前に外国人向けに出版された軽井沢への[[旅行ガイドブック|旅行案内]]の一部である。
{{quote|What is the fascination of this little mountain ‘machi’? There are those who declare that Karuizawa in the only place in Japan where one can have the best of both worlds, the varying delights of Old and New Japan, the perfection of untouched natural scenery alongside the amenities of suburban life. It suits all tastes. Some go there for rest and quiet and the opportunity to study; others look forward to the golf, tennis, […] . The botanist, the bird-lover, and the entomologist all find themselves in the happiest of hunting-grounds. For the hiker, Karuizawa is beyond compare as the starting point for day-long walks through the woods and over the hills, and also for more ambitious trip to Ikao, Kusatsu, Nikko, or the Japan Alps.(山岳にあるこの小さな「町」の魅力は何でしょうか。軽井沢は、日本の新旧さまざまな娯楽、手つかずの自然景観と郊外生活の快適さ、これら両方の好いとこ取りをした日本で唯一の場所だと断言する人たちもいます。すべての人の好みに合います。休息と静寂、そして勉強の機会を求めて行く人もいれば、ゴルフ、テニス、…などを楽しみにする人もいます。植物学者、野鳥愛好家、そして昆虫学者は皆、最も幸せなハンティング・グラウンドにいることに気付きます。[[ハイキング|ハイカー]]にとっても、軽井沢は、森の中や丘の上を一日かけて歩くための出発地点として、また、[[伊香保町|伊香保]]、[[草津町|草津]]、[[日光市|日光]]、[[日本アルプス]]などへの野心的な旅行のための出発地点として、比類のない場所です。)|Edward Vivian Gatenby, "Karuizawa and Nojiri"<ref name ="gatenby">Edward Vivian Gatenby, ''Karuizawa and Nojiri'', Travel in Japan, Vol.1, No.2, Tokyo : Board of Tourist Industry, 1935, p.33. </ref>, 1935}}
以下、軽井沢町公式ホームページの[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/genre/1000100000045/index.html 町の施設のご案内]も参照。
=== 名所・旧跡 ===
* [[追分宿]]
* [[旧軽井沢メインストリート]](旧軽井沢銀座、[[軽井沢宿]])
* [[旧三笠ホテル]](町有)
* [[八田裕二郎|八田]]別荘(町有)
* 旧[[田中角榮]]家別荘(元[[徳川圀順]]軽井沢別荘)(公益財団法人田中角榮記念館所有。非公開)
* [[万平ホテル#幸福の谷|幸福の谷]]
* 旧[[細川護立|細川侯爵]]邸の桂並木(非公開)
* 三笠通りのからまつ並木
* [[軽井沢町旧スイス公使館]](指定有形文化財)
* 軽井沢[[外国人墓地]]
=== 文学碑・記念碑 ===
避暑地・別荘地となって多くの著名人が訪れた経緯から、近現代の人物に関する碑が多いのが特徴である。一部を挙げる。
* [[アレクサンダー・クロフト・ショー|ショー]]氏記念碑 - [[明治]]36年建立
* [[松尾芭蕉|芭蕉]]句碑(旧軽井沢・追分)- 旧軽井沢は[[天保]]14年建立、追分は[[寛政]]5年建立
* [[鹿島卯女]]句碑
* [[山口誓子]]句碑 - [[昭和]]50年建立
* [[相馬御風]]歌碑 - 昭和23年建立
* [[与謝野寛]]・[[与謝野晶子|晶子]]夫妻の歌碑 - 昭和46年に建立
* [[吉田絃二郎]]夫妻歌碑
* [[朱楽菅江]]狂歌碑
* [[北原白秋]]歌碑
* [[沖野岩三郎]]歌碑
* [[五島茂]]・[[五島美代子|美代子]]夫妻歌碑
* [[弘田龍太郎]]曲碑
* [[杉浦翠子]]歌碑(離山・峠町)- 離山は昭和36年建立、峠町は昭和42年建立
* [[上皇后美智子|皇后陛下]]御歌碑 - [[平成]]15年建立
* [[明仁|天皇陛下]]御製碑 - 平成26年建立
* [[有島武郎]]終焉地碑
* [[室生犀星]]文学碑
* [[中村真一郎]]文学碑 - 平成14年建立
* [[沓掛時次郎]]碑 - 昭和27年建立
* [[中西悟堂]]詩碑
* [[立原道造]]詩碑 - 平成5年建立
* [[正宗白鳥]]詩碑
* [[ラビンドラナート・タゴール|タゴール]]記念像 - 昭和55年建立
* [[堤康次郎]]先生之像 - 昭和46年建立
* [[シャーロック・ホームズ]]像 - 昭和63年建立
=== 景勝地 ===
見晴台は[[江戸時代]]以来の景勝地で、群馬県安中市[[松井田町]]側に跨る峠町の茶店各店も当時から営業。他は[[軽井沢]]が[[避暑地]]になってから造成されたり、人の手が加えられている場所が多い。[[雲場池]]・レマン湖((南)軽井沢湖)・塩沢湖は近代以降の[[人造湖]]。白糸の滝も人工的に拡張・改変されている。
* [[雲場池]]・雲場川[[風致地区]](池の水源はホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」)
* 軽井沢レイクガーデン(レマン湖)
* [[軽井沢タリアセン|塩沢湖]](元は[[アイススケート]]場)・鷲穴用水
* [[白糸の滝 (長野県)|白糸の滝]]
* 竜返しの滝
* 赤滝(血の滝)
* 血の池・おはぐろ池
* [[千ヶ滝 (軽井沢町)|千ヶ滝]]・[[御影用水]]
* [[軽井沢野鳥の森]]
* (旧)[[碓氷峠]] - 旧[[中山道]]、見晴台、峠町、[[熊野皇大神社]](県境に建つ)
=== 老舗ホテル・旅館 ===
* [[油屋 (軽井沢町)|油屋]]
* [[つるや旅館]]
* [[万平ホテル]]
* [[小瀬温泉ホテル]]
* [[塩壺温泉|塩壺温泉ホテル]]
* [[星野リゾート|星のや 軽井沢]](旧星野温泉ホテル)
* [[軽井沢プリンスホテル]](旧晴山ホテル)
* [[ホテル鹿島の森]](旧鹿島の森ロッヂ)
=== コンサートホール ===
* [[軽井沢大賀ホール]]
* 軽井沢コルネ音楽堂
* 軽井沢ヴィラ・セシリア音楽堂
=== 教会 ===
町内には12の教会とその他複数の[[修道院]]・キリスト教信徒修養施設が存在する。以下に主な教会を挙げる。
* [[軽井沢ショー記念礼拝堂]]
* [[軽井沢ユニオンチャーチ]]
* [[日本基督教団軽井沢教会]]
* [[軽井沢聖パウロカトリック教会]]
* [[軽井沢高原教会]]
* [[石の教会・内村鑑三記念堂]]
=== 公園・スポーツ施設 ===
* [[軽井沢会テニスコート]]
* 矢ヶ崎公園
* [[風越公園 (軽井沢町)|風越公園]] - [[風越公園アイスアリーナ]]、[[スカップ軽井沢]]、[[軽井沢アイスパーク]]、[[軽井沢町植物園]]
* 追分第二運動場
* 湯川ふるさと公園
* 浅間ふれあい公園
* 長倉公園
* [[旧軽井沢ゴルフクラブ]]
* [[軽井沢ゴルフ倶楽部]]
* [[軽井沢72ゴルフ]](周辺に同じく[[プリンスホテル]]系列のゴルフ場・練習場が数施設ある)
* 中軽井沢カントリークラブ
* 三井の森軽井沢カントリークラブ
* オーソルヴェール軽井沢倶楽部(旧・軽井沢ナインハンドレッド倶楽部)
=== ショッピング ===
* [[旧軽井沢メインストリート]]
* [[軽井沢・プリンスショッピングプラザ]]
* [[ハルニレテラス]]
* [[ツルヤ (スーパーマーケット)|ツルヤ]]軽井沢店(スーパー)
* [[デリシア (スーパーマーケット)|デリシア]]軽井沢店(スーパー)
* [[軽井沢発地市庭]]([[農産物直売所]])
* [[軽井沢書店]]([[書店]]。[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|CCC]]経営)
=== 温泉 ===
いずれもそれぞれ数施設の立ち寄り湯と温泉宿があるのみであり、他の地域でいう[[温泉街]]に当たるものは存在しない。
* [[小瀬温泉]]
* [[ゆうすげ温泉]]
* [[八風温泉]](塩沢温泉)
* [[塩壺温泉]]
* [[星野温泉]]
* [[千ヶ滝温泉]]
== 諸施設 ==
=== 地域交流 ===
* [[軽井沢観光会館]]
* 軽井沢町都市施設さわやかハット
* 軽井沢町地域交流施設くつかけテラス
* 軽井沢町 中央公民館
* 旧軽井沢公民館
* 追分公民館
* 成沢公民館
* 借宿公民館
* 南ヶ丘公民館
* 三ツ石公民館
* 南軽井沢公民館
* 新軽井沢会館
=== 警察 ===
* [[長野県警察]][[軽井沢警察署]]
* 軽井沢警察署 軽井沢駅前交番
* 軽井沢警察署 旧軽臨時交番(避暑客や観光客のために夏季のみ[[旧軽井沢銀座]]近くに開設される。明治35年<ref>『長野県警察史 各説編』(長野県警察本部警務部警務課、1958年)p.555</ref>から続けられている)
* 軽井沢警察署 中軽井沢駐在所
* 軽井沢警察署 西地区警察官駐在所
=== 消防 ===
* 佐久広域連合消防本部 軽井沢消防署
* 軽井沢町消防団
=== 郵便局 ===
* [[軽井沢郵便局]]
* 軽井沢駅前郵便局
* 軽井沢追分郵便局
* 千ヶ滝郵便局
* 中軽井沢郵便局
=== 医療福祉 ===
* 軽井沢町国民健康保険 軽井沢病院
== 行事 ==
[[File:La Festa Mille Miglia 2013 in Karuizawa.jpg|thumb|200px|町内を走行する[[自動車]]イベント「[[ミッレミリア#日本|ラ・フェスタ・ミッレミリア]]」(2013)<ref group ="注釈">本イベントは2011年から2017年まで軽井沢町を通過拠点としていたが、2018年以降はルート変更により不開催。</ref>]]
[[File:Karuizawa Kogen Church, Christmas.jpg|thumb|200px|[[軽井沢高原教会]]で開催される[[クリスマス]]イベント「クリスマスキャンドルナイト」(2018)]]
* 軽井沢若葉まつり(4月下旬-6月上旬)
* [[しなの追分馬子唄道中]](7月最終日曜日)
* 軽井沢ショー祭(8月1日)
* 軽井沢紅葉まつり(10月1日-11月3日)
* 軽井沢ウィンターフェスティバル(11月下旬-1月下旬)
など
== 大字・地区 ==
6大字3地区・30区がある。
<table width="90%"><tr><td valign=top width="50%">
* [[大字]]峠町
**峠町区
*大字[[旧軽井沢|軽井沢]]
**旧軽井沢区
**新軽井沢区
**成沢区
**南ヶ丘区
*大字[[発地 (軽井沢町)|発地]]
**南軽井沢区
**ニュータウン区
** [[馬取]]区
**上発地区
**下発地区
**風越団地区
**杉瓜区
*大字[[追分 (軽井沢町)|追分]]
**追分区
**三ツ石区
*大字茂沢
**茂沢区
</td><td valign=top>
*大字[[長倉 (軽井沢町)|長倉]]
**小瀬区
**千ヶ滝中区
**千ヶ滝西区
**星野区
**塩壺区
**離山区
**中軽井沢区<ref group="注釈">沓掛。</ref>
**古宿区
**借宿区
**つくしが丘区
**浅間台団地区
**大日向区<ref group="注釈">[[南佐久郡]][[大日向村]]出身の[[満蒙開拓移民]]が戦後入植した浅間山麓の地域。</ref>
**油井区
**鳥井原区
**塩沢区
* [[旧軽井沢|軽井沢]]<ref group="注釈">旧軽井沢区のうち旧軽井沢ロータリー([[草軽交通]][[旧軽井沢駅]]跡)周辺。</ref>
* [[旧軽井沢|軽井沢東]]<ref group="注釈">新軽井沢区のうち[[軽井沢駅]]北口周辺。</ref>
* [[中軽井沢]]<ref group="注釈">中軽井沢区のうち[[中軽井沢駅]]北口周辺。</ref>
</td></tr></table>
[[小字]]名は別に存在する。[[別荘地]]の名称や観光案内のエリア区分等とは一致しない。また各地域の各別荘地では[[軽井沢郵便局]]が配達の便宜上別荘や別荘地内を区分し、個々の別荘に「ハウス番号」と呼ばれる数字や[[アルファベット]]などを付けており、[[宅配業者]]などもこれを利用している。[[1926年]](大正15年)以来行われており、別荘にも[[住居表示]]のように掲げられている。なおこれらは[[住居表示に関する法律]]とは無関係の記号であり、[[住民基本台帳法]]上の[[住所]]・[[地番]]とも異なる。
=== 別荘地・観光案内等のエリア分け ===
不動産業者・観光業者などが概ね下記のような名称を用いてエリア分けを行っているが、これらは土地・別荘開発・販売業者が付けた[[別荘地]]の呼称や、観光案内等において用いられている名称であり、行政上の地名・地域区分として存在しているものではない。
* [[旧軽井沢]]エリア(峠町・旧軽井沢・[[鹿島建設|鹿島の森]]・[[旧三笠ホテル|三笠]]・[[愛宕山|愛宕]]・[[万平ホテル|万平]]・[[万平ホテル#幸福の谷|桜ノ沢]]・[[鈴木喜三郎#ゆかりの地|泉の里]]・[[雲場池|雲場]]・[[離山 (長野県)|離山]]など)
* 新軽井沢エリア(新軽井沢・成沢・矢ヶ崎・南ヶ丘・[[市村今朝蔵#軽井沢南原・友達の村|南原]]など)
* 南軽井沢エリア(南軽井沢・レイクニュータウン・南ヶ丘白樺台・南平台・扇平・[[和美峠|和美]](安中市[[松井田町]])など)
* [[中軽井沢]]北エリア(小瀬・[[千ヶ滝 (軽井沢町|千ヶ滝]]中区・千ヶ滝西区・千ヶ滝東区・千ヶ滝山ノ手区・[[三井の森]]・泉ヶ丘・鶴溜・上ノ原・[[星野リゾート|星野]]・塩壺など)
* 中軽井沢南エリア(塩沢・前沢・鳥井原・風越など)
* 西軽井沢・追分エリア(追分・茂沢・大日向・浅間台・借宿・つくしが丘など)
以下は町外
* [[北軽井沢]]エリア(長野原町・嬬恋村)
* 奥軽井沢・浅間高原エリア(嬬恋村)
* 東軽井沢エリア(安中市松井田町)
* 西軽井沢・御代田エリア(御代田町)
== ゆかりのある外国人 ==
<gallery mode="packed" heights="120">
File:Woman Missionaries in Karuizawa.jpg|[[離山]]を背景にして写る婦人[[宣教師]]達(1910年代前半)。中列右端に[[イザベラ・ブラックモーア]]
ファイル:Garden Party in Karuizawa.jpg|軽井沢の庭で[[パーティー|ガーデンパーティー]]を開く避暑客達([[大正]]初期)
File:Missionary group photo at Karuizawa2.jpg|『[[軽井沢ユニオンチャーチ]]』を背景にして写る避暑客達(1933年夏)
File:Olivia de Havilland Publicity Photo 1952.jpg|軽井沢に両親の別荘があった女優の[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]
File:Lennons by Jack Mitchell.jpg|軽井沢に別荘があった[[ジョン・レノン]]、[[オノ・ヨーコ]]夫妻
</gallery>
特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。
{{col-begin}}
{{col-break}}
=== アメリカ人 ===
*[[トーマス・ウィン]]([[宣教師]])- 別荘はのちに[[片山広子]]所有となり、現存
*[[ヘンリー・ルーミス]](宣教師)- 軽井沢で死去
* [[オーガスト・カール・ライシャワー]](宣教師)- 別荘が現存([[登録有形文化財]])
*[[サムエル・フルトン]](宣教師)- 軽井沢で死去
*{{仮リンク|セオドア・マクネア|en|Ted McNair}}(宣教師)
: [[明治学院大学]]教授を務めた。大学時代は[[カレッジフットボール]]のスター選手でもあった。
*[[アレクサンダー・ヘール]](宣教師。[[医師]])- 避暑中に浅間山の噴火によって息子を亡くす
*[[ジェニー・カイパー]](宣教師)
*[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー]](宣教師)
*[[チャールズ・ドージャー]](宣教師)- 別荘が移築され現存
*[[ギデオン・ドレーパー]](宣教師)
*[[エドウィン・O・ライシャワー]](オーガスト・ライシャワーの息子。[[東洋史]][[研究者]]。[[外交官]])- 日本人の妻{{仮リンク|松方ハル|label=ハル|en|Haru M. Reischauer}}の別荘も別に現存(登録有形文化財)
*[[エドガー・バンクロフト]]([[弁護士]]。外交官)- [[新渡戸稲造]]別荘で死去
*{{仮リンク|ウィリアム・キャメロン・フォーブス|en|William Cameron Forbes}}(外交官)
: 名門一族{{仮リンク|フォーブス家|en|Forbes family}}の成員で、[[アメリカ領フィリピンの総督・高等弁務官|フィリピン総督]]、[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日米国大使]]等を歴任、軽井沢の別荘には[[チャールズ・リンドバーグ]]を滞在させた。
*[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]](外交官)- [[小林米珂]]の娘エディス嬢と軽井沢で出会い、結婚
*[[ジョセフ・グルー]](外交官)
* [[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]]([[建築家]]。[[社会事業家]])- 軽井沢で60棟以上の建築を手がけ、自身の別荘も現存
*[[ギャレット・ドロッパーズ]]([[経済学者]]。[[お雇い外国人]]。外交官)- 避暑中にコーラ夫人が死去し、軽井沢外国人墓地に埋葬
*[[ベアトリス・レイン・スズキ]]([[神智学|神智学者]]。[[鈴木大拙]]夫人)
*[[カール・シャウプ]](経済学者)- 軽井沢で「[[シャウプ勧告]]」を作成
*[[ドナルド・キーン]]([[日本文学者]])
*[[エロイーズ・カニングハム]]([[音楽家]]。[[教育者]])
*[[ロバート・アイケルバーガー]]([[軍人]])- 敗戦後、軽井沢を占領軍の保養地とする
*[[エリザベス・ヴァイニング]]([[司書]]。[[作家]]。[[皇室]]の[[家庭教師]])
=== イギリス人 ===
*[[エドワード・ビカステス]](宣教師)
*[[ハンナ・リデル]](宣教師)
*{{仮リンク|サミュエル・ヒースレット|en|Samuel Heaslett}}(宣教師)
: [[日本聖公会]][[司教]]、[[イングランド]]・[[シェフィールド]]教区副司教等を務めた。
* [[ヒュー・フレイザー (外交官)|ヒュー・フレイザー]](外交官)
*[[ジョン・ガビンズ]](外交官。[[極東]]学者)
*[[ヒュー・コータッツィ]](外交官)
*[[フランシス・ブリンクリー]]([[ジャーナリスト]]。軍人)
*[[ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド]](教育者。[[弁理士]])- 娘[[オリヴィア・デ・ハヴィランド|オリヴィア]]、[[ジョーン・フォンテイン|ジョーン]]も幼少期に滞在
* [[ニール・ゴードン・マンロー]](医師。[[考古学者]]。[[人類学者]])- 「軽井沢[[サナトリウム]]」初代院長。軽井沢外国人墓地に分骨が埋葬
*[[エドワード・ガントレット]](音楽家。[[語学|語学者]])- 日本人の[[ガントレット恒|恒]]と軽井沢で出会い、結婚
*[[バーナード・リーチ]]([[陶芸家]]。[[画家]]。[[民藝運動]]家)
*[[ジョン・レノン]](音楽家。平和運動家)
*[[デービッド・アトキンソン]]([[実業家]])
=== カナダ人 ===
* [[アレクサンダー・クロフト・ショー]](宣教師)- 避暑地軽井沢の開拓者。別荘が復元され現存
* [[ダニエル・ノーマン]](宣教師)-「[[軽井沢会|軽井沢避暑団]]」初代理事。息子の[[エドガートン・ハーバート・ノーマン|ハーバート]]は軽井沢生まれ
*[[イザベラ・ブラックモーア]](宣教師。教育者)
*[[マーガレット・エリザベス・アームストロング]](宣教師。教育者)- 別荘が現存(登録有形文化財)
*[[ジョン・ダンロップ (宣教師)|ジョン・ダンロップ]](宣教師)- 軽井沢で死去。軽井沢外国人墓地に埋葬
*[[ジョン・ウォーラー]](宣教師)
*{{仮リンク|アーサー・リー|en|Arthur Lea (bishop)}}(宣教師)
: 日本聖公会の[[九州]]教区司教を務めた。
*{{仮リンク|ジョージ・サットン・パターソン|en|George Sutton Patterson}}(宣教師。外交官)
: 宣教師として活動した後、[[カナダ政府]]の駐中国代理大使、{{仮リンク|国連臨時朝鮮委員会|en|United Nations Temporary Commission on Korea}}カナダ代表等を歴任した。
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=== ロシア人 ===
*[[ロマン・ローゼン]]([[男爵]]。[[:Category:ロシアの貴族|ロシア貴族]]。外交官)
*[[レオニード・クロイツァー]]([[ピアニスト]]。[[指揮者]])- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[アレクサンドル・モギレフスキー]]([[ヴァイオリニスト]])- 戦時中、軽井沢に疎開
*{{仮リンク|ナデージダ・ニコラエヴナ・ド・ロイヒテンベルク|fr|Nicolas Nikolaïevitch de Leuchtenberg (1868-1928)#Famille}}(アレクサンドル・モギレフスキー元夫人。ピアニスト)
: [[ロイヒテンベルク公|ロイヒテンベルク公爵家]]、[[ボアルネ家]]成員の貴族で、[[ボナパルト朝|フランス帝室]]、[[ロマノフ家|ロシア帝室]]の血を引く。子供の1人は軽井沢生まれ。
*{{仮リンク|ヴィクトル・ポクロフスキー|en|Victor Pokrovsky}}([[レーゲント (指揮者)|レーゲント]])
: [[ニコライ堂]]で[[聖歌隊]]の指揮者を長らく務めた。戦時中、軽井沢に疎開。
*[[ワルワーラ・ブブノワ]](画家。[[ロシア・アヴァンギャルド|前衛芸術運動]]家)- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[小野アンナ]](ワルワーラ・ブブノワの妹。ヴァイオリニスト)- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[ヴィクトル・スタルヒン]](元[[プロ野球選手]])- 戦時中、軽井沢に疎開
=== ドイツ人 ===
*{{仮リンク|ブルーノ・ペツォルト|de|Bruno Petzold}}([[仏教]]研究者。作家。[[ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト]]の夫)
: {{仮リンク|ケルン新聞|de|Kölnische Zeitung}}等の記者を務め、また[[仏教徒]]として仏教関連の書物を多数執筆した。1949年に軽井沢で死去。
* [[オイゲン・オット]](外交官)- 戦時中、軽井沢に別荘を構える
* [[マンフレート・グルリット]]([[作曲家]]。指揮者)- 戦時中、軽井沢に疎開
*{{仮リンク|エータ・ハーリヒ=シュナイダー|en|Eta Harich-Schneider}}([[チェンバロ|チェンバリスト]])
: 各地の音楽院で教鞭を取った。[[グッゲンハイム・フェロー]]、[[宝冠章]]受章。弟子に[[レネー・クレメンチッチ]]など。戦時中、軽井沢に疎開。
*[[フリッツ・カルシュ]](教育者。外交官)- 戦時中、軽井沢に疎開
*{{仮リンク|テオドール・シュテルンベルク|en|Theodor Sternberg}}([[法学者]]。お雇い外国人)
: [[東京帝国大学]]をはじめとする多くの大学で教鞭を取り、[[法務省]]の顧問も務めた。戦時中、軽井沢に疎開。
*[[ヘルマン・ウォルシュケ]](実業家)- 軽井沢外国人墓地に墓碑あり
=== その他国籍 ===
*[[ジャン・ピエール・レイ]]([[フランス人]]宣教師)- 軽井沢で死去
*[[ロベール・ギラン]](フランス人ジャーナリスト)- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[ノエル・ヌエット]](フランス人画家)- 戦時中、軽井沢に疎開
*{{仮リンク|カミーユ・ゴルジェ|de|Camille Gorgé}}([[スイス人]]外交官)
: [[国際連盟]]政務局長、駐日スイス公使等を歴任した。戦時中、駐日公使として「[[軽井沢町旧スイス公使館|深山荘]]」(現存)に疎開。
*[[サリー・ワイル]](スイス人[[シェフ]])- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[アルバート・オルトマンス]]([[オランダ人]]宣教師)
*[[フォスコ・マライーニ]]([[イタリア人]][[写真家]]。登山家。[[人類学者]]。[[東洋学者]])- 娘[[ダーチャ・マライーニ|ダーチャ]]らと避暑
*{{仮リンク|トパーツィア・アリアータ|it|Topazia Alliata}}(フォスコ・マライーニ元夫人。イタリア人画家)
: {{仮リンク|アリアータ公爵家|it|Alliata|}}成員の貴族で、祖父に[[ワイン]]醸造家として著名な{{仮リンク|サラパルータ公爵|it|Duca di Salaparuta}}がいる。
*{{仮リンク|ヴィダール・バッゲ|sv|Widar Bagge}}([[スウェーデン人]]外交官)
: [[スウェーデン政府]]の駐フランス公使館顧問、駐日公使等を歴任した。戦時中、駐日公使として軽井沢に疎開。
* [[アントニン・レーモンド]]([[チェコ人]]建築家)- 設計した教会1棟と自身の別荘2棟が現存
* [[レオ・シロタ]]([[ウクライナ系]][[ユダヤ人]]ピアニスト)- 戦時中、別荘「[[軽井沢高原文庫#施設|浄月庵]]」(現存)に疎開
*[[ベアテ・シロタ・ゴードン]](レオ・シロタの令嬢。[[舞台芸術]][[監督]]。[[フェミニスト]])
*[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]([[ポーランド系]]ユダヤ人指揮者)- 戦時中、軽井沢に疎開
*[[アルベール・ド・バッソンピエール]](男爵。[[:Category:ベルギーの貴族|ベルギー貴族]]。外交官)
*[[ヨセフ・モルナール]]([[オーストリア人]][[ハープ]]奏者)
*[[ヒクソン・グレイシー]]([[ブラジル人]][[格闘家]])
*[[辛格浩]](別名:重光武雄。[[大韓民国#国民|韓国人]]実業家)
{{col-end}}
== ゆかりのある日本人 ==
<gallery mode="packed" heights="120">
ファイル:Mikasa Hotel dinner colorized.jpg|大正期に『[[三笠ホテル]]』で開かれた[[晩餐会]]の風景。写真右から[[西尾忠方]]、[[近衛文麿]]夫人([[近衛千代子|千代子]])、[[徳川慶久]]夫人([[徳川實枝子|實枝子]])、[[里見弴]]、[[有島武郎]]、[[毛利高範]]夫人(賢子)、[[徳川義親]]、[[山本直良]]、[[黒田長和]]、黒田長和夫人(久子)、近衛文麿、山本直良夫人(愛)
File:HoriTatsuo-At Karuizawa-with Kawabata Yasunari-1943.png|軽井沢での[[堀辰雄]](右)と[[川端康成]](左)(1943年)
File:Crown Prince Akihito & Prince Masahito1952-8.jpg|軽井沢の草原で[[乗馬]]を楽しむ[[明仁親王]](手前)と[[常陸宮正仁親王|正仁親王]](奥)(1952年)
</gallery>
特記がない限り別荘所有者または避暑客・長期滞在者である。一部を列挙する。
<!--ゆかりのある日本人はまだまだ沢山挙げられますが、過剰な数の羅列は避けたいため、これ以上の人物の追加は慎重に。-->
{{col-begin}}
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=== 皇族 ===
* [[朝香宮鳩彦王]]([[朝香宮家]]初代当主。軍人)- 別荘はのちに「[[プリンスホテル]]」(事実上の’’軽井沢[[御用邸]]’’)となり、現存
*[[北白川宮永久王]]([[北白川宮家]]第4代当主。軍人)
*[[竹田宮恒徳王]]([[竹田宮家]]第2代当主。軍人)
*[[伏見宮博恭王]]([[伏見宮家]]第23代当主。軍人)
*[[三笠宮崇仁親王]]([[三笠宮家]]初代当主。軍人)
*[[貞明皇后]](第123代[[皇后|天皇后]])- 戦時中、旧[[末松謙澄]]別荘に疎開
*[[上皇明仁]](第125代天皇。[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]。[[魚類学者]])- 美智子妃と軽井沢で出会い御成婚に至る
*[[上皇后美智子]](第125代天皇后。[[上皇后]])- [[正田英三郎|正田家]]の別荘あり
*[[皇后雅子]](第126代天皇后) - [[小和田恆|小和田家]]の別荘あり
=== 華族 ===
*[[徳川圀順]]([[公爵]]。[[水戸徳川家]]第13代当主。[[政治家]]。軍人)- 別荘はのちに[[田中角栄]]所有となり、現存(登録有形文化財)
*[[徳川慶久]](公爵。[[徳川慶喜家]]第2代当主。政治家)- 「[[旧軽井沢ゴルフクラブ]]」初代理事長。別荘はのちに[[山崎種二]]所有となり、現存
* [[近衛文麿]](公爵。[[近衛家]]第30代当主。政治家)- 別荘が現存
*[[徳川義親]]([[侯爵]]。[[尾張徳川家]]第19代当主。政治家。[[植物学者]])
* [[細川護立]](侯爵。[[細川氏|細川家]]第16代当主。政治家)- 孫[[細川護熙|護熙]]も別荘所有
*[[前田利為]](侯爵。[[前田氏|前田本家]]第16代当主。軍人)
*[[鍋島直泰]](侯爵。[[鍋島氏|鍋島家]]第12代当主。政治家。[[ゴルファー]])
*[[松平頼寿]]([[伯爵]]。[[高松松平家]]第12代当主。政治家。教育者)- 別荘で死去
*[[津軽承昭]](伯爵。[[津軽氏|津軽家]]第12代当主)- 別荘(現・[[神言会]]軽井沢[[修道院]])が現存
*[[松平慶民]]([[子爵]]。[[宮内省|宮内]][[官僚]])- [[黒田長和]]、[[竹屋春光]]、[[高木兼寛#親族|高木舜三]]らとともに「軽井沢運動協会」に日本人として初めて入会
*[[相馬恵胤]](子爵。[[相馬氏|陸奥相馬家]]第32代当主)- 妻の[[相馬雪香|雪香]]と軽井沢で出会う
*[[毛利重輔]]([[男爵]]。[[吉敷毛利家]]第16代当主)- 避暑に向かう途中で事故死
*[[鳥尾鶴代]](子爵夫人)- GHQ要員[[チャールズ・L・ケーディス]]と軽井沢で逢引きする
=== 政治家・外交官 ===
*[[八田裕二郎]](政治家。軍人) - [[島田三郎]]らとともに「軽井沢避暑団」初代理事。日本人初の別荘として現存
*[[小坂善之助]](政治家)- 息子の[[小坂順造|順造]]、[[小坂武雄|武雄]]は元「[[軽井沢会]]」理事長
*[[後藤新平]](政治家。医師)- 「軽井沢通俗夏季大学」初代総裁
* [[尾崎行雄]](政治家。教育者)- 「軽井沢避暑地50周年記念式典」名誉総裁
*[[大隈重信]](侯爵。政治家。教育者)
*[[桂太郎]](公爵。政治家。軍人)- 別荘が現存
*[[加藤高明]](伯爵。政治家。外交官)
*[[鳩山一郎]](政治家。弁護士)- 弟[[鳩山秀夫|秀夫]]、孫[[鳩山由紀夫|由紀夫]]、[[鳩山邦夫|邦夫]]も別荘所有
*[[佐藤栄作]](政治家)- 近所にその他歴代[[首相]]の別荘多数
*[[麻生太郎]](政治家。実業家)- 弟[[麻生泰|泰]]は「軽井沢会」理事
*[[鈴木喜三郎]](政治家)- その他[[立憲政友会|政友会]]議員が多数別荘を構え、「政友村」「政治村」と呼ばれた
*[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]](外交官)- 戦時中はアメリカ人のアリス夫人とともに別荘に疎開
*[[寺崎英成]](外交官)- 戦時中はアメリカ人のグエン夫人、娘[[マリコ・テラサキ・ミラー|マリコ]]とともに別荘に疎開
*[[東郷茂徳]](外交官。政治家)- 戦時中はドイツ人のエディータ夫人、娘[[東郷いせ|いせ]]が別荘に疎開
=== 実業家 ===
* [[雨宮敬次郎]](実業家。[[投資家]]) - 明治期に軽井沢を開墾
*[[川田小一郎]](男爵。実業家。政治家) - [[鳥居義処]]、[[川上操六]]とともに明治期に[[牧場]]を経営(川田牧場はのちに長男・[[川田龍吉]]が引き継ぐ)
*[[益田孝]](実業家)- その他[[三井財閥]]重役の別荘多数
*[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]](実業家。政治家)- 別荘の土地がのちに「[[軽井沢プリンスホテル]]」となる
*[[安田善次郎]](実業家) - 別荘で[[オノ・ヨーコ]]の両親が出会う
* [[朝吹常吉]](実業家)- 別荘「[[軽井沢高原文庫#施設|睡鳩荘]]」が現存。令嬢[[朝吹登水子|登水子]]は軽井沢の別荘史を執筆
* [[堤康次郎]](実業家。政治家) - 大規模なリゾート地開発を行う。子息[[堤義明|義明]]、[[堤清二|清二]]は別荘所有
* [[山本直良]](実業家)- 「[[三笠ホテル]]」創業者。孫の[[山本直純|直純]]は軽井沢で長年にわたり音楽祭を開催
* [[前田栄次郎]](実業家)- 「[[前田郷]]」創業者
*[[石橋正二郎]](実業家)
*[[鹿島守之助]](実業家。政治家)- 鹿島一族の所有していた土地一帯は「鹿島の森」と呼ばれる
*[[御木本幸吉]](実業家)- 子息[[御木本隆三|隆三]]は「[[軽井沢会テニスコート]]」クラブハウスを寄贈
*[[菅原通済]](実業家。[[フィクサー]]) - 別荘が現存
*[[陸奥イアン陽之助]](伯爵。実業家。[[ジャーナリスト]]。[[映画監督]])
* [[白洲次郎]](実業家)- 元「[[軽井沢ゴルフ倶楽部]]」理事長
*[[服部禮次郎]](実業家)- 元「軽井沢会」理事長
*[[大賀典雄]](実業家。声楽家)- 軽井沢町名誉町民、「[[大賀ホール]]」創設者。[[ソニー]]創業者の[[盛田昭夫]]、[[井深大]]、同社社長の[[出井伸之]]も別荘所有
*[[松田芳穂]](実業家。自動車収集家)
*[[茂登山長市郎]](実業家)
*[[徳川恒孝]](実業家。[[徳川宗家]]第18代当主)- 「軽井沢会」理事
*[[水野誠一]](実業家。政治家)
*[[増田宗昭]](実業家)
*[[熊谷正寿]](実業家)
*[[藤田晋]](実業家)
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=== 教育者・学者 ===
*[[内村鑑三]](キリスト教[[思想家]]・伝道者。[[聖書学者]])
*[[新渡戸稲造]](教育者。思想家。[[農学者]])- 「軽井沢通俗夏季大学」初代学長。アメリカ人のメアリー夫人は軽井沢で死去
*[[西村伊作]](教育者。建築家。画家)- 別荘が現存し、孫の[[坂倉竹之助]]らも滞在
*[[小野塚喜平次]]([[政治学者]]) - 軽井沢で死去
*[[松田智雄]]([[経済史]]学者)- 元「軽井沢南原文化会」理事長
*[[野村龍太郎]]([[工学者]]。[[技術者]]。鉄道官僚)- 明治期に追分地区を別荘地として見出す
*[[加藤与五郎]]([[化学者]]。工学者)- 軽井沢町名誉町民、「軽井沢文化協会」初代会長
*[[小平邦彦]]([[数学者]])- 別荘が現存(登録有形文化財)。義兄の[[彌永昌吉]]も別荘所有
*[[緒方貞子]]([[国際政治学者]])
*[[篠沢秀夫]]([[フランス文学者]])
*[[三浦瑠麗]](国際政治学者)
*[[板垣鷹穂]]([[美術評論家]])- 別荘が現存
*[[中西悟堂]](野鳥研究家。[[歌人]]。[[詩人]])
*[[青山胤通]](男爵。[[医学者]]。[[内科医]])
*[[河本重次郎]](医学者。[[眼科医]])- 別荘が現存
*[[日野原重明]](医学者)
*[[神谷美恵子]]([[精神科医]]。[[文筆家]])
*[[長井長義]]([[薬学者]])- ドイツ人のテレーゼ夫人は軽井沢で死去
*[[林了]]([[歯科医師]]。政治家)- 元「軽井沢会」理事長、「軽井沢観光協会」顧問。別荘が現存
=== 著作家 ===
*[[西条八十]](詩人。[[作詞家]]。[[仏文学者]])
*[[与謝野晶子]](歌人。作家。思想家)
* [[有島武郎]]([[小説家]]) - 愛人の[[波多野秋子]]と別荘「浄月庵」(現存)で心中
* [[堀辰雄]](小説家) - 軽井沢文学を数多く執筆。軽井沢で死去。[[軽井沢高原文庫#施設|別荘]]、[[堀辰雄文学記念館|旧居]]が現存
*[[阿部知二]](小説家。英文学者。翻訳家)- 別荘が現存
*[[沖野岩三郎]](小説家。[[牧師]])- 「[[軽井沢高原教会]]」初代牧師。軽井沢で死去
* [[室生犀星]](詩人。小説家)- 別荘「室生犀星記念館」が現存
*[[川端康成]](小説家。[[文芸評論家]])- 別荘が2021年に解体され話題となる
*[[吉川英治]](小説家)- 軽井沢でその他大勢の文士たちと交遊
*[[加賀乙彦]](小説家。医学者)- 「[[軽井沢高原文庫]]」館長
*[[辻邦生]](小説家。仏文学者)- 軽井沢で死去。別荘が現存
*[[北杜夫]](小説家。医学者)- 別荘(旧アーガル別荘)が現存
*[[森瑤子]](小説家)- 別荘(ハル・ライシャワー邸)が現存
*[[延原謙]](編集者。翻訳家)- [[シャーロック・ホームズ]]像がある
*[[下重暁子]](随筆家。元NHKアナウンサー)- 軽井沢に関するエッセイ多数
*[[阿川佐和子]](随筆家。小説家。タレント)- 父[[阿川弘之|弘之]]の別荘を受け継ぐ
=== その他芸術家 ===
*[[渡邉暁雄]](指揮者。教育者)- [[フィンランド人]]の母シーリは戦時中、軽井沢に疎開
*[[服部良一]]([[作曲家]]。作詞家。[[編曲家]])- 共同別荘「画架の森」が現存
*[[加藤和彦]](作曲家。編曲家)- 軽井沢のホテルで自殺(生前、軽井沢がお気に入りの場所であったという)
*[[加古隆]](作曲家。ピアニスト)
*[[深沢紅子]]([[画家]])- アトリエ(旧堀辰雄別荘)が現存
*[[脇田和]](画家)- 共同別荘「画架の森」、アトリエ「脇田山荘」が現存(後者は登録有形文化財)
*[[小山敬三]](画家)
*[[梅原龍三郎]] (画家)
* [[吉村順三]](建築家)- 代表的建築「吉村山荘」がある
*[[磯崎新]](建築家)
*[[團紀彦]](建築家)- 軽井沢町マスターアーキテクト
*[[芦田淳]]([[服飾デザイナー]])
*[[鳥居ユキ]](服飾デザイナー)
*[[辻静雄]]([[フランス料理|仏料理]]研究家。実業家)
*[[蜷川幸雄]](映画監督)
*[[羽仁進]](映画監督)- 「軽井沢BESEA」名誉会長
*[[小山薫堂]]([[放送作家]]。[[脚本家]]。実業家)
*[[假屋崎省吾]]([[フラワーアーティスト]])
=== 芸能人など ===
* [[市村羽左衛門 (15代目)|15代目市村羽左衛門]]([[歌舞伎役者]])
* [[市川左團次 (2代目)|2代目市川左團次]](歌舞伎役者)- 別荘が「[[つるや旅館]]」の奥館として現存
*[[尾上松緑 (2代目)|2代目尾上松緑]](歌舞伎役者。[[人間国宝]])
*[[市川猿翁 (2代目)|2代目市川猿翁]](歌舞伎役者。[[俳優]])- 別荘に稽古場が併設されていた
*[[尾上菊五郎 (7代目)|7代目尾上菊五郎]](歌舞伎役者。俳優)- 妻で[[俳優#性別での分類|女優]]の[[富司純子]]は「軽井沢ペット福祉協会」会員
*[[森雅之 (俳優)|森雅之]](俳優。有島武郎の子息)
*[[田村正和]](俳優)
*[[高峰秀子]]([[俳優#性別での分類|女優]]。[[歌手]])
*[[高峰三枝子]](女優。歌手)
*[[司葉子]](女優)- 「軽井沢ペット福祉協会」会員。夫は政治家の[[相沢英之]]
*[[鰐淵晴子]](女優。歌手。[[ヴァイオリニスト]])- 旧[[チェコスロバキア]]公使館別荘に滞在
*[[吉永小百合]](女優。歌手)
*[[大竹しのぶ]](女優。[[タレント]]。歌手)
*[[川島なお美]](女優。タレント。歌手)
*[[松本重治]](ジャーナリスト)
*[[小林彰太郎]]([[自動車評論|自動車ジャーナリスト]])
*[[磯村尚徳]](元[[ニュースキャスター]])- 「軽井沢ペット福祉協会」会長
*[[幸田シャーミン]](ジャーナリスト。元ニュースキャスター)- 「軽井沢BESEA」顧問
*[[生沢徹]]([[レーシングドライバー]]。実業家)
*[[ジャイアント馬場]]([[プロレスラー]]。タレント。元プロ野球選手)
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== 在住の著名人 ==
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<!--公表している人物。-->
* [[田嶋陽子]]([[女性学]]研究家。[[英文学者]]。歌手)
* [[姜尚中]](政治学者)
* [[小池真理子]](故・藤田宜永夫人。小説家。エッセイスト)
* [[唯川恵]](小説家)
* [[波多野鷹]](小説家)・[[久美沙織]](小説家)夫妻
* [[村山由佳]](小説家)
* [[馳星周]](小説家)
* [[新條まゆ]](漫画家)
* [[吉田紀子]](脚本家)
* [[佐伯俊道]](脚本家)
* [[海老原靖芳]](放送作家)
* [[田端志音]](陶芸家)
* [[束芋]](現代美術家)
* [[デビット・スタンリー・ヒューエット]](アメリカ人画家。陶芸家)
* [[渡辺謙]](俳優)
* [[高中正義]]([[ギタリスト]]。作曲家)
* [[ウィリー・ウィークス]](アメリカ人[[ベーシスト]])
* [[渡辺香津美]]([[ジャズ]]ギタリスト。作曲家)
* [[梁邦彦]](ピアニスト。作曲家。画家)
* [[周防義和]](作曲家。編曲家)
* [[定成クンゴ]](ドラマー。[[ラジオパーソナリティー]])
* [[テイ・トウワ]]([[DJ]]。[[音楽プロデューサー]])
* [[竹前文子]](童謡歌手)
* [[広川小夜子]]([[編集者]])
* [[深澤里奈]]([[茶道家]]。[[アナウンサー]])
* [[小宮山洋子]](政治家。元NHKアナウンサー)
* [[川勝平太]](政治家。経済学者)
* [[遠藤俊英]](元[[官僚]]。アドバイザー)
* [[蟹瀬誠一]](ジャーナリスト)・[[蟹瀬令子]](実業家)夫妻
* [[本城愼之介]](実業家)
* [[井手直行]](実業家)
* [[上原康恒]](元[[プロボクサー]]。実業家)
* [[池田信太郎]](元[[バドミントン]]選手。実業家)
* [[稲葉俊郎]]([[医師]]。[[医学博士]]。著作家)
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=== 過去に在住していた著名人 ===
* [[ニール・ゴードン・マンロー]](イギリス人医師。考古学者。歴史学者。在住期間:1923 - 1931)
* [[ダニエル・ノーマン]](カナダ人宣教師。在住期間:1934 - 1940)
* [[堀辰雄]](小説家。在住期間:1944 - 1953)
* [[正宗白鳥]](小説家。劇作家。文芸評論家。在住期間:1944 - 1957)
* [[ポール・ジャクレー]](フランス人画家。在住期間:1945 - 1960)
* [[東海林太郎]](歌手。在住期間:1945 - 1971)
* [[山本直文]]([[フランス料理|仏料理]]研究家。フランス文学者。翻訳家。在住期間:? - 1982)
* [[玉村豊男]](エッセイスト。画家。在住期間:1983 - 1991)
* [[佐藤泰春]](実業家。在住期間:1945 - 2004?)
* [[森村桂]](小説家。在住期間:1980 - 2004?)
* [[丸山忠久]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。在住期間:2002 - 2005?)
* [[玉置浩二]](歌手。俳優。在住期間:1998 - 2000年代後半)
* [[相馬雪香]](平和活動家。[[尾崎行雄]]令嬢。在住期間:1990年代? - 2008)
* [[堀多恵子]](堀辰雄夫人。随筆家。在住期間:1944 - 2010)
* [[桑名正博]](歌手。俳優。在住期間:2006 - 2012)
* [[島田陽子]](女優。在住期間:2000年代後半 - 2012)
* [[大山美信]](画家。[[現代美術家]]。在住期間:2008 - 2013)
* [[佐藤允弥]](インダストリアルデザイナー。2000 - 2015)
* [[内田康夫]](推理作家。在住期間:1983 - 2018)
* [[勝谷誠彦]]([[コラムニスト]]。在住期間:1999 - 2018)
* [[藤田宜永]](小説家。在住期間:1990年代初頭 - 2020)
* [[山本文緒]](小説家。在住期間:2011 - 2021)
* [[高橋幸宏]](ドラマー。ファッションデザイナー。在住期間:? - 2023)
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なお、かつての別荘所有者の多くは、夏になると生活拠点を完全に別荘に移し、秋にかけて数ヶ月間そこで暮らしていたため、その意味では、避暑に訪れた多くの著名人が、夏の期間は軽井沢町在住者であった<ref group ="注釈">正確には、夏になると妻子供は別荘に住むが、仕事のある主人だけが平日は東京に残って、週末は別荘で家族と過ごす、というスタイルが多かったようである。</ref>。近年では、その代替として海外や都市圏との二拠点生活を送る者が増えている。
== 出身の著名人 ==
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* [[エドガートン・ハーバート・ノーマン]](カナダの外交官)
* {{仮リンク|ポール・ブライアン|en|Paul Bryan (politician)}}(イギリスの政治家)
: [[イギリス陸軍]][[中佐]]、[[イギリス保守党]]副議長、[[イギリス政府]][[労働・年金省|雇用担当大臣]]等を歴任した。
* {{仮リンク|T・キャンビー・ジョーンズ|en|T. Canby Jones}}(アメリカの[[クエーカー]][[平和運動家]])
: [[オハイオ州]]{{仮リンク|ウィルミントン・カレッジ|en|Wilmington College (Ohio)}}の教授を長らく務めた。
* {{仮リンク|マッシモ・バイストロッキ|en|Massimo Baistrocchi}}(イタリアの外交官)
: [[イタリア政府]]の駐[[ガーナ]]、[[トーゴ]]、[[ナイジェリア]]、[[ベナン]]、[[ナミビア]]大使を歴任した。
* {{仮リンク|ペーター・クローム|de|Peter Crome}}(ドイツのジャーナリスト。作家)
: 弁護士{{仮リンク|フリードリヒ・クローム|de|Friedrich Crome (Jurist)}}のひ孫で、[[デア・シュピーゲル]]等の特派員を務めた。
* {{仮リンク|ロナルド・ランプマン・ワッツ|en|Ronald Lampman Watts}}(カナダの学者)
: [[クイーンズ大学 (カナダ)|クイーンズ大学]]第15代校長兼副学長を務めた。[[カナダ勲章]]受勲、[[カナダ王立協会フェロー]]。
* [[荻原豊次]](篤農家)
* [[桜井平吉]]([[自由民権運動]]家)
* [[市村今朝蔵]](政治学者)
* [[東郷茂彦]](新聞記者)
* [[東郷和彦]](東郷茂彦の弟。外交官。評論家。政治学者)
* [[相馬恵胤|相馬和胤]]([[相馬氏|陸奥相馬家]]第33代当主。[[牧場]]主)
* [[朝吹由紀子]](フランス語翻訳家)
* [[池内輝雄]](近現代文学者)
* [[川上紳一]]([[地球科学者]])
* [[藤巻進]](政治家。軽井沢町長)
* [[星野佳路]](実業家)
* [[甲田哲也]](実業家)
* [[五十嵐隼士]](元俳優、タレント)
* [[近藤合歓]](女優)
* [[栄莉弥]]([[ファッションモデル]])- 生まれは[[カナダ]]・[[トロント]]
{{col-break}}
* [[羽毛田丈史]](作曲家。編曲家。音楽プロデューサー)
* [[沖仁]]([[フラメンコギター]]奏者)
* [[諸星大二郎]]([[漫画家]])
* [[大昇充宏]]([[大相撲]]力士)
* [[琴大友駿平]](大相撲力士)
* [[市川美余]](元[[カーリング]]選手。解説者)
* [[両角友佑]] (カーリング選手)
* [[両角公佑]](両角友佑の弟。カーリング選手)
* [[清水徹郎]](カーリング選手)
* [[清水絵美]](清水徹郎の妹。元カーリング選手)
* [[西室淳子]](カーリング選手)
* [[松村千秋]](カーリング選手)
* [[中嶋星奈]](カーリング選手)
* [[高橋カネ子]](元[[スピードスケート]]選手)
* [[市村和昭]] (元スピードスケート選手、[[競輪]]選手)
* [[上原龍]](競輪選手。元スピードスケート選手)
* [[上原大祐]](元[[パラアイスホッケー]]選手)
* [[ボルジャ・ダグラス]]([[レーシングドライバー]])- 生まれは東京
{{col-end}}
== ゆかりのある作品 ==
{{See also|Category:軽井沢を舞台とした作品}}
[[File:Manpei hotel01s1600.jpg|thumb|200px|小説『美徳のよろめき』、アニメ映画『風立ちぬ』などにゆかりのある「万平ホテル」]]
[[File:160729 Suikyuso Karuizawa Taliesin Karuizawa Nagano pref Japan12s.jpg|thumb|200px|アニメ映画『思い出のマーニー』、ドラマ『カルテット』などにゆかりのある「睡鳩荘」]]
[[File:Enbu by Hayami Gyoshu.jpg|thumb|200px|軽井沢の蛾が描かれた[[速水御舟]]の代表作『炎舞』]]
=== 文芸作品 ===
* [[聖家族 (小説)|聖家族]]、[[美しい村]]、[[風立ちぬ (小説)|風立ちぬ]] 、[[菜穂子 (小説)|菜穂子]] 他 / [[堀辰雄]]
* [[貞操問答]] / [[菊池寛]]
* [[仮面の告白]]、[[美徳のよろめき]] / [[三島由紀夫]]
* [[杏っ子]] 他 / [[室生犀星]]
* [[熱い絹]] / [[松本清張]]
* [[香水心中]]・[[霧の山荘]]・[[仮面舞踏会 (横溝正史)|仮面舞踏会]]([[金田一耕助シリーズ]]) 他 / [[横溝正史]]
* [[土を喰う日々―わが精進十二ヵ月―]] / [[水上勉]]
* [[軽井沢夫人]] / [[嵯峨島昭]]
* [[軽井沢シンドローム]](漫画)/ [[たがみよしひさ]]
* [[軽井沢誘拐案内]](TVゲーム)/ [[堀井雄二]]:シナリオ
* [[軽井沢殺人事件]]([[浅見光彦シリーズ]])、[[追分殺人事件]]([[信濃のコロンボ|信濃のコロンボシリーズ]]) / [[内田康夫]]
* [[恋 (小池真理子)|恋]] / [[小池真理子]]
* [[失楽園 (渡辺淳一の小説)|失楽園]] / [[渡辺淳一]]
ほか多数
=== 映像作品 ===
* [[生ける屍 (1918年の映画)|生ける屍]] / [[田中栄三]]監督
* [[路上の霊魂]] / [[村田実]]監督
* [[陸の人魚]] / [[阿部豊]]監督
* [[激突!若大将]] / [[小谷承靖]]監督
* [[あいつと私]] / [[中平康]]監督
* [[風立ちぬ (1976年の映画)]] / [[若杉光夫]]監督
* [[風立ちぬ (2013年の映画)]] / [[宮崎駿]]監督([[スタジオジブリ]])
* [[思い出のマーニー]]<ref group ="注釈">舞台は[[北海道]]であるが、「湿っ地屋敷」のモデルとなったのは軽井沢町の建築が知られている。</ref> / [[米林宏昌]]監督(スタジオジブリ)
* [[土曜日曜月曜]] / [[TBS]]系テレビドラマ
* [[軽井沢ミステリー]] / [[日本テレビ]]系テレビドラマ([[火曜サスペンス劇場]])
* [[カルテット (2017年のテレビドラマ)|カルテット]] / [[TBS]]系テレビドラマ
* [[テラスハウス (テレビ番組) |TERRACE HOUSE OPENING NEW DOORS]] / リアリティ番組
ほか
=== 音楽作品 ===
* [[7つの俳諧]]・軽井沢の鳥たち / [[オリヴィエ・メシアン]]
* [[落葉松 (小林秀雄)|落葉松]] / [[小林秀雄 (作曲家)|小林秀雄]]
* [[結婚しようよ]] / [[吉田拓郎]]
* [[避暑地の恋]] / [[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]]
* [[恋する夏の日]] / [[天地真理]]
* [[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]] / [[松田聖子]]
* [[swing,sing]] / ISARIBI
ほか
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[軽井沢]]
* [[エフエム軽井沢|FM軽井沢]]
* [[リゾート]]
* [[スポーツコミュニティー軽井沢クラブ]]
* [[中部電力カーリング部]]
* [[あさま山荘事件]]
* [[二十世紀音楽研究所]] - 1957年~1959年に現代音楽祭を軽井沢で開催
== 外部リンク ==
* 公式
** {{Official website}}
** {{Twitter|karuizawatown}}
** {{Facebook|town.karuizawa.nagano}}
** {{YouTube|channel=UCwWWMxoGXIVX_LZUn11bneQ}}
** {{LINE公式アカウント|karuizawa_town}}
* 観光
** [https://karuizawa-kankokyokai.jp/ 軽井沢観光協会]
* [[ふるさと納税]]
**[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1508982527019/index.html さわやか軽井沢ふるさと寄附金]
**[https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1636101706369/index.html 企業版ふるさと納税について 軽井沢町]
** [https://www.furusato-tax.jp/city/info/20321 ふるさとチョイス 軽井沢町]
{{Geographic Location
|Centre = 軽井沢町
|North = [[群馬県]][[嬬恋村]] 群馬県[[長野原町]]
|Northeast = 群馬県[[高崎市]]
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|South = [[佐久市]] 群馬県[[下仁田町]]
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|West = [[御代田町]]
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{{長野県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かるいさわまち}}
[[Category:北佐久郡]]
[[Category:長野県の市町村]]
[[Category:軽井沢町|*]]
[[Category:あさま山荘事件]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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2003-07-03T08:40:17Z
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