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品鶴線
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品鶴線(ひんかくせん)は、東京都港区の品川駅と横浜市鶴見区の鶴見駅を新鶴見信号場を経由して結ぶ、東海道本線の支線の通称である。
横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車の3つの列車運行系統の走行ルートの一部とされており、東日本旅客鉄道(JR東日本)が第一種鉄道事業者、日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっている。
品川駅で東海道本線と分かれて内陸部を南西方面へ進み、多摩川を渡った武蔵小杉駅付近で南に大きくカーブして南進し、新鶴見信号場を過ぎた先の鶴見駅付近で東海道本線と再合流するというルートを取る線路である。
もともとは貨物線として建設されたが、いわゆる「通勤五方面作戦」の一環として1980年(昭和55年)に行われた東海道・横須賀別線化(通称、SM分離)によって旅客線化され、横須賀・総武快速線電車が走るようになった。また、2001年(平成13年)からは湘南新宿ラインの列車、2019年(令和元年)からは相鉄線直通列車も走るようになっている。なお、貨物列車の大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車が存在する。
東海道新幹線の建設時には、土地取得の困難さから品川駅から多摩川までの大部分の区間でこの品鶴線のルートを利用することになり、品鶴線の真上に高架を建設したり、品鶴線の線路に隣接して建設したりすることで用地を確保して建設された。そのため、品川駅から武蔵小杉駅付近まで新幹線と並走している。
なお、旅客案内では「品鶴線」の名前を用いることはない。たとえば、2010年代より実施されている、川崎駅方面でのトラブル等の際に東海道本線の列車が品鶴線を迂回運転する際には『横須賀線の線路を使用』と案内されている(同様の例として利府線が挙げられる)。
品川駅を南進すると、しばらくして東海道本線を乗り越えて西に別れ山手線と並走する。旧・目黒川信号場(現在は大崎駅構内扱い)で山手貨物線を分岐し、さらに旧・蛇窪信号場(同じく大崎駅構内扱い)で大崎駅からの大崎支線が合流、その先に西大井駅がある。品川駅から東海道新幹線と並走して大田区上池台界隈の台地を抜ける。東京都立田園調布高等学校多摩川グラウンドの脇にある品鶴線多摩川橋梁で多摩川を渡り、南武線との交差地点付近にある武蔵小杉駅を過ぎたところで新幹線と別れる。その先の踏み切りの南側で横須賀線用線路と貨物線とが分岐し、複々線となって南下(どちらの線路も品鶴線と称する)。この複々線区間の横須賀線用線路には新川崎駅が、貨物線には完成当時日本最大規模を誇った新鶴見操車場(現新鶴見信号場)があり、鶴見駅付近で再び東海道本線と合流(並走)する。新鶴見信号場 - 鶴見駅間の貨物線側は武蔵野線(貨物線である「武蔵野南線」)と線路を共用する。
さらに、鶴見駅からは横浜羽沢駅経由で小田原方面へと通じる東海道貨物線・根岸線方面に直通し東海道貨物線の一つである高島線と、鶴見駅から浜川崎駅、東京貨物ターミナル駅を経由して浜松町駅へと通じる東海道貨物線とそれぞれ接続している(ただし、東京貨物ターミナル方面へ通じる路線へは鶴見駅で機回し、電車であればスイッチバックを必要とする)。
新川崎駅は旅客化の際に建設された。西大井駅は地元の要望で民営化前の1986年に設置された。2010年3月には武蔵小杉駅横須賀線ホームが開設され南武線および東京急行電鉄東横線・目黒線との乗り換え駅となった。
なお、2019年11月30日に相鉄・JR直通線として東海道貨物線横浜羽沢駅近隣羽沢横浜国大駅 - 相模鉄道本線西谷駅間が開業し、相鉄線の列車が東海道貨物線から鶴見駅 - 旧蛇窪信号場間(鶴見駅 - 武蔵小杉駅間は当線複々線のうち貨物線側)で当線に乗り入れている。ただし、線路配置の関係上、新川崎駅は通過となる。
※ 大崎駅付近の配線略図(注意、巨大画像600px、表示巾800px)を表示するには、右の [表示] をクリックして下さい。
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品鶴線は、東京都港区の品川駅と横浜市鶴見区の鶴見駅を新鶴見信号場を経由して結ぶ、東海道本線の支線の通称である。 横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車の3つの列車運行系統の走行ルートの一部とされており、東日本旅客鉄道(JR東日本)が第一種鉄道事業者、日本貨物鉄道(JR貨物)が第二種鉄道事業者となっている。
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{{Pathnav|東海道本線|frame=1}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 品鶴線
|路線色=green
|画像=Hinkaku line ontakesan 2023.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[東急池上線]]([[御嶽山駅]])との交差地点付近
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]・[[神奈川県]]
|起点=[[品川駅]]
|終点=[[鶴見駅]]
|経由路線=[[東海道本線]]
|路線記号=JO<br>JS
|開業=[[1929年]][[8月21日]]
|所有者=[[東日本旅客鉄道]]
|運営者=東日本旅客鉄道<br>[[日本貨物鉄道]]
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|諸元備考内容=経路図は[[横須賀線]]を参照
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'''品鶴線'''(ひんかくせん<!-- 読みについてはノートを参照--><ref>{{Cite book |和書 |author=宮脇俊三・原田勝正(編集)|year=1991 |title=全線全駅鉄道の旅|volume=4 関東JR私鉄2100キロ |publisher=小学館 |page=45 |isbn=4-09-395304-X |quote={{読み仮名|品鶴線|ひんかくせん}}と通称された貨物線であった。}}</ref>)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[品川駅]]と[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]の[[鶴見駅]]を[[新鶴見信号場]]を経由して結ぶ、[[東海道本線]]の[[支線]]の[[通称]]である。
[[横須賀線]]、[[湘南新宿ライン]]、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]の3つの列車運行系統の走行ルートの一部とされており、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となっている。
== 概要 ==
品川駅で東海道本線と分かれて内陸部を南西方面へ進み、[[多摩川]]を渡った[[武蔵小杉駅]]付近で南に大きくカーブして南進し、新鶴見信号場を過ぎた先の鶴見駅付近で東海道本線と再合流するというルートを取る線路である。
もともとは[[貨物線]]として建設されたが、いわゆる「[[通勤五方面作戦]]」の一環として1980年(昭和55年)に行われた東海道・横須賀別線化(通称、[[横須賀・総武快速線#SM分離|SM分離]])によって旅客線化され、[[横須賀・総武快速線]]電車が走るようになった。また、2001年(平成13年)からは[[湘南新宿ライン]]の列車、2019年(令和元年)からは[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]も走るようになっている。なお、貨物列車の大半は新[[東海道貨物線]]や[[武蔵野線]]に移されたが、現在でも品鶴線から[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車が存在する。
[[東海道新幹線]]の建設時には、土地取得の困難さから品川駅から多摩川までの大部分の区間でこの品鶴線のルートを利用することになり、品鶴線の真上に高架を建設したり、品鶴線の線路に隣接して建設したりすることで用地を確保して建設された。そのため、品川駅から武蔵小杉駅付近まで新幹線と並走している。
なお、旅客案内では「品鶴線」の名前を用いることはない。たとえば、2010年代より実施されている、川崎駅方面でのトラブル等の際に東海道本線の列車が品鶴線を迂回運転する際には『横須賀線の線路を使用』と案内されている(同様の例として[[利府線]]が挙げられる)。
== 詳細 ==
[[File:Yokosukaline_tamagawa.jpg|thumb|300px|[[多摩川橋梁 (品鶴線)|品鶴線多摩川橋梁]]は品鶴線の橋梁として建設された。現在は横須賀線・湘南新宿ラインの列車が多数往来する(2007年11月)。]]
[[File:大崎付近概略図.PNG|thumb|200px|大崎付近概略図]]
[[品川駅]]を南進すると、しばらくして東海道本線を乗り越えて西に別れ[[山手線]]と並走する。旧・[[目黒川信号場]](現在は[[大崎駅]]構内扱い)で[[山手貨物線]]を分岐し、さらに旧・[[蛇窪信号場]](同じく大崎駅構内扱い)で大崎駅からの[[大崎支線]]が合流、その先に[[西大井駅]]がある。品川駅から[[東海道新幹線]]と並走して[[大田区]][[上池台]]界隈の台地を抜ける。[[東京都立田園調布高等学校]]多摩川グラウンドの脇にある[[多摩川橋梁 (品鶴線)|品鶴線多摩川橋梁]]で[[多摩川]]を渡り、[[南武線]]との交差地点付近にある[[武蔵小杉駅]]を過ぎたところで新幹線と別れる。その先の踏み切りの南側で横須賀線用線路と貨物線とが分岐し、複々線となって南下(どちらの線路も品鶴線と称する)。この複々線区間の横須賀線用線路には[[新川崎駅]]が、貨物線には完成当時日本最大規模を誇った[[新鶴見信号場|新鶴見操車場]](現新鶴見信号場)があり、鶴見駅付近で再び東海道本線と合流(並走)する。新鶴見信号場 - 鶴見駅間の貨物線側は[[武蔵野線]](貨物線である'''「武蔵野南線」''')と線路を共用する。
さらに、鶴見駅からは[[横浜羽沢駅]]経由で[[小田原駅|小田原]]方面へと通じる[[東海道貨物線]]・[[根岸線]]方面に直通し東海道貨物線の一つである[[高島線]]と、鶴見駅から[[浜川崎駅]]、[[東京貨物ターミナル駅]]を経由して[[浜松町駅]]へと通じる東海道貨物線とそれぞれ接続している(ただし、東京貨物ターミナル方面へ通じる路線へは鶴見駅で[[機回し]]、電車であれば[[スイッチバック]]を必要とする)。
新川崎駅は旅客化の際に建設された。西大井駅は地元の要望で民営化前の1986年に設置された。[[2010年]]3月には武蔵小杉駅横須賀線ホームが開設され南武線および[[東京急行電鉄]][[東急東横線|東横線]]・[[東急目黒線|目黒線]]との乗り換え駅となった。
なお、[[2019年]][[11月30日]]に[[相鉄・JR直通線]]として東海道貨物線横浜羽沢駅近隣[[羽沢横浜国大駅]] - [[相鉄本線|相模鉄道本線]][[西谷駅]]間が開業し、相鉄線の列車が東海道貨物線から鶴見駅 - 旧蛇窪信号場間(鶴見駅 - 武蔵小杉駅間は当線複々線のうち貨物線側)で当線に乗り入れている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sotetsu.co.jp/news_release/pdf/190716_01.pdf|title=相鉄・JR直通線の運行計画の概要について|date=2019-07-16|accessdate=2019-07-16|publisher=相模鉄道株式会社・東日本旅客鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>。ただし、線路配置の関係上、新川崎駅は通過となる。
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Above Bl - Hinkaku line & Tokaido Shinkansen 3.jpg|品鶴線と東海道新幹線の直上高架(大崎付近)
Above Bl - Hinkaku line & Tokaido Shinkansen 2.jpg|品鶴線と東海道新幹線の直上高架(環七との立体交差)
Above Bl - Hinkaku line & Tokaido Shinkansen 1.jpg|品鶴線と東海道新幹線の直上高架(大田区馬込)
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{{-}}
== 歴史 ==
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[8月21日]] : 品川 - 新鶴見操車場 - 鶴見間(11.0[[マイル|M]]≒17.70km)が複線で開業。目黒川信号場、新鶴見操車場開設。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[4月1日]] : マイル表示からメートル表示に変更(11.0M→17.8km)。
** [[10月30日]] : 新鶴見操車場 - 鶴見間が電化。
* [[1934年]](昭和9年)[[12月1日]] : 蛇窪信号場開設。
* [[1939年]](昭和14年)[[8月1日]] : 品川 - 新鶴見操車場間が電化。
* [[1950年]](昭和25年)[[5月20日]] : 蛇窪信号場 - 新鶴見操車場間に丸子信号場を開設。
* [[1957年]](昭和32年)[[7月17日]] : 丸子信号場廃止。
* [[1962年]](昭和37年)2月 : 東海道新幹線工事のため、品川 - 蛇窪信号場間を単線運転とし(20か月間)、東海道線跨線[[トラス橋]]を撤去し複々線格子桁にする工事開始。
* [[1963年]](昭和38年)1月 : 東海道新幹線工事のため、蛇窪信号場 - 新鶴見操車場間で昼間に列車の通らない90分と60分の作業時間帯を設け(20か月間)、新幹線の高架工事開始。
* [[1964年]](昭和39年)[[3月29日]] : 東海道新幹線の馬込地先の国道1号線を跨ぐ[[ローゼ橋]]架設のため、深夜3時間半にわたり品鶴線き電停止、線路閉鎖。国道1号(第二京浜)も9時間半全面通行止め。
* [[1965年]](昭和40年)7月 : 目黒川信号場・蛇窪信号場廃止([[大崎駅]]構内に編入)。
* [[1973年]](昭和48年)[[10月1日]] : 尻手短絡線建設に伴い、南武線尻手 - 新鶴見操車場 - 品川・鶴見に営業キロが設定される。全区間が東海道本線と南武線の重複区間になる。
* [[1976年]](昭和51年)[[3月1日]] : 武蔵野線鶴見 - 新鶴見操車場 - 府中本町間が開業。新鶴見信号場 - 鶴見は東海道本線、南武線、武蔵野線の3路線重複区間になる。
* [[1980年]](昭和55年)10月1日 : 新鶴見操車場 - 鶴見間に東海道本線専用の複線が増設され、この区間は3路線で複々線となる。旅客営業が開始され、横須賀線電車が乗り入れ。新川崎駅開業。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]] : 新鶴見操車場が信号場に降格、新鶴見信号場となる。
* [[1986年]](昭和61年)[[4月2日]] : 西大井駅開業。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日 : [[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道が継承。南武線尻手 - 新鶴見信号場 - 品川の営業キロは廃止され、品川 - 新鶴見信号場は東海道本線単独に戻る。新鶴見信号場 - 鶴見は3路線重複のままであるが、第2種鉄道事業者である日本貨物鉄道の営業キロは武蔵野線にしか設定されなかった。
* [[1991年]]([[平成]]3年) [[3月19日]] : [[成田エクスプレス]]の運転開始(当線内途中停車駅なし)。
* [[2001年]](平成13年)12月1日 : 湘南新宿ラインの運転開始。
* [[2010年]](平成22年)[[3月13日]] : 西大井 - 新川崎間に武蔵小杉駅開業。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月12日]]:[[令和元年東日本台風]](台風19号)による大雨の影響で、武蔵小杉駅横須賀線構内が浸水する被害を受ける<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho01.pdf|title=台風19号によるJR東日本管内の設備等の主な被害状況について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-10-13|accessdate=2019-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191013141429/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho01.pdf|archivedate=2019-10-13}}</ref>。
** [[11月30日]] : [[相鉄・JR直通線]]が開業し、[[埼京線]]と[[相模鉄道]]の直通運転開始。
== 駅一覧 ==
* 接続路線は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の在来線(正式路線名または支線名)のみ記載。JR東日本以外の路線、および列車停車駅などの情報は[[横須賀・総武快速線]]・[[湘南新宿ライン]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]の駅一覧を参照。
* 旅客ホーム
** ●:旅客ホームが存在([[横須賀線]]・湘南新宿ラインおよび相鉄線直通列車が使用)
** ▲:貨物線(相鉄線直通列車が通過する線路)上には無いが、旅客線上にホームが存在(横須賀線・湘南新宿ラインの列車が使用)
** 空白:旅客ホームなし
* <nowiki>*</nowiki>印:品鶴線と線路が直接繋がっていない路線([[連絡線]]による接続を含む)
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em;"|駅番号
!style="width:10em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em;"|{{縦書き|旅客ホーム|height=6em}}
!接続路線
!colspan="3"|所在地
|-
!JO 17
|[[品川駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|●
|[[東海道本線]](本線)・[[山手線]]*
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}}
|colspan="2"|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!
|(旧 [[目黒川信号場]])
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|1.3
|
|[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]
|rowspan="3" colspan="2"|[[品川区]]
|-
!
|(旧 [[蛇窪信号場]])
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|3.1
|
|[[大崎支線]]
|-
!JO 16<br>JS 16
|[[西大井駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|3.6
|●
|
|-
!JO 15<br>JS 15
|[[武蔵小杉駅]]
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|10.0
|●
|[[南武線]]*
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[神奈川県]]|height=5em}}
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[川崎市]]|height=3.5em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[中原区]]
|-
!JO 14<br>JS 14
|[[新川崎駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|12.7
|▲
|
|rowspan="2"|[[幸区]]
|-
!
|[[新鶴見信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|13.9
|
|[[武蔵野線]](貨物線)・南武線貨物支線([[尻手駅]]方面)
|-
!
|[[鶴見駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|17.8
|
|東海道本線(本線・[[東海道貨物線]]・[[高島線]])・[[鶴見線]]*
|colspan="2"|[[横浜市]]<br>[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]
|}
* 西大井駅 - 武蔵小杉駅で[[大田区]]を通るが、駅はない。
* 鶴見駅は東海道本線の[[電車線・列車線|電車線]]にはホームが存在する([[京浜東北線]]が使用)が、東海道本線の[[電車線・列車線|列車線]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[上野東京ライン]]が通過)および品鶴線の旅客線と貨物線にはホームなし。
** 営業上は品川駅と鶴見駅を結んでいる扱いであるが(運賃計算上も同様)、鶴見駅には品鶴線のホームはなく全旅客列車が通過する。鶴見駅を通過した後、[[横須賀線]]専用線路上を走り東海道本線と並走して[[横浜駅]]まで停車しない。そのため、新川崎・武蔵小杉(南武線から乗り継ぐ場合も含む)・西大井から鶴見駅を経由して、川崎方面や鶴見 - [[東神奈川駅|東神奈川]]間の各駅(これらの駅から分岐している[[鶴見線]]、[[横浜線]]方面も含む)に向かう(あるいはその逆の)場合は、鶴見 - 横浜間で区間外乗車が認められる<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.jreast.co.jp/kippu/1106.html#12 | title=特定の分岐区間に対する区間外乗車の特例 | publisher=[[東日本旅客鉄道]] | accessdate=November 16, 2011}}</ref>。
** 品川駅以北と鶴見駅以南の間を品鶴線経由で利用する場合(品鶴線の品川駅 - 鶴見駅間は17.8km)、川崎駅回りの東海道線と同じ営業キロ (14.9km) で計算する([[経路特定区間]])。
* 品川駅 - 西大井駅間を通過する場合、大崎駅構内に属する目黒川・蛇窪の旧信号場を経由するが、運賃計算上大崎駅は経由していないものとみなされる。
* 湘南新宿ラインの列車で山手線大崎駅 - (大崎支線) - 旧蛇窪信号場 - 西大井駅を経由する場合でも、運賃計算上は「大崎駅 - 品川駅 - 西大井駅」の経路を経由したものとみなされている。この場合も上述の経路特定区間の特例が適用される。
=== 廃止信号場 ===
* [[丸子信号場]](品川駅起点8.5km):[[東急多摩川線]][[沼部駅]]と交差する付近にあり、かつてあった工場への専用線が分岐していた。
=== 大崎駅付近の配線図 ===
<div class="NavFrame" style="background-color:#fff; border:solid 1px #080; text-align:left; font-size:100%; float:left;">
<div class="NavHead" style="background-color:#fff; text-align:left; font-weight: normal; padding-right:50px;">
<small> ※ 大崎駅付近の配線略図(注意、巨大画像600px、表示巾800px)を表示するには、右の [表示] をクリックして下さい。</small>
</div>
<div class="NavContent">
{{駅配線図|image=Rail Tracks map Osaki Station.svg
|title=[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東京臨海高速鉄道|TWR]] 大崎駅付近の配線略図
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|up=[[横浜駅|横浜]]・[[小田原駅|小田原]]・[[逗子駅|逗子]]方面|up-align=center
|left=[[東京テレポート駅|東京テレポート]]<br />・[[新木場駅|新木場]]<br />方面|left-valign=top
|right=[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]・<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]・[[川越駅|川越]]・<br />[[高崎駅|高崎]]・[[宇都宮駅|宇都宮]]<br />方面|right-valign=middle
|down=[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]方面|down-align=left
|source={{Cite journal|和書|year=2004|month=1|title=特集 短絡線ミステリー7|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=513|page=21|publisher=[[交友社]]}}
|note=<small>本図では、'''品鶴線'''とほぼ重なる[[東海道新幹線|新幹線]]と旧蛇窪信号場付近でオーバークロスする[[東急大井町線|大井町線]]の配線を省略している。</small>}}
</div>
</div>
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[東京外環状線]]
{{東海道本線関連路線}}
{{埼京線|mode=1}}
{{DEFAULTSORT:ひんかく}}
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:神奈川県の交通]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本貨物鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:横須賀・総武快速線|*ひんかくせん]]
[[Category:東海道本線貨物線・貨物施設|*ひんかくせん]]
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10,793 |
プロトアクチニウム
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プロトアクチニウム (英: protactinium [ˌproʊtækˈtɪniəm]) は、原子番号91の元素。元素記号は Pa。アクチノイド元素の一つ。安定同位体は存在せず、すべてが放射性同位体である。
銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は正方晶系であるが、800°C程に加熱すると体心立方格子が最も安定となる。比重は15.37(理論値)、融点は1575 °C、沸点は4000 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。
空気中での酸化はゆるやか。酸に溶ける(やや難溶)。酸素、水蒸気と反応。酸素と反応すると表面が曇る。アルカリには不溶。展性、延性があり、化学的性質は、ニオブやタンタルに類似する。安定な原子価は+5。
α崩壊するとアクチニウムになる。アクチニウム(actinium)の元になるもの(proto)という意味で、1918年に protoactinium と名づけられた。その後1949年に protactinium に短縮された。
1871年、メンデレーエフが91番元素として、その存在と性質を予言、エカタンタル (ekatantalum) と呼んだ。
当時はウラン崩壊の際に生じる核異性体のプロトアクチニウム234を偶然発見しただけであったが、その後1917年、リーゼ・マイトナー、オットー・ハーンがプロトアクチニウム231を発見した。
1961年には99.9 %純粋なプロトアクチニウムが作られるようになった。
プロトアクチニウムは存在量の少なさと強い毒性のためあまり用途はない。しかし、ウラン235のα崩壊の際に生じるプロトアクチニウム231は核燃料に使用されると思われる。現在、プロトアクチニウム231は海底沈殿層の年代測定に利用されている。
プロトアクチニウムはウラン鉱に微量存在し、ウラン崩壊の際に極微量生成する。
プロトアクチニウムは29の同位体が存在が確認されているが、安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。天然には4つの同位体が存在し、最も半減期が長いのがプロトアクチニウム231で、32760年である。この元素には、2つの核異性体 Pa(半減期1.15ミリ秒)と Pa(半減期1.17分)が存在する。
プロトアクチニウムは強い放射性と猛毒性を有し、プルトニウムのアルファ線同等の強発癌性を有する。
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プロトアクチニウム は、原子番号91の元素。元素記号は Pa。アクチノイド元素の一つ。安定同位体は存在せず、すべてが放射性同位体である。 銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は正方晶系であるが、800℃程に加熱すると体心立方格子が最も安定となる。比重は15.37(理論値)、融点は1575 °C、沸点は4000 °C(融点、沸点とも異なる実験値あり)。 空気中での酸化はゆるやか。酸に溶ける(やや難溶)。酸素、水蒸気と反応。酸素と反応すると表面が曇る。アルカリには不溶。展性、延性があり、化学的性質は、ニオブやタンタルに類似する。安定な原子価は+5。
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{{Expand English|Protactinium|date=2023-11}}
{{Elementbox
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|phase=固体
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|magnetic ordering=[[常磁性]]<ref name=magnet>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120112012253/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf |date=2012年1月12日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref>
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|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=229 | sym=Pa
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|isotopes comment=
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'''プロトアクチニウム''' ({{lang-en-short|protactinium}} {{IPA-en|ˌproʊtækˈtɪniəm|}}) は、[[原子番号]]91の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Pa'''。[[アクチノイド]]元素の一つ。安定[[同位体]]は存在せず、すべてが放射性同位体である。
銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は[[正方晶系]]であるが、800℃程に加熱すると体心立方格子が最も安定となる。比重は15.37(理論値)、[[融点]]は1575 {{℃}}、[[沸点]]は4000 {{℃}}(融点、沸点とも異なる実験値あり)。
空気中での酸化はゆるやか。酸に溶ける(やや難溶)。[[酸素]]、水蒸気と反応。酸素と反応すると表面が曇る。アルカリには不溶。展性、延性があり、化学的性質は、[[ニオブ]]や[[タンタル]]に類似する。安定な原子価は+5。
== 名称 ==
[[アルファ崩壊|α崩壊]]すると[[アクチニウム]]になる。アクチニウム(actinium)の元になるもの(proto)という意味で、[[1918年]]に ''protoactinium'' と名づけられた。その後[[1949年]]に ''protactinium'' に短縮された。
== 歴史 ==
[[1871年]]、[[ドミトリ・メンデレーエフ|メンデレーエフ]]が91番元素として、その存在と性質を予言、エカタンタル (ekatantalum) と呼んだ<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 368|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
当時はウラン崩壊の際に生じる[[核異性体]]のプロトアクチニウム234を偶然発見しただけであったが、その後[[1917年]]、[[リーゼ・マイトナー]]、[[オットー・ハーン]]がプロトアクチニウム231を発見した。
[[1961年]]には99.9 %純粋なプロトアクチニウムが作られるようになった。
== 用途 ==
プロトアクチニウムは存在量の少なさと強い毒性のためあまり用途はない。しかし、[[ウラン235]]の[[α崩壊]]の際に生じるプロトアクチニウム231は核燃料に使用されると思われる。現在、プロトアクチニウム231は海底沈殿層の年代測定に利用されている。
== 存在 ==
プロトアクチニウムはウラン鉱に微量存在し、ウラン崩壊の際に極微量生成する。
== 同位体 ==
{{main|プロトアクチニウムの同位体}}
プロトアクチニウムは29の同位体が存在が確認されているが、安定同位体は存在せず、すべてが放射性である。天然には4つの同位体が存在し、最も半減期が長いのがプロトアクチニウム231で、32760年である。この[[元素]]には、2つの核異性体 <sup>217m</sup>Pa(半減期1.15[[ミリ秒]])と <sup>234m</sup>Pa(半減期1.17[[分]])が存在する。
== 人体毒性 ==
プロトアクチニウムは強い放射性と猛毒性を有し、[[プルトニウム]]の[[アルファ線]]同等の強発癌性を有する。
== プロトアクチニウムの化合物 ==
* PaO<sub>2</sub> - [[酸化プロトアクチニウム(IV)]]
* Pa<sub>2</sub>O<sub>5</sub> - [[酸化プロトアクチニウム(V)]]
* PaF<sub>4</sub>
* PaF<sub>5</sub>
* PaCl<sub>4</sub>
* PaCl<sub>5</sub>
* PaBr<sub>4</sub>
* PaBr<sub>5</sub>
* PaI<sub>4</sub>
* PaI<sub>5</sub>
* プロトアクトセン(Pa([[シクロオクタテトラエン|C<sub>8</sub>H<sub>8</sub>]])<sub>2</sub>)
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Protactinium}}
{{元素周期表}}
{{プロトアクチニウムの化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふろとあくちにうむ}}
[[Category:プロトアクチニウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
|
2003-07-03T11:13:50Z
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"Template:元素周期表",
"Template:プロトアクチニウムの化合物",
"Template:Main"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0
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10,795 |
テルビウム
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テルビウム (英: terbium [ˈtɜrbiəm]) は原子番号65の元素。元素記号は Tb。希土類元素、ランタノイド元素に属す。
スウェーデンの小さな町イッテルビー (Ytterby) にちなんで名づけられた。イッテルビーからは、テルビウムの他、イットリウム、イッテルビウム、エルビウムと合計四つの新元素が発見されている。これらの元素はいずれも、イッテルビー から名称の一部をとって命名された。
銀白色の金属で、常温、常圧で安定な結晶構造は六方最密充填構造 (HCP)。比重は8.25、融点は1356 °C、沸点は3123 °C(2750 °Cという実験値もあり)。
水にゆっくりと溶ける。酸に易溶。空気中で表面が酸化され、高温で燃えて Tb2O3、更に Tb4O7 となる。ハロゲンとも激しく反応する。原子価は+3、+4価で、4f の電子配置を取る淡紅色の+3価のイオン Tb が安定である。水溶液中では+4価は不安定であり、Tb4O7 など高酸化状態のものを含む酸化物を酸に溶解すると酸素を発生して分解し、+3価に変化する。
低温では強磁性を示し、キュリー温度 TN は-52 °C (221 K) である。
地殻中の存在量は希土類としては比較的少ない。ガドリン石、セル石、ゼノタイムなどに含まれる。
テレビのブラウン管、水銀灯の蛍光体の材料に利用される。鉄-コバルト-テルビウム合金は光磁気ディスクの磁性膜の材料として、鉄-ジスプロシウム-テルビウム合金はプリンターの印字ヘッドに利用される。磁性ガラスには磁性を担う酸化テルビウムが添加される。
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"title": "用途"
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テルビウム は原子番号65の元素。元素記号は Tb。希土類元素、ランタノイド元素に属す。
|
{{Expand English|Terbium|date=2023-11}}
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'''テルビウム''' ({{lang-en-short|terbium}} {{IPA-en|ˈtɜrbiəm|}}) は[[原子番号]]65の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Tb'''。[[希土類元素]]、[[ランタノイド元素]]に属す。
== 名称 ==
スウェーデンの小さな町[[イッテルビー]] (Ytterby) にちなんで名づけられた。イッテルビーからは、テルビウムの他、[[イットリウム]]、[[イッテルビウム]]、[[エルビウム]]と合計四つの新元素が発見されている。これらの元素はいずれも、イッテルビー から名称の一部をとって命名された。
== 性質 ==
銀白色の[[金属]]で、常温、常圧で安定な結晶構造は[[六方最密充填構造]] (HCP)。比重は8.25、[[融点]]は1356 {{℃}}、[[沸点]]は3123 {{℃}}(2750 {{℃}}という実験値もあり)。
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[[地殻]]中の存在量は希土類としては比較的少ない。ガドリン石、セル石、ゼノタイムなどに含まれる。
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ジスプロシウム
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ジスプロシウム (英: dysprosium [dɪsˈproʊziəm]、ディスプロシウムとも言うことあり) は原子番号66の元素。元素記号は Dy。金属的な銀色の光沢を持つ希土類元素である。単体として存在することはないが、ゼノタイムなど様々な鉱物に含まれる。自然界に生じるジスプロシウムは7つの同位体から構成され、最も多いのはDyである。レアアースの一種。
1886年にポール・ボアボードランにより初めて同定されたが、1950年代にイオン交換技術が開発されるまで純粋な形では単離されなかった。他の元素で代替できない用途は比較的少ない。熱中性子吸収断面積が高いため原子炉の制御棒に使用され、磁化率が高いため( χ v ≈ 5.44 × 10 − 3 {\displaystyle \chi _{v}\approx 5.44\times 10^{-3}} )データ記憶の用途で使用され、Terfenol-D(磁歪材料)の成分として使用される。可溶性のジスプロシウム塩は軽度の毒性があるが、不溶性の塩は無毒であると考えられている。
ジスプロシウムは希土類元素であり、金属の明るい銀色の光沢を持つ。非常に柔らかく、過度に熱することを避ければ火花を出すことなく加工することができる。物理的特性は少量の不純物でも大きな影響を受ける。
ジスプロシウムとホルミウムは、特に低温で元素の磁気強度が最も高い。85 K (−188.2 °C)未満の温度で単純な強磁性秩序を持つ。85 K (−188.2 °C)以上では、らせん状の反強磁性状態になり、特定の基底面層のすべての原子モーメントが平行で隣接する層のモーメントに対して一定の角度で配向する。この異常な反強磁性は、179 K (−94 °C)で無秩序(常磁性)状態に変わる。
ジスプロシウム金属は空気中でゆっくりと変色し、容易に燃焼して酸化ジスプロシウム(III)を形成する。
電気的にかなり陽性であり、冷水とゆっくりと(熱水とはかなり速く)反応して水酸化ジスプロシウムを形成する。
ジスプロシウム金属は、200°C以上ですべてのハロゲンと激しく反応する。
ジスプロシウムは希硫酸に容易に溶解して、[Dy(OH2)9]錯体として存在する黄色のDy(III)イオンを含む溶液を形成する。
得られる化合物である硫酸ジスプロシウム(III)は、著しく常磁性である。
DyF3やDyBr3などのハロゲン化ジスプロシウムは、黄色を帯びる傾向がある。酸化ジスプロシウム(ジスプロシア)は、酸化鉄よりも磁性の高い白色粉末である。
ジスプロシウムは高温でさまざまな非金属と結合し、さまざまな組成と酸化状態+3(場合によっては+2)の二元化合物を形成する。例えば、DyN, DyP, DyH2とDyH3; DyS, DyS2, Dy2S3とDy5S7; DyB2, DyB4, DyB6とDyB12, Dy3CとDy2C3。
炭酸ジスプロシウムDy2(CO3)3と硫酸ジスプロシウムDy2(SO4)3は、同様の反応から生じる。ほとんどのジスプロシウム化合物は水に溶解するが、炭酸ジスプロシウム四水和物(Dy2(CO3)3·4H2O)とシュウ酸ジスプロシウム十水和物(Dy2(C2O4)3·10H2O)はどちらも水に不溶である。最も豊富な炭酸ジスプロシウムの2つ、Dy2(CO3)3·2–3H2O(テンゲル石-(Y)に類似)とDyCO3(OH)(弘三石-(La)と弘三石-(Nd))は、化学式Dy2(CO3)3·4H2Oで表される整列されていない(アモルファス)前駆体相を介して形成されることが知られている。このアモルファスの前駆体は、周囲温度および高温での乾燥処理の下で非常に安定している、直径10-20nmの高く水和した球状ナノ粒子で構成される。
自然に生じるジスプロシウムは、7つの同位体(Dy, Dy, Dy, Dy, Dy, Dy, Dy)からなる。これらはすべて安定していると考えられているが、理論的にはDyは半減期が1×10年を超えるアルファ崩壊を起こす可能性がある。自然に生じる同位体のうち、Dyが28%と最も多く、次いで多いのはDyで26%である。最も少ないのはDyで0.06%である。
原子質量が138から173までの範囲で29の放射性同位体が合成されている。このうち最も安定しているのはDyであり、半減期はおよそ3×10年であり、次いで長いのはDyで144.4日である。最も不安定であるのはDyで、半減期は200ミリ秒である。一般的に、安定同位体よりも軽い同位体は主にβ崩壊により崩壊する傾向があり、重い同位体はβ崩壊により崩壊する傾向がある。しかし、Dyは主にアルファ崩壊により崩壊し、DyとDyは主に電子捕獲により崩壊する。ジスプロシウムには少なくとも11の準安定異性体があり、原子質量は140から165までの範囲にある。これらの中で最も安定であるのはDyであり、半減期は1.257分である。Dyには2つの準安定異性体があり、2番目のDyの半減期は28ナノ秒である。
1878年、エルビウム鉱石にホルミウムとツリウムの酸化物が含まれていることが分かった。1886年パリでフランスの化学者ポール・ボアボードランが酸化ホルミウムから酸化ジスプロシウムを分離した。彼がジスプロシウムを単離するために、酸化ジスプロシウムを酸に溶解し、次にアンモニアを加えて水酸化物を沈殿させる手順を行った。この手順を30回以上試みることで酸化物からジスプロシウムを単離することができた。単離に成功後、この元素をギリシア語で「近づき難い」を意味するδυσπρόσιτος (dysprositos)から、ジスプロシウムと名付けた。1950年代初頭にアイオワ州立大学でフランク・スペディング(英語版)がイオン交換技術を開発するまで、比較的純粋な形で分離されなかった。
風力タービンに使用される永久磁石に使用されるため、ジスプロシウムは再生可能エネルギーの世界において地政学的競争の主要物の1つになるであろうと主張されてきた。しかし、この視点はほとんどの風力タービンが永久磁石を使用していないことを認識しておらず、生産拡大のための経済的インセンティブの力を過小評価していると批判されている。
2013年、当時の一大生産拠点であった中華人民共和国がレアアースの輸出制限を実施し、ジスプロシウムも価格が高騰。日本では対前年度比で10倍超となる3,500円/kgに迫る月も出た。翌年には1,000円/kg台へ下落したが、高騰を契機にジスプロシウムの使用量を抑えたモーターの製造などの技術革新が進んだ。このことを契機に、ベトナムやカザフスタンなど中国以外の生産地調査が進められている。
ジスプロシウムは単体では見られることはなく、多くの鉱物(ゼノタイム、フェルグソン石、ガドリン石、ユークセン石、ポリクレース石、ブロムストランジン、モナズ石、バストネサイトなど)に含まれ、エルビウムやホルミウムなどの希土類元素とともに含まれることがよくある。ジスプロシウムが最も多く含まれる鉱物は未だ見つかっていない。
これらのうちイットリウムが多いものでは、ジスプロシウムは重ランタノイドの中で最も豊富に含まれており、濃縮液の7–8%(対イットリウムの割合は65%)を占める。地球の地殻における割合は約5.2 mg/kgであり、海水中では0.9 ng/Lである。
ジスプロシウムは、主に様々なリン酸塩の混合物であるモナズ石から得られる。また、イットリウムの商業的抽出の副産物として得られる。ジスプロシウムを単離する際には、不要な金属の大部分を磁気的もしくは浮遊選鉱により取り除くことができる。その後、イオン交換置換過程により他の希土類金属から分離することができる。結果得られるジスプロシウムイオンはフッ素または塩素と反応してフッ化ジスプロシウムDyF3または塩化ジスプロシウムDyCl3が形成されうる。これらの化合物はカルシウムまたはリチウム金属のいずれかを使用して、以下の反応で還元することができる。
タンタルのるつぼに入れ、ヘリウム雰囲気下で燃焼させる。反応が進行すると、得られるハロゲン化合物と溶融ジスプロシウムは密度の違いにより分離する。混合物が冷却されるとジスプロシウムが不純物から分離される。
ジスプロシウムは毎年世界中でおよそ100トンが産出され、その99%が中国で産出されている。価格は2003年の1ポンドあたり7ドルから2010年後半には1ポンド当たり130ドルとほぼ20倍になった。2011年には1キロあたり1,400ドルに上昇したが、2015年には240ドルに下落した。これは主に政府の制限を回避した中国での違法な産出が原因となっている。
現在、ジスプロシウムのほとんどは中国南部のイオン吸着性粘土鉱石から得られている。2018年 (2018-November)現在、西オーストラリア州Halls Creekの南東160kmにあるBrowns Range Projectのパイロットプラントでは、年間50メトリックトン (49ロングトン)産出されている。
アメリカ合衆国エネルギー省によると、ジスプロシウムの現在の用途と予測される用途の幅の広さ及びただちに適切な代替がないことから、新興のクリーンエネルギー技術にとって最も重要な元素となっている。最も保守的な予測でさえも2015年までにジスプロシウムが不足すると予測している。2015年下半期時点でオーストラリアには新興の希土類(ジスプロシウム含む)抽出産業が存在する。
ジスプロシウムはバナジウムなどの元素とともにレーザー材料や商用照明などに使用されている。ジスプロシウムは熱中性子吸収断面積が大きいため、酸化ジスプロシウムニッケルサーメットは原子炉の中性子吸収制御棒に使用されている。ジスプロシウムカドミウムカルコゲナイドは、赤外線放射源であり、化学反応の研究に有用である。ジスプロシウムとその化合物は磁化に対して敏感であるため、ハードディスクなどの各種データ保存用途に採用されている。電気自動車のモーターや風力発電機に使用される永久磁石としての需要が高まっている。
ネオジム鉄ホウ素磁石は、電気自動車の駆動モーターや風力タービンの発電機などの用途で保磁力を高めるために、ネオジムの6%までをジスプロシウムに代替することができる。この代替には電気自動車1台当たり最大100gのジスプロシウムが必要となる。トヨタ自動車が年間200万台を予測していることを基にすると、このような用途にジスプロシウムを使用した場合、利用可能な供給源がすぐに枯渇してしまう。また、ネオジム磁石の保磁力を高めるための添加物としての利用が急増しており、安定供給の確保に懸念が生じている。そのため、日本では経済産業省主導の「希少金属代替材料開発プロジェクト」で希土類磁石に向けた使用量を2011年度までに現状から30 %低減、2012年度までに100%低減(代替)するための技術開発を目指すなどしていた。ジスプロシウムによる置換は磁石の耐食性を向上させることから他の用途にも役立つ可能性がある。
ジスプロシウムは、鉄、テルビウムとともにTerfenol-Dの成分の1つである。Terfenol-Dは既知の材料の中で最高の室温磁歪を有しており、トランスデューサー、広帯域力学的共振器、高精度液体燃料噴射装置に採用されている。
ジスプロシウムは、電離放射線を測定するための線量計に使用されている。硫酸カルシウムやフッ化カルシウムの結晶にジスプロシウムがドープされている。これらの結晶に放射線を照射すると、ジスプロシウム原子が励起されて発光する。この発光を測定することで、線量計がどの程度の被ばくを受けたかを決定することができる。
ジスプロシウムのナノファイバーは、強度が高く表面積が大きい。したがって、他の材料を補強したり触媒として機能するために使用される。酸化ジスプロシウムフッ化物のファイバーはDyBr3とNaFの水溶液を450°C、450バールで17時間加熱することにより製造することができる。この材料は再溶解や凝集を起こさず、400°Cを超える温度の様々な水溶液中で100時間以上残存するほど非常に強健である。
高輝度メタルハライドランプには、ヨウ化ジスプロシウムと臭化ジスプロシウムが使用されている。これらの化合物はランプの高温中心付近で解離し単離ジスプロシウム原子を放出する。後者はスペクトルの緑と赤の部分の光を再放出し、これにより効果的に明るい光を生成する。
ジスプロシウムのいくつかの常磁性結晶塩(ジスプロシウムガリウムガーネット(DGG)、ジスプロシウムアルミニウムガーネット(DAG)、ジスプロシウム鉄ガーネット(DyIG))は、断熱消磁冷却装置に使用されている。
3価のジスプロシウム(Dy)のダウンシフト発光特性が研究されている。ジスプロシウムをドープしたイットリウム・アルミニウム・ガーネット(Dy:YAG)を電磁スペクトルの紫外線領域で励起すると、可視光領域のより長い波長の光子が放出される。このアイデアはUV励起白色発光ダイオードの新世代の基礎となっている。
多くの粉末と同様、ジスプロシウムの粉末は空気と混合した場合や着火源がある場合に爆発の危険性がある。ジスプロシウムの薄い箔は火花や静電気によっても発火することがある。ジスプロシウムの火は水で消すことができない。水と反応して可燃性の水素ガスを発生させることがあるが、塩化ジスプロシウムの火は水で消すことができる。フッ化ジスプロシウム、酸化ジスプロシウムは不燃性である。硝酸ジスプロシウム(Dy(NO3)3)は強力な酸化剤であり、有機物と接触すると容易に発火する。
塩化ジスプロシウムや硝酸ジスプロシウムなどの可溶性のジスプロシウム塩は、摂取すると軽度の毒性を示す。塩化ジスプロシウムのマウスへの毒性から、ヒトにとって500グラム以上の摂取が致命的であると推定されている。不溶性の塩は無毒である。
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"text": "アメリカ合衆国エネルギー省によると、ジスプロシウムの現在の用途と予測される用途の幅の広さ及びただちに適切な代替がないことから、新興のクリーンエネルギー技術にとって最も重要な元素となっている。最も保守的な予測でさえも2015年までにジスプロシウムが不足すると予測している。2015年下半期時点でオーストラリアには新興の希土類(ジスプロシウム含む)抽出産業が存在する。",
"title": "産出"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ジスプロシウムはバナジウムなどの元素とともにレーザー材料や商用照明などに使用されている。ジスプロシウムは熱中性子吸収断面積が大きいため、酸化ジスプロシウムニッケルサーメットは原子炉の中性子吸収制御棒に使用されている。ジスプロシウムカドミウムカルコゲナイドは、赤外線放射源であり、化学反応の研究に有用である。ジスプロシウムとその化合物は磁化に対して敏感であるため、ハードディスクなどの各種データ保存用途に採用されている。電気自動車のモーターや風力発電機に使用される永久磁石としての需要が高まっている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ネオジム鉄ホウ素磁石は、電気自動車の駆動モーターや風力タービンの発電機などの用途で保磁力を高めるために、ネオジムの6%までをジスプロシウムに代替することができる。この代替には電気自動車1台当たり最大100gのジスプロシウムが必要となる。トヨタ自動車が年間200万台を予測していることを基にすると、このような用途にジスプロシウムを使用した場合、利用可能な供給源がすぐに枯渇してしまう。また、ネオジム磁石の保磁力を高めるための添加物としての利用が急増しており、安定供給の確保に懸念が生じている。そのため、日本では経済産業省主導の「希少金属代替材料開発プロジェクト」で希土類磁石に向けた使用量を2011年度までに現状から30 %低減、2012年度までに100%低減(代替)するための技術開発を目指すなどしていた。ジスプロシウムによる置換は磁石の耐食性を向上させることから他の用途にも役立つ可能性がある。",
"title": "用途"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ジスプロシウムは、鉄、テルビウムとともにTerfenol-Dの成分の1つである。Terfenol-Dは既知の材料の中で最高の室温磁歪を有しており、トランスデューサー、広帯域力学的共振器、高精度液体燃料噴射装置に採用されている。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ジスプロシウムは、電離放射線を測定するための線量計に使用されている。硫酸カルシウムやフッ化カルシウムの結晶にジスプロシウムがドープされている。これらの結晶に放射線を照射すると、ジスプロシウム原子が励起されて発光する。この発光を測定することで、線量計がどの程度の被ばくを受けたかを決定することができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ジスプロシウムのナノファイバーは、強度が高く表面積が大きい。したがって、他の材料を補強したり触媒として機能するために使用される。酸化ジスプロシウムフッ化物のファイバーはDyBr3とNaFの水溶液を450°C、450バールで17時間加熱することにより製造することができる。この材料は再溶解や凝集を起こさず、400°Cを超える温度の様々な水溶液中で100時間以上残存するほど非常に強健である。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "高輝度メタルハライドランプには、ヨウ化ジスプロシウムと臭化ジスプロシウムが使用されている。これらの化合物はランプの高温中心付近で解離し単離ジスプロシウム原子を放出する。後者はスペクトルの緑と赤の部分の光を再放出し、これにより効果的に明るい光を生成する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ジスプロシウムのいくつかの常磁性結晶塩(ジスプロシウムガリウムガーネット(DGG)、ジスプロシウムアルミニウムガーネット(DAG)、ジスプロシウム鉄ガーネット(DyIG))は、断熱消磁冷却装置に使用されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "3価のジスプロシウム(Dy)のダウンシフト発光特性が研究されている。ジスプロシウムをドープしたイットリウム・アルミニウム・ガーネット(Dy:YAG)を電磁スペクトルの紫外線領域で励起すると、可視光領域のより長い波長の光子が放出される。このアイデアはUV励起白色発光ダイオードの新世代の基礎となっている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "多くの粉末と同様、ジスプロシウムの粉末は空気と混合した場合や着火源がある場合に爆発の危険性がある。ジスプロシウムの薄い箔は火花や静電気によっても発火することがある。ジスプロシウムの火は水で消すことができない。水と反応して可燃性の水素ガスを発生させることがあるが、塩化ジスプロシウムの火は水で消すことができる。フッ化ジスプロシウム、酸化ジスプロシウムは不燃性である。硝酸ジスプロシウム(Dy(NO3)3)は強力な酸化剤であり、有機物と接触すると容易に発火する。",
"title": "注意点"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "塩化ジスプロシウムや硝酸ジスプロシウムなどの可溶性のジスプロシウム塩は、摂取すると軽度の毒性を示す。塩化ジスプロシウムのマウスへの毒性から、ヒトにとって500グラム以上の摂取が致命的であると推定されている。不溶性の塩は無毒である。",
"title": "注意点"
}
] |
ジスプロシウム は原子番号66の元素。元素記号は Dy。金属的な銀色の光沢を持つ希土類元素である。単体として存在することはないが、ゼノタイムなど様々な鉱物に含まれる。自然界に生じるジスプロシウムは7つの同位体から構成され、最も多いのは164Dyである。レアアースの一種。 1886年にポール・ボアボードランにより初めて同定されたが、1950年代にイオン交換技術が開発されるまで純粋な形では単離されなかった。他の元素で代替できない用途は比較的少ない。熱中性子吸収断面積が高いため原子炉の制御棒に使用され、磁化率が高いため( χ v ≈ 5.44 × 10 − 3 )データ記憶の用途で使用され、Terfenol-D(磁歪材料)の成分として使用される。可溶性のジスプロシウム塩は軽度の毒性があるが、不溶性の塩は無毒であると考えられている。
|
{{Elementbox
|name=dysprosium
|japanese name=ジスプロシウム
|number=66
|symbol=Dy
|pronounce={{IPAc-en|d|ɪ|s|ˈ|p|r|oʊ|z|i|əm}}<br>{{respell|dis|PROE|zee-əm}}
|left=[[テルビウム]]
|right=[[ホルミウム]]
|above=-
|below=[[カリホルニウム|Cf]]
|series=ランタノイド
|group=3
|period=6
|block=f
|image name=Dy chips.jpg
|appearance=銀白色
|atomic mass=162.500
|electron configuration=[[[キセノン|Xe]]] 4f<sup>10</sup> 6s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 28, 8, 2
|phase=固体
|density gpcm3nrt=8.540
|density gpcm3mp=8.37
|melting point K=1680
|melting point C=1407
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|boiling point F=4653
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|vapor pressure 1=1378
|vapor pressure 10=1523
|vapor pressure 100=(1704)
|vapor pressure 1 k=(1954)
|vapor pressure 10 k=(2304)
|vapor pressure 100 k=(2831)
|vapor pressure comment=
|crystal structure=hexagonal
|japanese crystal structure=[[六方晶系]]
|oxidation states='''3''', 2(弱[[塩基性酸化物]])
|electronegativity=1.22
|number of ionization energies=3
|1st ionization energy=573.0
|2nd ionization energy=1130
|3rd ionization energy=2200
|atomic radius=178
|covalent radius=192 ± 7
|magnetic ordering=[[常磁性]] (300 K)
|electrical resistivity=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 926 n
|thermal conductivity=10.7
|thermal expansion=([[室温|r.t.]]) (α, poly) 9.9
|speed of sound rod at 20=2710
|Young's modulus=(α form) 61.4
|Shear modulus=(α form) 24.7
|Bulk modulus=(α form) 40.5
|Poisson ratio=(α form) 0.247
|Vickers hardness=540
|Brinell hardness=500
|CAS number=7429-91-6
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=154 | sym=Dy
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=3.0 × 10<sup>6</sup> [[年|y]]
| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=2.947 | pn=150 | ps=[[ガドリニウム|Gd]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=156 | sym=Dy | na=0.06 % | hl= >1 × 10<sup>18</sup> [[年|y]] | dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=? | pn=152 | ps=[[ガドリニウム|Gd]]}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=158 | sym=Dy | na=0.10 % | n=92}}
{{Elementbox_isotopes_stable | mn=160 | sym=Dy | na=2.34 % | n=94}}
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{{Elementbox_isotopes_stable | mn=164 | sym=Dy | na=28.18 % | n=98}}
|isotopes comment=
}}
'''ジスプロシウム''' ({{lang-en-short|dysprosium}} {{IPA-en|dɪsˈproʊziəm|}}、ディスプロシウムとも言うことあり) は[[原子番号]]66の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Dy'''。金属的な銀色の光沢を持つ[[希土類元素]]である。単体として存在することはないが、[[ゼノタイム]]など様々な鉱物に含まれる。自然界に生じるジスプロシウムは7つの[[同位体]]から構成され、最も多いのは<sup>164</sup>Dyである。[[レアアース]]の一種。
1886年に[[ポール・ボアボードラン]]により初めて同定されたが、1950年代に[[イオン交換]]技術が開発されるまで純粋な形では単離されなかった。他の元素で代替できない用途は比較的少ない。熱中性子吸収断面積が高いため[[原子炉]]の[[制御棒]]に使用され、[[磁化率]]が高いため(<math>\chi_v \approx 5.44 \times 10^{-3}</math>)データ記憶の用途で使用され、Terfenol-D(磁歪材料)の成分として使用される。可溶性のジスプロシウム塩は軽度の毒性があるが、不溶性の塩は無毒であると考えられている。
==特徴==
===物理的性質===
[[Image:Dysprosium.jpg|thumb|upright=0.4|left|ジスプロシウムの試料]]
ジスプロシウムは[[希土類元素]]であり、金属の明るい銀色の光沢を持つ。非常に柔らかく、過度に熱することを避ければ火花を出すことなく加工することができる。物理的特性は少量の不純物でも大きな影響を受ける<ref name="CRC">{{Cite book |editor = Lide, David R. |chapter = Dysprosium |year = 2007–2008 |title = CRC Handbook of Chemistry and Physics |volume = 4 |pages = 11 |location = New York |publisher = CRC Press |isbn = 978-0-8493-0488-0}}</ref>。
ジスプロシウムと[[ホルミウム]]は、特に低温で<ref name="krebs"/>元素の磁気強度が最も高い<ref name=nbb/>。{{convert|85|K|C}}未満の温度で単純な[[強磁性]]秩序を持つ。{{convert|85|K|C}}以上では、らせん状の[[反強磁性]]状態になり、特定の[[基底面]]層のすべての原子モーメントが平行で隣接する層のモーメントに対して一定の角度で配向する。この異常な反強磁性は、{{convert|179|K|C}}で無秩序([[常磁性]])状態に変わる<ref>{{cite journal |journal = IRM Quarterly |year = 2000 |volume = 10 |issue = 3 |page = 6 |author = Jackson, Mike |url = http://www.irm.umn.edu/quarterly/irmq10-3.pdf |title = Wherefore Gadolinium? Magnetism of the Rare Earths |accessdate = 2009-05-03 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20170712151422/http://www.irm.umn.edu/quarterly/irmq10-3.pdf |archive-date = 2017-07-12 |url-status = dead}}</ref>。
===化学的性質===
ジスプロシウム金属は空気中でゆっくりと変色し、容易に燃焼して[[酸化ジスプロシウム(III)]]を形成する。
:4 Dy + 3 O<sub>2</sub> → 2 Dy<sub>2</sub>O<sub>3</sub>
電気的にかなり陽性であり、冷水とゆっくりと(熱水とはかなり速く)反応して水酸化ジスプロシウムを形成する。
:2 Dy (s) + 6 H<sub>2</sub>O (l) → 2 Dy(OH)<sub>3</sub> (aq) + 3 H<sub>2</sub> (g)
ジスプロシウム金属は、200℃以上ですべてのハロゲンと激しく反応する。
:2 Dy (s) + 3 F<sub>2</sub> (g) → 2 DyF<sub>3</sub> (s) [緑]
:2 Dy (s) + 3 Cl<sub>2</sub> (g) → 2 DyCl<sub>3</sub> (s) [白]
:2 Dy (s) + 3 Br<sub>2</sub> (g) → 2 DyBr<sub>3</sub> (s) [白]
:2 Dy (s) + 3 I<sub>2</sub> (g) → 2 DyI<sub>3</sub> (s) [緑]
ジスプロシウムは希[[硫酸]]に容易に溶解して、[Dy(OH<sub>2</sub>)<sub>9</sub>]<sup>3+</sup>錯体として存在する黄色のDy(III)イオンを含む溶液を形成する<ref>{{cite web| url =https://www.webelements.com/dysprosium/chemistry.html| title =Chemical reactions of Dysprosium| publisher=Webelements| accessdate=2012-08-16}}</ref>。
:2 Dy (s) + 3 H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub> (aq) → 2 Dy<sup>3+</sup> (aq) + 3 {{chem|SO|4|2-}} (aq) + 3 H<sub>2</sub> (g)
得られる化合物である硫酸ジスプロシウム(III)は、著しく常磁性である。
===化合物===
[[File:Dysprosium-sulfate.jpg|left|thumb|upright|硫酸ジスプロシウム Dy<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>]]
{{See also|:Category:ジスプロシウムの化合物|l1=ジスプロシウムの化合物}}
DyF<sub>3</sub>やDyBr<sub>3</sub>などのハロゲン化ジスプロシウムは、黄色を帯びる傾向がある。[[酸化ジスプロシウム(III)|酸化ジスプロシウム]](ジスプロシア)は、酸化鉄よりも磁性の高い白色粉末である<ref name="krebs"/>。
ジスプロシウムは高温でさまざまな非金属と結合し、さまざまな組成と酸化状態+3(場合によっては+2)の二元化合物を形成する。例えば、DyN, DyP, DyH<sub>2</sub>とDyH<sub>3</sub>; DyS, DyS<sub>2</sub>, Dy<sub>2</sub>S<sub>3</sub>とDy<sub>5</sub>S<sub>7</sub>; DyB<sub>2</sub>, DyB<sub>4</sub>, DyB<sub>6</sub>とDyB<sub>12</sub>, Dy<sub>3</sub>CとDy<sub>2</sub>C<sub>3</sub><ref name=patnaik/>。
炭酸ジスプロシウムDy<sub>2</sub>(CO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>と硫酸ジスプロシウムDy<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>は、同様の反応から生じる<ref name=heiserman/>。ほとんどのジスプロシウム化合物は水に溶解するが、炭酸ジスプロシウム四水和物(Dy<sub>2</sub>(CO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>·4H<sub>2</sub>O)とシュウ酸ジスプロシウム十水和物(Dy<sub>2</sub>(C<sub>2</sub>O<sub>4</sub>)<sub>3</sub>·10H<sub>2</sub>O)はどちらも水に不溶である<ref name="perry">{{cite book |title = Handbook of Inorganic Compounds |author=Perry, D. L. |pages = 152–154|year = 1995|isbn = 978-0-8493-8671-8|publisher = CRC Press}}</ref><ref>{{cite journal|title = Zur Kenntnis der Verbindungen des Dysprosiums|pages = 1274–1280|first = G.|last = Jantsch|doi = 10.1002/cber.19110440215|journal = Berichte der Deutschen Chemischen Gesellschaft|volume = 44|issue = 2|year = 1911|last2 = Ohl|first2 = A.|url = https://zenodo.org/record/1426439}}</ref>。最も豊富な炭酸ジスプロシウムの2つ、Dy<sub>2</sub>(CO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>·2–3H<sub>2</sub>O(テンゲル石-(Y)に類似)とDyCO<sub>3</sub>(OH)(弘三石-(La)と弘三石-(Nd))は、化学式Dy<sub>2</sub>(CO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>·4H<sub>2</sub>Oで表される整列されていない(アモルファス)前駆体相を介して形成されることが知られている。このアモルファスの前駆体は、周囲温度および高温での乾燥処理の下で非常に安定している、直径10-20nmの高く水和した球状ナノ粒子で構成される<ref>{{cite journal|author=Vallina, B., Rodriguez-Blanco, J.D., Brown, A.P., Blanco, J.A. and Benning, L.G.|year=2013|title=Amorphous dysprosium carbonate: characterization, stability and crystallization pathways|journal=Journal of Nanoparticle Research|volume=15|issue=2|pages=1438|bibcode=2013JNR....15.1438V|citeseerx=10.1.1.705.3019|doi=10.1007/s11051-013-1438-3}}</ref>。
===同位体===
{{main|ジスプロシウムの同位体}}
自然に生じるジスプロシウムは、7つの[[同位体]](<sup>156</sup>Dy, <sup>158</sup>Dy, <sup>160</sup>Dy, <sup>161</sup>Dy, <sup>162</sup>Dy, <sup>163</sup>Dy, <sup>164</sup>Dy)からなる。これらはすべて安定していると考えられているが、理論的には<sup>156</sup>Dyは半減期が1×10<sup>18</sup>年を超える[[アルファ崩壊]]を起こす可能性がある。自然に生じる同位体のうち、<sup>164</sup>Dyが28%と最も[[天然存在比|多く]]、次いで多いのは<sup>162</sup>Dyで26%である。最も少ないのは<sup>156</sup>Dyで0.06%である<ref name="NUBASE">{{cite journal
|title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties
|doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001
|last1=Audi |first1=G.
|last2=Kondev|first2=F. G.
|last3=Wang |first3=M.
|last4=Huang |first4=W. J.
|last5=Naimi |first5=S.
|journal=Chinese Physics C
|volume=41 |issue=3
|page=030001
|year=2017
|url=https://www-nds.iaea.org/amdc/ame2016/NUBASE2016.pdf
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A
|accessdate=
|ref=
}}</ref>。
原子質量が138から173までの範囲で29の[[放射性同位体]]が合成されている。このうち最も安定しているのは<sup>154</sup>Dyであり、[[半減期]]はおよそ3{{e|6}}年であり、次いで長いのは<sup>159</sup>Dyで144.4日である。最も不安定であるのは<sup>138</sup>Dyで、半減期は200ミリ秒である。一般的に、安定同位体よりも軽い同位体は主にβ<sup>+</sup>崩壊により崩壊する傾向があり、重い同位体はβ<sup>−</sup>崩壊により崩壊する傾向がある。しかし、<sup>154</sup>Dyは主にアルファ崩壊により崩壊し、<sup>152</sup>Dyと<sup>159</sup>Dyは主に[[電子捕獲]]により崩壊する<ref name=NUBASE/>。ジスプロシウムには少なくとも11の[[準安定異性体]]があり、原子質量は140から165までの範囲にある。これらの中で最も安定であるのは<sup>165m</sup>Dyであり、半減期は1.257分である。<sup>149</sup>Dyには2つの準安定異性体があり、2番目の<sup>149m2</sup>Dyの半減期は28ナノ秒である<ref name=NUBASE/>。
==歴史==
1878年、[[エルビウム]]鉱石に[[ホルミウム]]と[[ツリウム]]の酸化物が含まれていることが分かった。1886年[[パリ]]でフランスの化学者[[ポール・ボアボードラン]]が[[酸化ホルミウム]]から酸化ジスプロシウムを分離した<ref name="DeKosky">{{cite journal|title = Spectroscopy and the Elements in the Late Nineteenth Century: The Work of Sir William Crookes|first = Robert K.|last = DeKosky|journal = The British Journal for the History of Science|volume = 6|issue = 4|date = 1973|pages = 400–423|jstor = 4025503|doi = 10.1017/S0007087400012553}}</ref><ref>{{cite journal|journal = Comptes Rendus|volume = 143|pages = 1003–1006|url = http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k3058f/f1001.chemindefer|title = L'holmine (ou terre X de M Soret) contient au moins deux radicaux métallique (Holminia contains at least two metal)|language = French|year = 1886|author = de Boisbaudran, Paul Émile Lecoq}}</ref>。彼がジスプロシウムを単離するために、酸化ジスプロシウムを酸に溶解し、次にアンモニアを加えて水酸化物を沈殿させる手順を行った。この手順を30回以上試みることで酸化物からジスプロシウムを単離することができた。単離に成功後、この元素をギリシア語で「近づき難い」を意味するδυσπρόσιτος (dysprositos)から、ジスプロシウムと名付けた。1950年代初頭に[[アイオワ州立大学]]で{{仮リンク|フランク・スペディング|en|Frank Spedding}}がイオン交換技術を開発するまで、比較的純粋な形で分離されなかった<ref name=nbb>{{cite book|last = Emsley| first = John| title = Nature's Building Blocks| publisher = Oxford University Press| year = 2001| location = Oxford|url=https://books.google.com/?id=j-Xu07p3cKwC&pg=PA131|pages = 129–132| isbn = 978-0-19-850341-5}}</ref><ref name="Weeks">{{cite book |last1=Weeks |first1=Mary Elvira |title=The discovery of the elements |date=1956 |publisher=Journal of Chemical Education |location=Easton, PA |url=https://archive.org/details/discoveryoftheel002045mbp |edition=6th }}</ref>。
風力タービンに使用される永久磁石に使用されるため、ジスプロシウムは再生可能エネルギーの世界において地政学的競争の主要物の1つになるであろうと主張されてきた。しかし、この視点はほとんどの風力タービンが永久磁石を使用していないことを認識しておらず、生産拡大のための経済的インセンティブの力を過小評価していると批判されている<ref>{{Cite journal|last=Overland|first=Indra|date=2019-03-01|title=The geopolitics of renewable energy: Debunking four emerging myths|journal=Energy Research & Social Science|volume=49|pages=36–40|doi=10.1016/j.erss.2018.10.018|issn=2214-6296}}</ref><ref name="Klinger">{{cite book |last1=Klinger |first1=Julie Michelle |title=Rare earth frontiers : from terrestrial subsoils to lunar landscapes |date=2017 |publisher=Cornell University Press |location=Ithaca, NY |isbn=978-1501714603 |jstor=10.7591/j.ctt1w0dd6d }}</ref>。
[[2013年]]、当時の一大生産拠点であった[[中華人民共和国]]が[[レアアース]]の輸出制限を実施し、ジスプロシウムも価格が高騰。日本では対前年度比で10倍超となる3,500円/kgに迫る月も出た。翌年には1,000円/kg台へ下落したが、高騰を契機にジスプロシウムの使用量を抑えたモーターの製造などの技術革新が進んだ<ref>{{Cite news|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LPC6R40D9L3501.html|title=レアアース「想定外」の暴騰、一部3カ月で約4倍に-企業は対策急ぐ|work=Bloombrg.co.jp|publisher=Bloombrg|date=2011-08-29|accessdate=2013-09-16}}</ref>。このことを契機に、[[ベトナム]]や[[カザフスタン]]など中国以外の生産地調査が進められている<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130916/fnc13091609560004-n3.htm|title=脱・中国レアアース…日本の動き見誤る 対日「禁輸」3年|work=MSN産経ニュース
|newspaper=産経新聞社|date=2013-09-16|accessdate=2014-08-08}}</ref>。
==発生==
[[Image:Xenotímio1.jpeg|thumb|ゼノタイム]]
ジスプロシウムは単体では見られることはなく、多くの鉱物([[ゼノタイム]]、[[フェルグソン石]]、[[ガドリン石]]、[[ユークセン石]]、[[ポリクレース石]]、[[ブロムストランジン]]、[[モナズ石]]、[[バストネサイト]]など)に含まれ、[[エルビウム]]や[[ホルミウム]]などの希土類元素とともに含まれることがよくある。ジスプロシウムが最も多く含まれる鉱物は未だ見つかっていない<ref>{{cite web |url=https://www.mindat.org/ |title=Mindat.org |author=Hudson Institute of Mineralogy |date=1993–2018 |website=www.mindat.org |access-date=14 January 2018}}</ref>。
これらのうち[[イットリウム]]が多いものでは、ジスプロシウムは重[[ランタノイド]]の中で最も豊富に含まれており、濃縮液の7–8%(対イットリウムの割合は65%)を占める<ref>{{cite journal|journal = Russian Journal of Non-Ferrous Metals|year = 2008|volume = 49|issue = 1|pages = 14–22|title = Review of the World Market of Rare-Earth Metals|first = A. V.|last = Naumov|url = https://www.researchgate.net/publication/227326809|doi=10.1007/s11981-008-1004-6|doi-broken-date = 2020-01-11}}</ref><ref>{{cite book|title = Extractive Metallurgy of Rare Earths|first = C. K.|last = Gupta|author2=Krishnamurthy N.|publisher = CRC Press|year = 2005|isbn = 978-0-415-33340-5|url = https://books.google.com/?id=F0Bte_XhzoAC}}</ref>。地球の地殻における割合は約5.2 mg/kgであり、海水中では0.9 ng/Lである<ref name=patnaik>{{cite book|last =Patnaik|first =Pradyot|year = 2003|title =Handbook of Inorganic Chemical Compounds|publisher = McGraw-Hill|pages = 289–290| isbn =978-0-07-049439-8|url= https://books.google.com/?id=Xqj-TTzkvTEC&pg=PA243|accessdate = 2009-06-06}}</ref>。
==産出==
ジスプロシウムは、主に様々な[[リン酸塩]]の混合物である[[モナズ石]]から得られる。また、イットリウムの商業的抽出の副産物として得られる。ジスプロシウムを単離する際には、不要な金属の大部分を磁気的もしくは[[浮遊選鉱]]により取り除くことができる。その後、[[イオン交換]]置換過程により他の希土類金属から分離することができる。結果得られるジスプロシウムイオンは[[フッ素]]または[[塩素]]と反応してフッ化ジスプロシウムDyF<sub>3</sub>または塩化ジスプロシウムDyCl<sub>3</sub>が形成されうる。これらの化合物はカルシウムまたはリチウム金属のいずれかを使用して、以下の反応で還元することができる<ref name=heiserman>{{cite book|title = Exploring Chemical Elements and their Compounds|author = Heiserman, David L.|pages = [https://archive.org/details/exploringchemica01heis/page/236 236]–238|publisher = TAB Books|isbn = 978-0-8306-3018-9|year = 1992|url = https://archive.org/details/exploringchemica01heis|url-access = registration}}</ref>。
:3 Ca + 2 DyF<sub>3</sub> → 2 Dy + 3 CaF<sub>2</sub>
:3 Li + DyCl<sub>3</sub> → Dy + 3 LiCl
[[タンタル]]のるつぼに入れ、[[ヘリウム]]雰囲気下で燃焼させる。反応が進行すると、得られるハロゲン化合物と溶融ジスプロシウムは密度の違いにより分離する。混合物が冷却されるとジスプロシウムが不純物から分離される<ref name=heiserman/>。
ジスプロシウムは毎年世界中でおよそ100トンが産出され<ref>{{cite web|title=Dysprosium (Dy) - Chemical properties, Health and Environmental effects|url=http://www.lenntech.com/Periodic-chart-elements/Dy-en.htm|website=|publisher=Lenntech Water treatment & air purification Holding B.V.|year=2008|accessdate=2009-06-02}}</ref>、その99%が中国で産出されている<ref name="Bradsher, Keith">{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2010/12/30/business/global/30smuggle.html?pagewanted=2&_r=1&emc=eta1 |title=In China, Illegal Rare Earth Mines Face Crackdown |author=Bradsher, Keith |newspaper=The New York Times |date=December 29, 2010}}</ref>。価格は2003年の1ポンドあたり7ドルから2010年後半には1ポンド当たり130ドルとほぼ20倍になった<ref name="Bradsher, Keith"/>。2011年には1キロあたり1,400ドルに上昇したが、2015年には240ドルに下落した。これは主に政府の制限を回避した中国での違法な産出が原因となっている<ref>[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/mcs-2016-raree.pdf Rare Earths] [https://web.archive.org/web/20160506184123/http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/rare_earths/mcs-2016-raree.pdf archive]. ''[[United States Geological Survey]]''. January 2016</ref>。
現在、ジスプロシウムのほとんどは中国南部のイオン吸着性粘土鉱石から得られている<ref name="China rare">{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2009/12/26/business/global/26rare.html |title=Earth-Friendly Elements, Mined Destructively |newspaper=The New York Times |last=Bradsher |first=Keith |date=December 25, 2009}}</ref>。{{Asof|2018|November}}、[[西オーストラリア州]]Halls Creekの南東160kmにあるBrowns Range Projectのパイロットプラントでは、年間{{convert|50|t|LT}}産出されている<ref name="abc-net-au2018-11-30-rare-earth">{{cite web
| url =https://www.abc.net.au/news/rural/2018-11-30/rare-earth-mineral-find-to-boost-electric-vehicle-sector/10562460
| title =Rare earth mineral discovery set to make Australia a major player in electric vehicle supply chain
| last =Major
| first =Tom
| date =30 November 2018
| website =ABC News
| publisher =Australian Broadcasting Corporation
| access-date =30 November 2018
| quote = }}</ref><ref name="Australia rare">{{cite news|url=http://www.abc.net.au/rural/content/2011/s3377547.htm |title=Halls Creek turning into a hub for rare earths |last=Brann |first=Matt |date=November 27, 2011}}</ref>。
[[アメリカ合衆国エネルギー省]]によると、ジスプロシウムの現在の用途と予測される用途の幅の広さ及びただちに適切な代替がないことから、新興のクリーンエネルギー技術にとって最も重要な元素となっている。最も保守的な予測でさえも2015年までにジスプロシウムが不足すると予測している<ref>New Scientist, 18 June 2011, p. 40</ref>。2015年下半期時点でオーストラリアには新興の希土類(ジスプロシウム含む)抽出産業が存在する<ref>Jasper, Clint (2015-09-22) [http://www.abc.net.au/news/2015-09-22/rare-earth-miners-face-tough-market/6786970 Staring down a multitude of challenges, these Australian rare earth miners are confident they can break into the market]. abc.net.au</ref>。
==用途==
ジスプロシウムは[[バナジウム]]などの元素とともに[[レーザー]]材料や商用照明などに使用されている。ジスプロシウムは[[熱中性子]]吸収断面積が大きいため、酸化ジスプロシウムニッケル[[サーメット]]は[[原子炉]]の中性子吸収[[制御棒]]に使用されている<ref name=nbb/><ref>{{cite journal |title= Development of Dysprosium Titanate Based Ceramics |first = Sinha |last = Amit |journal = Journal of the American Ceramic Society |volume = 88 |issue = 4 |year = 2005 |pages = 1064–1066 |doi = 10.1111/j.1551-2916.2005.00211.x |last2= Sharma |first2= Beant Prakash}}</ref>。ジスプロシウム[[カドミウム]][[カルコゲン|カルコゲナイド]]は、[[赤外線]]放射源であり、化学反応の研究に有用である<ref name="CRC"/>。ジスプロシウムとその化合物は磁化に対して敏感であるため、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]などの各種データ保存用途に採用されている<ref name="lagowski">{{cite book |title = Chemistry Foundations and Applications |volume = 2 |editor = Lagowski, J. J. |pages = [https://archive.org/details/chemistryfoundat0000unse/page/267 267–268] |year = 2004 |isbn = 978-0-02-865724-0 |publisher = Thomson Gale |url = https://archive.org/details/chemistryfoundat0000unse/page/267}}</ref>。電気自動車のモーターや風力発電機に使用される永久磁石としての需要が高まっている<ref name="MIT-TechRev">{{cite web |last1=Bourzac |first1=Katherine |title=The Rare Earth Crisis |url=https://www.technologyreview.com/s/423730/the-rare-earth-crisis/ |publisher=MIT Technology Review |date=19 April 2011 |accessdate=18 June 2016}}</ref>。
[[ネオジム]]鉄ホウ素[[ネオジム磁石|磁石]]は、電気自動車の駆動モーターや風力タービンの発電機などの用途で[[保磁力]]を高めるために、ネオジムの6%までをジスプロシウムに代替することができる<ref>{{cite journal |journal = IEEE Transactions on Magnetics |title = Modeling of magnetic properties of heat treated Dy-doped NdFeB particles bonded in isotropic and anisotropic arrangements |last = Shi |first = Fang, X. |year = 1998 |volume = 34 |issue = 4 |pages = 1291–1293 |doi = 10.1109/20.706525 |last2 = Shi |first2 = Y. |last3 = Jiles |first3 = D. C. |bibcode = 1998ITM....34.1291F |url = https://zenodo.org/record/1232140 |type = Submitted manuscript}}</ref>。この代替には電気自動車1台当たり最大100gのジスプロシウムが必要となる。[[トヨタ自動車]]が年間200万台を予測していることを基にすると、このような用途にジスプロシウムを使用した場合、利用可能な供給源がすぐに枯渇してしまう<ref>{{cite web |title=Supply and Demand, Part 2 |first=Peter |last=Campbell |publisher=Princeton Electro-Technology, Inc. |date=February 2008 |url=http://www.magnetweb.com/Col05.htm |accessdate =2008-11-09 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080604005700/http://www.magnetweb.com/Col05.htm |archivedate = June 4, 2008 |url-status=dead}}</ref>。また、ネオジム磁石の保磁力を高めるための添加物としての利用が急増しており、安定供給の確保に懸念が生じている。そのため、日本では[[経済産業省]]主導の「希少金属代替材料開発プロジェクト」で希土類磁石に向けた使用量を2011年度までに現状から30 %低減、2012年度までに100%低減(代替)するための技術開発を目指すなどしていた<ref>[https://www.nedo.go.jp/content/100749258.pdf 「希少金属代替材料開発プロジェクト」基本計画]</ref>。ジスプロシウムによる置換は磁石の耐食性を向上させることから他の用途にも役立つ可能性がある<ref>{{cite journal |journal = Journal of Magnetism and Magnetic Materials |volume = 283 |issue = 2–3 |year = 2004 |pages =353–356 |doi = 10.1016/j.jmmm.2004.06.006 |title = Effects of Dy and Nb on the magnetic properties and corrosion resistance of sintered NdFeB |first = L. Q. |last = Yu |last2 = Wen |first2 = Y. |last3 = Yan |first3 = M. |bibcode = 2004JMMM..283..353Y }}</ref>。
ジスプロシウムは、鉄、テルビウムとともにTerfenol-Dの成分の1つである。Terfenol-Dは既知の材料の中で最高の室温[[磁歪]]を有しており<ref name="etrema">{{cite web |title=What is Terfenol-D? |url=http://etrema-usa.com/core/terfenold/ |publisher=ETREMA Products, Inc. |year=2003 |accessdate=2008-11-06 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150510114041/http://etrema-usa.com/core/terfenold/ |archivedate=2015-05-10 }}</ref>、[[トランスデューサー]]、広帯域力学的[[共振器]]<ref>{{cite journal |title=Wide Band Tunable Mechanical Resonator Employing the Δ''E'' Effect of Terfenol-D |author=Kellogg, Rick |journal = Journal of Intelligent Material Systems & Structures |volume=15 |issue=5 |pages=355–368 |date=May 2004 |doi=10.1177/1045389X04040649 |last2=Flatau |first2=Alison}}</ref>、高精度液体燃料噴射装置<ref>{{cite journal |title=Take Terfenol-D and call me |author = Leavitt, Wendy |journal = Fleet Owner |volume = 95 |issue = 2 |pages =97 |date = February 2000 |url=http://fleetowner.com/mag/fleet_terfenold_call |accessdate = 2008-11-06}}</ref>に採用されている。
ジスプロシウムは、電離[[放射線]]を測定するための[[線量計]]に使用されている。[[硫酸カルシウム]]や[[フッ化カルシウム]]の結晶にジスプロシウムがドープされている。これらの結晶に放射線を照射すると、ジスプロシウム原子が[[励起状態|励起]]されて[[発光]]する。この発光を測定することで、線量計がどの程度の被ばくを受けたかを決定することができる<ref name=nbb/>。
ジスプロシウムのナノファイバーは、強度が高く表面積が大きい。したがって、他の材料を補強したり触媒として機能するために使用される。酸化ジスプロシウムフッ化物のファイバーはDyBr<sub>3</sub>とNaFの水溶液を450℃、450[[バール (単位)|バール]]で17時間加熱することにより製造することができる。この材料は再溶解や凝集を起こさず、400℃を超える温度の様々な水溶液中で100時間以上残存するほど非常に強健である<ref>{{cite web |url=http://www.pnl.gov/supercriticalfluid/tech_oxidation.stm |title=Supercritical Water Oxidation/Synthesis |publisher=Pacific Northwest National Laboratory |accessdate=2009-06-06 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080420144601/http://www.pnl.gov/supercriticalfluid/tech_oxidation.stm |archivedate = 2008-04-20}}</ref><ref>{{cite web |url=http://availabletechnologies.pnl.gov/technology.asp?id=152 |title=Rare Earth Oxide Fluoride: Ceramic Nano-particles via a Hydrothermal Method |publisher=Pacific Northwest National Laboratory |accessdate=2009-06-06 |url-status=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100527103533/http://availabletechnologies.pnl.gov/technology.asp?id=152 |archivedate=2010-05-27}}</ref><ref>{{cite journal |title=Unusual dysprosium ceramic nano-fiber growth in a supercritical aqueous solution |author1=Hoffman, M. M. |author2=Young, J. S. |author3=Fulton, J. L. |journal= J. Mater. Sci. |volume =35 |year =2000 |page = 4177 |doi=10.1023/A:1004875413406 |issue=16 |bibcode = 2000JMatS..35.4177H }}</ref>。
高輝度[[メタルハライドランプ]]には、ヨウ化ジスプロシウムと臭化ジスプロシウムが使用されている。これらの化合物はランプの高温中心付近で解離し単離ジスプロシウム原子を放出する。後者はスペクトルの緑と赤の部分の光を再放出し、これにより効果的に明るい光を生成する<ref name=nbb/><ref name=gray>{{cite book |title = The Elements |author = Gray, Theodore |pages = [https://archive.org/details/elementsvisualex0000gray/page/152 152–153] |year = 2009 |isbn = 978-1-57912-814-2 |publisher = Black Dog and Leventhal Publishers |url = https://archive.org/details/elementsvisualex0000gray/page/152}}</ref>。
ジスプロシウムのいくつかの常磁性結晶塩(ジスプロシウムガリウムガーネット(DGG)、ジスプロシウムアルミニウムガーネット(DAG)、ジスプロシウム鉄ガーネット(DyIG))は、[[断熱消磁]]冷却装置に使用されている<ref>Milward, Steve et al. (2004). [http://www.ucl.ac.uk/mssl/cryogenics/documents/5LH01.pdf "Design, Manufacture and Test of an Adiabatic Demagnetization Refrigerator Magnet for use in Space"]. {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131004215527/http://www.ucl.ac.uk/mssl/cryogenics/documents/5LH01.pdf |date=2013-10-04 }}. University College London.</ref><ref>Hepburn, Ian. [http://www.ucl.ac.uk/mssl/cryogenics/documents/ADR_presentation__Compatibility_Mode_.pdf "Adiabatic Demagnetization Refrigerator: A Practical Point of View"]. {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131004212731/http://www.ucl.ac.uk/mssl/cryogenics/documents/ADR_presentation__Compatibility_Mode_.pdf |date=2013-10-04 }}. Cryogenic Physics Group, Mullard Space Science Laboratory, University College London.</ref>。
3価のジスプロシウム(Dy<sup>3+</sup>)のダウンシフト発光特性が研究されている。ジスプロシウムをドープした[[イットリウム・アルミニウム・ガーネット]](Dy:YAG)を電磁スペクトルの紫外線領域で励起すると、可視光領域のより長い波長の光子が放出される。このアイデアはUV励起白色発光ダイオードの新世代の基礎となっている<ref>{{cite journal |last1=Carreira |first1=J. F. C. |title=YAG:Dy – Based single white light emitting phosphor produced by solution combustion synthesis |journal=Journal of Luminescence |date=2017 |volume=183 |pages=251–258 |doi=10.1016/j.jlumin.2016.11.017 |bibcode=2017JLum..183..251C}}</ref>。
==注意点==
多くの粉末と同様、ジスプロシウムの粉末は空気と混合した場合や着火源がある場合に爆発の危険性がある。ジスプロシウムの薄い箔は火花や[[静電気]]によっても発火することがある。ジスプロシウムの火は水で消すことができない。水と反応して可燃性の[[水素]]ガスを発生させることがある<ref name="ESPI">{{cite web|title = Dysprosium|work = Material Safety Data Sheets|url = http://www.espi-metals.com/msds's/Dysprosium.htm|author = Dierks, Steve|date = January 2003|publisher = Electronic Space Products International|accessdate = 2008-10-20|url-status = bot: unknown|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150922145520/http://www.espi-metals.com/msds's/Dysprosium.htm|archivedate = 2015-09-22}}</ref>が、塩化ジスプロシウムの火は水で消すことができる<ref>{{cite web|title = Dysprosium Chloride|work = Material Safety Data Sheets|url = http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Chloride.htm|author = Dierks, Steve|date = January 1995|publisher = Electronic Space Products International|accessdate = 2008-11-07|url-status = bot: unknown|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150922145520/http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Chloride.htm|archivedate = 2015-09-22}}</ref>。フッ化ジスプロシウム、酸化ジスプロシウムは不燃性である<ref>{{cite web|title = Dysprosium Fluoride|work = Material Safety Data Sheets|url = http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Fluoride.htm|author = Dierks, Steve|date = December 1995|publisher = Electronic Space Products International|accessdate = 2008-11-07|url-status = bot: unknown|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150922145520/http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Fluoride.htm|archivedate = 2015-09-22}}</ref><ref>{{cite web|title = Dysprosium Oxide|work = Material Safety Data Sheets|url = http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Oxide.htm|author = Dierks, Steve|date = November 1988|publisher = Electronic Space Products International|accessdate = 2008-11-07|url-status = bot: unknown|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150922145520/http://www.espi-metals.com/msds%27s/Dysprosium%20Oxide.htm|archivedate = 2015-09-22}}</ref>。硝酸ジスプロシウム(Dy(NO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>)は強力な[[酸化剤]]であり、有機物と接触すると容易に発火する<ref name="krebs">{{cite book|title = The History and Use of our Earth's Chemical Elements|author = Krebs, Robert E.|chapter = Dysprosium|pages = [https://archive.org/details/historyuseofoure00kreb/page/234 234–235]|publisher = Greenwood Press|year = 1998|isbn = 978-0-313-30123-0|chapter-url = https://archive.org/details/historyuseofoure00kreb|url = https://archive.org/details/historyuseofoure00kreb/page/234}}</ref>。
塩化ジスプロシウムや硝酸ジスプロシウムなどの可溶性のジスプロシウム塩は、摂取すると軽度の毒性を示す。塩化ジスプロシウムのマウスへの毒性から、ヒトにとって500グラム以上の摂取が致命的であると推定されている。不溶性の塩は無毒である<ref name=nbb/>。
== 参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
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==外部リンク==
{{Commons|Dysprosium}}
{{wiktionary|dysprosium}}
* [http://education.jlab.org/itselemental/ele066.html It's Elemental – Dysprosium]
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{{元素周期表}}
{{ジスプロシウムの化合物}}
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重商主義
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重商主義(じゅうしょうしゅぎ、英: mercantilism)とは、貿易などを通じて外貨準備などを蓄積することにより、貴金属や貨幣などの国富を増やすことを目指す経済思想や経済政策の総称。
重商主義は、国家の輸出を最大化し、輸入を最小化するように設計された国家的な経済政策であり、16世紀から18世紀の原始工業化時代のヨーロッパ地域で支配的な考えであった。特に絶対君主制を標榜する国家では、常備軍や官僚制度などの絶対主義体制を維持、増強するため国富の増大が必要となり、重商主義を基とした経済への介入政策が取られた。具体的な政策としては、製品の貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や、工業製品に対する高関税がある。
重商主義の理論は時代と共に発展し、初期の重金主義と後期の貿易差額主義に大別することができる。しかし「富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」と言う共通する認識があった。重商主義に基づく政策は、植民地の拡大、植民地からの搾取、他国との植民地争い、保護貿易などを加熱させた。一方、植民地維持のコストの増大や、政権と結びついた特権商人の増加などが問題となり、自由経済の考え(現代では古典派経済学と呼ばれる)の発達を促す基となった。
重商主義は、現在では過去の理論と認識されるが、貿易に対する非関税障壁が新重商主義として重要性を帯びている。また、経済に政府が介入する形で、まだ重商主義が実践されているという主張もある。
過去の重商主義の論者としては、チャイルド、オリバー・クロムウェルやジャン=バティスト・コルベールらが代表的である。
1500年から1750年の期間に存在したヨーロッパの経済学者のほとんどは今日、一般に重商主義者―この用語は当初、ミラボーやスミスなどの批評家によってのみ使用されていたが、歴史家によってすぐに採用された―とみなされている。もともと、標準的な英語の用語は商業システム"mercantile system"であり、重商主義"mercantilism"という言葉は、19世紀初頭にドイツ語から英語に輸入された。
一般に重商主義文献"mercantilist literature"と呼ばれるものの大部分は、イギリスにおいて1620年代に登場した。スミスはイギリスの商人トーマス・マン(1571–1641)を、特に彼の死後に出版された"Treasure by Foreign Trade" (1664)において商業システム(the mercantile system)の主要な創造者と見なし、重商主義運動の原型またはマニフェストと考えた。おそらく最後の主要な重商主義者の著作は1767年1月出版のジェームス・スチュアートの"Principles of Political Economy"であろう。
重商主義の文献はイギリスを超えてさらに広がった。イタリアとフランスはそれぞれ、ジョバンニ・ボテロ(1544〜1617年)やアントニオ・セラ(1580〜?)、ジャン・ボダンやコルベール等の重商主義をテーマとした著名な著述家を輩出した。同様のテーマは、リストにはじまるドイツ歴史学派の作家や、アメリカ・システムとイギリスの自由貿易帝国主義の支持者の間にも存在しており、19世紀まで重商主義の主張は存在したが、マンやミッセルデンを含む多くのイギリスの作家は商人であり、他の国の作家の多くは公務員であった。 国家の富と力を理解する方法としての重商主義を超えて、マンやミッセルデンは、より幅広い経済問題に対する視点で注目されている。
オーストリアの弁護士であり学者で、官房学の先駆者の一人であるフィリップ・ヴィルヘルム・フォン・ホーニックは、その1684年の著作 "Austria Over All, If She Only Will" において彼が効果的な国民経済とみなしたものの9点式綱領を詳述したが、これは重商主義の見解を包括的に要約している。
フォン・ホーニック以外に、後にアダム・スミスが古典経済学のためにしたように理想的な経済のための包括的なスキームを提示する重商主義者はおらず、むしろ、各重商主義者は、経済の単一の領域に集中する傾向があった。後になってやっと非重商主義学者はこれらの「種々の」着想を彼らが重商主義と呼ぶものに統合した。従って、一部の学者は「まったく異なる種々の事象に対する誤った統一"a false unity to disparate events"」であると主張し、重商主義という考え方を完全に拒否している。スミスは重商主義を、製造業者と商人による消費者に対しての巨大な陰謀と見なし、この見解はいくつかの著述家、特にロバート・E・エケランドとロバート・D・トリソンをして重商主義を「レントシーキング社会"a rent-seeking society"」と呼ばしめた。
ある程度まで、重商主義の見解それ自体が経済学の一般理論を不可能にした。重商主義者たちは経済システムを、ある当事者による利益は別の当事者による損失を必要とする「ゼロサムゲーム」と見なした。したがって、1つのグループに利益をもたらした政策システムは、定義上、他のグループに害を及ぼし、民富または公益を最大化するために経済学が使用される可能性はない。重商主義者の著作は一般に、最良の政策の研究としてではなく、特定の慣行を合理化するために作成された。
重商主義の国内政策は、その貿易政策よりも断片的だった。アダム・スミスは経済に対する厳格な統制を支持するものとして重商主義を描写したが、多くの重商主義者は反対した。近世は専売特許証と政府によって課された独占の時代であり、一部の重商主義者はそれを支持したが、他の者はそのようなシステムの腐敗と非効率性を認めた。多くの重商主義者はまた、輸入制限と価格上限の避けられない結果が闇市場であることに気づいた。重商主義者が広く同意した概念の1つは、労働人口の経済的抑圧の必要性であり、労働者と農民は「生計の限界"margins of subsistence"」に住んでいた。 目的は、消費を気にせずに生産を最大化することであった。「下層階級」のための余分なお金、自由時間、教育は、必然的に悪と怠惰につながり、経済に害をもたらすと見なされた。
重商主義者たちは多数の人口を、より大きな市場と軍隊の発展を可能にする富の一種の形態とみなした。重農主義の見解は重商主義とは反対であり、(逆に)資源の供給が人類の増加に追いつかなくなると予測した。重商主義の考えは、市場を保護し、農業とそれに依存する人々を維持することであった。
「商人システム"mercantile system"」という用語は、その最も重要な評論家であるアダム・スミスによって使用されたが、ミラボー(1715–1789)はそれより以前に「重商主義"mercantilism"」を使用していた。
重商主義は政治権力のより古い説明―神に授けられた王権と絶対君主制―に対する、経済においてのカウンターパートとして機能した。
学者たちは、なぜ250年にわたって重商主義が経済的イデオロギーを支配していたのかについて議論している。ジェイコブ・バイナーに代表される第一のグループは、重商主義を単純明快で常識的なシステムと見なし、単に必要な解析手段の欠陥によって、その論理的誤謬が当時の人々には不明瞭のままであっただけであるとする。
ロバート・B・エケランドなどの学者に支持された第二のグループは、商業主義を誤謬としてではなく、それを発展させた人々にとって最良の(最も利益が大きい)システムとして描いている。この学派は、超過利潤を追求する(レントシーキング)商人と政府が重商主義政策を発展させ、実施したと主張する。商人は、強制された独占、外国競争の禁止、労働者の貧困から大きな利益を得、政府は、高い関税と商人からの支払いによる恩恵を受けた。そのことを裏付けるかのように、後世の経済的な思想が主に学者や哲学者によって展開されたのに対し、ほぼすべての重商主義者は商人または政府の役人であった。
マネタリズムは、重商主義の第三の説明を提供する。ヨーロッパの貿易は、アジアからの商品の代金を支払うために地金を輸出することによって、マネーサプライを低下させ、物価と経済活動に下降圧力(売り圧力)をかけていた。この仮説は、ちょうど紙幣が流通し始めたアメリカ独立戦争とナポレオン戦争までのイギリス経済のインフレの欠如が裏付けている。
第四の説明は、その時代の戦争における専門性と技術の向上が、(戦争を見越した)十分な準備金の維持をますます高額でやがては競争的なビジネスにしたことにある。
重商主義は、ヨーロッパ経済の移行時に発展した。孤立した封建国家は、権力の焦点としての中央集権的な民族国家に取って代わられていった。海運の技術的変化と都市中心部の成長により、国際貿易は急速に増加した。重商主義は、どのようにすればこの貿易が国家にとって最大限の助け(利益)になるかに焦点を置いた。もう1つの重要な変革は、複式簿記と近代的な会計の導入である。この会計(方法)により貿易の流入と流出が極めて明確になったことは、貿易収支の綿密な調査に貢献した。もちろん、アメリカ大陸の発見の影響は無視できない。新しい市場と新しい鉱山は、外国貿易をそれまで考えられなかった規模に押し上げ、物価の大幅な上昇と商業活動それ自体の規模の増加につながった。
重商主義より以前にヨーロッパで書かれた最も重要な経済についての著作は中世のスコラ学の理論家によるものである。これらの思想家の目標は、キリスト教の敬虔と正義の教義に適合する経済システムを見つけることであり、彼らは主にミクロ経済学と個人間の市内交換(市内交換)に焦点を置いた。重商主義は、中世の世界観に取って代わり始めた他の理論や発想と密接に連携していた。この時期には、まさに(目的のために手段を選ばない)マキアベリ流の(策謀政治の、権謀術数的な)現実政策(実益政策)が採用され、国際関係における国益の(重要度における)優位性が見られた。すべての商業をゼロサム・ゲームとみなす重商主義的な発想においては、それぞれの側が冷酷な競争において他の側に優位たろうとするが、このような発想はトマス・ホッブズの作品群に集約された。この人間の自然性についての暗い見方は、ピューリタンの世界観にもよく適合し、実際1651年の「航海条例」など最も押し付けがましく重商主義的な法律のいくつかは、オリバー・クロムウェルの政権によって制定された。
大航海時代、アメリカ大陸やインド・東南アジアへの西欧の到達と直接交易の開始が貴金属や香辛料など稀少商品の価格革命をもたらし、商業革命のパトロン(援助者・免許者)としての王権に莫大な富をもたらした。
オランダ、イギリス、フランスの各東インド会社は植民地政策の重要な尖兵となっただけでなく、有限責任方式の開発など市民社会形成に重要な足跡を遺し、19世紀の産業革命をもたらした。また、その是非を通じて経済政策や思想における活発な議論がなされるようになり、これが後にフランソワ・ケネーやデイヴィッド・ヒューム、アダム・スミスが登場する素地となった。
重商主義政策の実施によって国境管理が厳しくなり、海を越えて移動する物品に関税がかけられるようになったが、海の国境管理は社会通念的に定着しておらず、密輸に対する犯罪意識も低かった。税関組織が未発達なために海岸線の管理能力が限られており、アメリカ植民地の愛国派商人や、自由な国境移動を当然の権利と考える人々によって大規模な密貿易が横行した。
貿易と国家の繁栄を結びつける思想は、イタリアの諸都市において15世紀には存在していた。フィレンツェ共和国の外交官でもあったニッコロ・マキャヴェッリの『リウィウス論』や『君主論』、イエズス会の司祭であるジョヴァンニ・ボッテーロ(英語版)が書いた『国家理性論』において、そうした思想が展開されている。16世紀以降になると、ヨーロッパ各国で、貿易での優位が国内の利益につながると考えられるようになった。
17-18世紀のイギリスで隣国の発展を脅威と捉える人々が現れ、重商主義という経済思想が形成された。重商主義の主な考え方は、輸出はその国に貨幣をもたらすが輸入はもたらさないため、輸出は良いが輸入は良くないというものである。重商主義の基礎には近代国家があり、それを支える感情は愛国心、ナショナリズムである。重商主義は自国と他国を比較し、国家間に敵対関係を想定するものであった。
重商主義は、アメリカ合衆国の初期の経済学派であるアメリカ学派や、アメリカ・システムをはじめとする19世紀の経済政策にも影響を与えた。
重金主義(じゅうきんしゅぎ、英: Bullionism、ブリオニズム)とは、貴金属のみを国富として、その対外取引を規制し流出を防止し、同時に対外征服や略奪、鉱山開発を推し進め、国富たる貴金属を蓄積させようとする政策。重工主義、取引差額主義ともいう。16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策で、のちフランス王ルイ14世に仕えた財務総監コルベールがとった経済運営(コルベール主義)が有名である。
国家は、税制優遇・補助金などで輸出を奨励し、関税によって輸入を抑制することで貿易黒字を増やし貴金属の流入を促進させた。
東洋に向かったポルトガルは王室国家権力による独占貿易をはかりカサ・ダ・インディア(インド庁)を設立した。リスボン到着の香辛料はすべてインド庁の倉庫に納入され転売益が国王収入となった。新大陸に向かったスペインにとっては交易の成立しない異文明との遭遇は掠奪と破壊の対象となった(スペインによるアメリカ大陸の植民地化参照)。
貿易差額主義(ぼうえきさがくしゅぎ)とは、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかる政策。重金主義が国家間での金塊等の争奪や私掠船(官許の民間掠奪船)の横行、相互の輸出規制合戦の様相を呈したのに対し、貿易の差額による国富(ここでは貴金属)の蓄積が主張された。
イギリス東インド会社の係官トーマス・マン(19世紀のドイツの作家パウル・トーマス・マンとは無関係)が主張、イギリス重商主義の中心的な政策となる。
日本においては江戸時代中期の政治家・田沼意次がその先駆者として挙げられている。また18 - 19世紀に活躍した本多利明・佐藤信淵・帆足万里の経世論のなかにも典型的な重商主義理論が見られる。また、五代十国時代の中国では、十国といわれる地方政権はいずれも鉄銭・鉛銭の発行や輸出の促進などにより銀・銅を政府のもとに蓄積する政策を行った。
重商主義は、18世紀にはアダム・スミスの『国富論』で繰り返し批判されている。『国富論』によると、人々が豊かになるのはあくまで輸入品を消費することによってであり、輸出によってではない。輸出は欲しいものを輸入するために必要な外貨の獲得のためのものであって、輸出それ自体が貿易の目的ではない。輸入業者が支払い請求に応じるのに必要な負担をまかなうために、輸出が必要となるにすぎない。またこのことから、交易条件の改善によって、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになることは国民を豊かにするが、自国通貨高は輸入価格と輸出価格の両方を変化させるので、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになるわけではなく、そのためより多くの輸入品の購買や消費が可能になって国民が豊かになるわけでもないことがわかる。
またスミスは、重商主義の背景にある愛国心について「愛国心は、他のあらゆる近隣国の繁栄・拡大を、悪意に満ちた妬み・羨望をもって眺めようとする気分にさせることが多い」と述べており、自分の身の回りの人々に愛を感じることは自然であり必要でもあるが、それが偏狭な国民的偏見をもたらす可能性を警戒していた。『国富論』については、重商主義が言う貿易差額(黒字)で金銀を稼ぐことが富の源泉ではなく、労働こそが富の源泉であるという視点を示していると指摘されている。
ジョン・メイナード・ケインズが、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、重商主義を「復権と尊敬とに値する」と主張したという指摘がある。この点から、重商主義政策をケインズ政策、つまり有効需要確保の政策とする解釈も存在する。
ある国にとって「貿易の黒字は利益で赤字は損失である」といった見方は重商主義的な誤解の典型である。重商主義のわかりやすさには、人間が人間であるがゆえにもつ各種のバイアスが寄与しているとする指摘もある。
重商主義は絶対王政の存在と植民地主義の下での経済思想であるため、現代ではこの二つの条件を満たしている国はほとんど存在しない。しかし貿易によって利益を得る、輸出を増大させる考えは存続し、20世紀以降も輸出主導で経済成長を図る政策が各国で取られた。このような貿易政策は、新重商主義あるいは単に重商主義と呼ばれる。新重商主義についてはジョーン・ロビンソンの定義が知られており、そこでは、各国政府が自国民の利益のために、国際的な経済活動において、自国の商品・サービスのシェア拡大を目的として政策設定すること、とする。
新重商主義は、国内の過剰生産の解消と、貿易収支による資本蓄積を基に、自国経済を成長させるには有効な政策だとする評価もある。こうした評価は、改革開放後の中華人民共和国や高度経済成長期の日本による輸出主導型成長と結びつけられる。。また21世紀以降においても国際競争力という考えは残り、日本でも国際競争力を求めた政策が検討、実施されることがある。しかしこの考え方も、重商主義が元だとする指摘もある。
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"text": "重商主義(じゅうしょうしゅぎ、英: mercantilism)とは、貿易などを通じて外貨準備などを蓄積することにより、貴金属や貨幣などの国富を増やすことを目指す経済思想や経済政策の総称。",
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"text": "重商主義は、国家の輸出を最大化し、輸入を最小化するように設計された国家的な経済政策であり、16世紀から18世紀の原始工業化時代のヨーロッパ地域で支配的な考えであった。特に絶対君主制を標榜する国家では、常備軍や官僚制度などの絶対主義体制を維持、増強するため国富の増大が必要となり、重商主義を基とした経済への介入政策が取られた。具体的な政策としては、製品の貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や、工業製品に対する高関税がある。",
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"text": "重商主義の理論は時代と共に発展し、初期の重金主義と後期の貿易差額主義に大別することができる。しかし「富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」と言う共通する認識があった。重商主義に基づく政策は、植民地の拡大、植民地からの搾取、他国との植民地争い、保護貿易などを加熱させた。一方、植民地維持のコストの増大や、政権と結びついた特権商人の増加などが問題となり、自由経済の考え(現代では古典派経済学と呼ばれる)の発達を促す基となった。",
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"text": "過去の重商主義の論者としては、チャイルド、オリバー・クロムウェルやジャン=バティスト・コルベールらが代表的である。",
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"text": "1500年から1750年の期間に存在したヨーロッパの経済学者のほとんどは今日、一般に重商主義者―この用語は当初、ミラボーやスミスなどの批評家によってのみ使用されていたが、歴史家によってすぐに採用された―とみなされている。もともと、標準的な英語の用語は商業システム\"mercantile system\"であり、重商主義\"mercantilism\"という言葉は、19世紀初頭にドイツ語から英語に輸入された。",
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"text": "一般に重商主義文献\"mercantilist literature\"と呼ばれるものの大部分は、イギリスにおいて1620年代に登場した。スミスはイギリスの商人トーマス・マン(1571–1641)を、特に彼の死後に出版された\"Treasure by Foreign Trade\" (1664)において商業システム(the mercantile system)の主要な創造者と見なし、重商主義運動の原型またはマニフェストと考えた。おそらく最後の主要な重商主義者の著作は1767年1月出版のジェームス・スチュアートの\"Principles of Political Economy\"であろう。",
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"text": "重商主義の文献はイギリスを超えてさらに広がった。イタリアとフランスはそれぞれ、ジョバンニ・ボテロ(1544〜1617年)やアントニオ・セラ(1580〜?)、ジャン・ボダンやコルベール等の重商主義をテーマとした著名な著述家を輩出した。同様のテーマは、リストにはじまるドイツ歴史学派の作家や、アメリカ・システムとイギリスの自由貿易帝国主義の支持者の間にも存在しており、19世紀まで重商主義の主張は存在したが、マンやミッセルデンを含む多くのイギリスの作家は商人であり、他の国の作家の多くは公務員であった。 国家の富と力を理解する方法としての重商主義を超えて、マンやミッセルデンは、より幅広い経済問題に対する視点で注目されている。",
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"text": "オーストリアの弁護士であり学者で、官房学の先駆者の一人であるフィリップ・ヴィルヘルム・フォン・ホーニックは、その1684年の著作 \"Austria Over All, If She Only Will\" において彼が効果的な国民経済とみなしたものの9点式綱領を詳述したが、これは重商主義の見解を包括的に要約している。",
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"text": "フォン・ホーニック以外に、後にアダム・スミスが古典経済学のためにしたように理想的な経済のための包括的なスキームを提示する重商主義者はおらず、むしろ、各重商主義者は、経済の単一の領域に集中する傾向があった。後になってやっと非重商主義学者はこれらの「種々の」着想を彼らが重商主義と呼ぶものに統合した。従って、一部の学者は「まったく異なる種々の事象に対する誤った統一\"a false unity to disparate events\"」であると主張し、重商主義という考え方を完全に拒否している。スミスは重商主義を、製造業者と商人による消費者に対しての巨大な陰謀と見なし、この見解はいくつかの著述家、特にロバート・E・エケランドとロバート・D・トリソンをして重商主義を「レントシーキング社会\"a rent-seeking society\"」と呼ばしめた。",
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重商主義とは、貿易などを通じて外貨準備などを蓄積することにより、貴金属や貨幣などの国富を増やすことを目指す経済思想や経済政策の総称。
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[[ファイル:Portretten van Sir Thomas Gresham en Anne Fernely Rijksmuseum SK-A-3118.jpeg|right|thumb|150px|イングランドの重商主義的財政家[[トーマス・グレシャム]]。「グレシャムの法則」で知られる。]]
[[ファイル:Jean Baptist Colbert (300x415).jpg|right|thumb|150px|フランスの財政総監[[ジャン=バティスト・コルベール]]。コルベルティズムと呼ばれる重商主義諸政策を遂行した。]]
'''重商主義'''(じゅうしょうしゅぎ、{{lang-en-short|mercantilism}})とは、[[貿易]]などを通じて[[外貨準備]]などを蓄積することにより、[[貴金属]]や[[貨幣]]などの[[国富]]を増やすことを目指す経済思想や経済政策の総称。
== 概要 ==
重商主義は、国家の輸出を最大化し、輸入を最小化するように設計された国家的な経済政策であり、16世紀から18世紀の原始工業化時代のヨーロッパ地域で支配的な考えであった。特に[[絶対君主制]]を標榜する国家では、[[常備軍]]や[[官僚制度]]などの絶対主義体制を維持、増強するため国富の増大が必要となり、重商主義を基とした経済への介入政策が取られた。具体的な政策としては、製品の貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や、工業製品に対する高関税がある。
重商主義の理論は時代と共に発展し、初期の[[重金主義]]と後期の[[貿易差額主義]]に大別することができる。しかし「'''富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である'''」と言う共通する認識があった。重商主義に基づく政策は、[[植民地]]の拡大、植民地からの搾取、他国との植民地争い、[[保護貿易]]などを加熱させた。一方、植民地維持のコストの増大や、政権と結びついた特権商人の増加などが問題となり、[[自由経済]]の考え(現代では[[古典派経済学]]と呼ばれる)の発達を促す基となった。
重商主義は、現在では過去の理論と認識されるが、貿易に対する[[非関税障壁]]が[[新重商主義]]として重要性を帯びている。また、経済に政府が介入する形で、まだ重商主義が実践されているという主張もある。
過去の重商主義の論者としては、[[:en:Josiah Child|チャイルド]]、[[オリバー・クロムウェル]]や[[ジャン=バティスト・コルベール]]らが代表的である。
== 理論 ==
1500年から1750年の期間に存在したヨーロッパの経済学者のほとんどは今日、一般に重商主義者―この用語は当初、[[ヴィクトール・リケッティ・ド・ミラボー|ミラボー]]や[[アダム・スミス|スミス]]などの批評家によってのみ使用されていたが、歴史家によってすぐに採用された―とみなされている。もともと、標準的な英語の用語は'''商業システム"mercantile system"'''であり、'''重商主義"mercantilism"'''という言葉は、19世紀初頭にドイツ語から英語に輸入された。
一般に'''重商主義文献"mercantilist literature"'''と呼ばれるものの大部分は、イギリスにおいて1620年代に登場した。スミスはイギリスの商人[[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]](1571–1641)を、特に彼の死後に出版された"Treasure by Foreign Trade" (1664)において商業システム(the mercantile system)の主要な創造者と見なし、重商主義運動の原型またはマニフェストと考えた。おそらく最後の主要な重商主義者の著作は1767年1月出版の[[ジェームス・スチュアート]]の"Principles of Political Economy"であろう。
重商主義の文献はイギリスを超えてさらに広がった。イタリアとフランスはそれぞれ、[[ジョバンニ・ボテロ]](1544〜1617年)や[[アントニオ・セラ]](1580〜?)、[[ジャン・ボダン]]や[[コルベール]]等の重商主義をテーマとした著名な著述家を輩出した。同様のテーマは、[[フリードリッヒ・リスト|リスト]]にはじまる[[ドイツ歴史学派]]の作家や、[[アメリカ・システム]]とイギリスの自由貿易帝国主義の支持者の間にも存在しており、19世紀まで重商主義の主張は存在したが、マンやミッセルデンを含む多くのイギリスの作家は商人であり、他の国の作家の多くは公務員であった。 国家の富と力を理解する方法としての重商主義を超えて、マンや[[ミッセルデン]]は、より幅広い経済問題に対する視点で注目されている。
オーストリアの弁護士であり学者で、官房学の先駆者の一人である[[フィリップ・ヴィルヘルム・フォン・ホーニック]]は、その1684年の著作 "Austria Over All, If She Only Will" において彼が効果的な国民経済とみなしたものの9点式綱領を詳述したが、これは重商主義の見解を包括的に要約している。
#国の土壌のあらゆる部分を農業、鉱業または工業に利用すること。
#完成品は原材料よりも価値が高いため、国で見つかったすべての原材料を国内製造に使用すること。
#大規模な労働人口を奨励すること。
#金と銀のあらゆる輸出を禁止し、国内の貨幣をすべて流通した状態に保つこと。
#すべての外国製品の輸入を可能な限り制限すること。
#特定の輸入品が不可欠である場合、金や銀ではなく他の国内製品と引き換えに、それらを直接入手すること。
#輸入は可能な限り自国で完成できる原材料に限定すること。
#国の余剰製造物を、金と銀との交換のために必要な限りで外国人に売る機会を常に求めること。
#そのような財が自国で十分かつ適切に供給されている場合、輸入を許可しないこと。
[[フォン・ホーニック]]以外に、後に[[アダム・スミス]]が古典経済学のためにしたように理想的な経済のための包括的なスキームを提示する重商主義者はおらず、むしろ、各重商主義者は、経済の単一の領域に集中する傾向があった。後になってやっと非重商主義学者はこれらの「種々の」着想を彼らが重商主義と呼ぶものに統合した。従って、一部の学者は'''「まったく異なる種々の事象に対する誤った統一"a false unity to disparate events"」'''であると主張し、重商主義という考え方を完全に拒否している。スミスは重商主義を、製造業者と商人による消費者に対しての巨大な陰謀と見なし、この見解はいくつかの著述家、特に[[ロバート・E・エケランド]]と[[ロバート・D・トリソン]]をして重商主義を「[[レントシーキング]]社会"a rent-seeking society"」と呼ばしめた。
ある程度まで、重商主義の見解それ自体が経済学の一般理論を不可能にした。重商主義者たちは経済システムを、ある当事者による利益は別の当事者による損失を必要とする「ゼロサムゲーム」と見なした。したがって、1つのグループに利益をもたらした政策システムは、定義上、他のグループに害を及ぼし、民富または公益を最大化するために経済学が使用される可能性はない。重商主義者の著作は一般に、最良の政策の研究としてではなく、特定の慣行を合理化するために作成された。
重商主義の国内政策は、その貿易政策よりも断片的だった。アダム・スミスは経済に対する厳格な統制を支持するものとして重商主義を描写したが、多くの重商主義者は反対した。近世は専売特許証と政府によって課された独占の時代であり、一部の重商主義者はそれを支持したが、他の者はそのようなシステムの腐敗と非効率性を認めた。多くの重商主義者はまた、輸入制限と価格上限の避けられない結果が[[闇市]]場であることに気づいた。重商主義者が広く同意した概念の1つは、労働人口の経済的抑圧の必要性であり、労働者と農民は「生計の限界"margins of subsistence"」に住んでいた。 目的は、消費を気にせずに生産を最大化することであった。「下層階級」のための余分なお金、自由時間、教育は、必然的に悪と怠惰につながり、経済に害をもたらすと見なされた。
重商主義者たちは多数の人口を、より大きな市場と軍隊の発展を可能にする富の一種の形態とみなした。[[重農主義]]の見解は重商主義とは反対であり、(逆に)資源の供給が人類の増加に追いつかなくなると予測した。重商主義の考えは、市場を保護し、農業とそれに依存する人々を維持することであった。
== 起源 ==
「'''商人システム"mercantile system"'''」という用語は、その最も重要な評論家である[[アダム・スミス]]によって使用されたが、[[ヴィクトール・リケッティ・ド・ミラボー|ミラボー]](1715–1789)はそれより以前に「'''重商主義"mercantilism"'''」を使用していた。
重商主義は政治権力のより古い説明―神に授けられた王権と絶対君主制―に対する、経済においてのカウンターパートとして機能した。
学者たちは、なぜ250年にわたって重商主義が経済的イデオロギーを支配していたのかについて議論している。[[ジェイコブ・バイナー]]に代表される第一のグループは、重商主義を単純明快で常識的なシステムと見なし、単に必要な解析手段の欠陥によって、その論理的誤謬が当時の人々には不明瞭のままであっただけであるとする。
[[ロバート・B・エケランド]]などの学者に支持された第二のグループは、商業主義を誤謬としてではなく、それを発展させた人々にとって最良の(最も利益が大きい)システムとして描いている。この学派は、超過利潤を追求する(レントシーキング)商人と政府が重商主義政策を発展させ、実施したと主張する。商人は、強制された独占、外国競争の禁止、労働者の貧困から大きな利益を得、政府は、高い[[関税]]と商人からの支払いによる恩恵を受けた。そのことを裏付けるかのように、後世の経済的な思想が主に学者や哲学者によって展開されたのに対し、ほぼすべての重商主義者は商人または政府の役人であった。
[[マネタリズム]]は、重商主義の第三の説明を提供する。ヨーロッパの貿易は、アジアからの商品の代金を支払うために地金を輸出することによって、[[マネーサプライ]]を低下させ、[[物価]]と経済活動に下降圧力(売り圧力)をかけていた。この仮説は、ちょうど紙幣が流通し始めた[[アメリカ独立戦争]]と[[ナポレオン戦争]]までのイギリス経済の[[インフレ]]の欠如が裏付けている。
第四の説明は、その時代の戦争における専門性と技術の向上が、(戦争を見越した)十分な準備金の維持をますます高額でやがては競争的なビジネスにしたことにある。
重商主義は、ヨーロッパ経済の移行時に発展した。孤立した[[封建国家]]は、権力の焦点としての[[中央集権]]的な民族国家に取って代わられていった。海運の技術的変化と都市中心部の成長により、[[国際貿易]]は急速に増加した。重商主義は、どのようにすればこの貿易が国家にとって最大限の助け(利益)になるかに焦点を置いた。もう1つの重要な変革は、[[複式簿記]]と近代的な会計の導入である。この会計(方法)により貿易の流入と流出が極めて明確になったことは、貿易収支の綿密な調査に貢献した。もちろん、アメリカ大陸の発見の影響は無視できない。新しい市場と新しい鉱山は、外国貿易をそれまで考えられなかった規模に押し上げ、物価の大幅な上昇と商業活動それ自体の規模の増加につながった。
重商主義より以前にヨーロッパで書かれた最も重要な経済についての著作は中世の[[スコラ学]]の理論家によるものである。これらの思想家の目標は、[[キリスト教]]の敬虔と正義の教義に適合する経済システムを見つけることであり、彼らは主に[[ミクロ経済学]]と個人間の市内交換(市内交換)に焦点を置いた。重商主義は、中世の世界観に取って代わり始めた他の理論や発想と密接に連携していた。この時期には、まさに(目的のために手段を選ばない)マキアベリ流の(策謀政治の、[[権謀術数]]的な)現実政策(実益政策)が採用され、国際関係における国益の(重要度における)優位性が見られた。すべての商業を[[ゼロサム・ゲーム]]とみなす重商主義的な発想においては、それぞれの側が冷酷な競争において他の側に優位たろうとするが、このような発想は[[トマス・ホッブズ]]の作品群に集約された。この人間の自然性についての暗い見方は、[[ピューリタン]]の世界観にもよく適合し、実際1651年の「航海条例」など最も押し付けがましく重商主義的な法律のいくつかは、[[オリバー・クロムウェル]]の政権によって制定された。
== 歴史的展開 ==
[[大航海時代]]、アメリカ大陸やインド・東南アジアへの西欧の到達と直接交易の開始が貴金属や香辛料など稀少商品の価格革命をもたらし、商業革命の[[パトロン]](援助者・免許者)としての王権に莫大な富をもたらした。
オランダ、イギリス、フランスの各東インド会社は[[植民地]]政策の重要な尖兵となっただけでなく、有限責任方式の開発など市民社会形成に重要な足跡を遺し、19世紀の[[産業革命]]をもたらした。また、その是非を通じて経済政策や思想における活発な議論がなされるようになり、これが後に[[フランソワ・ケネー]]や[[デイヴィッド・ヒューム]]、[[アダム・スミス]]が登場する素地となった。
重商主義政策の実施によって[[国境管理]]が厳しくなり、海を越えて移動する物品に関税がかけられるようになったが、海の国境管理は社会通念的に定着しておらず、[[密輸]]に対する犯罪意識も低かった<ref name="Kawakita">[[川北稔]]「「海に行く人びと」の結社」『結社のイギリス史:クラブから帝国まで』山川出版社 2005 ISBN 4634444402 pp.237-252.</ref>。[[税関]]組織が未発達なために海岸線の管理能力が限られており、[[13植民地|アメリカ植民地]]の[[パトリオット (アメリカ革命)|愛国派]]商人や、自由な国境移動を当然の権利と考える人々によって大規模な密貿易が横行した<ref name="Kawakita"/>。
== 思想・体系 ==
貿易と国家の繁栄を結びつける思想は、イタリアの諸都市において15世紀には存在していた。[[フィレンツェ共和国]]の外交官でもあった[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]の『リウィウス論』や『[[君主論]]』、イエズス会の司祭である{{仮リンク|ジョヴァンニ・ボッテーロ|en|Giovanni Botero}}が書いた『国家理性論』において、そうした思想が展開されている。16世紀以降になると、ヨーロッパ各国で、貿易での優位が国内の利益につながると考えられるようになった<ref>マグヌソン 『産業革命と政府』 玉木俊明訳、知泉書館、2012年。第2章</ref>。
17-18世紀のイギリスで隣国の発展を脅威と捉える人々が現れ、重商主義という経済思想が形成された<ref name="sekaiwokaeta142">日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、142頁。</ref>。重商主義の主な考え方は、輸出はその国に[[貨幣]]をもたらすが輸入はもたらさないため、輸出は良いが輸入は良くないというものである<ref>伊藤元重 『はじめての経済学〈上〉』 日本経済新聞出版社〈日経文庫〉、2004年、29頁。</ref>。重商主義の基礎には近代国家があり、それを支える感情は[[愛国心]]、[[ナショナリズム]]である<ref name="syosainomado">若田部昌澄「[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1401/09.html 経済学史の窓から 第6回 ヒューム、スミスは行動経済学の先駆者か?]」書斎の窓</ref>。重商主義は自国と他国を比較し、国家間に敵対関係を想定するものであった<ref name="syosainomado" />。
重商主義は、[[アメリカ合衆国]]の初期の経済学派である[[アメリカ学派 (経済学)|アメリカ学派]]や、[[アメリカ・システム (経済計画)|アメリカ・システム]]をはじめとする19世紀の経済政策にも影響を与えた<ref>マグヌソン 『産業革命と政府』 玉木俊明訳、知泉書館、2012年。第6章</ref>。
=== 重金主義 ===
重金主義(じゅうきんしゅぎ、{{lang-en-short|Bullionism}}、ブリオニズム)とは、貴金属のみを国富として、その対外取引を規制し流出を防止し、同時に対外征服や略奪、鉱山開発を推し進め、国富たる貴金属を蓄積させようとする政策。重工主義、取引差額主義ともいう。16世紀のスペイン、ポルトガルの代表的な政策で、のちフランス王ルイ14世に仕えた財務総監コルベールがとった経済運営(コルベール主義)が有名である。
国家は、税制優遇・補助金などで輸出を奨励し、関税によって輸入を抑制することで貿易黒字を増やし貴金属の流入を促進させた<ref>中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、13頁。</ref>。
東洋に向かったポルトガルは王室国家権力による独占貿易をはかりカサ・ダ・インディア(インド庁)を設立した。リスボン到着の香辛料はすべてインド庁の倉庫に納入され転売益が国王収入となった<ref group="注釈">胡椒は1キンダールあたり12ドゥカード、船賃4ドゥカードを加えた16ドゥカードでインド庁に納入された。インド庁はこれを32ドゥカードで転売した。</ref><ref>浅田實『東インド会社』講談社現代新書{{要ページ番号|date=2014年3月}}</ref>。新大陸に向かったスペインにとっては交易の成立しない異文明との遭遇は掠奪と破壊の対象となった([[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]参照)。
=== 貿易差額主義 ===
貿易差額主義(ぼうえきさがくしゅぎ)とは、輸出を進めて輸入を制限することにより国内産業を保護育成し、貨幣蓄積をはかる政策。重金主義が国家間での金塊等の争奪や[[私掠船]](官許の民間掠奪船)の横行、相互の輸出規制合戦の様相を呈したのに対し、貿易の差額による国富(ここでは貴金属)の蓄積が主張された。
[[イギリス東インド会社]]の係官[[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]]([[19世紀]]のドイツの作家[[トーマス・マン|パウル・トーマス・マン]]とは無関係)が主張、イギリス重商主義の中心的な政策となる。
== 主要な財政家・理論家 ==
[[ファイル:William_Petty.png|right|thumb|150px|W.ペティ / 彼の「政治算術」は重商主義経済学から古典派経済学への過渡期に位置づけられる]]
=== イギリス ===
*重金主義者
** [[トーマス・グレシャム]](1519年 - 1579年) - 銀行家。[[グレシャムの法則]]で有名。
** [[:en:Gerard de Malynes|ジェラール・ド・マリーンズ]](1586年 - 1641年)
*貿易差額論者
** [[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]](1571年 - 1641年) - [[イギリス東インド会社|東インド会社]]役員。主著『外国貿易によるイングランドの財宝』(1664年、死後出版)で貿易差額論を体系化。
** [[オリバー・クロムウェル]](1599年 - 1658年) - [[コモンウェルス]]時代の[[護国卿]]。[[航海条例]]で知られる。
** [[:en:Edward Misselden|エドワード・ミッセルデン]](1608年 - 1654年)
*「トーリー党自由貿易論者」
** [[:en:Josiah Child|ジョサイア・チャイルド]](1630年 - 1699年) - 主著『新交易論』(1693年)。
** [[ニコラス・バーボン]](1640年 - 1698年) - 主著『交易論』(1690年)。
** [[ダドリー・ノース]](1641年 - 1698年) - 主著『交易論』(1691年)。
** [[:en:Charles Davenant|チャールズ・ダヴナント]](1656年 - 1714年) - 主著『東インド貿易論』(1696年|1696)。
*キャラコ論争・対仏通商論争の参加者
** J.ケアリ(? - 1720年頃) - 「キャラコ論争」(1670年代)で[[保護貿易|保護主義]]を主張。主著『イングランド交易論』(1695年)。
** C.キング(18世紀前半) - [[コルベルティズム]]をめぐる「対仏通商論争」(18世紀前半)で[[ホイッグ党 (イギリス)|ウィッグ党]]の立場で保護主義を主張。主著『イギリス商人』(1721年)。
** [[ダニエル・デフォー]](1661年頃 - 1731年) - 対仏通商論争でトーリー党の立場で自由貿易を主張。主著『イギリス経済の構図』(1728年)。
*古典派経済学の先駆者
** [[ウィリアム・ペティ]](1623年 - 1687年) - 国力を経済的に分析する「[[政治算術]]」を提唱。国力の基礎として貿易のみならず農業生産を重視、著書『[[租税貢納論]]』(1662年)で[[労働価値説]]の原型を作り「[[古典派経済学]]の祖」とされる。
** [[バーナード・デ・マンデヴィル]](1670年 - 1733年) - 主著『蜂の寓話』(1714年)。
** [[ジョン・ロック]](1632年 - 1704年) - 主著『[[統治二論]]』において[[労働価値説]]を主張。
** [[リチャード・カンティロン]](1680年頃 - 1734年) - ペティの理論を継承し価値の源泉を土地に求める[[重農主義]]的立場をとった。主著『商業試論』(1755年)。
** [[デイヴィッド・ヒューム]](1711年 - 1776年)
** [[:en:James Denham-Steuart|ジェームズ・ステュアート]](1712年 - 1780年) - 「最初の経済学者」「最後の重商主義者」として『[[経済学原理]]』(1767年)を著し重商主義の理論体系を総括<ref>小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、170頁。</ref>。
** [[:en:Josiah Tucker|ジョサイア・タッカー]](1713年 - 1799年)
** [[ジェームズ・ミル]](1773年 - 1836年)
=== フランス ===
* [[ジャン・ボダン|J.ボダン]](1530年 - 1596年)
* [[:fr:Barthélemy de Laffemas|B.ラフマ]](1545年 - 1612年)
* [[リシュリュー]](1585年 - 1642年)
* [[ジャン=バティスト・コルベール|J.B.コルベール]](1619年 - 1683年)
=== アジア ===
日本においては[[江戸時代]]中期の[[政治家]]・[[田沼意次]]がその先駆者として挙げられている。また18 - 19世紀に活躍した[[本多利明]]・[[佐藤信淵]]・[[帆足万里]]の[[経世論]]のなかにも典型的な重商主義理論が見られる。また、[[五代十国]]時代の中国では、十国といわれる地方政権はいずれも[[鉄銭]]・[[鉛銭]]の発行や輸出の促進などにより銀・[[銅]]を政府のもとに蓄積する政策を行った<ref>宮崎市定「五代宋初の通貨問題」(1943年)、「五代宋初の通貨問題梗概」(1950年)、いずれも宮崎市定全集第9巻(1992年)収録{{要ページ番号|date=2014年3月}}</ref>。
== 議論 ==
{{独自研究|section=3|date=2012-2}}
=== アダム・スミスによる批判 ===
重商主義は、18世紀には[[アダム・スミス]]の『[[国富論]]』で繰り返し批判されている。『国富論』によると、人々が豊かになるのはあくまで輸入品を消費することによってであり、輸出によってではない。輸出は欲しいものを輸入するために必要な外貨の獲得のためのものであって、輸出それ自体が貿易の目的ではない。輸入業者が支払い請求に応じるのに必要な負担をまかなうために、輸出が必要となるにすぎない<ref>[[ポール・クルーグマン]]『経済政策を売り歩く人々』日本経済新聞社(1995), p301</ref>。またこのことから、[[交易条件]]の改善によって、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになることは国民を豊かにするが、自国通貨高は輸入価格と輸出価格の両方を変化させるので、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになるわけではなく、そのためより多くの輸入品の購買や消費が可能になって国民が豊かになるわけでもないことがわかる。
またスミスは、重商主義の背景にある愛国心について「愛国心は、他のあらゆる近隣国の繁栄・拡大を、悪意に満ちた妬み・羨望をもって眺めようとする気分にさせることが多い」と述べており、自分の身の回りの人々に愛を感じることは自然であり必要でもあるが、それが偏狭な国民的偏見をもたらす可能性を警戒していた<ref name="syosainomado" />。『国富論』については、重商主義が言う貿易差額(黒字)で金銀を稼ぐことが富の源泉ではなく、労働こそが富の源泉であるという視点を示していると指摘されている<ref>竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、45-46頁。</ref>。
=== その他 ===
[[ジョン・メイナード・ケインズ]]が、著書『[[雇用・利子および貨幣の一般理論]]』において、重商主義を「復権と尊敬とに値する」と主張したという指摘がある<ref name="yasashii249">日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、249頁。</ref>。この点から、重商主義政策を[[ケインズ政策]]、つまり[[有効需要]]確保の政策とする解釈も存在する<ref>日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、250-251頁。</ref>。
ある国にとって「貿易の黒字は利益で赤字は損失である」といった見方は重商主義的な誤解の典型である<ref>野口旭 『グローバル経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、152頁。</ref>。重商主義のわかりやすさには、人間が人間であるがゆえにもつ各種のバイアスが寄与しているとする指摘もある<ref name="syosainomado" />。
== 新重商主義 ==
{{see also|国際収支統計#国際収支に関する議論}}
重商主義は絶対王政の存在と[[植民地主義]]の下での経済思想であるため、現代ではこの二つの条件を満たしている国はほとんど存在しない<ref>[[橘木俊詔]]『朝日おとなの学びなおし 経済学 課題解明の経済学史』 朝日新聞出版、2012年、14頁。</ref>。しかし貿易によって利益を得る、輸出を増大させる考えは存続し<ref>前記『朝日おとなの学びなおし 経済学 課題解明の経済学史』14-15頁。</ref>、20世紀以降も輸出主導で経済成長を図る政策が各国で取られた。このような貿易政策は、新重商主義あるいは単に重商主義と呼ばれる<ref>Edward Mead Earle 1925 The New Mercantilism, ''Political Science Quarterly'', '''40'''(4): 594-600.</ref><ref name="robinson">J. Robinson 1966 ''The New Mercantilism'', An Inaugural Lecture, New York: Cambridge University Press, in Collected Economic Papers, Vol. 4 (Oxford, Basil Blackwell).</ref><ref>Johnson, H. G., 1974 Mercantilism: Past, Present and Future, ''The Manchester School'', '''42'''(1):1-91.</ref><ref name="rodrik">Danny Rodrik 2013 The New Mercantilist ChallengeBlog Project Syndicate 09 January 2013 http://www.project-syndicate.org/print/the-return-of-mercantilism-by-dani-rodrik</ref>。新重商主義については[[ジョーン・ロビンソン]]の定義が知られており、そこでは、'''各国政府が自国民の利益のために、国際的な経済活動において、自国の商品・サービスのシェア拡大を目的として政策設定すること'''、とする<ref name="robinson"/><ref>荒川弘1977『新重商主義の時代』岩波新書、旧黄版20、pp.60-61より引用。</ref>。
新重商主義は、国内の過剰生産の解消と、貿易収支による資本蓄積を基に、自国経済を成長させるには有効な政策だとする評価もある。こうした評価は、[[改革開放|改革開放後]]の[[中華人民共和国]]や[[高度経済成長期]]の日本による輸出主導型成長と結びつけられる。<ref>[[塩沢由典]] 2013『今よりマシな日本社会をどう作れるか』SURE、p.49.</ref><ref>日本経済新聞社編 『やさしい経済学』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、109頁。</ref><ref>{{Cite web |date= 2019-03-29|url= https://www.apnews.com/b40414d22f2248428ce11ff36b88dc53|title= In trade wars of 200 years ago, the pirates were Americans|publisher= [[AP通信]]|accessdate=2019-08-27}}</ref><ref>{{Cite web |date= 2018-02-07|url= https://www.nytimes.com/2018/02/07/magazine/the-rise-of-china-and-the-fall-of-the-free-trade-myth.html|title= The Rise of China and the Fall of the ‘Free Trade’ Myth|publisher= [[ニューヨーク・タイムズ]]|accessdate=2019-08-27}}</ref>。また21世紀以降においても[[国際競争力]]という考えは残り、日本でも国際競争力を求めた政策が検討、実施されることがある<ref>経団連の「日本経済再生に向けた基盤整備」(2013年5月22日)では「国際的な事業環境の=フッティングを実現する基盤整備」と表現されている。https://www.keidanren.or.jp/policy/2013/050.html</ref><ref>[[アベノミクス]]第3弾「[[日本再興戦略]]」(2013年6月14日)では、「立地競争力の更なる強化」「海外市場獲得のための戦略的取組」などと表現されている。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/saikou_jpn.pdf</ref>。しかしこの考え方も、重商主義が元だとする指摘もある<ref>野口旭 『グローバル経済を学ぶ』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2007年、63頁。</ref>。
<!--文章として伝える点が不明確なためコメントアウト致します|[[ダニ・ロドリック]]は、現在における自由主義と重商主義の対立を語っているが<ref name="rodrik"/>、ロビンソンは、自由主義の教義は重商主義の巧妙な形態にすぎないとして、新重商主義は発展途上国にとっての障害としている<ref name="robinson"/><ref>荒川弘1977『新重商主義の時代』岩波新書、旧黄版20、p.164より引用。</ref>。|date=2022.01-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 文献情報 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[鈴木真実哉]] |title=「重商主義」再考 |date=2006-03-27 |publisher=聖学院大学 |journal=聖学院大学論叢 |volume=18 |number=2 |naid=110004633818 |pages=95-111 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[松尾弘]] |title=重商主義の經濟政策史的省察 |date=1950-03-25 |publisher=明治大学政治経済研究所 |journal=政經論叢 |volume=19 |number=1 |naid=120002908916 |pages=29-55 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[奥山忠信]] |title=ジェームズ・ステュアートの貨幣数量説批判 |date=2009-12 |publisher=埼玉学園大学 |journal=埼玉学園大学紀要, 経営学部篇 |number=9 |naid=40017002628 |pages=139-150 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[竹本洋]] |title=重商主義論ノート |date=1999-12-31 |publisher=関西学院大学 |journal=經濟學論究 |volume=53 |number=3 |naid=110000406033 |pages=635-670 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[馬場宏二]] |title=富概念の推移 |date=2007-03 |publisher=大東文化大学 |journal=経済研究研究報告 |volume=20 |naid=110006483297 |pages=91-109 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author={{仮リンク|ラース・マグヌソン|sv|Lars Magnusson (ekonomhistoriker)}}|title=産業革命と政府 - 国家の見える手 |date=2012 |publisher=知泉書館 |naid= |pages=91-109 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
*[[絶対王政|絶対主義]]
*[[重農主義]]
*[[政治算術]]
*[[古典派経済学]]
*[[貨幣数量説]]
*[[官房学|官房学派(カメラリズム)]] - ドイツ版重商主義と称される。
*[[塩鉄論]] - 中国版重商主義
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10,798 |
エンタルピー
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エンタルピー(英: enthalpy)とは、熱力学における示量性状態量のひとつである。熱含量(ねつがんりょう、英: heat content)とも。エンタルピーはエネルギーの次元をもち、物質の発熱・吸熱挙動にかかわる状態量である。等圧条件下にある系が発熱して外部に熱を出すとエンタルピーが下がり、吸熱して外部より熱を受け取るとエンタルピーが上がる。
名称はカメルリング・オネスによる。
内部エネルギーを U、圧力を p、体積を V として、エンタルピー Hは
H = U + p V {\displaystyle H=U+pV}
で定義される。
エンタルピーはエントロピー S、圧力 p、物質量 N を変数とする関数 H(S,p,N) と見たときに完全な熱力学関数となる。このとき、定義式は内部エネルギー U(S,V,N) の V に関するルジャンドル変換
H ( S , p , N ) = U ( S , V ( S , p , N ) , N ) + p V ( S , p , N ) {\displaystyle H(S,p,N)=U(S,V(S,p,N),N)+pV(S,p,N)}
と見ることが出来る。
エンタルピー H(S,p,N) の各変数による偏微分は
で与えられる。ここで T は熱力学温度、μi は成分 i の化学ポテンシャルである。従って、エンタルピー H(S,p,N) の全微分は
となる。
外圧 pex の環境にある系が、ある平衡状態から別の平衡状態へ変化する過程を考える。系の体積変化に伴う仕事以外の仕事がないとき、すなわち非膨張仕事がないときには、系が外部に為す仕事は
W = p ex Δ V {\displaystyle W=p_{\text{ex}}\Delta V}
であり、系が外部から受け取る熱 q はエネルギー保存則から
q = Δ U + W = Δ U + p ex Δ V {\displaystyle q=\Delta U+W=\Delta U+p_{\text{ex}}\Delta V}
となる。 等圧条件下では変化の前後で p=pexなので、エンタルピーの定義から
Δ H = Δ ( U + p ex V ) = Δ U + p ex Δ V {\displaystyle \Delta H=\Delta (U+p_{\text{ex}}V)=\Delta U+p_{\text{ex}}\Delta V}
となる。従って
q = Δ H {\displaystyle q=\Delta H}
が成り立つ。つまり、非膨張仕事がない等圧過程においては、系に与えた熱 q が系のエンタルピーの変化と等しくなっている。
温度 Tex の環境にある系内での化学反応において、系から外部に放出された熱は反応熱 Q に等しい。系から外部に放出された熱は、系が外部から吸収する熱と符号が逆になるから
Q = − q = − Δ H {\displaystyle Q=-q=-\Delta H}
が成り立つ。つまり、熱浴の温度と外圧が一定の化学反応においては、非膨張仕事がなければエンタルピー変化と反応熱は符号が逆で大きさが等しい。
完全な熱力学関数としてのエンタルピーの変数はエントロピー S、圧力 p、物質量 N であるが、実用上はエントロピー S に変えて熱力学温度 T を変数として表されることが多い。閉鎖系で物質量の変化を考えない場合には、エンタルピー H(T,p) の温度による偏微分は
( ∂ H ∂ T ) p = C p ( T , p ) {\displaystyle \left({\frac {\partial H}{\partial T}}\right)_{p}=C_{p}(T,p)}
として等圧熱容量で与えられる。一方、エンタルピー H(T,p) の圧力による偏微分は
( ∂ H ∂ p ) T = V ( T , p ) − T ( ∂ V ∂ T ) p {\displaystyle \left({\frac {\partial H}{\partial p}}\right)_{T}=V(T,p)-T\left({\frac {\partial V}{\partial T}}\right)_{p}}
として、体積を温度と圧力で表した状態方程式によって表される。この関係式は熱力学的状態方程式と呼ばれる。 熱膨張係数 α で表せば
( ∂ H ∂ p ) T = T V ( 1 T − α ) {\displaystyle \left({\frac {\partial H}{\partial p}}\right)_{T}=TV\left({\frac {1}{T}}-\alpha \right)}
となる。
低圧領域において実在気体の状態方程式をビリアル展開
V ( T , p ) = R T p + B ( T ) + O ( p 1 ) {\displaystyle V(T,p)={\frac {RT}{p}}+B(T)+O(p^{1})}
の形で書くと、エンタルピーの圧力による偏微分は
( ∂ H ∂ p ) T = B ( T ) − T d B d T + O ( p 1 ) {\displaystyle \left({\frac {\partial H}{\partial p}}\right)_{T}=B(T)-T{\frac {dB}{dT}}+O(p^{1})}
となる。従って、低圧領域においてエンタルピーは
H ( T , p ) = H 0 ( T ) + p [ B ( T ) − T d B d T ] + O ( p 2 ) {\displaystyle H(T,p)=H_{0}(T)+p\left[B(T)-T{\frac {dB}{dT}}\right]+O(p^{2})}
で表される。ここで
H 0 ( T ) = lim p → 0 H ( T , p ) {\displaystyle H_{0}(T)=\lim _{p\to 0}H(T,p)}
である。
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"text": "が成り立つ。つまり、熱浴の温度と外圧が一定の化学反応においては、非膨張仕事がなければエンタルピー変化と反応熱は符号が逆で大きさが等しい。",
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},
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"text": "H 0 ( T ) = lim p → 0 H ( T , p ) {\\displaystyle H_{0}(T)=\\lim _{p\\to 0}H(T,p)}",
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"text": "である。",
"title": "温度による表示"
}
] |
エンタルピーとは、熱力学における示量性状態量のひとつである。熱含量とも。エンタルピーはエネルギーの次元をもち、物質の発熱・吸熱挙動にかかわる状態量である。等圧条件下にある系が発熱して外部に熱を出すとエンタルピーが下がり、吸熱して外部より熱を受け取るとエンタルピーが上がる。 名称はカメルリング・オネスによる。
|
{{Pathnav|[[物理学]]|[[熱力学]]|[[熱力学ポテンシャル]]|frame=1}}
{{Distinguish|エントロピー}}
{{Thermodynamics sidebar |cTopic=potentials}}
'''エンタルピー'''({{Lang-en-short|enthalpy}})とは、[[熱力学]]における[[示量性]][[状態量]]のひとつである。'''熱含量'''(ねつがんりょう、{{Lang-en-short|heat content}})とも<ref>[[エンタルピー#tanaka2010|田中一義『物理化学』]]、22頁。</ref>。エンタルピーは[[エネルギー]]の[[次元]]をもち、[[物質]]の[[発熱反応|発熱]]・[[吸熱反応|吸熱]]挙動にかかわる状態量である。等圧条件下にある系が発熱して外部に[[熱]]を出すとエンタルピーが下がり、吸熱して外部より熱を受け取るとエンタルピーが上がる。
名称は[[カメルリング・オネス]]による<ref>{{cite|和書 |editor=久保亮五 |author= |title=大学演習 熱学・統計力学 |edition=修訂 |publisher=裳華房 |year=1998 |isbn=4-7853-8032-2 |page=100}}</ref>。
== 定義 ==
[[内部エネルギー]]を {{mvar|U}}、[[圧力]]を {{mvar|p}}、[[体積]]を {{mvar|V}} として、エンタルピー {{mvar|H}}は
{{Indent|
<math>H = U + pV</math>
}}
で定義される<ref name="atkins61">[[#atkins|アトキンス『物理化学』]] p.61</ref>。
== 完全な熱力学関数 ==
{{See also|熱力学ポテンシャル}}
エンタルピーはエントロピー {{mvar|S}}、圧力 {{mvar|p}}、[[物質量]] {{mvar|N}} を変数とする関数 {{math|''H''(''S'',''p'',''N'')}} と見たときに[[完全な熱力学関数]]となる。このとき、定義式は内部エネルギー {{math|''U''(''S'',''V'',''N'')}} の {{mvar|V}} に関する[[ルジャンドル変換]]
{{Indent|
<math>H(S,p,N) = U(S,V(S,p,N),N) + pV(S,p,N)</math>
}}
と見ることが出来る。
エンタルピー {{math|''H''(''S'',''p'',''N'')}} の各変数による偏微分は
:<math>\begin{align}
\left( \frac{\partial H}{\partial S} \right)_{p,N} &= T(S,p,N) \\
\left( \frac{\partial H}{\partial p} \right)_{S,N} &= V(S,p,N) \\
\left( \frac{\partial H}{\partial N_i} \right)_{S,p,N_j} &= \mu_i(S,p,N)
\end{align}</math>
で与えられる。ここで {{mvar|T}} は[[熱力学温度]]、{{mvar|μ{{sub|i}}}} は成分 {{mvar|i}} の[[化学ポテンシャル]]である。従って、エンタルピー {{math|''H''(''S'',''p'',''N'')}} の全微分は
:<math>dH = T(S,p,N)\, dS +V(S,p,N)\, dp +\sum_i \mu_i(S,p,N)\, dN_i</math>
となる。
== 等圧過程 ==
{{See also|定圧過程}}
外圧 {{math|''p''{{sub|ex}}}} の環境にある系が、ある平衡状態から別の平衡状態へ変化する過程を考える。系の体積変化に伴う仕事以外の仕事がないとき、すなわち非膨張仕事がないときには、系が外部に為す仕事は
{{Indent|
<math>W = p_\text{ex} \Delta V</math>
}}
であり、系が外部から受け取る熱 {{math|''q''}} は[[エネルギー保存則]]から
{{Indent|
<math>q = \Delta U +W = \Delta U +p_\text{ex} \Delta V</math>
}}
となる。
等圧条件下では変化の前後で {{math|1=''p''=''p''{{sub|ex}}}}なので、エンタルピーの定義から
{{Indent|
<math>\Delta H =\Delta(U+p_\text{ex} V) =\Delta U +p_\text{ex} \Delta V</math>
}}
となる。従って
{{Indent|
<math>q = \Delta H</math>
}}
が成り立つ。つまり、非膨張仕事がない等圧過程においては、系に与えた熱 {{math|''q''}} が系のエンタルピーの変化と等しくなっている<ref name="atkins61" />。
温度 {{math|''T''{{sub|ex}}}} の環境にある系内での[[化学反応]]において、系から外部に放出された熱は[[反応熱]] {{math|''Q''}} に等しい。系から外部に放出された熱は、系が外部から吸収する熱と符号が逆になるから
{{Indent|
<math>Q = -q = -\Delta H</math>
}}
が成り立つ。つまり、熱浴の温度と外圧が一定の化学反応においては、非膨張仕事がなければエンタルピー変化と反応熱は符号が逆で大きさが等しい。
== 温度による表示 ==
完全な熱力学関数としてのエンタルピーの変数はエントロピー {{mvar|S}}、圧力 {{mvar|p}}、物質量 {{mvar|N}} であるが、実用上はエントロピー {{mvar|S}} に変えて熱力学温度 {{mvar|T}} を変数として表されることが多い。閉鎖系で物質量の変化を考えない場合には、エンタルピー {{math|''H''(''T'',''p'')}} の温度による偏微分は
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial H}{\partial T} \right)_p =C_p(T,p)</math>
}}
として[[熱容量|等圧熱容量]]で与えられる<ref>[[#atkins|アトキンス『物理化学』]] p.64</ref>。一方、エンタルピー {{math|''H''(''T'',''p'')}} の圧力による偏微分は
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial H}{\partial p} \right)_T =V(T,p)
-T\left( \frac{\partial V}{\partial T} \right)_p</math>
}}
として、体積を温度と圧力で表した[[状態方程式 (熱力学)|状態方程式]]によって表される。この関係式は[[熱力学的状態方程式]]と呼ばれる。
[[熱膨張係数]] {{mvar|α}} で表せば
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial H}{\partial p} \right)_T
=TV \left( \frac{1}{T} -\alpha \right)</math>
}}
となる。
=== 気体のエンタルピー ===
低圧領域において[[実在気体]]の状態方程式を[[ビリアル展開]]
{{Indent|
<math>V(T,p) =\frac{RT}{p} +B(T) +O(p^1)</math>
}}
の形で書くと、エンタルピーの圧力による偏微分は
{{Indent|
<math>\left( \frac{\partial H}{\partial p} \right)_T
=B(T) -T\frac{dB}{dT} +O(p^1)</math>
}}
となる。従って、低圧領域においてエンタルピーは
{{Indent|
<math>H(T,p) =H_0(T) +p\left[ B(T) -T\frac{dB}{dT} \right] +O(p^2)</math>
}}
で表される。ここで
{{Indent|
<math>H_0(T) =\lim_{p\to 0} H(T,p)</math>
}}
である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=P.W. Atkins
|title=アトキンス物理化学
|publisher=[[東京化学同人]]
|edition=第6版
|volume=上
|others=千原秀昭、中村亘男 訳
|year=2001
|isbn=4-8079-0529-5
|ref=atkins
}}
*{{Cite book|和書|author=田中一義
|title=物理化学
|publisher=[[丸善]]
|isbn=978-4621083024
|ref=tanaka2010
|author2 = 田中庸裕|date = 2010-12-25|series = 化学マスター講座|url = http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621083024.html}}
== 関連項目 ==
* [[格子エンタルピー]]
* [[熱力学ポテンシャル]]
** [[内部エネルギー]]
** [[エントロピー]]
** [[自由エネルギー]]
* [[示差走査熱量測定]]
* [[ジュール=トムソン効果]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えんたるひ}}
[[Category:熱力学]]
[[Category:物理化学]]
[[Category:状態量]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%BC
|
10,801 |
一朱金
|
一朱金(いっしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 一朱判(いっしゅばん)、または発行が文政期のみであったことから文政一朱判(ぶんせいいっしゅばん)、あるいはその形状から角一朱金(かくいっしゅきん)ともいう。
形状は正方形。表面には、五三の桐紋と下部に「一朱」の文字が刻印されている。 裏面には「光次」の署名が刻印されている。
額面は1朱。その貨幣価値は、1/16両、また1/4分に相当する。 二朱金、二分金とともに小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、補助貨幣的に用いられた。
江戸幕府の発行した1朱という額面の貨幣としては最初のものである。世界的に見ても、金貨としては最も品位(金純度)の悪いものであった。他の小判および分金同様に製造時に表面の銀を溶解する色揚げ操作が行われていたが、江戸時代の他の金貨と比較しても金色が落ちて金と銀の中間のような色をしており、流通による磨耗からすぐに銀色の地金が姿を現し、さらに火災に遭うと固体拡散のためか銀貨同然の光沢となったという。また通常、小判および分金は製造過程で一枚ずつ厳密な量目(質量)の検査が行われるが、この一朱判に関しては、五両ないし十両一括で量目の検査が行われるという始末であった。
文政7年(1824年)5月から鋳造が始まり、同年7月2日より初めて発行されたが、金純度も低く偽金貨のような色を呈し割れやすいもので、 その上、小さくて扱いづらく紛失しやすい事もあり不評であった。 天保3年(1832年)に鋳造終了、天保11年(1840年)9月末には通用停止となった。
それ以降、1朱という額面の貨幣は一朱銀に取って代わられる事になる。
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一朱金(いっしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。
一朱判(いっしゅばん)、または発行が文政期のみであったことから文政一朱判(ぶんせいいっしゅばん)、あるいはその形状から角一朱金(かくいっしゅきん)ともいう。
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'''一朱金'''(いっしゅきん)とは、[[江戸時代]]に流通した[[金貨]]の一種である。
'''一朱判'''(いっしゅばん)、または発行が[[文政]]期のみであったことから'''文政一朱判'''(ぶんせいいっしゅばん)、あるいはその形状から'''角一朱金'''(かくいっしゅきん)ともいう。
== 概要 ==
[[画像:Bunsei-1shuban.jpg|thumb|right|200px|文政一朱判]]
形状は正方形。表面には、五三の[[桐紋]]と下部に「一朱」の文字が刻印されている。
裏面には「[[後藤庄三郎|光次]]」の署名が刻印されている。
額面は1[[朱]]。その貨幣価値は、1/16[[両]]、また1/4[[分]]に相当する。
[[二朱金]]、[[二分金]]とともに[[小判]]、[[一分判]]に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、[[補助貨幣]]的に用いられた<ref name="bonanza">青山礼志 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年</ref>。
江戸幕府の発行した1朱という額面の貨幣としては最初のものである。世界的に見ても、金貨としては最も品位(金純度)の悪いものであった。他の小判および分金同様に製造時に表面の銀を溶解する色揚げ操作が行われていたが、江戸時代の他の金貨と比較しても金色が落ちて金と銀の中間のような色をしており、流通による[[磨耗]]からすぐに銀色の地金が姿を現し、さらに火災に遭うと[[固体]][[拡散]]のためか[[銀貨]]同然の[[光沢]]となったという。また通常、小判および分金は製造過程で一枚ずつ厳密な量目([[質量]])の検査が行われるが、この一朱判に関しては、五両ないし十両一括で量目の検査が行われるという始末であった<ref name="mikami">三上隆三 『江戸の貨幣物語』 [[東洋経済新報社]]、1996年</ref>。
[[文政]]7年([[1824年]])5月から鋳造が始まり、同年7月2日より初めて発行されたが、[[金]]純度も低く偽金貨のような色を呈し割れやすいもので、
その上、小さくて扱いづらく紛失しやすい事もあり不評であった<ref name="nishiwaki">瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 [[東京堂出版]]、1999年</ref>。
[[天保]]3年([[1832年]])に鋳造終了、天保11年([[1840年]])9月末には通用停止となった。
それ以降、1朱という額面の貨幣は[[一朱銀]]に取って代わられる事になる。
== 鋳造開始・品位・量目・鋳造量 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造開始
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定品位<br>分析品位(造幣局)<ref>『日本大阪皇國造幣寮首長第三周年報告書 ディロンの報告』 [[造幣寮]]、1874年</ref>
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定量目
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |文政一朱金
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |文政7年<br />([[1824年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |三百五十匁位後に三百六十五匁位<br />(12.6%→12.1%)<br />金12.31%/銀87.40%/雑0.29%
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.375[[匁]]<br />(1.40[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2,920,192[[両]]<br />(46,723,072枚)
|}
== 参考文献 ==
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{{江戸時代の貨幣}}
{{DEFAULTSORT:いつしゆきん}}
[[Category:江戸時代の金貨]]
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"Template:江戸時代の貨幣",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%B1%E9%87%91
|
10,803 |
徳川吉宗
|
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる。
※ 日付は、旧暦表示
貞享元年(1684年)10月21日、紀州藩主徳川光貞の末男(四男)として城下の吹上邸において生まれる。母は巨勢利清の娘・紋子。和歌山城の大奥の湯殿番であった紋子は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある。
幼年は家老・加納政直の元で育てられた。当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があった。そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾うという体裁を取った。加納家でおむつという乳母を付けられ、5歳まで育てられた。次兄・次郎吉が病死した後は名を新之助と改め、江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。
元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。 翌元禄10年(1697年)4月、紀州藩邸を訪問した将軍徳川綱吉に御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となっている。
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていたと言われている。同地では「紀伊領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。
宝永2年(1705年)に長兄である藩主・綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。
しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。藩主に就任する際、綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となった。
宝永3年(1706年)に二品貞致親王の王女真宮(理子)を御簾中に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。
宝永7年(1710年)4月にお国入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。
紀州藩主時代、深徳院との間に長男・長福丸(後の徳川家重)、本徳院との間に二男・小次郎(後の田安宗武)が誕生した。
享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されているが、実は館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方という、徳川家光の男系子孫が存在していた。
しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、本人も他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。
御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。
吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。
将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。
宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家・一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。
翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した。
将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した。享年68(満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている。
徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」
(訓読文)
寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。
吉宗時代(将軍在職時/「宗」の字)
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"text": "享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されているが、実は館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方という、徳川家光の男系子孫が存在していた。",
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"text": "しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、本人も他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。",
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"text": "御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。",
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"text": "吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。",
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"text": "将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。",
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"text": "吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。",
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"text": "延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。",
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"text": "宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家・一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。",
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"text": "翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した。",
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"text": "将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した。享年68(満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている。",
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"text": "徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」",
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"text": "(訓読文)",
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"text": "寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。",
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"text": "吉宗時代(将軍在職時/「宗」の字)",
"title": "偏諱を受けた人物"
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] |
徳川 吉宗は、江戸幕府の第8代将軍。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる。
|
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川 吉宗
| 画像 = Tokugawa Yoshimune.jpg
| 画像サイズ = 260px
| 画像説明 = 徳川吉宗像([[徳川記念財団]]蔵)
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[貞享]]元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]([[1684年]][[11月27日]])
| 死没 = [[寛延]]4年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1751年]][[7月12日]])<ref>{{Kotobank|徳川吉宗}}</ref>
| 改名 = 松平頼久→頼方→徳川吉宗
| 別名 = 幼名:源六<br />[[仮名 (通称)|通称]]:新之助<br />渾名:米将軍、八十八将軍、八木将軍
| 諡号 =
| 戒名 = 有徳院殿贈正一位大相国(法号)
| 墓所 = [[寛永寺|東叡山寛永寺円頓院]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[近衛府|右近衛権少将]]兼[[主税寮|主税頭]]、<br />[[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]<br />[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、<br />[[正二位]]・[[内大臣]]兼[[近衛府|右近衛大将]]、[[右大臣]]<br />贈[[正一位]]・[[太政大臣]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] 8代[[征夷大将軍]]<br />[[享保]]元年([[1716年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]] - [[延享]]2年([[1745年]])[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]
| 藩 = [[越前国|越前]][[葛野藩]]主→[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]主
| 氏族 = [[紀州徳川家]]→葛野松平家→紀州徳川家→[[徳川宗家|徳川将軍家]]
| 父母 = 父:[[徳川光貞]]<br>母:[[浄円院]]<br>養父:''[[徳川頼職]]''、''[[徳川家継]]''
| 兄弟 = [[徳川綱教|綱教]]、次郎吉、[[徳川頼職|頼職]]、'''吉宗'''、栄姫([[上杉綱憲]]正室)、光姫([[一条冬経]]室)、育姫([[佐竹義苗]]正室)、綱姫
| 妻 = 御簾中:'''[[理子女王|真宮]]'''<br />側室:[[深徳院]]、[[深心院]]、[[本徳院]]、[[覚樹院]]、[[おさめの方|おさめ]]、[[お咲の方|お咲]]、[[#系譜|他]]
| 子 = '''[[徳川家重|家重]]'''、[[徳川宗武|宗武]]、[[徳川源三|源三]]、[[徳川宗尹|宗尹]]、[[正雲院|芳姫]]<br>[[養子縁組|養子]]:'''[[徳川宗直|宗直]]'''、[[浄岸院|竹姫]]、[[雲松院|利根姫]]<br />[[猶子]]:[[尊胤入道親王]]
}}
'''徳川 吉宗'''(とくがわ よしむね)は、[[江戸幕府]]の第8代[[征夷大将軍|将軍]](在職:[[1716年]] - [[1745年]])。江戸幕府の[[中興の祖]]とも呼ばれている。[[紀州藩|和歌山藩]]の第5代藩主。初代将軍[[徳川家康|家康]]の曾孫。4代将軍[[徳川家綱|家綱]]、5代将軍[[徳川綱吉|綱吉]]の[[はとこ]]にあたる。
== 生涯 ==
※ 日付は、[[旧暦]]表示
=== 出生 ===
[[貞享]]元年([[1684年]])10月21日、[[紀州藩]]主[[徳川光貞]]の末男(四男)として城下の吹上邸において生まれる{{refnest|group="注釈"|[[ABO式血液型|血液型]]は、[[徳川家綱]]と同じO型だったとされている<ref>得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁</ref>。}}。母は[[巨勢利清]]の娘・[[浄円院|紋子]]。[[和歌山城]]の[[大奥]]の湯殿番であった紋子は、[[風呂|湯殿]]において光貞の手がついたという伝説がある。
幼年は[[家老]]・[[加納政直]]の元で育てられた。当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があった。そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾うという体裁を取った<ref group = 注釈>[[豊臣秀頼]]などもこの体裁を取っている。</ref>。加納家でおむつという[[乳母]]を付けられ、5歳まで育てられた。次兄・次郎吉が[[病死]]した後は名を'''新之助'''と改め、江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。
=== 越前葛野藩主 ===
[[ファイル:Tokugawa-Yoshimune statue Wakayama.jpg|thumb|240px|騎乗像(和歌山市)]]
[[元禄]]9年([[1696年]])末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、'''松平頼久'''(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。
翌元禄10年([[1697年]])4月、紀州藩邸を訪問した[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]に[[御目見]]し、[[越前国]][[丹生郡]]内に3万石を賜り、[[葛野藩]]主となる。またこれを機に名を頼久から'''松平頼方'''(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、[[高森藩]]主となっている。
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、[[老中]][[大久保忠朝]]の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は[[和歌山城]]下に留まっていたと言われている。同地では「紀伊領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。
=== 紀州藩主 ===
[[宝永]]2年([[1705年]])に長兄である藩主・[[徳川綱教|綱教]]が死去し、三兄・[[徳川頼職|頼職]]が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた[[高森藩]]は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。
しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。藩主に就任する際、綱吉から[[偏諱]]を賜り、(徳川)'''吉宗'''と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となった。
宝永3年([[1706年]])に二品[[伏見宮貞致親王|貞致親王]]の王女[[理子女王|真宮]](理子)を御簾中に迎えているが、宝永7年([[1710年]])に死別した。
宝永7年(1710年)4月にお国入りした吉宗は、[[藩政改革]]に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、[[藩札]]の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年[[宝永地震]]・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に[[目安箱|訴訟箱]]を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。
紀州藩主時代、[[深徳院]]との間に長男・長福丸(後の[[徳川家重]])、[[本徳院]]との間に二男・小次郎(後の[[徳川宗武|田安宗武]])が誕生した。
=== 8代将軍就任 ===
[[享保]]元年([[1716年]])に将軍[[徳川家継]]が8歳で早世し、[[徳川宗家|将軍家]]の本家血筋([[徳川家康]]の三男[[徳川秀忠|秀忠]]の男系)が絶えた後を受け、[[徳川御三家|御三家]]の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されている。
ただし、実際には[[館林藩]]主で家継の叔父に当たる[[松平清武]]とその子で従兄弟の[[松平清方]]と、この時点では[[徳川家光]]の男系子孫は存在していた<ref group="注釈">他に秀忠の男系子孫には[[保科正之]]に始まる[[会津松平家]]があり、秀忠の家系を伝えていた。だが保科家は御連枝や親藩ですらない譜代大名である。</ref>。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、清武は他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。
御三家筆頭とされる[[尾張徳川家|尾張家]]では、当主の4代藩主[[徳川吉通]]とその子の5代藩主[[徳川五郎太|五郎太]]が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した<ref group="注釈">両者に関しては紀州藩による陰謀・暗殺とする説もある。</ref>。そのため吉通の異母弟[[徳川継友|継友]]が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの[[近衛家熙]]の娘の[[光雲院|安己君]]<ref group="注釈">[[徳川家宣]]の御台所[[近衛熙子|天英院]]の姪であり、2代将軍[[徳川秀忠]]の娘[[徳川和子|和子]]の玄孫でもある。また姉の[[近衛尚子|尚子]]は後に[[中御門天皇]]の女御として[[桜町天皇]]を産んでいる。</ref>と婚約し、[[間部詮房]]や[[新井白石]]らによって引き立てられており{{refnest|group="注釈"|[[御連枝]]としていまだ独立もしていないのに従四位下左近衛権少将に昇進している<ref>『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実紀』より。</ref>。ただし、任じられたのはようやく21歳になってからのこと。弟の[[松平通温]]も部屋住みであったが正徳2年(1712年)には15歳で従四位下侍従兼安房守、同4年(1714年)には左近衛権少将に任官されている。継友が権少将に任官した正徳2年12月当時の藩主の吉通は24歳、五郎太は1歳であり、継友ら兄弟は、当主の吉通らが病没するなどの非常時のための後継候補要員として官位などが用意されていた、とも考えられる。さらに紀州藩の場合、部屋住みのまま頼職は15歳で従四位下左近衛権少将兼内蔵頭、頼久(のちの吉宗)も12歳で従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられている上に、気前のい綱吉とはいえ、翌年には兄弟に新規所領が与えられている。}}、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、[[近衛熙子|天英院]]や家継の生母[[月光院]]など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。
吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の[[館林藩]]、家宣の[[甲府藩]]は、当主が将軍の継嗣として[[江戸城]]に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は[[幕臣]]となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の[[徳川宗直]]に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから[[加納久通]]・[[有馬氏倫]]ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで[[江戸城]]に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという<ref>[[福留真紀]] 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)</ref>。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた[[譜代大名]]や[[旗本]]から好感を持って迎えられた。
=== 享保の改革 ===
{{main|享保の改革}}
将軍に就任すると、第6代将軍・[[徳川家宣]]の代からの[[側用人]][[間部詮房]]や[[新井白石]]を罷免したが、新たに[[御側御用取次]]という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、[[水野忠之]]を[[老中]]に任命して財政再建を始める。[[定免法]]や[[上米の制|上米令]]による幕府財政収入の安定化、[[新田開発]]の推進、[[足高の制]]の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる[[大岡忠相]]の登用、また訴訟の迅速化のため[[公事方御定書]]を制定しての司法制度改革、江戸[[町火消し]]を設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである[[享保の改革]]を行った。また、大奥の整備、[[目安箱]]の設置による庶民の意見を政治へ反映、[[小石川養生所]]を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの[[蘭学]]興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、[[一揆|百姓一揆]]の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。
=== 大御所 ===
[[延享]]2年([[1745年]])9月25日、将軍職を長男・[[徳川家重|家重]]に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・[[徳川宗武|宗武]]や四男・[[徳川宗尹|宗尹]]を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。
宗武・宗尹は養子に出さず、[[部屋住み]]の形で江戸城内に屋敷を与え、[[田安徳川家|田安家]]・[[一橋徳川家|一橋家]](御両卿)が創設された(吉宗の死後に[[清水徳川家|清水家]]が創設されて[[御三卿]]となった)。のち家重の嫡流は10代将軍[[徳川家治|家治]]で絶えるも、一橋家から11代将軍[[徳川家斉|家斉]]が出るなどして、14代将軍[[徳川家茂|家茂]]までは吉宗の血統が続くことになった。
翌延享3年([[1746年]])に[[中風]]を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った<ref name="yoshimune1">小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』</ref><ref name="yoshimune2">[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)</ref>。御側御用取次であった[[小笠原政登]]によると[[朝鮮通信使]]が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」という[[スロープ]]・横木付きの[[バリアフリー]]の階段を作って、通信使の芸当の一つである[[サーカス|曲馬]]を楽しんだという<ref name="yoshimune1"/>。また小笠原と共に吉宗も[[リハビリ]]に励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した<ref name="yoshimune1"/>。
将軍引退から6年が経った[[寛延]]4年([[1751年]])6月20日に死去した。[[享年]]68(満66歳没)。死因は再発性[[脳卒中]]と言われている<ref name="yoshimune2"/>。
'''徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨)''' 「兼胤公記」
故右大臣正二位源朝臣
正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣
奉 勅件人宜令贈任太政大臣者
寛延四年後六月十日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉
(訓読文)
故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)
正二位行權大納言藤原朝臣栄親([[中山栄親]])宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)
寛延4年(1751年)後(閏)6月10日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充([[押小路師充]]、従五位上)奉(うけたまは)る
[[寛永寺]]([[東京都]][[台東区]][[上野桜木]]一丁目)に葬られている。
== 趣味・嗜好 ==
[[ファイル:Elephant by Kano Furunobu.jpg|サムネイル|[[広南従四位白象]]|代替文=|220x220ピクセル]]
* 享保13年([[1728年]])6月、自ら注文して[[ベトナム]]から[[ゾウ|象]]を輸入し、長崎から[[江戸]]まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった<ref>『像志』(当時のベストセラー)(1729年)</ref><ref>『象の旅長崎から江戸へ』石坂昌三(1992年)</ref>。
* 養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、[[関口柔心]]の流れを組む「[[新心流]]」の[[拳法]]([[柔術]])で体を鍛え、 [[鷹狩]]で運動不足を解消していた<ref name="miyamoto">[[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)</ref>。
* [[松平明矩]]が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『[[延喜式]]』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた<ref name="miyamoto" />。
* [[狩野常信]]に師事し、常信の孫・[[狩野古信]]に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「[[にじみ鷹]]」の技法を編み出している。
* 室町時代から伝統的に武家に好まれた[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた[[南宋]]時代の[[画僧]]・[[牧谿]]筆の[[瀟湘八景]]図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・[[沈南蘋]]が来日し、その画風は後の近世絵画に大きな影響を与えた。
* 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り[[洋書]]の輸入を解禁とした。これにより、[[長崎市|長崎]]を中心に[[蘭学]]ブームが起こった。
== 政策・信条 ==
=== 方針 ===
* 吉宗は将軍就任後、[[新井白石]]らの手による「[[正徳の治]]」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。
* 一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・[[徳川綱吉|綱吉]]を尊敬し、綱吉が定めた「[[生類憐れみの令]]」を即日廃止した第6代将軍・[[徳川家宣|家宣]]を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた[[犬追物]]、[[鷹狩]]の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。
* 江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として[[飛鳥山公園|飛鳥山]]や[[隅田川]]堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。
=== 倹約 ===
* 肌着は[[木綿]]と決めて、それ以外のものは着用せず、[[鷹狩]]の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた<ref>宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)</ref>。
* 吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として[[吹上御殿]]を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。
=== 経済 ===
* 江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、[[上米の制]]、[[定免法]]、[[新田|新田開発]]などの米政策を実行したことによって吉宗は「'''米将軍'''」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」または「八木将軍」とも呼ばれた。
** 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。
* [[商品作物]]や[[酪農]]などの新しい農業を推奨した。それまで[[清|清国]]からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えて[[サトウキビ]]の栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが[[和三盆]]である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物として[[サツマイモ]]の栽培を全国に奨励した。
* 御三家筆頭[[尾張徳川家|尾張家]]の[[徳川宗春]]は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した<ref group="注釈">御三家筆頭の名古屋藩と、二番手である紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の[[徳川継友|継友]])と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される<ref name="jikki">『[[徳川実紀]]』</ref>。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。}}。尾張藩家老[[竹腰正武]]らは宗春の失脚を企て、宗春は隠居謹慎の上、[[閉門]]を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった<ref group="注釈">[[1764年]]に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。</ref>{{refnest|group="注釈"|吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている<ref>『尾公口授』江戸時代写本</ref>。}}。また、[[高尾太夫]]を落籍し、華美な遊興で知られた[[榊原政岑]]も処罰するなど<ref group="注釈">前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。</ref>、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。
* 吉宗は将軍に就任するなり新井白石を罷免したが、白石が着手し、元禄・宝永金銀と混在流通の状態に陥っていた[[享保小判|正徳金]][[享保丁銀|銀]]の通用については一段と強力な措置を講じた<ref>瀧澤・西脇『日本史小百科「貨幣」』270-271頁</ref>。享保3年(1718年)には通用銀を[[宝永永字丁銀|宝永銀]]から正徳銀へ変更し、享保7年末(1723年)限りで[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]・[[宝永丁銀|宝永銀]]を通用停止とした。しかし米価の下落から困窮していた武士や農民の救済のため金銀の品位を下げ流通量を増やすべきとする大岡忠相の強い進言に折れ政策を転換した<ref>[[三上隆三]]『江戸の貨幣物語』189-191頁</ref><ref>[[河合敦]]『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』128-133頁</ref>。[[元文]]元年(1736年)に行われた[[元文小判|元文の改鋳]]は、日本経済に好影響をもたらした数少ない[[貨幣改鋳]]であるとして、積極的に評価されている<ref>[http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/19990209012834/http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm |date=1999年2月9日 }}</ref>。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
* 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの[[寛政の改革]]、[[天保の改革]]などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。
=== 保安 ===
* 紀州藩の基幹産業の一つである[[捕鯨]]との関わりも深く、[[熊野灘|熊野]]の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を[[1702年]](元禄15年)と[[1710年]](宝永7年)に紀伊熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から[[和歌山城]]まで[[狼煙]]を使った海上保安の連絡網を設けていた。
* 将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、[[江戸湾]]へ流出した河川荷役、[[塵芥]]の回収に、[[鯨舟]](古式捕鯨の[[和船]])を使い、「[[捕鯨文化#救命掃海艇|鯨船鞘廻御用]]」という役職を設けて海上保安に努めた。
* 海防政策としては[[大船建造の禁]]を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。
* 将軍として初めて「[[御庭番]]」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた<ref group="注釈">誇大に語られる御庭番だが、実態としては[[大目付]]や[[目付]]を補う、小回りの利く将軍直属の[[監察官]]や[[秘書官]]に近い。</ref>。
== 年表 ==
{{Main2|享保の改革に関する年表は[[享保の改革]]を}}
{| class=wikitable width="100%"
|-
!年月日(月日は[[旧暦]])
!事柄<!--内容は簡潔に記してください-->
!style="width:4em;"|出典
|-
| nowrap="nowrap" |[[貞享]]元年([[1684年]])10月21日
|和歌山藩主徳川光貞の四男として生まれる。
|
|-
|[[元禄]]9年([[1697年]])12月11日
|従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任ず。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。
|
|-
|元禄10年([[1697年]])4月11日
|五代将軍綱吉が和歌山藩邸を訪れ、その際に越前葛野藩3万石藩主となる(後に1万石加増)。
|
|-
|[[宝永]]2年([[1705年]])10月6日
|紀伊徳川家5代藩主就任
|
|-
|同年12月1日
|従三位左近衛権中将に昇進。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。
|
|-
|宝永3年([[1706年]])11月26日
|参議に任ず。左近衛権中将元の如し。
|
|-
|宝永4年([[1708年]])12月18日
|権中納言に昇進。
|
|-
|[[正徳 (日本)|正徳]]6年([[1716年]])4月30日
|将軍後見役就任
|
|-
|[[享保]]元年([[1716年]])7月13日
|正二位権大納言に昇進。
|
|-
|享保元年(1716年)7月18日
|[[征夷大将軍]]・[[源氏長者]]宣下。内大臣・右近衛大将に昇進。
|
|-
|[[寛保]]元年([[1742年]])8月7日
|右大臣に昇進。右近衛大将元の如し。
|
|-
|[[延享]]2年([[1745年]])9月25日
|征夷大将軍辞職
|
|-
|[[寛延]]4年([[1751年]])6月20日
|死去
|
|-
|同年閏6月10日
|贈[[正一位]][[太政大臣]]
|
|}
== 系譜 ==
* 御簾中:[[理子女王|真宮]] - 貞致親王王女
* 側室:大久保須磨子([[深徳院]])
** 長男:[[徳川家重]] - 9代将軍
* 側室:古牟([[本徳院]])
** 二男:[[徳川宗武]] - 田安家初代
* 側室:梅([[深心院]])
** 三男:[[徳川源三|源三]]
** 四男:[[徳川宗尹]] - 一橋家初代
* 側室:久免([[覚樹院]])
** 長女:[[芳姫 (正雲院)|芳姫]](正雲院)
* 側室:[[おさめの方|おさめ]]
* 側室:[[お咲の方|お咲]]
* 養子
** [[徳川宗直]] - 西条松平家で、吉宗の再従兄弟。[[伊予国|伊予]][[西条藩]]第2代藩主→[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]第6代藩主
** [[浄岸院|竹姫]](浄岸院) - [[清閑寺熈定]]<ref>徳川綱吉側室の[[寿光院]]の兄。</ref>娘。元[[徳川綱吉]]養女。[[会津藩]]嗣子[[松平正邦]]婚約者、のち[[有栖川宮正仁親王]]婚約者、のち[[島津継豊]]室
** [[雲松院|利根姫]](雲松院) - [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]室([[徳川宗直]]娘)
* 猶子
** [[尊胤入道親王]] - [[霊元天皇]]第18皇子
{{徳川吉宗の系譜}}
== 偏諱を受けた人物 ==
'''吉宗時代'''(将軍在職時/「宗」の字)
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[二条宗熙|二条'''宗'''熙]]
* [[二条宗基|二条'''宗'''基]]
* [[徳川宗武|徳川'''宗'''武]](次男、田安家祖)
* [[徳川宗尹|徳川'''宗'''尹]](四男、一橋家祖)
* [[徳川宗春|徳川'''宗'''春]]
* [[徳川宗勝|徳川'''宗'''勝]]
* [[徳川宗睦|徳川'''宗'''睦]]
* [[徳川宗直|徳川'''宗'''直]](養子、和歌山藩継嗣)
* [[徳川宗将|徳川'''宗'''将]]
* [[徳川宗堯|徳川'''宗'''堯]]
* [[徳川宗翰|徳川'''宗'''翰]]
* [[松平宗昌|松平'''宗'''昌]]
* [[松平宗矩|松平'''宗'''矩]]
* [[松平宗衍|松平'''宗'''衍]]
* [[上杉宗憲|上杉'''宗'''憲]]
* [[上杉宗房|上杉'''宗'''房]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達'''宗'''村]]
* [[前田宗辰|前田'''宗'''辰]]
* [[池田宗政|池田'''宗'''政]]
* [[池田宗泰|池田'''宗'''泰]]
* [[浅野宗恒|浅野'''宗'''恒]]
* [[毛利宗広|毛利'''宗'''広]]
* [[毛利宗元|毛利'''宗'''元]]
* [[蜂須賀宗員|蜂須賀'''宗'''員]]
* [[蜂須賀宗英|蜂須賀'''宗'''英]]
* [[蜂須賀宗純|蜂須賀'''宗'''純]]
* [[蜂須賀宗鎮|蜂須賀'''宗'''鎮]]
* [[鍋島宗茂|鍋島'''宗'''茂]]
* [[鍋島宗教|鍋島'''宗'''教]]
* [[細川宗孝|細川'''宗'''孝]]
* [[島津宗信|島津'''宗'''信]]
</div>{{clear|left}}
== その他 ==
* [[2012年]](平成24年)、[[徳川記念財団]]が所蔵している歴代将軍の[[肖像画]]の[[紙形]](下絵)が公開された<ref>[https://archive.is/PaUM 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む]<!-- http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html -->:朝日新聞2012年8月8日</ref><ref>[http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/b62fe5049e2da6ae0d5eef78030a7817 鶴は千年、亀は萬年。] 2012年8月8日付{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。その中には絹本着色本の吉宗像も含まれていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokugawa Yoshimune|徳川吉宗 }}
* [[天一坊事件]]
* [[幕政改革]]
* [[捕鯨]]
* [[捕鯨文化]]
* [[徳川宗春]]
* [[蘭学]]
* [[巨勢氏]](吉宗の母である浄円院の実家と言われている)
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; 小説
* [[大わらんじの男]](1994年 - 1995年、日本経済新聞社 著者:[[津本陽]])
; 映画
* [[昨日消えた男 (1964年の映画)|昨日消えた男]](1964年、演:[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]])
* [[劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル]](2010年、演:[[松平健]])
* [[大奥 (2010年の映画)|大奥〈男女逆転〉]](2010年、演:[[柴咲コウ]])
; テレビドラマ
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年 - 1969年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、演:[[松方弘樹]])
* [[徳川おんな絵巻]](1970年、関西テレビ、演:[[高橋昌也]])
* [[男は度胸]](1970年 - 1971年、[[日本放送協会|NHK]]、演:[[浜畑賢吉]])
* [[大岡越前 (テレビドラマ)|大岡越前]](1970年 - 1999年・2006年、[[TBSテレビ|TBS]]、演:[[山口崇]])
* [[暴れん坊将軍]](1978年 - 2003年・2004年・2008年、[[テレビ朝日]]、演:[[松平健]])
* [[大奥 (1983年のテレビドラマ)]](1983年、関西テレビ、演:[[鹿賀丈史]])
* [[暗殺者の神話]](1984年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[中野誠也 (俳優)|中野誠也]])
* [[徳川風雲録 御三家の野望]](1986年、[[テレビ東京]][[新春ワイド時代劇]] 演:[[北大路欣也]])
* [[八代将軍吉宗]](1995年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[西田敏行]]。幼年時代から少年時代は青柳翔→[[尾上松也 (2代目)|尾上松也]]→[[阪本浩之]])
* [[炎の奉行 大岡越前守]](1997年、テレビ東京新春ワイド時代劇 演:[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]])
* [[ナショナル劇場]] [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]
** [[水戸黄門 (第22-28部)|第28部]](2000年、TBS、演:[[茂山逸平]]。青年時代の吉宗が登場する)
** [[水戸黄門 (第31-38部)|第38部]](2008年、TBS、演:[[柳沢太介]]。幼名である源六を名乗っていた頃の吉宗が登場する)
* [[徳川風雲録 八代将軍吉宗]](2008年、テレビ東京新春ワイド時代劇 演:[[内田朝陽]]→[[中村雅俊]])
* [[大岡越前 (2013年のテレビドラマ)|大岡越前]](2013年 - 2022年、[[NHK BSプレミアム]][[BS時代劇]]、演:[[平岳大]]→[[椎名桔平]])
* [[紀州藩主 徳川吉宗]](2019年、[[BS朝日]]4K大型時代劇スペシャル 演:[[山本耕史]])
* [[大奥 (フジテレビの時代劇)|大奥 最終章]](2019年、フジテレビ、演:[[大沢たかお]])
* [[大奥 (2023年のテレビドラマ)|大奥]](2023年、NHK[[ドラマ10]]、演:[[冨永愛]])
* [[大奥 (フジテレビの時代劇)#2024年版|大奥]](2024年、フジテレビ[[木曜劇場]]、演:[[伊武雅刀]])
; パチスロ
* [[吉宗 (パチスロ)|吉宗]](2006年 - :[[大都技研]])
; アニメ
* [[吉宗 (パチスロ)|吉宗]](2008年・2013年、声:[[檜山修之]])
; 落語
* [[紀州 (落語)|紀州]]
; 漫画
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]])
* [[徳弘正也]]『[[もっこり半兵衛]]』([[集英社]])
; 舞台
* [[星逢一夜]] (2015年、演 ︰[[英真なおき]])
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{江戸幕府将軍}}
{{徳川氏歴代当主||第8代}}
{{紀州徳川家|||第5代}}
{{葛野藩主||初代:1697年 - 1705年}}
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[[Category:徳川吉宗|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
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10,807 |
工学
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工学(こうがく、英: engineering)またはエンジニアリングとは、基礎科学である数学・化学・物理学などを工業生産に応用する学問。「真理の探究」を目指す基礎科学と「実用」を目指す工学の違いは絶対的ではなく、例えば電子工学や農業、薬品生産などがあると『日本大百科全書』は述べている。これらの分野では、基礎科学・基礎研究の成果が応用科学・研究開発の中へと直接組み込まれている。
日本の国立8大学の工学部を中心とした文書、「工学における教育プログラムに関する検討委員会」(1998年)では次の通り定義されている。
『世界大百科事典』では、工学は「エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般」とされている。工学が対象とする領域は広く、様々な工学分野に専門分化している。
工学博士の仙石正和は電子情報通信学会で、国際世界の教育研究における「工学」は次の意味だと述べている。
工学は大半の分野で理学(数学・物理学・化学等)を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「自然界(の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追求する点である。或いは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、人間・社会で利用されること、という合目的性を追求する点である、とも言える。
したがって工学では安全性、経済性、運用・保守性といった、実用上の観点の価値判断が重要である。使用できる時間・人員・予算等といった資源の制約の中、工学的目的を達成するための技術的な検討とその評価を工学的妥当性と言い、工学的な性質の分析には、環境適合性、使いやすさ、整備のしやすさ (Maintainability)、生涯費用(ライフサイクルコスト)など、(質量、速度などのある意味、即物的で一意的に測定できる性質とは違った、人間がある配慮のもとに構成した) <<評価方法>> が必要なものが多い。そうした評価方法の開発も工学の重要な分野とされる。
また公共の福祉に対する配慮も必要であり、工学各分野の学会(電気学会、土木学会など)では倫理的な内容を盛り込んだ信条規定(Creed)が定められている。 工学には、他の学問の成果を社会に還元するための技術の開発という面もあるが、近年はそれに加えて、その技術の適用にあたっての長所、短所の調査(アセスメント)、調査結果とともに調査過程の資料を公表説明すること(アカウンタビリティ)が求められるようになってきている。
現代の我々が用いている意味での "engineering" という用法・概念は18世紀になって生まれたものであるが、その概念に合致するような営みは、実際には古代から行われていたとも考えられている。(→#歴史)
工学を実践する者を「エンジニア engineer」あるいは「技術者」と呼ぶ。日本では技術者の公式な資格の一つに技術士がある。
工学という用語や概念自体は歴史的に見れば比較的新しいものであるが、現代の「工学」という概念で照らしつつ人類の歴史を遡って眺めてみれば、それに相当するものは実際上は古代から存在していたと言うこともできる。
"engineering" という言葉・概念は比較的新しいもので、先に "engineer"(技術者)という言葉が存在していた。1325年ごろ文献に現れたときには「軍用兵器の製作者」を意味していた。当時、"engine" には「戦争に使われる機械仕掛け」(例えばカタパルト)すなわち「兵器」という意味があった。"engine" の語源は1250年ごろラテン語の ingenium からできた語で、ingenium は「先天的な特性、特に知能」を意味し、そこから派生して「賢い発明品」を意味した。なお、"engineer" は "engine" に接尾辞 "-eer" がついた形で「機関の操作者」という意味、といったような説明がたいへんしばしば見られるが、(少なくともそれが現在の意味における「機関」(engine)ではなく)誤り(異分析)であり、英語版Wiktionaryのengineerの記事でも「Sometimes erroneously linked with engine + -eer. 」としている。
後に民間の橋や建築物の建設技法が工学分野として円熟してくると、"civil engineering" (日本語にあえてすれば土木工学)と呼ばれるようになった。これは "engine" が元々「兵器」を意味していたことから、軍事とは無関係の分野であることを示すために "civil"(市民)とつけたものである。
つまり、古くは "engineering" という語は military engineering 軍事技術だけを意味していたことがある。だが、18世紀以降は "civil engineering"(=軍事以外の技術)が発展し、それ以来 "engineering" という言葉は、エネルギーや資源を利用しつつ便宜を得る技術一般を指すようになったのである。
近代的な「工学」と概念は上記のような経緯で形成されたわけであるが、そうした近代的な「工学」に合致するものを人類の歴史を遡ってあらためて探してみると、すでに古代にもそれは見つかる。古代の人々が滑車や梃子や車輪といった基本的機構を発明したころから存在していたことになる。基本的な機械的(物理的)原理を利用して便利な道具やモノを作るという意味で、これらの発明も工学の現代的定義に合致しているのである。
アレクサンドリアの大灯台、エジプトのピラミッド、バビロンの空中庭園、ギリシャのアクロポリスとパルテノン神殿、古代ローマのローマ水道やローマ街道やコロッセオ、マヤ文明・インカ帝国・アステカのテオティワカンなどの都市やピラミッド、万里の長城などは、古代の工学の精巧さと技能を示している。
最古の名の知られている土木技術者としてイムホテプがいる。エジプトのファラオであるジェセル王に仕え、紀元前2630年から2611年ごろサッカラでジェセル王のピラミッド(階段ピラミッド)の設計と建設の監督をしたと見られている。
古代ギリシアでは、民間用と軍事用の両方の分野で機械が開発された。アンティキティラ島の機械は、既知の世界最古のアナログコンピュータといわれており、アルキメデスの発明した機械は初期の機械工学の一例である。それらの機械には差動装置または遊星歯車機構の知識を必要とし、その2つの機械理論の重要な原理が産業革命でのギアトレーン設計を助け、今でもロボット工学や自動車工学といった様々な分野で広く使われている。
紀元前4世紀ごろのギリシアで投石機が開発され、中国、ギリシア、ローマでは三段櫂船、バリスタ、カタパルトといった複雑な機械式兵器が使われていた。中世にはトレビュシェットが開発されている。
ウィリアム・ギルバートは、1600年に De Magnete を著し、"electricity"(電気)という言葉も史上初めて使ったということで電気工学の祖とされている。
機械工学の分野では、トーマス・セイヴァリが1698年に世界初の蒸気機関を作った。蒸気機関の開発が産業革命をもたらし、大量生産の時代が始まった。
18世紀には工学を専門とする専門職が確立し、工学は数学や科学を応用する分野のみを指すようになっていった。同時にそれまで軍事と民間の工学とされていた分野に、それまで単なる技能とみなされていた機械製作も工学分野の一つとされるようになった。
電気工学の発端は1800年代のアレッサンドロ・ボルタの実験であり、その後マイケル・ファラデーやゲオルク・オームといった先駆者の実験を経て1872年に電動機が発明された。19世紀後半にはジェームズ・クラーク・マクスウェルとハインリヒ・ヘルツの成果によって電子工学の分野が始まった。その後の真空管やトランジスタの発明によって電子工学の発展が加速され、今では工学の中でも特に技術者の多い領域となっている。
トーマス・セイヴァリとジェームズ・ワットの発明によって機械工学の発展が促された。産業革命期に各種機械やその修理や保守のための道具が発達し、イギリスからさらに海外へと広まっていった。
化学工学も産業革命期の19世紀に機械工学と共に発展した。大量生産は新素材や新製法を必要とし、化学物質の大量生産の必要性から1880年ごろまでに新たな産業として確立された。化学工学はそういった化学工場や製法の設計を担っている。
航空工学は航空機の設計を扱う分野で、航空宇宙工学はそれを宇宙船の設計にまで広げた比較的新しい学問分野である。その起源は19世紀から20世紀にかけての航空機の先駆的開発にあるが、最近では18世紀末のジョージ・ケイリーの業績が起源とされている。初期の航空機は他の工学分野の概念や技法を取り入れつつ、大部分は経験主義的に発展していった。
ライト兄弟が初飛行に成功してわずか10年後には航空工学が大いに発展し、第一次世界大戦には軍用航空機が開発されるまでになった。一方で、理論物理学と実験を結合することで科学的な基礎付けをする研究が行われていった。
工学の博士号を最初に取得した人物は、イェール大学のウィラード・ギブズで、1863年のことである。これは自然科学分野でもアメリカ合衆国で2人目の博士号である。
コンピュータが工学に果たす役割は大きくなっている。工学についてコンピュータが支援を行う各種ソフトウェアが存在する。数理モデルの構築や、それに基づいた数値解析もコンピュータを使用してなされている。
例えばCADソフトウェアは3次元モデルや2次元の設計図の作成を容易にする。CADを応用したデジタルモックアップ (DMU) や有限要素法などを使ったCAEソフトウェアを使えば、時間とコストのかかる物理的なプロトタイプを作らなくともモデルを作成して解析を行うことができる。
コンピュータを利用することで、製品や部品の欠点を調べたり、部品同士のかみ合わせを調べたり、人間工学的な面を研究したり、圧力・温度・電磁波・電流と電圧・デジタル論理レベル・流体の流れ・動きなどシステムの静的および動的特性を解析できる。これらの情報を総合的に関するソフトウェアとして製品情報管理がある。
特定の工学分野のためのソフトウェアもある。例えば、CAMソフトウェアはCNC機械に与える命令列を生成する。生産工程を管理するソフトウェアとして工程管理システム (MPM) がある。EDAは半導体集積回路やプリント基板や電子回路の設計を支援する。間接材調達を管理するMRO (Maintenance, Repair and Operations) ソフトウェアなどもある。
近年では、製品開発に関わるソフトウェアの集合体として製品ライフサイクル管理 (PLM) ソフトウェアが使われている。
工学は本質的に社会や人間の行動に左右される。現代の製品や建設は必ず工学設計の影響を受けている。工学設計は環境・社会・経済に変化を及ぼす強力なツールであり、その応用には大きな責任が伴う。多くの工学系の学会は行動規約や倫理規約を制定し、会員や社会にそれを周知させようとしている。
工学プロジェクトの中には論争となっているものもある。例えば、核兵器開発、三峡ダム建設、SUVの設計と使用、重油抽出などである。これに対して、企業の社会的責任について厳しい方針を設定している工学企業もある。
工学は人間開発の重要な駆動力の1つである。アフリカのサハラ砂漠周辺の工学的キャパシティは非常に低く、そのためアフリカ諸国の多くは独力で重要なインフラストラクチャを開発することができないでいる。ミレニアム開発目標の多くを達成するには、インフラストラクチャの開発と持続可能な技術的開発ができるだけの十分な工学的キャパシティを必要とする。
海外での開発や災害救助を行うNGOは技術者を多数抱えている。次のようないくつかの慈善団体が人類のために工学を役立てることを目指している。
Fung らは古典的な工学教科書 Foundations of Solid Mechanics の改訂版の中で、次のように書いている。
工学は科学と全く異なる。科学者は自然を理解しようとする。技術者は自然界に存在しないものを作ろうとする。技術者は発明を強調する。発明を具現化するには、アイデアを具体化し、人々が使える形で設計しなければならない。それは装置、道具、材質、技法、コンピュータプログラム、革新的な実験、問題の新たな解決策、既存の何かの改良である。設計は具体的でなければならず、形や寸法や数値が設定されていなければならない。新しい設計にとりかかると、技術者は必要な情報が全て揃っているわけではないことに気づく。多くの場合、科学知識の不足によって情報が制限される。そこで技術者は数学や物理学や化学や生物学や力学を勉強する。そうして工学における必要性から関連する科学に知識を追加することも多い。こうしてengineering sciences(理工学) が生まれた。
科学的手法と工学的手法にはオーバーラップする部分がある。工学的手法は、科学的手法と、科学的に厳密には解明されていないが過去の同様の事例から確からしいと思われる経験則を組み合わせたものである。しかし、いずれの手法もその基本は現象などの正確な観察である。観察結果を分析し伝達するため、どちらも数学や分類基準を使う。
Walter Vincenti は著書 What Engineers Know and How They Know It において、工学の研究は科学の研究とは違う性質を持っているとしている。工学は物理学や化学が基本的によく理解している分野を扱うが、問題自体は正確な方法で解くには複雑すぎる。例えば、航空機における空気力学的流れをナビエ-ストークス方程式の数値近似で表したり、材料の疲労損傷の計算にマイナー則を使ったりする。また、工学では半ば経験則的な手法もよく採用している。科学では考えられない特徴であり、例えばパラメータ変化法がある。
「歴史的に見ると工学は理学と相互に影響しながら発達してきたと言える。例えば、蒸気機関の効率についての研究から熱についての認識が深まっていった。熱についての理学的な研究が進められることによって冷却も可能になったと言える。」とも言う。
目的や方向性は異なるが、医学と工学の一部の分野の共通部分として人体の研究がある。医学においては、必要ならテクノロジーを使ってでも人体の機能を維持・強化し、場合によっては人体の一部を代替することも目指すことがある。
現代医学は既に一部の臓器の機能を人工のものと置換することを可能にしており、心臓ペースメーカーなどがよく使われている。医用生体工学は生体への人工物の埋め込みを専門とする領域である。
逆に人体を生物学的機械として研究対象とする工学分野もあり、テクノロジーによってその機能をエミュレートすることを専門とする。それは例えば、人工知能、ニューラルネットワーク、ファジィ論理、ロボットなどである。工学と医学の学際的な領域もある。
医学も工学も実世界における問題解決を目的としている。そのためには、現象をより厳密かつ科学的に理解する必要があり、実験や経験的知識が必須となっている。
医学はその一部として人体の機能も研究する。人体を生体機械と捉えた場合、工学的手法でモデル化できる多数の機能を持っている。
例えば心臓はポンプによく似た機能を有し、骨格はてこを繋げたような構造をしていると理解することも可能である。また脳は電気信号を発している。このような類似性や医学における工学の応用の重要性の増大により、工学と医学の知識を応用した医用生体工学が生まれた。
システム生物学のような新たな科学の分野は、システムのモデリングやコンピュータを利用した解析など工学で使われてきた解析手法を採用して、生命を理解しようとするものである。
工学と芸術の間にも関連がある。建築、造園、インダストリアルデザインといった分野はまさに工学と芸術の直接交わる部分である(大学では工学系の学部にも芸術系の学部にも関連する学科が存在する)。他にも間接的に関連する分野がある。
シカゴ美術館は、NASAの航空宇宙関連のデザインについての展覧会を開催したことがある。ロベール・マイヤールの設計した橋は芸術的と評されている。南フロリダ大学ではアメリカ国立科学財団の支援を受けて、工学部に芸術と工学を組み合わせた学科を開設した。
レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期の芸術家兼技術者として有名である。
政治学に「工学」という言葉を導入した社会工学や政治工学は、工学の方法論や政治学の知識を利用し、政治構造や社会構造の形成を研究する。
工学の一覧を参照
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"text": "工学(こうがく、英: engineering)またはエンジニアリングとは、基礎科学である数学・化学・物理学などを工業生産に応用する学問。「真理の探究」を目指す基礎科学と「実用」を目指す工学の違いは絶対的ではなく、例えば電子工学や農業、薬品生産などがあると『日本大百科全書』は述べている。これらの分野では、基礎科学・基礎研究の成果が応用科学・研究開発の中へと直接組み込まれている。",
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"text": "日本の国立8大学の工学部を中心とした文書、「工学における教育プログラムに関する検討委員会」(1998年)では次の通り定義されている。",
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"text": "『世界大百科事典』では、工学は「エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般」とされている。工学が対象とする領域は広く、様々な工学分野に専門分化している。",
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"text": "工学博士の仙石正和は電子情報通信学会で、国際世界の教育研究における「工学」は次の意味だと述べている。",
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"text": "工学は大半の分野で理学(数学・物理学・化学等)を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「自然界(の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追求する点である。或いは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、人間・社会で利用されること、という合目的性を追求する点である、とも言える。",
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"text": "したがって工学では安全性、経済性、運用・保守性といった、実用上の観点の価値判断が重要である。使用できる時間・人員・予算等といった資源の制約の中、工学的目的を達成するための技術的な検討とその評価を工学的妥当性と言い、工学的な性質の分析には、環境適合性、使いやすさ、整備のしやすさ (Maintainability)、生涯費用(ライフサイクルコスト)など、(質量、速度などのある意味、即物的で一意的に測定できる性質とは違った、人間がある配慮のもとに構成した) <<評価方法>> が必要なものが多い。そうした評価方法の開発も工学の重要な分野とされる。",
"title": "概要"
},
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"text": "また公共の福祉に対する配慮も必要であり、工学各分野の学会(電気学会、土木学会など)では倫理的な内容を盛り込んだ信条規定(Creed)が定められている。 工学には、他の学問の成果を社会に還元するための技術の開発という面もあるが、近年はそれに加えて、その技術の適用にあたっての長所、短所の調査(アセスメント)、調査結果とともに調査過程の資料を公表説明すること(アカウンタビリティ)が求められるようになってきている。",
"title": "概要"
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{
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"text": "現代の我々が用いている意味での \"engineering\" という用法・概念は18世紀になって生まれたものであるが、その概念に合致するような営みは、実際には古代から行われていたとも考えられている。(→#歴史)",
"title": "概要"
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"text": "工学を実践する者を「エンジニア engineer」あるいは「技術者」と呼ぶ。日本では技術者の公式な資格の一つに技術士がある。",
"title": "概要"
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"text": "工学という用語や概念自体は歴史的に見れば比較的新しいものであるが、現代の「工学」という概念で照らしつつ人類の歴史を遡って眺めてみれば、それに相当するものは実際上は古代から存在していたと言うこともできる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "\"engineering\" という言葉・概念は比較的新しいもので、先に \"engineer\"(技術者)という言葉が存在していた。1325年ごろ文献に現れたときには「軍用兵器の製作者」を意味していた。当時、\"engine\" には「戦争に使われる機械仕掛け」(例えばカタパルト)すなわち「兵器」という意味があった。\"engine\" の語源は1250年ごろラテン語の ingenium からできた語で、ingenium は「先天的な特性、特に知能」を意味し、そこから派生して「賢い発明品」を意味した。なお、\"engineer\" は \"engine\" に接尾辞 \"-eer\" がついた形で「機関の操作者」という意味、といったような説明がたいへんしばしば見られるが、(少なくともそれが現在の意味における「機関」(engine)ではなく)誤り(異分析)であり、英語版Wiktionaryのengineerの記事でも「Sometimes erroneously linked with engine + -eer. 」としている。",
"title": "歴史"
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"text": "後に民間の橋や建築物の建設技法が工学分野として円熟してくると、\"civil engineering\" (日本語にあえてすれば土木工学)と呼ばれるようになった。これは \"engine\" が元々「兵器」を意味していたことから、軍事とは無関係の分野であることを示すために \"civil\"(市民)とつけたものである。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "つまり、古くは \"engineering\" という語は military engineering 軍事技術だけを意味していたことがある。だが、18世紀以降は \"civil engineering\"(=軍事以外の技術)が発展し、それ以来 \"engineering\" という言葉は、エネルギーや資源を利用しつつ便宜を得る技術一般を指すようになったのである。",
"title": "歴史"
},
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"text": "近代的な「工学」と概念は上記のような経緯で形成されたわけであるが、そうした近代的な「工学」に合致するものを人類の歴史を遡ってあらためて探してみると、すでに古代にもそれは見つかる。古代の人々が滑車や梃子や車輪といった基本的機構を発明したころから存在していたことになる。基本的な機械的(物理的)原理を利用して便利な道具やモノを作るという意味で、これらの発明も工学の現代的定義に合致しているのである。",
"title": "歴史"
},
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"text": "アレクサンドリアの大灯台、エジプトのピラミッド、バビロンの空中庭園、ギリシャのアクロポリスとパルテノン神殿、古代ローマのローマ水道やローマ街道やコロッセオ、マヤ文明・インカ帝国・アステカのテオティワカンなどの都市やピラミッド、万里の長城などは、古代の工学の精巧さと技能を示している。",
"title": "歴史"
},
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"text": "最古の名の知られている土木技術者としてイムホテプがいる。エジプトのファラオであるジェセル王に仕え、紀元前2630年から2611年ごろサッカラでジェセル王のピラミッド(階段ピラミッド)の設計と建設の監督をしたと見られている。",
"title": "歴史"
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"text": "古代ギリシアでは、民間用と軍事用の両方の分野で機械が開発された。アンティキティラ島の機械は、既知の世界最古のアナログコンピュータといわれており、アルキメデスの発明した機械は初期の機械工学の一例である。それらの機械には差動装置または遊星歯車機構の知識を必要とし、その2つの機械理論の重要な原理が産業革命でのギアトレーン設計を助け、今でもロボット工学や自動車工学といった様々な分野で広く使われている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "紀元前4世紀ごろのギリシアで投石機が開発され、中国、ギリシア、ローマでは三段櫂船、バリスタ、カタパルトといった複雑な機械式兵器が使われていた。中世にはトレビュシェットが開発されている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "ウィリアム・ギルバートは、1600年に De Magnete を著し、\"electricity\"(電気)という言葉も史上初めて使ったということで電気工学の祖とされている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "機械工学の分野では、トーマス・セイヴァリが1698年に世界初の蒸気機関を作った。蒸気機関の開発が産業革命をもたらし、大量生産の時代が始まった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "18世紀には工学を専門とする専門職が確立し、工学は数学や科学を応用する分野のみを指すようになっていった。同時にそれまで軍事と民間の工学とされていた分野に、それまで単なる技能とみなされていた機械製作も工学分野の一つとされるようになった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "電気工学の発端は1800年代のアレッサンドロ・ボルタの実験であり、その後マイケル・ファラデーやゲオルク・オームといった先駆者の実験を経て1872年に電動機が発明された。19世紀後半にはジェームズ・クラーク・マクスウェルとハインリヒ・ヘルツの成果によって電子工学の分野が始まった。その後の真空管やトランジスタの発明によって電子工学の発展が加速され、今では工学の中でも特に技術者の多い領域となっている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "トーマス・セイヴァリとジェームズ・ワットの発明によって機械工学の発展が促された。産業革命期に各種機械やその修理や保守のための道具が発達し、イギリスからさらに海外へと広まっていった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "化学工学も産業革命期の19世紀に機械工学と共に発展した。大量生産は新素材や新製法を必要とし、化学物質の大量生産の必要性から1880年ごろまでに新たな産業として確立された。化学工学はそういった化学工場や製法の設計を担っている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "航空工学は航空機の設計を扱う分野で、航空宇宙工学はそれを宇宙船の設計にまで広げた比較的新しい学問分野である。その起源は19世紀から20世紀にかけての航空機の先駆的開発にあるが、最近では18世紀末のジョージ・ケイリーの業績が起源とされている。初期の航空機は他の工学分野の概念や技法を取り入れつつ、大部分は経験主義的に発展していった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "ライト兄弟が初飛行に成功してわずか10年後には航空工学が大いに発展し、第一次世界大戦には軍用航空機が開発されるまでになった。一方で、理論物理学と実験を結合することで科学的な基礎付けをする研究が行われていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "工学の博士号を最初に取得した人物は、イェール大学のウィラード・ギブズで、1863年のことである。これは自然科学分野でもアメリカ合衆国で2人目の博士号である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "コンピュータが工学に果たす役割は大きくなっている。工学についてコンピュータが支援を行う各種ソフトウェアが存在する。数理モデルの構築や、それに基づいた数値解析もコンピュータを使用してなされている。",
"title": "コンピュータの利用"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "例えばCADソフトウェアは3次元モデルや2次元の設計図の作成を容易にする。CADを応用したデジタルモックアップ (DMU) や有限要素法などを使ったCAEソフトウェアを使えば、時間とコストのかかる物理的なプロトタイプを作らなくともモデルを作成して解析を行うことができる。",
"title": "コンピュータの利用"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "コンピュータを利用することで、製品や部品の欠点を調べたり、部品同士のかみ合わせを調べたり、人間工学的な面を研究したり、圧力・温度・電磁波・電流と電圧・デジタル論理レベル・流体の流れ・動きなどシステムの静的および動的特性を解析できる。これらの情報を総合的に関するソフトウェアとして製品情報管理がある。",
"title": "コンピュータの利用"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "特定の工学分野のためのソフトウェアもある。例えば、CAMソフトウェアはCNC機械に与える命令列を生成する。生産工程を管理するソフトウェアとして工程管理システム (MPM) がある。EDAは半導体集積回路やプリント基板や電子回路の設計を支援する。間接材調達を管理するMRO (Maintenance, Repair and Operations) ソフトウェアなどもある。",
"title": "コンピュータの利用"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "近年では、製品開発に関わるソフトウェアの集合体として製品ライフサイクル管理 (PLM) ソフトウェアが使われている。",
"title": "コンピュータの利用"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "工学は本質的に社会や人間の行動に左右される。現代の製品や建設は必ず工学設計の影響を受けている。工学設計は環境・社会・経済に変化を及ぼす強力なツールであり、その応用には大きな責任が伴う。多くの工学系の学会は行動規約や倫理規約を制定し、会員や社会にそれを周知させようとしている。",
"title": "社会的状況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "工学プロジェクトの中には論争となっているものもある。例えば、核兵器開発、三峡ダム建設、SUVの設計と使用、重油抽出などである。これに対して、企業の社会的責任について厳しい方針を設定している工学企業もある。",
"title": "社会的状況"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "工学は人間開発の重要な駆動力の1つである。アフリカのサハラ砂漠周辺の工学的キャパシティは非常に低く、そのためアフリカ諸国の多くは独力で重要なインフラストラクチャを開発することができないでいる。ミレニアム開発目標の多くを達成するには、インフラストラクチャの開発と持続可能な技術的開発ができるだけの十分な工学的キャパシティを必要とする。",
"title": "社会的状況"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "海外での開発や災害救助を行うNGOは技術者を多数抱えている。次のようないくつかの慈善団体が人類のために工学を役立てることを目指している。",
"title": "社会的状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "Fung らは古典的な工学教科書 Foundations of Solid Mechanics の改訂版の中で、次のように書いている。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "工学は科学と全く異なる。科学者は自然を理解しようとする。技術者は自然界に存在しないものを作ろうとする。技術者は発明を強調する。発明を具現化するには、アイデアを具体化し、人々が使える形で設計しなければならない。それは装置、道具、材質、技法、コンピュータプログラム、革新的な実験、問題の新たな解決策、既存の何かの改良である。設計は具体的でなければならず、形や寸法や数値が設定されていなければならない。新しい設計にとりかかると、技術者は必要な情報が全て揃っているわけではないことに気づく。多くの場合、科学知識の不足によって情報が制限される。そこで技術者は数学や物理学や化学や生物学や力学を勉強する。そうして工学における必要性から関連する科学に知識を追加することも多い。こうしてengineering sciences(理工学) が生まれた。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "科学的手法と工学的手法にはオーバーラップする部分がある。工学的手法は、科学的手法と、科学的に厳密には解明されていないが過去の同様の事例から確からしいと思われる経験則を組み合わせたものである。しかし、いずれの手法もその基本は現象などの正確な観察である。観察結果を分析し伝達するため、どちらも数学や分類基準を使う。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "Walter Vincenti は著書 What Engineers Know and How They Know It において、工学の研究は科学の研究とは違う性質を持っているとしている。工学は物理学や化学が基本的によく理解している分野を扱うが、問題自体は正確な方法で解くには複雑すぎる。例えば、航空機における空気力学的流れをナビエ-ストークス方程式の数値近似で表したり、材料の疲労損傷の計算にマイナー則を使ったりする。また、工学では半ば経験則的な手法もよく採用している。科学では考えられない特徴であり、例えばパラメータ変化法がある。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "「歴史的に見ると工学は理学と相互に影響しながら発達してきたと言える。例えば、蒸気機関の効率についての研究から熱についての認識が深まっていった。熱についての理学的な研究が進められることによって冷却も可能になったと言える。」とも言う。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "目的や方向性は異なるが、医学と工学の一部の分野の共通部分として人体の研究がある。医学においては、必要ならテクノロジーを使ってでも人体の機能を維持・強化し、場合によっては人体の一部を代替することも目指すことがある。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "現代医学は既に一部の臓器の機能を人工のものと置換することを可能にしており、心臓ペースメーカーなどがよく使われている。医用生体工学は生体への人工物の埋め込みを専門とする領域である。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "逆に人体を生物学的機械として研究対象とする工学分野もあり、テクノロジーによってその機能をエミュレートすることを専門とする。それは例えば、人工知能、ニューラルネットワーク、ファジィ論理、ロボットなどである。工学と医学の学際的な領域もある。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "医学も工学も実世界における問題解決を目的としている。そのためには、現象をより厳密かつ科学的に理解する必要があり、実験や経験的知識が必須となっている。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "医学はその一部として人体の機能も研究する。人体を生体機械と捉えた場合、工学的手法でモデル化できる多数の機能を持っている。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "例えば心臓はポンプによく似た機能を有し、骨格はてこを繋げたような構造をしていると理解することも可能である。また脳は電気信号を発している。このような類似性や医学における工学の応用の重要性の増大により、工学と医学の知識を応用した医用生体工学が生まれた。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "システム生物学のような新たな科学の分野は、システムのモデリングやコンピュータを利用した解析など工学で使われてきた解析手法を採用して、生命を理解しようとするものである。",
"title": "他の学問分野との関係"
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"text": "工学と芸術の間にも関連がある。建築、造園、インダストリアルデザインといった分野はまさに工学と芸術の直接交わる部分である(大学では工学系の学部にも芸術系の学部にも関連する学科が存在する)。他にも間接的に関連する分野がある。",
"title": "他の学問分野との関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "シカゴ美術館は、NASAの航空宇宙関連のデザインについての展覧会を開催したことがある。ロベール・マイヤールの設計した橋は芸術的と評されている。南フロリダ大学ではアメリカ国立科学財団の支援を受けて、工学部に芸術と工学を組み合わせた学科を開設した。",
"title": "他の学問分野との関係"
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"text": "レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期の芸術家兼技術者として有名である。",
"title": "他の学問分野との関係"
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"text": "政治学に「工学」という言葉を導入した社会工学や政治工学は、工学の方法論や政治学の知識を利用し、政治構造や社会構造の形成を研究する。",
"title": "他の学問分野との関係"
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"text": "工学の一覧を参照",
"title": "工学の分野一覧"
}
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工学またはエンジニアリングとは、基礎科学である数学・化学・物理学などを工業生産に応用する学問。「真理の探究」を目指す基礎科学と「実用」を目指す工学の違いは絶対的ではなく、例えば電子工学や農業、薬品生産などがあると『日本大百科全書』は述べている。これらの分野では、基礎科学・基礎研究の成果が応用科学・研究開発の中へと直接組み込まれている。 日本の国立8大学の工学部を中心とした文書、「工学における教育プログラムに関する検討委員会」(1998年)では次の通り定義されている。 『世界大百科事典』では、工学は「エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般」とされている。工学が対象とする領域は広く、様々な工学分野に専門分化している。
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'''工学'''(こうがく、{{lang-en-short|engineering}})または'''[[エンジニアリング]]'''とは、[[基礎科学]]である[[数学]]・[[化学]]・[[物理学]]などを[[工業]]生産に応用する[[学問]]{{Sfn|北原|2010|p=2033}}{{Sfn|仙石|2017|p=435}}{{Sfn|松村|2021|p=「工学」}}。「[[真理]]の[[探究]]」を目指す基礎科学と「[[実用]]」を目指す工学の違いは絶対的ではなく{{Sfn|髙山|2021|p=「基礎科学」}}、例えば[[電子工学]]や[[生命工学#医療|薬品生産]]などがあると『[[日本大百科全書]]』は述べている{{Sfn|髙山|2021|p=「基礎科学」}}{{Efn|{{Cquote|基礎科学…実用上の目的から独立し、真理の探究そのものが目的とされる。…しかし現実には基礎科学と応用科学の区別は絶対的なものではない。たとえば電子工学や薬の生産などでは、基礎研究の成果が密接に開発研究と結び付いている。そうした科学に直接基礎を置くいくつかの技術においては、基礎科学の成果は直接、応用科学の体系に組み込まれる。{{Sfn|髙山|2021|p=「基礎科学」}}}}}}。これらの分野では、基礎科学・[[基礎研究]]の成果が[[応用科学]]・[[研究開発]]の中へと直接組み込まれている{{Sfn|髙山|2021|p=「基礎科学」}}。{{See also|理工学|医工学}}[[国立大学#日本の国立大学|日本の国立8大学]]の[[工学部]]を中心とした文書、「工学における教育プログラムに関する検討委員会」(1998年)では次の通り定義されている<ref name="engineer-education">「[http://www.eng.hokudai.ac.jp/jeep/08-10/pdf/pamph01.pdf 8大学工学部を中心とした 工学における教育プログラムに関する検討]」([[PDFファイル]]) 工学における教育プログラムに関する検討委員会、1998年5月8日。</ref>。
{{Cquote|「工学とは[[数学]]と[[自然科学]]を基礎とし、ときには[[人文科学|人文]][[社会科学]]の[[知識|知見]]を用いて、公共の[[安全]]、[[健康]]、[[福祉]]のために有用な事物や快適な[[環境]]を構築することを[[目的]]とする[[学問]]である。」<ref name="engineer-education" />
}}
『[[世界大百科事典]]』では、工学は「[[エネルギー]]や[[自然]]の利用を通じて便宜を得る[[技術]]一般」とされている<ref name="w_pedi">[https://kotobank.jp/word/%E5%B7%A5%E5%AD%A6-61583#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 平凡社『世界大百科事典』第2版【工学】]</ref>。<!--{{要出典|範囲=[[ブリコラージュ]]を含む、現実に問題を解決する方法の体系|date=2021年4月}}。--><!--*{{要出典範囲|[[科学]]、特に[[自然科学]]の知見を利用して、人間の利益となるような[[技術]]を開発したり、製品・製法などを発明したりするための事柄を研究する学問の総称である。|date=2011-8}}--><!--第二義とほぼ同義。-->工学が対象とする領域は広く、様々な[[工学分野]]に専門分化している。{{詳細記事|工学の一覧}}
== 概要 ==
[[ファイル:Windmills D1-D4 - Thornton Bank.jpg|200px|thumb|<!--沖合いにある-->[[風力発電|風力発電所]]([[風力原動機#風力発電機|風力発電機]]群)。
<br/>
風力発電所ひとつをとっても「[[再生可能エネルギー]]を用いて[[電力]]を供給する」という実用的な[[目的]]の実現の為に、装置群を設計し、製造し、適切な場所に設置し、適切に運用する必要があり、そのためには[[エネルギー問題]]に関する知識、[[環境学|環境問題に関する知識]]、[[流体力学|流体に関する知識]]、[[機械工学|機械に関する知識]]、[[材料工学|材料に関する知識]]、[[電気工学|電気的な知識]]、[[制御工学|制御装置などの知識]]、[[経済学|経済性に関する知識]]、[[気象学]]的な知識や地域・場所ごとに全く異なる[[風]]量に関する具体的なデータ、用地確保や海洋上での設置に関わる[[法律]]的な知識、騒音規制に関する法的知識や自治体ごとの[[条例]]の調査、風車ブレードに衝突してくることがある[[動物行動学|鳥の習性に関する知識]] 等々、様々な分野の[[知識]]を結集する必要があり、また事前に[[アセスメント]]を行い、発注者や設置地域住民等々に対して[[アカウンタビリティ]]を果たす必要があり、現代の工学問題の実例となっている。]]
工学博士の[[仙石正和]]は[[電子情報通信学会]]で、国際世界の教育研究における「工学」は次の意味だと述べている{{Sfn|仙石|2017|p=435}}。
{{Quotation|「工学(Engineering):[[数学]],[[自然科学]]の知識を用いて,[[健康]]と[[安全]]を守り,[[文化]]的,[[社会]]的及び[[環境]]的な考慮を行い,[[人類]]のために(for the benefit of humanity),[[設計]],[[開発]],[[イノベーション]]または解決を行う活動.」{{Sfn|仙石|2017|p=435}}
}}
工学は大半の分野で[[理学]]([[数学]]・[[物理学]]・[[化学]]等)を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「[[自然界]](の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の[[理解]]を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追求する点である<ref group="注釈">Fung らの ''Foundations of Solid Mechanics'' の改訂版(古典的な工学教科書)に沿った解説。詳細は[[#科学]]にて説明。</ref>。或いは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、[[人間]]・[[社会]]で利用されること、という[[合目的性]]を追求する点である、とも言える。
したがって工学では[[安全性]]、[[経済性]]、[[運用性|運用]]・[[保守性]]といった、[[実用]]上の観点の価値判断が重要である。使用できる[[時間]]・[[人員]]・[[お金|予算]]等といった[[資源]]の制約の中、工学的目的を達成するための技術的な検討とその評価を'''工学的妥当性'''と言い、工学的な性質の分析には、[[環境適合性]]、[[ユーザビリティ|使いやすさ]]、整備のしやすさ ([[:en:Maintainability|Maintainability]])、生涯費用([[ライフサイクルコスト]])など、(質量、速度などのある意味、即物的で一意的に測定できる性質とは違った、人間がある配慮のもとに構成した) <<評価方法>> が必要なものが多い。そうした'''評価方法'''の開発も工学の重要な分野とされる。
また'''[[公共の福祉]]'''に対する配慮も必要であり、工学各分野の学会([[電気学会]]、[[土木学会]]など)では[[倫理]]的な内容を盛り込んだ信条規定([[:en:Creed|Creed]])が定められている。
工学には、他の[[学問]]の成果を[[社会]]に[[還元]]するための[[技術]]の[[開発]]という面もあるが、近年はそれに加えて、その技術の適用にあたっての[[長所]]、[[短所]]の[[調査]]('''[[アセスメント]]''')、調査結果とともに調査過程の資料を公表説明すること('''[[アカウンタビリティ]]''')が求められるようになってきている。
現代の我々が用いている意味での "engineering" という用法・概念は18世紀になって生まれたものであるが、その概念に合致するような営みは、実際には古代から行われていたとも考えられている。(→[[#歴史]])
工学を実践する者を「エンジニア engineer」あるいは「[[技術者]]」と呼ぶ。日本では技術者の公式な資格の一つに[[技術士]]がある。
== 歴史 ==
工学という用語や概念自体は歴史的に見れば比較的新しいものであるが、現代の「工学」という概念で照らしつつ人類の歴史を遡って眺めてみれば、それに相当するものは実際上は古代から存在していたと言うこともできる。
"engineering" という言葉・概念は比較的新しいもので、先に "engineer"(技術者)という言葉が存在していた。[[1325年]]ごろ文献に現れたときには「軍用[[兵器]]の製作者」を意味していた<ref>[[オックスフォード英語辞典|Oxford English Dictionary]]</ref>。当時、"engine" には「''戦争に使われる機械仕掛け''」(例えば[[カタパルト (投石機)|カタパルト]])すなわち「兵器」という意味があった。"engine" の[[語源]]は[[1250年]]ごろ[[ラテン語]]の ''ingenium'' からできた語で、''ingenium'' は「''先天的な特性、特に知能''」を意味し、そこから派生して「''賢い発明品''」を意味した<ref>Origin: 1250–1300; ME engin < AF, OF < L ingenium nature, innate quality, esp. mental power, hence a clever invention, equiv. to in- + -genium, equiv. to gen- begetting; Source: Random House Unabridged Dictionary, Random House, Inc. 2006.</ref>。'''なお、"engineer" は "engine" に接尾辞 "-eer" がついた形で「機関の操作者」という意味、といったような説明がたいへんしばしば見られるが、(少なくともそれが現在の意味における「機関」(engine)ではなく)誤り([[異分析]])であり、英語版Wiktionaryのengineerの記事でも「Sometimes erroneously linked with engine + -eer. 」としている<ref>https://en.wiktionary.org/wiki/engineer</ref>。'''
後に民間の橋や建築物の建設技法が工学分野として円熟してくると、"civil engineering"<ref name="ECPD Definition on Britannica">[http://www.britannica.com/eb/article-9105842/engineering Engineers' Council for Professional Development definition on Encyclopaedia Britannica] (Includes Britannica article on Engineering)</ref> (日本語にあえてすれば[[土木工学]])と呼ばれるようになった。これは "engine" が元々「兵器」を意味していたことから、軍事とは無関係の分野であることを示すために "civil"(市民)とつけたものである。
つまり、古くは "engineering" という語は military engineering [[軍事技術]]だけを意味していたことがある<ref name="w_pedi" />。だが、[[18世紀]]以降は "civil engineering"(=軍事以外の技術)が発展し、それ以来 "engineering" という言葉は、エネルギーや資源を利用しつつ便宜を得る技術一般<ref name="w_pedi" />を指すようになったのである。
近代的な「工学」と概念は上記のような経緯で形成されたわけであるが、そうした近代的な「工学」に合致するものを人類の[[歴史]]を遡ってあらためて探してみると、すでに[[古代]]にもそれは見つかる。古代の人々が[[滑車]]や[[梃子]]や[[車輪]]といった基本的機構を発明したころから存在していたことになる。基本的な機械的(物理的)原理を利用して便利な道具やモノを作るという意味で、これらの発明も工学の現代的定義に合致しているのである。
=== 古代 ===
[[アレクサンドリアの大灯台]]、[[エジプト]]の[[エジプトのピラミッド|ピラミッド]]、[[バビロンの空中庭園]]、[[ギリシャ]]の[[アクロポリス]]と[[パルテノン神殿]]、[[古代ローマ]]の[[ローマ水道]]や[[ローマ街道]]や[[コロッセオ]]、[[マヤ文明]]・[[インカ帝国]]・[[アステカ]]の[[テオティワカン]]などの都市やピラミッド、[[万里の長城]]などは、古代の工学の精巧さと技能を示している。
最古の名の知られている土木技術者として[[イムホテプ]]がいる<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。エジプトの[[ファラオ]]である[[ジョセル|ジェセル]]王に仕え、[[紀元前27世紀|紀元前2630年から2611年]]ごろ[[サッカラ]]で[[ジェゼル王のピラミッド|ジェセル王のピラミッド]]([[階段ピラミッド]])の設計と建設の監督をしたと見られている<ref name="Barry">Barry J. Kemp, ''Ancient Egypt'', Routledge 2005, p. 159</ref>。
[[古代ギリシア]]では、民間用と軍事用の両方の分野で機械が開発された。[[アンティキティラ島の機械]]は、既知の世界最古の[[アナログコンピュータ]]といわれており<ref>"[http://www.antikythera-mechanism.gr/ The Antikythera Mechanism Research Project]", The Antikythera Mechanism Research Project. Retrieved 2007-07-01 Quote: "The Antikythera Mechanism is now understood to be dedicated to astronomical phenomena and operates as a complex mechanical "computer" which tracks the cycles of the Solar System."</ref><ref>Wilford, John. (July 31, 2008). [http://www.nytimes.com/2008/07/31/science/31computer.html?hp Discovering How Greeks Computed in 100 B.C.]. [[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]].</ref>、[[アルキメデス]]の発明した機械は初期の[[機械工学]]の一例である。それらの機械には[[差動装置]]または[[遊星歯車機構]]の知識を必要とし、その2つの機械理論の重要な原理が[[産業革命]]での[[ギアトレーン]]設計を助け、今でも[[ロボット工学]]や[[自動車工学]]といった様々な分野で広く使われている<ref>{{cite journal | author = Wright, M T. | year = 2005 | title = Epicyclic Gearing and the Antikythera Mechanism, part 2 | journal = Antiquarian Horology | volume = 29 | issue = 1 (September 2005) | pages = 54–60 }}</ref>。
紀元前4世紀ごろのギリシアで[[投石機]]が開発され<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/244231/ancient-Greece/261062/Military-technology Britannica on Greek civilization in the 5th century Military technology] Quote: "The 7th century, by contrast, had witnessed rapid innovations, such as the introduction of the hoplite and the trireme, which still were the basic instruments of war in the 5th." and "But it was the development of artillery that opened an epoch, and this invention did not predate the 4th century. It was first heard of in the context of Sicilian warfare against Carthage in the time of Dionysius I of Syracuse."</ref>、中国、ギリシア、ローマでは[[三段櫂船]]、[[バリスタ (兵器)|バリスタ]]、[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]といった複雑な機械式兵器が使われていた。中世には[[トレビュシェット]]が開発されている。
=== ルネサンス期 ===
[[ファイル:Leonardo self.jpg|thumb|right|240px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]](1452 - 1519)の自画像。[[ルネサンス]]期の人物。芸術家兼工学者の典型<ref name="Bjerklie, David"/>。国王や貴族たちに対し、[[兵器]]製造に関する技術や(国王の偉大さを示すための)[[銅像|彫像]]の制作技術を身につけていることを売り込みつつ、彼らの庇護を得て、様々な活動を行った。[[建築物]]の設計、(当時の "写真" とも言える)[[絵画]]技法の探求、[[人体解剖学|人体解剖]]を行い、[[ヘリコプター]]の構想まで行った。<!--(なお[[人相占い]]の研究でも知られている。)-->]]
[[ウィリアム・ギルバート (物理学者)|ウィリアム・ギルバート]]は、1600年に ''[[:en:De Magnete|De Magnete]]'' を著し、"electricity"([[電気]])という言葉も史上初めて使ったということで[[電気工学]]の祖とされている<ref>[[:en:Merriam-Webster|Merriam-Webster]] Collegiate Dictionary, 2000, CD-ROM, version 2.5.</ref>。
[[機械工学]]の分野では、[[トーマス・セイヴァリ]]が[[1698年]]に世界初の[[蒸気機関]]を作った<ref name=jenkins>{{cite book | last = Jenkins | first = Rhys | authorlink = | coauthors = | title = Links in the History of Engineering and Technology from Tudor Times | publisher = Ayer Publishing | year = 1936 | location = | pages = 66 | url = | doi = | id = | isbn = 0836921674}}</ref>。蒸気機関の開発が[[産業革命]]をもたらし、[[大量生産]]の時代が始まった。
18世紀には工学を専門とする[[専門職]]が確立し、工学は数学や科学を応用する分野のみを指すようになっていった。同時にそれまで軍事と民間の工学とされていた分野に、それまで単なる技能とみなされていた機械製作も工学分野の一つとされるようになった。
=== 近現代 ===
[[ファイル:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|350px|[[産業革命]]で大きな役目を果たした[[ジェームズ・ワット|ワット]]の[[蒸気機関]]は工学の重要性を示す歴史上の例である。]]
[[電気工学]]の発端は[[1800年代]]の[[アレッサンドロ・ボルタ]]の実験であり、その後[[マイケル・ファラデー]]や[[ゲオルク・オーム]]といった先駆者の実験を経て[[1872年]]に[[電動機]]が発明された。19世紀後半には[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]と[[ハインリヒ・ヘルツ]]の成果によって[[電子工学]]の分野が始まった。その後の[[真空管]]や[[トランジスタ]]の発明によって電子工学の発展が加速され、今では工学の中でも特に技術者の多い領域となっている<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。
[[トーマス・セイヴァリ]]と[[ジェームズ・ワット]]の発明によって[[機械工学]]の発展が促された。産業革命期に各種機械やその修理や保守のための道具が発達し、イギリスからさらに海外へと広まっていった<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。
[[化学工学]]も[[産業革命]]期の19世紀に機械工学と共に発展した<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。大量生産は新素材や新製法を必要とし、化学物質の大量生産の必要性から1880年ごろまでに新たな産業として確立された<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。化学工学はそういった化学工場や製法の設計を担っている<ref name="ECPD Definition on Britannica"/>。
[[航空工学]]は[[航空機]]の設計を扱う分野で、[[航空宇宙工学]]はそれを[[宇宙船]]の設計にまで広げた比較的新しい学問分野である<ref name="Imperial">[http://www3.imperial.ac.uk/engineering/teaching/studying Imperial College]: ''Studying engineering at Imperial: Engineering courses are offered in five main branches of engineering: aeronautical, chemical, civil, electrical and mechanical. There are also courses in computing science, software engineering, information systems engineering, materials science and engineering, mining engineering and petroleum engineering.''</ref>。その起源は19世紀から20世紀にかけての航空機の先駆的開発にあるが、最近では18世紀末の[[ジョージ・ケイリー]]の業績が起源とされている。初期の航空機は他の工学分野の概念や技法を取り入れつつ、大部分は経験主義的に発展していった<ref name="americana">{{cite encyclopedia | author = Van Every, Kermit E. | encyclopedia = Encyclopedia Americana | title = Aeronautical engineering | edition = | year = 1986 | publisher = Grolier Incorporated | volume =1 | pages = 226 }}</ref>。
[[ライト兄弟]]が初飛行に成功してわずか10年後には航空工学が大いに発展し、[[第一次世界大戦]]には軍用航空機が開発されるまでになった。一方で、[[理論物理学]]と実験を結合することで科学的な基礎付けをする研究が行われていった。
工学の[[博士号]]を最初に取得した人物は、[[イェール大学]]の[[ウィラード・ギブズ]]で、[[1863年]]のことである。これは自然科学分野でもアメリカ合衆国で2人目の博士号である<ref>{{cite book | last = Wheeler | first = Lynde, Phelps | title = Josiah Willard Gibbs — the History of a Great Mind | publisher = Ox Bow Press | year = 1951 | isbn = 1-881987-11-6}}</ref>。
== コンピュータの利用 ==
[[ファイル:CFD Shuttle.jpg|thumb|left|225px|[[スペースシャトル]]の大気圏再突入の際の高速な空気の流れのコンピュータ・[[シミュレーション]]]]
[[コンピュータ]]が工学に果たす役割は大きくなっている。工学についてコンピュータが支援を行う各種ソフトウェアが存在する。[[数理モデル]]の構築や、それに基づいた[[数値解析]]もコンピュータを使用してなされている。
例えば[[CAD]]ソフトウェアは3次元モデルや2次元の設計図の作成を容易にする。CADを応用した[[デジタルモックアップ]] (DMU) や[[有限要素法]]などを使った[[CAE]]ソフトウェアを使えば、時間とコストのかかる物理的な[[プロトタイプ]]を作らなくともモデルを作成して解析を行うことができる。
コンピュータを利用することで、製品や部品の欠点を調べたり、部品同士のかみ合わせを調べたり、[[人間工学]]的な面を研究したり、圧力・温度・電磁波・電流と電圧・デジタル論理レベル・流体の流れ・動きなどシステムの静的および動的特性を解析できる。これらの情報を総合的に関するソフトウェアとして[[製品情報管理]]がある<ref>{{cite web | last = Arbe | first = Katrina | title = PDM: Not Just for the Big Boys Anymore | publisher = ThomasNet | date = 2001.05.07 | url = http://news.thomasnet.com/IMT/archives/2001/05/pdm_not_just_fo.html |accessdate=2010-09-08}}</ref>。
特定の工学分野のためのソフトウェアもある。例えば、[[CAM]]ソフトウェアは[[CNC]]機械に与える命令列を生成する。生産工程を管理するソフトウェアとして[[工程管理システム]] (MPM) がある。[[EDA (半導体)|EDA]]は半導体[[集積回路]]や[[プリント基板]]や電子回路の設計を支援する。間接材調達を管理するMRO (Maintenance, Repair and Operations) ソフトウェアなどもある。
近年では、製品開発に関わるソフトウェアの集合体として[[製品ライフサイクル管理]] (PLM) ソフトウェアが使われている<ref>{{cite web | last = Arbe | first = Katrina | title = The Latest Chapter in CAD Software Evaluation | publisher = ThomasNet | date = 2003.05.22 | url = http://news.thomasnet.com/IMT/archives/2003/05/the_latest_chap.html |accessdate=2010-09-08}}</ref>。
== 社会的状況 ==
工学は本質的に社会や人間の行動に左右される。現代の製品や建設は必ず工学設計の影響を受けている。工学設計は環境・社会・経済に変化を及ぼす強力なツールであり、その応用には大きな責任が伴う。多くの工学系の学会は行動規約や[[倫理]]規約を制定し、会員や社会にそれを周知させようとしている。
工学プロジェクトの中には論争となっているものもある。例えば、[[核兵器]]開発、[[三峡ダム]]建設、SUVの設計と使用、[[重油]]抽出などである。これに対して、[[企業の社会的責任]]について厳しい方針を設定している工学企業もある。
工学は人間開発の重要な駆動力の1つである<ref>[http://www.undp.or.jp/hdr/ 人間開発とは] 国連開発計画 (UNDP) 東京事務所</ref>。アフリカのサハラ砂漠周辺の工学的キャパシティは非常に低く、そのためアフリカ諸国の多くは独力で重要なインフラストラクチャを開発することができないでいる。[[ミレニアム開発目標]]の多くを達成するには、インフラストラクチャの開発と持続可能な技術的開発ができるだけの十分な工学的キャパシティを必要とする<ref name="MDG">[http://www.sistech.co.uk/media/ICEBrunelLecture2006.pdf?Docu_id=1420&faculty=14 Engineering Civilisation from the Shadows] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061006054029/http://www.sistech.co.uk/media/ICEBrunelLecture2006.pdf?Docu_id=1420&faculty=14 |date=2006年10月6日 }}</ref>。
海外での開発や災害救助を行う[[非政府組織|NGO]]は技術者を多数抱えている。次のようないくつかの慈善団体が人類のために工学を役立てることを目指している。
* 国境なき技師団 ([[:en:Engineers Without Borders|Engineers Without Borders]])
* [[:en:Engineers Against Poverty|Engineers Against Poverty]] (EAP)
* Registered Engineers for Disaster Relief (RedR)
* [[:en:Engineers for a Sustainable World|Engineers for a Sustainable World]] (ESW)
== 他の学問分野との関係 ==
=== 科学 ===
{{quote|科学者はあるがままの世界を[[研究]]し、技術者は見たこともない世界を[[創造]]する。|[[セオドア・フォン・カルマン]]}}
[[ファイル:Dampfturbine Montage01.jpg|thumb|right|225px|現代の[[タービン]]。タービンが自然界にそのままあったわけではない。自然界に存在しなかったものを創造したわけである。また、その創造のために、様々な自然科学的な[[理論]]を大いに活用するが、実際に用いるのはそうした純理論だけではない。[[経験則]]も用いたおかげで、こうしたタービンも実現しているのである。]]
Fung らは古典的な工学教科書 ''Foundations of Solid Mechanics'' の改訂版の中で、次のように書いている。
<blockquote>工学は科学と全く異なる。科学者は[[自然]]を[[理解]]しようとする。技術者は自然界に存在しないものを作ろうとする。技術者は[[発明]]を強調する。発明を具現化するには、[[アイデア]]を具体化し、人々が使える形で設計しなければならない。それは装置、道具、材質、技法、コンピュータプログラム、革新的な実験、問題の新たな解決策、既存の何かの改良である。設計は具体的でなければならず、形や寸法や数値が設定されていなければならない。新しい設計にとりかかると、技術者は必要な[[情報]]が全て揃っているわけではないことに気づく。多くの場合、科学知識の不足によって情報が制限される。そこで技術者は数学や物理学や化学や生物学や力学を勉強する。そうして工学における必要性から関連する科学に知識を追加することも多い。こうしてengineering sciences([[理工学]]) が生まれた。<ref name="Fung">{{cite book|title=Classical and Computational Solid Mechanics, YC Fung and P. Tong|publisher=World Scientific|year=2001}}</ref></blockquote>
[[科学的手法]]と工学的手法にはオーバーラップする部分がある。工学的手法は、科学的手法と、科学的に厳密には解明されていないが過去の同様の事例から確からしいと思われる[[経験則]]を組み合わせたものである。しかし、いずれの手法もその基本は現象などの正確な観察である。観察結果を[[分析]]し伝達するため、どちらも[[数学]]や分類基準を使う。
Walter Vincenti は著書 ''What Engineers Know and How They Know It''<ref name="vincenti">{{cite book|last=Vincenti|first=Walter G. |title=What Engineers Know and How They Know It: Analytical Studies from Aeronautical History|publisher=Johns Hopkins University Press|year=1993}}</ref> において、工学の研究は科学の研究とは違う性質を持っているとしている。工学は[[物理学]]や[[化学]]が基本的によく理解している分野を扱うが、問題自体は[[複雑性|正確な方法で解くには複雑すぎる]]。例えば、航空機における空気力学的流れを[[ナビエ-ストークス方程式]]の数値[[近似]]で表したり、材料の[[疲労 (材料)|疲労]]損傷の計算に[[マイナー則]]を使ったりする。また、工学では半ば[[経験則]]的な手法もよく採用している。科学では考えられない特徴であり、例えば[[パラメータ変化法]]がある。
「{{要出典範囲|歴史的に見ると工学は[[自然科学|理学]]と相互に影響しながら発達してきたと言える。例えば、[[蒸気]]機関の効率についての研究から[[熱]]についての認識が深まっていった。熱についての理学的な研究が進められることによって冷却も可能になったと言える。|date=2011-8}}」とも言う{{誰|date=2011-8}}{{いつ|date=2011-8}}。
=== 医学と生物学 ===
目的や方向性は異なるが、[[医学]]と工学の一部の分野の共通部分として[[人体]]の研究がある。[[医学]]においては、必要なら[[テクノロジー]]を使ってでも[[人体]]の機能を維持・強化し、場合によっては人体の一部を代替することも目指すことがある。
現代医学は既に一部の臓器の機能を人工のものと置換することを可能にしており、[[心臓ペースメーカー]]などがよく使われている<ref name="Boston U">[http://www.bu.edu/wcp/Papers/Bioe/BioeMcGe.htm Ethical Assessment of Implantable Brain Chips. Ellen M. McGee and G. Q. Maguire, Jr. from Boston University]</ref><ref name="IEEE foreign parts">[http://ieeexplore.ieee.org/Xplore/login.jsp?url=/iel5/2188/27125/01204814.pdf?arnumber=1204814 IEEE technical paper: Foreign parts (electronic body implants).by Evans-Pughe, C. quote from summary: Feeling threatened by cyborgs?]</ref>。[[医用生体工学]]は生体への人工物の埋め込みを専門とする領域である。
逆に人体を生物学的機械として研究対象とする工学分野もあり、テクノロジーによってその機能を[[エミュレーション|エミュレート]]することを専門とする。それは例えば、[[人工知能]]、[[ニューラルネットワーク]]、[[ファジィ論理]]、[[ロボット]]などである。工学と医学の学際的な領域もある<ref name="IME">[http://www.uphs.upenn.edu/ime/mission.html Institute of Medicine and Engineering: Mission statement The mission of the Institute for Medicine and Engineering (IME) is to stimulate fundamental research at the interface between biomedicine and engineering/physical/computational sciences leading to innovative applications in biomedical research and clinical practice.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070317145554/http://www.uphs.upenn.edu/ime/mission.html |date=2007年3月17日 }}</ref><ref name="IEEE">[http://ieeexplore.ieee.org/xpl/RecentIssue.jsp?punumber=51 IEEE Engineering in Medicine and Biology: Both general and technical articles on current technologies and methods used in biomedical and clinical engineering...]</ref>。
医学も工学も実世界における問題解決を目的としている。そのためには、現象をより厳密かつ科学的に理解する必要があり、実験や[[経験]]的知識が必須となっている。
医学はその一部として人体の機能も研究する。[[機械論|人体を生体機械と捉えた場合]]、工学的手法で[[モデリング|モデル化]]できる多数の機能を持っている<ref name="Royal Academy">[http://www.acmedsci.ac.uk/images/pressRelease/1170256174.pdf Royal Academy of Engineering and Academy of Medical Sciences: Systems Biology: a vision for engineering and medicine in pdf: quote1: Systems Biology is an emerging methodology that has yet to be defined quote2: It applies the concepts of systems engineering to the study of complex biological systems through iteration between computational and/or mathematical modelling and experimentation.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070410011033/http://www.acmedsci.ac.uk/images/pressRelease/1170256174.pdf |date=2007年4月10日 }}</ref>。
例えば[[心臓]]は[[ポンプ]]によく似た機能を有し<ref name="Science Museum of Minnesota">[http://www.smm.org/heart/lessons/lesson5a.htm Science Museum of Minnesota: Online Lesson 5a; The heart as a pump]</ref>、[[骨格]]は[[てこ]]を繋げたような構造をしている<ref name="Minnesota State University emuseum">[http://www.mnsu.edu/emuseum/biology/humananatomy/skeletal/skeletalsystem.html Minnesota State University emuseum: Bones act as levers] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081220001131/http://www.mnsu.edu/emuseum/biology/humananatomy/skeletal/skeletalsystem.html |date=2008年12月20日 }}</ref>と理解することも可能である。また[[脳]]は[[信号 (電気工学)|電気信号]]を発している<ref name="UC Berkeley News">[http://www.berkeley.edu/news/media/releases/2005/02/23_brainwaves.shtml UC Berkeley News: UC researchers create model of brain's electrical storm during a seizure]</ref>。このような類似性や医学における工学の応用の重要性の増大により、工学と医学の知識を応用した[[医用生体工学]]が生まれた。
[[システム生物学]]のような新たな科学の分野は、システムのモデリングやコンピュータを利用した解析など工学で使われてきた解析手法を採用して、[[生命]]を理解しようとするものである<ref name="Royal Academy"/>。
=== 芸術 ===
[[ファイル:Booster-Layout.jpg|thumb|200px|right|[[蒸気機関車]]の設計図。工学を[[デザイン]]に適用することで、機能が強調され、数学と科学がデザインに生かされる。]]
工学と[[芸術]]の間にも関連がある<ref name="Lehigh University project">[http://www3.lehigh.edu/News/news_story.asp?iNewsID=1781&strBack=%2Fcampushome%2FDefault.asp Lehigh University project: We wanted to use this project to demonstrate the relationship between art and architecture and engineering]</ref>。[[建築]]、[[造園]]、[[インダストリアルデザイン]]といった分野はまさに工学と芸術の直接交わる部分である(大学では工学系の学部にも芸術系の学部にも関連する学科が存在する)。他にも間接的に関連する分野がある<ref name="Lehigh University project"/><ref name="National Science Foundation:The Art of Engineering">[http://www.nsf.gov/news/news_summ.jsp?cntn_id=107990&org=NSF National Science Foundation:The Art of Engineering: Professor uses the fine arts to broaden students' engineering perspectives]</ref><ref name="MIT World:The Art of Engineering">[http://mitworld.mit.edu/video/362/ MIT World:The Art of Engineering: Inventor James Dyson on the Art of Engineering: quote: A member of the British Design Council, James Dyson has been designing products since graduating from the Royal College of Art in 1970.] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060705232213/http://mitworld.mit.edu/video/362/ |date=2006年7月5日 }}</ref><ref name="University of Texas at Dallas">[http://iiae.utdallas.edu/ University of Texas at Dallas: The Institute for Interactive Arts and Engineering]</ref>。
[[シカゴ美術館]]は、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の航空宇宙関連のデザインについての展覧会を開催したことがある<ref name="NASA">[http://www.artic.edu/aic/exhibitions/nasa/overview.html Aerospace Design: The Art of Engineering from NASA’s Aeronautical Research]</ref>。[[ロベール・マイヤール]]の設計した橋は芸術的と評されている<ref name="Princeton U">[http://press.princeton.edu/titles/137.html Princeton U: Robert Maillart's Bridges: The Art of Engineering: quote: no doubt that Maillart was fully conscious of the aesthetic implications...]</ref>。[[南フロリダ大学]]では[[アメリカ国立科学財団]]の支援を受けて、工学部に芸術と工学を組み合わせた学科を開設した<ref name="National Science Foundation:The Art of Engineering"/><ref name="Chief engineer">[http://www.chiefengineer.org/content/content_display.cfm/seqnumber_content/2697.htm quote:..the tools of artists and the perspective of engineers..] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070927180822/http://www.chiefengineer.org/content/content_display.cfm/seqnumber_content/2697.htm |date=2007年9月27日 }}</ref>。
[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は[[ルネサンス]]期の芸術家兼技術者として有名である<ref name="Bjerklie, David">Bjerklie, David. “The Art of Renaissance Engineering.” MIT’s Technology Review Jan./Feb.1998: 54-9. Article explores the concept of the “artist-engineer”, an individual who used his artistic talent in engineering. Quote from article: Da Vinci reached the pinnacle of “artist-engineer”-dom, Quote2: “It was Leonardo da Vinci who initiated the most ambitious expansion in the role of artist-engineer, progressing from astute observer to inventor to theoretician.” (Bjerklie 58)</ref>。
=== その他 ===
[[政治学]]に「工学」という言葉を導入した[[社会工学]]や[[政治工学]]は、工学の方法論や政治学の知識を利用し、政治構造や社会構造の形成を研究する。
== 工学の分野一覧 ==
[[工学の一覧]]を参照
<!--=== あ行 ===
[[安全工学]]--[[遺伝子工学]]--[[医用生体工学]]--[[宇宙工学]]--[[衛星工学]]--[[衛生工学]]--[[エネルギー工学]]--[[エネルギー変換工学]]--[[光エレクトロニクス|オプトエレクトロニクス]]--[[音響]]工学--[[汚水処理]]工学--[[工業化学|応用化学]]--[[応用磁気学]]--[[応用微生物学]]--[[応用物理学]]--[[応用]][[地盤]]学--[[応用地質学]]-
=== か行 ===
[[海岸工学]]--[[海洋工学]]--[[化学工学]]--[[岩盤工学]]--[[河川工学]]--[[環境工学]]--[[環境電磁工学]]--[[画像]]工学--[[機械工学]]--[[技術]][[哲学]]--[[技術]][[史学]]--[[基礎工学]]--[[教育工学]]--[[金属工学]]--[[金融工学]]--[[空気調和工学]]--[[橋梁]]工学--[[空港]]工学--[[軍事工学]]--[[経営工学]]--[[経営システム工学]]--[[芸術工学]]--[[計算機工学]]--[[計算機支援工学]]--[[計測工学]]--[[建設工学]]--[[建築]][[構造]]工学--[[建築環境工学]]--[[建築設備工学]]--[[環境都市工学]]--[[下水道工学]]--[[研削工学]]--[[原子力工学]]--[[鉱山工学]]--[[工業化学]]--[[工業計測]]学--[[工業薬学]]--[[航空工学]]--[[交通工学]]--[[港湾工学]]--[[高温工学]]--[[交換工学]]--[[光工学]]--[[高電圧工学]]--[[高分子工学]]--[[コンクリート工学]]-[[協調工学]]--[[計数工学]]-
=== さ行 ===
[[材料工学]]--[[砂防工学]]--[[水工学]]--[[水質工学]]--[[水産学|水産工学]]--[[資源工学]]--[[森林工学]]--[[システム工学]]--[[上下水道工学]]--[[土質力学|地盤工学(土質力学)]]--[[食品工学]]--[[土木工学|社会基盤工学(土木工学)]]--[[社会工学]]--[[自動車工学]]--[[醸造工学]]--[[情報技術]]--[[情報工学]]--[[照明工学]]--[[振動工学]]--[[信頼性工学]]--[[水道工学]]--[[数理工学]]--[[制御工学]]--[[生産工学]]--[[生産システム工学]]--[[設計]]工学(デザイン設計)--[[精密工学]]--[[精密機械]]工学--[[施工]]学--[[生物工学]]--[[船舶工学]]--[[送電工学]]--[[創薬学|創薬学(創薬工学)]]--[[ソフトウェア工学]]--[[歯科理工学]]
=== た行 ===
[[耐震工学]]--[[炭素化工学]]--[[磁気工学]]--[[知識工学]]--[[知識情報工学]]--[[通信工学]]--[[通信トラフィック工学]]--[[通信伝送工学]]--[[通信ネットワーク工学]]--[[低温工学]]-[[デジタル制御工学]]--[[鉄道工学]]--[[テレビジョン工学]]--[[電気計測工学]]--[[電気工学]]--[[電子管工学]]--[[電子工学]]--[[電磁波工学]]--[[伝送工学]]--[[伝熱工学]]--[[電波工学]]--[[電力工学]]--[[電力発生工学]]--[[道路工学]]--[[道路交通工学]] --[[都市工学]]--[[都市環境工学]]--[[都市交通工学]]--[[土質力学|土質工学(土質力学)]]--[[土木工学]]--[[砥粒加工学]]--[[デザイン経営工学]]
=== な行 ===
[[乳業工学]]--[[人間工学]]--[[農業工学]]--[[熱工学]]--[[燃焼工学]]-
=== は行 ===
[[反応工学]]--[[配電工学]]--[[発酵工学]]--[[発電工学]]--[[パワーエレクトロニクス]]--[[半導体工学]]--[[光エレクトロニクス]]--[[品質工学]]--[[福祉工学]]--[[物質工学]]--[[物性工学]]--[[プラスチック形成加工学]]--[[プロセス工学]]--[[粉体工学]]--[[変電工学]]--[[舗装]]工学
=== ま行 ===
[[マイクロ波工学]]--[[無線工学]]--[[無機材料工学]]--[[メカトロニクス]]-
=== や行 ===
[[冶金工学]]--[[有機材料工学]]--[[溶接工学]]-
=== ら行 ===
[[流通工学]]--[[流体力学]]--[[冷凍工学]]--[[ロジスティクス工学]]--[[ロボット工学]]
=== わ行 ===
=== A-Z ===
*[[フォルトツリー解析|FTA]]
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book
|和書
|last = 北原
|first = 保雄
|authorlink = 北原保雄
|year = 2010
|title = 明鏡国語辞典
|edition = 第二版
|publisher = [[大修館書店]]
|isbn = 978-4469021172
|ref = harv
}}
*{{Cite journal
|和書
|last = 仙石
|first = 正和
|authorlink = 仙石正和
|title = 基礎研究を続ける大切さ(創立100周年記念特集「基礎・境界」が支えた100 年, これからの100年 ―― 未来 100 年を担うあなたへ贈る言葉)
|date = 2017
|publisher = 電子情報通信学会
|journal = 電子情報通信学会誌(The journal of the Institute of Electronics, Information and Communication Engineers)
|volume = 100
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|pages = 431-439
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* {{Cite book
| 和書
| last = 髙山
| first = 進
| authorlink = 髙山進
| title = 日本大百科全書(ニッポニカ)
| chapter = 基礎科学
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}}
* {{Cite book
| 和書
| last = 松村
| first = 明
| authorlink = 松村明
| title = デジタル大辞泉
| chapter = 工学
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| publisher = Kotobank
| year = 2021
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| ref = harv
}}
* {{cite book |editor=Dorf, Richard |others= |title=The Engineering Handbook |edition=2 |year=2005 |publisher=CRC |location=Boca Raton |isbn=0849315867}}
* {{cite book |last=Billington |first=David P. |title=The Innovators: The Engineering Pioneers Who Made America Modern |date=1996-06-05 |publisher=Wiley; New Ed edition |isbn=0-471-14026-0}}
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* {{cite book |last=Petroski |first=Henry |authorlink= |title=The Evolution of Useful Things: How Everyday Artifacts-From Forks and Pins to Paper Clips and Zippers-Came to be as They are |date=1994-02-01 |publisher=Vintage |isbn=0-679-74039-2}}
* {{cite book |last=Lord |first=Charles R. |title=Guide to Information Sources in Engineering |date=2000-08-15 |publisher=Libraries Unlimited |isbn=1-563-08699-9 |doi=10.1336/1563086999}}
* {{cite book |last=Vincenti |first=Walter G. |title=What Engineers Know and How They Know It: Analytical Studies from Aeronautical History |date=1993-02-01 |publisher=The Johns Hopkins University Press |isbn=0-80184588-2}}
* {{cite book |last=Hill |first=Donald R. |title=The Book of Knowledge of Ingenious Mechanical Devices: Kitáb fí ma'rifat al-hiyal al-handasiyya |origyear=1206 |date=1973-12-31 |publisher=Pakistan Hijara Council |isbn=969-8016-25-2}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|工学}}
* [[工学の一覧]]
* [[科学]]
* [[物理学]]
* [[技術]]
* [[技能]]
* [[工学部]]
* [[デザイン]]
* [[耐震]]
* [[インダストリアルデザイン]]
* [[オープンソースハードウェア]]
* [[リバースエンジニアリング]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nae.edu/ National Academy of Engineering (NAE)]{{en icon}}
* [http://www.asee.org/ American Society for Engineering Education (ASEE)]{{en icon}}
* [http://www.loc.gov/rr/scitech/SciRefGuides/eng-history.html ''Engineering in History'' bibliography]{{en icon}} - The US Library of Congress
* [http://www.ices.cmu.edu ICES: Institute for Complex Engineered Systems, Carnegie Mellon University, Pittsburgh, PA]{{en icon}}
* [http://www.tc.umn.edu/~tmisa/biblios/hist_engineering.html History of engineering bibliography]{{en icon}} - [[ミネソタ大学ツインシティー校|University of Minnesota]]
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[[Category:工学|*]]
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10,809 |
ダングリングボンド
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ダングリングボンド(英: dangling bond)は、原子における未結合手のこと。半導体結晶に於いては、結晶の表面や格子欠陥付近では、原子は共有結合の相手を失って、結合に関与しない電子(不対電子)で占められた結合手が存在する。この手をダングリングボンドと呼ぶ。
ダングリングボンド上の電子は不安定なため化学的に活性となり、特に結晶表面の物性には重要な役割を果たす。
シリコン(ダイヤモンド構造)の(001)理想表面の表面第一層のシリコン原子は2個のダングリングボンドを持ち、そのままでは非常に不安定になっている。実際のシリコン表面はダングリングボンドを減らすためにダイマー化した構造を形成する(→表面再構成)。このようにダングリングボンドが存在する表面では、ダングリングボンドを減らす(なくす)ために再構成(リコンストラクション)などの構造の変化が起こる。
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ダングリングボンドは、原子における未結合手のこと。半導体結晶に於いては、結晶の表面や格子欠陥付近では、原子は共有結合の相手を失って、結合に関与しない電子(不対電子)で占められた結合手が存在する。この手をダングリングボンドと呼ぶ。 ダングリングボンド上の電子は不安定なため化学的に活性となり、特に結晶表面の物性には重要な役割を果たす。
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{{出典の明記| date = 2023年4月}}
'''ダングリングボンド'''({{lang-en-short|dangling bond}})は、原子における未結合手のこと。[[半導体]]結晶に於いては、結晶の[[表面]]や[[格子欠陥]]付近では、[[原子]]は[[共有結合]]の相手を失って、結合に関与しない電子([[不対電子]])で占められた結合手が存在する。この手を'''ダングリングボンド'''と呼ぶ。
ダングリングボンド上の電子は不安定なため化学的に活性となり、特に結晶表面の物性には重要な役割を果たす。
== 例 ==
[[シリコン]](ダイヤモンド構造)の(001)理想表面の表面第一層のシリコン原子は2個のダングリングボンドを持ち、そのままでは非常に不安定になっている。実際のシリコン表面はダングリングボンドを減らすために[[ダイマー]]化した構造を形成する(→[[表面再構成]])。このようにダングリングボンドが存在する表面では、ダングリングボンドを減らす(なくす)ために再構成(リコンストラクション)などの構造の変化が起こる。
== 関連項目 ==
* [[半導体]]-[[アモルファス半導体]]
* [[物性物理学]]
[[category:半導体|たんくりんくほんと]]
[[category:原子物理学|たんくりんくほんと]]
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10,812 |
冬季オリンピック
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冬季オリンピック(とうきオリンピック、仏:Jeux olympiques d'hiver、英:Winter Olympic Games)は、 日本語の正式名称は「オリンピック冬季競技大会」と言い、近代オリンピック、つまりオリンピズムに基づき行われる平和の祭典であり、4年に1度、冬期に雪上競技と氷上競技(いわゆるウィンタースポーツ)の競技大会が行われる。冬季オリンピックも夏季オリンピックと同様に、あくまで平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。
もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はオリンピアード(Olympiad)と呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、および同年の1992年アルベールビルオリンピック)が、IOC(国際オリンピック委員会)は1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うように変更された。
なお、冬季オリンピックの開催に先駆けて、1908年ロンドンオリンピックではフィギュアスケート、1920年アントワープオリンピックではアイスホッケーとフィギュアスケートが夏季オリンピックで実施された。
第16回までは夏季オリンピックと同年開催。第17回から夏季オリンピックの中間年に開催されるようになった。なお1940年と1944年は第二次世界大戦のため取り止めとなったが、夏季オリンピックと違い開催された大会のみを回次としてカウントする。2022年現在、南半球では一度も開催されていない。(夏季オリンピックは、3度開催された。)
オリンピック冬季大会競技団体連合(AIOWF)に国際競技連盟(IF)が加盟しているスポーツ
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"text": "冬季オリンピック(とうきオリンピック、仏:Jeux olympiques d'hiver、英:Winter Olympic Games)は、 日本語の正式名称は「オリンピック冬季競技大会」と言い、近代オリンピック、つまりオリンピズムに基づき行われる平和の祭典であり、4年に1度、冬期に雪上競技と氷上競技(いわゆるウィンタースポーツ)の競技大会が行われる。冬季オリンピックも夏季オリンピックと同様に、あくまで平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。",
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"text": "もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はオリンピアード(Olympiad)と呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、および同年の1992年アルベールビルオリンピック)が、IOC(国際オリンピック委員会)は1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うように変更された。",
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"text": "なお、冬季オリンピックの開催に先駆けて、1908年ロンドンオリンピックではフィギュアスケート、1920年アントワープオリンピックではアイスホッケーとフィギュアスケートが夏季オリンピックで実施された。",
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"text": "第16回までは夏季オリンピックと同年開催。第17回から夏季オリンピックの中間年に開催されるようになった。なお1940年と1944年は第二次世界大戦のため取り止めとなったが、夏季オリンピックと違い開催された大会のみを回次としてカウントする。2022年現在、南半球では一度も開催されていない。(夏季オリンピックは、3度開催された。)",
"title": "大会一覧"
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"text": "オリンピック冬季大会競技団体連合(AIOWF)に国際競技連盟(IF)が加盟しているスポーツ",
"title": "正式競技"
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冬季オリンピックは、
日本語の正式名称は「オリンピック冬季競技大会」と言い、近代オリンピック、つまりオリンピズムに基づき行われる平和の祭典であり、4年に1度、冬期に雪上競技と氷上競技(いわゆるウィンタースポーツ)の競技大会が行われる。冬季オリンピックも夏季オリンピックと同様に、あくまで平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。 もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はオリンピアード(Olympiad)と呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、および同年の1992年アルベールビルオリンピック)が、IOC(国際オリンピック委員会)は1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うように変更された。 なお、冬季オリンピックの開催に先駆けて、1908年ロンドンオリンピックではフィギュアスケート、1920年アントワープオリンピックではアイスホッケーとフィギュアスケートが夏季オリンピックで実施された。
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{{ウィキプロジェクトリンク|オリンピック}}
[[ファイル:Winter_olympics_all_cities.svg|thumb|300px|冬季五輪の開催国。数字は開催年。{{Bulleted list|緑色の国は1回開催された、もしくは1回開催が決定している国。青色の国は過去に2回以上開催された国(同一都市であるか、その国の別々の都市であるかを問わず)。|●は開催都市(開催予定地を含む)で、黒色は1回、オレンジ色は2回開催された都市。}}]]
'''冬季オリンピック'''(とうきオリンピック、[[フランス語|仏]]:'''Jeux olympiques d'hiver'''、[[英語|英]]:'''Winter Olympic Games''')は、
日本語の正式名称は「'''オリンピック冬季競技大会'''」と言い、[[近代オリンピック]]、つまり[[オリンピズム]]に基づき行われる'''平和の祭典'''であり、4年に1度、冬期に雪上競技と氷上競技(いわゆる[[ウィンタースポーツ]])の競技大会が行われる。冬季オリンピックも夏季オリンピックと同様に、あくまで平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。
もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており<ref name="IOC_FAQ_Since_when">、[https://olympics.com/ioc/faq/history-and-origin-of-the-games/since-when-have-the-summer-and-winter-games-no-longer-been-held-in-the-same-year 国際オリンピック委員会公式ページ、Since when have the Summer and Winter Games no longer been held in the same year?(英語)]</ref>、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)は'''[[オリンピアード]]'''(Olympiad)と呼ばれている<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた([[1992年バルセロナオリンピック|1992年バルセロナ夏季オリンピック]]、および同年の[[1992年アルベールビルオリンピック]])が<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />、[[IOC]]([[国際オリンピック委員会]])は1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、<u>冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行う</u>ように変更された<ref name="IOC_FAQ_Since_when" />。
<!--第1回大会の[[1924年シャモニー・モンブランオリンピック]]から第16回大会の[[1992年アルベールビルオリンピック]]までは、[[夏季オリンピック]]と同年に開催していた。[[1994年リレハンメルオリンピック]]以降は、[[単偶数|4で割れない偶数]]の年(夏季オリンピック開催年の中間となる年、[[FIFAワールドカップ]]、[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ|バスケットボール]]、[[バレーボール世界選手権|バレーボール]]、ハンドボールなどの世界選手権と同年)に開催されるように改正された。-->
なお、冬季オリンピックの開催に先駆けて、[[1908年ロンドンオリンピック]]では[[フィギュアスケート]]、[[1920年アントワープオリンピック]]では[[アイスホッケー]]とフィギュアスケートが夏季オリンピックで実施された。
== 大会一覧 ==
第16回までは夏季オリンピックと同年開催。第17回から夏季オリンピックの中間年に開催されるようになった。なお[[1940年]]と[[1944年]]は[[第二次世界大戦]]のため取り止めとなったが、夏季オリンピックと違い開催された大会のみを回次としてカウントする。2022年現在、南半球では一度も開催されていない。(夏季オリンピックは、3度開催された。)
{{注|※「国」は 参加国・地域数。}}
{| class="wikitable sortable" style="white-space:nowrap;"
! rowspan=2| !! rowspan=2|<small>年</small> !! rowspan=2|開催地 !! rowspan=2|開催大陸/開催国 !! rowspan=2|<small>国</small> !! colspan=3|<small>参加選手数</small><ref>【出典】 [https://web.archive.org/web/20150906110401/http://www.olympic.org/Documents/Reference_documents_Factsheets/The_Olympic_Summer_Games.pdf FACTSHEET THE GAMES OF THE OLYMPIAD (Summer Games)] OCTOBER 2013</ref><ref>【出典】 [https://web.archive.org/web/20151018014846/http://www.olympic.org/Documents/women-participation_graph_en.pdf Development of women's participation in the Games of Olympiads]</ref> !! rowspan=2 class="unsortable"|<small>備考</small> !! rowspan=2|<small>種目</small> !! rowspan=2|<small>主会場<br>(メインスタジアム)</small>
|-
! <small>計</small> !! <small>男</small> !! <small>女</small>
|-
| {{0}}1 || [[1924年|1924]]
| {{flagicon|FRA1794}} [[1924年シャモニー・モンブランオリンピック|シャモニー]]
| 欧州 [[フランス第三共和政|フランス]] || 16 || {{0}}258 || {{0}}247 || {{0}}11 || rowspan=4| || 16 || [[スタッド・オリンピック・シャモニー]]
|-
| {{0}}2 || [[1928年|1928]]
| {{flagicon|SUI}} [[1928年サンモリッツオリンピック|サンモリッツ]] <small>(1)</small>
| 欧州 [[スイス]] || 25 || {{0}}464 || {{0}}438 || {{0}}26 || 14 || [[サンモリッツ・オリンピック・アイスリンク]]
|-
| {{0}}3 || [[1932年|1932]]
| {{flagicon|USA1912}} [[1932年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッド]] <small>(1)</small>
| 北米 [[アメリカ合衆国|アメリカ]] || 17 || {{0}}252 || {{0}}231 || {{0}}21 || 14 || [[レークプラシッド・オリンピック・スケーティング・リンク]]
|-
| {{0}}4 || [[1936年|1936]]
| {{flagicon|DEU1935}} <small>[[1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック|ガルミッシュ=パルテンキルヒェン]]</small>
| 欧州 [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]] || 28 || {{0}}646 || {{0}}566 || {{0}}80 || 17 || [[グロッセ・オリンピアシャンツェ]]
|- style="background-color:#cccccc"
| || [[1940年|1940]]
| {{flagicon|Japan}} [[1940年札幌オリンピック|札幌]]
| アジア [[日本]] || colspan=4| {{Align|center|中止}} || rowspan="2"|<ref group="注" name="ww2">[[第二次世界大戦]]で中止。</ref> || rowspan="2"| || 中止
|- style="background-color:#cccccc"
| || [[1944年|1944]]
| {{None|{{flagicon|CAN}}1}}{{Flagicon|ITA1861}} <small>[[1944年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|コルチナ・ダンペッツオ]]</small>
| 欧州 {{None|イタリア1}}[[イタリア王国]] || colspan=4| {{Align|center|中止}} || 中止
|-
| {{0}}5 || [[1948年|1948]]
| {{flagicon|SUI}} [[1948年サンモリッツオリンピック|サンモリッツ]] <small>(2)</small>
| 欧州 スイス || 28 || {{0}}669 || {{0}}592 || {{0}}77 || rowspan=7| || 22 || サンモリッツ・オリンピック・アイスリンク
|-
| {{0}}6 || [[1952年|1952]]
| {{flagicon|NOR}} [[1952年オスロオリンピック|オスロ]]
| 欧州 [[ノルウェー]] || 30 || {{0}}694 || {{0}}585 || 109 || 22 || [[ビスレット・スタディオン]]
|-
| {{0}}7 || [[1956年|1956]]
| {{None|{{flagicon|CAN}}2}}{{flagicon|ITA}} <small>[[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|コルチナ・ダンペッツオ]] (1)</small>
| 欧州 {{None|イタリア2}}[[イタリア]] || 32 || {{0}}821 || {{0}}687 || 134 || 24 || [[スタディオ・オリンピコ・デル・ギアッチョ]]
|-
| {{0}}8 || [[1960年|1960]]
| {{flagicon|USA1959}} [[1960年スコーバレーオリンピック|スコーバレー]]
| 北米 アメリカ || 30 || {{0}}665 || {{0}}521 || 144 || 27 || [[ブライズ・アリーナ]]
|-
| {{0}}9 || [[1964年|1964]]
| {{None|{{flagicon|USA}}}}{{flagicon|AUT}} [[1964年インスブルックオリンピック|インスブルック]] <small>(1)</small>
| 欧州 [[オーストリア]] || 36 || 1091 || {{0}}892 || 199 || 34 || [[ベルクイーゼル]]
|-
| 10 || [[1968年|1968]]
| {{flagicon|FRA}} [[1968年グルノーブルオリンピック|グルノーブル]]
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|-
| 11 || [[1972年|1972]]
| {{flagicon|JPN1947}} [[1972年札幌オリンピック|札幌]]
| アジア [[日本]] || 35 || 1006 || {{0}}801 || 205 || 35 || [[真駒内屋内競技場]]<br>[[真駒内屋外競技場]]
|-
| 12 || [[1976年|1976]]
| {{None|{{flagicon|USA}}}}{{flagicon|USA}} デンバー →<br>{{flagicon|AUT}} [[1976年インスブルックオリンピック|インスブルック]] <small>(2)</small>
| {{None|欧州 オーストリア}}北米 アメリカ →<br>欧州 オーストリア || 37 || 1123 || {{0}}892 || 231 || <ref group="注">1970年の第69回IOC総会で デンバーに決定したが、地元住民の反対運動が発生し開催返上、1973年2月にインスブルックへ変更された。</ref> || 37 || ベルクイーゼル
|-
| 13 || [[1980年|1980]]
| {{flagicon|USA}} [[1980年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッド]] <small>(2)</small>
| 北米 アメリカ || 37 || 1072 || {{0}}840 || 232 || rowspan=9| || 38 || [[レークプラシッド・エクウェストリアン・スタジアム]]
|-
| 14 || [[1984年|1984]]
| {{flagicon|YUG1945}} [[1984年サラエボオリンピック|サラエボ]]
| 欧州 [[ユーゴスラビア]] || 49 || 1272 || {{0}}998 || 274 || 39 || [[アシム・ヘルハトヴィッチ・ハセ競技場]]
|-
| 15 || [[1988年|1988]]
| {{None|1}}{{flagicon|CAN}} [[1988年カルガリーオリンピック|カルガリー]]
| 北米 [[カナダ]] || 57 || 1423 || 1122 || 301 || 46 || [[マクマーン・スタジアム]]
|-
| 16 || [[1992年|1992]]
| {{flagicon|FRA}} [[1992年アルベールビルオリンピック|アルベールビル]]
| 欧州 フランス || 64 || 1801 || 1313 || 488 || 57 || [[テアトル・デ・セレモニー]]
|-
| 17 || [[1994年|1994]]
| {{flagicon|NOR}} [[1994年リレハンメルオリンピック|リレハンメル]]
| 欧州 ノルウェー || 67 || 1737 || 1215 || 522 || 61 || [[リスゴーズバッケン]]
|-
| 18 || [[1998年|1998]]
| {{flagicon|JPN1947}} [[1998年長野オリンピック|長野]]
| アジア 日本 || 72 || 2176 || 1389 || 787 || 68 ||[[長野オリンピックスタジアム]]
|-
| 19 || [[2002年|2002]]
| {{flagicon|USA}} [[2002年ソルトレークシティオリンピック|ソルトレークシティ]]
| 北米 アメリカ || 78<ref group="注">IOCのサイトでは77。しかし、78という情報もある。[http://www.library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results1.pdf Part 1] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140103193224/https://library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results1.pdf |date=2014年1月3日 }}, [http://www.library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results2.pdf Part 2] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140118121739/https://www.library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results2.pdf |date=2014年1月18日 }}, [http://www.library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results3.pdf Part 3] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140118091703/https://www.library.la84.org/6oic/OfficialReports/2002/SLC2002Results3.pdf |date=2014年1月18日 }} ([[w:Costa Rica at the 2002 Winter Olympics|Costa Rica's delegation of one athlete]] joined the Games after the Opening Ceremony)</ref> || 2399 || 1513 || 886 || 78 ||[[ライス・エクルズ・スタジアム]]
|-
| 20 || [[2006年|2006]]
| {{None|{{flagicon|CAN}}3}}{{flagicon|ITA}} [[2006年トリノオリンピック|トリノ]]
| 欧州 {{None|イタリア3}}イタリア || 80 || 2508 || 1548 || 960 || 84 ||[[スタディオ・オリンピコ・グランデ・トリノ|スタディオ・オリンピコ]]
|-
| 21 || [[2010年|2010]]
| {{None|2}}{{flagicon|CAN}} [[2010年バンクーバーオリンピック|バンクーバー]]
| 北米 カナダ || 82 || 2566 || 1522 || {{None|99}}1044 || 86 ||[[BCプレイス・スタジアム|BCプレイス]]
|-
| 22 || [[2014年|2014]]
| {{flagicon|RUS}} [[2014年ソチオリンピック|ソチ]]
| 欧州 [[ロシア]] || 88 || 2873 || 1714 || {{None|99}}1159 || <ref>[http://live.olympic.ca/Event/Sochi_2014_Canadian_Olympic_Coverage/105068764 Sochi 2014 Canadian Olympic Coverage]</ref> || 98 ||[[フィシュト・オリンピックスタジアム]]
|-
| 23 || [[2018年|2018]]
| {{flagicon|KOR}} [[2018年平昌オリンピック|平昌]]
| アジア [[大韓民国|韓国]] || 92 || 2922 || 1680 || {{None|99}}1212 || rowspan="5" | || 102 ||[[平昌オリンピックスタジアム]]
|-
| 24 || [[2022年|2022]]
| {{flagicon|CHN}} [[2022年北京オリンピック|北京]]
| アジア [[中華人民共和国|中国]] ||91 || 2871 ||1557 || {{None|99}}1314 ||109 || [[北京国家体育場]]
|-
|25
|[[2026年|2026]]
|{{Flagicon|ITA}} [[2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック|ミラノ]]<br/>{{Flagicon|ITA}} <small>[[2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック|コルティナダンペッツォ]] (2)</small>
|欧州 イタリア || rowspan=3 colspan=4|{{Align|center|予定}} || || [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ]]
|-
| 26 || [[2030年|2030]]
| || 未定 || ||
|-
| 27 || [[2034年|2034]]
| || 未定 || ||
|}
== 正式競技 ==
[[オリンピック冬季大会競技団体連合]](AIOWF)に[[国際競技連盟]](IF)が加盟しているスポーツ
* [[オリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]]([[国際バイアスロン連盟]])
* [[オリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]]・[[オリンピックのスケルトン競技|スケルトン]]([[国際ボブスレー・スケルトン連盟]])
* [[オリンピックのカーリング競技|カーリング]]([[世界カーリング連盟]])
* [[オリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]]([[国際アイスホッケー連盟]])
* [[オリンピックのリュージュ競技|リュージュ]]([[国際リュージュ連盟]])
* [[スケート]]([[国際スケート連盟]]、[[オリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]]・[[オリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]]・[[オリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]])
* [[スキー]]([[国際スキー連盟]]、[[オリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]]・[[オリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]]・[[オリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]]・[[オリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]]・[[オリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]]・[[オリンピックのスノーボード競技|スノーボード]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
<references group="注"/>
===出典===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[近代オリンピック]]
* [[国際オリンピック委員会]]
* [[オリンピック招致]]
* [[日本の冬季オリンピック金メダル]]
* [[日本の冬季オリンピック銀メダル]]
* [[日本の冬季オリンピック銅メダル]]
* [[冬季オリンピックの競技一覧]]
* [[冬季オリンピックの熱帯諸国]]
* [[アジア冬季競技大会]]
* [[パラリンピック]]
* [[夏季オリンピック]]
{{オリンピック}}
{{国際オリンピック委員会}}
{{冬季オリンピック開催都市}}
{{オリンピック招致}}
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[[Category:冬季オリンピック|*]]
[[Category:1924年開始のスポーツイベント]]
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10,816 |
品切重版未定
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品切重版未定(しなぎれじゅうはんみてい)とは、出版元や取次店に在庫がなく、また、出版元による重版の予定もないこと。一般的には、ほぼ絶版に近い状態である。
文庫本や新書などに多く見られ、品切重版未定の名の下に事実上の絶版と化している本は多い。ただし、絶版とは異なり発行のために必要なものは温存されているため、もしもその本が映画化やドラマ化などで話題になったり、要望が多い場合は重版できるというメリットがある。
岩波文庫は、1980年代初頭から、「リクエスト復刊」として、年1、2回こうした本を重版している。これは、以前の紙型をそのまま使っている点で、新潮文庫のように、新しく版を起こす(狭義の)復刊とは異なっている。
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|出典の明記=2012年8月28日 (火) 09:22 (UTC)
|独自研究=2015年3月26日 (木) 20:03 (UTC)
|特筆性=2015年3月26日 (木) 20:03 (UTC)
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'''品切重版未定'''(しなぎれじゅうはんみてい)とは、[[版元|出版元]]や[[出版取次|取次店]]に在庫がなく、また、[[出版]]元による[[重版]]の予定もないこと。一般的には、ほぼ[[絶版]]に近い状態である。
文庫本や新書などに多く見られ、品切重版未定の名の下に事実上の絶版と化している本は多い。ただし、絶版とは異なり発行のために必要なものは温存されているため、もしもその本が映画化やドラマ化などで話題になったり、要望が多い場合は重版できるというメリットがある。
[[岩波文庫]]は、1980年代初頭から、「リクエスト復刊」として、年1、2回こうした[[本]]を重版している。これは、以前の[[紙型]]をそのまま使っている点で、[[新潮文庫]]のように、新しく[[版と刷#版|版]]を起こす(狭義の)[[復刊]]とは異なっている。
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10,817 |
ノーザンダンサー
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ノーザンダンサー (Northern Dancer) はカナダの競走馬・種牡馬。1964年にカナダ産馬として初めてケンタッキーダービーを制した。種牡馬としては20世紀で最も成功した一頭であり、その影響は世界中に及んでいる。
カナダの象徴とされ、1965年にはカナダのスポーツ殿堂入りを果たしている。その後、1976年にはカナダとアメリカの両方で競馬の殿堂入りを果たした。ブラッド・ホース誌の20世紀の米国サラブレッド競走馬トップ100にランクインしている。
ノーザンダンサーは2歳のとき、カナダのサマーステークスとコロネーションフューチュリティ、ニューヨークのレムセンステークスを制し、カナダチャンピオン2歳牡馬となった。3歳になると、フラミンゴステークス、フロリダダービー、ブルーグラスステークスを制し、ケンタッキー・ダービーの有力候補となった。ノーザンダンサーは、ケンタッキーダービーで記録的な勝利を収めた後、プリークネスステークスを制した。アメリカ三冠のチャンスがあったが、ベルモントステークスで3着に終わった。その後、カナダに戻ったノーザンダンサーは、最後のレースとなったクイーンズプレートを制した。
ノーザンダンサーは、1965年にカナダのオンタリオ州オシャワにあるウィンドフィールズファームで引退し、種牡馬となった。1968年に最初の産駒が競走馬になるとすぐに成功し、イギリスの三冠馬ニジンスキーを筆頭とする2番目の産駒の成功により、ノーザンダンサーの名は国際的に知られるようになった。ノーザンダンサーはウインドフィールズファームのメリーランド支部に移籍し、当時最も注目された種牡馬となった。
種牡馬としては北米の枠を超えて世界レベルで成功、20世紀中最も成功した一頭である。Thoroughbred Timesの調査ではセントサイモンに次ぐ2位の遺伝的影響力を持つと報告された。
ノーザンダンサーは、1961年にカナダ・オンタリオ州南部のウインドフィールズファームで生まれた。生産者はビール醸造で一時代を築いた富豪で、当時のカナダ最大手のサラブレッド生産者でもあったエドワード・プランケット・テイラーである。
父のニアークティックはテイラーがニューマーケットで行われたセリ市で落札した繁殖牝馬レディアンジェラが受胎していた馬で、ウインドフィールズファームの最高傑作と呼ばれた。母のナタルマは1958年にテイラーがサラトガで行われた2歳馬のセリ市で35,000ドルで購入した牝馬である。1960年春に骨折のため競走馬を引退して繁殖入りし、6月にニアークティックと交配された。
翌年5月27日、ナタルマは鹿毛の牡馬を出産した。テイラーはこの仔馬を高く評価し25,000ドルという高値で売り出したが、遅生まれの上に小柄であったことが災いして買い手が付かず、テイラーが所有することになった(名義はウインドフィールズファーム)。テイラーは、父ニアークティック(新北区)、母の父ネイティヴダンサー(先住民の踊り子)よりノーザンダンサーという名前をこの馬に付けた。ノーザンダンサーはデビューする頃になっても発育が悪く、体高は最高で15.2ハンド(約154.4cm)にしかならなかった。
1963年、ノーザンダンサーはフォートエリー競馬場のメイドン(未勝利戦)で競走馬としてデビューした。初戦を2着馬に7馬身の着差をつけて優勝するなど、同競馬場で3戦2勝の成績を収めた後にウッドバイン競馬場へと転戦、同競馬場でカナダ最大の2歳戦であるコロネーションフューチュリティを6馬身差で圧勝するなど、3戦2勝の成績を残した。その後グリーンウッド競馬場で1勝したノーザンダンサーはアメリカ合衆国へ移動し、ニューヨーク州のアケダクト競馬場で2戦2勝の成績を挙げた。この年の成績は9戦7勝で、カナダの最優秀2歳馬に選出された。なお、最終戦となった11月のレムゼンステークスの前に発見された裂蹄がレース後悪化し、治療と休養のために気候の温暖なフロリダ州へ移送された。
1964年、ノーザンダンサー陣営は戦いの場をアメリカに設定した。2月10日の復帰初戦は敗れたがその後は連勝を重ねフロリダダービー、ブルーグラスステークスなどのプレップレースを優勝。2番人気でアメリカ三冠競走第1戦のケンタッキーダービーに出走。レース半ばで先頭に立つと、1番人気ヒルライズの追撃をクビ差凌いで優勝した。優勝タイムの2分フラットは当時のレースレコードであった。続いて三冠第2戦のプリークネスステークスに出走。ここでも人気は2番人気であったが、2、3番手を進み直線の前で先頭に立つレース運びで2着馬に2馬身1/4の着差をつけ優勝。二冠を達成した。この年のベルモントパーク競馬場は工事中であったため、アメリカ三冠のかかったベルモントステークスはアケダクト競馬場にて行われた。このレースで1番人気に支持されたノーザンダンサーは最後の直線で伸びあぐね、優勝したクァドラングルから6馬身差の3着に敗れた。
ベルモントステークス出走後、ノーザンダンサーはカナダへ凱旋し、クイーンズプレート(カナダにおけるダービーに相当)に出走。2着馬に7馬身半の着差をつけて優勝した。陣営は次の目標をアメリカのトラヴァーズステークスに据えたが、調教中に左前肢に屈腱炎を発症していることが判明し、引退を決断した。この年のノーザンダンサーの成績は9戦7勝で、満票でカナダの年度代表馬に、そしてアメリカでも最優秀3歳牡馬に選出された。
ノーザンダンサーが生まれた1961年は、日本ではシンザン、アメリカではレイズアネイティヴが生まれた年でもある。当時の競馬界はナスルーラ系、セントサイモン系、ハイペリオン系等が勢力を競っていた状態で絶対的な主流は存在せず、ノーザンダンサーの父ニアークティックも主流の一角ネアルコ系の枝の一つにすぎなかった。
引退後ノーザンダンサーは種牡馬となり、4年間ウインドフィールズファームで繋養された。初年度種付料は1万ドルであった。ノーザンダンサーはカナダのみならずアメリカの生産者からも高い人気を集め、1969年にウインドフィールズファームからメリーランド州にある、テイラーがアメリカで出走する所有馬の調教のために作った牧場(ウインドフィールズファームメリーランド支場)へと移動した。
ノーザンダンサーは2年目の産駒から、イギリスクラシック三冠馬となるニジンスキーを送り出し、その後も英愛ダービー優勝馬ザミンストレルなど146頭のステークス競走優勝馬を輩出した。産駒はヨーロッパでの活躍が目立ち、イギリスのリーディングサイアーを4回(1970年、1977年、1983年、1984年)獲得した。アメリカのリーディングサイアーは2度(1971年、1977年)獲得している。さらに産駒の中から種牡馬として成功するものが多く現れると(主要国でリーディングサイアーとなった産駒はサドラーズウェルズを筆頭に9頭。これはセントサイモンの8頭を上回る)、その人気はますます高まった。1970年代後半から続いた種付け料・シンジケート価格・セリ市における2歳馬の取引価格などの高騰の波にも乗り、1984年には2歳産駒のセリ市での落札価格が平均約332万ドルに、1985年には種付け料が公示価格で95万ドル(当時のレートで2億円以上、実際にはこれ以上の価格で取引されたとされる)に達し、ノーザンダンサーバブルと呼べる現象が起こった。絶頂期のノーザンダンサーは「ノーザンダンサーの精液は文字通り金と同じ価値がある」と言われた。日本でもノーザンテーストがリーディングサイアーを10回獲得するなど大きな成功を収め、牡の産駒が種牡馬として次々に輸入された。
ノーザンダンサーは1987年に受胎率が著しく低下したことにより交配シーズン途中で種牡馬を引退し、余生をノーズビュースタリオンステーション(ノーザンダンサーの種牡馬引退後ウインドフィールズファームメリーランドから改称)で過ごした。1990年11月16日早朝、ノーザンダンサーは疝痛を発症して苦しんでいるのが発見され、安楽死の処置がとられた。ノーザンダンサーの遺体はカナダのウインドフィールズファームに埋葬された。1992年7月にはウッドバイン競馬場に銅像が建てられた。
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"text": "ノーザンダンサー (Northern Dancer) はカナダの競走馬・種牡馬。1964年にカナダ産馬として初めてケンタッキーダービーを制した。種牡馬としては20世紀で最も成功した一頭であり、その影響は世界中に及んでいる。",
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"text": "ノーザンダンサーは2歳のとき、カナダのサマーステークスとコロネーションフューチュリティ、ニューヨークのレムセンステークスを制し、カナダチャンピオン2歳牡馬となった。3歳になると、フラミンゴステークス、フロリダダービー、ブルーグラスステークスを制し、ケンタッキー・ダービーの有力候補となった。ノーザンダンサーは、ケンタッキーダービーで記録的な勝利を収めた後、プリークネスステークスを制した。アメリカ三冠のチャンスがあったが、ベルモントステークスで3着に終わった。その後、カナダに戻ったノーザンダンサーは、最後のレースとなったクイーンズプレートを制した。",
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"text": "父のニアークティックはテイラーがニューマーケットで行われたセリ市で落札した繁殖牝馬レディアンジェラが受胎していた馬で、ウインドフィールズファームの最高傑作と呼ばれた。母のナタルマは1958年にテイラーがサラトガで行われた2歳馬のセリ市で35,000ドルで購入した牝馬である。1960年春に骨折のため競走馬を引退して繁殖入りし、6月にニアークティックと交配された。",
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"text": "翌年5月27日、ナタルマは鹿毛の牡馬を出産した。テイラーはこの仔馬を高く評価し25,000ドルという高値で売り出したが、遅生まれの上に小柄であったことが災いして買い手が付かず、テイラーが所有することになった(名義はウインドフィールズファーム)。テイラーは、父ニアークティック(新北区)、母の父ネイティヴダンサー(先住民の踊り子)よりノーザンダンサーという名前をこの馬に付けた。ノーザンダンサーはデビューする頃になっても発育が悪く、体高は最高で15.2ハンド(約154.4cm)にしかならなかった。",
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"text": "1963年、ノーザンダンサーはフォートエリー競馬場のメイドン(未勝利戦)で競走馬としてデビューした。初戦を2着馬に7馬身の着差をつけて優勝するなど、同競馬場で3戦2勝の成績を収めた後にウッドバイン競馬場へと転戦、同競馬場でカナダ最大の2歳戦であるコロネーションフューチュリティを6馬身差で圧勝するなど、3戦2勝の成績を残した。その後グリーンウッド競馬場で1勝したノーザンダンサーはアメリカ合衆国へ移動し、ニューヨーク州のアケダクト競馬場で2戦2勝の成績を挙げた。この年の成績は9戦7勝で、カナダの最優秀2歳馬に選出された。なお、最終戦となった11月のレムゼンステークスの前に発見された裂蹄がレース後悪化し、治療と休養のために気候の温暖なフロリダ州へ移送された。",
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"text": "1964年、ノーザンダンサー陣営は戦いの場をアメリカに設定した。2月10日の復帰初戦は敗れたがその後は連勝を重ねフロリダダービー、ブルーグラスステークスなどのプレップレースを優勝。2番人気でアメリカ三冠競走第1戦のケンタッキーダービーに出走。レース半ばで先頭に立つと、1番人気ヒルライズの追撃をクビ差凌いで優勝した。優勝タイムの2分フラットは当時のレースレコードであった。続いて三冠第2戦のプリークネスステークスに出走。ここでも人気は2番人気であったが、2、3番手を進み直線の前で先頭に立つレース運びで2着馬に2馬身1/4の着差をつけ優勝。二冠を達成した。この年のベルモントパーク競馬場は工事中であったため、アメリカ三冠のかかったベルモントステークスはアケダクト競馬場にて行われた。このレースで1番人気に支持されたノーザンダンサーは最後の直線で伸びあぐね、優勝したクァドラングルから6馬身差の3着に敗れた。",
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"text": "ベルモントステークス出走後、ノーザンダンサーはカナダへ凱旋し、クイーンズプレート(カナダにおけるダービーに相当)に出走。2着馬に7馬身半の着差をつけて優勝した。陣営は次の目標をアメリカのトラヴァーズステークスに据えたが、調教中に左前肢に屈腱炎を発症していることが判明し、引退を決断した。この年のノーザンダンサーの成績は9戦7勝で、満票でカナダの年度代表馬に、そしてアメリカでも最優秀3歳牡馬に選出された。",
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"text": "ノーザンダンサーが生まれた1961年は、日本ではシンザン、アメリカではレイズアネイティヴが生まれた年でもある。当時の競馬界はナスルーラ系、セントサイモン系、ハイペリオン系等が勢力を競っていた状態で絶対的な主流は存在せず、ノーザンダンサーの父ニアークティックも主流の一角ネアルコ系の枝の一つにすぎなかった。",
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"text": "引退後ノーザンダンサーは種牡馬となり、4年間ウインドフィールズファームで繋養された。初年度種付料は1万ドルであった。ノーザンダンサーはカナダのみならずアメリカの生産者からも高い人気を集め、1969年にウインドフィールズファームからメリーランド州にある、テイラーがアメリカで出走する所有馬の調教のために作った牧場(ウインドフィールズファームメリーランド支場)へと移動した。",
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"text": "ノーザンダンサーは2年目の産駒から、イギリスクラシック三冠馬となるニジンスキーを送り出し、その後も英愛ダービー優勝馬ザミンストレルなど146頭のステークス競走優勝馬を輩出した。産駒はヨーロッパでの活躍が目立ち、イギリスのリーディングサイアーを4回(1970年、1977年、1983年、1984年)獲得した。アメリカのリーディングサイアーは2度(1971年、1977年)獲得している。さらに産駒の中から種牡馬として成功するものが多く現れると(主要国でリーディングサイアーとなった産駒はサドラーズウェルズを筆頭に9頭。これはセントサイモンの8頭を上回る)、その人気はますます高まった。1970年代後半から続いた種付け料・シンジケート価格・セリ市における2歳馬の取引価格などの高騰の波にも乗り、1984年には2歳産駒のセリ市での落札価格が平均約332万ドルに、1985年には種付け料が公示価格で95万ドル(当時のレートで2億円以上、実際にはこれ以上の価格で取引されたとされる)に達し、ノーザンダンサーバブルと呼べる現象が起こった。絶頂期のノーザンダンサーは「ノーザンダンサーの精液は文字通り金と同じ価値がある」と言われた。日本でもノーザンテーストがリーディングサイアーを10回獲得するなど大きな成功を収め、牡の産駒が種牡馬として次々に輸入された。",
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"text": "ノーザンダンサーは1987年に受胎率が著しく低下したことにより交配シーズン途中で種牡馬を引退し、余生をノーズビュースタリオンステーション(ノーザンダンサーの種牡馬引退後ウインドフィールズファームメリーランドから改称)で過ごした。1990年11月16日早朝、ノーザンダンサーは疝痛を発症して苦しんでいるのが発見され、安楽死の処置がとられた。ノーザンダンサーの遺体はカナダのウインドフィールズファームに埋葬された。1992年7月にはウッドバイン競馬場に銅像が建てられた。",
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ノーザンダンサー はカナダの競走馬・種牡馬。1964年にカナダ産馬として初めてケンタッキーダービーを制した。種牡馬としては20世紀で最も成功した一頭であり、その影響は世界中に及んでいる。 カナダの象徴とされ、1965年にはカナダのスポーツ殿堂入りを果たしている。その後、1976年にはカナダとアメリカの両方で競馬の殿堂入りを果たした。ブラッド・ホース誌の20世紀の米国サラブレッド競走馬トップ100にランクインしている。 ノーザンダンサーは2歳のとき、カナダのサマーステークスとコロネーションフューチュリティ、ニューヨークのレムセンステークスを制し、カナダチャンピオン2歳牡馬となった。3歳になると、フラミンゴステークス、フロリダダービー、ブルーグラスステークスを制し、ケンタッキー・ダービーの有力候補となった。ノーザンダンサーは、ケンタッキーダービーで記録的な勝利を収めた後、プリークネスステークスを制した。アメリカ三冠のチャンスがあったが、ベルモントステークスで3着に終わった。その後、カナダに戻ったノーザンダンサーは、最後のレースとなったクイーンズプレートを制した。 ノーザンダンサーは、1965年にカナダのオンタリオ州オシャワにあるウィンドフィールズファームで引退し、種牡馬となった。1968年に最初の産駒が競走馬になるとすぐに成功し、イギリスの三冠馬ニジンスキーを筆頭とする2番目の産駒の成功により、ノーザンダンサーの名は国際的に知られるようになった。ノーザンダンサーはウインドフィールズファームのメリーランド支部に移籍し、当時最も注目された種牡馬となった。 種牡馬としては北米の枠を超えて世界レベルで成功、20世紀中最も成功した一頭である。Thoroughbred Timesの調査ではセントサイモンに次ぐ2位の遺伝的影響力を持つと報告された。
|
{{競走馬
|名 = ノーザンダンサー
|画 = [[ファイル:Northerndancer2.jpg|240px]]
|説 =
|性 = [[牡馬|牡]]
|色 = [[鹿毛]]
|英 = {{lang|en|Northern Dancer}}
|種 = [[サラブレッド]]
|生 = [[1961年]][[5月27日]]
|死 = {{死亡年月日と没馬齢|p=0|1961|5|27|1990|11|16}}
|父 = [[ニアークティック|Nearctic]]
|母 = [[ナタルマ|Natalma]]
|母父 = [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]]
|産 = [[エドワード・プランケット・テイラー|Edward P.Taylor]]
|国 = {{CAN1957}}
|主 = [[ウインドフィールズファーム|Windfields Farm]]
|調 = T.Flaming([[カナダ]])<br />→[[ホレイショ・ルロ|Horatio A.Luro]](カナダ→[[アメリカ合衆国|アメリカ]])
|績 = 18戦14勝
|金 = 580,806[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]
}}
'''ノーザンダンサー''' (''{{lang|en|Northern Dancer}}'') は[[カナダ]]の[[競走馬]]・[[種牡馬]]。1964年にカナダ産馬として初めて[[ケンタッキーダービー]]を制した。種牡馬としては20世紀で最も成功した一頭であり、その影響は世界中に及んでいる。
[[カナダ]]の象徴とされ、1965年にはカナダのスポーツ殿堂入りを果たしている。その後、1976年にはカナダとアメリカの両方で競馬の殿堂入りを果たした。[[ブラッド・ホース]]誌の20世紀の[[20世紀のアメリカ名馬100選|米国サラブレッド競走馬トップ100]]にランクインしている。
ノーザンダンサーは2歳のとき、カナダの[[サマーステークス (カナダ)|サマーステークス]]とコロネーションフューチュリティ、ニューヨークのレムセンステークスを制し、カナダチャンピオン2歳牡馬となった。3歳になると、[[フラミンゴステークス]]、[[フロリダダービー]]、[[ブルーグラスステークス]]を制し、ケンタッキー・ダービーの有力候補となった。ノーザンダンサーは、ケンタッキーダービーで記録的な勝利を収めた後、[[プリークネスステークス]]を制した。アメリカ三冠のチャンスがあったが、[[ベルモントステークス]]で3着に終わった。その後、カナダに戻ったノーザンダンサーは、最後のレースとなった[[クイーンズプレート]]を制した。
ノーザンダンサーは、1965年にカナダのオンタリオ州[[オシャワ]]にある[[ウインドフィールズファーム|ウィンドフィールズファーム]]で引退し、種牡馬となった。1968年に最初の産駒が競走馬になるとすぐに成功し、イギリスの[[三冠 (競馬)|三冠]]馬[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]を筆頭とする2番目の産駒の成功により、ノーザンダンサーの名は国際的に知られるようになった。ノーザンダンサーはウインドフィールズファームのメリーランド支部に移籍し、当時最も注目された種牡馬となった。
種牡馬としては北米の枠を超えて世界レベルで成功、20世紀中最も成功した一頭である。Thoroughbred Timesの調査<ref>2008年12月13日紙面</ref>では[[セントサイモン]]に次ぐ2位の遺伝的影響力を持つと報告された。
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
ノーザンダンサーは、[[1961年]]にカナダ・[[オンタリオ州]]南部の[[ウインドフィールズファーム]]で生まれた。生産者は[[ビール]]醸造で一時代を築いた富豪で、当時のカナダ最大手のサラブレッド生産者でもあった[[エドワード・プランケット・テイラー]]である。
父の[[ニアークティック]]はテイラーが[[ニューマーケット競馬場|ニューマーケット]]で行われた[[セリ市 (競馬)|セリ市]]で落札した[[繁殖牝馬]][[レディアンジェラ]]が受胎していた馬で、ウインドフィールズファームの最高傑作と呼ばれた<ref>[[#原田1993|原田1993]]、225頁。</ref>。母の[[ナタルマ]]は[[1958年]]にテイラーがサラトガで行われた2歳馬のセリ市で35,000ドルで購入した牝馬である。1960年春に骨折のため競走馬を引退して繁殖入りし、6月にニアークティックと交配された。
翌年[[5月27日]]、ナタルマは鹿毛の牡馬を出産した。テイラーはこの仔馬を高く評価し25,000ドルという高値で売り出したが、遅生まれの上に小柄であったことが災いして買い手が付かず、テイラーが所有することになった(名義はウインドフィールズファーム)。テイラーは、父ニアークティック([[新北区]])、[[ブルードメアサイアー|母の父]][[ネイティヴダンサー]](先住民の踊り子)よりノーザンダンサーという名前をこの馬に付けた。ノーザンダンサーはデビューする頃になっても発育が悪く、体高は最高で15.2[[ハンド (単位)|ハンド]](約154.4[[センチメートル|cm]])にしかならなかった。
=== 競走馬時代 ===
[[1963年]]、ノーザンダンサーは[[フォートエリー競馬場]]のメイドン([[新馬|未勝利戦]])で競走馬としてデビューした。初戦を2着馬に7馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝するなど、同競馬場で3戦2勝の成績を収めた後に[[ウッドバイン競馬場]]へと転戦、同競馬場でカナダ最大の2歳戦であるコロネーションフューチュリティを6馬身差で圧勝するなど、3戦2勝の成績を残した。その後グリーンウッド競馬場で1勝したノーザンダンサーは[[アメリカ合衆国]]へ移動し、[[ニューヨーク州]]の[[アケダクト競馬場]]で2戦2勝の成績を挙げた。この年の成績は9戦7勝で、カナダの最優秀2歳馬に選出された。なお、最終戦となった11月のレムゼンステークスの前に発見された[[競走馬#脚部の疾病・負傷(故障)|裂蹄]]がレース後悪化し、治療と休養のために気候の温暖な[[フロリダ州]]へ移送された。
[[1964年]]、ノーザンダンサー陣営は戦いの場をアメリカに設定した。[[2月10日]]の復帰初戦は敗れたがその後は連勝を重ね[[フロリダダービー]]、[[ブルーグラスステークス]]などのプレップレースを優勝。2番人気で[[三冠 (競馬)#アメリカ|アメリカ三冠]][[競馬の競走|競走]]第1戦の[[ケンタッキーダービー]]に出走。レース半ばで先頭に立つと、1番人気ヒルライズの追撃をクビ差凌いで優勝した。優勝タイムの2分フラットは当時のレースレコードであった。続いて三冠第2戦の[[プリークネスステークス]]に出走。ここでも人気は2番人気であったが、2、3番手を進み直線の前で先頭に立つレース運びで2着馬に2馬身1/4の着差をつけ優勝。二冠を達成した。この年の[[ベルモントパーク競馬場]]は工事中であったため、アメリカ三冠のかかった[[ベルモントステークス]]は[[アケダクト競馬場]]にて行われた。このレースで1番人気に支持されたノーザンダンサーは最後の直線で伸びあぐね、優勝した[[クァドラングル]]から6馬身差の3着に敗れた。
ベルモントステークス出走後、ノーザンダンサーはカナダへ凱旋し、[[クイーンズプレート]](カナダにおける[[ダービーステークス#各国の「ダービー」|ダービー]]に相当)に出走。2着馬に7馬身半の着差をつけて優勝した。陣営は次の目標をアメリカの[[トラヴァーズステークス]]に据えたが、調教中に左前肢に[[屈腱炎]]を発症していることが判明し、引退を決断した。この年のノーザンダンサーの成績は9戦7勝で、満票でカナダの[[ソヴリン賞|年度代表馬]]に、そしてアメリカでも最優秀3歳牡馬に選出された。
=== 種牡馬時代 ===
ノーザンダンサーが生まれた[[1961年]]は、日本では[[シンザン]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[レイズアネイティヴ]]が生まれた年でもある。当時の競馬界は[[ナスルーラ系]]、[[セントサイモン系]]、[[ハイペリオン系]]等が勢力を競っていた状態で絶対的な主流は存在せず、ノーザンダンサーの父[[ニアークティック]]も主流の一角[[ネアルコ系]]の枝の一つにすぎなかった。
引退後ノーザンダンサーは[[種牡馬]]となり、4年間ウインドフィールズファームで繋養された。初年度種付料は1万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であった。ノーザンダンサーはカナダのみならずアメリカの生産者からも高い人気を集め、[[1969年]]にウインドフィールズファームから[[メリーランド州]]にある、テイラーがアメリカで出走する所有馬の調教のために作った牧場(ウインドフィールズファームメリーランド支場)へと移動した。
ノーザンダンサーは2年目の産駒から、[[イギリスクラシック三冠]]馬となる[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]を送り出し、その後も英愛ダービー優勝馬[[ザミンストレル]]など146頭のステークス競走優勝馬を輩出した。産駒はヨーロッパでの活躍が目立ち、イギリスの[[リーディングサイアー]]を4回([[1970年]]、[[1977年]]、[[1983年]]、[[1984年]])獲得した。アメリカのリーディングサイアーは2度([[1971年]]、[[1977年]])獲得している。さらに産駒の中から種牡馬として成功するものが多く現れると(主要国でリーディングサイアーとなった産駒は[[サドラーズウェルズ]]を筆頭に9頭。これはセントサイモンの8頭を上回る)、その人気はますます高まった。1970年代後半から続いた種付け料・シンジケート価格・セリ市における2歳馬の取引価格などの高騰の波にも乗り、[[1984年]]には2歳産駒のセリ市での落札価格が平均約332万ドルに、[[1985年]]には種付け料が公示価格で95万ドル(当時のレートで2億円以上、実際にはこれ以上の価格で取引されたとされる)に達し、ノーザンダンサーバブルと呼べる現象が起こった。絶頂期のノーザンダンサーは「ノーザンダンサーの精液は文字通り金と同じ価値がある」と言われた<ref name="Sun">{{cite web | url=https://www.baltimoresun.com/sports/horse-racing/bs-xpm-2014-05-14-bs-sp-northern-dancer-20140514-story.html | title=Fifty years later, Northern Dancer's genes still produce winning results | publisher=The Baltimore Sun | author=Mike Klingaman | date=2014/5/14 | accessdate=2020/04/19}}</ref>。日本でも[[ノーザンテースト]]がリーディングサイアーを10回獲得するなど大きな成功を収め、牡の産駒が種牡馬として次々に輸入された。
ノーザンダンサーは[[1987年]]に受胎率が著しく低下したことにより交配シーズン途中で種牡馬を引退し、余生をノーズビュースタリオンステーション(ノーザンダンサーの種牡馬引退後ウインドフィールズファームメリーランドから改称)で過ごした。[[1990年]][[11月16日]]早朝、ノーザンダンサーは[[疝痛]]を発症して苦しんでいるのが発見され、安楽死の処置がとられた。ノーザンダンサーの遺体はカナダのウインドフィールズファームに埋葬された。1992年7月にはウッドバイン競馬場に銅像が建てられた。
== 種牡馬成績 ==
* 1970,1977,1983,1984年イギリス・アイルランド[[リーディングサイアー]]、1971,77年アメリカリーディングサイアー(欧州賞金も加算したブラッドホース統計。ただし、北米集計のみでのサラブレッドデイリータイムズ集計では[[ドクターフェイガー]]が1位であり、[[:en:Leading sire in North America|英語版Wikipedia]]もドクターフェイガーを1位と扱っている)
* 1991年アメリカリーディングブルードメアサイアー
* 産駒数:635頭
* 出走産駒:511頭
* 勝ち上がり:389頭(61%)
* ステークスウイナー:147頭(23%)
=== 主な産駒 ===
{{main|ノーザンダンサー系}}
{| class="wikitable sortable" style="width:90%"
| width="35px" |'''生年年'''
| width="120px" |'''名前'''
| width="35px" |'''性別'''
| width="510px" |'''主な勝利'''
|-
|1966
|Cool Mood
|牝
|[[ウッドバインオークス|カナディアン・オークス]]。[[ウィズアプルーヴァル]]と[[タッチゴールド]]の母の母
|-
|1966
|Dance Act
|騙
|カナダのハンデ戦チャンピオン(1970, 1971) - ジョッキークラブカップ、ドミニオンデイハンデ、フェアプレイステークス、シーグラムカップ
|-
|1966
|One for All
|牡
|カナダの芝馬チャンピオン(1970年) - サンセットハンディキャップ、パンアメリカンハンディキャップ、カナディアンインターナショナル
|-
|1966
|[[:en:Viceregal (horse)|Viceregal]]
|牡
|カナダ年間最優秀馬(1968年) - コロネーション・フューチュリティ、カップ&ソーサー・ステークス、サマー・ステークス
|-
|1967
|[[ファンフルルーシュ]]
|牝
|カナダ年間最優秀馬(1970年) - [[アラバマステークス]]、[[ナタルマステークス]]、バイソン・シティ・ステークス
|-
|1967
|[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]
|牡
|イギリスの年度代表馬(1970年) - イギリス[[三冠 (競馬)|三冠]]、[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、[[アイリッシュダービー]]、[[デューハーストステークス]]、英愛1986年リーディングサイアー
|-
|1968
|Alma North
|牝
|コティリオン・ステークス、マッチメーカー・ハンディキャップ
|-
|1968
|[[:en:Lauries Dancer|Lauries Dancer]]
|牝
|カナダ年間最優秀馬(1971年) - アラバマ・ステークス、デラウェア・オークス、[[ウッドバインオークス|カナディアン・オークス]]、バイソン・シティ・ステークス
|-
|1968
|Minsky
|牡
|アイルランド最優秀2歳馬(1970年) - ベレスフォード・ステークス、レイルウェイ・ステークス
|-
|1969
|[[リファール]]
|牡
|[[ジャック・ル・マロワ賞]]、[[フォレ賞]]、[[フランス|仏]]1978,79、米1986年リーディングサイアー
|-
|1969
|[[ナイスダンサー]]
|牡
|カナダチャンピオン3歳牡馬(1972年) - [[ブリーダーズステークス]]、マニトバダービー
|-
|1971
|[[ノーザンテースト]]
|牡
|[[フォレ賞]]、日1982-92年リーディングサイアー
|-
|1972
|[[:en:Broadway Dancer|Broadway Dancer]]
|牝
|フランス2歳牝馬チャンピオン(1974年)-[[モルニ賞]]
|-
|1972
|Dancers Countess
|牝
|マッチメーカー・ステークス
|-
|1974
|Dance in Time
|牡
|カナダチャンピオン3歳牡馬(1977年) - プリンス・オブ・ウェールズ・ステークス、ブリーダーズ・ステークス
|-
|1974
|Giboulee
|牡
|カナダの古馬チャンピオン(1978年) - ドミニオンデーハンデ、ヴァージルハンデ
|-
|1974
|[[:en:Northernette|Northernette]]
|牝
|カナダの2歳牝馬チャンピオン(1976年)および3歳牝馬チャンピオン(1977年) - マザリンステークス、カナディアンオークス、セレネステークス、[[アップルブロッサムハンデキャップ]]、トップフライトハンディキャップ
|-
|1974
|[[ザミンストレル]]
|牡
|イギリス年間最優秀馬(1977年) - [[ダービーステークス|エプソムダービー]]、アイリッシュダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、デューハーストステークス
|-
|1975
|[[トライマイベスト]]
|牡
|イギリス・アイルランド最優秀2歳馬(デューハースト・ステークス
|-
|1975
|White Star Line
|牝
|[[ケンタッキーオークス]]、デラウェア・オークス、アラバマ・ステークス
|-
|1976
|[[:en:Northern Baby|Northern Baby]]
|牡
|[[チャンピオンステークス]]
|-
|1977
|[[ヌレイエフ]]
|牡
|フランスのチャンピオン・マイラー(1980年) - ジェベル賞。2000ギニーでは1着だったが失格となった。
|-
|1978
|[[ストームバード]]
|牡
|イギリスとアイルランドの2歳馬チャンピオン(1980年) - デューハースト・ステークス、[[ヴィンセントオブライエンステークス|ナショナル・ステークス]]
|-
|1979
|[[:en:Dance Number|Dance Number]]
|牝
|[[ベルデイムステークス]] 、[[リズム (競走馬)|リズム]]の母
|-
|1979
|[[:en:Woodstream|Woodstream]]
|牝
|アイルランドの2歳牝馬チャンピオン(1981年) - [[モイグレアスタッドステークス]]、[[チェヴァリーパークステークス]]
|-
|1980
|[[:en:Danzatore|Danzatore]]
|牡
|アイルランドの2歳牡馬(1982年) - ベレスフォード・ステークス
|-
|1980
|[[:en:Hero's Honor|Hero's Honor]]
|牡
|ボウリンググリーンハンディキャップ、[[ユナイテッドネイションズステークス|ユナイテッドネイションズハンディキャップ]]
|-
|1980
|[[:en:Lomond (horse)|Lomond]]
|牡
|[[2000ギニーステークス]]
|-
|1980
|[[シャリーフダンサー]]
|牡
|アイルランド・ダービー、キング・ジョージ6世&クイーン・エリザベス・ステークス
|-
|1980
|Spit Curl
|牝
|アラバマ・ステークス
|-
|1981
|[[エルグランセニョール]]
|牡
|2歳(1983年)および3歳(1984年)のイギリスチャンピオンの仔馬 - 2000ギニー、アイルランドダービー、デューハーストステークス、ナショナルステークス
|-
|1981
|[[:en:Northern Trick|Northern Trick]]
|牝
|フランス3歳牝馬チャンピオン(1984年)-[[ディアヌ賞]]、[[ヴェルメイユ賞]]
|-
|1981
|[[サドラーズウェルズ]]
|牡
|フランスチャンピオン・マイラー(1984年) - [[アイリッシュ2000ギニー]]、[[エクリプスステークス]]、[[アイリッシュチャンピオンステークス]]、仏1990,93,94,英愛92-2004年リーディングサイアー
|-
|1981
|[[セクレト]]
|牡
|アイルランドチャンピオンコルト(1984年) - エプソムダービー
|-
|1982
|Northern Aspen
|牝
|ゲームリーハンディキャップ
|-
|1983
|[[:en:Tate Gallery (horse)|Tate Gallery]]
|牡
|ナショナル・ステークス
|-
|1984
|[[:en:Ajdal|Ajdal]]
|牡
|イギリスおよびフランスのチャンピオンスプリンター(1987年) - デューハースト・ステークス、[[ジュライカップ]]、[[ナンソープステークス|ウィリアム・ヒル・スプリント・チャンピオンシップ]]、[[スプリントカップ|ヴァーノン・スプリント・カップ]]
|}
== 血統 ==
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
|name = ノーザンダンサー
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|ff = [[ネアルコ|Nearco]]<br />1935 黒鹿毛<br />[[イタリア]]
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}}
=== 近親 ===
*ノーザンネイティヴ - [[競走馬の血統#兄弟・姉妹の関係|全弟]]。種牡馬として日本へ輸出。
*トランスアランティック - 全弟。種牡馬として日本へ輸出。
* [[ヘイロー (競走馬)|ヘイロー]] - 祖母[[アルマームード]]の孫。
*ファーザーズイメージ - 祖母アルマームードの孫。種牡馬として日本へ輸出。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = 原田俊治
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== 外部リンク ==
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レコードプレーヤー
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レコードプレーヤー(英語: record player, turntable)は、アナログレコードを再生する音響機器である。蓄音機(アメリカ英語: phonograph、イギリス英語: gramophone)とも。古くは蓄音機と称した。用語としては、SP盤(もしくは初期の蝋管レコード)専用のものを「蓄音機」(駆動と音声信号の再生に電気を利用するものは「電気蓄音機」、略して「電蓄」)、LPレコードがかけられるもの(初期アメリカでは45回転専用プレーヤーもあった)を「レコードプレーヤー」と呼んでいる。最近ではDJ(ディスクジョッキー)用語から「ターンテーブル」と呼ぶ事が多い。
基本構造としては、レコードを載せて回転させるターンテーブル、レコード表面の音溝の振幅を拾うピックアップ(電気信号に変換する機能も含む)、ピックアップ部が取り付けられたトーンアームが一体化されている。
レコードプレーヤーから出力される信号は微弱であるため、オーディオアンプ(プリアンプ、パワーアンプ、初期には専用端子付きのラジオ)で増幅して、最終的に人間に聞こえる音圧レベルの音声信号としてスピーカーやヘッドフォンなどに出力する。
レコードプレーヤーとは前述のように、コンポの一機器として、アンプに微弱な信号だけを出力するが、イコライザーアンプ(後述)を含むプリアンプを備え、カセットデッキなどの出力信号と同等の強さの信号を出力するものもある。
かつてコンポなどがなかった頃は、プレーヤーといえば、パワーアンプとスピーカを備え、単独でレコード再生できる一体型機器を指した。その中で小型で移動可能なものをポータブル(プレーヤー)と呼んでいた。また、SP盤時代を引きずった1960年代初頭あたりまでは、LPレコード用であっても電蓄(電気蓄音機の略)と呼ばれることも多かった。
現在ではレーザー光で音溝を読み取る非接触型のレコードプレーヤーも商品化されている。
レコードプレーヤーは次のような主要部分からなる。
ピックアップは、交換可能なモジュールになっているカートリッジ式であることが多い。ピックアップ・カートリッジ、もしくは単にカートリッジと呼ばれる。トーンアームと一体になっていて交換できないものもピックアップまたはカートリッジと呼ばれることがある。
レコード盤を水平に載せて(例外的な一部プレーヤーは角度を選ばない)、一定速度で回転する回転台。台の部分をプラッターもしくはターンテーブル、駆動部をフォノモータと呼ぶ。一般に使われる回転数は、16 2/3・33 1/3(LP盤)・45(EP盤)・78(SP盤)rpmである。但し近年の製品に16 2/3回転と78回転のSP盤対応機は少ない。またSP盤の再生には専用カートリッジ(もしくは専用交換針)が必要である。
初期の蓄音機はぜんまいばねを手回しで巻く事によりターンテーブルを駆動し、ガバナーと呼ばれる仕組みで一定速度の回転を得ていた。電気を使うものはモータ(電動機)で駆動するが、レコード盤を自動的に一定速度で回転させるためにはモータの回転数を規整しなければならない。初期には電力会社の供給する交流電源の商用電源周波数 (50/60Hz) を基準として、同期モータで一定回転を得ていた。この場合は電源周波数の異なる東日本/西日本を移動する場合に、回転数に対応した調整改造を受ける必要があった。以後、モータサーボ回路やPLLなどの電子技術によって独自にモータの回転数を制御できるようになり、回転数の安定とレコード盤に応じた回転数切り替えなどもモータ側で行えるようになった。また、現在でも安価なもの、および一部のプレーヤー(特にDJ用)には手動式で回転数を調整出来るものがある。
回転をプラッターに伝えるための方法として次のような方式がある。
カートリッジをレコード盤に対して適切な位置関係で保持しつつ再生する溝に追従してレコードの外周から内周に動かす機構で、針を溝に対して適切な力(針圧)で接触させる機構も有する。カートリッジ取り付け部と反対側の一端に設けた回転軸を中心にスイングする方式が主流で、アームを支えるベース部分とカートリッジを移動するためのアーム、カートリッジを取り付けるヘッドシェルと呼ばれる部分から構成される。アームとヘッドシェルの間をコネクタとしカートリッジ交換を容易にしたものがあり、オルトフォン社が提唱し後に共通規格となったヘッドシェルコネクタを備えた物をユニバーサル・トーンアームと呼ぶ。また、回転軸の替わりにレールを設け、アームが平行に移動するリニアトラッキング方式と称する方式もある(後述)。
針圧の調整にばねなどの能動的な圧力を使用する物をダイナミックバランス型、錘の調節により重力で針圧を得る物をスタティックバランス型と呼ぶ。
トーンアームで溝をトレースしつつ、針は溝の振動を拾うため、溝の内周への動きに相当する周波数をカートリッジで拾ってしまうとアームが溝をトレースできなくなる。レコード盤の反りに対しても対応が求められる。従って、カートリッジで再生できる周波数には下限があり、カンチレバーを含めた振動系のコンプライアンス(振動系の「追従性:柔らかさ」の指数)とアームのそれを適切に設定する必要がある。オイルによる制動機構、レゾナンスのキャンセル機構などの工夫をした製品も存在する。
回転軸を中心に水平・垂直方向にスイングするアームにより針の盤面への接触と音溝への追従を行う。回転軸の抵抗を小さくすることは容易であるため、高級機から廉価品まで大多数の製品がこの方式である。
アームの形状は「S字」「J字」「ストレート」に大別される。J字やS字の形状はそのアームの形状により先端カートリッジ中心軸をトーンアーム中心軸に対して若干内側に向けるためである。ストレート型でもヘッドシェル部分が角度を持ってカートリッジを取付けるものが一般的である。この角度をオフセット角という。また、針先の位置はアーム支点からターンテーブル中心よりも遠くにオーバーハングする位置に調整され、オフセット角とともに後述するトラッキングエラーを軽減する働きがある。
回転軸の替わりにレールを設けアームをスライド、針先をレコードの中心に向かって直線的に平行移動させる方式である。タンジェンシャル方式、または日本語で「直線追従方式」ともいう。
スイングアーム方式に比較して、音溝に対する相対角度が変化せずに平行移動するためトラッキングエラーが無く、この対策のオーバーハングもオフセット角によるインサイドフォースの発生も無いという利点がある。また、レコードを再生しながら針圧を変えることもできる。
スライド移動部分をレコード盤面上に設置することにより、本来の意味のトーンアーム部分を比較的短くもしくは殆ど無くすことが出来る。これはスライド質量を減らし動きやすくする効果もある。
アームの移動方法はモーターにより能動的に駆動するものと、音溝によって受動的に移動するものに分けられる。
レコードに刻まれた音溝の振幅を電気信号に変換する機構(「ピックアップ」)。「ピックアップカートリッジ」「フォノカートリッジ」とも呼ばれる。実際には「カートリッジ」と呼ばれることが多く、単に「カートリッジ」では意味不明な場合に「ピックアップカートリッジ」とか「フォノカートリッジ」と呼ばれることが多い。
レコードの音溝を実際に電気信号に変換する部分で、レコードプレーヤーの他の部分は単にこのカートリッジの補助をしているにすぎないとも言える。そのためカートリッジが再生音に与える影響は大きく、カートリッジを高級なものに交換すると再生音が一変することが多い。また高級なカートリッジ同士でも特徴があるため、カートリッジを交換して違いを楽しむことが普通に行われる(普及型レコードプレーヤーではカートリッジが交換できないものもある)。
カートリッジで最も一般的な互換規格は IEC ならびに JIS に準拠したもので、 12.7 mm (1/2 in.) 間隔の取り付け孔を持ち、自重などが適合範囲内であればユーザーが自由に交換可能である。ただし取り付け孔寸法以外の寸法や自重、針圧などまちまちであり、必ず使用できるとは限らないばかりか、取り換えた場合いちいち調整しなければならず、ある程度面倒なものである。1979年に松下電器(現パナソニック)が提唱した T4P 規格は、寸法や自重 (6 g)、針圧 (1.25 g) が標準化されており、またプラグイン方式で配線をつなぐ手間もなく、無調整で交換可能である。しかしこれは IEC/JIS と互換性がなく、現在では T4P 規格のカートリッジ自体が少なくなってしまった。
カートリッジは音溝をトレースするスタイラスチップ(針先)とこれを支えるカンチレバー、機械的な振動を電気信号に変換する機構、電気信号接続用のピンで構成される。ピンはステレオの場合は通常 4 本 (L+, L-, R+, R-)、モノラルの場合は通常 2 本 (+, -) となる。
スタイラスチップ(針先)は、ダイアモンド、ルビー、サファイアなどの硬度の高い物質で作られており、断面の形状は、円形、楕円形、ラインコンタクト等がある。特にラインコンタクトは1954年フランスのレコード・メーカーパテ・マルコーニ(Pathé-Marconi:現在のフランスEMI)で考案された「深さ方向に大きい曲率と、小さな実効針先曲率で音溝に接触させて諸特性を改善する」といった提案思想が、柴田憲男の4チャンネル針(別名「シバタ針」)で初めて実現化され、チャンネル・セパレーションや周波数特性で大幅な性能向上、およびスタイラスの長寿命化を実現した(4チャンネル方式(後述)では、30kHzをキャリアとするFM方式の差分信号を多重しているため、通常のレコードでは全く必要が無いような高周波まで伸びた特性が必要であるため)。
スタイラスチップの大きさはレコード盤の種類に合わせて適切なものを用いる。大きさによる種類では、SPレコード用(約3mil程度)、モノラルレコード用(約1mil程度)、ステレオレコード用(約0.7mil程度)の3種類がある。
スタイラスチップの寿命については、判定の基準として「曲率の変化、変化比を基準とする。再生歪みを基準とする。磨耗面の幅を基準とする。」方法が考えられるが、針先の形状や使用状況によって磨耗の状況が異なってくることから一概に「寿命は何時間程度」と定義するのは難しい。レコード盤面に接触するため機械的な摩耗や摩擦熱などにより消耗・摩滅する。消耗が進んだ針の使用はレコード盤を傷める原因となるため、一定時間おきでの交換が推奨される。
カンチレバーは、先端にスタイラスチップを装着した細長い棒で、スタイラスチップと反対側に発電機構を備える。スタイラスチップをレコード音溝に押し付ける機能と、音溝の振幅に正確に追従し電気信号に変換する2つの機能を持つ重要な部品である。カンチレバーの形状には、無垢棒、アングル、パイプ、テーパー形状などがある。カンチレバーのおもな材料は安価で加工が容易なアルミニュウムやジュラルミンなどの軽合金が用いられるが、高級品には高度な加工技術を必要とするが音響特性に優れたボロンやベリリウムが用いられる。
現在使用されている機械‐電気変換方式の主流は電磁型で、その中でも MM 型と MC 型の 2 種類がほとんどである。
簡単に言えばコイルが固定されていて磁石が動くのが MM 型、磁石が固定されていてコイルが動くのが MC 型である。
MM 型は MI (Moving Iron) 型から発展したものである。 MI 型とはカンチレバー後端部分に磁性材料を取り付け、磁石もコイルもカートリッジ本体に固定する方式である。なぜそんなことをしたかというと、昔は強力な磁石がなく、直接動かすには磁石が大きく重くなりすぎたからである。しかし強力な磁石が使えるようになると、カンチレバーに超小形の磁石を付けるだけで済み、また磁束の経路がカンチレバー後端から出て戻るだけで完結する MM 型はきわめて合理的な構造となった。しかし MM 型には特許があったため、 1980 年代までは MI 型もよく使われた。
MC型のほうが繊細で高音質とされる(製品によって傾向は異なる)。実際の製品では、MC型は出力電圧がMM型の1/10程度(0.2 - 0.5mV程度)のため、特に高出力を謳った製品でない限りはイコライザーアンプ(後述)の前段に低雑音の前段増幅器(ヘッドアンプ)または昇圧トランスを必要とする。また、スタイラスチップが磨耗した場合に、構造上MM型がスタイラスチップとカンチレバーを含めた「レコード針」のみの交換であるものが多い(一部高級品に全体交換のものもあり)のに対し、MC型はカートリッジ全体の交換となるため、交換時の費用はMC型のほうが大きくなる。このように、コスト的にはMMに分があるため、一般用の製品は殆どMM型である。
かつてはMC型でも、発電機構そのものを交換針と一体化する形で針交換が出来る機種があったが、電気接点が1ヶ所増加する欠点があり、その種類は少なかった。(交換針のみ交換可能な製品も有った。)また、MM型でも放送局での使用を目的として、MC型との互換使用(MC用ヘッドアンプや昇圧トランスを接続したまま使用)を可能とした低出力型があった。
そのほか、安価なプレーヤー用には、圧電素子を用いるセラミックカートリッジやクリスタルカートリッジがある。これらは出力が大きく、変位比例型の特性をもつことからイコライザーアンプを省略することができ、コストを下げられるという利点がある(但し、高音域の特性が劣ること、温度や湿度の影響が大きい、歪みが多いなどの問題点もあり、最近では一部の廉価な機器以外は全く用いられなくなった)。また、(ウェザーズやスタックス、東芝より商品化されていた)スタイラスの振動に伴う静電容量の変化を用いたコンデンサ型や、マグネットを固定し鉄片が振動するIM (Induced Magnet) 型、MI (Moving Iron) 型、VR (Variable Reluctance) 型も作られた。
1960年代末頃に、光電素子を用いた発電方式のカートリッジがトリオ(現・JVCケンウッド)・東芝(現・東芝エルイートレーディング)・シャープから発売されていたが、短命に終わり久しく途絶えていた。2014年にDS Audioにより、1960~70年代当時には難しかった課題を現代の技術で克服した光電式カートリッジが復活した。
2000年代からレコード針を生産するメーカーが激減し、カートリッジや消耗品である交換針の入手は「ナガオカトレーディング」で生産・販売する互換針と自社ブランドのカートリッジや、放送局で使われるDENON製MC型カートリッジ「DL-103」、など一部数機種を除き困難になっていた。海外メーカーのDJ向け機種(スクラッチプレイのために耐久性を上げたもので、基本的に普通のものと変わらない)が楽器店などで販売される他は、マニア向け高級品の流通在庫が細々と一部のオーディオ専門店やインターネットオークションで販売されている状況となり、一時期、普及型のプレーヤーの交換針は入手が絶望的な状況とさえ言われたが、2010年代以降のレコード再復興により前述のナガオカトレーディング、日本精機宝石工業(JICO)、アーピス・ジャパンなどが、互換針・針一体カートリッジの製造・販売を継続して行っている。なお、1970年代の一時期に生産されていた4チャンネル針(考案者の柴田憲男の名からシバタ針とよばれる)旧製品の単体交換針としては高価であるが入手は可能である。なお1982年並木精密宝石によってマイクロリッジ針という4チャンネル針が開発されたが、カートリッジメーカにおいては一部の高級品に採用されている。
1970年代前半の一時期に流行した4チャンネルステレオの方式の中に、差分信号を30kHzをキャリアとしてFM方式でレコードに多重記録する方式があり、通常のレコードにはほとんど記録されていない高周波・高振幅の音溝を低歪で再生することが要求される。これらのレコードを再生するには対応したカートリッジおよびレコード針が必要になる。
レーザー光により非接触で音溝を読み取る方式。1990年代に入るとレーザー光を利用してアナログレコードの再生を行うプレーヤーが登場した。基礎開発は米国シリコンバレーのベンチャー企業だったが、エルプ(英語版)がパテントを買い取り実用化した。各世界の放送局や図書館、又は愛好家が利用している。針を盤面に接触させないので磨耗がなく、多少痛んだ盤面や、保存状態が悪く、レコード針ではハムノイズや音とびしてしまうような大幅に反った盤でも再生が可能であり、回転数も任意に調整可能でLP・SP・ドーナツ盤の別なく再生可能であるメリットはあるが、レーザー光を透過してしまう青盤、赤盤等を含むクリア盤は掛けられない。
ターンテーブルとトーンアームとを機械的に結合しレコードプレーヤーとする土台。ターンテーブルとトーンアームは位置関係が固定されなければならないので固い一体の部材に取り付けられるが、床を伝わってくる振動や音響による振動を防止するために、筐体を二重構造としターンテーブルとトーンアームを取り付けた部材をばねやゴムで浮かす方式や、逆に単一の重量のある頑丈な筐体とする方式などがある。底面の足はばねやゴムを内蔵し振動を吸収するインシュレーターとすることが一般的である。
ダイナミックレンジを有効活用するため、カッティング時に周波数特性に対しエンファシスが施される。したがって再生時には等化(イコライズ)が必要となり、またピックアップ出力はほとんどの場合微弱なので増幅が必要で、ピックアップ出力を受ける等化特性を持ったアンプはフォノイコライザーと呼ばれる。
カッターの特性は入力信号と速度が対応する速度形だが(正確には補正によってそう見えるようにしている)、この特性のままカッティングすると低域ほど振幅が大きくなり、カッターの振幅限界を超えたり再生時のトレースが困難になる上に、隣接する音溝と接しないよう音溝ピッチを広くとらなくてはならず、また垂直方向の振幅も大きくなるので音溝を深く切ると音溝自体も太くなり、記録できる時間が短くなる。一方、高域では振幅が小さくなり、 S/N が悪化する。このためカッティング時に 6 dB/oct. で高域をブーストし、周波数に対してほぼ定振幅となるようにする。ただし完全に定振幅にすると高域で速度が上がり過ぎ、音溝を切ることが物理的に不可能になったり、再生時のトレースが不可能になったりするので、完全な定振幅ではなくやや高域を抑えた特性とするのがよい。各レコードレーベルともおおむねそのような特性でカッティングしていた。しかしモノラル時代はその特性が統一されておらず、再生時にレーベルに合わせてイコライザー特性を切り替える必要があった。
しかし RCA が1952年から使い始めた "New Orthophonic" イコライザー特性と同じものが翌1953年に RIAA により推奨され、 45-45 ステレオレコードに関してはこの RIAA イコライザー特性に統一された。現在市販されているフォノイコライザーの特性は基本的にこの RIAA イコライザー特性である。
上述のように音溝は周波数に対しほぼ定振幅で切られているので、振幅に対応した出力を出す振幅形のピックアップを使えばイコライザーの補償量が少なくて済む。振幅形の圧電型ピックアップは負荷インピーダンスを選ぶことでほぼ等化できてしまう上に出力電圧が大きいのでアンプが非常に簡単で済み、安価なポータブル電蓄などに賞用された。もっと高級なものでは圧電型ピックアップカートリッジ内にバッファアンプを内蔵したものも作られた。コンデンサ型・光電型・半導体型ピックアップなども振幅形で、やはりイコライザーの補償量が少なくて済んだが、これらは電源が必要な上に相互に互換性がなかった。
これら振幅形のピックアップに標準となりうる実力があったかなかったかは議論のあるところだが、史実としてコンポーネントステレオでは MI 型・ MM 型・ MC 型など速度形の電磁型ピックアップが標準となり、アナログレコード時代のアンプは電磁型ピックアップ用のフォノイコライザーを内蔵し、レコードプレーヤー接続専用のフォノ入力端子を備えるのが普通となった(フォノ入力端子とは内蔵フォノイコライザーの入力端子そのものである)。
しかし記録媒体がレコードから CD に移行すると、アンプからフォノイコライザーが省略されるようになった。単体のフォノイコライザーも現れたが、むしろレコードプレーヤーがフォノイコライザーを内蔵するようになった。更にはレコードプレーヤーでデジタルデータ化を行う、 USB 端子を備えたものも現れた。
フォノイコライザー入力は一般のオーディオ入力より高感度なので、レコードプレーヤー以外の機器やフォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤー(フォノイコライザー出力は一般のオーディオ出力となる)を接続すると歪んだ大音量が出てスピーカーなどを損傷する恐れがある。フォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤーも内蔵フォノイコライザーをスルーさせれば内蔵していないレコードプレーヤーと同等になるが、設定を間違えないようにしなければならない。
MM 型などのカートリッジは負荷インピーダンスにより高域特性が変化する。そのため入力抵抗を切り替えられるフォノイコライザーもあるが、 MM 型では 47 kΩが標準である。負荷容量によっても特性は変化するが、入力容量を切り替えられるフォノイコライザーはあまりない。負荷抵抗はフォノイコライザーの入力抵抗と同一とみなせるが、負荷容量はフォノイコライザーの入力容量に接続ケーブルの容量が加わることになるので注意が必要である。
MC 型カートリッジの出力電圧は通常 MM 型カートリッジの更に 1/10 (−20 dB) 以下であるため、 MM 型用フォノイコライザーを使用する場合はフォノイコライザーの前に昇圧トランスもしくはヘッドアンプを接続する必要がある。なお、よく誤解されているが、昇圧トランスに記されている一次側インピーダンスの値(10 Ωなど)は適合する MC 型カートリッジのインピーダンスの値であり、昇圧トランスの入力インピーダンスの値ではない。入力インピーダンスの値は通常その 5 倍以上ある。ヘッドアンプや MC 型用フォノイコライザーの入力インピーダンスは 100 Ωが標準である。
多くの場合、レコードプレーヤーにはアース端子またはアース線が付いているが、これは保安のためのアースではなく雑音防止のためのアースである。通常はフォノイコライザーのアース端子に接続するが、別体の昇圧トランスやヘッドアンプを使用する場合はそちらのアース端子に接続し、昇圧トランスやヘッドアンプのアース線をフォノイコライザーのアース端子に接続する。ただしフォノモーターのアースはフォノイコライザーのアース端子に接続する。
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"text": "レコードプレーヤーから出力される信号は微弱であるため、オーディオアンプ(プリアンプ、パワーアンプ、初期には専用端子付きのラジオ)で増幅して、最終的に人間に聞こえる音圧レベルの音声信号としてスピーカーやヘッドフォンなどに出力する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "レコードプレーヤーとは前述のように、コンポの一機器として、アンプに微弱な信号だけを出力するが、イコライザーアンプ(後述)を含むプリアンプを備え、カセットデッキなどの出力信号と同等の強さの信号を出力するものもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "かつてコンポなどがなかった頃は、プレーヤーといえば、パワーアンプとスピーカを備え、単独でレコード再生できる一体型機器を指した。その中で小型で移動可能なものをポータブル(プレーヤー)と呼んでいた。また、SP盤時代を引きずった1960年代初頭あたりまでは、LPレコード用であっても電蓄(電気蓄音機の略)と呼ばれることも多かった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "現在ではレーザー光で音溝を読み取る非接触型のレコードプレーヤーも商品化されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "レコードプレーヤーは次のような主要部分からなる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ピックアップは、交換可能なモジュールになっているカートリッジ式であることが多い。ピックアップ・カートリッジ、もしくは単にカートリッジと呼ばれる。トーンアームと一体になっていて交換できないものもピックアップまたはカートリッジと呼ばれることがある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "レコード盤を水平に載せて(例外的な一部プレーヤーは角度を選ばない)、一定速度で回転する回転台。台の部分をプラッターもしくはターンテーブル、駆動部をフォノモータと呼ぶ。一般に使われる回転数は、16 2/3・33 1/3(LP盤)・45(EP盤)・78(SP盤)rpmである。但し近年の製品に16 2/3回転と78回転のSP盤対応機は少ない。またSP盤の再生には専用カートリッジ(もしくは専用交換針)が必要である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "初期の蓄音機はぜんまいばねを手回しで巻く事によりターンテーブルを駆動し、ガバナーと呼ばれる仕組みで一定速度の回転を得ていた。電気を使うものはモータ(電動機)で駆動するが、レコード盤を自動的に一定速度で回転させるためにはモータの回転数を規整しなければならない。初期には電力会社の供給する交流電源の商用電源周波数 (50/60Hz) を基準として、同期モータで一定回転を得ていた。この場合は電源周波数の異なる東日本/西日本を移動する場合に、回転数に対応した調整改造を受ける必要があった。以後、モータサーボ回路やPLLなどの電子技術によって独自にモータの回転数を制御できるようになり、回転数の安定とレコード盤に応じた回転数切り替えなどもモータ側で行えるようになった。また、現在でも安価なもの、および一部のプレーヤー(特にDJ用)には手動式で回転数を調整出来るものがある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "回転をプラッターに伝えるための方法として次のような方式がある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "カートリッジをレコード盤に対して適切な位置関係で保持しつつ再生する溝に追従してレコードの外周から内周に動かす機構で、針を溝に対して適切な力(針圧)で接触させる機構も有する。カートリッジ取り付け部と反対側の一端に設けた回転軸を中心にスイングする方式が主流で、アームを支えるベース部分とカートリッジを移動するためのアーム、カートリッジを取り付けるヘッドシェルと呼ばれる部分から構成される。アームとヘッドシェルの間をコネクタとしカートリッジ交換を容易にしたものがあり、オルトフォン社が提唱し後に共通規格となったヘッドシェルコネクタを備えた物をユニバーサル・トーンアームと呼ぶ。また、回転軸の替わりにレールを設け、アームが平行に移動するリニアトラッキング方式と称する方式もある(後述)。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "針圧の調整にばねなどの能動的な圧力を使用する物をダイナミックバランス型、錘の調節により重力で針圧を得る物をスタティックバランス型と呼ぶ。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "トーンアームで溝をトレースしつつ、針は溝の振動を拾うため、溝の内周への動きに相当する周波数をカートリッジで拾ってしまうとアームが溝をトレースできなくなる。レコード盤の反りに対しても対応が求められる。従って、カートリッジで再生できる周波数には下限があり、カンチレバーを含めた振動系のコンプライアンス(振動系の「追従性:柔らかさ」の指数)とアームのそれを適切に設定する必要がある。オイルによる制動機構、レゾナンスのキャンセル機構などの工夫をした製品も存在する。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "回転軸を中心に水平・垂直方向にスイングするアームにより針の盤面への接触と音溝への追従を行う。回転軸の抵抗を小さくすることは容易であるため、高級機から廉価品まで大多数の製品がこの方式である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "アームの形状は「S字」「J字」「ストレート」に大別される。J字やS字の形状はそのアームの形状により先端カートリッジ中心軸をトーンアーム中心軸に対して若干内側に向けるためである。ストレート型でもヘッドシェル部分が角度を持ってカートリッジを取付けるものが一般的である。この角度をオフセット角という。また、針先の位置はアーム支点からターンテーブル中心よりも遠くにオーバーハングする位置に調整され、オフセット角とともに後述するトラッキングエラーを軽減する働きがある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "回転軸の替わりにレールを設けアームをスライド、針先をレコードの中心に向かって直線的に平行移動させる方式である。タンジェンシャル方式、または日本語で「直線追従方式」ともいう。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "スイングアーム方式に比較して、音溝に対する相対角度が変化せずに平行移動するためトラッキングエラーが無く、この対策のオーバーハングもオフセット角によるインサイドフォースの発生も無いという利点がある。また、レコードを再生しながら針圧を変えることもできる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "スライド移動部分をレコード盤面上に設置することにより、本来の意味のトーンアーム部分を比較的短くもしくは殆ど無くすことが出来る。これはスライド質量を減らし動きやすくする効果もある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "アームの移動方法はモーターにより能動的に駆動するものと、音溝によって受動的に移動するものに分けられる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "レコードに刻まれた音溝の振幅を電気信号に変換する機構(「ピックアップ」)。「ピックアップカートリッジ」「フォノカートリッジ」とも呼ばれる。実際には「カートリッジ」と呼ばれることが多く、単に「カートリッジ」では意味不明な場合に「ピックアップカートリッジ」とか「フォノカートリッジ」と呼ばれることが多い。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "レコードの音溝を実際に電気信号に変換する部分で、レコードプレーヤーの他の部分は単にこのカートリッジの補助をしているにすぎないとも言える。そのためカートリッジが再生音に与える影響は大きく、カートリッジを高級なものに交換すると再生音が一変することが多い。また高級なカートリッジ同士でも特徴があるため、カートリッジを交換して違いを楽しむことが普通に行われる(普及型レコードプレーヤーではカートリッジが交換できないものもある)。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "カートリッジで最も一般的な互換規格は IEC ならびに JIS に準拠したもので、 12.7 mm (1/2 in.) 間隔の取り付け孔を持ち、自重などが適合範囲内であればユーザーが自由に交換可能である。ただし取り付け孔寸法以外の寸法や自重、針圧などまちまちであり、必ず使用できるとは限らないばかりか、取り換えた場合いちいち調整しなければならず、ある程度面倒なものである。1979年に松下電器(現パナソニック)が提唱した T4P 規格は、寸法や自重 (6 g)、針圧 (1.25 g) が標準化されており、またプラグイン方式で配線をつなぐ手間もなく、無調整で交換可能である。しかしこれは IEC/JIS と互換性がなく、現在では T4P 規格のカートリッジ自体が少なくなってしまった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "カートリッジは音溝をトレースするスタイラスチップ(針先)とこれを支えるカンチレバー、機械的な振動を電気信号に変換する機構、電気信号接続用のピンで構成される。ピンはステレオの場合は通常 4 本 (L+, L-, R+, R-)、モノラルの場合は通常 2 本 (+, -) となる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "スタイラスチップ(針先)は、ダイアモンド、ルビー、サファイアなどの硬度の高い物質で作られており、断面の形状は、円形、楕円形、ラインコンタクト等がある。特にラインコンタクトは1954年フランスのレコード・メーカーパテ・マルコーニ(Pathé-Marconi:現在のフランスEMI)で考案された「深さ方向に大きい曲率と、小さな実効針先曲率で音溝に接触させて諸特性を改善する」といった提案思想が、柴田憲男の4チャンネル針(別名「シバタ針」)で初めて実現化され、チャンネル・セパレーションや周波数特性で大幅な性能向上、およびスタイラスの長寿命化を実現した(4チャンネル方式(後述)では、30kHzをキャリアとするFM方式の差分信号を多重しているため、通常のレコードでは全く必要が無いような高周波まで伸びた特性が必要であるため)。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "スタイラスチップの大きさはレコード盤の種類に合わせて適切なものを用いる。大きさによる種類では、SPレコード用(約3mil程度)、モノラルレコード用(約1mil程度)、ステレオレコード用(約0.7mil程度)の3種類がある。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "スタイラスチップの寿命については、判定の基準として「曲率の変化、変化比を基準とする。再生歪みを基準とする。磨耗面の幅を基準とする。」方法が考えられるが、針先の形状や使用状況によって磨耗の状況が異なってくることから一概に「寿命は何時間程度」と定義するのは難しい。レコード盤面に接触するため機械的な摩耗や摩擦熱などにより消耗・摩滅する。消耗が進んだ針の使用はレコード盤を傷める原因となるため、一定時間おきでの交換が推奨される。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "カンチレバーは、先端にスタイラスチップを装着した細長い棒で、スタイラスチップと反対側に発電機構を備える。スタイラスチップをレコード音溝に押し付ける機能と、音溝の振幅に正確に追従し電気信号に変換する2つの機能を持つ重要な部品である。カンチレバーの形状には、無垢棒、アングル、パイプ、テーパー形状などがある。カンチレバーのおもな材料は安価で加工が容易なアルミニュウムやジュラルミンなどの軽合金が用いられるが、高級品には高度な加工技術を必要とするが音響特性に優れたボロンやベリリウムが用いられる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在使用されている機械‐電気変換方式の主流は電磁型で、その中でも MM 型と MC 型の 2 種類がほとんどである。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "簡単に言えばコイルが固定されていて磁石が動くのが MM 型、磁石が固定されていてコイルが動くのが MC 型である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "MM 型は MI (Moving Iron) 型から発展したものである。 MI 型とはカンチレバー後端部分に磁性材料を取り付け、磁石もコイルもカートリッジ本体に固定する方式である。なぜそんなことをしたかというと、昔は強力な磁石がなく、直接動かすには磁石が大きく重くなりすぎたからである。しかし強力な磁石が使えるようになると、カンチレバーに超小形の磁石を付けるだけで済み、また磁束の経路がカンチレバー後端から出て戻るだけで完結する MM 型はきわめて合理的な構造となった。しかし MM 型には特許があったため、 1980 年代までは MI 型もよく使われた。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "MC型のほうが繊細で高音質とされる(製品によって傾向は異なる)。実際の製品では、MC型は出力電圧がMM型の1/10程度(0.2 - 0.5mV程度)のため、特に高出力を謳った製品でない限りはイコライザーアンプ(後述)の前段に低雑音の前段増幅器(ヘッドアンプ)または昇圧トランスを必要とする。また、スタイラスチップが磨耗した場合に、構造上MM型がスタイラスチップとカンチレバーを含めた「レコード針」のみの交換であるものが多い(一部高級品に全体交換のものもあり)のに対し、MC型はカートリッジ全体の交換となるため、交換時の費用はMC型のほうが大きくなる。このように、コスト的にはMMに分があるため、一般用の製品は殆どMM型である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "かつてはMC型でも、発電機構そのものを交換針と一体化する形で針交換が出来る機種があったが、電気接点が1ヶ所増加する欠点があり、その種類は少なかった。(交換針のみ交換可能な製品も有った。)また、MM型でも放送局での使用を目的として、MC型との互換使用(MC用ヘッドアンプや昇圧トランスを接続したまま使用)を可能とした低出力型があった。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そのほか、安価なプレーヤー用には、圧電素子を用いるセラミックカートリッジやクリスタルカートリッジがある。これらは出力が大きく、変位比例型の特性をもつことからイコライザーアンプを省略することができ、コストを下げられるという利点がある(但し、高音域の特性が劣ること、温度や湿度の影響が大きい、歪みが多いなどの問題点もあり、最近では一部の廉価な機器以外は全く用いられなくなった)。また、(ウェザーズやスタックス、東芝より商品化されていた)スタイラスの振動に伴う静電容量の変化を用いたコンデンサ型や、マグネットを固定し鉄片が振動するIM (Induced Magnet) 型、MI (Moving Iron) 型、VR (Variable Reluctance) 型も作られた。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1960年代末頃に、光電素子を用いた発電方式のカートリッジがトリオ(現・JVCケンウッド)・東芝(現・東芝エルイートレーディング)・シャープから発売されていたが、短命に終わり久しく途絶えていた。2014年にDS Audioにより、1960~70年代当時には難しかった課題を現代の技術で克服した光電式カートリッジが復活した。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2000年代からレコード針を生産するメーカーが激減し、カートリッジや消耗品である交換針の入手は「ナガオカトレーディング」で生産・販売する互換針と自社ブランドのカートリッジや、放送局で使われるDENON製MC型カートリッジ「DL-103」、など一部数機種を除き困難になっていた。海外メーカーのDJ向け機種(スクラッチプレイのために耐久性を上げたもので、基本的に普通のものと変わらない)が楽器店などで販売される他は、マニア向け高級品の流通在庫が細々と一部のオーディオ専門店やインターネットオークションで販売されている状況となり、一時期、普及型のプレーヤーの交換針は入手が絶望的な状況とさえ言われたが、2010年代以降のレコード再復興により前述のナガオカトレーディング、日本精機宝石工業(JICO)、アーピス・ジャパンなどが、互換針・針一体カートリッジの製造・販売を継続して行っている。なお、1970年代の一時期に生産されていた4チャンネル針(考案者の柴田憲男の名からシバタ針とよばれる)旧製品の単体交換針としては高価であるが入手は可能である。なお1982年並木精密宝石によってマイクロリッジ針という4チャンネル針が開発されたが、カートリッジメーカにおいては一部の高級品に採用されている。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1970年代前半の一時期に流行した4チャンネルステレオの方式の中に、差分信号を30kHzをキャリアとしてFM方式でレコードに多重記録する方式があり、通常のレコードにはほとんど記録されていない高周波・高振幅の音溝を低歪で再生することが要求される。これらのレコードを再生するには対応したカートリッジおよびレコード針が必要になる。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "レーザー光により非接触で音溝を読み取る方式。1990年代に入るとレーザー光を利用してアナログレコードの再生を行うプレーヤーが登場した。基礎開発は米国シリコンバレーのベンチャー企業だったが、エルプ(英語版)がパテントを買い取り実用化した。各世界の放送局や図書館、又は愛好家が利用している。針を盤面に接触させないので磨耗がなく、多少痛んだ盤面や、保存状態が悪く、レコード針ではハムノイズや音とびしてしまうような大幅に反った盤でも再生が可能であり、回転数も任意に調整可能でLP・SP・ドーナツ盤の別なく再生可能であるメリットはあるが、レーザー光を透過してしまう青盤、赤盤等を含むクリア盤は掛けられない。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ターンテーブルとトーンアームとを機械的に結合しレコードプレーヤーとする土台。ターンテーブルとトーンアームは位置関係が固定されなければならないので固い一体の部材に取り付けられるが、床を伝わってくる振動や音響による振動を防止するために、筐体を二重構造としターンテーブルとトーンアームを取り付けた部材をばねやゴムで浮かす方式や、逆に単一の重量のある頑丈な筐体とする方式などがある。底面の足はばねやゴムを内蔵し振動を吸収するインシュレーターとすることが一般的である。",
"title": "構成"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ダイナミックレンジを有効活用するため、カッティング時に周波数特性に対しエンファシスが施される。したがって再生時には等化(イコライズ)が必要となり、またピックアップ出力はほとんどの場合微弱なので増幅が必要で、ピックアップ出力を受ける等化特性を持ったアンプはフォノイコライザーと呼ばれる。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "カッターの特性は入力信号と速度が対応する速度形だが(正確には補正によってそう見えるようにしている)、この特性のままカッティングすると低域ほど振幅が大きくなり、カッターの振幅限界を超えたり再生時のトレースが困難になる上に、隣接する音溝と接しないよう音溝ピッチを広くとらなくてはならず、また垂直方向の振幅も大きくなるので音溝を深く切ると音溝自体も太くなり、記録できる時間が短くなる。一方、高域では振幅が小さくなり、 S/N が悪化する。このためカッティング時に 6 dB/oct. で高域をブーストし、周波数に対してほぼ定振幅となるようにする。ただし完全に定振幅にすると高域で速度が上がり過ぎ、音溝を切ることが物理的に不可能になったり、再生時のトレースが不可能になったりするので、完全な定振幅ではなくやや高域を抑えた特性とするのがよい。各レコードレーベルともおおむねそのような特性でカッティングしていた。しかしモノラル時代はその特性が統一されておらず、再生時にレーベルに合わせてイコライザー特性を切り替える必要があった。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "しかし RCA が1952年から使い始めた \"New Orthophonic\" イコライザー特性と同じものが翌1953年に RIAA により推奨され、 45-45 ステレオレコードに関してはこの RIAA イコライザー特性に統一された。現在市販されているフォノイコライザーの特性は基本的にこの RIAA イコライザー特性である。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "上述のように音溝は周波数に対しほぼ定振幅で切られているので、振幅に対応した出力を出す振幅形のピックアップを使えばイコライザーの補償量が少なくて済む。振幅形の圧電型ピックアップは負荷インピーダンスを選ぶことでほぼ等化できてしまう上に出力電圧が大きいのでアンプが非常に簡単で済み、安価なポータブル電蓄などに賞用された。もっと高級なものでは圧電型ピックアップカートリッジ内にバッファアンプを内蔵したものも作られた。コンデンサ型・光電型・半導体型ピックアップなども振幅形で、やはりイコライザーの補償量が少なくて済んだが、これらは電源が必要な上に相互に互換性がなかった。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "これら振幅形のピックアップに標準となりうる実力があったかなかったかは議論のあるところだが、史実としてコンポーネントステレオでは MI 型・ MM 型・ MC 型など速度形の電磁型ピックアップが標準となり、アナログレコード時代のアンプは電磁型ピックアップ用のフォノイコライザーを内蔵し、レコードプレーヤー接続専用のフォノ入力端子を備えるのが普通となった(フォノ入力端子とは内蔵フォノイコライザーの入力端子そのものである)。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかし記録媒体がレコードから CD に移行すると、アンプからフォノイコライザーが省略されるようになった。単体のフォノイコライザーも現れたが、むしろレコードプレーヤーがフォノイコライザーを内蔵するようになった。更にはレコードプレーヤーでデジタルデータ化を行う、 USB 端子を備えたものも現れた。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "フォノイコライザー入力は一般のオーディオ入力より高感度なので、レコードプレーヤー以外の機器やフォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤー(フォノイコライザー出力は一般のオーディオ出力となる)を接続すると歪んだ大音量が出てスピーカーなどを損傷する恐れがある。フォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤーも内蔵フォノイコライザーをスルーさせれば内蔵していないレコードプレーヤーと同等になるが、設定を間違えないようにしなければならない。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "MM 型などのカートリッジは負荷インピーダンスにより高域特性が変化する。そのため入力抵抗を切り替えられるフォノイコライザーもあるが、 MM 型では 47 kΩが標準である。負荷容量によっても特性は変化するが、入力容量を切り替えられるフォノイコライザーはあまりない。負荷抵抗はフォノイコライザーの入力抵抗と同一とみなせるが、負荷容量はフォノイコライザーの入力容量に接続ケーブルの容量が加わることになるので注意が必要である。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "MC 型カートリッジの出力電圧は通常 MM 型カートリッジの更に 1/10 (−20 dB) 以下であるため、 MM 型用フォノイコライザーを使用する場合はフォノイコライザーの前に昇圧トランスもしくはヘッドアンプを接続する必要がある。なお、よく誤解されているが、昇圧トランスに記されている一次側インピーダンスの値(10 Ωなど)は適合する MC 型カートリッジのインピーダンスの値であり、昇圧トランスの入力インピーダンスの値ではない。入力インピーダンスの値は通常その 5 倍以上ある。ヘッドアンプや MC 型用フォノイコライザーの入力インピーダンスは 100 Ωが標準である。",
"title": "関連機器"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "多くの場合、レコードプレーヤーにはアース端子またはアース線が付いているが、これは保安のためのアースではなく雑音防止のためのアースである。通常はフォノイコライザーのアース端子に接続するが、別体の昇圧トランスやヘッドアンプを使用する場合はそちらのアース端子に接続し、昇圧トランスやヘッドアンプのアース線をフォノイコライザーのアース端子に接続する。ただしフォノモーターのアースはフォノイコライザーのアース端子に接続する。",
"title": "関連機器"
}
] |
レコードプレーヤーは、アナログレコードを再生する音響機器である。蓄音機とも。古くは蓄音機と称した。用語としては、SP盤(もしくは初期の蝋管レコード)専用のものを「蓄音機」(駆動と音声信号の再生に電気を利用するものは「電気蓄音機」、略して「電蓄」)、LPレコードがかけられるもの(初期アメリカでは45回転専用プレーヤーもあった)を「レコードプレーヤー」と呼んでいる。最近ではDJ(ディスクジョッキー)用語から「ターンテーブル」と呼ぶ事が多い。 基本構造としては、レコードを載せて回転させるターンテーブル、レコード表面の音溝の振幅を拾うピックアップ(電気信号に変換する機能も含む)、ピックアップ部が取り付けられたトーンアームが一体化されている。
|
{{複数の問題
|出典の明記=2011-12
|参照方法=2011-12
}}
[[Image:Technics SL-1200MK2-2.jpg|thumb|[[:en:Technics SL-1200|Technics SL-1200]] ターンテーブル]]
'''レコードプレーヤー'''({{lang-en|record player}}, turntable)は、アナログ[[レコード]]を再生する[[音響機器]]である。[[蓄音機]](アメリカ{{lang-en|phonograph}}、イギリス{{lang-en|gramophone}})とも。古くは[[蓄音機]]と称した。用語としては、[[SP盤]](もしくは初期の蝋管レコード)専用のものを「蓄音機」(駆動と音声信号の再生に電気を利用するものは「電気蓄音機」、略して「電蓄」)、LPレコードがかけられるもの(初期アメリカでは45回転専用プレーヤーもあった)を「レコードプレーヤー」と呼んでいる。最近ではDJ([[ディスクジョッキー]])用語から「ターンテーブル」と呼ぶ事が多い。
基本構造としては、レコードを載せて回転させる'''ターンテーブル'''、レコード表面の音溝の振幅を拾うピックアップ(電気信号に変換する機能も含む)、ピックアップ部が取り付けられたトーンアームが一体化されている。
== 概要 ==
[[ファイル:Gramofone, Acervo do Museu do Colono (Santa Leopoldina).jpg|サムネイル]]
レコードプレーヤーから出力される信号は微弱であるため、オーディオ[[アンプ (音響機器)|アンプ]]([[プリアンプ]]、[[パワーアンプ]]、初期には専用端子付きのラジオ)で増幅して、最終的に人間に聞こえる音圧レベルの音声信号として[[スピーカー]]や[[ヘッドフォン]]などに出力する。
レコードプレーヤーとは前述のように、[[コンポーネントステレオ|コンポ]]の一機器として、アンプに微弱な信号だけを出力するが、[[イコライザ|イコライザー]]アンプ(後述)を含むプリアンプを備え、カセットデッキなどの出力信号と同等の強さの信号を出力するものもある。
かつてコンポなどがなかった頃は、プレーヤーといえば、パワーアンプとスピーカを備え、単独でレコード再生できる一体型機器を指した。その中で小型で移動可能なものを'''ポータブル(プレーヤー)'''と呼んでいた。また、[[SP盤]]時代を引きずった1960年代初頭あたりまでは、LPレコード用であっても'''電蓄'''(電気[[蓄音機]]の略)と呼ばれることも多かった。
現在ではレーザー光で音溝を読み取る非接触型のレコードプレーヤーも商品化されている。
== 構成 ==
<!-- ここでは、主として一般向けの単体レコードプレーヤーについて説明する。-->
[[ファイル:Record player 20030708.jpg|thumb|right|300px|(1) ターンテーブル、 (2) トーンアーム、 (3) ピックアップ(カートリッジ)]]
レコードプレーヤーは次のような主要部分からなる。
# [[レコードプレーヤー#ターンテーブル|ターンテーブル]]
# [[レコードプレーヤー#トーンアーム|トーンアーム]]
# [[レコードプレーヤー#ピックアップ(カートリッジ)|ピックアップ(カートリッジ)]]
# [[レコードプレーヤー#筐体(キャビネット)|筐体(キャビネット)]]
ピックアップは、交換可能なモジュールになっているカートリッジ式であることが多い。ピックアップ・カートリッジ、もしくは単にカートリッジと呼ばれる。トーンアームと一体になっていて交換できないものもピックアップまたはカートリッジと呼ばれることがある。
=== ターンテーブル ===
レコード盤を水平に載せて(例外的な一部プレーヤーは角度を選ばない)、一定速度で回転する回転台。台の部分をプラッターもしくはターンテーブル、駆動部をフォノモータと呼ぶ。一般に使われる回転数は、16 2/3・33 1/3([[LP盤]])・45([[EP盤]])・78([[SP盤]])[[rpm (単位)|rpm]]である。但し近年の製品に16 2/3回転と78回転のSP盤対応機は少ない。またSP盤の再生には専用カートリッジ(もしくは専用交換針)が必要である。
初期の蓄音機は[[ぜんまいばね]]を手回しで巻く事によりターンテーブルを駆動し、ガバナーと呼ばれる仕組みで一定速度の回転を得ていた。電気を使うものはモータ([[電動機]])で駆動するが、レコード盤を自動的に一定速度で回転させるためにはモータの回転数を規整しなければならない。初期には[[電力会社]]の供給する交流電源の[[商用電源周波数]] (50/60Hz) を基準として、[[同期電動機|同期モータ]]で一定回転を得ていた。この場合は電源周波数の異なる東日本/西日本を移動する場合に、回転数に対応した調整改造を受ける必要があった。以後、[[サーボモータ|モータサーボ回路]]や[[位相同期回路|PLL]]などの電子技術によって独自にモータの回転数を制御できるようになり、回転数の安定とレコード盤に応じた回転数切り替えなどもモータ側で行えるようになった。また、現在でも安価なもの、および一部のプレーヤー(特にDJ用)には手動式で回転数を調整出来るものがある。
回転をプラッターに伝えるための方法として次のような方式がある。
[[ファイル:Gramofone, Acervo do Museu do Colono (Santa Leopoldina).jpg|サムネイル]]
; アイドラー駆動方式(アイドラードライブ/リムドライブ)
: モーター軸とプラッター内周([[リム (機械)|リム]]の部分)の間にアイドラー(外周がゴムの円盤)を押し当て、減速しつつ回転を伝える方式。
: 多くの場合、モータ軸には径が段階的に変わるスリーブが取り付けてあり、アイドラーの接する位置を機械的に変えることで減速比を変え、回転数を切り替えられるようになっている。電源周波数(50 Hz または 60 Hz)に同期して回転するモーターを使用するものには周波数に対応する2種類のスリーブがあり、地域の電源周波数によって交換する必要がある。多段の回転数の切り替えが比較的容易にできるが、モーターの振動がプラッターのリムまで伝わりやすい。また、アイドラーを接触させたまま止めておくとアイドラーが変形して回転むらを発生するようになる。安価なプレーヤーに多用された方式だが高級品もあり、海外メーカーの[[ガラード]]・ [[EMT]] などのビンテージ品は高価で取引されている。
; ベルト駆動方式(ベルトドライブ)
: モーター軸([[滑車#ベルトドライブ|プーリー]])とプラッターの間にベルトをかけ、減速しつつ回転を伝える方式。
: ベルトはプラッター外周に外から見えるように掛けるタイプと、段付きもしくは二重プラッターを用いて外から見えない位置に掛けるタイプがある。ほとんどの場合ベルトは材質に[[ポリウレタン]]を配合した[[合成ゴム]]の弾性ベルトで、ベルト自体の弾性による張力で掛かっている。アイドラー駆動方式と同様に段付きプーリーを用いて回転数を切り替えるものもあるが、機械的にやや無理があるのでモーター側で回転数を切り替えるものが多い。ベルトがモーターの振動を吸収し、また伸縮により回転むらも吸収できる利点があるが、特定の周波数で共振し逆に回転むらを発生させる可能性もある。ベルトが伸びたり切れたり硬化する、あるいは最悪の場合、水分・湿度・高温などに由来する[[加水分解]]の影響でベルトがプラッターの内側やモーターのプーリーに粘着し、最終的にベルトが[[糊化]]し、溶けてしまうなどの経年劣化があるため、製造メーカーにもよるが、'''1年ごとを目安に新品のベルトに交換することが推奨'''されている。'''[[2022年]]現在、新品で購入可能なレコードプレーヤーの大部分は[[デファクトスタンダード|この方式が主流]]'''となっており、低廉品から高級品まで幅広く用いられている。
: ベルトの代わりに、伸び縮みの少ない糸を使った「糸ドライブ」も存在する。
; 直接駆動方式([[ダイレクトドライブ]])
: モーター軸がプラッターを直接駆動する方式。
: モーターが 33 1/3 rpm など目的の回転速度で回転し、減速や伝達のための機構を持たない方式である(プラッターがモーターの一部となった構造のものもある)。高速回転に起因する振動や伝達機構に起因する回転むらや経年劣化がない。しかしモーター自体が超低速で大トルクを発生し滑らかに回転しなければならないため、サーボ回路を用いた回転速度制御や極数の多い特殊なモーターが必要となる<ref group="注">直接駆動は先にオープンリールテープレコーダーなどで採用されていたが、レコードプレーヤーは回転速度が桁違いに低いため難しい。 4.76 cm/s と低速なコンパクトカセットのキャプスタン軸でも回転速度は 300 rpm 以上ある。</ref>。1970 年<ref group="注">前年の 1969 年に松下電器が SP-10 の発表を行ったが、 1970 年の製品の発売はソニー TTS-4000 の方が早い。また同年には[[デノン|デンオン]]も業務用の直接駆動方式「ステレオ円盤再生機」 DN-302F を発売している。なお、はるか以前の 1929 年に[[トーレンス]]が直接駆動のレコードプレーヤーの特許を取得しているが、当時は[[トランジスタ]]の発明以前であり、ようやく五極管が登場した年では精密な回転速度制御など不可能で、トーレンスがベルト駆動に戻ってしまったのは当然といえる。</ref>当時は高級機のみだったが、日本では急速に低価格化が進み、 1970 年代中頃から 1980 年代にかけてレコードプレーヤー市場を席巻した。当初は [[直流電動機|DC モーター]]を採用するものと [[交流電動機|AC モーター]]を採用するものがあり<ref group="注">松下電器テクニクス SP-10 は DC モーター、ソニー TTS-4000 、デンオン DN-302F は AC モーターであった。</ref>、前者は駆動回路が簡単で済み、高効率で振動や発熱が少なく大トルクを発生させやすい、後者はトルクむらが少なく回転が滑らかなことが利点であるが、徐々に DC モーターが主流となった。トルクむらの一つであるコギングトルクのないスロットレス DC モーター<ref group="注">スロットレス DC モーターにはコギングトルクはないが、トルクむらがないわけではない。</ref>も使用されるようになったが、 DC モーターの利点である効率が悪いとして使いたがらないメーカーもあった<ref group="注">かつての松下電器テクニクスは直接駆動方式レコードプレーヤーのモーターに、 [[テクニクス SL-QL1|SL-QL1]] など僅かな例外を除き、ほとんどスロット付き DC モーターを用いていた。ただし 2016 年になって発売された SL-1200G シリーズではスロットレス DC モーターが採用されている。</ref>。直接駆動方式の欠点として、突然の大きな音(ピアノの立ち上がりなど)でレコード盤と針の間の摩擦が増えて回転速度が落ち、サーボ回路が回転速度を上げようとするためにピッチが不自然に揺らぐといわれるが、制御設計が適切であれば杞憂である。
=== トーンアーム ===
カートリッジをレコード盤に対して適切な位置関係で保持しつつ再生する溝に追従してレコードの外周から内周に動かす機構で、針を溝に対して適切な力(針圧)で接触させる機構も有する。カートリッジ取り付け部と反対側の一端に設けた回転軸を中心にスイングする方式が主流で、アームを支えるベース部分とカートリッジを移動するための'''アーム'''、カートリッジを取り付ける'''ヘッドシェル'''と呼ばれる部分から構成される。アームとヘッドシェルの間をコネクタとしカートリッジ交換を容易にしたものがあり、オルトフォン社が提唱し後に共通規格となったヘッドシェルコネクタを備えた物を'''ユニバーサル・トーンアーム'''と呼ぶ。また、回転軸の替わりにレールを設け、アームが平行に移動する'''リニアトラッキング方式'''と称する方式もある(後述)。
針圧の調整に[[ばね]]などの能動的な圧力を使用する物を'''ダイナミックバランス型'''、錘の調節により重力で針圧を得る物を'''スタティックバランス型'''と呼ぶ。
トーンアームで溝をトレースしつつ、針は溝の振動を拾うため、溝の内周への動きに相当する周波数をカートリッジで拾ってしまうとアームが溝をトレースできなくなる。レコード盤の反りに対しても対応が求められる。従って、カートリッジで再生できる周波数には下限があり、カンチレバーを含めた振動系の[[機械的コンプライアンス|コンプライアンス]](振動系の「追従性:柔らかさ」の指数)とアームのそれを適切に設定する必要がある。オイルによる制動機構、レゾナンスのキャンセル機構などの工夫をした製品も存在する。
==== スイングアーム方式 ====
回転軸を中心に水平・垂直方向にスイングするアームにより針の盤面への接触と音溝への追従を行う。回転軸の抵抗を小さくすることは容易であるため、高級機から廉価品まで大多数の製品がこの方式である。
アームの形状は「S字」「J字」「ストレート」に大別される。J字やS字の形状はそのアームの形状により先端カートリッジ中心軸をトーンアーム中心軸に対して若干内側に向けるためである。ストレート型でも'''ヘッドシェル'''部分が角度を持ってカートリッジを取付けるものが一般的である。この角度を'''オフセット角'''という。また、針先の位置はアーム支点からターンテーブル中心よりも遠くに'''オーバーハング'''する位置に調整され、オフセット角とともに後述するトラッキングエラーを軽減する働きがある。
;トラッキングエラー
:スイングするトーンアームによってカートリッジは音溝に対する相対角度がアームのスイングする角度分変化することになる。正しい角度との差をトラッキングエラー角という。
:トラッキングエラーにより再生信号に歪みが生じるため前述のオフセット角とオーバーハングにより軽減するものが一般的である。より完全な対策として、カートリッジが常に音溝の接線方向を向くように専用の回転軸を持たせる方法も考案されている。
;インサイドフォース
:トーンアームにオフセット角が存在することにより、アームの支点と針先を結ぶ方向と針先が溝の摩擦により引っ張られる方向にズレが生じ、アームがターンテーブル内側、即ち中心方向へ引き寄せられる力が働く。この力を'''インサイドフォース'''と呼ぶ。トーンアームにはこれを打ち消す機構が備わっているものがあり、これを'''インサイドフォース・キャンセラー'''または'''アンチ・スケート'''と呼ぶ。
==== リニアトラッキング方式 ====
回転軸の替わりにレールを設けアームをスライド、針先をレコードの中心に向かって直線的に平行移動させる方式である。タンジェンシャル方式、または日本語で「直線追従方式」ともいう。
スイングアーム方式に比較して、音溝に対する相対角度が変化せずに平行移動するためトラッキングエラーが無く、この対策のオーバーハングもオフセット角によるインサイドフォースの発生も無いという利点がある。また、レコードを再生しながら針圧を変えることもできる。
スライド移動部分をレコード盤面上に設置することにより、本来の意味のトーンアーム部分を比較的短くもしくは殆ど無くすことが出来る。これはスライド質量を減らし動きやすくする効果もある。
アームの移動方法はモーターにより能動的に駆動するものと、音溝によって受動的に移動するものに分けられる。
;受動型
:スライド移動に対する摩擦抵抗を十分に低く抑えることで針先が音溝に導かれる力でアームも共に移動する。摩擦抵抗を減らすために、特に高精度のベアリングや空気浮上式の''エアベアリング''などが使用される。
;能動型
:センサーにより位置検出を行いアームを能動的に駆動する[[サーボ]]機構により音溝に追従する。アームが傾くことによる機械的スイッチによるものからレーザーセンサーによるものまでその精度は様々である。高精度になるほど理想的なトラッキング位置を保つことが出来るが、レコード盤の偏心に過敏に反応しないような調整も必要になる。
=== {{Vanc|ピックアップ}}({{Vanc|カートリッジ}}){{Anchors|T4P規格}} ===
[[ファイル:audio_cartridge.jpg|thumb|right|300px|カートリッジ:写真のものはカートリッジ本体 (1) がヘッドシェル (3) に取り付けられているが、ヘッドシェル一体型のカートリッジもある。 (2) がカンチレバーとスタイラスチップ(針先)の部分。 (4) はトーンアームとのコネクタ部分。 (5) は指掛け。]]
レコードに刻まれた音溝の振幅を電気信号に変換する機構(「'''ピックアップ'''」)。「'''ピックアップカートリッジ'''」「'''フォノカートリッジ'''」とも呼ばれる。実際には「'''カートリッジ'''」と呼ばれることが多く、単に「カートリッジ」では意味不明な場合に「ピックアップカートリッジ」とか「フォノカートリッジ」と呼ばれることが多い。
レコードの音溝を実際に電気信号に変換する部分で、レコードプレーヤーの他の部分は単にこのカートリッジの補助をしているにすぎないとも言える。そのためカートリッジが再生音に与える影響は大きく、カートリッジを高級なものに交換すると再生音が一変することが多い。また高級なカートリッジ同士でも特徴があるため、カートリッジを交換して違いを楽しむことが普通に行われる(普及型レコードプレーヤーではカートリッジが交換できないものもある)。
カートリッジで最も一般的な互換規格は IEC ならびに JIS に準拠したもので、 12.7 mm (1/2 in.) 間隔の取り付け孔を持ち、自重などが適合範囲内であればユーザーが自由に交換可能である<ref group="注">これはカートリッジの機械的な取り付けについてであり、電気的な適合性、たとえばそのフォノイコライザに MC 型カートリッジを接続して使えるかどうかなどはまた別の話である。</ref>。ただし取り付け孔寸法以外の寸法<ref group="注">範囲は決まっているが一意に決まっていない。これは最初から規格があったのではなく、後からできたためである。</ref>や自重、針圧などまちまちであり、必ず使用できるとは限らないばかりか、取り換えた場合いちいち調整しなければならず、ある程度面倒なものである。1979年に[[パナソニック|松下電器(現パナソニック)]]が提唱した T4P 規格<ref group="注">同社のレコードプレーヤー[[テクニクス SL-10]] と付属カートリッジ EPC-310MC で初めて使用された。</ref>は、寸法や自重 (6 g)、針圧 (1.25 g) が標準化されており、またプラグイン方式で配線をつなぐ手間もなく、無調整で交換可能である。しかしこれは IEC/JIS と互換性がなく<ref group="注">T4P 規格カートリッジにアダプターを付けて IEC/JIS 規格カートリッジとして使用することは原理的に可能で、実際にそのようなアダプターも存在するが、 IEC/JIS 規格のカートリッジを T4P 規格のカートリッジとして使用することは通常は不可能。</ref>、現在では T4P 規格のカートリッジ自体が少なくなってしまった。
カートリッジは音溝をトレースする'''スタイラスチップ'''(針先)とこれを支える'''カンチレバー'''、機械的な振動を電気信号に変換する機構、電気信号接続用のピンで構成される。ピンはステレオの場合は通常 4 本 (L+, L-, R+, R-)、モノラルの場合は通常 2 本 (+, -) となる。
'''スタイラスチップ'''(針先)は、[[ダイアモンド]]、[[ルビー]]、[[サファイア]]などの硬度の高い物質で作られており、断面の形状は、円形、楕円形、ラインコンタクト等がある。特に'''ラインコンタクト'''は[[1954年]][[フランス]]のレコード・メーカー'''パテ・マルコーニ'''(Pathé-Marconi:現在のフランスEMI)で考案された「深さ方向に大きい曲率と、小さな実効針先曲率で音溝に接触させて諸特性を改善する」といった提案思想が、柴田憲男の'''4チャンネル針'''(別名「'''シバタ針'''」)で初めて実現化され、チャンネル・セパレーションや周波数特性で大幅な性能向上、およびスタイラスの長寿命化を実現した<ref name="recode_to_recode_player">{{Cite book|和書|author=藤本正熙|coauthors=柴田憲男・村岡輝雄・武藤幸一・佐田無修|editor=井上敏也|title=レコードとレコード・プレーヤー|publisher=ラジオ技術社|year=1979}}</ref>(4チャンネル方式(後述)では、30kHzをキャリアとするFM方式の差分信号を多重しているため、通常のレコードでは全く必要が無いような高周波まで伸びた特性が必要であるため)。
'''スタイラスチップの大きさ'''はレコード盤の種類に合わせて適切なものを用いる。大きさによる種類では、SPレコード用(約3[[サウ|mil]]程度)、モノラルレコード用(約1mil程度)、ステレオレコード用(約0.7mil程度)の3種類がある<ref>{{Cite jis|S|8601|name=ディスクレコード}}、{{Cite jis|S|8516|name=スタイラス}}、IEC PUB 98</ref><ref>{{Cite book|和書|author=海老沢徹|authorlink=|year=|title=フォノ・カートリッジ大全|publisher=アイエー出版|location=東京|pages=29}}</ref>。
'''スタイラスチップの寿命'''については、判定の基準として「曲率の変化、変化比を基準とする。再生歪みを基準とする。磨耗面の幅を基準とする。」方法が考えられるが、針先の形状や使用状況によって'''磨耗'''の状況が異なってくることから一概に「寿命は何時間程度」と定義するのは難しい<ref name="recode_to_recode_player" />。レコード盤面に接触するため機械的な摩耗や摩擦熱などにより消耗・摩滅する。消耗が進んだ針の使用はレコード盤を傷める原因となるため、一定時間おきでの交換が推奨される。
'''カンチレバー'''は、先端にスタイラスチップを装着した細長い棒で、スタイラスチップと反対側に発電機構を備える。スタイラスチップをレコード音溝に押し付ける機能と、音溝の振幅に正確に追従し電気信号に変換する2つの機能を持つ重要な部品である。カンチレバーの形状には、無垢棒、アングル、パイプ、テーパー形状などがある<ref name="recode_to_recode_player" />。カンチレバーのおもな材料は安価で加工が容易な[[アルミニュウム]]や[[ジュラルミン]]などの軽合金が用いられるが、高級品には高度な加工技術を必要とするが音響特性に優れた[[ホウ素|ボロン]]や[[ベリリウム]]が用いられる。
現在使用されている機械‐電気変換方式の主流は電磁型で、その中でも MM 型と MC 型の 2 種類がほとんどである。
; MM (Moving Magnet) 型
: カンチレバー後端部分に磁石を取り付け、カートリッジ本体に固定された磁気回路内に置く。磁気回路にはコイルが巻かれている。針先が動くと磁石が動き、磁気回路の磁束の変化をコイルに発生する[[起電力]]として取り出し、信号出力とする方式。
; MC ([[ムービング・コイル|Moving Coil]]) 型
: カンチレバー後端部分にコイルを取り付け、カートリッジ本体に固定された磁石の磁場内に置く。針先が動くとコイルが動き、コイルに発生する[[起電力]]を信号出力とする方式。コイルは磁性体コアに巻かれているものと、そうでないものとがある。
簡単に言えばコイルが固定されていて磁石が動くのが MM 型、磁石が固定されていてコイルが動くのが MC 型である。
MM 型は MI (Moving Iron) 型から発展したものである。 MI 型とはカンチレバー後端部分に磁性材料を取り付け、磁石もコイルもカートリッジ本体に固定する方式である。なぜそんなことをしたかというと、昔は強力な磁石がなく、直接動かすには磁石が大きく重くなりすぎたからである。しかし強力な磁石が使えるようになると、カンチレバーに超小形の磁石を付けるだけで済み、また磁束の経路がカンチレバー後端から出て戻るだけで完結する MM 型はきわめて合理的な構造となった。しかし MM 型には特許があったため、 1980 年代までは MI 型もよく使われた。
MC型のほうが繊細で高音質とされる(製品によって傾向は異なる)。実際の製品では、MC型は出力電圧がMM型の1/10程度(0.2 - 0.5mV程度)のため、特に高出力を謳った製品でない限りは[[イコライザ|イコライザー]]アンプ(後述)の前段に低雑音の前段増幅器(ヘッドアンプ)または昇圧トランスを必要とする。また、スタイラスチップが磨耗した場合に、構造上MM型がスタイラスチップとカンチレバーを含めた「[[レコード針]]」のみの交換であるものが多い(一部高級品に全体交換のものもあり)のに対し、MC型はカートリッジ全体の交換となるため、交換時の費用はMC型のほうが大きくなる。このように、コスト的にはMMに分があるため、一般用の製品は殆どMM型である。
かつてはMC型でも、発電機構そのものを交換針と一体化する形で針交換が出来る機種<ref group="注">オーディオテクニカ「AT-30E」、パイオニア「PN-33MC」など。</ref>があったが、電気接点が1ヶ所増加する欠点があり、その種類は少なかった。(交換針のみ交換可能な製品も有った。)また、MM型でも放送局での使用を目的として、MC型との互換使用(MC用ヘッドアンプや昇圧トランスを接続したまま使用)を可能とした低出力型があった<ref group="注">DENON「DL-107B」など。</ref>。
そのほか、安価なプレーヤー用には、[[圧電素子]]を用いるセラミックカートリッジやクリスタルカートリッジがある。これらは出力が大きく、変位比例型の特性をもつことからイコライザーアンプを省略することができ、コストを下げられるという利点がある(但し、高音域の特性が劣ること、温度や湿度の影響が大きい、歪みが多いなどの問題点もあり、最近では一部の廉価な機器以外は全く用いられなくなった)。また、(ウェザーズや[[スタックス (イヤースピーカー)|スタックス]]、東芝より商品化されていた)スタイラスの振動に伴う静電容量の変化を用いたコンデンサ型や、マグネットを固定し鉄片が振動するIM (Induced Magnet) 型、MI (Moving Iron) 型、VR (Variable Reluctance) 型も作られた。
[[1960年代]]末頃に、光電素子を用いた発電方式のカートリッジが[[ケンウッド|トリオ]](現・[[JVCケンウッド]])・[[東芝]](現・[[東芝エルイートレーディング]])・シャープから発売されていたが、短命に終わり久しく途絶えていた。2014年に[[デジタルストリーム|DS Audio]]により、1960~70年代当時には難しかった課題を現代の技術で克服した光電式カートリッジが復活した。
==== レコード針生産の縮小と復興 ====
[[2000年代]]からレコード針を生産するメーカーが激減し<ref group="注">中堅以上ではかつての主要メーカーで、倒産した「[[ナガオカトレーディング#旧・株式会社ナガオカ|ナガオカ]]」のOB社員によって1990年に再設立された「[[ナガオカトレーディング]]」、[[オーディオテクニカ]]、[[デノン]]([[デノン コンシューマー マーケティング]])などが存在する。オルトフォンなど、海外メーカー製品や中小の高級品メーカーの製品を含めればこの限りではない。</ref>、カートリッジや消耗品である交換針の入手は「[[ナガオカトレーディング]]」<ref group="注">製造は関連会社の[[ナガオカ (企業)|ナガオカ]](本社・山形県東根市)で請け負っている。</ref>で生産・販売する互換針と自社ブランドのカートリッジや、放送局で使われるDENON製MC型カートリッジ「DL-103」<ref group="注">[[NHK放送技術研究所]]とDENONの共同開発品。</ref>、など一部数機種<ref group="注">audio-technica社製のMC型、MM(VM=PATのオリジナル発電方式)型など。</ref>を除き困難になっていた。海外メーカーのDJ向け機種(スクラッチプレイのために耐久性を上げたもので、基本的に普通のものと変わらない)が楽器店などで販売される他は、マニア向け高級品の流通在庫が細々と一部のオーディオ専門店や[[インターネットオークション]]で販売されている状況となり、一時期、普及型のプレーヤーの交換針は入手が絶望的な状況とさえ言われたが、2010年代以降のレコード再復興により前述のナガオカトレーディング、日本精機宝石工業(JICO)<ref group="注">[http://www.jico.co.jp/ 日本精機宝石工業]</ref>、アーピス・ジャパン<ref group="注">[http://www.apis-jp.com/ アーピス・ジャパン]</ref>などが、互換針・針一体カートリッジの製造・販売を継続して行っている。なお、[[1970年代]]の一時期に生産されていた'''4チャンネル針'''(考案者の柴田憲男の名から'''シバタ針'''とよばれる)旧製品の単体交換針としては高価であるが入手は可能である<ref group="注">2000年代以降の新製品では、中級以上の機種で2チャンネル用として使用される例が若干ある。</ref>。なお1982年[[並木精密宝石]]によって'''マイクロリッジ針'''という4チャンネル針が開発されたが、カートリッジメーカにおいては一部の高級品に採用されている。<!--並木精密宝石の沿革においてマイクロリッジ針が4チャンネル針として紹介されています。-->
==== 4チャンネル方式 ====
{{main|4チャンネルステレオ#CD-4 (Compatible Discrete 4 channel)}}
1970年代前半の一時期に流行した4チャンネルステレオの方式の中に、差分信号を30kHzをキャリアとしてFM方式でレコードに多重記録する方式があり、通常のレコードにはほとんど記録されていない高周波・高振幅の音溝を低歪で再生することが要求される。これらのレコードを再生するには対応したカートリッジおよびレコード針が必要になる。
==== レーザーピックアップ ====
{{main|レーザーターンテーブル}}
レーザー光により非接触で音溝を読み取る方式。1990年代に入るとレーザー光を利用してアナログレコードの再生を行うプレーヤーが登場した。基礎開発は米国シリコンバレーのベンチャー企業だったが、{{仮リンク|エルプ|en|ELP Japan}}がパテントを買い取り実用化した。各世界の放送局や図書館、又は愛好家が利用している。針を盤面に接触させないので磨耗がなく、多少痛んだ盤面や、保存状態が悪く、レコード針ではハムノイズや音とびしてしまうような大幅に反った盤でも再生が可能であり、回転数も任意に調整可能でLP・SP・ドーナツ盤の別なく再生可能であるメリットはあるが、レーザー光を透過してしまう[[青盤]]、赤盤等を含むクリア盤は掛けられない。
=== 筐体(キャビネット) ===
ターンテーブルとトーンアームとを機械的に結合しレコードプレーヤーとする土台。ターンテーブルとトーンアームは位置関係が固定されなければならないので固い一体の部材に取り付けられるが、床を伝わってくる振動や音響による振動を防止するために、筐体を二重構造としターンテーブルとトーンアームを取り付けた部材をばねやゴムで浮かす方式や、逆に単一の重量のある頑丈な筐体とする方式などがある。底面の足はばねやゴムを内蔵し振動を吸収する[[インシュレーター]]とすることが一般的である。
=== 付属機構 ===
* トーンアームの上げ下げには、レコードの溝を傷つけたりカンチレバーにストレスを与えないように操作するのにコツが要るが、その扱いを少しでも容易にするために'''アームリフター'''という機構が付属している事は通例である。また、モーター制御で針先を自動的にレコード盤の外周部や任意の場所(一部機種では任意の曲の頭)に降ろしたり、再生終了あるいは任意の時点でアームを上げて元の位置に戻す機構(オートリターン)を備えたプレーヤー(オートプレーヤー)も多い。アームに触れずに全ての操作が可能な機種を「フルオートプレーヤー」、オートリターンのみの機種を「セミオートプレーヤー」と呼ぶ。反してオート機能の付いていないプレーヤーを特に「マニュアルプレーヤー」と呼ぶ事もある。オーディオマニア用には、余計な機構は好まれないため、アームの上下だけを行うアームリフターのみを装備するのが普通である。
* ほとんどのプレーヤーがターンテーブルの回転数を切り替える仕組みを持つが、回転数が電源周波数に影響される機種では、使用する地域によってモーター回転数を補正するための機構を持っていた。さらに、回転数の微調整(ピッチコントロール)が可能な機種もある。モーターに加える電圧や発振周波数を変化させることによるものが一般的だが、一部の機種には機械的に微調整を行うものもあった。
* 1960年代後半まで(一部のメーカーでは1980年代まで)は複数のレコードを連続演奏することが可能な機種も存在した(オートチェンジャー、ジュークボックス)。一般家庭向けのオートチェンジャーでは特殊な長い[[軸 (機械要素)|スピンドル]]を装着してレコード(主にLPレコード、初期に45回転専用プレーヤーでは太いスピンドルを使用)を宙に浮かせるように重ね合わせ、1面の演奏が終了するごとに1枚ずつターンテーブル上に落下させる機構が用いられた。店舗内演奏用の[[ジュークボックス]](オートチェンジャー機能は必須)においてはアーム(トーンアームではない)によりシングルレコード(古くはSP盤)を交換する機構が用いられた。
*欧米ではかつて車載用レコードプレーヤーが売り出された([[モハメド・アリ]]が所持していた)。
== 関連機器 ==
=== フォノイコライザー ===
{{Commons|Category:RIAA equalization|RIAA イコライザ}}
[[画像:RIAA-EQ-Curve rec play.svg|thumb|RIAA イコライザーカーブ<br />青点線:録音時<br />赤線:再生時]]
[[画像:Coarsegroove EQ curves.svg|thumb|SP 盤時代における各社の録音イコライザー特性]]
[[画像:Pre-RIAA LP replay equalization curves.svg|thumb|RIAA 規格統一前における各社の録音イコライザー特性]]
[[ダイナミックレンジ]]を有効活用するため、カッティング時に周波数特性に対しエンファシスが施される。したがって再生時には等化(イコライズ)が必要となり、またピックアップ出力はほとんどの場合微弱なので増幅が必要で、ピックアップ出力を受ける等化特性を持ったアンプはフォノイコライザーと呼ばれる。
カッターの特性は入力信号と速度が対応する速度形だが(正確には補正によってそう見えるようにしている)、この特性のままカッティングすると低域ほど振幅が大きくなり、カッターの振幅限界を超えたり再生時のトレースが困難になる上に、隣接する音溝と接しないよう音溝ピッチを広くとらなくてはならず、また垂直方向の振幅も大きくなるので音溝を深く切ると音溝自体も太くなり、記録できる時間が短くなる。一方、高域では振幅が小さくなり、 S/N が悪化する。このためカッティング時に 6 dB/oct. で高域をブーストし、周波数に対してほぼ定振幅となるようにする。ただし完全に定振幅にすると高域で速度が上がり過ぎ、音溝を切ることが物理的に不可能になったり<ref group="注">カッター針の厚みがあるので音溝を切れる角度に制限がある。</ref>、再生時のトレースが不可能になったりするので、完全な定振幅ではなくやや高域を抑えた特性とするのがよい。各[[レコードレーベル]]ともおおむねそのような特性でカッティングしていた。しかしモノラル時代はその特性が統一されておらず、再生時にレーベルに合わせてイコライザー特性を切り替える必要があった。
しかし [[RCA]] が1952年から使い始めた "New Orthophonic" イコライザー特性と同じものが翌1953年に [[RIAA]] により推奨され、 45-45 ステレオレコードに関してはこの RIAA イコライザー特性<ref group="注">時定数 3180 μs (50 Hz), 318 μs (500 Hz), 75 μs (2122 Hz)。</ref>に統一された<ref group="注">実はそうなっていないという説もあるが、たとえ現代の装置で他のイコライザー特性で再生する方が自然に聴こえるとしても、そのレコードがそのイコライザー特性で再生されることを前提に作られたとはいえない。もともと各イコライザー特性の差異はさほど大きくない上に、1960年代までのピックアップやオーディオ装置の特性は現代ほど平坦ではなく、当然ながら当時のレコードは当時の装置で当時の感覚で聴かれることを想定して作られているからである。また、たとえカッティング設備のイコライザー装置が旧来のものだったとしても、それで制作されたレコードのイコライザー特性が旧来のままとは限らない。イコライザー特性とは単なる周波数特性なので、カッティング設備のどこかに差分の補正回路を入れればイコライザー特性は変わってしまう。</ref>。現在市販されているフォノイコライザーの特性は基本的にこの RIAA イコライザー特性である<ref group="注">IEC 60098 では RIAA イコライザー特性の時定数に加え、サブソニックを抑える目的で再生時に 7950 μs (20 Hz) の HPF を推奨していた。しかしこれは普及せずに終わった。</ref>。
上述のように音溝は周波数に対しほぼ定振幅で切られているので、振幅に対応した出力を出す振幅形のピックアップを使えばイコライザーの補償量が少なくて済む。振幅形の圧電型ピックアップは負荷インピーダンスを選ぶことでほぼ等化できてしまう上に出力電圧が大きいのでアンプが非常に簡単で済み、安価なポータブル電蓄などに賞用された。もっと高級なものでは圧電型ピックアップカートリッジ内にバッファアンプを内蔵したものも作られた。コンデンサ型・光電型・半導体型ピックアップなども振幅形で、やはりイコライザーの補償量が少なくて済んだが、これらは電源が必要な上に相互に互換性がなかった。
これら振幅形のピックアップに標準となりうる実力があったかなかったかは議論のあるところだが、史実として[[コンポーネントステレオ]]では MI 型・ MM 型・ MC 型など速度形の電磁型ピックアップが標準となり、アナログレコード時代のアンプは電磁型ピックアップ用のフォノイコライザーを内蔵し、レコードプレーヤー接続専用のフォノ入力端子を備えるのが普通となった(フォノ入力端子とは内蔵フォノイコライザーの入力端子そのものである)。
しかし記録媒体がレコードから [[コンパクトディスク|CD]] に移行すると、アンプからフォノイコライザーが省略されるようになった。単体のフォノイコライザーも現れたが、むしろレコードプレーヤーがフォノイコライザーを内蔵するようになった<ref group="注">繊細なピックアップ出力を長く引き回さずに済むので、業務用レコードプレーヤーではアナログレコード時代から普通だった形態である。</ref>。更にはレコードプレーヤーでデジタルデータ化を行う、 USB 端子を備えたものも現れた。
フォノイコライザー入力は一般のオーディオ入力より高感度なので<ref group="注">ピックアップの標準である MM 型カートリッジの出力電圧が低いためである。オーディオのアナログ信号による一般相互接続の基準動作レベルは 200 mV<sub>r.m.s.</sub> なのに対し、 MM 型カートリッジの基準動作レベルは 1 kHz において 2 mV<sub>r.m.s.</sub> 程度であり、約 1/100 (−40 dB) にすぎない。すなわちフォノイコライザの電圧感度は 1 kHz において一般のオーディオ入力の 100 倍 (+40 dB) 程度である。</ref>、レコードプレーヤー以外の機器やフォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤー(フォノイコライザー出力は一般のオーディオ出力となる)を接続すると歪んだ大音量が出てスピーカーなどを損傷する恐れがある。フォノイコライザーを内蔵するレコードプレーヤーも内蔵フォノイコライザーをスルーさせれば内蔵していないレコードプレーヤーと同等になるが、設定を間違えないようにしなければならない。
MM 型などのカートリッジは負荷インピーダンスにより高域特性が変化する。そのため入力抵抗を切り替えられるフォノイコライザーもあるが、 MM 型では 47 kΩが標準である。負荷容量によっても特性は変化するが、入力容量を切り替えられるフォノイコライザーはあまりない。負荷抵抗はフォノイコライザーの入力抵抗と同一とみなせるが、負荷容量はフォノイコライザーの入力容量に接続ケーブルの容量が加わることになるので注意が必要である<ref group="注">負荷抵抗もフォノイコライザの入力抵抗と接続ケーブルの絶縁抵抗が並列となるが、絶縁抵抗は 1 MΩ以上とれるため無視できる。これに対し負荷容量は接続ケーブルの容量が 100 pF 以上もあり、フォノイコライザの入力容量とあまり変わらないので無視できない。</ref>。
MC 型カートリッジの出力電圧は通常 MM 型カートリッジの更に 1/10 (−20 dB) 以下であるため、 MM 型用フォノイコライザーを使用する場合はフォノイコライザーの前に昇圧トランスもしくはヘッドアンプを接続する必要がある<ref group="注">少数ながら MM 型カートリッジと同程度の出力電圧を有する MC 型カートリッジも存在し、それらは MM 型と同様に接続して使用できる。むしろ MM 型と同様に接続しなければならない。</ref>。なお、よく誤解されているが、昇圧トランスに記されている一次側インピーダンスの値(10 Ωなど)は適合する MC 型カートリッジのインピーダンスの値であり、昇圧トランスの入力インピーダンスの値ではない。入力インピーダンスの値は通常その 5 倍以上ある。ヘッドアンプや MC 型用フォノイコライザーの入力インピーダンスは 100 Ωが標準である。
多くの場合、レコードプレーヤーにはアース端子またはアース線が付いているが、これは保安のためのアースではなく雑音防止のためのアースである。通常はフォノイコライザーのアース端子に接続するが、別体の昇圧トランスやヘッドアンプを使用する場合はそちらのアース端子に接続し、昇圧トランスやヘッドアンプのアース線をフォノイコライザーのアース端子に接続する。ただしフォノモーターのアースはフォノイコライザーのアース端子に接続する。
== 主要ブランド ==
=== 現行ブランド(括弧内は実際の製造事業者)===
* [[デノン|DENON]] ([[デノン コンシューマ マーケティング]])- CD登場以降も撤退することなくプレーヤーの製造販売を継続している。かつては放送局用機器の開発成果を生かした高級機を得意とした。
* [[ラックスマン|Luxman(ラックスマン)]] - 2011年に28年ぶりの新製品PD-171で再参入。高価格のモデルが中心。
* [[ティアック|TEAC(ティアック)]] - 2014年より新製品を相次いで投入し豊富なラインナップを持つ。米VPI社製プレーヤーの日本代理店業務も行う。
* [[Technics]]([[パナソニック]]〈二代目〉) - 2016年に[[Technics SL-1200|SL-1200GAE]]を限定発売し6年ぶりに再参入。10万円台前半~100万円台後半の比較的高価格のモデルが中心。
* [[SPEC]] - 2010年設立の日本メーカー。
* [[ソニー|SONY(ソニー〈二代目〉)]] - PS-LX300USBの1機種のみとなっていたが2016年に上位機PS-HX500を追加。
* [[ヤマハ|YAMAHA]]([[ヤマハミュージックジャパン]]) - 2018年10月に再参入。
* [[オーディオテクニカ|audio-technica]] - カートリッジのメーカーであり、かつては自走式トイプレーヤーなどが多かったが、近年は本格的なプレーヤーも展開している。
* {{仮リンク|inMusic|en|inMusic Brands}} - ION AUDIOブランド、AKAI professionalブランドで数機種を発売している。
* [[トーレンス|THORENS]] - スイスの老舗音響機器メーカー。多彩なラインナップを持つ。
* {{仮リンク|エルプ|en|ELP Japan}} - [[レーザーターンテーブル#ELPJ_レーザーターンテーブル:_技術仕様|レーザーターンテーブル]]を製造販売している。
* {{仮リンク|Pro-ject Audio|label=Pro-ject|en|Pro-Ject}} - 1991年に設立されたオーストリアのメーカー。
* [[オーム電機 (東京都)|AudioComm]] - 低価格なスピーカー搭載の一体型システムを展開。
* [[Pioneer DJ]] - 2014年に「PLX-1000」を発売、2016年には廉価モデルの「PLX-500」を投入。
* [http://shop.jico.co.jp/ JICO 日本精機宝石工業株式会社] -約2,200種類を日本国内で一貫生産しており、廃番になったレコード針の修理サービスを行っている。
* [[とうしょう]] - ポータブルモデルやFM/AMチューナー・カセットデッキ・[[CDレコーダー]]併載モデルなど多彩なラインナップを展開。
* [[小泉成器]] - レコードプレーヤー・[[CDプレーヤー]]・[[USBメモリー]]レコーダー・[[FM補完中継局|ワイドFM]]対応FM[[チューナー]]一体型[[ミニコンポ]]「SAD-9801」を2017年2月に発売。
* [[クマザキエイム|Bearmax(クマザキエイム)]] - 小型ポータブルモデル「フォノクリッパー」から一体型コンポ(CDプレーヤー・ラジオ・USB/SDレコーダー・カセットデッキ併載モデル)まで多彩なラインナップを展開。
=== 撤退メーカーないしはブランド ===
* [[アイワ|aiwa(アイワ〈二代目〉)]] - 2018年2月にAPX-BUE100を発売したが、早々に生産終了。
* [[オンキヨーホームエンターテイメント|ONKYO(オンキヨーホームエンターテイメント、]][[オンキヨーテクノロジー|現・オンキヨーテクノロジー]]/ティアック) - 2015年にPX-55F以来30年ぶりの新製品CP-1050で再参入したが2022年5月の経営破綻によりそのまま撤退。
* [[パイオニア|Pioneer]](ホームAV事業部、現・オンキヨーテクノロジー/ティアック) - PL-J2500は2015年のオンキヨーグループ(→[[オンキヨー&パイオニア]]→[[オンキヨーホームエンターテイメント]]→オンキヨーテクノロジー)への事業譲渡に伴う引継ぎは行われずそのまま撤退。ブランドとしては上述のPioneer DJ販売のプレーヤーで復活。
* [[ベスタクス|Vestax]] - 2014年12月破産。ポータブル、リスニング用も展開していた。
* [[ケンウッド|KENWOOD]]([[JVCケンウッド]]) - P-110が2013年に生産終了。前身のトリオ時代からCD全盛の1980年代末期まで精力的な開発を続けた。
* [[日本マランツ|marantz]](ディーアンドエムホールディングス) - TT-15S1が2013年に日本国内向け生産終了。海外では複数の機種が販売されている。
* [[イメーション|TDK Life on Record]](現・[[グラスブリッジ・エンタープライゼス]]) - 2011年にSP-XA2002で参入したものの2年余で生産終了。
* [[エグゼモード|EXEMODE]] - 2011年にエグゼモード単体による製品開発と販売事業を中止した。
* [[ニッパー (犬)|Victor]](ただし海外向けはJVC〈NIVICO〉)([[日本ビクター]]、現・JVCケンウッド)- AL-E350を最後に撤退したとみられる。1995年にHMVシリーズQL-V1を発売した。
* [[マイクロ精機|MICRO]] - かつての名門ブランドであったが1990年代に入るとメーカーとしての活動は停滞。
* [[バッファロー (パソコン周辺機器)|MELCO]]([[メルコホールディングス]]) - オーディオ機器メーカーとして創業、1978年に糸ドライブの3533を発売。後にPC周辺機器中心となるが、2010年代に入りネットワークオーディオの新ブランド「DELA」を立ち上げ、オーディオに再度参入。
* [[Aurex]] - かつて[[東芝]]が主にピュアオーディオ機器に使用していたブランド。末期はケンウッドとの共同開発となっていた。その後、2016年春より同社の子会社の[[東芝エルイートレーディング]]から販売されるプレミアムゼネラルオーディオのブランドとして復活を果たした。
* [[DIATONE]] - [[三菱電機]]のオーディオブランド。縦型プレーヤーなどで存在感を放った。
* [[Lo-D]] - [[日立製作所]]のオーディオブランド。モーター、IC、物性工学など日立の総合力を活かした製品を展開。
* [[三洋電機|OTTO]] - [[三洋電機]]のオーディオブランド。1970年代には生活家電メーカーも音響機器に参入し独自のアイデアを競っていた。
* [[ノバック|NOVAC]] - 元々はパソコン周辺機器メーカーだが、その一環としてデジタル変換機能つきプレーヤーの販売に参入した。2018年12月28日付で東京地方裁判所より破産手続の開始決定を受け倒産。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!--Wikipediaの標準的なスタイルに合わないので、コメントアウト。記事中にある問題の指摘はノートにお願いします。--><!--
3の注意指摘におけるナガオカが倒産したと言う記述は誤りである。
正しくは、戦後から昭和時代及び平成年間において黒字経営のまま解散した日本経済の歴史に残る決断を下した企業である。当時の資本金は約5億と言われその資本及び所有財産(大塚の本社ビル等)の殆どを解散時に売却し当時の役員会議の決断により解散を決定した。平成に至る現在においても億単位の資本金を持つ企業が黒字経営の状態で解散した前例は殆どと言って良いほど存在しない。
-->
== 参考文献 ==
{{Refbegin|2}}
* 『やさしいレコードプレヤーの組立方』 ラジオ電化新聞社 [[1950年]]
* 榎並利三郎 著 『電氣蓄音機の作り方』 [[オーム社]] [[1951年]]
* 藤田不二・[[高城重躬]] 著 『LP事典』 [[鱒書房]] [[1953年]]
* オーム社 編 『LP電蓄製作入門』 [[オーム社]] [[1960年]]
* [[岡原勝]] 著 『ステレオ再生の基礎』 [[ラジオ技術社]] [[1962年]]
* [[電子展望]] 編 『最新ピックアップ・カートリッジ・ハンドブック』 [[誠文堂新光社]] [[1970年]]
* 山本武夫 著 『レコードプレーヤ』 [[NHK出版]] [[1971年]]
* [[品川無線#創業者|朝倉昭]] “レコードプレーヤのまとめ方(カートリッジ、トーンアーム、ターン・テーブルの解説)” 『ステレオ・マニア製作読本』《初歩のラジオ別冊》 [[誠文堂新光社]] [[1972年]]
* 山川正光 著『オーディオ製作(2) レコードプレーヤ スピーカ編』 オーム社 [[1974年]]
* {{Cite book|和書|editor=[[井上敏也]] 監修 |title=プレーヤー・システムとその活きた使い方 |publisher=[[誠文堂新光社]] |year=1977 |ncid=BN11218807 }}
* 長島達夫 著 季刊ステレオサウンド別冊 HIGH-TECHNIC SERIES 2 『図説・MC型カートリッジの研究』 [[1978年]]
* 岡原勝・[[中島平太郎]]・朝倉昭 共著『オーディオハンドブック』 [[オーム社]] [[1978年]]
* {{Cite book|和書|editor=井上敏也 監修 |title=レコードとレコード・プレーヤ |publisher=[[ラジオ技術社]] |year=1979 |ncid=BN03146347 }}
* 海老沢徹 著『ハイファイ・スケッチ』 大阪ケーブル株式会社 音響機器事業部 [[1985年]]
* 玉川長雄 著 『ターンテーブル裏返史 プレーヤを支えた人達』 [[1986年]]
* 山川正光 監修 『世界のレコードプレーヤー百年史』 [[誠文堂新光社]] [[1996年]]
* 海老沢徹 著 『フォノ・カートリッジ大全』 [[アイエー出版]] [[2005年]]
* 『クラシックジャーナル』036号「特集:エルプのレーザーターンテーブル徹底解剖!」 [[アルファベータ社]] [[2009年]]
{{Refend}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Record players}}
{{ウィキポータルリンク|音響・映像機器}}
* [[蓄音機]]
* [[レコード]]
* [[録音再生機器]]
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[http://www.obsinren.com/pdf/np79-14.pdf レコードプレーヤーの話 蓄音機から電蓄(電気蓄音機)ポータブルプレーヤーからステレオへ]|684 [[キビバイト|KiB]]}}
{{DJとターンテーブリズム}}
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{{DEFAULTSORT:れこおとふれえやあ}}
[[Category:レコードプレーヤー|*]]
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10,828 |
バンド端発光
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バンド間遷移による発光過程は数多くあるが、そのうち価電子帯の上端の正孔と伝導帯の底の電子が再結合することによる発光をバンド端発光(バンドたんはっこう, 英: Band edge emission)と言う。バンドギャップに等しいエネルギー(波長)を持つ光が放出される。
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[[バンド間遷移]]による発光過程は数多くあるが、そのうち[[価電子帯]]の上端の[[正孔]]と[[伝導帯]]の底の[[電子]]が再結合することによる発光を'''バンド端発光'''(バンドたんはっこう, {{lang-en-short|Band edge emission}})と言う。[[バンドギャップ]]に等しいエネルギー(波長)を持つ光が放出される。
== 関連項目 ==
* [[物性物理]]
* [[半導体]]
== 外部リンク ==
* {{Cite book|title=光材料・デバイスの技術開発|publisher=CMC Publishing Co.,Ltd|year=2008|pages=72-73|author=八百隆文|url=https://books.google.co.jp/books?id=scpyxMG5eB8C&pg=PA72|series=CMC テクニカルライブラリー 第 279 巻|accessdate=2021-10-29|language=ja|isbn=9784882319603}}
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10,829 |
バンド間遷移
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バンド間遷移(バンドかんせんい)は、荷電子帯と伝導帯との間の遷移のことである。
バンド間遷移とは、半導体や絶縁体における荷電子帯の電子がエネルギーを吸収して伝導帯へと励起されること、またはその逆で伝導帯に励起された電子が荷電子帯へと緩和することである。
荷電子帯の最上部と伝導帯の最下部の波数が等しい場合のバンド間遷移を直接遷移と呼び、異なる場合を間接遷移と呼ぶ。直接遷移では波数のやりとりがないが、間接遷移にはある。
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バンド間遷移(バンドかんせんい)は、荷電子帯と伝導帯との間の遷移のことである。
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| 出典の明記 = 2021年6月13日 (日) 10:55 (UTC)
| 特筆性 = 2021年6月13日 (日) 10:55 (UTC)
}}
'''バンド間遷移'''(バンドかんせんい)は、[[価電子帯|荷電子帯]]と[[伝導帯]]との間の[[遷移]]のことである。
== 概要 ==
'''バンド間遷移'''とは、[[半導体]]や[[絶縁体]]における[[価電子帯|荷電子帯]]の[[電子]]が[[エネルギー]]を吸収して[[伝導帯]]へと[[励起]]されること、またはその逆で[[伝導帯]]に[[励起]]された電子が[[価電子帯|荷電子帯]]へと[[緩和]]することである。
== 直接遷移と間接遷移 ==
[[価電子帯|荷電子帯]]の最上部と[[伝導帯]]の最下部の[[波数]]が等しい場合のバンド間遷移を'''直接遷移'''と呼び、異なる場合を'''間接遷移'''と呼ぶ。'''直接遷移'''では波数のやりとりがないが、'''間接遷移'''にはある。
== 関連項目 ==
*[[バンドギャップエネルギー]]
*[[バンド理論]]
*[[励起子]]
*[[物理学]]
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[[Category:固体物理学]]
[[Category:電磁気学]]
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10,830 |
サブバンド
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サブバンドとは、エネルギー準位(バンド)の一種。量子井戸や量子細線、量子ドットなどの量子構造において、縮退したバンドが分裂して複数のバンドに分かれる。この分かれたバンドをサブバンドと呼ぶ。
サブバンドのバンド間遷移は通常の遷移に比べて高速なため、光デバイスへの応用の際に、応答速度の向上が期待できる。
より一般的に、系のバンド構造において外場や対称性の変化などの影響で、縮退していたバンドが分裂した後の個々のバンドのことをサブバンドと言う場合がある。
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サブバンドとは、エネルギー準位(バンド)の一種。量子井戸や量子細線、量子ドットなどの量子構造において、縮退したバンドが分裂して複数のバンドに分かれる。この分かれたバンドをサブバンドと呼ぶ。 サブバンドのバンド間遷移は通常の遷移に比べて高速なため、光デバイスへの応用の際に、応答速度の向上が期待できる。 より一般的に、系のバンド構造において外場や対称性の変化などの影響で、縮退していたバンドが分裂した後の個々のバンドのことをサブバンドと言う場合がある。
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{{複数の問題
| 特筆性 = 2023年3月
| 出典の明記 = 2023年3月
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'''サブバンド'''とは、[[エネルギー準位]](バンド)の一種。[[量子井戸]]や[[量子細線]]、[[量子ドット]]などの量子構造において、縮退したバンドが分裂して複数のバンドに分かれる。この分かれたバンドを'''サブバンド'''と呼ぶ。
サブバンドの[[バンド間遷移]]は通常の遷移に比べて高速なため、光デバイスへの応用の際に、応答速度の向上が期待できる。
より一般的に、系の[[バンド構造]]において外場や対称性の変化などの影響で、縮退していたバンドが分裂した後の個々のバンドのことをサブバンドと言う場合がある。
==関連項目==
*[[物性物理]]
*[[半導体]]
*[[バンド理論]]
[[Category:固体物理学|さふはんと]]
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10,832 |
Telnet
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Telnet(テルネット Teletype network)とは、IPネットワークにおいて、遠隔地にあるサーバやルーター等を端末から操作する通信プロトコル、またはそのプロトコルを利用するソフトウェアである。RFC 854で規定されている。
Telnetクライアントは、Telnetサーバとの間でソケットを開き、単純なテキストベースの通信を行う。基本的にはポート番号23番を使用する。
認証も含めすべての通信を暗号化せずに平文のまま送信するため、パスワードの窃取は比較的容易である。同様の機能を有する代替プロトコルとしては、情報を暗号化して送信するSSHが知られている。
UNIXは当初からホストを複数のユーザが同時に使用することを前提に開発されており、IPネットワークやTelnetの登場以前から、シリアルポート等に複数の端末を接続して使用できた。この端末とホストの通信を、IPのネットワーク上で担ったのがTelnetクライアントプログラムと、その通信手順を規定したTelnetプロトコルである。
なお、クライアントによってはVT100などの端末エミュレータとして動作し、テキストモードだけでなく画面モードを実現するものもある。さらに、Telnetプロトコルをバイナリモードで使用し、IBM 3270のデータストリームを転送することでIBM 3270端末をエミュレートするためのTN3270プロトコルも開発された。
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"text": "認証も含めすべての通信を暗号化せずに平文のまま送信するため、パスワードの窃取は比較的容易である。同様の機能を有する代替プロトコルとしては、情報を暗号化して送信するSSHが知られている。",
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Telnetとは、IPネットワークにおいて、遠隔地にあるサーバやルーター等を端末から操作する通信プロトコル、またはそのプロトコルを利用するソフトウェアである。RFC 854で規定されている。
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{{IPstack}}
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'''Telnet'''('''テルネット Teletype network''')とは、[[Internet Protocol|IP]]ネットワークにおいて、遠隔地にある[[サーバ]]や[[ルーター]]等を[[端末]]から操作する[[通信プロトコル]]、またはそのプロトコルを利用するソフトウェアである。{{IETF RFC|854}}で規定されている。
== 概要 ==
Telnetクライアントは、Telnetサーバとの間で[[ソケット (BSD)|ソケット]]を開き、単純なテキストベースの通信を行う。基本的には[[ポート番号]]23番を使用する。
== 脆弱性 ==
認証も含めすべての通信を[[暗号化]]せずに[[平文]]のまま送信するため、[[パスワード]]の窃取は比較的容易である。同様の機能を有する代替プロトコルとしては、情報を暗号化して送信する[[Secure Shell|SSH]]が知られている。
== その他 ==
[[UNIX]]は当初から[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]を複数のユーザが同時に使用することを前提に開発されており、IPネットワークやTelnetの登場以前から、[[シリアルポート]]等に複数の端末を接続して使用できた。この端末とホストの通信を、IPのネットワーク上で担ったのがTelnetクライアントプログラムと、その通信手順を規定したTelnetプロトコルである。
なお、クライアントによっては[[VT100]]などの[[端末エミュレータ]]として動作し、テキストモードだけでなく画面モードを実現するものもある。さらに、Telnetプロトコルをバイナリモードで使用し、[[IBM 3270]]のデータストリームを転送することでIBM 3270端末をエミュレートするためのTN3270プロトコルも開発された。
== 代表的なTelnetクライアント ==
* [[Tera Term]]
* [https://www.netsarang.com Xshell]
* {{仮リンク|NCSA Telnet|en|NCSA Telnet}}
* [[PuTTY]]
== TELNETに関連するRFC ==
* {{IETF RFC|215}} - NCP、ICP、and TELNET [[1971年]]8月
* {{IETF RFC|736}} - TELNET SUPDUP Option [[1977年]]10月
* {{IETF RFC|764}} - TELNET PROTOCOL SPECIFICATIONS [[1980年]]6月
* {{IETF RFC|854}} - TELNET PROTOCOL Specification [[1983年]]5月
* {{IETF RFC|855}} - TELNET OPTION SPECIFICATIONS 1983年5月
* {{IETF RFC|884}} - TELNET TERMINAL TYPE OPTION 1983年12月
* {{IETF RFC|1205}} - 5250 Telnet Interface [[1991年]]2月
* {{IETF RFC|1372}} - Telnet Remote Flow Control Option [[1992年]]10月
* {{IETF RFC|1408}} - Telnet Environment Option [[1993年]]1月
* {{IETF RFC|1412}} - Telnet Authentication:SPX 1993年2月
* {{IETF RFC|1416}} - Telnet Authentication Option 1993年2月
* {{IETF RFC|2355}} - TN3270 Enhancements 1998年6月
* {{IETF RFC|2946}} - Telnet Data Encryption Option 2000年9月
{{OSI}}
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|0854]]
[[Category:telnet]]
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Dynamic Host Configuration Protocol
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Dynamic Host Configuration Protocol(ダイナミック ホスト コンフィギュレーション プロトコル、DHCP)は、IPv4ネットワークで使用されるネットワーク管理プロトコルであり、コンピュータがネットワークに接続する際に必要な設定情報を自動的に割り当てるために使用する。 BOOTPにリース機能を追加してDHCPとなっている。
DHCPサーバは、IPアドレス等のネットワーク構成設定をネットワーク上の各デバイスに動的に割り当て、他のIPネットワークと通信できるようにする。DHCPサーバを使用すると、コンピュータは自動的にIPアドレスとネットワーク設定を要求でき、ネットワーク管理者やエンドユーザが全てのネットワークデバイスに手動でIPアドレスを割り当てる必要がなくなる。
DHCPは、ホームネットワーク(英語版)から大規模なキャンパスネットワーク(英語版)、地域のインターネットサービスプロバイダネットワークまで、様々な規模のネットワークに実装できる。ほとんどのルータまたはホームゲートウェイは、DHCPサーバとして機能させることができ、ローカルネットワーク内において、ネットワークに接続されている各デバイスにローカルIPアドレスを割り当てることができる。
UDP/IPは、あるネットワーク上のデバイスが別のネットワーク上のデバイスと通信する方法を定義する。DHCPサーバは、IPアドレスを自動的または動的にデバイスに割り当てることによって、ネットワーク上のデバイスのUDP/IP設定を管理できる。
DHCPはクライアントサーバモデルに基づいて動作する。コンピュータがネットワークに接続したとき、当該のコンピュータ内のDHCPクライアントソフトウェアはDHCPクエリをブロードキャストで送信し、必要な設定情報を要求する。DHCPクエリは、ネットワーク上のどのDHCPサーバーでも処理できる。DHCPサーバは、プールされたIPアドレス、デフォルトゲートウェイ、ドメイン名、DNSサーバ、タイムサーバ(英語版)などのクライアント構成パラメータに関する情報を管理している。DHCP要求を受信したDHCPサーバは、管理者が以前に設定したクライアントごとに特定の情報、もしくはネットワーク全体に有効なアドレスその他の情報、および割り当て(リース(lease))た情報が有効な期間を返信する。DHCPクライアントは通常、起動直後、およびその後定期的に情報の有効期限が切れる前にこの情報を照会する。DHCPクライアントが割り当てを更新するとき、最初は同じパラメータ値を要求するが、DHCPサーバは管理者が設定した割り当てポリシーに基づいて新しいアドレスを割り当てることがある。
複数のリンクで構成される大規模ネットワークでは、相互接続ルータ上に配置されたDHCPリレーエージェントによって、単一のDHCPサーバでネットワーク全体にサービスを提供することができる。DHCPリレーエージェントは、異なるサブネット上にあるDHCPクライアントとDHCPサーバとの間でメッセージを中継する。
DHCPは、IPv4とIPv6のどちらでも使用される。どちらのバージョンでも目的は同じであるが、IPv4とIPv6のプロトコルの詳細は大きく異なることから別のプロトコルと見なされる。IPv6のDHCPはDHCPv6と呼ばれ、 RFC 8415 で定められている。DHCPv6はDHCPv4とは互換性がないが、IPv6だけでなくIPv4のアドレスを割り当てることもできる。IPv6では、IPアドレスとネットマスクの情報をIPv6自体のアドレス自動設定機能により取得することもできるが、DNSサーバやNTPサーバなどほかの情報も自動取得するためにはDHCPが必要になる。
DHCPサーバがIPアドレスを割り当てる方法には以下の3つがあり、サーバの設定により選択することができる。
いずれの方法でも、通常配信されたIPアドレスはDHCPサーバーからリース(貸与)されたものとなっており、永続的に適用出来るものではない。貸与期間の有効期限はDHCP Optionとして配信される。Optionの値は32bit値で単位は秒のため、1秒〜約136年の間で指定が可能である。リース期間は延長が可能であり、リース期間の50%の時間が経過した際(T1と呼ばれる)と87.5%の時間が経過した際(T2と呼ばれる)に延長承認をDHCPサーバーから得るよう動作させることがRFCで定められている。この機能により、リース期間が短く設定されたDHCP環境であっても、DHCPクライアントが継続的に同一のIPアドレスを使用することが可能になっている。
この有効期限を定めたIPアドレスのリースはもっとも一般的な利用方法であるが、クライアントの種類(ノートPC、デスクトップ)と数、割り当て可能なIPアドレスの総数によって適切な有効期間は異なってくる。
短くするとIPアドレスを効率よく使えるが、ネットワーク上に頻繁にDHCPのプロトコルが流れることになる。長くするとクライアントは安定してIPアドレスを保持できるが、使用されていないにもかかわらず割り当てできないIPアドレスが多くなる。一般に、ノートPCが多くてIPアドレスを一時的にしか使用しないネットワークの場合は数十分〜1日程度、デスクトップPCが多くIPアドレスも十分に足りている場合は一週間以上とすればいいだろう。
リース期間のOptionを配信しないことで、有効期間を無期限とすることも可能だが、この場合はリースしたアドレスが回収されないので、時々使用していないIPアドレスを手動で解放する必要がある。
DHCPは、User Datagram Protocol(UDP)を使用した、コネクションレスサービスモデルを採用している。Bootstrap Protocol(BOOTP)と同じ動作をするために、2つのUDPポート番号で実装されている。UDPポート番号67はサーバの宛先ポートであり、UDPポート番号68はクライアントによって使用される。
DHCPの動作は、サーバ探索、IPリース提示、IPリース要求、IPリース確認の4段階に分けられる。これは、discovery(探索), offer(提示), request(要求), acknowledgement(確認)の頭文字をとって"DORA"とよばれることがある。
DHCPの動作は、クライアントが要求をブロードキャストで送信することから始まる。クライアントとサーバが異なるサブネット上にある場合は、DHCPリレーエージェントを使用する。既存のリースの更新を要求しているクライアントは、その時点ですでに確立されたIPアドレスを持っているので、UDPユニキャストによって直接サーバと通信することができる。また、BROADCASTフラグ(2バイトフィールドの第1ビット。他のビットは通常は0になっている)によってクライアントがDHCPOFFERをブロードキャスト・ユニキャストのどちらで受け取りたいかをサーバに通知することができる。0x8000であればブロードキャスト、0x0000であればユニキャストである。通常、DHCPOFFERはユニキャストで送信される。IPアドレスが設定される前にユニキャストパケットを受け入れることができないホストの場合、このフラグを使って問題を回避することができる。
DHCPクライアントは、255.255.255.255(リミテッド・ブロードキャストアドレス)または特定のサブネットブロードキャストアドレス(ディレクテッド・ブロードキャストアドレス)を使用して、サブネット上にDHCPDISCOVERメッセージをブロードキャストで送信する。DHCPクライアントは、最後に認識されたIPアドレスを要求することもある。クライアントが同じネットワークに接続されたままの場合、サーバは要求を許可する。それ以外の場合は、サーバが権限(authoritative)ありに設定されているか否かによって異なる。権限ありのサーバは、要求を拒否して、クライアントに新しい要求を発行させる。権限なしのサーバは、単に要求を無視するため、クライアントは要求がタイムアウトしてから新しいIPアドレスを要求する。
例えば、HTYPEが1に設定されて、使用される媒体がイーサネットであることが指定されている場合、MACアドレスは6オクテット長であるため、HLENは6に設定される。CHADDRは、クライアントによって使用されるMACアドレスに設定される。その他のいくつかのオプションも設定されている。
IPアドレスリース要求であるDHCPDISCOVERメッセージをクライアントから受信したDHCPサーバは、クライアントのIPアドレスを予約し、クライアントにDHCPOFFERメッセージを送信してリース提示を行う。このメッセージには、クライアントのクライアント識別子(またはMACアドレス)、サーバが提供しようとしているIPアドレスとそのサブネットマスク、リース期間、提供しているDHCPサーバのIPアドレスが含まれている。DHCPサーバは、基盤となるトランスポート層のハードウェアレベルのMACアドレスを参照することができる。現在のRFCでは、DHCPパケットにクライアント識別子が指定されていない場合はトランスポート層のMACアドレスを使用できる。
DHCPサーバは、CHADDR(Client hardware address)フィールドで指定されたクライアントのハードウェアアドレスに基づいて構成を決定する。ここで、サーバ192.168.1.1は、YIADDR(Your IP address)フィールドにクライアントのIPアドレスを指定する。
クライアントは、DHCP offerに応答して、サーバにDHCPREQUESTメッセージでブロードキャストで送信し、提示されたアドレスを要求する。クライアントは複数のサーバからDHCP offerを受信しても、1つのDHCP offerしか受け入れない。DHCP requestメッセージで要求されたserver identificationオプションによって、サーバは、DHCP offerがクライアントにより受け入れられたことを知る。このメッセージを受け取った他のDHCPサーバは、クライアントに送信したDHCP offerを取り消し、IPアドレスを利用可能なアドレスのプールに返却する。
DHCPサーバがクライアントからDHCPREQUESTメッセージを受信すると、設定プロセスは最終段階に入る。確認応答フェーズでは、サーバがDHCPACKパケットをクライアントに送信する。このパケットには、リース期間と、クライアントが要求したその他の設定情報が含まれている。DHCPACKパケットをクライアントが受信した時点で、IP設定プロセスは完了となる。
プロトコルでは、DHCPクライアントがサーバから通知されたパラメータを使用してネットワークインターフェースを設定することを期待している。
クライアントはIPアドレスを得た後で、複数のDHCPサーバ間のアドレスプールの重なりによって引き起こされるアドレスの衝突を防ぐために、(Address Resolution Protocol(ARP)などを使って)新しく設定したアドレスが他のコンピュータで使われていないかを調べるべきである。
DHCPクライアントは、元のサーバがDHCPOFFERで送信したものよりも多くの情報を要求する可能性がある。クライアントは特定のアプリケーションのために繰り返しデータを要求することもある。例えば、ブラウザはDHCP Inform(DHCP通知)を使用してWeb Proxy Auto-Discovery Protocol(WPAD)経由でプロキシ設定を取得する。
クライアントはDHCP情報を解放(リリース)するようにDHCPサーバに要求を送信し、それを受信したクライアントはそのIPアドレスを無効にする。通常、クライアントデバイスは、ユーザーがネットワークからデバイスを取り外すことができるかどうかを知らないので、プロトコルではDHCP Releaseの送信を義務付けていない。
DHCPサーバは、オプションの設定パラメータをクライアントに提供できる。 RFC 2132 には、Internet Assigned Numbers Authority(IANA)によって定義されている使用可能なDHCPオプション(DHCPおよびBOOTPのパラメータ)が記載されている。
DHCPクライアントは、DHCPサーバによって提供されたパラメータを選択・操作・上書きすることができる。Unix系OSでは、このクライアントレベルの変更は通常、設定ファイル/etc/dhclient.confの値に従って行われる。
オプションは様々な長さのオクテット文字列である。最初のオクテットはオプションコード、2番目のオクテットは後続オクテットの数で、残りのオクテットはオプションコードに依存する。例えば、offerのDHCPメッセージタイプオプションは0x35、0x01、0x02と表示される。ここで、0x35はDHCPメッセージタイプ(DHCP message type)のコード53で、0x01は後ろに1オクテットが続くことを表し、0x02は"offer"を表す値である。
次の表は、 RFC 2132 およびIANAレジストリで定義されている利用可能なDHCPオプションを一覧にしたものである。
DHCPクライアントのベンダと機能を識別するためのオプションがある。この情報は、DHCPクライアントのベンダによって指定された意味を持つ可変長文字列またはオクテットである。DHCPクライアントが特定の種類のハードウェアまたはファームウェアを使用していることをサーバに通信するには、DHCP requestにベンダクラス識別子(VCI)と呼ばれる値(オプション60)を設定する。
この方法により、DHCPサーバーは2種類のクライアントマシンを区別し、2種類のモデムからの要求を適切に処理できる。一部のタイプのセットトップボックスでは、デバイスのハードウェアタイプと機能についてDHCPサーバーに通知するようにVCI(オプション60)も設定されている。このオプションが設定されている値は、このクライアントがDHCP応答で必要とする必要な追加情報についてのヒントをDHCPサーバに与える。
リレーエージェント情報オプション(オプション82)は、DHCPリレーとDHCPサーバ間で送信されるDHCP要求にサブオプションを付加するためのコンテナを指定する。
DHCPはDHCPサーバの検索にブロードキャストを使用する関係上、通常はクライアントとサーバが同一ブロードキャスト・ドメイン上にないと正常に動作しない。しかしながら、企業や大学など比較的大規模なネットワークでは、サーバを1カ所に集中させたい等の理由でDHCPクライアントとサーバとが全く異なるネットワーク上に設置されることがある。
このような場合に使用されるのがDHCP Relay Agent(DHCPリレーエージェント) である。DHCP Relay Agent はサーバまたはルータ(L3スイッチ)上にBootp relay, IP helper, DHCP relay などの呼称で実装されている。「DHCPヘルパー」とも呼ばれる。
AgentがDHCPクライアントからのブロードキャスト(DHCP Request)を受信すると、宛先IPアドレスを設定されているDHCPサーバのアドレスに変換し、送信元を自己のLAN側(クライアントと同一サブネット)のIPアドレスに変換して転送する。また、リクエストデータ内に自己IPアドレスを書き込む。(ここで、注目したいのは、宛先IP/送信元IP/データを書き換えるという荒業をエレガントに行っていることである。)
DHCPサーバは、転送されたパケットを確認し、データ内に書き込まれたAgentのIPアドレスにより割り当てるべきネットワークのアドレスを決定する。また、データ内のクライアントのMACアドレスを読んで、リーステーブルを更新する。リースパケットは、パケットの送信元である、Agentに返信される。
リースパケットを受信したAgentは、宛先IPアドレスを0.0.0.0に変換し、リクエストクライアントのMACアドレスに向けたフレームにカプセリングして送出する。
リレーエージェントとDHCPサーバー間の通信では、通常、送信元と宛先のどちらもUDPポート67が使用される。
DHCP Relay Agentを利用する際の注意点として、以下の2点がある。
DHCPは、定期的な更新、再バインド、フェイルオーバーなど、いくつかの方法で信頼性を保証する。DHCPクライアントには、一定期間リースが割り当てられている。リース期間の半分が経過すると、クライアントはリースの更新を試みる。元のリースを許可したDHCPサーバにユニキャストDHCPREQUESTメッセージを送信することで、これを行う。そのサーバが停止しているか、またはアクセスできない場合、DHCPREQUESTへの応答は届かない。その場合、クライアントはDHCPREQUESTを再送し、DHCPサーバが復旧した場合、または再び到達可能になった場合は、応答が返るのでリースを更新することができる。
DHCPサーバに長期間到達できない場合、DHCPクライアントは、DHCPREQUESTをユニキャストではなくブロードキャストで送信し再バインドを試みる。ブロードキャストなので、DHCPREQUESTメッセージは全ての利用可能なDHCPサーバに届く。他のDHCPサーバがリースを更新できる場合は、この時点で更新される。
再バインドが機能するためには、クライアントがバックアップのDHCPサーバに正常に接続したときに、クライアントのバインディングに関する正確なそのサーバにおいて情報が必要である。2つのサーバー間で正確なバインディング情報を維持することは複雑な問題である。両方のサーバが同じリースデータベースを更新できる場合は、独立したサーバでの更新間の競合を回避するためのメカニズムが必要である。フォールトトレラントなDHCPサーバを実装するための提案がIETFに提出されたが、まだ正式化はされていない。
再バインドが失敗すると、リースは最終的に期限切れになる。リースが期限切れになると、クライアントはリースで付与されたIPアドレスの使用を停止する必要がある。そして、DHCPプロセスを最初から再開し、DHCPDISCOVERメッセージをブロードキャスト送信する。リース期限が切れているため、提示されたIPアドレスはすべて受け入れられる。新しいIPアドレスを(おそらく別のDHCPサーバから)取得すると、もう一度ネットワークを使用できるようになる。ただし、IPアドレスが変更されるため、進行中の接続は全て切断される。
基本のDHCPには、認証のメカニズムは含まれていない。このため、様々な攻撃に対して脆弱である。DHCPを利用した攻撃は、主に以下の3つのカテゴリに分類される。
クライアントにはDHCPサーバの身元を検証する方法がないため、攻撃者が不正DHCP(英語版)サーバ(rogue DHCP)をネットワーク上に設置して、DHCPクライアントに誤った情報を提示する可能性がある。これは、クライアントがネットワーク接続にアクセスするのを妨げるDoS攻撃や、中間者攻撃に使うことができる。DHCPサーバはDHCPクライアントにDNSサーバなどのサーバIPアドレスを提供するため、攻撃者はDHCPクライアントに自分のDNSサーバを介してDNS問い合わせを実行させることができる。これにより、攻撃者は自分自身を介してネットワークトラフィックをリダイレクトし、接続しているクライアントとネットワークサーバ間の接続を盗聴したり、単にそれらのネットワークサーバを自分のネットワークサーバに置き換えることができる。
DHCPサーバにはクライアントを認証するための安全なメカニズムがないため、クライアント識別子など、他のDHCPクライアントに属する資格情報を提示することで、攻撃者のクライアントはIPアドレスを不正に取得することができる。これにより、DHCPクライアントがDHCPサーバのIPアドレスのプールを全て使い果たすことも可能になる。アドレスを尋ねる度に新しい資格を提示することにより、クライアントは特定のネットワークリンク上の全ての利用可能なIPアドレスを消費できる。
DHCPでは、これらの問題を軽減するためのメカニズムをいくつか提供している。リレーエージェント情報オプションプロトコル拡張( RFC 3046 、通常は実際のオプション番号から"Option 82"と呼ばれる)は、これらのメッセージがネットワーク事業者の信頼できるネットワークに届くときにDHCPメッセージにタグを付けることをネットワーク事業者に許可する。このタグは、クライアントのネットワークリソースへのアクセスを制御するための認証トークンとして使用される。クライアントはリレーエージェントの上流にあるネットワークにアクセスできないため、認証がなくてもDHCPサーバオペレータが認可トークンに依存することを妨げることはない。
別の拡張、DHCPメッセージ認証( RFC 3118 )では、DHCPメッセージを認証するためのメカニズムを提供する。2002年の時点では、多数のDHCPクライアントの鍵を管理するという問題があるため、RFC 3118では広く採用されていなかった。DSL技術に関する2007年の本には、次のように書かれている。
RFC 3118で提案されたセキュリティ対策に対して特定された多数のセキュリティ脆弱性があった。この事実は、802.1xの導入と相まって、DHCP認証の導入と普及率を低下させ、広く普及したことは一度もない。
2010年の本では次のように書かれている。
DHCP認証の実装はこれまでほとんどなかった。ハッシュ計算による鍵管理と処理遅延の課題は、認識されている利点の代価を払うには高すぎる代償と見なされてきた。
2008年からの提案には、802.1xやPANA(英語版)(どちらもEAPを転送する)を使用することでDHCP要求を認証するものがある。DHCP自体にEAPを含める、いわゆるEAPoDHCPについてIETFの提案がなされたが、これはIETFドラフトよりも先に進行した形跡はなく、最後の議論は2010年で止まっている。
DHCPサーバが実装されている環境としては、大きく分けて以下の三種類がある。
もっとも初期の頃から存在しているサーバ実装であり、ISC版とWIDE版の2種類がよく知られているが、WIDE版DHCPサーバは現在開発が終了している。
Windows NT 4 Server以降、MicrosoftはサーバOSに標準でDHCPサーバを添付しており、現行のWindows Server 2008 R2でも標準でDHCPサーバが付属している。
Windows 2000 Server以降のDHCPサーバでは、Active Directory環境においてはインストール後にドメイン管理者の「承認」を行わないと起動できないという特徴を持つ(非Active Directory環境下ではこの制限はない)。
このほかに、第三者が開発した Windows 95/98系環境で動作する(Windows 2000等でも動作する)フリーソフトのDHCPサーバも存在する。
2000年頃から増加してきた形態で、ルータ内部にDHCPサーバ機能を組み込んだものである。特に、家庭向けのルータ(いわゆる「ブロードバンドルータ」)では必ずといってよいほど実装されており、現在家庭内で利用されているDHCPサーバでもっとも一般的なものと思われる。
Windows 9x・Windows NT 4.x・Mac OSなどでDHCPのクライアントモジュールが標準添付されるようになり、広く利用されるようになった。
初期のMac OS 9においては、DHCPの仕様の解釈の違いから、うまく通信できない場合があり、フリーズしたかのような症状になるという問題が発生した。この問題は、のちにバージョンアップで解決された。
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"tag": "p",
"text": "DHCPクライアントは、255.255.255.255(リミテッド・ブロードキャストアドレス)または特定のサブネットブロードキャストアドレス(ディレクテッド・ブロードキャストアドレス)を使用して、サブネット上にDHCPDISCOVERメッセージをブロードキャストで送信する。DHCPクライアントは、最後に認識されたIPアドレスを要求することもある。クライアントが同じネットワークに接続されたままの場合、サーバは要求を許可する。それ以外の場合は、サーバが権限(authoritative)ありに設定されているか否かによって異なる。権限ありのサーバは、要求を拒否して、クライアントに新しい要求を発行させる。権限なしのサーバは、単に要求を無視するため、クライアントは要求がタイムアウトしてから新しいIPアドレスを要求する。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "例えば、HTYPEが1に設定されて、使用される媒体がイーサネットであることが指定されている場合、MACアドレスは6オクテット長であるため、HLENは6に設定される。CHADDRは、クライアントによって使用されるMACアドレスに設定される。その他のいくつかのオプションも設定されている。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "IPアドレスリース要求であるDHCPDISCOVERメッセージをクライアントから受信したDHCPサーバは、クライアントのIPアドレスを予約し、クライアントにDHCPOFFERメッセージを送信してリース提示を行う。このメッセージには、クライアントのクライアント識別子(またはMACアドレス)、サーバが提供しようとしているIPアドレスとそのサブネットマスク、リース期間、提供しているDHCPサーバのIPアドレスが含まれている。DHCPサーバは、基盤となるトランスポート層のハードウェアレベルのMACアドレスを参照することができる。現在のRFCでは、DHCPパケットにクライアント識別子が指定されていない場合はトランスポート層のMACアドレスを使用できる。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバは、CHADDR(Client hardware address)フィールドで指定されたクライアントのハードウェアアドレスに基づいて構成を決定する。ここで、サーバ192.168.1.1は、YIADDR(Your IP address)フィールドにクライアントのIPアドレスを指定する。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "クライアントは、DHCP offerに応答して、サーバにDHCPREQUESTメッセージでブロードキャストで送信し、提示されたアドレスを要求する。クライアントは複数のサーバからDHCP offerを受信しても、1つのDHCP offerしか受け入れない。DHCP requestメッセージで要求されたserver identificationオプションによって、サーバは、DHCP offerがクライアントにより受け入れられたことを知る。このメッセージを受け取った他のDHCPサーバは、クライアントに送信したDHCP offerを取り消し、IPアドレスを利用可能なアドレスのプールに返却する。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバがクライアントからDHCPREQUESTメッセージを受信すると、設定プロセスは最終段階に入る。確認応答フェーズでは、サーバがDHCPACKパケットをクライアントに送信する。このパケットには、リース期間と、クライアントが要求したその他の設定情報が含まれている。DHCPACKパケットをクライアントが受信した時点で、IP設定プロセスは完了となる。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "プロトコルでは、DHCPクライアントがサーバから通知されたパラメータを使用してネットワークインターフェースを設定することを期待している。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "クライアントはIPアドレスを得た後で、複数のDHCPサーバ間のアドレスプールの重なりによって引き起こされるアドレスの衝突を防ぐために、(Address Resolution Protocol(ARP)などを使って)新しく設定したアドレスが他のコンピュータで使われていないかを調べるべきである。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "DHCPクライアントは、元のサーバがDHCPOFFERで送信したものよりも多くの情報を要求する可能性がある。クライアントは特定のアプリケーションのために繰り返しデータを要求することもある。例えば、ブラウザはDHCP Inform(DHCP通知)を使用してWeb Proxy Auto-Discovery Protocol(WPAD)経由でプロキシ設定を取得する。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "クライアントはDHCP情報を解放(リリース)するようにDHCPサーバに要求を送信し、それを受信したクライアントはそのIPアドレスを無効にする。通常、クライアントデバイスは、ユーザーがネットワークからデバイスを取り外すことができるかどうかを知らないので、プロトコルではDHCP Releaseの送信を義務付けていない。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバは、オプションの設定パラメータをクライアントに提供できる。 RFC 2132 には、Internet Assigned Numbers Authority(IANA)によって定義されている使用可能なDHCPオプション(DHCPおよびBOOTPのパラメータ)が記載されている。",
"title": "クライアント設定パラメータ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "DHCPクライアントは、DHCPサーバによって提供されたパラメータを選択・操作・上書きすることができる。Unix系OSでは、このクライアントレベルの変更は通常、設定ファイル/etc/dhclient.confの値に従って行われる。",
"title": "クライアント設定パラメータ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "オプションは様々な長さのオクテット文字列である。最初のオクテットはオプションコード、2番目のオクテットは後続オクテットの数で、残りのオクテットはオプションコードに依存する。例えば、offerのDHCPメッセージタイプオプションは0x35、0x01、0x02と表示される。ここで、0x35はDHCPメッセージタイプ(DHCP message type)のコード53で、0x01は後ろに1オクテットが続くことを表し、0x02は\"offer\"を表す値である。",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "次の表は、 RFC 2132 およびIANAレジストリで定義されている利用可能なDHCPオプションを一覧にしたものである。",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "DHCPクライアントのベンダと機能を識別するためのオプションがある。この情報は、DHCPクライアントのベンダによって指定された意味を持つ可変長文字列またはオクテットである。DHCPクライアントが特定の種類のハードウェアまたはファームウェアを使用していることをサーバに通信するには、DHCP requestにベンダクラス識別子(VCI)と呼ばれる値(オプション60)を設定する。",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この方法により、DHCPサーバーは2種類のクライアントマシンを区別し、2種類のモデムからの要求を適切に処理できる。一部のタイプのセットトップボックスでは、デバイスのハードウェアタイプと機能についてDHCPサーバーに通知するようにVCI(オプション60)も設定されている。このオプションが設定されている値は、このクライアントがDHCP応答で必要とする必要な追加情報についてのヒントをDHCPサーバに与える。",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "リレーエージェント情報オプション(オプション82)は、DHCPリレーとDHCPサーバ間で送信されるDHCP要求にサブオプションを付加するためのコンテナを指定する。",
"title": "DHCPオプション"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "DHCPはDHCPサーバの検索にブロードキャストを使用する関係上、通常はクライアントとサーバが同一ブロードキャスト・ドメイン上にないと正常に動作しない。しかしながら、企業や大学など比較的大規模なネットワークでは、サーバを1カ所に集中させたい等の理由でDHCPクライアントとサーバとが全く異なるネットワーク上に設置されることがある。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "このような場合に使用されるのがDHCP Relay Agent(DHCPリレーエージェント) である。DHCP Relay Agent はサーバまたはルータ(L3スイッチ)上にBootp relay, IP helper, DHCP relay などの呼称で実装されている。「DHCPヘルパー」とも呼ばれる。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "AgentがDHCPクライアントからのブロードキャスト(DHCP Request)を受信すると、宛先IPアドレスを設定されているDHCPサーバのアドレスに変換し、送信元を自己のLAN側(クライアントと同一サブネット)のIPアドレスに変換して転送する。また、リクエストデータ内に自己IPアドレスを書き込む。(ここで、注目したいのは、宛先IP/送信元IP/データを書き換えるという荒業をエレガントに行っていることである。)",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバは、転送されたパケットを確認し、データ内に書き込まれたAgentのIPアドレスにより割り当てるべきネットワークのアドレスを決定する。また、データ内のクライアントのMACアドレスを読んで、リーステーブルを更新する。リースパケットは、パケットの送信元である、Agentに返信される。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "リースパケットを受信したAgentは、宛先IPアドレスを0.0.0.0に変換し、リクエストクライアントのMACアドレスに向けたフレームにカプセリングして送出する。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "リレーエージェントとDHCPサーバー間の通信では、通常、送信元と宛先のどちらもUDPポート67が使用される。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "DHCP Relay Agentを利用する際の注意点として、以下の2点がある。",
"title": "DHCPリレー"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "DHCPは、定期的な更新、再バインド、フェイルオーバーなど、いくつかの方法で信頼性を保証する。DHCPクライアントには、一定期間リースが割り当てられている。リース期間の半分が経過すると、クライアントはリースの更新を試みる。元のリースを許可したDHCPサーバにユニキャストDHCPREQUESTメッセージを送信することで、これを行う。そのサーバが停止しているか、またはアクセスできない場合、DHCPREQUESTへの応答は届かない。その場合、クライアントはDHCPREQUESTを再送し、DHCPサーバが復旧した場合、または再び到達可能になった場合は、応答が返るのでリースを更新することができる。",
"title": "信頼性"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバに長期間到達できない場合、DHCPクライアントは、DHCPREQUESTをユニキャストではなくブロードキャストで送信し再バインドを試みる。ブロードキャストなので、DHCPREQUESTメッセージは全ての利用可能なDHCPサーバに届く。他のDHCPサーバがリースを更新できる場合は、この時点で更新される。",
"title": "信頼性"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "再バインドが機能するためには、クライアントがバックアップのDHCPサーバに正常に接続したときに、クライアントのバインディングに関する正確なそのサーバにおいて情報が必要である。2つのサーバー間で正確なバインディング情報を維持することは複雑な問題である。両方のサーバが同じリースデータベースを更新できる場合は、独立したサーバでの更新間の競合を回避するためのメカニズムが必要である。フォールトトレラントなDHCPサーバを実装するための提案がIETFに提出されたが、まだ正式化はされていない。",
"title": "信頼性"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "再バインドが失敗すると、リースは最終的に期限切れになる。リースが期限切れになると、クライアントはリースで付与されたIPアドレスの使用を停止する必要がある。そして、DHCPプロセスを最初から再開し、DHCPDISCOVERメッセージをブロードキャスト送信する。リース期限が切れているため、提示されたIPアドレスはすべて受け入れられる。新しいIPアドレスを(おそらく別のDHCPサーバから)取得すると、もう一度ネットワークを使用できるようになる。ただし、IPアドレスが変更されるため、進行中の接続は全て切断される。",
"title": "信頼性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "基本のDHCPには、認証のメカニズムは含まれていない。このため、様々な攻撃に対して脆弱である。DHCPを利用した攻撃は、主に以下の3つのカテゴリに分類される。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "クライアントにはDHCPサーバの身元を検証する方法がないため、攻撃者が不正DHCP(英語版)サーバ(rogue DHCP)をネットワーク上に設置して、DHCPクライアントに誤った情報を提示する可能性がある。これは、クライアントがネットワーク接続にアクセスするのを妨げるDoS攻撃や、中間者攻撃に使うことができる。DHCPサーバはDHCPクライアントにDNSサーバなどのサーバIPアドレスを提供するため、攻撃者はDHCPクライアントに自分のDNSサーバを介してDNS問い合わせを実行させることができる。これにより、攻撃者は自分自身を介してネットワークトラフィックをリダイレクトし、接続しているクライアントとネットワークサーバ間の接続を盗聴したり、単にそれらのネットワークサーバを自分のネットワークサーバに置き換えることができる。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバにはクライアントを認証するための安全なメカニズムがないため、クライアント識別子など、他のDHCPクライアントに属する資格情報を提示することで、攻撃者のクライアントはIPアドレスを不正に取得することができる。これにより、DHCPクライアントがDHCPサーバのIPアドレスのプールを全て使い果たすことも可能になる。アドレスを尋ねる度に新しい資格を提示することにより、クライアントは特定のネットワークリンク上の全ての利用可能なIPアドレスを消費できる。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "DHCPでは、これらの問題を軽減するためのメカニズムをいくつか提供している。リレーエージェント情報オプションプロトコル拡張( RFC 3046 、通常は実際のオプション番号から\"Option 82\"と呼ばれる)は、これらのメッセージがネットワーク事業者の信頼できるネットワークに届くときにDHCPメッセージにタグを付けることをネットワーク事業者に許可する。このタグは、クライアントのネットワークリソースへのアクセスを制御するための認証トークンとして使用される。クライアントはリレーエージェントの上流にあるネットワークにアクセスできないため、認証がなくてもDHCPサーバオペレータが認可トークンに依存することを妨げることはない。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "別の拡張、DHCPメッセージ認証( RFC 3118 )では、DHCPメッセージを認証するためのメカニズムを提供する。2002年の時点では、多数のDHCPクライアントの鍵を管理するという問題があるため、RFC 3118では広く採用されていなかった。DSL技術に関する2007年の本には、次のように書かれている。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "RFC 3118で提案されたセキュリティ対策に対して特定された多数のセキュリティ脆弱性があった。この事実は、802.1xの導入と相まって、DHCP認証の導入と普及率を低下させ、広く普及したことは一度もない。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2010年の本では次のように書かれている。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "DHCP認証の実装はこれまでほとんどなかった。ハッシュ計算による鍵管理と処理遅延の課題は、認識されている利点の代価を払うには高すぎる代償と見なされてきた。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2008年からの提案には、802.1xやPANA(英語版)(どちらもEAPを転送する)を使用することでDHCP要求を認証するものがある。DHCP自体にEAPを含める、いわゆるEAPoDHCPについてIETFの提案がなされたが、これはIETFドラフトよりも先に進行した形跡はなく、最後の議論は2010年で止まっている。",
"title": "セキュリティ"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "DHCPサーバが実装されている環境としては、大きく分けて以下の三種類がある。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "もっとも初期の頃から存在しているサーバ実装であり、ISC版とWIDE版の2種類がよく知られているが、WIDE版DHCPサーバは現在開発が終了している。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "Windows NT 4 Server以降、MicrosoftはサーバOSに標準でDHCPサーバを添付しており、現行のWindows Server 2008 R2でも標準でDHCPサーバが付属している。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "Windows 2000 Server以降のDHCPサーバでは、Active Directory環境においてはインストール後にドメイン管理者の「承認」を行わないと起動できないという特徴を持つ(非Active Directory環境下ではこの制限はない)。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "このほかに、第三者が開発した Windows 95/98系環境で動作する(Windows 2000等でも動作する)フリーソフトのDHCPサーバも存在する。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2000年頃から増加してきた形態で、ルータ内部にDHCPサーバ機能を組み込んだものである。特に、家庭向けのルータ(いわゆる「ブロードバンドルータ」)では必ずといってよいほど実装されており、現在家庭内で利用されているDHCPサーバでもっとも一般的なものと思われる。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "Windows 9x・Windows NT 4.x・Mac OSなどでDHCPのクライアントモジュールが標準添付されるようになり、広く利用されるようになった。",
"title": "実装"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "初期のMac OS 9においては、DHCPの仕様の解釈の違いから、うまく通信できない場合があり、フリーズしたかのような症状になるという問題が発生した。この問題は、のちにバージョンアップで解決された。",
"title": "実装"
}
] |
Dynamic Host Configuration Protocolは、IPv4ネットワークで使用されるネットワーク管理プロトコルであり、コンピュータがネットワークに接続する際に必要な設定情報を自動的に割り当てるために使用する。
BOOTPにリース機能を追加してDHCPとなっている。 DHCPサーバは、IPアドレス等のネットワーク構成設定をネットワーク上の各デバイスに動的に割り当て、他のIPネットワークと通信できるようにする。DHCPサーバを使用すると、コンピュータは自動的にIPアドレスとネットワーク設定を要求でき、ネットワーク管理者やエンドユーザが全てのネットワークデバイスに手動でIPアドレスを割り当てる必要がなくなる。 DHCPは、ホームネットワークから大規模なキャンパスネットワーク、地域のインターネットサービスプロバイダネットワークまで、様々な規模のネットワークに実装できる。ほとんどのルータまたはホームゲートウェイは、DHCPサーバとして機能させることができ、ローカルネットワーク内において、ネットワークに接続されている各デバイスにローカルIPアドレスを割り当てることができる。
|
{{Infobox networking protocol
|title = Dynamic Host Configuration Protocol
|is stack = no
|purpose = コンピュータがネットワークに接続する際に必要な設定情報の自動的な割り当て
|developer =
|date = {{Start date and age|1993|10}}
|based on = [[BOOTP]]
|influenced = [[DHCPv6]]
|osilayer = [[アプリケーション層]]
|ports = 67(サーバ)<br/>68(クライアント)
|rfcs = {{IETF RFC|2131}}
}}
{{IPstack}}
'''Dynamic Host Configuration Protocol'''(ダイナミック ホスト コンフィギュレーション プロトコル、'''DHCP''')は、[[IPv4]]ネットワークで使用される[[通信プロトコル|ネットワーク管理プロトコル]]であり、[[コンピュータ]]が[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]に接続する際に必要な設定情報を自動的に割り当てるために使用する。
[[Bootstrap Protocol|BOOTP]]にリース機能を追加してDHCPとなっている。
DHCPサーバは、[[IPアドレス]]等のネットワーク構成設定をネットワーク上の各デバイスに[[動的]]に割り当て、他のIPネットワークと通信できるようにする<ref name=TechTarget>TechTarget Network: [http://searchnetworking.techtarget.com/definition/DHCP DHCP (Dynamic Host Configuration Protocol)]</ref>。DHCPサーバを使用すると、コンピュータは自動的にIPアドレスとネットワーク設定を要求でき、ネットワーク管理者やエンドユーザが全てのネットワークデバイスに手動でIPアドレスを割り当てる必要がなくなる<ref name=TechTarget/>。
DHCPは、{{仮リンク|ホームネットワーク|en|Home network}}から大規模な{{仮リンク|キャンパスネットワーク|en|Campus network}}、地域の[[インターネットサービスプロバイダ]]ネットワークまで、様々な規模のネットワークに実装できる<ref>Peterson LL, Davie BS. (2011). [https://books.google.com/books?id=BvaFreun1W8C&pg=PA372&lpg=PA372 Computer Networks: A Systems Approach].</ref>。ほとんどの[[ルータ]]または[[ホームゲートウェイ]]は、DHCPサーバとして機能させることができ、ローカルネットワーク内において、ネットワークに接続されている各デバイスにローカルIPアドレスを割り当てることができる。
==概要==
[[UDP/IP]]は、あるネットワーク上のデバイスが別のネットワーク上のデバイスと通信する方法を定義する。DHCPサーバは、IPアドレスを自動的または動的にデバイスに割り当てることによって、ネットワーク上のデバイスのUDP/IP設定を管理できる。
DHCPは[[クライアントサーバモデル]]に基づいて動作する。コンピュータがネットワークに接続したとき、当該のコンピュータ内のDHCPクライアントソフトウェアはDHCPクエリを[[ブロードキャスト]]で送信し、必要な設定情報を要求する。DHCPクエリは、ネットワーク上のどのDHCPサーバーでも処理できる。DHCPサーバは、プールされたIPアドレス、[[デフォルトゲートウェイ]]、[[ドメイン名]]、[[DNSサーバ]]、{{仮リンク|タイムサーバ|en|Time server}}などのクライアント構成パラメータに関する情報を管理している。DHCP要求を受信したDHCPサーバは、管理者が以前に設定したクライアントごとに特定の情報、もしくはネットワーク全体に有効なアドレスその他の情報、および割り当て(リース(lease))た情報が有効な期間を返信する。DHCPクライアントは通常、起動直後、およびその後定期的に情報の有効期限が切れる前にこの情報を照会する。DHCPクライアントが割り当てを更新するとき、最初は同じパラメータ値を要求するが、DHCPサーバは管理者が設定した割り当てポリシーに基づいて新しいアドレスを割り当てることがある。
複数のリンクで構成される大規模ネットワークでは、相互接続ルータ上に配置されたDHCPリレーエージェントによって、単一のDHCPサーバでネットワーク全体にサービスを提供することができる。DHCPリレーエージェントは、異なる[[サブネット]]上にあるDHCPクライアントとDHCPサーバとの間でメッセージを中継する。
DHCPは、[[IPv4]]と[[IPv6]]のどちらでも使用される。どちらのバージョンでも目的は同じであるが、IPv4とIPv6のプロトコルの詳細は大きく異なることから別のプロトコルと見なされる<ref>{{cite book |title = The DHCP Handbook |year = 2003 |isbn = 978-0-672-32327-0 |author = Ralph Droms |author2 = Ted Lemon |publisher = [[SAMS Publishing]] |page = 436 }}</ref>。IPv6のDHCPは[[DHCPv6]]と呼ばれ、 {{IETF RFC|8415}} で定められている。DHCPv6はDHCPv4とは互換性がないが、IPv6だけでなくIPv4のアドレスを割り当てることもできる。IPv6では、IPアドレスとネットマスクの情報を[[IPv6#アドレス自動設定|IPv6自体のアドレス自動設定機能]]により取得することもできるが、DNSサーバやNTPサーバなどほかの情報も自動取得するためにはDHCPが必要になる。
== 割り当ての種類 ==
DHCPサーバがIPアドレスを割り当てる方法には以下の3つがあり、サーバの設定により選択することができる。
; 動的割り当て
: [[ネットワーク管理者]]がDHCP用のIPアドレスの範囲を予約し、LAN上の各DHCPクライアントはDHCPサーバにIPアドレスを要求するように構成されている。IPアドレスの割り当ての際には、そのIPアドレスが有効な期間(リース期間)が指定され、DHCPクライアントはリース期間満了前に更新を行う必要がある。DHCPサーバは、更新されずにリース期間が満了したIPアドレスを他のDHCPクライアントに再割り当てすることができる。
; 自動割り当て
: DHCPサーバは、管理者によって定義された範囲からIPアドレスを要求側クライアントに永続的に割り当てる。これは動的割り当てに似ているが、DHCPサーバは過去のIPアドレス割り当てのテーブルを保持しているので、クライアントが以前に持っていたのと同じIPアドレスを優先的にクライアントに割り当てることができる。
; 静的割り当て
: DHCPサーバは、管理者によって事前定義されたマッピングに基づいて、各クライアントのクライアント識別子(またはクライアントの[[MACアドレス]])に応じてIPアドレスを発行する。この機能は、ルータのメーカーによって様々な名称で呼ばれている。[[DD-WRT]]は静的DHCP割り当て(''static DHCP assignment'')、[[dhcpd]]では固定アドレス(''fixed-address'')、[[ネットギア]]ではアドレス予約(''address reservation'')、[[シスコシステムズ|シスコ]]と[[リンクシス]]はDHCP予約(''DHCP reservation'')または静的DHCP(''static DHCP'')としているほか、IPアドレス予約(''IP address reservation'')やMAC/IPアドレスバインディング(''MAC/IP address binding'')とも呼ばれる。クライアントのクライアント識別子またはMACアドレスに一致するものがマッピングになかった場合、サーバは動的割り当てまたは自動割り当てにフォールバックしてIPアドレスを割り当てる場合と、IPアドレス割り当て自体をしない場合がある。
いずれの方法でも、通常配信されたIPアドレスはDHCPサーバーからリース(貸与)されたものとなっており、永続的に適用出来るものではない。貸与期間の有効期限はDHCP Optionとして配信される。Optionの値は32bit値で単位は秒のため、1秒〜約136年の間で指定が可能である。リース期間は延長が可能であり、リース期間の50%の時間が経過した際(T1と呼ばれる)と87.5%の時間が経過した際(T2と呼ばれる)に延長承認をDHCPサーバーから得るよう動作させることがRFCで定められている。この機能により、リース期間が短く設定されたDHCP環境であっても、DHCPクライアントが継続的に同一のIPアドレスを使用することが可能になっている。
この有効期限を定めたIPアドレスのリースはもっとも一般的な利用方法であるが、クライアントの種類(ノートPC、デスクトップ)と数、割り当て可能なIPアドレスの総数によって適切な有効期間は異なってくる。
短くするとIPアドレスを効率よく使えるが、ネットワーク上に頻繁にDHCPのプロトコルが流れることになる。長くするとクライアントは安定してIPアドレスを保持できるが、使用されていないにもかかわらず割り当てできないIPアドレスが多くなる。一般に、ノートPCが多くてIPアドレスを一時的にしか使用しないネットワークの場合は数十分〜1日程度、デスクトップPCが多くIPアドレスも十分に足りている場合は一週間以上とすればいいだろう。
リース期間のOptionを配信しないことで、有効期間を無期限とすることも可能だが、この場合はリースしたアドレスが回収されないので、時々使用していないIPアドレスを手動で解放する必要がある。
==動作==
[[File:DHCP session.svg|thumb|right|upright=1.2|典型的なDHCPセッションのシーケンス図。各メッセージは、DHCPクライアントの機能に応じて、[[ブロードキャスト]]または[[ユニキャスト]]のいずれかになる<ref>{{cite web|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-4.1|title=Dynamic Host Configuration Protocol|first=Ralph|last=Droms|website=tools.ietf.org|accessdate=2017-07-04}}</ref>。]]
DHCPは、[[User Datagram Protocol]](UDP)を使用した、コネクションレスサービスモデルを採用している。[[Bootstrap Protocol]](BOOTP)と同じ動作をするために、2つのUDP[[ポート番号]]で実装されている。UDPポート番号67はサーバの宛先ポートであり、UDPポート番号68はクライアントによって使用される。
DHCPの動作は、サーバ探索、IPリース提示、IPリース要求、IPリース確認の4段階に分けられる。これは、discovery(探索), offer(提示), request(要求), acknowledgement(確認)の頭文字をとって"DORA"とよばれることがある。
DHCPの動作は、クライアントが要求を[[ブロードキャスト]]で送信することから始まる。クライアントとサーバが異なるサブネット上にある場合は、[[#DHCPリレー|DHCPリレーエージェント]]を使用する。既存のリースの更新を要求しているクライアントは、その時点ですでに確立されたIPアドレスを持っているので、UDP[[ユニキャスト]]によって直接サーバと通信することができる。また、BROADCASTフラグ(2バイトフィールドの第1ビット。他のビットは通常は0になっている)によってクライアントがDHCPOFFERをブロードキャスト・ユニキャストのどちらで受け取りたいかをサーバに通知することができる。0x8000であればブロードキャスト、0x0000であればユニキャストである<ref>{{cite web |title = Dynamic Host Configuration Protocol |url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-4.1 |website = tools.ietf.org |accessdate = 2015-12-26 |first = Ralph |last = Droms }}</ref>。通常、DHCPOFFERはユニキャストで送信される。IPアドレスが設定される前にユニキャストパケットを受け入れることができないホストの場合、このフラグを使って問題を回避することができる。
===DHCP discover===
DHCPクライアントは、255.255.255.255(リミテッド・ブロードキャストアドレス)または特定のサブネットブロードキャストアドレス(ディレクテッド・ブロードキャストアドレス)を使用して、サブネット上にDHCPDISCOVERメッセージをブロードキャストで送信する。DHCPクライアントは、最後に認識されたIPアドレスを要求することもある。クライアントが同じネットワークに接続されたままの場合、サーバは要求を許可する。それ以外の場合は、サーバが権限(authoritative)ありに設定されているか否かによって異なる。権限ありのサーバは、要求を拒否して、クライアントに新しい要求を発行させる。権限なしのサーバは、単に要求を無視するため、クライアントは要求がタイムアウトしてから新しいIPアドレスを要求する。
例えば、HTYPEが1に設定されて、使用される媒体が[[イーサネット]]であることが指定されている場合、[[MACアドレス]]は6[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]長であるため、HLENは6に設定される。CHADDRは、クライアントによって使用されるMACアドレスに設定される。その他のいくつかのオプションも設定されている。
{| class="wikitable"
|+ DHCPDISCOVERメッセージの例
|-
| colspan=4 |
イーサネット: 送信元=送信者のMACアドレス; 送信先=FF:FF:FF:FF:FF:FF
|-
| colspan=4 |
IP: 送信元=0.0.0.0; 送信先=255.255.255.255 <br/>
[[User Datagram Protocol|UDP]]: 送信元ポート=68; 送信先ポート=67
|-
! Octet 0 !! Octet 1 !! Octet 2 !! Octet 3
|-
! OP !! HTYPE !! HLEN !! HOPS
|-
| 0x01 || 0x01 || 0x06 || 0x00
|-
! colspan=4 | XID
|-
| colspan=4 | 0x3903F326
|-
! colspan=2 | SECS !! colspan=2 | FLAGS
|-
| colspan=2 | 0x0000 || colspan=2 | 0x0000
|-
! colspan=4 | CIADDR (Client IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | YIADDR (Your IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | SIADDR (Server IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | GIADDR (Gateway IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | CHADDR (Client hardware address)
|-
| colspan=4 | 0x00053C04
|-
| colspan=4 | 0x8D590000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 192オクテットの0、または追加オプション用のオーバーフロースペース。[[BOOTP]]との互換性のため
|-
! colspan=4 | [[マジッククッキー]]
|-
| colspan=4 | 0x63825363
|-
! colspan=4 | DHCPオプション
|-
| colspan=4 | 0x350101 53: 1 (DHCP Discover)
|-
| colspan=4 | 0x3204c0a80164 50: 192.168.1.100を要求
|-
| colspan=4 | 0x370401030f06 55 (パラメータ要求リスト):{{unordered list
| 1 (サブネットマスク),
| 3 (ルータ),
| 15 (ドメイン名),
| 6 (DNSサーバ)
}}
|-
| colspan=4 | 0xff 255 (終端マーク)
|}
===DHCP offer===
IPアドレスリース要求であるDHCPDISCOVERメッセージをクライアントから受信したDHCPサーバは、クライアントのIPアドレスを予約し、クライアントにDHCPOFFERメッセージを送信してリース提示を行う。このメッセージには、クライアントのクライアント識別子(またはMACアドレス)、サーバが提供しようとしているIPアドレスとそのサブネットマスク、リース期間、提供しているDHCPサーバのIPアドレスが含まれている。DHCPサーバは、基盤となる[[トランスポート層]]のハードウェアレベルのMACアドレスを参照することができる。現在のRFCでは、DHCPパケットにクライアント識別子が指定されていない場合はトランスポート層のMACアドレスを使用できる。
DHCPサーバは、CHADDR(Client hardware address)フィールドで指定されたクライアントのハードウェアアドレスに基づいて構成を決定する。ここで、サーバ192.168.1.1は、YIADDR(Your IP address)フィールドにクライアントのIPアドレスを指定する。
{| class="wikitable"
|+ DHCPOFFERメッセージの例
|-
| colspan=4 |
イーサネット: 送信元=送信者のMACアドレス; 送信先=クライアントのMACアドレス
|-
| colspan=4 |
IP: 送信元=192.168.1.1; 送信先=255.255.255.255 <br/>
[[User Datagram Protocol|UDP]]: 送信元ポート=67; 送信先ポート=68
|-
! Octet 0 !! Octet 1 !! Octet 2 !! Octet 3
|-
! OP !! HTYPE !! HLEN !! HOPS
|-
| 0x02 || 0x01 || 0x06 || 0x00
|-
! colspan=4 | XID
|-
| colspan=4 | 0x3903F326
|-
! colspan=2 | SECS !! colspan=2 | FLAGS
|-
| colspan=2 | 0x0000 || colspan=2 | 0x0000
|-
! colspan=4 | CIADDR (Client IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=5 | YIADDR (Your IP address)
|-
| colspan=5 | 0xC0A80164 (192.168.1.100)
|-
! colspan=4 | SIADDR (Server IP address)
|-
| colspan=4 | 0xC0A80101 (192.168.1.1)
|-
! colspan=4 | GIADDR (Gateway IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | CHADDR (Client hardware address)
|-
| colspan=4 | 0x00053C04
|-
| colspan=4 | 0x8D590000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 192オクテットの0。[[BOOTP]]との互換性のため
|-
! colspan=4 | [[マジッククッキー]]
|-
| colspan=4 | 0x63825363
|-
! colspan=4 | DHCPオプション
|-
| colspan=4 | 53: 2 (DHCP Offer)
|-
| colspan=4 | 1(サブネットマスク): 255.255.255.0
|-
| colspan=4 | 3(ルータ): 192.168.1.1
|-
| colspan=4 | 51(IPアドレスリース期間): 86400s(1日)
|-
| colspan=4 | 54(DHCPサーバ): 192.168.1.1
|-
| colspan=4 | 6(DNSサーバ):{{unordered list
| 9.7.10.15,
| 9.7.10.16,
| 9.7.10.18
}}
|}
===DHCP request===
クライアントは、DHCP offerに応答して、サーバにDHCPREQUESTメッセージでブロードキャストで送信し{{Efn|name="optional-unicasts"|クライアントのオプションの動作として、DHCPクライアントが既にDHCPサーバのIPアドレスを知っている場合は、DHCP deliverおよびrequestメッセージなど、一部のメッセージをブロードキャストではなくユニキャストで送信することができる<ref>{{cite web|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-4.4.4|title=Dynamic Host Configuration Protocol|first=Ralph|last=Droms|website=tools.ietf.org|accessdate=2017-07-04}}</ref>。}}、提示されたアドレスを要求する。クライアントは複数のサーバからDHCP offerを受信しても、1つのDHCP offerしか受け入れない。DHCP requestメッセージで要求された''server identification''オプションによって、サーバは、DHCP offerがクライアントにより受け入れられたことを知る<ref name=rfc2131>{{cite IETF | df=ja
| title = DHCP Options and BOOTP Vendor Extensions
| rfc = 2131
| last1 = Droms
| first1 = Ralph
| date = March 1997
| publisher = [[Internet Engineering Task Force|IETF]]
| accessdate = 2014-09-09
}}</ref>{{rp|Section 3.1, Item 3}}。このメッセージを受け取った他のDHCPサーバは、クライアントに送信したDHCP offerを取り消し、IPアドレスを利用可能なアドレスのプールに返却する。
{| class="wikitable"
|+ DHCPREQUESTメッセージの例
|-
| colspan=4 |
イーサネット: 送信元=送信者のMACアドレス; 送信先=FF:FF:FF:FF:FF:FF
|-
| colspan=4 |
IP: 送信元=0.0.0.0; 送信先=255.255.255.255{{Efn|name="optional-unicasts"}} <br/>
[[User Datagram Protocol|UDP]]: 送信元ポート=68; 送信先ポート=67
|-
! Octet 0 !! Octet 1 !! Octet 2 !! Octet 3
|-
! OP !! HTYPE !! HLEN !! HOPS
|-
| 0x01 || 0x01 || 0x06 || 0x00
|-
! colspan=5 | XID
|-
| colspan=5 | 0x3903F326
|-
! colspan=2 | SECS !! colspan=2 | FLAGS
|-
| colspan=2 | 0x0000 || colspan=2 | 0x0000
|-
! colspan=4 | CIADDR (Client IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | YIADDR (Your IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | SIADDR (Server IP address)
|-
| colspan=4 | 0xC0A80101 (192.168.1.1)
|-
! colspan=4 | GIADDR (Gateway IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | CHADDR (Client hardware address)
|-
| colspan=4 | 0x00053C04
|-
| colspan=4 | 0x8D590000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 192オクテットの0。[[BOOTP]]との互換性のため
|-
! colspan=4 | [[マジッククッキー]]
|-
| colspan=4 | 0x63825363
|-
! colspan=4 | DHCPオプション
|-
| colspan=4 | 53: 3 (DHCP Request)
|-
| colspan=4 | 50: 192.168.1.100を要求
|-
| colspan=4 | 54(DHCPサーバ): 192.168.1.1
|}
===DHCP acknowledgement===
DHCPサーバがクライアントからDHCPREQUESTメッセージを受信すると、設定プロセスは最終段階に入る。確認応答フェーズでは、サーバがDHCPACKパケットをクライアントに送信する。このパケットには、リース期間と、クライアントが要求したその他の設定情報が含まれている。DHCPACKパケットをクライアントが受信した時点で、IP設定プロセスは完了となる。
プロトコルでは、DHCPクライアントがサーバから通知されたパラメータを使用して[[ネットワークインターフェース]]を設定することを期待している。
クライアントはIPアドレスを得た後で、複数のDHCPサーバ間のアドレスプールの重なりによって引き起こされるアドレスの衝突を防ぐために、([[Address Resolution Protocol]](ARP)などを使って)新しく設定したアドレスが他のコンピュータで使われていないかを調べるべきである<ref>RFC2131 Dynamic Host Configuration Protocol: Dynamic allocation of network addresses https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-2.2</ref>。
{| class="wikitable"
|+ DHCPACKメッセージの例
|-
| colspan=4 |
イーサネット: 送信元=送信者のMACアドレス; 送信先=クライアントのMACアドレス
|-
| colspan=4 |
IP: 送信元=192.168.1.1; 送信先=192.168.1.100 <br/>
[[User Datagram Protocol|UDP]]: 送信元ポート=67; 送信先ポート=68
|-
! Octet 0 !! Octet 1 !! Octet 2 !! Octet 3
|-
! OP !! HTYPE !! HLEN !! HOPS
|-
| 0x02 || 0x01 || 0x06 || 0x00
|-
! colspan=4 | XID
|-
| colspan=4 | 0x3903F326
|-
! colspan=2 | SECS !! colspan=2 | FLAGS
|-
| colspan=2 | 0x0000 || colspan=2 | 0x0000
|-
! colspan=4 | CIADDR (Client IP address)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | YIADDR (Your IP address)
|-
| colspan=4 | 0xC0A80164 (192.168.1.100)
|-
! colspan=4 | SIADDR (Server IP address)
|-
| colspan=4 | 0xC0A80101 (192.168.1.1)
|-
! colspan=4 | GIADDR (Gateway IP address switched by relay)
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
! colspan=4 | CHADDR (Client hardware address)
|-
| colspan=4 | 0x00053C04
|-
| colspan=4 | 0x8D590000
|-
| colspan=4 | 0x00000000
</tt>
|-
| colspan=4 | 0x00000000
|-
| colspan=4 | 192オクテットの0。[[BOOTP]]との互換性のため
|-
! colspan=4 | [[マジッククッキー]]
|-
| colspan=4 | 0x63825363
|-
! colspan=4 | DHCPオプション
|-
| colspan=4 | 53: 5 (DHCP ACK) または 6 (DHCP NAK)
|-
| colspan=4 | 1 (サブネットマスク): 255.255.255.0
|-
| colspan=4 | 3(ルータ): 192.168.1.1
|-
| colspan=4 | 51(IPアドレスリース期間): 86400s(1日)
|-
| colspan=4 | 54(DHCPサーバ): 192.168.1.1
|-
| colspan=4 | 6(DNSサーバ):{{unordered list
| 9.7.10.15,
| 9.7.10.16,
| 9.7.10.18
}}
|}
===DHCP information===
DHCPクライアントは、元のサーバがDHCPOFFERで送信したものよりも多くの情報を要求する可能性がある。クライアントは特定のアプリケーションのために繰り返しデータを要求することもある。例えば、ブラウザはDHCP Inform(DHCP通知)を使用して[[Web Proxy Auto-Discovery Protocol]](WPAD)経由で[[プロキシ]]設定を取得する。
===DHCP releasing===
クライアントはDHCP情報を解放(リリース)するようにDHCPサーバに要求を送信し、それを受信したクライアントはそのIPアドレスを無効にする。通常、クライアントデバイスは、ユーザーがネットワークからデバイスを取り外すことができるかどうかを知らないので、プロトコルではDHCP Releaseの送信を義務付けていない。
==クライアント設定パラメータ ==
DHCPサーバは、オプションの設定パラメータをクライアントに提供できる。 {{IETF RFC|2132}} には、[[Internet Assigned Numbers Authority]](IANA)によって定義されている使用可能なDHCPオプション(DHCPおよびBOOTPのパラメータ)が記載されている<ref name=":0">{{cite web|url=https://www.iana.org/assignments/bootp-dhcp-parameters/bootp-dhcp-parameters.xhtml|title=Dynamic Host Configuration Protocol (DHCP) and Bootstrap Protocol (BOOTP) Parameters|last=|first=|date=|website=|publisher=iana.org|accessdate=2018-10-16}}</ref>。
DHCPクライアントは、DHCPサーバによって提供されたパラメータを選択・操作・上書きすることができる。Unix系OSでは、このクライアントレベルの変更は通常、設定ファイル/etc/dhclient.confの値に従って行われる。
==DHCPオプション==
オプションは様々な長さのオクテット文字列である。最初のオクテットはオプションコード、2番目のオクテットは後続オクテットの数で、残りのオクテットはオプションコードに依存する。例えば、offerのDHCPメッセージタイプオプションは0x35、0x01、0x02と表示される。ここで、0x35はDHCPメッセージタイプ(DHCP message type)のコード53で、0x01は後ろに1オクテットが続くことを表し、0x02は"offer"を表す値である。
=== <nowiki>RFC 2132</nowiki> で定義 ===
次の表は、 {{IETF RFC|2132}} <ref name="rfc2132">{{cite IETF | df=ja
| title = DHCP options and BOOTP vendor extensions
| rfc = 2132
| last1 = Alexander
| first1 = Steve
| last2 = Droms
| first2 = Ralph
| date = March 1997
| publisher = [[Internet Engineering Task Force|IETF]]
| accessdate = 2012-06-10
| doi = 10.17487/RFC2132
}}</ref>およびIANAレジストリ<ref name=":0" />で定義されている利用可能なDHCPオプションを一覧にしたものである。
{| class="wikitable sortable"
|+ {{IETF RFC|1497}} (BOOTP Vendor Information Extensions) ベンダ拡張<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 3}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 0 || Pad<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 3.1}} || 0 [[オクテット (コンピュータ)|オクテット]] || 他のオプションがバイト境界に揃うように[[パディング]]するために使用する。長さバイトの後には何も続かない。
|-
| 1 || Subnet mask<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 3.3}} || 4オクテット || ルータオプション(オプション3)がある場合は、その前に送信する必要がある。
|-
| 2 || Time offset<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 3.4}} || 4オクテット ||
|-
| 3 || Router || 4オクテットの倍数 || 利用可能なルータ。優先順にリストされている。
|-
| 4 || Time server || 4オクテットの倍数 || 利用可能な同期タイムサーバ。優先順にリストされている。
|-
| 5 || Name server || 4オクテットの倍数 || 利用可能な{{仮リンク|ARPA Host Name Server Protocol|en|ARPA Host Name Server Protocol|label=IEN 116}}ネームサーバ。優先順にリストされている。
|-
| 6 || Domain name server || 4オクテットの倍数 || 利用可能な[[Domain Name System|DNS]]サーバ。優先順にリストされている。
|-
| 7 || Log server || 4オクテットの倍数 || 利用可能なログサーバ。優先順にリストされている。.
|-
| 8 || Cookie server || 4オクテットの倍数 || ここで言うCookieとは、[[fortune (UNIX)|fortune]]コマンドで表示される[[フォーチュン・クッキー]](おみくじ)のための格言やジョークなどのことで、[[HTTP cookie]]とは関係ない。
|-
| 9 || LPR Server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 10 || Impress server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 11 || Resource location server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 12 || Host name || 1オクテット以上 ||
|-
| 13 || Boot file size || 2オクテット || ブートイメージの大きさ(4KiBブロック単位)
|-
| 14 || {{仮リンク|メリット・ネットワーク|en|Merit Network|label=Merit}} dump file || 1オクテット以上 || クラッシュダンプを保存した場所のパス
|-
| 15 || Domain name || 1オクテット以上 ||
|-
| 16 || Swap server || 4オクテット ||
|-
| 17 || Root path || 1オクテット以上 ||
|-
| 18 || Extensions path || 1オクテット以上 ||
|-
| 255 || End || 0オクテット || ベンダーオプションフィールドの終端を示すために使用される
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ ホストごとのIP層パラメータ<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 4}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 19 || IP forwarding enable/disable || 1オクテット ||
|-
| 20 || Non-local source routing enable/disable || 1オクテット ||
|-
| 21 || Policy filter || 8オクテットの倍数 ||
|-
| 22 || Maximum datagram reassembly size || 2オクテット ||
|-
| 23 || Default IP time-to-live || 1オクテット ||
|-
| 24 || Path MTU aging timeout || 4オクテット ||
|-
| 25 || Path MTU plateau table || 2オクテットの倍数 ||
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ インターフェースごとのIP層パラメータ<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 5}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 26 || Interface MTU || 2オクテット ||
|-
| 27 || All subnets are local || 1オクテット ||
|-
| 28 || Broadcast address || 4オクテット ||
|-
| 29 || Perform mask discovery || 1オクテット ||
|-
| 30 || Mask supplier || 1オクテット ||
|-
| 31 || Perform router discovery || 1オクテット ||
|-
| 32 || Router solicitation address || 4オクテット ||
|-
| 33 || Static route || 8オクテットの倍数 || 送信先・ルータのペアのリスト
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ インターフェースごとのリンク層パラメータ<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 6}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 34 || Trailer encapsulation option || 1オクテット ||
|-
| 35 || ARP cache timeout || 4オクテット ||
|-
| 36 || Ethernet encapsulation || 1オクテット ||
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ TCPパラメータ<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 7}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 37 || TCP default TTL || 1オクテット ||
|-
| 38 || TCP keepalive interval || 4オクテット ||
|-
| 39 || TCP keepalive garbage || 1オクテット ||
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ アプリケーションとサービスのパラメータ<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 8}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 40 || Network information service domain || 1オクテット以上 ||
|-
| 41 || Network information servers || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 42 || [[Network Time Protocol]] (NTP) servers || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 43 || Vendor-specific information || 1オクテット以上 ||
|-
| 44 || NetBIOS over TCP/IP name server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 45 || NetBIOS over TCP/IP datagram Distribution Server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 46 || NetBIOS over TCP/IP node type || 1オクテット ||
|-
| 47 || NetBIOS over TCP/IP scope || 1オクテット以上 ||
|-
| 48 || [[X Window System]] font server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 49 || X Window System display manager || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 64 || [[Network Information Service]]+ domain || 1オクテット以上 ||
|-
| 65 || Network Information Service+ servers || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 68 || Mobile IP home agent || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 69 || [[Simple Mail Transfer Protocol]] (SMTP) server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 70 || [[Post Office Protocol]] (POP3) server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 71 || [[Network News Transfer Protocol]] (NNTP) server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 72 || Default [[World Wide Web]] (WWW) server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 73 || Default [[Finger protocol]] server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 74 || Default [[Internet Relay Chat]] (IRC) server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 75 || [[StreetTalk]] server || 4オクテットの倍数 ||
|-
| 76 || StreetTalk Directory Assistance (STDA) server || 4オクテットの倍数 ||
|}
{| class="wikitable sortable"
|+ DHCP拡張<ref name=rfc2132/>{{rp|Section 9}}
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! 備考
|-
| 50 || Requested IP address || 4オクテット ||
|-
| 51 || IP address lease time || 4オクテット ||
|-
| 52 || Option overload || 1オクテット ||
|-
| 53 || DHCP message type || 1オクテット ||
|-
| 54 || Server identifier || 4オクテット ||
|-
| 55 || Parameter request list || 1オクテット以上 ||
|-
| 56 || Message || 1オクテット以上 ||
|-
| 57 || Maximum DHCP message size || 2オクテット ||
|-
| 58 || Renewal (T1) time value || 4オクテット ||
|-
| 59 || Rebinding (T2) time value || 4オクテット ||
|-
| 60 || Vendor class identifier || 1オクテット以上 ||
|-
| 61 || Client-identifier || 2オクテット以上 ||
|-
| 66 || TFTP server name || 1オクテット以上 ||
|-
| 67 || Bootfile name || 1オクテット以上 ||
|}
====DHCPクライアントのベンダ識別====
DHCPクライアントのベンダと機能を識別するためのオプションがある。この情報は、DHCPクライアントのベンダによって指定された意味を持つ可変長文字列またはオクテットである。DHCPクライアントが特定の種類のハードウェアまたはファームウェアを使用していることをサーバに通信するには、DHCP requestにベンダクラス識別子(VCI)と呼ばれる値(オプション60)を設定する。
この方法により、DHCPサーバーは2種類のクライアントマシンを区別し、2種類のモデムからの要求を適切に処理できる。一部のタイプの[[セットトップボックス]]では、デバイスのハードウェアタイプと機能についてDHCPサーバーに通知するようにVCI(オプション60)も設定されている。このオプションが設定されている値は、このクライアントがDHCP応答で必要とする必要な追加情報についてのヒントをDHCPサーバに与える。
=== RFC 2132以外で定義 ===
{| class="wikitable sortable"
|+ 定義されたDHCPオプション
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! RFC
|-
| 82 || [[#リレーエージェント情報サブオプション|Relay agent information]] || 2オクテット以上 || {{IETF RFC|3046}}<ref name="ietf_spec_dhcp82">{{cite journal|last1=Patrick|first1=Michael|title=DHCP Relay Agent Information Option|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3046|website=IETF Documents|publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]]|accessdate=2017-07-22|language=en|doi=10.17487/RFC3046|date=January 2001}}</ref>
|-
| 85 || [[NetIQ eDirectory|Novell Directory Service]] (NDS) servers || 4オクテット以上で、4オクテットの倍数 || {{IETF RFC|2241}}<ref name="ietf_spec_dhcp85-86-87">{{cite journal|last1=Provan|first1=Don|title={{IETF RFC|2241}} – DHCP Options for Novell Directory Services|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2241|website=IETF Documents|publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]]|accessdate=2017-07-23|language=en|doi=10.17487/RFC3256|date=November 1997}}</ref>{{rp|Section 2}}
|-
| 86 || NDS tree name || 可変 || {{IETF RFC|2241}}<ref name="ietf_spec_dhcp85-86-87"/>{{rp|Section 3}}
|-
| 87 || NDS context || 可変 || {{IETF RFC|2241}}<ref name="ietf_spec_dhcp85-86-87"/>{{rp|Section 4}}
|-
| 100 || [[Search domain|Time zone]], POSIX style || 可変 || {{IETF RFC|4833}}<ref name="ietf_spec_dhcp100-101">{{cite web|last1=Lear|first1=E.|last2=Eggert|first2=P.|title=Timezone Options for DHCP|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc4833|website=IETF Documents|publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]]|date=April 2007|accessdate=2018-06-28|language=en}}</ref>
|-
| 101 || [[Search domain|Time zone]], [[tz database]] style || 可変 || {{IETF RFC|4833}}<ref name="ietf_spec_dhcp100-101"/>
|-
| 119 || [[Search domain|Domain search]] || 可変 || {{IETF RFC|3397}}<ref name="ietf_spec_dhcp119">{{cite journal|doi=10.17487/RFC3397|last1=Bernard|first1=Aboba|last2=Stuart|first2=Cheshire|title={{IETF RFC|3397}} – Dynamic Host Configuration Protocol (DHCP) Domain Search Option|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3397|website=IETF Documents|publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]]|date=November 2002|accessdate=2017-07-22|language=en}}</ref>
|-
| 121 || Classless static route || 可変 || {{IETF RFC|3442}}<ref name="ietf_spec_dhcp121">[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3442 {{IETF RFC|3442}}]</ref>
|}
====リレーエージェント情報サブオプション====
リレーエージェント情報オプション(オプション82)<ref name="ietf_spec_dhcp82"/>は、DHCPリレーとDHCPサーバ間で送信されるDHCP要求にサブオプションを付加するためのコンテナを指定する。
{| class="wikitable sortable"
|+ Relay agent sub-options
|-
! コード !! 名称 !! 長さ !! RFC
|-
| 4 || Data-Over-Cable Service Interface Specifications (DOCSIS) device class || 4オクテット || {{IETF RFC|3256}}<ref name="ietf_spec_riasub4">{{cite journal|last1=Doug|first1=Jones|last2=Rich|first2=Woundy|title={{IETF RFC|3256}} – The DOCSIS (Data-Over-Cable Service Interface Specifications) Device Class DHCP (Dynamic Host Configuration Protocol) Relay Agent Information Sub-option|url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3256|website=IETF Documents|publisher=[[Internet Engineering Task Force|IETF]]|accessdate=2017-07-23|language=en|doi=10.17487/RFC3256|date=April 2002}}</ref>
|}
==DHCPリレー==
DHCPはDHCPサーバの検索にブロードキャストを使用する関係上、通常はクライアントとサーバが同一ブロードキャスト・ドメイン上にないと正常に動作しない。しかしながら、企業や大学など比較的大規模なネットワークでは、サーバを1カ所に集中させたい等の理由でDHCPクライアントとサーバとが全く異なるネットワーク上に設置されることがある。
このような場合に使用されるのがDHCP Relay Agent(DHCPリレーエージェント) である。DHCP Relay Agent はサーバまたはルータ([[レイヤ3スイッチ|L3スイッチ]])上にBootp relay, IP helper, DHCP relay などの呼称で実装されている。「'''DHCPヘルパー'''」とも呼ばれる。
AgentがDHCPクライアントからのブロードキャスト(DHCP Request)を受信すると、宛先IPアドレスを設定されているDHCPサーバのアドレスに変換し、送信元を自己のLAN側(クライアントと同一サブネット)のIPアドレスに変換して転送する。また、リクエストデータ内に自己IPアドレスを書き込む。(ここで、注目したいのは、宛先IP/送信元IP/データを書き換えるという荒業をエレガントに行っていることである。)
DHCPサーバは、転送されたパケットを確認し、データ内に書き込まれたAgentのIPアドレスにより割り当てるべきネットワークのアドレスを決定する。また、データ内のクライアントのMACアドレスを読んで、リーステーブルを更新する。リースパケットは、パケットの送信元である、Agentに返信される。
リースパケットを受信したAgentは、宛先IPアドレスを0.0.0.0に変換し、リクエストクライアントのMACアドレスに向けたフレームにカプセリングして送出する。
リレーエージェントとDHCPサーバー間の通信では、通常、送信元と宛先のどちらもUDPポート67が使用される。
DHCP Relay Agentを利用する際の注意点として、以下の2点がある。
* DHCPサーバとDHCP Relay Agentとは同一のサーバもしくはルータ内に同居することは出来ない。
* 同一ブロードキャストドメイン内に複数のサブネットが存在する場合、DHCP Relay Agentを経由すると、DHCP Relay AgentのIPアドレスによってDHCPサーバがリースするIPアドレスの範囲が決定される。
==信頼性==
DHCPは、定期的な更新、再バインド<ref name=rfc2131/>{{rp|Section 4.4.5}}、フェイルオーバーなど、いくつかの方法で信頼性を保証する。DHCPクライアントには、一定期間リースが割り当てられている。リース期間の半分が経過すると、クライアントはリースの更新を試みる<ref name=rfc2131/>{{rp|Section 4.4.5 Paragraph 3}}。元のリースを許可したDHCPサーバにユニキャストDHCPREQUESTメッセージを送信することで、これを行う。そのサーバが停止しているか、またはアクセスできない場合、DHCPREQUESTへの応答は届かない。その場合、クライアントはDHCPREQUESTを再送し<ref name=rfc2131/>{{rp|Section 4.4.5 Paragraph 8}}{{Efn|RFCでは、クライアントがDHCPREQUESTパケットを再送信する前に、T2までの残り時間の半分待機するように規定している。}}、DHCPサーバが復旧した場合、または再び到達可能になった場合は、応答が返るのでリースを更新することができる。
DHCPサーバに長期間到達できない場合<ref name=rfc2131/>{{rp|Section 4.4.5 Paragraph 5}}、DHCPクライアントは、DHCPREQUESTをユニキャストではなくブロードキャストで送信し再バインドを試みる。ブロードキャストなので、DHCPREQUESTメッセージは全ての利用可能なDHCPサーバに届く。他のDHCPサーバがリースを更新できる場合は、この時点で更新される。
再バインドが機能するためには、クライアントがバックアップのDHCPサーバに正常に接続したときに、クライアントのバインディングに関する正確なそのサーバにおいて情報が必要である。2つのサーバー間で正確なバインディング情報を維持することは複雑な問題である。両方のサーバが同じリースデータベースを更新できる場合は、独立したサーバでの更新間の競合を回避するためのメカニズムが必要である。[[フォールトトレラントシステム|フォールトトレラント]]なDHCPサーバを実装するための提案がIETFに提出されたが、まだ正式化はされていない<ref>{{cite IETF | df=ja
| title = DHCP Failover Protocol
| draft = draft-ietf-dhc-failover-12
| last1 = Droms | first1 = Ralph
| last2 = Kinnear | first2 = Kim
| last3 = Stapp | first3 = Mark
| last4 = Volz | first4 = Bernie
| last5 = Gonczi | first5 = Steve
| last6 = Rabil | first6 = Greg
| last7 = Dooley | first7 = Michael
| last8 = Kapur | first8 = Arun
| date = March 2003
| publisher = [[Internet Engineering Task Force|IETF]]
| accessdate = 2020-05-09
}}</ref>{{Efn|この提案では、1台のサーバが完全に故障した場合でも、2台のサーバがリースデータベースを回復して動作を継続できるように、2台のサーバが互いにゆるやかに同期し続けることができるメカニズムを提供している。仕様が長くて複雑だったため、規格としては発表されなかった。ただし、この仕様で説明されている技法は広く使用されており、ISC DHCPサーバでのオープンソース実装や、いくつかの商用の実装もある。}}。
再バインドが失敗すると、リースは最終的に期限切れになる。リースが期限切れになると、クライアントはリースで付与されたIPアドレスの使用を停止する必要がある<ref name=rfc2131/>{{rp|Section 4.4.5 Paragraph 9}}。そして、DHCPプロセスを最初から再開し、DHCPDISCOVERメッセージをブロードキャスト送信する。リース期限が切れているため、提示されたIPアドレスはすべて受け入れられる。新しいIPアドレスを(おそらく別のDHCPサーバから)取得すると、もう一度ネットワークを使用できるようになる。ただし、IPアドレスが変更されるため、進行中の接続は全て切断される。
==セキュリティ==
{{see also|DHCPスヌーピング}}
基本のDHCPには、認証のメカニズムは含まれていない<ref name="RAIOSec">{{cite web |url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3046#section-7 |title = RFC 3046 - DHCP Relay Agent Information Option |author = Michael Patrick |date = January 2001 |work = Network Working Group | access-date=2019-02-22}}</ref>。このため、様々な攻撃に対して脆弱である。DHCPを利用した攻撃は、主に以下の3つのカテゴリに分類される。
* 不正なDHCPサーバがクライアントに誤った情報を提示する<ref name="DHCPv4Sec">{{cite web |url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-7 |title = RFC 2131 - Dynamic Host Configuration Protocol |author = Ralph Droms |date = March 1997 |work = Network Working Group | access-date=2019-02-22}}</ref>。
* 無許可のクライアントがリソースにアクセスする<ref name="DHCPv4Sec"/>。
* 悪意のあるDHCPクライアントからのリソース枯渇攻撃<ref name="DHCPv4Sec"/>。
クライアントにはDHCPサーバの身元を検証する方法がないため、攻撃者が{{仮リンク|不正DHCP|en|rogue DHCP}}サーバ(rogue DHCP)をネットワーク上に設置して、DHCPクライアントに誤った情報を提示する可能性がある<ref name="Stapko2011"/>。これは、クライアントがネットワーク接続にアクセスするのを妨げる[[DoS攻撃]]<ref name="Rountree2013">{{cite book |author = Derrick Rountree |title = Windows 2012 Server Network Security: Securing Your Windows Network Systems and Infrastructure |url = https://books.google.com/books?id=NFzou_d4MGUC&pg=SA2-PA13 |year = 2013 |publisher = Newnes |isbn = 978-1-59749-965-1 |page = 22 }}</ref>や、[[中間者攻撃]]に使うことができる<ref name="Rooney2011">{{cite book |author = Timothy Rooney |title = Introduction to IP Address Management |url = https://books.google.com/books?id=QgRDxkuI1MkC&pg=PA180 |year = 2010 |publisher = John Wiley & Sons |isbn = 978-1-118-07380-3 |page = 180 }}</ref>。DHCPサーバはDHCPクライアントにDNSサーバなどのサーバIPアドレスを提供するため<ref name="DHCPv4Sec"/>、攻撃者はDHCPクライアントに自分のDNSサーバを介してDNS問い合わせを実行させることができる<ref name="DNSRedirect">{{cite web |url = https://securelist.com/tdss-loader-now-got-legs/30844/ |title = TDSS loader now got "legs" |author = Sergey Golovanov (Kaspersky Labs) |date = June 2011 | access-date=2019-02-22}}</ref><ref name="Vulnerabilites">{{cite web |url = http://greyhatsspeak.blogspot.com/2015/11/dhcp-protocol-and-its-vulnerabilities.html |title = dhcp protocol and its vulnerabilities |author = Akash K Sunny |date = October 2015 | access-date=2019-02-22}}</ref>。これにより、攻撃者は自分自身を介してネットワークトラフィックをリダイレクトし、接続しているクライアントとネットワークサーバ間の接続を盗聴したり、単にそれらのネットワークサーバを自分のネットワークサーバに置き換えることができる<ref name="DNSRedirect" />。
DHCPサーバにはクライアントを認証するための安全なメカニズムがないため、クライアント識別子など、他のDHCPクライアントに属する資格情報を提示することで、攻撃者のクライアントはIPアドレスを不正に取得することができる<ref name="Stapko2011"/>。これにより、DHCPクライアントがDHCPサーバのIPアドレスのプールを全て使い果たすことも可能になる。アドレスを尋ねる度に新しい資格を提示することにより、クライアントは特定のネットワークリンク上の全ての利用可能なIPアドレスを消費できる<ref name="Stapko2011">{{cite book |author = Timothy Stapko |title = Practical Embedded Security: Building Secure Resource-Constrained Systems |url = https://books.google.com/books?id=Mly55VntuYMC&pg=PA39 |year = 2011 |publisher = Newnes |isbn = 978-0-08-055131-9 |page = 39 }}</ref>。
DHCPでは、これらの問題を軽減するためのメカニズムをいくつか提供している。[[#リレーエージェント情報オプション|リレーエージェント情報オプション]]プロトコル拡張( {{IETF RFC|3046}} 、通常は実際のオプション番号から"Option 82"と呼ばれる<ref name="HensCaballero2008">{{cite book |author1 = Francisco J. Hens |author2 = José M. Caballero |title = Triple Play: Building the converged network for IP, VoIP and IPTV |url = https://books.google.com/books?id=aS1ZngveBIkC&pg=PA239 |year = 2008 |publisher = John Wiley & Sons |isbn = 978-0-470-75439-9 |page = 239 }}</ref><ref name="Ramirez2008">{{cite book |author = David H. Ramirez |title = IPTV Security: Protecting High-Value Digital Contents |url = https://books.google.com/books?id=70tr_hSDULwC&pg=PA55 |year = 2008 |publisher = John Wiley & Sons |isbn = 978-0-470-72719-5 |page = 55 }}</ref>)は、これらのメッセージがネットワーク事業者の信頼できるネットワークに届くときにDHCPメッセージにタグを付けることをネットワーク事業者に許可する。このタグは、クライアントのネットワークリソースへのアクセスを制御するための認証トークンとして使用される。クライアントはリレーエージェントの上流にあるネットワークにアクセスできないため、認証がなくてもDHCPサーバオペレータが認可トークンに依存することを妨げることはない<ref name="RAIOSec"/>。
別の拡張、DHCPメッセージ認証( {{IETF RFC|3118}} )では、DHCPメッセージを認証するためのメカニズムを提供する。2002年の時点では、多数のDHCPクライアントの鍵を管理するという問題があるため、{{IETF RFC|3118}}では広く採用されていなかった。DSL技術に関する2007年の本には、次のように書かれている。
<blockquote>{{IETF RFC|3118}}で提案されたセキュリティ対策に対して特定された多数のセキュリティ脆弱性があった。この事実は、[[802.1x]]の導入と相まって、DHCP認証の導入と普及率を低下させ、広く普及したことは一度もない<ref name="GoldenDedieu2007">{{cite book |author1 = Philip Golden |author2 = Hervé Dedieu |author3 = Krista S. Jacobsen |title = Implementation and Applications of DSL Technology |url = https://books.google.com/books?id=Jjkd74jY47oC&pg=PA484 |year = 2007 |publisher = Taylor & Francis |isbn = 978-1-4200-1307-8 |page = 484 }}</ref>。</blockquote>
2010年の本では次のように書かれている。
<blockquote>DHCP認証の実装はこれまでほとんどなかった。ハッシュ計算による鍵管理と処理遅延の課題は、認識されている利点の代価を払うには高すぎる代償と見なされてきた<ref name="Rooney2011b">{{cite book |author = Timothy Rooney |title = Introduction to IP Address Management |url = https://books.google.com/books?id=QgRDxkuI1MkC&pg=PA181 |year = 2010 |publisher = John Wiley & Sons |isbn = 978-1-118-07380-3 |pages = 181–182 }}</ref>。</blockquote>
2008年からの提案には、[[802.1x]]や{{仮リンク|Protocol for Carrying Authentication for Network Access|en|Protocol for Carrying Authentication for Network Access|label=PANA}}(どちらも[[Extensible Authentication Protocol|EAP]]を転送する)を使用することでDHCP要求を認証するものがある<ref name="Copeland2008">{{cite book |author = Rebecca Copeland |title = Converging NGN Wireline and Mobile 3G Networks with IMS |url = https://books.google.com/books?id=ruWv8RGkBGgC&pg=PA142 |year = 2008 |publisher = Taylor & Francis |isbn = 978-1-4200-1378-8 |pages = 142–143 }}</ref>。DHCP自体にEAPを含める、いわゆるEAPoDHCPについてIETFの提案がなされた<ref name="PrasadMihovska2009">{{cite book |author1 = Ramjee Prasad |author2 = Albena Mihovska |title = New Horizons in Mobile and Wireless Communications: Networks, services, and applications |url = https://books.google.com/books?id=w9bEwBwd33MC&pg=PA339 |year = 2009 |publisher = Artech House |isbn = 978-1-60783-970-5 |page = 339 |volume = 2 }}</ref>が、これはIETFドラフトよりも先に進行した形跡はなく、最後の議論は2010年で止まっている<ref>{{cite web |url=http://tools.ietf.org/search/draft-pruss-dhcp-auth-dsl-07 |title=Archived copy |accessdate=2013-12-12 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150403091552/http://tools.ietf.org/search/draft-pruss-dhcp-auth-dsl-07 |archivedate=2015-04-03 |df= }}</ref>。
== 実装 ==
=== サーバの実装 ===
DHCPサーバが実装されている環境としては、大きく分けて以下の三種類がある。
* [[UNIX]]系環境
* [[Microsoft Windows|Windows]]系環境
* [[ルータ]]内実装
==== UNIX系環境 ====
もっとも初期の頃から存在しているサーバ実装であり、[[Internet Systems Consortium|ISC]]版と[[WIDE]]版の2種類がよく知られているが、WIDE版DHCPサーバは現在開発が終了している。
==== Windows系環境 ====
[[Windows NT|Windows NT 4 Server]]以降、MicrosoftはサーバOSに標準でDHCPサーバを添付しており、現行の[[Windows Server 2008 R2]]でも標準でDHCPサーバが付属している。
[[Windows 2000|Windows 2000 Server]]以降のDHCPサーバでは、[[Active Directory]]環境においてはインストール後にドメイン管理者の「承認」を行わないと起動できないという特徴を持つ(非Active Directory環境下ではこの制限はない)。
このほかに、第三者が開発した [[Windows 95]]/[[Windows 98|98]]系環境で動作する(Windows 2000等でも動作する)フリーソフトのDHCPサーバも存在する。
==== ルータ内実装 ====
[[2000年]]頃から増加してきた形態で、ルータ内部にDHCPサーバ機能を組み込んだものである。特に、家庭向けのルータ(いわゆる「ブロードバンドルータ」)では必ずといってよいほど実装されており、現在家庭内で利用されているDHCPサーバでもっとも一般的なものと思われる。
=== クライアントの実装 ===
[[Microsoft Windows|Windows 9x]]・[[Microsoft Windows NT|Windows NT 4.x]]・[[Mac OS]]などでDHCPのクライアントモジュールが標準添付されるようになり、広く利用されるようになった。
初期のMac OS 9においては、DHCPの仕様の解釈の違いから、うまく通信できない場合があり、[[フリーズ]]したかのような症状になるという問題が発生した。この問題は、のちにバージョンアップで解決された。
==関連するIETF標準==
* {{IETF RFC|2131}}, Dynamic Host Configuration Protocol
* {{IETF RFC|2132}}, DHCP Options and BOOTP Vendor Extensions
* {{IETF RFC|3046}}, DHCP Relay Agent Information Option
* {{IETF RFC|3397}}, Dynamic Host Configuration Protocol (DHCP) Domain Search Option
* {{IETF RFC|3942}}, Reclassifying Dynamic Host Configuration Protocol Version Four (DHCPv4) Options
* {{IETF RFC|4242}}, Information Refresh Time Option for Dynamic Host Configuration Protocol for IPv6
* {{IETF RFC|4361}}, Node-specific Client Identifiers for Dynamic Host Configuration Protocol Version Four (DHCPv4)
* {{IETF RFC|4436}}, Detecting Network Attachment in IPv4 (DNAv4)
* {{IETF RFC|3442}}, Classless Static Route Option for Dynamic Host Configuration Protocol (DHCP) version 4
==関連項目==
{{commons category|Dynamic Host Configuration Protocol (DHCP)}}
* [[UPnP]]
* {{仮リンク|Boot Service Discovery Protocol|en|Boot Service Discovery Protocol}} (BSDP){{snd}} Appleの[[NetBoot]]で使用されるDHCPの拡張
* {{仮リンク|DHCPサーバソフトウェアの比較|en|Comparison of DHCP server software}}
* {{仮リンク|Peg DHCP|en|Peg DHCP}} ({{IETF RFC|2322}})
* [[Preboot Execution Environment]] (PXE)
* [[Reverse Address Resolution Protocol]] (RARP)
* {{仮リンク|不正DHCP|en|rogue DHCP}}
* [[UDPヘルパーアドレス]]{{snd}} DHCPリクエストをサブネット境界を超えてルーティングするためのルータの設定
* [[Zeroconf]]{{snd}} Zero Configuration Networking
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|30em}}
===出典===
{{Reflist|30em}}
{{Normdaten}}
{{OSI}}
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|2131]]
[[Category:長大な項目名]]
|
2003-07-04T12:17:38Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Dynamic_Host_Configuration_Protocol
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量子井戸
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量子井戸 (りょうしいど、英: quantum well) とは、電子の移動方向が束縛された状態のこと。もしくは、レーザーなどで用いられる同状態を得るための構造のこと。
MBEやMOCVDなどの結晶成長法を用い、厚さにしてnmオーダー(nm:ナノメートル=10m)の薄膜をバンドギャップの大きいバリア層で挟むように作製すると、電子は厚さ方向に量子化されてエネルギーは離散化する。このように1次元方向への閉じこめを作った構造を、量子井戸構造という。
量子井戸を作製するためには無数の組成と格子定数の異なる材料(GaAs、InP、GaNなど)を格子整合させるための高度な結晶成長技術が求められる。
量子井戸構造では状態密度は階段状となり、電子の閉じこめによる発光効率の改善などによる量子井戸レーザへの応用が行われている。
もう一つ閉じこめを増やした物が量子細線、3次元で閉じこめを行った物が量子ドットである。
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量子井戸 (りょうしいど、英: quantum well) とは、電子の移動方向が束縛された状態のこと。もしくは、レーザーなどで用いられる同状態を得るための構造のこと。 MBEやMOCVDなどの結晶成長法を用い、厚さにしてnmオーダー(nm:ナノメートル=10-9m)の薄膜をバンドギャップの大きいバリア層で挟むように作製すると、電子は厚さ方向に量子化されてエネルギーは離散化する。このように1次元方向への閉じこめを作った構造を、量子井戸構造という。 量子井戸を作製するためには無数の組成と格子定数の異なる材料(GaAs、InP、GaNなど)を格子整合させるための高度な結晶成長技術が求められる。 量子井戸構造では状態密度は階段状となり、電子の閉じこめによる発光効率の改善などによる量子井戸レーザへの応用が行われている。 もう一つ閉じこめを増やした物が量子細線、3次元で閉じこめを行った物が量子ドットである。
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{{出典の明記|date=2023年1月8日 (日) 04:59 (UTC)}}
'''量子井戸''' (りょうしいど、{{lang-en-short|quantum well}}) とは、[[電子]]の移動方向が束縛された状態のこと。もしくは、[[レーザー]]などで用いられる同状態を得るための構造のこと。
[[分子線エピタキシー法|MBE]]や[[MOCVD]]などの結晶成長法を用い、厚さにしてnmオーダー(nm:ナノメートル=10<SUP>-9</SUP>m)の薄膜を[[バンドギャップ]]の大きい[[バリア層]]で挟むように作製すると、電子は厚さ方向に[[量子化 (物理学)|量子化]]されてエネルギーは離散化する。このように1次元方向への閉じこめを作った構造を、量子井戸構造という。
量子井戸を作製するためには無数の組成と格子定数の異なる材料(GaAs、InP、GaNなど)を格子整合させるための高度な結晶成長技術が求められる。
量子井戸構造では[[状態密度]]は階段状となり、電子の閉じこめによる発光効率の改善などによる量子井戸レーザへの応用が行われている。
もう一つ閉じこめを増やした物が[[量子細線]]、3次元で閉じこめを行った物が[[量子ドット]]である。
==関連項目==
*[[バンド理論]]
*[[サブバンド]]
*[[半導体]]
*[[量子細線]]
*[[量子ドット]]
*[[量子力学]]
*[[物性物理]]
*[[半導体]]
*[[半導体レーザ]]
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[[Category:固体物理学]]
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10,837 |
鉄道旅行
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鉄道旅行(てつどうりょこう)は、鉄道を利用する旅行のこと。類義語に汽車旅(きしゃたび)がある。大陸横断鉄道乗車のように一週間以上かかるものから十分程度まで、月収と同様の金額から数百円まで様々な形態の鉄道旅行がある。
現代においては、旅行において鉄道を選択することは、単なる移動手段の選択の一つでしかない。しかしながら、産業革命期において、格安の輸送サービスを実現した鉄道は、一般大衆に普段生活する場所とは別の場所を周遊するという娯楽をはじめて可能にするに至った輸送手段であった。初期の大衆旅行において、旅行そのものの質の変遷は、鉄道サービスの変遷と常に隣り合わせであり、その意味で鉄道による旅行である鉄道旅行に着目することは重要であるし、こうした歴史があることが、鉄道による移動そのものを楽しむ旅行が一般に認知される要因となっている。
鉄道登場以前、旅は多くの危険を伴う行為であった。自分の住む地域と異なる地域を旅行する際に、現地の為政者が身の安全を保障してくれる可能性は現在に比べて低く、また、現在に比べて人の移動がずっと少なかったために、抗体を持たない病原菌に感染する可能性が高かったのである。自国のごく限られた範囲を旅行する際でも、悪路を徒歩や馬車で長時間かけて移動する必要があり、旅行先での滞在設備の欠如、長期間を要する旅行費用、地域情報の欠如などはごく限られた層を例外として、用務目的以外での旅行をためらわせるものであった。
鉄道の登場は、こうした事情を大きく変えた。鉄道は、人々の移動時間を大幅に短縮することに成功し、情報の伝達をスムーズにした。鉄道がもたらした産業の成長により、様々な業務で長距離を旅行する人々が増加した。トーマス・クックは、こうした大衆の旅行に対する潜在需要を察知し、さらに鉄道輸送に季節波動があることに目をつけ、1841年、鉄道を用いた団体旅行の企画を世界に先駆けて行った。この企画は大成功で、クックはその後もパリの万国博覧会などの旅行の企画を行い、トーマス・クック社はその後世界有数の旅行社に成長するに至った。
初期の大衆旅行における鉄道のサービスは劣悪であったが、全旅行時間に占める鉄道による移動時間の割合は比較的高いものであった。旅行だけではなく、新たな職を求めての長距離移動など、かつての人々の人生の節目における鉄道の役割は大きいものであった。
日本における旅行手段はかつて(1960年代まで)、鉄道が最も一般的であった。しかし、これは鉄道そのものの魅力によるものではなく、当時は道路や空港が未整備であったこともあって、代替移動手段がないことによる選択であった。
1970年代以降、道路や空港が整備されるに伴って、自家用車と航空機が一般化していく中で、鉄道は絶対唯一の旅行手段ではなくなっていく。その中で、あえて鉄道を移動手段として利用する旅行自体に魅力を感じる層が出現しはじめる。その先駆けと呼べるのが作家内田百閒の『阿房列車』シリーズである。
1977年頃に始まるブルートレインブームによって、ブルートレインに代表される夜行列車が少年層のあこがれとなり、それまでのSLブームが「蒸気機関車を撮影すること」に比重があったのに対して、「列車に乗ること」が趣味になるという認識を一般に広める契機となった。
また、同年には元毎日新聞記者でレイルウェイ・ライターであった種村直樹が日本交通公社から『鉄道旅行術』を出版した。この書籍には乗車券の購入方法から駅弁の楽しみ方、宿の取り方など、当時はあまり公開されていなかった鉄道旅行のノウハウが詳細に記されており、「鉄道旅行のバイブル」とまでいわれた。この書籍によって、各大学の鉄道研究会や鉄道友の会では当たり前であったノウハウが一般化し、一般の人が鉄道旅行へ出る基礎情報がそろうことになる。
そして、1978年に中央公論社で活躍した編集者・常務であった宮脇俊三が処女作である『時刻表2万キロ』を河出書房から刊行した。宮脇の飄々とした文章と、淡々と鉄道に乗り沿線を旅していく様子が鉄道に興味のない一般大衆の心をつかみ、それまでの鉄道関係書籍としては異例のベストセラーとなった。この書籍の影響は大きく、日本国有鉄道が1980年代にいい旅チャレンジ20,000kmキャンペーンを張るきっかけとなるなど、鉄道を乗ること自体が趣味として一般に認知された。なお、宮脇は1979年に『最長片道切符の旅』を新潮社から出している。宮脇が「最長片道切符」という分野を開拓したわけではないが、世間一般に「最長片道切符」を広く認知させた。
一方、種村は、車中泊のみで列車をつなぐ「乗り継ぎ旅」と計画性を持たず成り行きで行程を決める「気まぐれ列車」という2つの鉄道旅行の形態を提案した。また、「汽車旅」という用語を鉄道旅行の代名詞として最初に使用し始めたのも種村である。宮脇が郷愁を誘う紀行文とともに鉄道旅行を広めたのに対して、種村は鉄道旅行の手法を提案することで鉄道旅行の魅力を広める役割を果たした。さらに、種村と宮脇に共通していたのは、自身は鉄道写真の撮影は行わず、新聞記者や雑誌編集者の経験を生かして、文章だけで鉄道旅行の魅力を伝えたという点であった。
1980年代以降の高速道路網の拡充による高速バスの充実、2000年代以降の低廉な運賃を導入した航空会社の登場に伴って、鉄道旅行は大きく変質した。夜行列車をはじめとする長距離列車は、鉄道事業者側の合理化と整備新幹線の開業による並行在来線の経営分離によって、ことごとく削減されたため、現地までの交通機関に高速バスや飛行機、長距離フェリー、自家用車を使うことが多くなった。また、地方過疎地域における沿線人口・旅客の減少や、地方でのマイカー社会の定着によって、JR・私鉄・第三セクターを問わず地方のローカル線廃止が進行していったこともあり、現地においてもレンタカーを借りて移動する者も増えた。1980年代に種村直樹や宮脇俊三に影響・感化されて鉄道旅行に目覚めた、当時の若者世代が高年齢化したこともその傾向を強めている。JRグループで定期運転されている夜行列車は2021年現在、サンライズ出雲・瀬戸だけとなってしまった。
また周遊券や各種割引乗車券の改廃等も、鉄道旅行の衰退に拍車をかけている。ただし、青春18きっぷなどは存続しており、鉄道ファンはこれを利用して普通列車での旅を楽しむ者が多い。
かつて走っていた関東地方~北海道を結ぶ「北斗星」「カシオペア」および近畿地方・北陸地方~北海道を結ぶ「トワイライトエクスプレス」は、単なる旅客輸送では新幹線ならびに飛行機(「北斗星」「カシオペア」であれば羽田・成田・仙台~新千歳など。「トワイライトエクスプレス」であれば伊丹・関空・小松~新千歳など)に対抗できないため、旅客がアドベンチャーとして鉄道旅行を楽しめるよう色々な工夫がされていたが、これらの列車も廃止された。
現在ではJR東日本の「TRAIN SUITE 四季島」・JR西日本の「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」・JR九州の「ななつ星 in 九州」がクルーズトレインとして自社線内線を経由して観光地を巡る列車として運行されている。それに加えて、JR九州は観光地を巡る列車として2020年秋より新たに「36ぷらす3」を運行する予定。
また、九州旅客鉄道(JR九州)は自社管轄地域の特徴のある環境を生かし、観光特急の発展に力を入れている。九州新幹線の開通で南九州へのアクセスが容易になったことから、特に南九州エリアでの観光列車の設定が多い。こちらも上記の寝台特急のように、旅客に旅を楽しんでもらえるさまざまな工夫がされている。
私鉄では、途中下車制度の廃止によって鉄道旅行の楽しみが薄れたが、乗り放題きっぷの発売や、観光向け車両の投入など、集客に力を入れている会社も多い。
旅行会社などが企画する団体旅行において、その団体を輸送するための専用列車を用意することがある。これを「団体専用列車」という。通常は、急行や特急向け車両の予備車両を利用する。また、後述するジョイフルトレインを用いることもある。
単に鉄道で移動するだけではなく、移動中にも企画や談笑で楽しんでもらうために、通常の列車を改造し、イベントができたり、展望をよくした列車が作成された。これを総称してジョイフルトレインという。
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"text": "鉄道の登場は、こうした事情を大きく変えた。鉄道は、人々の移動時間を大幅に短縮することに成功し、情報の伝達をスムーズにした。鉄道がもたらした産業の成長により、様々な業務で長距離を旅行する人々が増加した。トーマス・クックは、こうした大衆の旅行に対する潜在需要を察知し、さらに鉄道輸送に季節波動があることに目をつけ、1841年、鉄道を用いた団体旅行の企画を世界に先駆けて行った。この企画は大成功で、クックはその後もパリの万国博覧会などの旅行の企画を行い、トーマス・クック社はその後世界有数の旅行社に成長するに至った。",
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"text": "初期の大衆旅行における鉄道のサービスは劣悪であったが、全旅行時間に占める鉄道による移動時間の割合は比較的高いものであった。旅行だけではなく、新たな職を求めての長距離移動など、かつての人々の人生の節目における鉄道の役割は大きいものであった。",
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"text": "日本における旅行手段はかつて(1960年代まで)、鉄道が最も一般的であった。しかし、これは鉄道そのものの魅力によるものではなく、当時は道路や空港が未整備であったこともあって、代替移動手段がないことによる選択であった。",
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"text": "1980年代以降の高速道路網の拡充による高速バスの充実、2000年代以降の低廉な運賃を導入した航空会社の登場に伴って、鉄道旅行は大きく変質した。夜行列車をはじめとする長距離列車は、鉄道事業者側の合理化と整備新幹線の開業による並行在来線の経営分離によって、ことごとく削減されたため、現地までの交通機関に高速バスや飛行機、長距離フェリー、自家用車を使うことが多くなった。また、地方過疎地域における沿線人口・旅客の減少や、地方でのマイカー社会の定着によって、JR・私鉄・第三セクターを問わず地方のローカル線廃止が進行していったこともあり、現地においてもレンタカーを借りて移動する者も増えた。1980年代に種村直樹や宮脇俊三に影響・感化されて鉄道旅行に目覚めた、当時の若者世代が高年齢化したこともその傾向を強めている。JRグループで定期運転されている夜行列車は2021年現在、サンライズ出雲・瀬戸だけとなってしまった。",
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鉄道旅行(てつどうりょこう)は、鉄道を利用する旅行のこと。類義語に汽車旅(きしゃたび)がある。大陸横断鉄道乗車のように一週間以上かかるものから十分程度まで、月収と同様の金額から数百円まで様々な形態の鉄道旅行がある。 現代においては、旅行において鉄道を選択することは、単なる移動手段の選択の一つでしかない。しかしながら、産業革命期において、格安の輸送サービスを実現した鉄道は、一般大衆に普段生活する場所とは別の場所を周遊するという娯楽をはじめて可能にするに至った輸送手段であった。初期の大衆旅行において、旅行そのものの質の変遷は、鉄道サービスの変遷と常に隣り合わせであり、その意味で鉄道による旅行である鉄道旅行に着目することは重要であるし、こうした歴史があることが、鉄道による移動そのものを楽しむ旅行が一般に認知される要因となっている。
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{{複数の問題
|独自研究=2012-1
|出典の明記=2020-06
|正確性=2012-1
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[[ファイル:Wakkanai Exp-Rishiri 19930901.jpg|thumb|280px|鉄道旅行で目的地に到着し、記念撮影をする旅客(写真は[[JR北海道]][[宗谷本線]]の[[稚内駅]]/1994年9月撮影)]]
'''鉄道旅行'''(てつどうりょこう)は、[[鉄道]]を利用する[[旅行]]のこと。類義語に'''汽車旅'''(きしゃたび)がある。[[大陸横断鉄道]]乗車のように一週間以上かかるものから十分程度まで、月収と同様の金額から数百円まで様々な形態の鉄道旅行がある。
現代においては、旅行において鉄道を選択することは、単なる移動手段の選択の一つでしかない。しかしながら、[[産業革命]]期において、格安の[[輸送]]サービスを実現した鉄道は、一般大衆に普段生活する場所とは別の場所を周遊するという娯楽をはじめて可能にするに至った輸送手段であった。初期の大衆旅行において、旅行そのものの質の変遷は、鉄道サービスの変遷と常に隣り合わせであり、その意味で鉄道による旅行である鉄道旅行に着目することは重要であるし、こうした歴史があることが、鉄道による移動そのものを楽しむ旅行が一般に認知される要因となっている。
== 大衆旅行としての鉄道旅行の歴史 ==
鉄道登場以前、旅は多くの危険を伴う行為であった。自分の住む地域と異なる地域を旅行する際に、現地の為政者が身の安全を保障してくれる可能性は現在に比べて低く、また、現在に比べて人の移動がずっと少なかったために、抗体を持たない[[病原菌]]に感染する可能性が高かったのである。自国のごく限られた範囲を旅行する際でも、悪路を徒歩や[[馬車]]で長時間かけて移動する必要があり、旅行先での滞在設備の欠如、長期間を要する旅行費用、地域情報の欠如などはごく限られた層を例外として、用務目的以外での旅行をためらわせるものであった。
鉄道の登場は、こうした事情を大きく変えた。鉄道は、人々の移動時間を大幅に短縮することに成功し、情報の伝達をスムーズにした。鉄道がもたらした産業の成長により、様々な業務で長距離を旅行する人々が増加した。[[トーマス・クック]]は、こうした大衆の旅行に対する潜在需要を察知し、さらに鉄道輸送に季節波動があることに目をつけ、[[1841年]]、鉄道を用いた団体旅行の企画を世界に先駆けて行った。この企画は大成功で、クックはその後もパリの[[万国博覧会]]などの旅行の企画を行い、[[トーマス・クック・グループ|トーマス・クック]]社はその後世界有数の旅行社に成長するに至った。
== 旅行の目的としての鉄道 ==
初期の大衆旅行における鉄道のサービスは劣悪であったが、全旅行時間に占める鉄道による移動時間の割合は比較的高いものであった。旅行だけではなく、新たな職を求めての長距離移動など、かつての人々の人生の節目における鉄道の役割は大きいものであった。
== 日本における鉄道旅行 ==
日本における旅行手段はかつて([[1960年代]]まで)、鉄道が最も一般的であった。しかし、これは鉄道そのものの魅力によるものではなく、当時は道路や空港が未整備であったこともあって、代替移動手段がないことによる選択であった。
=== 勃興 ===
1970年代以降、道路や空港が整備されるに伴って、[[自家用車]]と[[航空会社|航空機]]が一般化していく中で、鉄道は絶対唯一の旅行手段ではなくなっていく。その中で、あえて鉄道を移動手段として利用する旅行自体に魅力を感じる層が出現しはじめる。その先駆けと呼べるのが作家[[内田百閒]]の『阿房列車』シリーズである。
[[1977年]]頃に始まる[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]ブームによって、ブルートレインに代表される[[夜行列車]]が少年層のあこがれとなり、それまでの[[SLブーム]]が「蒸気機関車を撮影すること」に比重があったのに対して、「列車に乗ること」が趣味になるという認識を一般に広める契機となった。
また、同年には元[[毎日新聞]]記者でレイルウェイ・ライターであった[[種村直樹]]が[[JTB|日本交通公社]]から『鉄道旅行術』を出版した。この書籍には乗車券の購入方法から駅弁の楽しみ方、宿の取り方など、当時はあまり公開されていなかった鉄道旅行のノウハウが詳細に記されており、「鉄道旅行のバイブル」とまでいわれた。この書籍によって、各大学の鉄道研究会や[[鉄道友の会]]では当たり前であったノウハウが一般化し、一般の人が鉄道旅行へ出る基礎情報がそろうことになる。
そして、[[1978年]]に[[中央公論社]]で活躍した[[編集者]]・[[常務取締役|常務]]であった[[宮脇俊三]]が処女作である『[[時刻表2万キロ]]』を[[河出書房]]から刊行した。宮脇の飄々とした文章と、淡々と鉄道に乗り沿線を旅していく様子が鉄道に興味のない一般大衆の心をつかみ、それまでの鉄道関係書籍としては異例のベストセラーとなった。この書籍の影響は大きく、[[日本国有鉄道]]が1980年代に[[いい旅チャレンジ20,000km]]キャンペーンを張るきっかけとなるなど、鉄道を乗ること自体が趣味として一般に認知された。なお、宮脇は[[1979年]]に『[[最長片道切符の旅]]』を新潮社から出している。宮脇が「[[最長片道切符]]」という分野を開拓したわけではないが、世間一般に「最長片道切符」を広く認知させた。
一方、種村は、[[車中泊]]のみで列車をつなぐ「乗り継ぎ旅」と計画性を持たず成り行きで行程を決める「気まぐれ列車」という2つの鉄道旅行の形態を提案した。また、「汽車旅」という用語を鉄道旅行の代名詞として最初に使用し始めたのも種村である。宮脇が郷愁を誘う紀行文とともに鉄道旅行を広めたのに対して、種村は鉄道旅行の手法を提案することで鉄道旅行の魅力を広める役割を果たした。さらに、種村と宮脇に共通していたのは、自身は鉄道写真の撮影は行わず、新聞記者や雑誌編集者の経験を生かして、文章だけで鉄道旅行の魅力を伝えたという点であった。
=== 現状 ===
1980年代以降の[[高速道路]]網の拡充による[[高速バス]]の充実、2000年代以降の低廉な運賃を導入した[[航空会社]]の登場に伴って、鉄道旅行は大きく変質した。夜行列車をはじめとする長距離列車は、鉄道事業者側の合理化と[[整備新幹線]]の開業による[[並行在来線]]の経営分離によってことごとく削減されたため、現地までの交通機関に(移動手段としての)新幹線、[[高速バス]]や[[飛行機]]、長距離フェリー、自家用車を使うことが多くなった。また、地方過疎地域における沿線人口・旅客の減少や、地方での[[モータリゼーション|マイカー社会]]の定着によって、JR・私鉄・[[第三セクター鉄道|第三セクター]]を問わず地方のローカル線廃止が進行していったこともあり、現地においても[[レンタカー]]を借りて移動する者も増えた。1980年代に種村直樹や宮脇俊三に影響・感化されて鉄道旅行に目覚めた、当時の若者世代が高年齢化したこともその傾向を強めている。JRグループで定期運転されている夜行列車は2021年現在、[[サンライズ出雲]]・[[サンライズ瀬戸|瀬戸]]だけとなってしまった。
また[[周遊券]]や[[特別企画乗車券|各種割引乗車券]]の改廃等も、鉄道旅行の衰退に拍車をかけている。ただし、[[青春18きっぷ]]などは存続しており、[[鉄道ファン]]はこれを利用して普通列車での旅を楽しむ者が多い。
かつて走っていた[[関東地方]]~[[北海道]]を結ぶ「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」および[[近畿地方]]・[[北陸地方]]~北海道を結ぶ「[[トワイライトエクスプレス]]」は、単なる旅客輸送では[[新幹線]]ならびに飛行機(「北斗星」「カシオペア」であれば[[東京国際空港|羽田]]・[[成田国際空港|成田]]・[[仙台空港|仙台]]~[[新千歳空港|新千歳]]など。「トワイライトエクスプレス」であれば[[大阪国際空港|伊丹]]・[[関西国際空港|関空]]・[[小松飛行場|小松]]~新千歳など)に対抗できないため、旅客がアドベンチャーとして鉄道旅行を楽しめるよう色々な工夫がされていたが、これらの列車も廃止された。
現在ではJR東日本の「[[TRAIN SUITE 四季島]]」・JR西日本の「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」・JR九州の「[[ななつ星 in 九州]]」がクルーズトレインとして自社線内線を経由して観光地を巡る列車として運行されている。それに加えて、JR九州は観光地を巡る列車として2020年秋より新たに「[[36ぷらす3]]」を運行する予定<ref>{{Cite press release |和書 |title=黒い787「36ぷらす3」2020年 秋 運行開始! |publisher=九州旅客鉄道 |date=2019年11月21日 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2019/11/22/black-787-36-plus-3_web.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2020年2月27日}}</ref>。
また、[[九州旅客鉄道]](JR九州)は自社管轄地域の特徴のある環境を生かし、観光特急の発展に力を入れている。[[九州新幹線]]の開通で[[南九州]]へのアクセスが容易になったことから、特に南九州エリアでの観光列車の設定が多い。こちらも上記の寝台特急のように、旅客に旅を楽しんでもらえるさまざまな工夫がされている。
[[私鉄]]では、[[途中下車]]制度の廃止によって鉄道旅行の楽しみが薄れたが、乗り放題きっぷの発売や、観光向け車両の投入など、集客に力を入れている会社も多い。
== 鉄道旅行と列車 ==
=== 団体専用列車 ===
{{main|団体専用列車}}
[[旅行会社]]などが企画する団体旅行において、その団体を輸送するための専用列車を用意することがある。これを「団体専用列車」という。通常は、急行や特急向け車両の予備車両を利用する。また、後述するジョイフルトレインを用いることもある。
=== ジョイフルトレイン ===
{{main|ジョイフルトレイン}}
単に鉄道で移動するだけではなく、移動中にも企画や談笑で楽しんでもらうために、通常の列車を改造し、イベントができたり、展望をよくした列車が作成された。これを総称してジョイフルトレインという。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[旅と鉄道]]
* [[鉄道ジャーナル]]
* [[駅弁]]
* [[青春18きっぷ]]
* [[鉄道ファン]]
* [[秘境駅]]
* [[乗鉄王]](乗り鉄をテーマとしたイベント)
* [[完乗]]
{{Rail-stub}}
{{DEFAULTSORT:てつとうりよこう}}
[[Category:観光の形式]]
[[Category:鉄道旅行|*]]
[[Category:鉄道の歴史]]
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2003-07-04T12:23:43Z
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2023-11-07T14:57:22Z
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10,839 |
MBE
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MBE
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'''MBE'''
*[[紋別空港]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[空港コード]]
*[[分子線エピタキシー法]]
*[[ビジネスコンビニ]]の店舗名、[[Mail Boxes Etc.]]
*[[イギリス]]の[[大英帝国勲章]]の1つ、MBE勲章の叙勲者。
*[[三菱重工]]鉄構エンジニアリング[[株式会社]]の略
*フリーウェアの回路図CAD「[[BSch]],[[BSch3V]]」をリリースする[[水魚堂ONLINE]]の“お絵かき”CAD[[Minimal Board Editor]]の略
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10,840 |
完乗
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完乗(かんじょう)とは、交通機関が営業する、全ての路線に乗車・搭乗する完全乗車の略語。 路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう。
英語圏では"complete riding"と表現される。完乗とは多少ニュアンスが異なるが、ニューヨーク市地下鉄の最短時間全線乗車(早回り)は"Subway Challenge"(en)、ロンドン地下鉄の最短時間全線乗車は"Tube Challenge"(en)と呼ばれる。
日本語の書籍においては、他国の鉄道に関しても「完乗」という表現を用いることがある。
日本の鉄道路線の完全乗車を指し以下の様な事例がある。
1979年(昭和54年)に刊行された石野哲の『時刻表名探偵』(日本交通公社)によれば、当時確認できた限りで最初の国鉄完乗者は、1959年(昭和34年)8月29日に富内線振内駅(当時の富内線終着駅)到着で達成した後藤宗隆である。後藤は雑誌『旅』(日本交通公社)1980年(昭和55年)8月号に「国鉄完乗第一号」と題した手記を寄稿している。後藤によると、当時同様な記録達成の目論見を抱いていた者は複数存在した模様であったが、1950年代 - 1960年代の日本ではローカル線を中心に国鉄新路線の建設が未だ盛んであり、日本各地での散発的な新線開通で「乗り残し」をフォローすることが容易でなかった。ただ、1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通から約8か月間新線の開業がないことを知り、この時期をチャンスとみて完乗にこぎつけたという。当時慶應義塾大学生だった後藤は、NHK在職の知人から依頼を受け、完乗達成から2日後に帰京したその足で(生放送だった)総合テレビの『私の秘密』に「国鉄全線走破第一号」として出演している。
石野によると、1962年(昭和37年)11月に2人目の完乗者が現れ、その後1979年(昭和54年)3月までに確認できただけで、36人が完乗したという。後藤のあと、「完乗者」がマスコミに取り上げられる機会がなかったわけではないが、社会的に広く知られてはいなかった。石野、後藤などの文献に見られる範囲では、1970年代中期までは国鉄路線の全線乗車について「完乗」という略語表現は見受けられず、「全線走破」という表現の方がより一般的であった模様である。
国鉄完乗が脚光を浴びたのは、1978年(昭和53年)7月に出版された宮脇俊三の処女作である旅行記『時刻表2万キロ』がきっかけであった。『時刻表2万キロ』は刊行翌月に『サンデー毎日』8月13日号に紹介されるなど、広くマスコミで取り上げられた。『サンデー毎日』は同年11月26日号で「国鉄2万キロのロマン 全線走破 オレたちもやった」と題する他の国鉄完乗者を紹介する記事を掲載している。『時刻表2万キロ』に触発されるかたちで国鉄は1980年(昭和55年)から、独自ルールに基づいて完乗者を認定・表彰する「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンを開始し、国鉄分割民営化を挟んだ1990年(平成2年)まで続けられた。このキャンペーンによる完乗(キャンペーンでは「完全踏破」と表現)達成者は10年間で1.500人以上にのぼり、キャンペーン開始前と比較して大きく増加した。また、『時刻表名探偵』では「一人もいない」とされた女性の完乗者も、キャンペーンで誕生している。
2003年10月19日に横浜市の会社員杉原巨久(すぎはら たかひさ)が、日本の全路線の完乗と共に、JR・私鉄の全駅下車を成し遂げた。
2005年11月3日には俳優の関口知宏が『列島縦断 鉄道乗りつくしの旅〜JR20000km全線走破〜』というテレビ番組でJR路線全線の完乗を果たした。
JRの場合、完乗を達成する者は男性が多く、女性の全線完乗は珍しいとされる。
イタリアの鉄道路線ではイタリアFS(フェッロヴィーエ・デッロ・スタート)の全線1万5,000kmの完全乗車が知られている。
イタリアの鉄道路線の完乗の場合、次のような難しい点があるとされている。
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"text": "完乗(かんじょう)とは、交通機関が営業する、全ての路線に乗車・搭乗する完全乗車の略語。 路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう。",
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完乗(かんじょう)とは、交通機関が営業する、全ての路線に乗車・搭乗する完全乗車の略語。
路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう。 英語圏では"complete riding"と表現される。完乗とは多少ニュアンスが異なるが、ニューヨーク市地下鉄の最短時間全線乗車(早回り)は"Subway Challenge"(en)、ロンドン地下鉄の最短時間全線乗車は"Tube Challenge"(en)と呼ばれる。 日本語の書籍においては、他国の鉄道に関しても「完乗」という表現を用いることがある。
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'''完乗'''(かんじょう)とは、[[交通機関]]が営業する、全ての[[路線]]に乗車・搭乗する完全乗車の略語<ref name="ymt20030629">{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊・群馬西|date=2003-06-29|title=「最後は上信線」 鉄道ファン2人が「完乗」|page=30|quote=埼玉県の鉄道ファン二人が二十八日、上信電鉄上信線(高崎―下仁田)に乗車し、全国の鉄道すべてを“踏破”する「完全乗車(完乗)」を達成した。}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref><ref name="ymt20060524">{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊・神奈川|date=2006-05-24|title=30年かけ鉄道「完全乗車」 川崎の会社員、本出版|page=30|quote=鉄道ファンの間で全線に乗ることを「完全乗車」と呼ぶが、高橋さんは98年5月にJRの完全乗車を達成、昨年5月には全国の私鉄の「完乗」を果たした。}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>。
路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう<ref name="ymt19960117">{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊|date=1996-01-17|title=[復興の街で]大震災から一年(6)追憶の旅は終わらない(連載)|page=35|quote=息子が果たせなかったJR全線完乗を引き継いだ父がいる。... JR全線一万九千九百五十四・四キロ。乗りつぶしは一万七千九百四十・二キロで終わった。}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>。
英語圏では"complete riding"と表現される。完乗とは多少ニュアンスが異なるが、[[ニューヨーク市地下鉄]]の最短時間全線乗車(早回り)は"Subway Challenge"([[:en:Subway Challenge|en]])、[[ロンドン地下鉄]]の最短時間全線乗車は"Tube Challenge"([[:en:Tube Challenge|en]])と呼ばれる。
日本語の書籍においては、他国の鉄道に関しても「完乗」という表現を用いることがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seizando.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=686|title=英国鉄道完乗への挑戦|publisher=成山堂書店|accessdate=2013-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gov-book.or.jp/book/detail.php?product_id=180494|title=交通新聞社新書021 イタリア完乗1万5000キロ ミラノ発・パスタの国の乗り鉄日記|publisher=全国官報販売協同組合|accessdate=2013-07-09}}</ref>。
== 日本の鉄道路線の完乗 ==
=== 完全乗車の類型 ===
[[日本]]の鉄道路線の完全乗車を指し以下の様な事例がある。
* 日本国内の鉄道全路線の完全乗車<ref name="ymt20030629" />
* 旧[[日本国有鉄道]]・ [[JR]]路線の完全乗車
* [[私鉄]]・[[公営鉄道]]の事業者毎の完全乗車<ref name="ymt20060524" />
* 一定の路線や地域を対象とする完全乗車<ref name="ymt20090922">{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊|date=2009-09-22|title=「女流阿房列車」酒井順子さん著 珍道中5年…「鉄子」内田百閒を超えた?|page=21|author=鵜飼哲夫|quote=一番、精神的に疲れたのは2005年6月に挑戦した東京の地下鉄全線1日完乗の旅だったという。}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>
* 長距離運行される列車の始発駅から終着駅までの完全乗車<ref name="ymt20100415">{{Cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊・北海道|date=2010-04-15|title=滝川—釧路 普通列車 国鉄色に|page=30|quote=期間中は、全区間を乗車した利用者に「完乗証明書」を発行して、道内外から鉄道ファンを呼び込む考えだ。}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>
=== 国鉄・JR線 ===
[[1979年]](昭和54年)に刊行された石野哲<ref>当時、『[[JTB時刻表|交通公社の時刻表]]』編集部勤務で、自身もこの当時すでに[[民鉄]]も含めた日本の鉄道路線完乗を達成していた(『時刻表名探偵』の記述による)。</ref>の『時刻表名探偵』(日本交通公社)によれば、当時確認できた限りで最初の国鉄完乗者は、[[1959年]](昭和34年)[[8月29日]]に[[富内線]][[振内駅]](当時の富内線[[終着駅]])到着で達成した後藤宗隆である<ref name="ishino">石野哲『時刻表名探偵』日本交通公社、1979年、pp.254 - 256</ref>。後藤は雑誌『[[旅 (雑誌)|旅]]』(日本交通公社)[[1980年]](昭和55年)8月号に「国鉄完乗第一号」と題した手記を寄稿している<ref name="tabi">『旅』1980年8月号、p116</ref>。後藤によると、当時同様な記録達成の目論見を抱いていた者は複数存在した模様であったが<ref>実際、後述の浜田綱生は大学生時代の[[1955年]](昭和30年)から国鉄全線乗車の記録を取り始めており、後藤の乗車時期と重複する。</ref>、[[1950年代]] - [[1960年代]]の日本では[[ローカル線]]を中心に国鉄新路線の建設が未だ盛んであり、日本各地での散発的な新線開通で「乗り残し」をフォローすることが容易でなかった<ref>[[1964年]](昭和39年)3月に[[指宿枕崎線]][[枕崎駅]]到達で9年がかりの国鉄全線完乗を達成した浜田綱生(はまだ つなお 当時[[日立製作所]]勤務)は、その年5月の[[根岸線]]開通、9月10日の[[田沢湖線|橋場線(現・田沢湖線の一部)]]延長開通、9月23日の[[のと鉄道能登線|能登線]]全通を受けて、早速それらのフォロー乗車に回ることになった(浜田綱生『国鉄全線を走破して』「鉄道ピクトリアル」1964年11月号p67-69)。浜田は当時「現在、[[日本鉄道建設公団|鉄道建設公団]]により、各地で沢山の新線が建設中或いは測量中であるから、当分は愉快なイタチゴッコを楽しめると思っている」と記している。石野の著作によれば、浜田は1959年(昭和34年)達成の後藤、[[1962年]](昭和37年)達成の根本幸男に次ぐ3人目の完乗達成者である。</ref>。ただ、1959年(昭和34年)7月15日の[[紀勢本線]]全通から約8か月間新線の開業がないことを知り、この時期をチャンスとみて完乗にこぎつけたという<ref name="ishino"/><ref name="tabi"/>。当時[[慶應義塾大学]]生だった後藤は、[[日本放送協会|NHK]]在職の知人から依頼を受け、完乗達成から2日後に帰京したその足で(生放送だった)[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]の『[[私の秘密]]』に「国鉄全線走破第一号」として出演している<ref name="tabi"/>。
石野によると、1962年(昭和37年)11月に2人目の完乗者<ref>根本幸男(1941-2019 当時[[中央大学]]在学、のち[[銚子信用金庫]]勤務。[[鉄道ピクトリアル]]などに旅行記を寄稿)。1962年(昭和37年)11月7日、当時[[盲腸線]]であった[[予土線|宇和島線(現・予土線)]][[江川崎駅]]で国鉄線完乗を達成。</ref>が現れ、その後1979年(昭和54年)3月までに確認できただけで、36人が完乗したという<ref name="ishino"/><ref>『時刻表名探偵』に先立ち、後述する『サンデー毎日』[[1978年]](昭和53年)11月26日号掲載記事において、石野を国鉄全線完乗者(記事では「全線を走破」といった表現が使用されており、「完乗」という表記はない)の「まとめ役的な人」として紹介し、石野によって完乗者が31人いることが「すぐにわかった」と記されている。</ref><ref>『時刻表名探偵』の増刷版では、3月に完乗した1人から1979年(昭和54年)4月7日に著者に届いた手紙で連絡があったとの追記があり、「1979年(昭和54年)3月までに完乗した」と確認できた人数は37人となる。</ref>。後藤のあと、「完乗者」がマスコミに取り上げられる機会がなかったわけではないが<ref>石野哲は、後述の『時刻表2万キロ』刊行よりも前、『旅』[[1975年]](昭和50年)3月号に「ボクは日本の鉄道全線走破チャンピオン」、[[1977年]](昭和52年)2月21日の[[日本経済新聞]]に「鉄道全線走破どこまでも」という文章をそれぞれ寄稿している。</ref>、社会的に広く知られてはいなかった。石野、後藤などの文献に見られる範囲では、[[1970年代]]中期までは国鉄路線の全線乗車について「完乗」という略語表現は見受けられず、「全線走破」という表現の方がより一般的であった模様である。
国鉄完乗が脚光を浴びたのは、1978年(昭和53年)7月に出版された[[宮脇俊三]]の処女作である旅行記『[[時刻表2万キロ]]』がきっかけであった。『時刻表2万キロ』は刊行翌月に『[[サンデー毎日]]』8月13日号<ref>「国鉄全線2万キロを乗った男」『サンデー毎日』1978年(昭和53年)8月13日号、pp.28 - 29</ref>に紹介されるなど、広くマスコミで取り上げられた<ref>他の例として、サンケイ新聞1978年(昭和53年)10月15日付「日曜インタビュー 鉄道時刻表マニア宮脇俊三さん」等</ref>。『サンデー毎日』は同年11月26日号で「国鉄2万キロのロマン 全線走破 オレたちもやった」と題する他の国鉄完乗者を紹介する記事を掲載している<ref>『サンデー毎日』1978年(昭和53年)11月26日号、pp.150 - 152</ref>。『時刻表2万キロ』に触発されるかたちで国鉄は1980年(昭和55年)から、独自ルールに基づいて完乗者を認定・表彰する「[[いい旅チャレンジ20,000km]]」キャンペーンを開始し<ref>宮脇は『私の途中下車人生』(講談社、[[1986年]]〈昭和61年〉)掲載のインタビューで「私の本が出てからは、それがきっかけになったのか、地図つきのパンフレットをつくって、『チャレンジ二万キロ』なんてのを盛んにやるようになりましたね」と発言し、国鉄からキャンペーンの認定委員となるよう依頼があったが固辞したことにも触れている。</ref>、[[国鉄分割民営化]]を挟んだ[[1990年]]([[平成]]2年)まで続けられた。このキャンペーンによる完乗(キャンペーンでは「完全踏破」と表現)達成者は10年間で1.500人以上にのぼり<ref name="nikkei">「『チャレンジ2万キロ』10年に幕 人間ドラマ終着駅」日本経済新聞1990年(平成2年)3月14日夕刊18頁</ref>、キャンペーン開始前と比較して大きく増加した。また、『時刻表名探偵』では「一人もいない」とされた女性の完乗者<ref name="ishino"/>も、キャンペーンで誕生している<ref name="nikkei"/>。
[[2003年]][[10月19日]]に[[横浜市]]の会社員杉原巨久(すぎはら たかひさ)が、日本の全路線の完乗と共に、JR・[[私鉄]]の全駅下車を成し遂げた<ref>{{Cite book|和書|title=全駅下車見聞の旅―日本の鉄道全線9600駅|author=杉原巨久|publisher=[[文芸社]]|year=2006}}</ref>。
[[2005年]]11月3日には俳優の[[関口知宏]]が『[[列島縦断 鉄道乗りつくしの旅〜JR20000km全線走破〜]]』というテレビ番組でJR路線全線の完乗を果たした。
JRの場合、完乗を達成する者は男性が多く、女性の全線完乗は珍しいとされる<ref name="amo20111214">{{Cite news|newspaper=朝日新聞・大阪朝刊・神戸|date=2011-12-14|title=主婦、JR全線「完乗」 “先輩”の夫と楽しみ達成|page=35|quote=JR西日本によると、女性の全線完乗は珍しいという。}} - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧</ref>。
=== 日本の鉄道路線の完乗者として知られる著名人 ===
* [[石田穣一]]<ref name="tram">{{Cite web|和書|url=http://okinawa-lrt.org/post-4.html|publisher=トラムで未来をつくる会|title=メンバー紹介|accessdate=2013-07-08}}</ref> - 1977年1月22日、[[角館線]][[松葉駅]]にて国鉄全線完乗達成。<!-- 違法アップロードのため出典として無効だがhttps://www.dailymotion.com/video/x22x4fiにて確認済み。-->
* [[宮脇俊三]] - 1977年5月28日、[[足尾線]]にて国鉄全線完乗達成。
* [[横見浩彦]] - 1987年1月2日、[[可部線]][[三段峡駅]]にて国鉄全線完乗達成。
* [[宮村一夫]] - 1988年12月21日、[[ガーラ湯沢駅]]にてJR全線完乗達成。2009年10月17日、[[若桜鉄道若桜線]]にて私鉄全線完乗達成<ref>{{Cite web|和書|title=宮村 一夫 {{!}} 鉄道の旅の楽しみ方~テッチャン先生が鉄道旅を語る~ {{!}} セカンドアカデミー ビジネスNEXT |url=https://biz.second-academy.com/lecture/TUS10175.html |website=biz.second-academy.com |access-date=2022-06-07}}</ref>。
* [[関口知宏]] - 2005年11月3日、[[根室駅]]にてJR全線完乗達成。
* [[藻谷浩介]]<ref>{{Cite news|newspaper=朝日新聞・朝刊・週末be|date=2011-04-16|title=(フロントランナー)日本政策投資銀行参事役・藻谷浩介さん|page=1|author=中島鉄郎}} - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧</ref> - 2007年<ref>[http://www.toyoura.net/pdf/motani.pdf 藻谷浩介氏講演会パンフレット]下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜</ref>、国内全線完乗達成。
* [[木村裕子]] - 2013年7月27日、[[稚内駅]]にてJR全線完乗達成<ref>[https://ameblo.jp/yuyu385-1/entry-11581364725.html JR全線完乗&5日間18きっぷで日本縦断達成しました!!]木村裕子アメーバブログ 2013年7月27日 </ref>。2015年11月29日、[[平成筑豊鉄道]][[赤駅]]にて国内全線完乗達成<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASHCY5JVHHCYTGPB005.html 「鉄ドル」、8年がかりの「完乗」旅客鉄道全線を制覇]朝日新聞 2015年11月29日</ref>。
*[[伊藤桃]] - 2016年1月10日、[[久留里線]][[上総亀山駅]]にてJR全線完乗達成<ref>[https://web.archive.org/web/20160302133419/https://ameblo.jp/ito-momo/day-20160112.html JR全線完乗!!!]伊藤桃アメーバブログ 2016年1月12日</ref>。
== イタリアの鉄道路線の完乗 ==
イタリアの鉄道路線ではイタリアFS([[フェッロヴィーエ・デッロ・スタート]])の全線1万5,000kmの完全乗車が知られている<ref name="Italy">安居弘明『イタリア完乗1万5000キロ』交通新聞社、2010年</ref>。
イタリアの鉄道路線の完乗の場合、次のような難しい点があるとされている。
* ストライキ回数の多さ<ref name="Italy" />
* 列車の遅延や鉄道ダイヤの不正確さ<ref name="Italy" />
* 中近距離路線の運行本数の少なさ<ref name="Italy" />
* ストライキや列車の遅延などに関する情報の不足<ref name="Italy" />
== 関連項目 ==
* [[鉄道ファン]]
* [[ジャパンレールパス]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
* [http://www.noritsubushi.org/ 乗りつぶしオンライン] - 全国のJR、私鉄路線における完乗達成度を算出するシステム。
{{DEFAULTSORT:かんしよう}}
[[Category:鉄道旅行]]
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2003-07-04T12:30:50Z
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2023-11-18T20:44:49Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E4%B9%97
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分子線エピタキシー法
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分子線エピタキシー法(ぶんしせんエピタキシーほう、 MBE; Molecular Beam Epitaxy)は現在、半導体の結晶成長に使われている手法の一つである。真空蒸着法に分類され、物理吸着を利用する。 高真空のために、原料供給機構より放たれた分子が他の気体分子にぶつかることなく直進し、ビーム状の分子線となるのが名称の由来である。
原理自体は単純で、高真空中において、原料を蒸発させるなどして基板表面に照射して堆積させ、薄膜の形で成長させる。
特徴としては、
などが挙げられる。
また短所としては、超高真空状態の維持が難しいなどの理由で、量産向きの蒸着法ではないことが挙げられる。
MBEという名称は、1970年にベル研究所のジョン・R・アーサー・ジュニア(英語版)と卓以和(アルフレッド・チョー)がGaAsの結晶成長法として命名したのが始まりとされる。当時広く普及していたLPE(液相成長法)とは異なる特長を有する新たな結晶成長手法として発展し、超格子構造の作製や結晶の成長過程そのものの研究、ドーピングなどに応用されるようになった。製膜速度が遅いぶん量産には向かず、主に研究開発用途に用いられているが、AlGaAs系半導体レーザやHEMT素子などの量産に用いられた実例も知られている。
MBE装置は下記のような要素から構成される。用途や原料によって詳細は異なる。
MBE法が他の真空蒸着法と異なるのは、求められる種類の分子だけを、正確に、しかも長時間(数分~数週間)に亘って安定して供給できることである。このためMBE法に於ける原料の供給機構は、下記のような要件を満たすことが求められる。
MBE法をMBE法たらしめるのは、このような原料供給機構を備えているかどうかで決まるとも言える。
上記の要件を満たすために、様々な原料供給機構が用いられている。
分子線の量は供給源の制御だけでなく、実際の分子線量をモニタリングし、フィードバック制御をかける場合もある。このようなモニタリングには、下記のような手法が用いられる。
MBE装置の製膜チャンバー内は、所定の清浄度を得るために場合によっては1×10Torr以下にまで減圧する場合も珍しくない。このような超高真空を実現するために、下記のような手法が用いられる。
チャンバー内部の気体を外部に排出するための超高真空ポンプとしては、下記のようなものが用いられる。
ゲッタリングポンプを除き、これら超高真空ポンプは通常、さらに油回転ポンプやドライポンプなどの低真空ポンプと組み合わせて用いられる。
真空容器内で原料を蒸発させると、当然ながら真空度が悪化するため、通常真空容器の側壁面にシュラウドを設けてそこに液体窒素を満たす。これにより容器内部にある気体分子は側壁と衝突した際に壁面に吸着され、高い真空度を維持することができる。なお、蒸着終了後に液体窒素をシュラウドから抜くと容器内の真空度が一時的ではあるが急激に悪化するため注意が必要である。
メンテナンスなどで真空を破った場合、チャンバー内壁に大気中の気体や水分などが吸着する。このため、ポンプである程度の真空にした後、さらにチャンバー全体を加熱することでこれらの吸着分子を追い出す作業が行われる。これをベーキングと呼び、このためにヒーター線を外部に巻き付けたり、内部に加熱用のランプヒーターを配したりする場合が多い。
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分子線エピタキシー法は現在、半導体の結晶成長に使われている手法の一つである。真空蒸着法に分類され、物理吸着を利用する。
高真空のために、原料供給機構より放たれた分子が他の気体分子にぶつかることなく直進し、ビーム状の分子線となるのが名称の由来である。
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{{参照方法|date=2019年4月}}
'''分子線エピタキシー法'''(ぶんしせんエピタキシーほう、 '''MBE'''; '''M'''olecular '''B'''eam '''E'''pitaxy)は現在、[[半導体]]の結晶成長に使われている手法の一つである。[[真空蒸着]]法に分類され、[[物理吸着]]を利用する。
高真空のために、原料供給機構より放たれた分子が他の気体分子にぶつかることなく直進し、ビーム状の分子線となるのが名称の由来である。
== 原理と特徴 ==
原理自体は単純で、高真空中において、原料を蒸発させるなどして基板表面に照射して堆積させ、[[薄膜]]の形で成長させる。
特徴としては、
# 超高真空(10{{sup-|8}}[[パスカル (単位)|Pa]](10{{sup-|10}}Torr)程度)下で成長を行うため、[[有機金属気相成長法|MOCVD]]法に比べて成長速度を遅くできる。また製膜温度も低くできる場合がある
# 各セルのシャッターにより、成長方向、組成分布を厳密にコントロールできる
# [[反射高速電子線回折|RHEED]]により、成長しながらのその場観察が行える
# 数Å(10{{sup-|1}}nm)オーダーの、単原子層レベルでの成長が可能であり、条件に気をつければ、1原子層ごとに異なる原子を面方位関係を保ったまま堆積させ([[エピタキシャル成長]])、[[単結晶]]の[[人工格子]]を作成することができる。
# 複数の原料を独立に制御することで、原子比のよく制御された合金膜を作成することもできる。
などが挙げられる。
また短所としては、超高真空状態の維持が難しいなどの理由で、量産向きの蒸着法ではないことが挙げられる。
== 歴史 ==
MBEという名称は、1970年に[[ベル研究所]]の{{仮リンク|ジョン・R・アーサー・ジュニア|en|John R. Arthur Jr.}}と[[卓以和]](アルフレッド・チョー)が[[ヒ化ガリウム|GaAs]]の結晶成長法として命名したのが始まりとされる。当時広く普及していたLPE(液相成長法)とは異なる特長を有する新たな結晶成長手法として発展し、[[超格子]]構造の作製や結晶の成長過程そのものの研究、[[ドープ|ドーピング]]などに応用されるようになった。製膜速度が遅いぶん量産には向かず、主に研究開発用途に用いられているが、AlGaAs系[[半導体レーザ]]や[[HEMT]]素子などの量産に用いられた実例も知られている。
== 装置の構成 ==
=== 概要 ===
MBE装置は下記のような要素から構成される。用途や原料によって詳細は異なる。
* 原料供給機構
* 製膜用真空チャンバー
* 試料交換用チャンバー
* 超高真空排気機構([[真空ポンプ]]類および残留ガス吸着機構(液体窒素シュラウドなど))
* 真空計
* 分子線量のモニタリング機構
* 試料のモニタリング機構
=== 原料供給機構 ===
==== 要件 ====
MBE法が他の真空蒸着法と異なるのは、求められる種類の分子だけを、正確に、しかも長時間(数分~数週間)に亘って安定して供給できることである。このためMBE法に於ける原料の供給機構は、下記のような要件を満たすことが求められる。
* 真空度を著しく損なわないこと。圧力が上がりすぎれば蒸発した分子の[[平均自由行程]]が短くなりすぎ、「分子線」ではなくなる。
* 結晶成長を阻害するような不純物の混入を極力抑えること。
* 供給する分子線を時間的・空間的に安定して制御できること。
* 供給機構自体が破損しにくいこと。破損すると真空を破るメンテナンスが必要になり、チャンバの清浄度がその分損なわれる。
MBE法をMBE法たらしめるのは、このような原料供給機構を備えているかどうかで決まるとも言える。
==== 形式 ====
上記の要件を満たすために、様々な原料供給機構が用いられている。
* 抵抗加熱
: 最も基本的な方式である。[[タンタル]]などの高温に耐えるヒーター線によって原料を入れたるつぼを加熱・蒸発させるものである。分子線量の調節は、[[るつぼ]]の温度を制御することで行われる。るつぼは高温に耐えて原料を汚染しにくいものが選ばれ、原料や用途によって[[立方晶窒化ホウ素|焼結窒化硼素]](PBN)やアルミナ、カーボン、石英、各種金属の単体や合金、などが用いられる。
* 電子衝撃加熱
: 真空容器内での原料の加熱は、金属原料が融解するほどの高温になるため、セル自体が溶けて蒸着してしまわない様に、よく絞った[[陰極線|電子ビーム]]を原料表面に当て、金属原料に電流が流れる[[ジュール]]熱によって加熱する。セルは容器外側から冷却されているので、これにより電子ビームの当たる位置だけが融解し、液体状態の外側は同一の物質であるため、不純物の混入を防止できる。
* ガスソース
: 単体では固体の原料を、有機化合物の形にするなどの方法で装置外部にて気体とし、流量で制御したものを送り込む方式もある。原料によっては分子線の制御性を大きく向上させる一方、化合物にすることで不要な元素が結晶に混入する危険性もある。このような方式はMOMBE(''M''etal-''O''rganic ''M''olecular ''B''eam ''E''pitaxy; 有機金属分子線エピタキシー)やガスソースMBE(Gas-source Molecular-)、CBE(Chemical-)等と呼ばれるが、厳密な分類ははっきりしない(言う人によって違ったりする)。
* クラッキング
: 熱やプラズマによって原料分子をある程度分解したり、エネルギーを持たせてから照射するものである。上記のいずれかの方式と組み合わせることが多い。
=== 分子線量のモニタリング法 ===
分子線の量は供給源の制御だけでなく、実際の分子線量をモニタリングし、フィードバック制御をかける場合もある。このようなモニタリングには、下記のような手法が用いられる。
* 膜厚計
: 結晶膜厚計を用いて測定する。これは、容器内の原料のビームが当たる位置に設置された結晶に膜が付着することで結晶の[[共振]]振動数が変わるのを利用した方式である。これにより10{{sup-|2}}nmオーダの膜厚を測定することができる。
* 光学的測定
: 製膜中の薄膜に光を当て、膜厚[[干渉 (物理学)|干渉]]等によって膜厚を測定する方法である。方式や測定条件にもよるが、数nm~数百nm単位での測定が可能である。
* ビームフラックスモニタ
: イオンゲージなどを製膜位置近辺に配置し、分子線量を「圧力」として測定する方式である。イオン化収率を考慮する必要がある。
* [[原子吸光]]
: 蒸発した原子や分子の吸収スペクトルに合わせた光を分子線に照射し、通過した光の強度変化から分子線量を測定する方法である。
=== 超高真空の維持機構 ===
MBE装置の製膜チャンバー内は、所定の清浄度を得るために場合によっては1×10{{sup-|10}}Torr以下にまで減圧する場合も珍しくない。このような超高真空を実現するために、下記のような手法が用いられる。
==== 真空ポンプ ====
チャンバー内部の気体を外部に排出するための超高真空ポンプとしては、下記のようなものが用いられる。
* [[拡散ポンプ|油拡散ポンプ]]
: 特殊な合成油をポンプ内部で超音速で噴射し、周囲の気体分子を巻き込んで移動させるものである。構造が簡単で機械的可動部が無く、大きな排気速度が得られる。反面、油の逆流によってチャンバーを汚染するおそれがあり、液体窒素トラップなどと併用されることが多い。
* [[クライオポンプ]]
* [[イオンポンプ]]
* [[ターボ分子ポンプ]]
: 多くの羽を有する回転翼と固定翼を積層し、回転翼を高速で駆動することで、飛び交う残留ガス分子の移動確率を片方向に偏らせるものである。振動に弱い欠点がある。また、一般に水素等の軽い分子に対しては排気速度は著しく低下する。ポンプの[[背圧]]と圧縮比によってポンプ自体の到達真空度が決まる。
* [[ソープションポンプ]]
: 残留ガス分子を吸着剤や低温バッフルを用いて吸着するものである。溜め込んだ分子は加熱するなどで定期的に排出させる。
* [[メカニカルブースターポンプ]]
* [[ゲッターポンプ|ゲッタリングポンプ]]
: チタンなどの化学的に活性な金属を蒸発させ、内壁に蒸着する。そこに飛び込んできた分子は金属と反応して安定になるために真空度がよくなる。[[不活性ガス]]は排気ができないものの、活性ガスに対しては非常に大きな排気速度を持つ。また、完全にオイルフリーなポンプである。
ゲッタリングポンプを除き、これら超高真空ポンプは通常、さらに油回転ポンプやドライポンプなどの低真空ポンプと組み合わせて用いられる。
==== 液体窒素シュラウド ====
真空容器内で原料を蒸発させると、当然ながら真空度が悪化するため、通常真空容器の側壁面にシュラウドを設けてそこに[[液体窒素]]を満たす。これにより容器内部にある気体分子は側壁と衝突した際に壁面に吸着され、高い真空度を維持することができる。なお、蒸着終了後に液体窒素をシュラウドから抜くと容器内の真空度が一時的ではあるが急激に悪化するため注意が必要である。
==== ベーキング機構 ====
メンテナンスなどで真空を破った場合、チャンバー内壁に大気中の気体や水分などが吸着する。このため、ポンプである程度の真空にした後、さらにチャンバー全体を加熱することでこれらの吸着分子を追い出す作業が行われる。これを[[ベーキング]]と呼び、このためにヒーター線を外部に巻き付けたり、内部に加熱用のランプヒーターを配したりする場合が多い。
== 参考文献 ==
* 「真空技術」堀越源一、[[東京大学出版会]]、ISBN 4-13-063044-X
* 「分子線エピタキシー」権田俊一、[[陪風館]]、ISBN 4-563-03610-2
== 関連項目 ==
* [[江崎玲於奈]] - 開発者。
* [[MOCVD]]
* [[半導体]]
* [[RHEED]]
* [[真空ポンプ]]
* [[シュラウド]]
* [[クヌーセンセル]]
* [[ベーキング]]
* [[エピタキシャル成長]]
* [[物性物理]]
* [[半導体]]
* [[半導体レーザ]]
* [[ガスケット]]
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一コマ漫画
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一コマ漫画(ひとコマまんが)は、漫画の表現形式の1つ。1つの絵(コマ)で表現を行なう。風刺等によく使われる。代表的な例としては、新聞の政治面等に掲載される政治を風刺した漫画である。世界的に広く利用されている手法である(欧米における一コマ漫画についてはカートゥーンを参照)。
日本における一コマ漫画は、それを専門に描く漫画家が多いが、ストーリー漫画を描いている漫画家が一コマ漫画を描く場合もある。量は少ないが、手塚治虫も描いている。やくみつるのように4コマ漫画家が一コマ漫画にも手を染める例もある。
新聞の政治面に作品を発表した代表的な作家として横山泰三、清水崑、馬場のぼる、山田紳、針すなおらがいるほか、漫画雑誌に一コマ漫画を連載した作家に相原コージ、エッセイの挿絵に近い形で発表している作家に西原理恵子らがいる。
SF作家の星新一はアメリカの一コマ漫画のコレクションを趣味にしており、その一部とそれに関する解説エッセイをまとめたものは「進化した猿たち」の表題で出版されている(全3巻)。特に孤島漫画の数が多く、彼もこれに注目したのがコレクションのきっかけであった。アメリカではアンソロジーも多数存在するとのこと。
また、彼によるとアメリカと日本の一コマ漫画ではっきりした違いとして、例外はあるものの、日本のそれは登場人物がしゃべるより、会話でない表題が付く。アメリカのそれはむしろ登場者の言葉があって、それが落ちやくすぐりになっている。
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'''一コマ漫画'''(ひとコマまんが)は、[[漫画]]の表現形式の1つ。1つの絵([[コマ (映画・漫画)|コマ]])で表現を行なう。風刺等によく使われる。代表的な例としては、新聞の政治面等に掲載される政治を風刺した漫画である。世界的に広く利用されている手法である(欧米における一コマ漫画については[[カートゥーン]]を参照)。
[[日本]]における一コマ漫画は、それを専門に描く[[漫画家]]が多いが、[[ストーリー漫画]]を描いている漫画家が一コマ漫画を描く場合もある。量は少ないが、[[手塚治虫]]も描いている。[[やくみつる]]のように[[4コマ漫画]]家が一コマ漫画にも手を染める例もある。
新聞の政治面に作品を発表した代表的な作家として[[横山泰三]]、[[清水崑]]、[[馬場のぼる]]、[[山田紳]]、[[針すなお]]らがいるほか、漫画雑誌に一コマ漫画を連載した作家に[[相原コージ]]、エッセイの挿絵に近い形で発表している作家に[[西原理恵子]]らがいる。
[[サイエンス・フィクション|SF]]作家の[[星新一]]はアメリカの一コマ漫画のコレクションを趣味にしており、その一部とそれに関する解説エッセイをまとめたものは「進化した猿たち」の表題で出版されている(全3巻)。特に[[無人島|孤島漫画]]の数が多く、彼もこれに注目したのがコレクションのきっかけであった。アメリカでは[[アンソロジー]]も多数存在するとのこと。
また、彼によるとアメリカと日本の一コマ漫画ではっきりした違いとして、例外はあるものの、日本のそれは登場人物がしゃべるより、会話でない表題が付く。アメリカのそれはむしろ登場者の言葉があって、それが[[落ち]]やくすぐりになっている。
== 参考文献 ==
* 星新一、『進化した猿たち』1-3、1975、[[早川書房]]、[[ハヤカワ文庫]]JA
== 関連項目 ==
* [[風刺画]]
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真空ポンプ
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真空ポンプ(しんくうポンプ、バキュームポンプ、vacuum pump)とは、容器内から気体を排出し、真空を得るためのポンプである。1650年にドイツのオットー・フォン・ゲーリケにより発明された。1台で超高真空から大気圧までをカバーするのは非常に困難なため、多くは粗引き用のポンプとメインの真空排気用のポンプを組み合わせて使うが、用途によって1台で済む場合は粗引きポンプ、メインポンプなどの呼び分けはしない。
真空ポンプは以下の3つにより構成される。
どれだけの真空度を必要とするか、また排気する気体の成分によって、使用すべき真空ポンプは異なる。真空ポンプの分類法は原理による分類、使用圧力による分類、油を用いるか用いないかの分類などによる。
真空ポンプで最も一般的なのは排気量、到達圧力、価格などの総合面で優れた性能を持つ油回転型真空ポンプ(ロータリーポンプ)である。最も安価であろう手押し式は、エアコンの冷媒注入用として市販されている。 吸着装置やアスピレータなどの低真空向けに安価なダイアフラムポンプもかなり普及している。
真空ポンプは気体を吸気側から排気側に向かって輸送する方式により排気する気体輸送式真空ポンプと、真空ポンプの中に吸気側から入ってくる気体を溜め込む「気体溜め込み式ポンプ(entrapment (capture) vacuum pump)」に分類される。 また、気体輸送式真空ポンプは一定容積の気体を吸気側から排気側に輸送する方式の「容積移送式真空ポンプ(positive displacement pump)」とポンプ内の別の物質の運動エネルギーにより排気側へ気体を輸送する「運動量輸送式真空ポンプ(kinetic vacuum pump)」に分けられる。
1台で大気圧から高真空まで排気することが可能な真空ポンプは存在しない。その排気方法によって作動する圧力が決まっており、使い分けなければならないことを意味する。特に高真空領域まで排気するためには高真空まで排気できるポンプの排気側に大気圧から作動するポンプを別に用意しなければならず、排気側(背圧側)の圧力を下げなければならない。このような場合は高真空まで排気できるポンプを「主ポンプ(main pump)」、主ポンプの背圧側のポンプを「補助ポンプ(backing vacuum pump)」と呼ぶ。補助ポンプは主ポンプを使用する領域を、主ポンプを作動させることができる圧力まで排気する粗引きを行うことも含むため「粗引きポンプ(roughing vacuum pump)」と呼ばれる場合もある。 また、大気圧から作動するポンプを「低真空ポンプ(low vacuum pump)」、高真空で作動するポンプを「高真空ポンプ(high vacuum pump)」と分類する場合もある。
高真空領域まで排気されたチャンバ内では、実は排気だけではなく真空ポンプ自体から発生する気体成分が大きな割合を占める場合がある。特に真空ポンプ内でオイルや水分などを使用する場合はそれ自体の蒸発がチャンバ内での作用に大きな影響を与える場合がある。特に微細なコントロールが求められる集積回路の製造工程である半導体プロセスでは僅かな蒸気の混入が製品の歩留まりに影響することもあるため、真空ポンプ自体が油などを使わないドライなポンプなのか、油などを使用するウェットなポンプなのかは非常に重要な問題となる。そのため、現在では油を使用しないポンプを「ドライポンプ(dry pump)」、油を使用する真空ポンプを「ウェットポンプ(wet pump)」と分類している。
真空ポンプの先駆けとなる吸引ポンプは、1206年に技術者で発明家のアル=ジャザリが発明した。吸引ポンプは15世紀になってヨーロッパにもたらされた。1551年にはタキ・アッディン・ムハンマド・イブン・マルーフ(英語版)が6気筒式ポンプを発明した。これもかなり真空に近い状態を作り出せるもので、鉛の錘を上に動かすと、それに伴ってピストンが上に引かれ、真空状態になったシリンダーに水を吸引し、バルブで水が逆流しないようにする構造だった。
17世紀までにポンプの設計が進化し、ほとんど真空の状態を作り出せるようになったが、その事実に人々が気づくにはやや時間がかかった。当時わかっていたのは、吸引ポンプはある高さ以上にまで水を引き上げることができないという事実だった。1635年ごろ測定された結果では18ヤードだった(帝国標準ヤード制定前なのでメートルへの換算は不明だが、だいたい9から10メートルと考えられる)。この限界は灌漑や鉱山の排水にとっての懸念材料であり、当時噴水を作ろうとしていたトスカーナ大公フェルディナンド2世にとっても問題だった。そこでトスカーナ大公はガリレオ・ガリレイに問題の調査を依頼した。ガリレオは科学者らにこの問題を広く問いかけた。その中の1人であるガスパロ・ベルティ(英語版)は問題を再現する装置を製作した(1639年 ローマにて)。これは水を使った一種の気圧計である。ベルティの気圧計は水柱の上に真空を生じさせたが、当人はそれが真空であるとは分かっていなかった。1643年、エヴァンジェリスタ・トリチェリが突破口を開いた。ガリレオの記述に基づき、トリチェリは世界初の水銀を使った気圧計を作り、水銀柱の上の空間が真空であると結論付けた。また水銀柱の高さは、大気圧で支えられる最大重量に対応していることがわかった。なお、トリチェリの実験は重要だが、実際にその空間が真空であると証明したのはブレーズ・パスカルの実験だとする説もある。
1654年、オットー・フォン・ゲーリケは世界初の真空ポンプを発明し、有名なマクデブルクの半球の実験を行い、内部を真空にした2つの半球を何頭もの馬で引っ張っても半球が外れないことを示した。ロバート・ボイルはゲーリケの設計を改良し、真空の性質について様々な実験を行った。なお、ボイルの真空ポンプの開発にはロバート・フックも助手として関わった。1690年、ドニ・パパンはシリンダーに少量の水を入れてピストンで密封し、それを外から熱したり冷やしたりする実験を行い、中に真空状態が作られることを発見した。トーマス・セイヴァリは1698年にドニ・パパンと同様の原理で水を吸引するポンプを完成させた。セイヴァリはこれを「鉱夫の友」と呼び、鉱山の排水にこれを使った。
その後真空の研究に進展はなかったが、1855年にハインリッヒ・ガイスラーが水銀を使ったポンプを発明し、10 Pa(0.1 Torr)という真空の記録を達成した。1865年、ハーマン・スプレンゲルは更に高い真空度を生み出せるスプレンゲルポンプを発明した。このレベルの真空の電気的性質が観測可能になってくると、再び真空への興味が増大し、そこから電球や真空管が開発されることになった。
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真空ポンプとは、容器内から気体を排出し、真空を得るためのポンプである。1650年にドイツのオットー・フォン・ゲーリケにより発明された。1台で超高真空から大気圧までをカバーするのは非常に困難なため、多くは粗引き用のポンプとメインの真空排気用のポンプを組み合わせて使うが、用途によって1台で済む場合は粗引きポンプ、メインポンプなどの呼び分けはしない。
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[[画像:真空ポンプ.jpg|thumb|240px|真空ポンプでエアコンの真空引きを行っているところ]]
'''真空ポンプ'''(しんくうポンプ、'''バキュームポンプ'''、vacuum pump)とは、容器内から[[気体]]<!--(一般に空気)?-->を排出し、[[真空]]を得るための[[ポンプ]]である。[[1650年]]に[[ドイツ]]の[[オットー・フォン・ゲーリケ]]により発明された。1台で超高真空から大気圧までをカバーするのは非常に困難なため、多くは粗引き用のポンプとメインの真空排気用のポンプを組み合わせて使うが、用途によって1台で済む場合は粗引きポンプ、メインポンプなどの呼び分けはしない。
== 構成 ==
真空ポンプは以下の3つにより構成される。
* 吸気口:気体を吸入する部分である。[[真空チャンバー]]などに接続するため[[真空フランジ]]が用いられることが多い。真空ポンプの主要スペックである排気速度は単位時間当たりの吸気口を通過した気体の量とJISに決められている。
* 排気口:真空ポンプ内部に入れられた気体は排気口より排出される。真空ポンプによってはこの排気口の圧力も大気以下でないと作動しないポンプもある。また、気体溜め込み式ポンプは内部に気体を溜め込むため排気口は存在しない。しかし無限に蓄えられるわけではないため、別に真空ポンプを用意し、定期的に吸気口より排気しなければならない。
* ポンプ:各ポンプ作用を起こす部分。これらはそれぞれの真空ポンプの種類により大きく異なる。
== 分類 ==
どれだけの真空度を必要とするか、また排気する気体の成分によって、使用すべき真空ポンプは異なる。真空ポンプの分類法は原理による分類、使用圧力による分類、油を用いるか用いないかの分類などによる。
真空ポンプで最も一般的なのは排気量、到達圧力、価格などの総合面で優れた性能を持つ油回転型真空ポンプ([[ロータリーポンプ]])である。最も安価であろう手押し式は、エアコンの冷媒注入用として市販されている。
吸着装置やアスピレータなどの低真空向けに安価な[[ダイアフラムポンプ]]もかなり普及している。
=== 排気方法による分類 ===
真空ポンプは気体を吸気側から排気側に向かって輸送する方式により排気する気体輸送式真空ポンプと、真空ポンプの中に吸気側から入ってくる気体を溜め込む「気体溜め込み式ポンプ(entrapment (capture) vacuum pump)」に分類される。
また、気体輸送式真空ポンプは一定容積の気体を吸気側から排気側に輸送する方式の「容積移送式真空ポンプ(positive displacement pump)」とポンプ内の別の物質の運動エネルギーにより排気側へ気体を輸送する「運動量輸送式真空ポンプ(kinetic vacuum pump)」に分けられる。
=== 作動圧力領域による分類 ===
1台で大気圧から高真空まで排気することが可能な真空ポンプは存在しない。その排気方法によって作動する圧力が決まっており、使い分けなければならないことを意味する。特に高真空領域まで排気するためには高真空まで排気できるポンプの排気側に大気圧から作動するポンプを別に用意しなければならず、排気側(背圧側)の圧力を下げなければならない。このような場合は高真空まで排気できるポンプを「主ポンプ(main pump)」、主ポンプの背圧側のポンプを「補助ポンプ(backing vacuum pump)」と呼ぶ。補助ポンプは主ポンプを使用する領域を、主ポンプを作動させることができる圧力まで排気する粗引きを行うことも含むため「粗引きポンプ(roughing vacuum pump)」と呼ばれる場合もある。
また、大気圧から作動するポンプを「低真空ポンプ(low vacuum pump)」、高真空で作動するポンプを「高真空ポンプ(high vacuum pump)」と分類する場合もある。
=== ドライ、ウェットによる分類 ===
高真空領域まで排気されたチャンバ内では、実は排気だけではなく真空ポンプ自体から発生する気体成分が大きな割合を占める場合がある。特に真空ポンプ内でオイルや水分などを使用する場合はそれ自体の蒸発がチャンバ内での作用に大きな影響を与える場合がある。特に微細なコントロールが求められる[[集積回路]]の製造工程である[[半導体プロセス]]では僅かな蒸気の混入が製品の[[歩留まり]]に影響することもあるため、真空ポンプ自体が油などを使わないドライなポンプなのか、油などを使用するウェットなポンプなのかは非常に重要な問題となる。そのため、現在では油を使用しないポンプを「[[ドライポンプ]](dry pump)」、油を使用する真空ポンプを「[[ウェットポンプ]](wet pump)」と分類している。
== 歴史 ==
[[ファイル:Sprengel vacuum pump.svg|代替文=|サムネイル|スプレンゲルポンプ]]
真空[[ポンプ]]の先駆けとなる吸引ポンプは、1206年に技術者で発明家の[[アル=ジャザリ]]が発明した。吸引ポンプは15世紀になってヨーロッパにもたらされた<ref name=Hill2>Donald Routledge Hill, "Mechanical Engineering in the Medieval Near East", ''Scientific American'', May 1991, pp. 64-69 (cf. Donald Routledge Hill, [http://home.swipnet.se/islam/articles/HistoryofSciences.htm Mechanical Engineering])</ref><ref>{{cite web|author=Ahmad Y Hassan|title=The Origin of the Suction Pump: Al-Jazari 1206 A.D.|url= http://www.history-science-technology.com/Notes/Notes%202.htm|accessdate=2008-07-16}}</ref><ref>Donald Routledge Hill (1996), ''A History of Engineering in Classical and Medieval Times'', [[ラウトレッジ|Routledge]], pp. 143 & 150-2</ref>。1551年には{{仮リンク|タキ・アッディン・ムハンマド・イブン・マルーフ|en|Taqi ad-Din Muhammad ibn Ma'ruf}}が6気筒式[[ポンプ]]を発明した。これもかなり真空に近い状態を作り出せるもので、鉛の錘を上に動かすと、それに伴ってピストンが上に引かれ、真空状態になった[[シリンダー]]に水を吸引し、バルブで水が逆流しないようにする構造だった<ref name=Machines>{{cite web|author=Salim Al-Hassani|title=The Machines of Al-Jazari and Taqi Al-Din|url= http://www.muslimheritage.com/topics/default.cfm?ArticleID=466|publisher=22nd Annual Conference on the History of Arabic Sciences|date=23-25 October 2001|accessdate=2008-07-16}}</ref>。
17世紀までにポンプの設計が進化し、ほとんど真空の状態を作り出せるようになったが、その事実に人々が気づくにはやや時間がかかった。当時わかっていたのは、吸引ポンプはある高さ以上にまで水を引き上げることができないという事実だった。1635年ごろ測定された結果では18ヤードだった(帝国標準[[ヤード]]制定前なのでメートルへの換算は不明だが、だいたい9から10メートルと考えられる)。この限界は灌漑や鉱山の排水にとっての懸念材料であり、当時噴水を作ろうとしていた[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[フェルディナンド2世・デ・メディチ|フェルディナンド2世]]にとっても問題だった。そこでトスカーナ大公は[[ガリレオ・ガリレイ]]に問題の調査を依頼した。ガリレオは科学者らにこの問題を広く問いかけた。その中の1人である{{仮リンク|ガスパロ・ベルティ|en|Gasparo Berti}}は問題を再現する装置を製作した(1639年 ローマにて)。これは水を使った一種の[[気圧計]]である<ref>{{cite web |url= https://web.archive.org/web/20080417093648/http://www.denmark.com.au/en/Worlds+Largest+Barometer/default.htm |title=The World's Largest Barometer |accessdate=2013-10-17 }}(2008年4月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。ベルティの気圧計は水柱の上に真空を生じさせたが、当人はそれが真空であるとは分かっていなかった。1643年、[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]が突破口を開いた。ガリレオの記述に基づき、トリチェリは世界初の[[水銀]]を使った[[気圧計]]を作り、水銀柱の上の空間が真空であると結論付けた。また水銀柱の高さは、大気圧で支えられる最大重量に対応していることがわかった。なお、トリチェリの実験は重要だが、実際にその空間が真空であると証明したのは[[ブレーズ・パスカル]]の実験だとする説もある。
1654年、[[オットー・フォン・ゲーリケ]]は世界初の真空ポンプを発明し、有名な[[マクデブルクの半球]]の実験を行い、内部を真空にした2つの半球を何頭もの馬で引っ張っても半球が外れないことを示した。[[ロバート・ボイル]]はゲーリケの設計を改良し、真空の性質について様々な実験を行った。なお、ボイルの真空ポンプの開発には[[ロバート・フック]]も助手として関わった。1690年、[[ドニ・パパン]]はシリンダーに少量の水を入れてピストンで密封し、それを外から熱したり冷やしたりする実験を行い、中に真空状態が作られることを発見した。[[トーマス・セイヴァリ]]は1698年にドニ・パパンと同様の原理で水を吸引するポンプを完成させた。セイヴァリはこれを「鉱夫の友」と呼び、鉱山の排水にこれを使った。
その後真空の研究に進展はなかったが、1855年に[[ハインリッヒ・ガイスラー]]が水銀を使ったポンプを発明し、10 [[パスカル (単位)|Pa]](0.1 [[トル|Torr]])という真空の記録を達成した。1865年、[[ハーマン・スプレンゲル]]は更に高い真空度を生み出せる[[スプレンゲルポンプ]]を発明した。このレベルの真空の電気的性質が観測可能になってくると、再び真空への興味が増大し、そこから[[電球]]や[[真空管]]が開発されることになった。
== ポンプの種類 ==
* [[ロータリーポンプ]]
* [[拡散ポンプ]]
* [[揺動ピストン型ポンプ]]
* [[蒸気エゼクターポンプ]]
* [[水環ポンプ]]
* [[ソープションポンプ]]
* [[ターボ分子ポンプ]]
* [[イオンポンプ]]
* [[ゲッターポンプ]]
* [[クライオポンプ]]
* [[メカニカルブースターポンプ]]
* [[ダイアフラムポンプ]]
* [[ルーツ型ドライポンプ]]
* [[クロー型ドライポンプ]]
* [[スクリュー型ドライポンプ]]
* [[サイドチャンネル型ドライポンプ]]
* [[スクロール型ドライポンプ]]
* [[ベーン型ドライポンプ]]
* [[ドライロータリーベーンポンプ]]
* [[液封式ポンプ]]
* [[ルーツポンプ]]
* [[ロータリーベーンポンプ]]
* [[カム型油回転ポンプ]]
* [[ピストンポンプ]]
* [[揺動ピストンポンプ]]
* [[往復動式自由非弁式ポンプ]]
* [[往復動式スライド弁式ポンプ]]
* [[スチームエジェクタ]]
* [[水エジェクタ]]
* [[アスピレータ]]
* [[エアーエジェクタ]]
* [[分子ドラッグポンプ]]
* [[スパッタイオンポンプ]]
* [[サブリメーションポンプ]]
* [[非蒸発型サブリメーションポンプ]]
== 関連項目 ==
* [[真空]]
* [[真空計]]
* [[リーク]]
* [[背圧]]
* [[マクデブルクの半球]]、[[オットー・フォン・ゲーリケ]]
* [[真空部品]]
* [[真空フランジ]]
* [[ポンプ座]]
; ポンプメーカー
* [[神港精機株式会社]]
* [[アルバック]]
* [[大阪真空機器製作所]]
* [[キヤノンアネルバ]]
* [[島津製作所]]
* [[宇野澤組鐵工所]]
* [[Highlight Tech Corp.(日揚科技)]]
* [[Alcatel Vacuum Technology]]
* [[樫山工業]]
* [[日本ブッシュ]]
* [[日本エリコンライボルト (Oerlikon Leybold Vacuum)]]
* [[アンレット]]
; 業界団体
* [[日本真空工業会]]
* [[日本真空協会]]
; 展示会
* [[真空展]]
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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[[Category:ポンプ]]
[[Category:真空|ほんふ]]
[[Category:ドイツの発明]]
[[Category:オットー・フォン・ゲーリケ]]
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背圧
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背圧(はいあつ、back-pressure)とは、流れの中の物体下流における圧力である。原動機においては排気側の圧力のことを指す。正常動作できる背圧の最大値を臨界背圧と呼び、排気側の圧力がこれを越えると、吸気側への作動流体の逆流などを起こして大惨事になる。
ネットワークにおけるバックプレッシャは、イーサネットフロー制御を参照。
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{{出典の明記|date=2012年12月6日 (木) 02:01 (UTC)}}
'''背圧'''(はいあつ、{{en|back-pressure}})とは、流れの中の物体下流における[[圧力]]である<ref>{{cite|和書 |author=鈴木和夫 |title=流体力学と流体抵抗の理論 |publisher=成山堂書店 |year=2006 |isbn=4-425-71361-3 |page=169}}</ref>。[[原動機]]においては[[排気]]側の圧力のことを指す。正常動作できる背圧の[[最大値]]を'''臨界背圧'''と呼び、排気側の圧力がこれを越えると、[[吸気]]側への[[作動流体]]の[[逆流]]などを起こして大惨事になる。
== ネットワーク ==
ネットワークにおけるバックプレッシャは、[[イーサネットフロー制御]]を参照。
== 参考文献 ==
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==関連用語==
* [[蒸気機関]]
* [[内燃機関]]
* [[排気ブレーキ]]
* [[真空ポンプ]]
* [[背圧タービン]]
* [[動作圧力]]
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アインスタイニウム
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アインスタイニウム (英: einsteinium [aɪnˈstaɪniəm]) は原子番号99の元素。元素記号はEs。人工放射性元素であり、アクチノイド系列の元素の1つであり、7番目の超ウラン元素である。
元素名は、アルベルト・アインシュタインに由来する。
1952年の最初の水爆の爆発による破片の一部として発見された。最も一般的な同位体であるアインスタイニウム253(半減期20.47日)は、年間1ミリグラム程度の総収量で、いくつかの専用高出力原子炉におけるカリホルニウム253の崩壊から人工的に生成される。原子炉での合成に続いて、アインスタイニウム253を他のアクチノイドおよびそれらの崩壊生成物から分離する複雑な工程がある。他の同位体は、重いアクチノイド元素に軽いイオンを衝突させることで、さまざまな実験室で合成されているものの、アインスタイニウム253に比べてはるかに少量である。生成されるアインスタイニウムが少量であり、最も簡単に生成される同位体の半減期が短いため、現在のところ実用的な用途はほとんどなく、もっぱら基礎的な科学研究に用いられる。特に、アインスタイニウムは、1955年に初めて新元素メンデレビウムの17個の原子を合成するために使用された。
アインスタイニウムは柔らかく銀色の常磁性の金属である。化学的性質はアクチノイド系列後半の典型であり、+3の酸化状態が優勢である。+2酸化状態も(特に固体で)とることができる。アインスタイニウム253の高い放射能は、可視光の輝きを生み出し、1グラムあたり約1000ワットの熱を放出しその結晶性金属格子を急速に損傷する。1日で約3%のアインスタイニウム253が崩壊してバークリウム249に、そこからさらにカリホルニウム249になるため、特性を研究するのが難しい。半減期が最も長いアインスタイニウムの同位体であるアインスタイニウム252(半減期471.7日)は、物理的性質の研究に適しているが、製造がかなり難しいことが分かっており、微量でしか入手できず、大量一括には手に入らない。純粋な形で巨視的な量で観察される最大の原子番号を持つ元素であり、これは一般的な短寿命の同位体アインスタイニウム253でなされた。
すべての人工超ウラン元素と同様に、アインスタイニウムの同位体は非常に放射性が高く、摂取すると健康に非常に危険であると考えられている。
アインスタイニウムは1952年12月、カリフォルニア大学バークレー校のアルバート・ギオルソとその共同研究者によりアルゴンヌとロスアラモス国立研究所との共同研究でアイビー・マイク核実験の放射性降下物の中から初めて同定された。この実験は1952年11月1日に太平洋のエニウェトク環礁で実施され、水爆実験としては初の成功を収めた。爆発の破片を最初調べたところプルトニウムの新たな同位体24494Puが生成されていることが分かったが、これはウラン238の原子核が6個の中性子を吸収したのち2回のベータ崩壊を経て生成されたと考えられている。
当時、複数の中性子吸収は極めて珍しい現象と考えられていたが、24494Puが同定されたことでウランの原子核にさらに多くの中性子が取り込まれカリホルニウムより重い新元素が生成される可能性が示唆された。
ギオルソと共同研究者らは、ろ紙を備えた飛行機に爆発雲の中を飛ばせ、得られたろ紙を分析した(24494Puの発見に使われたのと同じサンプリング技術)。後には、より大量の放射性物質が環礁のサンゴの残骸から分離され、アメリカに運ばれた。未知の元素の可能性がある物質の分離は、弱酸性媒質(pH ≈ 3.5)中のクエン酸/アンモニウム緩衝液の存在下で高温でのイオン交換を用いて行われた。最終的に回収されたアインスタイニウムの原子数は200以下であった。しかし、元素99(アインスタイニウム)、すなわちそのEsの同位体は6.6MeVの特徴的な高エネルギーアルファ崩壊によって検出された。これはウラン238核による15個の中性子の捕獲とそれに続く7度のベータ崩壊により生成され、半減期は20.5日であった。このような複数の中性子吸収は爆発中の高い中性子束密度により可能になったため、新たに生成された重い同位体は軽い元素に分解する前に吸収できる中性子が十分多くあった。中性子捕獲により最初核種の原子番号を変えずに質量数を上げ、付随して起こるベータ崩壊により原子番号が徐々に増加する。
ただし一部のU原子はさらに2個の中性子を吸収し(合計17個)、Esと別の新たな元素フェルミウムのFm同位体を生成することがある。新たな元素の発見と複数の中性子捕獲に関する関連する新たなデータは当初、冷戦の緊張と核技術におけるソ連との競争により1955年まで米軍の命令により秘密にされていた。しかし、非常に多くの中性子の急速な捕獲は、ベータ崩壊前に超新星爆発における特定の重い化学元素(ニッケルより重い)の宇宙元素合成(生成)を説明するために必要ないわゆるr過程複数中性子吸収の必須な直接的な実験的確認を提供する。このような過程は宇宙における多くの安定した元素の存在を説明するために必要である。
一方、元素99(および新たな元素100フェルミウム)の同位体はバークレーおよびアルゴンヌ研究所で窒素14とウラン238の間の核反応で生成され、その後、プルトニウムかカリホルニウムの強い強い中性子照射により生成された。
これらの結果は1954年にいくつかの論文において、この元素について実施された最初の研究ではないという声明つきで発表された。また、バークレーのチームはアインスタイニウムとフェルミウムの化学的性質に関するいくつかの結果を報告した。アイビー・マイクの結果は機密指定ではなくなり、1955年に公開された。
元素99と100の発見で、アメリカのチームはスウェーデンのストックホルムにあるノーベル物理学研究所のグループと争った。1953年後半から1954年初めにかけてスウェーデンのグループはウランに酸素原子核を衝突させることで元素100の軽い同位体、特にFmの合成に成功した。これらの結果は1954年にも発表された。それにもかかわらず、バークレーのチームの発表がスウェーデンの論文よりも先であったため、バークレーのチームが先であることが承認された。バークレーの発表は1952年の熱核爆発のこれまで開示されていなかった結果に基づいていた。したがって、バークレーのチームに新たな元素に名前を付ける特権が与えられた。アイビー・マイクの設計につながった取り組みがプロジェクトPANDAというコードネームであったため、元素99はジョークで「パンダモニウム」と呼ばれていた。しかし、正式名はバークレーのグループにより2人の著名な科学者アルベルト・アインシュタインとエンリコ・フェルミに由来するものが提案された。「われわれは原子番号99の元素の名前にはアルベルト・アインシュタインにちなんでアインスタイニウム(記号E)と名付け、原子番号100の元素の名前にはエンリコ・フェルミにちなんでフェルミウム(記号Fm)と名付けた」アインシュタインとフェルミはともに名称が最初に提案されたときから命名が公式に発表されるまでに死去している。これらの新たな元素の発見は、1955年8月8-20日に開催された最初のジュネーブ原子会議でアルバート・ギオルソにより発表された。元素記号は当初Eであったが、後にIUPACによりEsに変更された。
アインスタイニウムは人工の、銀白色の放射性金属である。周期表ではアクチノイドのカリホルニウムの右、アクチノイドのフェルミウムの左、ランタノイドのホルミウムの下に配置されており、ホルミウムとは多くの類似した物理的および化学的特性を共有する。密度8.84 g/cmはカリホルニウムの密度(15.1 g/cm)より低く、ホルミウムの密度(8.79 g/cm)とほぼ同じであるが、アインスタイニウム原子はホルミウムよりもずっと重い。融点も比較的低く(860 °C)、カリホルニウム(900 °C)、フェルミウム(1527 °C)、ホルミウム(1461 °C)よりも低い。軟質金属であり体積弾性率はわずか15GPaであり、この値は非アルカリ金属の中で最も低いものの1つである。
周囲条件で二重六方構造で結晶化するより軽いアクチノイド、カリホルニウム、バークリウム、キュリウム、アメリシウムとは対照的にアインスタイニウムは空間群Fm3m、格子定数a = 575 pmの面心立方(fcc)対称性を持っていると考えられている。しかし、a=398pm、c=650pmの室温の六方アインスタイニウム金属の報告があり、300°Cに加熱するとfcc相に変換される。
アインスタイニウムの放射能により引き起こされる自己損傷は非常に強いため、結晶格子は急速に破壊され、この過程でEs1グラム当たり1000ワットのエネルギーを放出し、可視光の輝きを放つ。これらの過程はアインスタイニウムの密度と融点が比較的低い原因である可能性がある。さらに、使うことができる試料の大きさが小さいため、電子顕微鏡内で加熱されている試料を観察することにより融点がしばしば推定された。したがって小さな試料の表面効果により融点の値が低くなる可能性がある。
この金属は2価であり、著しく高い揮発性を持っている。自己放射線による損傷を減らすために、固体のアインスタイニウムとその化合物を測定するときはほとんどそれらを熱アニーリングした直後に行われる。また、一部の化合物は還元ガスの雰囲気下で研究される。例えば、EsOClの場合はH2O+HClであるため、分解中に試料が部分的に再成長する。
固体のアインスタイニウムとその化合物の自己破壊とは別に、この元素を研究する上での本質的な困難には希少性(最も一般的なEs同位体は1ミリグラム未満の量で1年に1,2回しか使用することができない)と自己汚染(1日当たり約3.3%の割合でアインスタイニウムからバークリウム、そしてカリホルニウムに急速に変化する)が含まれる。
よって、ほとんどのアインスタイニウムの試料は汚染されており、それらの固有の特性は時間の経過とともに蓄積された実験データを外挿することで推定されることがしばしばある。汚染の問題を回避する他の実験的手法には、発光特性の研究などで波長可変レーザーによるアインスタイニウムイオンの選択的光励起などがある。
アインスタイニウム金属やその酸化物およびフッ化物の磁気特性が研究されてきた。3つの材料全てが液体ヘリウムから室温まででキュリー・ワイス常磁性の挙動を示した。有効磁気モーメントはEs2O3では10.4±0.3 μBであり、EsF3では11.4±0.3 μBであり、これらの値はアクチノイドの中で最も高い値であり、対応するキュリー温度は53および37Kである。
すべてのアクチノイド同様、アインスタイニウムは高い反応性を持つ。3価の酸化状態は固体や水溶液中で最も安定であり、その状態で淡いピンク色となる。2価のアインスタイニウムの存在が特に固相ではしっかりと確立されており、このような+2状態はプロトアクチニウム、ウラン、ネプツニウム、プルトニウム、キュリウム、バークリウムなどの他の多くのアクチノイドでは観察されていない。アインスタイニウム(II)化合物は例えばアインスタイニウム(III)を塩化サマリウム(II)(英語版)で還元することにより得られる。酸化状態+4は蒸気の研究から推定されているが、未だ不明である。
アインスタイニウムには19個の同位体と3個の核異性体があり、質量数は240から257の範囲である。すべて放射性であり、最も安定した核種であるEsは半減期が471.7日である。次に安定の同位体はEs(半減期275.5日)、Es(39.8日)、Es(20.47日)である。残りの同位体はすべて半減期が40時間未満であり、ほとんどの同位体が30分以内に崩壊する。3つの核異性体のうち、最も安定なのはEsであり半減期は39.3時間である。
アインスタイニウムは核分裂率が高く、結果として持続的な核連鎖反応の臨界質量が低くなる。この質量はEs同位体の裸球(bare sphere)の場合は9.89kgであり、厚さ30cmの鋼製中性子反射体を加えることで2.9kgに、水から作った厚さ20cmの反射体を使用することで2.26kgに下げることができる。しかし、この小さい臨界質量でさえこれまでに分離されたアインスタイニウムの総量、特に希少なEs同位体の総量を大幅に超えている。
アインスタイニウムのすべての同位体の半減期は短いため、原始アインスタイニウム、つまり地球が形成されている間に地球上に存在していた可能性のあるアインスタイニウムは崩壊してから長い時間が経っている。地殻で自然に天然に存在するアクチノイドのウランとトリウムからアインスタイニウムを合成するには、複数の中性子捕獲が必要であるがこれは極めて起こることのなさそうな事象である。したがってすべての地球上のアインスタイニウムは、科学実験室、高出力原子炉または核実験で生成され、合成したときから数年以内にのみ存在する。
アインスタイニウム含むアメリシウムからフェルミウムまでの超ウラン元素はオクロの天然原子炉で自然に発生したが、現在は発生していない。
2008年にはプシビルスキ星でアインスタイニウムが観測された。
アインスタイニウムは専用の高速原子炉で軽いアクチノイドに対して中性子を照射することで微量生成される。世界の主要な照射源は米国テネシー州のオークリッジ国立研究所にある85メガワットの高中性子束同位体生産炉(HFIR)とロシア、ディミトロフグラードの原子炉科学技術研究所(Research Institute of Atomic Reactors, NIIAR)にあるSM-2ループ型原子炉であり、どちらもキュリウム以上(Z > 96)の元素の生産に特化したものである。これらの施設はパワーと束レベルが似ており、NIIARで生産される量は広く報告されていないがキュリウム以上の元素の生産能力は同等であると期待されている。オークリッジでの"typical processing campaign"では数十グラムのキュリウムが照射され、デシグラム量のカリホルニウム、ミリグラム量のバークリウム(Bk)とアインスタイニウム、ピコグラム量のフェルミウムが生成される。
Esの最初の微視的試料は約10ナノグラムで、1961年にHFIRで調製された。重量を推定するために特別な磁気天秤が設計された。その後、数キログラムのプルトニウムから始まり1967年から1970年には0.48ミリグラム(ほとんどがEs)、1971年から1973年には3.2ミリグラムの大量のバッチが生産され、その後1974年から1978年まで安定して年間約3ミリグラムが生産された。ただしこれらの量は照射直後のターゲットの積分量を指す。その後の分離手順により同位体的に純粋なアインスタイニウムは約10分の1に減少した。
プルトニウムの重中性子照射によりアインスタイニウムの4つの主要な同位体が得られる。4つとはEs(半減期が20.47日で自発核分裂半減期が7×10年のα放射体)、Es(半減期が39.3時間のβ放射体)、Es(半減期が約276日のα放射体)、Es(半減期が39.8日のβ放射体)である。別のルートは高強度の窒素または酸素イオンビームによるウラン238の衝突を含む。
アインスタイニウム247(半減期4.55分)はアメリシウム241に炭素イオンをもしくはウラン238に窒素イオンを照射することにより生成された。後者の反応は1967年にロシアのドゥブナで最初に実現し、関係した科学者にはLenin Komsomol Prizeが授与された。
同位体Esは重水素イオンをCfに照射することで生成された。Esは主に電子の放出によりCfに半減期25±5分で崩壊するが、6.87 MeVのエネルギーのα粒子を放出する(電子とα粒子の比は約400である)。
重い同位体Es、Es、Es、EsはBkにα粒子を衝突させることで得られた。この過程で1つから4つの中性子が解放され、1回の反応で4つの異なる同位体を形成できる。
アインスタイニウム253は0.1–0.2ミリグラムのCfターゲットに(2–5)×10 中性子·cm·sの熱中性子束を500–900時間照射することで生成された。
10メガトンのアイビー・マイク核実験のデブリの分析は、長期プロジェクトの一環であった。この目的の1つは高出力核爆発における超ウラン元素の生産効率の研究であった。これらの実験の動機はウランから超ウラン元素を合成するためには中性子を何度も捕獲する必要があるということであった。このような事象が発生する確率は中性子束とともに高くなるが、核爆発は最も強力な人工中性子源であり、マイクロ秒以内に10中性子/cmオーダーの密度、すなわち約10中性子/(cm·s)を供給する。これに比べ、HFIR原子炉の中性子束は5×10 中性子/(cm·s)である。デブリの試料が米国本土に届くまでにいくつかの同位体が崩壊する可能性があるため、予備分析のための専用の実験室がエニウェトク環礁に設置された。実験室は、実験後に環礁の上空を飛行する紙フィルターを備えた飛行機から分析用の試料をできるだけ早く受け取っていた。フェルミウムより重い新たな化学元素を発見することが望まれていたが、1954年から1956年の間に環礁で一連のメガトン爆発が行われた後にもこれらが発見されることはなかった。
閉ざされた空間で起こる強力な爆発により収量が向上し同位体が重くなることが期待されていたため、大気での結果は1960年代にネバダ核実験場で蓄積された地下での実験データにより補われた。従来のウランチャージとは別に、ウランとアメリシウムおよびトリウムの組み合わせ、およびプルトニウムとネプツニウムの混合チャージが試みられたが収量の点ではあまりうまくいかず、これは重元素チャージの核分裂率が上がったことで重同位体の損失が大きくなったのが原因であった。爆発が周囲の岩を300-600メートルの深さで溶かして蒸発させてデブリを撒き広げているため、生成物の分離には問題があった。生成物を抽出するためにそのような深さまで掘削することは収集する量という点で遅く非効率な方法であった。
1962年から1969年まで行われた9回の地下実験のうち、最後の実験は最も強力であり、超ウラン元素の収量が最も高かった。高出力の原子炉で通常1年間照射して作られるミリグラムのアインスタイニウムが、マイクロ秒以内に生成された。しかし、全体の提案の主な現実的問題は強力な爆風により分散した放射性のデブリを集めることであった。航空機のフィルターは全量の約4×10しか吸着せず、エニウェトク環礁のサンゴ数トン集めることでこの割合を2桁のみ上げることができた。Hutch爆発から60日後に約500kgの地下岩を抽出しても総チャージの約1×10しか取り戻せなかった。この500kgのバッチ中の超ウラン元素の量は実験の7日後に採取した0.4kgの岩に含まれていたもののたった30倍であり、回収した放射性岩石の量に対する超ウラン元素の収量の非常に非線形な依存性が示された。爆発後の試料回収を早くするために実験前にその場所でシャフトを掘削した。これにより爆発により震源からシャフトを介して放射性物質が放出され、表面近くで多くの物質が回収された。この方法は2つの実験で試され、すぐに数百キログラムの材料が提供されたが、アクチノイド濃度は掘削後に得られた試料の3分の1であった。このような方法は短命の同位体の科学的研究では効率的であったかもしれないが、生成されたアクチノイドの全体的な収集効率を改善することはできなかった。
核実験のデブリからは新たな元素(アインスタイニウムとフェルミウムを除く)を検出できず、超ウラン元素の総収量は残念なほど低かったが、これらの実験ではそれより前に実験室で得ることができたものよりもはるかに大量の希少な重同位体が得られた。
アインスタイニウムの分離手順は合成方法により異なる。サイクロトロン内の軽イオン衝突の場合、重イオンターゲットは薄い箔に取り付けられ、生成されたアインスタイニウムは照射後に箔から簡単に洗い流せる。しかし、そのような実験での生成量は比較的少ない。原子炉での照射の場合は収量がずっと高くなるが、生成物はさまざまなアクチノイド同位体の混合物であるだけでなく核分裂崩壊で生成されるランタノイドも含まれる。この場合、アインスタイニウムを単離するには高温高圧での陽イオン交換とクロマトグラフィーの何度かの反復手順を含む面倒な手順をしなくてはならない。原子炉で最も一般的に生成されるアインスタイニウムの同位体であるEsは半減期わずか20日(ほとんどの実験のタイムスケールでは早い)でBkに崩壊するためバークリウムからの分離が重要である。このような分離はバークリウムが固体の+4状態に容易に参加して沈殿するのに対し、アインスタイニウム含む他のアクチノイドは溶液中で+3状態のままであるという事実に依存して行われる。
ランタノイド核分裂生成物からの3価アクチノイドの分離は、溶離液として塩酸(HCl)で飽和した90%水/10%エタノール溶液を使用する陽イオン交換樹脂カラムで行うことができる。その後、溶離液として6モル濃度のHClを使用する陰イオン交換クロマトグラフィーを行う。次にアンモニウム塩で処理された陽イオン交換樹脂カラム(Dowex-50交換カラム)を使用して、元素99、元素100、元素101を含む断片を分離する。これらの元素は例えば溶離液としてα-ヒドロキシイソ酪酸溶液(α-HIB)を使用して、溶離位置/時間に基づいて簡単に識別できる。
3+アクチノイドの分離は、ビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略される)を固定有機相として、硝酸を移動水相として使用する溶媒抽出クロマトグラフィーによっても実現できる。アクチノイド溶離のシーケンスは陽イオン交換樹脂カラムの溶離のシーケンスと逆になる。この方法で分離されたアインスタイニウムは、樹脂カラムを使用した分離と比較して有機錯化剤を含まないという利点がある。
アインスタイニウムは反応性が高いため、その化合物から純粋な金属を得るには強力な還元剤が必要である。これは金属リチウムによるフッ化アインスタイニウム(III)の還元により達成できる。
しかし、融点が低く自己放射線による損傷が高いため、蒸気圧が高くフッ化リチウムよりも蒸気圧が高い。これによりこの還元反応はかなり非効率になる。これは初期に試されたが、ランタン金属による酸化アインスタイニウム(III)の還元が支持されるとすぐに放棄された。
酸化アインスタイニウム(III)(Es2O3)は硝酸アインスタイニウム(III)を燃焼させることにより得られた。これは無色の立方晶を形成し、最初に大きさが約30ナノメートルのマイクログラムの試料から特徴づけられた。この酸化物には他に単斜晶系や六方晶系の2つの相が知られている。特定のEs2O3相の形成は調製技術と試料の来歴に依存し、明確な相図はない。自己照射または自己発熱の結果として3つの相の間で相互変換が自然発生する可能性がある。六方相は酸化ランタン(III)とアイソタイプであり、EsイオンがOイオンの6配位群で囲まれている。
アインスタイニウムのハロゲン化物は、酸化状態+2および+3で知られている。最も安定した状態はフッ化物からヨウ化物までのすべてのハロゲン化物で+3である。
フッ化アインスタイニウム(III)(EsF3)はフッ化物イオンとの反応により塩化アインスタイニウム(III)溶液から沈殿する。代わりの調製手段は酸化アインスタイニウム(III)を1-2気圧、300-400°Cの温度で三フッ化塩素(ClF3)もしくはF2ガスにさらすことである。EsF3結晶構造は六方晶系であり、フッ化カリホルニウム(III)(CfF3)のようにEsイオンが二面冠(bicapped)三角柱配置でフッ素イオンが8個配位されている。
塩化アインスタイニウム(III)(EsCl3)は、約500°Cで約20分間、乾燥塩化水素蒸気の雰囲気中で酸化アインスタイニウム(III)をアニーリングすることで調製できる。約425°Cに冷却すると結晶化し、UCl3タイプの六方構造を持つ橙色の固体になる。ここではアインスタイニウム原子は三面冠(tricapped)三角柱形状で塩素原子が9個配位している。臭化アインスタイニウム(III)(EsBr3)は、AlCl3タイプの単斜構造を持つ淡黄色の固体であり、アインスタイニウム原子は臭素が八面体的に配位している(配位数6)。
アインスタイニウムの2価化合物は、3価ハロゲン化物を水素で還元することにより得られる。
塩化アインスタイニウム(II)(EsCl2)、臭化アインスタイニウム(II)(EsBr2)、ヨウ化アインスタイニウム(II)(EsI2)は光吸収により生成され特徴づけられているが、構造に関する情報はまだ知られていない。
既知のアインスタイニウムのオキシハロゲン化物にはEsOCl、EsOBr、EsOIがある。これらは水と対応するハロゲン化水素の蒸気混合物で三ハロゲン化物を処理することで合成される。例えばEsOClを得るためのEsCl3 + H2O/HCl
アインスタイニウムの高い放射能は放射線療法での潜在的な用途があり、有機金属錯体はアインスタイニウム原子を体内の適切な臓器に届けるために合成されている。クエン酸アインスタイニウム(およびフェルミウム化合物)を犬に注射する実験が行われている。アインスタイニウム(III)もベータジケトンキレート錯体に組み込まれたが、これはランタノイドと類似の錯体が以前有機金属化合物の中で最も強いUV励起発光を示したためである。アインスタイニウム錯体を調製するとき、EsイオンはGdイオンで1000倍に希釈され、これにより測定に必要な20分間に化合物が崩壊しないように放射線による損傷を減らすことができた。結果生じたEsからの発光は非常に弱く、検出することができなかった。このことはキレートマトリックスからEsイオンへの効率的なエネルギー移動を妨げる化合物の個々の構成要素の好ましくない相対エネルギーにより説明された。他のアクチノイドのアメリシウム、バークリウム、およびフェルミウムについても同様の結論が出された。
しかし、Esイオンの発光は無機塩酸溶液やジ(2-エチルヘキシル)オルトリン酸を含む有機溶液で観察された。これは約1064nm(約100nmの半値幅)に広いピークを示し、緑色光(波長約495nm)により共鳴的に励起される。発光の寿命は数マイクロ秒で量子収率は0.1%未満である。ランタノイドと比較してEsの非放射減衰率は比較的高く、f電子と内部Es電子の相互作用が強いことに関連していた。
アインスタイニウムより上の超ウラン元素や超アクチノイド元素の生成を目的とした基礎科学研究以外では、アインスタイニウムの同位体はほとんど使用されていない。
1955年、メンデレビウムはバークレー研究所の60インチサイクロトロンでEsの約10個の原子からなるターゲットを照射することで合成された。結果生じるEs(α,n)Md反応により原子番号101の新たな元素の原子が17個生成された。
希少な同位体アインスタイニウム254は質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、数マイクログラムと多くの量を手に入れられることから超重元素を生成するのに好まれている。アインスタイニウム254は1985年にカリフォルニア州バークレーにあるsuperHILAC線形加速器で行われたカルシウム48イオンを衝突させることによりウンウンエンニウム(元素119)の合成する試みのターゲットとして使用された。原子は確認されず、この反応の断面積の上限は300ナノバーンに設定された。
アインスタイニウム254は月探査機サーベイヤー5号の化学分析分光計(「アルファ散乱表面分析器」)の較正マーカーとして使用された。この同位体の大きな質量により、マーカーからの信号と月面で調査された軽い元素の間のスペクトルの重なりが減少した。
入手できるアインスタイニウムの毒性データのほとんどは動物の研究に基づいている。ラットが摂取すると血流にとどまるのは約0.01%だけである。血流から約65%は骨に行き、およそ50年間そこに残る。25%は肺に行き(生物学的半減期は約20年であるがこれはアインスタイニウムの同位体の短い半減期とは無関係である)、0.035%が睾丸にまたは0.01%が卵巣に行きアインスタイニウムがずっと留まる。摂取量の約10%は排泄される。骨表面におけるアインスタイニウムの分布は均一であり、プルトニウムの分布と同様である。
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"text": "アインスタイニウム (英: einsteinium [aɪnˈstaɪniəm]) は原子番号99の元素。元素記号はEs。人工放射性元素であり、アクチノイド系列の元素の1つであり、7番目の超ウラン元素である。",
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"text": "1952年の最初の水爆の爆発による破片の一部として発見された。最も一般的な同位体であるアインスタイニウム253(半減期20.47日)は、年間1ミリグラム程度の総収量で、いくつかの専用高出力原子炉におけるカリホルニウム253の崩壊から人工的に生成される。原子炉での合成に続いて、アインスタイニウム253を他のアクチノイドおよびそれらの崩壊生成物から分離する複雑な工程がある。他の同位体は、重いアクチノイド元素に軽いイオンを衝突させることで、さまざまな実験室で合成されているものの、アインスタイニウム253に比べてはるかに少量である。生成されるアインスタイニウムが少量であり、最も簡単に生成される同位体の半減期が短いため、現在のところ実用的な用途はほとんどなく、もっぱら基礎的な科学研究に用いられる。特に、アインスタイニウムは、1955年に初めて新元素メンデレビウムの17個の原子を合成するために使用された。",
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"text": "アインスタイニウムは柔らかく銀色の常磁性の金属である。化学的性質はアクチノイド系列後半の典型であり、+3の酸化状態が優勢である。+2酸化状態も(特に固体で)とることができる。アインスタイニウム253の高い放射能は、可視光の輝きを生み出し、1グラムあたり約1000ワットの熱を放出しその結晶性金属格子を急速に損傷する。1日で約3%のアインスタイニウム253が崩壊してバークリウム249に、そこからさらにカリホルニウム249になるため、特性を研究するのが難しい。半減期が最も長いアインスタイニウムの同位体であるアインスタイニウム252(半減期471.7日)は、物理的性質の研究に適しているが、製造がかなり難しいことが分かっており、微量でしか入手できず、大量一括には手に入らない。純粋な形で巨視的な量で観察される最大の原子番号を持つ元素であり、これは一般的な短寿命の同位体アインスタイニウム253でなされた。",
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"text": "元素99と100の発見で、アメリカのチームはスウェーデンのストックホルムにあるノーベル物理学研究所のグループと争った。1953年後半から1954年初めにかけてスウェーデンのグループはウランに酸素原子核を衝突させることで元素100の軽い同位体、特にFmの合成に成功した。これらの結果は1954年にも発表された。それにもかかわらず、バークレーのチームの発表がスウェーデンの論文よりも先であったため、バークレーのチームが先であることが承認された。バークレーの発表は1952年の熱核爆発のこれまで開示されていなかった結果に基づいていた。したがって、バークレーのチームに新たな元素に名前を付ける特権が与えられた。アイビー・マイクの設計につながった取り組みがプロジェクトPANDAというコードネームであったため、元素99はジョークで「パンダモニウム」と呼ばれていた。しかし、正式名はバークレーのグループにより2人の著名な科学者アルベルト・アインシュタインとエンリコ・フェルミに由来するものが提案された。「われわれは原子番号99の元素の名前にはアルベルト・アインシュタインにちなんでアインスタイニウム(記号E)と名付け、原子番号100の元素の名前にはエンリコ・フェルミにちなんでフェルミウム(記号Fm)と名付けた」アインシュタインとフェルミはともに名称が最初に提案されたときから命名が公式に発表されるまでに死去している。これらの新たな元素の発見は、1955年8月8-20日に開催された最初のジュネーブ原子会議でアルバート・ギオルソにより発表された。元素記号は当初Eであったが、後にIUPACによりEsに変更された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムは人工の、銀白色の放射性金属である。周期表ではアクチノイドのカリホルニウムの右、アクチノイドのフェルミウムの左、ランタノイドのホルミウムの下に配置されており、ホルミウムとは多くの類似した物理的および化学的特性を共有する。密度8.84 g/cmはカリホルニウムの密度(15.1 g/cm)より低く、ホルミウムの密度(8.79 g/cm)とほぼ同じであるが、アインスタイニウム原子はホルミウムよりもずっと重い。融点も比較的低く(860 °C)、カリホルニウム(900 °C)、フェルミウム(1527 °C)、ホルミウム(1461 °C)よりも低い。軟質金属であり体積弾性率はわずか15GPaであり、この値は非アルカリ金属の中で最も低いものの1つである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "周囲条件で二重六方構造で結晶化するより軽いアクチノイド、カリホルニウム、バークリウム、キュリウム、アメリシウムとは対照的にアインスタイニウムは空間群Fm3m、格子定数a = 575 pmの面心立方(fcc)対称性を持っていると考えられている。しかし、a=398pm、c=650pmの室温の六方アインスタイニウム金属の報告があり、300°Cに加熱するとfcc相に変換される。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムの放射能により引き起こされる自己損傷は非常に強いため、結晶格子は急速に破壊され、この過程でEs1グラム当たり1000ワットのエネルギーを放出し、可視光の輝きを放つ。これらの過程はアインスタイニウムの密度と融点が比較的低い原因である可能性がある。さらに、使うことができる試料の大きさが小さいため、電子顕微鏡内で加熱されている試料を観察することにより融点がしばしば推定された。したがって小さな試料の表面効果により融点の値が低くなる可能性がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "この金属は2価であり、著しく高い揮発性を持っている。自己放射線による損傷を減らすために、固体のアインスタイニウムとその化合物を測定するときはほとんどそれらを熱アニーリングした直後に行われる。また、一部の化合物は還元ガスの雰囲気下で研究される。例えば、EsOClの場合はH2O+HClであるため、分解中に試料が部分的に再成長する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "固体のアインスタイニウムとその化合物の自己破壊とは別に、この元素を研究する上での本質的な困難には希少性(最も一般的なEs同位体は1ミリグラム未満の量で1年に1,2回しか使用することができない)と自己汚染(1日当たり約3.3%の割合でアインスタイニウムからバークリウム、そしてカリホルニウムに急速に変化する)が含まれる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "よって、ほとんどのアインスタイニウムの試料は汚染されており、それらの固有の特性は時間の経過とともに蓄積された実験データを外挿することで推定されることがしばしばある。汚染の問題を回避する他の実験的手法には、発光特性の研究などで波長可変レーザーによるアインスタイニウムイオンの選択的光励起などがある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウム金属やその酸化物およびフッ化物の磁気特性が研究されてきた。3つの材料全てが液体ヘリウムから室温まででキュリー・ワイス常磁性の挙動を示した。有効磁気モーメントはEs2O3では10.4±0.3 μBであり、EsF3では11.4±0.3 μBであり、これらの値はアクチノイドの中で最も高い値であり、対応するキュリー温度は53および37Kである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "すべてのアクチノイド同様、アインスタイニウムは高い反応性を持つ。3価の酸化状態は固体や水溶液中で最も安定であり、その状態で淡いピンク色となる。2価のアインスタイニウムの存在が特に固相ではしっかりと確立されており、このような+2状態はプロトアクチニウム、ウラン、ネプツニウム、プルトニウム、キュリウム、バークリウムなどの他の多くのアクチノイドでは観察されていない。アインスタイニウム(II)化合物は例えばアインスタイニウム(III)を塩化サマリウム(II)(英語版)で還元することにより得られる。酸化状態+4は蒸気の研究から推定されているが、未だ不明である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムには19個の同位体と3個の核異性体があり、質量数は240から257の範囲である。すべて放射性であり、最も安定した核種であるEsは半減期が471.7日である。次に安定の同位体はEs(半減期275.5日)、Es(39.8日)、Es(20.47日)である。残りの同位体はすべて半減期が40時間未満であり、ほとんどの同位体が30分以内に崩壊する。3つの核異性体のうち、最も安定なのはEsであり半減期は39.3時間である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムは核分裂率が高く、結果として持続的な核連鎖反応の臨界質量が低くなる。この質量はEs同位体の裸球(bare sphere)の場合は9.89kgであり、厚さ30cmの鋼製中性子反射体を加えることで2.9kgに、水から作った厚さ20cmの反射体を使用することで2.26kgに下げることができる。しかし、この小さい臨界質量でさえこれまでに分離されたアインスタイニウムの総量、特に希少なEs同位体の総量を大幅に超えている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムのすべての同位体の半減期は短いため、原始アインスタイニウム、つまり地球が形成されている間に地球上に存在していた可能性のあるアインスタイニウムは崩壊してから長い時間が経っている。地殻で自然に天然に存在するアクチノイドのウランとトリウムからアインスタイニウムを合成するには、複数の中性子捕獲が必要であるがこれは極めて起こることのなさそうな事象である。したがってすべての地球上のアインスタイニウムは、科学実験室、高出力原子炉または核実験で生成され、合成したときから数年以内にのみ存在する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウム含むアメリシウムからフェルミウムまでの超ウラン元素はオクロの天然原子炉で自然に発生したが、現在は発生していない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2008年にはプシビルスキ星でアインスタイニウムが観測された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムは専用の高速原子炉で軽いアクチノイドに対して中性子を照射することで微量生成される。世界の主要な照射源は米国テネシー州のオークリッジ国立研究所にある85メガワットの高中性子束同位体生産炉(HFIR)とロシア、ディミトロフグラードの原子炉科学技術研究所(Research Institute of Atomic Reactors, NIIAR)にあるSM-2ループ型原子炉であり、どちらもキュリウム以上(Z > 96)の元素の生産に特化したものである。これらの施設はパワーと束レベルが似ており、NIIARで生産される量は広く報告されていないがキュリウム以上の元素の生産能力は同等であると期待されている。オークリッジでの\"typical processing campaign\"では数十グラムのキュリウムが照射され、デシグラム量のカリホルニウム、ミリグラム量のバークリウム(Bk)とアインスタイニウム、ピコグラム量のフェルミウムが生成される。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "Esの最初の微視的試料は約10ナノグラムで、1961年にHFIRで調製された。重量を推定するために特別な磁気天秤が設計された。その後、数キログラムのプルトニウムから始まり1967年から1970年には0.48ミリグラム(ほとんどがEs)、1971年から1973年には3.2ミリグラムの大量のバッチが生産され、その後1974年から1978年まで安定して年間約3ミリグラムが生産された。ただしこれらの量は照射直後のターゲットの積分量を指す。その後の分離手順により同位体的に純粋なアインスタイニウムは約10分の1に減少した。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "プルトニウムの重中性子照射によりアインスタイニウムの4つの主要な同位体が得られる。4つとはEs(半減期が20.47日で自発核分裂半減期が7×10年のα放射体)、Es(半減期が39.3時間のβ放射体)、Es(半減期が約276日のα放射体)、Es(半減期が39.8日のβ放射体)である。別のルートは高強度の窒素または酸素イオンビームによるウラン238の衝突を含む。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウム247(半減期4.55分)はアメリシウム241に炭素イオンをもしくはウラン238に窒素イオンを照射することにより生成された。後者の反応は1967年にロシアのドゥブナで最初に実現し、関係した科学者にはLenin Komsomol Prizeが授与された。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "同位体Esは重水素イオンをCfに照射することで生成された。Esは主に電子の放出によりCfに半減期25±5分で崩壊するが、6.87 MeVのエネルギーのα粒子を放出する(電子とα粒子の比は約400である)。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "重い同位体Es、Es、Es、EsはBkにα粒子を衝突させることで得られた。この過程で1つから4つの中性子が解放され、1回の反応で4つの異なる同位体を形成できる。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウム253は0.1–0.2ミリグラムのCfターゲットに(2–5)×10 中性子·cm·sの熱中性子束を500–900時間照射することで生成された。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "10メガトンのアイビー・マイク核実験のデブリの分析は、長期プロジェクトの一環であった。この目的の1つは高出力核爆発における超ウラン元素の生産効率の研究であった。これらの実験の動機はウランから超ウラン元素を合成するためには中性子を何度も捕獲する必要があるということであった。このような事象が発生する確率は中性子束とともに高くなるが、核爆発は最も強力な人工中性子源であり、マイクロ秒以内に10中性子/cmオーダーの密度、すなわち約10中性子/(cm·s)を供給する。これに比べ、HFIR原子炉の中性子束は5×10 中性子/(cm·s)である。デブリの試料が米国本土に届くまでにいくつかの同位体が崩壊する可能性があるため、予備分析のための専用の実験室がエニウェトク環礁に設置された。実験室は、実験後に環礁の上空を飛行する紙フィルターを備えた飛行機から分析用の試料をできるだけ早く受け取っていた。フェルミウムより重い新たな化学元素を発見することが望まれていたが、1954年から1956年の間に環礁で一連のメガトン爆発が行われた後にもこれらが発見されることはなかった。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "閉ざされた空間で起こる強力な爆発により収量が向上し同位体が重くなることが期待されていたため、大気での結果は1960年代にネバダ核実験場で蓄積された地下での実験データにより補われた。従来のウランチャージとは別に、ウランとアメリシウムおよびトリウムの組み合わせ、およびプルトニウムとネプツニウムの混合チャージが試みられたが収量の点ではあまりうまくいかず、これは重元素チャージの核分裂率が上がったことで重同位体の損失が大きくなったのが原因であった。爆発が周囲の岩を300-600メートルの深さで溶かして蒸発させてデブリを撒き広げているため、生成物の分離には問題があった。生成物を抽出するためにそのような深さまで掘削することは収集する量という点で遅く非効率な方法であった。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1962年から1969年まで行われた9回の地下実験のうち、最後の実験は最も強力であり、超ウラン元素の収量が最も高かった。高出力の原子炉で通常1年間照射して作られるミリグラムのアインスタイニウムが、マイクロ秒以内に生成された。しかし、全体の提案の主な現実的問題は強力な爆風により分散した放射性のデブリを集めることであった。航空機のフィルターは全量の約4×10しか吸着せず、エニウェトク環礁のサンゴ数トン集めることでこの割合を2桁のみ上げることができた。Hutch爆発から60日後に約500kgの地下岩を抽出しても総チャージの約1×10しか取り戻せなかった。この500kgのバッチ中の超ウラン元素の量は実験の7日後に採取した0.4kgの岩に含まれていたもののたった30倍であり、回収した放射性岩石の量に対する超ウラン元素の収量の非常に非線形な依存性が示された。爆発後の試料回収を早くするために実験前にその場所でシャフトを掘削した。これにより爆発により震源からシャフトを介して放射性物質が放出され、表面近くで多くの物質が回収された。この方法は2つの実験で試され、すぐに数百キログラムの材料が提供されたが、アクチノイド濃度は掘削後に得られた試料の3分の1であった。このような方法は短命の同位体の科学的研究では効率的であったかもしれないが、生成されたアクチノイドの全体的な収集効率を改善することはできなかった。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "核実験のデブリからは新たな元素(アインスタイニウムとフェルミウムを除く)を検出できず、超ウラン元素の総収量は残念なほど低かったが、これらの実験ではそれより前に実験室で得ることができたものよりもはるかに大量の希少な重同位体が得られた。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムの分離手順は合成方法により異なる。サイクロトロン内の軽イオン衝突の場合、重イオンターゲットは薄い箔に取り付けられ、生成されたアインスタイニウムは照射後に箔から簡単に洗い流せる。しかし、そのような実験での生成量は比較的少ない。原子炉での照射の場合は収量がずっと高くなるが、生成物はさまざまなアクチノイド同位体の混合物であるだけでなく核分裂崩壊で生成されるランタノイドも含まれる。この場合、アインスタイニウムを単離するには高温高圧での陽イオン交換とクロマトグラフィーの何度かの反復手順を含む面倒な手順をしなくてはならない。原子炉で最も一般的に生成されるアインスタイニウムの同位体であるEsは半減期わずか20日(ほとんどの実験のタイムスケールでは早い)でBkに崩壊するためバークリウムからの分離が重要である。このような分離はバークリウムが固体の+4状態に容易に参加して沈殿するのに対し、アインスタイニウム含む他のアクチノイドは溶液中で+3状態のままであるという事実に依存して行われる。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ランタノイド核分裂生成物からの3価アクチノイドの分離は、溶離液として塩酸(HCl)で飽和した90%水/10%エタノール溶液を使用する陽イオン交換樹脂カラムで行うことができる。その後、溶離液として6モル濃度のHClを使用する陰イオン交換クロマトグラフィーを行う。次にアンモニウム塩で処理された陽イオン交換樹脂カラム(Dowex-50交換カラム)を使用して、元素99、元素100、元素101を含む断片を分離する。これらの元素は例えば溶離液としてα-ヒドロキシイソ酪酸溶液(α-HIB)を使用して、溶離位置/時間に基づいて簡単に識別できる。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "3+アクチノイドの分離は、ビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略される)を固定有機相として、硝酸を移動水相として使用する溶媒抽出クロマトグラフィーによっても実現できる。アクチノイド溶離のシーケンスは陽イオン交換樹脂カラムの溶離のシーケンスと逆になる。この方法で分離されたアインスタイニウムは、樹脂カラムを使用した分離と比較して有機錯化剤を含まないという利点がある。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムは反応性が高いため、その化合物から純粋な金属を得るには強力な還元剤が必要である。これは金属リチウムによるフッ化アインスタイニウム(III)の還元により達成できる。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "しかし、融点が低く自己放射線による損傷が高いため、蒸気圧が高くフッ化リチウムよりも蒸気圧が高い。これによりこの還元反応はかなり非効率になる。これは初期に試されたが、ランタン金属による酸化アインスタイニウム(III)の還元が支持されるとすぐに放棄された。",
"title": "合成・抽出"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "酸化アインスタイニウム(III)(Es2O3)は硝酸アインスタイニウム(III)を燃焼させることにより得られた。これは無色の立方晶を形成し、最初に大きさが約30ナノメートルのマイクログラムの試料から特徴づけられた。この酸化物には他に単斜晶系や六方晶系の2つの相が知られている。特定のEs2O3相の形成は調製技術と試料の来歴に依存し、明確な相図はない。自己照射または自己発熱の結果として3つの相の間で相互変換が自然発生する可能性がある。六方相は酸化ランタン(III)とアイソタイプであり、EsイオンがOイオンの6配位群で囲まれている。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムのハロゲン化物は、酸化状態+2および+3で知られている。最も安定した状態はフッ化物からヨウ化物までのすべてのハロゲン化物で+3である。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "フッ化アインスタイニウム(III)(EsF3)はフッ化物イオンとの反応により塩化アインスタイニウム(III)溶液から沈殿する。代わりの調製手段は酸化アインスタイニウム(III)を1-2気圧、300-400°Cの温度で三フッ化塩素(ClF3)もしくはF2ガスにさらすことである。EsF3結晶構造は六方晶系であり、フッ化カリホルニウム(III)(CfF3)のようにEsイオンが二面冠(bicapped)三角柱配置でフッ素イオンが8個配位されている。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "塩化アインスタイニウム(III)(EsCl3)は、約500°Cで約20分間、乾燥塩化水素蒸気の雰囲気中で酸化アインスタイニウム(III)をアニーリングすることで調製できる。約425°Cに冷却すると結晶化し、UCl3タイプの六方構造を持つ橙色の固体になる。ここではアインスタイニウム原子は三面冠(tricapped)三角柱形状で塩素原子が9個配位している。臭化アインスタイニウム(III)(EsBr3)は、AlCl3タイプの単斜構造を持つ淡黄色の固体であり、アインスタイニウム原子は臭素が八面体的に配位している(配位数6)。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムの2価化合物は、3価ハロゲン化物を水素で還元することにより得られる。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "塩化アインスタイニウム(II)(EsCl2)、臭化アインスタイニウム(II)(EsBr2)、ヨウ化アインスタイニウム(II)(EsI2)は光吸収により生成され特徴づけられているが、構造に関する情報はまだ知られていない。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "既知のアインスタイニウムのオキシハロゲン化物にはEsOCl、EsOBr、EsOIがある。これらは水と対応するハロゲン化水素の蒸気混合物で三ハロゲン化物を処理することで合成される。例えばEsOClを得るためのEsCl3 + H2O/HCl",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムの高い放射能は放射線療法での潜在的な用途があり、有機金属錯体はアインスタイニウム原子を体内の適切な臓器に届けるために合成されている。クエン酸アインスタイニウム(およびフェルミウム化合物)を犬に注射する実験が行われている。アインスタイニウム(III)もベータジケトンキレート錯体に組み込まれたが、これはランタノイドと類似の錯体が以前有機金属化合物の中で最も強いUV励起発光を示したためである。アインスタイニウム錯体を調製するとき、EsイオンはGdイオンで1000倍に希釈され、これにより測定に必要な20分間に化合物が崩壊しないように放射線による損傷を減らすことができた。結果生じたEsからの発光は非常に弱く、検出することができなかった。このことはキレートマトリックスからEsイオンへの効率的なエネルギー移動を妨げる化合物の個々の構成要素の好ましくない相対エネルギーにより説明された。他のアクチノイドのアメリシウム、バークリウム、およびフェルミウムについても同様の結論が出された。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし、Esイオンの発光は無機塩酸溶液やジ(2-エチルヘキシル)オルトリン酸を含む有機溶液で観察された。これは約1064nm(約100nmの半値幅)に広いピークを示し、緑色光(波長約495nm)により共鳴的に励起される。発光の寿命は数マイクロ秒で量子収率は0.1%未満である。ランタノイドと比較してEsの非放射減衰率は比較的高く、f電子と内部Es電子の相互作用が強いことに関連していた。",
"title": "化合物"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウムより上の超ウラン元素や超アクチノイド元素の生成を目的とした基礎科学研究以外では、アインスタイニウムの同位体はほとんど使用されていない。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1955年、メンデレビウムはバークレー研究所の60インチサイクロトロンでEsの約10個の原子からなるターゲットを照射することで合成された。結果生じるEs(α,n)Md反応により原子番号101の新たな元素の原子が17個生成された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "希少な同位体アインスタイニウム254は質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、数マイクログラムと多くの量を手に入れられることから超重元素を生成するのに好まれている。アインスタイニウム254は1985年にカリフォルニア州バークレーにあるsuperHILAC線形加速器で行われたカルシウム48イオンを衝突させることによりウンウンエンニウム(元素119)の合成する試みのターゲットとして使用された。原子は確認されず、この反応の断面積の上限は300ナノバーンに設定された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アインスタイニウム254は月探査機サーベイヤー5号の化学分析分光計(「アルファ散乱表面分析器」)の較正マーカーとして使用された。この同位体の大きな質量により、マーカーからの信号と月面で調査された軽い元素の間のスペクトルの重なりが減少した。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "入手できるアインスタイニウムの毒性データのほとんどは動物の研究に基づいている。ラットが摂取すると血流にとどまるのは約0.01%だけである。血流から約65%は骨に行き、およそ50年間そこに残る。25%は肺に行き(生物学的半減期は約20年であるがこれはアインスタイニウムの同位体の短い半減期とは無関係である)、0.035%が睾丸にまたは0.01%が卵巣に行きアインスタイニウムがずっと留まる。摂取量の約10%は排泄される。骨表面におけるアインスタイニウムの分布は均一であり、プルトニウムの分布と同様である。",
"title": "安全性"
}
] |
アインスタイニウム は原子番号99の元素。元素記号はEs。人工放射性元素であり、アクチノイド系列の元素の1つであり、7番目の超ウラン元素である。
|
{{Elementbox
|name=einsteinium
|japanese name=アインスタイニウム
|pronounce={{IPAc-en|aɪ|n|ˈ|s|t|aɪ|n|i|əm}}<br />{{respell|eyen|STYE|nee-əm}}
|number=99
|symbol=Es
|left=[[カリホルニウム]]
|right=[[フェルミウム]]
|above=[[ホルミウム|Ho]]
|below=[[ウンクアドエンニウム|Uqe]]
|series=アクチノイド
|group=n/a
|period=7
|block=f
|appearance=銀白色
|image name=Einsteinium.jpg
|atomic mass=[252]
|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>11</sup> 7s<sup>2</sup>
|electrons per shell=2, 8, 18, 32, 29, 8, 2
|phase=固体
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|1st ionization energy=619
|magnetic ordering=[[常磁性]]
|CAS number=7429-92-7
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[アインスタイニウム252|252]] | sym=Es
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|471.7 d]]
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=6.760 | pn1=[[バークリウム248|248]] | ps1=[[バークリウム|Bk]]
| dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2=1.260 | pn2=[[カリホルニウム252|252]] | ps2=[[カリホルニウム|Cf]]
| dm3=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de3=0.480 | pn3=[[フェルミウム252|252]] | ps3=[[フェルミウム|Fm]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[アインスタイニウム253|253]] | sym=Es
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|20.47 d]]
| dm1=[[自発核分裂|SF]] | de1=- | pn1= | ps1=-
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=6.739 | pn2=[[バークリウム249|249]] | ps2=[[バークリウム|Bk]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[アインスタイニウム254|254]] | sym=Es
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E7 s|275.7 d]]
| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=0.654 | pn1=[[カリホルニウム254|254]] | ps1=[[カリホルニウム|Cf]]
| dm2=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de2=1.090 | pn2=[[フェルミウム254|254]] | ps2=[[フェルミウム|Fm]]
| dm3=[[アルファ崩壊|α]] | de3=6.628 | pn3=[[バークリウム250|250]] | ps3=[[バークリウム|Bk]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[アインスタイニウム255|255]] | sym=Es
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E6 s|39.8 d]]
| dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>-</sup>]] | de1=0.288 | pn1=[[フェルミウム255|255]] | ps1=[[フェルミウム|Fm]]
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=6.436 | pn2=[[バークリウム251|251]] | ps2=[[バークリウム|Bk]]
| dm3=[[自発核分裂|SF]] | de3=- | pn3= | ps3=-}}
|isotopes comment=
|covalent radius=165|crystal structure=六方最密充填構造 (α-Es)
面心立方格子 (β-Es)
〔300℃で相転移〕}}
'''アインスタイニウム''' ({{lang-en-short|einsteinium}} {{IPA-en|aɪnˈstaɪniəm|}}) は[[原子番号]]99の[[元素]]。[[元素記号]]は'''Es'''。[[人工放射性元素]]であり、[[アクチノイド]]系列の元素の1つであり、7番目の[[超ウラン元素]]である。
== 名称 ==
元素名は、[[アルベルト・アインシュタイン]]に由来する。
== 概要 ==
1952年の[[アイビー作戦|最初の水爆]]の爆発による破片の一部として発見された。最も一般的な[[同位体]]であるアインスタイニウム253(半減期20.47日)は、年間1ミリグラム程度の総収量で、いくつかの専用高出力[[原子炉]]における[[カリホルニウム]]253の崩壊から人工的に生成される。原子炉での合成に続いて、アインスタイニウム253を他のアクチノイドおよびそれらの[[崩壊生成物]]から分離する複雑な工程がある。他の同位体は、重いアクチノイド元素に軽い[[イオン]]を衝突させることで、さまざまな実験室で合成されているものの、アインスタイニウム253に比べてはるかに少量である。生成されるアインスタイニウムが少量であり、最も簡単に生成される同位体の半減期が短いため、現在のところ実用的な用途はほとんどなく、もっぱら基礎的な科学研究に用いられる。特に、アインスタイニウムは、1955年に初めて新元素[[メンデレビウム]]の17個の原子を合成するために使用された。
アインスタイニウムは柔らかく銀色の[[常磁性]]の[[金属]]である。化学的性質はアクチノイド系列後半の典型であり、+3の[[酸化数|酸化状態]]が優勢である。+2酸化状態も(特に固体で)とることができる。アインスタイニウム253の高い放射能は、可視光の輝きを生み出し、1グラムあたり約1000[[ワット]]の熱を放出しその結晶性金属格子を急速に損傷する。1日で約3%のアインスタイニウム253が崩壊して[[バークリウム]]249に、そこからさらに[[カリホルニウム]]249になるため、特性を研究するのが難しい。半減期が最も長いアインスタイニウムの同位体であるアインスタイニウム252(半減期471.7日)は、物理的性質の研究に適しているが、製造がかなり難しいことが分かっており、微量でしか入手できず、大量一括には手に入らない<ref>[http://periodic.lanl.gov/99.shtml Einsteinium]. periodic.lanl.gov</ref>。純粋な形で巨視的な量で観察される最大の原子番号を持つ元素であり、これは一般的な短寿命の同位体アインスタイニウム253でなされた<ref name=h1579/>。
すべての人工[[超ウラン元素]]と同様に、アインスタイニウムの同位体は非常に[[放射能|放射性]]が高く、摂取すると健康に非常に危険であると考えられている<ref name=CRC/>。
== 歴史 ==
[[File:Ivy Mike - mushroom cloud.jpg|thumb|left|アインスタイニウムはアイビー・マイク核実験の放射性降下物で最初に観測された。]]
アインスタイニウムは1952年12月、[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[アルバート・ギオルソ]]とその共同研究者により[[アルゴンヌ国立研究所|アルゴンヌ]]と[[ロスアラモス国立研究所]]との共同研究で[[アイビー作戦|アイビー・マイク]]核実験の放射性降下物の中から初めて同定された。この実験は1952年11月1日に[[太平洋]]の[[エニウェトク環礁]]で実施され、[[水爆]]実験としては初の成功を収めた<ref name="Ghiorso"/>。爆発の破片を最初調べたところ[[プルトニウム]]の新たな同位体{{nuclide|Pu|Z=94|A=244}}が生成されていることが分かったが、これは[[ウラン238]]の原子核が6個の[[中性子]]を吸収したのち2回の[[ベータ崩壊]]を経て生成されたと考えられている。
:<chem>^{238}_{92}U ->[\ce{+ 6(n,\gamma)}][-2\ \beta^-]{} ^{244}_{94}Pu</chem>
当時、複数の中性子吸収は極めて珍しい現象と考えられていたが、{{nuclide|Pu|Z=94|A=244}}が同定されたことでウランの原子核にさらに多くの中性子が取り込まれ[[カリホルニウム]]より重い新元素が生成される可能性が示唆された<ref name="Ghiorso">{{cite journal|first = Albert|last = Ghiorso|authorlink = アルバート・ギオルソ|date = 2003 |title = Einsteinium and Fermium|journal = Chemical and Engineering News|url = http://pubs.acs.org/cen/80th/einsteiniumfermium.html|volume = 81|issue = 36|doi = 10.1021/cen-v081n036.p174|pages = 174–175}}</ref>。
[[File:Albert Ghiorso ca 1970.jpg|thumb|left|upright|この元素は[[アルバート・ギオルソ]]率いるチームにより発見された。]]
ギオルソと共同研究者らは、ろ紙を備えた飛行機に爆発雲の中を飛ばせ、得られたろ紙を分析した({{nuclide|Pu|Z=94|A=244}}の発見に使われたのと同じサンプリング技術)<ref name=s39>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 39</ref>。後には、より大量の放射性物質が環礁のサンゴの残骸から分離され、アメリカに運ばれた<ref name="Ghiorso"/>。未知の元素の可能性がある物質の分離は、弱酸性媒質([[水素イオン指数|pH]] ≈ 3.5)中の[[クエン酸]]/[[アンモニウム]][[緩衝液]]の存在下で高温での[[イオン交換]]を用いて行われた。最終的に回収されたアインスタイニウムの原子数は200以下であった<ref name=em>John Emsley [https://books.google.com/books?id=j-Xu07p3cKwC&pg=PA133 Nature's building blocks: an A-Z guide to the elements], Oxford University Press, 2003, {{ISBN2|0-19-850340-7}} pp. 133–135</ref>。しかし、元素99(アインスタイニウム)、すなわちその<sup>253</sup>Esの同位体は6.6MeVの特徴的な高エネルギー[[アルファ崩壊]]によって検出された<ref name = "Ghiorso"/>。これは[[ウラン238]]核による15個の[[中性子]]の[[中性子捕獲|捕獲]]とそれに続く7度のベータ崩壊により生成され、[[半減期]]は20.5日であった。このような複数の中性子吸収は爆発中の高い中性子束密度により可能になったため、新たに生成された重い同位体は軽い元素に分解する前に吸収できる中性子が十分多くあった。中性子捕獲により最初核種の[[原子番号]]を変えずに質量数を上げ、付随して起こるベータ崩壊により原子番号が徐々に増加する<ref name="Ghiorso"/>。
:<chem>
^{238}_{92}U ->[\ce{+15n}][6 \beta^-] ^{253}_{98}Cf ->[\beta^-] ^{253}_{99}Es
</chem>
ただし一部の<sup>238</sup>U原子はさらに2個の中性子を吸収し(合計17個)、<sup>255</sup>Esと別の新たな元素[[フェルミウム]]の<sup>255</sup>Fm同位体を生成することがある<ref><sup>254</sup>Es, <sup>254</sup>Fm and <sup>253</sup>Fm would not be produced because of lack of beta decay in <sup>254</sup>Cf and <sup>253</sup>Es</ref>。新たな元素の発見と複数の中性子捕獲に関する関連する新たなデータは当初、[[冷戦]]の緊張と核技術におけるソ連との競争により1955年まで米軍の命令により秘密にされていた<ref name="Ghiorso"/><ref name = "ES_FM">{{cite journal|last1 = Ghiorso|first1 = A.|last2 = Thompson|first2 = S.|last3 = Higgins|first3 = G.|last4 = Seaborg|first4 = G.|last5 = Studier|first5 = M.|last6 = Fields|first6 = P.|last7 = Fried|first7 = S.|last8 = Diamond|first8 = H.|last9 = Mech|first9 = J.|first10 = G. |last10 = Pyle
|first11 = J. |last11 = Huizenga
|first12 = A. |last12 = Hirsch
|first13 = W. |last13 = Manning
|first14 = C. |last14 = Browne
|first15 = H. |last15 = Smith
|first16 = R. |last16 = Spence
|title = New Elements Einsteinium and Fermium, Atomic Numbers 99 and 100|journal = Phys. Rev.|volume = 99| issue = 3|url=http://escholarship.org/uc/item/70q401ct|doi = 10.1103/PhysRev.99.1048| pages = 1048–1049| date = 1955|bibcode = 1955PhRv...99.1048G }} [https://books.google.com/books?id=e53sNAOXrdMC&pg=PA91 Google Books]</ref><ref>{{cite journal|last1=Fields|first1=P.|last2=Studier|first2=M.|last3=Diamond|first3=H.|last4=Mech|first4=J.|last5=Inghram|first5=M.|last6=Pyle|first6=G.|last7=Stevens|first7=C.|last8=Fried|first8=S.|last9=Manning|first9=W. |first10 = G. |last10 = Pyle |first11 = J. |last11 = Huizenga |first12 = A. |last12 = Hirsch |first13 = W. |last13 = Manning |first14 = C. |last14 = Browne |first15 = H. |last15 = Smith |first16 = R. |last16 = Spence |title=Transplutonium Elements in Thermonuclear Test Debris|journal=Physical Review |volume=102|issue=1|date=1956|pages=180–182|doi=10.1103/PhysRev.102.180|bibcode = 1956PhRv..102..180F }} [https://books.google.com/books?id=e53sNAOXrdMC&pg=PA93 Google Books]</ref>。しかし、非常に多くの中性子の急速な捕獲は、[[ベータ崩壊]]前に[[超新星]]爆発における特定の重い化学元素(ニッケルより重い)の宇宙[[元素合成]](生成)を説明するために必要ないわゆる[[r過程]]複数中性子吸収の必須な直接的な実験的確認を提供する。このような過程は宇宙における多くの安定した元素の存在を説明するために必要である<ref>Byrne, J. ''Neutrons, Nuclei, and Matter'', Dover Publications, Mineola, NY, 2011, {{ISBN2|978-0-486-48238-5}} (pbk.) pp. 267.</ref>。
一方、元素99(および新たな元素100[[フェルミウム]])の同位体はバークレーおよびアルゴンヌ研究所で[[窒素]]14とウラン238の間の[[核融合|核反応]]で生成され<ref name = "PhysRev.93.257">{{cite journal| journal = Physical Review| volume = 93|issue = 1| date = 1954|title = Reactions of U-238 with Cyclotron-Produced Nitrogen Ions| author = Ghiorso, Albert| author2 = Rossi, G. Bernard| author3 = Harvey, Bernard G.| author4 = Thompson, Stanley G.| s2cid = 121499772| last-author-amp = yes| doi = 10.1103/PhysRev.93.257|pages = 257|bibcode = 1954PhRv...93..257G }}</ref>、その後、[[プルトニウム]]か[[カリホルニウム]]の強い強い中性子照射により生成された。
:<chem>^{252}_{98}Cf ->[\ce{(n,\gamma)}] ^{253}_{98}Cf ->[\beta^-][17.81 \ce{d}] ^{253}_{99}Es ->[\ce{(n,\gamma)}] ^{254}_{99}Es ->[\beta^-] ^{254}_{100}Fm</chem>
これらの結果は1954年にいくつかの論文において、この元素について実施された最初の研究ではないという声明つきで発表された<ref name = "PhysRev.93.908" >{{cite journal| journal = Physical Review| volume = 93| date = 1954| title = Transcurium Isotopes Produced in the Neutron Irradiation of Plutonium |author = Thompson, S. G. |author2 = Ghiorso, A. |author3 = Harvey, B. G. |author4 = Choppin, G. R. | doi = 10.1103/PhysRev.93.908| pages = 908| issue = 4
|bibcode = 1954PhRv...93..908T | url = https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc1016991/}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Harvey|first1=Bernard|last2=Thompson|first2=Stanley|last3=Ghiorso|first3=Albert|last4=Choppin|first4=Gregory|title=Further Production of Transcurium Nuclides by Neutron Irradiation|journal=Physical Review|volume=93|pages=1129|date=1954|doi=10.1103/PhysRev.93.1129|issue=5|bibcode = 1954PhRv...93.1129H |url=http://www.escholarship.org/uc/item/7884m0gv}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Studier|first1=M.|last2=Fields|first2=P.|last3=Diamond|first3=H.|last4=Mech|first4=J.|last5=Friedman|first5=A.|last6=Sellers|first6=P.|last7=Pyle|first7=G.|last8=Stevens|first8=C.|last9=Magnusson|first9=L.|first10=J.|last10=Huizenga |title=Elements 99 and 100 from Pile-Irradiated Plutonium|journal=Physical Review|volume=93|pages=1428|date=1954|doi=10.1103/PhysRev.93.1428|issue=6|bibcode = 1954PhRv...93.1428S }}</ref><ref>{{cite journal|first1 = G. R.|last1 = Choppin|first2 = S. G.|last2 = Thompson|first3 = A.|last3 = Ghiorso|authorlink3 = Albert Ghiorso|first4 = B. G.|last4 = Harvey|title = Nuclear Properties of Some Isotopes of Californium, Elements 99 and 100|journal = Physical Review|volume = 94|issue = 4|pages = 1080–1081|date = 1954|doi = 10.1103/PhysRev.94.1080|bibcode = 1954PhRv...94.1080C }}</ref><ref>{{cite journal|last1=Fields|first1=P.|last2=Studier|first2=M.|last3=Mech|first3=J.|last4=Diamond|first4=H.|last5=Friedman|first5=A.|last6=Magnusson|first6=L.|last7=Huizenga|first7=J.|title=Additional Properties of Isotopes of Elements 99 and 100|journal=Physical Review|volume=94|issue=1|pages=209–210|date=1954|doi=10.1103/PhysRev.94.209|bibcode = 1954PhRv...94..209F }}</ref>。また、バークレーのチームはアインスタイニウムとフェルミウムの化学的性質に関するいくつかの結果を報告した<ref Name="Properties_1">Seaborg, G. T.; Thompson, S.G.; Harvey, B.G. and Choppin, G.R. (July 23, 1954) [http://www.osti.gov/accomplishments/documents/fullText/ACC0047.pdf "Chemical Properties of Elements 99 and 100"], Radiation Laboratory, University of California, Berkeley, UCRL-2591</ref><ref name="Properties_2">{{cite journal|title=Chemical Properties of Elements 99 and 100|last1=Thompson|first1=S. G.|last2=Harvey|first2=B. G.|last3=Choppin|first3=G. R.|last4=Seaborg|first4=G. T.|journal=Journal of the American Chemical Society|volume=76|pages=6229–6236|date=1954|doi=10.1021/ja01653a004|issue=24|url=https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc1023183/}}</ref>。アイビー・マイクの結果は機密指定ではなくなり、1955年に公開された<ref name = "ES_FM"/>。
[[File:Einstein1921 by F Schmutzer 2.jpg|thumb|right|upright|この元素の名前は[[アルベルト・アインシュタイン]]にちなむ。]]
元素99と100の発見で、アメリカのチームは[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]にあるノーベル物理学研究所のグループと争った。1953年後半から1954年初めにかけてスウェーデンのグループはウランに酸素原子核を衝突させることで元素100の軽い同位体、特に<sup>250</sup>Fmの合成に成功した。これらの結果は1954年にも発表された<ref>{{cite journal|last1=Atterling|first1=Hugo|last2=Forsling|first2=Wilhelm|last3=Holm|first3=Lennart|last4=Melander|first4=Lars|last5=Åström|first5=Björn|title=Element 100 Produced by Means of Cyclotron-Accelerated Oxygen Ions|journal=Physical Review|volume=95|pages=585–586|date=1954|doi=10.1103/PhysRev.95.585.2|issue=2|bibcode = 1954PhRv...95..585A }}</ref>。それにもかかわらず、バークレーのチームの発表がスウェーデンの論文よりも先であったため、バークレーのチームが先であることが承認された。バークレーの発表は1952年の熱核爆発のこれまで開示されていなかった結果に基づいていた。したがって、バークレーのチームに新たな元素に名前を付ける特権が与えられた。アイビー・マイクの設計につながった取り組みがプロジェクトPANDA<ref name="underthecloud">{{cite book |title=Under the cloud: the decades of nuclear testing |author=Richard Lee Miller |page=115 |isbn=978-1-881043-05-8 |publisher=Two-Sixty Press |date=1991}}</ref>というコードネームであったため、元素99はジョークで「パンダモニウム」と呼ばれていた<ref name="mcphee">{{cite book |title=The Curve of Binding Energy |author=John McPhee |author-link=John McPhee |page=116 |publisher=Farrar, Straus & Giroux Inc. |isbn=978-0-374-51598-0 |date=1980}}</ref>。しかし、正式名はバークレーのグループにより2人の著名な科学者[[アルベルト・アインシュタイン]]と[[エンリコ・フェルミ]]に由来するものが提案された。「われわれは原子番号99の元素の名前にはアルベルト・アインシュタインにちなんでアインスタイニウム(記号E)と名付け、原子番号100の元素の名前にはエンリコ・フェルミにちなんでフェルミウム(記号Fm)と名付けた」<ref name = "ES_FM "/>アインシュタインとフェルミはともに名称が最初に提案されたときから命名が公式に発表されるまでに死去している。これらの新たな元素の発見は、1955年8月8-20日に開催された最初のジュネーブ原子会議で[[アルバート・ギオルソ]]により発表された<ref name="Ghiorso"/>。元素記号は当初Eであったが、後にIUPACによりEsに変更された<ref name=h1577>[[#Haire|Haire]], p. 1577</ref><ref name=se6>Seaborg, G.T. (1994) ''[https://books.google.com/books?id=e53sNAOXrdMC&pg=PA6 Modern alchemy: selected papers of Glenn T. Seaborg]'', World Scientific, p. 6, {{ISBN2|981-02-1440-5}}.</ref>。
==特徴==
===物理的性質===
[[File:EinsteiniumGlow.JPG|thumb|upright|約300µgの<sup>253</sup>Esからの強い放射による輝き<ref>[[#Haire|Haire]], p. 1580</ref>]]
アインスタイニウムは人工の、銀白色の放射性金属である。[[周期表]]ではアクチノイドの[[カリホルニウム]]の右、アクチノイドの[[フェルミウム]]の左、ランタノイドの[[ホルミウム]]の下に配置されており、ホルミウムとは多くの類似した物理的および化学的特性を共有する。密度8.84 g/cm<sup>3</sup>はカリホルニウムの密度(15.1 g/cm<sup>3</sup>)より低く、ホルミウムの密度(8.79 g/cm<sup>3</sup>)とほぼ同じであるが、アインスタイニウム原子はホルミウムよりもずっと重い。[[融点]]も比較的低く(860 °C)、[[カリホルニウム]](900 °C)、[[フェルミウム]](1527 °C)、ホルミウム(1461 °C)よりも低い<ref name=CRC>Hammond C. R. "The elements" in {{RubberBible86th}}</ref><ref name="HAIRE_1990">Haire, R. G. (1990) "Properties of the Transplutonium Metals (Am-Fm)", in: Metals Handbook, Vol. 2, 10th edition, (ASM International, Materials Park, Ohio), pp. 1198–1201.</ref>。軟質金属であり[[体積弾性率]]はわずか15GPaであり、この値は非[[アルカリ金属]]の中で最も低いものの1つである<ref name=h1591>[[#Haire|Haire]], p. 1591</ref>。
周囲条件で二重[[六方晶系|六方]]構造で結晶化するより軽いアクチノイド、[[カリホルニウム]]、[[バークリウム]]、[[キュリウム]]、[[アメリシウム]]とは対照的にアインスタイニウムは空間群Fm{{overline|3}}m、格子定数a = 575 pmの[[立方晶系|面心立方]](fcc)対称性を持っていると考えられている。しかし、a=398pm、c=650pmの室温の六方アインスタイニウム金属の報告があり、300℃に加熱するとfcc相に変換される<ref name=ev/>。
アインスタイニウムの放射能により引き起こされる自己損傷は非常に強いため、[[結晶構造|結晶格子]]は急速に破壊され<ref name=g1268/>、この過程で<sup>253</sup>Es1グラム当たり1000ワットのエネルギーを放出し、可視光の輝きを放つ<ref name=h1579>[[#Haire|Haire]], p. 1579</ref>。これらの過程はアインスタイニウムの密度と融点が比較的低い原因である可能性がある<ref Name="ES_METALL">{{cite journal|last1=Haire|first1=R. G.|last2=Baybarz|first2=R. D.|doi=10.1051/jphyscol:1979431|title=Studies of einsteinium metal|date=1979|pages=C4–101|volume=40|journal=Le Journal de Physique |url=http://hal.archives-ouvertes.fr/docs/00/21/88/27/PDF/ajp-jphyscol197940C431.pdf}} [http://www.osti.gov/bridge/servlets/purl/6582609-SrTVod/6582609.pdf draft manuscript]</ref>。さらに、使うことができる試料の大きさが小さいため、[[電子顕微鏡]]内で加熱されている試料を観察することにより融点がしばしば推定された<ref name=s61>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 61</ref>。したがって小さな試料の表面効果により融点の値が低くなる可能性がある。
この金属は2価であり、著しく高い揮発性を持っている<ref>{{cite journal|last1=Kleinschmidt|first1=Phillip D.|last2=Ward|first2=John W.|last3=Matlack|first3=George M.|last4=Haire|first4=Richard G.|title=Henry's Law vaporization studies and thermodynamics of einsteinium-253 metal dissolved in ytterbium|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=81|issue=1|pages=473–477|date=1984|doi=10.1063/1.447328|bibcode = 1984JChPh..81..473K }}</ref>。自己放射線による損傷を減らすために、固体のアインスタイニウムとその化合物を測定するときはほとんどそれらを熱アニーリングした直後に行われる<ref name=s52>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 52</ref>。また、一部の化合物は還元ガスの雰囲気下で研究される。例えば、EsOClの場合はH<sub>2</sub>O+[[塩化水素|HCl]]であるため、分解中に試料が部分的に再成長する<ref name=s60/>。
固体のアインスタイニウムとその化合物の自己破壊とは別に、この元素を研究する上での本質的な困難には希少性(最も一般的な<sup>253</sup>Es同位体は1ミリグラム未満の量で1年に1,2回しか使用することができない)と自己汚染(1日当たり約3.3%の割合でアインスタイニウムからバークリウム、そしてカリホルニウムに急速に変化する)が含まれる<ref name="ES_F3"/><ref Name="ES2O3"/><ref name=s55>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 55</ref>。
:<chem>
^{253}_{99}Es ->[\alpha][20 \ce{d}] ^{249}_{97}Bk ->[\beta^-][314 \ce{d}] ^{249}_{98}Cf
</chem>
よって、ほとんどのアインスタイニウムの試料は汚染されており、それらの固有の特性は時間の経過とともに蓄積された実験データを外挿することで推定されることがしばしばある。汚染の問題を回避する他の実験的手法には、発光特性の研究などで[[波長可変レーザー]]によるアインスタイニウムイオンの選択的光励起などがある<ref name=s76>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 76</ref>。
アインスタイニウム金属やその酸化物およびフッ化物の磁気特性が研究されてきた。3つの材料全てが[[液体ヘリウム]]から室温までで[[キュリー・ワイスの法則|キュリー・ワイス]][[常磁性]]の挙動を示した。有効磁気モーメントはEs<sub>2</sub>O<sub>3</sub>では{{val|10.4|0.3|u=[[ボーア磁子|µ<sub>B</sub>]]}}であり、EsF<sub>3</sub>では{{val|11.4|0.3|u=µ<sub>B</sub>}}であり、これらの値はアクチノイドの中で最も高い値であり、対応する[[キュリー温度]]は53および37Kである<ref>{{cite journal|last1=Huray|first1=P.|last2=Nave|first2=S.|last3=Haire|first3=R.|title=Magnetism of the heavy 5f elements|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=93|pages=293–300|date=1983|doi=10.1016/0022-5088(83)90175-3|issue=2}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Huray|first1=Paul G.|last2=Nave|first2=S. E.|last3=Haire|first3=R. G.|last4=Moore|first4=J. R.|title=Magnetic Properties of Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub> and EsF<sub>3</sub>|journal=Inorganica Chimica Acta|volume=94|issue=1–3|pages=120–122|date=1984|doi=10.1016/S0020-1693(00)94587-0}}</ref>。
===化学的性質===
すべてのアクチノイド同様、アインスタイニウムは高い反応性を持つ。3価の[[酸化数|酸化状態]]は固体や水溶液中で最も安定であり、その状態で淡いピンク色となる<ref name="HOWI_1956">[[#Holleman|Holleman]], p. 1956</ref>。2価のアインスタイニウムの存在が特に固相ではしっかりと確立されており、このような+2状態は[[プロトアクチニウム]]、[[ウラン]]、[[ネプツニウム]]、プルトニウム、キュリウム、バークリウムなどの他の多くのアクチノイドでは観察されていない。アインスタイニウム(II)化合物は例えばアインスタイニウム(III)を{{仮リンク|塩化サマリウム(II)|en|samarium(II) chloride}}で還元することにより得られる<ref name=s53>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 53</ref>。酸化状態+4は蒸気の研究から推定されているが、未だ不明である<ref name=h1578>[[#Haire|Haire]], p. 1578</ref>。
===同位体===
{{main|アインスタイニウムの同位体}}
アインスタイニウムには19個の同位体と3個の[[核異性体]]があり、[[質量数]]は240から257の範囲である。すべて放射性であり、最も安定した核種である<sup>252</sup>Esは半減期が471.7日である<ref>{{cite journal|last1=Ahmad|first1=I.|title=Half-life of the longest-lived einsteinium isotope-252Es|journal=Journal of Inorganic and Nuclear Chemistry|volume=39|pages=1509–1511|date=1977|doi=10.1016/0022-1902(77)80089-4|issue=9|last2=Wagner|first2=Frank}}</ref>。次に安定の同位体は<sup>254</sup>Es(半減期275.5日)<ref>{{cite journal|last1=McHarris|first1=William|last2=Stephens|first2=F.|last3=Asaro|first3=F.|last4=Perlman|first4=I.|title=Decay Scheme of Einsteinium-254|journal=Physical Review|volume=144|pages=1031–1045|date=1966|doi=10.1103/PhysRev.144.1031|issue=3|bibcode = 1966PhRv..144.1031M }}</ref>、<sup>255</sup>Es(39.8日)、<sup>253</sup>Es(20.47日)である。残りの同位体はすべて半減期が40時間未満であり、ほとんどの同位体が30分以内に崩壊する。3つの核異性体のうち、最も安定なのは<sup>254m</sup>Esであり半減期は39.3時間である<ref>{{cite journal
|title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties
|doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001
|last1=Audi |first1=G.
|last2=Kondev|first2=F. G.
|last3=Wang |first3=M.
|last4=Huang |first4=W. J.
|last5=Naimi |first5=S.
|journal=Chinese Physics C
|volume=41 |issue=3
|page=030001
|year=2017
|url=https://www-nds.iaea.org/amdc/ame2016/NUBASE2016.pdf
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A
|accessdate=
|ref=
}}</ref>。
===核分裂===
アインスタイニウムは[[核分裂反応|核分裂]]率が高く、結果として持続的な[[核連鎖反応]]の[[臨界質量]]が低くなる。この質量は<sup>254</sup>Es同位体の裸球(bare sphere)の場合は9.89kgであり、厚さ30cmの鋼製[[中性子反射体]]を加えることで2.9kgに、水から作った厚さ20cmの反射体を使用することで2.26kgに下げることができる。しかし、この小さい臨界質量でさえこれまでに分離されたアインスタイニウムの総量、特に希少な<sup>254</sup>Es同位体の総量を大幅に超えている<ref name="irsn">Institut de Radioprotection et de Sûreté Nucléaire, [https://ec.europa.eu/energy/sites/ener/files/documents/20131018_trm_evaluation.pdf "Evaluation of nuclear criticality safety data and limits for actinides in transport"], p. 16.</ref>。
===自然発生===
アインスタイニウムのすべての同位体の半減期は短いため、原始アインスタイニウム、つまり地球が形成されている間に地球上に存在していた可能性のあるアインスタイニウムは崩壊してから長い時間が経っている。地殻で自然に天然に存在するアクチノイドのウランとトリウムからアインスタイニウムを合成するには、複数の中性子捕獲が必要であるがこれは極めて起こることのなさそうな事象である。したがってすべての地球上のアインスタイニウムは、科学実験室、高出力原子炉または[[核実験]]で生成され、合成したときから数年以内にのみ存在する<ref name=em/>。
アインスタイニウム含む[[アメリシウム]]から[[フェルミウム]]までの超ウラン元素は[[オクロの天然原子炉]]で自然に発生したが、現在は発生していない<ref name="emsley">{{cite book|last=Emsley|first=John|title=Nature's Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements|edition=New|date=2011|publisher=Oxford University Press|location=New York, NY|isbn=978-0-19-960563-7}}</ref>。
2008年には[[HD 101065|プシビルスキ星]]でアインスタイニウムが観測された<ref>{{cite journal | doi=10.3103/S0884591308020049 | volume=24 |issue = 2| title=Identification of absorption lines of short half-life actinides in the spectrum of Przybylski's star (HD 101065) | journal=Kinematics and Physics of Celestial Bodies | pages=89–98| bibcode=2008KPCB...24...89G |year = 2008|last1 = Gopka|first1 = V. F.|last2 = Yushchenko|first2 = A. V.|last3 = Yushchenko|first3 = V. A.|last4 = Panov|first4 = I. V.|last5 = Kim|first5 = Ch.}}</ref>。
==合成・抽出==
[[File:EsProduction.png|thumb|upright=1.4|米国におけるアインスタイニウム生産の初期の進展<ref name=s51>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 51</ref>]]
アインスタイニウムは専用の高速[[原子炉]]で軽いアクチノイドに対して中性子を照射することで微量生成される。世界の主要な照射源は米国テネシー州の[[オークリッジ国立研究所]]にある85メガワットの[[高中性子束同位体生産炉]](HFIR)<ref>{{cite web|title = High Flux Isotope Reactor|url = http://neutrons.ornl.gov/facilities/HFIR/|publisher = Oak Ridge National Laboratory|accessdate = 2010-09-23}}</ref>とロシア、[[ディミトロフグラード]]の原子炉科学技術研究所([[:en:Research Institute of Atomic Reactors|Research Institute of Atomic Reactors]], NIIAR)にあるSM-2ループ型原子炉<ref>{{cite web|title=ru:Радионуклидные источники и препараты|url = http://www.niiar.ru/?q=radioisotope_application|publisher = Research Institute of Atomic Reactors|accessdate = 2010-09-26|language=Russian}}</ref>であり、どちらもキュリウム以上(''Z'' > 96)の元素の生産に特化したものである。これらの施設はパワーと束レベルが似ており、NIIARで生産される量は広く報告されていないがキュリウム以上の元素の生産能力は同等であると期待されている<ref name=h1582>[[#Haire|Haire]], p. 1582</ref>。オークリッジでの"typical processing campaign"では数十グラムの[[キュリウム]]が照射され、デシグラム量の[[カリホルニウム]]、ミリグラム量の[[バークリウム]](<sup>249</sup>Bk)とアインスタイニウム、ピコグラム量の[[フェルミウム]]が生成される<ref>[[#Greenwood|Greenwood]], p. 1262</ref><ref>{{cite journal|first1 = C. E.|last1 = Porter|first2 = F. D., Jr.|last2 = Riley|first3 = R. D.|last3 = Vandergrift|first4 = L. K.|last4 = Felker|title = Fermium Purification Using Teva Resin Extraction Chromatography|journal = Sep. Sci. Technol.|volume = 32|issue = 1–4|date = 1997|pages = 83–92|doi = 10.1080/01496399708003188|url = https://zenodo.org/record/1234415}}</ref>。
<sup>253</sup>Esの最初の微視的試料は約10[[ナノグラム]]で、1961年にHFIRで調製された。重量を推定するために特別な磁気天秤が設計された<ref name=CRC/><ref>Hoffman, Darleane C.; Ghiorso, Albert and Seaborg, Glenn Theodore (2000) ''The Transuranium People: The Inside Story'', Imperial College Press, pp. 190–191, {{ISBN2|978-1-86094-087-3}}.</ref>。その後、数キログラムのプルトニウムから始まり1967年から1970年には0.48ミリグラム(ほとんどが<sup>253</sup>Es)、1971年から1973年には3.2ミリグラムの大量のバッチが生産され、その後1974年から1978年まで安定して年間約3ミリグラムが生産された<ref name=s36>[[#Seaborg|Seaborg]], pp. 36–37</ref>。ただしこれらの量は照射直後のターゲットの積分量を指す。その後の分離手順により同位体的に純粋なアインスタイニウムは約10分の1に減少した<ref name=h1582/>。
===実験室での合成===
プルトニウムの重中性子照射によりアインスタイニウムの4つの主要な同位体が得られる。4つとは<sup>253</sup>Es(半減期が20.47日で自発核分裂半減期が7×10<sup>5</sup>年のα放射体)、<sup>254''m''</sup>Es(半減期が39.3時間のβ放射体)、<sup>254</sup>Es(半減期が約276日のα放射体)、<sup>255</sup>Es(半減期が39.8日のβ放射体)である<ref>{{cite journal|last1=Jones|first1=M.|last2=Schuman|first2=R.|last3=Butler|first3=J.|last4=Cowper|first4=G.|last5=Eastwood|first5=T.|last6=Jackson|first6=H.|title=Isotopes of Einsteinium and Fermium Produced by Neutron Irradiation of Plutonium|journal=Physical Review|volume=102|issue=1|pages=203–207|date=1956|doi=10.1103/PhysRev.102.203|bibcode = 1956PhRv..102..203J }}</ref><ref>{{cite journal
|title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties
|doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001
|last1=Audi |first1=G.
|last2=Kondev|first2=F. G.
|last3=Wang |first3=M.
|last4=Huang |first4=W. J.
|last5=Naimi |first5=S.
|journal=Chinese Physics C
|volume=41 |issue=3
|page=030001
|year=2017
|url=https://www-nds.iaea.org/amdc/ame2016/NUBASE2016.pdf
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A
|accessdate=
|ref=
}}</ref>。別のルートは高強度の窒素または酸素イオンビームによるウラン238の衝突を含む<ref>{{cite journal|last1=Guseva|first1=L.|last2=Filippova|first2=K.|last3=Gerlit|first3=Y.|last4=Druin|first4=V.|last5=Myasoedov|first5=B.|last6=Tarantin|first6=N.|title=Experiments on the production of einsteinium and fermium with a cyclotron|journal=Journal of Nuclear Energy (1954)|volume=3|pages=341–346|date=1956|doi=10.1016/0891-3919(56)90064-X|issue=4}}</ref>。
アインスタイニウム247(半減期4.55分)はアメリシウム241に炭素イオンをもしくはウラン238に窒素イオンを照射することにより生成された<ref name="Binder">Harry H. Binder: ''Lexikon der chemischen Elemente'', S. Hirzel Verlag, Stuttgart 1999, {{ISBN2|3-7776-0736-3}}, pp. 18–23.</ref>。後者の反応は1967年にロシアのドゥブナで最初に実現し、関係した科学者には[[:en:Lenin Komsomol Prize|Lenin Komsomol Prize]]が授与された<ref>[http://n-t.ru/ri/ps/pb099.htm Эйнштейний] (in Russian, a popular article by one of the involved scientists)</ref>。
同位体<sup>248</sup>Esは[[重水素]]イオンを<sup>249</sup>Cfに照射することで生成された。<sup>248</sup>Esは主に電子の放出により<sup>248</sup>Cfに半減期{{val|25|5}}分で崩壊するが、6.87 MeVのエネルギーのα粒子を放出する(電子とα粒子の比は約400である)<ref>{{cite journal|last1=Chetham-Strode|first1=A.|last2=Holm|first2=L.|title=New Isotope Einsteinium-248|journal=Physical Review|volume=104|pages=1314|date=1956|doi=10.1103/PhysRev.104.1314|issue=5|bibcode = 1956PhRv..104.1314C }}</ref>。
:<math chem>\ce{^{249}_{98}Cf + ^{2}_{1}D -> ^{248}_{99}Es + 3^{1}_{0}n} \quad \left( \ce{^{248}_{99}Es ->[\epsilon][27 \ce{min}] ^{248}_{98}Cf} \right)</math>
重い同位体<sup>249</sup>Es、<sup>250</sup>Es、<sup>251</sup>Es、<sup>252</sup>Esは<sup>249</sup>Bkにα粒子を衝突させることで得られた。この過程で1つから4つの中性子が解放され、1回の反応で4つの異なる同位体を形成できる<ref>{{cite journal|last1=Harvey|first1=Bernard|last2=Chetham-Strode|first2=Alfred|last3=Ghiorso|first3=Albert|last4=Choppin|first4=Gregory|last5=Thompson|first5=Stanley|title=New Isotopes of Einsteinium|journal=Physical Review|volume=104|pages=1315–1319|date=1956|doi=10.1103/PhysRev.104.1315|issue=5|bibcode = 1956PhRv..104.1315H |url=http://www.escholarship.org/uc/item/462945g3}}</ref>。
:<chem>^{249}_{97}Bk ->[+\alpha] ^{249,250,251,252}_{99}Es</chem>
アインスタイニウム253は0.1–0.2ミリグラムの<sup>252</sup>Cfターゲットに(2–5)×10<sup>14</sup> 中性子·cm<sup>−2</sup>·s<sup>−1</sup>の[[熱中性子]]束を500–900時間照射することで生成された<ref>{{cite journal|last1=Kulyukhin|first1=S.|title=Production of microgram quantities of einsteinium-253 by the reactor irradiation of californium|journal=Inorganica Chimica Acta|volume=110|pages=25–26|date=1985|doi=10.1016/S0020-1693(00)81347-X|last2=Auerman|first2=L. N.|last3=Novichenko|first3=V. L.|last4=Mikheev|first4=N. B.|last5=Rumer|first5=I. A.|last6=Kamenskaya|first6=A. N.|last7=Goncharov|first7=L. A.|last8=Smirnov|first8=A. I.}}</ref>。
:<chem>^{252}_{98}Cf ->[\ce{(n,\gamma)}] ^{253}_{98}Cf ->[\beta^-][17.81 \ce{d}] ^{253}_{99}Es</chem>
===核爆発における合成===
[[File:ActinideExplosionSynthesis.png|thumb|upright=1.4|left|米国の核実験HutchとCyclamenにおける超ウラン元素の推定収量<ref name=s40/>]]
10[[TNT換算|メガトン]]のアイビー・マイク核実験のデブリの分析は、長期プロジェクトの一環であった。この目的の1つは高出力核爆発における超ウラン元素の生産効率の研究であった。これらの実験の動機はウランから超ウラン元素を合成するためには中性子を何度も捕獲する必要があるということであった。このような事象が発生する確率は[[中性子束]]とともに高くなるが、核爆発は最も強力な人工中性子源であり、マイクロ秒以内に10<sup>23</sup>中性子/cm<sup>2</sup>オーダーの密度、すなわち約10<sup>29</sup>中性子/(cm<sup>2</sup>·s)を供給する。これに比べ、HFIR原子炉の中性子束は5{{e|15}} 中性子/(cm<sup>2</sup>·s)である。デブリの試料が米国本土に届くまでにいくつかの同位体が崩壊する可能性があるため、予備分析のための専用の実験室が[[エニウェトク環礁]]に設置された。実験室は、実験後に環礁の上空を飛行する紙フィルターを備えた飛行機から分析用の試料をできるだけ早く受け取っていた。フェルミウムより重い新たな化学元素を発見することが望まれていたが、1954年から1956年の間に環礁で一連のメガトン爆発が行われた後にもこれらが発見されることはなかった<ref name=s39/>。
閉ざされた空間で起こる強力な爆発により収量が向上し同位体が重くなることが期待されていたため、大気での結果は1960年代に[[ネバダ核実験場]]で蓄積された地下での実験データにより補われた。従来のウランチャージとは別に、ウランとアメリシウムおよび[[トリウム]]の組み合わせ、およびプルトニウムとネプツニウムの混合チャージが試みられたが収量の点ではあまりうまくいかず、これは重元素チャージの核分裂率が上がったことで重同位体の損失が大きくなったのが原因であった。爆発が周囲の岩を300-600メートルの深さで溶かして蒸発させてデブリを撒き広げているため、生成物の分離には問題があった。生成物を抽出するためにそのような深さまで掘削することは収集する量という点で遅く非効率な方法であった<ref name=s39/><ref name=s40>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 40</ref>。
1962年から1969年まで行われた9回の地下実験のうち<ref>These were codenamed: "Anacostia" (5.2 [[TNT equivalent|kilotons]], 1962), "Kennebec" (<5 kilotons, 1963), "Par" (38 kilotons, 1964), "Barbel" (<20 kilotons, 1964), "Tweed" (<20 kilotons, 1965), "Cyclamen" (13 kilotons, 1966), "Kankakee" (20-200 kilotons, 1966), "Vulcan" (25 kilotons, 1966) and "Hutch" (20-200 kilotons, 1969)</ref><ref>[http://www.nv.doe.gov/library/publications/historical/DOENV_209_REV15.pdf United States Nuclear Tests July 1945 through September 1992] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100615000000/http://www.nv.doe.gov/library/publications/historical/DOENV_209_REV15.pdf |date=June 15, 2010 }}, DOE/NV--209-REV 15, December 2000.</ref>、最後の実験は最も強力であり、超ウラン元素の収量が最も高かった。高出力の原子炉で通常1年間照射して作られるミリグラムのアインスタイニウムが、マイクロ秒以内に生成された<ref name=s40/>。しかし、全体の提案の主な現実的問題は強力な爆風により分散した放射性のデブリを集めることであった。航空機のフィルターは全量の約4{{e|-14}}しか吸着せず、エニウェトク環礁のサンゴ数トン集めることでこの割合を2桁のみ上げることができた。Hutch爆発から60日後に約500kgの地下岩を抽出しても総チャージの約1{{e|-7}}しか取り戻せなかった。この500kgのバッチ中の超ウラン元素の量は実験の7日後に採取した0.4kgの岩に含まれていたもののたった30倍であり、回収した放射性岩石の量に対する超ウラン元素の収量の非常に非線形な依存性が示された<ref name=s43>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 43</ref>。爆発後の試料回収を早くするために実験前にその場所でシャフトを掘削した。これにより爆発により震源からシャフトを介して放射性物質が放出され、表面近くで多くの物質が回収された。この方法は2つの実験で試され、すぐに数百キログラムの材料が提供されたが、アクチノイド濃度は掘削後に得られた試料の3分の1であった。このような方法は短命の同位体の科学的研究では効率的であったかもしれないが、生成されたアクチノイドの全体的な収集効率を改善することはできなかった<ref name=s44>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 44</ref>。
核実験のデブリからは新たな元素(アインスタイニウムとフェルミウムを除く)を検出できず、超ウラン元素の総収量は残念なほど低かったが、これらの実験ではそれより前に実験室で得ることができたものよりもはるかに大量の希少な重同位体が得られた<ref name=s47>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 47</ref>。
===分離===
[[File:Elutionskurven Fm Es Cf Bk Cm Am.png|thumb|[[溶離]]曲線:Fm(100)、Es(99)、Cf、Bk、CmおよびAmのクロマトグラフィー分離]]
アインスタイニウムの分離手順は合成方法により異なる。サイクロトロン内の軽イオン衝突の場合、重イオンターゲットは薄い箔に取り付けられ、生成されたアインスタイニウムは照射後に箔から簡単に洗い流せる。しかし、そのような実験での生成量は比較的少ない<ref name=h1583>[[#Haire|Haire]], p. 1583</ref>。原子炉での照射の場合は収量がずっと高くなるが、生成物はさまざまなアクチノイド同位体の混合物であるだけでなく核分裂崩壊で生成されるランタノイドも含まれる。この場合、アインスタイニウムを単離するには高温高圧での陽イオン交換とクロマトグラフィーの何度かの反復手順を含む面倒な手順をしなくてはならない。原子炉で最も一般的に生成されるアインスタイニウムの同位体である<sup>253</sup>Esは半減期わずか20日(ほとんどの実験のタイムスケールでは早い)で<sup>249</sup>Bkに崩壊するためバークリウムからの分離が重要である。このような分離はバークリウムが固体の+4状態に容易に参加して沈殿するのに対し、アインスタイニウム含む他のアクチノイドは溶液中で+3状態のままであるという事実に依存して行われる<ref name=h1584>[[#Haire|Haire]], pp. 1584–1585</ref>。
ランタノイド核分裂生成物からの3価アクチノイドの分離は、溶離液として[[塩酸]](HCl)で飽和した90%水/10%エタノール溶液を使用する陽イオン交換樹脂カラムで行うことができる。その後、溶離液として6[[モル濃度]]のHClを使用する[[陰イオン交換クロマトグラフィー]]を行う。次にアンモニウム塩で処理された陽イオン交換樹脂カラム(Dowex-50交換カラム)を使用して、元素99、元素100、元素101を含む断片を分離する。これらの元素は例えば溶離液としてα-ヒドロキシイソ酪酸溶液(α-HIB)を使用して、溶離位置/時間に基づいて簡単に識別できる<ref name=book2>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=U4rnzH9QbT4C&pg=PA11|pages=9–11|title=The new chemistry|author=Hall, Nina|publisher=Cambridge University Press|date=2000|isbn=978-0-521-45224-3}}</ref>。
3+アクチノイドの分離は、ビス-(2-エチルヘキシル)リン酸(HDEHPと略される)を固定有機相として、硝酸を移動水相として使用する溶媒抽出クロマトグラフィーによっても実現できる。アクチノイド溶離のシーケンスは陽イオン交換樹脂カラムの溶離のシーケンスと逆になる。この方法で分離されたアインスタイニウムは、樹脂カラムを使用した分離と比較して有機錯化剤を含まないという利点がある<ref name=book2/>。
===金属の調製===
アインスタイニウムは反応性が高いため、その化合物から純粋な金属を得るには強力な還元剤が必要である<ref name=h1588>[[#Haire|Haire]], p. 1588</ref>。これは金属[[リチウム]]によるフッ化アインスタイニウム(III)の還元により達成できる。
:EsF<sub>3</sub> + 3 Li → Es + 3 LiF
しかし、融点が低く自己放射線による損傷が高いため、蒸気圧が高くフッ化リチウムよりも蒸気圧が高い。これによりこの還元反応はかなり非効率になる。これは初期に試されたが、[[ランタン]]金属による酸化アインスタイニウム(III)の還元が支持されるとすぐに放棄された<ref name=ev>{{cite journal|last1=Haire|first1=R.|title=Preparation, properties, and some recent studies of the actinide metals|url=http://www.osti.gov/bridge/product.biblio.jsp?osti_id=5235830|doi=10.1016/0022-5088(86)90554-0|date=1986|pages=379–398|volume=121|journal=Journal of the Less Common Metals}}</ref><ref name="ES_METALL"/><ref name=h1590>[[#Haire|Haire]], p. 1590</ref>。
:Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub> + 2 La → 2 Es + La<sub>2</sub>O<sub>3</sub>
==化合物==
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|+いくつかのEs化合物の結晶構造と格子定数
!化合物!!色!!対称性!![[空間群]]!!No!![[ピアソン記号]]||''a'' ([[ピコメートル|pm]])!!''b'' (pm)!!''c'' (pm)
|-
|Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub>|| 無色||立方<ref name="ES2O3"/>||Ia{{overline|3}}|| 206||cI80||1076.6|| ||
|-
|Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub>|| 無色||[[単斜晶系|単斜]]<ref name=ox1/>||C2/m||12|| mS30||1411||359 || 880
|-
|Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub>|| 無色||六方<ref name=ox1/>|| P{{overline|3}}m1||164 ||hP5||370|| ||600
|-
|EsF<sub>3</sub>|| ||六方<ref name="ES_F3"/>|| || || || || ||
|-
|EsF<sub>4</sub>|| ||単斜<ref>{{cite journal|last1=Kleinschmidt|first1=P.|title=Thermochemistry of the actinides|journal=Journal of Alloys and Compounds|volume=213–214|pages=169–172|date=1994|doi=10.1016/0925-8388(94)90898-2|url=https://digital.library.unt.edu/ark:/67531/metadc1401691/}}</ref> || C2/c||15 ||mS60 || || ||
|-
|EsCl<sub>3</sub>||橙色||六方<ref>{{cite journal|last1=Fujita|first1=D.|title=Crystal structures and lattice parameters of einsteinium trichloride and einsteinium oxychloride|journal=Inorganic and Nuclear Chemistry Letters|volume=5|pages=307–313|date=1969|doi=10.1016/0020-1650(69)80203-5|issue=4|last2=Cunningham|first2=B. B.|last3=Parsons|first3=T. C.|url=http://www.escholarship.org/uc/item/7hz778j2}}</ref><ref name=m99/>|| C6<sub>3</sub>/m|| ||hP8 ||727 || ||410
|-
|EsBr<sub>3</sub>||黄色||単斜<ref>{{cite journal|last1=Fellows|first1=R.|title=X-ray diffraction and spectroscopic studies of crystalline einsteinium(III) bromide, <sup>253</sup>EsBr<sub>3</sub>|journal=Inorganic and Nuclear Chemistry Letters|volume=11|pages=737–742|date=1975|doi=10.1016/0020-1650(75)80090-0|issue=11|last2=Peterson|first2=J. R.|last3=Noé|first3=M.|last4=Young|first4=J. P.|last5=Haire|first5=R. G.}}</ref>||C2/m || 12|| mS16||727 ||1259 || 681
|-
|EsI<sub>3</sub>||琥珀色||六方<ref name=h1595/><ref name=s62>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 62</ref>||R{{overline|3}} ||148 ||hR24 || 753|| ||2084
|-
|EsOCl|| ||正方<ref name=h1595>[[#Haire|Haire]], pp. 1595–1596</ref><ref name="YOUNG_1981"/>|| P4/nmm|| || ||394.8 || || 670.2
|}
===酸化物===
酸化アインスタイニウム(III)(Es<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)は硝酸アインスタイニウム(III)を燃焼させることにより得られた。これは無色の立方晶を形成し、最初に大きさが約30ナノメートルのマイクログラムの試料から特徴づけられた<ref name=g1268>[[#Greenwood|Greenwood]], p. 1268</ref><ref name="ES2O3">{{cite journal|last1=Haire|first1=R. G.|last2=Baybarz|first2=R. D.|title=Identification and analysis of einsteinium sesquioxide by electron diffraction|journal=Journal of Inorganic and Nuclear Chemistry|volume=35|pages=489–496|date=1973|doi=10.1016/0022-1902(73)80561-5|issue=2}}</ref>。この酸化物には他に[[単斜晶系]]や六方晶系の2つの相が知られている。特定のEs<sub>2</sub>O<sub>3</sub>相の形成は調製技術と試料の来歴に依存し、明確な相図はない。自己照射または自己発熱の結果として3つの相の間で相互変換が自然発生する可能性がある<ref name=h1598>[[#Haire|Haire]], p. 1598</ref>。六方相は[[酸化ランタン(III)]]とアイソタイプであり、Es<sup>3+</sup>イオンがO<sup>2−</sup>イオンの6配位群で囲まれている<ref name=ox1>{{cite book|title=Handbook on the Physics and Chemistry of Rare Earths|volume=18|chapter=Lanthanides and Actinides Chemistry|editor=K.A. Gscheidner, Jr. |display-editors=etal|location=North-Holland, New York|date=1994|pages=414–505|isbn=978-0-444-81724-2|author=Haire, R. G.|author2=Eyring, L.|last-author-amp=yes}}</ref><ref name=h1595/>。
===ハロゲン化物===
[[File:Einsteinium triiodide by transmitted light.jpg|thumb|暗闇で光る{{仮リンク|ヨウ化アインスタイニウム(III)|en|Einsteinium(III) iodide}}]]
アインスタイニウムの[[ハロゲン化物]]は、酸化状態+2および+3で知られている<ref Name="YOUNG_1981">{{cite journal|last1=Young|first1=J. P.|last2=Haire|first2=R. G.|last3=Peterson|first3=J. R.|last4=Ensor|first4=D. D.|last5=Fellow|first5=R. L.|title=Chemical consequences of radioactive decay. 2. Spectrophotometric study of the ingrowth of berkelium-249 and californium-249 into halides of einsteinium-253|journal=Inorganic Chemistry|volume=20|pages=3979–3983|date=1981|doi=10.1021/ic50225a076|issue=11}}</ref><ref name = "HOWI_1969">[[#Holleman|Holleman]], p. 1969</ref>。最も安定した状態はフッ化物からヨウ化物までのすべてのハロゲン化物で+3である。
フッ化アインスタイニウム(III)(EsF<sub>3</sub>)は[[フッ化物]]イオンとの反応により塩化アインスタイニウム(III)溶液から沈殿する。代わりの調製手段は酸化アインスタイニウム(III)を1-2気圧、300-400℃の温度で[[三フッ化塩素]](ClF<sub>3</sub>)もしくはF<sub>2</sub>ガスにさらすことである。EsF<sub>3</sub>結晶構造は六方晶系であり、フッ化カリホルニウム(III)(CfF<sub>3</sub>)のようにEs<sup>3+</sup>イオンが二面冠(bicapped)三角柱配置でフッ素イオンが8個配位されている<ref name="ES_F3">{{cite journal|last1=Ensor|first1=D. D.|last2=Peterson|first2=J. R.|last3=Haire|first3=R. G.|last4=Young|first4=J. P.|title=Absorption spectrophotometric study of <sup>253</sup>EsF<sub>3</sub> and its decay products in the bulk-phase solid state|journal=Journal of Inorganic and Nuclear Chemistry|volume=43|pages=2425–2427|date=1981|doi=10.1016/0022-1902(81)80274-6|issue=10}}</ref><ref name=g1270>[[#Greenwood|Greenwood]], p. 1270</ref><ref>{{cite journal|last1=Young|first1=J. P.|last2=Haire|first2=R. G.|last3=Fellows|first3=R. L.|last4=Peterson|first4=J. R.|title=Spectrophotometric studies of transcurium element halides and oxyhalides in the solid state|journal=Journal of Radioanalytical Chemistry|volume=43|pages=479–488|date=1978|doi=10.1007/BF02519508|issue=2}}</ref>。
塩化アインスタイニウム(III)(EsCl<sub>3</sub>)は、約500℃で約20分間、乾燥塩化水素蒸気の雰囲気中で酸化アインスタイニウム(III)をアニーリングすることで調製できる。約425℃に冷却すると結晶化し、[[塩化ウラン(III)|UCl<sub>3</sub>タイプ]]の六方構造を持つ橙色の固体になる。ここではアインスタイニウム原子は三面冠(tricapped)三角柱形状で塩素原子が9個配位している<ref name=m99>Miasoedov, B. F. Analytical chemistry of transplutonium elements, Wiley, 1974 (Original from the University of California), {{ISBN2|0-470-62715-8}}, p. 99</ref><ref name=g1270/><ref>{{cite journal|last1=Fujita|first1=D.|title=The solution absorption spectrum of Es<sup>3+</sup>|journal=Inorganic and Nuclear Chemistry Letters|volume=5|pages=245–250|date=1969|doi=10.1016/0020-1650(69)80192-3|issue=4|last2=Cunningham|first2=B. B.|last3=Parsons|first3=T. C.|last4=Peterson|first4=J. R.|url=http://www.escholarship.org/uc/item/3s43w87r}}</ref>。臭化アインスタイニウム(III)(EsBr<sub>3</sub>)は、[[塩化アルミニウム|AlCl<sub>3</sub>タイプ]]の[[単斜晶系|単斜]]構造を持つ淡黄色の固体であり、アインスタイニウム原子は臭素が[[八面体形分子構造|八面体的]]に配位している(配位数6)<ref name=s62/><ref name=g1270/>。
アインスタイニウムの2価化合物は、3価ハロゲン化物を[[水素]]で還元することにより得られる<ref Name="ES_II">{{cite journal|url=http://hal.archives-ouvertes.fr/docs/00/21/88/31/PDF/ajp-jphyscol197940C435.pdf|title=Preparation, characterization, and decay of einsteinium(II) in the solid state|journal=Le Journal de Physique|author=Peterson, J.R.|display-authors=etal|volume=40|issue=4|page=C4–111|date=1979|doi=10.1051/jphyscol:1979435|citeseerx=10.1.1.729.8671}} [http://www.osti.gov/energycitations/product.biblio.jsp?osti_id=6593662 manuscript draft]</ref>。
:2 EsX<sub>3</sub> + H<sub>2</sub> → 2 EsX<sub>2</sub> + 2 HX, X = F, Cl, Br, I
塩化アインスタイニウム(II)(EsCl<sub>2</sub>)<ref>Fellows, R.L.; Young, J.P.; Haire, R.G. and Peterson J.R. (1977) in: GJ McCarthy and JJ Rhyne (eds) ''The Rare Earths in Modern Science and Technology'', Plenum Press, New York, pp. 493–499.</ref>、臭化アインスタイニウム(II)(EsBr<sub>2</sub>)<ref>Young, J.P.; Haire R.G., Fellows, R.L.; Noe, M. and Peterson, J.R. (1976) "Spectroscopic and X-Ray Diffraction Studies of the Bromides of Californium-249 and Einsteinium-253", in: W. Müller and R. Lindner (eds.) ''Plutonium 1975'', North Holland, Amsterdam, pp. 227–234.</ref>、ヨウ化アインスタイニウム(II)(EsI<sub>2</sub>)<ref name = "YOUNG_1981" />は光吸収により生成され特徴づけられているが、構造に関する情報はまだ知られていない<ref name=s62/>。
既知のアインスタイニウムのオキシハロゲン化物にはEsOCl<ref name="YOUNG_1981"/>、EsOBr<ref name="ES_II"/>、EsOIがある<ref name="YOUNG_1981"/>。これらは水と対応するハロゲン化水素の蒸気混合物で三ハロゲン化物を処理することで合成される。例えばEsOClを得るためのEsCl<sub>3</sub> + H<sub>2</sub>O/HCl<ref name=s60>[[#Seaborg|Seaborg]], p. 60</ref>
===有機アインスタイニウム化合物===
アインスタイニウムの高い放射能は[[放射線療法]]での潜在的な用途があり、有機金属錯体はアインスタイニウム原子を体内の適切な臓器に届けるために合成されている。[[クエン酸]]アインスタイニウム(およびフェルミウム化合物)を犬に注射する実験が行われている<ref name=h1579/>。アインスタイニウム(III)もベータジケトン[[キレート]]錯体に組み込まれたが、これはランタノイドと類似の錯体が以前有機金属化合物の中で最も強いUV励起発光を示したためである。アインスタイニウム錯体を調製するとき、Es<sup>3+</sup>イオンはGd<sup>3+</sup>イオンで1000倍に希釈され、これにより測定に必要な20分間に化合物が崩壊しないように放射線による損傷を減らすことができた。結果生じたEs<sup>3+</sup>からの発光は非常に弱く、検出することができなかった。このことはキレートマトリックスからEs<sup>3+</sup>イオンへの効率的なエネルギー移動を妨げる化合物の個々の構成要素の好ましくない相対エネルギーにより説明された。他のアクチノイドのアメリシウム、バークリウム、およびフェルミウムについても同様の結論が出された<ref>{{cite journal|last1=Nugent|first1=Leonard J.|last2=Burnett|first2=J. L.|last3=Baybarz|first3=R. D.|last4=Werner|first4=George Knoll|last5=Tanner|first5=S. P.|last6=Tarrant|first6=J. R.|last7=Keller|first7=O. L.|title=Intramolecular energy transfer and sensitized luminescence in actinide(III) .beta.-diketone chelates|journal=The Journal of Physical Chemistry|volume=73|pages=1540–1549|date=1969|doi=10.1021/j100725a060|issue=5}}</ref>。
しかし、Es<sup>3+</sup>イオンの発光は無機塩酸溶液やジ(2-エチルヘキシル)オルトリン酸を含む有機溶液で観察された。これは約1064nm(約100nmの半値幅)に広いピークを示し、緑色光(波長約495nm)により共鳴的に励起される。発光の寿命は数マイクロ秒で量子収率は0.1%未満である。ランタノイドと比較してEs<sup>3+</sup>の非放射減衰率は比較的高く、f電子と内部Es<sup>3+</sup>電子の相互作用が強いことに関連していた<ref>{{cite journal|last1=Beitz|first1=J.|last2=Wester|first2=D.|last3=Williams|first3=C.|title=5f state interaction with inner coordination sphere ligands: Es<sup>3+</sup> ion fluorescence in aqueous and organic phases|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=93|pages=331–338|date=1983|doi=10.1016/0022-5088(83)90178-9|issue=2}}</ref>。
==用途==
アインスタイニウムより上の[[超ウラン元素]]や[[超アクチノイド元素]]の生成を目的とした基礎科学研究以外では、アインスタイニウムの同位体はほとんど使用されていない<ref>[http://education.jlab.org/itselemental/ele099.html It's Elemental – The Element Einsteinium]. Retrieved 2 December 2007.</ref>。
1955年、[[メンデレビウム]]はバークレー研究所の60インチサイクロトロンで<sup>253</sup>Esの約10<sup>9</sup>個の原子からなるターゲットを照射することで合成された。結果生じる<sup>253</sup>Es(α,n)<sup>256</sup>Md反応により原子番号101の新たな元素の原子が17個生成された<ref name=discovery>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRev.98.1518|url=https://books.google.com/books?id=e53sNAOXrdMC&pg=PA101|isbn=978-981-02-1440-1|title=New Element Mendelevium, Atomic Number 101|date=1955|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Harvey|first2=B.|last3=Choppin|first3=G.|last4=Thompson|first4=S.|last5=Seaborg|first5=G.|journal=Physical Review|volume=98|pages=1518–1519|issue=5|bibcode = 1955PhRv...98.1518G }}</ref>。
希少な同位体[[アインスタイニウム254]]は質量が大きく、半減期が270日と比較的長く、数マイクログラムと多くの量を手に入れられることから[[超重元素]]を生成するのに好まれている<ref>{{cite journal|last1=Schadel|first1=M.|last2=Bruchle|first2=W.|last3=Brugger|first3=M.|last4=Gaggeler |first4=H.|last5=Moody|first5=K.|last6=Schardt|first6=D.|last7=Summerer|first7=K.|last8=Hulet|first8=E.|last9=Dougan|first9=A.|first10=R. |last10=Dougan|first11=J. |last11=Landrum|first12=R. |last12=Lougheed|first13=J. |last13=Wild|first14=G. |last14=O'Kelley|first15=R. |last15=Hahn
|title=Heavy isotope production by multinucleon transfer reactions with <sup>254</sup>Es|journal=Journal of the Less Common Metals|volume=122|pages=411–417|date=1986|doi=10.1016/0022-5088(86)90435-2|url=https://zenodo.org/record/1253958}}</ref>。アインスタイニウム254は1985年にカリフォルニア州バークレーにあるsuperHILAC[[線形加速器]]で行われた[[カルシウム48]]イオンを衝突させることにより[[ウンウンエンニウム]](元素119)の合成する試みのターゲットとして使用された。原子は確認されず、この反応の断面積の上限は300[[バーン (単位)|ナノバーン]]に設定された<ref>{{cite journal|title=Search for superheavy elements using <sup>48</sup>Ca + <sup>254</sup>Es<sup>g</sup> reaction|author=Lougheed, R. W.|author2=Landrum, J. H.|author3=Hulet, E. K.|author4=Wild, J. F.|author5=Dougan, R. J.|author6=Dougan, A. D.|author7=Gäggeler, H.|author8=Schädel, M.|author9=Moody, K. J.|author10=Gregorich, K. E.|author11=Seaborg, G. T.|last-author-amp=yes|journal=Physical Review C|date=1985|pages=1760–1763|doi=10.1103/PhysRevC.32.1760|pmid=9953034|volume=32|issue=5|bibcode = 1985PhRvC..32.1760L }}</ref>。
:<chem>{^{254}_{99}Es} + {^{48}_{20}Ca} -> {^{302}_{119}Uue^\ast} -> no\ atoms</chem>
アインスタイニウム254は月探査機[[サーベイヤー5号]]の化学分析分光計(「アルファ散乱表面分析器」)の較正マーカーとして使用された。この同位体の大きな質量により、マーカーからの信号と月面で調査された軽い元素の間のスペクトルの重なりが減少した<ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.158.3801.635|title=Chemical Analysis of the Moon at the Surveyor V Landing Site|date=1967|last1=Turkevich|first1=A. L.|last2=Franzgrote|first2=E. J.|last3=Patterson|first3=J. H.|journal=Science|volume=158|issue=3801|pages=635–637|pmid=17732956|bibcode = 1967Sci...158..635T }}</ref>。
==安全性==
入手できるアインスタイニウムの毒性データのほとんどは動物の研究に基づいている。ラットが摂取すると血流にとどまるのは約0.01%だけである。血流から約65%は骨に行き、およそ50年間そこに残る。25%は肺に行き(生物学的半減期は約20年であるがこれはアインスタイニウムの同位体の短い半減期とは無関係である)、0.035%が睾丸にまたは0.01%が卵巣に行きアインスタイニウムがずっと留まる。摂取量の約10%は排泄される。骨表面におけるアインスタイニウムの分布は均一であり、プルトニウムの分布と同様である<ref>{{cite book|author=International Commission on Radiological Protection|title=Limits for intakes of radionuclides by workers, Part 4|issue=4|volume=19|url=https://books.google.com/books?id=WTxcCV4w0VEC&pg=PA18|isbn=978-0-08-036886-3|publisher=Elsevier Health Sciences|date=1988|pages=18–19}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}
==関連文献==
* {{cite book|ref=Greenwood|author=Greenwood, Norman N.|author2=Earnshaw, Alan |date=1997|title=Chemistry of the Elements |edition=2nd |publisher=Butterworth–Heinemann|isbn=978-0080379418}}
* {{cite book|first = Richard G.|last = Haire|ref = Haire|contribution = Einsteinium|title = The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements|editor1-first = Lester R.|editor1-last = Morss|editor2-first = Norman M.|editor2-last = Edelstein|editor3-first = Jean|editor3-last = Fuger|edition = 3rd|date = 2006|volume = 3|publisher = Springer|location = Dordrecht, the Netherlands|pages = 1577–1620|url = http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/einsteinium.pdf|doi = 10.1007/1-4020-3598-5_12|url-status = dead|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100717154427/http://radchem.nevada.edu/classes/rdch710/files/einsteinium.pdf|archivedate = 2010-07-17|isbn = 978-1-4020-3555-5}}
* {{cite book|ref=Holleman|author=Holleman, Arnold F.|author2=Wiberg, Nils|last-author-amp=yes |title=Textbook of Inorganic Chemistry|edition=102nd |publisher=de Gruyter|place= Berlin |date=2007|isbn=978-3-11-017770-1}}
*{{cite book|ref=Seaborg|editor= Seaborg, G.T. |url=http://www.escholarship.org/uc/item/92g2p7cd.pdf |title=Proceedings of the Symposium Commemorating the 25th Anniversary of Elements 99 and 100|date=23 January 1978|publisher=Report LBL-7701}}
==外部リンク==
{{Commons|Einsteinium}}
{{wiktionary|einsteinium}}
* [http://www.periodicvideos.com/videos/099.htm Einsteinium] at ''[[The Periodic Table of Videos]]'' (University of Nottingham)
* [https://books.google.com/books?id=cgqNoNWLGBMC&pg=PA311 Age-related factors in radionuclide metabolism and dosimetry: Proceedings] – contains several health related studies of einsteinium
{{Commons|Einsteinium}}
{{元素周期表}}
{{アルベルト・アインシュタイン}}
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[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
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ホール
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ホール
英語での発音は「ホォール」[hɔ'ːl]。
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ホール
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{{wiktionary|ホール}}
'''ホール'''
== Hall ==
[[ファイル:Asuka Hall Taishi Hyogo09s4272.jpg|thumb|[[舞台]]と[[観客席|客席]]がある[[多目的ホール]]([[あすかホール]]、[[兵庫県]][[太子町 (兵庫県)|太子町]])]]
英語での発音は「'''ホォール'''」[hɔ'ːl]。
* {{anchors|建造物|建築物}}[[施設]]や広間などを意味する、[[建築物|建造物]]における用法。
: 例:[[劇場]]、[[多目的ホール]]、[[コンサートホール]]、[[ダンスホール]]、宴会場、[[玄関]]ホールなど。
* 一部の業種([[飲食店|飲食業]]など)において、客席が並んでいる空間をホールと呼び、そこで接客する従業員([[ウェイター|ウェイター、ウェイトレス]])の事を'''ホール・スタッフ'''と称する場合もある。
* [[ホール諸島]] - [[ミクロネシア連邦]]にある[[島嶼]]。
* [[グレート・ウェスタン鉄道4900形蒸気機関車]] - [[イギリス]]の[[グレート・ウェスタン鉄道]]が製造した[[蒸気機関車]]の1形式。各車の固有名から、'''ホール級'''と称される場合がある。
: この形式の5972号機は、映画『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』にて[[ホグワーツ特急]]の牽引機として使用された。
=== 英語圏の姓 ===
* [[アーブ・ホール]] ('''Irv''') - [[アメリカ合衆国]]の元[[プロ野球選手]]。{{mlby|1943|d=y}}から{{mlby|1946|d=y}}まで[[メジャーリーグベースボール]](MLB)でプレイした。
* [[アーマン・ホール]] ('''Arman''') - アメリカ合衆国の[[陸上競技]]選手。
* [[アサフ・ホール]] ('''Asaph''') - アメリカ合衆国の[[天文学者]]。[[火星]]の[[衛星]]を発見した。
* [[アル・ホール (野球)]] ('''Al''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1879|d=y}}から{{mlby|1880|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[アルバート・ホール]] ('''Albert''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1981|d=y}}から{{mlby|1989|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[エドウィン・ホール]] ('''Edwin''') - アメリカ合衆国の[[物理学者]]。[[ホール効果]] (同氏に由来する名称) を発見した。
* [[エドワード・ホール (演出家)]]('''Edward''') - イギリスの[[演出家]]。
* [[エドワード・T・ホール]] ('''Edward''') - アメリカ合衆国の[[文化人類学|文化人類学者]]。[[対人距離]]を定義付けた。
* [[ガス・ホール]] ('''Gus''') - アメリカ合衆国の政治活動家。[[アメリカ共産党]]の[[書記長]]を務めた。
* [[シドニー・ホール (地図製作者)]] ('''Sidney''') - イギリスの[[地図学|地図製作者]]。
* [[ジミー・ホール]] ('''Jimmie''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1963|d=y}}から{{mlby|1970|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ジム・ホール (曖昧さ回避)|ジム・ホール]] ('''Jim''')
# [[ジム・ホール]] - アメリカ合衆国の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[ギタリスト]]。
# [[ジム・ホール (レーサー)]] - アメリカ合衆国の[[技術者|エンジニア]]、レーサー。
# [[ジム・ホール (野球)]] - 生誕地不詳の元プロ野球選手。{{mlby|1872|d=y}}から{{mlby|1875|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ジョー・ホール (曖昧さ回避)|ジョー・ホール]] ('''Joe''')
# [[ジョー・ホール]] - イングランドの元[[アイスホッケー]]選手。
# [[ジョー・ホール (野球)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1994|d=y}}から{{mlby|1997|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ジョージ・ホール (野球)]] ('''George''') - イギリス出身、アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1871|d=y}}から{{mlby|1877|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ジョシュ・ホール]] ('''Josh''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|2003|d=y}}にMLBでプレイした。
* [[ジョン・ホール]] ('''John'''、ないし'''Jon''')
# [[ジョン・ホール (1817年生の政治家)]] - アメリカ合衆国の[[政治家]]であり、[[デラウェア州]]の[[デラウェア州知事の一覧|州知事]]を務めた。
# [[ジョン・ホール (1899年生の政治家)]] - アメリカ合衆国の政治家であり、[[オレゴン州]]の[[オレゴン州知事の一覧|州知事]]を務めた。
# [[ジョン・ホール (1948年生の政治家)]] - アメリカ合衆国の政治家、ミュージシャン。
# [[ジョン・ホール (ニュージーランドの政治家)]] - [[ニュージーランド]]の政治家であり、同国の[[首相]] ([[1879年]] - [[1882年]]) を務めた。
# [[ジョン・ホール (司祭)]] - イギリスの[[司祭]] ([[ウェストミンスター寺院]]の首席司祭) 。
# [[ジョン・ホール (俳優)]] - アメリカ合衆国の[[俳優]]。
# [[ジョン・ホール (野球)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1948|d=y}}にMLBでプレイした。
# [[ジョン・ホール (物理学者)]] - アメリカ合衆国の物理学者。[[ノーベル物理学賞]]の受賞者である。
# [[ジョン・ホール (発明家)]] - アメリカ合衆国の[[発明家]]。
# [[ジョン・ホール (1915年生の俳優)]] - アメリカ合衆国の俳優。
# [[ジョン・ホール (プログラマ)]] - アメリカ合衆国の[[プログラマー]]、[[オープンソース]]運動家。
* [[スタンレー・ホール]] ('''Stanley''') - アメリカ合衆国の[[心理学者]]。
* [[ダリル・ホール&ジョン・オーツ #メンバー|ダリル・ホール]] ('''Daryl''') - アメリカ合衆国の[[歌手]]。ジョン・オーツとの[[二人組|デュオ]]で活躍。
* [[ダレン・ホール]] ('''Darren''')
# {{仮リンク|ダレン・ホール (野球)|en|Darren Hall (baseball)}} - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1994|d=y}}から{{mlby|1998|d=y}}までMLBでプレイした。
# {{仮リンク|ダレン・ホール (バドミントン)|en|Darren Hall (badminton)}} - [[イギリス]]の元[[バドミントン]]選手。
# [[ダレン・ホール (ミュージシャン)]] - アメリカの歌手[[ダリル・ホール&ジョン・オーツ #メンバー|ダリル・ホール]]と[[ロシア系アメリカ人|ロシア系人]]女性との間の息子。本名はDarren Hohl。
# [[ダレン・オースティン・ホール]] - アメリカのミュージシャン。
* [[チャーリー・ホール]] ('''Charley'''、ないし'''Charlie''')
# [[チャーリー・ホール (投手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1906|d=y}}から{{mlby|1918|d=y}}までMLBでプレイした。
# [[チャーリー・ホール (外野手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1887|d=y}}にMLBでプレイした。
* [[チャールズ・マーティン・ホール]] ('''Charles Martin''') - アメリカ合衆国の発明家。[[ホール・エルー法]]の発明者の1人。
* [[チャールズ・フランシス・ホール]] ('''Charles Francis''') - アメリカ合衆国の[[探検家]]。
* [[ディック・ホール]] ('''Dick''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1952|d=y}}から{{mlby|1971|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[トビー・ホール]] ('''Toby''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|2000|d=y}}から{{mlby|2008|d=y}}までMLBでプレイした。
* トム・ホール ('''Tom''')
# [[トム・ホール]] - アメリカ合衆国の[[ゲームデザイン|ゲームデザイナー]]。
# [[トム・ホール (野球)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1968|d=y}}から{{mlby|1977|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ドルー・ホール]] ('''Drew''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1986|d=y}}から{{mlby|1990|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ネイサン・ケルシー・ホール]] ('''Nathan Kelsey''') - アメリカ合衆国の政治家。[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]を務めた。
* [[バート・ホール]] ('''Bert''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1911|d=y}}にMLBでプレイした。
* [[ハーブ・ホール]] ('''Herb''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1918|d=y}}にMLBでプレイした。
* [[パトリシア・ホール]] ('''Patricia''') - [[ジャマイカ]]の陸上競技選手。
* [[ハリー・ホール]] ('''Harry''') - イギリスの画家、イラストレーター。
* [[ビル・ホール (曖昧さ回避)|ビル・ホール]] ('''Bill''')
# [[ビル・ホール (投手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1913|d=y}}にMLBでプレイした。
# [[ビル・ホール (捕手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1954|d=y}}から{{mlby|1958|d=y}}までMLBでプレイした。
# [[ビル・ホール|ビル・ホール (内野手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|2002|d=y}}から{{mlby|2012|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[フレデリク・ホール]] - イギリスの画家。
* [[ボブ・ホール]] ('''Bob''')
# [[ボブ・ホール (外野手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1904|d=y}}から{{mlby|1905|d=y}}までMLBでプレイした。
# [[ボブ・ホール (投手)]] - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1949|d=y}}から{{mlby|1953|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[マーク・ホール]] ('''Marc''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1910|d=y}}から{{mlby|1914|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[メル・ホール]] ('''Mel''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1981|d=y}}から{{mlby|1996|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ラス・ホール]] ('''Russ''') - アメリカ合衆国の元プロ野球選手。{{mlby|1898|d=y}}から{{mlby|1901|d=y}}までMLBでプレイした。
* [[ロバート・ホール]] ('''Robert''')
# [[ロバート・ホール (経済学者)]] - アメリカ合衆国の[[スタンフォード大学]]の[[教授]]。
# [[ロバート・ホール (サッカー選手)]] - [[イングランド]]のプロ[[サッカー]]選手。
== Hole ==
[[File:Hole in wood.jpg|thumb|right|枯れ[[木]]に開いた穴]]
英語での発音は「ホウル」[houl]。
* [[日本語]]で[[穴]]、孔を意味する。
* [[コース (ゴルフ)|ゴルフコース]]の別称、またはそれを数える[[助数詞]]。
* [[ホール (バンド)]] - アメリカ合衆国の[[バンド (音楽) #ロックバンド|ロックバンド]]。
* [[正孔|ホール (正孔)]] - [[価電子帯]]の[[電子]]が不足した状態を示す[[物性物理学]]の[[専門用語]]。
* [[コンピュータ]][[ソフトウェア]]の欠陥を意味する語「[[セキュリティホール]]」。
* ホール - [[ポルノグラフィティ]]のシングル『[[あなたがここにいたら]]』の収録曲。
== Khor ==
* [[ホール川]] - [[ロシア]]の[[ハバロフスク地方]]を流れる[[ウスリー川]]の支流。
* [[ホール町]] (ロシア語:[[:ru:Хор (Хабаровский край)|Хор]]) - ホール川沿いにある[[都市型集落]]。
* [[アル・ホール]] - [[カタール]]の[[都市]]。
== Whole ==
[[File:Birthday cake.jpg|thumb|切られていないホール[[ケーキ]]の一例([[誕生日ケーキ]])]]
英語での発音は「ホウル」[hóul]。
* {{anchors|全形}}[[食材]]や[[ケーキ]]等が、全形(切らずに丸ごと)である状態。切られた個々は「ピース (piece)や(cut)と呼ばれる」(ケーキなら全形は「ホールケーキ」、切られたものは「ピースケーキ」、[[トマト]]なら全形は「ホールトマト」、切られたものは「カットトマト」である)。
* [[小売]]と対する販売方法で「Wholesale」([[ホールセール]])がある(小売は商品を切り分けられるが、ホールセールは切り分けずに大きいまま販売される)。
==関連項目==
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[[Category:英語の語句]]
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海浜幕張駅
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海浜幕張駅(かいひんまくはりえき)は、千葉県千葉市美浜区ひび野二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線の駅である。西船橋駅から武蔵野線に乗り入れる列車も停車する。駅番号はJE 14。
幕張新都心の玄関口となる駅であり、駅周辺には多くのオフィスビル・ホテル・ショッピングセンターが建ち並ぶ。駅南側には幕張メッセやプロ野球千葉ロッテマリーンズの本拠地であるZOZOマリンスタジアムといった施設が立地し、イベントや野球試合が開催される日は多くの人でにぎわう。2005年のプロ野球開幕日から、地元の要望により列車の発車を告げる音楽(発車メロディ)にも千葉ロッテマリーンズの球団歌「We Love Marines」のサビ部分が採用されている。
武蔵野線から直通する列車(「しもうさ号」を含む)の千葉県側の終点駅となっている。このため、武蔵野線直通列車と京葉線内の列車の両方が利用可能である。ただし、朝夕通勤時間帯以外の早朝・日中・深夜などは当駅までの直通列車を設定していないため、南船橋駅もしくは市川塩浜駅での乗り換えとなる。2002年12月1日のダイヤ改正以前は日中にも直通列車が設定されていたが、京葉快速の南船橋駅への停車に伴い廃止された。
京葉線東京駅 - 当駅間の区間列車も多数設定されている。特に土曜・休日の日中の各駅停車は全列車が東京駅 - 当駅間の運転である。
京葉線快速の蘇我行きおよび内房線君津行き・東金線成東行き(土休日のみ)、日中の外房線上総一ノ宮行きは、当駅から先は各駅に停車するが、「各駅停車」とは案内されず、「快速」のまま案内される。
京葉線の途中駅では唯一特急「わかしお」が停車(特急「さざなみ」が運転される時間帯には、当駅に特急停車の設定がないため全列車が通過)し、東京発16時までの下り列車および当駅発11時以降の上り列車すべてが停車する。また、幕張メッセで開催されていた「東京モーターショー」・「Interop Tokyo」・「CEATEC JAPAN」などの大型イベント開催時に当駅始発東京駅直行の「さざなみ」が運行されたことがあった(2009年の「CEATEC JAPAN」向け列車までは「わかしお」として運転された)。
JR東日本が進める「エコステ」のモデル駅として2013年9月13日に駅リニューアルが竣工した。その際、4番線ホームのさらに南にあるスペースに太陽光パネルや風力発電機が設置されている。中央本線の四ツ谷駅・東北本線の平泉駅に続いて3番目の「エコステ」である。
京葉線が東京駅まで全通した当時は快速通過駅であったが、その後の幕張新都心の整備により駅周辺が発展し、現在では京葉線内の途中駅で唯一の特急停車駅となった。
島式ホーム2面4線を有する高架駅で、高架下に駅舎がある。
千葉ステーションビルが駅業務を受託している新浦安営業統括センター(新浦安駅)管理の業務委託駅。話せる指定席券売機・自動券売機・自動改札機・自動精算機が設置されている。
2013年(平成25年)9月13日にJR東日本で3番目の「エコステ」としてリニューアルし、同時に高架下にペリエ海浜幕張がグランドオープンした。LED照明・高効率空調・節水トイレ・壁面緑化・地熱利用換気システム・太陽光採光システム・Low-E複層ガラス・遮光フィルムなどを採用し、上りホーム南側軌道脇には太陽光発電パネル、南側正面防風壁には風力発電機を設置している。延べ床面積は約4,540平方メートルで、うち店舗が約2,240平方メートルである。
線路の構造上、複雑な方向・案内になっている。開業後しばらくは2・3番線に線路が敷設されていなかったが、1995年12月1日のダイヤ改正直前に敷設された。外側の1・4番線が本線、内側の2・3番線が副本線で、緩急接続や通勤快速の通過待ち・折り返しに使用される。
(出典:JR東日本:駅構内図)
千葉ステーションビルにより、改札内に5店舗と改札外に22店舗の商業施設「ペリエ海浜幕張」が営業されている。詳細は公式サイト「ペリエ海浜幕張」を参照。また駅南口を出て蘇我寄りに第2幕張海浜保育園という保育施設がある。また南口高架下にはコインロッカーがある。2012年8月31日までは飲食店モール「Dila海浜幕張」が営業していた。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は52,058人である。
京葉線内の中間駅では、新木場駅に次いで第3位、千葉市内では千葉駅に次いで第2位である(JR東日本全体では平塚駅に次いで第75位)。また、単独路線の駅、他社線への乗り換えがない駅としては県内1位である(舞浜駅とリゾートゲートウェイ・ステーション駅を別駅とみなすと2位)。利用者は年々増加しており、2007年度には5万人を超え、2011年度には新浦安駅を上回った。
開業以降の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
当駅は幕張新都心の玄関口であり、北西側と南西側にはイオン本社ビル(イオンタワー)をはじめとしたオフィスビルや商業施設・宿泊施設などが立地する。駅周辺は路上喫煙禁止区域となっている。
バスターミナルが北口側にあり、当駅近辺の施設を目的地とする多くの路線バスが運行される。とりわけ、総武線および京成千葉線の幕張本郷駅を結ぶ路線は運行本数・利用者数ともに非常に多くなっている。そのため、連節バス「シーガル幕張」を一部系統で運行している。この他、茨城県潮来市・神栖市・鹿嶋市、羽田空港、成田空港、中部・関西方面への高速バスも運行される。京成バス・千葉海浜交通・平和交通・千葉シーサイドバスなどが乗り入れている。
ZOZOマリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズの試合が開催される日に運行されるマリンスタジアム直行バスは、南口にある商業施設「プレナ幕張」にある、マリーンズのオフィシャルグッズショップ「マリーンズストア 海浜幕張駅前店」前の臨時バス停から発車する。
「海浜幕張駅」停留所にて、以下の路線バスが発着する。
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海浜幕張駅(かいひんまくはりえき)は、千葉県千葉市美浜区ひび野二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線の駅である。西船橋駅から武蔵野線に乗り入れる列車も停車する。駅番号はJE 14。
|
{{駅情報
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|駅名 = 海浜幕張駅
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* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref group="報道" name="pr20201119"/><ref name="outsourcing"/>
* [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="closed"/><ref name="outsourcing"/>}}
}}
[[ファイル:Kaihin-Makuhari Station North 20190305.jpg|thumb|北口(2019年3月)]]
'''海浜幕張駅'''(かいひんまくはりえき)は、[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]ひび野二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[京葉線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[西船橋駅]]から[[武蔵野線]]に乗り入れる列車も停車する。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JE 14'''。
== 概要 ==
[[幕張新都心]]の玄関口となる駅であり、駅周辺には多くの[[オフィスビル]]・[[ホテル]]・[[ショッピングセンター]]が建ち並ぶ。駅南側には[[幕張メッセ]]やプロ野球[[千葉ロッテマリーンズ]]の本拠地である[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]といった施設が立地し、イベントや野球試合が開催される日は多くの人でにぎわう。[[2005年]]のプロ野球開幕日から、地元の要望により列車の発車を告げる音楽([[発車メロディ]])にも千葉ロッテマリーンズの球団歌「[[We Love Marines]]」の[[サビ]]部分が採用されている。
[[武蔵野線]]から直通する列車(「[[しもうさ号]]」を含む)の千葉県側の終点駅となっている。このため、武蔵野線直通列車と京葉線内の列車の両方が利用可能である。ただし、朝夕[[ラッシュ時|通勤時間帯]]以外の早朝・日中・深夜などは当駅までの直通列車を設定していないため、[[南船橋駅]]もしくは[[市川塩浜駅]]での乗り換えとなる。2002年12月1日のダイヤ改正以前は日中にも直通列車が設定されていたが、京葉快速の南船橋駅への停車に伴い廃止された。
京葉線東京駅 - 当駅間の区間列車も多数設定されている。特に土曜・休日の日中の各駅停車は全列車が東京駅 - 当駅間の運転である。
京葉線快速の蘇我行きおよび内房線君津行き・東金線成東行き(土休日のみ)、日中の外房線上総一ノ宮行きは、当駅から先は各駅に停車するが、「各駅停車」とは案内されず、「快速」のまま案内される。
京葉線の途中駅では唯一[[特別急行列車|特急]]「[[わかしお (列車)|わかしお]]」が停車(特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」が運転される時間帯には、当駅に特急停車の設定がないため全列車が通過)し、東京発16時までの下り列車および当駅発11時以降の上り列車すべてが停車する。また、幕張メッセで開催されていた「[[東京モーターショー]]」・「[[Interop Tokyo]]」・「[[CEATEC JAPAN]]」などの大型イベント開催時に当駅始発東京駅直行の「さざなみ」が運行されたことがあった(2009年の「CEATEC JAPAN」向け列車までは「わかしお」として運転された)。
JR東日本が進める「エコステ」のモデル駅として2013年9月13日に駅リニューアルが竣工した。その際、4番線ホームのさらに南にあるスペースに[[ソーラーパネル|太陽光パネル]]や[[風力原動機#風力発電機|風力発電機]]が設置されている。[[中央本線]]の[[四ツ谷駅]]・[[東北本線]]の[[平泉駅]]に続いて3番目の「エコステ」である。
== 歴史 ==
京葉線が東京駅まで全通した当時は快速通過駅であったが、その後の幕張新都心の整備により駅周辺が発展し、現在では京葉線内の途中駅で唯一の特急停車駅となった。
=== 年表 ===
* [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月3日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)の駅として開業{{R|交通86|group="新聞"}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月16日]]:ダイヤ改正により快速停車駅となる<ref name="RJ720_66">{{Cite journal|和書|author=末次清|title=京葉線車両ダイジェスト|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=66|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[12月1日]]:2・3番線を新設<ref name="RJ720_66" />。
* [[1997年]](平成9年)[[3月19日]]:[[びゅうプラザ]]が開業<ref group="新聞">{{Cite news |title=海浜幕張駅にびゅうプラザ JR千葉支社来月19日開店 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-02-28 |page=3 }}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[12月2日]]:ダイヤ改正により一部の特急「わかしお」・「さざなみ」停車駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2000_1/20000906/zairai_02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191219015345/https://www.jreast.co.jp/press/2000_1/20000906/zairai_02.html|language=日本語|title=2000年12月 ダイヤ改正について > II.在来線|publisher=東日本旅客鉄道|date=2000-09-22|accessdate=2020-06-22|archivedate=2019-12-19}}</ref>。武蔵野線の列車の乗り入れを開始<ref name="RJ720_61">{{Cite journal|和書|author=中村大介|title=武蔵野線の旅客車両略史|journal=鉄道ピクトリアル|date=2002-08-01|volume=52|issue=第8号(通巻720号)|page=61|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。折り返し設備の使用を開始<ref name="RJ720_66" />。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-28|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[3月26日]]:[[発車メロディ]]を導入。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月1日]]:ペリエ海浜幕張6店舗先行オープン<ref group="報道" name="pr20130215">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20130215kaimaku.pdf|title=2013年3月1日(金)海浜幕張駅にエキナカ商業施設が開業します。 ~My Better Life Station~ 毎日のライフシーンに、潤い、やすらぎと良質&上質なスタイルを提供する、6ショップが誕生します。|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2013-02-15|accessdate=2020-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519031830/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20130215kaimaku.pdf|archivedate=2020-05-19}}</ref><ref group="報道" name="pr20130627"/>。
** [[9月13日]]:駅リニューアル完了<ref group="報道" name="pr20130627"/>。ペリエ海浜幕張グランドオープン<ref group="報道" name="pr20130627">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20130627kaimaku.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200720223821/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/20130627kaimaku.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2013年9月13日(金)海浜幕張駅に「エコステ」モデル駅、および「ペリエ海浜幕張」がグランドオープンします。|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社/千葉ステーションビル|date=2013-06-27|accessdate=2020-07-20|archivedate=2020-07-20}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="closed">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=413|title=駅の情報(海浜幕張駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2020-10-23|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017092915/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=413|archivedate=2020-10-17}}</ref><ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613143456/http://www.jreu-chiba.jp/library/5ae7dc3ada3b1e50464226fd/5ee35c9764a22fe00e9f1e5d.pdf|title=営業施策について提案を受ける!|archivedate=2020-06-13|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-13|publisher=JR東労組千葉地方本部|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
** [[11月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="closed"/><ref name="outsourcing"/>。
** [[11月27日]]:JR東日本の改札内に駅ナカシェアオフィス「STATION BOOTH」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|title=両国駅3番線にて「N'EX でテレワーク!」を実施します! ~臨時ホームと鉄道車両を活用したシェアオフィス実証実験~|format=PDF|page=3|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|date=2020-11-18|accessdate=2020-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201118065844/https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre2011_nextere.pdf|archivedate=2020-11-18}}</ref>。
** [[12月1日]]:業務委託化<ref group="報道" name="pr20201119">{{Cite press release|和書|title=「ペリエ」を運営する千葉ステーションビルが駅運営を受託 ペリエステーションから始まる新たな京葉沿線のくらしづくり|publisher=千葉ステーションビル|date=2020-11-19|url=https://www.perie.co.jp/files/upload/1605749465021886400.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201119221032/https://www.perie.co.jp/files/upload/1605749465021886400.pdf|archivedate=2020-11-19}}</ref><ref group="新聞" name="news20201203">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/745154|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210307160243/https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/745154|title=「ペリエ」の知見で駅運営 京葉線3駅 コロナで客減、魅力向上へ|newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社|date=2020-12-03|accessdate=2021-03-07|archivedate=2021-03-07}}</ref><ref name="outsourcing"/>。
* [[2025年]](令和7年)春:[[蘇我駅]]方面に改札口を新設予定<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/chiba/20230418_c01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230418051307/https://www.jreast.co.jp/press/2023/chiba/20230418_c01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京葉線海浜幕張駅新改札口(仮称)の工事に着手します|publisher=千葉市/東日本旅客鉄道千葉支社|date=2023-04-18|accessdate=2023-04-18|archivedate=2023-04-18}}</ref><ref group="報道" name="pr20210127">{{Cite press release|和書|url=https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/hodo/documents/210127-2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127140755/https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/hodo/documents/210127-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「京葉線海浜幕張駅における新改札口設置に関する基本協定書」を締結しました|publisher=千葉市都市局都市部交通政策課|date=2021-01-27|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-27}}</ref><ref group="新聞" name="news20210128">{{Cite news|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/759722|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128110147/https://www.chibanippo.co.jp/news/local/759722|title=海浜幕張駅に新改札口 千葉市、JR東など 費用分割で協定|newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社|date=2021-01-28|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-28}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Kaihin-Makuhari Sta.-wind turbines 20131201.jpg|thumb|「エコステ」モデル駅として設置された発電用風車]]
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]で、高架下に駅舎がある。
[[千葉ステーションビル]]が駅業務を受託している新浦安営業統括センター([[新浦安駅]])管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref group="報道" name="pr20201119"/><ref group="新聞" name="news20201203" /><ref name="outsourcing"/>。[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="closed"/><ref name="outsourcing"/>・[[自動券売機]]・[[自動改札機]]・[[自動精算機]]が設置されている。
[[2013年]](平成25年)[[9月13日]]にJR東日本で3番目の「エコステ」として[[リニューアル]]し、同時に高架下にペリエ海浜幕張が[[グランドオープン]]した。[[発光ダイオード|LED]]照明・高効率空調・節水トイレ・壁面緑化・地熱利用換気システム・太陽光採光システム・Low-E複層ガラス・遮光フィルムなどを採用し、上りホーム南側軌道脇には太陽光発電パネル、南側正面防風壁には風力発電機を設置している<ref group="報道" name="pr20130627"/>。延べ床面積は約4,540[[平方メートル]]で<ref group="報道" name="pr20130627"/>、うち店舗が約2,240平方メートルである<ref group="報道" name="pr20130215"/>。
線路の構造上、複雑な方向・案内になっている。開業後しばらくは2・3番線に[[線路 (鉄道)|線路]]が敷設されていなかったが、1995年12月1日のダイヤ改正直前に敷設された<ref name="RJ720_66" />。外側の1・4番線が本線、内側の2・3番線が副本線で、[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]や[[快速列車|通勤快速]]の通過待ち・折り返しに使用される。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
| rowspan="3" |[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
| rowspan="2" style="text-align:center" |下り
| rowspan="2" |[[千葉みなと駅|千葉みなと]]・[[蘇我駅|蘇我]]方面
|
|-
! rowspan="3" |2
|一部列車のみ
|-
|上り
|[[南船橋駅|南船橋]]・[[舞浜駅|舞浜]]・[[新木場駅|新木場]]・[[東京駅|東京]]方面
|主に当駅始発などに使用
|-
| rowspan="2" |[[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線
| rowspan="2" |上り
| rowspan="2" |[[西船橋駅|西船橋]]・[[新松戸駅|新松戸]]・[[府中本町駅|府中本町]]方面
|朝ラッシュ時間帯に使用
|-
! rowspan="2" |3
|夕ラッシュ時間帯に使用
|-
| rowspan="2" |[[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
| rowspan="2" style="text-align:center" | 上り
| rowspan="2" |[[南船橋駅|南船橋]]・[[舞浜駅|舞浜]]・[[新木場駅|新木場]]・[[東京駅|東京]]方面
|主に当駅始発などに使用
|-
!4
|
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/413.html JR東日本:駅構内図])
* 1・4番線の西側には地上に向かう線路の路盤が準備されており、4番線の南側にはこの線路に繋がる通過線のスペースも用意されている(1番線は駅の西側で線路が合流する設計になっている)。但し、駅構内の通過線に関しては太陽電池パネルの設置に活用され、線路の敷設は不可能になった。
* 2018年2月6日よりATOS案内が更新され、接近放送の英語放送追加や文面変更(「黄色い線まで」→「黄色い点字ブロックまで」)など、新形式での案内が他駅より先駆けて導入された。
<!--「備考」ではなくて当駅始発列車のガイドとなっているので除去-->
{|class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!東京・西船橋方面着発!!蘇我方面着発!!備考
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |1|| rowspan="4" |10両分||到着可||rowspan="2"|出発可||下り主本線
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |2|| rowspan="2" |到着・出発可||副本線
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |3|| rowspan="2" |到着可||副本線
|-
| style="text-align:center" colspan="2" |4||出発可||上り主本線
|}
* 主本線を発着する場合は通過が可能。
* 上りの機関車牽引の列車については駅の直後が上り勾配のため主本線で待避する場合有。
=== 駅構内店舗 ===
[[千葉ステーションビル]]により、改札内に5店舗と改札外に22店舗の[[商業施設]]「ペリエ海浜幕張」が営業されている。詳細は公式サイト「[http://www.perie.co.jp/kaihinmakuhari/floor/index.html#kaisatsugai ペリエ海浜幕張]」を参照。また駅南口を出て蘇我寄りに第2幕張海浜保育園という保育施設がある。また南口高架下にはコインロッカーがある。2012年8月31日までは飲食店モール「[[Dila#Dila海浜幕張|Dila海浜幕張]]」が営業していた。
<gallery>
JR Keiyo-Line Kaihimmakuhari Station Gates.jpg|改札口(2019年12月)
JR Keiyo-Line Kaihimmakuhari Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2019年12月)
JR Keiyo-Line Kaihimmakuhari Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2019年12月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''52,058人'''<ref group="JR" name="passenger2022" />である。
京葉線内の中間駅では、[[新木場駅]]に次いで第3位、千葉市内では[[千葉駅]]に次いで第2位である(JR東日本全体では[[平塚駅]]に次いで第75位)。また、単独路線の駅、他社線への乗り換えがない駅としては県内1位である(舞浜駅と[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]]を別駅とみなすと2位)。利用者は年々増加しており、2007年度には5万人を超え、2011年度には新浦安駅を上回った。
=== 年度別1日平均乗車人員(1985年 - 2000年) ===
開業以降の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="chibacity">[https://www.city.chiba.jp/shisei/gyokaku/toke/toke/index.html 千葉市統計書] - 千葉市</ref><ref group="乗降データ" name="chiba">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑] - 千葉県</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|1日平均乗車人員
!rowspan="2"|出典
|-
!定期外!!定期!!合計
|-
|1985年(昭和60年)
|398||156||554
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/index.html 昭和61年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|368||379||747
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s62/index.html 昭和62年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|415||499||914
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s63/index.html 昭和63年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|691||1,152||1,843
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h1/index.html 平成元年]</ref>
|-
|<ref group="備考">1989年10月9日、幕張メッセが開館。</ref>1989年(平成元年)
|4,766||2,384||7,150
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h2/index.html 平成2年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|9,641||5,759||15,400
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h3/index.html 平成3年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|10,927||8,518||19,445
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h4/index.html 平成4年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|10,378||12,646||23,024
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h5/index.html 平成5年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|13,601||16,163||29,764
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h6/index.html 平成6年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|13,765||18,205||31,970
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h7/index.html 平成7年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|15,222||18,331||33,553
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h8/index.html 平成8年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|13,886||18,486||32,362
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h9/index.html 平成9年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|15,422||18,880||34,302
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/index.html 平成10年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|14,189||19,030||33,219
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/index.html 平成11年]</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|16,049||19,717||35,766
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html 平成12年]</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|17,141||20,915
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>38,056
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html 平成13年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="chibacity"/><ref group="乗降データ" name="chiba"/>
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|1日平均乗車人員
!rowspan="2"|出典
|-
!定期外!!定期!!合計
|-
|2001年(平成13年)
|18,370||23,360
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>41,730
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html 平成14年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|18,902||24,152
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>43,054
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html 平成15年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|18,804||24,858
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>43,662
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html 平成16年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|18,169||26,234
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>44,403
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html 平成17年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|20,574||28,239
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>48,813
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/index.html 平成18年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|19,702||29,859
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>49,561
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/index.html 平成19年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|22,213||31,153
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>53,366
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/index.html 平成20年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|21,103||31,692
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>52,795
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html 平成21年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|20,875||32,147
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>53,022
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html 平成22年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|19,628||32,769
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>52,397
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html 平成23年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|20,825||32,897
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>53,722
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html 平成24年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR" name="passenger2012"/>21,756||<ref group="JR" name="passenger2012"/>33,924
|<ref group="JR" name="passenger2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>55,681
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/index.html 平成25年]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR" name="passenger2013"/>24,132||<ref group="JR" name="passenger2013"/>35,383
|<ref group="JR" name="passenger2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>59,515
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/index.html 平成26年]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR" name="passenger2014"/>25,327||<ref group="JR" name="passenger2014"/>35,785
|<ref group="JR" name="passenger2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>61,112
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/index.html 平成27年]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR" name="passenger2015"/>27,100||<ref group="JR" name="passenger2015"/>36,125
|<ref group="JR" name="passenger2015">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>63,225
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/index.html 平成28年]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR" name="passenger2016"/>28,348||<ref group="JR" name="passenger2016"/>37,029
|<ref group="JR" name="passenger2016">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>65,377
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/index.html 平成29年]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR" name="passenger2017" />30,115||<ref group="JR" name="passenger2017" />37,457
|<ref group="JR" name="passenger2017">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>67,572
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/index.html 平成30年]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR" name="passenger2018" />30,851||<ref group="JR" name="passenger2018" />37,527
|<ref group="JR" name="passenger2018">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>68,378
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/index.html 令和元年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR" name="passenger2019" />29,956||<ref group="JR" name="passenger2019" />38,154
|<ref group="JR" name="passenger2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>68,111
|<ref group="千葉県統計">[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/index.html 令和2年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR" name="passenger2020" />11,946||<ref group="JR" name="passenger2020" />28,127
|<ref group="JR" name="passenger2020">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>40,073
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR" name="passenger2021" />16,357||<ref group="JR" name="passenger2021" />27,538
|<ref group="JR" name="passenger2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>43,896
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR" name="passenger2022" />23,405||<ref group="JR" name="passenger2022" />28,652
|<ref group="JR" name="passenger2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>52,058
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
{{See also|幕張新都心}}
当駅は幕張新都心の玄関口であり、北西側と南西側には[[イオン (企業)|イオン]]本社ビル([[イオンタワー]])をはじめとしたオフィスビルや商業施設・宿泊施設などが立地する。駅周辺は路上喫煙禁止区域となっている。
{{columns-list|2|
* [[幕張メッセ]]
* [[千葉マリンスタジアム]](ZOZOマリンスタジアム)
* [[ワールドビジネスガーデン]]
** [[ベイエフエム]]
** ワールドビジネスガーデン内[[郵便局]]
* [[幕張テクノガーデン]]
** [[ウェザーニューズ|ウェザーニューズ・グローバルセンター]]
** 幕張テクノガーデン内郵便局
* 幕張勤労市民プラザ
* [[幕張海浜公園]]
* [[日本貿易振興機構]] (JETRO) [[アジア経済研究所]]
* [[独立行政法人]][[高齢・障害・求職者雇用支援機構]]
* 独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 [[高度職業能力開発促進センター|千葉職業能力開発促進センター高度訓練センター]](高度ポリテクセンター)
* [[千葉県総合教育センター]]
* [[千葉運転免許センター]]
* [[千葉県精神科医療センター]]
* 千葉市幕張勤労市民プラザ
* [[千葉西警察署]]幕張メッセ交番
* [[千葉市消防局#消防署|美浜消防署]]打瀬出張所
* [[全国共済農業協同組合連合会]]幕張総合研修センター
* [[神田外語大学]]
* [[放送大学]]([[放送大学学園]])
** 放送大学 ICT活用・遠隔教育センター(旧:独立行政法人 [[メディア教育開発センター]](NIME))
* [[帝京平成大学]]幕張キャンパス
* [[千葉県立衛生短期大学|千葉県立保健医療大学]] 幕張キャンパス
* [[千葉県立幕張総合高等学校]]
* [[昭和学院秀英中学校・高等学校]]
* [[渋谷教育学園幕張中学校・高等学校]]
* [[住友ケミカルエンジニアリングセンタービル]]
* [[城西国際大学#キャンパス|城西国際大学 幕張キャンパス]]
* [[東京ガス]]幕張ビル
* [[幕張ベイタウン]]
* 幕張ベイタウン郵便局
* [[幕張ベイパーク]]
* [[セイコーインスツル]](本社・幕張事業所)
* [[シャープ]]幕張ビル(シャープ東京支社)
* [[キヤノンマーケティングジャパン]](幕張事業所)
* [[富士通]](幕張システムラボラトリ)
* [[ACCESS (企業)|ACCESS]](幕張オフィス)
* [[QVC#QVCジャパン|QVCジャパン]](本社)
* [[アパホテル&リゾート東京ベイ幕張]]
* [[ホテルニューオータニ幕張]]
* [[三井アウトレットパーク 幕張]]
* [[プレナ幕張]]
* [[メッセ・アミューズ・モール]]
* [[スーク海浜幕張]]
* [[aune (商業施設)#aune MAKUHARI|aune MAKUHARI]]
* パルプラザ幕張
* [[イオン海浜幕張店]](旧[[イオンマルシェ|カルフール幕張]])
* [[イオンモール幕張新都心]]
* [[イオンタワー]]
|}}
<gallery>
ファイル:Makuhari Messe, North hall 1(cropped).jpg|[[幕張メッセ]]国際展示場(9 - 11ホール)
ファイル:QVC Marine Field, front.jpg|千葉マリンスタジアム{{smaller|(外観はQVCマリンフィールド時代)}}
ファイル:Makuhari Techno Garden.jpg|幕張テクノガーデン
ファイル:Mitsui Outlet Park Makuhari.jpg|三井アウトレットパーク 幕張
ファイル:幕張ベイタウン.JPG|幕張ベイタウンのマンション群
ファイル:AEON Mall Makuhari-Shintoshin 'Grand Mall' under construction 20131201-2.jpg|イオンモール幕張新都心{{smaller|(外観はイオンモール幕張新都心グランドモール)}}
ファイル:幕張ベイパーク 2023 Oct.jpg|幕張ベイパークのタワーマンション群
</gallery>
== バス路線 ==
[[ファイル:Kaihimmakuhari-Sta-N.JPG|thumb|北口バスターミナル]]
[[バスターミナル]]が北口側にあり、当駅近辺の施設を目的地とする多くの[[路線バス]]が運行される。とりわけ、[[中央・総武緩行線|総武線]]および[[京成千葉線]]の[[幕張本郷駅]]を結ぶ路線は運行本数・利用者数ともに非常に多くなっている。そのため、[[連節バス]]「[[シーガル幕張]]」を一部系統で運行している。この他、茨城県[[潮来市]]・[[神栖市]]・[[鹿嶋市]]、[[東京国際空港|羽田空港]]、[[成田国際空港|成田空港]]、中部・関西方面への[[高速バス]]も運行される。[[京成バス]]・[[千葉海浜交通]]・[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]・[[千葉シーサイドバス]]などが乗り入れている。
ZOZOマリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズの試合が開催される日に運行されるマリンスタジアム直行バス<!--「マリーンズ号」(現在正式名称として使われていないので保留(直通バスとしか案内されていない)、コメントアウト)-->は、南口にある商業施設「[[プレナ幕張]]」にある、マリーンズのオフィシャルグッズショップ「マリーンズストア 海浜幕張駅前店」前の臨時バス停から発車する。
=== 路線バス ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
「海浜幕張駅」停留所にて、以下の路線バスが発着する。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[京成バス]]
|[[京成バス新都心営業所#新都心・幕張線|'''幕01''']]:[[幕張本郷駅]]
|
|-
!2
|'''幕01''':幕張メッセ中央 / ZOZOマリンスタジアム / 医療センター
|
|-
!rowspan="3"|3
|{{Unbulleted list|[[京成バス新都心営業所#コロンブスシティ線|'''幕22''']]:幕張本郷駅|[[京成バス新都心営業所#新都心営業所出入庫路線|'''海62''']]:[[京成バス新都心営業所|新都心営業所]]}}
|
|-
|style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス新都心営業所#イオンモール幕張新都心線|'''イオン65''']]:[[イオンモール幕張新都心]]・[[幕張豊砂駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|ちばシティバス|[[千葉海浜交通]]}}
|[[ちばシティバス#メッセ新都心線|'''稲91''']]<ref group="注釈" name="citybus-only">ちばシティバス運行便のみ。</ref>:イオンモール幕張新都心・幕張豊砂駅
|
|-
!4
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]}}
|[[京成バス新都心営業所#幕張ベイタウン線|'''海01'''・'''海02'''・'''海03'''・'''海11''']]:ベイタウン循環 / ハイテク通り循環
|
|-
!rowspan="2"|5
|'''海03'''・'''海21'''・'''海22'''・'''海23''':ベイタウン循環 / ハイテク通り循環
|
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|京成バス
|[[京成バス新都心営業所#ポケットバス(新都心回遊線)|'''海51・海52''']]:[[京成幕張駅]]
|
|-
!rowspan="3"|6
|{{Unbulleted list|[[京成バス習志野出張所#花見川南線|'''八千04''']]:[[八千代台駅]]|[[京成バス新都心営業所#幕張ベイパーク線|'''海57''']]:幕張ベイパーク循環}}
|「海57」は平日朝のみ
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|ちばシティバス|千葉海浜交通}}
|'''稲91'''<ref group="注釈" name="citybus-only" />:[[稲毛駅]]
|
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|千葉海浜交通
|稲毛駅 / [[新検見川駅]]
|
|-
!rowspan="2"|7
|ZOZOマリンスタジアム / [[千葉市立海浜病院|海浜病院]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉シーサイドバス]]
|{{Unbulleted list|[[千葉シーサイドバス#花島公園線|'''231''']]:長作町|'''232''':花島公園|'''234''':ZOZOマリンスタジアム|'''239''':幕張メッセ中央|[[千葉シーサイドバス#マリンスタジアム線|'''240'''・'''241''']]:JR[[幕張駅]]|[[千葉シーサイドバス#幕張線|'''242''']]:幕張駅入口|[[千葉シーサイドバス#幕張本郷線|'''260''']]:幕張本郷駅|[[千葉シーサイドバス#花見川区役所線|'''291'''・'''293''']]:花見川区役所}}
|
|-
!rowspan="2"|8
|style="text-align:center;"|平和交通
|稲毛駅 / 幕張本郷駅
|-
|style="text-align:center;"|[[あすか交通]]
|[[あすか交通#深夜急行バス|'''深夜急行''']]:[[山田インターチェンジ (千葉県)|山田インター]]入口
|
|}
=== 高速バス ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!rowspan="7"|海浜幕張駅3番
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|ちばシティバス|[[東京空港交通]]|[[京浜急行バス]]}}
|[[東京国際空港|羽田空港]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|ちばシティバス|[[成田空港交通]]}}
|[[成田国際空港|成田空港]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[関東鉄道]]
|[[水郷潮来バスターミナル|水郷潮来]]・[[鹿島神宮駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|京成バス|フジエクスプレス}}
|[[富士急ハイランド]]・[[河口湖駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[千葉中央バス]]
|'''きょうと号''':[[大津駅]]・[[山科駅]]・[[三条駅 (京都府)|三条京阪]]・[[京都駅]]八条口
|
|-
|style="text-align:center;"|京成バス
|'''Kスターライナー''':[[千里中央駅]]・[[新大阪駅]]・[[大阪駅]]・神戸三宮バスターミナル
|
|-
|style="text-align:center;"|成田空港交通
[[和歌山バス]]
|'''[[サウスウェーブ号]]''':[[堺東駅]]・[[堺駅]]・[[泉ケ丘駅]]・[[和歌山駅]]・[[和歌山市駅]]
|
|-
!rowspan="2"|ホテルグリーンタワー幕張前
|style="text-align:center;"|[[山一サービス]]
|'''アミー号''':[[南草津駅]]・京都駅八条口・梅田・[[心斎橋]] / 京都駅八条口・梅田・神戸三宮
|
|-
|style="text-align:center;"|武井観光
|'''アミー号''':[[ささしまライブ駅#名駅通沿い発着|名古屋南(ささしまライブ)]]
|
|-
!ホテルスプリングス幕張アネックス前
|style="text-align:center;"|WILLER EXPRESS
|'''[[WILLER EXPRESS]]''':梅田・[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ]]
|
|-
!プレナ幕張前
|style="text-align:center;"|[[ツーリストバス]]
|'''Tourist Bus''':京都・梅田・難波
|
|}
== その他 ==
{{maplink2|frame=yes|zoom=12|frame-width=200
|type=point|type2=point|type3=point
|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail
|coord={{coord|35|39|34|N|140|3|28.5|E}}|marker-color=ffd400|title=幕張駅
|coord2={{coord|35|38|54|N|140|2|30.7|E}}|marker-color2=c9252f|title2=海浜幕張駅
|coord3={{coord|35|40|22|N|140|2|32|E}}|marker-color3=ffd400|title3=幕張本郷駅
|frame-latitude=35.661284|frame-longitude=140.043967|text=当駅(下)と幕張駅(右)、幕張本郷駅(上)の位置関係}}
* 「[[幕張]]」は幕張新都心の玄関駅である当駅周辺を指すことが多いが、本来は総武線[[幕張駅]]・[[幕張本郷駅]]および京成千葉線[[京成幕張駅]]・[[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]]周辺を指しており、当駅とこの4駅とは、最短の京成幕張駅でも2 km程度離れている。当駅周辺は[[埋立地]]で地名がなかったため、北を通る幕張駅・幕張本郷駅を拝借する形で駅名が決められた{{要出典|date=2023年6月}}。
* 交通結節機能の強化や利用者の利便性向上を目的として、供用開始時期は未定であるが蘇我駅方面に改札口を増設する予定<ref group="報道" name="pr20210127" /><ref group="新聞" name="news20210128" />。
* 開業前の仮称は「新幕張」であった。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JE line symbol.svg|15px|JE]] 京葉線
:* 特急「[[わかしお (列車)|わかしお]]」一部停車駅
:: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速
:::; 通過
:: {{Color|#339966|■}}快速
::: [[南船橋駅]] (JE 11) - '''海浜幕張駅 (JE 14)''' - [[検見川浜駅]] (JE 15)
:: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車
::: [[幕張豊砂駅]] (JE 13) - '''海浜幕張駅 (JE 14)''' - 検見川浜駅 (JE 15)
: [[File:JR JM line symbol.svg|15px|JM]] 武蔵野線直通
:: {{Color|#0099ff|■}}各駅停車・{{Color|#ff66cc|■}}[[しもうさ号]]
::: 幕張豊砂駅 (JE 13) - '''海浜幕張駅 (JE 14)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====
{{Reflist}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"|2}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JRの1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; JRの統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 千葉県統計年鑑
{{Reflist|group="千葉県統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=413|name=海浜幕張}}
{{京葉線}}
{{武蔵野線・京葉線|freight=1}}
{{幕張新都心}}
{{DEFAULTSORT:かいひんまくはり}}
[[Category:千葉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 か|いひんまくはり]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:美浜区の建築物|かいひんまくはりえき]]
[[Category:幕張新都心|かいひんまくはりえき]]
[[Category:1986年開業の鉄道駅]]
[[Category:京葉線|かいひんまくはりえき]]
|
2003-07-04T14:57:45Z
|
2023-12-28T06:00:59Z
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[
"Template:幕張新都心",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B5%9C%E5%B9%95%E5%BC%B5%E9%A7%85
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10,852 |
議会
|
議会(ぎかい、英: Parliament)とは、貴族や選挙により選出された議員などで構成され、予算や法律の議決などを行う機関のことである。中央議会においては、有権者の代表、法律の制定(立法)、政府の監視(行政監督権)の三つの機能を持つ。
「議会」の語源は11世紀のフランス語: parlementであり、parlerは「会話」を意味する。その意味は時代によって変化し、当初は君主によって召喚された諮問機関(身分制議会)であったが、イギリスでは14世紀中旬には「イングランドとアイルランドの代表者会議」を意味するようになった。議会による民主主義は議会制民主主義(代表制民主主義)と呼ばれ、間接民主主義の一種である。また、議会を重視する思想や制度は議会主義とも呼ばれる。
以下の英語も「議会」と訳される場合がある。
各国の議会の呼称には、それぞれの歴史や経緯が含まれている。以下は主な呼称の英語表記、主な採用国、語源だが、同一の議会でも複数の呼称が使用される場合もある。
国家以外にも、多くの国際組織・連邦国家・州・地方自治体などにも、様々な呼称で議会が存在している。
近代議会は古代ギリシア・古代ローマの市民総会、または評議会・元老院と似た部分を持っている。しかし、どちらも近代議会とは歴史的に異なる性格を持っており政治体制への組み込み方も異なるので、区別することが多い。
古代ギリシア・古代ローマに存在した「民会」や「元老院」は現在の議会政治に通じるものがあり「議会」の起源といえるものであった。しかし民会は市民直接参加、元老院は貴族の会であり、「議員」ではない。
古代ギリシアでは「ポリス」と呼ばれた多くの都市国家が存在し、政治体制はそれぞれのポリスごとに異なっていた。こうしたポリスの中には市民による民主主義政治を行っていたものも少なくなく、直接民主制ないし間接民主制の議会政治が実現していた。
代表的な都市国家アテナイでは、市民が全員参加する「民会」というものや、市民によって選出された評議員で構成される「五百人評議会」と呼ばれるものが存在していた。しかし敵対する軍事都市国家スパルタとの戦争等によって、政治が不安定化し詭弁家と呼ばれるソフィスト等の出現による腐敗政治が横行したため、スパルタに敗戦後は三十人政権へと移行していく。
古代ローマでは議会に相当するものとして元老院と民会を挙げることができる。王政打倒後の共和政ローマでは行政は政務官が担当したが、これらの政務官はローマ市民によって構成された民会を通じて選出された。もともとは王への助言機関であったといわれる元老院は政務官経験者から構成され、法案の審議や政務官候補の選出などを通して国家方針の策定に大きな影響力を握った。古代ローマでは最終的な立法権や政務官の選出権は民会が独占していたが、元老院は家長の集合から出発したという伝統を背景とした圧倒的な権威を用い、民会の動向を事実上左右することができた。
当初、政務官職は貴族(パトリキ)のみに許され、元老院は貴族によって独占されていた。身分闘争の結果、政務官職が平民(プレブス)にも開かれると有力者であれば平民でも元老院に議席を持つようになり、旧来の貴族に有力平民を加えた新貴族(ノビレス)と呼ばれる有力者層が形成されるようになった。この新貴族は元老院議員を世襲によって独占するようになり、伝統を重視してローマの政治を自分達中心に運営していこうとした(閥族派)。一方で、ノビレスの中でも閥族派には属さず、潜在的には力を持ちつづけていた民会と一般平民の力を利用して自己の勢力拡大と政治課題の実現を達成しようとする者も現れるようになった(平民派)。有力な平民派政治家に主導された民会はときに元老院の意向に反した行動をとることもあった。
こうした元老院と民会の仕組みは現在の上院・下院の概念の基礎ともなり、アメリカ合衆国連邦議会等は名称や機能等制度設計などで古代ローマを参考にしている。
元老院も民会もアウグストゥスによってローマの政治体制が共和政から帝政に移行した後も存続したが、「帝政」という一つの人格に全ての権威と権限が集中する政治体制の中では徐々に形骸化していった。
中世から続いた絶対王政からの脱却と言うものが多く「議会」という語はヨーロッパ中世の「封建議会」を指す場合にも用いられる。近代議会政治は英国・アメリカ合衆国・フランス等で確立し、他の諸国に普及していった。
アイスランドでは、930年に定住地域ごとの「シング」(民会)が統合した「アルシング」と呼ばれる「議会」が創設された。これは極めて民主的なもので議会制民主主義に基づく近代議会政治における世界最古のものと言われ現在にまで至っている。
英国の封建議会は、絶対王政時代に力を弱めつつも消滅に至らず、近代議会に接続した稀な例である。英国議会は国王が掌握する行政府に課税承認権を盾にとって対抗し、行政の恣意を制限しようとした。国王との対立が決定的になると、1649年に清教徒革命が生じ国王を処刑し、1688年の名誉革命で国王を追放した。名誉革命以後の議会は引き続き国王の行政権力を認めたが、しだいに権限を拡大し、18世紀半ばに議院内閣制を実現して行政に対する優位を確立した。現在の歴史学会の通説では、フランスに脅威を感じたオラニエ公(後のウィリアム3世)が英国の動向に目を着け、その大義名分として権利章典の内容をなすビラをばらまいたとされる。
この過程で下院である庶民院の選挙権が拡大・公平化され、身分制・特権議会は、真に国民代表機関となった。またきわめて早くから政党が発達したため、議会だけでは世論統合のスピードが遅かっただろうところを、政党が中間団体としてよく世論をまとめ、国民に明快な選択肢を提供し続けて来たことも、英国議会政治の成功の一つの理由である。
また現在もその後のままに世襲貴族や任命貴族による上院に相当する貴族院も残存している。貴族の院という名目は形骸化し、一代貴族に任命された有識者による再考の院という側面が強くなっている。
フランスの封建議会(三部会)は、絶対王政の時代に開かれなくなった。財政難と貴族勢力排除のために1789年、国王が三部会を招集すると、三部会の第三身分(平民)議員を中心とする多数派が制度改革を求め、フランス革命がはじまった。革命派は社会契約説を根拠に国民主権を宣言し、最終的には国民主権の唯一の担い手として議会を位置づけるに至り、男性普通選挙による議会制度の憲法を制定した(1793年憲法。施行に至らず)。
以後の反動でこの理念の実現は長く妨げられたが、国内外の共和主義の理想として影響力を持った。ただフランス自身は議会主義と権威主義(ボナパルティズムなど)の間を揺れ動いた。理由の一つは、議会諸政党が一致して行政府に対抗するということが、なかなかできなかったためである。
現在では、国民直接選挙の大統領の権限・権威を強化し、議会の不安定に対する一つの回答としている。(「半大統領制」。下記に記述あり。)
米国では英国王の特許状で成立した各植民地が、それぞれに議会を持っていたが、13州としてまとまって1776年に独立宣言を行った「大陸会議(the Continental Congress)」が名称的に起源となって、1789年に現在に続くアメリカ合衆国議会が開始された。当初より選挙制の下院を持ち(上院は各州政府の任命)、国王が支配した行政府への嫌悪感・重税を課した英国議会への反発から、慎重に議会・行政府の権限を組み合わせた大統領制を導入し、成功した議会運営となった。
ただし黒人差別問題は長く残り、形式的には南北戦争後の1870年の憲法修正15条により、実質的には1965年投票権法により選挙権の不平等が解消されるまで、現代的自由民主主義には遠かったと言わねばならないだろう。近年大統領への権限集中が起き「帝王的大統領」と呼ばれたことがあったが、議会は機敏に大統領の権限抑制に動き、またその傾向が行き過ぎた場合は逆に大統領に「項目別拒否権」を与えるなどして、概ね安定的に制度を維持している。
議会制度には、一つの議院を設ける一院制と、独立した二つの議院を設ける両院制がある。
両院制は、身分ごとに会合した中世ヨーロッパの身分制議会の遺制である。これをさらに細かく「二院制」と「両院制」に分けることもある。それぞれの議院は様々な呼ばれ方をするが、一般的に国民を平等に代表するものは「下院」と呼ばれ、身分・職能・地域などに基づく特別な代表方式を採るものは「上院」と呼ばれる。
ほとんどの議会制民主主義国家では、「議会」は国民による選挙によって選出された議員によって構成されている。「議会」は「国民の代表」である議員によって構成されていることによって、実際には政策決定の現場に関与していなくても、国民全てが関与したと擬制される(「議会の審議機能」)。
「議会」は「議院自律権」を持ち、議長や事務局の選出、議員の資格争訟、懲罰、会議運営等について「議会」が自ら行う事とされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。
一部の国の議会では、職能団体などの利益団体が直接的に団体の代表を議会に送り込んでいる。これは職能代表制と呼ばれる制度である。
現在ほとんどの議会制民主主義国家では、権力分立の観点から「議会」と「政府」との役割は分担され権力の分散が図られている。多くの場合「議会」は「議決機関」、「政府」は「執行機関」と位置づけられ、それによって基本的に議会は「立法」を、政府は「行政」を司ることとされている。
国会議員は「立法」の権力を司っており、故に議会は法治国家の根幹である法律を制定する機関および国家における最高機関として位置づけられていることが多い。
「行政」に対しては、予算承認権をはじめとした政府に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について質問するために証人を喚問し、資料を提出させる国政調査権は重要な権能である。また議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める政令等は補完的・従属的である。
「司法」に対しては、裁判官の選任または在任について何らかの関与をすることが多い。日本の場合は国会が、国会議員で構成された裁判官弾劾裁判所と裁判官訴追委員会を設置する。
現在の政治体制は、それぞれ議会統治制・議院内閣制・大統領制・半大統領制等に大別されるが、それぞれの政治体制によって国家における「議会」の権限は異なってくる。
「議会制」は、大きく「評議会制」と「政党制」に分類されるが、現在ほとんどの国家は政党制によって政治が動いているため、議会は「政党」という存在に深く関わってくる。
「政党」は、ルソーなどの大陸の哲学者や、アメリカ合衆国の建国の父祖達には忌み嫌われたが、実際には議員同士の派閥から始まって次第に各国にも広まった。
選挙権の拡大につれ政党は次第に議会の外に応援団を持つようになり、逆に議会の外の勢力に利用されもするようになった。特に近代、「マス・デモクラシー」状態となると、政策を広く呼びかけ、選挙時には大量に有権者を動員するシステムとして、政党の存在意義はますます高まった。また政党の選挙公約を通じて国民は意見を統合するようになり、それがために選挙公約を誓って当選した平議員に対して、公認権を握る政党指導部の権威は強まった。これが高じて議院内閣制の国では、政党を通じて国民が首相指名に関与できる事態に至った。
第二次世界大戦に至る道程で、特にイタリア王国、ナチス・ドイツで一党独裁制による暴走により「議会」が機能低下したという経験から、戦後一時期、政党制について懐疑的な考えも学界には広まった。しかし現実政治では政党は行政府を支配し、その各種の政治資源分配機能を支配したため、よりますます強力となった。「議会」は結論の決まった議案を審議し、時間が来れば通過させる「ラバースタンプ(英語版)(ゴム印)」とまで揶揄されるようになった。また行政府についても、与党議員の不当な介入を許しすぎている、汚職の温床となっている、等の批判が強まることにもなった。
20世紀に至って、多くの諸国では政党を議会制度に公認するようになり、各種の補助金を出す国まで出現している。しかしその国の実情にあった政党制は何か、「議会」の審議機能の正常な運営といかに調和させるか、さらに行政府の公平な運営をどう確保するか、等どの国でも困難な模索が続いている。
「議会」を構成する議員の公務遂行においては、資質(立法能力、質問能力)だけではなく、廉直性(賄賂に関与しないなど)、さらには私生活上の道徳性についてまで、国民の厳しい監視を受けるに至っている。逆に国民の信望を集めた議会ほど強いものは、現代政治の中にはないと言えよう。
議会の権限は、行政府の権力集中に対する重要な牽制となっている。独裁を目論む権力者は議会の諸権限を剥奪しようとし、実際に権限を剥奪した権力者は独裁者に転じる。近代以降の非民主主義体制は、上記の諸権限を実質的には備えていない弱い議会を持つ、あるいは議会を全く持たないことが多い。
ただし、議会が強い権限を持つことが、そのまま民主主義体制を意味するわけではない。国民の中の少数派や多数派を排除する体制がある。初期の議会では財産や納税額によって選挙権が制限されており、性別による制限も20世紀まで続き、中には人種による制限を持つ国もあった。また共産主義各国は特異な例であろうが、そこでは或る種の議会的組織(議会と名乗ることも珍しくない)が憲法上は強い権限と公平な選挙制度を持つものの、実際は選挙と選挙後の議会運営は単一または連立の与党に支配されており、かつ選挙の自由が実質的に制限され与党の内部構成も国民の多数派を排除していた、というものであった。
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"text": "議会(ぎかい、英: Parliament)とは、貴族や選挙により選出された議員などで構成され、予算や法律の議決などを行う機関のことである。中央議会においては、有権者の代表、法律の制定(立法)、政府の監視(行政監督権)の三つの機能を持つ。",
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"text": "「議会」の語源は11世紀のフランス語: parlementであり、parlerは「会話」を意味する。その意味は時代によって変化し、当初は君主によって召喚された諮問機関(身分制議会)であったが、イギリスでは14世紀中旬には「イングランドとアイルランドの代表者会議」を意味するようになった。議会による民主主義は議会制民主主義(代表制民主主義)と呼ばれ、間接民主主義の一種である。また、議会を重視する思想や制度は議会主義とも呼ばれる。",
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"text": "以下の英語も「議会」と訳される場合がある。",
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"text": "各国の議会の呼称には、それぞれの歴史や経緯が含まれている。以下は主な呼称の英語表記、主な採用国、語源だが、同一の議会でも複数の呼称が使用される場合もある。",
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"text": "国家以外にも、多くの国際組織・連邦国家・州・地方自治体などにも、様々な呼称で議会が存在している。",
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"text": "近代議会は古代ギリシア・古代ローマの市民総会、または評議会・元老院と似た部分を持っている。しかし、どちらも近代議会とは歴史的に異なる性格を持っており政治体制への組み込み方も異なるので、区別することが多い。",
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"text": "古代ギリシア・古代ローマに存在した「民会」や「元老院」は現在の議会政治に通じるものがあり「議会」の起源といえるものであった。しかし民会は市民直接参加、元老院は貴族の会であり、「議員」ではない。",
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"text": "古代ギリシアでは「ポリス」と呼ばれた多くの都市国家が存在し、政治体制はそれぞれのポリスごとに異なっていた。こうしたポリスの中には市民による民主主義政治を行っていたものも少なくなく、直接民主制ないし間接民主制の議会政治が実現していた。",
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"text": "代表的な都市国家アテナイでは、市民が全員参加する「民会」というものや、市民によって選出された評議員で構成される「五百人評議会」と呼ばれるものが存在していた。しかし敵対する軍事都市国家スパルタとの戦争等によって、政治が不安定化し詭弁家と呼ばれるソフィスト等の出現による腐敗政治が横行したため、スパルタに敗戦後は三十人政権へと移行していく。",
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議会とは、貴族や選挙により選出された議員などで構成され、予算や法律の議決などを行う機関のことである。中央議会においては、有権者の代表、法律の制定(立法)、政府の監視(行政監督権)の三つの機能を持つ。
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{{出典の明記|date=2021年2月}}
[[ファイル:Japanese diet inside.jpg|thumb|240px|right|議会が開かれる議場の例(日本参議院)]]
{{政治}}
'''議会'''(ぎかい、{{lang-en-short|Parliament}})とは、[[貴族]]や[[選挙]]により選出された[[議員]]などで構成され、[[予算]]や[[法律]]の議決などを行う機関のことである<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%AD%B0%E4%BC%9A-49965#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 議会 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]</ref>。[[国会 (曖昧さ回避)|中央議会]]においては、[[有権者]]の代表、法律の制定([[立法]])、[[政府]]の監視([[行政]]監督権)の三つの機能を持つ。
== 概要 ==
「議会」の語源は11世紀の{{lang-fr|parlement}}であり、''parler''は「会話」を意味する<ref>[http://www.etymonline.com/word/parliament Parliament] Online Etymology Dictionary.</ref>。その意味は時代によって変化し、当初は[[君主]]によって召喚された諮問機関([[身分制議会]])であったが、イギリスでは14世紀中旬には「イングランドとアイルランドの代表者会議」を意味するようになった<ref>''[[Oxford English Dictionary]]'', Third Edition, 2005, [http://www.oed.com/view/Entry/137992 ''s.v.'']</ref>。議会による[[民主主義]]は[[議会制民主主義]](代表制民主主義)と呼ばれ、[[間接民主主義]]の一種である。また、議会を重視する思想や制度は[[議会主義]]とも呼ばれる。
[[File:Eduskunta istuntosali.jpg|thumb|[[エドゥスクンタ]]のセッションホール]]
以下の英語も「議会」と訳される場合がある。
* Legislature: 立法府、議会
* [[アッセンブリー|Assembly]]: 集会、会議、議会
各国の議会の呼称には、それぞれの歴史や経緯が含まれている<ref>浅野雅巳、「[https://doi.org/10.11293/jaces1962.1979.18_45 Parliament, Congress, Dietを中心とする呼称についての諸問題]」 『時事英語学研究』 1979 年 1979 巻 18 号 p. 45-53, {{doi|10.11293/jaces1962.1979.18_45}}</ref>。以下は主な呼称の英語表記、主な採用国、語源だが、同一の議会でも複数の呼称が使用される場合もある。
* Parliament: [[イギリス|英国]]や[[イギリス連邦]]諸国の議会 - 語源は{{lang-fr|parlement}}(会話する、[[パーラー|会話場所]])。身分制議会の時代を含め、イギリス議会の「討議」より。
* Congress: [[アメリカ合衆国議会]]や[[ラテンアメリカ]]諸国の議会 - 語源は{{lang-la|congressus}}(参加する・参集する)。1774年 植民地代表者による[[大陸会議]]({{lang-en|Continental Congress}})より。
* Diet: [[ドイツ連邦議会]]、[[リクスダーゲン|スウェーデンの議会]]、[[国会 (日本)|日本の国会]]など - 語源は{{lang-la|dies}}({{lang-en|day}}、{{lang-de|tag}}、日)。皇帝等により決められた日時に開催されたため。[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|神聖ローマ帝国の議会]]より。日本の[[大日本帝国憲法|明治憲法]]は[[プロイセン]]の[[立憲主義]]を参考とした。
* National Assembly: [[フランス]]や旧フランス[[植民地]]諸国の[[国民議会]]、[[国会 (大韓民国)|大韓民国国会]]など
国家以外にも、多くの[[国際組織]]・[[連邦国家]]・[[州]]・[[地方政府|地方自治体]]などにも、様々な呼称で議会が存在している。
== 歴史 ==
近代議会は[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ]]の市民総会、または[[評議会]]・[[元老院]]と似た部分を持っている。しかし、どちらも近代議会とは歴史的に異なる性格を持っており政治体制への組み込み方も異なるので、区別することが多い。
=== 起源 ===
古代ギリシア・古代ローマに存在した「[[民会 (ローマ)|民会]]」や「元老院」は現在の議会政治に通じるものがあり「議会」の起源といえるものであった。しかし民会は市民直接参加、元老院は貴族の会であり、「議員」ではない。
====古代ギリシア====
[[古代ギリシア]]では「[[ポリス]]」と呼ばれた多くの[[都市国家]]が存在し、政治体制はそれぞれのポリスごとに異なっていた。こうしたポリスの中には[[市民]]による[[民主主義]]政治を行っていたものも少なくなく、[[直接民主制]]ないし[[間接民主制]]の議会政治が実現していた。
代表的な[[都市国家]][[アテナイ]]では、市民が全員参加する「[[民会]]」というものや、市民によって選出された評議員で構成される「[[五百人評議会]]」と呼ばれるものが存在していた。しかし敵対する軍事都市国家[[スパルタ]]との[[戦争]]等によって、政治が不安定化し[[詭弁家]]と呼ばれる[[ソフィスト]]等の出現による腐敗政治が横行したため、スパルタに敗戦後は[[三十人政権]]へと移行していく。
====古代ローマ====
[[古代ローマ]]では議会に相当するものとして[[元老院]]と[[民会 (ローマ)|民会]]を挙げることができる。[[王政ローマ|王政]]打倒後の[[共和政ローマ]]では[[行政]]は[[古代ローマの公職一覧|政務官]]が担当したが、これらの政務官はローマ市民によって構成された民会を通じて選出された。もともとは王への助言機関であったといわれる元老院は政務官経験者から構成され、法案の審議や政務官候補の選出などを通して国家方針の策定に大きな影響力を握った。古代ローマでは最終的な[[立法|立法権]]や政務官の選出権は民会が独占していたが、元老院は家長の集合から出発したという伝統を背景とした圧倒的な[[権威]]を用い、民会の動向を事実上左右することができた。
当初、政務官職は貴族([[パトリキ]])のみに許され、元老院は貴族によって独占されていた。身分闘争の結果、政務官職が平民([[プレブス]])にも開かれると有力者であれば平民でも元老院に議席を持つようになり、旧来の貴族に有力平民を加えた新貴族([[ノビレス]])と呼ばれる有力者層が形成されるようになった。この新貴族は元老院議員を世襲によって独占するようになり、伝統を重視してローマの政治を自分達中心に運営していこうとした(閥族派)。一方で、ノビレスの中でも閥族派には属さず、潜在的には力を持ちつづけていた民会と一般平民の力を利用して自己の勢力拡大と政治課題の実現を達成しようとする者も現れるようになった(平民派)。有力な平民派政治家に主導された民会はときに元老院の意向に反した行動をとることもあった。
こうした元老院と民会の仕組みは現在の[[上院]]・[[下院]]の概念の基礎ともなり、[[アメリカ合衆国連邦議会]]等は名称や機能等制度設計などで古代ローマを参考にしている。
元老院も民会も[[アウグストゥス]]によってローマの政治体制が共和政から[[ローマ帝国|帝政]]に移行した後も存続したが、「[[帝政]]」という一つの人格に全ての権威と権限が集中する政治体制の中では徐々に形骸化していった。
=== 近代 ===
中世から続いた[[絶対王政]]からの脱却と言うものが多く「議会」という語は[[ヨーロッパ]][[中世]]の「封建議会」を指す場合にも用いられる。近代議会政治は[[イギリス|英国]]・アメリカ合衆国・フランス等で確立し、他の諸国に普及していった。
====アイスランド====
[[アイスランド]]では、[[930年]]に定住地域ごとの「シング」(民会)が統合した「[[アルシング]]」と呼ばれる「議会」が創設された。これは極めて民主的なもので[[議会制民主主義]]に基づく近代議会政治における世界最古のものと言われ現在にまで至っている。
====英国====
[[イギリス|英国]]の封建議会は、[[絶対王政]]時代に力を弱めつつも消滅に至らず、近代議会に接続した稀な例である。[[イギリスの議会|英国議会]]は国王が掌握する行政府に課税承認権を盾にとって対抗し、行政の恣意を制限しようとした。国王との対立が決定的になると、[[1649年]]に[[清教徒革命]]が生じ国王を処刑し、[[1688年]]の[[名誉革命]]で国王を追放した。名誉革命以後の議会は引き続き国王の行政権力を認めたが、しだいに権限を拡大し、[[18世紀]]半ばに[[議院内閣制]]を実現して行政に対する優位を確立した。現在の歴史学会の通説では、[[フランス]]に脅威を感じたオラニエ公(後の[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])が英国の動向に目を着け、その大義名分として権利章典の内容をなすビラをばらまいたとされる。
この過程で下院である[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]の選挙権が拡大・公平化され、身分制・特権議会は、真に国民代表機関となった。またきわめて早くから[[政党]]が発達したため、議会だけでは世論統合のスピードが遅かっただろうところを、政党が中間団体としてよく世論をまとめ、国民に明快な選択肢を提供し続けて来たことも、英国議会政治の成功の一つの理由である。
また現在もその後のままに世襲貴族や任命貴族による上院に相当する[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]も残存している。[[貴族]]の院という名目は形骸化し、一代貴族に任命された有識者による再考の院という側面が強くなっている。
====フランス====
[[フランス]]の封建議会([[三部会]])は、[[絶対王政]]の時代に開かれなくなった。財政難と貴族勢力排除のために[[1789年]]、国王が三部会を招集すると、三部会の第三身分(平民)議員を中心とする多数派が制度改革を求め、[[フランス革命]]がはじまった。革命派は[[社会契約説]]を根拠に[[国民主権]]を宣言し、最終的には国民主権の唯一の担い手として議会を位置づけるに至り、男性普通選挙による議会制度の憲法を制定した([[1793年憲法]]。施行に至らず)。
以後の反動でこの理念の実現は長く妨げられたが、国内外の[[共和主義]]の理想として影響力を持った。ただフランス自身は議会主義と権威主義([[ボナパルティズム]]など)の間を揺れ動いた。理由の一つは、議会諸政党が一致して行政府に対抗するということが、なかなかできなかったためである。
現在では、国民直接選挙の[[大統領]]の権限・権威を強化し、議会の不安定に対する一つの回答としている。(「半大統領制」。下記に記述あり。)
====アメリカ合衆国====
[[アメリカ合衆国|米国]]では英国王の特許状で成立した各植民地が、それぞれに議会を持っていたが、13州としてまとまって1776年に[[独立宣言]]を行った「[[大陸会議]](the Continental Congress)」が名称的に起源となって、1789年に現在に続く[[アメリカ合衆国議会]]が開始された。当初より選挙制の下院を持ち(上院は各州政府の任命)、国王が支配した行政府への嫌悪感・重税を課した英国議会への反発から、慎重に議会・行政府の権限を組み合わせた[[大統領制]]を導入し、成功した議会運営となった。
ただし黒人差別問題は長く残り、形式的には南北戦争後の[[1870年]]の憲法修正15条により、実質的には[[1965年]][[投票権法 (1965年)|投票権法]]により選挙権の不平等が解消されるまで、現代的自由民主主義には遠かったと言わねばならないだろう。近年大統領への権限集中が起き「帝王的大統領」と呼ばれたことがあったが、議会は機敏に大統領の権限抑制に動き、またその傾向が行き過ぎた場合は逆に大統領に「項目別拒否権」を与えるなどして、概ね安定的に制度を維持している。
== 制度 ==
=== 種類 ===
議会制度には、一つの議院を設ける[[一院制]]と、独立した二つの議院を設ける[[両院制]]がある。
両院制は、身分ごとに会合した中世ヨーロッパの身分制議会の遺制である。これをさらに細かく「二院制」と「両院制」に分けることもある。それぞれの議院は様々な呼ばれ方をするが、一般的に国民を平等に代表するものは「下院」と呼ばれ、身分・職能・地域などに基づく特別な代表方式を採るものは「上院」と呼ばれる。
=== 構成 ===
ほとんどの[[議会制民主主義]]国家では、「議会」は[[国民]]による[[選挙]]によって選出された議員によって構成されている。「議会」は「国民の代表」である議員によって構成されていることによって、実際には政策決定の現場に関与していなくても、国民全てが関与したと擬制される(「議会の審議機能」)。
「議会」は「議院自律権」を持ち、議長や事務局の選出、議員の資格争訟、懲罰、会議運営等について「議会」が自ら行う事とされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。
一部の国の議会では、[[職能団体]]などの[[利益団体]]が直接的に団体の代表を議会に送り込んでいる。これは[[職能代表制]]と呼ばれる制度である。
== 権力分立 ==
現在ほとんどの[[議会制民主主義]]国家では、[[権力分立]]の観点から「議会」と「[[政府]]」との役割は分担され[[権力]]の分散が図られている。多くの場合「議会」は「[[議決機関]]」、「政府」は「[[執行機関]]」と位置づけられ、それによって基本的に議会は「[[立法]]」を、政府は「[[行政]]」を司ることとされている。
=== 役割 ===
国会議員は「立法」の権力を司っており、故に議会は[[法治国家]]の根幹である[[法律]]を制定する機関および[[国家]]における最高機関として位置づけられていることが多い。
「行政」に対しては、予算承認権をはじめとした政府に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について[[質問]]するために証人を喚問し、資料を提出させる[[国政調査権]]は重要な権能である。また議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める[[政令]]等は補完的・従属的である。
「[[司法]]」に対しては、[[裁判官]]の選任または在任について何らかの関与をすることが多い。日本の場合は[[国会 (日本)|国会]]が、国会議員で構成された[[裁判官弾劾裁判所]]と[[裁判官訴追委員会]]を設置する。
=== 政治体制 ===
現在の[[政治体制]]は、それぞれ[[議会統治制]]・[[議院内閣制]]・[[大統領制]]・[[半大統領制]]等に大別されるが、それぞれの政治体制によって国家における「議会」の権限は異なってくる。
*議会統治制においては、「議会」が直接「政府」を支配し、そのまま「立法府」と「行政府」を兼ねる制度。
*:スイス等
*議院内閣制においては、「議会」が[[政府の長]]を選出し、場合によっては辞職させる権限を持つ。「議会」の信任のみによって「政府」が成り立つ制度。
*:日本、英国、ドイツ等
*大統領制においては、政府の長としての大統領が「議会」とは別に選出され、「議会」はこれを直接辞めさせることはできない。「議会」と執行機関である「政府」が完全に独立した制度。
*:米国、インドネシア等
*半大統領制においては、「議院内閣制」と「大統領制」の中間的制度。
*:フランス、ロシア等
== 議会と政党 ==
「議会制」は、大きく「[[評議会|評議会制]]」と「[[政党制]]」に分類されるが、現在ほとんどの国家は政党制によって政治が動いているため、議会は「政党」という存在に深く関わってくる。
「政党」は、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]などの大陸の哲学者や、[[アメリカ合衆国]]の建国の父祖達には忌み嫌われたが、実際には議員同士の派閥から始まって次第に各国にも広まった。
選挙権の拡大につれ政党は次第に議会の外に応援団を持つようになり、逆に議会の外の勢力に利用されもするようになった。特に近代、「マス・デモクラシー」状態となると、政策を広く呼びかけ、選挙時には大量に有権者を動員するシステムとして、政党の存在意義はますます高まった。また政党の選挙公約を通じて国民は意見を統合するようになり、それがために選挙公約を誓って当選した平議員に対して、公認権を握る政党指導部の権威は強まった。これが高じて[[議院内閣制]]の国では、政党を通じて国民が[[首相]]指名に関与できる事態に至った。
[[第二次世界大戦]]に至る道程で、特に[[イタリア王国]]、[[ナチス・ドイツ]]で[[一党独裁制]]による暴走により「議会」が機能低下したという経験から、戦後一時期、政党制について懐疑的な考えも学界には広まった。しかし現実政治では[[政党]]は行政府を支配し、その各種の政治資源分配機能を支配したため、よりますます強力となった。「議会」は結論の決まった議案を審議し、時間が来れば通過させる「{{仮リンク|ラバースタンプ (政治)|label=ラバースタンプ|en|Rubber stamp (politics)}}(ゴム印)」とまで揶揄されるようになった。また行政府についても、[[与党]]議員の不当な介入を許しすぎている、[[汚職]]の温床となっている、等の批判が強まることにもなった。
20世紀に至って、多くの諸国では政党を議会制度に公認するようになり、各種の補助金を出す国まで出現している。しかしその国の実情にあった[[政党制]]は何か、「議会」の審議機能の正常な運営といかに調和させるか、さらに行政府の公平な運営をどう確保するか、等どの国でも困難な模索が続いている。
== 議論 ==
「議会」を構成する議員の[[公務]]遂行においては、資質(立法能力、質問能力)だけではなく、廉直性([[賄賂]]に関与しないなど)、さらには私生活上の道徳性についてまで、国民の厳しい監視を受けるに至っている。逆に国民の信望を集めた議会ほど強いものは、現代政治の中にはないと言えよう。
議会の権限は、行政府の権力集中に対する重要な牽制となっている。[[独裁]]を目論む権力者は議会の諸権限を剥奪しようとし、実際に権限を剥奪した権力者は[[独裁者]]に転じる。近代以降の非民主主義体制は、上記の諸権限を実質的には備えていない弱い議会を持つ、あるいは議会を全く持たないことが多い。
ただし、議会が強い権限を持つことが、そのまま[[民主主義]]体制を意味するわけではない。国民の中の少数派や多数派を排除する体制がある。初期の議会では[[財産]]や納税額によって[[選挙権]]が制限されており、性別による制限も[[20世紀]]まで続き、中には人種による制限を持つ国もあった。また[[共産主義]]各国は特異な例であろうが、そこでは或る種の議会的組織(議会と名乗ることも珍しくない)が憲法上は強い権限と公平な選挙制度を持つものの、実際は選挙と選挙後の議会運営は単一または連立の与党に支配されており、かつ選挙の自由が実質的に制限され与党の内部構成も国民の多数派を排除していた、というものであった。
== 脚注 ==
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<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
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*[[身分制議会]]
*[[国会 (日本)]]
**[[衆議院]]・[[参議院]]
*[[地方議会]]
*[[欧州議会]]
*[[会期]]
**[[常会]]・[[臨時会]]・[[特別会]]
*[[議事堂]]
*[[数の論理]]
*[[読会制]]
*[[一院制]]
*[[両院制]]
*[[議決機関]]
*[[議長]]
*[[代表なくして課税なし]]
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ベーキング
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ベーキング(Baking)とは、ベイク(Bake、焼き固める・乾かす)を語源とした英語。
本節では、1に関連する処理を記載する。
腐食、溶接、酸洗浄、電気メッキなどの過程で金属中に吸収された水素により強度が低下する水素脆化(ぜいか)現象への対策として、金属を加熱処理して水素を除去する工程をベーキングという。
真空装置の真空チャンバー内壁には、様々な不純物が吸着する。それらは高真空へ排気する過程で放出ガスとして真空チャンバー内へと放出され十分な高真空を得ることが出来ない。そのため、真空チャンバー外壁にテープ状またはワイヤ状のヒータを巻いて、チャンバー全体を熱し、ガスを事前に放出することをベーキングと言う。真空ポンプで引きながらベーキングを行うことにより、チャンバー内の残留不純物(特にチャンバーオープン後は水が多い)が真空チャンバーへ放出され真空ポンプに排気されることにより、その後の真空チャンバー内を高真空にすることが出来る。
真空チャンバーの不純物などが製造プロセスでの歩留まりに影響しやすい集積回路の製造工程である半導体プロセスに使用される真空装置や、超高真空を得る必要がある真空装置などで多く実施される。
半導体製造装置の写真を見ると、大抵は銀紙でぐるぐる巻きにしてあるが、それはベーキングの際に熱にムラが出来ないように巻いてあるものである。
鉛ビスマスを冷却材とした原子炉では、冷却材が中性子捕獲してポロニウム210となり、PbPo(ポロニウム化鉛)の形で原子炉内に付着してアルファ線 を放出し、メンテナンスを困難にする。そのため、原子炉メンテナンスに先立ち、原子炉を真空チャンバーにして0.4Paまで減圧し500度に加熱して、ポロニウム化鉛を蒸発させて原子炉内から除去する。
鉛ビスマスを使うことで、高速増殖炉では中性子を減速せず、効率的にウラン238をプルトニウム239に核種変換したり、マイナーアクチノイド(ネプツニウム・アメリシウムなど半減期が長く、熱中性子の衝突では分裂しにくい「超長半減期の核のゴミ」)を核分裂させて、短半減期のセシウム等の核分裂生成物に変換しつつ核熱を発生させることができる。また、加速器駆動未臨界炉では 加速した陽子を鉛原子/ビスマス原子に衝突させて核破砕反応で高速中性子を発生させて、未臨界のマイナーアクチノイド燃料や高次プルトニウム燃料を高速中性子で核分裂させ、短半減期の核分裂生成物に変換しつつ核熱を発生させることが出来る。(所謂「核のゴミ焼却発電」。尚、タングステンを破砕ターゲットにして、陽子を衝突させる方法もあるが、冷却材とターゲットが同一のほうが冷却効率が高い。)また、水やガスより熱伝導率がよく冷却能力が高く、高圧を掛けなくても沸点が高いために、熱効率を向上できる。
人工衛星などの宇宙機に分子状コンタミネーション(有機物の汚染物)が付着すると、光学機器の透過率低下、放射板の太陽光吸収率増大、太陽電池パネルの電力発生率低下など様々な悪影響を及ぼす。宇宙空間においては、宇宙機自身が分子状コンタミネーションの発生源となるため、蒸発・再付着を避けるために打ち上げ前、正確には熱真空試験開始前に宇宙機自身にテープヒータを貼って伝熱加熱するか、ヒータパネルによる輻射加熱を行う。 宇宙機のベーキングは真空チャンバ内に入れて加熱する方法が最適であるが、コストや開発工程などの理由で大気圧下で加熱する場合もある。
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ベーキング(Baking)とは、ベイク(Bake、焼き固める・乾かす)を語源とした英語。 加熱処理
オーブンで調理すること 本節では、1に関連する処理を記載する。
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{{出典の明記|date=2011年2月}}
'''ベーキング'''(Baking)とは、ベイク(Bake、焼き固める・乾かす)を語源とした英語。
# 加熱処理
# [[オーブン]]で[[調理]]すること
本節では、1に関連する処理を記載する。
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== 金属に対する加熱処理 ==
腐食、溶接、酸洗浄、電気メッキなどの過程で金属中に吸収された水素により強度が低下する[[水素脆化|水素脆化(ぜいか)]]現象への対策として、金属を加熱処理して水素を除去する工程をベーキングという。
== 真空装置の脱ガス ==
{{main|en:Bake-out}}
[[真空装置]]の[[真空チャンバー]]内壁には、様々な不純物が[[吸着]]する。それらは高真空へ排気する過程で[[放出ガス]]として真空チャンバー内へと放出され十分な高真空を得ることが出来ない。そのため、真空チャンバー外壁にテープ状またはワイヤ状のヒータを巻いて、チャンバー全体を熱し、ガスを事前に放出することを'''ベーキング'''と言う。[[真空ポンプ]]で引きながらベーキングを行うことにより、チャンバー内の残留不純物(特にチャンバーオープン後は水が多い)が真空チャンバーへ放出され真空ポンプに排気されることにより、その後の真空チャンバー内を高真空にすることが出来る。
真空チャンバーの不純物などが製造プロセスでの歩留まりに影響しやすい[[集積回路]]の製造工程である半導体プロセスに使用される真空装置や、超高真空を得る必要がある真空装置などで多く実施される。
[[半導体]]製造装置の写真を見ると、大抵はアルミニウムホイルでぐるぐる巻きにしてあるが、それはベーキングの際に熱にムラが出来ないように巻いてあるものである。
== 鉛冷却原子炉のベーキング ==
[[鉛冷却高速炉|鉛ビスマスを冷却材とした原子炉]]では、冷却材が[[中性子捕獲]]して[[ポロニウム210]]となり、PbPo(ポロニウム化鉛)の形で原子炉内に付着して[[アルファ線]] を放出し、メンテナンスを困難にする。そのため、原子炉メンテナンスに先立ち、原子炉を真空チャンバーにして0.4Paまで減圧し500度に加熱して、ポロニウム化鉛を蒸発させて原子炉内から除去する。
鉛ビスマスを使うことで、[[高速増殖炉]]では中性子を減速せず、効率的に[[ウラン238]]を[[プルトニウム239]]に[[核種変換]]したり、[[マイナーアクチノイド]]([[ネプツニウム]]・[[アメリシウム]]など[[半減期]]が長く、熱中性子の衝突では分裂しにくい「超長半減期の核のゴミ」)を核分裂させて、短半減期の[[セシウム]]等の[[核分裂生成物]]に変換しつつ核熱を発生させることができる。また、[[加速器駆動未臨界炉]]では 加速した陽子を鉛原子/ビスマス原子に衝突させて[[核破砕反応]]で高速中性子を発生させて、未臨界のマイナーアクチノイド燃料や高次プルトニウム燃料を高速中性子で核分裂させ、短半減期の核分裂生成物に変換しつつ核熱を発生させることが出来る。(所謂「核のゴミ焼却発電」。尚、[[タングステン]]を破砕ターゲットにして、陽子を衝突させる方法もあるが、冷却材とターゲットが同一のほうが冷却効率が高い。)また、水やガスより熱伝導率がよく冷却能力が高く、高圧を掛けなくても沸点が高いために、熱効率を向上できる。
== 人工衛星などの宇宙機 ==
[[人工衛星]]などの[[宇宙機]]に分子状コンタミネーション(有機物の汚染物)が付着すると、光学機器の透過率低下、放射板の太陽光吸収率増大、太陽電池パネルの電力発生率低下など様々な悪影響を及ぼす。宇宙空間においては、宇宙機自身が分子状コンタミネーションの発生源となるため、蒸発・再付着を避けるために打ち上げ前、正確には熱真空試験開始前に宇宙機自身にテープヒータを貼って伝熱加熱するか、ヒータパネルによる輻射加熱を行う。
宇宙機のベーキングは真空チャンバ内に入れて加熱する方法が最適であるが、コストや開発工程などの理由で大気圧下で加熱する場合もある。
== 関連項目 ==
* [[分子線エピタキシー法]]
* [[チャンバー]]
* [[真空]]
* [[真空チャンバー]]
* [[真空装置]]
* [[放出ガス]]
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棋士
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棋士(きし)は、囲碁や将棋などで対局することを主な職業とする人。アマチュアと区別するために、「プロ棋士」という呼称が使われることもある。
一部の古い文献などではチェスの選手を「棋士」と表記していることもあるが、国際チェス連盟では専業のプロとアマチュアを分けていないので表現としては正確ではない。競技会などもイロレーティング別にクラスが設定されており、参加する人間は単に「Player(選手)」と呼ばれる。
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棋士(きし)は、囲碁や将棋などで対局することを主な職業とする人。アマチュアと区別するために、「プロ棋士」という呼称が使われることもある。 棋士 (囲碁) - アジア各国ともプロ初段以上。女流棋士を含む(「女流棋士」は性別が女性の棋士のこと)。
棋士 (将棋) - プロ四段以上。女流棋士は含まない(「女流棋士」と「棋士」とは別制度)。
麻雀の棋士 - 競技麻雀の選手を指すことが多い。「日本プロ麻雀棋士会」という団体がある。「雀士」と呼ばれることもあるが、明確な定義はないので統一されていない。
連珠の棋士 - 連珠も棋士の名称を用いている。統括団体として日本連珠社 がある。明確な定義はないが、連珠の公式戦で実績を挙げている高段位の選手を棋士と称す場合が多い。
棋士 (チャンギ) - チャンギ(朝鮮象棋)の棋士。 一部の古い文献などではチェスの選手を「棋士」と表記していることもあるが、国際チェス連盟では専業のプロとアマチュアを分けていないので表現としては正確ではない。競技会などもイロレーティング別にクラスが設定されており、参加する人間は単に「Player(選手)」と呼ばれる。
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'''棋士'''(きし)は、[[囲碁]]や[[将棋]]などで[[対局]]することを主な[[職業]]とする人。[[アマチュア]]と区別するために、「[[プロフェッショナル|プロ]]棋士」という呼称が使われることもある。
* [[棋士 (囲碁)]] - [[アジア]]各国ともプロ初段以上。[[女流棋士 (囲碁)|女流棋士]]を含む(「女流棋士」は性別が[[女性]]の棋士のこと)。
* [[棋士 (将棋)]] - プロ四段以上。[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]は含まない(「女流棋士」と「棋士」とは別制度)。
* [[麻雀]]の棋士 - [[競技麻雀]]の選手を指すことが多い。「[[日本プロ麻雀棋士会]]」という団体がある。「[[雀士]]」と呼ばれることもあるが、明確な定義はないので統一されていない。
* 連珠の棋士 - [[連珠]]も棋士の名称を用いている。統括団体として[[日本連珠社]] [https://www.renjusha.net/]がある。明確な定義はないが、連珠の公式戦で実績を挙げている高段位の選手を棋士と称す場合が多い。
* [[棋士 (チャンギ)]] - [[チャンギ]](朝鮮象棋)の棋士。
一部の古い文献などでは[[チェス]]の選手を「棋士」と表記していることもあるが、[[国際チェス連盟]]では[[専業]]のプロとアマチュアを分けていないので表現としては正確ではない。競技会なども[[イロレーティング]]別にクラスが設定されており、参加する人間は単に「Player(選手)」と呼ばれる。
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棋戦
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棋戦(きせん)は、囲碁・将棋・麻雀の大会。
チェスの大会についつてはチェスのトーナメントを参照。
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棋戦(きせん)は、囲碁・将棋・麻雀の大会。 棋戦 (囲碁)
棋戦 (将棋)
棋戦 (麻雀) チェスの大会についつてはチェスのトーナメントを参照。
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'''棋戦'''(きせん)は、[[囲碁]]・[[将棋]]・[[麻雀]]の大会。
* [[棋戦 (囲碁)]]
* [[棋戦 (将棋)]]
* [[棋戦 (麻雀)]]
[[チェス]]の大会についつては[[:en:Chess tournament|チェスのトーナメント]]を参照。
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ロケット・ミサイル技術の年表
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ロケット・ミサイル技術の年表(ロケット・ミサイルぎじゅつのねんぴょう)は、ロケットおよびミサイルの技術に関する年表である。
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ロケット・ミサイル技術の年表(ロケット・ミサイルぎじゅつのねんぴょう)は、ロケットおよびミサイルの技術に関する年表である。
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'''ロケット・ミサイル技術の年表'''(ロケット・ミサイルぎじゅつのねんぴょう)は、[[ロケット]]および[[ミサイル]]の[[技術]]に関する[[年表一覧|年表]]である。
== 1901年 - 1950年 ==
* [[1903年]] - {{RUS1883}}、「[[宇宙旅行]]の父」[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー|コンスタンチン・エドゥアルドヴィッチ・ツィオルコフスキー]]は、大気圏外[[宇宙空間]]、[[宇宙服]]および[[太陽系]]の[[植民地]]化に到着するために[[ロケット|ロケット工学]]の使用について議論する理論を創始。彼の論文で議論されたポイントは[[ロケットエンジンの推進剤#液体燃料ロケット|液体燃料]]と[[着陸]]であった。
* [[1926年]] - {{USA1912}}、[[ロバート・ゴダード]] (Robert Goddard)が、液体燃料を用いた最初のロケットを打ち上げる。
* [[1942年]] - {{DEU1935}}、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]] (Wernher von Braun) および[[ヴァルター・ドルンベルガー]] (Walter Dornberger) が、ペーネミュンデ (Peenemuende:ドイツ北部のバルト海沿岸の小島) で世界初の弾道ミサイルである[[V2ロケット]]を打ち上げる。
* [[1943年]][[8月]] - {{DEU1935}}、世界初の対艦ミサイルである[[Hs 293 (ミサイル)|Hs 293]]を実戦配備。
* [[1945年]][[9月26日]] - {{USA1912}}、[[ジェット推進研究所]] (JPL) が、初の高層大気[[観測ロケット]]である[[RTV-G-1 (ロケット)|WACコーポラル]]を打ち上げる。
* [[1949年]][[3月1日]] - {{USA1912}}、[[ジェームズ・ヴァン・アレン]] (James Alfred Van Allen) らが、気球発射式ロケットである[[ロックーン]]の構想を発表。
* [[1949年]] - {{USA1912}}、[[ウィリー・レイ (作家)|ウィリー・レイ]]が、「宇宙空間の征服」を刊行。
* [[1950年]] - {{SSR}}、[[観測ロケット]]による気象観測を開始。
== 1951年 - 1960年 ==
* [[1952年]] - {{USA1912}}、フォン・ブラウンが、「火星プロジェクト」で[[火星]]の有人探査の技術的な詳細について議論する。
* [[1952年]] - {{FRA}}、[[ロケットの推進剤#液体燃料|液体燃料式]][[観測ロケット]][[ベロニク]] (Veronique) の試験を開始。
* [[1953年]] - {{USA1912}}、コリアーマガジン (Colliers Magazine) が宇宙空間における[[人類]]の[[未来]]についての記事シリーズを刊行し、世界中の人々の興味を掻きたてた。シリーズの多数の記事はレイとフォン・ブラウンによって、挿絵はチェスリー・ボンステル (Chesley Bonestell) による。
* [[1957年]][[8月21日]] - {{SSR}}、最初の[[大陸間弾道ミサイル]] (ICBM) である [[R-7 (ロケット)|R-7 (8K71)]] の打ち上げ。SS-6 Sapwoodとして NATO に知られていた。
* [[1957年]][[10月4日]] - {{SSR}}、最初の[[人工衛星]]である[[スプートニク1号]]を打ち上げ。
* [[1957年]][[11月3日]] - {{SSR}}、[[スプートニク2号]]を犬1頭([[ライカ (犬)|ライカ]])をのせて打ち上げ。
* [[1958年]][[1月31日]] - {{USA1912}}、最初のアメリカ製人工衛星である[[エクスプローラー1号]] (13.7kg) をジュピターCロケットに乗せて打ち上げ。
* [[1958年]][[12月13日]] - {{USA1912}}、[[ジュピター (ミサイル)|ジュピター・ミサイル]]を用いて[[リスザル]]の「[[ゴード]]」(Gordo)を打ち上げ。回収は失敗。
* [[1958年]][[12月18日]] - {{USA1912}}、最初のアメリカ製 ICBM「[[アトラス (ミサイル)|アトラスB]]」 (Atlas-B) を打ち上げ。(「アトラスA」は試験発射のみ。)
* [[1959年]][[1月2日]] - {{SSR}}、[[ルナ1号]]打ち上げ。[[月]]近傍を通過。初の[[人工惑星]]。
* [[1959年]][[3月3日]] - {{USA1912}}、ジュノーII型ロケットで月探査機[[パイオニア計画|パイオニア4号]]打上げ。アメリカ初の月探査に成功。
* [[1959年]][[9月12日]] -{{SSR}}、[[ルナ2号]]打ち上げ。初の月面到達。
* [[1959年]][[10月4日]] -{{SSR}}、[[ルナ3号]]打ち上げ。初の[[月の裏]]側の写真撮影。
* [[1960年]][[4月1日]] - {{USA1959}}、[[タイロス1号]]打ち上げ。初の[[気象衛星]]。
* [[1960年]][[4月13日]] - {{USA1959}}、[[トランシット1B号]]打ち上げ。初の航行衛星。
* [[1960年]][[8月12日]] - {{USA}}、パッシブ[[通信衛星]][[エコー1号]]打ち上げ。[[デルタロケット]]の初の打ち上げ成功。
* [[1960年]][[8月19日]] - {{SSR}}、[[スプートニク5号]]で犬2頭等を乗せて回収。
== 1961年 - 1970年 ==
* [[1961年]][[2月12日]] - {{SSR}}、[[ベネラ1号]]打ち上げ [[金星]]近傍通過。
* [[1961年]][[4月12日]] - {{SSR}}、最初の有人宇宙船である[[ボストーク1号]]を打ち上げ。搭乗は[[ユーリ・ガガーリン]]少佐。
* [[1961年]][[5月5日]] - {{USA}}、[[フリーダム7]]で弾道飛行。
* [[1962年]][[10月31日]] - {{USA}}、アンナ1号打ち上げ 初の測地衛星。
* [[1962年]][[11月1日]] - {{SSR}}、マルス1号を打ち上げ、翌年[[6月19日]]に[[火星]]近傍を通過。
* [[1962年]][[12月13日]] - {{USA}}、[[リレー1号]]を打ち上げ、翌年初の{{JPN}}{{USA}}間TV中継 (JFK)。
* [[1962年]][[2月20日]] - {{USA}}、[[マーキュリー計画|フレンドシップ7]]で軌道飛行。
* [[1962年]][[3月29日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州ロケット開発機構]] (ELDO) 発足。
* [[1962年]][[4月23日]] - {{USA}}、[[レインジャー4号]]打ち上げ。月面裏側に命中。
* [[1962年]][[6月14日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州宇宙研究機構]] (ESRO) 発足。
* [[1962年]][[7月10日]] - {{USA}}、テルスター1号打ち上げ 初の能動型通信衛星。
* [[1962年]][[7月11日]] - {{Flagicon|EU}}ヨーロッパ - {{USA}}間でテレビ中継に成功。
* [[1962年]][[9月29日]] - {{CAN1957}}、アメリカによりアルーエット1号打ち上げ。
* [[1963年]][[2月14日]] - {{USA}}、シンコム1号打ち上げ 同期軌道。
* [[1963年]][[6月16日]] - {{SSR}}、[[ボストーク6号]]打ち上げ、初の女性宇宙飛行士[[ワレンチナ・テレシコワ]]が搭乗。
* [[1963年]][[11月23日]] - リレー1号による{{JPN}}{{USA}}{{Flagicon|EU}}ヨーロッパ間テレビ中継。
* [[1964年]][[7月28日]] - {{USA}}、[[レインジャー7号]]打ち上げ 月の近接写真撮影に成功。
* [[1964年]][[10月10日]] - {{JPN}}{{USA}}、[[シンコム3号]]により[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の映像中継。
* [[1964年]][[10月12日]] - {{SSR}}、[[ボスホート1号]]により3人の宇宙飛行士を打ち上げ。
* [[1965年]][[3月18日]] - {{SSR}}、[[ボスホート2号]]打ち上げ アレクセイ・レオノフ宇宙飛行士が初の[[宇宙遊泳]]。
* [[1965年]][[4月23日]] - {{SSR}}、モルニア1号打ち上げのテレビ中継。
* [[1965年]][[4月3日]] - {{USA}}、スナップショット1号打ち上げ 初の[[イオンエンジン]]と小型原子炉スナップ10A。
* [[1965年]][[4月6日]] - {{USA}}、アーリーバード(インテルサット1号)打ち上げ 初の商業通信衛星。
* [[1965年]][[6月3日]] - {{USA}}、[[ジェミニ4号]]打ち上げ [[エド・ホワイト]]が宇宙遊泳。
* [[1965年]][[7月16日]] - {{SSR}}、プロトン1号打ち上げ ペイロードは同名の質量12トンの科学衛星プロトン1号。
* [[1965年]][[11月16日]] - {{SSR}}、[[ベネラ3号]]打ち上げ [[1966年]][[3月1日]]に金星到達。
* [[1965年]][[11月26日]] - {{FRA}}、自力でディアマンA1号打ち上げ [[フランス]]初の人工衛星。
* [[1965年]][[12月4日]] - {{USA}}、[[ジェミニ計画|ジェミニ6号・7号]]打ち上げ、ランデブー。
* [[1966年]][[1月31日]] - {{SSR}}、ルナ9号打ち上げ 月面軟着陸に成功。
* [[1966年]][[2月3日]] - {{USA}}、エッサ1号打ち上げ 気象衛星。
* [[1966年]][[3月16日]] - {{USA}}、[[ジェミニ8号]] [[アジェナ標的機]]とドッキング。
* [[1966年]][[3月31日]] - {{SSR}}、[[ルナ10号]]打ち上げ [[月周回軌道]]に投入成功。(孫衛星)
* [[1966年]][[5月30日]] - {{USA}}、[[サーベイヤー1号]]打ち上げ、月面軟着陸。
* [[1966年]][[8月10日]] - {{USA}}、ルナーオービター1号打ち上げ 孫衛星。
* [[1967年]][[1月27日]] - {{USA}}、[[アポロ1号]]が地上試験中に火災事故。宇宙飛行士3名死亡。
* [[1967年]][[4月16日]] - {{USA}}、[[サーベイヤー3号]]打ち上げ 月面のカラー写真撮影。
* [[1967年]][[4月24日]] - {{SSR}}、[[ソユーズ1号]]の回収に失敗し宇宙飛行士1名死亡。
* [[1967年]][[6月12日]] - {{SSR}}、ベネラ4号打ち上げ 金星に軟着陸し大気・気象を測定。
* [[1967年]][[10月30日]] - {{SSR}} コスモス186号と188号による初の無人ドッキング。
* [[1968年]][[9月15日]] - {{SSR}}、ゾンド5号で初の月往復。
* [[1968年]][[10月11日]] - {{USA}}、[[アポロ7号]]打ち上げ。地球軌道。
* [[1968年]][[12月21日]] - {{USA}}、[[アポロ8号]]打ち上げ。初の有人月周回飛行。
* [[1969年]][[1月14日]] - {{SSR}}、ソユーズ4号、5号で初の有人宇宙船同士のドッキング。
* [[1969年]][[1月15日]] - {{SSR}}、ソユーズ5号で打ち上げた3名の宇宙飛行士のうち2名がソユーズ4号へ移乗。
* [[1969年]][[7月16日]] - {{USA}}、[[アポロ11号]]打ち上げ。
* [[1969年]][[7月20日]] - {{USA}}、アポロ11号月着陸船「イーグル」が初の有人月面着陸。
* [[1970年]][[2月11日]] - {{JPN}}、[[宇宙科学研究所|東大宇宙研]]がL-4S-5号機で{{JPN}}初の人工衛星「[[おおすみ]]」打ち上げ。
* [[1970年]][[4月24日]] - {{CHN}}、[[長征 (ロケット)|長征]]で初の人工衛星「東方紅」打ち上げ。
* [[1970年]][[9月12日]] - {{SSR}}、ルナ16号打ち上げ 月面軟着陸後回収 初の無人サンプルリターン。
* [[1970年]][[11月10日]] - {{SSR}}、ルナ17号打ち上げ 月面車ルナホート1号で月面探査。
* [[1970年]][[12月12日]] - {{USA}}、初のX線天文衛星 ウフル打ち上げ。
== 1971年 - 1980年 ==
* [[1971年]][[4月19日]] - {{SSR}}、サリュート1号打ち上げ 初の[[宇宙ステーション]]で[[ソユーズ11号]]とドッキング。
* [[1971年]][[6月30日]] - {{SSR}}、ソユーズ11号帰還時の事故で宇宙飛行士3名死亡。
* [[1971年]][[9月28日]] - {{JPN}}、東大宇宙研が{{JPN}}初の[[科学衛星]]「[[しんせい (人工衛星)|しんせい]]」打ち上げ。
* [[1971年]][[10月4日]] - {{SSR}}、ルナ17号で打ち上げた無人月面車[[ルノホート1号]]の月面調査終了。
* [[1971年]][[10月28日]] - {{GBR}}、[[ブラック・アロー]]で[[プロスペロ]]打ち上げ、イギリス初の人工衛星。
* [[1972年]][[3月3日]] - {{USA}}、[[第三宇宙速度]]に達する最初の探査機である[[パイオニア10号]]を打ち上げ。1973年12月木星に最接近し画像撮影。
* [[1973年]][[4月5日]] - {{USA}}、[[パイオニア11号]]打ち上げ。1974年12月[[木星]]、1979年9月[[土星]]に最接近し画像撮影。
* [[1973年]][[5月14日]] - {{USA}}、[[スカイラブ計画|スカイラブ]]打ち上げ {{USA}}初の宇宙ステーション。
* [[1973年]][[11月3日]] - {{USA}}、[[マリナー10号]]打ち上げ 世界初の[[水星]]・金星探査機。
* [[1974年]][[11月21日]] - {{SSR}}、[[通信衛星]]モルニア3型1号機打ち上げ。
* [[1975年]][[4月19日]] - {{IND}}、{{SSR}}のロケットで「アリアバード」打ち上げ インド初の人工衛星。
* [[1975年]][[7月15日]] - {{USA}}{{SSR}}、ソユーズ19号とアポロのドッキング([[アポロ・ソユーズテスト計画]])。
* [[1975年]][[8月20日]] - {{USA}}、[[バイキング計画|ヴァイキング1号]] 打ち上げ。
* [[1975年]][[9月9日]] - {{JPN}}、[[宇宙開発事業団]] [[N-Iロケット]]1号機打ち上げ ETS-1 [[きく1号]]。
* [[1975年]][[9月9日]] - {{USA}}、[[ヴァイキング2号]] 打ち上げ。
* [[1976年]][[7月20日]] - {{USA}}、ヴァイキング1号のランダーが火星軟着陸。
* [[1976年]][[9月3日]] - {{USA}}、ヴァイキング2号のランダーが火星軟着陸。
* [[1977年]][[8月20日]] - {{USA}}、[[ボイジャー2号]]打ち上げ 木星、土星、天王星、海王星を探査。
* [[1977年]][[9月5日]] - {{USA}}、[[ボイジャー1号]]打ち上げ 木星、土星を探査。
* [[1978年]][[1月20日]] - {{SSR}}、[[プログレス補給船|プログレス1号]]打ち上げ 無人補給船で、サリュート6号にドッキング。
* [[1978年]][[5月20日]] - {{USA}}、[[パイオニア・ヴィーナス1号]]打ち上げ 金星の衛星として地表をレーダー観測。
* [[1978年]][[8月8日]] - {{USA}}、[[パイオニア・ヴィーナス2号]]打ち上げ 金星大気内にプローブを投入し大気を観測。
* [[1979年]][[1月16日]] - {{USA}}の宇宙ステーション・スカイラブ大気圏突入。
* [[1978年]][[1月24日]] - {{SSR}}の[[原子炉]]を搭載した人工衛星[[コスモス954号]]が[[カナダ]]の北部に落下。
* [[1979年]][[12月24日]] - {{flagicon|EU}}[[欧州宇宙機関|ESA]]の[[アリアン]]1型初の打上成功
== 1981年 - 2000年 ==
* [[1981年]][[2月11日]] - {{JPN}}、[[N-IIロケット]]第1号機打ち上げに成功
*[[1981年]][[4月12日]] - {{USA}}、[[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]初飛行
* [[1985年]][[1月8日]] - {{JPN}}、[[宇宙科学研究所]]が太陽系探査機「[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]」を打上げ
* [[1985年]][[7月2日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州宇宙機関|ESA]]、[[ハレー彗星]]探査機[[ジオット]]を打上げ
* [[1985年]][[8月19日]] - {{JPN}}、[[宇宙科学研究所]]がハレー彗星探査機「[[すいせい]]」を打上げ。翌年3月彗星に最接近し、「さきがけ」とともに観測に成功
* [[1986年]][[1月28日]] - {{USA}}、[[スペースシャトル]][[スペースシャトル・チャレンジャー|チャレンジャー]]が打ち上げ73秒後に爆発。宇宙飛行士7名死亡。
* [[1986年]][[2月19日]] - {{SSR}}、宇宙ステーション[[ミール]]打ち上げ。
* [[1986年]][[8月13日]] - {{JPN}}、[[H-Iロケット]]試験機1号機(2段式)打上に成功。初の複数衛星同時打上、{{JPN}}本初の[[アマチュア衛星]] ふじ1号を軌道に投入。
* [[1988年]][[6月15日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州宇宙機関|ESA]]、[[アリアン4]]型1号機の打上成功。
* [[1988年]][[9月19日]] - {{ISR}}、[[シャビット]]で[[オフェク1]]打ち上げ、{{ISR}}初の人工衛星。
* [[1988年]][[11月15日]] - {{SSR}}、[[エネルギア]]2号機でシャトル型宇宙船[[ブラン (オービタ)|ブラン]]打ち上げ。
* [[1989年]][[2月14日]] - {{USA}}、[[デルタロケット|デルタII型]]1号機打ち上げ成功。
* [[1990年]][[4月5日]] - {{USA}}、NASA,オービタルサイエンシズ社のロケット[[ペガサス (ロケット)|ペガサス]]初打ち上げ。空中発射型ロケットの初実用例。
* [[1994年]][[2月4日]] - {{JPN}}、[[H-IIロケット]]試験機1号機打ち上げ成功。
* [[1997年]][[10月30日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州宇宙機関|ESA]]、[[アリアン#アリアン5|アリアン5型ロケット]]打ち上げ初成功。
* [[1998年]][[11月20日]] - {{RUS}}、[[国際宇宙ステーション]]最初のモジュール、「[[ザーリャ]]」打ち上げ。
* [[2000年]][[7月12日]] - {{RUS}}、国際宇宙ステーションの居住モジュール、「[[ズヴェズダ_(ISS)|ズヴェズダ]]」の打上に成功、同年11月から[[宇宙飛行士]]の滞在が開始される。
== 2001年 - 2010年 ==
* [[2001年]][[3月23日]] - {{RUS}}、宇宙ステーション[[ミール]]が太平洋上の大気圏に突入、廃棄される。
* 2001年[[8月26日]] - {{JPN}}、[[H-IIAロケット]]試験機1号機打上成功。
* [[2002年]][[11月20日]] - {{USA}}、[[デルタロケット|デルタIV型]]1号機打ち上げ成功。
* [[2003年]][[2月1日]] - {{USA}}、[[スペースシャトル]]・[[コロンビア号空中分解事故]]。7人死亡。
* 2003年[[5月9日]] - {{JPN}}、小惑星探査機[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]打ち上げ。[[イオンエンジン]]による[[小惑星]]までの往復飛行を成し遂げ、2010年6月に地球帰還。
* 2003年[[6月2日]] - {{Flagicon|EU}}[[欧州宇宙機関|ESA]]、[[火星探査機]][[マーズ・エクスプレス]]打ち上げ成功。同年12月に[[火星周回軌道]]に投入成功するも、ビーグル2プローブの火星軟着陸は失敗。
* 2003年[[10月15日]] - {{CHN}}、[[有人宇宙飛行|有人宇宙船]][[神舟5号]]打ち上げ。
* [[2005年]][[7月26日]] - {{USA}}{{JPN}}、[[野口聡一]]を乗せた[[スペースシャトル]][[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]打ち上げ再開。
* [[2009年]][[2月2日]] - {{IRN}}、[[サフィール (イランのロケット)|サフィール]]で[[オミード]]打ち上げ。イラン初の人工衛星。
* 2009年[[9月11日]] - {{JPN}}、[[H-IIBロケット]]試験機1号機、[[宇宙ステーション補給機|HTV]]初号機打ち上げ成功。
* 2010年[[5月21日]] - {{JPN}}、金星探査機[[あかつき (探査機)|あかつき]]と小型[[太陽帆|ソーラー電力セイル]]実証機[[IKAROS]]打ち上げ。
== 外部リンク ==
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== 歴史 ==
=== 地域別 ===
* アジア<!--※基本的に近場から、日本、朝鮮、中国とその周辺、東南アジア、中央アジア、インドとその周辺、中近東の順が無難との意見。Cyclops 2008-10-->
** 日本
*** [[日本史時代区分表]]
*** [[日本史の出来事一覧]]
**** [[日本の女性史年表]]
**** [[幕末の年表]]
**** [[太平洋戦争の年表]]
**** [[沖縄県の年表]]
**** [[尖閣諸島関連年表]]
**** [[成田空港問題の年表]]
** 中国
*** [[中国の歴史年表]]
*** [[中国史時代区分表]]
** 台湾
*** [[台湾史年表]]
** 朝鮮半島
*** [[百済史年表]]
*** [[韓国の歴史年表]]
<!--
** 中央アジア・中央ユーラシア
*** [[ウイグル#年表]] ※何故ここに? 「節に年表あり」という事なら適応外。Cyclops 2008-10-->
* オリエント
** [[オリエント学#研究史|古代オリエントの考古学史年表]]
* アフリカ
** [[南アフリカ共和国年表]]
* ヨーロッパ
** [[イタリア・ルネサンス年表]]
** [[フランスの歴史年表]]
** [[フランス革命の年表]]
** [[清教徒革命の年表]]
* 南北アメリカ
** [[アメリカ大陸諸国の独立年表]]
** [[カナダ史年表]]
<!--
* オセアニア
* 南極、北極 ※追加あるならここが適所かと。-->
* 広域、多地域
** [[第二次世界大戦の年表]]
** [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]]
=== 事象別 ===
* [[条約の一覧]] :編年体形式。
* [[LGBT史年表]]
== 思想、宗教 ==
* [[キリスト教年表]]
* [[世界基督教統一神霊協会の年表]]
* [[コミンテルンの年表]]
== 科学、技術 ==
* [[発明の年表]]
=== 科学全般 ===
* [[科学実験の年表]]
* [[女性科学者に関する年表]]
=== 自然科学 ===
* 物理学
** [[古典力学の年表]]
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** [[熱力学・統計力学の年表]]
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* 天文学、地質学
** [[宇宙の年表]]
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** [[超新星に関する年表]]
** [[地球史年表]]
** [[地質時代]]
** [[地震の年表]]
* 生物学、化学
** [[化学元素発見の年表]]
** [[生物学と有機化学の年表]]
** [[雪の結晶の観察と研究の年表]]
=== 医学 ===
* [[医学と医療の年表]]
* [[ワクチンの年表]]
* [[抗菌剤の年表]]
=== 数学 ===
* [[数学の年表]]
* [[円周率の歴史]]
=== 技術、工学 ===
* 土木
** [[日本ダム史年表]]
** [[日本の道路年表]]
* 交通、軍事
** [[自動車の速度記録]]
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** [[宇宙開発の年表]]
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* その他
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== 経済 ==
* [[トヨタ自動車日本国内販売網年表]]
== 文化、生活 ==
=== 音楽 ===
* [[西洋音楽年表]]
=== 創作 ===
* [[歌舞伎の年表]]
* [[アニメの歴史]]
* [[コンピュータゲームの歴史]]
==== 作品中の世界 ====
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== その他 ==
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== 関連項目 ==
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日本ニュースネットワーク
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日本ニュースネットワーク(にっぽんニュースネットワーク、英: Nippon News Network)は、日本テレビ(NTV)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のNNN(エヌエヌエヌ)で言及されることが多い。
TBSテレビをキー局とするジャパン・ニュース・ネットワーク(JNN)に続いて日本で2番目に古いニュースネットワークであるが、フルネット局27局とクロスネット局3局で構成され、国内の民放テレビネットワークの加盟局数においては、国内最多である。
また、一般に本項で解説するNNNと、別項で解説する日本テレビネットワーク協議会(NNS)とを合わせて日本テレビ系列(日テレ系列、NTV系列)という(NNN、NNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。ニュースとは別関係の番組供給ネットワークであるNNSについては、当該項目を参照のこと。
日本テレビ(NTV)、読売テレビ(ytv)などを中心として1966年4月1日に結成。
NTVの初期のネット局である大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送テレビ・ANN加盟)や中部日本放送(CBC、現在のCBCテレビ)、北海道放送(HBC)、ラジオ九州(RKB、現在のRKB毎日放送)などはラジオ東京(→東京放送、現在のTBSテレビ)の「東京テレニュース」をネット受けしていたため、西日本放送(RNC)の開局までNTVのニュースにネットワークニュースは無かった。ytvやテレビ西日本(TNC・現在はFNN加盟)等系列局が順次開局したことに伴い、NTVもこれまで自局向けに制作されていた『NTVニュース』をそのままネット局に流す事を改め、ネット局向けの全国ニュースを制作することとなり、『あさ7時のニュース』、『日本テレニュース』、『ニュースフラッシュ』、『きょうの出来事』がネットワークニュースとして制作された。これらの番組は原則としてNTVが制作に当たったが、各局は取材協力を行うなど現在のNNNに近い体制であった。しかしながら、スポンサーはNTVが付け(のち各社独自の販売に変わる)、制作費もNTVが丸抱えをするなどこれらはあくまでもNTVの番組であった。
NNN発足当初は、福岡県を含む九州全域に系列局が存在しなかった(NNN発足時点は日本テレビが福岡に九州分室を設置して対応していた)。また中京地区も長らくクロスネットが継続(名古屋テレビ→中京テレビ)したことなど、JNNやFNNに比べ体制作りに時間を要した。
1994年に鹿児島讀賣テレビが加盟し現体制が完成。フルネット局27局とクロスネット局3局(福井放送、テレビ大分、テレビ宮崎)の計30局で形成されていて、日本最大である。佐賀県・沖縄県にはNNN(NNS)系列局が存在しない。また、ラテ兼営局は11局ある。
基幹局は日本テレビ、札幌テレビ、ミヤギテレビ、中京テレビ、読売テレビ、広島テレビ、福岡放送の7局で構成されていて、全てテレビ単営局である。
NNN(NNS)加盟局のうち、札幌テレビ、静岡第一テレビ、中京テレビ、読売テレビ、広島テレビ、福岡放送、長崎国際テレビ、くまもと県民テレビの8局は、日本テレビの放送持株会社「日本テレビホールディングス」の持分法適用関連会社(関連局)である。
地上デジタル放送のリモコンキーIDは、日本テレビを始めとして「4」が多いが、青森放送(RAB)・北日本放送(KNB)・四国放送(JRT)・日本海テレビ(NKT)が「1」、STV・FBSが「5」、福井放送(FBC)が「7」、ytvが「10」である。リモコンキーIDに「4」を使用しない放送局の内、FBS(アナログ親局37ch)・FBC(アナログ親局11ch)以外は、アナログ親局の送信チャンネル番号を引き継いだ。
2012年10月より、日本テレビの資本がある神奈川県の県域ラジオ・アール・エフ・ラジオ日本の定時ニュースにおいて、従来の読売新聞グループ本社に加え、NNNが取材・編集協力を行っている。これに伴いラジオ日本の定時ニュースの題名も「読売新聞ニュース」から「ラジオ日本ニュース」に改題された。この他にも福井放送などラテ兼営の加盟局でラジオの定時ニュースにおける全国ニュースのニュースソースにNNNを使用するところがある。
また、2012年10月1日には、日本テレビの持株会社移行(社名を日本テレビホールディングスに変更)に伴い、キー局がテレビ放送事業を旧社から承継する新法人の日本テレビ放送網に変更した。
「NNN」のロゴは日本テレビ本社の汐留(港区東新橋)移転に伴い、シンボル的に別バージョン(記事冒頭の画像参照)が報道局内など一部に掲示されているが、正式なロゴの変更は行われていない。一方で最近では番組タイトルロゴ上では正式ロゴはあまり使われずにそれぞれの番組ロゴのフォントに合わせられるのが主流で、2021年11月まで正式ロゴを唯一採用していた『NNNニュースサンデー』も、同年12月以降は使用しなくなったため、放送上正式ロゴが使われる機会は後述の取材局テロップや速報テロップなど一部に限られている。また、2000年代頃からは『news every.』の様にタイトル自体にNNNを冠さない番組も放送される様になったほか、2021年からは『NNNストレイトニュース』のリニューアルを皮切りに、番組名の変更は無いものの、既存のNNNを冠する番組ロゴからNNNの表記が除かれている。
地方発のニュースの場合は毎回ニュースVTR終わり時、画面右上に日本地図とともにNNNのロゴと配信元の放送局名が表記されている。2局以上にまたがる場合は連名表記され、地震や大事件・事故発生の場合は近隣地域局と日本テレビも含むので「NNN 取材団」と表記される。毎回表記されるのはNNNくらいである。当初は単に「(系列局名)取材」と表記していた。なお、『news zero』は純粋なNNN枠でないためか表記されない。また『news every.』も一部ニュースは日本テレビの番組取材班が直接乗り込むためか表記されないこともある。その一方で、『Oha!4 NEWS LIVE』では地上波では完全全国ネットではないものの、CS放送・日テレNEWS24でもサイマルネットされていることもあり発信元の系列局表記がある。
[例] [読売テレビ] [日本地図] [NNN]、[中京テレビ 札幌テレビ] [日本地図] [NNN]、[取材団] [日本地図] [NNN]
単発番組など一部の制作系番組においては過去に、日本テレビの略称「NTV」ロゴの「N」部分を並べてNNNのロゴとして使用していた例があった。また、地震や台風等の災害報道においてNNN取材団などが被るヘルメットにもこのロゴが使用されていたことがある。似たような事例として、汐留移転直後の2004年度に放送された『NNNニュースサタデー』でも、ニュース専門チャンネル『NNN24』(現・日テレNEWS24)のロゴを借用していた。
ロゴマークの色は原則赤で「NNN」と表示する。
テロップのフォント・デザインについては、2021年11月7日から『NNNストレイトニュース』のフォーマットに統一していた(情報番組内のニュースコーナーも含む)が、2023年3月27日からは、NNNストレイトニュースも含めて、見出しテロップを除いて『news every.』と同様のフォーマットに統一している。なお、『Oha!4 NEWS LIVE』『news every.』『news zero』では各番組独自デザインのテロップを使用している。
この表は、日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
●印は加盟当時メインネットであった。
2021年3月現在。なお、実際の運営・設置(NNN/NNS)加盟局が地方局の場合、特派員は一旦日本テレビに出向した後、現地に派遣される形式になっている。従って海外では地方局出身者も、日本テレビ社員の肩書と、日本テレビから支給された名刺を使用し取材活動を行う。リポート・中継の際、記者の氏名テロップにはNNNの後に取材地域名が表記される。
2023年10月10日、日本テレビのニュースサイト「日テレNEWS」を改題した上で、NNN加盟全30局による統合ニュースサイト『日テレNEWS NNN』としてリニューアルし、サービスを開始した。NNN加盟全30局が、取材力・制作力・発信力を結集させ、地上波だけでなくデジタルにおいても、地域No.1、日本No.1の信頼ある報道メディアを目指し、これまで展開してきたニュースや24時間ニュースチャンネルの日テレNEWS24などのコンテンツに加え、NNN加盟局のローカルニュースや特集、ドキュメンタリーも配信するとしている。
ブランドタグラインは『見つかるのは、未来のきっかけ。』
「日テレNEWS NNN」が設立されるまでは、NNN加盟局でそれぞれ放送したローカルニュースのニュース動画を配信するページは、NNNの加盟局ごとに運営。日テレNEWSで配信するニュース動画はローカルニュース含め、NNN枠にて放送されたニュース及び、日本テレビにて放送されたニュースのみに留まっていた。
しかし同日からは、「日テレNEWS NNN」のサービス開始に伴い、加盟局側のページの大半を「日テレNEWS NNN」のサイトへ集約。同サイト内では、NNN加盟全30局のそれぞれのロゴを用いて「(加盟局)NEWS NNN」というロゴが用いられているほか、「NNN」のロゴはNNN発足当時から使用されている正式なロゴや、2003年10月から日本テレビ報道フロア内の看板で使用されているロゴではない新たなものが使用されている。
選挙・台風・地震・北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
開票状況を伝える特別番組を放送。出口調査などを駆使して早く、分かりやすく伝える。なお選挙テレビ特番で多くのテレビ局が実施している、議席数や当確情報を表示する通称「L字画面」は、国政選挙速報をプロ野球中継と確立させるために実施したのが始まりである。
震度3以上を観測した揺れについては、ニュース速報の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える。なお、「NNNニュース速報」は地上波(関東ほか一部系列局。送出元の放送局名を使用する局もある。)のほかBS日テレ、日テレNEWS24でも表示される。2011年5月頃までのテロップ送出について、日本テレビは震度階級改定前の1988年頃から1996年3月頃までは0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるものであった。震度階級改定後の1996年4月頃から汐留に移転する前の2004年2月28日までは0.01秒毎に1文字ずつ素早く表示されていたが、本社を汐留に移転後の2004年2月29日からはこの演出は廃止された。ほとんどの系列局では0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるといった演出だった。2011年6月頃からニュース速報フォントがNNN各種ニュース番組とほぼ同じ、輪郭が太めになってなおかつ滑らかな、イワタ新ゴシックのフォントとなった。速報チャイム音はBS日テレ・日テレNEWS24・クロスネットであるテレビ大分も含め大半の系列局がドミソ音に似せたチャイム音(※『ピコリーン...』の1音、1995年4月から使用。)(一部例外あり〈例:青森放送・四国放送等では1世代前のチャイム音を使用<※『ピロピロリーン...ピロピロリーン...』の2音、日本テレビにて1995年3月まで使用。>、ミヤギテレビ・山梨放送・テレビ新潟・テレビ信州・静岡第一テレビ・南海放送・福岡放送・鹿児島読売テレビ等では独自の効果音を使用、秋田放送・福島中央テレビ・西日本放送ではチャイム音を使用していない。〉)となっている。各局の大半では共通であるが、ニュース速報・気象警報・交通情報のいずれもタイトル表示時は2回点滅する。また、ANN系の長野朝日放送でも使用されている他、1代前のチャイム音は、前述の青森放送等の他、独立局の群馬テレビでも使用されていた。
かつては日立製作所が開発した「NNN報道情報システム」と日本電信電話(NTT)が保有している5本の電話回線を通して、日本テレビからNNN加盟各局に向けてニュースや地震・津波速報を配信。逆に国政選挙時における選挙特番では加盟各局から同システムにて送信した放送エリア内の選挙情報を日本テレビが受信していた。
緊急地震速報では、2011年5月頃までは「NNN緊急地震速報」というテロップが最初に表示され、その後強い揺れが予想される地域が表示されるという仕組みだった。表示範囲が1行16文字という短さもあって、強い揺れが予想される地域が多い時は「関東など」というように都道府県名・支庁名ではなく地方名・北海道内エリア名で表示することがあり、文字数制限により具体的な地域名が表示されずわかりにくいといったデメリットがあった。2011年6月頃からは画面上に部分的な赤のカラーバックの枠内(テレビ信州など、赤のカラーバックを使用しない局もある)で強い揺れが予想される地域が表示され、画面右下に揺れが予想される地域を中心にした地図が表示される(地上波・BS日テレ・日テレNEWS24共通のフォーマット)。表示範囲が1行22文字に増えたことにより、都道府県名・支庁名で表示される範囲が広がり、具体的な地域名が表示されやすくなった。2018年からは左に「緊急地震」と表示されるようになった上、地図上に震源地が表示されるようになった。速報音は日本テレビとBS日テレ、日テレNEWS24はNHKと同じチャイム音と村山喜彦(日本テレビアナウンサー)による自動音声が2回繰り返しで入る。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の措置をとる。
なお、2007年1月13日13時24分(日本時間)に千島列島沖で発生したM8.2の地震では12分後の13時36分に津波警報・注意報が発表されたが、NNN系列(BS・CS含む)では警報・注意報が出される地域を表示する“日本地図”が、警報・注意報発表から約18分後の13時54分になって表示されていた(NHKとNNN以外の他系列はすぐに表示)。なお、日テレNEWS24に至っては、13時53分になって“速報”という形で津波情報を放送した。又、2009年9月30日2時48分(日本時間)にサモア沖で発生した地震による津波注意報発表でも同様の事例が起きている。
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。又、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。
沖縄県はアメリカ占領下の1960年前後に相次いで開局した沖縄テレビ、琉球放送の2局とも拘束性の強い単独ネットで開局した。前者はフジテレビとの資本提携で開局し、九州などの第2局がフジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日の3局クロスで開局したのを尻目に、NHK沖縄放送局の前身の沖縄放送協会開局後、1969年に正式に単独ネット局に。後者は草創期の九州のネット回線の都合からTBS系列に加盟しJNN協定でクロスネットが認められなかったためであった。なお、沖縄テレビを開局させた同社初代社長・具志頭得助はフジテレビの前に日本テレビを訪れ、「時期尚早」と断られている。
その後、1989年に設立された南西放送を日本テレビ系列として開局させる計画があった。民放テレビ第3、4局の周波数が割り当てられていたこともあり、琉球朝日放送(テレビ朝日系列)とともに1995年秋の同時開局が有力視されていたが、日本テレビの沖縄進出凍結に伴って計画は頓挫し、1999年には沖縄県の民放テレビ第4局用の周波数割当そのものが取り消された(宮崎県内でも、3局目を日本テレビ系で開局する予定で社屋用地も取得していたが、諸事情で計画が頓挫し周波数割当そのものが取り消された)。
アメリカ合衆国の支援を受けて開局した日本テレビの歴史的経緯(親米テレビ局の初期印象)で沖縄県の地元新聞社の支持を得られなかったことが沖縄県未開局の遠因とされる。沖縄テレビは琉球新報と、琉球放送は沖縄タイムスと協力関係にあり、琉球朝日放送は沖縄タイムスが朝日新聞と協力関係にあることから琉球放送との「1局2波」方式で開局している。
計画が頓挫した南西放送には、沖縄テレビが日本テレビ系列番組を多く放送している経緯もあり、フジテレビも出資していた。
現在は日本テレビで放送されている番組の一部は沖縄テレビ(フジテレビ系列)(『NTV土曜ドラマ』・『おしゃれクリップ』などの番組提供付きの番組などを放送)と琉球放送(TBS系列、一時期は『木曜スペシャル』を同時ネットしていたが、現在は主に午後・深夜枠でローカル扱いの番組で放送)で放送されている。また、CS★日テレで日本テレビの番組を沖縄でも視聴することができたが、2000年9月の放送終了に伴い、ほとんどの日本テレビの番組がリアルタイムで見られなくなった。さらに、政府の事業仕分けにより、最後まで沖縄テレビで同時ネットされていた政府広報番組『ご存じですか』と『新ニッポン探検隊』が2010年3月に終了したため、沖縄県内で日本テレビから同時ネットされているレギュラー番組は無くなった。毎年大晦日に放送されていた『笑ってはいけないシリーズ』は、全都道府県の中で唯一沖縄県のみリアルタイムでの放送実績が無かった。
なお、2019年8月1日より沖縄ケーブルネットワーク、2022年10月1日より宮古テレビにて、鹿児島讀賣テレビの区域外再放送による日本テレビ系列番組の放送が情報番組・報道番組の一部に限り開始された。また、2020年10月3日からは「日テレ系ライブ配信」(現・日テレ系リアルタイム配信)でゴールデンタイム・プライムタイムの一部番組もインターネット経由で視聴可能となった。
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"text": "NTVの初期のネット局である大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送テレビ・ANN加盟)や中部日本放送(CBC、現在のCBCテレビ)、北海道放送(HBC)、ラジオ九州(RKB、現在のRKB毎日放送)などはラジオ東京(→東京放送、現在のTBSテレビ)の「東京テレニュース」をネット受けしていたため、西日本放送(RNC)の開局までNTVのニュースにネットワークニュースは無かった。ytvやテレビ西日本(TNC・現在はFNN加盟)等系列局が順次開局したことに伴い、NTVもこれまで自局向けに制作されていた『NTVニュース』をそのままネット局に流す事を改め、ネット局向けの全国ニュースを制作することとなり、『あさ7時のニュース』、『日本テレニュース』、『ニュースフラッシュ』、『きょうの出来事』がネットワークニュースとして制作された。これらの番組は原則としてNTVが制作に当たったが、各局は取材協力を行うなど現在のNNNに近い体制であった。しかしながら、スポンサーはNTVが付け(のち各社独自の販売に変わる)、制作費もNTVが丸抱えをするなどこれらはあくまでもNTVの番組であった。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "NNN発足当初は、福岡県を含む九州全域に系列局が存在しなかった(NNN発足時点は日本テレビが福岡に九州分室を設置して対応していた)。また中京地区も長らくクロスネットが継続(名古屋テレビ→中京テレビ)したことなど、JNNやFNNに比べ体制作りに時間を要した。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1994年に鹿児島讀賣テレビが加盟し現体制が完成。フルネット局27局とクロスネット局3局(福井放送、テレビ大分、テレビ宮崎)の計30局で形成されていて、日本最大である。佐賀県・沖縄県にはNNN(NNS)系列局が存在しない。また、ラテ兼営局は11局ある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "基幹局は日本テレビ、札幌テレビ、ミヤギテレビ、中京テレビ、読売テレビ、広島テレビ、福岡放送の7局で構成されていて、全てテレビ単営局である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "NNN(NNS)加盟局のうち、札幌テレビ、静岡第一テレビ、中京テレビ、読売テレビ、広島テレビ、福岡放送、長崎国際テレビ、くまもと県民テレビの8局は、日本テレビの放送持株会社「日本テレビホールディングス」の持分法適用関連会社(関連局)である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "地上デジタル放送のリモコンキーIDは、日本テレビを始めとして「4」が多いが、青森放送(RAB)・北日本放送(KNB)・四国放送(JRT)・日本海テレビ(NKT)が「1」、STV・FBSが「5」、福井放送(FBC)が「7」、ytvが「10」である。リモコンキーIDに「4」を使用しない放送局の内、FBS(アナログ親局37ch)・FBC(アナログ親局11ch)以外は、アナログ親局の送信チャンネル番号を引き継いだ。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2012年10月より、日本テレビの資本がある神奈川県の県域ラジオ・アール・エフ・ラジオ日本の定時ニュースにおいて、従来の読売新聞グループ本社に加え、NNNが取材・編集協力を行っている。これに伴いラジオ日本の定時ニュースの題名も「読売新聞ニュース」から「ラジオ日本ニュース」に改題された。この他にも福井放送などラテ兼営の加盟局でラジオの定時ニュースにおける全国ニュースのニュースソースにNNNを使用するところがある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、2012年10月1日には、日本テレビの持株会社移行(社名を日本テレビホールディングスに変更)に伴い、キー局がテレビ放送事業を旧社から承継する新法人の日本テレビ放送網に変更した。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "「NNN」のロゴは日本テレビ本社の汐留(港区東新橋)移転に伴い、シンボル的に別バージョン(記事冒頭の画像参照)が報道局内など一部に掲示されているが、正式なロゴの変更は行われていない。一方で最近では番組タイトルロゴ上では正式ロゴはあまり使われずにそれぞれの番組ロゴのフォントに合わせられるのが主流で、2021年11月まで正式ロゴを唯一採用していた『NNNニュースサンデー』も、同年12月以降は使用しなくなったため、放送上正式ロゴが使われる機会は後述の取材局テロップや速報テロップなど一部に限られている。また、2000年代頃からは『news every.』の様にタイトル自体にNNNを冠さない番組も放送される様になったほか、2021年からは『NNNストレイトニュース』のリニューアルを皮切りに、番組名の変更は無いものの、既存のNNNを冠する番組ロゴからNNNの表記が除かれている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "地方発のニュースの場合は毎回ニュースVTR終わり時、画面右上に日本地図とともにNNNのロゴと配信元の放送局名が表記されている。2局以上にまたがる場合は連名表記され、地震や大事件・事故発生の場合は近隣地域局と日本テレビも含むので「NNN 取材団」と表記される。毎回表記されるのはNNNくらいである。当初は単に「(系列局名)取材」と表記していた。なお、『news zero』は純粋なNNN枠でないためか表記されない。また『news every.』も一部ニュースは日本テレビの番組取材班が直接乗り込むためか表記されないこともある。その一方で、『Oha!4 NEWS LIVE』では地上波では完全全国ネットではないものの、CS放送・日テレNEWS24でもサイマルネットされていることもあり発信元の系列局表記がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "[例] [読売テレビ] [日本地図] [NNN]、[中京テレビ 札幌テレビ] [日本地図] [NNN]、[取材団] [日本地図] [NNN]",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "単発番組など一部の制作系番組においては過去に、日本テレビの略称「NTV」ロゴの「N」部分を並べてNNNのロゴとして使用していた例があった。また、地震や台風等の災害報道においてNNN取材団などが被るヘルメットにもこのロゴが使用されていたことがある。似たような事例として、汐留移転直後の2004年度に放送された『NNNニュースサタデー』でも、ニュース専門チャンネル『NNN24』(現・日テレNEWS24)のロゴを借用していた。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ロゴマークの色は原則赤で「NNN」と表示する。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "テロップのフォント・デザインについては、2021年11月7日から『NNNストレイトニュース』のフォーマットに統一していた(情報番組内のニュースコーナーも含む)が、2023年3月27日からは、NNNストレイトニュースも含めて、見出しテロップを除いて『news every.』と同様のフォーマットに統一している。なお、『Oha!4 NEWS LIVE』『news every.』『news zero』では各番組独自デザインのテロップを使用している。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "この表は、日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。",
"title": "加盟局"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "●印は加盟当時メインネットであった。",
"title": "加盟局"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2021年3月現在。なお、実際の運営・設置(NNN/NNS)加盟局が地方局の場合、特派員は一旦日本テレビに出向した後、現地に派遣される形式になっている。従って海外では地方局出身者も、日本テレビ社員の肩書と、日本テレビから支給された名刺を使用し取材活動を行う。リポート・中継の際、記者の氏名テロップにはNNNの後に取材地域名が表記される。",
"title": "海外支局"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2023年10月10日、日本テレビのニュースサイト「日テレNEWS」を改題した上で、NNN加盟全30局による統合ニュースサイト『日テレNEWS NNN』としてリニューアルし、サービスを開始した。NNN加盟全30局が、取材力・制作力・発信力を結集させ、地上波だけでなくデジタルにおいても、地域No.1、日本No.1の信頼ある報道メディアを目指し、これまで展開してきたニュースや24時間ニュースチャンネルの日テレNEWS24などのコンテンツに加え、NNN加盟局のローカルニュースや特集、ドキュメンタリーも配信するとしている。",
"title": "日テレNEWS NNN"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ブランドタグラインは『見つかるのは、未来のきっかけ。』",
"title": "日テレNEWS NNN"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "「日テレNEWS NNN」が設立されるまでは、NNN加盟局でそれぞれ放送したローカルニュースのニュース動画を配信するページは、NNNの加盟局ごとに運営。日テレNEWSで配信するニュース動画はローカルニュース含め、NNN枠にて放送されたニュース及び、日本テレビにて放送されたニュースのみに留まっていた。",
"title": "日テレNEWS NNN"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しかし同日からは、「日テレNEWS NNN」のサービス開始に伴い、加盟局側のページの大半を「日テレNEWS NNN」のサイトへ集約。同サイト内では、NNN加盟全30局のそれぞれのロゴを用いて「(加盟局)NEWS NNN」というロゴが用いられているほか、「NNN」のロゴはNNN発足当時から使用されている正式なロゴや、2003年10月から日本テレビ報道フロア内の看板で使用されているロゴではない新たなものが使用されている。",
"title": "日テレNEWS NNN"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "選挙・台風・地震・北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "開票状況を伝える特別番組を放送。出口調査などを駆使して早く、分かりやすく伝える。なお選挙テレビ特番で多くのテレビ局が実施している、議席数や当確情報を表示する通称「L字画面」は、国政選挙速報をプロ野球中継と確立させるために実施したのが始まりである。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "震度3以上を観測した揺れについては、ニュース速報の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える。なお、「NNNニュース速報」は地上波(関東ほか一部系列局。送出元の放送局名を使用する局もある。)のほかBS日テレ、日テレNEWS24でも表示される。2011年5月頃までのテロップ送出について、日本テレビは震度階級改定前の1988年頃から1996年3月頃までは0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるものであった。震度階級改定後の1996年4月頃から汐留に移転する前の2004年2月28日までは0.01秒毎に1文字ずつ素早く表示されていたが、本社を汐留に移転後の2004年2月29日からはこの演出は廃止された。ほとんどの系列局では0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるといった演出だった。2011年6月頃からニュース速報フォントがNNN各種ニュース番組とほぼ同じ、輪郭が太めになってなおかつ滑らかな、イワタ新ゴシックのフォントとなった。速報チャイム音はBS日テレ・日テレNEWS24・クロスネットであるテレビ大分も含め大半の系列局がドミソ音に似せたチャイム音(※『ピコリーン...』の1音、1995年4月から使用。)(一部例外あり〈例:青森放送・四国放送等では1世代前のチャイム音を使用<※『ピロピロリーン...ピロピロリーン...』の2音、日本テレビにて1995年3月まで使用。>、ミヤギテレビ・山梨放送・テレビ新潟・テレビ信州・静岡第一テレビ・南海放送・福岡放送・鹿児島読売テレビ等では独自の効果音を使用、秋田放送・福島中央テレビ・西日本放送ではチャイム音を使用していない。〉)となっている。各局の大半では共通であるが、ニュース速報・気象警報・交通情報のいずれもタイトル表示時は2回点滅する。また、ANN系の長野朝日放送でも使用されている他、1代前のチャイム音は、前述の青森放送等の他、独立局の群馬テレビでも使用されていた。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "かつては日立製作所が開発した「NNN報道情報システム」と日本電信電話(NTT)が保有している5本の電話回線を通して、日本テレビからNNN加盟各局に向けてニュースや地震・津波速報を配信。逆に国政選挙時における選挙特番では加盟各局から同システムにて送信した放送エリア内の選挙情報を日本テレビが受信していた。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "緊急地震速報では、2011年5月頃までは「NNN緊急地震速報」というテロップが最初に表示され、その後強い揺れが予想される地域が表示されるという仕組みだった。表示範囲が1行16文字という短さもあって、強い揺れが予想される地域が多い時は「関東など」というように都道府県名・支庁名ではなく地方名・北海道内エリア名で表示することがあり、文字数制限により具体的な地域名が表示されずわかりにくいといったデメリットがあった。2011年6月頃からは画面上に部分的な赤のカラーバックの枠内(テレビ信州など、赤のカラーバックを使用しない局もある)で強い揺れが予想される地域が表示され、画面右下に揺れが予想される地域を中心にした地図が表示される(地上波・BS日テレ・日テレNEWS24共通のフォーマット)。表示範囲が1行22文字に増えたことにより、都道府県名・支庁名で表示される範囲が広がり、具体的な地域名が表示されやすくなった。2018年からは左に「緊急地震」と表示されるようになった上、地図上に震源地が表示されるようになった。速報音は日本テレビとBS日テレ、日テレNEWS24はNHKと同じチャイム音と村山喜彦(日本テレビアナウンサー)による自動音声が2回繰り返しで入る。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の措置をとる。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、2007年1月13日13時24分(日本時間)に千島列島沖で発生したM8.2の地震では12分後の13時36分に津波警報・注意報が発表されたが、NNN系列(BS・CS含む)では警報・注意報が出される地域を表示する“日本地図”が、警報・注意報発表から約18分後の13時54分になって表示されていた(NHKとNNN以外の他系列はすぐに表示)。なお、日テレNEWS24に至っては、13時53分になって“速報”という形で津波情報を放送した。又、2009年9月30日2時48分(日本時間)にサモア沖で発生した地震による津波注意報発表でも同様の事例が起きている。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。又、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。",
"title": "報道特別番組"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "沖縄県はアメリカ占領下の1960年前後に相次いで開局した沖縄テレビ、琉球放送の2局とも拘束性の強い単独ネットで開局した。前者はフジテレビとの資本提携で開局し、九州などの第2局がフジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日の3局クロスで開局したのを尻目に、NHK沖縄放送局の前身の沖縄放送協会開局後、1969年に正式に単独ネット局に。後者は草創期の九州のネット回線の都合からTBS系列に加盟しJNN協定でクロスネットが認められなかったためであった。なお、沖縄テレビを開局させた同社初代社長・具志頭得助はフジテレビの前に日本テレビを訪れ、「時期尚早」と断られている。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後、1989年に設立された南西放送を日本テレビ系列として開局させる計画があった。民放テレビ第3、4局の周波数が割り当てられていたこともあり、琉球朝日放送(テレビ朝日系列)とともに1995年秋の同時開局が有力視されていたが、日本テレビの沖縄進出凍結に伴って計画は頓挫し、1999年には沖縄県の民放テレビ第4局用の周波数割当そのものが取り消された(宮崎県内でも、3局目を日本テレビ系で開局する予定で社屋用地も取得していたが、諸事情で計画が頓挫し周波数割当そのものが取り消された)。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国の支援を受けて開局した日本テレビの歴史的経緯(親米テレビ局の初期印象)で沖縄県の地元新聞社の支持を得られなかったことが沖縄県未開局の遠因とされる。沖縄テレビは琉球新報と、琉球放送は沖縄タイムスと協力関係にあり、琉球朝日放送は沖縄タイムスが朝日新聞と協力関係にあることから琉球放送との「1局2波」方式で開局している。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "計画が頓挫した南西放送には、沖縄テレビが日本テレビ系列番組を多く放送している経緯もあり、フジテレビも出資していた。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "現在は日本テレビで放送されている番組の一部は沖縄テレビ(フジテレビ系列)(『NTV土曜ドラマ』・『おしゃれクリップ』などの番組提供付きの番組などを放送)と琉球放送(TBS系列、一時期は『木曜スペシャル』を同時ネットしていたが、現在は主に午後・深夜枠でローカル扱いの番組で放送)で放送されている。また、CS★日テレで日本テレビの番組を沖縄でも視聴することができたが、2000年9月の放送終了に伴い、ほとんどの日本テレビの番組がリアルタイムで見られなくなった。さらに、政府の事業仕分けにより、最後まで沖縄テレビで同時ネットされていた政府広報番組『ご存じですか』と『新ニッポン探検隊』が2010年3月に終了したため、沖縄県内で日本テレビから同時ネットされているレギュラー番組は無くなった。毎年大晦日に放送されていた『笑ってはいけないシリーズ』は、全都道府県の中で唯一沖縄県のみリアルタイムでの放送実績が無かった。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、2019年8月1日より沖縄ケーブルネットワーク、2022年10月1日より宮古テレビにて、鹿児島讀賣テレビの区域外再放送による日本テレビ系列番組の放送が情報番組・報道番組の一部に限り開始された。また、2020年10月3日からは「日テレ系ライブ配信」(現・日テレ系リアルタイム配信)でゴールデンタイム・プライムタイムの一部番組もインターネット経由で視聴可能となった。",
"title": "沖縄県にNNNが存在しない理由"
}
] |
日本ニュースネットワークは、日本テレビ(NTV)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のNNN(エヌエヌエヌ)で言及されることが多い。 TBSテレビをキー局とするジャパン・ニュース・ネットワーク(JNN)に続いて日本で2番目に古いニュースネットワークであるが、フルネット局27局とクロスネット局3局で構成され、国内の民放テレビネットワークの加盟局数においては、国内最多である。 また、一般に本項で解説するNNNと、別項で解説する日本テレビネットワーク協議会(NNS)とを合わせて日本テレビ系列(日テレ系列、NTV系列)という(NNN、NNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。ニュースとは別関係の番組供給ネットワークであるNNSについては、当該項目を参照のこと。
|
{{pathnav|frame=1|テレビネットワーク|日本のテレビネットワーク|日本テレビ系|this=日本ニュースネットワーク(NNN)}}
{{混同|x1=[[テレビ朝日]]をキー局とする|オールニッポン・ニュースネットワーク|x2=[[TBSテレビ]]をキー局とする|ジャパン・ニュース・ネットワーク}}
{{Redirect|日テレNEWS|ニュースサイト|日テレNEWS24}}
{{Redirect|NNN|化学物質|N-ニトロソノルニコチン}}
[[ファイル:NNN logo red.svg|thumb|NNNの正式なロゴ。現在はニュース速報及び一部系列局<!---青森放送など--->のニューススタジオでこのロゴが使われている。(1966年 - 現在)]]
[[ファイル:NNN logo.svg|thumb|主に報道フロア内の看板で使用されている「NNN」ロゴ(2003年10月 - 現在)]]
'''日本ニュースネットワーク'''(にっぽんニュースネットワーク、{{lang-en-short|''Nippon News Network''}})は、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]](NTV)を[[キー局]]とする、[[日本国|日本]]の[[民間放送|民放テレビ局]]の[[ニュース系列|ニュースネットワーク]]である。略称の'''NNN'''(エヌエヌエヌ)で言及されることが多い<ref>{{Cite web|和書|author=札幌テレビ放送|date=2017-03-03|title=2016年:NNN賞年間表彰 STVは最優秀賞と優秀賞のW受賞|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000032.000021750.html|works=PRTIMES|accessdate=2018-04-20}}</ref>。
[[TBSテレビ]]をキー局とする[[ジャパン・ニュース・ネットワーク]](JNN)に続いて日本で2番目に古いニュースネットワークであるが、フルネット局27局とクロスネット局3局で構成され、国内の民放テレビネットワークの加盟局数においては、国内最多である<ref name="NET" group="注釈">JNNはフルネット28局([[JNN排他協定|排他協定]]の規則により[[クロスネット局|クロスネット]]は禁止)、FNNはフルネット26局とクロスネット2局、ANNはフルネット24局とクロスネット2局である。また、[[テレビ東京]]系列の[[TXNネットワーク|TXN]]は大都市圏中心のフルネット6局のみ(TXNが正式に発足する前は[[クロスネット局]]が存在したが、発足してからは[[クロスネット局|クロスネット]]が禁止されるようになった)である(FNN以外はニュースネットワークと番組供給ネットワークを兼ねている)。</ref>。
また、一般に本項で解説するNNNと、別項で解説する[[日本テレビネットワーク協議会]](NNS)とを合わせて'''[[日本テレビ系列]]'''('''日テレ系列'''、'''NTV系列''')という(NNN、NNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。ニュースとは別関係の番組供給ネットワークであるNNSについては、当該項目を参照のこと。
== 概説 ==
=== ネットワークの形成 ===
[[日本テレビ放送網|日本テレビ(NTV)]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ(ytv)]]などを中心として[[1966年]][[4月1日]]に結成。
NTVの初期のネット局である[[大阪テレビ放送]](OTV、現在の[[朝日放送テレビ]]・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]加盟)や[[中部日本放送]](CBC、現在の[[CBCテレビ]])、北海道放送(HBC)、ラジオ九州(RKB、現在の[[RKB毎日放送]])などはラジオ東京(→東京放送、現在の[[TBSテレビ]])の「東京テレニュース」をネット受けしていたため、[[西日本放送]](RNC)の開局までNTVのニュースにネットワークニュースは無かった。ytvや[[テレビ西日本]](TNC・現在は[[フジニュースネットワーク|FNN]]加盟)等系列局が順次開局したことに伴い、NTVもこれまで自局向けに制作されていた『[[NTVニュース]]』をそのままネット局に流す事を改め、ネット局向けの全国ニュースを制作することとなり、『あさ7時のニュース』、『[[日本テレニュース]]』、『ニュースフラッシュ』、『[[NNNきょうの出来事|きょうの出来事]]』がネットワークニュースとして制作された。これらの番組は原則としてNTVが制作に当たったが、各局は取材協力を行うなど現在のNNNに近い体制であった。しかしながら、スポンサーはNTVが付け(のち各社独自の販売に変わる)、制作費もNTVが丸抱えをするなどこれらはあくまでもNTVの番組であった。
NNN発足当初は、[[福岡県]]を含む九州全域に系列局が存在しなかった<ref group="注釈">マイクロ回線の都合上、[[県域放送局|県域局としての民間放送局]]が[[FNN|フジテレビ系列]]([[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]])しか存在しない[[サガテレビ|佐賀県]]を除き九州各県([[沖縄県]]を含む)の先発ラテ兼営局は全てJNN系列局。また、NNN、NNS発足前の[[1964年]][[9月30日]]までは福岡県の[[テレビ西日本]](TNC)が日本テレビ系列だったが、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジテレビ系列|系列]]に[[ネットチェンジ#福岡県と山口県(関門2県)のケース|ネットチェンジ]]した。</ref>(NNN発足時点は日本テレビが福岡に九州分室を設置して対応していた<ref name="NTV-Kyushu">{{Cite book|和書|editor=日本テレビ放送網株式会社社史編纂室|title=大衆とともに25年 沿革史|publisher=日本テレビ放送網|date=1978-08-28|pages=137|id={{NDLJP|11954641/81}}}}</ref>)。また中京地区も長らくクロスネットが継続([[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]→[[中京テレビ放送|中京テレビ]])したことなど<ref group="注釈">中京広域圏と静岡、石川、長野、新潟の各県におけるエリア第1局は(マイクロ回線の都合上)JNN系列。</ref>、JNNや[[フジニュースネットワーク|FNN]]に比べ体制作りに時間を要した<ref group="注釈">東北の日本海側・富山・福井・山梨・四国4県・鳥取・山口のテレビエリア第1局は(マイクロ回線の都合上)NNN系列</ref>。
1994年に[[鹿児島讀賣テレビ]]が加盟し現体制が完成。フルネット局27局と[[クロスネット局]]3局([[福井放送]]<ref name="FBC" group="注釈">[https://www.ntv.co.jp/info/outline/domestic.html 日本テレビのウェブサイトによる国内ネットワーク表]では、[[クロスネット局]]としていない。これはNNNの指定するニュース番組がキー局と同時ネットしているためである。なお、ANNの指定するニュース番組は昼11時台のニュースのみキー局と同時ネットである。</ref>、[[テレビ大分]]<ref name="TOS" group="注釈">テレビ大分は、一部資料でFNSが非加盟扱いとされているが、FNSホームページ内では加盟の扱いであり、FNSのトップページにもリンクがある。『日本民間放送年鑑 2008(平成19年度版)』〔日本民間放送連盟・編、コーケン出版、2008年11月、ISBN 4-9903139-2-5〕の「FNS」紹介欄では「テレビ大分を除いた27局」とテレビ大分をFNS非加盟としている。ただし、[http://www.fuji-network.com/ayumi/enkaku.htm FNSのあゆみ](FNSホームページ内)では加盟の扱い。</ref>、[[テレビ宮崎]])の計30局で形成されていて、日本最大である。[[佐賀県]]<ref group="注釈">ただし、佐賀県は多くの地域で[[福岡放送]]などの周辺系列局が良好に受信でき、[[佐賀県|同県]]のNNNの取材や[[24時間テレビ]]なども福岡放送が担当している。</ref>・[[沖縄県]]にはNNN(NNS)系列局が存在しない。また、[[ラテ兼営局]]は11局ある<ref group="注釈">青森放送(RAB)・秋田放送(ABS)・山形放送(YBC)・山梨放送(YBS)・北日本放送(KNB)・福井放送(FBC)・山口放送(KRY)・四国放送(JRT)・西日本放送(RNC)・南海放送(RNB)・高知放送(RKC)の11局。また、所属ネットワークは全て[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]と[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の[[クロスネット局]]である。</ref>。
[[基幹局]]は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]、[[中京テレビ放送|中京テレビ]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、[[広島テレビ放送|広島テレビ]]、[[福岡放送]]の7局で構成されていて、全てテレビ単営局である<ref group="注釈">以前は札幌テレビがNNN(NNS)基幹局で唯一ラテ兼営だったが(開局当初はテレビ単営だったが、その後ラテ兼営となった)、2005年10月1日よりラジオ部門を分社化。現在はテレビ単営に戻っている。一方、日本テレビは傘下に[[アール・エフ・ラジオ日本]]を持つが、日本テレビ自体はテレビ単営である。</ref>。
NNN(NNS)加盟局のうち、札幌テレビ、[[静岡第一テレビ]]、中京テレビ、読売テレビ、広島テレビ、福岡放送、[[長崎国際テレビ]]、[[熊本県民テレビ|くまもと県民テレビ]]の8局は、日本テレビの[[放送持株会社]]「[[日本テレビホールディングス]]」の[[持分法適用関連会社|持分法適用関連会社(関連局)]]である<ref name="NTV-Report">{{Cite web|和書|url=https://www.ntvhd.co.jp/ir/library/report/pdf/2021.pdf|title=日本テレビホールディングス コーポレートレポート2021|accessdate=2021-7-23}}</ref>。
{{色}}
[[ファイル:NNN ID map (ja).png|thumb|right|300px|NNN系列の[[リモコンキーID]]地図]]
地上デジタル放送の[[リモコンキーID]]は、日本テレビを始めとして「'''4'''」が多いが、[[青森放送]](RAB)・[[北日本放送]](KNB)・[[四国放送]](JRT)・[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]](NKT)が「'''1'''」、STV・FBSが「'''5'''」、福井放送(FBC)が「'''7'''」、ytvが「'''10'''」である。リモコンキーIDに「4」を使用しない放送局の内、FBS(アナログ親局37ch)・FBC(アナログ親局11ch)以外は、アナログ親局の送信チャンネル番号を引き継いだ。
[[2012年]]10月より、日本テレビの資本がある[[神奈川県]]の県域ラジオ・[[アール・エフ・ラジオ日本]]の定時ニュースにおいて、従来の[[読売新聞グループ本社]]に加え、NNNが取材・編集協力を行っている。これに伴いラジオ日本の定時ニュースの題名も「[[読売新聞ニュース]]」から「[[ラジオ日本ニュース]]」に改題された。<ref group="注釈">これにより放送の締めには「'''この時間は読売新聞社とNNNの配信によるニュースをお伝えしました'''」との説明を入れるようになる</ref>この他にも福井放送などラテ兼営の加盟局でラジオの定時ニュースにおける全国ニュースのニュースソースにNNNを使用するところがある。
また、[[2012年]][[10月1日]]には、日本テレビの持株会社移行(社名を[[日本テレビホールディングス]]に変更)に伴い、キー局がテレビ放送事業を旧社から承継する新法人の[[日本テレビ放送網]]に変更した。
=== ロゴマーク・テロップ ===
「NNN」のロゴは日本テレビ本社の汐留(港区東新橋)移転に伴い、シンボル的に別バージョン(記事冒頭の画像参照)が報道局内など一部に掲示されているが、正式なロゴの変更は行われていない。一方で最近では番組タイトルロゴ上では正式ロゴはあまり使われずにそれぞれの番組ロゴのフォントに合わせられるのが主流で、2021年11月まで正式ロゴを唯一採用していた『[[NNNニュースサンデー]]』も、同年12月以降は使用しなくなったため、放送上正式ロゴが使われる機会は後述の取材局テロップや速報テロップなど一部に限られている<ref group="注釈">この傾向は90年代から続いており、『[[NNNニュースジパング]]』の末期のロゴなどがその例である。</ref>。また、2000年代頃からは『[[news every.]]』の様にタイトル自体にNNNを冠さない番組も放送される様になったほか、2021年からは『[[NNNストレイトニュース]]』のリニューアルを皮切りに、番組名の変更は無いものの、既存のNNNを冠する番組ロゴからNNNの表記が除かれている。
地方発のニュースの場合は毎回ニュースVTR終わり時、画面右上に日本地図<ref group="注釈">2000年10月から2004年の汐留移転までは、取材局エリア(ex.STV取材なら北海道、ytv取材なら近畿地方の地図、四国や九州など取材局エリアの近隣都道府県も表示される場合は取材局以外は色が薄い地図)が表示。</ref>とともにNNNのロゴと配信元の放送局名が表記されている<ref group="注釈">この表記方法は1980年代後半頃から開始。初代の表記は簡素化された日本地図で、取材局の地域の所に赤い点を付けていた。2代目の表記は2000年10月からで、日本地図は正確なものであったが、日本全体の地図ではなく、取材局所在地の道府県のみを表記していた。3代目は日本テレビの汐留移転の2004年2月29日からで、再び簡素化された日本地図に戻ったが、NNNのロゴが日本地図に重なっているため、初代のような表記とは異なっている。地図の配色は、水色が基本だが、『NNN Newsリアルタイム』の2009年10月 - 2010年3月放送分ではオレンジ色、2010年3月末からの『news every.』ではピンク色で、『[[Going!Sports&News]]』では白色で表示されている。近年はほとんどのニュース番組で白色で表示される。(地上波日本テレビと[[日テレニュース24]]のどちらも)</ref>。2局以上にまたがる場合は連名表記され、地震や大事件・事故発生の場合は近隣地域局と日本テレビも含むので「NNN 取材団」<ref group="注釈">ただし、サミット国際会議など、日本国内で開催される国際的な重要会議等の取材では、「NNN (「サミット」等)取材団」と表示<!----g2023年5月の「G7広島サミット」開催時など-->される。</ref>と表記される。毎回表記されるのはNNNくらいである<ref group="注釈">FNNも情報番組を除き1987年から2005年まで同様の系列局テロップを表示していた。また、TXNでは原則、系列局テロップを表示する。かつてANNも[[スーパーJチャンネル]]のみ[[六本木ヒルズ]]移転後も表記していた。</ref>。当初は単に「(系列局名)取材」と表記していた。なお、『news zero』は純粋なNNN枠でないためか表記されない。また『news every.』も一部ニュースは日本テレビの番組取材班が直接乗り込むためか表記されないこともある。その一方で、『Oha!4 NEWS LIVE』では地上波では完全全国ネットではないものの、CS放送・日テレNEWS24でもサイマルネットされていることもあり発信元の系列局表記がある。
[例] [読売テレビ] [日本地図] [NNN]、[中京テレビ 札幌テレビ] [日本地図] [NNN]、[取材団] [日本地図] [NNN]
[[単発番組]]など一部の制作系番組においては過去に、日本テレビの略称「NTV」ロゴ<ref group="注釈">2003年6月末まで原則的に使用されたもの。</ref>の「N」部分を並べてNNNのロゴとして使用していた例があった。また、地震や台風等の災害報道においてNNN取材団などが被るヘルメットにもこのロゴ<ref group="注釈">ただし、テレビ信州の記者・アナウンサーが着用するジャンパーの左胸部分に書かれているロゴや静岡第一テレビの記者・アナウンサーがかぶるヘルメットに書かれているロゴは、正式なロゴ<!---御岳山噴火災害報道と2015年台風18号報道から--->である。</ref>が使用されていたことがある<ref group="注釈">日テレNEWS24のウェブサイトでの各ニュース画像及び動画のコピーライト((C)NNN)表記は、2016年4月現在もこのロゴが使用されている。</ref>。似たような事例として、汐留移転直後の2004年度に放送された『[[NNNニュースサタデー]]』でも、ニュース専門チャンネル『NNN24』(現・[[日テレNEWS24]])のロゴを借用していた<ref group="注釈">NNN24においてNNNは“NTV NONSTOP NEWS”の略であり、Nippon News Networkを意図した表記ではない</ref>。
ロゴマークの色は原則赤で「{{Color|red|'''''NNN'''''}}」と表示する。
テロップのフォント・デザインについては、2021年11月7日から『NNNストレイトニュース』のフォーマットに統一していた(情報番組内のニュースコーナーも含む)<ref group="注釈">ただし、『[[ZIP!]]』内の「NNNニュースZIP!」と『ミヤネ屋』内の「東京からの最新ニュース」では項目テロップのみ番組本編で使用しているものと同一デザインのものを使用している。また、年末年始深夜の『[[NNNニュース&スポーツ|NNN NEWS&SPORTS]]』でも、項目テロップのみ別デザインのものを使用している(項目テロップのカラーリングは月曜日 - 金曜日と重なる場合は『news zero』に準じて黄緑、土曜日・日曜日と重なる場合は『[[Going! Sports&News]]』に準じて赤となる)。</ref>が、2023年3月27日からは、NNNストレイトニュースも含めて、見出しテロップを除いて『news every.』と同様のフォーマットに統一している<ref>見出しテロップはNNNストレイトニュースのフォーマットを引き続き使用。</ref>。なお、『Oha!4 NEWS LIVE』『news every.』『news zero』では各番組独自デザインのテロップを使用している<ref group="注釈">なお、『Oha!4 - 』と『 - every.』についてはフォントのみ2番組とも同一のものが使われている。</ref>。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
* 1951年9月 - 日本テレビ放送網構想が公表される<ref name="murakami" />。
* 1966年4月 - NNN(日本ニュースネットワーク)が発足<ref name="murakami">[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf 村上聖一「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」] NHK放送文化研究所、2023年5月2日閲覧</ref>。
** 当時の加盟18社は札幌テレビ放送、青森放送、[[仙台放送]](現在はFNN単独)、秋田放送、山形放送、[[福島テレビ]](現在はFNN単独)、山梨放送、北日本放送、福井放送、[[名古屋テレビ放送|名古屋放送]](現在はANN単独)、読売テレビ、日本海テレビ、広島テレビ、山口放送、西日本放送、四国放送、南海放送、高知放送<ref name="NTV-Kyushu"/>。
** この後1978年までに[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]](現在はFNN単独)、福岡放送、[[テレビ長崎]](現在はFNN単独)、[[鹿児島テレビ放送]](現在はFNN単独)、テレビ岩手、テレビ大分が加盟<ref name="NTV-Kyushu"/>。
** [[テレビ熊本]](現在はFNN単独)とテレビ宮崎は準加盟局(オブザーバー)扱いであり<ref name="NTV-Kyushu"/>、両局には取材責任地域(一般取材地域・特別取材地域)の割り当てがなされなかった(特別取材地域としては熊本県は日本テレビと福岡放送、宮崎県は日本テレビが担当)<ref name="NTV25th_373">{{Cite book|和書|editor=日本テレビ放送網株式会社社史編纂室|title=大衆とともに25年 沿革史|publisher=日本テレビ放送網|date=1978-08-28|pages=373 - 374|id={{NDLJP|11954641/203}}}}</ref>。
* 1979年4月1日 - テレビ宮崎が正式加盟<ref name="UMK">開局50周年社史 UMKテレビ宮崎50年史編纂班『UMKテレビ宮崎50年史 50years of UMK』テレビ宮崎、2021年8月2日 p.61</ref>。
* 2022年3月24日 - NNN加盟局におけるウクライナの一部地名の表記を[[ウクライナ語]]に近い形に改正。(例:キエフ→'''キーウ''')なお、[[ロシア語]]である旧表記は括弧記載で残る形となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/74b4daf6f426cbfda94634369a432509f1ec7f71 |title=首都表記を「キーウ」に変更 日テレ、ウクライナ語に |accessdate=2022/03/25 8:08 |publisher=共同通信社}}</ref>。3月31日には日本政府が公式表記の変更を決定したことを受け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220331/k10013560461000.html|title=政府「キエフ」を「キーウ」に ウクライナ語に沿った表記|publisher=NHK|accessdate=2022-04-26}}</ref>、ロシア語である旧表記は廃止された。
== 加盟局 ==
=== 現在の加盟局 ===
この表は、[https://j-ba.or.jp/mlist/ 日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページ]の表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
* ● - [[中波]][[ラジオ放送局|ラジオ局]]兼営局(○○放送と言う名の局は福岡放送を除きラテ兼営)
* ○ - 関連会社・子会社にラジオ局を持つ局 <ref group="注釈">関連会社として日本テレビには[[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]、テレビ岩手には[[エフエム岩手]](TVI社屋内に本社・演奏所を設けている)がある。札幌テレビは[[2005年]][[10月1日]]からラジオ部門が子会社の[[STVラジオ]]へ移行(TV放送が先に始まり、数年遅れてラジオ放送が始まっている為、コールサインは開局当初から網走局以外ラテ別々)。なお、STVにおける、「JOWL」は、旭川アナログテレビ放送局と帯広ラジオ放送局で、'''重複割当'''の状態だった。</ref>
* ◆ - [[第三セクター]]局
{|class="wikitable"
|-
![[放送|エリア]]!!略称/[[リモコンキーID|ID]]!!社名!!開局日<br />又は<br />テレビ放送<br />開始日<!---「開局日」のみ表現はラテ兼営局には不適切。--->!!NNN加盟日!!備考!!記号
|-
|[[北海道]]||'''STV 5'''||[[札幌テレビ放送]]||[[1959年]][[4月1日]]||rowspan="2"|1966年4月1日<br />(NNN発足時)||[[基幹局]]。<ref group="注釈">[[1969年]]10月1日 - 1972年[[3月31日]]の間は[[フジネットワーク|FNS]]に加盟していた(実際は1959年4月1日の開局時からフジの制作番組をネットしていた)が、[[フジニュースネットワーク|FNN]]には開局から一貫して加盟していない。</ref>
||○
|-
|[[青森県]]||'''RAB 1'''||[[青森放送]]||1959年[[10月1日]]||<ref group="注釈">[[1975年]]3月31日 - [[1991年]][[9月30日]]の間は[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]とのクロスネットだったが、ANN加盟期間中もNNNの報道番組を全て放送していたため、事実上NNNフルネット局扱いであった。</ref>||●
|-
|[[岩手県]]||'''TVI 4'''||[[テレビ岩手]]||colspan="2"|[[1969年]][[12月1日]]||<ref group="注釈">1970年1月1日ANN発足(ただし、正式には[[1974年]]4月1日発足) - [[1980年]][[3月31日]]の間はANNとのクロスネットだったが、ANN加盟期間中もNNNの報道番組を全て放送していたため、事実上NNNフルネット局扱いであった。</ref>||○
|-
|[[宮城県]]||'''MMT 4'''||[[宮城テレビ放送]]||colspan="2"|[[1970年]]10月1日||基幹局。旧略称:MTB(1970年10月1日開局 - 1975年8月31日)、mm34(1975年9月1日 - 1985年9月30日)。<ref group="注釈">1970年10月1日開局(ただし、正式には[[1974年]]4月1日) - [[1975年]]9月30日の間はANNとのクロスネットだった。</ref>||
|-
|[[秋田県]]||'''ABS 4'''||[[秋田放送]]||[[1960年]]4月1日||rowspan="2" |1966年4月1日<br />(NNN発足時)||||●◆
|-
|[[山形県]]||'''YBC 4'''||[[山形放送]]||1960年[[4月1日]]||<ref group="注釈">[[1980年]]4月1日 - [[1993年]]3月31日の間はANNとのクロスネットだったが、ANN加盟期間中もNNNの報道番組を全て放送していたため、事実上NNNフルネット局扱いであった。</ref>||●
|-
|[[福島県]]||'''FCT 4'''||[[福島中央テレビ]]||[[1970年]]4月1日||[[1971年]]10月1日||本社は[[郡山市]]。<ref group="注釈">1970年4月1日開局 - 1971年9月30日の間はFNN/FNS/ANNのクロスネット局、1971年10月1日 - [[1981年]]9月30日の間はANNとのクロスネットだった。</ref>||
|-
|style="white-space:nowrap"|[[広域放送|関東広域圏]]||'''NTV 4'''||[[日本テレビ放送網]]||[[1953年]][[8月28日]]||rowspan="2" |1966年4月1日<br />(NNN発足時)||[[キー局]]、基幹局。日本初の民放テレビ局。||○
|-
|[[山梨県]]||'''YBS 4'''||[[山梨放送]]||style="white-space:nowrap"|1959年[[12月20日]]||||●
|-
|[[新潟県]]||style="white-space:nowrap"|'''TeNY 4'''||[[テレビ新潟放送網]]||colspan="2"|1981年4月1日||旧略称:TNN(1981年4月1日開局 - 1997年12月31日)。||
|-
|[[長野県]]||'''TSB 4'''||[[テレビ信州]]||colspan="2"|1980年10月1日||1980年9月30日までは[[日本テレビ長野支局]]が取材を担当。<ref group="注釈">1980年10月1日開局 - 2007年9月30日の間は[[松本市]]に本社があった。</ref><ref group="注釈">1980年10月1日開局 - [[1991年]][[3月31日]]の間はANNとのクロスネットであった。</ref>||
|-
|[[静岡県]]||'''SDT 4'''||[[静岡第一テレビ]]||colspan="2"|[[1979年]][[7月1日]]||[[1978年]][[6月30日]]までは[[日本テレビ報道局静岡駐在部]]が取材を担当。||
|-
|[[富山県]]||'''KNB 1'''||[[北日本放送]]||1959年4月1日||1966年4月1日<br />(NNN発足時)||||●◆
|-
|[[石川県]]||'''KTK 4'''||[[テレビ金沢]]||colspan="2"|[[1990年]]4月1日||1990年3月31日までは北日本放送(金沢・能登地区)と福井放送(小松・加賀地区)が取材を担当。||
|-
|[[福井県]]||'''FBC 7'''||[[福井放送]]||1960年[[6月1日]]||1966年4月1日<br />(NNN発足時)||[[1989年]]4月1日からANNとのクロスネット。<ref name="FBC" group="注釈" />||●
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||'''CTV 4'''||[[中京テレビ放送]]||[[1969年]]4月1日||[[1973年]]4月1日||基幹局||
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]||'''ytv 10'''||[[讀賣テレビ放送]]||[[1958年]]8月28日||rowspan="10" |1966年4月1日<br />(NNN発足時)||[[準キー局]]、基幹局||
|-
|[[鳥取県]]||rowspan="2"|'''NKT 1'''||rowspan="2" style="white-space:nowrap"|[[日本海テレビジョン放送]]||rowspan="2"|[[1959年]][[3月3日]]||<ref group="注釈">1959年[[8月1日]] - [[12月14日]]の間はJNNに加盟。</ref>||rowspan="2"|
|-
|[[島根県]]||山陰地区の放送局相互乗り入れ開始時から放送対象地域に。1978年時点では一般取材地域には含まれておらず、特別取材地域としては日本海テレビに加えて広島テレビ・山口放送も担当していた<ref name="NTV25th_373"/>。
|-
|[[広島県]]||'''HTV 4'''||[[広島テレビ放送]]||[[1962年]][[9月1日]]||基幹局。<ref group="注釈">1966年4月1日発足 - 1975年9月30日の間はFNN/FNSとのクロスネットだった。</ref>||
|-
|[[山口県]]||'''KRY 4'''||[[山口放送]]||1959年10月1日||本社は[[周南市]]。<ref group="注釈">[[1978年]]10月1日 - [[1993年]]9月30日の間はANNとのクロスネットだったが、ANN加盟期間中もNNNの報道番組を全て放送していたため、事実上NNNフルネット局扱いであった。</ref>||●◆
|-
|[[徳島県]]||'''JRT 1'''||[[四国放送]]||1959年4月1日||||●◆
|-
|[[香川県]]||rowspan="2"|'''RNC 4'''||rowspan="2"|[[西日本放送テレビ|西日本放送]]||rowspan="2"|1958年7月1日||||rowspan="2"|●
|-
|[[岡山県]]||[[1979年]]4月1日から放送対象地域に(ただし、取材はそれ以前から西日本放送が担当している<ref name="NTV25th_373"/>)。
|-
|[[愛媛県]]||'''RNB 4'''||[[南海放送]]||1958年12月1日||||●
|-
|[[高知県]]||'''RKC 4'''||[[高知放送]]||1959年4月1日||||●
|-
|[[福岡県]]||'''FBS 5'''||[[福岡放送]]||colspan="2"|1969年4月1日||基幹局。正式の放送対象区域は福岡県のみ。1969年3月31日までは日本テレビ九州分室が取材を担当した<ref name="NTV-Kyushu" />。||
|-
|[[佐賀県]]||colspan="4"|なし||福岡放送が取材を担当している<ref group="注釈">実質的にFBSの放送エリア。</ref>。||
|-
|[[長崎県]]||'''NIB 4'''||[[長崎国際テレビ]]||colspan="2"|[[1991年]]4月1日||||
|-
|[[熊本県]]||'''KKT 4'''||[[熊本県民テレビ]]||colspan="2"|[[1982年]]4月1日||||
|-
|[[大分県]]||'''TOS 4'''||[[テレビ大分]]||colspan="2"|1970年4月1日||[[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]]<ref name="TOS" group="注釈" />クロスネット局。<ref group="注釈">1970年4月1日開局 - [[1993年]]9月30日の間はFNN/FNS・ANNとのクロスネットであった。</ref>||
|-
|[[宮崎県]]||'''UMK 3'''||[[テレビ宮崎]]||1970年4月1日||style="white-space:nowrap"|[[1979年]]4月1日<ref name="UMK"/>||FNN/FNS・ANNクロスネット局。ただし、NNSには非加盟。||
|-
|[[鹿児島県]]||'''KYT 4'''||[[鹿児島讀賣テレビ]]||colspan="2"|[[1994年]]4月1日||||
|-
|[[沖縄県]]||colspan="4"|なし||[[日本テレビ那覇支局]]が取材を担当している。||
|}
=== 過去の加盟局 ===
●印は加盟当時メインネットであった。
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!エリア!!略称!!社名!!NNN加盟期間!!備考(脱退の理由など)!!現在の所属系列
|-
|宮城県||OX||[[仙台放送]]||1966年4月1日発足 - [[1970年]][[9月30日]]||宮城テレビ開局のため脱退。||style="white-space:nowrap;"|FNN/FNS
|-
|福島県||FTV||[[福島テレビ]]●||1966年4月1日発足 - [[1971年]][[5月31日]]||新聞資本の意向による福島中央テレビとのネット整理のため。<ref group="注釈">NNN/NNSと関連の深い[[読売新聞グループ本社|読売新聞社]]と[[福島民友|福島民友新聞社]](読売新聞社系の福島県の[[県紙|県域紙]])の意向による。</ref><ref group="注釈">1971年10月に行われるネットチェンジに先駆け、同年5月末に脱退。その後JNN/FNSクロスネットを経て(1971年[[6月1日]] - [[1983年]]3月31日)、FNN/FNSフルネット局へ移行(1983年4月1日-)。ただし、FTVではJNN加盟後も、夕方全国ニュースは、1971年6月から9月まで、NNNのニュース(平日・土曜は「NNNニュースフラッシュ」、日曜は「NNN日曜夕刊」)をネットしていた。</ref>||FNN/FNS
|-
|関東広域圏||NTV||日本テレビ放送網●||1966年4月1日発足 - [[2012年]][[9月30日]]||(旧)日本テレビ放送網(移行後は『[[日本テレビホールディングス]]』)の認定持株会社移行により、現業部門が(新)日本テレビ放送網に移行した為。||-
|-
|新潟県||NST||[[NST新潟総合テレビ]]||style="white-space:nowrap;"|[[1968年]][[12月16日]]開局 - [[1981年]][[3月31日]]||当時(NNN加盟期間中)の社名は「新潟総合テレビ」。テレビ新潟開局のため脱退。<ref group="注釈">その後FNN/FNS/ANNクロスネットを経て(1981年4月1日 - 1983年9月30日)、FNN/FNSフルネット局へ移行(1983年10月1日-)。</ref>||FNN/FNS
|-
|静岡県||style="white-space:nowrap;"|SATV||[[静岡朝日テレビ]]||[[1978年]][[7月1日]]開局 - [[1979年]]6月30日||当時(NNN加盟期間中)の社名は「静岡県民放送」(略称:SKT、愛称:静岡けんみんテレビ)。静岡第一テレビ開局のため脱退。||ANN
|-
|style="white-space:nowrap;"|中京広域圏||NBN||style="white-space:nowrap;"|[[名古屋テレビ放送]]●||1966年4月1日発足 - [[1973年]]3月31日||当時(NNN加盟期間中)の社名は「名古屋放送」(通称:名古屋テレビ)。系列整理により中京テレビに一本化して脱退。||ANN
|-
|長崎県||KTN||[[テレビ長崎]]||[[1969年]]4月1日開局 - [[1990年]]9月30日||長崎国際テレビ開局のため脱退。<ref group="注釈">長崎国際テレビ開局と同時にテレビ長崎はNNNを脱退する予定だったが、長崎国際テレビの開局が遅れ、半年の空白期間が生じた(1990年[[10月1日]] - [[1991年]]3月31日)。なお、空白期間中のニュース取材は、福岡放送が新たに[[福岡放送長崎支局|長崎支局]]を設置して担当した。</ref>||FNN/FNS
|-
|鹿児島県||KTS||[[鹿児島テレビ放送]]||1969年4月1日開局 - [[1994年]]3月31日||鹿児島讀賣テレビ開局のため脱退。||FNN/FNS
|}
=== 現在の主な非加盟局 ===
:※加盟の意思があった、あるいは加盟の可能性があったものの、結局加盟しなかった、または出来なかった主な局を掲載。
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!エリア!!略称!!社名!!備考(加盟しなかった理由など)!!現在の所属系列
|-
|style="white-space:nowrap;"|島根県<br />鳥取県<ref group="注釈">鳥取県は1972年9月22日から。</ref>||TSK||style="white-space:nowrap;"|[[山陰中央テレビジョン放送]]||TSKの開局に深く関わった[[山陰中央新報]](開局当時は「島根新聞」)が読売新聞と親密であったため、当初は日本テレビ系列での開局を希望していたが、既に日本海テレビ(当時は鳥取県域局)が日本テレビ系の番組を押さえていたこともあり、将来的に鳥取県との相互乗り入れを行うことを考慮してフジテレビ系列フルネットとして開局したため。||FNN/FNS
|-
|高知県||KUTV||[[テレビ高知]]||高知放送が日本テレビとの関係が悪化し、[[高知放送|同局]]は社内でTBS系列局 (JNN) への[[ネットチェンジ]]が検討された。その際、高知放送から日本テレビ系列 (NNN/NNS) を譲り受ける形で、読売新聞社も資本参加していたテレビ高知が、当初予定していたフジテレビ系列とのクロスネット局となる可能性があった<ref>高知放送編『高知放送三十年史』、株式会社高知放送、1984年{{要ページ番号|date=2023年9月}}。</ref>||JNN
|-
|rowspan="2"|福岡県<br />(開局順)||TNC||[[テレビ西日本]]||[[1964年]][[10月1日]]に日本テレビ系列からフジテレビ系列にネットチェンジしたため(なお、当時はNNN未発足)||FNN/FNS
|-
|KBC||[[九州朝日放送]]||テレビ西日本が日本テレビ系列からフジテレビ系列にネットチェンジした際、KBC社内では日本テレビと組む(事実上のテレビ西日本とのネット交換)ことも検討されたが、朝日新聞社サイドがKBCサイドに対し、NETとフルネットをするよう勧奨したことで、最終的に朝日新聞サイドがKBCの業績が低下した場合はNETに営業保証を行わせ、それでもKBCの業績が悪化した場合は朝日新聞社が責任を取ると約束したことで、NETフルネット化に踏み切ったため<ref>『九州朝日放送30年史』(九州朝日放送・刊)より。</ref>。(なお、当時はNNN未発足)||ANN
|-
|熊本県||TKU||[[テレビ熊本]]||準加盟局(オブザーバー)<ref name="NTV-Kyushu"/>。ただし、一部ニュース番組を受け、素材送り出しも実施し、ネット分担金も負担していた<ref>よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会・編「ネットワーク現勢」『よみうりテレビの20年 : 写真と証言』読売テレビ放送、1979年。</ref>。||FNN/FNS
|-
|鹿児島県||KKB||[[鹿児島放送]]||1978年の電波割り当ての段階では日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の3局でのネット争いであったが、一本化調整は熊本県の決着がついてから着手することとされた<ref>『鹿児島テレビ10年史』鹿児島テレビ放送、1980年 p.273</ref>。その後、熊本県での一本化調整と在京キー局3社(日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日)による協議の結果、1981年3月24日に熊本県の民放第3局を日本テレビ系列局(熊本県民テレビ)、鹿児島県の民放第3局をテレビ朝日系列局とし、また、熊本県第4局(テレビ朝日系列局)の早期開局に含みを持たせることが決定した<ref>『テレビ熊本30年史』(テレビ熊本、2001年刊行)88 - 89頁より。</ref>。||ANN
|-
|沖縄県||OTV||[[沖縄テレビ放送]]||開局準備段階当時の沖縄は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカの統治下]]にあったため、番組の購入は認めるが資本参加などの協力はしないという条件が日本テレビから提示されたため(当時はNNN/NNS発足前)<ref>『沖縄テレビ30年の歩み』(1990年刊行)より。</ref>。<br/>その後のNNN/NNS発足後も正式な[[クロスネット局]]としての加盟は実現しなかった。||FNN/FNS
|}
<gallery>
ファイル:Nittele Tower 2013.jpg|NNNの在京キー局:[[日本テレビ放送網]](NTV、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]東新橋、日本テレビタワー)
ファイル:Yomiuri Telecasting Corporation headquarters in 201909 004.jpg|NNNの在阪準キー局:[[讀賣テレビ放送]](ytv、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]城見)
ファイル:Chukyo TV Broadcasting (2016-02-04).JPG|NNNの在名基幹局:[[中京テレビ放送]](CTV、[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]][[平池町 (名古屋市)|平池町]])
ファイル:STV-Sapporo-hq-01.jpg|NNNの在札基幹局:[[札幌テレビ放送]](STV、[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]北1条西、札幌テレビ放送会館)
ファイル:Miyagi Television Broadcasting.JPG|NNNの在仙基幹局:[[宮城テレビ放送]](MMT、[[宮城県]][[仙台市]][[宮城野区 (仙台市)|宮城野区]]日の出町)
ファイル:Hiroshima-Television-Corporation-1.jpg|NNNの在広基幹局:[[広島テレビ放送]](HTV、[[広島県]][[広島市]][[東区 (広島市)|東区]]二葉の里、広テレビル)
ファイル:FBS newbuilding.JPG|NNNの在福基幹局:[[福岡放送]](FBS、[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]清川)
</gallery>
== 海外支局 ==
2021年3月現在。なお、実際の運営・設置(NNN/NNS)加盟局が地方局の場合、特派員は一旦日本テレビに出向した後、現地に派遣される形式になっている。従って海外では地方局出身者も、日本テレビ社員の肩書と、日本テレビから支給された名刺を使用し取材活動を行う。リポート・中継の際、記者の氏名テロップにはNNNの後に取材地域名が表記される。
{|class="wikitable"
|-
!地域!!海外支局名!!設置・運営加盟局!!備考
|-
|rowspan="3"|[[アメリカ合衆国]]||NNN[[ニューヨーク]]支局||読売テレビ||日本テレビ・広島テレビからも記者を派遣。
|-
|NNN[[ワシントンD.C|ワシントン]]支局||日本テレビ||
|-
|NNN[[ロサンゼルス]]支局||日本テレビ||読売テレビ・中京テレビからも記者を派遣。
|-
|rowspan="3"|[[ヨーロッパ]]・旧[[ソビエト連邦|ソ連]]||NNN[[ロンドン]]支局||日本テレビ||中京テレビからも記者を派遣。
|-
|NNN[[パリ]]支局||読売テレビ||中京テレビからも記者を派遣<ref>{{Cite|和書|author=中京テレビ放送株式会社|title=中京テレビ50年史 : あなたの真ん中へ。|date=2019|pages=271}}</ref>。
|-
|NNN[[モスクワ]]支局||札幌テレビ||日本テレビからも記者を派遣。
|-
|rowspan="4"|[[アジア]]・[[アフリカ]]||NNN[[中華人民共和国|中国]]総局||日本テレビ||[[北京市|北京]]に設置。
|-
|NNN[[上海市|上海]]支局||読売テレビ||
|-
|NNN[[ソウル特別市|ソウル]]支局||日本テレビ||[[大韓民国|韓国]][[SBS (韓国)|SBS]]本社内に設置。福岡放送からも記者を派遣。
|-
|NNN[[バンコク]]支局||福岡放送||かつては四国放送が運営していた。
|-
|rowspan="3"|海外現地法人||NTVインターナショナル||日本テレビ||
|-
|NTVヨーロッパ||日本テレビ||
|-
|NTVアジアパシフィック||日本テレビ||
|}
=== 過去の海外支局 ===
* NNN[[ベイルート]]支局 - 日本テレビが1974年に開設、1976年にカイロに移転。
* NNN中南米(サンパウロ)支局 - 1980年開設、1997年閉鎖。
* NNN[[アトランタ]]支局 - 1994年開設、1996年閉鎖。
* NNN[[ローマ]]支局 - 日本テレビが1982年に開設、1994年閉鎖。
* NNN[[バルセロナ]]支局 - 日本テレビが1990年に開設、1992年閉鎖。
* NNN[[ワルシャワ]]支局 - 日本テレビが1990年に開設、2002年閉鎖。
* NNN[[シドニー]]支局 - 日本テレビが1999年に開設、2000年閉鎖。
* NNN[[香港]]支局 - 日本テレビが1992年に開設、1998年閉鎖。
* NNN[[カイロ]]支局 - 日本テレビが1976年に開設、2021年閉鎖<ref name="NTV-Report" />。
* NNN[[マニラ]]支局 - 読売テレビが1987年に開設、2000年閉鎖。
* NNN[[ボン]]支局 - 読売テレビが1981年に開設、1998年にベルリンに移転。
* NNN[[台北]]支局 - 中京テレビが2000年6月1日に開設、2004年6月30日に閉鎖。[[中国電視公司]]の社内に設置<ref>{{Cite|和書|author=中京テレビ放送株式会社|title=中京テレビ50年史 : あなたの真ん中へ。|date=2019|pages=270-271}}</ref>。
* NNN[[ベルリン]]支局 - 札幌テレビが1990年に開設、1992年閉鎖、1998年再開。
* NNN[[ウラジオストク]]支局 - テレビ新潟放送網が1994年に開設、2000年閉鎖<ref>{{Cite|和書|author=日本ニュースネットワーク|title=NNN二十五年の歩み|date=1991|pages=53-55}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=日本テレビ放送網|title=テレビ夢50年 データ編|date=2004|pages=95}}</ref>。
== ネットニュース番組 ==
; 随時
* [[NNNニュース|NNN news]]、[[NNNニュース&スポーツ|NNN NEWS&SPORTS]]
** 年末年始(毎年 原則[[12月23日]]から[[1月4日]]まで)や『[[24時間テレビ「愛は地球を救う」]]』・『[[THE MUSIC DAY]]』によりレギュラーのニュース番組が休止となる場合に代替放送。後者はスポーツニュースも併せて放送する場合の名称(年末年始の土曜日・日曜日と重なる日の深夜に放送される場合は『NNN SPORTS&NEWS』というタイトルになる)。
; 朝
{{Main|日本テレビ系列朝ニュース枠}}
; 昼
{{Main|日本テレビ系列昼ニュース枠}}
; 夕方
{{Main|日本テレビ系列夕方ニュース枠}}
;<nowiki> 20:54 - 21:00 </nowiki>
* [[NNNニューススポット]](終了、1963年10月 - 2008年9月29日)<!--天気予報はNNN番組ではない-->
; 最終版
{{Main|日本テレビ系列深夜ニュース枠}}
== 日テレNEWS NNN ==
2023年10月10日、日本テレビのニュースサイト「日テレNEWS」を改題した上で、NNN加盟全30局による統合ニュースサイト『'''日テレNEWS NNN'''』としてリニューアルし、サービスを開始した<ref>{{Cite web|和書|title=日テレ・NNNの新しいニュースサイト 「日テレNEWS NNN」がサービス開始! |url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20231011.html |website=企業・IR情報 |access-date=2023-10-11 |publisher=日本テレビ放送網株式会社 |date=2023-10-10}}</ref>。NNN加盟全30局が、取材力・制作力・発信力を結集させ、地上波だけでなくデジタルにおいても、地域No.1、日本No.1の信頼ある報道メディアを目指し、これまで展開してきたニュースや24時間ニュースチャンネルの日テレNEWS24などのコンテンツに加え、NNN加盟局のローカルニュースや特集、ドキュメンタリーも配信するとしている<ref>{{Cite web|和書|title=日テレ・NNNのニュースサイト「日テレ NEWS NNN」サービス開始 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2298043/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-10-11 |date=2023-10-11}}</ref>。
ブランドタグラインは『'''見つかるのは、未来のきっかけ。'''』
「日テレNEWS NNN」が設立されるまでは、NNN加盟局でそれぞれ放送したローカルニュースのニュース動画を配信するページは、NNNの加盟局ごとに運営。日テレNEWSで配信するニュース動画はローカルニュース含め、NNN枠にて放送されたニュース及び、日本テレビにて放送されたニュースのみに留まっていた。
しかし同日からは、「日テレNEWS NNN」のサービス開始に伴い、加盟局側のページの大半を「日テレNEWS NNN」のサイトへ集約。同サイト内では、NNN加盟全30局のそれぞれのロゴを用いて「(加盟局)NEWS NNN」というロゴが用いられているほか、「NNN」のロゴはNNN発足当時から使用されている正式なロゴや、2003年10月から日本テレビ報道フロア内の看板で使用されているロゴではない新たなものが使用されている。
== 報道特別番組 ==
選挙・台風・地震・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[ミサイル]]発射([[全国瞬時警報システム]]による速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
=== 国政選挙 ===
開票状況を伝える特別番組を放送。[[出口調査]]などを駆使して早く、分かりやすく伝える。なお選挙テレビ特番で多くのテレビ局が実施している、議席数や当確情報を表示する通称「[[L字型画面|L字画面]]」は、国政選挙速報を[[Fun!BASEBALL!!|プロ野球中継]]と確立させるために実施したのが始まりである。
* [[NNN ELECTION]](1971年参院選 - 2001年参院選)
* [[ゲキセン!|NNN選挙開票特別番組 ゲキセン!]](2003年衆院選 - 2005年衆院選)
* [[ZERO×選挙]] (2007年参院選 - 2017年衆院選)
* [[zero選挙]](2019年参院選 - )
=== 地震・津波 ===
震度3以上を観測した揺れについては、[[ニュース|ニュース速報]]の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える。なお、「'''NNNニュース速報'''」は地上波(関東ほか一部系列局。送出元の放送局名を使用する局もある。)のほか[[BS日本|BS日テレ]]、[[日テレNEWS24]]でも表示される。2011年5月頃までのテロップ送出について、日本テレビは震度階級改定前の1988年頃から1996年3月頃までは0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるものであった。震度階級改定後の1996年4月頃から汐留に移転する前の2004年2月28日までは0.01秒毎に1文字ずつ素早く表示されていたが、本社を汐留に移転後の2004年2月29日からはこの演出は廃止された。ほとんどの系列局では0.1秒毎に1文字ずつタイピング風に表示されるといった演出だった<ref group="注釈">札幌テレビではニュース速報と交通情報においてはカラー表示による独自のフォーマットで最初に速報のタイトルに光り輝くアクセントをつけて表示され、次に項目がタイピング風に表示された後、左へスライドして消去し、速報タイトルがカットアウトで消去するパターンになっていた。</ref>。2011年6月頃からニュース速報フォントがNNN各種ニュース番組とほぼ同じ、輪郭が太めになってなおかつ滑らかな、イワタ新ゴシックのフォントとなった。速報チャイム音はBS日テレ・日テレNEWS24・クロスネットであるテレビ大分も含め大半の系列局がドミソ音に似せたチャイム音(※『ピコリーン…』の1音<ref group="注釈">ただし読売テレビでは2回鳴らしている。</ref>、[[1995年]]4月から使用。)(一部例外あり〈例:青森放送・四国放送等では1世代前のチャイム音を使用<※『ピロピロリーン…ピロピロリーン…』の2音、日本テレビにて1995年3月まで使用。><ref group="注釈">かつてはテレビ新潟・南海放送・くまもと県民テレビ(2017年7月23日の本社移転前迄)も該当。また、札幌テレビでは2011年4月頃まで2世代前のチャイム音を使用していた。</ref>、ミヤギテレビ・山梨放送・テレビ新潟・テレビ信州・静岡第一テレビ<ref group="注釈">フォントも異なるものを使用(ヒラギノ角ゴ)し輪郭も薄く(ニュース速報・交通情報はNNN基準の縁取り) 速報タイトルの『NNN』は使用されず全て『Daiichi-TV』と表記している(2015年度までは『SDT』)このようなフォント(ヒラギノ角ゴ)や輪郭が薄いなどのフォーマットは気象システムがウェザーニュースを採用している放送局に多く見られ在静民放ではテレビ朝日系列の[[静岡朝日テレビ]]・フジテレビ系列の[[テレビ静岡]]でもこのフォーマットとなっている。(いずれも速報タイトルが局名であるが効果音は全て異なる)前述の通りニュース速報と交通情報はNNN基準フォーマットで通常は速報タイトルが表示されると点滅はしないがこの2つのみ2回点滅する。</ref>・南海放送・福岡放送・鹿児島読売テレビ等では独自の効果音を使用<ref group="注釈">この内、ミヤギテレビ・テレビ新潟・テレビ信州は1世代前のチャイム音をアレンジしたものが使用されている。なお、かつてはBS日テレ・広島テレビ(2018年9月23日の本社移転前迄)も該当(現在は日本テレビと同じチャイム音を使用。後者は移転後)。</ref>、秋田放送・福島中央テレビ・西日本放送ではチャイム音を使用していない。〉)となっている。各局の大半では共通であるが、ニュース速報・気象警報<ref group="注釈">気象情報では、2020年まではチャイムは鳴らないままテロップだけが表示されていたが、2021年6月に気象庁が[[顕著な大雨に関する情報]]を開始して以降はチャイムを鳴らした上で、土砂災害警戒情報、竜巻注意情報、特別警報が挿入されている。</ref>・交通情報のいずれもタイトル表示時は2回点滅する。また、ANN系の[[長野朝日放送]]でも使用されている他、1代前のチャイム音は、前述の青森放送等の他、独立局の[[群馬テレビ]]<ref group="注釈">群馬テレビのある群馬県は、日本テレビの放送エリアでもある。</ref>でも使用されていた。
かつては[[日立製作所]]が開発した「NNN報道情報システム」と[[日本電信電話]](NTT)が保有している5本の電話回線<ref group="注釈">北海道・東北ブロック向け回線、中部ブロック向け回線、中国ブロック向け回線、東海・四国ブロック向け回線、九州ブロック向け回線に分けて各エリアのNNN系列局に送信していた。なお、本来中部または東海・四国ブロックに属するはずの静岡第一テレビが中国ブロック向け回線を使用するなど、一部実際に属している地方とは異なる地方向け回線を利用する系列局もあった。</ref>を通して、日本テレビからNNN加盟各局に向けてニュースや地震・津波速報を配信。逆に国政選挙時における選挙特番では加盟各局から同システムにて送信した放送エリア内の選挙情報を日本テレビが受信していた<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1990/07/1990_07_09.pdf|title=日立評論1990年7月号:NNN報道情報システム|accessdate=2020年1月13日|publisher=株式会社日立製作所}}</ref>。
[[緊急地震速報]]では、2011年5月頃までは「'''NNN緊急地震速報'''」というテロップが最初に表示され、その後強い揺れが予想される地域が表示されるという仕組みだった。表示範囲が1行16文字という短さもあって、強い揺れが予想される地域が多い時は「関東など」というように都道府県名・支庁名ではなく地方名・北海道内エリア名で表示することがあり、文字数制限により具体的な地域名が表示されずわかりにくいといったデメリットがあった。2011年6月頃からは画面上に部分的な赤のカラーバックの枠内(テレビ信州など、赤のカラーバックを使用しない局もある)で強い揺れが予想される地域が表示され、画面右下に揺れが予想される地域を中心にした地図が表示される(地上波・BS日テレ・日テレNEWS24共通のフォーマット)。表示範囲が1行22文字に増えたことにより、都道府県名・支庁名で表示される範囲が広がり、具体的な地域名が表示されやすくなった。2018年からは左に「緊急地震」と表示されるようになった上、地図上に震源地が表示されるようになった。速報音は日本テレビとBS日テレ、日テレNEWS24は[[日本放送協会|NHK]]と同じチャイム音と[[村山喜彦]](日本テレビアナウンサー)による自動音声が2回繰り返しで入る。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の措置をとる。
なお、[[2007年]][[1月13日]][[千島列島沖地震 (2007年)|13時24分(日本時間)に千島列島沖で発生したM8.2の地震]]では12分後の13時36分に[[津波警報]]・[[津波注意報|注意報]]が発表されたが、NNN系列(BS・CS含む)では警報・注意報が出される地域を表示する“日本地図”が、警報・注意報発表から約18分後の13時54分になって表示されていた([[日本放送協会|NHK]]とNNN以外の他系列はすぐに表示)。なお、日テレNEWS24に至っては、13時53分になって“速報”という形で津波情報を放送した。又、[[2009年]][[9月30日]]2時48分(日本時間)に[[サモア沖地震 (2009年)|サモア沖で発生した地震]]による津波注意報発表でも同様の事例が起きている。
=== 台風 ===
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。又、通常の[[ニュース]]・[[情報番組]]のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。
== 沖縄県にNNNが存在しない理由 ==
{{See also|南西放送|日本テレビ那覇支局}}
沖縄県は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ占領下]]の1960年前後に相次いで開局した[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]、[[琉球放送]]の2局とも拘束性の強い単独ネットで開局した。前者はフジテレビとの資本提携で開局し、九州などの第2局がフジテレビ・日本テレビ・テレビ朝日の3局クロスで開局したのを尻目に、NHK沖縄放送局の前身の[[沖縄放送協会]]開局後、1969年に正式に単独ネット局に。後者は草創期の九州のネット回線の都合からTBS系列に加盟しJNN協定でクロスネットが認められなかったためであった。なお、沖縄テレビを開局させた同社初代社長・具志頭得助はフジテレビの前に日本テレビを訪れ、「時期尚早」と断られている<ref>沖縄テレビ30年の歩み(1990年刊行)より。</ref><ref group="注釈">理由は当時、沖縄はアメリカの統治下だったため、番組の購入は認めるものの資本はしないという条件だったためである。</ref>。
その後、1989年に設立された[[南西放送]]を日本テレビ系列として開局させる計画があった。民放テレビ第3、4局の周波数が割り当てられていたこともあり、[[琉球朝日放送]](テレビ朝日系列)とともに1995年秋の同時開局が有力視されていたが、日本テレビの沖縄進出凍結に伴って計画は頓挫し、1999年には沖縄県の民放テレビ第4局用の周波数割当そのものが取り消された(宮崎県内でも、3局目を日本テレビ系で開局する予定で社屋用地も取得していたが、諸事情で計画が頓挫し周波数割当そのものが取り消された)。
アメリカ合衆国の支援を受けて開局した日本テレビの歴史的経緯([[親米]]テレビ局の初期印象)で沖縄県の地元新聞社の支持を得られなかったことが沖縄県未開局の遠因とされる。沖縄テレビは[[琉球新報]]と、琉球放送は[[沖縄タイムス]]と協力関係にあり、琉球朝日放送は沖縄タイムスが朝日新聞と協力関係にあることから琉球放送との「1局2波」方式で開局している。
計画が頓挫した南西放送には、沖縄テレビが日本テレビ系列番組を多く放送している経緯もあり、フジテレビも出資していた。
現在は日本テレビで放送されている番組の一部は沖縄テレビ(フジテレビ系列)(『NTV土曜ドラマ』・『[[おしゃれクリップ]]』などの番組提供付きの番組などを放送)と琉球放送(TBS系列、一時期は『[[木曜スペシャル]]』を同時ネットしていたが、現在は主に午後・深夜枠でローカル扱いの番組で放送)で放送されている。また、CS★日テレで日本テレビの番組を沖縄でも視聴することができたが、2000年9月の放送終了に伴い、ほとんどの日本テレビの番組がリアルタイムで見られなくなった。さらに、政府の[[事業仕分け (行政刷新会議)|事業仕分け]]により、最後まで沖縄テレビで同時ネットされていた政府広報番組『[[ご存じですか]]』と『[[新ニッポン探検隊]]』が2010年3月に終了したため、沖縄県内で日本テレビから同時ネットされているレギュラー番組は無くなった。毎年大晦日に放送されていた『[[笑ってはいけないシリーズ]]』は、全都道府県の中で唯一沖縄県のみリアルタイムでの放送実績が無かった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/189238|title=ついに沖縄だけに・・・ 大みそかに見られない!「ガキ使・絶対に笑ってはいけない」|accessdate=2020年1月3日|publisher=沖縄タイムス(2017年12月28日作成)}}</ref>。
なお、2019年8月1日より[[沖縄ケーブルネットワーク]]、2022年10月1日より[[宮古テレビ]]にて、[[鹿児島讀賣テレビ]]の[[区域外再放送]]による日本テレビ系列番組の放送が[[情報番組]]・[[報道番組]]の一部に限り開始された<ref>{{Cite news|title=沖縄ケーブルネットワーク、きょうから日テレを生放送「ZIP!」「ヒルナンデス」ニュース番組中心に|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-964270.html|newspaper=[[琉球新報]]WebNews|date=2019-08-01|accessdate=2019-08-01|publisher=[[琉球新報]]|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ系人気の情報・報道番組が7番組沖縄で放送開始!!|url=https://www.nirai.ne.jp/info0801/|accessdate=2019-08-01|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ系情報・報道番組3番組追加放送開始! 10番組生放送中!!|url=https://www.nirai.ne.jp/information/information-2155/|accessdate=2020-03-25|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=10月1日 START {{!}} 宮古テレビ9chが楽しくなる! {{!}} 日テレ系始まるよ|url=https://www.miyako-net.ne.jp/download/20221003.pdf|format=PDF|accessdate=2022-10-05|language=ja}}</ref>。また、2020年10月3日からは「日テレ系ライブ配信」(現・[[日テレ系リアルタイム配信]])でゴールデンタイム・プライムタイムの一部番組もインターネット経由で視聴可能となった<ref>{{Cite web|和書|title=民放で日テレだけが地上波プライムタイムの番組をネット同時配信する狙い|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/10131110/?all=1&page=2|website=週刊新潮|accessdate=2020-10-13|publisher=|date=2020-10-13}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[NNNニュース]]
* [[ニュースの女王決定戦]](NNN各局のNGハプニング特番。毎年春に放送。)
* [[ACTION 日本を動かすプロジェクト]]
* [[日テレNEWS24]](日本初の[[ニュース専門放送局|ニュース専門チャンネル]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.catv-jcta.jp/jcta/files/pdf/history3.pdf|title=年表 ― 昭和61年~平成15年|accessdate=2019年12月8日|author=社団法人日本ケーブルテレビ連盟|date=2005年6月|page=205|work=日本のケーブルテレビ発展史}}</ref>。旧名は「NNN24」だが、その「NNN」は「Nippon News Network」ではなく「NTV Nonstop News」の略)
* [[日本テレビネットワーク協議会]](NNS、番組供給ネットワーク)<ref group="注釈">NNN加盟局のうち、[[テレビ宮崎|UMK]]を除く29局が加盟。</ref>
* [[BS日本]](BS日テレ)
* [[ニュース系列]]
* [[ラテ兼営]]
* [[NNSアナウンス大賞]]
* [[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]]
* [[ローカルニュース動画配信実施局一覧]]
* [[NNN夕方ローカルニュース一覧]]
* [[民放テレビ全国四波化]]<ref group="注釈">先発ラテ兼営局がNNN系列の地区で実際に(NNNを含む)民放テレビ4大系列が揃ったのは山形・香川(岡山県との放送区域統合&[[テレビせとうち]]開局により5局化)・愛媛のみで、それ以外の地区(青森・秋田・山梨・富山・福井・山口・徳島・高知)では未だに民放テレビ局が1〜3局に留まっている。</ref>
** [[エリアで最初に開局した放送局の一覧 (日本)]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Nippon Television Network System|NNN}}
* [https://www.ntv.co.jp/ 日本テレビ 公式サイト]
* [https://news.ntv.co.jp/ 日テレNEWS 公式サイト]
* [https://www.ntv.co.jp/info/outline/domestic.html 日テレIR情報 国内ネットワーク] - 加盟社一覧
* {{Twitter|news24ntv|NTV NEWS24}}
{{NNN・NNS}}
{{日本テレビ放送網}}
{{放送ネットワーク}}
{{山日YBSグループ}}
{{読売新聞グループ本社}}
{{日テレNEWS24}}
{{デフォルトソート:につほんにゆうすねつとわあく}}
[[Category:日本テレビ放送網|*]]
[[Category:日本テレビ系列|*]]
[[Category:日本の民放ネットワーク]]
[[Category:日本のニュース専門テレビチャンネル]]
[[Category:1966年設立の組織]]
|
2003-07-04T20:27:36Z
|
2023-12-29T07:00:45Z
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10,870 |
ジャパン・ニュース・ネットワーク
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ジャパン・ニュース・ネットワーク(英: Japan News Network)は、TBSテレビをキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のJNN(ジェイエヌエヌ)で言及されることが多い。
日本のテレビニュースネットワークとしては最も歴史が古い。
なお、ここではニュースとは別関係のテレビ番組供給ネットワーク、TBSネットワーク(TBS Networks)についても解説する。ただし、TBSラジオを基幹局としてテレビと同時並行的に存在するラジオネットワークについては、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)を参照のこと。
また、一般に本項で解説するJNNとTBSネットワークとを合わせてTBS系列という。
ラジオ東京(KRT、東京放送。現:TBSホールディングス)が、日本放送協会(NHK)に対抗する日本初のテレビニュースネットワークとして1959年8月1日に結成。 この年に放送された皇太子明仁親王(後の第125代天皇、現:上皇)結婚特別番組のネット局がほぼそのまま加盟した形となった。当時郵政省(現在:総務省)ではテレビの全国放送はNHKのみとし、民間放送は各県域内でのローカル放送を前提としていた。しかしながら、ラジオと異なりテレビの場合はNHKに対抗し得る内容の全国ニュースを放送するにはどうしても各局間のニュース映像素材の交換が必要となっていた。
これより先、ラジオ東京制作の『東京テレニュース』を初期加盟16局がネット受けを行い放送していた。特に北海道放送(HBC)、中部日本放送(CBC、現:CBCテレビ)、大阪テレビ放送(OTV、朝日放送テレビの前身)、ラジオ九州(RKB、RKB毎日放送の前身)とラジオ東京はその前年の1958年6月にが「テレビニュースに関するネットワーク協定」を結んでいた。
JNN発足当時、他局も放送局間で素材交換を行った全国ニュース番組を放送していたが、日本テレビは自社で制作したニュースをネット局に配給、フジテレビと日本教育テレビ(NETテレビ。現:テレビ朝日)はニュース番組制作会社が制作したニュース番組を購入して配給する形で全国放送していた。特にNETの場合は制作に朝日新聞社が関わっていた。これに対し、JNNは特定の新聞社との関係を持たず、自主制作で且つ加盟各社の共同制作であり、ラジオ東京が編集・制作・送出およびセールスを行っていたものの、同社は加盟各社の代表という立場に過ぎない点が他系列と異なっていた。
初期はニュース番組のタイトルも各局が自由に差し替えられたが、1975年3月31日、朝日放送テレビから毎日放送へのネットチェンジ後はネット加盟局全社統一となっている。
フルネット局28局で形成されている。秋田県・福井県・徳島県・佐賀県にはJNN加盟局がない。
ロゴマークの色は原則緑で「JNN」と(公式サイトでは)表示するが、2017年10月以降、定時ニュースのロゴが独自のものに変更されたほか、「新・情報7days ニュースキャスター」なども独自のロゴを使用する。さらに、2022年4月から配信開始した「TBS(系列局略称) NEWS DIG Powered by JNN」の「JNN」のロゴも、独自である。また、番組配信局テロップは一切出していない。
全体として、AMラジオを兼営している老舗局が多く、特に「○○放送」という名前のJNN加盟局はそのほとんどがその地域において、最初の民放テレビ局(第1局)となっている。北海道、東北の太平洋側、静岡県、長野県、新潟県、石川県、近畿地方、中国地方(山口県を除く)、九州・沖縄地方の全局では、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)にも同時加盟している。したがって、基幹局は事実上も含めれば全てラテ兼営(札幌・福岡が同一法人による本来のラテ兼営、東京・名古屋・大阪が同一放送持株会社傘下による事実上のラテ兼営)で、同時にJRNの基幹局でもある。
デジタル放送では、すべての加盟局が、映像の権利保護などの観点からCMを除いた放送中、画面右上に自社ロゴ(ウォーターマーク)の表示を行っている(一部系列局ではワンセグでは行っていない)。現在は5大系列はすべての放送局で実施されているが放送開始当初から行っているのはJNNのみである。
加盟局はGガイドの番組データを配信している(電子番組ガイド(EPG)のGガイドのホスト局となっている)。
認定放送持株会社、ならびに株式上場への取り組みも多く、2009年4月1日にTBSテレビ(東京放送ホールディングス→TBSホールディングス)、2014年4月1日にCBCテレビ(中部日本放送)、2016年4月1日にRKB毎日放送(RKB毎日ホールディングス)、2017年4月1日に毎日放送(MBSメディアホールディングス)、2019年4月1日にRSK山陽放送(RSKホールディングス)が認定放送持株会社体制に移行している。TBSホールディングス・中部日本放送・RKB毎日ホールディングス・新潟放送(BSNメディアホールディングス)は株式を上場している。
番組中の時刻表示については、全国統一の日本標準時が用いられ使用されている日本でもごく僅かな(体感できない程の)時差が存在しているとして、またデジタル放送ではエンコード/デコードによる遅延が絶対に回避できないことから、「より正確な時刻を提供する」との考えに基づき、「番組送出(ネット送出)は行わない」という運用ルールが明確に定められている。このため時刻表示は、各番組専用のカスタム素材を、使用を希望する局にも配布し、使用を希望しない場合は各局独自の時刻表示を、原則として各局のマスターからのローカル送出させているのも特徴である。
加盟局には、JNNと番組名につくものは全ての加盟局が同じ時間に放送することや、他のニュースネットワークにJNNのニュース素材を提供してはならないことなどを内容とする「テレビニュースに関するネットワーク協定」(「JNN排他協定」「JNN協定」とも言う)を結んでいる。
また、系列局がスクープしたニュースにおいては、「JNNの取材により明らかになった-」とコメントする。これは全国級のニュースになった時点でJNN基金より取材費が補助されるためである。
一部地域(加盟局)でしか放送されないニュースがある場合には、「JNN」の名称を使用していない。また、TBS系列以外の放送局にも番組を放送している最中に、止むを得ずTBSからニュースを放送する場合も、「JNN」の名称は付かない。なお、TBSニュースバードでも「JNN」の名称のつく番組名(『JNNイブニング』など)があるが、CSのオリジナル番組のためJNN協定は適用されていない。
番組制作に関しては、すべての加盟局による共同制作番組を企画するほか、北から北海道放送(HBC)・TBSテレビ(TBS)・CBCテレビ(CBC)・毎日放送(MBS)・RKB毎日放送(RKB)の5局が「基幹局」に位置付けられ、「5社連盟」を結成している。東北放送(TBC)も基幹局と自社が発表しているものの、JNN基幹局には該当しない。ただし、静岡放送(SBS)・RSK山陽放送(RSK)・中国放送(RCC)と同様に基幹局出稿広告等共同事業の一部に参加する事がある。ちなみにCS放送『TBS NEWS』でかつて放送されていた「列島ニュース」では、TBS以外の以上8局のほか、新潟放送(BSN)・信越放送(SBC)のニュースが紹介されている。
過去には、当時JNN加盟局のなかった地域のJRN加盟ラテ兼営局(秋田放送、高知放送、南海放送。いずれも日本テレビ系)や、ANN単独加盟時代の青森テレビに対し、『JNNニュース』を番組販売扱いでネットしていた。ネットワーク黎明期において、系列の協定がより強固に確立される前の貴重な例である。なお、青森テレビについてはANN加盟時代も特例措置により、番組販売扱いながらもJNNのニュース取材・配信への参加を認めていた。
1999年には、日本初のインターネットでのニュース動画配信サービス『JNN News i』(2017年度に『TBS NEWS』、2022年度に『TBS NEWS DIG』に改称)をスタートさせ、以後系列各局は全国ニュースのみならずローカル(地域)ニュースも動画で配信するようになった。
ニュース番組以外の一般の番組供給系列のネットワークは「TBSネットワーク」と呼称されている。ただし、JNNを運営する「JNNネットワーク協議会」による付帯事業として行われ、FNNとFNS、NNNとNNSの様に、JNNと別組織とはなっていない。このためか一般には「TBSネットワーク」の名称は浸透しておらず、「TBS系列」やニュース系列と同様に「JNN」と呼称される場合が多い。前者は「テレビ情報誌」に基幹局(5社連盟)と準基幹局(東北放送・静岡放送・RSK山陽放送・中国放送)が共同で出していた広告や番組宣伝ポスターで「日本のお茶の間を結ぶ最高のネットワーク-TBS系-」と謳われており、一般向けには「TBS系列」が多用される。後者もTBSがスポーツ中継のオープニングキャッチで「JNN SPORTS」と出していた時期がある他(1993年頃)、バラエティ番組でも「JNN○周年」 を冠した事例もある。また、TBSのネットワーク局一覧のウェブサイトでも用いられる等、「JNN」をTBS系列のネットワークそのものの愛称として使用する例も多い。
本来、原則的にはJNN協定が適用されるニュース番組に関して加盟局(加盟社)共同製作という形をとる(そのため「製作著作」のクレジットが出ない)が、適用外のネットワーク番組は、製作した各局(各社)それぞれで著作権を持ち、製作局のロゴがクレジットされる。これが両者の違いである。なお、TBSネットワーク扱いで放送している番組には、2020年3月までTBS以外の局の製作番組でもネットワーク・シンボルであった「ジ〜ン」が製作局ロゴの隣に付加されていた(一部例外あり)。TBSは「ジ〜ン」をステーション・シンボルとしても使用していたため、ローカル番組でも表示されていた。
また、JNNネットワーク協議会にはプロ野球中継に特化した「プロ野球中継担当者会議」という組織があり、プロ野球チームが放送エリア内に本拠を構えている各局(5社連盟構成局すべてと東北放送(tbc)、中国放送(RCC))が加盟している。この会議においてTBS系列におけるプロ野球中継に関して詳細が決定されている。
JNNは結成当初から特定の新聞との関係を持っていない。これは民放版全国ニュースネットワークを構築することが狙いであったため。NHKに対抗して地方民放各社が手を携えて独自の全国ニュース番組を放送しようとしたものである。
当時のラジオ東京は毎日新聞社を中心に朝日新聞社、読売新聞社といったいわゆる「旧3大紙」と関わりを持っていたが、ラジオ東京はむしろ新聞色を払拭すべく動き、地方局には特定の新聞色を出さないことを条件にネットワークへの加盟を呼びかけた。後にTBSは資本系列を整理して毎日新聞社との関係を強めたが、毎日新聞社の経営悪化による新社移行問題で保有株式が売却されたのをきっかけに完全に独立した。
5社連盟の中では毎日放送もTBSと同時期に毎日新聞社が保有株の大半を売却し、引き続き社名に「毎日」を冠し大阪本社とニュース提供での協力関係を続けるものの資本的には独立している。
ただし、現在でも毎日新聞社とTBS(TBSホールディングス・TBSテレビ・TBSラジオ)および毎日放送(MBSメディアホールディングス・毎日放送〈新社〉。・MBSラジオ)は友好会社の関係にあり、RKB毎日放送は毎日新聞社(西部本社)が持株会社のRKB毎日ホールディングスの第2位株主として資本関係にあるほか、これら各局の報道・情報番組には毎日新聞の記者・編集委員・論説委員などが出演することがある。また、地元紙の出資がマスメディア集中排除原則や経営基盤の弱さを理由に見送られたテレビ山口やテレビ高知の開局支援、地元紙の宮崎日日新聞が後発のテレビ宮崎開局後に資本関係を整理し、友好関係のみを継続した経緯により毎日資本が残った宮崎放送のようなケースもある。逆に山陰放送は地元紙の島根新聞(のち山陰中央新報)よりも毎日と朝日が主導する形で開局したが、毎日は後年にTBSへ株式を売却して朝日資本が残る形となった。テレビ山梨は開局準備段階で出資していた地元紙の山梨日日新聞がマスメディア集中排除原則への抵触を理由に資本を引き上げたため毎日・朝日・読売が同額を出資して開局したが、毎日は早くに富士急行などの地元企業へ株式を売却している。
ネットワークへの加盟条件として地元新聞社の後援を求めている関係から現在も系列局には各地の有力新聞社と親密な放送局が多く、北海道放送=北海道新聞社、CBCテレビ=中日新聞社、中国放送=中国新聞社という全国紙に匹敵するブロック紙、県単位ではIBC岩手放送=岩手日報社、東北放送=河北新報社、テレビユー福島=福島民報社、新潟放送=新潟日報社、信越放送=信濃毎日新聞社、北陸放送およびチューリップテレビ=北國新聞社、静岡放送=静岡新聞社、RSK山陽放送=山陽新聞社、あいテレビ=愛媛新聞社、長崎放送=長崎新聞社、熊本放送=熊本日日新聞社、大分放送=大分合同新聞社、南日本放送=南日本新聞社、琉球放送=沖縄タイムス社と各地域の地方紙の影響を受けているという一筋縄では行かない点を有している。
キー局のTBSテレビ、ならびにTBS系列のBS局のBS-TBSのリモコンキーIDは「6」。TBS以外の系列局でキー局と同じリモコンキーIDを使用している局(地図上で青で塗られている地域の局)は15局、「6」以外が12局ある。他の民放ネットワークと比較して統一されている割合が低く、特に東海(名古屋)以西の西日本地域で「6」以外のリモコンIDを使用している局が多い。これは加盟局の多くがその当該地域の先発局で、アナログ放送親局と同じチャンネル番号をリモコンIDに採用した局が多いことや広島以西の地域でNHK総合・Eテレに次いで若い番号である「3」をリモコンIDに採用した局が多いことが原因であるとされる。リモコンキーIDに6chを使用する系列局の内、TBSテレビ以外では、IBC岩手放送及び北陸放送も、アナログ放送の親局チャンネル番号を引き継いだ。
なお、アナログ親局5chを使用していた新潟放送は、デジタル放送では「6」を割り当てている。
この表は、地域や都道府県の配列に際し、日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
JNN加盟局はすべてGガイドのホスト局であり、JNN加盟局のない秋田県・福井県・徳島県・佐賀県の4県を除き、番組データの配信を行っている。
2018年4月現在、11支局がある。これらの支局はJNN加盟各局が出し合い運営されている「JNN基金」を元にして、基幹局がそれぞれ費用を一部負担する格好で開設・運営している。ただしTBSテレビ以外のJNN加盟局に所属する記者は開設局に所属しつつ、TBSテレビの名前も背負う。そのため開設局とTBSテレビの両方のロゴが印刷された特注の名刺をTBSから各記者に支給して活動させる。
ネットワークはその時々の情勢により変化。加盟局が独自に開設するケースもあるが、常に統廃合が繰り返されている。また記者の派遣については、開設・運営局以外から行われることも少なくない。兵庫県西宮市の阪神甲子園球場にて行われる選抜高等学校野球大会や全国高等学校野球選手権大会など、日本国内で行われる大型スポーツイベントの際にも、イベント開催地の近くにJNN加盟局共同の取材拠点を設置する場合がある。
海外記者のリポートはJRNのニュースでも録音で放送されている。そのため、一部のJNN海外記者リポートがJRNを通じて日本テレビ(NNN)系ラテ兼営局、同じくラテ兼営局の福井放送とAM単営のラジオ福島・和歌山放送にも放送される。
上記の支局以外にも、2000年シドニーオリンピックの開催を機に、TBSテレビが「JNNシドニー支局」を設置(設置当初の名称は「JNNシドニー五輪支局」)。日本のテレビ局でニュース番組の制作に携わった経験を持つ現地在住のフリージャーナリスト・飯島浩樹が、「JNNシドニー通信員」という肩書でオセアニア地域の取材活動に携わっている。1992年夏には、自衛隊PKO活動の現地取材拠点として、TBSがプノンペンに臨時支局を設置していた。
山陽放送は1973年から、中東地域に支局を開設していた。JNNが2012年に海外支局を再編する方針を打ち出したことから、この方針に沿って「JNNカイロ支局」を閉鎖したことを機に、海外支局の運営業務から撤退した。
かつては、毎日放送の設置・運営による「JNNマニラ支局」「JNNベルリン支局」も存在。ベルリン支局については、自社の運営によるパリ支局の開設を前提に、2017年9月で閉鎖した。
CBCテレビも、中部日本放送時代の1974年から、中日新聞社との共同運営方式で「JNNローマ支局」を開設。東欧情勢の変化を背景に、1990年限りで同支局を閉鎖するとともに、同年から2010年9月まで「JNNウィーン支局」を自社で運営していた。
そのほか、JNNは香港支局(1992年にTBSが開設、1999年閉鎖)、サイゴン支局(1971年にTBSが開設、1974年閉鎖、シンガポールに移設)、シンガポール支局(1974年にTBSが開設、1977年閉鎖)、ジャカルタ支局(1998年にTBSが開設、2000年閉鎖)、サンパウロ支局(1980年に北海道放送が開設、1993年閉鎖)、ロシア極東支局(1993年に北海道放送がサハリンに開設、1995年にウラジオストクに移転、2001年に閉鎖)、ヨハネスブルク支局(1987年にTBSが開設、1991年閉鎖)、ボン支局を設置したこともある。
JNN排他協定の影響で系列外で放送される番組は数本程度と極少数で在京キー局の番販番組では最も少ない。
1980年代までは地方の民放テレビが1~2局かつオープンネット状態ということもあり、上記局(秋田テレビと福井テレビ以外)におけるTBS系列番組の放送本数も現在より多く、また一部同時ネット番組も存在した(『ロッテ 歌のアルバム』『ヤング720』『時事放談』→『日曜放談』等)。
選挙・台風・地震・北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
新潟放送や南日本放送など、テレビ・ラジオの双方がTBSのネットワークに加盟している局の場合、テレビの音声をそのままラジオに載せることで有事報道を行うことがある。
開票状況を伝える特別番組を放送。出口調査などを駆使して早く、分かりやすく伝える。
状況に応じて「速報のみの対応」「速報+臨時ニュース」「速報+臨時ニュースの後、特番へ移行」と、大まかに分けて3つのパターンが存在する。
ニュース速報や交通・気象・地震情報等の速報テロップを表示する際は、JNN系列全28局・BS-TBS・TBS NEWS共通で『ビッビッ ビッビッ』と、高音と低音を組み合わせた独特のチャイムを鳴らす。ニュース速報を表示する際は『JNNニュース速報』と表示する。地上波放送では全国ネットの番組を放送している場合は、TBSテレビ送出の速報テロップが全ての加盟局に向けて表示される。加盟局がローカル編成をしている時間帯であれば加盟局が個々に速報テロップを送出する。(ただし速報テロップが表示されるタイミングはTBSテレビより若干遅れる。)
津波情報に関しては、津波注意報・津波警報が発表された場合、「JNN津波情報 ただちに避難」が挿入され、CM中でも常時文字情報を出し続けることになっている(ただし先述した『JNNニュース速報』と違い、加盟局ごとの表示となるため、地域によって対応が異なる。また、近年ではCMに入ったら一旦消去することもある。)。
気象情報に関しては、当初はチャイムは鳴らずテロップのみ表示されていたが、2021年6月に気象庁が顕著な大雨に関する情報を開始して以降はチャイムを鳴らしている。ただし、土砂災害警戒情報、竜巻注意情報が地方のみ表示される。
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。
2022年3月現在放送中の番組は太字で表記する。
※新潟県も含む。
※もともと甲信越静の4局だったが、後に北陸の2局も参加。名古屋に所在して東海3県をエリアとするCBCは含まず。
※大分県も含む。
2009年はJNN発足50周年であったことから、以下の特別企画(特別番組)が編成された。
|
[
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"tag": "p",
"text": "ジャパン・ニュース・ネットワーク(英: Japan News Network)は、TBSテレビをキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のJNN(ジェイエヌエヌ)で言及されることが多い。",
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},
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"text": "日本のテレビニュースネットワークとしては最も歴史が古い。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "なお、ここではニュースとは別関係のテレビ番組供給ネットワーク、TBSネットワーク(TBS Networks)についても解説する。ただし、TBSラジオを基幹局としてテレビと同時並行的に存在するラジオネットワークについては、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)を参照のこと。",
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},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "また、一般に本項で解説するJNNとTBSネットワークとを合わせてTBS系列という。",
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},
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ラジオ東京(KRT、東京放送。現:TBSホールディングス)が、日本放送協会(NHK)に対抗する日本初のテレビニュースネットワークとして1959年8月1日に結成。 この年に放送された皇太子明仁親王(後の第125代天皇、現:上皇)結婚特別番組のネット局がほぼそのまま加盟した形となった。当時郵政省(現在:総務省)ではテレビの全国放送はNHKのみとし、民間放送は各県域内でのローカル放送を前提としていた。しかしながら、ラジオと異なりテレビの場合はNHKに対抗し得る内容の全国ニュースを放送するにはどうしても各局間のニュース映像素材の交換が必要となっていた。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "これより先、ラジオ東京制作の『東京テレニュース』を初期加盟16局がネット受けを行い放送していた。特に北海道放送(HBC)、中部日本放送(CBC、現:CBCテレビ)、大阪テレビ放送(OTV、朝日放送テレビの前身)、ラジオ九州(RKB、RKB毎日放送の前身)とラジオ東京はその前年の1958年6月にが「テレビニュースに関するネットワーク協定」を結んでいた。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "JNN発足当時、他局も放送局間で素材交換を行った全国ニュース番組を放送していたが、日本テレビは自社で制作したニュースをネット局に配給、フジテレビと日本教育テレビ(NETテレビ。現:テレビ朝日)はニュース番組制作会社が制作したニュース番組を購入して配給する形で全国放送していた。特にNETの場合は制作に朝日新聞社が関わっていた。これに対し、JNNは特定の新聞社との関係を持たず、自主制作で且つ加盟各社の共同制作であり、ラジオ東京が編集・制作・送出およびセールスを行っていたものの、同社は加盟各社の代表という立場に過ぎない点が他系列と異なっていた。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "初期はニュース番組のタイトルも各局が自由に差し替えられたが、1975年3月31日、朝日放送テレビから毎日放送へのネットチェンジ後はネット加盟局全社統一となっている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "フルネット局28局で形成されている。秋田県・福井県・徳島県・佐賀県にはJNN加盟局がない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ロゴマークの色は原則緑で「JNN」と(公式サイトでは)表示するが、2017年10月以降、定時ニュースのロゴが独自のものに変更されたほか、「新・情報7days ニュースキャスター」なども独自のロゴを使用する。さらに、2022年4月から配信開始した「TBS(系列局略称) NEWS DIG Powered by JNN」の「JNN」のロゴも、独自である。また、番組配信局テロップは一切出していない。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "全体として、AMラジオを兼営している老舗局が多く、特に「○○放送」という名前のJNN加盟局はそのほとんどがその地域において、最初の民放テレビ局(第1局)となっている。北海道、東北の太平洋側、静岡県、長野県、新潟県、石川県、近畿地方、中国地方(山口県を除く)、九州・沖縄地方の全局では、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)にも同時加盟している。したがって、基幹局は事実上も含めれば全てラテ兼営(札幌・福岡が同一法人による本来のラテ兼営、東京・名古屋・大阪が同一放送持株会社傘下による事実上のラテ兼営)で、同時にJRNの基幹局でもある。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "デジタル放送では、すべての加盟局が、映像の権利保護などの観点からCMを除いた放送中、画面右上に自社ロゴ(ウォーターマーク)の表示を行っている(一部系列局ではワンセグでは行っていない)。現在は5大系列はすべての放送局で実施されているが放送開始当初から行っているのはJNNのみである。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "加盟局はGガイドの番組データを配信している(電子番組ガイド(EPG)のGガイドのホスト局となっている)。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "認定放送持株会社、ならびに株式上場への取り組みも多く、2009年4月1日にTBSテレビ(東京放送ホールディングス→TBSホールディングス)、2014年4月1日にCBCテレビ(中部日本放送)、2016年4月1日にRKB毎日放送(RKB毎日ホールディングス)、2017年4月1日に毎日放送(MBSメディアホールディングス)、2019年4月1日にRSK山陽放送(RSKホールディングス)が認定放送持株会社体制に移行している。TBSホールディングス・中部日本放送・RKB毎日ホールディングス・新潟放送(BSNメディアホールディングス)は株式を上場している。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "番組中の時刻表示については、全国統一の日本標準時が用いられ使用されている日本でもごく僅かな(体感できない程の)時差が存在しているとして、またデジタル放送ではエンコード/デコードによる遅延が絶対に回避できないことから、「より正確な時刻を提供する」との考えに基づき、「番組送出(ネット送出)は行わない」という運用ルールが明確に定められている。このため時刻表示は、各番組専用のカスタム素材を、使用を希望する局にも配布し、使用を希望しない場合は各局独自の時刻表示を、原則として各局のマスターからのローカル送出させているのも特徴である。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "加盟局には、JNNと番組名につくものは全ての加盟局が同じ時間に放送することや、他のニュースネットワークにJNNのニュース素材を提供してはならないことなどを内容とする「テレビニュースに関するネットワーク協定」(「JNN排他協定」「JNN協定」とも言う)を結んでいる。",
"title": "ネットワークの特徴"
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{
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"text": "また、系列局がスクープしたニュースにおいては、「JNNの取材により明らかになった-」とコメントする。これは全国級のニュースになった時点でJNN基金より取材費が補助されるためである。",
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"text": "一部地域(加盟局)でしか放送されないニュースがある場合には、「JNN」の名称を使用していない。また、TBS系列以外の放送局にも番組を放送している最中に、止むを得ずTBSからニュースを放送する場合も、「JNN」の名称は付かない。なお、TBSニュースバードでも「JNN」の名称のつく番組名(『JNNイブニング』など)があるが、CSのオリジナル番組のためJNN協定は適用されていない。",
"title": "ネットワークの特徴"
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"text": "番組制作に関しては、すべての加盟局による共同制作番組を企画するほか、北から北海道放送(HBC)・TBSテレビ(TBS)・CBCテレビ(CBC)・毎日放送(MBS)・RKB毎日放送(RKB)の5局が「基幹局」に位置付けられ、「5社連盟」を結成している。東北放送(TBC)も基幹局と自社が発表しているものの、JNN基幹局には該当しない。ただし、静岡放送(SBS)・RSK山陽放送(RSK)・中国放送(RCC)と同様に基幹局出稿広告等共同事業の一部に参加する事がある。ちなみにCS放送『TBS NEWS』でかつて放送されていた「列島ニュース」では、TBS以外の以上8局のほか、新潟放送(BSN)・信越放送(SBC)のニュースが紹介されている。",
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"text": "過去には、当時JNN加盟局のなかった地域のJRN加盟ラテ兼営局(秋田放送、高知放送、南海放送。いずれも日本テレビ系)や、ANN単独加盟時代の青森テレビに対し、『JNNニュース』を番組販売扱いでネットしていた。ネットワーク黎明期において、系列の協定がより強固に確立される前の貴重な例である。なお、青森テレビについてはANN加盟時代も特例措置により、番組販売扱いながらもJNNのニュース取材・配信への参加を認めていた。",
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"text": "1999年には、日本初のインターネットでのニュース動画配信サービス『JNN News i』(2017年度に『TBS NEWS』、2022年度に『TBS NEWS DIG』に改称)をスタートさせ、以後系列各局は全国ニュースのみならずローカル(地域)ニュースも動画で配信するようになった。",
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"text": "ニュース番組以外の一般の番組供給系列のネットワークは「TBSネットワーク」と呼称されている。ただし、JNNを運営する「JNNネットワーク協議会」による付帯事業として行われ、FNNとFNS、NNNとNNSの様に、JNNと別組織とはなっていない。このためか一般には「TBSネットワーク」の名称は浸透しておらず、「TBS系列」やニュース系列と同様に「JNN」と呼称される場合が多い。前者は「テレビ情報誌」に基幹局(5社連盟)と準基幹局(東北放送・静岡放送・RSK山陽放送・中国放送)が共同で出していた広告や番組宣伝ポスターで「日本のお茶の間を結ぶ最高のネットワーク-TBS系-」と謳われており、一般向けには「TBS系列」が多用される。後者もTBSがスポーツ中継のオープニングキャッチで「JNN SPORTS」と出していた時期がある他(1993年頃)、バラエティ番組でも「JNN○周年」 を冠した事例もある。また、TBSのネットワーク局一覧のウェブサイトでも用いられる等、「JNN」をTBS系列のネットワークそのものの愛称として使用する例も多い。",
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"text": "本来、原則的にはJNN協定が適用されるニュース番組に関して加盟局(加盟社)共同製作という形をとる(そのため「製作著作」のクレジットが出ない)が、適用外のネットワーク番組は、製作した各局(各社)それぞれで著作権を持ち、製作局のロゴがクレジットされる。これが両者の違いである。なお、TBSネットワーク扱いで放送している番組には、2020年3月までTBS以外の局の製作番組でもネットワーク・シンボルであった「ジ〜ン」が製作局ロゴの隣に付加されていた(一部例外あり)。TBSは「ジ〜ン」をステーション・シンボルとしても使用していたため、ローカル番組でも表示されていた。",
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"text": "また、JNNネットワーク協議会にはプロ野球中継に特化した「プロ野球中継担当者会議」という組織があり、プロ野球チームが放送エリア内に本拠を構えている各局(5社連盟構成局すべてと東北放送(tbc)、中国放送(RCC))が加盟している。この会議においてTBS系列におけるプロ野球中継に関して詳細が決定されている。",
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"text": "JNNは結成当初から特定の新聞との関係を持っていない。これは民放版全国ニュースネットワークを構築することが狙いであったため。NHKに対抗して地方民放各社が手を携えて独自の全国ニュース番組を放送しようとしたものである。",
"title": "ネットワークの特徴"
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"text": "当時のラジオ東京は毎日新聞社を中心に朝日新聞社、読売新聞社といったいわゆる「旧3大紙」と関わりを持っていたが、ラジオ東京はむしろ新聞色を払拭すべく動き、地方局には特定の新聞色を出さないことを条件にネットワークへの加盟を呼びかけた。後にTBSは資本系列を整理して毎日新聞社との関係を強めたが、毎日新聞社の経営悪化による新社移行問題で保有株式が売却されたのをきっかけに完全に独立した。",
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"text": "5社連盟の中では毎日放送もTBSと同時期に毎日新聞社が保有株の大半を売却し、引き続き社名に「毎日」を冠し大阪本社とニュース提供での協力関係を続けるものの資本的には独立している。",
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ただし、現在でも毎日新聞社とTBS(TBSホールディングス・TBSテレビ・TBSラジオ)および毎日放送(MBSメディアホールディングス・毎日放送〈新社〉。・MBSラジオ)は友好会社の関係にあり、RKB毎日放送は毎日新聞社(西部本社)が持株会社のRKB毎日ホールディングスの第2位株主として資本関係にあるほか、これら各局の報道・情報番組には毎日新聞の記者・編集委員・論説委員などが出演することがある。また、地元紙の出資がマスメディア集中排除原則や経営基盤の弱さを理由に見送られたテレビ山口やテレビ高知の開局支援、地元紙の宮崎日日新聞が後発のテレビ宮崎開局後に資本関係を整理し、友好関係のみを継続した経緯により毎日資本が残った宮崎放送のようなケースもある。逆に山陰放送は地元紙の島根新聞(のち山陰中央新報)よりも毎日と朝日が主導する形で開局したが、毎日は後年にTBSへ株式を売却して朝日資本が残る形となった。テレビ山梨は開局準備段階で出資していた地元紙の山梨日日新聞がマスメディア集中排除原則への抵触を理由に資本を引き上げたため毎日・朝日・読売が同額を出資して開局したが、毎日は早くに富士急行などの地元企業へ株式を売却している。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ネットワークへの加盟条件として地元新聞社の後援を求めている関係から現在も系列局には各地の有力新聞社と親密な放送局が多く、北海道放送=北海道新聞社、CBCテレビ=中日新聞社、中国放送=中国新聞社という全国紙に匹敵するブロック紙、県単位ではIBC岩手放送=岩手日報社、東北放送=河北新報社、テレビユー福島=福島民報社、新潟放送=新潟日報社、信越放送=信濃毎日新聞社、北陸放送およびチューリップテレビ=北國新聞社、静岡放送=静岡新聞社、RSK山陽放送=山陽新聞社、あいテレビ=愛媛新聞社、長崎放送=長崎新聞社、熊本放送=熊本日日新聞社、大分放送=大分合同新聞社、南日本放送=南日本新聞社、琉球放送=沖縄タイムス社と各地域の地方紙の影響を受けているという一筋縄では行かない点を有している。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "キー局のTBSテレビ、ならびにTBS系列のBS局のBS-TBSのリモコンキーIDは「6」。TBS以外の系列局でキー局と同じリモコンキーIDを使用している局(地図上で青で塗られている地域の局)は15局、「6」以外が12局ある。他の民放ネットワークと比較して統一されている割合が低く、特に東海(名古屋)以西の西日本地域で「6」以外のリモコンIDを使用している局が多い。これは加盟局の多くがその当該地域の先発局で、アナログ放送親局と同じチャンネル番号をリモコンIDに採用した局が多いことや広島以西の地域でNHK総合・Eテレに次いで若い番号である「3」をリモコンIDに採用した局が多いことが原因であるとされる。リモコンキーIDに6chを使用する系列局の内、TBSテレビ以外では、IBC岩手放送及び北陸放送も、アナログ放送の親局チャンネル番号を引き継いだ。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、アナログ親局5chを使用していた新潟放送は、デジタル放送では「6」を割り当てている。",
"title": "ネットワークの特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "この表は、地域や都道府県の配列に際し、日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。",
"title": "加盟局"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "JNN加盟局はすべてGガイドのホスト局であり、JNN加盟局のない秋田県・福井県・徳島県・佐賀県の4県を除き、番組データの配信を行っている。",
"title": "加盟局"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2018年4月現在、11支局がある。これらの支局はJNN加盟各局が出し合い運営されている「JNN基金」を元にして、基幹局がそれぞれ費用を一部負担する格好で開設・運営している。ただしTBSテレビ以外のJNN加盟局に所属する記者は開設局に所属しつつ、TBSテレビの名前も背負う。そのため開設局とTBSテレビの両方のロゴが印刷された特注の名刺をTBSから各記者に支給して活動させる。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ネットワークはその時々の情勢により変化。加盟局が独自に開設するケースもあるが、常に統廃合が繰り返されている。また記者の派遣については、開設・運営局以外から行われることも少なくない。兵庫県西宮市の阪神甲子園球場にて行われる選抜高等学校野球大会や全国高等学校野球選手権大会など、日本国内で行われる大型スポーツイベントの際にも、イベント開催地の近くにJNN加盟局共同の取材拠点を設置する場合がある。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "海外記者のリポートはJRNのニュースでも録音で放送されている。そのため、一部のJNN海外記者リポートがJRNを通じて日本テレビ(NNN)系ラテ兼営局、同じくラテ兼営局の福井放送とAM単営のラジオ福島・和歌山放送にも放送される。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "上記の支局以外にも、2000年シドニーオリンピックの開催を機に、TBSテレビが「JNNシドニー支局」を設置(設置当初の名称は「JNNシドニー五輪支局」)。日本のテレビ局でニュース番組の制作に携わった経験を持つ現地在住のフリージャーナリスト・飯島浩樹が、「JNNシドニー通信員」という肩書でオセアニア地域の取材活動に携わっている。1992年夏には、自衛隊PKO活動の現地取材拠点として、TBSがプノンペンに臨時支局を設置していた。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "山陽放送は1973年から、中東地域に支局を開設していた。JNNが2012年に海外支局を再編する方針を打ち出したことから、この方針に沿って「JNNカイロ支局」を閉鎖したことを機に、海外支局の運営業務から撤退した。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "かつては、毎日放送の設置・運営による「JNNマニラ支局」「JNNベルリン支局」も存在。ベルリン支局については、自社の運営によるパリ支局の開設を前提に、2017年9月で閉鎖した。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "CBCテレビも、中部日本放送時代の1974年から、中日新聞社との共同運営方式で「JNNローマ支局」を開設。東欧情勢の変化を背景に、1990年限りで同支局を閉鎖するとともに、同年から2010年9月まで「JNNウィーン支局」を自社で運営していた。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "そのほか、JNNは香港支局(1992年にTBSが開設、1999年閉鎖)、サイゴン支局(1971年にTBSが開設、1974年閉鎖、シンガポールに移設)、シンガポール支局(1974年にTBSが開設、1977年閉鎖)、ジャカルタ支局(1998年にTBSが開設、2000年閉鎖)、サンパウロ支局(1980年に北海道放送が開設、1993年閉鎖)、ロシア極東支局(1993年に北海道放送がサハリンに開設、1995年にウラジオストクに移転、2001年に閉鎖)、ヨハネスブルク支局(1987年にTBSが開設、1991年閉鎖)、ボン支局を設置したこともある。",
"title": "支局"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "JNN排他協定の影響で系列外で放送される番組は数本程度と極少数で在京キー局の番販番組では最も少ない。",
"title": "番組販売協力局"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1980年代までは地方の民放テレビが1~2局かつオープンネット状態ということもあり、上記局(秋田テレビと福井テレビ以外)におけるTBS系列番組の放送本数も現在より多く、また一部同時ネット番組も存在した(『ロッテ 歌のアルバム』『ヤング720』『時事放談』→『日曜放談』等)。",
"title": "番組販売協力局"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "選挙・台風・地震・北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "新潟放送や南日本放送など、テレビ・ラジオの双方がTBSのネットワークに加盟している局の場合、テレビの音声をそのままラジオに載せることで有事報道を行うことがある。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "開票状況を伝える特別番組を放送。出口調査などを駆使して早く、分かりやすく伝える。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "状況に応じて「速報のみの対応」「速報+臨時ニュース」「速報+臨時ニュースの後、特番へ移行」と、大まかに分けて3つのパターンが存在する。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ニュース速報や交通・気象・地震情報等の速報テロップを表示する際は、JNN系列全28局・BS-TBS・TBS NEWS共通で『ビッビッ ビッビッ』と、高音と低音を組み合わせた独特のチャイムを鳴らす。ニュース速報を表示する際は『JNNニュース速報』と表示する。地上波放送では全国ネットの番組を放送している場合は、TBSテレビ送出の速報テロップが全ての加盟局に向けて表示される。加盟局がローカル編成をしている時間帯であれば加盟局が個々に速報テロップを送出する。(ただし速報テロップが表示されるタイミングはTBSテレビより若干遅れる。)",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "津波情報に関しては、津波注意報・津波警報が発表された場合、「JNN津波情報 ただちに避難」が挿入され、CM中でも常時文字情報を出し続けることになっている(ただし先述した『JNNニュース速報』と違い、加盟局ごとの表示となるため、地域によって対応が異なる。また、近年ではCMに入ったら一旦消去することもある。)。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "気象情報に関しては、当初はチャイムは鳴らずテロップのみ表示されていたが、2021年6月に気象庁が顕著な大雨に関する情報を開始して以降はチャイムを鳴らしている。ただし、土砂災害警戒情報、竜巻注意情報が地方のみ表示される。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2022年3月現在放送中の番組は太字で表記する。",
"title": "ブロックネット番組等"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "※新潟県も含む。",
"title": "ブロックネット番組等"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "※もともと甲信越静の4局だったが、後に北陸の2局も参加。名古屋に所在して東海3県をエリアとするCBCは含まず。",
"title": "ブロックネット番組等"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "※大分県も含む。",
"title": "ブロックネット番組等"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2009年はJNN発足50周年であったことから、以下の特別企画(特別番組)が編成された。",
"title": "ブロックネット番組等"
}
] |
ジャパン・ニュース・ネットワークは、TBSテレビをキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称のJNN(ジェイエヌエヌ)で言及されることが多い。 日本のテレビニュースネットワークとしては最も歴史が古い。 なお、ここではニュースとは別関係のテレビ番組供給ネットワーク、TBSネットワークについても解説する。ただし、TBSラジオを基幹局としてテレビと同時並行的に存在するラジオネットワークについては、ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)を参照のこと。 また、一般に本項で解説するJNNとTBSネットワークとを合わせてTBS系列という。
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{{pathnav|frame=1|テレビネットワーク|日本のテレビネットワーク|this=ジャパン・ニュース・ネットワーク(JNN、[[TBSテレビ]]系列)}}
{{混同|x1=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]をキー局とする|日本ニュースネットワーク|x2=[[テレビ朝日]]をキー局とする|オールニッポン・ニュースネットワーク}}
[[File:JNN logo.svg|thumb|JNNのロゴ。『[[JNNニュース]]』内で、画面右下に『JNN』の[[ウォーターマーク]]が表示される。]]
[[File:TBS News 2020 logo.png|thumb|220px|『[[TBS NEWS]]』のロゴ。<!-- date=2022-03 コメントアウト:それは青四角に白文字でTBS(改行)NEWSと表示されるものでは?→『JNNニュース』([[TBSテレビ]]のみ)や、[[CS放送]]の『[[TBS NEWS (CS放送)|TBS NEWS]]』、[[関東ローカル]]で放送される同名の[[スポットニュース]]内で画面左上に表示される。 -->]]
'''ジャパン・ニュース・ネットワーク'''({{lang-en-short|''Japan News Network''}}<ref>{{Kotobank|東京放送}}</ref>)は、[[TBSテレビ]]を[[キー局]]とする、[[日本]]の[[民間放送|民放テレビ局]]の[[ニュース系列|ニュースネットワーク]]である。略称の'''JNN'''(ジェイエヌエヌ)で言及されることが多い<ref group="注釈">2018年4月時点で、正式名称の「JAPAN NEWS NETWORK」が使われるのは「TBS NEWS」の各ページ最下段の著作権表記や、土曜夕方に放送「[[報道特集 (TBS)|報道特集]]」の番組タイトルと項目クレジットなど少数に留まっている。</ref>。
日本のテレビニュースネットワークとしては最も歴史が古い<ref name="murakami">[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf 村上聖一「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」] NHK放送文化研究所、2023年5月2日閲覧</ref>。
なお、ここではニュースとは別関係のテレビ番組供給ネットワーク、'''TBSネットワーク'''('''TBS Networks''')についても解説する。ただし、[[TBSラジオ]]を基幹局としてテレビと同時並行的に存在する[[中波放送|ラジオ]]ネットワークについては、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク]](JRN)を参照のこと。
また、一般に本項で解説するJNNとTBSネットワークとを合わせて'''[[TBS系列#テレビ|TBS系列]]'''という<ref group="注釈">JNN、TBSネットワークのどちらか一方だけでも通じる場合もある。なお、単にテレビニュースネットワークのJNNのみを指す場合は'''JNN系列'''という場合が多い。場合によっては、別項で解説するラジオネットワークJRNをも含めてTBS系列とする場合もある。</ref>。
== 概説 ==
=== ネットワークの形成 ===
ラジオ東京(KRT、東京放送。現:[[TBSホールディングス]])が、[[日本放送協会]](NHK)に対抗する日本初のテレビニュースネットワークとして[[1959年]][[8月1日]]に結成。 この年に放送された[[皇太子]][[明仁|明仁親王]](後の第125代[[天皇]]、現:[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])結婚特別番組のネット局がほぼそのまま加盟した形となった<ref group="注釈">初期の加盟局は、北海道放送、東北放送、静岡放送、信越放送、[[新潟放送|ラジオ新潟]]、北陸放送、中部日本放送、朝日放送テレビ、山陽放送、日本海テレビ、[[中国放送|ラジオ中国]]、RKB毎日放送、長崎放送、[[熊本放送|ラジオ熊本]]、[[南日本放送|ラジオ南日本]]、そしてラジオ東京の16局。</ref><ref group="注釈">皇太子結婚特番のネット局には、上記の他に日本教育テレビ(現:[[テレビ朝日]])と[[毎日放送]]があった。</ref>。当時[[郵政省]](現在:[[総務省]])ではテレビの全国放送はNHKのみとし、[[民間放送]]は各県域内でのローカル放送を前提としていた。しかしながら、ラジオと異なりテレビの場合はNHKに対抗し得る内容の全国ニュースを放送するにはどうしても各局間のニュース映像素材の交換が必要となっていた。
これより先、ラジオ東京制作の『東京テレニュース』を初期加盟16局がネット受けを行い放送していた。特に[[北海道放送]](HBC)、[[中部日本放送]](CBC、現:[[CBCテレビ]])、[[大阪テレビ放送]](OTV、[[朝日放送テレビ]]の前身)、ラジオ九州(RKB、[[RKB毎日放送]]の前身)とラジオ東京はその前年の1958年6月にが「テレビニュースに関するネットワーク協定」を結んでいた<ref name="murakami" />。
JNN発足当時、他局も放送局間で素材交換を行った全国ニュース番組を放送していたが、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]は自社で制作したニュースをネット局に配給、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]と日本教育テレビ(NETテレビ。現:[[テレビ朝日]])はニュース番組制作会社が制作したニュース番組を購入して配給する形で全国放送していた。特にNETの場合は制作に[[朝日新聞社]]が関わっていた。これに対し、JNNは特定の新聞社との関係を持たず、自主制作で且つ加盟各社の共同制作であり、ラジオ東京が編集・制作・送出およびセールスを行っていたものの、同社は加盟各社の代表という立場に過ぎない点が他系列と異なっていた。
初期はニュース番組のタイトルも各局が自由に差し替えられたが、1975年3月31日、朝日放送テレビから[[毎日放送]]への[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]後はネット加盟局全社統一となっている。
[[フルネット]]局28局で形成されている。[[秋田県]]・[[福井県]]・[[徳島県]]・[[佐賀県]]にはJNN加盟局がない<ref group="注釈">ただし、いずれの地域でも直接受信もしくはケーブルテレビ経由で隣接のTBS系列局を視聴している世帯がある。</ref><ref group="注釈">取材担当は秋田県がATV・IBC・TUY、福井県嶺北地方(主に[[福井市]]など)はMRO、同県嶺南地方(主に[[敦賀市]]、[[小浜市]]など)と徳島県はMBS、佐賀県はRKBが主に担当</ref>。
ロゴマークの色は原則緑で「{{Color|green|'''''JNN'''''}}」と(公式サイトでは)表示するが、2017年10月以降、定時ニュースのロゴが独自のものに変更されたほか、「新・情報7days ニュースキャスター」なども独自のロゴを使用する<ref group="注釈">正式ロゴを使うのは、平日朝の「あさチャン」のみとなっている。</ref>。さらに、[[2022年]][[4月]]から配信開始した「[[TBS NEWS DIG|TBS(系列局略称) NEWS DIG]] Powered by JNN」の「JNN」のロゴも、独自である。また、番組配信局テロップは一切出していない。
== ネットワークの特徴 ==
全体として、[[中波放送|AMラジオ]]を[[ラテ兼営|兼営]]している老舗局が多く、特に「○○放送」という名前のJNN加盟局はそのほとんどがその地域において、最初の民放テレビ局(第1局)となっている<ref group="注釈">基幹局の[[毎日放送]]と[[中部日本放送]]のラジオ放送は'''1951年'''開局であり、TBSラジオの開局も'''1951年'''である。'''1951年'''は日本の民間放送が開始された年である。</ref>。北海道、東北の太平洋側<ref group="注釈">岩手、宮城、福島の3県を指す。</ref><ref group="注釈">福島県では、地元の民放AM局[[ラジオ福島]](RFC)が[[1957年]][[10月22日]]に、テレビ予備免許([[日本の放送局所の呼出符号#JO*R|コールサイン・JOWR-TV]])を取得してラテ兼営局化、並びにテレビ、ラジオいずれもTBS系列局化(=JNN・JRN)する予定だったが、役員選任の難航などから、約半年後の[[1958年]][[4月1日]]をもってテレビ予備免許が失効してしまった経緯がある。それ以降、RFCはAM単営局となった。このため福島県では民放テレビ先発局の[[福島テレビ]]が他県より後れて開局することになり、それまで民放テレビが全く視聴できない状態の期間が他県より長かった。{{main|開局を断念した放送局一覧#予備免許を交付されたが開局しなかった局}}</ref><ref group="注釈">その福島テレビ(本社・福島市)は開局当初オープンネットだったが、1966年の[[日本ニュースネットワーク|NNN]]発足と同時に加盟。しかし、1970年に[[地方紙]]の[[福島民友|福島民友新聞社]](本社・郡山市)を傘下とする[[読売新聞グループ本社|読売新聞社]]が出資の[[福島中央テレビ]](FCT、本社・郡山市)が当時[[フジテレビ系列]]([[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]])メインとして開局。以降、福島の2大都市である福島市と郡山市を巻き込む系列新聞社と関連する全国紙と地元テレビ局(福島市=福島民報=毎日新聞=福島テレビ='''NNN'''・TBS、郡山市=福島民友=読売新聞=FCT='''FNN'''・[[オールニッポンニュースネットワーク|ANN]]、注:'''太字'''はテレビでのメインネット)とのそれぞれの関係におけるネット局のねじれ状態が起こったことを受け、1971年6月1日にNNN系列をFCTに[[ネットチェンジ]]する形で脱退すると同時に、福島民友が保有している福島テレビ株を[[フジサンケイグループ]]に、同じくフジサンケイグループ保有のFCT株を読売新聞に相互交換すること、また、TBSとの繋がりである[[毎日新聞]]と協力関係の[[福島民報]](本社・福島市)が出資していることでJNN系列の加盟条件である「地方新聞社出資」の要件を満たしたことからJNN系列に正式加盟(ただし、暫定期間として9月末までNNNのニュースをネット。正式にネット交換したのは翌日の10月1日であると同時にFCTがNNNに正式加盟した)。これに、FCTで放送したフジ系列の番組を引き継ぐために番組供給ネットワークのFNSにも加盟したが、[[JNN排他協定]]の絡みともあって[[ニュースネットワーク]]であるFNNの加盟は見送られた。結局、福島テレビはその保有株においてキー局のTBSはわずか数%程度しかなく、逆に[[福島県]]が50%を、フジサンケイグループが約30%をそれぞれ保有していること(特に自治体である福島県)にTBS側が難色を示していること(地方紙の福島民報は当時10%保有)、また福島テレビと同じく福島民報が出資の[[テレビユー福島]](TUF)が1983年秋にJNN系列局で開局を予定していることを見越して同年3月31日にJNNを脱退、翌日の4月1日にFNNに加盟した。ただし、視聴者保護のため同年9月30日までの半年間は猶予期間とし、ニュース以外のTBS系列番組を暫定ネットしていた。{{main|福島テレビ#開局までの経緯|ネットチェンジ#福島県の事例}}</ref><ref group="注釈">また、福島テレビがJNNを脱退し猶予期間終了後の1983年10月1日から同年12月4日のTUF開局まで、福島県ではTBS系列の番組が一部を除き視聴不可となる状態が約2か月間続いていた。{{main|テレビユー福島#開局2ヶ月前まで福島テレビ(FTV)で放送されていたTBS系列の番組}}</ref>、静岡県、長野県、新潟県、石川県、近畿地方<ref group="注釈">現在JNNに加盟している毎日放送は、在阪局で一番早く1951年9月1日にラジオ放送を開局した(当時は新日本放送、NJB)が、テレビ放送は1959年3月1日に、朝日放送テレビ(当時は大阪テレビ放送、OTV)、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]](ytv)、[[関西テレビ放送|関西テレビ]](KTV)に続いて4番目の開局であった。ちなみにかつてJNNに所属していた朝日放送テレビについては、1956年12月1日に在阪局で最初にテレビ放送を開始したものの、ラジオ放送は1951年11月11日に、在阪局では2番目に開局した。</ref>、中国地方(山口県を除く)、九州・沖縄地方の全局<ref group="注釈">佐賀県では民放テレビ先発局の[[サガテレビ]]が1969年4月1日にフジテレビ系列(FNN/FNS)で開局したが、以後佐賀県に県域民放テレビは開局していない。ただし、直接受信あるいはケーブルテレビ経由でRKB毎日放送等の在福民放局も視聴可能。なお、RKB毎日放送や九州朝日放送(KBC、テレビ朝日系列)は佐賀県に支局を置いている。なお沖縄県では最も開局の早いテレビ局は沖縄テレビ([[フジテレビ系列]])であるが、ラジオを含めた開局としてはJNN加盟の琉球放送が最も早い。</ref>では、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク]](JRN)にも同時加盟している<ref group="注釈">また[[テレビ朝日|日本教育テレビ(NET)]]から[[学校放送]]番組のネットを受けていた関係で[[民間放送教育協会]]にも16局が同時加盟している。{{see also|民間放送教育協会#加盟局}}</ref><ref group="注釈">逆に東北の日本海側、山梨県、富山県、福井県、四国地方、山口県における先発民放テレビ局は、同じラテ兼営でも[[日本テレビ系列]]([[日本ニュースネットワーク|NNN]]/[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]])である。マイクロ回線等の都合からJNNへの加盟を断念した局もある。</ref><ref group="注釈">JRN加盟の民放AM局は[[朝日放送ラジオ]]を除き当該地域で最初に開局している。ただし兼営テレビがNNN/NNS系列やAMラジオ単営局の中にはJRN加盟がかなり遅れた局もある。</ref><ref group="注釈">ラテ両部門を分離し、持株会社化したTBS(東京放送ホールディングス→TBSホールディングス)、CBC(中部日本放送)、MBS(MBSメディアホールディングス)も含む(なおTBSは2001年10月1日※持株会社移行前、CBCは2013年4月1日※同、MBSは2021年4月1日※持株会社移行後 にラジオ部門を分社化している)。うち[[TBSラジオ]]・[[CBCラジオ]]・[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]・琉球放送の4局はJRN[[ネットワーク (放送)|シングルネット]]局。残り16局([[HBCラジオ|北海道放送]]・IBC岩手放送・東北放送・新潟放送・信越放送・静岡放送・北陸放送・[[MBSラジオ]]・山陰放送・[[RSKラジオ|RSK山陽放送]]・中国放送・長崎放送・熊本放送・大分放送・宮崎放送・南日本放送)は[[全国ラジオネットワーク]](NRN)との[[クロスネット局|クロスネット]]局。</ref>。したがって、[[基幹局]]<ref group="注釈">TBSテレビ(東京)、北海道放送(札幌)、CBCテレビ(名古屋)、毎日放送(大阪)、RKB毎日放送(福岡)を指す。</ref>は事実上も含めれば全てラテ兼営(札幌・福岡が同一法人による本来のラテ兼営、東京・名古屋・大阪が同一放送持株会社傘下による事実上のラテ兼営)で、同時にJRNの基幹局でもある。
デジタル放送では、すべての加盟局が、映像の権利保護などの観点からCMを除いた放送中、画面右上に[[ロゴタイプ|自社ロゴ]]([[ウォーターマーク]])の表示を行っている(一部系列局ではワンセグでは行っていない)。現在は5大系列はすべての放送局で実施されているが放送開始当初から行っているのはJNNのみである。
加盟局は[[Gガイド]]の番組データを配信している([[電子番組ガイド]](EPG)の[[Gガイド#Gガイドホスト局|Gガイドのホスト局]]となっている)<ref group="注釈">BS-TBSも含む。</ref><ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host">JNN加盟局が存在しない[[秋田県]]・[[福井県]]・[[徳島県]]・[[佐賀県]]の4県のGガイドのホスト局については'''[[Gガイド#JNN系列局が存在しない地域のホスト局|こちらの項]]'''を参照。</ref>。
認定[[放送持株会社]]、ならびに[[株式上場]]への取り組みも多く、2009年4月1日にTBSテレビ(東京放送ホールディングス→TBSホールディングス)、2014年4月1日にCBCテレビ(中部日本放送)、2016年4月1日にRKB毎日放送(RKB毎日ホールディングス)、2017年4月1日に毎日放送(MBSメディアホールディングス)、2019年4月1日にRSK山陽放送(RSKホールディングス)が認定放送持株会社体制に移行している。TBSホールディングス・中部日本放送・RKB毎日ホールディングス・新潟放送(BSNメディアホールディングス)は株式を上場<ref group="注釈">TBS(HD):[[東京証券取引所|東証]]プライム [http://charge.quote.yahoo.co.jp/q?s=9401&d=c&k=c3&h=on&z=m 9401]、CBC:[[名古屋証券取引所#プレミア市場|名証プレミア]] [http://charge.quote.yahoo.co.jp/q?s=9402&d=c&k=c3&h=on&z=m 9402]、RKB(HD):[[福岡証券取引所|福証]] [http://charge.quote.yahoo.co.jp/q?s=9407&d=c&k=c3&h=on&z=m 9407]、BSN:東証スタンダード [http://charge.quote.yahoo.co.jp/q?s=9408&d=c&k=c3&h=on&z=m 9408]。</ref>している。
{{Anchors|時刻表示}}番組中の時刻表示については、全国統一の[[日本標準時]]が用いられ使用されている日本でもごく僅かな(体感できない程の)時差が存在しているとして、またデジタル放送では[[エンコード|エンコード/デコード]]による[[日本の地上デジタルテレビ放送#遅延問題|遅延が絶対に回避できない]]<ref group="注釈">中継のロケ先にスタジオから発言した後にロケ先ではしばらく無言となるのもこのエンコード/デコードによる遅延が原因であり、やはり回避することは絶対にできない。</ref>ことから、「より正確な時刻を提供する」との考えに基づき、「'''番組送出(ネット送出)は行わない'''」という運用ルールが明確に定められている<ref group="注釈">[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が『[[めざましテレビ]]』シリーズや『[[ノンストップ!]]』『[[ぽかぽか]]』『[[日曜報道 THE PRIME]]』『[[ワイドナショー]]』で時刻表示のネット送出を行っているのは、この対極といえる(天気ループはネット送出を行うと冗長になり各地域をカバーしきれなくなるため、同系列でも原則ローカル送出としている。ただし『[[報道プライムサンデー]]』では[[プライムニュース#特徴|事実上のネット送出]]が実施されており、この影響で主要都市のみのループとなっていた)。</ref>。このため時刻表示は、各番組専用のカスタム素材を、使用を希望する局にも配布し、使用を希望しない場合は各局独自の時刻表示を、原則として各局の[[主調整室|マスター]]からのローカル送出させているのも特徴である。
<!--- この項について、もともと「教えてTBSニュース」に疑問で寄せられていたものでもあります。あくまで「JNN」における特徴のみを述べてものでもあるため、各番組における個別の事情は絶対記述禁止です。 --->
=== JNN協定 ===
加盟局には、'''JNNと番組名につくものは全ての加盟局が同じ時間に放送すること'''<ref group="注釈">報道特別番組は全ての加盟局のほか、BS-TBSやTBSニュースバードの衛星波でも同時放送されることがある。</ref>や、'''他のニュースネットワークにJNNのニュース素材を提供してはならない'''ことなどを内容とする「'''テレビニュースに関するネットワーク協定'''」(「[[JNN排他協定]]」「JNN協定」とも言う)を結んでいる。<!--「JNN」冠をつけた番組は基本的にJNN基金から番組制作費を支出している=「加盟各局の共同制作という位置づけ」ということも、排他協定の理由の一つと言われている-->{{main|JNN排他協定#概要}}
また、系列局がスクープしたニュースにおいては、「JNNの取材により明らかになった-」とコメントする。これは全国級のニュースになった時点でJNN基金より取材費が補助されるためである。
一部地域(加盟局)でしか放送されないニュース<ref group="注釈" name="hanamaru">[[2009年]][[3月27日]]までの『[[はなまるマーケット]]』内の『はなまるニュース』はJNN協定適用除外だった。</ref>がある場合には、「JNN」の名称を使用していない。また、TBS系列以外の放送局にも番組を放送している最中に、止むを得ずTBSからニュースを放送する場合も、「JNN」の名称は付かない。なお、TBSニュースバードでも「JNN」の名称のつく番組名(『JNNイブニング』など)があるが、CSのオリジナル番組のためJNN協定は適用されていない。{{main|JNN排他協定#全国ニュース番組}}
番組制作に関しては、すべての加盟局による共同制作番組を企画するほか、北から北海道放送(HBC)・TBSテレビ(TBS)・CBCテレビ(CBC)・毎日放送(MBS)・RKB毎日放送(RKB)の5局が「基幹局」に位置付けられ、「5社連盟」を結成している<ref group="注釈">TXNを除けば各系列局の中で一番少ない数で構成されている。</ref>。[[東北放送]](TBC)も基幹局と自社が発表しているものの、JNN基幹局には該当しない。ただし、[[静岡放送]](SBS)・[[RSKテレビ|RSK山陽放送]](RSK)・[[中国放送]](RCC)と同様に基幹局出稿広告等共同事業の一部に参加する事がある。ちなみにCS放送『[[TBS NEWS (CS放送)|TBS NEWS]]』でかつて放送されていた「列島ニュース」では、TBS以外の以上8局のほか、[[新潟放送]](BSN)・[[信越放送]](SBC)のニュースが紹介されている。
過去には、当時JNN加盟局のなかった地域のJRN加盟ラテ兼営局([[秋田放送]]、[[高知放送]]、[[南海放送]]。いずれも日本テレビ系)や、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]単独加盟時代の[[青森テレビ]]に対し、『[[JNNニュース]]』を[[番組販売]]扱いでネットしていた。ネットワーク黎明期において、系列の協定がより強固に確立される前の貴重な例である。<ref group="注釈">南海放送・秋田放送については、特に朝の情報番組をネットし、その中のコーナーにJNNニュースがあったこと等があり1992年までネットしていた。</ref>なお、青森テレビについてはANN加盟時代も特例措置により、番組販売扱いながらもJNNのニュース取材・配信への参加を認めていた。<ref>出典:青森テレビ社史『青森テレビ十年の歩み』(1978年刊行)、並びに『ATV20年のあゆみ』(1989年刊行)この青森テレビの例は「加盟局は他系列局のニュースをネットしないこと」というJNNの原則がJNN結成時ではなく、結成後に加えられた項目であることも関係している。</ref>{{main|JNN排他協定#青森テレビにおける過去の例外的取扱}}
[[1999年]]には、日本初のインターネットでの[[ニュースサイト|ニュース動画配信サービス]]『JNN News i』(2017年度に『TBS NEWS』、2022年度に『[[TBS NEWS DIG]]』に改称)をスタートさせ、以後系列各局は全国ニュースのみならずローカル(地域)ニュースも動画で配信するようになった。
=== TBSネットワークとJNN ===
[[報道番組|ニュース番組]]以外の一般の番組供給系列の[[ネットワーク (放送)#テレビジョン放送|ネットワーク]]は「TBSネットワーク」と呼称されている。ただし、JNNを運営する「JNNネットワーク協議会」による付帯事業として行われ、[[フジニュースネットワーク|FNN]]と[[フジネットワーク|FNS]]、[[日本ニュースネットワーク|NNN]]と[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]の様に、JNNと別組織とはなっていない。このためか一般には「TBSネットワーク」の名称は浸透しておらず、「TBS系列」やニュース系列と同様に「JNN」と呼称される場合が多い。前者は「[[テレビ情報誌]]」に基幹局(5社連盟)と準基幹局(東北放送・静岡放送・RSK山陽放送・中国放送)<ref group="注釈">ブラウン管型の塗りつぶし枠に各局のロゴ(局によっては親局のチャンネル番号も)が描かれていた。</ref>が共同で出していた広告や番組宣伝ポスターで「'''日本のお茶の間を結ぶ最高のネットワーク-TBS系-'''」と謳われており、一般向けには「'''TBS系列'''」が多用される。後者もTBSがスポーツ中継のオープニングキャッチで「JNN SPORTS」と出していた時期がある他([[1993年]]頃)<ref group="注釈">1993年にはプロ野球中継のオープニングキャッチでも使われていたが、TBSテレビ(関東ローカル)や中国放送では同じデザインと音楽で独自にタイトルコールを加えて、それぞれ『TBS SPORTS』(ロゴはミクロコスモス時代のもの)『RCC SPORTS』としたものを使用していた(系列局には『JNN SPORTS』のオープニングキャッチを裏送り)。</ref>、バラエティ番組でも「JNN○周年」 を冠した事例もある。また、TBSのネットワーク局一覧のウェブサイトでも用いられる等、「JNN」をTBS系列のネットワークそのものの愛称として使用する例も多い。
本来、原則的にはJNN協定が適用されるニュース番組に関して加盟局(加盟社)共同製作という形をとる(そのため「製作著作」のクレジットが出ない)が、適用外のネットワーク番組は、製作した各局(各社)それぞれで著作権を持ち、製作局のロゴがクレジットされる。これが両者の違いである。なお、TBSネットワーク扱いで放送している番組には、2020年3月までTBS以外の局の製作番組でもネットワーク・シンボルであった「[[ジ〜ン]]」が製作局ロゴの隣に付加されていた(一部例外あり)。TBSは「ジ〜ン」をステーション・シンボルとしても使用していたため、ローカル番組でも表示されていた。{{main|ジ〜ン#概要}}
また、JNNネットワーク協議会には[[プロ野球中継]]に特化した「'''プロ野球中継担当者会議'''」という組織があり、[[日本プロ野球|プロ野球]]チームが放送エリア内に本拠を構えている各局(5社連盟構成局すべてと東北放送(tbc)、中国放送(RCC))が加盟している。この会議においてTBS系列におけるプロ野球中継に関して詳細が決定されている。<ref group="注釈">[[政令指定都市]]及び[[日本プロ野球|プロ野球]][[セントラル・リーグ|セ]]・[[パシフィック・リーグ|パ]]各球団を持つ都道府県における先発ラテ兼営局の併設テレビは、TBSが首都圏2番目にテレビ放送を開始した関東地方を除き、全てJNN系列。</ref>{{main|S☆1 BASEBALL#制作局と担当球団}}
=== 新聞社との関係 ===
JNNは'''結成当初から特定の[[日本の新聞|新聞]]との関係を持っていない'''。これは[[民放]]版全国[[ニュースネットワーク]]を構築することが狙いであったため。[[日本放送協会|NHK]]に対抗して地方民放各社が手を携えて独自の全国ニュース番組を放送しようとしたものである。
当時のラジオ東京は[[毎日新聞社]]を中心に[[朝日新聞社]]、[[読売新聞社]]といったいわゆる「旧3大紙」と関わりを持っていたが、ラジオ東京はむしろ新聞色を払拭すべく動き、地方局には特定の新聞色を出さないことを条件にネットワークへの加盟を呼びかけた。後にTBSは資本系列を整理して毎日新聞社との関係を強めたが、毎日新聞社の経営悪化による新社移行問題で保有株式が売却されたのをきっかけに完全に独立した。{{main|ラジオ日本ジャイアンツナイター#バッチリナイターからジャイアンツナイターへ}}
5社連盟の中では[[毎日放送]]もTBSと同時期に毎日新聞社が保有株の大半を売却し、引き続き社名に「毎日」を冠し[[毎日新聞大阪本社|大阪本社]]とニュース提供での協力関係を続けるものの資本的には独立している。{{main|毎日放送#企業情報|高橋信三#MBS会長}}
ただし、現在でも毎日新聞社とTBS(TBSホールディングス・TBSテレビ・TBSラジオ)および毎日放送(MBSメディアホールディングス・毎日放送〈新社〉。・MBSラジオ)は友好会社の関係にあり、[[RKB毎日放送]]は毎日新聞社([[毎日新聞西部本社|西部本社]])が持株会社のRKB毎日ホールディングスの第2位株主として資本関係にあるほか、これら各局の報道・情報番組には毎日新聞の記者・編集委員・論説委員などが出演することがある。また、地元紙の出資がマスメディア集中排除原則や経営基盤の弱さを理由に見送られた[[テレビ山口]]や[[テレビ高知]]の開局支援<ref group="注釈">テレビ高知は後に毎日の株式売却でTBSホールディングスが筆頭株主、朝日と読売が上位株主となっている。</ref>、地元紙の[[宮崎日日新聞]]が後発の[[テレビ宮崎]]開局後に資本関係を整理し、友好関係のみを継続した経緯により毎日資本が残った[[宮崎放送]]のようなケースもある。逆に[[山陰放送]]は地元紙の島根新聞(のち[[山陰中央新報]])よりも毎日と朝日が主導する形で開局したが<ref group="注釈">JNN結成前の開局につき、当初は地元新聞社の後援が厳密に求められていた訳ではなかった事情もある。</ref>、毎日は後年にTBSへ株式を売却して朝日資本が残る形となった。[[テレビ山梨]]は開局準備段階で出資していた地元紙の[[山梨日日新聞]]がマスメディア集中排除原則への抵触を理由に資本を引き上げたため毎日・朝日・読売が同額を出資して開局したが、毎日は早くに[[富士急行]]などの地元企業へ株式を売却している<ref group="注釈">名目上はテレビ山梨の傘下で設立され、同社の本社内に所在する週刊紙の[[山梨新報]]が同局の後援紙とされている。</ref>。
ネットワークへの加盟条件として地元新聞社の後援を求めている関係から現在も系列局には各地の有力新聞社と親密な放送局が多く、[[北海道放送]]=[[北海道新聞社]]<ref group="注釈">設立母体でありニュース提供を始めとした協力関係を持つが、出資比率は後発の[[北海道文化放送]]および[[テレビ北海道]]の方が高い。</ref>、[[CBCテレビ]]=[[中日新聞社]]<ref group="注釈">[[東海テレビ放送]]および[[テレビ愛知]](但し[[日本経済新聞社]]主導)にも出資しているが、総務省からマスメディア集中排除原則違反により警告を受けて間接出資に切り替えるなど資本整理を進めた結果、持株会社でCBCテレビ・ラジオを傘下に置く中部日本放送の筆頭株主に復帰した。</ref>、[[中国放送]]=[[中国新聞社]]<ref group="注釈">設立当初は朝日新聞社・毎日新聞社との均等出資だったが、朝日・毎日の両新聞社による出資分は[[広島ホームテレビ]](テレビ朝日系列)やTBSホールディングスを交えた資本調整が行われた。</ref>という全国紙に匹敵する[[ブロック紙]]、県単位では[[IBC岩手放送]]=[[岩手日報|岩手日報社]]、[[東北放送]]=[[河北新報|河北新報社]]、[[テレビユー福島]]=[[福島民報|福島民報社]]<ref group="注釈">第2位株主。毎日新聞社と資本関係にあり、福島民報・[[ラジオ福島]]・テレビユー福島の3社合同企画を開催することが多い。</ref>、[[新潟放送]]=[[新潟日報社]]、[[信越放送]]=[[信濃毎日新聞|信濃毎日新聞社]]、[[北陸放送]]および[[チューリップテレビ]]=[[北國新聞|北國新聞社]]<ref group="注釈">[[テレビ金沢]]筆頭株主。北陸放送(MRO)とは経営陣の対立で[[1980年代]]に関係が悪化し、MRO側は毎日新聞社や[[石川テレビ放送|石川テレビ]]と親密な[[中日新聞北陸本社]]([[北陸中日新聞]]を発行)との友好関係を強めていたが、CM間引き問題で民放連の会員資格停止を受けた事態の収拾過程でTBSの仲介により[[2005年]]から和解を進め、北國がマスメディア集中排除原則に抵触しない範囲の出資比率で筆頭株主に復帰している。チューリップテレビは[[富山新聞]](北國新聞富山本社)とニュース提供で協力関係だが、[[北日本放送]]を傘下に置く[[北日本新聞|北日本新聞社]]や[[富山テレビ放送]]と親密な北陸中日新聞などの地元競合紙および朝日・読売・日経などの全国紙、フジ・メディア・ホールディングスも出資している。</ref>、[[静岡放送]]=[[静岡新聞|静岡新聞社]]、[[RSK山陽放送]]=[[山陽新聞社]]<ref group="注釈">設立母体でありニュース提供においては協力関係だが山陽新聞グループには含まれず、社屋を共有しグループに名を連ねる[[テレビせとうち]]への出資比率の方が高い。</ref>、[[あいテレビ]]=[[愛媛新聞|愛媛新聞社]]<ref group="注釈">[[南海放送]]の設立母体であり同局と[[愛媛朝日テレビ]]にも出資しているが、あいテレビへの出資比率が最も高い。</ref>、[[長崎放送]]=[[長崎新聞|長崎新聞社]]<ref group="注釈">長崎放送への出資は少額だが、逆に長崎放送が長崎新聞社の株式を1割強保有。</ref>、[[熊本放送]]=[[熊本日日新聞|熊本日日新聞社]]、[[大分放送]]=[[大分合同新聞|大分合同新聞社]]、[[南日本放送]]=[[南日本新聞|南日本新聞社]]<ref group="注釈">設立母体でありニュース提供など番組制作面で親密な関係だが、[[鹿児島テレビ放送]]への出資比率の方が高い。</ref>、[[琉球放送]]=[[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]と各地域の[[地方紙]]の影響を受けているという一筋縄では行かない点を有している。
=== リモコンキーID ===
{{色}}
[[ファイル:JNN ID map (ja).png|thumb|right|300px|JNN系列の[[リモコンキーID]]地図]]
キー局のTBSテレビ、ならびにTBS系列の[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS局]]の[[BS-TBS]]の[[リモコンキーID]]は「'''6'''」。TBS以外の系列局でキー局と同じリモコンキーIDを使用している局(地図上で青で塗られている地域の局)は15局、「6」以外が12局<ref group="注釈">HBC・tbc・MBCは「1」、RCC・tys・NBC・RKK・OBS・RBCは「3」、MBS・RKBは「4」、CBCは「5」</ref>ある。他の民放ネットワークと比較して統一されている割合が低く、特に東海(名古屋)以西の西日本地域で「6」以外のリモコンIDを使用している局が多い<ref group="注釈">三大都市圏の3局は、3局とも異なるリモコンIDを使用している。</ref>。これは加盟局の多くがその当該地域の先発局で、アナログ放送親局と同じチャンネル番号をリモコンIDに採用した局が多いことや広島以西の地域でNHK総合・Eテレに次いで若い番号である「3」をリモコンIDに採用した局が多い<ref group="注釈">大分県のリモコンIDは開局順に割り当てられている。</ref>ことが原因であるとされる。リモコンキーIDに6chを使用する系列局の内、TBSテレビ以外では、IBC岩手放送及び北陸放送も、アナログ放送の親局チャンネル番号を引き継いだ。
なお、アナログ親局'''5ch'''を使用していた新潟放送は、デジタル放送では「6」を割り当てている<ref group="注釈">新潟地区でのリモコンキーID「5」は、[[新潟テレビ21]](UX・テレビ朝日系列)に割り当て。</ref>。
== 沿革 ==
* [[1955年]]([[昭和]]30年)[[4月1日]] - ラジオ東京がテレビ放送(過去の[[TBSホールディングス|東京放送]]、現在の[[TBSテレビ]])開始。この時点でネット局はなし。
* [[1956年]](昭和31年)[[12月1日]] - この日テレビ放送開始の[[中部日本放送]](現在の[[CBCテレビ]])と同日開局の[[大阪テレビ放送]](後の[[朝日放送テレビ]])とネットを組む。<ref group="注釈">どちらも日本テレビ放送網(以下日本テレビ)との[[クロスネット局|クロスネット]]であった。</ref>
* [[1957年]](昭和32年)4月1日 - この日テレビ放送開始の[[北海道放送]]とネットを組む。<ref group="注釈" name="k">日本テレビとのクロスネットであった。</ref>
* [[1958年]](昭和33年)
** [[3月1日]] - この日テレビ放送開始の[[RKB毎日放送|ラジオ九州]]<ref group="注釈">ラジオ九州は同年[[8月1日]]西部毎日テレビ放送と合併してRKB毎日放送と改称した。</ref>とネットを組む。<ref group="注釈" name="k">日本テレビとのクロスネットであった。</ref>
** [[6月1日]] - この日テレビ放送開始の[[RSKテレビ|山陽放送]](現在の[[RSK山陽放送]])とネットを組む。<ref group="注釈" name="k">日本テレビとのクロスネットであった。</ref>
** [[8月1日]] - この日まで開局した山陽放送を除く5局でニュースネットワーク協定に調印、これがJNNの土台となる。
** [[8月28日]] - 大阪テレビ放送・RKB毎日放送がクロスネットから[[フルネット]]局となる。<ref group="注釈">讀賣テレビ・[[テレビ西日本]]が開局し両局が日本テレビステーション・ネット局を宣言したため。</ref>
** [[11月22日]] - この日開局した[[関西テレビ放送]]とも一部に限りネットを組む。
** [[12月25日]] - この日開局した[[東海テレビ放送]]と中部日本放送が番組に限りネットを共有。<ref group="注釈">日本テレビクロスネットも同じであった。東海テレビ放送は翌年の3月1日以降フジテレビジョン(以下フジテレビ)・日本教育テレビ(現:[[テレビ朝日]]、以下NET)ともクロスネットを編成する。</ref>
* [[1959年]](昭和34年)
** 3月1日 - この日テレビ放送開始の[[毎日放送]]と一部に限りネットを組む。<ref group="注釈">関西テレビ・大阪テレビと共に同年[[2月1日]]開局の日本教育テレビ(現:テレビ朝日)・同日開局のフジテレビとのクロスネットを共有していた。</ref>
** 4月1日 - [[札幌テレビ放送]]開局。これにより北海道放送はクロスネットを日本テレビからフジテレビ・NETに段階的に変更。<ref group="注釈">完了したのはこの年の大晦日。</ref>
** 8月1日 - 前年にニュースネットワーク協定に調印した5局とネットを組んでいた山陽放送とこの日までに開局ないしテレビ放送開始の東北放送・[[静岡放送]]・[[信越放送]]・[[新潟放送]]・[[北陸放送]]・[[日本海テレビジョン放送]]・中国放送・[[長崎放送]]・[[熊本放送]]・[[南日本放送]]の11局で、ニュース番組の供給を目的とするネットワーク・JNNを結成(以降、現在の社名で表記)。<ref group="注釈">南海放送・高知放送における番組販売によるニュースネットはこの時点で継続される。</ref>
** [[9月1日]] - この日テレビ放送開始の[[IBC岩手放送]](当時は岩手放送)がJNNに加盟。
** [[10月1日]] - この日テレビ放送開始の[[大分放送]]がJNNに加盟。
** [[11月1日]] - 現行のロゴマーク使用開始<ref>『民間放送十年史』369頁「第2部各社史録 東京放送 年表」より。</ref>
** [[12月15日]] - この日テレビ放送開始のラジオ山陰(現在の山陰放送)<ref group="注釈">当時のテレビの放送エリアは島根県のみ</ref>がJNNに加盟し日本海テレビジョン放送<ref group="注釈">当時の放送エリアは鳥取県のみ</ref>が脱退。<ref group="注釈">1959年[[12月14日]]付で脱退。</ref>
* [[1960年]](昭和35年)
** 2月1日 - ラジオ東京・中部日本放送・朝日放送<ref group="注釈">[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]が1959年3月1日に大阪テレビ放送を子会社化してから3か月後の同年[[6月1日]]に吸収合併し同社のテレビ局とした。</ref>・RKB毎日放送が4社連盟を結成し、JNN基幹局となる。これにより[[フルネット]]固定となる。これにより中部日本放送は東海テレビ放送との番組共有を、朝日放送は関西テレビ放送・毎日放送との番組共有を解消した。
** 3月1日 - 北海道放送がJNN基幹局となる。<ref group="注釈">これにより4社連盟は5社連盟と改称。これ以降、この5局がJNNの幹事としての役割を果たしている。</ref>ただし、北海道放送は「[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]」制作参加にとどまった。
** 4月1日 - この日テレビ放送開始の秋田放送が番組販売でニュースネットを開始(一部の一般番組も)。
** 10月1日 - この日テレビ放送開始の宮崎放送がJNNに加盟<ref name="MRT30th_329">{{Cite book|和書|editor=宮崎放送開局三十周年記念事業委員会|title=宮崎放送三十年史|chapter=年表|publisher=宮崎放送|date=1984-12-20|pages=329|id={{NDLJP|12275337/190}}}}</ref>。
** 11月29日 - キー局のラジオ東京が東京放送に社名変更。
* [[1963年]](昭和38年)4月1日 - この日開局の[[福島テレビ]]が番組販売でニュースネットを開始(一部の一般番組も)。
* [[1964年]](昭和39年)9月1日 - RKB毎日放送が一般番組に限り日本テレビとのクロスネット復活。<ref group="注釈">それまでの日本テレビ系列局であったテレビ西日本がフジテレビ系列に[[ネットチェンジ]]した、フジテレビ系列とNETテレビ系列のクロスネットだった[[九州朝日放送]]がNETテレビ系列に一本化したため。</ref>
* [[1969年]](昭和44年)
** 4月1日 - 北海道放送が[[北海道テレビ放送]]の全道テレビ放送開始によりフルネット開始。
** 4月1日 - RKB毎日放送が[[福岡放送]]の開局により番組のみの日本テレビとのクロスネットを取りやめてフルネットが復活(5社連盟加盟局のフルネット化完了)。
** 4月1日 - 山陽放送が[[岡山放送]]の開局によりフルネット局となる。
** [[12月1日]] - この日開局の[[青森テレビ]]が番組販売でJNNに参加<ref group="注釈">開局時から『JNNニュース』のネット受けを行い、報道取材活動にも協力していたが、番組編成がNETとのクロスネットで、[[全国ニュース]]の一部にも『[[朝日新聞ニュース#テレビ|NETニュース]]』〔後の『[[ANNニュース]]』〕が含まれていたため排他協定との関係で当初は正式加盟できなかった。</ref>
* [[1970年]](昭和45年)4月1日 - この日開局の[[テレビ山梨]]・テレビ山口・[[テレビ高知]]がJNNに加盟。後者の加盟により高知放送が番組販売によるニュースネットを終了。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[1月19日]] - 加盟23社で「'''JNNネットワーク協議会'''」を発足させる。<ref group="注釈">この年には、フジテレビ系列の「フジネットワーク業務協定」も成立している。</ref>
** [[6月1日]] - 福島テレビが[[福島中央テレビ]]とのネット交換によりJNNに加盟。ただし、番組編成上の完全移行は10月改編時に持ち越しとなった。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[5月15日]] - [[沖縄県]]の施政権返還により琉球放送が正式にJNNに加盟。<ref group="注釈">復帰前ではまず1959年(昭和34年)[[11月1日]][[沖縄テレビ放送]]がテレビ番組のテープネットを開始し、1960年(昭和35年)6月1日テレビ放送開始の琉球放送と共有する事となる。そして琉球放送がJNN特派員配置局の位置付けとなりマイクロネット回線が開通した1964年(昭和39年)9月1日以降は琉球放送に集中していった。</ref>
** [[7月22日]] - 山陰放送が山陰相互乗り入れにより[[島根県]]のみから島根県・[[鳥取県]]両県での放送に移行。
* [[1974年]](昭和49年)[[11月18日]] - 東京放送と毎日放送との間で1975年3月31日から朝日放送に代わりネットを開始することで合意に達し、同時に東京放送は朝日放送に対し「1975年[[3月30日]]をもってネットを打ち切り翌日から毎日放送とネットを開始する。」と通告する。
* [[1975年]](昭和50年)[[3月31日]]
** [[近畿広域圏]]で、[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]](現:[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]])がJNN・5社連盟を脱退し<ref group="注釈">ただし[[朝日放送ラジオ|併設ラジオ]]についてはテレビ系列がANNに変わってからも今日までJRNを脱退していないため、関西(近畿広域圏)は全国でも珍しい形態として、同一放送区域にJRN加盟局が2局存在する([[和歌山放送]](WBS)を含めると3局)。現在は全国ニュース番組が毎日放送経由(JRNニュース取材も毎日放送が担当)、それ以外の番組は朝日放送ラジオ経由となる事が多い。ただし近年は全国ニュース番組はCMのみネット受けして本編は自社制作としているので、JRN全国ニュースが毎日放送で流れることは報道特別番組などを除いて皆無に近い。</ref>、毎日放送がJNN・5社連盟に加盟([[朝日新聞社]]や[[毎日新聞社]]の意向により、[[新聞社]]の資本関係を明確にするといった、[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ=腸捻転解消政策]]を実施。これにより、毎日放送が[[準キー局]]となり、[[2023年]]現在も放送継続中)。
** 青森テレビがJNNに正式加盟(全国ニュースをJNNに統一、ANNも脱退しクロスネット解消)。
* [[1979年]](昭和54年)4月1日
** 4月1日 - 山陽放送が岡山・香川相互乗り入れの実施により[[岡山県]]のみから岡山県・[[香川県]]両県での放送に移行。
* [[1983年]](昭和58年)4月1日
** 4月1日 - 福島テレビがJNNを脱退しFNNに加盟。同年[[12月3日]]までTBS福島支局を設置して対処する。
** 10月1日 - [[テレビユー福島]]がJNNに加盟<ref name="MRT30th_346">{{Cite book|和書|editor=宮崎放送開局三十周年記念事業委員会|title=宮崎放送三十年史|chapter=年表|publisher=宮崎放送|date=1984-12-20|pages=346|id={{NDLJP|12275337/199}}}}</ref>(開局は同年12月4日。同時にフルネットを開始)。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 10月1日 - この日開局の[[テレビユー山形]]がJNNに加盟、同時にフルネット(他系列の番組は番組販売のみ)を開始。
** 11月27日 - この日から、被疑者の呼び捨てを止めている<ref>「スピーカーが風となり ブラウン管が光になる時 北海道とともに50年 HBC」(HBC社史)より</ref>。
* [[1990年]](平成2年)10月1日 - この日開局のテレビユー富山(現:[[チューリップテレビ]])がJNN加盟。
* [[1992年]](平成4年)
** 10月1日 - この日開局の伊予テレビ(現:[[あいテレビ]])がJNNに加盟。これにより南海放送が番組販売でのニュースネットを終了。
** 10月1日 - 秋田放送が番組販売でのニュースネットを終了。<ref group="注釈">伊予テレビ(現:あいテレビ)開局に伴い、JNNのネットワークを整理するため。[[秋田県]]の取材はこの時点前後で引き続きIBC岩手放送が受け持っている。</ref>
** 12月30日 - TBS系列初の長時間特別番組『[[元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ「ずっとあなたに見てほしい 年末年始は眠らない」]]』を放送。
* [[2009年]](平成21年)4月1日 - 東京放送の[[放送持株会社]]移行(社名を[[TBSホールディングス|東京放送ホールディングス]]に変更)に伴い、キー局がテレビ放送事業を東京放送から承継する[[TBSテレビ]]に変更。
* [[2014年]](平成26年)4月1日 - [[中部日本放送]]の放送持株会社移行(社名変更なし)に伴い、テレビ放送事業を中部日本放送から承継する[[CBCテレビ]]に変更。
* [[2016年]](平成28年)4月1日 - RKB毎日放送の放送持株会社移行(社名を[[RKB毎日ホールディングス]]に変更)に伴い、テレビ・ラジオの放送事業全般を旧社から承継する新法人の[[RKB毎日放送]]に変更。
* [[2017年]](平成29年)
** 4月1日 - 毎日放送の放送持株会社移行(社名を[[MBSメディアホールディングス]]に変更)に伴い、テレビ・ラジオの放送事業全般を旧社から承継する新法人の[[毎日放送]]に変更。
** 10月1日 - 「[[TBS NEWS]]」ブランド統一したが、JNN公式ロゴは引き続き使用されている。
* [[2019年]](平成31年)4月1日 - 山陽放送の放送持株会社移行(社名を[[RSKホールディングス]]に変更)に伴い、テレビ・ラジオの放送事業全般を旧社から承継する新法人の[[RSK山陽放送]]に変更。
* [[2023年]]([[令和]]5年)[[6月1日]] - 新潟放送の放送持株会社移行(社名を[[BSNメディアホールディングス]]に変更)に伴い、テレビ・ラジオの放送事業全般を旧社から承継する新法人の新潟放送に変更。
== 加盟局 ==
=== 現在の加盟局 ===
この表は、地域や都道府県の配列に際し、[http://www.j-ba.or.jp/category/references/jba101000 日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページ]の表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
JNN加盟局はすべて[[Gガイド]]のホスト局であり、JNN加盟局のない[[秋田県]]・[[福井県]]・[[徳島県]]・[[佐賀県]]の4県を除き、番組データの配信を行っている<ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host"/>。
* ● - [[中波]][[ラジオ放送局|ラジオ局]]兼営局
* ○ - 旧中波ラジオ局兼営局で、現在は関連会社・子会社にラジオ局を持つ局 <ref group="注釈">TBSは[[2001年]][[10月1日]]からラジオ部門が子会社のTBSラジオ&コミュニケーションズ([[2016年]][[4月1日]]に社名を「[[TBSラジオ]]」に改称)に継承。CBCは[[2013年]][[4月1日]]からラジオ部門が子会社の[[CBCラジオ]]に継承。MBSは[[2021年]]4月1日からラジオ部門が関連会社の[[MBSラジオ]]に継承。</ref>
* ■ - 自社サイトでのニュースの[[動画]]配信実施局
* △ - 外部サイト([[Yahoo!ニュース]]<ref>[https://news.yahoo.co.jp/media Yahoo!ニュース ニュース提供社]</ref>・[[YouTube]]など)でのニュースの動画配信実施局
* ◆ - [[第三セクター]]局
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!style="white-space:nowrap"|[[放送#放送対象地域|放送対象地域]]!!略称/[[日本のリモコンキーID#地上波系統について|ID]]!!社名!!style="white-space:nowrap"|開局日および<br />テレビ放送開始日!!JNN加盟日!!備考!!記号
|-
|[[北海道]]||'''HBC 1'''||[[北海道放送]]||[[1957年]][[4月1日]]||style="white-space:nowrap"|[[1959年]][[8月1日]]発足時<ref group="注釈">これよりJNN発足前の1957年4月1日からネット関係を結んでいた。</ref>||基幹局。||●■△
|-
|[[青森県]]||'''ATV 6'''||[[青森テレビ]]||[[1969年]][[12月1日]]||[[1975年]][[3月31日]]<ref group="注釈">1969年12月1日開局 - [[1975年]][[3月30日]]の間は番販扱いでニュースネットと報道取材活動のみ参加(このような事例は青森テレビ以外にはない)。当時は番組編成が日本教育テレビ(NETテレビ〈NET〉、現在のテレビ朝日)とのクロスネットで、全国ニュースもJNNニュースとNETニュース→ANNニュースが併存しており、排他協定との関係上、このような参加形態となった。</ref>||||■
|-
|[[岩手県]]||'''IBC 6'''||[[IBC岩手放送]]||colspan="2"|[[1959年]][[9月1日]]||[[1995年]][[6月22日]]までの局名は岩手放送。||●■△
|-
|[[秋田県]]||colspan="4"|なし||IBC岩手放送<ref group="注釈">[[秋田港]]に常設されているJNN向け情報カメラの運用・管理業務も担当。</ref>・青森テレビ・テレビユー山形が担当している。<ref group="注釈">取材エリアは大館市は青森テレビが、にかほ市から男鹿市はテレビユー山形が、それ以外の地域はIBC岩手放送が主に担当する。大事件の場合は東北放送が加わる場合がある。1960年4月1日~1992年9月30日は秋田放送が番販扱いでニュースネットをしていた。</ref><ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host"/>||
|-
|[[山形県]]||'''TUY 6'''||[[テレビユー山形]]||colspan="2"|[[1989年]][[10月1日]]|| ||■
|-
|[[宮城県]]||'''tbc 1'''||[[東北放送]]||1959年4月1日||1959年8月1日発足時||テレビユー山形開局前は山形県も取材対象地域だった。||●■△
|-
|[[福島県]]||'''TUF 6'''||[[テレビユー福島]]||[[1983年]][[12月4日]]||1983年10月1日<ref name="MRT30th_346" />|| ||■△
|-
|style="white-space:nowrap"|[[広域放送#テレビジョン放送|関東広域圏]]||'''TBS 6'''||[[TBSテレビ]]||[[1955年]]4月1日||[[2009年]]4月1日||[[基幹局]]、[[キー局]]。2009年3月31日までは東京放送<ref group="注釈">現社名は[[TBSホールディングス]]。[[1960年]][[11月29日]]にラジオ東京(KRT)から東京放送に社名変更。</ref>が免許人であった。<ref group="注釈">2001年10月1日にラジオ部門を分社化。分社化(子会社「[[TBSラジオ|TBSラジオ&コミュニケーションズ]]」に継承)後は[[日本の放送局所の呼出符号|コールサイン]]をラテ別々にしている。ラジオは従前通りJOKRであるが、テレビはJORX-TV及びJORX-DTV。なお、ラジオ主幹送信所の保守管理は分社化後も業務委託の形で引き続きTBSテレビ(持株会社化されるまでは東京放送)が行っている。</ref>||○■△
|-
|[[山梨県]]||'''UTY 6'''||[[テレビ山梨]]||colspan="2"|[[1970年]]4月1日|| ||■△
|-
|[[新潟県]]||'''BSN 6'''||[[新潟放送]]||1958年[[12月24日]]||1959年8月1日発足時||1959年[[8月1日]]に正式加盟。[[1961年]][[2月28日]]まで局名はラジオ新潟(RNK)。||●■△
|-
|[[長野県]]||'''SBC 6'''||[[信越放送]]||[[1958年]][[10月25日]]||1959年8月1日発足時||[[1952年]][[3月7日]]まで局名は信濃放送(略称は変わらずSBC)。||●■△
|-
|[[静岡県]]||'''SBS 6'''||[[静岡放送]]||1958年[[11月1日]]||1959年8月1日発足時||[[1960年]][[11月21日]]まで愛称はラジオ静岡。||●■△
|-
|[[富山県]]||'''TUT 6'''||style="white-space:nowrap"|[[チューリップテレビ]]||colspan="2"|[[1990年]]10月1日||[[1992年]][[9月30日]]まで局名はテレビユー富山。||■
|-
|[[石川県]]||'''MRO 6'''||[[北陸放送]]||1958年12月1日||1959年8月1日発足時||チューリップテレビ開局前は富山県も取材対象地域だった。<br />CM未放送問題で、1997年から1年間報道取材以外の会員活動停止処分を受けた。||●△
|-
|[[福井県]]||colspan="4"|なし||県内の取材については、北陸放送が[[嶺北|嶺北地方]]と[[敦賀市]]<ref group="注釈">北陸放送が担当できない場合、CBCテレビが担当する場合がある。</ref>、毎日放送の京都支局が敦賀市を除く[[嶺南|嶺南地方]]を担当している<ref group="注釈">[[敦賀市]]・[[三方郡]][[美浜町 (福井県)|美浜町]]は北陸放送が取材するケースがある。</ref>。<ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host"/>||
|-
|[[広域放送#テレビジョン放送|中京広域圏]]||'''CBC 5'''||[[CBCテレビ]]||[[1956年]]12月1日||[[2014年]]4月1日||基幹局。2014年3月31日までは中部日本放送が免許人であった<ref group="注釈">テレビ放送開始はTBSに続いて開局が早い。ただし、ラジオの開局は早く、日本で最初に開局した[[民間放送]]局でもある([[1951年]][[9月1日]]、日本で初めての民間放送ラジオ局として開局)。2013年4月1日にラジオ部門を分社化。分社化(子会社「[[CBCラジオ]]」に継承)後は[[日本の放送局所の呼出符号|コールサイン]]をラテ別々にしている。ラジオは従前通りJOARであるが、テレビはJOGX-DTV。</ref>。||○■△
|-
|[[広域放送#テレビジョン放送|近畿広域圏]]||'''MBS 4'''||[[毎日放送]]<ref group="注釈">現毎日放送の設立は[[2016年]][[7月28日]](旧商号は毎日放送分割準備株式会社)。旧毎日放送である現在の[[MBSメディアホールディングス]](毎日放送の[[放送持株会社|持株会社]])の設立は[[1950年]][[12月27日]]。</ref>||1959年[[3月1日]]||2017年4月1日||[[基幹局]]、[[キー局|準キー局]]。ワンセグはウォーターマーク表示なし。<br/>かつては民放テレビ局は[[NNN]]/[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列局のみの[[徳島県]]にもアナログGガイドの番組データの配信を対応していた。||○■△
|-
|[[徳島県]]||colspan="4"|なし||取材は[[毎日放送徳島支局]]が担当している。<br/><ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host"/>||
|-
|[[高知県]]||style="white-space:nowrap"|'''KUTV 6'''||[[テレビ高知]]||colspan="2"|1970年4月1日||<ref group="注釈">1959年4月1日 - 1970年3月31日の間は高知放送が番販扱いでニュースネットをしていた。</ref>||■△
|-
|[[愛媛県]]||'''itv 6'''||[[あいテレビ]]||colspan="2"|[[1992年]]10月1日||[[2002年]][[9月30日]]まで局名は伊予テレビ。<ref group="注釈">1958年12月1日 - 1992年9月30日の間は南海放送が番販扱いでニュースネットをしていた。</ref>||■△
|-
|[[香川県]]||rowspan="2"|'''RSK 6'''||rowspan="2"|[[RSKテレビ|RSK山陽放送]]<ref group="注釈">RSK山陽放送の設立は[[2018年]][[5月25日]](旧商号は山陽放送分割準備株式会社)。旧山陽放送である現在の[[RSKホールディングス]](RSK山陽放送の持株会社)の設立は[[1953年]][[4月1日]]。</ref>||rowspan="2"|1958年[[6月1日]]||rowspan="2"|[[2019年]]4月1日||rowspan="2"|1961年[[8月31日]]まで愛称はラジオ山陽(略称は変わらずRSK)。<br />2019年3月31日まで山陽放送<ref group="注釈">現社名は[[RSKホールディングス]]</ref>が免許人であった。<ref group="注釈">2019年4月1日より、放送事業とイベント事業をRSK山陽放送に承継。テレビとラジオの分社化は行わず、山陽放送で使用されていたコールサイン(JOYR、JOYR-DTV)もそのまま承継している。</ref>|| rowspan="2" |●■△◆
|-
|[[岡山県]]
|-
|[[鳥取県]]||rowspan="2"|'''BSS 6'''||rowspan="2"|[[山陰放送]]||colspan="2" rowspan="2"|1959年[[12月15日]]||rowspan="2"|[[1961年]][[5月31日]]まで局名はラジオ山陰(RSB)。<br />1959年12月15日開局 - [[1972年]][[9月30日]]の間は、テレビは島根県のみを対象とした。||rowspan="2" style="white-space:nowrap"|●■△
|-
|[[島根県]]
|-
|[[広島県]]||'''RCC 3'''||[[中国放送]]||1959年4月1日||1959年8月1日発足時||[[1967年]]3月31日まで局名はラジオ中国(略称は変わらずRCC)。<br/>あいテレビ開局前は愛媛県も取材対象地域だった。||●■△
|-
|[[山口県]]||'''tys 3'''||[[テレビ山口]]||colspan="2"|1970年4月1日||<ref group="注釈">1970年4月1日開局 - [[1978年]][[9月30日]]の間はJNN/テレビ朝日(一般番組のみの参加で、ニュースネット〔ANN〕はJNN協定の関係上、参加しなかった。)/FNSのクロスネット、1978年10月1日 - [[1987年]]9月30日の間はJNN・FNSのクロスネットだった。</ref>||■△
|-
|[[福岡県]]||'''RKB<!--公式の略称表記は『大文字』です--> 4'''||[[RKB毎日放送]]<ref group="注釈">現RKB毎日放送の設立は[[2015年]][[9月29日]](旧商号はRKB毎日分割準備株式会社)。旧RKB毎日放送である現在の[[RKB毎日ホールディングス]](RKB毎日放送の持株会社)の設立は[[1951年]][[6月29日]]。</ref>||1958年3月1日||1959年8月1日発足時<ref group="注釈">これよりJNN発足前の1958年3月1日からネット関係を結んでいた。</ref>||基幹局。1958年[[8月17日]]まで局名はラジオ九州(略称は変わらずRKB)。<br/>かつては民放テレビ局は[[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]]系列局のみの[[佐賀県]]にもアナログGガイドの番組データの配信を対応していた。||●■△
|-
|[[佐賀県]]||colspan="4"|なし||ニュース取材はRKB毎日放送が担当している。<br />ラジオ中波放送は[[NBCラジオ佐賀]]<ref group="注釈">長崎放送の佐賀県域におけるラジオ運営子会社、ならびに愛称。</ref>が行っている。<br/><ref group="注釈" name="Not_JNN_G-Guide_Host"/>||
|-
|[[長崎県]]||'''NBC 3'''||[[長崎放送]]||1959年[[1月1日]]||1959年8月1日発足時|| ||●■△
|-
|[[熊本県]]||'''RKK 3'''||[[熊本放送]]||1959年4月1日||1959年8月1日発足時||[[1961年]][[5月31日]]まで局名はラジオ熊本(略称は変わらずRKK)。<br />1960年時点では佐賀県と福岡県筑後地方も取材対象地域だった<ref>『熊本放送50年史』熊本放送、2004年 p.43</ref>。||●■△
|-
|[[大分県]]||'''OBS 3'''||[[大分放送]]||colspan="2"|1959年10月1日||1961年[[3月31日]]まで局名はラジオ大分。||●■△◆
|-
|[[宮崎県]]|| '''MRT<!--公式の略称表記は『大文字』です--> 6'''||[[宮崎放送]]||colspan="2"|[[1960年]][[10月1日]]<ref name="MRT30th_329" />||1961年[[6月30日]]まで局名はラジオ宮崎(RMK)。||●■△
|-
|[[鹿児島県]]||'''MBC 1'''||[[南日本放送]]||1959年4月1日||1959年8月1日発足時||1961年[[9月30日]]まで局名はラジオ南日本(略称は変わらずMBC)。||●■△
|-
|[[沖縄県]]||'''RBC 3'''||[[琉球放送]]||1960年[[6月1日]]||[[1972年]][[5月15日]]<ref group="注釈">JNNとは開局時から準加盟ながら関係を持っているが、排他協定の発動は[[琉球電信電話公社]]が開設した日琉マイクロ回線(現:[[NTT中継回線]])が運用を開始した1964年9月1日からである。[[本土復帰|沖縄の日本復帰時]]から正式に加盟。ただ、正式ではないものとみなされば、主に発足日の1959年8月1日としているケースがある。『民間放送十年史』(日本民間放送連盟・1961年発行)には、「1959年12月10日加盟」と記載されている。</ref>||<ref group="注釈">同社社屋と併設しているANN系列の[[琉球朝日放送]]の放送業務の一部も受託している。ただし、[[アナウンサー]]・営業・協定の関係で統合できない報道取材などを除く。</ref>||●<ref group="注釈">ラジオ部門は、[[2002年]]4月に[[社内カンパニー]]化されたため、''RBCiラジオ''の略称を用いる。</ref>■△
|}
=== 過去の加盟局 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!放送対象地域!!style="white-space:nowrap"|略称!!社名!!JNN加盟期間!!備考(脱退の理由など)!!現在の<br />所属系列
|-
|福島県||FTV||[[福島テレビ]]||[[1971年]][[6月1日]]<ref>『福島テレビ30年史』福島テレビ、150頁、1993年。</ref><ref group="注釈">ただし、日曜日に『[[JNNニュースコープ]]』ではなく「(午後)5:00[[NNN日曜夕刊| (NNN)日曜夕刊]]』」・「5:20 [[笑点]]」が編成されたようにニュースを含む一部の日本テレビ系番組が10月改編までの暫定措置として残っていた(出典:河北新報、1971年9月から10月のFTVテレビ欄)</ref> - [[1983年]][[3月31日]]||当時のTBSの経営陣が、福島テレビの株式の過半数を持っていた福島県の方針に難色を示したため([[ネットチェンジ#福島県の事例]]を参照)<ref>2005年2月号の『[[月刊現代]]』([[講談社]])に掲載された[[濱口浩三]](TBS社長を歴任)の回想による。</ref><ref group="注釈">[[1963年]]4月1日開局 - 1971年5月31日の間は(NNN加盟期間)、一部の一般番組に限り、番組販売という形式でネットをしていた。</ref>。||FNN/FNS<ref group="注釈">1983年[[4月1日]]にフジテレビ系列(FNN/FNS)にネットチェンジ。なお、多くの一般番組は、猶予期間の同年9月30日まで放送された。</ref>
|-
|新潟県||RNK→BSN||ラジオ新潟→[[BSNメディアホールディングス|新潟放送]]||1959年8月1日発足 - 2023年5月31日||(旧)新潟放送(移行後は「BSNメディアホールディングス」)の認定放送持株会社移行により、テレビを含む放送・送信業務が(新)新潟放送に移行したため。||rowspan="3"|-
|-
|style="white-space:nowrap"|関東広域圏||KRT → TBS||ラジオ東京 → [[TBSホールディングス|東京放送]]||[[1959年]][[8月1日]]発足 - [[2009年]][[3月31日]]||東京放送(移行後は「東京放送ホールディングス」→「TBSホールディングス」)の認定[[放送持株会社]]移行により、テレビ放送部門がTBSテレビに分割されたため。
|-
|中京広域圏||CBC||[[中部日本放送]]||style="white-space:nowrap"|1959年8月1日発足 - [[2014年]]3月31日<ref group="注釈">これよりJNN発足前の1956年12月1日からネット関係を結んでいた。</ref>||中部日本放送の認定[[放送持株会社]]移行により、テレビ放送部門がCBCテレビに分割されたため。
|-
|rowspan="2"|近畿広域圏||ABC||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]||1959年[[8月1日]]発足 - [[1975年]]3月30日||現・朝日放送テレビ。筆頭株主である[[朝日新聞社]]の意向による([[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|当該項目]]を参照)<ref group="注釈">なお、[[朝日放送ラジオ|併設ラジオ]]は、テレビネットワークが入れ替わった1975年以降、現在もJRNに加盟しており、TBSラジオ制作の一部番組をネット受けしている(逆に朝日放送ラジオ制作の番組がTBSラジオでネット受けする事例もある)。ただし[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ラジオニュース]]は100%自社制作であり、JRN全国ニュース番組は[[MBSラジオ|毎日放送]]経由である。ラジオは[[1951年]][[11月11日]]、テレビは[[1956年]][[12月1日]]に([[大阪テレビ放送]]として)それぞれ開局。</ref>。||ANN<ref group="注釈">1975年3月31日にNET→テレビ朝日系列(ANN)にネットチェンジ。</ref>
|-
||MBS||[[MBSメディアホールディングス|毎日放送]]||1975年3月31日<ref group="注釈">これよりJNN発足前の1959年3月1日からネット関係を結んでいたが、一部の一般番組のネットに留まっていた。1960年2月1日 - 1975年3月30日(腸捻転解消の前日)までの間は同一放送地域(近畿広域圏)の朝日放送(ABC)がJNNに加盟していた関係で毎日放送はJNNに参加できなかった。ちなみに毎日放送は開局当初、準教育放送局としてテレビ放送を開始したことと、他のキー局はすでに他の在阪局が関係を結んでいたこともあり、ネットキー局は当時のNET 日本教育テレビ(現:テレビ朝日)であり、東西で新聞資本のある局同士が逆転していた。詳細は[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]を参照。</ref> - [[2017年]]3月31日||(旧)毎日放送(移行後は「MBSメディアホールディングス」)の認定放送持株会社移行により、テレビを含む放送・送信業務が(新)毎日放送に移行したため。||-
|-
|鳥取県||NKT||style="white-space:nowrap"|[[日本海テレビジョン放送]]||1959年8月1日発足 - 同年[[12月14日]]||山陰放送(BSS)が開局したことによる配慮のため<ref group="注釈">NKTは1959年3月3日に鳥取県[[鳥取市]]で開局。同年12月15日に、同じく鳥取県で山陰放送が[[米子市]]に開局したが、NKTに配慮し、山陰放送の(JNNとしての報道)取材対象は隣県の島根県となった。JNN加盟時代は鳥取県のみ取材対象。開局は1959年[[3月3日]]。</ref>。||NNN/NNS<ref group="注釈">1959年[[12月15日]]に日本テレビ(NNN/NNS)系列にネットチェンジ。</ref>
|-
|style="white-space:nowrap"|香川県・岡山県||RSK||style="white-space:nowrap"|[[RSKホールディングス|山陽放送]]||1959年8月1日発足<ref group="注釈">これよりJNN発足前の1958年6月1日からネット関係を結んでいた。</ref> - [[2019年]]3月31日||山陽放送(移行後は「RSKホールディングス」)の認定放送持株会社移行により、テレビを含む放送・送信業務がRSK山陽放送に移行したため。1958年6月1日開局 - 1979年3月31日の間は、テレビは岡山県のみ対象とした。||-
|-
|福岡県||RKB||style="white-space:nowrap"|[[RKB毎日ホールディングス|RKB毎日放送]]<!--RKB毎日ホールディングスはJNNに加盟していません。削除するなら、それなりの根拠を出してください。※持株会社移行前に加盟していたということでは?-->||1959年8月1日発足 - [[2016年]]3月31日||(旧)RKB毎日放送(移行後は「RKB毎日ホールディングス」)の認定放送持株会社移行により、テレビを含む放送・送信業務が(新)RKB毎日放送に移行したため。||-
|}
=== 現在の主な非加盟局 ===
:※加盟の意思があったものの、結局加盟しなかった、または出来なかった主な局を掲載。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!style="white-space:nowrap"|放送対象地域!!style="white-space:nowrap"|略称!!社名!!備考(加盟しなかった理由など)!!style="white-space:nowrap"|現在の所属系列
|-
|青森県||RAB||style="white-space:nowrap"|[[青森放送]]||ネットスポンサーの経営的理由による<ref>『青森放送二十五年史』(1980年9月、青森放送株式会社)より。</ref><ref group="注釈">1959年のテレビ開局直前までネットワークが決まらず、1か月前にようやくJNN系列になることが発表された。サービス放送が始まった9月14日からはフィルム番組、20日からニュースを含むラインネットのJNN系番組が流れ始めたが、ラジオ東京側が提示したネットスポンサー額が事前の概要合意案よりも月額で約1,000万円も低かったことが経営面での影響を及ぼすことから、当時の社長・[[竹内俊吉]](のちに[[青森県知事一覧|青森県知事]])が病後の身を押してラジオ東京の幹部と会談したが物別れに終わった。このため、竹内が急遽個人的に知己のあった日本テレビ社長(当時)の[[正力松太郎]]と会談を申し込むと、正力が役員・部長を社長室に集めて「ラジオ青森のことは引き受けるから、さっそく作業を開始するように」と、ネットワーク関係を結ぶことを直ちに決断したことから、9月25日に日本テレビ系列(当時NNN・NNSは組織として未成立)への変更が決まり、そのまま10月1日に開局した。竹内は正力の決断に「感謝の一言に尽きる」と語ったという。その後、1969年12月1日に青森県2局目の民放テレビ局として開局した「青森テレビ」が1975年3月31日よりJNNに正式加盟したため、2023年現在もJNN非加盟を継続している。なお、ニュース以外のJNN系列の一般番組については、青森テレビのJNN正式加盟まで同局の編成から外れた一部の番組を放送していた。</ref>。||rowspan="3"|NNN/NNS
|-
|秋田県||ABS||[[秋田放送]]||マイクロ回線の技術的理由によるものとされる<ref group="注釈">1960年4月1日に、日本テレビ系列(当時NNN・NNSは組織として未成立)でテレビ放送局が開局。これは先に隣県の[[山形放送]]が日本テレビ系列で開局していたため。ただし、1992年9月30日までは、一部のTBS系列ニュース番組も番組販売という形式で一部ネットした(『[[JNN8時のニュース]]』など)。現在は一部のドラマなどは時差放送されている。</ref>。
|-
|山形県||YBC||[[山形放送]]||ラジオで結びつきが強かった北海道放送と同じラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)系列に加盟するべきという意見も社内にはあったが、[[服部敬雄]]社長(当時)の判断で日本テレビ系列への加盟が決まったため<ref>高橋昭『放送うらおもて 地方民放の四十年』宝文堂、1994年。</ref><ref group="注釈">ただし、テレビユー山形開局までは、[[山形テレビ]]とともに、一部の番組が放送されていた。その後、1989年10月1日にJNN系列の「テレビユー山形」が開局したため、2023年現在もJNN非加盟を継続している。</ref>。
|-
|福島県||rfc||[[ラジオ福島]]||ラテ兼営局となる前提で1957年10月22日にテレビ予備免許を所得して、1959年頃のテレビ放送開始を目指していたが、役員人選等の難航から1958年4月1日にテレビ予備免許が失効したため<ref group="注釈">テレビ放送局の開局が実現していた場合、資本関係やマイクロ回線の技術的理由からJNNに加盟する予定だった。その後、福島県と[[福島県議会]]の調停により、1963年4月1日に福島テレビが開局した。福島テレビは1971年6月1日から1983年3月31日までJNNに加盟していた(1963年4月1日から1971年5月31日まではJNNには番販で参加)。1983年12月4日にテレビユー福島が開局したため、2023年現在もラジオ単営並びにJNN非加盟を継続している。</ref>。||JRN/NRN<br />(ラジオ単営)
|-
|富山県||KNB||style="white-space:nowrap"|[[北日本放送]]||隣県の民放局<ref group="注釈">ラジオ新潟(現・新潟放送)・北陸放送・信越放送・中部日本放送(現・CBCテレビ)</ref>がラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)とネットを組んでいたため、当初はKNBもラジオ東京テレビ系列になるだろうというのが一般の見方であり、社内でもラジオ東京テレビ系列か、日本テレビ系列か真剣に検討が行われたが、サービス放送中に営業成績が良く、かつプロ野球のナイター中継が多くナイターの延長にも対応可能である等の理由から日本テレビ系列主体の編成にすることが決まったため<ref>『北日本放送十年史』(1962年4月17日、北日本放送株式会社)232 - 233ページ「ネットワークの問題」より。</ref><ref group="注釈">ただし、テレビユー富山(現・チューリップテレビ)開局までは、[[富山テレビ]]とともに、一部の番組が放送されていた。その後、1990年10月1日にJNN系列の「テレビユー富山(現・チューリップテレビ)」が開局したため、2023年現在もJNN非加盟を継続している。</ref>。||NNN/NNS
|-
|福井県||FBC||[[福井放送]]||当初はラジオで結びつきが強かった朝日放送(現・朝日放送テレビ)が当時加盟していたラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)系列に入る予定をしていたが、当時すでに開局していた近隣の北陸放送との競合を避けるために日本テレビ系列への加盟を選択したため<ref>『世紀を越えて 福井放送五十年のあゆみ』(2002年12月、福井放送株式会社)より。</ref><ref group="注釈">1990年代に、[[福井文化テレビジョン]]の名称で第3局が開局予定だったが、当時のTBSの社長が開局断念を決めたことと、県内各地にケーブルテレビ局が普及してきたことから、開局できなかった。現在は一部のドラマなどが時差放送されている。</ref>。||style="white-space:nowrap"|NNN/NNS・ANN<br /><small>(クロスネット局)</small>
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|山口県||KRY||[[山口放送]]||1959年当時のマイクロ回線事情からラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)系列を選択せざるを得ないところであったが、RKB毎日放送やラジオ中国(現・中国放送)との競合を避けるため、四国・九州経由という複雑な中継経路<ref group="注釈">1959年当時の東京 - 福岡間のマイクロ回線は本線が2本、上り予備が1本であり、本線のうち1本はNHKが、もう1本はラジオ東京系列(広島は当時のラジオ中国(現・中国放送)、福岡はRKB毎日放送)が使用していた。日本テレビ系列となる場合は東京 - 北陸回り - 大阪経由 - 四国回りから大分 - 福岡 - 徳山は予備上り回線の使用、という複雑な中継経路を採用しなければならなかった。</ref>ではあるものの日本テレビ系列入りを選択したため<ref>「四 ネットワークが決まるまで」『山口放送三十年史』山口放送株式会社、1987年6月 pp.61-63</ref>。||rowspan="3"|NNN/NNS
|-
|愛媛県||RNB||[[南海放送]]||1958年のアナログテレビ開局準備段階での業務研修は主にラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)で行われていたが、日本テレビ側の地方局育成の方針に賛同したことや、スポーツ番組(プロレス中継、プロ野球巨人戦中継)の存在から日本テレビ系列入りを選択した。また、愛媛県の対岸でかつ一定程度エリアが重複するラジオ中国(現・中国放送)がアナログテレビ開局に際してラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)系列入りすることが確定的であり、同局との差別化を図る意味合いもあった<ref>『民間放送十年史』日本民間放送連盟、1961年 pp.580-581</ref><ref>『夢にはじまる:南海放送五十年史』南海放送、2005年 pp.26-28</ref>。<br />ただし、伊予テレビ(現・あいテレビ)開局までは一部のTBS系列テレビ番組も番組販売という形式で一部ネットした(『JNN8時のニュース』など)上、TBS系向けの番組制作にも参加し、「RNB」の略称ロゴもローカル番組や日本テレビ系番組と異なるTBS系専用のもの(福島放送の『KFB』に類似)を作成していた。1992年10月の伊予テレビ(現・あいテレビ)開局時に10番組があいテレビへ移行し、スポンサーの意向でネットを続けていた番組についても1993年4月に『[[サンデーモーニング|関口宏のサンデーモーニング]]』、1993年10月には『[[すてきな出逢い いい朝8時]]』『[[地球ZIG ZAG]]』があいテレビへ移行したことでTBSテレビ系列とのネット関係は途絶えた<ref>『夢にはじまる:南海放送五十年史』南海放送、2005年 pp.192-193</ref>。<br />2020年代に入り愛媛県の民放4社が各社分担による支局の共同運営に着手したため、排他協定の例外措置として南海放送が運営する支局が取材したニュースがあいテレビに提供され、JNNに配信されることがある<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR915VMNR91USPT00L.html 日本にも「ニュース砂漠」は生じるか 愛媛の港町で民放が打った奇策] - 記者コラム「多事奏論」 論説委員・田玉恵美、[[朝日新聞デジタル]]、2023年9月2日、12時00分配信。</ref>。
|-
|高知県||RKC||[[高知放送]]||1959年当時は日本テレビの方が人気が高かったこととマイクロ回線の技術的理由による。<br>技術的問題の解決後、1970年に民放第2局のテレビ高知がフジテレビ系で開局することが内定したことから、JNNニュースのネットを増枠してTBSとの関係強化が採られるも、日本テレビとの関係が悪化し、社内でTBS系列へのネットチェンジ(NNN脱退・JNN加盟)が検討され、読売新聞社が出資していたテレビ高知のフジテレビ系・日本テレビ系クロスネット化も想定された。しかしテレビ高知が開局直前にJNNへの加盟に方針を切り替えたことでネットチェンジを断念した<ref>『高知放送三十年史』(1984年3月、株式会社高知放送)より。</ref>。
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|佐賀県||STS/SAGA TV||[[サガテレビ]]||フジテレビ系列局として開局したが、1970年代初頭に長崎放送の手引きでTBS系へのネットチェンジが画策された。結果的には実現せず、ネットチェンジを画策したとされるオーナーの金子一族はフジテレビとテレビ西日本により経営を追われることになった<ref>[[志賀信夫]]{{Cite book|和書|title=民放よ変身せよ!|publisher=[[電波新聞社]]|date=1975|id={{NDLJP|12274910}}}}</ref><ref group="注釈">[[NTSC|アナログ放送時代]]から現在に至るまでRKB毎日放送が佐賀県も事実上の放送エリアとしているほか、アナログ放送時代は佐賀県内でも熊本放送の視聴者が多かった。</ref>。||FNN/FNS
|}
<gallery perrow="5">
File:TBS Broadcasting Center 20200607.jpg|JNNの在京キー局:[[TBSテレビ]](TBS、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]5-3-6、TBS放送センター)
ファイル:MBS media holdings headquarters in 201909 001.jpg|JNNの在阪準キー局:[[毎日放送]](MBS、[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[茶屋町 (大阪市)|茶屋町]])
ファイル:CBC Hall of Chubu-Nippon Broadcasting.jpg|JNNの在名基幹局:[[CBCテレビ]](CBC、[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[新栄]])
ファイル:HBC Sapporo HQ 20220508-001.jpg|JNNの在札基幹局:[[北海道放送]](HBC、[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]][[北○条西 (札幌市)|北1条西5]])
ファイル:RKB毎日放送放送会館.jpg|JNNの在福基幹局:[[RKB毎日放送]]([[福岡市]][[早良区]][[シーサイドももち|百道浜]]、RKB放送会館)
</gallery>
== 支局 ==
2018年4月現在、11支局がある。これらの支局はJNN加盟各局が出し合い運営されている「JNN基金」を元にして、基幹局がそれぞれ費用を一部負担する格好で開設・運営している。ただしTBSテレビ以外のJNN加盟局に所属する記者は開設局に所属しつつ、TBSテレビの名前も背負う。そのため開設局とTBSテレビの両方のロゴが印刷された特注の名刺をTBSから各記者に支給して活動させる。
ネットワークはその時々の情勢により変化。加盟局が独自に開設するケースもあるが、常に統廃合が繰り返されている。また記者の派遣については、開設・運営局以外から行われることも少なくない<ref group="注釈">一例として、静岡放送については人事交流の一環でニューヨーク支局へ記者を派遣していた時期がある。その派遣にかかる費用は静岡放送が負担し、一部をJNNが補助する形となっていた。</ref>。[[兵庫県]][[西宮市]]の[[阪神甲子園球場]]にて行われる[[選抜高等学校野球大会]]や[[全国高等学校野球選手権大会]]など、日本国内で行われる大型スポーツイベントの際にも、イベント開催地の近くにJNN加盟局共同の取材拠点を設置する場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mbs.jp/kouhou/news/log/200730.pdf|title=2020年甲子園高校野球交流試合 JNN各局への素材伝送でクラウドを活用|accessdate=2020-08-13|publisher=|date=2020-07-30|website=株式会社毎日放送}}</ref>。
海外記者のリポートはJRNのニュースでも録音で放送されている。そのため、一部のJNN海外記者リポートがJRNを通じて日本テレビ(NNN)系ラテ兼営局<ref group="注釈">[[青森放送]]・[[秋田放送]]・[[山形放送]]・[[山梨放送]]・[[北日本放送]]・[[山口放送]]・[[四国放送]]・[[西日本放送ラジオ|西日本放送]]・[[南海放送]]・[[高知放送]]の10局。</ref>、同じくラテ兼営局の[[福井放送]]<ref group="注釈">テレビは日本テレビ(NNN)系列主体でテレビ朝日(ANN)系列とのクロスネット局。</ref>と[[中波放送|AM]]単営の[[ラジオ福島]]・[[和歌山放送]]にも放送される。<ref group="注釈">全国ネットでは『[[ネットワークトゥデイ|ネットワークTODAY]]』(ただし、毎日放送・和歌山放送は本編自社製作)、『[[ウィークエンドネットワーク]]』(ただし、毎日放送は本編自社製作)。ローカルニュースでは『[[加藤雅章の夕刊ほっかいどう]]』、『[[河北新報ニュース#TBCラジオ|河北新報ニュース]]』、『[[中日新聞ニュース#中日新聞ニュース|中日新聞ニュース]]』、『[[MBSニュース#ラジオ|MBSニュース]]』、『[[RKBヘッドライン|RKBラジオニュース]]』。</ref>
=== 海外支局 ===
{|class="wikitable"
|-
!地域!!海外支局名!!設置・運営<br />加盟局!!支局長!!備考
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|rowspan=3|[[アメリカ合衆国|アメリカ<br />合衆国]]||style="white-space:nowrap"|JNN[[ニューヨーク]]支局||rowspan=2|TBSテレビ||萩原豊<ref>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/109871?page=4</ref>||
静岡放送からも記者を派遣していた期間がある。<ref group="注釈">毎日放送も、ネットチェンジ以前からJNN加盟後の1990年代前半まで、自社で独自に支局を開設。1963年には、特派員として赴任していたアナウンサー出身の[[前田治郎]]が、日本初のテレビ衛星中継を通じて[[ケネディ大統領暗殺事件]]を伝えた。</ref>
|-
|JNN[[ワシントンD.C|ワシントン]]支局||樫元照幸<ref>https://www.tbsradio.jp/articles/54843/</ref>||
|-
|JNN[[ロサンゼルス]]支局||CBCテレビ||尾関淳哉<ref>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/103927?page=2</ref>||TBSテレビからも記者を派遣。かつては、毎日放送が支局を開設していた。
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan=3|[[ヨーロッパ]]<br />旧[[ソビエト連邦|ソ連]]<br />[[アフリカ]]||JNN[[ロンドン]]支局||rowspan=2|TBSテレビ||秌場聖治<ref>https://podcasts.apple.com/bf/podcast/id1532201544?i=1000580051027</ref>
|-
|JNN[[モスクワ]]支局||大野慎二郎<ref>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/19341?display=1</ref>||北海道放送からも記者を派遣<ref group="注釈">一時北海道放送が運営をしていた時期があるが、これは1990年代に北海道放送が極東地域に開設していた支局を統合したことの名残である。</ref>
|-
|JNN[[パリ]]支局||毎日放送||||[[1969年]]に朝日放送(当時)が開設<ref>{{Cite|和書|author=朝日放送社史編修室(編集)|title=朝日放送の50年 3 資料集|date=2000|pages=304}}</ref>。[[1975年]]の[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]に伴って、組織ごとANNパリ支局に移行したことから、TBSが改めて開設した<ref>{{Cite|和書|author=東京放送(編集)|title=TBS50年史 資料編|date=2002|pages=344}}</ref>。後に一時閉鎖したが、2017年10月から毎日放送の運営によって業務を再開<ref name="MBS Paris">[https://ja-jp.facebook.com/mbsnews/posts/847945778702236 「MBS NEWS」Facebook公式アカウント2017年10月19日付記事【報道カメラマンの世界#210 JNNパリ支局】]</ref>。同局が再開設の前まで設置していた[[#過去の海外支局|ベルリン支局]]時代から、旧ソ連地域の諸国(モスクワ支局の管轄)・イギリスと北ヨーロッパ諸国(ロンドン支局の管轄)を除くヨーロッパ全域の取材を担当している。
|-
|rowspan=5|[[アジア]]||JNN[[中東]]支局||TBSテレビ||[[須賀川拓]]<ref>https://www.tbs.co.jp/job/people/news5.html</ref>||2012年3月まで山陽放送が運営していた「JNN[[カイロ]]支局」を閉鎖したうえで、同年7月から開設<ref name="RSK Cairo">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNMSJD35706_S2A700C1000000/|title=人事、TBSテレビ|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2019-06-02}}</ref>。
|-
|JNN[[北京市|北京]]支局||北海道放送||立山芽以子<ref>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/183900?display=1</ref>||TBSテレビからも記者を派遣。
|-
|JNN[[上海市|上海]]支局||毎日放送||寺島宗樹<ref>https://twitter.com/doa905954/status/1537963305804828672</ref>||1992年から2000年まで中国放送が運営。
|-
|JNN[[ソウル特別市|ソウル]]支局||TBSテレビ||渡辺秀雄<ref>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/146435?page=2</ref>||rowspan=2|ソウル支局は1969年にRKB毎日放送<ref>{{Cite book|和書|editor=RKB毎日放送株式会社社史編纂小委員会|title=放送この十年|publisher=RKB毎日放送|date=1981-12-15|pages=192|id={{NDLJP|12275378/119}}}}</ref>、バンコク支局は[[1977年]]にTBSが開設<ref>{{Cite|和書|author=東京放送(編集)|title=TBS50年史 資料編|date=2002|pages=346}}</ref>。<br />[[1996年]][[7月1日]]に両支局の担当を入れ替えて<ref>{{Cite|和書|author=東京放送(編集)|title=TBS50年史 資料編|date=2002|pages=363}}</ref>からも、TBS・RKBは両支局に記者を派遣している。
|-
|JNN[[バンコク]]支局||style="white-space:nowrap"|RKB毎日放送||大平弘毅<ref>https://twitter.com/doa905954/status/1522775302954696705</ref>
|-
|}
==== 過去の海外支局 ====
上記の支局以外にも、[[2000年シドニーオリンピック]]の開催を機に、TBSテレビが「JNN[[シドニー]]支局」を設置(設置当初の名称は「JNNシドニー五輪支局」)。日本のテレビ局でニュース番組の制作に携わった経験を持つ現地在住の[[フリージャーナリスト]]・飯島浩樹が、「JNNシドニー通信員」という肩書で[[オセアニア]]地域の取材活動に携わっている<ref>[https://www.actusaustralia.com/actus-who-s-who/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC/%E9%A3%AF%E5%B3%B6%E6%B5%A9%E6%A8%B9/ TBSシドニー通信員 飯島浩樹(Hiroki Iijima)]</ref>。1992年夏には、自衛隊PKO活動の現地取材拠点として、TBSがプノンペンに臨時支局を設置していた<ref>『青森放送40年表』(青森放送・平成6年3月31日発行)219頁「1992(平成4年) 放送関係」より。これに『(1992年)8・- 在京テレビ各社、8~9月にかけてプノンペンに臨時支局を設け、自衛隊のPKO活動の現地取材』と記載あり。</ref>。
山陽放送は1973年から、中東地域に支局<ref group="注釈">もともと、1973年に中東[[レバノン]]の[[ベイルート]]にベイルート支局として開設されたが、レバノン情勢の悪化を機に閉鎖したうえで、1976年に支局をカイロへ移転した。</ref>を開設していた。JNNが2012年に海外支局を再編する方針を打ち出したことから、この方針に沿って「JNNカイロ支局」を閉鎖したことを機に、海外支局の運営業務から撤退した<ref name="RSK Cairo" />。
かつては、毎日放送の設置・運営による「JNN[[マニラ]]支局」「JNN[[ベルリン]]支局」も存在。ベルリン支局については、自社の運営によるパリ支局の開設を前提に、2017年9月で閉鎖した<ref name="MBS Paris" />。<!--マニラ支局の閉鎖時期は調査中。-->
CBCテレビも、[[中部日本放送]]時代の1974年から、[[中日新聞社]]との共同運営方式で「JNN[[ローマ]]支局」を開設。東欧情勢の変化を背景に、1990年限りで同支局を閉鎖するとともに、同年から2010年9月まで「JNN[[ウィーン]]支局」を自社で運営していた<ref>{{Cite|和書|author=中部日本放送|title=中部日本放送50年のあゆみ|date=2000|pages=185,285}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://hicbc.com/whatscbc/enkaku/|title=what's CBC 沿革|publisher=中部日本放送|accessdate=2016-07-16}}</ref>。
そのほか、JNNは[[香港]]支局(1992年にTBSが開設、1999年閉鎖)、[[サイゴン]]支局(1971年にTBSが開設、1974年閉鎖、シンガポールに移設)、[[シンガポール]]支局(1974年にTBSが開設、1977年閉鎖)、[[ジャカルタ]]支局(1998年にTBSが開設、2000年閉鎖)、[[サンパウロ]]支局(1980年に北海道放送が開設、1993年閉鎖)、[[ロシア]]極東支局(1993年に北海道放送が[[サハリン]]に開設、1995年に[[ウラジオストク]]に移転、2001年に閉鎖)、[[ヨハネスブルク]]支局(1987年にTBSが開設、1991年閉鎖)、[[ボン]]支局を設置したこともある<ref>{{Cite|和書|author=東京放送|title=TBS50年史 資料編|date=2002|pages=50}}</ref>。
=== 国内支局 ===
*[[北陸放送福井支局]](福井県)
**JNNの系列局が存在しない福井県嶺北地方及び[[敦賀市]]の取材拠点として常設。敦賀市を除く嶺南地方は毎日放送が担当する。JNN向けの情報カメラを[[福井駅 (福井県)|福井駅]]前に設置している。
*[[毎日放送徳島支局]](徳島県)
**JNNの系列局が存在しない一方で、大半の地域で毎日放送の番組を視聴できる徳島県内の取材拠点として常設。
==== 過去の国内支局 ====
*[[TBSテレビ|TBS福島支局]](福島県)
**1983年3月31日に福島テレビがJNNを脱退し、その後同年12月4日にテレビユー福島が開局するまでの間福島県の取材を行うために開設されていた支局。
*[[IBC岩手放送秋田支局]](秋田県)
**JNNの系列局が存在しない秋田県内の取材拠点として、1990年代半ばから2003年まで開設されていた支局。閉鎖後は報道系の取材カメラマンを駐在させているほか、JNN向けの情報カメラを[[秋田港]]に常設している。
*JNN三陸臨時支局([[宮城県]][[気仙沼市]])
**[[東日本大震災]]被災地の長期的取材体制の現地拠点として、2011年5月1日に気仙沼市の気仙沼プラザホテル内に開設された臨時支局。取材エリアは通常はIBC岩手放送と東北放送が担当する、岩手県から宮城県にかけての[[三陸海岸]]沿いを中心にしたエリアで、TBSテレビ<ref>支局長・[[SNG (放送)|SNG]][[中継車]]などを派遣。</ref>を中心としたJNN加盟各局の共同運営という形で設置されていた。2014年に閉鎖された。
***初代局長:[[龍崎孝]]
***2代目局長:佐々木智之
== 番組販売協力局 ==
=== TBS系列のない地域で同系列の番組を放送している局 ===
<!--特定の局にて、過去に特定の番組を放送していたという記述は、編集論争の恐れがあるので、無暗に書かないこと。特に必要最低限の内容に留める。-->
* [[秋田県]]
** [[秋田放送]](ABS、[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]])
** [[秋田テレビ]](AKT、[[フジネットワーク|フジテレビ系列]])
* [[福井県]]
** [[福井放送]](FBC、日本テレビ〈主体〉・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]の[[クロスネット局|クロスネット]]だが、番組編成上は日本テレビ系列[[フルネット]]局に準じた扱いとされる場合もある)
** [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]](FTB、フジテレビ系列)
* [[徳島県]]
** [[四国放送]](JRT、日本テレビ系列)
[[JNN排他協定]]の影響で系列外で放送される番組は数本程度と極少数で在京キー局の番販番組では最も少ない。
1980年代までは地方の民放テレビが1~2局かつオープンネット状態ということもあり、上記局(秋田テレビと福井テレビ以外)におけるTBS系列番組の放送本数も現在より多く、また一部同時ネット番組も存在した(『[[ロッテ 歌のアルバム]]』『[[ヤング720]]』『[[時事放談]]』→『[[日曜放談]]』等)。
== ネットニュース ==
; 随時
* [[JNNニュース]](1959年8月1日 - 2009年3月29日、2010年3月29日 - )
* [[THE NEWS (TBS・JNN)|THE NEWS]](2009年3月30日 - 2010年3月28日)
; 朝
{{Main|TBSテレビ系列朝ニュース枠}}
; 昼
{{Main|TBSテレビ系列昼ニュース枠}}
; 夕方
{{Main|TBSテレビ系列夕方ニュース枠}}
;<nowiki> 20:54 - 21:00 </nowiki>(平日は別時間)
* [[JNNフラッシュニュース]](1962年10月 - 放送中)
; 最終版
{{Main|TBSテレビ系列深夜ニュース枠}}
== 特別番組 ==
選挙・台風・地震・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[ミサイル]]発射([[全国瞬時警報システム]]による速報)や、他に、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
新潟放送や南日本放送など、テレビ・ラジオの双方がTBSのネットワークに加盟している局の場合、テレビの音声をそのままラジオに載せることで有事報道を行うことがある。
=== 国政選挙 ===
開票状況を伝える特別番組を放送。[[出口調査]]などを駆使して早く、分かりやすく伝える。
* [[JNN票決ライブ|JNN開票速報(1971年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|JNN選挙速報(1972年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|参院選開票速報(1974年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|衆院選開票速報(1976年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|参院選'77(1977年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|総選挙'79(1979年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|選挙・選挙'80(1980年衆院選・参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|JNN参院選'83(1983年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|JNN衆院選'83(1983年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|選挙・選挙'86(1986年衆院選・参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|票決'89(1989年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|筑紫哲也のどーなるニッポン世紀末決戦'90(1990年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|巨泉・筑紫の報道スクープ選挙版'92(1992年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|筑紫哲也の選挙'93(1993年衆院選)]]
* [[JNN票決ライブ|選挙スタジアム'95(1995年参院選)]]
* [[JNN票決ライブ|総選挙ライブネット'96(1996年衆院選)]]
* [[選挙開票特別番組 票決!ライブ]](1998年参院選~2004年参院選)
* [[乱!総選挙2005]](2005年衆院選)
*[[乱!参議院選挙2007]](2007年参院選)
* [[乱!総選挙2009]](2009年衆院選)
* [[乱!参院選2010]](2010年参院選)
* [[乱!総選挙2012]](2012年衆院選)
* 夏の決戦!参院選2013 ニッポンどこへ行く!(2013年参院選)
* [[乱!総選挙2014]](2014年衆院選)
* [[激突!選挙スタジアム2016]](2016年参院選)
* [[激突!与野党大決戦 選挙スタジアム2017]](2017年衆院選)
*[[Nスタ]]×[[NEWS23]] 選挙スペシャル(2019年参院選)
* [[選挙の日]](2021年衆院選~)
=== ニュース速報・地震・津波・気象・台風情報 ===
状況に応じて「速報のみの対応」「速報+臨時ニュース」「速報+臨時ニュースの後、特番へ移行」と、大まかに分けて3つのパターンが存在する。
ニュース速報や交通・気象・地震情報等の速報テロップを表示する際は、JNN系列全28局・BS-TBS・TBS NEWS共通で『ビッビッ ビッビッ』と<ref group="注釈">加盟局により、使用している機材のメーカーや製造年度、または性能が異なるため、チャイムは同一ながらその音程や音感に若干の差異が見受けられる。(例えばCBCテレビはチャイムの音程が他の加盟局に比べるとやや高音になっている。またBS-TBSはチャイムの音程がややシャープになっている。)</ref><ref group="注釈">ただし北海道放送のニュース速報は他の加盟局と同じ『ポッポ、ポッポ』(音程はやや硬め)と鳴らすが、それ以外の速報テロップ表示時(地震情報、気象情報、交通情報)は、クリアな金属音に近づけた独自チャイムが鳴る。</ref><ref group="注釈">TBC東北放送ではラジオでも同一の速報音を用いる。</ref>、高音と低音を組み合わせた独特のチャイムを鳴らす<ref group="注釈">民放のニュースネットワークで、全ての加盟局でチャイムが統一されているのは2021年現在ではJNNのみである。</ref>。ニュース速報を表示する際は『'''JNNニュース速報'''』と表示する。地上波放送では全国ネットの番組を放送している場合は、TBSテレビ送出の速報テロップが全ての加盟局に向けて表示される<ref group="注釈">ただし系列局製作の全国ネット番組が放送される場合は、TBSテレビではなくそこの系列局送出の速報テロップが全ての系列局に表示される。</ref><ref group="注釈">ただしこれはあくまでも全国のニュース速報においてのみであり、加盟局の放送エリア内におけるニュース速報、地震情報、気象情報、交通情報は加盟局ごとの表示となる。</ref><ref group="注釈">地震情報の場合TBSテレビを始めとした一部の加盟局、BS-TBS、TBS NEWSでは『'''JNN地震情報'''』ど表示するが大半の加盟局は『(加盟局名)'''地震情報'''』とJNNを冠せず、加盟局名で冠している。</ref>。加盟局がローカル編成をしている時間帯であれば加盟局が個々に速報テロップを送出する。(ただし速報テロップが表示されるタイミングはTBSテレビより若干遅れる。<ref group="注釈">稀にTBSテレビと同じタイミングに速報テロップが表示されたり、TBSテレビよりも早く速報テロップが表示される場合がある。</ref>)
津波情報に関しては、津波注意報・津波警報が発表された場合、「JNN津波情報 ただちに避難」が挿入され、CM中でも常時文字情報を出し続けることになっている(ただし先述した『'''JNNニュース速報'''』と違い、加盟局ごとの表示となるため、地域によって対応が異なる。また、近年ではCMに入ったら一旦消去することもある。)。
気象情報に関しては、当初はチャイムは鳴らずテロップのみ表示されていたが、2021年6月に気象庁が[[顕著な大雨に関する情報]]を開始して以降はチャイムを鳴らしている。ただし、土砂災害警戒情報、竜巻注意情報が地方のみ表示される。
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常の[[ニュース]]・[[情報番組]]のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。
== ブロックネット番組等 ==
[[2022年]][[3月]]現在放送中の番組は'''太字'''で表記する。
=== 東北地区 ===
※新潟県も含む。
* アナナビ(系列外の秋田テレビ〈FNS〉にもネット。2004年3月終了)
* [[ふしぎのトビラ]](系列外の秋田放送〈NNS〉にもネット。提供は[[東北電力]]。月一回の放送・東日本大震災の影響で打ち切り)
* なお、不定期で単発のブロック番組が放送される場合がある。<!---2013年3月2日16時から放送の『JNN東北スペシャル ふるさと 自然編 神の舞い降りる山~早池峰山と神楽衆~』など--->
=== 中部地区 ===
※もともと[[中部地方|甲信越静]]の4局だったが、後に北陸の2局も参加。名古屋に所在して東海3県をエリアとするCBCは含まず。
*[[ニッポンど真ん中!]](2012年以降は制作からSBSが外れ、甲信越・北陸の5局持ち回り制作)
*甲信越静4局共同制作特番(年数回、不定期放送)
=== 近畿・中国・四国地区 ===
※大分県も含む。
* 西日本8局特番(ゴールデンウィーク後半〈原則として5月5日〉に放送、2015年に終了)
:(制作幹事局は毎日放送で、主に報道・ドキュメンタリーをメインに放送していた。1990年代前半までは年末〈原則として12月30日〉にも放送され、こちらは年末の地域情報がメインとなっていた。)
=== 山口・九州・沖縄地区 ===
{{See also|[[e-JNN]]}}
* '''新 窓をあけて九州'''([[九州電力]]グループ[[一社提供]]、九州6局のみ)
** [[窓をあけて九州]](九州電力一社提供、2012年3月終了)
* '''[[JNN九州・沖縄ドキュメント ムーブ]]'''
* '''[[世界一の九州が始まる!]]'''([[キリンビール]]一社提供)
* [[列車に乗って]]([[九州旅客鉄道|JR九州]]一社提供、九州6局のみ、2016年3月終了)
* [[味わいぶらり旅]](JR九州一社提供、九州6局のみ、2013年3月終了)
* 冒険王国思いっきりトムソーヤ(2001年9月終了、九州6局のみ)
* [[電撃黒潮隊]]([[アートネイチャー]]一社提供、2002年9月終了)
* 九州遺産(テレビ山口除く、2002年9月終了)
* フィッシュEYE→フィッシングナビ(終了、テレビ山口除く)
=== 全国ネット(特別企画) ===
[[2009年]]はJNN発足50周年であったことから、以下の特別企画(特別番組)が編成された。
*[[3月30日]]から1週間、「[[JNN50周年記念 ハイパーバラエティウィーク|ハイパーバラエティーウィーク]]」を展開。
*[[8月13日]]から10日間、[[山本高広]]が10日かけて「大阪-東京間」をマラソンで走る「[[真夏のJNN祭り 「壁を壊そう!炎の240時間マラソン」]]」を展開。
**タイトルに「壁を壊そう」とあるが、ほぼ同時期に開催された『[[日本における世界陸上競技選手権大会の報道#TBS系|世界陸上]] ベルリン大会』とかけたイベントでもあった。
*また、同年秋の番組改編では、バラエティ番組を中心にデジタル放送のEPG等で、番組名に「''JNN50周年記念''」が付されていた。
:※この他にも年1-2回、「[[JNN企画大賞|JNN共同制作番組→'''JNN企画大賞''']]」をJNN各局で放送する。
:※ローカルワイドニュース(夕方)については[[JNN夕方ローカルニュース一覧|一覧]]を参照。
== 関連項目 ==
* [[JNN排他協定]]
<!--* JNN基幹局-->
* [[JNNニュース|JNN NEWS]]
* [[JNN夕方ローカルニュース一覧]]
* [[TBS NEWS DIG]]
* [[TBS系列]]
* [[BS-TBS]]
** [[NEWS サンデー・スコープ]] <ref group="注釈">JNN各局が制作協力している。JNNと名が付いているものの、JNN各局へのネットは行われていない。</ref>
*[[TBS NEWS (CS放送)|TBS NEWS]] - JNNニュース専門CSチャンネル
* [[TBSチャンネル]] - CSエンターテイメントチャンネル
* [[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]] - TBS系列の[[ラジオネットワーク]]
* [[毎日新聞社]]
* [[民放テレビ全国四波化]]
**[[開局を断念した放送局一覧]]
**[[かつて日本に存在した放送局]]
* [[日本の放送送信所一覧]]
* [[エリアで最初に開局した放送局の一覧 (日本)]]
* [[裏送り]]
* [[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]]
* [[ラテ兼営#概要|ラテ兼営]]
* [[ローカルニュース動画配信実施局一覧]]
* [[ニュース系列]]
* [[アノンシスト賞]]
* [[ラインネット]]・[[テープネット]]
* [[ヤン坊マー坊天気予報]](番組開始がJNN発足と同じ1959年)
* [[日本レコード大賞#放送|輝く!日本レコード大賞]](同上)
* [[全国高等学校ラグビーフットボール大会#テレビ中継|全国高等学校ラグビーフットボール大会]]([[1977年]] - [[2001年]]までJNN各局と、[[全国独立放送協議会|独立協]]12社の主催・共同制作)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
{{Commons|JNN|JNN}}
* [https://www.tbsholdings.co.jp/tbstv/corporate/jnn.html JNNネットワーク | TBSテレビ]
* [https://newsdig.tbs.co.jp/ TBS NEWS DIG]
* {{Facebook|jnnsanriku|JNN三陸臨時支局}}
* {{Twitter|tbs_news|TBS NEWS}}
* [https://www.themoviedb.org/network/160-tbs TBS] - [[TMDb]] <!-- TMDbのページ名は「TBS」だが、TBSネットワークのことを指す。 -->
{{JNN}}
{{TBSグループ}}
{{毎日新聞社}}
{{松竹}}
{{放送ネットワーク}}
{{デフォルトソート:しやはんにゆうすねつとわあく}}
[[Category:JNN|*]]
[[Category:日本の民放ネットワーク|しえええぬえぬ]]
[[Category:日本のニュース専門テレビチャンネル]]
[[Category:TBSテレビ|*JNN]]
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[[Category:1959年設立の組織]]
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サン=テグジュペリ
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サン=テグジュペリ
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サン=テグジュペリ アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ - フランスの作家、操縦士。『星の王子さま』の作者として知られる。以下はこの人物にちなむ。
コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ - アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの妻。
サン=テグジュペリ (宝塚歌劇)
サン=テグジュペリ (小惑星)
サン=テグジュペリ (コミューン)
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'''サン=テグジュペリ'''
* [[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]] - フランスの作家、操縦士。『[[星の王子さま]]』の作者として知られる。以下はこの人物にちなむ。
** {{仮リンク|コンスエロ・ド・サン=テグジュペリ|en|Consuelo de Saint-Exupéry}} - アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの妻。
** [[サン=テグジュペリ (宝塚歌劇)]]
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こおり鬼
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こおり鬼(こおりおに、英語:freeze tag)とは子供の遊びの1つで、鬼ごっこから派生したものである。
バナナ鬼のように、普通の鬼ごっことは異なり、鬼はゲームが終わるまで鬼のままである。鬼はよほど足が速くない限り、全員を凍った状態にすることは難しい。
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こおり鬼とは子供の遊びの1つで、鬼ごっこから派生したものである。
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{{独自研究|date=2009年3月}}
'''こおり鬼'''(こおりおに、英語:freeze tag)とは[[子供]]の遊びの1つで、[[鬼ごっこ]]から派生したものである。
== ルール ==
#[[じゃんけん]]などによって、参加者を鬼と子に分ける。鬼は1人の場合も複数の場合もある。
#鬼は決められただけ数をかぞえ、その間に子は逃げる。
#鬼は子を追いかける。子に触ることができた場合、子は'''凍った状態'''、つまり動くことができなくなる。この状態は、他の子に触ってもらうことで解かれる(凍った子の[[股]]の下をくぐることで解かれるというルールもある)。
#鬼が全ての子を凍った状態にできたら、ゲームは終わる。その他、皆が飽きてきた場合も同様に終了する。再度新しくゲームを始める場合は、前回最初に鬼に触られたものが鬼になる。
バナナ鬼のように、普通の鬼ごっことは異なり、鬼はゲームが終わるまで鬼のままである。鬼はよほど足が速くない限り、全員を凍った状態にすることは難しい。
== 地域特有のルール ==
*じゃんけんなどによって、参加者から鬼を決める。鬼は通常1人である。
*鬼は決められただけ数をかぞえ、その間に子は逃げる。
*鬼は子を追いかける。子に触ることができた場合、触られた子が新しい鬼となり鬼は子になってゲームを続ける(その場でずっと氷になっている場合もある)。
*子は「'''こおり'''」と宣言することによって、鬼に触られても鬼の交代を免れることができる。ただし「こおり」を宣言した子はそれ以降凍った状態、つまり動くことができなくなる。この状態は、他の子に触ってもらうことで解かれる(自ら解除することができるというルールもある)。
*「こおり」を宣言した状態で動くことおよび、他の全ての子が凍っている状態で唯一動ける子が「こおり」を宣言することは反則である。鬼が反則者へ交代するペナルティを与えられるのが通例である。
*他の鬼ごっこと同様、ゲームの終了は規定されておらず皆が飽きてきた場合などに終了する。
== 参考文献 ==
; 書籍
* {{Cite book |和書 |author=羽崎泰男 |date=2013-01 |title=元気いっぱい!鬼ごっこ50 年齢別アレンジつき |publisher=[[ひかりのくに]]}}ISBN 978-4-5646-0818-6。
* {{Cite book |和書 |author=一般社団法人 鬼ごっこ協会 |date=2018-03 |title=まるごと鬼ごっこ 仲間づくり・体づくりに役立つBEST55 |publisher=[[いかだ社]]}}ISBN 978-4-8705-1496-6。
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缶けり
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缶けり(かんけり、缶蹴り)とは、遊びの一つ。日本以外にも存在するが、この記事では日本の缶けりについて説明する。
缶蹴りは通常屋外で行う遊びで、その多くは子供社会で年長者から教えられたり、親や祖父母から教わるなどして、世代を超えて受け継がれてきた遊びの一つである。かくれんぼの変形とも言えるもので、缶が所定の位置にある間は、鬼は他のプレーヤーを探しに行けるが、缶を蹴ることによって他のプレーヤーが鬼を妨害できる取り決めで、遊びの中でも一種の駆け引き的な要素(後述)が重視されるものである。
正式な競技団体が存在しないため公式ルールのようなものも存在せず、地域及び時代(世代)により遊び方に様々な違いが見られる。また、地域によってはボールを用いたボールけりや、野球のベースを用いたベースふみ・壁や木などを缶の代わりに使うどんかく・点つけと言う派生した遊びもある。
この遊び方、あるいは事前の取り決めでは、前述の通り様々な類型があり、また事前に取り決めが交わされ、それに沿って遊ばれる場合もある。遊びがその場限りのものであるため、しばしば適当に改変された様式で遊ばれることもあった。
「缶けり」は、「かくれんぼ」にさらに鬼ごっこの要素を加えて、独自のルールを付け加えたものである。
鬼は隠れた者を探し出すと同時に缶を蹴り出されないように配慮せねばならず、油断ができない。また、隠れている者も缶を蹴るという能動的な要素が重視されるため、守りつつも攻めるという駆け引きが重要となる。これは見付からないように単に受動的に振舞うことしかできない「かくれんぼ」との大きな違いである。
なお作戦には各々の子供の性格が強く現れる。鬼の場合は缶の回りをなかなか離れない子供から、缶のそばをさっさと離れて探しにいったまま戻らない子供、巧妙に演技して相手を誘い出すのがうまい子供などのパターンがあり、蹴る側の場合もひたすら隠れ続ける子供や果敢にアタックする子供、蹴ろうかどうか迷ってそわそわしている間に見つかってしまう子供などのパターンがある。性格によって「いつものパターン」ができ上がる傾向もみられる。
下級生や体力が劣る者が参加し、その者が規定回数鬼を務めてもなお鬼を抜け出せないときは、その回の鬼以外の者がじゃんけん等を行い次回の鬼になるなど、救済措置がとられる場合がある。
鬼がプレイヤー全員の名前と顔を覚えていないとゲームが成り立たないので、面識がない者同士だとやりにくいが、共に遊ぶことにより、名前を覚えて友人になるきっかけにもなる。
ゲーム終了後は使用した空き缶をゴミとして処分するのがマナーである。
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缶けり(かんけり、缶蹴り)とは、遊びの一つ。日本以外にも存在するが、この記事では日本の缶けりについて説明する。
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{{独自研究|date=2023年9月|ソートキー=遊}}
{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=遊}}
'''缶けり'''(かんけり、'''缶蹴り''')とは、[[遊び]]の一つ。[[日本]]以外にも存在するが、この記事では日本の缶けりについて説明する。
== 概要 ==
缶蹴りは通常屋外で行う遊びで、その多くは子供社会で年長者から教えられたり、親や祖父母から教わるなどして、世代を超えて受け継がれてきた遊びの一つである。[[かくれんぼ]]の変形とも言えるもので、[[缶]]が所定の位置にある間は、鬼は他のプレーヤーを探しに行けるが、缶を蹴ることによって他のプレーヤーが鬼を妨害できる取り決めで、[[遊び]]の中でも一種の駆け引き的な要素([[#作戦|後述]])が重視されるものである。
正式な競技団体が存在しないため公式ルールのようなものも存在せず、地域及び時代(世代)により遊び方に様々な違いが見られる。また、地域によっては[[ボール]]を用いた'''ボールけり'''や、[[野球]]のベースを用いた'''ベースふみ'''・壁や木などを缶の代わりに使う'''どんかく・点つけ'''と言う派生した遊びもある。
; 参加人数
: 3名以上。10~20人が適正範囲とされる。余り多いと、隠れ場所の奪い合いになる。
; 場所
: 十分に広い[[公園]]や[[空き地]]などの[[競技場]]。子供が缶を思いっきり蹴っても缶が飛び出してしまうことのない広さや、ある程度の隠れるための場所が求められる。
; 道具
: 空き缶。踏んで潰してしまうことがあるため[[アルミ缶]]は不適切である。高さ10cmから15cm程度の[[スチール缶]]あるいは[[ブリキ]]缶が望ましい。[[ジュース]]の缶の場合、大きさは350ml缶程度が理想的である。強者揃いの場合は[[一斗缶]]を用いる場合もある。[[竹]]の節を10cm程度に切って代用しても良い。[[1970年代]]前半ころまでは蜜柑の缶詰など底面の広い缶が主流であったが、[[缶飲料]]の普及に従い入手の容易な[[清涼飲料水]]などの[[イージーオープンエンド|プルトップ]]缶が主流となった。
== 決まり ==
この遊び方、あるいは事前の取り決めでは、前述の通り様々な類型があり、また事前に取り決めが交わされ、それに沿って遊ばれる場合もある。遊びがその場限りのものであるため、しばしば適当に改変された様式で遊ばれることもあった。
#[[鬼]]を1人決める。これによって参加者は鬼とそれ以外に分かれる。
#*最初に隠れられる範囲を決めておくことも多い。
#缶を置く場所を決定し、缶を置く。
#*[[チョーク]](または小石など)で地面に[[円 (数学)|円]]やバツ印を描き、缶の置き場所を規定することもある。
#*このとき、缶の周りに半径5 - 10m程度(子供達のキック力に応じて変化をつける)の円を描く形式がある。
#鬼以外の誰かが缶を強く蹴る。
#*このとき、缶の周りに描いた円周を缶が超えない場合は蹴った者が鬼になる。
#鬼が缶を規定の位置に置き直し、いくつか決められた数を数え終わるまでに鬼以外の者はどこかに隠れる。
#*数を数えない場合もある。
#*置き直す際に手を使ってもよい規則と、足のみで缶を運んで立てなければならないものとが存在する。
#*足のみで運んで立てる場合は十分に時間が経つため数は数えないことが多い。
#*このとき缶を立てた後、必ず一度鬼は缶の周りに描いた円周の外に出ないといけないとする様式がある(缶のそばで鬼がずっと離れないとゲームが進行しない場合があるため)。
#鬼は隠れた者を探す。見つけた場合、その者の名を大きな声で呼び、缶の所に戻って缶を1度または3度踏み付ける。見つかった者は缶の付近の決められた場所に捕われることになる。
#*この際、缶を誤って倒してしまうと、缶をけられたことと同じになってしまうとする取り決めが成される場合もある。
#*また、踏みつける際に名前を叫ぶ場合もある。
#**この時、名前の後に、「ピー」や、「[[ポコペン]]」、「ケント」、「デン」と付けることもある。
#*このとき鬼は缶の周りに描いた円周外に必ず一度は出ないといけないとする決まりの場合、一度に何人までコールできるかを決めておく必要があり、その規定以上の人数をまとめてコールできない(一度円周外に出れば次のコールができる)。
#ただし、鬼はまだ見つけていない者に缶を蹴られないようにしなくてはならない。缶をけられた場合、捕われていた者はまた自由になり、缶けりは振り出しに戻る。
#*このときにも、缶の周りに描いた円周を缶が超えない場合は蹴った者が鬼になるとする様式もある。
#*その他、様々な取り決めで捕らわれていた者が自由になる場合もある。
#鬼が隠れている全員を全て見つけるか、あるいは見つけられず皆が飽きてしまった場合に缶けりは終了となる。
== 一般的な禁止事項と注意事項 ==
#缶は人に向かって蹴ってはならない。
#缶を蹴る際、[[ガラス]]窓に注意する(民家に向かって蹴るのは禁止など)。
#[[自動車]]が通行する[[道路]]を越えて隠れてはならない。
#資材置き場には、落下物の危険があるので行ってはならない。
#捕まった者は、まだ捕まっていない者の居場所がわかるような挙動をしてはならない。
#柔らかいアルミ缶は足をくじくおそれがあるので硬いスチール缶を使う。
#缶に砂や石を詰めてはならない(前者は缶が飛び過ぎるため、後者は蹴っても缶が飛ばなくなるため)。
==作戦==
=== 鬼の作戦 ===
* 蹴る側を捜しに行くふりをして缶の近くに隠れ、蹴る側が缶を蹴るために出てきた所で缶を踏む作戦。
=== 蹴る側の作戦 ===
* 缶からできるだけ近い場所に陣取ってひたすら隠れ、鬼がしびれを切らして缶から離れた隙を狙って缶を蹴る作戦。最も基本的な戦略である。
* 数人でいっせいに缶に突撃し、全員分の名前が呼ばれる前に誰かが蹴るという人海戦術的な作戦。この作戦は息が合わずに失敗したり、襲撃の相談中に発見されたりした場合は全滅するおそれもある。また、捕まっていない者が少なくなってくると十分な人員が確保できず、この作戦は実行できない。
* 鬼が数えている間に鬼の背面に気配を殺して立ち続け、数え終わると同時に缶を蹴ってしまうという作戦。
* 服などを頭からかぶって顔を隠し、蹴りに来た人の名前を鬼に識別できないようにして缶を蹴る。走りにくく自滅することも多い。この作戦の発展として、体格が似ている捕まっていない者同士の服を取り替えた上で顔を隠しながら突撃し、鬼に間違った名前を呼ばせる作戦がある。
* 捕まった者が隠れている者の位置を把握できている場合に、全く関係ない場所や反対方向などに視線を送るなどして鬼の注意をそらす作戦がある。ただし、多用すれば当然ながら見破られるため、本当の位置にブロックサインを出すなど、ある程度のパターン変更が必須となる。
== 備考 ==
「缶けり」は、「[[かくれんぼ]]」にさらに[[鬼ごっこ]]の要素を加えて、独自のルールを付け加えたものである。
鬼は隠れた者を探し出すと同時に缶を蹴り出されないように配慮せねばならず、油断ができない。また、隠れている者も缶を蹴るという能動的な要素が重視されるため、守りつつも攻めるという駆け引きが重要となる。これは見付からないように単に受動的に振舞うことしかできない「かくれんぼ」との大きな違いである。
なお作戦には各々の子供の性格が強く現れる。鬼の場合は缶の回りをなかなか離れない子供から、缶のそばをさっさと離れて探しにいったまま戻らない子供、巧妙に演技して相手を誘い出すのがうまい子供などのパターンがあり、蹴る側の場合もひたすら隠れ続ける子供や果敢にアタックする子供、蹴ろうかどうか迷ってそわそわしている間に見つかってしまう子供などのパターンがある。性格によって「いつものパターン」ができ上がる傾向もみられる。
下級生や体力が劣る者が参加し、その者が規定回数鬼を務めてもなお鬼を抜け出せないときは、その回の鬼以外の者が[[じゃんけん]]等を行い次回の鬼になるなど、救済措置がとられる場合がある。
鬼がプレイヤー全員の名前と顔を覚えていないとゲームが成り立たないので、面識がない者同士だとやりにくいが、共に遊ぶことにより、名前を覚えて友人になるきっかけにもなる。
ゲーム終了後は使用した空き缶をゴミとして処分するのがマナーである。
== 関連項目 ==
* [[こどもの文化]]
* [[缶下駄]]
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[[Category:缶]]
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カレイ目
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カレイ目(カレイもく、学名:Pleuronectiformes)は、硬骨魚類の分類群の一つ。2亜目14科134属で構成され、カレイ・ヒラメ・ウシノシタなど、海底で暮らす底生性の魚類を中心に678種が記載される。ごく薄い扁平な体と左右どちらか一方に偏った両眼を特徴とし、水産資源として重要な食用魚が多数含まれる。
カレイ目の魚類はほとんどが海水魚で、沿岸の浅い海から深海まで幅広い分布域をもつ。約10種が淡水のみに生息するほか、20種程度がときおり淡水域に進出することが知られている。
海底付近であまり遊泳せずに暮らす底生魚のグループであり、水底で有眼側が上になるように横倒しになって生活する。泳いで移動するときも有眼側が上、無眼側が下となっている。一般的に両眼は大きく体側面から突出しており、体を砂地に潜らせた状態でも周囲を見渡すことができる。
卵は分離性浮遊卵で、沿岸から離れた沖合の表層で孵化する。仔魚は一般的な魚類と変わらない形態をもつが、成長につれて体の扁平化と眼球の移動が生じ、海底に着床する。この変態の過程で、沖合から沿岸に向かって接岸回遊を行うものもいる。
カレイ目は他の一般的な魚類とは異なり、左右非対称の体をもつことが最大の特徴である。通常は頭部の左右に1個ずつある眼が、左右どちらか片側に2個とも集まっている。このため体を側面から見ると、両眼のある側(有眼側)と眼がない側(無眼側)に分かれている。有眼側には褐色から黒色などさまざまな体色があるが、無眼側は白っぽい色をしていることが多い。
カレイ目魚類は著しく左右に平たく側扁した、円形から楕円形の体型をもつ。有眼側はやや丸みを帯びる一方、無眼側は一様に平たい。左右非対称なのは眼の位置と体色だけではなく、内臓も無眼側に偏っている。背鰭と臀鰭の基底は非常に長く、体の上縁と下縁の大半を覆う。
鱗の形状は円鱗・櫛鱗などさまざま。鰓条骨は通常6-7本で、まれに8本。ほとんどの場合、成魚は鰾をもたない。
左右非対称が特徴のカレイ目だが、生まれたばかりの仔魚は普通の魚と同じように左右対称の体をもつ。仔魚は体長5-120mm(一般に10-25mmが多い)に成長した時点で変態を行い、片方の眼が反対側へと頭頂部を越えて移動する。右側に両眼の集まった個体を右側眼(dextral)、左側の場合を左側眼(sinistral)と呼び、通常は種によっていずれかに定まっている。
変態の過程では頭蓋骨・神経・筋肉の複雑な構造変化が生じることが知られており、歯牙発生、鱗の配列および対鰭の構造にも非対称化の影響が認められる。
俗に「左平目(ひらめ)に右鰈(かれい)」といわれる通り、ヒラメとカレイ類では有眼側が左右逆になっている。一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼、ヒラメは左側眼である。言い換えれば、眼が上になるように置いたとき、頭が右向きになるのがカレイ、左向きならヒラメであるとされる。ただし目の向きが逆の個体がしばしば見つかり、少数ならばただの奇形であるがヌマガレイ(カレイ科)など視神経の走り方からすると右に目がある仲間のはずなのに、アラスカ沿岸の7割と日本近海のほぼ全部が左側眼と奇形のほうが普通という状況で、他にカレイ目全般の祖先形に近いボウズガレイも右側眼と左側眼がほぼ同数である。
また、「平目は鰈より大きい」ともいわれるが、これにも例外がある。カレイの仲間のオヒョウは体長2m、体重200kg に達するものもある。
決定的な違いは食性と口の形である。 カレイの仲間は砂の中の小さな虫を食べるため、口は小さい。一方ヒラメは小魚やエビなどを捕食するため、口は大きく(このため東北地方では「オオクチガレイ」という別名がある)、鋭い歯が生えている。ただしこれも厳密には例外があり、前述のボウズガレイは「カレイ」と名がつくが口が大きい。
カレイ目にはNelson(2006)の体系においてボウズガレイ亜目・カレイ亜目の2亜目の下、14科134属678種が認められている。日本で食用魚としてなじみの深いカレイ・ヒラメ類の多くは、カレイ亜目のカレイ科・ヒラメ科にそれぞれ属する。
本目そのものの単系統性は確かなものと考えられているが、内部の系統関係については1990年代以降、大幅に変更が加えられている。ウシノシタの仲間はかつて独立のウシノシタ亜目としてまとめられていたが、Nelson(2006)以降はカレイ亜目に含められるようになっている。従来から用いられていた鰭の棘条の有無や尾鰭の骨格に加え、第一脊椎や背鰭を支える骨格の形態などが新たな分類形質として利用されている。
ボウズガレイ亜目 Psettodoidei はボウズガレイ科のみ、1科1属3種からなる。骨格上の特徴として、基蝶形骨および口蓋骨の歯をもつこと、上主上顎骨が大きいことなどが挙げられる。
ボウズガレイ科 Psettodidae は1属3種からなり、他のすべてのカレイ目魚類の起源となったグループと考えられている。同じ種類でも眼の左右は一定でなく、右側眼と左側眼の個体がほぼ同数現れる。
背鰭の前端が眼の位置よりも後方にあること、背鰭・臀鰭・腹鰭に棘条を備えることが他科にはみられない原始的な特徴である。腹鰭はほぼ左右対称で、体長は60cmほど。上顎を構成する骨の形態から、スズキ類との近縁関係が示唆されている他、フランスの上始新世の地層から発見されたAmphistiumという化石魚が目こそ頭の左右にあるがボウズガレイとマトウダイ双方に似ていることから、スズキ目から進化した魚のうち途中からマトウダイと別れた系統がカレイ目ではないかという説を松原喜代松はあげている。
カレイ亜目 Pleuronectoidei は3上科13科133属675種からなる。ボウズガレイ亜目とは異なり、背鰭の前端は眼の位置に達し、背鰭と臀鰭は軟条のみで構成される。基蝶形骨および口蓋骨の歯をもたず、上主上顎骨は痕跡的あるいは欠いている。
コケビラメ上科 Citharoidea はコケビラメ科のみ、1科5属6種で構成される。背鰭・臀鰭の棘条は失っている一方で、腹鰭には棘条を残しており、カレイ亜目の中ではもっともボウズガレイ亜目に近い一群とみなされている。
コケビラメ科 Citharidae は5属6種。日本からオーストラリアにかけての西部太平洋・インド洋・地中海に分布。鱗が大きく特徴的で、腹鰭の基底は短い。左側眼・右側眼の両方の種類がいて、種の中では向きが統一されている。
ウシノシタ上科 Soleoidea は8科65属356種を含む。
パラリクトデス科 Paralichthodidae は1属1種。右側眼で、南アフリカ近海に分布する。以前はカレイ科に含められていた。背鰭の起始部は眼の手前にある。
アキルス科 Achiridae は7属33種で構成される。右側眼。南北アメリカ大陸沿岸のみに分布するグループである。ほとんどが海水魚だが、汽水・淡水域に進入する種もいる。本科およびササウシノシタ科・ウシノシタ科はかつてウシノシタ亜目(いわゆるシタビラメ類)としてまとめられていたが、現在ではカレイ亜目に含められている。本科魚類はウシノシタ類としては体高が高く、体が円形に近い種が多い。背鰭と尻鰭は尾鰭とは連続しない。有眼側の腹鰭は臀鰭と連続する。
ロンボソレア科 Rhombosoleidae は9属19種からなる。右側眼。分布は南半球に限られ、オーストラリア・ニュージーランド近海が中心。腹鰭は左右非対称で、有眼側の基底が長く、臀鰭と連続する種類もいる。もとはカレイ科の一亜科であった。
アキロプセッタ科 Achiropsettidae は4属6種を含む。左側眼。南半球のみ、特に南極海周辺に分布する。極端に平べったい体をしている。胸鰭を欠くという際立った特徴を持つ。かつてはダルマガレイ科に所属していたが、肉間骨をもたないなど形質の違いが多いことから独立の科とされた。
ベロガレイ科 Samaridae は3属20種。右側眼。熱帯・温帯域の深海に生息する。側線は退化的な場合がある。以前はカレイ科に所属。
カワラガレイ科 Poecilopsettidae は3属20種で構成される。右側眼。熱帯・温帯域の深海に分布し、日本近海からはカワラガレイ1種のみが知られる。かつてはカレイ科に所属していた。背鰭の起始部は眼の直上にある。
ササウシノシタ科 Soleidae は35属130種。右側眼。世界の熱帯から温帯域の沿岸に分布し、水産資源として重要な種類を多く含む。日本近海にはササウシノシタ・シマウシノシタ・ミナミウシノシタなどが生息する。背鰭・臀鰭が尾鰭と連続する種としない種がある。腹鰭と臀鰭は連続しない。毒腺をもつ種類(Pardachirus marmoratus)が知られる。
ウシノシタ科 Cynoglossidae は2亜科3属127種。ササウシノシタ科とは反対に、左側眼である。胸鰭を欠き、尾鰭は小さく背鰭・臀鰭と連続する。眼は極端に小さく退化的である。アカシタビラメ、イヌノシタ、クロウシノシタなどが食用として利用される。体長は30cmに満たない種類が多い。
カレイ上科 Pleuronectoidea は4科63属313種を含む。
スコプタルムス科 Scophthalmidae は4属8種からなる。左側眼。大西洋北東部を中心に分布する。左右の鰓膜が癒合しないことが、他のカレイ上科の仲間とは異なる原始的な特徴である。腹鰭の基底は長い。西欧では「ターボット」と呼ばれ水産資源として重要視されるが、日本近海には分布していない。最大で体長1mに達する。
ヒラメ科 Paralichthyidae は16属105種で構成される。ほとんどの種類は左側眼。熱帯から温帯にかけての温暖な海に生息する。一般的に口は大きく、鋭い歯が並ぶ。腹鰭は基底が短く、ほぼ左右対称。ヒラメ、ガンゾウビラメ、タマガンゾウビラメ、テンジクガレイ、メガレイなどが食用魚として漁獲される。ヒラメも参照のこと。
約20属160種からなり、カレイ上科の中では最大のグループである。ヒラメ科と同じく、左側眼で温暖な海に分布する。腹鰭は左右非対称で、有眼側の基底部分が長い。筋肉の中に「肉間骨」と呼ばれる小さな骨が多数存在しているため、食用として利用されることは比較的少ない。ダルマガレイ、トゲダルマガレイ、コウベダルマガレイなど。
カレイ科 Pleuronectidae は5亜科23属60種を含む。眼は原則的には右側(例外はヌマガレイなど)。腹鰭は左右対称で、側線は体の両側でよく発達している。食用魚として重要な種類が多数所属する。ヒラメ科とは異なり、北半球の寒冷な海域を中心に分布する。大型の口を持つ魚食性の種類(カラスガレイなど)と、小さな口の小動物食性の種類(マガレイ、マコガレイなど)がいる。カレイも参照のこと。
次のような系統樹が得られている。ヒラメ科は少なくとも2つのクレードに分割される。
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カレイ目は、硬骨魚類の分類群の一つ。2亜目14科134属で構成され、カレイ・ヒラメ・ウシノシタなど、海底で暮らす底生性の魚類を中心に678種が記載される。ごく薄い扁平な体と左右どちらか一方に偏った両眼を特徴とし、水産資源として重要な食用魚が多数含まれる。
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|下位分類 = {{center|本文参照}}
}}
'''カレイ目'''(カレイもく、[[学名]]:{{sname|Pleuronectiformes}})は、[[硬骨魚類]]の分類群の一つ。2亜目14科134属で構成され、[[カレイ]]・[[ヒラメ]]・[[ウシノシタ]]など、[[海底]]で暮らす[[底生生物|底生性]]の[[魚類]]を中心に678種が記載される<ref name=Nelson2006>『Fishes of the World Fourth Edition』 pp.442-451</ref>。ごく薄い扁平な体と左右どちらか一方に偏った両眼を特徴とし、水産資源として重要な食用魚が多数含まれる<ref name=Nelson2006/>。
== 分布・生態 ==
カレイ目の魚類はほとんどが[[海水魚]]で、沿岸の浅い海から[[深海]]まで幅広い分布域をもつ<ref name=Nelson2006/>。約10種が[[淡水]]のみに生息するほか、20種程度がときおり淡水域に進出することが知られている<ref name=Nelson2006/>。
[[海底]]付近であまり遊泳せずに暮らす[[底魚|底生魚]]のグループであり、水底で有眼側が上になるように横倒しになって生活する。泳いで移動するときも有眼側が上、無眼側が下となっている。一般的に両眼は大きく体側面から突出しており、体を砂地に潜らせた状態でも周囲を見渡すことができる<ref name=Nelson2006/>。
卵は分離性浮遊卵で、沿岸から離れた沖合の表層で孵化する。[[仔魚]]は一般的な魚類と変わらない形態をもつが、成長につれて体の扁平化と眼球の移動が生じ、[[海底]]に着床する。この[[変態]]の過程で、沖合から沿岸に向かって接岸回遊を行うものもいる。
== 形態 ==
{{Double image aside|right| Turbot-de-sable-devant.jpg |200| Turbot-de-sable-dessous.jpg |200|スコプタルムス科の1種(''Scophthalmus aquosus'')の有眼側。茶褐色の体色と、突き出た両眼が明瞭である|左の写真と同個体を裏返したもの。無眼側は平坦で、ほとんど真っ白である}}
カレイ目は他の一般的な魚類とは異なり、左右非対称の体をもつことが最大の特徴である<ref name=Nelson2006/>。通常は頭部の左右に1個ずつある[[目|眼]]が、左右どちらか片側に2個とも集まっている。このため体を側面から見ると、両眼のある側('''有眼側''')と眼がない側('''無眼側''')に分かれている。有眼側には褐色から黒色などさまざまな[[体色]]があるが、無眼側は白っぽい色をしていることが多い。
カレイ目魚類は著しく左右に平たく側扁した、円形から楕円形の体型をもつ<ref name=Nelson2006/>。有眼側はやや丸みを帯びる一方、無眼側は一様に平たい<ref name=Nelson2006/>。左右非対称なのは眼の位置と体色だけではなく、内臓も無眼側に偏っている。[[背鰭]]と臀鰭の基底は非常に長く、体の上縁と下縁の大半を覆う。
[[鱗]]の形状は円鱗・櫛鱗などさまざま<ref name=Nelson2006/>。鰓条骨は通常6-7本で、まれに8本<ref name=Nelson2006/>。ほとんどの場合、成魚は[[鰾]]をもたない<ref name=Nelson2006/>。
左右非対称が特徴のカレイ目だが、生まれたばかりの[[仔魚]]は普通の魚と同じように左右対称の体をもつ。仔魚は体長5-120mm(一般に10-25mmが多い)に成長した時点で[[変態]]を行い、片方の眼が反対側へと頭頂部を越えて移動する<ref name=Nelson2006/>。右側に両眼の集まった個体を'''右側眼'''(dextral)、左側の場合を'''左側眼'''(sinistral)と呼び、通常は[[種 (分類学)|種]]によっていずれかに定まっている<ref name=Nelson2006/>。
変態の過程では[[頭蓋骨]]・[[神経]]・[[筋肉]]の複雑な構造変化が生じることが知られており、歯牙発生、鱗の配列および[[対鰭]]の構造にも非対称化の影響が認められる<ref name=Nelson2006/>。
=== ヒラメとカレイの違い ===
俗に「左平目(ひらめ)に右鰈(かれい)」といわれる通り、ヒラメとカレイ類では有眼側が左右逆になっている。一般的にカレイ類は体の右側に眼をもつ右側眼、ヒラメは左側眼である。言い換えれば、眼が上になるように置いたとき、頭が右向きになるのがカレイ、左向きならヒラメであるとされる。ただし目の向きが逆の個体がしばしば見つかり、少数ならばただの奇形であるが[[ヌマガレイ]](カレイ科)など視神経の走り方からすると右に目がある仲間のはずなのに、アラスカ沿岸の7割と日本近海のほぼ全部が左側眼と奇形のほうが普通という状況で、他にカレイ目全般の祖先形に近いボウズガレイも右側眼と左側眼がほぼ同数である<ref name=学研1958>『原色現代科学大事典 5動物II』、宮地伝三郎(責任編集者)、株式会社学習研究社、昭和43年、p.142-143。</ref>。
また、「平目は鰈より大きい」ともいわれるが、これにも例外がある。カレイの仲間の[[オヒョウ]]は体長2m、体重200kg に達するものもある。
決定的な違いは食性と口の形である。
カレイの仲間は砂の中の小さな虫を食べるため、口は小さい。一方ヒラメは小魚やエビなどを捕食するため、口は大きく(このため東北地方では「オオクチガレイ」という別名がある<ref name=学研1958></ref>)、鋭い歯が生えている。ただしこれも厳密には例外があり、前述のボウズガレイは「カレイ」と名がつくが口が大きい。
== 分類 ==
カレイ目にはNelson(2006)の体系においてボウズガレイ亜目・カレイ亜目の2亜目の下、14科134属678種が認められている<ref name=Nelson2006/>。日本で食用魚としてなじみの深いカレイ・ヒラメ類の多くは、カレイ亜目の[[カレイ科]]・[[ヒラメ科]]にそれぞれ属する。
本目そのものの[[単系統群|単系統性]]は確かなものと考えられているが、内部の系統関係については1990年代以降、大幅に変更が加えられている<ref name=Nelson2006/>。ウシノシタの仲間はかつて独立のウシノシタ亜目としてまとめられていたが、Nelson(2006)以降はカレイ亜目に含められるようになっている<ref name=Nelson2006/>。従来から用いられていた[[鰭]]の棘条の有無や尾鰭の[[骨格]]に加え、第一[[脊椎]]や背鰭を支える骨格の形態などが新たな分類[[形質]]として利用されている。
=== ボウズガレイ亜目 ===
'''ボウズガレイ亜目''' {{sname||Psettodoidei}} はボウズガレイ科のみ、1科1属3種からなる。骨格上の特徴として、基蝶形骨および[[口蓋骨]]の歯をもつこと、上主上顎骨が大きいことなどが挙げられる<ref name=Nelson2006/>。
==== ボウズガレイ科 ====
[[ファイル: PsettodesErumei.png|thumb|right|[[ボウズガレイ]](''Psettodes erumei'')。背鰭の起始部は眼の位置よりも後ろにあり、カレイ目の中では最も原始的な特徴を残す。本図は右側眼であるが、左側眼の個体もほぼ同数出現する]]
'''ボウズガレイ科''' {{sname||Psettodidae}} は1属3種からなり、他のすべてのカレイ目魚類の起源となったグループと考えられている<ref name=Nelson2006/>。同じ種類でも眼の左右は一定でなく、右側眼と左側眼の個体がほぼ同数現れる<ref name=Nelson2006/>。
背鰭の前端が眼の位置よりも後方にあること、背鰭・臀鰭・腹鰭に棘条を備えることが他科にはみられない原始的な特徴である<ref name=Nelson2006/>。腹鰭はほぼ左右対称で、体長は60cmほど。上顎を構成する骨の形態から、[[スズキ目|スズキ類]]との近縁関係が示唆されている<ref name=Iwai1985>『水産脊椎動物II 魚類』 p.326</ref>他、フランスの上始新世の地層から発見された[[:en:Amphistium|Amphistium]]という化石魚が目こそ頭の左右にあるがボウズガレイと[[マトウダイ]]双方に似ていることから、スズキ目から進化した魚のうち途中からマトウダイと別れた系統がカレイ目ではないかという説を[[松原喜代松]]はあげている<ref name=学研1958></ref>。
[[File:Amphistium.JPG|thumb|Amphistiumの化石]]
* ボウズガレイ属 ''Psettodes''
=== カレイ亜目 ===
'''カレイ亜目''' {{sname||Pleuronectoidei}} は3上科13科133属675種からなる。ボウズガレイ亜目とは異なり、背鰭の前端は眼の位置に達し、背鰭と臀鰭は軟条のみで構成される<ref name=Nelson2006/>。基蝶形骨および口蓋骨の歯をもたず、上主上顎骨は痕跡的あるいは欠いている<ref name=Nelson2006/>。
==== コケビラメ上科 ====
'''コケビラメ上科''' {{sname||Citharoidea}} はコケビラメ科のみ、1科5属6種で構成される。背鰭・臀鰭の棘条は失っている一方で、腹鰭には棘条を残しており、カレイ亜目の中ではもっともボウズガレイ亜目に近い一群とみなされている。
===== コケビラメ科 =====
'''[[コケビラメ科]]''' {{sname||Citharidae}} は5属6種。日本から[[オーストラリア]]にかけての西部太平洋・[[インド洋]]・[[地中海]]に分布。鱗が大きく特徴的で、腹鰭の基底は短い。左側眼・右側眼の両方の種類がいて、種の中では向きが統一されている。
* ウロコガレイ属 ''Lepidoblepharon''
* コケビラメ属 ''Citharoides''
* ''Brachypleura'' 属
* ''Citharus'' 属
* ''Paracitharus'' 属
==== ウシノシタ上科 ====
'''ウシノシタ上科''' {{sname||Soleoidea}} は8科65属356種を含む。
===== パラリクトデス科 =====
'''[[パラリクトデス科]]''' {{sname||Paralichthodidae}} は1属1種。右側眼で、[[南アフリカ]]近海に分布する。以前はカレイ科に含められていた。背鰭の起始部は眼の手前にある。
* ''Paralichthodes'' 属
===== アキルス科 =====
'''[[アキルス科]]''' {{sname||Achiridae}} は7属33種で構成される。右側眼。南北アメリカ大陸沿岸のみに分布するグループである。ほとんどが海水魚だが、汽水・淡水域に進入する種もいる。本科およびササウシノシタ科・ウシノシタ科はかつてウシノシタ亜目(いわゆるシタビラメ類)としてまとめられていたが、現在ではカレイ亜目に含められている。本科魚類はウシノシタ類としては体高が高く、体が円形に近い種が多い。背鰭と尻鰭は尾鰭とは連続しない。有眼側の腹鰭は臀鰭と連続する。
* ''Achirus'' 属
* ''Apionichthys'' 属
* ''Catathyridium'' 属
* ''Trinectes'' 属
* 他3属(''Baiostoma''、''Gymnachirus''、''Hypoclinemus'')
===== ロンボソレア科 =====
'''[[ロンボソレア科]]''' {{sname||Rhombosoleidae}} は9属19種からなる。右側眼。分布は[[南半球]]に限られ、オーストラリア・[[ニュージーランド]]近海が中心。腹鰭は左右非対称で、有眼側の基底が長く、臀鰭と連続する種類もいる。もとはカレイ科の一亜科であった。
* ''Rhombosolea'' 属
* 他8属
===== アキロプセッタ科 =====
'''[[アキロプセッタ科]]''' {{sname||Achiropsettidae}} は4属6種を含む。左側眼。南半球のみ、特に[[南極海]]周辺に分布する。極端に平べったい体をしている。胸鰭を欠くという際立った特徴を持つ。かつてはダルマガレイ科に所属していたが、肉間骨をもたないなど形質の違いが多いことから独立の科とされた。
* ''Achiropsetta'' 属
* 他3属(''Mancopsetta''、''Neoachiropsetta''、''Pseudomancopsetta'')
===== ベロガレイ科 =====
[[ファイル: Samariscus corallinus.jpg|thumb|right|ツキノワガレイ属の1種 ''Samariscus corallinus'' (ベロガレイ科)]]
'''[[ベロガレイ科]]''' {{sname||Samaridae}} は3属20種。右側眼。熱帯・温帯域の深海に生息する。側線は退化的な場合がある。以前はカレイ科に所属。
* ツキノワガレイ属 ''Samariscus''
* ハタタテガレイ属 ''Samaris''
* ベロガレイ属 ''Plagiopsetta''
===== カワラガレイ科 =====
'''[[カワラガレイ科]]''' {{sname||Poecilopsettidae}} は3属20種で構成される。右側眼。熱帯・温帯域の[[深海]]に分布し、日本近海からはカワラガレイ1種のみが知られる。かつてはカレイ科に所属していた。背鰭の起始部は眼の直上にある。
* カワラガレイ属 ''Poecilopsetta''
* ''Marleyella'' 属
* ''Nematops'' 属
===== ササウシノシタ科 =====
[[ファイル: Microchirus ocellatus Stefano Guerrieri.jpg |thumb|right|ササウシノシタ科の1種(''Microchirus ocellatus'')。本種は背鰭・臀鰭と分離した尾鰭をもつ]]
[[ファイル: Symphurus thermophilus.jpg|thumb|right|アズマガレイ属の1種[[イデユウシノシタ]] ''Symphurus thermophilus'' (ウシノシタ科)。背鰭と臀鰭は尾鰭と連続する。本属のカレイ類はほとんどが深海性である]]
'''[[ササウシノシタ科]]''' {{sname||Soleidae}} は35属130種。右側眼。世界の熱帯から温帯域の沿岸に分布し、水産資源として重要な種類を多く含む。日本近海には[[ササウシノシタ]]・[[シマウシノシタ]]・[[ミナミウシノシタ]]などが生息する。背鰭・臀鰭が尾鰭と連続する種としない種がある。腹鰭と臀鰭は連続しない。毒腺をもつ種類(''Pardachirus marmoratus'')が知られる。
* オトメウシノシタ属 ''Parachirus''
* ガラスウシノシタ属 ''Liachirus''
* ササウシノシタ属 ''Heteromycteris''
* シマウシノシタ属 ''Zebrias''
* ツノウシノシタ属 ''Aesopia''
* トビササウシノシタ属 ''Aseraggodes''
* ミナミウシノシタ属 ''Pardachirus''
* ミナミシマウシノシタ属 ''Synaptura''
* 他27属(''Brachirus''、''Microchirus''、''Solea'' など)
===== ウシノシタ科 =====
'''[[ウシノシタ科]]''' {{sname||Cynoglossidae}} は2亜科3属127種。ササウシノシタ科とは反対に、左側眼である。胸鰭を欠き、尾鰭は小さく背鰭・臀鰭と連続する。眼は極端に小さく退化的である。[[アカシタビラメ]]、[[イヌノシタ]]、[[クロウシノシタ]]などが食用として利用される。体長は30cmに満たない種類が多い。
* '''アズマガレイ亜科''' Symphurinae 1属77種。口は体の先端にある。側線は体の両側ともない。腹鰭と臀鰭は不連続。ほとんどが[[深海魚]]で、水深300-1,900mに分布する。[[イデユウシノシタ]]は熱水噴出孔に特有。
** アズマガレイ属 ''Symphurus''
* '''イヌノシタ亜科''' Cynoglossinae 2属50種。口は体の下側にある。側線は(特に有眼側で)よく発達している。腹鰭は臀鰭と連続する。多くは浅い海に住んでおり、一部に淡水産の種類を含む。
** イヌノシタ属 ''Cynoglossus''
** タイワンシタビラメ属 ''Paraplagusia''
==== カレイ上科 ====
'''カレイ上科''' {{sname||Pleuronectoidea}} は4科63属313種を含む。
===== スコプタルムス科 =====
[[ファイル: Psetta maxima Luc Viatour.jpg|thumb|right|[[イシビラメ]] ''Scophthalmus maximus'' (スコプタルムス科)]]
'''[[スコプタルムス科]]''' {{sname||Scophthalmidae}} は4属8種からなる。左側眼。大西洋北東部を中心に分布する。左右の鰓膜が癒合しないことが、他のカレイ上科の仲間とは異なる原始的な特徴である。腹鰭の基底は長い。西欧では「ターボット」と呼ばれ水産資源として重要視されるが、日本近海には分布していない。最大で体長1mに達する。
* {{snamei||Lepidorhombus}}
* {{snamei||Phrynorhombus}}
* {{snamei||Scophthalmus}} - [[イシビラメ]]
* {{snamei||Zeugopterus}} - Topknot
===== ヒラメ科 =====
[[ファイル: Paralichthys olivaceus.jpg|thumb|right|[[ヒラメ]] ''Paralichthys olivaceus'' (ヒラメ科)]]
'''[[ヒラメ科]]''' {{sname||Paralichthyidae}} は16属105種で構成される。ほとんどの種類は左側眼。[[熱帯]]から[[温帯]]にかけての温暖な海に生息する。一般的に口は大きく、鋭い歯が並ぶ。腹鰭は基底が短く、ほぼ左右対称。ヒラメ、[[ガンゾウビラメ]]、[[タマガンゾウビラメ]]、[[テンジクガレイ]]、[[メガレイ]]などが食用魚として漁獲される。'''[[ヒラメ]]'''も参照のこと。
* アラメガレイ属 ''Tarphops''
* ガンゾウビラメ属 ''Pseudorhombus''
* ヒラメ属 ''Paralichthys''
* 他13属
===== ダルマガレイ科 =====
[[ファイル: Flounder 1.jpg|thumb|right|モンダルマガレイ ''Bothus Mancus'' (ダルマガレイ科)]]
{{Main|ダルマガレイ科}}
約20属160種からなり、カレイ上科の中では最大のグループである。ヒラメ科と同じく、左側眼で温暖な海に分布する。腹鰭は左右非対称で、有眼側の基底部分が長い。筋肉の中に「肉間骨」と呼ばれる小さな骨が多数存在しているため、食用として利用されることは比較的少ない。[[ダルマガレイ]]、[[トゲダルマガレイ]]、[[コウベダルマガレイ]]など。
===== カレイ科 =====
[[ファイル: Fiorello LaGuardia with halibut.jpg|thumb|right|[[オヒョウ]] ''Hippoglossus hippoglossus'' (カレイ科)。本種はカレイ目で最大の種類で、体長2mを超える場合もある。]]
[[ファイル: Limanda limanda.jpg|thumb|right|[[ニシマガレイ]] ''Limanda limanda''(カレイ科)]]
[[ファイル: Pleuronectes platessa.carrelet02.jpg|thumb|right|[[プレイス]] ''Pleuronectes platessa'' (カレイ科)。背鰭の先端が眼の位置よりも前方にあることが、カレイ亜目の魚類に共通する特徴である。]]
'''[[カレイ|カレイ科]]''' {{sname||Pleuronectidae}} は5亜科23属60種を含む。眼は原則的には右側(例外は[[ヌマガレイ]]など)。腹鰭は左右対称で、側線は体の両側でよく発達している。食用魚として重要な種類が多数所属する。ヒラメ科とは異なり、[[北半球]]の寒冷な海域を中心に分布する。大型の口を持つ[[魚食動物|魚食性]]の種類([[カラスガレイ]]など)と、小さな口の小動物食性の種類([[マガレイ]]、[[マコガレイ]]など)がいる。'''[[カレイ]]'''も参照のこと。
* '''オヒョウ亜科''' Hippoglossinae 5属8種。
** アブラガレイ属 ''Atheresthes''
** サメガレイ属 ''Clidoderma''
** オヒョウ属 ''Hippoglossus''
** カラスガレイ属 ''Reinhardtius''
** マツカワ属 ''Verasper''
* '''ムシガレイ亜科''' Eopsettinae 1属2種。
** ムシガレイ属 ''Eopsetta''
* '''トウガレイ亜科''' Lyopsettinae 1属1種。
** トウガレイ属 ''Lyopsetta''
* '''アカガレイ亜科''' Hippoglossoidinae 3属7種。
** ウロコメガレイ属 ''Acanthopsetta''
** [[アカガレイ属]] ''[[w:Hippoglossoides|Hippoglossoides]]''
** ソウハチ属 ''Cleisthenes''
* '''カレイ亜科''' Pleuronectinae 13属42種。
** アサバガレイ属 ''Lepidopsetta''
** シモフリガレイ属 ''Embassichthys''
** [[スナガレイ属]] ''[[w:Limanda|Limanda]]''
** ツノガレイ属 ''Pleuronectes''
** ヌマガレイ属 ''Platichthys''
** ババガレイ属 ''Microstomus''
** [[ヒレグロ属]] ''[[w:Glyptocephalus|Glyptocephalus]]''
** マコガレイ属 ''Pseudopleuronectes''
** ミギガレイ属 ''Dexistes''
** メイタガレイ属 ''Pleuronichthys''
** 他3属(''Psettichthys''、''Isopsetta''、''Parophrys'')
== 系統 ==
次のような系統樹が得られている。ヒラメ科は少なくとも2つのクレードに分割される<ref>{{Cite journal|author=Betancur-R, Ricardo, and Guillermo Ortí.|title=Molecular evidence for the monophyly of flatfishes (Carangimorpharia: Pleuronectiformes)|journal=Molecular phylogenetics and evolution|volume=73|year=2014|pages=18-22|doi=10.1016/j.ympev.2014.01.006}}</ref>。
{{clade| style=font-size:80%;line-height:100%
|label1=カレイ目
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|1=[[ボウズガレイ科]] {{Sname||Psettodidae}}
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|label2=カレイ上科
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|1=[[ヒラメ科]] ({{Snamei||Xystreurys}}・{{Snamei||Pseudorhombus}}・{{Snamei||Ancylopsetta}}・{{Snamei||Paralichthys}})
|2=[[カレイ科]] {{Sname||Pleuronectidae}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
== 出典・脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Commons|Category:Pleuronectiformes}}
{{Wikispecies|Pleuronectiformes}}
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Fourth Edition』 Wiley & Sons, Inc. 2006年 ISBN 0-471-25031-7
* 『原色現代科学大事典 5動物II』、宮地伝三郎(責任編集者)、株式会社学習研究社、昭和43年、p.142-143。
* 岩井保 『水産脊椎動物II 魚類』 [[恒星社厚生閣]] 1985年 ISBN 978-4-7699-0539-4
* 上野輝彌・坂本一男 『新版 魚の分類の図鑑』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 2005年 ISBN 978-4-486-01700-4
* 岡村収・尼岡邦夫監修 『日本の海水魚』 [[山と渓谷|山と溪谷社]] 1997年 ISBN 4-635-09027-2
* 松浦啓一編著 『魚の形を考える』 東海大学出版会 2005年 ISBN 4-486-01674-2
== 外部リンク ==
* [http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.php?order=Pleuronectiformes FishBase‐カレイ目] (英語)
* [http://comiya.net/fish/order/karei_mc/index.html カレイ目専門・カレイ目一覧表]
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[[Category:カレイ目|*]]
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10,879 |
ヒラメ
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ヒラメ(鮃、英名:Bastard halibut、学名:Paralichthys olivaceus)は、カレイ目カレイ亜目ヒラメ科に属する魚の一種。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である(「ヒラメ類」の項を参照)。有眼側(目のある方)が体の左側で、日本では「左ヒラメに右カレイ」といってカレイ類と区別する(後述)。また口と歯が大きいのが特徴で、ヒラメ類のことを英語ではLarge-tooth flounders という。
太平洋西部(千島列島、樺太、日本、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も1つ1つが大きく鋭い。
ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。このようなヒラメの特徴から、自分の出世だけを気にして絶えず上層部の機嫌をうかがい媚びへつらっている人間を「ヒラメ人間」と呼んで揶揄することがある。
ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803年)が初出である。
2013年2月21日、宗像市沖の玄界灘で裏表が同色の個体が網にかかった。 また2023年11月3日には、茨城県鹿嶋市の沖合で右向きの個体が釣り上げられた。同個体はアクアワールド・大洗へと持ち込まれ展示されることになった。
日本での別名は地方によって異なり、カレ、オオグチガレ、ソゲ(ゾゲ)、オオクチ、テックイ、ハス、オオガレイ、メビキ、ホンガレイなど。北海道では「てっくい」、東京湾では1kg以下の物を「そげ」と呼んでいる。青森県、茨城県、鳥取県の県の魚に指定されている。
沿岸の砂泥地を好み夜活動する。昼はよく砂泥中に身を潜め頭だけ出しているが、砂に潜らない場合は体の色を海底と同じ色にする。主に海底に住む小魚、小型甲殻類を食べる。幼魚のときにはケンミジンコなども捕食するが、成長するにつれ魚類を捕食する割合が増え、成魚では9割が小魚となる。若魚や成魚では多毛類や棘皮類などはあまり食べない。ヒラメはカレイと異なり、体全体を使った比較的俊敏な動きが可能である。
水深が200mよりも浅い砂底の海底に生息する。季節的な深浅移動を行い、早春から初夏にかけては浅場に、夏から冬は深場に生息する。産卵期は、北海道や東北で6月から7月、本州中部以南の太平洋岸で2月から5月、本州日本海沿岸で5月から6月、東シナ海で1月から3月と、南へいくほど早まる。卵は浮遊性で水温依存性性決定機構を有し、卵から孵った稚魚は通常の魚と同じように細長く、目も両側に付いている。全長1cmぐらいに成長する頃から右の目の移動が始まり、2.5cmぐらいになると親と同じ形になる。3年ほどで成魚になる。カレイ類には数十年生きる種もいるが、ヒラメの寿命は短く、せいぜい数年程度と言われる。その分、ヒラメはカレイよりも成長が早く、養殖もしやすいとされている。
日本では刺身、寿司ネタに用いられる高級食材で、ヒラメ、カレイ類の中では最も高値で取引され、一本釣り、延縄、定置網、底曳き網、刺し網など各種の漁法で漁獲される。また、カレイよりも成長が早いこと、また海底で静止していることが多いためにさほど酸素を必要とせず海水をあまり汚さないことから、陸上での養殖が盛んである。養殖においても餌(小魚類)は天然物と変わらず、食餌行為による運動量も差異がないことから食味が変わらない。資源保護のため、ある大きさに達しない個体は再放流したり、稚魚の放流も行われている。稚魚放流されたヒラメは成長しても腹側の黒い紋様が消えず、パンダビラメと呼ばれる。
白身魚の中では特に淡白で繊細な味わいで、非常に美味であるとされる。特に背鰭と臀鰭付け根の部分の身は、縁側(えんがわ)と呼ばれる脂の乗った歯ごたえのある部位で珍重される。刺身、寿司、酒蒸しなどで食べる。またムニエル等でフランス料理でも使われる。肝臓(キモ)もカワハギ等と同様珍重される。寒平目の名の通り、旬は冬期。産卵後の夏場はクソ平目と呼ばれるほど食味が落ちるといわれるが、冬場の食味と比較した場合見劣りする程度で、夏場でも美味い魚の代表格といえる。調理の際はその特殊な体型から三枚おろしではなく、五枚下ろしあるいは七枚卸しにする。五枚卸しとは上身背・腹、下身背・腹、骨の5つに分けたものを言い、七枚卸しは五枚卸しに背と腹の縁側を別にしたものを言う。
かつてクドアの一種(Kudoa septempunctata, 以下、クドア)は病原性が無いと考えられていたが、寄生したヒラメを人間が生で食べ、食後数時間程度で一過性の下痢や嘔吐といった軽度の食中毒を起こした事例が報告され、調査の結果原因物質である可能性が極めて高いとされている。ただし、必ず発症するものではないうえ、症状は一過性かつ軽症で翌日には後遺症も残らず、クドアが長期に人体で留まる可能性も低い。また、一定時間の冷凍や75°C以上の加熱処理で病原性は無くなることが判明している。
なお、クドアは粘液胞子虫の一種で、最初の発見事例は韓国から輸入された養殖ヒラメであるが、クドアの生息海域内の天然物やマグロにおいても寄生が確認されている。
下痢や嘔吐など軽度の有症事例が報告され、細菌やウイルスなどの既知の食中毒原因物質が検出されない事例では、暫定的にヒラメトキシンなどと呼ばれていた。このような原因不明食中毒について、国立医薬品食品衛生研究所を中心に国立感染症研究所、大学などが協力して解明に取り組んだ結果、2011年にその病因物質がヒラメに寄生するクドアの一種 (Kudoa septempunctata) である可能性が非常に高いことが判明した。2012年6月には厚生労働省 食安発0607第7号にて、「生食用生鮮ヒラメについて、筋肉1グラム当たりクドアの胞子数が、100万個を超えたものは、食品衛生法第6条違反品として取り扱うこと」が通知され、食中毒発症の危険性の高い物品は流通が規制された。
クドアが寄生したヒラメが出荷されることを防ぐため、2012年に水産庁ではヒラメ養殖・種苗生産施設において実施すべき対策を取りまとめた。ヒラメ養殖が盛んな自治体でも安全対策を行っており、特に養殖が盛んな大分県では、地元産養殖ヒラメの安全性を確保する対策を講じて徹底した検査体制を敷いている。なお、日本国内には韓国の済州島の養殖ヒラメも流通しているが(クドアに対して十分な対策が行われておらず)流通過程で産地偽装が行われ、小売店が調理した韓国産養殖ヒラメの刺身を客が食べてクドア食中毒に発症した事例が報告されている。
広義のヒラメ類は、ヒラメ科、ダルマガレイ科に属する魚のこと。
ヒラメ科 学名 Paralichthyidae、英名 Large-tooth flounders世界で80種ほどが知られる。太平洋、インド洋、大西洋に生息。いずれも体の左側半分に両目が集まっている種。ほとんどの種が海水魚で、汽水魚もいる。口が大きく、また歯も鋭く大きい。
ダルマガレイ科 学名 Bothidae、英名 Lefteye floounder世界中の熱帯から温帯の海に生息する海水魚で、100種以上が知られる。両目とも体の左側にあるのはヒラメ科と同じ。ヒラメ科よりも一般に体高が高く、また背ビレが頭部の目よりも前からはじまるため、体が円形に近い印象になる。
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"text": "ヒラメ(鮃、英名:Bastard halibut、学名:Paralichthys olivaceus)は、カレイ目カレイ亜目ヒラメ科に属する魚の一種。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である(「ヒラメ類」の項を参照)。有眼側(目のある方)が体の左側で、日本では「左ヒラメに右カレイ」といってカレイ類と区別する(後述)。また口と歯が大きいのが特徴で、ヒラメ類のことを英語ではLarge-tooth flounders という。",
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"text": "太平洋西部(千島列島、樺太、日本、朝鮮半島などの沿岸から南シナ海まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も1つ1つが大きく鋭い。",
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"text": "ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。このようなヒラメの特徴から、自分の出世だけを気にして絶えず上層部の機嫌をうかがい媚びへつらっている人間を「ヒラメ人間」と呼んで揶揄することがある。",
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"text": "ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803年)が初出である。",
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"text": "日本での別名は地方によって異なり、カレ、オオグチガレ、ソゲ(ゾゲ)、オオクチ、テックイ、ハス、オオガレイ、メビキ、ホンガレイなど。北海道では「てっくい」、東京湾では1kg以下の物を「そげ」と呼んでいる。青森県、茨城県、鳥取県の県の魚に指定されている。",
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"text": "沿岸の砂泥地を好み夜活動する。昼はよく砂泥中に身を潜め頭だけ出しているが、砂に潜らない場合は体の色を海底と同じ色にする。主に海底に住む小魚、小型甲殻類を食べる。幼魚のときにはケンミジンコなども捕食するが、成長するにつれ魚類を捕食する割合が増え、成魚では9割が小魚となる。若魚や成魚では多毛類や棘皮類などはあまり食べない。ヒラメはカレイと異なり、体全体を使った比較的俊敏な動きが可能である。",
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"text": "水深が200mよりも浅い砂底の海底に生息する。季節的な深浅移動を行い、早春から初夏にかけては浅場に、夏から冬は深場に生息する。産卵期は、北海道や東北で6月から7月、本州中部以南の太平洋岸で2月から5月、本州日本海沿岸で5月から6月、東シナ海で1月から3月と、南へいくほど早まる。卵は浮遊性で水温依存性性決定機構を有し、卵から孵った稚魚は通常の魚と同じように細長く、目も両側に付いている。全長1cmぐらいに成長する頃から右の目の移動が始まり、2.5cmぐらいになると親と同じ形になる。3年ほどで成魚になる。カレイ類には数十年生きる種もいるが、ヒラメの寿命は短く、せいぜい数年程度と言われる。その分、ヒラメはカレイよりも成長が早く、養殖もしやすいとされている。",
"title": "生態"
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"text": "日本では刺身、寿司ネタに用いられる高級食材で、ヒラメ、カレイ類の中では最も高値で取引され、一本釣り、延縄、定置網、底曳き網、刺し網など各種の漁法で漁獲される。また、カレイよりも成長が早いこと、また海底で静止していることが多いためにさほど酸素を必要とせず海水をあまり汚さないことから、陸上での養殖が盛んである。養殖においても餌(小魚類)は天然物と変わらず、食餌行為による運動量も差異がないことから食味が変わらない。資源保護のため、ある大きさに達しない個体は再放流したり、稚魚の放流も行われている。稚魚放流されたヒラメは成長しても腹側の黒い紋様が消えず、パンダビラメと呼ばれる。",
"title": "漁業"
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"text": "白身魚の中では特に淡白で繊細な味わいで、非常に美味であるとされる。特に背鰭と臀鰭付け根の部分の身は、縁側(えんがわ)と呼ばれる脂の乗った歯ごたえのある部位で珍重される。刺身、寿司、酒蒸しなどで食べる。またムニエル等でフランス料理でも使われる。肝臓(キモ)もカワハギ等と同様珍重される。寒平目の名の通り、旬は冬期。産卵後の夏場はクソ平目と呼ばれるほど食味が落ちるといわれるが、冬場の食味と比較した場合見劣りする程度で、夏場でも美味い魚の代表格といえる。調理の際はその特殊な体型から三枚おろしではなく、五枚下ろしあるいは七枚卸しにする。五枚卸しとは上身背・腹、下身背・腹、骨の5つに分けたものを言い、七枚卸しは五枚卸しに背と腹の縁側を別にしたものを言う。",
"title": "食材"
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"text": "かつてクドアの一種(Kudoa septempunctata, 以下、クドア)は病原性が無いと考えられていたが、寄生したヒラメを人間が生で食べ、食後数時間程度で一過性の下痢や嘔吐といった軽度の食中毒を起こした事例が報告され、調査の結果原因物質である可能性が極めて高いとされている。ただし、必ず発症するものではないうえ、症状は一過性かつ軽症で翌日には後遺症も残らず、クドアが長期に人体で留まる可能性も低い。また、一定時間の冷凍や75°C以上の加熱処理で病原性は無くなることが判明している。",
"title": "寄生虫"
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{
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"text": "なお、クドアは粘液胞子虫の一種で、最初の発見事例は韓国から輸入された養殖ヒラメであるが、クドアの生息海域内の天然物やマグロにおいても寄生が確認されている。",
"title": "寄生虫"
},
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"text": "下痢や嘔吐など軽度の有症事例が報告され、細菌やウイルスなどの既知の食中毒原因物質が検出されない事例では、暫定的にヒラメトキシンなどと呼ばれていた。このような原因不明食中毒について、国立医薬品食品衛生研究所を中心に国立感染症研究所、大学などが協力して解明に取り組んだ結果、2011年にその病因物質がヒラメに寄生するクドアの一種 (Kudoa septempunctata) である可能性が非常に高いことが判明した。2012年6月には厚生労働省 食安発0607第7号にて、「生食用生鮮ヒラメについて、筋肉1グラム当たりクドアの胞子数が、100万個を超えたものは、食品衛生法第6条違反品として取り扱うこと」が通知され、食中毒発症の危険性の高い物品は流通が規制された。",
"title": "寄生虫"
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"text": "クドアが寄生したヒラメが出荷されることを防ぐため、2012年に水産庁ではヒラメ養殖・種苗生産施設において実施すべき対策を取りまとめた。ヒラメ養殖が盛んな自治体でも安全対策を行っており、特に養殖が盛んな大分県では、地元産養殖ヒラメの安全性を確保する対策を講じて徹底した検査体制を敷いている。なお、日本国内には韓国の済州島の養殖ヒラメも流通しているが(クドアに対して十分な対策が行われておらず)流通過程で産地偽装が行われ、小売店が調理した韓国産養殖ヒラメの刺身を客が食べてクドア食中毒に発症した事例が報告されている。",
"title": "寄生虫"
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"text": "広義のヒラメ類は、ヒラメ科、ダルマガレイ科に属する魚のこと。",
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"text": "ヒラメ科 学名 Paralichthyidae、英名 Large-tooth flounders世界で80種ほどが知られる。太平洋、インド洋、大西洋に生息。いずれも体の左側半分に両目が集まっている種。ほとんどの種が海水魚で、汽水魚もいる。口が大きく、また歯も鋭く大きい。",
"title": "ヒラメ類"
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"text": "ダルマガレイ科 学名 Bothidae、英名 Lefteye floounder世界中の熱帯から温帯の海に生息する海水魚で、100種以上が知られる。両目とも体の左側にあるのはヒラメ科と同じ。ヒラメ科よりも一般に体高が高く、また背ビレが頭部の目よりも前からはじまるため、体が円形に近い印象になる。",
"title": "ヒラメ類"
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ヒラメは、カレイ目カレイ亜目ヒラメ科に属する魚の一種。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である(「ヒラメ類」の項を参照)。有眼側(目のある方)が体の左側で、日本では「左ヒラメに右カレイ」といってカレイ類と区別する(後述)。また口と歯が大きいのが特徴で、ヒラメ類のことを英語ではLarge-tooth flounders という。
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{{Redirect|ひらめ|シンガーソングライター|ひらめ (シンガーソングライター)}}
{{生物分類表
|名称 = ヒラメ
|画像 = [[Image:Paralichthys olivaceus.jpg|250px]]
|画像キャプション = [[新江ノ島水族館]]での展示
|省略=条鰭綱
|目 = [[カレイ目]] {{Sname||Pleuronectiformes}}
|亜目 = [[カレイ亜目]] {{Sname||Pleuronectoidei}}
|科 = [[ヒラメ科]] {{Sname||Paralichthyidae}}
|属 = [[ヒラメ属]] {{Snamei||Paralichthys}}
|種 = '''ヒラメ''' {{snamei||Paralichthys olivaceus|P. olivaceus}}
|学名 = {{snamei||Paralichthys olivaceus}}<br/>([[コンラート・ヤコブ・テミンク|Temminck]] & [[ヘルマン・シュレーゲル|Schlegel]], [[1846年|1846]])
|英名 = [[:en:Bastard halibut|Bastard halibut]]<br/>[[:en:Olive flounder|Olive flounder]]
|和名 = '''ヒラメ'''('''鮃'''、'''平目'''、比目魚)
}}
'''ヒラメ'''('''鮃'''、英名:[[:en:Bastard halibut|Bastard halibut]]、[[学名]]:''Paralichthys olivaceus'')は、[[カレイ目]][[カレイ亜目]]ヒラメ科に属する[[魚類|魚]]の一種。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である(「ヒラメ類」の項を参照)。有眼側(目のある方)が体の左側で、日本では'''「左ヒラメに右カレイ」'''といって[[カレイ]]類と区別する(後述)。また口と歯が大きいのが特徴で、ヒラメ類のことを[[英語]]では[[:en:Large-tooth flounders|'''Large-tooth flounders''']] という。
== 特徴 ==
[[太平洋]]西部([[千島列島]]、[[樺太]]、日本、[[朝鮮半島]]などの沿岸から[[南シナ海]]まで)に分布。最大で全長1m、体重10kgほどになる。他のカレイ目の魚と同じように左右に扁平な体型をしていてカレイと区別が付きにくいが、俗に「左ヒラメに右カレイ」と言われるように、ヒラメの目は両目とも頭部の左側半分に偏って付いているのが大きな特徴である<ref group="注">逆にカレイの目は両目とも頭部の右側半分に付いている。ただし、頭部の左側に目を持つカレイも存在するため、目が頭部の左側にあるもの全てがヒラメというわけではない。</ref>。また、ヒラメはカレイと比べて口が大きく、歯も1つ1つが大きく鋭い。
ヒラメは海底で両目のある体の左側を上に向けて生活しているため、その両目は常に上の方を向いている。このようなヒラメの特徴から、自分の出世だけを気にして絶えず上層部の機嫌をうかがい媚びへつらっている人間を「ヒラメ人間」と呼んで揶揄することがある。
ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は[[小野蘭山]]の『[[本草綱目啓蒙]]』(1803年)が初出である<ref>鈴木晋一 『たべもの史話』 小学館ライブラリー、1999年、pp95-99</ref>。
[[2013年]][[2月21日]]、[[宗像市]]沖の[[玄界灘]]で裏表が同色の個体が網にかかった<ref>[http://www.nhk.or.jp/news/html/20130221/k10015687131000.html 表と裏が同じ色 珍しいヒラメ見つかる]:NHKニュース(2013年2月21日)</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/349444 裏表のない正直ヒラメ!?全身褐色]:西日本新聞(2013年2月22日)</ref>。
<br/>また[[2023年]][[11月3日]]には、[[茨城県]][[鹿嶋市]]の沖合で右向きの個体が釣り上げられた。<ref>[https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16992694118646 釣り人仰天、「右向き」ヒラメ 茨城・鹿嶋沖 遺伝子的要因か]:茨城新聞クロスアイ(2023年11月6日))</ref><ref>[https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20231107/1000098932.html 「右向き」の珍しいヒラメが釣り上げられる 茨城 鹿嶋の沖合]:NHKニュース (2023年11月7日)</ref>同個体は[[アクアワールド・大洗]]へと持ち込まれ展示されることになった。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=OOz1AT6M4zo 「右向き」ヒラメ展示 茨城県大洗水族館]:茨城新聞動画ニュース(茨城新聞)(2023年11月9日)</ref>
=== 地方名 ===
日本での別名は地方によって異なり、カレ、オオグチガレ、ソゲ(ゾゲ)、オオクチ、テックイ、ハス、オオガレイ、メビキ、ホンガレイなど。北海道では「てっくい」、東京湾では1kg以下の物を「そげ」と呼んでいる。青森県、茨城県、鳥取県の県の魚に指定されている。
== 生態 ==
沿岸の砂泥地を好み夜活動する。昼はよく砂泥中に身を潜め頭だけ出しているが、砂に潜らない場合は体の色を海底と同じ色にする。主に海底に住む[[小魚]]、小型[[甲殻類]]を食べる。幼魚のときには[[ケンミジンコ]]なども捕食するが、成長するにつれ[[魚類]]を捕食する割合が増え、成魚では9割が[[小魚]]となる。若魚や成魚では多毛類や棘皮類などはあまり食べない。<ref>{{Cite book|title=Gyoruigaku. 3|url=https://www.worldcat.org/oclc/672654489|publisher=恒星社厚生閣|date=1986|isbn=4769905602|oclc=672654489|others=Ochiai, Akira, 1923-, Tanaka, Masaru, 1943-, 落合, 明, 1923-, 田中, 克, 1943-}}</ref>ヒラメは[[カレイ]]と異なり、体全体を使った比較的俊敏な動きが可能である。
水深が200mよりも浅い砂底の海底に生息する。季節的な深浅移動を行い、早春から初夏にかけては浅場に、[[夏]]から[[冬]]は深場に生息する。産卵期は、北海道や東北で6月から7月、本州中部以南の太平洋岸で2月から5月、本州日本海沿岸で5月から6月、[[東シナ海]]で1月から3月と、南へいくほど早まる。<ref>{{Cite web|和書|title=ヒラメ - 東京都島しょ農林水産総合センター |url=https://www.ifarc.metro.tokyo.lg.jp/archive/27,1051,55,227.html |website=www.ifarc.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2022-12-19}}</ref>卵は浮遊性で水温依存性性決定機構を有し<ref>北野健、[https://doi.org/10.5983/nl2001jsce.2006.120_10 水温に影響されるヒラメの性] 日本比較内分泌学会ニュース 2006年 2006巻 120号 p.120_10-120_12, {{doi|10.5983/nl2001jsce.2006.120_10}}</ref>、卵から孵った稚魚は通常の魚と同じように細長く、目も両側に付いている。全長1cmぐらいに成長する頃から右の目の移動が始まり、2.5cmぐらいになると親と同じ形になる。3年ほどで成魚になる。カレイ類には数十年生きる種もいるが、ヒラメの寿命は短く、せいぜい数年程度と言われる。その分、ヒラメはカレイよりも成長が早く、[[養殖]]もしやすいとされている。
== 漁業 ==
日本では刺身、[[寿司]]ネタに用いられる高級食材で、ヒラメ、カレイ類の中では最も高値で取引され、一本[[釣り]]、[[延縄]]、[[定置網]]、[[底曳き網]]、[[刺し網]]など各種の漁法で漁獲される。また、[[カレイ]]よりも成長が早いこと、また海底で静止していることが多いためにさほど酸素を必要とせず海水をあまり汚さないことから、陸上での養殖が盛んである<ref>[http://www.yoshoku.or.jp/siru/ 養殖魚を知る!ウォールド君のおさかな大百科 ヒラメ] - (社)全国海水養魚協会</ref>。養殖においても餌(小魚類)は天然物と変わらず、食餌行為による運動量も差異がないことから食味が変わらない。資源保護のため、ある大きさに達しない個体は再[[放流]]したり、[[稚魚]]の[[放流]]も行われている。稚魚放流されたヒラメは成長しても腹側の黒い紋様が消えず、'''パンダビラメ'''と呼ばれる。
=== 陸揚げ漁港 ===
*[[2002年]](平成14年)度
** 1位 青森県 [[八戸漁港]]
** 2位 長崎県 [[長崎漁港]]
** 3位 福島県 [[松川浦漁港]]
** 4位 長崎県 [[宮ノ浦漁港]]
** 5位 山口県 [[下関漁港]]
=== 都道府県別漁獲量 ===
*[[2011年]](平成23年)度<ref name="名前なし-1">[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?lid=000001104479&layout=datalist 平成23年漁業・養殖業生産統計] - 農林水産省</ref>
**1位 北海道
**2位 青森県
**3位 茨城県
**4位 長崎県
**5位 新潟県
=== 都道府県別養殖生産量 ===
*[[2011年]](平成23年)度<ref name="名前なし-1"/>
**1位 大分県
**2位 愛媛県
**3位 鹿児島県
**4位 三重県
**5位 長崎県
== 食材 ==
白身魚の中では特に淡白で繊細な味わいで、非常に美味であるとされる。特に背鰭と臀鰭付け根の部分の身は、'''[[えんがわ|縁側]]'''(えんがわ)と呼ばれる脂の乗った歯ごたえのある部位で珍重される。[[刺身]]、[[寿司]]、酒蒸しなどで食べる。また[[ムニエル]]等で[[フランス料理]]でも使われる。[[肝臓]](キモ)も[[カワハギ]]等と同様珍重される。寒平目の名の通り、旬は冬期。産卵後の夏場はクソ平目と呼ばれるほど食味が落ちるといわれるが、冬場の食味と比較した場合見劣りする程度で、夏場でも美味い魚の代表格といえる。調理の際はその特殊な体型から[[三枚おろし]]ではなく、[[五枚下ろし]]あるいは七枚卸しにする。五枚卸しとは上身背・腹、下身背・腹、骨の5つに分けたものを言い、七枚卸しは五枚卸しに背と腹の縁側を別にしたものを言う。
<gallery>
File:Hirame flatfish front.JPG|ヒラメの表側
File:Hirame flatfish back.JPG|ヒラメの裏側
File:Hirame flatfish 5mai 1.JPG|ヒラメの五枚おろし1
File:Hirame flatfish 5mai 2.JPG|ヒラメの五枚おろし2
File:Hirame flatfish 5mai after.JPG|ヒラメの五枚おろし後
</gallery>
== 寄生虫 ==
=== クドア属 ===
[[File:Parasite160010-fig3 - Lectins in Paralichthys olivaceus infected by Kudoa septempunctata - Lectin histochemistry.png|thumb|''Kudoa septempunctata'' に感染した組織標本]]
かつて[[クドア]]の一種(''Kudoa septempunctata'', 以下、クドア)は[[病原性]]が無いと考えられていたが、[[寄生]]したヒラメを人間が生で食べ、食後数時間程度で一過性の[[下痢]]や[[嘔吐]]といった軽度の[[食中毒]]を起こした事例が報告され、調査の結果原因物質である可能性が極めて高いとされている<ref name="nhi.2240-dj3881"/><ref>[https://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/foodpoisoning/f_encyclopedia/kudoa_qa.html ヒラメを介したクドアの一種による食中毒Q&A] - 農林水産省</ref>。ただし、必ず発症するものではないうえ、症状は一過性かつ軽症で翌日には後遺症も残らず、クドアが長期に人体で留まる可能性も低い。また、一定時間の冷凍や75℃以上の加熱処理で病原性は無くなることが判明している<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001fz6e-att/2r9852000001fzl8.pdf 生食用生鮮食品による原因物質不明有症事例についての提言]}} - 厚生労働省 薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会</ref>。
なお、クドアは[[粘液胞子虫]]の一種で、最初の発見事例は[[大韓民国|韓国]]から輸入された[[養殖]]ヒラメである<ref>{{aut|Matsukane, Y.}} ''et al''. 2010: "[https://link.springer.com/article/10.1007/s00436-010-1941-8 ''Kudoa septempunctata'' n. sp (Myxosporea: Multivalvulida) from an aquacultured olive flounder (''Paralichthys olivaceus'') imported from Korea.]" ''Parasitology research'', '''107'''(4): 865-872. {{doi|10.1007/s00436-010-1941-8}}</ref>が、クドアの生息海域内の天然物や[[マグロ]]においても寄生が確認されている<ref name="nhi.2240-dj3881"/><ref>大西貴弘{{PDFlink|[https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/MM1207_01.pdf 食中毒原因物質としての"クドア"に関する最新の知見]}} モデンメディア 2012年7月号(第58巻7号)p.205-209。</ref>。
下痢や嘔吐など軽度の有症事例が報告され、[[細菌]]や[[ウイルス]]などの既知の食中毒原因物質が検出されない事例では<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0902L_Z01C10A0CC1000/ 懸賞のヒラメで110人が食中毒 伊予銀の定期預金] - [[日本経済新聞]] 2010年10月10日</ref><ref>[http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20110216401.htm 「ヒラメ自粛」謎の食中毒で臆測 石川県内温泉街、厚労省は「根拠ない」] [[北國新聞]] 2011年2月16日</ref>、暫定的にヒラメトキシンなどと呼ばれていた。このような原因不明食中毒について、[[国立医薬品食品衛生研究所]]を中心に[[国立感染症研究所]]、[[大学]]などが協力して解明に取り組んだ結果、2011年にその病因物質がヒラメに寄生するクドアの一種 (''Kudoa septempunctata'') である可能性が非常に高いことが判明した<ref name="nhi.2240-dj3881">[http://www.nih.go.jp/niid/ja/iasr-sp/2119-related-articles/related-articles-388/2240-dj3881.html クドア食中毒総論] - 国立感染症研究所</ref>。2012年6月には厚生労働省 食安発0607第7号<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/gyousei/dl/120607_01.pdf クドアを原因とする食中毒の発生防止について] 厚生労働省 食安発0607第7号}}</ref>にて、「生食用生鮮ヒラメについて、筋肉1グラム当たりクドアの胞子数が、100万個を超えたものは、食品衛生法第6条違反品として取り扱うこと」が通知され、食中毒発症の危険性の高い物品は流通が規制された。
=== 養殖現場の安全対策 ===
クドアが寄生したヒラメが出荷されることを防ぐため、2012年に[[水産庁]]ではヒラメ養殖・[[種苗生産]]施設において実施すべき対策を取りまとめた<ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/test/saibai/hirame.html 養殖ヒラメに寄生したクドアによる食中毒の防止対策] -水産庁</ref>。ヒラメ養殖が盛んな[[地方公共団体|自治体]]でも安全対策を行っており、特に養殖が盛んな[[大分県]]では、地元産養殖ヒラメの安全性を確保する対策を講じて徹底した検査体制を敷いている<ref>[http://www.pref.oita.jp/soshiki/16400/kudoa-20121107.html 県産養殖ヒラメの安全性確保(食中毒の防止対策ガイドライン)について] - 大分県水産振興課</ref><ref>[http://www.oita-press.co.jp/localNews/2011_130991729914.html 養殖ヒラメ 寄生虫検査を強化] - [[大分合同新聞]]2011年7月6日</ref><ref>[http://www.oita-press.co.jp/localNews/2011_131042632978.html 養殖ヒラメ 寄生虫検査 ガイドラインを作成] - [[大分合同新聞]]2011年7月12日</ref>。なお、日本国内には韓国の済州島の養殖ヒラメも流通しているが(クドアに対して十分な対策が行われておらず)流通過程で産地偽装が行われ、小売店が調理した韓国産養殖ヒラメの刺身を客が食べてクドア食中毒に発症した事例が報告されている<ref>[https://president.jp/articles/-/14260 「韓国産のヒラメ」が危ない?目に見えない寄生虫が...] - PRESIDENT Online</ref>。
== ヒラメ類 ==
広義のヒラメ類は、ヒラメ科、ダルマガレイ科に属する魚のこと。
* '''[[オヒョウ|おひょう]]'''(大鮃、英語名 [[:en:Halibut|Halibut]])はヒラメの漢字が使われているが、カレイ科カレイ目に属するカレイの仲間である。
* '''シタビラメ'''(舌平目)は、[[カレイ目]][[ササウシノシタ科]]および[[ウシノシタ科]]の[[魚]]の総称。
=== ヒラメ科 ===
[[ヒラメ科]] 学名 {{sname||Paralichthyidae}}、英名 Large-tooth flounders<br/>世界で80種ほどが知られる。太平洋、インド洋、大西洋に生息。いずれも体の左側半分に両目が集まっている種。ほとんどの種が海水魚で、汽水魚もいる。口が大きく、また歯も鋭く大きい。
; '''ヒラメ''' :学名 {{snamei||Paralichthys olivaceus}}、英名 Bastard halibut<br/>(略)
; [[カリフォルニアハリバット]] :学名 {{snamei||Paralichthys californicus}}、英名 California flounder、California halibut<br/>ヒラメと近縁で 1.5m、30kgになる。太平洋東部、アメリカ ワシントン州からメキシコのカリフォルニア半島まで分布。浅いところから水深200mほどまで、湾内や河口付近の汽水域の砂地に生息。日中に魚やイカなどを捕食する。
; [[ナツヒラメ]] :学名 {{snamei||Paralichthys dentatus}}、英名 Summer flounder<br/>(略)
; [[タマガンゾウビラメ]] :学名 {{snamei||Pseudorhombus pentophthalmus}}、英名 Fivespot flounder<br/>20cm程度まで。日本、朝鮮半島からインドシナ半島まで。体の目のある側には5個の黒い丸い斑紋がある。煮付や[[から揚げ]]、また干物や、練り物の原料にする。
; [[ガンゾウヒラメ]] :学名 {{snamei||Pseudorhombus cinnamoneus}}、英名 Cinnamon flounder<br/>雁雑平目。最大35cm。太平洋西部。日本、中国沿岸からフィリピン、南シナ海まで。タマガンゾウビラメより大型になる。黒い斑紋は1つ。煮付などにする。
; [[メガレイ]] :学名 {{snamei||Pseudorhombus dupliciocellatus}}、英名 Ocellated flounder<br/>全長40cm。西太平洋からインド洋。日本南岸からオーストラリアにかけて、西はアンダマン・ニコバル諸島(インド)までの海域。体の目のある側には2-4個の黒い丸い斑紋がある。
; [[テンジクガレイ]] :学名 {{snamei||Pseudorhombus arsius}}、英名 Largetooth flounder, Moses sole<br/>45cm。西太平洋からインド洋。日本南岸、東シナ海からオーストラリア大陸まで。東はフィジー諸島、西はインド沿岸、ペルシャ湾、アフリカ大陸東岸まで。幼魚は汽水域にも入る。体の目のある側には大小の丸い黒斑が散在。
; [[アラメガレイ]] :学名 {{snamei||Tarphops oligolepis}}<br/>日本近海から台湾まで。数cmの小型種で、寿命は2年。
=== ダルマガレイ科 ===
[[ダルマガレイ科]] 学名 {{sname||Bothidae}}、英名 Lefteye floounder<br/>世界中の熱帯から温帯の海に生息する海水魚で、100種以上が知られる。両目とも体の左側にあるのはヒラメ科と同じ。ヒラメ科よりも一般に体高が高く、また背ビレが頭部の目よりも前からはじまるため、体が円形に近い印象になる。
; [[ダルマガレイ]] :学名 {{snamei||Engyprosopon grandisquama}}、英名 Largescale flounder<br/>全長15cm。インド洋から西太平洋にかけて分布。日本南岸を北限とし、[[東南アジア島嶼部]]、ニューカレドニア、オーストラリア大陸沿岸から、インド洋、アフリカ東岸まで。体高が高く体長の半分以上。尾ビレの上端と下端付近に黒い斑紋がある。食べられる。
; [[トゲダルマガレイ]] :学名 {{snamei||Bothus pantherinus}}、英名 Leopard flounder、Leopard sole<br/>全長40cmまで。インド洋から西太平洋。日本南岸、ハワイ、タヒチ(ソシエテ諸島、マルケサス諸島)からインド洋、ペルシャ湾、紅海。食べられる。
; [[コウベダルマガレイ]] :学名 {{snamei||Crossorhombus kobensis}}、英名 Kobe flounder<br/>全長最大12cm。太平洋北西部の日本南岸から南シナ海まで。
; [[ヤリガレイ]] :学名 {{snamei||Laeops kitaharae}}<br/>日本からアフリカ東岸までのインド洋から西太平洋。体はやや細く、頭部、口が小さい。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[魚の一覧]]
* [[カレイ]]
* [[テトリス#歴史]]
* [[かぼすヒラメ]] - [[フルーツ魚]]のヒラメのブランド名
== 外部リンク ==
* [http://www.springerlink.com/content/u36r40k51n861u17/ Kudoa septempunctata n. sp. (Myxosporea: Multivalvulida) from an aquacultured olive flounder (Paralichthys olivaceus) imported from Korea] Parasitology Research, Volume 107, Number 4 865-872, DOI: 10.1007/s00436-010-1941-8
* 大西貴弘、古沢博子、佐古浩 ほか、「[https://doi.org/10.5803/jsfm.30.125 【原著】クドア食中毒および ''Kudoa septempunctata'' の季節による特徴]」『日本食品微生物学会雑誌』 Vol.30 (2013) No.2 p.125-131, {{DOI|10.5803/jsfm.30.125}}
* [https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230625-OYT1T50076/ 別府の名湯、ヒラメの健康に効果…餌に温泉成分混ぜたら死ぬ割合半減・うまみ成分増加 (読売新聞2023年6月25日)]
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[[Category:1846年に記載された魚類]]
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新井素子
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新井 素子(あらい もとこ、1960年8月8日 -)は、日本の小説家。ライトノベル作家の草分け的存在として知られている(久美沙織による解説(#外部リンク)を参照)。夫は、書評や文庫解説などを手がけている手嶋政明。結婚後の本名、手嶋素子。日本SF作家クラブ元会長。日本推理作家協会会員。
東京都練馬区生まれ。両祖父、両親が共に講談社に勤めており、実家には常に大量の本があったため、幼い頃から多くの本に接して育った。
1977年、東京都立井草高等学校2年生のときに、第1回奇想天外SF新人賞に応募した『あたしの中の......』が佳作入選した。審査員の星新一が絶賛し最優秀作に推したが、小松左京や筒井康隆らが目新しい文体に違和感を覚え反対したため佳作となった。星は入選決定後に、新井素子の父が東京大学農学部での同級生だったことを知った。また、新井も星のファンであり、初めて読んだSFが星の『妖精配給会社』であった(星の著書「未来いそっぷ」の解説文も書いている)。
高校2年生という若さでの受賞及びデビューは文学界にも衝撃を与え、『ふぁんろーど』の特集などで「SF界のプリンセス」と称された。北野勇作や久美沙織ら同世代の作家に強い影響を与えたといわれている。
立教大学文学部ドイツ文学科に在籍しながら作家活動を続け、1981年『グリーン・レクイエム』で第12回星雲賞日本短編部門を受賞、1982年『ネプチューン』で第13回星雲賞日本短編部門を受賞した。1999年には『チグリスとユーフラテス』で第20回日本SF大賞を受賞した。
2003年ごろから夫とともに囲碁をはじめ、日本棋院囲碁大使をつとめる。
デビューがSF誌『奇想天外』だったこともあり、しばらくはSFを中心に執筆していたが、1980年には高校生向け雑誌『高一コース』誌上で『星へ行く船』を連載した。また集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)から『いつか猫になる日まで』を上梓するなど、活動の場をジュニア小説へも広げた。
同時代の口語表現を積極的に取り入れ、一段落を「が。」の2文字で終わらせて改行するなど規範を大きく逸脱した文体を高橋源一郎は『ラカンのぬいぐるみ』で「新口語文」と評価した。当時の口語表現を文体に反映した端的な例として、一人称「あたし」、二人称「おたく」という砕けた人称代名詞を多用したことなどが挙げられる。
デビュー直後の『毎日新聞』インタビューで「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです」と述べたことから、当初その文体は漫画やアニメとの関係で論じられることが多かったが、この発言自体は記事を書いた記者の曲解によって発生したもので、本人の発言意図と乖離したものであることが判明している。その後の本人の発言では、アニメや漫画の影響下で出来上がった文体でないことが語られている。本人によれば、影響を受けたのは小林信彦の、女の子の主人公の一人称口語文体の小説『オヨヨ島の冒険』であり、自分の文体を作ろうと思い立った中学1年生の時、『オヨヨシリーズ』を読んで感じた「会話の妙」と「間」を手本としている。
新しい世代の言語感覚による「文章で書いた漫画」であると指摘されており、後の作家に対する影響力は無視できない。新井素子の文体は後のライトノベル文体に少なからず影響を与え、元祖的もしくは雛形的存在と称されることもある。
作品傾向としては、20代前半までは同年代の女性を主人公とするSF小説が主だった。25歳で結婚した後は、自らの結婚体験を元にした『結婚物語』などのコメディや、『おしまいの日』などのサイコホラー小説のような新たなジャンルにも挑戦した。また、自身の不妊体験を下敷きにしたかのような「産むということ」や「不妊ということ」「女性というもの」について独特の視点に基づいた小説を発表するなど、執筆活動の幅を拡げていった。そして、それらの文体はジャンルや読者層に合わせ、デビュー当時のものとは大きく変えている。
身近に起こった出来事を明るく軽妙に綴るエッセイでも知られる。
新井素子は、ぬいぐるみ好きとしても知られ、4000体以上のぬいぐるみとともに生活している。「ぬいぐるみは呼吸も新陳代謝もしないが、ぬいぐるみパワーとでも呼ぶべき未知のものによって生きており、一種の精神生命体である」と常々主張している。
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"text": "同時代の口語表現を積極的に取り入れ、一段落を「が。」の2文字で終わらせて改行するなど規範を大きく逸脱した文体を高橋源一郎は『ラカンのぬいぐるみ』で「新口語文」と評価した。当時の口語表現を文体に反映した端的な例として、一人称「あたし」、二人称「おたく」という砕けた人称代名詞を多用したことなどが挙げられる。",
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"text": "デビュー直後の『毎日新聞』インタビューで「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです」と述べたことから、当初その文体は漫画やアニメとの関係で論じられることが多かったが、この発言自体は記事を書いた記者の曲解によって発生したもので、本人の発言意図と乖離したものであることが判明している。その後の本人の発言では、アニメや漫画の影響下で出来上がった文体でないことが語られている。本人によれば、影響を受けたのは小林信彦の、女の子の主人公の一人称口語文体の小説『オヨヨ島の冒険』であり、自分の文体を作ろうと思い立った中学1年生の時、『オヨヨシリーズ』を読んで感じた「会話の妙」と「間」を手本としている。",
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新井 素子は、日本の小説家。ライトノベル作家の草分け的存在として知られている(久美沙織による解説を参照)。夫は、書評や文庫解説などを手がけている手嶋政明。結婚後の本名、手嶋素子。日本SF作家クラブ元会長。日本推理作家協会会員。
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{{Infobox 作家
| name = {{ruby|新井 素子|あらい もとこ}}
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| influences = [[星新一]]、[[小林信彦]]など
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<!--| footnotes = 脚注・小話-->
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''新井 素子'''|あらい もとこ|[[1960年]][[8月8日]]<ref name="ライトノベル・フロントライン1">{{Cite book |和書 |author= 大橋崇行・山中智省 |date= 2015年10月16日第1刷発行 |title= ライトノベル・フロントライン 1 |publisher= 青弓社 |pages= 92 |isbn= 978-4-7872-9231-5 }}</ref> - }}は、[[日本]]の[[小説家]]。[[ライトノベル]]作家の草分け的存在として知られている([[久美沙織]]による解説([[#外部リンク]])を参照)。夫は、書評や文庫解説などを手がけている[[手嶋政明]]。結婚後の本名、手嶋素子<ref>『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.441</ref>。[[日本SF作家クラブ]]元会長。[[日本推理作家協会]]会員。
== 略歴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-09}}
[[東京都]][[練馬区]]生まれ{{R|ライトノベル・フロントライン1}}。両祖父、両親が共に[[講談社]]に勤めており、実家には常に大量の本があったため、幼い頃から多くの本に接して育った。
[[1977年]]、[[東京都立井草高等学校]]2年生のときに、第1回[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]SF新人賞に応募した『あたしの中の……』が佳作入選した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=(5ページ目)3万冊の蔵書と、4000匹のぬいぐるみ…新井素子の「捨てない」暮らし 本に殺されないために建てた家|話題|婦人公論.jp |url=https://fujinkoron.jp/articles/-/700 |website=婦人公論.jp |access-date=2022-09-15 |language=ja}}</ref>。審査員の[[星新一]]が絶賛し最優秀作に推したが、[[小松左京]]や[[筒井康隆]]らが目新しい文体に違和感を覚え反対したため佳作となった。星は入選決定後に、新井素子の父が[[東京大学]]農学部での同級生だったことを知った。また、新井も星のファンであり、初めて読んだSFが星の『妖精配給会社』であった(星の著書「未来いそっぷ」の解説文も書いている)。
高校2年生という若さでの受賞及びデビューは文学界にも衝撃を与え、『ふぁんろーど』の特集などで「SF界のプリンセス」と称された。[[北野勇作]]や[[久美沙織]]ら同世代の作家に強い影響を与えたといわれている。
[[立教大学]][[文学部]][[ドイツ文学科]]に在籍しながら作家活動を続け、[[1981年]]『[[グリーン・レクイエム]]』で第12回[[星雲賞]]日本短編部門を受賞<ref name=":0" />、[[1982年]]『ネプチューン』で第13回星雲賞日本短編部門を受賞した<ref name=":0" />。[[1999年]]には『[[チグリスとユーフラテス]]』で第20回[[日本SF大賞]]を受賞した<ref name=":0" />。
2003年ごろから夫とともに[[囲碁]]をはじめ<ref>『素子の碁』(中央公論社)P.9</ref>、[[日本棋院]]囲碁大使をつとめる<ref>[https://www.nihonkiin.or.jp/teach/igotaishi_profile.html 日本棋院・囲碁大使プロフィール]</ref>。
== 文体と作品傾向 ==
デビューがSF誌『[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]』だったこともあり、しばらくはSFを中心に執筆していたが、1980年には高校生向け雑誌『[[学研ホールディングス#廃刊・休刊誌|高一コース]]』誌上で『星へ行く船』を連載した。また[[集英社文庫]]コバルトシリーズ([[コバルト文庫]])から『いつか猫になる日まで』を上梓するなど、活動の場をジュニア小説へも広げた。
同時代の口語表現を積極的に取り入れ、一段落を「が。」の2文字で終わらせて改行するなど規範を大きく逸脱した文体を[[高橋源一郎]]は『ラカンのぬいぐるみ』で「新口語文」と評価した。当時の口語表現を文体に反映した端的な例として、一人称「あたし」、二人称「おたく」という砕けた人称代名詞を多用したことなどが挙げられる。
デビュー直後の『[[毎日新聞]]』インタビューで「マンガ『[[ルパン三世]]』の活字版を書きたかったんです」と述べたことから、当初その文体は漫画やアニメとの関係で論じられることが多かったが、この発言自体は記事を書いた記者の曲解によって発生したもので、本人の発言意図と乖離したものであることが判明している<ref>同人誌『トラルファマドール』2号のインタビューより</ref>。その後の本人の発言では、アニメや漫画の影響下で出来上がった文体でないことが語られている。本人によれば、影響を受けたのは[[小林信彦]]の、女の子の主人公の一人称口語文体の小説『オヨヨ島の冒険』であり、自分の文体を作ろうと思い立った中学1年生の時、『オヨヨシリーズ』を読んで感じた「会話の妙」と「間」を手本としている<ref>『オヨヨ島の冒険』(ちくま文庫/角川文庫)の作品解説による</ref>。
新しい世代の言語感覚による「文章で書いた漫画」であると指摘されており{{要出典|date=2010年9月}}、後の作家に対する影響力は無視できない<ref>『ライトノベル完全読本Vol.2 コバルト編集部ロングインタビュー』</ref>。新井素子の文体は後のライトノベル文体に少なからず影響を与え、元祖的もしくは雛形的存在と称されることもある。
作品傾向としては、20代前半までは同年代の女性を主人公とするSF小説が主だった。25歳で結婚した後は、自らの結婚体験を元にした『[[結婚物語]]』などのコメディや、『[[おしまいの日]]』などのサイコホラー小説のような新たなジャンルにも挑戦した。また、自身の不妊体験を下敷きにしたかのような「産むということ」や「不妊ということ」「女性というもの」について独特の視点に基づいた小説を発表するなど、執筆活動の幅を拡げていった。そして、それらの文体はジャンルや読者層に合わせ、デビュー当時のものとは大きく変えている。
身近に起こった出来事を明るく軽妙に綴るエッセイでも知られる。
== ぬいぐるみ ==
新井素子は、[[ぬいぐるみ]]好きとしても知られ、4000体以上のぬいぐるみとともに生活している<ref>[https://mainichi.jp/sp/shikou/47/01.html 「ヌイと生きる」] - 毎日新聞、2015年2月2日公開</ref><ref>[https://fujinkoron.jp/articles/-/700 3万冊の蔵書と、4000匹のぬいぐるみ…新井素子の「捨てない」暮らし] - 婦人公論.jp、2019年8月27日公開</ref>。「ぬいぐるみは呼吸も新陳代謝もしないが、ぬいぐるみパワーとでも呼ぶべき未知のものによって生きており、一種の[[精神生命体]]である」と常々主張している{{要出典|date=2019年10月}}。
死後の処理については子がないので夫婦亡き後には姪か甥に引き継いでもらうしかないとしている<ref>https://fujinkoron.jp/articles/-/700?page=5</ref>。
ぬいぐるみ関連の著書として次のようなものがある。
;『わにわに物語』『わにわに物語II』
: 白いワニのぬいぐるみ「わにわに」が語ったエッセイを新井素子が口述筆記したとされるもの。 ISBN 4062630222, ISBN 406263371X
;『くますけと一緒に』
:「ぬいぐるみホラー」を目指して書かれたとされる小説。両親を亡くしぬいぐるみと話す少女の、ぬいぐるみ「くますけ」との交流や内面を描く。 ISBN 4199050779
;『ぬいぐるみさんとの暮らし方』(グレン・ネイプ著)
: ぬいぐるみの生態や接し方について述べた本を新井素子が邦訳したもの(共訳:土屋裕)。ISBN 4105220012
;『テディベアに会えた日』
: [[テディベア]]の写真集に新井素子が短い物語を付けたもの。 ISBN 4537024372
== 著作 ==
=== 小説 ===
* 『あたしの中の……』 [[奇想天外社]]、[[1977年]]。[[コバルト文庫|集英社文庫コバルトシリーズ]](以下コバルト文庫と表記)、1981年
** 「ずれ」「[[大きな壁の中と外]]」併録。集英社刊行版は「チューリップさん物語」を追加併録
* 『[[星へ行く船]]』シリーズ コバルト文庫
** 『星へ行く船』[[1980年]]
** 『通りすがりのレイディ』[[1982年]]
** 『カレンダー・ガール』[[1983年]]
** 『逆恨みのネメシス』[[1986年]]
** 『そして、星へ行く船』[[1987年]]
** 『星から来た船』上中下巻、[[1992年]]
* 『いつか猫になる日まで』、1980年
* 『[[グリーン・レクイエム]]』シリーズ
** 『グリーン・レクイエム』 奇想天外社、1980年(「週に一度のお食事を」「宇宙魚顛末記」併録)。[[講談社文庫]]、1983年
** 『緑幻想:グリーン・レクイエム II』 [[講談社]]([[1990年]])。講談社文庫(1993年)
** 『グリーン・レクイエム/緑幻想』 [[創元SF文庫]]、2007年
* 『ひとめあなたに…』 双葉社(1981年)、角川文庫(1985年)、創元SF文庫(2008年)
* 『[[扉を開けて (小説)|扉を開けて]]』 [[CBSソニー]](1982年)コバルト文庫(1985年)
* 『ラビリンス―迷宮―』 [[徳間書店]](1982年)、トクマノベルス(1984年)、徳間文庫(1987年)、徳間デュエル文庫(2000年)
* 『二分割幽霊綺譚』 講談社(1983年)、講談社文庫(1986年)
* 『……絶句』 上下巻、[[早川書房]] (1983年)。ハヤカワ文庫(1987年)
* 『[[ブラック・キャット (小説)|ブラック・キャット]]』シリーズ コバルト文庫
** 『ブラック・キャット1』1984年
** 『ナイト・フォーク ブラック・キャット(2)』[[1985年]]
** 『キャスリング ブラック・キャット(3)』 前後編、[[1994年]]
** 『チェックメイト ブラック・キャット(4)』 前後編、[[2004年]]
* 『あなたにここにいて欲しい』 [[文化出版局]]、1984年。講談社文庫、1987年
* 『ディアナ・ディア・ディアス』 徳間書店、1985年。徳間文庫、1989年
* [[結婚物語]]シリーズ
** 『結婚物語』 角川文庫、上中下巻1986年。[[中公文庫]]、上下巻[[2011年]]
** 『新婚物語』 角川文庫、1-3巻、[[1988年]]
** 『銀婚式物語』 中央公論新社(2011年)。中公文庫(2014年)
** 『ダイエット物語……ただし猫』 中央公論新社(2016年)。中公文庫(2019年)
* 『今はもういないあたしへ…』 [[大陸書房]]、1987年。ハヤカワ文庫、1990年 「ネプチューン」併録
* 『ふたりのかつみ』 [[カドカワノベルス]](1989年)。角川文庫(1996年)
* 『くますけと一緒に』 大陸書房(1991年)、新潮文庫(1993年)
* 『[[おしまいの日]]』 [[新潮社]](1992年)[[新潮文庫]](1995年)
* 『わにわに物語』 1・2巻、講談社(1992-93年)。講談社文庫(1995-96年)
* 『[[チグリスとユーフラテス]]』 集英社、1999年。[[集英社文庫]] 上・下、2002年
* 『ハッピー・バースディ』 角川書店、2002年。角川文庫(2005年)
* 『窓のあちら側』 出版芸術社、2007年(自選作品集)
* 『ちいさなおはなし』 [[集英社]]、2007年
* 『もいちどあなたにあいたいな』 新潮社、2010年。新潮文庫、2013年
* 『イン・ザ・ヘブン』 新潮社、2013年。新潮文庫、2016年。
* 『未来へ……』 [[角川春樹事務所]]、2014年。[[ハルキ文庫]]、上下巻、2017年
* 『ゆっくり十まで』 [[キノブックス]]、2019年。角川文庫、2021年
* 『この橋をわたって』 新潮社、2019年。新潮文庫、2021年
* 新井素子SF&ファンタジーコレクション、[[柏書房]]、2019年。[[日下三蔵]]編
*# 『いつか猫になる日まで グリーン・レクイエム』(「緑幻想 グリーン・レクイエムII」併録)
*# 『扉を開けて 二分割幽霊綺譚』(「斉木杳の憂鬱」併録)
*# 『ラビリンス〈迷宮〉 ディアナ・ディア・ディアス』(「週に一度のお食事を」「宇宙魚顛末記」併録)
* 『[[絶対猫から動かない]]』 [[KADOKAWA]]、2020年
* 『影絵の街にて』 [[竹書房]]文庫、2021年。SF・ファンタジー短篇集、日下三蔵編
* 『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』[[角川春樹事務所]]、2021年。
=== エッセイ ===
* 『ひでおと素子の愛の交換日記』 [[吾妻ひでお]]との共著、1~4巻、[[角川書店]]、1984-87年。角川文庫、1987-88年
* 『新井素子の未知との遭遇』 講談社、1990年。講談社文庫、1993年
* 『とり散らかしておりますが』 講談社文庫、1994年
* 『近頃、気になりません?』 [[廣済堂出版]]、1994年。講談社文庫、1999年
* 『もとちゃんの夢日記』 角川文庫、[[1995年]]
* 『もとちゃんの痛い話』 角川文庫、[[1997年]]
* 『素子の読書あらかると』 中央公論新社、[[2000年]]。中公文庫、2005年
* 『明日も元気にいきましょう』 角川文庫、2004年
* 『お元気ですか』 廣済堂出版、2004年
* 『今日もいい天気』 廣済堂出版、2007年
* 『素子の碁 - サルスベリがとまらない』 中央公論新社、2018年。中公文庫、2020年
=== 対談集 ===
* 『ネバーランド・パーティ 新井素子と15人の漫画家』 新書館、1985年
* 『新井素子のサイエンス・オデッセイ』 [[新潮文庫]]、1985年
* 『新井素子の?(ハテナ)教室』 徳間書店、1987年
* 『ネリマ大好き』 徳間書店、1992年
=== その他 ===
* 『ぬいぐるみさんとの暮らし方』 グレン・ネイプ著、新潮社、1989年 翻訳書(土屋裕との共訳)
* 『季節のお話』 徳間書店、[[1990年]]。[[ブッキング]]、2005年 絵本(絵:[[古川タク]])
* 『テディベアに会えた日』 [[日本文芸社]]、1994年 写真と文(撮影:角田正治)
=== アンソロジー ===
* 『S-Fマガジン・セレクション1981』 ハヤカワ文庫、1983年 「ネプチューン」収録
* 『血と薔薇の誘う夜に―吸血鬼ホラー傑作選』 角川ホラー文庫、2005年 「週に一度のお食事を」収録
* 『人工知能の見る夢は AIショートショート集』 [[文春文庫]]、2017年 「お片づけロボット」「幻臭」収録
* 『猫ミス!』 中公文庫、2017年 「黒猫ナイトの冒険」収録
* 『ショートショートドロップス』 新井素子編、キノブックス 、2019年 「のっく」収録
* 『甘美で痛いキス 吸血鬼コンピレーション』 [[二見書房]]、2021年 「ここを出たら」収録
* 『[[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 2021年夏号]]』 [[河出文庫]]、2021年 「その神様は大腿骨を折ります」収録
== 他メディアへの展開 ==
=== 漫画 ===
* 『週に一度のお食事を』 漫画:[[森脇真末味]](1980年)
* 『二分割幽霊綺譚』 漫画:[[くりた陸]](未単行本化)
* 『[[グリーン・レクイエム]]』 漫画:[[文月今日子]](講談社、1984年)、[[春名里日]](講談社、2003年)
* 『[[扉を開けて (小説)|扉を開けて]]』 漫画:[[亜藤潤子]]([[白泉社]]、1986年)
* 『[[星へ行く船]]』 漫画:[[よしまさこ]](「星へ行く船」「雨の降る星 遠い夢」漫画化。週刊マーガレットにて連載、白泉社、1988年)
=== テレビドラマ ===
* 『[[結婚物語]]』 1987年、主演:[[沢口靖子]]、[[陣内孝則]]
* 『[[結婚物語|新婚物語]]』 [[1988年]]、上記キャストでドラマ化
=== ラジオドラマ ===
* 『通りすがりのレイディ』NHK-FM
* 『二分割幽霊綺譚』
* 『…絶句』 1984年。新井も本人の役で出演
* 『いつか猫になる日まで』 1987年[[NHK-FM放送|NHK-FM]]、主演:[[有森也実]]<ref>{{Cite web|和書|title=新井素子作品他メディアリスト:ラジオドラマ |url=http://motoken.na.coocan.jp/shoseki/ta_media/radio.html |website=motoken.na.coocan.jp |access-date=2022-12-30}}</ref>
* 『[[おしまいの日]]』 [[1993年]][[日本放送協会|NHK-FM]]、主演:[[谷山浩子]]
=== 映画 ===
* 『[[グリーン・レクイエム]]』 1985年制作、1988年公開。監督:今関あきよし、出演:[[鳥居かほり]]、[[坂上忍]]ほか
* 『あなたにここにいて欲しい』 1992年。監督:小中和哉、出演:[[高橋かおり]]ほか
* 『[[おしまいの日]]』 1999年制作、2000年公開。監督:君塚匠、出演:[[裕木奈江]]ほか
=== アニメ ===
* 『[[扉を開けて (小説)|扉を開けて]]』 [[1986年]]
== 出演 ==
*お茶の子博士のHORROR THEATER 第14怪「TERROR T.V.」 - テレビ番組『[[もんもんドラエティ]]』の番組内コーナー。[[手塚眞]]が監督した短編ホラー映画を放映するコーナーであり、1982年1月28日放映回の「TERROR T.V.」では新井素子が出演している。『お茶の子博士のHORROR THEATER ~TV「もんもんドラエティ」より~』(2002年12月、[[ポニーキャニオン]])としてDVD販売された際には「テレビの中の殺人者」と改題<ref>DVD『お茶の子博士のHORROR THEATER ~TV「もんもんドラエティ」より~』付録パンフレット記載の手塚眞の談話より。</ref>。
*[[ジュニア大全科]] - [[NHK教育テレビジョン]]。1982年11月22日から同年11月26日まで全5回で「100年前のSF」をテーマとした際に出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A198211221830001300200|title=ジュニア 大全科 「100年前のSF」(1) ―ジュール・ベルヌ~気球の旅5週間―|website=NHKクロニクル|accessdate=2021-01-02}}</ref>。
*[[星くず兄弟の伝説 (映画)|星くず兄弟の伝説]] - 1985年公開の日本映画。プレゼンター役として出演。
*[[グリーン・レクイエム#映画版|グリーン・レクイエム]] - 1985年製作、1988年公開の日本映画。通行人として[[カメオ出演]]。
*ぼくらの愛した二十面相 - 1997年9月27日上演の[[文士劇#日本推理作家協会|文士劇]]<ref>{{Cite book|和書|title=ぼくらの愛した二十面相-文士劇全記録|editor=日本推理作家協会|editor-link=日本推理作家協会|publisher=[[光文社]]|year=1998|isbn=978-4334971625}}</ref>。
*世界SF作家会議(フジテレビ)
**第1回 2020年7月26日放送 [[いとうせいこう]]、[[大森望]]、[[藤井太洋]]、[[小川哲]]とともに出演。
**第2回 2021年1月6日放送 いとうせいこう、大森望、藤井太洋、小川哲、[[高山羽根子]]とともに出演。
*その他これは実現には至らなかった(今日でいう[[妄想]])作品であるが、[[DAICON FILM]]が企画した特撮パロディー映画『[[愛國戦隊大日本]]』の第14話のシナリオ、「[[泉重千代|重千代]]じいさんを守れ!!日本の長寿は世界一!!」に、当時長寿世界一の記録保持者だった泉の孫娘の本人役という形で出演したことになっていた<ref>アニメック・第28号(1983年1月号 著者・池田憲章)</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://lanopa.sakura.ne.jp/kumi/ 久美沙織『創世記』] - [[久美沙織]]による初期のジュニア小説の歴史解説。新井素子の位置づけについても言及されている。
* [http://www.webmysteries.jp/sf/arai0711.html 新井素子『グリーン・レクイエム/緑幻想』創元SF文庫版あとがき]
* [http://www.webmysteries.jp/sf/arai0805.html 新井素子『ひとめあなたに…』創元SF文庫版あとがき]
* [http://motoken.na.coocan.jp/ 新井素子研究会] - 新井素子に関する情報の収集と公開を目的とするファンサイト
{{日本SF大賞|第20回}}
{{星雲賞日本短編部門|第12・13回}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あらい もとこ}}
[[Category:新井素子|*]]
[[Category:日本の女性小説家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:日本のライトノベル作家]]
[[Category:SFとファンタジーの女性著作家]]
[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
[[Category:21世紀日本の女性著作家]]
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[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1960年生]]
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岩本隆雄
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岩本 隆雄(いわもと たかお、1959年4月6日 -)は日本の小説家、SF作家。大阪府在住。
『星虫』、『イーシャの舟』はNHK-FM放送「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化された。
『星虫』と『イーシャの舟』に書き下ろしの短編を加えた
『鵺姫真話』と『鵺姫異聞』に書き下ろし新作100枚を加えた完全版
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岩本 隆雄は日本の小説家、SF作家。大阪府在住。 『星虫』、『イーシャの舟』はNHK-FM放送「青春アドベンチャー」でラジオドラマ化された。
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{{読み仮名_ruby不使用|'''岩本 隆雄'''|いわもと たかお|[[1959年]][[4月6日]] - }}は[[日本]]の[[小説家]]、[[SF作家]]。[[大阪府]]在住。
『[[星虫]]』、『[[イーシャの舟]]』は[[NHK-FM放送]]「[[青春アドベンチャー]]」で[[ラジオドラマ]]化された。
== 経歴 ==
* [[1990年]] - 第1回[[日本ファンタジーノベル大賞]]最終候補作に残った『[[星虫]]』でデビュー。
* [[1991年]] - 『[[イーシャの舟]]』を刊行し、以後約10年間の休眠期間に入る。
* [[2000年]] - デビュー作の『星虫』が[[ソノラマ文庫]]から復刊されたのを機に、創作活動を再開。
* [[2008年]] - 二度目の休眠から復活し、『夏休みは、銀河!』を朝日ノベルズより刊行する。
== 作品 ==
*『[[星虫]]』[[新潮文庫]](1990) 本文イラスト[[道原かつみ]] のち[[ソノラマ文庫]] 本文イラスト[[鈴木雅久]]
*『[[イーシャの舟]]』新潮文庫(1991)本文イラスト[[山田ミネコ]] のちソノラマ文庫 本文イラスト[[草彅琢仁]]
*『鵺姫真話』ソノラマ文庫 2000 本文イラスト 弘司
*『ミドリノツキ』(全3巻)ソノラマ文庫 2001 本文イラスト [[小菅久実]]
*『鵺姫異聞』ソノラマ文庫 2000 本文イラスト[[弘司]]
*『夏休みは、銀河!』 本文イラスト [[間宮彩智]][[朝日ノベルズ]] 2008
*『星虫年代記 1 星虫/イーシャの舟/バレンタイン・デイツ』 本文イラスト [[えむかみ]] 朝日ノベルズ 2009
『星虫』と『イーシャの舟』に書き下ろしの短編を加えた
*『星虫年代記 2 鵺姫真話/鵺姫序翔/鵺姫異聞』 本文イラスト えむかみ 朝日ノベルズ 2009
『鵺姫真話』と『鵺姫異聞』に書き下ろし新作100枚を加えた完全版
== 関連項目 ==
*[[ライトノベル作家一覧]]
*[[SF作家一覧]]
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[[Category:日本の小説家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:日本のライトノベル作家]]
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メイプルリーフ金貨
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メイプルリーフ金貨(メイプルリーフきんか、英語:Canadian Gold Maple Leaf、フランス語:Feuille d'érable en or)は、カナダ王室造幣局(Royal Canadian Mint)発行の地金型金貨。
1979年に創鋳され、以後毎年発行されている。表面にエリザベス2世の肖像、裏面にサトウカエデの葉が浮き彫りされている。純度99.99パーセント(.9999)以上の純金製(24カラット)である。
1トロイオンス、1/2トロイオンス、1/4トロイオンス、1/10トロイオンス、1/20トロイオンスの5種がある。カナダでは法定通貨としての価値を持つがそれぞれの額面(50カナダドル、20カナダドル、10カナダドル、5カナダドル、1カナダドル)は全く名目上のもので、市価は額面より遙かに価値が高い。1979年から1981年に発行されたものの純度は99.9%(.999)であった。それぞれの額面の金貨のデザインは、金の両目と額面表示以外は全く同じである。
メイプルリーフ金貨発行以前、地金型金貨のマーケットは南アフリカのクルーガーランド金貨の独擅場であったが、アパルトヘイトに抗議するための南アフリカ製品ボイコット運動に乗じその地位を奪う。メイプルリーフ金貨の成功をみて各国が地金型金貨市場に参入するが、現在でもメイプルリーフ金貨の人気は高く、流通量は世界一を誇る。
1994年に、1/15トロイオンス(額面はC$2)の金貨とプラチナ貨(白金貨)が装飾用の使用も考慮して発行された。特に人気が出ず、1/15トロイオンスが発行されたのはこの年のみとなった。
1998年からは、金貨と同じ両目・額面で、純度.9995のプラチナ貨を発行した。また同じ年、額面5カナダドルで純度.9999の銀貨も発行された。2005年-2007年には額面50カナダドル、純度.9995で1オンスのパラジウム貨も発行された。
2007年5月に、カナダ王室造幣局は額面が100万カナダドル、重さ100キログラム、直径50cm、厚さ3cmの金貨を公開した。純度は99.999%(.99999)。これまで5人が注文した。
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メイプルリーフ金貨は、カナダ王室造幣局発行の地金型金貨。
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'''メイプルリーフ金貨'''(メイプルリーフきんか、英語:Canadian Gold Maple Leaf、フランス語:Feuille d'érable en or)は、[[カナダ]]王室造幣局(Royal Canadian Mint)発行の[[地金型金貨]]。
==概要==
[[1979年]]に創鋳され、以後毎年発行されている。表面に[[エリザベス2世]]の肖像、裏面に[[サトウカエデ]]の[[カエデの葉|葉]]が浮き彫りされている。純度99.99[[パーセント]](.9999)以上の純金製(24[[カラット]])である。
1[[トロイオンス]]、1/2トロイオンス、1/4トロイオンス、1/10トロイオンス、1/20トロイオンスの5種がある。カナダでは[[法定通貨]]としての価値を持つがそれぞれの額面(50[[カナダドル]]、20カナダドル、10カナダドル、5カナダドル、1カナダドル)は全く名目上のもので、市価は額面より遙かに価値が高い。1979年から1981年に発行されたものの純度は99.9%(.999)であった。それぞれの額面の金貨のデザインは、金の両目と額面表示以外は全く同じである。
メイプルリーフ金貨発行以前、地金型金貨のマーケットは[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[クルーガーランド金貨]]の独擅場であったが、[[アパルトヘイト]]に抗議するための南アフリカ製品ボイコット運動に乗じその地位を奪う。メイプルリーフ金貨の成功をみて各国が地金型金貨市場に参入するが、現在でもメイプルリーフ金貨の人気は高く、流通量は世界一を誇る。
1994年に、1/15トロイオンス(額面はC$2)の金貨と[[プラチナ]]貨([[白金]]貨)が装飾用の使用も考慮して発行された。特に人気が出ず、1/15トロイオンスが発行されたのはこの年のみとなった。
1998年からは、金貨と同じ両目・額面で、純度.9995のプラチナ貨を発行した。また同じ年、額面5カナダドルで純度.9999の[[銀貨]]も発行された。2005年-2007年には額面50カナダドル、純度.9995で1オンスの[[パラジウム]]貨も発行された。
[[2007年]][[5月]]に、カナダ王室造幣局は額面が100万カナダドル、重さ100キログラム、直径50cm、厚さ3cmの金貨を公開した。純度は99.999%(.99999)。これまで5人が注文した。
==仕様==
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|+ メイプルリーフ金貨仕様<ref>[https://www.jmbullion.com/gold/gold-coins/canadian-gold-maple-leafs/gold-maple-leafs/ JM Bullion] 2018年9月2日閲覧。</ref><ref>[https://gold.tanaka.co.jp/commodity/shohin/maple.html 田中貴金属工業株式会社] 2018年9月2日閲覧。</ref>
! 量目<br />(oz) !! 額面<br />(CAD) !! 直径<br />(mm) !! 厚さ<br />(mm)
|-
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== 脚注 ==
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==外部リンク==
*[http://www.mint.ca/ カナダ王室造幣局]
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[[Category:カナダの経済]]
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栗本薫
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栗本 薫(くりもと かおる、1953年2月13日 - 2009年5月26日)は、日本の小説家、評論家。日本SF作家クラブ会員、日本推理作家協会員、日本ペンクラブ会員、日本文藝家協会員、日中文化交流協会員。
代表作は『グイン・サーガ』、『魔界水滸伝』、『伊集院大介』シリーズなど。『グイン・サーガ』は序盤が英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、韓国語に翻訳されている。
また、中島 梓(なかじま あずさ)名義で、評論活動や作詞作曲、ピアノ演奏、ミュージカルの脚本・演出なども手がけた。
夫は『S-Fマガジン』第6代編集長を務め、天狼プロダクションを経営する今岡清。母方の又従兄弟(祖父の姉の孫)に 梶原一明(経済評論家)がいる。父親は石川島重工業(現在はIHI)の重役をへて、石川島建機(現在はIHI建機)の社長となった実業家。
20代前半の1977年に群像新人文学賞評論部門を、翌1978年に江戸川乱歩賞を受賞した。当時、早稲田大学に創設されたばかりの「文芸科」出身の小説家としても話題となった。同時期デビューに見延典子がいる。また、分野ごとに中島梓、栗本薫両名義を使い分け、乱歩賞受賞直後には『平凡パンチ』誌上で中島梓と栗本薫の1人2役対談が企画された。
約30年間の活動で、新刊だけで約400冊の作品を発表した。その中には1年間に20冊以上の新刊を発表した年も4年あり、晩年も年間10冊以上の新刊を発表していた。
多作の半面で、刊行された自作を読み返すことをしないことで知られた。『天の陽炎-大正浪漫伝説』の原稿が一部欠けたまま2007年に刊行されていたことが、『傑作電子全集』の編集過程で判明し、補足した完全版が配信された。遺品のパソコンから欠落箇所を見つけた今岡は「栗本は推敲もせずに一気に書き、校正もほぼしない」と回想している。)
SF、ファンタジー、伝奇・時代小説、ホラー、ミステリ、耽美小説など、作品が極めて幅広いジャンルに渡っていることも大きな特徴である。特に1980年代には、それぞれの分野で人気を博し、様々なベストセラー作品を生み出すと同時に、各ジャンルの数多くのアンソロジーに作品が収録された。
「文学における物語性の復権」を唱え実践する姿勢は、デビュー当初、非常に高く評価された。新たなジャンルの先駆者として後の創作者たちに影響を与えた功績も大きいが、その一方で、様々なジャンル・フィクション(漫画含む)の愛読家であった栗本には、過去に読んだ小説・漫画などの影響が強い作品が多く、その作品のオリジナリティが低いという指摘もある(ただし、必ずしも批判的な指摘ではない)。栗本自身、その創作活動においてオリジナリティに全く重きを置いておらず、そのことを自身の著作『小説道場』(中島梓名義)の中で公言している。
ミステリーに対しては謎解きや理論よりも文体や雰囲気に、SFに対しては現実に対するフィクションのアプローチとしてのSF的手法に興味の中心があると述べている。
作品には、森茉莉の影響を受け、同性愛傾向が見られるものも多い。1978年の耽美小説誌『JUNE』の創刊にも深く関わっており、創刊号には第二のサガンと評された20歳のフランス人女性小説家という架空の経歴で、ジュスティーヌ・セリエの名でフランスを舞台にした耽美な作品『薔薇十字館』を発表し(日本人女子大生あかぎはるなの訳となっているが、これも栗本の筆名。挿絵は竹宮惠子)、フランスでの大学生活などの架空の近況報告を行いつつ、セリエ名義では4作品を発表した。1979年に刊行された『真夜中の天使』は、1975年にTBSテレビで放送された沢田研二主演のテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』の男性登場人物たちの関係性に触発され草案を練ったものだという。現在のボーイズラブに繋がる源流的な作品として、ジャンルの創始に一役買った作品でもあるとされる。『JUNE』誌上では栗本薫、中島梓の他、ジュスティーヌ・セリエ、あかぎはるな、神谷敬里、滝沢美女夜、沙羅、アラン・ラトクリフなど、様々な名義で作品や評論を提供、あかぎはるな名義では『comic JUN』に掲載されたブックガイド記事「世界JUN文学全集 西洋篇」「世界JUN文学全集 日本篇」の監修なども行い、読者の少女たちを楽しませるだけでなく、「男性同士の性愛」を軸に文化・教養を紹介することに尽力した。『JUNE』で連載された『小説道場』門下からも、秋月こお、江森備、柏枝真郷、榎田尤利など、同ジャンルの作品を手がける多数の作家を輩出している。また、『JUNE』休刊後は直接に小説術を伝授する「中島塾」を主宰していた。
中島梓名義の評論作品は、相対的には作品数が少ないが、『コミュニケーション不全症候群』は、現代の日本人のコミュニケーション薄弱な生活を鋭く分析しており、笠井潔などから高い評価を得ている。
幼少時より創作活動を行っていたが、元々は小説家よりも漫画家志向が強かった。漫画雑誌『COM』の愛読者であり、同誌主催のコンテストに何度か応募し、また、『S-Fマガジン』誌主催のコンテスト・イラスト部門へも応募したが、いずれも落選した。栗本の描いたイラストや漫画はほとんど発表されていないが、『S-Fマガジン』1987年1月臨時増刊号にイラスト集「グイン・イメージ・ボード」が、『別冊小説現代』1985年WINTER号に漫画「D介日記 日々是好日」が掲載されている。
小説執筆活動も学生時代から活発に行っていた。跡見学園高等学校時代には文芸部の部長を務め、早稲田大学ではサークル「ワセダミステリクラブ」に名目のみながら2年間所属していた。その当時の作品を収録した短編集として『接吻』が刊行されている。他にも『真夜中の天使』や『トワイライト・サーガ』など、商業誌デビュー前に書かれた作品がのちに出版された例が多くみられる。また、安部公房、大江健三郎、サルトル、筒井康隆などを論じた卒業論文「想像力の構造」を、早稲田大学で師事した平岡篤頼が『朝日新聞』紙上で激賞したことをきっかけとして、評論活動を本格的に行うようになった。栗本の商業誌デビュー(『別冊新評 筒井康隆の世界』)も、平岡の一文を見た同誌編集長の依頼によるものである。
4歳時からピアノを習っていたこともあって、音楽への傾倒も強く、音楽大学への進学を志した時期もあったという。早稲田大学では、音楽サークル「ハーモニカ・ソサエティ」に参加した。デビュー後もハードロック系バンド「パンドラ」でキーボードを担当していた。作曲を始めたのは「パンドラ」時代であり、その後開始したミュージカル創作活動では、数多くの劇中曲の作曲を手掛けることとなった。バンド活動は晩年まで続けていたが、その方向性は次第にジャズへと移行した。
1979年9月から1986年6月まで(1982年11月 - 1983年9月は産休のため一時降板)、テレビのクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)に女性軍キャプテンとしてレギュラー出演した。同番組のメインである「16分割クイズ」においては、わずか2〜3枚開いただけで正解に導くことも多々あり、司会の土居まさるからは「16分割の姫」と番組内で言われた。
長唄、小唄、清元、津軽三味線の名取でもある。また、短歌集『花陽炎春之巻』を自費出版し、2本の歌舞伎脚本も手掛けている。日常的に着物を着用する着物愛好家としても知られており、着物に対する愛着を綴ったエッセイ『着物中毒』を著している。
作品の多くに「あとがき」を付し、デビューからまもない一時期は、「あとがき作家」などとも名乗っていた。『グイン・サーガ』正伝の各巻にも必ずあとがきが付されており、シリーズの初期にはキャラクター人気投票やファンレター紹介などが行われていたが、次第に作者の近況報告が中心となっていった。
執筆時にはIBMのThinkPadを使っていた。
今日泊亜蘭の最後のSF長編『我が月は緑』(『光の塔』の30年後を描いた作品)に「白百合楽劇団」を主宰する“栗名梓”として登場する。
近年、栗本薫がBL執筆に向かったのは早大在学中に遭遇した川口大三郎事件で虐殺糾弾運動に参加できなかった屈折を執筆で解決しようとしたため、という説が照山もみじによって提起されている。
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"text": "4歳時からピアノを習っていたこともあって、音楽への傾倒も強く、音楽大学への進学を志した時期もあったという。早稲田大学では、音楽サークル「ハーモニカ・ソサエティ」に参加した。デビュー後もハードロック系バンド「パンドラ」でキーボードを担当していた。作曲を始めたのは「パンドラ」時代であり、その後開始したミュージカル創作活動では、数多くの劇中曲の作曲を手掛けることとなった。バンド活動は晩年まで続けていたが、その方向性は次第にジャズへと移行した。",
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栗本 薫は、日本の小説家、評論家。日本SF作家クラブ会員、日本推理作家協会員、日本ペンクラブ会員、日本文藝家協会員、日中文化交流協会員。 代表作は『グイン・サーガ』、『魔界水滸伝』、『伊集院大介』シリーズなど。『グイン・サーガ』は序盤が英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、韓国語に翻訳されている。 また、中島 梓名義で、評論活動や作詞作曲、ピアノ演奏、ミュージカルの脚本・演出なども手がけた。 夫は『S-Fマガジン』第6代編集長を務め、天狼プロダクションを経営する今岡清。母方の又従兄弟(祖父の姉の孫)に 梶原一明(経済評論家)がいる。父親は石川島重工業(現在はIHI)の重役をへて、石川島建機(現在はIHI建機)の社長となった実業家。
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{{otheruses|実在の小説家の栗本薫|この小説家の小説に登場する同名の名探偵|栗本薫 (探偵)}}
{{Infobox 作家
|name={{ruby|栗本 薫|くりもと かおる}}
|pseudonym=栗本 薫、中島 梓、京堂 司
|birth_name=今岡 純代(旧姓:山田)
|birth_date=1953年2月13日
|birth_place=[[東京都]][[葛飾区]]
|death_date={{死亡年月日と没年齢|1953|2|13|2009|5|26}}
|death_place=
|occupation=[[作家]]・[[評論家]]
|nationality={{JPN}}
|education=[[学士(文学)]]
|alma_mater=[[早稲田大学第一文学部]][[文芸科]]
|period=1976年 - 2009年
|genre=[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[ミステリー]]など
|subject=
|movement=[[やおい]]、[[ボーイズラブ]]
|notable_works=『[[グイン・サーガ]]』シリーズ<br>『[[魔界水滸伝]]』<br>『[[伊集院大介]]』シリーズ
|spouse=[[今岡清]]
|awards=[[群像新人文学賞]]評論部門(1977年)<br>[[江戸川乱歩賞]](1978年)<br>[[吉川英治文学新人賞]](1980年)<br>[[日本SF大賞]]特別賞(2009年)<br>[[星雲賞]]日本長編部門(2010年)
|debut_works=評論:[[パロディの起源と進化]]<br>小説:[[栗本薫 (探偵)|ぼくらの時代]]
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''栗本 薫'''|くりもと かおる|[[1953年]][[2月13日]] - [[2009年]][[5月26日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[評論家]]。[[日本SF作家クラブ]]会員、[[日本推理作家協会]]員、[[日本ペンクラブ]]会員、[[日本文藝家協会]]員、[[日中文化交流協会]]員。
代表作は『[[グイン・サーガ]]』、『[[魔界水滸伝]]』、『[[伊集院大介]]』シリーズなど。『[[グイン・サーガ]]』は序盤が英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、韓国語に翻訳されている。
また、{{読み仮名_ruby不使用|'''中島 梓'''|なかじま あずさ}}名義で、[[評論]]活動や作詞作曲、ピアノ演奏、[[ミュージカル]]の脚本・演出なども手がけた。
夫は『[[S-Fマガジン]]』第6代編集長を務め、[[天狼プロダクション]]を経営する[[今岡清]]。母方の又従兄弟(祖父の姉の孫)に [[梶原一明]](経済評論家)がいる。父親は石川島重工業(現在は[[IHI]])の重役をへて、石川島建機(現在はIHI建機)の社長となった実業家<ref>今岡清『世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女』(早川書房)P.100</ref>。
==人と作品==
20代前半の1977年に[[群像新人文学賞]]評論部門を、翌1978年に[[江戸川乱歩賞]]を受賞した<ref group="注釈">江戸川乱歩賞の受賞者としては当時史上最年少であった。</ref>。当時、[[早稲田大学]]に創設されたばかりの「[[文芸科]]」出身の小説家としても話題となった。同時期デビューに[[見延典子]]がいる。また、分野ごとに中島梓、栗本薫両名義を使い分け、乱歩賞受賞直後には『[[平凡パンチ]]』誌上で中島梓と栗本薫の1人2役対談が企画された。
約30年間の活動で、新刊だけで約400冊の作品を発表した。その中には1年間に20冊以上の新刊を発表した年も4年あり、晩年も年間10冊以上の新刊を発表していた。
多作の半面で、刊行された自作を読み返すことをしないことで知られた。『天の陽炎-大正浪漫伝説』の原稿が一部欠けたまま2007年に刊行されていたことが、『傑作電子全集』の編集過程で判明し、補足した完全版が配信された。遺品のパソコンから欠落箇所を見つけた今岡は「栗本は[[推敲]]もせずに一気に書き、[[校正]]もほぼしない」と回想している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42190860Y9A300C1CR0000/ 「故栗本さんの小説 原稿欠けたまま刊行/生前のファイル誤送信?」]『[[日本経済新聞]]』夕刊2018年3月8日(社会・スポーツ面)2019年4月11日閲覧。</ref>。)
[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ファンタジー]]、[[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|伝奇]]・[[時代小説]]、[[ホラー小説|ホラー]]、[[推理小説|ミステリ]]、耽美小説など、作品が極めて幅広いジャンルに渡っていることも大きな特徴である。特に1980年代には、それぞれの分野で人気を博し、様々なベストセラー作品を生み出すと同時に、各ジャンルの数多くの[[アンソロジー]]に作品が収録された。
「文学における物語性の復権」を唱え実践する姿勢は、デビュー当初、非常に高く評価された<ref name="tripper">『小説トリッパー』2001年秋季号(朝日新聞社)</ref>。新たなジャンルの先駆者として後の創作者たちに影響を与えた功績も大きいが、その一方で、様々なジャンル・フィクション(漫画含む)の愛読家であった栗本には、過去に読んだ小説・漫画などの影響が強い作品が多く、その作品のオリジナリティが低いという指摘もある(ただし、必ずしも批判的な指摘ではない)<ref name="seikimatsu">新保博久『世紀末日本推理小説事情』(筑摩書房)</ref>。栗本自身、その創作活動においてオリジナリティに全く重きを置いておらず、そのことを自身の著作『小説道場』(中島梓名義)の中で公言している<ref name="dojo1">中島梓『新版 小説道場1』(光風社出版)</ref>。
ミステリーに対しては謎解きや理論よりも文体や雰囲気に、SFに対しては現実に対するフィクションのアプローチとしてのSF的手法に興味の中心があると述べている<!--リンク切れ:<ref>[http://homepage2.nifty.com/kaguraclub/ijuin1.htm#ijuin3]</ref>-->。
作品には、[[森茉莉]]の影響を受け<ref name="tanbi">柿沼瑛子・栗原知代編著『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(白夜書房)</ref>、同性愛傾向が見られるものも多い。1978年の耽美小説誌『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』の創刊にも深く関わっており、創刊号には第二の[[サガン]]と評された20歳のフランス人女性小説家という架空の経歴で、ジュスティーヌ・セリエの名でフランスを舞台にした耽美な作品『薔薇十字館』を発表し(日本人女子大生あかぎはるなの訳となっているが、これも栗本の筆名。挿絵は[[竹宮惠子]])<ref name="石田">石田美紀 『密やかな教育―“やおい・ボーイズラブ”前史』 洛北出版、2008年</ref><ref>Erin [https://web.archive.org/web/20010827121128/http://www.asahi-net.or.jp/~uz9y-ab/jun.htm JUN創刊号はこんな雑誌だった]</ref><ref>[http://www.eurus.dti.ne.jp/miyabi/kt-lib/north/north-sashie.htm 挿絵] 竹宮惠子の図書館 K.T.Library</ref>、フランスでの大学生活などの架空の近況報告を行いつつ、セリエ名義では4作品を発表した<ref name="石田"/>。1979年に刊行された『真夜中の天使』は、1975年にTBSテレビで放送された[[沢田研二]]主演のテレビドラマ『[[悪魔のようなあいつ]]』の男性登場人物たちの関係性に触発され草案を練ったものだという。現在の[[ボーイズラブ]]に繋がる源流的な作品として、ジャンルの創始に一役買った作品でもあるとされる<ref name="tanbi"/>。『JUNE』誌上では栗本薫、中島梓の他、ジュスティーヌ・セリエ、あかぎはるな、神谷敬里、滝沢美女夜、沙羅、アラン・ラトクリフなど、様々な名義で作品や評論を提供、あかぎはるな名義では『comic JUN』に掲載されたブックガイド記事「世界JUN文学全集 西洋篇」「世界JUN文学全集 日本篇」の監修なども行い、読者の少女たちを楽しませるだけでなく、「男性同士の性愛」を軸に文化・教養を紹介することに尽力した<ref name="石田"/>。『JUNE』で連載された『小説道場』門下からも、[[秋月こお]]、[[江森備]]、[[柏枝真郷]]、[[榎田尤利]]など、同ジャンルの作品を手がける多数の作家を輩出している。また、『JUNE』休刊後は直接に小説術を伝授する「中島塾」を主宰していた。
中島梓名義の評論作品は、相対的には作品数が少ないが、『コミュニケーション不全症候群』は、現代の日本人のコミュニケーション薄弱な生活を鋭く分析しており、[[笠井潔]]などから高い評価を得ている<ref name="shuuen">笠井潔『終焉の終り』(福武書店)</ref>。
幼少時より創作活動を行っていたが、元々は小説家よりも漫画家志向が強かった。漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』の愛読者であり、同誌主催のコンテストに何度か応募し、また、『S-Fマガジン』誌主催のコンテスト・イラスト部門へも応募したが、いずれも落選した<ref name="manga">中島梓『マンガ青春期』(集英社)</ref>。栗本の描いたイラストや漫画はほとんど発表されていないが、『S-Fマガジン』1987年1月臨時増刊号にイラスト集「グイン・イメージ・ボード」が、『別冊小説現代』1985年WINTER号に漫画「D介日記 日々是好日」が掲載されている。
小説執筆活動も学生時代から活発に行っていた。跡見学園高等学校時代には文芸部の部長を務め、早稲田大学ではサークル「[[ワセダミステリクラブ]]」に名目のみながら2年間所属していた<ref name="manga"/>。その当時の作品を収録した短編集として『接吻』が刊行されている。他にも『真夜中の天使』や『トワイライト・サーガ』など、商業誌デビュー前に書かれた作品がのちに出版された例が多くみられる。また、[[安部公房]]、[[大江健三郎]]、[[サルトル]]、[[筒井康隆]]などを論じた卒業論文「想像力の構造」を、早稲田大学で師事した[[平岡篤頼]]が『[[朝日新聞]]』紙上で激賞したことをきっかけとして、評論活動を本格的に行うようになった。栗本の商業誌デビュー(『別冊新評 筒井康隆の世界』)も、平岡の一文を見た同誌編集長の依頼によるものである。
4歳時からピアノを習っていたこともあって、音楽への傾倒も強く、音楽大学への進学を志した時期もあったという<ref name="manga"/>。早稲田大学では、音楽サークル「ハーモニカ・ソサエティ」に参加した。デビュー後もハードロック系バンド「パンドラ」でキーボードを担当していた。作曲を始めたのは「パンドラ」時代であり、その後開始したミュージカル創作活動では、数多くの劇中曲の作曲を手掛けることとなった。バンド活動は晩年まで続けていたが、その方向性は次第にジャズへと移行した。
1979年9月から1986年6月まで(1982年11月 - 1983年9月は産休のため一時降板)、テレビのクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』([[テレビ朝日]])に女性軍キャプテンとしてレギュラー出演した。同番組のメインである「16分割クイズ」においては、わずか2〜3枚開いただけで正解に導くことも多々あり、司会の[[土居まさる]]からは「16分割の姫」と番組内で言われた。
[[長唄]]、[[小唄]]、[[清元]]、[[津軽三味線]]の[[名取]]でもある<ref>堀江あき子編『栗本薫・中島梓 JUNEからグイン・サーガまで』(河出書房新社)</ref>。また、[[短歌]]集『花陽炎春之巻』を自費出版し、2本の[[歌舞伎]]脚本も手掛けている。日常的に着物を着用する着物愛好家としても知られており、着物に対する愛着を綴ったエッセイ『着物中毒』を著している。
作品の多くに「あとがき」を付し、デビューからまもない一時期は、「あとがき作家」などとも名乗っていた。『グイン・サーガ』正伝の各巻にも必ずあとがきが付されており、シリーズの初期にはキャラクター人気投票やファンレター紹介などが行われていたが、次第に作者の近況報告が中心となっていった。
執筆時には[[IBM]]の[[ThinkPad]]を使っていた<ref name="HB3">『グイン・サーガハンドブック3』(ハヤカワ文庫)</ref>。
[[今日泊亜蘭]]の最後のSF長編『我が月は緑』(『光の塔』の30年後を描いた作品)に「白百合楽劇団」を主宰する“栗名梓”として登場する<ref>今日泊『我が月は緑』上巻pp412、第2章「辛酸行」第4節「仇討三重奏」</ref>。
近年、栗本薫がBL執筆に向かったのは早大在学中に遭遇した[[川口大三郎事件]]で虐殺糾弾運動に参加できなかった屈折を執筆で解決しようとしたため、という説が照山もみじによって提起されている<ref>照山もみじ「疎外者(アウトサイダー)の自己幻想-中島梓の『少年』」(『G-W-G』5号2021年5月掲載)、[[瀬戸宏]][http://www.asahi-net.or.jp/~ir8h-st/kawaguchi_020.htm 「川口君事件の記憶(4)-照山もみじ「疎外者(アウトサイダー)の自己幻想-中島梓の『少年』」を読む」]</ref>。
==経歴==
*1953年2月13日 - [[東京都]][[葛飾区]]生まれ。父は[[愛知県]][[名古屋市]]、母は[[東京都]][[谷中 (台東区)|谷中]]の出身<ref>『私の父、私の母』[[中央公論社]]、1994年、144-148頁</ref>。裕福な家庭であった。
*1971年3月 - [[跡見学園高等学校]]卒業。
*1971年4月 - [[早稲田大学第一文学部]]入学。
*1975年3月 - 早稲田大学第一文学部[[文芸科]]卒業。
*1976年7月 - 評論『パロディの起源と進化』([[別冊新評]]『[[筒井康隆]]の世界』掲載)で商業誌デビュー。
*1976年12月 - 『[[都筑道夫]]の生活と推理』で第2回[[幻影城新人賞]]評論部門佳作を受賞。
*1977年5月 - 『文学の輪郭』(中島梓名義)で第20回[[群像新人文学賞]]評論部門を受賞。
*1978年4月 - 『[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]』誌にて『[[日本SF作家ノート]]』(中島梓名義)連載開始( - 1979年6月)。
*1978年 - 『ぼくらの時代』で第24回[[江戸川乱歩賞]]を受賞。『[[幻影城 (雑誌)|幻影城]]』6・7月合併号に京堂司名義で新人として連作ショートショートを4篇掲載。
*1978年9月 - 『ぼくら』シリーズ第1巻『ぼくらの時代』刊行。
*1978年9月 - 評論集『文学の輪郭』(中島梓名義)刊行。
*1978年10月 - 『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』創刊号に作品を発表(ジュスティーヌ・セリエ名義)<ref name="石田"/>。
*1979年4月 - ラジオ番組『ハヤカワSFバラエティ』[[ディスクジョッキー|DJ]](中島梓名義)。
*1979年9月 - 『[[グイン・サーガ]]』シリーズ第1巻『[[豹頭の仮面]]』刊行。
*1979年9月 - テレビ朝日系のクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』に女性3枠レギュラー解答者として出演(中島梓名義)。
*1980年 - 『羽根の折れた天使』が第33回[[日本推理作家協会賞]](短編部門)候補作品となる。
*1980年10月 - テレビ朝日系のクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』で女性軍の4代目キャプテンに昇格。
*1980年8月 - 『[[伊集院大介]]』シリーズ第1巻『[[絃の聖域]]』刊行。
*1981年 - 『絃の聖域』が第34回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)候補作品となる。
*1981年 - 『絃の聖域』で第2回[[吉川英治文学新人賞]]を受賞。
*1981年11月 - 『[[魔界水滸伝]]』シリーズ第1巻刊行。
*1981年 - 12月、今岡清と結婚。
*1982年10月 - テレビ朝日系のクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』を[[産前産後休業|産休]]のため一時降板<ref group="注釈">[[楠田枝里子]]が臨時代理で5代目女性軍キャプテンを務めた。</ref>
*1983年8月 - 『トワイライト・サーガ』シリーズ第1巻『カローンの蜘蛛』刊行。
*1983年9月 - テレビ朝日系のクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』のレギュラー解答者(4代目女性軍キャプテン)に復帰。
*1984年9月 - 『お役者捕物帖』シリーズ第1巻『吸血鬼』刊行。
*1984年9 - 10月 - 「日中文化交流協会青年代表団」<ref group="注釈">主なメンバーは栗本の他、[[尾崎秀樹]](団長)、[[立松和平]](副団長)、[[貴ノ花利彰|藤島親方]](当時)、[[三重ノ海剛司|武蔵川親方]](当時)、[[井沢元彦]]、[[高橋克彦]]、[[杉浦日向子]]。</ref>の一員として、「三千人青年訪中」イベントに参加。翌年、同イベントの体験をまとめた『昭和遣唐使3000人の旅』刊行。
*1986年6月 - 初めての[[歌舞伎]]作品『変化[[道成寺]]』上演。
*1986年(昭和61年6月) - 執筆業専念を理由に、テレビ朝日系のクイズ番組『[[象印クイズ ヒントでピント]]』レギュラー解答者を完全降板<ref group="注釈">その後、[[山内美郷]]が同番組最終回まで約8年間、5代目女性軍キャプテンを務めた。</ref>。
*1987年12月 - 初めて演出を手がけた[[ミュージカル]]『ミスター!ミスター!!』(中島梓名義)上演。
*1988年11月 - 『[[朝日のあたる家 (栗本薫)|朝日のあたる家]]』シリーズ第1巻刊行。
*1990年12月 - [[乳癌]]のため入院・手術。翌々年、闘病記『アマゾネスのように』(中島梓名義)刊行。
*1991年7月 - 『[[終わりのないラブソング]]』シリーズ第1巻刊行。
*1993年9月 - 『[[バサラ (栗本薫)|バサラ]]』シリーズ第1巻刊行。
*1995年10月 - 『[[六道ヶ辻 (栗本薫)|六道ヶ辻]]』シリーズ第1巻『大導寺一族の滅亡』刊行。
*1995年11月 - 『[[グイン・サーガ]]』シリーズ第50巻『闇の微笑』刊行。記念したミュージカル『炎の群像』公演<ref>今岡清『世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女』(早川書房)P.126</ref>。
*1997年7月 - 『[[レクイエム・イン・ブルー]]』シリーズ第1巻『蒼の断章』刊行。
*1997年12月 - 『[[夢幻戦記]]』シリーズ第1巻『総司地獄変 上』刊行。
*1999年12月 - 個人誌『天狼叢書』創刊。
*2000年9月 - 公式サイト『神楽坂倶楽部』開設。
*2005年4月 - 『[[グイン・サーガ]]』シリーズ第100巻『[[豹頭王の試練]]』刊行。記念イベント『[[グイン・サーガ#百の大典|百の大典]]』開催。
*2007年12月 - [[膵臓癌]]で2度目の癌手術。翌年に闘病記『ガン病棟のピーターラビット』(中島梓名義)刊行。
*2009年5月26日19時18分 - [[膵癌|膵臓癌]]のため死去<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090527/bks0905271113000-n1.htm|accessdate=2009-05-27 |title=作家、栗本薫さんが死去 |date=2009-05-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090528204221/http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090527/bks0905271113000-n1.htm|archivedate=2009-05-28|deadlinkdate=2014-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20090527k0000e040048000c.html |accessdate=2009-05-27 |title=訃報:江戸川乱歩賞の作家、栗本薫さん 56歳 |date=2009-05-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090528080806/http://mainichi.jp/select/today/news/20090527k0000e040048000c.html|archivedate=2009-05-28|deadlinkdate=2014-07-25}}</ref>。享年56。
*2009年7月 - [[センス・オブ・ジェンダー賞]]特別賞(功労賞)受賞。
*2009年7月20日 - [[九段会館]]にて『お別れの会』開催。
*2009年11月 - 絶筆となった闘病記『転移』(中島梓名義)刊行。
*2009年12月 - 『グイン・サーガ』が[[日本SF大賞]]特別賞を受賞。
*2010年7 - 9月 - [[弥生美術館]]にて『栗本薫/中島梓展 〜書くことは生きること〜』開催。
*2010年8月 - 『グイン・サーガ』が第41回[[星雲賞]]日本長編部門を受賞。
*2017年12月 - 小学館から『栗本薫・中島梓傑作電子全集』が刊行開始される。
==主要作品==
===小説(シリーズ作品)===
<!--刊行情報の時点を示す場合は固定数字を使用してください-->
;グイン・サーガ<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/100547/|title=グイン・サーガ:作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-09-15}}</ref>
:豹頭の超戦士グインを主人公とした[[ヒロイック・ファンタジー]]。<!--要出典:[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]では未認定だが、個人の書いた小説としては世界最長のものであると思われる。-->[[ハヤカワ文庫]]より刊行(1979年 - )。当初は100巻での完結が予定されていた。これを越え、正伝130巻・外伝21巻が刊行されたが、著者が死去したため未完となった。{{main|グイン・サーガ}}
;魔界水滸伝
:[[クトゥルフ神話|クトゥルー神話]]を題材として、地球を侵略せんとするクトゥルーの神々と、それを迎え撃つ日本を中心とした地球古来の神々、そして人類との三つ巴の戦いを描いた伝奇SF。[[カドカワノベルズ]]より刊行。のちに[[角川文庫]]。さらにのちに[[ハルキ文庫]](正伝のみ)。正伝全20巻(1981年 - 1991年)、外伝『白銀の神話』全4巻(1991年 - 1993年)。{{main|魔界水滸伝}}
;新・魔界水滸伝
:『魔界水滸伝』から5000年後の銀河を舞台とした続編。機械文明の第一銀河帝国と、精神文明の第二銀河帝国との戦いを描く。角川文庫より刊行(1995年 - )。4巻まで刊行されたが、未完成作品となる。{{main|新・魔界水滸伝}}
;伊集院大介シリーズ
:ひょろりとした長身、銀縁眼鏡の名探偵・伊集院大介を主人公としたミステリ長編24作、短編集4冊が刊行されている。他、それらに未収録の短編がいくつか存在する。[[講談社]]よりハードカバー、もしくはソフトカバーにて刊行。のちに[[講談社文庫]]。一部は[[講談社ノベルス]]や角川文庫でも刊行されている。
:また、シリーズ内シリーズとして、伊集院大介の宿敵シリウスとの闘いを描いた『天狼星』シリーズ5作品がある。{{main|伊集院大介}}
;ぼくらシリーズ
:作者と同名の青年の栗本薫を主人公とした青春ミステリ。長編3作が刊行されている。ほか、[[スピンオフ]]作品として、長編2作といくつかの短編がある。また、伊集院大介シリーズと舞台を同じくしているため、いくつかの作品で、栗本薫と伊集院大介との共演が果たされている。[[講談社]]よりハードカバーにて刊行。のちに[[講談社文庫]]。一部は[[新風舎文庫]]からも刊行されている。{{main|栗本薫 (探偵)}}
;夢幻戦記
:[[新選組]]の[[沖田総司]]を主人公とした伝奇SF。沖田総司は全宇宙の運命を握る夢幻公子の転生した姿であった、という設定で描かれる。[[ハルキ・ノベルス]]より刊行。15巻まで刊行されている。{{main|夢幻戦記}}
;六道ヶ辻
:平安時代から続く名家・大導寺家の人々の、大正から昭和初期にかけての姿を描いたミステリ。
*『大導寺一族の滅亡』
*『ウンター・デン・リンデンの薔薇』
*『大導寺竜介の青春』
*『墨染の桜』
*『死者たちの謝肉祭』
*『たまゆらの鏡 大正ヴァンパイア伝説』
:[[角川書店]]よりハードカバーにて刊行。のちに角川文庫。『たまゆらの鏡』は角川文庫のみ。
;終わりのないラブソング
:村瀬二葉と三浦竜一、2人の青年の愛の軌跡を描く恋愛小説。[[角川ルビー文庫]]より刊行。1 - 3巻は[[角川スニーカー文庫]]より刊行ののち、角川ルビー文庫。全8巻。番外編に『TOMORROW』。
;レクイエム・イン・ブルー
:劇団の座長・朝倉勇貴と、座付作者・飯島蓮との愛憎劇を描いた恋愛小説。[[角川ルビー文庫]]より刊行。
*『蒼の断章』
*『銀の序章』
*『黒の間奏』
*『紅の終章』
;バサラ
:[[出雲阿国]]と、謎の男の弥勒丸を主人公とした時代小説。3巻まで刊行されている。[[カドカワノベルズ]]より刊行(1993年 - )。{{main|バサラ (栗本薫)}}
;緑の戦士
:植物が支配する異世界を舞台とした、植物を愛する少女・水村るかの冒険を描くファンタジー。[[角川書店]]より、新書判ハードカバーで刊行(1995年 - 1997年)。
*『緑の戦士』
*『緑の戦士 花の騎士るか』
*『緑の戦士 緑の星へ!』
;お役者捕物帖
:江戸で人気絶頂の[[女形]]の嵐夢之丞を主人公とする時代小説。[[新潮社]]より、ハードカバーもしくはソフトカバーで刊行。のちに[[新潮文庫]]。『吸血鬼』は[[朝日文庫]]でも刊行。
*『吸血鬼』 - 夢之丞が活躍するミステリ仕立ての短編集。
*「離魂病の女」 - 夢之丞シリーズの短編。オムニバス集『十二ヶ月』に収録されている。
*『地獄島』 - 夢之丞をめぐる人間模様を描いた[[長編]]。
;トワイライト・サーガ
:『グイン・サーガ』の未来の世界を舞台としたヒロイック・ファンタジー。闇王国パロスの美貌の王子ゼフィールと、それに従うトルース出身の戦士ヴァン・カルスとの放浪譚。[[光風社出版]]より、ハードカバーで刊行。のちに角川文庫。{{main|トワイライト・サーガ}}
;東京サーガ(今西良・森田透ブランチ)
:現代の東京を舞台とした一連の作品群「東京サーガ」のうち、かつて同じバンドのアイドルとして人気を二分した今西良と森田透を中心とする人々の愛憎劇を描いた物語。ただし『真夜中の天使』は、『翼あるもの』以降の作品とはかなり設定が異なっており、いわばパラレル・ワールドのような物語となっている。
*『[[真夜中の天使]]』
*『翼あるもの』 - 全2巻の構成だが、それぞれが独立した物語になっている。
**「生きながらブルースに葬られ」
**「殺意」
*『朝日のあたる家』(全5巻)
*『嘘は罪』
*『ムーン・リヴァー』
:『真夜中の天使』『翼あるもの』は[[文藝春秋]]よりハードカバーで刊行。のちに[[文春文庫]]。『朝日のあたる家』は[[光風社出版]]よりハードカバーで刊行。のちに[[角川ルビー文庫]]。『嘘は罪』は[[角川書店]]よりハードカバーで刊行、のちに[[角川文庫]]。『ムーン・リヴァー』は[[角川書店]]よりハードカバーで刊行。
;東京サーガ(矢代俊一シリーズ)
:『東京サーガ』のうち、天才サックス奏者の[[矢代俊一]]を主人公とした作品群。その第1作『[[キャバレー (小説)|キャバレー]]』は1986年に映画化された。
:長編3作が刊行されている。ほか、[[スピンオフ]]作品として、長編2作がある。また、伊集院大介シリーズと舞台を同じくしており、同シリーズの『身も心も』で、伊集院大介との共演が果たされている。角川書店、[[角川春樹事務所]]、[[光風社出版]]、[[天狼プロダクション]]から刊行されている。同じ『東京サーガ』に属する「今西良・森田透ブランチ」でもミュージシャンとして登場している。{{main|矢代俊一}}
===小説(その他)===
====SF====
;長編
*『[[エーリアン殺人事件]]』([[角川書店]]、[[角川春樹事務所]])
*『[[メディア9]]』([[徳間書店]]、角川書店、角川春樹事務所)
*『[[レダ (栗本薫)|レダ]]』([[早川書房]])
*『[[ゲルニカ1984年]]』(早川書房)
*『[[さらば銀河]]』(角川書店)
*『[[まぼろし新撰組]]』(角川書店)
;短編集
*『[[セイレーン (栗本薫)|セイレーン]]』(早川書房)
*『[[幽霊時代]]』([[講談社]])
*『[[時の石]]』(角川書店)
*『[[心中天浦島]]』(早川書房)
*『[[火星の大統領カーター]]』(早川書房)
*『[[滅びの風]]』(早川書房)
*『[[さらしなにっき]]』(早川書房)
====ファンタジー====
;長編
*『[[パロスの剣]]』(角川書店)
====ミステリ====
;長編
*『[[ネフェルティティの微笑]]』([[中央公論社]]、角川書店)
*『[[黒船屋の女]]』([[文藝春秋]])
*『[[双頭の蛇 (栗本薫)|双頭の蛇]]』(講談社)
*『[[グルメを料理する十の方法]]』([[光文社]])
*『[[魔都 恐怖仮面之巻]]』(講談社)
*『[[シンデレラ症候群 (栗本薫)|シンデレラ症候群]]』([[新潮社]])
*『[[野望の夏]]』(角川書店)
====ハードボイルド====
;長編
*『[[行き止まりの挽歌]]』(角川書店) - 1988年に映画化
*『[[真夜中の鎮魂歌]]』(角川書店) - 執筆時は「真夜中の天使」のタイトルであり、「旧・真夜中の天使」<ref>「栗本薫・中島梓 JUNEからグイン・サーガまで」堀江 あき子 (河出書房新社 2010年)</ref>と呼ばれる場合がある。
====青春・風俗小説====
;長編
*『[[いとしのリリー]]』(角川書店)
*『[[グランドクロス・ベイビー]]』(角川書店)
*『[[ハード・ラック・ウーマン]]』(講談社)
;短編集
*『[[天国への階段 (栗本薫)|天国への階段]]』(角川書店、角川春樹事務所)
*『[[ライク・ア・ローリングストーン (栗本薫)|ライク・ア・ローリングストーン]]』(文藝春秋)
*『[[アンティック・ドールは歌わない]]』(新潮社) - 日本生まれのダンサーで歌手のカルメンシータが、恋人のアンジェリータを追って日本へ戻り、出会った人々とのドラマを収めた連作短編集。副題「カルメン登場」。
====伝奇・時代小説====
;長編
*『[[魔剣 玄武ノ巻]]』([[CBSソニー出版]]、[[角川書店]]、[[徳間書店]])
*『[[魔剣 朱雀ノ巻]]』(CBSソニー出版、角川書店、徳間書店)
*『[[神変まだら蜘蛛]]』([[桃源社]]、[[光風社出版]]、角川書店) - [[男装]]の女賊・お波と[[女装]]の麗人・お葉(緒方)の運命の出会いを描く伝奇ロマン。
*『[[神州日月変]]』(講談社)
*『[[好色屋西鶴]]』([[実業之日本社]])
*『[[狂桜記 大正浪漫伝説]]』(角川書店)
*『[[天の陽炎 大正浪漫伝説]]』(角川書店)
;短編集
*『[[女狐 (栗本薫)|女狐]]』(講談社)
====ホラー====
;長編
*『[[あなたとワルツを踊りたい]]』(早川書房)2000 - 23歳の女性を執拗につけまわすストーカーの狂気を通して、日常と隣り合わせの恐怖を描いたサイコサスペンス。
;書き下ろし
*『[[家 (栗本薫)|家]]』(角川書店)1993 - 昼間の[[マイホーム]]を手に入れたな規子を襲う怪しい出来事。[[書き下ろし]]ホラー長編。
*『[[町 (栗本薫)|町]]』(角川書店)1997 - 変な町に迷い込んだ男の恐怖を描いた書き下ろしホラー長編の第2作。
*『[[顔 (栗本薫)|顔]]』([[角川春樹事務所]])2000 - ある日突然、相手の顔がないことに気づいた主人公の悪夢の日々を描く心理ホラー。
*『[[壁 (栗本薫)|壁]]』(角川春樹事務所)2002 - 引っ越した先のマンションがおかしい。因縁ありげな建物にまつわる恐怖という、かなり古典な恐怖小説。
*『[[指 (栗本薫)|指]]』(角川書店)2003 - 主人公視点で展開される小学校高学年の[[林間学校]]ホラー。真実は読者に考えさせる内容。
*『[[鬼 (栗本薫)|鬼]]』(角川春樹事務所)2004 - どんな家にも鬼がいると語った主人公の亡き祖母。その言葉に縛られる主人公の深い孤独。
*『[[闇 (栗本薫)|闇]]』(角川春樹事務所)2006 - ホラー長編シリーズ最終作。無言電話と脅迫の手紙の恐怖を描いた理ホラー小説
====耽美小説====
;長編
*『[[元禄無頼]]』(光風社出版、角川書店) - 元禄時代を舞台に、美少年を愛する[[旗本]]の子息たちを描く。
*『[[紫音と綺羅]] 上』(光風社出版) 1978 - 栗本が1章を執筆したリレー長編。[[岸裕子]]の挿絵で「小説JUNE」に連載。
*『紫音と綺羅 下』(光風社出版) 1978 - 栗本が7~15章を執筆するとともに、各章の担当者が創造した「オリジナル・キャラクター」などへのコメントあり。
*『[[タトゥーあり]]』(光風社出版)
;短編集・短編
*『[[元禄心中記]]』(光風社出版)
*『[[蝦蟇/蜥蜴]]』(光風社出版)
*「セルロイド・ロマンス」
====オムニバス====
;短編集
*『[[十二ヶ月]]』(新潮社)
*『[[真夜中の切裂きジャック]]』([[出版芸術社]]、角川春樹事務所)
*『[[接吻 (栗本薫)|接吻]]』(角川書店)
*『[[黄昏の名探偵]]』(徳間書店)
====ジュスティーヌ・セリエ名義の作品====
*「薔薇十字館」 - 肖像画の依頼を受け薔薇十字館という貴族邸を訪れた画家が、天使か悪魔のように美しい[[双子]]に出会う物語。
*「DOMINIQUE」 - 子爵家の若い子息ラウールが、気まぐれで訪れた見世物小屋で見つけた少年ドミニクに恋をしてしまう。
*「聖三角形」 - 良家の子息であるモーリスとサン=ジャンが、ジプシーの血をひく少年ポールをめぐって争う[[三角関係]]。
*「獣人」 - 近所の店によく来る少年ジュリアンに恋してしまった主人公。
====アラン・ラクトリフ名義の作品====
*「鍵のかかる部屋」 - 旅の美青年を閉じこめて[[調教]]する変態性犯罪者の老人の物話。
===評論・エッセイ(中島梓名義)===
====評論====
*『[[文学の輪郭]]』(講談社、[[筑摩書房]])
*『[[道化師と神]] SF論序説』(早川書房)
*『[[ベストセラーの構造]]』(講談社、筑摩書房)
*『[[作家の肖像]]』(講談社) - 中島梓、栗本薫両名義
*『[[小説道場|小説道場Ⅰ]]』 1986(新書館、光風社出版、マガジン・マガジン) - 美少年の登場する小説を読者から募り、中島(栗本)が寸評や添削を行なう趣向。
*『小説道場Ⅱ』 1986([[新書館]])
*『小説道場Ⅲ 実技篇』 1989(新書館)
**現在は、デジタル版『新版・小説道場』として全4巻が発表されている。4巻の巻末に「新・やおいゲリラ宣言」と題したエッセイもあり。
*『わが心の[[超新星フラッシュマン|フラッシュマン]]』(筑摩書房)
*『魔都ノート 異形の演劇論』(講談社)
*『[[コミュニケーション不全症候群]]』(筑摩書房)
*『[[夢見る頃を過ぎても (中島梓)|夢見る頃を過ぎても]] 中島梓の文芸時評』([[ベネッセ]]、筑摩書房)
*『タナトスの子供たち 過剰適応の生態学』(筑摩書房)
*『[[狼の肖像]] 平井和正論2016』(e-文庫)
====エッセイ====
*『[[あずさの男性構造学]]』(徳間書店)
*『[[あずさのアドベンチャー'80]]』([[文藝春秋]])
*『[[にんげん動物園]]』(角川書店)
*『[[赤い飛行船]]』(講談社)
*『[[美少年学入門]]』(新書館、[[集英社]]、筑摩書房) - [[横溝正史]]・[[森茉莉]]らの命名を論じた「姓名篇」<ref group="注釈">横溝作品の「真珠郎」や「薔薇王」など。</ref>。フリルのブラウス、赤[[ビニール]]のジャンパーや[[ロングブーツ]]など「美少年ファッション」を語る「ファッション篇」<ref group="注釈">『真夜中の天使』や『紫音と綺羅』等でも、美少年に[[光沢]]のあるビニールの服や婦人用ロングブーツ(赤や白の女性用のピカピカの[[長靴]]も)への嗜好を語らせる描写がある。</ref>。中島(栗本)の「美少年論」について、多方面から述べたエッセイ・評論集。
*『息子に夢中』(角川書店)
*『[[マンガ青春記]]』(集英社)
*『くたばれグルメ』(集英社)
*『アマゾネスのように』(集英社、[[ポプラ社]])
*『[[あずさの元禄繁昌記]]』([[読売新聞社]]、[[中央公論社]])
*『とんでもぐるめ あずさ流極楽クッキング』(角川春樹事務所)
*『着物中毒』([[ソフトバンククリエイティブ]])
*『ガン病棟のピーターラビット』(ポプラ社)
*『転移』([[朝日新聞出版]])
===歌集(栗本薫名義)===
*『花陽炎 春之巻』1984(綺譚社) - デジタル版はボイジャー・プレス
===共著===
;栗本薫名義
*『[[シルクロードのシ]]』([[白泉社]]、集英社) - [[木原敏江]]との共著
*『[[ピラミッド・ミステリーを語る ハイテクで知るピラミッド5000年の謎]]』([[朝日出版社]]) - [[吉村作治]]との共著
*『[[ローラカイザー#魔獣の来る夜|魔獣の来る夜]]』([[あんず堂]]) - [[高河ゆん]]との共著
;中島梓名義
*『昭和遣唐使3000人の旅』(中島梓編の共著、講談社)
*『[[名探偵は精神分析がお好き]]』(早川書房) - [[木田恵子]]との共著
*『[[今岡家の場合は 私たちの結婚]]』([[学研ホールディングス|学習研究社]]) - 今岡清との共著
===アンソロジー(編者担当)===
;栗本薫名義
*『[[いま、危険な愛に目覚めて]]』(集英社)
;中島梓名義
*『[[ベストオブ光瀬龍]]』(太陽企画出版)
===舞台===
====演出(中島梓名義)====
*『ミスター!ミスター!!』(1987年) - [[日比野桃子]]との共同演出
*『[[魔都 恐怖仮面之巻#ミュージカル|魔都 恐怖仮面之巻]]』(1989年)
*『[[マグノリアの海賊#ミュージカル|マグノリアの海賊]]』(1991年)
*『SAVE THE WORLD 地球の魂』(1991年) - [[後藤宏行 (俳優)|後藤宏行]]との共同演出
*『[[まぼろし新撰組#ミュージカル|まぼろし新撰組]]』(1992年)
*『ガスライト』(1992年)
*『いとしのリリー』(1993年)
*『いとしのリリー 浅草編』(1993年)
*『プリンスアイスワールド 伊藤みどり・フライングエンジェル!』(1993年)
*『いとしのリリー 浅草編 '94』(1994年)
*『いずみ!!』(1994年)
*『サンタのクリスマス』(1994年)
*『ペンギン!』(1995年)
*『[[グイン・サーガの関連作品#グイン・サーガ炎の群像|グイン・サーガ 炎の群像]]』(1995年)
*『サンタのクリスマス '96』(1996年)
*『ヴァンパイア・シャッフル』(1996年)
*『[[伊集院大介#ミュージカル『天狼星』|天狼星]]』(1997年)
*『鬼火ヶ淵』(1998年)
*『バックシート』(1998年)
*『ギムレットの伝説』(1998年)
*『[[さらしなにっき#ミュージカル『隣の宇宙人』|隣の宇宙人]]』(1999年)
*『KILALA -ロミジュリ仁義-』(1999年)
*『[[火星の大統領カーター#ミュージカル『ナマコの方程式』|ナマコの方程式]]』(2000年)
*『[[キャバレー (小説)#ミュージカル|キャバレー]]』(2000年)
*『新撰組大変記 -夢幻伝説-』(2001年)
*『ロマンクエスト』(2002年)
*『タンゴ・ロマンティック』(2003年、2004年)
====脚本のみ====
;中島梓名義
*『ロック・ミュージカル ハムレット』(1979年)
*『[[まぼろし新撰組#ミュージカル|まぼろし新撰組]]』(1994年・1996年)
*『陰陽師 真・晴明伝説』(2003年)
;栗本薫名義
*『歌舞伎 変化道成寺』(1986年)
*『みゆうじかる西鶴』(1992年・1994年。1995年と1998年は中島梓名義)
*『歌舞伎 江戸浮世話 彦三太鼓』(1986年) - 原作は[[杉浦日向子]]『ヤ・ク・ソ・ク』。
*『南総里見八犬伝』(1994年)
;あかぎはるな名義
*『[[まぼろし新撰組#ミュージカル|新撰組 '90]]』(1990年)
*『[[まぼろし新撰組#ミュージカル|まぼろし新撰組 新撰組 '91]]』(1991年)
===テレビドラマ脚本===
*『[[七人の刑事]](1978年版) 28話・悲しきチェイサー』(1978年、TBS)
==出演==
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
;テレビ番組
*[[象印クイズ ヒントでピント]](中島梓名義、1979年9月16日 - 1982年11月21日、1983年9月18日 - 1986年6月29日)<ref group="注釈">レギュラー降板後は1987年11月29日(第418回)、1992年3月15日(第607回)放送分にゲスト出演。</ref><ref group="注釈">1989年の「500回記念大会」には[[宮尾すすむ]]とペアで出演した。</ref><ref group="注釈">1994年の「700回記念大会」にはOBチームメンバーとして[[山藤章二]]とペアで出演した。</ref>
**3枠 : 1979年9月16日(第25回) - 1980年3月30日(第53回)
**2枠 : 1980年4月6日(第54回) - 1980年9月28日(第78回)<ref>[https://www.pinterest.jp/pin/813181276452807934/ 「クイズヒントでピント」おしゃれまとめの人気アイデア|Pinterest|馿 䏿 | クイズ]</ref>
**1枠キャプテン : 1980年10月5日(第79回) - 1982年11月21日(第182回)、1983年9月18日(第220回) - 1986年6月29日(第348回)
;ラジオ番組
*[[ハヤカワSFバラエティ]](中島梓名義)
**1979年4月 - 1982年3月。[[文化放送]]。毎土曜22時50分 - 23時。
==主な楽曲==
*[[熊谷美由紀]](現・松田美由紀)「だけど I LOVE YOU」(中島梓名義、作詞)
==参考文献==
*里中高志『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』([[早川書房]]、2019年)
*[[今岡清]]『世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女』([[早川書房]]、2019年)
*[[中島梓]]、今岡清『今岡家の場合は 私たちの結婚』([[学習研究社]]、1994年)
*堀江あき子編『栗本薫・中島梓 JUNEからグリン・サーガまで』(河出書房新社、2010年7月)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==関連項目==
*[[影の会]] - 雑誌『[[幻影城 (雑誌)|幻影城]]』出身の作家たちで作っていた会。
*[[高信太郎]]、[[木原敏江]]、[[竹宮惠子]]、[[杉浦日向子]]、[[中田雅喜]] - 交友があった漫画家。
*[[秋山協一郎]] - 編集者。ワセダミステリクラブの先輩。秋山が編集していた雑誌『[[バラエティ (日本の雑誌)|バラエティ]]』の仕事の依頼で交流が始まり、彼が作った出版社&編集プロダクション「[[綺譚社]]」に「中島梓事務所」が間借りしていたことがあった。そのため、綺譚社の電話番をしていた[[高野文子]]は、中島梓事務所の電話番も兼ねていた。また、秋山は『魔界水滸伝』の登場人物、加賀四郎のモデルにもなっている。
*[[三浦建太郎]] - 漫画家。三浦によれば漫画『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』は大河小説『[[グイン・サーガ]]』に大きな影響を受けたという。
==外部リンク==
*{{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/kaguraclub/index.html |title=神楽坂倶楽部|date=20130104032856}} - 公式サイト
*[https://www.facebook.com/knmuseum/ 栗本薫/中島梓記念館] - 事務所公式サイト
*[https://www.facebook.com/note.php?note_id=258196084245429 栗本薫・中島梓 全仕事リスト]
{{江戸川乱歩賞|第24回}}
{{吉川英治文学新人賞|第2回}}
{{星雲賞日本長編部門|第41回}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くりもと かおる}}
[[Category:栗本薫|*]]
[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
[[Category:21世紀日本の女性著作家]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の女性小説家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:日本の女性推理作家]]
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[[Category:SFとファンタジーの女性著作家]]
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[[Category:東京都区部出身の人物]]
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[[Category:1953年生]]
[[Category:2009年没]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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ウィーン金貨
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ウィーン金貨 (Wiener Philharmoniker)は、オーストリア造幣局発行の地金型金貨。1989年より毎年発行されている。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をモチーフにしたデザインで、表面にはパイプオルガン、裏面にはビオラなどの管弦楽器が浮き彫りにされている。
純度99.99パーセント以上の純金製。 1トロイオンス、1/2トロイオンス、1/4トロイオンス、1/10トロイオンス、1/25トロイオンスの5種がある。
また、2004年10月7日には、15枚の限定品として、1000トロイオンスの物が発売された。 これは直径37cm、厚さ2cm、重さ31.103kg、額面10万ユーロ、販売価格約6千万円(発売当時の為替レート・金価格にて算出の時価)で、その時点で世界最大の金貨である。 日本国内では、田中貴金属が販売を行っている。
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ウィーン金貨は、オーストリア造幣局発行の地金型金貨。1989年より毎年発行されている。 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をモチーフにしたデザインで、表面にはパイプオルガン、裏面にはビオラなどの管弦楽器が浮き彫りにされている。 純度99.99パーセント以上の純金製。
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[[File:Philharmoniker 00 back.jpg|thumb|170px|1トロイオンス裏]]
'''ウィーン金貨''' ('''Wiener Philharmoniker''')は、[[オーストリア]]造幣局発行の[[地金型金貨]]。[[1989年]]より毎年発行されている。
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また、[[2004年]][[10月7日]]には、15枚の限定品として、1000[[トロイオンス]]の物が発売された。
これは直径37cm、厚さ2cm、重さ31.103kg、額面10万[[ユーロ]]、販売価格約6千万[[円 (通貨)|円]](発売当時の為替レート・金価格にて算出の時価)で、その時点で世界最大の金貨である。
日本国内では、[[田中貴金属工業|田中貴金属]]が販売を行っている。
==関連項目==
*[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]
*[[地金型金貨]]
==外部リンク==
*[http://www.austrian-mint.at/ オーストリア造幣局]
*[https://gold.tanaka.co.jp/commodity/shohin/wien.html 田中貴金属工業株式会社]
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[[Category:金貨]]
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田中哲弥
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田中 哲弥 (たなか てつや、1963年1月27日 -)は、日本の作家。兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立明石南高等学校、関西学院大学文学部卒業。血液型はA型。
1984年に『朝ごはんが食べたい』で星新一ショートショート・コンテスト優秀賞受賞。その後、吉本興業の台本作家を経て、1993年に『大久保町の決闘』でデビュー。ギャグセンスの秀逸さと意識の流れを生かした文体によって、一部で人気を誇る。2022年に『オイモはときどきいなくなる』で第62回日本児童文学者協会賞受賞。
同じく作家の小林泰三、田中啓文、牧野修と合わせて「まんがカルテット」と呼ばれる。ミステリー作家の我孫子武丸を加え、「まんがクインテット」と呼ばれることもある。
宇宙作家クラブ会員、日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員だったが、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。
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田中 哲弥 は、日本の作家。兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立明石南高等学校、関西学院大学文学部卒業。血液型はA型。 1984年に『朝ごはんが食べたい』で星新一ショートショート・コンテスト優秀賞受賞。その後、吉本興業の台本作家を経て、1993年に『大久保町の決闘』でデビュー。ギャグセンスの秀逸さと意識の流れを生かした文体によって、一部で人気を誇る。2022年に『オイモはときどきいなくなる』で第62回日本児童文学者協会賞受賞。 同じく作家の小林泰三、田中啓文、牧野修と合わせて「まんがカルテット」と呼ばれる。ミステリー作家の我孫子武丸を加え、「まんがクインテット」と呼ばれることもある。 宇宙作家クラブ会員、日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員だったが、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。
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{{存命人物の出典明記|date=2016-01-08}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''田中 哲弥 '''|たなか てつや|1963年1月27日 - }}は、[[日本]]の[[作家]]。[[兵庫県]][[神戸市]]生まれ。[[兵庫県立明石南高等学校]]、[[関西学院大学]]文学部卒業<ref>{{Cite web|和書|title=田中 哲弥 |url=https://www.facebook.com/tezya.tanaka |website=www.facebook.com |accessdate=2022-01-27 |language=ja}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。
[[1984年]]に『朝ごはんが食べたい』で[[星新一#星新一ショートショート・コンテスト|星新一ショートショート・コンテスト]]優秀賞受賞。その後、[[吉本興業]]の台本作家を経て、[[1993年]]に『大久保町の決闘』でデビュー。ギャグセンスの秀逸さと[[意識の流れ]]を生かした文体によって、一部で人気を誇る。[[2022年]]に『オイモはときどきいなくなる』で第62回[[日本児童文学者協会賞]]受賞。
同じく作家の[[小林泰三]]、[[田中啓文]]、[[牧野修]]と合わせて「まんがカルテット」と呼ばれる。ミステリー作家の[[我孫子武丸]]を加え、「まんがクインテット」と呼ばれることもある。
[[宇宙作家クラブ]]会員、[[日本推理作家協会]]会員。[[日本SF作家クラブ]]会員だったが<REF>日本SF作家クラブ編『SF入門』(早川書房、2001年)巻末名簿</REF>、2023年4月現在は、会員名簿に名前がない。
== 作品リスト ==
=== 長編 ===
* [[大久保町三部作]]
** 『大久保町の決闘』『大久保町は燃えているか』『さらば愛しき大久保町』の三作からなる。詳細はリンク先参照。
* 鈴狐騒動変化城([[福音館書店]] 2014年10月)
* オイモはときどきいなくなる(福音館書店 2021年7月)
=== 短編集 ===
* やみなべの陰謀(電撃文庫 [[1999年]][[1月25日]] ISBN 978-4073107811)
** のちにハヤカワ文庫から再刊。[[2006年]]4月 ISBN 978-4150308452
** 「千両箱とアロハシャツ」「ラプソディー・イン・ブルー」「秘剣神隠し」「マイ・ブルー・ヘヴン」「千両は続くよどこまでも」収録。
* ミッションスクール(ハヤカワ文庫 2006年5月 ISBN 978-4150308506)
** 表題作の他に「ポルターガイスト」<ref>初出は電撃hp Vol.13 2001年[[8月10日]] ISBN 978-4840219402</ref>「ステイショナリー・クエスト」<ref>初出は電撃hp Vol.30 2004年6月 ISBN 978-4840227506</ref>「フォクシーガール」<ref>初出はSFマガジン 2006年5月号</ref>「スクーリング・インフェルノ」収録。
* 猿駅/初恋(早川書房〈[[想像力の文学]]〉 2009年3月 ISBN 978-4152090133)
** 「猿駅」「初恋」「遠き鼻血の果て」「ユカ」「か」「雨」「ハイマール祭」「げろめさん」「羊山羊」「猿はあけぼの」収録。
* サゴケヒ族民謡の主題による変奏曲([[講談社BOX]] 2010年10月 ISBN 978-4062837569)
** 「サゴケヒ族民謡の主題による変奏曲」<ref>初出は[[パンドラ (文芸誌)|パンドラ]] Vol.3)</ref>「夜なのに」「夕暮れの音楽室」「坂の中の坂」「おさと」「はかない願い」「隣人」「従姉の森」
=== 短編 ===
* 朝ごはんが食べたい(ショートショートの広場2に収録。[[講談社文庫]] [[1989年]][[2月15日]] ISBN 978-4061843912)
* ユカ(ホシ計画に収録。[[廣済堂出版|廣済堂文庫]] 1998年12月 ISBN 978-4331607183)
* 大阪ヌル計画(ホシ計画に収録。)
** のちに日本SFの臨界点[怪奇篇] ちまみれ家族に収録。ハヤカワ文庫JA 2020年7月 ISBN 978-4150314415
* 猿駅(異形コレクション11に収録。廣済堂文庫 1999年6月 ISBN 978-4331607626)
* 初恋(異形コレクション12に収録。廣済堂文庫 1999年8月 ISBN 978-4331607756)
* はかない願い(憑き者に収録。[[アスペクト (企業)|アスペクト]] [[2000年]][[4月14日]] ISBN 978-4757207653)
* 遠き鼻血の果て(血の12幻想に収録。[[エニックス]] 2000年[[5月19日]] ISBN 978-4757502383)
** のちに講談社文庫 2002年4月 ISBN 978-4062734110
* げろめさん(夢魔に収録。[[光文社]] 2001年6月 ISBN 978-4334731700)
* か(蚊コレクションに収録。電撃文庫 2002年1月 ISBN 978-4840220637)
* 病の果て(ハナシをノベル!!に収録。[[講談社]] 2007年[[11月13日]] ISBN 978-4062143967)
* 夕暮れの音楽室(ひとにぎりの異形に収録。光文社 2007年[[12月6日]] ISBN 978-4334743550)
=== 書籍未収録の短編など ===
* 恩返し([[SFマガジン]] 2002年4月号)
* バッファローじいさん([[SF Japan]] Vol.05 [[徳間書店]] 2002年8月 ISBN 978-4197202140)
* タイヤキ(遊歩人 2003年10月号)
=== エッセイ ===
* 田中哲弥のうろたえない日々([[電撃hp]] Vol.2 [[アスキー・メディアワークス]] 1999年3月から連載)
* よくわからない叙情(SF Japan Millenium 01 徳間書店 2000年11月 ISBN 978-4197201310)
=== 翻訳 ===
* 悪魔の国からこっちに丁稚(上下巻。[[L・スプレイグ・ディ=キャンプ]]原作作品の[[超訳]]。電撃文庫 [[1997年]][[4月25日]])
** 上巻 ISBN 978-4073060642
** 下巻 ISBN 978-4073060703
== 外部リンク ==
*[http://www.kh.rim.or.jp/~tezya/Index.html 田中哲弥]
*{{twitter|tezyatanaka}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たなか てつや}}
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本のSF作家]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
[[Category:兵庫県立明石南高等学校出身の人物]]
[[Category:関西学院大学出身の人物]]
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森青花
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森 青花(もり せいか、女性、1958年 -)は日本の小説家(SF作家)。福岡県生まれ。
京都大学文学部独文科卒。1999年、第11回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞受賞作品、『BH85』でデビューした。
新聞記者の夫と二人暮らしであり、百貨店勤務を経て現在に至る。尊敬する作家としてアントニオ・タブッキを上げている。
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森 青花は日本の小説家(SF作家)。福岡県生まれ。
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{{読み仮名_ruby不使用|'''森 青花'''|もり せいか|女性、[[1958年]] - }}は日本の[[小説家]]([[SF作家]])。[[福岡県]]生まれ。
== 経歴・人物 ==
[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都大学文学部]][[ドイツ文学|独文科]]卒。1999年、第11回[[日本ファンタジーノベル大賞]]の優秀賞受賞作品、『[[BH85]]』でデビューした。
新聞記者の夫と二人暮らしであり、百貨店勤務を経て現在に至る<ref name="mori">[http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/000702.html 『BH85』著者インタビュー] 著者略歴より</ref>。尊敬する作家として[[アントニオ・タブッキ]]を上げている<ref name="mori" />。
== 書籍 ==
* [[BH85]](1999年12月、[[新潮社]])
* さよなら(2003年9月、[[角川書店]])
* BH85 ―青い惑星(ほし)、緑の生命(いのち)(2008年8月、[[徳間デュアル文庫]])
== 寄稿誌・アンソロジー収録作品 ==
* コラム招待席「ああ、恥ずかし」-『[[小説新潮]]』第54巻第2号(2000年2月)
* 「銀の横綱」-『[[S-Fマガジン]]』2001年2月号
* 「懐かしい町」-『[[波 (雑誌)|波]]』第34巻第6号(2000年6月、[[新潮社]])
* 「闇鍋」-『短篇ベストコレクション 現代の小説2002』(2002年5月、徳間文庫)
* 「砲丸のひと」-『紅と蒼の恐怖』(2002年8月、祥伝社[[ノン・ノベル]])
* 「ムラサキくん」-『紫迷宮』(2002年12月、祥伝社文庫)
* 「あおいちゃん」-『邪香草』(2003年4月、祥伝社文庫)
* 「ヴェンデッタ」-『[[異形コレクション]] 夏のグランドホテル』(2003年6月、[[光文社文庫]])
* 「Tableau vivant活人画」-『異形コレクション 教室』(2003年9月、光文社文庫)
* 「龍の壺」-『短篇ベストコレクション 現代の小説2006』(2006年6月、徳間文庫)
* 「うさぎがぴょん!」-『SF Japan 2007 spring』(2007年、[[徳間書店]])
* 「夢色いろ」-『万象』(2018年12月、惑星と口笛ブックス)
* 「八木沼さん・夏」 - 『万象ふたたび』(2021年2月、惑星と口笛ブックス)
== 外部リンク ==
* [http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/000702.html 『BH85』著者インタビュー]
* [http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/031202.shtml 『さよなら』著者インタビュー]
== 脚注 ==
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[[Category:日本の小説家]]
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[[Category:京都大学出身の人物]]
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赤川次郎
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赤川 次郎(あかがわ じろう、本名同じ、1948年2月29日 - )は、日本の小説家。福岡県福岡市博多区出身。血液型はA型。桐朋高等学校卒業。父は元満洲映画協会、東映プロデューサーの赤川孝一。
3歳の頃に手塚治虫の漫画に影響を受け、小学生の時には漫画を描き始めるも挫折。中学時代に『シャーロック・ホームズの冒険』に出会い、3年生の時に見よう見まねで小説を書き始める。当時よく読んでいたジャンルに影響され、中世ヨーロッパの騎士の物語などを書いていた。空想好きの少年であったようで、恋愛も自分が空想していたとおりであったとエッセイに書いている。
父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の私立桐朋学園を受験することになる。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意。卒業後18歳で日本機械学会事務局編修課に就職し、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる。そして天知茂主演のテレビ朝日系テレビドラマ『非情のライセンス』のシナリオ募集に初入選する。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった。1976年、28歳の時に「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、小説家デビュー。1978年には当時主に社会派ミステリーを発行していた光文社カッパ・ノベルスから出版された『三毛猫ホームズの推理』が異色作としてヒットし脚光を浴びる。これを契機に小説の依頼が増え、睡眠時間が取れないほど多忙になっただけでなく原稿料収入も給料の2倍程になったため、妻にも背中を押されて退社を決意。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる。その直後に『セーラー服と機関銃』を発表した。1980年、『上役のいない月曜日』が第83回直木賞候補となる。その後も「三姉妹探偵団」シリーズや「杉原爽香」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回吉川英治文学賞を受賞した。
難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ。
誕生日が2月29日であるために、1987年に刊行された『三毛猫ホームズの登山列車』(カッパ・ノベルズ)の著者近影では「たったの10回。ゆえに正確には10歳」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作、2019年末には660冊を突破した。著作の累計発行部数は2015年時点で3億3000万部を超えている。
オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。
漢字変換の際に文章を書くリズムが崩れるのが嫌なため、ワードプロセッサやパソコンは使わず、原稿用紙にサインペンを使って手書きで執筆する。
赤川は「個人になにかを強制する力」に対して強い反発を覚える。例として日の丸・君が代問題、会社における忘年会や慰安旅行、労働組合が主催する運動会への参加といったものへに反発がある。警察官を主人公とする作品が苦手なのも、どんなに魅力的な登場人物であっても警察官であるからには背後に「権力」が存在するため、なじめないからであると1981年執筆のエッセイ「シリーズ・キャラクターについて」で明かしている。
2012年に橋下徹が、観客動員数が少ないことを理由に文楽事業への補助を打ち切った際には『朝日新聞』への投書で批判した。2021年6月には東京2020オリンピックの開催強行を「経済は取り戻せても、人の命は取り戻せない。医療も報道も、それぞれ良識と良心をかけて、五輪開催に反対の声を上げるとき」と批判。朝日新聞で連載していた芸術評論コラム『三毛猫ホームズと芸術三昧!』は連載中に起きた東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を受け内容が時事評論に変貌した(書籍化された際には、『三毛猫ホームズのあの日まで・その日から ―日本が揺れた日―』とタイトルも改められた)。
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赤川 次郎は、日本の小説家。福岡県福岡市博多区出身。血液型はA型。桐朋高等学校卒業。父は元満洲映画協会、東映プロデューサーの赤川孝一。
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{{Infobox 作家
|name= 赤川 次郎 <br />(あかがわ じろう)
|birth_date={{生年月日と年齢|1948|2|29}}
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|debut_works=幽霊列車
}}
'''赤川 次郎'''(あかがわ じろう、本名同じ<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />、[[1948年]][[2月29日]]<ref name="sunday">{{Cite interview|和書|subject=赤川次郎|interviewer=松田秀彦|url=http://www.nikkansports.com/news/entert/entert-etc3/2000/sun000730.html|title=日曜日のヒーロー 第225回 赤川次郎さん 400冊突破 明るく楽しくミステリー|date=2000-07-30|work=[[日刊スポーツ]]|accessdate=2010-05-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011206142036/http://www.nikkansports.com/news/entert/entert-etc3/2000/sun000730.html|archivedate=2001年12月6日}}</ref> - )は、[[日本]]の[[小説家]]。[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=赤川次郎のプロフィール、出演情報、スケジュール|work=[[ザテレビジョン]]|publisher=[[KADOKAWA]]|url=https://talent.thetv.jp/person/0000004140/|accessdate=2017-09-19}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はA型<ref>[http://orangebunko.shueisha.co.jp/book/4086800233 天使と歌う吸血鬼 |集英社 オレンジ文庫]</ref>。[[桐朋中学校・高等学校|桐朋高等学校]]卒業<ref name="sunday" />。父は元[[満洲映画協会]]、[[東映]]プロデューサーの[[赤川孝一]]<ref name="hochi20150612">{{Cite interview|和書|subject=赤川次郎|interviewer=江畑康二郎|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20150612-OHT1T50069.html|title=【BOOKセレクト】赤川次郎著「幽霊審査員」|date=2015-06-12|work=[[スポーツ報知]]|accessdate=2017-09-19|archiveurl=https://archive.is/DLLx6|archivedate=2016年1月24日}}</ref>。
==来歴==
3歳の頃に[[手塚治虫]]の[[漫画]]に影響を受け、小学生の時には漫画を描き始めるも挫折<ref name="rakutenkobo">{{Cite interview|和書|subject=赤川次郎|url=http://kobo.rakuten.co.jp/interview/201402-akagawa/|title=気になるあの人の読書生活 第14回 赤川次郎さん|work=[[コボ|楽天kobo]]|accessdate=2015-03-05}}</ref>。中学時代に『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』に出会い、3年生の時に見よう見まねで[[小説]]を書き始める<ref name="rakutenkobo" />。当時よく読んでいたジャンルに影響され、中世ヨーロッパの騎士の物語などを書いていた<ref name="sunday" />。空想好きの少年であったようで、恋愛も自分が空想していたとおりであったとエッセイ<ref>{{Cite book|和書|title=三毛猫ホームズの青春ノート |page=36}}</ref>に書いている。
父・赤川孝一は他に家庭を持っていたので別居しており、幼少時もほとんど顔を合わせていなかったが、転勤によって東京に引っ越したため、赤川は小学校の担任の薦めにより中高一貫教育の[[桐朋中学校・高等学校|私立桐朋学園]]を受験することになる<ref name="sunday" />。無事に合格して進学したが、勉強も運動も苦手でなおかつ金銭的にも困窮していたため、楽しい学校生活ではなかった<ref name="sunday" />。高校2年生の時に孝一が退社してしまい収入源が完全に断たれたため、大学進学は諦め就職を決意<ref name="sunday" />。卒業後18歳で[[日本機械学会]]事務局編修課に就職し<ref name="hochi20150612" />、主に機械工学の雑誌に掲載する学術論文を校正する仕事に従事する<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。しかし休日には誰かに読ませるあてもないまま、自らのために小説を書き続けていた<ref name="sunday" />。25歳で結婚し、2年後に娘が産まれる<ref name="sunday" />。この頃プロを目指すことを決意し、サラリーマン生活を続けながらシナリオを投稿するようになる<ref name="sunday" /><ref name="hochi20150612" />。そして[[天知茂]]主演の[[テレビ朝日]]系テレビドラマ『[[非情のライセンス]]』のシナリオ募集に初入選する<ref name="sunday" />。ほとんど手直しされないまま放送され、初めて“脚本・赤川次郎”と名前が出て喜んだ反面、会社にはばれてしまった<ref name="hochi20150612" />。1976年、28歳の時に「幽霊列車」で[[オール讀物推理小説新人賞]]を受賞し、小説家デビュー<ref name="sunday" />。1978年には当時主に[[社会派推理小説|社会派ミステリー]]を発行していた[[光文社]][[カッパ・ノベルス]]から出版された『[[三毛猫ホームズの推理]]』が異色作としてヒットし脚光を浴びる<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri">{{Cite interview|和書|subject=赤川次郎|interviewer=川村律文|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html|title=赤川次郎「三毛猫ホームズ」…人の心を易しく軽妙に50作|work=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|accessdate=2016-01-24|archiveurl=https://archive.is/20150830150123/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150727-OYT8T50114.html |archivedate=2015年8月30日}}</ref>。これを契機に小説の依頼が増え、睡眠時間が取れないほど多忙になっただけでなく原稿料収入も給料の2倍程になったため、妻にも背中を押されて退社を決意<ref name="sunday" /><ref name="yomiuri" />。12年のサラリーマン生活を終え、30歳で専業作家となる<ref name="sunday" />。その直後に『[[セーラー服と機関銃]]』を発表した<ref name="sunday" />。1980年、『[[上役のいない月曜日]]』が第83回[[直木三十五賞|直木賞]]候補となる。その後も「[[三姉妹探偵団]]」シリーズや「[[杉原爽香]]」シリーズなど、さまざまな人気シリーズを生み出す<ref name="hochi20150612" />。2016年にはデビュー40年目にして『東京零年』で第50回[[吉川英治文学賞]]を受賞した。
難解な表現をあえて避けた優しい文章と軽妙な表現を得意とし、余人に真似ができないスタイルを構築しており、2015年現在でも年に10冊の執筆をするなど創作意欲は衰えない<ref name="yomiuri" />。推理小説(ユーモアミステリー)のほか、ホラーや青春ものなど作品のジャンルは多岐に及ぶ<ref name="sunday" />。
誕生日が2月29日であるために、1987年に刊行された『三毛猫ホームズの登山列車』(カッパ・ノベルズ)の著者近影では「たったの10回。ゆえに正確には10歳」と記載されている。多い時には年に20作以上執筆していたこともあり<ref name="hochi20150612" />、2006年8月に作家生活30年を迎え、執筆作品は480作に達した。その後も著作数は増え続け、2008年には500作<ref name="chiyuu">{{Cite interview|和書|subject=赤川次郎|interviewer=佐藤宏子|url=http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|title=知遊の人 赤川次郎(作家)|date=2008|work=知遊|accessdate=2017-09-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090330054706/http://www.chiyuu.com/chiyuu/vol_11.html|archivedate=2009年3月30日}}</ref>、2019年末には660冊を突破した<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/watch/00008/00066/ |title=累計発行部数は3億3000万部超え 赤川次郎の「アイデアの源」 |publisher=日経クロストレンド |date=2019年12月23日 |accessdate=2023-10-20}}</ref>。著作の累計発行部数は2015年時点で3億3000万部を超えている<ref name="hochi20150612" />。
オペラや演劇鑑賞を行い論評するなど、芸術評論も物し、評論集が出版されている。
==人物==
漢字変換の際に文章を書くリズムが崩れるのが嫌なため、[[ワードプロセッサ]]や[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]は使わず、[[原稿用紙]]にサインペンを使って手書きで執筆する<ref name="hochi20150612" /><ref name="chiyuu" />。
赤川は「個人になにかを強制する力」に対して強い反発を覚える。例として[[日本における国旗国歌問題|日の丸・君が代問題]]、会社における[[忘年会]]や慰安旅行、[[労働組合]]が主催する[[運動会]]への参加といったものへに反発がある。警察官を主人公とする作品が苦手なのも、どんなに魅力的な登場人物であっても警察官であるからには背後に「権力」が存在するため、なじめないからであると1981年執筆のエッセイ「シリーズ・キャラクターについて」で明かしている<ref>{{Cite book|chapter=赤川次郎 物語の中の少年|title=この人たちについての14万字ちょっと|author=重松清|authorlink=重松清|year=2014|publisher=[[扶桑社]]|isbn=978-4594071592}}</ref>。
2012年に[[橋下徹]]が、観客動員数が少ないことを理由に[[文楽]]事業への補助を打ち切った際には『[[朝日新聞]]』への投書で批判した<ref>「橋下氏、価値観押しつけるな」2012年4月12日付け『声』</ref><ref>{{Cite web|和書|title=橋下市長に「価値観押しつけるな」 赤川次郎氏が朝日「声」欄で批判|work=J-CASTニュース|publisher=[[ジェイ・キャスト]]|date=2012-04-12|url=https://www.j-cast.com/2012/04/12128771.html?p=all|accessdate=2016-01-24}}</ref>。2021年6月には[[東京2020オリンピック]]の開催強行を「経済は取り戻せても、人の命は取り戻せない。医療も報道も、それぞれ良識と良心をかけて、五輪開催に反対の声を上げるとき」と批判<ref>「五輪中止 それしか道はない」、2021年6月6日</ref>。朝日新聞で連載していた芸術評論コラム『三毛猫ホームズと芸術三昧!』は連載中に起きた[[東日本大震災]]と[[福島第一原子力発電所事故]]を受け内容が時事評論に変貌した(書籍化された際には、『三毛猫ホームズのあの日まで・その日から ―日本が揺れた日―』とタイトルも改められた)。
==受賞歴==
*1976年 - 「幽霊列車」で第15回[[オール讀物推理小説新人賞]]<ref name="hochi20150612" />
*1980年 - 『[[悪妻に捧げるレクイエム]]』で第7回[[角川小説賞]]
*2006年 - 第9回[[日本ミステリー文学大賞]]
*2016年 - 『東京零年』で第50回[[吉川英治文学賞]]<ref>{{Cite news |和書|title=吉川英治文学賞、赤川次郎さんの「東京零年」に|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2016-03-03|url=http://mainichi.jp/articles/20160304/k00/00m/040/050000c|accessdate=2016-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160417074805/http://mainichi.jp/articles/20160304/k00/00m/040/050000c |archivedate=2016年4月17日}}</ref>
==著書==
===シリーズ作品(小説)===
====三毛猫ホームズシリーズ====
{{See|三毛猫ホームズシリーズ}}
====三姉妹探偵団シリーズ====
{{See|三姉妹探偵団}}
====幽霊シリーズ====
{{See|幽霊シリーズ}}
====大貫警部(四文字熟語)シリーズ====
{{See|大貫警部}}
====華麗なる探偵たち(第九号棟)シリーズ====
{{See|華麗なる探偵たち}}
====杉原爽香シリーズ====
{{See|杉原爽香}}
====子子家庭シリーズ====
{{See|子子家庭は危機一髪}}
====早川一家シリーズ====
{{See|早川一家}}
====吸血鬼シリーズ====
{{See|吸血鬼はお年ごろ}}
====悪魔シリーズ====
{{See|悪魔シリーズ}}
====鼠シリーズ====
{{See|鼠、江戸を疾る}}
====その他のシリーズ====
*[[セーラー服と機関銃]]シリーズ
**セーラー服と機関銃(1978年、[[主婦と生活社]]・21世紀ノベルス)のち角川文庫
**卒業 セーラー服と機関銃・その後(1987年、カドカワノベルズ)のち角川文庫
***【改題】セーラー服と機関銃・その後 - 卒業 - (2006年、角川文庫・改版)
**セーラー服と機関銃3 疾走(2016年、角川文庫)
*「花嫁」シリーズ ([[ジョイ・ノベルス]])
*「マザコン刑事」シリーズ ([[トクマ・ノベルズ]])
**[[マザコン刑事の事件簿]]
*「一億円」シリーズ(新潮社)
**[[一億円もらったら]](1998年)
**[[不幸、買います]](1999年3月)
*「夫は泥棒、妻は刑事」シリーズ (トクマ・ノベルズ)
*「天使と悪魔」シリーズ([[カドカワノベルズ]]、[[カドカワ・エンタテインメント]])
*「南条姉妹」シリーズ(集英社)
*「懐かしの名画」ミステリーシリーズ
**[[血とバラ (赤川次郎の小説)|血とバラ]](1980年4月、角川文庫)
**[[悪魔のような女 (赤川次郎の小説)|悪魔のような女]](1981年11月 角川文庫)
**[[埋もれた青春 (赤川次郎の小説)|埋もれた青春]](1988年9月、角川文庫)
**[[明日なき十代 (赤川次郎の小説)|明日なき十代]](1999年、廣済堂出版)のち角川文庫
*「真夜中のオーディション」シリーズ
*「MとN探偵局」シリーズ(ジョイ・ノベルス)
*「怪異名所巡り」シリーズ(集英社)のち集英社文庫、のち「あいにおまかせ!? 幽霊バスツアー」シリーズに改題・集英社みらい文庫
*「闇からの声」シリーズ(教室の正義・悪夢の果て)
*「当節怪談事情」シリーズ
===シリーズ外作品(小説)===
*[[死者の学園祭]](1977年6月、ソノラマ文庫)のち角川文庫
*[[マリオネットの罠]](1977年7月、文藝春秋)のち文春文庫
*[[赤いこうもり傘]](1978年6月、ソノラマ文庫)のち角川文庫
*[[死者は空中を歩く]](1979年4月、トクマ・ノベルズ)のち徳間文庫、角川文庫
*[[上役のいない月曜日]](1980年3月、文藝春秋)のち文春文庫
*[[幽霊から愛をこめて]](1980年3月、集英社文庫)
*[[招かれた女]](1980年3月、祥伝社)のち角川文庫
*[[駈け落ちは死体とともに]](1983年6月、集英社文庫)
*[[幻の四重奏]](1980年4月、ソノラマ文庫)のち角川文庫
*[[土曜日は殺意の日]](1980年6月、広済堂出版)のち「[[孤独な週末]]」に改題、角川文庫、徳間文庫
*[[結婚案内ミステリー風]](1980年6月、主婦と生活社)のち角川文庫
*[[死体置場で夕食を]](1980年6月、トクマ・ノベルズ)
*[[一日だけの殺し屋]](1980年6月、青樹社)のち角川文庫
*[[悪妻に捧げるレクイエム]](1980年9月、角川書店)
*[[さびしがり屋の死体]](1980年11月、角川書店)のち角川文庫
*[[昼下がりの恋人達]](1980年11月、桃源社)のち角川文庫
*[[裁きの終わった日]](1980年12月、文藝春秋)のち文春文庫
*[[サラリーマンよ悪意を抱け]](1980年12月、新潮社)のち新潮文庫
*[[ハムレットは行方不明]](1981年4月、集英社文庫)
*[[青春共和国]](1981年5月、徳間文庫)
**収録作品:青春共和国 / [[鏡の中の悪魔]]
*[[毒 ポイズン]](1981年8月、集英社)のち文庫
*冬の旅人(1981年9月、大和ノヴェルス)のち角川文庫
*[[裏口は開いていますか?]](1981年10月、サンケイ出版)のち文春文庫
*[[真夜中のための組曲]](1981年11月、講談社文庫)
*[[いつか誰かが殺される]](1981年12月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[黒い森の記憶]](1981年12月)
*[[プロメテウスの乙女]](1982年3月、角川書店)のち角川文庫、双葉文庫
*[[世界は破滅を待っている]](1982年3月)のち角川文庫、徳間文庫
*[[女社長に乾杯!]](1982年4月、新潮社)のち角川文庫、新潮文庫
*[[顔のない十字架]](1982年4月、カッパノベルズ)のち角川文庫、光文社文庫
*[[充ち足りた悪漢たち]](1982年5月、文春文庫)
*[[僕らの課外授業]](1982年9月)のち角川文庫
*[[晴れ、ときどき殺人]](1982年10月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[自殺行き往復切符]](1982年10月、主婦と生活社)のち角川文庫
*探偵物語(1982年11月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[一番長いデート]](1982年11月、集英社文庫コバルトシリーズ)
*[[おやすみ、テディ・ベア 上下]](1982年11月、カッパ・ノベルス)のち角川文庫、光文社文庫
*[[ミステリ博物館]](1982年11月、双葉社)のち角川文庫、徳間文庫
*[[ホームタウンの事件簿]](1982年11月、新潮社)のち角川文庫
*[[田園殺人事件]](『過去から来た女』に改題)(1983年9月、双葉ノベルス)のち角川文庫
*[[殺人よ、こんにちは]](1983年3月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[ヴァージン・ロード (赤川次郎の小説)|ヴァージン・ロード]] (1983年4月、新潮社)のち新潮文庫
*[[霧の夜にご用心]](1983年5月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[沈める鐘の殺人]](1983年5月、講談社ノベルス)のち講談社文庫
*名探偵はひとりぼっち(1983年5月、角川書店)のち角川文庫
*[[復讐はワイングラスにうかぶ]](1983年5月、新潮文庫)のち集英社文庫
*夜(1983年6月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[こちら、団地探偵局]](1983年8月、潮出版社)のち角川文庫
*[[静かなる良人]](1983年8月、中央公論新社)のち中央文庫
*[[死者におくる入院案内]](1983年9月、ジョイ・ノベルス)のち新潮文庫
*[[愛情物語 (赤川次郎の小説)|愛情物語]](1983年11月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[昼と夜の殺意]](1983年11月)のち徳間文庫
*[[かけぬける愛]](1983年12月、潮出版社)のち角川文庫
*[[死体は眠らない]](1984年2月、カドカワノベルズ)のち角川文庫
*[[真実の瞬間 (赤川次郎の小説)|真実の瞬間]](1984年3月、新潮社)のち新潮文庫、角川文庫
*[[たとえば風が]](1980年9月、角川文庫)のち双葉文庫
*[[払い戻した恋人]](1984年7月、集英社)のち集英社文庫
*[[ト短調の子守歌]](1984年8月、新潮社)のち新潮文庫、角川文庫
*[[ビッグボートα]](1984年8月、光文社文庫)
*[[殺人はそよ風のように]](1984年9月、光文社文庫)のち角川文庫
*[[あの角を曲がって]](1984年10月、集英社)
*[[失われた少女]](1984年10月、双葉社)のち双葉文庫、角川文庫
*[[二人だけの競奏曲]](1984年10月、講談社)横田順彌との共著
*[[魔女たちのたそがれ]](1984年11月、カドカワノベルズ)のち角川文庫、角川ホラー文庫
*[[壁際族に花束を]](1985年1月、小学館)
*[[幽霊物語]](1985年1月、集英社)
*[[早春物語]](1985年2月、角川書店)のち角川文庫
*[[本日は悲劇なり]](1985年3月、中央公論社)のち中央文庫
*[[明日を殺さないで]](1985年5月、角川書店)のち角川文庫
*[[湖畔のテラス]](1985年6月、集英社)のち集英文庫
*[[遅れて来た客]](1985年9月、光文社)
*[[泥棒物語]](1986年2月、角川書店)のち角川文庫
*[[踊る男]](1986年4月、新潮社)のち新潮文庫、角川文庫
*[[勝手にしゃべる女]](1986年6月、新潮社)のち新潮文庫、角川文庫
*[[ロマンティック]](1986年8月、角川書店)のち角川文庫
*[[棚から落ちて来た天使]](1986年10月、講談社ノベルズ)のち光文社文庫
*[[まっしろな窓]](1986年10月、文藝春秋)のち文春文庫
*[[追憶時代]](1986年11月、角川書店)のち角川文庫
*[[怪奇博物館]](1986年12月、フタバノベルス)のち双葉文庫、角川ホラー文庫
*[[冒険入りタイム・カプセル]](1987年6月、角川書店)のち角川文庫、徳間文庫
*[[砂のお城の王女たち]](1985年10月、新潮社)のち新潮文庫、集英社文庫
*[[恋愛届を忘れずに]](1989年3月、角川書店)のち角川文庫
*[[模範怪盗一年B組]](1986年9月、光文社文庫)
*[[自選恐怖小説集 さよならをもう一度]](1994年、角川ホラー文庫)
*[[白い雨]](1987年7月、光文社文庫)
*[[窓からの眺め]](1988年12月、文藝春秋)のち文春文庫
*[[禁じられたソナタ]](1988年、小学館)のち小学館文庫、角川文庫
*[[殺人を呼んだ本]](1988年、双葉社)のち双葉文庫、角川文庫
*[[ふたり]](1989年、新潮社)のち新潮文庫
*[[アンバランスな放課後]](1989年、角川書店)のち角川文庫
*[[微熱 (赤川次郎の小説)|微熱]](1990年、講談社)のち講談社ノベルズ、講談社文庫
*黒鍵は恋してる(1991年、集英社)のち集英社文庫
*[[クリスマス・イヴ (赤川次郎の小説)|クリスマス・イヴ]](1991年、双葉社)のち角川文庫
*[[こちら、団地探偵局 PART2]](1993年7月、双葉文庫)のち角川文庫
*やさしい季節(1993年、角川書店)のち角川文庫
*別れ、のち晴れ(1993年、新潮社)のち新潮文庫
*[[ネガティヴ(赤川次郎の小説)|ネガティヴ]](1994年、集英社)のち集英社文庫
*[[ミス(赤川次郎の小説)|ミス]](1994年、読売新聞社)
*[[十字路(赤川次郎の小説)|十字路]](1994年、双葉社)のち双葉文庫
*いつもと違う日-ミステリー傑作集(1994年、光文社)
*キャンパスは深夜営業(1994年、光文社)のち光文社文庫、角川文庫
*滅びの庭(1996年4月、角川ホラー文庫)
*[[乙女の祈り(赤川次郎の小説)|乙女の祈り]](1996年、講談社文庫)
*赤頭巾ちゃんの回り道(1997年、双葉社)のち双葉文庫、角川文庫
*めざめ(1997年、新潮文庫)
*[[くちづけ(赤川次郎の小説)|くちづけ]](1997年、角川書店)のち角川文庫
*作者消失(1998年、カドカワ・エンタテインメント)のち角川文庫
*家族カタログ(1998年、角川書店)のち角川文庫
*試写室25時(1998年、集英社)のち集英社文庫
*[[恋占い(赤川次郎の小説)|恋占い]](1999年、新潮社)のち新潮文庫
*回想電車(1999、集英社)のち集英社文庫
*おやすみ、夢なき子(1999年、講談社)のち講談社文庫
*あなたも殺人犯になれる!(2000年1月、角川書店)
*秘密のひととき(2000年1月、集英社)のち集英社文庫
*乳母車の狙撃者(2000年、主婦と生活社)
*晩夏(2000年、新潮社)
*迷子の眠り姫(2000年、中央公論新社)
*幽霊の怪(2000年、角川書店)
*そして、楽隊は行く(2000年、マガジンハウス)
*友に捧げる哀歌(2001年、主婦と生活社)
*二重奏(2001年、講談社)
*校庭に、虹は落ちる(2002年、新潮社)
*メリー・ウィドウ・ワルツ(2002年、講談社)
*白鳥の逃亡者(2003年、日本放送出版協会)
*友よ(2003年、カドカワ・エンタテインメント)
*今日の別れに(2003年、角川書店)
*さすらい(2004年、新潮社)
*森がわたしを呼んでいる(2004年、新潮社)
*落葉同盟(2005年、カドカワ・エンタテインメント)
*国境の南(2005年、双葉社)
*悲劇のヒロイン(2006年、ハルキノベルス)
*夢であいましょう(2009年、朝日新聞出版)
*指定席(2010年、光文社)
*交差点に眠る(2011年1月、幻冬舎)
*台風の目の少女たち(2012年3月)
*東京零年(2015年8月、集英社)
===小説以外===
*[[僕のミステリ作法]](1983年7月) - エッセイ
*[[赤川次郎ワンダーランド]](1983年10月) - エッセイ
*[[夢から醒めた夢|夢から醒めた夢―冒険配達ノート]](1986年11月 角川書店) - 自身の娘のために書き下ろした絵本<ref name="oricon20080820">{{Cite web|和書|title=赤川次郎、原作を手がける舞台を観劇「観るたびに進化している」|publisher=[[オリコン|ORICON STYLE]]|date=2008-08-20|url=https://www.oricon.co.jp/news/57396/full/|accessdate=2015-03-05}}</ref>
*イマジネーション 今、もっとも必要なもの(2004年、光文社 のち文庫)
==メディアミックス==
===テレビドラマ===
;[[テレビ朝日]]系
:*[[土曜ワイド劇場]]
:**[[幽霊シリーズ#テレビドラマ|幽霊シリーズ]](1978年1月14日 - 1984年12月8日、全9作、主演:[[浅茅陽子]]【第1作 - 第7作】、[[藤谷美和子]]【第8作 - 第9作】)
:**[[三毛猫ホームズシリーズ (テレビ朝日系列のテレビドラマ)#石立鉄男版|三毛猫ホームズシリーズ]](1979年12月1日 - 1984年12月22日、全6作、主演:[[石立鉄男]])
:**恋人交換殺人事件(1982年2月20日、主演:[[池上季実子]]、原作:死体置場で夕食を)
:**[[結婚案内ミステリー風#テレビドラマ|結婚案内ミステリー風]](1984年5月5日、主演:[[多岐川裕美]]、原作:幽霊志願『結婚案内ミステリー風』所収)
:**盗みは人のためならず(1989年3月18日、主演:[[杉良太郎]]、原作:ヴィーナスの腰布『盗みは人のためならず』所収)
:**[[三毛猫ホームズシリーズ (テレビ朝日系列のテレビドラマ)#陣内孝則版|三毛猫ホームズシリーズ]](1996年9月23日 - 1998年2月21日、全2作、主演:[[陣内孝則]])
:*[[傑作推理劇場]]「善の研究」(1981年8月20日、主演:[[笠智衆]])
:*[[月曜ワイド劇場]]
:**ホームタウンの事件簿(1983年5月9日、主演:[[市毛良枝]]、原作:私語を禁ず『ホームタウンの事件簿』所収)
:**団地妻の告白(1983年8月13日、主演:市毛良枝、原作:罪ある者の象徴『ホームタウンの事件簿』所収)
:*[[火曜ミステリー劇場]]
:**[[三毛猫ホームズシリーズ (テレビ朝日系列のテレビドラマ)#三浦洋一版|三毛猫ホームズシリーズ]](1989年9月26日 - 1991年4月23日、全3作、主演:[[三浦洋一]])
:**忘れられた花嫁(1990年5月8日、主演:[[小野寺昭]])
:*[[月曜ドラマ・イン]] [[ふたり#テレビ朝日版|ふたり]](1997年4月14日 - 6月23日、全11話、主演:[[奥菜恵]]、[[一色紗英]])
:*[[ウィークエンドドラマ]] [[幻想ミッドナイト]] 第7話「見果てぬ夢」(1997年11月23日、主演:[[筧利夫]])
:*[[金曜ナイトドラマ]] [[霊感バスガイド事件簿]](2004年4月16日 - 6月18日、全10話、主演:[[菊川怜]]、原作:怪異名所巡りシリーズ)
:*[[4姉妹探偵団|赤川次郎ミステリー 4姉妹探偵団]] (2008年1月18日 - 3月14日、全9話、主演:[[夏帆]]、原作:[[三姉妹探偵団]]シリーズ)
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
;[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]系
:*[[火曜サスペンス劇場]]
:**ママに殺意を(1981年11月17日、主演:市毛良枝、原作:孤独な週末)
:**ハムレットは行方不明(1981年12月22日、主演:[[柴田恭兵]])
:*[[木曜ゴールデンドラマ]] 闇の足音(1984年6月21日、主演:[[いしだあゆみ]])
:*[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]]
:**[[三姉妹探偵団#1998年版|三姉妹探偵団]](1998年1月10日 - 3月21日、全10話、主演:[[吉川ひなの]]、[[鈴木蘭々]]、[[野村佑香]])
:**[[三毛猫ホームズの推理 (2012年のテレビドラマ)|三毛猫ホームズの推理]](2012年4月14日 - 6月23日、全11話、主演:[[相葉雅紀]])
:*[[木曜ミステリーシアター]] [[毒 ポイズン#テレビドラマ|赤川次郎原作 毒〈ポイズン〉]](2012年10月4日 - 12月27日、全13話、主演:[[綾部祐二]])
:
;[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系
:*[[セーラー服と機関銃#1982年版|セーラー服と機関銃]](1982年7月5日 - 9月20日、全11話、主演:[[原田知世]])
:*[[ファミリーワイド|木曜ファミリーワイド]] [[マザコン刑事の事件簿#1983年版|マザコン刑事の事件簿]](1983年3月3日、主演:[[岸本加世子]]、原作:独りぼっちの披露宴『マザコン刑事の事件簿』所収)
:*[[ライオン奥様劇場|ライオン午後のサスペンス]] 静かなる良人(1984年3月5日 - 3月30日、全20話、主演:市毛良枝)
:*ヴァージン・ロード(1984年11月17日、主演:岸本加世子)
:*[[金曜女のドラマスペシャル]] かけぬける愛(1985年4月19日、主演:[[紺野美沙子]])
:*[[日生ファミリースペシャル]] のぶ子マイウェイ(1985年6月13日、主演:[[藤谷美和子]]、原作:女社長に乾杯!)
:*[[月曜ドラマランド]] 吸血鬼はお年ごろ〜永すぎた春(1985年9月2日、主演:[[早見優]]、原作:永すぎた冬『[[吸血鬼はお年ごろ]]』所収)
:*[[木曜ドラマストリート]]
:**孤独な週末(1985年10月17日、主演:岸本加世子)
:**払い戻した恋人(1985年10月24日、主演:藤谷美和子)
:**明日を殺さないで(1985年10月31日、主演:[[渡辺典子]])
:**復讐はワイングラスに浮かぶ(1985年11月14日、主演:[[柏原芳恵]])
:**名探偵はひとりぼっち(1985年11月21日、主演:[[風見慎吾]])
:**殺人よ、こんにちは(1985年11月28日、主演:[[工藤夕貴]])
:**赤いこうもり傘(1985年12月5日、主演:[[松本伊代]])
:**花嫁の父(1985年12月12日、主演:[[田村高廣]])
:**殺人はそよ風のように(1985年12月19日、主演:[[伊藤麻衣子]])
:**[[一日だけの殺し屋#テレビドラマ|一日だけの殺し屋]](1986年1月23日、主演:[[風間杜夫]])
:**[[三姉妹探偵団#1986年版|三姉妹探偵団]](1986年2月20日、主演:[[和由布子]]、[[河合美智子]]、[[遠藤由美子]])
:*[[世にも奇妙な物語]]
:**春の特別編「回想電車」(2007年3月26日、主演:[[小日向文世]])
:**[[世にも奇妙な物語 春の特別編 (2008年)#透き通った一日|春の特別編「透き通った一日」]](2008年4月2日、主演:[[北乃きい]]、原作:透き通った一日「七つの危険な真実」所収)
:
;[[TBSテレビ|TBS]]、[[BS-TBS|BS-i]]系
:*おやすみ、テディ・ベア(1983年8月9日、主演:松本伊代)
:*[[探偵物語 (1983年の映画)#テレビドラマ|探偵物語]](1984年1月8日 - 1月29日、全4話、主演:渡辺典子)
:*新鋭ドラマシリーズ わが子はアイスキャンデー(1984年3月11日、主演:[[島英二]]、原作:わが子はアイス・キャンデー『充ち足りた悪漢たち』所収)
:*[[ザ・サスペンス]] ふたりの恋人(1984年8月18日、主演:[[シブがき隊]])
:*[[早春物語#テレビドラマ|早春物語〜私、大人になります〜]] (1986年5月23日 - 7月18日、全9話、主演:[[荻野目洋子]]、[[北大路欣也]])
:*すてきな三角関係 壁際族に花束を(1987年6月2日 - 7月7日、全6話、主演:[[石川秀美]]、原作:壁際族に花束を)
:*[[愛の劇場|花王 愛の劇場]] [[子子家庭は危機一髪#テレビドラマ|子子家庭は危機一髪]](1990年7月19日 - 9月13日、全35話、主演:[[尾羽智加子]])
:*[[月曜ドラマスペシャル]] [[冠婚葬祭殺人事件#テレビドラマ|冠婚葬祭殺人事件]](1997年8月25日、主演:[[西村和彦]])
:*告別(2001年2月24日、主演:[[峰岸徹]]、原作:長距離電話『告別』所収)
:*[[モーニング娘。サスペンスドラマスペシャル]]「三毛猫ホームズの犯罪学講座」(2002年12月28日、主演:[[安倍なつみ]])
:*[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]] [[セーラー服と機関銃#2006年版|セーラー服と機関銃]](2006年10月13日 - 11月24日、全7話、主演:[[長澤まさみ]])
:
;[[テレビ東京]]系
:*[[マザコン刑事の事件簿#1990年版|マザコン刑事の事件簿]](1990年2月25日 - 4月1日、全6話、主演:[[渡辺裕之]])
:*[[泥棒に手を出すな!]](1990年10月17日 - 12月26日、全11話、主演:[[田中好子]]、[[佐藤浩市]]、原作:夫は泥棒、妻は刑事シリーズ)
:*[[週刊 赤川次郎]](2007年7月3日 - 9月25日、全13話、オムニバスドラマ)
:
;[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]系
:*[[NHK子どもパビリオン]] [[ふたり#NHK総合版|ふたり]](1990年11月9日 - 11月16日、前後編、主演:[[石田ひかり]]、[[中嶋朋子]])
:*[[木曜時代劇]]
:**[[鼠、江戸を疾る#テレビドラマ|鼠、江戸を疾る]](2014年1月9日 - 3月20日、全9話、主演:[[滝沢秀明]])
:***鼠、江戸を疾る2(2016年4月14日 - 6月2日、全8話)
===映画===
*[[セーラー服と機関銃 (映画)|セーラー服と機関銃]](1981年12月19日公開、配給:[[東映]]、監督:[[相米慎二]]、主演:[[薬師丸ひろ子]])
*[[探偵物語 (1983年の映画)|探偵物語]](1983年7月16日公開、配給:東映、監督:[[根岸吉太郎]]、主演:薬師丸ひろ子)
*[[晴れ、ときどき殺人#映画|晴れ、ときどき殺人]](1984年5月26日公開、配給:東映セントラルフィルム、監督:井筒和幸、主演:[[渡辺典子]])
*[[青春共和国#映画|トロピカルミステリー青春共和国]](1984年6月9日公開、配給:[[東宝]]、監督:[[小原宏裕]]、主演:[[安田成美]]、原作:青春共和国)
*[[愛情物語 (1984年の映画)|愛情物語]](1984年7月14日公開、配給:東映、監督:[[角川春樹]]、主演:[[原田知世]])
*[[いつか誰かが殺される]](1984年10月10日公開、配給:東映、監督:[[崔洋一]]、主演:渡辺典子)
*[[結婚案内ミステリー]](1985年6月15日公開、配給:東映セントラルフィルム、監督:松永好訓、主演:渡辺典子、原作:結婚案内ミステリー風)
*[[早春物語#映画|早春物語]](1985年9月14日公開、配給:東宝/角川春樹事務所、監督:[[澤井信一郎]]、主演:原田知世)
*[[どっちにするの。]](1989年8月26日公開、配給:東宝、監督:[[金子修介]]、主演:[[中山美穂]]、原作:女社長に乾杯!)
*[[ふたり#映画|ふたり]](1991年5月11日公開、配給:[[松竹]]、監督:[[大林宣彦]]、主演:[[石田ひかり]])
*[[あした (映画)|あした]](1995年9月23日公開、配給:東宝、監督:大林宣彦、主演:[[高橋かおり]]、原作:午前0時の忘れもの)
*[[三姉妹探偵団#映画「四姉妹物語」|四姉妹物語]](1995年1月28日公開、配給:東宝、監督:本田昌広、主演:[[清水美砂]]・[[牧瀬里穂]]・[[中江有里]]・[[今村雅美]]、原作:三姉妹探偵団)
*[[死者の学園祭#映画|死者の学園祭]](2000年8月5日公開、配給:東映、監督:[[篠原哲雄]]、主演:[[深田恭子]])<ref name="sunday" />
*[[セーラー服と機関銃#2016年版|セーラー服と機関銃 -卒業-]](2016年3月5日公開、配給:[[KADOKAWA]]、監督:[[前田弘二]]、主演:[[橋本環奈]]、原作:セーラー服と機関銃・その後 -卒業-)
===舞台===
*[[名探偵はひとりぼっち (宝塚歌劇)|名探偵はひとりぼっち]](初演:1984年、[[宝塚歌劇団]])
*[[夢から醒めた夢]](初演:1987年、[[劇団四季]])<ref name="oricon20080820" />
*[[ふたり#舞台|ふたり]](初演:2003年、[[アミューズ]])
===ゲーム===
*[[死体置場で夕食を]]
*[[赤川次郎の幽霊列車]](1991年)
*[[魔女たちの眠り]](1995年)
*[[夜想曲 (ゲーム)|夜想曲]](1998年)
*[[魔女たちの眠り|魔女たちの眠り-復活祭-]](1999年)
*[[夜想曲 (ゲーム)|夜想曲2]](2001年)
*[[魔女たちの眠り|魔女たちの眠り-完全版-]](2001年)
*[[月の光 〜沈める鐘の殺人〜]](2002年)
*[[夜想曲 (ゲーム)|赤川次郎ミステリー 夜想曲 -本に招かれた殺人-]](2008年)
*[[月の光 〜沈める鐘の殺人〜|赤川次郎ミステリー 月の光 -沈める鐘の殺人-]](2008年)
==脚注==
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==参考資料==
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*[[郷原宏]]『赤川次郎公式ガイドブック』(2001年1月20日、三笠書房王様文庫)ISBN 4-8379-6073-1
*『イマジネーション 今、もっとも必要なもの』 (2004年、光文社)
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恩田陸
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恩田 陸(おんだ りく、1964年10月25日 -)は、日本の小説家。本名は熊谷 奈苗(くまがい ななえ)。青森県青森市生まれ(宮城県生まれとされることもある)。
『六番目の小夜子』(1992年)でデビュー。ホラー、SFなど枠にとらわれず、郷愁を誘う情景描写に定評がある。『夜のピクニック』(2004年)で本屋大賞、『蜜蜂と遠雷』(2016年)で直木賞・本屋大賞を受賞。
1964年(昭和39年)10月25日、青森県青森市で生まれる。1966年(昭和41年)頃に愛知県名古屋市へ移住。その後の幼児期と松本市立清水小学校1年まで長野県松本市で過ごした。1972年(昭和47年)に富山県富山市へ移り、小学2年から5年まで富山市立五番町小学校(現:富山市立中央小学校)に通った。小学2、3年生の時にロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』を読み、作家の存在を知る。1976年(昭和51年)に秋田県秋田市へ移り、小学5年の終わりから卒業まで秋田市立旭北小学校に通った。1977年(昭和52年)に仙台市へ移り、仙台市立五橋中学校入学時から2年間通った。1979年(昭和54年)の中学3年時から水戸市立第一中学校に通い、茨城県立水戸第一高等学校を卒業するまで茨城県水戸市で過ごした。小学校か中学校の図書室で『少年少女世界推理文学全集』(あかね書房)で、ミステリに出会い夢中になり大きな影響を受ける。水戸第一高校で、新聞部と美術部に入り、新聞部ではエッセイを書いていた。一方で個人誌『すいかずら』を作り好きな詩歌を載せ小説・エッセイを連載したが自分以外には非公開だった。父がクラシック好きで、自宅には多くのレコードがあり、子供の時に、引っ越しが多かったが、本と音楽が周りにある環境で過ごしピアノを習い、広く音楽を知る先生に学び、大人になった今も「ピアノを聞くのが一番好き」と答えている。なお両親とも宮城県仙台市出身で、現在も同市に実家がある。恩田の本籍は仙台市にあり、公式プロフィール上も仙台市出身となっている。
1983年(昭和58年)に早稲田大学教育学部国語国文学科に入学すると、同大のビッグバンドのハイソサエティー・オーケストラに所属してアルト・サックスを演奏した。また2年次にはワセダミステリクラブに所属したが、本格ミステリを読む人がいなかったのでごく短期間だけになる。
1987年(昭和62年)に同大を卒業、卒論は『荷風と東京』。生命保険会社のOLとして働いたが、2年後に過重労働で入院。作家は年配者だという思い込みがあり、いつか遠い先に作家になれたらと思っていたが、復帰後に酒見賢一の『後宮小説』を読み、その才能と、作者の年齢が1歳上であまり違わず、ショックを受け、勤務しつつ半年後に作家活動を開始した。その後も忙しく、本が読めないのが主な不満で、入社後4年で退職した。
1991年(平成3年)、退職後に書き終えた『六番目の小夜子』が第3回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作となり、翌1992年(平成4年)の刊行をもって作家デビューを果たした。編集者に再就職を勧められ、不動産会社に勤務。いきなりデビューして修業期間がなかったので、多作することで鍛えようとした。初めのころは、小説のタイトルと簡単なプロットを書いた構想リストを持って出版社に営業活動していた。7年ほど兼業作家だったが正社員になり忙しくなり、作家として安定してきたころ、複数の編集者から専業化を勧められ、1997年(平成9年)に専業作家となった。独立を機に、各社の編集者を招待し、レストランで「営業パーティー」を開催し、分野の違う小説の企画レジュメを約10本配ると、7本ほどが、それぞれ別の出版社に買われた。
かつては飛行機恐怖症で、南米とその遺跡を舞台にした『上と外』でも資料だけで書いていた。2003年(平成15年)、恐怖はあるが機上を自分に強いて、イギリスとアイルランドに基礎取材を兼ねた旅行をして、『「恐怖の報酬」日記 酩酊混乱紀行』を書く。それをきっかけに各国に行き、南米も『NHKスペシャル』の仕事でマヤ・インカ文明を取材し、メキシコ、グアテマラ、ペルーを回り、『メガロマニア あるいは「覆された宝石」への旅』を書く。
2004年(平成16年)、2005年(平成17年)、『夜のピクニック』で、第26回吉川英治文学新人賞、第2回本屋大賞を受賞する。
2006年(平成18年)、『ユージニア』で、第59回日本推理作家協会賞を受賞する。
2007年(平成19年)、『中庭の出来事』で、第20回山本周五郎賞を受賞する。同年江戸川乱歩賞選考委員に就任した。
2017年(平成29年)、『蜜蜂と遠雷』で、第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞する。同作品の直木賞と本屋大賞のダブル受賞、および同作家2度目の本屋大賞受賞は史上初である。
「」内が恩田陸の作品
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恩田 陸は、日本の小説家。本名は熊谷 奈苗。青森県青森市生まれ(宮城県生まれとされることもある)。 『六番目の小夜子』(1992年)でデビュー。ホラー、SFなど枠にとらわれず、郷愁を誘う情景描写に定評がある。『夜のピクニック』(2004年)で本屋大賞、『蜜蜂と遠雷』(2016年)で直木賞・本屋大賞を受賞。
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{{Infobox 作家
|name=恩田 陸<br >(おんだ りく)
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{{読み仮名_ruby不使用|'''恩田 陸'''|おんだ りく|[[1964年]][[10月25日]] - }}<ref name="大辞典+Plus">[https://kotobank.jp/word/%E6%81%A9%E7%94%B0%E9%99%B8-1123252 デジタル版日本人名大辞典+Plus「恩田陸」]</ref>は、[[日本]]の[[小説家]]。本名は熊谷 奈苗(くまがい ななえ)<ref name="大辞典+Plus" />。[[青森県]][[青森市]]生まれ(宮城県生まれとされることもある<ref>[http://hoshiaward.nikkei.co.jp/ 第4回 日経「星新一賞」]([[日経新聞社]])</ref><ref>[http://www.library.pref.miyagi.jp/about/publication/kotobanoumi/13-2003-3.html 宮城県図書館だより「ことばのうみ」第13号]([[宮城県図書館]] 2003年3月)</ref>)。
『[[六番目の小夜子]]』(1992年)でデビュー。ホラー、SFなど枠にとらわれず、郷愁を誘う情景描写に定評がある。『[[夜のピクニック]]』(2004年)で[[本屋大賞]]、『[[蜜蜂と遠雷]]』(2016年)で[[直木賞]]・本屋大賞を受賞。
== 来歴 ==
1964年([[昭和]]39年)10月25日、[[青森県]][[青森市]]で生まれる<ref name="chunichi20170119">[http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017011901001578.html 芥川賞に山下澄人さん 直木賞は恩田陸さん](中日新聞 2017年1月19日)</ref>。1966年(昭和41年)頃に[[愛知県]][[名古屋市]]へ移住<ref>[http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170121021720.asp 直木賞の恩田陸さん、青森市は祝福ムード]([[東奥日報]] 2017年1月21日)</ref>。その後の幼児期と松本市立清水小学校1年まで[[長野県]][[松本市]]で過ごした<ref name="略年譜" />。1972年(昭和47年)に[[富山県]][[富山市]]へ移り、小学2年から5年まで富山市立五番町小学校(現:[[富山市立中央小学校]])に通った<ref>[https://webun.jp/item/7340541 直木賞に恩田さん 富山で児童期]([[北日本新聞]] 2017年1月20日)</ref>。小学2、3年生の時に[[ロアルド・ダール]]『[[チョコレート工場の秘密]]』を読み、作家の存在を知る<ref name="小川対談" />。1976年(昭和51年)に[[秋田県]][[秋田市]]へ移り、小学5年の終わりから卒業まで[[秋田市立旭北小学校]]に通った<ref>[http://www.sakigake.jp/news/article/20170120AK0006/ 直木賞に恩田陸さん 秋田市・旭北小を卒業]([[秋田魁新報]] 2017年1月20日)</ref>。1977年(昭和52年)に[[仙台市]]へ移り、[[仙台市立五橋中学校]]入学時から2年間通った<ref name="kahoku20170120"/>。1979年(昭和54年)の中学3年時から[[水戸市立第一中学校]]に通い<ref name="略年譜" />、[[茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校|茨城県立水戸第一高等学校]]を卒業するまで[[茨城県]][[水戸市]]で過ごした<ref>『小説以外』P.237-242 新潮社 2005年</ref>。小学校か中学校の図書室で『[[少年少女世界推理文学全集]]』([[あかね書房]])で、ミステリに出会い夢中になり大きな影響を受ける<ref>『日曜日は青い蜥蜴』 [[筑摩書房]]2020年 pp.188-189</ref>。水戸第一高校で、新聞部と美術部に入り<ref name="略年譜" />、新聞部ではエッセイを書いていた<ref name="幻冬舎R1">[https://web.archive.org/web/20220207061758/https://www.gentosha-book.com/special_interview/onda/ 恩田陸インタビュー-1:幻冬舎ルネッサンス新社]2022年2月7日閲覧</ref>。一方で個人誌『すいかずら』を作り好きな詩歌を載せ小説・エッセイを連載したが自分以外には非公開だった<ref name="略年譜">「恩田陸 略年譜」『恩田陸 白の劇場』河出書房新社〈文藝別冊〉、2021年、P.285</ref>。父がクラシック好きで、自宅には多くのレコードがあり<ref name="Yahoo!newsSP20170411">[https://news.yahoo.co.jp/feature/579/ Yahoo!ニュース特集 2017年4月11日、「私は読者のなれの果て」— 作家・恩田陸を支える感覚]2017年5月9日閲覧</ref>、子供の時に、引っ越しが多かったが、本と音楽が周りにある環境で過ごしピアノを習い、広く音楽を知る先生に学び、大人になった今も「ピアノを聞くのが一番好き」と答えている<ref>[http://digital.asahi.com/articles/DA3S12755936.html?_requesturl=articles%2FDA3S12755936.html&rm=150 連載:ひと「恩田陸さん「蜜蜂と遠雷」で直木賞に決まった」] 朝日新聞 2017年1月20日</ref>。なお両親とも[[宮城県]]仙台市出身で、現在も同市に実家がある<ref name="kahoku20170120">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201701/20170120_13022.html <恩田さん直木賞>仙台祝福 待ち望んだ快挙]([[河北新報]] 2017年1月20日)</ref>。恩田の本籍は仙台市にあり<ref>[http://www.hochi.co.jp/topics/20170120-OHT1T50007.html 恩田陸氏、6度目候補で直木賞選出「縁のない賞と思っていた」](スポーツ報知 2017年1月20日)</ref>、公式プロフィール上も仙台市出身となっている<ref name="NaokiBunshun">[http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/naoki/ 直木三十五賞]([[文藝春秋]] - [[日本文学振興会]])</ref>。
1983年(昭和58年)に[[早稲田大学教育学部]]国語国文学科<ref name="幻冬舎R1" />に入学すると、同大の[[ビッグバンド]]のハイソサエティー・オーケストラに所属して[[サクソフォーン|アルト・サックス]]を演奏した<ref name="サックス">『ブラザー・サン シスター・ムーン』所収「文庫版特別対談 恩田陸、大学の先輩と語る」河出文庫 2012年5月</ref>。また2年次には[[ワセダミステリクラブ]]に所属したが、[[本格ミステリ]]を読む人がいなかったのでごく短期間だけになる<ref>『ミステリを書く!』p.98 ビレッジセンター 1998年</ref><ref>[https://www.sinkan.jp/pages/interview/interview88/index.html 新刊JPベストセラーインタビュー「恩田陸さん」]2017年5月18日閲覧</ref>。
1987年(昭和62年)に同大を卒業、卒論は『荷風と東京』<ref name="略年譜" />。生命保険会社の[[OL]]として働いたが、2年後に過重労働で入院。作家は年配者だという思い込みがあり<ref name="幻冬舎R2">[https://web.archive.org/web/20220207063624/https://www.gentosha-book.com/special_interview/onda/02.html 恩田陸インタビュー-2:幻冬舎ルネッサンス新社]2022年2月7日閲覧</ref>、いつか遠い先に作家になれたらと思っていたが、復帰後に[[酒見賢一]]の『[[後宮小説]]』を読み、その才能と、作者の年齢が1歳上であまり違わず、ショックを受け、勤務しつつ半年後に作家活動を開始した<ref>『小説以外』P.71-72「読めないことがつらかった」新潮社 2005年</ref>。その後も忙しく、本が読めないのが主な不満で、入社後4年で退職した<ref>『小説以外』P.150 新潮社 2005年</ref>。
1991年([[平成]]3年)、退職後に書き終えた『[[六番目の小夜子]]』が第3回[[日本ファンタジーノベル大賞]]最終候補作となり、翌1992年(平成4年)の刊行をもって作家デビューを果たした。編集者に再就職を勧められ、不動産会社に勤務。いきなりデビューして修業期間がなかったので、多作することで鍛えようとした<ref name="以外p.299・176・208">『小説以外』P.299・176・208 新潮社 2005年</ref>。初めのころは、小説のタイトルと簡単なプロットを書いた構想リストを持って出版社に営業活動していた<ref name="Yahoo!newsSP20170411" />。7年ほど兼業作家だったが正社員になり忙しくなり<ref>[https://www.gentosha-book.com/special_interview/onda/03.html 恩田陸インタビュー-3:幻冬舎ルネッサンス新社]2022年2月7日閲覧</ref>、作家として安定してきたころ、複数の編集者から専業化を勧められ<ref name="プレジデントウーマン201705">[https://web.archive.org/web/20170621162500/http://president.jp/articles/-/21811?page=2 PRESIDENT Online『プレジデントウーマン』2017年5月号「恩田陸さん 本屋大賞&直木賞 努力の25年間」P.2]2018年5月31日閲覧</ref>、1997年(平成9年)に専業作家となった<ref name="以外p.299・176・208" />。独立を機に、各社の編集者を招待し、レストランで「営業パーティー」を開催し、分野の違う小説の企画レジュメを約10本配ると、7本ほどが、それぞれ別の出版社に買われた<ref name="プレジデントウーマン201705" />。
かつては[[飛行機恐怖症]]で、南米とその遺跡を舞台にした『上と外』でも資料だけで書いていた。2003年(平成15年)、恐怖はあるが機上を自分に強いて、[[イギリス]]と[[アイルランド]]に基礎取材を兼ねた旅行をして、『「恐怖の報酬」日記 酩酊混乱紀行』を書く。それをきっかけに各国に行き、南米も『[[NHKスペシャル]]』の仕事で[[マヤ文明|マヤ]]・[[インカ帝国|インカ]]文明を取材し、[[メキシコ]]、[[グアテマラ]]、[[ペルー]]を回り、『メガロマニア あるいは「覆された宝石」への旅』を書く。
2004年(平成16年)、2005年(平成17年)、『[[夜のピクニック]]』で、第26回[[吉川英治文学新人賞]]、第2回[[本屋大賞]]を受賞する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=失敗と社会勉強は多い方がいい 作家 恩田陸さん|url=https://www.waseda.jp/top/news/51069|website=早稲田大学|accessdate=2021-09-16|language=ja}}</ref>。
2006年(平成18年)、『[[ユージニア]]』で、第59回[[日本推理作家協会賞]]を受賞する<ref name=":0" />。
2007年(平成19年)、『中庭の出来事』で、第20回[[山本周五郎賞]]を受賞する<ref name=":0" />。同年[[江戸川乱歩賞]]選考委員に就任した。
2017年(平成29年)、『[[蜜蜂と遠雷]]』で、第156回[[直木三十五賞]]、第14回本屋大賞を受賞する<ref name=":0" />。同作品の直木賞と本屋大賞のダブル受賞、および同作家2度目の本屋大賞受賞は史上初である<ref>{{Cite web|和書|title=史上初のダブルW受賞!? 恩田陸ってどんな作家なの?〈dot.〉|url=https://dot.asahi.com/articles/-/96834|website=AERA dot. (アエラドット)|date=2017-04-14|accessdate=2021-09-16|last=高倉優子}}</ref>。
== 作風 ==
* 郷愁を誘う情景描写に巧みで「ノスタルジアの魔術師」と称される<ref>[[森見登美彦]]「恩田陸さんのノスタルジア」『恩田陸 白の劇場』河出書房新社〈文藝別冊〉、2021年、P.50</ref>。ファンタジーの賞からデビューしたが、ジャンルの枠にとらわれず、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[推理小説|ミステリー]]、[[冒険小説]]、[[ホラー]]、[[青春小説]]、音楽小説など、そしてクロスジャンルの作品と、幅広く執筆している。だが、[[ハードボイルド]]には読書含めて、なじめないでいる<ref>恩田陸『月曜日は水玉の犬』筑摩書房、2022年、p.19</ref>。
* 年間300冊の膨大な読書量を基盤に小説を書き、初期に作った構想リストは、ほぼ作品化し、現在構想中のものは、文庫タイプの無罫日記帳に、タイトルをいくつもストックしている<ref name="Yahoo!newsSP20170411" />。タイトルは作品執筆前のプロット段階から決定していて、決まらないと書けない<ref>「恩田陸ロングインタビュー」[[大森望]]『恩田陸 白の劇場』河出書房新社〈文藝別冊〉、2021年、P.64</ref>。
* 実在の特定の風景から物語を紡ぎだすことが多く、電車やバスに乗り旅行して車窓からずっと何時間も小説の種となる特異な風景を探す<ref>『小説以外』P.41-44 新潮社 2005年</ref>。
* 新聞の[[三面記事]]から、強いインスピレーションを受けた事件を取り上げストックしておくことがある<ref name="小川対談">「対談 恩田陸×[[小川洋子]] 小説と世界の秘密」『[[群像]]』2006年4月号</ref>。それを基にした小説を書きその過程も含め『灰の劇場』を書いた<ref>[[三宅香帆]]「恩田陸全著作ガイド」『恩田陸 白の劇場』河出書房新社〈文藝別冊〉、2021年、P.283</ref>。
* 専業作家になってから夢が複雑化し、美しく壮大な画像系とあらすじ系の両夢を見る。夢日記を付けているが、なかなか作品に反映しづらいが、1作品、夢の場面を組み込んだり、他には短編『思い違い』が生まれた<ref>恩田陸『月曜日は水玉の犬』筑摩書房、2022年、p.14-19、24</ref>。
* 常に完璧を目指すが、そうはいかなくても、平均点は維持し、完璧でない惨めさに耐える。満足できる一作でなければ出さないという人もいるが、寡作で傑作なのは当たり前で、量を伴ってこその才能だと信じている<ref>[https://web.archive.org/web/20170421033930/http://president.jp:80/articles/-/21811?page=3 PRESIDENT Online 『プレジデントウーマン』2017年5月号「恩田陸さん 本屋大賞&直木賞 努力の25年間」P.3]2018年5月31日閲覧</ref>。
* 読書家であることも手伝って、デビュー当初から「縮小再生産にならないようなるべく違うものを書こうと意識している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gentosha-book.com/special_interview/onda/03.html |title=特別インタビュー 自費出版の幻冬舎ルネッサンス新社 |website=幻冬舎ルネッサンス |publisher=幻冬舎メディアコンサルティング |date=|accessdate=2018-12-15 }}</ref>。先行作品にオマージュを捧げた小説も多く、その場合は必ず明言している<ref>[[牧眞司]]「オマージュとイマジネーション - "場所の記憶"をめぐって『恩田陸 白の劇場』河出書房新社〈文藝別冊〉、2021年、P.167</ref>。
== エピソード ==
* ペンネームの「恩田」は『[[やっぱり猫が好き]]』の恩田三姉妹と、会社員時代の先輩の名字に由来する<ref>『ミステリを書く!』p102 ビレッジセンター 1998年</ref>。本名「奈苗(ななえ)」は、[[山本周五郎]]『ながい坂』の主人公の幼馴染の少女の名前「ななえ」を取り、父親が漢字にして付けた<ref>『日曜日は青い蜥蜴』 [[筑摩書房]]2020年 pp.190-193</ref>。
* 音楽は、小学校6年にピアノ教師に[[ディヌ・リパッティ]]を勧められさほど感じなかったが、大人になり魅力がわかる。中学時代は[[ケイト・ブッシュ]]や[[クイーン (バンド)|クイーン]]などの[[ブリティッシュ・ロック]]にはまる。2017年ごろには、[[アヴィシャイ・コーエン]]のアルバムや、ジャズピアノやクラシックピアノを聴く<ref name="Yahoo!newsSP20170411" />。
* 大学のビッグバンドでは、アルト・サックスを長く練習した。この時の経験が多く『ブラザー・サン シスター・ムーン』に取り入れられている<ref name="サックス" />。高校までは、いきなり歌い踊りだす[[ミュージカル映画]]が苦手だったが、ミュージカル映画の曲を多く演奏したことで、元の映画も[[名画座]]などで観て好きになり、同時に[[タップダンス]]も好きになった<ref>『土曜日は灰色の馬』P.223-228 晶文社 2010年8月</ref>。
* 高校生の初めまで、酒飲みを嫌い軽蔑していた。ところが少しずつ酒と肴の味を覚え、大学に入りたちまち大酒飲みになってしまった<ref>『小説以外』P.242 新潮社 2011年</ref>。作家となってから、ひたすらビールばかり何時間も飲んでいる<ref>『小説以外』P.90 新潮社 2005年</ref>。文芸誌でも対談していて宴会モードに入りかけ、続けてと催促されやっと最後までしたことがある<ref>『[[小説現代]]』2009年5月号 [[垣根涼介]]との対談「元勤め人作家対談 私たちも会社員でした」</ref>。2017年には、外飲みでは2、3軒ハシゴし、自宅ではビールを2、3本飲むと答えている<ref name="Yahoo!newsSP20170411" />。
* 2004年の[[朝日新聞]]のコラムによれば、酒のつまみで好きなのが「[[チーズ]][[鱈]]」。旅行や取材に出かけるときは必ず持って行き、列車の中でそれをつまみに一杯やるらしい。[[朝日文庫]]『作家の口福』でも「贅沢なチーズ鱈」として触れている。
* 7、8歳の時に読んだ[[萩尾望都]]の『[[精霊狩り]]』の一編「[[精霊狩り#ドアの中のわたしのむすこ|ドアの中のわたしのむすこ]]」は、「私の原点」であり、この作品に出会って「私の人生は変わってしまった」と述べている<ref>{{Cite book|和書| author1 = [[山田正紀]] | author2 = 恩田陸 | title = 読書会 | quote = 『原点』との邂逅 特別対談:[[萩尾望都]]&恩田陸 | pages= 239-260 | publisher = [[徳間書店|株式会社徳間書店]] | date = 2007-01-31}}</ref>。
* 小学6年生の時に読んだ[[中井英夫]]の『[[虚無への供物]]』は、年1回は読みたくなる作品<ref>作家の読書道 2018年8月1日閲覧。</ref>。
== 受賞歴 ==
* 2004年 - 2005年 - 第26回[[吉川英治文学新人賞]]、第2回[[本屋大賞]](『[[夜のピクニック]]』)
* 2006年 - 第59回[[日本推理作家協会賞]](長編及び連作短編集部門)(『[[ユージニア]]』)
* 2007年 - 第20回[[山本周五郎賞]](『中庭の出来事』)
* 2016年 - 宮城県芸術選奨文芸部門
* 2017年 - 第156回[[直木三十五賞]]、第14回本屋大賞(『[[蜜蜂と遠雷]]』)
== ミステリ・ランキング ==
* '''[[週刊文春ミステリーベスト10]]'''
** 2023年 - 『鈍色幻視行』15位
* '''[[このミステリーがすごい!]]'''
** 1998年 - 『三月は深き紅の淵を』9位
** 2001年 - 『象と耳鳴り』6位
** 2024年 - 『鈍色幻視行』9位
* '''[[本格ミステリ・ベスト10]]'''
** 2000年 - 『象と耳鳴り』5位
* '''[[ミステリが読みたい!]]'''
** 2024年 - 『鈍色幻視行』8位
== 作品リスト ==
=== 小説 ===
==== 1990年代 ====
* [[六番目の小夜子]](1992年 [[新潮文庫]] 書き下ろし)
* 球形の季節(1994年 [[新潮社]] / 1999年 新潮文庫 書き下ろし)
* 不安な童話(1994年 [[祥伝社]][[ノン・ノベル]] [[祥伝社文庫]] / 新潮文庫 書き下ろし)
* [[三月は深き紅の淵を]](1997年 [[講談社]] / 2001年 [[講談社文庫]])
** 第一章 待っている人々(『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』1996年4月増刊号)
** 第二章 出雲夜想曲(『メフィスト』1996年8月増刊号)
** 第三章 虹と雲と鳥と(『メフィスト』1996年12月増刊号)
** 第四章 回転木馬(『メフィスト』1997年5月増刊号) - 単行本化の際に全面改稿
* [[常野物語|光の帝国 常野物語]](1997年 [[集英社]] / 2000年 [[集英社文庫]])
** 大きな引き出し(『[[小説すばる]]』1994年12月号)
** 二つの茶碗(『小説すばる』1995年3月号)
** 達磨山への道(『小説すばる』1995年6月号)
** オセロ・ゲーム(『小説すばる』1995年7月号)
** 手紙(『小説すばる』1995年9月号)
** 歴史の時間(『小説すばる』1996年7月号)
** 草取り(『小説すばる』1997年5月臨時増刊号)
** 光の帝国(『小説すばる』1995年12月号)
** 黒い塔(『小説すばる』1997年1月号・2月号)
** 国道を降りて…(『小説すばる』1997年5月号)
* 象と耳鳴り(1999年 祥伝社 / 2003年 祥伝社文庫)
** 曜変天目の夜(『[[ミステリマガジン]]』1995年11月臨時増刊号)
** 新・D坂の殺人事件(『[[青春と読書]]』1998年2月号)
** 給水塔(『[[小説NON]]』1996年1月号)
** 象と耳鳴り(『小説NON』1997年12月号)
** 海にゐるのは人魚ではない(『小説NON』1997年6月号)
** ニューメキシコの月(『小説NON』1996年8月号)
** 誰かに聞いた話(『小説NON』1998年7月号)
** 廃園(『小説NON』1998年3月号)
** 待合室の冒険(『小説NON』1998年10月増刊号)
** 机上の論理(『小説NON』1999年2月号)
** 往復書簡(『小説NON』1999年6月号)
** 魔術師(書き下ろし)
* [[木曜組曲]](1999年 [[徳間書店]] / 2002年 [[徳間文庫]] / 【新装版】2019年2月)
** 【初出】 『[[問題小説]]』1998年4月号 - 1999年8月号、全7回連載
==== 2000年代 ====
* 月の裏側(2000年 [[幻冬舎]] / 2002年 [[幻冬舎文庫]])
** 【初出】 『[[PONTOON]]』1998年10月号 - 1999年10月号、全15回
* [[ネバーランド (小説)|ネバーランド]](2000年 集英社 / 2003年 集英社文庫)
** 【初出】 『小説すばる』1998年5月号 - 1999年11月号、全7回連載
* [[麦の海に沈む果実]](2000年 講談社 / 2004年 講談社文庫)
** 【初出】 『メフィスト』1998年10月増刊号 - 1999年9月増刊号
* 上と外(2000年 - 2001年 幻冬舎文庫 全6巻 / 2003年 幻冬舎 / 2007年 幻冬舎文庫 【上・下】)
* puzzle[パズル](2000年 祥伝社文庫 / アンソロジー集『絶海』〔2002年 祥伝社ノン・ノベル〕収録、書き下ろし)
* ライオンハート(2000年 新潮社 /2004年 新潮文庫)
** エアハート嬢の到着(『[[小説新潮]]』1999年5月号)
** 春(『小説新潮』1999年9月号)
** イヴァンチッツェの思い出(『小説新潮』1999年12月号)
** 天球のハーモニー(『小説新潮』2000年5月号)
** 記憶(『小説新潮』2000年9月号)
* MAZE[メイズ](2001年 [[双葉社]] / 2003年 [[双葉文庫]] / 【新装版】2015年4月)
** 【初出】 『[[小説推理]]』2000年7月号 - 2000年11月号
* ドミノ(2001年 [[角川書店]] / 2004年 [[角川文庫]])
** 【初出】 『[[KADOKAWAミステリ]]』2000年8月号 - 2001年5月号
* 黒と茶の幻想(2001年 講談社 / 2006年 講談社文庫 【上・下】)
** 【初出】 『メフィスト』2000年5月増刊号 - 2001年9月増刊号
* 図書室の海(2002年 新潮社 / 2005年 新潮文庫)
** 春よ、こい(『[[時間怪談 (小説)|時間怪談]]』〔1999年 廣済堂文庫 [[異形コレクション]]〕収録)
** 茶色の小壜(『血の12幻想』〔2000年5月 [[スクウェア・エニックス]]〕収録)
** イサオ・オサリヴァンを捜して(SF-Online『日本SFの航海図』1998年10月)
** 睡蓮(アンソロジー集『蜜の眠り』〔[[廣済堂出版|廣済堂]]〕収録、『麦の海に沈む果実』番外編)
** ある映画の記憶(アンソロジー集『大密室』〔新潮社〕収録〕
** ピクニックの準備(『[[夜のピクニック]]』の[[外伝|前日譚]]、書き下ろし)
** 国境の南(『週刊小説』2000年8月25日号)
** オデュッセイア(『小説新潮』2001年1月号)
** 図書室の海(『[[六番目の小夜子]]』の番外編、書き下ろし)
** ノスタルジア(『[[SFマガジン]]』1995年8月号)
* 劫尽童女(2002年 [[光文社]] / 2005年 [[光文社文庫]])
** 【初出】 『[[ジャーロ (文芸誌)|ジャーロ]]』2000年秋号 - 2001年秋号、全5回
* ロミオとロミオは永遠に(2002年 [[早川書房]] / 2006年 [[ハヤカワ文庫]] 【上・下】)
** 【初出】 『SFマガジン』1999年3月号 - 2000年6月号、全16回、単行本化の際大幅加筆
* ねじの回転(2002年 集英社 / 2005年 集英社文庫 【上・下】)
** 【初出】 『小説すばる』2000年11月号 - 2002年1月号
* 蛇行する川のほとり(2002年 - 2003年 [[中央公論新社]] 新書判 全3巻 / 2004年 中央公論新社 単行本 / 2007年 [[中公文庫]])
* [[まひるの月を追いかけて]](2003年 [[文藝春秋]] / 2007年 [[文春文庫]])
** 【初出】 『[[オール讀物]]』2001年7月号 - 2002年8月号、全6回
* クレオパトラの夢(2003年 双葉社 / 2006年 双葉文庫 / 【新装版】2015年4月 双葉文庫)
** 【初出】 『小説推理』2002年7月号 - 2003年7月号、全6回
* 黄昏の百合の骨(2004年 講談社 / 2007年 講談社文庫)
** 【初出】 『メフィスト』2002年5月増刊号 - 2003年9月増刊号、全5回
* 禁じられた楽園(2004年 徳間書店 / 2007年 徳間文庫 / 【新装版】2020年3月 徳間文庫)
** 【初出】 『問題小説』2001年1月号 - 2002年4月号
* Q&A(2004年 幻冬舎 / 2007年 幻冬舎文庫)
** 【初出】 『星星峡』2002年4月号 - 2004年3月号
* [[夜のピクニック]](2004年 新潮社 / 2006年 新潮文庫)
** 【初出】 『小説新潮』2002年11月号 - 2004年5月号
* 夏の名残りの薔薇(2004年 文藝春秋 / 2008年 文春文庫)
** 【初出】 『[[別册文藝春秋]]』2003年5月号 - 2004年3月号、全6回
* [[ユージニア]](2005年 角川書店 / 2008年 角川文庫)
** 【初出】 『KADOKAWAミステリ』2002年8月号 - 2003年5月号、『[[本の旅人]]』2003年7月号 - 2004年9月号、全15回
* [[常野物語|蒲公英草紙 常野物語]](2005年 集英社 / 2008年 集英社文庫)
** 【初出】 『[[青春と読書]]』2000年1月号 - 2001年2月号、全14回
* ネクロポリス(2005年 [[朝日新聞社]] 【上・下】 / 2009年 [[朝日文庫]] 【上・下】)
** 【初出】 『[[小説トリッパー]]』2001年冬季号 - 2005年春季号、全14回
* [[常野物語|エンドゲーム 常野物語]](2006年 集英社 / 2009年 集英社文庫)
** 【初出】 『小説すばる』2004年3月号 - 2005年6月号、全6回
* [[チョコレートコスモス (小説)|チョコレートコスモス]](2006年 [[毎日新聞社]] / 2011年 角川文庫)
** 【初出】 『[[サンデー毎日]]』2004年6月27日号 - 2005年8月7日号、全56回
* 中庭の出来事(2006年 新潮社 / 2009年 新潮文庫)
** 【初出】 『新潮ケータイ文庫』2003年5月9日 - 2004年2月26日配信、全210回
* 朝日のようにさわやかに(2007年 新潮社 / 2010年 新潮文庫)
** 水晶の夜、翡翠の朝(『青に捧げる悪夢』(2013年2月 角川文庫)/『殺人鬼の放課後』(2002年 [[角川スニーカー文庫]])収録)
** ご案内(『[[読売新聞]]』夕刊 2006年4月8日掲載)
** あなたと夜と音楽と(『「ABC」殺人事件』〔2001年 講談社文庫〕収録、書き下ろし)
** 冷凍みかん(『GOD』〔1999年 異形コレクション 廣済堂文庫〕収録、書き下ろし)
** 赤い毬(『i feel』〔[[紀伊国屋書店]]発行誌〕2005年冬号)
** 深夜の食欲(『グランドホテル』〔1999年 異形コレクション 廣済堂文庫〕収録、書き下ろし)
** いいわけ(『[[小説現代]]』2004年8月号)
** 一千一秒殺人事件(『怪談集 花月夜綺譚』〔2004年 集英社〕収録)
** おはなしのつづき(『[[飛ぶ教室 (雑誌)|飛ぶ教室]]』2005年夏号)
** 邂逅について(『凶鳥の黒影』〔2004年 [[河出書房新社]]〕収録)
** 淋しいお城(『小説現代』2006年4月号)
** 楽園を追われて(『[[yom yom]]』〔2006年 新潮社〕創刊号)
** 卒業(電子書籍配信サイト [[Timebook Town]] 2006年8月4日 配本)
** 朝日のようにさわやかに(『サントリークォータリー』2006年冬号)
* 木洩れ日に泳ぐ魚(2007年 中央公論新社 / 2010年 文春文庫)
** 【初出】 『[[婦人公論]]』2006年1月22日号 - 2007年2月22日号、全26回
* いのちのパレード(2007年 [[実業之日本社]] / 2010年 [[実業之日本社文庫]])
** 観光旅行(『[[月刊ジェイ・ノベル]]』2004年4月号)
** スペインの苔(『月刊ジェイ・ノベル』2004年7月号)
** 蝶遣いと春、そして夏(『月刊ジェイ・ノベル』2004年10月号)
** 橋(『月刊ジェイ・ノベル』2005年1月号)
** 蛇と虹(『月刊ジェイ・ノベル』2005年4月号)
** 夕飯は七時(『月刊ジェイ・ノベル』2005年7月号)
** 隙間(『月刊ジェイ・ノベル』2005年10月号)
** 当籤者(『月刊ジェイ・ノベル』2006年1月号)
** かたつむり注意報(『月刊ジェイ・ノベル』2006年4月号)
** あなたの善良なる教え子より(『月刊ジェイ・ノベル』2006年7月号)
** エンドマークまでご一緒に(『月刊ジェイ・ノベル』2006年10月号)
** 走り続けよ、ひとすじの煙となるまで(『月刊ジェイ・ノベル』2007年1月号)
** SUGOROKU(『月刊ジェイ・ノベル』2007年4月号)
** いのちのパレード(『月刊ジェイ・ノベル』2007年7月号)
** 夜想曲(書き下ろし)
* 不連続の世界(2008年 幻冬舎 / 2011年 幻冬舎文庫)
** 【初出】 『PONTOON』2000年6月号 -
* きのうの世界(2008年 講談社 / 2011年 講談社文庫)
** 【初出】 『[[東奥日報]]』他 2005年4月30日 - 2006年3月19日、全316回
* ブラザー・サン シスター・ムーン(2009年 河出書房新社 / 2012年 [[河出文庫]])
* 訪問者(2009年 祥伝社 / 2012年 祥伝社文庫)
** 【初出】 『小説NON』2002年1月号 - 2004年1月号、全7回
* 六月の夜と昼のあわいに(2009年 朝日新聞社 / 2012年 朝日文庫)
** 恋はみずいろ(『小説トリッパー』2006年冬季号)
** 唐草模様(『小説トリッパー』2007年春季号)
** Y字路の事件(『小説トリッパー』2007年夏季号)
** 約束の地(『小説トリッパー』2007年秋季号)
** 酒肆ローレライ(『小説トリッパー』2007年冬季号)
** 窯変・田久保順子(『小説トリッパー』2008年春季号)
** 夜を遡る(『小説トリッパー』2008年夏季号)
** 翳りゆく部屋(『小説トリッパー』2008年秋季号)
** コンパートメントにて(『小説トリッパー』2008年冬季号)
** Interchange(『小説トリッパー』2009年春季号)
==== 2010年代 ====
* 私の家では何も起こらない(2010年 [[メディアファクトリー]] / 2013年 [[MF文庫ダ・ヴィンチ]]/ 2016年 角川文庫)
** 【初出】 『[[幽]]』
* 夢違(2011年 角川書店 / 2014年 角川文庫)
** 【初出】 『[[中日新聞]]』『[[東京新聞]]』他 2010年5月 - 2011年5月
* 私と踊って(2012年 新潮社 / 2015年 新潮文庫)
** 心変わり(『Story Power 2012』)
**骰子の七の目(『小説新潮』2008年7月号)
**忠告(『小説新潮』2007年11月号)
**弁明(『小説新潮』2007年7月号)
**少女界曼荼羅(『小説新潮』2009年1月号)
**協力(『小説新潮』2008年1月号)
**思い違い(『小説新潮』2012年7月号)
**台北小夜曲(『小説新潮』2011年7月号)
**理由(『飛ぶ教室』2011夏号)
**火星の運河(『小説新潮』2012年1月号)
**死者の季節(『オール讀物』2012年8月号)
**劇場を出て(『1/25』メディアファクトリー 2009年)
**二人でお茶を(書き下ろし)
**聖なる氾濫(『NHKスペシャル 知られざる大英博物館 古代エジプト』 NHK出版 2012年)
**海の泡より生まれて(『NHKスペシャル 知られざる大英博物館 古代ギリシャ』 NHK出版 2012年)
**茜さす(『NHKスペシャル 知られざる大英博物館 日本』 NHK出版 2012年)
**私と踊って(『オール讀物』2012年1月号)
**東京の日記(『書き下ろし日本SFコレクション NOVA 2』河出文庫 2010年)
**交信(『小説新潮』2011年1月号)
* 夜の底は柔らかな幻(2013年 文藝春秋【上・下】 / 2015年 文春文庫【上・下】)
* 雪月花黙示録(2013年 角川書店 / 2016年 角川文庫)
** 【初出】 『小説 野性時代』2004年12月号 - 2008年3月号、全23回
* かがみのなか(2014年 [[岩崎書店]])〈怪談えほん〉- 絵・樋口佳絵
* EPITAPH 東京(2015年 [[朝日新聞出版]] / 2018年4月 朝日文庫)
** 【初出】 『一冊の本』2011年5月号 - 2014年9月号、全34回
* ブラック・ベルベット(2015年 双葉社 / 2018年7月 双葉文庫)
** 【初出】 『小説推理』2007年11月号 - 2015年1月号
* 消滅 VANISHING POINT(2015年 中央公論新社 / 2019年1月 幻冬舎文庫 【上・下】)
** 【初出】 『[[読売新聞]]』2013年11月 - 2014年10月31日
* タマゴマジック(2016年 河北新報出版センター)
* [[蜜蜂と遠雷]](2016年9月 幻冬舎 / 2019年4月 幻冬舎文庫 【上・下】)
** 【初出】 『星星峡』2009年4月号 - 2013年12月号、『PONTOON』2014年1月 - 2016年5月
* 七月に流れる花(2016年12月 講談社 / 2018年9月 [[講談社タイガ]]) 書き下ろし
* 八月は冷たい城(2016年12月 講談社 / 2018年10月 講談社タイガ)
** 【初出】 『メフィスト』2013年4月 - 2016年4月
** 七月に流れる花 / 八月は冷たい城(2020年7月 講談社文庫) 上記2冊の合本
* 終りなき夜に生れつく(2017年2月 文藝春秋 / 2020年1月 文春文庫)
* 失われた地図(2017年2月 [[KADOKAWA]] / 2019年8月 角川文庫)
* 錆びた太陽(2017年3月 朝日新聞出版 / 2019年11月 朝日文庫)
* おともだちできた?(2017年7月 講談社)〈創作絵本〉 - 絵・[[石井聖岳]]
* 祝祭と予感(2019年10月 幻冬舎 / 2022年4月 幻冬舎文庫)
* 歩道橋シネマ(2019年11月 新潮社 / 2022年1月 新潮文庫)
** 線路脇の家(『小説新潮』2015年7月号)
**球根(『小説新潮』2015年11月号)
**逍遥(『2030年の旅』中公文庫 2017年)
**あまりりす(『小説新潮』2014年8月号)
**コモレビ(『幽』vol.23 KADOKAWA)
**悪い春(『EPITAPH東京』朝日文庫 2018年)
**皇居前広場の回転(『小説新潮』2017年7月号、「皇居前広場のピルエット」改題)
**麦の海に浮かぶ檻(『謎の館へようこそ 黒』講談社タイガ 2017年、『麦の海に沈む果実』番外編)
**風鈴(『小説新潮』2013年8月号)
**トワイライト(『STORY BOX』2019年6月号)
**惻隠(『小説新潮』2016年9月号)
**楽譜を売る男(『小説新潮』2018年7月号)
**柊と太陽(『小説新潮』2014年12月号)
**はつゆめ(『小説新潮』2018年1月号)
**降っても晴れても(『[[奇想天外 (SF雑誌)#アンソロジー|奇想天外]] 21世紀版 アンソロジー』[[南雲堂]] 2017年)
**ありふれた事件(『幽』vol.21 KADOKAWA)
**春の祭典(『小説新潮』2019年1月号)
**歩道橋シネマ(『小説新潮』2019年7月号)
==== 2020年代 ====
* ドミノin上海(2020年2月 KADOKAWA / 2023年2月 角川文庫)
** 【初出】『小説野生時代』97号(2011年12月号) - 191号 (2019年10月号)
* スキマワラシ(2020年8月 集英社 / 2023年3月 集英社文庫)
* 悪い春 202X(『小説トリッパー』2020年夏季号)
* 灰の劇場(2021年2月 河出書房新社)
** 【初出】 『[[文藝]]』2014年春季号 - 2020年春季号)
* 薔薇のなかの蛇(2021年5月 講談社 / 2023年5月 講談社文庫)
** 【初出】 『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』2007年5月 - 2012年12月、2016年8月 - 2020年8月
* 愚かな薔薇(2021年12月 徳間書店)
** 【初出】『SF JAPAN』2006年秋号 - 2011年春号(休刊)→『[[読楽]]』2012年1月号 - 2020年7月号
* なんとかしなくちゃ。 青雲編 1970 - 1993(2022年11月 文藝春秋)
** 【初出】『週刊文春』2021年6月10日号 - 2022年4月28日号
* 鈍色幻視行(2023年5月 集英社)
** 【初出】『[[集英社WEB文芸RENZABURO]]』2007年10月 - 2012年3月→『[[すばる (雑誌)|すばる]]』2013年4月号 - 2022年7月号
=== 連載終了作品 ===
* 夜果つるところ(『小説すばる』2010年1月号 - 2011年12月号、全11回)
===連載中の作品===
* 闇の絵本(『[[文蔵]]』2012年9月号 - 2015年4月 7回)
* 青葉闇迷路(『yom yom』 - 2011年 → yom yom Web連載 2012年 - )
* 梟の昼間(『[[ジャーロ (文芸誌)|ジャーロ]]』2012年夏号 - )
* 珈琲怪談(『[[GINGER L.]]』2014年秋号 - 2016年夏号(休刊)→『[[小説幻冬]]』2017年7月号 - )
* 太陽の末裔(『[[NHK出版]] WEBマガジン』2015年7月 - )
* 傾斜のマリア(『小説推理』2017年2月号 - ) 神原恵弥シリーズ4
* spring(『[[ちくま]]』2020年3月号 - )
* 追憶の五重奏(『小説新潮』2020年5月号 - )
* 産土ヘイズ(『小説 野性時代』特別編集 2022年冬号)
=== 連載中断 ===
* デッドライン(『[[ミステリーズ!]]』2004年6月号 - 2006年4月号 7回)
* ダンデライオン(『本の時間』2009年9月号 - 2013年9月号 雑誌廃刊で中断)
=== エッセイ他・紀行文 ===
* 「恐怖の報酬」日記 酩酊混乱紀行 イギリス・アイルランド(2005年4月 講談社 / 2008年 講談社文庫)
** 【初出】 『[[IN★POCKET]]』2004年1月号 - 2004年10月号、全10回
* 小説以外(2005年 新潮社 / 2008年 新潮文庫)
* メガロマニア あるいは「覆された宝石」への旅(2009年5月 [[日本放送出版協会]] / 2012年9月 角川文庫)
* 土曜日は灰色の馬(2010年8月 [[晶文社]] / 2020年3月 [[ちくま文庫]])
* 隅の風景(2011年 新潮社 / 2013年10月 新潮文庫)
* 作家の口福(2011年2月 朝日文庫) - 20人の作家の食に関するエッセイ集
* 執筆前夜 女性作家10人が語る、プロの仕事の舞台裏。(2005年11月 新風舎) - インタビュー集
* ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。 「14歳の世渡り術」収載文(2012年5月 河出書房新社)
* ビール アンソロジー(2014年7月 [[パルコエンタテインメント事業部]])「列車でビール 長旅には酒器を連れて」
* 日曜日は青い蜥蜴(2020年12月 [[筑摩書房]])
* 月曜日は水玉の犬(2022年3月 筑摩書房)
=== 戯曲 ===
* 猫と針(2008年2月 新潮社 / 2011年2月 新潮文庫)
=== 共著 ===
* 読書会(2007年1月 徳間書店) [[山田正紀]]
* NHKスペシャル 失われた文明 インカ「書き下ろし紀行エッセイ収載」(2007年6月 NHK出版)NHK「失われた文明」プロジェクト
* NHKスペシャル 失われた文明 マヤ「書き下ろし紀行エッセイ収載」(2007年6月 NHK出版)NHK「失われた文明」プロジェクト
* NHKスペシャル 失われた文明 アンデスミイラ「書き下ろし紀行エッセイ収載」(2007年6月 NHK出版)NHK「失われた文明」プロジェクト
* 横浜の名建築をめぐる旅(2021年7月 エクスナレッジ) 菅野裕子
* SF読書会(2021年9月 徳間書店〈徳間文庫〉 ) 山田正紀
=== アンソロジー(編纂) ===
* 恩田陸選 スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎003(2008年9月 講談社文庫)
* 現代マンガ選集 少女たちの覚醒 炸裂する記憶と衝動(2020年12月 ちくま文庫)総監修[[中条省平]]
=== アンソロジー(収録) ===
「」内が恩田陸の作品
; 日本文藝家協会・編
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2002(2002年6月 徳間文庫)「オデュッセイア」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2007(2007年6月 徳間文庫)「かたつむり注意報」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2008(2008年6月 徳間文庫)「弁明」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2009(2009年6月 徳間文庫)「骰子の七つの目」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2012(2012年6月 徳間文庫)「台北小夜曲」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2013(2013年6月 徳間文庫)「私と踊って」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2016(2016年6月 徳間文庫)「線路脇の家」
* 短篇ベストコレクション 現代の小説2018(2018年6月 徳間文庫)「皇居前広場のピルエット」
; 日本推理作家協会・編
* 最新「珠玉推理(ベスト・オブ・ベスト)」大全〈中〉(1998年9月 光文社 [[カッパ・ノベルス]])「象と耳鳴り」
** 【改題】怪しい舞踏会 日本ベストミステリー選集29(2002年5月 光文社文庫)
* [[ザ・ベストミステリーズ 推理小説年鑑|ザ・ベストミステリーズ 2000 推理小説年鑑]](2000年6月 講談社)「往復書簡」
** 【分冊・改題】罪深き者に罰を ミステリー傑作選42(2002年11月 講談社文庫)
* 推理作家になりたくて マイベストミステリー 第3巻 「迷」(2003年10月 文藝春秋)「オデュッセイア」、書き下ろしエッセイ「ラジオを聴きながら…」
** 【改題】マイ・ベスト・ミステリー3(2007年9月 文春文庫)
* 不思議の足跡(2007年10月 光文社 カッパ・ノベルス / 2011年4月 光文社文庫)「あなたの善良なる教え子より」
* ミステリーの書き方(2010年11月 幻冬舎 / 2015年10月 幻冬舎文庫)※執筆作法「タイトルの付け方」
* 驚愕遊園地(2013年11月 光文社 / 2016年5月 光文社文庫)「思い違い」
* 殺意の隘路(2016年12月 光文社)「柊と太陽」
; その他
* 血の12幻想(2000年5月 [[エニックス]] / 2002年4月 講談社文庫)「茶色の小壜」
* 悪魔のような女 女流ミステリー傑作選(2001年7月 ハルキ文庫)「廃園」
* 殺人鬼の放課後 ミステリ・アンソロジー2(2002年1月 角川スニーカー文庫)「水晶の夜、翡翠の朝」
* らせん階段 女流ミステリー傑作選(2003年5月 ハルキ文庫)「国境の南」
* 青に捧げる悪夢(2005年3月 角川書店 / 2013年2月 角川文庫)「水晶の夜、翡翠の朝」
* 恋は罪つくり 恋愛ミステリー傑作選(2005年7月 光文社文庫)「廃園」
* 七つの黒い夢(2006年2月 新潮文庫)「赤い毬」
* 花月夜綺譚 怪談集(2004年8月 集英社 / 2007年9月 集英社文庫)「一千一秒殺人事件」
* 本からはじまる物語(2007年12月 メディアパル)「飛び出す、絵本」
* [[きみが見つける物語]] 十代のための新名作 スクール編(2008年6月 角川文庫)「大きな引き出し」
* アクロス・ザ・ユニバース 林檎をめぐる物語(2008年7月 ソニー・マガジンズ)「アイドルの流謫」
* 虚構機関 年刊日本SF傑作選(2008年12月 [[創元SF文庫]])「忠告」
* [[NOVA 書き下ろし日本SFコレクション|NOVA 2 書き下ろし日本SFコレクション]](2010年7月 河出文庫)「東京の日記」
* 逃げゆく物語の話 ゼロ年代日本SFベスト集成〈F〉(2010年10月 創元SF文庫)「夕飯は七時」
* 日本文学100年の名作 第10巻 2004 - 2013 バタフライ和文タイプ事務所(2015年6月 新潮文庫)「かたつむり注意報」
* 猫は迷探偵(2015年11月 竹書房文庫)※エッセイアンソロジー「猫占い」
* 20の短編小説(2016年1月 朝日文庫)「悪い春」
* 冒険の森へ 傑作小説大全 4(2016年8月 集英社)「大きな引き出し」
* 吾輩も猫である(2016年12月 新潮文庫)「惻隠」
* X'mas Stories 一年でいちばん奇跡が起きる日(2016年12月 新潮文庫)「柊と太陽」
* 謎の館へようこそ 黒 新本格30周年記念アンソロジー(2017年10月 講談社タイガ)「麦の海に浮かぶ檻」
* 奇想天外 21世紀版 アンソロジー(2017年10月 南雲堂)「降っても晴れても」
* 2030年の旅(2017年10月 中公文庫)「逍遥」
* 皆川博子の辺境薔薇館 Fragments of Hiroko Minagawa(2018年5月 河出書房新社)「孤高の美、『聖女の島』」
* だから見るなといったのに 九つの奇妙な物語(2018年7月 新潮文庫nex)「あまりりす」
* 美女と竹林のアンソロジー 森見登美彦リクエスト!(2019年1月 光文社)「美女れ竹林」
* 妖し(2019年12月 文春文庫)「曇天の店」
* 25の短編小説(2020年9月 朝日文庫)「悪い春202X」
* Seven Stories 星が流れた夜の車窓から(2020年11月 文藝春秋 / 2023年4月 文春文庫)「ムーン・リヴァー」
* 歪んだ名画 美術ミステリーアンソロジー(2021年1月 朝日文庫)「曜変天目の夜」
* ショートショートドロップス(2021年1月 文藝春秋)「冷凍みかん」
* 超短編! 大どんでん返し(2021年2月 [[小学館文庫]])「トワイライト」
* あなたの後ろにいる誰か 眠れぬ夜の八つの物語 (2021年7月 新潮文庫nex)「球根」
* 絶対名作!十代のためのベスト・ショート・ミステリー [[千街晶之]]編 ([[汐文社]] 2021年11月)「水晶の夜、翡翠の朝」
*『[[1と0と加藤シゲアキ]]』(競作企画 [[KADOKAWA]]、2022年9月30日)「渋谷と御守」
* 本からはじまる物語 (2022年3月 角川文庫)「飛び出す、絵本」
* 私たちの金曜日(2023年1月 角川文庫)「茶色の小壜」
=== ムック ===
* 文藝別冊 恩田陸 白の劇場(2021年2月 河出書房新社 KAWADEムック)
** 書き下ろし「灰の劇場 0-」「灰の劇場 0+」、単行本未収録作品「ジョン・ファウルズを探して」「ソウルのカササギは王宮で鳴く」を収録。
== メディア・ミックス ==
=== テレビドラマ ===
* [[六番目の小夜子#テレビドラマ|六番目の小夜子]](2000年4月8日 - 6月24日、全12話、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]、主演:[[鈴木杏]])
* [[ネバーランド (小説)#テレビドラマ|ネバーランド]](2001年7月6日 - 9月14日、全11話、[[TBSテレビ|TBS]]系列、主演:[[今井翼]])
** 恩田陸は[[V6 (グループ)|V6]]の歌う主題歌「[[出せない手紙]]」をセキヤヒサシ名義で作詞している。
* [[常野物語#テレビドラマ『光の帝国』|光の帝国]](2001年12月4日 - 12月25日、全4話、[[NHK総合]]、主演:[[前田愛 (女優)|前田愛]])
* [[悪夢ちゃん]](2012年10月13日 - 12月22日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列「[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]]」枠、主演:[[北川景子]]、原案:夢違)
=== 映画 ===
* [[木曜組曲#映画|木曜組曲]](2002年10月12日公開、配給:[[シネカノン]]、監督:[[篠原哲雄]]、主演:[[鈴木京香]])
* [[夜のピクニック#映画|夜のピクニック]](2006年9月30日公開、配給:[[ムービーアイ]]/[[松竹]]、監督:[[長澤雅彦]]、主演:[[多部未華子]])
* Livespire「光の帝国」(2009年7月18日公開、配給:[[ソニー|ソニー株式会社]]、原作:大きな引き出し)
* [[悪夢ちゃん#映画|悪夢ちゃん The 夢ovie]](2014年5月3日公開、配給:[[東宝]]、監督:[[佐久間紀佳]]、主演:北川景子、原案:夢違)
* [[蜜蜂と遠雷#映画|蜜蜂と遠雷]](2019年10月4日公開、配給:東宝、監督:[[石川慶]]、主演:[[松岡茉優]])
=== 舞台 ===
* 猫と針(2007年8月22日 - 9月9日、戯曲、[[演劇集団キャラメルボックス]]の依頼で書き下ろし)
* [[常野物語#演劇集団キャラメルボックス版『光の帝国』|光の帝国]](2009年2月19日 - 3月29日)
* [[夜のピクニック#舞台|夜のピクニック]](2016年9月17日 - 9月25日、[[水戸芸術館]]ACM劇場)
* 【コロナ延期】木洩れ日に泳ぐ魚(2021年2月5日 - 2月14日、[[シアタートラム]])主演:[[倉科カナ]]<ref>{{Cite web|和書|title=恩田陸「木洩れ日に泳ぐ魚」を長田育恵×小野寺修二が舞台に|publisher=[[ステージナタリー]]|url=https://natalie.mu/stage/news/366471|date=2020-02-08|accessdate=2020-02-08}}</ref>
** 2021年2月12日 - 14日 朗読劇「木洩れ日に泳ぐ魚」シアタートラム、出演:倉科カナ、[[浅利陽介]]、脚本・演出:[[真柴あずき]]<ref>[https://natalie.mu/stage/news/416215 〈朗読劇『木洩れ日に泳ぐ魚』開幕〉ステージナタリー2021年2月13日]2022年2月7日閲覧</ref>
=== コミカライズ ===
* [[蜜蜂と遠雷#漫画|蜜蜂と遠雷]](2019年9月 [[幻冬舎コミックス]]、既刊1巻、作画:[[皇なつき]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://www.hontai.or.jp/ceremony/report2005.html 2005年本屋大賞発表会]
* [https://www.hontai.or.jp/toshocard/2005onda.html 恩田陸さんが副賞で購入した本 2005年本屋大賞]
* [https://bookshorts.jp/ondariku ブックショートインタビュー]
{{吉川英治文学新人賞|第26回}}
{{山本周五郎賞|第20回}}
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[[Category:直木賞受賞者]]
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10,891 |
岡嶋二人
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岡嶋 二人(おかじま ふたり)は、日本の推理作家であり、井上泉(いのうえ いずみ、1950年 - 、多摩芸術学園映画科中退)と徳山諄一(とくやま じゅんいち、1943年 - 2021年11月8日、法政大学経済学部中退)によるコンビのペンネーム。名前の由来は「おかしな二人」。代表作は『そして扉が閉ざされた』『99%の誘拐』『クラインの壺』
世界ではコンビで執筆するペンネームは珍しいものではないが、日本ではそれほど例がない。
作品の中には、二人の個性のうちの一方が強く反映されているものもある。初期の作品は競馬を題材にとったものが多い。競馬・スポーツの知識は徳山に、映像・パソコンの知識は井上に拠っているといわれる。井上は初期のパーソナルコンピュータが「マイコン」と呼ばれていた時代からのコンピュータ愛好家であり、親指シフトの支持者でもある。豊富なアイディアを軽快で抑制の効いた文体でまとめあげ、ユーモラスなタッチのものも少なくない。『ちょっと探偵してみませんか』のようなクイズ集でも高水準の読み物として提供する技量の持ち主で、テーマも多彩なため器用な作家と誤解されるふしもあるが、決して量産はしておらず、苦吟の創作過程はのちの井上の著書で吐露されている。
誘拐をテーマにした作品は高い評価を受け、「バラバラの島田」(死体分断トリックの多い島田荘司)に対比して「人さらいの岡嶋」・「誘拐の岡嶋」と呼ばれることがある。
二人の作業分担は、原則としてプロットが徳山、執筆が井上であったが、中期以降、徳山の示すプロットがだんだんとラフになって井上の負担が増し、末期には井上がプロットの大部分も手がけるケースがあった(逆に徳山のほうが執筆まで手がけた作はない)。最後の長編である『クラインの壺』はほとんど井上の手によるといわれており、それまでの作品とはかなり傾向が異なり、コンビ解消後の井上夢人の処女作である『ダレカガナカニイル...』と多くの共通点を持っている。
日本のミステリにおける大きな主流である、シリーズキャラクター、殺人事件のつく題名、トラベルミステリがきわめて少ない。例外が、捜査ゼロ課シリーズの『眠れぬ夜の殺人』『眠れぬ夜の報復』、山本山シリーズの『三度目ならABC』『とってもカルディア』、沖縄を舞台とした『珊瑚色ラプソディ』、そして『5W1H殺人事件』(のち『解決まではあと6人』に改題)である。他に、1冊のみの連作短編キャラクター物に『なんでも屋大蔵でございます』がある。なお、このポリシーはコンビ解消後の井上夢人にも引き継がれており、1冊限りの連作短編キャラクター物までしか書いていない。
何故か作品中には東京都世田谷区の町が頻繁に登場する。
結成から解散までの経緯は、井上夢人の『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』に詳しい。
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岡嶋 二人は、日本の推理作家であり、井上泉と徳山諄一によるコンビのペンネーム。名前の由来は「おかしな二人」。代表作は『そして扉が閉ざされた』『99%の誘拐』『クラインの壺』
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'''岡嶋 二人'''(おかじま ふたり)は、[[日本]]の[[推理作家]]であり、'''[[井上夢人|井上泉]]'''(いのうえ いずみ、[[1950年]] - 、[[多摩美術大学|多摩芸術学園]]映画科中退)と'''徳山諄一'''(とくやま じゅんいち、[[1943年]] - [[2021年]][[11月8日]]<ref name="sponichi1114">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/11/14/kiji/20211114s00041000378000c.html|title=コンビ推理作家「岡嶋二人」徳山諄一さん死去 元相棒・井上夢人が報告 「99%の誘拐」など 89年解散|publisher=[[スポニチ Sponichi Annex]]|date=2021-11-14|accessdate=2021-11-14}}</ref>、[[法政大学]]経済学部中退)によるコンビの[[ペンネーム]]。名前の由来は「[[おかしな二人]]」。代表作は『そして扉が閉ざされた』『99%の誘拐』『クラインの壺』
==略歴==
{{年譜のみの経歴|date=2022-12}}{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
*1975年 - コンビ結成。[[江戸川乱歩賞]]への応募を始める。
*1981年 - 『[[あした天気にしておくれ]]』が第27回江戸川乱歩賞候補となるも落選。
*1982年 - 『[[焦茶色のパステル]]』で第28回江戸川乱歩賞受賞。デビュー作になる。
*1984年 - 『[[あした天気にしておくれ]]』が第5回[[吉川英治文学新人賞]]候補となるも落選。
*1985年 - 『[[チョコレートゲーム]]』で第39回[[日本推理作家協会賞]]長編賞受賞。
*1986年 - [[ゲームブック]]の『[[ツァラトゥストラの翼]]』刊行。
*1988年 - 『[[99%の誘拐]]』で、翌年第10回[[吉川英治文学新人賞]]受賞。
*1989年 - 『[[クラインの壺 (小説)|クラインの壺]]』刊行を最後に、コンビを解消。その後、井上泉は[[井上夢人]]の筆名で創作活動を続けている。徳山諄一も田奈純一と変え、テレビ番組「[[マジカル頭脳パワー!!]]」の推理ドラマのトリックメーカーとして参加していた。
*2005年 - 『99%の誘拐』が「この文庫本がすごい!」2005年1位に選ばれた。
*2011年 - それまで書籍化されていなかった短編三作を『記録された殺人』に増補・再編集した短編集『ダブル・プロット』を刊行。これで、書籍化されていない岡嶋二人の小説はショート・ショート「地中より愛をこめて」一編となった。
*2021年 - 11月8日、徳山諄一が死去。78歳没。井上夢人(井上泉)がTwitterにて同月14日に報告を行った<ref name="sponichi1114" />。
==概要==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}}
世界ではコンビで執筆するペンネームは珍しいものではないが、日本ではそれほど例がない。
作品の中には、二人の個性のうちの一方が強く反映されているものもある。初期の作品は競馬を題材にとったものが多い。競馬・スポーツの知識は徳山に、映像・パソコンの知識は井上に拠っているといわれる。井上は<!--4ビット--><!-- ←「4ビット」に何か意味不明な拘泥があるようですが、4004他4ビットのアーキテクチャは(通史的に見れば)かなり特殊なものであり、チップの品種も(全体から見れば)少なく、それが使われたマイコンキット等の商品はごくわずかです。何らかの4ビットの機種にまつわる特別なエピソードでもない限り「4ビットマイコンの時代」などというマイコン愛好家の歴史に存在しない時代をでっち上げないでください MN-->初期のパーソナルコンピュータが「マイコン」と呼ばれていた時代からのコンピュータ愛好家であり、[[親指シフト]]の支持者でもある。豊富なアイディアを軽快で抑制の効いた文体でまとめあげ、ユーモラスなタッチのものも少なくない。『ちょっと探偵してみませんか』のようなクイズ集でも高水準の読み物として提供する技量の持ち主で、テーマも多彩なため器用な作家と誤解されるふしもあるが、決して量産はしておらず、苦吟の創作過程はのちの井上の著書で吐露されている。
[[誘拐]]をテーマにした作品は高い評価を受け、「バラバラの島田」(死体分断トリックの多い[[島田荘司]])に対比して「人さらいの岡嶋」・「誘拐の岡嶋」と呼ばれることがある。
二人の作業分担は、原則としてプロットが徳山、執筆が井上であったが、中期以降、徳山の示すプロットがだんだんとラフになって井上の負担が増し、末期には井上がプロットの大部分も手がけるケースがあった(逆に徳山のほうが執筆まで手がけた作はない)。最後の長編である『クラインの壺』はほとんど井上の手によるといわれており、それまでの作品とはかなり傾向が異なり、コンビ解消後の井上夢人の処女作である『ダレカガナカニイル…』と多くの共通点を持っている。
日本のミステリにおける大きな主流である、シリーズキャラクター、殺人事件のつく題名、トラベルミステリがきわめて少ない。例外が、捜査ゼロ課シリーズの『眠れぬ夜の殺人』『眠れぬ夜の報復』、山本山シリーズの『三度目ならABC』『とってもカルディア』、沖縄を舞台とした『珊瑚色ラプソディ』、そして『5W1H殺人事件』(のち『解決まではあと6人』に改題)である。他に、1冊のみの連作短編キャラクター物に『なんでも屋大蔵でございます』がある。なお、このポリシーはコンビ解消後の井上夢人にも引き継がれており、1冊限りの連作短編キャラクター物までしか書いていない。
何故か作品中には[[東京都]][[世田谷区]]の町が頻繁に登場する。
結成から解散までの経緯は、[[井上夢人]]の『[[おかしな二人 岡嶋二人盛衰記]]』に詳しい。
==作品リスト==
===長編小説===
*[[焦茶色のパステル]](1982年9月 講談社 / 1984年8月 講談社文庫 / 2012年8月 講談社文庫【新装版】)
*七年目の脅迫状(1983年5月 講談社 / 1986年6月 講談社文庫)
*[[あした天気にしておくれ]](1983年10月 講談社 / 1986年8月 講談社文庫)
*タイトルマッチ(1984年6月 角川書店 / 1989年2月 徳間文庫 / 1993年12月 講談社文庫)
*どんなに上手に隠れても(1984年9月 徳間書店 / 1988年9月 徳間文庫 / 1993年7月 講談社文庫)
*チョコレートゲーム(1985年3月 講談社 / 1988年7月 講談社文庫 / 2000年11月 双葉文庫 / 2013年1月 講談社文庫【新装版】)
*5W1H殺人事件(1985年6月 双葉社)
**【改題】解決まではあと6人(1989年4月 双葉文庫 / 1994年7月 講談社文庫)
*とってもカルディア(1985年7月 講談社 / 1988年6月 講談社文庫)
*ビッグゲーム(1985年12月 講談社 / 1988年10月 講談社文庫)
*コンピュータの熱い罠(1986年5月 光文社 / 1990年2月 光文社文庫 / 2001年3月 講談社文庫)
*七日間の身代金(1986年6月 実業之日本社 / 1990年1月 徳間文庫 / 1998年7月 講談社文庫)
*珊瑚色ラプソディ(1987年2月 集英社 / 1990年4月 集英社文庫 / 1997年7月 講談社文庫)
*殺人者志願(1987年3月 光文社 / 1990年11月 光文社文庫 / 2000年6月 講談社文庫)
*ダブルダウン(1987年7月 小学館 / 1991年11月 集英社文庫 / 2000年1月 講談社文庫)
*そして扉が閉ざされた(1987年12月 講談社 / 1990年12月 講談社文庫)
*眠れぬ夜の殺人(1988年6月 双葉社 / 1990年12月 双葉文庫 / 1996年7月 講談社文庫) - 捜査0課シリーズの第一作
*殺人!ザ・東京ドーム(1988年9月 光文社 / 1991年3月 光文社文庫 / 2002年6月 講談社文庫)
*99%の誘拐(1988年10月 徳間書店 / 1990年8月 徳間文庫 / 2004年6月 講談社文庫)
*[[クリスマス・イヴ (映画)|クリスマス・イヴ]](1989年6月 中央公論社 / 1991年12月 中公文庫 / 1997年12月 講談社文庫)
*眠れぬ夜の報復(1989年10月 双葉社 / 1992年4月 双葉文庫 / 1999年7月 講談社文庫) - 捜査0課シリーズの第二作
*[[クラインの壺 (小説)|クラインの壺]](1989年10月 新潮社 / 1993年1月 新潮文庫 / 2005年3月 講談社文庫)
===連作短編集===
*三度目ならばABC(1984年10月 講談社 / 1987年10月 講談社文庫 / 2010年2月 講談社文庫【増補版】)
**【収録作品】 三度目ならばABC / 電話だけが知っている / 三人の夫を持つ亜矢子 / 七人の容疑者 / 十番館の殺人 / プールの底に花一輪
** 増補版には「はい、チーズ!」を追加収録
*なんでも屋大蔵でございます(1985年4月 新潮社 / 1988年5月 新潮文庫 / 1995年7月 講談社文庫)
**【収録作品】 浮気の合い間に殺人を / 白雪姫がさらわれた / パンク・ロックで阿波踊り / 尾行されて、殺されて / そんなに急いでどこへ行く
===短編集===
*開けっぱなしの密室(1984年6月 講談社 / 1987年7月 講談社文庫)
**【収録作品】 罠の中の七面鳥 / サイドシートに赤いリボン / 危険がレモンパイ / がんじがらめ / 火をつけて、気をつけて / 開けっぱなしの密室
*ちょっと探偵してみませんか(1985年11月 講談社 / 1989年3月 講談社文庫)
**ショートショート25編を収録
*記録された殺人(1989年9月 講談社文庫)
**【収録作品】 記録された殺人 / バッド・チューニング / 遅れて来た年賀状 / 迷い道 / 密室の抜け穴 / アウト・フォーカス
*ダブル・プロット(2011年2月 講談社文庫) - 『記録された殺人』に未収録の三編(シリーズ連作「こっちむいてエンジェル」、「眠ってサヨナラ」、企画物の「ダブル・プロット」)を加えた再編集版で岡嶋二人最後の短編集
**【収録作品】 記録された殺人 / こっちむいてエンジェル / 眠ってサヨナラ / バッド・チューニング / 遅れて来た年賀状 / 迷い道 / 密室の抜け穴 / アウト・フォーカス / ダブル・プロット
===アンソロジー===
かぎ括弧内が作者の作品
*電話ミステリー倶楽部(2016年5月 光文社文庫)「電話だけが知っている」
===ノンフィクション===
*熱い砂-パリ〜ダカール11000キロ(1991年2月 講談社文庫)
<!-- 原題コンマなし -->
===ゲームブック===
*[[ツァラトゥストラの翼]](1986年2月 講談社 / 1990年5月 講談社文庫)
=== 井上泉単独作品 ===
*ふたりは一人(1991年「週刊新潮」連載) - 1992年、新潮社刊行の『ダレカガナカニイル…』に改題・大幅加筆のうえ「井上夢人」のペンネームでソロ再デビュー。
{{See also|井上夢人}}
=== 徳山諄一単独作品 ===
*キャット・ウォーク(1991年3月号「小説推理」)<ref>『江戸川乱歩賞全集第十四巻 解説』(山前 譲)</ref>
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
==関連項目==
*[[小説家一覧]]
*[[推理作家一覧]]
*[[井上夢人]]
*[[マジカル頭脳パワー!!]]
*[[超難解推理クイズ 頭脳警察]]
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Wide Area Network
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Wide Area Network(ワイド・エリア・ネットワーク、略称:WAN(ワン))は、LANやMANに比較して広い範囲(市街地を越え郊外、県外や国際の範囲)におよぶネットワークのこと。広義には、非常に広大な面的広がりを持つインターネットとほぼ同義の言葉として使われる(参照:図1)一方、狭義には、点在するLANとLANを接続する線としてのネットワーク(参照:図2)というような意味合いでも使われる。
用法としては、LANの対義語として良く用いられる。例えば、LANとISPへの回線とを結ぶルータは、WANルータと言われ、ISPへの回線側をWAN側と言う。
WANは、LANの利用者がISPと契約しなければ敷設・利用できないという特徴がある。
ISPはLANとLANをWAN用のケーブルや無線アクセス等で接続する。そのケーブル同士の接点には、主配線盤やモデム、ルータ、レイヤ2スイッチ、レイヤ3スイッチと言ったネットワーク機器と呼ばれるものが置かれる。更にISP同士は、インターネットエクスチェンジと呼ばれる接続点で、電気通信事業者の提供するバックボーンまたは基幹回線網と呼ばれる大容量のネットワークと接続され、海底ケーブルや衛星通信などを介して国外のWANと接続される(参照:外部リンク バックボーン回線の高速化)。
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{{出典の明記|date=2019年12月}}
{{エリアネットワーク}}
'''Wide Area Network'''(ワイド・エリア・ネットワーク、略称:'''WAN'''(ワン))は、[[Local Area Network|LAN]]や[[Metropolitan Area Network|MAN]]に比較して広い範囲(市街地を越え郊外、県外や国際の範囲)におよぶ[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]のこと。広義には、非常に広大な面的広がりを持つ[[インターネット]]とほぼ同義の言葉として使われる(参照:図1)一方、狭義には、点在するLANとLANを接続する線としてのネットワーク(参照:図2)というような意味合いでも使われる。
用法としては、[[Local Area Network|LAN]]の対義語として良く用いられる。例えば、LANと[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]への回線とを結ぶ[[ルータ]]は、WANルータと言われ、ISPへの回線側を'''WAN側'''と言う。
[[ファイル:Image wideareanetwork1.png|インターネット、LAN、WANの概念的な比較イメージ]]
[[ファイル:Image wideareanetwork2.png|ネットワーク構成図におけるインターネット、LAN、WANのイメージ]]
== WANの構成 ==
WANは、LANの利用者がISPと契約しなければ敷設・利用できないという特徴がある。
ISPはLANとLANをWAN用の[[ケーブル]]や[[無線アクセス]]等で接続する。そのケーブル同士の接点には、[[主配線盤]]や[[モデム]]、[[ルータ]]、[[レイヤ2スイッチ]]、[[レイヤ3スイッチ]]と言った[[ネットワーク機器]]と呼ばれるものが置かれる。更にISP同士は、[[インターネットエクスチェンジ]]と呼ばれる接続点で、[[電気通信事業者]]の提供する[[インターネットバックボーン|バックボーン]]または[[基幹回線網]]と呼ばれる大容量のネットワークと接続され、[[海底ケーブル]]や[[衛星通信]]などを介して国外のWANと接続される(参照:外部リンク バックボーン回線の高速化)。
ISPとの契約によっては、特定のLANとだけ通信するような構成にもできる。
== WANで使われる主要なケーブル ==
*[[光ファイバー]]
*[[同軸ケーブル]]
*[[電話線]]
== WANサービスの種類 ==
; 専用線サービス
: 契約時に指定した2点間の固定的な接続を提供するサービス。
; 回線交換サービス
: 相手を指定し、接続を確立し、情報を伝送するサービス。接続先は固定ではなく、任意の接続先を選択できる。
; パケット交換サービス
: 宛先指定をパケット単位で行い、同時に複数の相手との接続を提供するサービス。
== WANの主要なプロトコル ==
*[[Point-to-Point Protocol|PPP]]
*ATM([[非同期転送モード]])
**[[Point-to-Point Protocol|PPPoA]]等
*[[イーサネット]]
**[[PPPoE]]等
== 関連項目 ==
* [[ISDN]]
* [[xDSL]]
* [[FTTH]]
* [[VPN]]
* [[広域イーサネット]]
* [[ケーブルテレビ|CATV (ケーブルテレビ)]]
* [[ネットワークインフラただ乗り論争]]
== 外部リンク ==
*[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h13/html/D1113000.htm バックボーン回線の高速化]
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ARP
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ARP
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ARP arp - 日本の音楽ユニット
Address Resolution Protocol - イーサネット環境で、IPアドレスから対応するMACアドレスを動的に得るための通信プロトコル
アープ (電子楽器メーカー) - アメリカのアナログシンセメーカー
反革命党 (オランダ) - オランダの政党
Air Raid Precautions - イギリスの第二次世界大戦中の市民防衛組織
飛行場標点(airport reference point)
AR performers (ARP/エーアールピー)- ユークスによる日本のバーチャルアーティストプロジェクト
水陸両用偵察(Amphibious Reconnaissance and Patrol)
アリピプラゾールの略称。
ハープ - 楽器
アラパホー語のISO 639
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'''ARP'''
*[[arp]] - 日本の音楽ユニット
*[[Address Resolution Protocol]] - [[イーサネット]]環境で、[[IPアドレス]]から対応する[[MACアドレス]]を動的に得るための[[通信プロトコル]]
*[[アープ (電子楽器メーカー)]] (ARP Instruments) - アメリカのアナログシンセメーカー
*{{仮リンク|反革命党 (オランダ)|nl|Anti-Revolutionaire Partij}} - オランダの政党
*{{interlang|en|Air Raid Precautions}} - イギリスの第二次世界大戦中の市民防衛組織
*{{仮リンク|飛行場標点|en|airport reference point}}(airport reference point)
*[[AR performers]] (ARP/エーアールピー)- [[ユークス]]による日本の[[バーチャルアーティスト]]プロジェクト
*{{仮リンク|水陸両用偵察|en|Amphibious Reconnaissance and Patrol}}(Amphibious Reconnaissance and Patrol)
*[[アリピプラゾール]]の略称。
*[[ハープ]] (伊 {{it|arpa}}; 記号 {{it|Arp}}) - 楽器
* [[アラパホー語]]の[[ISO 639]]
== 関連項目 ==
*[[アープ]]
*[[アルプ]]
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阪大坂
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阪大坂(はんだいざか)は、大阪府池田市にある坂。
大阪府池田市の阪急電鉄宝塚本線・箕面線 石橋阪大前駅から石橋の街中を通り、待兼山西麓を登って大阪大学豊中キャンパスへ向かうルートの後半にある坂。
石橋からの坂には他に留年坂(りゅうねんざか)もある(後述)。
阪大坂は国道171号と国道176号の交わる「石橋阪大下」交差点の南東隅から出て、待兼山中途へ至る坂の俗称。阪大豊中キャンパスを縦貫したのち、箕面市半町と中央環状線をつなぐ道路へと続くが、一般に阪大坂と呼ばれるのは、石橋阪大下交差点(座標)より豊中キャンパス通用門(座標)(正式名称は「石橋門」)までのやや急な部分である。なお阪大坂自体は豊中市待兼山町に属するが、道路南側の大部分に豊中市と池田市の市境が走っている。
石橋阪大下交差点は阪急石橋阪大前駅の南東に位置し、東改札口から約340メートル。そこから石橋門まで約440メートルが阪大坂であり、駅から石橋門までは歩いてほぼ10分を要する。かつては舗装もボロボロの狭い道であったが、2005年(平成17年)度に敷石を整え、医学部保健学科と坂の間のフェンスを除去して生垣を整備、また下の取り付け部で一部拡幅されるなど改善が進んでいる。この整備工事は、医学部保健学科敷地内に大阪大学総合学術博物館が開館するなどの、一連の整備計画の一環として行われた。
かつては自転車通学をする学生が多く見られたが2007年(平成19年)秋頃から警備員が配置され、自転車は手押しで通行するように呼びかけられ、2008年(平成20年)4月より大学関係者の自転車・バイクを含む車両の通行が禁止された。
阪大坂の入り口周辺の地域を「坂下」(さかした)と呼ぶ。
留年坂は通学のメインルートである阪大坂に対し、阪大坂から池を挟んだ反対側にある山を登る道の俗称である。たんに「裏道」と呼ばれることもある。石橋阪大下交差点付近より住宅地を抜けるか、阪大坂の途中で中山池を回り込むかするとたどり着く。獣道といった様相を呈していたが、1998年(昭和63年)頃、坂に近接する大学施設である待兼山会館の建て替えにともなって整備され、遊歩道のようになった。阪大坂と異なり階段が多く、自転車や車椅子では通行できない。
留年坂を通りキャンパス内にはいると最初にある建物は学生会館と「明道館」というサークル・クラブ棟である。このため、この坂を通って通学する学生は教室へ行かずサークル棟に入り浸りになる、ということで「留年坂」の名が付いた。教職員や付近住民らも用いる阪大坂の名称と違い、留年坂の名称の通用範囲は狭い。
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阪大坂(はんだいざか)は、大阪府池田市にある坂。
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[[画像:Handai-zaka.jpg|thumbnail|250px|right|阪大坂:遠くに見える白い建物は豊中キャンパスのイ号館]]
'''阪大坂'''(はんだいざか)は、[[大阪府]][[池田市]]にある坂。
== 概要 ==
[[大阪府]][[池田市]]の[[阪急電鉄]][[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急箕面線|箕面線]] [[石橋阪大前駅]]から[[石橋 (大阪府)|石橋]]の街中を通り、[[待兼山]]西麓を登って[[大阪大学|大阪大学豊中キャンパス]]へ向かうルートの後半にある坂。
石橋からの坂には他に'''留年坂'''(りゅうねんざか)もある([[#留年坂|後述]])。
== 阪大坂 ==
{{座標一覧}}
'''阪大坂'''は[[国道171号]]と[[国道176号]]の交わる「石橋[[大阪大学|阪大]]下」交差点の南東隅から出て、待兼山中途へ至る坂の俗称。阪大豊中キャンパスを縦貫したのち、[[箕面市]]半町と[[大阪府道2号大阪中央環状線|中央環状線]]をつなぐ道路へと続くが、一般に阪大坂と呼ばれるのは、石橋阪大下交差点{{ウィキ座標|34|48|24.51|N|135|26|50.56|E|region:JP_type:landmark|<small>(座標)</small>|name=石橋阪大下交差点}}より豊中キャンパス通用門{{ウィキ座標|34|48|23.48|N|135|27|3.94|E|region:JP_type:landmark|<small>(座標)</small>|name=豊中キャンパス通用門}}(正式名称は「石橋門」)までのやや急な部分である。なお阪大坂自体は[[豊中市]]待兼山町に属するが、道路南側の大部分に豊中市と[[池田市]]の市境が走っている。
石橋阪大下交差点は阪急石橋阪大前駅の南東に位置し、東改札口から約340メートル。そこから石橋門まで約440メートルが阪大坂であり、駅から石橋門までは歩いてほぼ10分を要する。かつては舗装もボロボロの狭い道であったが、[[2005年]]([[平成]]17年)度に敷石を整え、医学部保健学科と坂の間のフェンスを除去して生垣を整備、また下の取り付け部で一部拡幅されるなど改善が進んでいる。この整備工事は、医学部保健学科敷地内に[[大阪大学総合学術博物館]]が開館するなどの、一連の整備計画の一環として行われた。
かつては自転車通学をする学生が多く見られたが[[2007年]](平成19年)秋頃から警備員が配置され、自転車は手押しで通行するように呼びかけられ、[[2008年]](平成20年)4月より大学関係者の自転車・バイクを含む車両の通行が禁止された。
阪大坂の入り口周辺の地域を「'''坂下'''」(さかした)と呼ぶ。
== 留年坂 ==
'''留年坂'''は通学のメインルートである阪大坂に対し、阪大坂から池を挟んだ反対側にある山を登る道の俗称である。たんに「裏道」と呼ばれることもある。石橋阪大下交差点付近より住宅地を抜けるか、阪大坂の途中で中山池を回り込むかするとたどり着く。獣道といった様相を呈していたが、[[1998年]]([[昭和]]63年)頃、坂に近接する大学施設である待兼山会館の建て替えにともなって整備され、遊歩道のようになった。阪大坂と異なり階段が多く、自転車や車椅子では通行できない。
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== 関連記事 ==
* [[大阪大学]]
* [[原級留置]](留年)
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小野不由美
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小野 不由美(おの ふゆみ、1960年12月24日 -)は、日本の小説家。大分県中津市出身、京都市在住。血液型はO型。夫は推理作家の綾辻行人。代表作は『ゴーストハントシリーズ』『十二国記シリーズ』『屍鬼』など。
1960年12月24日、大分県中津市に生まれる。父親は設計事務所を経営し、幼いころから図面に馴染みがあり、長じて建物に対する興味が湧く。また、出身地には怪奇伝説や伝承が多く、幼少期から両親にせがんで怪奇話を聞く。1976年、大分県立中津南高等学校に入学。アニメーション&漫画研究部を設立、初代会長を務めていた。 1979年、大谷大学文学部仏教学科に入学する。在学中に京都大学推理小説研究会に所属する。当時のペンネームは宇野冬美。同時期の部員には、後に小説家となる綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸らがいた。1986年、部員仲間の綾辻行人と学生結婚する。同年、大学を卒業。大学院に在籍するも、学資が尽き自主退学。目標を見失うが、大学時代に書いた小説を読んだ編集者から小説を書かないかと誘われる。それまで小説家になろうと積極的に考えたことはなかったという。1988年、『バースデイ・イブは眠れない』で講談社X文庫ティーンズハートからデビューする。1989年、悪霊シリーズ第1作『悪霊がいっぱい!?』を発表。足掛け5年つづく人気シリーズとなり、後にコミック化、テレビアニメ化された。1992年、十二国記シリーズの第1作『月の影 影の海』を発表。著者の代表作となる。
1993年、『東亰異聞』が第5回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作になる。後に新潮社より刊行。1996年、『図南の翼』が「本の雑誌」のベスト10に選出。北上次郎が週刊誌の書評欄で絶賛するなど、少女小説の範疇を越えて注目を集める。1998年、原稿用紙3500枚の大作である『屍鬼』を発表。ベストセラーとなり、世間に広く名が知られるようになる。1999年、『屍鬼』が第12回山本周五郎賞、日本推理作家協会賞の候補作になる。
2010年から2011年にかけて、『悪霊シリーズ』全7巻を全面的に改稿し、メディアファクトリーより『ゴーストハントシリーズ』として改題・刊行した。
2012年、『十二国記』が、新潮文庫に版元を変えて刊行スタートする。一部テキストにも手が加えられている。2013年6月には、シリーズ12年ぶりの短篇集『丕緒の鳥』が出版された。
2012年7月、ホラー小説『残穢』を刊行。翌2013年5月、第26回山本周五郎賞を受賞する。2016年に映画化。
2019年、『十二国記』最新作で長編としては18年ぶりとなる『白銀の墟 玄の月』を刊行。翌2020年、『十二国記』シリーズで第5回吉川英治文庫賞を受賞。
ファンクラブの運営に関わり、同人誌に短編を発表していた。長らく入手困難だったが、『十二国記』シリーズの短編は、のちに短編集『華胥の幽夢』に収録された。
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小野 不由美は、日本の小説家。大分県中津市出身、京都市在住。血液型はO型。夫は推理作家の綾辻行人。代表作は『ゴーストハントシリーズ』『十二国記シリーズ』『屍鬼』など。
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{{存命人物の出典明記|date=2013年3月17日 (日) 16:12 (UTC)}}
{{Infobox 作家
|name=小野 不由美<br />(おの ふゆみ)
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<!--|footnotes=脚注・小話-->
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{{読み仮名_ruby不使用|'''小野 不由美'''|おの ふゆみ|[[1960年]][[12月24日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]。[[大分県]][[中津市]]出身、[[京都市]]在住。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。夫は[[推理作家]]の[[綾辻行人]]。代表作は『[[悪霊シリーズ|ゴーストハントシリーズ]]』『[[十二国記]]シリーズ』『屍鬼』など。
==経歴==
1960年12月24日、[[大分県]][[中津市]]に生まれる<ref>[http://www.kadokawa.co.jp/company/release/detail.html?id=2014201005 ニュースリリース |角川書店 |KADOKAWA]{{リンク切れ|date=2018年4月}}</ref><ref>[http://www.library.tachikawa.tokyo.jp/authoritydetail;jsessionid=63FA8284418ACDFF219E54E21DE6188F?0&auttp=0&autid=102000000000000026993&list=1 典拠詳細 立川市図書館]</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E4%B8%8D%E7%94%B1%E7%BE%8E-1123499 小野不由美とは - コトバンク]{{出典無効|date=2018-08}}</ref>。父親は設計事務所を経営し、幼いころから図面に馴染みがあり、長じて建物に対する興味が湧く。また、出身地には怪奇伝説や伝承が多く、幼少期から両親にせがんで怪奇話を聞く<ref name="ダ・ヴィンチ2012.9" />。1976年、[[大分県立中津南高等学校]]に入学。アニメーション&漫画研究部を設立、初代会長を務めていた。
1979年、[[大谷大学]]文学部仏教学科に入学する<ref>[http://www.otani.ac.jp/annai/nab3mq0000000zl6-att/koho04spring.pdf 大谷大学広報 2004 春「『十二国記』シリーズ著者・小野不由美さんは本学文学部仏教学科卒業生である。」]2019年8月13日閲覧</ref>。在学中に[[京都大学]]推理小説研究会に所属する。当時のペンネームは宇野冬美。同時期の部員には、後に小説家となる[[綾辻行人]]・[[法月綸太郎]]・[[我孫子武丸]]らがいた。1986年、部員仲間の綾辻行人と学生結婚する。同年、大学を卒業。大学院に在籍するも、学資が尽き自主退学<ref name="ann"/>。目標を見失うが、大学時代に書いた小説を読んだ編集者から小説を書かないかと誘われる<ref name="ann"/>。それまで小説家になろうと積極的に考えたことはなかったという<ref name="ann"/>。1988年、『バースデイ・イブは眠れない』で[[講談社X文庫ティーンズハート]]からデビューする。1989年、[[悪霊シリーズ]]第1作『悪霊がいっぱい!?』を発表。足掛け5年つづく人気シリーズとなり、後にコミック化、テレビアニメ化された。1992年、十二国記シリーズの第1作『月の影 影の海』を発表。著者の代表作となる。
1993年、『[[東亰異聞]]』が第5回[[日本ファンタジーノベル大賞]]の最終候補作になる。後に新潮社より刊行。1996年、『図南の翼』が「本の雑誌」のベスト10に選出。北上次郎が週刊誌の書評欄で絶賛するなど、少女小説の範疇を越えて注目を集める<ref name="ダ・ヴィンチ2012.9">「ダ・ヴィンチ」2012年9月号「特集 小野不由美」</ref>。1998年、原稿用紙3500枚の大作である『[[屍鬼]]』を発表。ベストセラーとなり、世間に広く名が知られるようになる。1999年、『屍鬼』が第12回[[山本周五郎賞]]、[[日本推理作家協会賞]]の候補作になる。
2010年から2011年にかけて、『悪霊シリーズ』全7巻を全面的に改稿し、[[メディアファクトリー]]より『ゴーストハントシリーズ』として改題・刊行した。
2012年、『十二国記』が、新潮文庫に版元を変えて刊行スタートする。一部テキストにも手が加えられている。2013年6月には、シリーズ12年ぶりの短篇集『丕緒の鳥』が出版された。
2012年7月、ホラー小説『[[残穢]]』を刊行。翌2013年5月、第26回山本周五郎賞を受賞する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shinchosha.co.jp/prizes/yamamotosho/26/ |title=第26回山本周五郎賞|新潮社 |accessdate=2013-5-16}}</ref>。2016年に映画化。
2019年、『十二国記』最新作で長編としては18年ぶりとなる『白銀の墟 玄の月』を刊行。翌2020年、『十二国記』シリーズで第5回[[吉川英治文庫賞]]を受賞。
==作風==
*[[ホラー小説|ホラー]]的な要素を強めた本格[[ミステリー]]や、[[山海経]]の伝説や妖怪の世界と併せて、中国古代史に範を取った重厚な世界観を構築する[[ハイ・ファンタジー]]、十二国記シリーズがある。
*十二国記シリーズは、新潮社でホラー『魔性の子』を書いたときに、背景となる想定世界として作られ、地図や年表、図表なども作っていた<ref name="ダ・ヴィンチ2012.9" />。それをファンタジーを書くことを提案した講談社編集者に話したところ小説化するように勧められた、結果として好評でシリーズが生まれた。約30年にわたって書き継がれており、本編としては、あと長編1冊で完結する<ref name="ダ・ヴィンチ2012.9" />。
*『残穢』では、ドキュメンタリー・ホラーに踏み込み、ルポルタージュ文体で書き、山本周五郎賞を受賞した。選考会では、「今まで読んだ小説の中で一番怖い」、「手元に本を置いておくことすら怖い」([[唯川恵]])と高い評価を受けた<ref>[http://www.zassi.net/detail.cgi?gouno=33756 「小説新潮」2013年7月号第26回 山本周五郎賞 決定発表]2013年7月22日閲覧</ref>。
*小説の執筆は、きっかけはあっても、他者の作品のシーンや好きな話に触発されたり、その話や構成を自己展開するなど、技術を駆使して作品の形にしている。小説の技術論が日本では確立していないと思っている。技術的にすごいので、[[藤沢周平]]と[[篠田節子]]を尊敬している。物語を主軸にしてキャラクターは「記号」「パーツ」として扱うが、少しは共感しないと作品内で存在できず、こちらから歩み寄るようにしている。文章を書くのに、「不必要に言葉を省略しないこと」、「言葉の意味を共有するために辞書に載っている意味通りに言葉を使う」、「多くの資料をあたる」ようにしている。<ref name="1999講演" />
*ミステリを好み、ファンタジーは小説の依頼を受けて初めて入ったが、あまり読まない<ref name="ann"/>。[[ディーン・R・クーンツ]]と[[スティーヴン・キング]]の大きな影響がある。[[アーサー・ランサム]]、[[J・R・R・トールキン]]にも影響を受けている。作品では[[ロジャー・ゼラズニイ]]の[[真世界アンバー]]シリーズを愛読した<ref name="1999講演">1999年大谷大学仏教学会の講演会発言</ref>。また、[[C.S.ルイス]]『[[ナルニア国ものがたり]]』も自身のファンタジーの理想形の形成に大きく寄与している<ref name="ann">[http://www.animenewsnetwork.com/interview/2007-03-18/fuyumi-ono-author-of-the-twelve-kingdoms Fuyumi Ono, Author of The Twelve Kingdoms] Mar 18th 2007 Anime News Network</ref>。
==エピソード==
* デビュー以来、基本的に人前には出ず顔写真も公開していない。山本周五郎賞を受賞した際も、会見は行わず電話インタビューのみだった<ref name="山周賞記事">[http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20130521-OYT8T00772.htm 読売新聞 2013年5月28日「山本周五郎賞に小野不由美さん」]2013年7月22日閲覧</ref>。講演も1999年11月9日の母校である[[大谷大学]]仏教学会の「仏教学部卒業生はいま - 作家になった小野不由美さんの場合」のみである<ref>{{Cite journal|和書|title=彙報 |volume=79 |issue=4 |pages=69-71 |date=2000-09-30 |journal=大谷學報 |publisher=大谷学会 |ISSN=0287-6027}}(終了後の掲載)]</ref>。雑誌「[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]」の特集インタビューで[[和服|着物]]を着た後姿が掲載された<ref name="ダ・ヴィンチ2012.9" />。「波」1998年9月号の[[京極夏彦]]との対談では、京極の背後で俯いて顔を隠した写真が掲載されている。
* [[竹本健治]]のミステリー小説『ウロボロスの基礎論』とその続編では容疑者のひとりとして実名で登場する。
* 1990年代には[[テレビゲーム]]にはまった時期があり、専門誌で連載を持っていた<ref>『ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか』1996年3月 ソフトバンククリエイティブ</ref>。
* 現在も様々な理由でメディア出演を控えているが、ゲーム好きという一面は変わっておらず、夫によればオンラインゲーム『[[ファイナルファンタジーXIV]]』を熱心にプレイし続けているという<ref>{{Cite web|和書|title=綾辻行人さん×FF14・FF16吉田直樹プロデューサー対談 ミステリもゲームも「驚き」が命|好書好日 |url=https://book.asahi.com/article/14965356 |website=好書好日 |access-date=2023-08-15 |language=ja}}</ref>。
==関連人物==
* [[綾辻行人]] - 夫で[[推理作家]]。デビュー作『[[十角館の殺人]]』は、小野の郷里である[[大分県]]を舞台としている。
* [[宇山日出臣]] - 講談社の編集者。雑誌「[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]」の誌名は小野の著書『メフィストとワルツ!』のタイトルに因む。宇山はこの本の担当編集者で、意欲的に取り組んだが不発に終わり、後に「メフィスト」創刊の時、そのリベンジの意を込めて命名した。『くらのかみ』は、宇山が定年退職前に最後に手掛けた企画であるミステリー叢書『[[ミステリーランド]]』の第1回配本として刊行。2007年に死去。
* [[小野剛 (野球)|小野剛]] - 従兄の子。元プロ野球選手。実業家。
==文学賞受賞歴・候補歴==
*1993年 - 『[[東亰異聞]]』が第5回[[日本ファンタジーノベル大賞]]の最終候補。
*1999年 - 『[[屍鬼]]』が第12回[[山本周五郎賞]]、第52回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)候補。
*2002年 - 『[[黒祠の島]]』が第2回[[本格ミステリ大賞]]の最終候補。
*2003年 - 『くらのかみ』が第4回本格ミステリ大賞の最終候補。
*2013年 - 『[[残穢]]』で'''第26回山本周五郎賞'''を受賞。
*2019年 - 『営繕かるかや怪異譚 その弐』が第10回[[山田風太郎賞]]候補。
*2020年 - 「[[十二国記]]」シリーズで'''第5回[[吉川英治文庫賞]]受賞'''。
==ミステリ・ランキング==
*1999年 - 『屍鬼』が『[[このミステリーがすごい!]]』第4位。
*2001年 - 『[[黒祠の島]]』が「[[本格ミステリベスト10]] (2002年版)3位。
*2003年 - 『くらのかみ』が「本格ミステリベスト10 2004年版」7位。
*2004年1月 - 『屍鬼』が「[[Yahoo!JAPAN|Yahoo!]]ユーザーが選ぶ2003年ベストミステリー」6位。
==著作==
===小説===
*バースデイ・イブは眠れない(1988年9月 [[講談社X文庫ティーンズハート]])
*メフィストとワルツ!(1988年12月 講談社X文庫ティーンズハート) - 『バースデイ・イブ…』の続編。
*悪霊なんかこわくない(1989年1月 講談社X文庫ティーンズハート)
*[[悪霊シリーズ]](講談社X文庫ティーンズハート) → ゴーストハント([[メディアファクトリー]]【改作】単行本全7巻)
*呪われた十七歳(1990年7月 [[朝日ソノラマ]] パンプキン文庫 - イラスト:生嶋 美弥)
**【改題】過ぎる十七の春(1995年4月 講談社X文庫ホワイトハート - イラスト:波津 彬子)朝日ソノラマ版を加筆・修正
**【新装版】過ぎる十七の春(2016年3月 講談社X文庫ホワイトハート - イラスト:樹 なつみ)
**【新装版】過ぎる十七の春(2023年1月 角川文庫)講談社版を加筆・修正
*グリーンホームの亡霊たち(1990年11月 朝日ソノラマ パンプキン文庫 - イラスト:生嶋 美弥)
**【改題】緑の我が家 Home, Green Home(1997年6月 講談社X文庫ホワイトハート - イラスト:山内 直実)
**【新装版】緑の我が家 Home, Green Home(2015年8月 講談社X文庫ホワイトハート - イラスト:樹 なつみ)
*[[十二国記]](講談社X文庫版、全11巻)
*倫敦、1888(1994年3月) - アンソロジー『架空幻想都市【上】』([[ログアウト冒険文庫]])収録
*[[東亰異聞]](1994年4月 新潮社 / 1999年5月 新潮文庫)
*[[屍鬼]](1998年9月 新潮社【上・下】 / 2002年2月・3月 新潮文庫【1 - 5】)
*[[黒祠の島]](2001年2月 [[祥伝社]] [[ノン・ノベル]] / 2004年6月 [[祥伝社文庫]] / 2007年7月 新潮文庫)
*くらのかみ(2003年7月 講談社〈[[ミステリーランド]]〉)
*[[鬼談百景]](2012年7月 メディアファクトリー / 2015年7月 角川文庫)
*[[残穢]](2012年7月 新潮社 / 2015年7月 新潮文庫)
*営繕かるかや怪異譚
**営繕かるかや怪異譚(2014年12月 [[KADOKAWA]] / 2018年6月 角川文庫)
**営繕かるかや怪異譚 その弐(2019年8月 KADOKAWA / 2022年6月 角川文庫)
**営繕かるかや怪異譚 その参(2022年8月 KADOKAWA)
*怪談えほん(10) はこ(2015年5月 [[岩崎書店]] - nakaban(絵)、[[東雅夫]](編))
===エッセイ===
*ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか(1996年3月 [[SBクリエイティブ|ソフトバンククリエイティブ]]、1992年 - 1996年 「[[Theスーパーファミコン]]」)- 単行本の挿絵・イラストエッセイと対談相手は[[水玉螢之丞]]。
*小野不由美&菅浩江スペシャル・メールエッセイ(1994年、『[[小説あすか]]』)
*小野家の家訓(1994年、『[[小説現代]]』11月号)
*陰謀かもしれない(2000年、『[[IN★POCKET]]』1月号)
*隅っこの人(2002年、角川書店刊、『綾辻行人 ミステリ作家徹底解剖』に収録)
*「[[鮎川哲也]]」を偲んで(2002年、[[東京創元社]]、[[山前譲]]編『本格一筋六十年、 思い出の鮎川哲也』に収録)
*すべての本を一列に並べよ (2006年、『yom yom』vol.1)
===作品解説===
*[[シャーロット・マクラウド]] 下宿人が死んでいく(1989年、[[創元推理文庫]])
*[[ライア・マテラ]] あらゆる信念(1992年、創元推理文庫)
*[[斎藤肇]] 魔法物語(上) 黒い風のトーフェ(1993年、[[講談社文庫]])
*[[竹本健治]] 腐食(1994年、角川ホラー文庫)
*[[楳図かずお]] 恐怖(1995年、秋田文庫)
*[[菊地秀行]] ブルーマン(1995年、講談社文庫)
*[[田中芳樹]] [[創竜伝]]5(1995年、講談社文庫)
*[[水樹和佳]] 樹魔・伝説(1996年、創美社コミックス)
*[[津原泰水]] [[妖都]](1997年、講談社)(推薦文)
*[[倉知淳]] 日曜の夜は出たくない(1998年、創元推理文庫)
*田中芳樹 銀河英雄伝説9 回天篇(1998年、徳間文庫)
*[[京極夏彦]] どすこい(仮)(2000年、[[集英社]])(帯文)-『屍鬼』のパロディ作品が収録されており、帯文を寄せている。
*[[京極夏彦]] 後巷説百物語(2007年、[[角川書店]])
*[[乙一]] 夏と花火と私の死体(2000年、[[集英社文庫]])
*[[山田章博]] BEAST of EAST 東方眩暈録2(2000年、[[ソニー・マガジンズ]])(帯文)
*[[真木武志]] ヴィーナスの命題(2000年、角川書店)(推薦文)
*[[波津彬子]] 雨柳堂夢咄 其の三(2002年、ソノラマコミック文庫)
===その他===
*装画
**[[綾辻行人]]『霧越邸殺人事件』(1990年、新潮社)
*図面作成
**綾辻行人『霧越邸殺人事件』『暗黒館の殺人』
**[[竹本健治]]『眠れる森の惨劇』
**[[笠井潔]]『オイディプス症候群』
*漫画原作
**[[いなだ詩穂]]『サイレント・クリスマス』(1999年、「[[なかよし]]」12月号、『[[悪霊シリーズ#漫画|ゴーストハント]]』に新エピソードを書き下ろし)
*アンソロジー(編纂)
**[[連城三紀彦]]『連城三紀彦 レジェンド 傑作ミステリー集』(2014年11月 講談社文庫) - 綾辻行人、[[伊坂幸太郎]]、[[米澤穂信]]と共編
**連城三紀彦『連城三紀彦 レジェンド2 傑作ミステリー集』(2017年9月 講談社文庫) - 綾辻行人、伊坂幸太郎、米澤穂信と共編
===同人誌===
ファンクラブの運営に関わり、同人誌に短編を発表していた。長らく入手困難だったが、『十二国記』シリーズの短編は、のちに短編集『華胥の幽夢』に収録された。
*小野不由美ファンクラブ
**『悪霊になりたくない!』のあとがきでファンクラブができたと記載されたが、初期に問い合わせた読者しか入会できなかった。オフィシャルファンクラブと認定をしない代わりに小野不由美自身もファンクラブに参加。作品やキャラクター作成の裏話等をファンクラブ代表がインタビュー形式や設問形式で会報に掲載していた。1991年1月 - 1992年9月に創設号 - NO.15、解散時に記念として同人誌が1冊、便箋2種、テレホンカードが発行された。
*京都私設情報局
**小野不由美の[[ファンクラブ]]を創設するも落選者が多数生じたため、代わりに情報ペーパーを発行することになった。1992年 - 1997年、に0号 - 15号が発行された。悪霊シリーズや十二国記シリーズの短編が掲載され、[[同人誌]]「中庭同盟」にまとめられている。
*「中庭同盟」
**国会図書館収蔵が確認されている<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000073554 国立国会図書館2010年11月18日「国立国会図書館東京本館に所蔵図書『中庭同盟』調査」]2021年8月4日閲覧</ref>。
**いちばん見えない横顔(悪霊シリーズ)
**白いカラスのための告悔(悪霊シリーズ)
**GENKI(悪霊シリーズ)
**千年の王国(悪霊シリーズ)
**彼の現実(悪霊シリーズ)
**衛星の
**The Green Home(悪霊シリーズ)
**Eugene(悪霊シリーズ)
**書簡(十二国記シリーズ)
**函丈(十二国記シリーズ)
*麒麟都市
**小野不由美オンリーイベントを記念して発行された同人誌。『十二国記』シリーズの短編「帰山」を寄稿。
==メディア・ミックス==
===漫画===
*[[いなだ詩穂]] 『[[悪霊シリーズ#アニメ「ゴーストハント」|ゴーストハント]]』(1998年、「[[Amie]]」、1999年 - 、「[[なかよし]]」、[[講談社]])
*岸田あつ子 『緑の我が家』(1999年、[[角川書店]])
*[[梶原にき]] 『[[東亰異聞]]』(2001年、「[[コミックバーズ]]」、[[幻冬舎]]、2013年7月 漫画文庫)
*[[山本小鉄子]] 『[[黒祠の島]]』(2005年 - 2006年、幻冬舎)
*[[山本小鉄子]] 『過ぎる十七の春』(2007年 - 2008年、幻冬舎、2013年4月 漫画文庫)
*[[藤崎竜]] 『[[屍鬼]]』(2007年、「[[ジャンプスクエア]]」、[[集英社]]、2016年7月 - 9月、集英社文庫)
*漆原ミチ『鬼談百景』(2015年9月 角川書店 幽COMICS)
===テレビアニメ===
*[[十二国記]] (2002年、[[日本放送協会|NHK]])
*[[悪霊シリーズ#アニメ「ゴーストハント」|ゴーストハント]] (2006年、[[テレビ東京]]系)
*[[屍鬼]] (2010年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系「[[ノイタミナ]]」)
===映画===
*[[残穢#映画|残穢 -住んではいけない部屋-]](2016年1月30日)<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20150620/1/ |title=竹内結子“怖すぎるホラー”で橋本愛と初共演!中村義洋監督とは5度目のタッグ |publisher=映画.com |date=2015-06-20 |accessdate=2015-06-20 }}</ref>
===舞台===
*東の海神 西の海神(1997・2000年、[[劇団てぃんかーべる]])
*[[東亰異聞]](2004年、劇団てぃんかーべる)
===ラジオドラマ===
*悪霊狩り〜ゴーストハント(1997年、[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]「宮村優子の直球で行こう」内で放送)
**脚本:[[會川昇]]/出演:[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]・[[岡野浩介]]・[[松本保典]]・[[三木眞一郎]]・[[山口勝平]]・[[新山志保]]・[[かないみか]]・[[小杉十郎太]]
*残穢 (2014年1月18日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]「[[FMシアター]]」)
**脚色:井出真理/出演:[[南果歩]]・[[平岩紙]]・[[伊藤友乃]]・[[石河美幸]]・[[内田藍子]]・[[外山文孝]]・[[鈴木惠理]]・[[登澤良平]]・[[原みなほ]]・[[高川裕也]]
===CD===
*[[魔性の子]](1997年、[[キティMME]])
**脚本:[[相良敦子 (脚本家)|相良敦子]]/演出:[[斯波重治]]/出演:[[伊崎充則]]・[[平田康之]]
*東の海神 西の滄海(1997年、[[講談社]])
**脚本:[[渡辺麻実]]/出演:[[山口勝平]]・[[梁田清之]]・[[石田彰]]・松本保典・[[子安武人]]・[[関智一]]・三木眞一郎・[[折笠愛]]
===ゲーム===
*十二国記 オンライン(2003年、[[アスミック・エースエンタテインメント]]、ネットゲーム)
*[[十二国記 -紅蓮の標 黄塵の路-]](2003年、[[コナミ]]、[[PlayStation 2]])
*[[十二国記 -赫々たる王道 紅緑の羽化-]](2004年、コナミ、PlayStation 2)
==関連図書==
*『小野不由美ゴーストハント読本』幽BOOKS、「ゴーストハント」編集委員会 編(2013年7月 メディアファクトリー)
==脚注==
<references/>
==外部リンク==
*[http://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/ 小野不由美『十二国記』新潮社公式サイト]
*[https://web.archive.org/web/20150817005004/http://www3.nhk.or.jp/anime/12kokuki/ NHKアニメワールド:十二国記]
*[https://web.archive.org/web/20120204040005/http://www.12kokuki.com/ アニメ「十二国記」公式ページ]
*[https://www.1101.com/editor/1998-12-03.html ほぼ日刊イトイ新聞:担当編集者は知っている。]
*[https://web.archive.org/web/20110718024401/http://books.yahoo.co.jp/special/mystery2003/japan/best10.html Yahoo!JAPAN:ユーザーが選ぶ2003年ベストミステリー]
*[http://www.tsogen.co.jp/suisen/2000_suisen.html 東京創元社:2000年推薦フェア]
*[https://web.archive.org/web/20010418043205/http://www01.u-page.so-net.ne.jp/dj8/chipo/index.htm 海楼月華]
*[https://web.archive.org/web/20050808001527/http://www.sainet.or.jp/~omu/hobby/novel/stc/stc.html 十二国記の部屋]
{{山本周五郎賞|第26回}}
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[[Category:小野不由美|*]]
[[Category:20世紀日本の女性著作家]]
[[Category:21世紀日本の女性著作家]]
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[[Category:日本のホラー作家]]
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[[Category:大谷大学出身の人物]]
[[Category:大分県出身の人物]]
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|
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10,901 |
Address Resolution Protocol
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Address Resolution Protocol (アドレス解決プロトコル、略称:ARP、アープ)は、与えられたインターネット層アドレス(一般的にはIPv4アドレス)に対応するリンク層アドレス(MACアドレスなど)を発見するために使用される通信プロトコルである。この対応付けは、インターネット・プロトコル・スイートにおける重要な機能である。ARPは、1982年に RFC 826 (インターネット標準 STD 37)で定義され、その後 RFC 5227, RFC 5494 により内容のエンハンスが行われている。
ARPは、ネットワーク層技術とデータリンク層技術の様々な組み合わせで実装されている。IEEE 802標準を使用したIPv4、Chaosnet(英語版)、DECnet、PARC Universal Packet(英語版)(PUP)、および、FDDI、X.25、フレームリレー、ATMなどである。IEEE 802.3(イーサネット)およびIEEE 802.11(無線LAN)上のIPv4が最も一般的な使用法である。
IPv6ネットワークでは、ARPの機能はICMPv6の近隣探索プロトコル(NDP)によって提供される。
ARPはリクエスト=レスポンス・プロトコル(英語版)であり、メッセージがリンク層プロトコルによってカプセル化される。単一のサブネットワークの内部のみで通信され、ルータを越えてルーティングされることはない。この特性のため、ARPはインターネットプロトコルスイートのリンク層に配置される。
ARPは、1つのアドレスのみの解決要求または応答を含む単純なメッセージフォーマットを使用する。ARPメッセージのサイズは、リンク層とネットワーク層のアドレスサイズによって異なる。メッセージヘッダで、各層で使用されているネットワークの種類とそれぞれのアドレスのサイズを指定する。メッセージヘッダには、要求(1)と応答(2)のどちらかであるかを示すオペレーションコードが含まれる。パケットのペイロードは、送信側ホストと受信側ホストそれぞれのハードウェアアドレスとプロトコルアドレス、計4つのアドレスで構成されている
イーサネット上で実行されているIPv4ネットワークの場合のARPパケットの構造を次の表に示す。この例では、パケットには送信元ハードウェアアドレス(SHA)と送信先ハードウェアアドレス(THA)用の48ビットフィールドと、対応する送信元プロトコルアドレス(SPA)と送信先プロトコルアドレス(TPA)用の32ビットフィールドがある。この場合のARPパケットサイズは28バイトである。
ARPプロトコルのパラメータ値は Internet Assigned Numbers Authority (IANA) によって標準化され、維持されている.。
ARPのEtherTypeは0x0806である。これは、イーサネットヘッダ内で使用されてペイロードがARPパケットであることを示すものであり、カプセル化されるARPパケット内に含まれるPTYPEとは別である。
送信元は、送信元のIPアドレス・MACアドレスと送信先のIPアドレスを格納したARPリクエスト(送信先のMACアドレスはALL0)をブロードキャストで送信する。ARPリクエストを受信した各ノードは、格納された送信先IPアドレスが自身のIPアドレスと同一であれば、自身のMACアドレスを格納したARPリプライを送信元に返信する。
効率を上げるため、多くの機器では一度取得したIPアドレスとMACアドレス間のマッピング情報をARPテーブルにARPキャッシュとして保持する。BSD Unix に由来する TCP/IP スタックを実装した機器の多くは、タイムアウト値として 1200秒(20分)を採用している。また、Ciscoの機器ではタイムアウトのデフォルト値として14400秒(4時間)を採用している。キャッシュ情報はWindowsであればコマンドプロンプトから arp -a と入力すれば一覧が見られ、キャッシュ情報はハイフンで分割された6つの16進数で表示される。
ARPプローブ(ARP probe)とは、送信者IPアドレス(SPA)をALL0にしたARPリクエストである。この用語は、IPv4 Address Conflict Detection(IPv4アドレス競合検出)仕様( RFC 5227 )で使用されている。この仕様を実装しているホストは、IPv4アドレスの使用を開始する前に(手動設定、DHCP、またはその他の手段でIPアドレスを受信したかどうかにかかわらず)、ARPプローブパケットをブロードキャストで送信して、アドレスが既に使用中かどうかを確認する必要がある。
ARPは、単純なアナウンスプロトコルとしても使用できる。これは、送信者のIPアドレスまたはMACアドレスが変更されたときに、他のホストのハードウェアアドレスのマッピングを更新するために使用される。このアナウンスメントはgratuitous ARP(GARP)メッセージとも呼ばれ、通常、送信先ハードウェアアドレス(THA)をALL0に設定し、送信元プロトコルアドレスを送信先プロトコルアドレスに格納した(TPA=SPA)ARPリクエストパケットであり、ブロードキャストで送信される。また、送信先アドレスと送信元アドレスの両方に送信元アドレスを格納(TPA=SPA、THA=SHA)したARPリプライをブロードキャストで送信したものもARPアナウンスメントとして使用される。
gratuitous ARPは、ARPリクエスト・ARPリプライのどちらも規格に規定されている正規の手法であるが、ARPリクエストを使用するほうが望ましい。デバイスによっては、どちらかのGARPを使用するように設定されているものもある。
ARPアナウンスは応答を求めることを目的としていない。パケットを受信した他のホストに対し、ARPテーブル内のキャッシュエントリを更新させることを目的としている。ARPの規格では、ARPテーブルがアドレスフィールドから更新される時のみオペレーションコードを解釈することと規定しているので、オペレーションコードは要求と応答のどちらでも良い。
多くのオペレーティングシステムは、起動時にGratuitous ARPを実行する。これは、仮に電源を落としている間にネットワークカードが変更されていた場合に、他のホストのARPキャッシュテーブルにIPアドレスと以前のMACアドレスとのマッピングが残っていると問題が起こるためである。
ARPメディエーション(ARP mediation)とは、接続した回線で異なるアドレス解決プロトコルが使用されている場合(例えば、一方の端がイーサネットで、もう一方の端がフレームリレーであるような場合)、Virtual Private Wire Service(VPWS)を介してレイヤ2アドレスを解決するプロセスである。IPv4では、各プロバイダエッジ(英語版)(PE)デバイスは、ローカルに接続されているカスタマエッジ(英語版)(CE)デバイスのIPアドレスを検出し、そのIPアドレスを対応するリモートPEデバイスに配布する。その後、各PEデバイスは、リモートCEデバイスのIPアドレスとローカルPEデバイスのハードウェアアドレスを使用してローカルのARPリクエストに応答する。IPv6では、各PEデバイスはローカルとリモートの両方のCEデバイスのIPアドレスを検出し、次にローカルの近隣探索(ND)パケットと逆近隣探索(IND)パケットを代行受信し、それらをリモートPEデバイスに転送する。
Inverse Address Resolution Protocol(Inverse ARP、InARP)は、データリンク層(レイヤ2)アドレスから他のノードのネットワーク層アドレス(IPアドレスなど)を取得するために使用される。これは主にフレームリレー(DLCI(英語版))やATMで使用される。これらのネットワークでは、仮想回線のレイヤ2アドレスはレイヤ2シグナリングから取得されることがあり、その仮想回線を使用する前に対応するレイヤ3アドレスを使用できるようにする必要がある。
ARPはレイヤ3アドレスをレイヤ2アドレスに変換するので、InARPはその逆と表現することができる。InARPはARPのプロトコル拡張として実装されている。ARPと同じパケットフォーマットを使用するが、オペレーションコードは異なる。
Reverse Address Resolution Protocol(Reverse ARP、RARP)は、InARPと同様にレイヤ2アドレスをレイヤ3アドレスに変換するために使用する。ただし、InARPでは、要求側は別のノードのレイヤ3アドレスを照会するのに対し、RARPはアドレス設定の際に要求側自体のレイヤ3アドレスを取得するために使用される。RARPは現在ではほぼ使用されていない。RARPはBOOTPに置き換えられ、BOOTPも後にDHCPに置き換えられている。
ARPにはネットワーク上のARPリプライを認証する方法がなく、ARPリプライは必要なレイヤ2アドレスを持つシステム以外のシステムから送信される可能性もある。プロキシARP(Proxy ARP)は、ネットワークの設計の一部として、他のネットワークにARP要求があった場合にルータがホストに代わって回答する仕組みであり、NAT環境下において使用される例が多い。これに対して、ARPスプーフィング(ARP spoofing)は、そのシステム宛てのデータを傍受する目的で、別のシステムのアドレスに対するARPリクエストに応答するものである。ARPスプーフィングを使用して、悪意のあるユーザがネットワーク上の他のユーザーに対して中間者攻撃やDoS攻撃を行う可能性がある。ARP自体にはこのような攻撃からの保護方法は提供されておらず、ARPスプーフィング攻撃を検出して対策するための様々なソフトウェアが存在する。
それぞれのコンピュータは、レイヤ3アドレス(IPアドレスなど)とレイヤ2アドレス(イーサネットMACアドレスなど)のマッピングのデータベースを維持する。これは、主にローカルネットワークリンクからのARPパケットの受信によって維持されることから、このデータベースは一般に「ARPキャッシュ」と呼ばれる。伝統的には、静的な設定ファイルや一元管理されたリストなど、このテーブルを管理するために他の方法も使われていた。
少なくとも1980年代以降、ネットワーク接続のできるコンピュータは、このテーブルを表示したり操作したりするための'arp'というユーティリティを持っている。
ネットワークカメラやネットワーク配電装置などのユーザインタフェースのない組み込みシステムでは、「ARPスタッフィング」(ARP stuffing)を使って初期ネットワーク接続を行うことができる。ただし、この仕組みはARPは関係ないので、これは不適切な名称である。
ARPスタッフィングは、コンシューマデバイスのネットワーク管理、特にイーサネットデバイスのIPアドレスの割り当てにおける以下のような問題の解決策である。
採用された解決策は以下の通りである。
ARPスタッフィングを使用するデバイスは通常、攻撃に対して脆弱であるため、デバイスが正常に動作しているときはこのプロセスを無効にする。
|
[
{
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"tag": "p",
"text": "Address Resolution Protocol (アドレス解決プロトコル、略称:ARP、アープ)は、与えられたインターネット層アドレス(一般的にはIPv4アドレス)に対応するリンク層アドレス(MACアドレスなど)を発見するために使用される通信プロトコルである。この対応付けは、インターネット・プロトコル・スイートにおける重要な機能である。ARPは、1982年に RFC 826 (インターネット標準 STD 37)で定義され、その後 RFC 5227, RFC 5494 により内容のエンハンスが行われている。",
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},
{
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"text": "ARPは、ネットワーク層技術とデータリンク層技術の様々な組み合わせで実装されている。IEEE 802標準を使用したIPv4、Chaosnet(英語版)、DECnet、PARC Universal Packet(英語版)(PUP)、および、FDDI、X.25、フレームリレー、ATMなどである。IEEE 802.3(イーサネット)およびIEEE 802.11(無線LAN)上のIPv4が最も一般的な使用法である。",
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},
{
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"text": "IPv6ネットワークでは、ARPの機能はICMPv6の近隣探索プロトコル(NDP)によって提供される。",
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},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "ARPはリクエスト=レスポンス・プロトコル(英語版)であり、メッセージがリンク層プロトコルによってカプセル化される。単一のサブネットワークの内部のみで通信され、ルータを越えてルーティングされることはない。この特性のため、ARPはインターネットプロトコルスイートのリンク層に配置される。",
"title": "操作範囲"
},
{
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"text": "ARPは、1つのアドレスのみの解決要求または応答を含む単純なメッセージフォーマットを使用する。ARPメッセージのサイズは、リンク層とネットワーク層のアドレスサイズによって異なる。メッセージヘッダで、各層で使用されているネットワークの種類とそれぞれのアドレスのサイズを指定する。メッセージヘッダには、要求(1)と応答(2)のどちらかであるかを示すオペレーションコードが含まれる。パケットのペイロードは、送信側ホストと受信側ホストそれぞれのハードウェアアドレスとプロトコルアドレス、計4つのアドレスで構成されている",
"title": "パケット構造"
},
{
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"text": "イーサネット上で実行されているIPv4ネットワークの場合のARPパケットの構造を次の表に示す。この例では、パケットには送信元ハードウェアアドレス(SHA)と送信先ハードウェアアドレス(THA)用の48ビットフィールドと、対応する送信元プロトコルアドレス(SPA)と送信先プロトコルアドレス(TPA)用の32ビットフィールドがある。この場合のARPパケットサイズは28バイトである。",
"title": "パケット構造"
},
{
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"text": "ARPプロトコルのパラメータ値は Internet Assigned Numbers Authority (IANA) によって標準化され、維持されている.。",
"title": "パケット構造"
},
{
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"text": "ARPのEtherTypeは0x0806である。これは、イーサネットヘッダ内で使用されてペイロードがARPパケットであることを示すものであり、カプセル化されるARPパケット内に含まれるPTYPEとは別である。",
"title": "パケット構造"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "送信元は、送信元のIPアドレス・MACアドレスと送信先のIPアドレスを格納したARPリクエスト(送信先のMACアドレスはALL0)をブロードキャストで送信する。ARPリクエストを受信した各ノードは、格納された送信先IPアドレスが自身のIPアドレスと同一であれば、自身のMACアドレスを格納したARPリプライを送信元に返信する。",
"title": "動作"
},
{
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"tag": "p",
"text": "効率を上げるため、多くの機器では一度取得したIPアドレスとMACアドレス間のマッピング情報をARPテーブルにARPキャッシュとして保持する。BSD Unix に由来する TCP/IP スタックを実装した機器の多くは、タイムアウト値として 1200秒(20分)を採用している。また、Ciscoの機器ではタイムアウトのデフォルト値として14400秒(4時間)を採用している。キャッシュ情報はWindowsであればコマンドプロンプトから arp -a と入力すれば一覧が見られ、キャッシュ情報はハイフンで分割された6つの16進数で表示される。",
"title": "動作"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "ARPプローブ(ARP probe)とは、送信者IPアドレス(SPA)をALL0にしたARPリクエストである。この用語は、IPv4 Address Conflict Detection(IPv4アドレス競合検出)仕様( RFC 5227 )で使用されている。この仕様を実装しているホストは、IPv4アドレスの使用を開始する前に(手動設定、DHCP、またはその他の手段でIPアドレスを受信したかどうかにかかわらず)、ARPプローブパケットをブロードキャストで送信して、アドレスが既に使用中かどうかを確認する必要がある。",
"title": "ARPプローブ"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ARPは、単純なアナウンスプロトコルとしても使用できる。これは、送信者のIPアドレスまたはMACアドレスが変更されたときに、他のホストのハードウェアアドレスのマッピングを更新するために使用される。このアナウンスメントはgratuitous ARP(GARP)メッセージとも呼ばれ、通常、送信先ハードウェアアドレス(THA)をALL0に設定し、送信元プロトコルアドレスを送信先プロトコルアドレスに格納した(TPA=SPA)ARPリクエストパケットであり、ブロードキャストで送信される。また、送信先アドレスと送信元アドレスの両方に送信元アドレスを格納(TPA=SPA、THA=SHA)したARPリプライをブロードキャストで送信したものもARPアナウンスメントとして使用される。",
"title": "ARPアナウンスメント"
},
{
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"tag": "p",
"text": "gratuitous ARPは、ARPリクエスト・ARPリプライのどちらも規格に規定されている正規の手法であるが、ARPリクエストを使用するほうが望ましい。デバイスによっては、どちらかのGARPを使用するように設定されているものもある。",
"title": "ARPアナウンスメント"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ARPアナウンスは応答を求めることを目的としていない。パケットを受信した他のホストに対し、ARPテーブル内のキャッシュエントリを更新させることを目的としている。ARPの規格では、ARPテーブルがアドレスフィールドから更新される時のみオペレーションコードを解釈することと規定しているので、オペレーションコードは要求と応答のどちらでも良い。",
"title": "ARPアナウンスメント"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "多くのオペレーティングシステムは、起動時にGratuitous ARPを実行する。これは、仮に電源を落としている間にネットワークカードが変更されていた場合に、他のホストのARPキャッシュテーブルにIPアドレスと以前のMACアドレスとのマッピングが残っていると問題が起こるためである。",
"title": "ARPアナウンスメント"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ARPメディエーション(ARP mediation)とは、接続した回線で異なるアドレス解決プロトコルが使用されている場合(例えば、一方の端がイーサネットで、もう一方の端がフレームリレーであるような場合)、Virtual Private Wire Service(VPWS)を介してレイヤ2アドレスを解決するプロセスである。IPv4では、各プロバイダエッジ(英語版)(PE)デバイスは、ローカルに接続されているカスタマエッジ(英語版)(CE)デバイスのIPアドレスを検出し、そのIPアドレスを対応するリモートPEデバイスに配布する。その後、各PEデバイスは、リモートCEデバイスのIPアドレスとローカルPEデバイスのハードウェアアドレスを使用してローカルのARPリクエストに応答する。IPv6では、各PEデバイスはローカルとリモートの両方のCEデバイスのIPアドレスを検出し、次にローカルの近隣探索(ND)パケットと逆近隣探索(IND)パケットを代行受信し、それらをリモートPEデバイスに転送する。",
"title": "ARPメディエーション"
},
{
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"text": "",
"title": "ARPメディエーション"
},
{
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"tag": "p",
"text": "Inverse Address Resolution Protocol(Inverse ARP、InARP)は、データリンク層(レイヤ2)アドレスから他のノードのネットワーク層アドレス(IPアドレスなど)を取得するために使用される。これは主にフレームリレー(DLCI(英語版))やATMで使用される。これらのネットワークでは、仮想回線のレイヤ2アドレスはレイヤ2シグナリングから取得されることがあり、その仮想回線を使用する前に対応するレイヤ3アドレスを使用できるようにする必要がある。",
"title": "Inverse ARP"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ARPはレイヤ3アドレスをレイヤ2アドレスに変換するので、InARPはその逆と表現することができる。InARPはARPのプロトコル拡張として実装されている。ARPと同じパケットフォーマットを使用するが、オペレーションコードは異なる。",
"title": "Inverse ARP"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "Reverse Address Resolution Protocol(Reverse ARP、RARP)は、InARPと同様にレイヤ2アドレスをレイヤ3アドレスに変換するために使用する。ただし、InARPでは、要求側は別のノードのレイヤ3アドレスを照会するのに対し、RARPはアドレス設定の際に要求側自体のレイヤ3アドレスを取得するために使用される。RARPは現在ではほぼ使用されていない。RARPはBOOTPに置き換えられ、BOOTPも後にDHCPに置き換えられている。",
"title": "Reverse ARP"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ARPにはネットワーク上のARPリプライを認証する方法がなく、ARPリプライは必要なレイヤ2アドレスを持つシステム以外のシステムから送信される可能性もある。プロキシARP(Proxy ARP)は、ネットワークの設計の一部として、他のネットワークにARP要求があった場合にルータがホストに代わって回答する仕組みであり、NAT環境下において使用される例が多い。これに対して、ARPスプーフィング(ARP spoofing)は、そのシステム宛てのデータを傍受する目的で、別のシステムのアドレスに対するARPリクエストに応答するものである。ARPスプーフィングを使用して、悪意のあるユーザがネットワーク上の他のユーザーに対して中間者攻撃やDoS攻撃を行う可能性がある。ARP自体にはこのような攻撃からの保護方法は提供されておらず、ARPスプーフィング攻撃を検出して対策するための様々なソフトウェアが存在する。",
"title": "ARPスプーフィングとプロキシARP"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "それぞれのコンピュータは、レイヤ3アドレス(IPアドレスなど)とレイヤ2アドレス(イーサネットMACアドレスなど)のマッピングのデータベースを維持する。これは、主にローカルネットワークリンクからのARPパケットの受信によって維持されることから、このデータベースは一般に「ARPキャッシュ」と呼ばれる。伝統的には、静的な設定ファイルや一元管理されたリストなど、このテーブルを管理するために他の方法も使われていた。",
"title": "ARPの代替"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "少なくとも1980年代以降、ネットワーク接続のできるコンピュータは、このテーブルを表示したり操作したりするための'arp'というユーティリティを持っている。",
"title": "ARPの代替"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ネットワークカメラやネットワーク配電装置などのユーザインタフェースのない組み込みシステムでは、「ARPスタッフィング」(ARP stuffing)を使って初期ネットワーク接続を行うことができる。ただし、この仕組みはARPは関係ないので、これは不適切な名称である。",
"title": "ARPスタッフィング"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ARPスタッフィングは、コンシューマデバイスのネットワーク管理、特にイーサネットデバイスのIPアドレスの割り当てにおける以下のような問題の解決策である。",
"title": "ARPスタッフィング"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "採用された解決策は以下の通りである。",
"title": "ARPスタッフィング"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ARPスタッフィングを使用するデバイスは通常、攻撃に対して脆弱であるため、デバイスが正常に動作しているときはこのプロセスを無効にする。",
"title": "ARPスタッフィング"
}
] |
Address Resolution Protocol (アドレス解決プロトコル、略称:ARP、アープ)は、与えられたインターネット層アドレス(一般的にはIPv4アドレス)に対応するリンク層アドレス(MACアドレスなど)を発見するために使用される通信プロトコルである。この対応付けは、インターネット・プロトコル・スイートにおける重要な機能である。ARPは、1982年に RFC 826 で定義され、その後 RFC 5227, RFC 5494 により内容のエンハンスが行われている。 ARPは、ネットワーク層技術とデータリンク層技術の様々な組み合わせで実装されている。IEEE 802標準を使用したIPv4、Chaosnet、DECnet、PARC Universal Packet(PUP)、および、FDDI、X.25、フレームリレー、ATMなどである。IEEE 802.3(イーサネット)およびIEEE 802.11(無線LAN)上のIPv4が最も一般的な使用法である。 IPv6ネットワークでは、ARPの機能はICMPv6の近隣探索プロトコル(NDP)によって提供される。
|
{{IPstack}}
'''Address Resolution Protocol''' (アドレス解決プロトコル、略称:'''ARP'''、アープ)は、与えられた[[インターネット層]]アドレス(一般的には[[IPv4アドレス]])に対応する[[リンク層]]アドレス([[MACアドレス]]など)を発見するために使用される[[通信プロトコル]]である。この対応付けは、[[インターネット・プロトコル・スイート]]における重要な機能である。ARPは、1982年に {{IETF RFC|826}} <ref>{{cite web
|url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc826
|author = David C. Plummer
|title = {{IETF RFC|826}}, An Ethernet Address Resolution Protocol -- or -- Converting Network Protocol Addresses to 48.bit Ethernet Address for Transmission on Ethernet Hardware
|publisher = Internet Engineering Task Force, Network Working Group
|date = November 1982
|accessdate= 2019-04-13
}}</ref>([[インターネット標準]] STD 37)で定義され、その後 {{IETF RFC|5227}}, {{IETF RFC|5494}} により内容のエンハンスが行われている。
ARPは、ネットワーク層技術とデータリンク層技術の様々な組み合わせで実装されている。[[IEEE 802]]標準を使用した[[IPv4]]、{{仮リンク|Chaosnet|en|Chaosnet}}、[[DECnet]]、{{仮リンク|PARC Universal Packet|en|PARC Universal Packet}}(PUP)、および、[[Fiber distributed data interface|FDDI]]、[[X.25]]、[[フレームリレー]]、[[Asynchronous Transfer Mode|ATM]]などである。[[IEEE 802.3]]([[イーサネット]])および[[IEEE 802.11]]([[無線LAN]])上の[[IPv4]]が最も一般的な使用法である。
[[IPv6]]ネットワークでは、ARPの機能は[[ICMPv6]]の[[近隣探索プロトコル]](NDP)によって提供される。
==操作範囲==
ARPは{{仮リンク|リクエスト=レスポンス・プロトコル|en|Request–response}}であり、メッセージがリンク層プロトコルによって[[カプセル化 (通信)|カプセル化]]される。単一のサブネットワークの内部のみで通信され、ルータを越えてルーティングされることはない。この特性のため、ARPは[[インターネットプロトコルスイート]]の[[リンク層]]に配置される<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1122 | author = Braden, R. | title = RFC 1122 - Requirements for Internet Hosts -- Communication Layers | publisher = Internet Engineering Task Force | date = October 1989|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
==パケット構造==
ARPは、1つのアドレスのみの解決要求または応答を含む単純なメッセージフォーマットを使用する。ARPメッセージのサイズは、リンク層とネットワーク層のアドレスサイズによって異なる。[[ヘッダ (コンピュータ)|メッセージヘッダ]]で、各層で使用されているネットワークの種類とそれぞれのアドレスのサイズを指定する。メッセージヘッダには、要求(1)と応答(2)のどちらかであるかを示すオペレーションコードが含まれる。パケットのペイロードは、送信側ホストと受信側ホストそれぞれのハードウェアアドレスとプロトコルアドレス、計4つのアドレスで構成されている
イーサネット上で実行されているIPv4ネットワークの場合のARPパケットの構造を次の表に示す。この例では、パケットには送信元ハードウェアアドレス(SHA)と送信先ハードウェアアドレス(THA)用の48ビットフィールドと、対応する送信元プロトコルアドレス(SPA)と送信先プロトコルアドレス(TPA)用の32ビットフィールドがある。この場合のARPパケットサイズは28バイトである。
{| class="wikitable"
|-
| 0
| 1
| 2
| 3
| 4
| 5
| 6
| 7
| 8
| 9
| 10
| 11
| 12
| 13
| 14~41
|-
| colspan="6" | イーサネット宛先アドレス
| colspan="6" | イーサネット送信元アドレス
| colspan="2" | [[フレーム (ネットワーク)|フレームタイプ]]
| colspan="28" | 下図参照
|-
| colspan="14" | '''イーサネットヘッダ'''
| colspan="28" | '''ARPの要求と応答'''
|}
{| class="wikitable" style="float:right; text-align: center; width: 30em;" border=1
|+ [[Internet Protocol]] ([[IPv4]]) [[イーサネット]] ARP [[パケット]]
|-
! colspan="1"|Octet offset
! colspan="8" width="50%"|0
! colspan="8" width="50%"|1
|-
! 0
| colspan="16"| ハードウェアタイプ(HTYPE)
|-
! 2
| colspan="16"| プロトコルタイプ(PTYPE)
|-
! 4
| colspan="8"| ハードウェアアドレスサイズ(HLEN)
| colspan="8"| プロトコルアドレスサイズ(PLEN)
|-
! 6
| colspan="16"| オペレーション(OPER)
|-
! 8
| colspan="16" style="background:#f0fff0"| 送信元ハードウェアアドレス(SHA)
|-
! 10
| colspan="16" style="background:#f0fff0"|
|-
! 12
| colspan="16" style="background:#f0fff0"|
|-
! 14
| colspan="16" style="background:#d0ffd0"| 送信元プロトコルアドレス(SPA)
|-
! 16
| colspan="16" style="background:#d0ffd0"|
|-
! 18
| colspan="16" style="background:#f0f0ff"| 送信先ハードウェアアドレス(THA)
|-
! 20
| colspan="16" style="background:#f0f0ff"|
|-
! 22
| colspan="16" style="background:#f0f0ff"|
|-
! 24
| colspan="16" style="background:#d0d0ff"| 送信先プロトコルアドレス(TPA)
|-
! 26
| colspan="16" style="background:#d0d0ff"|
|}
; ハードウェアタイプ (HTYPE): [[通信プロトコル|ネットワークプロトコル]]の種類。[[イーサネット]]の場合は1。
; プロトコルタイプ (PTYPE): ARPリクエスト要求が意図するインターネットプロトコル。[[IPv4]]の場合、0x0800以降の値。使用される値は、[[EtherType]]のものを流用する<ref>[//www.iana.org/assignments/arp-parameters/arp-parameters.xhtml IANA ARP - "Protocol Type"]</ref><ref>[https://www.iana.org/assignments/ethernet-numbers/ethernet-numbers.xhtml IANA - Ethertype values]</ref><ref>{{IETF RFC|5342}}</ref>。
; ハードウェア長 (HLEN): [[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]によるハードウェアアドレスの長さ。イーサネットアドレス([[MACアドレス]])のサイズは6。
; プロトコル長 (PLEN): 上位層の[[通信プロトコル|プロトコル]](PTYPEに指定された上位層プロトコル)が使用する[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]によるアドレス。IPv4のアドレスサイズは4。
; オペレーション : 送信者が実行している動作。1は要求、2は返信。
; 送信元ハードウェアアドレス (SHA): 送信側のメディアアドレス(Media address、[[MACアドレス]])。ARPリクエストでは、要求を送信するホストのアドレスを示す。ARP応答では、要求が探していたホストのアドレスを示す。(必ずしも、仮想メディアのように応答するホストのアドレスではない。)スイッチはMACアドレスを学習するが、このフィールドに注意を払っていないことに注意が必要である。ARP [[Protocol Data Unit|PDU]]は、[[イーサネットフレーム]]にカプセル化され、[[データリンク層]](第2層)のデバイスが調べる。
; 送信元プロトコルアドレス (SPA): 送信元のインターネットワークアドレス(internetwork address、[[IPアドレス]])。
; 送信先ハードウェアアドレス (THA): 受信側のメディアアドレス(Media address、[[MACアドレス]])。ARPリクエストでは、このフィールドは無視する。ARP応答では、このフィールドは、ARPリクエストを送信した[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]のアドレスを示す。
; 送信先プロトコルアドレス (TPA): 送信先のインターネットワークアドレス(internetwork address、[[IPアドレス]])。
ARPプロトコルのパラメータ値は [[Internet Assigned Numbers Authority]] (IANA) によって標準化され、維持されている.<ref>{{Cite web|url=https://www.iana.org/assignments/arp-parameters/arp-parameters.xhtml|title=Address Resolution Protocol (ARP) Parameters|website=www.iana.org|access-date=2018-10-16}}</ref>。
ARPの[[EtherType]]は0x0806である。これは、イーサネットヘッダ内で使用されてペイロードがARPパケットであることを示すものであり、カプセル化されるARPパケット内に含まれるPTYPEとは別である。
==動作==
送信元は、送信元のIPアドレス・MACアドレスと送信先のIPアドレスを格納したARPリクエスト(送信先のMACアドレスはALL0)を[[ブロードキャスト]]で送信する。ARPリクエストを受信した各[[ノード (ネットワーク)|ノード]]は、格納された送信先IPアドレスが自身のIPアドレスと同一であれば、自身のMACアドレスを格納したARPリプライを送信元に返信する。
===ARPキャッシュ===
効率を上げるため、多くの機器では一度取得したIPアドレスとMACアドレス間のマッピング情報を'''ARPテーブル'''に'''ARPキャッシュ'''として保持する。BSD Unix に由来する TCP/IP スタックを実装した機器の多くは、タイムアウト値として 1200秒(20分)を採用している。また、[[シスコシステムズ|Cisco]]の機器ではタイムアウトのデフォルト値として14400秒(4時間)を採用している。キャッシュ情報は[[Microsoft Windows|Windows]]であれば[[コマンドプロンプト]]から ''arp -a'' と入力すれば一覧が見られ、キャッシュ情報はハイフンで分割された6つの16進数で表示される。
==ARPプローブ==
'''ARPプローブ'''(ARP probe)とは、送信者IPアドレス(SPA)をALL0にしたARPリクエストである。この用語は、IPv4 Address Conflict Detection(IPv4アドレス競合検出)仕様( {{IETF RFC|5227}} )で使用されている。この仕様を実装しているホストは、IPv4アドレスの使用を開始する前に(手動設定、DHCP、またはその他の手段でIPアドレスを受信したかどうかにかかわらず)、ARPプローブパケットをブロードキャストで送信して、アドレスが既に使用中かどうかを確認する必要がある<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5227 | author = Cheshire, S. | title = {{IETF RFC|5227}} - IPv4 Address Conflict Detection | publisher = Internet Engineering Task Force | date = July 2008|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
==ARPアナウンスメント==
{{main|gratuitous ARP}}
ARPは、単純なアナウンスプロトコルとしても使用できる。これは、送信者のIPアドレスまたはMACアドレスが変更されたときに、他のホストのハードウェアアドレスのマッピングを更新するために使用される。このアナウンスメントは[[gratuitous ARP]](GARP)メッセージとも呼ばれ、通常、送信先ハードウェアアドレス(THA)をALL0に設定し、送信元プロトコルアドレスを送信先プロトコルアドレスに格納した(TPA=SPA)ARPリクエストパケットであり、ブロードキャストで送信される。また、送信先アドレスと送信元アドレスの両方に送信元アドレスを格納(TPA=SPA、THA=SHA)したARPリプライをブロードキャストで送信したものもARPアナウンスメントとして使用される。
gratuitous ARPは、ARPリクエスト・ARPリプライのどちらも規格に規定されている正規の手法である<ref>{{cite web
| url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5944#section-4.6
| author = Perkins, C.
| title = {{IETF RFC|5944}} - IP Mobility Support for IPv4, Revised
| publisher = Internet Engineering Task Force
| date = November 2010
| quote=A gratuitous ARP MAY use either an ARP Request or an ARP Reply packet. [...] any node receiving any ARP packet (Request or Reply) MUST update its local ARP cache with the Sender Protocol and Hardware Addresses in the ARP packet [...]
| accessdate= 2019-04-13
}}</ref><ref>{{cite web
| url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2002#section-4.6
| author = Perkins, C.
| title = {{IETF RFC|2002}} - IP Mobility Support
| publisher = Internet Engineering Task Force
| date = October 1996
| accessdate= 2019-04-13
}}</ref>が、ARPリクエストを使用するほうが望ましい<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5227#section-3 | author = Cheshire, S. | title = RFC 5227 - IPv4 Address Conflict Detection | publisher = Internet Engineering Task Force | date = July 2008 | quote=Why Are ARP Announcements Performed Using ARP Request Packets and Not ARP Reply Packets?|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。デバイスによっては、どちらかのGARPを使用するように設定されているものもある<ref>{{cite web
| url = https://support.citrix.com/article/CTX112701
| title = FAQ: The Firewall Does not Update the Address Resolution Protocol Table
| publisher = [[Citrix]]
| date = 2015-01-16
| quote = [...] garpReply enabled [...] generates ARP packets that [...] are of OPCODE type REPLY, rather than REQUEST.
| accessdate= 2019-04-13
}}</ref>。
ARPアナウンスは応答を求めることを目的としていない。パケットを受信した他のホストに対し、ARPテーブル内のキャッシュエントリを更新させることを目的としている。ARPの規格では、ARPテーブルがアドレスフィールドから更新される時のみオペレーションコードを解釈することと規定しているので、オペレーションコードは要求と応答のどちらでも良い<ref>[http://www1.ietf.org/mail-archive/web/dhcwg/current/msg03797.html Gratuitous ARP in DHCP vs. IPv4 ACD Draft] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20071012093401/http://www1.ietf.org/mail-archive/web/dhcwg/current/msg03797.html |date=October 12, 2007 }}</ref><ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2002#section-4.6 RFC 2002 Section 4.6]</ref><ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2131#section-4.4.1 RFC 2131 DHCP – Last lines of Section 4.4.1]</ref>。
多くのオペレーティングシステムは、起動時にGratuitous ARPを実行する。これは、仮に電源を落としている間に[[ネットワークカード]]が変更されていた場合に、他のホストのARPキャッシュテーブルにIPアドレスと以前のMACアドレスとのマッピングが残っていると問題が起こるためである。
==ARPメディエーション==
'''ARPメディエーション'''(ARP mediation)とは、接続した回線で異なるアドレス解決プロトコルが使用されている場合(例えば、一方の端が[[イーサネット]]で、もう一方の端が[[フレームリレー]]であるような場合)、Virtual Private Wire Service(VPWS)を介してレイヤ2アドレスを解決するプロセスである。[[IPv4]]では、各{{仮リンク|プロバイダエッジ|en|Provider Edge}}(PE)デバイスは、ローカルに接続されている{{仮リンク|カスタマエッジ|en|Customer edge}}(CE)デバイスのIPアドレスを検出し、そのIPアドレスを対応するリモートPEデバイスに配布する。その後、各PEデバイスは、リモートCEデバイスのIPアドレスとローカルPEデバイスのハードウェアアドレスを使用してローカルのARPリクエストに応答する。[[IPv6]]では、各PEデバイスはローカルとリモートの両方のCEデバイスのIPアドレスを検出し、次にローカルの[[近隣探索プロトコル|近隣探索]](ND)パケットと逆近隣探索(IND)パケットを代行受信し、それらをリモートPEデバイスに転送する<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6575 | author = Shah, H. | title = RFC 6575 Address Resolution Protocol (ARP) Mediation for IP Interworking of Layer 2 VPNs | publisher = Internet Engineering Task Force | date = June 2012|display-authors=etal|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
{{anchors|INARP}}
==Inverse ARP==
'''Inverse Address Resolution Protocol'''('''Inverse ARP'''、'''InARP''')は、[[データリンク層]](レイヤ2)アドレスから他のノードの[[ネットワーク層]]アドレス(IPアドレスなど)を取得するために使用される。これは主に[[フレームリレー]]({{仮リンク|Data link connection identifier|en|Data link connection identifier|label=DLCI}})やATMで使用される。これらのネットワークでは、仮想回線のレイヤ2アドレスはレイヤ2シグナリングから取得されることがあり、その仮想回線を使用する前に対応するレイヤ3アドレスを使用できるようにする必要がある<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2390 | author = T. Bradley | title = RFC 2390 - Inverse Address Resolution Protocol | publisher = Internet Engineering Task Force | date = September 1998|display-authors=etal|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
ARPはレイヤ3アドレスをレイヤ2アドレスに変換するので、InARPはその逆と表現することができる。InARPはARPのプロトコル拡張として実装されている。ARPと同じパケットフォーマットを使用するが、オペレーションコードは異なる。
==Reverse ARP==
[[Reverse Address Resolution Protocol]](Reverse ARP、RARP)は、InARPと同様にレイヤ2アドレスをレイヤ3アドレスに変換するために使用する。ただし、InARPでは、要求側は別のノードのレイヤ3アドレスを照会するのに対し、RARPはアドレス設定の際に要求側自体のレイヤ3アドレスを取得するために使用される。RARPは現在ではほぼ使用されていない。RARPは[[BOOTP]]に置き換えられ、BOOTPも後に[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]に置き換えられている<ref>{{cite web | url = https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc903 | authors = Finlayson, Mann, Mogul, Theimer | title = RFC 903 - A Reverse Address Resolution Protocol | publisher = Internet Engineering Task Force | date = June 1984|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
==ARPスプーフィングとプロキシARP==
[[Image:ARP Spoofing.svg|right|thumb|200px|[[ARPスプーフィング]]攻撃が成功した場合、攻撃者は[[中間者攻撃]]を行うことができる。]]
{{main|ARPスプーフィング}}{{main|en:Proxy ARP}}
ARPにはネットワーク上のARPリプライを認証する方法がなく、ARPリプライは必要なレイヤ2アドレスを持つシステム以外のシステムから送信される可能性もある。プロキシARP(Proxy ARP)は、ネットワークの設計の一部として、他のネットワークにARP要求があった場合に[[ルータ]]がホストに代わって回答する仕組みであり、[[ネットワークアドレス変換|NAT]]環境下において使用される例が多い。これに対して、ARPスプーフィング(ARP spoofing)は、そのシステム宛てのデータを傍受する目的で、別のシステムのアドレスに対するARPリクエストに応答するものである。ARPスプーフィングを使用して、悪意のあるユーザがネットワーク上の他のユーザーに対して[[中間者攻撃]]や[[DoS攻撃]]を行う可能性がある。ARP自体にはこのような攻撃からの保護方法は提供されておらず、ARPスプーフィング攻撃を検出して対策するための様々なソフトウェアが存在する<ref name="grc">{{cite web | url = https://www.grc.com/nat/arp.htm | author = Steve Gibson | title = ARP Cache Poisoning | publisher = [[Gibson Research Corporation|GRC]] | date = 2005-12-11|accessdate= 2019-04-13}}</ref>。
==ARPの代替==
それぞれのコンピュータは、レイヤ3アドレス([[IPアドレス]]など)とレイヤ2アドレス([[イーサネット]][[MACアドレス]]など)のマッピングのデータベースを維持する。これは、主にローカルネットワークリンクからのARPパケットの受信によって維持されることから、このデータベースは一般に「ARPキャッシュ」と呼ばれる。伝統的には、静的な設定ファイル<ref>{{cite web
| url = http://www.freebsd.org/cgi/man.cgi?query=ethers&sektion=5&apropos=0&manpath=SunOS+4.1.3
| author = Sun Microsystems
| title = SunOS manual page for ethers(5) file
| accessdate= 2011-09-28}}</ref>や一元管理されたリストなど、このテーブルを管理するために他の方法も使われていた。
少なくとも1980年代以降<ref>{{cite web
| url = http://www.freebsd.org/cgi/man.cgi?query=arp&apropos=0&sektion=0&manpath=2.10+BSD&arch=default&format=html
| author = University of California, Berkeley
| title = BSD manual page for arp(8C) command
| accessdate= 2011-09-28}}</ref>、ネットワーク接続のできるコンピュータは、このテーブルを表示したり操作したりするための'arp'というユーティリティを持っている<ref>{{cite web
|url=http://manpages.ubuntu.com/manpages/lucid/man8/arp.8.html
|author=Canonical
|title=Ubuntu manual page for arp(8) command
|accessdate=2011-09-28
|deadurl=yes
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120316213518/http://manpages.ubuntu.com/manpages/lucid/man8/arp.8.html
|archivedate=2012-03-16
}}</ref><ref>{{cite web
| url = https://developer.apple.com/library/mac/#documentation/Darwin/Reference/ManPages/man8/arp.8.html
| author = Apple Computer
| title = Mac OS X manual page for arp(8) command
| accessdate= 2011-09-28}}</ref><ref>{{cite web
| url = https://technet.microsoft.com/en-us/library/cc786759%28WS.10%29.aspx
| author = Microsoft
| title = Windows help for arp command
| accessdate= 2011-09-28}}</ref>。
==ARPスタッフィング==
ネットワークカメラ<ref>{{cite web
| url = http://www.axis.com/files/manuals/ig_p13Series_38731_en_1006.pdf
| author = Axis Communication
| title = Axis P13 Network Camera Series Installation Guide
| accessdate= 2011-09-28}}</ref>やネットワーク配電装置<ref>{{cite web
| url = http://www.apcmedia.com/salestools/ASTE-6Z6K56_R0_EN.pdf
| author = American Power Corporation
| title = Switched Rack Power Distribution Unit Installation and Quick Start Manual
| accessdate= 2011-09-28}}</ref>などのユーザインタフェースのない組み込みシステムでは、「ARPスタッフィング」(ARP stuffing)を使って初期ネットワーク接続を行うことができる。ただし、この仕組みはARPは関係ないので、これは不適切な名称である。
ARPスタッフィングは、コンシューマデバイスのネットワーク管理、特にイーサネットデバイスのIPアドレスの割り当てにおける以下のような問題の解決策である。
# ユーザは、DHCPなどのアドレス割り当てプロトコルを制御することができない。
# デバイスは、それを設定するためのユーザーインターフェースを持っていない。
# 適切なIPアドレスがないため、ユーザのコンピュータは通信ができない。
採用された解決策は以下の通りである。
* ユーザのコンピュータは、アドレステーブルに手動で入力(''stuffed'' = 詰め込まれる)されたIPアドレスを持っている(通常はarpコマンドを使用し、MACアドレスをデバイスのラベルから取得する)。
* コンピュータは特殊なパケットをデバイスに送信する。通常は、デフォルト以外のサイズの[[ping]]パケットである。
* デバイスはこのIPアドレスを採用する。
* その後、ユーザは[[telnet]]や[[HTTP|Web]]プロトコルで通信して設定を完了する。
ARPスタッフィングを使用するデバイスは通常、攻撃に対して脆弱であるため、デバイスが正常に動作しているときはこのプロセスを無効にする。
==標準文書==
* {{IETF RFC|826}} - Ethernet Address Resolution Protocol, Internet Standard STD 37.
* {{IETF RFC|903}} - Reverse Address Resolution Protocol, Internet Standard STD 38.
* {{IETF RFC|2390}} - Inverse Address Resolution Protocol, draft standard
* {{IETF RFC|5227}} - IPv4 Address Conflict Detection, proposed standard
== 関連項目 ==
* [[ARPスプーフィング]]
* [[Reverse address resolution protocol]](RARP、リバースARP) - [[MACアドレス]]から[[IPアドレス]]に変換する[[プロトコル]]
* [[Gratuitous ARP]] - ARP[[パケット]]の送信元[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]自身の[[IPアドレス]]に対するARP
* [[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]]
* [[レイヤ3スイッチ]]
* [[近隣探索プロトコル]]
* {{仮リンク|プロキシARP|en|Proxy ARP}} - [[ルーター]]などが代理で[[IPアドレス]]を回答する仕組み
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.ietf.org/rfc/rfc826.txt RFC826 "An Ethernet Address Resolution Protocol"] ({{Wayback|url=http://www.f4.dion.ne.jp/~adem/rfc/rfc826.euc.txt |title=日本語訳 |date=20031016185333}})
* [https://www.ietf.org/rfc/rfc5227.txt RFC5227 "IPv4 Address Conflict Detection"] ([http://www.kasai.fm/wiki/rfc5227jp 日本語訳])
* [https://www.ietf.org/rfc/rfc5494.txt RFC5494 IANA Allocation Guidelines for the Address Resolution Protocol (ARP)]
* [http://www.eventhelix.com/RealtimeMantra/Networking/Arp.pdf ARP Sequence Diagram (pdf)]
* [http://wiki.wireshark.org/Gratuitous_ARP Gratuitous ARP]
* [https://web.archive.org/web/20090903074149/http://sid.rstack.org/arp-sk/ ARP-SK ARP traffic generation tools]
* [http://wiki.wireshark.org/SampleCaptures#head-2fb4a82886c1d8c722134b44461e22e5f7f54b32 Sample Capture file from WireSharkWiki]
{{OSI}}
{{Windowsコマンド}}
[[Category:リンク層プロトコル]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|0826]]
|
2003-07-05T06:40:06Z
|
2023-11-02T17:09:14Z
| false | false | false |
[
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Wayback",
"Template:OSI",
"Template:IPstack",
"Template:IETF RFC",
"Template:Main",
"Template:Anchors",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
"Template:Webarchive",
"Template:Windowsコマンド"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Address_Resolution_Protocol
|
10,904 |
日本ファンタジーノベル大賞
|
日本ファンタジーノベル大賞(にほんファンタジーノベルたいしょう)とは、未発表の創作ファンタジー小説を対象とした公募型の文学賞。プロ・アマを問わない。1989年創設。受賞作品は新潮社から刊行される。候補作には挙がったものの、恩田陸や小野不由美、高野史緒など入賞していない作品でも優れていれば刊行された。発表誌は『小説新潮』。大賞受賞作品が同誌に全文掲載されていたこともある。
1989年に読売新聞東京本社と三井不動産販売が、三井不動産販売の創業20周年を迎えた記念事業として始めた文学賞で、三井不動産販売は1998年まで主催した。バブル経済の好景気の末期でもあり、三井不動産販売が広告代理店各社に企画案を提出させ、その中から読売広告社のファンタジーをテーマにした文学賞という案を採用。文学賞のノウハウを持ち、受賞作の出版を行える出版社ということで、新潮社が後援として参加した。創設時の担当編集者には、大森望、木村由花がいた。
三井不動産販売は10年で降板。有望な新人が発掘される成果があったため、このまま終わらせるのは惜しいと清水建設が主催を引き継ぐことになり、第11回から第25回まで清水建設と読売新聞社が主催した。
この間の大賞賞金は500万円。
第25回(2013年度)を機に一定の役割を終えたとして賞を休止した。
2017年になって主催者を一般財団法人新潮文芸振興会、後援を読売新聞社としてリニューアル再開した。大賞賞金は500万円から300万円に減額された。2017年度の名称は「日本ファンタジーノベル大賞2017」、翌年は「日本ファンタジーノベル大賞2018」と再開前までの回数は引き継がれていない。
最初の2年は、日本テレビが協賛となり、三井不動産販売が番組スポンサーとなって受賞作をアニメ化。酒見賢一の『後宮小説』が1990年3月21日に『雲のように風のように』、鈴木光司の『楽園』が1991年6月16日に『満ちてくる時のむこうに』のタイトルで日本テレビ系で放送された。アニメの制作は、スタジオぴえろが行っている。
当初手塚治虫を含め6人の審査員で行われる予定であったが、手塚が死去したため、5人で審査する形になった。
特記がなければ、初刊は新潮社、文庫は新潮文庫刊。
候補作や、候補作家の作品などを、新潮文庫オリジナルで刊行した。
|
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"text": "最初の2年は、日本テレビが協賛となり、三井不動産販売が番組スポンサーとなって受賞作をアニメ化。酒見賢一の『後宮小説』が1990年3月21日に『雲のように風のように』、鈴木光司の『楽園』が1991年6月16日に『満ちてくる時のむこうに』のタイトルで日本テレビ系で放送された。アニメの制作は、スタジオぴえろが行っている。",
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"text": "当初手塚治虫を含め6人の審査員で行われる予定であったが、手塚が死去したため、5人で審査する形になった。",
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"text": "特記がなければ、初刊は新潮社、文庫は新潮文庫刊。",
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"text": "候補作や、候補作家の作品などを、新潮文庫オリジナルで刊行した。",
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日本ファンタジーノベル大賞(にほんファンタジーノベルたいしょう)とは、未発表の創作ファンタジー小説を対象とした公募型の文学賞。プロ・アマを問わない。1989年創設。受賞作品は新潮社から刊行される。候補作には挙がったものの、恩田陸や小野不由美、高野史緒など入賞していない作品でも優れていれば刊行された。発表誌は『小説新潮』。大賞受賞作品が同誌に全文掲載されていたこともある。
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'''日本ファンタジーノベル大賞'''(にほんファンタジーノベルたいしょう)とは、未発表の創作[[ファンタジー]]小説を対象とした公募型の[[文学賞]]。プロ・アマを問わない。[[1989年]]創設。受賞作品は[[新潮社]]から刊行される。候補作には挙がったものの、[[恩田陸]]や[[小野不由美]]、[[高野史緒]]など入賞していない作品でも優れていれば刊行された。発表誌は『[[小説新潮]]』。大賞受賞作品が同誌に全文掲載されていたこともある。
== 歴史 ==
[[1989年]]に[[読売新聞東京本社]]と[[三井不動産リアルティ|三井不動産販売]]が、三井不動産販売の創業20周年を迎えた記念事業として始めた文学賞で、三井不動産販売は[[1998年]]まで主催した。[[バブル経済]]の好景気の末期でもあり、三井不動産販売が[[広告代理店]]各社に企画案を提出させ、その中から[[読売広告社]]のファンタジーをテーマにした文学賞という案を採用。文学賞のノウハウを持ち、受賞作の出版を行える出版社ということで、[[新潮社]]が後援として参加した。創設時の担当編集者には、[[大森望]]、[[木村由花]]がいた。
三井不動産販売は10年で降板。有望な新人が発掘される成果があったため、このまま終わらせるのは惜しいと[[清水建設]]が主催を引き継ぐことになり、第11回から第25回まで清水建設と読売新聞社が主催した。
この間の大賞賞金は500万円。
第25回(2013年度)を機に一定の役割を終えたとして賞を休止した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.fantasy-novel.jp/news/index.html |title= 日本ファンタジーノベル大賞 休止のお知らせ |work= ニュース一覧 |publisher= 日本ファンタジーノベル大賞 |date= 2013-12-03 |accessdate= 2020-07-02 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140211050207/http://www.fantasy-novel.jp/news/index.html |archivedate= 2014-02-11 }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://sankei.jp.msn.com/life/news/131203/bks13120312510000-n1.htm |title= 鈴木光司さんら生んだファンタジー大賞休止へ 「役割終えた」 |newspaper= MSN産経ニュース |date= 2013-12-03 |accessdate= 2020-07-02 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131203141036/http://sankei.jp.msn.com/life/news/131203/bks13120312510000-n1.htm |archivedate= 2013-12-03 }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131202-OYT1T00954.htm |title= 日本ファンタジーノベル大賞、本年度で休止 |newspaper= YOMIURI ONLINE |publisher= 読売新聞 |date= 2013-12-02 |accessdate= 2020-07-02 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131204033440/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131202-OYT1T00954.htm |archivedate= 2013-12-04 }}</ref>。
2017年になって主催者を一般財団法人新潮文芸振興会、後援を読売新聞社としてリニューアル再開した。大賞賞金は500万円から300万円に減額された。2017年度の名称は「日本ファンタジーノベル大賞2017」、翌年は「日本ファンタジーノベル大賞2018」と再開前までの回数は引き継がれていない<ref>読売新聞 2016年6月22日 37面</ref><ref>「日本ファンタジーノベル大賞2018 募集要項」『小説新潮』2017年12月号、p.28</ref>。
== 受賞作のアニメ化 ==
最初の2年は、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が協賛となり、三井不動産販売が番組スポンサーとなって受賞作をアニメ化。[[酒見賢一]]の『後宮小説』が[[1990年]][[3月21日]]に『[[雲のように風のように]]』、鈴木光司の『楽園』が[[1991年]][[6月16日]]に『[[満ちてくる時のむこうに]]』のタイトルで[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送された。アニメの制作は、[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]が行っている。
== 歴代選考委員 ==
当初[[手塚治虫]]を含め6人の審査員で行われる予定であったが、手塚が死去したため、5人で審査する形になった。
; 第1回 - 第7回
:* [[荒俣宏]]、[[安野光雅]]、[[井上ひさし]]、[[高橋源一郎]]、[[矢川澄子]]
:
; 第8回 - 第10回
:* 荒俣宏、安野光雄、井上ひさし、[[椎名誠]]、矢川澄子
:
; 第11回 - 第13回
:* 荒俣宏、井上ひさし、椎名誠、[[鈴木光司]]、矢川澄子
:
; 第14回 - 第22回
:* 荒俣宏、井上ひさし、[[小谷真理]]、椎名誠、鈴木光司
:
; 第23回 - 第25回
:* 荒俣宏、小谷真理、椎名誠、鈴木光司、[[萩尾望都]]
; 2017-2020
:*[[恩田陸]]、萩尾望都、[[森見登美彦]]
; 2021-2023
:*恩田陸、森見登美彦、[[ヤマザキマリ]]
== 受賞作一覧 ==
特記がなければ、初刊は[[新潮社]]、文庫は[[新潮文庫]]刊。
=== 1989年 - 2013年 ===
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;"
! 回(年) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞・候補作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化
|-
|rowspan="5"| 第1回(1989年) ||rowspan="5"| 835編 || 大賞 || 「[[後宮小説]]」 || [[酒見賢一]] || 1989年12月 || 1993年4月
|-
| 優秀賞 || 「宇宙のみなもとの滝」 || [[山口泉]] || 1989年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「月のしずく100%ジュース」 || [[岡崎弘明]] || || 1990年7月
|-
| 「星虫 COSMIC BEETLE」 || [[岩本隆雄]] || || 1990年7月
|-
| 「三日月銀次郎が行く<br />イーハトーボの冒険編」 || [[武良竜彦]] || || 1990年7月<ref group="注">『三日月銀次郎が行く』に改題</ref>
|-
|rowspan="6"| 第2回(1990年) ||rowspan="6"| 275編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
|rowspan="2"| 優秀賞 || 「[[楽園 (鈴木光司の小説)|楽園]]」 || [[鈴木光司]] || 1990年12月 || 1996年1月
|-
| 「英雄ラファシ伝」 || [[岡崎弘明]] || 1990年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「ラスト・マジック」 || [[村上哲哉]] || || 1990年12月
|-
| 「日輪王伝説」 || [[原あやめ]] || ||
|-
| 「念術小僧」 || [[加藤正和]] || || 1990年12月<ref group="注">『念術小僧 大江戸サイキック・ボーイ』に改題</ref>
|-
|rowspan="5"| 第3回(1991年) ||rowspan="5"| 428編 || 大賞 || 「バルタザールの遍歴」 || [[佐藤亜紀]] || 1991年12月 || 1994年12月
|-
| 優秀賞 || 「なんか島開拓誌」 || [[原岳人]] || 1991年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「リフレイン」 || [[沢村凜]] || 1992年2月 || 2012年7月<ref group="注">[[角川文庫]]刊</ref>
|-
| 「天明童女」 || [[河合泰子]] || 2008年12月<ref group="注">文房夢類刊</ref> ||
|-
| 「[[六番目の小夜子]]」 || [[恩田陸]] || 1998年8月 || 1992年7月
|-
|rowspan="6"| 第4回(1992年) ||rowspan="6"| 385編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
| 優秀賞 || 「昔、火星のあった場所」 || [[北野勇作]] || 1992年12月 || 2001年5月<ref group="注">徳間デュアル文庫刊</ref>
|-
|rowspan="4"| 候補 || 「蒼いエリルの花」 || [[宇津木智]] || ||
|-
| 「夜叉が池伝説異聞」 || [[こもりてん]] || ||
|-
| 「ガーダの星」 || [[立樹知子]] || ||
|-
| 「ファンタジア」 || [[藤原京 (作家)|藤原京]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第5回(1993年) ||rowspan="4"| 574編 || 大賞 || 「イラハイ」 || [[佐藤哲也 (作家)|佐藤哲也]] || 1993年12月 || 1996年10月
|-
| 優秀賞 || 「酒仙」 || [[南條竹則]] || 1993年12月 || 1996年10月
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「[[東亰異聞]]」 || [[小野不由美]] || 1994年4月 || 1999年5月
|-
| 「球形の季節」 || [[恩田陸]] || 1994年4月 || 1999年2月
|-
|rowspan="5"| 第6回(1994年) ||rowspan="5"| 494編 ||rowspan="2"| 大賞 || 「[[バガージマヌパナス]]」 || [[池上永一]] || 1994年12月 || 1998年12月<ref group="注">[[文春文庫]]刊</ref>
|-
| 「[[鉄塔 武蔵野線]]」 || [[銀林みのる]] || 1994年12月 || 1997年6月
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「ムジカ・マキーナ」 || [[高野史緒]] || 1995年7月 || 2002年5月<ref group="注">[[ハヤカワ文庫JA]]刊</ref>
|-
| 「世界の果てに生まれて」 || 沢村凜 || ||
|-
| 「飛び地のジム」 || [[石立ミン]] || ||
|-
|rowspan="5"| 第7回(1995年) ||rowspan="5"| 531編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
|rowspan="2"| 優秀賞 || 「糞袋」 || [[藤田雅矢]] || 1995年12月 ||
|-
| 「バスストップの消息」 || [[嶋本達嗣]] || 1995年12月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「ようそろう・一九六三」 || [[上野哲也 (小説家)|上野哲也]] || ||
|-
| 「餓鬼道双六蕎麦糸引」 || [[桐原昇]] || ||
|-
|rowspan="6"| 第8回(1996年) ||rowspan="6"| 510編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
|rowspan="2"| 優秀賞 || 「アイランド」 || [[葉月堅]] || 1996年12月 ||
|-
| 「青猫屋」 || [[城戸光子]] || 1996年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「ダブ(エ)ストン街道」 || [[浅暮三文]] || 1998年8月<ref group="注">[[講談社]]刊</ref> || 2003年10月
|-
| 「回遊オペラ船からの脱出」 || [[橋本舜一]] || ||
|-
| 「宇宙防衛軍」 || [[八本正幸]] || ||
|-
|rowspan="5"| 第9回(1997年) ||rowspan="5"| 460編 || 大賞 || 「燃えるがままにせよ」<ref group="注">「ベイスボイル・ブック」に改題</ref> || [[井村恭一]] || 1997年12月 ||
|-
| 優秀賞 || 「競漕海域」 || [[佐藤茂]] || 1997年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「五人家族」 || 沢村凜 || ||
|-
| 「巡回の旋律」 || [[横山陵司]] || ||
|-
| 「年代記<br />「アネクメーネ・マーキュリー」」 || [[萩原史子]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第10回(1998年) ||rowspan="4"| 431編 || 大賞 || 「オルガニスト」 || [[山之口洋]] || 1998年12月 || 2001年9月
|-
|rowspan="2"| 優秀賞 || 「ヤンのいた島」 || 沢村凜 || 1998年12月 || 2013年2月<ref group="注">角川文庫刊</ref>
|-
| 「[[青猫の街]]」 || [[涼元悠一]] || 1998年12月 ||
|-
| 候補 || 「偽造手記」 || [[国分寺公彦]]<ref group="注">「桑原敏郎」より改名</ref> || 1999年2月 || 2001年9月<ref group="注">「盗み耳」に改題</ref> <ref group="注">[[角川ホラー文庫]]刊</ref>
|-
|rowspan="4"| 第11回(1999年) ||rowspan="4"| 478編 || 大賞 || 「信長 あるいは<br />戴冠せるアンドロギュヌス」 || [[宇月原晴明]] || 1999年12月 || 2002年10月
|-
| 優秀賞 || 「[[BH85]]」 || [[森青花]] || 1999年12月 || 2008年8月<ref group="注">徳間デュアル文庫刊</ref>
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「クリスタル・メモリー」 || [[西荻知道]] || ||
|-
| 「ヤコブの梯子を降り来るもの」 || [[人見葵]] || ||
|-
|rowspan="5"| 第12回(2000年) ||rowspan="5"| 422編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
| 優秀賞 || 「仮想の騎士」 || [[斉藤直子]] || 2000年12月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「涙姫」 || [[奥野道々]] || ||
|-
| 「こいわらい」 || [[松宮宏]]<ref group="注">「松之宮ゆい」より改名</ref> || 2006年10月<ref group="注">マガジンハウス刊</ref> || 2013年1月<ref group="注">講談社文庫刊</ref>
|-
| 「場違いな工芸品」 || [[大濱真対]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第13回(2001年) ||rowspan="4"| 412編 || 大賞 || 「太陽と死者の記録」<ref group="注">「クロニカ 太陽と死者の記録」に改題</ref> || [[粕谷知世]] || 2001年12月 ||
|-
| 優秀賞 || 「[[しゃばけ]]」 || [[畠中恵]] || 2001年12月 || 2004年4月
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「アンデッド・リタナーズ」 || [[佐藤仁 (作家)|佐藤仁]]|| ||
|-
| 「アパートと鬼と着せ替え人形」 || [[越谷オサム]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第14回(2002年) ||rowspan="4"| 418編 || 大賞 || 「ショート・ストーリーズ」<ref group="注">「世界の果ての庭 ショート・ストーリーズ」に改題</ref> || [[西崎憲]] || 2002年12月 || 2013年4月<ref group="注">[[創元SF文庫]]刊</ref>
|-
| 優秀賞 || 「戒」 || [[小山歩]] || 2002年12月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「喜劇のなかの喜劇<br />南の国のシェイクスピア」 || [[泉慶一]] || ||
|-
| 「天受売の憂欝」 || [[中島文華]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第15回(2003年) ||rowspan="4"| 484編 || 大賞 || 「[[太陽の塔 (小説)|太陽の塔/ピレネーの城]]」<ref group="注">「太陽の塔」に改題</ref> || [[森見登美彦]] || 2003年12月 || 2006年6月
|-
| 優秀賞 || 「象の棲む街」 || [[渡辺球]] || 2003年12月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「ラビット審判」 || [[彼岡淳]] || ||
|-
| 「影舞」 || [[小田雅久仁]]<ref group="注">「小田紀章」より改名</ref> || ||
|-
|rowspan="4"| 第16回(2004年) ||rowspan="4"| 480編 || 大賞 || 「ラス・マンチャス通信」 || [[平山瑞穂]] || 2004年12月 || 2008年8月<ref group="注">角川文庫刊</ref>
|-
| 優秀賞 || 「ボーナス・トラック」 || [[越谷オサム]] || 2004年12月 || 2010年7月<ref group="注">[[創元推理文庫]]刊</ref>
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「池尻ウォーターコート」 || [[堀井美千子]] || ||
|-
| 「この晴れた日に、ひとりで」 || 原田勝弘 || ||
|-
|rowspan="4"| 第17回(2005年) ||rowspan="4"| 488編 || 大賞 || 「金春屋ゴメス」 || [[西條奈加]] || 2005年12月 || 2008年10月
|-
| 優秀賞<br />辞退 || 「愛をめぐる奇妙な<br />告白のためのフーガ」 || [[琴音]] || 2005年12月<ref group="注">ライブドアパブリッシング刊</ref> ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「天上の庭 光の時刻」 || [[水町夏生]] || ||
|-
| 「琥珀ワッチ」 || [[斉木香津|斎木香津]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第18回(2006年) ||rowspan="4"| 379編 || 大賞 || 「[[僕僕先生]]」 || [[仁木英之]] || 2006年11月 || 2009年4月
|-
| 優秀賞 || 「闇鏡」 || [[堀川アサコ]] || 2006年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「カッパドキア・ワイン」 || [[薗田嘉寛]]<ref group="注">「大原一穂」より改名</ref> || 2008年3月<ref group="注">彩流社刊</ref> ||
|-
| 「夜のユニコーン」 || [[松田哲也]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第19回(2007年) ||rowspan="4"| 456編 || 大賞 || 「厭犬伝」 || [[弘也英明]] || 2007年11月 ||
|-
| 優秀賞 || 「ブラック・ジャック・キッド」 || [[久保寺健彦]] || 2007年11月 || 2011年5月
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「カラクリ猫と時間旅行代理店」 || [[和田吉里]] || ||
|-
| 「菊香忌」 || [[藤田真幸]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第20回(2008年) ||rowspan="4"| 646編 || 大賞 || 「天界の都<br />ある建築家をめぐる物語」<ref group="注">『天使の歩廊 ある建築家をめぐる物語』に改題</ref> || [[中村弦]] || 2008年11月 || 2011年6月
|-
| 優秀賞 || 「彼女の知らない彼女」 || [[里見蘭]] || 2008年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「龍守の末裔」 || [[真山遥]] || ||
|-
| 「イデアル」 || [[松崎有理|松崎祐]] || ||
|-
|rowspan="5"| 第21回(2009年) ||rowspan="5"| 652編 ||rowspan="2"| 大賞 || 「月桃夜」 || [[遠田潤子]] || 2009年11月 || 2015年11月
|-
| 「増大派に告ぐ」 || [[小田雅久仁]] || 2009年11月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「鯨が飛ぶ夜」 || [[山田港]] || ||
|-
| 「私小説」 || [[佐藤千]] || ||
|-
| 「化鳥繚乱」 || [[塵野烏炉]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第22回(2010年) ||rowspan="4"| 670編 || 大賞 || 「[[前夜の航跡|わだつみの鎮魂歌]]」<ref group="注">『前夜の航跡』に改題</ref> || [[紫野貴李]] || 2010年11月 ||
|-
| 優秀賞 || 「しずかの海」<ref group="注">『月のさなぎ』に改題</ref> || [[石野晶]] || 2010年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「外法居士KA・SIN」 || [[神護かずみ]] || ||
|-
| 「ホール・ショベル<br />ある穴掘りの物語」 || [[浅利進]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第23回(2011年) ||rowspan="4"| 695編 || 大賞 || 「[[さざなみの国]]」 || [[勝山海百合]] || 2011年11月 ||
|-
| 優秀賞 || 「吉田キグルマレナイト☆」 || [[日野俊太郎]] || 2011年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「残像の扉」 || [[青水洸]] || ||
|-
| 「逃げ街フェヌセ」 || [[高野丹生]] || ||
|-
|rowspan="5"| 第24回(2012年) ||rowspan="5"| 713編 || 大賞 ||colspan="4"| 該当作なし
|-
|rowspan="2"| 優秀賞 || 「朝の容花」<ref group="注">『かおばな憑依帖』に改題</ref> || [[三國青葉]] || 2012年11月 || 2014年10月<ref group="注">「かおばな剣士妖夏伝 人の恋路を邪魔する怨霊」に改題</ref> <ref group="注">[[新潮文庫|新潮文庫nex]]刊</ref>
|-
| 「ワーカー」<ref group="注">『絶対服従者』に改題</ref> || [[関俊介]] || 2012年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「恐竜ギフト」 || [[暖あやこ|井上綾子]] || 2015年3月<ref group="注">牧野出版刊</ref> ||
|-
| 「遠国」 || [[張間ミカ]] || ||
|-
|rowspan="4"| 第25回(2013年) ||rowspan="4"| 644編 || 大賞 || 「[[星の民のクリスマス|今年の贈り物]]」<ref group="注">『星の民のクリスマス』に改題</ref> || [[古谷田奈月]] || 2013年11月 ||
|-
| 優秀賞 || 「きのこ村の女英雄」<ref group="注">『忘れ村のイェンと深海の犬』に改題</ref> || [[冴崎伸]]<ref group="注">「鈴木伸」より改名</ref> || 2013年11月 ||
|-
|rowspan="2"| 候補 || 「アカシック・ミュージアム」 || [[天原聖海]] || ||
|-
| 「悪党華伝」<ref group="注">『吉祥寺の百日恋』に改題</ref> || [[坂本葵]] || 2014年2月 ||
|-
|}
=== 2017年以降 ===
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;"
! 年 !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞・候補作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化
|-
|rowspan="4"| 2017年 ||rowspan="4"| 788編 || 大賞 || 「権三郎狸の話」<ref group="注">『隣のずこずこ』に改題</ref> || [[柿村将彦]] || 2018年3月 || 2020年11月
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「ここは愉快な透明の世界」 || [[如月新一]] || ||
|-
| 「爪が消える」 || [[篠宮深琴]] || ||
|-
| 「御骨奇譚」 || [[淤可見明]] || ||
|-
|rowspan="4"| 2018年 ||rowspan="4"| ?編 || 大賞 ||「勿怪の憑」<ref group="注">『鬼憑き十兵衛』に改題</ref> || [[大塚已愛]] || 2019年3月 || 2021年11月
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「長谷川の兄さんは暇である」 || [[大川慶]] || ||
|-
| 「植物たちの隠れ家」 || [[岸本惟]] || ||
|-
| 「人の身には過ぎたる願い」 || [[高丘哲次]] || ||
|-
|rowspan="4"| 2019年 ||rowspan="4"| ?編 || 大賞 || 「黒よりも濃い紫の国」<ref group="注">『約束の果て―黒と紫の国―』に改題</ref> || [[高丘哲次]] || 2020年3月 || 2022年11月
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「まじない屋の愛情」 || [[実石さえ]] || ||
|-
| 「ミスター・ゴーストハンター」 || [[末喜晴]] || ||
|-
| 「愛されざる子どもたち」 || [[真路掬子]] || ||
|-
|rowspan="4"| 2020年 ||rowspan="4"| 504編 || 優秀賞 || 「あけがたの夢」<ref group="注">『迷子の龍は夜明けを待ちわびる』に改題</ref> || [[岸本惟]] || 2021年3月 ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「神なき世界の放浪者」 || [[織田万里]] || ||
|-
| 「ルリユールはかく束ねり」 || [[末喜晴]] || ||
|-
| 「ひとでなしの果て」 || [[石黒義握]] || ||
|-
|rowspan="4"| 2021年 ||rowspan="4"| 538編 || 大賞 || 「鯉姫婚姻譚」 || [[藍銅ツバメ]] ||2022年6月<ref>{{Cite web|和書|title=藍銅ツバメ 『鯉姫婚姻譚』 {{!}} 新潮社 |url=https://www.shinchosha.co.jp/book/354661/ |website=www.shinchosha.co.jp |access-date=2022-11-07 |language=ja}}</ref> ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「桜立つ」 || [[ノモマリカ]] || ||
|-
| 「雁は帰らない」 || [[桧口りょう]] || ||
|-
| 「あした、さよなら日和」 || [[堀井拓馬]] || ||
|-
|rowspan="4"| 2023年<ref group="注">受賞作品刊行年に年号を合わせることになったため2022年は欠番</ref> ||rowspan="4"| 427編 || 大賞 || 「夢現の神獣 未だ醒めず」 || [[武石勝義]]<ref group="注">「武石雄由」より改名</ref> || ||
|-
|rowspan="3"| 候補 || 「蒼穹の旅人」 || [[千葉也]] || ||
|-
| 「天地清明」 || [[上緒心理]] || ||
|-
| 「祭囃子の音は遠く」 || [[米山柊作]] || ||
|-
| rowspan="4" |2024年
| rowspan="4" |
|大賞
|「猫と罰」
|宇津木健太郎
|
|
|-
| rowspan="3" |候補
|「件の事」
|橘なわて
|
|
|-
|「指先から滴るとりとめのない軌跡よ」
|佐々木麦
|
|
|-
|「星屑と機械」
|歌島小鳥
|
|
|}
== 新潮文庫ファンタジーノベル・シリーズ ==
候補作や、候補作家の作品などを、新潮文庫オリジナルで刊行した。
*星虫(ほしむし) [[岩本隆雄]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ) 1990/7
*三日月銀次郎が行く [[武良竜彦]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1990/7
*月のしずく100%ジュース [[岡崎弘明]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1990/7
*ラスト・マジック [[村上哲哉]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1990/12
*念術小僧―大江戸サイキック・ボーイ [[加藤正和]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1990/12
*イーシャの舟 岩本隆雄 (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1991/7
*魔剣伝〈暁ノ段〉 [[流星香]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1991/7
*魔剣伝―黄昏ノ段 流星香 (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1991/9
*魔性の子 [[小野不由美]] (新潮文庫)1991/9/30
*メルサスの少年―「螺旋の街」の物語 [[菅浩江]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1991/12
*東方見聞録 竜の伝説<ref group="注">映画『[[東方見聞録 (映画)|東方見聞録]]』の[[小説化|ノベライズ]]。</ref> [[広井王子]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1991/12
*六番目の小夜子 [[恩田陸]] (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1992/7
*魔剣伝―牛若丸異聞 流星香 (新潮文庫―ファンタジーノベル・シリーズ)1992/7
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|3}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 佐藤亜紀「ファンタジーノベル大賞とはなんだったのか」、『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』第36巻第8号(通巻495号)、2004年8月。
== 関連項目 ==
* [[文学賞の一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shinchosha.co.jp/prizes/fantasy/ ファンタジーノベル大賞](新潮社公式サイト)
* [https://web.archive.org/web/20140206170831/http://www.fantasy-novel.jp/ ファンタジーノベル大賞](旧公式サイト)
{{DEFAULTSORT:にほんふあんたしいのへるたいしよう}}
[[Category:日本の公募新人文学賞]]
[[Category:ファンタジーの賞]]
[[Category:日本のファンタジー小説|*たいしよう]]
[[Category:読売新聞グループ主催の賞]]
[[Category:三井不動産の歴史]]
[[Category:清水建設]]
[[Category:スペキュレイティブ・フィクションの賞]]
[[Category:小説新潮|*にほんふあんたしいのへるたいしよう]]
|
2003-07-05T07:24:00Z
|
2023-12-11T23:14:14Z
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[
"Template:Cite news",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E5%A4%A7%E8%B3%9E
|
10,906 |
Internet Message Access Protocol
|
Internet Message Access Protocol(インターネット メッセージ アクセス プロトコル、IMAP(アイマップ)) は、メールサーバ上の電子メールにアクセスし操作するためのプロトコル。クライアントとサーバがTCPを用いて通信する場合、通常サーバー側はIMAP4ではポート番号143番、IMAP over SSL(IMAPS)では993番を利用する。
POP はユーザが利用中のサーバからクライアントにメールをダウンロードし、ダウンロードがすんだメールはサーバから削除することを標準的な利用形態とするのに対し、IMAP はメールをメールサーバ上に保存したまま管理する(RFC 1733 参照)。この特性により、Webメールや複数のコンピュータから同一アカウントのメールを読む場合に、メールの未読状態等の属性やメールフォルダの構成等が一元的に管理できる利点がある。もともとはオリジナルであるIMAPが開発されたが、IMAP2、IMAP3、IMAP2bisなどが作られ、現在IMAPと呼ぶときにはIMAP4を指すことが通常である。プロトコルの仕様が複雑であったためあまり広く普及しなかったが、Netscape や Internet Explorer に標準で含まれているメールソフトが IMAP4 に対応し、また相互接続試験やプロトコルの様々な改訂・拡張により相互運用性が高まったため、利用者が広がった。
POPは以下の利点と欠点を持つ。
IMAPはPOPの利点を生かしつつ欠点を解消している。
|
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"text": "Internet Message Access Protocol(インターネット メッセージ アクセス プロトコル、IMAP(アイマップ)) は、メールサーバ上の電子メールにアクセスし操作するためのプロトコル。クライアントとサーバがTCPを用いて通信する場合、通常サーバー側はIMAP4ではポート番号143番、IMAP over SSL(IMAPS)では993番を利用する。",
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"text": "POP はユーザが利用中のサーバからクライアントにメールをダウンロードし、ダウンロードがすんだメールはサーバから削除することを標準的な利用形態とするのに対し、IMAP はメールをメールサーバ上に保存したまま管理する(RFC 1733 参照)。この特性により、Webメールや複数のコンピュータから同一アカウントのメールを読む場合に、メールの未読状態等の属性やメールフォルダの構成等が一元的に管理できる利点がある。もともとはオリジナルであるIMAPが開発されたが、IMAP2、IMAP3、IMAP2bisなどが作られ、現在IMAPと呼ぶときにはIMAP4を指すことが通常である。プロトコルの仕様が複雑であったためあまり広く普及しなかったが、Netscape や Internet Explorer に標準で含まれているメールソフトが IMAP4 に対応し、また相互接続試験やプロトコルの様々な改訂・拡張により相互運用性が高まったため、利用者が広がった。",
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"text": "POPは以下の利点と欠点を持つ。",
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"title": "POPとの比較"
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] |
Internet Message Access Protocol は、メールサーバ上の電子メールにアクセスし操作するためのプロトコル。クライアントとサーバがTCPを用いて通信する場合、通常サーバー側はIMAP4ではポート番号143番、IMAP over SSL(IMAPS)では993番を利用する。
|
{{IPstack}}
<!-- Edit the stack image at: Template:IPstack -->
'''Internet Message Access Protocol'''(インターネット メッセージ アクセス プロトコル、'''IMAP'''(アイマップ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/IMAP-12270|title=IMAP(アイ マップ)とは? 意味や使い方 - コトバンク|accessdate=2023-08-20|publisher=コトバンク}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sophia-it.com/content/IMAP|title=IMAPとは (Internet Message Access Protocol) アイマップ: - IT用語辞典バイナリ|accessdate=2023-08-20|publisher=IT用語辞典バイナリ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://e-words.jp/w/IMAP.html|title=IMAPとは - 意味をわかりやすく - IT用語辞典 e-Words|accessdate=2023-08-20|publisher=IT用語辞典 e-words}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/icd/root/09/5784409.html|title=IMAP とは? - @IT|accessdate=2023-08-20|publisher=ITmedia}}</ref>)) は、[[メールサーバ]]上の[[電子メール]]にアクセスし操作するための[[プロトコル]]。クライアントとサーバが[[Transmission Control Protocol|TCP]]を用いて通信する場合、通常サーバー側はIMAP4では[[ポート番号]]143番、IMAP over [[Transport Layer Security|SSL]](IMAPS)では993番を利用する。
== 概要 ==
[[Post Office Protocol|POP]] はユーザが利用中のサーバからクライアントにメールをダウンロードし、ダウンロードがすんだメールはサーバから削除することを標準的な利用形態とするのに対し、IMAP はメールをメールサーバ上に保存したまま管理する({{IETF RFC|1733}} 参照)。この特性により、[[Webメール]]や複数のコンピュータから同一[[アカウント]]のメールを読む場合に、メールの未読状態等の属性やメールフォルダの構成等が一元的に管理できる利点がある。もともとはオリジナルであるIMAPが開発されたが、IMAP2、IMAP3、IMAP2bisなどが作られ、現在IMAPと呼ぶときにはIMAP4を指すことが通常である。プロトコルの仕様が複雑であったためあまり広く普及しなかったが、[[Netscapeシリーズ|Netscape]] や [[Internet Explorer]] に標準で含まれているメールソフトが IMAP4 に対応し、また相互接続試験やプロトコルの様々な改訂・拡張により相互運用性が高まったため、利用者が広がった。
== POPとの比較 ==
POPは以下の利点と欠点を持つ。<!-- 欠点と利点が少々違っていると思いますので、以下、コメントします -->
* POPプロトコルは常時接続ではないネットワークアクセスにおいて有利である。
* ユーザーはメールのローカルコピーを取得し、メールをオフラインで読める。
* メールフォルダは[[電子メールクライアント|MUA]]より管理されプロトコルには含まれていない。
* 通常、メールはサーバから取得された直後に削除する。すなわちサーバは未読のメールだけ保持しておけばよいので、サーバ側の保存容量は少なくて済む。
* 複数の端末からメールを取得すると、別の端末でダウンロードしたローカルコピーにアクセスできない。
* メールをサーバに保存する手段がない。<!-- 消さない通信が可能です-->
* メールを取得する際にメールの一部のみを取得する手段がオプションとなっている。
IMAPはPOPの利点を生かしつつ欠点を解消している。
* IMAPプロトコルはオンライン・オフラインいずれでも利用できる。<!-- popよりオフラインが苦手です -->
* オフライン操作はMUA側でトランザクションログとして保存し、サーバに接続した時点でコミットすることで反映できる。
* 通常、メールはサーバに常時保存される。ローカルコピーを取得した時点でサーバから削除することもできる(ただし基本的にサーバ側の保存容量は増加する)。
* 複数の端末からメール状態を一元管理できる。複数の端末で同じメールを読める。
* メールフォルダはプロトコルの一部として標準化されており、メールソフトの種類に関係なくフォルダを管理できる。
* メールの一部のみを取得できる。ヘッダのみの取得、マルチパートのテキスト部分のみの取得といった操作ができる。
* メールをサーバに保存する手段がある。フォルダ全体のスナップショットを別のサーバに転送できる。
* メッセージの検索をサーバ側で行わせることができ、クライアント側の負荷減少に寄与できる。
* IMAP4より古いIMAPはリモート実行によるプロトコルの複雑さとセキュリティ上の懸念があった。IMAP4では改善された。
* メールサーバはメールのオリジナルを管理しなければならない。大規模システムでは莫大な量のメール管理が必要となる。
== IMAPの採用例 ==
=== サーバ ===
* [[Courier-MTA|Courier-IMAP]]
* [http://www.washington.edu/imap/ UW IMAP]
* [[Cyrus IMAP server]]
* [[Dovecot]]
=== クライアント ===
* [[メール (Apple)|メール]] (アップル社)
* [[Becky! Internet Mail]]
* [[Eudora]]
* [[Gaucho Internet Mailer]]
* [[Gnus]]
* [[Mew]]
* [[Microsoft Entourage]]
* [[Microsoft Outlook Express]]
* [[Microsoft Outlook]]
* [[Mozilla Thunderbird]]
* [[Mutt]]
* [[Opera]] M2
* [[Shuriken|Shuriken Pro4]]
* [[Sylpheed]]
* [[sweetmail Kuro]]
* [[sweetmail namera]]
* [[Winbiff]]
* [[Wanderlust]]
* [[秀丸メール]]
=== ウェブメールクライアント ===
* [[RoundCube]]
* [[SquirrelMail]]
=== サービス ===
* [[MobileMe]] - [[Apple]]
* [[AIM Mail]] - [[AOL]]
* [[Gmail]] - [[Google]]
* [[Outlook.com]] - [[マイクロソフト]]
== RFC ==
* {{IETF RFC|5464}} - The IMAP METADATA Extension
* {{IETF RFC|5258}} - Internet Message Access Protocol version 4 - LIST Command Extensions
* {{IETF RFC|5257}} - Internet Message Access Protocol - ANNOTATE Extension
* {{IETF RFC|5256}} - Internet Message Access Protocol - SORT and THREAD Extensions
* {{IETF RFC|5255}} - Internet Message Access Protocol Internationalization
* {{IETF RFC|5182}} - IMAP Extension for Referencing the Last SEARCH Result
* {{IETF RFC|5162}} - IMAP4 Extensions for Quick Mailbox Resynchronization
* {{IETF RFC|5161}} - The IMAP ENABLE Extension
* {{IETF RFC|5092}} - IMAP URL Scheme
* {{IETF RFC|5032}} - WITHIN Search Extension to the IMAP Protocol
* {{IETF RFC|4978}} - The IMAP COMPRESS Extension
* {{IETF RFC|4959}} - IMAP Extension for [[Simple Authentication and Security Layer]] (SASL) Initial Client Response
* {{IETF RFC|4731}} - IMAP4 Extension to SEARCH Command for Controlling What Kind of Information Is Returned
* {{IETF RFC|4551}} - IMAP Extension for Conditional STORE Operation or Quick Flag Changes Resynchronization
* {{IETF RFC|4550}} - Internet Email to Support Diverse Service Environments (Lemonade) Profile
* {{IETF RFC|4549}} - Synchronization Operations for Disconnected IMAP4 Clients
* {{IETF RFC|4469}} - Internet Message Access Protocol (IMAP) CATENATE Extension ''([http://www.kasai.fm/wiki/imap_cat 日本語訳])''
* {{IETF RFC|4468}} - Message Submission BURL Extension
* {{IETF RFC|4467}} - Internet Message Access Protocol (IMAP) - URLAUTH Extension
* {{IETF RFC|4466}} - Collected Extensions to IMAP4 ABNF
* {{IETF RFC|4416}} - Goals for Internet Messaging to Support Diverse Service Environments
* {{IETF RFC|4315}} - Internet Message Access Protocol (IMAP) - UIDPLUS extension
* {{IETF RFC|4314}} - IMAP4 Access Control List (ACL) Extension
* {{IETF RFC|3691}} - IMAP UNSELECT command
* {{IETF RFC|3516}} - IMAP4 Binary Content Extension
* {{IETF RFC|3503}} - Message Disposition Notification (MDN) profile for IMAP
* {{IETF RFC|3502}} - IMAP MULTIAPPEND Extension
* {{IETF RFC|3501}} - '''INTERNET MESSAGE ACCESS PROTOCOL - VERSION 4rev1'''
* {{IETF RFC|3348}} - IMAP4 Child Mailbox Extension
* {{IETF RFC|2971}} - IMAP4 ID extension
* {{IETF RFC|2683}} - IMAP Implementation Recommendations
* {{IETF RFC|2595}} - Using TLS with IMAP4, POP3 and ACAP
* {{IETF RFC|2359}} - IMAP4 UIDPLUS extension ''({{IETF RFC|4315}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|2342}} - IMAP4 Namespace
* {{IETF RFC|2221}} - IMAP4 Login Referrals
* {{IETF RFC|2195}} - IMAP/POP AUTHorize Extension for Simple Challenge/Response
* {{IETF RFC|2193}} - IMAP4 Mailbox Referrals
* {{IETF RFC|2192}} - IMAP URL Scheme ''({{IETF RFC|5092}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|2180}} - IMAP4 Multi-Accessed Mailbox Practice
* {{IETF RFC|2177}} - IMAP4 IDLE command
* {{IETF RFC|2095}} - IMAP/POP AUTHorize Extension for Simple Challenge/Response ''({{IETF RFC|2195}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|2088}} - IMAP4 non-synchronizing literals
* {{IETF RFC|2087}} - IMAP4 QUOTA extension
* {{IETF RFC|2086}} - IMAP4 ACL extension ''({{IETF RFC|4314}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|2061}} - IMAP4 COMPATIBILITY WITH IMAP2BIS
* {{IETF RFC|2060}} - INTERNET MESSAGE ACCESS PROTOCOL - VERSION 4rev1 ''({{IETF RFC|3501}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|1733}} - DISTRIBUTED ELECTRONIC MAIL MODELS IN IMAP4
* {{IETF RFC|1732}} - IMAP4 COMPATIBILITY WITH IMAP2 AND IMAP2BIS
* {{IETF RFC|1731}} - IMAP4 Authentication Mechanisms
* {{IETF RFC|1730}} - INTERNET MESSAGE ACCESS PROTOCOL - VERSION 4 ''({{IETF RFC|2060}}<nowiki/>によって改訂)''
* {{IETF RFC|1203}} - INTERACTIVE MAIL ACCESS PROTOCOL - VERSION 3
* {{IETF RFC|1176}} - INTERACTIVE MAIL ACCESS PROTOCOL - VERSION 2
* {{IETF RFC|1064}} - INTERACTIVE MAIL ACCESS PROTOCOL - VERSION 2 ''({{IETF RFC|1176}}, {{IETF RFC|1203}}<nowiki/>によって改訂)''
== 関連項目 ==
* [[POP3]]
* [[JSON Meta Application Protocol|JMAP]]
* [[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]
* [[プッシュ型電子メール]]
* [[UTF-7#修正UTF-7|修正UTF-7]]
* [[メールサーバ]]
== 脚注 ==
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{{URI scheme}}
{{Normdaten}}
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:電子メールのプロトコル]]
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10,908 |
中距離走
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中距離走(ちゅうきょりそう)とは、陸上競技のうち中距離を走る競技の総称。短距離走と長距離走の中間に位置する距離である。
中距離走の定義は、一般的にクラウチングスタートからスタンディングスタートに変わる800mから3000m未満の範囲内とされているが、中距離走が具体的にどの距離までの範囲を指すのかにはいくつかの捉え方があり、必ずしも明確な定義があるわけではない。特に、小・中学やジュニア種目では1500mを長距離走とする場合も多いなど同じ距離の競技であっても、対象とする競技者の持つ運動能力により、定義が異なる場合が多い。なお、400mをこの部類と認識している者もいるが、400mはれっきとした短距離の範囲なので、それは誤りである。
中距離走においては、スピードを出す瞬発力、早いスピードを維持する能力(走スピード持久力)、さらに運動を維持するのに必要な高い心肺能力(走持久力)という3つの能力を同時に開発し、距離によってそれぞれの能力をバランスよく整える必要があり、苛酷な競技である。
また、短距離走とは異なり400メートルトラックをオープンコースで走り、トラックを数周する間に競技を行うため、レース戦略も重要となる。世界レベルの大会でも、スタート直後に多くの選手同士が激しくぶつかり合いながら良い位置取りを確保しようとしたり、逆に集団の中に入ってしまいポケット状態になり失速してしまいスパートの時期を逸してしまうといった場合が多く見られる。
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中距離走(ちゅうきょりそう)とは、陸上競技のうち中距離を走る競技の総称。短距離走と長距離走の中間に位置する距離である。
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'''中距離走'''(ちゅうきょりそう)とは、[[陸上競技]]のうち中距離を走る競技の総称。[[短距離走]]と[[長距離走]]の中間に位置する距離である。
== 概要 ==
中距離走の定義は、一般的に[[クラウチングスタート]]から[[スタンディングスタート]]に変わる'''[[800メートル競走|800m]]から[[3000メートル競走|3000m]]未満'''の範囲内とされているが、中距離走が具体的にどの距離までの範囲を指すのかにはいくつかの捉え方があり、必ずしも明確な定義があるわけではない。特に、小・中学やジュニア種目では1500mを長距離走とする場合も多いなど同じ距離の競技であっても、対象とする競技者の持つ運動能力により、定義が異なる場合が多い。なお、[[400メートル競走|400m]]をこの部類と認識している者もいるが、400mはれっきとした短距離の範囲なので、それは誤りである。
中距離走においては、スピードを出す瞬発力、早いスピードを維持する能力(走スピード持久力)、さらに運動を維持するのに必要な高い心肺能力(走持久力)という3つの能力を同時に開発し、距離によってそれぞれの能力をバランスよく整える必要があり、苛酷な競技である。
また、[[短距離走]]とは異なり400メートルトラックを[[オープンコース]]で走り、トラックを数周する間に競技を行うため、レース戦略も重要となる。世界レベルの大会でも、スタート直後に多くの選手同士が激しくぶつかり合いながら良い位置取りを確保しようとしたり、逆に集団の中に入ってしまいポケット状態になり失速してしまいスパートの時期を逸してしまうといった場合が多く見られる。
== 中距離走の種類 ==
*[[800メートル競走]]
*[[1000メートル競走]]
*[[1500メートル競走]]
*[[1マイル競走]] - 古くから行われている伝統のある競技であり、[[メートル法]]以外の国々(特にアメリカ)では現在でも人気がある。
*[[2000メートル競走]]
*[[3000メートル競走]]
== その他 ==
*エリミネーションマイル - 一部のイベントで行われる種目。トラック4周(1600m)の競走だが、1周ごとに下位の者が脱落する<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sports/202108/0014609041.shtml 陸上・ミドルディスタンスC 男子エリミネーションマイルの坂東、初体験種目「楽しめた」]神戸新聞(2021年8月21日)2022年3月12日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[2000メートル障害]]
*[[3000メートル障害]]
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{{スポーツ一覧}}
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{{DEFAULTSORT:ちゆうきよりそう}}
[[Category:陸上競技種目]]
|
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10,910 |
四街道市
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四街道市(よつかいどうし)は、千葉県の北部に位置する市。
明治時代には軍都として栄え、古くから交通の要衝として現在の千葉市、船橋市、成田市、東金市方面へ東西南北4方向の街道が交わることから四ツ街道(現在の四街道)という名が付いた歴史をもつ。
1981年(昭和56年)市制施行。
県都・千葉市中心部から8キロメートル、東京都の都心からも40キロメートル圏内と利便性の高い立地条件であることから、JR四街道駅周辺はマンションや住宅地が立ち並び、首都圏のベッドタウンとして発展してきた。一方、梨、落花生などの生産が盛んな近郊農業地帯でもある。市政施行前は印旛郡に属していた。人口は約9万5000人。
かつては四街道駅南口から228基ものガス灯が立ち並び、長さも約2,300メートルと日本一の長さであったが、2016年(平成28年)4月にLED化されている。
都市雇用圏における東京都市圏(東京都特別区部、千葉市)に含まれ、通勤率は、千葉市へ28.5%、東京都特別区部へ15.7%(いずれも平成22年国勢調査)。
かつて古代には物部氏に関係した下総国千葉郡物部(現在の物井地区周辺)と山梨(現在の山梨地区周辺)という里・郷名であった。中世期には下総国臼井荘へと変わり、約600年もの間「千葉一族」の所領となった。その後徳川家康により関東が平定され、江戸期には佐倉藩・幕領となった。
幕末には下志津原に佐倉藩の砲術練習所が置かれ、その後1886年(明治19年)4月に「陸軍砲兵射的学校」が創立され、1897年(明治30年)に「陸軍射撃学校」と改称され四街道駅の北側に移転してきた。この事により、四街道の町は軍都として発展を遂げていく。1922年(大正11年)「陸軍野戦砲兵学校」と改称。しかし、終戦と同時に軍は解体(現在残るのは「陸上自衛隊下志津駐屯地)。その後、旧陸軍施設跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され現在に至っている。
市名の由来は四街道駅から西に500メートルほどの場所(現在の「四街道十字路」北緯35度39分39.8秒 東経140度9分34秒)に「北 成田山道」「南 千葉町道」「東 東宇がね(東金)道、馬渡道」「西 東京、船橋道」と掘ってある駒形方形の道標石塔が建っており、そこを中心に街道が四方向に伸びていることから「四つ角」→「四ツ街道」→「四街道」という呼び名が付いた(和良比地区に字・四海道も存在する)。1881年(明治14年)に四つ角に私設郵便局が開設した際、初代局長の福島和吉が局名を「四街道」とするように県に懇願し認可されたのが始まりとされる。
ちなみに近くには御成街道や千葉街道、成田街道や佐倉街道(年貢道)があるが、成田街道と佐倉街道が交わるのは佐倉城下であり、これらの街道は四街道の地名とは直接関係がない。
明治改元後
日清戦争後
日露戦争後
太平洋戦争前
太平洋戦争中
太平洋戦争後
近年は千葉市のベッドタウンの性格が強くなり人口は増加を続けている。ただし、増加率は低下している。
ここでは、現職首長などについて解説した後、現在自治体の前身である四街道町の歴代首長と、現在自治体である四街道市の歴代首長について、順を追って解説する。
任期を1とするカウントと連続した就任期間を1とするカウントを、代a・代bとして併記する。
なお、首長の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では a, b を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代a」「代b」という名で2種類を記載した。a は就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、b は同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。四街道市は a の方式を採っているが(他の例:八王子市、弘前市、浜松市)、b の方式を採る自治体も多く(例:京都市、大垣市)、a と b の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、四街道市はこれに該当しない。
四街道市では2回の住民投票が行われている。いずれも高橋市長の任期中であり、その市政の信を問うものであったが、何れも反対多数で否決されている。
1996年5月、当時の千葉市長であった松井旭が、「人口100万人を達成できないなら、周辺市町村との合併も考えなければならない」と発言して物議を醸した。この際に具体的な合併対象市町についての言及はなかったが、習志野市、佐倉市、大網白里町とともに、四街道市が想定されていたといわれる。
その後、千葉市周辺で具体的に合併話が持ち上がることはしばらくなかったが、2000年10月に四街道市で「千葉市との合併推進」を公約に掲げた高橋市長が就任して以降、合併の気運が盛り上がり、2000年12月に千葉県が発表した「合併推進要綱」でも「千葉市と四街道市の合併」が例示された。
2003年2月、四街道市の住民の発議により法定合併協議会が設置され、合併方式を千葉市への編入とし、行政区名を「四街道区」とする方針が決まった。しかし四街道市議会内で合併への賛否が拮抗し、賛成派・反対派双方による発議により2004年5月16日に行われた、合併の是非を問う住民投票の結果、反対意見が賛成を上回ったために合併は白紙となった。
四街道市は、JR四街道駅北口再開発事業の中心として「地域交流センター(仮称)」の建設を計画していた。建設予定であった地域交流センターは、2008年1月着工を予定、翌2009年6月開館を予定し計画されていた。
しかし市民からは、建設予定地の近隣に四街道市文化センターがあるにもかかわらず、新たに建設費21億円を投じてまで建設する意義があるのかという疑問の声が多く挙がった。
このため四街道市議会は2007年10月に「地域交流センターの建設の賛否を問う住民投票条例」の条例案を可決した。そして条例に基づき、同2007年12月9日に地域交流センター建設の是非を問う住民投票が行われた。その結果、賛成7,962票、反対25,384票により地域交流センターの建設は白紙となった。この公共施設の建設を巡る住民投票は全国的に見ても稀な事例である。
市外局番は市内全域が「043」。市内局番が「42X」「43X」を四街道市では割り当てている。 佐倉市、八街市、印旛郡酒々井町などとの通話は市内通話料金で利用可能(千葉MA)。 また、最近では千葉市と共通して「30X」「31X」も使用している。
郵便番号は市内全域が「284-00xx」、四街道郵便局が集配を担当する。
四街道市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「印旛医療圏」(管轄区域:成田市、佐倉市、四街道市、八街市、印西市、白井市、富里市、酒々井町、栄町)である。三次医療圏は「千葉県医療圏」(管轄区域:千葉県全域)。
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。
千葉県指定および国登録文化財一覧。
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"title": "行政"
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"text": "このため四街道市議会は2007年10月に「地域交流センターの建設の賛否を問う住民投票条例」の条例案を可決した。そして条例に基づき、同2007年12月9日に地域交流センター建設の是非を問う住民投票が行われた。その結果、賛成7,962票、反対25,384票により地域交流センターの建設は白紙となった。この公共施設の建設を巡る住民投票は全国的に見ても稀な事例である。",
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"text": "市外局番は市内全域が「043」。市内局番が「42X」「43X」を四街道市では割り当てている。 佐倉市、八街市、印旛郡酒々井町などとの通話は市内通話料金で利用可能(千葉MA)。 また、最近では千葉市と共通して「30X」「31X」も使用している。",
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"text": "郵便番号は市内全域が「284-00xx」、四街道郵便局が集配を担当する。",
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"text": "四街道市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「印旛医療圏」(管轄区域:成田市、佐倉市、四街道市、八街市、印西市、白井市、富里市、酒々井町、栄町)である。三次医療圏は「千葉県医療圏」(管轄区域:千葉県全域)。",
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"text": "千葉県指定および国登録文化財一覧。",
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] |
四街道市(よつかいどうし)は、千葉県の北部に位置する市。 明治時代には軍都として栄え、古くから交通の要衝として現在の千葉市、船橋市、成田市、東金市方面へ東西南北4方向の街道が交わることから四ツ街道(現在の四街道)という名が付いた歴史をもつ。 1981年(昭和56年)市制施行。
|
{{出典の明記|date=2023-08}}
{{日本の市
| 画像 = File:Yotsukaidojujiro.jpg
| 画像の説明 = 四街道十字路の道標石塔
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Yotsukaido, Chiba.svg|border|100px|四街道市旗]]
| 市旗の説明 = 四街道[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:千葉県四街道市市章.svg|70px|四街道市章]]
| 市章の説明 = 四街道[[市町村章|市章]]<br /><small>[[1955年]][[3月10日]]制定</small>
| 自治体名 = 四街道市
| 都道府県 = 千葉県
| コード = 12228-9
| 隣接自治体 = [[千葉市]]、[[佐倉市]]
| 木 = [[サクラ]]
| 花 = [[サクラソウ]]
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など =
| 郵便番号 = 284-8555
| 所在地 = 四街道市[[鹿渡 (四街道市)|鹿渡]][[無番地]]<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Yotsukaido City Hall.JPG|230px|center]]四街道市役所{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plainno|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.68|frame-longitude=140.173|text=市庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|228|image=Yotsukaido in Chiba Prefecture Ja.svg}}
| 特記事項 =
}}
'''四街道市'''(よつかいどうし)は、[[千葉県]]の北部に位置する[[市]]。
[[明治時代]]には[[軍都]]として栄え、古くから交通の要衝として現在の[[千葉市]]、[[船橋市]]、[[成田市]]、[[東金市]]方面へ[[東西南北]]4方向の街道が交わることから四ツ街道(現在の四街道)という名が付いた歴史をもつ。
[[1981年]]([[昭和]]56年)[[市制]]施行。
== 概要 ==
[[都道府県庁所在地|県都]]・[[千葉市]]中心部から8キロメートル、東京都の[[東京都|都心]]からも40キロメートル圏内と利便性の高い立地条件であることから、[[四街道駅|JR四街道駅]]周辺は[[マンション]]や住宅地が立ち並び、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[ベッドタウン]]として発展してきた。一方、[[ナシ|梨]]、[[ラッカセイ|落花生]]などの生産が盛んな[[近郊農業地帯]]でもある。市政施行前は[[印旛郡]]に属していた。[[人口]]は約9万5000人。
かつては[[四街道駅]]南口から228基もの[[ガス灯]]が立ち並び、長さも約2,300メートルと日本一の長さであったが、[[2016年]](平成28年)4月に[[LED]]化されている。
[[都市雇用圏]]における[[東京都市圏]]([[東京都特別区部]]、千葉市)に含まれ、通勤率は、[[千葉市]]へ28.5[[パーセント|%]]、東京都特別区部へ15.7%(いずれも平成22年[[国勢調査]])。
== 地理 ==
* 千葉県中北部の内陸に位置し、南と西で[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の[[千葉市]]と隣接し、北と東で[[佐倉市]]と隣接する。
* [[下総台地]]の南に位置し、市の東縁を[[利根川]][[水系]]の[[鹿島川 (千葉県)|鹿島川]]が[[印旛沼]]へと北流している。
* 市の中央部南方を、JR[[総武本線]]が南西から北東に走り、市の中央部南方に[[四街道駅]]、北東部に[[物井駅]]がある。
* 市の中央部北方を、[[東関東自動車道]]が東西に走り、市の北東部に[[四街道インターチェンジ]]がある。
* 市の南部を、[[国道51号]]が南東から北西に走り、「吉岡交差点」<ref group="注">同名の交差点名は[[成田市|成田市(旧・香取郡大栄町)]]にもあるが、四街道市の読みは「よしおか」、成田市の読みは「きちおか」である。</ref>の名は[[交通情報]]の[[渋滞]]情報でよく登場する。
=== 地形 ===
* 市域の大半は[[下総台地]]([[印旛沼]]南側流域)の低い[[台地]]となっており、樹枝状の[[谷津田]]が多数切れ込んでいる。主要な谷津田は、東部 - 南部の鹿島川とその支川、中央部の手繰川源流、西北部の[[勝田川]]支川。西部のごく一部が[[都川]]水系の[[葭川]]の流域となっている。全体として印旛沼へ流れ込む[[河川]]に沿った、南が高く北が低い微傾斜となっている。
* 最低[[標高]]点は、最北端の鹿島川へ小河川が流れ込む合流点で、約5メートル。
* 最高標高点は、最南部の吉岡新開の[[東金御成街道]]付近で、40メートル強。
=== 隣接する自治体・行政区 ===
* [[千葉市]]([[花見川区]]、[[稲毛区]]、[[若葉区]])
* [[佐倉市]]
== 歴史 ==
かつて古代には[[物部氏]]に関係した[[下総国]]千葉郡物部(現在の物井地区周辺)と山梨(現在の山梨地区周辺)という里・郷名であった。中世期には下総国[[臼井荘]]へと変わり、約600年もの間「[[千葉氏|千葉一族]]」の所領となった。その後[[徳川家康]]により関東が平定され、江戸期には[[佐倉藩]]・幕領となった。
幕末には下志津原に[[佐倉藩]]の砲術練習所が置かれ、その後[[1886年]](明治19年)4月に「[[陸軍砲兵射的学校]]」が創立され、[[1897年]](明治30年)に「陸軍射撃学校」と改称され四街道駅の北側に移転してきた。この事により、四街道の町は[[軍都]]として発展を遂げていく。[[1922年]](大正11年)「[[陸軍野戦砲兵学校]]」と改称。しかし、終戦と同時に軍は解体(現在残るのは「[[陸上自衛隊]][[下志津駐屯地]])。その後、旧陸軍施設跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され現在に至っている。
=== 地名の由来 ===
市名の由来は四街道駅から西に500メートルほどの場所(現在の「四街道十字路」{{ウィキ座標|35|39|39.8|N|140|9|34|E||地図}})に「北 成田山道」「南 千葉町道」「東 東宇がね(東金)道、馬渡道」「西 東京、船橋道」と掘ってある駒形方形の道標石塔が建っており、そこを中心に街道が四方向に伸びていることから「四つ角」→「四ツ街道」→「'''四街道'''」という呼び名が付いた(和良比地区に字・四海道も存在する)。1881年(明治14年)に四つ角に私設郵便局が開設した際、初代局長の福島和吉が局名を「四街道」とするように県に懇願し認可されたのが始まりとされる。
ちなみに近くには[[東金御成街道|御成街道]]や[[千葉街道]]、[[成田街道]]や[[佐倉街道]](年貢道)があるが、成田街道と佐倉街道が交わるのは佐倉城下であり、これらの街道は四街道の地名とは直接関係がない。
=== 年表 ===
[[ファイル:Old abutment,JR-Sobu-line,Yotsukaido-city,Japan.jpg|サムネイル|総武本線旧線路の煉瓦造橋台]]
==== 明治時代 ====
'''明治改元後'''
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - 町村制の施行に伴い、[[印旛郡]][[千代田町 (千葉県)|千代田村]](畔田・亀崎村役場)・[[旭村 (千葉県印旛郡)|旭村]](鹿渡本村役場)が成立。
* [[1894年]](明治27年)[[12月9日]] - [[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]が開通し、四ツ街道駅(現・[[四街道駅]])が設置される。
'''日清戦争後'''<!--1895年(明治28年)3月以後-->
* [[1897年]](明治30年)某月某日 - [[陸軍野戦砲兵学校|陸軍野戦砲兵射撃学校]]が、四ツ街道駅北側(鹿渡無番地)に移転してくる。周辺に軍需門前町(現在の四街道地区)が形成される。
'''日露戦争後'''<!--1905年(明治38年)9月5日以後-->
* [[1907年]](明治40年)
** [[9月1日]] - [[鉄道国有法]]により、総武鉄道が国有化、[[総武本線]]となる。
** [[11月1日]] - 四ツ街道駅が[[四街道駅]]に改称される。<!--大正時代
第一次世界大戦後
1918年(大正7年)11月11日以降-->
==== 昭和時代 ====
'''太平洋戦争前'''
* [[1940年]]([[昭和]]15年)[[12月23日]] - 千代田村が町制施行し、千代田町(物井役場)となる。
'''太平洋戦争中'''<!--1941年12月8日から1945年9月2日まで-->
* [[1945年]](昭和20年)
** [[6月10日]] - [[千葉空襲]]あり。
** 8月 - 終戦直前、陸軍野戦砲兵学校が解隊する。
'''太平洋戦争後'''<!--1945年9月2日から-->
* [[1945年]](昭和20年)9月 - 6月10日の[[千葉空襲]]で校舎の壊滅した[[千葉師範学校]]女子部が、野戦砲兵学校跡地に移転する。
* [[1955年]](昭和30年)[[3月10日]] - '''四街道町の発足'''/千代田町と旭村(馬渡は[[佐倉市]]へ編入)が合併し、人口18,014人の'''[[印旛郡]]四街道町'''が誕生。
* [[1957年]](昭和32年)[[1月1日]] - 北部5集落(羽鳥、飯重、吉見、生ヶ谷、畔田)を佐倉市に編入。
* [[1959年]](昭和34年)[[2月1日]] - 大日の飛地を千葉市に編入。
* [[1960年代]]以降 - [[緑ケ丘 (四街道市)|緑ヶ丘]]を皮切りに[[新興住宅地]]、おもには[[団地]]が次々に造成されて急速に人口が増加し、首都圏の[[ベッドタウン]]のひとつとなる。
* [[1977年]](昭和52年)[[4月19日]] - 四街道町が、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]の都市[[リバモア (カリフォルニア州)|リバモア]]と[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[4月1日]] - '''市制施行'''/[[国勢調査]]で人口が約6万人となり、[[市制#現代日本における市制施行の要件|市制規定人口]](5万人)を超えたため市制施行を行い'''四街道市'''となる/市制の施行は同県の[[浦安市]]と同日であった。
** [[12月11日]] - [[四街道駅]]が橋上化される。
==== 平成時代 ====
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月1日]] - 四街道市と[[千葉市]]の境界に変更あり。四街道市と佐倉市の境界にも変更あり。
* [[2001年]](平成13年)[[5月5日]] - 山梨地区にある工場の作業員宿舎で火災が発生し、11人が死亡した。
* [[2003年]](平成15年)[[2月5日]] - 四街道市民の発議により、千葉市との法定合併協議会が設置される。
* [[2004年]](平成16年)[[5月16日]] - 「千葉市との合併の是非を問う[[住民投票]]」が行われ、反対票多数<ref group="注">{{要出典範囲|date=2023-08|賛成:45.3%、反対:54.7%。}}</ref>により、千葉市との合併が白紙となる。
* [[2006年]](平成18年)[[12月1日]] - 千葉市の一部を編入(境界変更)。
== 人口 ==
近年は千葉市のベッドタウンの性格が強くなり人口は増加を続けている。ただし、増加率は低下している。{{人口統計|code=12228|name=四街道市|image=Population distribution of Yotsukaido, Chiba, Japan.svg}}
== 行政 ==
=== 市長 ===
ここでは、現職[[首長]]などについて解説した後、現在自治体の前身である四街道町の歴代首長と、現在自治体である四街道市の歴代首長について、順を追って解説する。
==== 現職市長 ====
* 四街道[[市町村長|市長]] - {{読み仮名|[[鈴木陽介|鈴木 陽介]]|すずき ようすけ}}
:: [[2018年|2022年]]([[令和]]4年)初当選<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=市長の部屋 四街道市 |url=http://www.city.yotsukaido.chiba.jp/shichonoheya/mayorroom.html |website=四街道市 |accessdate=2022-02-28}}</ref>。[[任期]]満了日は[[2026年]]2月27日。
<!--* 四街道[[副市町村長|副市長]] -
:: 2010年(平成22年)7月1日選任、2014年(平成26年)6月30日退任。同年7月1日再任。任期満了日は2018年(平成30年)6月30日。<ref>{{Cite web |author=四街道市総務部人事課 |date=2014年(平成26年)6月25日 |url=https://www.city.yotsukaido.chiba.jp/shisei/koho/houdou_kouhyou/houdou_26.files/fukusityou-sennin.pdf |title=副市長の選任の同意について |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=四街道市 |accessdate=2018-03-30 |ref=市-副市長-2014 }}</ref><ref>{{Cite web |date=2017年〈平成29年〉5月22日 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/shichou/gyousei/fukushichou.html |title=県内市町村における副市町村長の状況について |work=公式ウェブサイト |publisher=千葉県 |accessdate=2018-03-30 |ref=県-副市町村長-2017 }}</ref>-->
==== 歴代市長 ====
任期を1とするカウントと連続した就任期間を1とするカウントを、代a・代bとして併記する。
なお、[[首長]]の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では a, b を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代a」「代b」という名で2種類を記載した。a は就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、b は同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。四街道市は a の方式を採っているが(他の例:[[八王子市#歴代市長|八王子市]]、[[弘前市#行政|弘前市]]<ref>[http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/rekishi/shuchou/ 歴代の首長] 弘前市</ref>、[[浜松市#行政|浜松市]]<ref>[https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hisho/intro/101_01d.html 浜松市の歴代市長] 浜松市、2023年5月1日更新、2023年8月1日閲覧。</ref>)、b の方式を採る自治体も多く(例:[[京都市#地域|京都市]]<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000033357.html 歴代市長 - 京都市情報館] 京都市</ref>、[[大垣市#行政|大垣市]]<ref>[http://www.city.ogaki.lg.jp/0000000749.html 歴代市長] 大垣市</ref>)、a と b の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、四街道市はこれに該当しない。
{|class="wikitable" style="width:100%"
! style="background-color:#52b8b8; width:1%" | 代a !! style="background-color:#52b8b8; width:1%" | 代b !! style="background-color:lightblue; width:10%" | 氏名 !! style="background-color:#52b8b8; width:27%" | 就任年月日 !! style="background-color:lightblue; width:27%" | 退任年月日 !! style="background-color:#aad" | 備考
|-
! style="background-color:#d3d3d3" colspan="6" | 公 選 市 長
|-
| <center>- || <center>- || rowspan="4" | <center>{{Ruby|[[斉藤 悌市]]|さいとう ていいち}} || [[1981年]]([[昭和]]56年)[[4月1日]] || 1981年(昭和56年)4月28日<ref group="注">[[公職選挙法]]第102条の規定により、職務代理権の喪失は当選人の告示日と同日。前日ではない。</ref> || {{small|[[市制]]施行の前日、四街道町長を退任。翌日、[[代理#行政法における代理|四街道市長臨時代理者]]に就任<ref group="注">{{要出典範囲|date=2023-08|中国戦線で左足を失い、[[義足]]であった。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=ちば人国記II |url=https://www.worldcat.org/oclc/674472468|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1988|isbn=4-620-30666-5|oclc=674472468|pages=245-246}}</ref>。}}
|-
| <center>1 || rowspan="3" | <center>1 || 1981年(昭和56年)[[4月28日]] || [[1984年]](昭和59年)4月27日 || {{small|1期目4年を満了。}}
|-
| <center>2 || 1984年(昭和59年)4月28日 || [[1988年]](昭和63年)4月27日 || {{small|2期目4年を満了。}}
|-
| <center>3 || 1988年(昭和63年)4月28日 || [[1992年]]([[平成]]4年)4月27日 || {{small|3期目4年を満了。}}
|-
| <center>4 || rowspan="2" | <center>2 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[小川進 (政治家)|小川 進]]|おがわ すすむ}} || 1992年(平成4年)4月28日 || [[1996年]](平成8年)4月27日 || {{small|1期目4年を満了。}}
|-
| <center>5 || 1996年(平成8年)4月28日 || 1996年(平成8年)9月11日 || {{small|2期目在任中に死去。}}
|-
| <center>6 || <center>3 || <center>{{Ruby|[[中台良男|中台 良男]]|なかだい よしお}} || 1996年(平成8年)10月20日 || [[2000年]](平成12年)10月19日 || {{small|1期4年を満了。}}
|-
| <center>7 || rowspan="2" | <center>4 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[高橋操|高橋 操]]|たかはし みさお}} || 2000年(平成12年)10月20日 || [[2004年]](平成16年)10月19日 || {{small|1期目4年を満了。}}
|-
| <center>8 || 2004年(平成16年)10月20日 || [[2008年]](平成20年)10月19日 || {{small|2期目4年を満了。}}
|-
| <center>9 || <center>5 || <center>{{Ruby|[[小池正孝|小池 正孝]]|こいけ まさたか}} || 2008年(平成20年)10月20日 || [[2010年]](平成22年)2月3日 || {{small|在任中、体調を崩して辞職。}}
|-
| <center>10 || rowspan="3" | <center>6 || rowspan="3" | <center>{{Ruby|[[佐渡斉|佐渡 斉]]|さど ひとし}} || 2010年(平成22年)2月28日 || [[2014年]](平成26年)2月27日 || {{small|1期目4年を満了<ref group="注">2010年(平成22年)2月28日、56歳で初当選([[無所属]])。</ref><ref name="選挙.com">[[選挙ドットコム]]{{full|date=2023-08}}</ref>。}}
|-
| <center>11 || 2014年(平成26年)2月28日 || [[2018年]](平成30年)2月27日 || {{small|2期目4年を満了<ref group="注">2014年(平成26年)2月16日、60歳で再選(無所属)。</ref><ref name="選挙.com" />。}}
|-
| <center>12 || 2018年(平成30年)2月28日 || [[2022年]](令和4年)2月27日|| {{small|3期目4年を満了<ref group="注">2018年(平成30年)2月18日、64歳で3選(無所属)。</ref><ref name="選挙.com" />。}}
|-
|<center>'''13'''
|<center>7
|<center>{{Ruby|[[鈴木陽介|'''鈴木 陽介''']]|すずき ようすけ}}
|[[2022年]](令和4年)2月27日
|
|{{small|現職<ref name=":1" />。}}
|}
=== 市役所 ===
* 四街道市役所 - [[鹿渡 (四街道市)|鹿渡]]無番地に所在。
=== 施設 ===
[[File:Yotsukaidocity library.jpg|thumb|right|[[四街道市立図書館]]]]
;市の施設
* [[四街道市文化センター]](所在地:四街道市大日396、建物規模:地上3階 地下1階建て、延べ床面積:9,903平方メートル)
*: 楽屋併設の大ホール(多目的)(収容定員:1,157席)および展示ホール(面積:125平方メートル)(地上1・2階)からなるホール棟と、会議室等(地上2・3階)の設置されている会議棟で構成される。運営は財団法人四街道市施設公社が受託。
* [[四街道市立図書館]]:(建物規模:地上4階 地下1階建て)
*:[[四街道市文化センター]]に隣接する([[駐車場]]は共用)。蔵書数は220,688冊(2006年)。なお、一般に開放されているのは、地下1階、地上1階、地上2階、地上3階の一部(視聴覚ライブラリー等)の一部のみである。
* 四街道市鹿放ヶ丘ふれあいセンター:(所在地:四街道市鹿放ヶ丘284-12)
*: 地域交流および地元歴史等の学習のための施設。ホールや会議室など以外に、歴史民俗資料室および、陶芸用の工房(陶芸室や電気窯)を有している。学習室の蔵書数は500冊(貸し出し不可)。運営は財団法人 四街道市施設公社が受託。
* 四街道市総合福祉センター(所在地:四街道市鹿渡無番地、建物規模:地上3階建て)
* 四街道市南部総合福祉センター わろうべの里(所在地:四街道市和良比635番4、建物規模:地上2階建て、延べ床面積:2,947.61平方メートル)
* 四街道市温水プール:(所在地:四街道市山梨2027、敷地面積:3,874平方メートル、延べ床面積:1,438平方メートル)
*: 隣接する四街道[[清掃工場|クリーンセンター]]で生じる余熱を転用した[[温水プール]]。ただ余熱の利用は一部に留まっており、プールの昇温は専ら重油によって賄われている。一般ステンレスプール(コース長:25メートル×7コース、水深:1メートル - 1.2メートル)1面、および、幼児用変形プール(水深:0.3メートル - 0.4メートル)1面を有す。運営は、[[財団法人]] 四街道市施設公社が受託している。
*[[四街道総合公園]]:(所在地:四街道市和田161番地、敷地面積:19.3ヘクタール)
; 県の施設
* [[千葉県教育振興財団]] 本部
* 千葉県教育振興財団文化財センター 本部
==== 国の施設 ====
; 税務署
* 成田税務署 - [[成田市]][[加良部]]1-15に所在。[[東京国税局]]管内[[税務署]]の一つ。管轄区域は、成田市、[[佐倉市]]、四街道市、[[八街市]]、[[印西市]]、[[白井市]]、[[富里市]]、[[印旛郡]]。
; 裁判所
*[[東京高等裁判所]] 管轄区域
*[[千葉地方裁判所]]佐倉支部 管轄区域
** 佐倉簡易裁判所 - [[佐倉市]]弥勒町92に所在。
*[[千葉家庭裁判所]]佐倉支部 管轄区域
; 検察庁
*[[千葉地方検察庁]]佐倉支部 - 佐倉区検察庁内に所在。
** 佐倉区検察庁 - 佐倉市弥勒町94に所在。
=== 警察・消防・救急救命 ===
[[File:Yotsukaido-ps.jpg|thumb|right|[[四街道警察署]]]]
[[File:Yotsukaido City Fire Department.JPG|thumb|right|[[四街道市消防本部]]]]
* [[四街道警察署]]
** 旭交番、千代田交番、大日交番、四街道駅前交番
* [[四街道市消防本部]]
** 四街道消防署
** 千代田分署
** 旭分署
** 四街道市消防音楽隊
** 四街道市消防資料館
* [[消防団]] - 全18分団
=== 住民投票 ===
四街道市では2回の[[住民投票]]が行われている。いずれも高橋市長の任期中であり、その市政の信を問うものであったが、何れも反対多数で否決されている。
==== 千葉市との合併 ====
[[1996年]]5月、当時の[[千葉市]]長であった[[松井旭]]が、「人口100万人を達成できないなら、周辺[[市町村]]との合併も考えなければならない」と発言して物議を醸した。この際に具体的な合併対象市町についての言及はなかったが、[[習志野市]]、[[佐倉市]]、[[大網白里市|大網白里町]]とともに、四街道市が想定されていたといわれる。
その後、千葉市周辺で具体的に合併話が持ち上がることはしばらくなかったが、[[2000年]]10月に四街道市で「千葉市との合併推進」を公約に掲げた高橋市長が就任して以降、合併の気運が盛り上がり、2000年12月に千葉県が発表した「合併推進要綱」でも「千葉市と四街道市の合併」が例示された。
[[2003年]]2月、四街道市の住民の発議により[[日本の市町村の廃置分合#合併協議会|法定合併協議会]]が設置され、合併方式を千葉市への編入とし、[[行政区]]名を「四街道区」とする方針が決まった。しかし[[四街道市議会]]内で合併への賛否が拮抗し、賛成派・反対派双方による発議により[[2004年]][[5月16日]]に行われた、合併の是非を問う住民投票の結果、反対意見が賛成を上回ったために合併は白紙となった。
==== 地域交流センター建設 ====
四街道市は、JR四街道駅北口[[再開発事業]]の中心として「地域交流センター(仮称)」の建設を計画していた。建設予定であった地域交流センターは、[[2008年]]1月着工を予定、翌[[2009年]]6月開館を予定し計画されていた。
しかし市民からは、建設予定地の近隣に[[四街道市文化センター]]があるにもかかわらず、新たに建設費21億円を投じてまで建設する意義があるのかという疑問の声が多く挙がった。
このため[[四街道市議会]]は[[2007年]]10月に「地域交流センターの建設の賛否を問う住民投票条例」の条例案を可決した。そして条例に基づき、同2007年[[12月9日]]に地域交流センター建設の是非を問う住民投票が行われた。その結果、賛成7,962票、反対25,384票により地域交流センターの建設は白紙となった。{{要出典範囲|date=2023-08|この公共施設の建設を巡る住民投票は全国的に見ても稀な事例である。}}
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|四街道市議会}}
* 定数:20名<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yotsukaido.chiba.jp/smph/shigikai/g_system/shikumi.html|title=市議会のしくみ|accessdate=2020年4月27日|publisher=四街道市}}</ref>
* 任期:令和2年3月9日から令和2年3月10日
* 議長:岡田 哲明
* 副議長:成田 芳律
{| class="wikitable"
!会派名!!議席数!!議員名
|-
|四街道
|5
|清宮一義 成田芳律 戸田由紀子 石山健作 長谷川清和
|-
|市民くらぶ
|4
|広瀬義積 久保田敬次郎 栗原直也 大越登美子
|-
|公明党
|3
|西塚義尊、田中徳彦、高橋絹子
|-
|れいわ輝
|3
|坂本弘毅、保坂康平、森本次郎
|-
|志誠会
|2
|岡田哲明、関根登志夫
|-
|日本共産党
|2
|阿部百合子、本田良
|-
|無会派
|1
|山本裕嗣
|-
|計
|20
|
|}
=== 県議会 ===
* 選挙区:四街道市選挙区
* 定数:2名
* 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
{| class="wikitable"
|-
!氏名!!会派名!!当選回数
|-
| 岡村泰明 ||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県議会議員会 || style="text-align:center" | 5
|-
| 中台良男 || 自由民主党千葉県議会議員会 || style="text-align:center" | 3
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[千葉県第9区|千葉9区]]([[千葉市]][[若葉区]]・[[佐倉市]]・四街道市・[[八街市]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:407,331人
* 投票率:53.01%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[奥野総一郎]] || align="center" | 57 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 107,322票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd;"
| 比当 || [[秋本真利]] || align="center" | 46 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 102,741票 || align="center" | ○
|}
== 経済 ==
=== 産業 ===
==== 本社・本店を置く企業 ====
[[File:The Research and Development Laboratory attached to House Food Corporation.jpg|thumb|right|[[ハウス食品分析テクノサービス]]本社]]
* [[千葉内陸バス]]
* [[ハウス食品分析テクノサービス]]
* [[岩渕薬品]]
* 和気教育研究所 - [[千葉ゼミナール]]を運営
* ママクック株式会社 - [[ペットフード]]製造<ref>[https://www.mamacook.co.jp/about_us/ 企業情報] ママクック株式会社、2023年8月1日閲覧。</ref>
* 株式会社千葉ヤクルト工場([[ヤクルト]]子会社)- 老朽化により市外の[[工業団地]]「ちばリサーチパーク」へ移転予定<ref>[https://www.yakult.co.jp/company/news/file.php?type=release&id=166806478324.pdf 株式会社千葉ヤクルト工場を移転~将来に向けた次世代型工場を建設~] 株式会社ヤクルト本社 ニュースリリース、2022年11月11日、2023年8月1日閲覧。</ref>
==== 事業拠点を置く企業 ====
* [[ハウス食品|ハウス食品株式会社]] ソマテックセンター
==== 主な商業施設 ====
[[File:Ito Yokado Yotsukaido 01.jpg|thumb|right|イトーヨーカドー四街道店]]
*[[イトーヨーカドー]]四街道店 - 店舗面積 21,000平方メートル<ref> [https://www.meti.go.jp/policy/economy/distribution/daikibo/downloadfiles/ritti_todogai_5_15fy.pdf 平成17年度 大規模小売店舗立地法 法第6条第2項(変更)届出の概要] [[経済産業省]]</ref>
*[[長崎屋|MEGAドン・キホーテ]]四街道店 - 店舗面積 12,680平方メートル<ref> [https://www.meti.go.jp/policy/economy/distribution/daikibo/downloadfiles/ritti_todogai_suppl5_20fy.pdf 平成20年度 大規模小売店舗立地法 法附則第5条(変更)届出の概要] 経済産業省</ref>
*[[トップマート]]四街道店
==== 金融機関 ====
* [[千葉銀行]] - 四街道支店、四街道南支店
* [[京葉銀行]] - 四街道支店、四街道南支店、千代田支店
* [[千葉興業銀行]] - 四街道支店
* [[千葉信用金庫]] - 四街道支店
* [[千葉みらい農業協同組合]] - 四街道支店
<gallery>
Chiba Bank Yotsukaido Branch.jpg|[[千葉銀行]]四街道支店
Keiyo Bank 451-Yotsukaido Branch.jpg|[[京葉銀行]]四街道支店
Chiba Kogyo Bank Yotsukaido Branch.jpg|[[千葉興業銀行]]四街道支店
</gallery>
== 姉妹都市・提携都市 ==
*{{Flagicon|USA}} [[リバモア (カリフォルニア州)|リバモア]]([[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]])
:: 四街道町が、[[1977年]](昭和52年)[[4月19日]]に[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。地域住民の相互訪問、留学生の交換など交流を深めてきた。[[1987年]](昭和62年)7月には、締結10周年を迎えるにあたって四街道の木・[[桜]]の苗木を約30本寄贈した。その後、桜の木のお礼として[[ハナミズキ]]が贈られ四街道の街路樹として美しい花を咲かせている。
== 地域 ==
=== 地区 ===
{{hidden begin
|title = 地区一覧
|titlestyle = background:#ffff99; text-align:center;
|border = solid
}}
* 旭ヶ丘(あさひがおか)
** 旭ヶ丘1丁目
** 旭ケ丘2丁目
** 旭ケ丘3丁目
** 旭ケ丘4丁目
** 旭ケ丘5丁目
* 池花(いけはな)
** 池花1丁目
** 池花2丁目
* 上野(うえの)
* 内黒田(うちくろだ)
* 美しが丘(うつくしがおか)
** 美しが丘1丁目
** 美しが丘2丁目
** 美しが丘3丁目
* 小名木(おなぎ)
* 亀崎(かめざき)
* 萱橋(かやばし)
* 栗山(くりやま)
* さちが丘(さちがおか)
** さちが丘1丁目
** さちが丘2丁目
* さつきヶ丘(さつきがおか)
* [[鹿渡 (四街道市)|鹿渡]](しかわたし)
* 下志津新田(しもしづしんでん)
* 鷹の台(たかのだい)
** 鷹の台1丁目
** 鷹の台2丁目
** 鷹の台3丁目
** 鷹の台4丁目
* 大日(だいにち)
* 中央(ちゅうおう)
* 千代田(ちよだ)
** 千代田1丁目
** 千代田2丁目
** 千代田3丁目
** 千代田4丁目
** 千代田5丁目
* つくし座(つくしざ)
** つくし座1丁目
** つくし座2丁目
** つくし座3丁目
* 長岡(ながおか)
* 中台(なかだい)
* 中野(なかの)
* 南波佐間(なばさま)
* 成山(なりやま)
* みそら
** みそら1丁目
** みそら2丁目
** みそら3丁目
** みそら4丁目
* みのり町(みのりちょう)
* めいわ
** めいわ1丁目
** めいわ2丁目
** めいわ3丁目
** めいわ4丁目
** めいわ5丁目
* もねの里(もねのさと)
** もねの里1丁目
** もねの里2丁目
** もねの里3丁目
** もねの里4丁目
** もねの里5丁目
** もねの里6丁目
* 物井(ものい)
* 山梨(やまなし)
* 吉岡(よしおか)
* 四街道(よつかいどう)
** 四街道(街区なし)
** 四街道1丁目
** 四街道2丁目
** 四街道3丁目
* 鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)
* 和田(わだ)
* 和良比(わらび)
{{hidden end}}
==== 電話番号 ====
[[日本の市外局番|市外局番]]は市内全域が「043」。市内局番が「42X」「43X」を四街道市では割り当てている。
[[佐倉市]]、[[八街市]]、[[印旛郡]][[酒々井町]]などとの通話は市内通話料金で利用可能(千葉[[単位料金区域|MA]])。
また、最近では[[千葉市]]と共通して「30X」「31X」も使用している。
==== 郵便事業 ====
[[File:Yotsukaido Post Office.JPG|thumb|right|[[四街道郵便局]]]]
[[日本の郵便番号|郵便番号]]は市内全域が「284-00xx」、[[四街道郵便局]]が集配を担当する。
=== 医療 ===
[[File:National Hospital Organization Shimoshizu National Hospital.JPG|thumb|right|[[国立病院機構下志津病院]]]]
[[File:Yotsukaidou Tokushukai Medical Center.JPG|thumb|right|[[四街道徳洲会病院]]]]
四街道市が属する広域[[医療計画#医療圏|医療圏]]は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「印旛医療圏」(管轄区域:[[成田市]]、[[佐倉市]]、四街道市、[[八街市]]、[[印西市]]、[[白井市]]、[[富里市]]、[[酒々井町]]、[[栄町]])<ref>{{Cite web|和書|date=2015年 |url=http://jmap.jp/cities/detail/medical_area/1204 |title=千葉県 印旛医療圏 |work=JMAP(公式ウェブサイト) |publisher=[[日本医師会]] |accessdate=2018-03-31 |ref=JMAP-2015 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017年8月2日 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/hokeniryou.html |title=千葉県保健医療計画(平成23年度~平成29年度)|website=千葉県 |publisher=千葉県 |accessdate=2018-03-31 |ref=県-健療計-2017 }}</ref>である。三次医療圏は「千葉県医療圏」(管轄区域:千葉県全域)。
[[医療法#%E5%8C%BB%E7%99%82%E6%8F%90%E4%BE%9B%E6%96%BD%E8%A8%AD|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=千葉県保健医療計画(平成30年度〜平成35年度)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/30hokeniryou.html|website=千葉県 |publisher=千葉県 |accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>。
* 一次医療圏
** 栗山中央病院(緊急指定病院)
** 大日病院(緊急指定病院)
** 四街道徳洲会病院(緊急指定病院)
** [[国立病院機構下志津病院]](緊急指定病院)
** 四街道さくら病院
* 二次医療圏
** [[日本医科大学千葉北総病院]]([[印西市]]、[[千葉県災害拠点病院|基幹災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>・[[救命救急センター]])
** [[成田赤十字病院]]([[成田市]]、災害拠点病院・救命救急センター)
** [[東邦大学医療センター佐倉病院]]([[佐倉市]]、災害拠点病院)
=== 教育 ===
[[File:Aikoku Gakuen University.JPG|thumb|right|[[愛国学園大学]]]]
[[File:Aikoku-junior college.jpg|thumb|right|[[愛国学園短期大学]]]]
; 大学
* [[愛国学園大学]]
; 短期大学
* [[愛国学園短期大学]]
; 高等学校
* [[公立学校]]
** [[千葉県立四街道高等学校]]
** [[千葉県立四街道北高等学校]]
* [[私立学校]]
** [[千葉敬愛高等学校]]
** [[愛国学園大学附属四街道高等学校]]
; 中学校
* [[四街道市立四街道中学校]]
* [[四街道市立千代田中学校]]
* [[四街道市立旭中学校]]
* [[四街道市立四街道西中学校]]
* [[四街道市立四街道北中学校]]
; 小学校
* [[四街道市立四街道小学校]]
* [[四街道市立旭小学校]]
* [[四街道市立南小学校]] - 「四街道市立南小学校」は市内北部に位置する。「南」の由来は「(旧)千代田町南小学校」であり、対する「(旧)千代田町北小学校」は、現「佐倉市立千代田小学校」である。
* [[四街道市立中央小学校]]
* [[四街道市立大日小学校]]
* [[四街道市立八木原小学校]]
* [[四街道市立四和小学校]]
* [[四街道市立山梨小学校]]
* [[四街道市立みそら小学校]]
* [[四街道市立栗山小学校]]
* [[四街道市立和良比小学校]]
* [[四街道市立吉岡小学校]]
; 特別支援学校
* [[千葉県立千葉盲学校]]
* [[千葉県立四街道特別支援学校]]
; 職業能力開発校
* [[住友林業建築技術専門校]]
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
[[File:JREast-Yotsukaido-station-north-entrance.jpg|thumb|right|[[四街道駅]](JR東日本)]]
[[File:MonoiStnishi.jpg|thumb|right|[[物井駅]](JR東日本)]]
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
*{{Color|#ffd400|■}} [[総武本線]]
*{{Color|seagreen|■}} [[成田線]](総武本線と相互運転)
** - [[四街道駅]] - [[物井駅]] -
=== バス ===
[[File:Chiba Nairiku Bus 1190 Yoppi 01.jpg|thumb|right|四街道市が運行する[[コミュニティバス]]、[[市内循環バスヨッピィ|市内循環バス「ヨッピィ」]]の専用車両]]
; コミュニティバス
* [[市内循環バスヨッピィ|市内循環バス「ヨッピィ」]]
; 一般路線バス
* [[千葉内陸バス]] - 市内路線の大半を運行する<ref name="市内路線図">[https://www.city.yotsukaido.chiba.jp/kurashi/kotsu/koukyokotsu/bus-rosen.html 市内バス路線図] 四街道市、2023年2月10日更新、2023年8月1日閲覧。</ref>。
* [[京成バス]] - [[京成バス千葉営業所]](御成台車庫)と、つ01系統の「鷹の台四丁目」「御成台西」[[バス停留所|停留所]]は四街道市にある。
* [[ちばグリーンバス]]
* [[平和交通]]
; 深夜急行バス
* [[銀座駅]]・東京駅 - 四街道市内(平和交通)
; 空港連絡バス
* 四街道市内 - [[東京国際空港|羽田空港]](千葉内陸バス・[[東京空港交通]])
; 高速バス
* 四街道市内 - [[東京駅]](京成バス・ちばグリーンバス・千葉内陸バス)
* [[大阪 - 銚子線]]([[千葉交通]]・[[南海バス]])
* 佐倉・四街道市内 - [[バスターミナル東京八重洲]]([[なの花交通バス]])
=== 道路 ===
; 高速道路
* [[東関東自動車道]]
**- [[四街道インターチェンジ|四街道IC]] -
; 一般国道
* [[国道51号]]
==== 主要地方道 ====
*[[千葉県道64号千葉臼井印西線]]
*[[千葉県道66号浜野四街道長沼線]]
; 一般県道
*[[千葉県道136号佐倉停車場千代田線]]
*[[千葉県道155号四街道上志津線]]
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
=== 名所・旧跡・観光スポット ===
* [[熊野神社 (四街道市亀崎)|熊野神社 (亀崎)]]
* [[熊野神社 (四街道市内黒田)|熊野神社 (内黒田)]]
* 皇産霊神社
* ガス灯通り
* 和良比堀込城跡
* [[山梨城]]跡
* [[木出城]]跡
* [[鹿渡城]]跡
* 旧陸軍野戦砲兵学校の記念碑
* 旧陸軍野戦重砲兵第四連隊の跡
* 福星寺のしだれ桜
<gallery widths="200">
Kamesakikumanojinja.jpg|熊野神社(亀崎)
Yamanashijo.jpg|山梨城跡
Rikugunyasen.jpg|陸軍野戦砲兵学校跡記念碑
Fukushojishidare.jpg|福星寺のしだれ桜
</gallery>
=== 祭事・催事 ===
* 和良比はだか祭り(2月)
* 内黒田はだか参り(3月15日)
* 四街道ふるさと祭り(8月)
* 亀崎熊野神社例祭(10月)
* 栗山香取神社の祭礼(10月)
* 四街道市民文化祭(10月後半 - 11月後半)
* 四街道産業まつり(11月)
=== 文化財 ===
千葉県指定および国[[登録文化財]]一覧<ref>{{Cite web|和書|title=四街道市の県指定および国登録文化財|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/shitei/shichouson/yotsukaidou.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-19|language=ja|last=千葉県}}</ref>。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
!番号
!指定・登録
!類別
!名称
!所在地
!所有者または管理者
!指定年月日
!備考
|-
!1
|県指定
|有形文化財(考古資料)
|草刈遺跡群出土小銅鐸
|四街道市鹿渡809-2
|千葉県
|平成26年3月4日
|4点
|-
!2
| rowspan="2" |国登録
| rowspan="2" |登録有形文化財(建造物)
|木村家住宅(旧北白川宮邸)
|四街道市四街道2-12-44
|個人
|平成11年7月8日
|1件
|-
!3
|近藤家住宅主屋他
|四街道市下志津新田2530-4
|個人
|平成16年11月8日
|3件
|}
== 出身有名人 ==
<!-- === 名誉市民 === |※条例自体が無いもよう(2018年3月31日調べ)。-->
=== 出身著名人 ===
<!--; [[江戸時代]]以前の生まれ
; [[明治]]生まれ
; [[大正]]生まれ-->
==== 昭和生まれ ====
; 四街道町の成立以前
*[[斉藤忠利]] - 1931年([[昭和]]6年)生まれ。[[アメリカ文学]]者。
*[[志位和夫]] - 1954年(昭和29年)7月29日生まれ。[[政治家]]。
; 四街道町の成立後
*[[須藤浩]] - 1957年(昭和32年)7月6日生まれ。政治家。
*[[渡荘太]] - 1958年(昭和43年)生まれ。[[俳優]]。
*[[中原めいこ]] - 1959年(昭和34年)5月8日生まれ。[[シンガーソングライター]]。
*[[Reds☆]] - 1967年(昭和42年)5月27日生まれ。[[ミュージシャン]]、[[歌手]]。
*[[冴桐由]] - 1970年(昭和45年)生まれ。[[農学者]]。[[小説家]]。
*[[長谷川朝晴]] - 1972年(昭和47年)3月19日生まれ。俳優。
*[[桂文雀 (3代目)|3代目桂文雀]] - 1972年(昭和47年)12月11日、[[神奈川県]][[横浜市]]生まれ。四街道町育ち(転入時期不明)。[[落語家]]。
*[[飯塚悟志]] - 1973年(昭和48年)5月27日生まれ。[[お笑い芸人]]。[[東京03]]のリーダー。
*[[木村一基]] - 1973年(昭和48年)6月23日生まれ。[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]。
*[[吉田浩 (アナウンサー)|吉田浩]] - 1973年(昭和48年)8月2日生まれ。[[アナウンサー]]。
*[[TAKAみちのく]] - 1973年(昭和48年)10月26日、四街道町生まれ。出生地、および、[[石川県]][[金沢市]]、[[岩手県]][[盛岡市]]育ち。[[プロレスラー]]。小学校途中まで四街道町で育つ。
*[[栗原克志]](元[[プロサッカー選手]])-1977年(昭和52年)7月29日生まれ。[[日本サッカー協会]][[ナショナルトレセン]]コーチを経て2019年12月より[[2020年東京五輪]][[U-23サッカー日本代表|U-22日本代表]]のコーチに就任
*[[花香よしあき]] - 1979年(昭和54年)10月12日生まれ。[[お笑いタレント]]。
; 四街道市の成立後
*[[小堀佑介]] - 1981年(昭和56年)10月11日生まれ。[[ボクシング]][[指導者]]、元[[プロボクサー]]。
*[[佐藤博紀]] - 1982年(昭和57年)1月30日生まれ。プロ[[バスケットボール選手]]([[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]所属)。
*[[皆藤愛子]] - 1984年(昭和59年)1月25日、[[栃木県]][[真岡市]]生まれ、四街道育ち(転入時期不明)、四街道市立四和小学校卒業。[[ニュースキャスター]]、[[タレント]]。
*[[松田光]] - 1986年(昭和61年)12月17日生まれ。[[ソフトボール]]選手、[[第16回世界男子ソフトボール選手権|世界選手権]]銀メダリスト、[[2019年]][[世界野球ソフトボール連盟]]最優秀選手。
*[[太田莉菜]] - 1988年(昭和63年)1月11日生まれ。[[ファッションモデル]]。[[俳優#性別での分類|女優]]。
==== 平成生まれ ====
*[[井領雅貴]] - 1989年([[平成]]元年)11月4日生まれ。[[プロ野球選手]]([[日本プロ野球|NPB]]所属)。
*[[山崎将平]] - 1990年(平成2年)3月31日生まれ。[[俳優]]。
*[[村田倫子]] - 1992年(平成4年)10月23日生まれ。[[タレント]]、[[雑誌モデル]]。
*[[前田憂佳]] - 1994年(平成6年)12月28日生まれ。元[[アイドル]][[歌手]]、元女優。
*[[木村泰斗]] - 1997年(平成9年)12月6日生まれ。[[俳優]]。
*[[石橋康太]] - 2000年(平成12年)12月7日生まれ。[[プロ野球選手]]([[日本プロ野球|NPB]]所属)。
==== 生年不詳 ====
*[[大竹研]] - 生年不詳。[[演奏家]]([[ギタリスト]])。
*[[パスピエ (バンド)#メンバー|露崎義邦]] - 生年不詳。演奏家([[ベーシスト]]、[[音楽バンド]]「[[パスピエ (バンド)|パスピエ]]」メンバー)。
=== ゆかりの人物 ===
*[[佐渡斉]] - 1953年(昭和28年)9月25日、[[広島県]][[竹原市]]生まれ。[[政治家]](四街道市長等)。[[官僚]](四街道市職員)。
<!-- === 大使 === |※PR大使等は確認できない(2018年3月31日調べ)。-->
*[[宇野常寛]] - 1978(昭和53年)11月17日、[[青森県]][[八戸市]]生まれ。[[評論家]]。幼少期を四街道市で過ごす。
*[[四街道ネイチャー]] - 市名と同名のグループであり、メンバーが当市出身。
== 四街道市を舞台・ロケ地とした作品 ==
*{{要出典範囲|date=2023-08|映画『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』では、劇中に登場する巨大[[UFO]]が市内上空を通過する。}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{See also|Category:四街道市}}
* [[下総国]]([[令制国]])
* [[印旛県]]([[廃藩置県]])
* [[印旛郡市]]
* [[関東地方]]
** [[首都圏 (日本)]]
** [[関東大都市圏]]
** [[東京都市圏]]([[都市雇用圏]])
* [[住宅都市]] / [[軍都]]
* [[全国市町村一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{osm box|r|2679907}}
* {{Official website}}
* [https://yotsukaido.or.jp/ 四街道市商工会] - 市の歴史に関するページがある。
* [https://web.archive.org/web/20210508164336/https://yotsupo.com/ 四街道ポータルサイト「よつぽ」]([[インターネットアーカイブ]])
* {{Googlemap|四街道市}}
{{Geographic Location|Centre=四街道市|North=|Northeast=[[佐倉市]]|East=|Southeast=|South=千葉市:[[若葉区]]|Southwest=千葉市:[[稲毛区]]|West=[[千葉市]]:[[花見川区]]|Northwest=|image=}}{{千葉県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:よつかいとうし}}
[[Category:千葉県の市町村]]
[[Category:四街道市|*]]
[[Category:1955年設置の日本の市町村]]
|
2003-07-05T08:20:47Z
|
2023-11-16T19:15:21Z
| false | false | false |
[
"Template:読み仮名",
"Template:要出典範囲",
"Template:Hidden end",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:千葉県の自治体",
"Template:出典の明記",
"Template:ウィキ座標",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:See also",
"Template:Official website",
"Template:Geographic Location",
"Template:Normdaten",
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10,911 |
二朱金
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二朱金(にしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。
金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二朱判(にしゅばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には二朱判金(にしゅばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる。
形状は長方形短冊状。 表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、下部に「二朱」の文字が刻印されている。 裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。また、最初に鋳造された元禄二朱判には、裏面右上部に鋳造時期を示す年代印「元」が刻印されている。
額面は2朱。その貨幣価値は1/8両に相当し、また1/2分に相当する。 一朱判、二分判とともに、小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられた小判に対する臨時貨幣と云うべきものであり、補助貨幣的な性格の定位貨幣であった。
元禄10年(1697年)に初めて発行されたが、宝永7年(1710年)の乾字金の発行に伴い通用停止、その後天保3年(1832年)に天保二朱判、万延元年(1860年)に万延二朱判が発行された。万延二朱判は後に明治二朱判と改名して明治2年(1869年)まで鋳造されている。
元禄二朱判(げんろくにしゅばん)は元禄小判と同品位であり、量目が1/8につくられており本位金貨的性格を有する。慶長金の時代は、一分判より低額の計数貨幣は寛永通寳一文銭しかなく、一分は公定相場で一貫文に相当するため高額貨幣と小額貨幣の中間に相当する計数貨幣が無く、甚だ使い勝手が悪いため、「二朱」という額面は歓迎されるものであった。しかし幕府は慶長金回収を促進するため、二朱判への両替は元禄金に限るという策を講じた。
天保二朱判(てんぽうにしゅばん)は天保3年9月3日(1832年9月26日)から鋳造が始まり同年10月24日(11月16日)より通用開始され、これは保字金銀発行前のことであり、新文字金銀の系統に属するもので、量目は新文字小判(文政小判)の1/8につくられているが、金品位は48%削減されており、甚だ低く改鋳による出目獲得を目的としている。後の天保小判に対しても含有金量で著しく劣る低品位であったが、当時銭相場が低下しつつあり少額金貨が便利とされ万延年間まで使用されたため発行高は多額に上り、小判のような本位金貨を凌駕するに至った。
吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は1,018,300両であった。
通用停止は慶応2年5月末(1866年7月11日)であり、通用期間は比較的長いものであった。
万延二朱判(まんえんにしゅばん)は万延元年4月10日(1860年5月30日)より通用開始された万延二分判と同品位で1/4の量目につくられており万延二分判と伴に事実上本位貨幣的地位の主導権を握っていたといえる。万延二分判と同様、万延小判より純金量が劣る改鋳による出目獲得を目的とした貨幣である。江戸時代の金貨としては最も薄小なもので、使い勝手が悪いためか、鋳造量は伸びなかった。
通用停止は古金銀停止の明治7年(1874年)9月末であった。
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二朱金(にしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。 金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二朱判(にしゅばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には二朱判金(にしゅばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる。
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'''二朱金'''(にしゅきん)とは、[[江戸時代]]に流通した[[金貨]]の一種。
[[金座]]および[[江戸幕府|幕府]]関連資料に見られる正式名称は'''二朱判'''(にしゅばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p239-240.]]</ref>。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には'''二朱判金'''(にしゅばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる<ref>[[#JNDA2008|日本貨幣商協同組合(2008), p87.]]</ref>。
== 概要 ==
形状は[[長方形]][[短冊]]状。 表面には、上部に[[扇]]枠に五三の[[桐紋]]、下部に「二朱」の文字が刻印されている<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p259-261.]]</ref>。 裏面には「[[後藤庄三郎|光次]]」の署名と花押が刻印されている。また、最初に鋳造された元禄二朱判には、裏面右上部に鋳造時期を示す年代印「元」が刻印されている。
額面は2[[朱]]。その[[貨幣]]価値は1/8[[両#通貨単位|両]]に相当し、また1/2[[分_(曖昧さ回避)|分]]に相当する。 [[一朱金|一朱判]]、[[二分金|二分判]]とともに、[[小判]]、[[一分金|一分判]]に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられた小判に対する臨時貨幣と云うべきものであり、[[補助貨幣]]的な性格の[[定位貨幣]]であった<ref name="Aoyama1982-104">[[#Aoyama1982|青山(1982), p104.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p65.]]</ref>。
元禄10年(1697年)に初めて発行されたが、宝永7年(1710年)の[[宝永小判|乾字金]]の発行に伴い通用停止、その後天保3年(1832年)に天保二朱判、万延元年(1860年)に万延二朱判が発行された。万延二朱判は後に明治二朱判と改名して明治2年(1869年)まで鋳造されている。
== 元禄二朱判 ==
{{main|元禄小判#元禄二朱判}}
'''元禄二朱判'''(げんろくにしゅばん)は[[元禄小判]]と同品位であり、量目が1/8につくられており[[本位金貨]]的性格を有する<ref name="Aoyama1982-104" />。[[慶長小判|慶長金]]の時代は、一分判より低額の計数貨幣は[[寛永通寳]]一[[文 (通貨単位)|文]]銭しかなく、一分は公定相場で一[[貫文]]に相当するため高額貨幣と小額貨幣の中間に相当する計数貨幣が無く、甚だ使い勝手が悪いため、「二朱」という額面は歓迎されるものであった。しかし幕府は慶長金回収を促進するため、二朱判への[[両替]]は元禄金に限るという策を講じた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p178-179.]]</ref>。
== 天保二朱判 ==
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'''天保二朱判'''(てんぽうにしゅばん)は[[天保]]3年9月3日(1832年9月26日)から鋳造が始まり同年10月24日(11月16日)より通用開始され、これは[[天保小判|保字金]][[天保丁銀|銀]]発行前のことであり、[[文政小判|新文字金]][[文政丁銀|銀]]の系統に属するもので、量目は新文字小判([[文政小判]])の1/8につくられているが、金品位は48%削減されており、甚だ低く改鋳による出目獲得を目的としている。後の[[天保小判]]に対しても含有金量で著しく劣る低品位であったが、当時銭相場が低下しつつあり少額金貨が便利とされ万延年間まで使用されたため発行高は多額に上り、[[小判]]のような本位金貨を凌駕するに至った<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p396.]]</ref>。
[[貨幣改鋳|吹替え]]により[[江戸幕府|幕府]]が得た出目(改鋳利益)は1,018,300両であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p238.]]</ref>。
通用停止は慶応2年5月末(1866年7月11日)であり、通用期間は比較的長いものであった。
{{-}}
== 万延二朱判 ==
[[画像:Manen-2shuban.jpg|thumb|right|160px|万延二朱判]]
'''万延二朱判'''(まんえんにしゅばん)は[[万延]]元年4月10日(1860年5月30日)より通用開始された[[二分金#万延二分判|万延二分判]]と同品位で1/4の量目につくられており万延二分判と伴に事実上[[本位貨幣]]的地位の主導権を握っていたといえる<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p283-285.]]</ref>。万延二分判と同様、[[万延小判]]より純金量が劣る改鋳による出目獲得を目的とした貨幣である。江戸時代の金貨としては最も薄小なもので、使い勝手が悪いためか、鋳造量は伸びなかった。
通用停止は古金銀停止の明治7年(1874年)9月末であった。
== 一覧(鋳造開始・品位・量目・鋳造量) ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造開始
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定品位<br />分析品位([[造幣局 (日本)|造幣局]])
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定量目
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |元禄二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[元禄]]10年<br />([[1697年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |七十六匁七分位<br />金56.3%/銀43.2%/雑0.5%<ref>『日本大阪皇國造幣寮首長第三周年報告書 ディロンの報告』 [[造幣寮]]、1874年</ref>
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.595[[匁]]<br />(2.23[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |200,000[[両]]<br />(1,600,000枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |天保二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[天保]]3年<br />([[1832年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |百五十匁位<br />金29.88%/銀69.74%/雑0.38%<ref name="koga">甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年</ref>
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.4375匁<br />(1.64グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |12,883,700両1分<br />(103,069,602枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |万延二朱判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |[[万延]]元年<br />([[1860年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |二百匁位<br />金22.93%/銀76.73%/雑0.34%<ref name="koga" />
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.2匁<br />(0.75グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |3,140,000両<br />(25,120,000枚)
|}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
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=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本貨幣カタログ |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=2008 |isbn= |ref=JNDA2008}}
{{江戸時代の貨幣}}
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[[Category:江戸時代の金貨]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%B1%E9%87%91
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10,913 |
二分金
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二分金(にぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。
金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二分判(にぶばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった。後世の天保8年(1837年)の一分銀発行以降は一分判も通俗的に「一分金」と称するようになり、同様に「二分金」という名称も普及するようになった。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には二分判金(にぶばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる。
形状は長方形短冊形である。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と花押が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている。
額面は2分であり、その貨幣価値は1/2両、また8朱に等しい。 一朱判、二朱判とともに 小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、小判に対する臨時貨幣であり定位貨幣としての性格が強かった。
文政元年(1818年)に初めて発行され、明治維新後の明治2年(1869年)まで鋳造された。
なお、江戸時代初期鋳造の慶長二分判も存在するが、これは試鋳貨幣的存在であるとされる。また宝永小判は正徳小判発行後の享保15年正月15日(1730年3月3日)に再通用が認められた際二分判扱いとなった。
ちなみに万延二分判一両分(2枚)=明治二分判一両分(2枚)=(新通貨単位)一円金貨という、貨幣基準で新貨幣単位「円」が定められたといわれている。これは二分判2枚の含有金量および銀量の地金価値の合計が、米国の1ドル金貨の実質価値に近いことも関係していた。
日本銀行の所蔵品として、二分金200枚による包金である二分金百両包が現存している。
真文二分判(しんぶんにぶばん)は文政元年4月10日(1818年5月14日)から鋳造が始まり同年6月10日(7月12日)より通用開始された二分判で、裏には楷書体の「文」字が刻まれ、真字二分判(しんじにぶばん)とも呼ばれる。当時流通していた元文小判の1/2の量目であるが、品位が約14%低く出目獲得を目的とし、補助貨幣的な性格であったが、翌年発行された文政小判は真文二分判と同品位で量目が2倍であることから、文政小判発行を予告するものとなった。
二分判の発行は、80年以上に亘り流通し損傷が著しくなった元文小判を無料で引き換えるという名目でもあったが、真の目的は出目獲得にあった。
金座における鋳造手数料である分一金(ぶいちきん)は元文小判と同様に鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両3分であった。
通用停止は天保6年9月末(1835年11月19日)であった。
草文二分判(そうぶんにぶばん)は文政11年11月8日(1828年12月14日)鋳造開始、同年11月27日(1829年1月2日)通用開始と、真文二分判と同じ文政年間発行であり、量目も真文二分判と同等であるが、品位はさらに下げられた改鋳による出目獲得を目的としたものである。やはり裏面に「文」字が刻まれているが草書体となっているため、草字二分判(そうじにぶばん)とも呼ばれる。
分一金は真文二分判に同じである。
通用停止は天保13年8月2日(1842年9月6日)であった。あるいは同8月6日ともされる。
安政二分判(あんせいにぶばん)は安政3年6月2日(1856年7月3日)から鋳造が始まり、同年6月28日(7月29日)より通用開始された。量目は天保小判の1/2であるが、金品位は1/3強に過ぎず低品位金貨としては文政一朱判に次ぐものであり、改鋳による出目獲得を目的としたものである。年代印は打たれていない。
通用停止は慶応3年6月末(1867年7月30日)であった。
万延二分判(まんえんにぶばん)は万延元年4月9日(1860年5月29日)より鋳造開始され翌日4月10日(5月30日)より通用開始された。2枚の量目では同時に発行された万延小判を上回るが、含有金量では劣る名目貨幣で一両あたりの含有金量では江戸時代を通じて最低のものであった。発行高は万延小判をはるかに凌ぎ、金貨流通の主導権を握り、グレシャムの法則の作動により小判の流通は絶え、従来小判一両に対する商品価格が建てられていたものを有合建と称して二分判を基準として価格を設定せざるを得なくなった。勘定奉行の小栗忠順は幕府が慶應元年(1865年)に横須賀製鉄所の建設を計画した際、その建設費をこの二分判による改鋳利益で賄おうと企てたため、小栗二分金(おぐりにぶきん)とも呼ばれた。
払い出しは上方や東海道に対して重点的に行われ、全国的には行き渡っていなかったとされる。
通用停止は古金銀停止の明治7年9月末(1874年)であった。
貨幣司二分判(かへいしにぶばん)は明治元年(1868年)明治新政府が金座を接収し、造幣局の開局までの経過措置として10か月の期間鋳造されたもので、明治二分判金(めいじにぶばんきん)とも呼ばれる。総鋳造量3,809,643両2分の内、608,000両はより金品位の低い劣位二分金との記録がある。金品位は初期は170匁位(金25.88%)で後に240匁位(金18.33%)に変更されたとされるが、造幣博物館に展示されている手本金では二百匁位(金22.00%)となっており、これが一般的とされる。さらに幕末から、財政難の各藩による偽造二分判が横行し、今日現存する銀台に鍍金したものがそれであると推定される。
通用停止は万延二分判と同じく明治7年9月末(1874年)であった。
収集界ではこれまで、表面の「二分」の「分」字の「止め分」を明治二分判金、「撥ね分」を万延二分判金としてきた。これは銀台金メッキのものは貨幣司による劣位二分判金と考えられ、これは「止め分」が多いからである。一方、造幣博物館に展示保存されている万延二分判の金品位の標準となる手本金は「止め分」であるが、「六箇之三」と記されており、他のものの現存が確認されていないことから決め手にならないとされてきた。しかし、これまで明治二分判金とされてきた「止め分」は圧倒的に現存数が多く、こちらが発行高が多い万延二分判であり、現存数の少ない「撥ね分」は貨幣司二分判(明治二分判金)であるとする方が整合するとの説が有力になりつつある。
地方貨幣で二分の額面を持つ金貨としては、筑前二分金、秋田笹二分金がある。
江戸時代の金称呼定位銀貨には一分銀、二朱銀、一朱銀があるが、幕府の発行した貨幣としての「二分銀」は存在しない。ただ地方貨幣では、二分の額面を持つ、または二分通用を想定した銀貨として、秋田四匁封銀、秋田四匁六分銀判、会津二分銀判などが挙げられる。また試鋳貨幣としては小判型で銀主体ながら金が含まれている素材の「金含銀二分判」(「二分銀」の名称で紹介されることもある)がある。
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"text": "形状は長方形短冊形である。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と花押が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている。",
"title": "概要"
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"text": "額面は2分であり、その貨幣価値は1/2両、また8朱に等しい。 一朱判、二朱判とともに 小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、小判に対する臨時貨幣であり定位貨幣としての性格が強かった。",
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"text": "文政元年(1818年)に初めて発行され、明治維新後の明治2年(1869年)まで鋳造された。",
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"text": "なお、江戸時代初期鋳造の慶長二分判も存在するが、これは試鋳貨幣的存在であるとされる。また宝永小判は正徳小判発行後の享保15年正月15日(1730年3月3日)に再通用が認められた際二分判扱いとなった。",
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"text": "ちなみに万延二分判一両分(2枚)=明治二分判一両分(2枚)=(新通貨単位)一円金貨という、貨幣基準で新貨幣単位「円」が定められたといわれている。これは二分判2枚の含有金量および銀量の地金価値の合計が、米国の1ドル金貨の実質価値に近いことも関係していた。",
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"text": "日本銀行の所蔵品として、二分金200枚による包金である二分金百両包が現存している。",
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"text": "真文二分判(しんぶんにぶばん)は文政元年4月10日(1818年5月14日)から鋳造が始まり同年6月10日(7月12日)より通用開始された二分判で、裏には楷書体の「文」字が刻まれ、真字二分判(しんじにぶばん)とも呼ばれる。当時流通していた元文小判の1/2の量目であるが、品位が約14%低く出目獲得を目的とし、補助貨幣的な性格であったが、翌年発行された文政小判は真文二分判と同品位で量目が2倍であることから、文政小判発行を予告するものとなった。",
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"text": "二分判の発行は、80年以上に亘り流通し損傷が著しくなった元文小判を無料で引き換えるという名目でもあったが、真の目的は出目獲得にあった。",
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"text": "金座における鋳造手数料である分一金(ぶいちきん)は元文小判と同様に鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両3分であった。",
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"text": "通用停止は天保6年9月末(1835年11月19日)であった。",
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"text": "草文二分判(そうぶんにぶばん)は文政11年11月8日(1828年12月14日)鋳造開始、同年11月27日(1829年1月2日)通用開始と、真文二分判と同じ文政年間発行であり、量目も真文二分判と同等であるが、品位はさらに下げられた改鋳による出目獲得を目的としたものである。やはり裏面に「文」字が刻まれているが草書体となっているため、草字二分判(そうじにぶばん)とも呼ばれる。",
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"text": "分一金は真文二分判に同じである。",
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"text": "通用停止は天保13年8月2日(1842年9月6日)であった。あるいは同8月6日ともされる。",
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"text": "安政二分判(あんせいにぶばん)は安政3年6月2日(1856年7月3日)から鋳造が始まり、同年6月28日(7月29日)より通用開始された。量目は天保小判の1/2であるが、金品位は1/3強に過ぎず低品位金貨としては文政一朱判に次ぐものであり、改鋳による出目獲得を目的としたものである。年代印は打たれていない。",
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"text": "通用停止は慶応3年6月末(1867年7月30日)であった。",
"title": "安政二分判"
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"text": "万延二分判(まんえんにぶばん)は万延元年4月9日(1860年5月29日)より鋳造開始され翌日4月10日(5月30日)より通用開始された。2枚の量目では同時に発行された万延小判を上回るが、含有金量では劣る名目貨幣で一両あたりの含有金量では江戸時代を通じて最低のものであった。発行高は万延小判をはるかに凌ぎ、金貨流通の主導権を握り、グレシャムの法則の作動により小判の流通は絶え、従来小判一両に対する商品価格が建てられていたものを有合建と称して二分判を基準として価格を設定せざるを得なくなった。勘定奉行の小栗忠順は幕府が慶應元年(1865年)に横須賀製鉄所の建設を計画した際、その建設費をこの二分判による改鋳利益で賄おうと企てたため、小栗二分金(おぐりにぶきん)とも呼ばれた。",
"title": "万延二分判"
},
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"text": "払い出しは上方や東海道に対して重点的に行われ、全国的には行き渡っていなかったとされる。",
"title": "万延二分判"
},
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"text": "通用停止は古金銀停止の明治7年9月末(1874年)であった。",
"title": "万延二分判"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "貨幣司二分判(かへいしにぶばん)は明治元年(1868年)明治新政府が金座を接収し、造幣局の開局までの経過措置として10か月の期間鋳造されたもので、明治二分判金(めいじにぶばんきん)とも呼ばれる。総鋳造量3,809,643両2分の内、608,000両はより金品位の低い劣位二分金との記録がある。金品位は初期は170匁位(金25.88%)で後に240匁位(金18.33%)に変更されたとされるが、造幣博物館に展示されている手本金では二百匁位(金22.00%)となっており、これが一般的とされる。さらに幕末から、財政難の各藩による偽造二分判が横行し、今日現存する銀台に鍍金したものがそれであると推定される。",
"title": "貨幣司二分判"
},
{
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"text": "通用停止は万延二分判と同じく明治7年9月末(1874年)であった。",
"title": "貨幣司二分判"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "収集界ではこれまで、表面の「二分」の「分」字の「止め分」を明治二分判金、「撥ね分」を万延二分判金としてきた。これは銀台金メッキのものは貨幣司による劣位二分判金と考えられ、これは「止め分」が多いからである。一方、造幣博物館に展示保存されている万延二分判の金品位の標準となる手本金は「止め分」であるが、「六箇之三」と記されており、他のものの現存が確認されていないことから決め手にならないとされてきた。しかし、これまで明治二分判金とされてきた「止め分」は圧倒的に現存数が多く、こちらが発行高が多い万延二分判であり、現存数の少ない「撥ね分」は貨幣司二分判(明治二分判金)であるとする方が整合するとの説が有力になりつつある。",
"title": "貨幣司二分判"
},
{
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"text": "地方貨幣で二分の額面を持つ金貨としては、筑前二分金、秋田笹二分金がある。",
"title": "地方貨幣"
},
{
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"text": "江戸時代の金称呼定位銀貨には一分銀、二朱銀、一朱銀があるが、幕府の発行した貨幣としての「二分銀」は存在しない。ただ地方貨幣では、二分の額面を持つ、または二分通用を想定した銀貨として、秋田四匁封銀、秋田四匁六分銀判、会津二分銀判などが挙げられる。また試鋳貨幣としては小判型で銀主体ながら金が含まれている素材の「金含銀二分判」(「二分銀」の名称で紹介されることもある)がある。",
"title": "二分の額面を持つ、または二分通用を想定した銀貨"
}
] |
二分金(にぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二分判(にぶばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった。後世の天保8年(1837年)の一分銀発行以降は一分判も通俗的に「一分金」と称するようになり、同様に「二分金」という名称も普及するようになった。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には二分判金(にぶばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる。
|
'''二分金'''(にぶきん)とは、[[江戸時代]]に流通した[[金貨]]の一種である。
[[金座]]および[[江戸幕府|幕府]]関連資料に見られる正式名称は'''二分判'''(にぶばん)であり、「判」は金貨特有の呼称・美称であった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p239-240.]]</ref>。後世の[[天保]]8年(1837年)の[[一分銀]]発行以降は[[一分金|一分判]]も通俗的に「一分金」と称するようになり<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p66.]]</ref>、同様に「二分金」という名称も普及するようになった。『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には'''二分判金'''(にぶばんきん)と記載しており、貨幣収集界ではこの名称もしばしば用いられる<ref>[[#JNDA2008|日本貨幣商協同組合(2008), p84.]]</ref>。
== 概要 ==
形状は[[長方形]][[短冊]]形である。表面には、上部に[[扇]]枠に五三の[[桐紋]]、中部に「二分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と[[花押]]が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている<ref name="Nishiwaki1999-256">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p256-257.]]</ref>。
額面は2[[分]]であり、その貨幣価値は1/2[[両]]、また8[[朱]]に等しい。
[[一朱金|一朱判]]、[[二朱金|二朱判]]とともに [[小判]]、[[一分金|一分判]]に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、小判に対する臨時貨幣であり[[定位貨幣]]としての性格が強かった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p65.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p112.]]</ref>。
文政元年([[1818年]])に初めて発行され、[[明治維新]]後の明治2年(1869年)まで鋳造された<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p190, 201.]]</ref>。
なお、江戸時代初期鋳造の[[慶長小判#慶長二分判|慶長二分判]]も存在するが、これは[[試鋳貨幣]]的存在であるとされる<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p239-240.]]</ref>。また[[宝永小判]]は[[正徳小判]]発行後の[[享保]]15年正月15日(1730年3月3日)に再通用が認められた際二分判扱いとなった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p191.]]</ref>。
ちなみに[[万延]]二分判一両分(2枚)=[[明治]]二分判一両分(2枚)=(新通貨単位)一円金貨という、貨幣基準で新貨幣単位「[[円 (通貨)|円]]」が定められたといわれている。これは二分判2枚の含有金量および銀量の地金価値の合計が、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[:en:Gold dollar|1ドル金貨]]の実質価値に近いことも関係していた<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p297.]]</ref>。
[[日本銀行]]の所蔵品として、二分金200枚による[[包金]]である二分金百両包が現存している。
== 真文二分判 ==
[[File:Shinbun-2buban.jpg|thumb|right|200px|真文二分判]]
'''真文二分判'''(しんぶんにぶばん)は[[文政]]元年4月10日(1818年5月14日)から鋳造が始まり同年6月10日(7月12日)より通用開始された二分判で、裏には[[楷書体]]の「文」字が刻まれ、'''真字二分判'''(しんじにぶばん)とも呼ばれる<ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p235-236.]]</ref>。当時流通していた[[元文小判]]の1/2の量目であるが、品位が約14%低く出目獲得を目的とし、[[補助貨幣]]的な性格であったが、翌年発行された[[文政小判]]は真文二分判と同品位で量目が2倍であることから、文政小判発行を予告するものとなった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p208-209.]]</ref>。
二分判の発行は、80年以上に亘り流通し損傷が著しくなった元文小判を無料で引き換えるという名目でもあったが、真の目的は出目獲得にあった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p389-390.]]</ref><ref>[[#Takizawa1996|滝沢(1996), p232-233.]]</ref>。
金座における鋳造手数料である分一金(ぶいちきん)は元文小判と同様に鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両3分であった<ref name="Nishiwaki1999-256" />。
通用停止は[[天保]]6年9月末(1835年11月19日)であった<ref name="Taya1973">田谷博吉、「[https://doi.org/10.20624/sehs.39.3_261 江戸時代貨幣表の再検討]」 『社会経済史学』 1973年 39巻 3号 p.261-279, {{doi|10.20624/sehs.39.3_261}}, 社会経済史学会</ref>。
{{-}}
== 草文二分判 ==
[[File:Sobun-2buban.jpg|thumb|right|200px|草文二分判]]
'''草文二分判'''(そうぶんにぶばん)は文政11年11月8日(1828年12月14日)鋳造開始、同年11月27日(1829年1月2日)通用開始と、真文二分判と同じ文政年間発行であり、量目も真文二分判と同等であるが、品位はさらに下げられた改鋳による出目獲得を目的としたものである。やはり裏面に「文」字が刻まれているが[[草書体]]となっているため、'''草字二分判'''(そうじにぶばん)とも呼ばれる。
分一金は真文二分判に同じである<ref name="Nishiwaki1999-256" />。
通用停止は天保13年8月2日(1842年9月6日)であった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p402.]]</ref>。あるいは同8月6日ともされる<ref name="Taya1973" />。
{{-}}
== 安政二分判 ==
[[File:Ansei-2buban.jpg|thumb|right|200px|安政二分判]]
'''安政二分判'''(あんせいにぶばん)は[[安政]]3年6月2日(1856年7月3日)から鋳造が始まり、同年6月28日(7月29日)より通用開始された。量目は[[天保小判]]の1/2であるが、金品位は1/3強に過ぎず低品位金貨としては[[一朱金|文政一朱判]]に次ぐものであり、改鋳による出目獲得を目的としたものである。年代印は打たれていない。
通用停止は[[慶応]]3年6月末(1867年7月30日)であった<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p257-258.]]</ref>。
{{-}}
== 万延二分判 ==
[[File:Tomebun-2buban.jpg|thumb|right|200px|万延二分判(止め分/称明治二分金)]]
'''万延二分判'''(まんえんにぶばん)は[[万延]]元年4月9日(1860年5月29日)より鋳造開始され翌日4月10日(5月30日)より通用開始された。2枚の量目では同時に発行された[[万延小判]]を上回るが、含有金量では劣る名目貨幣で一両あたりの含有金量では江戸時代を通じて最低のものであった。発行高は万延小判をはるかに凌ぎ、金貨[[流通]]の主導権を握り、[[グレシャムの法則]]の作動により小判の流通は絶え、従来小判一両に対する商品価格が建てられていたものを有合建と称して二分判を基準として価格を設定せざるを得なくなった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p283-285.]]</ref><ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p458.]]</ref>。[[勘定奉行]]の[[小栗忠順]]は幕府が[[慶應]]元年(1865年)に[[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]の建設を計画した際、その建設費をこの二分判による改鋳利益で賄おうと企てたため、'''小栗二分金'''(おぐりにぶきん)とも呼ばれた<ref name="Nishiwaki1999-258">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p258-259.]]</ref>。
払い出しは上方や東海道に対して重点的に行われ、全国的には行き渡っていなかったとされる<ref>藤井典子、[https://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk35-2-3.html 幕末期の貨幣供給:万延二分金・銭貨を中心に] 『金融研究』 第35巻 第2号 (2016年4月発行), 日本銀行金融研究所</ref>。
通用停止は古金銀停止の明治7年9月末(1874年)であった<ref name="Nishiwaki1999-258" />。
{{-}}
== 貨幣司二分判 ==
'''貨幣司二分判'''(かへいしにぶばん)は[[明治]]元年([[1868年]])明治新政府が金座を接収し、[[造幣局 (日本)|造幣局]]の開局までの経過措置として10か月の期間鋳造されたもので、'''明治二分判金'''(めいじにぶばんきん)とも呼ばれる。総鋳造量3,809,643両2分の内、608,000両はより金品位の低い劣位二分金との記録がある。金品位は初期は170匁位(金25.88%)で後に240匁位(金18.33%)に変更されたとされるが、[[造幣博物館]]に展示されている手本金では二百匁位(金22.00%)となっており、これが一般的とされる。さらに幕末から、財政難の各[[藩]]による[[偽造]]二分判が横行し、今日現存する銀台に[[めっき|鍍金]]したものがそれであると推定される<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p113.]]</ref>。
通用停止は万延二分判と同じく明治7年9月末([[1874年]])であった<ref name="Nishiwaki1999-258" />。
[[収集]]界ではこれまで、表面の「二分」の「分」字の「止め分」を明治二分判金、「撥ね分」を万延二分判金としてきた。これは銀台金メッキのものは貨幣司による劣位二分判金と考えられ、これは「止め分」が多いからである。一方、造幣博物館に展示保存されている万延二分判の金品位の標準となる手本金は「止め分」であるが、「六箇之三」と記されており、他のものの現存が確認されていないことから決め手にならないとされてきた。しかし、これまで明治二分判金とされてきた「止め分」は圧倒的に現存数が多く、こちらが発行高が多い万延二分判であり、現存数の少ない「撥ね分」は貨幣司二分判(明治二分判金)であるとする方が整合するとの説が有力になりつつある<ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998), p116.]]</ref>。
== 一覧(鋳造開始・品位・量目・鋳造量) ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#ffffff"
|+
! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |名称
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造開始
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定品位<br />分析品位([[造幣局 (日本)|造幣局]])
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |規定量目
!! style="text-align:center; background-color:#f9f9f9" |鋳造量
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |真文二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |文政元年<br />([[1818年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |七十八匁位(金56.41%)<br />金56.29%/銀43.30%/雑0.41%<ref name="koga">甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年</ref>
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |1.75[[匁]]<br />(6.56[[グラム]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2,986,022[[両]]<br />(5,972,044枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |草文二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |文政11年<br />([[1828年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |九十匁位(金48.89%)<br />金48.92%/銀50.55%/雑0.53%<ref name="koga" />
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |1.75匁<br />(6.56グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |2,033,061両2分<br />(4,066,123枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |安政二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |安政3年<br />([[1856年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |二百二十五匁位(金19.56%)<br />金20.30%/銀79.44%/雑0.26%<ref name="koga" />
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |1.5匁<br />(5.62グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |3,551,600両<br />(7,103,200枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |万延二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |万延元年<br />([[1860年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |二百匁位(金22.00%)<br />金22.82%/銀76.80%/雑0.38%<ref name="koga" />
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.8匁<br />(3.00グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |46,898,932両2分<br />(93,797,865枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |貨幣司二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |明治元年<br>([[1868年]])
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |二百匁位(金22.00%)<br>金22.34%/銀77.40%/雑0.26%<ref>『日本大阪皇國造幣寮首長第三周年報告書 ディロンの報告』 [[造幣寮]]、1874年</ref>
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.8匁<br>(3.00グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |3,201,643両2分<br>(6,403,287枚)
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap; background-color:#f9f9f9" |貨幣司劣位二分判
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |明治元年<br>(1868年)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |二百四十匁位(金18.33%)<br>
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |0.8匁<br>(3.00グラム)
| style="text-align:center; white-space:nowrap;" |608,000両<br>(1,216,000枚)
|}
== 地方貨幣 ==
[[地方貨幣]]で二分の額面を持つ金貨としては、[[筑前二分金]]、[[秋田笹二分金]]がある<ref>[[#Shimizu1996|清水(1996), p77-78.]]</ref>。
== 二分の額面を持つ、または二分通用を想定した銀貨 ==
江戸時代の金称呼定位銀貨には[[一分銀]]、[[二朱銀]]、[[一朱銀]]があるが、幕府の発行した貨幣としての「二分銀」は存在しない。ただ[[地方貨幣]]では、二分の額面を持つ、または二分通用を想定した銀貨として、[[秋田四匁封銀]]、[[秋田四匁六分銀判]]、[[会津二分銀判]]などが挙げられる。また試鋳貨幣としては小判型で銀主体ながら金が含まれている素材の「金含銀二分判」(「二分銀」の名称で紹介されることもある)がある。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}}
* {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}}
* {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}}
* {{Cite book|和書|author=清水恒吉 |title=南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜 |publisher=南鐐コイン・スタンプ社 |date=1996 |isbn= |ref=Shimizu1996}}
* {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn= 978-4642066525 |ref=Takizawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}}
* {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本の貨幣-収集の手引き- |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=1998 |isbn= |ref=Tebiki1998}}
* {{Cite book|和書|editor=日本貨幣商協同組合 |title=日本貨幣カタログ |edition= |series= |volume= |publisher=日本貨幣商協同組合 |date=2008 |isbn= |ref=JNDA2008}}
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[[Category:江戸時代の金貨]]
[[Category:明治時代の経済]]
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大名
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大名(だいみょう)とは、もともとは私田の一種の名田の所有者のことをいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。平安時代末頃からこの語が見られるようになり、鎌倉時代以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった。
平安時代末ごろに私田の一種の名田の所有者を指す言葉として使用されるようになり、名田の大小によって大名・小名に区別された。鎌倉時代になると大きな所領をもち多数の家子や郎党を従えている有力武士を大名と称するようになった。南北朝時代から室町時代にかけては、守護職が領国を拡大して大名領を形成したために「守護大名」とよばれた。戦国時代には在地土豪の掌握を通じて一円知行化を推進して守護に取って代わった有力武士が「戦国大名」とよばれた。
江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主を指す言葉となった。1万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参という。ただし大名の対義語である小名がその間に存在するため、この定義には曖昧な面がある。江戸時代の大名はその封建領主と性格が中国の諸侯と性格を共有することから、諸侯に準えて大名諸侯とも称された。また歴史学上の用語としては、近世大名とも称する。
室町時代の辞書『節用集』には、「たいめい」・「だいみょう」の2音を載せ、前者は守護(大領主)、後者は銭持(富裕層)の意であるとした。戦国時代には音による意味の区別が薄れ、「たいめい」と呼ぶことが多かったとされる。17世紀初頭の日葡辞書にも「だいみょう」・「たいめい」の2音が掲載されているが、語義の区別は明確でなく、2音とも大領主としている。「だいみょう」の音に定着したのは江戸時代に入ってからで、寛政期頃には専ら「だいみょう」と称した。
琉球王国では、間切(行政単位。今日の市町村に相当)を治める総地頭職(王子地頭、按司地頭を含む)にある者は、大名(でーみょー)と呼ばれた。総地頭職は通常、王子、按司、親方の位階にある者が就いたので、彼らの尊称から御殿殿内(うどぅんとぅんち)とも呼ばれた。総地頭職の下に位置する一村(今日の字に相当)を治める脇地頭職にある者は大名とは呼ばれない。
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"title": "概要"
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"text": "室町時代の辞書『節用集』には、「たいめい」・「だいみょう」の2音を載せ、前者は守護(大領主)、後者は銭持(富裕層)の意であるとした。戦国時代には音による意味の区別が薄れ、「たいめい」と呼ぶことが多かったとされる。17世紀初頭の日葡辞書にも「だいみょう」・「たいめい」の2音が掲載されているが、語義の区別は明確でなく、2音とも大領主としている。「だいみょう」の音に定着したのは江戸時代に入ってからで、寛政期頃には専ら「だいみょう」と称した。",
"title": "語義・音の変遷"
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"text": "琉球王国では、間切(行政単位。今日の市町村に相当)を治める総地頭職(王子地頭、按司地頭を含む)にある者は、大名(でーみょー)と呼ばれた。総地頭職は通常、王子、按司、親方の位階にある者が就いたので、彼らの尊称から御殿殿内(うどぅんとぅんち)とも呼ばれた。総地頭職の下に位置する一村(今日の字に相当)を治める脇地頭職にある者は大名とは呼ばれない。",
"title": "琉球王国の大名"
}
] |
大名(だいみょう)とは、もともとは私田の一種の名田の所有者のことをいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。平安時代末頃からこの語が見られるようになり、鎌倉時代以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった。
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{{Otheruses|武家社会における大名}}
{{出典の明記|date=2017年1月14日 (土) 10:19 (UTC)}}
[[File:Map Japan Genki1.png|thumb|300px|1570年頃の[[戦国大名]]の版図]]
'''大名'''(だいみょう)とは、もともとは私田の一種の名田の所有者のことであり、名田の大小によって大名・[[小名]]に区別された。[[平安時代]]末頃からこの語が見られるようになり、[[鎌倉時代]]以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった<ref name="a" >[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%90%8D-92048 日本大百科全書(ニッポニカ)「大名」]</ref>。
== 概要 ==
平安時代末ごろに私田の一種の名田の所有者を指す言葉として使用されるようになり、名田の大小によって大名・小名に区別された。鎌倉時代になると大きな所領をもち多数の家子や郎党を従えている有力武士を大名と称するようになった。南北朝時代から室町時代にかけては、[[守護|守護職]]が領国を拡大して大名領を形成したために「[[守護大名]]」とよばれた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には在地土豪の掌握を通じて一円知行化を推進して守護に取って代わった有力武士が「[[戦国大名]]」とよばれた<ref name="a" />。
[[江戸時代]]には主に[[石高]]1万石以上の所領を[[江戸幕府|幕府]]から禄として与えられた'''[[藩主]]'''を指す言葉となった。1万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参という。ただし大名の対義語である小名がその間に存在するため、この定義には曖昧な面がある。江戸時代の大名はその封建[[領主]]と性格が中国の諸侯と性格を共有することから、[[諸侯]]に準えて'''大名諸侯'''とも称された。また歴史学上の用語としては、[[近世大名]]とも称する。
{{main|守護大名|守護代|戦国大名|キリシタン大名|近世大名|譜代大名|外様大名|国持大名|城主大名}}
== 大名にちなんだ言葉 ==
*[[華族|大名華族]] - 華族のうち、大名諸侯出身のもの。
*[[大名屋敷]] - 大名の屋敷。諸藩は江戸にそれぞれ何箇所かを有し、江戸城に近い本邸である上屋敷、世継ぎや隠居した前大名が住む中屋敷、災害時の仮宅・倉庫・大庭園・接待所といった機能を担う都心から離れた下屋敷が設けられた。
*大名然 - 大名の様に鷹揚な様。
*[[大名行列]] - 大名が[[参勤交代]]の際に隊列を組んで移動する様。要人を囲んで集団が移動する様を揶揄していうことも。
*[[大名庭園]] - 大名が築造した[[日本庭園]]。
*[[大名火消]] - 江戸幕府が諸大名に命じて作らせた江戸の消防部隊。諸[[藩]]の[[藩士]]で構成。
*大名貸し - 大商人が[[蔵米]]を担保に大名に[[高利貸し]]をしたこと。
*大名預け - 幕府が罪人の管理を大名に任せること。
*大名普請 - 贅沢な普請。
*大名旅行 - 贅沢な旅行。
*大名飛脚 - 大名が江戸と国許の連絡のために設けた[[飛脚]]のこと。
*大名下ろし - 中骨に身を多く残すようにして魚を三枚におろすこと。豪勢であることからいわれる。
*大名切り - 魚や肉の身を大雑把に大きく切ること。
*大名買い - 売り手の言うままに購入すること。
*大名椀 - 大きな椀。
*大名倹飩 - 主に大名の[[家紋|紋]]や船などが描かれた、漆絵がある器に入れて出された[[倹飩#解説|倹飩]]を指して言う。
*大名縞 - 細かい縦縞模様。
*[[婆沙羅大名]] - 主に[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、勝手気ままに振る舞う大名。
*御大名(お大名) - 世事に疎く苦労を知らない人を指す語、または大名を敬って言う語。
*大名言葉 - 目上の立場にある人が目下の人に対して使う言葉を指す語。
*大名芸 - 役に立たない、実用的でない芸のこと。殿様芸とも。
== 語義・音の変遷 ==
室町時代の辞書『[[節用集]]』には、「たいめい」・「だいみょう」の2音を載せ、前者は守護(大領主)、後者は銭持(富裕層)の意であるとした。戦国時代には音による意味の区別が薄れ、「たいめい」と呼ぶことが多かったとされる。[[17世紀]]初頭の[[日葡辞書]]にも「だいみょう」・「たいめい」の2音が掲載されているが、語義の区別は明確でなく、2音とも大領主としている。「だいみょう」の音に定着したのは江戸時代に入ってからで、[[寛政]]期頃には専ら「だいみょう」と称した。
== 琉球王国の大名 ==
[[琉球王国]]では、[[間切]](行政単位。今日の市町村に相当)を治める総地頭職(王子地頭、[[按司]]地頭を含む)にある者は、大名(でーみょー)と呼ばれた。総地頭職は通常、王子、按司、[[親方 (沖縄)|親方]]の位階にある者が就いたので、彼らの尊称から[[御殿 (沖縄)|御殿]][[殿内]](うどぅんとぅんち)とも呼ばれた。総地頭職の下に位置する一村(今日の[[大字|字]]に相当)を治める脇地頭職にある者は大名とは呼ばれない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年4月|section=1}}
*宮里朝光監修、那覇出版社編『沖縄門中大事典』那覇出版社、1998年 ISBN 4890951016
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Daimyo}}
*[[近世大名]]
*[[キリシタン大名]]
*[[定府大名]]
*[[与力|与力大名]](組下大名)
*[[豪族]]
*[[旗本]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たいみよう}}
[[Category:室町幕府]]
[[Category:戦国時代 (日本)]]
[[Category:江戸時代の大名|*たいみよう]]
[[Category:中世日本の称号]]
[[Category:近世日本の称号]]
|
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"Template:Normdaten"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D
|
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単位の換算一覧
|
単位の換算一覧(たんいのかんさん いちらん)は、さまざまな単位を相互に換算するための一覧。単位の換算、国際単位系、SI組立単位、CGS単位系、尺貫法、ヤード・ポンド法、度量衡、計量単位一覧、次元解析、SI接頭語なども参照のこと。
凡例は以下のとおりである。
より詳しくは温度の換算を参照のこと。
|
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"text": "単位の換算一覧(たんいのかんさん いちらん)は、さまざまな単位を相互に換算するための一覧。単位の換算、国際単位系、SI組立単位、CGS単位系、尺貫法、ヤード・ポンド法、度量衡、計量単位一覧、次元解析、SI接頭語なども参照のこと。",
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"text": "凡例は以下のとおりである。",
"title": "凡例"
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"title": "加速度"
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{
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"text": "より詳しくは温度の換算を参照のこと。",
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"text": "",
"title": "比率"
}
] |
単位の換算一覧は、さまざまな単位を相互に換算するための一覧。単位の換算、国際単位系、SI組立単位、CGS単位系、尺貫法、ヤード・ポンド法、度量衡、計量単位一覧、次元解析、SI接頭語なども参照のこと。
|
{{特殊文字}}
'''単位の換算一覧'''(たんいのかんさん いちらん)は、さまざまな[[単位]]を相互に換算するための一覧<ref name=USI>http://www.nmij.jp/library/units/si/</ref>。[[単位の換算]]、[[国際単位系]]、[[SI組立単位]]、[[CGS単位系]]、[[尺貫法]]、[[ヤード・ポンド法]]、[[度量衡]]、[[計量単位一覧]]、[[次元解析]]、[[SI接頭語]]なども参照のこと。
==凡例==
凡例は以下のとおりである。
{| class="wikitable"
|+ 凡例
! ≡
| 定義
|-
! =
| 正確に等しい
|-
! ≒
| おおよそ等しい
|-
! (<var>値</var>)
| [[循環小数]](この数字が無限に続く)
|}
==長さ==
{| class="wikitable"
|+ [[長さ]], l
|-----
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[メートル]] || m
| 1秒の{{val|299792458}}分の1の時間に光が真空中を伝わる行程の長さ
| ([[SI基本単位]])
|-----
| [[プランク長]] || l<sub>p</sub>
| =(ℏG/c<sup>3</sup>)<sup>1/2</sup> (プランク単位系の基本単位)
| ≒1.616 24 × 10<sup>−35</sup> m
|-----
| [[オングストローム]] || Å
| ≡ 1×10<sup>−10</sup> m
| ≡ 1{{e|−10}} m = 0.1 nm
|-----
| [[フェムトメートル|フェルミ]] (fermi) || f
| ≡ 1{{e|−15}} m
| = 1 [[フェムトメートル|fm]]
|-----
|[[フェムトメートル|ユカワ]]|| y
| ≡ 1{{e|−15}} m
| = 1 fm
|-----
| [[ハートリー原子単位|長さの原子単位]] || au
| ≡ a<sub>0</sub>
| ≒ {{val|5.291772083|e=−11}} ± {{val|19|e=−20|u=m}}
|-----
| [[ボーア半径]] || a<sub>0</sub>; b
| ≡ [[微細構造定数|α]]/4{{mvar|π}}[[リュードベリ定数|''R''<sub>∞</sub>]]
| ≒ {{val|5.291772083|e=−11}} ± {{val|19|e=−20|u=m}}
|-----
| [[パーセク]] (parsec) || pc
| 1天文単位が円弧で1秒の角度を張る距離([[年周視差]]が1秒角となる距離)
| = {{val|3.08567782|e=16}} ± {{val|6|e=6|u=m}} <ref name=Seidelmann>P. Kenneth Seidelmann, Ed. (1992). ''Explanatory Supplement to the Astronomical Almanac.'' Sausalito, CA: University Science Books. p. 716 and s.v. parsec in Glossary.</ref>
|-----
| [[天文単位]] || au
| 由来:地球と太陽との間の平均の距離<ref>観測値ではなく定義値である([[国際天文学連合|IAU]]では2012年から、[[国際単位系|SI]]では2014年から)。</ref>
| ≡ {{val|149597870700|u=m}}
|-----
| [[太陽半径]] || R<sub>☉</sub>
| [[太陽]]の半径
| = {{val|696000000|u=m}}
|-----
| [[木星半径]] || R<sub>J</sub>
| [[木星]]の半径
| = {{val|71492000|u=m}}
|-----
| [[地球半径]] || R<sub>E</sub>
| [[地球]]の赤道半径(長半径)
| ≡ {{val|6378137|u=m}}<ref>[[GRS80]]による定義値</ref>
|-----
| [[光日]] ||
| ≡ 24 光時
| = {{val|2.59020683712|e=13|u=m}}
|-----
| [[光時]] ||
| ≡ 60 光分
| = {{val|1.0792528488|e=12|u=m}}
|-----
| [[光分]] ||
| ≡ 60 光秒
| = {{val|1.798754748|e=10|u=m}}
|-----
| [[光秒]] ||
| 光が1秒間に進む距離
| ≡ {{val|2.99792458|e=8|u=m}}
|-----
| [[光年]] || ly
| ≡ ''c''<sub>0</sub> × 86 400 × 365.25
| ≡ {{val|9460730472580800|u=m}}
|-----
| [[海里]] (国際海里)(international nautical mile) || M, NM,Nm, nmi, nm 等<ref>国際的に承認された記号はない。日本の[[計量法]]では、M 又は nm のどちらかのみ。</ref><ref>「国際文書第8版 (2006) [[国際単位系]](SI)日本語版」[http://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf] p. 40, 表8 その他の非 SI 単位、注(d)</ref>
| ≡ {{val|1852|u=m}}
| ≡ {{val|1852|u=m}}
|-----
|[[海里]] (英国の公式値) nautical mile (UK) || NM; nmi
| ≡ {{gaps|1|85'''3'''|m}} <ref>The Units of Measurement Regulations 1995[http://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/schedule/made]</ref>
| ≡ {{gaps|1|853|m}}
|-----
|[[海里|米海里]] (US nautical mile) || NM (Adm); nmi (Adm)
| ≡ {{gaps|6|080.20}} [[フィート#測量フィート|測量フィート]]
| ≒ {{val|1853.248666497|u=m}}
|-----
| [[鏈]] (cable length)(英) ||
| ≡ 608 ft
| = {{val|185.3184|u=m}}
|-----
|[[鏈]](国際) ||
| ≡ 1/10 NM
| = 185.2 m
|-----
|[[鏈]](米) ||
| ≡ 720 ft
| = 219.456 m
|-----
| [[口径]] (calibre) || cal
| ≡ 1 in
| = 25.4 mm
|-----
| [[ヤード]] (yard) (国際)|| yd
| ≡ 3 ft ≡ 36 in
| = 0.9144 m<ref name=nbs/>
|-----
|[[バーリーコーン|バーレイコーン]] (barley corn) ||
| ≡ ⅓ in
| = 8.4(6) mm
|-----
| [[チェーン (単位)|チェーン]] (chain)(ガンター氏、測量用) || ch
| ≡ 66.0 ft (4 rods)
| = {{val|20.1168|u=m}}
|-----
| チェーン(ラムスデン氏、工業用)|| ch
| ≡ 100 ft
| = 30.48 m
|-----
| [[キュビット]] (cubit) ||
| ≡ 18 in
| = {{val|0.4572|u=m}}
|-----
| [[エル (単位)|エル]] (ell) || ell
| ≡ 45 in
| = 1.143 m
|-----
|rowspan="2"| [[ファゾム]] (fathom) ||rowspan="2"| fm
| ≡ 6 ft
| = {{val|1.8288|u=m}}
|-
| ≒ 1/1 000 NM
| = {{val|1.852|u=m}}
|-----
|[[フィンガー (単位)|フィンガー]] (finger) ||
| ≡ {{gaps|7/8|in}}
| = {{val|22.225|u=mm}}
|-----
|[[フィンガー (単位)|フィンガー]](裁縫用) ||
| ≡ 4 {{JIS2004フォント|½}} in
| = {{val|0.1143|u=m}}
|-----
| フィート (foot) (Benoît) || ft (Ben)
|
| ≒ {{val|0.304799735|u=m}}
|-----
| フィート (Clarke's; Cape) || ft (Cla)
|
| ≒ {{val|0.3047972654|u=m}}
|-----
| フィート (Indian) || ft Ind
|
| ≒ {{val|0.304799514|u=m}}
|-----
| [[フィート]](国際) || ft
| ≡ {{val|12|u=inches}} = {{gaps|1/3|u=yd}}
| = {{val|0.3048|u=m}}
|-----
| フィート (Sear's) || ft (Sear)
|
| ≒ {{val|0.30479947|u=m}}
|-----
|[[フィート]] (米国[[フィート#測量フィート|測量フィート]] US survey foot) || ft (US survey ft)
| ≡ {{gaps|1|200|/|3|937|m}} <ref name=nbs>National Bureau of Standards. (June 30, 1959). ''Refinement of values for the yard and the pound''. Federal Register, viewed September 20, 2006 at [http://www.ngs.noaa.gov/PUBS_LIB/FedRegister/FRdoc59-5442.pdf National Geodetic Survey web site].</ref>
| ≒ {{val|0.304800609601219|u=m}}
|-----
| [[ハロン (単位)|ハロン]] (furlong) || fur
| ≡ 10 chains = 660 ft = 220 yd
| = 201.168 m
|-----
| [[地理マイル]] (geographical mile) || mi
| ≡ {{val|6082|u=ft}}
| = {{val|1853.7936|u=m}}
|-----
|[[ハンド (単位)|ハンド]] (hand) ||
| ≡ {{val|4|u=in}}
| = {{val|0.1016|u=m}}
|-----
| [[インチ]] (inch) || in
| ≡ 1/36 yd = 1/12 ft
| = 25.4 mm
|-----
| [[リーグ (単位)|リーグ]] (league) || lea
| ≡ 3 mi
| = 4 828.032 m
|-----
|[[ライン (単位)|ライン]] (line) || ln
| ≡ 1/12 in (Klein 1988, 63)
| ≒ 2.116 667 mm
|-----
| リンク (単位)|リンク (link) (ガンター氏、測量用) || lnk
| ≡ 1/100 ch
| = 0.201 168 m
|-----
| リンク(ラムスデン氏、工業用)|| lnk
| ≡ 1 ft
| = 0.304 8 m
|-----
| [[マウス (コンピュータ)|ミッキー]] ||
| ≡ 1/200 in
| = 1.27{{e|−4}} m
|-----
|[[マイクロメートル|ミクロン]]|| µ
| ≡ 1.000{{e|−6}} m
| = 1 [[マイクロメートル|µm]]
|-----
| [[サウ]] (thou), [[サウ|ミル]] (mil) || mil
| ≡ 1.000{{e|−3}} in
| = 2.54{{e|−5}} m
|-----
| ミル(スウェーデン・ノルウェー)|| mil
| ≡ 10 km
| = 10 000 m
|-----
| [[マイル]] (mile) || mi
| ≡ 1 760 yd = 5 280 ft
| = 1 609.344 m
|-----
| マイル (U.S. Survey) || mi
| ≡ 5 280 ft (US)
| = {{gaps|5|280|×|1|200|/|3|937|u=m}} ≒ {{val|1609.347219|u=m}}
|-----
| [[ネイル (単位)|ネイル]] ||
| ≡ 2 {{JIS2004フォント|¼}} in
| = 57.15 mm
|-----
|[[リーグ (単位)|リーグ]](海上) || NL; nl
| ≡ 3 NM
| = 5556 m
|-----
| [[ペース (長さ)|ペース]] (pace) ||
| ≡ 2.5 ft
| = 0.762 m
|-----
| パーム (palm) ||
| ≡ 3 in
| = 76.2 mm
|-----
| [[クォーター]] (quarter) ||
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} yd
| = 0.228 6 m
|-----
| [[ロッド (単位)|ロッド]] (rod); ポール (pole); パーチ (perch) || rd
| ≡ 16 {{JIS2004フォント|½}} ft
| = 5.029 2 m
|-----
| ロープ (rope) || rope
| ≡ 20 ft
| = 6.096 m
|-----
| スパン (span) ||
| ≡ 6 in
| = 0.152 4 m
|-----
|[[スパン (単位)|スパン]](裁縫用) ||
| ≡ 9 in
| = 0.228 6 m
|-----
| スパット (spat)[http://www.unc.edu/~rowlett/units/dictS.html] ||
| ≡ 10<sup>12</sup> m
| = 1 Tm
|-----
| スティック (stick) ||
| ≡ 2 in
| = 50.8 mm
|-----
| [[スティグマ]]{{要曖昧さ回避|date=2021年5月}} (stigma); pm||
| ≡ 1.000{{e|−12}} m
| ≡ 1.000{{e|−12}} m
|-----
| 電信マイル || mi
| ≡ 6 087 ft
| = 1 855.317 6 m
|-----
|[[尺]](曲尺)||
| ≡ 10/33 m
| = 0.3(03) m
|-----
|[[尺]](鯨尺)||
| ≡ 25/66 m
| = 0.3(78) m
|-----
|[[寸]](曲尺) ||
| ≡ 1/10 尺
| = 3.(03) cm
|-----
|[[間]] ||
| ≡ 6 尺
| = 1.(81) m
|-----
|[[尋]] ||
| ≡ 6 尺
| = 1.(81) m
|-----
|[[丈]] ||
| ≡ 10 尺
| = 3.(03) m
|-----
|[[町 (単位)|町]] ||
| ≡ 60 間
| = 109.(09) m
|-----
|[[里 (尺貫法)|里]] ||
| ≡ 36 町
| = 3.9(27) km
|-----
| [[ポイント (活字の単位)|ポイント]] (point) ([[American Typefounders Association|ATA]]) || pt
| ≡ 0.013 837 in ≒ 1/72.27 in
| = 0.351 459 8 mm
|-----
|[[ポイント (活字の単位)|ポイント]] (Didot; European) || pt
|
| ≡ 0.376 065 mm
|-----
| ポイント(メートル法) || pt
| ≡ 3/8 mm
| = 0.375 mm
|-----
| ポイント ([[PostScript]])|| pt
| ≡ 1/72 in
| ≒ 0.352 778 mm
|-----
| [[twip]] || twp
| ≡ 1/1 440 in
| ≒ 1.763 889{{e|−5}} m
|-----
| [[X線単位]], [[X線単位|シーグバーン]]|| xu
|
| ≒ 1.002 1{{e|−13}} m
|}
==面積==
{| class="wikitable"
|+ [[面積]], A
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[平方メートル]]|| m<sup>2</sup>
| ≡ 1 [[メートル|m]] × 1 m
| (SI単位)
|-----
| [[アール (単位)|アール]] (are) || a
|
| ≡ 100 m<sup>2</sup>
|-----
| [[ヘクタール]] (hectare) || ha
| ≡ 10 000 m<sup>2</sup>
| = 0.01 km<sup>2</sup>
|-----
| [[平方キロメートル]] || km<sup>2</sup>
| ≡ 1 km<sup>2</sup>
| = 10<sup>6</sup> m<sup>2</sup>
|-----
| [[プランク面積]] || l<sup>2</sup><sub>p</sub>
|
| ≒2.612 23 × 10<sup>−70</sup> m<sup>2</sup>
|-----
| [[バーン (単位)|バーン]] (barn) || b
|
| ≡ 10<sup>−28</sup> m<sup>2</sup>
|-----
| [[エーカー]] (acre) || ac
| ≡ 10 sq ch = {{val|4840|u=sq yd}}
| = {{val|4046.8564224|u=m<sup>2</sup>}}
|-----
| barony ||
| ≡ 4 000 ac
| = 1.618 742 568 96{{e|7}} m<sup>2</sup>
|-----
| board || bd
| ≡ 1 in × 1 ft
| = 7.741 92{{e|−3}} m<sup>2</sup>
|-----
| boiler horsepower equivalent direct radiation || {{gaps|bhp|EDR}}
| ≡ (1 ft<sup>2</sup>) (1 bhp) / (240 BTU<sub>IT</sub>/h)
| ≒ 12.958 174 m<sup>2</sup>
|-----
| サーキュラー[[インチ]] (circular inch) || circ in
| ≡ {{mvar|π}}/4 in<sup>2</sup>
| ≒ 5.067 075{{e|−4}} m<sup>2</sup>
|-----
| サーキュラーミル, サーキュラーサウ || {{gaps|circ|mil}}
| ≡ {{mvar|π}}/4 mil<sup>2</sup>
| ≒ 5.067 075{{e|−10}} m<sup>2</sup>
|-----
| cord ||
| ≡ 192 bd
| = 1.486 448 64 m<sup>2</sup>
|-----
| [[ハイド (単位)|ハイド]] (hide) ||
| ≡ 100 ac<!-- Definition is "amount of land required to support one peasant family" -->
| = {{gaps|4.0468564224|e=5|u=m<sup>2</sup>}}
|-----
| [[ルード (面積の単位)|ルード]] (rood) || ro
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} ac
| = 1 011.714 105 6 m<sup>2</sup>
|-----
| 平方チェーン (square chain) || sq ch
| ≡ 1 ch<sup>2</sup>
| = 404.685 642 24 m<sup>2</sup>
|-----
| [[平方フィート]] || sq ft
| ≡ 1 ft<sup>2</sup>
| = 9.290 304{{e|−2}} m<sup>2</sup>
|-----
| [[平方インチ]] || sq in
| ≡ 1 in<sup>2</sup>
| = 6.451 6{{e|−4}} m<sup>2</sup>
|-----
| [[ドゥナム]] (dunam)、メートルドゥナム ||
| ≡ 1 000 m<sup>2</sup>
| = 1 000 m<sup>2</sup>
|-----
| 平方リンク || sq lnk
| ≡ 1 lnk<sup>2</sup>
| = 4.046 856 422 4{{e|−2}} m<sup>2</sup>
|-----
| 平方ミル, 平方サウ || sq mil
| ≡ 1 mil<sup>2</sup>
| = 6.451 6{{e|−10}} m<sup>2</sup>
|-----
| 平方マイル, セクション (section) || sq mi
| ≡ 1 mi<sup>2</sup>
| = 2.589 988 110 336{{e|6}} m<sup>2</sup>
|-----
| 平方ロッド || sq rd
| ≡ 1 rd<sup>2</sup>
| = 25.292 852 64 m<sup>2</sup>
|-----
| 平方フィート (U.S. Survey) || sq ft
| ≡ 1 sq ft (US)
| ≒ {{val|9.29034116132749|e=-2|u=m<sup>2</sup>}}
|-----
| 平方マイル (U.S. Survey) || sq mi
| ≡ 1 sq mi (US)
| ≒ 2.589 998 470 319 521{{e|6}} m<sup>2</sup>
|-----
| [[平方ヤード]] || sq yd
| ≡ 1 yd<sup>2</sup>
| = 0.836 127 36 m<sup>2</sup>
|-----
| [[ストレンマ]]<!-- 日本語の定訳不明。ギリシャの単位らしい --> (stremma) ||
| ≡ 1 000 m<sup>2</sup>
| = 1 000 m<sup>2</sup>
|-----
| {{仮リンク|サーベイ・タウンシップ|en|Survey township|label=タウンシップ}} ||
| ≡ 36 sq mi (US)
| ≒ 9.323 994{{e|7}} m<sup>2</sup>
|-----
| ヤードランド (yardland) ||
| ≡ 30 ac
| = 1.214 056 926 72{{e|5}} m<sup>2</sup>
|-----
|[[坪]], 歩 ||
| ≡ 6 尺×6 尺
| ≒ 3.305 785 m<sup>2</sup>
|-----
|[[畝 (単位)|畝]] ||
| ≡ 30 坪
| ≒ 99.173 55 m<sup>2</sup>
|-----
|[[反]] ||
| ≡ 10 畝
| ≒ 991.735 5 m<sup>2</sup>
|-----
|[[町 (単位)|町]] ||
| ≡ 10 反
| ≒ 9 917.355 m<sup>2</sup>
|}
==体積==
{| class="wikitable"
|+ [[体積]], ''V''
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[立方メートル]] || m<sup>3</sup>
| ≡ 1 m × 1 m × 1 m
|(SI単位)
|-----
| [[プランク体積]] || l<sup>3</sup><sub>p</sub>
|
| ≒4.224 19 × 10<sup>−105</sup> kg
|-----
| [[リットル]] || L
| ≡ 1 dm<sup>3</sup> <ref name=specpub330>Barry N. Taylor, Ed.,[http://physics.nist.gov/Pubs/SP330/sp330.pdf ''NIST Special Publication 330: The International System of Units (SI)''] (2001 Edition), Washington: U.S. Government Printing Office, 43,"The 12th Conference Generale des Poids et Mesures (CGPM)…declares that the word “liter” may be employed as a special name for the cubic decimeter".</ref>
| = 0.001 m<sup>3</sup>
|-----
| [[小さじ]] (teaspoon)(カナダ)|| tsp
| ≡ 1/6 fl oz (Imp)
| ≒ 4.735 510 416 667 mL
|-----
| 小さじ(米)|| tsp
| ≡ 1/6 US fl oz
| = 4.928 921 595 mL
|-----
| 小さじ(メートル法)||
|
| ≡ 5 mL
|-----
| 小さじ(英)|| tsp
| ≡ 1/24 gi (Imp)
| = 5.919 388 020 8(3) mL
|-----
| デザートスプーン (dessertspoon) (英)||
| ≡ 1/12 gi (Imp)
| = 11.838 776 041 (6) mL
|-----
| [[大さじ]] (tablespoon)(カナダ)|| tbsp
| ≡ {{JIS2004フォント|½}} fl oz (Imp)
| = 14.206 531 25 mL
|-----
| 大さじ(米) || tbsp
| ≡ {{JIS2004フォント|½}} US fl oz
| = 14.786 764 782 5 mL
|-----
| 大さじ(メートル法) ||
|
| ≡ 15 mL
|-----
| 大さじ(英) || tbsp
| ≡ 5/8 fl oz (Imp)
| = 17.758 164 062 5 mL
|-----
| [[計量カップ|カップ]](カナダ) || c (CA)
| ≡ 8 fl oz (Imp)
| = 227.3045 mL
|-----
| カップ(米) || c (US)
| ≡ 8 US fl oz ≡ 1/16 gal (US)
| = 236.588 236 5 mL
|-----
| カップ(メートル法) || c
|
| ≡ 250 mL
|-----
| [[ラムダ (単位)|ラムダ]] || λ
| ≡ 1 mm<sup>3</sup>
| = 1 µL
|-----
| [[エーカー・フィート]] (acre foot) || ac ft
| ≡ 1 ac x 1 ft
| = 43 560 ft<sup>3</sup>
|-----
| ドロップ (drop)(メートル法) ||
| ≡ 1/20 mL
| = 0.05 mL
|-----
| ドロップ(米) (alt) || gtt
| ≡ 1/456 US fl oz
| ≒ 0.064 854 231 mL
|-----
| ドロップ(英) (alt) || gtt
| ≡ 1/1 824 gi (Imp)
| ≒ 0.077 886 684 mL
|-----
| ドロップ(米) || gtt
| ≡ 1/360 US fl oz
| = 0.082 148 693 229 1(6) mL
|-----
| ドロップ(医療用)||
| ≡ 1/12 mL
| = 0.08(3) mL
|-----
| ドロップ(英) || gtt
| ≡ 1/288 fl oz (Imp)
| = 0.098 656 467 013 (8) mL
|-----
| [[ミニム (単位)|ミニム]] (minim) (英) || min
| ≡ 1/480 fl oz (Imp) = 1/60 fl dr (Imp)
| ≒ {{val|0.059193880208333|u=mL}}
|-----
| ミニム(米) || min
| ≡ 1/480 US fl oz = 1/60 US fl dr
| = 0.061 611 519 921 875 mL
|-----
| ダッシュ (dash)(米) ||
| ≡ 1/96 US fl oz = {{JIS2004フォント|½}} US pinch
| = 0.308 057 599 609 375 mL
|-----
| ダッシュ(英) ||
| ≡ 1/384 gi (Imp) = {{JIS2004フォント|½}} pinch (Imp)
| = 0.369 961 751 302 08(3) mL
|-----
| ピンチ (pinch)(米) ||
| ≡ 1/48 US fl oz = {{Unicode|⅛}} US tsp ||= 0.616 115 199 218 75 mL
|-----
| ピンチ(英) ||
| ≡ 1/192 gi (Imp) = {{Unicode|⅛}} tsp (Imp)
| = 0.739 923 502 604 1(6) mL
|-----
| [[スクループル]] (scruple)(英)|| fl s
| ≡ 1/24 fl oz (Imp)
| = 1.183 877 604 1(6) mL
|-----
| [[ドラム (単位)|液量ドラム]] (fluid drachm)(英)|| fl dr
| ≡ {{Unicode|⅛}} fl oz (Imp)
| = 3.551 632 812 5 mL
|-----
| [[ドラム (単位)|液量ドラム]] (fluid dram)(米), フルドラム (fluidram) || fl dr
| ≡ {{Unicode|⅛}} US fl oz
| = 3.696 691 195 312 5 mL
|-----
| 立方インチ || cu in
| ≡ 1 in<sup>3</sup>
| = 16.387 064 mL
|-----
| pony ||
| ≡ 3/4 US fl oz
| = 22.180 147 171 875 mL
|-----
| [[液量オンス]] (fluid ounce)(英) || fl oz (Imp)
| ≡ 1/160 gal (Imp)
| = 28.413 062 5 mL
|-----
| 液量オンス(米) || US fl oz
| ≡ 1/128 gal (US)
| = 29.573 529 562 5 mL
|-----
| shot ||
| ≡ 1 US fl oz
| = 29.573 529 562 5 mL
|-----
| jigger ||
| ≡ 1 {{JIS2004フォント|½}} US fl oz
| = 44.360 294 343 75 mL
|-----
| [[ジル (単位)|ジル]] (gill)(米) || gi (US)
| ≡ 4 US fl oz
| = 118.294 118 25 mL
|-----
| ジル(英); Noggin || gi (Imp); nog
| ≡ 5 fl oz (Imp)
| = 142.065 312 5 mL
|-----
| breakfast cup ||
| ≡ 10 fl oz (Imp)
| = 284.130 625 mL
|-----
| [[パイント]] (pint)(米液量) || pt (US fl)
| ≡ {{Unicode|⅛}} gal (US)
| = 473.176 473 mL
|-----
| パイント(米乾量) || pt (US dry)
| ≡ 1/64 bu (US lvl) ≡ {{Unicode|⅛}} gal (US dry)
| = 0.550 610 471 357 5 L
|-----
| パイント(英) || pt (Imp)
| ≡ {{Unicode|⅛}} gal (Imp)
| = 0.568 261 25 L
|-----
| fifth ||
| ≡ 1/5 US gal
| = 0.757 082 356 8 L
|-----
| [[クォート]](米液量) || qt (US)
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} gal (US fl)
| = 0.946 352 946 L
|-----
| クォート(米乾量) || qt (US)
| ≡ 1/32 bu (US lvl) = {{JIS2004フォント|¼}} gal (US dry)
| = 1.101 220 942 715 L
|-----
| クォート(英) || qt (Imp)
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} gal (Imp)
| = 1.136 522 5 L
|-----
| pottle; quartern ||
| ≡ {{JIS2004フォント|½}} gal (Imp) = 80 fl oz (Imp)
| = 2.273 045 L
|-----
| [[ボードフィート]] (board-foot) || fbm
| ≡ 144 in<sup>3</sup>
| = 2.359 737 216 L
|-----
| [[ガロン]] (gallon)(米液量、ワイン)|| gal (US)
| ≡ 231 in<sup>3</sup>
| = 3.785 411 784 L
|-----
| ガロン(米乾量) || gal (US)
| ≡ {{Unicode|⅛}} bu (US lvl)
| = 4.404 883 770 86 L
|-----
| ガロン(英) || gal (Imp)
| ≡
| = 4.546 09 L
|-----
| ビールガロン || beer gal
| ≡ 282 in<sup>3</sup>
| = 4.621 152 048 L
|-----
| [[ペック]] (peck)(米乾量) || pk
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} US lvl bu
| = 8.809 767 541 72 L
|-----
| ペック(英) || pk
| ≡ 2 gal (Imp)
| = 9.092 18 L
|-----
| [[バケット (単位)|バケット]] (bucket)(英) || bkt
| ≡ 4 gal (Imp)
| = 18.184 36 L
|-----
| 材木フィート (timber foot) ||
| ≡ 1 ft<sup>3</sup>
| = 28.316 846 592 L
|-----
| [[立方フィート]] || cu ft
| ≡ 1 ft × 1 ft × 1 ft
| = 28.316 846 592 L
|-----
| [[ファーキン (単位)|ファーキン]] (firkin) ||
| ≡ 9 gal (US)
| = 34.068 706 056 L
|-----
| [[ブッシェル]] (bushel) (U.S. dry level) || bu (US lvl)
| ≡ 2 150.42 in<sup>3</sup>
| = 35.239 070 166 88 L
|-----
| ブッシェル(英) || bu (Imp)
| ≡ 8 gal (Imp)
| = 36.368 72 L
|-----
| ブッシェル (U.S. dry heaped) || bu (US)
| ≡ 1 {{JIS2004フォント|¼}} bu (US lvl)
| = 44.048 837 708 6 L
|-----
| strike(米) ||
| ≡ 2 bu (US lvl)
| = 70.478 140 333 76 L
|-----
| strike(英) ||
| ≡ 2 bu (Imp)
| = 72.737 44 L
|-----
| [[キルダーキン]] (kilderkin) ||
| ≡ 18 gal (Imp)
| = 81.829 62 L
|-----
| sack(米) ||
| ≡ 3 bu (US lvl)
| = 105.717 210 500 64 L
|-----
| sack(英); bag ||
| ≡ 3 bu (Imp)
| = 109.106 16 L
|-----
| [[バレル]] (barrel)(米乾量) || bl (US)
| ≡ 105 qt (US) = 105/32 bu (US lvl)
| = 115.628 198 985 075 L
|-----
| バレル(米液量) || fl bl (US)
| ≡ 31 {{JIS2004フォント|½}} gal (US)
| = 119.240 471 196 L
|-----
| coomb ||
| ≡ 4 bu (Imp)
| = 145.474 88 L
|-----
| バレル(石油) || bl; bbl
| ≡ 42 gal (US)
| = 158.987 294 928 L
|-----
| バレル(英) || bl (Imp)
| ≡ 36 gal (Imp)
| = 163.659 24 L
|-----
| [[ホッグズヘッド]] (hogshead)(米) || hhd (US)
| ≡ 2 fl bl (US)
| = 238.480 942 392 L
|-----
| seam ||
| ≡ 8 bu (US lvl)
| = 281.912 561 335 04 L
|-----
| quarter; pail ||
| ≡ 8 bu (Imp)
| = 290.949 76 L
|-----
| ホッグズヘッド(英) || hhd (Imp)
| ≡ 2 bl (Imp)
| = 327.318 48 L
|-----
| cord-foot ||
| ≡ 16 ft<sup>3</sup>
| = 0.453 069 545 472 m<sup>3</sup>
|-----
| butt, pipe ||
| ≡ 126 gal (wine)
| = 0.476 961 884 784 m<sup>3</sup>
|-----
| パーチ (perch) || per
| ≡ 16 {{JIS2004フォント|½}} ft × 1 {{JIS2004フォント|½}} ft × 1 ft
| = 0.700 841 953 152 m<sup>3</sup>
|-----
| 立方ヤード || cu yd
| ≡ 27 ft<sup>3</sup>
| = 0.764 554 857 984 m<sup>3</sup>
|-----
| タン (tun) ||
| ≡ 252 gal (wine)
| = 0.953 923 769 568 m<sup>3</sup>
|-----
| 排水[[トン数]] ||
| ≡ 35 ft<sup>3</sup>
| = 0.991 089 630 72 m<sup>3</sup>
|-----
| water ton ||
| ≡ 28 bu (Imp)
| = 1.018 324 16 m<sup>3</sup>
|-----
| 載貨容積トン数 (freight ton) ||
| ≡ 40 ft<sup>3</sup>
| = 1.132 673 863 68 m<sup>3</sup>
|-----
| wey(米) ||
| ≡ 40 bu (US lvl)
| = 1.409 562 806 675 2 m<sup>3</sup>
|-----
| load ||
| ≡ 50 ft<sup>3</sup>
| = 1.415 842 329 6 m<sup>3</sup>
|-----
| register ton ||
| ≡ 100 ft<sup>3</sup>
| = 2.831 684 659 2 m<sup>3</sup>
|-----
| last ||
| ≡ 80 bu (Imp)
| = 2.909 497 6 m<sup>3</sup>
|-----
| cord [[薪]]用) ||
| ≡ 8 ft × 4 ft × 4 ft
| = 3.624 556 363 776 m<sup>3</sup>
|-----
| 立方ファゾム || cu fm
| ≡ 1 fm × 1 fm × 1 fm
| = 6.116 438 863 872 m<sup>3</sup>
|-----
| エーカー・インチ ||
| ≡ 1 ac × 1 in
| = 102.790 153 128 96 m<sup>3</sup>
|-----
| 立方マイル || cu mi
| ≡ 1 mi<sup>3</sup>
| = {{val|4.168181825440579584|u=km<sup>3</sup>}}
|-----
| [[升]] ||
| ≡ 4 寸 9 [[分 (数)|分]] × 4 寸 9 分 × 2 寸 7 分
| ≒ 1.803 9 L
|-----
| [[合]] ||
| ≡ 1/10 升
| ≒ 0.180 39 L
|-----
| [[斗]] ||
| ≡ 10 升
| ≒ 18.039 L
|-----
| [[石 (単位)|石]] ||
| ≡ 10 斗
| ≒ 180.39 L
|}
==角度==
{| class="wikitable"
|+ [[角度]]
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ラジアン]] (radian) || rad
|
| ([[SI組立単位]])
|-----
| [[度 (角度)|度]] || °
| ≡ {{mvar|π}}/180 rad
| ≒ {{val|17.453293|u=mrad}}
|-----
| [[分 (角度)|分]] || '
| ≡ 1°/60
| ≒ 0.290 888 mrad
|-----
| [[秒 (角度)|秒]] || "
| ≡ 1°/3 600
| ≒ 4.848 137 µrad
|-----
| [[グラード (単位)|グラード]] (grade), ゴン (gon) || grad
| ≡ 2{{mvar|π}}/400 rad = 0.9°
| ≒ 15.707 963 mrad
|-----
| 十進化分 || '
| ≡ 1 grad/100
| ≒ 0.157 080 mrad
|-----
| 十進化秒 || "
| ≡ 1 grad/10 000
| ≒ 1.570 796 µrad
|-----
| [[ミル (角度)|ミル]](mil) || µ
| ≡ 2{{mvar|π}}/6 400 rad
| ≒ 0.981 748 mrad
|-----
| [[直角]] ||
| 一周の4分の1 ≡ 90°
| ≒ 1.570 796 rad
|-----
| sextant ||
| 一周の6分の1 ≡ 60°
| ≒ 1.047 198 rad
|-----
| octant ||
| 一周の8分の1 ≡ 45°
| ≒ 0.785 398 rad
|-----
| sign ||
| 一周の12分の1 ≡ 30°
| ≒ 0.523 599 rad
|-----
| [[点 (角度)|点]] ||
| 一周の32分の1 ≡ 11.25°
| ≒ 0.196 350 rad
|}
==立体角==
{| class="wikitable"
|+ [[立体角]]
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ステラジアン]] (steradian) || sr
|
|([[SI組立単位]])
|-----
| [[平方度]] ||
|一辺を1度とする正方形の面積
| ≒ {{val|0.00030461742|u=sr}}
|}
==質量==
{{see also|重量}}
{| class="wikitable"
|+ [[質量]], m
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[キログラム]] || kg
| プランク定数hを正確に6.62607015×10<sup>-34</sup>Jsと定められることによって設定される
|([[SI基本単位]])
|-----
| [[トン]](メートル法)|| t
|
| ≡ 1 000 kg
|-----
| [[電子の静止質量]] || m<sub>e</sub>
|
| ≒ {{val|9.10938188|e=−31}} ± 72{{e|−39}} kg
|-----
| [[陽子]]の静止質量 || m<sub>p</sub>
|
| ≒ {{val|1.67262171|e=−27}} ± {{val|0.00000029|e=−27|u=kg}}
|-----
| [[プランク質量]] || m<sub>p</sub>
|
| ≒ 2.176 45 × 10<sup>−8</sup> kg
|-----
| [[ハートリー原子単位|質量の原子単位]] || au
| ≡ m<sub>e</sub>
| ≒ 9.109 381 88{{e|−31}} ± 72{{e|−39}} kg
|-----
| [[原子質量単位]] || u
|
| ≒ 1.660 538 73{{e|−27}} ± 13{{e|−35}} kg
|-----
| [[ドルトン (単位)|ドルトン]] || Da
|
| ≒ 1.660 902 10{{e|−27}} ± 13{{e|−35}} kg
|-----
| [[γ|ガンマ]] || γ
|
| ≡ 1 µg
|-----
| ポイント ||
| ≡ 1/100 カラット
| = 2 mg
|-----
| マイト (mite) ||
| ≡ 1/20 gr
| = 3.239 945 5 mg
|-----
| マイト(メートル法) ||
| ≡ 1/20 g
| = 50 mg
|-----
| [[グレーン]] || gr
|
| ≡ 64.798 91 mg
|-----
| crith ||
|
| ≒ 89.934 9 mg
|-----
| [[カラット]](メートル法) || kt
|
| ≡ 200 mg
|-----
| カラット(ヤード・ポンド法) || kt
| ≡ 3 1/6 gr
| ≒ 205.196 548 333 mg
|-----
| sheet ||
| ≡ 1/700 lb av
| = 647.989 1 mg
|-----
| scruple(常用) || s av
| ≡ 20 gr
| = 1.295 978 2 g
|-----
| [[ペニーウェイト]] (pennyweight) || dwt; pwt
| ≡ 1/20 oz t
| = 1.555 173 84 g
|-----
| [[ドラム (単位)|ドラム]] (dram) ([[常衡|常用]]) || dr av
| ≡ 27 11/32 gr
| = 1.771 845 195 312 5 g
|-----
| ドラム([[薬衡|薬用]]、[[トロイ衡|トロイ]]) || dr t
| ≡ 60 gr
| = 3.887 934 6 g
|-----
| [[オンス]] (常用) || oz av
| ≡ 1/16 lb
| = 28.349 523 125 g
|-----
| assay ton (short) || AT
| ≡ 1 mg × 1 sh tn ÷ 1 oz t
| ≒ 29.166 667 g
|-----
| [[トロイオンス|オンス]](薬用、トロイ)|| oz t
| ≡ 1/12 lb t
| = 31.103 476 8 g
|-----
| assay ton (long) || AT
| ≡ 1 mg × 1 long tn ÷ 1 oz t
| ≒ 32.666 667 g
|-----
| mark ||
| ≡ 8 oz t
| = 248.827 814 4 g
|-----
| [[ポンド (質量)|ポンド]](トロイ)|| lb t
| ≡ 5760 grains
| = 0.373 241 721 6 kg
|-----
| ポンド(常用)|| lb av
| ≡ 7000 grains
| = 0.453 592 37 kg
|-----
| メートルポンド||
|
| ≡ 500 g
|-----
| clove ||
| ≡ 8 lb av
| = 3.628 738 96 kg
|-----
| [[ストーン (単位)|ストーン]] (stone) || st
| ≡ 14 lb av
| = 6.350 293 18 kg
|-----
| quarter(英) ||
| ≡ 1/4 long cwt = 2 st = 28 lb av
| = 12.700 586 36 kg
|-----
| [[スラグ]] (slug)、ジーポンド (geepound) || slug
| ≡ 1 gee × 1 lb av × 1 s<sup>2</sup>/ft
| ≒ 14.593 903 kg
|-----
| [[ハンドレッドウェイト]] (hundredweight)(ショート); センタル (cental) || sh cwt
| ≡ 100 lb av
| = 45.359 237 kg
|-----
| ハンドレッドウェイト(ロング)|| long cwt or cwt
| ≡ 112 lb av
| = 50.802 345 44 kg
|-----
| 袋([[ポルトランドセメント]])||
| ≡ 94 lb av
| = 42.637 682 78 kg
|-----
| 袋([[コーヒー]])||
| ≡ 60 kg
| = 60 kg
|-----
| [[キンタル]](メートル法) || q
|
| ≡ 100 kg
|-----
| wey ||
| ≡ 252 lb = 18 st
| = 114.305 277 24 kg (variants exist)
|-----
| long quarter||
| ≡ {{JIS2004フォント|¼}} long tn
| = 254.011 727 2 kg
|-----
| [[キップ (単位)|キップ]] (kip) || kip
| ≡ 1 000 lb av<!--KIloPound-->
| = 453.592 37 kg
|-----
| トン(ショート) || sh tn
| ≡ 2 000 lb
| = 907.184 74 kg
|-----
| トン(ロング)|| long tn or ton
| ≡ 2 240 lb
| = 1 016.046 908 8 kg
|-----
| barge ||
| ≡ 22 {{JIS2004フォント|½}} sh tn
| = 20 411.656 65 kg
<!--
|-----
| Zentner || Ztr.
|
| Definitions vary; see <ref>The Swiss Federal Office for Metrology gives ''Zentner'' on a German language web page[http://www.metas.ch/de/scales/systemch.html] and ''quintal'' on the English translation of that page[http://www.metas.ch/en/scales/systemch.html]; the unit is marked "spécifiquement suisse !"</ref> and <ref>Rowlett, Russ. ''A Dictionary of Units of Measurement''. Viewed [[October 14]], 2006 at http://www.unc.edu/~rowlett/units/dictZ.html</ref>. See also discussion at [[Talk:Conversion of units#Zentner]]
|
-->
|-----
| [[スラグ (単位)|hyl]] (CGS) ||
| ≡ 1 gee × 1 g × 1 s<sup>2</sup>/m
| = 9.806 65 g
|-----
| hyl (MKS) ||
| ≡ 1 gee × 1 kg × 1 s<sup>2</sup>/m
| = 9.806 65 kg
|-----
|[[貫]] ||
| ≡ 3.75 kg
| = 3.75 kg
|-----
|[[匁]] || mom
| ≡ 1/1 000 貫
| = 3.75 g
|-----
|[[両]] ||
| ≡ 10 匁
| = 37.5 g
|-----
|[[斤]] ||
| ≡ 160 匁
| = 600 g
|}
<!--
In [[physics]], the [[pound (mass)|pound of mass]] is sometimes written '''lbm''' to distinguish it from the [[pound-force]] ('''lbf'''). It should not be read as the mongrel unit "pound metre".
-->
==時間==
{| class="wikitable"
|+ [[時間]], t
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[秒]] || s
| セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細構造準位の間の遷移に対応する放射の周期の9 192 631 770倍の継続時間
|([[SI基本単位]])
|-----
| [[プランク時間]] ||
| ≡ ([[万有引力定数|G]][[ディラック定数|{{Unicode|ℏ}}]]/''[[光速度|c]]''<sup>5</sup>)<sup>1/2</sup>
| ≒ {{val|1.351211818|e=−43|u=s}}
|-----
| [[ハートリー原子単位|時間の原子単位]] || au
| ≡ [[ボーア半径|a<sub>0</sub>]]/([[微細構造定数|α]]·c)
| ≒ {{val|2.418884254|e=−17|u=s}}
|-----
| [[スヴェドベリ (単位)|スヴェドベリ]] (svedberg) || S
| ≡ 10<sup>−13</sup> s
| = 100 fs
|-----
| shake ||
| ≡ 10<sup>−8</sup> s
| = 10 ns
|-----
| sigma ||
| ≡ 10<sup>−6</sup> s
| = 1 µs
|-----
| jiffy ||
| ≡ 1/60 s
| ≒ 0.016 667 s
|-----
| jiffy (alternate) ||
| ≡ 1/100 s
| = 10 ms
|-----
| helek ||
| ≡ 1/1 080 h
| ≒ 3.333 333 s
|-----
| [[分]] || min
|
| ≡ 60 s
|-----
| ビート([[スウォッチ・インターネットタイム]]) || Beat; @
| ≡ 1 d / 1 000
| ≡ 86.4 s
|-----
| moment ||
| ≡ 90 s
| ≡ 90 s
|-----
| [[刻]](古代)||
| ≡ 1/100 d
| ≡ 864 s
|-----
| 刻(現代中国)||
| ≡ 1/96 d
| ≡ 900 s
|-----
| [[十進化時間|十進化秒]]||
| ≡ 1/100000 d
| ≡ 0.864 s
|-----
| [[十進化時間|十進化分]]||
| ≡ 1/1000 d
| ≡ 86.4 s
|-----
| [[十進化時間|十進化時]]||
| ≡ 1/10 d
| ≡ 8 640 s
|-----
| [[時間 (単位)|時間]] || h
| ≡ 60 min
| = 3 600 s
|-----
| [[日]] || d
| ≡ 24 h
| = 86 400 s
|-----
| [[週]] || wk
| ≡ 7 d
| = 604 800 s
|-----
| [[旬 (単位)|旬]] ||
| ≡ 10 d
| = 864 000 s
|-----
| [[半月 (期間)|フォートナイト]](fortnight) ||
| ≡ 2 wk
| = 1 209 600 s
|-----
| [[月 (暦)|月]](小の月)|| mo
| ≡ 30 d
| = 2 592 000 s
|-----
| [[月 (暦)|月]](大の月)|| mo
| ≡ 31 d
| = 2 678 400 s
|-----
| [[年]](暦年)|| a, y, ''or'' yr
| ≡ 365 d
| = 31 536 000 s
|-----
| [[年]](グレゴリオ暦の年の平均)|| a, y, ''or'' yr
| ≡ 365.242 5 d
| = 31 556 952 s
|-----
| [[ユリウス年]](ユリウス暦の年の平均)|| a, y, ''or'' yr
| ≡ 365.25 d
| = 31 557 600 s
|-----
| [[恒星年]] || a, y, ''or'' yr
| ≡ 365.256 363 d
| = 31 558 149.76 s
|-----
| [[オリンピアード|オリンピア紀元(オリンピア紀)]] (Olympiad) ||
| ≡ 4 a
| = 1.261 4{{e|8}} s
|-----
| lustre; lustrum ||
| ≡ 5 a
| = 1.576 8{{e|8}} s
|-----
| octaeteris ||
| ≡ 8 a
| = 2.522 88{{e|8}} s
|-----
| [[十年紀]] ||
| ≡ 10 a
| = 3.153 6{{e|8}} s
|-----
| [[メトン周期]] ||
| ≡ 235[[朔望月]] ≒ 19[[太陽年]]
| = 5.996 16{{e|8}} s
|-----
| [[メトン周期#カリポス周期|カリポス周期]] ||
| ≡ 365.25日 × 19
| = {{val|2.3983776|e=9|u=s}}
|-----
| [[世紀]] (暦年) || C
| ≡ 36500 d
| = 3.153 6{{e|9}} s
|-----
| [[ユリウス年#ユリウス世紀|ユリウス世紀]] (ユリウス暦) || C
| ≡ 36525 d
| = 3.155 76{{e|9}} s
|-----
| [[メトン周期#ヒッパルコス周期|ヒッパルコス周期]] ||
| ≡ 4 カリポス周期 − 1 d
| = 9.593 424{{e|9}} s
|-----
| [[ミレニアム]] (暦年) ||
| ≡ 1 000 a (365 d/a)
| = 3.153 6{{e|10}} s
|-----
| [[ミレニアム]] (グレゴリオ暦) ||
| ≡ 1 000 a (365.242 5 d/a)
| = 3.155 695 2{{e|10}} s
|-----
| [[ミレニアム]] (ユリウス暦) ||
| ≡ 1 000 a (365.25 d/a)
| = 3.155 76{{e|10}} s
|-----
| [[ソティス周期]] ||
| ≡ 1 461 a (365 d/a)
| = 4.607 409 6{{e|10}} s
|-----
| [[銀河年]] ||
| 銀河が一周するのにかかる時間(2億2500万年~2億5000万年)
| ≒ 7.1~7.9 × 10<sup>15</sup> s
|}
==速度==
{| class="wikitable"
|+ [[速度]], v
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[メートル毎秒]]|| m/s
|
| (SI組立単位)
|-----
| フィート毎時 || fph
| ≡ 1 ft/h
| ≒ {{val|8.466667|e=−5|u=m/s}}
|-----
| ハロン毎フォートナイト ||
| ≡ 1 ハロン/[[半月 (期間)|フォートナイト]]
| ≒ 1.663 095{{e|−4}} m/s
|-----
| インチ毎分 || ipm
| ≡ 1 in/min
| ≒ 4.23 333{{e|−4}} m/s
|-----
| フィート毎分 || fpm
| ≡ 1 ft/min
| = 5.08{{e|−3}} m/s
|-----
| インチ毎秒 || ips
| ≡ 1 in/s
| = 2.54{{e|−2}} m/s
|-----
| [[キロメートル毎時]] || km/h
| ≡ 1 km/h
| ≒ 2.777 778{{e|−1}} m/s
|-----
| フィート毎秒 || fps
| ≡ 1 ft/s
| = 3.048{{e|−1}} m/s
|-----
| [[マイル毎時]] || mph
| ≡ 1 mi/h
| = 0.447 04 m/s
|-----
| [[ノット]] || kn
| ≡ 1 [[海里|NM]]/h = 1.852 km/h
| ≒ 0.514 444 m/s
|-----
| ノット(英海軍) || kn
| ≡ 1 NM (Adm)/h = 1.853 184 km/h
| ≒ 0.514 773 m/s
|-----
| マイル毎分 || mpm
| ≡ 1 mi/min
| = 26.8224 m/s
|-----
| マイル毎秒 || mps
| ≡ 1 mi/s
| = 1.609 344 km/s
|-----
| 真空中の[[光速度]] || ''c'', ''c''<sub>0</sub>
| ≡ 2.997 924 58{{e|8}} m/s
|
|}
==加速度==
{| class="wikitable"
|+ [[加速度]], a
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[メートル毎秒毎秒]]|| m/s<sup>2</sup>
|
| (SI組立単位)
|-----
| キロメートル毎時毎秒 || km/h/s
| ≡ 1 km/(h·s)
| ≒ 2.(7){{e|−1}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| フィート毎時毎秒 || fph/s
| ≡ 1 ft/(h·s)
| ≒ 8.4(6){{e|−5}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| インチ毎分毎秒 || ipm/s
| ≡ 1 in/(min·s)
| ≒ 4.2(3){{e|−4}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| フィート毎分毎秒 || fpm/s
| ≡ 1 ft/(min·s)
| = 5.08{{e|−3}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| [[ガル]] || Gal
| ≡ 1 cm/s<sup>2</sup>
| = 10<sup>−2</sup> m/s<sup>2</sup>
|-----
| インチ毎秒毎秒 || ips<sup>2</sup>
| ≡ 1 in/s<sup>2</sup>
| = 2.54{{e|−2}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| フィート毎秒毎秒 || fps<sup>2</sup>
| ≡ 1 ft/s<sup>2</sup>
| = 3.048{{e|−1}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| マイル毎時毎秒 || mph/s
| ≡ 1 mi/(h·s)
| = 4.4704{{e|−1}} m/s<sup>2</sup>
|-----
| ノット毎秒 || kn/s
| ≡ 1 kn/s
| ≒ {{val|5.144444|e=−1|u=m/s<sup>2</sup>}}
|-----
| [[重力加速度|標準重力加速度]] || ''g''
|
| ≡ 9.806 65 m/s<sup>2</sup>
|-----
| マイル毎分毎秒 || mpm/s
| ≡ 1 mi/(min·s)
| = 26.822 4 m/s<sup>2</sup>
|-----
| マイル毎秒毎秒 || mps<sup>2</sup>
| ≡ 1 mi/s<sup>2</sup>
| = 1.609 344{{e|3}} m/s<sup>2</sup>
|}
==躍度・加加速度・ジャーク==
{| class="wikitable"
|+ [[躍度]], j
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[メートル毎秒毎秒毎秒]]|| m/s<sup>3</sup>
|
| (SI組立単位)
|-----
| [[センチメートル毎秒毎秒毎秒]] || cm/s<sup>3</sup>
|
| = 0.01 m/s<sup>3</sup>
|-----
| [[フィート毎秒毎秒毎秒]] || ft/s<sup>3</sup>
|
| = 0.3048 m/s<sup>3</sup>
|}
==周波数・振動数==
{| class="wikitable"
|+ [[周波数]], f
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] || Hz
|
| = 1 s<sup>−1</sup>
|-----
| [[サイクル毎秒]] || c/s
|
| = 1 s<sup>−1</sup>
|}
==角速度・角周波数・角振動数==
{| class="wikitable"
|+ [[角速度]], ω
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ラジアン毎秒]] || rad/s
|
|
|-----
| [[1度毎秒]] || °/s
|
| ≒ {{val|0.017453|u=rad/s}}
|-----
| [[rps (単位)|rps]] || rps
|
| ≒6.283 2 rad/s
|-----
| [[rpm (単位)|rpm]] || rpm
|
| ≒0.104 72 rad/s
|}
==波数==
{| class="wikitable"
|+ [[波数]], k
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[毎メートル]] || m<sup>−1</sup>, /m
| ≡ 1/m
| (SI単位)
|-----
| [[カイザー (単位)|カイザー]] || K
| 1cmにつき1回の波数
| =10<sup>2</sup>/m
|}
==密度・質量密度==
{| class="wikitable"
|+ [[密度]], ρ
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[キログラム毎立方メートル]] || kg/m<sup>3</sup>
|
| (SI組立単位)
|-----
| [[プランク密度]] || ρ<sub>p</sub>
|
| ≒ {{val|5.15500|e=96|u=kg/m<sup>3</sup>}}
|-----
| [[グラム毎立方センチメートル]] || g/cm<sup>3</sup>
|
| =1000 kg/m<sup>3</sup>
|-----
| [[トン毎立方メートル]] || t/m<sup>3</sup>
|
| =1000 kg/m<sup>3</sup>
|-----
| [[ポンド毎立方フィート]] || lb/ft<sup>3</sup>
|
| ≒16.018 463 kg/m<sup>3</sup>
|}
==質量流量==
{| class="wikitable"
|+ [[質量流量]], <math>\dot m</math>
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[キログラム毎秒]] || kg/s
|
|
|-----
| [[スラグ毎秒]] ||
|
|
|-----
| [[ポンド毎秒]] ||
|
|
|}
==力==
{| class="wikitable"
|+ [[力 (物理学)|力]], F
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ニュートン (単位)|ニュートン]]|| N
| ≡ kg·m/s<sup>2</sup>
| (SI組立単位)
|-----
| [[プランク力]]|| F<sub>p</sub>
|
| ≒1.210 27 × 10<sup>44</sup> N
|-----
| [[ハートリー原子単位|力の原子単位]] || au
| ≡ m<sub>e</sub>·[[微細構造定数|α]]<sup>2</sup>·''[[光速度|c]]''<sup>2</sup>/[[ボーア半径|a<sub>0</sub>]]
| ≒ {{val|8.238722241|e=−8|u=N}}
|-----
| [[ダイン]]([[CGS単位系]])|| dyn
| ≡ g·cm/s<sup>2</sup>
| = 10<sup>−5</sup> N
|-----
| [[重量キログラム]], キロポンド || kgf, kp
| ≡ ''g'' × 1 kg
| = 9.806 65 N
|-----
| 重量グラム || gf
| ≡ ''[[重力加速度|''g'']]'' × 1 g
| = 9.806 65 mN
|-----
| [[パウンダル]] (poundal) || pdl
| ≡ 1 lb·ft/s<sup>2</sup>
| = 0.138 254 954 376 N
|-----
| 重量オンス || ozf
| ≡ ''g'' × 1 oz
| = {{val|0.2780138509537812|u=N}}
|-----
| [[重量ポンド]] || lbf
| ≡ ''g'' × 1 lb
| = {{val|4.4482216152605|u=N}}
|-----
| [[ステーヌ]] (sthene)([[MTS単位系]])|| sn
| ≡ 1 t·m/s<sup>2</sup>
| = 1 kN
|-----
| 重量キップ || kip; kipf; klbf
| ≡ ''g'' × 1 000 lb
| = 4.448 221 615 260 5 kN
|-----
| 重量トン || tnf
| ≡ ''g'' × 1 sh tn
| = 8.896 443 230 521 kN</td>
|}
==力のモーメント・トルク==
{| class="wikitable"
|+ [[トルク]]・[[モーメント]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ニュートンメートル]] || Nm
|
|
|-----
| [[メートルキログラム]] || m kg
|
| ≒ {{val|0.101971621|u=Nm}}
|}
==圧力・応力==
{| class="wikitable"
|+ [[圧力]], p
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[工学気圧]] || at
| ≡ 1 kgf/cm<sup>2</sup>
| = {{val|98.0665|u=kPa}} <ref name=press811/>
|-----
| [[気圧#単位としての気圧|気圧]] ([[標準気圧|標準大気圧]])|| atm
| ≡ 760 mmHg を Pa に換算し、小数点以下切り捨て
| = 101 325 Pa <ref name=press811>Barry N. Taylor, (April 1995), ''Guide for the Use of the International System of Units (SI)'' (NIST Special Publication 811), Washington, DC: U.S. Government Printing Office, pp. 64–65.</ref>
|-----
| [[プランク圧力]] || p<sub>p</sub>
|
| ≒ {{val|4.63309|e=113|u=Pa}}
|-----
| [[バリ (単位)|バリ]] (CGS単位系)|| b
| ≡ 1 dyn/cm<sup>2</sup>
| = 0.1 Pa
|-----
| [[バール (単位)|バール]] (CGS単位系)|| bar
| ≡ 1 Mb (=10<sup>6</sup> b ≒ 1 atm)
| = 10<sup>5</sup> Pa
|-----
| [[水銀柱センチメートル]] || cmHg
| ≡ 13 595.1 kg/m<sup>3</sup> × 1 cm × ''g''
| ≒ 1.333 22 kPa <ref name=press811/>
|-----
| [[水柱センチメートル]] || cmH<sub>2</sub>O
| ≒ 999.972 kg/m<sup>3</sup> × 1 cm × ''g''
| ≒ 98.063 8 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[水銀柱フィート]] || ftHg
| ≡ 13 595.1 kg/m<sup>3</sup> × 1 ft × ''g''
| ≒ 40.636 68 kPa <ref name=press811/>
|-----
| [[水柱フィート]] || ftH<sub>2</sub>O
| ≒ 999.972 kg/m<sup>3</sup> × 1 ft × ''g''
| ≒ 2989.0788 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[水銀柱インチ]] || inHg
| ≡ 13 595.1 kg/m<sup>3</sup> × 1 in × ''g''
| ≒ 3386.39 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[水柱インチ]] || inH<sub>2</sub>O
| ≒ 999.972 kg/m<sup>3</sup> × 1 in × ''g''
| ≒ 249.0899 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[重量キログラム毎平方ミリメートル]] || kgf/mm<sup>2</sup>
| ≡ 1 kgf/mm<sup>2</sup>
| = 9.806 65 MPa <ref name=press811/>
|-----
| [[重量キップ毎平方インチ]] || ksi
| ≡ 1 kipf/in<sup>2</sup>
| ≒ 6.894 757 MPa <ref name=press811/>
|-----
| [[水銀柱ミリメートル]] || mmHg
| ≡ 101 325/760 Pa (= 1 Torr)
| ≒ 133.322 4 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[水柱メートル|水柱ミリメートル]] || mmH<sub>2</sub>O
| ≒ 999.972 kg/m<sup>3</sup> × 1 mm × ''g''
| = 9.806 38 Pa
|-----
| [[パスカル (単位)|パスカル]] (SI単位)|| Pa
| ≡ 1 N/m<sup>2</sup>
| = 1 kg/(m·s<sup>2</sup>) <ref>Barry N. Taylor, (April 1995), ''Guide for the Use of the International System of Units (SI)'' (NIST Special Publication 811), Washington, DC: U.S. Government Printing Office, p. 5.</ref>
|-----
| [[パウンダル毎平方フィート]] || pdl/sq ft
| ≡ 1 pdl/ft<sup>2</sup>
| ≒ 1.488 164 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[重量ポンド毎平方フィート]] || psf
| ≡ 1 lbf/ft<sup>2</sup>
| ≒ 47.880 25 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[重量ポンド毎平方インチ]] || psi
| ≡ 1 lbf/in<sup>2</sup>
| ≒ 6894.76 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[ピエーズ]] (pièze)(MTS単位系)|| pz
| ≡ 1 000 N/m<sup>2</sup>
| = 1 kPa
|-----
| [[トル]] || Torr
| ≡ 101 325/760 Pa (= 1 mmHg)
| ≒ 133.322 4 Pa <ref name=press811/>
|-----
| [[ショートトン毎平方フィート]] ||
| ≡ 1 sh tn × ''g'' /ft<sup>2</sup>
| ≒ {{val|95.760518|u=kPa}}
|}
==エネルギー・仕事・熱量==
{| class="wikitable"
|+ [[エネルギー]], E
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ジュール]](SI単位) || J
| ≡ N·m = W·s = V·A·s
| = kg·m<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
|-----
| [[電子ボルト]] || eV
| ≡ ''[[電気素量|e]]'' × 1 V
| = 1.602 176 634{{e|−19}} J
|-----
| [[プランクエネルギー]] || E<sub>p</sub>
|
| ≒1.956 1 × 10<sup>9</sup> J
|-----
| [[リュードベリ原子単位|リュードベリ]] (rydberg) || Ry
| ≡ [[リュードベリ定数|''R''<sub>∞</sub>]] · [[プランク定数|{{Unicode|ℎ}}]] · ''[[光速度|c]]''
| ≒ 2.179 872{{e|−18}} J
|-----
| [[ハートリー原子単位|エネルギーの原子単位]], ハートリー(hartree) || au, E<sub>h</sub>
| ≡ m<sub>e</sub> · [[微細構造定数|''α'']]<sup>2</sup> · ''[[光速度|c]]''<sup>2</sup> (= 2 Ry)
| ≒ 4.359 744{{e|−18}} J
|-----
| [[エルグ]] (erg)(CGS単位系)|| erg
| ≡ 1 g·cm<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
| = 10<sup>−7</sup> J
|-----
| [[フィート・パウンダル]] || ft pdl
| ≡ 1 lb·ft<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
| = {{val|4.21401100938048|e=−2|u=J}}
|-----
| 立方センチメートル気圧 (standard cubic centimetre) || cc atm; scc
| ≡ 1 atm × 1 cm<sup>3</sup>
| = 0.101 325 J
|-----
| インチ・重量ポンド || in lbf
| ≡ ''g'' × 1 lb × 1 in
| = {{val|0.1129848290276167|u=J}}
|-----
| フィート・重量ポンド || ft lbf
| ≡ ''g'' × 1 lb × 1 ft
| = {{val|1.3558179483314004|u=J}}
|-----
| [[カロリー]] (calorie)(20度) || cal<sub>20 {{℃}}</sub>
|
| ≒ 4.181 9 J
|-----
| カロリー(熱化学、[[計量法]])|| cal<sub>th</sub>
|
| ≡ 4.184 J
|-----
| カロリー(15度)|| cal<sub>15 {{℃}}</sub>
|
| ≡ 4.185 5 J
|-----
| カロリー(国際蒸気表)|| cal<sub>IT</sub>
|
| ≡ 4.1868 J
|-----
| カロリー(平均) || cal<sub>mean</sub>
|
| ≒ 4.190 02 J
|-----
| カロリー(3.98 {{℃}}) || cal<sub>3.98 {{℃}}</sub>
|
| ≒ 4.204 5 J
|-----
| キロカロリー, 大カロリー || kcal, Cal
| ≡ 1 000 cal<sub>IT</sub>
| = 4.1868 kJ
|-----
| リットル気圧 || l atm; sl
| ≡ 1 atm × 1 L
| = 101.325 J
|-----
| ガロン気圧(米) || US gal atm
| ≡ 1 atm × 1 gal (US)
| = 383.556 849 013 8 J
|-----
| ガロン気圧(英) || imp gal atm
| ≡ 1 atm × 1 gal (imp)
| = 460.632 569 25 J
|-----
| [[英熱量]](熱化学) || Btu<sub>th</sub>
| ≡ 1 lb/g × 1 cal<sub>th</sub> × 1 {{°F}}/{{℃}} = 9.489 152 380 4 ÷ 9 kJ
| ≒ 1.054 350 kJ
|-----
| 英熱量 (ISO) || Btu<sub>ISO</sub>
|
| ≡ 1.054 5 kJ
|-----
| 英熱量 (63 {{°F}}) || Btu<sub>63 {{°F}}</sub>
|
| ≒ 1.054 6 kJ
|-----
| 英熱量 (60 {{°F}}) || Btu<sub>60 {{°F}}</sub>
|
| ≒ 1.054 68 kJ
|-----
| 英熱量 (59 {{°F}}) || Btu<sub>59 {{°F}}</sub>
|
| ≡ 1.054 804 kJ
|-----
| 英熱量(国際蒸気表) || Btu<sub>IT</sub>
| ≡ 1 lb/g × 1 cal<sub>IT</sub> × 1 {{°F}}/{{℃}}
| = 1.055 055 852 62 kJ
|-----
| 英熱量([[計量法]]) || Btu
|
| ≡ 1.055 06 kJ
|-----
| 英熱量(平均) || Btu<sub>mean</sub>
|
| ≒ 1.055 87 kJ
|-----
| 英熱量 (39 {{°F}}) || Btu<sub>39 {{°F}}</sub>
|
| ≒ 1.059 67 kJ
|-----
| Celsius heat unit(国際蒸気表) || CHU<sub>IT</sub>
| ≡ 1 Btu<sub>IT</sub> × 1 {{℃}}/{{°F}}
| = 1.899 100 534 716 kJ
|-----
| 立方フィート気圧 (standard cubic foot) || cu ft atm; scf
| ≡ 1 atm × 1 ft<sup>3</sup>
| = 2.869 204 480 934 4 kJ
|-----
| 立方ヤード気圧 (standard cubic yard) || cu yd atm; scy
| ≡ 1 atm × 1 yd<sup>3</sup>
| = 77.468 520 985 228 8 kJ
|-----
| 立方フィート天然ガス ||
| ≡ 1000 Btu<sub>IT</sub>
| = 1.055 055 852 62 MJ
|-----
| [[馬力]]時 || hp·h
| ≡ 1 hp × 1 h
| = 2.684 519 537 696 172 792 MJ
|-----
| [[キロワット時]] (kilowatt hour; Board of Trade Unit) || kW·h; B.O.T.U.
| ≡ 1 kW × 1 h
| = 3.6 MJ
|-----
| [[サーミー]] (thermie) || th
| ≡ 1 Mcal<sub>IT</sub>
| = 4.186 8 MJ
|-----
| [[サーム (単位)|サーム]](米)(therm(US)) ||
| ≡ 100 000 Btu<sub>59 {{°F}}</sub>
| = 105.4804 MJ
|-----
| サーム(EC) (therm(EC)) ||
| ≡ 100 000 Btu<sub>IT</sub>
| = 105.505 585 262 MJ
|-----
| [[トン#エネルギー|トン]](TNT火薬) || tTNT
| ≡ 1 Gcal<sub>th</sub>
| = 4.184 GJ
|-----
| [[石油換算バレル]] (barrel of oil equivalent) || bboe
| ≒ 5.8 MBtu<sub>59 {{°F}}</sub>
| ≒ 6.12 GJ
|-----
| [[石炭換算トン]] (ton of coal equivalent) || TCE
| ≡ 7 Gcal<sub>th</sub>
| = 29.307 6 GJ
|-----
| [[石油換算トン]] (ton of oil equivalent) || TOE
| ≡ 10 Gcal<sub>th</sub>
| = 41.868 GJ
|-----
| quad ||
| ≡ 10<sup>15</sup> Btu<sub>IT</sub>
| = 1.055 055 852 62{{e|18}} J
|-----
| [[フォエ (単位)|フォエ]] (foe) || foe
|
| = 10<sup>44</sup> J
|}
==仕事率・電力・工率==
{| class="wikitable"
|+ [[仕事率]]・[[電力]], P
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ワット]](SI単位) || W
| ≡ J/s = N·m/s
| = kg·m<sup>2</sup>/s<sup>3</sup>
|-----
| lusec || lusec
| ≡ 1 L·µmHg/s <ref>Russ Rowlett. (2005). ''How Many: A Dictionary of Units of Measure''. Viewed [[5 November]] 2006 at http://www.unc.edu/~rowlett/units/</ref>
| ≒ 1.333{{e|−4}} W
|-----
| フィート重量ポンド毎時 || ft lbf/h
| ≡ 1 ft lbf/h
| ≒ 3.766 161{{e|−4}} W
|-----
| 立方センチメートル気圧毎分 || atm ccm
| ≡ 1 atm × 1 cm<sup>3</sup>/min
| = 1.688 75{{e|−3}} W
|-----
| フィート重量ポンド毎分 || ft lbf/min
| ≡ 1 ft lbf/min
| = 2.259 696 580 552 334{{e|−2}} W
|-----
| 立方センチメートル気圧毎秒 || atm ccs
| ≡ 1 atm × 1 cm<sup>3</sup>/s
| = 0.101 325 W
|-----
| [[英熱量]]毎時(国際蒸気表)|| BTU<sub>IT</sub>/h
| ≡ 1 BTU<sub>IT</sub>/h
| ≒ 0.293 071 W
|-----
| 立方フィート気圧毎時 || atm cfh
| ≡ 1 atm × 1 cu ft/h
| = 0.797 001 244 704 W
|-----
| 立方フィート気圧毎秒 || ft lbf/s
| ≡ 1 ft lbf/s
| = {{val|1.3558179483314004|u=W}}
|-----
| リットル気圧毎分 || L·atm/min
| ≡ 1 atm × 1 L/min
| = 1.688 75 W
|-----
| カロリー毎秒(国際蒸気表) || cal<sub>IT</sub>/s
| ≡ 1 cal<sub>IT</sub>/s
| = 4.1868 W
|-----
| 英熱量毎分(国際蒸気表) || BTU<sub>IT</sub>/min
| ≡ 1 BTU<sub>IT</sub>/min
| ≒ 17.584 264 W
|-----
| 立方フィート気圧毎分 || atm·cfm
| ≡ 1 atm × 1 cu ft/min
| = 47.820 074 682 24 W
|-----
| 立方フィート等価直接放射 || sq ft EDR
| ≡ 240 BTU<sub>IT</sub>/h
| ≒ 70.337 057 W
|-----
| リットル気圧毎秒 || L·atm/s
| ≡ 1 atm × 1 L/s
| = 101.325 W
|-----
| [[馬力]]([[馬力#仏馬力|仏馬力]]<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051&keyword=%E4%BB%8F%E9%A6%AC%E5%8A%9B 計量法附則第6条] 「仏馬力は、内燃機関に関する取引又は証明その他の政令で定める取引又は証明に用いる場合にあっては、当分の間、工率の法定計量単位とみなす。」</ref>、[[計量法]]) || PS
| ≡ 735.5 W<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E4%BB%8F%E9%A6%AC%E5%8A%9B 計量単位令第11条]</ref>
| = 735.5 W(正確に)
|-----
| [[馬力]](メートル法) || hp
| ≡ 75 m kgf/s
| = 735.498 75 W
|-----
| 馬力(ヨーロッパの電力)|| hp
| ≡ 75 kp·m/s
| = 736 W
|-----
| 馬力(イギリスの力学) || hp
| ≡ 550 ft lbf/s
| = 745.699 871 582 270 22 W
|-----
| 馬力(イギリスの電力) || hp
|
| ≡ 746 W
|-----
| トン(空調)||
| ≡ 1 t × 1005 J/kg × 1 {{°F}}/K ÷ 10 min
| = 844.2 W
|-----
| [[ポンスレ (単位)|ポンスレ]] (poncelet) || p
| ≡ 100 m kgf/s
| = 980.665 W
|-----
| 英熱量毎秒(国際蒸気表) || BTU<sub>IT</sub>/s
| ≡ 1 BTU<sub>IT</sub>/s
| = 1.055 055 852 62{{e|3}} W
|-----
| 立方フィート気圧毎秒 || atm cfs
| ≡ 1 atm × 1 cu ft/s
| = {{val|2.8692044809344|e=3|u=W}}
|-----
| トン(冷房能力)(国際蒸気表) ||
| ≡ 1 BTU<sub>IT</sub> × 1 sh tn/lb ÷ 10 min/s
| ≒ 3.516 853{{e|3}} W
|-----
| トン(冷房能力)(英) ||
| ≡ 1 BTU<sub>IT</sub> × 1 lng tn/lb ÷ 10 min/s
| ≒ 3.938 875{{e|3}} W
|-----
| 馬力(ボイラー) || bhp
| ≒ 34.5 lb/h × 970.3 BTU<sub>IT</sub>/lb
| ≒ 9.810 657{{e|3}} W
|}
==運動量==
{| class="wikitable"
|+ [[運動量]],p
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ニュートン秒]] || Ns
|
|
|-----
| [[ダイン秒]] || dyn s
|
|
|-----
| [[プランク運動量]] || m<sub>p</sub>c
|
| 6.524 85 N/s
|}
==作用・角運動量==
{| class="wikitable"
|+ [[作用]]・[[角運動量]], L, J
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| ジュール秒 || J·s
|
| ≡ kg·m<sup>2</sup>/s
|-----
| [[ハートリー原子単位|作用の原子単位]] || au
| ≡ [[ディラック定数|ℏ]] = [[プランク定数|{{Unicode|ℎ}}]]/2[[Pi|{{mvar|π}}]]
| ≒ 1.054 571 596{{e|−34}} J·s
|-----
| エルグ秒(CGS単位) || erg·s
|
| = 10<sup>−7</sup> J·s
|}
==機械的コンプライアンス==
{| class="wikitable"
|+ [[機械的コンプライアンス]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[メートル毎ニュートン]] || m/N
|
|
|}
==電流==
{| class="wikitable"
|+ [[電流]], I
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[アンペア]] || A
| 電気素量eを正確に1.602176634<math>\times</math>10<sup>-19</sup>Cと定めることにより設定される
|([[SI基本単位]])
|-----
| [[プランク電流]] || I<sub>p</sub>
|
| ≒3.478 9 × 10<sup>25</sup> A
|-----
| 静電単位毎秒, スタットアンペア(CGS静電単位系) || esu/s, statA
| ≡ (0.1 A·m/s) /''[[光速度|c]]''
| ≒ {{val|3.335641|e=−10|u=A}}
|-----
| 電磁単位, [[アブアンペア]], ビオ(CGS電磁単位系) || emu, abA, Bi
|
| ≡ 10 A
|}
==電荷==
{| class="wikitable"
|+ [[電荷]], Q
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[クーロン]](SI単位) || C
|
| ≡ A·s
|-----
| [[プランク電荷]] || q<sub>p</sub>
|
| ≒ {{val|1.8755459|e=−18|u=C}}
|-----
| [[ハートリー原子単位|電荷の原子単位]] || au
| ≡ ''[[電気素量|e]]''
| ≒ {{val|1.602176462|e=−19|u=C}}
|-----
| 静電単位, [[スタットクーロン]], フランクリン(CGS静電単位系)|| esu, statC, Fr
| ≡ (0.1 A·m) /''[[光速度|c]]''
| ≒ 3.335 641{{e|−10}} C
|-----
| アブクーロン(CGS電磁単位系)|| abC
|
| ≡ 10 C
|-----
| [[ファラデー (単位)|ファラデー]] (faraday) || F
| ≡ 1 mol × ''[[アボガドロ定数|N<sub>A</sub>]]''·''[[電気素量|e]]''
| ≒ {{val|96485.3383|u=C}}
|}
==電束密度==
{| class="wikitable"
|+ [[電束密度]], D
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[クーロン毎平方メートル]] || C/m<sup>2</sup>
|
|
|}
==起電力・電位・電位差==
{| class="wikitable"
|+ [[電圧]]・起電力, V
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ボルト (単位)|ボルト]](SI単位) || V
| ≡ W/A
| ≡ kg·m<sup>2</sup>/(A·s<sup>3</sup>)
|-----
| [[プランク電圧]] || V<sub>p</sub>
|
| ≒1.042 95 × 10<sup>27</sup> V
|-----
| アブボルト(CGS電磁単位系)|| abV
|
| ≡ 1{{e|−8}} V
|-----
| [[スタットボルト]](CGS静電単位系)|| statV
| ≡ ''[[光速度|c]]''· (1 µJ/A·m)
| = 299.792 458 V
|}
==静電容量==
{| class="wikitable"
|+ [[静電容量]], C
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ファラド]] || F
| ≡ C/V
| = s<sup>4</sup>⋅A<sup>2</sup>/(m<sup>2</sup>⋅kg)
|}
==エラスタンス==
{| class="wikitable"
|+ [[静電容量#エラスタンス|エラスタンス]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[毎ファラド|毎ファラド, ダラフ]] || F<sup>−1</sup>
| ≡1 F<sup>−1</sup>
|
|}
==電気抵抗・インピーダンス==
{| class="wikitable"
|+ [[電気抵抗]], R ・[[インピーダンス]], Z
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[オーム]](SI単位) || Ω
| ≡ V/A
| = kg·m<sup>2</sup>/(A<sup>2</sup>·s<sup>3</sup>)
|-----
| [[プランクインピーダンス]] || Z<sub>p</sub>
|
| ≒29.979 245 8 Ω
|-----
| [[フォン・クリッツィング定数]] || R<sub>k</sub>
| h/e<sup>2</sup> = μ<sub>0</sub>e/2α
| ≒25 812.807 449 ± 0.000086 Ω
|}
==コンダクタンス==
{| class="wikitable"
|+ [[コンダクタンス]], G
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ジーメンス]] || S
| ≡ 1/Ω
| = A<sup>2</sup>·s<sup>3</sup>/(kg·m<sup>2</sup>) (SI組立単位)
|-----
| [[ジーメンス#モー|モー]] || <math>\mho</math>
|
| = 1 S
|-----
| [[コンダクタンス量子]] || G<sub>0</sub>
| ≡ 2e<sup>2</sup>/h
| ≒ {{val|7.748091733|e=−5}} ± {{val|0.000000026|e=−5}}
|}
==電気抵抗率==
{| class="wikitable"
|+ [[電気抵抗率]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[オームメートル]] || Ωm
|
|
|}
==電気伝導率==
{| class="wikitable"
|+ [[電気伝導率]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ジーメンス毎メートル]] || S/m<sup>2</sup>
|
|
|-----
| [[ミリジーメンス毎センチメートル]] || mS/cm<sup>2</sup>
|
|
|-----
| [[毎オーム毎メートル]] ||Ω<sup>−1</sup>⋅m<sup>−1</sup>
|
|
|}
==電場(電界)の強さ==
{| class="wikitable"
|+ [[電場|電場の強さ]], E
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ボルト毎メートル]] || V/m
|
| = V/m
|-----
| [[ニュートン毎クーロン]] || N/C
|
| = V/m
|}
==誘電率==
{| class="wikitable"
|+ [[誘電率]], ε
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| ファラド毎メートル || F/m
|
|
|-----
| 真空の誘電率 || ε<sub>0</sub>
|
|
|}
==磁束==
{| class="wikitable"
|+ [[磁束]], Φ
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ウェーバ]] || Wb
| ≡ V⋅s
| = kg⋅m<sup>2</sup>/(s<sup>2</sup>⋅A)
|-----
| [[マクスウェル (単位)|マクスウェル]] || Mx
|
| ≡ 10<sup>−8</sup>Wb
|-----
| [[磁束量子]] || Φ<sub>0</sub>
| ≡ h/2e
| ≒ {{val|2.06783372|e=−15}} ± {{val|0.00000018|e=−15}}
|}
==磁束密度==
{| class="wikitable"
|+ [[磁束密度]], B
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[テスラ (単位)|テスラ]] || T
| ≡ Wb/m<sup>2</sup>
| = kg/(s<sup>2</sup>⋅A)
|-----
| [[ガウス (単位)|ガウス]] || G
|
| ≡ 10<sup>−4</sup> T
|-----
| [[ガンマ]] || γ
|
| = 10<sup>−9</sup> T
|}
==起磁力==
{| class="wikitable"
|+ [[起磁力]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[アンペア回数|アンペア、アンペア回数、アンペアターン]] || A, AT
|
|
|-----
| [[ギルバート (単位)|ギルバート]] || Gb, Gi
|
|
|}
==磁気抵抗、リラクタンス==
{| class="wikitable"
|+ [[磁気抵抗]], <math>\mathcal R_m</math>
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[アンペア毎ウェーバ]] || A/Wb
|
|
|}
==インダクタンス==
{| class="wikitable"
|+ [[インダクタンス]], L⋅M
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ヘンリー (単位)|ヘンリー]] || H
| ≡ Wb/A
| = kg·m<sup>2</sup>/(s<sup>2</sup>·A<sup>2</sup>)
|}
==磁場(磁界)の強さ==
{| class="wikitable"
|+ [[磁場|磁場の強さ]], H
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[アンペア毎メートル]] || A/m
|
| = A/m
|-----
| [[エルステッド]] || Oe
|
| ≡ (1000/4{{mvar|π}})A/m
|}
==透磁率==
{| class="wikitable"
|+ [[透磁率]], μ
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| ヘンリー毎メートル || H/m
|
|
|-----
| ニュートン毎平方アンペア || N/A<sup>2</sup>
|
|
|-----
| 真空の透磁率 || μ<sub>0</sub>
|
|
|}
==粘度==
{| class="wikitable"
|+ [[粘度]], η
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[パスカル秒]](SI単位) || Pa·s
| ≡ N·s/m<sup>2</sup>
| = kg/(m·s)
|-----
| [[ポアズ]](CGS単位系)|| P
|
| ≡ 10<sup>−1</sup> Pa·s
|}
==動粘度==
{| class="wikitable"
|+ 動粘度, ν
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| 立方メートル毎秒(SI単位) || m<sup>2</sup>/s
|
| ≡ m<sup>2</sup>/s
|-----
| [[ストークス]](CGS単位系) || St
|
| ≡ 10<sup>−4</sup> m<sup>2</sup>/s
|}
==情報量・エントロピー==
{| class="wikitable"
|+ [[情報量]]・[[エントロピー]], ''H''
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| ジュール毎ケルビン || J/K
|
| ≡ 1 J/K
|-----
| エルグ毎ケルビン || erg/K
|
|
|-----
| [[ボルツマン定数]] || k<sub>B</sub>
|
| = {{val|1.380649|e=−23}}J/K
|-----
| [[ナット (単位)|ナット]] || nat
| ≡ ''k<sub>B</sub>''
| = 1.380 650 5(23) × 10<sup>−23</sup> J/K
|-----
| [[ビット]], [[シャノン (単位)|シャノン]] || bit, b, Sh
| ≡ ln(2) × ''k<sub>B</sub>''
| = 9.569 940(16) × 10<sup>−24</sup> J/K
|-----
| ディット, [[ハートレー (単位)|ハートレー]] || dit, Hart
| ≡ ln(10) × ''k<sub>B</sub>''
| = 3.179 065 3(53) × 10<sup>−23</sup> J/K
|-----
| [[ニブル]] ||
| ≡ 4 bits
| = 3.827 976 0(64) × 10<sup>−23</sup> J/K
|-----
| [[バイト (情報)|バイト]] || B
| ≡ 8 bits (ただし他の bit 数の場合もある)
| = 7.655 952 (13) × 10<sup>−23</sup> J/K
|-----
| [[オクテット (コンピュータ)|オクテット]] || oct
| ≡ 8 bits
| = 7.655 952 (13) × 10<sup>−23</sup> J/K
|-----
| [[キロバイト]] ([[キビバイト]], ケーバイト) || KB; KiB
| ≡ 1 024 B
| = 7.839 695(13) × 10<sup>−23</sup> J/K
|}
==温度==
''より詳しくは[[温度の換算]]を参照のこと。''
{| class="wikitable"
|+ [[温度]], T
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
![[セルシウス度]]との関係
|-----
| [[ケルビン]] || K
|ボルツマン定数kを正確に1.380649<math>\times</math>10<sup>-23</sup>J/Kと定めることによって設定される
| ([[SI基本単位]])
| ''T''[K] = ''T''[{{℃}}] + 273.15
|-----
| [[セルシウス度]](摂氏度) || {{℃}}
|
| ''T''[{{℃}}] = ''T''[K] − 273.15
|
|-----
| [[プランク温度]] || T<sub>p</sub>
|
| ≒1.416 79 × 10<sup>32</sup> K
|
|-----
| [[ランキン度]] || {{Unicode|°R}}; {{Unicode|°Ra}}
|
| ''T''[{{Unicode|°Ra}}] = 1.8 × ''T''[K]
|
|-----
| [[華氏|ファーレンハイト度]](華氏度) || {{°F}}
|
| ''T''[{{°F}}] = ''T''[K] × 1.8 − 459.67
| ''T''[{{°F}}] = 1.8 × ''T''[{{℃}}] + 32
|}
==物質量==
{| class="wikitable"
|+ [[物質量]], n
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| モル || mol
| 正確に6.02214076<math>\times</math>10<sup>23</sup>個の要素粒子を含む
| ([[SI基本単位]])
|}
==量濃度・モル濃度==
{| class="wikitable"
|+ [[モル濃度]], c
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[モル毎平方メートル]] || mol/m<sup>3</sup>
|
| (SI組立単位)
|-----
| [[モル毎リットル]] || mol/L<sup>3</sup>
|
| = 10<sup>−3</sup> mol/m<sup>3</sup>
|}
==光度==
{| class="wikitable"
|+ [[光度 (光学)|光度]], I
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
|[[カンデラ]]|| cd
| 周波数540テラヘルツの単色放射を放出し、所定の方向におけるその放射強度が1/683ワット毎ステラジアンである光源の、その方向における光度
| ([[SI基本単位]])
|}
==光束==
{| class="wikitable"
|+ [[光束]], Φ
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| ルーメン || lm
| ≡ cd⋅sr
| = cd
|}
==照度==
{| class="wikitable"
|+ [[照度]], E
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ルクス]] || lx
| ≡ lm/m<sup>2</sup>
| = cd/m<sup>2</sup>
|-----
| [[フォト (単位)|フォト]] || ph
|
| = 10<sup>4</sup>lx
|-----
| [[ルーメン毎平方メートル]] || lm/<sup>2</sup>
|
|
|}
==輝度==
{| class="wikitable"
|+ [[輝度 (光学)|輝度]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[カンデラ毎平方メートル]] || cd/m<sup>2</sup>
|
|
|-----
| [[スチルブ]] || sb
|
| = cd/cm<sup>2</sup> = 10<sup>4</sup>cd/m<sup>2</sup>
|}
==発光効率==
{| class="wikitable"
|+ [[発光効率]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ルーメン毎ワット]] || lm/W
|
|
|}
==放射照度・熱流密度==
{| class="wikitable"
|+ [[放射照度]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ワット毎平方メートル]] || W/m<sup>2</sup>
|
|
|-----
| [[エルグ毎平方センチメートル毎秒]] || erg⋅cm<sup>−2</sup>⋅s<sup>−1</sup>
|
|
|}
==放射能==
{| class="wikitable"
|+ [[放射能]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ベクレル]] || Bq
|
| = 1/s
|-----
| [[キュリー]] || Ci
|
| = 3.7×10<sup>10</sup> Bq
|-----
| [[ラザフォード (単位)|ラザフォード]] || Rd
|
| = 10<sup>6</sup> Bq
|}
==吸収線量==
{| class="wikitable"
|+ [[吸収線量]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[グレイ (単位)|グレイ]] || Gy
| ≡ J/kg
| = m<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
|-----
| [[ラド]] || rad
|
| = 10<sup>−2</sup>Gy
|}
==線量当量==
{| class="wikitable"
|+ [[線量当量]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[シーベルト]] || Sv
| ≡ 放射線荷重係数×Gy = J/kg
| = m<sup>2</sup>/s<sup>2</sup>
|-----
| [[レム]] || rem
|
| = 10<sup>−2</sup>Sv
|}
==照射線量==
{| class="wikitable"
|+ [[照射線量]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[クーロン毎キログラム]] || C/kg
| ≡ C/kg
| = s⋅A/kg
|-----
| [[レントゲン (単位)|レントゲン]] || R
|
| = 2.58×10<sup>−4</sup>C/kg
|}
==触媒活性==
{| class="wikitable"
|+ [[触媒活性]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[カタール (単位)|カタール]] || kat
|
| = mol/s
|-----
| [[ユニット (酵素活性)|ユニット]] || U
|
| ≒ 16.667 nkat
|}
==比率==
{| class="wikitable"
|+ [[比率]],
!名称
!記号
!定義
![[国際単位系]]との関係
|-----
| [[ネーパ]] || Np
| = 1
| ([[無次元数|無次元量]])
|-----
| [[デシベル|ベル]] || B
| ≡ (1/20) ln(10) Np
| ([[無次元数|無次元量]])
|-----
| 陽子-電子質量比 || m<sub>p</sub>/m<sub>e</sub>
| ≡ m<sub>p</sub>/m<sub>e</sub>
| = {{val|1836.15267261|0.00000085}}
|}
<!--
== Software tools ==
Home and office computers come with converters in bundled spreadsheet applications or can access free converters via the Internet. Units and measurements can be easily converted using these tools, but only if the units are explicitly defined and the conversion is compatible (e.g., cmHg to kPa).
===Free conversion software===
* [[Units (Unix)]] — a popular command-line utility.
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Klein, Herbert. 1988. ''The science of measurement: A historical survey''. New York: Dover Publications.
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|}} -->
* [[正確度と精度]]
* [[有効数字]]
* [[温度の換算]]
* [[国際単位系]]
* [[ヤード・ポンド法]]
* [[尺貫法]]
* [[単位の換算]]
== 外部リンク ==
* [http://unit-converter.org/index_jp.html unit-converter.org - 測定単位の換算]
* [http://www.taiyosealpack.co.jp/support/conversion/ 単位換算ツール] - [[太陽シールパック]]
* [https://imperialtometric.com/conversion_ja.htm 測定単位の変換]
* [https://www.convertworld.com/ja/ Convertworld.com]
* [http://www.unc.edu/~rowlett/units/ ''A dictionary of units of measurement'']{{リンク切れ|date=2020年7月}}
* [http://physics.nist.gov/cuu/Document/nonsi_in_1998.pdf NIST: Fundamental physical constants — Non-SI units]{{リンク切れ|date=2020年7月}} (PDF)
* [https://www.legislation.gov.uk/uksi/1995/1804/contents/made British law: Units of measurement regulations 1995] {{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20080517033615/http://aurora.rg.iupui.edu/~schadow/units/UCUM/ucum.html The Unified Code for Units of Measure] {{en icon}}
{{SI units navbox}}
{{DEFAULTSORT:たんいのかんさんいちらん}}
[[Category:物理単位|*かんさんいちらん]]
[[Category:物理学に関する一覧]]
|
2003-07-05T09:18:43Z
|
2023-11-22T21:03:38Z
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[
"Template:SI units navbox",
"Template:Val",
"Template:°F",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ",
"Template:℃",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:特殊文字",
"Template:E",
"Template:Mvar",
"Template:仮リンク",
"Template:Gaps",
"Template:JIS2004フォント",
"Template:En icon",
"Template:要曖昧さ回避",
"Template:Unicode",
"Template:See also"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%AE%E6%8F%9B%E7%AE%97%E4%B8%80%E8%A6%A7
|
10,921 |
情報源
|
情報源(じょうほうげん)には主に次の2つの意味がある。
情報源としては例えば次のようなものがある。
情報源に着目しつつ情報の内容を確認することによって、得られた情報の内容の信頼性を吟味することもできる。ひとつは、同じ情報源から得られる別の記述と整合性があるか、また、別の情報源から得られる記述・証言と整合性があるかを確かめる。この2つの作業によって信頼性を吟味することができるのである。ジーゲルミューラーは前者を「内的整合性」後者を「外的整合性」という用語で呼んでいる。
同一の情報源からの情報でありながら別の箇所の記述と整合性を欠いている場合は、その情報源の信頼性に疑問符がつくことになる。不整合があるということは、何らかの不注意や上滑りな分析がそこに含まれている可能性を示唆している。
裁判においては検察官や弁護士は証人の発言の内的整合性に特に注意を払う。内的整合性がない、との指摘で証人の発言内容の信頼性は下がってしまうのである。 中絶を巡る議論でも、中絶賛成派が論拠に持ち出す話の内部整合性のなさが中絶反対派から批判されることがある。母体の生命を保護するために中絶を認めるべきだとしておきながら胎児の生命は失っても問題ないとするのでは、生命の普遍性という観点からは内部整合性を欠いているのである。
外部整合性について言うと、独立した、別々の情報源からの情報と整合性があるかどうかを調べてみる、ということである。ある人の発言が他の様々な情報源の著しく食い違い支持者が全くない場合は、その発言を根拠としてしまうことには問題が出てくる。ジーゲルミューラーによれば、複数の情報源で情報に食い違いがある場合でも、ただちに情報元の信頼性がすっかり失われてしまうわけではないが、問題となっている主題に関しては複数の情報元のどれがより信頼できるのか検討が必要となってくるという。
外的整合性の有無は根拠を保証する肯定的な使い方も、根拠を拒否する否定的な使い方もできる。歴史学者のルイ・ゴットシャルクは「独立的実証」という概念について次のように説明している。「歴史学者が用いる一般的な規則というのは、二人以上の信頼できる証人の独立した証言に基づく事項だけを、歴史的なものとして受け入れることである」。二つの独立した(無関係な)情報源から同一の意見や前提が得られ、それを根拠として用いれば、より高い信頼性が得られるのである。
情報理論においては、情報源とはビット列(もしくはより一般になんらかのシンボルの有限列)が、選ばれるもととなる空間の事。より厳密に言えば、シンボルの有限列全体の空間とその上の確率分布の組のこと。シンボルの有限列はその確率分布に従って選ばれる。
代表的な情報源として次のものがある:
無記憶情報源とは、各シンボルが統計的に独立に発生する情報源である。この種の情報源は、各シンボルの生起確率 P ( s 1 ) , . . . , P ( s n ) {\displaystyle P(s_{1}),...,P(s_{n})} が与えられることにより一意に定まる。この情報源のシンボルあたりの平均情報量のことをエントロピーという。エントロピーの最大値は、 log 2 n {\displaystyle \log _{2}n} シャノンであり、それは各シンボルの生起確率が等しいとき( 1 n {\displaystyle {\frac {1}{n}}} ずつのとき)である。
m {\displaystyle m} 重マルコフ情報源とは、各シンボルの生起確率がその直前に生じた m {\displaystyle m} 個のシンボルに依存する、 m {\displaystyle m} 重マルコフ過程とみなせる情報源のことである。特に、 m = 1 {\displaystyle m=1} のとき、単純マルコフ情報源という。
エルゴード情報源とは、エルゴード性を満たす情報源のことである。
|
[
{
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"tag": "p",
"text": "情報源(じょうほうげん)には主に次の2つの意味がある。",
"title": null
},
{
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"tag": "p",
"text": "情報源としては例えば次のようなものがある。",
"title": "情報の提供者、史料、資料"
},
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"tag": "p",
"text": "情報源に着目しつつ情報の内容を確認することによって、得られた情報の内容の信頼性を吟味することもできる。ひとつは、同じ情報源から得られる別の記述と整合性があるか、また、別の情報源から得られる記述・証言と整合性があるかを確かめる。この2つの作業によって信頼性を吟味することができるのである。ジーゲルミューラーは前者を「内的整合性」後者を「外的整合性」という用語で呼んでいる。",
"title": "情報の提供者、史料、資料"
},
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"text": "同一の情報源からの情報でありながら別の箇所の記述と整合性を欠いている場合は、その情報源の信頼性に疑問符がつくことになる。不整合があるということは、何らかの不注意や上滑りな分析がそこに含まれている可能性を示唆している。",
"title": "情報の提供者、史料、資料"
},
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"text": "裁判においては検察官や弁護士は証人の発言の内的整合性に特に注意を払う。内的整合性がない、との指摘で証人の発言内容の信頼性は下がってしまうのである。 中絶を巡る議論でも、中絶賛成派が論拠に持ち出す話の内部整合性のなさが中絶反対派から批判されることがある。母体の生命を保護するために中絶を認めるべきだとしておきながら胎児の生命は失っても問題ないとするのでは、生命の普遍性という観点からは内部整合性を欠いているのである。",
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"text": "外部整合性について言うと、独立した、別々の情報源からの情報と整合性があるかどうかを調べてみる、ということである。ある人の発言が他の様々な情報源の著しく食い違い支持者が全くない場合は、その発言を根拠としてしまうことには問題が出てくる。ジーゲルミューラーによれば、複数の情報源で情報に食い違いがある場合でも、ただちに情報元の信頼性がすっかり失われてしまうわけではないが、問題となっている主題に関しては複数の情報元のどれがより信頼できるのか検討が必要となってくるという。",
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"text": "情報理論においては、情報源とはビット列(もしくはより一般になんらかのシンボルの有限列)が、選ばれるもととなる空間の事。より厳密に言えば、シンボルの有限列全体の空間とその上の確率分布の組のこと。シンボルの有限列はその確率分布に従って選ばれる。",
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"text": "m {\\displaystyle m} 重マルコフ情報源とは、各シンボルの生起確率がその直前に生じた m {\\displaystyle m} 個のシンボルに依存する、 m {\\displaystyle m} 重マルコフ過程とみなせる情報源のことである。特に、 m = 1 {\\displaystyle m=1} のとき、単純マルコフ情報源という。",
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"text": "エルゴード情報源とは、エルゴード性を満たす情報源のことである。",
"title": "情報理論"
}
] |
情報源(じょうほうげん)には主に次の2つの意味がある。 情報の提供者、入手元、入手経路、発信源。例えば、歴史においては史料、調査・研究においては資料。ジャーナリズムにおいては、取材源 (Journalism sourcing) 。
情報理論の概念。
|
{{WikipediaPage||Wikipedia:信頼できる情報源}}
'''情報源'''(じょうほうげん)には主に次の2つの意味がある。
# [[情報]]の提供者、入手元、入手経路、発信源(ソース、{{lang-en-short|information source}})。例えば、[[歴史]]においては[[史料]]({{lang-en-short|historical source}})、調査・研究においては[[資料]]({{lang-en-short|source text}})。[[報道|ジャーナリズム]]においては、[[取材源]]{{enlink|Journalism sourcing}}。
# [[情報理論]]の概念。
== 情報の提供者、史料、資料 ==
===様々な情報源===
情報源としては例えば次のようなものがある{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
*[[書籍]] - 書籍は一つのテーマを徹底的に論述し、しばしば歴史的な文脈の中で具体的な反論を提起しており有益である{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
*[[定期刊行物]] - 定期的に刊行されているもの。一般向けの定期刊行物もあるが、専門家向けの定期刊行物([[専門誌]])もある。[[季刊誌]]、[[月刊誌]]、週刊誌など。
*[[新聞]] - 議論の行う時にはしばしば最新の情報、タイムリーな情報が必要だが、新聞はそうした情報源として優れている{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
*[[年鑑]]とデータブック - 具体的な[[統計]]を探すのに適しており、それを書籍で探すよりも時間の節約になることが多い{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
*[[政府刊行物]] - [[政府]]側の見解や、政府が把握している情報を調べるのに適した情報源。委員会や公聴会などにおける[[専門家]]の発言などを知るのにも役立つことがある。
*人物による口頭での発言、証言 - [[裁判]]などでは人の[[証言]]が決定的な根拠となることも多い。
===信頼性の検討===
情報源に着目しつつ情報の内容を確認することによって、得られた情報の内容の信頼性を吟味することもできる。ひとつは、同じ情報源から得られる別の記述と整合性があるか、また、別の情報源から得られる記述・証言と整合性があるかを確かめる{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。この2つの作業によって信頼性を吟味することができるのである{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。ジーゲルミューラーは前者を「内的整合性」後者を「外的整合性」という用語で呼んでいる{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
同一の情報源からの情報でありながら別の箇所の記述と整合性を欠いている場合は、その情報源の信頼性に疑問符がつくことになる{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。不整合があるということは、何らかの不注意や上滑りな分析がそこに含まれている可能性を示唆している{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
[[裁判]]においては[[検察官]]や[[弁護士]]は証人の発言の内的整合性に特に注意を払う{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。内的整合性がない、との指摘で証人の発言内容の信頼性は下がってしまうのである{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
[[中絶]]を巡る議論でも、中絶賛成派が論拠に持ち出す話の内部整合性のなさが中絶反対派から批判されることがある{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。母体の生命を保護するために中絶を認めるべきだとしておきながら胎児の生命は失っても問題ないとするのでは、生命の普遍性という観点からは内部整合性を欠いているのである{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
外部整合性について言うと、独立した、別々の情報源からの情報と整合性があるかどうかを調べてみる、ということである{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。ある人の発言が他の様々な情報源の著しく食い違い支持者が全くない場合は、その発言を根拠としてしまうことには問題が出てくる{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。ジーゲルミューラーによれば、複数の情報源で情報に食い違いがある場合でも、ただちに情報元の信頼性がすっかり失われてしまうわけではないが、問題となっている主題に関しては複数の情報元のどれがより信頼できるのか検討が必要となってくるという{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
外的整合性の有無は根拠を保証する肯定的な使い方も、根拠を拒否する否定的な使い方もできる{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。歴史学者のルイ・ゴットシャルクは「独立的実証」という概念について次のように説明している{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。「[[歴史学者]]が用いる一般的な規則というのは、二人以上の信頼できる証人の独立した証言に基づく事項だけを、[[歴史]]的なものとして受け入れることである」。二つの独立した(無関係な)情報源から同一の意見や前提が得られ、それを根拠として用いれば、より高い信頼性が得られるのである{{sfn|ジーゲルミューラー|ケイ|2006|pp=61–99}}。
== 情報理論 ==
{{出典の明記|section=1|date=2011-11}}
{{main|情報理論}}
[[情報理論]]においては、情報源とは[[ビット]]列(もしくはより一般になんらかのシンボルの有限列)が、選ばれるもととなる空間の事{{要出典|date=2011-11}}。より厳密に言えば、シンボルの有限列全体の空間とその上の[[確率分布]]の組のこと。シンボルの有限列はその確率分布に従って選ばれる{{要出典|date=2011-11}}。
代表的な情報源として次のものがある:
無記憶情報源とは、各シンボルが統計的に[[独立 (確率論)|独立]]に発生する情報源である。この種の情報源は、各シンボルの生起確率 <math>P(s_1), ..., P(s_n)</math> が与えられることにより一意に定まる。この情報源のシンボルあたりの平均情報量のことを[[エントロピー]]という。エントロピーの最大値は、<math>\log_2 n</math> [[情報量#単位|シャノン]]であり、それは各シンボルの生起確率が等しいとき( <math>\frac{1}{n}</math> ずつのとき)である{{要出典|date=2011-11}}。
<math>m</math> 重マルコフ情報源とは、各シンボルの生起確率がその直前に生じた <math>m</math> 個のシンボルに依存する、<math>m</math> 重[[マルコフ過程]]とみなせる情報源のことである。特に、<math>m=1</math> のとき、単純マルコフ情報源という{{要出典|date=2011-11}}。
エルゴード情報源とは、[[エルゴード理論|エルゴード性]]を満たす情報源のことである。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
*{{cite book|和書|first1=ジョージ|last1=ジーゲルミューラー|first2=ジャック|last2=ケイ|title=議論法: 探求と弁論|edition=第三版|publisher=花書院|year=2006|isbn=4938910896|ref=harv}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようほうけん}}
[[Category:記録]]
[[Category:情報|*]]
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10,922 |
拡散ポンプ
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拡散ポンプ(かくさんポンプ、英語: diffusion pump)は、半導体製造・加工装置などの真空チャンバーで主に用いられる真空ポンプである。主に油拡散ポンプが使われるが、用途によっては水銀拡散ポンプが使われることもある。DPと略されることもある。
下部のヒーターで熱せられたジェット状の拡散オイル蒸気は、超音速に到達して分子を捕獲し10から10 Pa(10から10 Torr)程度の真空を作り出すことができる。また、コールドトラップ(液体窒素トラップが普通)を併用してチャンバー内の水分を除去しながら排気を行えば排気速度の向上につながる。
拡散オイルは循環させて使用し、使用状況にもよるが半年から数年に一度は交換が必要である。拡散オイルは少なすぎると焦げつくので、注入する量には注意が必要である。ヒ素などの有毒物質を使った場合、拡散オイルにそれらが蓄積しているため、交換後の拡散オイルは産業廃棄物として処理する。
背圧と動作圧力の両方に厳しい圧力制限があり、補助ポンプは必須である。排気側の背圧が高くなり臨界背圧を超えると、真空チャンバー側に拡散オイル蒸気が漏れ出すオイルバックを引き起こす。吸気側も、最大動作圧力を超えないよう先にチャンバーを大気圧から粗引きしておく必要がある。
メンテナンスはユーザが行うことができ、能力の割に安価なので広く使われている。頻繁にコールドトラップへの液体窒素補充の必要があるのが難点。
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拡散ポンプは、半導体製造・加工装置などの真空チャンバーで主に用いられる真空ポンプである。主に油拡散ポンプが使われるが、用途によっては水銀拡散ポンプが使われることもある。DPと略されることもある。 下部のヒーターで熱せられたジェット状の拡散オイル蒸気は、超音速に到達して分子を捕獲し10−3から10−7 Pa程度の真空を作り出すことができる。また、コールドトラップ(液体窒素トラップが普通)を併用してチャンバー内の水分を除去しながら排気を行えば排気速度の向上につながる。 拡散オイルは循環させて使用し、使用状況にもよるが半年から数年に一度は交換が必要である。拡散オイルは少なすぎると焦げつくので、注入する量には注意が必要である。ヒ素などの有毒物質を使った場合、拡散オイルにそれらが蓄積しているため、交換後の拡散オイルは産業廃棄物として処理する。 背圧と動作圧力の両方に厳しい圧力制限があり、補助ポンプは必須である。排気側の背圧が高くなり臨界背圧を超えると、真空チャンバー側に拡散オイル蒸気が漏れ出すオイルバックを引き起こす。吸気側も、最大動作圧力を超えないよう先にチャンバーを大気圧から粗引きしておく必要がある。 メンテナンスはユーザが行うことができ、能力の割に安価なので広く使われている。頻繁にコールドトラップへの液体窒素補充の必要があるのが難点。
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{{出典の明記|date=2018年7月}}
[[File:Ulvac oil diffusion pump ULK-04 cutaway.JPG|thumb|upright|油拡散ポンプの断面モデル]]
'''拡散ポンプ'''(かくさんポンプ、{{lang-en|diffusion pump}})は、[[半導体]]製造・加工装置などの真空チャンバーで主に用いられる[[真空ポンプ]]である。主に油拡散ポンプが使われるが、用途によっては[[水銀]]拡散ポンプが使われることもある。'''DP'''と略されることもある。
下部のヒーターで熱せられた[[噴流|ジェット状]]の拡散オイル蒸気は、[[音速|超音速]]に到達して分子を捕獲し10{{sup-|3}}から10{{sup-|7}} [[パスカル (単位)|Pa]](10{{sup-|5}}から10{{sup-|9}} [[トル|Torr]])程度の[[真空]]を作り出すことができる。また、[[コールドトラップ]]([[液体窒素]]トラップが普通)を併用してチャンバー内の水分を除去しながら排気を行えば排気速度の向上につながる。
[[File:Diffusion pump schematic.svg|thumb|upright|動作原理]]
拡散オイルは循環させて使用し、使用状況にもよるが半年から数年に一度は交換が必要である。拡散オイルは少なすぎると焦げつくので、注入する量には注意が必要である。[[ヒ素]]などの有毒物質を使った場合、拡散オイルにそれらが蓄積しているため、交換後の拡散オイルは[[産業廃棄物]]として処理する。
[[背圧]]と[[動作圧力]]の両方に厳しい圧力制限があり、補助ポンプは必須である。排気側の背圧が高くなり[[臨界背圧]]を超えると、真空チャンバー側に拡散オイル蒸気が漏れ出すオイルバックを引き起こす。吸気側も、最大動作圧力を超えないよう先にチャンバーを[[気圧|大気圧]]から粗引きしておく必要がある。
[[メンテナンス]]はユーザが行うことができ、能力の割に安価なので広く使われている。頻繁にコールドトラップへの液体窒素補充の必要があるのが難点。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[真空ポンプ]]
* [[真空計]]
* [[背圧]]
* [[ガスケット]]
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[[Category:ポンプ]]
[[Category:半導体製造]]
[[Category:拡散]]
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10,923 |
自己喪失の体験
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自己喪失の体験 (じこそうしつのたいけん,The Experience of No-Self)は1982年に出版されたバーナデット・ロバーツによる著作である。
キリスト教徒の普通の主婦におきた精神的な変化をつづっている。また、宗教的な難解な単語を使わずに、普通の単語で過程が記述されており、一般にも理解しやすいものとなっている。なお、日本語訳は紀伊國屋書店より1989年に出版された。
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自己喪失の体験は1982年に出版されたバーナデット・ロバーツによる著作である。 キリスト教徒の普通の主婦におきた精神的な変化をつづっている。また、宗教的な難解な単語を使わずに、普通の単語で過程が記述されており、一般にも理解しやすいものとなっている。なお、日本語訳は紀伊國屋書店より1989年に出版された。
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{{出典の明記|date=2009年2月}}
'''自己喪失の体験''' (じこそうしつのたいけん,''The Experience of No-Self'')は[[1982年]]に出版された[[バーナデット・ロバーツ]]による著作である。
[[キリスト教]]徒の普通の主婦におきた精神的な変化をつづっている。また、宗教的な難解な単語を使わずに、普通の単語で過程が記述されており、一般にも理解しやすいものとなっている。なお、日本語訳は[[紀伊國屋書店]]より1989年に出版された。
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10,924 |
ソープションポンプ
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ソープションポンプ (Sorption Pump) は真空ポンプの一種で、多孔質の吸着剤を液体窒素で冷却し、気体分子を物理吸着させて排気するものである。吸着剤としてはモレキュラーシーブ(人工ゼオライト)や活性炭などが用いられる。機械的な動作部分が無いため、油蒸気などはよく除去できるが、物理吸着を利用するため、水素分子、ヘリウム、ネオンなどはほとんど除去することができない。そのため、先に別のポンプで排気した後にソープションポンプを用いないと、これら希ガス類などが残ってしまい、期待されるほどの真空は得られない。
また、吸着剤に吸着した気体分子は、未使用時に常温に戻して放出してやらねばならない。この際、水分子は特に強く吸着されているため、400 K 程度の加熱が必要である。この加熱の際には大量の気体分子がソープションポンプから放出されるので、排気経路の確保が重要であり、密閉したままの加熱は非常に危険である。
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ソープションポンプ は真空ポンプの一種で、多孔質の吸着剤を液体窒素で冷却し、気体分子を物理吸着させて排気するものである。吸着剤としてはモレキュラーシーブ(人工ゼオライト)や活性炭などが用いられる。機械的な動作部分が無いため、油蒸気などはよく除去できるが、物理吸着を利用するため、水素分子、ヘリウム、ネオンなどはほとんど除去することができない。そのため、先に別のポンプで排気した後にソープションポンプを用いないと、これら希ガス類などが残ってしまい、期待されるほどの真空は得られない。 また、吸着剤に吸着した気体分子は、未使用時に常温に戻して放出してやらねばならない。この際、水分子は特に強く吸着されているため、400 K 程度の加熱が必要である。この加熱の際には大量の気体分子がソープションポンプから放出されるので、排気経路の確保が重要であり、密閉したままの加熱は非常に危険である。
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{{出典の明記|date=2022年12月27日 (火) 10:37 (UTC)}}
'''ソープションポンプ''' ('''Sorption Pump''') は[[真空ポンプ]]の一種で、[[多孔質]]の[[吸着剤]]を[[液体窒素]]で冷却し、気体分子を物理吸着させて排気するものである。吸着剤としては[[モレキュラーシーブ]](人工[[ゼオライト]])や[[活性炭]]などが用いられる。機械的な動作部分が無いため、油蒸気などはよく除去できるが、物理吸着を利用するため、[[水素]]分子、[[ヘリウム]]、[[ネオン]]などはほとんど除去することができない。そのため、先に別のポンプで排気した後にソープションポンプを用いないと、これら[[希ガス]]類などが残ってしまい、期待されるほどの[[真空]]は得られない。
また、吸着剤に吸着した気体分子は、未使用時に常温に戻して放出してやらねばならない。この際、水分子は特に強く吸着されているため、400 [[ケルビン|K]] 程度の加熱が必要である。この加熱の際には大量の気体分子がソープションポンプから放出されるので、排気経路の確保が重要であり、密閉したままの加熱は非常に危険である。
==関連項目==
*[[真空ポンプ]]
*[[多孔質]]
*[[吸着剤]]
[[Category:ポンプ|そふしよんほんふ]]
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"Template:出典の明記"
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10,925 |
ロータリーポンプ
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ロータリーポンプ (英語: rotary pump) は油回転真空ポンプとも呼ばれ、回転する内部の羽が気体をかき出すように排気する、真空ポンプの一種である。RPと略されることもある。
最も一般的な真空ポンプであり、種類も多く価格も全体的に安価(10万円~30万円程度)である。また、大気圧から作動させられるため超高真空が必要な際の初期粗引きや、背圧を維持するための補助ポンプ(バックポンプ)として使われる他、広く産業用に用いられている。多くは電気モーターを動力源とするが、エアタービンなどが使用される場合もある。到達真空度は 10 Pa (10 Torr) 程度。
油は密閉のために用いられているが、この油が蒸発して真空容器側に還流することは、容器内の機器類にとって好ましくない。このため、ポンプ油還流を嫌う装置に接続する場合はフォアライントラップ(フィルタ)をポンプと真空容器の間に挿入される場合が多い。また排気にもオイルの蒸気が含まれるので、排気口にもオイルミストトラップが必要である(これなしで長期間運転すると周囲がオイルでベトベトになる)。最近ではオイルを使用しないタイプのポンプも開発されている。使用するにつれ、また、凝縮性の高い蒸気を吸入するとこれが油に混入して性能低下をもたらすので、定期的なオイル交換が必要である。
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ロータリーポンプ は油回転真空ポンプとも呼ばれ、回転する内部の羽が気体をかき出すように排気する、真空ポンプの一種である。RPと略されることもある。 最も一般的な真空ポンプであり、種類も多く価格も全体的に安価(10万円~30万円程度)である。また、大気圧から作動させられるため超高真空が必要な際の初期粗引きや、背圧を維持するための補助ポンプ(バックポンプ)として使われる他、広く産業用に用いられている。多くは電気モーターを動力源とするが、エアタービンなどが使用される場合もある。到達真空度は 10−1 Pa 程度。 油は密閉のために用いられているが、この油が蒸発して真空容器側に還流することは、容器内の機器類にとって好ましくない。このため、ポンプ油還流を嫌う装置に接続する場合はフォアライントラップ(フィルタ)をポンプと真空容器の間に挿入される場合が多い。また排気にもオイルの蒸気が含まれるので、排気口にもオイルミストトラップが必要である(これなしで長期間運転すると周囲がオイルでベトベトになる)。最近ではオイルを使用しないタイプのポンプも開発されている。使用するにつれ、また、凝縮性の高い蒸気を吸入するとこれが油に混入して性能低下をもたらすので、定期的なオイル交換が必要である。
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{{複数の問題|出典の明記=2023-9|正確性=2023-9}}
[[File:Rotary vane pump.svg|thumb|ポンプ室構造概念図<br>
1. ステーター<br>
2. ローター<br>
3. ベーン<br>
4. スプリング]]
'''ロータリーポンプ''' ({{lang-en|rotary pump}}) は油回転真空ポンプとも呼ばれ、回転する内部の羽が気体をかき出すように排気する、[[真空ポンプ]]の一種である。RPと略されることもある。
最も一般的な真空ポンプであり、種類も多く価格も全体的に安価(10万円~30万円程度)である。また、大気圧から作動させられるため超高[[真空]]が必要な際の初期粗引きや、[[背圧]]を維持するための補助ポンプ(バックポンプ)として使われる他、広く産業用に用いられている。多くは電気[[電動機|モーター]]を動力源とするが、エア[[タービン]]などが使用される場合もある。到達真空度は 10{{sup-|1}} [[パスカル (単位)|Pa]] (10{{sup-|3}} [[トル|Torr]]) 程度。
[[File:Ulvac oil rotary pump D-650 cutaway.JPG|thumb|典型的なロータリーポンプの内部構造。上部右側のフランジが吸気口。上部左側がオイルトラップ。]]
油は密閉のために用いられているが、この油が蒸発して真空容器側に還流することは、容器内の機器類にとって好ましくない。このため、ポンプ油還流を嫌う装置に接続する場合はフォアライントラップ(フィルタ)をポンプと真空容器の間に挿入される場合が多い。また排気にもオイルの蒸気が含まれるので、排気口にもオイルミストトラップが必要である(これなしで長期間運転すると周囲がオイルでベトベトになる)。最近ではオイルを使用しないタイプのポンプも開発されている。使用するにつれ、また、凝縮性の高い蒸気を吸入するとこれが油に混入して性能低下をもたらすので、定期的なオイル交換が必要である。
== 関連項目 ==
* [[真空ポンプ]]
'''ロータリーポンプメーカー'''
* [[日本ブッシュ]]
<!--
== 外部リンク ==
* [http://www.nakakinpump.jp/reason/reason_structure.html ロータリーポンプの構造]
-->
{{tech-stub}}
{{DEFAULTSORT:ろおたりいほんふ}}
[[Category:ポンプ]]
|
2003-07-05T14:29:02Z
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2023-09-03T23:55:14Z
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[
"Template:複数の問題",
"Template:Lang-en",
"Template:Sup-",
"Template:Tech-stub"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97
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10,926 |
国際連合教育科学文化機関
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国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、英: United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization、仏: Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、略称: UNESCO、ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進、世界遺産の登録などを目的とした国際協定である。
1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。
分担金(2022年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国 (15.493 %)、2位は中華人民共和国(15.254 %)3位は日本 (8.033 %) である。
英語の正式名称は United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization。その頭字語である UNESCO (英語発音: [ju(ː)néskoʊ] ユネスコウ)も公式に用いられ、日本語では「ユネスコ」と称する。フランス語の場合はOrganisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la cultureだが、略称としては一般に英語に準じて UNESCO (Unesco, U.N.E.S.C.O.) を用いる。本部はフランスのパリにある。
「教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さない」との理念により設立の意義を定めたユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」との文言がある。
活動にあたっては、重点的に推進する目標として「万人のための基礎教育」「文化の多様性の保護および文明間対話の促進」などを定める。それに基づき、例えば前者に関しては識字率の向上や義務教育の普及のための活動、後者については世界遺産の登録と保護、文化多様性条約の採択のほか、歴史的記録遺産を保全するユネスコ記憶遺産(世界の記憶)事業などを実施する。そのほか、極度の貧困の半減、普遍的初等教育の達成、初等・中等教育における男女差別の解消、持続可能な開発のための教育、危機に瀕する言語の保護などを内容とするミレニアム開発目標など、国際開発目標達成を目指す。
ユネスコの最高機関は全加盟国が参加する総会である。総会において各国はそれぞれ1票を持ち、ユネスコの政策や事業計画についての決定を行う。総会での議決はユネスコ憲章の改正などの重要事項については加盟国の3分の2の賛成が必要となるが、通常の事項については過半数の賛成で決定される。総会は2年に一度、通常はパリにおいて開催される。この総会の決定に基づく計画の監督や、事務局が作成した予算計画などを総会にかける前に審議するのが執行委員会である。執行委員会は1年に2回開催される。この両機関の下に、事務局他実行機関が存在する。事務局長はユネスコの代表となっている。パリの本部のほか、世界各地に通常複数国を管轄する地域事務所が置かれている。また、各国にはそれぞれユネスコ国内委員会が設置され、ユネスコ本部と各国政府との間の連絡機関となっている。日本にも、日本ユネスコ国内委員会が設置されている。
ユネスコ活動の普及と理解促進のため、世界の著名人を「ユネスコ親善大使」に任命し、様々な活動を行っている。
1946年11月4日に設立されたのち、ユネスコは徐々に加盟国を増加させ、活動も多岐にわたるようになった。1951年にはいまだ国際連合本体に加盟していなかった日本が加盟するなど敵国条項が適用される旧枢軸国の加盟も比較的早期になされたが、何よりも大きな影響を与えたものは1954年のソビエト連邦の加盟である。これによりユネスコは共産諸国(冷戦下の東側諸国)にも活動の場を広げ、さらに1950年代から1960年代にかけてアジアやアフリカの新独立国が次々と加盟を果たし、加盟国の大半が南側諸国によって占められるようになった。これはユネスコの活動を大規模化させることとなったが、本来設立の中心となった欧米先進諸国が数の上では少数派となったことにより両派の間で対立が起こるようになった。
1980年代から、放漫財政等のマネージメントの問題に加え、活動が「政治化」していることに先進諸国の間で不満が高まってきた。中でも問題となったものが、当時のムボウ事務局長が提唱した「新世界情報秩序」である。これは、世界の情報の流れが先進国から一方的に発信されている状況を是正しようとするものであり、発展途上国の間で強い支持を得たものの、この議論の中で東側諸国がジャーナリストの認可制の導入を提唱したこともあり、この計画は報道の自由を制限するものだとして、先進国からは強い反対の声が上がった。これを一番の原因として1984年に最大の分担金拠出国であったアメリカ合衆国が、次いで1985年にはイギリスおよびシンガポールが脱退し、ユネスコの存続は危機に立たされた。この間日本は、ユネスコにとどまり、分担金の約4分の1近くを担う最大の拠出国となった。結局、イギリスは1997年7月に、アメリカ合衆国が2003年10月、シンガポールが2007年10月にそれぞれユネスコに復帰した。
2023年7月現在の加盟国数は194ヶ国、準加盟12地域である。またバチカンがオブザーバーとして参加している。最も新しい加盟国はアメリカ合衆国(原加盟国だが脱退・再加盟により194番目の加盟国として扱われる)、一度も加盟した実績のない新規加盟国はパレスチナ国。日本は1951年7月2日に加盟。
2011年10月31日に総会が開かれ賛成107、反対14、棄権52でパレスチナ国が国としての正式加盟を承認した。アメリカ合衆国、イスラエルなどは反対し、日本などは棄権。アメリカ合衆国国務省は、この決議案採択への対抗措置として、ユネスコ分担金の停止を実行し、2017年10月にはユネスコを再脱退すると表明。2018年12月31日に脱退が発効し、オブザーバー参加となった。またイスラエル外務省は、パレスチナを非難すると共にユネスコとの協力関係について再検討すると表明し、2017年10月に同国はアメリカに続いて脱退を表明した。なお分担金負担停止から2年経過した2013年に、両国は議事への投票資格が停止されている。アメリカは2023年7月10日付で正式に再加盟した。
1946年の第1回総会以来開催されたユネスコ総会は下記のようになっている。総会は1954年までは毎年開催だったが、その後は2年に一回の開催となっている。
1995年以降、執行委員会は58か国によって構成されている。委員国の選挙区は地域別に6つのグループに分かれており、その中から決められた議席に応じて総会で選挙が行われ、委員国が選出される。委員国の任期は4年で、選出された総会から二回あとの総会までを任期とする。
以下の研究所はユネスコの計画を支える組織の専門機関であり、国家機関や各分野に専門的な支援を行っている。
ユネスコが祝う国際デーは以下のようになっている。
ユネスコは2005年より、電子図書館プロジェクト(World Digital Library, WDL)に取り組んできたが、2009年4月21日にインターネット上にて公開された。この公式サイトでは、各国の文化資料を地域別、テーマ別、年代別に横断して一望でき、一般の利用者、研究者の別なく無料で閲覧できる。
展示資料は、米国議会図書館、アレクサンドリア図書館(エジプト)、国立国会図書館(日本)など世界の32機関が参加し、現在、書籍・手稿・地図・写真・動画など、約1200点のコンテンツが閲覧できる。
2023年7月10日現在、ユネスコ加盟国は194か国である。この表では加盟国とその加盟日時(一時的に脱退していた国は再加盟年)を記す。
2012年現在、 リヒテンシュタインはユネスコ加盟国ではないが、国内委員会は存在する。
以下の12地域はユネスコ準会員となっている。
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「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2022年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国 (15.493 %)、2位は中華人民共和国(15.254 %)3位は日本 (8.033 %) である。
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{{Infobox UN
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|caption = 国際連合教育科学文化機関の旗
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[[ファイル:April 2010, UNESCO Headquarters in Paris - The Garden of Peace (or Japanese Garden) in Spring.jpg|thumb|180px|[[フランス]]、[[パリ]]のユネスコ本部庁舎と平和の庭(日本庭園)[[イサム・ノグチ]]製作]]
[[ファイル:Kasumigaeki common gate.jpg|thumb|180px|[[日本ユネスコ国内委員会]]が入居する[[東京都]]の[[霞が関コモンゲート]]東館(右側)]]
'''国際連合教育科学文化機関'''(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、{{Lang-en-short|'''U'''nited '''N'''ations '''E'''ducational, '''S'''cientific and '''C'''ultural '''O'''rganization}}、{{Lang-fr-short|Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture}}、[[略称]]: '''UNESCO'''、'''ユネスコ''')は、[[国際連合]]の[[国際連合経済社会理事会|経済社会理事会]]の下におかれた、[[教育]]、[[科学]]、[[文化]]の発展と推進、世界遺産の登録などを目的とした[[専門機関|国際協定]]である。
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「[[国際連合教育科学文化機関憲章]]」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。
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== 概要 ==
[[英語]]の正式名称は {{en|''United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization''}}。その[[頭字語]]である '''UNESCO''' ({{IPA-en|ju(ː)néskoʊ}} ユ'''ネ'''スコウ)も公式に用いられ、[[日本語]]では「'''ユネスコ'''」と称する。[[フランス語]]の場合は{{fr|''Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture''}}だが、略称としては一般に英語に準じて UNESCO (Unesco, U.N.E.S.C.O.) を用いる<ref>[https://fr.unesco.org/ UNESCO](ユネスコ公式サイト・フランス語版)</ref><ref>『ロベール仏和大辞典』(小学館)、『仏和大辞典』(白水社)、『スタンダード時事仏和大辞典』(大修館書店)ほか。</ref>。本部は[[フランス]]の[[パリ]]にある。
「教育や文化の振興を通じて、[[戦争]]の悲劇を繰り返さない」との理念により設立の意義を定めたユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」との文言がある。
活動にあたっては、重点的に推進する目標として「万人のための基礎教育」「[[文化多様性|文化の多様性]]の保護および文明間対話の促進」などを定める。それに基づき、例えば前者に関しては[[識字]]率の向上や[[義務教育]]の普及のための活動、後者については[[世界遺産]]の登録と保護、文化多様性条約の採択のほか、歴史的記録遺産を保全する[[ユネスコ記憶遺産]](世界の記憶)事業などを実施する。そのほか、極度の[[貧困]]の半減、普遍的[[初等教育]]の達成、初等・[[中等教育]]における[[性差別|男女差別]]の解消、[[持続可能な開発のための教育]]、[[危機に瀕する言語]]の保護などを内容とする[[ミレニアム開発目標]]など、国際開発目標達成を目指す。
ユネスコの最高機関は全加盟国が参加する総会である。総会において各国はそれぞれ1票を持ち、ユネスコの政策や事業計画についての決定を行う<ref name="名前なし-1">「世界地理大百科事典1 国際連合」p311 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>。総会での議決はユネスコ憲章の改正などの重要事項については加盟国の3分の2の賛成が必要となるが、通常の事項については過半数の賛成で決定される。総会は2年に一度、通常はパリにおいて開催される。この総会の決定に基づく計画の監督や、事務局が作成した予算計画などを総会にかける前に審議するのが執行委員会である。執行委員会は1年に2回開催される。この両機関の下に、事務局他実行機関が存在する。事務局長はユネスコの代表となっている。パリの本部のほか、世界各地に通常複数国を管轄する地域事務所が置かれている。また、各国にはそれぞれユネスコ国内委員会が設置され、ユネスコ本部と各国政府との間の連絡機関となっている。日本にも、[[日本ユネスコ国内委員会]]が設置されている。
ユネスコ活動の普及と理解促進のため、世界の著名人を「[[ユネスコ親善大使]]」に任命し、様々な活動を行っている。
== 歴史 ==
1946年11月4日に設立されたのち、ユネスコは徐々に加盟国を増加させ、活動も多岐にわたるようになった。[[1951年]]にはいまだ[[国際連合]]本体に加盟していなかった日本が加盟するなど[[敵国条項]]が適用される旧[[枢軸国]]の加盟も比較的早期になされたが、何よりも大きな影響を与えたものは[[1954年]]の[[ソビエト連邦]]の加盟である。これによりユネスコは共産諸国([[冷戦]]下の[[東側諸国]])にも活動の場を広げ、さらに[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけて[[アジア]]や[[アフリカ]]の新独立国が次々と加盟を果たし、加盟国の大半が南側諸国によって占められるようになった<ref name="名前なし-2">「国際機構 第四版」p192 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷</ref>。これはユネスコの活動を大規模化させることとなったが、本来設立の中心となった欧米先進諸国が数の上では少数派となったことにより両派の間で対立が起こるようになった<ref name="名前なし-2"/>。
[[1980年代]]から、放漫財政等のマネージメントの問題に加え、活動が「政治化」していることに先進諸国の間で不満が高まってきた<ref name="名前なし-2"/>。中でも問題となったものが、当時のムボウ事務局長が提唱した「新世界情報秩序」である。これは、世界の情報の流れが先進国から一方的に発信されている状況を是正しようとするものであり、発展途上国の間で強い支持を得たものの、この議論の中で東側諸国が[[ジャーナリスト]]の認可制の導入を提唱したこともあり、この計画は[[報道の自由]]を制限するものだとして、先進国からは強い反対の声が上がった<ref>「世界地理大百科事典1 国際連合」p318 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>。これを一番の原因として[[1984年]]に最大の分担金拠出国であった[[アメリカ合衆国]]が、次いで[[1985年]]には[[イギリス]]および[[シンガポール]]が脱退し<ref>「世界地理大百科事典1 国際連合」p310 2000年2月1日初版第1刷 朝倉書店</ref>、ユネスコの存続は危機に立たされた。この間[[日本]]は、ユネスコにとどまり、分担金の約4分の1近くを担う最大の拠出国となった。結局、イギリスは1997年7月に、アメリカ合衆国が2003年10月、シンガポールが2007年10月にそれぞれユネスコに復帰した<ref>「国際機構 第四版」p193 家正治・小畑郁・桐山孝信編 世界思想社 2009年10月30日第1刷</ref>。
2023年7月現在の加盟国数は194ヶ国<ref group="注">[[リヒテンシュタイン]]と[[イスラエル]]を除いた[[国際連合加盟国]]191ヶ国、ならびに[[パレスチナ国|パレスチナ]]、[[クック諸島]]、[[ニウエ]]の3ヶ国・地域。</ref>、準加盟12地域<ref group="注">[[イギリスの海外領土|イギリス領]]の[[アンギラ]]、[[イギリス領ヴァージン諸島|英領ヴァージン諸島]]、[[ケイマン諸島]]、[[モントセラト]]、[[オランダ王国|オランダ領]]の[[アルバ]]、[[キュラソー (オランダ王国)|キュラソー]]、[[シント・マールテン]]、[[デンマーク王国|デンマーク領]]の[[フェロー諸島]]、[[中華人民共和国|中国]][[特別行政区]]の[[マカオ]]、[[ニュージーランド]][[自治領]]の[[トケラウ]]の9地域。[[フィンランド]]自治県の[[オーランド諸島]]、[[フランスの海外領土|フランス領]]の[[ニューカレドニア]]</ref>である<ref name="memberstates">{{Cite web |url=https://www.unesco.org/en/countries |title=Member States |publisher=UNESCO |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230724212948/https://www.unesco.org/en/countries |archivedate=2023-07-24 |accessdate=2023-07-28}}</ref>。またバチカンがオブザーバーとして参加している。最も新しい加盟国はアメリカ合衆国(原加盟国だが脱退・再加盟により194番目の加盟国として扱われる<ref>{{Cite web |url=https://www.unesco.org/en/articles/united-states-return-unesco-commemorated-flag-raising-ceremony |title=The United States' return to UNESCO commemorated with a flag-raising ceremony |publisher=UNESCO |date=2023-07-27 |accessdate=2023-07-28}}</ref>)、一度も加盟した実績のない新規加盟国は[[パレスチナ国]]。[[日本]]は[[1951年]]7月2日に加盟<ref>1951年(昭和26年)10月6日[[外務省]][[告示]]第5号「在日連合王国連絡使節団から国際連合教育科学文化機関へのわが国の加盟に関しての通知趣旨受領」</ref>。
=== パレスチナ加盟をめぐる対立 ===
[[2011年]][[10月31日]]に総会が開かれ賛成107、反対14、棄権52で[[パレスチナ国]]が国としての正式加盟を承認した。アメリカ合衆国、[[イスラエル]]などは反対し、日本などは棄権<ref>{{Cite news |title=パレスチナ、ユネスコ加盟…米は「時期尚早」 |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111031-OYT1T01157.htm |date=2011-11-01 |publisher=[[読売新聞]] |accessdate=2013-11-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111102010741/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111031-OYT1T01157.htm |archivedate=2011年11月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。[[アメリカ合衆国国務省]]は、この決議案採択への対抗措置として、ユネスコ分担金の停止を実行し、2017年10月にはユネスコを再脱退すると表明<ref name=guardian20171012>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2017/oct/12/us-withdraw-unesco-december-united-nations|title=Unesco: US quits UN heritage agency over 'anti-Israel bias'|work=The Guardian|publisher=[[ガーディアン]]|date=2017-10-12|accessdate=2017-10-12}}</ref>。2018年12月31日に脱退が発効し、オブザーバー参加となった。またイスラエル外務省は、パレスチナを非難すると共にユネスコとの協力関係について再検討すると表明し、2017年10月に同国はアメリカに続いて脱退を表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/171013/wor1710130017-n1.html|title=イスラエルもユネスコ脱退 米の後追い、首相が表明|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017-10-13|accessdate=2017-10-13}}</ref>。なお分担金負担停止から2年経過した[[2013年]]に、両国は議事への投票資格が停止されている。アメリカは2023年7月10日付で正式に再加盟した<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230712/amp/k10014126171000.html|title=ユネスコ アメリカの正式復帰を発表 トランプ前政権時代に脱退|newspaper=NHKニュース|date=2023-07-12|accessdate=2023-07-12}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20230712-4BBD22F45JK6FPPIPTWQ7LS7JY/|title=米、ユネスコ再加盟 トランプ政権時代に脱退|newspaper=産経新聞|date=2023-07-12|accessdate=2023-07-12}}</ref>。
== 歴代事務局長 ==
[[File:Celebration of UNESCO's 25th anniversary. Left to right, five Directors-General.png|thumb|300px|right|1971年のUNESCO25周年記念式典に集まった5人の歴代事務局長。<br/>左からハイメ・トレス・ボデー、ジュリアン・ハクスリー、ルネ・マウ、ルーサー・エバンス、ヴィットリーノ・ヴェロネーゼ]]
{| class="wikitable"
! 代 !! colspan="2" | 事務局長 !! 出身国 !! 在任期間
|-
! 1
| [[File:Julian Huxley 1-2.jpg|60px]] || [[ジュリアン・ハクスリー]] || {{flag|イギリス}} || [[1946年]]12月 - [[1948年]]12月
|-
! 2
| [[File:JAIME TORRES BODET 1902, ESCRITOR, POETA Y POLITICO MEXICANO (13451293993).jpg|60px]] || {{仮リンク|ハイメ・トレス・ボデー|en|Jaime Torres Bodet}} || {{flag|メキシコ}} || 1948年12月 - [[1952年]]12月
|-
! 代<br/>理
| [[File:Captura de Pantalla 2022-06-03 a las 23.24.45.png|60px]] || {{仮リンク|ジョン・ウィルキンソン・テイラー (教育者)|label=ジョン・ウィルキンソン・テイラー|en|John Wilkinson Taylor (educator)}} || {{flag|アメリカ合衆国}} || 1952年12月 - [[1953年]]7月
|-
! 3
| [[File:Luther Harris Evans, Diretor-geral da United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization (UNESCO).tif|60px]] || {{仮リンク|ルーサー・H・エバンス|en|Luther H. Evans}} || {{flag|アメリカ合衆国}} || 1953年7月 - [[1958年]]12月
|-
! 4
| [[File:Contemporary history, Italy - UNESCO - PHOTO0000002707 0001.tiff|60px]] || {{仮リンク|ヴィットリーノ・ヴェロネーゼ|en|Vittorino Veronese}} || {{flag|イタリア}} || 1958年12月 - [[1961年]]11月
|-
! 代<br/>理
| [[File:René Maheu (France), UNESCO Director General (1961-1974).JPG|60px]] || {{仮リンク|ルネ・マウ|en|René Maheu}} || {{flag|フランス}} || 1961年11月 - [[1962年]]11月
|-
! 5
| [[File:René Maheu (France), UNESCO Director General (1961-1974).JPG|60px]] || ルネ・マウ || {{flag|フランス}} || 1962年11月 - [[1974年]]11月
|-
! 6
| [[File:Amadou-Mahtar_M'Bow_1-2.jpg|60px]] || [[アマドゥ・マハタール・ムボウ]] || {{flag|セネガル}} || 1974年11月 - [[1987年]]11月
|-
! 7
| [[File:Federico Mayor Zaragoza 1-1.jpg|60px]] || {{仮リンク|フェデリコ・マヨール|en|Federico Mayor Zaragoza}} || {{flag|スペイン}} || 1987年11月 - [[1999年]]11月
|-
! 8
| [[File:Matsuura Koichiro 1-2.jpg|60px]] || [[松浦晃一郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO62847930Q0A820C2BC8000/|title=松浦晃一郎(20)無形文化遺産|publisher=日本経済新聞|date=2020-08-21|accessdate=2020-12-23}}</ref> || {{flag|日本}} || 1999年11月 - [[2009年]]11月
|-
! 9
| [[File:Irina Bokova 1-2.jpg|60px]] || [[イリナ・ボコヴァ]] || {{flag|ブルガリア}} || 2009年11月 - [[2017年]]11月
|-
! 10
| [[File:Didier Plowy - Audrey Azoulay (cropped).jpg|60px]]|| [[オードレ・アズレ]] || {{flag|フランス}} || 2017年11月 - (現職)
|}
==総会==
1946年の第1回総会以来開催されたユネスコ総会は下記のようになっている<ref>UNESCO official site: [http://www.unesco.org/new/en/general-conference/previous-sessions/ Previous Sessions of the General Conference] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111025045200/http://www.unesco.org/new/en/general-conference/previous-sessions/ |date=2011年10月25日 }}</ref>。総会は1954年までは毎年開催だったが、その後は2年に一回の開催となっている。
{| class="sortable wikitable"
|-
! 総会
! 開催地
! 年
! 議長
! 議長出身国
|-
|第41回
|{{flagicon|FRA}} パリ
|2021
|Santiago Irazabal Mourão
|{{flagcountry|BRA}}
|-
|第40回
|{{flagicon|FRA}} パリ
|2019
|Ahmet Altay Cengizer
|{{flagcountry|TUR}}
|-
|第39回
|{{flagicon|FRA}} パリ
|2017
|Zohour Alaoui
|{{flagcountry|Morocco}}
|-
| 第38回 || {{flagicon|FRA}} [[パリ]] || 2015 || Stanley Mutumba Simataa<ref>{{cite web | url=http://www.unesco.org/new/en/general-conference-38th/president/ | title=President of the 38th session of the General Conference | publisher=UNESCO | accessdate=11 November 2015}}</ref> || {{flagcountry|Namibia}}
|-
| 第37回<ref>{{Cite web|title = General Conference 37th {{!}} United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization|url = http://www.unesco.org/new/en/general-conference-37th/|website = www.unesco.org|accessdate = 25 September 2015}}</ref> || {{flagicon|FRA}} パリ || 2013 || 郝平 || {{flagcountry|CHN}}
|-
| 第36回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2011 || Katalin Bogyay || {{flagcountry|HUN}}
|-
| 第35回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2009 || Davidson Hepburn || {{flagcountry|BHS}}
|-
| 第34回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2007 || George N. Anastassopoulos || {{flagcountry|GRC}}
|-
| 第33回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2005 || Musa Bin Jaafar Bin Hassan || {{flagcountry|OMN}}
|-
| 第32回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2003 || Michael Omolewa || {{flagcountry|NGA}}
|-
| 第31回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 2001 || Ahmad Jalali || {{flagcountry|IRN}}
|-
| 第30回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1999 || Jaroslava Moserova || {{flagcountry|CZE}}
|-
| 第29回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1997 || Eduardo Portella || {{flagcountry|BRA}}
|-
| 第28回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1995 || Torben Krogh || {{flagcountry|DNK}}
|-
| 第27回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1993 || Ahmed Saleh Sayyad || {{flagcountry|YEM}}
|-
| 第26回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1991 || Bethwell Allan Ogot || {{flagcountry|KEN}}
|-
| 第25回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1989 || [[アンワル・イブラヒム]] || {{flagcountry|MYS}}
|-
| 第24回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1987 || Guillermo Putzeys Alvarez || {{flagcountry|GTM}}
|-
| 第23回 || {{flagicon|BGR}} [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] || 1985 || Nikolai Todorov || {{flagcountry|BGR}}
|-
| 第22回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1983 || Saïd Tell || {{flagcountry|JOR}}
|-
| 第4回臨時 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1982
|-
| 第21回 || {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]] || 1980 || Ivo Margan || {{flagcountry|YUG}}
|-
| 第20回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1978 || Napoléon LeBlanc || {{flagcountry|CAN}}
|-
| 第19回 || {{flagicon|KEN}} [[ナイロビ]] || 1976 || Taaita Toweett || {{flagcountry|KEN}}
|-
| 第18回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1974 || Magda Jóború || {{flagcountry|HUN}}
|-
| 第3回臨時 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1973
|-
| 第17回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1972 || 萩原徹 || {{flagcountry|JPN}}
|-
| 第16回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1970 || Atilio Dell'Oro Maini || {{flagcountry|ARG}}
|-
| 第15回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1968 || William Eteki Mboumoua || {{flagcountry|CMR}}
|-
| 第14回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1966 || Bedrettin Tuncel || {{flagcountry|TUR}}
|-
| 第13回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1964 || [[Norair Sisakian]]|| {{flagcountry|Armenian SSR}}
|-
| 第12回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1962 || Paulo de Berrêdo Carneiro || {{flagcountry|BRA}}
|-
| 第11回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1960 || Akale-Work Abte-Wold || {{flagcountry|ETH}}
|-
| 第10回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1958 || [[Jean Berthoin]]|| {{flagcountry|FRA}}
|-
| 第9回 || {{flagicon|IND}} [[ニューデリー]] || 1956 || [[Abul Kalam Azad]]|| {{flagcountry|IND}}
|-
| 第8回 || {{flagicon|URY}} [[モンテビデオ]] || 1954 || Justino Zavala Muñiz || {{flagcountry|URY}}
|-
| 第2回臨時 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1953
|-
| 第7回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1952 || [[サルヴパッリー・ラーダークリシュナン]] || {{flagcountry|IND}}
|-
| 第6回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1951 || Howland H. Sargeant || {{flagcountry|USA}}
|-
| 第5回 || {{flagicon|ITA}} [[フィレンツェ]] || 1950 || Stefano Jacini || {{flagcountry|ITA}}
|-
| 第4回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1949 || Edward Ronald Walker || {{flagcountry|AUS}}
|-
| 第1回臨時 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1948
|-
| 第3回 || {{flagicon|LBN}} [[ベイルート]] || 1948 || Hamid Bey Frangie || {{flagcountry|LBN}}
|-
| 第2回 || {{flagicon|MEX}} [[メキシコシティ]] || 1947 || Manuel Gual Vidal || {{flagcountry|MEX}}
|-
| 第1回 || {{flagicon|FRA}} パリ || 1946 || [[レオン・ブルム]] || {{flagcountry|FRA}}
|-
|}
== ユネスコ執行委員会委員国 ==
1995年以降、執行委員会は58か国によって構成されている<ref name="名前なし-1"/>。委員国の選挙区は地域別に6つのグループに分かれており、その中から決められた議席に応じて総会で選挙が行われ、委員国が選出される。委員国の任期は4年で、選出された総会から二回あとの総会までを任期とする。
{| class="wikitable"
|-style="border-top: 2px solid;"
! 任期
! グループI <br>(9議席)
! グループII <br>(7議席)
! グループIII <br>(10議席)
! グループIV <br>(12議席)
! グループV(a) <br>(14議席)
! グループV(b) <br>(7議席)
|-
|'''2019年–2023年'''
|{{flagcountry|France}}
{{flagcountry|Germany}}
{{flagcountry|Italy}}
{{flagcountry|Netherlands}}
{{flagcountry|Spain}}
{{flagcountry|Sweden}}
|{{flagcountry|HUN}}
{{Flag|ポーランド}}
{{flagcountry|Russia}}
{{flagcountry|Serbia}}
|{{flagcountry|Argentina}}
{{flagcountry|Brazil}}
{{flagcountry|Dominican Republic}}
{{Flag|Uruguay}}
|{{flagcountry|Afghanistan}}
{{Flag|Kyrgyzstan}}
{{Flag|Philippines}}
{{flagcountry|Pakistan}}
{{flagcountry|Republic of Korea}}
{{flagcountry|Thailand}}
|{{Flag|Benin}}
{{Flag|Congo}}
{{flagcountry|Guinea}}
{{flagcountry|Ghana}}
{{flagcountry|Kenya}}
{{flagcountry|Namibia}}
{{flagcountry|Senegal}}
{{flagcountry|Togo}}
|{{Flag|Saudi Arabia}}
{{flagcountry|United Arab Emirates}}
{{flagcountry|Tunisia}}
|- style="background:#eeffee;border-top: 2px solid;"
|'''2016年–<br>2019年'''<ref>[http://www.unesco.org/new/en/general-conference-38th/elections/results-executive-board Executive Board – Results of elections]. UNESCO General Conference, November 2015. Retrieved 12 November 2015.</ref>
|
{{flagcountry|France}} <br>
{{flagcountry|Greece}} <br>
{{flagcountry|Italy}} <br>
{{flagcountry|Spain}} <br>
{{flagcountry|United Kingdom}} <br>
|
{{flagcountry|Lithuania}} <br>
{{flagcountry|Russia}} <br>
{{flagcountry|Serbia}} <br>
{{flagcountry|Slovenia}}
|
{{flagcountry|Brazil}} <br>
{{flagcountry|Haiti}} <br>
{{flagcountry|Mexico}} <br>
{{flagcountry|Nicaragua}} <br>
{{flagcountry|Paraguay}}
|
{{flagcountry|Iran}} <br>
{{flagcountry|Malaysia}} <br>
{{flagcountry|Pakistan}} <br>
{{flagcountry|Republic of Korea}} <br>
{{flagcountry|Sri Lanka}} <br>
{{flagcountry|Vietnam}}
|
{{flagcountry|Cameroon}} <br>
{{flagcountry|Cote d'Ivoire}} <br>
{{flagcountry|Ghana}} <br>
{{flagcountry|Kenya}} <br>
{{flagcountry|Nigeria}} <br>
{{flagcountry|Senegal}} <br>
{{flagcountry|South Africa}}
|
{{flagcountry|Lebanon}} <br>
{{flagcountry|Oman}} <br>
{{flagcountry|Qatar}} <br>
{{flagcountry|Sudan}}
|- style="background:#f7f7c7;border-top: 2px solid;"
| '''2014年–<br>2017年'''<ref>[http://www.unesco.org/new/fileadmin/MULTIMEDIA/HQ/GBS/SCX/pdfs/Table_2013-2015.pdf Table_2013-2015.pdf] UNESCO Membership by Electoral Groups. Retrieved 12 November 2015.</ref>
|
{{flagcountry|Germany}} <br>
{{flagcountry|Netherlands}} <br>
{{flagcountry|Sweden}}
|
{{flagcountry|Albania}} <br>
{{flagcountry|Estonia}} <br>
{{flagcountry|Ukraine}}
|
{{flagcountry|Argentina}} <br>
{{flagcountry|Belize}} <br>
{{flagcountry|Dominican Republic}} <br>
{{flagcountry|El Salvador}} <br>
{{flagcountry|Saint Kitts and Nevis}} <br>
{{flagcountry|Trinidad and Tobago}}
|
{{flagcountry|Bangladesh}} <br>
{{flagcountry|China}} <br>
{{flagcountry|India}} <br>
{{flagcountry|Japan}} <br>
{{flagcountry|Nepal}} <br>
{{flagcountry|Turkmenistan}}
|
{{flagcountry|Chad}} <br>
{{flagcountry|Guinea}} <br>
{{flagcountry|Mauritius}} <br>
{{flagcountry|Mozambique}} <br>
{{flagcountry|Togo}} <br>
{{flagcountry|Uganda}}
|
{{flagcountry|Algeria}} <br>
{{flagcountry|Egypt}} <br>
{{flagcountry|Kuwait}} <br>
{{flagcountry|Morocco}}
|- style="border-top: 2px solid;"
| '''2012年–<br>2015年'''
|
{{flagcountry|Austria}} <br>
{{flagcountry|France}} <br>
{{flagcountry|Italy}} <br>
{{flagcountry|India}} <br>
{{flagcountry|Spain}} <br>
{{flagcountry|United Kingdom}} <br>
{{flagcountry|United States of America}}
|
{{flagcountry|Czech Republic}} <br>
{{flagcountry|Montenegro}} <br>
{{flagcountry|Russia}} <br>
{{flagcountry|Macedonia}}
|
{{flagcountry|Brazil}} <br>
{{flagcountry|Cuba}} <br>
{{flagcountry|Ecuador}} <br>
{{flagcountry|Mexico}}
|
{{flagcountry|Afghanistan}} <br>
{{flagcountry|Indonesia}} <br>
{{flagcountry|Pakistan}} <br>
{{flagcountry|Papua New Guinea}} <br>
{{flagcountry|Republic of Korea}} <br>
{{flagcountry|Thailand}}
|
{{flagcountry|Angola}} <br>
{{flagcountry|Ethiopia}} <br>
{{flagcountry|Gabon}} <br>
{{flagcountry|Gambia}} <br>
{{flagcountry|Malawi}} <br>
{{flagcountry|Mali}} <br>
{{flagcountry|Namibia}} <br>
{{flagcountry|Nigeria}}
|
{{flagcountry|Tunisia}} <br>
{{flagcountry|United Arab Emirates}}
|}
==研究機関==
以下の研究所はユネスコの計画を支える組織の専門機関であり、国家機関や各分野に専門的な支援を行っている。
{| class="sortable wikitable"
|-
! 略語
! 名称
! 所在地
|-
| IBE
| [[ユネスコ国際教育局|ユネスコ国際教育局 (International Bureau of Education)]]
| {{flagicon|CHE}} [[ジュネーヴ]]<ref>{{cite web|url=http://www.ibe.unesco.org/en/about-the-ibe/where-we-are/ibe-premises.html|title=The IBE Team|first=|last=admin|date=27 May 2015|publisher=|deadlinkdate=2018-3-3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160821091847/http://www.ibe.unesco.org:80/en/who-we-are/meet-ibe-team|archivedate=2016-8-21}}</ref>
|-
| UIL
| ユネスコ生涯学習研究所 (UNESCO Institute for Lifelong Learning)
| {{flagicon|DEU}} [[ハンブルク]]<ref>{{cite web|url=http://www.uil.unesco.org/home/|title=UIL - UNESCO Institute for Lifelong Learning|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| IIEP
| ユネスコ国際教育計画研究所 (International Institute for Education Planning)
| {{flagicon|FRA}} [[パリ]](本部) および {{flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]] (地域事務所)<ref>{{cite web|url=http://www.iiep.unesco.org/|title=IIEP UNESCO|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| IITE
| ユネスコ教育情報工学研究所 (UNESCO Institute for Information Technologies in Education)
| {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]<ref>{{cite web|url=http://iite.unesco.org/|title=UNESCO IITE|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| IICBA
| ユネスコ・アフリカ地域能力開発国際研究所 (International Institute for Capacity Building in Africa)
| {{flagicon|ETH}} [[アディスアベバ]]<ref>{{cite web|url=http://en.unesco-iicba.org/|title=IICBA official site|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| IESALC
| ユネスコ南米・カリブ海地域高等教育国際研究所(UNESCO International Institute for Higher Education in Latin America and the Caribbean)
| {{flagicon|VEN}} [[カラカス]]<ref>{{cite web|url=http://www.iesalc.unesco.org.ve/|title=Inicio|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| UNESCO-UNEVOC
| ユネスコ国際職業技術教育訓練センター(UNESCO International Centre for Technical and Vocational Education and Training)
| {{flagicon|DEU}} [[ボン]]<ref>{{cite web|url=http://www.unevoc.unesco.org/|title=UNESCO-UNEVOC - Promoting learning for the world of work|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| CEPES
| ユネスコヨーロッパ高等教育センター (UNESCO European Centre for Higher Education)
| {{flagicon|ROU}} [[ブカレスト]]<ref>{{cite web|url=http://www.cepes.ro/|title=CEPES official site|publisher=|accessdate=2017年4月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100929162210/http://www.cepes.ro/|archivedate=2010年9月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
|-
| UNESCO-IHE
| ユネスコ水教育研究所、IHEデルフト水教育研究所 (IHE Delft Institute for Water Education)
| {{flagicon|NLD}} [[デルフト]]<ref>{{cite web|url=http://www.unesco-ihe.org/|title=Home - UNESCO-IHE|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| ICTP
| [[国際理論物理学センター|国際理論物理学センター (International Centre for Theoretical Physics)]]
| {{flagicon|ITA}} [[トリエステ]]<ref>{{cite web|url=http://www.ictp.it/|title=ICTP - International Centre for Theoretical Physics|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
| UIS
| ユネスコ統計研究所 (UNESCO Institute for Statistics)
| {{flagicon|CAN}} [[モントリオール]]<ref>{{cite web|url=http://www.uis.unesco.org/|title=UNESCO Institute for Statistics: UNESCO Institute for Statistics|publisher=|accessdate=2017年4月7日}}</ref>
|-
|}
==ユネスコが祝う国際デー==
ユネスコが祝う[[国際デー]]は以下のようになっている<ref>[http://www.unesco.org/new/en/unesco/events/prizes-and-celebrations/celebrations/international-days/ International Days | United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization]. UNESCO. Retrieved 12 July 2013.</ref>。
{| class="sortable wikitable"
|-
! 日付
! 名称
|-国際デー
| 1月27日
| [[ホロコースト犠牲者を想起する国際デー]]
|-
| 2月13日
| [[世界ラジオデー]]
|-
| 2月21日
| [[国際母語デー]]
|-
| 3月8日
| [[国際女性デー]]
|-
| 3月20日
| 国際[[フランコフォニー]]デー
|-
| 3月21日
| 国際[[ノウルーズ]]・デー
|-
| 3月21日
| [[世界詩歌記念日]]
|-
| 3月21日
| [[国際人種差別撤廃デー]]
|-
| 3月22日
| [[世界水の日]]
|-
| 4月23日
| [[世界図書・著作権デー]]
|-
| 4月30日
| [[国際ジャズ・デー]]
|-
| 5月3日
| [[世界報道自由デー]]
|-
| 5月21日
| [[対話と発展のための世界文化多様性デー]]
|-
| 5月22日
| [[国際生物多様性の日]]
|-
| 5月25日
| [[アフリカデー]] / [[アフリカ週間]]
|-
| 6月5日
| [[環境の日]]
|-
| 6月8日
| [[世界海洋デー]]
|-
| 6月21日
|[[国際ヨーガの日]]
|-
| 8月9日
| 世界先住民の日
|-
| 8月12日
| [[国際青少年デー]]
|-
| 8月23日
| [[奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー]]
|-
| 9月8日
| [[国際識字デー]]
|-
| 9月15日
| 国際民主主義デー
|-
| 9月21日
| [[国際平和デー]]
|-
| 9月28日
| Access to Information Day|International Day for the Universal Access to Information
|-
| 10月5日
| [[世界教師デー]]
|-
| 10月第2水曜日
| International Day for Disaster Reduction
|-
| 10月17日
| [[貧困撲滅のための国際デー]]
|-
| 10月20日
| [[統計の日]]
|-
| 10月27日
| 世界視聴覚遺産デー
|-
| 11月10日
| 平和と開発のための世界科学デー
|-
| 11月第三木曜日
| [[世界哲学の日]]
|-
| 11月16日
| [[国際寛容デー]]
|-
| 11月19日
| [[国際男性デー]]
|-
| 11月25日
| [[女性に対する暴力撤廃の国際デー]]
|-
| 11月29日
| [[パレスチナ人民連帯国際デー]]
|-
| 12月1日
| [[世界エイズデー]]
|-
| 12月10日
| [[世界人権デー]]
|-
| 12月18日
| [[国際移民デー]]
|-
|}
== ワールド・デジタル・ライブラリー ==
{{Main|ワールド・デジタル・ライブラリー}}
ユネスコは[[2005年]]より、[[電子図書館]]プロジェクト({{en|World Digital Library, WDL}})に取り組んできたが、[[2009年]][[4月21日]]に[[インターネット]]上にて公開された。この公式[[ウェブサイト|サイト]]では、各国の文化資料を地域別、テーマ別、年代別に横断して一望でき、一般の利用者、研究者の別なく[[無料]]で閲覧できる。
展示資料は、[[アメリカ議会図書館|米国議会図書館]]、[[新アレクサンドリア図書館|アレクサンドリア図書館]](エジプト)、[[国立国会図書館]](日本)など世界の32機関が参加し、現在、書籍・手稿・地図・写真・動画など、約1200点のコンテンツが閲覧できる。
==加盟国==
2023年7月10日現在、ユネスコ加盟国は194か国である。この表では加盟国とその加盟日時(一時的に脱退していた国は再加盟年)を記す<ref name="memberstates" /><ref name="memberstaesdate">{{Cite web |url=https://pax.unesco.org/countries/ListeMS.html |title=List of the Member States and the Associate Members of UNESCO and the date on which they became Members (or Associate Members) of the Organization |publisher=UNESCO |accessdate=2023-07-28}}</ref>。
{{div col}}
* {{flag|Afghanistan}} (1948年5月4日)
* {{flag|United States of America}} (2023年7月10日<ref group="注">2度の脱退と再加盟を経験している。1946年11月4日から1984年12月31日まで加盟国であったが脱退し、2003年10月1日に再加盟を果たすも2018年12月31日に再度脱退しオブザーバー参加となる。2023年7月10日に再加盟した。</ref>)
* {{flag|Albania}} (1958年10月16日)
* {{flag|Algeria}} (1962年10月15日)
* {{flag|Andorra}} (1993年10月20日)
* {{flag|Angola}} (1977年3月11日)
* {{flag|Antigua and Barbuda}} (1982年7月15日)
* {{flag|Argentina}} (1948年9月15日)
* {{flag|Armenia}} (1992年6月9日)
* {{flag|Australia}} (1946年11月4日)
* {{flag|Austria}} (1948年8月13日)
* {{flag|Azerbaijan}} (1992年6月3日)
* {{flag|Bahamas}} (1981年4月23日)
* {{flag|Bahrain}} (1972年1月18日)
* {{flag|Bangladesh}} (1972年10月27日)
* {{flag|Barbados}} (1968年10月24日)
* {{flag|Belarus}} (1954年5月12日)
* {{flag|Belgium}} (1946年11月29日)
* {{flag|Belize}} (1982年5月10日)
* {{flag|Benin}} (1960年10月18日)
* {{flag|Bhutan}} (1982年4月13日)
* {{flag|Bolivia}} (1946年11月13日)
* {{flag|Bosnia and Herzegovina}} (1993年6月2日)
* {{flag|Botswana}} (1980年1月16日)
* {{flag|Brazil}} (1946年11月4日)
* {{flag|Brunei Darussalam}} (2005年3月17日)
* {{flag|Bulgaria}} (1956年5月17日)
* {{flag|Burkina Faso}} (1960年11月14日)
* {{flag|Burundi}} (1962年11月16日)
* {{flag|Cambodia}} (1951年7月3日)
* {{flag|Cameroon}} (1960年11月11日)
* {{flag|Canada}} (1946年11月4日)
* {{flag|Cape Verde}} (1978年2月15日)
* {{flag|Central African Republic}} (1960年11月11日)
* {{flag|Chad}} (1960年12月19日)
* {{flag|Chile}} (1953年7月7日)
* {{flag|China}} (1946年11月4日<ref group="注">1946年から1971年までは{{ROC}}。</ref>)
* {{flag|Colombia}} (1947年10月31日)
* {{flag|Comoros}} (1977年3月22日)
* {{flag|Congo}} (1960年10月24日)
* {{flag|Cook Islands}} (1989年10月25日)
* {{flag|Costa Rica}} (1950年5月19日)
* {{flag|Côte d'Ivoire}} (1960年10月27日)
* {{flag|Croatia}} (1992年6月1日)
* {{flag|Cuba}} (1947年8月29日)
* {{flag|Cyprus}} (1961年2月6日)
* {{flag|Czech Republic}} (1993年2月22日)
* {{flag|Democratic Republic of the Congo}} (1960年11月25日)
* {{flag|Denmark}}(1946年11月4日)
* {{flag|Djibouti}} (1989年8月31日)
* {{flag|Dominica}} (1979年1月9日)
* {{flag|Dominican Republic}} (1946年11月4日)
* {{flag|Ecuador}} (1947年1月22日)
* {{flag|Egypt}} (1946年11月4日)
* {{flag|El Salvador}} (1948年4月28日)
* {{flag|Equatorial Guinea}} (1979年11月29日)
* {{flag|Eritrea}} (1993年9月2日)
* {{flag|Estonia}} (1991年10月14日)
* {{flag|Ethiopia}} (1955年7月1日)
* {{flag|Fiji}} (1983年7月14日)
* {{flag|Finland}} (1956年10月10日)
* {{flag|France}} (1946年11月4日)
* {{flag|Gabon}} (1960年11月16日)
* {{flag|Gambia}} (1973年8月1日)
* {{flag|Georgia}} (1992年10月7日)
* {{flag|Germany}} (1951年7月11日)
* {{flag|Ghana}} (1958年4月11日)
* {{flag|Greece}} (1946年11月4日)
* {{flag|Grenada}} (1975年2月17日)
* {{flag|Guatemala}} (1950年1月2日)
* {{flag|Guinea}} (1960年2月2日)
* {{flag|Guinea-Bissau}} (1974年11月1日)
* {{flag|Guyana}} (1967年3月21日)
* {{flag|Haiti}} (1946年11月18日)
* {{flag|Honduras}} (1947年12月16日)
* {{flag|Hungary}} (1948年9月14日)
* {{flag|Iceland}} (1964年6月8日)
* {{flag|India}} (1946年11月4日)
* {{flag|Indonesia}} (1950年5月27日)
* {{flag|Iran}} (1948年9月6日)
* {{flag|Iraq}} (1948年10月21日)
* {{flag|Ireland}} (1961年10月3日)
* {{flag|Italy}} (1948年1月27日)
* {{flag|Jamaica}} (1962年11月7日)
* {{flag|Japan}} (1951年7月2日)
* {{flag|Jordan}} (1950年6月14日)
* {{flag|Kazakhstan}} (1992年5月22日)
* {{flag|Kenya}} (1964年4月7日)
* {{flag|Kiribati}} (1989年10月24日)
* {{flag|Democratic People's Republic of Korea}} (1974年10月18日)
* {{flag|Republic of Korea}} (1950年6月14日)
* {{flag|Kuwait}} (1960年11月18日)
* {{flag|Kyrgyzstan}} (1992年6月2日)
* {{flag|Laos}} (1951年7月9日)
* {{flag|Latvia}} (1991年10月14日)
* {{flag|Lebanon}} (1946年11月4日)
* {{flag|Lesotho}} (1967年9月29日)
* {{flag|Liberia}} (1947年3月6日)
* {{flag|Libya}} (1953年6月27日)
* {{flag|Lithuania}} (1991年10月7日)
* {{flag|Luxembourg}} (1947年10月27日)
* {{flag|Macedonia}} (1993年6月28日)
* {{flag|Madagascar}} (1960年11月10日)
* {{flag|Malawi}} (1964年10月27日)
* {{flag|Malaysia}} (1958年6月16日)
* {{flag|Maldives}} (1980年7月18日)
* {{flag|Mali}} (1960年11月7日)
* {{flag|Malta}} (1965年2月10日)
* {{flag|Marshall Islands}} (1995年6月30日)
* {{flag|Mauritania}} (1962年1月10日)
* {{flag|Mauritius}} (1968年10月25日)
* {{flag|Mexico}} (1946年11月4日)
* {{flag|Federated States of Micronesia}} (1999年10月19日)
* {{flag|Moldova}} (1992年5月27日)
* {{flag|Monaco}} (1949年7月6日)
* {{flag|Mongolia}} (1962年11月1日)
* {{flag|Montenegro}} (2007年3月1日)
* {{flag|Morocco}} (1956年11月7日)
* {{flag|Mozambique}} (1976年10月11日)
* {{flag|Myanmar}} (1949年6月27日)
* {{flag|Namibia}} (1978年11月2日)
* {{flag|Nauru}} (1996年10月17日)
* {{flag|Nepal}} (1953年5月1日)
* {{flag|Netherlands}}(1947年1月1日)
* {{flag|New Zealand}}(1946年11月4日)
* {{flag|Nicaragua}} (1952年2月22日)
* {{flag|Niger}} (1960年11月10日)
* {{flag|Nigeria}} (1960年11月14日)
* {{flag|Niue}} (1993年10月26日)
* {{flag|Norway}} (1946年11月4日)
* {{flag|Oman}} (1972年2月10日)
* {{flag|Pakistan}} (1949年9月14日)
* {{flag|Palau}} (1999年9月20日)
* {{PSE}} (2011年11月23日)
* {{flag|Panama}} (1950年1月10日)
* {{flag|Papua New Guinea}} (1976年10月4日)
* {{flag|Paraguay}} (1955年6月20日)
* {{flag|Peru}} (1946年11月21日)
* {{flag|Philippines}} (1946年11月21日)
* {{flag|Poland}} (1946年11月6日)
* {{flag|Portugal}} (1974年9月11日)<ref group="注">1965年3月11日から1972年12月31日まで加盟国だったが脱退し、1974年9月11日に再加盟した。</ref>
* {{flag|Qatar}} (1972年1月27日)
* {{flag|Romania}} (1956年7月27日)
* {{flag|Russia}} (1954年4月21日)
* {{flag|Rwanda}} (1962年11月7日)
* {{flag|Saint Kitts and Nevis}} (1983年10月26日)
* {{flag|Saint Lucia}} (1980年3月6日)
* {{flag|Saint Vincent and the Grenadines}} (1983年1月14日)
* {{flag|Samoa}} (1981年4月3日)
* {{flag|San Marino}} (1974年11月12日)
* {{flag|São Tomé and Príncipe}} (1980年1月22日)
* {{flag|Saudi Arabia}} (1946年11月4日)
* {{flag|Senegal}} (1960年11月10日)
* {{flag|Serbia}} (2000年12月20日)<ref group="注">{{YUG1945}}は1950年3月31日から1992年9月22日まで加盟国であったが、国連総会決議 47/1により会員資格を停止された。{{Flagicon|YUG}} [[ユーゴスラビア連邦共和国]]は自動的に会員資格を継承することができず、2000年12月20日に新規加盟した。ユーゴスラビア連邦共和国は2003年に[[セルビア・モンテネグロ]]へ移行し、2006年のモンテネグロ離脱に伴いセルビアが資格を継承した。</ref>
* {{flag|Seychelles}} (1976年10月18日)
* {{flag|Sierra Leone}} (1962年3月28日)
* {{flag|Singapore}} (2007年10月8日)<ref group="注">1965年10月28日から1985年12月31日まで加盟国だったが脱退し、2007年10月8日に再加盟した。</ref>
* {{flag|Slovakia}} (1993年2月9日)
* {{flag|Slovenia}} (1992年5月27日)
* {{flag|Solomon Islands}} (1993年9月7日)
* {{flag|Somalia}} (1960年11月15日)
* {{flag|South Africa}} (1994年12月12日)<ref group="注">1946年11月4日から1956年12月31日まで加盟国だったが脱退し、1994年12月12日に再加盟した。</ref>
* {{flag|South Sudan}} (2011年10月27日)<ref>{{cite web |title=South Sudan – United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization|url=http://www.unesco.org/new/en/unesco/worldwide/africa/south-sudan/ |author=UNESCO |accessdate=2013-08-19}}</ref>
* {{flag|Spain}} (1953年1月30日)
* {{flag|Sri Lanka}} (1949年11月14日)
* {{flag|Sudan}} (1956年11月26日)
* {{flag|Suriname}} (1976年7月16日)
* {{flag|Swaziland}} (1978年1月25日)
* {{flag|Sweden}} (1950年1月23日)
* {{flag|Switzerland}} (1949年1月28日)
* {{flag|Syria}} (1946年11月16日)
* {{flag|Tajikistan}} (1993年4月6日)
* {{flag|Tanzania}} (1962年3月6日)
* {{flag|Thailand}} (1949年1月1日)
* {{flag|Timor-Leste}} (2003年6月5日)
* {{flag|Togo}} (1960年11月17日)
* {{flag|Tonga}} (1980年9月29日)
* {{flag|Trinidad and Tobago}} (1962年11月2日)
* {{flag|Tunisia}} (1956年11月8日)
* {{flag|Turkey}} (1946年11月4日)
* {{flag|Turkmenistan}} (1993年8月17日)
* {{flag|Tuvalu}} (1991年10月21日)
* {{flag|Uganda}} (1962年11月9日)
* {{flag|Ukraine}} (1954年5月12日)
* {{flag|United Arab Emirates}} (1972年4月20日)
* {{flag|United Kingdom}}(1997年7月1日)<ref group="注">1946年11月4日から1985年12月31日まで加盟国だったが脱退し、1997年7月1日に再加盟した。</ref>
* {{flag|Uruguay}} (1947年11月8日)
* {{flag|Uzbekistan}} (1993年10月26日)
* {{flag|Vanuatu}} (1994年2月10日)
* {{flag|Venezuela}} (1946年11月25日)
* {{flag|Vietnam}} (1951年7月6日)<ref group="注">1951年から1975年までは{{Flag|South Vietnam}}。</ref>
* {{flag|Yemen}} (1962年4月2日)
* {{flag|Zambia}} (1964年11月9日)
* {{flag|Zimbabwe}} (1980年9月22日)
{{div col end}}
2012年現在、{{flag|Liechtenstein}}はユネスコ加盟国ではないが、国内委員会は存在する<ref name="non-members"/>。
===準会員===
以下の12地域はユネスコ準会員となっている<ref name="memberstates" /><ref name="memberstaesdate" />。
* {{flag|Åland}} (2021年11月9日)
* {{flag|Anguilla}} (2013年11月5日)
* {{flag|Aruba}} (1987年10月20日)
* {{flag|British Virgin Islands}} (1983年11月24日)
* {{flag|Cayman Islands}} (1999年10月30日)
* {{flag|Curaçao}} (2011年10月25日)
* {{flag|Faroe Islands}} (2009年10月12日)
* {{flag|Macao}} (1995年10月25日)
* {{flag|Montserrat}} (2015年11月3日)
* {{Flag|New Caledonia}} (2017年10月30日)
* {{flag|Sint Maarten}} (2011年10月25日)
* {{flag|Tokelau}} (2001年10月15日)
===オブザーバー参加===
* {{flag|Vatican}}<ref name="memberstates" />
=== かつての加盟国 ===
* {{flag|Israel}} (1949年9月16日 - 2018年12月31日)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="non-members">{{cite web |title=Summary update on Government progress to become a State Party to the UNESCO International Convention against Doping in Sport |url=http://www.wada-ama.org/rtecontent/document/Item_8_6_Attachment_1_SummaryUpdateGovernments_UNESCO_Oct2008_ENG_FINAL.pdf |author=WADA |page=2 |format=PDF |accessdate=28 July 2009 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130116165411/http://www.wada-ama.org/rtecontent/document/Item_8_6_Attachment_1_SummaryUpdateGovernments_UNESCO_Oct2008_ENG_FINAL.pdf |archivedate=2013年1月16日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[青島泰之]]
* [[朝吹三吉]]
* [[世界遺産]]
* [[無形文化遺産]]
* [[世界の記憶]]
* [[ユネスコ国際作曲家会議]]([[:en:International Rostrum of Composers|International Rostrum of Composers]])
* [[ユネスコ国際電子音響音楽会議]](International Rostrum of Electroacoustic Music)
* [[国際連合児童基金]](ユニセフ)
* [[文部科学省]]
* [[ロレアル-ユネスコ女性科学者 日本奨励賞]]
* [[ユネスコ・スクール]]
* [[国際社会科学協議会]] (ISSC)
* [[国際団体連合]] (UIA)
* [[国際医学団体協議会]]
* [[博覧会国際事務局]] (BIE)
* [[ジュリアン・ハクスリー]] - 創設者の一人。
* {{ill2|国際知的協力委員会|en|International Committee on Intellectual Cooperation}}(ICIC) - 1922年に設立されたユネスコの前身にあたる国際連盟の機関。1926年に実施機関として国際知的協力機関(International Institute of Intellectual Cooperation)が設立。
* [[インデックス・トランスラチオヌム]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|UNESCO}}
{{Wiktionary|国際連合教育科学文化機関|UNESCO|ユネスコ}}
* {{Official website|https://www.unesco.org/en|国際連合教育科学文化機関}} {{en icon}}
* [https://www.mext.go.jp/unesco/ 日本ユネスコ国内委員会] - 文部科学省
* [https://www.unesco.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ ユネスコ日本政府代表部]
* [https://www.wdl.org/en/ World Digital Library] {{en icon}}
* [https://www.unesco.or.jp/ 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟]
* [https://www.accu.or.jp/ 公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター]
{{国際連合}}
{{Normdaten}}
{{coord|48|51|0|N|2|18|22|E|type:landmark_region:FR|display=title|name=UNESCO本部ビル}}
{{DEFAULTSORT:こくさいれんこうきよういくかかくふんかきかん}}
[[Category:国際連合教育科学文化機関|*]]
[[Category:国際連合専門機関]]
[[Category:文化経済学]]
[[Category:国際慈善団体]]
[[Category:フランス・国際連合関係]]
[[Category:パリの組織]]
[[Category:1946年設立の組織]]
[[Category:パリ7区]]
[[Category:ジュリアン・ハクスリー]]
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ターボ分子ポンプ
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ターボ分子ポンプ(ターボぶんしポンプ、英語:turbomolecular pump、略称:TMP)は機械式真空ポンプの一種で、金属製のタービン翼を持った回転体であるロータが高速回転し、気体分子を弾き飛ばすことによりガスを排気するポンプである。JISではこのような排気方式を「運動量輸送式」の真空ポンプと呼んでいる。
ターボ分子ポンプは、1912年にドイツのW.ゲーデによって機械式高真空ポンプの起源となる分子ポンプが考案され、その後、同じくドイツのW.ベッカーが1955年にタービン翼を有するターボ分子ポンプ(TMP)を考案、これが1958年に商品化されたのが最初といわれる。
動作原理は、斜めに配置されたタービン翼を高速回転(数万rpmに達する)させて吸気から排気への通過確率(A)と排気から吸気への通過確率(B)に差をつける事で圧力差を発生させる。設計上の排気速度は(開口面積×11.6×A/(B×p))となる(pは圧力上昇分)。翼の角度と回転数(翼速度)をモンテカルロ法などで計算すると、翼角度大=排気速度大、圧縮比小。翼角度小=排気速度小、圧縮比大となってくる。到達圧力は 10Pa (10Torr)程度。
その原理から、気体分子に対する翼速度(翼速度比)によって排気速度が変化するため軽ガス(水素・ヘリウム)に対しては排気速度が低下する。動作圧力には制限があるため、普通はロータリーポンプを補助ポンプとして用い、1セットになっている。ポンプ使用中に圧力が高真空から低真空側へ急激に変化した場合、ポンプの破損に繋がる可能性がある。
TMPは良い真空が得られる手軽で便利なポンプである。ロータの支持方式としては、油潤滑式の玉軸受型とグリス潤滑式、磁気浮上型がある。 玉軸受けの油潤滑式は価格が手ごろな利点があるが、取り付け方向は一方向に限られる。グリス潤滑式は取り付け方向に制限が無い場合が多いが、玉軸受け寿命・グリス補給と保守面で課題も多い。
磁気浮上型は
といった利点がある。その代わり、停電時の対策としてバッテリーが必要なものが多い。 近年では、ロータの回転運動エネルギーを電力に回生し、磁気浮上に利用するバッテリーレス化も進んでいる。
構造上、内部のタービン翼が歪むと、高速回転中の動翼と上下に挟まれた固定翼(静翼)同士が接触して一瞬で壊れてしまう恐れがある。またターボ分子ポンプを設置する際には、固定を厳重にしておかねばならない。
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ターボ分子ポンプは機械式真空ポンプの一種で、金属製のタービン翼を持った回転体であるロータが高速回転し、気体分子を弾き飛ばすことによりガスを排気するポンプである。JISではこのような排気方式を「運動量輸送式」の真空ポンプと呼んでいる。 ターボ分子ポンプは、1912年にドイツのW.ゲーデによって機械式高真空ポンプの起源となる分子ポンプが考案され、その後、同じくドイツのW.ベッカーが1955年にタービン翼を有するターボ分子ポンプ(TMP)を考案、これが1958年に商品化されたのが最初といわれる。 動作原理は、斜めに配置されたタービン翼を高速回転(数万rpmに達する)させて吸気から排気への通過確率(A)と排気から吸気への通過確率(B)に差をつける事で圧力差を発生させる。設計上の排気速度は(開口面積×11.6×A/)となる(pは圧力上昇分)。翼の角度と回転数(翼速度)をモンテカルロ法などで計算すると、翼角度大=排気速度大、圧縮比小。翼角度小=排気速度小、圧縮比大となってくる。到達圧力は 10−7Pa (10−10Torr)程度。 その原理から、気体分子に対する翼速度(翼速度比)によって排気速度が変化するため軽ガス(水素・ヘリウム)に対しては排気速度が低下する。動作圧力には制限があるため、普通はロータリーポンプを補助ポンプとして用い、1セットになっている。ポンプ使用中に圧力が高真空から低真空側へ急激に変化した場合、ポンプの破損に繋がる可能性がある。 TMPは良い真空が得られる手軽で便利なポンプである。ロータの支持方式としては、油潤滑式の玉軸受型とグリス潤滑式、磁気浮上型がある。
玉軸受けの油潤滑式は価格が手ごろな利点があるが、取り付け方向は一方向に限られる。グリス潤滑式は取り付け方向に制限が無い場合が多いが、玉軸受け寿命・グリス補給と保守面で課題も多い。 磁気浮上型は 完全にオイルフリー
取り付け方向の自由度が高い(逆さまや横向きでも設置可能) といった利点がある。その代わり、停電時の対策としてバッテリーが必要なものが多い。
近年では、ロータの回転運動エネルギーを電力に回生し、磁気浮上に利用するバッテリーレス化も進んでいる。 構造上、内部のタービン翼が歪むと、高速回転中の動翼と上下に挟まれた固定翼(静翼)同士が接触して一瞬で壊れてしまう恐れがある。またターボ分子ポンプを設置する際には、固定を厳重にしておかねばならない。
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'''ターボ分子ポンプ'''(ターボぶんしポンプ、[[英語]]:turbomolecular pump、略称:TMP)は機械式[[真空ポンプ]]の一種で、金属製の[[タービン|タービン翼]]を持った回転体であるロータが高速回転し、気体分子を弾き飛ばすことによりガスを排気するポンプである。JISではこのような排気方式を「運動量輸送式」の真空ポンプと呼んでいる。
ターボ分子ポンプは、1912年にドイツのW.ゲーデによって機械式高真空ポンプの起源となる分子ポンプが考案され、その後、同じくドイツのW.ベッカーが1955年にタービン翼を有するターボ分子ポンプ(TMP)を考案、これが1958年に商品化されたのが最初といわれる。
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TMPは良い真空が得られる手軽で便利なポンプである。ロータの支持方式としては、油潤滑式の[[玉軸受]]型とグリス潤滑式、[[磁気軸受|磁気浮上]]型がある。
玉軸受けの油潤滑式は価格が手ごろな利点があるが、取り付け方向は一方向に限られる。グリス潤滑式は取り付け方向に制限が無い場合が多いが、玉軸受け寿命・グリス補給と保守面で課題も多い。
[[磁気浮上]]型は
* 完全にオイルフリー
* 取り付け方向の自由度が高い(逆さまや横向きでも設置可能)
といった利点がある。その代わり、停電時の対策としてバッテリーが必要なものが多い。
近年では、ロータの回転運動エネルギーを電力に回生し、磁気浮上に利用するバッテリーレス化も進んでいる。
構造上、内部のタービン翼が歪むと、高速回転中の動翼と上下に挟まれた固定翼(静翼)同士が接触して一瞬で壊れてしまう恐れがある。またターボ分子ポンプを設置する際には、固定を厳重にしておかねばならない。
== 関連項目 ==
* [[軸流式圧縮機]]
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識字
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識字(しきじ、literacy)とは、文字(書記言語)を読み書きし、理解できること、またその能力。
文字に限らずさまざまな情報の読み書き、理解能力に言及する際には、日本語ではリテラシーという表現が利用される。
識字は日本では読み書きとも呼ばれる。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解できる(読解する)ことを指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)ことを指す。
何をもって識字とするかには様々な定義が存在するが、ユネスコでは、「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる」状態のことを識字と定義している。
この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつとして、特に先進国においては基本的に初等教育で教えられる。したがって、これらの社会では前提として文字体型を構成要素に組み込まれ、識字能力は必須的に生活の様々な場面で求められる。特に、企業などの組織の業務の為に書類を扱ったり、パソコン等の端末を操作する場合には必須である。それとは対照的に、識字率が低い水準にありつつも伝統的な農村や狩猟を中心として成り立つ社会も存在し、その生活に必ずしも識字能力が必要とは限らない。しかしながら、産業革命以降の工業化や近年のインターネット普及に対応する形で、識字率は時と共に高まる傾向にある。このような背景から、識字率を生活水準と直結し、また国や地域の産業力とも相関する傾向があると考えられることから、人間開発指標など多くの開発指標において識字率は重要な要素の一つとなっている。またこの理解のため、開発経済学などにおいても識字率は重要な指標の一つとして用いられる。
また、この項目を読み、内容が理解でき、何らかの形式にて書き出すことができる者は、少なくとも日本語に対する識字能力を持ち合わせているとみなすことができる。
文字を読み書きできないことを「非識字」(ひしきじ)または「文盲」(もんもう)ないし「明き盲」(あきめくら)といい、そのことが、本人に多くの不利益を与え、国や地域の発展にとっても不利益になることがあるという考えから、識字率の高さは基礎教育の浸透状況を測る指針として、広く使われている(「識字率が低い」場合は「文盲率が高い」とも言い換えられる)。
なお、「文盲」や「明き盲」は視覚障害者に対する差別的ニュアンスを含むことから、現在は公の場で使用することは好ましくないとされている。
18世紀以降、ヨーロッパや北アメリカにおいては識字率の上昇が続いてきた。これは産業革命の進展と近代国家の成立に伴い、国民の教育程度の向上が必須課題となり、国家によって義務教育が行われるようになったためである。この傾向は20世紀に入り、産業化の遅れたアジアやアフリカ、南アメリカなどの諸国が国民の教育に力を入れるようになったことでさらに加速した。第二次世界大戦後、世界の識字率は順調に向上しており、1970年には全世界の36.6%が非識字者だったものが、2000年には20.3%にまで減少している。しかし、まだ世界の全ての人がこの能力を獲得する教育機会を持っているわけではない。また、男性の非識字率よりも女性の非識字率の方がはるかに高く、2000年には男性の非識字者が14.8%だったのに対し、女性の非識字者は25.8%にのぼっていた。ただしこの男女間格差は縮小傾向にあり、1970年に比べて2000年には5%ほど格差が縮小していた。地域的にみると、識字者の急増は全世界的に共通しており、どの地域においても非識字率は急減する傾向にあるが、なかでも東アジアやオセアニアにおいて識字率の向上が著しい。識字率は北アメリカやヨーロッパにおいて最も高いが、東アジア・オセアニア・ラテンアメリカの識字率もそれに次いで高く、この3地域における非識字者は1割強に過ぎない。それに対し、アフリカ・中東・南アジアの非識字率はいまだに高く、4割程度が文字を利用することができない。最も世界で非識字率が高いのは南アジアであり、2000年のデータでは約45%が非識字者である。アフリカにおいては2001年のデータで非識字率は37%となっている。また、非識字率は急減を続けているものの、非識字者の実数は減少せず、むしろやや増加している地域も存在する。
発展途上国、特に第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においては識字率が非常に低いところが多かったが、識字および教育は国力に直結するとの認識はすでに確立されていたため、これらの発展途上国の多くは初等教育に力を入れ、識字率の向上に努めた。途上国政府のみならず、先進各国の政府も識字能力の向上のため多額の援助を行い、多数のNGOも積極的な支援を行った。これらの努力により前述のように途上国の識字率は急上昇をつづけているが、教員や予算の不足によって国内のすみずみまで充実した公教育を提供することのできない政府も多く、アフリカの一部においてはいまだ識字率が50%を切っている国家も存在する。
第二次世界大戦後に設立されたユネスコは識字率の向上を重要課題の一つと位置付けており、様々な識字計画を推進している。その一環として1966年には毎年9月8日が国際識字デーと定められ、1990年は国際識字年として様々な取組が行われた。そして識字への取り組みをより強化するために、2003年には「国連識字の10年」が開始され、2012年まで10年にわたって行われた。
文字を読み書きできない非識字(illiteracy)と読み書きを流暢にできる段階(full fluency)の間には、初歩的な読み書きを行えても、社会参加のための読み書きを満足に使いこなせない段階が存在する。これが機能的非識字(functional illiteracy)である。1956年にウィリアム・グレイ(William S. Gray)は識字教育に関する調査研究報告書の中で、「機能的識字(functional literacy)」の概念を明確にして、識字教育の目標を機能的識字能力を獲得することに設定すべきと提言した。
一般に、識字率の調査は、角(2012)の研究で詳述されているように、実施方法・費用調達の点において、設計と実施が極めて困難であり、流布されている数値の信頼性はかなり低いと考えなければならない。この識字率の信頼性の低さは先進国・途上国を問わない。途上国の多くにおいては国勢調査時の回答または初等教育の就学率がそのまま識字率として流用されるケースが多く、一方先進国においてはほとんどすべての人が識字能力を持っていると推定され、非識字者があまりにも少なく必要性が疑わしいため調査を行わず、「ほぼ全員が識字能力を持つ」という意味で識字率99%と回答することが多いためである。日本においても識字率調査は第二次世界大戦後にGHQの要請で行われた1948年(昭和23年)の調査を最後に行われていない。このため、アメリカや日本といった多くの先進国の識字率は99%以上と推定されてはいるものの、国連開発計画の調査データにおいては調査が行われていないためにデータは空欄となっている。
2015年時点で最も識字率の低い国家はアフリカ大陸のニジェールであり、識字率は19.1%にとどまっている。以下、識字率が低い順にギニア、ブルキナファソ、中央アフリカ、アフガニスタン、ベナン、マリ、チャド、コートジボワール、リベリアの順となっており、これらの国家の識字率はいずれも50%を割っている。
その歴史において文字を持たなかった文明においては識字という概念が存在しないのは当然であるが、文字を発明または導入した文明においても古代から中世における識字率はどこも非常に低いものだった。文字を記し保存する媒体、およびそれを複製する手段に制限があったため文字自体の重要性が低く、貴族など社会の指導層や聖職者を除いて識字能力を獲得する必要性が少なかったためである。こうした状況は、紙の発明によって媒体の制限がやや緩んだものの、どの社会においても中世にいたるまでほとんど変わらなかった。このため多くの宗教団体では神や教祖、礼拝の様子、伝説や逸話などを描いた宗教画を庶民への布教に利用し、宗教美術として発展した。
農業においては暦の把握は重要であるが、文字を読めない農民に理解させるため絵で表した盲暦のような工夫も行われた。
こうした状況は、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の発明によって大きく変化した。活版印刷によって本が大量に供給されるようになり、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになったため、識字の必要性が急激に高まったのである。また印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、識字の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となったため、識字能力の重要性はさらに増大した。
全ての文化で文字があるわけではなく無文字社会も多かったが、19世紀以降にはラテン文字などによる正書法を定めるようになり、カトリックやプロテスタントの宣教師は文字を持たない民族への布教において現地諸言語のラテン文字化を推進した。
世界最古の文明のひとつであるメソポタミアではすでに文字が発明されており、各都市では学校が設立され書記が養成されて行政文書の作成にあたっていた。またシュメール文学も確立していた。しかし文字の読み書きは特殊技能であり、書記以外のほとんどの人は文字の読み書きができず、識字率は非常に低かったと考えられている。各都市の王でさえ識字能力は求められず、まれに識字能力を持つ王が現れた場合、記録にはそのことが高らかにうたわれていることがある。
古代エジプトの教育制度については不明な点が多いが、裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施されており、医学・数学・建築・農業・司法制度などの発展に寄与した。また古代エジプト文学も確立しており、一定の識字率があったと推測されている。
ローマ帝国では軍隊の入隊試験にラテン語試験が組み込まれる、ラテン語教師に市民権が与えられる等、国の政策で公用語であるラテン語の普及に努め、軍隊の指示の迅速化や地方行政の円滑化を図っていた。
中世も後期に入ると知識階級の間ではローマ教会の公用語であったラテン語の読み書きが広まり、ヨーロッパ内で知識人たちは自由にやり取りをすることが可能となっていったが、一般民衆には全く縁のないものであった。教育、特に高等教育はすべてラテン語で行われ、書物もラテン語で書かれ、聖書もラテン語で書かれるものであり、一般民衆がこれらを読むことは困難だった。これはすなわち、各地方の言語で行われる一般市民による音声言語の文化と、知識人たちによる文章言語の文化が断絶していたことを示している。キリスト教では聖書の内容を描いた宗教画が盛んに描かれ、庶民層への布教に使われた。
この状況が変化するのは、マルティン・ルターによって宗教改革が開始されてからである。プロテスタント諸派は聖書を信仰の中心に据えたため、一般市民も聖書を読むことができるよう聖書の各国語への翻訳と民衆への教育を積極的に行い始めた。同様の理由でこの時期プロテスタント圏においては義務教育が提唱されるようになり、17世紀前半にはワイマール公国・ゴータ公国・マサチューセッツ植民地などで義務教育が導入されるようになった。その後もプロテスタント圏における義務教育推進や母国語識字教育は続き、18世紀には周辺地域に比べ新教地域の識字率は高かったとされている。こうした教育の普及努力により、17世紀以降西ヨーロッパ諸国において識字率は徐々に上昇を始めた。しかしこの時期においても知識階級の文章言語はラテン語のままであった。
17世紀と18世紀を通じ上昇を続けた識字率は、19世紀に入るとより一層上昇するようになった。これは産業革命の開始によって識字能力が業務上多くの職種において必須となり、国力を増進させたい国家と生活水準を上昇させたい市民がともに識字能力を強く求めるようになったからである。ほとんどの国で義務教育が導入されるようになり、またラテン語にかわって各国語において高度な知識が記述され出版されるようになり、知識階級と一般市民の文章言語の断絶が解消したのもこの時期のことである。19世紀末には、イギリスやフランスなど当時の最先進国においては識字率が9割を越え、ほとんどの人々が文字を読み書きすることが可能となっていた。
日本での文字の普及は比較的遅く、6世紀頃からである。近世以前には公家や僧侶など知識階級は、中国からもたらされた漢籍(四書五経など)や仏典を通して漢字や漢文の読み書きを修得しており、江戸時代までこれらの書物が教科書として利用され、明治維新後にも一部が利用された。
公家や僧侶以外には中央との文章をやりとりする在地領主、商取引に証文が必要な有徳人などが書いた文章が残されている。庶民層の普及は不明だが、1311年ごろの書かれた土地取引の証文では、女性が土地の売主となっていたことから仮名で書かれていた。また拇印する例もあった。
一方で、1232年に制定された御成敗式目の意義について、北条泰時が弟の北条重時に宛てた書状(泰時消息文)において、「武士の多くは仮名は読めるが難解な漢文を読めないため、律令について知らないことから、武士にも理解出来る(簡素な)文にした」と記しており、初期の武士の多くは仮名と簡単な漢字しか読めなかったと考えられている。遺言書は偽造を防止するため自筆であったが、多くは仮名で書かれている。武士の間では公式な文章を作成する際には書札礼に精通した右筆に代筆させ、自身は署名・花押を押すという習慣が広まった。後に武士の識字率が向上すると、右筆は次第に秘書や事務官僚化していった。
仏教では庶民層への布教として仏像や仏教絵画などが利用され、仏教美術が発展した。
書物の内容を読み上げて集めた聴衆に聞かせる行為も盛んに行われ、軍記物を読み上げる講談は演芸として発展した。
室町時代には読み書きが広い階層へ普及し始めたため、『下学集』や「節用集」などの実用的な辞典が編纂された。これらの辞典は漢字に読み仮名が振られており、仮名については普及していたと考えられている。
1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は、「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァシーリー・ゴロヴニーンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。ここでは漢字と仮名の違いについて言及されていない。一方、近世までの日本の識字率は同時代の北西ヨーロッパには遠く及ばない水準であり、庶民向けに盲暦や絵心経などが考案されるなど、「江戸時代の日本の識字率は世界一だった」という説も現在の研究では否定されている。
江戸時代後期に発展した瓦版には内容を描いた絵も大きく描かれていた。
近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、1877年に滋賀県で実施された最も古い調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は男子89%、女子39%、全体64%であり、群馬県や岡山県でも男女の自署率が50%以上を示していたが、青森県や鹿児島県の男女の自署率は20%未満とかなり低く、地域格差が認められる。
また、1881年に長野県北安曇郡常盤村(現・大町市)で15歳以上の男子882人を対象により詳細な自署率の調査が実施されたが、自署し得ない者35.4%、自署し得る者64.6%との結果が得られており(岡山県の男子の自署率とほぼ同じ)、さらに自署し得る者の内訳は、自己の氏名・村名のみを記し得る者63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を白書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、公布達に加え新聞論説を解読できる者2.6%(当時の新聞論説は片仮名交じり漢文調で、非常に難しかった)となる。したがってこの調査では、自署できる男子のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度である。
ただし、近世の正規文書は話し言葉と全く異なる特殊文体と複雑な書式(書札礼)の知識が必要であり、公家や僧侶など幼少から学習を続けた者か右筆のような専門職が行う仕事であった。近世期で「筆を使えない者」を意味する「無筆者」とは公文書の作成に必要な漢字や正式な文体(漢文)を知らない者を意味しており、庶民のみならず右筆に頼る武士の多くも「無筆者」であった。豊臣秀吉は読み書きが不得意だったことから、800人もの御伽衆を雇い講釈を聞いて知識を取り入れていた。
基本的な仮名は庶民の間でも常識に属し、大衆を読者に想定したおびただしい平仮名主体の仮名草子が発行されていた。
義務教育開始以前の庶民の文字教育を担ったのは寺子屋であり、仮名と初歩的な漢字の学習、および初歩の算数を加えた「読み書き算盤」が主要科目であった。寺子屋の入門率から識字率は推定が可能であるが、確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現・滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。江戸期には武士の子息は7〜8歳になると藩校に入り、四書五経をテキストに素読と習字を学んでいた。
明治時代に欧米式の義務教育が開始され、徐々にその普及が進んでいくにしたがって識字率は上昇していった。しかし明治政府が印章文化の偏重を悪習と考え、欧米諸国にならって署名の制度を導入しようと試みたが、事務の繁雑さと共に識字率の低さを理由に反対意見が相次いだため断念しているなど、明治初期には公共サービスに支障があるレベルだったことが窺える。明治になると文明開化の流れに乗って多数の新聞が創刊されたが、政府を擁護する御用新聞と自由民権派の政論新聞のような知識階級向けか、横浜毎日新聞のような業界紙に近い新聞が中心であった(日本の新聞)。政府は新聞を国民の啓蒙に利用するため積極的に保護する政策を取ったが、その一つとして聴衆に新聞を読み聞かせる新聞解話会の開催を推奨した。1875年ごろになるど、政論中心で知識人を対象とした「大新聞」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「小新聞」に分かれるようになっており、一般市民の識字率が向上したことがうかがえる。この時期の識字率調査としては1899年(明治32年)より第二次世界大戦直前まで、徴兵検査と同時に新成人男子に対し行われた「壮丁教育程度調査」があるが、これによれば調査開始の1899年においては成年男子の23.4%は文字を読むことができず、20歳識字率は76.6%にとどまっていたが、その後識字率は急速に上昇し、1925年(大正14年)には20歳非識字率はわずか0.9%、機能的非識字者を合わせても1.7%にまで減少して、このころまでに新規の非識字者の出現はほぼ消滅したと考えられていた。女性においても1935年(昭和10年)ごろには新規非識字者の出現はほぼなくなったと考えられており、この時点で非識字者は、すでに成人したもののみに限られるという見解が一般的であった。
戦後の日本では初等教育で日本語の読み書きを学習するため成人の非識字者はいないという建前上、積極的な調査研究はほとんど無く、1955年に行われた日本語の読み書きに関する調査でも「日本に読み書きできない人はほとんどいない」という見解に基づき、調査は関東と東北に居住する15~24歳の1460人を対象とした 「国民の読み書き能力調査」のみで終了し、識字率は「終わった課題」とされていた。1948年の大規模調査から時間が経過し、義務教育を受けられなかった者の存在や、在留外国人が母国から呼び寄せた子息の増加など社会構造の変化を捉えていないとされ、国立国語研究所で識字率の調査を行う野山広は「識字率100%は『共同幻想』」という意見を述べている。NHKが独自に行った2017年の調査では、義務教育を受けられないため基本的な日本語の読み書きが出来ない成人や、成人後に夜間中学校で習得した事例も確認されており、正確な識字率は不明である。現代では病気や不登校、外国人などの理由などで義務教育を十分に受けていないが書類上では卒業した「形式卒業者」がおり、2020年の国勢調査で最終学歴を「小卒」と答えた84万人の内、戦後の混乱期に就学時期が重なっていない50代以下も2万人ほどおり、漢字が読めないため就業に支障を来している者が確認されている。また第二次世界大戦後の混乱により樺太に取り残され、後に日本に帰国した樺太残留邦人の中にも日本語の読み書きが出来ない者がいる。
国立国語研究所では現代の問題を踏まえ識字率の試行調査として一部の夜間中学で調査を行っており、さらに日本語学校や全国規模の調査を計画している。「日本人は識字率が高い」とされる根拠の1948年GHQ調査とその報告書「日本人の読み書き能力」(東京大学出版部、1951年)についても科学的な再検討の必要性を主張している。
日本語の表記は複雑過ぎて教育に支障が出るとして、明治時代と日本の第二次世界大戦敗戦(1945年-)後に漢字廃止論やローマ字論が起きたが、実際に行われたのは当用漢字による漢字制限などに留まった。
近代以前の東アジアでは中国の影響により知識階級は漢籍や仏典で漢字を習得していたが、庶民層は自国の文字を使うため、漢字を知る支配階級と格差が存在した事例が多い。
中国では1950年代から、識字率を引き上げる目的で簡体字を採用し、多くの漢字を9画以内に収めた。
15世紀にハングルを創製して表音文字を導入した朝鮮では、ハングルのみを知っている人間は庶民にも少なからずいたが、漢字に関しては初歩的な字以上の知識を持つ者は非常に少なく、知識階級や富裕な商人に限られていた。
ベトナムでは表音文字を自力で開発しなかったため、複雑なチュノムと漢字を知ることができる層と、それ以外とに分かれ、庶民は文字を知っていても、少数の漢字とチュノムを書けるだけという例が多かった。
イングランドにおいて機能的識字が社会的に浸透したのは、11 - 13世紀とされる。
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"text": "識字(しきじ、literacy)とは、文字(書記言語)を読み書きし、理解できること、またその能力。",
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"text": "文字に限らずさまざまな情報の読み書き、理解能力に言及する際には、日本語ではリテラシーという表現が利用される。",
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"text": "識字は日本では読み書きとも呼ばれる。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解できる(読解する)ことを指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)ことを指す。",
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"text": "何をもって識字とするかには様々な定義が存在するが、ユネスコでは、「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる」状態のことを識字と定義している。",
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"text": "この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつとして、特に先進国においては基本的に初等教育で教えられる。したがって、これらの社会では前提として文字体型を構成要素に組み込まれ、識字能力は必須的に生活の様々な場面で求められる。特に、企業などの組織の業務の為に書類を扱ったり、パソコン等の端末を操作する場合には必須である。それとは対照的に、識字率が低い水準にありつつも伝統的な農村や狩猟を中心として成り立つ社会も存在し、その生活に必ずしも識字能力が必要とは限らない。しかしながら、産業革命以降の工業化や近年のインターネット普及に対応する形で、識字率は時と共に高まる傾向にある。このような背景から、識字率を生活水準と直結し、また国や地域の産業力とも相関する傾向があると考えられることから、人間開発指標など多くの開発指標において識字率は重要な要素の一つとなっている。またこの理解のため、開発経済学などにおいても識字率は重要な指標の一つとして用いられる。",
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"text": "また、この項目を読み、内容が理解でき、何らかの形式にて書き出すことができる者は、少なくとも日本語に対する識字能力を持ち合わせているとみなすことができる。",
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"text": "文字を読み書きできないことを「非識字」(ひしきじ)または「文盲」(もんもう)ないし「明き盲」(あきめくら)といい、そのことが、本人に多くの不利益を与え、国や地域の発展にとっても不利益になることがあるという考えから、識字率の高さは基礎教育の浸透状況を測る指針として、広く使われている(「識字率が低い」場合は「文盲率が高い」とも言い換えられる)。",
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"text": "なお、「文盲」や「明き盲」は視覚障害者に対する差別的ニュアンスを含むことから、現在は公の場で使用することは好ましくないとされている。",
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"text": "18世紀以降、ヨーロッパや北アメリカにおいては識字率の上昇が続いてきた。これは産業革命の進展と近代国家の成立に伴い、国民の教育程度の向上が必須課題となり、国家によって義務教育が行われるようになったためである。この傾向は20世紀に入り、産業化の遅れたアジアやアフリカ、南アメリカなどの諸国が国民の教育に力を入れるようになったことでさらに加速した。第二次世界大戦後、世界の識字率は順調に向上しており、1970年には全世界の36.6%が非識字者だったものが、2000年には20.3%にまで減少している。しかし、まだ世界の全ての人がこの能力を獲得する教育機会を持っているわけではない。また、男性の非識字率よりも女性の非識字率の方がはるかに高く、2000年には男性の非識字者が14.8%だったのに対し、女性の非識字者は25.8%にのぼっていた。ただしこの男女間格差は縮小傾向にあり、1970年に比べて2000年には5%ほど格差が縮小していた。地域的にみると、識字者の急増は全世界的に共通しており、どの地域においても非識字率は急減する傾向にあるが、なかでも東アジアやオセアニアにおいて識字率の向上が著しい。識字率は北アメリカやヨーロッパにおいて最も高いが、東アジア・オセアニア・ラテンアメリカの識字率もそれに次いで高く、この3地域における非識字者は1割強に過ぎない。それに対し、アフリカ・中東・南アジアの非識字率はいまだに高く、4割程度が文字を利用することができない。最も世界で非識字率が高いのは南アジアであり、2000年のデータでは約45%が非識字者である。アフリカにおいては2001年のデータで非識字率は37%となっている。また、非識字率は急減を続けているものの、非識字者の実数は減少せず、むしろやや増加している地域も存在する。",
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"text": "発展途上国、特に第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においては識字率が非常に低いところが多かったが、識字および教育は国力に直結するとの認識はすでに確立されていたため、これらの発展途上国の多くは初等教育に力を入れ、識字率の向上に努めた。途上国政府のみならず、先進各国の政府も識字能力の向上のため多額の援助を行い、多数のNGOも積極的な支援を行った。これらの努力により前述のように途上国の識字率は急上昇をつづけているが、教員や予算の不足によって国内のすみずみまで充実した公教育を提供することのできない政府も多く、アフリカの一部においてはいまだ識字率が50%を切っている国家も存在する。",
"title": "識字状況"
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"text": "第二次世界大戦後に設立されたユネスコは識字率の向上を重要課題の一つと位置付けており、様々な識字計画を推進している。その一環として1966年には毎年9月8日が国際識字デーと定められ、1990年は国際識字年として様々な取組が行われた。そして識字への取り組みをより強化するために、2003年には「国連識字の10年」が開始され、2012年まで10年にわたって行われた。",
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"text": "文字を読み書きできない非識字(illiteracy)と読み書きを流暢にできる段階(full fluency)の間には、初歩的な読み書きを行えても、社会参加のための読み書きを満足に使いこなせない段階が存在する。これが機能的非識字(functional illiteracy)である。1956年にウィリアム・グレイ(William S. Gray)は識字教育に関する調査研究報告書の中で、「機能的識字(functional literacy)」の概念を明確にして、識字教育の目標を機能的識字能力を獲得することに設定すべきと提言した。",
"title": "識字状況"
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"text": "一般に、識字率の調査は、角(2012)の研究で詳述されているように、実施方法・費用調達の点において、設計と実施が極めて困難であり、流布されている数値の信頼性はかなり低いと考えなければならない。この識字率の信頼性の低さは先進国・途上国を問わない。途上国の多くにおいては国勢調査時の回答または初等教育の就学率がそのまま識字率として流用されるケースが多く、一方先進国においてはほとんどすべての人が識字能力を持っていると推定され、非識字者があまりにも少なく必要性が疑わしいため調査を行わず、「ほぼ全員が識字能力を持つ」という意味で識字率99%と回答することが多いためである。日本においても識字率調査は第二次世界大戦後にGHQの要請で行われた1948年(昭和23年)の調査を最後に行われていない。このため、アメリカや日本といった多くの先進国の識字率は99%以上と推定されてはいるものの、国連開発計画の調査データにおいては調査が行われていないためにデータは空欄となっている。",
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"text": "2015年時点で最も識字率の低い国家はアフリカ大陸のニジェールであり、識字率は19.1%にとどまっている。以下、識字率が低い順にギニア、ブルキナファソ、中央アフリカ、アフガニスタン、ベナン、マリ、チャド、コートジボワール、リベリアの順となっており、これらの国家の識字率はいずれも50%を割っている。",
"title": "国別の識字率"
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"text": "その歴史において文字を持たなかった文明においては識字という概念が存在しないのは当然であるが、文字を発明または導入した文明においても古代から中世における識字率はどこも非常に低いものだった。文字を記し保存する媒体、およびそれを複製する手段に制限があったため文字自体の重要性が低く、貴族など社会の指導層や聖職者を除いて識字能力を獲得する必要性が少なかったためである。こうした状況は、紙の発明によって媒体の制限がやや緩んだものの、どの社会においても中世にいたるまでほとんど変わらなかった。このため多くの宗教団体では神や教祖、礼拝の様子、伝説や逸話などを描いた宗教画を庶民への布教に利用し、宗教美術として発展した。",
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"text": "農業においては暦の把握は重要であるが、文字を読めない農民に理解させるため絵で表した盲暦のような工夫も行われた。",
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"text": "こうした状況は、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷の発明によって大きく変化した。活版印刷によって本が大量に供給されるようになり、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになったため、識字の必要性が急激に高まったのである。また印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、識字の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となったため、識字能力の重要性はさらに増大した。",
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"text": "全ての文化で文字があるわけではなく無文字社会も多かったが、19世紀以降にはラテン文字などによる正書法を定めるようになり、カトリックやプロテスタントの宣教師は文字を持たない民族への布教において現地諸言語のラテン文字化を推進した。",
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"text": "世界最古の文明のひとつであるメソポタミアではすでに文字が発明されており、各都市では学校が設立され書記が養成されて行政文書の作成にあたっていた。またシュメール文学も確立していた。しかし文字の読み書きは特殊技能であり、書記以外のほとんどの人は文字の読み書きができず、識字率は非常に低かったと考えられている。各都市の王でさえ識字能力は求められず、まれに識字能力を持つ王が現れた場合、記録にはそのことが高らかにうたわれていることがある。",
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"text": "古代エジプトの教育制度については不明な点が多いが、裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施されており、医学・数学・建築・農業・司法制度などの発展に寄与した。また古代エジプト文学も確立しており、一定の識字率があったと推測されている。",
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"text": "ローマ帝国では軍隊の入隊試験にラテン語試験が組み込まれる、ラテン語教師に市民権が与えられる等、国の政策で公用語であるラテン語の普及に努め、軍隊の指示の迅速化や地方行政の円滑化を図っていた。",
"title": "歴史"
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"text": "中世も後期に入ると知識階級の間ではローマ教会の公用語であったラテン語の読み書きが広まり、ヨーロッパ内で知識人たちは自由にやり取りをすることが可能となっていったが、一般民衆には全く縁のないものであった。教育、特に高等教育はすべてラテン語で行われ、書物もラテン語で書かれ、聖書もラテン語で書かれるものであり、一般民衆がこれらを読むことは困難だった。これはすなわち、各地方の言語で行われる一般市民による音声言語の文化と、知識人たちによる文章言語の文化が断絶していたことを示している。キリスト教では聖書の内容を描いた宗教画が盛んに描かれ、庶民層への布教に使われた。",
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"text": "この状況が変化するのは、マルティン・ルターによって宗教改革が開始されてからである。プロテスタント諸派は聖書を信仰の中心に据えたため、一般市民も聖書を読むことができるよう聖書の各国語への翻訳と民衆への教育を積極的に行い始めた。同様の理由でこの時期プロテスタント圏においては義務教育が提唱されるようになり、17世紀前半にはワイマール公国・ゴータ公国・マサチューセッツ植民地などで義務教育が導入されるようになった。その後もプロテスタント圏における義務教育推進や母国語識字教育は続き、18世紀には周辺地域に比べ新教地域の識字率は高かったとされている。こうした教育の普及努力により、17世紀以降西ヨーロッパ諸国において識字率は徐々に上昇を始めた。しかしこの時期においても知識階級の文章言語はラテン語のままであった。",
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"text": "17世紀と18世紀を通じ上昇を続けた識字率は、19世紀に入るとより一層上昇するようになった。これは産業革命の開始によって識字能力が業務上多くの職種において必須となり、国力を増進させたい国家と生活水準を上昇させたい市民がともに識字能力を強く求めるようになったからである。ほとんどの国で義務教育が導入されるようになり、またラテン語にかわって各国語において高度な知識が記述され出版されるようになり、知識階級と一般市民の文章言語の断絶が解消したのもこの時期のことである。19世紀末には、イギリスやフランスなど当時の最先進国においては識字率が9割を越え、ほとんどの人々が文字を読み書きすることが可能となっていた。",
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"text": "日本での文字の普及は比較的遅く、6世紀頃からである。近世以前には公家や僧侶など知識階級は、中国からもたらされた漢籍(四書五経など)や仏典を通して漢字や漢文の読み書きを修得しており、江戸時代までこれらの書物が教科書として利用され、明治維新後にも一部が利用された。",
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"text": "公家や僧侶以外には中央との文章をやりとりする在地領主、商取引に証文が必要な有徳人などが書いた文章が残されている。庶民層の普及は不明だが、1311年ごろの書かれた土地取引の証文では、女性が土地の売主となっていたことから仮名で書かれていた。また拇印する例もあった。",
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"text": "一方で、1232年に制定された御成敗式目の意義について、北条泰時が弟の北条重時に宛てた書状(泰時消息文)において、「武士の多くは仮名は読めるが難解な漢文を読めないため、律令について知らないことから、武士にも理解出来る(簡素な)文にした」と記しており、初期の武士の多くは仮名と簡単な漢字しか読めなかったと考えられている。遺言書は偽造を防止するため自筆であったが、多くは仮名で書かれている。武士の間では公式な文章を作成する際には書札礼に精通した右筆に代筆させ、自身は署名・花押を押すという習慣が広まった。後に武士の識字率が向上すると、右筆は次第に秘書や事務官僚化していった。",
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"text": "仏教では庶民層への布教として仏像や仏教絵画などが利用され、仏教美術が発展した。",
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"text": "書物の内容を読み上げて集めた聴衆に聞かせる行為も盛んに行われ、軍記物を読み上げる講談は演芸として発展した。",
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"text": "室町時代には読み書きが広い階層へ普及し始めたため、『下学集』や「節用集」などの実用的な辞典が編纂された。これらの辞典は漢字に読み仮名が振られており、仮名については普及していたと考えられている。",
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"text": "1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は、「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァシーリー・ゴロヴニーンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。ここでは漢字と仮名の違いについて言及されていない。一方、近世までの日本の識字率は同時代の北西ヨーロッパには遠く及ばない水準であり、庶民向けに盲暦や絵心経などが考案されるなど、「江戸時代の日本の識字率は世界一だった」という説も現在の研究では否定されている。",
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"text": "江戸時代後期に発展した瓦版には内容を描いた絵も大きく描かれていた。",
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"text": "近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、1877年に滋賀県で実施された最も古い調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は男子89%、女子39%、全体64%であり、群馬県や岡山県でも男女の自署率が50%以上を示していたが、青森県や鹿児島県の男女の自署率は20%未満とかなり低く、地域格差が認められる。",
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"text": "また、1881年に長野県北安曇郡常盤村(現・大町市)で15歳以上の男子882人を対象により詳細な自署率の調査が実施されたが、自署し得ない者35.4%、自署し得る者64.6%との結果が得られており(岡山県の男子の自署率とほぼ同じ)、さらに自署し得る者の内訳は、自己の氏名・村名のみを記し得る者63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を白書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、公布達に加え新聞論説を解読できる者2.6%(当時の新聞論説は片仮名交じり漢文調で、非常に難しかった)となる。したがってこの調査では、自署できる男子のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度である。",
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"text": "ただし、近世の正規文書は話し言葉と全く異なる特殊文体と複雑な書式(書札礼)の知識が必要であり、公家や僧侶など幼少から学習を続けた者か右筆のような専門職が行う仕事であった。近世期で「筆を使えない者」を意味する「無筆者」とは公文書の作成に必要な漢字や正式な文体(漢文)を知らない者を意味しており、庶民のみならず右筆に頼る武士の多くも「無筆者」であった。豊臣秀吉は読み書きが不得意だったことから、800人もの御伽衆を雇い講釈を聞いて知識を取り入れていた。",
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"text": "基本的な仮名は庶民の間でも常識に属し、大衆を読者に想定したおびただしい平仮名主体の仮名草子が発行されていた。",
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"text": "義務教育開始以前の庶民の文字教育を担ったのは寺子屋であり、仮名と初歩的な漢字の学習、および初歩の算数を加えた「読み書き算盤」が主要科目であった。寺子屋の入門率から識字率は推定が可能であるが、確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現・滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。江戸期には武士の子息は7〜8歳になると藩校に入り、四書五経をテキストに素読と習字を学んでいた。",
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"text": "明治時代に欧米式の義務教育が開始され、徐々にその普及が進んでいくにしたがって識字率は上昇していった。しかし明治政府が印章文化の偏重を悪習と考え、欧米諸国にならって署名の制度を導入しようと試みたが、事務の繁雑さと共に識字率の低さを理由に反対意見が相次いだため断念しているなど、明治初期には公共サービスに支障があるレベルだったことが窺える。明治になると文明開化の流れに乗って多数の新聞が創刊されたが、政府を擁護する御用新聞と自由民権派の政論新聞のような知識階級向けか、横浜毎日新聞のような業界紙に近い新聞が中心であった(日本の新聞)。政府は新聞を国民の啓蒙に利用するため積極的に保護する政策を取ったが、その一つとして聴衆に新聞を読み聞かせる新聞解話会の開催を推奨した。1875年ごろになるど、政論中心で知識人を対象とした「大新聞」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「小新聞」に分かれるようになっており、一般市民の識字率が向上したことがうかがえる。この時期の識字率調査としては1899年(明治32年)より第二次世界大戦直前まで、徴兵検査と同時に新成人男子に対し行われた「壮丁教育程度調査」があるが、これによれば調査開始の1899年においては成年男子の23.4%は文字を読むことができず、20歳識字率は76.6%にとどまっていたが、その後識字率は急速に上昇し、1925年(大正14年)には20歳非識字率はわずか0.9%、機能的非識字者を合わせても1.7%にまで減少して、このころまでに新規の非識字者の出現はほぼ消滅したと考えられていた。女性においても1935年(昭和10年)ごろには新規非識字者の出現はほぼなくなったと考えられており、この時点で非識字者は、すでに成人したもののみに限られるという見解が一般的であった。",
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"text": "戦後の日本では初等教育で日本語の読み書きを学習するため成人の非識字者はいないという建前上、積極的な調査研究はほとんど無く、1955年に行われた日本語の読み書きに関する調査でも「日本に読み書きできない人はほとんどいない」という見解に基づき、調査は関東と東北に居住する15~24歳の1460人を対象とした 「国民の読み書き能力調査」のみで終了し、識字率は「終わった課題」とされていた。1948年の大規模調査から時間が経過し、義務教育を受けられなかった者の存在や、在留外国人が母国から呼び寄せた子息の増加など社会構造の変化を捉えていないとされ、国立国語研究所で識字率の調査を行う野山広は「識字率100%は『共同幻想』」という意見を述べている。NHKが独自に行った2017年の調査では、義務教育を受けられないため基本的な日本語の読み書きが出来ない成人や、成人後に夜間中学校で習得した事例も確認されており、正確な識字率は不明である。現代では病気や不登校、外国人などの理由などで義務教育を十分に受けていないが書類上では卒業した「形式卒業者」がおり、2020年の国勢調査で最終学歴を「小卒」と答えた84万人の内、戦後の混乱期に就学時期が重なっていない50代以下も2万人ほどおり、漢字が読めないため就業に支障を来している者が確認されている。また第二次世界大戦後の混乱により樺太に取り残され、後に日本に帰国した樺太残留邦人の中にも日本語の読み書きが出来ない者がいる。",
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"paragraph_id": 39,
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"text": "国立国語研究所では現代の問題を踏まえ識字率の試行調査として一部の夜間中学で調査を行っており、さらに日本語学校や全国規模の調査を計画している。「日本人は識字率が高い」とされる根拠の1948年GHQ調査とその報告書「日本人の読み書き能力」(東京大学出版部、1951年)についても科学的な再検討の必要性を主張している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本語の表記は複雑過ぎて教育に支障が出るとして、明治時代と日本の第二次世界大戦敗戦(1945年-)後に漢字廃止論やローマ字論が起きたが、実際に行われたのは当用漢字による漢字制限などに留まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "近代以前の東アジアでは中国の影響により知識階級は漢籍や仏典で漢字を習得していたが、庶民層は自国の文字を使うため、漢字を知る支配階級と格差が存在した事例が多い。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "中国では1950年代から、識字率を引き上げる目的で簡体字を採用し、多くの漢字を9画以内に収めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "15世紀にハングルを創製して表音文字を導入した朝鮮では、ハングルのみを知っている人間は庶民にも少なからずいたが、漢字に関しては初歩的な字以上の知識を持つ者は非常に少なく、知識階級や富裕な商人に限られていた。",
"title": "歴史"
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"text": "ベトナムでは表音文字を自力で開発しなかったため、複雑なチュノムと漢字を知ることができる層と、それ以外とに分かれ、庶民は文字を知っていても、少数の漢字とチュノムを書けるだけという例が多かった。",
"title": "歴史"
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"text": "イングランドにおいて機能的識字が社会的に浸透したのは、11 - 13世紀とされる。",
"title": "歴史"
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] |
識字(しきじ、literacy)とは、文字(書記言語)を読み書きし、理解できること、またその能力。 文字に限らずさまざまな情報の読み書き、理解能力に言及する際には、日本語ではリテラシーという表現が利用される。
|
'''識字'''(しきじ、[[:en:literacy|literacy]])とは、[[文字]]([[書記言語]])を読み書きし、理解できること、またその能力。
文字に限らずさまざまな情報の読み書き、理解能力に言及する際には、日本語では'''[[リテラシー]]'''という表現が利用される。
== 概説 ==
[[ファイル:World illiteracy 1970-2010.svg|thumb|1970年から2015年にかけての45年間の全世界の非識字率の推移。この45年間に非識字率は半減した]]
[[ファイル:Figure 5 Literacy has rapidly spread Reading the past writing the future.svg|thumb|1990年から2015年にかけての25年間における世界各地域の識字率の推移。発展途上国において急速な識字率の上昇が認められる]]
識字は[[日本]]では'''読み書き'''とも呼ばれる。'''読む'''とは文字に書かれた[[言語]]の一字一字を正しく[[発音]]して[[理解]]できる([[読解]]する)ことを指し、'''書く'''とは文字を言語に合わせて正しく記す([[筆記]]する)ことを指す。
何をもって識字とするかには様々な定義が存在するが、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]では、「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる」状態のことを識字と定義している<ref>https://www.accu.or.jp/jp/activity/education/02-01d.html 公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター (ACCU) 2017年12月16日</ref>。
この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつとして、特に先進国においては基本的に[[初等教育]]で教えられる。したがって、これらの社会では前提として文字体型を構成要素に組み込まれ、識字能力は必須的に生活の様々な場面で求められる。特に、[[企業]]などの組織の業務の為に書類を扱ったり、パソコン等の端末を操作する場合には必須である。それとは対照的に、識字率が低い水準にありつつも伝統的な農村や狩猟を中心として成り立つ社会も存在し、その生活に必ずしも識字能力が必要とは限らない。しかしながら、産業革命以降の工業化や近年のインターネット普及に対応する形で、識字率は時と共に高まる傾向にある。このような背景から、識字率を生活水準と直結し、また国や地域の産業力とも相関する傾向があると考えられることから、[[人間開発指標]]など多くの開発指標において識字率は重要な要素の一つとなっている<ref>「生きるための読み書き 発展途上国のリテラシー問題」pv 中村雄祐 みすず書房 2009年9月10日発行</ref>。またこの理解のため、[[開発経済学]]などにおいても識字率は重要な指標の一つとして用いられる。
また、この項目を読み、内容が理解でき、何らかの形式にて書き出すことができる者は、少なくとも日本語に対する識字能力を持ち合わせているとみなすことができる。
文字を読み書きできないことを「'''非識字'''」(ひしきじ)または「'''文盲'''」(もんもう)ないし「'''明き盲'''」(あきめくら)といい、そのことが、本人に多くの不利益を与え、国や地域の発展にとっても不利益になることがあるという考えから、'''識字率'''の高さは基礎教育の浸透状況を測る指針として、広く使われている(「識字率が低い」場合は「文盲率が高い」とも言い換えられる)。
なお、「文盲」や「明き盲」は[[視覚障害者]]に対する差別的ニュアンスを含むことから、現在は公の場で使用することは好ましくないとされている<ref>[https://web.archive.org/web/20010128170100/http://www.houko.com/00/01/S25/100.HTM 公職選挙法48条]で「文盲」が使われていたが、平成25年法律第21号で表現が「心身の故障その他の事由」に改められた。</ref>。
== 識字状況 ==
{| border=0 cellspacing="2" cellpadding="2"
| colspan=3 align="center" bgcolor="#b5b5b5" | '''識字率(推定)'''<br /><small>([[OECD]])</small>
|-
| align="center" bgcolor="#cfcfcf" |
| align="center" bgcolor="#cfcfcf" | 1970年
| align="center" bgcolor="#cfcfcf" | 2000年
|-
| 世界全体
| align="center" | 63 %
| align="center" | 79 %
|-
| bgcolor="#e8e8e8" | 先進国および[[新興工業国]]
| align="center" bgcolor="#e8e8e8" | 95 %
| align="center" bgcolor="#e8e8e8" | 99 %
|-
| [[後発開発途上国]]
| align="center" | 47 %
| align="center" | 73 %
|-
| bgcolor="#e8e8e8" | [[内陸開発途上国]]
| align="center" bgcolor="#e8e8e8" | 27 %
| align="center" bgcolor="#e8e8e8" | 51 %
|}
[[18世紀]]以降、ヨーロッパや北アメリカにおいては識字率の上昇が続いてきた。これは[[産業革命]]の進展と[[近代国家]]の成立に伴い、国民の教育程度の向上が必須課題となり、国家によって[[義務教育]]が行われるようになったためである。この傾向は[[20世紀]]に入り、産業化の遅れたアジアやアフリカ、南アメリカなどの諸国が国民の教育に力を入れるようになったことでさらに加速した。[[第二次世界大戦]]後、世界の識字率は順調に向上しており、[[1970年]]には全世界の36.6%が非識字者だったものが、[[2000年]]には20.3%にまで減少している<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p38">『国際教育協力を志す人のために 平和・共生の構築へ』 p.38.千葉杲弘監修 寺尾明人・永田佳之編 学文社 2004年10月10日第1版第1刷</ref>。しかし、まだ世界の全ての人がこの能力を獲得する教育機会を持っているわけではない。また、男性の非識字率よりも女性の非識字率の方がはるかに高く、2000年には男性の非識字者が14.8%だったのに対し、女性の非識字者は25.8%にのぼっていた<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p39">『国際教育協力を志す人のために 平和・共生の構築へ』 p.39.千葉杲弘監修 寺尾明人・永田佳之編 学文社 2004年10月10日第1版第1刷</ref>。ただしこの男女間格差は縮小傾向にあり、1970年に比べて2000年には5%ほど格差が縮小していた<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p39" />。地域的にみると、識字者の急増は全世界的に共通しており、どの地域においても非識字率は急減する傾向にあるが、なかでも[[東アジア]]や[[オセアニア]]において識字率の向上が著しい。識字率は北アメリカやヨーロッパにおいて最も高いが、東アジア・オセアニア・[[ラテンアメリカ]]の識字率もそれに次いで高く、この3地域における非識字者は1割強に過ぎない。それに対し、[[アフリカ]]・[[中東]]・[[南アジア]]の非識字率はいまだに高く、4割程度が文字を利用することができない。最も世界で非識字率が高いのは南アジアであり、2000年のデータでは約45%が非識字者である<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p40">『国際教育協力を志す人のために 平和・共生の構築へ』 p.40.千葉杲弘監修 寺尾明人・永田佳之編 学文社 2004年10月10日第1版第1刷</ref>。アフリカにおいては2001年のデータで非識字率は37%となっている<ref>『アフリカ経済論』 p.270.北川勝彦・高橋基樹編著 ミネルヴァ書房 2004年11月25日初版第1刷</ref>。また、非識字率は急減を続けているものの、非識字者の実数は減少せず、むしろやや増加している地域も存在する<ref name="千葉監修、寺尾・永田編、2004年、p40" />。
=== 発展途上国における識字運動 ===
発展途上国、特に第二次世界大戦後に独立したアジアやアフリカの新独立国においては識字率が非常に低いところが多かったが、識字および教育は国力に直結するとの認識はすでに確立されていたため、これらの発展途上国の多くは初等教育に力を入れ、識字率の向上に努めた。途上国政府のみならず、先進各国の政府も識字能力の向上のため多額の援助を行い、多数の[[NGO]]も積極的な支援を行った。これらの努力により前述のように途上国の識字率は急上昇をつづけているが、教員や予算の不足によって国内のすみずみまで充実した公教育を提供することのできない政府も多く、アフリカの一部においてはいまだ識字率が50%を切っている国家も存在する。
第二次世界大戦後に設立された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]は識字率の向上を重要課題の一つと位置付けており、様々な識字計画を推進している。その一環として[[1966年]]には毎年[[9月8日]]が[[国際識字デー]]と定められ<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2515456 『「国連識字デー」インドの寺子屋で学ぶ子どもたち』AFPBB 2017年12月27日閲覧</ref>、[[1990年]]は国際識字年として様々な取組が行われた。そして識字への取り組みをより強化するために、[[2003年]]には「国連識字の10年」が開始され、[[2012年]]まで10年にわたって行われた<ref>http://www.unic.or.jp/news_press/messages_speeches/1144/ 「国連識字の10年(2003-2012年)」国連本部で開始 「すべての人に識字を」をスローガンに、国連副事務総長が提唱」国際連合広報センター 2017年12月27日閲覧</ref>。
=== 機能的非識字 ===
{{出典の明記|date=2016年1月|section=1}}
文字を読み書きできない'''非識字'''(illiteracy)と読み書きを'''流暢'''にできる段階(full fluency)の間には、初歩的な読み書きを行えても、社会参加のための読み書きを満足に使いこなせない段階が存在する。これが'''[[機能的非識字]]'''(functional illiteracy)である。[[1956年]]にウィリアム・グレイ([[:en:William S. Gray|William S. Gray]])は識字教育に関する調査研究報告書の中で、「'''機能的識字'''(functional literacy)」の概念を明確にして、識字教育の目標を機能的識字能力を獲得することに設定すべきと提言した。
== 国別の識字率 ==
{{Main|識字率による国順リスト}}
一般に、識字率の調査は、角(2012)の研究で詳述されているように、実施方法・費用調達の点において、設計と実施が極めて困難であり、流布されている数値の信頼性はかなり低いと考えなければならない。この識字率の信頼性の低さは先進国・途上国を問わない。途上国の多くにおいては国勢調査時の回答または初等教育の就学率がそのまま識字率として流用されるケースが多く、一方先進国においてはほとんどすべての人が識字能力を持っていると推定され、非識字者があまりにも少なく必要性が疑わしいため調査を行わず、「ほぼ全員が識字能力を持つ」という意味で識字率99%と回答することが多いためである<ref>『生きるための読み書き 発展途上国のリテラシー問題』 p.13.中村雄祐 みすず書房 2009年9月10日発行</ref>。日本においても識字率調査は第二次世界大戦後にGHQの要請で行われた1948年(昭和23年)の調査を最後に行われていない<ref>https://www.stat.go.jp/library/faq/faq27/faq27n03.html 「各国の識字率」総務省統計局 2017年12月28日閲覧</ref>。このため、[[アメリカ]]や[[日本]]といった多くの先進国の識字率は99%以上と推定されてはいるものの、[[国連開発計画]]の調査データにおいては調査が行われていないためにデータは空欄となっている<ref name="名前なし-1">http://www.jp.undp.org/content/dam/tokyo/docs/Publications/HDR/2011/UNDP_Tok_HDR%202011Statistics_20140211.pdf 「統計別表 - 国連開発計画(UNDP)」p190 2017年12月28日閲覧</ref>。
[[2015年]]時点で最も識字率の低い国家は[[アフリカ大陸]]の[[ニジェール]]であり、識字率は19.1%にとどまっている。以下、識字率が低い順に[[ギニア]]、[[ブルキナファソ]]、[[中央アフリカ]]、[[アフガニスタン]]、[[ベナン]]、[[マリ共和国|マリ]]、[[チャド]]、[[コートジボワール]]、[[リベリア]]の順となっており、これらの国家の識字率はいずれも50%を割っている<ref>http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0908.htm 「9月8日 国際識字デー」総務省 統計局 なるほど統計学園 2017年12月27日閲覧</ref>。
=== アジア ===
[[ファイル:Analfabetismo2013unesco.png|600px|thumb|2013年の識字率一覧]]
* {{AFG}} - 38.2%(男性52.0%、女性24.2%)(2015年)<ref name="sekai2017p266">https://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/2017al.pdf#page=266 「世界の統計2017」p266 総務省統計局 2017年12月27日閲覧</ref>
* {{IRQ}} - 79.7%(男性85.7%、女性73.7%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{IRN}} - 86.8%(男性91.2%、女性82.5%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{INA}} - 93.9%(男性96.3%、女性91.5%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{IND}} - 71.2%(男性81.3%、女性60.6%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{OMA}} - 91.1%(男性93.6%、女性85.6%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{KAZ}} - 99.7%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2">http://www.jp.undp.org/content/dam/tokyo/docs/Publications/HDR/2011/UNDP_Tok_HDR%202011Statistics_20140211.pdf 「統計別表 - 国連開発計画(UNDP)」p191 2017年12月28日閲覧</ref>
* {{QAT}} - 94.7%(男性89.1%、女性88.6%)(2005-2010年)<ref name="名前なし-1"/>
* {{CAM}} - 77.2%(男性84.5%、女性70.5%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{CYP}} - 97.9%(2006-2010年)<ref name="名前なし-1"/>
* {{KGZ}} - 99.2%(2006-2010年)<ref name="名前なし-3">http://www.jp.undp.org/content/dam/tokyo/docs/Publications/HDR/2011/UNDP_Tok_HDR%202011Statistics_20140211.pdf 「統計別表 - 国連開発計画(UNDP)」p192 2017年12月28日閲覧</ref>
* {{KUW}} - 93.9%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2"/>
* {{KSA}} - 94.7%(男性97.0%、女性91.1%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{SYR}} - 84.2%(2006-2010年)<ref name="名前なし-3"/>
* {{SIN}} - 94.7%(2006-2010年)<ref name="名前なし-1"/>
* {{SRI}} - 92.6%(男性93.6%、女性91.7%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{THA}} - 93.5%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2"/>
* {{TJK}} - 99.7%(2006-2010年)<ref name="名前なし-3"/>
* {{TUR}} - 95.0%(男性98.4%、女性91.8%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{CHN}} - 94.0%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2"/>
* {{PAK}} - 57.9%(男性69.5%、女性45.8%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{BAN}} - 61.5%(男性64.6%、女性58.5%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
=== アフリカ ===
* {{NGR}} - 59.6%(男性69.2%、女性49.7%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{LES}} - 79.4%(男性70.1%、女性88.3% 男女の値の比率が逆転している)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
* {{NIG}} - 19.1%(男性27.3%、女性11.0%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
*{{GIN}} - 30.4%(男性38.1%、女性22.8%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
*{{BUR}} - 36.0%(男性43.0%、女性29.3%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
=== 北アメリカ ===
* {{CUB}} - 99.8%(2006-2010年)<ref name="名前なし-3"/>
* {{DOM}} - 91.8%(男性91.2%、女性92.3%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
=== 南アメリカ ===
* {{BRA}} - 90.0%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2"/>
* {{URU}} - 98.3%(2006-2010年)<ref name="名前なし-1"/>
* {{PER}} - 94.5%(男性97.3%、女性91.7%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
=== ヨーロッパ ===
* {{RUS}} - 99.6%(2006-2010年)<ref name="名前なし-2"/>
* {{EST}} - 99.8%(2006-2010年)<ref name="名前なし-1"/>
* {{POR}} - 95.7%(男性97.1%、女性94.4%)(2015年)<ref name="sekai2017p266" />
== 歴史 ==
=== 総論 ===
その歴史において文字を持たなかった文明においては識字という概念が存在しないのは当然であるが、文字を発明または導入した文明においても古代から中世における識字率はどこも非常に低いものだった。文字を記し保存する媒体、およびそれを複製する手段に制限があったため文字自体の重要性が低く、貴族など社会の指導層や聖職者を除いて識字能力を獲得する必要性が少なかったためである。こうした状況は、[[紙]]の発明によって媒体の制限がやや緩んだものの、どの社会においても中世にいたるまでほとんど変わらなかった。このため多くの宗教団体では神や教祖、[[礼拝]]の様子、[[伝説]]や[[逸話]]などを描いた[[宗教画]]を庶民への布教に利用し、[[宗教美術]]として発展した。
農業においては暦の把握は重要であるが、文字を読めない農民に理解させるため絵で表した[[盲暦]]のような工夫も行われた。
こうした状況は、[[ヨハネス・グーテンベルク]]による[[活版印刷]]の発明によって大きく変化した。活版印刷によって[[本]]が大量に供給されるようになり、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになったため、識字の必要性が急激に高まったのである。また印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、識字の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となったため<ref>「印刷・スペース・閉ざされたテキスト」ウォルター・オング(「歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史」所収)p135 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編 林進・大久保公雄訳 新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>、識字能力の重要性はさらに増大した。
全ての文化で文字があるわけではなく無文字社会も多かったが、19世紀以降には[[ラテン文字]]などによる[[正書法]]を定めるようになり、[[カトリック]]や[[プロテスタント]]の[[宣教師]]は文字を持たない民族への布教において現地諸言語のラテン文字化を推進した<ref>「図説 アジア文字入門」p102 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所編 河出書房新社 2005年4月30日初版発行</ref>。
=== メソポタミア ===
世界最古の文明のひとつである[[メソポタミア]]ではすでに文字が発明されており、各都市では学校が設立され[[書記]]が養成されて行政文書の作成にあたっていた。また[[シュメール文学]]も確立していた。しかし文字の読み書きは特殊技能であり、書記以外のほとんどの人は文字の読み書きができず、識字率は非常に低かったと考えられている。各都市の[[王]]でさえ識字能力は求められず、まれに識字能力を持つ王が現れた場合、記録にはそのことが高らかにうたわれていることがある<ref>小林登志子 『シュメル 人類最古の文明』p200-203 中央公論新社〈中公新書〉、2005年。</ref>。
=== 古代エジプト ===
[[古代エジプト]]の教育制度については不明な点が多いが、裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施されており、[[古代エジプト医学|医学]]・[[エジプト数学|数学]]・[[古代エジプト建築|建築]]・農業・司法制度などの発展に寄与した<ref>{{Cite book|title=古代オリエント集|date=1978年4月30日|year=1999|publisher=筑摩書房}}</ref>。また[[古代エジプト文学]]も確立しており、一定の識字率があったと推測されている。
=== ヨーロッパ ===
ローマ帝国では軍隊の入隊試験にラテン語試験が組み込まれる、ラテン語教師に市民権が与えられる等、国の政策で公用語であるラテン語の普及に努め、軍隊の指示の迅速化や地方行政の円滑化を図っていた。
[[中世]]も後期に入ると知識階級の間ではローマ教会の公用語であったラテン語の読み書きが広まり、ヨーロッパ内で知識人たちは自由にやり取りをすることが可能となっていったが、一般民衆には全く縁のないものであった。教育、特に高等教育はすべてラテン語で行われ、書物もラテン語で書かれ、[[聖書]]もラテン語で書かれるものであり、一般民衆がこれらを読むことは困難だった。これはすなわち、各地方の言語で行われる一般市民による音声言語の文化と、知識人たちによる文章言語の文化が断絶していたことを示している{{Sfn|江藤恭二監修|2008|p=22}}。[[キリスト教]]では聖書の内容を描いた宗教画が盛んに描かれ、庶民層への布教に使われた。
この状況が変化するのは、[[マルティン・ルター]]によって[[宗教改革]]が開始されてからである。[[プロテスタント]]諸派は聖書を信仰の中心に据えたため、一般市民も聖書を読むことができるよう聖書の各国語への翻訳と民衆への教育を積極的に行い始めた{{Sfn|江藤恭二監修|2008|p=23}}。同様の理由でこの時期プロテスタント圏においては[[義務教育]]が提唱されるようになり、17世紀前半には[[ワイマール公国]]・[[ゴータ公国]]・[[マサチューセッツ植民地]]などで義務教育が導入されるようになった。その後もプロテスタント圏における義務教育推進や母国語識字教育は続き、18世紀には周辺地域に比べ新教地域の識字率は高かったとされている{{Sfn|江藤恭二監修|2008|p=11}}。こうした教育の普及努力により、17世紀以降西ヨーロッパ諸国において識字率は徐々に上昇を始めた。しかしこの時期においても知識階級の文章言語はラテン語のままであった。
17世紀と18世紀を通じ上昇を続けた識字率は、19世紀に入るとより一層上昇するようになった。これは産業革命の開始によって識字能力が業務上多くの職種において必須となり、国力を増進させたい国家と生活水準を上昇させたい市民がともに識字能力を強く求めるようになったからである。ほとんどの国で義務教育が導入されるようになり、またラテン語にかわって各国語において高度な知識が記述され出版されるようになり、知識階級と一般市民の文章言語の断絶が解消したのもこの時期のことである。19世紀末には、イギリスやフランスなど当時の最先進国においては識字率が9割を越え、ほとんどの人々が文字を読み書きすることが可能となっていた{{Sfn|江藤恭二監修|2008|p=24}}。
=== 日本 ===
==== 近世以前 ====
日本での文字の普及は比較的遅く、[[6世紀]]頃からである<ref>[https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/ 漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか | ことばの疑問 | ことば研究館]</ref>。近世以前には公家や僧侶など知識階級は、中国からもたらされた漢籍([[四書五経]]など)や[[仏典]]を通して[[漢字]]や[[漢文]]の読み書きを修得しており、江戸時代までこれらの書物が教科書として利用され、[[明治維新]]後にも一部が利用された。
公家や僧侶以外には中央との文章をやりとりする[[在地領主]]、商取引に[[証文]]が必要な[[有徳人]]などが書いた文章が残されている。庶民層の普及は不明だが、1311年ごろの書かれた土地取引の証文では、女性が土地の売主となっていたことから仮名で書かれていた<ref>{{Cite web|和書|title=企画展示 {{!}} スケジュール {{!}} こどもれきはく(国立歴史民俗博物館) |url=https://www.rekihaku.ac.jp/kids/schedule/special/o181016.html |website=www.rekihaku.ac.jp |access-date=2023-09-18}}</ref>。また拇印する例もあった<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=中世の古文書 -機能と形- 担当者インタビュー 第4回|これまでの企画展示|企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館 |url=https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/131008/i004.html |website=www.rekihaku.ac.jp |access-date=2023-09-18}}</ref>。
一方で、[[1232年]]に制定された[[御成敗式目]]の意義について、[[北条泰時]]が弟の[[北条重時]]に宛てた書状(泰時消息文)において、「[[武士]]の多くは[[仮名 (文字)|仮名]]は読めるが難解な漢文を読めないため、律令について知らないことから、武士にも理解出来る(簡素な)文にした」と記しており、初期の武士の多くは仮名と簡単な漢字しか読めなかったと考えられている。遺言書は偽造を防止するため自筆であったが、多くは仮名で書かれている。武士の間では公式な文章を作成する際には[[書札礼]]に精通した[[右筆]]に代筆させ、自身は署名・[[花押]]を押すという習慣が広まった。後に武士の識字率が向上すると、右筆は次第に秘書や[[事務官|事務官僚]]化していった。
[[仏教]]では庶民層への布教として[[仏像]]や[[仏教絵画]]などが利用され、[[仏教美術]]が発展した。
書物の内容を読み上げて集めた聴衆に聞かせる行為も盛んに行われ、[[軍記物]]を読み上げる[[講談]]は[[演芸]]として発展した。
[[室町時代]]には読み書きが広い階層へ普及し始めたため、『[[下学集]]』や「[[節用集]]」などの実用的な[[辞典]]が編纂された。これらの辞典は漢字に読み仮名が振られており、仮名については普及していたと考えられている<ref name=":2" />。
[[1443年]]に[[朝鮮通信使]]一行に参加して日本に来た[[申叔舟]]は、「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日した[[ヴァシーリー・ゴロヴニーン]]は「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」<ref>『日本幽囚記』(井上満訳、岩波文庫 p.31 </ref>と述べている。ここでは漢字と仮名の違いについて言及されていない。一方、近世までの日本の識字率は同時代の北西ヨーロッパには遠く及ばない水準であり、庶民向けに[[盲暦]]や[[絵心経]]などが考案されるなど、「江戸時代の日本の識字率は世界一だった」という説も現在の研究では否定されている{{Sfn|岩下誠|2020|p=96}}{{Sfn|ルビンジャー|2008}}。
江戸時代後期に発展した[[瓦版]]には内容を描いた絵も大きく描かれていた<ref>{{Cite web|和書|title=瓦版について |url=https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/11/ |website=www.wul.waseda.ac.jp |access-date=2023-01-08}}</ref>。
近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、[[1877年]]に[[滋賀県]]で実施された最も古い調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は男子89%、女子39%、全体64%であり、[[群馬県]]や[[岡山県]]でも男女の自署率が50%以上を示していたが、[[青森県]]や[[鹿児島県]]の男女の自署率は20%未満とかなり低く、地域格差が認められる<ref name="jisho">[[八鍬友広]], [https://ci.nii.ac.jp/naid/110001175731/ 「近世社会と識字 (<特集> 公教育とリテラシー)]」, 教育學研究, 70(4), 524-535, (2003).</ref>。
また、[[1881年]]に[[長野県]][[北安曇郡]][[常盤村 (長野県北安曇郡)|常盤村]](現・[[大町市]])で15歳以上の男子882人を対象により詳細な自署率の調査が実施されたが、自署し得ない者35.4%、自署し得る者64.6%との結果が得られており(岡山県の男子の自署率とほぼ同じ)、さらに自署し得る者の内訳は、自己の氏名・村名のみを記し得る者63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を白書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、公布達に加え[[新聞]]論説を解読できる者2.6%(当時の新聞論説は片仮名交じり漢文調で、非常に難しかった)となる。したがってこの調査では、自署できる男子のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度である<ref>小林恵胤, 「明治14年の識字調 ―当時の北安曇郡常盤村の場合―」, 長野県 近代史研究, (5), 51-57 (1973).</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small"
|+'''明治期の各県の調査初年次の自署率<br>(文部省年報による)<ref name="jisho"/>'''
!府県!!調査初年次!!調査対象!!男子!!女子!!全体
|-
|{{flagicon|滋賀県}}滋賀県||[[1877年]]||rowspan="2"|満6歳以上||89.23||39.31||64.13
|-
|{{flagicon|群馬県}}群馬県||[[1880年]]||79.13||23.41||52.00
|-
|{{flagicon|青森県}}青森県||[[1881年]]||全住民||37.39||2.71||19.94
|-
|{{flagicon|鹿児島県}}鹿児島県||[[1884年]]||rowspan="2"|満6歳以上||33.43||4.00||18.33
|-
|{{flagicon|岡山県}}岡山県||1887年||65.64||42.05||54.38
|}
ただし、近世の正規文書は話し言葉と全く異なる特殊文体と複雑な書式([[書札礼]])の知識が必要であり、公家や僧侶など幼少から学習を続けた者か[[右筆]]のような専門職が行う仕事であった。近世期で「筆を使えない者」を意味する「無筆者」とは公文書の作成に必要な漢字や正式な文体(漢文)を知らない者を意味しており<ref group="注釈">2023年現在でも、[[出入国管理及び難民認定法]]施行規則第55条において、「'''無筆'''''、身体の故障その他申請書を作成することができない特別の事情がある者''」の口頭申請を認める規定があり、法令用語として「無筆」が使用されている。</ref>、庶民のみならず右筆に頼る武士の多く<ref group="注釈">[[伊達政宗]]の教育係となった[[虎哉宗乙]]のように、裕福な武家は子息のために僧侶などを招聘していたが、大多数は仮名と基本的な漢字のみしか読めなかった。</ref>も「無筆者」であった。[[豊臣秀吉]]は読み書きが不得意だったことから、800人もの[[御伽衆]]を雇い講釈を聞いて知識を取り入れていた{{sfn|桑田|1980|p=322}}。
基本的な仮名は庶民の間でも常識に属し、大衆を読者に想定したおびただしい平仮名主体の[[仮名草子]]が発行されていた。
義務教育開始以前の庶民の文字教育を担ったのは[[寺子屋]]であり、仮名と初歩的な漢字の学習、および初歩の[[算数]]を加えた「読み書き算盤」が主要科目であった。寺子屋の入門率から識字率は推定が可能であるが、確実な記録の残る[[近江国]]神埼郡北庄村(現・[[滋賀県]][[東近江市]])にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される<ref name="jisho"/>。江戸期には武士の子息は7〜8歳になると[[藩校]]に入り、[[四書五経]]をテキストに素読と習字を学んでいた。
==== 近代以後 ====
明治時代に欧米式の[[義務教育]]が開始され、徐々にその普及が進んでいくにしたがって識字率は上昇していった。しかし明治政府が[[印章]]文化の偏重を悪習と考え、欧米諸国にならって[[署名]]の制度を導入しようと試みたが<ref>{{Cite wikisource|title=諸証書ノ姓名ハ自書シ実印ヲ押サシム|wslanguage=ja}} 明治10年[[太政官布告]]第50号</ref>{{sfn|新関欽哉|1991|pp=176–178}}、事務の繁雑さと共に識字率の低さを理由に反対意見が相次いだため断念している{{Sfn|新関欽哉|1991|pp=176–183}}など、明治初期には公共サービスに支障があるレベルだったことが窺える。明治になると[[文明開化]]の流れに乗って多数の新聞が創刊されたが、政府を擁護する[[御用新聞]]と[[自由民権運動|自由民権]]派の[[政論新聞]]のような知識階級向けか、[[横浜毎日新聞]]のような業界紙に近い新聞が中心であった([[日本の新聞]])。政府は新聞を国民の啓蒙に利用するため積極的に保護する政策を取ったが、その一つとして聴衆に新聞を読み聞かせる[[新聞解話会]]の開催を推奨した<ref>{{Cite web|和書|title=館報「開港のひろば」 横浜開港資料館 |url=http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/082/082_05.html |website=www.kaikou.city.yokohama.jp |access-date=2023-01-08}}</ref>。[[1875年]]ごろになるど、政論中心で知識人を対象とした「[[大新聞と小新聞|大新聞]]」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「[[大新聞と小新聞|小新聞]]」に分かれるようになっており、一般市民の識字率が向上したことがうかがえる。この時期の識字率調査としては[[1899年]](明治32年)より第二次世界大戦直前まで、[[徴兵検査]]と同時に新成人男子に対し行われた「壮丁教育程度調査」があるが、これによれば調査開始の1899年においては成年男子の23.4%は文字を読むことができず、20歳識字率は76.6%にとどまっていたが、その後識字率は急速に上昇し、[[1925年]](大正14年)には20歳非識字率はわずか0.9%、機能的非識字者を合わせても1.7%にまで減少して、このころまでに新規の非識字者の出現はほぼ消滅したと考えられていた。女性においても[[1935年]](昭和10年)ごろには新規非識字者の出現はほぼなくなったと考えられており、この時点で非識字者は、すでに成人したもののみに限られるという見解が一般的であった<ref name=hiroshima2014>http://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/uploads/2014/02/15-1-04.pdf 「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄 広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第 15 巻 第 1 号(2012) 55 ~ 57頁 2017年12月28日閲覧</ref>。
戦後の日本では初等教育で日本語の読み書きを学習するため成人の非識字者はいないという建前上、積極的な調査研究はほとんど無く<ref name=hiroshima2014 />、1955年に行われた日本語の読み書きに関する調査でも「日本に読み書きできない人はほとんどいない」という見解に基づき、調査は関東と東北に居住する15~24歳の1460人を対象とした 「国民の読み書き能力調査」のみで終了し<ref name=":0" /><ref name=gendai_001>[https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4057/index.html ひらがなも書けない若者たち ~見過ごされてきた“学びの貧困”~] - [[クローズアップ現代]]</ref>、識字率は「終わった課題」とされていた<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【詳しく】最終学歴“小卒”80万人 50代以下も2万人 なぜ? {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220624/k10013686391000.html |website=NHKニュース |date=2022-06-24 |access-date=2023-06-15 |last=日本放送協会}}</ref>。1948年の大規模調査から時間が経過し、義務教育を受けられなかった者の存在や、在留外国人が母国から呼び寄せた子息の増加など社会構造の変化を捉えていないとされ、[[国立国語研究所]]で識字率の調査を行う野山広は「識字率100%は『[[共同幻想]]』」という意見を述べている<ref name=":1" />。[[日本放送協会|NHK]]が独自に行った2017年の調査では、義務教育を受けられないため基本的な日本語の読み書きが出来ない成人や、成人後に[[中学校|夜間中学校]]で習得した事例<ref>{{Cite web|和書|title=60代から文字を学んで…娘の出生届も書けず、結婚35年で妻に初のラブレター : エンタメ・文化 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211009-OYT1T50133/|website=読売新聞オンライン|date=2021-10-09|accessdate=2021-10-11|language=ja}}</ref>も確認されており、正確な識字率は不明である<ref name=gendai_001 />。現代では病気や不登校、外国人などの理由などで義務教育を十分に受けていないが書類上では卒業した「形式卒業者」がおり、2020年の[[国勢調査]]で最終学歴を「小卒」と答えた84万人の内、戦後の混乱期に就学時期が重なっていない50代以下も2万人ほどおり、漢字が読めないため就業に支障を来している者が確認されている<ref>{{Cite web|和書|title=「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想か 見過ごされてきた「形式卒業者」の存在、注目集める夜間中学 | 47NEWS |url=https://nordot.app/1038705390451458905?c=39546741839462401 |website=47NEWS |date=2023-06-15 |access-date=2023-06-15 |language=ja-JP |last=47NEWS}}</ref><ref name=":1" />。また第二次世界大戦後の混乱により[[樺太]]に取り残され、後に日本に帰国した樺太残留邦人の中にも日本語の読み書きが出来ない者がいる<ref>{{Cite web|和書|title=樺太残留邦人に言葉の壁 日本語「読めない」4割:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/123392|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2021-08-12|language=ja}}</ref>。
[[国立国語研究所]]では現代の問題を踏まえ識字率の試行調査として一部の夜間中学で調査を行っており、さらに日本語学校や全国規模の調査を計画している<ref name=":1" />。「日本人は識字率が高い」とされる根拠の1948年GHQ調査とその報告書「日本人の読み書き能力」(東京大学出版部、1951年)についても科学的な再検討の必要性を主張している<ref>「「識字率高い日本人」根拠曖昧」読売新聞2023年9月19日付朝刊文化面</ref>。
[[日本語の表記体系|日本語の表記]]は複雑過ぎて教育に支障が出るとして、[[明治時代]]と日本の第二次世界大戦敗戦(1945年-)後に[[漢字廃止論]]や[[ローマ字論]]が起きたが、実際に行われたのは[[当用漢字]]による漢字制限などに留まった<ref>[https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202546660224 阿久津 智「日本語表記に関する歴史的考察」]</ref>。
=== アジア ===
近代以前の東アジアでは中国の影響により知識階級は漢籍や仏典で漢字を習得していたが、庶民層は自国の文字を使うため、漢字を知る支配階級と格差が存在した事例が多い。
中国では1950年代から、識字率を引き上げる目的で[[簡体字]]を採用し、多くの漢字を9画以内に収めた。
[[15世紀]]に[[ハングル]]を創製して[[表音文字]]を導入した朝鮮では、ハングルのみを知っている人間は庶民にも少なからずいたが、漢字に関しては初歩的な字以上の知識を持つ者は非常に少なく、知識階級や富裕な商人に限られていた。
ベトナムでは[[表音文字]]を自力で開発しなかったため、複雑な[[チュノム]]と漢字を知ることができる層と、それ以外とに分かれ、庶民は文字を知っていても、少数の漢字とチュノムを書けるだけという例が多かった。
=== その他 ===
[[イングランド]]において[[機能的識字]]が社会的に浸透したのは、11 - 13世紀とされる<ref>{{Cite book|和書|title=日本の歴史11 太平記の時代|date=2001年|publisher=講談社|pages=244|author=新田一郎}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name=":0">[https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2219/GKH020807.pdf 「日本人の読み書き能力調査 」(1948)の再検証]</ref>
}}
== 参考文献 ==
* あべ・やすし 「均質な文字社会という神話−識字率から読書権へ-」『社会言語学』VI、2006年
* あべ・やすし 「漢字という障害」([[ましこ・ひでのり]]編著『ことば/権力/差別』三元社)、2006年
* {{Cite book |和書 |author=岩下誠 |authorlink=岩下誠 |chapter=人々は{{ruby|読み書き能力|リテラシー}}をどのように使ったか |year=2020 |title=問いからはじめる教育史 |publisher=有斐閣 |pages=85〜108 |editor=岩下誠、三時眞貴子、倉石一郎、姉川雄大 |series=有斐閣ストゥディア |isbn= 9784641150805 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=江藤恭二監修 |authorlink= |coauthors=篠田弘、鈴木正幸、加藤詔士、吉川卓治編 |year=2008 |title=新版 子どもの教育の歴史——その生活と社会背景をみつめて |publisher=名古屋大学出版会 |isbn=978-4815805869 |ref=harv }}
* かどや ひでのり、あべ やすし編著 『識字の社会言語学』生活書院、2010年
* 菊池久一 『<識字>の構造-思考を抑圧する文字文化-』 勁草書房、1995年
* 鈴木理恵 「江戸時代における識字の多様性」『史学研究』209、1995年
* 鈴木理恵 「近世後期における読み書き能力の効用-手習塾分析を通して-」『社会言語学』VI、2006年
* 角知行 「「日本人の読み書き能力調査」(1948)の再検討」『天理大学学報』第208輯、2005年
* 角知行 「文字弱者のプロフィール−日米のリテラシー調査から」『天理大学人権問題研究室紀要』第9号、2006年
* 角知行 『識字神話をよみとく 「識字率99%」の国・日本というイデオロギー』 明石書店、2012年
* {{Cite book |和書 |author=新関欽哉 |authorlink=新関欽哉 |year=1991 |title=ハンコロジー事始め——印章が語る世界史 |series=NHKブックス |publisher=日本放送出版協会 |isbn=9784140016329 |ref=harv }}
* 日本社会教育学会編 『国際識字10年と日本の識字問題』 東洋館出版社、1991年
* {{Cite book |和書 |last=ルビンジャー |first=リチャード |authorlink=リチャード・ルビンジャー |translator=川村肇 |year=2008 |title=日本人のリテラシー——1600–1900年 |publisher=柏書房 |isbn=9784760133901 |ref=harv }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[国際識字デー]]
* [[リテラシー]] - [[機能的非識字]]
* [[識字運動]] - 中国の教育運動
* [[夜間中学校]]
* [[パウロ・フレイレ]] - ブラジルの教育者
* [[部落問題]]
* [[伝承]] - [[口承文学]]
* [[文化多元主義]]
* [[言語権]]
* [[世界言語権宣言]]
* [[メディアリテラシー]]
* [[絵暦]]
* [[ユネスコ世宗識字賞]]
* [[読字障害]]
* [[泣き塩]](落語)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:識字|*しきし]]
[[Category:教育統計]]
[[Category:情報教育]]
[[Category:教育史]]
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[[Category:健康の社会的決定要因]]
[[Category:文字]]
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符号理論
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符号理論(ふごうりろん、英: Coding theory)は、情報を符号化して、通信を行う際の効率と信頼性についての情報学基礎論である。符号は、データ圧縮・暗号化・誤り訂正・ネットワーキングのために使用される。符号理論は、効率的で信頼できるデータ伝送方法を設計するために、情報理論・情報科学・数学・言語学・計算機科学・遺伝学などの様々な分野で研究されている。関係する純粋数学の分野としてグラフ理論等の離散数学、有限体理論を中心とした代数学、表現論が挙げられる。また、近年は量子もつれを加味した量子符号の原理について工学(ここでは専ら復号アルゴリズムの記述を意味する)および数学の観点から活発に研究されている。通常、符号理論には、情報源符号化定理を背景とする冗長性の除去の方法論と、冗長性を付与した上での送信されたデータの誤りの検出・訂正を研究対象とする、通信路符号化定理により存在を保証された性能の良い符号構成を目的とする誤り訂正符号理論が含まれる。BCH符号・Reed-Solomon符号やLDPC符号による符号化が産業活用の面では主流である一方で、有限射影幾何学および代数幾何学や計算量理論との関わりやDNAストレージ、不揮発性レーストラックメモリの数学解析への応用も認められている学際的な分野である。主要な符号はすでに発見され, かつ符号の重み多項式, 重み分布も多くは把握されているが, チョムスキーの言語理論が認知機能の数理構造化を念頭に形式化されたがその後もプログラム言語論, 本理論との関係が見出され, 正規表現や自由言語認識アルゴリズムの応用が系列解析の研究に役立つ例など, 分野横断的な発展が今なお続いている。ビット列全体は多重集合として表現されることがあり, このことからも素朴な有限集合に対する数学的操作の扱いが要求される。計算量の改善および評価は些細なものであっても山積すると目に見えて効率化が図られる為に重要な研究指標であり、O(k^2logklogn)の冗長性(redundancy)をもつinsdel-codesがO(klogn)に高速化された例などが高く評価される傾向にある。また符号化率という指標も存在し, これは1に漸近するほど良いとされるが, (計算量のオーダーに注意して)1-Θ(εlog(1/ε))の符号化率を有するedit-eccが必ず存在することの数学証明を書き下す, あるいはそのような符号を実例してみせるといった研究方針も重要である。
符号化は、以下の4種類に分類できる。
情報源符号化(データ圧縮)は、データをより効率的に送信するために、情報源からデータを圧縮しようとする。例えば、ZIPデータ圧縮では、データファイルを小さくしてインターネットトラフィックを削減する。データ圧縮と誤り訂正は、組み合わせて検討することができる。
通信路符号化(誤り検出訂正)は、通信路上に存在する雑音などの障害への耐性を強化するために、余分なデータビット(冗長ビット)を追加する。この技術はあまり目立たないが、例えば音楽CDではリード・ソロモン符号を使って傷や埃による誤りを訂正している。この場合の通信路はCD自体である。携帯電話も高周波転送におけるノイズや減衰による誤りを検出訂正する技術を使っている。一般にデジタル信号による通信には、必ず何らかの誤り検出訂正技術が使われている。
1948年、クロード・シャノンは論文「通信の数学的理論」を、Bell System Technical Journalの7月号と10月号の2つの記事で発表した。この論文は、送信者が送信したい情報を最適に符号化する方法の問題に焦点を当てている。この論文では、ノーバート・ウィーナーが開発した確率論を使用した。当時、確率論は通信理論にはほとんど適用されていなかった。シャノンは、メッセージの不確実性の尺度として情報エントロピーを開発し、情報理論の分野を本質的に創始した。
1949年に二元ゴレイ符号が開発された。これは、24ビットワードごとに最大3つの誤りを訂正し、4つ目を検出することができる誤り訂正符号である。
1968年、リチャード・ハミングは、ベル研究所在籍中の成果である数値計算方法、自動符号化システム、誤り検出訂正符号でチューリング賞を受賞した。彼は、ハミング符号、ハミング窓、ハミング数(英語版)、ハミング距離という概念を発明した。また符号を構成するために、誤りを定義する距離概念としてリー距離、ウラム距離などが考案されている。
情報源符号化の目的は、情報源におけるデータをより小さくすることである。
データは確率変数 X : Ω → X {\displaystyle X:\Omega \rightarrow {\mathcal {X}}} として見ることができる。ここで、 x ∈ X {\displaystyle x\in {\mathcal {X}}} は確率 P [ X = x ] {\displaystyle \mathbb {P} [X=x]} で現れるものとする。
データはアルファベット Σ {\displaystyle \Sigma } からなる文字列(単語)で表されるものとする。
符号は以下の関数である。
C : X → Σ ∗ {\displaystyle C:{\mathcal {X}}\rightarrow \Sigma ^{*}} (空文字列がアルファベットの一部でない場合は Σ + {\displaystyle \Sigma ^{+}} )
C ( x ) {\displaystyle C(x)} は x {\displaystyle x} と関連する符号語である。
符号語の長さは以下で書き表される。
l ( C ( x ) ) {\displaystyle l(C(x))}
期待される符号の長さは以下で書き表される。
l ( C ) = ∑ x ∈ X l ( C ( x ) ) P [ X = x ] {\displaystyle l(C)=\sum _{x\in {\mathcal {X}}}l(C(x))\mathbb {P} [X=x]}
符号語の連結は C ( x 1 , . . . , x k ) = C ( x 1 ) C ( x 2 ) . . . C ( x k ) {\displaystyle C(x_{1},...,x_{k})=C(x_{1})C(x_{2})...C(x_{k})} である。
空文字列の符号語は、空文字列そのものである。
C ( ε ) = ε {\displaystyle C(\epsilon )=\epsilon }
情報源のエントロピーは情報量の尺度である。基本的に情報源符号化では情報源に存在する冗長性をなるべく排除しようとし、より少ないビット数でより多くの情報を格納しようとする。データ圧縮の手法として、特定の確率モデルに従ってメッセージのエントロピーを最小化する手法をエントロピー符号と呼ぶ。情報源符号化として情報源のエントロピーの限界を達成しようとする各種技法がある。ただし、理論上限界とされる以上の効率は達成できない。
ファクシミリ伝送では、単純な連長圧縮符号が使われている。情報源符号は、送信には必要でない余分なデータを削除し、送信に必要な帯域幅を減少させる。
通信路符号化の目的は、なるべく高速に転送でき、なるべく多くの符号語を含み、誤り検出訂正可能な符号を見出すことである。これらの目的は互いに相反するため、用途によって適切な符号体系は異なる。符号に求められる特性は、転送中に発生するエラーの確率に依存する。例えば、CD では埃や傷による誤りを訂正することを主に考慮している。従って符号はインターリーブされた形式となり、データはディスク面のあちこちに分散される。よい符号とは言えないが、単純な繰り返し符号を例として考える。例えば、何らかの(音声のような)データのブロックを3回送信するとする。受信側は3回受信したデータブロックをビット毎に比較し、多数決で正しいデータを決定する。これを少しひねって、ビットの送信順を変えてインターリーブさせる。データを4つの小さいブロックに分割し、1つめのブロックの1ビット目の次に2つめのブロックの1ビット目という順に送信するのである。これをディスク面全体に分散するよう3回繰り返す。このような単純な繰り返し符号ではあまり効率的ではないが、実際にはもっと効率的な符号を使って情報をインターリーブし、ディスク面の一部に傷があっても誤り訂正できるようにしている。
別の用途にはもっと適した符号が別に存在する。宇宙空間での通信は受信機の熱雑音の影響が大きく、これはCDの傷などとは異なり、連続的なノイズである。電話回線を使ったモデムではノイズがあるために転送速度が制限されるが、それと同様である。携帯電話は減衰が問題となる。高周波では受信機がほんの数センチ動いただけでも減衰により信号が捕らえられなくなる。このような減衰に対処する通信路符号化の技法も存在する。
代数的符号理論(Algebraic coding theory)とは、符号の特性を代数学的に表現し研究する分野である。
代数的符号理論は基本的に以下の2つの符号に分類される。
主に符号の以下の特性を分析する。
線型ブロック符号は線型性を有している。すなわち、任意の2つの符号語の総和も符号語であり、情報源のビット列のブロックにもそれが適用される(そのため線型ブロック符号と呼ぶ)。線型でないブロック符号も存在するが、それでよいかどうかを証明することは困難である。
線型ブロック符号は (n,m,dmin) で表され、それぞれ以下のような意味を持つ。
線型ブロック符号に属する符号として以下のようなものがある。
ブロック符号は、硬貨を敷き詰める問題と関係している。これは2次元で考えると分かりやすい。硬貨を何枚もテーブルの上に並べ、なるべく稠密に敷き詰める。すると、ちょうど蜂の巣のように正六角形状に敷き詰められる。しかし、ブロック符号はもっと高次元であり、容易に視覚化できない。宇宙空間での通信に使われた強力なゴレイ符号では24次元を使っている。一般的な2進数の符号では次元は符号語の長さとなる。
符号理論では、N次元球モデルを使う。例えば、テーブル上の円に何枚の硬貨を敷き詰められるか、あるいは3次元では球体の中にどれだけビー玉を詰められるかという問題と同じである。別の考慮として、符号の選択がある。例えば、正六角形を四角形の枠に敷き詰めようとしても、角に隙間ができてしまう。次元を大きくすると、隙間となる空間の割合は小さくなる。しかし、ある次元で符号が隙間無く敷き詰められるようになり、それを完全符号と呼ぶ。そのような符号の例は非常にまれである(ハミング [ n , k , 3 ] {\displaystyle [n,k,3]} 、ゴレイ [ 24 , 12 , 8 ] , [ 23 , 12 , 7 ] , [ 12 , 6 , 6 ] {\displaystyle [24,12,8],[23,12,7],[12,6,6]} )。
もうひとつ、よく見逃される点として、1つの符号語が持つ近傍の数がある。再び硬貨を例にすると、最初に硬貨を方形の格子に詰める。この場合、各硬貨には4つの近傍がある。正六角形では、各硬貨は6つの近傍を持つ。次元を大きくすると、近傍の数は急速に増加する。結果として、ノイズによってある符号語を近傍の別の符号語と間違う可能性も大きくなる。これはブロック符号の基本的制限であり、実際すべての符号に言えることである。ある近傍に間違う可能性は低くても、近傍が増えれば全体としての誤り率は問題となる。
畳み込み符号は電話回線用モデム(ITU-T V.32、V.17、V.34)や GSM 携帯電話、さらには衛星通信や軍事通信機器にも使われている。
ここでのアイデアは、入力となるメッセージ群のシンボル列の重み付き総和として各符号語のシンボルを作成するということである。これは線形時不変系において入力とインパルス応答が判っているときに出力を求める畳み込みに似ている。
従って、畳み込みエンコーダの出力は一般に、畳み込みエンコーダとレジスタの状態に対する入力ビットの畳み込みである。
基本的に畳み込み符号は同等なブロック符号以上のノイズ耐性を保証しないが、多くの場合、同程度のブロック符号よりも実装が大幅に単純化される。エンコーダは大抵の場合、状態メモリとフィードバック論理(通常 XORゲート)を持つ単純な回路である。デコーダはファームウェアやソフトウェアで実装される。
畳み込み符号のデコードに最適なアルゴリズムとしてビタービ・アルゴリズムがある。その計算負荷を減らす単純化手法もあり、最も可能性の高い経路だけを探索する。これは最適ではないが、低ノイズの環境ではよい結果となることがわかっている。最近のマイクロプロセッサでは、この縮小された探索アルゴリズムで平均毎秒4,000符号語以上のデコードが可能である。
暗号および暗号符号化は、第三者(敵対者(英語版))の存在下で安全な通信を行うための技術である。より一般的には、敵対者をブロックする通信プロトコルの構築と分析に関するものである。データの機密性と完全性、認証、否認防止などの情報セキュリティのさまざまな側面が、現代の暗号の中心である。現代の暗号は、数学、コンピュータ科学、電気工学の分野の境界上に存在する。暗号化を応用したものには、ATMカード、コンピュータパスワード、電子商取引などがある。
伝送路符号(デジタルベースバンド変調またはデジタルベースバンド送信方法とも呼ばれる)は、データ伝送路を介してデジタル信号を伝送する際に、デジタル信号をデータ伝送路の特性に適した電圧・電流または光子のパルス波形に変換するための符号である。伝送路符号は、デジタルデータ転送によく使用される。
伝送路符号は、搬送されるデジタル信号を、物理チャネルおよび受信装置の特性に応じて最適に調整された振幅および時間離散信号によって表すことからなる。デジタルデータの1と0を表すために使用される電圧または電流の波形パターンを、伝送路符号という。伝送路符号の一般的なタイプは、単極符号(英語版)・両極符号(英語版)・マンチェスタ符号である。
符号理論におけるもう1つの課題は、同期を可能とする符号の設計である。例えば、位相変移(phase shift)を容易に検出・訂正できるよう符号を設計すれば、複数の信号を同じ通信路で同時に送ることができる。例えば、携帯電話で使われている符号分割多元接続(CDMA)符号がある。その詳細は本項目の範囲外だが、大まかに言えば、各携帯電話に特別な符号語が割り当てられる。転送時、その符号語を使って音声を表すビット列をスクランブル(暗号化)する。受信機では、その逆を行って暗号解読する。このような符号語の特性により、同時に複数の携帯電話がそれぞれ個別の符号語を割り当てられ、通話可能となる。1つの受信機から見れば、他の通話の信号は低レベルなノイズとしか認識されない。
もう1つの一般的な符号のクラスとして、自動再送制御(ARQ)符号がある。この場合、送信機は長いメッセージにパリティビットを付与する。受信機はメッセージとパリティビットが一致するかを調べ、一致しない場合に送信機にメッセージの再送を要求する。ごく単純なものを除いて、Wide Area Networkで使用されるプロトコルには必ず ARQ が使われている。例えば、SDLC (IBM)、TCP、X.25 などである。この分野では、拒絶されたパケットと新たなパケットの一致問題という部分でも研究が進んでいる。つまり、新たに受信したパケットが再送されたものか、それとも別の新しいパケットなのかを識別する問題である。一般にパケットに番号を振ることで対処するが、プロトコルスタックがある場合、再送を制御する階層が異なる場合がある。TCP/IPは両方の技法を採用している好例である。コネクションのある場合、TCP/IPはARQ符号による再送を行う。しかし、コネクションがない場合、ARQ は使われず、アプリケーション層で(必要に応じて)再送を制御しなければならない。
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"text": "符号理論(ふごうりろん、英: Coding theory)は、情報を符号化して、通信を行う際の効率と信頼性についての情報学基礎論である。符号は、データ圧縮・暗号化・誤り訂正・ネットワーキングのために使用される。符号理論は、効率的で信頼できるデータ伝送方法を設計するために、情報理論・情報科学・数学・言語学・計算機科学・遺伝学などの様々な分野で研究されている。関係する純粋数学の分野としてグラフ理論等の離散数学、有限体理論を中心とした代数学、表現論が挙げられる。また、近年は量子もつれを加味した量子符号の原理について工学(ここでは専ら復号アルゴリズムの記述を意味する)および数学の観点から活発に研究されている。通常、符号理論には、情報源符号化定理を背景とする冗長性の除去の方法論と、冗長性を付与した上での送信されたデータの誤りの検出・訂正を研究対象とする、通信路符号化定理により存在を保証された性能の良い符号構成を目的とする誤り訂正符号理論が含まれる。BCH符号・Reed-Solomon符号やLDPC符号による符号化が産業活用の面では主流である一方で、有限射影幾何学および代数幾何学や計算量理論との関わりやDNAストレージ、不揮発性レーストラックメモリの数学解析への応用も認められている学際的な分野である。主要な符号はすでに発見され, かつ符号の重み多項式, 重み分布も多くは把握されているが, チョムスキーの言語理論が認知機能の数理構造化を念頭に形式化されたがその後もプログラム言語論, 本理論との関係が見出され, 正規表現や自由言語認識アルゴリズムの応用が系列解析の研究に役立つ例など, 分野横断的な発展が今なお続いている。ビット列全体は多重集合として表現されることがあり, このことからも素朴な有限集合に対する数学的操作の扱いが要求される。計算量の改善および評価は些細なものであっても山積すると目に見えて効率化が図られる為に重要な研究指標であり、O(k^2logklogn)の冗長性(redundancy)をもつinsdel-codesがO(klogn)に高速化された例などが高く評価される傾向にある。また符号化率という指標も存在し, これは1に漸近するほど良いとされるが, (計算量のオーダーに注意して)1-Θ(εlog(1/ε))の符号化率を有するedit-eccが必ず存在することの数学証明を書き下す, あるいはそのような符号を実例してみせるといった研究方針も重要である。",
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"text": "符号化は、以下の4種類に分類できる。",
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"text": "情報源符号化(データ圧縮)は、データをより効率的に送信するために、情報源からデータを圧縮しようとする。例えば、ZIPデータ圧縮では、データファイルを小さくしてインターネットトラフィックを削減する。データ圧縮と誤り訂正は、組み合わせて検討することができる。",
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"text": "通信路符号化(誤り検出訂正)は、通信路上に存在する雑音などの障害への耐性を強化するために、余分なデータビット(冗長ビット)を追加する。この技術はあまり目立たないが、例えば音楽CDではリード・ソロモン符号を使って傷や埃による誤りを訂正している。この場合の通信路はCD自体である。携帯電話も高周波転送におけるノイズや減衰による誤りを検出訂正する技術を使っている。一般にデジタル信号による通信には、必ず何らかの誤り検出訂正技術が使われている。",
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"text": "1948年、クロード・シャノンは論文「通信の数学的理論」を、Bell System Technical Journalの7月号と10月号の2つの記事で発表した。この論文は、送信者が送信したい情報を最適に符号化する方法の問題に焦点を当てている。この論文では、ノーバート・ウィーナーが開発した確率論を使用した。当時、確率論は通信理論にはほとんど適用されていなかった。シャノンは、メッセージの不確実性の尺度として情報エントロピーを開発し、情報理論の分野を本質的に創始した。",
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"text": "1949年に二元ゴレイ符号が開発された。これは、24ビットワードごとに最大3つの誤りを訂正し、4つ目を検出することができる誤り訂正符号である。",
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"text": "1968年、リチャード・ハミングは、ベル研究所在籍中の成果である数値計算方法、自動符号化システム、誤り検出訂正符号でチューリング賞を受賞した。彼は、ハミング符号、ハミング窓、ハミング数(英語版)、ハミング距離という概念を発明した。また符号を構成するために、誤りを定義する距離概念としてリー距離、ウラム距離などが考案されている。",
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"text": "情報源符号化の目的は、情報源におけるデータをより小さくすることである。",
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"text": "データは確率変数 X : Ω → X {\\displaystyle X:\\Omega \\rightarrow {\\mathcal {X}}} として見ることができる。ここで、 x ∈ X {\\displaystyle x\\in {\\mathcal {X}}} は確率 P [ X = x ] {\\displaystyle \\mathbb {P} [X=x]} で現れるものとする。",
"title": "情報源符号化"
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"text": "データはアルファベット Σ {\\displaystyle \\Sigma } からなる文字列(単語)で表されるものとする。",
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"text": "符号は以下の関数である。",
"title": "情報源符号化"
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"text": "C : X → Σ ∗ {\\displaystyle C:{\\mathcal {X}}\\rightarrow \\Sigma ^{*}} (空文字列がアルファベットの一部でない場合は Σ + {\\displaystyle \\Sigma ^{+}} )",
"title": "情報源符号化"
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"text": "C ( x ) {\\displaystyle C(x)} は x {\\displaystyle x} と関連する符号語である。",
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"text": "符号語の長さは以下で書き表される。",
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"text": "l ( C ( x ) ) {\\displaystyle l(C(x))}",
"title": "情報源符号化"
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"text": "期待される符号の長さは以下で書き表される。",
"title": "情報源符号化"
},
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"text": "l ( C ) = ∑ x ∈ X l ( C ( x ) ) P [ X = x ] {\\displaystyle l(C)=\\sum _{x\\in {\\mathcal {X}}}l(C(x))\\mathbb {P} [X=x]}",
"title": "情報源符号化"
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"text": "符号語の連結は C ( x 1 , . . . , x k ) = C ( x 1 ) C ( x 2 ) . . . C ( x k ) {\\displaystyle C(x_{1},...,x_{k})=C(x_{1})C(x_{2})...C(x_{k})} である。",
"title": "情報源符号化"
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"text": "空文字列の符号語は、空文字列そのものである。",
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"text": "C ( ε ) = ε {\\displaystyle C(\\epsilon )=\\epsilon }",
"title": "情報源符号化"
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"text": "情報源のエントロピーは情報量の尺度である。基本的に情報源符号化では情報源に存在する冗長性をなるべく排除しようとし、より少ないビット数でより多くの情報を格納しようとする。データ圧縮の手法として、特定の確率モデルに従ってメッセージのエントロピーを最小化する手法をエントロピー符号と呼ぶ。情報源符号化として情報源のエントロピーの限界を達成しようとする各種技法がある。ただし、理論上限界とされる以上の効率は達成できない。",
"title": "情報源符号化"
},
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"text": "ファクシミリ伝送では、単純な連長圧縮符号が使われている。情報源符号は、送信には必要でない余分なデータを削除し、送信に必要な帯域幅を減少させる。",
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{
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"text": "通信路符号化の目的は、なるべく高速に転送でき、なるべく多くの符号語を含み、誤り検出訂正可能な符号を見出すことである。これらの目的は互いに相反するため、用途によって適切な符号体系は異なる。符号に求められる特性は、転送中に発生するエラーの確率に依存する。例えば、CD では埃や傷による誤りを訂正することを主に考慮している。従って符号はインターリーブされた形式となり、データはディスク面のあちこちに分散される。よい符号とは言えないが、単純な繰り返し符号を例として考える。例えば、何らかの(音声のような)データのブロックを3回送信するとする。受信側は3回受信したデータブロックをビット毎に比較し、多数決で正しいデータを決定する。これを少しひねって、ビットの送信順を変えてインターリーブさせる。データを4つの小さいブロックに分割し、1つめのブロックの1ビット目の次に2つめのブロックの1ビット目という順に送信するのである。これをディスク面全体に分散するよう3回繰り返す。このような単純な繰り返し符号ではあまり効率的ではないが、実際にはもっと効率的な符号を使って情報をインターリーブし、ディスク面の一部に傷があっても誤り訂正できるようにしている。",
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"text": "代数的符号理論(Algebraic coding theory)とは、符号の特性を代数学的に表現し研究する分野である。",
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"text": "線型ブロック符号は線型性を有している。すなわち、任意の2つの符号語の総和も符号語であり、情報源のビット列のブロックにもそれが適用される(そのため線型ブロック符号と呼ぶ)。線型でないブロック符号も存在するが、それでよいかどうかを証明することは困難である。",
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"text": "ブロック符号は、硬貨を敷き詰める問題と関係している。これは2次元で考えると分かりやすい。硬貨を何枚もテーブルの上に並べ、なるべく稠密に敷き詰める。すると、ちょうど蜂の巣のように正六角形状に敷き詰められる。しかし、ブロック符号はもっと高次元であり、容易に視覚化できない。宇宙空間での通信に使われた強力なゴレイ符号では24次元を使っている。一般的な2進数の符号では次元は符号語の長さとなる。",
"title": "通信路符号化"
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"text": "符号理論では、N次元球モデルを使う。例えば、テーブル上の円に何枚の硬貨を敷き詰められるか、あるいは3次元では球体の中にどれだけビー玉を詰められるかという問題と同じである。別の考慮として、符号の選択がある。例えば、正六角形を四角形の枠に敷き詰めようとしても、角に隙間ができてしまう。次元を大きくすると、隙間となる空間の割合は小さくなる。しかし、ある次元で符号が隙間無く敷き詰められるようになり、それを完全符号と呼ぶ。そのような符号の例は非常にまれである(ハミング [ n , k , 3 ] {\\displaystyle [n,k,3]} 、ゴレイ [ 24 , 12 , 8 ] , [ 23 , 12 , 7 ] , [ 12 , 6 , 6 ] {\\displaystyle [24,12,8],[23,12,7],[12,6,6]} )。",
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"text": "もうひとつ、よく見逃される点として、1つの符号語が持つ近傍の数がある。再び硬貨を例にすると、最初に硬貨を方形の格子に詰める。この場合、各硬貨には4つの近傍がある。正六角形では、各硬貨は6つの近傍を持つ。次元を大きくすると、近傍の数は急速に増加する。結果として、ノイズによってある符号語を近傍の別の符号語と間違う可能性も大きくなる。これはブロック符号の基本的制限であり、実際すべての符号に言えることである。ある近傍に間違う可能性は低くても、近傍が増えれば全体としての誤り率は問題となる。",
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"text": "もう1つの一般的な符号のクラスとして、自動再送制御(ARQ)符号がある。この場合、送信機は長いメッセージにパリティビットを付与する。受信機はメッセージとパリティビットが一致するかを調べ、一致しない場合に送信機にメッセージの再送を要求する。ごく単純なものを除いて、Wide Area Networkで使用されるプロトコルには必ず ARQ が使われている。例えば、SDLC (IBM)、TCP、X.25 などである。この分野では、拒絶されたパケットと新たなパケットの一致問題という部分でも研究が進んでいる。つまり、新たに受信したパケットが再送されたものか、それとも別の新しいパケットなのかを識別する問題である。一般にパケットに番号を振ることで対処するが、プロトコルスタックがある場合、再送を制御する階層が異なる場合がある。TCP/IPは両方の技法を採用している好例である。コネクションのある場合、TCP/IPはARQ符号による再送を行う。しかし、コネクションがない場合、ARQ は使われず、アプリケーション層で(必要に応じて)再送を制御しなければならない。",
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}
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符号理論は、情報を符号化して、通信を行う際の効率と信頼性についての情報学基礎論である。符号は、データ圧縮・暗号化・誤り訂正・ネットワーキングのために使用される。符号理論は、効率的で信頼できるデータ伝送方法を設計するために、情報理論・情報科学・数学・言語学・計算機科学・遺伝学などの様々な分野で研究されている。関係する純粋数学の分野としてグラフ理論等の離散数学、有限体理論を中心とした代数学、表現論が挙げられる。また、近年は量子もつれを加味した量子符号の原理について工学(ここでは専ら復号アルゴリズムの記述を意味する)および数学の観点から活発に研究されている。通常、符号理論には、情報源符号化定理を背景とする冗長性の除去の方法論と、冗長性を付与した上での送信されたデータの誤りの検出・訂正を研究対象とする、通信路符号化定理により存在を保証された性能の良い符号構成を目的とする誤り訂正符号理論が含まれる。BCH符号・Reed-Solomon符号やLDPC符号による符号化が産業活用の面では主流である一方で、有限射影幾何学および代数幾何学や計算量理論との関わりやDNAストレージ、不揮発性レーストラックメモリの数学解析への応用も認められている学際的な分野である。主要な符号はすでに発見され, かつ符号の重み多項式, 重み分布も多くは把握されているが, チョムスキーの言語理論が認知機能の数理構造化を念頭に形式化されたがその後もプログラム言語論, 本理論との関係が見出され, 正規表現や自由言語認識アルゴリズムの応用が系列解析の研究に役立つ例など, 分野横断的な発展が今なお続いている。ビット列全体は多重集合として表現されることがあり, このことからも素朴な有限集合に対する数学的操作の扱いが要求される。計算量の改善および評価は些細なものであっても山積すると目に見えて効率化が図られる為に重要な研究指標であり、O(k^2logklogn)の冗長性1-Θ(εlog)の符号化率を有するedit-eccが必ず存在することの数学証明を書き下す, あるいはそのような符号を実例してみせるといった研究方針も重要である。 符号化は、以下の4種類に分類できる。 情報源符号化 : データ圧縮
通信路符号化 : 誤り検出訂正
暗号符号化
伝送路符号化 情報源符号化(データ圧縮)は、データをより効率的に送信するために、情報源からデータを圧縮しようとする。例えば、ZIPデータ圧縮では、データファイルを小さくしてインターネットトラフィックを削減する。データ圧縮と誤り訂正は、組み合わせて検討することができる。 通信路符号化(誤り検出訂正)は、通信路上に存在する雑音などの障害への耐性を強化するために、余分なデータビット(冗長ビット)を追加する。この技術はあまり目立たないが、例えば音楽CDではリード・ソロモン符号を使って傷や埃による誤りを訂正している。この場合の通信路はCD自体である。携帯電話も高周波転送におけるノイズや減衰による誤りを検出訂正する技術を使っている。一般にデジタル信号による通信には、必ず何らかの誤り検出訂正技術が使われている。
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[[File:Hamming.jpg|thumb|[[ハミング距離]]を2次元で視覚化した図]]
'''符号理論'''(ふごうりろん、{{lang-en-short|Coding theory}})は、情報を[[符号]]化して、[[通信]]を行う際の効率と信頼性についての情報学基礎論である。符号は、[[データ圧縮]]・[[暗号化]]・[[誤り検出訂正|誤り訂正]]・[[ネットワーク符号化|ネットワーキング]]のために使用される。符号理論は、効率的で信頼できる[[データ伝送]]方法を設計するために、[[情報理論]]・情報科学・[[数学]]・[[言語学]]・[[計算機科学]]・[[遺伝学]]などの様々な分野で研究されている。関係する純粋数学の分野として[[グラフ理論]]等の[[離散数学]]、有限体理論を中心とした[[代数学]]、[[表現論]]が挙げられる。また、近年は[[量子もつれ]]を加味した量子符号の原理について工学(ここでは専ら復号アルゴリズムの記述を意味する)および数学の観点から活発に研究されている。通常、符号理論には、[[シャノンの情報源符号化定理|情報源符号化定理]]を背景とする冗長性の除去の方法論と、冗長性を付与した上での送信されたデータの誤りの検出・訂正を研究対象とする、[[シャノンの通信路符号化定理|通信路符号化定理]]により存在を保証された性能の良い符号構成を目的とする誤り訂正符号理論が含まれる。BCH符号・Reed-Solomon符号やLDPC符号による符号化が産業活用の面では主流である一方で、[[射影幾何学|有限射影幾何学]]および[[代数幾何学]]や[[計算複雑性理論|計算量理論]]との関わりやDNAストレージ、不揮発性レーストラックメモリの数学解析への応用も認められている学際的な分野である。主要な符号はすでに発見され, かつ符号の重み多項式, 重み分布も多くは把握されているが, チョムスキーの言語理論が認知機能の数理構造化を念頭に形式化されたがその後もプログラム言語論, 本理論との関係が見出され, [[正規表現]]や自由言語認識アルゴリズムの応用が系列解析の研究に役立つ例など, 分野横断的な発展が今なお続いている。ビット列全体は[[多重集合]]として表現されることがあり, このことからも素朴な有限集合に対する数学的操作の扱いが要求される。計算量の改善および評価は些細なものであっても山積すると目に見えて効率化が図られる為に重要な研究指標であり、O(k^2logklogn)の冗長性(redundancy)をもつinsdel-codesがO(klogn)に高速化された例などが高く評価される傾向にある。また符号化率という指標も存在し, これは1に漸近するほど良いとされるが, (計算量のオーダーに注意して)1-Θ(εlog(1/ε))の符号化率を有するedit-eccが必ず存在することの数学証明を書き下す, あるいはそのような符号を実例してみせるといった研究方針も重要である。
符号化は、以下の4種類に分類できる<ref>{{cite book
|author1=James Irvine |author2=David Harle
|url=https://books.google.com/books?id=ZigejECe4r0C |title=Data Communications and Networks
|date=2002
|page=18
|section=2.4.4 Types of Coding
|quote=There are four types of coding}}
</ref>。
# 情報源符号化 (''source coding'') : [[データ圧縮]]
# 通信路符号化 (''channel coding'') : [[誤り検出訂正]]
# [[暗号理論|暗号符号化]] (''cryptographic coding'')
# [[伝送路符号|伝送路符号化]] (''line coding'')
情報源符号化(データ圧縮)は、データをより効率的に送信するために、情報源からデータを圧縮しようとする。例えば、[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIPデータ圧縮]]では、データファイルを小さくしてインターネットトラフィックを削減する。データ圧縮と誤り訂正は、組み合わせて検討することができる。
通信路符号化(誤り検出訂正)は、[[通信路]]上に存在する雑音などの障害への耐性を強化するために、余分なデータビット(冗長ビット)を追加する。この技術はあまり目立たないが、例えば音楽[[コンパクトディスク|CD]]では[[リード・ソロモン符号]]を使って傷や埃による誤りを訂正している。この場合の通信路はCD自体である。[[携帯電話]]も高周波転送における[[ノイズ]]や減衰による誤りを検出訂正する技術を使っている。一般に[[デジタル信号]]による通信には、必ず何らかの[[誤り検出訂正]]技術が使われている。
==符号理論の歴史==
1948年、[[クロード・シャノン]]は論文「[[通信の数学的理論]]」を、[[Bell System Technical Journal]]の7月号と10月号の2つの記事で発表した。この論文は、送信者が送信したい[[情報]]を最適に符号化する方法の問題に焦点を当てている。この論文では、[[ノーバート・ウィーナー]]が開発した[[確率論]]を使用した。当時、確率論は通信理論にはほとんど適用されていなかった。シャノンは、メッセージの不確実性の尺度として[[情報エントロピー]]を開発し、[[情報理論]]の分野を本質的に創始した。
[[1949年]]に[[ゴレイ符号|二元ゴレイ符号]]が開発された。これは、24ビットワードごとに最大3つの誤りを訂正し、4つ目を検出することができる誤り訂正符号である。
[[1968年]]、[[リチャード・ハミング]]は、[[ベル研究所]]在籍中の成果である数値計算方法、自動符号化システム、誤り検出訂正符号で[[チューリング賞]]を受賞した。彼は、[[ハミング符号]]、[[ハミング窓]]、{{仮リンク|ハミング数|en|Regular number}}、[[ハミング距離]]という概念を発明した。また符号を構成するために、誤りを定義する距離概念として[[リー距離]]、[[ウラム距離]]などが考案されている。
==情報源符号化==
{{main|データ圧縮}}
情報源符号化の目的は、情報源におけるデータをより小さくすることである。
===定義===
データは[[確率変数]] <math>X:\Omega\rightarrow\mathcal{X}</math> として見ることができる。ここで、 <math>x \in \mathcal{X}</math> は確率 <math>\mathbb{P}[X=x]</math> で現れるものとする。
データは[[アルファベット (計算機科学)|アルファベット]] <math>\Sigma</math> からなる文字列(単語)で表されるものとする。
符号は以下の関数である。
<math>C:\mathcal{X}\rightarrow\Sigma^*</math> (空文字列がアルファベットの一部でない場合は <math>\Sigma^+</math> )
<math>C(x)</math> は <math>x</math> と関連する符号語である。
符号語の長さは以下で書き表される。
<math>l(C(x))</math>
期待される符号の長さは以下で書き表される。
<math>l(C) = \sum_{x\in\mathcal{X}}l(C(x))\mathbb{P}[X=x]</math>
符号語の連結は <math>C(x_1,...,x_k) = C(x_1)C(x_2)...C(x_k)</math> である。
空文字列の符号語は、空文字列そのものである。
<math>C(\epsilon) = \epsilon</math>
===特性===
# <math>C:\mathcal{X}\rightarrow\Sigma^*</math> は[[可変長符号#非特異符号|非特異]]である([[単射]]の場合)
# <math>C:\mathcal{X}^*\rightarrow\Sigma^*</math> は[[可変長符号#一意復号可能な符号|一意復号可能]]である(単射の場合)
# <math>C:\mathcal{X}\rightarrow\Sigma^*</math> は[[可変長符号#接頭符号|瞬時復号可能]]である(<math>C(x_1)</math> が <math>C(x_2)</math> の接頭辞でない場合(逆もまた同様))
===原理===
情報源のエントロピーは情報量の尺度である。基本的に情報源符号化では情報源に存在する[[冗長性 (情報理論)|冗長性]]をなるべく排除しようとし、より少ないビット数でより多くの情報を格納しようとする。データ圧縮の手法として、特定の確率モデルに従ってメッセージのエントロピーを最小化する手法を[[エントロピー符号]]と呼ぶ。情報源符号化として情報源のエントロピーの限界を達成しようとする各種技法がある。ただし、理論上限界とされる以上の効率は達成できない。
===例===
[[ファクシミリ]]伝送では、単純な[[連長圧縮]]符号が使われている。情報源符号は、送信には必要でない余分なデータを削除し、送信に必要な帯域幅を減少させる。
== 通信路符号化 ==
{{main|誤り検出訂正}}
通信路符号化の目的は、なるべく高速に転送でき、なるべく多くの[[符号語]]を含み、[[誤り検出訂正]]可能な符号を見出すことである。これらの目的は互いに相反するため、用途によって適切な符号体系は異なる。符号に求められる特性は、転送中に発生するエラーの確率に依存する。例えば、CD では埃や傷による誤りを訂正することを主に考慮している。従って符号は[[インターリーブ]]された形式となり、データはディスク面のあちこちに分散される。よい符号とは言えないが、単純な繰り返し符号を例として考える。例えば、何らかの(音声のような)データのブロックを3回送信するとする。受信側は3回受信したデータブロックをビット毎に比較し、多数決で正しいデータを決定する。これを少しひねって、ビットの送信順を変えてインターリーブさせる。データを4つの小さいブロックに分割し、1つめのブロックの1ビット目の次に2つめのブロックの1ビット目という順に送信するのである。これをディスク面全体に分散するよう3回繰り返す。このような単純な繰り返し符号ではあまり効率的ではないが、実際にはもっと効率的な符号を使って情報をインターリーブし、ディスク面の一部に傷があっても誤り訂正できるようにしている。
別の用途にはもっと適した符号が別に存在する。[[宇宙空間]]での通信は受信機の[[熱雑音]]の影響が大きく、これはCDの傷などとは異なり、連続的なノイズである。[[電話回線]]を使った[[モデム]]ではノイズがあるために転送速度が制限されるが、それと同様である。携帯電話は減衰が問題となる。高周波では受信機がほんの数センチ動いただけでも減衰により信号が捕らえられなくなる。このような減衰に対処する通信路符号化の技法も存在する。
'''代数的符号理論'''({{Lang|en|Algebraic coding theory}})とは、符号の特性を代数学的に表現し研究する分野である。
代数的符号理論は基本的に以下の2つの符号に分類される。
# 線型ブロック符号
# 畳み込み符号
主に符号の以下の特性を分析する。
* 符号語の長さ
* 正しい符号語の総数
* 2つの正しい符号語間の最小[[ハミング距離]]
=== 線型ブロック符号 ===
[[線型ブロック符号]]は[[線型性]]を有している。すなわち、任意の2つの符号語の総和も符号語であり、情報源のビット列のブロックにもそれが適用される(そのため線型ブロック符号と呼ぶ)。線型でないブロック符号も存在するが、それでよいかどうかを証明することは困難である。
線型ブロック符号は (''n'',''m'',''d<sub>min</sub>'') で表され、それぞれ以下のような意味を持つ。
# n は符号語の長さ(シンボル数)
# m は一度に符号化されるシンボル数
# ''d<sub>min</sub>'' は符号間の最小ハミング距離
線型ブロック符号に属する符号として以下のようなものがある。
# [[巡回符号]]([[ハミング符号]]は巡回符号のサブセット)
# [[反復符号]]
# [[パリティビット|パリティ符号]]
# [[リード・ソロモン符号]]
# [[BCH符号]]
# [[代数幾何符号]]
# [[リード・マラー符号]]
# Polar符号
# [[ハミング限界|完全符号]]
ブロック符号は、'''[[球充填|硬貨を敷き詰める問題]]'''と関係している。これは[[2次元]]で考えると分かりやすい。硬貨を何枚もテーブルの上に並べ、なるべく稠密に敷き詰める。すると、ちょうど蜂の巣のように正六角形状に敷き詰められる。しかし、ブロック符号はもっと高次元であり、容易に視覚化できない。宇宙空間での通信に使われた強力な[[ゴレイ符号]]では24次元を使っている。一般的な2進数の符号では次元は符号語の長さとなる。
符号理論では、''N''次元球モデルを使う。例えば、テーブル上の円に何枚の硬貨を敷き詰められるか、あるいは3次元では球体の中にどれだけビー玉を詰められるかという問題と同じである。別の考慮として、符号の選択がある。例えば、正六角形を四角形の枠に敷き詰めようとしても、角に隙間ができてしまう。次元を大きくすると、隙間となる空間の割合は小さくなる。しかし、ある次元で符号が隙間無く敷き詰められるようになり、それを完全符号と呼ぶ。そのような符号の例は非常にまれである(ハミング <math>[n,k,3]</math>、ゴレイ <math>[24,12,8],[23,12,7],[12,6,6]</math>)。
もうひとつ、よく見逃される点として、1つの符号語が持つ近傍の数がある。再び硬貨を例にすると、最初に硬貨を方形の格子に詰める。この場合、各硬貨には4つの近傍がある。正六角形では、各硬貨は6つの近傍を持つ。次元を大きくすると、近傍の数は急速に増加する。結果として、ノイズによってある符号語を近傍の別の符号語と間違う可能性も大きくなる。これはブロック符号の基本的制限であり、実際すべての符号に言えることである。ある近傍に間違う可能性は低くても、近傍が増えれば全体としての誤り率は問題となる。
=== 畳み込み符号 ===
[[畳み込み符号]]は電話回線用[[モデム]]([[ITU-T]] V.32、V.17、V.34)や [[GSM]] 携帯電話、さらには衛星通信や軍事通信機器にも使われている。
ここでのアイデアは、入力となるメッセージ群のシンボル列の重み付き総和として各符号語のシンボルを作成するということである。これは[[線形時不変系]]において入力と[[インパルス応答]]が判っているときに出力を求める[[畳み込み]]に似ている。
従って、畳み込みエンコーダの出力は一般に、畳み込みエンコーダとレジスタの状態に対する入力ビットの畳み込みである。
基本的に畳み込み符号は同等なブロック符号以上のノイズ耐性を保証しないが、多くの場合、同程度のブロック符号よりも実装が大幅に単純化される。エンコーダは大抵の場合、状態メモリとフィードバック論理(通常 [[排他的論理和|XOR]]ゲート)を持つ単純な回路である。デコーダはファームウェアやソフトウェアで実装される。
畳み込み符号のデコードに最適なアルゴリズムとして[[ビタービ・アルゴリズム]]がある。その計算負荷を減らす単純化手法もあり、最も可能性の高い経路だけを探索する。これは最適ではないが、低ノイズの環境ではよい結果となることがわかっている。最近の[[マイクロプロセッサ]]では、この縮小された探索アルゴリズムで平均毎[[秒]]4,000符号語以上のデコードが可能である。
== 暗号符号化 ==
{{main|暗号理論}}
[[暗号]]および暗号符号化は、第三者({{仮リンク|敵対者|en|Adversary (cryptography)}})の存在下で[[セキュア通信|安全な通信]]を行うための技術である<ref name="rivest90">{{cite book|first=Ronald L.|last=Rivest|authorlink=Ron Rivest|editor=J. Van Leeuwen|title=Handbook of Theoretical Computer Science|chapter=Cryptology|volume=1|publisher=Elsevier|year=1990}}</ref>。より一般的には、敵対者をブロックする[[通信プロトコル]]の構築と分析に関するものである<ref name="modern-crypto">{{Cite book|first1=Mihir|last1=Bellare|first2=Phillip|last2=Rogaway|title=Introduction to Modern Cryptography|chapter=Introduction|page=10|date=21 September 2005}}</ref>。データの[[機密性]]と[[データ完全性|完全性]]、[[認証]]、[[否認不可|否認防止]]<ref name="hac">{{cite book |first=A. J. |last=Menezes |first2=P. C. |last2=van Oorschot |first3=S. A. |last3=Vanstone |url=https://web.archive.org/web/20050307081354/www.cacr.math.uwaterloo.ca/hac/ |title=Handbook of Applied Cryptography |publisher= |isbn=0-8493-8523-7}}</ref>などの[[情報セキュリティ]]のさまざまな側面が、現代の暗号の中心である。現代の暗号は、[[数学]]、[[コンピュータ科学]]、[[電気工学]]の分野の境界上に存在する。暗号化を応用したものには、ATMカード、[[パスワード|コンピュータパスワード]]、[[電子商取引]]などがある。
== 伝送路符号化 ==
{{main|伝送路符号}}
[[伝送路符号]](デジタルベースバンド変調またはデジタルベースバンド送信方法とも呼ばれる)は、データ伝送路を介して[[デジタル信号]]を[[伝送]]する際に、デジタル信号をデータ伝送路の特性に適した[[電圧]]・[[電流]]または[[光子]]のパルス[[波形]]に変換するための[[符号]]である<ref>JIS X 0009:1997 情報処理用語(データ通信) 09.05.01</ref>。伝送路符号は、デジタルデータ転送によく使用される。
伝送路符号は、搬送されるデジタル信号を、物理チャネルおよび受信装置の特性に応じて最適に調整された振幅および時間離散信号によって表すことからなる。デジタルデータの1と0を表すために使用される電圧または電流の波形パターンを、伝送路符号という。伝送路符号の一般的なタイプは、{{仮リンク|単極符号|en|Unipolar encoding}}・{{仮リンク|両極符号|en|Bipolar encoding}}・[[マンチェスタ符号]]である。
== 符号理論の応用 ==
符号理論におけるもう1つの課題は、[[同期 (計算機科学)|同期]]を可能とする符号の設計である。例えば、位相変移({{Lang|en|phase shift}})を容易に検出・訂正できるよう符号を設計すれば、複数の信号を同じ通信路で同時に送ることができる。例えば、携帯電話で使われている[[符号分割多元接続]](CDMA)符号がある。その詳細は本項目の範囲外だが、大まかに言えば、各携帯電話に特別な符号語が割り当てられる。転送時、その符号語を使って音声を表すビット列をスクランブル(暗号化)する。受信機では、その逆を行って暗号解読する。このような符号語の特性により、同時に複数の携帯電話がそれぞれ個別の符号語を割り当てられ、通話可能となる。1つの受信機から見れば、他の通話の信号は低レベルなノイズとしか認識されない。
もう1つの一般的な符号のクラスとして、[[自動再送制御]](ARQ)符号がある。この場合、送信機は長いメッセージに[[パリティビット]]を付与する。受信機はメッセージとパリティビットが一致するかを調べ、一致しない場合に送信機にメッセージの再送を要求する。ごく単純なものを除いて、[[Wide Area Network]]で使用されるプロトコルには必ず ARQ が使われている。例えば、[[Synchronous Data Link Control|SDLC]] ([[IBM]])、[[Transmission Control Protocol|TCP]]、[[X.25]] などである。この分野では、拒絶された[[パケット]]と新たなパケットの一致問題という部分でも研究が進んでいる。つまり、新たに受信したパケットが再送されたものか、それとも別の新しいパケットなのかを識別する問題である。一般にパケットに[[シリアル番号|番号]]を振ることで対処するが、[[プロトコルスタック]]がある場合、再送を制御する階層が異なる場合がある。[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]は両方の技法を採用している好例である。コネクションのある場合、TCP/IPはARQ符号による再送を行う。しかし、コネクションがない場合、ARQ は使われず、アプリケーション層で(必要に応じて)再送を制御しなければならない。
== 関連項目 ==
* [[情報理論]]
* [[符号化方式]]
* [[誤り検出訂正]]
* [[データ圧縮]]
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[エルウィン・バーレカンプ|Elwyn R. Berlekamp]] (2014), ''Algebraic Coding Theory'', World Scientific Publishing (revised edition), {{ISBN2|978-9-81463-589-9}}.
* {{仮リンク|デイヴィッド・J・C・マッカイ|en|David J. C. MacKay|label=MacKay, David J. C.}}. ''[http://www.inference.phy.cam.ac.uk/mackay/itila/book.html Information Theory, Inference, and Learning Algorithms]'' Cambridge: Cambridge University Press, 2003. {{ISBN2|0-521-64298-1}}
* {{仮リンク|ヴェラ・プレス|en|Vera Pless|label=Vera Pless}} (1982), ''Introduction to the Theory of Error-Correcting Codes'', John Wiley & Sons, Inc., {{ISBN2|0-471-08684-3}}.
* Randy Yates, ''[http://www.digitalsignallabs.com/tutorial.pdf A Coding Theory Tutorial]''.
* 今井秀樹:「符号理論」、電子通信情報学会、ISBN 978-4885520907(1990年3月)。
* J.ユステセン, T.ホーホルト:「誤り訂正符号入門」、森北出版、ISBN 978-4627817111(2005年9月30日)。
* 先名健一:「例題で学ぶ符号理論入門」、森北出版、ISBN 978-4-627-81741-8(2011年7月)。
* Henning Stichtenoth、新妻 弘(訳):「代数関数体と符号理論」、共立出版、ISBN 978-4-320-11045-8(2013年8月25日)。
* 楫勇一(編著):「情報・符号理論」、オーム社、ISBN 978-4-274-21317-5(2013年10月)。
* 萩原学(編著):「進化する符号理論」、日本評論社、ISBN 978-4535787971(2016年9月9日)。
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国際労働機関
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国際労働機関(こくさいろうどうきかん、英語: International Labour Organization、略称:ILO)とは 国際労働基準の制定を通して世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とする、国際連合の専門機関。1919年に国際連盟に創設され、国際連合において最初で最古の専門機関である。本部はスイスのジュネーヴ。加盟国は187か国(2016年2月現在)。
ILOは、結社の自由、団体交渉権の効果的承認、強制労働の撤廃、児童労働の廃止、差別の撤廃を擁護してきた。1969年には、国家間の友愛と平和に貢献し、労働者のディーセント・ワークと正義を追求し、途上国に技術支援を行ってきたことをたたえノーベル平和賞を受賞した。
日本は労働者保護に関わる重要な条約である155号条約(労働安全衛生)、47号(週40時間制)、132号(年次有給休暇)、140号(有給教育休暇)などが未批准である。
(a) 労働は、商品ではない。 (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。 (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。 (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。
ILOの組織は、総会・理事会・国際労働事務局等の本部組織の他に40以上の国に地域総局と現地事務所を設けている。また、ILOは社会対話の推進から国際連合機関のなかで唯一、加盟国が政府、労働者、使用者の三者構成で代表を送っている(三者構成の原則)。
開発途上国への技術研修などの役割も果たしており、そのために国際研修センター(トリノに設置)を置いている。
総会はILOの最高意思決定機関で、「国際労働会議」(英: International Labour Conference、「国際労働総会」とも訳される)と呼ばれる。通常は毎年1回、6月に開催され、国際労働条約・勧告の審議・採択、各国の実施状況の審査、加盟国の承認などを討議する。加盟国の代表は政府代表2名、労働者代表1名、使用者代表1名の計4名からなる三者構成を採っている。政労使の各代表はそれぞれ独立して発言や投票を行う。
この他に、約10年に一度、船員労働のみを審議する「海事総会」がある。
理事会はILOの執行機関である。総会の決定事項の執行やILO事務局の監督を行う。理事は政府理事28名、労働者理事14名、使用者理事14名の計56名で構成される。このうち政府理事10名は常任理事国(アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツ・日本・イタリア・ロシア・中華人民共和国・インド・ブラジル)から任命される。
国際労働事務局はILOの日常業務を遂行する機関である。事務局には理事会が任命する事務局長の下に2000名を超える職員がおり、諸会議の報告書作成や労働・生活条件の国際的な資料収集と分析等を行っている。
ILO総会で採択される条約を国際労働条約(ILO Conventions)という。それを批准した国だけしか拘束しない。しかし、採択時に反対した加盟国も、条約を自国で批准権限を持つ機関(日本では国会)に提出しなければならない。ILOには190の条約(うち撤回・廃止11、棚上げ19)と206の勧告(うち撤回36、置き換え22)がある(2023年1月現在)。
設立以来、具体的な国際労働基準の制定を進めてきており、近年では、男女の雇用均等や同一労働同一賃金の徹底、強制労働と児童労働の撲滅、移民労働者や家庭内労働者の権利にも力を注いでいる。
Fundamental convention(中核的労働基準)
その他
日本は、50の条約を批准している が、これは全条約のうち約4分の1、ヨーロッパ諸国のおよそ半分またはそれ以下である(例、ドイツ83、イギリス86、スウェーデン92、フィンランド98、オランダ106、ノルウェー107、フランス123、スペイン133)。一方、アメリカ、カナダ、韓国などは日本よりも批准数が少ない。
勧告(Recommendation)は、条約と異なり拘束力はなく、批准の対象にはならない。
日本は設立時から参加しており国際会議には政府・使用者・労働者(松岡駒吉他)のそれぞれ代表を送っている。1938年に脱退し、サンフランシスコ講和条約調印の1951年にILOへの復帰を果たした。
1922年以来、脱退・再加盟を経て1954年から常任理事国を務めている。1975年からは政府、労働者、使用者の三者すべてが常任理事となっており、理事会における議席を占めているものの国内では、派遣業界がILO勧告を守らないなどといった例も数多く見られる。これに対し拠出金や人的協力においては非常に協力的でありILO側からも高く評価されている。
ILOが採択した184条約(失効5条約を除く)のうち、日本が批准しているのは48条約で、全体のおよそ四分の一にあたる。以下は日本の主な未批准条約;
日本では特に、労働時間関連、母性保護関係、雇用形態についての条約批准に消極的である傾向がうかがえる。連合、全労連など、日本の労働団体はこれら未批准の条約の早期批准を求めている。
「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」とILO憲章に書かれているとおり、日本も国際労働機関から早期批准を求められている。
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"text": "総会はILOの最高意思決定機関で、「国際労働会議」(英: International Labour Conference、「国際労働総会」とも訳される)と呼ばれる。通常は毎年1回、6月に開催され、国際労働条約・勧告の審議・採択、各国の実施状況の審査、加盟国の承認などを討議する。加盟国の代表は政府代表2名、労働者代表1名、使用者代表1名の計4名からなる三者構成を採っている。政労使の各代表はそれぞれ独立して発言や投票を行う。",
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"text": "理事会はILOの執行機関である。総会の決定事項の執行やILO事務局の監督を行う。理事は政府理事28名、労働者理事14名、使用者理事14名の計56名で構成される。このうち政府理事10名は常任理事国(アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツ・日本・イタリア・ロシア・中華人民共和国・インド・ブラジル)から任命される。",
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"text": "国際労働事務局はILOの日常業務を遂行する機関である。事務局には理事会が任命する事務局長の下に2000名を超える職員がおり、諸会議の報告書作成や労働・生活条件の国際的な資料収集と分析等を行っている。",
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"text": "ILO総会で採択される条約を国際労働条約(ILO Conventions)という。それを批准した国だけしか拘束しない。しかし、採択時に反対した加盟国も、条約を自国で批准権限を持つ機関(日本では国会)に提出しなければならない。ILOには190の条約(うち撤回・廃止11、棚上げ19)と206の勧告(うち撤回36、置き換え22)がある(2023年1月現在)。",
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"text": "設立以来、具体的な国際労働基準の制定を進めてきており、近年では、男女の雇用均等や同一労働同一賃金の徹底、強制労働と児童労働の撲滅、移民労働者や家庭内労働者の権利にも力を注いでいる。",
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"text": "その他",
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"text": "日本は、50の条約を批准している が、これは全条約のうち約4分の1、ヨーロッパ諸国のおよそ半分またはそれ以下である(例、ドイツ83、イギリス86、スウェーデン92、フィンランド98、オランダ106、ノルウェー107、フランス123、スペイン133)。一方、アメリカ、カナダ、韓国などは日本よりも批准数が少ない。",
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"text": "勧告(Recommendation)は、条約と異なり拘束力はなく、批准の対象にはならない。",
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"text": "日本は設立時から参加しており国際会議には政府・使用者・労働者(松岡駒吉他)のそれぞれ代表を送っている。1938年に脱退し、サンフランシスコ講和条約調印の1951年にILOへの復帰を果たした。",
"title": "日本との関係"
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"text": "1922年以来、脱退・再加盟を経て1954年から常任理事国を務めている。1975年からは政府、労働者、使用者の三者すべてが常任理事となっており、理事会における議席を占めているものの国内では、派遣業界がILO勧告を守らないなどといった例も数多く見られる。これに対し拠出金や人的協力においては非常に協力的でありILO側からも高く評価されている。",
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"text": "ILOが採択した184条約(失効5条約を除く)のうち、日本が批准しているのは48条約で、全体のおよそ四分の一にあたる。以下は日本の主な未批准条約;",
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"text": "日本では特に、労働時間関連、母性保護関係、雇用形態についての条約批准に消極的である傾向がうかがえる。連合、全労連など、日本の労働団体はこれら未批准の条約の早期批准を求めている。",
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"text": "「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」とILO憲章に書かれているとおり、日本も国際労働機関から早期批准を求められている。",
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}
] |
国際労働機関とは
国際労働基準の制定を通して世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とする、国際連合の専門機関。1919年に国際連盟に創設され、国際連合において最初で最古の専門機関である。本部はスイスのジュネーヴ。加盟国は187か国(2016年2月現在)。 ILOは、結社の自由、団体交渉権の効果的承認、強制労働の撤廃、児童労働の廃止、差別の撤廃を擁護してきた。1969年には、国家間の友愛と平和に貢献し、労働者のディーセント・ワークと正義を追求し、途上国に技術支援を行ってきたことをたたえノーベル平和賞を受賞した。 日本は労働者保護に関わる重要な条約である155号条約(労働安全衛生)、47号(週40時間制)、132号(年次有給休暇)、140号(有給教育休暇)などが未批准である。
|
{{Infobox UN
| name = 国際労働機関
| en name = International Labour Organization
| fr name = Organisation internationale du travail
| zh name = 国际劳工组织
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| ar name = منظمة العمل الدولية
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1969年|ノーベル平和賞|労働条件や生活水準の改善のための取組みに対して}}
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'''国際労働機関'''(こくさいろうどうきかん、{{lang-en|International Labour Organization}}、略称:'''ILO''')とは
国際労働基準の制定を通して世界の[[労働者]]の[[労働条件]]と[[生活水準]]の改善を目的とする、[[国際連合]]の[[専門機関]]。1919年に[[国際連盟]]に創設され、国際連合において最初で最古の専門機関である。本部は[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]。加盟国は187か国(2016年2月現在)。
ILOは、結社の自由、[[団体交渉権]]の効果的承認、[[強制労働]]の撤廃、[[児童労働]]の廃止、差別の撤廃を擁護してきた。1969年には、国家間の友愛と平和に貢献し、労働者の[[ディーセント・ワーク]]と正義を追求し、途上国に技術支援を行ってきたことをたたえ[[ノーベル平和賞]]を受賞した。
日本は労働者保護に関わる重要な条約である155号条約(労働安全衛生)、47号(週40時間制)、132号([[年次有給休暇]])、140号(有給教育休暇)などが未[[批准]]である。
== 沿革 ==
[[ファイル:1919-ILC-secretariatstaff.jpg|thumb|right|500px|<center>第1回ILO総会(1919年、ワシントンD.C.)]]
* 1919年 - [[第一次世界大戦]]後、当時の社会活動家による国際的な労働者保護を訴える運動、貿易競争の公平性の維持、各国の[[労働組合]]の運動、[[ロシア革命]]の影響で労働問題が大きな政治問題となっていたため、国際的に協調して労働者の権利を保護するべきと考えられた。[[パリ講和会議]]において[[国際連盟]]の姉妹機関としての国際労働機関の設立が合意され、[[ヴェルサイユ条約]]第13編労働などの各講和条約には規約が記載された。そのILO憲章の前文では『普遍的で持続的な平和は[[社会正義]]によってのみもたらされる』と明記された<ref>[http://www.ilo.org/ilolex/english/constq.htm Constitution of the International Labour Organisation, Preamble]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。当初の参加国は43か国<ref>{{Cite book|和書 |author=日本ILO協会 |date=2005 |title=ILOのあらまし : 活動と組織・主な条約と勧告 |publisher=日本ILO協会 |location=東京 |isbn=4-931097-20-0 |edition =5 |pages=2-6 }}</ref>。
* 1944年 - [[第二次世界大戦]]中は活動が縮小していたが、[[s:ja:フィラデルフィア宣言|フィラデルフィア宣言]]を採択し、戦後に向けて活動を再開した。フィラデルフィア宣言において、下記の根本原則を確認した。
{{Quotation|
(a) 労働は、商品ではない。<br>
(b) [[表現の自由|表現]]及び[[結社の自由]]は、不断の進歩のために欠くことができない。<br>
(c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。<br>
(d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。
}}
* 1946年 - [[国際連合]]と協定を結び、国連の目的達成の一翼を担う、最初の[[専門機関]]となる。ILO憲章を改正し、フィラデルフィア宣言をその付随文書として取り込む。
* 1969年 - [[ノーベル平和賞]]を受賞した。
* 1977年 - [[アメリカ合衆国]]は、社会主義国への批判とイスラエルへの支援の目的で脱退したが、1980年に復帰した<ref>{{Cite book|和書 |author=中山和久|authorlink=中山和久 |date=1983 |title=ILO条約と日本 |publisher=[[岩波書店]] |page=28}}</ref>。
* 1999年 - 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人への[[ディーセント・ワーク]](働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。
* 2018年 - 年次総会で職場での[[セクハラ]]を含む[[ハラスメント]]をなくすため、条約を制定すべきとした委員会報告を採択、2019年総会でハラスメント対策として初の国際基準となる条約制定を目指す<ref>2018年6月9日中日新聞朝刊3面</ref>。
== 組織 ==
ILOの組織は、総会・理事会・国際労働事務局等の本部組織の他に40以上の国に地域総局と現地事務所を設けている。また、ILOは社会対話の推進から[[国際連合機関]]のなかで唯一<ref>[http://www.ilo.org/tokyo/about-ilo/lang--ja/index.htm ILO駐日事務所 ILOについて]</ref>、加盟国が[[政府]]、[[労働者]]、[[使用者]]の三者構成で代表を送っている([[三者構成の原則]])。
[[開発途上国]]への技術研修などの役割も果たしており、そのために国際研修センター([[トリノ]]に設置)を置いている。
[[File:OIT - Sede de Ginebra.jpg|thumb|none|150px|[[スイス]][[ジュネーヴ]]のILO本部]]
=== 総会 ===
総会はILOの最高意思決定機関で、「国際労働会議」({{Lang-en-short|International Labour Conference}}、「国際労働総会」とも訳される)<ref>{{Cite kotobank|word=国際労働会議|encyclopedia=精選版 [[日本国語大辞典]]|accessdate=2022-05-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/info/un/unsystem/specialized_agencies/ilo/|title=国際労働機関|publisher=[[国際連合広報センター]]|accessdate=2022-05-15}}</ref>と呼ばれる。通常は毎年1回、6月に開催され、国際労働条約・勧告の審議・採択、各国の実施状況の審査、加盟国の承認などを討議する。加盟国の代表は[[政府]]代表2名、[[労働者]]代表1名、[[使用者]]代表1名の計4名からなる三者構成を採っている。政労使の各代表はそれぞれ独立して発言や投票を行う。
この他に、約10年に一度、[[船員]]労働のみを審議する「海事総会」がある。
=== 理事会 ===
理事会はILOの執行機関である。総会の決定事項の執行やILO事務局の監督を行う。理事は政府理事28名、労働者理事14名、使用者理事14名の計56名で構成される。このうち政府理事10名は常任理事国([[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[日本]]・[[イタリア]]・[[ロシア]]・[[中華人民共和国]]・[[インド]]・[[ブラジル]])から任命される<ref>{{Cite web|和書|title=組織 (ILO駐日事務所) |url=https://www.ilo.org/tokyo/about-ilo/organization/lang--ja/index.htm |website=www.ilo.org |access-date=2022-12-29 |language=ja}}</ref>。
=== 国際労働事務局 ===
国際労働事務局はILOの日常業務を遂行する機関である。事務局には理事会が任命する事務局長の下に2000名を超える職員がおり、諸会議の報告書作成や労働・生活条件の国際的な資料収集と分析等を行っている。
==== 歴代事務局長 ====
{|class="wikitable" style="text-align:left top;font-size:90%" border="1"
|-
!width=75px|任期 !!width=270px|氏名 !!width=140px|出身国 !! 経験職・関連団体
|-
|1919年<br/>-1932年
|{{仮リンク|アルベール・トーマ|en|Albert_Thomas_(minister)|preserve=1}}
|[[フランス]]
|style="font-size:"10px"|[[外交官]]、[[軍需大臣]]
|-
|1932年<br/>-1938年
|{{仮リンク|ハロルド・バトラー|en|Harold Butler|preserve=1}}
|[[イギリス帝国]]
|[[外交官]]・欧州経済協力連盟
|-
|1939年<br/>-1941年
|{{仮リンク|ジョン・G・ワイナント|en|John Gilbert Winant|preserve=1}}
|[[アメリカ合衆国]]
|valign=middle|[[ニューハンプシャー州知事]]
|-
|1941年<br/>-1948年
|{{仮リンク|エドワード・F・フィーラン|en|Edward_J._Phelan|preserve=1}}
|[[アイルランド共和国]]
|[[公務員]](労働省)
|-
|1948年<br/>-1970年
|{{仮リンク|デイビッド・A・モース|en|David A. Morse|preserve=1}}
|[[アメリカ合衆国]]
|[[弁護士]]・[[軍人]]
|-
|1970年<br/>-1973年
|{{仮リンク|C・ウィルフレッド・ジェンクス|en|C. Wilfred Jenks|preserve=1}}
|[[イギリス]]
|ILO職員
|-
|1974年<br/>-1989年
|{{仮リンク|フランシス・ブランシャール|en|Francis Blanchard|preserve=1}}
|[[フランス]]
|[[軍人]]・[[国際難民機関]]・[[国際移住機関]]・[[国際連合難民高等弁務官事務所]]
|-
|1989年<br/>-1999年
|{{仮リンク|ミシェル・アンセンヌ|en|Michel Hansenne|preserve=1}}
|[[ベルギー]]
|[[博士(法学)|法学博士]]・雇用・労働大臣
|-
|1999年<br/>-2012年
|{{仮リンク|フアン・ソマビア|en|Juan Somavía|preserve=1}}
|[[チリ]]
|[[弁護士]]、外交官、[[国際連合経済社会理事会|国連経済社会理事会]]、[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]、[[世界社会開発サミット準備委員会]]、
|-
|2012年<br/>-2022年
|{{仮リンク|ガイ・ライダー|en|Guy Ryder|preserve=1}}
|[[イギリス]]
|[[政治学者]]、[[イギリス労働組合会議]]、[[国際自由労働組合総連盟]]、[[国際商業事務専門職技術労働組合連盟]]
|-
|2022年10月1日<br/>-
|{{ill2|ジルベール・ウングボ|en|Gilbert Houngbo|preserve=1}}
|[[トーゴ]]
|[[政治家]](元首相)、外交官、[[国際農業開発基金]]代表
|}
== 機能 ==
=== 国際労働条約 ===
{{Main|[[:en:List of International Labour Organization Conventions]]}}
ILO総会で採択される条約を'''国際労働条約'''(ILO Conventions)という<ref name=ilostandard>{{Cite web|和書|url=https://www.ilo.org/tokyo/standards/lang--ja/index.htm |title=国際労働基準(基準設定と監視機構) |publisher=ILO駐日事務所 |accessdate=2023-01-23}}</ref>。それを[[批准]]した国だけしか拘束しない。しかし、採択時に反対した加盟国も、条約を自国で批准権限を持つ機関(日本では[[国会]])に提出しなければならない。ILOには190の条約(うち撤回・廃止11、棚上げ19)<ref name=ilostandard2>{{Cite web|和書|url=https://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-conventions/lang--ja/index.htm |title=条約一覧(番号順、議定書を含む) |publisher=ILO駐日事務所 |accessdate=2023-01-23}}</ref>と206の勧告(うち撤回36、置き換え22)<ref name=ilostandard3>{{Cite web |url=https://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-recommendations/lang--ja/index.htm |title=勧告一覧(番号順) |publisher=ILO駐日事務所 |accessdate=2023-01-23}}</ref>がある(2023年1月現在)。
設立以来、具体的な国際労働基準の制定を進めてきており、近年では、[[男女同権|男女の雇用均等]]や[[同一労働同一賃金]]の徹底、[[強制労働]]と[[児童労働]]の撲滅、[[移民]]労働者や[[家庭内労働者]]の権利にも力を注いでいる。
'''Fundamental convention'''(中核的労働基準)<ref>{{Cite press|date=1998-06 |publisher=ILO |title=労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言 |url=https://www.ilo.org/tokyo/about-ilo/WCMS_246572/lang--ja/index.htm }}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=連合 |url=https://www.jtuc-rengo.or.jp/activity/kokusai/ilo/ |accessdate=2023-06 |title=中核的労働基準とILO}}</ref>
* 29号条約 ([[強制労働に関する条約]]) - 日本は批准している。
* 87号条約([[結社の自由及び団結権の保護に関する条約]]) - 日本は批准している。
* 98号条約([[団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約]]) - 日本は批准している。
* 100号条約([[同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約]])- 日本は批准している。
* 105号条約([[強制労働の廃止に関する条約]])- 日本は2022年7月19日に批准<ref>{{Cite web|和書|title=「強制労働の廃止に関する条約(第百五号)」の批准書の寄託 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press1_000983.html |website=外務省 |access-date=2022-08-07 |language=ja}}</ref>。
* 111号条約([[雇用及び職業についての差別待遇に関する条約]])
* 138号条約({{仮リンク|就業が認められるための最低年齢に関する条約|en|Minimum Age Convention, 1973}}) - 日本は批准している。
* 155号条約(職業上の安全及び健康に関する条約)
* 182号条約({{仮リンク|最悪の形態の児童労働の禁止及び撤廃のための即時の行動に関する条約|en|Worst Forms of Child Labour Convention}}) - 日本は批准している。
* 187号条約(職業上の安全及び健康促進枠組条約) - 日本は批准している。
'''その他'''
* 1号条約([[工業的企業に於ける労働時間を1日8時間かつ1週48時間に制限する条約]])- [[八時間労働制]]
* 14号条約([[工業的企業に於ける週休の適用に関する条約]])- 週休1日制
* 30号条約([[商業及び事務所における労働時間の規律に関する条約]]))- [[八時間労働制]]
* 52号条約({{仮リンク|年次有給休暇に関する条約|label=年次有給休暇に関する条約|en|Holidays with Pay Convention, 1936}}) - [[年次有給休暇]]
* 102号条約({{仮リンク|社会保障の最低基準に関する条約|en|Social Security (Minimum Standards) Convention, 1952}}) - [[ユニバーサルヘルスケア]]、[[傷病給付]]、[[失業給付]]、[[老齢給付]]、[[労災|業務災害給付]]を規定。日本は批准している。
* 128号条約({{仮リンク|障害、老齢及び遺族給付に関する条約|en|Invalidity, Old-Age and Survivors' Benefits Convention, 1967}})- [[年金#給付事項]]を規定。
* 158号条約(1982年の雇用終了条約) - [[解雇]]の要件と予告期間を定める。
* 159号条約([[障害者の職業リハビリテーション及び雇用に関する条約]]) - 日本は批准している。
* 181号条約(1997年の民間職業仲介事業所条約) - [[職業紹介事業]]。日本は批准している。
* 183号条約([[1952年の母性保護条約に関する改正条約]])- 母性保護、[[産前産後休業]]
日本は、50の条約を批准している<ref name=ilostandard /> が、これは全条約のうち約4分の1、ヨーロッパ諸国のおよそ半分またはそれ以下である(例、[[ドイツ]]83、[[イギリス]]86、[[スウェーデン]]92、[[フィンランド]]98、[[オランダ]]106、[[ノルウェー]]107、[[フランス]]123、[[スペイン]]133)。一方、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[カナダ]]、[[大韓民国|韓国]]などは日本よりも批准数が少ない。
=== 勧告 ===
勧告(Recommendation)は、条約と異なり拘束力はなく、批准の対象にはならない<ref name=ilostandard />。
== 日本との関係 ==
[[日本]]は設立時から参加しており国際会議には政府・使用者・労働者([[松岡駒吉]]他)のそれぞれ代表を送っている。[[1938年]]に脱退し、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]調印の[[1951年]]にILOへの復帰を果たした。
[[1922年]]以来、脱退・再加盟を経て[[1954年]]から常任理事国を務めている。[[1975年]]からは政府、労働者、使用者の三者すべてが常任理事となっており、理事会における議席を占めているものの国内では、派遣業界がILO勧告を守らないなどといった例も数多く見られる。これに対し拠出金や人的協力においては非常に協力的でありILO側からも高く評価されている。
=== 日本の主な未批准条約 ===
ILOが採択した184条約(失効5条約を除く)のうち、日本が批准しているのは48条約で、全体のおよそ四分の一にあたる。以下は日本の主な未批准条約;
* 1号条約([[工業的企業に於ける労働時間を1日8時間かつ1週48時間に制限する条約|一日8時間・週48時間制]])、47号(週40時間制)、132号([[年次有給休暇]])、140号(有給教育休暇)などの労働時間・休暇関係の条約。
* 1998年のILO新宣言(労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言)で「最優先条約」とされた8条約のうち、'''111号([[雇用及び職業についての差別待遇に関する条約]])'''。
* 3号([[母性]]保護)、 94号(公契約における労働条項)、95号(賃金保護)、97号(移民労働者)、103号([[母性]]保護、改正)、148号(作業環境)、149号(看護職員)、151号(公務労働者)、154号([[団体交渉]]) 、155号([[労働安全衛生]])、157号([[社会保障]]の権利維持)、158号([[解雇|使用者の発意による雇用の終了]])、171号([[夜業]])、173号(労働者債権の保護)、174号(大規模産業災害防止)、175号([[パートタイム|パートタイム労働]])、177号([[在宅ワーク|在宅形態の労働]])、183号(母性保護)など。
日本では特に、労働時間関連<ref group="注">18本の[[労働時間]]・[[休日|休暇]]関係の条約を1本も批准していない。</ref>、母性保護関係<ref group="注">3本の母性保護に関する条約、第3号、第103号、第183号([[育児休業|母性休業]]の最低期間についても規定する)を一本も批准していない。</ref>、雇用形態についての条約批准に消極的である傾向がうかがえる。[[日本労働組合総連合会|連合]]、[[全国労働組合総連合|全労連]]など、日本の労働団体はこれら未批准の条約の早期批准を求めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jtuc-rengo.or.jp/kokusai/ilo/index.html |title=連合|中核的労働基準とILO(国際活動) |publisher=連合 |language=日本語 |archiveurl=https://megalodon.jp/2010-0828-1312-14/www.jtuc-rengo.or.jp/kokusai/ilo/index.html |archivedate=2010-08-28 |accessdate=2010-08-28 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zenroren.gr.jp/jp/shokai/taikai/19taikai/25/gian1-4.html |title=【第4章】リストラ「合理化」反対、働くルールの確立 |publisher=全労連 |language=日本語 |archiveurl=https://megalodon.jp/2010-0828-1314-29/www.zenroren.gr.jp/jp/shokai/taikai/19taikai/25/gian1-4.html |archivedate=2010-08-28 |accessdate=2010-08-28 }}</ref>。
「'''いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる'''」とILO憲章に書かれているとおり、日本も国際労働機関から早期批准を求められている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{wikisource|作者:国際労働機関|国際労働機関の関連文書}}
{{Commonscat|International Labour Organization}}
*[[s:作者:国際労働機関|国際労働機関の条約一覧]] - ウィキソース
*{{仮リンク|国際労働機関の条約一覧|en|List of International Labour Organization Conventions}}
*[[三者構成の原則]] - 基本理念
*[[諸井六郎]]
*[[労働時間]] / [[時間外労働]] / [[過労死]]
*[[ディーセント・ワーク]]
*[[結社の自由]]
*[[労働法]]
*[[労働]]
*[[世界社会正義の日]]
== 外部リンク ==
*[https://www.ilo.org/ International Labour Organization]{{en icon}}
*[https://www.ilo.org/tokyo/lang--ja/index.htm ILO駐日事務所]
*[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/kokusai/ilo/ 日本とILO] - 厚生労働省
*日本国が未批准の国際労働機関の条約の一覧([http://www.ilo.org/dyn/normlex/en/f?p=1000:11210:0::NO:11210:P11210_COUNTRY_ID:102729 Up-to-date Conventions and Protocols not ratified by Japan]) - ILO {{en icon}}
*{{Kotobank}}
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武内直子
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武内 直子(たけうち なおこ、1967年3月15日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、作詞家、薬剤師、臨床検査技師、同人作家。星座はうお座、血液型はA型。本名は冨樫 直子(とがし なおこ)。
『美少女戦士セーラームーン』シリーズで知られる。講談社『なかよし』で活躍した。夫は同じく漫画家の冨樫義博(詳細は下記)、義弟は冨樫。
山梨県甲府市出身。甲府市立北中学校、山梨県立甲府第一高等学校、共立薬科大学薬学部卒業。平成元年に薬剤師免許を取得し、現在も薬剤師名簿には、旧姓の「武内直子」で登録されている。薬剤師および臨床検査技師の資格を保有している。大学卒業後からの半年間は、慶應義塾大学病院の中央検査部に勤務していた。
高校在学中は天文部に所属し、一高祭実行委員会でも重要人物として活躍。当時の同級生と共作した一高祭のポスターは高校生の作品とは思えぬクオリティの高い作品として評価されていた。
高校時代から『なかよし』に投稿を始め、大学在学中の1986年(昭和61年)に『LOVE CALL』で第2回なかよし新人まんが賞に入選し、デビュー。
『コードネームはセーラーV』で一躍有名になり、『美少女戦士セーラームーン』シリーズが大ヒットを収め、同作品で第17回講談社漫画賞 少女部門を受賞。
趣味は、ドライブと家具、調度品集めのほか、スケートや水泳も好きだという。おまじないや各種の占いにも詳しい。作家の三島由紀夫を尊敬している。
実家が宝石店であることから非常に裕福な家庭であり、『セーラームーン』連載開始当初すでにポルシェを愛車にしていた。
ネームが詰まると地元の山梨宝石博物館によく行っていたことと、上述の通り実家が宝石店であることもあって鉱物マニアとしても知られているほど宝石類にも詳しい。作中のキャラクターにキラル・アキラルなど化学用語やネフライト・カオリナイトなど、鉱物の名前で命名することもある。
漫画、アニメ、特撮といったサブカルチャーが好きで、謎本『美少女戦士の研究 セーラームーン最後の秘密』(十番街イレギュラーズ・スーパーズ著、データハウス刊)によると志賀公江の『スマッシュをきめろ!』の大ファンであるとの記述がある。
テレビドラマ版『美少女戦士セーラームーン』は、特撮マニアである武内がアニメ化の話が進んでいる頃からやりたかったと語っている。
中学生の頃は『宇宙戦艦ヤマト』のファンであり、『戦場まんがシリーズ』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』なども好きだった。武内の描く女の子は松本零士に強く影響を受けているとのこと。また『劇場版美少女戦士セーラームーンS』で同作の登場人物である名夜竹姫子の職業が宇宙飛行士なのは『ヤマト』の世代である武内の憧れから出てきたという。その他にもオタクやオタク文化にも興味を示している。
同人作家としても活動し、『セーラームーン』関連の同人誌の収集を行っており、自らもコミックマーケットにサークル参加し、同人誌を発行した。
アニメ版『セーラームーン』に関しては、火野レイのキャラクター改変、外部戦士の扱いなどに苦言を残している。しかし、作画に関しては満足であったとメインのアニメーター(作画監督)との対談で語っている。また、時期は不明ながら、畑健二郎が彼女のアシスタントをしていた。
著名な友人としては吉住渉や藤島康介などが知られている。
『セーラームーン』では止められたが、「人がばんばん死ぬ漫画を描きたかった」と、おまけコミックで描かれた。
1999年(平成11年)に結婚。夫は、同じく漫画家の冨樫義博。結婚式の司会は、声優の三石琴乃(『美少女戦士セーラームーン』の主人公・月野うさぎ役)と、佐々木望(『幽☆遊☆白書』の主人公・浦飯幽助役)が行った。冨樫との交際のきっかけは、同じく漫画家・萩原一至の紹介とされている。
休業中には冨樫義博のアシスタントを行っていた。新婚生活や、出産、さらに育児の様子は集英社の漫画雑誌『ヤングユー』に掲載された一連のエッセイ漫画(詳細はNAOKO先生の活動履歴を参照)に詳しく描かれている。また、これには、講談社での『PQエンジェルス』突然終了のいきさつや原稿紛失事件なども描かれており、発表当時は大きな話題と波紋を呼んだ。
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武内 直子は、日本の漫画家、イラストレーター、作詞家、薬剤師、臨床検査技師、同人作家。星座はうお座、血液型はA型。本名は冨樫 直子。 『美少女戦士セーラームーン』シリーズで知られる。講談社『なかよし』で活躍した。夫は同じく漫画家の冨樫義博(詳細は下記)、義弟は冨樫。
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{{存命人物の出典明記|date=2012年4月}}
{{Infobox 漫画家
|名前 = 武内 直子
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|本名 =
|生年 = {{生年月日と年齢|1967|3|15}}
|生地 = {{JPN}}・[[山梨県]][[甲府市]]
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|職業 = [[漫画家]]<br/>[[イラストレーター]]
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|代表作 = 『[[美少女戦士セーラームーン]]』<br />『[[コードネームはセーラーV]]』
|受賞 = 第17回[[講談社漫画賞]] 少女部門受賞(『美少女戦士セーラームーン』)
[[インクポット賞]]受賞
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{{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|ウィキポータル 漫画]]}}
'''武内 直子'''(たけうち なおこ、[[1967年]][[3月15日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、[[作詞家]]、[[薬剤師]]、[[臨床検査技師]]、[[同人作家]]。星座は[[双魚宮|うお座]]、[[ABO式血液型|血液型]]はA型。{{要出典範囲|date=2023年7月15日|本名は'''冨樫 直子'''(とがし なおこ)。}}
『[[美少女戦士セーラームーン]]』シリーズで知られる。[[講談社]]『[[なかよし]]』で活躍した。夫は同じく漫画家の[[冨樫義博]](詳細は下記)、義弟は[[冨樫 (漫画家)|冨樫]]。
== 経歴 ==
[[山梨県]][[甲府市]]出身。[[甲府市立北中学校]]、[[山梨県立甲府第一高等学校]]、[[共立薬科大学]][[薬学部]]卒業。[[1989年|平成元年]]に薬剤師免許を取得し、現在も薬剤師名簿には、旧姓の「武内直子」で登録されている。[[薬剤師]]および[[臨床検査技師]]の資格を保有している。大学卒業後からの半年間は、[[慶應義塾大学病院]]の中央検査部に勤務していた。
高校在学中は[[地球科学|天文]]部に所属し、一高祭実行委員会でも重要人物として活躍。当時の同級生と共作した一高祭の[[ポスター]]は高校生の作品とは思えぬクオリティの高い作品として評価されていた。
高校時代から『なかよし』に投稿を始め、大学在学中の[[1986年]](昭和61年)に『LOVE CALL』で第2回[[なかよし新人まんが賞]]に入選し、デビュー。
『[[コードネームはセーラーV]]』で一躍有名になり、『美少女戦士セーラームーン』シリーズが大ヒットを収め、同作品で第17回[[講談社漫画賞]] 少女部門を受賞。
== 人物 ==
趣味は、[[ドライブ]]と[[家具]]、[[調度品]]集めのほか、[[スケート]]や[[水泳]]も好きだという。[[呪術|おまじない]]や各種の[[占い]]にも詳しい。作家の[[三島由紀夫]]を尊敬している。
実家が[[宝石]]店であることから非常に裕福な家庭であり、『セーラームーン』連載開始当初すでに[[ポルシェ]]を愛車にしていた。
[[ネーム (漫画)|ネーム]]が詰まると地元の山梨宝石博物館によく行っていたことと、上述の通り実家が宝石店であることもあって[[鉱物]][[マニア]]としても知られているほど宝石類にも詳しい。作中の[[キャラクター]]に[[キラリティー|キラル・アキラル]]など化学用語や[[ヒスイ|ネフライト]]・[[カオリナイト]]など、鉱物の名前で命名することもある。
[[漫画]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[特撮]]といった[[サブカルチャー]]が好きで、[[謎本]]『美少女戦士の研究 セーラームーン最後の秘密』(十番街イレギュラーズ・スーパーズ著、[[データハウス]]刊)によると[[志賀公江]]の『[[スマッシュをきめろ!]]』の大ファンであるとの記述がある。
[[テレビドラマ]]版『[[美少女戦士セーラームーン (テレビドラマ)|美少女戦士セーラームーン]]』は、特撮マニアである武内がアニメ化の話が進んでいる頃からやりたかったと語っている<ref>美少女戦士セーラームーンLD版特典映像より</ref>。
[[中学生]]の頃は『[[宇宙戦艦ヤマト]]』のファンであり、『[[戦場まんがシリーズ]]』や『[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]』なども好きだった。武内の描く女の子は[[松本零士]]に強く影響を受けているとのこと<ref>『アニメージュ』[[1993年]](平成5年)[[5月]]号 [[徳間書店]]、[[1993年]](平成5年)、43頁。</ref>。また『[[劇場版美少女戦士セーラームーンS]]』で同作の登場人物である名夜竹姫子の職業が[[宇宙飛行士]]なのは『ヤマト』の世代である武内の憧れから出てきたという<ref>『アニメージュ』[[1995年]](平成7年)[[1月]]号 [[徳間書店]]、[[1994年]](平成6年)、6頁。</ref>。その他にも[[おたく|オタク]]やオタク文化にも興味を示している。
同人作家としても活動し、『セーラームーン』関連の[[同人誌]]の収集を行っており、自らも[[コミックマーケット]]に[[同人サークル|サークル]]参加し、同人誌を発行した。
アニメ版『セーラームーン』に関しては、火野レイのキャラクター改変、外部戦士の扱いなどに苦言を残している。しかし、作画に関しては満足であったとメインのアニメーター(作画監督)との対談で語っている{{要高次出典|date=2017年11月5日 (日) 18:07 (UTC)}}。また、時期は不明ながら、[[畑健二郎]]が彼女の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた。
著名な友人としては[[吉住渉]]や[[藤島康介]]などが知られている。
『セーラームーン』では止められたが、「人がばんばん死ぬ漫画を描きたかった」と、おまけコミックで描かれた<ref>原作新装版第3巻あとがき4コマより</ref>。
=== 結婚 ===
[[1999年]](平成11年)に結婚。夫は、同じく漫画家の[[冨樫義博]]。結婚式の司会は、[[声優]]の[[三石琴乃]](『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』の主人公・[[月野うさぎ]]役)と、[[佐々木望]](『[[幽☆遊☆白書]]』の主人公・[[浦飯幽助]]役)が行った。冨樫との交際のきっかけは、同じく漫画家・[[萩原一至]]の紹介とされている。
休業中には冨樫義博の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を行っていた。新婚生活や、[[出産]]、さらに[[育児]]の様子は[[集英社]]の[[漫画雑誌]]『[[ヤングユー]]』に掲載された一連の[[エッセイ漫画]](詳細は[http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-White/7777/naokohistry.html NAOKO先生の活動履歴]を参照)に詳しく描かれている。また、これには、[[講談社]]での『[[PQエンジェルス]]』突然終了のいきさつや原稿紛失事件なども描かれており、発表当時は大きな話題と波紋を呼んだ。
== 作品リスト ==
=== 読み切り・短編 ===
* [[プリズムタイム]](全2巻)
** ごめんね ウエンズデイ(第1巻に収録)
** レイン・キス(第2巻に収録)
** 夢見るRainy Button(第2巻に収録)
** Secretな片想い(第2巻に収録)
** LOVE CALL(デビュー作、第2巻に収録)
** 夢じゃないの・ね(第2巻に収録)
* [[ミス・レイン]](短編集)
** ミス・レイン(表題作)
** ぼくのピアス・ガール(「ミス・レイン」に収録)
** まいごのスウィング(「ミス・レイン」に収録)
** 7月マーマレード・バースデー(「ミス・レイン」に収録)
** いつもいっしょね♥(「ミス・レイン」に収録)
=== 連載漫画 ===
* [[チョコレート・クリスマス]](全1巻、自身初の単行本)
** ウィンク・レイン(「チョコレート・クリスマス」に収録)
* [[ま・り・あ]](全1巻)
* [[Theチェリー・プロジェクト]](全3巻)
** ドリーム・パークでまってて -小鳥たちの前奏曲-(第3巻に収録)
** その後のま・り・あ(第3巻に収録) - [[猫部ねこ]]との合作短編。
* [[コードネームはセーラーV]](旧版全3巻、新装版全2巻)
* [[美少女戦士セーラームーン]](旧版全18巻、新装版全12巻)
* [[PQエンジェルス]]
* [[ラブ・ウィッチ]]
* [[とき☆めか!]](1巻 - ?)<!-- 続刊予定なし? -->
=== 挿絵(小説イラスト) ===
* ま・り・あ(原作・イラスト:武内直子、文:[[小泉まりえ]] [[1994年]][[8月]]発行 [[講談社X文庫ティーンズハート]])ISBN 978-4-06-199307-5
* [[マーメイド・ぱにっく]](イラスト:武内直子、原作・文:小泉まりえ [[1997年]][[5月]]発行 講談社X文庫ティーンズハート・全4巻)
* [[あたしのわがままを聞いて...]](イラスト:武内直子、原作・文:小泉まりえ [[1998年]][[3月]]発行 講談社X文庫ティーンズハート)ISBN 978-4-06-199776-9
* [[絶対、彼を奪ってみせる!]](イラスト:武内直子、原作・文:小泉まりえ [[1998年]][[9月]]発行 講談社X文庫ティーンズハート)ISBN 978-4-06-199797-4
=== 画集・資料集 ===
* 美少女戦士セーラームーン設定資料集(全1冊)ISBN 978-4-06-324521-9
* 美少女戦士セーラームーン 原画集(全6冊)
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. I ISBN 978-4-06-324507-3
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. II ISBN 978-4-06-324508-0
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. III ISBN 978-4-06-324518-9
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. IV ISBN 978-4-06-324519-6
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. V ISBN 978-4-06-324522-6
# 美少女戦士セーラームーン原画集 Vol. ∞
* 美少女戦士セーラームーン スクリーンセーバー[CD-ROM原画集] ISBN 978-4-06-208387-4
=== 絵本 ===
* おおぼーぬーとちぃぼーぬー(絵:冨樫義博、文:武内直子)ISBN 978-4-06-324536-3
=== その他([[ヤングユー]]掲載作品) ===
* 武内直子姫の社会復帰ぱ~んち!! 1998年12月号(Round.1)
* 武内直子姫と冨樫義博王子の結婚ぱ~んち!! 2000年1月号(special.1)、2000年2月号(special.2)
* 直子姫と義博王子のベビーぱ~んち!! 2001年1月号(Round.1)
* 姫と王子とプチ王子のばる~んぱ~んち!! 2002年9月号(Round.1)
=== 作詞 ===
{{節スタブ}}
* [[プリンセス・ムーン/タキシード・ナイト|プリンセス・ムーン]](作曲:[[さとうかずお]])([[プリンセス・ムーン/タキシード・ナイト]]および[[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜]]に収録、[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|TVアニメ]]第1期後期ED)
* [[プリンセス・ムーン/タキシード・ナイト|タキシード・ナイト]](作曲:[[山下恭文]])([[プリンセス・ムーン/タキシード・ナイト]]および[[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜]]に収録)
* [[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜|ルナ!]](作曲:さとうかずお)([[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜]]に収録)
* [[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜|合いコトバはムーン・プリズム・パワー・メイクアップ!]](作曲:さとうかずお)([[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜]]に収録)
* [[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜|幻の銀水晶〜シルバークリスタル]](作曲:[[橋爪麻希子]]・さとうかずお)([[美少女戦士セーラームーン 〜愛はどこにあるの?〜]]に収録)
* [[タキシード・ミラージュ/愛の戦士|タキシード・ミラージュ]](作曲:[[小坂明子]])([[タキシード・ミラージュ/愛の戦士]]に収録、TVアニメ第3期「S」ED)
* [[“らしく”いきましょ/ムーンライト伝説|“らしく”いきましょ]](作曲:[[水野雅夫]])([[“らしく”いきましょ/ムーンライト伝説]]に収録、TVアニメ第4期「SuperS」後期ED)
* [[セーラースターソング]](作曲:[[荒木将器]])(TVアニメ第5期「セーラースターズ」OP)
* [[流れ星へ]](作曲:[[鈴木キサブロー]])
* [[流れ星へ|とどかぬ想い]](作曲:[[有澤孝紀]])
* [[キラリ☆セーラードリーム!]](作曲:[[羽場仁志]])([[美少女戦士セーラームーン (テレビドラマ)|テレビドラマ]]OP)
* [[美少女戦士セーラームーン キャラクターソング (実写版シングル)#セーラームーン 月野うさぎ|オーバーレインボー♥ツアー]](作曲:[[高見優]])
* [[美少女戦士セーラームーン キャラクターソング (実写版シングル)#セーラーヴィーナス 愛野美奈子|肩越しに金星]](作曲:[[小幡英之]])
* [[MOON PRIDE|月虹]](白薔薇 sumire名義、作曲:[[小坂明子]])([[美少女戦士セーラームーンCrystal|Webアニメ]]ED)
* [[月色Chainon]](白薔薇 sumire名義、作曲:小坂明子)([[美少女戦士セーラームーンCrystal|劇場版]]主題歌)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『[[Comickers Art Style|季刊コミッカーズ]]』1995夏号 第24-31頁 - 武内直子先生に60の質問
{{武内直子}}
{{美少女戦士セーラームーン}}
{{Normdaten}}
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[[Category:武内直子|*]]
[[Category:日本の漫画家]]
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コンパクト符号
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コンパクト符号(コンパクトふごう。Compact Code)とは、ある情報源Sに対して、シンボルを一意復号可能な符号に符号化するとき、平均符号長Lを最小とする符号のこと。ハフマン符号が知られている。
瞬時符号(瞬時復号可能な符号)であるために、次の要件を満たす必要がある。
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出現確率の高い情報源シンボルの符号語を短くし、そうでないものに長い符号語を割り当てる
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'''コンパクト符号'''(コンパクトふごう。'''Compact Code''')とは、ある情報源Sに対して、シンボルを一意復号可能な[[符号]]に符号化するとき、平均符号長Lを最小とする符号のこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ams.giti.waseda.ac.jp/data/CTC/pdf-files/CTC_no3.pdf|title=符号理論・暗号理論 - No.3 ハフマン符号化|accessdate=2021-05-24|author=渡辺 裕|format=pdf|page=13|language=ja}}</ref>。[[ハフマン符号]]が知られている。
瞬時符号(瞬時復号可能な符号)であるために、次の要件を満たす必要がある<ref>{{Cite book|title=InfoCom Be-TEXT 情報・符号理論-ディジタル通信の基礎を学ぶ-|publisher=オーム社|year=2012|page=37|author=神谷幸宏, 川島幸之助|url=https://books.google.co.jp/books?id=mrL8OorHalIC&newbks=1&newbks_redir=0&lpg=PA37&dq=%22%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E7%AC%A6%E5%8F%B7%22&hl=ja&pg=PA37#v=onepage&q=%22%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E7%AC%A6%E5%8F%B7%22&f=false|accessdate=2021-05-24|language=ja|isbn=9784274503870}}</ref>。
# [[符号の木]]において、情報源シンボルが枝の先端になくてはならない
# 出現確率の高い情報源シンボルの符号語を短くし、そうでないものに長い符号語を割り当てる
== 関連項目 ==
* [[符号理論]]
* [[情報理論]]
== 脚注 ==
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符号
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符号理論において、符号(ふごう)またはコード(英: code)とは、シンボルの集合S, Xがあるとき、Sに含まれるシンボルのあらゆる系列から、Xに含まれるシンボルの系列への写像、または、Sに含まれるシンボルに対してその写像を適用した結果得られるXのシンボルの系列(符号語)の集合のことである。Sを情報源アルファベット、Xを符号アルファベットという。すなわち符号とは、情報の断片(例えば、文字、語、句、ジェスチャーなど)を別の形態や表現へ(ある記号から別の記号へ)変換する規則であり、変換先は必ずしも同種のものとは限らない。
コミュニケーションや情報処理において符号化(エンコード)とは、情報源の情報を伝達のためのシンボル列に変換する処理である。復号(デコード)はその逆処理であり、符号化されたシンボル列を受信者が理解可能な情報に変換して戻してやることを指す。
符号化が行われるのは、通常の読み書きや会話などの言語によるコミュニケーションが不可能な場面でコミュニケーションを可能にするためである。例えば、手旗信号や腕木通信の符号も個々の文字や数字を表していることが多い。遠隔にいる人がその手旗や腕木を見て、本来の言葉などに戻して解釈することになる。
情報理論や計算機科学において符号とは、情報源アルファベットから符号アルファベットへと一意に符号化するアルゴリズムを指す。一連のシンボル(文章)については情報源アルファベットから符号アルファベットへの変換を逐一行い、それらを連結することで符号化がなされる。
大雑把な例を示す。写像
は符号を表しており、情報源アルファベットは集合 { a , b , c } {\displaystyle \{a,b,c\}} であり、符号アルファベットは集合 { 0 , 1 } {\displaystyle \{0,1\}} である。この符号を使って 0011001011 という符号文字列が得られたとする。これを符号語に分割すると 0 – 011 – 0 – 01 – 011 となり、復号すれば acabc というシンボル列が得られる。
形式言語理論の用語を使うと、符号の概念は次のように定義される。SとTという2つの有限集合があり、Sを情報源アルファベット、Tを符号アルファベットとする。符号 C : S → T ∗ {\displaystyle C:\,S\to T^{*}} は、Sの個々のシンボルがTの元を使ったワード(シンボルの並び)に対応する写像であり、 S ∗ {\displaystyle S^{*}} から T ∗ {\displaystyle T^{*}} への準同型写像に拡大すれば、情報源アルファベットの並びを符号アルファベットの並びへと自然に写像できる。
ここでは、情報源のそれぞれの文字をなんらかの辞書に従って符号語に符号化し、それらを連結して符号化された文字列を形成する符号を扱う。可変長符号は、元の文書でそれぞれの文字が出現する頻度が異なる場合に特に便利である。詳しくはコンパクト符号とエントロピー符号を参照。
接頭符号は語頭属性 (prefix property) を満たす符号である。接頭符号ではそれぞれの符号語が決して他の符号語の接頭部にならない。ハフマン符号は接頭符号を作る最も一般的なアルゴリズムであり、そのため接頭符号をハフマン符号と呼ぶこともあるが、ハフマン符号のアルゴリズムを使わずに接頭符号を作ることもできる。接頭符号の他の例として国際電話の国番号、ISBNのグループ番号と出版者番号、W-CDMAで使われている2次同期コード (SSC) などがある。
クラフトの不等式は、可変長符号が一意に復号可能であるための必要条件を与える。
データを転送あるいは保存する際に誤りが起きにくいようにする方法として符号を使うこともある。そのような符号を誤り訂正符号と呼び、格納または転送されるデータに注意深く冗長性を導入する。例えば、ハミング符号、リード・ソロモン符号、リード・マラー符号、直交符号、BCH符号、ターボ符号、ゴレイ符号、ゴッパ符号、低密度パリティ検査符号などがある。誤り訂正符号は、「バースト誤り」または「ランダム誤り」を検出することに最適化されている。
電信符号では単語をもっと短い語に置き換え、同じ情報を少ない文字数で素早く送るようにしている。
符号は簡略化のために使われることがある。電報が高速な長距離通信の最新手段だったころ、フレーズ全体を一つの単語(5文字)で符号化するという符号体系ができ、通信士はその符号語に精通するようになった。例えば、BYOXO は "Are you trying to weasel out of our deal?"(あなたは我々との取引から責任逃れしようとしているのか?)、LIOUY は "Why do you not answer my question?"(何故私の質問に答えないのか?)、BMULD は "You're a skunk!"(くそったれ!)、AYYLU は "Not clearly coded, repeat more clearly."(不明瞭、もっとはっきり繰り返せ)などがある。符号語は、長さ、発音の容易さなど様々な理由から選定された。それら符号語の意味は商取引、軍事、外交、諜報などのニーズに合わせて設定されている。こういった符号語と意味の対応を記したコードブックとその出版業が登場し、中でも第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にハーバート・オズボーン・ヤードリーが創設したブラック・チェンバーもコードブックを出版していた。このような符号は主に電信コストを抑えるために作られた。データ圧縮を目的としたデータ符号化はコンピュータより先行していたとも言える。そもそもモールス符号も、よく使われる文字を短い表現にしている。ハフマン符号などの技法は今でもデータの圧縮のためのアルゴリズムとしてコンピュータ上で使われている。
文字を符号化したデータ通信符号として最もよく知られているものとしてASCIIがある。ある程度互換性を保ったいくつかのバージョンがあり、コンピュータ、端末、プリンター、他の通信機器などで広く使われている。128種のキャラクタを7ビットの二進数で表しており、1と0が7個並んだものである。例えば小文字の "a" は 1100001、大文字の "A" は 1000001 などとなっている。文字コードは他にも様々なものがあり、1バイトでそれぞれの文字を表すもの、整数符号点に文字を割り当てるもの(Unicode)、バイト列で文字を表すもの(UTF-8)などがある。
生物は、生体の機能とその発達を制御する遺伝形質を持っている。それがDNAであり、その中に遺伝子と呼ばれるユニットが含まれる。遺伝子はコード(コドン)を通してタンパク質を作ることができ、そのコードは4種類のヌクレオチドが3つ並んだものであって、その並びが20種類のアミノ酸のいずれかに翻訳される。
数学において、ゲーデル符号を基礎としてゲーデルの不完全性定理の証明がなされた。その考え方の基本は、(ゲーデル数を使って)数学的記述を自然数に写像するというものだった。
暗号史において、コードブックを使った符号(符牒、暗号)は通信の秘密を守る手段として広く使われていたが、今では複雑なアルゴリズムを用いる暗号が使われている。
暗号は元の平文がわからないようにすることを意図しており、軍事・外交・諜報活動のための真剣なものから、ゲームなどの瑣末なものまで様々な技法が存在する。花、トランプ、衣服、扇、帽子、音楽、鳥など、様々なものに符号化することもあり、送り手と受け手の間で事前に意味について合意しておくことが必要である。
色を符号として用いる例がある。例えば信号機や抵抗器などの受動素子のカラーコード(抵抗値などを表す)などがある。また、自治体などによってはゴミの分別のために色分けしたゴミ入れを使う場合もある。音を符号として用いる例として、軍隊で使っていた信号ラッパ(ビューグル)がある。感覚器に障害のある人のためのコミュニケーションシステムとして手話や点字があり、動きや触覚を符号として用いている。
楽譜は音楽を符号化したものと言える。チェス、囲碁、将棋などは棋譜と呼ばれる符号体系で対局の記録をとる。
符号化のその他の例として次のものがある。
復号のその他の例として次のものがある。
頭字語や略称もコードの一種と見なすことができ、その意味ではあらゆる言語も記述体系も人間の思考を符号化するものと見ることもできる。
国際空港運送協会の空港コードは空港を識別する3文字のコードであり、荷物のタグなどで使われている。
場合によっては、元の語句が忘れ去られたり符号語が考案されたころと意味が変わってしまい、符号語が独自の存在(と意味)を持つに至ることもある。例えばアメリカなどの報道関係では "30" が「原稿の終り」を意味し、転じて「終り」の意味で報道以外でも使われることがある。
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"text": "文字を符号化したデータ通信符号として最もよく知られているものとしてASCIIがある。ある程度互換性を保ったいくつかのバージョンがあり、コンピュータ、端末、プリンター、他の通信機器などで広く使われている。128種のキャラクタを7ビットの二進数で表しており、1と0が7個並んだものである。例えば小文字の \"a\" は 1100001、大文字の \"A\" は 1000001 などとなっている。文字コードは他にも様々なものがあり、1バイトでそれぞれの文字を表すもの、整数符号点に文字を割り当てるもの(Unicode)、バイト列で文字を表すもの(UTF-8)などがある。",
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"text": "暗号は元の平文がわからないようにすることを意図しており、軍事・外交・諜報活動のための真剣なものから、ゲームなどの瑣末なものまで様々な技法が存在する。花、トランプ、衣服、扇、帽子、音楽、鳥など、様々なものに符号化することもあり、送り手と受け手の間で事前に意味について合意しておくことが必要である。",
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"text": "色を符号として用いる例がある。例えば信号機や抵抗器などの受動素子のカラーコード(抵抗値などを表す)などがある。また、自治体などによってはゴミの分別のために色分けしたゴミ入れを使う場合もある。音を符号として用いる例として、軍隊で使っていた信号ラッパ(ビューグル)がある。感覚器に障害のある人のためのコミュニケーションシステムとして手話や点字があり、動きや触覚を符号として用いている。",
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"text": "場合によっては、元の語句が忘れ去られたり符号語が考案されたころと意味が変わってしまい、符号語が独自の存在(と意味)を持つに至ることもある。例えばアメリカなどの報道関係では \"30\" が「原稿の終り」を意味し、転じて「終り」の意味で報道以外でも使われることがある。",
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符号理論において、符号(ふごう)またはコードとは、シンボルの集合S, Xがあるとき、Sに含まれるシンボルのあらゆる系列から、Xに含まれるシンボルの系列への写像、または、Sに含まれるシンボルに対してその写像を適用した結果得られるXのシンボルの系列(符号語)の集合のことである。Sを情報源アルファベット、Xを符号アルファベットという。すなわち符号とは、情報の断片(例えば、文字、語、句、ジェスチャーなど)を別の形態や表現へ(ある記号から別の記号へ)変換する規則であり、変換先は必ずしも同種のものとは限らない。 コミュニケーションや情報処理において符号化(エンコード)とは、情報源の情報を伝達のためのシンボル列に変換する処理である。復号(デコード)はその逆処理であり、符号化されたシンボル列を受信者が理解可能な情報に変換して戻してやることを指す。 符号化が行われるのは、通常の読み書きや会話などの言語によるコミュニケーションが不可能な場面でコミュニケーションを可能にするためである。例えば、手旗信号や腕木通信の符号も個々の文字や数字を表していることが多い。遠隔にいる人がその手旗や腕木を見て、本来の言葉などに戻して解釈することになる。
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{{otheruses|符号理論の符号(code)|数学の符号(sign)|符号 (数学)|その他の符号|符号 (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:International Morse Code.svg|right|thumb|290px|モールス符号]]
[[符号理論]]において、'''符号'''(ふごう)または'''コード'''({{lang-en-short|code}})とは、[[シンボル]]の集合''S'', ''X''があるとき、''S''に含まれるシンボルのあらゆる系列から、''X''に含まれるシンボルの系列への[[写像]]、または、''S''に含まれるシンボルに対してその写像を適用した結果得られる''X''のシンボルの系列([[符号語]])の集合のことである。''S''を[[情報源アルファベット]]、''X''を[[符号アルファベット]]という。すなわち符号とは、[[情報]]の断片(例えば、[[文字]]、[[語]]、[[句]]、[[ジェスチャー]]など)を別の形態や表現へ(ある記号から別の記号へ)変換する規則であり、変換先は必ずしも同種のものとは限らない。
[[コミュニケーション]]や[[情報処理]]において'''符号化'''([[エンコード]])とは、[[情報源]]の情報を伝達のためのシンボル列に変換する処理である。'''復号'''([[デコード]])はその逆処理であり、符号化されたシンボル列を受信者が理解可能な情報に変換して戻してやることを指す。
符号化が行われるのは、通常の読み書きや会話などの言語によるコミュニケーションが不可能な場面でコミュニケーションを可能にするためである。例えば、[[手旗信号]]や[[腕木通信]]の符号も個々の文字や数字を表していることが多い。遠隔にいる人がその手旗や腕木を見て、本来の言葉などに戻して解釈することになる。
== 理論 ==
[[情報理論]]や[[計算機科学]]において符号とは、情報源[[アルファベット (計算機科学)|アルファベット]]から[[符号アルファベット]]へと一意に符号化する[[アルゴリズム]]を指す。一連のシンボル(文章)については情報源アルファベットから符号アルファベットへの変換を逐一行い、それらを連結することで符号化がなされる。
大雑把な例を示す。写像
:<math>C = \{\, a\mapsto 0, b\mapsto 01, c\mapsto 011\,\}</math>
は符号を表しており、情報源アルファベットは集合 <math>\{a,b,c\}</math> であり、符号アルファベットは集合 <math>\{0,1\}</math> である。この符号を使って ''0011001011'' という符号文字列が得られたとする。これを符号語に分割すると ''0 – 011 – 0 – 01 – 011'' となり、復号すれば ''acabc'' というシンボル列が得られる。
[[形式言語]]理論の用語を使うと、符号の概念は次のように定義される。SとTという2つの有限集合があり、Sを情報源[[アルファベット (計算機科学)|アルファベット]]、Tを[[符号アルファベット]]とする。'''符号''' <math>C:\, S \to T^*</math> は、Sの個々のシンボルがTの元を使ったワード(シンボルの並び)に対応する[[写像]]であり、<math>S^*</math> から <math>T^*</math> への[[準同型]]写像に拡大すれば、情報源アルファベットの並びを符号アルファベットの並びへと自然に写像できる。
=== 可変長符号 ===
{{main|可変長符号}}
ここでは、情報源のそれぞれの文字をなんらかの辞書に従って[[符号語]]に符号化し、それらを連結して符号化された文字列を形成する符号を扱う。可変長符号は、元の文書でそれぞれの文字が出現する頻度が異なる場合に特に便利である。詳しくは[[コンパクト符号]]と[[エントロピー符号]]を参照。
[[接頭符号]]は語頭属性 (prefix property) を満たす符号である。接頭符号ではそれぞれの符号語が決して他の符号語の接頭部にならない。[[ハフマン符号]]は接頭符号を作る最も一般的なアルゴリズムであり、そのため接頭符号をハフマン符号と呼ぶこともあるが、ハフマン符号のアルゴリズムを使わずに接頭符号を作ることもできる。接頭符号の他の例として[[国際電話番号の一覧|国際電話の国番号]]、[[ISBN]]のグループ番号と出版者番号、[[W-CDMA]]で使われている2次同期コード (SSC) などがある。
[[クラフトの不等式]]は、可変長符号が一意に復号可能であるための必要条件を与える。
=== ブロック符号 ===
{{Main|ブロック符号|線型符号}}
{{節スタブ}}
=== 誤り訂正符号 ===
{{Main|誤り検出訂正}}
データを転送あるいは保存する際に誤りが起きにくいようにする方法として符号を使うこともある。そのような符号を[[誤り検出訂正|誤り訂正符号]]と呼び、格納または転送されるデータに注意深く冗長性を導入する。例えば、[[ハミング符号]]、[[リード・ソロモン符号]]、[[リード・マラー符号]]、[[直交符号]]、[[BCH符号]]、[[ターボ符号]]、[[ゴレイ符号]]、[[ゴッパ符号]]、[[低密度パリティ検査符号]]などがある。誤り訂正符号は、「バースト誤り」または「ランダム誤り」を検出することに最適化されている。
== 例 ==
=== コミュニケーションにおける簡略化のための符号 ===
電信符号では単語をもっと短い語に置き換え、同じ情報を少ない文字数で素早く送るようにしている。
符号は簡略化のために使われることがある。電報が高速な長距離通信の最新手段だったころ、フレーズ全体を一つの単語(5文字)で符号化するという符号体系ができ、通信士はその符号語に精通するようになった。例えば、''BYOXO'' は "Are you trying to weasel out of our deal?"(あなたは我々との取引から責任逃れしようとしているのか?)、''LIOUY'' は "Why do you not answer my question?"(何故私の質問に答えないのか?)、''BMULD'' は "You're a skunk!"(くそったれ!)、''AYYLU'' は "Not clearly coded, repeat more clearly."(不明瞭、もっとはっきり繰り返せ)などがある。[[符号語]]は、[[長さ]]、[[発音]]の容易さなど様々な理由から選定された。それら符号語の意味は商取引、軍事、外交、諜報などのニーズに合わせて設定されている。こういった符号語と意味の対応を記したコードブックとその出版業が登場し、中でも第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に[[ハーバート・オズボーン・ヤードリー]]が創設した[[ブラック・チェンバー]]もコードブックを出版していた。このような符号は主に電信コストを抑えるために作られた。[[データ圧縮]]を目的としたデータ符号化はコンピュータより先行していたとも言える。そもそも[[モールス符号]]も、よく使われる文字を短い表現にしている。[[ハフマン符号]]などの技法は今でもデータの圧縮のための[[アルゴリズム]]としてコンピュータ上で使われている。
=== 文字コード ===
{{Main|文字コード}}
文字を符号化したデータ通信符号として最もよく知られているものとして[[ASCII]]がある。ある程度互換性を保ったいくつかのバージョンがあり、[[コンピュータ]]、[[端末]]、[[プリンター]]、他の通信機器などで広く使われている。128種の[[キャラクタ (コンピュータ)|キャラクタ]]を7ビットの[[二進法|二進数]]で表しており、1と0が7個並んだものである。例えば小文字の "a" は 1100001、大文字の "A" は 1000001 などとなっている。文字コードは他にも様々なものがあり、1[[バイト (情報)|バイト]]でそれぞれの文字を表すもの、整数[[符号点]]に文字を割り当てるもの([[Unicode]])、バイト列で文字を表すもの([[UTF-8]])などがある。
=== 遺伝コード ===
{{Main|コドン}}
生物は、生体の機能とその発達を制御する遺伝形質を持っている。それが[[デオキシリボ核酸|DNA]]であり、その中に[[遺伝子]]と呼ばれるユニットが含まれる。遺伝子はコード([[コドン]])を通して[[タンパク質]]を作ることができ、そのコードは4種類の[[ヌクレオチド]]が3つ並んだものであって、その並びが20種類の[[アミノ酸]]のいずれかに翻訳される。
=== ゲーデル符号 ===
[[数学]]において、[[ゲーデル数|ゲーデル符号]]を基礎として[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]の[[ゲーデルの不完全性定理|不完全性定理]]の証明がなされた。その考え方の基本は、([[ゲーデル数]]を使って)数学的記述を[[自然数]]に写像するというものだった。
=== 暗号 ===
[[暗号史]]において、コードブックを使った符号([[符牒]]、暗号)は通信の秘密を守る手段として広く使われていたが、今では複雑なアルゴリズムを用いる[[暗号]]が使われている。
暗号は元の平文がわからないようにすることを意図しており、軍事・外交・諜報活動のための真剣なものから、ゲームなどの瑣末なものまで様々な技法が存在する。花、トランプ、衣服、扇、帽子、音楽、鳥など、様々なものに符号化することもあり、送り手と受け手の間で事前に意味について合意しておくことが必要である。
== その他の例 ==
[[色]]を符号として用いる例がある。例えば[[信号機]]や[[抵抗器]]などの[[受動素子]]の[[抵抗器#カラーコード|カラーコード]](抵抗値などを表す)などがある。また、自治体などによってはゴミの分別のために色分けしたゴミ入れを使う場合もある。音を符号として用いる例として、軍隊で使っていた信号ラッパ([[ビューグル]])がある。感覚器に障害のある人のためのコミュニケーションシステムとして[[手話]]や[[点字]]があり、動きや触覚を符号として用いている。
[[楽譜]]は[[音楽]]を符号化したものと言える。[[チェス]]、[[囲碁]]、[[将棋]]などは[[棋譜]]と呼ばれる符号体系で対局の記録をとる。
符号化のその他の例として次のものがある。
* [[認識]]における符号化 - 入ってくる刺激を解釈する基本的知覚プロセス。複雑な多段プロセスで知覚入力(光、音など)を意味のある体験へと変換していく。
* [[コンテントフォーマット]] - 特定の種類の[[データ]]を[[情報]]に変換するための個別的な符号化フォーマットである。
* 電子符号化 - 信号を[[伝送]]や[[電子媒体]]に最適化した符号に変換することで、一般に[[コーデック]]で行う。
* [[:en:Neural encoding|Neural encoding]] - [[神経細胞]]での情報の表現方法
* (人間などの)記憶の符号化 - 感覚を記憶に変換するプロセス
復号のその他の例として次のものがある。
* [[デジタル-アナログ変換回路]] - デジタル符号をアナログ信号に復号する。
* [[構文解析]]
* [[復号手法]] - 情報理論においてノイズのある伝送路上で符号語を送ったときの復号の方法
* [[デジタル信号処理]] - デジタルで表現された信号を処理する技法
* [[フォニックス]] - 書かれた文章や単語を解読して発音するための学習法
== 符号と頭字語 ==
[[頭字語]]や略称もコードの一種と見なすことができ、その意味ではあらゆる[[言語]]も記述体系も人間の思考を符号化するものと見ることもできる。
[[空港コード|国際空港運送協会の空港コード]]は空港を識別する3文字のコードであり、荷物のタグなどで使われている。
場合によっては、元の語句が忘れ去られたり符号語が考案されたころと意味が変わってしまい、符号語が独自の存在(と意味)を持つに至ることもある。例えばアメリカなどの[[報道]]関係では "[[30]]" が「原稿の終り」を意味し、転じて「終り」の意味で報道以外でも使われることがある。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Codes}}
* [[記号学]]
*[[プログラミング用語一覧]]
*[[疎グラフ符号]]
*[[数え上げ符号]]
*[[巡回符号]]
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[[Category:情報]]
[[Category:数学に関する記事]]
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算術符号
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算術符号(さんじゅつふごう、Arithmetic coding)とは、1960年頃にマサチューセッツ工科大学のP. Eliasによって原型が提案され、1970年代後半にIBMのRissanenや、Pascoによって完成された符号。エントロピー符号の一つ。コンパクト符号とは限らない。
たとえば、データA, B, Cがそれぞれ0.5, 0.3, 0.2の確率で出現するとき、それぞれ半開区間 [0, 0.5), [0.5, 0.8), [0.8, 1) に割り当てる。次に、AA, AB, ACについては、半開区間 [0, 0.25), [0.25, 0.4), [0.4, 0.5) に割り当てる。この手順を繰り返して、符号化したいデータの系列について、対応する半開区間を求める。そして、その半開区間内の値で符号化する。
符号化の原理上、全てのデータの出現確率をあらかじめ知っておく必要があるが、出現確率がわからなくても符号化できる適応化算術符号も知られている。
この符号化は、データ圧縮向きで、JPEG 2000にも、別のアルゴリズムで実装されたQ-coderの改良型、MQ-coderとして採用されている。
インターネットで爆発的に普及した、GIF画像ファイルフォーマットの圧縮アルゴリズムがLZW符号の特許料の支払を命じられた(2004年時点で期限切れ)など、データ圧縮の分野においても特許問題は尽きない。算術符号もそのひとつである。
特に算術符号においては「抜け道がないくらいに特許が取られている」などといわれ、bzipでは公開を断念、JPEG 2000が使用を開始するまではハフマン符号で代用したり、あげくは「特許に抵触しない算術符号」としてRange Coderが普及する有り様である。無論まったく使われなかったわけではないが、圧縮技術に興味を持ったり圧縮/復号ツールを開発する者の間では「特許のせいで使うことはできない」と言われ続けているのが現状である。
そのような中、ERI画像フォーマット開発者は異を唱える。氏の文献を引用すると、算術符号はどうしても処理が遅くなってしまう点と復号時に無限に復号を続けてしまう点、コンピュータが有限桁で動いている一方で算術符号は無限桁であり、どこかで演算を打ち切らなければならない点の3点の何れかを解決する手法が特許申請の範囲であり、これらに抵触しなければ問題ないという。実際に同氏の画像圧縮処理には算術符号が用いられており、それは独自の手法により問題点を解決することで特許に抵触していないという考えを明らかにしている。
算術符号には実装アルゴリズムによっていくつもの種類が存在している。
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算術符号とは、1960年頃にマサチューセッツ工科大学のP. Eliasによって原型が提案され、1970年代後半にIBMのRissanenや、Pascoによって完成された符号。エントロピー符号の一つ。コンパクト符号とは限らない。
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'''算術符号'''(さんじゅつふごう、{{Lang|en|Arithmetic coding}})とは、1960年頃に[[マサチューセッツ工科大学]]のP. Eliasによって原型が提案され、1970年代後半に[[IBM]]のRissanenや、Pascoによって完成された[[符号]]。[[エントロピー符号]]の一つ。[[コンパクト符号]]とは限らない<ref>[[今井秀樹]]『情報理論』[[昭晃堂]]、80頁</ref>。
== 符号化の原理 ==
たとえば、[[データ]]A, B, Cがそれぞれ0.5, 0.3, 0.2の[[確率]]で出現するとき、それぞれ[[半開区間]] [0, 0.5), [0.5, 0.8), [0.8, 1) に割り当てる。次に、AA, AB, ACについては、半開区間 [0, 0.25), [0.25, 0.4), [0.4, 0.5) に割り当てる。この手順を繰り返して、符号化したいデータの系列について、対応する半開区間を求める。そして、その半開区間内の値で符号化する。
符号化の原理上、全てのデータの出現確率をあらかじめ知っておく必要があるが、出現確率がわからなくても符号化できる'''適応化算術符号'''も知られている。
この符号化は、[[データ圧縮]]向きで、[[JPEG 2000]]にも、別の[[アルゴリズム]]で実装されたQ-coderの改良型、MQ-coderとして採用されている。
== 特許問題 ==
[[インターネット]]で爆発的に普及した、[[GIF]][[画像ファイルフォーマット]]の圧縮アルゴリズムが[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]]符号の特許料の支払を命じられた(2004年時点で期限切れ)など、データ圧縮の分野においても特許問題は尽きない。算術符号もそのひとつである。
特に算術符号においては「抜け道がないくらいに特許が取られている」などといわれ、[[Bzip2|bzip]]では公開を断念、JPEG 2000が使用を開始するまでは[[ハフマン符号]]で代用したり、あげくは「特許に抵触しない算術符号」として[[Range Coder]]が普及する有り様である。無論まったく使われなかったわけではないが、圧縮技術に興味を持ったり圧縮/復号ツールを開発する者の間では「特許のせいで使うことはできない」と言われ続けているのが現状である。
そのような中、[[画像ファイルフォーマットの比較#比較|ERI]]画像フォーマット開発者は異を唱える。氏の文献を引用すると、算術符号はどうしても処理が遅くなってしまう点と復号時に無限に復号を続けてしまう点、コンピュータが有限桁で動いている一方で算術符号は無限桁であり、どこかで演算を打ち切らなければならない点の3点の何れかを解決する手法が特許申請の範囲であり、これらに抵触しなければ問題ないという。実際に同氏の画像圧縮処理には算術符号が用いられており、それは独自の手法により問題点を解決することで特許に抵触していないという考えを明らかにしている<ref>[http://www.entis.jp/eridev/doc/cnp_ace/ 情報圧縮と特許] - ERI画像フォーマット開発者による、圧縮技術に対する特許についての考察</ref>。
== 種類 ==
算術符号には実装アルゴリズムによっていくつもの種類が存在している。
* L-R型算術符号
** Q-coder
*** MQ-coder
* Jones符号 - [[Range Coder]]の原型となった。
* i.i.d算術符号
== 参考文献 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[符号理論]]
* [[シャノン符号化]]
* [[ハフマン符号]]
* [[数え上げ符号]]
* [[Range Coder]]
* [[bzip2]] - 当初算術符号を用いる「bzip」として開発されたが、特許のために断念された。bzip2は代わりにハフマン符号を用いている。
*[[H.264]] - CABACでの符号化を行った場合のみ。
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国際連合大学
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国際連合大学(こくさいれんごうだいがく、英語: United Nations University)は、東京都渋谷区に本部を置く国際連合(国連)の自治機関。大学院(大学院大学)。略称は国連大学、UNU、UN University。
国連およびその加盟国が関心を寄せる、緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究、教育、情報の普及、政策提言を通じて寄与することを使命としている。
国連システムおよび国連加盟国のシンクタンクとしての機能を持つ。
「大学」という名称であるものの法律に基づく正式な大学ではない。ただし、大学院の研究科に相当する機能も持っており、大学院に準ずるものとして扱われている(学校教育法施行規則第156条第4号など)。
国連機関の大学院大学としては、コスタリカに国連平和大学がある。
1975年(昭和50年)より活動を開始した国連の自治機関である。本部所在地は東京都渋谷区神宮前五丁目53-70である。国連大学は日本に本部を置く唯一の国連機関であり、国連の日本における拠点ともなっており、国連専門機関の日本事務所や国連広報センターがあり、構内では不可侵権が認められている。
世界の研究者の共同体を目指し、大学院以上の水準の共同研究や発表などを行い、また、その学術的成果を国連の活動に役立てようとしている。また、開発途上国の人材育成に力を入れている。世界各地に15の研究所・研究センターを持つ。
2009年(平成21年)12月に国連総会決議で国際連合大学憲章が改正され、修士及び博士の学位が授与できることが明記された。それ以前は「大学」を称しながら短期コース以外の学生はおらず、学位を受けることができなかった。学位授与開始に対応するため2010年(平成22年)7月に学校教育法施行規則や大学院設置基準、専門職大学院設置基準が一部改正され、日本の大学院と同等の教育課程と見なされることとなった。これを受け、国連大学は世界各国に展開している研究所を母体に、各専門分野に応じた研究科を開設していく予定である。
東京本部においては、国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)が、2010年(平成22年)9月、大学院サステイナビリティと平和研究科修士課程を設置し、修士(サステイナビリティ・開発・平和学)の学位授与を開始した。学生の半数以上が外国人(特にアフリカなど途上国出身者)で、第1期修了生3名の出身はカンボジア、ネパール、ギニアビサウの3カ国であった。海外留学生と、共同プログラムに所属する日本人学生の交流の場も提供する。また2012年(平成24年)9月より大学院サステイナビリティと平和研究科博士課程を開講。
その他、国連大学ではさまざまなプロジェクトや研究が進められている他、「短期集中講座」や「グローバルセミナー」など、一般にも公開される多くの講座やセミナーも開かれている。なお、2003年(平成15年)12月に、青山学院大学と国連大学は、一般協定を調印した。「学際的研究、高度の研修および知識の普及」を通じ、両大学の包括的な協力を目指す。
1969年に当時の国際連合事務総長ウ・タントが構想を提案し、開発途上国を中心に支持を受けて、1973年、国際連合大学憲章が国際連合総会で採択されて設立された。
国際機関としての設立にむけ、国連やユネスコによる「国連大学設立可能性に関する研究・調査」に呼応して、ユネスコ国内委員会や文部省においても、国連大学の構想を研究・提案が行われ、その設立に向けた積極的な協力が行われた。国連に多く分担金を納入している日本政府が国際都市としての東京の機能を強化するために国際機関の本部を誘致したかったことが設立を実現させたといわれている。日本政府は、設立に際して「国際連合大学本部に関する国際連合と日本国との間の協定の実施に伴う特別措置法」を制定し、日本の存在感と国連大学の重要性をアピールしている。また、資金的な負担から設置に抵抗のあったほかの国際連合加盟国とは対照的に、資金的にも強力な投入を行っている。
現在国連大学が建つ場所は、青山通り沿いに隣接するこどもの城やオーバルビルなどとともに、かつては都電の青山車庫であった。都電廃止後には一時期都バスの車庫として利用された後、現在の姿となった。
国連大学の学術活動は、研究および訓練にかかる施設・プログラムともにグローバルな体制で展開されている。
本部施設(国連大学本部ビル)は東京都により無償で貸与された土地に日本政府の予算で建設されたもので、1992年(平成4年)6月に完成。設計は丹下健三によるものである。
国連大学構内では不可侵権が認められている一方、土地および建物の日本国内法における管轄については、建物が文部科学省の管轄であり、土地が東京都の管轄である。
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国際連合大学は、東京都渋谷区に本部を置く国際連合(国連)の自治機関。大学院(大学院大学)。略称は国連大学、UNU、UN University。 国連およびその加盟国が関心を寄せる、緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究、教育、情報の普及、政策提言を通じて寄与することを使命としている。 国連システムおよび国連加盟国のシンクタンクとしての機能を持つ。 「大学」という名称であるものの法律に基づく正式な大学ではない。ただし、大学院の研究科に相当する機能も持っており、大学院に準ずるものとして扱われている(学校教育法施行規則第156条第4号など)。 国連機関の大学院大学としては、コスタリカに国連平和大学がある。
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'''国際連合大学'''(こくさいれんごうだいがく、{{lang-en|United Nations University}})は、[[東京都]][[渋谷区]]に本部を置く[[国際連合]](国連)の自治機関。[[大学院]]([[大学院大学]])。[[略称]]は'''国連大学'''、'''UNU'''、'''UN University'''。
国連およびその加盟国が関心を寄せる、緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究、教育、情報の普及、政策提言を通じて寄与することを使命としている。
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== 概要 ==
[[1975年]]([[昭和]]50年)より活動を開始した国連の自治機関である。本部所在地は[[東京都]][[渋谷区]][[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]五丁目53-70である<ref name="r25">{{Cite web|和書
|author=清水憲一
|date=2007-11-15
|url=http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/110000002899
|title=「国連大学」ってどんな大学?
|work=[[R25 (雑誌)|R25]]
|publisher=[[リクルートホールディングス|リクルート]]
|accessdate=2009-11-15
}}</ref><ref name="sankei1">{{Cite news
|author = 中村昌史
|url = http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091115/acd0911150701002-n1.htm
|title = 【社会部オンデマンド】学生のいない「国連大学」って? さまざまな国際的課題を総合研究
|work = 社会部オンデマンド
|newspaper = [[産経新聞]]
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}}</ref>。国連大学は日本に本部を置く唯一の国連機関であり、国連の日本における拠点ともなっており、国連専門機関の日本事務所<ref group="注釈">例外として、[[国際連合人間居住計画]]のアジア太平洋地域事務所は[[福岡市]]にある。</ref>や[[国際連合広報センター|国連広報センター]]があり、構内では[[不可侵権]]が認められている<ref name="sankei2"/>。
世界の研究者の共同体を目指し、大学院以上の水準の共同研究や発表などを行い、また、その学術的成果を国連の活動に役立てようとしている<ref name="sankei2">{{Cite news
|author = 中村昌史
|url = http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091115/acd0911150701002-n2.htm
|title = 【社会部オンデマンド】学生のいない「国連大学」って? さまざまな国際的課題を総合研究
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}}</ref>。また、[[開発途上国]]の人材育成に力を入れている。世界各地に15の研究所・研究センターを持つ<ref name="r25"/>。
[[2009年]](平成21年)[[12月]]に国連総会決議で国際連合大学憲章が改正され、修士及び博士の学位が授与できることが明記された。それ以前は「大学」を称しながら短期コース以外の学生はおらず、学位を受けることができなかった<ref name="r25"/><ref name="sankei1"/><ref>[https://web.archive.org/web/20100405193452/http://www.jfunu.jp:80/contents/b-about-unu/act-unu-isp.htm 国連大学の活動―サステイナビリティと平和研究所] 2010年4月5日のアーカイブ</ref><ref>{{Cite news
|author = 中村昌史
|url = http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091115/acd0911150701002-n3.htm
|title = 【社会部オンデマンド】学生のいない「国連大学」って? さまざまな国際的課題を総合研究
|work = 社会部オンデマンド
|newspaper = 産経新聞
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|accessdate = 2009-11-15
}}</ref>。学位授与開始に対応するため[[2010年]](平成22年)[[7月]]に[[学校教育法施行規則]]や[[大学院設置基準]]、[[専門職大学院設置基準]]が一部改正され、日本の大学院と同等の教育課程と見なされる<ref>「国連大学、名実ともに「大学」に――9月から修士課程 5学生入学」『朝日新聞』2010年8月31日付朝刊、第13版、第38面。</ref>こととなった。これを受け、国連大学は世界各国に展開している研究所を母体に、各専門分野に応じた研究科を開設していく予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/attach/1295330.htm |title=文部科学省 国際連合大学について |accessdate = 2011-06-01 |format= |work= }}</ref>。
東京本部においては、[[国連大学サステイナビリティと平和研究所]](UNU-ISP)が、2010年(平成22年)[[9月]]、大学院サステイナビリティと平和研究科修士課程を設置し、修士(サステイナビリティ・開発・平和学)の学位授与を開始した。学生の半数以上が外国人(特にアフリカなど途上国出身者)で、第1期修了生3名の出身は[[カンボジア]]、[[ネパール]]、[[ギニアビサウ]]の3カ国であった。海外留学生と、共同プログラムに所属する日本人学生の交流の場も提供する。また[[2012年]](平成24年)[[9月]]より大学院サステイナビリティと平和研究科博士課程を開講。
その他、国連大学ではさまざまなプロジェクトや研究が進められている他、「短期集中講座」や「グローバルセミナー」など、一般にも公開される多くの講座やセミナーも開かれている。なお、[[2003年]](平成15年)[[12月]]に、[[青山学院大学]]と国連大学は、一般協定を調印した。「学際的研究、高度の研修および知識の普及」を通じ、両大学の包括的な協力を目指す<ref>http://www.aoyama.ac.jp/topics/2005/202.html</ref>。
== 沿革 ==
[[File:United Nations University01s3200.jpg|thumb|left|200px|青山通りの対岸から見た国連大学本部ビル。左はかつての[[こどもの城]]、右は青山オーバルビル]]
[[File:青山通り.jpg|thumb|right|200px|[[港区 (東京都)|港区]][[南青山]]五丁目からみた青山通り。右手に国連大学、左に[[青山学院大学]]がみえる。]]
[[1969年]]に当時の[[国際連合事務総長]][[ウ・タント]]が構想を提案し<ref name="r25"/><ref name="sankei1"/><ref name="gakusei">{{Cite web|和書
|date=1992-09-30
|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_052.html
|title=国際協力活動の推進
|work=学制百二十年史
|publisher=文部科学省
|accessdate=2009-11-15
}}</ref>、開発途上国を中心に支持を受けて、[[1973年]]、国際連合大学憲章が[[国際連合総会]]で採択されて設立された。
[[国際機関]]としての設立にむけ、国連やユネスコによる「国連大学設立可能性に関する研究・調査」に呼応して、ユネスコ国内委員会や[[文部省]]においても、国連大学の構想を研究・提案が行われ、その設立に向けた積極的な協力が行われた<ref name="r25"/><ref name="gakusei"/>。国連に多く分担金を納入している日本政府が国際都市としての東京の機能を強化するために国際機関の本部を誘致したかったことが設立を実現させたといわれている。日本政府は、設立に際して「国際連合大学本部に関する国際連合と日本国との間の協定の実施に伴う特別措置法」<ref name="kokurendaigaku">{{Cite |url = https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=351AC0000000072&openerCode=1
|title = 国際連合大学本部に関する国際連合と日本国との間の協定の実施に伴う特別措置法
|accessdate = 2012-5-24
}}</ref>を制定し、日本の存在感と国連大学の重要性をアピールしている。また、資金的な負担から設置に抵抗のあったほかの[[国際連合加盟国]]とは対照的に、資金的にも強力な投入を行っている<ref name="文部科学省">{{Cite |url = https://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/unu/04090301.htm
|title = 国際連合大学 我が国の協力
|accessdate = 2012-5-24
}}</ref><ref name="United Nations University">{{Cite |url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/06_hakusho/ODA2006/html/siryo2/sl1320013.htm
|title = 国連大学(UNU:United Nations University)
|accessdate = 2012-5-24
}}</ref>。
現在国連大学が建つ場所は、[[青山通り]]沿いに隣接する[[こどもの城]]やオーバルビルなどとともに、かつては[[東京都電車|都電]]の青山車庫であった。都電廃止後には一時期[[都バス]]の車庫として利用された後、現在の姿となった<ref name="jingumae">神宮前五丁目 『原宿 1995』 コム・プロジェクト 穏田表参道商店会1994年12月25日発行 p62</ref>。
==機構==
国連大学の学術活動は、研究および訓練にかかる施設・プログラムともにグローバルな体制で展開されている。
=== 研究所 ===
* [[国連大学地域統合比較研究所|国連大学地域統合比較研究所 (UNU-CRIS)]]:[[ベルギー]]・[[ブルージュ]]
* [[国連大学環境・人間安全保障研究所|国連大学環境・人間安全保障研究所 (UNU-EHS)]]:[[ドイツ]]・[[ボン]]
* [[国連大学物質フラックス・資源統合管理研究所|国連大学物質フラックス・資源統合管理研究所 (UNU-FLORES)]]:ドイツ・[[ドレスデン]]
* [[国連大学高等研究所|国連大学高等研究所 (UNU-IAS)]]:[[日本]]・[[横浜市]]
* [[国連大学国際文明の同盟研究所|国連大学国際文明の同盟研究所 (UNU-IIAOC)]]:[[スペイン]]・[[バルセロナ]]
* [[国連大学国際グローバルヘルス研究所|国連大学国際グローバルヘルス研究所 (UNU-IIGH)]]:[[マレーシア]]・[[クアラルンプール]]
* [[国連大学国際ソフトウエア技術研究所|国連大学国際ソフトウエア技術研究所 (UNU-IIST)]]:[[中華人民共和国]][[マカオ]]
* [[国連大学アフリカ自然資源研究所|国連大学アフリカ自然資源研究所 (UNU-INRA)]]:[[ガーナ]]・[[アクラ]]
* [[国連大学水・環境・保健研究所|国連大学水・環境・保健研究所 (UNU-INWEH)]]:[[カナダ]]・[[オンタリオ州]][[ハミルトン (オンタリオ州)|ハミルトン]]
* [[国連大学サステイナビリティと平和研究所|国連大学サステイナビリティと平和研究所 (UNU-ISP)]]:日本・[[東京]]
* [[国連大学マーストリヒト技術革新・経済社会研究所|国連大学マーストリヒト技術革新・経済社会研究所 (UNU-MERIT)]]:[[オランダ]]・[[マーストリヒト]]
* [[国連大学世界開発経済研究所|国連大学世界開発経済研究所 (UNU-WIDER)]]:[[フィンランド]]・[[ヘルシンキ]]
===研究プログラム===
* [[国連大学中南米バイオ技術プログラム|国連大学中南米バイオ技術プログラム (UNU-BIOLAC)]]:[[ベネズエラ]]・[[カラカス]]
* [[国連大学人間・社会開発のための食料・栄養プログラム|国連大学人間・社会開発のための食料・栄養プログラム (UNU-FNP)]]:[[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク州]][[イサカ (ニューヨーク州)|イサカ]]
* [[国連大学水産技術研修プログラム|国連大学水産技術研修プログラム (UNU-FTP)]]:[[アイスランド]]・[[レイキャヴィーク|レイキャビク]]
* [[国連大学地熱エネルギー利用技術研修プログラム|国連大学地熱エネルギー利用技術研修プログラム (UNU-GTP)]]:アイスランド・レイキャビク
* [[国連大学土地修復研修プログラム|国連大学土地修復研修プログラム (UNU-LRT)]]:アイスランド・レイキャビク
== 提携機関 ==
*[[国立研究開発法人]][[農業・食品産業技術総合研究機構]][[食品総合研究所]](日本[[つくば市]])
*[[アジア工科大学院]]([[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]])
*[[マヒドン大学]]栄養学研究所(タイ・バンコク)
*中央食品技術研究所([[インド]]・[[マイソール]])
*[[グリフィス大学]]倫理・統治・法学研究所([[オーストラリア]]・[[ブリスベン]])
*[[アルスター大学]]([[イギリス|連合王国]][[北アイルランド]]・[[ロンドンデリー]])
*[[コーネル大学]] (アメリカ合衆国ニューヨーク州イサカ)
*[[タフツ大学]](アメリカ合衆国[[マサチューセッツ州]][[ボストン]])
*国立保健研究所([[メキシコ]]・[[クエルナバカ]])
*[[チリ大学]]栄養食料技術研究所([[チリ]]・[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]])
*国際地球情報科学・地球観測研究所(オランダ・[[エンスヘデ]])
*マックス・プランク科学振興協会世界火災監視センター(ドイツ・[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]])
*[[ボン大学]](ドイツ・ボン)
*保健人口省国立栄養研究所([[エジプト]]・[[カイロ]])
*[[ガーナ大学]](ガーナ・アクラ)
*[[ナイロビ大学]]([[ケニア]]・[[ナイロビ]])
*[[中国科学院]]上海生命科学研究院(中華人民共和国[[上海市]])
*[[甘粛省]]資源エネルギー研究所(中華人民共和国[[蘭州市]])
*[[光州科学技術院]]([[大韓民国]][[光州]])
== 敷地および建物 ==
本部施設(国連大学本部ビル)は東京都により無償で貸与された土地に日本政府の予算で建設されたもので、[[1992年]]([[平成]]4年)[[6月]]に完成<ref name="r25"/>。設計は[[丹下健三]]によるものである<ref name="sankei1"/>。
国連大学構内では不可侵権が認められている一方、[[土地]]および[[建物]]の日本国内法における管轄については、建物が[[文部科学省]]の[[管轄]]であり、土地が東京都の管轄である<ref name="r25"/>。
== 歴代学長と出身国 ==
#初代 ジェイムズ・ヘスター([[:en:James Hester|James Hester]])(1975-1980)[[アメリカ合衆国]]
#第2代 スジャトモコ([[:en:Soedjatmoko|Soedjatmoko]])(1980-1987) [[インドネシア]]
#第3代 エイトール・グルグリーノ・デソウザ([[:pt:Heitor Gurgulino de Souza|Heitor Gurgulino de Souza]])(1987-1997)[[ブラジル]]
#第4代 ハンス・ファン・ヒンケル(Hans J.A. Van Ginkel)(1997-2007)[[オランダ]]
#第5代 コンラッド・オスターヴァルダー([[:en:Konrad Osterwalder|Konrad Osterwalder]])(2007-2013) [[スイス]]
#第6代 デイビッド・マローン([[:en:David M. Malone|David M. Malone]])(2013-2023.2.28 )[[カナダ]]
#第7代 [[チリツィ・マルワラ]] ([[:en:Tshilidzi Marwala|Tshilidzi Marwala]]) (2023.3.1- ) [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.unu.edu/media-relations/releases/prof-tshilidzi-marwala-begins-term-as-united-nations-university-rector.html|accessdate=2023-03-17|title=チリツィ・マルワラ教授、国連大学学長に就任 - 国連大学}}</ref>
== 名誉教授 ==
*羅福全(名誉教授、[[亜東関係協会]]会長、元駐日代表)
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
<references />
== 関連項目 ==
* [[国際連合の専門機関]]
* [[平和大学]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|United Nations University}}
* [https://unu.edu/ United Nations University]{{en icon}}
** [https://jp.unu.edu/ 国連大学]{{ja icon}}
* [https://ias.unu.edu/jp/ 国連大学サステイナビリティ高等研究所]
{{国際連合}}
{{大学院大学}}
{{Authority control}}
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{{DEFAULTSORT:こくさいれんこうたいかく}}
[[Category:国際連合大学|*]]
[[Category:国際連合総会の補助機関|たいかく]]
[[Category:渋谷区の建築物]]
[[Category:日本のシンクタンク]]
[[Category:神宮前 (渋谷区)]]
[[Category:日本・国際連合関係]]
[[Category:1973年設立の組織]]
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2023-11-17T04:29:27Z
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国立国会図書館
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国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英: National Diet Library)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条および国立国会図書館法第1条。
国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。
施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた、支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。
支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。
国立国会図書館の淵源は、大日本帝国憲法下の帝国議会各院に置かれていた貴族院図書館、衆議院図書館、および文部省に付属していた帝国図書館の3館にある。貴衆各院の図書館は、1890年(明治23年)に設立された各院の事務局編纂課を起源としており、また、帝国図書館は1872年(明治5年)に設立された書籍館をその前身とする。
第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法は、国会を唯一の立法機関と定め、国会を構成する衆議院・参議院の両議院は「全国民を代表する選挙された議員」(国会議員)で組織されると定めた。そして、国会が民主的に運営され、国会議員が十分な立法活動を行うためには、国会議員のための調査機関として議会図書館の拡充が必要とされた。このため、日本国憲法の施行とともに施行された国会法(昭和22年法律第79号)130条は「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く」と定め、あわせて国会図書館法(昭和22年法律第84号)を制定した。また、衆議院と参議院の両院に常任委員会のひとつとして「図書館運営委員会」が設置され、図書館の運営に絞った形での審議が行われていた。
これにより、戦前の貴衆両院の図書館を合併した新たな国会図書館の設立が定められたが、この体制では国会議員の調査研究には不十分であるとみられた。そこで、アメリカ合衆国から図書館使節団が招かれ、国会はその意見を取り入れて、翌1948年(昭和23年)、国立国会図書館法(昭和23年法律第5号)を制定した(同法の施行に伴い、前述した国会図書館法は廃止)。同法は米国図書館使節団の強い影響下に誕生したため、国立国会図書館は米国議会図書館 (Library of Congress) をモデルとして、議会図書館であると同時に国立図書館(国立中央図書館)の機能も兼ね、国内資料の網羅的収集と整理を目的とした法定納本制度を持つこととされた。
同法の制定とともに、国立国会図書館の設立準備が進められ、初代館長には憲法学者で日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣だった金森徳次郎が迎えられて、1948年(昭和23年)2月25日に国立国会図書館は発足した。続いて、初代副館長に美学者で尾道市立図書館長だった中井正一が任命され、同年6月5日、赤坂離宮を仮庁舎として、国立国会図書館は正式に開館した。
翌1949年(昭和24年)には、国立国会図書館法の定めた方針に基づき、出版法(明治26年法律第15号。出版法および新聞紙法を廃止する法律(昭和24年法律第95号)により廃止)に基づいて納本された出版物を所蔵していた上野の国立図書館(1947年(昭和22年)に帝国図書館から改称)が統合され、国立国会図書館は名実ともに日本唯一の国立図書館となった。旧帝国図書館の蔵書と施設はそのまま上野に残され、同館は国立国会図書館の支部図書館である支部上野図書館とされた。
なお、衆参両院の常任委員会だった「図書館運営委員会」は第27回衆議院議員総選挙後の1955年(昭和30年)3月18日に廃止され、以後は議院運営委員会の中の小委員会として審議が続けられることになった(後述)。
組織の発足より建設が遅れていた国立国会図書館の本館庁舎は、国立国会図書館法と同時に公布された国立国会図書館建築委員会法(昭和23年法律第6号)に基づいて検討が進められ、国会議事堂の北隣にあった旧ドイツ大使館跡地(東京都千代田区永田町)に建設されることになった。本館庁舎(現在の東京本館)は建築設計競技により前川國男の案が選ばれ、1961年(昭和36年)に第一期工事を完了し、図書が収蔵され始めた。収蔵された図書は、貴衆両院図書館からの引継書と戦後の収集分からなる赤坂の国会図書館仮本館蔵書が約100万冊、帝国図書館による戦前収集分を基礎とする上野図書館の蔵書が約100万冊であった。ここに、別々の歴史を持つ2館の蔵書は1館に合流し、同年11月1日、国立国会図書館本館は蔵書205万冊をもって開館した。
本館の工事は開館後も続けられ、増築の進捗に伴って旧参謀本部庁舎跡地(現・国会前庭北地区、憲政記念館)の三宅坂仮庁舎に置かれていた国会サービス部門も本館内に移転し、赤坂・上野・三宅坂の3地区に分かれていた国会図書館の機能は最終的な統合をみる。本館は、開館から7年後の1968年(昭和43年)に竣工し、地上6階・地下1階の事務棟と17層の書庫棟からなる施設が完成した。
1970年代には蔵書の順調な増大、閲覧者の増加が進み、本館の施設は早くも手狭になりつつあった。このため本館の北隣に新館が建設されることになり、1986年(昭和61年)に完成した。設計は本館と同じく前川國男が担当した。地上4階・地下8階で広大な地下部分をすべて書庫にあてた新館の完成により、国立国会図書館は全館合計で1,200万冊の図書を収蔵可能となったが、これも21世紀初頭に所蔵能力の限界に達することが予測された。
1970年代末から、第二国立国会図書館を建設する計画が浮上した。第二の国会図書館は増え続ける蔵書を東京本館と分担して保存するとともに、コンピュータ技術の発達に伴う情報通信の発展に対応する情報発信、非来館型サービスに特化した図書館として関西文化学術研究都市に建設されることになり、国立国会図書館関西館として、2002年(平成14年)に開館した。関西館には科学技術関連資料、アジア言語資料、国内博士論文などが移管され、東京本館とともに国立国会図書館の中央館を構成する一角となった。
また、関西館の開館に前後して、支部上野図書館の施設を改築のうえ、国際子ども図書館として活用する計画が進められた。国際子ども図書館は国立国会図書館の蔵書のうち児童書(おもに18歳未満を対象とする図書館資料)を分担して所蔵する児童書のナショナルセンターとして位置づけられ、2000年(平成12年)に部分開館、2002年(平成14年)に全面開館した。
電子図書館事業の拡充に力が注がれる一方、2005年(平成17年)の国立国会図書館法における館長の国務大臣待遇規定の削除、2006年(平成18年)の自由民主党行政改革推進本部の国会事務局改革の一環としての独立行政法人化の提言、2007年(平成19年)の国会関係者以外からは初めてとなる長尾真(元京都大学総長)の館長任命など、国立国会図書館の組織のあり方をめぐる動きが相次いでいる。2016年(平成28年)にはお茶の水女子大学前学長の羽入佐和子が女性として初めて館長に就任した。
2020年(令和2年)3月4日、COVID-19の流行を受け、東京本館は休館を決定した。当初、休館期間は3月5日 - 3月16日までの12日間を予定していたが、6月10日まで延長された。再開後はインターネットからの抽選予約制を実施した上で、1日の入館者数を制限して再開している。また、同年11月4日以降は平日のみ時間を限定して一般入場を再開し、その後は段階的に制限が緩和され、2023年1月19日以降は館内の滞留人数の制限を1000人として開館し、6月22日以降は制限を撤廃した。
2022年(令和4年)5月19日、「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始。
国立国会図書館法は、その前文で、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」と、その設立理念を明らかにしている。「真理がわれらを自由にする」とは、図書館が公平に資料を提供していくことで、国民に知る自由を保障し、健全な民主社会を育む礎となっていかねばならないとする、国立国会図書館の基本理念を明らかにしたものであると解釈されている。
国立国会図書館法はアメリカ図書館使節団の原案を基に起草されたといわれているが、この前文は歴史学者で参議院議員の羽仁五郎(当時の参議院図書館運営委員長)が挿入したとされる。「真理がわれらを自由にする」の句は、羽仁五郎がドイツ留学当時、留学先のフライブルク大学の図書館の建物に刻まれていたドイツ語の銘文「DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREIMACHEN 真理は汝らを自由にする)」に感銘を受け、これをもとに創案した。さらに、この句は『新約聖書』のギリシア語「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ(真理はあなたたちを自由にする)」(ヨハネによる福音書 8-32)に由来しているともいわれる。
1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館では、本館2階図書カウンターのヒサシ部分に金森初代館長の揮毫による「真理がわれらを自由にする」の句が大きく刻まれ、この句は多くの人の目に留まるようになるとともに、ひとり国立国会図書館のみならず、図書館一般の原理として理解されるようになった。第二次世界大戦後日本の図書館運動・図書館界の発展において、この句が与えた影響は少なくない。
国立国会図書館は日本の立法府である国会に属する独立した国の機関で、衆議院議長および参議院議長ならびに両議院に置かれる常任委員会である議院運営委員会の監督のもと自立して運営される。図書館の事務を統理する国立国会図書館長は、両議院の議長が、両議院の議院運営委員会と協議の後、国会の承認を得て、これを任命する。
その組織は国立国会図書館法に基づき、中央の図書館と支部図書館からなる。また、国立国会図書館連絡調整委員会が置かれる。中央の図書館には、東京・永田町の東京本館と京都府精華町(関西文化学術研究都市)の関西館があり、支部図書館のひとつである国際子ども図書館の扱うものを除き、国会図書館の所蔵する各種の資料を分担して保管している。また、国会議事堂内には、中央の図書館に付属する国会分館がある。
支部図書館は、国際子ども図書館、そして行政および司法の各部門におかれる図書館がこれに該当する。このうち国際子ども図書館は、納本制度によって国会図書館に集められた日本国内の出版物や購入・国際交換によりもたらされた日本国外の出版物のうち、18歳未満を読者の主たる対象とする資料の保存・提供を分担しており、その性格は実質的には中央の図書館の分館に近い。
行政および司法の各部門、すなわち各省庁および最高裁判所に置かれる図書館については行政・司法に対するサービスの節で改めて詳しく扱うが、各省庁や裁判所に置かれる付属図書館を制度上国立国会図書館の支部とすることで、日本唯一の国立中央図書館である国立国会図書館と各図書館を一体のネットワークに置いたものである。これらの図書館は、設置主体は各省庁や裁判所であるが、同時に国立国会図書館の支部図書館として、中央の図書館とともに国立国会図書館の組織の一部とされる特別な位置づけにある。
東京と関西の2つの施設に分かれた中央の図書館はおよそ900人の職員を擁しており、業務ごとに部局に細分化されているが、そのうち唯一国立国会図書館法を設置の根拠とする特別な部局として「調査及び立法考査局」がある。調査及び立法考査局は国会に対する図書館奉仕に加えて、衆参両院の常任委員会が必要とする分野に関する高度な調査を行う特別職として置かれる専門調査員を中心に、国会からの要望に応じた調査業務を行っている。
国立国会図書館のサービスは、以下の3本の柱から成り立っている。
「国会図書館」という名称から明らかなように、国会へのサービスを第一義とするが、国民一般へのサービスも国立国会図書館の重要な要素である。国民へのサービスは日本の国立中央図書館としての機能であり、納本制度に基づく国内出版物の網羅的収集や全国書誌の作成が行われる。また、図書館間協力や国際協力にも力を入れており、国際協力では資料の国際交換、資料の貸出・複写・レファレンスサービス、日本語図書を扱う外国人司書の研修などを行っている。
一般利用者へのサービスは、来館利用、利用者の身近にある図書館などを通じた間接的な利用、そして後述するインターネットを通じた電子図書館サービスの提供などから成り立っている。
国立国会図書館の各サービスポイント、すなわち東京本館、関西館、国際子ども図書館などを利用者が直接訪れる来館利用では、利用に許可の必要な貴重書や特別の事情があって利用の制限されている資料を除き、国立国会図書館の所蔵する膨大な資料が利用者の求めに応じて提供される。国立国会図書館の所蔵する資料は現在では3館に分散しているが、それぞれに取り寄せて来館利用することが可能である。
間接的な利用では、一般の図書館利用者が最寄の図書館では入手できなかった資料を網羅的なコレクションを持つ国会図書館から図書館間貸出で取り寄せたり、最寄の図書館では解決できなかったレファレンスサービス(図書館員の行う参考調査)を国立国会図書館に依頼したりすることができる。
図書館間貸出は、利用者の身近にある公共図書館、大学図書館や各種の資料室(ただし国立国会図書館の図書館間貸出制度に加入申請し、承認を受けた機関のみ)を窓口として、国立国会図書館の資料を利用できる制度である。ただし、借り出し先の図書館の館外に持ち出すことも貸出先での複写もできない。また、貸し出すのは昭和23年の設立以降に国会図書館が受け入れた和洋の図書に限られ、損耗の激しい資料や貴重書のほか、貸し出しに向かない本は貸し出さない。
国立国会図書館は資料の保存を大原則としているため、個人に対する貸出を行っていない。
国立国会図書館オンライン(正式名称:国立国会図書館検索・申込オンラインサービス)は、2018年1月5日よりサービスを開始した、国立国会図書館の所蔵資料の検索と申し込みができるシステムである。閲覧の申し込みについては入館中のみ可能で、それ以外の場所ではできない。国立国会図書館が所蔵する資料であれば、インターネット経由で書誌情報を検索・ダウンロードできる。
2017年12月27日までは「国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)」として運用されていた。
国立国会図書館サーチ(NDL Search) は、国立国会図書館が提供している検索サービスである。国立国会図書館が所蔵する資料のすべてを探すことができるほか、都道府県立図書館、政令指定都市の市立図書館の蔵書、国立国会図書館やほかの機関が収録している各種のデジタル情報などを探すことができる。
2023年8月、国立国会図書館オンラインの機能を統合した新しい国立国会図書館サーチのシステムが発表され、2024年1月に移行がなされる予定である。
国立国会図書館の国会に対するサービスは、資料の提供、貸し出しなどの一般的な図書館サービスに加えて、議会図書館に特有の立法調査を兼ね備えている。
東京本館と国会議事堂内の国会分館には国会議員専用の議員閲覧室があり、本館議員閲覧室には議員研究室も付設されている。また、国会議員と国会職員に対しては国会分館を中心に貸し出しサービスも行われており、図書館への貸し出しと異なって貸し出しの冊数制限も存在しない。
国立国会図書館の組織において、国会に対するサービスの主体となるのは国立国会図書館法第15条によって規定された調査及び立法考査局(「調査局」と略称される)である。調査局は、同法の規定に基づいて、国会のための調査や立法に関連する資料の収集・提供を行うこととされている。
このために調査局には国会のための調査を行う部門と立法関連の資料提供サービスを行う部門が置かれている。調査部門の各課はおおむね国会両院の常任委員会の構成に対応する主題別に細分されており、国会議員の問い合わせに応じて調査を行う立法レファレンス業務や、時事的な問題についての予備調査を行う。
また、調査局は国立国会図書館の国民向けサービスのための資料収集・整理とは独立して資料の収集・整理も行っており、最新の情報を収集して立法業務の補佐に役立てている。このほか、調査局を通じて行われる国会向けのサービスには国立国会図書館の一般の所蔵資料のうちの議会・法令関係資料の管理・提供や法令の索引作成、国会会議録のデータベース化などがあり、これらは国立国会図書館の閲覧室、出版活動、インターネット送信などを通じて、一般の国民に対しても提供されている。
国立国会図書館のサービス対象のもうひとつの柱は国の行政・司法に対してである。これらに対し国立国会図書館は図書館サービス資料の貸し出し、複写、レファレンスなどの図書館サービスを行っているが、その窓口となるのが国の行政・司法の各部門に設けられた支部図書館である。行政・司法各部門の附属図書館(支部内閣府図書館、支部最高裁判所図書館など)は、設置母体の省庁の刊行物を収めたり業務上必要な資料を収集し所蔵しており、それぞれの省庁の予算によって運営されるが、同時に制度上で国立国会図書館の支部図書館として国立国会図書館の組織に包括されている。また、支部図書館同士は国立国会図書館の中央館を中心にネットワークを形成し、各省庁出版物の相互交換、資料の相互貸借、図書館職員の共通研修などを行う。
行政・司法各部門支部図書館の館長はそれぞれの事務官・技官から任命されるが、その任命権は立法府の職員である国立国会図書館長に与えられている。このように三権をまたぐ支部図書館制度は世界の国立図書館の中でもきわめて珍しく、国立国会図書館のもつ大きな特色のひとつである。
世界各国の国立中央図書館は、法律などによって定められた納本制度によって出版者に特定の図書館に出版物を納めることを義務づけ、一国内の出版物を網羅的に収集することを重要な役割としている。
日本の国立中央図書館である国立国会図書館においては、国立国会図書館法が、国内すべての官公庁、団体と個人に出版物を国立国会図書館に納本することを義務づけている。納本の対象となる出版物は、図書、小冊子、逐次刊行物(雑誌や新聞、年鑑)、楽譜、地図、マイクロフィルム資料、点字資料およびCD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)などである。納本を求められる部数は、官公庁では2部から30部までの複数部であり、民間の出版物は1部である。
納本以外の資料収集手段としては、寄贈・購入や、出版物の国際交換がある。購入を通じては、古書・古典籍など納本の対象とならないものや、百科事典、辞典、年鑑など参考図書としてきわめて利用の多い資料の複本、そして学術研究に有用であると判断され選択された外国資料が収集される。国際交換は、他国の国立図書館・議会図書館に対し、納本制度によって複数部が受け入れられた官公庁出版物をおもに提供することにより、交換で入手の難しい外国の官公庁資料等を収集するのに用いられている。
こうして国立国会図書館に新たに収集された資料は、一件一件についてその書名、著者、出版者、出版年などの個体同定情報が記述された書誌データが作成される。また国立国会図書館の書誌データには同館独自の国立国会図書館分類表(NDLC)によって分類番号がつけられ、国立国会図書館件名標目表(NDLSH)によって件名が付与されて、目録に登録される。現在では目録の大半はオンライン化されており、インターネット上から検索することが可能になっている。
なお、国立国会図書館の蔵書構築など図書館技術に関する運用は、1948年(昭和23年)9月にGHQ民間情報教育局特別顧問ロバート・B・ダウンズ(イリノイ大学図書館長)によって提出された『国立国会図書館に於ける図書整理・文献参考サーヴィス並びに全般的組織に関する報告』(ダウンズ報告)に基づく面が大きい。図書の整理は、開館当初はダウンズ報告に基づいて、和漢書は日本国内の図書館で一般的な日本十進分類法(NDC)、洋書は世界的に使われるデューイ十進分類法(DDC)によって行われていた。しかし、膨大な蔵書を書架に配架して利用していくうえで十進分類法に不便がみられたため、1963年に国立国会図書館分類表が考案され、1968年に洋書に、1969年に和書に適用された。ただし、和図書についてはそれ以降も書誌データには日本十進分類表による分類番号は付与されており、日本十進分類法を日常に利用しているほかの図書館や一般利用者の便にも備えている。
納本制度により、国立国会図書館は原則としてすべての出版物が継続的に揃うことになるため、理論的には国会図書館の編成する自館所蔵資料の目録は、日本で出版されたすべての出版物の書誌情報を収めた目録となる。こうして作成された目録に収められる、全国の出版物に関する網羅的な書誌情報を全国書誌といい、国立国会図書館においては毎週一度、その週に納本制度によって受け入れられた資料の書誌情報が『日本全国書誌』としてまとめられている。
『日本全国書誌』はインターネット上で公開されるほか、冊子体で刊行・頒布される。また、電子情報・データベース化したものが『JAPAN/MARC』として頒布され、CD-ROM版やDVD-ROM版でも販売されている。その基本的な機能は、日本において出版された出版物を検索調査する際の総合的・統一的な索引である。
また、各図書館は、自館で所蔵する資料の目録を作成するにあたって、自館で書誌データを作成せずとも、『日本全国書誌』を利用してコピーカタロギング(書誌情報を複製して自館の目録を作成すること)することができる。これには各図書館の目録作成の労力の軽減、および国内各図書館の間での書誌データの共有というメリットがあるが、国立国会図書館の目録の作成には刊行からタイムラグがあり、新刊の検索に向かないことが欠点として指摘されている。これは、ほかの図書館が新規に受け入れて目録化する資料の多くは新刊書であるためである。このため、公共図書館の多くは『JAPAN/MARC』よりも民間の図書取次会社の作成する書誌データベースを目録作成に用いることが多く、コピーカタロギングのための全国書誌としての役割はあまり活用されていない。
また、国立国会図書館は全国書誌の作成とともに、開館以来『雑誌記事索引』を作成・頒布している。これは国内の主要な雑誌の収録記事を目録化したもので、索引の範囲はおもに学術誌など調査上の利用に対する要求が大きい雑誌に限定されているものの、通常の目録では検索されにくい雑誌記事の目録として貴重なものである。
国立国会図書館の所蔵する資料の基礎となる部分は、戦前の帝国議会両院付属図書館が議会の審議を助けるために収集した資料と、当時の日本唯一の国立図書館であった帝国図書館の蔵書の2つから成り立っている。特に帝国図書館の蔵書は出版法の納本制度に基づいて網羅的に収集された戦前の和図書や、貴重な古書、洋書などを含み、きわめて価値が高い。
国立国会図書館の成立以降は一国の網羅的な収集と全国書誌の作成を目的とした本格的な納本制度が導入されたため、この図書館には原則として日本で出版されたすべての出版物が所蔵されている。外国資料については、国際交換や購入により、学術研究や参考調査に有用な人文・社会科学資料や、科学技術資料、日本関係資料などを中心に収集している。
国会図書館の蔵書の中には、旧帝国図書館時代を含め図書館がまとまって受け入れた特色あるコレクションが含まれる。これらの特殊コレクションは、資料的に価値の高いものが多い。代表的なコレクションとして、帝国図書館から引き継いだ旧藩校蔵書、徳川幕府引継書類、本草学関連の古書からなる伊藤文庫・白井文庫や、戦後の国会図書館が議会のための図書館であるという性格から重点的に受け入れた近代政治史関連史資料からなる憲政資料、国内外の議会・法令関係資料、支部上野図書館で旧蔵していたバレエ・シャンソン関連資料の蘆原英了コレクション、出版文化史資料を中心とする布川文庫(布川角左衛門旧蔵書)、国語学者の亀田次郎の収集した国語学関係書(亀田文庫、約6,900冊)などがある。また、戦前に発禁処分を受けた書籍・雑誌もコレクションに含まれ、旧帝国図書館所蔵の発禁図書は一般資料の一部として、旧内務省保管の発禁図書は貴重書扱いのため一定の制限下で閲覧に供されている。
2021年度末の統計によれば、国立国会図書館の所蔵資料は東京本館・関西館・国際子ども図書館の合計で、図書1,192万7,978冊、雑誌・新聞1,993万9,341点、図書形態以外の資料(マイクロフィルムや地図、楽譜、映像資料、録音資料、磁気記録資料、絵画・写真、点字資料など)1,435万211点である。
1990年代以降、情報通信の発展に対応し、国立国会図書館はおもにインターネット上のウェブサイトを通じた電子図書館機能拡充を進めている。
2002年(平成14年)には、関西館の開館に伴い公式サイトが大幅に刷新された。下記のようにさまざまな電子図書館コンテンツが公開されている。
国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)は2002年に機能を大幅に拡充され、国会図書館の所蔵する資料のほとんどがインターネットを通じて検索することが可能になった。国立国会図書館の所蔵する国内出版物は納本制度を通じて収集された日本国内の出版物の網羅的コレクション、その目録は週刊でまとめられてきた全国書誌の集積であるため、NDL-OPACを通じた書誌データの提供は、単に国会図書館一館の資料所蔵情報の公開にとどまらず、日本における出版物の書誌データを網羅的に広く提供するサービスでもあった。また、同じく雑誌記事索引もNDL-OPACを通じてインターネット検索が可能で、国立国会図書館開館以来50年以上にわたって蓄積された雑誌記事索引のデータベースが公開された。
NDL-OPACは2017年12月にサービスが終了し、2018年1月に国立国会図書館検索・申込オンラインサービス(国立国会図書館オンライン)としてリニューアルされた。国立国会図書館オンラインではNDL-OPACと違い、国立国会図書館デジタルコレクションの目次情報も検索対象になる。このほか、レファレンスサービスを専用システムから統合、英語版が提供される画面を拡充、遠隔サービスの利用者登録手続を行えるようになった。
2023年8月、国立国会図書館サーチへの統合が発表された。統合時期は2024年1月の予定。
「国立国会図書館デジタルコレクション」(旧称:国立国会図書館デジタル化資料)は、国立国会図書館が所蔵する資料のうち、デジタル化したものを収録している。
デジタル化した資料は、「インターネット公開」「図書館・個人送信限定」「国立国会図書館内限定」の3種類の公開範囲のいずれかに設定されている。歴史的な貴重書や錦絵の画像、歴史的音源、著作権の保護期間が切れた著作物などはインターネット上で一般に公開されている。保護期間が切れていない資料も絶版などで入手困難ならば、インターネットを通じて「個人向けデジタル化資料送信サービス」にログインした上で自身の端末(パソコン、タブレット)などで閲覧するか(日本国内居住者のみ)、「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に参加している日本国内の図書館などで閲覧することができる。それら以外のデジタル化資料は国会図書館3館(東京本館、関西館、国際子ども図書館)でのみ閲覧できる。なお、明治・大正・昭和前期に出版された資料のスキャニング画像を提供する「近代デジタルライブラリー」は、2016年5月31日にデジタルコレクションに統合された。
2022年12月には全面的なリニューアルが行なわれ各種機能が強化された。また独自開発のAI利用OCRを導入し、高精度の全文検索が行なえるようになった。
「WARP(インターネット資料収集保存事業)」(旧称:インターネット情報選択的蓄積事業、インターネット資源選択的蓄積実験事業)は、平成14年度(2002年度)に実験的な試みとして着手し、インターネット上の情報を文化資産として保存すること(ウェブアーカイブ)を目的とする。国会図書館法第25条の3に基づき2006年に本格事業化すると、同法の平成21年7月改正を反映して2010年(平成22年)4月から公的機関のウェブサイトは許諾によらず、すべて収集し保存した(改正前は当館とそれぞれの情報発信機関は許諾契約を交わした)。また収集の頻度も増やし、公的機関は原則、年4回であったが同1回に改めた(一部機関は同4回を維持)。
WARPは、CD-ROMのように変更されないようパッケージ化された電子情報と違い、管理者によっていつでも自由に改変することの可能なインターネット上の電子情報(ネットワーク系電子情報)を当館は紙媒体の資料と同じように収集・整理・保存・公開する。対象はインターネットを通じて公開されてきた学術雑誌や、政府省庁など公的機関の情報源のウェブページそのものであり、国立国会図書館のサーバに保存し館内で全て公開する。インターネット経由の公開は規定により、公的機関由来のものは許諾を条件とし、それら機関以外の個別許諾による収集(私立大学やイベント)によるものの公開には、同法改正を経ても館内外を問わず許諾を得ることが条件である。
この節では、一般利用者として国立国会図書館の東京本館を来館利用する場合を中心に述べる。関西館および国際子ども図書館についての詳細は、それぞれの記事を参照されたい。
東京本館、関西館は満18歳以上(かつては満20歳以上だったが入館者減少に伴い、2004年より変更)ならば誰でも利用できる。満18歳未満の場合、調査研究目的など一定の条件下で、事前の手続きをもって利用することができる。これに対し国際子ども図書館は、児童に対するさまざまな個別的サービスを行っており、児童書研究資料室を除き誰でも利用可能となっている。
2004年より館内各所で大々的にシステムの変更がなされ、入館にあたっては、カード発行機を利用して、資料の検索、請求、受取、複写などに用いる当日限りの非接触ICカード型の「館内利用者カード」の発行をしていた。館内利用者カードの発行にあたっては氏名や住所、電話番号などの入力作業が必要であったが、あらかじめ利用者登録を行って交付された登録利用者カード(館内利用者カードとは別)を持参すれば、パスワードの入力のみで館内利用者カードの発行を受けることができた。
2012年(平成24年)1月6日より利用システムが全面変更され、利用者登録していない人は「臨時利用カード」が貸与され、閲覧できる資料は専門室にある開架図書のみとなり、閉架書庫にある資料の閲覧請求は登録利用者カードの貸与者のみができるように改められた。これにより、国会図書館を利用するには利用者登録をすることが基本となる。また、同時に登録利用者カードの仕様も変更されている。なお、2012年(平成24年)2月14日までは、システム移行時の暫定措置として当日利用者には臨時カードが渡され、登録利用者と同等のサービスが受けられるようになっていた。
発行された登録利用者カードを用いて鉄道駅の自動改札機に類似のゲートを通過し、入館する。なお、東京本館と関西館では、鞄などの不透明な袋類の持込を禁止しているため、入館前に荷物は入口脇にある保証金式コインロッカー(料金は使用終了時に返ってくる)に預けなければならない。館内に筆記用具などを持ち込む場合は、手で持っていくか、あるいはコインロッカーのそばに常備されている透明なビニール袋に入れる必要がある。
利用が終わったあとは、閉架書庫から受け取った資料をすべてカウンターに返却し、複写料金の精算を終えたあと、登録利用者カードをゲートにかざすと退館できる。すべての資料を返却しない限り、退館はできない。
2021年(令和3年)度の統計によると、東京本館の来館者は24万6,213人(1日平均886人)。
東京本館は、膨大な資料を管理するため原則としてほとんどの資料を利用者が直接触れられない書庫に配架する閉架式をとっている。このため利用者は、まず国立国会図書館オンラインで必要とする資料を検索し、システムを通じて資料の申し込みを行う。書庫からは国立国会図書館オンラインの申し込みデータをもとに資料が出納されるが、膨大な数の資料を広大な書庫から出納するため、利用者は本の受け取りに数十分程度の時間を要する。また、1人が1回に請求できる冊数も制限されている。
東京本館は本館と新館の2棟から成り立っており、基本的に本館2階カウンターが図書、新館2階カウンターが雑誌の出納を担当している。また、主題別の特殊な資料や、国会図書館として特色的な資料については、それぞれに専門室が設けられている。専門室では利用の多い参考資料は開架されているため、そこでは百科事典、辞典、統計、年鑑、新聞などのごく一部は書架から直接手にとって利用することもできる。
2023年現在、東京本館にある専門室は以下の計8室である。
かつてはアジア・北アフリカ諸国の諸言語資料を専門とするアジア資料室も東京本館に置かれていたが、関西館の開館に伴いその蔵書とともに関西館に移転し、アジア情報室と改称した。
複写(コピー)は、利用者自身が複写機でコピーを取ることはできず、複写カウンターに申し込んでコピーをとってもらう。利用者自身による複写が認められていないのは、国立国会図書館は納本図書館として資料保全を図る必要があり本を傷めるような複写(コピー機に本を押しつけすぎるなど)をされる危険を回避しなければならないこと、また図書館一般における利用者の複写は、原則として著作権法第31条の定める著作権者の許諾を得ない複写の範囲などに限られているためである。このような理由から、同館では複写する資料の状態や複写内容を図書館側がチェックすることになっている。このため、たとえ国立国会図書館にしか所蔵されていない貴重な資料であろうとも、著作権の存続している資料の全頁を複写することはできない。
複写サービスの受付担当はアルバイトであることもあり、小泉悠は退職後に受付のアルバイトで生計を立てていた。
複写には来館複写と遠隔複写がある。来館複写には、資料を実際に閲覧したうえで複写箇所を特定し、資料を複写カウンターにて申し込むサービスである。また複写方法には、即日複写と後日郵送複写がある。即日複写は、複写製品を当日中に受け取るサービスである。専用の端末を用いて申込書を作成(デジタル化資料は専用の端末上で申込)し、カウンターで申し込む。即日複写には1回の申込上限ページ数があり、たとえば紙資料の場合、1回につき10冊かつ100ページまでである。混雑状況・複写枚数により異なるが、作業には30分ほどかかる場合がある。作業終了後に料金の支払いと製品の受け取りとなる。支払方法には現金のほか、Suicaやnanacoなどの電子マネーが利用可能である。なお、申し込めるのは閉館1時間前までである。ちなみに、関西館にはセルフコピー機があり、参考資料の一部を利用者自身で複写することができる。この場合も、図書館による複写箇所の確認は受けなければならない。後日郵送複写は申込までは来館複写と同様だが、受取は郵便で受け取り、支払いはそれに同封される払込書で支払う。この場合、遠隔複写(後述)同様に発送事務手数料と実費送料が必要である。
一方遠隔複写は、利用者登録をしている人で、インターネット上で国立国会図書館オンラインから資料や雑誌記事を特定し、Web上で申し込むことにより、郵送でのコピーサービスを受けることができる。ただし、発送事務手数料と実費送料が必要である。
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"text": "国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英: National Diet Library)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条および国立国会図書館法第1条。",
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"text": "国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。",
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"text": "施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた、支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。",
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"text": "支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。",
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"text": "国立国会図書館の淵源は、大日本帝国憲法下の帝国議会各院に置かれていた貴族院図書館、衆議院図書館、および文部省に付属していた帝国図書館の3館にある。貴衆各院の図書館は、1890年(明治23年)に設立された各院の事務局編纂課を起源としており、また、帝国図書館は1872年(明治5年)に設立された書籍館をその前身とする。",
"title": "沿革"
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"text": "第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法は、国会を唯一の立法機関と定め、国会を構成する衆議院・参議院の両議院は「全国民を代表する選挙された議員」(国会議員)で組織されると定めた。そして、国会が民主的に運営され、国会議員が十分な立法活動を行うためには、国会議員のための調査機関として議会図書館の拡充が必要とされた。このため、日本国憲法の施行とともに施行された国会法(昭和22年法律第79号)130条は「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く」と定め、あわせて国会図書館法(昭和22年法律第84号)を制定した。また、衆議院と参議院の両院に常任委員会のひとつとして「図書館運営委員会」が設置され、図書館の運営に絞った形での審議が行われていた。",
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"text": "これにより、戦前の貴衆両院の図書館を合併した新たな国会図書館の設立が定められたが、この体制では国会議員の調査研究には不十分であるとみられた。そこで、アメリカ合衆国から図書館使節団が招かれ、国会はその意見を取り入れて、翌1948年(昭和23年)、国立国会図書館法(昭和23年法律第5号)を制定した(同法の施行に伴い、前述した国会図書館法は廃止)。同法は米国図書館使節団の強い影響下に誕生したため、国立国会図書館は米国議会図書館 (Library of Congress) をモデルとして、議会図書館であると同時に国立図書館(国立中央図書館)の機能も兼ね、国内資料の網羅的収集と整理を目的とした法定納本制度を持つこととされた。",
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"text": "同法の制定とともに、国立国会図書館の設立準備が進められ、初代館長には憲法学者で日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣だった金森徳次郎が迎えられて、1948年(昭和23年)2月25日に国立国会図書館は発足した。続いて、初代副館長に美学者で尾道市立図書館長だった中井正一が任命され、同年6月5日、赤坂離宮を仮庁舎として、国立国会図書館は正式に開館した。",
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"text": "翌1949年(昭和24年)には、国立国会図書館法の定めた方針に基づき、出版法(明治26年法律第15号。出版法および新聞紙法を廃止する法律(昭和24年法律第95号)により廃止)に基づいて納本された出版物を所蔵していた上野の国立図書館(1947年(昭和22年)に帝国図書館から改称)が統合され、国立国会図書館は名実ともに日本唯一の国立図書館となった。旧帝国図書館の蔵書と施設はそのまま上野に残され、同館は国立国会図書館の支部図書館である支部上野図書館とされた。",
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"text": "なお、衆参両院の常任委員会だった「図書館運営委員会」は第27回衆議院議員総選挙後の1955年(昭和30年)3月18日に廃止され、以後は議院運営委員会の中の小委員会として審議が続けられることになった(後述)。",
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"text": "組織の発足より建設が遅れていた国立国会図書館の本館庁舎は、国立国会図書館法と同時に公布された国立国会図書館建築委員会法(昭和23年法律第6号)に基づいて検討が進められ、国会議事堂の北隣にあった旧ドイツ大使館跡地(東京都千代田区永田町)に建設されることになった。本館庁舎(現在の東京本館)は建築設計競技により前川國男の案が選ばれ、1961年(昭和36年)に第一期工事を完了し、図書が収蔵され始めた。収蔵された図書は、貴衆両院図書館からの引継書と戦後の収集分からなる赤坂の国会図書館仮本館蔵書が約100万冊、帝国図書館による戦前収集分を基礎とする上野図書館の蔵書が約100万冊であった。ここに、別々の歴史を持つ2館の蔵書は1館に合流し、同年11月1日、国立国会図書館本館は蔵書205万冊をもって開館した。",
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"text": "本館の工事は開館後も続けられ、増築の進捗に伴って旧参謀本部庁舎跡地(現・国会前庭北地区、憲政記念館)の三宅坂仮庁舎に置かれていた国会サービス部門も本館内に移転し、赤坂・上野・三宅坂の3地区に分かれていた国会図書館の機能は最終的な統合をみる。本館は、開館から7年後の1968年(昭和43年)に竣工し、地上6階・地下1階の事務棟と17層の書庫棟からなる施設が完成した。",
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"text": "1970年代には蔵書の順調な増大、閲覧者の増加が進み、本館の施設は早くも手狭になりつつあった。このため本館の北隣に新館が建設されることになり、1986年(昭和61年)に完成した。設計は本館と同じく前川國男が担当した。地上4階・地下8階で広大な地下部分をすべて書庫にあてた新館の完成により、国立国会図書館は全館合計で1,200万冊の図書を収蔵可能となったが、これも21世紀初頭に所蔵能力の限界に達することが予測された。",
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"text": "1970年代末から、第二国立国会図書館を建設する計画が浮上した。第二の国会図書館は増え続ける蔵書を東京本館と分担して保存するとともに、コンピュータ技術の発達に伴う情報通信の発展に対応する情報発信、非来館型サービスに特化した図書館として関西文化学術研究都市に建設されることになり、国立国会図書館関西館として、2002年(平成14年)に開館した。関西館には科学技術関連資料、アジア言語資料、国内博士論文などが移管され、東京本館とともに国立国会図書館の中央館を構成する一角となった。",
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "また、関西館の開館に前後して、支部上野図書館の施設を改築のうえ、国際子ども図書館として活用する計画が進められた。国際子ども図書館は国立国会図書館の蔵書のうち児童書(おもに18歳未満を対象とする図書館資料)を分担して所蔵する児童書のナショナルセンターとして位置づけられ、2000年(平成12年)に部分開館、2002年(平成14年)に全面開館した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "電子図書館事業の拡充に力が注がれる一方、2005年(平成17年)の国立国会図書館法における館長の国務大臣待遇規定の削除、2006年(平成18年)の自由民主党行政改革推進本部の国会事務局改革の一環としての独立行政法人化の提言、2007年(平成19年)の国会関係者以外からは初めてとなる長尾真(元京都大学総長)の館長任命など、国立国会図書館の組織のあり方をめぐる動きが相次いでいる。2016年(平成28年)にはお茶の水女子大学前学長の羽入佐和子が女性として初めて館長に就任した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)3月4日、COVID-19の流行を受け、東京本館は休館を決定した。当初、休館期間は3月5日 - 3月16日までの12日間を予定していたが、6月10日まで延長された。再開後はインターネットからの抽選予約制を実施した上で、1日の入館者数を制限して再開している。また、同年11月4日以降は平日のみ時間を限定して一般入場を再開し、その後は段階的に制限が緩和され、2023年1月19日以降は館内の滞留人数の制限を1000人として開館し、6月22日以降は制限を撤廃した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)5月19日、「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館法は、その前文で、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」と、その設立理念を明らかにしている。「真理がわれらを自由にする」とは、図書館が公平に資料を提供していくことで、国民に知る自由を保障し、健全な民主社会を育む礎となっていかねばならないとする、国立国会図書館の基本理念を明らかにしたものであると解釈されている。",
"title": "理念"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館法はアメリカ図書館使節団の原案を基に起草されたといわれているが、この前文は歴史学者で参議院議員の羽仁五郎(当時の参議院図書館運営委員長)が挿入したとされる。「真理がわれらを自由にする」の句は、羽仁五郎がドイツ留学当時、留学先のフライブルク大学の図書館の建物に刻まれていたドイツ語の銘文「DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREIMACHEN 真理は汝らを自由にする)」に感銘を受け、これをもとに創案した。さらに、この句は『新約聖書』のギリシア語「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ(真理はあなたたちを自由にする)」(ヨハネによる福音書 8-32)に由来しているともいわれる。",
"title": "理念"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館では、本館2階図書カウンターのヒサシ部分に金森初代館長の揮毫による「真理がわれらを自由にする」の句が大きく刻まれ、この句は多くの人の目に留まるようになるとともに、ひとり国立国会図書館のみならず、図書館一般の原理として理解されるようになった。第二次世界大戦後日本の図書館運動・図書館界の発展において、この句が与えた影響は少なくない。",
"title": "理念"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館は日本の立法府である国会に属する独立した国の機関で、衆議院議長および参議院議長ならびに両議院に置かれる常任委員会である議院運営委員会の監督のもと自立して運営される。図書館の事務を統理する国立国会図書館長は、両議院の議長が、両議院の議院運営委員会と協議の後、国会の承認を得て、これを任命する。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その組織は国立国会図書館法に基づき、中央の図書館と支部図書館からなる。また、国立国会図書館連絡調整委員会が置かれる。中央の図書館には、東京・永田町の東京本館と京都府精華町(関西文化学術研究都市)の関西館があり、支部図書館のひとつである国際子ども図書館の扱うものを除き、国会図書館の所蔵する各種の資料を分担して保管している。また、国会議事堂内には、中央の図書館に付属する国会分館がある。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "支部図書館は、国際子ども図書館、そして行政および司法の各部門におかれる図書館がこれに該当する。このうち国際子ども図書館は、納本制度によって国会図書館に集められた日本国内の出版物や購入・国際交換によりもたらされた日本国外の出版物のうち、18歳未満を読者の主たる対象とする資料の保存・提供を分担しており、その性格は実質的には中央の図書館の分館に近い。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "行政および司法の各部門、すなわち各省庁および最高裁判所に置かれる図書館については行政・司法に対するサービスの節で改めて詳しく扱うが、各省庁や裁判所に置かれる付属図書館を制度上国立国会図書館の支部とすることで、日本唯一の国立中央図書館である国立国会図書館と各図書館を一体のネットワークに置いたものである。これらの図書館は、設置主体は各省庁や裁判所であるが、同時に国立国会図書館の支部図書館として、中央の図書館とともに国立国会図書館の組織の一部とされる特別な位置づけにある。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "東京と関西の2つの施設に分かれた中央の図書館はおよそ900人の職員を擁しており、業務ごとに部局に細分化されているが、そのうち唯一国立国会図書館法を設置の根拠とする特別な部局として「調査及び立法考査局」がある。調査及び立法考査局は国会に対する図書館奉仕に加えて、衆参両院の常任委員会が必要とする分野に関する高度な調査を行う特別職として置かれる専門調査員を中心に、国会からの要望に応じた調査業務を行っている。",
"title": "組織"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館のサービスは、以下の3本の柱から成り立っている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "「国会図書館」という名称から明らかなように、国会へのサービスを第一義とするが、国民一般へのサービスも国立国会図書館の重要な要素である。国民へのサービスは日本の国立中央図書館としての機能であり、納本制度に基づく国内出版物の網羅的収集や全国書誌の作成が行われる。また、図書館間協力や国際協力にも力を入れており、国際協力では資料の国際交換、資料の貸出・複写・レファレンスサービス、日本語図書を扱う外国人司書の研修などを行っている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一般利用者へのサービスは、来館利用、利用者の身近にある図書館などを通じた間接的な利用、そして後述するインターネットを通じた電子図書館サービスの提供などから成り立っている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館の各サービスポイント、すなわち東京本館、関西館、国際子ども図書館などを利用者が直接訪れる来館利用では、利用に許可の必要な貴重書や特別の事情があって利用の制限されている資料を除き、国立国会図書館の所蔵する膨大な資料が利用者の求めに応じて提供される。国立国会図書館の所蔵する資料は現在では3館に分散しているが、それぞれに取り寄せて来館利用することが可能である。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "間接的な利用では、一般の図書館利用者が最寄の図書館では入手できなかった資料を網羅的なコレクションを持つ国会図書館から図書館間貸出で取り寄せたり、最寄の図書館では解決できなかったレファレンスサービス(図書館員の行う参考調査)を国立国会図書館に依頼したりすることができる。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "図書館間貸出は、利用者の身近にある公共図書館、大学図書館や各種の資料室(ただし国立国会図書館の図書館間貸出制度に加入申請し、承認を受けた機関のみ)を窓口として、国立国会図書館の資料を利用できる制度である。ただし、借り出し先の図書館の館外に持ち出すことも貸出先での複写もできない。また、貸し出すのは昭和23年の設立以降に国会図書館が受け入れた和洋の図書に限られ、損耗の激しい資料や貴重書のほか、貸し出しに向かない本は貸し出さない。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館は資料の保存を大原則としているため、個人に対する貸出を行っていない。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館オンライン(正式名称:国立国会図書館検索・申込オンラインサービス)は、2018年1月5日よりサービスを開始した、国立国会図書館の所蔵資料の検索と申し込みができるシステムである。閲覧の申し込みについては入館中のみ可能で、それ以外の場所ではできない。国立国会図書館が所蔵する資料であれば、インターネット経由で書誌情報を検索・ダウンロードできる。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2017年12月27日までは「国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)」として運用されていた。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館サーチ(NDL Search) は、国立国会図書館が提供している検索サービスである。国立国会図書館が所蔵する資料のすべてを探すことができるほか、都道府県立図書館、政令指定都市の市立図書館の蔵書、国立国会図書館やほかの機関が収録している各種のデジタル情報などを探すことができる。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2023年8月、国立国会図書館オンラインの機能を統合した新しい国立国会図書館サーチのシステムが発表され、2024年1月に移行がなされる予定である。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館の国会に対するサービスは、資料の提供、貸し出しなどの一般的な図書館サービスに加えて、議会図書館に特有の立法調査を兼ね備えている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "東京本館と国会議事堂内の国会分館には国会議員専用の議員閲覧室があり、本館議員閲覧室には議員研究室も付設されている。また、国会議員と国会職員に対しては国会分館を中心に貸し出しサービスも行われており、図書館への貸し出しと異なって貸し出しの冊数制限も存在しない。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館の組織において、国会に対するサービスの主体となるのは国立国会図書館法第15条によって規定された調査及び立法考査局(「調査局」と略称される)である。調査局は、同法の規定に基づいて、国会のための調査や立法に関連する資料の収集・提供を行うこととされている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "このために調査局には国会のための調査を行う部門と立法関連の資料提供サービスを行う部門が置かれている。調査部門の各課はおおむね国会両院の常任委員会の構成に対応する主題別に細分されており、国会議員の問い合わせに応じて調査を行う立法レファレンス業務や、時事的な問題についての予備調査を行う。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、調査局は国立国会図書館の国民向けサービスのための資料収集・整理とは独立して資料の収集・整理も行っており、最新の情報を収集して立法業務の補佐に役立てている。このほか、調査局を通じて行われる国会向けのサービスには国立国会図書館の一般の所蔵資料のうちの議会・法令関係資料の管理・提供や法令の索引作成、国会会議録のデータベース化などがあり、これらは国立国会図書館の閲覧室、出版活動、インターネット送信などを通じて、一般の国民に対しても提供されている。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館のサービス対象のもうひとつの柱は国の行政・司法に対してである。これらに対し国立国会図書館は図書館サービス資料の貸し出し、複写、レファレンスなどの図書館サービスを行っているが、その窓口となるのが国の行政・司法の各部門に設けられた支部図書館である。行政・司法各部門の附属図書館(支部内閣府図書館、支部最高裁判所図書館など)は、設置母体の省庁の刊行物を収めたり業務上必要な資料を収集し所蔵しており、それぞれの省庁の予算によって運営されるが、同時に制度上で国立国会図書館の支部図書館として国立国会図書館の組織に包括されている。また、支部図書館同士は国立国会図書館の中央館を中心にネットワークを形成し、各省庁出版物の相互交換、資料の相互貸借、図書館職員の共通研修などを行う。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "行政・司法各部門支部図書館の館長はそれぞれの事務官・技官から任命されるが、その任命権は立法府の職員である国立国会図書館長に与えられている。このように三権をまたぐ支部図書館制度は世界の国立図書館の中でもきわめて珍しく、国立国会図書館のもつ大きな特色のひとつである。",
"title": "サービス"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "世界各国の国立中央図書館は、法律などによって定められた納本制度によって出版者に特定の図書館に出版物を納めることを義務づけ、一国内の出版物を網羅的に収集することを重要な役割としている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "日本の国立中央図書館である国立国会図書館においては、国立国会図書館法が、国内すべての官公庁、団体と個人に出版物を国立国会図書館に納本することを義務づけている。納本の対象となる出版物は、図書、小冊子、逐次刊行物(雑誌や新聞、年鑑)、楽譜、地図、マイクロフィルム資料、点字資料およびCD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)などである。納本を求められる部数は、官公庁では2部から30部までの複数部であり、民間の出版物は1部である。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "納本以外の資料収集手段としては、寄贈・購入や、出版物の国際交換がある。購入を通じては、古書・古典籍など納本の対象とならないものや、百科事典、辞典、年鑑など参考図書としてきわめて利用の多い資料の複本、そして学術研究に有用であると判断され選択された外国資料が収集される。国際交換は、他国の国立図書館・議会図書館に対し、納本制度によって複数部が受け入れられた官公庁出版物をおもに提供することにより、交換で入手の難しい外国の官公庁資料等を収集するのに用いられている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうして国立国会図書館に新たに収集された資料は、一件一件についてその書名、著者、出版者、出版年などの個体同定情報が記述された書誌データが作成される。また国立国会図書館の書誌データには同館独自の国立国会図書館分類表(NDLC)によって分類番号がつけられ、国立国会図書館件名標目表(NDLSH)によって件名が付与されて、目録に登録される。現在では目録の大半はオンライン化されており、インターネット上から検索することが可能になっている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、国立国会図書館の蔵書構築など図書館技術に関する運用は、1948年(昭和23年)9月にGHQ民間情報教育局特別顧問ロバート・B・ダウンズ(イリノイ大学図書館長)によって提出された『国立国会図書館に於ける図書整理・文献参考サーヴィス並びに全般的組織に関する報告』(ダウンズ報告)に基づく面が大きい。図書の整理は、開館当初はダウンズ報告に基づいて、和漢書は日本国内の図書館で一般的な日本十進分類法(NDC)、洋書は世界的に使われるデューイ十進分類法(DDC)によって行われていた。しかし、膨大な蔵書を書架に配架して利用していくうえで十進分類法に不便がみられたため、1963年に国立国会図書館分類表が考案され、1968年に洋書に、1969年に和書に適用された。ただし、和図書についてはそれ以降も書誌データには日本十進分類表による分類番号は付与されており、日本十進分類法を日常に利用しているほかの図書館や一般利用者の便にも備えている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "納本制度により、国立国会図書館は原則としてすべての出版物が継続的に揃うことになるため、理論的には国会図書館の編成する自館所蔵資料の目録は、日本で出版されたすべての出版物の書誌情報を収めた目録となる。こうして作成された目録に収められる、全国の出版物に関する網羅的な書誌情報を全国書誌といい、国立国会図書館においては毎週一度、その週に納本制度によって受け入れられた資料の書誌情報が『日本全国書誌』としてまとめられている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "『日本全国書誌』はインターネット上で公開されるほか、冊子体で刊行・頒布される。また、電子情報・データベース化したものが『JAPAN/MARC』として頒布され、CD-ROM版やDVD-ROM版でも販売されている。その基本的な機能は、日本において出版された出版物を検索調査する際の総合的・統一的な索引である。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、各図書館は、自館で所蔵する資料の目録を作成するにあたって、自館で書誌データを作成せずとも、『日本全国書誌』を利用してコピーカタロギング(書誌情報を複製して自館の目録を作成すること)することができる。これには各図書館の目録作成の労力の軽減、および国内各図書館の間での書誌データの共有というメリットがあるが、国立国会図書館の目録の作成には刊行からタイムラグがあり、新刊の検索に向かないことが欠点として指摘されている。これは、ほかの図書館が新規に受け入れて目録化する資料の多くは新刊書であるためである。このため、公共図書館の多くは『JAPAN/MARC』よりも民間の図書取次会社の作成する書誌データベースを目録作成に用いることが多く、コピーカタロギングのための全国書誌としての役割はあまり活用されていない。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、国立国会図書館は全国書誌の作成とともに、開館以来『雑誌記事索引』を作成・頒布している。これは国内の主要な雑誌の収録記事を目録化したもので、索引の範囲はおもに学術誌など調査上の利用に対する要求が大きい雑誌に限定されているものの、通常の目録では検索されにくい雑誌記事の目録として貴重なものである。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館の所蔵する資料の基礎となる部分は、戦前の帝国議会両院付属図書館が議会の審議を助けるために収集した資料と、当時の日本唯一の国立図書館であった帝国図書館の蔵書の2つから成り立っている。特に帝国図書館の蔵書は出版法の納本制度に基づいて網羅的に収集された戦前の和図書や、貴重な古書、洋書などを含み、きわめて価値が高い。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館の成立以降は一国の網羅的な収集と全国書誌の作成を目的とした本格的な納本制度が導入されたため、この図書館には原則として日本で出版されたすべての出版物が所蔵されている。外国資料については、国際交換や購入により、学術研究や参考調査に有用な人文・社会科学資料や、科学技術資料、日本関係資料などを中心に収集している。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "国会図書館の蔵書の中には、旧帝国図書館時代を含め図書館がまとまって受け入れた特色あるコレクションが含まれる。これらの特殊コレクションは、資料的に価値の高いものが多い。代表的なコレクションとして、帝国図書館から引き継いだ旧藩校蔵書、徳川幕府引継書類、本草学関連の古書からなる伊藤文庫・白井文庫や、戦後の国会図書館が議会のための図書館であるという性格から重点的に受け入れた近代政治史関連史資料からなる憲政資料、国内外の議会・法令関係資料、支部上野図書館で旧蔵していたバレエ・シャンソン関連資料の蘆原英了コレクション、出版文化史資料を中心とする布川文庫(布川角左衛門旧蔵書)、国語学者の亀田次郎の収集した国語学関係書(亀田文庫、約6,900冊)などがある。また、戦前に発禁処分を受けた書籍・雑誌もコレクションに含まれ、旧帝国図書館所蔵の発禁図書は一般資料の一部として、旧内務省保管の発禁図書は貴重書扱いのため一定の制限下で閲覧に供されている。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2021年度末の統計によれば、国立国会図書館の所蔵資料は東京本館・関西館・国際子ども図書館の合計で、図書1,192万7,978冊、雑誌・新聞1,993万9,341点、図書形態以外の資料(マイクロフィルムや地図、楽譜、映像資料、録音資料、磁気記録資料、絵画・写真、点字資料など)1,435万211点である。",
"title": "国立国会図書館の特色"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降、情報通信の発展に対応し、国立国会図書館はおもにインターネット上のウェブサイトを通じた電子図書館機能拡充を進めている。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)には、関西館の開館に伴い公式サイトが大幅に刷新された。下記のようにさまざまな電子図書館コンテンツが公開されている。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)は2002年に機能を大幅に拡充され、国会図書館の所蔵する資料のほとんどがインターネットを通じて検索することが可能になった。国立国会図書館の所蔵する国内出版物は納本制度を通じて収集された日本国内の出版物の網羅的コレクション、その目録は週刊でまとめられてきた全国書誌の集積であるため、NDL-OPACを通じた書誌データの提供は、単に国会図書館一館の資料所蔵情報の公開にとどまらず、日本における出版物の書誌データを網羅的に広く提供するサービスでもあった。また、同じく雑誌記事索引もNDL-OPACを通じてインターネット検索が可能で、国立国会図書館開館以来50年以上にわたって蓄積された雑誌記事索引のデータベースが公開された。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "NDL-OPACは2017年12月にサービスが終了し、2018年1月に国立国会図書館検索・申込オンラインサービス(国立国会図書館オンライン)としてリニューアルされた。国立国会図書館オンラインではNDL-OPACと違い、国立国会図書館デジタルコレクションの目次情報も検索対象になる。このほか、レファレンスサービスを専用システムから統合、英語版が提供される画面を拡充、遠隔サービスの利用者登録手続を行えるようになった。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2023年8月、国立国会図書館サーチへの統合が発表された。統合時期は2024年1月の予定。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "「国立国会図書館デジタルコレクション」(旧称:国立国会図書館デジタル化資料)は、国立国会図書館が所蔵する資料のうち、デジタル化したものを収録している。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "デジタル化した資料は、「インターネット公開」「図書館・個人送信限定」「国立国会図書館内限定」の3種類の公開範囲のいずれかに設定されている。歴史的な貴重書や錦絵の画像、歴史的音源、著作権の保護期間が切れた著作物などはインターネット上で一般に公開されている。保護期間が切れていない資料も絶版などで入手困難ならば、インターネットを通じて「個人向けデジタル化資料送信サービス」にログインした上で自身の端末(パソコン、タブレット)などで閲覧するか(日本国内居住者のみ)、「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に参加している日本国内の図書館などで閲覧することができる。それら以外のデジタル化資料は国会図書館3館(東京本館、関西館、国際子ども図書館)でのみ閲覧できる。なお、明治・大正・昭和前期に出版された資料のスキャニング画像を提供する「近代デジタルライブラリー」は、2016年5月31日にデジタルコレクションに統合された。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2022年12月には全面的なリニューアルが行なわれ各種機能が強化された。また独自開発のAI利用OCRを導入し、高精度の全文検索が行なえるようになった。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "「WARP(インターネット資料収集保存事業)」(旧称:インターネット情報選択的蓄積事業、インターネット資源選択的蓄積実験事業)は、平成14年度(2002年度)に実験的な試みとして着手し、インターネット上の情報を文化資産として保存すること(ウェブアーカイブ)を目的とする。国会図書館法第25条の3に基づき2006年に本格事業化すると、同法の平成21年7月改正を反映して2010年(平成22年)4月から公的機関のウェブサイトは許諾によらず、すべて収集し保存した(改正前は当館とそれぞれの情報発信機関は許諾契約を交わした)。また収集の頻度も増やし、公的機関は原則、年4回であったが同1回に改めた(一部機関は同4回を維持)。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "WARPは、CD-ROMのように変更されないようパッケージ化された電子情報と違い、管理者によっていつでも自由に改変することの可能なインターネット上の電子情報(ネットワーク系電子情報)を当館は紙媒体の資料と同じように収集・整理・保存・公開する。対象はインターネットを通じて公開されてきた学術雑誌や、政府省庁など公的機関の情報源のウェブページそのものであり、国立国会図書館のサーバに保存し館内で全て公開する。インターネット経由の公開は規定により、公的機関由来のものは許諾を条件とし、それら機関以外の個別許諾による収集(私立大学やイベント)によるものの公開には、同法改正を経ても館内外を問わず許諾を得ることが条件である。",
"title": "電子図書館事業"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この節では、一般利用者として国立国会図書館の東京本館を来館利用する場合を中心に述べる。関西館および国際子ども図書館についての詳細は、それぞれの記事を参照されたい。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "東京本館、関西館は満18歳以上(かつては満20歳以上だったが入館者減少に伴い、2004年より変更)ならば誰でも利用できる。満18歳未満の場合、調査研究目的など一定の条件下で、事前の手続きをもって利用することができる。これに対し国際子ども図書館は、児童に対するさまざまな個別的サービスを行っており、児童書研究資料室を除き誰でも利用可能となっている。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2004年より館内各所で大々的にシステムの変更がなされ、入館にあたっては、カード発行機を利用して、資料の検索、請求、受取、複写などに用いる当日限りの非接触ICカード型の「館内利用者カード」の発行をしていた。館内利用者カードの発行にあたっては氏名や住所、電話番号などの入力作業が必要であったが、あらかじめ利用者登録を行って交付された登録利用者カード(館内利用者カードとは別)を持参すれば、パスワードの入力のみで館内利用者カードの発行を受けることができた。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)1月6日より利用システムが全面変更され、利用者登録していない人は「臨時利用カード」が貸与され、閲覧できる資料は専門室にある開架図書のみとなり、閉架書庫にある資料の閲覧請求は登録利用者カードの貸与者のみができるように改められた。これにより、国会図書館を利用するには利用者登録をすることが基本となる。また、同時に登録利用者カードの仕様も変更されている。なお、2012年(平成24年)2月14日までは、システム移行時の暫定措置として当日利用者には臨時カードが渡され、登録利用者と同等のサービスが受けられるようになっていた。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "発行された登録利用者カードを用いて鉄道駅の自動改札機に類似のゲートを通過し、入館する。なお、東京本館と関西館では、鞄などの不透明な袋類の持込を禁止しているため、入館前に荷物は入口脇にある保証金式コインロッカー(料金は使用終了時に返ってくる)に預けなければならない。館内に筆記用具などを持ち込む場合は、手で持っていくか、あるいはコインロッカーのそばに常備されている透明なビニール袋に入れる必要がある。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "利用が終わったあとは、閉架書庫から受け取った資料をすべてカウンターに返却し、複写料金の精算を終えたあと、登録利用者カードをゲートにかざすと退館できる。すべての資料を返却しない限り、退館はできない。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
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"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)度の統計によると、東京本館の来館者は24万6,213人(1日平均886人)。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "東京本館は、膨大な資料を管理するため原則としてほとんどの資料を利用者が直接触れられない書庫に配架する閉架式をとっている。このため利用者は、まず国立国会図書館オンラインで必要とする資料を検索し、システムを通じて資料の申し込みを行う。書庫からは国立国会図書館オンラインの申し込みデータをもとに資料が出納されるが、膨大な数の資料を広大な書庫から出納するため、利用者は本の受け取りに数十分程度の時間を要する。また、1人が1回に請求できる冊数も制限されている。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "東京本館は本館と新館の2棟から成り立っており、基本的に本館2階カウンターが図書、新館2階カウンターが雑誌の出納を担当している。また、主題別の特殊な資料や、国会図書館として特色的な資料については、それぞれに専門室が設けられている。専門室では利用の多い参考資料は開架されているため、そこでは百科事典、辞典、統計、年鑑、新聞などのごく一部は書架から直接手にとって利用することもできる。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
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"text": "2023年現在、東京本館にある専門室は以下の計8室である。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
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"text": "かつてはアジア・北アフリカ諸国の諸言語資料を専門とするアジア資料室も東京本館に置かれていたが、関西館の開館に伴いその蔵書とともに関西館に移転し、アジア情報室と改称した。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "複写(コピー)は、利用者自身が複写機でコピーを取ることはできず、複写カウンターに申し込んでコピーをとってもらう。利用者自身による複写が認められていないのは、国立国会図書館は納本図書館として資料保全を図る必要があり本を傷めるような複写(コピー機に本を押しつけすぎるなど)をされる危険を回避しなければならないこと、また図書館一般における利用者の複写は、原則として著作権法第31条の定める著作権者の許諾を得ない複写の範囲などに限られているためである。このような理由から、同館では複写する資料の状態や複写内容を図書館側がチェックすることになっている。このため、たとえ国立国会図書館にしか所蔵されていない貴重な資料であろうとも、著作権の存続している資料の全頁を複写することはできない。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
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"text": "複写サービスの受付担当はアルバイトであることもあり、小泉悠は退職後に受付のアルバイトで生計を立てていた。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "複写には来館複写と遠隔複写がある。来館複写には、資料を実際に閲覧したうえで複写箇所を特定し、資料を複写カウンターにて申し込むサービスである。また複写方法には、即日複写と後日郵送複写がある。即日複写は、複写製品を当日中に受け取るサービスである。専用の端末を用いて申込書を作成(デジタル化資料は専用の端末上で申込)し、カウンターで申し込む。即日複写には1回の申込上限ページ数があり、たとえば紙資料の場合、1回につき10冊かつ100ページまでである。混雑状況・複写枚数により異なるが、作業には30分ほどかかる場合がある。作業終了後に料金の支払いと製品の受け取りとなる。支払方法には現金のほか、Suicaやnanacoなどの電子マネーが利用可能である。なお、申し込めるのは閉館1時間前までである。ちなみに、関西館にはセルフコピー機があり、参考資料の一部を利用者自身で複写することができる。この場合も、図書館による複写箇所の確認は受けなければならない。後日郵送複写は申込までは来館複写と同様だが、受取は郵便で受け取り、支払いはそれに同封される払込書で支払う。この場合、遠隔複写(後述)同様に発送事務手数料と実費送料が必要である。",
"title": "国立国会図書館の利用"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "一方遠隔複写は、利用者登録をしている人で、インターネット上で国立国会図書館オンラインから資料や雑誌記事を特定し、Web上で申し込むことにより、郵送でのコピーサービスを受けることができる。ただし、発送事務手数料と実費送料が必要である。",
"title": "国立国会図書館の利用"
}
] |
国立国会図書館は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条および国立国会図書館法第1条。 国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。 施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた、支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。
|
{{混同|国立公文書館}}
{{脚注の不足|date=2021-05-23}}
{{図書館
|名称 = 国立国会図書館
|英名 = National Diet Library
|画像 = [[File:Ndlj logo.svg|210px]]
----[[File:National diet library 2009.jpg|300px|国立国会図書館 東京本館]]
|画像説明 = 東京本館([[東京都]][[千代田区]][[永田町]])<br />{{Right|{{location map |Japan Tokyo#Japan|width=200}}}}
|正式名称 =
|愛称 =
|前身 =
* [[帝国図書館]]<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/outline/purpose.html 設立の目的と沿革 |国立国会図書館―National Diet Library] {{ja icon}}</ref>
* [[帝国議会図書館]]<ref name="milt">[https://www.mlit.go.jp/gobuild/gobuild_fr6_000032.html 官庁営繕:国立国会図書館東京本館] {{ja icon}} - [[国土交通省]]</ref>
|専門分野 = [[納本制度|法定納本図書館]]
|事業主体 = [[国会 (日本)|国会]]
|管理運営 =
|建物設計 = [[前川國男|前川国男建築設計事務所]]内の田中誠、大高正人、ほかミド同人18名<ref name="milt" />
|延床面積 = 147,853
|開館 = [[1948年]]([[昭和]]23年)[[2月25日]]発足、同年[[6月5日]]開館。
|閉館 =
|所在地郵便番号 = 100-8924
|所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]一丁目10番1号
|位置=<small>{{coord|35.678376|139.744203|display=inline,title}}</small>
|ISIL = JP-1000001
|蔵書数 = 4,621万7530点|蔵書数年 = 2021年(令和3年)<ref name="toukei">[https://www.ndl.go.jp/jp/publication/annual/index.html 国立国会図書館年報|国立国会図書館―National Diet Library]</ref>
|貸出数 = 16,051点(図書館間含む)|貸出数年 = 2021年(令和3年)<ref name="toukei" />
|来館者数 = 38万3,820人|来館者数年 = 2021年(令和3年)<ref name="toukei" />
|年運営費 = 約248億8,503万円|年運営費年 = 2021年(令和3年)<ref name="toukei" />
|条例 =
|館長 = [[吉永元信]]
|職員数 = 定員893名(2021年(令和3年)4月現在)<ref name="toukei" />
|公式サイト = https://www.ndl.go.jp/
|備考 = 統計は東京本館、国会分館、関西館、国際子ども図書館の合計。
}}
'''国立国会図書館'''(こくりつこっかいとしょかん、{{Lang-en-short|National Diet Library}})は、[[日本]]の[[日本の国会議員|国会議員]]の調査研究、[[行政]]、ならびに日本[[国民]]のために奉仕する[[図書館]]である。また、[[納本制度]]に基づいて、日本国内で[[出版]]されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は[[国会法]]第130条{{efn|議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く。}}および[[国立国会図書館法]]第1条{{efn|この法律により国立国会図書館を設立し、この法律を国立国会図書館法と称する。}}。
国立国会図書館は、日本の[[立法府]]である[[国会 (日本)|国会]]に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする[[議会図書館]]である。同時に、納本図書館として日本で唯一の[[国立図書館]]としての機能を兼ねており、[[行政]]・[[司法]]の各部門および日本[[国民]]に対するサービスも行っている。[[バーチャル国際典拠ファイル]]に参加している。
施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた、[[支部図書館#国立国会図書館の支部図書館|支部図書館]]からなる。中央の図書館として東京本館([[東京都]][[千代田区]][[永田町]])および[[国立国会図書館関西館|関西館]]([[京都府]][[相楽郡]][[精華町]]精華台)が置かれ、また東京本館に付属して[[国立国会図書館国会分館|国会分館]]がある。
支部図書館としては[[国際子ども図書館]](東京都[[台東区]][[上野恩賜公園#上野公園(町名)|上野公園]])のほか、司法機関に1館([[最高裁判所図書館]])、[[国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律]](昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館{{efn|[[会計検査院]]図書館、[[人事院]]図書館、[[内閣法制局]]図書館、[[内閣府]]図書館(本府庁舎と中央合同庁舎第4号館に分かれている)、[[日本学術会議]]図書館、[[宮内庁]]図書館、[[公正取引委員会]]図書館、[[警察庁]]図書館、[[金融庁]]図書館、[[消費者庁]]図書館、[[総務省]]図書館、[[統計局|総務省統計]]図書館、[[法務省|法務]]図書館、[[外務省]]図書館、[[財務省 (日本)|財務省]]図書館、[[文部科学省]]図書館、[[厚生労働省]]図書館、[[農林水産省]]図書館([[農林水産政策研究所]]分館・[[農林水産技術会議]]事務局つくば分館の2分館あり)、[[林野庁]]図書館、[[経済産業省]]図書館、[[特許庁]]図書館、[[国土交通省]]図書館([[国土技術政策総合研究所]]分館・[[国土地理院]]分館・[[北海道開発局]]分館の3分館あり)、[[気象庁]]図書館、[[海上保安庁]]図書館([[海洋情報部]]分館の1分館あり)、[[環境省]]図書館、[[防衛省]]図書館。}}が置かれる<ref>{{Cite web|和書|title=国立国会図書館行政・司法各部門支部図書館及び分館一覧|国立国会図書館―National Diet Library |url=https://www.ndl.go.jp/jp/branch/admin_list.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2023-07-23}}</ref>。
== 沿革 ==
[[画像:Old National Diet Library.JPG|thumb|旧・赤坂離宮(現・迎賓館)に置かれていたころの国立国会図書館の館内]]
[[画像:Japanese National Diet Library-2007.jpg|thumb|参議院通用門前より東京本館を望む]]
=== 国会図書館の淵源 ===
国立国会図書館の淵源は、[[大日本帝国憲法]]下の[[帝国議会]]各院に置かれていた[[貴族院 (日本)|貴族院]]図書館、[[衆議院]]図書館、および[[文部省]]に付属していた[[帝国図書館]]の3館にある{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=2}}。貴衆各院の図書館は、[[1890年]]([[明治]]23年)に設立された各院の事務局編纂課を起源としており{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=2}}、また、帝国図書館は[[1872年]](明治5年)に設立された書籍館をその前身とする{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=14}}。
[[第二次世界大戦]]後、[[1947年]]([[昭和]]22年)に施行された[[日本国憲法]]は、[[国会 (日本)|国会]]を唯一の[[立法]]機関と定め、国会を構成する衆議院・[[参議院]]の両議院は「全国民を代表する選挙された議員」([[日本の国会議員|国会議員]])で組織されると定めた。そして、国会が民主的に運営され、国会議員が十分な立法活動を行うためには、国会議員のための調査機関として[[議会図書館]]の拡充が必要とされた。このため、日本国憲法の施行とともに施行された[[国会法]](昭和22年法律第79号)130条は「議員の調査研究に資するため、別に定める法律により、国会に国立国会図書館を置く」と定め、あわせて国会図書館法(昭和22年法律第84号)を制定した。また、衆議院と参議院の両院に[[常任委員会]]のひとつとして「図書館運営委員会」が設置され、図書館の運営に絞った形での審議が行われていた。
これにより、戦前の貴衆両院の図書館を合併した新たな国会図書館の設立が定められた{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=14}}が、この体制では国会議員の調査研究には不十分であるとみられた{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=45-47}}。そこで、[[アメリカ合衆国]]から図書館使節団が招かれ、国会はその意見を取り入れて、翌1948年(昭和23年)、[[国立国会図書館法]](昭和23年法律第5号)を制定した{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=49-}}(同法の施行に伴い、前述した国会図書館法は廃止)。同法は米国図書館使節団の強い影響下に誕生したため、国立国会図書館は[[アメリカ議会図書館|米国議会図書館]] ({{Lang|en|Library of Congress}}) をモデルとして、議会図書館であると同時に国立図書館(国立中央図書館)の機能も兼ね、国内資料の網羅的収集と整理を目的とした法定納本制度を持つこととされた。
=== 国会図書館 開館後 ===
同法の制定とともに、国立国会図書館の設立準備が進められ、初代[[国立国会図書館長|館長]]には[[憲法学|憲法学者]]で日本国憲法制定時の憲法担当[[国務大臣]]だった[[金森徳次郎]]が迎えられて、[[1948年]](昭和23年)[[2月25日]]に国立国会図書館は発足した{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=59-61}}。続いて、初代副館長に[[美学]]者で[[尾道市]]立図書館長だった[[中井正一]]が任命され{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=62}}、同年[[6月5日]]、赤坂離宮を仮庁舎として、国立国会図書館は正式に開館した{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=66}}。
翌[[1949年]](昭和24年)には、国立国会図書館法の定めた方針に基づき、[[出版法]](明治26年法律第15号。出版法および新聞紙法を廃止する法律(昭和24年法律第95号)により廃止)に基づいて納本された出版物を所蔵していた上野の国立図書館(1947年(昭和22年)に帝国図書館から改称{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=28}})が統合され、国立国会図書館は名実ともに日本唯一の国立図書館となった。旧帝国図書館の蔵書と施設はそのまま上野に残され、同館は国立国会図書館の支部図書館である[[国立国会図書館支部上野図書館|支部上野図書館]]とされた。
なお、衆参両院の常任委員会だった「図書館運営委員会」は[[第27回衆議院議員総選挙]]後の[[1955年]](昭和30年)3月18日に廃止され、以後は議院運営委員会の中の小委員会として審議が続けられることになった(後述)。
=== 1960年代 ===
組織の発足より建設が遅れていた国立国会図書館の本館庁舎は、国立国会図書館法と同時に公布された国立国会図書館建築委員会法(昭和23年法律第6号)に基づいて検討が進められ、国会議事堂の北隣にあった[[駐日ドイツ大使館|旧ドイツ大使館]]跡地([[東京都]][[千代田区]][[永田町]])に建設されることになった{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=67-74}}。本館庁舎(現在の東京本館)は[[建築設計競技]]により[[前川國男]]の案が選ばれ、[[1961年]](昭和36年)に第一期工事を完了し、図書が収蔵され始めた{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=74-87}}。収蔵された図書は、貴衆両院図書館からの引継書と戦後の収集分からなる赤坂の国会図書館仮本館蔵書が約100万冊、帝国図書館による戦前収集分を基礎とする上野図書館の蔵書が約100万冊であった。ここに、別々の歴史を持つ2館の蔵書は1館に合流し、同年[[11月1日]]、国立国会図書館本館は蔵書205万冊をもって開館した。
本館の工事は開館後も続けられ{{Sfn|国立国会図書館|1979|pp=88-90}}、増築の進捗に伴って旧[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]庁舎跡地(現・[[国会前庭]]北地区、[[憲政記念館]])の[[三宅坂]]仮庁舎に置かれていた国会サービス部門も本館内に移転し、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・[[上野]]・[[三宅坂]]の3地区に分かれていた国会図書館の機能は最終的な統合をみる。本館は、開館から7年後の[[1968年]](昭和43年)に竣工し、地上6階・地下1階の事務棟と17層の書庫棟からなる施設が完成した。
=== 1970年代 ===
[[1970年代]]には蔵書の順調な増大、閲覧者の増加が進み、本館の施設は早くも手狭になりつつあった{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=101}}。このため本館の北隣に新館が建設されることになり、[[1986年]](昭和61年)に完成した{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=27}}。設計は本館と同じく前川國男が担当した。地上4階・地下8階で広大な地下部分をすべて[[書庫]]にあてた新館の完成により、国立国会図書館は全館合計で1,200万冊の図書を収蔵可能となったが、これも[[21世紀]]初頭に所蔵能力の限界に達することが予測された{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=191}}。
=== 1980年代 ===
<!--このため-->[[1970年代]]末から、第二国立国会図書館を建設する計画が浮上した{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|pp=188-189}}。第二の国会図書館は増え続ける蔵書を東京本館と分担して保存するとともに、コンピュータ技術の発達に伴う情報通信の発展に対応する情報発信、非来館型サービスに特化した図書館として[[関西文化学術研究都市]]に建設されることになり、[[国立国会図書館関西館]]として、[[2002年]]([[平成]]14年)に開館した<!--{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|pp=189-}}-->。関西館には科学技術関連資料、アジア言語資料、国内博士[[論文]]などが移管され、東京本館とともに国立国会図書館の中央館を構成する一角となった{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|pp=195-198}}。
また、関西館の開館に前後して、支部上野図書館の施設を改築のうえ、[[国際子ども図書館]]として活用する計画が進められた{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=223}}。国際子ども図書館は国立国会図書館の蔵書のうち[[児童書]](おもに18歳未満を対象とする図書館資料)を分担して所蔵する児童書のナショナルセンターとして位置づけられ、2000年(平成12年)に部分開館、2002年(平成14年)に全面開館した{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|pp=223-236}}。
=== 21世紀以後の動向 ===
[[電子図書館]]事業の拡充に力が注がれる一方、[[2005年]]([[平成]]17年)の国立国会図書館法における館長の国務大臣待遇規定の削除{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=44}}、2006年(平成18年)の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[自由民主党行政改革推進本部|行政改革推進本部]]の国会事務局改革の一環としての[[独立行政法人]]化の提言{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=44}}、2007年(平成19年)の国会関係者以外からは初めてとなる[[長尾真]](元[[京都大学]]総長)の館長任命など、国立国会図書館の組織のあり方をめぐる動きが相次いでいる。2016年(平成28年)には[[お茶の水女子大学]]前学長の[[羽入佐和子]]が女性として初めて館長に就任した。
[[2020年]]([[令和]]2年)3月4日、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]の流行を受け、東京本館は休館を決定した。当初、休館期間は3月5日 - 3月16日までの12日間を予定していたが、6月10日まで延長された。再開後はインターネットからの抽選予約制を実施した上で、1日の入館者数を制限して{{efn|当初は200人程度だったが、後に400 - 800人 - 1000人程度に段階的に拡大している。}}再開している<ref name="kotsukai-toshokan">[https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2020/200527_01.html 『2020年5月27日 【重要】来館サービスの再開のお知らせ』2020年5月27日、国立国会図書館、2020年5月28日閲覧。]</ref>。また、同年11月4日以降は平日のみ時間を限定して一般入場を再開し{{efn|当初は16時以降のみだったが、2021年6月1日以降は9時30分 - 10時30分も同様の処置を行っている。}}、その後は段階的に制限が緩和され、2023年1月19日以降は館内の滞留人数の制限を1000人として開館し、6月22日以降は制限を撤廃した<ref>{{Cite web|和書|title=東京本館、関西館、国際子ども図書館の入館制限の撤廃等について|国立国会図書館―National Diet Library |url=https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2023/230622_01.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2023-10-23}}</ref>。
[[2022年]](令和4年)5月19日、「個人向けデジタル化資料送信サービス」が開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2021/220201_01.html |title=「個人向けデジタル化資料送信サービス」の開始について(令和4年5月19日予定)(付・プレスリリース) |publisher=国立国会図書館 |date=2022-02-01 |accessdate=2022-08-28}}</ref><ref name="digital_transmission_individuals">{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/use/digital_transmission/individuals_index.html |title=個人向けデジタル化資料送信サービス |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2022-08-28}}</ref>。
== 理念 ==
[[国立国会図書館法]]は、その前文で、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて[[日本国憲法|憲法]]の誓約する[[日本]]の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」と、その設立理念を明らかにしている。「'''真理がわれらを自由にする'''」とは、図書館が公平に資料を提供していくことで、国民に知る自由を保障し、健全な民主社会を育む礎となっていかねばならないとする、国立国会図書館の基本理念を明らかにしたものであると解釈されている。
国立国会図書館法はアメリカ図書館使節団の原案を基に起草されたといわれているが、この前文は[[歴史家|歴史学者]]で[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]の[[羽仁五郎]](当時の参議院図書館運営委員長)が挿入した{{Sfn|稲村徹元|高木浩子|1989|p=1}}とされる。「真理がわれらを自由にする」の句は、羽仁五郎が[[ドイツ]]留学当時、留学先の[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]の図書館の建物に刻まれていた[[ドイツ語]]の銘文「''{{Lang|de|DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREIMACHEN}}'' 真理は汝らを自由にする)」に感銘を受け、これをもとに創案した。さらに、この句は『[[新約聖書]]』の[[ギリシア語]]「''{{Lang|el|Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ}}''(真理はあなたたちを自由にする)」([[ヨハネによる福音書]] 8-32)に由来しているともいわれる<ref>羽仁五郎 『図書館の論理: 羽仁五郎の発言』 日外アソシエーツ、1981年。</ref>{{Sfn|国立国会図書館|1979|p=56}}。
1961年(昭和36年)に開館した国立国会図書館東京本館では、本館2階図書カウンターのヒサシ部分に金森初代館長の[[揮毫]]による「真理がわれらを自由にする」の句が大きく刻まれ、この句は多くの人の目に留まるようになるとともに、ひとり国立国会図書館のみならず、図書館一般の原理として理解されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/missionandroles.html |title=真理がわれらを自由にする |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-03-28}}</ref>。[[第二次世界大戦]]後日本の図書館運動・図書館界の発展において、この句が与えた影響は少なくない。
== 組織 ==
[[画像:National Library Kansai.jpg|thumb|関西館 [[陶器二三雄]]設計]]
[[画像:National Diet Library2.jpg|thumb|関西館増築計画の模型 [[日本設計]]設計([[2016年]][[9月29日]]撮影)]]
国立国会図書館は日本の立法府である国会に属する独立した国の機関で、[[衆議院議長]]および[[参議院議長]]ならびに両議院に置かれる[[常任委員会]]である[[議院運営委員会]]の監督のもと自立して運営される。図書館の事務を統理する[[国立国会図書館長]]は、両議院の議長が、両議院の議院運営委員会と協議の後、国会の承認を得て、これを任命する。
その組織は国立国会図書館法に基づき、中央の図書館と[[支部図書館]]からなる。また、[[国立国会図書館連絡調整委員会]]が置かれる。中央の図書館には、東京・永田町の東京本館と京都府[[精華町]]([[関西文化学術研究都市]])の関西館があり、支部図書館のひとつである国際子ども図書館の扱うものを除き、国会図書館の所蔵する各種の資料を分担して保管している。また、[[国会議事堂]]内には、中央の図書館に付属する[[国立国会図書館国会分館|国会分館]]がある。
支部図書館は、[[国際子ども図書館]]、そして行政および司法の各部門におかれる図書館がこれに該当する。このうち国際子ども図書館は、納本制度によって国会図書館に集められた日本国内の出版物や購入・国際交換によりもたらされた日本国外の出版物のうち、18歳未満を読者の主たる対象とする資料の保存・提供を分担しており、その性格は実質的には中央の図書館の分館に近い。
行政および司法の各部門、すなわち[[日本の行政機関|各省庁]]および[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に置かれる図書館については[[#行政・司法に対するサービス|行政・司法に対するサービスの節]]で改めて詳しく扱うが、各省庁や裁判所に置かれる付属図書館を制度上国立国会図書館の支部とすることで、日本唯一の国立中央図書館である国立国会図書館と各図書館を一体のネットワークに置いたものである。これらの図書館は、設置主体は各省庁や裁判所であるが、同時に国立国会図書館の支部図書館として、中央の図書館とともに国立国会図書館の組織の一部とされる特別な位置づけにある。
東京と関西の2つの施設に分かれた中央の図書館はおよそ900人の職員を擁しており、業務ごとに部局に細分化されているが、そのうち唯一国立国会図書館法を設置の根拠とする特別な部局として「[[国立国会図書館調査及び立法考査局|調査及び立法考査局]]」がある。調査及び立法考査局は国会に対する図書館奉仕に加えて、衆参両院の常任委員会が必要とする分野に関する高度な調査を行う特別職として置かれる[[専門調査員]]を中心に、国会からの要望に応じた調査業務を行っている。
== サービス ==
国立国会図書館のサービスは、以下の3本の柱から成り立っている。
; 国会へのサービス
: [[立法]]の際に必要となる資料の収集と分析、提供を行う。
; 行政・司法へのサービス
: 各府省庁と最高裁判所に支部図書館を設置し、図書館サービスを行う。
; 国民一般へのサービス
: 一般利用者が直接、またはほかの公共図書館などを通じて間接的に受けるサービス。また、地方議会や公務員へのサービスもここに含まれる。
「国会図書館」という名称から明らかなように、国会へのサービスを第一義とするが、国民一般へのサービスも国立国会図書館の重要な要素である。国民へのサービスは日本の[[国立図書館|国立中央図書館]]としての機能であり、[[納本制度]]に基づく国内出版物の網羅的収集や全国書誌の作成が行われる。また、図書館間協力や国際協力にも力を入れており、国際協力では資料の国際交換、資料の貸出・複写・[[レファレンスサービス]]、日本語図書を扱う外国人[[司書]]の研修などを行っている。
=== 一般利用者へのサービス ===
一般利用者へのサービスは、来館利用、利用者の身近にある図書館などを通じた間接的な利用、そして後述する[[インターネット]]を通じた電子図書館サービスの提供などから成り立っている。
国立国会図書館の各サービスポイント、すなわち東京本館、関西館、国際子ども図書館などを利用者が直接訪れる来館利用では、利用に許可の必要な貴重書や特別の事情があって利用の制限されている資料を除き、国立国会図書館の所蔵する膨大な資料が利用者の求めに応じて提供される。国立国会図書館の所蔵する資料は現在では3館に分散しているが、それぞれに取り寄せて来館利用することが可能である。
間接的な利用では、一般の図書館利用者が最寄の図書館では入手できなかった資料を網羅的なコレクションを持つ国会図書館から図書館間貸出で取り寄せたり、最寄の図書館では解決できなかったレファレンスサービス(図書館員の行う参考調査)を国立国会図書館に依頼したりすることができる。
図書館間貸出は、利用者の身近にある[[公共図書館]]、大学図書館や各種の資料室(ただし国立国会図書館の図書館間貸出制度に加入申請し、承認を受けた機関のみ)を窓口として、国立国会図書館の資料を利用できる制度である。ただし、借り出し先の図書館の館外に持ち出すことも貸出先での複写もできない。また、貸し出すのは昭和23年の設立以降に国会図書館が受け入れた和洋の図書に限られ、損耗の激しい資料や貴重書のほか、貸し出しに向かない本は貸し出さない<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/service/lending_service.html 国会図書館・資料の貸出] 2012年6月17日閲覧</ref>。
国立国会図書館は資料の保存を大原則としているため、個人に対する[[貸出]]を行っていない。
==== 国立国会図書館オンライン (NDL ONLINE) ====
'''国立国会図書館オンライン(正式名称:国立国会図書館検索・申込オンラインサービス)'''は、2018年1月5日よりサービスを開始した、国立国会図書館の所蔵資料の検索と申し込みができるシステムである。閲覧の申し込みについては入館中のみ可能で、それ以外の場所ではできない。国立国会図書館が所蔵する資料であれば、インターネット経由で書誌情報を検索・ダウンロードできる<ref>{{Cite web|和書|language=ja |title=国立国会図書館オンライン {{!}} National Diet Library Online |url=https://ndlonline.ndl.go.jp/?func=file&file_name=service-list#!/ |website=ndlonline.ndl.go.jp |access-date=2023-07-23}}</ref>。
2017年12月27日までは「国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)」として運用されていた。
{{see also|OPAC}}
==== 国立国会図書館サーチ ====
[https://iss.ndl.go.jp/ 国立国会図書館サーチ(NDL Search)] は、国立国会図書館が提供している検索サービスである。国立国会図書館が所蔵する資料のすべてを探すことができるほか、都道府県立図書館、政令指定都市の市立図書館の蔵書、国立国会図書館やほかの機関が収録している各種のデジタル情報などを探すことができる<ref>{{Cite web|和書|title=国立国会図書館サーチについて « 国立国会図書館サーチについて |url=https://iss.ndl.go.jp/information/outline/ |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref>。
2023年8月、国立国会図書館オンラインの機能を統合した新しい国立国会図書館サーチのシステムが発表され、2024年1月に移行がなされる予定である<ref name="2024renewal" />。
=== 国会に対するサービス ===
国立国会図書館の国会に対するサービスは、資料の提供、貸し出しなどの一般的な図書館サービスに加えて、[[議会図書館]]に特有の立法調査を兼ね備えている<ref>{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/diet/service/works.html|title=調査及び立法考査局の業務内容|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。
東京本館と国会議事堂内の国会分館には国会議員専用の議員閲覧室があり、本館議員閲覧室には議員研究室も付設されている。また、国会議員と国会職員に対しては国会分館を中心に貸し出しサービスも行われており、図書館への貸し出しと異なって貸し出しの冊数制限も存在しない。
国立国会図書館の組織において、国会に対するサービスの主体となるのは国立国会図書館法第15条によって規定された[[国立国会図書館調査及び立法考査局|調査及び立法考査局]](「調査局」と略称される)である。調査局は、同法の規定に基づいて、国会のための調査や立法に関連する資料の収集・提供を行うこととされている。
このために調査局には国会のための調査を行う部門と立法関連の資料提供サービスを行う部門が置かれている。調査部門の各課はおおむね国会両院の常任委員会の構成に対応する主題別に細分されており、国会議員の問い合わせに応じて調査を行う立法レファレンス業務や、時事的な問題についての予備調査を行う。
また、調査局は国立国会図書館の国民向けサービスのための資料収集・整理とは独立して資料の収集・整理も行っており、最新の情報を収集して立法業務の補佐に役立てている。このほか、調査局を通じて行われる国会向けのサービスには国立国会図書館の一般の所蔵資料のうちの議会・法令関係資料の管理・提供や法令の索引作成、国会会議録の[[データベース]]化などがあり、これらは国立国会図書館の閲覧室、出版活動、インターネット送信などを通じて、一般の国民に対しても提供されている。
=== 行政・司法に対するサービス ===
国立国会図書館のサービス対象のもうひとつの柱は国の行政・司法に対してである。これらに対し国立国会図書館は図書館サービス資料の貸し出し、複写、レファレンスなどの図書館サービスを行っているが、その窓口となるのが国の行政・司法の各部門に設けられた支部図書館である。行政・司法各部門の附属図書館(支部内閣府図書館、支部最高裁判所図書館など)は、設置母体の省庁の刊行物を収めたり業務上必要な資料を収集し所蔵しており、それぞれの省庁の予算によって運営されるが、同時に制度上で国立国会図書館の支部図書館として国立国会図書館の組織に包括されている。また、支部図書館同士は国立国会図書館の中央館を中心にネットワークを形成し、各省庁出版物の相互交換、資料の相互貸借、図書館職員の共通研修などを行う。
行政・司法各部門支部図書館の館長はそれぞれの事務官・技官から任命されるが、その任命権は立法府の職員である[[国立国会図書館長]]に与えられている。このように[[権力分立|三権]]をまたぐ支部図書館制度は世界の国立図書館の中でもきわめて珍しく、国立国会図書館のもつ大きな特色のひとつである。
== 国立国会図書館の特色 ==
=== 資料の収集・整理 ===
世界各国の国立中央図書館は、[[法律]]などによって定められた[[納本制度]]によって出版者に特定の図書館に出版物を納めることを義務づけ、一国内の出版物を網羅的に収集することを重要な役割としている。
日本の国立中央図書館である国立国会図書館においては、[[国立国会図書館法]]が、国内すべての官公庁、団体と個人に出版物を国立国会図書館に納本することを義務づけている<ref name="deposit_outline">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/outline.html|title=納本制度の概要|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。納本の対象となる出版物は、図書、小冊子、逐次刊行物(雑誌や新聞、年鑑)、[[楽譜]]、[[地図]]、[[マイクロフィルム]]資料、[[点字]]資料および[[CD-ROM]]、[[DVD]]などパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)などである<ref name="deposit_outline" />。納本を求められる部数は、官公庁では2部から30部までの複数部であり、民間の出版物は1部である<ref name="deposit_outline" />。
納本以外の資料収集手段としては、寄贈・購入や、出版物の国際交換がある<ref name="collection">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/collect/collection/index.html|title=蔵書構築|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。購入を通じては、[[古書]]・古典籍など納本の対象とならないものや、[[百科事典]]、[[辞典]]、[[生活暦|年鑑]]など参考図書としてきわめて利用の多い資料の複本、そして学術研究に有用であると判断され選択された外国資料が収集される。国際交換は、他国の国立図書館・議会図書館に対し、納本制度によって複数部が受け入れられた官公庁出版物をおもに提供することにより、交換で入手の難しい外国の官公庁資料等を収集するのに用いられている<ref name="exchange">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/international/exchange/index.html|title=資料の国際交換|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。
こうして国立国会図書館に新たに収集された資料は、一件一件についてその書名、著者、出版者、出版年などの個体同定情報が記述された[[書誌]]データが作成される。また国立国会図書館の書誌データには同館独自の[[国立国会図書館分類表]](NDLC)によって分類番号がつけられ、[[国立国会図書館件名標目表]](NDLSH)によって件名が付与されて、[[目録]]に登録される。現在では目録の大半はオンライン化されており、インターネット上から検索することが可能になっている。
なお、国立国会図書館の蔵書構築など図書館技術に関する運用は、1948年(昭和23年)9月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]民間情報教育局特別顧問ロバート・B・ダウンズ([[イリノイ大学]]図書館長)によって提出された『国立国会図書館に於ける図書整理・文献参考サーヴィス並びに全般的組織に関する報告』(ダウンズ報告)に基づく面が大きい。図書の整理は、開館当初はダウンズ報告に基づいて、和漢書は日本国内の図書館で一般的な[[日本十進分類法]](NDC)、洋書は世界的に使われる[[デューイ十進分類法]](DDC)によって行われていた<ref>{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/exhibit70/12.html|title=第1部第2節 昭和の国立国会図書館|website=本の玉手箱|access-date=25 August 2023}}</ref>。しかし、膨大な蔵書を[[本棚|書架]]に配架して利用していくうえで十進分類法に不便がみられたため、1963年に国立国会図書館分類表が考案され、1968年に洋書に、1969年に和書に適用された<ref>{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/exhibit70/14.html|title=年表|website=本の玉手箱|access-date=25 August 2023}}</ref>。ただし、和図書についてはそれ以降も書誌データには日本十進分類表による分類番号は付与されており、日本十進分類法を日常に利用しているほかの図書館や一般利用者の便にも備えている。
=== 書誌データの提供 ===
{{anchors|全国書誌番号}}{{WikipediaPage|全国書誌番号を[[国立国会図書館サーチ]]にリンクさせる[[Wikipedia:テンプレート|テンプレート]]については「[[Template:全国書誌番号]]」を、国立国会図書館書誌IDを[[国立国会図書館オンライン]]の書誌詳細ページにリンクさせるもの|Template:国立国会図書館書誌ID}}
[[納本]]制度により、国立国会図書館は原則としてすべての出版物が継続的に揃うことになるため、理論的には国会図書館の編成する自館所蔵資料の[[目録]]は、日本で出版されたすべての出版物の書誌情報を収めた目録となる。こうして作成された目録に収められる、全国の出版物に関する網羅的な書誌情報を全国書誌といい、国立国会図書館においては毎週一度、その週に納本制度によって受け入れられた資料の書誌情報が『日本全国書誌』としてまとめられている。
『日本全国書誌』はインターネット上で公開されるほか、冊子体で刊行・頒布される。また、電子情報・データベース化したものが『[[機械可読目録#MARCからの派生|JAPAN/MARC]]』として頒布され、CD-ROM版やDVD-ROM版でも販売されている。その基本的な機能は、日本において出版された出版物を検索調査する際の総合的・統一的な索引である。
また、各図書館は、自館で所蔵する資料の目録を作成するにあたって、自館で書誌データを作成せずとも、『日本全国書誌』を利用してコピーカタロギング(書誌情報を複製して自館の目録を作成すること)することができる。これには各図書館の目録作成の労力の軽減、および国内各図書館の間での書誌データの共有というメリットがあるが、国立国会図書館の目録の作成には刊行からタイムラグがあり、新刊の検索に向かないことが欠点として指摘されている。これは、ほかの図書館が新規に受け入れて目録化する資料の多くは新刊書であるためである。このため、[[公共図書館]]の多くは『JAPAN/MARC』よりも民間の図書取次会社の作成する書誌データベースを目録作成に用いることが多く、コピーカタロギングのための全国書誌としての役割はあまり活用されていない。
また、国立国会図書館は全国書誌の作成とともに、開館以来『[[雑誌記事索引]]』を作成・頒布している。これは国内の主要な雑誌の収録記事を目録化したもので、索引の範囲はおもに学術誌など調査上の利用に対する要求が大きい雑誌に限定されているものの、通常の目録では検索されにくい雑誌記事の目録として貴重なものである。
=== 蔵書 ===
国立国会図書館の所蔵する資料の基礎となる部分は、戦前の帝国議会両院付属図書館が議会の審議を助けるために収集した資料と、当時の日本唯一の国立図書館であった帝国図書館の蔵書の2つから成り立っている。特に帝国図書館の蔵書は出版法の納本制度に基づいて網羅的に収集された戦前の和図書や、貴重な[[古書]]、[[洋書]]などを含み、きわめて価値が高い。
国立国会図書館の成立以降は一国の網羅的な収集と全国書誌の作成を目的とした本格的な納本制度が導入されたため、この図書館には原則として日本で出版されたすべての出版物が所蔵されている。外国資料については、国際交換や購入により、学術研究や参考調査に有用な人文・社会科学資料や、科学技術資料、日本関係資料などを中心に収集している。
国会図書館の蔵書の中には、旧帝国図書館時代を含め図書館がまとまって受け入れた特色あるコレクションが含まれる。これらの特殊コレクションは、資料的に価値の高いものが多い。代表的なコレクションとして、帝国図書館から引き継いだ旧[[藩校]]蔵書、[[江戸幕府|徳川幕府]]引継書類、[[本草学]]関連の古書からなる伊藤文庫・白井文庫や、戦後の国会図書館が議会のための図書館であるという性格から重点的に受け入れた近代政治史関連史資料からなる憲政資料、国内外の議会・法令関係資料、支部上野図書館で旧蔵していた[[バレエ]]・[[シャンソン]]関連資料の[[蘆原英了]]コレクション、出版文化史資料を中心とする布川文庫([[布川角左衛門]]旧蔵書)、国語学者の[[亀田次郎]]の収集した国語学関係書(亀田文庫、約6,900冊)などがある。また、戦前に[[発禁]]処分を受けた書籍・雑誌もコレクションに含まれ、旧帝国図書館所蔵の発禁図書は一般資料の一部として、旧[[内務省 (日本)|内務省]]保管の発禁図書は貴重書扱いのため一定の制限下で閲覧に供されている。
[[2021年]]度末の統計によれば、国立国会図書館の所蔵資料は東京本館・関西館・国際子ども図書館の合計で、図書1,192万7,978冊、雑誌・新聞1,993万9,341点、図書形態以外の資料(マイクロフィルムや地図、楽譜、映像資料、録音資料、磁気記録資料、絵画・写真、点字資料など)1,435万211点である<ref name="toukei"/>。
== 電子図書館事業 ==
[[1990年代]]以降、情報通信の発展に対応し、国立国会図書館はおもに[[インターネット]]上の[[ウェブサイト]]を通じた[[電子図書館]]機能拡充を進めている。
[[2002年]](平成14年)には、関西館の開館に伴い公式[[ウェブサイト|サイト]]が大幅に刷新された。下記のようにさまざまな電子図書館コンテンツが公開されている。
=== 国立国会図書館オンライン ===
'''国立国会図書館蔵書検索・申込システム'''(NDL-OPAC)は2002年に機能を大幅に拡充され、国会図書館の所蔵する資料のほとんどがインターネットを通じて検索することが可能になった。国立国会図書館の所蔵する国内出版物は納本制度を通じて収集された日本国内の出版物の網羅的コレクション、その目録は週刊でまとめられてきた全国書誌の集積であるため、NDL-OPACを通じた書誌データの提供は、単に国会図書館一館の資料所蔵情報の公開にとどまらず、日本における出版物の書誌データを網羅的に広く提供するサービスでもあった。また、同じく雑誌記事索引もNDL-OPACを通じてインターネット検索が可能で、国立国会図書館開館以来50年以上にわたって蓄積された雑誌記事索引のデータベースが公開された。
NDL-OPACは2017年12月にサービスが終了し、2018年1月に'''国立国会図書館検索・申込オンラインサービス'''(国立国会図書館オンライン)としてリニューアルされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/library/news/170707_01.html |title=図書館へのお知らせ > NDL-OPACがリニューアルします |access-date=2023-07-22 |publisher=国立国会図書館 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230207013944/https://www.ndl.go.jp/jp/library/news/170707_01.html |archive-date=2023-02-07 |author=利用者サービス部 サービス企画課}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=平成30年1月システムリニューアルのお知らせ |url=http://www.ndl.go.jp/jp/2018renewal/index.html |website=web.archive.org |date=2017-12-27 |access-date=2023-07-23 |publisher=国立国会図書館―National Diet Library |archive-date=2017-12-27 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171227151901/http://www.ndl.go.jp/jp/2018renewal/index.html}}</ref>。国立国会図書館オンラインではNDL-OPACと違い、国立国会図書館デジタルコレクションの目次情報も検索対象になる{{Sfn|小林芳幸|2018|p=5}}。このほか、レファレンスサービスを専用システムから統合、英語版が提供される画面を拡充、遠隔サービスの利用者登録手続を行えるようになった{{Sfn|小林芳幸|2018|pp=12-13}}。
2023年8月、国立国会図書館サーチへの統合が発表された<ref name="2024renewal">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/use/2024renewal/index.html|title=「国立国会図書館オンライン」及び「国立国会図書館サーチ」の統合・リニューアル|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。統合時期は2024年1月の予定<ref name="2024renewal" />。
=== 国立国会図書館デジタルコレクション ===
{{wikisource|カテゴリ:国立国会図書館デジタルコレクション|国立国会図書館デジタルコレクション|3=カテゴリ}}
「国立国会図書館デジタルコレクション{{Efn|[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション]}}」(旧称:国立国会図書館デジタル化資料)は、国立国会図書館が所蔵する資料のうち、デジタル化したものを収録している。
デジタル化した資料は、「インターネット公開」「図書館・個人送信限定」「国立国会図書館内限定」の3種類の公開範囲のいずれかに設定されている。歴史的な貴重書や[[浮世絵|錦絵]]の画像、歴史的音源、[[著作権の保護期間]]が切れた著作物などはインターネット上で一般に公開されている。保護期間が切れていない資料も絶版などで入手困難ならば、インターネットを通じて「個人向けデジタル化資料送信サービス」にログインした上で自身の端末(パソコン、タブレット)などで閲覧するか(日本国内居住者のみ)、「図書館向けデジタル化資料送信サービス」に参加している日本国内の図書館などで閲覧することができる<ref name="digital_transmission_individuals" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/use/digital_transmission/index.html |title=図書館向けデジタル化資料送信サービス |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2022-08-28}}</ref>。それら以外のデジタル化資料は国会図書館3館(東京本館、関西館、国際子ども図書館)でのみ閲覧できる。なお、[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]前期に出版された資料のスキャニング画像を提供する「[[近代デジタルライブラリー]]{{Efn|{{WAP|pid=9983010|url=kindai.ndl.go.jp/|title=近代デジタルライブラリー|date=2016年5月3日}}}}{{Efn|{{Cite web|和書|url=http://kindai.ndl.go.jp/index.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2010年2月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100211193757/http://kindai.ndl.go.jp/index.html |archivedate=2010年2月11日 |deadlinkdate=2017年9月 }} 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館}}」は、2016年5月31日にデジタルコレクションに統合された<ref>{{Cite web|和書|title=近代デジタルライブラリーを終了し、国立国会図書館デジタルコレクションと統合します|国立国会図書館―National Diet Library |url=http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2015/1211371_1830.html |website=web.archive.org |date=2022-10-26 |access-date=2023-07-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221026000059/http://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2015/1211371_1830.html |archive-date=2022-10-26 |quote=なお、近代デジタルライブラリー収録資料のURLは当面の措置として、国立国会図書館デジタルコレクションにリダイレクト(転送)しますので、引き続き同じURLでご利用いただくことも可能ですが、ウェブサイト等から近代デジタルライブラリーにリンクしている場合は、以下のとおり国立国会図書館デジタルコレクションのURLに変更していただくようお願い申し上げます。{{Blist|変更前 http://kindai.ndl.go.jp/|変更後 http://dl.ndl.go.jp/}}}}</ref>。
{{anchors|インターネット資料収集保存事業|国立国会図書館インターネット資料収集保存事業}}
2022年12月には全面的なリニューアルが行なわれ各種機能が強化された。また独自開発のAI利用[[OCR]]を導入し、高精度の全文検索が行なえるようになった。
=== WARP ===
「WARP(インターネット資料収集保存事業){{Efn|インターネット資料収集保存事業{{Cite web|和書|title=トップ|url=https://warp.da.ndl.go.jp/ |publisher= 国立国会図書館|ref={{harvid|「新着情報一覧」}}|accessdate=2023-07-23|language=ja}}}}」(旧称:インターネット情報選択的蓄積事業{{efn|2002年に「インターネット'''資源'''選択的蓄積'''実験事業'''」を試験的に立ち上げると<ref>{{Harvnb|「新着情報一覧」|quote=国立国会図書館はウェブアーカイブプロジェクト「インターネット資源選択的蓄積実験事業」を実験的に開始しました。|loc=2002年}}</ref>、2006年には「インターネット'''情報'''選択的蓄積事業」に改称し事業化した<ref>{{harvnb|「新着情報一覧」|quote=インターネット資源選択的蓄積実験事業」を本格事業化させ、あわせて、名称も「インターネット情報選択的蓄積事業」と改めました。|loc=2006年}}</ref>。}}、インターネット資源選択的蓄積実験事業)は、平成14年度(2002年度)に実験的な試みとして着手し、インターネット上の情報を文化資産として保存すること([[ウェブアーカイブ]])を目的とする<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=資料収集・保存:インターネット資料の収集 |url=https://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/internet_data.html#02 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1006661/www.ndl.go.jp/jp/aboutus/internet_data.html#02 |archivedate=2010-04-01 |website=ndl.go.jp |access-date=2023-07-24 |publisher=国立国会図書館|date=2010-04-01}}</ref>。国会図書館法第25条の3に基づき2006年に本格事業化すると、同法の平成21年7月改正を反映して2010年(平成22年)4月から公的機関のウェブサイトは許諾によらず、すべて収集し保存した(改正前は当館とそれぞれの情報発信機関は許諾契約を交わした)。また収集の頻度も増やし、公的機関は原則、年4回であったが同1回に改めた(一部機関は同4回を維持)<ref name=":0" />。
WARPは、CD-ROMのように変更されないようパッケージ化された電子情報と違い、管理者によっていつでも自由に改変することの可能なインターネット上の電子情報(ネットワーク系電子情報)を当館は紙媒体の資料と同じように収集・整理・保存・公開する。対象はインターネットを通じて公開されてきた[[学術雑誌]]や、政府省庁など公的機関{{Efn|当館の言う「公的機関」とは、国、自治体、国公立大学などと位置づける。国とは国の機関、それに準ずる独立行政法人等や国立大学法人)、自治体とは地方公共団体(都道府県、政令指定都市、市町村)とそれに準ずる公立大学法人等の法人と分類される。}}の情報源のウェブページそのものであり、国立国会図書館のサーバに保存し館内で全て公開する<ref name=":0" />。インターネット経由の公開は規定により、公的機関由来のものは許諾を条件とし、それら機関以外の個別許諾による収集(私立大学やイベント)によるものの公開には、同法改正を経ても館内外を問わず許諾を得ることが条件である<ref name=":0" />。
== 国立国会図書館の利用 ==
[[画像:NDL Tokyo 20070508.jpg|thumb|東京本館正門]]
[[画像:National Diet Library Japan.jpg|thumb|東京本館の周囲には[[サクラ|桜]]が植えられている]]
[[画像:National Diet Library1.jpg|thumb|左ピロティー奥が本館入口、突き当りが新館入口([[2016年]][[9月29日]]撮影)]]
[[画像:Registration Card, National Diet Library, Japan.jpg|thumb|登録利用者カード(一部加工)]]
この節では、一般利用者として国立国会図書館の東京本館を来館利用する場合を中心に述べる。[[国立国会図書館関西館|関西館]]および[[国際子ども図書館]]についての詳細は、それぞれの記事を参照されたい。
=== 入退館 ===
東京本館、関西館は満18歳以上(かつては満20歳以上だったが<!--インターネットの普及による-->入館者減少に伴い、[[2004年]]より変更)ならば誰でも利用できる{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=172}}。満18歳未満の場合、調査研究目的など一定の条件下で、事前の手続きをもって利用することができる{{Sfn|国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会|2021|p=172}}。これに対し国際子ども図書館は、[[児童]]に対するさまざまな個別的サービスを行っており、児童書研究資料室を除き誰でも利用可能となっている。
[[2004年]]より館内各所で大々的にシステムの変更がなされ、入館にあたっては、カード発行機を利用して、資料の検索、請求、受取、複写などに用いる当日限りの[[ICカード|非接触ICカード]]型の「館内利用者カード」の発行をしていた。館内利用者カードの発行にあたっては氏名や住所、電話番号などの入力作業が必要であったが、あらかじめ利用者登録を行って交付された登録利用者カード(館内利用者カードとは別)を持参すれば、パスワードの入力のみで館内利用者カードの発行を受けることができた。
[[2012年]](平成24年)[[1月6日]]より利用システムが全面変更され、利用者登録していない人は「臨時利用カード」が貸与され、閲覧できる資料は専門室にある開架図書のみとなり、閉架書庫にある資料の閲覧請求は登録利用者カードの貸与者のみができるように改められた<ref>{{WAP|pid=10198587|url=www.ndl.go.jp/jp/news/registration.html|title=平成24年1月からの新・登録利用者制度のご案内|国立国会図書館―National Diet Library|date=2016年9月4日}}</ref>。これにより、国会図書館を利用するには利用者登録をすることが基本となる。また、同時に登録利用者カードの仕様も変更されている。なお、2012年(平成24年)[[2月14日]]までは、システム移行時の暫定措置として当日利用者には臨時カードが渡され、登録利用者と同等のサービスが受けられるようになっていた<ref>{{WAP|pid=9961196|url=www.ndl.go.jp/jp/news/fy2011/1193971_1670.html|title=東京本館における利用者登録について(続報)|国立国会図書館―National Diet Library|date=2016年4月2日}}</ref>。
発行された登録利用者カードを用いて鉄道駅の[[自動改札機]]に類似のゲートを通過し、入館する<ref name="flow1">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/flow/flow1.html|title=入館|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。なお、東京本館と関西館では、鞄などの不透明な袋類の持込を禁止しているため、入館前に荷物は入口脇にある[[ロッカー#コインロッカー#無料の場合|保証金式コインロッカー]](料金は使用終了時に返ってくる)に預けなければならない<ref name="tokyo_notes">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/notes.html|title=来館される方へのお願い|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。館内に筆記用具などを持ち込む場合は、手で持っていくか、あるいはコインロッカーのそばに常備されている透明なビニール袋に入れる必要がある。
利用が終わったあとは、閉架書庫から受け取った資料をすべてカウンターに返却し、複写料金の精算を終えたあと、登録利用者カードをゲートにかざすと退館できる<ref name="flow6">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/flow/flow6.html|title=資料を返却して退館する|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。すべての資料を返却しない限り、退館はできない<ref name="flow6" />。
[[2021年]](令和3年)度の統計によると、東京本館の来館者は24万6,213人(1日平均886人)<ref>{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/outline/numerically.html|title=統計|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。
=== 開館時間 ===
* 東京本館<ref name="tokyo_time">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/time.html|title=東京本館:利用時間・休館日|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>
** 9時30分 - 19時00分([[土曜日]]は17時00分)
* 関西館<ref name="kansai_time">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/kansai/time.html|title=関西館:利用時間・休館日|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>
** 9時30分 - 18時00分
* 国際子ども図書館<ref name="kodomo_date">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.kodomo.go.jp/use/date/index.html|title=開館日・開館時間|website=国際子ども図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>
** 9時30分 - 17時00分
=== 休館日 ===
* 東京本館および関西館<ref name="tokyo_time" /><ref name="kansai_time" />
** [[日曜日|日曜]]・[[祝日]]、毎月第3水曜・[[年末年始]]<ref group="注釈">近年は、[[12月27日]]頃~[[1月6日]]頃が休館日になっている。</ref>
* 国際子ども図書館<ref name="kodomo_date" />
** [[月曜日|月曜]]・祝日・毎月第3水曜・年末年始
*** 例外として「[[こどもの日]]」の[[5月5日]]はこれに関係なく開館
=== 資料の配置と閲覧 ===
東京本館は、膨大な資料を管理するため原則としてほとんどの資料を利用者が直接触れられない[[書庫]]に配架する[[閉架式図書館|閉架式]]をとっている<ref name="flow2">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/flow/flow2.html|title=資料を利用する(書庫内の図書や雑誌)|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。このため利用者は、まず国立国会図書館オンラインで必要とする資料を検索し、システムを通じて資料の申し込みを行う<ref name="flow2" />。書庫からは国立国会図書館オンラインの申し込みデータをもとに資料が出納されるが、膨大な数の資料を広大な書庫から出納するため、利用者は本の受け取りに数十分程度の時間を要する<ref name="flow2" />。また、1人が1回に請求できる冊数も制限されている<ref name="flow2" />。
東京本館は本館と新館の2棟から成り立っており、基本的に本館2階カウンターが[[本|図書]]、新館2階カウンターが[[雑誌]]の出納を担当している<ref name="flow2" />。また、主題別の特殊な資料や、国会図書館として特色的な資料については、それぞれに専門室が設けられている<ref name="reading_info">{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/reading_info/index.html|title=専門室・閲覧室案内|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。専門室では利用の多い参考資料は[[公開書架|開架]]されているため、そこでは[[百科事典]]、[[辞典]]、[[統計]]、[[生活暦|年鑑]]、[[新聞]]などのごく一部は[[本棚|書架]]から直接手にとって利用することもできる<ref>{{Cite web|和書|language=ja|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/humanities/index.html|title=人文総合情報室|website=国立国会図書館|access-date=25 August 2023}}</ref>。
2023年現在、東京本館にある専門室は以下の計8室である<ref name="reading_info" />。
* 本館2階
** 科学技術・経済情報室([[テクノロジー|科学技術]]および[[経済]]社会関係の参考図書、科学技術関係の抄録・索引誌)
** 人文総合情報室([[総記]]・[[人文科学]]分野の参考図書類、図書館・[[図書館情報学]]関係の主要雑誌など)
* 本館3階
** 古典籍資料室(貴重書、準貴重書、[[江戸時代|江戸期]]以前の和古書、[[清]]代以前の[[漢籍]]など)
* 本館4階
** 地図室(一枚ものの[[地図]]、[[住宅地図]]など)
** [[国立国会図書館憲政資料室|憲政資料室]](日本近現代政治史料、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]][[連合国軍占領下の日本|日本占領]]関係資料、[[日系人|日系移民]]関係資料)
* 新館1階
** 音楽・映像資料室([[レコード]]、[[コンパクトディスク|CD]]、[[磁気テープ|ビデオテープ]]、[[DVD]]、[[CD-ROM]]などの電子資料など)
* 新館3階
** 議会官庁資料室(内外の議会会議録・議事資料、官公報、[[法令]]集、[[判例]]集、[[条約]]集、官庁刊行資料目録・要覧・年次報告、[[統計|統計資料]]類、[[国際機関|政府間国際機関]]刊行資料、法律・政治分野の参考図書など)
* 新館4階
** 新聞資料室(新聞の原紙、[[新聞縮刷版|縮刷版]]・[[覆刻|復刻版]]、[[マイクロフィルム]]、新聞切り抜き資料)
かつては[[アジア]]・[[北アフリカ]]諸国の諸[[言語]]資料を専門とするアジア資料室も東京本館に置かれていたが、関西館の開館に伴いその蔵書とともに関西館に移転し、アジア情報室と改称した。
=== 複写サービス ===
[[複写]](コピー)は、利用者自身が[[複写機]]でコピーを取ることはできず、複写カウンターに申し込んでコピーをとってもらう。利用者自身による複写が認められていないのは、国立国会図書館は納本図書館として資料保全を図る必要があり本を傷めるような複写(コピー機に本を押しつけすぎるなど)をされる危険を回避しなければならないこと、また図書館一般における利用者の複写は、原則として[[著作権法]]第31条の定める著作権者の許諾を得ない複写の範囲などに限られている{{efn|[https://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/laws/pdf/a5311.pdf 国立国会図書館資料利用規則]第31条で複写範囲を規定している。}}ためである。このような理由から、同館では複写する資料の状態や複写内容を図書館側がチェックすることになっている。このため、たとえ国立国会図書館にしか所蔵されていない貴重な資料であろうとも、著作権の存続している資料の全頁を複写することはできない。
複写サービスの受付担当はアルバイトであることもあり、[[小泉悠]]は退職後に受付のアルバイトで生計を立てていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://globe.asahi.com/article/14697008 |title=【小泉悠】研究者は挫折、就活はことごとく失敗 無職で気づいた自分の天職 |publisher=朝日新聞 GLOBE+ |date=2022-08-19 |accessdate=2022-09-28}}</ref>。
複写には来館複写と遠隔複写がある<ref>[https://www.ndl.go.jp/jp/copy/index.html 複写サービス-国立国会図書館],2019年9月27日閲覧</ref>。来館複写には、資料を実際に閲覧したうえで複写箇所を特定し、資料を複写カウンターにて申し込むサービスである。また複写方法には、即日複写と後日[[郵送]]複写がある。即日複写は、複写製品を当日中に受け取るサービスである。専用の端末を用いて申込書を作成(デジタル化資料は専用の端末上で申込)し、カウンターで申し込む。即日複写には1回の申込上限ページ数があり、たとえば紙資料の場合、1回につき10冊かつ100ページまでである。混雑状況・複写枚数により異なるが、作業には30分ほどかかる場合がある。作業終了後に料金の支払いと製品の受け取りとなる。支払方法には現金のほか、[[Suica]]や[[nanaco]]などの[[電子マネー]]が利用可能である。なお、申し込めるのは閉館1時間前までである。ちなみに、関西館にはセルフコピー機があり、参考資料の一部を利用者自身で複写することができる。この場合も、図書館による複写箇所の確認は受けなければならない<ref>[https://www.ndl.go.jp/jp/kansai/copy/details.html#self 複写サービスの種類(関西館)|国立国会図書館],2019年9月27日閲覧</ref>。後日郵送複写は申込までは来館複写と同様だが、受取は郵便で受け取り、支払いはそれに同封される払込書で支払う。この場合、遠隔複写(後述)同様に発送事務手数料と実費送料が必要である。
一方遠隔複写は、利用者登録をしている人で、インターネット上で国立国会図書館オンラインから資料や雑誌記事を特定し、Web上で申し込むことにより、郵送でのコピーサービスを受けることができる。ただし、発送事務手数料と実費送料が必要である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/copy/fee.html|title=複写料金表|publisher=国立国会図書館|accessdate=2022年10月16日}}</ref><ref>{{WAP|pid=11376447|url=www.ndl.go.jp/jp/tokyo/copy/feetmp.html|title=複写料金表|国立国会図書館―National Diet Library|date=2019年10月2日}}</ref>。
== 館内に付帯する施設 ==
; 東京本館
: 東京本館3階及び新館1階には喫茶がある<ref name="news201014_01">[https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2020/201014_01.html 東京本館6階食堂の営業終了について] 国立国会図書館、2020年11月7日閲覧。</ref>。
:* 東京本館6階 - 食堂「フードラウンジいこい」 - 食堂は2020年10月14日に一度営業を終了し、従来からあった売店での軽食販売及び旧食堂のスペースでのスマイルデリによる弁当販売<ref group="注釈">食堂の再開後は、売店に移動して販売を継続している。</ref>に切り替えられた<ref name="news201014_01" />が、2023年4月17日より「フードラウンジいこい」として再開した<ref>[https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2023/230417_01.html 東京本館6階食堂の営業を再開しました] 国立国会図書館、2023年4月17日閲覧。</ref>。
:* 東京本館3階 - 喫茶「ノースカフェ」
:* 東京新館1階 - 喫茶「フェリカ」
; 関西館
: 関西館4階にはカフェテリアがある<ref name="kansai-flow8">[https://www.ndl.go.jp/jp/kansai/flow/flow8.html カフェテリアを利用する] 国立国会図書館、2020年11月7日閲覧。</ref>。弁当を持ち込むことはできるがカフェテリアで資料を利用することはできない<ref name="kansai-flow8" />。
== 著名な職員 ==
<!-- 「在職」=「職に就いていること」 --><!-- 原則として生年順 -->
* [[牧野英一]] - <!-- 1878 - 1970 -->[[専門調査員]](刑法学者、[[東京大学|東京帝国大学]]教授)
* [[金森徳次郎]] - <!-- 1886 - 1959 -->初代館長(元[[内閣法制局長官|法制局長官]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]勅選議員、[[第1次吉田内閣]]で憲法担当[[国務大臣]])
* [[加藤宗厚]] - [[国立国会図書館支部上野図書館|上野図書館]]館長(図書館学者、[[帝国図書館]]および[[国立図書館]]館長、[[駒澤大学]]教授)
* [[中井正一]] - <!-- 1900 - 1952 -->初代副館長(美学者)
* [[大久保利謙]] - <!-- 1900 - 1995 -->客員調査員(歴史学者、[[貴族院 (日本)|貴族院]][[侯爵]]議員、[[名古屋大学]][[教授]]、[[立教大学]]教授)
* [[入江俊郎]] - <!-- 1901 - 1972 -->専門調査員(元法制局長官、後に[[衆議院法制局|衆議院法制局長]]、[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]])
* [[佐藤達夫 (法制官僚)|佐藤達夫]] - <!-- 1904 - 1974 -->専門調査員(元・法制局長官、のちに[[人事官|人事院総裁]])
* [[齋藤毅 (図書館員)|齋藤毅]] - <!-- 1913 - 1977 -->(国立国会図書副館長、[[図書館短期大学]]学長)
* [[西野照太郎]] - <!-- 1914 -・故人 -->専門調査員(退職後、[[創価大学]]教授<!-- 、専門は政治経済学、アジア・アフリカ問題。夫人は洋画家[[西野久子]] -->)
* [[飯沼二郎]] - <!-- 1918 - 2005 -->(農業経済学者、[[京都大学]]教授)
* [[藤田晴子]] - <!-- 1918 - 2005 -->専門調査員([[ピアニスト]]、[[音楽評論家]]、[[法学者]]、[[八千代国際大学]]教授)
* [[倉田卓次]] - <!-- 1922 - ? -->([[裁判官]]、[[弁護士]])
* [[中井浩]] - <!-- 1927 - 1992 -->(情報学者、図書館学者、初代副館長[[中井正一]]の[[長男]])
* [[高木重朗]] - <!-- 1930 - 1991 -->([[奇術]]の研究者<!-- 、国会図書館に在職しながら奇術に関する多くの書籍を著わした -->)
* [[金中利和]] - <!-- 1934 - 2011 -->調査及び立法考査局長(図書館学者、[[日本大学]]文理学部教授を経て[[日本図書館協会]]分類委員会委員長)
* [[阿刀田高]] - <!--1935 - ? -->([[小説家]])
* [[長尾真]] <!--1936- -->([[情報工学]]者、元京都大学総長、元[[国立国会図書館長]])
* [[喜多村和之]] - <!-- 1936 - ? -->(教育学者、[[広島大学]]教授、[[国立教育政策研究所|国立教育研究所]]を経て[[早稲田大学]]特任教授)
* [[堀本武功]] - 専門調査員、調査及び立法考査局長([[尚美学園大学]]総合政策学部教授<!-- 、専門はインド政治史 -->)
* [[山本武彦]] - <!-- 1943 - ? -->(国際政治学者、[[静岡県立大学]]教授、早稲田大学大学院政治経済学術院教授)
* [[高見勝利]] - <!-- 1945 - ? -->専門調査員(憲法学者、[[九州大学]]教授、[[北海道大学]]教授のち[[上智大学]]法科大学院教授)
* [[藤本一美]] - <!-- 1944 - ? -->(政治学者、[[明海大学]]教授、[[専修大学]]教授)
* [[大滝則忠]] - <!-- 1944 - ? -->(元国立国会図書館長、[[東京農業大学]]教授)
* [[袴田茂樹]] - <!-- 1944 - ? -->[[非常勤]]調査員(国際政治学者、[[青山学院大学]]国際政治経済学部教授<!-- 、専門はロシア・CIS研究 -->)
* [[成田憲彦]] - <!-- 1946 - ? -->調査及び立法考査局政治議会課長([[細川内閣]]の[[内閣総理大臣秘書官]]<!--政務担当秘書官(首席秘書官)-->を経て、[[駿河台大学]]法学部教授、<!-- 学部長・副学長を歴任し、 -->第5代学長<!-- 、専門は政治学 -->)
* [[加藤典洋]] - <!-- 1948 - ? -->(文芸批評家、思想家、[[早稲田大学]]国際教養学部教授のち、同[[名誉教授]])
* [[山崎隆志]] - 専門調査員<!--専門は社会労働行政-->
* [[福光寛]] - <!-- 1951 - ? -->(経済学者、[[立命館大学]]教授、[[成城大学]]経済学部教授)
* [[福士正博]] - <!-- 1952 - ? -->(経済学者、農学者、[[東京経済大学]]経済学部教授、経済学部長)
* [[大山礼子]] - <!-- 1954 - ? -->(政治学者、[[駒澤大学]]法学部教授、[[地方制度調査会]]副会長)
* [[柳与志夫]]- <!-- 1954 - ? -->(図書館情報学者、[[東京大学大学院情報学環・学際情報学府]]特任教授)
* [[原武史]] - <!-- 1962 - ? -->(政治学者、[[明治学院大学]]国際学部教授)
* [[兎内勇津流]] - <!-- 1963 - ? -->([[北海道大学]]スラブ研究センター[[准教授]]<!-- 、専門はロシア中世史、図書館情報学 -->)
* [[今泉清保]] - <!--1968 - ? -->([[フリーアナウンサー]]・現:[[青森テレビ]]アナウンサー)
* [[森見登美彦]] - <!--1979 - -->([[作家]])
== 発行物 ==
* [[1961年]][[11月1日]]、国立国会図書館新庁舎(当時)の開館を記念し額面10円の[[切手]]が発行された<ref>{{Cite journal|和書|author=笹岡文雄|date=2011-3-1|title=メディア社会における 国語教育と図書館と §国会図書館の50年|url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10305&item_no=1&attribute_id=32&file_no=1|journal=国士舘大学附属図書館報「Show-in」(松陰)|volume=25|page=8|publisher=国士舘大学|format=PDF}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|title=国立国会図書館三十年史 |editor=国立国会図書館 |year=1979 |doi=10.11501/9583671 |ref=harv}}{{要登録}}
* {{Cite journal|和書|author=稲村徹元 |author2=高木浩子 |title=「真理がわれらを自由にする」文献考 |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051271_po_35-03.pdf?contentNo=1 |format=PDF |year=1989 |date=1989-02 |publisher=国立国会図書館 |journal=参考書誌研究 |issue=35 |pages=1-7 |issn=0385-3306 |ref=harv}}
* {{Cite journal|language=ja|author=小林芳幸|title=新たな利用の窓口:国立国会図書館オンライン|publisher=国立国会図書館|journal=参考書誌研究|year=2018|volume=79|pages=12-13|doi=10.11501/11064400 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=国立国会図書館七十年記念館史 : デジタル時代の国立国会図書館 : 1998-2018 本編 |author=国立国会図書館七十年記念館史編さん委員会 |year=2021 |doi=10.11501/11645818 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=歌田明弘|url=https://artscape.jp/artscape/artreport/it/u_0507.html |title=ミュージアムIT情報:大山鳴動ネズミ一匹?──国のウェブ保存政策 |journal=artscape |publisher=[[大日本印刷|DNP]] |date=2005-07}}
* {{Cite book2|editor=NDL入門編集委員会編 |title=国立国会図書館入門 |others=国立国会図書館(監修) |publisher=[[三一書房]] |series=三一新書 |date=May 1998 |ncid=BA35689657 |isbn=4-380-98008-1}}
* {{Cite book|和書|author=加藤一夫 |authorlink=加藤一夫 (政治学者) |title=記憶装置の解体: 国立国会図書館の原点 |ncid=BN03907421 |publisher=エスエル出版会 |date=1989-10}}
* {{Cite book|和書|editor=国立国会図書館編|title=国立国会図書館のしごと:集める・のこす・創り出す |publisher=[[日外アソシエーツ]] |series=日外教養選書 |date=1997-07 |ncid=BA31602668 |asin=481691434X |isbn=4-8169-1434-X}}
* {{Cite book|和書|editor=国立国会図書館関西館編|title=図書館新世紀:国立国会図書館関西館開館記念シンポジウム記録集 |publisher=[[日本図書館協会]] |date=2003-10 |asin=4820403133 |isbn=4-8204-0313-3}}
* {{Cite book|和書|editor=国立国会図書館百科編集委員会編|title=国立国会図書館百科 |publisher=[[出版ニュース社]] |date=1989-01 |asin=4785200391 |isbn=4-7852-0039-1}}
* {{Cite book|和書|author=国立国会図書館を考える会 |title=国立国会図書館解体新書 |publisher=国立国会図書館を考える会 |url=https://books.google.co.jp/books?id=q6g1YAAACAAJ |date=1988}}(非売品)
* {{Cite book|和書|author=佐藤晋一 |title=中井正一「図書館」の論理学|publisher=近代文芸社|date=1992-11-10|id={{全国書誌番号|93010154}}|asin=4773316969|isbn=4-7733-1696-9}}
** {{Cite book|和書|author=佐藤晋一 |title=中井正一「図書館」の論理学|edition=増補版|publisher=近代文芸社|date=1996-01|id={{全国書誌番号|96071735}}|isbn=4-7733-1696-9}}
* {{Cite book|和書|author=住谷雄幸 |title=図書館の戦後: 真理がわれらを自由にする |publisher=ぱる出版 |date=1989-03 |asin=4893860453 |isbn=4-89386-045-3}}
* {{Cite book|和書|author=羽仁五郎 |authorlink=羽仁五郎|title=図書館の論理: 羽仁五郎の発言 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |date=1981-06-10 |asin=4816900675 |isbn=4-8169-0067-5}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|National Diet Library}}
{{Wikidata property |1=P349 |2=NDL identifier }}
* [[国立図書館]]
* [[議会図書館]]
* [[静嘉堂文庫]]・[[東洋文庫]]・[[大倉精神文化研究所]] - 戦後の一時期に国会図書館の支部となった民間図書館
* [[内閣文庫]] - かつての支部図書館、その後に[[国立公文書館]]へ移管
* 関係法令
** [[国立国会図書館法]]
** [[国立国会図書館法の一部を改正する法律案]]
* [[納本制度#日本における納本制度]]
* [[専門調査員]]
== 外部リンク ==
* [https://www.ndl.go.jp/ 国立国会図書館 公式サイト] {{ja icon}}
** [https://www.ndl.go.jp/jp/use/service/ 国立国会図書館Webサービス一覧] {{ja icon}}
*** [https://ndlonline.ndl.go.jp/ 国立国会図書館オンライン] {{ja icon}}
*** [https://iss.ndl.go.jp/ 国立国会図書館サーチ(NDL Search)] {{ja icon}}
*** [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] {{ja icon}}
* {{Twitter|NDLJP|国立国会図書館 NDL}} - (国立国会図書館 公式アカウント)
* {{Twitter|ca_tweet|国立国会図書館関西館図書館協力課}} {{ja icon}} - (カレントアウェアネス・ポータル情報発信アカウント)
* {{Twitter|unicanet|国立国会図書館関西館図書館協力課}} {{ja icon}} - (総合目録ネットワーク事業 公式アカウント)
* {{Facebook|NDLexhibition|国立国会図書館の展示}} {{ja icon}}
* {{YouTube|c=UCHpDnv60i1LxOszXgBSE7DA| }} {{ja icon}}
* {{Mediaarts-db}}
{{国立国会図書館}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:国立国会図書館|*]]
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[[Category:東京都の図書館]]
[[Category:千代田区の建築物]]
[[Category:千代田区の教育]]
[[Category:永田町]]
[[Category:前川國男]]
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2003-07-05T18:04:59Z
|
2023-11-16T22:49:45Z
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[
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バークリウム
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バークリウム (英: berkelium [bərˈkiːliəm, ˈbɜːrkliəm]) は、原子番号97の元素。元素記号は Bk。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。比重は14.78、融点は986°C(1000K程度)。原子価は+3、+4価(+3価が安定)。物理的、化学的性質の詳細はよく分かっていない。
バークリウムには3つの同素体があり(α、β、γ)、結晶構造はそれぞれ六方最密、面心立方、体心立方である。
元素名は、初めて発見された場所(カリフォルニア大学バークレー校)の地名(バークレー)に由来する。
1949年、アメリカのシーボーグらが、アメリシウム241にアルファ粒子を当てて、バークリウム243を作った(発見した)。
バークリウムは320日の半減期を持つバークリウム249を目に見えるほどの量を使い、その特徴のうちいくつかを決定した。
バークリウムの単体は銀白色の金属であることが判明しているが、結晶構造をはじめとして物理的性質や化学的性質は大半が推定に基づくものである。バークリウムは高い温度で容易に酸化され、希鉱物酸にも容易に溶ける金属だと思われる。
X線回折によって、酸化バークリウム(IV) (BkO2)、フッ化バークリウム(III) (BkF3)、一塩化酸化バークリウム(III) (BkOCl)、酸化バークリウム(VI) (BkO3) のようなさまざまなバークリウム化合物が識別された。
1962年には、重さ10億分の3 gの塩化バークリウム(III) (BkCl3) が合成された。これは、初めての純粋なバークリウム化合物であった。
バークリウムは他のアクチノイド系列と同じように体内に蓄積する。バークリウムは基礎研究以外の既知の用途がなく、生物学的機能を持たない。また、バークリウムの放射能は強力で非常に危険である。
バークリウムには19の同位体が存在する。質量範囲は235から254まで。比較的安定している同位体は、1380年の半減期を持つバークリウム247、9年の半減期を持つバークリウム248、サイクロトロンで作られ、320日の半減期を持つバークリウム249である。残りの同位体は、5日未満である半減期を持っている。また、これらの同位体のほとんどは、5時間未満の半減期を持っている。
さらに、バークリウムには2つの核異性体が存在する。23.7時間の半減期を持つ Bk は核異性体の中で最も長い半減期を持つ。
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バークリウム は、原子番号97の元素。元素記号は Bk。アクチノイド元素の一つ。超ウラン元素でもある。安定同位体は存在しない。比重は14.78、融点は986℃(1000K程度)。原子価は+3、+4価(+3価が安定)。物理的、化学的性質の詳細はよく分かっていない。 バークリウムには3つの同素体があり(α、β、γ)、結晶構造はそれぞれ六方最密、面心立方、体心立方である。
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|japanese name=バークリウム
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|number=97
|symbol=Bk
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|series=アクチノイド
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|atomic mass=[247]
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|electron configuration=[[[ラドン|Rn]]] 5f<sup>9</sup> 7s<sup>2</sup>
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|phase=固体
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|crystal structure=六方最密充填構造 (α-Bk)
面心立方格子 (β-Bk)
体心立方格子 (γ-Bk)
|japanese crystal structure=[[六方最密充填]]
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|Brinell hardness=
|CAS number=7440-40-6
|isotopes=
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[バークリウム245|245]] | sym=Bk
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| dm1=[[電子捕獲|ε]] | de1=0.810 | pn1=[[キュリウム245|245]] | ps1=[[キュリウム|Cm]]
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] | de2=6.455 | pn2=[[アメリシウム241|241]] | ps2=[[アメリシウム|Am]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[バークリウム246|246]] | sym=Bk
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E5 s|1.8 d]]
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| dm=[[アルファ崩壊|α]] | de=5.889 | pn=[[アメリシウム243|243]] | ps=[[アメリシウム|Am]]}}
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{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[バークリウム249|249]] | sym=Bk
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| dm1=[[アルファ崩壊|α]] | de1=5.526 | pn1=[[アメリシウム245|245]] | ps1=[[アメリシウム|Am]]
| dm2=[[自発核分裂|SF]] | de2=- | pn2= | ps2=-
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|isotopes comment=
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'''バークリウム''' ({{lang-en-short|berkelium}} {{IPA-en|bərˈkiːliəm, ˈbɜːrkliəm|}}) は、[[原子番号]]97の[[元素]]。[[元素記号]]は '''Bk'''。[[アクチノイド元素]]の一つ。[[超ウラン元素]]でもある。安定同位体は存在しない。比重は14.78、[[融点]]は986℃(1000[[ケルビン|K]]程度)。原子価は+3、+4価(+3価が安定)。物理的、化学的性質の詳細はよく分かっていない。
バークリウムには3つの同素体があり(α、β、γ)、結晶構造はそれぞれ六方最密、面心立方、体心立方である。
== 名称 ==
元素名は、初めて発見された場所([[カリフォルニア大学バークレー校]])の地名([[バークリー (カリフォルニア州)|バークレー]])に由来する<ref name="sakurai" />。
== 歴史 ==
[[1949年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[グレン・シーボーグ|シーボーグ]]らが、[[アメリシウム241]]にアルファ粒子を当てて、[[バークリウム243]]を作った(発見した)<ref name="sakurai">{{Cite |和書 |author =[[桜井弘]]|||title = 元素111の新知識|date = 1998| pages = 397|publisher =[[講談社]]| series = |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。
== 特徴 ==
[[ファイル:Berkelium.jpg|thumb|left|硝酸バークリウム(III)の溶液]]
バークリウムは320日の[[半減期]]を持つ[[バークリウム249]]を目に見えるほどの量を使い、その特徴のうちいくつかを決定した。
バークリウムの単体は銀白色の金属であることが判明しているが、結晶構造をはじめとして物理的性質や化学的性質は大半が推定に基づくものである。バークリウムは高い温度で容易に[[酸化]]され、希鉱物酸にも容易に溶ける金属だと思われる。
[[X線回折]]によって、酸化バークリウム(IV) (BkO<sub>2</sub>)、フッ化バークリウム(III) (BkF<sub>3</sub>)、一塩化酸化バークリウム(III) (BkOCl)、酸化バークリウム(VI) (BkO<sub>3</sub>) のようなさまざまなバークリウム化合物が識別された。
1962年には、重さ10億分の3 gの塩化バークリウム(III) (BkCl<sub>3</sub>) が合成された。これは、初めての純粋なバークリウム化合物であった。
== 用途 ==
バークリウムは他のアクチノイド系列と同じように体内に蓄積する。バークリウムは基礎研究以外の既知の用途がなく、生物学的機能を持たない。また、バークリウムの放射能は強力で非常に危険である。
== 同位体 ==
{{main|バークリウムの同位体}}
バークリウムには19の[[同位体]]が存在する。質量範囲は235から254まで。比較的安定している同位体は、1380年の[[半減期]]を持つ[[バークリウム247]]、9年の半減期を持つ[[バークリウム248]]、[[サイクロトロン]]で作られ、320日の半減期を持つ[[バークリウム249]]である。残りの同位体は、5日未満である半減期を持っている。また、これらの同位体のほとんどは、5時間未満の半減期を持っている。
さらに、バークリウムには2つの[[核異性体]]が存在する。23.7時間の半減期を持つ <sup>248m</sup>Bk は核異性体の中で最も長い半減期を持つ。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{Commons|Berkelium}}
{{元素周期表}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はあくりうむ}}
[[Category:バークリウム|*]]
[[Category:元素]]
[[Category:アクチノイド]]
[[Category:第7周期元素]]
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10,940 |
ワークステーション
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ワークステーション(英語: workstation, 頭字語: WS)は、組版、科学技術計算、CAD、グラフィックデザイン、事務処理などに特化した業務用の高性能なコンピュータである。耐久性も一般のPCとは比較にならないほど高く、長時間の連続稼働が必要な高負荷計算を安定して行う用途に向いている。価格は100万円超えが珍しくない程に高価で、一般向けよりも法人向けに販売されている。
ワークステーションは、例えるならば自動車業界における高級車のような存在で、一般的なパーソナルコンピュータ (PC) と比べて費用対効果よりも最高性能や安定性・信頼性が必要な用途に供される。ワークステーションの筐体のサイズは、通常、PCと同程度か若干大きく、デスクトップに設置して使用されることが多いが、ノートPCの性能を強化して、高負荷計算にも耐えられるようにした「モバイルワークステーション」もある。
元来ワークステーションのアーキテクチャはメーカー独自設計とする事が多く、汎用設計を採用するPCと比較した場合に専用設計ならではの大きな強みを持っていたが、数百万円は下らないという極端に高価な製品であった。そして、ワークステーションに搭載された技術が数年経ってPCに搭載されるという流れが存在した。1990年代、CPUは一般的なパソコンではx86アーキテクチャであったのに対して、ワークステーションではMIPS RシリーズやSPARCなどが搭載されるという違いがあり、ワークステーションの方が先に浮動小数点数が扱えるようになり、CPUクロック数も高く大容量メモリにも対応するなど技術的には先行していた。
しかし、汎用アーキテクチャのCPUやGPUを備えるPCは、規格が公開され開かれた市場競争が行われる事で、量産効果により価格が低下しやすい。また性能に関しても、ムーアの法則が限界を迎えて向上速度が鈍化しているとはいえ、各部品に特化した技術を持つメーカーが頻繁にモデルチェンジを繰り返すことからプロセスルールの微細化や新技術の投入などの恩恵を受けやすく、年々性能が向上している。一方、独自アーキテクチャのワークステーションは、1社でアーキテクチャから開発するため開発に時間が掛かり、モデルチェンジの周期が長いため性能向上が遅く、規模の経済の恩恵を享受できず、費用対効果がPCよりも劣る傾向にある。また、独自オペレーティングシステム (OS) よりも汎用オペレーティングシステムを採用したコンピュータのほうがユーザー数が多く、開発環境も準備しやすいことから、アプリケーションソフトウェアの開発が容易であり、技術革新も起きやすい。こうした世界的な開発リソースで改善されるPCの汎用アーキテクチャは、当初に限っては汎用である分だけ各機能が貧弱であったものの、開発が進むに従ってあらゆる分野で実用上十分な性能を発揮できるようになり、あらゆる独自アーキテクチャの市場を吸収していった。
従って、開発にコストも時間も掛かる独自アーキテクチャでは逆にPCに性能で追い付かれそうになると、メーカー各社は独自アーキテクチャを廃止し、CPUがx86、OSがWindowsも選択可能となっていくと、ワークステーションとPCとの差はほとんどなくなっていき、専門業務においても徐々に高性能なPCに置き換えられていった。
2000年代以降では、各社のラインナップにおいてワークステーションと銘打たれている製品は、高効率化電源ユニット(80 PLUS)の採用や冷却機構、エアフロー設計の強化、ECCメモリの採用、マルチCPUソケットの搭載、ホットスワップ可能なストレージなど、負荷の高い業務用アプリケーションの長時間稼働(1週間連続で処理させるなど)を実現する設計により、PCとの差別化を行っているが、こう言った仕様はハイエンドPCにも散見される。一般向けのPCと異なりメーカーがマザーボードレベルから最適化して法人向けに長時間稼働を保証はしているが、技術的基礎がPCと同一になったため、「ワークステーション」という用語は売り文句に過ぎなくなったとも言える。
ワークステーションは、単体で使用される他、メインフレームなどを含めたサーバとネットワークで接続されたインテリジェント端末として使用されることもある。
JIS X 0001 (ISO/IEC 2382-1) では、「通常、専用の計算能力をもち、利用者向きの入出力装置をもつ機能単位(ハードウェア・ソフトウェアからなる指定した目的を遂行できるもの)」と定義しており、これに従うとPCも含まれる。ただし一般にはワークステーションとは、一般的なPCよりは高性能・高機能なものを指す場合が多い。
1990年代前半までは、PCと比較して、マルチウィンドウやアイコンなどによるGUI、ネットワーク機能の標準装備、マルチタスク、SVGAを超える高解像度のディスプレイなどがワークステーションの特徴であった。その後、これらの特徴はPCの高性能化と普及によって、ワークステーションのみの特徴ではなくなった。
少なくとも1990年代までは、SPARCやMIPSやDEC Alphaなど、民生品よりも遥かに高度な機構を持つCPUを搭載したマシンがワークステーションとして一般的であったが、後にx86系CPUを搭載するマシンが市場規模で圧倒的優位に立ち、各社がx86系CPUの性能向上に注力してコストパフォーマンスを大幅に向上させた結果、それ以外のアーキテクチャのCPUを搭載するマシンが市場から駆逐された。2021年ではIntel XeonやAMD Ryzen PROを搭載するワークステーションが主流であるが、最新ではムーアの法則の限界を遅らせるために、根本的に設計を見直して低消費電力で有名なARMアーキテクチャを採用したApple M1を搭載するワークステーションが現れた。
特に科学技術計算、CAD、プロダクトデザイン、グラフィックデザインなどに使用されるものはエンジニアリングワークステーション(以下EWS、後述)と呼ばれ、これらの作業を円滑に行うため、専用ソフトウェア、専用のハードウェアを持っていたことが多い。
また、事務処理や、組版などの編集作業に使われるものはオフィスワークステーションなどと呼ばれる。
ワークステーションの中にはユーザー専用に開発されたマザーボード、PCIボード、周辺機器などを組み替えることで様々な制御機器のセンターマシン、監視装置などとして使用されることもある。これらの多くはリモートセンシングなど特殊な分野で利用されている。
POSシステムなどに代表される流通システムでは、全国規模に及ぶネットワーク化されたシステムを、メインフレームとサーバ専用機などの中規模なコンピュータ、ワークステーションなどを組みあわせて使用することが多く、数十台から1万台単位の規模でソリューション(情報システム)として販売される。このような場合、EWSなどと違いシステム構築の容易さと通信処理能力や、業務用レジおよびバーコードリーダーなどの専用ハードウェアへの対応が必要とされ、ワークステーションは端末としての機能も果たす。一度の大量発注による製造・販売・輸送コストの削減などが行われる。
なお、かつては、LAN内でサーバに対してユーザの手元にあるコンピュータのこともワークステーションと呼ばれていた(例:Windows NT ServerとWindows NT Workstation)。これは、コンピュータ自体の機能や性能による区分ではなく、もっぱらネットワーク内での役割による区分であり、ハードウェアとしてはPCそのものである場合も多かった。近年ではクライアントと呼ぶことが多い。
コンピュータを製造・販売するメーカーがそれぞれの販売戦略により、ワークステーションやパーソナルコンピュータ、サーバなどの名称を使い分けていることも、これら各カテゴリの境界を曖昧なものとする要因となっている。
2010年代以降、法人でも高性能計算にはハイエンドPCやクラウドを採用することが多くなり、ワークステーション自体がニッチな製品となっている。
主に複数の人員により作業を行うデータ入力端末が最も多く使用されている。特に、PCのような単独で動作する機能は必要なく、必ずセンターマシンが介在する。近年は、PCに置き換えられつつある。
端末型のワークステーションは1980年代前半に始まる。メインフレームを中心に複数の端末機器を接続したものでディスプレイを内蔵した端末機をワークステーションと呼んだ。これらの多くは後に、大規模なグラフィック専用のメモリを搭載することにより、高度な漢字処理能力を有し、組版などのグラフィカルな処理を行える機能を有していた。これらの一部は後にワードプロセッサとして分化していった。またこれに伴い、レーザープリンターが接続されるなど高度な組版処理が行えるように進化していった。これらは現在でも端末型のワークステーションとして、ホテル、POSシステム、金融機関などで使用されているが、徐々にPCに置き換えられつつある。
2004年では、EWSの上位機種においては64ビットマルチプロセッサや、64ビットPCIインタフェースに対応したグラフィック系の処理能力を持つハードウェアを有することが多かった。2007年1月現在ではマルチコアCPUやPCI Expressの普及が始まっている。インテル系のPCではワークステーションに導入されたハードウェアが少し遅れてPCでも使われ、ワークステーションとPCのハードウェアにおける性能的な境界は曖昧になっている。このため、メーカーがインテル系のワークステーションをPCの上位機種として位置づけることもある。
EWSでは、グラフィックスボードやSCSIボードにおいて専用ハードウェアを搭載している場合が多い。また、OS自体に各メーカーがカスタマイズを行っていることも多い。それらのワークステーションは専用開発のハードウェアであるため、費用対効果に劣り、パーソナルコンピュータに比べて非常に高価なものとなっている。そのため、近年は徐々に高性能なGPUを備えるPCに置き換えられつつある。
1980年代、UNIXをベースとしたクライアントサーバモデルのクライアントとして、UNIX OSを搭載した「UNIXワークステーション」が登場した。これらは、光学ペンやタブレットなどの入力やプロッタなどの多数のインタフェースを有し、大規模なメモリを搭載し、設計、学術計算などに使用された。
1990年代後半、一部のCADなどの高度なグラフィック処理を必要とするものはUNIXワークステーションが主流で、PCとは異なり各社独自のアーキテクチャを使用した専用ハードウェアを使用するものが多く、性能面でもPCを凌駕していた。しかし、PCの爆発的普及に伴う大量生産効果などがあり、インテル製プロセッサの性能が急激に向上したため、従来ワークステーションで行われていた業務のうち、専用のハードウェアを必要としないものがパーソナルコンピュータで行われるようになった。インテル製プロセッサのマルチプロセッサ化が遅れたことや、64ビットPCIバスなど大規模データの取り扱いを必要とするワークステーションのニーズが高まり、専用の周辺機器などが開発された。
Windows NTの性能向上とともに、同OSを採用するWindowsワークステーションが登場した。PCの性能の向上と共に差は少なくなると思われたが、Windowsの64ビットCPU対応など高性能処理が行えるOSの開発やマルチCPU化などにより大幅に性能が向上し、3Dモデルや画像解析などの新たに多くのニーズが登場し専用のアプリケーションが開発されている。
これらの多くはワークステーションの性能に合わせカスタマイズされることが多く、ワークステーション専用のグラフィックアクセラレータなどのハードウェアやドライバ類が専用化されているため、一般のパーソナルコンピュータとは一線を画している。また多くのワークステーションでは64ビットのPCIバスを持っている。プロセッサは64ビットが主流だが、32ビット製品も採用されている。
現在、EWSのMPU (CPU) ではRISC系(PA-RISC、POWER、SPARC、MIPS、Alphaなど)、x64、インテル系(x86、IA-32)、IA-64など様々な種類が使用されているが、Unix系ではそれぞれに対応したものがあるのに対して、Windows系ではRISC系はPowerPC、MIPS、Alphaをサポートするものが存在した。Windows系で現在も製造・販売されているものはインテルおよびAMDのx86/x64系のみである。
Windows系のGPUには、主にゲームやマルチメディア用途で利用されるDirectX (Direct3D) よりも、CAD等でよく使用されるOpenGLへの最適化やサポート体制および保証期間の関係上、NVIDIAのQuadroシリーズやAMDのFirePro (Radeon Pro) シリーズを搭載することが多い。これらのワークステーション向け製品は、同一チップを採用するGeForceやRadeonと比べて耐久性や安定性を重視しており高価であるが、DirectXには最適化されておらず、ゲーミング性能は低いことが多い。なお、macOSやLinuxなどのUnix系製品の一部には、GeForceやRadeonシリーズが搭載されているものも存在する。ただしECCメモリをサポートするのは、QuadroやFireProの上位機種に限られる。GPGPUのために、NVIDIA TeslaやAMD FirePro Sシリーズを追加で搭載するワークステーションもある。
UNIXワークステーションもインテルやAMDのハイエンドCPUやマザーボードを採用した上でLinuxやmacOSなどのPC-UNIXをプリインストールすることによりハードウェアの設計が概ね共通化されたため、Windows系システムとほぼ同等の価格で購入できるようになっている。
流通などを目的とし、出荷台数ではEWSを上回る。ハードウェア、OSなど主に端末系とエンジニアリング系の一部を流用した製品である。主に、ミニコンピュータ (ミニコン)、オフィスコンピュータ (オフコン) またはサーバとセットになった端末型か、EWSのハードウェアを内包し外観は別製品となっている。
EWSを内包したものの中には、EWS本体または同一のマザーボード、CPUなどを内蔵しているが、ファームウェアの変更を行ったり、状況に応じ専用のLSIをマザーボード上に搭載するなど構成の多くは専用にカスタマイズされたハードウェアを持つ。このため、OSがWindows系であっても、BIOSなどが異なり、他のEWSやPCとの互換性は全くない。
1990年代前半は殆どが独自のOSであったが、1990年代後半は多くがUNIXやWindows系のサーバ用マシンをベースに設計された。そのほとんどは顧客のニーズに合わせ設計されているため、専用のアプリケーションを使用する。特に高度なGUIは必要とされず、容易に業務を実行できるようカスタマイズされている。またこれらの多くは、制御を兼ね備えるため、多くのインタフェースを有する。
※太字は現行機種(2012年5月現在)
デスクトップと同じブランド名で展開しているベンダーもあれば、別のブランド名で展開しているベンダーもある。
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"text": "ワークステーションは、例えるならば自動車業界における高級車のような存在で、一般的なパーソナルコンピュータ (PC) と比べて費用対効果よりも最高性能や安定性・信頼性が必要な用途に供される。ワークステーションの筐体のサイズは、通常、PCと同程度か若干大きく、デスクトップに設置して使用されることが多いが、ノートPCの性能を強化して、高負荷計算にも耐えられるようにした「モバイルワークステーション」もある。",
"title": "概説"
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"tag": "p",
"text": "元来ワークステーションのアーキテクチャはメーカー独自設計とする事が多く、汎用設計を採用するPCと比較した場合に専用設計ならではの大きな強みを持っていたが、数百万円は下らないという極端に高価な製品であった。そして、ワークステーションに搭載された技術が数年経ってPCに搭載されるという流れが存在した。1990年代、CPUは一般的なパソコンではx86アーキテクチャであったのに対して、ワークステーションではMIPS RシリーズやSPARCなどが搭載されるという違いがあり、ワークステーションの方が先に浮動小数点数が扱えるようになり、CPUクロック数も高く大容量メモリにも対応するなど技術的には先行していた。",
"title": "概説"
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"text": "しかし、汎用アーキテクチャのCPUやGPUを備えるPCは、規格が公開され開かれた市場競争が行われる事で、量産効果により価格が低下しやすい。また性能に関しても、ムーアの法則が限界を迎えて向上速度が鈍化しているとはいえ、各部品に特化した技術を持つメーカーが頻繁にモデルチェンジを繰り返すことからプロセスルールの微細化や新技術の投入などの恩恵を受けやすく、年々性能が向上している。一方、独自アーキテクチャのワークステーションは、1社でアーキテクチャから開発するため開発に時間が掛かり、モデルチェンジの周期が長いため性能向上が遅く、規模の経済の恩恵を享受できず、費用対効果がPCよりも劣る傾向にある。また、独自オペレーティングシステム (OS) よりも汎用オペレーティングシステムを採用したコンピュータのほうがユーザー数が多く、開発環境も準備しやすいことから、アプリケーションソフトウェアの開発が容易であり、技術革新も起きやすい。こうした世界的な開発リソースで改善されるPCの汎用アーキテクチャは、当初に限っては汎用である分だけ各機能が貧弱であったものの、開発が進むに従ってあらゆる分野で実用上十分な性能を発揮できるようになり、あらゆる独自アーキテクチャの市場を吸収していった。",
"title": "概説"
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"text": "従って、開発にコストも時間も掛かる独自アーキテクチャでは逆にPCに性能で追い付かれそうになると、メーカー各社は独自アーキテクチャを廃止し、CPUがx86、OSがWindowsも選択可能となっていくと、ワークステーションとPCとの差はほとんどなくなっていき、専門業務においても徐々に高性能なPCに置き換えられていった。",
"title": "概説"
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"text": "2000年代以降では、各社のラインナップにおいてワークステーションと銘打たれている製品は、高効率化電源ユニット(80 PLUS)の採用や冷却機構、エアフロー設計の強化、ECCメモリの採用、マルチCPUソケットの搭載、ホットスワップ可能なストレージなど、負荷の高い業務用アプリケーションの長時間稼働(1週間連続で処理させるなど)を実現する設計により、PCとの差別化を行っているが、こう言った仕様はハイエンドPCにも散見される。一般向けのPCと異なりメーカーがマザーボードレベルから最適化して法人向けに長時間稼働を保証はしているが、技術的基礎がPCと同一になったため、「ワークステーション」という用語は売り文句に過ぎなくなったとも言える。",
"title": "概説"
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"text": "ワークステーションは、単体で使用される他、メインフレームなどを含めたサーバとネットワークで接続されたインテリジェント端末として使用されることもある。",
"title": "概要"
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"text": "JIS X 0001 (ISO/IEC 2382-1) では、「通常、専用の計算能力をもち、利用者向きの入出力装置をもつ機能単位(ハードウェア・ソフトウェアからなる指定した目的を遂行できるもの)」と定義しており、これに従うとPCも含まれる。ただし一般にはワークステーションとは、一般的なPCよりは高性能・高機能なものを指す場合が多い。",
"title": "概要"
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"text": "1990年代前半までは、PCと比較して、マルチウィンドウやアイコンなどによるGUI、ネットワーク機能の標準装備、マルチタスク、SVGAを超える高解像度のディスプレイなどがワークステーションの特徴であった。その後、これらの特徴はPCの高性能化と普及によって、ワークステーションのみの特徴ではなくなった。",
"title": "概要"
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"text": "少なくとも1990年代までは、SPARCやMIPSやDEC Alphaなど、民生品よりも遥かに高度な機構を持つCPUを搭載したマシンがワークステーションとして一般的であったが、後にx86系CPUを搭載するマシンが市場規模で圧倒的優位に立ち、各社がx86系CPUの性能向上に注力してコストパフォーマンスを大幅に向上させた結果、それ以外のアーキテクチャのCPUを搭載するマシンが市場から駆逐された。2021年ではIntel XeonやAMD Ryzen PROを搭載するワークステーションが主流であるが、最新ではムーアの法則の限界を遅らせるために、根本的に設計を見直して低消費電力で有名なARMアーキテクチャを採用したApple M1を搭載するワークステーションが現れた。",
"title": "概要"
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"text": "特に科学技術計算、CAD、プロダクトデザイン、グラフィックデザインなどに使用されるものはエンジニアリングワークステーション(以下EWS、後述)と呼ばれ、これらの作業を円滑に行うため、専用ソフトウェア、専用のハードウェアを持っていたことが多い。",
"title": "概要"
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"text": "また、事務処理や、組版などの編集作業に使われるものはオフィスワークステーションなどと呼ばれる。",
"title": "概要"
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"text": "ワークステーションの中にはユーザー専用に開発されたマザーボード、PCIボード、周辺機器などを組み替えることで様々な制御機器のセンターマシン、監視装置などとして使用されることもある。これらの多くはリモートセンシングなど特殊な分野で利用されている。",
"title": "概要"
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"text": "POSシステムなどに代表される流通システムでは、全国規模に及ぶネットワーク化されたシステムを、メインフレームとサーバ専用機などの中規模なコンピュータ、ワークステーションなどを組みあわせて使用することが多く、数十台から1万台単位の規模でソリューション(情報システム)として販売される。このような場合、EWSなどと違いシステム構築の容易さと通信処理能力や、業務用レジおよびバーコードリーダーなどの専用ハードウェアへの対応が必要とされ、ワークステーションは端末としての機能も果たす。一度の大量発注による製造・販売・輸送コストの削減などが行われる。",
"title": "概要"
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"text": "なお、かつては、LAN内でサーバに対してユーザの手元にあるコンピュータのこともワークステーションと呼ばれていた(例:Windows NT ServerとWindows NT Workstation)。これは、コンピュータ自体の機能や性能による区分ではなく、もっぱらネットワーク内での役割による区分であり、ハードウェアとしてはPCそのものである場合も多かった。近年ではクライアントと呼ぶことが多い。",
"title": "概要"
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"text": "コンピュータを製造・販売するメーカーがそれぞれの販売戦略により、ワークステーションやパーソナルコンピュータ、サーバなどの名称を使い分けていることも、これら各カテゴリの境界を曖昧なものとする要因となっている。",
"title": "概要"
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{
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"text": "2010年代以降、法人でも高性能計算にはハイエンドPCやクラウドを採用することが多くなり、ワークステーション自体がニッチな製品となっている。",
"title": "概要"
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"text": "主に複数の人員により作業を行うデータ入力端末が最も多く使用されている。特に、PCのような単独で動作する機能は必要なく、必ずセンターマシンが介在する。近年は、PCに置き換えられつつある。",
"title": "端末型ワークステーション"
},
{
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"text": "端末型のワークステーションは1980年代前半に始まる。メインフレームを中心に複数の端末機器を接続したものでディスプレイを内蔵した端末機をワークステーションと呼んだ。これらの多くは後に、大規模なグラフィック専用のメモリを搭載することにより、高度な漢字処理能力を有し、組版などのグラフィカルな処理を行える機能を有していた。これらの一部は後にワードプロセッサとして分化していった。またこれに伴い、レーザープリンターが接続されるなど高度な組版処理が行えるように進化していった。これらは現在でも端末型のワークステーションとして、ホテル、POSシステム、金融機関などで使用されているが、徐々にPCに置き換えられつつある。",
"title": "端末型ワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2004年では、EWSの上位機種においては64ビットマルチプロセッサや、64ビットPCIインタフェースに対応したグラフィック系の処理能力を持つハードウェアを有することが多かった。2007年1月現在ではマルチコアCPUやPCI Expressの普及が始まっている。インテル系のPCではワークステーションに導入されたハードウェアが少し遅れてPCでも使われ、ワークステーションとPCのハードウェアにおける性能的な境界は曖昧になっている。このため、メーカーがインテル系のワークステーションをPCの上位機種として位置づけることもある。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "EWSでは、グラフィックスボードやSCSIボードにおいて専用ハードウェアを搭載している場合が多い。また、OS自体に各メーカーがカスタマイズを行っていることも多い。それらのワークステーションは専用開発のハードウェアであるため、費用対効果に劣り、パーソナルコンピュータに比べて非常に高価なものとなっている。そのため、近年は徐々に高性能なGPUを備えるPCに置き換えられつつある。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
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"text": "1980年代、UNIXをベースとしたクライアントサーバモデルのクライアントとして、UNIX OSを搭載した「UNIXワークステーション」が登場した。これらは、光学ペンやタブレットなどの入力やプロッタなどの多数のインタフェースを有し、大規模なメモリを搭載し、設計、学術計算などに使用された。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半、一部のCADなどの高度なグラフィック処理を必要とするものはUNIXワークステーションが主流で、PCとは異なり各社独自のアーキテクチャを使用した専用ハードウェアを使用するものが多く、性能面でもPCを凌駕していた。しかし、PCの爆発的普及に伴う大量生産効果などがあり、インテル製プロセッサの性能が急激に向上したため、従来ワークステーションで行われていた業務のうち、専用のハードウェアを必要としないものがパーソナルコンピュータで行われるようになった。インテル製プロセッサのマルチプロセッサ化が遅れたことや、64ビットPCIバスなど大規模データの取り扱いを必要とするワークステーションのニーズが高まり、専用の周辺機器などが開発された。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "Windows NTの性能向上とともに、同OSを採用するWindowsワークステーションが登場した。PCの性能の向上と共に差は少なくなると思われたが、Windowsの64ビットCPU対応など高性能処理が行えるOSの開発やマルチCPU化などにより大幅に性能が向上し、3Dモデルや画像解析などの新たに多くのニーズが登場し専用のアプリケーションが開発されている。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これらの多くはワークステーションの性能に合わせカスタマイズされることが多く、ワークステーション専用のグラフィックアクセラレータなどのハードウェアやドライバ類が専用化されているため、一般のパーソナルコンピュータとは一線を画している。また多くのワークステーションでは64ビットのPCIバスを持っている。プロセッサは64ビットが主流だが、32ビット製品も採用されている。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "現在、EWSのMPU (CPU) ではRISC系(PA-RISC、POWER、SPARC、MIPS、Alphaなど)、x64、インテル系(x86、IA-32)、IA-64など様々な種類が使用されているが、Unix系ではそれぞれに対応したものがあるのに対して、Windows系ではRISC系はPowerPC、MIPS、Alphaをサポートするものが存在した。Windows系で現在も製造・販売されているものはインテルおよびAMDのx86/x64系のみである。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
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"text": "Windows系のGPUには、主にゲームやマルチメディア用途で利用されるDirectX (Direct3D) よりも、CAD等でよく使用されるOpenGLへの最適化やサポート体制および保証期間の関係上、NVIDIAのQuadroシリーズやAMDのFirePro (Radeon Pro) シリーズを搭載することが多い。これらのワークステーション向け製品は、同一チップを採用するGeForceやRadeonと比べて耐久性や安定性を重視しており高価であるが、DirectXには最適化されておらず、ゲーミング性能は低いことが多い。なお、macOSやLinuxなどのUnix系製品の一部には、GeForceやRadeonシリーズが搭載されているものも存在する。ただしECCメモリをサポートするのは、QuadroやFireProの上位機種に限られる。GPGPUのために、NVIDIA TeslaやAMD FirePro Sシリーズを追加で搭載するワークステーションもある。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "UNIXワークステーションもインテルやAMDのハイエンドCPUやマザーボードを採用した上でLinuxやmacOSなどのPC-UNIXをプリインストールすることによりハードウェアの設計が概ね共通化されたため、Windows系システムとほぼ同等の価格で購入できるようになっている。",
"title": "エンジニアリングワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "流通などを目的とし、出荷台数ではEWSを上回る。ハードウェア、OSなど主に端末系とエンジニアリング系の一部を流用した製品である。主に、ミニコンピュータ (ミニコン)、オフィスコンピュータ (オフコン) またはサーバとセットになった端末型か、EWSのハードウェアを内包し外観は別製品となっている。",
"title": "流通システム用ワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "EWSを内包したものの中には、EWS本体または同一のマザーボード、CPUなどを内蔵しているが、ファームウェアの変更を行ったり、状況に応じ専用のLSIをマザーボード上に搭載するなど構成の多くは専用にカスタマイズされたハードウェアを持つ。このため、OSがWindows系であっても、BIOSなどが異なり、他のEWSやPCとの互換性は全くない。",
"title": "流通システム用ワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "1990年代前半は殆どが独自のOSであったが、1990年代後半は多くがUNIXやWindows系のサーバ用マシンをベースに設計された。そのほとんどは顧客のニーズに合わせ設計されているため、専用のアプリケーションを使用する。特に高度なGUIは必要とされず、容易に業務を実行できるようカスタマイズされている。またこれらの多くは、制御を兼ね備えるため、多くのインタフェースを有する。",
"title": "流通システム用ワークステーション"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "※太字は現行機種(2012年5月現在)",
"title": "主なワークステーション"
},
{
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"text": "デスクトップと同じブランド名で展開しているベンダーもあれば、別のブランド名で展開しているベンダーもある。",
"title": "主なワークステーション"
}
] |
ワークステーションは、組版、科学技術計算、CAD、グラフィックデザイン、事務処理などに特化した業務用の高性能なコンピュータである。耐久性も一般のPCとは比較にならないほど高く、長時間の連続稼働が必要な高負荷計算を安定して行う用途に向いている。価格は100万円超えが珍しくない程に高価で、一般向けよりも法人向けに販売されている。
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{{出典の明記|date=2021-08}}
{{otheruses|コンピュータ|楽器|ミュージックワークステーション|建築設計事務所|ワークステーション (建築設計)}}
[[ファイル:Sun Ultra 5 front.jpg|サムネイル|[[1990年代]]に[[UNIX]]マシンとして絶大なシェアを誇った[[サン・マイクロシステムズ|Sun Microsystems]]のワークステーションの例([[1997年]]発売のSun Ultra 5)
マルチタスクや科学技術計算に強い[[SPARC]]アーキテクチャのCPUを搭載]]
[[ファイル:SgiOctane.jpg|thumb|250px|[[1990年代]]に[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]の分野で一世を風靡した[[シリコングラフィックス]] (SGI) のワークステーションの例([[1997年]]発売のSGI Octane)
クリエイター向けとして個性的なデザインを採用[[MIPSアーキテクチャ]]のCPUと[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]用の[[ジオメトリエンジン]]を搭載]]
[[ファイル:HP Z820 Workstation.jpg|サムネイル|PCアーキテクチャを採用するワークステーションの例([[2012年]]発売のHP Z820 Workstation)
一般的なパソコンを一回り大きくしたような外観
PCと同じく[[x86]]アーキテクチャのCPUを搭載
PCとの間でパーツの互換性がある]]
'''ワークステーション'''({{lang-en|workstation}}, [[頭字語]]: '''WS''')は、[[電算写植|組版]]、[[科学技術計算]]、[[CAD]]、[[グラフィックデザイン]]、事務処理などに特化した業務用の高性能な[[コンピュータ]]である。耐久性も一般のPCとは比較にならないほど高く、長時間の連続稼働が必要な高負荷計算を安定して行う用途に向いている。価格は100万円超えが珍しくない程に高価で、一般向けよりも法人向けに販売されている。
== 概説 ==
ワークステーションは、例えるならば自動車業界における高級車のような存在で、一般的な[[パーソナルコンピュータ]] (PC) と比べて費用対効果よりも最高性能や安定性・信頼性が必要な用途に供される。ワークステーションの筐体のサイズは、通常、PCと同程度か若干大きく、デスクトップに設置して使用されることが多いが、[[ノートPC]]の性能を強化して、高負荷計算にも耐えられるようにした「'''モバイルワークステーション'''」もある。
元来ワークステーションのアーキテクチャはメーカー独自設計とする事が多く、汎用設計を採用するPCと比較した場合に専用設計ならではの大きな強みを持っていたが、数百万円は下らないという極端に高価な製品であった。そして、ワークステーションに搭載された技術が数年経ってPCに搭載されるという流れが存在した。[[1990年代]]、[[CPU]]は一般的な[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]では[[x86]]アーキテクチャであったのに対して、ワークステーションでは[[MIPSアーキテクチャ|MIPS Rシリーズ]]や[[SPARC]]などが搭載されるという違いがあり、ワークステーションの方が先に浮動小数点数が扱えるようになり、CPUクロック数も高く大容量メモリにも対応するなど技術的には先行していた。
しかし、汎用アーキテクチャの[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]を備えるPCは、規格が公開され開かれた市場競争が行われる事で、[[量産効果]]により価格が低下しやすい。また性能に関しても、[[ムーアの法則]]が限界を迎えて向上速度が鈍化しているとはいえ、各部品に特化した技術を持つメーカーが頻繁にモデルチェンジを繰り返すことからプロセスルールの微細化や新技術の投入などの恩恵を受けやすく、年々性能が向上している。一方、独自アーキテクチャのワークステーションは、1社でアーキテクチャから開発するため開発に時間が掛かり、モデルチェンジの周期が長いため性能向上が遅く、[[規模の経済]]の恩恵を享受できず、[[費用対効果]]がPCよりも劣る傾向にある。また、独自[[オペレーティングシステム]] (OS) よりも汎用オペレーティングシステムを採用したコンピュータのほうがユーザー数が多く、開発環境も準備しやすいことから、[[アプリケーションソフトウェア]]の開発が容易であり、技術革新も起きやすい。こうした世界的な開発リソースで改善されるPCの汎用アーキテクチャは、当初に限っては汎用である分だけ各機能が貧弱であったものの、開発が進むに従ってあらゆる分野で実用上十分な性能を発揮できるようになり、あらゆる独自アーキテクチャの市場を吸収していった。
従って、開発にコストも時間も掛かる独自アーキテクチャでは逆にPCに性能で追い付かれそうになると、メーカー各社は独自アーキテクチャを廃止し、CPUが[[x86]]、OSが[[Windows]]も選択可能となっていくと、ワークステーションとPCとの差はほとんどなくなっていき、専門業務においても徐々に高性能なPCに置き換えられていった。
[[2000年代]]以降では、各社のラインナップにおいてワークステーションと銘打たれている製品は、高効率化電源ユニット([[80 PLUS]])の採用や冷却機構、エアフロー設計の強化、[[ECCメモリ]]の採用、マルチCPUソケットの搭載、[[ホットスワップ]]可能な[[補助記憶装置|ストレージ]]など、負荷の高い業務用アプリケーションの長時間稼働(1週間連続で処理させるなど)を実現する設計により、PCとの差別化を行っているが、こう言った仕様はハイエンドPCにも散見される。一般向けのPCと異なりメーカーがマザーボードレベルから最適化して法人向けに長時間稼働を保証はしているが、技術的基礎がPCと同一になったため、「ワークステーション」という用語は売り文句に過ぎなくなったとも言える。
== 概要 ==
ワークステーションは、単体で使用される他、[[メインフレーム]]などを含めた[[サーバ]]と[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]で接続されたインテリジェント[[端末]]として使用されることもある。
[[日本工業規格|JIS]] X 0001 ([[国際標準化機構|ISO]]/IEC 2382-1) では、「通常、専用の計算能力をもち、利用者向きの入出力装置をもつ機能単位([[ハードウェア]]・[[ソフトウェア]]からなる指定した目的を遂行できるもの)」と定義しており、これに従うと[[パーソナルコンピュータ|PC]]も含まれる。ただし一般にはワークステーションとは、一般的なPCよりは高性能・高機能なものを指す場合が多い。
[[1990年代]]前半までは、PCと比較して、[[マルチウィンドウ]]や[[アイコン]]などによる[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]、ネットワーク機能の標準装備、[[マルチタスク]]、[[Super Video Graphics Array|SVGA]]を超える高解像度の[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]などがワークステーションの特徴であった。その後、これらの特徴はPCの高性能化と普及によって、ワークステーションのみの特徴ではなくなった。
少なくとも[[1990年代]]までは、[[SPARC]]や[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]や[[DEC Alpha]]など、[[民生用|民生品]]よりも遥かに高度な機構を持つ[[CPU]]を搭載したマシンがワークステーションとして一般的であったが、後に[[x86]]系[[CPU]]を搭載するマシンが市場規模で圧倒的優位に立ち、各社が[[x86]]系[[CPU]]の性能向上に注力して[[コストパフォーマンス]]を大幅に向上させた結果、それ以外の[[マイクロアーキテクチャ|アーキテクチャ]]の[[CPU]]を搭載するマシンが市場から駆逐された。2021年では[[Xeon|Intel Xeon]]や[[Ryzen|AMD Ryzen PRO]]を搭載するワークステーションが主流であるが、最新では[[ムーアの法則]]の限界を遅らせるために、根本的に設計を見直して低消費電力で有名な[[ARMアーキテクチャ]]を採用した[[Apple M1]]を搭載するワークステーションが現れた。
特に科学技術計算、CAD、[[プロダクトデザイン]]、グラフィックデザインなどに使用されるものは'''エンジニアリングワークステーション'''(以下EWS、[[#エンジニアリングワークステーション|後述]])と呼ばれ、これらの作業を円滑に行うため、専用ソフトウェア、専用のハードウェアを持っていたことが多い。
また、事務処理や、組版などの編集作業に使われるものは'''オフィスワークステーション'''などと呼ばれる。
ワークステーションの中にはユーザー専用に開発された[[マザーボード]]、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]ボード、[[周辺機器]]などを組み替えることで様々な制御機器のセンターマシン、監視装置などとして使用されることもある。これらの多くは[[リモートセンシング]]など特殊な分野で利用されている。
[[販売時点情報管理|POSシステム]]などに代表される流通システムでは、全国規模に及ぶネットワーク化されたシステムを、メインフレームとサーバ専用機などの中規模なコンピュータ、ワークステーションなどを組みあわせて使用することが多く、数十台から1万台単位の規模で[[ソリューション]](情報システム)として販売される。このような場合、EWSなどと違いシステム構築の容易さと通信処理能力や、[[キャッシュレジスター|業務用レジ]]および[[バーコード]]リーダーなどの専用ハードウェアへの対応が必要とされ、ワークステーションは端末としての機能も果たす。一度の大量発注による製造・販売・輸送コストの削減などが行われる。
なお、かつては、[[Local Area Network|LAN]]内でサーバに対してユーザの手元にあるコンピュータのこともワークステーションと呼ばれていた(例:[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] ServerとWindows NT Workstation)。これは、コンピュータ自体の機能や性能による区分ではなく、もっぱらネットワーク内での役割による区分であり、ハードウェアとしてはPCそのものである場合も多かった。{{いつ範囲|date=2021-08|近年}}では[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]と呼ぶことが多い。
コンピュータを製造・販売するメーカーがそれぞれの販売戦略により、ワークステーションやパーソナルコンピュータ、サーバなどの名称を使い分けていることも、これら各カテゴリの境界を曖昧なものとする要因となっている。
[[2010年代]]以降、法人でも[[高性能計算]]にはハイエンドPCやクラウドを採用することが多くなり、ワークステーション自体がニッチな製品となっている。
== 端末型ワークステーション ==
主に複数の人員により作業を行うデータ入力端末が最も多く使用されている。特に、PCのような単独で動作する機能は必要なく、必ずセンターマシンが介在する。{{いつ範囲|date=2021-08|近年}}は、PCに置き換えられつつある。
=== 歴史 ===
端末型のワークステーションは[[1980年代]]前半に始まる。メインフレームを中心に複数の端末機器を接続したものでディスプレイを内蔵した端末機をワークステーションと呼んだ。これらの多くは後に、大規模なグラフィック専用のメモリを搭載することにより、高度な漢字処理能力を有し、[[組版]]などのグラフィカルな処理を行える機能を有していた。これらの一部は後に[[ワードプロセッサ]]として分化していった。またこれに伴い、[[レーザープリンター]]が接続されるなど高度な組版処理が行えるように進化していった。これらは現在でも端末型のワークステーションとして、[[ホテル]]、POSシステム、[[金融機関]]などで使用されているが、徐々にPCに置き換えられつつある。
== エンジニアリングワークステーション ==
[[ファイル:SPARCstation 1.jpg|thumb|250px|EWS全盛期を代表するモデルのひとつ、[[サン・マイクロシステムズ|Sun]]の[[SPARCstation]]]]
2004年では、EWSの上位機種においては[[64ビット]]マルチ[[プロセッサ]]や、64ビットPCI[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]に対応したグラフィック系の処理能力を持つハードウェアを有することが多かった。2007年1月現在ではマルチコアCPUや[[PCI Express]]の普及が始まっている。[[インテル]]系のPCではワークステーションに導入されたハードウェアが少し遅れてPCでも使われ、ワークステーションとPCのハードウェアにおける性能的な境界は曖昧になっている。このため、メーカーがインテル系のワークステーションをPCの上位機種として位置づけることもある。
EWSでは、[[ビデオカード|グラフィックスボード]]や[[Small Computer System Interface|SCSI]]ボードにおいて専用ハードウェアを搭載している場合が多い。また、OS自体に各メーカーがカスタマイズを行っていることも多い。それらのワークステーションは専用開発のハードウェアであるため、[[費用対効果]]に劣り、[[パーソナルコンピュータ]]に比べて非常に高価なものとなっている。そのため、{{いつ範囲|date=2021-08|近年}}は徐々に高性能な[[Graphics Processing Unit|GPU]]を備えるPCに置き換えられつつある。
=== 歴史 ===
1980年代、[[UNIX]]をベースとした[[クライアントサーバモデル]]の[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]として、UNIX OSを搭載した「'''UNIXワークステーション'''」が登場した。これらは、光学ペンや[[ペンタブレット|タブレット]]などの入力や[[プロッタ]]などの多数のインタフェースを有し、大規模なメモリを搭載し、設計、学術計算などに使用された。
1990年代後半、一部の[[CAD]]などの高度なグラフィック処理を必要とするものはUNIXワークステーションが主流で、PCとは異なり各社独自の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]を使用した専用ハードウェアを使用するものが多く、性能面でもPCを凌駕していた。しかし、PCの爆発的普及に伴う大量生産効果などがあり、[[インテル]]製プロセッサの性能が急激に向上したため、従来ワークステーションで行われていた業務のうち、専用のハードウェアを必要としないものがパーソナルコンピュータで行われるようになった。インテル製プロセッサのマルチプロセッサ化が遅れたことや、64ビット[[Peripheral Component Interconnect|PCIバス]]など大規模データの取り扱いを必要とするワークステーションのニーズが高まり、専用の周辺機器などが開発された。
[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]の性能向上とともに、同OSを採用するWindowsワークステーションが登場した。PCの性能の向上と共に差は少なくなると思われたが、Windowsの64ビットCPU対応など高性能処理が行えるOSの開発やマルチCPU化などにより大幅に性能が向上し、3Dモデルや画像解析などの新たに多くのニーズが登場し専用の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が開発されている。
これらの多くはワークステーションの性能に合わせカスタマイズされることが多く、ワークステーション専用のグラフィックアクセラレータなどのハードウェアやドライバ類が専用化されているため、一般のパーソナルコンピュータとは一線を画している。また多くのワークステーションでは64ビットのPCIバスを持っている。プロセッサは64ビットが主流だが、[[32ビット]]製品も採用されている。
{{いつ範囲|現在|date=2016年10月}}、EWSの[[マイクロプロセッサ|MPU]] (CPU) では[[RISC]]系([[PA-RISC]]、[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]、[[SPARC]]、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]、[[DEC Alpha|Alpha]]など)、[[x64]]、インテル系([[x86]]、[[IA-32]])、[[IA-64]]など様々な種類が使用されているが、[[Unix系]]ではそれぞれに対応したものがあるのに対して、Windows系ではRISC系は[[PowerPC]]、MIPS、Alphaをサポートするものが存在した。Windows系で{{いつ範囲|現在|date=2016年10月}}も製造・販売されているものはインテルおよび[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]のx86/x64系のみである。
Windows系の[[Graphics Processing Unit|GPU]]には、主にゲームやマルチメディア用途で利用される[[DirectX]] ([[Direct3D]]) よりも、CAD等でよく使用される[[OpenGL]]への最適化やサポート体制および保証期間の関係上、[[NVIDIA]]の[[Quadro]]シリーズや[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]の[[FirePro]] (Radeon Pro) シリーズを搭載することが多い<ref>{{Cite web |url=http://www.nvidia.co.jp/object/quadro-jp.html |title=NVIDIA Quadro |accessdate=2013-03-31}}</ref><ref>[http://h50146.www5.hp.com/lib/products/workstations/personal_ws/options/pdfs/graphics_card_reference_guide.pdf HP Workstation グラフィックス リファレンスガイド - graphics_card_reference_guide.pdf]</ref>。これらのワークステーション向け製品は、同一チップを採用する[[GeForce]]や[[Radeon]]と比べて耐久性や安定性を重視しており高価であるが、DirectXには最適化されておらず、ゲーミング性能は低いことが多い。なお、[[macOS]]や[[Linux]]などのUnix系製品の一部には、[[GeForce]]や[[Radeon]]シリーズが搭載されているものも存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nvidia.co.jp/object/product_geforce_gtx_285_for_mac_jp.html |title=Mac向けGeForce GTX 285 |accessdate=2013-03-31}}</ref>。ただし[[誤り検出訂正|ECC]]メモリをサポートするのは、QuadroやFireProの上位機種に限られる。[[GPGPU]]のために、[[NVIDIA Tesla]]やAMD FirePro Sシリーズを追加で搭載するワークステーションもある。
UNIXワークステーションもインテルやAMDのハイエンドCPUやマザーボードを採用した上でLinuxやmacOSなどの[[PC-UNIX]]をプリインストールすることによりハードウェアの設計が概ね共通化されたため、Windows系システムとほぼ同等の価格で購入できるようになっている。
== 流通システム用ワークステーション ==
流通などを目的とし、出荷台数ではEWSを上回る。ハードウェア、OSなど主に端末系とエンジニアリング系の一部を流用した製品である。主に、[[ミニコンピュータ]] (ミニコン)、[[オフィスコンピュータ]] (オフコン) またはサーバとセットになった端末型か、EWSのハードウェアを内包し外観は別製品となっている。
EWSを内包したものの中には、EWS本体または同一の[[マザーボード]]、CPUなどを内蔵しているが、[[ファームウェア]]の変更を行ったり、状況に応じ専用の[[集積回路|LSI]]をマザーボード上に搭載するなど構成の多くは専用にカスタマイズされたハードウェアを持つ。このため、OSがWindows系であっても、[[Basic Input/Output System|BIOS]]などが異なり、他のEWSやPCとの互換性は全くない。
1990年代前半は殆どが独自のOSであったが、1990年代後半は多くがUNIXやWindows系のサーバ用マシンをベースに設計された。そのほとんどは顧客のニーズに合わせ設計されているため、専用のアプリケーションを使用する。特に高度なGUIは必要とされず、容易に業務を実行できるようカスタマイズされている。またこれらの多くは、制御を兼ね備えるため、多くのインタフェースを有する。
== 関連用語 ==
* エンジニアリングワークステーション (EWS)
* 漢字ワークステーション (KWS)
* グラフィックワークステーション
* [[デジタル・オーディオ・ワークステーション]]
* [[ピザボックス・フォームファクタ]]
* [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]] - Work(業務)の対義語としてのPlay(遊び)が名称の由来となった。
== 主なワークステーション ==
=== 端末型 ===
* N6300
* POSシステム
=== 先進型 ===
* [[Alto]] (Xerox PARC)
* [[Apollo/Domain|Domain]]([[アポロコンピュータ]])
* [[PERQ]] ([[Three Rivers Computer]])
=== オフィス向け ===
* [[Xerox Star|J-Star]]([[富士フイルムビジネスイノベーション]])
=== UNIX(互換)ワークステーション ===
※'''太字'''は現行機種(2012年5月現在)
* [[Sun-1]]/[[Sun-2|2]]/[[Sun-3|3]]/[[Sun-4|4]], [[SPARCstation]], Blade, Ultra([[サン・マイクロシステムズ|サン]] : [[SPARC]] / [[Solaris]])
* [[HP 9000]], HP c8000 ([[ヒューレット・パッカード|HP]] : [[PA-RISC]] / [[HP-UX]])
* [[DECstation]], AlphaStation([[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]], 現HP : [[DEC Alpha|Alpha]] / [[Tru64 UNIX]], [[OpenVMS]])
* [[RS/6000]], IntelliStation POWER ([[IBM]] : [[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]] / [[AIX]])
* Personal Iris, Indy, Indigo, O2, Octane, Fuel, Tezro ([[シリコングラフィックス|SGI]] : [[MIPSアーキテクチャ|MIPS]] / [[IRIX]])
* [[NeXTcube]], [[NeXTstation]] ([[NeXT]])
* [[Power Mac|Power Mac G5]]([[Apple]] : POWER4ベース[[PowerPC]] 970MP / [[macOS|Mac OS X]])- 公式にはワークステーションとして販売されていなかったが、UNIXであるMac OS X<ref>{{Cite web |title=Mac OS X Leopard Achieves UNIX 03 Product Standard Certification |url=https://web.archive.org/web/20080705232513/http://www.opengroup.org/comm/press/19-2-nov07.htm |website=web.archive.org |date=2008-07-05 |accessdate=2022-03-28}}</ref>、64ビットCPU、ECCメモリ対応、PCI-X(後のPCI Express)などワークステーションに分類される性能を持っていた。
* '''[[Mac Pro]]'''(Apple : インテル [[Xeon]] / macOS)- [[x86]]または[[x64]]機
* '''[[Mac Studio]]'''(Apple : Appleシリコン / macOS)AArch64機
* [[EWS4800]]シリーズ ([[日本電気|NEC]] : [[MC68000|680x0]], MIPS / [[EWS-UX]])
* 2050, 3050, 3050 ([[日立製作所|HITACHI]] : [[MC68000|680x0]], [[PA-RISC]] / [[HI-UX]])
* [[Luna_(ワークステーション)|LUNA]]([[オムロン]])
* [[NEWS (ソニー)|NEWS]]([[ソニー]] : [[MC68000|680x0]], MIPS / 初期は[[Berkeley Software Distribution|BSD]], POP-NEWS発売後はNEWS-OS)
* PSI([[三菱電機]] : [[DEC Alpha|Alpha]] / [[Tru64 UNIX]], [[OpenVMS]])
* [[IBM]] [[IntelliStation_Pro#Intellistation_POWER|Intellistation POWER]]
* SX-9100([[オムロン|立石電機(現 オムロン)]] : [[MC68020]] / OMRONIX-Σ)
* ME1000シリーズ([[三菱電機]] : [[MC68020]] / ME/UX)
=== x86ワークステーション ===
* [[HP Workstation|HP '''Workstation''']]
* [[:en:Dell Precision|Dell '''Precision''']]
* SEGUENTE Express5800 (NEC) - LinuxよりはWindows向けに設計。標準サポートOSもWindows
* [[富士通]] CELSIUS
* [[ドスパラ]]
** GALLERIA ゲーム制作用モデル
** raytrekシリーズ
* [[マウスコンピューター]] DAIV
* IBM [[IntelliStation Pro]]
* Lenovo '''ThinkStation'''
* [[:en:The Third Wave|Third Wave]] ExPrime
* Muchos GPGPU タワー (シーティーソリューション:インテル [[Xeon]]/[[CentOS]], [[Scientific Linux]], [[Ubuntu]], [[Debian]], [[FreeBSD]])
=== モバイルワークステーション ===
デスクトップと同じブランド名で展開しているベンダーもあれば、別のブランド名で展開しているベンダーもある。
* HP ZBook Mobile Workstation
* [[東芝]] [[ダイナブック (東芝)|dynabook Satellite]] WS754シリーズ - B4サイズの[[ノートパソコン]]型ワークステーション
=== その他 ===
* [[BeBox]] ([[Be (企業)|Be]])
* [[Silicon Graphics 320 / 540]]([[シリコングラフィックス]]) - 特殊Windows NT機
== 脚注 ==
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{{Computer sizes}}
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[[Category:ワークステーション|*]]
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[[Category:コンピュータ史]]
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ベレの方法
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ベレの方法(ベレのほうほう、英: Verlet algorithm)は、ニュートンの運動方程式を数値積分する手法の一つ。ベレのアルゴリズム、ベレ法、ベルレ積分法(Verlet integration)、ベルレの方法などの呼び方もある。分子動力学法における粒子の軌跡(トラジェクトリ)のシミュレーションやコンピュータグラフィックスに頻繁に用いられる。1791年にジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルが用いたのが最初で、その後も何回も再発見されているが、1960年代にLoup Verletが分子動力学法に用いてから広く使われるようになった。1909年にハレー彗星の軌道を計算するためにフィリップ・コーウェルとアンドリュー・クロンメリンにより用いられたり、1907年に磁場中の荷電粒子のトラジェクトリを研究するためにCarl Størmerにより用いられたりしている(そのため、Störmerの方法という異称もある)。この手法の特徴として、数値的安定性が高く、時間反転対称性を持つことや位相空間上のシンプレクティック形式を保存するなど物理系において重要な性質を持つうえ、オイラー法と比べてもほとんど計算コストが増えないことが挙げられる。
x → ̈ ( t ) = A → ( x → ( t ) ) {\displaystyle {\ddot {\vec {x}}}(t)={\vec {A}}{\big (}{\vec {x}}(t){\big )}} の形の2階微分方程式を初期条件 x → ( t 0 ) = x → 0 {\displaystyle {\vec {x}}(t_{0})={\vec {x}}_{0}} および x → ̇ ( t 0 ) = v → 0 {\displaystyle {\dot {\vec {x}}}(t_{0})={\vec {v}}_{0}} のもとで、 Δ t > 0 {\displaystyle \Delta t>0} をステップサイズとして、 t n = t 0 + n Δ t {\displaystyle t_{n}=t_{0}+n\,\Delta t} における数値的近似解 x → n ≈ x → ( t n ) {\displaystyle {\vec {x}}_{n}\approx {\vec {x}}(t_{n})} は、下のようなアルゴリズムで求めることができる。
保存系におけるニュートンの運動方程式は
もしくは粒子毎に
と表わされる。ここで、
この等式は、相互作用する分子群や惑星の軌道などさまざまな物理系が、さまざまなポテンシャル関数Vを決めたときどのように時間発展するかを記述するために用いることができる。
右辺に質量を移し、粒子系の構造を忘れることにすると、上の式は以下のように単純化することができる。
位置に依存する加速度を表す適切なベクトル値関数Aを使用します。通常、も与えられます。ここで、ベクトル値関数Aは位置依存加速度をあらわす。通常は、初期位置 x → ( 0 ) = x → 0 {\displaystyle {\vec {x}}(0)={\vec {x}}_{0}} および初速度 v → ( 0 ) = x → ̇ ( 0 ) = v → 0 {\displaystyle {\vec {v}}(0)={\dot {\vec {x}}}(0)={\vec {v}}_{0}} も所与である。
この初期値問題を離散化し、数値的に解くため、タイムステップ Δ t > 0 {\displaystyle \Delta t>0} を選び、サンプル点列 t n = n Δ t {\displaystyle t_{n}=n\,\Delta t} を考える。このとき、問題は厳密解 x → ( t n ) {\displaystyle {\vec {x}}(t_{n})} をよく近似する点群列 x → n {\displaystyle {\vec {x}}_{n}} をもとめることに帰着する。
オイラー法が1階微分方程式中の1次微分を前進差分近似するのに対し、ベレ積分は2次微分を中心差分近似すると見ることができる。
「Störmerの方法」で用いられる形式の「ベレ積分」は、 この式を用い、速度を使わずに以前の2つの位置から次の座標を与える。
このアルゴリズムは本質的に時間反転対称性を持ち、離散化の際に奇数次の項が消え、 Δ t {\displaystyle \Delta t} について3次の項がなくなるため、局所誤差の大きさを低減することができる。局所誤差は厳密解 x → ( t n − 1 ) , x → ( t n ) , x → ( t n + 1 ) {\displaystyle {\vec {x}}(t_{n-1}),{\vec {x}}(t_{n}),{\vec {x}}(t_{n+1})} を代入し、 t = t n {\displaystyle t=t_{n}} におけるテイラー展開から x → ( t ± Δ t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t\pm \Delta t)} をそれぞれ計算することにより定量できる。
ここで、 x → {\displaystyle {\vec {x}}} は位置、 v → = x → ̇ {\displaystyle {\vec {v}}={\dot {\vec {x}}}} は速度、 a → = x → ̈ {\displaystyle {\vec {a}}={\ddot {\vec {x}}}} は加速度、 b → {\displaystyle {\vec {b}}} は躍度である。
これら2つの級数を足し合わせると、以下の式を得る。
この式から、テイラー展開の1次および3次の項がうち消しあい、ベレ積分の精度が単なるテイラー展開よりも1次高くなっていることがわかる。
ここで、加速度 a → ( t ) = A ( x → ( t ) ) {\displaystyle {\vec {a}}(t)=A{\big (}{\vec {x}}(t){\big )}} は厳密解を用いて計算されているが、逐次計算時には中心座標を用いて a → n = A ( x → n ) {\displaystyle {\vec {a}}_{n}=A({\vec {x}}_{n})} のように計算されることに注意が必要である。大域誤差を計算する際には、この厳密解と近似解列との差は消えず、大域誤差に寄与する。
局所誤差と大域誤差との関係について洞察を得るため、厳密解と近似解が陽に書き下せるシンプルな例を考えてみる。このような例として標準的なものとして指数関数があげられる。
wを定数として、線形微分方程式 x ̈ ( t ) = w 2 x ( t ) {\displaystyle {\ddot {x}}(t)=w^{2}x(t)} を考える。この方程式の厳密解は e w t {\displaystyle e^{wt}} および e − w t {\displaystyle e^{-wt}} である。
この微分方程式にStörmerの方法を適用すると、以下の線形漸化式を得る。
もしくは
これは特性多項式の根を求めること、すなわち q 2 − 2 ( 1 + 1 2 ( w h ) 2 ) q + 1 = 0 {\displaystyle q^{2}-2\left(1+{\tfrac {1}{2}}(wh)^{2}\right)q+1=0} の解を求めることにより解くことができ、以下の根が得られる。
上の線形漸化式のbasis solutionsは x n = q + n {\displaystyle x_{n}=q_{+}^{n}} および x n = q − n {\displaystyle x_{n}=q_{-}^{n}} である。これらを厳密解と比較するため、テイラー展開すると以下を得る。
この級数の指数関数 e w h {\displaystyle e^{wh}} との商は 1 − 1 24 ( w h ) 3 + O ( h 5 ) {\displaystyle 1-{\tfrac {1}{24}}(wh)^{3}+{\mathcal {O}}(h^{5})} となるため、以下のように書ける。
ここから、最初のbasis solutionの誤差は以下のように算出される。
したがって、局所離散化誤差は4次以上となるが、微分方程式が2階のため、大域誤差は2次で、時間的に指数的に増加する定数項をもつ。
ベルレ法の最初のステップ、 n = 1 {\displaystyle n=1} 、 t = t 1 = Δ t {\displaystyle t=t_{1}=\Delta t} で、 x → 2 {\displaystyle {\vec {x}}_{2}} を計算するためには t = t 1 {\displaystyle t=t_{1}} における位置ベクトル x → 1 {\displaystyle {\vec {x}}_{1}} が必要となる。初期条件は t 0 = 0 {\displaystyle t_{0}=0} に対してのみ所与なので、一見これは問題をはらんでいるようにみえる。しかし、加速度 a → 0 = A → ( x → 0 ) {\displaystyle {\vec {a}}_{0}={\vec {A}}({\vec {x}}_{0})} は既知であるため、最初のステップは2次までのテイラー展開を用いて計算することができる。
この最初のステップの誤差は O ( Δ t 3 ) {\displaystyle {\mathcal {O}}(\Delta t^{3})} である。しかし、シミュレーションは長い時間、何ステップにもわたって行われ、時刻 t n {\displaystyle t_{n}} におけるトータルの誤差は、 x → n {\displaystyle {\vec {x}}_{n}} と x → ( t n ) {\displaystyle {\vec {x}}(t_{n})} との距離および x → n + 1 − x → n Δ t {\displaystyle {\tfrac {{\vec {x}}_{n+1}-{\vec {x}}_{n}}{\Delta t}}} と x → ( t n + 1 ) − x → ( t n ) Δ t {\displaystyle {\tfrac {{\vec {x}}(t_{n+1})-{\vec {x}}(t_{n})}{\Delta t}}} との比の両方でオーダー O ( e L t n Δ t 2 ) {\displaystyle {\mathcal {O}}(e^{Lt_{n}}\Delta t^{2})} であり、最初のステップにおける誤差は無視できる。さらに言えば、この2次の大域誤差を得るためには初期誤差は最低でも3次である必要がある。
Störmer–Verlet法の弱点として、タイムステップ Δ t {\displaystyle \Delta t} が変化すると微分関数の近似解を与えなくなってしまう点である。この弱点は次の式を使うことにより修正できる。
より厳密な導出は、 t i {\displaystyle t_{i}} における2次までのテイラー展開に t i + 1 = t i + Δ t i {\displaystyle t_{i+1}=t_{i}+\Delta t_{i}} と t i − 1 = t i − Δ t i − 1 {\displaystyle t_{i-1}=t_{i}-\Delta t_{i-1}} を代入し、 v → i {\displaystyle {\vec {v}}_{i}} を消去して以下を得る。
したがって、次の式を得る。
基本的なStörmer方程式は速度を陽に与えないが、運動エネルギーなど特定の物理量を計算するためには速度が必要となる。このことは分子動力学法において、時刻 t {\displaystyle t} における運動エネルギーや瞬時温度を時刻 t + Δ t {\displaystyle t+\Delta t} における位置を計算するまで計算できないという技術的な問題をひきおこす。この欠点は速度ベレ法を用いるか、平均値の定理を用いて以下のように位置から速度を推定することで対処することができる。
ここで、この速度項は時刻t + Δtではなく時刻 t {\displaystyle t} の速度であり、位置項の1ステップ後ろである。このことは v → n = x → n + 1 − x → n − 1 2 Δ t {\displaystyle {\vec {v}}_{n}={\tfrac {{\vec {x}}_{n+1}-{\vec {x}}_{n-1}}{2\Delta t}}} は v → ( t n ) {\displaystyle {\vec {v}}(t_{n})} の2次近似であることを意味する。同じ議論として、タイムステップを半分 t n + 1 / 2 = t n + 1 2 Δ t {\displaystyle t_{n+1/2}=t_{n}+{\tfrac {1}{2}}\Delta t} にした v → n + 1 / 2 = x → n + 1 − x → n Δ t {\displaystyle {\vec {v}}_{n+1/2}={\tfrac {{\vec {x}}_{n+1}-{\vec {x}}_{n}}{\Delta t}}} は v → ( t n + 1 / 2 ) {\displaystyle {\vec {v}}(t_{n+1/2})} の2次近似である。
精度を犠牲にすれば、時刻t + Δtにおける速度を次のように近似することもできる。
関連する、より広く用いられているアルゴリズムとして速度ベルレ法があげられる。この手法はリープ・フロッグ法に似ているが、同時刻の位置と速度を計算する点(リープ・フロッグ法では名前の含意するとおり計算しない)で違う。速度ベルレ法とベルレ法は似ているが、陽に速度を扱い、初期ステップにおける速度を明示的に解く点で異なる。
速度ベルレ法とベルレ法の誤差は同じオーダーであることは示すことができる。ベルレ法では2時刻における位置を記憶しておく必要があるため、1時刻における位置と速度を記憶する速度ベルレ法の法がメモリ消費量が多いとは限らない。
半ステップ速度計算を省く場合、以下のように簡略化される。
ただし、加速度 a → ( t + Δ t ) {\displaystyle {\vec {a}}(t+\Delta t)} が x → ( t + Δ t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t+\Delta t)} のみに依存し、 v → ( t + Δ t ) {\displaystyle {\vec {v}}(t+\Delta t)} に依存しないことを前提としている。
速度ベルレ法は、長期的にはリープ・フロッグ法と同様に半陰的オイラー法(英語版)よりもオーダー1つ分良い近似である。速度の時刻が半ステップずれる以外は殆ど同じである。このことは上述のループのステップ3から初めて、ステップ2と4を組み合わせればステップ1における加速度項は取り除けることに注意すればすぐに証明することができる。唯一の違いは、速度ベルレ法のける中間速度が半陰的オイラー法における最終速度として扱われることである。
オイラー法の大域誤差はオーダーは1であるのに対して、速度ベルレ法の大域誤差のオーダーは中点法と同じく2である。加えて、もし加速度が保存力もしくはハミルトニアン系(英語版)から定まる場合、エネルギーの近似値は厳密解における一定値のエネルギーのまわりを振動し、大域誤差は半陰的オイラー法ではオーダー1、速度ベルレ法およびリープ・フロッグ法ではオーダー2の範囲に収まる。系の運動量や角運動量などのシンプレクティック数値積分法で保存されるその他の量についても同じことが言える。
速度ベルレ法は、ニューマークのβ法(英語版)のβ=0, γ=1/2とした特殊例である。
速度ベルレ法は3Dアプリケーション一般に有用なアルゴリズムであり、以下のようなC++実装により一般的に解ける。加速度の向きの変化をデモするため、簡略化された抗力を作用させているが、加速度が一定でない場合にのみ必要となる。
ベルレ法の局所位置誤差は上述のとおり O ( Δ t 4 ) {\displaystyle O(\Delta t^{4})} 、局所速度誤差は O ( Δ t 2 ) {\displaystyle O(\Delta t^{2})} である。
しかし、大域位置誤差は O ( Δ t 2 ) {\displaystyle O(\Delta t^{2})} 、大域速度誤差は O ( Δ t 2 ) {\displaystyle O(\Delta t^{2})} である。これは次のように導出できる。
および
より以下が導かれる。
同様に繰り返せば、以下を得る。
この数列の一般項は以下のように得られる。
大域位置誤差は T = n Δ t {\displaystyle T=n\Delta t} としたときの位置 x ( t + T ) {\displaystyle x(t+T)} の誤差であるから、次を得る。
したがって、時間間隔を一定とした場合の大域(累積)誤差は以下のオーダーとなる。
ベルレ法では速度は位置に依存して非累積的に算出されるため、大域速度誤差のオーダーも O ( Δ t 2 ) {\displaystyle O(\Delta t^{2})} となる。
分子動力学シミュレーションでは通常、局所誤差よりも大域誤差のほうがはるかに重要であるため、ベルレ法はオーダー2の積分アルゴリズムとみなされる。
拘束条件下にある多粒子系は、ベルレ法を用いるほうがオイラー法よりも単純に解くことができる。質点間の拘束条件はたとえば距離を特定値に拘束したり引力を印加したりする条件が考えられるが、粒子間をばねで繋いだと考えることができる。無限に硬いばねを用いれば、このモデルはベルレ法で解くことができる。
一次元の場合、i番目の質点の時刻tにおける、拘束されない位置を x ~ i ( t ) {\displaystyle {\tilde {x}}_{i}^{(t)}} 、実際の位置を x i ( t ) {\displaystyle x_{i}^{(t)}} とすると、これらの間の関係は以下のようなアルゴリズムで得ることができる。
ベルレ法は位置を直接力に関係づけるため、速度を用いて問題を解くよりも使いやすい。
しかし、各粒子に複数の拘束条件が課される場合、問題が起きる。この問題を解決するには、シミュレーションのタイムステップを小さくしたり、タイムステップごとに決まったステップ数の拘束緩和を行ったり、残差が特定の値を下回るまで拘束を緩和する、などの方法でシミュレーションを実装する。
拘束条件を1次までで局所近似する場合、これはガウス=ザイデル法と同等となる。行列が小さい場合、LU分解の方が速いことが知られている。大きな系もクラスター(例:ラグドール=クラスター)に分解できることがある。クラスター内ではLU分解を用い、クラスター間にはガウス=ザイデル法を用いればよい。行列のコードを再利用し、力の位置への依存性を1次局所近似することにより、ベルレ積分をより暗黙的にすることができる。
SuperLUを始めとした、疎行列を用いて複雑な問題を解くための洗練されたも存在する。また、例えば音波を形成することなく力を布を伝わらせるなどの特殊化された問題を取り扱うための特殊な技法もある。
ホロノミック拘束(英語版)を解くには、拘束条件(英語版)を扱えるアルゴリズムを用いる必要がある。
衝突に応答する一つの方法として、ペナルティに基く方法が挙げられる。この方法では基本的に衝突した点に力を加える。問題は、加える力をどのように決めるかである。力が強すぎると物体は不安定になり、弱すぎると互いに貫通してしまう。衝突に応答する別の方法としては投影法があり、衝突した物体を最小の移動距離で相手の物体の内部から出すように動かすことで衝突に応答する。
ベルレ法では、後者の方法で衝突した場合の速度が自動的に決定する。しかし、このことは衝突の物理が自動的に満たされる(すなわち運動量の変化が現実的なものとなる)ことを意味しない。速度項を暗黙的に変化させる代わりに、衝突した物体の最終速度を陽に(直前のタイムステップにおいて記録された位置を変化させることにより)制御する必要がある。
新しい速度を決める最も単純な方法として、完全弾性衝突もしくは完全非弾性衝突を仮定することが挙げられる。より複雑な制御方法では、反発係数を用いることもある。
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"text": "位置に依存する加速度を表す適切なベクトル値関数Aを使用します。通常、も与えられます。ここで、ベクトル値関数Aは位置依存加速度をあらわす。通常は、初期位置 x → ( 0 ) = x → 0 {\\displaystyle {\\vec {x}}(0)={\\vec {x}}_{0}} および初速度 v → ( 0 ) = x → ̇ ( 0 ) = v → 0 {\\displaystyle {\\vec {v}}(0)={\\dot {\\vec {x}}}(0)={\\vec {v}}_{0}} も所与である。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "この初期値問題を離散化し、数値的に解くため、タイムステップ Δ t > 0 {\\displaystyle \\Delta t>0} を選び、サンプル点列 t n = n Δ t {\\displaystyle t_{n}=n\\,\\Delta t} を考える。このとき、問題は厳密解 x → ( t n ) {\\displaystyle {\\vec {x}}(t_{n})} をよく近似する点群列 x → n {\\displaystyle {\\vec {x}}_{n}} をもとめることに帰着する。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "オイラー法が1階微分方程式中の1次微分を前進差分近似するのに対し、ベレ積分は2次微分を中心差分近似すると見ることができる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "「Störmerの方法」で用いられる形式の「ベレ積分」は、 この式を用い、速度を使わずに以前の2つの位置から次の座標を与える。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "このアルゴリズムは本質的に時間反転対称性を持ち、離散化の際に奇数次の項が消え、 Δ t {\\displaystyle \\Delta t} について3次の項がなくなるため、局所誤差の大きさを低減することができる。局所誤差は厳密解 x → ( t n − 1 ) , x → ( t n ) , x → ( t n + 1 ) {\\displaystyle {\\vec {x}}(t_{n-1}),{\\vec {x}}(t_{n}),{\\vec {x}}(t_{n+1})} を代入し、 t = t n {\\displaystyle t=t_{n}} におけるテイラー展開から x → ( t ± Δ t ) {\\displaystyle {\\vec {x}}(t\\pm \\Delta t)} をそれぞれ計算することにより定量できる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ここで、 x → {\\displaystyle {\\vec {x}}} は位置、 v → = x → ̇ {\\displaystyle {\\vec {v}}={\\dot {\\vec {x}}}} は速度、 a → = x → ̈ {\\displaystyle {\\vec {a}}={\\ddot {\\vec {x}}}} は加速度、 b → {\\displaystyle {\\vec {b}}} は躍度である。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これら2つの級数を足し合わせると、以下の式を得る。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "この式から、テイラー展開の1次および3次の項がうち消しあい、ベレ積分の精度が単なるテイラー展開よりも1次高くなっていることがわかる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ここで、加速度 a → ( t ) = A ( x → ( t ) ) {\\displaystyle {\\vec {a}}(t)=A{\\big (}{\\vec {x}}(t){\\big )}} は厳密解を用いて計算されているが、逐次計算時には中心座標を用いて a → n = A ( x → n ) {\\displaystyle {\\vec {a}}_{n}=A({\\vec {x}}_{n})} のように計算されることに注意が必要である。大域誤差を計算する際には、この厳密解と近似解列との差は消えず、大域誤差に寄与する。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "局所誤差と大域誤差との関係について洞察を得るため、厳密解と近似解が陽に書き下せるシンプルな例を考えてみる。このような例として標準的なものとして指数関数があげられる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "wを定数として、線形微分方程式 x ̈ ( t ) = w 2 x ( t ) {\\displaystyle {\\ddot {x}}(t)=w^{2}x(t)} を考える。この方程式の厳密解は e w t {\\displaystyle e^{wt}} および e − w t {\\displaystyle e^{-wt}} である。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "この微分方程式にStörmerの方法を適用すると、以下の線形漸化式を得る。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "もしくは",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これは特性多項式の根を求めること、すなわち q 2 − 2 ( 1 + 1 2 ( w h ) 2 ) q + 1 = 0 {\\displaystyle q^{2}-2\\left(1+{\\tfrac {1}{2}}(wh)^{2}\\right)q+1=0} の解を求めることにより解くことができ、以下の根が得られる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "上の線形漸化式のbasis solutionsは x n = q + n {\\displaystyle x_{n}=q_{+}^{n}} および x n = q − n {\\displaystyle x_{n}=q_{-}^{n}} である。これらを厳密解と比較するため、テイラー展開すると以下を得る。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "この級数の指数関数 e w h {\\displaystyle e^{wh}} との商は 1 − 1 24 ( w h ) 3 + O ( h 5 ) {\\displaystyle 1-{\\tfrac {1}{24}}(wh)^{3}+{\\mathcal {O}}(h^{5})} となるため、以下のように書ける。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ここから、最初のbasis solutionの誤差は以下のように算出される。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "したがって、局所離散化誤差は4次以上となるが、微分方程式が2階のため、大域誤差は2次で、時間的に指数的に増加する定数項をもつ。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ベルレ法の最初のステップ、 n = 1 {\\displaystyle n=1} 、 t = t 1 = Δ t {\\displaystyle t=t_{1}=\\Delta t} で、 x → 2 {\\displaystyle {\\vec {x}}_{2}} を計算するためには t = t 1 {\\displaystyle t=t_{1}} における位置ベクトル x → 1 {\\displaystyle {\\vec {x}}_{1}} が必要となる。初期条件は t 0 = 0 {\\displaystyle t_{0}=0} に対してのみ所与なので、一見これは問題をはらんでいるようにみえる。しかし、加速度 a → 0 = A → ( x → 0 ) {\\displaystyle {\\vec {a}}_{0}={\\vec {A}}({\\vec {x}}_{0})} は既知であるため、最初のステップは2次までのテイラー展開を用いて計算することができる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この最初のステップの誤差は O ( Δ t 3 ) {\\displaystyle {\\mathcal {O}}(\\Delta t^{3})} である。しかし、シミュレーションは長い時間、何ステップにもわたって行われ、時刻 t n {\\displaystyle t_{n}} におけるトータルの誤差は、 x → n {\\displaystyle {\\vec {x}}_{n}} と x → ( t n ) {\\displaystyle {\\vec {x}}(t_{n})} との距離および x → n + 1 − x → n Δ t {\\displaystyle {\\tfrac {{\\vec {x}}_{n+1}-{\\vec {x}}_{n}}{\\Delta t}}} と x → ( t n + 1 ) − x → ( t n ) Δ t {\\displaystyle {\\tfrac {{\\vec {x}}(t_{n+1})-{\\vec {x}}(t_{n})}{\\Delta t}}} との比の両方でオーダー O ( e L t n Δ t 2 ) {\\displaystyle {\\mathcal {O}}(e^{Lt_{n}}\\Delta t^{2})} であり、最初のステップにおける誤差は無視できる。さらに言えば、この2次の大域誤差を得るためには初期誤差は最低でも3次である必要がある。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "Störmer–Verlet法の弱点として、タイムステップ Δ t {\\displaystyle \\Delta t} が変化すると微分関数の近似解を与えなくなってしまう点である。この弱点は次の式を使うことにより修正できる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "より厳密な導出は、 t i {\\displaystyle t_{i}} における2次までのテイラー展開に t i + 1 = t i + Δ t i {\\displaystyle t_{i+1}=t_{i}+\\Delta t_{i}} と t i − 1 = t i − Δ t i − 1 {\\displaystyle t_{i-1}=t_{i}-\\Delta t_{i-1}} を代入し、 v → i {\\displaystyle {\\vec {v}}_{i}} を消去して以下を得る。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "したがって、次の式を得る。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "基本的なStörmer方程式は速度を陽に与えないが、運動エネルギーなど特定の物理量を計算するためには速度が必要となる。このことは分子動力学法において、時刻 t {\\displaystyle t} における運動エネルギーや瞬時温度を時刻 t + Δ t {\\displaystyle t+\\Delta t} における位置を計算するまで計算できないという技術的な問題をひきおこす。この欠点は速度ベレ法を用いるか、平均値の定理を用いて以下のように位置から速度を推定することで対処することができる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ここで、この速度項は時刻t + Δtではなく時刻 t {\\displaystyle t} の速度であり、位置項の1ステップ後ろである。このことは v → n = x → n + 1 − x → n − 1 2 Δ t {\\displaystyle {\\vec {v}}_{n}={\\tfrac {{\\vec {x}}_{n+1}-{\\vec {x}}_{n-1}}{2\\Delta t}}} は v → ( t n ) {\\displaystyle {\\vec {v}}(t_{n})} の2次近似であることを意味する。同じ議論として、タイムステップを半分 t n + 1 / 2 = t n + 1 2 Δ t {\\displaystyle t_{n+1/2}=t_{n}+{\\tfrac {1}{2}}\\Delta t} にした v → n + 1 / 2 = x → n + 1 − x → n Δ t {\\displaystyle {\\vec {v}}_{n+1/2}={\\tfrac {{\\vec {x}}_{n+1}-{\\vec {x}}_{n}}{\\Delta t}}} は v → ( t n + 1 / 2 ) {\\displaystyle {\\vec {v}}(t_{n+1/2})} の2次近似である。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "精度を犠牲にすれば、時刻t + Δtにおける速度を次のように近似することもできる。",
"title": "基本"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "関連する、より広く用いられているアルゴリズムとして速度ベルレ法があげられる。この手法はリープ・フロッグ法に似ているが、同時刻の位置と速度を計算する点(リープ・フロッグ法では名前の含意するとおり計算しない)で違う。速度ベルレ法とベルレ法は似ているが、陽に速度を扱い、初期ステップにおける速度を明示的に解く点で異なる。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "速度ベルレ法とベルレ法の誤差は同じオーダーであることは示すことができる。ベルレ法では2時刻における位置を記憶しておく必要があるため、1時刻における位置と速度を記憶する速度ベルレ法の法がメモリ消費量が多いとは限らない。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "半ステップ速度計算を省く場合、以下のように簡略化される。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ただし、加速度 a → ( t + Δ t ) {\\displaystyle {\\vec {a}}(t+\\Delta t)} が x → ( t + Δ t ) {\\displaystyle {\\vec {x}}(t+\\Delta t)} のみに依存し、 v → ( t + Δ t ) {\\displaystyle {\\vec {v}}(t+\\Delta t)} に依存しないことを前提としている。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "速度ベルレ法は、長期的にはリープ・フロッグ法と同様に半陰的オイラー法(英語版)よりもオーダー1つ分良い近似である。速度の時刻が半ステップずれる以外は殆ど同じである。このことは上述のループのステップ3から初めて、ステップ2と4を組み合わせればステップ1における加速度項は取り除けることに注意すればすぐに証明することができる。唯一の違いは、速度ベルレ法のける中間速度が半陰的オイラー法における最終速度として扱われることである。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "オイラー法の大域誤差はオーダーは1であるのに対して、速度ベルレ法の大域誤差のオーダーは中点法と同じく2である。加えて、もし加速度が保存力もしくはハミルトニアン系(英語版)から定まる場合、エネルギーの近似値は厳密解における一定値のエネルギーのまわりを振動し、大域誤差は半陰的オイラー法ではオーダー1、速度ベルレ法およびリープ・フロッグ法ではオーダー2の範囲に収まる。系の運動量や角運動量などのシンプレクティック数値積分法で保存されるその他の量についても同じことが言える。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "速度ベルレ法は、ニューマークのβ法(英語版)のβ=0, γ=1/2とした特殊例である。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "速度ベルレ法は3Dアプリケーション一般に有用なアルゴリズムであり、以下のようなC++実装により一般的に解ける。加速度の向きの変化をデモするため、簡略化された抗力を作用させているが、加速度が一定でない場合にのみ必要となる。",
"title": "速度ベルレ法"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ベルレ法の局所位置誤差は上述のとおり O ( Δ t 4 ) {\\displaystyle O(\\Delta t^{4})} 、局所速度誤差は O ( Δ t 2 ) {\\displaystyle O(\\Delta t^{2})} である。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "しかし、大域位置誤差は O ( Δ t 2 ) {\\displaystyle O(\\Delta t^{2})} 、大域速度誤差は O ( Δ t 2 ) {\\displaystyle O(\\Delta t^{2})} である。これは次のように導出できる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "および",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "より以下が導かれる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "同様に繰り返せば、以下を得る。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "この数列の一般項は以下のように得られる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "大域位置誤差は T = n Δ t {\\displaystyle T=n\\Delta t} としたときの位置 x ( t + T ) {\\displaystyle x(t+T)} の誤差であるから、次を得る。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "したがって、時間間隔を一定とした場合の大域(累積)誤差は以下のオーダーとなる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ベルレ法では速度は位置に依存して非累積的に算出されるため、大域速度誤差のオーダーも O ( Δ t 2 ) {\\displaystyle O(\\Delta t^{2})} となる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "分子動力学シミュレーションでは通常、局所誤差よりも大域誤差のほうがはるかに重要であるため、ベルレ法はオーダー2の積分アルゴリズムとみなされる。",
"title": "誤差項"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "拘束条件下にある多粒子系は、ベルレ法を用いるほうがオイラー法よりも単純に解くことができる。質点間の拘束条件はたとえば距離を特定値に拘束したり引力を印加したりする条件が考えられるが、粒子間をばねで繋いだと考えることができる。無限に硬いばねを用いれば、このモデルはベルレ法で解くことができる。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "一次元の場合、i番目の質点の時刻tにおける、拘束されない位置を x ~ i ( t ) {\\displaystyle {\\tilde {x}}_{i}^{(t)}} 、実際の位置を x i ( t ) {\\displaystyle x_{i}^{(t)}} とすると、これらの間の関係は以下のようなアルゴリズムで得ることができる。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ベルレ法は位置を直接力に関係づけるため、速度を用いて問題を解くよりも使いやすい。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "しかし、各粒子に複数の拘束条件が課される場合、問題が起きる。この問題を解決するには、シミュレーションのタイムステップを小さくしたり、タイムステップごとに決まったステップ数の拘束緩和を行ったり、残差が特定の値を下回るまで拘束を緩和する、などの方法でシミュレーションを実装する。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "拘束条件を1次までで局所近似する場合、これはガウス=ザイデル法と同等となる。行列が小さい場合、LU分解の方が速いことが知られている。大きな系もクラスター(例:ラグドール=クラスター)に分解できることがある。クラスター内ではLU分解を用い、クラスター間にはガウス=ザイデル法を用いればよい。行列のコードを再利用し、力の位置への依存性を1次局所近似することにより、ベルレ積分をより暗黙的にすることができる。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "SuperLUを始めとした、疎行列を用いて複雑な問題を解くための洗練されたも存在する。また、例えば音波を形成することなく力を布を伝わらせるなどの特殊化された問題を取り扱うための特殊な技法もある。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ホロノミック拘束(英語版)を解くには、拘束条件(英語版)を扱えるアルゴリズムを用いる必要がある。",
"title": "拘束"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "衝突に応答する一つの方法として、ペナルティに基く方法が挙げられる。この方法では基本的に衝突した点に力を加える。問題は、加える力をどのように決めるかである。力が強すぎると物体は不安定になり、弱すぎると互いに貫通してしまう。衝突に応答する別の方法としては投影法があり、衝突した物体を最小の移動距離で相手の物体の内部から出すように動かすことで衝突に応答する。",
"title": "衝突応答"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ベルレ法では、後者の方法で衝突した場合の速度が自動的に決定する。しかし、このことは衝突の物理が自動的に満たされる(すなわち運動量の変化が現実的なものとなる)ことを意味しない。速度項を暗黙的に変化させる代わりに、衝突した物体の最終速度を陽に(直前のタイムステップにおいて記録された位置を変化させることにより)制御する必要がある。",
"title": "衝突応答"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "新しい速度を決める最も単純な方法として、完全弾性衝突もしくは完全非弾性衝突を仮定することが挙げられる。より複雑な制御方法では、反発係数を用いることもある。",
"title": "衝突応答"
}
] |
ベレの方法は、ニュートンの運動方程式を数値積分する手法の一つ。ベレのアルゴリズム、ベレ法、ベルレ積分法(Verlet integration)、ベルレの方法などの呼び方もある。分子動力学法における粒子の軌跡(トラジェクトリ)のシミュレーションやコンピュータグラフィックスに頻繁に用いられる。1791年にジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルが用いたのが最初で、その後も何回も再発見されているが、1960年代にLoup Verletが分子動力学法に用いてから広く使われるようになった。1909年にハレー彗星の軌道を計算するためにフィリップ・コーウェルとアンドリュー・クロンメリンにより用いられたり、1907年に磁場中の荷電粒子のトラジェクトリを研究するためにCarl Størmerにより用いられたりしている(そのため、Störmerの方法という異称もある)。この手法の特徴として、数値的安定性が高く、時間反転対称性を持つことや位相空間上のシンプレクティック形式を保存するなど物理系において重要な性質を持つうえ、オイラー法と比べてもほとんど計算コストが増えないことが挙げられる。
|
{{翻訳直後|[[:en:Special:Permalink/1024685434|Verlet integration]]|date=2023年5月}}
'''ベレの方法'''(ベレのほうほう、{{lang-en-short|Verlet algorithm}})は、[[ニュートンの運動方程式]]を[[常微分方程式の数値解法|数値積分]]する手法の一つ<ref name="Verlet1967">{{cite journal|last=Verlet|first=Loup|year=1967|title=Computer "Experiments" on Classical Fluids. I. Thermodynamical Properties of Lennard−Jones Molecules|journal=Physical Review|volume=159|issue=1|pages=98–103|bibcode=1967PhRv..159...98V|doi=10.1103/PhysRev.159.98|doi-access=free}}</ref>。'''ベレのアルゴリズム'''、'''ベレ法'''、'''ベルレ積分法'''({{Lang|en|Verlet integration}})、'''ベルレの方法'''などの呼び方もある。[[分子動力学法]]における粒子の軌跡(トラジェクトリ)のシミュレーションや[[コンピュータグラフィックス]]に頻繁に用いられる。1791年に[[ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブル]]が用いたのが最初で、その後も何回も再発見されているが、1960年代に[[:en:Loup_Verlet|Loup Verlet]]が分子動力学法に用いてから広く使われるようになった。1909年に[[ハレー彗星]]の[[軌道 (力学)|軌道]]を計算するために[[フィリップ・コーウェル]]と[[アンドリュー・クロンメリン]]により用いられたり、1907年に磁場中の[[荷電粒子]]のトラジェクトリを研究するために[[:en:Carl_Størmer|Carl Størmer]]により用いられたりしている(そのため、'''Störmerの方法'''という異称もある)。<ref>{{Cite book |last1=Press |first1=W. H. |last2=Teukolsky |first2=S. A. |last3=Vetterling |first3=W. T. |last4=Flannery |first4=B. P. |year=2007 |title=Numerical Recipes: The Art of Scientific Computing |edition=3rd |publisher=Cambridge University Press |location=New York |isbn=978-0-521-88068-8 |chapter=Section 17.4. Second-Order Conservative Equations |chapter-url=http://apps.nrbook.com/empanel/index.html#pg=928}}</ref>この手法の特徴として、[[数値的安定性]]が高く、[[T対称性|時間反転対称性]]を持つことや[[位相空間 (物理学)|位相空間]]上の[[シンプレクティック数値積分法|シンプレクティック形式を保存]]するなど[[系 (自然科学)|物理系]]において重要な性質を持つうえ、[[オイラー法]]と比べてもほとんど計算コストが増えないことが挙げられる。
== 基本 ==
<math>\ddot{\vec x}(t) = \vec A\big(\vec x(t)\big)</math>の形の2階[[微分方程式]]を初期条件<math>\vec x(t_0) = \vec x_0</math>および<math>\dot{\vec x}(t_0) = \vec v_0</math>のもとで、<math>\Delta t > 0</math>をステップサイズとして、<math>t_n = t_0 + n\,\Delta t</math>における数値的近似解<math>\vec x_n \approx \vec x(t_n)</math>は、下のようなアルゴリズムで求めることができる。
* <math>\vec x_1 = \vec x_0 + \vec v_0\,\Delta t + \frac12 \vec A(\vec x_0)\,\Delta t^2</math> と置く。
* ''n'' = 1、2、...について次を繰り返す。
*: <math>
\vec x_{n+1} = 2 \vec x_n - \vec x_{n-1} + \vec A(\vec x_n)\,\Delta t^2.
</math>
=== 運動方程式 ===
[[保存系]]におけるニュートンの運動方程式は
: <math>M \ddot{\vec x}(t) = F\big(\vec x(t)\big) = -\nabla V\big(\vec x(t)\big)</math>
もしくは粒子毎に
: <math>m_k \ddot{\vec x}_k(t) = F_k\big(\vec x(t)\big) = -\nabla_{\vec x_k} V\big(\vec x(t)\big),</math>
と表わされる。ここで、
: {{Mvar|t}}は時刻、
: <math>\vec x(t) = \big(\vec x_1(t), \ldots, \vec x_N(t)\big)</math> は{{Mvar|N}}個の物体の位置ベクトル、
: {{Mvar|V}}はスカラーポテンシャル関数、
: {{mvar|F}}は負のポテンシャル勾配、すなわち粒子にはたらく力の集合、
: {{mvar|M}}[[質量行列]]で、各粒子の質量<math>m_k</math>を対角要素にもつ行列である。
この等式は、[[分子動力学法|相互作用する分子群]]や[[多体問題|惑星の軌道]]などさまざまな物理系が、さまざまなポテンシャル関数{{Mvar|V}}を決めたときどのように時間発展するかを記述するために用いることができる。
右辺に質量を移し、粒子系の構造を忘れることにすると、上の式は以下のように単純化することができる。
: <math>\ddot{\vec x}(t) = A\big(\vec x(t)\big)</math>
位置に依存する加速度を表す適切なベクトル値関数''A''を使用します。通常、も与えられます。ここで、ベクトル値関数{{mvar|A}}は位置依存加速度をあらわす。通常は、初期位置<math>\vec x(0) = \vec x_0</math>および初速度<math>\vec v(0) = \dot{\vec x}(0) = \vec v_0</math>も所与である。
=== ベレ積分(速度なし) ===
この[[初期値問題]]を離散化し、数値的に解くため、タイムステップ<math>\Delta t > 0</math>を選び、サンプル点列<math>t_n = n\,\Delta t</math>を考える。このとき、問題は厳密解<math>\vec x(t_n)</math>をよく近似する点群列<math>\vec x_n</math>をもとめることに帰着する。
[[オイラー法]]が1階微分方程式中の1次微分を[[有限差分|前進差分]]近似するのに対し、ベレ積分は2次微分を中心差分近似すると見ることができる。
: <math>
\frac{\Delta^2\vec x_n}{\Delta t^2}
= \frac{\frac{\vec x_{n+1} - \vec x_n}{\Delta t} - \frac{\vec x_n - \vec x_{n-1}}{\Delta t}}{\Delta t}
= \frac{\vec x_{n+1} - 2 \vec x_n + \vec x_{n-1}}{\Delta t^2} = \vec a_n = \vec A(\vec x_n)
</math>
「Störmerの方法」<ref>[http://www.fisica.uniud.it/~ercolessi/md/md/node21.html webpage] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040803212552/http://www.fisica.uniud.it/~ercolessi/md/md/node21.html|date=2004-08-03}} with a description of the Störmer method.</ref>で用いられる形式の「ベレ積分」は、 この式を用い、速度を使わずに以前の2つの位置から次の座標を与える。
: <math>
\vec x_{n+1} = 2 \vec x_n - \vec x_{n-1} + \vec a_n\,\Delta t^2,
\qquad \vec a_n = \vec A(\vec x_n)
</math>
=== 離散化誤差 ===
このアルゴリズムは本質的に時間反転対称性を持ち、離散化の際に奇数次の項が消え、<math>\Delta t</math>について3次の項がなくなるため、局所誤差の大きさを低減することができる。局所誤差は厳密解<math>\vec x(t_{n-1}), \vec x(t_n), \vec x(t_{n+1})</math>を代入し、<math>t = t_n</math>における[[テイラー展開]]から<math>\vec{x}(t \pm \Delta t)</math>をそれぞれ計算することにより定量できる。
: <math>\begin{align}
\vec{x}(t + \Delta t)
&= \vec{x}(t) + \vec{v}(t)\Delta t + \frac{\vec{a}(t) \Delta t^2}{2}
+ \frac{\vec{b}(t) \Delta t^3}{6} + \mathcal{O}(\Delta t^4)\\
\vec{x}(t - \Delta t)
&= \vec{x}(t) - \vec{v}(t)\Delta t + \frac{\vec{a}(t) \Delta t^2}{2}
- \frac{\vec{b}(t) \Delta t^3}{6} + \mathcal{O}(\Delta t^4)
\end{align}</math>
ここで、<math>\vec{x}</math>は位置、<math>\vec{v} = \dot{\vec x}</math>は速度、<math>\vec{a} = \ddot{\vec x}</math>は加速度、<math>\vec{b}</math>は[[躍度]]である。
これら2つの級数を足し合わせると、以下の式を得る。
: <math>\vec{x}(t + \Delta t) = 2\vec{x}(t) - \vec{x}(t - \Delta t) + \vec{a}(t) \Delta t^2 + \mathcal{O}(\Delta t^4).</math>
この式から、テイラー展開の1次および3次の項がうち消しあい、ベレ積分の精度が単なるテイラー展開よりも1次高くなっていることがわかる。
ここで、加速度<math>\vec a(t) = A\big(\vec x(t)\big)</math>は厳密解を用いて計算されているが、逐次計算時には中心座標を用いて<math>\vec a_n = A(\vec x_n)</math>のように計算されることに注意が必要である。大域誤差を計算する際には、この厳密解と近似解列との差は消えず、大域誤差に寄与する。
=== シンプルな例 ===
局所誤差と大域誤差との関係について洞察を得るため、厳密解と近似解が陽に書き下せるシンプルな例を考えてみる。このような例として標準的なものとして[[指数関数]]があげられる。
{{Mvar|w}}を定数として、線形微分方程式<math>\ddot x(t) = w^2 x(t)</math>を考える。この方程式の厳密解は<math>e^{wt}</math>および<math>e^{-wt}</math>である。
この微分方程式にStörmerの方法を適用すると、以下の線形[[漸化式]]を得る。
: <math>x_{n+1} - 2x_n + x_{n-1} = h^2 w^2 x_n,</math>
もしくは
: <math>x_{n+1} - 2\left(1 + \tfrac12(wh)^2\right) x_n + x_{n-1} = 0</math>
これは特性[[多項式の根]]を求めること、すなわち<math>q^2 - 2\left(1 + \tfrac12(wh)^2\right)q + 1 = 0</math>の解を求めることにより解くことができ、以下の根が得られる。
: <math>q_\pm = 1 + \tfrac12(wh)^2 \pm wh \sqrt{1 + \tfrac14(wh)^2}</math>
上の線形漸化式のbasis solutions{{訳語疑問点|date=2023年5月|基底解}}は<math>x_n = q_+^n</math>および<math>x_n = q_-^n</math>である。これらを厳密解と比較するため、テイラー展開すると以下を得る。
: <math>\begin{align}
q_+ &= 1 + \tfrac12(wh)^2 + wh\left(1 + \tfrac18(wh)^2 - \tfrac{3}{128}(wh)^4 + \mathcal O(h^6)\right)\\
&= 1 + (wh) + \tfrac12(wh)^2 + \tfrac18(wh)^3 - \tfrac{3}{128}(wh)^5 + \mathcal O(h^7).
\end{align}</math>
この級数の指数関数<math>e^{wh}</math>との商は<math>1 - \tfrac1{24}(wh)^3 + \mathcal O(h^5)</math>となるため、以下のように書ける。
: <math>\begin{align}
q_+ &= \left(1 - \tfrac1{24}(wh)^3 + \mathcal O(h^5)\right)e^{wh}\\
&= e^{-\frac{1}{24}(wh)^3 + \mathcal O(h^5)}\,e^{wh}
\end{align}</math>
ここから、最初のbasis solutionの誤差は以下のように算出される。
: <math>\begin{align}
x_n = q_+^{\;n}
&= e^{-\frac{1}{24}(wh)^2\,wt_n + \mathcal O(h^4)}\,e^{wt_n}\\
&= e^{wt_n}\left(1 - \tfrac{1}{24}(wh)^2\,wt_n + \mathcal O(h^4)\right)\\
&= e^{wt_n} + \mathcal O(h^2 t_n e^{wt_n})
\end{align}</math>
したがって、局所離散化誤差は4次以上となるが、微分方程式が2階のため、大域誤差は2次で、時間的に指数的に増加する定数項をもつ。
=== 逐次計算の開始 ===
ベルレ法の最初のステップ、<math>n = 1</math>、<math>t = t_1 = \Delta t</math>で、<math>\vec x_2</math>を計算するためには<math>t = t_1</math>における位置ベクトル<math>\vec x_1</math>が必要となる。初期条件は<math>t_0 = 0</math>に対してのみ所与なので、一見これは問題をはらんでいるようにみえる。しかし、加速度<math>\vec a_0 = \vec A(\vec x_0)</math>は既知であるため、最初のステップは2次までのテイラー展開を用いて計算することができる。
: <math>
\vec x_1 = \vec{x}_0 + \vec{v}_0 \Delta t + \tfrac12 \vec a_0 \Delta t^2
\approx \vec{x}(\Delta t) + \mathcal{O}(\Delta t^3).
</math>
この最初のステップの誤差は<math>\mathcal O(\Delta t^3)</math>である。しかし、シミュレーションは長い時間、何ステップにもわたって行われ、時刻<math>t_n</math>におけるトータルの誤差は、<math>\vec x_n</math>と<math>\vec x(t_n)</math>との距離および<math>\tfrac{\vec x_{n+1} - \vec x_n}{\Delta t}</math>と<math>\tfrac{\vec x(t_{n+1}) - \vec x(t_n)}{\Delta t}</math>との比の両方でオーダー<math>\mathcal O(e^{Lt_n} \Delta t^2)</math>であり、最初のステップにおける誤差は無視できる。さらに言えば、この2次の大域誤差を得るためには初期誤差は最低でも3次である必要がある。
=== 非一様なタイムステップ ===
Störmer–Verlet法の弱点として、タイムステップ<math>\Delta t</math>が変化すると微分関数の近似解を与えなくなってしまう点である。この弱点は次の式を使うことにより修正できる<ref>{{cite web |last=Dummer |first=Jonathan |title=A Simple Time-Corrected Verlet Integration Method |url=http://lonesock.net/article/verlet.html}}</ref>。
: <math>
\vec x_{i+1}
= \vec x_i
+ (\vec x_i - \vec x_{i-1}) (\Delta t_i / \Delta t_{i-1})
+ \vec a_i \Delta t_i^2.
</math>
より厳密な導出は、<math>t_i</math>における2次までのテイラー展開に<math>t_{i+1} = t_i + \Delta t_i</math>と<math>t_{i-1} = t_i - \Delta t_{i-1}</math>を代入し、<math>\vec v_i</math>を消去して以下を得る。
: <math>
\frac{\vec x_{i+1} - \vec x_i}{\Delta t_i}
+ \frac{\vec x_{i-1} - \vec x_i}{\Delta t_{i-1}}
= \vec a_i\,\frac{\Delta t_{i} + \Delta t_{i-1}}2,
</math>
したがって、次の式を得る。
: <math>
\vec x_{i+1}
= \vec x_i
+ (\vec x_i - \vec x_{i-1}) \frac{\Delta t_i}{\Delta t_{i-1}}
+ \vec a_i\,\frac{\Delta t_{i} + \Delta t_{i-1}}2\,\Delta t_i
</math>
=== 速度の計算:Störmer–Verlet法 ===
基本的なStörmer方程式は速度を陽に与えないが、運動エネルギーなど特定の物理量を計算するためには速度が必要となる。このことは分子動力学法において、時刻<math>t</math>における運動エネルギーや瞬時温度を時刻<math>t + \Delta t</math>における位置を計算するまで計算できないという技術的な問題をひきおこす。この欠点は速度ベレ法を用いるか、[[平均値の定理]]を用いて以下のように位置から速度を推定することで対処することができる。
: <math>
\vec{v}(t)
=
\frac{\vec{x}(t + \Delta t) - \vec{x}(t - \Delta t)}{2\Delta t}
+ \mathcal{O}(\Delta t^2).
</math>
ここで、この速度項は時刻{{Math|''t'' + Δ''t''}}ではなく時刻<math>t</math>の速度であり、位置項の1ステップ後ろである。このことは<math>\vec v_n = \tfrac{\vec x_{n+1} - \vec x_{n-1}}{2\Delta t}</math>は<math>\vec{v}(t_n)</math>の2次近似であることを意味する。同じ議論として、タイムステップを半分<math>t_{n+1/2} = t_n + \tfrac12 \Delta t</math>にした<math>\vec v_{n+1/2} = \tfrac{\vec x_{n+1} - \vec x_n}{\Delta t}</math>は<math>\vec{v}(t_{n+1/2})</math>の2次近似である。
精度を犠牲にすれば、時刻{{Math|''t'' + Δ''t''}}における速度を次のように近似することもできる。
: <math>\vec{v}(t + \Delta t) = \frac{\vec{x}(t + \Delta t) - \vec{x}(t)}{\Delta t} + \mathcal{O}(\Delta t)</math>
== 速度ベルレ法 ==
関連する、より広く用いられているアルゴリズムとして'''速度ベルレ法'''があげられる<ref>{{Cite journal|last=Swope|first=William C.|last2=H. C. Andersen|last3=P. H. Berens|last4=K. R. Wilson|date=1 January 1982|title=A computer simulation method for the calculation of equilibrium constants for the formation of physical clusters of molecules: Application to small water clusters|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=76|issue=1|pages=648 (Appendix)|bibcode=1982JChPh..76..637S|DOI=10.1063/1.442716}}</ref>。この手法は[[リープ・フロッグ法]]に似ているが、同時刻の位置と速度を計算する点(リープ・フロッグ法では名前の含意するとおり計算しない)で違う。速度ベルレ法とベルレ法は似ているが、陽に速度を扱い、初期ステップにおける速度を明示的に解く点で異なる。
: <math>\vec{x}(t + \Delta t) = \vec{x}(t) + \vec{v}(t)\, \Delta t + \frac{1}{2} \,\vec{a}(t) \Delta t^2,</math>
: <math>\vec{v}(t + \Delta t) = \vec{v}(t) + \frac{\vec{a}(t) + \vec{a}(t + \Delta t)}{2} \Delta t</math>
速度ベルレ法とベルレ法の誤差は同じオーダーであることは示すことができる。ベルレ法では2時刻における位置を記憶しておく必要があるため、1時刻における位置と速度を記憶する速度ベルレ法の法がメモリ消費量が多いとは限らない。
# <math>\vec{v}\left(t + \tfrac12\,\Delta t\right) = \vec{v}(t) + \tfrac12\,\vec{a}(t)\,\Delta t</math>を計算する。
# <math>\vec{x}(t + \Delta t) = \vec{x}(t) + \vec{v}\left(t + \tfrac12\,\Delta t\right)\, \Delta t</math>を計算する。
# <math>\vec{x}(t + \Delta t)</math>を用いて相互作用ポテンシャルを計算し、<math>\vec{a}(t + \Delta t)</math> を導出する。
# <math>\vec{v}(t + \Delta t) = \vec{v}\left(t + \tfrac12\,\Delta t\right) + \tfrac12\,\vec{a}(t + \Delta t)\Delta t</math>を計算する。
半ステップ速度計算を省く場合、以下のように簡略化される。
# <math>\vec{x}(t + \Delta t) = \vec{x}(t) + \vec{v}(t)\,\Delta t + \tfrac12 \,\vec{a}(t)\,\Delta t^2</math> を計算する。
# <math>\vec{x}(t + \Delta t)</math>を用いて相互作用ポテンシャルを計算し、<math>\vec{a}(t + \Delta t)</math>を導出する。
# <math>\vec{v}(t + \Delta t) = \vec{v}(t) + \tfrac12\,\big(\vec{a}(t) + \vec{a}(t + \Delta t)\big)\Delta t</math> を計算する。
ただし、加速度<math>\vec{a}(t + \Delta t)</math>が<math>\vec{x}(t + \Delta t)</math>のみに依存し、<math>\vec{v}(t + \Delta t)</math>に依存しないことを前提としている。
速度ベルレ法は、長期的にはリープ・フロッグ法と同様に{{仮リンク|半陰的オイラー法|en|Semi-implicit Euler method}}よりもオーダー1つ分良い近似である。速度の時刻が半ステップずれる以外は殆ど同じである。このことは上述のループのステップ3から初めて、ステップ2と4を組み合わせればステップ1における加速度項は取り除けることに注意すればすぐに証明することができる。唯一の違いは、速度ベルレ法のける中間速度が半陰的オイラー法における最終速度として扱われることである。
オイラー法の大域誤差はオーダーは1であるのに対して、速度ベルレ法の大域誤差のオーダーは[[中点法]]と同じく2である。加えて、もし加速度が[[ポテンシャル|保存力]]もしくは{{仮リンク|ハミルトニアン系|en|Hamiltonian system}}から定まる場合、エネルギーの近似値は厳密解における一定値のエネルギーのまわりを振動し、大域誤差は半陰的オイラー法ではオーダー1、速度ベルレ法およびリープ・フロッグ法ではオーダー2の範囲に収まる。系の運動量や角運動量などの[[シンプレクティック数値積分法]]で保存されるその他の量についても同じことが言える<ref name="Hairer2003">{{cite journal|last=Hairer|first=Ernst|last2=Lubich|first2=Christian|last3=Wanner|first3=Gerhard|year=2003|title=Geometric numerical integration illustrated by the Störmer/Verlet method|journal=Acta Numerica|volume=12|pages=399–450|bibcode=2003AcNum..12..399H|doi=10.1017/S0962492902000144|citeseerx=10.1.1.7.7106}}</ref>。
速度ベルレ法は、{{仮リンク|ニューマークのβ法|en|Newmark-beta method}}の{{Math|1=''β''=0, ''γ''=1/2}}とした特殊例である。
=== アルゴリズムの表現 ===
速度ベルレ法は3Dアプリケーション一般に有用なアルゴリズムであり、以下のようなC++実装により一般的に解ける。加速度の向きの変化をデモするため、簡略化された抗力を作用させているが、加速度が一定でない場合にのみ必要となる。<syntaxhighlight lang="c++" line="1">
struct Body
{
Vec3d pos { 0.0, 0.0, 0.0 };
Vec3d vel { 2.0, 0.0, 0.0 }; // x軸正方向に 2 m/s
Vec3d acc { 0.0, 0.0, 0.0 }; // 加速度の初期値は0
double mass = 1.0; // 1kg
double drag = 0.1; // rho*C*Area - 例示のための簡略化された抗力
/**
* Update pos and vel using "Velocity Verlet" integration
* @param dt DeltaTime / time step [eg: 0.01]
*/
void update(double dt)
{
Vec3d new_pos = pos + vel*dt + acc*(dt*dt*0.5);
Vec3d new_acc = apply_forces(); // 加速度が一定の場合は不要
Vec3d new_vel = vel + (acc+new_acc)*(dt*0.5);
pos = new_pos;
vel = new_vel;
acc = new_acc;
}
Vec3d apply_forces() const
{
Vec3d grav_acc = Vec3d{0.0, 0.0, -9.81 }; // Z軸負方向に 9.81m/s^2
Vec3d drag_force = 0.5 * drag * (vel * abs(vel)); // D = 0.5 * (rho * C * Area * vel^2)
Vec3d drag_acc = drag_force / mass; // a = F/m
return grav_acc - drag_acc;
}
};
</syntaxhighlight>
== 誤差項 ==
ベルレ法の局所位置誤差は上述のとおり<math>O(\Delta t^4)</math>、局所速度誤差は<math>O(\Delta t^2)</math>である。
しかし、大域位置誤差は<math>O(\Delta t^2)</math>、大域速度誤差は<math>O(\Delta t^2)</math>である。これは次のように導出できる。
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + \Delta t)\bigr) = O(\Delta t^4)</math>
および
: <math>x(t_0 + 2\Delta t) = 2x(t_0 + \Delta t) - x(t_0) + \Delta t^2 x''(t_0 + \Delta t) + O(\Delta t^4)</math>
より以下が導かれる。
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + 2\Delta t)\bigr) = 2\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + \Delta t)\bigr) + O(\Delta t^4) = 3\,O(\Delta t^4)</math>
同様に繰り返せば、以下を得る。
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + 3\Delta t)\bigl) = 6\,O(\Delta t^4)</math>
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + 4\Delta t)\bigl) = 10\,O(\Delta t^4)</math>
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + 5\Delta t)\bigl) = 15\,O(\Delta t^4)</math>
この数列の一般項は以下のように得られる。
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + n\Delta t)\bigr) = \frac{n(n+1)}{2}\,O(\Delta t^4)</math>
大域位置誤差は<math>T = n\Delta t</math>としたときの位置<math>x(t + T)</math>の誤差であるから、次を得る。
: <math>\mathrm{error}\bigl(x(t_0 + T)\bigr) = \left(\frac{T^2}{2\Delta t^2} + \frac{T}{2\Delta t}\right) O(\Delta t^4)</math>{{要出典|date=July 2018}}
したがって、時間間隔を一定とした場合の大域(累積)誤差は以下のオーダーとなる。
: <math>\mathrm{error}\bigr(x(t_0 + T)\bigl) = O(\Delta t^2)</math>
ベルレ法では速度は位置に依存して非累積的に算出されるため、大域速度誤差のオーダーも<math>O(\Delta t^2)</math>となる。
分子動力学シミュレーションでは通常、局所誤差よりも大域誤差のほうがはるかに重要であるため、ベルレ法はオーダー2の積分アルゴリズムとみなされる。
== 拘束 ==
拘束条件下にある多粒子系は、ベルレ法を用いるほうがオイラー法よりも単純に解くことができる。質点間の拘束条件はたとえば距離を特定値に拘束したり引力を印加したりする条件が考えられるが、粒子間を[[ばね]]で繋いだと考えることができる。無限に硬いばねを用いれば、このモデルはベルレ法で解くことができる。
一次元の場合、{{Mvar|i}}番目の質点の時刻{{Mvar|t}}における、拘束されない位置を<math>\tilde{x}_i^{(t)}</math>、実際の位置を<math>x_i^{(t)}</math>とすると、これらの間の関係は以下のようなアルゴリズムで得ることができる。
: <math>d_1 = x_2^{(t)} - x_1^{(t)},</math>
: <math>d_2 = \|d_1\|,</math>
: <math>d_3 = \frac{d_2 - r}{d_2},</math>
: <math>x_1^{(t + \Delta t)} = \tilde{x}_1^{(t + \Delta t)} + \frac{1}{2} d_1 d_3,</math>
: <math>x_2^{(t + \Delta t)} = \tilde{x}_2^{(t + \Delta t)} - \frac{1}{2} d_1 d_3.</math>
ベルレ法は位置を直接力に関係づけるため、速度を用いて問題を解くよりも使いやすい。
しかし、各粒子に複数の拘束条件が課される場合、問題が起きる。この問題を解決するには、シミュレーションのタイムステップを小さくしたり、タイムステップごとに決まったステップ数の拘束緩和を行ったり、残差が特定の値を下回るまで拘束を緩和する、などの方法でシミュレーションを実装する。
拘束条件を1次までで局所近似する場合、これは[[ガウス=ザイデル法]]と同等となる。[[行列]]が小さい場合、[[LU分解]]の方が速いことが知られている。大きな系もクラスター(例:[[ラグドール物理|ラグドール]]=クラスター)に分解できることがある。クラスター内ではLU分解を用い、クラスター間にはガウス=ザイデル法を用いればよい。行列のコードを再利用し、力の位置への依存性を1次局所近似することにより、ベルレ積分をより暗黙的にすることができる。
SuperLUを始めとした、疎行列を用いて複雑な問題を解くための洗練されたも存在する。また、例えば[[音波]]を形成することなく力を布を伝わらせるなどの特殊化された問題を取り扱うための特殊な技法もある<ref>{{Cite journal|last=Baraff|first=D.|last2=Witkin|first2=A.|date=1998|title=Large Steps in Cloth Simulation|url=https://www.cs.cmu.edu/~baraff/papers/sig98.pdf|journal=Computer Graphics Proceedings|volume=Annual Conference Series|pages=43–54}}</ref>。
{{仮リンク|ホロノミック拘束|en|Holonomic constraints}}を解くには、{{仮リンク|拘束条件|en|Constraint (computational chemistry)}}を扱えるアルゴリズムを用いる必要がある。
== 衝突応答 ==
[[衝突]]に応答する一つの方法として、ペナルティに基く方法が挙げられる。この方法では基本的に衝突した点に力を加える。問題は、加える力をどのように決めるかである。力が強すぎると物体は不安定になり、弱すぎると互いに貫通してしまう。衝突に応答する別の方法としては投影法があり、衝突した物体を最小の移動距離で相手の物体の内部から出すように動かすことで衝突に応答する。
ベルレ法では、後者の方法で衝突した場合の速度が自動的に決定する。しかし、このことは衝突の物理が自動的に満たされる(すなわち運動量の変化が現実的なものとなる)ことを意味しない。速度項を暗黙的に変化させる代わりに、衝突した物体の最終速度を陽に(直前のタイムステップにおいて記録された位置を変化させることにより)制御する必要がある。
新しい速度を決める最も単純な方法として、[[弾性衝突|完全弾性衝突]]もしくは[[非弾性衝突|完全非弾性衝突]]を仮定することが挙げられる。より複雑な制御方法では、[[反発係数]]を用いることもある。
== 関連項目 ==
* [[CFL条件]]
* {{仮リンク|エネルギードリフト|en|Energy drift}}
* [[シンプレクティック数値積分法]]
* [[リープ・フロッグ法]]
* {{仮リンク|ビーマンのアルゴリズム|en|Beeman's algorithm}}
== 出典 ==
<references>
<ref name="Hairer2003">{{cite journal|last=Hairer|first=Ernst|last2=Lubich|first2=Christian|last3=Wanner|first3=Gerhard|year=2003|title=Geometric numerical integration illustrated by the Störmer/Verlet method|journal=Acta Numerica|volume=12|pages=399–450|bibcode=2003AcNum..12..399H|doi=10.1017/S0962492902000144|citeseerx=10.1.1.7.7106}}</ref>
<ref name="Verlet1967">{{cite journal|last=Verlet|first=Loup|year=1967|title=Computer "Experiments" on Classical Fluids. I. Thermodynamical Properties of Lennard−Jones Molecules|journal=Physical Review|volume=159|issue=1|pages=98–103|bibcode=1967PhRv..159...98V|doi=10.1103/PhysRev.159.98|doi-access=free}}</ref>
</references>
== 外部リンク ==
* [https://bitbucket.org/craigmit/verlet Verlet Integration Demo and Code as a Java Applet]
* [https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/academic/class/15462-s13/www/lec_slides/Jakobsen.pdf Advanced Character Physics by Thomas Jakobsen]
* [http://www.ch.embnet.org/MD_tutorial/pages/MD.Part1.html Theory of Molecular Dynamics Simulations] – bottom of page
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[[Category:計算物理学]]
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10,944 |
大阪大学豊中キャンパス
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座標: 北緯35度39分36.4秒 東経139度41分4.8秒 / 北緯35.660111度 東経139.684667度 / 35.660111; 139.684667
大阪大学 豊中キャンパス(おおさかだいがく とよなかキャンパス)は、大阪府豊中市待兼山町に所在する大阪大学のキャンパスの一つである。
全学共通教育を担当する全学教育推進機構とその講義棟が置かれており、学部の新入生は一定期間(学部毎に異なる)豊中キャンパスに通うことになる。サークル活動の拠点となる諸施設が設置されており、3つのキャンパスの中で最もサークル活動が盛んである。課外活動オリエンテーションも本キャンパスで実施される。
土地面積は440,337.24m。公的文書等では「豊中団地」と称される。
豊中キャンパスは待兼山の大阪医科大学予科校舎に始まる。予科跡地に大阪府立浪速高等学校が設立された。同校は、戦後に大阪工業専門学校との等価交換により国に移管されて一般教養部北校となり、現在の豊中キャンパスの土台となっている。同予科跡地には1932年に大阪帝国大学医学部附属医院石橋分院が設置された。この分院は1968年に廃止されたが、建物は大阪大学医療技術短期大学部本館を経て、大阪大学総合学術博物館(待兼山修学館)として改装され、現在に至る。キャンパス内に残された大阪帝国大学時代の建物は、これがほぼ唯一のものである。
現在キャンパスのシンボルとなっている大阪大学会館は、浪速高等学校の高等科本館として1929年に竣工したもので、ネオゴシック様式を持った学内最古の建物であり、2004年に国の登録有形文化財となった。
キャンパスは池の埋め立てや待兼山に連なる丘陵部の造成により徐々に拡張、整備され、その過程でマチカネワニの化石も発掘された。整備が一通り落ち着いた後、長らく経年劣化等により古びた学舎群となっていたが、2000年代になって研究棟や福利棟の建て替えや改装、新築が進んでいる。現在のキャンパス内には中山池、乳母谷池、待兼池の三つが残っており、時折、釣り人の姿も見られる。
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"text": "キャンパスは池の埋め立てや待兼山に連なる丘陵部の造成により徐々に拡張、整備され、その過程でマチカネワニの化石も発掘された。整備が一通り落ち着いた後、長らく経年劣化等により古びた学舎群となっていたが、2000年代になって研究棟や福利棟の建て替えや改装、新築が進んでいる。現在のキャンパス内には中山池、乳母谷池、待兼池の三つが残っており、時折、釣り人の姿も見られる。",
"title": "歴史"
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大阪大学 豊中キャンパスは、大阪府豊中市待兼山町に所在する大阪大学のキャンパスの一つである。
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{{子記事|大阪大学}}
[[画像:Osaka university toyonaka campus ishibashi entrance.jpg|230px|thumb|石橋口]]
'''大阪大学 豊中キャンパス'''(おおさかだいがく とよなかキャンパス)は、[[大阪府]][[豊中市]][[待兼山|待兼山町]]に所在する[[大阪大学]]の[[キャンパス]]の一つである。
== 概要 ==
全学共通教育を担当する全学教育推進機構とその講義棟が置かれており、学部の新入生は一定期間(学部毎に異なる)豊中キャンパスに通うことになる。サークル活動の拠点となる諸施設が設置されており、3つのキャンパスの中で最もサークル活動が盛んである。課外活動オリエンテーションも本キャンパスで実施される。
土地面積は440,337.24m{{sup|2}}<ref name="capus_area">{{Cite book|和書|title=大阪大学プロフィール2022 【2022.8.25修正反映版】|chapter=土地・建物|page=17|publisher=大阪大学 企画部 広報課|date=2022年7月}}</ref>。公的文書等では「豊中団地」と称される<ref name="taishin">{{Cite journal |和書 |title=大阪大学における耐震化の状況について |date=2015-09|url=https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/campus/files/H26_10%20taishin.pdf |publisher=大阪大学|accessdate=2021-04-27|format=PDF|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10180831/www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/campus/files/H26_10%20taishin.pdf|archivedate=2016-08-06|deadlinkdate=2023-04}}</ref>。
== 歴史 ==
豊中キャンパスは[[待兼山]]の[[大阪医科大学 (大阪市)|大阪医科大学]]予科校舎に始まる。予科跡地に大阪府立[[浪速高等学校 (旧制)|浪速高等学校]]が設立された。同校は、戦後に[[大阪工業専門学校]]との等価交換により国に移管されて一般教養部北校となり、現在の豊中キャンパスの土台となっている。同予科跡地には[[1932年]]に[[大阪大学医学部附属病院|大阪帝国大学医学部附属医院石橋分院]]が設置された。この分院は[[1968年]]に廃止されたが、建物は[[大阪大学医療技術短期大学部]]本館を経て、[[大阪大学総合学術博物館]](待兼山修学館)として改装され、現在に至る。キャンパス内に残された大阪帝国大学時代の建物は、これがほぼ唯一のものである。
現在キャンパスのシンボルとなっている[[大阪大学会館]]は、浪速高等学校の高等科本館として[[1929年]]に竣工したもので、ネオ[[ゴシック]]様式を持った学内最古の建物<ref>大阪大学総合学術博物館 概要リーフレットより。</ref>であり、[[2004年]]に国の[[登録有形文化財]]となった。
キャンパスは池の埋め立てや待兼山に連なる丘陵部の造成により徐々に拡張、整備され、その過程で[[マチカネワニ]]の化石も発掘された。整備が一通り落ち着いた後、長らく経年劣化等により古びた学舎群となっていたが、2000年代になって研究棟や福利棟の建て替えや改装、新築が進んでいる。現在のキャンパス内には中山池、乳母谷池、待兼池の三つが残っており、時折、釣り人の姿も見られる。
==構内==
[[画像:Osaka university toyonaka campus street.jpg|230px|thumb|構内メインストリート]]
[[画像:Museum of Osaka University.JPG|230px|thumb|総合学術博物館]]
[[画像:Toyotamaphimeia machikanensis.JPG|180px|thumb|[[大阪大学総合学術博物館|総合学術博物館]]に展示されている[[マチカネワニ]]の[[レプリカ]]]]
[[画像:Osaka-univ Toyonaka cybermedia-center.jpg|180px|thumb|サイバーメディアセンター 豊中教育研究棟]]
* 使用学部:文学部、法学部、経済学部、理学部、基礎工学部
* 使用研究科:人文学研究科、法学研究科、経済学研究科、理学研究科、基礎工学研究科、国際公共政策研究科、高等司法研究科、情報科学研究科、生命機能研究科
* 使用附属施設:大阪大学附属図書館総合図書館、科学教育機器リノベーションセンター、[[大阪大学総合学術博物館]]など
* 交通アクセス:[[大阪高速鉄道]][[大阪モノレール線]][[柴原阪大前駅]]から徒歩5分、[[阪急電鉄]][[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急箕面線|箕面線]][[石橋阪大前駅]]東口から徒歩20分、[[阪急バス]]阪大豊中学舎前停留所から徒歩1分、柴原駅(市立豊中病院前)停留所から徒歩5分、国道石橋停留所から15分
* '''正門'''
** 自動車入構管理ゲート有り
** 至近:理学部・理学研究科
** 大阪中央環状線阪大前北/南交差点に面している。普段自動車で入構できる唯一の門である。西側に大学名を刻んだ[[オベリスク]]様の石柱が立てられている。
* '''柴原口'''
** 歩行者通用門
** 至近:[[放射性同位体|ラジオアイソトープ]]総合センター分館、理学部、理学研究科
** 大阪中央環状線に面しており、柴原阪大前駅に近い。
** 従来は簡素な出入口だったが、[[2012年]]に整備が行われ、より駅に近い所に新しい出入口が作られた。従来の出入口も整備され、引き続き使用可能である。
* '''石橋口'''
** 歩行者通用門
** 至近:総合学術博物館・大阪大学会館
** 石橋阪大前駅に近く、阪大坂を下った場所には駐輪場もあるため、歩行者通行の多い門である。入構管理ゲートがある。
** 大学名を刻んだ大岩があり、待兼山庭園の奥に大阪大学会館が見え、キャンパスのシンボル的景観となっている。
** 石橋阪大前駅から阪大坂を登ると、ここにたどり着く。その坂道も正確には「大阪大学歩行者用通路」と呼ばれ、大学の構内である。
** 石橋阪大下交差点(通称「坂下(さかした)」)から阪大坂を少し進むと、大学名とモットーを刻んだ門柱のような岩があり、博物館もすぐ奥に見える。しかし、講義室や研究室は、さらに500m以上先の山の上である。
* '''東口'''
** 歩行者通用門
** 至近:附属図書館総合図書館、サイバーメディアセンター豊中教育研究棟、国際交流会館
** 国際交流会館の脇にある。清明寮にはこの門が近く、門を出て南に行けば柴原阪大前駅に着く。市道に出た所に[[コンビニエンスストア]]があるため、元々は未整備でありながら買い物目的の利用者も多かった。[[2009年]]に整備されて公式の門となり、同時にスロープも設置された。なお、当該整備に伴う植栽計画に対して、第19回「緑のデザイン賞」緑化大賞が授与された。
* '''刀根山口'''
** 歩行者通用門
** 至近:刀根山寮、待兼山会館
** 従来からある無名の出入口に2012年に名前が付けられた。出入口内には自動車系クラブの[[廃車 (自動車)|廃車]]が何台も置かれている。
* '''大学会館北口'''
** 歩行者通用門
** 至近:弓道場、大阪大学会館
** 従来からある無名の出入口に2012年に名前が付けられた。出入口の外は閑静な住宅街である。
* 体育館の裏や極限量子科学研究センターの脇にも無名の歩行者用出入口がある。
== 文化財 ==
[[画像:Osaka-univ Toyonaka I-go-kan.jpg|thumb|240px|大阪大学豊中キャンパス内の「イ号館」(元・旧制浪速高等学校高等科本館)]]
; 待兼山古墳出土品
: [[1938年]](昭和13年)、国認定[[重要美術品]]に認定。豊中キャンパスの北方にかつて存在していた待兼山古墳は、[[4世紀]]築造の[[前方後円墳]]。現在は宅地となっているが、待兼山丘陵北縁の尾根上{{efn|豊中キャンパスグラウンド北西のプール付近<ref name=待兼山遺跡概要/><ref name=BFマップ/>。}}に、前方部を南に向けて立地していたと考えられている<ref>[https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/kouko/kouko002.html 待兼山古墳出土品] - 豊中市</ref>。
; 待兼山遺跡
: 豊中キャンパス一帯は待兼山遺跡として国の遺跡台帳に登録されている<ref name=待兼山遺跡概要>[http://www.let.osaka-u.ac.jp/maibun/matikaneyama5/machikane-gaiyoui.htm 待兼山遺跡の概要] - 大阪大学大学院文学研究科・文学部</ref>。[[1983年]](昭和58年)、[[理学部]]ラジオアイソトープセンター建設工事の際に[[弥生時代]]の集落跡が見つかった{{Sfn|待兼山遺跡IV|2008|p=10/127}}。[[1998年]](平成10年)に確認された待兼山5号墳は[[2005年]](平成17年)の調査で[[5世紀]]後半築造と推定される直径15mの[[円墳]]と判明し{{Sfn|待兼山遺跡IV|2008|pp=16/127 - 17/127}}人物[[埴輪]]、馬形埴輪などの一部が出土した{{Sfn|待兼山遺跡IV|2008|pp=27/127 - 66/127}}<ref>{{Cite news |title=待兼山5号墳から出土した馬と馬を引く人の埴輪(大阪・豊中市) |publisher=時事通信社 |date=2007-07-07 |url=https://www.jiji.com/jc/d2?p=old00201-5106527&d=004soc |accessdate=2017-10-02}}</ref>。待兼山5号墳は現在駐輪場となっていて、地表に[[古墳]]周溝範囲をタイルで標示し、解説板を設置している{{Sfn|待兼山遺跡IV|2008|p=4/127}}<ref name=BFマップ>{{PDFlink|[https://www.osaka-u.ac.jp/ja/access/toyonaka/files/toyonaka_zentai-190405 大阪大学 豊中キャンパス バリアフリーマップ - Osaka University]}}</ref>。
; 大阪大学会館
: イ号館と呼ばれていた。[[1928年]](昭和3年)に旧制浪速高等学校の校舎として建てられ、[[学制改革]]により大阪大学に移管。以降、旧[[学部#教養部|教養部]]の建物として使われた。[[2004年]](平成16年)、国の[[登録有形文化財]]建造物に登録<ref>[https://facility.icho.osaka-u.ac.jp/daigaku-hall/index.html 大阪大学会館]</ref>。
; 待兼山修学館
: [[1931年]](昭和6年)に大阪大学[[医学部]]の前身である、[[大阪医科大学 (大阪市)|大阪医科大学]]の附属病院石橋分院として建てられ、近年は、医療技術短期大学部本館として使われていた。豊中キャンパスでは大阪大学会館に次いで2番目に古い建物。2008年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録<ref name=修学館>[http://www.museum.osaka-u.ac.jp/feature/shugakukan/ 待兼山修学館] - 大阪大学総合学術博物館</ref>。現在は[[大阪大学総合学術博物館]]待兼山修学館展示場として使用<ref>[http://www.museum.osaka-u.ac.jp/about/ 総合学術博物館について] - 大阪大学総合学術博物館</ref>。修学館の後方に標高77.3mの待兼山がある<ref name=修学館/>。
== 外部リンク ==
* [https://www.osaka-u.ac.jp/ja/schools/ed_support/anzen/aed/toyonaka 豊中キャンパス]
==脚注==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
{{大阪大学}}
[[Category:大阪大学|とよなかきゃんぱす]]
[[Category:豊中市の学校|おおさかだいがくとよなかきゃんぱす]]
[[Category:キャンパス]]
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2023-10-01T11:52:07Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%B1%8A%E4%B8%AD%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9
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大量破壊兵器
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大量破壊兵器(たいりょうはかいへいき、英語: Weapon of mass destruction、略称WMD)または物理兵器とは、人間を大量に殺傷すること、または人工構造物(建造物や船など)に対して多大な破壊をもたらすことが可能な兵器のことを指す。典型的には特に生物兵器、化学兵器、核兵器、放射能兵器の4種類を指すものとして用いられる(放射能兵器を核兵器に含めるとして3種類と数える場合もある)。これらはそれぞれの英語の頭文字を取り、ABC兵器、NBC兵器、NBCR兵器などと総称される。
通常の用法では、大量破壊兵器はNBC兵器、つまり核兵器(英: Nuclear 原水爆および放射能兵器も含む)、生物兵器(英: Biological)、化学兵器(英: Chemical)の3種類を総称する言葉として使われている。
記録されている限りにおいて、大量破壊兵器に対応する英語の「Weapons of mass destruction」という語は、1937年のロンドンタイムズでスペイン内戦や日中戦争の際にドイツや日本の爆撃機を指して用いられた例にまで遡ることができる。
化学兵器は既に第一次世界大戦中に広く使われていたものの、核兵器は開発されておらず、この文脈には核兵器は含まれていない。その後、第二次世界大戦中に核兵器が実用化され、1948年の国際連合通常軍備員会 (the Commission for Conventional Armaments) においては、大量破壊兵器を核・化学・生物兵器とそれに類するものとした。大量破壊兵器の語は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言においても用いられている。
また、1991年の湾岸戦争終結時の国連安保理決議687においても、イラクの武装解除の主要な対象として言及された。
大量破壊兵器の拡散は、世界の安全保障にとって、不安定要因と認識されている。このため、その運搬手段ともなりえる長距離ミサイルと合わせて拡散防止のための国際的な協調が求められ、2003年には拡散に対する安全保障構想が提唱され、主要国首脳会議では大量破壊兵器の不拡散宣言が出された。2004年の国際連合安全保障理事会決議1540においては、WMDを用いたテロリズム防止に向け、各国の法制度整備や協力体制の構築を求めている。これらを受け、関連物資の輸出規制や技術移転の制限、海上阻止行動の検討等 が行われている。
2017年4月6日に、当時のアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、シリア・アラブ共和国大統領のバッシャール・アル=アサドが、シリア内戦で化学兵器を使用した事に対する制裁として、アメリカ軍がシリアの空軍基地などへ計59発の「トマホーク」巡航ミサイルを撃ち込み、国際情勢への武力介入も辞さない姿勢を見せた。
イラク戦争開始の根拠として、「イラクが大量破壊兵器を保有している可能性があること」および「国際連合の無条件査察を受け入れなかったこと」が挙げられている。なお、戦闘終結後、アメリカ合衆国などから派遣されたイラク調査団(英語版)が、大量破壊兵器の捜索をおこなったが発見されず、調査団団長チャールズ・デュエルファーは、2004年10月6日のアメリカ合衆国上院軍事委員会の公聴会において、「イラク共和国に大量破壊兵器は存在しなかった」と最終報告書(デュエルファー・リポート)を提出した。
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大量破壊兵器または物理兵器とは、人間を大量に殺傷すること、または人工構造物(建造物や船など)に対して多大な破壊をもたらすことが可能な兵器のことを指す。典型的には特に生物兵器、化学兵器、核兵器、放射能兵器の4種類を指すものとして用いられる(放射能兵器を核兵器に含めるとして3種類と数える場合もある)。これらはそれぞれの英語の頭文字を取り、ABC兵器、NBC兵器、NBCR兵器などと総称される。
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{{複数の問題|独自研究=2015年4月4日 (土) 23:42 (UTC)|出典の明記=2015年4月4日 (土) 23:42 (UTC)|正確性=2015年4月4日 (土) 23:42 (UTC)}}{{大量破壊兵器}}
'''大量破壊兵器'''(たいりょうはかいへいき、{{lang-en|Weapon of mass destruction}}、略称{{lang|en|WMD}})または'''物理兵器'''とは、人間を大量に殺傷すること、または人工構造物(建造物や船など)に対して多大な破壊をもたらすことが可能な[[兵器]]のことを指す。典型的には特に[[生物兵器]]、[[化学兵器]]、[[核兵器]]、[[放射能兵器]]の4種類を指すものとして用いられる(放射能兵器を核兵器に含めるとして3種類と数える場合もある)。これらはそれぞれの英語の頭文字を取り、'''ABC兵器'''、'''NBC兵器'''、'''NBCR兵器'''などと総称される。
== 定義 ==
{{出典の明記|date=2015年4月4日 (土) 23:41 (UTC)|section=1}}
[[File:Hiroshima aftermath.jpg|thumb|180px|left|[[核戦争]]。[[核兵器]]を使用した戦争([[広島市]]、1945年)]]
通常の用法では、大量破壊兵器はNBC兵器、つまり[[核兵器]](英: {{lang|en|Nuclear}} 原水爆および放射能兵器も含む)、[[生物兵器]](英: {{lang|en|Biological}})、[[化学兵器]](英: {{lang|en|Chemical}})の3種類を総称する言葉として使われている。
記録されている限りにおいて、'''大量破壊兵器'''に対応する英語の「{{en|Weapons of mass destruction}}」という語は、<!--[[英国放送協会|BBC News]](2003)によれば、-->[[1937年]]の[[ロンドンタイムズ]]で[[スペイン内戦]]や[[日中戦争]]の際に[[ドイツ]]や[[日本]]の[[爆撃機]]を指して用いられた例にまで遡ることができる<ref>{{cite web
| url = http://hnn.us/articles/1522.html
| title = WMD: Where Did the Phrase Come from?
| author = Will Mallon
| publisher = History News Network
| accessdate = 2009-12-16}}</ref>。
{{cquote|{{en|Who can think at this present time without a sickening of the heart of the appalling slaughter, the suffering, the manifold misery brought by war to Spain and to China? Who can think without horror of what another widespread war would mean, waged as it would be with all the new '''weapons of mass destruction?'''}}<ref>"Archbishop's Appeal," ''Times'' (London), 28 December 1937, p. 9.</ref>
今、戦争によって[[スペイン内戦|スペイン]]に、[[日中戦争|中国]]にもたらされたぞっとする虐殺、苦痛、さまざまな悲劇を思って、心を痛めない人がいるでしょうか? さまざまな新しい''大量破壊兵器''を用いて行なわれる次の大規模な戦争が何を意味するか考え、恐怖を感じない人がいるでしょうか?}}
化学兵器は既に[[第一次世界大戦]]中に広く使われていたものの、核兵器は開発されておらず、この文脈には核兵器は含まれていない。その後、[[第二次世界大戦]]中に核兵器が実用化され、1948年の国際連合通常軍備員会 (the Commission for Conventional Armaments) においては、大量破壊兵器を核・化学・生物兵器とそれに類するものとした<ref>[https://www.un-ilibrary.org/deliver?redirecturl=/content/books/9789210602211/read&isPreview=true&itemId=/content/books/9789210602211 The Yearbook of the United Nations 1947-1948,United Nations,P477] The Working Committe resolves to advise the Security Council (1) that it considers that all armaments and armed forces, except atomic weapons and weapons of mass destruction, fall within its jurisdiction and that weapons of mass destruction should be defined to include atomic explosive weapons, radio active material weapons, lethal chemical and biological weapons, and any weapons developed in the future which have characteristics comparable in destructive effect to those of the atomic bomb or other weapons mentioned above; (2) that it proposes to proceed with its work on the basis of the above definition.</ref>。大量破壊兵器の語は、[[1955年]]の[[ラッセル=アインシュタイン宣言]]においても用いられている。
また、[[1991年]]の[[湾岸戦争]]終結時の[[国際連合安全保障理事会決議687|国連安保理決議687]]においても、[[イラク武装解除問題|イラクの武装解除]]の主要な対象として言及された。
==拡散防止==
大量破壊兵器の拡散は、世界の安全保障にとって、不安定要因と認識されている<ref>[https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2014/pc/2014/pdf/26010202.pdf 2014年版防衛白書 大量破壊兵器の移転・拡散]</ref>。このため、その運搬手段ともなりえる長距離ミサイルと合わせて拡散防止のための国際的な協調が求められ、2003年には[[拡散に対する安全保障構想]]が提唱され<ref name="mofa2012">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol88/ 大量破壊兵器の拡散を阻止するPSIの活動,日本外務省,2012-06-13]</ref>、[[主要国首脳会議]]では大量破壊兵器の不拡散宣言が出された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/evian_paris03/fukausan_z.html 大量破壊兵器の不拡散,日本外務省]</ref>。2004年の[[国際連合安全保障理事会決議1540]]においては、WMDを用いた[[テロリズム]]防止に向け、各国の法制度整備や協力体制の構築を求めている。これらを受け、関連物資の輸出規制や技術移転の制限<ref group="注">例えば、日本においては [https://www.meti.go.jp/policy/tsutatsutou/tuuti1/aa248.pdf 大量破壊兵器等の不拡散のための補完的輸出規制に係る輸出手続き等について(お知らせ)] 等。</ref>、海上阻止行動の検討等<ref name="mofa2012"/> が行われている。
2017年4月6日に、当時の[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ドナルド・トランプ]]は、[[シリアの大統領|シリア・アラブ共和国大統領]]の[[バッシャール・アル=アサド]]が、[[シリア内戦]]で化学兵器を使用した事に対する制裁として、[[アメリカ軍]]がシリアの空軍基地などへ計59発の「[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]]」[[巡航ミサイル]]を撃ち込み、国際情勢への武力介入も辞さない姿勢を見せた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/50-15_1.php |title=トランプ政権、シリアにミサイル攻撃 ロシアは侵略行為と非難 |publisher=[[ニューズウィーク]]日本語版 |date=2017-4-7 |accessdate=2017-9-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20170423-JTNFAHO7A5MI7DDRS6AVL3VMRA/ |title=外交・安保、シリア攻撃で明確メッセージ |publisher=産経ニュース |date=2017-4-23 |accessdate=2017-9-23}}</ref>。
== イラク戦争への影響 ==
[[イラク戦争]]開始の根拠として、「[[イラク]]が大量破壊兵器を保有している可能性があること」および「[[国際連合]]の無条件査察を受け入れなかったこと」が挙げられている。なお、戦闘終結後、アメリカ合衆国などから派遣された{{仮リンク|イラク調査団|en|Iraq Survey Group}}が、大量破壊兵器の捜索をおこなったが発見されず、調査団団長[[:en:Charles A. Duelfer|チャールズ・デュエルファー]]は、[[2004年]][[10月6日]]の[[アメリカ合衆国上院]]軍事委員会の公聴会において、「イラク共和国に大量破壊兵器は存在しなかった」と最終報告書([http://www.gpo.gov/fdsys/search/pagedetails.action?granuleId=&packageId=GPO-DUELFERREPORT&fromBrowse=true デュエルファー・リポート])を提出した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/features/gulf2/200410/gu20041007_41.htm YOMIURI ONLINE: "イラク大量破壊兵器、開発計画なし…米最終報告"(2004.10.7)] 2013年10月7日閲覧</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [http://www.stopusa.be/scripts/texte.php?section=CL&langue3&id=24471 STOPUSA]{{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20060527034732/http://www.monde-solidaire.org/spip/article.php3?id_article=2295 Monde Solidaire]{{fr icon}}
* [http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2744411.stm BBC News (2003). "WMD: Words of mass dissemination" Wednesday, 12 February, 2003.]{{en icon}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Weapons of mass destruction}}
* [[核兵器]] - [[生物兵器]] - [[化学兵器]]
* [[気象兵器]]
* [[CBRNE]]
* [[規制が議論されている兵器]]
* [[核拡散防止条約]] - [[生物兵器禁止条約]] - [[化学兵器禁止条約]]
* [[外国ユーザーリスト]]
* [[拡散に対する安全保障構想]](PSI)
* [[AK-47]] - 世界各地で製造・使用され、多くの内戦や紛争で、沢山の犠牲者を産んだことから「小さな大量破壊兵器」と形容される。
* [[クレジット・デフォルト・スワップ]] - 誤った利用法で「金融大量破壊兵器」と形容される。
== 外部リンク ==
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ファラデーの法則
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ファラデーの法則(ファラデーのほうそく、Faraday's law)とは、イギリスの科学者、マイケル・ファラデーによって発見された物理法則。
一般にファラデーの法則と呼ばれる物は二つあり、全く異なる分野の法則である。
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ファラデーの法則とは、イギリスの科学者、マイケル・ファラデーによって発見された物理法則。 一般にファラデーの法則と呼ばれる物は二つあり、全く異なる分野の法則である。 ファラデーの電磁誘導の法則 - 磁束の時間変化にマイナスを付けたものが、回路に誘導される起電力である、とする法則。ファラデーの誘導法則とも呼ばれる。一般的にΦ=B×S=μ×H×S(B=磁束密度、S=磁界が貫く断面積、μ=透磁率、H=磁界)が成り立つ。
ファラデーの電気分解の法則 - 電気分解において、流れた電気量と生成物質の質量に関する法則。第一法則と第二法則がある。
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'''ファラデーの法則'''(ファラデーのほうそく、Faraday's law)とは、[[イギリス]]の科学者、[[マイケル・ファラデー]]によって発見された[[物理法則]]。
一般にファラデーの法則と呼ばれる物は二つあり、全く異なる分野の法則である。
* [[ファラデーの電磁誘導の法則]] - [[磁束]]の時間変化にマイナスを付けたものが、回路に誘導される[[起電力]]である、とする法則。ファラデーの誘導法則とも呼ばれる。一般的にΦ=B×S=μ×H×S(B=磁束密度、S=磁界が貫く断面積、μ=透磁率、H=磁界)が成り立つ。
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稗田阿礼
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稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる。
稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『日本書紀』にも、この時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。
時有舎人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。(『古事記』序)
訳:そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。
『斎部氏家牒』では、宇治土公の庶流であり、天鈿女命の末葉であるとされる。
通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。平田篤胤は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏は天鈿女命を始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で(ただし、『政事要略』には「右少史猿女副雄」という男性の官人が見える)、「アレ」は巫女の呼称である、ということ、がある。例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命がいる。
ただし、『造伊勢二所太神宮宝基本記』には「伊己呂比命男、大貫連大阿礼命」と記されており、「阿礼」はそのまま巫女のみを表す言葉ではない。
『新撰姓氏録』に「阿礼首」という氏族が存在することから、稗田阿礼の名前は、阿礼首、あるいは大伯皇女や高田新家、忍海大国のように、地名を由来とする説も存在する。
また『古事記』には、『日本書紀』と比べ、女神や巫女的存在の神を重要なものとして登場させている箇所があることも、女性説を裏付けるとの意見もある。(例として、伊邪那岐命の禊祓の際、男性である命の身につけているものの中に、婦人がつける「裳」が入れられていること。古事記オリジナルの神に伊豆能売(厳媛)という巫女的役割を持つ神がいて、しかもそのエピソードが神出現の場面(禍津日神)に登場していること、また天照大神と須佐之男命の誓いの際に、『古事記』では『日本書紀』とは反対に、女神の出現によって勝のしるしとすること。)
近年、梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。
稗田阿礼自身その出自や事績に関しては不明な点がほとんどである。
実在性に関して、氏が「稗田」で名が「阿禮」であるのならば、7世紀後半を生きた時代の舎人として、その姓(カバネ)が何であったのかが最初の問題となる。以下の点が指摘される。
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稗田 阿礼 は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる。
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'''稗田 阿礼''' (ひえだ の あれ、[[生没年不詳]])は、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]にかけての[[官人]]。『[[古事記]]』の編纂者の1人として知られる。
== 概要 ==
稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『[[日本書紀]]』にも、この時代の事を記した『[[続日本紀]]』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、[[天武天皇]]に[[舎人]]として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『[[帝紀]]』『[[旧辞]]』等の誦習を命ぜられたと記されている。[[元明天皇]]の代、詔により[[太安万侶]]が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。
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時有舎人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。(『古事記』序)
訳:<br />そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。[[帝紀]])と『先代旧辞』(せんだいのくじ。[[旧辞]])を誦習せよ」と命じた。
}}
『[[斎部氏家牒]]』では、[[猿田彦神社|宇治土公]]の庶流であり、[[アメノウズメ|天鈿女命]]の末葉であるとされる。
=== 異説 ===
通常「舎人」といえば[[男性]]だが、[[江戸時代]]に「稗田阿礼は[[女性]]である」とする説が提起された。[[平田篤胤]]は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている<ref>{{cite book|和書|title=古事記注釈 第一巻|date=1975|year=1975|publisher=平凡社|page=51|author=西郷信綱}}</ref>。民俗学者の[[柳田國男]]、神話学者の[[西郷信綱]]らも同説を唱えた。その根拠として、[[稗田氏]]は天鈿女命を始祖とする[[猿女君]]と同族であり、猿女君は[[巫女]]や[[女孺]]として朝廷に仕える一族で(ただし、『[[政事要略]]』には「右少史猿女副雄」という男性の官人が見える<ref name="名前なし-palT-1">{{Cite journal|和書|author=中野謙一 |date=2012-03 |url=https://hdl.handle.net/10638/5085 |title=稗田阿礼は何をしたのか : 修史事業における『古事記』の位置づけ |journal=愛知淑徳大学論集. 文学部・文学研究科篇 |ISSN=1349-5496 |publisher=愛知淑徳大学文学部 |issue=37 |pages=1-12 |hdl=10638/5085 |naid=120005038644 |CRID=1050001202566405248 |ref=harv}}</ref>)、「アレ」は巫女の呼称である、ということ、がある。例として[[孝霊天皇]]の妃の一人に[[意富夜麻登久邇阿礼比売命]]がいる。
ただし、『[[神道五部書|造伊勢二所太神宮宝基本記]]』には「伊己呂比命男、大貫連大阿礼命」と記されており、「阿礼」はそのまま巫女のみを表す言葉ではない<ref name="名前なし-palT-1" />。
『[[新撰姓氏録]]』に「阿礼首」という氏族が存在することから、稗田阿礼の名前は、阿礼首、あるいは[[大伯皇女]]や[[高田新家]]、[[忍海大国]]のように、地名を由来とする説も存在する<ref name="名前なし-palT-1" />。
また『古事記』には、『日本書紀』と比べ、女神や巫女的存在の神を重要なものとして登場させている箇所があることも、女性説を裏付けるとの意見もある。(例として、[[伊邪那岐命]]の[[禊祓]]の際、男性である命の身につけているものの中に、婦人がつける「[[裳]]」が入れられていること。古事記オリジナルの神に[[伊豆能売]](厳媛)という巫女的役割を持つ神がいて、しかもそのエピソードが神出現の場面([[禍津日神]])に登場していること、また[[天照大神]]と[[スサノオ|須佐之男命]]の誓いの際に、『古事記』では『日本書紀』とは反対に、女神の出現によって勝のしるしとすること。)
近年、[[梅原猛]]が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は[[藤原不比等]]の別名ではないかとの説を唱えている。
== 実在性 ==
稗田阿礼自身その出自や事績に関しては不明な点がほとんどである。
実在性に関して、[[氏]]が「[[稗田氏|稗田]]」で名が「阿禮」{{efn|真福寺本には「阿礼」と表記。}}であるのならば、[[7世紀]]後半を生きた時代の舎人として、その姓([[カバネ]])が何であったのかが最初の問題となる。以下の点が指摘される<ref>宝賀寿男、「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kojikijo/jobunkou1.htm 稗田阿禮の実在性と古事記序文]」『古樹紀之房間』、2015年。</ref>。
* [[670年]]に施行された[[庚午年籍]]や、その20年後の[[庚寅年籍]]に記載がある[[畿内]]の人々は、極僅かな割合の[[奴婢]]を除き、全ての者が「姓付きの氏」を持っていること。しかし稗田阿礼は姓が不記載であり、その非実在性の問題へとつながる。姓の不記載は阿礼が非実在か、姓を序文の作者が知らなかったということになる。また序文から、氏と姓の違いが曖昧になった後世のものであると見ることができる。
* 「稗田阿礼」と「太朝臣安万侶」とが現実に『古事記』の編纂で接触していたのであれば、安万侶が阿礼の姓を知らないことはまずありえないこと。また自らは序文のおわりに「[[正五位]]上勳五等 太[[朝臣]]安萬侶」と書いていることからも不自然である{{efn|ただし安萬侶の官職抜きの表現は、これまでも問題にされてきた。姓の軽重は当該氏にとって重要な問題であったため、これを書き落とすことも考え難い。この辺までの同様な指摘は先に[[藪田嘉一郎]]も行っている。}}。
* 阿礼に如何なる学問の素養があって、それがどのような環境で鍛えられたのかが不明であること。「姓稗田、名阿礼」と言う書き方は[[漢文]]での名前表記のやり方であるから構わないという見解もあるが、姓のある日本においてこうした書き方はそぐわない{{efn|ただし誤りともいえない。}}。
* 日本の重要文献の編纂関係者で、このような氏名表示をしている例は他にない。
== 関係旧跡など ==
* [[賣太神社]]([[奈良県]][[大和郡山市]]稗田町) - 稗田阿禮命(稗田阿礼)を主斎神とする。付近が[[猿女君]]稗田一族の居住地だったため、阿礼の出身地とされる。
* [[稗田神社 (兵庫県)|稗田神社]]([[兵庫県]][[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]]) - 阿礼比売命(稗田阿礼)を祭神とする。
* [[飛騨せせらぎ街道]] - 道中に「稗田阿礼生誕の地」との看板が立てられている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[古事記]]
== 外部リンク ==
* {{青空文庫著作者|1519}}
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[[Category:稗田阿礼|*]]
[[Category:稗田氏|あれ]]
[[category:日本の神 (人物神)]]
[[Category:日本の伝説の人物]]
[[Category:奈良時代の人物]]
[[Category:生没年不詳]]
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|
10,950 |
大和時代
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大和時代(やまとじだい)は、日本の歴史の文献上における時代区分の一つである。南九州から畿内に渡ってきた初代神武天皇即位から平城京遷都までの時代を指す。かつて大和朝廷(ヤマト王権)が支配した時代が大和時代と一義的に捉えられていたが、その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。このため近年では、同時代を3世紀半ばから始まる「古墳時代」と呼称するのが一般的である。
大和時代は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時代と言い換えることもできる。厳密には大和時代は弥生時代末期を含み、また飛鳥時代は古墳時代末期でもある。日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが、大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。日本書紀に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
大和朝廷による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。日本書紀、古事記ではまず初代神武天皇による建国経緯が語られる。具体的な国家事業は第十代崇神天皇による四道将軍の派遣、課税の開始などから始まる。続いて垂仁天皇による灌漑事業、景行天皇と日本武尊による九州や関東への遠征、成務天皇による国造の制定、神功皇后による三韓征伐といった国家の発展が語られる。
応神天皇の治世では多くの渡来人の来朝があり儒教と漢字が伝わり、ここから日本列島外との交流が深まる。応神天皇の子の仁徳天皇は課税を三年間止めた後で大規模な灌漑事業を実施した善政が知られる。仁徳天皇の孫の雄略天皇は専制的な統治で朝鮮半島への干渉や中国(南朝)への遣使を盛んに行った。しかし雄略天皇が崩御すると天皇(大王)の権力も衰え大伴・物部・蘇我の各豪族が先後して実権を握っていった。6世紀前半には仏教が伝来する(日本の仏教の項を参照)。
推古天皇以降の時代は飛鳥時代ともいう。中国からの外圧が強くなると再び中央集権化志向が高まり聖徳太子の法律(十七条憲法)・官制改革(冠位十二階)を経て大化の改新(645年)後、天皇中心の政治が法体制的に確立していった。さらに遣隋使・遣唐使の派遣もあって農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。
乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱といった動乱を経て大和朝廷はさらなる改革に踏み切った。それまでの氏姓制度を改め公地公民制や統一的税制(租庸調制など)を施行し地方行政機構を改組して中央集権化するなど律令制の導入を図った。末期の701年には大宝律令が定められた。710年の平城京遷都をもって大和時代は終わり律令国家としての時代が始まる。律令制は10世紀初めに崩壊したが名目的には19世紀の明治維新まで維持された。
考古学上の実在が想定されうる天皇は5世紀末の金錯銘鉄剣銘によるワカタケル雄略天皇までである。
日本書紀では天皇の在位年数で年代を表している。しかし大和時代の天皇には異常な長寿が多いので日本書紀の年代は正確と言い難い。そこで仮説として系図については信用する前提で1世代を30年として年代を単純計算する方法がある。飛鳥時代の年代に不自然な点はなく概ね信頼できるので、ここから逆算していく。
飛鳥時代の始まりである推古天皇即位が593年なので7世代前の応神天皇即位は古墳時代中ごろの4世紀後半になる。応神天皇陵、仁徳天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳、大仙陵古墳は考古学的にも5世紀前半の築造とされている。また日本書紀で応神天皇や仁徳天皇の治世に在位したと記される百済王は朝鮮半島の正史である三国史記において4世紀後半から5世紀初めの王である。年代は一致している。
なお日本書紀の年代と三国史記の年代は応仁天皇期で120年ずれている。日本書紀の年代を機械的に当てはめれば応神天皇即位は3世紀後半、その母親の神功皇后は3世紀中ごろの人物となる。3世紀中ごろは魏志倭人伝に記される邪馬台国の卑弥呼や台与がいた時代であり日本書紀の神功皇后摂政39年、40年、43年、66年に魏志倭人伝からの引用文がある。ただし書紀に邪馬台国や卑弥呼・台与の名は無く「倭の女王」とだけ書かれている。神功皇后と倭の女王を同じとする記述もない。
応神天皇を4世紀後半の人物としてさらに遡ると、その5世代前にあたる崇神天皇即位は3世紀中ごろとなる。古墳時代の開始期であり天皇陵が大規模な前方後円墳に治定されるのも崇神天皇以降である。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇の陵に治定される行燈山古墳、宝来山古墳、渋谷向山古墳、佐紀石塚山古墳は考古学的にも3世紀後半から4世紀前半の築造である。
また3世紀中ごろは前述したように邪馬台国の卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女である倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が根強い。百襲姫の墓に治定される箸墓古墳は卑弥呼の死期と重なる3世紀中頃の築造とされ卑弥呼の墓との説がある。その近くにある纒向遺跡もまた邪馬台国の中心地として有力視される。なお日本書紀の年代を機械的に当てはめれば崇神天皇即位は紀元前97年である。
崇神天皇を3世紀中ごろの大王だとしてさらに遡ると歴史学的な証明は困難になる。大規模な埋葬文化の無い弥生時代末期になるため考古学的な考証に耐えうる陵墓も無くなる。日本書紀や古事記でも初代神武天皇から十代崇神天皇の間の八代については系譜しか記録がないため実在性が乏しい(欠史八代)。
それでも敢えて年代を想定してみると神武天皇から崇神天皇は十代に渡って親子間での皇位継承なので神武天皇即位は前1世紀ごろになる。ただし先代旧事本紀の地祇本紀、天孫本紀に書かれた豪族の系図からは神武天皇から崇神天皇までおよそ7~8世代ということが示唆されている。これを考慮に入れるならば神武天皇即位は1世紀ごろとなる。後漢の光武帝から倭奴国に金印(漢委奴国王印?)が授けられた頃である。
いずれにしても神武天皇は一世紀前後の人物ということになる。あくまでも実在すればということであり神話的色彩が強い神武天皇は伝説的人物とみなされるのが一般的である。なお日本書紀の年代では神武天皇即位は紀元前660年であり明治時代になって神武天皇即位紀元(皇紀)の元年とされた。戦時中の1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が催され国威発揚に利用された。
実際の歴史に基づいているとすれば弥生時代末期の話と思われるが神話的修飾が極めて強い。
はるか昔、葦原中国と呼ばれた地上を統治するために天上(高天原)から天照大神の孫である天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)が日向国(南九州)へ降臨したと言われる。瓊瓊杵尊が山の神の娘である鹿葦津姫を娶って生まれた子が海幸彦と山幸彦である。山幸彦が海の神の娘である豊玉姫を娶って生まれた子が彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)である。
鸕鶿草葺不合尊の子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)、後に神武天皇と呼ばれる初代天皇である。こうして天と山と海の神の血を引く存在が生まれたとされる。
神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東に美しい国があると聞いて東征に出た。日向を出発し筑紫(北九州)へ向かい宇佐、安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)、浪速国(大阪市)を経て河内国草香邑(大阪府東大阪市)へ至る。河内国北部にあたる現在の大阪府東部は古代には河内湖という湖であり、ここまで船で来ることができた。
さらに生駒山を超えて大和国へ入ったが、大和国の指導者長髄彦の抵抗にあって撤退を余儀なくされた。紀伊半島を回っている間に新宮市付近で嵐にあって船は大破、磐余彦は三人の兄をすべて失う。北上を余儀なくされた一行は熊野地方の豪族を下しながら大和国に再侵攻した。その途中では病を薙ぎ払う神剣布都御魂、神の使いである八咫烏などの助けがあったという。
最終的に長髄彦を殺して、大和国の征服に成功した磐余彦は橿原宮で初代天皇として即位する(神武天皇)。しかしその後の天皇については八代にわたって具体的な実績の記録がなく初期天皇の実在は疑われている(欠史八代を参照)。
なお神武天皇が実在したなら弥生時代後期のため当時瀬戸内海に多数あった高地性集落を海から見ながら東征したことになる。
以下、日本書紀、古事記における記述からなるべく神話的修飾を除いて記載する。
第十代天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ、崇神天皇)については3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。御間城入彦は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。また初めて戸口を調査して課役を科した。天下平穏となり御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる。この頃、朝鮮半島南端の任那(加羅)から蘇那曷叱知が派遣されたという。
第十一代天皇の活目入彦(イクメイリヒコ、垂仁天皇)は諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにした。相撲や埴輪の起源もこの頃とされている。
第十二代天皇の大足彦(オオタラシヒコ、景行天皇)は大規模な征服事業を行った。日本書紀によると大足彦は自ら九州に遠征して土蜘蛛や熊襲を征伐した。子の日本武尊(ヤマトタケル)の伝説的な活躍もよく知られ熊襲征伐に続いて東の蝦夷討伐も行った。しかし日本武尊は皇位を継ぐことなく遠征中に早世してしまう。
第十三代天皇の稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)は地方行政機構の整備を図った。諸国に命じて行政区画である国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。さらに山河をもって国県を定めた。これは古事記序文でも触れられている。
第十四代天皇の足仲彦(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)は日本武尊の子であり父と同様に熊襲征伐を行った。しかし道半ばで崩御してしまう。天皇の遺志を継いだ皇后の気長足姫尊(オキナガタラシヒメ、神功皇后)は熊襲を完全に屈服させ、続いて海を渡って朝鮮半島へも侵攻した。朝鮮半島南部の百済、新羅は日本へ朝貢するようになり高句麗の好太王碑にも「倭(日本)が百済・加羅・新羅を破り臣民にしてしまった」とある。
第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、応神天皇)は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、王仁、弓月君、阿知使主といった面々である。この頃に論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったと言われる。
第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国南朝)に遣いを送り縫製の女工を求めてもいる。これは倭王「讃」の朝貢に比定されている。
第十九代天皇の雄朝津間(オアサヅマ、允恭天皇)は大鷦鷯の四男であり諸氏族の氏姓の乱れを正す改革を断行した。
第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、雄略天皇)は雄朝津間の五男であり即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくして専制的な統治を行った。金錯銘鉄剣に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている。国内では吉備氏の反乱を制し養蚕を推奨した。国外では高句麗に滅ぼされた百済を復興し反抗的な新羅へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが倭王「武」の朝貢に比定されている。
その後は皇族の少なさが祟り第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、武烈天皇)の崩御をもって大鷦鷯(仁徳天皇)以来の男系が絶えてしまう。
第二十六代天皇として群臣が選んだのは誉田別(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった(継体天皇)。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し圧迫を受けた加羅(任那諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君磐井が反乱を起こす。磐井の乱が鎮圧されると任那には近江毛野が派遣されたが傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。
第二十九代の磯城島天皇(欽明天皇)は男大迹天皇の三男である。この頃にも任那を巡る様々な交渉が任那日本府を介して行われた。百済からの仏教公伝はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は562年に任那を滅ぼしてしまう。激怒した天皇は新羅に対して討伐軍を送るが敵の罠にかかってしまい退却する。天皇は任那奪還を託して崩御した。
第三十代の他田天皇(敏達天皇)が父の跡を継いだが百済から伝わった仏教を巡って物部氏と蘇我氏が対立する事態になった。醜い争いが続いた末、天皇は崩御直前に仏教を禁じた。
第三十一代の橘豊日天皇(用明天皇)は他田天皇の異母弟である。この天皇は先帝の方針を覆して仏教に帰依した。しかしその治世はわずか1年半だった。天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き崇仏派の蘇我氏が勝利して廃仏派の物部氏は滅ぼされた(丁未の乱)。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
第三十二代の天皇に据えられた泊瀬部皇子は他田天皇と橘豊日天皇の異母弟である(崇峻天皇)。しかし蘇我馬子と不和になった天皇は592年に暗殺されてしまった。臣下に直接殺された唯一の天皇である。しかし特に混乱も起きず蘇我馬子は他田天皇の皇后だった額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇(推古天皇)である。
第三十三代天皇の炊屋姫天皇(推古天皇)は593年に橘豊日天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とした。聖徳太子は603年に冠位十二階、604年に十七条憲法を制定し仏教の興隆に力を注いで天皇中心の国家体制作りを行った。607年には小野妹子らを大唐国(隋)に遣わして皇帝に上表文(国書)を送った。620年には蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。天皇は628年に崩御した。
第三十四代天皇として即位したのは他田天皇の孫の田村皇子だった(舒明天皇)。このとき厩戸皇子の子の山背大兄王と皇位争いが起きかけた。同じころに蘇我氏も馬子の子の蝦夷、孫の入鹿に代替わりした。初の遣唐使が送られたのはこの頃である。しかし唐からの遣いである高表仁は大変無礼で天皇への謁見が適わなかったと言われる。天皇は643年に崩御した。
第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった(皇極天皇)。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。645年の乙巳の変である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。
第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)は646年に改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった難波宮で654年に寂しく亡くなった。
第三十七代天皇となったのは重祚した宝皇女だった(斉明天皇)。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
第三十八代天皇として668年に即位した中大兄皇子(天智天皇)は全国的な戸籍(庚午年籍)を作って人民を把握する国内政策を推進した。天皇が崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子(天武天皇)が反乱を起こした。672年の壬申の乱である。敗北して自害した大友皇子に即位の事実は確認されないが現在は第三十九代弘文天皇と見なされている。
第四十代天皇に即位した大海人皇子(天武天皇)は都を宮を飛鳥浄御原宮に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。681年には律令の編纂を開始した。天皇の称号が実際に用いられ始めたのもこの時代だと言われている。しかし強権的な政治を行った天皇も寿命には勝てず制度の確立を待たずして686年に崩御した。
第四十一代天皇に即位したのは皇后の鸕野讚良皇女である(持統天皇)。先帝の事業を引き継いだ女帝は689年に飛鳥浄御原令を制定、690年には庚寅年籍が造られ、692年には公地公民制を基礎とした班田収授法を実施。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子に譲位した。
第四十二代天皇となった珂瑠皇子(文武天皇)は701年に大宝律令を制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制を完成させた。しかしこの天皇は短命で707年に崩御した。
第四十三代天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった(元明天皇)。そして710年に平城京遷都が実施されて大和時代は終わった。
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"text": "最終的に長髄彦を殺して、大和国の征服に成功した磐余彦は橿原宮で初代天皇として即位する(神武天皇)。しかしその後の天皇については八代にわたって具体的な実績の記録がなく初期天皇の実在は疑われている(欠史八代を参照)。",
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"text": "なお神武天皇が実在したなら弥生時代後期のため当時瀬戸内海に多数あった高地性集落を海から見ながら東征したことになる。",
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"text": "以下、日本書紀、古事記における記述からなるべく神話的修飾を除いて記載する。",
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"text": "第十代天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ、崇神天皇)については3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。御間城入彦は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。また初めて戸口を調査して課役を科した。天下平穏となり御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる。この頃、朝鮮半島南端の任那(加羅)から蘇那曷叱知が派遣されたという。",
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"text": "第十一代天皇の活目入彦(イクメイリヒコ、垂仁天皇)は諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにした。相撲や埴輪の起源もこの頃とされている。",
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"text": "第十二代天皇の大足彦(オオタラシヒコ、景行天皇)は大規模な征服事業を行った。日本書紀によると大足彦は自ら九州に遠征して土蜘蛛や熊襲を征伐した。子の日本武尊(ヤマトタケル)の伝説的な活躍もよく知られ熊襲征伐に続いて東の蝦夷討伐も行った。しかし日本武尊は皇位を継ぐことなく遠征中に早世してしまう。",
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"text": "第十三代天皇の稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)は地方行政機構の整備を図った。諸国に命じて行政区画である国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。さらに山河をもって国県を定めた。これは古事記序文でも触れられている。",
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"text": "第十四代天皇の足仲彦(タラシナカツヒコ、仲哀天皇)は日本武尊の子であり父と同様に熊襲征伐を行った。しかし道半ばで崩御してしまう。天皇の遺志を継いだ皇后の気長足姫尊(オキナガタラシヒメ、神功皇后)は熊襲を完全に屈服させ、続いて海を渡って朝鮮半島へも侵攻した。朝鮮半島南部の百済、新羅は日本へ朝貢するようになり高句麗の好太王碑にも「倭(日本)が百済・加羅・新羅を破り臣民にしてしまった」とある。",
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"text": "第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、応神天皇)は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、王仁、弓月君、阿知使主といった面々である。この頃に論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったと言われる。",
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"text": "第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、仁徳天皇)は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国南朝)に遣いを送り縫製の女工を求めてもいる。これは倭王「讃」の朝貢に比定されている。",
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"text": "第十九代天皇の雄朝津間(オアサヅマ、允恭天皇)は大鷦鷯の四男であり諸氏族の氏姓の乱れを正す改革を断行した。",
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"text": "第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、雄略天皇)は雄朝津間の五男であり即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくして専制的な統治を行った。金錯銘鉄剣に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている。国内では吉備氏の反乱を制し養蚕を推奨した。国外では高句麗に滅ぼされた百済を復興し反抗的な新羅へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが倭王「武」の朝貢に比定されている。",
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"text": "その後は皇族の少なさが祟り第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、武烈天皇)の崩御をもって大鷦鷯(仁徳天皇)以来の男系が絶えてしまう。",
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"text": "第二十六代天皇として群臣が選んだのは誉田別(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった(継体天皇)。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し圧迫を受けた加羅(任那諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君磐井が反乱を起こす。磐井の乱が鎮圧されると任那には近江毛野が派遣されたが傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。",
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"text": "第二十九代の磯城島天皇(欽明天皇)は男大迹天皇の三男である。この頃にも任那を巡る様々な交渉が任那日本府を介して行われた。百済からの仏教公伝はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は562年に任那を滅ぼしてしまう。激怒した天皇は新羅に対して討伐軍を送るが敵の罠にかかってしまい退却する。天皇は任那奪還を託して崩御した。",
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"text": "第三十代の他田天皇(敏達天皇)が父の跡を継いだが百済から伝わった仏教を巡って物部氏と蘇我氏が対立する事態になった。醜い争いが続いた末、天皇は崩御直前に仏教を禁じた。",
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"text": "第三十一代の橘豊日天皇(用明天皇)は他田天皇の異母弟である。この天皇は先帝の方針を覆して仏教に帰依した。しかしその治世はわずか1年半だった。天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き崇仏派の蘇我氏が勝利して廃仏派の物部氏は滅ぼされた(丁未の乱)。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。",
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"text": "第三十二代の天皇に据えられた泊瀬部皇子は他田天皇と橘豊日天皇の異母弟である(崇峻天皇)。しかし蘇我馬子と不和になった天皇は592年に暗殺されてしまった。臣下に直接殺された唯一の天皇である。しかし特に混乱も起きず蘇我馬子は他田天皇の皇后だった額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇(推古天皇)である。",
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"text": "第三十三代天皇の炊屋姫天皇(推古天皇)は593年に橘豊日天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とした。聖徳太子は603年に冠位十二階、604年に十七条憲法を制定し仏教の興隆に力を注いで天皇中心の国家体制作りを行った。607年には小野妹子らを大唐国(隋)に遣わして皇帝に上表文(国書)を送った。620年には蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。天皇は628年に崩御した。",
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"text": "第三十四代天皇として即位したのは他田天皇の孫の田村皇子だった(舒明天皇)。このとき厩戸皇子の子の山背大兄王と皇位争いが起きかけた。同じころに蘇我氏も馬子の子の蝦夷、孫の入鹿に代替わりした。初の遣唐使が送られたのはこの頃である。しかし唐からの遣いである高表仁は大変無礼で天皇への謁見が適わなかったと言われる。天皇は643年に崩御した。",
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"text": "第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった(皇極天皇)。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。645年の乙巳の変である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。",
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"text": "第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)は646年に改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった難波宮で654年に寂しく亡くなった。",
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"text": "第三十七代天皇となったのは重祚した宝皇女だった(斉明天皇)。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。",
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"text": "第三十八代天皇として668年に即位した中大兄皇子(天智天皇)は全国的な戸籍(庚午年籍)を作って人民を把握する国内政策を推進した。天皇が崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子(天武天皇)が反乱を起こした。672年の壬申の乱である。敗北して自害した大友皇子に即位の事実は確認されないが現在は第三十九代弘文天皇と見なされている。",
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"text": "第四十代天皇に即位した大海人皇子(天武天皇)は都を宮を飛鳥浄御原宮に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。681年には律令の編纂を開始した。天皇の称号が実際に用いられ始めたのもこの時代だと言われている。しかし強権的な政治を行った天皇も寿命には勝てず制度の確立を待たずして686年に崩御した。",
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"text": "第四十一代天皇に即位したのは皇后の鸕野讚良皇女である(持統天皇)。先帝の事業を引き継いだ女帝は689年に飛鳥浄御原令を制定、690年には庚寅年籍が造られ、692年には公地公民制を基礎とした班田収授法を実施。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。697年に孫の珂瑠皇子に譲位した。",
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"text": "第四十二代天皇となった珂瑠皇子(文武天皇)は701年に大宝律令を制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制を完成させた。しかしこの天皇は短命で707年に崩御した。",
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"text": "第四十三代天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった(元明天皇)。そして710年に平城京遷都が実施されて大和時代は終わった。",
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] |
大和時代(やまとじだい)は、日本の歴史の文献上における時代区分の一つである。南九州から畿内に渡ってきた初代神武天皇即位から平城京遷都までの時代を指す。かつて大和朝廷(ヤマト王権)が支配した時代が大和時代と一義的に捉えられていたが、その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。このため近年では、同時代を3世紀半ばから始まる「古墳時代」と呼称するのが一般的である。 大和時代は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時代と言い換えることもできる。厳密には大和時代は弥生時代末期を含み、また飛鳥時代は古墳時代末期でもある。日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが、大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。日本書紀に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
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{{出典の明記| date = 2022年6月}}
{{日本の歴史|kashihara-unebi.JPG|画像説明=橿原神宮内拝殿と幣殿。背景は[[畝傍山]]}}
'''大和時代'''(やまとじだい)は、[[日本の歴史]]の文献上における時代区分の一つである。南九州から畿内に渡ってきた初代[[神武天皇]]即位から[[平城京]]遷都までの時代を指す。かつて[[大和朝廷]]([[ヤマト王権]])が支配した時代が大和時代と一義的に捉えられていたが、その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。このため近年では、同時代を3世紀半ばから始まる「'''[[古墳時代]]'''」と呼称するのが一般的である。
大和時代は[[古墳時代]]と[[飛鳥時代]]を合わせた時代と言い換えることもできる。厳密には大和時代は[[弥生時代]]末期を含み、また[[飛鳥時代]]は[[古墳時代]]末期でもある。[[日本書紀]]などの文献による[[神武天皇]]即位年は[[紀元前660年]]だが、大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。日本書紀に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。
== 概要 ==
[[大和朝廷]]による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。[[日本書紀]]、[[古事記]]ではまず初代[[神武天皇]]による建国経緯が語られる。具体的な国家事業は第十代[[崇神天皇]]による[[四道将軍]]の派遣、課税の開始などから始まる。続いて[[垂仁天皇]]による[[灌漑]]事業、[[景行天皇]]と[[日本武尊]]による九州や関東への遠征、[[成務天皇]]による[[国境|国造]]の制定、[[神功皇后]]による[[三韓征伐]]といった国家の発展が語られる。
[[応神天皇]]の治世では多くの渡来人の来朝があり[[儒教]]と[[漢字]]が伝わり、ここから[[日本列島]]外との交流が深まる。応神天皇の子の[[仁徳天皇]]は課税を三年間止めた後で大規模な灌漑事業を実施した善政が知られる。仁徳天皇の孫の[[雄略天皇]]は専制的な統治で朝鮮半島への干渉や中国([[南北朝時代 (中国)#南朝|南朝]])への遣使を盛んに行った。しかし雄略天皇が崩御すると天皇([[治天下大王|大王]])の権力も衰え[[大伴氏|大伴]]・[[物部氏|物部]]・[[蘇我氏|蘇我]]の各豪族が先後して実権を握っていった。[[6世紀]]前半には[[仏教]]が伝来する([[日本の仏教]]の項を参照)。
[[推古天皇]]以降の時代は[[飛鳥時代]]ともいう。中国からの外圧が強くなると再び[[中央集権]]化志向が高まり[[聖徳太子]]の法律([[十七条憲法]])・官制改革([[冠位十二階]])を経て[[大化の改新]]([[645年]])後、天皇中心の政治が法体制的に確立していった。さらに[[遣隋使]]・[[遣唐使]]の派遣もあって農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。
[[乙巳の変]]、[[白村江の戦い]]、[[壬申の乱]]といった動乱を経て[[大和朝廷]]はさらなる改革に踏み切った。それまでの[[氏姓制度]]を改め[[公地公民制]]や統一的税制([[租庸調]]制など)を施行し地方行政機構を改組して中央集権化するなど[[律令制]]の導入を図った。末期の[[701年]]には[[大宝律令]]が定められた。[[710年]]の[[平城京]]遷都をもって大和時代は終わり[[律令国家]]としての時代が始まる。[[律令制]]は10世紀初めに崩壊したが名目的には19世紀の[[明治維新]]まで維持された。
== 単純計算による日本書紀の解釈 ==
考古学上の実在が想定されうる天皇は5世紀末の[[金錯銘鉄剣]]銘によるワカタケル[[雄略天皇]]までである。
[[日本書紀]]では天皇の在位年数で年代を表している。しかし大和時代の天皇には異常な長寿が多いので[[日本書紀]]の年代は正確と言い難い。そこで仮説として系図については信用する前提で1世代を30年として年代を単純計算する方法がある。[[飛鳥時代]]の年代に不自然な点はなく概ね信頼できるので、ここから逆算していく。
=== 古墳時代中後期 ===
[[画像:NintokuTomb Aerial photograph 2007.jpg|thumb|250px|大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)<br/>画像:2007年撮影<br/><small>{{国土航空写真}}</small>]]
[[飛鳥時代]]の始まりである[[推古天皇]]即位が[[593年]]なので7世代前の[[応神天皇]]即位は[[古墳時代]]中ごろの[[4世紀]]後半になる。応神天皇陵、仁徳天皇陵に治定されている[[誉田御廟山古墳]]、[[大仙陵古墳]]は考古学的にも5世紀前半の築造とされている。また日本書紀で[[応神天皇]]や[[仁徳天皇]]の治世に在位したと記される百済王は[[朝鮮半島]]の[[正史]]である[[三国史記]]において[[4世紀]]後半から[[5世紀]]初めの王である。年代は一致している。
なお[[日本書紀]]の年代と[[三国史記]]の年代は応仁天皇期で120年ずれている。[[日本書紀]]の年代を機械的に当てはめれば[[応神天皇]]即位は[[3世紀]]後半、その母親の[[神功皇后]]は[[3世紀]]中ごろの人物となる。[[3世紀]]中ごろは[[魏志倭人伝]]に記される[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]や[[台与]]がいた時代であり日本書紀の神功皇后摂政39年、40年、43年、66年に魏志倭人伝からの引用文がある。ただし書紀に邪馬台国や卑弥呼・台与の名は無く「倭の女王」とだけ書かれている。神功皇后と倭の女王を同じとする記述もない。
=== 古墳時代前期 ===
応神天皇を4世紀後半の人物としてさらに遡ると、その5世代前にあたる[[崇神天皇]]即位は[[3世紀]]中ごろとなる。古墳時代の開始期であり天皇陵が大規模な[[前方後円墳]]に治定されるのも崇神天皇以降である。崇神天皇、[[垂仁天皇]]、[[景行天皇]]、[[成務天皇]]の陵に治定される[[行燈山古墳]]、[[宝来山古墳]]、[[渋谷向山古墳]]、[[佐紀石塚山古墳]]は考古学的にも3世紀後半から4世紀前半の築造である。
また[[3世紀]]中ごろは前述したように邪馬台国の卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女である[[倭迹迹日百襲姫命]]を[[卑弥呼]]と同一視する説が根強い。百襲姫の墓に治定される[[箸墓古墳]]は卑弥呼の死期と重なる[[3世紀]]中頃の築造とされ卑弥呼の墓との説がある<ref>広瀬和雄『前方後円墳国家』角川書店<角川選書>、2003年7月。ISBN 4-04-703355-3</ref><ref>白石太一郎『古墳とヤマト政権』文藝春秋<文春新書>、1999年4月。ISBN 4-166-60036-2</ref>。その近くにある[[纒向遺跡]]もまた邪馬台国の中心地として有力視される。なお日本書紀の年代を機械的に当てはめれば崇神天皇即位は[[紀元前97年]]である。
=== 弥生時代末期 ===
崇神天皇を[[3世紀]]中ごろの大王だとしてさらに遡ると歴史学的な証明は困難になる。大規模な埋葬文化の無い[[弥生時代]]末期になるため考古学的な考証に耐えうる[[陵墓]]も無くなる。[[日本書紀]]や[[古事記]]でも初代[[神武天皇]]から十代[[崇神天皇]]の間の八代については系譜しか記録がないため実在性が乏しい([[欠史八代]])。
それでも敢えて年代を想定してみると神武天皇から崇神天皇は十代に渡って親子間での皇位継承なので[[神武天皇]]即位は[[前1世紀]]ごろになる。ただし[[先代旧事本紀]]の地祇本紀、天孫本紀に書かれた[[豪族]]の系図からは神武天皇から崇神天皇までおよそ7~8世代ということが示唆されている。これを考慮に入れるならば神武天皇即位は[[1世紀]]ごろとなる。[[後漢]]の[[光武帝]]から倭[[奴国]]に[[金印]]([[漢委奴国王印]]?)が授けられた頃である。
いずれにしても[[神武天皇]]は一世紀前後の人物ということになる。あくまでも実在すればということであり神話的色彩が強い[[神武天皇]]は伝説的人物とみなされるのが一般的である。なお日本書紀の年代では神武天皇即位は[[紀元前660年]]であり[[明治時代]]になって[[神武天皇即位紀元]](皇紀)の元年とされた。戦時中の[[1940年]](昭和15年)には[[紀元二千六百年記念行事]]が催され国威発揚に利用された。
== 神話時代 ==
実際の歴史に基づいているとすれば弥生時代末期の話と思われるが神話的修飾が極めて強い。
=== 天孫降臨 ===
はるか昔、[[葦原中国]]と呼ばれた地上を統治するために天上([[高天原]])から[[天照大神]]の孫である天饒石国饒石天津彦火[[瓊瓊杵尊]](あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)が[[日向国]](南九州)へ降臨したと言われる。[[瓊瓊杵尊]]が山の神の娘である[[鹿葦津姫]]を娶って生まれた子が[[海幸彦]]と[[山幸彦]]である。[[山幸彦]]が海の神の娘である[[豊玉姫]]を娶って生まれた子が[[彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊]](なぎさたけうがやふきあえずのみこと)である。
鸕鶿草葺不合尊の子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)、後に[[神武天皇]]と呼ばれる初代天皇である。こうして天と山と海の神の血を引く存在が生まれたとされる。
=== 神武東征 ===
[[ファイル:Tennō Jimmu.jpg|thumb|280px|八咫烏に導かれる神武天皇([[安達吟光]]画)]]
神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東に美しい国があると聞いて東征に出た。日向を出発し筑紫(北九州)へ向かい[[宇佐市|宇佐]]、[[安芸国]]([[広島県]])、[[吉備国]]([[岡山県]])、浪速国([[大阪市]])を経て河内国草香邑([[大阪府]][[東大阪市]])へ至る。河内国北部にあたる現在の[[大阪府]]東部は古代には[[河内湖]]という湖であり、ここまで船で来ることができた。
さらに[[生駒山]]を超えて[[大和国]]へ入ったが、[[大和国]]の指導者[[長髄彦]]の抵抗にあって撤退を余儀なくされた。[[紀伊半島]]を回っている間に[[新宮市]]付近で嵐にあって船は大破、磐余彦は三人の兄をすべて失う。北上を余儀なくされた一行は熊野地方の豪族を下しながら[[大和国]]に再侵攻した。その途中では病を薙ぎ払う神剣[[布都御魂]]、神の使いである[[八咫烏]]などの助けがあったという。
最終的に[[長髄彦]]を殺して、[[大和国]]の征服に成功した磐余彦は[[橿原神宮|橿原宮]]で初代[[天皇]]として即位する([[神武天皇]])。しかしその後の天皇については八代にわたって具体的な実績の記録がなく初期天皇の実在は疑われている<ref>直木孝次郎 『日本神話と古代国家』 講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8</ref>([[欠史八代]]を参照)。
なお神武天皇が実在したなら弥生時代後期のため当時瀬戸内海に多数あった[[高地性集落]]を海から見ながら東征したことになる。
== 古墳時代 ==
{{main|古墳時代}}
以下、[[日本書紀]]、[[古事記]]における記述からなるべく神話的修飾を除いて記載する。
=== 勢力拡大 ===
[[Image:EmpressJinguInKorea.jpg|thumb|350px|[[月岡芳年]]筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」]]
第十代天皇の御間城入彦(ミマキイリヒコ、[[崇神天皇]])については[[3世紀]]から[[4世紀]]初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。御間城入彦は[[大彦命]]を[[北陸道]]に、[[武渟川別]]を[[東海道]]に、[[吉備津彦]]を[[山陽道|西道]]に、[[丹波道主命]]を[[丹波国|丹波]]([[山陰道]])に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた([[四道将軍]])。また初めて戸口を調査して課役を科した。天下平穏となり御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる。この頃、朝鮮半島南端の[[任那]](加羅)から[[蘇那曷叱知]]が派遣されたという。
第十一代天皇の活目入彦(イクメイリヒコ、[[垂仁天皇]])は諸国に多くの池溝を開いて農業を盛んにした。[[相撲]]や[[埴輪]]の起源もこの頃とされている。
第十二代天皇の大足彦(オオタラシヒコ、[[景行天皇]])は大規模な征服事業を行った。[[日本書紀]]によると大足彦は自ら九州に遠征して[[土蜘蛛]]や[[熊襲]]を征伐した。子の[[日本武尊]](ヤマトタケル)の伝説的な活躍もよく知られ熊襲征伐に続いて東の[[蝦夷]]討伐も行った。しかし日本武尊は皇位を継ぐことなく遠征中に早世してしまう。
第十三代天皇の稚足彦(ワカタラシヒコ、[[成務天皇]])は地方行政機構の整備を図った。諸国に命じて行政区画である国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命した。さらに山河をもって国県を定めた。これは[[古事記]]序文でも触れられている。
第十四代天皇の足仲彦(タラシナカツヒコ、[[仲哀天皇]])は日本武尊の子であり父と同様に熊襲征伐を行った。しかし道半ばで崩御してしまう。天皇の遺志を継いだ皇后の気長足姫尊(オキナガタラシヒメ、[[神功皇后]])は熊襲を完全に屈服させ、続いて海を渡って朝鮮半島へも侵攻した。朝鮮半島南部の[[百済]]、[[新羅]]は日本へ朝貢するようになり[[高句麗]]の[[好太王碑]]にも「倭(日本)が百済・加羅・新羅を破り臣民にしてしまった」とある。
=== 文化流入 ===
[[ファイル:Tennō Yūryaku.jpg|thumb|280px|雄略天皇([[安達吟光]]画)]]
第十五代天皇の誉田別(ホムタワケ、[[応神天皇]])は足仲彦天皇と気長足姫尊の子である。誉田別の治世では多くの渡来人が来朝した。阿直伎師、[[王仁]]、[[弓月君]]、[[阿知使主]]といった面々である。この頃に[[論語]]と[[千字文]]、すなわち[[儒教]]と[[漢字]]が伝わったと言われる<ref>山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年</ref>。
第十六代天皇の大鷦鷯(オオサザキ、[[仁徳天皇]])は難波堀江の開削、茨田堤の築造、山背栗隈県の灌漑用水設置、和珥池や横野堤の築造、感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘削を行って広大な田地を開拓した。疲弊した国の実情を察して三年間課税を止めた善政も有名である。また呉(中国[[南北朝時代 (中国)#南朝|南朝]])に遣いを送り縫製の女工を求めてもいる。これは[[倭の五王|倭王]]「讃」の朝貢に比定されている。
第十九代天皇の雄朝津間(オアサヅマ、[[允恭天皇]])は大鷦鷯の四男であり諸氏族の[[氏姓]]の乱れを正す改革を断行した。
第二十一代天皇の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル、[[雄略天皇]])は雄朝津間の五男であり即位に際して対立候補となる皇族を殺しつくして専制的な統治を行った。[[金錯銘鉄剣]]に記された大王「獲加多支鹵」(ワカタケル)と想定されており5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈されている<ref>『詳説 日本史図録 第5版』山川出版社、2011年、p. 29。</ref>。国内では[[吉備氏]]の反乱を制し養蚕を推奨した。国外では[[高句麗]]に滅ぼされた[[百済]]を復興し反抗的な[[新羅]]へ攻め込んだりもした。呉へ二度遣いを送って縫製の女工を求め、これが[[倭の五王|倭王]]「武」の朝貢に比定されている。
その後は皇族の少なさが祟り第二十五代天皇である小泊瀬稚鷦鷯(オハツセワカサザキ、[[武烈天皇]])の崩御をもって大鷦鷯(仁徳天皇)以来の[[男系]]が絶えてしまう。
=== 任那の混乱と仏教公伝 ===
[[file:Shikishima-Kanasashi Palace.JPG|thumb|right|奈良県桜井市にある仏教公伝の碑]]
第二十六代天皇として群臣が選んだのは誉田別(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった([[継体天皇]])。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し圧迫を受けた[[加羅]]([[任那]]諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君[[磐井]]が反乱を起こす。[[磐井の乱]]が鎮圧されると任那には[[近江毛野]]が派遣されたが傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。
第二十九代の磯城島天皇([[欽明天皇]])は男大迹天皇の三男である。この頃にも任那を巡る様々な交渉が[[任那日本府]]を介して行われた。[[百済]]からの[[仏教公伝]]はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は[[562年]]に任那を滅ぼしてしまう。激怒した天皇は新羅に対して討伐軍を送るが敵の罠にかかってしまい退却する。天皇は任那奪還を託して崩御した。
第三十代の他田天皇([[敏達天皇]])が父の跡を継いだが百済から伝わった仏教を巡って[[物部氏]]と[[蘇我氏]]が対立する事態になった。醜い争いが続いた末、天皇は崩御直前に仏教を禁じた。
第三十一代の橘豊日天皇([[用明天皇]])は他田天皇の異母弟である。この天皇は先帝の方針を覆して仏教に帰依した。しかしその治世はわずか1年半だった。天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き崇仏派の[[蘇我氏]]が勝利して廃仏派の[[物部氏]]は滅ぼされた([[丁未の乱]])。以降約半世紀の間、[[蘇我氏]]が[[大臣]]として権力を握った。
第三十二代の天皇に据えられた泊瀬部皇子は他田天皇と橘豊日天皇の異母弟である([[崇峻天皇]])。しかし蘇我馬子と不和になった天皇は[[592年]]に暗殺されてしまった。臣下に直接殺された唯一の天皇である。しかし特に混乱も起きず蘇我馬子は他田天皇の皇后だった額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇([[推古天皇]])である。
== 飛鳥時代 ==
{{main|飛鳥時代}}
=== 聖徳太子 ===
[[ファイル:Horyu-ji11s3200.jpg|thumb|255px|[[法隆寺]]金堂(西院伽藍)]]
第三十三代天皇の炊屋姫天皇([[推古天皇]])は[[593年]]に橘豊日天皇の皇子である[[聖徳太子|厩戸皇子(聖徳太子)]]を[[皇太子]]に立てて[[摂政]]とした。聖徳太子は[[603年]]に[[冠位十二階]]、[[604年]]に[[十七条憲法]]を制定し仏教の興隆に力を注いで天皇中心の国家体制作りを行った。[[607年]]には[[小野妹子]]らを大唐国([[隋]])に遣わして皇帝に上表文(国書)を送った。[[620年]]には蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。天皇は[[628年]]に崩御した。
第三十四代天皇として即位したのは他田天皇の孫の田村皇子だった([[舒明天皇]])。このとき厩戸皇子の子の[[山背大兄王]]と皇位争いが起きかけた。同じころに蘇我氏も馬子の子の[[蘇我蝦夷|蝦夷]]、孫の[[蘇我入鹿|入鹿]]に代替わりした。初の[[遣唐使]]が送られたのはこの頃である。しかし唐からの遣いである高表仁は大変無礼で天皇への謁見が適わなかったと言われる。天皇は[[643年]]に崩御した。
=== 大化の改新 ===
第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった([[斉明天皇|皇極天皇]])。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の[[山背大兄王]]一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)・[[中臣鎌子]]([[藤原鎌足]])らが宮中([[飛鳥板蓋宮]])で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。[[645年]]の[[乙巳の変]]である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。
第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子([[孝徳天皇]])は[[646年]]に[[改新の詔]]を出して[[難波宮]]で次々と改革を進めていった([[大化の改新]])。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった[[難波宮]]で[[654年]]に寂しく亡くなった。
第三十七代天皇となったのは[[重祚]]した宝皇女だった([[斉明天皇]])。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は[[白村江の戦い]]で[[新羅]]・[[唐]]連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
=== 壬申の乱 ===
[[File:Asuka Palace Ruins, ido-2.jpg|thumb|250px|right|{{center|飛鳥宮跡 石敷井戸<br />(飛鳥浄御原宮期の復元遺構)}}]]
第三十八代天皇として[[668年]]に即位した中大兄皇子([[天智天皇]])は全国的な戸籍(庚午年籍)を作って人民を把握する国内政策を推進した。天皇が崩御すると子の大友皇子が跡を継いだが、すぐに先帝の弟の大海人皇子([[天武天皇]])が反乱を起こした。[[672年]]の[[壬申の乱]]である。敗北して自害した大友皇子に即位の事実は確認されないが現在は第三十九代[[弘文天皇]]と見なされている。
第四十代天皇に即位した大海人皇子(天武天皇)は都を宮を[[飛鳥浄御原宮]]に移して中央集権的な国家体制の整備に努めた。[[681年]]には律令の編纂を開始した。天皇の称号が実際に用いられ始めたのもこの時代だと言われている。しかし強権的な政治を行った天皇も寿命には勝てず制度の確立を待たずして[[686年]]に崩御した。
第四十一代天皇に即位したのは皇后の鸕野讚良皇女である([[持統天皇]])。先帝の事業を引き継いだ女帝は[[689年]]に[[飛鳥浄御原令]]を制定、[[690年]]には[[庚寅年籍]]が造られ、[[692年]]には[[公地公民制]]を基礎とした[[班田収授法]]を実施。[[694年]]には日本初の本格的都城となる[[藤原京]]に都を遷した。[[697年]]に孫の珂瑠皇子に譲位した。
第四十二代天皇となった珂瑠皇子([[文武天皇]])は[[701年]]に大宝律令を制定。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権支配体制を完成させた。しかしこの天皇は短命で[[707年]]に崩御した。
第四十三代天皇となったのは先帝の母の阿閇皇女だった([[元明天皇]])。そして[[710年]]に[[平城京]][[遷都]]が実施されて大和時代は終わった。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[古墳時代]]
* [[飛鳥時代]]
* [[上古]]
* [[神代 (日本神話)]]
* [[日本の歴史]]
* [[日本史時代区分表]]
* [[神武東征]]
* [[三韓征伐]]
* [[渡来人]]
* [[任那日本府]]
* [[邪馬台国]]
* [[倭の五王]]
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真空
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真空(しんくう、英: vacuum)は、通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態。
また物理学における概念として、古典論における絶対真空、量子論における真空状態を指す場合にも用いられることがある。
真空を物理学の古典論における絶対真空でいう物質が存在しない空間のように思われることがあるが、微視的ではない大きさの空間で物質が存在しない状態の実現は不可能である。(物理学の古典論における絶対真空を参照)
日本産業規格 (JIS)では「通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間内の状態」とされている。
真空の状態は真空ポンプを用いて容器内部の気体を排気することで得ることができる。 真空度は対象の空間に存在する気体原子・分子が外壁に及ぼす圧力で表される。単位はTorr(トル)が用いられてきたが、国際単位系への統一に伴いPa(パスカル)に移行しつつある。1 atm=1.01325×10 Pa=760 Torrである。 真空度は言葉のイメージと表現が逆になるので注意が必要である(例:真空度が高い(高いレベルの真空度である)=圧力が低い)。
一般的な圧力と同じくゲージ圧と絶対真空度があり、それぞれ所謂ゲージ圧と絶対圧に対応している。丁度摂氏温度(°C)と絶対温度(K)のように、大気圧を0Paとしてそこからの変位量を示したものがゲージ圧。絶対真空を0Paとしてそこからの積算を示したものが絶対真空度である。
但しゲージ圧真空度の場合、所謂ゲージ圧として真空状態を「ゲージ圧−100kPa」のように負の値で表す場合と、別の単位として扱って「ゲージ圧真空度100kPa」のように正の値で表す場合、更に「ゲージ圧真空度−100kPa」のように表す場合があるので、仕様確認時に絶対真空度かどうかと合わせて確認する必要がある。尚、絶対真空度の場合は「1.33×10-7kPa(abs)」のように注記が入ることがある。
ISO 3529-1では真空を圧力領域により次のように区分している。
尚この超高真空より真空度の高い領域(主に10または10 Pa以下)として極高真空 (Extreme High Vacuum、XHV) という用語も使用されることがあるが、ISOでは定められていない。
古典論において、真空は物質が存在せず・圧力が 0 の仮想的状態、「何も無い状態」である。 絶対真空ともいう。
これは概念的なものであり、実際に実現可能なものではない。
絶対真空とは空間中に原子・分子が一つも存在しない状態を表すが、具体的な方法で実現可能な真空状態(本稿で言う一般利用の真空状態)には物質が存在し圧力が観測される。 例えば地球の表面上の圧力(1気圧)= 100 kPaの条件の下では1 cm中の気体分子は0 °C時で2.69×10個存在する。 真空の実現とはその膨大な量の原子・分子を減らしていく過程であるが、人為的に作り出せる真空状態の限界は10 Pa程度である。この圧力下でも1 cmに数千個の気体分子が存在する。 宇宙空間においても空間中に物質が何も存在しないわけではなく気体原子・分子は存在し、さらに外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でも気体原子・分子は存在するとされている。
量子論における真空は、決して「何もない」状態ではない。例えば常に電子と陽電子の仮想粒子としての対生成や対消滅が起きている。
ポール・ディラックは、真空を負エネルギーを持つ電子がぎっしりと詰まった状態(ディラックの海)と考えていたが、後の物理学者により、この概念(空孔理論)は拡張、解釈の見直しが行われている。
現在の場の量子論では、真空とは、十分な低温状態下を仮定した場合に、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。粒子が存在して運動していると、そのエネルギーが余計にあるわけであるから、それは最低エネルギー状態でない。よって十分な低温状態下では粒子はひとつもない状態が真空である。ただし、場の期待値はゼロでない値を持ちうる。それを真空期待値という。たとえば、ヒッグス場がゼロでない値をもっていることが、電子に質量のあることの原因となっている。
真空の存在については古代ギリシア時代から、論争が繰り広げられてきた。紀元前5~4世紀、レウキッポスとデモクリトスの原子論は、自然を構成する分割不可能な最小単位「原子(アトム)」が「空虚(ケノン)」 の中で運動しているとした。一方、アリストテレスは、空間には必ず何らかの物質が充満しているとして、空虚の存在を認めなかった(自然は真空を嫌う(英語版))。これに対して、アリストテレスの学派のストラトンは、空気を圧縮する実験によって、原子の距離を縮め得る余地(すなわち原子が存在しない空間=真空)の存在を主張した。
この議論に決着がついたのは17世紀に入ってからであった。1643年にエヴァンジェリスタ・トリチェリは、一方の端が閉じたガラス管に水銀を満たし、このガラス管を立てると、水銀柱は約76cmとなり、それより上の部分が真空になっていることを発見した。また、オットー・フォン・ゲーリケは1657年、ブロンズ製の半球を2つ合わせて中空の球にして、内部の空気を抜いて真空にするという実験を行った。この2つの半球はぴったりとくっ付き、16頭の馬で引っ張ることでようやく外すことができた。この実験はマクデブルクの半球として知られている。これらは真空の発見であると同時に、気圧の発見でもあった。何も存在しない以上、その空間が何らかの吸引力を発揮するわけがなく、周囲の空間からの圧力を想定しないわけにはいかないからである。
真空が一般化していくのは18世紀に入ってからである。この時期様々な真空ポンプが開発され、蒸気機関や、排水ポンプ、紡績機械などの動力に利用されるようになった。19世紀に入ると白熱電球や、真空管などが開発されることで一般に「真空」という名称が広がっていくことになる。またそれらの開発、製造のためのより高性能の真空ポンプの開発が進むようになった。
20世紀に入ると電球、真空管の進歩や、真空中における技術の発展により、粒子加速器や電子顕微鏡など真空を利用した機器の発達、また電子やイオンに関係する新たな知識、技術が生まれていった。一方で食品や鉄鋼などの産業に真空が利用されるようになると真空ポンプや真空計、真空部品などが産業化され発展していった。日常生活では、空気を完全に抜いた真空パックや真空による氷の昇華を利用したフリーズドライという手法が広く実用化された。
特に1953年にB-Aゲージが開発されると今まで測定できなかった超高真空が測定可能となり、超高真空に対応した真空ポンプや真空部品が発展していくことになる。
現代における代表的真空利用は電子工業用途である。この分野の発展により真空関連産業は急速に発展し、今では多くの産業を支える基盤産業として貢献している。
大気中にある容器内を真空にするために各種の真空ポンプを使用する。
10 Pa程度の真空は、ロータリーポンプで手軽に得ることができる。真空デシケーター等ではこの程度の真空で十分である。
スパッタ等の真空成膜装置ではプラズマ発生時に他の気体が残留するのを防ぐため、10 Pa程度の真空度が求められる。このような場合、真空用材料で製作された真空チャンバーと銅ガスケットを用い、ターボ分子ポンプ(TMP)で排気することにより達成できる。
分子線エピタキシー(MBE)や電子顕微鏡、粒子加速器等、10 Pa台の真空が求められる場合は、達成に更に多くの工程が必要となる。真空チャンバーをターボ分子ポンプ (TMP) で高真空状態にした後、真空チャンバー全体を加熱(ベーキング)して、チャンバ内壁に付着した気体分子を排除する必要がある。排気は大排気量のターボ分子ポンプ (TMP) のみでも可能であるが、多くの場合はイオンポンプやゲッターポンプが用いられる。MBE用の真空チャンバーでは、チャンバー内で蒸着を行うため、チャンバーの壁面に液体窒素シュラウドを設け、壁面を冷却することで内部に残留した気体分子を固着させ、真空度を上げる手法も用いられている。容積 V を排気速度 S のポンプで排気したときの圧力 p = p0exp(−St/V) となる。ただし t = 0 で p = p0 とする。また、コンダクタンス C1 のパイプの長さを m 倍にすると、コンダクタンスは C1/m になる。
真空の度合いの計測は、空間中に存在する原子・分子によって気体分子運動論的に生じる圧力を測定する方法による。 真空を初めて測定したのは1643年、トリチェリが発明した水銀気圧計による。現在までに多くの真空計が発明されてきたが、現在では大気圧からおよそ16桁に及ぶ広い範囲を測定することができるようになっている。これらの真空計は測定原理から大きく2つに分けることができる。一つは測定領域に接している固体表面に対して気体分子が及ぼす力を直接計る絶対圧計測型、もう一つは気体分子の密度に依存して変化する物理量(熱や電流)を測定し圧力に換算する分子密度型である。
気体は非常に数多くの分子からなっており、0 °C、1気圧の空気であれば1 cm中に含まれる気体分子の数は2.69×10個である。温度が一定なら単位体積当たりの気体分子の数は圧力に比例する。一般的に静止衛星軌道程度の高度(100,000 km)であれば空気はまったく無いと思われがちであるが、この高度でも圧力は存在(10 Pa程度)し1 cmの空間に数十個の気体分子が存在している。
気体中で多くの分子がばらばらの速度で無秩序に飛び回っている。これを統計的に見ると定常状態ではある一定の分布を示す。これはマクスウェルの速度分布則と呼ばれる。
真空中では1気圧の気体と違い圧力領域により気体の振る舞いが変わってくる。気体とは1気圧中では連続流体として扱われるが、厳密には勝手に飛び回る分子の集まりである。分子は小さいながらも大きさを持っているので、移動中に他分子と衝突する。衝突することで方向と速度を変え、再び別の分子に衝突する。この衝突から衝突までの距離の平均を平均自由行程(mean free path)という。
平均自由行程は気体分子の直径を D、分子密度を n とすると D と n に比例する。
目安として空気の平均自由行程は室温、10 Pa、で約5 cmである。
容器の表面に衝突する気体分子の数はそこに存在する気体分子の密度と分子の熱運動の平均速度に比例する。これらは分子流領域での真空排気や薄膜形成時には非常に重要な数値となる。
気体が存在すると気体分子同士が運動により動き回り、それらの衝突により当たった対象に気体分子の重さに応じた衝撃が加わる。気体中に壁があっても同様であり、気体分子は常に壁に衝突し、その衝撃により壁に力が加わる。その力を単位面積で割った力が圧力である。
JISにおいては 「空間内のある点を含む仮想の微小平面を両側の方向から通過する分子によって、単位面積当たり、単位時間に輸送される運動量の面に垂直な成分の総和。空間内に定常的な気体の流れがあるときは、流れの方向に対して面の傾きを規定する。」 となっている。
真空では圧力の単位は国際単位系でPa(パスカル)で表されるが、トリチェリによる真空の発見の功績にちなむ Torr(トル)は昔から使用されており、古い書籍や昔ながらの真空技術者は今でも使用している。
真空排気された真空チャンバーは内側の分子量が減って外側からの力が大きくなるため常に外側から差分の圧力を受けることになる。ほとんどの真空装置では100 Pa以下に排気されるため、事実上1気圧の力を受けることになる。
真空装置では真空チャンバーと真空ポンプを繋ぐ配管が必要になる。この配管は真空排気する場合には抵抗として排気速度を遅らせる要因となる。この配管による抵抗の逆数をコンダクタンスという。したがって、コンダクタンスは気体の流れやすさを表す。
コンダクタンスは圧力の違う容器(それぞれの圧力を P 1 {\displaystyle P_{1}} 、 P 2 {\displaystyle P_{2}} とする。)を繋ぐ配管があった場合そのつながれた配管中には流れ Q {\displaystyle Q} が生じる。この場合の配管のコンダクタンスは
C = Q P 1 − P 2 {\displaystyle C={\frac {Q}{P_{1}-P_{2}}}}
で表される。
気体の流れには乱流、粘性流、分子流がある。大気状態で突然の流れが生じた場合などは乱流が生じ、部分的に渦や振動が発生するなどして埃や粉塵が舞い上がる要因となる。そのため、真空チャンバーを排気する場合は真空バルブをゆっくり開き排気速度を調整することで乱流を抑えることができる。気体の圧力が高い領域では気体の流れにおいて気体分子同士の衝突が大半を占めるため粘性により流れる。これに対し圧力が下がり、気体分子が、気体分子同士より真空チャンバーの壁面との衝突が多くなっていく領域を分子流という。
平均自由行程は分子密度に反比例する。分子密度はそのまま圧力に比例関係なので圧力に反比例し、圧力が低下すると平均自由行程が長くなる。この平均自由行程λを真空装置の代表的な長さL で割った値Kn をクヌーセン数という。
K n = λ / L {\displaystyle Kn=\lambda /L}
Kn が0.3以上、平均自由行程が真空空間の壁(例えば真空チャンバの壁)の間の距離の30倍より大きくなると分子同士の衝突ではなく殆どが分子と壁の衝突になる。このような領域を分子流領域(molecular flow region)という。
これに対して分子同士が十分衝突している領域(クヌーセン数<0.01)を粘性流領域(viscous flow region)という。粘性流領域の気体は連続流体として考えることが出来る。
クヌーセン数が0.01~0.3の間の場合は中間流領域(intermediate flow region)といい、分子流の性質と粘性流の性質が複雑に絡み合った振る舞いを示す。
液体はある温度になると液体の表面から気化(蒸発)が始まる。同時に液体の内部にも上記の気泡ができるようになり、沸騰が起こる。この沸騰が起こる温度を沸点という。沸点は外圧を大きくすると上昇し、外圧が下がると下降する。通常水は1気圧、100 °Cで沸騰する。しかし富士山の山頂では気圧が低いため低い温度(約88 °C)で沸騰することがよく知られている。
水の沸点はおよそ300 m上るごとに1 °C下がる。このような現象は水だけに限らずアルコールや石油など全てのものに当てはまる。これは、沸騰が「液体分子が持つ運動エネルギーが周囲の圧力(分子衝突のエネルギー)を上回って液体分子が空間中に放出される現象」であるためである。このときの分子の運動エネルギーは圧力として観測されるが、ある温度において沸騰が始まる(「液体分子の運動エネルギー=周囲の圧力」となる)圧力を蒸気圧といい、物質により固有の値を取る。
一方、固体から液体に変わる融点は気化ほど周囲圧力の影響を受けない。
大気は紫外線、可視光線、赤外線に対して透明だが、およそ185 nm以下の波長に対しては不透明になる。これは空気中の酸素分子が波長240 nm以下の紫外線を吸収することや、窒素分子が185 nm以下の紫外線を吸収することによる。よって紫外線の実験などを行う場合には空気を排気した真空チャンバー(10 Pa以下)で行わなければならない。同様にガラスも紫外線に対して透明ではないため、紫外線を利用する実験を行う場合は石英ガラスのように紫外線に対して透明度が高い材料を使用するなど、器材についても十分に検討しなければならない。
太鼓を叩くと太鼓の皮がへこみ、その表面近傍の圧力が低くなる(気体分子の分布が疎になる)。しかし次の瞬間には皮が跳ね返ってくるため、皮の表面近傍の空気が押されて圧力が高くなる(気体分子の分布が密になる)。これを繰り返し圧力の変動が伝播すると音となる。真空中では気体分子の密度が低いため音源の振動を十分に伝えられなくなる。分子流領域にいたっては振動による気体分子の分布の粗密がほぼ生じないため音は発生しない。粘性流領域であれば音は伝播するが、気体分子の平均自由行程と音波の波長との兼ね合いで決まる。
物質内に温度差があると高温から低温側へ熱が移動する。このとき熱だけが移動する場合を熱伝導という。熱の移動は温度の勾配の逆方向に流れる。気体は液体、固体に比べて分子密度が小さいため熱容量も低く熱伝導率も低くなっている。熱は分子の運動エネルギーであるため分子同士がお互いにエネルギーを交換し合うことで熱が伝導するが、真空の場合は気体分子同士の衝突頻度が少なくなるため熱伝導の効率は極めて悪くなる。
平均自由行程が高温の部分と、低温の部分との間の距離よりも十分に長くなると高温の分子は直接低温の部分に到達する。分子の密度は圧力に比例するため熱伝導率は気体の圧力に比例する。この比例関係を利用したのがピラニ真空計である。
空気は通常不導体であるが、空気中の電極間に直流電圧を印加すると、自然に発生した電子が加速されて気体分子を電離し、導電性を帯びるようになる。このときに電極間にわずかに電流が流れる。さらに電極間の電圧を高めると、ある電圧で絶縁破壊がおき、火花放電が起こる。これは自然界で雷が起きる原理と同じである。この火花放電が起こる電圧を火花電圧といい、パッシェンの法則に従う。電極間距離および気圧の積と火花電圧との関係を図示したものをパッシェン曲線といい、気体の種類にもよるが電極間距離および気圧の積が概ね10-10 [Torr・m]の範囲で火花電圧が最低値を取り、さらにそれ以下の範囲では火花電圧が急激に高くなる。このことから、ある電極間距離に対して気圧との積がこの範囲以下となるような高真空にすることによって高い絶縁性が得られることがわかる。これを応用した機器が真空遮断器である。
ある程度の真空中(1.3 kPa程度)に電極を置き、その電極間に直流の高電圧を加えると発光する。これをグロー放電という。
この放電をガラス管中で起こすと管長内部で発光状態が異なる。陰極から陽極に向かって陰極暗部、負グロー、ファラデー暗部、陽光柱が観察される。負グロー、陽光柱は気体の種類で異なり、窒素では負グローが青色に陽光柱は赤色になる。
また、陰極近傍では電位分布は負グローに向かってほぼ直線状に上昇する。したがってこの陰極付近では電界が高く、数多くのエネルギーを持つ電子と気体分子との衝突によって盛んに正イオンが作られる。正イオンは加速されて陰極金属に衝突し、正イオンとの運動量の交換により陰極電子金属が空間に放出される。これをスパッタ作用といいその結果放出された陰極電子金属物質は陰極近辺のガラス管の内壁に付着するようになる。 このスパッタ作用は現在では陰極物質を対象物に蒸着し薄膜を形成するための主要な手段になっている。
また陽光柱の部分は電子密度と正イオン密度がほぼ等しい、いわゆるプラズマ状態になる。この陽光柱プラズマは蛍光灯、ガスレーザー管、ネオン管などに利用されている。
接触している二つの物体が相互に運動しているとき、あるいは運動しようとするときに、その接触面において運動の反対方向に力が加わる。この力を摩擦力という。摩擦力は摩擦面に働く垂直荷重に比例するが、この摩擦力を垂直荷重で除した値が摩擦係数として定義される。大気中での摩擦係数はおよそ1以下になるが、高真空中では金属同士の摩擦係数として100近い数値になることが知られている。この原因として金属表面には大気中であれば酸化物や様々な吸着物によって覆われておりそれらが潤滑剤になるが、高真空中ではそれらが取り除かれるためであると考えられている。
また金属同士の摩擦においては少量の酸素によって摩擦係数は低下する。
真空中で物を駆動させる要求は、半導体製造装置を主とする真空装置や、宇宙用機器において多くあるが、大気中で駆動する場合に比べて摩擦係数が大きくなる。
機械部品を駆動させる場合には大気中では潤滑油などで駆動させるが、真空中では油も蒸発してしまうため潤滑油を使用することができない。そこで宇宙用機器では固体で潤滑できる固体潤滑剤が広く使用される。
真空はそれ自体では価値が無いが、真空における特性を利用することで多くの価値を生み出すことが出来る。真空の利用が盛んになったのは18世紀以降で20世紀、特に1960年代以降は産業の基盤技術として広く利用されるようになった。
主に半導体プロセスで利用されていて、電子やイオン、プラズマや光による化学反応を利用している。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
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"text": "真空(しんくう、英: vacuum)は、通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "また物理学における概念として、古典論における絶対真空、量子論における真空状態を指す場合にも用いられることがある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "真空を物理学の古典論における絶対真空でいう物質が存在しない空間のように思われることがあるが、微視的ではない大きさの空間で物質が存在しない状態の実現は不可能である。(物理学の古典論における絶対真空を参照)",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "日本産業規格 (JIS)では「通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間内の状態」とされている。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "真空の状態は真空ポンプを用いて容器内部の気体を排気することで得ることができる。 真空度は対象の空間に存在する気体原子・分子が外壁に及ぼす圧力で表される。単位はTorr(トル)が用いられてきたが、国際単位系への統一に伴いPa(パスカル)に移行しつつある。1 atm=1.01325×10 Pa=760 Torrである。 真空度は言葉のイメージと表現が逆になるので注意が必要である(例:真空度が高い(高いレベルの真空度である)=圧力が低い)。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "一般的な圧力と同じくゲージ圧と絶対真空度があり、それぞれ所謂ゲージ圧と絶対圧に対応している。丁度摂氏温度(°C)と絶対温度(K)のように、大気圧を0Paとしてそこからの変位量を示したものがゲージ圧。絶対真空を0Paとしてそこからの積算を示したものが絶対真空度である。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "但しゲージ圧真空度の場合、所謂ゲージ圧として真空状態を「ゲージ圧−100kPa」のように負の値で表す場合と、別の単位として扱って「ゲージ圧真空度100kPa」のように正の値で表す場合、更に「ゲージ圧真空度−100kPa」のように表す場合があるので、仕様確認時に絶対真空度かどうかと合わせて確認する必要がある。尚、絶対真空度の場合は「1.33×10-7kPa(abs)」のように注記が入ることがある。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"text": "ISO 3529-1では真空を圧力領域により次のように区分している。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"text": "尚この超高真空より真空度の高い領域(主に10または10 Pa以下)として極高真空 (Extreme High Vacuum、XHV) という用語も使用されることがあるが、ISOでは定められていない。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"text": "古典論において、真空は物質が存在せず・圧力が 0 の仮想的状態、「何も無い状態」である。 絶対真空ともいう。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"text": "これは概念的なものであり、実際に実現可能なものではない。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "絶対真空とは空間中に原子・分子が一つも存在しない状態を表すが、具体的な方法で実現可能な真空状態(本稿で言う一般利用の真空状態)には物質が存在し圧力が観測される。 例えば地球の表面上の圧力(1気圧)= 100 kPaの条件の下では1 cm中の気体分子は0 °C時で2.69×10個存在する。 真空の実現とはその膨大な量の原子・分子を減らしていく過程であるが、人為的に作り出せる真空状態の限界は10 Pa程度である。この圧力下でも1 cmに数千個の気体分子が存在する。 宇宙空間においても空間中に物質が何も存在しないわけではなく気体原子・分子は存在し、さらに外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でも気体原子・分子は存在するとされている。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"text": "量子論における真空は、決して「何もない」状態ではない。例えば常に電子と陽電子の仮想粒子としての対生成や対消滅が起きている。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ポール・ディラックは、真空を負エネルギーを持つ電子がぎっしりと詰まった状態(ディラックの海)と考えていたが、後の物理学者により、この概念(空孔理論)は拡張、解釈の見直しが行われている。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "現在の場の量子論では、真空とは、十分な低温状態下を仮定した場合に、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。粒子が存在して運動していると、そのエネルギーが余計にあるわけであるから、それは最低エネルギー状態でない。よって十分な低温状態下では粒子はひとつもない状態が真空である。ただし、場の期待値はゼロでない値を持ちうる。それを真空期待値という。たとえば、ヒッグス場がゼロでない値をもっていることが、電子に質量のあることの原因となっている。",
"title": "各分野における真空の語義"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "真空の存在については古代ギリシア時代から、論争が繰り広げられてきた。紀元前5~4世紀、レウキッポスとデモクリトスの原子論は、自然を構成する分割不可能な最小単位「原子(アトム)」が「空虚(ケノン)」 の中で運動しているとした。一方、アリストテレスは、空間には必ず何らかの物質が充満しているとして、空虚の存在を認めなかった(自然は真空を嫌う(英語版))。これに対して、アリストテレスの学派のストラトンは、空気を圧縮する実験によって、原子の距離を縮め得る余地(すなわち原子が存在しない空間=真空)の存在を主張した。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この議論に決着がついたのは17世紀に入ってからであった。1643年にエヴァンジェリスタ・トリチェリは、一方の端が閉じたガラス管に水銀を満たし、このガラス管を立てると、水銀柱は約76cmとなり、それより上の部分が真空になっていることを発見した。また、オットー・フォン・ゲーリケは1657年、ブロンズ製の半球を2つ合わせて中空の球にして、内部の空気を抜いて真空にするという実験を行った。この2つの半球はぴったりとくっ付き、16頭の馬で引っ張ることでようやく外すことができた。この実験はマクデブルクの半球として知られている。これらは真空の発見であると同時に、気圧の発見でもあった。何も存在しない以上、その空間が何らかの吸引力を発揮するわけがなく、周囲の空間からの圧力を想定しないわけにはいかないからである。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "真空が一般化していくのは18世紀に入ってからである。この時期様々な真空ポンプが開発され、蒸気機関や、排水ポンプ、紡績機械などの動力に利用されるようになった。19世紀に入ると白熱電球や、真空管などが開発されることで一般に「真空」という名称が広がっていくことになる。またそれらの開発、製造のためのより高性能の真空ポンプの開発が進むようになった。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ると電球、真空管の進歩や、真空中における技術の発展により、粒子加速器や電子顕微鏡など真空を利用した機器の発達、また電子やイオンに関係する新たな知識、技術が生まれていった。一方で食品や鉄鋼などの産業に真空が利用されるようになると真空ポンプや真空計、真空部品などが産業化され発展していった。日常生活では、空気を完全に抜いた真空パックや真空による氷の昇華を利用したフリーズドライという手法が広く実用化された。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "特に1953年にB-Aゲージが開発されると今まで測定できなかった超高真空が測定可能となり、超高真空に対応した真空ポンプや真空部品が発展していくことになる。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "現代における代表的真空利用は電子工業用途である。この分野の発展により真空関連産業は急速に発展し、今では多くの産業を支える基盤産業として貢献している。",
"title": "真空に関する歴史"
},
{
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"text": "大気中にある容器内を真空にするために各種の真空ポンプを使用する。",
"title": "真空の実現方法"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "10 Pa程度の真空は、ロータリーポンプで手軽に得ることができる。真空デシケーター等ではこの程度の真空で十分である。",
"title": "真空の実現方法"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "スパッタ等の真空成膜装置ではプラズマ発生時に他の気体が残留するのを防ぐため、10 Pa程度の真空度が求められる。このような場合、真空用材料で製作された真空チャンバーと銅ガスケットを用い、ターボ分子ポンプ(TMP)で排気することにより達成できる。",
"title": "真空の実現方法"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "分子線エピタキシー(MBE)や電子顕微鏡、粒子加速器等、10 Pa台の真空が求められる場合は、達成に更に多くの工程が必要となる。真空チャンバーをターボ分子ポンプ (TMP) で高真空状態にした後、真空チャンバー全体を加熱(ベーキング)して、チャンバ内壁に付着した気体分子を排除する必要がある。排気は大排気量のターボ分子ポンプ (TMP) のみでも可能であるが、多くの場合はイオンポンプやゲッターポンプが用いられる。MBE用の真空チャンバーでは、チャンバー内で蒸着を行うため、チャンバーの壁面に液体窒素シュラウドを設け、壁面を冷却することで内部に残留した気体分子を固着させ、真空度を上げる手法も用いられている。容積 V を排気速度 S のポンプで排気したときの圧力 p = p0exp(−St/V) となる。ただし t = 0 で p = p0 とする。また、コンダクタンス C1 のパイプの長さを m 倍にすると、コンダクタンスは C1/m になる。",
"title": "真空の実現方法"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "真空の度合いの計測は、空間中に存在する原子・分子によって気体分子運動論的に生じる圧力を測定する方法による。 真空を初めて測定したのは1643年、トリチェリが発明した水銀気圧計による。現在までに多くの真空計が発明されてきたが、現在では大気圧からおよそ16桁に及ぶ広い範囲を測定することができるようになっている。これらの真空計は測定原理から大きく2つに分けることができる。一つは測定領域に接している固体表面に対して気体分子が及ぼす力を直接計る絶対圧計測型、もう一つは気体分子の密度に依存して変化する物理量(熱や電流)を測定し圧力に換算する分子密度型である。",
"title": "真空の計測方法"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "気体は非常に数多くの分子からなっており、0 °C、1気圧の空気であれば1 cm中に含まれる気体分子の数は2.69×10個である。温度が一定なら単位体積当たりの気体分子の数は圧力に比例する。一般的に静止衛星軌道程度の高度(100,000 km)であれば空気はまったく無いと思われがちであるが、この高度でも圧力は存在(10 Pa程度)し1 cmの空間に数十個の気体分子が存在している。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "気体中で多くの分子がばらばらの速度で無秩序に飛び回っている。これを統計的に見ると定常状態ではある一定の分布を示す。これはマクスウェルの速度分布則と呼ばれる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "真空中では1気圧の気体と違い圧力領域により気体の振る舞いが変わってくる。気体とは1気圧中では連続流体として扱われるが、厳密には勝手に飛び回る分子の集まりである。分子は小さいながらも大きさを持っているので、移動中に他分子と衝突する。衝突することで方向と速度を変え、再び別の分子に衝突する。この衝突から衝突までの距離の平均を平均自由行程(mean free path)という。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "平均自由行程は気体分子の直径を D、分子密度を n とすると D と n に比例する。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "目安として空気の平均自由行程は室温、10 Pa、で約5 cmである。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "容器の表面に衝突する気体分子の数はそこに存在する気体分子の密度と分子の熱運動の平均速度に比例する。これらは分子流領域での真空排気や薄膜形成時には非常に重要な数値となる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "気体が存在すると気体分子同士が運動により動き回り、それらの衝突により当たった対象に気体分子の重さに応じた衝撃が加わる。気体中に壁があっても同様であり、気体分子は常に壁に衝突し、その衝撃により壁に力が加わる。その力を単位面積で割った力が圧力である。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "JISにおいては 「空間内のある点を含む仮想の微小平面を両側の方向から通過する分子によって、単位面積当たり、単位時間に輸送される運動量の面に垂直な成分の総和。空間内に定常的な気体の流れがあるときは、流れの方向に対して面の傾きを規定する。」 となっている。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "真空では圧力の単位は国際単位系でPa(パスカル)で表されるが、トリチェリによる真空の発見の功績にちなむ Torr(トル)は昔から使用されており、古い書籍や昔ながらの真空技術者は今でも使用している。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "真空排気された真空チャンバーは内側の分子量が減って外側からの力が大きくなるため常に外側から差分の圧力を受けることになる。ほとんどの真空装置では100 Pa以下に排気されるため、事実上1気圧の力を受けることになる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "真空装置では真空チャンバーと真空ポンプを繋ぐ配管が必要になる。この配管は真空排気する場合には抵抗として排気速度を遅らせる要因となる。この配管による抵抗の逆数をコンダクタンスという。したがって、コンダクタンスは気体の流れやすさを表す。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "コンダクタンスは圧力の違う容器(それぞれの圧力を P 1 {\\displaystyle P_{1}} 、 P 2 {\\displaystyle P_{2}} とする。)を繋ぐ配管があった場合そのつながれた配管中には流れ Q {\\displaystyle Q} が生じる。この場合の配管のコンダクタンスは",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "C = Q P 1 − P 2 {\\displaystyle C={\\frac {Q}{P_{1}-P_{2}}}}",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "で表される。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "気体の流れには乱流、粘性流、分子流がある。大気状態で突然の流れが生じた場合などは乱流が生じ、部分的に渦や振動が発生するなどして埃や粉塵が舞い上がる要因となる。そのため、真空チャンバーを排気する場合は真空バルブをゆっくり開き排気速度を調整することで乱流を抑えることができる。気体の圧力が高い領域では気体の流れにおいて気体分子同士の衝突が大半を占めるため粘性により流れる。これに対し圧力が下がり、気体分子が、気体分子同士より真空チャンバーの壁面との衝突が多くなっていく領域を分子流という。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "平均自由行程は分子密度に反比例する。分子密度はそのまま圧力に比例関係なので圧力に反比例し、圧力が低下すると平均自由行程が長くなる。この平均自由行程λを真空装置の代表的な長さL で割った値Kn をクヌーセン数という。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "K n = λ / L {\\displaystyle Kn=\\lambda /L}",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "Kn が0.3以上、平均自由行程が真空空間の壁(例えば真空チャンバの壁)の間の距離の30倍より大きくなると分子同士の衝突ではなく殆どが分子と壁の衝突になる。このような領域を分子流領域(molecular flow region)という。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "これに対して分子同士が十分衝突している領域(クヌーセン数<0.01)を粘性流領域(viscous flow region)という。粘性流領域の気体は連続流体として考えることが出来る。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "クヌーセン数が0.01~0.3の間の場合は中間流領域(intermediate flow region)といい、分子流の性質と粘性流の性質が複雑に絡み合った振る舞いを示す。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "液体はある温度になると液体の表面から気化(蒸発)が始まる。同時に液体の内部にも上記の気泡ができるようになり、沸騰が起こる。この沸騰が起こる温度を沸点という。沸点は外圧を大きくすると上昇し、外圧が下がると下降する。通常水は1気圧、100 °Cで沸騰する。しかし富士山の山頂では気圧が低いため低い温度(約88 °C)で沸騰することがよく知られている。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "水の沸点はおよそ300 m上るごとに1 °C下がる。このような現象は水だけに限らずアルコールや石油など全てのものに当てはまる。これは、沸騰が「液体分子が持つ運動エネルギーが周囲の圧力(分子衝突のエネルギー)を上回って液体分子が空間中に放出される現象」であるためである。このときの分子の運動エネルギーは圧力として観測されるが、ある温度において沸騰が始まる(「液体分子の運動エネルギー=周囲の圧力」となる)圧力を蒸気圧といい、物質により固有の値を取る。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一方、固体から液体に変わる融点は気化ほど周囲圧力の影響を受けない。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "大気は紫外線、可視光線、赤外線に対して透明だが、およそ185 nm以下の波長に対しては不透明になる。これは空気中の酸素分子が波長240 nm以下の紫外線を吸収することや、窒素分子が185 nm以下の紫外線を吸収することによる。よって紫外線の実験などを行う場合には空気を排気した真空チャンバー(10 Pa以下)で行わなければならない。同様にガラスも紫外線に対して透明ではないため、紫外線を利用する実験を行う場合は石英ガラスのように紫外線に対して透明度が高い材料を使用するなど、器材についても十分に検討しなければならない。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "太鼓を叩くと太鼓の皮がへこみ、その表面近傍の圧力が低くなる(気体分子の分布が疎になる)。しかし次の瞬間には皮が跳ね返ってくるため、皮の表面近傍の空気が押されて圧力が高くなる(気体分子の分布が密になる)。これを繰り返し圧力の変動が伝播すると音となる。真空中では気体分子の密度が低いため音源の振動を十分に伝えられなくなる。分子流領域にいたっては振動による気体分子の分布の粗密がほぼ生じないため音は発生しない。粘性流領域であれば音は伝播するが、気体分子の平均自由行程と音波の波長との兼ね合いで決まる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "物質内に温度差があると高温から低温側へ熱が移動する。このとき熱だけが移動する場合を熱伝導という。熱の移動は温度の勾配の逆方向に流れる。気体は液体、固体に比べて分子密度が小さいため熱容量も低く熱伝導率も低くなっている。熱は分子の運動エネルギーであるため分子同士がお互いにエネルギーを交換し合うことで熱が伝導するが、真空の場合は気体分子同士の衝突頻度が少なくなるため熱伝導の効率は極めて悪くなる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "平均自由行程が高温の部分と、低温の部分との間の距離よりも十分に長くなると高温の分子は直接低温の部分に到達する。分子の密度は圧力に比例するため熱伝導率は気体の圧力に比例する。この比例関係を利用したのがピラニ真空計である。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "空気は通常不導体であるが、空気中の電極間に直流電圧を印加すると、自然に発生した電子が加速されて気体分子を電離し、導電性を帯びるようになる。このときに電極間にわずかに電流が流れる。さらに電極間の電圧を高めると、ある電圧で絶縁破壊がおき、火花放電が起こる。これは自然界で雷が起きる原理と同じである。この火花放電が起こる電圧を火花電圧といい、パッシェンの法則に従う。電極間距離および気圧の積と火花電圧との関係を図示したものをパッシェン曲線といい、気体の種類にもよるが電極間距離および気圧の積が概ね10-10 [Torr・m]の範囲で火花電圧が最低値を取り、さらにそれ以下の範囲では火花電圧が急激に高くなる。このことから、ある電極間距離に対して気圧との積がこの範囲以下となるような高真空にすることによって高い絶縁性が得られることがわかる。これを応用した機器が真空遮断器である。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ある程度の真空中(1.3 kPa程度)に電極を置き、その電極間に直流の高電圧を加えると発光する。これをグロー放電という。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この放電をガラス管中で起こすと管長内部で発光状態が異なる。陰極から陽極に向かって陰極暗部、負グロー、ファラデー暗部、陽光柱が観察される。負グロー、陽光柱は気体の種類で異なり、窒素では負グローが青色に陽光柱は赤色になる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、陰極近傍では電位分布は負グローに向かってほぼ直線状に上昇する。したがってこの陰極付近では電界が高く、数多くのエネルギーを持つ電子と気体分子との衝突によって盛んに正イオンが作られる。正イオンは加速されて陰極金属に衝突し、正イオンとの運動量の交換により陰極電子金属が空間に放出される。これをスパッタ作用といいその結果放出された陰極電子金属物質は陰極近辺のガラス管の内壁に付着するようになる。 このスパッタ作用は現在では陰極物質を対象物に蒸着し薄膜を形成するための主要な手段になっている。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また陽光柱の部分は電子密度と正イオン密度がほぼ等しい、いわゆるプラズマ状態になる。この陽光柱プラズマは蛍光灯、ガスレーザー管、ネオン管などに利用されている。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "接触している二つの物体が相互に運動しているとき、あるいは運動しようとするときに、その接触面において運動の反対方向に力が加わる。この力を摩擦力という。摩擦力は摩擦面に働く垂直荷重に比例するが、この摩擦力を垂直荷重で除した値が摩擦係数として定義される。大気中での摩擦係数はおよそ1以下になるが、高真空中では金属同士の摩擦係数として100近い数値になることが知られている。この原因として金属表面には大気中であれば酸化物や様々な吸着物によって覆われておりそれらが潤滑剤になるが、高真空中ではそれらが取り除かれるためであると考えられている。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また金属同士の摩擦においては少量の酸素によって摩擦係数は低下する。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "真空中で物を駆動させる要求は、半導体製造装置を主とする真空装置や、宇宙用機器において多くあるが、大気中で駆動する場合に比べて摩擦係数が大きくなる。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "機械部品を駆動させる場合には大気中では潤滑油などで駆動させるが、真空中では油も蒸発してしまうため潤滑油を使用することができない。そこで宇宙用機器では固体で潤滑できる固体潤滑剤が広く使用される。",
"title": "真空内での気体の性質"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "真空はそれ自体では価値が無いが、真空における特性を利用することで多くの価値を生み出すことが出来る。真空の利用が盛んになったのは18世紀以降で20世紀、特に1960年代以降は産業の基盤技術として広く利用されるようになった。",
"title": "真空の利用"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "主に半導体プロセスで利用されていて、電子やイオン、プラズマや光による化学反応を利用している。",
"title": "真空の利用"
}
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真空は、通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態。 また物理学における概念として、古典論における絶対真空、量子論における真空状態を指す場合にも用いられることがある。 真空を物理学の古典論における絶対真空でいう物質が存在しない空間のように思われることがあるが、微視的ではない大きさの空間で物質が存在しない状態の実現は不可能である。(物理学の古典論における絶対真空を参照)
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{{Otheruses|工学、物理学|その他}}
{{出典の明記|date=2011年7月}}
'''真空'''(しんくう、{{lang-en-short|vacuum}})は、通常の[[大気圧]]より低い圧力の[[気体]]で満たされた空間の状態<ref>{{Cite jis|Z|8126-1|1999|name=真空技術−用語−第 1 部:一般用語}}</ref>。
また[[物理学]]における概念として、[[古典論]]における'''絶対真空'''、[[量子論]]における'''真空状態'''を指す場合にも用いられることがある。
真空を物理学の古典論における絶対真空でいう物質が存在しない空間のように思われることがあるが、微視的ではない大きさの空間で物質が存在しない状態の実現は不可能である。(物理学の古典論における絶対真空を参照)
[[File:Kolbenluftpumpe hg.jpg|thumb|真空を実証するポンプ]]
{{TOC limit|2}}
== 各分野における真空の語義 ==
=== 一般利用での真空 ===
[[日本産業規格]] (JIS)では「通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間内の状態」とされている。
真空の状態は[[真空ポンプ]]を用いて容器内部の気体を排気することで得ることができる。
真空度は対象の空間に存在する気体原子・分子が外壁に及ぼす圧力で表される。単位は[[トル|Torr]](トル)が用いられてきたが、[[国際単位系]]への統一に伴い[[パスカル (単位)|Pa]](パスカル)に移行しつつある。1 [[気圧|atm]]=1.01325×10<sup>5</sup> Pa=760 Torrである。
真空度は言葉のイメージと表現が逆になるので注意が必要である(例:真空度が高い(高いレベルの真空度である)=圧力が低い)。
一般的な圧力と同じくゲージ圧と絶対真空度があり、それぞれ所謂[[ゲージ圧]]と[[絶対圧]]に対応している。丁度摂氏温度(℃)と絶対温度(K)のように、大気圧を0Paとしてそこからの変位量を示したものがゲージ圧。絶対真空を0Paとしてそこからの積算を示したものが絶対真空度である。
但しゲージ圧真空度の場合、所謂ゲージ圧として真空状態を「ゲージ圧−100kPa」のように負の値で表す場合と、別の単位として扱って「ゲージ圧真空度100kPa」のように正の値で表す場合、更に「ゲージ圧真空度−100kPa」のように表す場合があるので、仕様確認時に絶対真空度かどうかと合わせて確認する必要がある。尚、絶対真空度の場合は「1.33×10-7kPa'''(abs)'''」のように注記が入ることがある。
;ISOにおける真空の領域の区分
[[ISO]] 3529-1では真空を圧力領域により次のように区分している。
{| class="wikitable" style="text-align:left"
! 領域 !! 英語名 !! 圧力範囲 !! 地球大気での同等の気圧の地点の地上からの距離
|-
| 低真空 || Low Vacuum || 100 kPa~100 Pa || 地上~約60 km
|-
| 中真空 || Medium Vacuum || 100 Pa~0.1 Pa || 約60 km~約90 km
|-
| 高真空 || High Vacuum || 0.1 Pa~10{{sup-|5}} Pa || 約90 km~約250 km
|-
| 超高真空 || Ultra-high Vacuum || 10{{sup-|5}} Pa以下 || 約250 km~
|-
|}
尚この超高真空より真空度の高い領域(主に10{{sup-|8}}または10{{sup-|9}} Pa以下)として'''極高真空''' (Extreme High Vacuum、XHV) という用語も使用されることがあるが、ISOでは定められていない。
=== 物理学の概念としての真空 ===
;古典論における絶対真空
古典論において、真空は物質が存在せず・圧力が 0 の仮想的状態、「何も無い状態」である。 '''絶対真空'''ともいう。
これは概念的なものであり、実際に実現可能なものではない。
絶対真空とは空間中に原子・分子が一つも存在しない状態を表すが、具体的な方法で実現可能な真空状態(本稿で言う一般利用の真空状態)には物質が存在し圧力が観測される。
例えば地球の表面上の圧力(1気圧)= 100 [[パスカル (単位)|kPa]]の条件の下では1 cm<sup>3</sup>中の気体分子は0 ℃時で2.69×10<sup>19</sup>個<ref group="注釈">26,900,000,000,000,000,000個。2,690京個。</ref>存在する。
真空の実現とはその膨大な量の原子・分子を減らしていく過程であるが、人為的に作り出せる真空状態の限界は10{{sup-|11}} Pa程度である。この圧力下でも1 cm<sup>3</sup>に数千個の気体分子が存在する。
宇宙空間においても空間中に物質が何も存在しないわけではなく気体原子・分子は存在し、さらに外宇宙と呼ばれる[[銀河]]と銀河の間でも気体原子・分子は存在するとされている。
;量子論における真空状態
{{main|真空状態}}
[[量子論]]における真空は、決して「何もない」状態ではない。例えば常に[[電子]]と[[陽電子]]の[[仮想粒子]]としての[[対生成]]や[[対消滅]]が起きている。<ref name=hirose115>{{Cite |和書 |author = 広瀬立成・細田昌孝|title = 真空とはなにか |date = 1984| pages = 115|publisher = 講談社 |isbn=4-06-118155-6|ref = harv }}</ref>
[[ポール・ディラック]]は、真空を負エネルギーを持つ電子がぎっしりと詰まった状態([[ディラック方程式|ディラックの海]])と考えていたが<ref name=hirose105>{{Cite |和書 |author = 広瀬立成・細田昌孝|title = 真空とはなにか |date = 1984| pages = 105|publisher = 講談社 |isbn=4-06-118155-6|ref = harv }}</ref>、後の物理学者により、この概念(空孔理論)は拡張、解釈の見直しが行われている。
現在の場の量子論では、真空とは、十分な低温状態下を仮定した場合に、その物理系の[[最低エネルギー状態]]として定義される。粒子が存在して運動していると、そのエネルギーが余計にあるわけであるから、それは最低エネルギー状態でない。よって十分な低温状態下では粒子はひとつもない状態が真空である。ただし、場の期待値はゼロでない値を持ちうる。それを[[真空期待値]]という。たとえば、[[ヒッグス場]]がゼロでない値をもっていることが、電子に質量のあることの原因となっている。
== 真空に関する歴史 ==
真空の存在については[[古代ギリシア]]時代から、論争が繰り広げられてきた。紀元前5~4世紀、[[レウキッポス]]と[[デモクリトス]]の[[原子論]]は、自然を構成する分割不可能な最小単位「原子(アトム)」が「空虚(ケノン)」 の中で運動しているとした。一方、[[アリストテレス]]は、空間には必ず何らかの物質が充満しているとして、空虚の存在を認めなかった({{仮リンク|真空嫌悪|label=自然は真空を嫌う|en|horror vacui (physics)}})<ref group="注釈">この考え方に基いて、天体運動は真空の生じない[[天球]]の[[回転]]運動でなくてはならず、[[ケプラーの法則|楕円運動]]や[[運動の第1法則|直線運動]]ではありえないと論じられた。</ref>。これに対して、アリストテレスの学派の[[ストラトン (哲学者)|ストラトン]]は、空気を圧縮する実験によって、原子の距離を縮め得る余地(すなわち原子が存在しない空間=真空)の存在を主張した。
この議論に決着がついたのは[[17世紀]]に入ってからであった。[[1643年]]に[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]は、一方の端が閉じたガラス管に[[水銀]]を満たし、このガラス管を立てると、水銀柱は約76cmとなり、それより上の部分が真空になっていることを発見した。<ref group="注釈">実際には低圧によって蒸発した水銀の気体で満たされている</ref>また、[[オットー・フォン・ゲーリケ]]は[[1657年]]、ブロンズ製の半球を2つ合わせて中空の球にして、内部の空気を抜いて真空にするという実験を行った。この2つの半球はぴったりとくっ付き、16頭の馬で引っ張ることでようやく外すことができた。この実験は[[マクデブルクの半球]]として知られている。これらは真空の発見であると同時に、[[気圧]]の発見でもあった。何も存在しない以上、その空間が何らかの吸引力を発揮するわけがなく、周囲の空間からの圧力を想定しないわけにはいかないからである。
真空が一般化していくのは18世紀に入ってからである。この時期様々な[[真空ポンプ]]が開発され、蒸気機関や、排水ポンプ、紡績機械などの動力に利用されるようになった。19世紀に入ると白熱電球や、[[真空管]]などが開発されることで一般に「真空」という名称が広がっていくことになる。またそれらの開発、製造のためのより高性能の真空ポンプの開発が進むようになった。
20世紀に入ると電球、真空管の進歩や、真空中における技術の発展により、[[粒子加速器]]や[[電子顕微鏡]]など真空を利用した機器の発達、また[[電子]]や[[イオン]]に関係する新たな知識、技術が生まれていった。一方で食品や鉄鋼などの産業に真空が利用されるようになると真空ポンプや[[真空計]]、[[真空部品]]などが産業化され発展していった。日常生活では、空気を完全に抜いた[[真空包装|真空パック]]や真空による氷の昇華を利用した[[フリーズドライ]]という手法が広く実用化された。
特に1953年に[[B-Aゲージ]]が開発されると今まで測定できなかった超高真空が測定可能となり、超高真空に対応した真空ポンプや真空部品が発展していくことになる。
現代における代表的真空利用は[[電子工業]]用途である。この分野の発展により真空関連産業は急速に発展し、今では多くの産業を支える基盤産業として貢献している。
== 真空の実現方法 ==
{{Main|真空ポンプ}}
大気中にある容器内を真空にするために各種の[[真空ポンプ]]を使用する。
10{{sup-|1}} Pa程度の真空は、[[ロータリーポンプ]]で手軽に得ることができる。[[デシケーター|真空デシケーター]]等ではこの程度の真空で十分である。
[[スパッタリング|スパッタ]]等の真空成膜装置ではプラズマ発生時に他の気体が残留するのを防ぐため、10{{sup-|5}} Pa程度の真空度が求められる。このような場合、[[真空用材料]]で製作された[[真空チャンバー]]と銅ガスケットを用い、[[ターボ分子ポンプ]](TMP)で排気することにより達成できる。
[[分子線エピタキシー法|分子線エピタキシー(MBE)]]や[[電子顕微鏡]]、[[粒子加速器]]等、10{{sup-|9}} Pa台の真空が求められる場合は、達成に更に多くの工程が必要となる。真空チャンバーをターボ分子ポンプ (TMP) で高真空状態にした後、真空チャンバー全体を加熱([[ベーキング]])して、チャンバ内壁に付着した気体分子を排除する必要がある。排気は大排気量のターボ分子ポンプ (TMP) のみでも可能であるが、多くの場合は[[イオンポンプ]]や[[ゲッターポンプ]]が用いられる。MBE用の真空チャンバーでは、チャンバー内で蒸着を行うため、チャンバーの壁面に液体窒素シュラウドを設け、壁面を冷却することで内部に残留した気体分子を固着させ、真空度を上げる手法も用いられている。容積 ''V'' を排気速度 ''S'' のポンプで排気したときの圧力 ''p'' = ''p''<sub>0</sub>exp(−''St''/''V'') となる。ただし ''t'' = 0 で ''p'' = ''p''<sub>0</sub> とする。また、コンダクタンス ''C''<sub>1</sub> のパイプの長さを ''m'' 倍にすると、コンダクタンスは ''C''<sub>1</sub>/''m'' になる。
== 真空の計測方法 ==
{{Main|真空計}}
真空の度合いの計測は、[[空間]]中に存在する原子・分子によって[[気体分子運動論]]的に生じる[[圧力]]を測定する方法による。
真空を初めて測定したのは1643年、[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ|トリチェリ]]が発明した[[水銀気圧計]]による。現在までに多くの真空計が発明されてきたが、現在では[[大気圧]]からおよそ16桁に及ぶ広い範囲を測定することができるようになっている。これらの真空計は測定原理から大きく2つに分けることができる。一つは測定領域に接している固体表面に対して気体分子が及ぼす力を直接計る絶対圧計測型、もう一つは気体分子の密度に依存して変化する物理量(熱や電流)を測定し圧力に換算する分子密度型である。
== 真空内での気体の性質 ==
=== 気体の分子密度 ===
気体は非常に数多くの分子からなっており、0 ℃、1気圧の空気であれば1 cm<sup>3</sup>中に含まれる気体分子の数は2.69×10<sup>19</sup>個である。温度が一定なら単位体積当たりの気体分子の数は圧力に比例する。一般的に[[静止衛星]]軌道程度の高度(100,000 km)であれば空気はまったく無いと思われがちであるが、この高度でも圧力は存在(10{{sup-|13}} Pa程度)し1 cm<sup>3</sup>の空間に数十個の気体分子が存在している。
=== マクスウェルの速度分布 ===
{{Main|マクスウェル分布}}
気体中で多くの分子がばらばらの速度で無秩序に飛び回っている。これを統計的に見ると定常状態ではある一定の分布を示す。これは[[マクスウェルの速度分布則]]と呼ばれる。
=== 平均自由行程 ===
{{Main|平均自由行程}}
真空中では1気圧の気体と違い圧力領域により気体の振る舞いが変わってくる。気体とは1気圧中では連続流体として扱われるが、厳密には勝手に飛び回る分子の集まりである。分子は小さいながらも大きさを持っているので、移動中に他分子と衝突する。衝突することで方向と速度を変え、再び別の分子に衝突する。この衝突から衝突までの距離の平均を平均自由行程(mean free path)という。
平均自由行程は気体分子の直径を {{mvar|D}}、分子密度を {{mvar|n}} とすると {{mvar|D}} と {{mvar|n}} に比例する。
目安として空気の平均自由行程は室温、10{{sup-|1}} Pa、で約5 cmである。
=== 衝突頻度 ===
容器の表面に衝突する気体分子の数はそこに存在する気体分子の密度と分子の熱運動の平均速度に比例する。これらは分子流領域での真空排気や[[薄膜]]形成時には非常に重要な数値となる。
=== 圧力 ===
{{Main|圧力}}
気体が存在すると気体分子同士が運動により動き回り、それらの衝突により当たった対象に気体分子の重さに応じた衝撃が加わる。気体中に壁があっても同様であり、気体分子は常に壁に衝突し、その衝撃により壁に力が加わる。その力を単位面積で割った力が[[圧力]]である。
JISにおいては
「空間内のある点を含む仮想の微小平面を両側の方向から通過する分子によって、単位面積当たり、単位時間に輸送される運動量の面に垂直な成分の総和。空間内に定常的な気体の流れがあるときは、流れの方向に対して面の傾きを規定する。」
となっている。
真空では圧力の単位は国際単位系で[[パスカル (単位)|Pa]](パスカル)で表されるが、トリチェリによる真空の発見の功績にちなむ [[Torr]](トル)は昔から使用されており、古い書籍や昔ながらの真空技術者は今でも使用している。
真空排気された[[真空チャンバー]]は内側の分子量が減って外側からの力が大きくなるため常に外側から差分の圧力を受けることになる。ほとんどの真空装置では100 Pa以下に排気されるため、事実上1気圧の力を受けることになる。
=== コンダクタンス ===
真空装置では真空チャンバーと真空ポンプを繋ぐ配管が必要になる。この配管は真空排気する場合には抵抗として排気速度を遅らせる要因となる。この配管による抵抗の逆数を[[コンダクタンス]]という。したがって、コンダクタンスは気体の流れやすさを表す。
コンダクタンスは圧力の違う容器(それぞれの圧力を<math>P_1</math>、<math>P_2</math>とする。)を繋ぐ配管があった場合そのつながれた配管中には流れ<math>Q</math>が生じる。この場合の配管のコンダクタンスは
<math>C =\frac{Q}{P_1-P_2}</math>
で表される。
=== 気体の流れ ===
気体の流れには[[乱流]]、[[粘性流]]、[[分子流]]がある。大気状態で突然の流れが生じた場合などは乱流が生じ、部分的に渦や振動が発生するなどして埃や粉塵が舞い上がる要因となる。そのため、真空チャンバーを排気する場合は真空バルブをゆっくり開き排気速度を調整することで乱流を抑えることができる。気体の圧力が高い領域では気体の流れにおいて気体分子同士の衝突が大半を占めるため粘性により流れる。これに対し圧力が下がり、気体分子が、気体分子同士より真空チャンバーの壁面との衝突が多くなっていく領域を分子流という。
=== 粘性流と分子流 ===
平均自由行程は分子密度に反比例する。分子密度はそのまま圧力に比例関係なので圧力に反比例し、圧力が低下すると平均自由行程が長くなる。この平均自由行程λを真空装置の代表的な長さ''L'' で割った値''Kn'' を[[クヌーセン数]]という。
<math>Kn=\lambda/L</math>
''Kn'' が0.3以上、平均自由行程が真空空間の壁(例えば真空チャンバの壁)の間の距離の30倍より大きくなると分子同士の衝突ではなく殆どが分子と壁の衝突になる。このような領域を分子流領域(molecular flow region)という。
これに対して分子同士が十分衝突している領域(クヌーセン数<0.01)を粘性流領域(viscous flow region)という。粘性流領域の気体は連続流体として考えることが出来る。
クヌーセン数が0.01~0.3の間の場合は中間流領域(intermediate flow region)といい、分子流の性質と粘性流の性質が複雑に絡み合った振る舞いを示す。
=== 沸点 ===
[[液体]]はある温度になると液体の表面から[[気化]](蒸発)が始まる。同時に液体の内部にも上記の気泡ができるようになり、[[沸騰]]が起こる。この沸騰が起こる温度を[[沸点]]という。沸点は外圧を大きくすると上昇し、外圧が下がると下降する。通常水は1気圧、100 ℃で沸騰する。しかし富士山の山頂では気圧が低いため低い温度(約88 ℃)で沸騰することがよく知られている。
水の沸点はおよそ300 m上るごとに1 ℃下がる。このような現象は水だけに限らずアルコールや石油など全てのものに当てはまる。これは、沸騰が「液体分子が持つ運動エネルギーが周囲の圧力(分子衝突のエネルギー)を上回って液体分子が空間中に放出される現象」であるためである。このときの分子の運動エネルギーは圧力として観測されるが、ある温度において沸騰が始まる(「液体分子の運動エネルギー=周囲の圧力」となる)圧力を[[蒸気圧]]といい、物質により固有の値を取る。
一方、固体から液体に変わる[[融点]]は気化ほど周囲圧力の影響を受けない。
=== 光の透過・吸収 ===
大気は[[紫外線]]、[[可視光線]]、[[赤外線]]に対して透明だが、およそ185 nm以下の波長に対しては不透明になる。これは空気中の[[酸素]]分子が波長240 nm以下の紫外線を吸収することや、窒素分子が185 nm以下の紫外線を吸収することによる。よって紫外線の実験などを行う場合には空気を排気した真空チャンバー(10{{sup-|3}} Pa以下)で行わなければならない。同様にガラスも紫外線に対して透明ではないため、紫外線を利用する実験を行う場合は石英ガラスのように紫外線に対して透明度が高い材料を使用するなど、器材についても十分に検討しなければならない。
=== 音の伝播 ===
太鼓を叩くと太鼓の皮がへこみ、その表面近傍の圧力が低くなる(気体分子の分布が疎になる)。しかし次の瞬間には皮が跳ね返ってくるため、皮の表面近傍の空気が押されて圧力が高くなる(気体分子の分布が密になる)。これを繰り返し圧力の変動が伝播すると[[音]]となる。真空中では気体分子の密度が低いため音源の振動を十分に伝えられなくなる。分子流領域にいたっては振動による気体分子の分布の粗密がほぼ生じないため音は発生しない。粘性流領域であれば音は伝播するが、気体分子の平均自由行程と音波の波長との兼ね合いで決まる。
=== 熱伝導 ===
物質内に温度差があると高温から低温側へ熱が移動する。このとき熱だけが移動する場合を[[熱伝導]]という。熱の移動は温度の勾配の逆方向に流れる。気体は液体、固体に比べて分子密度が小さいため熱容量も低く熱伝導率も低くなっている。熱は分子の運動エネルギーであるため分子同士がお互いにエネルギーを交換し合うことで熱が伝導するが、真空の場合は気体分子同士の衝突頻度が少なくなるため熱伝導の効率は極めて悪くなる。
平均自由行程が高温の部分と、低温の部分との間の距離よりも十分に長くなると高温の分子は直接低温の部分に到達する。分子の密度は圧力に比例するため熱伝導率は気体の圧力に比例する。この比例関係を利用したのが[[ピラニ真空計]]である。
=== 電気伝導 ===
空気は通常不導体であるが、空気中の電極間に直流電圧を印加すると、自然に発生した電子が加速されて気体分子を電離し、導電性を帯びるようになる。このときに電極間にわずかに電流が流れる。さらに電極間の電圧を高めると、ある電圧で絶縁破壊がおき、火花放電が起こる。これは自然界で雷が起きる原理と同じである。この火花放電が起こる電圧を火花電圧といい、[[パッシェンの法則]]に従う。電極間距離および気圧の積と火花電圧との関係を図示したものをパッシェン曲線といい、気体の種類にもよるが電極間距離および気圧の積が概ね10<sup>−2</sup>-10<sup>−1</sup> [Torr・m]の範囲で火花電圧が最低値を取り、さらにそれ以下の範囲では火花電圧が急激に高くなる。このことから、ある電極間距離に対して気圧との積がこの範囲以下となるような高真空にすることによって高い絶縁性が得られることがわかる。これを応用した機器が[[真空遮断器]]である。
=== 放電現象 ===
ある程度の真空中(1.3 kPa程度)に電極を置き、その電極間に直流の高電圧を加えると発光する。これを[[グロー放電]]という。
この放電をガラス管中で起こすと管長内部で発光状態が異なる。陰極から陽極に向かって陰極暗部、負グロー、ファラデー暗部、陽光柱が観察される。負グロー、陽光柱は気体の種類で異なり、窒素では負グローが青色に陽光柱は赤色になる。
また、陰極近傍では電位分布は負グローに向かってほぼ直線状に上昇する。したがってこの陰極付近では[[電界]]が高く、数多くのエネルギーを持つ電子と気体分子との衝突によって盛んに正イオンが作られる。正イオンは加速されて陰極金属に衝突し、正イオンとの運動量の交換により陰極電子金属が空間に放出される。これを[[スパッタ]]作用といいその結果放出された陰極電子金属物質は陰極近辺のガラス管の内壁に付着するようになる。
このスパッタ作用は現在では陰極物質を対象物に[[蒸着]]し[[薄膜]]を形成するための主要な手段になっている。
また陽光柱の部分は電子密度と正イオン密度がほぼ等しい、いわゆる[[プラズマ]]状態になる。この陽光柱プラズマは[[蛍光灯]]、[[ガスレーザー管]]、[[ネオン管]]などに利用されている。
=== 摩擦 ===
接触している二つの物体が相互に運動しているとき、あるいは運動しようとするときに、その接触面において運動の反対方向に力が加わる。この力を[[摩擦力]]という。摩擦力は摩擦面に働く垂直荷重に比例するが、この摩擦力を垂直荷重で除した値が摩擦係数として定義される。大気中での摩擦係数はおよそ1以下になるが、高真空中では金属同士の摩擦係数として100近い数値になることが知られている。この原因として金属表面には大気中であれば酸化物や様々な吸着物によって覆われておりそれらが潤滑剤になるが、高真空中ではそれらが取り除かれるためであると考えられている。
また金属同士の摩擦においては少量の酸素によって摩擦係数は低下する。
真空中で物を駆動させる要求は、[[半導体]]製造装置を主とする[[真空装置]]や、宇宙用機器において多くあるが、大気中で駆動する場合に比べて摩擦係数が大きくなる。
機械部品を駆動させる場合には大気中では[[潤滑油]]などで駆動させるが、真空中では油も蒸発してしまうため潤滑油を使用することができない。そこで宇宙用機器では固体で潤滑できる[[潤滑剤#固体潤滑剤|固体潤滑剤]]が広く使用される。
== 真空の利用 ==
真空はそれ自体では価値が無いが、真空における特性を利用することで多くの価値を生み出すことが出来る。真空の利用が盛んになったのは18世紀以降で20世紀、特に1960年代以降は産業の基盤技術として広く利用されるようになった。
=== 主に真空の清浄性、物理特性を利用したもの ===
==== 圧力の低下(圧力差)を利用したもの ====
* [[真空チャック]]
* [[排水ポンプ]]
* [[注入装置]]
* [[フリーズドライ]]
==== 気体の分子密度を利用したもの ====
* [[白熱電球]]
* [[真空溶解]]
* [[真空蒸留乾燥]]
* [[真空焼結]]
* [[真空パック]]
* [[真空包装]]
* [[真空包装機]]
==== 気体分子の平均自由行程が長くなることを利用したもの ====
* [[ジャー]]・[[魔法瓶]]・[[断熱材|真空断熱材]]
* [[電子管]]
* [[電子顕微鏡]]
* [[加速器]]
* [[蒸着]]
* [[蛍光灯]]
* [[レーザー]]
* [[核融合]]
* [[スパッタ]]
==== 分子の入射頻度を減少させ、清浄な面を長時間持続させるもの ====
* [[電子源]]
* [[人工格子]]
==== 液体を利用したもの<!-- もっといい表現があれば修正してください --> ====
* [[サイフォン]]
* [[気圧計#液柱型水銀気圧計|液柱型水銀気圧計]]
=== 主に真空の化学特性を利用したもの ===
主に半導体プロセスで利用されていて、電子やイオン、プラズマや光による化学反応を利用している。
==== プラズマ反応の利用による成膜・改質 ====
* 材料合成
* 表面改質
==== 高速イオン注入による組成変更 ====
* [[イオン注入]]
* 表面の局所合金化
==== ガス分子の分解析出による成膜 ====
* [[減圧CVD]]
* [[プラズマCVD]]
* [[ガス源MBE]]
* [[人工格子]]
==== ガスと表面との反応による成膜・形成 ====
* [[化成蒸着]]
* [[化成スパッタリング]]
* [[イオンプレーティング]]
* [[硬質皮膜形成]]
==== ガスの反応による表面の除去 ====
* [[エッチング]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{節スタブ}} <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Vacuum}}
{{Div col|2}}
*[[日本真空学会]]
* [[日本真空工業会]]
* [[真空装置]]
* [[真空ポンプ]]
* [[真空計]]
* [[偽の真空]]
* [[エヴァンジェリスタ・トリチェリ]]
* [[フリーズドライ]](凍結真空乾燥)
* [[マクデブルクの半球]]
* [[真空注型]](樹脂成型)
* [[真空フィードスルー]]
* [[真空部品]]
* [[宇宙空間]]
* [[星間物質]]
* [[小渕恵三]](「真空総理」とよばれた)
* [[リークテスト]]
* [[気体分子運動論]]
* [[真空用材料]]
* [[真空バルブ]]
* [[真空フランジ]]
* [[放出ガス]]
* [[ベーキング]]
* [[質量分析法]]
* [[権力の真空]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
* {{科学映像館|genre=animal|id=320|name=真空の世界}}
* {{Kotobank}}
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末弥純
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末弥 純(すえみ じゅん、1959年 - )はイラストレーター。大分県大分市生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。ファンタジイファンサークル「ローラリアス」出身。
とり・みきやゆうきまさみなどと親交があり、米田仁士のコミック作品にDr.スエミとして登場したこともある。デビュー当時は数作ではあるが漫画家としても活動していた。これらのマンガ作品は『カペルドーニャの鉄騎士』をのぞき全て単行本未刊行である。イラスト作品を数多く提供しているが、コメントなども含めてメディアなどへの本人露出は極端に少ない。
押井守とは親交があり、イラスト提供のほか自著『末弥純画集 ウィザードリィ』は押井が帯にコメントを寄稿、『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』ではプロテクトギアのイメージデザイン、押井が初めて舞台演出を手掛けた舞台『鉄人28号』で鉄人デザインを担当するなどしている。
ファミコン版「ウィザードリィ」は、原作者であるロバート・ウッドヘッドも、当時までにリリースされたシリーズタイトルの中で一番出来が良いと絶賛している。
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末弥 純はイラストレーター。大分県大分市生まれ。武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。ファンタジイファンサークル「ローラリアス」出身。
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'''末弥 純'''(すえみ じゅん、[[1959年]] - )は[[イラストレーター]]。[[大分県]][[大分市]]生まれ。[[武蔵野美術大学]]造形学部油絵学科卒業。ファンタジイファンサークル「ローラリアス」出身。
== 人物 ==
[[とり・みき]]や[[ゆうきまさみ]]などと親交があり、[[米田仁士]]のコミック作品にDr.スエミとして登場したこともある。デビュー当時は数作ではあるが漫画家としても活動していた。これらのマンガ作品は『カペルドーニャの鉄騎士』をのぞき全て単行本未刊行である。イラスト作品を数多く提供しているが、コメントなども含めてメディアなどへの本人露出は極端に少ない。
[[押井守]]とは親交があり、イラスト提供のほか自著『末弥純画集 ウィザードリィ』は押井が帯にコメントを寄稿、『[[押井守シアター ケルベロス鋼鉄の猟犬|ケルベロス 鋼鉄の猟犬]]』ではプロテクトギアのイメージデザイン、押井が初めて舞台演出を手掛けた[[28 1/2 妄想の巨人#舞台『鉄人28号』|舞台『鉄人28号』]]で鉄人デザインを担当するなどしている。
ファミコン版「ウィザードリィ」は、原作者であるロバート・ウッドヘッドも、当時までにリリースされたシリーズタイトルの中で一番出来が良いと絶賛している。
== 略歴 ==
* [[1983年]]、『銀河十字軍』([[田中光二]]著/[[徳間書店]])のカバーイラストでデビュー。
* [[1987年]]、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]版『[[ウィザードリィ]]』のモンスターデザインを担当。以後、同シリーズのビジュアルデザインを担当。
* [[1988年]]、第19回[[星雲賞]]アート部門受賞。
*シリアスな作品へのイラスト提供が多いが、『大僧侶伝説』や「[[ウィズボール]]」のパッケージなどのコミカル要素の強い作品にもイラストを描いている。
*海外でもイラストレーターとして活躍しており、[[ウィリアム・ギブスン]]の短編『記憶屋ジョニィ』(映画『[[JM (映画)|JM]]』の原作)の挿絵を担当した。
== 作品集 ==
* カペルドーニャの鉄騎士 ([[1987年]]、[[朝日ソノラマ]]、唯一のコミックでB5サイズの単行本として刊行)ISBN 4257900911
* WIZARDRY WORKS([[1993年]]、株式会社[[アスキー (企業)|アスキー]]、画集)ISBN 4756106692
* 迷宮 末弥純 Interactive Museum ([[1996年]]、アスキー、下記[[ログアウト冒険文庫]]作品の再録画集と[[Windows 3.0]] [[CD-ROM]]のセット) ISBN 4756112196
* Wizardry EXCEED~末弥純の世界~ ([[1998年]]、[[ココナッツジャパン]]、[[Windows 95]]/[[Windows 98|98]] CD-ROM)
* 末弥純画集 玄 198511-199806 ([[1998年]]、朝日ソノラマ) ISBN 4257033800
* 末弥純画集 魄 199010-200101 ([[2001年]]、朝日ソノラマ) ISBN 4257036273
* 末弥純 グイン・サーガ画集 ([[2003年]]、[[早川書房]]) ISBN 4152085142
* 末弥純画集 烈妖月 ([[2004年]]、朝日ソノラマ) ISBN 4257036907
* 末弥純画集 ウィザードリィ ([[2006年]]、[[新紀元社]]、『WIZARDRY WORKS』との重複含む) ISBN 4775304771
== イラスト提供作品 ==
* [[グイン・サーガ]]シリーズ([[栗本薫]]著/[[ハヤカワ文庫]]JA)
* [[魔界都市ブルース]]([[菊地秀行]]著/[[祥伝社]]NON NOVEL)
* [[朝松健]]作品(『逆宇宙』シリーズ、『魔術戦士』[[大陸書房]]版)
* [[ダーク・ソード]]([[マーガレット・ワイス]] [[トレイシー・ヒックマン]]著)
* [[小説ウィザードリィ 隣り合わせの灰と青春]]([[ベニー松山]]著/JICC出版局)
* [[ウィザードリィRPG|真ウィザードリィRPG]]ルールブック (アスキー出版局)
* ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難([[高井信]]著/ログアウト冒険文庫)
* [[風雲のズダイ・ツァ]]([[高井信]]著/ログアウト冒険文庫)
* [[ウィザードリィ・ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ 呪われし聖筆]]([[竹内誠 (小説家)|竹内誠]]著/ログアウト冒険文庫)
* [[ウィザードリィRPG|アドバンスト・ウィザードリィRPG]] (ログアウト冒険文庫)
* ワイルドカードシリーズ([[ジョージ・R・R・マーティン]]編/[[創元SF文庫]])
* 雷の娘シェクティシリーズ([[嵩峰龍二]]著/[[富士見ファンタジア文庫]])
*[[機動警察パトレイバー 2 the Movie|機動警察パトレイバー TOKYO WAR]]([[押井守]]著/富士見ファンタジア文庫)
* 大僧侶伝説([[大野木寛]]著/ドラゴンマガジン1993年6月号収録、未刊行)
*[[戦え!!イクサー1]](LPレコード 戦え!!イクサー1 PART.2 描き下ろしB2ポスター)
* [[ハイスクール・オーラバスター|オーラバスター・インテグラル]]([[若木未生]]著)
*# 月光人魚 ([[徳間デュアル文庫]])
*# ファウスト解体(トクマノベルス)
* [[大魔獣激闘 鋼の鬼]]([[会川昇]]著/徳間書店[[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]])
* [[ヴェルガース|ヴァルデマール年代記]]シリーズ([[マーセデス・ラッキー]]著/[[東京創元社]])
* [[ソード・ワールド]]自由人の歎き([[安田均]]原案・[[白井英]]著/[[富士見ファンタジア文庫]])
* スーパーゲーム・ノベル 悪夢のマンダラ郷(きょう)([[鳥井架南子|鳥井加南子]]著/[[祥伝社|ノン・ポシェット]])
* [[ラーゼフォン]](アニメ。最終回スタッフロールで主人公・神名綾人が手掛けた絵として、イラストが登場)
== ゲーム関係素材提供作品 ==
* [[聖拳アチョー]] MSX版表紙イラスト
* [[ダンジョンマスター (MSX)|DUNGEON MASTER(ダンジョンマスター)]] MSX版表紙イラスト
* [[ウィザードリィ]] FC版、SFC版、一部のPC版モンスターデザイン
* [[ノスフェラトゥ (ゲーム)]] パッケージイラスト
* [[ジルオール]]シリーズ キャラクターデザイン
* [[アサンシア]] キャラクターデザイン ボスモンスターデザイン
* [[ハイブリッド・フロント]] キャラクターデザイン
* [[フロントミッションシリーズ|フロントミッション2]] キャラクターデザイン
* [[煉獄 -RENGOKU-]] キャラクターデザイン
* [[エナジーエアフォース|Over G]] キャラクターデザイン
* [[カルドセプト サーガ]] カードイラスト
* [[ディメンション・ゼロ]] カードイラスト
* [[アクエリアンエイジ]] カードイラスト
* [[モンスターコレクション]] カードイラスト
* [[バトルスピリッツ]] カードイラスト
* [[アニムンサクシス]] カードイラスト
* [[ウィザードリィRPG]]・真ウィザードリィRPG
* [[ワースブレイド]]
* [[ブランディッシュ]] パッケージイラスト
* [[ファーストクイーンⅣ]] パッケージイラスト
* [[ダークセラフィム]] パッケージイラスト
* [[三国志大戦]]3 カードイラスト
* [[悠久の車輪]] カードイラスト
* [[LORD of VERMILION]] カードイラスト
* [[シルフィード]] PC-8801版・メガCD版 パッケージイラスト
* [[VEIGUES]] パッケージイラスト
* [[ファイアーホーク (ゲーム)|ファイアーホーク]] パッケージイラスト
* [[NOT TREASURE HUNTER]] タイトル画面
* [[ベルアイル]] タイトル・ロード画面
* [[戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱]] カードイラスト
* [[ファイナルファンタジーXI|FINAL FANTASY XI]] 追加シナリオ「戦慄!モグ祭りの夜」イメージイラスト
* [[レニーブラスター]]
== 映像関係素材提供作品 ==
* [[G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR(ガルム戦記)]] [[押井守]]
* [[めざめの方舟]] 押井守
* [[WXIII 機動警察パトレイバー]]
* [[バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼]] [[富野由悠季]]
* [[GARM WARS The Last Druid]] 押井守
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エンリケ・グラナドス
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エンリケ・グラナドス・イ・カンピーニャ (グラナードスとも、スペイン語: Pantaleón Enrique Joaquín Granados y Campiña, カタルーニャ語: Pantalion Enric Joaquim Granados i Campiña エンリク・グラナドス・イ・カンピーニャ、1867年7月27日 – 1916年3月24日)は、スペイン近代音楽の作曲家、ピアニスト。7歳年長のイサーク・アルベニス(1860年 – 1909年)とともに、スペイン国民楽派の旗手として並び立つ存在である。
日本では「グラナドス」または「エンリケ・グラナドス」の通称が一般的である。
グラナドスは1867年7月27日、カタルーニャ地方のリェイダ(カスティーリャ語表記ではレリダ)に生まれた。 父親 Calixto Granados y Armenteros はキューバ出身の軍人、母親 Enriqueta Campiña de Herrera は北スペインのサンタンデールの出身だった。
音楽好きな家庭で幼いころから楽才を現わしたグラナドスは、はじめ土地の軍楽隊指揮者から楽典一般を教わった。 一家がバルセロナに引っ越すと、当地でホアン・バウティスタ・プホール(en:Joan Baptista Pujol, 1835年 – 1898年)にピアノを師事した。 同じクラスには、後にグラナドスとたびたびデュオ・コンサートを催すことになるホアキン・マラッツ(ca:Joaquim Malats i Miarons, 1872年 - 1912年)がいた。 グラナドスは16歳でリセウ高等音楽院(バルセロナ音楽院)のコンクールで首席を得た後、フェリペ・ペドレル(1841年 - 1922年)に師事する。 ペドレルからは作曲を学び、とりわけ民族主義的な精神面で大きな影響を受けた。
1887年、グラナドスはパリ音楽院で学ぶためにパリに出るが、折悪しくチフスにかかったために入学できなかった。しかし同音楽院の教授シャルル=ウィルフリッド・ド・ベリオ(en:Charles-Wilfrid de Bériot, 1833年 - 1914年)から2年間個人レッスンを受けることができた。
グラナドスは1889年にバルセロナに戻ると、グリーグのピアノ協奏曲でピアニストとしてデビューした。 その後演奏活動とともに作曲にも注力し、1892年、25歳で全12曲の『スペイン舞曲集』に着手(1900年完成)、この曲集はグラナドスの出世作となり、広く注目を集めた。また、同1892年にアンパロ・ガルと恋愛の末結婚している。
1898年、31歳でオペラ『マリア・デル・カルメン』をマドリードで上演、成功を納める。 1904年にはマドリード音楽院が主催した音楽コンクールに『協奏的アレグロ』で応募して優勝した。ちなみにこのときマヌエル・デ・ファリャも同名曲で応募し、審査員賞を受賞している。
グラナドスはピアニストとして、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)、マチュー・クリックボーム(en:Mathieu Crickboom, 1871年 - 1947年)、ジャック・ティボー(1880年 - 1953年)らのヴァイオリニスト、カミーユ・サン=サーンス(1832年 - 1921年)、エドゥアール・リスラー(1873年 - 1929年)らのピアニストたちと共演した。 とくに、1909年からはクリックボーム四重奏団(Vn. マチュー・クリックボーム、ホセ・ロカブルーナes:José Rocabruna、Va. ラファエル・ガルベス、Vc. パブロ・カザルス)とともに、スペイン各地を演奏して回っている。
1914年にはサル・プレイエルで自作演奏会を催して絶賛を浴び、仏西文化交流に貢献したとしてレジオンドヌール勲章を受章した。
ピアノ演奏と作曲に加えて、グラナドスはリセウ高等音楽院(バルセロナ音楽院)での教育活動を並行してこなした。
1901年には「アカデミア・グラナドス」を設立し、フランク・マーシャル(en:Frank Marshall (pianist), 1883年 - 1959年)らのピアニストや作曲家を育てた。 マーシャルはグラナドスの死後にアカデミアを引き継ぎ、その門下からはアリシア・デ・ラローチャ(1923年 - 2009年)やローサ・サバテア(es:Rosa Sabater, 1929年 - 1983年)らの名手が輩出した。
グラナドスは1911年に作曲したピアノ組曲『ゴイェスカス』を2幕もののオペラに改作し、パリで初演しようとした。しかし、第一次世界大戦の勃発によって断念する。そこへ、アメリカのメトロポリタン歌劇場からニューヨークでオペラ『ゴイェスカス』を初演したいとの申し出があり、夫妻での列席を求められた。船旅が嫌いなグラナドスはためらった末にこれを受け、1916年1月、ニューヨークでの初演は大成功となった。
ウィルソン大統領の招きによりホワイトハウスで演奏会を開くことになったグラナドスは、予定していたスペインへの直行便をキャンセルしてアメリカ滞在を延長したが、これが結果的に運命を分けた。 3月に入ってグラナドス夫妻は帰路につき、彼らが乗船したサセックスは、ロンドン経由で英仏海峡を渡航中、3月24日にドイツ潜水艦による魚雷攻撃を受け、夫妻はその犠牲となった。 このとき、グラナドスはいったん救命ボートに救い上げられようとしたが、波間に沈もうとする妻アンパロの姿を見て再び海中に身を投じ、二人はもつれ合うように暗い波間に消えたという。48歳と8ヶ月だった。
グラナドスの音楽は、ロマン主義と民族主義の二つの側面を持っている。 生来非常なロマンティストであったグラナドスは、シューマン、ショパン、グリーグらロマン主義の音楽に強い影響を受けている。 また、印象派的な傾向ではドビュッシーからの影響も見られる。
その一方でグラナドスの作品は、雰囲気と旋律の技術的な点で本質的にスペイン的である。 その音楽がスペインのイメージを呼び覚ます点において、グラナドスはアルベニスに勝るとも劣らない繊細な色彩家である。 ただし、この両者の比較でいえば、情熱的なアルベニスがグラナダに代表される「回教的スペイン」だとすれば、グラナドスの洗練された書法はより北方のマドリード、それも18世紀の粋で風刺精神旺盛なスペインということができる。
アルベニスはグラナドスについて、次のように語っている。
このようなグラナドスの特徴は『スペイン舞曲集』など初期のピアノ作品からすでに見られ、ロマンティックな要素とスペイン的要素が微妙に織り交ぜられながら独特な香気を放っている。 円熟期に至ると、これがさらに開花し、歌曲集『トナディーリャス』(1912年)や代表作となった『ゴイェスカス』において、グラナドスはテーマ体系と民族的リズムの精神のみを用いながら、普遍的な響きを持つ表現に達している。
グラナドスが本領としたピアノ音楽では、初期の出世作『スペイン舞曲集』と後期の代表作『ゴイェスカス』がまず挙げられる。 グラナドスの作風は民族色とロマンティシズムの色彩が相半ばしているが、『ゴイェスカス』以前の作品においてはこの二つの要素のどちらかが顕著に現れることが多い。例えば、『スペイン舞曲集』や『スペイン民謡による6つの小品』などは前者、『ロマンティックな情景』、『詩的なワルツ集』、『演奏会用アレグロ』などは後者に当たっている。
『スペイン舞曲集』では、作曲者が持って生まれたスペイン的な感性と独創性とが鮮やかに両立している。民謡や舞曲を直接取り入れてはいないにもかかわらず、ほとんどすべての主題、すべてのフレーズがスペインを実感させる。 特に第5曲「アンダルーサ」は演奏機会が多く、様々な編曲もされている。 フランスの作曲家ジュール・マスネは、『スペイン舞曲集』の楽譜の写しをグラナドスから受け取った際、作曲者を「スペインのグリーグ」と呼んで称賛した。
『ゴイェスカス』は、グラナドスの円熟期の最高傑作として名高い。 ここでは旋律線が複雑かつ高度に組み合わされ、深い陰影と美観に彩られている。スペインの民族色とグラナドス固有の夢の色が絶妙に溶け合い、尽きぬ嘆息にも似た哀愁と陶酔感は他に類を見ない。
なお、『詩的なワルツ集』や『ゆっくりした舞曲』は、グラナドス自身による演奏が自動ピアノへの録音として残されている。
グラナドスにとって歌曲はピアノ曲に次いで重要な分野となった。歌曲集『トナディーリャス』(全12曲、1912年)、『愛の歌曲集』(全7曲、1914年)の二つの連作は、ファリャと並んでスペイン歌曲の最高峰とされる。
ピアノ組曲からの編曲である『ゴイェスカス』のほか、中期の佳作『マリア・デル・カルメン』、カタルーニャ語の台本によるサルスエラ(抒情歌劇)があるが、これらは今日ほとんど顧みられておらず、再評価の機会が待たれる。
管弦楽曲としては交響詩『ダンテ』、室内楽曲にはピアノ三重奏曲やピアノ五重奏曲、友人ジャック・ティボーに献呈されたヴァイオリンソナタなどがあり、友人たちとの共演を好んだグラナドスの一面を偲ばせる。
グラナドスの弟子の一人でアンドレス・セゴビア(1893年 - 1987年)と結婚したパキータ・マドリゲーラは、師の容貌について「アラビア人と天使のあいのこ」と表現している。グラナドスは大きな目を半ば閉じ加減にして夢見るような抑揚で話した。口数は少なかったが、友人や家族など打ち解けた場ではよく軽口を叩いて笑わせたという。
グラナドスは穏やかな性格だったが、船に乗ることが大嫌いだった。 演奏会のためにマジョルカ島に船で渡った際、グラナドスは船室に閉じこもって時計を睨んで過ごし、バルセロナに戻ったときにはもう二度と船には乗らないと友人たちに宣言したという。
グラナドスと妻アンパロとの間には男女3人ずつ6人の子供が生まれた。 このうち、長男エドゥアルド(1894年 - 1928年)は作曲に才能を示し、23作のサルスエラを作曲したが、33歳で夭折した。
グラナドス家の書生だったホセ・アルテートは、グラナドスが街でみすぼらしい人物から施しを乞われ、家族が向こう一週間食べていくための有り金をすべて渡してしまったというエピソードを紹介している。1956年に『グラナドス伝』を著わしたA・フェルナンデス=シッドに対して、アルテートは自身が孤児だったところをグラナドスの家に迎えられ、家族同様に扱われた体験を老齢になってもなお感動にほおを染めて語ったという。
作曲時は、いったん霊感にとりつかれるとすべてを忘れて没頭した。外出してふと浮かんだ楽想を、着ていたシャツの左手の袖口に黒々と書き付けて帰宅したり、レッスン中に突然夢中になってピアノを弾き始め、生徒を驚かせたりした。グラナドスの高弟フランク・マーシャルによると、バルセロナで新作のピアノ曲を披露したとき、グラナドスの演奏が目の前の手書き譜と一致しなくなり、譜めくりを務めていたマーシャルは当惑して動きが取れなくなった。やがてグラナドスが書かれた音符に戻ってきたので、ようやくマーシャルはページをめくることができた。なにも知らない聴衆の盛んな拍手に送られて退場したグラナドスに、マーシャルが「いや、びっくりしました。」と告げたところ、グラナドスは「ほう、そうだったかね。」と他人事のように微笑したという。
友人のチェリスト、パブロ・カザルス(1876年 - 1973年)はグラナドスについて次のように述べている。
近年まで、生地リェイダの広場にささやかな記念プレートがあるほかには、グラナドスの名を冠した建造物はなかった。 しかし1995年に、リェイダに市立音楽ホール「エンリケ・グラナドス音楽堂(en:Auditori Enric Granados)」がオープンしている。
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"text": "グラナドスが本領としたピアノ音楽では、初期の出世作『スペイン舞曲集』と後期の代表作『ゴイェスカス』がまず挙げられる。 グラナドスの作風は民族色とロマンティシズムの色彩が相半ばしているが、『ゴイェスカス』以前の作品においてはこの二つの要素のどちらかが顕著に現れることが多い。例えば、『スペイン舞曲集』や『スペイン民謡による6つの小品』などは前者、『ロマンティックな情景』、『詩的なワルツ集』、『演奏会用アレグロ』などは後者に当たっている。",
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エンリケ・グラナドス・イ・カンピーニャ は、スペイン近代音楽の作曲家、ピアニスト。7歳年長のイサーク・アルベニスとともに、スペイン国民楽派の旗手として並び立つ存在である。 日本では「グラナドス」または「エンリケ・グラナドス」の通称が一般的である。
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{{スペイン語圏の姓名|グラナドス|カンピーニャ}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
|Name = エンリケ・グラナドス<br/>Enrique Granados
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'''エンリケ・グラナドス・イ・カンピーニャ''' ('''グラナードス'''とも、{{lang-es|Pantaleón Enrique Joaquín Granados y Campiña}}, {{lang-ca|Pantalion Enric Joaquim Granados i Campiña}} <small>エンリク・グラナドス・イ・カンピーニャ</small>、[[1867年]][[7月27日]]{{ndash}}[[1916年]][[3月24日]])は、[[スペイン]][[近代音楽]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。7歳年長の[[イサーク・アルベニス]](1860年{{ndash}}1909年)とともに、スペイン[[国民楽派]]の旗手として並び立つ存在である{{sfn|濱田|2016|p=43}}{{sfn|和田|2007}}。
日本では「グラナドス」または「エンリケ・グラナドス」の通称が一般的である。
== 生涯 ==
=== 前半生 ===
[[File:Felipe Pedrell 01.jpg|thumb|upright|[[フェリペ・ペドレル]](1841年 - 1922年)]]
グラナドスは1867年7月27日、[[カタルーニャ州|カタルーニャ地方]]の[[リェイダ]]([[カスティーリャ語]]表記ではレリダ)に生まれた{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
父親 Calixto Granados y Armenteros は[[キューバ]]出身の軍人、母親 Enriqueta Campiña de Herrera は北スペインの[[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]の出身だった{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
音楽好きな家庭で幼いころから楽才を現わしたグラナドスは、はじめ土地の軍楽隊指揮者から楽典一般を教わった{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
一家が[[バルセロナ]]に引っ越すと、当地で[[ホアン・バウティスタ・プホール]]([[:en:Joan Baptista Pujol]], 1835年 – 1898年)に[[ピアノ]]を師事した{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
同じクラスには、後にグラナドスとたびたびデュオ・コンサートを催すことになる[[ホアキン・マラッツ]]([[:ca:Joaquim Malats i Miarons]], 1872年 - 1912年)がいた{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
グラナドスは16歳で[[リセウ高等音楽院]](バルセロナ音楽院)のコンクールで首席を得た後、[[フェリペ・ペドレル]](1841年 - 1922年)に師事する{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
ペドレルからは[[作曲]]を学び、とりわけ民族主義的な精神面で大きな影響を受けた{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
1887年、グラナドスは[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]で学ぶために[[パリ]]に出るが、折悪しく[[チフス]]にかかったために入学できなかった。しかし同音楽院の教授[[シャルル=ウィルフリッド・ド・ベリオ]]([[:en:Charles-Wilfrid de Bériot]], 1833年 - 1914年)から2年間個人レッスンを受けることができた{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}{{sfn|和田|2007}}。
=== デビュー以降 ===
[[File:A CarrerasGranados-Granados 1218.JPG|thumb|upright|left|『スペイン舞曲集』を作曲していたころのグラナドス(1893年)]]
グラナドスは1889年にバルセロナに戻ると、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]の[[ピアノ協奏曲 (グリーグ)|ピアノ協奏曲]]でピアニストとしてデビューした{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
その後演奏活動とともに作曲にも注力し、1892年、25歳で全12曲の『スペイン舞曲集』に着手(1900年完成)、この曲集はグラナドスの出世作となり、広く注目を集めた。また、同1892年にアンパロ・ガルと恋愛の末結婚している{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
1898年、31歳でオペラ『マリア・デル・カルメン』を[[マドリード]]で上演、成功を納める{{sfn|オックスフォードオペラ大事典|1996|pp=207–208}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
1904年には[[マドリード音楽院]]が主催した音楽コンクールに『協奏的アレグロ』で応募して優勝した。ちなみにこのとき[[マヌエル・デ・ファリャ]]も同名曲で応募し、審査員賞を受賞している{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
=== ピアノ演奏 ===
[[File:Enric Granados 1900.jpg|thumb|upright|33歳ごろのグラナドス(1900年)]]
グラナドスはピアニストとして、[[ウジェーヌ・イザイ]](1858年 - 1931年)、[[マチュー・クリックボーム]]([[:en:Mathieu Crickboom]], 1871年 - 1947年)、[[ジャック・ティボー]](1880年 - 1953年)らのヴァイオリニスト、[[カミーユ・サン=サーンス]](1832年 - 1921年)、[[エドゥアール・リスラー]](1873年 - 1929年)らのピアニストたちと共演した{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
とくに、1909年からはクリックボーム四重奏団(Vn. マチュー・クリックボーム、ホセ・ロカブルーナ[[:es:José Rocabruna]]、Va. ラファエル・ガルベス、Vc. [[パブロ・カザルス]])とともに、スペイン各地を演奏して回っている{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|ブデュ|2014|pp=36–37}}。
1914年には[[サル・プレイエル]]で自作演奏会を催して絶賛を浴び、仏西文化交流に貢献したとして[[レジオンドヌール勲章]]を受章した{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
=== 教育活動 ===
ピアノ演奏と作曲に加えて、グラナドスは[[リセウ高等音楽院]](バルセロナ音楽院)での教育活動を並行してこなした{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
1901年には「アカデミア・グラナドス」を設立し、[[フランク・マーシャル (ピアニスト)|フランク・マーシャル]]([[:en:Frank Marshall (pianist)]], 1883年 - 1959年)らのピアニストや作曲家を育てた{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
マーシャルはグラナドスの死後にアカデミアを引き継ぎ、その門下からは[[アリシア・デ・ラローチャ]](1923年 - 2009年)やローサ・サバテア([[:es:Rosa Sabater]], 1929年 - 1983年)らの名手が輩出した{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
=== 渡米と死 ===
[[File:A CarrerasGranados-Granados 1257.JPG|thumb|upright|left|渡米中のグラナドス(右)と[[アーネスト・シェリング]](1916年)]]
[[File:Ferry "Sussex" torpedoed 1916.jpg|thumb|[[Uボート]]の[[魚雷]]攻撃により船体前部を破壊された「サセックス([[:en:SS Sussex]])」号(1916年)]]
グラナドスは1911年に作曲したピアノ組曲『[[ゴイェスカス]]』を2幕ものの[[オペラ]]に改作し、パリで初演しようとした。しかし、[[第一次世界大戦]]の勃発によって断念する。そこへ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[メトロポリタン歌劇場]]から[[ニューヨーク]]でオペラ『ゴイェスカス』を初演したいとの申し出があり、夫妻での列席を求められた。船旅が嫌いなグラナドスはためらった末にこれを受け、1916年1月、ニューヨークでの初演は大成功となった{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]大統領の招きにより[[ホワイトハウス]]で演奏会を開くことになったグラナドスは、予定していたスペインへの直行便をキャンセルしてアメリカ滞在を延長したが、これが結果的に運命を分けた{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
3月に入ってグラナドス夫妻は帰路につき、彼らが乗船した[[サセックス (客船)|サセックス]]は、[[ロンドン]]経由で[[英仏海峡]]を渡航中、3月24日に[[Uボート|ドイツ潜水艦]]による[[魚雷]]攻撃を受け、夫妻はその犠牲となった{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
このとき、グラナドスはいったん救命ボートに救い上げられようとしたが、波間に沈もうとする妻アンパロの姿を見て再び海中に身を投じ、二人はもつれ合うように暗い波間に消えたという。48歳と8ヶ月だった{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
== 音楽 ==
=== 作風 ===
グラナドスの音楽は、ロマン主義と民族主義の二つの側面を持っている{{sfn|濱田|2016|p=43}}。
生来非常なロマンティストであったグラナドスは、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]ら[[ロマン主義音楽|ロマン主義の音楽]]に強い影響を受けている{{sfn|濱田|2016|p=43}}{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
また、[[印象主義音楽|印象派]]的な傾向では[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]からの影響も見られる{{sfn|和田|2007}}。
その一方でグラナドスの作品は、雰囲気と旋律の技術的な点で本質的にスペイン的である{{sfn|オックスフォードオペラ大事典|1996|pp=207–208}}。
その音楽がスペインのイメージを呼び覚ます点において、グラナドスは[[イサーク・アルベニス|アルベニス]]に勝るとも劣らない繊細な色彩家である{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
ただし、この両者の比較でいえば、情熱的なアルベニスが[[グラナダ]]に代表される「[[イスラム教|回教]]的スペイン」だとすれば、グラナドスの洗練された書法はより北方の[[マドリード]]、それも[[18世紀]]の粋で[[風刺]]精神旺盛なスペインということができる{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}{{sfn|和田|2007}}。
アルベニスはグラナドスについて、次のように語っている{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
{{Quotation|「グラナドスはカタルーニャ人にもかかわらず、他の誰もがまねすることができないほどに、[[アンダルシア州|アンダルシア]]の陰の魅力を表現した。」|[[イサーク・アルベニス]]{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}}}
このようなグラナドスの特徴は『スペイン舞曲集』など初期のピアノ作品からすでに見られ、ロマンティックな要素とスペイン的要素が微妙に織り交ぜられながら独特な香気を放っている{{sfn|濱田|2016|p=43}}。
円熟期に至ると、これがさらに開花し{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}、歌曲集『トナディーリャス』(1912年)や代表作となった『[[ゴイェスカス]]』において、グラナドスはテーマ体系と民族的リズムの精神のみを用いながら、普遍的な響きを持つ表現に達している{{sfn|ラルース世界音楽事典|1989|pp=534–535}}。
=== 作品 ===
{{Main|グラナドスの楽曲一覧}}
==== ピアノ曲 ====
[[File:Enrique Granados 1914 (2).jpg|thumb|ピアノに向かうグラナドス(1914年)]]
グラナドスが本領としたピアノ音楽では、初期の出世作『スペイン舞曲集』と後期の代表作『[[ゴイェスカス]]』がまず挙げられる{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
グラナドスの作風は民族色とロマンティシズムの色彩が相半ばしているが、『ゴイェスカス』以前の作品においてはこの二つの要素のどちらかが顕著に現れることが多い。例えば、『スペイン舞曲集』や『スペイン民謡による6つの小品』などは前者、『ロマンティックな情景』、『詩的なワルツ集』、『演奏会用アレグロ』などは後者に当たっている{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
『スペイン舞曲集』では、作曲者が持って生まれたスペイン的な感性と独創性とが鮮やかに両立している。[[民謡]]や[[舞曲]]を直接取り入れてはいないにもかかわらず、ほとんどすべての主題、すべてのフレーズがスペインを実感させる{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
特に第5曲「アンダルーサ」は演奏機会が多く、様々な編曲もされている{{sfn|井澤|2014|スペイン舞曲集}}。
[[フランス]]の作曲家[[ジュール・マスネ]]は、『スペイン舞曲集』の楽譜の写しをグラナドスから受け取った際、作曲者を「スペインのグリーグ」と呼んで称賛した{{sfn|井澤|2014|スペイン舞曲集}}。
『ゴイェスカス』は、グラナドスの円熟期の最高傑作として名高い{{sfn|齊藤|2007|ゴイェスカス}}。
ここでは旋律線が複雑かつ高度に組み合わされ、深い陰影と美観に彩られている。スペインの民族色とグラナドス固有の夢の色が絶妙に溶け合い、尽きぬ嘆息にも似た哀愁と陶酔感は他に類を見ない{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
なお、『詩的なワルツ集』や『ゆっくりした舞曲』は、グラナドス自身による演奏が[[自動ピアノ]]への録音として残されている{{sfn|和田|2007|詩的なワルツ集}}{{sfn|和田|2007|ゆっくりした舞曲}}{{efn|『詩的なワルツ集』はグラナドスは死の直前、1916年1月23日のリサイタルでも演奏された{{sfn|和田|2007|詩的なワルツ集}}。}}。
==== 歌曲 ====
グラナドスにとって[[歌曲]]は[[ピアノ曲]]に次いで重要な分野となった。歌曲集『トナディーリャス』(全12曲、1912年)、『愛の歌曲集』(全7曲、1914年)の二つの連作は、[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]と並んでスペイン歌曲の最高峰とされる{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
==== 舞台音楽 ====
ピアノ組曲からの編曲である『ゴイェスカス』のほか、中期の佳作『マリア・デル・カルメン』、[[カタルーニャ語]]の台本による[[サルスエラ]](抒情歌劇)があるが、これらは今日ほとんど顧みられておらず、再評価の機会が待たれる{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
==== 管弦楽曲・室内楽曲 ====
[[管弦楽曲]]としては[[交響詩]]『ダンテ』、[[室内楽曲]]にはピアノ三重奏曲やピアノ五重奏曲、友人[[ジャック・ティボー]]に献呈されたヴァイオリンソナタなどがあり、友人たちとの共演を好んだグラナドスの一面を偲ばせる{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
== 人物 ==
[[File:Enric Granados i Campiña i Pau Casals i Defilló ANC1-402-N-8691.jpg|thumb|upright|グラナドスと[[パブロ・カザルス]]]]
グラナドスの弟子の一人で[[アンドレス・セゴビア]](1893年 - 1987年)と結婚したパキータ・マドリゲーラは、師の容貌について「[[アラブ人|アラビア人]]と[[天使]]のあいのこ」と表現している。グラナドスは大きな目を半ば閉じ加減にして夢見るような抑揚で話した。口数は少なかったが、友人や家族など打ち解けた場ではよく軽口を叩いて笑わせたという{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
グラナドスは穏やかな性格だったが、船に乗ることが大嫌いだった{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
演奏会のために[[マジョルカ島]]に船で渡った際、グラナドスは船室に閉じこもって時計を睨んで過ごし、[[バルセロナ]]に戻ったときにはもう二度と船には乗らないと友人たちに宣言したという{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
グラナドスと妻アンパロとの間には男女3人ずつ6人の子供が生まれた{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
このうち、長男エドゥアルド(1894年 - 1928年)は[[作曲]]に才能を示し、23作の[[サルスエラ]]を作曲したが、33歳で夭折した{{sfn|オックスフォードオペラ大事典|1996|pp=207–208}}{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
グラナドス家の書生だったホセ・アルテートは、グラナドスが街でみすぼらしい人物から施しを乞われ、家族が向こう一週間食べていくための有り金をすべて渡してしまったというエピソードを紹介している。1956年に『グラナドス伝』を著わしたA・フェルナンデス=シッドに対して、アルテートは自身が孤児だったところをグラナドスの家に迎えられ、家族同様に扱われた体験を老齢になってもなお感動にほおを染めて語ったという{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
作曲時は、いったん霊感にとりつかれるとすべてを忘れて没頭した。外出してふと浮かんだ楽想を、着ていたシャツの左手の袖口に黒々と書き付けて帰宅したり、レッスン中に突然夢中になってピアノを弾き始め、生徒を驚かせたりした。グラナドスの高弟フランク・マーシャルによると、バルセロナで新作のピアノ曲を披露したとき、グラナドスの演奏が目の前の手書き譜と一致しなくなり、譜めくりを務めていたマーシャルは当惑して動きが取れなくなった。やがてグラナドスが書かれた音符に戻ってきたので、ようやくマーシャルはページをめくることができた。なにも知らない聴衆の盛んな拍手に送られて退場したグラナドスに、マーシャルが「いや、びっくりしました。」と告げたところ、グラナドスは「ほう、そうだったかね。」と他人事のように微笑したという{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}。
友人のチェリスト、[[パブロ・カザルス]](1876年 - 1973年)はグラナドスについて次のように述べている{{efn|カザルスは、グラナドスの最初のオペラ『マリア・デル・カルメン』の[[リセウ大劇場]]でのリハーサルの際、神経質になりすぎた作曲者に代わって指揮をすることもあった{{sfn|ブデュ|2014|pp=36–37}}。}}。
{{Quotation|「グラナドスこそ、もっとも本質的な創造者である。……一言でいえば、もっとも天才的で、もっとも細やかな詩情を備えた作曲家である。しかも彼は独学だった。彼は……私たちの[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]だ。」|パブロ・カザルス{{sfn|濱田|2013|pp=177–188}}}}
== グラナドス音楽堂 ==
[[File:Lleida-auditori1.jpg|thumb|left|エンリケ・グラナドス音楽堂([[リェイダ]])]]
近年まで、生地[[リェイダ]]の広場にささやかな記念プレートがあるほかには、グラナドスの名を冠した建造物はなかった{{sfn|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993|p=141}}。
しかし1995年に、リェイダに市立音楽ホール「エンリケ・グラナドス音楽堂([[:en:Auditori Enric Granados]])」がオープンしている。
== 関連項目 ==
{{Portal クラシック音楽}}
* [[イサーク・アルベニス]]:作曲家。グラナドスと同じく[[フェリペ・ペドレル]]の指導を受けた。
* [[マヌエル・デ・ファリャ]]:作曲家。グラナドスと同じく[[フェリペ・ペドレル]]の指導を受けた。
* [[フェデリコ・モンポウ]]:作曲家。[[カタルーニャ州]]出身で、グラナドス同様[[バルセロナ]]で活動した。
* [[パブロ・カザルス]]:チェリスト。グラナドスの友人でしばしば共演した。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=ジョン・ウォラック(:en:John Warrack)|authorlink1=:en:John Warrack|author2=ユアン・ウェスト編著|authorlink2=ユアン・ウェスト|translator =[[大崎滋生]]、[[西原稔]]監|year=1996|title=オックスフォードオペラ大事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=9784582125214|ref={{SfnRef|オックスフォードオペラ大事典|1996}}}}
* {{Cite book|和書|author1=海老沢敏|authorlink1=海老沢敏|author2=稲生永監修|authorlink2=稲生永|editor=音楽之友社|editor-link=音楽之友社|translator =|year=1993|title=ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|publisher=音楽之友社|isbn=4276213010|ref={{SfnRef|ガイドブック音楽と美術の旅 スペイン|1993}}}}
* {{Cite book|和書|author=濱田滋郎|authorlink=濱田滋郎|translator =|year=2013|title=オルフェ・ライブラリー スペイン音楽の楽しみ 気質、風土、歴史が織り成す多彩な世界への“誘い”|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=9784276371088|ref={{SfnRef|濱田|2013}}}}
* {{Cite book|和書|author=濱田滋郎|authorlink=濱田滋郎|translator =|year=2016|title=ショパン 2016.8月号「スペイン・ピアノ音楽の歴史と特徴」|publisher=[[ハンナ]]|isbn=|ref={{SfnRef|濱田|2016}}}}
* {{Cite book|和書|author=ジャン=ジャック・ブデュ|authorlink=ジャン=ジャック・ブデュ|translator =[[細田晴子]]監修、[[遠藤ゆかり]]|year=2014|title=パブロ・カザルス ―奇跡の旋律|publisher=[[創元社]]|isbn=9784422212241|ref={{SfnRef|ブデュ|2014}}}}
* {{Cite book|和書|editor1=遠山一行|editor1-link=遠山一行|editor2=海老沢敏|editor2-link=海老沢敏|translator =|year=1989|title=ラルース世界音楽事典(上)|publisher=[[福武書店]]|isbn=|ref={{SfnRef|ラルース世界音楽事典|1989}}}}
* {{Cite web|和書|author=井澤友香理|date=2014|url=http://www.piano.or.jp/enc/pieces/83/|title=グラナドス:スペイン舞曲集|publisher=ピティナ・ピアノホームページ ピアノ曲事典|language=日本語|accessdate=2016-07-17|ref={{SfnRef|井澤|2014|スペイン舞曲集}}}}
* {{Cite web|和書|author=齊藤紀子|date=2007|url=http://www.piano.or.jp/enc/pieces/86/|title=グラナドス:組曲「ゴイェスカス」|publisher=ピティナ・ピアノホームページ ピアノ曲事典|language=日本語|accessdate=2016-07-17|ref={{SfnRef|齊藤|2007|ゴイェスカス}}}}
* {{Cite web|和書|author=和田真由子|date=2007|url=http://www.piano.or.jp/enc/pieces/6171/|title=グラナドス:詩的なワルツ集|publisher=ピティナ・ピアノホームページ ピアノ曲事典|language=日本語|accessdate=2016-07-17|ref={{SfnRef|和田|2007|詩的なワルツ集}}}}
* {{Cite web|和書|author=和田真由子|date=2007|url=http://www.piano.or.jp/enc/pieces/84/|title=グラナドス:ゆっくりした舞曲|publisher=ピティナ・ピアノホームページ ピアノ曲事典|language=日本語|accessdate=2016-07-17|ref={{SfnRef|和田|2007|ゆっくりした舞曲}}}}
* {{Cite web|和書|author=和田真由子|date=2007|url=http://www.piano.or.jp/enc/pieces/12/|title=作曲家解説:グラナドス|publisher=ピティナ・ピアノホームページ ピアノ曲事典|language=日本語|accessdate=2016-07-17|ref={{SfnRef|和田|2007}}}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Enrique Granados}}
* {{IMSLP|id=Granados%2C_Enrique|cname=エンリケ・グラナドス}}
{{Normdaten}}
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[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:カタルーニャの作曲家]]
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イサーク・アルベニス
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イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル(Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual, カタルーニャ語: Isaac Albéniz i Pascual, 1860年5月29日 - 1909年5月18日)は、スペインの作曲家・ピアニストであり、スペイン民族音楽の影響を受けた作品で知られる。
カタルーニャのカンプロドン(スペイン語版)で生まれ、4歳の時にピアノ演奏をするほどの天才児だった。イサーク(イサク)という名前を根拠に、アルベニス自身は自らをユダヤ人と信じがちだったが、無二の親友だったヴァイオリニストのエンリケ・アルボスによるとアルベニスはユダヤ人ではなかったという。
ライプツィヒの音楽院で短期間学んだ後、1876年にブリュッセル王立音楽院で学ぶ。1880年にブダペストに赴いてフランツ・リストに師事しようとしたが、当時リストはヴァイマルにいたため会えなかった。なお、少年時代については「7歳でパリ音楽院を受験し、一次試験には受かったが、鏡にボールをぶつけて割ってしまい、試験官に追い出された」、「10歳で家出して、演奏しながら国内を放浪した」、「12歳のときには1人で中南米に密航」した、などと、これまで世界を股に翔けた冒険物語として伝記等で知られてきたが、これらはアルベニス自身の話を書き留めたものでほとんどが嘘であることが判明している。
1883年、教師で作曲家のフェリペ・ペドレルに会い、『スペイン組曲 作品47』などのスペイン音楽の作曲を勧められる。また同年に生涯の伴侶となる妻のロジーナ・ホルダーナと結婚する。妻は元々弟子のひとりで、結婚後は一男二女をもうける。
1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲した。近年になって英語による『マーリン』が録音された。
1890年代までは、ワルツやエチュード、ピアノソナタ、スペイン風の小品集などロマン派の書法によるサロン的なピアノ曲を多数残したが、1897年の『ラ・ベーガ』以降は高度なピアノ技巧と旋法などを駆使した独自の作風を確立する。
1900年、腎臓病(当時のブライト病)を患い、ピアノ曲の作曲に戻った。1905年から1909年の間に、最も良く知られた作品である、ピアノによる印象を描いた12曲からなる「イベリア」を書いた。これはスペイン音楽としてだけではなく、古今のピアノ作品の中でも傑作として演奏会でも取り上げられる機会の多い作品集である。なお、これらはギター用に編曲・演奏される機会が多い。
1903年に即興演奏を3テイク録音に残している。この録音は、ミルトン・ローファーによって採譜され、ヘンレ社からCD付き楽譜として出版されている。ちなみに2003年から2011年までマドリード市長を務めたアルベルト・ルイス=ガリャルドン(英語版)と、第6代フランス大統領ニコラ・サルコジの2度目の夫人であるセシリアはアルベニスの曾孫である。
1909年、フランスのピレネー山中のカンボ・レ・バンで腎疾患のため亡くなり、バルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。絶筆の『アスレーホス』は友人のエンリケ・グラナドスにより完成された。
作品の大部分がピアノ曲であり、その他に歌劇なども残している。ただし、オーケストレーションは苦手だったらしく、「ピアノ協奏曲」と「カタルーニャ狂詩曲」は友人トマス・ブレトンの手を借りたことが書簡から判明している。
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イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアルは、スペインの作曲家・ピアニストであり、スペイン民族音楽の影響を受けた作品で知られる。
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'''イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル'''('''Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual''', {{lang-ca|Isaac Albéniz i Pascual}}, [[1860年]][[5月29日]] - [[1909年]][[5月18日]])は、[[スペイン]]の[[作曲家]]・[[ピアニスト]]であり、{{仮リンク|スペインの音楽|label=スペイン民族音楽|en|Music of Spain}}の影響を受けた作品で知られる。
== 人物・概要 ==
[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]の{{仮リンク|カンプロドン|es|Camprodón}}で生まれ、4歳の時にピアノ演奏をするほどの天才児だった。イサーク([[イサク]])という名前を根拠に、アルベニス自身は自らをユダヤ人と信じがちだったが、無二の親友だったヴァイオリニストのエンリケ・アルボスによるとアルベニスはユダヤ人ではなかったという<ref>[http://data.instantencore.com/pdf/1000786/albeniz+iberia.pdf ''"Isaac Albeniz"'' Authors: Edgar Istel and Frederick H. Martens, Source: The Musical Quarterly, Vol. 15, No. 1 (Jan., 1929), p.118]</ref>。
[[ライプツィヒ]]の音楽院で短期間学んだ後、1876年に[[ブリュッセル王立音楽院]]で学ぶ。1880年に[[ブダペスト]]に赴いて[[フランツ・リスト]]に師事しようとしたが、当時リストは[[ヴァイマル]]にいたため会えなかった。なお、少年時代については「7歳でパリ音楽院を受験し、一次試験には受かったが、鏡にボールをぶつけて割ってしまい、試験官に追い出された」、「10歳で家出して、演奏しながら国内を放浪した」、「12歳のときには1人で中南米に密航」<ref>小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』</ref>した、などと、これまで世界を股に翔けた冒険物語として伝記等で知られてきたが、これらはアルベニス自身の話を書き留めたものでほとんどが嘘であることが判明している<ref>Walter A. Clark, ''Isaac Albéniz: Portrait of a Romantic'' (Oxford: Oxford University Press, 1999)</ref>。
[[1883年]]、教師で作曲家の[[フェリペ・ペドレル]]に会い、『スペイン組曲 作品47』などのスペイン音楽の作曲を勧められる。また同年に生涯の伴侶となる妻のロジーナ・ホルダーナと結婚する。妻は元々弟子のひとりで、結婚後は一男二女をもうける。
1890年代には[[ロンドン]]と[[パリ]]に住み、主として劇場作品を作曲した。近年になって英語による『マーリン』が録音された。
1890年代までは、[[ワルツ]]や[[エチュード]]、[[ピアノソナタ]]、スペイン風の小品集などロマン派の書法によるサロン的なピアノ曲を多数残したが、1897年の『[[ラ・ベーガ]]』以降は高度なピアノ技巧と[[旋法]]などを駆使した独自の作風を確立する。
1900年、腎臓病(当時の[[ブライト病]])を患い、ピアノ曲の作曲に戻った。1905年から1909年の間に、最も良く知られた作品である、ピアノによる印象を描いた12曲からなる「イベリア」を書いた。これはスペイン音楽としてだけではなく、古今のピアノ作品の中でも傑作として演奏会でも取り上げられる機会の多い作品集である。なお、これらは[[ギター]]用に編曲・演奏される機会が多い。
[[1903年]]に[[即興演奏]]を3テイク録音に残している。この録音は、ミルトン・ローファーによって採譜され、[[ヘンレ (出版社)|ヘンレ社]]からCD付き楽譜として出版されている。ちなみに[[2003年]]から[[2011年]]まで[[マドリード]]市長を務めた{{仮リンク|アルベルト・ルイス=ガリャルドン|en|Alberto Ruiz-Gallardón}}と、第6代フランス大統領[[ニコラ・サルコジ]]の2度目の夫人である[[セシリア・サルコジ|セシリア]]はアルベニスの曾孫である。
1909年、[[フランス]]のピレネー山中の[[カンボ・レ・バン]]で腎疾患のため亡くなり、バルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された<ref>{{Cite web|date=|url=http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Albeniz&GSfn=Isaac&GSbyrel=in&GSdyrel=in&GSob=n&GRid=1553&df=all&|title=Isaac Albeniz|work=|author=|publisher=[[Find a Grave]]|accessdate=2010-12-31 12:46}}</ref>。絶筆の『アスレーホス』は友人の[[エンリケ・グラナドス]]により完成された。
== 作品 ==
作品の大部分がピアノ曲であり、その他に歌劇なども残している。ただし、[[オーケストレーション]]は苦手だったらしく、「ピアノ協奏曲」と「カタルーニャ狂詩曲」は友人[[トマス・ブレトン]]の手を借りたことが書簡から判明している<ref>[https://www.hyperion-records.co.uk/dw.asp?dc=W15173_67918 Piano Concerto No 1 in A minor 'Concierto fantástico', Op 78], [[ハイペリオン・レコード|Hyperion]]</ref>。
=== 歌劇 ===
* 魔法のオパール
* [[サルスエラ]]「花盛りのサン・アントニオ」
* {{仮リンク|ヘンリー・クリフォード|en|Henry Clifford (opera)}}
* {{仮リンク|マーリン(アルベニス)|label=マーリン|en|Merlin (Albéniz)}}
* ランスロット(未完)
* {{仮リンク|ペピータ・ヒメネス|en|Pepita Jiménez (opera)}}
=== 管弦楽曲 ===
* 狂詩曲「カタルーニャ」
=== 協奏曲 ===
* ピアノ協奏曲イ短調 Op.78「[[ピアノ協奏曲 (アルベニス)|「幻想的協奏曲]]」(1967年にスコア発見。「第1番」として発表されたが、2曲目以降は残っていない)
* スペイン狂詩曲 Op.70(管弦楽パート紛失、[[ジョルジェ・エネスク]]らによる管弦楽補作あり)
=== ピアノ曲 ===
* 古風な組曲
* マズルカ
* [[スペイン舞曲]]
* 舟歌
* 組曲「エスパーニャ」Op.165 全6曲。第2曲「[[タンゴ (アルベニス)|タンゴ]]」が有名。第3曲「マラゲーニャ」はギター編曲がしばしば演奏される。
* 組曲「[[イベリア (アルベニス)|イベリア]]」全12曲
* ピアノソナタ(6?曲、一部紛失)
* [[ラ・ベーガ]]
* [[アスレホス]](未完、[[エンリケ・グラナドス|グラナドス]]補筆完成)
* ナバーラ(未完、[[デオダ・ド・セヴラック|セヴラック]]補筆完成。[[ウィリアム・ボルコム]]による補筆版もあり)
* [[スペインの歌 (アルベニス)|スペインの歌]] Op.232
* スペイン組曲。全8曲だが、うち4曲はアルベニスの没後に他の作品から追加したもの。
** [[アストゥリアス(伝説)]]
*[[演奏会用アレグロ (グラナドス)|演奏会用アレグロ]]
=== 歌曲 ===
* 6つのバラード
* ベッケルの詩
== 関連項目 ==
* [[アルベニス (小惑星)]] - イサーク・アルベニスに因んで命名された
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/Albeniz.html |title=アルベニス作品表 |date=20021024011754}}
* {{IMSLP|id=Alb%C3%A9niz%2C_Isaac|cname=イサーク・アルベニス}}
* [http://bach.nau.edu/Albeniz/Mallorca.html Mallorca] ([http://get.adobe.com/shockwave/ Shockwave]) [http://bach.nau.edu/ BinAural Collaborative Hypertext]
* [https://web.archive.org/web/20100209214047/http://homepage1.nifty.com/ine/albeniz/index01.html Life of Isaac Albeniz アルベニスの生涯(1)〜 W.A.クラークによる新しい伝記を読んで 〜](アーカイブ)
{{DEFAULTSORT:あるへにす いさあく}}
[[Category:スペインの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:スペインのクラシック音楽のピアニスト]]
[[Category:カタルーニャの作曲家]]
<!--[[Category:ユダヤ人の後裔]]
[[Category:セファルディ系ユダヤ人]]-->
[[Category:1860年生]]
[[Category:1909年没]]
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ヤン・ディスマス・ゼレンカ
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ヤン・ディスマス・ゼレンカ(Jan Dismas Zelenka, 1679年10月16日 - 1745年12月23日)は、ボヘミア(現在のチェコ)に生まれ、ザクセン選帝侯国のドレスデンで没した作曲家である。
ザクセン選帝侯に仕え、宮廷のカトリック教会作曲家として主にドレスデンで活動し、実質的な宮廷副楽長として宗教音楽を多数作曲した。当時ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルだったヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)とは面識があり、彼がゼレンカを高く評価したことが知られている。
第二次世界大戦中に失われた作品もあるが、遺されたものが再発見され、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーの『6つのトリオ・ソナタ』の演奏・録音による紹介などから、20世紀中葉以降になって改めて評価されている作曲家の一人である。
ヤン・ディスマス・ゼレンカは、1679年10月16日、現在のチェコのプラハ近郊ロウニョヴィツェ(チェコ語版)で、ジリ・ゼレンカとマリア・マグダレーナの間の長男として生まれた。
ゼレンカはプラハのコレギウム・クレメンティヌムというイエズス会系の学校で教育を受けたと考えられている。初めての作品の記録は、1704年にこの学校で演奏された、ヘルジュマン・ヤコプ・チェルニン(チェコ語版)伯爵の先祖の武勲を記念した学校劇『月桂樹の道(Via laureata)』であるが、現在は失われてしまったために詳細は不明である。彼は後にもこの学校に4曲の作品を書いている。
1709年、プラハのヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・ハルティヒ(チェコ語版)男爵(後に伯爵となる)の宮廷楽団にコントラバス奏者として仕えたと推測されている。同年、クレメンティヌムのためにカンタータ『主は疫病をもたらし(Immisit Dominus pestilentiam)』を作曲。
1710年(あるいは1711年)にドレスデンのザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)の宮廷楽団のコントラバス奏者となる。1711年、ドレスデンでの最初の作品『聖セシリアのミサ(Missa Sanctae Caeciliae)』を作曲。
1714年には報酬が上がり、更に1715年11月には旅費が支給されて世子(後のフリードリヒ・アウグスト2世)のイタリア旅行に随行。随行員には、後にドイツ随一のヴァイオリニストとして知られるヨハン・ゲオルク・ピゼンデルも含まれていた。ただし、ゼレンカの使命はイタリアへの音楽留学ではなく、ヴィーンで宗教音楽を筆写してくること、当時の神聖ローマ帝国宮廷楽長・シュテファン大聖堂楽長のヨハン・ヨーゼフ・フックスのもとで作曲を師事することであった。
1716年から約3年間ヴィーンに留まり、カプリツィオを作曲。同時期にフックスのもとに留学していたヨハン・ヨアヒム・クヴァンツに対位法を教えている。1716年頃にフックスの推薦によってイタリアのヴェネツィアでアントニオ・ロッティに師事したという説、アレッサンドロ・スカルラッティと会ったという説があるが確証はない。
1719年2月にドレスデンに戻り、コントラバス奏者としての活動を再開。彼の能力が認められたらしく、俸給も1720年には500ターラーにまで上がり、1721年には教会音楽の副楽長の座に就く。ちなみに1723年にトーマスカントルに就任した大バッハの収入は、加算手当や臨時収入を含めて年間ほぼ700ターラーであった。
1722年から11年間(1733年頃まで)はゼレンカの生涯においても最も多作であり、活動的な期間であった。当時の宮廷楽団では、カトリック教会にはヨハン・ダーフィト・ハイニヒェンが、プロテスタント教会にはヨハン・クリストフ・シュミット(ドイツ語版)が楽長職に就いていたが、前者が病弱だったために代理を務めることが当面のゼレンカの職務であった。1728年にシュミットが、1729年にハイニヒェンが亡くなると、楽長が空席となったため実質的にゼレンカが楽長職を代行するようになったと考えられている。
しかし1731年にゼレンカに与えられたのは「作曲家」という平凡な肩書にとどまり、1734年には、当時オペラにおいて一世を風靡していたヨハン・アドルフ・ハッセが宮廷楽長に就任した。ゼレンカには1735年に「宮廷作曲家」の称号が与えられただけだった。新選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に請願していた550ターラーの年俸の増額も認められなかったが、ハッセが不在の折などには変わらず楽長代行の職務を遂行していた。
1736年に『聖三位一体のミサ(Missa Sanctissimae Trinitatis)』を作曲。1739年、病気から回復したことを神に感謝するために『奉納ミサ(Missa Votiva)』を作曲。前者は演奏時間約60分、後者は約70分と、作品の長大化が目立つようになる。なお、大バッハの『ミサ曲 ロ短調』について、ゼレンカをはじめとするドレスデンのザクセン選帝侯に仕えた作曲家たちのミサ曲との類似性が指摘されている。
1740年から41年にかけて、ゼレンカは『最後のミサ(Missae Ultimae)』という全6曲の連作ミサの作曲を計画した。しかし、第1作『父なる神のミサ(Missa Dei Patris)』(約70分)、第2作『神の御子のミサ(Missa Dei Filii)』(「キリエ」と「グロリア」のみで約40分)、第6作『諸聖人のミサ(Missa omnium Sanctorum)』(約50分)を完成させただけであった。
1745年12月23日、オーストリア継承戦争でプロイセン軍がドレスデンを占領している最中に66歳で死去。翌24日カトリック墓地に埋葬された。
ゼレンカは生涯独身だった。肖像画は伝わっていない。
ゼレンカの作品はヴォルフガング・ライヒによるZWV番号がつけられている (Wolfgang Reich. Jan Dismas Zelenka – Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke (ZWV). Sächsische Landesbibliothek, Dresden 1985.)。
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ヤン・ディスマス・ゼレンカは、ボヘミア(現在のチェコ)に生まれ、ザクセン選帝侯国のドレスデンで没した作曲家である。 ザクセン選帝侯に仕え、宮廷のカトリック教会作曲家として主にドレスデンで活動し、実質的な宮廷副楽長として宗教音楽を多数作曲した。当時ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルだったヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)とは面識があり、彼がゼレンカを高く評価したことが知られている。 第二次世界大戦中に失われた作品もあるが、遺されたものが再発見され、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーの『6つのトリオ・ソナタ』の演奏・録音による紹介などから、20世紀中葉以降になって改めて評価されている作曲家の一人である。
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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = ヤン・ディスマス・ゼレンカ<br />Jan Dismas Zelenka
| Background = classic
| Birth_name = Johann Lucáš Ignatius Zelenka
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = <!-- 個人のみ -->
| Born = 1679年10月16日<br />{{HRR1512}}<br>{{CZE1198}}<br>ロウニョヴィツェ
| Died = 1745年12月23日<br />{{HRR1512}}<br>[[File:State flag of Saxony before 1815.svg|border|25px]] [[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯国]]<br>[[ドレスデン]]
| Origin =
| Instrument = [[コントラバス]]
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{{Portal クラシック音楽}}
'''ヤン・ディスマス・ゼレンカ'''('''Jan Dismas Zelenka''', [[1679年]][[10月16日]] - [[1745年]][[12月23日]])は、[[ボヘミア]](現在の[[チェコ]])に生まれ、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯国]]の[[ドレスデン]]で没した[[作曲家]]である。
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[[第二次世界大戦]]中に失われた作品もあるが、遺されたものが再発見され、[[オーボエ]]奏者の[[ハインツ・ホリガー]]の『6つの[[トリオ・ソナタ]]』の演奏・録音による紹介などから、20世紀中葉以降になって改めて評価されている作曲家の一人である。
== 生涯 ==
ヤン・ディスマス・ゼレンカ<ref>氏名のチェコ語での発音はリンク先を参照。 http://ja.forvo.com/word/jan_dismas_zelenka/#cs</ref>は、1679年10月16日、現在のチェコの[[プラハ]]近郊{{仮リンク|ロウニョヴィツェ|cs|Louňovice pod Blaníkem}}で、ジリ・ゼレンカ<ref>Jiřík Zelenka 父親は職業音楽家で、この地の教師兼オルガニストであり、後に教会のカントルとなっている。 Stockigt (2000年) p.1</ref>とマリア・マグダレーナの間の長男として生まれた。
ゼレンカはプラハのコレギウム・クレメンティヌムという[[イエズス会]]系の学校で教育を受けたと考えられている。初めての作品の記録は、1704年にこの学校で演奏された、{{仮リンク|ヘルジュマン・ヤコプ・チェルニン|cs|Heřman Jakub Černín}}[[伯爵]]<ref>Heřman Jakub Černín ヘルジュマン・ヤコプ・チェルニン伯爵は資産家で有力なボヘミアの貴族だった。 Stockigt (2000年) p.3</ref>の先祖の武勲を記念した学校劇『月桂樹の道(Via laureata)』であるが、現在は失われてしまったために詳細は不明である。彼は後にもこの学校に4曲の作品を書いている。
1709年、プラハの{{仮リンク|ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・ハルティヒ|cs|Ludvík Josef z Hartigu}}[[男爵]](後に伯爵となる)<ref>Joseph Ludwig von Hartig (チェコ語表記:Ludvík Josef z Hartigu) ヨーゼフ・ルートヴィヒ・フォン・ハルティヒ男爵は、1709年当時ボヘミア王立裁判所陪席判事であり、プラハで皇帝名代を務めていた。 加藤 (1995年) p.2</ref>の宮廷楽団に[[コントラバス]]奏者として仕えたと推測されている。同年、クレメンティヌムのために[[カンタータ]]『主は疫病をもたらし(Immisit Dominus pestilentiam)』を作曲。
1710年(あるいは1711年)にドレスデンのザクセン選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]](アウグスト強健王)の宮廷楽団のコントラバス奏者となる<ref>この宮廷楽団は優秀な音楽家を多数擁していた。 礒山 (1985年) p.89、フェーリクス (1999年) p.131-p.132</ref>。1711年、ドレスデンでの最初の作品『[[聖セシリア]]の[[ミサ曲|ミサ]](Missa Sanctae Caeciliae)』を作曲。
1714年には報酬が上がり、更に1715年11月には旅費が支給されて[[世子]](後の[[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]])の[[イタリア]]旅行に随行。随行員には、後にドイツ随一の[[ヴァイオリニスト]]として知られる[[ヨハン・ゲオルク・ピゼンデル]]<ref>服部 (2001年) p.401</ref>も含まれていた。ただし、ゼレンカの使命はイタリアへの音楽留学ではなく、[[ウィーン|ヴィーン]]で宗教音楽を筆写してくること、当時の[[神聖ローマ帝国]][[宮廷楽長]]・[[シュテファン大聖堂]]楽長の[[ヨハン・ヨーゼフ・フックス]]のもとで作曲を師事することであった。
1716年から約3年間ヴィーンに留まり、[[奇想曲|カプリツィオ]]を作曲。同時期にフックスのもとに留学していた[[ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ]]<ref>1718年、クヴァンツは当初[[オーボエ]]奏者としてドレスデンの宮廷楽団に入るが、そこでヨーロッパ屈指の[[フルート]]奏者[[ピエール=ガブリエル・ビュファルダン|ビュファルダン]]からフルートを学び、後に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]のフルート教師となって名声を馳せる。 樋口 (1993年) p.193-p.194</ref>に[[対位法]]を教えている。1716年頃にフックスの推薦によってイタリアの[[ヴェネツィア]]で[[アントニオ・ロッティ]]に師事したという説、[[アレッサンドロ・スカルラッティ]]と会ったという説があるが確証はない。
1719年2月にドレスデンに戻り、コントラバス奏者としての活動を再開。彼の能力が認められたらしく、俸給も1720年には500[[ターラー (通貨)|ターラー]]にまで上がり、1721年には教会音楽の副楽長の座に就く。ちなみに1723年に[[トーマスカントル]]に就任した大バッハの収入は、加算手当や臨時収入を含めて年間ほぼ700ターラーであった<ref>フェーリクス (1999年) p.108-p.110</ref>。
1722年から11年間(1733年頃まで)はゼレンカの生涯においても最も多作であり、活動的な期間であった。当時の宮廷楽団では、カトリック教会には[[ヨハン・ダーフィト・ハイニヒェン]]が、[[プロテスタント]]教会には{{仮リンク|ヨハン・クリストフ・シュミット|de|Johann Christoph Schmidt (Komponist)}}が楽長職に就いていたが、前者が病弱だったために代理を務めることが当面のゼレンカの職務であった。1728年にシュミットが、1729年にハイニヒェンが亡くなると、楽長が空席となったため実質的にゼレンカが楽長職を代行するようになったと考えられている。
しかし1731年にゼレンカに与えられたのは「作曲家」という平凡な肩書にとどまり、1734年には、当時[[オペラ]]において一世を風靡していた[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]が宮廷楽長に就任した。ゼレンカには1735年に「宮廷作曲家」の称号が与えられただけだった<ref>1736年に大バッハにも与えられている。 フェーリクス (1999年) p.288</ref>。新選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に請願していた550ターラーの年俸の増額も認められなかったが、ハッセが不在の折などには変わらず楽長代行の職務を遂行していた。
1736年に『聖[[三位一体]]のミサ(Missa Sanctissimae Trinitatis)』を作曲。1739年、病気から回復したことを神に感謝するために『奉納ミサ(Missa Votiva)』を作曲。前者は演奏時間約60分、後者は約70分と、作品の長大化が目立つようになる。なお、大バッハの『[[ミサ曲 ロ短調]]』について、ゼレンカをはじめとするドレスデンのザクセン選帝侯に仕えた作曲家たちのミサ曲との類似性が指摘されている<ref>小林 (1995年) p.278</ref>。
1740年から41年にかけて、ゼレンカは『最後のミサ(Missae Ultimae)』という全6曲の連作ミサの作曲を計画した。しかし、第1作『父なる神のミサ(Missa Dei Patris)』(約70分)、第2作『神の御子のミサ(Missa Dei Filii)』(「[[キリエ]]」と「[[グロリア]]」のみで約40分)、第6作『諸[[聖人]]のミサ(Missa omnium Sanctorum)』(約50分)を完成させただけであった。
1745年12月23日、[[オーストリア継承戦争]]で[[プロイセン]]軍がドレスデンを占領している最中に66歳で死去。翌24日カトリック墓地に埋葬された。
ゼレンカは生涯独身だった。[[肖像画]]は伝わっていない<ref>2007年にフランスで出版されたゼレンカの伝記の表紙には、人物画(詳細不明)があげられている。 {{仮リンク|ステファン・ペロー|fr|Stéphan Perreau}} ; [https://megalodon.jp/2015-1102-2128-27/www.amazon.fr/Jan-Dismas-Zelenka-St%C3%A9phan-Perreau/dp/2913575781/ref=sr_1_20?ie=UTF8&qid=1446467139&sr=8-20&keywords=Jan+Dismas+Zelenka ''Jan Dismas Zelenka Broché – 22 mars 2007''] 2015年11月2日閲覧。</ref><ref>{{仮リンク|ラジオ・プラハ|cs|Český rozhlas Radio Praha}}のサイトには詳細不明の人物画がゼレンカの肖像画として掲載されている。[https://megalodon.jp/2015-1108-0505-23/www.radio.cz/en/section/curraffrs/czech-ensemble-performs-jan-dismas-zelenkas-forgotten-easter-mass ''Czech ensemble performs Jan Dismas Zelenka’s forgotten Easter Mass''] (2013年) 2015年11月8日閲覧。</ref>。
== 年表 ==
*[[1679年]](0歳) - プラハ近郊のロウニョヴィツェで生まれる。父はオルガン奏者。
*:プラハのコレギウム・クレメンティヌムで学ぶ。
*[[1709年]](30歳) - ハルティヒ男爵(後に伯爵)の楽団に入る。
*[[1710年]](31歳) - ドレスデンのフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)の宮廷楽団でコントラバス奏者となる。
*[[1716年]] - [[1719年]] - イタリア、ヴィーン旅行。ヴィーンではフックスに学ぶ。
*[[1723年]](44歳) - フックス作曲の神聖ローマ帝国[[皇帝]][[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]のボヘミア王戴冠を祝うオペラ『コスタンツァとフォルテッツァ』演奏に参加。
*[[1729年]](50歳) - 宮廷楽長ハイニヒェンの死去により教会音楽長を代行する。
*[[1734年]](55歳) - ゼレンカを差し置き、ポーランド王及びザクセン選帝侯宮廷楽長の地位にハッセが就任する。
*[[1735年]](56歳) - 宮廷作曲家になる。
*[[1738年]](59歳) - プラハ旅行?
*[[1739年]](60歳) - 重病から回復。
*[[1745年]](66歳) - 12月23日、ドレスデンで没する。
== 作品 ==
ゼレンカの作品はヴォルフガング・ライヒによるZWV番号がつけられている (Wolfgang Reich. ''Jan Dismas Zelenka – Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke (ZWV)''. Sächsische Landesbibliothek, Dresden 1985.)。
{{External media|topic=試聴 |width=32em
|audio1='''[https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kj0glFat_-sweq4G4S3XwMyCThw0NNRGc カプリッチョ1-5番、トリオソナタ1-6番ほか]'''(プレイリスト)<br />演奏者(カプリッチョ): [[ハインツ・ホリガー]]([[オーボエ|Ob.]])、[[バリー・タックウェル]]([[ホルン|Hr.]])、アレクサンダー・ファン・ヴィーンコープ(Alexander van Wijnkoop)指揮[[カメラータ・ベルン]]ほか<br />演奏者(トリオ・ソナタ): ハインツ・ホリガー、[[モーリス・ブルグ]]([[オーボエ|Ob.]])、[[サシュコ・ガヴリーロフ]]([[ヴァイオリン|Vn.]])、{{仮リンク|クラウス・トゥーネマン|en|Klaus Thunemann}}([[ファゴット|Fg.]])ほか<br />[[ユニバーサル ミュージック グループ|Universal Music Group]]提供のYouTubeアートトラック}}
*ZWV 1 [[聖セシリア]]のミサ ト長調 (Missa Sanctae Caeciliae in G major) 1711年頃 【[https://www.youtube.com/watch?v=1HC2kJqUxj4&t 演奏例]】
*ZWV 7 [[復活祭]]ミサ ニ長調 (Missa Paschalis in D major) 1726年 【[https://www.youtube.com/watch?v=JbgVtxEKZYc 演奏例]】
*ZWV 12 聖[[フランシスコ・ザビエル|ザビエル]]のミサ ニ長調 (Missa Divi Xaverii in D major) 1729年 【[https://www.youtube.com/watch?v=jcGz1zpMBso 演奏例]】
*ZWV 13 ミサ「大いなる感謝を捧ぐ」 ニ長調 (Missa 'Gratias agimus tibi') 1730年
*ZWV 17 聖三位一体のミサ イ短調 (Missa Sanctissimae Trinitatis) 1736年
*ZWV 18 奉納ミサ ホ短調 (Missa Votiva) 1739年 【[https://www.youtube.com/watch?v=CWjHpNW5mBI&t=800s 演奏例1]】【[https://www.youtube.com/watch?v=ephoNJcmu38 演奏例2]】
*ZWV 19 父なる神のミサ ハ長調 (Missa Dei Patris) 1740年 【[https://www.youtube.com/watch?v=DuD2uVY5d4E 演奏例1]】【[https://www.youtube.com/watch?v=MkitshUUZ20 演奏例2]】
*ZWV 20 神の御子のミサ ハ長調 (Missa Dei Filii) 1740年頃 【[https://www.youtube.com/watch?v=KFWAzNg5WmQ 演奏例]】
*ZWV 21 諸聖人のミサ イ短調 (Missa Omnium Sanctorum) 1741年 【[https://www.youtube.com/watch?v=RZNYtML_Zrg 演奏例]】
*ZWV 45 [[レクイエム]] ハ短調 (Requiem in C minor) 作曲年不明
*ZWV 46 レクイエム ニ長調 (Requiem in D major) 1733年 【[https://www.youtube.com/watch?v=4Sg01NHNm7M 演奏例]】
*ZWV 47 オフィチウム・デフンクトルム (Officium defunctorum) 1733年 【[https://www.youtube.com/watch?v=n6r5uBW4ImI 演奏例]】
*ZWV 48 レクイエム ニ短調 (Requiem in D minor) 1730年-1732年
*ZWV 53 [[エレミア]]の哀歌 (6 Lamentationes pro hebdomada sancta) 1722年
*ZWV 55 [[聖週間]]のための[[レスポンソリウム]] 全27曲 (27 Responsoria pro Hebdomada Sancta) 1723年
*ZWV 58 [[カンタータ]]「主は疫病をもたらし」(Immisit Dominus pestilentiam)1709年
*ZWV 146 [[テ・デウム]] ニ長調 (Te Deum in D major) 1731年 【[https://www.youtube.com/watch?v=nwI5nPDwp1M 演奏例]】
*ZWV 181 トリオ・ソナタ 6曲 (ヘ長調、ト短調、変ロ長調、ト短調、ヘ長調、ハ短調)1720年-1722年頃 【[https://www.youtube.com/watch?v=ll6PuMDOiVg トリオ・ソナタ第5番 演奏例]】
*ZWV 182 [[奇想曲|カプリツィオ]] ニ長調 (Capriccio in D major) 1717年頃
*ZWV 183 カプリツィオ ト長調 (Capriccio in G major) 1718年
*ZWV 184 カプリツィオ ヘ長調 (Capriccio in F major) 1718年
*ZWV 185 カプリツィオ イ長調 (Capriccio in A major) 1718年
*ZWV 186 8声の協奏曲 ト長調 (Concerto à 8 Concertanti in G major) 1723年
*ZWV 187 7声の[[ヒポコンドリー]] (Hipocondrie à 7 Concertanti in A major) 1723年 【[https://www.youtube.com/watch?v=h-CKC-DtcRg 演奏例]】
*ZWV 188 7声の序曲 ヘ長調 (Overture à 7 Concertanti in F major) 1723年
*ZWV 189 8声の[[シンフォニア|シンフォニー]] (Simphonie à 8 Concertanti in a minor) 1723年 【[https://www.youtube.com/watch?v=UrbwAU-TyJo 演奏例]】
*ZWV 190 カプリツィオ ト長調 (Capriccio in G major) 1729年
*ZWV 191 [[ヘクサコルド]]による[[カノン (音楽)|カノン]]集 (Canons on the Hexachord) 1721年頃
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
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*ZELENKA-STUDIEN 1 (MUSIK DES OSTEND 14) BÄRENREITER
*ZELENKA-STUDIEN 2 Academia
*DAS ERBE DEUTSCHER MUSIK 93 (ZWV19) 100 (ZWV20+151) 101 (ZWV21+152) 103 (ZWV17) 108 (ZWV18+157) BREITKOPF & HÄRTEL
*Lamentationes pro hebdomada sancta (ZWV53) Carus 40.762 及び Musica Antiqua Bohemica
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*[[井上太郎]]『レクィエムの歴史―死と音楽との対話』[[平凡社]]選書 1999年
*{{仮リンク|ヴェルナー・フェーリクス|de|Werner Felix}}『バッハ 生涯と作品』[[杉山好]]訳 [[講談社学術文庫]] 1999年
*[[服部幸三]]『西洋音楽史 バロック』音楽之友社 2001年
== 外部リンク ==
* [http://www.jdzelenka.net/ Discover Zelenka]
* [http://www7a.biglobe.ne.jp/~thor/music/index.html Hipocondrie - Jan Dismas Zelenka]
* [http://www.wissensdrang.com/zwv.htm ゼレンカ作品目録 CATALOGUE (ZWV) OF COMPOSITIONS BY JAN DISMAS ZELENKA]
* {{IMSLP|id=Zelenka, Jan Dismas}}
* {{ChoralWiki|Jan Dismas Zelenka}}
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[[Category:バロックの作曲家]]
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真空計
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真空計(しんくうけい、英: vacuum gauge)は、真空のゲージ圧、つまり大気圧以下の圧力(負圧)を測るための圧力計の一種である。
測定方式によって測定できる圧力の範囲がある。使用できる範囲も決められている場合があり、それらを把握して使用する必要がある。1台で大気圧から高真空(0.1Pa未満)を測定できる真空計は存在しない。そのため最近では1個の端子に2種類の真空計を入れて、大気圧から高真空を測定できるようにした複合真空計が市販されている。多くは大気圧から中真空(100 - 0.1Pa)程度まで測定できる真空計とB-Aゲージとの組み合わせとなっている。
全圧真空計は環境(チャンバ内)の圧力のみを測定する真空計である。真空計とは通常これを指す。全圧真空計は測定方式により主に3つに分けられる:
動作原理として気体の入射による熱の移動を利用する真空計を熱伝導真空計(ねつでんどうしんくうけい)という。原理的に粘性流領域では気体の対流も加わるため、正確な値を示さない。サーミスタ真空計やピラニー真空計などがこれに分類される。
分圧真空計は環境(チャンバ内)の気体成分の分子量ごとに圧力を測定する真空計である。質量分析計とも呼ばれる。
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真空計は、真空のゲージ圧、つまり大気圧以下の圧力(負圧)を測るための圧力計の一種である。 測定方式によって測定できる圧力の範囲がある。使用できる範囲も決められている場合があり、それらを把握して使用する必要がある。1台で大気圧から高真空(0.1Pa未満)を測定できる真空計は存在しない。そのため最近では1個の端子に2種類の真空計を入れて、大気圧から高真空を測定できるようにした複合真空計が市販されている。多くは大気圧から中真空程度まで測定できる真空計とB-Aゲージとの組み合わせとなっている。
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[[Image:McLeod gauge.jpg|thumb|[[マクラウド真空計]]]]
'''真空計'''(しんくうけい、{{lang-en-short|vacuum gauge}})は、[[真空]]の[[圧力測定#絶対圧とゲージ圧|ゲージ圧]]、つまり[[気圧|大気圧]]以下の[[圧力]](負圧)を測るための[[圧力計]]の一種である。
測定方式によって測定できる圧力の範囲がある。使用できる範囲も決められている場合があり、それらを把握して使用する必要がある。1台で大気圧から高真空(0.1[[パスカル (単位)|Pa]]未満)を測定できる真空計は存在しない。そのため最近では1個の端子に2種類の真空計を入れて、大気圧から高真空を測定できるようにした[[複合真空計]]が市販されている。多くは大気圧から中真空(100 - 0.1Pa)程度まで測定できる真空計と[[B-Aゲージ]]との組み合わせとなっている。
== 測定方法による分類 ==
;差圧真空計:圧力差を利用して測定する
;絶対圧真空計:[[物理量]]によって圧力を測定する
== 測定対象による分類 ==
=== 全圧真空計 ===
全圧真空計は環境(チャンバ内)の圧力のみを測定する真空計である。真空計とは通常これを指す。全圧真空計は測定方式により主に3つに分けられる:
* 機械的な現象
* [[気体]]の輸送現象
* 気体の[[電離]]現象
==== 機械的現象 ====
* [[U字管マノメーター]]
* [[マクラウド真空計]]
* [[圧力測定#ダイアフラム気圧計|ダイヤフラム(隔膜)真空計]]
* [[圧力測定#ブルドン管ゲージ|ブルドン管真空計]]
* [[重錘型真空計]]
==== 気体の輸送現象 ====
* [[スピニングロータ真空計]]
* [[クリスタル真空計]]
* [[ピラニ真空計]]
* [[熱電対真空計]]
* [[サーミスタ真空計]]
* [[クヌーセン真空計]]
動作原理として気体の入射による[[熱]]の移動を利用する真空計を'''熱伝導真空計'''(ねつでんどうしんくうけい)という。原理的に粘性流領域では気体の対流も加わるため、正確な値を示さない。サーミスタ真空計やピラニー真空計などがこれに分類される。
==== 気体の電離現象 ====
* [[放射線真空計]]
* [[冷陰極電離真空計]]
** [[ペニング真空計]]
** [[冷陰極マグネトロン真空計]]
** [[ガイスラー管]]
* [[熱陰極電離真空計]]
** [[三極管電離真空計]]
** [[シュルツ真空計]]
** [[ベアード・アルパード真空計]]([[B-Aゲージ]])
** [[エキストラクタ真空計]]
** [[軸対称透過型電離真空計]]
=== 分圧真空計 ===
{{main|質量分析法}}
分圧真空計は環境(チャンバ内)の気体成分の[[分子量]]ごとに圧力を測定する真空計である。'''質量分析計'''とも呼ばれる。
* [[高周波形質量分析計]]
* [[四極子形質量分析計]]
* [[単極子形質量分析計]]
* [[磁界偏向形質量分析計]]
* [[二重収束形質量分析計]]
* [[トロコイド形質量分析計]]
* [[オメガトロン形質量分析計]]
* [[飛行時間質量分析計]]
==関連項目==
* [[真空]]
* [[真空部品]]
* [[真空用材料]]
* [[真空ポンプ]]
* [[Oリング]]
* [[リークテスト]]
== 外部リンク ==
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ラザホージウム
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ラザホージウム (Rutherfordium) は、元素記号Rf、原子番号104の化学元素であり、ニュージーランド出身のイギリスの物理学者であるアーネスト・ラザフォードの名前に因んで命名された。合成元素であり、天然には存在せず、研究室内でのみ作られる。放射性を持ち、既知の最も安定な同位体であるRfの半減期は約48分である。
周期表上では、dブロック元素の遷移金属であり、第7周期元素、第4族元素に分類される。化学実験により、第4族のハフニウムのより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的性質は、部分的に明らかとなっており、相対論効果のためかなり異なる部分もあるものの、他の第4族元素とよく似た性質となっている。
1960年代、ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所とアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所により、少数のラザホージウムが合成された。1997年に国際純正・応用化学連合(IUPAC)が公式な名称をラザホージウムと決定するまで、両国の間で発見の優先権と元素の命名権が争われた。
重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかし、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)の影響が弱くなるため、その距離は非常に短くなる。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これには範囲の制約はない。そのため、重元素の原子核は理論的には予測されており、これまでは主にこのような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂として観測されてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成すると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。
1964年に当時ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所で初めての検出が報告された。そこでは、プルトニウム242を標的に、ネオン22イオンを照射し、反応生成物を四塩化ジルコニウムとの反応で塩化物に変換した後、勾配サーモクロマトグラフィーで分離された。チームは、エカハフニウムの性質を持つ揮発性塩化物の特徴を持つ自発核分裂を同定した。半減期は正確に測定されなかったが、後の計算でこの化合物はラザホージウム259である可能性が最も高いことが示された。
1969年、カリフォルニア大学バークレー校の研究者が、カリホルニウム249を標的に炭素12イオンを照射し、ノーベリウム253が娘核となるRfのアルファ崩壊を観測した。
この合成は、1973年に独立して確認され、Rfの崩壊生成物であるNoの特性X線であるKα線の観測により、親核のラザホージウムの同定が確実となった。
発見に関する主張が競合した結果として、元素の命名に関する論争が起こった。ソビエト連邦は新元素を最初に検出したと主張し、ソビエト連邦の核研究を率いたイーゴリ・クルチャトフを記念してクルチャトビウム(Ku)という名前を提案した。この名前は、東側諸国では、この元素の公式名として書籍等でも用いられた。しかし、アメリカ側は「核物理学の父」として知られるアーネスト・ラザフォードの名前に因んでラザホージウム(Rf)という名前を提案した。1992年、IUPAC/IUPAPトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、発見の主張を評価し、104番元素の合成に関する証拠を両チームが同時に提出しており、発見の栄誉は2つのグループの間で共有されるべきだと結論付けた。
アメリカのグループは、TWGの調査結果を酷評する返信を書き、彼らがドゥブナの成果を強調しすぎであると述べ、特に、ロシアのグループは、この20年の間に主張の詳細を変遷させていると指摘し、ロシアのチームはこれを否定しなかった。また、TWGがロシアによる化学実験を過信しすぎていることを強調し、TWG内に適切な資格のある人員がいないと非難した。TWGは、これは事実ではなく、アメリカのグループが提起した各論点を再評価したが発見の優先権に関して結論を変更する理由が見つからなかったと答えた。IUPACは、最終的に、アメリカのチームが提案したラザホージウムという名前を採用した。
IUPACは一時的に、ラテン語で「1」「0」「4」を意味する言葉に由来するウンニルクアジウム(Unq)という系統名を仮名として採用していた。1994年、IUPACは104番元素から109番元素の一連の名前を提案し、その中で、104番元素の元素名はドブニウム(Db)とされ、ラザホージウムは106番元素の名前に割り当てられた。この勧告は、いくつかの理由からアメリカ側の科学者から批判された。なぜならまず、彼らの提案はごちゃ混ぜにされ、元々アメリカ側から104番元素、105番元素用に提案されていた、ラザホージウム、ハーニウムという名前は、各々106番元素、108番元素に割り当てられていた。次に、104番元素と105番元素は、等しく優先権を持つとされたにも関わらず、ロシア側の提案した名前が採用されていた。3点目として最も重要なことに、IUPACは、106番元素はバークレーが単独の発見者として認定されていたにも関わらず、元素に存命人物の人物を付けられないという新しく承認されたルールのために、106番元素へのシーボーギウムという命名の提案が却下されていた。1997年、IUPACは104番元素から109番元素を改名し、104番元素に現在のラザホージウムという名前を割り当て、同時にドブニウムという名前は105番元素に与えた。
ラザホージウムは安定同位体を持たず、天然に生成する同位体はない。いくつかの放射性同位体が、2つの原子の融合またはより重い元素の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量253から270(ただし264及び269を除く)の16の異なる同位体が報告されており、それらの大部分はほぼ自発核融合により崩壊する。
半減期が既知の同位体の中では、より軽い同位体がより短い半減期を持ち、Rf及びRfの半減期は50マイクロ秒以下、Rf、Rf、Rfの半減期はより安定で約10マイクロ秒、Rf、Rf、Rf、Rfの半減期は1-5秒、Rf、Rf、Rfの半減期は、各々1.1分、1.5分、10分である。最も重い既知の同位体であるRfの半減期は約48分と測定されている。
最も軽い同位体は、2つの軽い原子核の直接融合及び崩壊生成物として合成される。直接融合で合成される最も重い同位体はRfであり、これより重い同位体はより重い元素の崩壊生成物としてのみ見られる。最も重い同位体Rf、Rfは、ドブニウムの同位体Db、Dbの電子捕獲娘核としても報告されているが、短い半減期で自発核分裂する。Dbの娘核として存在する可能性のあるRfも同様の可能性がある。これら3つの同位体は未確認である。
1999年、カリフォルニア大学バークレー校の研究者が Ogの3つの原子核の合成に成功したと発表した。これらの親核は連続で7つのアルファ粒子を放出し、Rf原子核を形成したと報告されたが、2001年に撤回された。この同位体はFlの崩壊連鎖の最終生成物として、2010年に再発見された。
合成が非常に限られていることと高価であることにより、また非常に急速に崩壊することにより、ラザホージウム及びその化合物に関する非常にわずかの性質のみが測定されている。単原子の化学的性質がいくつか測定されているが、金属ラザホージウムの性質は未知のままで、予測値のみが入手可能である。
ラザホージウムは最初の超アクチノイド元素で、2番目の6d系列遷移金属である。イオン化エネルギー、原子半径、軌道エネルギー、イオン化状態の基底準位の計算はハフニウムと似ており、鉛とはかなり異なる。その結果、ラザホージウムの基本的な性質は、チタン、ジルコニウム、ハフニウムの第4族元素と似ていると結論付けられた 。その性質のいくつかは、気相及び水溶液の実験により決定されている。+4の酸化状態は後者2つの元素にとって唯一安定な状態であり、そのためラザホージウムも安定な+4の酸化状態を取る。さらに、ラザホージウムは、より不安定な+3の酸化状態も取ることができると推測される。Rf/Rf対の標準還元電位は、-1.7 Vよりも高いと予測される。
化学的性質についての当初の予測は、電子殻への相対論効果により7p軌道のエネルギー準位が6d軌道よりも低くなり、価電子の電子配置として6d 7s 7p、さらには7s 7pを与えるのに十分な大きさを持つことを示す計算結果に基づくもので、そのため、電子の挙動はハフニウムよりも鉛により近くなる。ラザホージウム化合物の化学的性質に関するより優れた計算法と実験により、このようなことは起こらず、その代わり残りの第4族元素と同様の挙動を示すことが示された。後に、高精度のab initio計算により、ラザホージウム原子は、基底状態では6d 7sの価電子配置、励起エネルギーがわずか0.3-0.5 eVの低励起状態では6d 7s 7pの価電子配置を取ることが示された。
ジルコニウムやハフニウムのアナログとして、ラザホージウムは非常に安定で難溶性の酸化物RfO2を形成することが予測された。またハロゲンと反応して四ハロゲン化物RfX4を形成し、水と接触すると加水分解して酸ハロゲン化物となる。RfOX2を形成する。四ハロゲン化物は揮発性固体で、気相では単量体の四面体分子となる。
水溶液中では、Rfイオンはチタン(IV)ほど加水分解されず、その程度はジルコニウム及びハフニウムと同程度で、その結果、RfOを形成する。ハロゲン化物をハロゲン化物イオンで処理すると、錯イオンの形成が促進される。塩化物及び臭化物イオンを用いるとハロゲン化錯体RfCl6及びRfBr6が形成される。フッ化物錯体では、ジルコニウム及びハフニウムは、ヘプタ及びオクタ錯体を形成する傾向がある。従って、これより大きいラザホージウムイオンでは、RfF6、RfF7、RfF8の3つが形成される可能性がある。
標準状態では固体で、より軽い同族体であるハフニウムと同様に、六方最密充填構造を取ると推測される(/a = 1.61)。密度は~17 g/cm、原子半径は~150 pmと推測される。7s軌道の相対論的安定性と6d軌道の不安定性により、より軽い同族元素とは異なり、Rf及びRfイオンは7s電子の代わりに6d電子を失うと予測される。高圧条件下(72または~50 GPa等と計算される)では、体心立方格子の結晶構造に遷移すると予測される。ハフニウムは71±1 GPaでこの構造遷移が起こるが、38±8 GPaで生じる中間体のω構造については、ラザホージウムは持たないと予測される。
ラザホージウムの化学的性質に関する初期の研究は、気相のサーモクロマトグラフィー及び相対析出温度吸着曲線の測定に焦点を当てていた。当初ドゥブナでは、彼ら自身の発見を再確認する研究が行われた。最近の研究は、ラザホージウムの放射性同位体親核の同定においてより信頼できる。これらの研究には、Rfが用いられるが、Lv、Fl及びCnの崩壊鎖から合成されるより長寿命の同位体Rfは、将来の実験により有望である可能性がある。実験は、ラザホージウムから新しい6dシリーズが始まり、分子の形が四面体構造であることにより揮発性の四塩化物を形成するという予測に依存している。塩化ラザホージウム(IV)は、結合がより強い共有結合性を持つため、より軽い同族元素の塩化ハフニウム(IV)よりも揮発性が高い。
一連の実験により、ラザホージウムは第4族元素の典型的な振る舞いをし、4価の塩化物(RfCl4)、臭化物(RfBr4)、酸塩化物(RfOCl2)を形成することが確認された。気体ではなく固体の塩化カリウムが存在すると、四塩化ラザホージウムの揮発性の低下が見られ、非揮発性のK2RfCl6との混合塩を形成している可能性が強く示された。
ラザホージウムは、[Rn]5f 6d 7sの電子配置を取ると予測され、そのため同じ第4族元素であるハフニウムの、より重い同族元素として振る舞う。そのため、強酸中ではRfイオンを形成しやすく、塩酸、臭化水素酸、フッ化水素酸の水溶液では錯体を形成しやすい。ラザホージウムの水溶液中での化学的性質に関して、最も決定的な研究は、日本原子力研究開発機構によって、Rfを用いて行われた。ラザホージウム、ハフニウム、ジルコニウムと擬第4族元素のトリウムを用いた塩酸水溶液からの抽出実験で、ラザホージウムの非アクチノイド元素的な振る舞いが示された。より軽い同族元素との比較で、ラザホージウムは第4族に置かれ、ハフニウムやジルコニウムと同様に、塩化物溶液中では、六塩化ラザホージウム錯体が形成されることが示された。
非常に似た結果は、フッ化水素酸水溶液でも見られる。抽出曲線の違いは、ハフニウムやジルコニウムイオンは、7つか8つのフッ化物イオンと錯体を形成するのに対し、ラザホージウムではフッ化物イオンに対する親和性が低く、ヘキサフルオロラザホージウム酸イオンが形成されたためと解釈された。
硫酸と硝酸の混合溶液中で行われた実験では、硫酸錯体形成の親和性がハフニウムと比べて弱いことが示された。この結果は、結合へのイオンの貢献が小さいラザホージウム錯体がジルコニウムやハフニウムのものより不安定になるという予測とも合致していた。これは、ラザホージウムのイオン半径(76 pm)がジルコニウム(71 pm)やハフニウム(72 pm)よりも大きいこと、また相対論的に7s軌道が安定化され、6d軌道が不安定化、スピン軌道分裂することが原因である。
2021年に行われた共沈実験では、比較対象としてジルコニウム、ハフニウム、トリウムを用い、アンモニアまたは水酸化ナトリウムを含む塩基性溶液中でのラザホージウムの挙動が研究され、ラザホージウムはアンモニアと強く配位せず、その代わり、水酸化物、恐らくRf(OH)4として共沈することが明らかとなった。
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"text": "ラザホージウム (Rutherfordium) は、元素記号Rf、原子番号104の化学元素であり、ニュージーランド出身のイギリスの物理学者であるアーネスト・ラザフォードの名前に因んで命名された。合成元素であり、天然には存在せず、研究室内でのみ作られる。放射性を持ち、既知の最も安定な同位体であるRfの半減期は約48分である。",
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},
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"paragraph_id": 1,
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"text": "周期表上では、dブロック元素の遷移金属であり、第7周期元素、第4族元素に分類される。化学実験により、第4族のハフニウムのより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的性質は、部分的に明らかとなっており、相対論効果のためかなり異なる部分もあるものの、他の第4族元素とよく似た性質となっている。",
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"paragraph_id": 2,
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"text": "1960年代、ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所とアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所により、少数のラザホージウムが合成された。1997年に国際純正・応用化学連合(IUPAC)が公式な名称をラザホージウムと決定するまで、両国の間で発見の優先権と元素の命名権が争われた。",
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},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "重い原子核は、2つの異なる原子核の核融合反応により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、クーロンの法則により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、強い相互作用がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、加速器で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)。核融合が起こる場合、複合核と呼ばれる一時的な融合状態が励起状態となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る。この事象は、最初の衝突の約10秒後に起こる",
"title": "導入"
},
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"text": "粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され、表面障壁型半導体検出器に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される。移送には約10秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される。",
"title": "導入"
},
{
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"text": "原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかし、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子(陽子と中性子)の影響が弱くなるため、その距離は非常に短くなる。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これには範囲の制約はない。そのため、重元素の原子核は理論的には予測されており、これまでは主にこのような反発によるアルファ崩壊や自発核分裂として観測されてきた。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成すると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない。",
"title": "導入"
},
{
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"text": "重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる。",
"title": "導入"
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"text": "1964年に当時ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所で初めての検出が報告された。そこでは、プルトニウム242を標的に、ネオン22イオンを照射し、反応生成物を四塩化ジルコニウムとの反応で塩化物に変換した後、勾配サーモクロマトグラフィーで分離された。チームは、エカハフニウムの性質を持つ揮発性塩化物の特徴を持つ自発核分裂を同定した。半減期は正確に測定されなかったが、後の計算でこの化合物はラザホージウム259である可能性が最も高いことが示された。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1969年、カリフォルニア大学バークレー校の研究者が、カリホルニウム249を標的に炭素12イオンを照射し、ノーベリウム253が娘核となるRfのアルファ崩壊を観測した。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "この合成は、1973年に独立して確認され、Rfの崩壊生成物であるNoの特性X線であるKα線の観測により、親核のラザホージウムの同定が確実となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "発見に関する主張が競合した結果として、元素の命名に関する論争が起こった。ソビエト連邦は新元素を最初に検出したと主張し、ソビエト連邦の核研究を率いたイーゴリ・クルチャトフを記念してクルチャトビウム(Ku)という名前を提案した。この名前は、東側諸国では、この元素の公式名として書籍等でも用いられた。しかし、アメリカ側は「核物理学の父」として知られるアーネスト・ラザフォードの名前に因んでラザホージウム(Rf)という名前を提案した。1992年、IUPAC/IUPAPトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、発見の主張を評価し、104番元素の合成に関する証拠を両チームが同時に提出しており、発見の栄誉は2つのグループの間で共有されるべきだと結論付けた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "アメリカのグループは、TWGの調査結果を酷評する返信を書き、彼らがドゥブナの成果を強調しすぎであると述べ、特に、ロシアのグループは、この20年の間に主張の詳細を変遷させていると指摘し、ロシアのチームはこれを否定しなかった。また、TWGがロシアによる化学実験を過信しすぎていることを強調し、TWG内に適切な資格のある人員がいないと非難した。TWGは、これは事実ではなく、アメリカのグループが提起した各論点を再評価したが発見の優先権に関して結論を変更する理由が見つからなかったと答えた。IUPACは、最終的に、アメリカのチームが提案したラザホージウムという名前を採用した。",
"title": "歴史"
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"text": "IUPACは一時的に、ラテン語で「1」「0」「4」を意味する言葉に由来するウンニルクアジウム(Unq)という系統名を仮名として採用していた。1994年、IUPACは104番元素から109番元素の一連の名前を提案し、その中で、104番元素の元素名はドブニウム(Db)とされ、ラザホージウムは106番元素の名前に割り当てられた。この勧告は、いくつかの理由からアメリカ側の科学者から批判された。なぜならまず、彼らの提案はごちゃ混ぜにされ、元々アメリカ側から104番元素、105番元素用に提案されていた、ラザホージウム、ハーニウムという名前は、各々106番元素、108番元素に割り当てられていた。次に、104番元素と105番元素は、等しく優先権を持つとされたにも関わらず、ロシア側の提案した名前が採用されていた。3点目として最も重要なことに、IUPACは、106番元素はバークレーが単独の発見者として認定されていたにも関わらず、元素に存命人物の人物を付けられないという新しく承認されたルールのために、106番元素へのシーボーギウムという命名の提案が却下されていた。1997年、IUPACは104番元素から109番元素を改名し、104番元素に現在のラザホージウムという名前を割り当て、同時にドブニウムという名前は105番元素に与えた。",
"title": "歴史"
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"text": "ラザホージウムは安定同位体を持たず、天然に生成する同位体はない。いくつかの放射性同位体が、2つの原子の融合またはより重い元素の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量253から270(ただし264及び269を除く)の16の異なる同位体が報告されており、それらの大部分はほぼ自発核融合により崩壊する。",
"title": "同位体"
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"text": "半減期が既知の同位体の中では、より軽い同位体がより短い半減期を持ち、Rf及びRfの半減期は50マイクロ秒以下、Rf、Rf、Rfの半減期はより安定で約10マイクロ秒、Rf、Rf、Rf、Rfの半減期は1-5秒、Rf、Rf、Rfの半減期は、各々1.1分、1.5分、10分である。最も重い既知の同位体であるRfの半減期は約48分と測定されている。",
"title": "同位体"
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"text": "最も軽い同位体は、2つの軽い原子核の直接融合及び崩壊生成物として合成される。直接融合で合成される最も重い同位体はRfであり、これより重い同位体はより重い元素の崩壊生成物としてのみ見られる。最も重い同位体Rf、Rfは、ドブニウムの同位体Db、Dbの電子捕獲娘核としても報告されているが、短い半減期で自発核分裂する。Dbの娘核として存在する可能性のあるRfも同様の可能性がある。これら3つの同位体は未確認である。",
"title": "同位体"
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"text": "1999年、カリフォルニア大学バークレー校の研究者が Ogの3つの原子核の合成に成功したと発表した。これらの親核は連続で7つのアルファ粒子を放出し、Rf原子核を形成したと報告されたが、2001年に撤回された。この同位体はFlの崩壊連鎖の最終生成物として、2010年に再発見された。",
"title": "同位体"
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"text": "合成が非常に限られていることと高価であることにより、また非常に急速に崩壊することにより、ラザホージウム及びその化合物に関する非常にわずかの性質のみが測定されている。単原子の化学的性質がいくつか測定されているが、金属ラザホージウムの性質は未知のままで、予測値のみが入手可能である。",
"title": "予測される性質"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "ラザホージウムは最初の超アクチノイド元素で、2番目の6d系列遷移金属である。イオン化エネルギー、原子半径、軌道エネルギー、イオン化状態の基底準位の計算はハフニウムと似ており、鉛とはかなり異なる。その結果、ラザホージウムの基本的な性質は、チタン、ジルコニウム、ハフニウムの第4族元素と似ていると結論付けられた 。その性質のいくつかは、気相及び水溶液の実験により決定されている。+4の酸化状態は後者2つの元素にとって唯一安定な状態であり、そのためラザホージウムも安定な+4の酸化状態を取る。さらに、ラザホージウムは、より不安定な+3の酸化状態も取ることができると推測される。Rf/Rf対の標準還元電位は、-1.7 Vよりも高いと予測される。",
"title": "予測される性質"
},
{
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"text": "化学的性質についての当初の予測は、電子殻への相対論効果により7p軌道のエネルギー準位が6d軌道よりも低くなり、価電子の電子配置として6d 7s 7p、さらには7s 7pを与えるのに十分な大きさを持つことを示す計算結果に基づくもので、そのため、電子の挙動はハフニウムよりも鉛により近くなる。ラザホージウム化合物の化学的性質に関するより優れた計算法と実験により、このようなことは起こらず、その代わり残りの第4族元素と同様の挙動を示すことが示された。後に、高精度のab initio計算により、ラザホージウム原子は、基底状態では6d 7sの価電子配置、励起エネルギーがわずか0.3-0.5 eVの低励起状態では6d 7s 7pの価電子配置を取ることが示された。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ジルコニウムやハフニウムのアナログとして、ラザホージウムは非常に安定で難溶性の酸化物RfO2を形成することが予測された。またハロゲンと反応して四ハロゲン化物RfX4を形成し、水と接触すると加水分解して酸ハロゲン化物となる。RfOX2を形成する。四ハロゲン化物は揮発性固体で、気相では単量体の四面体分子となる。",
"title": "予測される性質"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "水溶液中では、Rfイオンはチタン(IV)ほど加水分解されず、その程度はジルコニウム及びハフニウムと同程度で、その結果、RfOを形成する。ハロゲン化物をハロゲン化物イオンで処理すると、錯イオンの形成が促進される。塩化物及び臭化物イオンを用いるとハロゲン化錯体RfCl6及びRfBr6が形成される。フッ化物錯体では、ジルコニウム及びハフニウムは、ヘプタ及びオクタ錯体を形成する傾向がある。従って、これより大きいラザホージウムイオンでは、RfF6、RfF7、RfF8の3つが形成される可能性がある。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "標準状態では固体で、より軽い同族体であるハフニウムと同様に、六方最密充填構造を取ると推測される(/a = 1.61)。密度は~17 g/cm、原子半径は~150 pmと推測される。7s軌道の相対論的安定性と6d軌道の不安定性により、より軽い同族元素とは異なり、Rf及びRfイオンは7s電子の代わりに6d電子を失うと予測される。高圧条件下(72または~50 GPa等と計算される)では、体心立方格子の結晶構造に遷移すると予測される。ハフニウムは71±1 GPaでこの構造遷移が起こるが、38±8 GPaで生じる中間体のω構造については、ラザホージウムは持たないと予測される。",
"title": "予測される性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ラザホージウムの化学的性質に関する初期の研究は、気相のサーモクロマトグラフィー及び相対析出温度吸着曲線の測定に焦点を当てていた。当初ドゥブナでは、彼ら自身の発見を再確認する研究が行われた。最近の研究は、ラザホージウムの放射性同位体親核の同定においてより信頼できる。これらの研究には、Rfが用いられるが、Lv、Fl及びCnの崩壊鎖から合成されるより長寿命の同位体Rfは、将来の実験により有望である可能性がある。実験は、ラザホージウムから新しい6dシリーズが始まり、分子の形が四面体構造であることにより揮発性の四塩化物を形成するという予測に依存している。塩化ラザホージウム(IV)は、結合がより強い共有結合性を持つため、より軽い同族元素の塩化ハフニウム(IV)よりも揮発性が高い。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "一連の実験により、ラザホージウムは第4族元素の典型的な振る舞いをし、4価の塩化物(RfCl4)、臭化物(RfBr4)、酸塩化物(RfOCl2)を形成することが確認された。気体ではなく固体の塩化カリウムが存在すると、四塩化ラザホージウムの揮発性の低下が見られ、非揮発性のK2RfCl6との混合塩を形成している可能性が強く示された。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ラザホージウムは、[Rn]5f 6d 7sの電子配置を取ると予測され、そのため同じ第4族元素であるハフニウムの、より重い同族元素として振る舞う。そのため、強酸中ではRfイオンを形成しやすく、塩酸、臭化水素酸、フッ化水素酸の水溶液では錯体を形成しやすい。ラザホージウムの水溶液中での化学的性質に関して、最も決定的な研究は、日本原子力研究開発機構によって、Rfを用いて行われた。ラザホージウム、ハフニウム、ジルコニウムと擬第4族元素のトリウムを用いた塩酸水溶液からの抽出実験で、ラザホージウムの非アクチノイド元素的な振る舞いが示された。より軽い同族元素との比較で、ラザホージウムは第4族に置かれ、ハフニウムやジルコニウムと同様に、塩化物溶液中では、六塩化ラザホージウム錯体が形成されることが示された。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "非常に似た結果は、フッ化水素酸水溶液でも見られる。抽出曲線の違いは、ハフニウムやジルコニウムイオンは、7つか8つのフッ化物イオンと錯体を形成するのに対し、ラザホージウムではフッ化物イオンに対する親和性が低く、ヘキサフルオロラザホージウム酸イオンが形成されたためと解釈された。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "硫酸と硝酸の混合溶液中で行われた実験では、硫酸錯体形成の親和性がハフニウムと比べて弱いことが示された。この結果は、結合へのイオンの貢献が小さいラザホージウム錯体がジルコニウムやハフニウムのものより不安定になるという予測とも合致していた。これは、ラザホージウムのイオン半径(76 pm)がジルコニウム(71 pm)やハフニウム(72 pm)よりも大きいこと、また相対論的に7s軌道が安定化され、6d軌道が不安定化、スピン軌道分裂することが原因である。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2021年に行われた共沈実験では、比較対象としてジルコニウム、ハフニウム、トリウムを用い、アンモニアまたは水酸化ナトリウムを含む塩基性溶液中でのラザホージウムの挙動が研究され、ラザホージウムはアンモニアと強く配位せず、その代わり、水酸化物、恐らくRf(OH)4として共沈することが明らかとなった。",
"title": "ラザホージウムに関する実験"
}
] |
ラザホージウム (Rutherfordium) は、元素記号Rf、原子番号104の化学元素であり、ニュージーランド出身のイギリスの物理学者であるアーネスト・ラザフォードの名前に因んで命名された。合成元素であり、天然には存在せず、研究室内でのみ作られる。放射性を持ち、既知の最も安定な同位体である267Rfの半減期は約48分である。 周期表上では、dブロック元素の遷移金属であり、第7周期元素、第4族元素に分類される。化学実験により、第4族のハフニウムのより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的性質は、部分的に明らかとなっており、相対論効果のためかなり異なる部分もあるものの、他の第4族元素とよく似た性質となっている。 1960年代、ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所とアメリカ合衆国のローレンス・バークレー国立研究所により、少数のラザホージウムが合成された。1997年に国際純正・応用化学連合(IUPAC)が公式な名称をラザホージウムと決定するまで、両国の間で発見の優先権と元素の命名権が争われた。
|
{{要改訳|date=2023年1月}}
{{Elementbox
|name=rutherfordium
|japanese name=ラザホージウム
|number=104
|symbol=Rf
|left=[[ローレンシウム]]
|right=[[ドブニウム]]
|above=[[ハフニウム|Hf]]
|below=[[ウンペントクアジウム|Upq]]
|series=遷移金属
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|pronounce={{IPAc-en|ˌ|r|ʌ|ð|ər|ˈ|f|ɔr|d|i|əm}} {{respell|RUDH|ər|FOR|dee-əm}}
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|isotopes=<!--only those above 5 sec -->
{{Elementbox_isotopes_decay3 | mn=[[ラザホージウム261|261]] | sym=Rf
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E1 s|70 s]]<ref name=nuclidetable>{{citeweb|url=http://www.nndc.bnl.gov/chart/reCenter.jsp?z=104&n=158|title=Interactive Chart of Nuclides|publisher=Brookhaven National Laboratory|author=Sonzogni, Alejandro|location=National Nuclear Data Center|accessdate=2008-06-06}}</ref>
| dm1=[[アルファ崩壊|α]] (> 80%) | de1=8.28 | pn1=[[ノーベリウム257|257]] | ps1=[[ノーベリウム|No]]
| dm2=[[電子捕獲|ε]] (< 15%) | de2= | pn2=[[ローレンシウム261|261]] | ps2=[[ローレンシウム|Lw]]
| dm3=[[自発核分裂|SF]] (< 10%) | de3= | pn3= | ps3=}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ラザホージウム263|263]] | sym=Rf
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| dm1=[[自発核分裂|SF]] (< 100%) | de1= | pn1= | ps1=
| dm2=[[アルファ崩壊|α]] (~30%) | de2=7.90 ? | pn2=[[ノーベリウム259|259]] | ps2=[[ノーベリウム|No]]}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ラザホージウム265|265]] | sym=Rf
| na=[[人工放射性同位体|syn]] | hl=[[1 E2 s|2.5 min]]<ref name=10El>{{cite journal|last1=Ellison|first1=P.|last2=Gregorich|first2=K.|last3=Berryman|first3=J.|last4=Bleuel|first4=D.|last5=Clark|first5=R.|last6=Dragojević|first6=I.|last7=Dvorak|first7=J.|last8=Fallon|first8=P.|last9=Fineman-Sotomayor|first9=C.|title=New Superheavy Element Isotopes: {{sup|242}}Pu({{sup|48}}Ca,5n){{sup|285}}114|journal=Physical Review Letters|volume=105|year=2010|doi=10.1103/PhysRevLett.105.182701}}</ref>
| dm=[[自発核分裂|SF]] | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ラザホージウム266|266]] | sym=Rf
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| dm=[[自発核分裂|SF]]/[[アルファ崩壊|α]] ? | de= | pn= | ps=}}
{{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[ラザホージウム267|267]] | sym=Rf
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| dm1=[[自発核分裂|SF]] (< 100%) | de1= | pn1= | ps1=
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{{Elementbox_isotopes_decay | mn=[[ラザホージウム268|268]] | sym=Rf
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| dm=[[自発核分裂|SF]]/[[アルファ崩壊|α]] ? | de= | pn= | ps=}}
|isotopes comment=[[半減期]][[1 E0 s|5 s]]以上の[[同位体]]のみ記載
|covalent radius=157|phase=固体}}
'''ラザホージウム''' (Rutherfordium {{IPA-en|ˌrʌðərˈfɔrdiəm|lang}}) は、[[元素記号]]Rf、[[原子番号]]104の化学[[元素]]であり、[[ニュージーランド]]出身の[[イギリス]]の[[物理学者]]である[[アーネスト・ラザフォード]]の名前に因んで命名された。[[合成元素]]であり、天然には存在せず、研究室内でのみ作られる。[[放射性]]を持ち、既知の最も安定な[[同位体]]である<sup>267</sup>Rfの[[半減期]]は約48分である。
[[周期表]]上では、[[dブロック元素]]の[[遷移金属]]であり、[[第7周期元素]]、[[第4族元素]]に分類される。化学実験により、第4族の[[ハフニウム]]のより重い同族体として振る舞うことが確認されている。化学的性質は、部分的に明らかとなっており、[[相対論効果]]のためかなり異なる部分もあるものの、他の第4族元素とよく似た性質となっている。
1960年代、[[ソビエト連邦]]の[[ドゥブナ合同原子核研究所]]と[[アメリカ合衆国]]の[[ローレンス・バークレー国立研究所]]により、少数のラザホージウムが合成された。1997年に[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)が公式な名称をラザホージウムと決定するまで、両国の間で発見の優先権と元素の命名権が争われた。
==導入==
[[ファイル:Deuterium-tritium fusion.svg|upright=1.00|alt=A graphic depiction of a nuclear fusion reaction|thumb|left|核融合反応の図示。2つの原子核が1つに融合し、1つの中性子を放出する。]]
重い{{efn|核物理学では、原子番号の大きい元素は、「重い」元素と呼ばれる。原子番号82の鉛は、重い元素の一例である。「超重元素」という用語は、通常、原子番号103番以降の元素を指す(ただし、原子番号100<ref>{{Cite web|url=https://www.chemistryworld.com/news/explainer-superheavy-elements/1010345.article|title=Explainer: superheavy elements|last=Kramer|first=K.|date=2016|website=Chemistry World|accessdate=2020-03-15}}</ref>以降とするものや112以降<ref>{{Cite web|archive-url=https://web.archive.org/web/20150911081623/https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|url=https://pls.llnl.gov/research-and-development/nuclear-science/project-highlights/livermorium/elements-113-and-115|title=Discovery of Elements 113 and 115|publisher=Lawrence Livermore National Laboratory|archive-date=2015-09-11|accessdate=2020-03-15}}</ref>とするもの等、いくつかの定義がある。[[超アクチノイド元素]]と同義の言葉として使われることもある<ref>{{cite encyclopedia|last1=Eliav|first1=E.|title=Electronic Structure of the Transactinide Atoms|date=2018|encyclopedia=Encyclopedia of Inorganic and Bioinorganic Chemistry|pages=1-16|editor-last=Scott|editor-first=R. A.|publisher=John Wiley & Sons|doi=10.1002/9781119951438.eibc2632|isbn=978-1-119-95143-8|last2=Kaldor|first2=U.|last3=Borschevsky|first3=A.|s2cid=127060181 }}</ref>)。ある元素における「重い同位体」や「重い核」という言葉は、各々、質量の大きい同位体、質量の大きい核を指す。}}[[原子核]]は、2つの異なる原子核{{Efn|2009年、[[ユーリイ・オガネシアン]]率いるドゥブナ合同原子核研究所のチームは、対称の<sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe反応におるハッシウム合成の試みの結果について公表した。彼らはこの反応で単原子を観測できず、反応断面積の上限を2.5 pbとした<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Dmitriev|first2=S. N.|last3=Yeremin|first3=A. V.|last4=Aksenov|first4=N. V.|last5=Bozhikov|first5=G. A.|last6=Chepigin|first6=V. I.|last7=Chelnokov|first7=M. L.|last8=Lebedev|first8=V. Ya.|last9=Malyshev|first9=O. N.|last10=Petrushkin|first10=O. V.|last11=Shishkin|first11=S. V.|display-authors=3|date=2009|title=Attempt to produce the isotopes of element 108 in the fusion reaction <sup>136</sup>Xe + <sup>136</sup>Xe |journal=Physical Review C|volume=79|issue=2|pages=024608|doi=10.1103/PhysRevC.79.024608|issn=0556-2813}}</ref>。対称的に、ハッシウムの発見に繋がった反応である<sup>208</sup>Pb + <sup>58</sup>Feの反応断面積は、発見者らにより19<sup>+19</sup><sub>-11</sub>pbと推定された<ref name="84Mu01">{{cite journal|last1=Munzenberg|first1=G.|last2=Armbruster|first2=P.|last3=Folger|first3=H.|last4=Hesberger|first4=F. P.|last5=Hofmann|first5=S.|last6=Keller|first6=J.|last7=Poppensieker|first7=K.|last8=Reisdorf|first8=W.|last9=Schmidt|first9=K.-H.|display-authors=3|date=1984|title=The identification of element 108|url=http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|url-status=dead|journal=Zeitschrift fur Physik A|volume=317|issue=2|pages=235-236|bibcode=1984ZPhyA.317..235M|doi=10.1007/BF01421260|archive-url=https://web.archive.org/web/20150607124040/http://www.gsi-heavy-ion-researchcenter.org/forschung/kp/kp2/ship/108-discovery.pdf|archive-date=7 June 2015|accessdate=20 October 2012|first10=H.-J.|last10=Schott|first11=M. E.|last11=Leino|first12=R.|last12=Hingmann|s2cid=123288075 }}</ref>。}}の[[核融合反応]]により形成され、おおまかに、2つの原子核の質量の差が大きいほど、反応の可能性は高くなる<ref name="Bloomberg">{{Cite web |last=Subramanian |first=S. |date=2019 |title=Making New Elements Doesn't Pay. Just Ask This Berkeley Scientist |url=https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-url=https://archive.today/20201114183428/https://www.bloomberg.com/news/features/2019-08-28/making-new-elements-doesn-t-pay-just-ask-this-berkeley-scientist |archive-date=November 14, 2020 |url-status=live |accessdate=2020-01-18 |website=Bloomberg Businessweek}}</ref>。重い方の原子核を持つ物質を標的とし、軽い原子核の粒子線を照射することで、2つの原子核が十分に接近すると、1つの原子核への融合が起こりうる。通常、陽電荷を持つ2つの原子核は、[[クーロンの法則]]により互いに反発する。原子核同士が非常に近づくときのみ、[[強い相互作用]]がこの反発力に打ち克つ。そのため、粒子線となる原子核の速度を、この反発力が無視できる程度まで、[[加速器]]で加速する必要がある。ただし、2つの原子核が融合するためには、2つの原子核が単に近づくだけでは不十分である。2つの原子核が近づいただけでは、通常、1つの原子核に融合するのではなく、10<sup>-20</sup>秒間だけ一緒に留まった後、離れていく(この時、反応前と同じ構成とは限らない)<ref name="n+1">{{Cite web|url=https://nplus1.ru/material/2019/03/25/120-element|title=Сверхтяжелые шаги в неизвестное|last=Ivanov|first=D.|date=2019|website=N+1|language=ru|trans-title=Superheavy steps into the unknown|access-date=2020-02-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://theconversation.com/something-new-and-superheavy-at-the-periodic-table-26286|title=Something new and superheavy at the periodic table|last=Hinde|first=D.|date=2014|website=The Conversation|accessdate=2020-01-30}}</ref>。核融合が起こる場合、[[原子核反応#複合核モデルによる解釈|複合核]]と呼ばれる一時的な融合状態が[[励起状態]]となる。励起エネルギーを失い、より安定な状態に達すると、複合核は核分裂反応を起こすか、1つまたはいくつかの原子核の核破砕反応を起こして、エネルギーを持ち去る{{Efn|励起エネルギーが大きくなるほど、より多くの中性子が放出される。励起エネルギーが、各々の中性子を残りの核子に結び付けるエネルギーより低い場合、中性子は放出されない。その代わり、複合核は[[ガンマ線]]を放出して脱励起する<ref name=CzechNuclear/>。}}。この事象は、最初の衝突の約10<sup>-16</sup>秒後に起こる<ref name="CzechNuclear">{{cite web|url=http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20190303183952/http://pdfs.semanticscholar.org/ba08/30dcab221b45ca5bcc3cfa8ae82558d624e7.pdf|url-status=dead|archive-date=2019-03-03|title=Neutron Sources for ADS|last=Krasa|first=A.|date=2010|publisher=Czech Technical University in Prague|pages=4-8|s2cid=28796927 |accessdate=October 20, 2019}}</ref>{{efn|共同作業部会による定義では、その核が10<sup>-14</sup>秒にわたり崩壊しない場合にのみ、発見として認定される。この値は、原子核が外側の電子を獲得して化学的性質を示すのにかかる時間の推定値として選択された<ref>{{Cite journal|last=Wapstra|first=A. H.|date=1991|title=Criteria that must be satisfied for the discovery of a new chemical element to be recognized|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1991/pdf/6306x0879.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=63|issue=6|page=883|doi=10.1351/pac199163060879|s2cid=95737691 |issn=1365-3075|accessdate=2020-08-28}}</ref>。また、一般的に考えられる複合核の寿命の上限値を示すものでもある<ref name=BerkeleyNoSF/>。}}
粒子線が標的を通り過ぎると、次のチェンバーであるセパレーターに移送される。新しい原子核ができていると、この粒子線により運ばれる<ref name="SHEhowvideo">{{Cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/how-to-make-superheavy-elements-and-finish-the-periodic-table-video/|title=How to Make Superheavy Elements and Finish the Periodic Table [Video]|author=Chemistry World|date=2016|website=Scientific American|accessdate=2020-01-27}}</ref>。セパレーターでは、生成した原子核は他の原子核(粒子線の原子核やその他の反応生成物)から分離され{{Efn|この分離は、生成した原子核が未反応の粒子線の原子核よりも、標的の上をよりゆっくり通り過ぎることに基づく。セパレーター内には、特定の粒子速度で移動する粒子への影響が相殺される電磁場がある{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=334}}。このような分離は、[[飛行時間型質量分析計]]や反跳エネルギー測定でも用いられ、この2つを組み合わせて、原子核の質量を推定することが可能となる{{sfn|Hoffman|Ghiorso|Seaborg|2000|p=335}}。}}、表面障壁型[[半導体検出器]]に運ばれる。粒子はそこで停止し、検出器上での正確な衝突位置とそのエネルギー、到達時間が記録される<ref name="SHEhowvideo" />。移送には約10<sup>-6</sup>秒を必要とし、検出までに原子核はこの長時間を生き残る必要がある{{sfn|Zagrebaev|Karpov|Greiner|2013|page=3}}。崩壊が起こると、原子核の位置、エネルギー、崩壊時間が再度記録される<ref name="SHEhowvideo" />。
原子核の安定性は、強い相互作用によってもたらされる。しかし、原子核が大きくなるほど、最外殻の核子([[陽子]]と[[中性子]])の影響が弱くなるため、その距離は非常に短くなる。同時に、陽子間の静電反発により原子核は引き裂かれ、これには範囲の制約はない{{sfn|Beiser|2003|p=432}}。そのため、重元素の原子核は理論的には予測されており<ref>{{Cite journal|last1=Staszczak|first1=A.|last2=Baran|first2=A.|last3=Nazarewicz|first3=W.|date=2013|title=Spontaneous fission modes and lifetimes of superheavy elements in the nuclear density functional theory|journal=Physical Review C|volume=87|issue=2|pages=024320-1|doi=10.1103/physrevc.87.024320|arxiv=1208.1215|bibcode=2013PhRvC..87b4320S|s2cid=118134429 |issn=0556-2813}}</ref>、これまでは主にこのような反発による[[アルファ崩壊]]や[[自発核分裂]]{{efn|全ての崩壊モードが静電反発を原因とするのではなく、例えば、[[ベータ崩壊]]の原因は[[弱い相互作用]]である{{sfn|Beiser|2003|p=439}}。}}として観測されてきた{{sfn|Audi|Kondev|Wang|Huang|2017|pp=030001-128-030001-138}}。このような崩壊モードは、超重元素の原子核には支配的なものである。アルファ崩壊は、放出されたアルファ粒子により記録され、崩壊生成物は実際の崩壊前に容易に決定できる。一度の崩壊や連続した崩壊により既知の原子核が生成すると、計算により反応の出発点となる原子核が決定できる{{efn|原子核の質量は直接測定されず、ほかの原子核の値から計算され、このような方法を間接的と呼ぶ。直接測定も可能であるが、ほとんどの場合にはできない<ref>{{Cite journal|last1=Oganessian|first1=Yu. Ts.|last2=Rykaczewski|first2=K. P.|date=2015|title=A beachhead on the island of stability|journal=Physics Today|volume=68|issue=8|pages=32-38|doi=10.1063/PT.3.2880|bibcode=2015PhT....68h..32O|osti=1337838|s2cid=119531411 |issn=0031-9228|url=https://www.osti.gov/biblio/1337838}}</ref>。超重元素の質量の直接測定は、2018年に[[ローレンス・バークレー国立研究所]]により初めて報告された<ref>{{Cite journal|last=Grant |first=A.|date=2018|title=Weighing the heaviest elements|journal=Physics Today|doi=10.1063/PT.6.1.20181113a|s2cid=239775403 }}</ref>。}}。しかし、自発核分裂では生成物として様々な原子核が生じ、そのため、娘核からは、出発点となる原子核が決定できない{{efn|自発核分裂は、ドゥブナ合同原子核研究所を率いていた[[ゲオルギー・フリョロフ]]により発見され<ref name=Distillations>{{Cite journal|last=Robinson|first=A. E.|url=https://www.sciencehistory.org/distillations/the-transfermium-wars-scientific-brawling-and-name-calling-during-the-cold-war|title=The Transfermium Wars: Scientific Brawling and Name-Calling during the Cold War|date=2019|journal=Distillations|accessdate=2020-02-22}}</ref>、この研究所の得意分野となった<ref name="coldfusion77">{{Cite web|url=http://n-t.ru/ri/ps/pb106.htm|title=Популярная библиотека химических элементов. Сиборгий (экавольфрам)|trans-title=Popular library of chemical elements. Seaborgium (eka-tungsten)|language=ru|website=n-t.ru|accessdate=2020-01-07}} Reprinted from {{cite book|author=<!--none-->|date=1977|title=Популярная библиотека химических элементов. Серебро - Нильсборий и далее|chapter=Экавольфрам|trans-title=Popular library of chemical elements. Silver through nielsbohrium and beyond|trans-chapter=Eka-tungsten|language=ru|publisher=Nauka}}</ref>。対称的に、ローレンス・バークレー国立研究所の科学者は、自発核分裂から得られる情報は新元素の合成を裏付けるのに不十分であると信じていた。これは、複合核が中性子だけを放出し、陽子やアルファ粒子のような荷電粒子を放出しないことを立証するのは困難なためである<ref name=BerkeleyNoSF>{{Cite journal|last1=Hyde|first1=E. K.|last2=Hoffman|first2=D. C.|last3=Keller|first3=O. L.|date=1987|title=A History and Analysis of the Discovery of Elements 104 and 105|journal=Radiochimica Acta|volume=42|issue=2|doi=10.1524/ract.1987.42.2.57|issn=2193-3405|pages=67-68|s2cid=99193729 |url=http://www.escholarship.org/uc/item/05x8w9h7}}</ref>。そのため彼らは、連続的なアルファ崩壊により、新しい同位体を既知の同位体と結び付ける方法を好んだ<ref name=Distillations/>。}}。
重い元素を合成しようとする物理学者が得られる情報は、このように検出器により収集される、粒子が検出器に衝突した距離、エネルギー、時間と、崩壊の際の同様の情報となる。物理学者はこのデータを分析し、これが新元素によって引き起こされたものであり、他の核種により引き起こされたものではないと結論付けようとする。しばしば、得られたデータは、新元素の生成を確定するには不十分なものであったり、解釈の誤りの元となりうる{{Efn|例えば、1957年にスウェーデンの[[ノーベル物理学研究所]]は、102番元素を誤同定した<ref name=RSC>{{Cite web|url=https://www.rsc.org/periodic-table/element/102/nobelium|title=Nobelium - Element information, properties and uses {{!}} Periodic Table|publisher=Royal Society of Chemistry|accessdate=2020-03-01}}</ref>。これ以前にこの元素の合成に関する決定的な主張はなく、発見者により、[[ノーベリウム]]と命名されたが、後に、この同定は誤りであったことが分かった{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。翌年、ローレンス・バークレー国立研究所は、ノーベル物理学研究所による結果は再現性がなく、代わりに彼ら自身がこの元素を合成したと発表したが、この主張も後に誤りであったことが判明した{{sfn|Kragh|2018|pp=38-39}}。ドゥブナ合同原子核研究所は、彼らこそがこの元素を最初に合成したと主張し、ジョリオチウムと命名したが{{sfn|Kragh|2018|p=40}}、この名前も認定されなかった(ドゥブナ合同原子核研究所は、のちに、102番元素の命名は「性急」であったと述べた)<ref name="1993 responses">{{Cite journal|year=1993|title=Responses on the report 'Discovery of the Transfermium elements' followed by reply to the responses by Transfermium Working Group|url=https://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|url-status=live|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=65|issue=8|pages=1815-1824|doi=10.1351/pac199365081815|archive-url=https://web.archive.org/web/20131125223512/http://www.iupac.org/publications/pac/1993/pdf/6508x1815.pdf|archive-date=25 November 2013|accessdate=7 September 2016|last1=Ghiorso|first1=A.|last2=Seaborg|first2=G. T.|last3=Oganessian|first3=Yu. Ts.|last4=Zvara|first4=I|last5=Armbruster|first5=P|last6=Hessberger|first6=F. P|last7=Hofmann|first7=S|last8=Leino|first8=M|last9=Munzenberg|first9=G|last10=Reisdorf|first10=W|last11=Schmidt|first11=K.-H|s2cid=95069384 |display-authors=3}}</ref>。「ノーベリウム」という名前は、広く使われていたため、変更されなかった<ref name=IUPAC97>{{Cite journal|doi=10.1351/pac199769122471|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997)|date=1997|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=69|pages=2471-2474|issue=12|author=Commission on Nomenclature of Inorganic Chemistry|url=http://publications.iupac.org/pac/pdf/1997/pdf/6912x2471.pdf}}</ref>。}}。
==歴史==
===発見===
1964年に当時ソビエト連邦のドゥブナ合同原子核研究所で初めての検出が報告された。そこでは、[[プルトニウム242]]を標的に、[[ネオン]]22イオンを照射し、反応生成物を四塩化[[ジルコニウム]]との反応で[[塩化物]]に変換した後、勾配サーモ[[クロマトグラフィー]]で分離された。チームは、エカハフニウムの性質を持つ揮発性塩化物の特徴を持つ[[自発核分裂]]を同定した。半減期は正確に測定されなかったが、後の計算でこの化合物はラザホージウム259である可能性が最も高いことが示された<ref name="93TWG">{{cite journal |title =Discovery of the transfermium elements. Part II: Introduction to discovery profiles. Part III: Discovery profiles of the transfermium elements |date = 1993 |author= Barber, R. C. |author2=Greenwood, N. N. |author3=Hrynkiewicz, A. Z. |author4=Jeannin, Y. P. |author5=Lefort, M. |author6=Sakai, M. |author7=Ulehla, I. |author8=Wapstra, A. P. |author9= Wilkinson, D. H. |journal = Pure and Applied Chemistry| volume = 65 |issue = 8 |pages = 1757-1814 |doi = 10.1351/pac199365081757|s2cid = 195819585 }}</ref>。
:{{nuclide|plutonium|242}} + {{nuclide|neon|22}} → {{nuclide|rutherfordium|264-''x''}} → {{nuclide|rutherfordium|264-''x''}}Cl<sub>4</sub>
1969年、[[カリフォルニア大学バークレー校]]の研究者が、[[カリホルニウム249]]を標的に[[炭素12]]イオンを照射し、[[ノーベリウム]]253が娘核となる<sup>257</sup>Rfの[[アルファ崩壊]]を観測した<ref name="69Gh01">{{cite journal |doi = 10.1103/PhysRevLett.22.1317 |title = Positive Identification of Two Alpha-Particle-Emitting Isotopes of Element 104 |date = 1969 |last1 = Ghiorso |first1 = A. |last2 = Nurmia |first2=M. |journal = Physical Review Letters |volume = 22 |issue = 24 |pages = 1317-1320 |bibcode=1969PhRvL..22.1317G|last3 = Harris |first3 = J. |last4 = Eskola |first4 = K. |last5 = Eskola |first5 = P. |url = https://cloudfront.escholarship.org/dist/prd/content/qt3fm666nq/qt3fm666nq.pdf }}</ref>。
:{{nuclide|californium|249}} + {{nuclide|carbon|12}} → {{nuclide|rutherfordium|257}} + 4 n
この合成は、1973年に独立して確認され、<sup>257</sup>Rfの[[崩壊生成物]]である<sup>253</sup>Noの[[特性X線]]であるKα線の観測により、親核のラザホージウムの同定が確実となった<ref name="73Be01">{{cite journal |doi =10.1103/PhysRevLett.31.647 |title =X-Ray Identification of Element 104 |date =1973 |author =Bemis, C. E. |journal =Physical Review Letters |volume =31 |issue =10 |pages =647-650 |bibcode=1973PhRvL..31..647B |last2 =Silva |first2 =R. |last3 =Hensley |first3 =D. |last4 =Keller |first4 =O. |last5 =Tarrant |first5 =J. |last6 =Hunt |first6 =L. |last7 =Dittner |first7 =P. |last8 =Hahn |first8 =R. |last9 =Goodman |first9 =C. }}</ref>。
===命名を巡る論争===
[[ファイル:Ernest Rutherford2.jpg|thumb|left|upright|104番元素は、最終的にアーネスト・ラザフォードの名前に因んで命名された。]]
発見に関する主張が競合した結果として、元素の命名に関する論争が起こった。ソビエト連邦は新元素を最初に検出したと主張し、ソビエト連邦の核研究を率いた[[イーゴリ・クルチャトフ]]を記念してクルチャトビウム(Ku)という名前を提案した。この名前は、[[東側諸国]]では、この元素の公式名として書籍等でも用いられた。しかし、アメリカ側は「核物理学の父」として知られるアーネスト・ラザフォードの名前に因んでラザホージウム(Rf)という名前を提案した<ref>{{cite web |url=http://www.rsc.org/chemistryworld/podcast/Interactive_Periodic_Table_Transcripts/Rutherfordium.asp |title=Rutherfordium |publisher=Rsc.org |access-date=2010-09-04}}</ref>。1992年、IUPAC/IUPAPトランスフェルミウム作業部会(TWG)は、発見の主張を評価し、104番元素の合成に関する証拠を両チームが同時に提出しており、発見の栄誉は2つのグループの間で共有されるべきだと結論付けた<ref name="93TWG" />。
アメリカのグループは、TWGの調査結果を酷評する返信を書き、彼らがドゥブナの成果を強調しすぎであると述べ、特に、ロシアのグループは、この20年の間に主張の詳細を変遷させていると指摘し、ロシアのチームはこれを否定しなかった。また、TWGがロシアによる化学実験を過信しすぎていることを強調し、TWG内に適切な資格のある人員がいないと非難した。TWGは、これは事実ではなく、アメリカのグループが提起した各論点を再評価したが発見の優先権に関して結論を変更する理由が見つからなかったと答えた<ref>{{cite journal |doi =10.1351/pac199365081815|title =Responses on 'Discovery of the transfermium elements' by Lawrence Berkeley Laboratory, California; Joint Institute for Nuclear Research, Dubna; and Gesellschaft fur Schwerionenforschung, Darmstadt followed by reply to responses by the Transfermium Working Group |year =1993|last1= Ghiorso|first1=A. |last2=Seaborg |first2=G. T.|last3=Organessian |first3=Yu. Ts.|last4=Zvara |first4=I.|last5=Armbruster |first5=P.|last6=Hessberger |first6=F. P.|last7=Hofmann |first7=S.|last8=Leino |first8=M.|last9=Munzenberg |first9=G.|last10=Reisdorf |first10=W.|last11=Schmidt |first11=K.-H.|journal =Pure and Applied Chemistry|volume =65|issue = 8|pages =1815-1824|doi-access=free}}</ref>。IUPACは、最終的に、アメリカのチームが提案したラザホージウムという名前を採用した<ref name="97IUPAC">{{cite journal |doi =10.1351/pac199769122471 |title =Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1997) |date =1997 |journal =Pure and Applied Chemistry |volume =69 |issue = 12 |pages =2471-2474}}</ref>。
IUPACは一時的に、ラテン語で「1」「0」「4」を意味する言葉に由来するウンニルクアジウム(Unq)という系統名を仮名として採用していた。1994年、IUPACは104番元素から109番元素の一連の名前を提案し、その中で、104番元素の元素名は[[ドブニウム]](Db)とされ、ラザホージウムは106番元素の名前に割り当てられた<ref name="1994 IUPAC">{{Cite journal|year=1994|title=Names and symbols of transfermium elements (IUPAC Recommendations 1994)|url=https://www.iupac.org/publications/pac-2007/1994/pdf/6612x2419.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=66|issue=12|pages=2419-2421|doi=10.1351/pac199466122419|access-date=September 7, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170922194905/https://www.iupac.org/publications/pac-2007/1994/pdf/6612x2419.pdf|archive-date=September 22, 2017}}</ref>。この勧告は、いくつかの理由からアメリカ側の科学者から批判された。なぜならまず、彼らの提案はごちゃ混ぜにされ、元々アメリカ側から104番元素、105番元素用に提案されていた、ラザホージウム、[[ドブニウム#命名を巡る論争|ハーニウム]]という名前は、各々106番元素、108番元素に割り当てられていた。次に、104番元素と105番元素は、等しく優先権を持つとされたにも関わらず、ロシア側の提案した名前が採用されていた。3点目として最も重要なことに、IUPACは、106番元素はバークレーが単独の発見者として認定されていたにも関わらず、元素に存命人物の人物を付けられないという新しく承認されたルールのために、106番元素への[[シーボーギウム]]という命名の提案が却下されていた<ref>{{Cite web|url=http://www2.lbl.gov/Science-Articles/Archive/seaborgium-dispute.html|title=Naming of element 106 disputed by international committee|last=Yarris|first=L.|year=1994|accessdate=September 7, 2016}}</ref>。1997年、IUPACは104番元素から109番元素を改名し、104番元素に現在のラザホージウムという名前を割り当て、同時にドブニウムという名前は105番元素に与えた<ref name="97IUPAC" />。
==同位体==
{{main|ラザホージウムの同位体}}
ラザホージウムは[[安定同位体]]を持たず、天然に生成する同位体はない。いくつかの[[放射性同位体]]が、2つの原子の融合またはより重い元素の崩壊により、研究室内で合成されている。原子量253から270(ただし264及び269を除く)の16の異なる同位体が報告されており、それらの大部分はほぼ自発核融合により崩壊する<ref name="nuclidetable" /><ref name="isotopes">{{cite web | title=Six New Isotopes of the Superheavy Elements Discovered | website=Berkeley Lab News Center | date=26 October 2010 | url=https://newscenter.lbl.gov/2010/10/26/six-new-isotopes/ | accessdate=5 April 2019}}</ref>。
===安定性と半減期===
半減期が既知の同位体の中では、より軽い同位体がより短い半減期を持ち、<sup>253</sup>Rf及び<sup>254</sup>Rfの半減期は50マイクロ秒以下、<sup>256</sup>Rf、<sup>258</sup>Rf、<sup>260</sup>Rfの半減期はより安定で約10マイクロ秒、<sup>255</sup>Rf、<sup>257</sup>Rf、<sup>259</sup>Rf、<sup>262</sup>Rfの半減期は1-5秒、<sup>261</sup>Rf、<sup>265</sup>Rf、<sup>263</sup>Rfの半減期は、各々1.1分、1.5分、10分である。最も重い既知の同位体である<sup>267</sup>Rfの半減期は約48分と測定されている<ref name=PuCa2022>{{cite journal |title=Investigation of <sup>48</sup>Ca-induced reactions with <sup>242</sup>Pu and <sup>238</sup>U targets at the JINR Superheavy Element Factory |journal=Physical Review C |volume=106 |number=24612 |year=2022 |first1=Yu. Ts. |last1=Oganessian |first2=V. K. |last2=Utyonkov |first3=D. |last3=Ibadullayev |display-authors=3 |doi= 10.1103/PhysRevC.106.024612|s2cid=251759318 }}</ref>。
最も軽い同位体は、2つの軽い原子核の直接融合及び崩壊生成物として合成される。直接融合で合成される最も重い同位体は<sup>262</sup>Rfであり、これより重い同位体はより重い元素の崩壊生成物としてのみ見られる。最も重い同位体<sup>266</sup>Rf、<sup>268</sup>Rfは、ドブニウムの同位体<sup>266</sup>Db、<sup>268</sup>Dbの[[電子捕獲]]娘核としても報告されているが、短い半減期で自発核分裂する。<sup>270</sup>Dbの娘核として存在する可能性のある<sup>270</sup>Rfも同様の可能性がある<ref name="270Rf">{{cite book|last=Stock|first=Reinhard|title=Encyclopedia of Nuclear Physics and its Applications|url=https://books.google.com/books?id=zVrdAAAAQBAJ&pg=PT305|date=13 September 2013|publisher=John Wiley & Sons|isbn=978-3-527-64926-6|page=305|oclc=867630862}}</ref>。これら3つの同位体は未確認である。
1999年、[[カリフォルニア大学バークレー校]]の研究者が <sup>293</sup>Ogの3つの原子核の合成に成功したと発表した<ref>{{cite journal |last=Ninov |first=Viktor |display-authors=etal |title=Observation of Superheavy Nuclei Produced in the Reaction of {{SimpleNuclide|Krypton|86}} with {{SimpleNuclide|Lead|208}}|journal=Physical Review Letters |volume=83 |issue=6 |pages=1104-1107 |date=1999 |doi=10.1103/PhysRevLett.83.1104 |bibcode=1999PhRvL..83.1104N|url=https://zenodo.org/record/1233919}}</ref>。これらの親核は連続で7つのアルファ粒子を放出し、<sup>265</sup>Rf原子核を形成したと報告されたが、2001年に撤回された<ref>{{cite web | title=Results of Element 118 Experiment Retracted | website=Berkeley Lab Research News | date=2001-07-21 | url=http://enews.lbl.gov/Science-Articles/Archive/118-retraction.html | archive-url=https://web.archive.org/web/20080129191344/http://enews.lbl.gov/Science-Articles/Archive/118-retraction.html | archive-date=29 January 2008 | url-status=dead | accessdate=5 April 2019 |df=dmy-all}}</ref>。この同位体は<sup>285</sup>Flの崩壊連鎖の最終生成物として、2010年に再発見された<ref name="PuCa2017">{{cite journal |last1=Utyonkov |first1=V. K. |last2=Brewer |first2=N. T. |first3=Yu. Ts. |last3=Oganessian |first4=K. P. |last4=Rykaczewski |first5=F. Sh. |last5=Abdullin |first6=S. N. |last6=Dimitriev |first7=R. K. |last7=Grzywacz |first8=M. G. |last8=Itkis |first9=K. |last9=Miernik |first10=A. N. |last10=Polyakov |first11=J. B. |last11=Roberto |first12=R. N. |last12=Sagaidak |first13=I. V. |last13=Shirokovsky |first14=M. V. |last14=Shumeiko |first15=Yu. S. |last15=Tsyganov |first16=A. A. |last16=Voinov |first17=V. G. |last17=Subbotin |first18=A. M. |last18=Sukhov |first19=A. V. |last19=Karpov |first20=A. G. |last20=Popeko |first21=A. V. |last21=Sabel'nikov |first22=A. I. |last22=Svirikhin |first23=G. K. |last23=Vostokin |first24=J. H. |last24=Hamilton |first25=N. D. |last25=Kovrinzhykh |first26=L. |last26=Schlattauer |first27=M. A. |last27=Stoyer |first28=Z. |last28=Gan |first29=W. X. |last29=Huang |first30=L. |last30=Ma |date=30 January 2018 |title=Neutron-deficient superheavy nuclei obtained in the <sup>240</sup>Pu+<sup>48</sup>Ca reaction |journal=Physical Review C |volume=97 |issue=14320 |pages=014320 |doi=10.1103/PhysRevC.97.014320|bibcode=2018PhRvC..97a4320U }}</ref><ref name="10El" />。
==予測される性質==
合成が非常に限られていることと高価であることにより<ref name="Bloomberg" />、また非常に急速に崩壊することにより、ラザホージウム及びその化合物に関する非常にわずかの性質のみが測定されている。単原子の化学的性質がいくつか測定されているが、金属ラザホージウムの性質は未知のままで、予測値のみが入手可能である。
===化学的性質===
ラザホージウムは最初の[[超アクチノイド元素]]で、2番目の6d系列遷移金属である。[[イオン化エネルギー]]、[[原子半径]]、[[軌道エネルギー]]、イオン化状態の[[基底準位]]の計算はハフニウムと似ており、[[鉛]]とはかなり異なる。その結果、ラザホージウムの基本的な性質は、[[チタン]]、ジルコニウム、ハフニウムの第4族元素と似ていると結論付けられた<ref name="Rf263">{{cite journal |url=http://www.ulrich-rieth.de/publikationen/RCA0301_059.PDF |title=An EC-branch in the decay of 27-s<sup>263</sup>Db: Evidence for the new isotope<sup>263</sup>Rf |author=Kratz, J. V. |journal=Radiochim. Acta |volume=91 |issue=1–2003 |pages=59–62 |date=2003 |doi=10.1524/ract.91.1.59.19010 |last2=Nähler |first2=A. |last3=Rieth |first3=U. |last4=Kronenberg |first4=A. |last5=Kuczewski |first5=B. |last6=Strub |first6=E. |last7=Brüchle |first7=W. |last8=Schädel |first8=M. |last9=Schausten |first9=B. |last10=Türler |first10=A. |last11=Gäggeler |first11=H. W. |last12=Jost |first12=D. T. |last13=Gregorich |first13=K. E. |last14=Nitsche |first14=H. |last15=Laue |first15=C. |last16=Sudowe |first16=R. |last17=Wilk |first17=P. A. |s2cid=96560109 |display-authors=8 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090225154858/http://www.ulrich-rieth.de/publikationen/RCA0301_059.PDF |archive-date=2009-02-25 }}</ref>
<ref name="Kratz03" />。その性質のいくつかは、気相及び水溶液の実験により決定されている。+4の[[酸化状態]]は後者2つの元素にとって唯一安定な状態であり、そのためラザホージウムも安定な+4の酸化状態を取る<ref name="Kratz03" />。さらに、ラザホージウムは、より不安定な+3の酸化状態も取ることができると推測される<ref name=Haire>{{cite book| title=The Chemistry of the Actinide and Transactinide Elements| editor1-last=Morss|editor2-first=Norman M.| editor2-last=Edelstein| editor3-last=Fuger|editor3-first=Jean| last1=Hoffman|first1=Darleane C. |last2=Lee |first2=Diana M. |last3=Pershina |first3=Valeria |chapter=Transactinides and the future elements| publisher= [[Springer Science+Business Media]]| year=2006| isbn=978-1-4020-3555-5| location=Dordrecht, The Netherlands| edition=3rd| ref=CITEREFHaire2006}}</ref>。Rf<sup>4+</sup>/Rf対の[[酸化還元電位|標準還元電位]]は、-1.7 Vよりも高いと予測される。
化学的性質についての当初の予測は、[[電子殻]]への相対論効果により7p軌道のエネルギー準位が6d軌道よりも低くなり、[[価電子]]の[[電子配置]]として6d<sup>1</sup> 7s<sup>2</sup> 7p<sup>1</sup>、さらには7s<sup>2</sup> 7p<sup>2</sup>を与えるのに十分な大きさを持つことを示す計算結果に基づくもので、そのため、電子の挙動はハフニウムよりも鉛により近くなる。ラザホージウム化合物の化学的性質に関するより優れた計算法と実験により、このようなことは起こらず、その代わり残りの第4族元素と同様の挙動を示すことが示された<ref name="Haire" /><ref name="Kratz03">{{cite journal|doi=10.1351/pac200375010103 |url=http://stage.iupac.org/originalWeb/publications/pac/2003/pdf/7501x0103.pdf |title=Critical evaluation of the chemical properties of the transactinide elements (IUPAC Technical Report) |date=2003 |last1=Kratz |first1=J. V. |journal=Pure and Applied Chemistry |volume=75 |issue=1 |page=103 |s2cid=5172663 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20110726195721/http://stage.iupac.org/originalWeb/publications/pac/2003/pdf/7501x0103.pdf |archive-date=2011-07-26 }}</ref>。後に、高精度<ref name="Eliav1995">{{cite journal |last1=Eliav |first1=E. |last2=Kaldor |first2=U. |last3=Ishikawa |first3=Y. |title=Ground State Electron Configuration of Rutherfordium: Role of Dynamic Correlation |journal=Physical Review Letters |volume=74 |issue=7 |pages=1079-1082 |year=1995 |doi=10.1103/PhysRevLett.74.1079 |pmid=10058929 |bibcode=1995PhRvL..74.1079E }}</ref><ref name="Mosyagin2010">{{cite journal |last1=Mosyagin |first1=N. S. |last2=Tupitsyn |first2=I. I. |last3=Titov |first3=A. V. |title=Precision Calculation of the Low-Lying Excited States of the Rf Atom |journal=Radiochemistry |volume=52 |issue=4 |pages=394-398 |year=2010 |doi=10.1134/S1066362210040120 |s2cid=120721050 }}</ref><ref name="Dzuba2014">{{cite journal |last1=Dzuba |first1=V. A. |last2=Safronova |first2=M. S. |last3=Safronova |first3=U. I. |title=Atomic properties of superheavy elements No, Lr, and Rf |journal=Physical Review A |volume=90 |issue=1 |pages=012504 |year=2014 |doi=10.1103/PhysRevA.90.012504 |arxiv=1406.0262 |bibcode=2014PhRvA..90a2504D |s2cid=74871880 }}</ref>の''[[ab initio]]''計算により、ラザホージウム原子は、基底状態では6d<sup>2</sup> 7s<sup>2</sup>の価電子配置、励起エネルギーがわずか0.3-0.5 eVの低励起状態では6d<sup>1</sup> 7s<sup>2</sup> 7p<sup>1</sup>の価電子配置を取ることが示された。
ジルコニウムやハフニウムのアナログとして、ラザホージウムは非常に安定で難溶性の酸化物RfO<sub>2</sub>を形成することが予測された。またハロゲンと反応して四ハロゲン化物RfX<sub>4</sub>を形成し、水と接触すると[[加水分解]]して酸ハロゲン化物となる。RfOX<sub>2</sub>を形成する。四ハロゲン化物は揮発性固体で、気相では単量体の四面体分子となる<ref name="Kratz03" />。
水溶液中では、Rf<sup>4+</sup>イオンはチタン(IV)ほど加水分解されず、その程度はジルコニウム及びハフニウムと同程度で、その結果、RfO<sup>2+</sup>を形成する。ハロゲン化物をハロゲン化物イオンで処理すると、錯イオンの形成が促進される。塩化物及び臭化物イオンを用いるとハロゲン化錯体RfCl<sub>6</sub><sup>2-</sup>及びRfBr<sub>6</sub><sup>2-</sup>が形成される。フッ化物錯体では、ジルコニウム及びハフニウムは、ヘプタ及びオクタ錯体を形成する傾向がある。従って、これより大きいラザホージウムイオンでは、RfF<sub>6</sub><sup>2-</sup>、RfF<sub>7</sub><sup>3-</sup>、RfF<sub>8</sub><sup>4-</sup>の3つが形成される可能性がある<ref name="Kratz03" />。
===物理学的性質===
[[標準状態]]では固体で、より軽い同族体であるハフニウムと同様に<ref name=hcp>{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevB.84.113104|title=First-principles calculation of the structural stability of 6d transition metals|year=2011|last1=Östlin|first1=A.|last2=Vitos|first2=L.|journal=Physical Review B|volume=84|issue=11|pages=113104|bibcode=2011PhRvB..84k3104O }}</ref>、[[六方最密充填構造]]を取ると推測される(<sup>''c''</sup>/<sub>''a''</sub> = 1.61)。[[密度]]は~17 g/cm<sup>3</sup><ref name=density>{{cite journal |last1=Gyanchandani |first1=Jyoti |last2=Sikka |first2=S. K. |title=Physical properties of the 6 d -series elements from density functional theory: Close similarity to lighter transition metals |journal=Physical Review B |date=10 May 2011 |volume=83 |issue=17 |pages=172101 |doi=10.1103/PhysRevB.83.172101 |bibcode=2011PhRvB..83q2101G }}</ref><ref name=kratz>{{cite book |last1=Kratz |last2=Lieser |title=Nuclear and Radiochemistry: Fundamentals and Applications |date=2013 |page=631 |edition=3rd}}</ref>、[[原子半径]]は~150 pmと推測される。7s軌道の相対論的安定性と6d軌道の不安定性により、より軽い同族元素とは異なり、Rf<sup>+</sup>及びRf<sup>2+</sup>イオンは7s電子の代わりに6d電子を失うと予測される<ref name="Haire" />。高圧条件下(72または~50 GPa等と計算される)では、[[体心立方格子]]の[[結晶構造]]に遷移すると予測される。ハフニウムは71±1 GPaでこの構造遷移が起こるが、38±8 GPaで生じる中間体のω構造については、ラザホージウムは持たないと予測される<ref>{{Cite arXiv |eprint = 1106.3146|last1 = Gyanchandani|first1 = Jyoti|title = Structural Properties of Group IV B Element Rutherfordium by First Principles Theory|last2 = Sikka|first2 = S. K.|year = 2011| class=cond-mat.mtrl-sci }}</ref><section end=properties />。
==ラザホージウムに関する実験==
===気相===
[[ファイル:RfCl4.png|thumb|upright=0.5|RfCl<sub>4</sub>分子の四面体構造]]
ラザホージウムの化学的性質に関する初期の研究は、気相のサーモクロマトグラフィー及び相対析出温度吸着曲線の測定に焦点を当てていた。当初ドゥブナでは、彼ら自身の発見を再確認する研究が行われた。最近の研究は、ラザホージウムの放射性同位体親核の同定においてより信頼できる。これらの研究には、<sup>261m</sup>Rfが用いられるが<ref name="Kratz03" />、<sup>291</sup>Lv、<sup>287</sup>Fl及び<sup>283</sup>Cnの崩壊鎖から合成されるより長寿命の同位体<sup>267</sup>Rfは、将来の実験により有望である可能性がある<ref name="Moody">{{cite book |chapter=Synthesis of Superheavy Elements |last1=Moody |first1=Ken |editor1-first=Matthias |editor1-last=Schadel |editor2-first=Dawn |editor2-last=Shaughnessy |title=The Chemistry of Superheavy Elements |publisher=Springer Science & Business Media |edition=2nd |pages=24-8 |isbn=9783642374661|date=2013-11-30 }}</ref>。実験は、ラザホージウムから新しい6dシリーズが始まり、分子の形が四面体構造であることにより揮発性の四塩化物を形成するという予測に依存している<ref name="Kratz03" /><ref name="autogenerated1">{{cite journal |last1=Oganessian |first1=Yury Ts |last2=Dmitriev |first2=Sergey N. |title=Superheavy elements in D I Mendeleev's Periodic Table |journal=Russian Chemical Reviews |volume=78 |issue=12 |page=1077 |date=2009 |doi=10.1070/RC2009v078n12ABEH004096 |bibcode = 2009RuCRv..78.1077O |s2cid=250848732 }}</ref><ref>{{cite journal |doi = 10.1016/S0925-8388(98)00072-3 |title =Evidence for relativistic effects in the chemistry of element 104 |first9 = D. |last10 =Timokhin |first10 = S. N. |last11 =Yakushev |first11 = A. B. |last12 =Zvara |first12 =I. |last9 = Piguet |first8 = V. Ya. |last8 = Lebedev |first7 = D. T. |last7 = Jost |first6 = S. |last6 = Hubener |first5 = M. |last5 = Grantz |first4 = H. W. |last4 = Gaggeler |first3 = B. |last3 = Eichler |first2 = G. V. |date = 1998 |last2 = Buklanov |last1 = Turler| first1 = A. | journal = Journal of Alloys and Compounds |volume = 271-273 |page = 287| display-authors=8}}</ref>。[[塩化ラザホージウム(IV)]]は、結合がより強い[[共有結合性]]を持つため、より軽い同族元素の[[塩化ハフニウム(IV)]]よりも揮発性が高い<ref name="Haire" />。
一連の実験により、ラザホージウムは第4族元素の典型的な振る舞いをし、4価の塩化物(RfCl<sub>4</sub>)、臭化物(RfBr<sub>4</sub>)、酸塩化物(RfOCl<sub>2</sub>)を形成することが確認された。気体ではなく固体の[[塩化カリウム]]が存在すると、四塩化ラザホージウムの揮発性の低下が見られ、非揮発性のK<sub>2</sub>RfCl<sub>6</sub>との混合塩を形成している可能性が強く示された<ref name="Rf263" /><ref name="Kratz03" /><ref>{{cite web|url=http://lch.web.psi.ch/files/lectures/TexasA&M/TexasA&M.pdf |title=Lecture Course Texas A&M: Gas Phase Chemistry of Superheavy Elements |date=2007-11-05 |access-date=2010-03-30 |first=Heinz W. |last=Gaggeler |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120220090755/http://lch.web.psi.ch/files/lectures/TexasA%26M/TexasA%26M.pdf |archive-date=2012-02-20 }}</ref>。
===水溶液相===
ラザホージウムは、[Rn]5f<sup>14</sup> 6d<sup>2</sup> 7s<sup>2</sup>の電子配置を取ると予測され、そのため同じ第4族元素であるハフニウムの、より重い同族元素として振る舞う。そのため、強酸中ではRf<sup>4+</sup>イオンを形成しやすく、[[塩酸]]、[[臭化水素酸]]、[[フッ化水素酸]]の水溶液では錯体を形成しやすい<ref name="Kratz03" />。ラザホージウムの水溶液中での化学的性質に関して、最も決定的な研究は、[[日本原子力研究開発機構]]によって、<sup>261m</sup>Rfを用いて行われた。ラザホージウム、ハフニウム、ジルコニウムと擬第4族元素の[[トリウム]]を用いた塩酸水溶液からの抽出実験で、ラザホージウムの非アクチノイド元素的な振る舞いが示された。より軽い同族元素との比較で、ラザホージウムは第4族に置かれ、ハフニウムやジルコニウムと同様に、塩化物溶液中では、六塩化ラザホージウム錯体が形成されることが示された<ref name="Kratz03" /><ref>{{cite journal | doi=10.1524/ract.2005.93.9-10.519 | title=Chemical studies on rutherfordium (Rf) at JAERI | date=2005 | last1=Nagame | first1=Y. | journal=Radiochimica Acta | volume=93 | issue=9-10_2005 | page=519 | url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/jnrs/paper/JN62/jn6202.pdf | last2=Tsukada | first2=K. | last3=Asai | first3=M. | last4=Toyoshima | first4=A. | last5=Akiyama | first5=K. | last6=Ishii | first6=Y. | last7=Kaneko-Sato | first7=T. | last8=Hirata | first8=M. | last9=Nishinaka | first9=I. | last10=Ichikawa | first10=S. | last11=Haba | first11=H. | last12=Enomoto | first12=Shuichi | s2cid=96299943 | display-authors=1 | url-status=dead | archive-url=https://web.archive.org/web/20080528125634/http://wwwsoc.nii.ac.jp/jnrs/paper/JN62/jn6202.pdf | archive-date=2008-05-28 }}</ref>。
:{{chem|261m|Rf|4+}} + 6 {{chem|Cl|-}} → {{chem|[|<sup>261m</sup>RfCl|6|]|2-}}
非常に似た結果は、フッ化水素酸水溶液でも見られる。抽出曲線の違いは、ハフニウムやジルコニウムイオンは、7つか8つのフッ化物イオンと錯体を形成するのに対し、ラザホージウムではフッ化物イオンに対する親和性が低く、ヘキサフルオロラザホージウム酸イオンが形成されたためと解釈された。
[[硫酸]]と[[硝酸]]の混合溶液中で行われた実験では、硫酸錯体形成の親和性がハフニウムと比べて弱いことが示された。この結果は、結合へのイオンの貢献が小さいラザホージウム錯体がジルコニウムやハフニウムのものより不安定になるという予測とも合致していた。これは、ラザホージウムのイオン半径(76 pm)がジルコニウム(71 pm)やハフニウム(72 pm)よりも大きいこと、また相対論的に7s軌道が安定化され、6d軌道が不安定化、スピン軌道分裂することが原因である<ref>{{cite journal |last1=Li |first1=Z. J. |last2=Toyoshima |first2=A. |first3=M. |last3=Asai |first4=K. |last4=Tsukada |first5=T. K. |last5=Sato |first6=N. |last6=Sato |first7=T. |last7=Kikuchi |first8=Y. |last8=Nagame |first9=M. |last9=Schadel |first10=V. |last10=Pershina |first11=X. H. |last11=Liang |first12=Y. |last12=Kasamatsu |first13=Y. |last13=Komori |first14=K. |last14=Ooe |first15=A. |last15=Shinohara |first16=S. |last16=Goto |first17=H. |last17=Murayama |first18=M. |last18=Murakami |first19=H. |last19=Kudo |first20=H. |last20=Haba |first21=Y. |last21=Takeda |first22=M. |last22=Nishikawa |first23=A. |last23=Yokoyama |first24=S. |last24=Ikarashi |first25=K. |last25=Sueki |first26=K. |last26=Akiyama |first27=J. V. |last27=Kratz |display-authors=3 |date=2012 |title=Sulfate complexation of element 104, Rf, in H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>/HNO<sub>3</sub> mixed solution |url= |journal=Radiochimica Acta |volume=100 |issue=3 |pages=157-164 |doi=10.1524/ract.2012.1898 |accessdate=}}</ref>。
2021年に行われた共沈実験では、比較対象としてジルコニウム、ハフニウム、トリウムを用い、[[アンモニア]]または[[水酸化ナトリウム]]を含む塩基性溶液中でのラザホージウムの挙動が研究され、ラザホージウムはアンモニアと強く配位せず、その代わり、水酸化物、恐らくRf(OH)<sub>4</sub>として共沈することが明らかとなった<ref>{{cite journal |last1=Kasamatsu |first1=Yoshitaka |last2=Toyomura |first2=Keigo |first3=Hiromitsu |last3=Haba |first4=Takuya |last4=Yokokita |first5=Yudai |last5=Shigekawa |first6=Aiko |last6=Kino |first7=Yuki |last7=Yasuda |first8=Yukiko |last8=Komori |first9=Jumpei |last9=Kanaya |first10=Minghui |last10=Huang |first11=Masashi |last11=Murakami |first12=Hidetoshi |last12=Kikunaga |first13=Eisuke |last13=Watanabe |first14=Takashi |last14=Yoshimura |first15=Kosuke |last15=Morita |first16=Toshiaki |last16=Mitsugashira |first17=Koichi |last17=Takamiya |first18=Tsutomu |last18=Ohtsuki |first19=Atsushi |last19=Shinohara |display-authors=3 |date=2021 |title=Co-precipitation behaviour of single atoms of rutherfordium in basic solutions |url= |journal=Nature Chemistry |volume=13 |issue= |pages=226-230 |doi=10.1038/s41557-020-00634-6 |access-date=}}</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|30em}}
==関連文献==
* {{cite journal |title=The NUBASE2016 evaluation of nuclear properties |doi=10.1088/1674-1137/41/3/030001 |last1=Audi |first1=G. |last2=Kondev |first2=F. G. |last3=Wang |first3=M. |last4=Huang |first4=W. J. |last5=Naimi |first5=S. |display-authors=3 |journal=Chinese Physics C |volume=41 |issue=3 <!--Citation bot deny-->|pages=030001 |year=2017
|bibcode=2017ChPhC..41c0001A }}<!--for consistency and specific pages, do not replace with {{NUBASE2016}}-->
* {{cite book|last=Beiser|first=A.|title=Concepts of modern physics|date=2003|publisher=McGraw-Hill|isbn=978-0-07-244848-1|edition=6th|oclc=48965418}}
* {{cite book |last1=Hoffman |first1=D. C. |last2=Ghiorso |first2=A. |last3=Seaborg |first3=G. T. |title=The Transuranium People: The Inside Story |year=2000 |publisher=World Scientific |isbn=978-1-78-326244-1 }}
* {{cite book |last=Kragh |first=H. |date=2018 |title=From Transuranic to Superheavy Elements: A Story of Dispute and Creation |publisher=Springer Science+Business Media |isbn=978-3-319-75813-8 }}
* {{cite journal|last1=Zagrebaev|first1=V.|last2=Karpov|first2=A.|last3=Greiner|first3=W.|date=2013|title=Future of superheavy element research: Which nuclei could be synthesized within the next few years?|journal=Journal of Physics: Conference Series|volume=420|issue=1|pages=012001|doi=10.1088/1742-6596/420/1/012001|arxiv=1207.5700|bibcode=2013JPhCS.420a2001Z|s2cid=55434734|issn=1742-6588}}
==外部リンク==
*{{Commons category-inline}}
* [http://www.periodicvideos.com/videos/104.htm Rutherfordium] at ''The Periodic Table of Videos'' (University of Nottingham)
* [http://www.webelements.com/webelements/elements/text/Rf/index.html WebElements.com - Rutherfordium]
{{Commons|Rutherfordium}}
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君主制
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君主制(くんしゅせい、英: monarchy)または君主政とは、一人の支配者が統治する国家形態であり、伝統的には君主が唯一の主権者である体制。語源はギリシア語の「モナルケス monarches」で、「ただ一人の支配」を意味する。君主制支持は君主主義(monarchism)と呼ばれる。
共和制(republic)は「君主制の対」とされる(共和制は民主制と同義にも用いられ得るが、実際は独裁的な場合も少なくないという)。また「君主制,神政政治など」は、支配の権威が民衆に由来する民主主義と対照的とされており、「君主政治」や「貴族政治」も民主主義と区別されるという。
君主が存在する国家を君主国、君主が存在しない国家を共和国という。君主国は通常、支配者の君主号によって、王国(王)、大公国(大公)、公国(公)、首長国(アミール)、帝国(皇帝)などと呼ばれる。かつて君主号には、個々の文化圏ごとの複雑な慣習に基づく序列や優劣が存在したが、現在は国際社会において儀礼上対等とされる。ただし、便宜上の序列を付ける場合は「在位期間の長い方が上」とすることがある(一例として、各国君主の集合写真を撮影する場合には、在位期間の長い順から中央~外側に着座していき、同じように後列の立座となる)。
ある人物が君主の地位に就任することを即位、君主がその地位から退くことを退位、君主がその地位を他人に譲ることを譲位、退位した人物が再び即位することを重祚(ちょうそ)という。また、即位させること(君主格の付与、enthronement)を「祭り上げる」、退位させること(君主格の剥奪、dethronement)を「廃位する」とも表現する。
政治分析の基礎概念として君主制を取り上げ、他の政体と区別して論じたのは、君主を持たないポリスが多数存在した古代ギリシアの思想家である。君主制の国がほとんどを占めていた地域では、君臣の関係のような限定的問題を越えて、君主制を国家一般と別に把握する動機が生まれなかった。近代になって、君主制が共和主義者によって脅かされるようになると、古代ギリシア・古代ローマの伝統を復活させて君主制を論じる政治思想が登場した。
君主制はまず、君主の座を世襲で継承するかどうかによって、世襲君主制と選挙君主制とに分類される。世襲君主制は君主の地位がある一族によって世襲されるものであり、この場合君主の一族を王家(王室)と呼び、王家による世襲権力の連続体を王朝という。これに対し、君主が死去または退位した場合、一定の候補者の中から選挙によって君主が選ばれる君主制を選挙君主制という。世襲君主制における王位継承は多くの場合現在の君主との血の近さによって明確な王位継承順位が定められており、空位となった場合は継承順位第一位の人物が新しく君主に就任する。ただし、サウジアラビアのように王位継承順位を定めていない国家も存在する。
近現代のヨーロッパにおける王位継承は、女性の継承権の有無および優先順位によって4つのタイプに分かれる。女性に継承権が存在しない場合は男系長子継承制(サリカ法)となり、男系長子が王位継承の第一順位となって、以下血縁の近い男性に継承権が付与されていく。これに対し、女性に継承権が存在する場合は3つのパターンが存在する。基本的には男系男子を優先するが、男系継承者が絶えた場合に限り女系や女子に継承権を認めるパターンは男系・女系長子継承制(準サリカ法)と呼ばれる。また、男女に継承権を認めるが、男子が存在する場合は男子を優先するパターンを男子優先長子継承制と呼ぶ。ここまでのタイプは古くから存在する継承法であるが、男女平等概念の浸透により、男女にかかわらず長幼の順に従って継承権を認める絶対的長子継承制が1980年代以降普及しつつある。
君主は基本的には任期が定まっておらず、その死去または自主的な退位までは在位をし続けるが、マレーシアやサモアのような任期制の君主国も存在する。アラブ首長国連邦は大統領制を取っており、任期は5年であるが、大統領は連邦に加盟する7ヶ国の世襲首長によって互選される上、国内で最大勢力を持つアブダビ首長国の首長が大統領に選出されることが慣例化している。またアンドラはフランス大統領とスペインのウルヘル司教が職権上アンドラ公国共同公に就任し、共同元首となっている。
君主制はまた、その政治権力によっても分類される。君主が絶対的な権力を持つ政体が絶対君主制である。絶対君主制は独裁政治の一種であり、政治体制としては権威主義体制に含まれる。権力継承のシステムが確立している上に王族によって支配体制が固められているため、権威主義体制の各政体の中ではもっとも安定性が高い。これに対し、君主が権力を制限されていたり付与されていない政体が制限君主制であり、権力の制限が憲法に基づく(立憲主義)場合は立憲君主制となる。立憲君主制はさらに、君主が名目的な地位にあるイギリス型と、君主に強力な権限を持たせたプロイセン型(外見的立憲君主制)に大別される。イギリス型の立憲君主制は議会制民主主義に立脚しており、民主制の君主国において広く採用されている。
18世紀末までは、世界のほとんどの国家において君主制が敷かれており、共和制を採る国家はスイスやオランダ連邦共和国、ヴェネツィア共和国などわずかな数に過ぎなかった。その後、18世紀末にはアメリカ独立戦争によってアメリカ合衆国が成立し、フランス革命によってフランスが一時共和制を取ったことで君主制をとらない国家も増え始め、なかでもこの両革命の影響を強く受けたラテンアメリカ諸国は18世紀初頭の独立時にほとんどが共和制をとった。一方、ヨーロッパ大陸においては君主制はいまだに強固なものであり、ベルギーが独立を達成した際にも君主の推戴が条件とされたため、1831年にドイツの小領邦君主であるザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルド1世を初代国王として受け入れた。ヨーロッパにおける新独立国が他国から王族を迎え入れて君主制を敷く例は19世紀を通じてみられ、ギリシャ(1832年)やブルガリア(1879年)、ノルウェー(1905年)などが新しく王を受け入れている。ただしヨーロッパにおいては君主制は存続する一方で、イギリスにおいて議院内閣制と立憲君主制が成立したのに続き、19世紀後半には自由主義の興隆によってヨーロッパ大陸諸国が立憲君主制を導入するなど、君主の権利は19世紀を通じて制限・縮小する傾向が続いた。この君主権の制限はヨーロッパ外にも一部波及し、日本やオスマン帝国にもこの時期立憲君主制が導入された。
こうした流れが決定的に変化したのは第一次世界大戦によってである。この大戦でドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3ヶ国で君主制が崩壊し、またヴェルサイユ条約によって独立したヨーロッパの国家は、セルビア王国を実質的に継承したユーゴスラビア王国を除きいずれも共和制をとった。さらに第二次世界大戦によって、イタリアや東欧諸国で君主制が廃止された。一方、それまで同君連合制をとっていたイギリス連邦において、独立したインドが共和制を取ることを表明し、なおかつその後もイギリス連邦にとどまることを希望したため、1949年に国王への忠誠条項が撤廃され、英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となった。第二次世界大戦以降、アジア・アフリカ地域でヨーロッパ諸国の植民地が相次いで独立したものの、この新独立国群は独立時にほとんど共和制を取り、君主制を敷いたのはいくつかの英連邦王国を除くと、独立以前から保護国や保護領などの形で君主制が残存していた国家に限られていた。中東で1950年代から1970年代にかけて王制が相次いで廃止されたように、君主制をとった新独立国も、政情不安からしばしば王制が転覆し、共和制へと移行するケースが見られ、イランやエチオピアのように古い君主制国家でも王が失政を行った場合は革命が勃発して王が放逐された。
こうして君主制国家の割合は減り続け、2019年には君主制を取る国は国連加盟国の4分の1以下にまで減少した。この流れは21世紀に入っても続いており、2008年にはネパールにおいて王政が廃止された。また、君主制を存続させている国家においても君主制廃止論は根強く残っており、オーストラリアなどではしばしば君主制廃止論が再燃している。一方で、1993年のカンボジアのように一度廃止された君主制を復活させる、いわゆる王政復古を行った国家も少数ながら存在する。
2020年現在、アラブ首長国連邦とマレーシアの2ヶ国には国家内の州にも君主制のものが存在する。アラブ首長国連邦はアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラ、ラアス・アル=ハイマの7つの首長国によって構成される連邦国家であり、各首長国はそれぞれ絶対君主制を取っている。独立した首長国が連合する形で成立した国家であるため、各首長国の権限は大きく自立性は高い。これに対し、マレーシアの君主制国家構成領邦はすべてではなく、マレーシア半島部の11州のうち、ジョホール州、ケダ州、クランタン州、パハン州、ペラ州、スランゴール州、トレンガヌ州、ヌグリ・スンビラン州、プルリス州の9州のみが君主制を取っている。マレーシアの州の君主はいずれも権限は小さく、立憲的な議会主義君主制となっている。
君主の種類による分類には以下がある。
2022年時点において君主制を取っている国家は、以下の43ヶ国である。このうち、英連邦王国に属する国家が15ヶ国存在する。
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"text": "こうした流れが決定的に変化したのは第一次世界大戦によってである。この大戦でドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3ヶ国で君主制が崩壊し、またヴェルサイユ条約によって独立したヨーロッパの国家は、セルビア王国を実質的に継承したユーゴスラビア王国を除きいずれも共和制をとった。さらに第二次世界大戦によって、イタリアや東欧諸国で君主制が廃止された。一方、それまで同君連合制をとっていたイギリス連邦において、独立したインドが共和制を取ることを表明し、なおかつその後もイギリス連邦にとどまることを希望したため、1949年に国王への忠誠条項が撤廃され、英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となった。第二次世界大戦以降、アジア・アフリカ地域でヨーロッパ諸国の植民地が相次いで独立したものの、この新独立国群は独立時にほとんど共和制を取り、君主制を敷いたのはいくつかの英連邦王国を除くと、独立以前から保護国や保護領などの形で君主制が残存していた国家に限られていた。中東で1950年代から1970年代にかけて王制が相次いで廃止されたように、君主制をとった新独立国も、政情不安からしばしば王制が転覆し、共和制へと移行するケースが見られ、イランやエチオピアのように古い君主制国家でも王が失政を行った場合は革命が勃発して王が放逐された。",
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"text": "こうして君主制国家の割合は減り続け、2019年には君主制を取る国は国連加盟国の4分の1以下にまで減少した。この流れは21世紀に入っても続いており、2008年にはネパールにおいて王政が廃止された。また、君主制を存続させている国家においても君主制廃止論は根強く残っており、オーストラリアなどではしばしば君主制廃止論が再燃している。一方で、1993年のカンボジアのように一度廃止された君主制を復活させる、いわゆる王政復古を行った国家も少数ながら存在する。",
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"text": "2020年現在、アラブ首長国連邦とマレーシアの2ヶ国には国家内の州にも君主制のものが存在する。アラブ首長国連邦はアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラ、ラアス・アル=ハイマの7つの首長国によって構成される連邦国家であり、各首長国はそれぞれ絶対君主制を取っている。独立した首長国が連合する形で成立した国家であるため、各首長国の権限は大きく自立性は高い。これに対し、マレーシアの君主制国家構成領邦はすべてではなく、マレーシア半島部の11州のうち、ジョホール州、ケダ州、クランタン州、パハン州、ペラ州、スランゴール州、トレンガヌ州、ヌグリ・スンビラン州、プルリス州の9州のみが君主制を取っている。マレーシアの州の君主はいずれも権限は小さく、立憲的な議会主義君主制となっている。",
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] |
君主制または君主政とは、一人の支配者が統治する国家形態であり、伝統的には君主が唯一の主権者である体制。語源はギリシア語の「モナルケス monarches」で、「ただ一人の支配」を意味する。君主制支持は君主主義(monarchism)と呼ばれる。 共和制(republic)は「君主制の対」とされる(共和制は民主制と同義にも用いられ得るが、実際は独裁的な場合も少なくないという)。また「君主制,神政政治など」は、支配の権威が民衆に由来する民主主義と対照的とされており、「君主政治」や「貴族政治」も民主主義と区別されるという。
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{{出典の明記|date=2011年4月}}
{{君主主義}}
{{統治体制}}
'''君主制'''(くんしゅせい、{{lang-en-short|monarchy}})または'''君主政'''{{Sfn|岡田|2015|p=19}}とは、一人の[[支配者]]が統治する[[国家]]形態であり{{Sfn|平凡社|2019}}、伝統的には[[君主]]が唯一の[[主権者]]である体制{{Sfn|ブリタニカ・ジャパン|2019}}。[[語源]]は[[ギリシア語]]の「モナルケス monarches」で、「ただ一人の支配」を意味する{{Sfn|平凡社|2019}}{{Efn|『[[世界大百科事典]] 第2版』原文:{{Quotation|'''くんしゅせい【君主制 monarchy】'''<br><ins>一人の[[支配者]]によって統治される国家形態</ins>。ギリシア語のモナルケスmonarchesに語源があり,モノスmonos(alone)+アルコarcho(rule),すなわち,<ins>〈ただ一人の支配〉</ins>を意味する。{{Sfn|平凡社|2019}}}}}}。君主制支持は君主主義([[:en:monarchism|monarchism]]){{Sfn|Weblio|2019|p=「monarchism」}}と呼ばれる。
[[共和制]]([[:wikt:republic#名詞|republic]])は「君主制の対」とされる{{Sfn|平凡社|2023|p=「共和制」}}(共和制は[[民主制]]と[[同義]]にも用いられ得るが、実際は[[独裁]]的な場合も少なくないという{{Sfn|平凡社|2023|p=「共和制」}}{{efn|『[[百科事典マイペディア]]』原文:{{Quotation|'''共和制【きょうわせい】'''<br>一国を代表する[[象徴]]あるいは[[元首]]が,[[人民]]の中から一定の任期間選ばれる国家の体制。英語でrepublic,<ins>君主制の対</ins>。主権が人民にあることから[[民主制]]と同義語に用いられる場合があるが,実質的には[[独裁]]的統治が行われる場合も少なくない。多くの国が共和制の形態をとっている。{{Sfn|平凡社|2023|p=「共和制」}}}}}})。また「君主制,[[神政政治]]など」は、支配の[[権威]]が[[民衆]]に由来する[[民主主義]]と対照的とされており{{Sfn|平凡社|2019b|p=「民主主義」}}{{efn|『百科事典マイペディア』原文:{{Quotation|'''民主主義【みんしゅしゅぎ】'''<br> … <br><ins>支配の[[権威]]が[[民衆]]に由来</ins>し,その意味で支配者と被支配者が同一であるという主義,あるいはその原則にたつ政治体制(民主制)。<ins>君主制,[[神政政治]]などと対照的</ins>。〈民衆の福祉のために〉という[[啓蒙君主制]]や[[民本主義]]も民主主義ではない。{{Sfn|平凡社|2019b|p=「民主主義」}}}}[[日本国憲法前文]]には「そもそも[[国政]]は、国民の厳粛な[[信託]]によるものであつて、その権威は国民に由来し」ているとある{{Sfn|荻野|2021|p=81}}。}}、「[[君主政治]]」や「[[貴族政治]]」も民主主義と区別されるという{{Sfn|小学館国語辞典編集部|2019|p=「民主主義」}}{{efn|『精選版 [[日本国語大辞典]]』原文:{{Quotation|'''みんしゅ‐しゅぎ【民主主義】'''<br>〘[[名詞|名]]〙 [[人民]]が[[権力]]を所有するとともに、権力をみずから行使する政治形態。権力が単独の人間に属する<ins>[[君主政治]]</ins>や少数者に属する<ins>[[貴族政治]]</ins>と<ins>区別される</ins>。狭義には、[[フランス革命]]以後に[[私有財産制]]を前提とした上で、[[個人の自由]]と[[法の下の平等|万人の平等]]を[[法の支配|法的に確定]]した政治原理をさす。{{Sfn|小学館国語辞典編集部|2019|p=「民主主義」}}}}}}。
[[ファイル:Government_constitutional_monarchy.svg|サムネイル|350x350ピクセル|立憲君主制国家の一覧。]]
== 用語 ==
[[君主]]が存在する国家を'''君主国'''、君主が存在しない国家を'''[[共和国]]'''という。君主国は通常、支配者の[[君主号]]によって、[[王国]]([[国王|王]])、[[大公国]]([[大公]])、[[公国]]([[公]])、[[首長国]]([[アミール]])、[[帝国]]{{Efn|{{Main|帝国}}「[[帝国]]」は「[[古代]]より、[[皇帝]]の支配する[[政体#政治体(政治組織)|統治体]]や、複数の政治単位を統治する広域的支配を指し」ている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9D%E5%9B%BD-100019#E7.9F.A5.E6.81.B5.E8.94.B5 |title=知恵蔵「帝国」の解説
|work=[[Kotobank]] |accessdate=2022-04-05}}</ref>。「[[帝]]」という[[漢字]]の意味は「[[主神|最高の神]]」{{Sfn|小川|西田|赤塚|阿辻|2017|p=415}}、[[天下]]の「[[君|きみ]]」{{Sfn|小川|西田|赤塚|阿辻|2017|p=415}}。
[[日本語]]の「[[皇帝制#用語|皇帝制]]」{{sfn|淡路|1980|p=104}}・「皇帝制度」{{Sfn|大澤|2006|p=51}}・「帝制」<ref name="imperialism">https://ejje.weblio.jp/content/imperialism</ref>・「帝政」{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}・「[[帝国主義]]」{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}<ref name="imperialism"/>・「[[覇権主義|広域支配主義]]」は{{Sfn|中西|2005|pp=97-98}}、[[英語]]の「[[インペリアリズム]]」({{lang|en|imperialism}})に当たる{{sfn|淡路|1980|p=104}}{{Sfn|大澤|2006|p=51}}<ref name="imperialism"/>{{Sfn|竹林|2002|p=1231}}{{Sfn|中西|2005|pp=97-98}}。なお、ある学術論文は「エンパイアを帝国と訳すか,広域支配と訳すか,インペリアリズムを帝国主義と訳すか,広域支配主義と訳すかは,当該国の違いと[[訳者]]の政治的立場の違いによる」としている{{Sfn|中西|2005|pp=97-98}}。}}([[皇帝]]{{efn|{{Main|皇帝}}[[湊晶子]]は学術論文において、「皇帝」という語には「一般に,[[専制君主制]]的[[理念]]」が盛り込まれていると述べている{{sfn|湊|1991|p=64}}。皇帝は、英語で[[エンペラー]](emperor)、ドイツ語で[[カイザー]](Kaiser)という{{sfn|湊|1991|p=64}}。エンペラーやカエサルの語源はローマの《[[インペラトル]]・[[カエサル_(称号)|カエサル]]》(Imperator Caesar)である{{sfn|湊|1991|p=64}}。<br><br>
ただし、「皇帝」という語は「もともとローマのものではない」{{sfn|湊|1991|p=64}}。[[アウグストゥス]]における「皇帝」という語に専制君主的・[[現人神]]的要素を含めることは「誤りだと思う」と湊は述べている{{sfn|湊|1991|p=64}}。「アウグストウス<!--原文ママ-->が初代[[ローマ皇帝]]に就任した時,アウグストウス的皇帝制を樹立したと結論して良いと思う。 … すなわち,一個人に権力が集中しないローマ的統治概念を,初代皇帝は継承した」{{sfn|湊|1991|p=64}}。アウグストゥス的皇帝制は[[プリンキパトゥス]](プリンチパーツス)と呼ばれるものであり、「[[共和政ローマ|共和制時代]]の[[元老院 (ローマ)|元老院]]を取り込んだ君主制」だったと同氏は言う{{sfn|湊|1991|p=64}}。}})などと呼ばれる。かつて君主号には、個々の[[文化圏]]ごとの複雑な慣習に基づく序列や優劣が存在したが、現在は[[国際社会]]において儀礼上対等とされる。ただし、便宜上の序列を付ける場合は「在位期間の長い方が上」とすることがある(一例として、各国君主の集合写真を撮影する場合には、在位期間の長い順から中央~外側に着座していき、同じように後列の立座となる)。
ある人物が君主の地位に就任することを'''[[即位]]'''、君主がその地位から退くことを'''[[退位]]'''、君主がその地位を他人に譲ることを'''[[譲位]]'''、退位した人物が再び即位することを'''[[重祚]]'''(ちょうそ)という。また、即位させること(君主格の付与、enthronement)を「祭り上げる」、退位させること(君主格の剥奪、dethronement)を「廃位する」とも表現する。
政治分析の基礎概念として君主制を取り上げ、他の政体と区別して論じたのは、君主を持たない[[都市国家|ポリス]]が多数存在した[[古代ギリシア]]の[[思想家]]である。君主制の国がほとんどを占めていた地域では、君臣の関係のような限定的問題を越えて、君主制を国家一般と別に把握する動機が生まれなかった。近代になって、君主制が[[共和主義]]者によって脅かされるようになると、古代ギリシア・[[古代ローマ]]の伝統を復活させて君主制を論じる政治思想が登場した。
== 概要 ==
=== 継承と任期 ===
君主制はまず、君主の座を[[世襲]]で継承するかどうかによって、[[世襲君主制]]と[[選挙君主制]]とに分類される{{sfn|『現代世界の陛下たち』|p=212}}。世襲君主制は君主の地位がある一族によって世襲されるものであり、この場合君主の一族を'''[[王族|王家]]'''([[王室]])と呼び、王家による世襲権力の連続体を'''[[王朝]]'''という。これに対し、君主が死去または退位した場合、一定の候補者の中から[[選挙]]によって君主が選ばれる君主制を選挙君主制という。世襲君主制における[[王位継承]]は多くの場合現在の君主との血の近さによって明確な[[王位継承順位]]が定められており、空位となった場合は継承順位第一位の人物が新しく君主に就任する。ただし、[[サウジアラビア]]のように王位継承順位を定めていない国家も存在する<ref>「サウジアラビア」p41 保坂修司 岩波書店 2005年8月19日第1刷</ref>。
近現代のヨーロッパにおける王位継承は、女性の継承権の有無および優先順位によって4つのタイプに分かれる<ref name="山田2017" />。女性に継承権が存在しない場合は男系長子継承制([[サリカ法]])となり<ref name="山田2017" />、男系長子が王位継承の第一順位となって、以下血縁の近い男性に継承権が付与されていく。これに対し、女性に継承権が存在する場合は3つのパターンが存在する。基本的には男系男子を優先するが、男系継承者が絶えた場合に限り女系や女子に継承権を認めるパターンは男系・女系長子継承制(準サリカ法)と呼ばれる<ref name="山田2017" />。また、男女に継承権を認めるが、男子が存在する場合は男子を優先するパターンを男子優先長子継承制と呼ぶ<ref name="山田2017" />。ここまでのタイプは古くから存在する継承法であるが、[[男女平等]]概念の浸透により、男女にかかわらず長幼の順に従って継承権を認める絶対的長子継承制が1980年代以降普及しつつある<ref name="山田2017">{{Cite journal|和書 |author=山田敏之 |date=2017-11 |title=ヨーロッパ君主国における王位継承制度と王族の範囲 : 近年まで又は現在、男系継承を原則とする国の事例 |journal=レファレンス= The reference |ISSN=00342912 |publisher=国立国会図書館 |volume=67 |issue=11 |pages=1-27 |id={{CRID|1520573331051582464}} |doi=10.11501/10990713 |url=https://id.ndl.go.jp/bib/028666928 |accessdate=2023-06-08}}</ref>。
君主は基本的には任期が定まっておらず、その死去または自主的な退位までは在位をし続けるが、[[マレーシア]]や[[サモア]]のような任期制の君主国{{Efn|サモアを君主制に分類するかどうかについては定まっていない{{要出典|date=2019年7月}}。}}も存在する。[[アラブ首長国連邦]]は大統領制を取っており、任期は5年であるが、大統領は連邦に加盟する7ヶ国の世襲首長によって互選される上、国内で最大勢力を持つ[[アブダビ首長国]]の首長が大統領に選出されることが慣例化している<ref>[https://www.uae.emb-japan.go.jp/gaikyo_j.htm 在アラブ首長国連邦日本国大使館]</ref>。また[[アンドラ]]は[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]と[[スペイン]]の[[ウルヘル司教]]が職権上アンドラ公国共同公に就任し、共同元首となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/andorra/data.html 「アンドラ基礎データ」] 日本国外務省 令和元年12月4日 2020年6月30日閲覧</ref>。
=== 権限 ===
君主制はまた、その政治権力によっても分類される。君主が絶対的な権力を持つ政体が'''[[絶対君主制]]'''である。絶対君主制は[[独裁政治]]の一種であり、政治体制としては[[権威主義体制]]に含まれる。権力継承のシステムが確立している上に王族によって支配体制が固められている<ref>「比較政治学」p146 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 2014年9月30日初版第1刷</ref>ため、権威主義体制の各政体の中ではもっとも安定性が高い<ref>「比較政治学」p149 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 2014年9月30日初版第1刷</ref>。これに対し、君主が権力を制限されていたり付与されていない政体が'''[[制限君主制]]'''であり、権力の制限が[[憲法]]に基づく([[立憲主義]])場合は'''[[立憲君主制]]'''となる。立憲君主制はさらに、君主が名目的な地位にあるイギリス型と、君主に強力な権限を持たせたプロイセン型('''外見的立憲君主制''')に大別される<ref name="Britannica_constitutional_monarchy">{{Cite book|和書|title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目版|volume=6|edition=改訂第2版|year=1993|publisher=[[TBSブリタニカ|ティビーエス・ブリタニカ]]|chapter=立憲君主制}}</ref>。イギリス型の立憲君主制は[[議会制民主主義]]に立脚しており、民主制の君主国において広く採用されている<ref>「立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか」p25-27 君塚直隆 新潮社 2018年2月25日発行</ref>。
== 歴史 ==
{{main|君主制廃止|王政復古}}
18世紀末までは、世界のほとんどの国家において君主制が敷かれており、共和制を採る国家は[[スイス]]や[[オランダ連邦共和国]]、[[ヴェネツィア共和国]]などわずかな数に過ぎなかった。その後、18世紀末には[[アメリカ独立戦争]]によって[[アメリカ合衆国]]が成立し、[[フランス革命]]によって[[フランス]]が一時共和制を取ったことで君主制をとらない国家も増え始め、なかでもこの両革命の影響を強く受けた[[ラテンアメリカ]]諸国は18世紀初頭の独立時にほとんどが共和制をとった<ref>「代議制民主主義」p50-51 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。一方、ヨーロッパ大陸においては君主制はいまだに強固なものであり、[[ベルギー]]が独立を達成した際にも君主の推戴が条件とされたため、1831年に[[ドイツ]]の小領邦君主である[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]から[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を初代国王として受け入れた<ref>「物語 ベルギーの歴史」p39-41 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日</ref>。ヨーロッパにおける新独立国が他国から王族を迎え入れて君主制を敷く例は19世紀を通じてみられ、[[ギリシャ]](1832年)や[[ブルガリア]](1879年)、[[ノルウェー]](1905年)などが新しく王を受け入れている。ただしヨーロッパにおいては君主制は存続する一方で、[[イギリス]]において[[議院内閣制]]と立憲君主制が成立したのに続き、19世紀後半には[[自由主義]]の興隆によってヨーロッパ大陸諸国が立憲君主制を導入するなど、君主の権利は19世紀を通じて制限・縮小する傾向が続いた。この君主権の制限はヨーロッパ外にも一部波及し、日本や[[オスマン帝国]]にもこの時期立憲君主制が導入された<ref>「代議制民主主義」p48-49 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。
こうした流れが決定的に変化したのは[[第一次世界大戦]]によってである。この大戦で[[ドイツ]]、[[オーストリア・ハンガリー]]、[[ロシア]]の3ヶ国で君主制が崩壊し{{sfn|『現代世界の陛下たち』|p=11}}、また[[ヴェルサイユ条約]]によって独立したヨーロッパの国家は、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]を実質的に継承した[[ユーゴスラビア王国]]を除きいずれも共和制をとった。さらに[[第二次世界大戦]]によって、[[イタリア]]や東欧諸国で君主制が廃止された{{sfn|『現代世界の陛下たち』|p=14}}。一方、それまで[[同君連合]]制をとっていた[[イギリス連邦]]において、独立した[[インド]]が共和制を取ることを表明し、なおかつその後もイギリス連邦にとどまることを希望したため、[[1949年]]に国王への忠誠条項が撤廃され、[[英連邦王国]]とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となった<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p233-234 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>。第二次世界大戦以降、[[アジア]]・[[アフリカ]]地域でヨーロッパ諸国の[[植民地]]が相次いで独立したものの、この新独立国群は独立時にほとんど共和制を取り、君主制を敷いたのはいくつかの英連邦王国を除くと、独立以前から[[保護国]]や保護領などの形で君主制が残存していた国家に限られていた。[[中東]]で1950年代から1970年代にかけて王制が相次いで廃止された{{sfn|『現代世界の陛下たち』|p=16-18}}ように、君主制をとった新独立国も、政情不安からしばしば王制が転覆し、共和制へと移行するケースが見られ、[[イラン]]や[[エチオピア]]のように古い君主制国家でも王が失政を行った場合は革命が勃発して王が放逐された。
こうして君主制国家の割合は減り続け、2019年には君主制を取る国は国連加盟国の4分の1以下にまで減少した<ref>[https://www.sankei.com/article/20190321-7FT6OFOXOVMNRGS4L3P2IAVUI4/ 「【王位継承物語】21世紀の君主制と皇室 「継続と安定」もたらす宝」] 産経新聞 2019.3.21 2020年6月27日閲覧</ref>。この流れは21世紀に入っても続いており、2008年には[[ネパール]]において王政が廃止された<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2397063?cx_part=search 「ネパール制憲議会で宣誓式、君主制廃止へ」AFPBB 2008年5月28日 2020年6月27日閲覧</ref>。また、君主制を存続させている国家においても[[君主制廃止]]論は根強く残っており、オーストラリアなどではしばしば君主制廃止論が再燃している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3111776?cx_part=search 「豪で君主制廃止論再燃? 首相「女王退位後に共和制移行を」] AFPBB 2016年12月19日 2020年6月27日閲覧</ref>。一方で、1993年のカンボジアのように一度廃止された君主制を復活させる<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/data.html 「カンボジア王国基礎データ」] 日本国外務省 令和元年7月29日 2020年6月27日閲覧</ref>、いわゆる[[王政復古]]を行った国家も少数ながら存在する。
== 君主制の国家構成州 ==
2020年現在、アラブ首長国連邦とマレーシアの2ヶ国には国家内の州にも君主制のものが存在する。アラブ首長国連邦は[[アブダビ]]、[[ドバイ]]、[[シャールジャ]]、[[アジュマーン]]、[[ウンム・アル=カイワイン]]、[[フジャイラ]]、[[ラアス・アル=ハイマ]]の7つの首長国によって構成される連邦国家であり、各首長国はそれぞれ絶対君主制を取っている。独立した首長国が連合する形で成立した国家であるため、各首長国の権限は大きく自立性は高い<ref>『アラブ首長国連邦(UAE)を知るための60章』pp218-219 細井長編著 明石書店 2011年3月18日初版第1刷発行</ref>。これに対し、マレーシアの君主制国家構成領邦はすべてではなく、マレーシア半島部の11州のうち、[[ジョホール州]]、[[ケダ州]]、[[クランタン州]]、[[パハン州]]、[[ペラ州]]、[[スランゴール州]]、[[トレンガヌ州]]、[[ヌグリ・スンビラン州]]、[[プルリス州]]の9州のみが君主制を取っている。マレーシアの州の君主はいずれも権限は小さく、立憲的な議会主義君主制となっている<ref>[http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/313.pdf 「マレーシアの地方自治」p21-24 ] (財)自治体国際化協会 2007年12月10日 2020年7月4日閲覧</ref>。
== 君主の称号による分類 ==
[[ファイル:World Monarchies.svg|thumb|center|700px|'''現存する君主制国家'''
{{Legend-col|thumb size=narrow
|{{legend|#AA0000|[[絶対君主制]]の国}}
|{{legend|#D45500|絶対君主制に近い国}}
|{{legend|#285F27|[[立憲君主制]]の国}}
|{{legend|#008800|[[英連邦王国]] ([[人的同君連合]]となっている立憲君主制の国)}}
|{{legend|#FF00FF|伝統的な君主が地方に存在する国}}
|{{legend|#909090|君主が存在(及び、現存)しない国}}
|{{legend|#EEEEEE|国ではない陸地}}
|{{legend|#FFFFFF|海}}
}}]]
君主の種類による分類には以下がある。
=== 現存する国家形態 ===
* [[王国]]({{lang-en|Kingdom}})とは、[[国王]]または[[女王]]を元首とする国家。
* [[スルターン国]]({{lang-en|Sultanate}})とは、[[スルターン]]を元首とする国家。
* [[英連邦王国]]({{lang-en|Commonwealth realm}})とは、[[イギリス連邦|英連邦]]{{Efn|連合王国独自の解釈がされる非常に独特な国家連合体{{要出典|date=2019年7月}}。}}加盟国の中で、[[イギリスの君主]](2022年現在は国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]])を元首とする国家。イギリス以外の国では、英国王に任命された[[総督]]{{Efn|各国の総督はイギリス政府とは完全に無関係であり、実際には各国の[[首相]]の推薦により、その国の市民権を持つ人間が選ばれる{{要出典|date=2019年7月}}。}}が実質的に元首を務める。
* [[大公国]]({{lang-en|Grand Duchy}})。
* [[公国]]({{lang-en|Principality}})。
* [[首長国]]({{lang-en|Emirate}})。
=== 現存しない国家形態 ===
* [[専制公国]]({{lang-en|Despotate}})
* [[宮中伯国]]({{lang-en|Palatinate}})
* [[辺境伯国]]({{lang-en|Margraviate}})
* [[城伯国]]({{lang-en|Burgraviate}})
* [[方伯国]]({{lang-en|Landgraviate}})
* [[伯国]]({{lang-en|County}})
* [[子爵|子国]]({{lang-en|Viscounty}})
* [[男爵|男国]]({{lang-en|Barony}})
* [[騎士団領]]({{lang-en|Monastic state}})
* [[司教領]]({{lang-en|Prince-Bishopric}})
* [[汗国]]({{lang-en|Khanate}})
* [[ヘーチマン国]]({{lang-en|Hetmanate}})
* [[君侯国]](ベイリク、{{lang-en|Beylik}})
* [[帝国]]({{lang-en|Empire}})
**[[ツァーリ国]]({{lang-en|Tsardom}}、ロシアなどの[[スラヴ語]]圏における帝国。)
* [[藩王国]](土侯国、{{lang-en|Princely state}})
* 大公国({{lang-en|Grand Principality}} 日本語ではPrincipalityとの対比で大公国(だいこうこく)になる)
* 公国({{lang-en|Duchy}})
* [[幕府|将軍領]]({{lang-en|Shogunate}})日本の政府が[[幕府]]であった時の称。
== 君主国の一覧 ==
2022年時点において君主制を取っている国家は、以下の43ヶ国である。このうち、英連邦王国に属する国家が15ヶ国存在する。
{| class="sortable wikitable"
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|-
|{{flag|JPN|name=日本国}}
|[[天皇]]{{Efn|天皇が君主かは議論がある{{要出典|date=2019年7月}}。{{See also|象徴天皇制#議論}}}}
|[[象徴天皇制]]([[立憲君主制]])
|世襲制
|1947
|-
|{{flag|KHM|name=カンボジア王国}}
|[[カンボジア君主・国家元首一覧|王]]
|立憲君主制
|世襲選挙制
|1993
|-
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|[[タイの国王|王]]
|[[制限君主制]]<!--軍事政権に掌握されている-->
|世襲制
|2017
|-
| {{flag|BTN|name=ブータン王国}}
|[[ブータンの国王一覧|王]]
|立憲君主制
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|2007
|-
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|[[ブルネイの国王|スルターン]]
|[[絶対君主制]]
|世襲制
|1959
|-
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|[[マレーシアの国王|王]]{{Efn|各州のスルタンが輪番で国王を務める{{要出典|date=2019年7月}}}}
|立憲君主制
|選挙君主制
|1957
|-
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|[[オランダ君主一覧|王]]
|立憲君主制
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|1815
|-
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|[[象徴君主制]](立憲君主制)
|世襲制
|1974
|-
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|[[スペイン君主一覧|王]]
|議会君主制<br/>(立憲君主制)
|世襲制
|1978
|-
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|[[デンマーク君主一覧|王]]
|立憲君主制
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|1849
|-
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|立憲君主制
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|1814
|-
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|[[ベルギー国王の一覧|王]]
|立憲君主制
|世襲制
|1831
|-
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|[[モナコ統治者の一覧|公]]
|立憲君主制
|世襲制
|1911
|-
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|[[アンドラ君主一覧|共同公]]
|立憲君主制
|職権上
|1993
|-
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|[[リヒテンシュタインの統治者一覧|侯]]
|立憲君主制
|世襲制
|1862
|-
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|[[ルクセンブルク大公|大公]]
|立憲君主制
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|1868
|-
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|[[モロッコの君主一覧|王]]
|立憲君主制
|世襲制
|1957
|-
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|[[アラブ首長国連邦の大統領|大統領]]
|混合制
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|1971
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|[[オマーンの国王|スルターン]]
|絶対君主制
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|1996
|-
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|[[カタールの元首一覧|首長]]
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|2004
|-
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|[[クウェートの首長|首長]]
|絶対君主制
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|1962
|-
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|[[サウジアラビアの国王一覧|王]]
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|1992
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|2002
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|立憲君主制
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|1968
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|1993
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|1970
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|1920
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|[[イギリスの君主|王]]
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|1701
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|英国王
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|
|1981
|-
|{{AUS}}
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|1901
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|1867
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|1974
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|1962
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|{{KNA}}
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|{{VCT}}
|英国王
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|1979
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|1979
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|1978
|-
|{{NZL}}
|英国王
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|1907
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|{{BHS}}
|英国王
|立憲君主制
|
|1973
|-
|{{PNG}}
|英国王
|立憲君主制
|
|1975
|-
|{{BLZ}}
|英国王
|立憲君主制
|
|1981
|}
=== 現存しない ===
{{main|君主制廃止#歴史}}
==== 19世紀以前に君主制から共和制に移行した国 ====
{{節スタブ}}
* [[アラウカニア・パタゴニア王国]] → (1862年)[[アルゼンチン|アルゼンチン共和国]][[サンタクルス州]]・[[チュブ州]]・[[ネウケン州]]・[[リオネグロ州]]、[[チリ|チリ共和国]][[ラ・アラウカニア州]]
* [[教皇領]] → (1849年)[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]](現[[イタリア|イタリア共和国]][[ローマ]])
* [[スペイン・ブルボン朝|スペイン王国]] → (1873年)[[スペイン第一共和政|スペイン共和国]](現[[スペイン]])
* [[ハイチ帝国 (1804年-1806年)|ハイチ帝国]] → (1806年)[[ハイチ国]](現[[ハイチ|ハイチ共和国]]北部)、[[ハイチ#賠償金の圧迫と国内の混乱|ハイチ共和国]](現[[ハイチ|ハイチ共和国]]南部)
* [[ハイチ王国]] → (1820年)[[ハイチ|ハイチ共和国]]
* [[ハイチ帝国 (1849年-1859年)|ハイチ帝国]] → (1859年)[[ハイチ|ハイチ共和国]]
* [[ハワイ王国]] → (1893年)[[ハワイ共和国]](現[[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]])
* [[フランス第二帝政|フランス帝国]] → (1870年)[[フランス|フランス共和国]]
* [[ブラジル帝国]] → (1889年)[[ブラジル合衆国]](現[[ブラジル|ブラジル連邦共和国]])
* [[メキシコ帝国#メキシコ第一帝政(1821年-1823年)|メキシコ帝国]] → (1823年)[[メキシコ|メキシコ合衆国]]、[[中米連邦]](現[[エルサルバドル|エルサルバドル共和国]]、[[グアテマラ|グアテマラ共和国]]、[[コスタリカ|コスタリカ共和国]]、[[ニカラグア|ニカラグア共和国]]、[[ホンジュラス|ホンジュラス共和国]])
* [[メキシコ帝国#メキシコ第二帝政(1864年-1867年)|メキシコ帝国]] → (1867年)[[メキシコ|メキシコ合衆国]]
* [[ロンバルド=ヴェネト王国]] → (1848年)[[ヴェネト共和国]](現[[イタリア|イタリア共和国]][[ヴェネト州]]・[[フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州]]・[[ロンバルディア州]])
* [[ワルシャワ公国]] → (1815年)[[クラクフ共和国]](現[[ポーランド|ポーランド共和国]][[クラクフ]])
==== 20世紀に君主制から共和制に移行した国 ====
* [[アイスランド王国]] → (1944年)[[アイスランド|アイスランド共和国]]
* [[アイルランド自由国]] → (1937年)[[アイルランドの歴史#自由国と共和国(1922年 - 現在)|エール]](現[[アイルランド]])
* [[バーラクザイ朝|アフガニスタン王国]] → (1973年)[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン共和国]](現[[アフガニスタン|アフガニスタン・イスラム共和国]])
* [[アルバニア公国]] → (1925年)[[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア共和国]](現[[アルバニア|アルバニア共和国]])
* [[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]] → (1946年)[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア人民共和国]](現[[アルバニア|アルバニア共和国]])
* [[イエメン王国|イエメン・ムタワキエ王国]] → (1962年)[[北イエメン|イエメン・アラブ共和国]](現[[イエメン|イエメン共和国]]北部)
* [[イタリア王国]] → (1946年)[[イタリア|イタリア共和国]]
* [[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]] → (1950年)[[インド]]
* [[イラク王国]] → (1958年)[[イラク|イラク共和国]]
* [[パフラヴィー朝|イラン帝国]] → (1979年)[[イラン|イラン・イスラム共和国]]
* [[ウガンダ (ドミニオン)|ウガンダ]] → (1963年)[[ウガンダ|ウガンダ共和国]]
* [[ウクライナ国]] → (1918年)[[ウクライナ人民共和国]](現[[ウクライナ]])
* [[エジプト王国]] → (1953年)[[エジプト共和国]](現[[エジプト|エジプト・アラブ共和国]]、[[スーダン|スーダン共和国]])
* [[エチオピア帝国]] → (1975年)[[社会主義エチオピア]](現[[エチオピア|エチオピア連邦民主共和国]]、[[エリトリア|エリトリア国]])
* [[オーストリア=ハンガリー帝国]] → (1918年)[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツオーストリア共和国]](現[[オーストリア|オーストリア共和国]])
* [[オスマン帝国]] → (1923年)[[トルコ|トルコ共和国]]
* [[ガーナ (ドミニオン)|ガーナ]] → (1960年)[[ガーナ|ガーナ共和国]]
* [[ガイアナ (ドミニオン)|ガイアナ]] → (1970年)[[ガイアナ|ガイアナ共和国]]
* [[ガンビア (ドミニオン)|ガンビア]] → (1970年)[[ガンビア|ガンビア共和国]]
* [[カンボジア王国 (1954年-1970年)|カンボジア王国]] → (1970年)[[クメール共和国]](現[[カンボジア|カンボジア王国]])
* [[ギリシャ王国]] → (1924年)[[ギリシャ第二共和政|ギリシャ共和国]](現[[ギリシャ|ギリシャ共和国]])
* [[ギリシャ王国]] → (1974年)[[ギリシャ|ギリシャ共和国]]
* [[クロアチア独立国]] → (1945年)[[クロアチア社会主義共和国]](現[[クロアチア|クロアチア共和国]])、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]](現[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]])
* [[ケニア (ドミニオン)|ケニア]] → (1964年)[[ケニア|ケニア共和国]]
* [[シエラレオネ (ドミニオン)|シエラレオネ]] → (1971年)[[シエラレオネ|シエラレオネ共和国]]
* [[ザンジバル王国]] → (1964年)[[ザンジバル人民共和国]](現[[タンザニア|タンザニア連合共和国]][[ザンジバル]])
* [[シッキム王国]] → (1975年)[[インド]]、[[シッキム州]]
* スペイン王国 → (1931年)[[スペイン第二共和政|スペイン共和国]](現[[スペイン|スペイン王国]])
* [[セイロン (ドミニオン)|セイロン]] → (1972年)[[スリランカ共和国]](現[[スリランカ|スリランカ民主社会主義共和国]])
* [[清|大清帝国]] → (1912年)[[北京政府|中華民国]](現[[中華人民共和国]])
* [[大日本帝国]](旧[[大韓帝国]]北部) → (1948年)[[朝鮮民主主義人民共和国]]
* [[大日本帝国]](旧[[大韓帝国]]南部) → (1948年)[[大韓民国]]
* [[大日本帝国]]([[日本統治時代の台湾|台湾]]) → (1949年)[[中華民国]]
* [[タンガニーカ#独立|タンガニーカ]] → (1962年)[[タンガニーカ共和国]](現[[タンザニア|タンザニア連合共和国]][[タンガニーカ]])
* [[中央アフリカ帝国]] → (1979年)[[中央アフリカ|中央アフリカ共和国]]
* [[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]] → (1916年)[[中華民国の歴史#中国国民党の設立|中華民国]](現[[中華人民共和国]])
* [[チュニジア王国]] → (1957年)[[チュニジア|チュニジア共和国]]
* [[ドイツ帝国]] → (1919年)[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]](現[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]])
* [[トリニダード・トバゴ (ドミニオン)|トリニダード・トバゴ]] → (1976年)[[トリニダード・トバゴ|トリニダード・トバゴ共和国]]
* [[ナイジェリア (ドミニオン)|ナイジェリア]] → (1963年)[[ナイジェリア|ナイジェリア連邦共和国]]
* [[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]] → (1956年)[[パキスタンの歴史#軍政への移行|パキスタン・イスラム共和国]](現[[パキスタン|パキスタン・イスラム共和国]]、[[バングラデシュ|バングラデシュ人民共和国]])
* [[バルト連合公国]] → (1918年)[[ラトビア社会主義ソビエト共和国]](現[[ラトビア|ラトビア共和国]])
* [[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]] → (1946年)[[ハンガリー第二共和国|ハンガリー共和国]](現[[ハンガリー|ハンガリー共和国]])
* [[フィジー (ドミニオン)|フィジー]] → (1987年)[[フィジー共和国]]
* [[フィンランド王国]] → (1918年)[[フィンランド|フィンランド共和国]]
* [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]] → (1944年)[[ブルガリア人民共和国]](現[[ブルガリア|ブルガリア共和国]])
* [[ブルンジ王国]] → (1966年)[[ブルンジ|ブルンジ共和国]]
* [[ベトナム帝国]] → (1945年)[[ベトナム民主共和国]](現[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]北部)
* [[ベトナム国]] → (1955年)[[ベトナム共和国]](現[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]南部)
* [[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド王国]] → (1918年)[[ポーランド第二共和国|ポーランド共和国]](現[[ポーランド|ポーランド共和国]])
* [[ポルトガル王国]] → (1910年)[[ポルトガル|ポルトガル共和国]]
* [[マラウイ (ドミニオン)|マラウイ]] → (1966年)[[マラウイ|マラウイ共和国]]
* [[マルタ (ドミニオン)|マルタ]] → (1974年)[[マルタ|マルタ共和国]]
* [[満州国]] → (1946年)[[中華民国の歴史#中国国民党の設立|中華民国]](現[[中華人民共和国]])
* [[南アフリカ連邦]] → (1961年)[[南アフリカ共和国年表#南アフリカ共和国|南アフリカ共和国]](現[[南アフリカ共和国]]、[[ナミビア|ナミビア共和国]])
* [[モーリシャス (ドミニオン)|モーリシャス]] → (1992年)[[モーリシャス|モーリシャス共和国]]
* [[モルディブ・スルターン国]] → (1968年)[[モルディブ|モルディブ共和国]]
* [[ボグド・ハーン政権|モンゴル国]] → (1924年)[[モンゴル人民共和国]](現[[モンゴル国]])
* [[ユーゴスラビア王国]] → (1943年)[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア民主連邦]](現[[クロアチア|クロアチア共和国]]、[[コソボ|コソボ共和国]]、[[スロベニア|スロベニア共和国]]、[[セルビア|セルビア共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[マケドニア共和国]]、[[モンテネグロ]])
* [[ラオス王国]] → (1975年)[[ラオス|ラオス人民民主共和国]]
* [[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]] → (1918年)[[リトアニア|リトアニア共和国]]
* [[リビア王国]] → (1969年)[[リビア・アラブ共和国]](現[[リビア|リビア国]])
* [[ルーマニア王国]] → (1947年)[[ルーマニア社会主義共和国|ルーマニア人民共和国]](現[[ルーマニア]])、[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]](現[[モルドバ|モルドバ共和国]])
* [[ルワンダ王国]] → (1961年)[[ルワンダ|ルワンダ共和国]]
* [[ロシア帝国]] → (1922年)[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]](現[[独立国家共同体#加盟国|独立国家共同体]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[バルト三国]])
==== 21世紀に君主制から共和制に移行した国 ====
* [[ターリバーン|アフガニスタン・イスラム首長国]] → (2001年)[[アフガニスタン・イスラム移行国]](現[[アフガニスタン|アフガニスタン・イスラム共和国]])
* [[ネパール王国]]→(2008年)[[ネパール|ネパール連邦民主共和国]]
* バルバドス英連邦→(2021年)[[バルバドス|バルバドス共和国]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|last = 淡路|first = 憲治|title = パリ・コミューンとマルクス (II) (The Paris Commune and Marx (II) )|date = 1980|publisher = 岡山大学経済学会|journal = 岡山大学経済学会雑誌|volume = 11|issue = 4|pages = 97-130|issn = 03863069|doi = 10.18926/OER/42271|naid = 120002737550|url = https://doi.org/10.18926/OER/42271|ref = harv}}
* {{Cite journal|和書|last = 今井|first = 義夫|title=ロシア・ツァーリズムのイデオロギー (第15回〔社会思想史学会〕大会記録) -- (君主制のイデオロギー<シンポジウム>)|journal=社会思想史研究|ISSN=03864510|publisher=北樹出版|year=1991|issue=15|pages=30-42|naid=40004183391|id={{NDLJP|1830349}}|doi=10.11501/1830349|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I3515078-00|ref = harv}}
* {{Cite journal |和書 |last = 大澤 |first = 覚 |authorlink = 大澤覚 |title = マルクスはburgerlichをbourgeoisの意味で使っているか |date = 2006 |publisher = 嘉悦大学 |journal = 嘉悦大学研究論集 |volume = 49 |issue = 1 |pages = 49-65 |naid = 120005538517 |url = http://id.nii.ac.jp/1269/00000161/ |ref = harv}}
* {{Cite journal|和書|last = 岡田|first = 健太郎|title = カナダ国民統合における立憲君主制の役割についての一考察 ―― 連邦議会上院などを事例として(A Study on the Canadian Political Unity and the Substantial Role of the Constitutional Monarchy System in Canada from the Current Canadian Political & Social Context)|date = 2015|publisher = 神奈川県立国際言語文化アカデミア|journal = 神奈川県立国際言語文化アカデミア紀要|volume = 4|pages = 19-31|issn = 2186-7348|doi = 10.20686/academiakiyou.4.0_19|ref = harv}}
* {{Cite book|和書|last1= 小川|first1= 環樹|last2= 西田|first2= 太一郎|last3= 赤塚|first3= 忠|last4= 阿辻 |first4= 哲次|title= 角川新字源|edition= 改訂新版 特装版 初版|publisher= [[KADOKAWA]]|year= 2017|isbn= 978-4044003333|ref= harv}}
* {{Cite journal |和書 |last = 荻野 |first = 雄 |authorlink = 荻野雄 |title = 政治的リテラシーを高める政治教育のために:高校生専門体験講座での実践から |journal = 教職キャリア高度化センター教育実践研究紀要 |volume = 3 |publisher = 京都教育大学教育創生リージョナルセンター機構教職キャリア高度化センター |date = 2021-03-31 |pages = 75-83 |issn = 24345156 |url = https://hdl.handle.net/20.500.12176/9564 |hdl = 20.500.12176/9564 |ref = harv}}
* {{Cite book |和書| author = 小学館国語辞典編集部| title = 精選版 日本国語大辞典| chapter = 民主主義| year = 2019| url = https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140069#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8
| ref = {{SfnRef|小学館国語辞典編集部|2019}}}}
* {{Cite book |和書 |last=竹林 |first=滋 |title=研究社 新英和大辞典 |edition=第6版第1刷 |publisher=研究社 |year=2002 |isbn=978-4767410265 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |last = 中西 |first = 治 |authorlink = 中西治 |title = グローバリゼーション・エンパイア・インペリアリズム:アメリカ合衆国は帝国か、その政策は帝国主義か(Globalization, Empire and Imperialism : Is the USA an Empire? Is Its Policy an Imperialism?) |date = 2005 |publisher = 創価大学 |journal = Sociologica(佐々木交賢・松本和良両教授退任記念論集) |volume = 29 |issue = 1・2 |pages = 81-107 |naid = 110006608858 |hdl = 10911/2452 |url = https://hdl.handle.net/10911/2452 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書|date = 2019|publisher = ブリタニカ・ジャパン|title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|chapter = 君主|ref = {{SfnRef|ブリタニカ・ジャパン|2019}} }} {{kotobank|1=君主 |2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
* {{Cite book|和書|date = 2019|publisher = 平凡社|title = 世界大百科事典 |edition=第2版|chapter = 君主制|url = https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6-58367#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88
|ref = {{SfnRef|平凡社|2019}} }}
* {{Cite book |和書| publisher = 平凡社| title = 百科事典マイペディア| chapter = 民主主義| year = 2019b| url = https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140069#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
| ref = {{SfnRef|平凡社|2019b}}
}}
* {{Cite book|和書|date = 2023|publisher = 平凡社|title = 世界大百科事典 |edition=第2版 |chapter = 共和制|url = https://kotobank.jp/word/%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%88%B6-53144#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
|ref = {{SfnRef|平凡社|2023}} }}
* {{Cite journal|和書|last = 湊|first = 晶子|authorlink = 湊晶子|title = ローマ帝国における「皇帝礼拝」と「皇帝崇拝」:皇帝の神格化をめぐって|date = 1991|publisher = 東京基督教大学|journal = キリストと世界:東京基督教大学紀要|volume = 1|pages = 61-75|url = http://id.nii.ac.jp/1131/00001844/ |naid = 110000540022 |ref = harv}}
* {{Cite web|和書|author= Weblio|date= 2019|url= https://ejje.weblio.jp/content/monarchism|title= Weblio英和辞典・和英辞典|publisher= ウェブリオ株式会社|accessdate=2019-07-31|ref= harv}}
* {{Cite book|和書 |author=水島治郎, 君塚直隆 |title=現代世界の陛下たち : デモクラシーと王室・皇室 |publisher=ミネルヴァ書房 |year=2018 |ISBN=9784623082773 |id={{全国書誌番号|23105598}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029171829-00 |ref={{harvid|『現代世界の陛下たち』}}}}
== 関連項目 ==
<!--テンプレートにあるので不要。* [[絶対君主制]] - [[制限君主制]] - [[立憲君主制]] - [[世襲君主制]] - [[選挙君主制]] - [[プリンキパトゥス]](元首政) - [[ドミナートゥス]](専制君主制)-->
* [[君主]]
* [[王室]]
* [[皇室]]
* {{仮リンク|連邦君主制|en|Federal monarchy}}
* [[主権国家体制]]
* [[君主号]]
* [[君主制廃止]]
* [[封建国家]] - [[封建制]] - [[領邦]] - [[諸侯]] - [[親政]] - [[院政]]
* [[国王崩御、国王万歳!]](もしくは、前王は身罷れた、次王万歳) - 王が死んでも、次の王に王位が継承され、王国が何代も続くことを願った外国語の慣用句(元は{{lang-fr|Le roi est mort, vive le roi!}}、{{lang-en|The king is dead, long live the king!}})
* [[レス・プブリカ]] - 君主制と対義する語となっている。
{{各国の君主制}}
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希薄磁性半導体
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希薄磁性半導体(きはくじせいはんどうたい)は、化合物半導体の結晶内の一部を、磁性を持つ原子(鉄、マンガン、クロムなど)で置換した磁性半導体である。略してDMS(Diluted Magnetic Semiconductor)
第一原理計算に代表される理論面からも、分子線エピタキシーなどによる結晶成長による実験的面からも、研究がなされている。
現在の希薄磁性半導体の弱点は、キュリー温度の低さである。ほとんどの物は液体窒素等で冷却した場合にのみ強磁性を示し、室温では磁性が消失してしまう。室温で強磁性を示す物の報告もあるが、未だ実験室レベルでの話であり、実用化にはまだ時間がかかると考えられている。
(A, B)Cという書き方は、AサイトをBの原子が置換しているということを強調するために書かれる。いくつか流儀があり、これが絶対ではない。
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'''希薄磁性半導体'''(きはくじせいはんどうたい)は、[[化合物半導体]]の[[結晶]]内の一部を、[[磁性]]を持つ[[原子]]([[鉄]]、[[マンガン]]、[[クロム]]など)で置換した[[磁性半導体]]である。略して'''DMS'''('''D'''iluted '''M'''agnetic '''S'''emiconductor)
[[第一原理計算]]に代表される理論面からも、[[分子線エピタキシー法|分子線エピタキシー]]などによる[[結晶成長]]による実験的面からも、研究がなされている。
現在の希薄磁性半導体の弱点は、[[キュリー温度]]の低さである。ほとんどの物は[[液体窒素]]等で冷却した場合にのみ[[強磁性]]を示し、[[常温|室温]]では磁性が消失してしまう。室温で強磁性を示す物の報告もあるが、未だ実験室レベルでの話であり、実用化にはまだ時間がかかると考えられている。
==DMSの例==
*(In, Mn)As ([[インジウム]][[マンガン]][[ヒ素|砒素]])
*(Ga, Mn)As ([[ガリウム]]マンガン砒素)
*(Ga, Mn)N (ガリウムマンガン[[窒素|ナイトライド]])
*(Zn, Cr)Te ([[亜鉛|ジンク]][[クロム|クロミウム]][[テルル|テルライド]])
(A, B)Cという書き方は、AサイトをBの原子が置換しているということを強調するために書かれる。いくつか流儀があり、これが絶対ではない。
==関連記事==
*[[スピントロニクス]]
*[[半導体]]
*[[物性物理学]]
{{DEFAULTSORT:きはくしせいはんとうたい}}
[[Category:固体物理学]]
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[[Category:スピントロニクス]]
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デビッド・ベッカム
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デビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム(David Robert Joseph Beckham, OBE、1975年5月2日 - )は、イングランドの元サッカー選手。元イングランド代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。2013年に現役を引退した。MLS・インテル・マイアミCFの共同オーナーを務めている。
FIFA最優秀選手賞では2位に2度選出され、2004年に初めて最も収入を得たサッカー選手となり、イギリス人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ100試合出場を達成した。
2000年11月15日から、2006 FIFAワールドカップまで、58試合でイングランド代表のキャプテンを務めた。 その後も代表に選ばれ、2008年3月26日に行われたフランス戦で100キャップ目を記録し、フィールドプレイヤーとしては最多の出場数を誇っている。
1999年にスパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム(旧姓アダムス)と結婚した。
1975年5月2日、ロンドン北東部に位置する下町レイトンストーンに配管工(鉛管工)の父と看護師の母サンドラの間に長男として生まれた。後に一家はさらに北へ行ったチングフォードに引っ越し、ベッカムはここで少年時代を過ごしている。兄弟は、姉のリン(1972年 - )と妹のジョアン(1980年 - )がいる。ベッカムの母方の祖父はユダヤ人であり、ベッカムは自身を「半分ユダヤ人("half Jewish")」として言及し、自叙伝には「たぶん、私はどの他のどの宗教よりユダヤ教との接触が多かっただろう」と記述している。2007年のインタビューで、ベッカムは以下のようなことを話している。「学校で先生たちが『大きくなったら何になりたいの?』と聞かれるたびに『サッカー選手』と答えていた。するとどの先生も『いえ、実はどんなお仕事がしたいかを聞いているのだよ』と言われてしまう。でも俺は将来サッカー選手になりたいとだけ考えていた」。1982年に地元の創設まもないリッジウェイ・ローヴァーズ(現在のブリムズダウン・ローヴァーズFC)に入団。ベッカムは3シーズンで115試合に出場し101得点を挙げ、1986年にはスパイシーFCから誘いも受けたが、時期尚早との判断で最終的に6年間在籍した。並行して学校での試合にも参加し、ベッカムは地区と州の代表に選出されている。また1985年と1986年にボビー・チャールトンが主宰する全国規模のサッカースクールに参加しており、1986年には実施された技術テストでロンドン地区で優勝し、マンチェスター・ユナイテッドFCの旧練習場とオールド・トラッフォードで行われた決勝戦では過去6年間での最高得点を挙げ優勝した。ちなみに入賞の賞品は、バルセロナでの2週間の合同練習であった。
ロンドン北部のいくつかのクラブから誘いを受け、近所のトッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが、1988年5月2日にマンチェスター・ユナイテッドFCの学生準会員となり、1989年8月に晴れて学生会員となった。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ。
1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームはFAユースカップを優勝。当初はフィジカルに難があったベッカムは外れていたが、最終的に右サイドハーフを担当していたキース・ギレスピー(英語版)が前線へ移動したことで出場機会に恵まれ、決勝のクリスタル・パレス戦の2ndレグでは1得点を挙げチームの優勝に貢献した。翌年の同大会も決勝まで駒を進めたが、リーズ・ユナイテッドAFCに敗れて準優勝。同時期の選手達は揃ってリザーブチームに昇格し、Aリーグとセントラル・リーグで優勝するという20年ぶりの快挙を成し遂げた。この頃、エリック・カントナが練習相手としてクロスを蹴らせていたところ、ファーガソン監督がその光景を見て、そのクロスの精度の高さにトップで起用することを決めた.
1992-93シーズン、9月23日に行われたリーグカップのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ、第6節のガラタサライ戦に先発出場すると、トップチームでの自身初の得点を挙げた。
1994-95シーズン、経験を積むために1か月間のレンタル移籍で、当時リーグ2所属のプレストン・ノースエンドに加入。当時の監督ギャリー・ピーターズ(英語版)の指示でフリーキックとコーナーキックを任せられ、5試合に出場し(1試合は途中出場、チームは3勝2分)、フリーキックとオリンピックゴールで2得点を挙げた。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日のリーズ戦にスターティングメンバーとして出場し、プレミアリーグデビューを果たした。
ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バット、ガリーとフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれる選手たちの一人であった。1994-95シーズンを最後に、ポール・インスやマーク・ヒューズ、アンドレイ・カンチェルスキスといった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソンは、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏にダレン・アンダートン、マルク・オーフェルマルス、ロベルト・バッジョの獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用することを決めたが、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦でアストン・ヴィラFCに1-3で敗れ、アラン・ハンセンの「子供ばかりでは勝てない」という言葉に象徴されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。
ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドFCを逆転して得たものであった。
マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に招集されることはなかった。
1996-97シーズン開幕前に背番号10番を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。
1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいた。
1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルFCに次いで、2位でシーズンを終えた。
1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。
リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパーFC(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。
FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッドFC戦とチャンピオンズリーグ決勝のバイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、ロスタイムに2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた活躍が評価され、バロンドールとFIFA最優秀選手賞では、いずれもリバウドに次いで2位に選出された。
FIFAクラブ世界選手権のクルブ・ネカクサ戦で故意のファールで退場処分を受けた後にも批判を浴びた。プレスの間では、妻が悪い影響を与えており、ベッカムを売ることがユナイテッドにとってプラスになるのではないかと囁かれるようになった。しかし、監督は彼を支持しクラブに留まることになった。1999-2000シーズン中には、イタリアのユヴェントスへの移籍の話があったが、結局は何も起こらなかった。
しかし、ベッカムがサッカーから離れたところから名声を得始めたことによって、2000年の初めからファーガソンとベッカムの関係は悪化し始めた。2000年にベッカムは嘔吐下痢症に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソンは、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていたヴィクトリア・ベッカムが子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒し、ベッカムに対してクラブでの最大の罰金(2週間分の給料、ベッカムの場合は50,000ポンド)を科し、ユナイテッドのライバルであるリーズとの重要な試合のメンバーから外した。ファーガソンは後に自叙伝の中で、「チームメイトに対してフェアではなかった」として批判し、ベッカムを非難した。しかし、ユナイテッドは記録的な差でリーグのタイトルを獲得し、ベッカムもタイトル獲得に貢献した。
「結婚するまで彼は何の問題もなかった。夜にはよくアカデミーでコーチをしたりと素晴らしい若者だった。しかし、結婚によってエンターテイメントシーンへ入ってしまったことが問題だった。その瞬間から彼の生活は決して以前のようにはならなくなってしまったし、彼はそのような有名人になってしまった。サッカーはそのほんの一部に過ぎない」(アレックス・ファーガソンが2007年にベッカムの結婚について語った言葉)
ベッカムは連覇に貢献し、1999-2000シーズンは、2位のアーセナルに18ポイント差を付けて優勝し、残り11試合を11連勝で飾り首位を快走した。連勝中にベッカムは5ゴールを挙げ、シーズンを通して6ゴール、全公式戦で8ゴールを記録した。
ベッカムは3連覇を達成した2000-01シーズンのユナイテッドの中心選手であった。ベッカムはリーグ戦で9ゴールを挙げた。
2002年4月10日、チャンピオンズリーグのデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で左足の第二中足骨を骨折した。怪我をさせた選手がイングランドがワールドカップで対戦することになっているアルゼンチンのアルド・ドゥシェルであったため、イギリスのメディアの間では故意に負わせた怪我ではないかとの憶測が生まれた。怪我により、ベッカムは残りのシーズンを棒に振り、クラブもリーグのタイトルを逃した。大部分は彼への肖像権料の支払いの割合についてであったが、数か月に及ぶ交渉の末、3年間の契約延長にサインした。新しい契約による給料の増加と広告収入により、ベッカムは世界で一番収入を得ているサッカー選手となった。
2001-02シーズンは、ユナイテッドの選手として、ベッカムにとっての最高のシーズンであった。リーグ戦28試合に出場し11ゴール、全公式戦42試合に出場し16ゴールの成績を残した。
怪我から回復して迎えた2002-03シーズンであったが、オーレ・グンナー・スールシャールがベッカムに代わって右サイドでプレイしており、以前のようにポジションを得ることが出来なかった。監督との関係も2003年2月15日に行われたFAカップのアーセナル戦後に悪化。ドレッシングルームで敗退に怒ったファーガソンがスパイクを蹴り上げ、それがベッカムの目の上を直撃し、縫合が必要な傷を負ってしまった。この事件をきっかけとして、多くの移籍の噂が巻き起こり、ブックメーカーは、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めた。チームは低調なスタートを切ったが、12月頃から立ち直り、リーグ優勝を果たした。ベッカムは全公式戦を通して52試合に出場し、11ゴールを挙げた。
ベッカムは、イングランド代表ではレギュラーとしてプレイし続けており、6月13日にOBEを受勲した。
プレミアリーグで265試合に出場し、61得点、チャンピオンズリーグでは81試合に出場し、15得点の成績を残した。6度のリーグ優勝と2度のFAカップ優勝、チャンピオンズリーグとインターコンチネンタルカップ、FAユースカップのタイトルを12年間の間に獲得した。
2003年、ジョアン・ラポルタがFCバルセロナの会長に立候補した際、ベッカムの獲得を公約に掲げた。マンチェスター・ユナイテッドはFCバルセロナへの移籍を望んでいたが、ベッカムはレアル・マドリードを選択し、4年間の契約を結んだ。移籍金は約3500万ユーロだとされている。手続きは2003年7月1日に完了し、ローリー・カニンガム、スティーブ・マクマナマンに続いて、レアル・マドリードでプレイするイギリス人のサッカー選手となった。
マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表では7番を付けていたが、クラブのキャプテンであるラウル・ゴンサレスが付けている背番号であったため、7番を選ぶことはできず、23番を選択した。その選択の理由は、尊敬するバスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが付けていた番号であるからだと報道された。ロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍会見時には「背番号はマドリード時代と同じ23が良い。マイケル・ジョーダンを尊敬しているし、アメリカでは特別な番号だ」と語った。しかし、のちに本人が「空いている番号でどれでもよかった」と語っている。
2003-04シーズン、レアル・マドリードは4位でシーズンを終了し、チャンピオンズリーグでも準々決勝で敗退したが、ベッカムは開幕戦でのゴールを含め、最初の公式戦16試合で5得点を挙げ、すぐにサポーターのお気に入りとなった。しかし、リーグかチャンピオンズリーグのいずれかのタイトルを獲得することを望んでいた会長の期待には応えることは出来なかった。また、このシーズンからは、チーム事情により、センターハーフでのプレーが主だった。
2004-05シーズン、チームは無冠に終わる。移籍後は主にセンターハーフでプレーしていたが、冬にトーマス・グラベセンが加入したことと監督であったヴァンデルレイ・ルシェンブルゴとルイス・フィーゴの確執に伴い、2005年に入ってからはフィーゴに代わって右サイドハーフとして出場する機会が増えた。右サイドで出場した2005年のエル・クラシコではマイケル・オーウェンへのアシストを含め2アシストを記録し、移籍後最高のパフォーマンスと称される活躍をして4-2の勝利に貢献した。その後も右サイドハーフとして出場を続け好パフォーマンスを披露し、リーグで最も多くのアシストを記録した選手となった。
2005-06シーズンは、フィーゴの移籍に伴い右サイドハーフに定着したが、優勝したバルセロナに12ポイント差を付けられての2位に終わり、チャンピオンズリーグでは、アーセナルFCに決勝トーナメント1回戦で敗れた。
2006-07シーズンは監督に就任したファビオ・カペッロの好みにより、当初はスターティングメンバーで出場したが、ベッカムがスターティングメンバーとして出場した最初の9試合で、レアルは7ポイントを落とし、スピードのある新加入選手のホセ・アントニオ・レジェスに右サイドのポジションを奪われた。
2007年1月10日、長引いた交渉の末に、スポーツディレクターを務めていたプレドラグ・ミヤトヴィッチは、シーズン終了後にクラブを去ると発表したが、あれは誤訳であり、実際には再交渉はまだ始っていないと言ったのだと主張した。しかし、1月11日にベッカムはレアル・マドリードを離れ、特別指定選手制度(Designated Player Rule)を使用してメジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍することが明らかになり、翌日のMLSのスーパードラフトの際に公式な記者会見が開かれた。ベッカムはロサンゼルス・キャラクシーと7月1日からの5年間の契約を結んだと発表した。1月13日にカペッロは、「ベッカムは練習は続けるが、レアル・マドリードでの最後の試合を終えた」と述べ、今後の試合では起用しないことを示唆した。
しかし、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウルやグティがカペッロに出場を懇願し、チームも低迷していたこともあり、カペッロは2月10日のレアル・ソシエダ戦のメンバーに招集し、ベッカムはゴールを決め、チームも試合に勝利した。その後、ベッカムは好パフォーマンスを披露し、レジェスからポジションを奪い返した。ベッカムの最後のチャンピオンズリーグ出場となったのは、2007年3月7日のバイエルン・ミュンヘン戦であり、本戦出場数通算103試合は、当時3番目に多い記録であった。2007年6月17日、ベッカムはレアル・マドリードでの最後の試合となったマジョルカ戦に出場、チームは3-1で勝利した。足を痛めたベッカムと交代で出場したレジェスが、2得点を挙げ、ベッカムはクラブ加入以来初めて、リーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得した。
シーズン終了後、レアル・マドリードは、ベッカムのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を解消するために交渉していると発表したが、ギャラクシー側が拒否したため試みは失敗に終わった。
レアルでのキャリア終了の1ヶ月後に、アメリカの経済誌『フォーブス』は、ベッカムは広告塔としてクラブのグッズ販売に貢献し、在籍4シーズンで6億ドルにも上る売上を記録したと報じた。
ベッカムがレアル・マドリードとの契約延長にサインせず、アメリカ・ロサンゼルスギャラクシーへの移籍を発表した際、レアルのカルデロン会長はマドリー市内の大学の講義でチーム内の非難発言を繰り返した。その中で「ベッカムはアメリカ以外のどのチームからもオファーはなかった。彼はアメリカに行ってなんにでもなれるだろう」と発言し、発言を録音していた学生からラジオ局に流れ大問題に発展した。しかし、実際はACミランやイングランドの複数のクラブからオファーがあった事が後に明るみに出て、会長はミーティングの席でベッカムに謝罪した。
またこの一連の騒動に関してシーズン終了後に元チームメイトであるジダンは「レアル・マドリードは重大なミスを犯した。ベッカムを手放した事で来シーズン代わりの選手を探さなければならない。まぁ彼と同等の選手を探す事は不可能に近いだろうけどね」と語っている。
ベッカムとロサンゼルス・ギャラクシーとの契約は2007年7月11日に結ばれ、13日にホーム・デポ・センターでギャラクシーへの入団発表が行われた。ベッカムは23番を選び、入団発表前に既にギャラクシーのレプリカユニフォームの販売枚数は250,000枚以上の記録的な販売数になっているとの報道がなされた。
ギャラクシーでのデビュー戦は、7月21日に行われたワールドシリーズのチェルシーFC戦であり、0-1で敗れたが、ベッカムは78分から出場した。8月9日のD.C. ユナイテッド戦に途中出場し、リーグデビューを果たした。
翌週のスーパーリーガ準決勝のD.C.ユナイテッド戦はで初めてスターティングメンバーとして出場し、キャプテンを務めた。試合中にイエローカードを貰いはしたものの、前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半にはランドン・ドノバンの得点をアシストした。チームも2-0で勝利し、8月29日のパチューカとの決勝戦に進むことになった。決勝戦でベッカムは右足の膝を負傷し、MRIを行った結果、内側側副靭帯の損傷であることが判明し、その後6週間チームから離脱することになった。チームに復帰したのはシーズンの最終戦であった。10月21日に行われたシカゴ・ファイアーとの最終戦で途中交代で出場したが、チームは0-1で敗れ、プレーオフに進出することは出来なかった。デビューシーズンはリーグ戦5試合を含め、8試合に出場、リーグ戦では得点を挙げられなかったが、2アシストを記録した。
2008年1月4日から、ギャラクシーのプレシーズンが始まるまでの3週間、アーセナルの練習に参加した。
リーグ戦初得点は、4月3日のサンノゼ・アースクエイクス戦の前半9分に決めたものであった。5月24日のカンザスシティ・ウィザーズ戦で3-1で勝ち、チームは西カンファレンスの首位に浮上した。その試合の終了間際に、ベッカムは1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールにシュートを入れた。しかし、ギャラクシーは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことは出来なかった。
2009年シーズンは、ACミランとのレンタル契約延長のため、シーズンの前半を欠場し、そのために2009年7月19日に行われたACミランとの親善試合でファンから「詐欺師」などとブーイングを浴びるなど、チームに復帰したベッカムを良く思わないファンもいたが、ギャラクシーは近年で最も良いシーズンを送り、ベッカム復帰後にチームは西カンファレンスの3位から首位に浮上した。ベッカムはチームの中心選手として活躍し、MLSカップではヒューストン・ダイナモを2-0で降し、決勝進出を果たした。2009年11月22日に行われた決勝のレアル・ソルトレイク戦ではベッカムもフル出場したが、延長戦を終えても1-1のまま決着はつかず、PK戦の末に4-5で敗れた。
ワールドカップの予選はMLSのシーズンオフにも行われるためベッカムは、ファビオ・カペッロ率いるイングランド代表でプレイするためのコンディションを維持するために、ヨーロッパに戻るのでないかとの噂が流れ、2008年10月22日にACミランは、2009年1月7日から、ベッカムがレンタルで加入すると発表した。様々な憶測がなされたが、ベッカムはMLSを去る意思はなく、2009年3月の開幕にはギャラクシーに戻ると明らかにした。一部からは、マーケティング目的の移籍であると揶揄されたが、ミランはチームを強化するために必要な移籍であると主張した。7番と23番は既に他の選手が付けていたため、ベッカムは32番を選んだ。メディカルチェックを終えたベッカムは、クラブの医師から、38歳になる5年後までサッカー選手としてプレイすることが可能だと告げられた。
2009年1月10日の2-2で引き分けたASローマ戦でスターティングメンバーとして89分まで出場し、セリエAデビューを飾り、4-1で勝利した1月25日のボローニャFC戦で初ゴールを決めた。
3月にはミラノからロサンゼルスへ戻ることになっていたが、ベッカムは最初の4試合で2ゴールを挙げ、数アシストを記録するなどの活躍をすると、ミランに残りたいと希望し、ミランもベッカム残留のために数百万ドルを支払う意思があるとの報道がされた。2月4日には、2010 FIFAワールドカップでイングランド代表としてプレイするためにも、ベッカムはミランに完全移籍することを求めていることが明らかになったが、ミランの提示した1000-1500万ドルの金額は、ギャラクシーのベッカムへの評価に見合う額ではなかった。
しかし、交渉は1ヶ月間続き、3月2日のロサンゼルス・タイムズは、ベッカムの移籍期間は7月中旬まで延長されたと報じ、ベッカムも7月中旬から、2009年のMLSのシーズン終了まで、ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイをすると話した。
2009年11月、2010年1月から再びレンタルでACミランに加入することが明らかになった。セリエAに復帰して初めて迎えた2010年1月6日に行われたジェノアCFC戦にスターティングメンバーとして75分間出場し、チームも5-2で勝利した。2010年2月16日には2003年にクラブを離れてから初めてマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、ベッカムも76分間プレイしたが、チームはサン・シーロで行われたチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦のファーストレグを2-3で落とした。
2010年3月10日、ベッカムは2ndレグの試合のためにミランの選手としてオールド・トラッフォードに帰還した。スターティングメンバーからは外れたが、交代で64分から出場すると、ファンからは温かい歓迎を受けた。オールド・トラッフォードでマンチェスター・ユナイテッドと対戦するのは初めての経験であったが、クロスとコーナーキックからチャンスを演出した。しかし、チームは0-4で敗れ、トータルスコア2-7で1回戦敗退となってしまった。その後に行われたACキエーヴォ・ヴェローナ戦にはスターティングメンバーとして出場したが、アキレス腱断裂の重傷を負ってしまった。2010年3月15日にフィンランドのトゥルクでサカリ・オラヴァ医師の手術を受け、手術を終えたオラヴァは「現段階ではすべて上手くいっている。」と、述べた。
2009-10シーズン終了後はロサンゼルス・ギャラクシーに復帰し、怪我が完治した9月11日には実戦にも復帰。2得点を挙げるなど、ギャラクシーの地区優勝とサポーターズシールド(レギュラーシーズン1位)獲得に貢献した。
シーズン終了後の2010年12月、当時プレミアリーグトッテナムの監督であったハリー・レドナップがベッカムに興味を示していると報じられ、1月にはミランと同じように期限付き移籍での加入が目前とも報じられたが、保険の問題で破談となった。しかしレドナップはベッカムがチームにいい影響をもたらすとの判断から練習への参加を打診し、ベッカムとギャラクシーもこれを受諾した。
2012年11月19日、シーズン限りでのロサンゼルス・ギャラクシー退団が発表された。
2013年1月31日の移籍期限日を前に移籍のためのメディカルチェックをパリ・サンジェルマンFCと行っていることが明らかとなった。その日の午後に5ヶ月間の契約を結んだことが発表され、併せて受け取る年俸はすべて地元の子どものための慈善団体へ寄附する意向であることが発表された。2013年2月24日に行われたオリンピック・マルセイユ戦で76分から交代で出場し、デビューを飾ったベッカムはパリ・サンジェルマンでプレイした400人目の選手となった。2013年5月12日、パリ・サンジェルマンはオリンピック・リヨンを1-0で降しリーグ優勝を決め、ベッカムは自身にとって異なるトップリーグで4度リーグ優勝を経験することになった。
2013年5月13日、2012-13シーズン終了後に現役を引退することを発表した。2013年5月18日に行われたホームのスタッド・ブレスト29戦が最後の出場となり、ユニオン・ジャックカラーの特別仕様のスパイクが用意され、ベッカムはキャプテンを務めた。試合ではブレーズ・マテュイディのゴールをコーナーキックからアシストし、80分に退く際には選手と監督から抱擁され、ファンからはスタンディングオベーションで讃えられた。試合は3-1でパリ・サンジェルマンが勝利を挙げた。
1996年9月1日に行われたワールドカップ予選のモルドバ戦でA代表デビュー。
その後の予選の試合にも出場を続け、1998 FIFAワールドカップを戦うイングランド代表のメンバーに選出された。監督を務めていたグレン・ホドルが、大会に集中できていないと判断し、最初の2試合はスターティングメンバーから外されたが、3戦目のコロンビア戦でスターティングメンバーに抜擢されると、フリーキックからゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。このゴールは、ベッカムの代表初ゴールであった。
しかし、決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン戦、ディエゴ・シメオネに報復攻撃を加え退場処分となり、また、チームもPK戦の末に敗退したこともあり、デイリー・ミラーに「10 heroic lions one stupid boy(10人の勇敢な獅子と1人の愚かな若者)」という標語をつけられ、戦犯としてメディアを含め多くの批判を浴び、ベッカムは死の脅迫をも受けた。
ベッカムへのファンによる批判がピークに達したのが、2-3で敗れたEURO 2000のポルトガル戦(ベッカムは2得点を演出した)である。サポーターは試合を通してベッカムにブーイングを浴びせ続けたが、ベッカムはそれに対して右手の中指を立てて応えた。その行為もまた非難されたが、かつて彼を批判していた新聞社は読者に対し、もうベッカムを批判するのは止めるようにしようと求めた。
2000年11月15日、10月に監督を辞任したケヴィン・キーガンの後を継いだピーター・テイラー監督にキャプテンに指名され、続いて監督に就任したスヴェン・ゴラン・エリクソンの下でもキャプテンとしてプレイし続けることとなった。ベッカムは、5-1で勝利したドイツ戦を含め、ワールドカップ最終予選で活躍を続けた。ギリシャ戦では、1-2とリードされている後半ロスタイム、同点となるフリーキックを決めイングランドをワールドカップ出場へと導いた。これらの活躍を通して、ベッカムがブーイングを浴び批判されるようなことはなくなった。その年は、BBCスポーツ・パーソナリティー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、FIFA最優秀選手賞では2位に選ばれている。
怪我から回復し、2002 FIFAワールドカップ初戦のスウェーデン戦に出場を果たし、アルゼンチン戦では、PKからゴールを決めた。イングランド代表は準々決勝でブラジルに敗れ、ベスト8で大会を後にした。ベッカムは、翌月にマンチェスターで開催されたコモンウェルスゲームズの開会式に参加した。
EURO2004にもイングランド代表として出場したが、1-2で敗れたフランス戦でPKを失敗した他、準々決勝のポルトガル戦のPK戦でも最初のキッカーとして外してしまうなど活躍することは出来なかった。
2004年10月4日のウェールズ戦で、ベン・サッチャーにファウルを犯し、イエローカードを受け、累積で次戦のアゼルバイジャン戦は出場停止となった。ベッカムは試合中に肋骨を負傷していることに気付き、次の試合には出場できないことを悟り、イエローカードを貰うために意図的にファウルを犯したと明かした。イングランドサッカー協会は調査に乗り出し、ベッカムは「重大な過ちを犯してしまった」と認め謝罪をした。
2005年1月にUNICEF親善大使に任命された。また、ロンドンでの開催を目指すオリンピックの誘致活動に参加し、大きな貢献をした。2005年10月に行われたオーストラリア戦で退場し、代表キャプテンとして初めて退場処分を受けた選手となり、イングランド代表として2度退場した初めての選手にもなった。
2006年6月10日、イングランド代表にとっての2006 FIFAワールドカップ初戦であるパラグアイ戦では、ベッカムのフリーキックがカルロス・ガマーラのオウンゴールを招き、1-0で勝利した。6月15日に行われた2戦目のトリニダード・トバゴ戦では、83分にベッカムのクロスからピーター・クラウチのゴールが生まれ、終了間際には、スティーヴン・ジェラードのゴールもアシストした。試合は2-0で勝利し、大会スポンサーのバドワイザーが選出するマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。決勝トーナメント1回戦のエクアドル戦では、59分にフリーキックからゴールを決め、イングランド代表選手としてワールドカップ3大会で得点を挙げた初めての選手となり、試合も1-0で勝利し、準々決勝進出を果たした。ベッカムは試合前から体調が悪く、体調不良と脱水症状に陥いった結果、得点後もプレイを続けたが、試合中に数回嘔吐した。準々決勝のポルトガル戦では、怪我のために52分で交代し、試合は延長戦を終えても0-0のままで、PK戦の末に敗れた。交代後ベッカムは、プレイできないことから目に見えて落胆しており、ベンチで涙を流した。
ワールドカップ敗退後の翌日、記者会見で代表キャプテンを退くとの声明を出した。「キャプテンとして代表を率いることはとても名誉な特権であり、代表では95試合(実際は94試合)に出場し、58試合でキャプテンを務めたが、チームはスティーブ・マクラーレン監督の下で新しい時代を開こうとしている時で、キャプテンマークを譲り渡すのが正しい選択であると考えている。」と、述べた。その後ジョン・テリーがキャプテンに就任した。
キャプテン辞任後の2006年8月11日、スティーブ・マクラーレンは初めて代表を招集したが、ベッカムはメンバーから外れ、マクラーレンは「チームは新しい方向に進もうとしており、そこにベッカムは含まれていない。」と、述べた。ただし、将来的には呼ぶ可能性があると話した。ベッカムに代わって、ワールドカップのメンバーであったショーン・ライト=フィリップス、キーラン・リチャードソン、アーロン・レノンが起用されたが、マクラーレンは最終的に右サイドはスティーヴン・ジェラードに任せた。
2007年5月26日、マクラーレンは監督就任後に初めてベッカムを招集し、新しいウェンブリー・スタジアムで行われたブラジルとの親善試合にスターティングメンバーとして出場し、後半にジョン・テリーのゴールをアシストするなど、良いパフォーマンスを見せた。イングランドが勝利するかに思われたが、ジエゴの終了間際の得点により、1-1の引き分けに終わった。続くEURO2008予選のエストニア戦にも出場し、代名詞とも言えるクロスから、マイケル・オーウェンとピーター・クラウチのゴールをアシストし、3-0の勝利に貢献した。ベッカムは2試合で決まったゴールの内、3ゴールをアシストし、マクラーレンも「今の彼以上の右サイドの選手は、世界中探してもいない」と評価を改め、MLS移籍後も代表でプレイし続けたいというベッカムの願いは実現することになった。
2007年8月22日に行われたドイツとの親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながら代表でプレイした選手となった。2007年11月11日のクロアチアとの試合に途中出場し99キャップ目を記録すると、ピーター・クラウチの2-2となるゴールの起点なったが、2-3で敗れ、イングランドはEURO2008の出場権を逃してしまった。しかし、ベッカムは代表引退はせずに、これからも代表でのプレイを続けるとの意向を示した。その後、レアル・マドリード在籍時に監督を務めていたファビオ・カペッロが監督に就任した。初陣となるスイスとの親善試合に出場すれば100キャップ目となるが、ベッカムは3ヶ月間試合に出場していないために体力面に問題があるとして、メンバーには加えなかった。
2008年3月20日、カペッロは、26日のフランスとの親善試合に向けたメンバーにベッカムを招集した。ベッカムはスターティングメンバーとして試合に出場し、イングランド人として100キャップを記録した5人目の選手となった。カペッロは、前日の会見でベッカムをフランス代表戦に起用すると明言し、将来的なことはこれから考えると話していた。2008年5月11日、カペッロは28日にウェンブリーで行われるアメリカとの試合と、6月1日にアウェー行われる試合に臨む代表メンバー31名を発表し、ベッカムもそこに含まれた。試合前にベッカムは100キャップを記念した金色の帽子を贈られ、サー・ボビー・チャールトンから渡された時には、観衆はスタンディングオベーションで讃えた。試合では決勝点となったジョン・テリーのゴールをアシストし、後半から交代でデヴィッド・ベントリーがピッチに入った時に観衆は、その交代に対してブーイングを送った。6月1日のトリニダード・トバゴ戦では、カペッロはベッカムをキャプテンに指名し、ベッカムはワールドカップ以来、2年ぶりにキャプテンとして試合に出場した。
ワールドカップ予選のベラルーシ戦で87分から出場し107キャップを記録し、歴代3位の出場数となり、2009年2月11日に行われたスペインとの親善試合では、スチュワート・ダウニングに代わり後半から出場、代表108キャップ目を記録し、ボビー・ムーアの持つフィールドプレイヤーとしての最多出場数の記録に並び、イングランド代表歴代2位タイの出場数となった。
2009年3月28日のスロバキアとの試合に途中出場し、ムーアの記録を更新し、試合ではウェイン・ルーニーのゴールをアシストした。2009年6月10日のアンドラ戦でスターティングメンバーとして100試合目の出場を果たした。
2010 FIFAワールドカップは、怪我により選手として出場する機会は逃すことになったが、2010年5月14日にワールドカップに臨むコーチ陣と選手の間を取り持つ役を担いチームに帯同することが発表された。
2012年のロンドンオリンピックでは、オーバーエージ枠での代表入りは叶わなかったが、直前までロンドン五輪親善大使として活躍した。開会式当日は、女子サッカーU17代表のJade Baileyを乗せた高速ボートの操縦士を務め、テムズ川を疾走。主競技場近くの船着き場でスティーヴ・レッドグレーヴに聖火を手渡す際もアシストをした。
ミドルネームであるロバートは、マンチェスター・ユナイテッドFCの大先輩にあたり、自身が最も憧れていた選手であるボビー・チャールトンの本名から取られたものだと明かしている。
少年時代、天才サッカー少年としてテレビで紹介されたことがある。ユース時代にはチームでいちばんヘディングが強かったという。幼少の頃からマンチェスターUの試合を必ずと言っていいほど正装で観戦し、かなりの敬意を表していた。また、欧州に遠征して来た日本代表と対戦したときはジーコ監督(当時)に「小さい頃からファンだった」と試合前に正装をして挨拶に行ったこともある。
ロンドン近郊イーストロンドン(エセックス州寄り)レイトンストーン育ちの為、エセックス訛りの下町言葉を話す。
趣味は切手集めとテディベアのコレクション。オークションで1800ポンドのテディベアをEBAYで購入したことが英国のBBCニュースで流れたことがある。またオーダーメードでバイクを注文するなど、バイク好きで知られている。
2002年日韓ワールドカップ開催数ヶ月前の4月に、ベッカムは左足の第二中足骨を骨折したが、高圧酸素カプセルによる治療もあり、出場に間に合った。まだ日本でなじみがなかったこの器具は当時、「ベッカムカプセル」と呼ばれることもあった。
2005-06シーズン途中、カリフォルニアとイーストロンドンにサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれた。
2006年、自身が強迫性障害であることをメディアに告白した。
2015年、ピープル誌が選ぶ「この世で最もセクシーな男」に選ばれる。また、レジェンド・オブ・フットボール賞を受賞することになった。
2017年の映画『キング・アーサー』で俳優デビューした。ガイ・リッチー監督はその演技を高く評価したが、ファンや英メディアからはヴィクトリア夫人の歌声に例えられて酷評された。
2019年、彼はスマートフォンのながら運転の罰則により、6ヶ月の免許停止の処分を受けた。
2021年、FX(外国為替取引)会社 Gemforexのアジア圏におけるブランドアンバサダーに就任した。
1997年にヴィクトリア・アダムズがマンチェスター・ユナイテッドの試合の観戦に訪れた後に、交際が始まった。スター二人の交際関係はメディアの多くの注目を集め、このカップルは「ポッシュ & ベックス」と呼ばれた。1999年7月4日にアイルランドにあるルトレスタウン・キャッスルで式を挙げ、二人は結婚した。
二人の間には、息子が三人、娘が一人いる。ブルックリン・ジョセフ・ベッカム(1999年生)、ロメオ・ジェームズ・ベッカム(2002年9月1日生)、クルス・デイヴィッド・ベッカム(2005年2月20日生)、ハーパー・セブン・ベッカム(2011年7月10日生)。
2014年11月、長男ブルックリンがアーセナルFCと契約、次男ロメオと三男クルスもアーセナルのユースチームに所属している。ブルックリンは2015年にアーセナルU-18にも招集されるなどしたが、契約延長に至らず、2014-2015シーズンを持って退団した。その後は父親のキャリアの原点であるマンチェスター・ユナイテッド加入なども報じられたが、引退を選択している。その年の11月14日に行われたユニセフ主催のチャリティーマッチでは、父・デビッドと共に「イギリス・アイルランド合同チーム」の一員としてプレーし、ピッチ上で親子競演を果たした。12月にはブルックリンに続き、次男のロメオも引退する意向を両親に伝えたと報じられている。
2016年、三男のクルーズがジャスティン・ビーバーなどのマネージャーであるスクーター・ブラウンとマネジメント契約を結び、オフィシャルインスタグラムを開設。「If Every Day Was Christmas」で歌手デビューを果たす。
ベッカムの身体の各所には、妻や子供たちの名前がタトゥーとして刻まれている。左腕には、インドのヒンディー語等の言語で使用されるデーヴァナーガリー文字で『VHIKTORIYA』と彫られている。デーヴァナーガリー文字にはCの音をあらわす文字がないので、代わりにKが用いられる。英単語の語尾のAがYAに変わるのはインド英語の特徴である。VHIはスペル間違いである。脇腹には論語の一節「死生有命、富貴在天(死生は命にあり、富貴は天にあり)」と彫られている。
2015年、アメリカの経済誌フォーブスはデビッド・ベッカムの去年(2014年)の年収は約5080万ポンド(約91億円)であったと発表した、2012年の3460万ポンド(約62億円)からさらに1500万ポンド(約29億円)もの増収を上げている。現役を引退したスポーツ選手の長者番付では、マイケル・ジョーダンに続き、ベッカムが二位に付けている。
2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が『お金持ちリスト』を発表し、ベッカム夫妻が総資産1億6,500万ポンド(日本円で約217億8,000万円)で1位になった。デビッドはロサンゼルス・ギャラクシーから2年間で5,600万ポンド(約73億9,200万円)の契約を結んでいるほか、2012年のロンドン・オリンピックでサムスンのブランド大使を務める契約をしており、相当な額になっているという。さらに妻ビクトリアのファッションブランドからも収入が入るため、今後もベッカム家の資産は増え続けることになりそうだという。
ベッカムがロンドンに所有している邸宅は、ベッキンガム宮殿(Beckingham Palace)と呼ばれることがある。これはバッキンガム宮殿をもじったもの。高級住宅街があることで知られるハートフォードシャーに位置しており、ロンドン中心部から車で1時間程度の場所にある。約97,000mの敷地面積がある。
2007年4月に家族はベッカムのロサンゼルス・ギャラクシー移籍を踏まえて、ビバリーヒルズにイタリア風ヴィラを購入した。この建物は2,200万ドルで、近くにはトム・クルーズやケイティ・ホームズ、ジェイ・レノの家があり、街を一望できる丘の上に立つゲーテッドコミュニティである。2018年10月には、このロサンゼルスの豪邸を3300万ドル(2018年当時約36億3000万円)で売却し、差額1100万ドルの利益を得たと報道された。報道によれば、ロサンゼルス・ギャラクシー退団後ロンドンで過ごすことが多くなった上、ベッカムはマイアミで新たにインテル・マイアミCFを立ち上げ、マイアミを頻繁に訪れるようになったため、一家はマイアミ・ビーチのフィッシャー・アイランド(英語版)で新居を探しているという。
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"text": "デビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム(David Robert Joseph Beckham, OBE、1975年5月2日 - )は、イングランドの元サッカー選手。元イングランド代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。2013年に現役を引退した。MLS・インテル・マイアミCFの共同オーナーを務めている。",
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"text": "FIFA最優秀選手賞では2位に2度選出され、2004年に初めて最も収入を得たサッカー選手となり、イギリス人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ100試合出場を達成した。",
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"text": "2000年11月15日から、2006 FIFAワールドカップまで、58試合でイングランド代表のキャプテンを務めた。 その後も代表に選ばれ、2008年3月26日に行われたフランス戦で100キャップ目を記録し、フィールドプレイヤーとしては最多の出場数を誇っている。",
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"text": "1999年にスパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム(旧姓アダムス)と結婚した。",
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"text": "1975年5月2日、ロンドン北東部に位置する下町レイトンストーンに配管工(鉛管工)の父と看護師の母サンドラの間に長男として生まれた。後に一家はさらに北へ行ったチングフォードに引っ越し、ベッカムはここで少年時代を過ごしている。兄弟は、姉のリン(1972年 - )と妹のジョアン(1980年 - )がいる。ベッカムの母方の祖父はユダヤ人であり、ベッカムは自身を「半分ユダヤ人(\"half Jewish\")」として言及し、自叙伝には「たぶん、私はどの他のどの宗教よりユダヤ教との接触が多かっただろう」と記述している。2007年のインタビューで、ベッカムは以下のようなことを話している。「学校で先生たちが『大きくなったら何になりたいの?』と聞かれるたびに『サッカー選手』と答えていた。するとどの先生も『いえ、実はどんなお仕事がしたいかを聞いているのだよ』と言われてしまう。でも俺は将来サッカー選手になりたいとだけ考えていた」。1982年に地元の創設まもないリッジウェイ・ローヴァーズ(現在のブリムズダウン・ローヴァーズFC)に入団。ベッカムは3シーズンで115試合に出場し101得点を挙げ、1986年にはスパイシーFCから誘いも受けたが、時期尚早との判断で最終的に6年間在籍した。並行して学校での試合にも参加し、ベッカムは地区と州の代表に選出されている。また1985年と1986年にボビー・チャールトンが主宰する全国規模のサッカースクールに参加しており、1986年には実施された技術テストでロンドン地区で優勝し、マンチェスター・ユナイテッドFCの旧練習場とオールド・トラッフォードで行われた決勝戦では過去6年間での最高得点を挙げ優勝した。ちなみに入賞の賞品は、バルセロナでの2週間の合同練習であった。",
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"text": "ロンドン北部のいくつかのクラブから誘いを受け、近所のトッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが、1988年5月2日にマンチェスター・ユナイテッドFCの学生準会員となり、1989年8月に晴れて学生会員となった。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ。",
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"text": "1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームはFAユースカップを優勝。当初はフィジカルに難があったベッカムは外れていたが、最終的に右サイドハーフを担当していたキース・ギレスピー(英語版)が前線へ移動したことで出場機会に恵まれ、決勝のクリスタル・パレス戦の2ndレグでは1得点を挙げチームの優勝に貢献した。翌年の同大会も決勝まで駒を進めたが、リーズ・ユナイテッドAFCに敗れて準優勝。同時期の選手達は揃ってリザーブチームに昇格し、Aリーグとセントラル・リーグで優勝するという20年ぶりの快挙を成し遂げた。この頃、エリック・カントナが練習相手としてクロスを蹴らせていたところ、ファーガソン監督がその光景を見て、そのクロスの精度の高さにトップで起用することを決めた.",
"title": "クラブ経歴"
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"text": "1992-93シーズン、9月23日に行われたリーグカップのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ、第6節のガラタサライ戦に先発出場すると、トップチームでの自身初の得点を挙げた。",
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"text": "1994-95シーズン、経験を積むために1か月間のレンタル移籍で、当時リーグ2所属のプレストン・ノースエンドに加入。当時の監督ギャリー・ピーターズ(英語版)の指示でフリーキックとコーナーキックを任せられ、5試合に出場し(1試合は途中出場、チームは3勝2分)、フリーキックとオリンピックゴールで2得点を挙げた。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日のリーズ戦にスターティングメンバーとして出場し、プレミアリーグデビューを果たした。",
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"text": "ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バット、ガリーとフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれる選手たちの一人であった。1994-95シーズンを最後に、ポール・インスやマーク・ヒューズ、アンドレイ・カンチェルスキスといった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソンは、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏にダレン・アンダートン、マルク・オーフェルマルス、ロベルト・バッジョの獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用することを決めたが、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦でアストン・ヴィラFCに1-3で敗れ、アラン・ハンセンの「子供ばかりでは勝てない」という言葉に象徴されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。",
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"paragraph_id": 10,
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"text": "ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドFCを逆転して得たものであった。",
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"text": "マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に招集されることはなかった。",
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"text": "1996-97シーズン開幕前に背番号10番を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。",
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"text": "1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいた。",
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"text": "1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルFCに次いで、2位でシーズンを終えた。",
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"text": "1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。",
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"text": "リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパーFC(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッドFC戦とチャンピオンズリーグ決勝のバイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、ロスタイムに2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた活躍が評価され、バロンドールとFIFA最優秀選手賞では、いずれもリバウドに次いで2位に選出された。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "FIFAクラブ世界選手権のクルブ・ネカクサ戦で故意のファールで退場処分を受けた後にも批判を浴びた。プレスの間では、妻が悪い影響を与えており、ベッカムを売ることがユナイテッドにとってプラスになるのではないかと囁かれるようになった。しかし、監督は彼を支持しクラブに留まることになった。1999-2000シーズン中には、イタリアのユヴェントスへの移籍の話があったが、結局は何も起こらなかった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "しかし、ベッカムがサッカーから離れたところから名声を得始めたことによって、2000年の初めからファーガソンとベッカムの関係は悪化し始めた。2000年にベッカムは嘔吐下痢症に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソンは、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていたヴィクトリア・ベッカムが子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒し、ベッカムに対してクラブでの最大の罰金(2週間分の給料、ベッカムの場合は50,000ポンド)を科し、ユナイテッドのライバルであるリーズとの重要な試合のメンバーから外した。ファーガソンは後に自叙伝の中で、「チームメイトに対してフェアではなかった」として批判し、ベッカムを非難した。しかし、ユナイテッドは記録的な差でリーグのタイトルを獲得し、ベッカムもタイトル獲得に貢献した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "「結婚するまで彼は何の問題もなかった。夜にはよくアカデミーでコーチをしたりと素晴らしい若者だった。しかし、結婚によってエンターテイメントシーンへ入ってしまったことが問題だった。その瞬間から彼の生活は決して以前のようにはならなくなってしまったし、彼はそのような有名人になってしまった。サッカーはそのほんの一部に過ぎない」(アレックス・ファーガソンが2007年にベッカムの結婚について語った言葉)",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ベッカムは連覇に貢献し、1999-2000シーズンは、2位のアーセナルに18ポイント差を付けて優勝し、残り11試合を11連勝で飾り首位を快走した。連勝中にベッカムは5ゴールを挙げ、シーズンを通して6ゴール、全公式戦で8ゴールを記録した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ベッカムは3連覇を達成した2000-01シーズンのユナイテッドの中心選手であった。ベッカムはリーグ戦で9ゴールを挙げた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2002年4月10日、チャンピオンズリーグのデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で左足の第二中足骨を骨折した。怪我をさせた選手がイングランドがワールドカップで対戦することになっているアルゼンチンのアルド・ドゥシェルであったため、イギリスのメディアの間では故意に負わせた怪我ではないかとの憶測が生まれた。怪我により、ベッカムは残りのシーズンを棒に振り、クラブもリーグのタイトルを逃した。大部分は彼への肖像権料の支払いの割合についてであったが、数か月に及ぶ交渉の末、3年間の契約延長にサインした。新しい契約による給料の増加と広告収入により、ベッカムは世界で一番収入を得ているサッカー選手となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2001-02シーズンは、ユナイテッドの選手として、ベッカムにとっての最高のシーズンであった。リーグ戦28試合に出場し11ゴール、全公式戦42試合に出場し16ゴールの成績を残した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "怪我から回復して迎えた2002-03シーズンであったが、オーレ・グンナー・スールシャールがベッカムに代わって右サイドでプレイしており、以前のようにポジションを得ることが出来なかった。監督との関係も2003年2月15日に行われたFAカップのアーセナル戦後に悪化。ドレッシングルームで敗退に怒ったファーガソンがスパイクを蹴り上げ、それがベッカムの目の上を直撃し、縫合が必要な傷を負ってしまった。この事件をきっかけとして、多くの移籍の噂が巻き起こり、ブックメーカーは、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めた。チームは低調なスタートを切ったが、12月頃から立ち直り、リーグ優勝を果たした。ベッカムは全公式戦を通して52試合に出場し、11ゴールを挙げた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ベッカムは、イングランド代表ではレギュラーとしてプレイし続けており、6月13日にOBEを受勲した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "プレミアリーグで265試合に出場し、61得点、チャンピオンズリーグでは81試合に出場し、15得点の成績を残した。6度のリーグ優勝と2度のFAカップ優勝、チャンピオンズリーグとインターコンチネンタルカップ、FAユースカップのタイトルを12年間の間に獲得した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2003年、ジョアン・ラポルタがFCバルセロナの会長に立候補した際、ベッカムの獲得を公約に掲げた。マンチェスター・ユナイテッドはFCバルセロナへの移籍を望んでいたが、ベッカムはレアル・マドリードを選択し、4年間の契約を結んだ。移籍金は約3500万ユーロだとされている。手続きは2003年7月1日に完了し、ローリー・カニンガム、スティーブ・マクマナマンに続いて、レアル・マドリードでプレイするイギリス人のサッカー選手となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表では7番を付けていたが、クラブのキャプテンであるラウル・ゴンサレスが付けている背番号であったため、7番を選ぶことはできず、23番を選択した。その選択の理由は、尊敬するバスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが付けていた番号であるからだと報道された。ロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍会見時には「背番号はマドリード時代と同じ23が良い。マイケル・ジョーダンを尊敬しているし、アメリカでは特別な番号だ」と語った。しかし、のちに本人が「空いている番号でどれでもよかった」と語っている。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2003-04シーズン、レアル・マドリードは4位でシーズンを終了し、チャンピオンズリーグでも準々決勝で敗退したが、ベッカムは開幕戦でのゴールを含め、最初の公式戦16試合で5得点を挙げ、すぐにサポーターのお気に入りとなった。しかし、リーグかチャンピオンズリーグのいずれかのタイトルを獲得することを望んでいた会長の期待には応えることは出来なかった。また、このシーズンからは、チーム事情により、センターハーフでのプレーが主だった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2004-05シーズン、チームは無冠に終わる。移籍後は主にセンターハーフでプレーしていたが、冬にトーマス・グラベセンが加入したことと監督であったヴァンデルレイ・ルシェンブルゴとルイス・フィーゴの確執に伴い、2005年に入ってからはフィーゴに代わって右サイドハーフとして出場する機会が増えた。右サイドで出場した2005年のエル・クラシコではマイケル・オーウェンへのアシストを含め2アシストを記録し、移籍後最高のパフォーマンスと称される活躍をして4-2の勝利に貢献した。その後も右サイドハーフとして出場を続け好パフォーマンスを披露し、リーグで最も多くのアシストを記録した選手となった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2005-06シーズンは、フィーゴの移籍に伴い右サイドハーフに定着したが、優勝したバルセロナに12ポイント差を付けられての2位に終わり、チャンピオンズリーグでは、アーセナルFCに決勝トーナメント1回戦で敗れた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2006-07シーズンは監督に就任したファビオ・カペッロの好みにより、当初はスターティングメンバーで出場したが、ベッカムがスターティングメンバーとして出場した最初の9試合で、レアルは7ポイントを落とし、スピードのある新加入選手のホセ・アントニオ・レジェスに右サイドのポジションを奪われた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2007年1月10日、長引いた交渉の末に、スポーツディレクターを務めていたプレドラグ・ミヤトヴィッチは、シーズン終了後にクラブを去ると発表したが、あれは誤訳であり、実際には再交渉はまだ始っていないと言ったのだと主張した。しかし、1月11日にベッカムはレアル・マドリードを離れ、特別指定選手制度(Designated Player Rule)を使用してメジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーへ移籍することが明らかになり、翌日のMLSのスーパードラフトの際に公式な記者会見が開かれた。ベッカムはロサンゼルス・キャラクシーと7月1日からの5年間の契約を結んだと発表した。1月13日にカペッロは、「ベッカムは練習は続けるが、レアル・マドリードでの最後の試合を終えた」と述べ、今後の試合では起用しないことを示唆した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウルやグティがカペッロに出場を懇願し、チームも低迷していたこともあり、カペッロは2月10日のレアル・ソシエダ戦のメンバーに招集し、ベッカムはゴールを決め、チームも試合に勝利した。その後、ベッカムは好パフォーマンスを披露し、レジェスからポジションを奪い返した。ベッカムの最後のチャンピオンズリーグ出場となったのは、2007年3月7日のバイエルン・ミュンヘン戦であり、本戦出場数通算103試合は、当時3番目に多い記録であった。2007年6月17日、ベッカムはレアル・マドリードでの最後の試合となったマジョルカ戦に出場、チームは3-1で勝利した。足を痛めたベッカムと交代で出場したレジェスが、2得点を挙げ、ベッカムはクラブ加入以来初めて、リーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了後、レアル・マドリードは、ベッカムのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を解消するために交渉していると発表したが、ギャラクシー側が拒否したため試みは失敗に終わった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "レアルでのキャリア終了の1ヶ月後に、アメリカの経済誌『フォーブス』は、ベッカムは広告塔としてクラブのグッズ販売に貢献し、在籍4シーズンで6億ドルにも上る売上を記録したと報じた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ベッカムがレアル・マドリードとの契約延長にサインせず、アメリカ・ロサンゼルスギャラクシーへの移籍を発表した際、レアルのカルデロン会長はマドリー市内の大学の講義でチーム内の非難発言を繰り返した。その中で「ベッカムはアメリカ以外のどのチームからもオファーはなかった。彼はアメリカに行ってなんにでもなれるだろう」と発言し、発言を録音していた学生からラジオ局に流れ大問題に発展した。しかし、実際はACミランやイングランドの複数のクラブからオファーがあった事が後に明るみに出て、会長はミーティングの席でベッカムに謝罪した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "またこの一連の騒動に関してシーズン終了後に元チームメイトであるジダンは「レアル・マドリードは重大なミスを犯した。ベッカムを手放した事で来シーズン代わりの選手を探さなければならない。まぁ彼と同等の選手を探す事は不可能に近いだろうけどね」と語っている。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ベッカムとロサンゼルス・ギャラクシーとの契約は2007年7月11日に結ばれ、13日にホーム・デポ・センターでギャラクシーへの入団発表が行われた。ベッカムは23番を選び、入団発表前に既にギャラクシーのレプリカユニフォームの販売枚数は250,000枚以上の記録的な販売数になっているとの報道がなされた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ギャラクシーでのデビュー戦は、7月21日に行われたワールドシリーズのチェルシーFC戦であり、0-1で敗れたが、ベッカムは78分から出場した。8月9日のD.C. ユナイテッド戦に途中出場し、リーグデビューを果たした。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "翌週のスーパーリーガ準決勝のD.C.ユナイテッド戦はで初めてスターティングメンバーとして出場し、キャプテンを務めた。試合中にイエローカードを貰いはしたものの、前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半にはランドン・ドノバンの得点をアシストした。チームも2-0で勝利し、8月29日のパチューカとの決勝戦に進むことになった。決勝戦でベッカムは右足の膝を負傷し、MRIを行った結果、内側側副靭帯の損傷であることが判明し、その後6週間チームから離脱することになった。チームに復帰したのはシーズンの最終戦であった。10月21日に行われたシカゴ・ファイアーとの最終戦で途中交代で出場したが、チームは0-1で敗れ、プレーオフに進出することは出来なかった。デビューシーズンはリーグ戦5試合を含め、8試合に出場、リーグ戦では得点を挙げられなかったが、2アシストを記録した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2008年1月4日から、ギャラクシーのプレシーズンが始まるまでの3週間、アーセナルの練習に参加した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦初得点は、4月3日のサンノゼ・アースクエイクス戦の前半9分に決めたものであった。5月24日のカンザスシティ・ウィザーズ戦で3-1で勝ち、チームは西カンファレンスの首位に浮上した。その試合の終了間際に、ベッカムは1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールにシュートを入れた。しかし、ギャラクシーは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことは出来なかった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2009年シーズンは、ACミランとのレンタル契約延長のため、シーズンの前半を欠場し、そのために2009年7月19日に行われたACミランとの親善試合でファンから「詐欺師」などとブーイングを浴びるなど、チームに復帰したベッカムを良く思わないファンもいたが、ギャラクシーは近年で最も良いシーズンを送り、ベッカム復帰後にチームは西カンファレンスの3位から首位に浮上した。ベッカムはチームの中心選手として活躍し、MLSカップではヒューストン・ダイナモを2-0で降し、決勝進出を果たした。2009年11月22日に行われた決勝のレアル・ソルトレイク戦ではベッカムもフル出場したが、延長戦を終えても1-1のまま決着はつかず、PK戦の末に4-5で敗れた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ワールドカップの予選はMLSのシーズンオフにも行われるためベッカムは、ファビオ・カペッロ率いるイングランド代表でプレイするためのコンディションを維持するために、ヨーロッパに戻るのでないかとの噂が流れ、2008年10月22日にACミランは、2009年1月7日から、ベッカムがレンタルで加入すると発表した。様々な憶測がなされたが、ベッカムはMLSを去る意思はなく、2009年3月の開幕にはギャラクシーに戻ると明らかにした。一部からは、マーケティング目的の移籍であると揶揄されたが、ミランはチームを強化するために必要な移籍であると主張した。7番と23番は既に他の選手が付けていたため、ベッカムは32番を選んだ。メディカルチェックを終えたベッカムは、クラブの医師から、38歳になる5年後までサッカー選手としてプレイすることが可能だと告げられた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2009年1月10日の2-2で引き分けたASローマ戦でスターティングメンバーとして89分まで出場し、セリエAデビューを飾り、4-1で勝利した1月25日のボローニャFC戦で初ゴールを決めた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "3月にはミラノからロサンゼルスへ戻ることになっていたが、ベッカムは最初の4試合で2ゴールを挙げ、数アシストを記録するなどの活躍をすると、ミランに残りたいと希望し、ミランもベッカム残留のために数百万ドルを支払う意思があるとの報道がされた。2月4日には、2010 FIFAワールドカップでイングランド代表としてプレイするためにも、ベッカムはミランに完全移籍することを求めていることが明らかになったが、ミランの提示した1000-1500万ドルの金額は、ギャラクシーのベッカムへの評価に見合う額ではなかった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし、交渉は1ヶ月間続き、3月2日のロサンゼルス・タイムズは、ベッカムの移籍期間は7月中旬まで延長されたと報じ、ベッカムも7月中旬から、2009年のMLSのシーズン終了まで、ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイをすると話した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2009年11月、2010年1月から再びレンタルでACミランに加入することが明らかになった。セリエAに復帰して初めて迎えた2010年1月6日に行われたジェノアCFC戦にスターティングメンバーとして75分間出場し、チームも5-2で勝利した。2010年2月16日には2003年にクラブを離れてから初めてマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、ベッカムも76分間プレイしたが、チームはサン・シーロで行われたチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦のファーストレグを2-3で落とした。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2010年3月10日、ベッカムは2ndレグの試合のためにミランの選手としてオールド・トラッフォードに帰還した。スターティングメンバーからは外れたが、交代で64分から出場すると、ファンからは温かい歓迎を受けた。オールド・トラッフォードでマンチェスター・ユナイテッドと対戦するのは初めての経験であったが、クロスとコーナーキックからチャンスを演出した。しかし、チームは0-4で敗れ、トータルスコア2-7で1回戦敗退となってしまった。その後に行われたACキエーヴォ・ヴェローナ戦にはスターティングメンバーとして出場したが、アキレス腱断裂の重傷を負ってしまった。2010年3月15日にフィンランドのトゥルクでサカリ・オラヴァ医師の手術を受け、手術を終えたオラヴァは「現段階ではすべて上手くいっている。」と、述べた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2009-10シーズン終了後はロサンゼルス・ギャラクシーに復帰し、怪我が完治した9月11日には実戦にも復帰。2得点を挙げるなど、ギャラクシーの地区優勝とサポーターズシールド(レギュラーシーズン1位)獲得に貢献した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了後の2010年12月、当時プレミアリーグトッテナムの監督であったハリー・レドナップがベッカムに興味を示していると報じられ、1月にはミランと同じように期限付き移籍での加入が目前とも報じられたが、保険の問題で破談となった。しかしレドナップはベッカムがチームにいい影響をもたらすとの判断から練習への参加を打診し、ベッカムとギャラクシーもこれを受諾した。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2012年11月19日、シーズン限りでのロサンゼルス・ギャラクシー退団が発表された。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2013年1月31日の移籍期限日を前に移籍のためのメディカルチェックをパリ・サンジェルマンFCと行っていることが明らかとなった。その日の午後に5ヶ月間の契約を結んだことが発表され、併せて受け取る年俸はすべて地元の子どものための慈善団体へ寄附する意向であることが発表された。2013年2月24日に行われたオリンピック・マルセイユ戦で76分から交代で出場し、デビューを飾ったベッカムはパリ・サンジェルマンでプレイした400人目の選手となった。2013年5月12日、パリ・サンジェルマンはオリンピック・リヨンを1-0で降しリーグ優勝を決め、ベッカムは自身にとって異なるトップリーグで4度リーグ優勝を経験することになった。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2013年5月13日、2012-13シーズン終了後に現役を引退することを発表した。2013年5月18日に行われたホームのスタッド・ブレスト29戦が最後の出場となり、ユニオン・ジャックカラーの特別仕様のスパイクが用意され、ベッカムはキャプテンを務めた。試合ではブレーズ・マテュイディのゴールをコーナーキックからアシストし、80分に退く際には選手と監督から抱擁され、ファンからはスタンディングオベーションで讃えられた。試合は3-1でパリ・サンジェルマンが勝利を挙げた。",
"title": "クラブ経歴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1996年9月1日に行われたワールドカップ予選のモルドバ戦でA代表デビュー。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "その後の予選の試合にも出場を続け、1998 FIFAワールドカップを戦うイングランド代表のメンバーに選出された。監督を務めていたグレン・ホドルが、大会に集中できていないと判断し、最初の2試合はスターティングメンバーから外されたが、3戦目のコロンビア戦でスターティングメンバーに抜擢されると、フリーキックからゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。このゴールは、ベッカムの代表初ゴールであった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "しかし、決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン戦、ディエゴ・シメオネに報復攻撃を加え退場処分となり、また、チームもPK戦の末に敗退したこともあり、デイリー・ミラーに「10 heroic lions one stupid boy(10人の勇敢な獅子と1人の愚かな若者)」という標語をつけられ、戦犯としてメディアを含め多くの批判を浴び、ベッカムは死の脅迫をも受けた。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ベッカムへのファンによる批判がピークに達したのが、2-3で敗れたEURO 2000のポルトガル戦(ベッカムは2得点を演出した)である。サポーターは試合を通してベッカムにブーイングを浴びせ続けたが、ベッカムはそれに対して右手の中指を立てて応えた。その行為もまた非難されたが、かつて彼を批判していた新聞社は読者に対し、もうベッカムを批判するのは止めるようにしようと求めた。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2000年11月15日、10月に監督を辞任したケヴィン・キーガンの後を継いだピーター・テイラー監督にキャプテンに指名され、続いて監督に就任したスヴェン・ゴラン・エリクソンの下でもキャプテンとしてプレイし続けることとなった。ベッカムは、5-1で勝利したドイツ戦を含め、ワールドカップ最終予選で活躍を続けた。ギリシャ戦では、1-2とリードされている後半ロスタイム、同点となるフリーキックを決めイングランドをワールドカップ出場へと導いた。これらの活躍を通して、ベッカムがブーイングを浴び批判されるようなことはなくなった。その年は、BBCスポーツ・パーソナリティー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、FIFA最優秀選手賞では2位に選ばれている。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "怪我から回復し、2002 FIFAワールドカップ初戦のスウェーデン戦に出場を果たし、アルゼンチン戦では、PKからゴールを決めた。イングランド代表は準々決勝でブラジルに敗れ、ベスト8で大会を後にした。ベッカムは、翌月にマンチェスターで開催されたコモンウェルスゲームズの開会式に参加した。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "EURO2004にもイングランド代表として出場したが、1-2で敗れたフランス戦でPKを失敗した他、準々決勝のポルトガル戦のPK戦でも最初のキッカーとして外してしまうなど活躍することは出来なかった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2004年10月4日のウェールズ戦で、ベン・サッチャーにファウルを犯し、イエローカードを受け、累積で次戦のアゼルバイジャン戦は出場停止となった。ベッカムは試合中に肋骨を負傷していることに気付き、次の試合には出場できないことを悟り、イエローカードを貰うために意図的にファウルを犯したと明かした。イングランドサッカー協会は調査に乗り出し、ベッカムは「重大な過ちを犯してしまった」と認め謝罪をした。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2005年1月にUNICEF親善大使に任命された。また、ロンドンでの開催を目指すオリンピックの誘致活動に参加し、大きな貢献をした。2005年10月に行われたオーストラリア戦で退場し、代表キャプテンとして初めて退場処分を受けた選手となり、イングランド代表として2度退場した初めての選手にもなった。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2006年6月10日、イングランド代表にとっての2006 FIFAワールドカップ初戦であるパラグアイ戦では、ベッカムのフリーキックがカルロス・ガマーラのオウンゴールを招き、1-0で勝利した。6月15日に行われた2戦目のトリニダード・トバゴ戦では、83分にベッカムのクロスからピーター・クラウチのゴールが生まれ、終了間際には、スティーヴン・ジェラードのゴールもアシストした。試合は2-0で勝利し、大会スポンサーのバドワイザーが選出するマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。決勝トーナメント1回戦のエクアドル戦では、59分にフリーキックからゴールを決め、イングランド代表選手としてワールドカップ3大会で得点を挙げた初めての選手となり、試合も1-0で勝利し、準々決勝進出を果たした。ベッカムは試合前から体調が悪く、体調不良と脱水症状に陥いった結果、得点後もプレイを続けたが、試合中に数回嘔吐した。準々決勝のポルトガル戦では、怪我のために52分で交代し、試合は延長戦を終えても0-0のままで、PK戦の末に敗れた。交代後ベッカムは、プレイできないことから目に見えて落胆しており、ベンチで涙を流した。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ワールドカップ敗退後の翌日、記者会見で代表キャプテンを退くとの声明を出した。「キャプテンとして代表を率いることはとても名誉な特権であり、代表では95試合(実際は94試合)に出場し、58試合でキャプテンを務めたが、チームはスティーブ・マクラーレン監督の下で新しい時代を開こうとしている時で、キャプテンマークを譲り渡すのが正しい選択であると考えている。」と、述べた。その後ジョン・テリーがキャプテンに就任した。",
"title": "代表経歴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "キャプテン辞任後の2006年8月11日、スティーブ・マクラーレンは初めて代表を招集したが、ベッカムはメンバーから外れ、マクラーレンは「チームは新しい方向に進もうとしており、そこにベッカムは含まれていない。」と、述べた。ただし、将来的には呼ぶ可能性があると話した。ベッカムに代わって、ワールドカップのメンバーであったショーン・ライト=フィリップス、キーラン・リチャードソン、アーロン・レノンが起用されたが、マクラーレンは最終的に右サイドはスティーヴン・ジェラードに任せた。",
"title": "代表経歴"
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"text": "2007年5月26日、マクラーレンは監督就任後に初めてベッカムを招集し、新しいウェンブリー・スタジアムで行われたブラジルとの親善試合にスターティングメンバーとして出場し、後半にジョン・テリーのゴールをアシストするなど、良いパフォーマンスを見せた。イングランドが勝利するかに思われたが、ジエゴの終了間際の得点により、1-1の引き分けに終わった。続くEURO2008予選のエストニア戦にも出場し、代名詞とも言えるクロスから、マイケル・オーウェンとピーター・クラウチのゴールをアシストし、3-0の勝利に貢献した。ベッカムは2試合で決まったゴールの内、3ゴールをアシストし、マクラーレンも「今の彼以上の右サイドの選手は、世界中探してもいない」と評価を改め、MLS移籍後も代表でプレイし続けたいというベッカムの願いは実現することになった。",
"title": "代表経歴"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "2007年8月22日に行われたドイツとの親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながら代表でプレイした選手となった。2007年11月11日のクロアチアとの試合に途中出場し99キャップ目を記録すると、ピーター・クラウチの2-2となるゴールの起点なったが、2-3で敗れ、イングランドはEURO2008の出場権を逃してしまった。しかし、ベッカムは代表引退はせずに、これからも代表でのプレイを続けるとの意向を示した。その後、レアル・マドリード在籍時に監督を務めていたファビオ・カペッロが監督に就任した。初陣となるスイスとの親善試合に出場すれば100キャップ目となるが、ベッカムは3ヶ月間試合に出場していないために体力面に問題があるとして、メンバーには加えなかった。",
"title": "代表経歴"
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"text": "2008年3月20日、カペッロは、26日のフランスとの親善試合に向けたメンバーにベッカムを招集した。ベッカムはスターティングメンバーとして試合に出場し、イングランド人として100キャップを記録した5人目の選手となった。カペッロは、前日の会見でベッカムをフランス代表戦に起用すると明言し、将来的なことはこれから考えると話していた。2008年5月11日、カペッロは28日にウェンブリーで行われるアメリカとの試合と、6月1日にアウェー行われる試合に臨む代表メンバー31名を発表し、ベッカムもそこに含まれた。試合前にベッカムは100キャップを記念した金色の帽子を贈られ、サー・ボビー・チャールトンから渡された時には、観衆はスタンディングオベーションで讃えた。試合では決勝点となったジョン・テリーのゴールをアシストし、後半から交代でデヴィッド・ベントリーがピッチに入った時に観衆は、その交代に対してブーイングを送った。6月1日のトリニダード・トバゴ戦では、カペッロはベッカムをキャプテンに指名し、ベッカムはワールドカップ以来、2年ぶりにキャプテンとして試合に出場した。",
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"text": "ワールドカップ予選のベラルーシ戦で87分から出場し107キャップを記録し、歴代3位の出場数となり、2009年2月11日に行われたスペインとの親善試合では、スチュワート・ダウニングに代わり後半から出場、代表108キャップ目を記録し、ボビー・ムーアの持つフィールドプレイヤーとしての最多出場数の記録に並び、イングランド代表歴代2位タイの出場数となった。",
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"text": "2009年3月28日のスロバキアとの試合に途中出場し、ムーアの記録を更新し、試合ではウェイン・ルーニーのゴールをアシストした。2009年6月10日のアンドラ戦でスターティングメンバーとして100試合目の出場を果たした。",
"title": "代表経歴"
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"text": "2010 FIFAワールドカップは、怪我により選手として出場する機会は逃すことになったが、2010年5月14日にワールドカップに臨むコーチ陣と選手の間を取り持つ役を担いチームに帯同することが発表された。",
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"text": "2012年のロンドンオリンピックでは、オーバーエージ枠での代表入りは叶わなかったが、直前までロンドン五輪親善大使として活躍した。開会式当日は、女子サッカーU17代表のJade Baileyを乗せた高速ボートの操縦士を務め、テムズ川を疾走。主競技場近くの船着き場でスティーヴ・レッドグレーヴに聖火を手渡す際もアシストをした。",
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"text": "ミドルネームであるロバートは、マンチェスター・ユナイテッドFCの大先輩にあたり、自身が最も憧れていた選手であるボビー・チャールトンの本名から取られたものだと明かしている。",
"title": "人物"
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"text": "少年時代、天才サッカー少年としてテレビで紹介されたことがある。ユース時代にはチームでいちばんヘディングが強かったという。幼少の頃からマンチェスターUの試合を必ずと言っていいほど正装で観戦し、かなりの敬意を表していた。また、欧州に遠征して来た日本代表と対戦したときはジーコ監督(当時)に「小さい頃からファンだった」と試合前に正装をして挨拶に行ったこともある。",
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"text": "ロンドン近郊イーストロンドン(エセックス州寄り)レイトンストーン育ちの為、エセックス訛りの下町言葉を話す。",
"title": "人物"
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"text": "趣味は切手集めとテディベアのコレクション。オークションで1800ポンドのテディベアをEBAYで購入したことが英国のBBCニュースで流れたことがある。またオーダーメードでバイクを注文するなど、バイク好きで知られている。",
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"text": "2002年日韓ワールドカップ開催数ヶ月前の4月に、ベッカムは左足の第二中足骨を骨折したが、高圧酸素カプセルによる治療もあり、出場に間に合った。まだ日本でなじみがなかったこの器具は当時、「ベッカムカプセル」と呼ばれることもあった。",
"title": "人物"
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"text": "2005-06シーズン途中、カリフォルニアとイーストロンドンにサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれた。",
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"text": "2006年、自身が強迫性障害であることをメディアに告白した。",
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"text": "2015年、ピープル誌が選ぶ「この世で最もセクシーな男」に選ばれる。また、レジェンド・オブ・フットボール賞を受賞することになった。",
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"text": "2017年の映画『キング・アーサー』で俳優デビューした。ガイ・リッチー監督はその演技を高く評価したが、ファンや英メディアからはヴィクトリア夫人の歌声に例えられて酷評された。",
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"text": "2019年、彼はスマートフォンのながら運転の罰則により、6ヶ月の免許停止の処分を受けた。",
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"text": "2021年、FX(外国為替取引)会社 Gemforexのアジア圏におけるブランドアンバサダーに就任した。",
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"text": "1997年にヴィクトリア・アダムズがマンチェスター・ユナイテッドの試合の観戦に訪れた後に、交際が始まった。スター二人の交際関係はメディアの多くの注目を集め、このカップルは「ポッシュ & ベックス」と呼ばれた。1999年7月4日にアイルランドにあるルトレスタウン・キャッスルで式を挙げ、二人は結婚した。",
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"text": "二人の間には、息子が三人、娘が一人いる。ブルックリン・ジョセフ・ベッカム(1999年生)、ロメオ・ジェームズ・ベッカム(2002年9月1日生)、クルス・デイヴィッド・ベッカム(2005年2月20日生)、ハーパー・セブン・ベッカム(2011年7月10日生)。",
"title": "人物"
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"text": "2014年11月、長男ブルックリンがアーセナルFCと契約、次男ロメオと三男クルスもアーセナルのユースチームに所属している。ブルックリンは2015年にアーセナルU-18にも招集されるなどしたが、契約延長に至らず、2014-2015シーズンを持って退団した。その後は父親のキャリアの原点であるマンチェスター・ユナイテッド加入なども報じられたが、引退を選択している。その年の11月14日に行われたユニセフ主催のチャリティーマッチでは、父・デビッドと共に「イギリス・アイルランド合同チーム」の一員としてプレーし、ピッチ上で親子競演を果たした。12月にはブルックリンに続き、次男のロメオも引退する意向を両親に伝えたと報じられている。",
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"text": "2016年、三男のクルーズがジャスティン・ビーバーなどのマネージャーであるスクーター・ブラウンとマネジメント契約を結び、オフィシャルインスタグラムを開設。「If Every Day Was Christmas」で歌手デビューを果たす。",
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"text": "ベッカムの身体の各所には、妻や子供たちの名前がタトゥーとして刻まれている。左腕には、インドのヒンディー語等の言語で使用されるデーヴァナーガリー文字で『VHIKTORIYA』と彫られている。デーヴァナーガリー文字にはCの音をあらわす文字がないので、代わりにKが用いられる。英単語の語尾のAがYAに変わるのはインド英語の特徴である。VHIはスペル間違いである。脇腹には論語の一節「死生有命、富貴在天(死生は命にあり、富貴は天にあり)」と彫られている。",
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"text": "2015年、アメリカの経済誌フォーブスはデビッド・ベッカムの去年(2014年)の年収は約5080万ポンド(約91億円)であったと発表した、2012年の3460万ポンド(約62億円)からさらに1500万ポンド(約29億円)もの増収を上げている。現役を引退したスポーツ選手の長者番付では、マイケル・ジョーダンに続き、ベッカムが二位に付けている。",
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"text": "2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が『お金持ちリスト』を発表し、ベッカム夫妻が総資産1億6,500万ポンド(日本円で約217億8,000万円)で1位になった。デビッドはロサンゼルス・ギャラクシーから2年間で5,600万ポンド(約73億9,200万円)の契約を結んでいるほか、2012年のロンドン・オリンピックでサムスンのブランド大使を務める契約をしており、相当な額になっているという。さらに妻ビクトリアのファッションブランドからも収入が入るため、今後もベッカム家の資産は増え続けることになりそうだという。",
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"text": "ベッカムがロンドンに所有している邸宅は、ベッキンガム宮殿(Beckingham Palace)と呼ばれることがある。これはバッキンガム宮殿をもじったもの。高級住宅街があることで知られるハートフォードシャーに位置しており、ロンドン中心部から車で1時間程度の場所にある。約97,000mの敷地面積がある。",
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"text": "2007年4月に家族はベッカムのロサンゼルス・ギャラクシー移籍を踏まえて、ビバリーヒルズにイタリア風ヴィラを購入した。この建物は2,200万ドルで、近くにはトム・クルーズやケイティ・ホームズ、ジェイ・レノの家があり、街を一望できる丘の上に立つゲーテッドコミュニティである。2018年10月には、このロサンゼルスの豪邸を3300万ドル(2018年当時約36億3000万円)で売却し、差額1100万ドルの利益を得たと報道された。報道によれば、ロサンゼルス・ギャラクシー退団後ロンドンで過ごすことが多くなった上、ベッカムはマイアミで新たにインテル・マイアミCFを立ち上げ、マイアミを頻繁に訪れるようになったため、一家はマイアミ・ビーチのフィッシャー・アイランド(英語版)で新居を探しているという。",
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] |
デビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカムは、イングランドの元サッカー選手。元イングランド代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。2013年に現役を引退した。MLS・インテル・マイアミCFの共同オーナーを務めている。 FIFA最優秀選手賞では2位に2度選出され、2004年に初めて最も収入を得たサッカー選手となり、イギリス人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ100試合出場を達成した。 2000年11月15日から、2006 FIFAワールドカップまで、58試合でイングランド代表のキャプテンを務めた。 その後も代表に選ばれ、2008年3月26日に行われたフランス戦で100キャップ目を記録し、フィールドプレイヤーとしては最多の出場数を誇っている。 1999年にスパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム(旧姓アダムス)と結婚した。
|
{{表記揺れ案内
|text=この人物の[[日本語]]表記には以下のような表記揺れがあります。
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|birth_name=デビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム<br />David Robert Joseph Beckham<ref name="Hugman2003-04">{{cite book |editor-first=Barry J. |editor-last=Hugman |title=The PFA Footballers' Who's Who 2003/2004 |year=2003 |publisher=Queen Anne Press |location=Harpenden |isbn=978-1-85291-651-0 |page=42 }}</ref>
|caption=<!--2016年に[[ドーハ]]で行われたイベントで-->2014年当時のベッカム
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}}
'''デビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム'''(David Robert Joseph Beckham, [[大英帝国勲章|OBE]]<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/2988104.stm Beckham's pride at OBE]、BBC Sport、2003年6月13日。</ref>、[[1975年]][[5月2日]]<ref>[http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A1138600 David Beckham - Rise of a footballer]、BBC、2003年8月19日。</ref> - )は、[[イングランド]]の元[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。元[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー]]。2013年に現役を引退した。[[メジャーリーグサッカー|MLS]]・[[インテル・マイアミCF]]の共同オーナーを務めている。
[[FIFA最優秀選手賞]]では2位に2度選出され<ref name="Los Angeles Galaxy: Player bio">[http://la.galaxy.mlsnet.com/players/bio.jsp?player=beckham_d&playerId=bec369464&statType=current&team=t106 Los Angeles Galaxy: Player bio] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081028224000/http://la.galaxy.mlsnet.com/players/bio.jsp?team=t106&player=beckham_d&playerId=bec369464&statType=current |date=2008年10月28日 }}、ロサンゼルス・ギャラクシー、2008年9月9日。</ref>、2004年に初めて最も収入を得たサッカー選手となり<ref>[http://in.rediff.com/sports/2004/may/04beck.htm Beckham is world's highest-paid player]、ReDiff、2004年5月4日。</ref>、[[イギリス人]]として初めて[[UEFAチャンピオンズリーグ]]100試合出場を達成した<ref name="Los Angeles Galaxy: Player bio"/>。
2000年11月15日から、[[2006 FIFAワールドカップ]]まで、58試合でイングランド代表のキャプテンを務めた。<ref name="BBC">[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/1016201.stm Beckham's England dream realised]、BBC Sport、2000年11月10日</ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/world_cup_2006/teams/england/5138288.stm Beckham quits as England captain]、BBC Sport、2006年7月2日。</ref> その後も代表に選ばれ、2008年3月26日に行われた[[サッカーフランス代表|フランス]]戦で100キャップ目を記録し、フィールドプレイヤーとしては最多の出場数を誇っている。<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/7315475.stm Beckham achieves century landmark]、BBC Sport、2008年3月26日。</ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/7970172.stm Beckham reaches new caps landmark]、BBC News、2009年3月28日。</ref>
1999年に[[スパイス・ガールズ]]の[[ヴィクトリア・ベッカム]](旧姓アダムス)と結婚した<ref>[http://www.timesonline.co.uk/richlist/person/0,,47566,00.html David and Victoria Beckham]、[[タイムズ]]、2008年4月27日!</ref>。
== 生い立ち ==
1975年5月2日、[[ロンドン]]北東部に位置する下町[[:en:Leytonstone|レイトンストーン]]に[[配管工]](鉛管工)の父[[と]][[美容師|看護師]]の母サンドラの間に[[長男]]として生まれた<ref name="wsd2002920 01">[[#WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号|WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号]]、He's got the world at his feet. 01 p.8。</ref>。後に一家はさらに北へ行った[[:en:Chingford|チングフォード]]に引っ越し、ベッカムはここで少年時代を過ごしている<ref name="wshs2005-2006">{{Cite book|和書|author=金子義仁|year=2004|title=ワールドサッカーすごいヤツ全集 2005~2006|publisher=フットワーク出版|isbn=4-87689-509-0|pages=p.167-177}}</ref>。兄弟は、姉のリン(1972年 - )と妹のジョアン(1980年 - )がいる<ref name="wsd2002920 01"/>。ベッカムの母方の祖父は[[ユダヤ人]]であり<ref>{{cite web|url=http://www.thejc.com/articles/2008418468/beckhams-%E2%80%98-send-son-la-jewish-nursery|title=Beckhams 'to send son to LA Jewish nursery'|publisher=[[Jewish Chronicle]]|date=2008-04-18|accessdate=2009-01-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090424042819/http://www.thejc.com/articles/2008418468/beckhams-%E2%80%98-send-son-la-jewish-nursery|archivedate=2009年4月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、ベッカムは自身を「半分ユダヤ人("half Jewish")」として言及し<ref>{{cite news|url=http://football.guardian.co.uk/News_Story/0,,2126173,00.html|title=Beckham launches into the Galaxy|work=The Guardian |accessdate=2007-07-14 | location=London | first=Dominic | last=Fifield | date=2007-07-14}}</ref>、自叙伝には「たぶん、私はどの他のどの宗教より[[ユダヤ教]]との接触が多かっただろう」と記述している<ref>''Jewish funeral for Beckham's grandfather'', By Jessica Elgot, 10 December 2009</ref>。2007年のインタビューで、ベッカムは以下のようなことを話している。「学校で先生たちが『大きくなったら何になりたいの?』と聞かれるたびに『サッカー選手』と答えていた。するとどの先生も『いえ、実はどんなお仕事がしたいかを聞いているのだよ』と言われてしまう。でも俺は将来サッカー選手になりたいとだけ考えていた」<ref>{{cite web|url=http://www.wmagazine.com/celebrities/2007/08/beckhams_steven_klein?currentPage=2|title=American Idols|publisher=[[W magazine]]|date=2007-08-01|accessdate=2009-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090214155704/http://www.wmagazine.com/celebrities/2007/08/beckhams_steven_klein?currentPage=2|archivedate=2009年2月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。1982年に地元の創設まもないリッジウェイ・ローヴァーズ(現在の[[:en:Brimsdown Rovers F.C.|ブリムズダウン・ローヴァーズFC]])に入団。ベッカムは3シーズンで115試合に出場し101得点を挙げ<ref>[[#さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集|さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集]]、超貴重ベッカム「お宝」写真館 p.8。</ref>、1986年に[[は]][[ウェストハム・ユナイテッドFC|スパイシーFC]]から誘いも受けたが、時期尚早との判断で最終的に6年間在籍した<ref>[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第1章 きっかけは花壇から p.46-47。</ref>。並行して学校での試合にも参加し、ベッカムは[[地区]]と[[州]]の代表に選出されている<ref>[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第1章 きっかけは花壇から p.51。</ref>。また1985年と1986年に[[ボビー・チャールトン]]が主宰する全国規模のサッカースクールに参加しており、1986年には実施された技術テストでロンドン地区で優勝し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]の旧練習場と[[オールド・トラッフォード]]で行われた決勝戦では過去6年間での最高得点を挙げ優勝した<ref name="wshs2005-2006"/><ref name="第2章p.57-61">[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第2章 フォード・シエラに乗ったスカウト p.57-61。</ref>。ちなみに入賞の賞品は、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]での2週間の合同練習であった<ref name="第2章p.57-61"/>。
ロンドン北部のいくつかのクラブから誘いを受け<ref>[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第1章 きっかけは花壇から p.53。</ref>、近所の[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]の養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが<ref>[[#WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号|WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号]]、He's got the world at his feet. 03 p.12。</ref>、1988年5月2日に[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]の学生準会員となり<ref>[[#DAVID BECKHAM オール・アバウト・ベッカム・スタイル|DAVID BECKHAM オール・アバウト・ベッカム・スタイル]]、Chapter 1: I Want to play for Manchester United p.14。</ref>、1989年8月に晴れて学生会員となった<ref>[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第3章 第二の故郷 p.71。</ref>。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ<ref>[[#さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集|さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集]]、超貴重ベッカム「お宝」写真館 p.11。</ref>{{Efn|1991年、サッカーのユースチームの入門する際、先輩らから儀式と称して命じられ、彼らやチームメイトの前で男性サッカー選手の写真を見ながら'''オナニー'''をさせられた。当時、入団する者みなが同行為をさせられた。ベッカムによれば、その行為はチームに入団する際の儀式として長年に渡り行われていたが、ベッカムの時代で終わらせることができた。<ref>https://news.livedoor.com/article/detail/8303769/</ref>}}。
== クラブ経歴 ==
=== 練習生・レンタル時代 ===
1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームは[[FAユースカップ]]を優勝。当初はフィジカルに難があったベッカムは外れていたが、最終的に[[ミッドフィールダー#サイド・ミッドフィールダー|右サイドハーフ]]を担当していた{{仮リンク|キース・ギレスピー|en|Keith Gillespie}}が前線へ移動したことで出場機会に恵まれ、決勝の[[クリスタル・パレスFC|クリスタル・パレス]]戦の2ndレグでは1得点を挙げチームの優勝に貢献した。翌年の同大会も決勝まで駒を進めたが、[[リーズ・ユナイテッドAFC]]に敗れて準優勝。同時期の選手達は揃ってリザーブチームに昇格し、Aリーグとセントラル・リーグで優勝するという20年ぶりの快挙を成し遂げた。この頃、[[エリック・カントナ]]が練習相手としてクロスを蹴らせていたところ、ファーガソン監督がその光景を見て、そのクロスの精度の高さにトップで起用することを決めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2019/10/10/___split_85/index_3.php|title=王様・カントナ、「カンフーキック」事件の名言。練習相手はベッカム|website=SPORTIVA|date=2019-10-10|accessdate=2023-7-22}}</ref>.
1992-93シーズン、9月23日に行われた[[EFLカップ|リーグカップ]]の[[ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC]]戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日の[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95|UEFAチャンピオンズリーグ]]、第6節の[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]戦に先発出場すると、トップチームでの自身初の得点を挙げた。
1994-95シーズン、経験を積むために1か月間の[[期限付き移籍|レンタル移籍]]で、当時[[EFLリーグ2|リーグ2]]所属の[[プレストン・ノースエンドFC|プレストン・ノースエンド]]に加入。当時の監督{{仮リンク|ギャリー・ピーターズ|en|Gary Peters (footballer)}}の指示で[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]と[[コーナーキック]]を任せられ<ref>[[#ベッカム:マイ・サイド|ベッカム:マイ・サイド]]、第3章 第二の故郷 p.93-98。</ref>、5試合に出場し(1試合は途中出場、チームは3勝2分)、フリーキックとオリンピックゴールで2得点を挙げた<ref name="wsd2002920 1994-95">[[#WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号|WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号]]、David Beckham Playing Career High Lights 1994-95 p.48。</ref>。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日の[[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ]]戦にスターティングメンバーとして出場し、[[プレミアリーグ]]デビューを果たした<ref name="wsd2002920 1994-95"/>。
=== マンチェスター・ユナイテッド ===
ユナイテッドの監督である[[アレックス・ファーガソン]]は、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムは[[ニッキー・バット]]、[[ガリー・ネヴィル|ガリー]]と[[フィリップ・ネヴィル|フィル]]のネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「[[ファーガソンのひな鳥]]」と呼ばれる選手たちの一人であった。1994-95シーズンを最後に、[[ポール・インス]]や[[マーク・ヒューズ (ウェールズのサッカー選手)|マーク・ヒューズ]]、[[アンドレイ・カンチェルスキス]]といった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソンは、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏に[[ダレン・アンダートン]]、[[マルク・オーフェルマルス]]、[[ロベルト・バッジョ]]の獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用することを決めたが、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦で[[アストン・ヴィラFC]]に1-3で敗れ、[[アラン・ハンセン]]の「子供ばかりでは勝てない」という言葉に象徴されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。
ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、[[FAカップ]]準決勝の[[チェルシーFC]]戦でゴールを決め、決勝戦では[[エリック・カントナ]]のゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていた[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]を逆転して得たものであった。
マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたが[[UEFA EURO '96|EURO96]]以前に代表に招集されることはなかった<ref>[http://www.thefa.com/England/SeniorTeam/NewsAndFeatures/Postings/2005/01/Euro96_Feature.htm Euro 96 stars going strong] {{webarchive|url=https://archive.is/20050326090133/http://www.thefa.com/England/SeniorTeam/NewsAndFeatures/Postings/2005/01/Euro96_Feature.htm |date=2005年3月26日 }}、[[:en:The Football Association|theFA.com]]。</ref>。
1996-97シーズン開幕前に背番号10番を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦の[[ウィンブルドンFC]]戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後には[[PFA年間最優秀若手選手賞]]を受賞した<ref>[http://www.napit.co.uk/viewus/infobank/football/awards/pfayoung.php English PFA Young Player Of The Year Award]、napit.co.uk。</ref>。
1997年5月18日に[[エリック・カントナ]]が現役引退を発表し、[[テディ・シェリンガム]]がクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を[[永久欠番]]にすることを望む人もいた。
1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速し[[アーセナルFC]]に次いで、2位でシーズンを終えた<ref>[http://www.geocities.com/Colosseum/Track/5880/fix1998.html Fixture List for 1997/98 Season] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090731113715/http://geocities.com/Colosseum/Track/5880/fix1998.html |date=2009年7月31日 }}、geocities.com。</ref>。
[[FAプレミアリーグ1998-1999|1998-99シーズン]]、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。
リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームの[[トッテナム・ホットスパーFC]](ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。
[[ファイル:1999 FA Cup Final Beckham corner.jpg|250px|thumb|1999年のFAカップ決勝でコーナーキックを蹴る前のベッカム]]
FAカップ決勝の[[ニューカッスル・ユナイテッドFC]]戦と[[UEFAチャンピオンズリーグ 1998-99 決勝|チャンピオンズリーグ決勝]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、[[ロスタイム]]に2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた活躍が評価され、[[バロンドール]]と[[FIFA最優秀選手賞]]では、いずれも[[リバウド]]に次いで2位に選出された。
[[FIFAクラブワールドカップ|FIFAクラブ世界選手権]]の[[クルブ・ネカクサ]]戦で故意のファールで退場処分を受けた後にも批判を浴びた。プレスの間では、妻が悪い影響を与えており、ベッカムを売ることがユナイテッドにとってプラスになるのではないかと囁かれるようになった<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/sport/football/593905.stm Man Utd's flawed genius?]、BBC News、2000年1月7日。</ref>。しかし、監督は彼を支持しクラブに留まることになった。1999-2000シーズン中には、[[イタリア]]の[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]への移籍の話があったが、結局は何も起こらなかった。
しかし、ベッカムがサッカーから離れたところから名声を得始めたことによって、2000年の初めからファーガソンとベッカムの関係は悪化し始めた。2000年にベッカムは[[嘔吐下痢症]]に感染した息子のブルックリンを看病するために練習を欠席する許可を得たが、ファーガソンは、同日にロンドン・ファッション・ウィークのイベントで写真撮影をされていた[[ヴィクトリア・ベッカム]]が子どもの看病をすればベッカムは練習に参加することが出来たと激怒し、ベッカムに対してクラブでの最大の罰金(2週間分の給料、ベッカムの場合は50,000ポンド)を科し、ユナイテッドのライバルであるリーズとの重要な試合のメンバーから外した。ファーガソンは後に自叙伝の中で、「チームメイトに対してフェアではなかった」として批判し、ベッカムを非難した<ref>The Boss、p.469。</ref>。しかし、ユナイテッドは記録的な差でリーグのタイトルを獲得し、ベッカムもタイトル獲得に貢献した。
「結婚するまで彼は何の問題もなかった。夜にはよくアカデミーでコーチをしたりと素晴らしい若者だった。しかし、結婚によってエンターテイメントシーンへ入ってしまったことが問題だった。その瞬間から彼の生活は決して以前のようにはならなくなってしまったし、彼はそのような有名人になってしまった。サッカーはそのほんの一部に過ぎない」(アレックス・ファーガソンが2007年にベッカムの結婚について語った言葉)<ref>[http://www.independent.co.uk/sport/football/news-and-comment/ferguson-will-never-talk-to-the-bbc-again-401487.html Ferguson will never talk to the BBC again]、[[インデペンデント]]。</ref>
ベッカムは連覇に貢献し、[[FAプレミアリーグ1999-2000|1999-2000シーズン]]は、2位のアーセナルに18ポイント差を付けて優勝し、残り11試合を11連勝で飾り首位を快走した。連勝中にベッカムは5ゴールを挙げ、シーズンを通して6ゴール、全公式戦で8ゴールを記録した。
ベッカムは3連覇を達成した[[FAプレミアリーグ2000-2001|2000-01シーズン]]のユナイテッドの中心選手であった。ベッカムはリーグ戦で9ゴールを挙げた。
2002年4月10日、チャンピオンズリーグの[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]戦で左足の第二[[中足骨]]を骨折した。怪我をさせた選手がイングランドがワールドカップで対戦することになっているアルゼンチンの[[アルド・ドゥシェル]]であったため、イギリスのメディアの間では故意に負わせた怪我ではないかとの憶測が生まれた<ref>[http://soccernet.espn.go.com/archive/championsleague/news/2002/0402/20020411featwright.html Did "hatchet man" target Beckham?]、ESPN Socernet、2002年4月2日。</ref>。怪我により、ベッカムは残りのシーズンを棒に振り、クラブもリーグのタイトルを逃した。大部分は彼への肖像権料の支払いの割合についてであったが、数か月に及ぶ交渉の末、3年間の契約延長にサインした。新しい契約による給料の増加と広告収入により、ベッカムは世界で一番収入を得ているサッカー選手となった<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/team_pages/england/newsid_1976000/1976699.stm Beckham signs new contract]、BBC News、2002年5月。</ref>。
[[FAプレミアリーグ2001-2002|2001-02シーズン]]は、ユナイテッドの選手として、ベッカムにとっての最高のシーズンであった。リーグ戦28試合に出場し11ゴール、全公式戦42試合に出場し16ゴールの成績を残した。
怪我から回復して迎えた[[FAプレミアリーグ2002-2003|2002-03シーズン]]であったが、[[オーレ・グンナー・スールシャール]]がベッカムに代わって右サイドでプレイしており、以前のようにポジションを得ることが出来なかった。監督との関係も2003年2月15日に行われたFAカップのアーセナル戦後に悪化。ドレッシングルームで敗退に怒ったファーガソンがスパイクを蹴り上げ<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/teams/m/man_utd/2778985.stm Man Utd play down Arsenal rift] BBC、2003年2月19日。</ref><ref>[http://www.goal.com/en/news/9/england/2009/04/28/1234261/silvestre-reminisces-about-fergusons-infamous-boot-throwing-at-be Goal.com 2009年4月28日]</ref><ref>[http://www.metro.co.uk/sport/football/article.html?Revealed:_What_happened_when_Beckham_was_hit_by_a_boot_in_the_face&in_article_id=638192&in_page_id=43 Metro 2009年4月28日]</ref><ref>[http://www.walesonline.co.uk/news/wales-news/2008/07/29/why-ryan-giggs-is-more-scared-of-his-mum-than-fergie-91466-21423456/ walesonline.co.uk]</ref><ref>[http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/woman/health/article964164.ece The Sun、2008年3月27日]</ref>、それがベッカムの目の上を直撃し、縫合が必要な傷を負ってしまった。この事件をきっかけとして、多くの移籍の噂が巻き起こり、[[ブックメーカー]]は、ベッカムとファーガソンのどちらが先にクラブを去るかを対象とした賭けを始めた<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/teams/m/man_utd/2775269.stm Will Becks give Man Utd the boot?]、BBC News、2003年2月18日。</ref>。チームは低調なスタートを切ったが、12月頃から立ち直り、リーグ優勝を果たした。ベッカムは全公式戦を通して52試合に出場し、11ゴールを挙げた。
ベッカムは、イングランド代表ではレギュラーとしてプレイし続けており、6月13日に[[大英帝国勲章|OBE]]を受勲した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/2988104.stm Beckham's pride at OBE]、BBC News、2003年6月13日。</ref>。
プレミアリーグで265試合に出場し、61得点、チャンピオンズリーグでは81試合に出場し、15得点の成績を残した。6度のリーグ優勝と2度のFAカップ優勝、チャンピオンズリーグと[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]、FAユースカップのタイトルを12年間の間に獲得した。
=== レアル・マドリード ===
[[ファイル:Beckham zidane.jpg|thumb|140px|right|レアル・マドリード時代のベッカムとチームメイトであった[[ジネディーヌ・ジダン|ジダン]](2003年)]]
2003年、[[ジョアン・ラポルタ]]が[[FCバルセロナ]]の会長に立候補した際、ベッカムの獲得を公約に掲げた。マンチェスター・ユナイテッドはFCバルセロナへの移籍を望んでいたが<ref>[http://www.guardian.co.uk/football/2003/jun/11/newsstory.sport1 Beckham to stay in Spain]、Guardian Unlimited Football、2003年6月11日。</ref>、ベッカムは[[レアル・マドリード]]を選択し、4年間の契約を結んだ。移籍金は約3500万[[ユーロ]]だとされている。手続きは2003年7月1日に完了し、[[ローリー・カニンガム]]、[[スティーブ・マクマナマン]]に続いて、レアル・マドリードでプレイするイギリス人のサッカー選手となった。
マンチェスター・ユナイテッドとイングランド代表では7番を付けていたが、クラブのキャプテンである[[ラウル・ゴンサレス]]が付けている背番号であったため、7番を選ぶことはできず、23番を選択した。その選択の理由は、尊敬する[[バスケットボール]]選手の[[マイケル・ジョーダン]]が付けていた番号であるからだと報道された<ref>[http://www.guardian.co.uk/news/2003/jul/03/netnotes.sallybolton The number 23]、[[ガーディアン]]、2003年6月3日。</ref>。ロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍会見時には「背番号はマドリード時代と同じ23が良い。マイケル・ジョーダンを尊敬しているし、アメリカでは特別な番号だ」と語った。しかし、のちに本人が「空いている番号でどれでもよかった」と語っている。
2003-04シーズン、レアル・マドリードは4位でシーズンを終了し、チャンピオンズリーグでも準々決勝で敗退したが、ベッカムは開幕戦でのゴールを含め、最初の公式戦16試合で5得点を挙げ、すぐにサポーターのお気に入りとなった。しかし、リーグかチャンピオンズリーグのいずれかのタイトルを獲得することを望んでいた会長の期待には応えることは出来なかった。また、このシーズンからは、チーム事情により、センターハーフでのプレーが主だった。
2004-05シーズン、チームは無冠に終わる。移籍後は主にセンターハーフでプレーしていたが、冬に[[トーマス・グラベセン]]が加入したことと監督であった[[ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ]]と[[ルイス・フィーゴ]]の確執に伴い、2005年に入ってからはフィーゴに代わって右サイドハーフとして出場する機会が増えた。右サイドで出場した2005年の[[エル・クラシコ]]では[[マイケル・オーウェン]]へのアシストを含め2アシストを記録し、移籍後最高のパフォーマンスと称される活躍をして4-2の勝利に貢献した。その後も右サイドハーフとして出場を続け好パフォーマンスを披露し、リーグで最も多くのアシストを記録した選手となった。
2005-06シーズンは、フィーゴの移籍に伴い右サイドハーフに定着したが、優勝したバルセロナに12ポイント差を付けられての2位に終わり、チャンピオンズリーグでは、[[アーセナルFC]]に決勝トーナメント1回戦で敗れた。
[[ファイル:Beckham warmingup.jpg|thumb|180px|right|ウォーミングアップをするベッカム(2006年)]]
2006-07シーズンは監督に就任した[[ファビオ・カペッロ]]の好みにより、当初はスターティングメンバーで出場したが、ベッカムがスターティングメンバーとして出場した最初の9試合で、レアルは7ポイントを落とし、スピードのある新加入選手の[[ホセ・アントニオ・レジェス]]に右サイドのポジションを奪われた。
2007年1月10日、長引いた交渉の末に、スポーツディレクターを務めていた[[プレドラグ・ミヤトヴィッチ]]は、シーズン終了後にクラブを去ると発表したが、あれは誤訳であり、実際には再交渉はまだ始っていないと言ったのだと主張した<ref>[http://www.nytimes.com/2007/01/10/sports/10iht-web.0110beckham.4162244.html?_r=1 Uncertainty over Beckham's future at Real Madrid]、International Herald Tribune、2007年1月10日。</ref>。しかし、1月11日にベッカムはレアル・マドリードを離れ、[[特別指定選手制度 (メジャーリーグサッカー)|特別指定選手制度]](Designated Player Rule)を使用して[[メジャーリーグサッカー]]の[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]へ移籍することが明らかになり、翌日のMLSのスーパードラフトの際に公式な記者会見が開かれた<ref>[http://la.galaxy.mlsnet.com/news/mls_news.jsp?ymd=20070110&content_id=81545&vkey=news_mls&fext=.jsp Events surround MLS SuperDraft] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080527211351/http://la.galaxy.mlsnet.com/news/mls_news.jsp?ymd=20070110&content_id=81545&vkey=news_mls&fext=.jsp |date=2008年5月27日 }}、MLSnet.com、2007年1月10日。</ref>。ベッカムはロサンゼルス・ギャラクシーと7月1日からの5年間の契約を結んだと発表した。1月13日にカペッロは、「ベッカムは練習は続けるが、レアル・マドリードでの最後の試合を終えた」と述べ、今後の試合では起用しないことを示唆した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/6259063.stm Real coach calls time on Beckham]、BBC Sport、2007年1月13日。</ref>。
しかし、常に練習を懸命に行う彼の姿を見て[[ラウル・ゴンサレス|ラウル]]や[[グティ]]がカペッロに出場を懇願し、チームも低迷していたこともあり、カペッロは2月10日の[[レアル・ソシエダ]]戦のメンバーに招集し、ベッカムはゴールを決め、チームも試合に勝利した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/6346573.stm "Beckham scores on Madrid return]、BBC Sport、2007年2月10日。</ref>。その後、ベッカムは好パフォーマンスを披露し、レジェスからポジションを奪い返した。ベッカムの最後のチャンピオンズリーグ出場となったのは、2007年3月7日の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦であり、本戦出場数通算103試合は、当時3番目に多い記録であった。2007年6月17日、ベッカムはレアル・マドリードでの最後の試合となった[[RCDマヨルカ|マジョルカ]]戦に出場、チームは3-1で勝利した。足を痛めたベッカムと交代で出場したレジェスが、2得点を挙げ、ベッカムはクラブ加入以来初めて、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]のタイトルを獲得した。
シーズン終了後、レアル・マドリードは、ベッカムのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を解消するために交渉していると発表したが、ギャラクシー側が拒否したため試みは失敗に終わった<ref>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/10/AR2007061000751.html Agent: Beckham Sticking to Galaxy Deal]、[[ワシントン・ポスト]]。</ref>。
レアルでのキャリア終了の1ヶ月後に、アメリカの経済誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』は、ベッカムは広告塔としてクラブのグッズ販売に貢献し、在籍4シーズンで6億[[ドル]]にも上る売上を記録したと報じた<ref>[https://archive.is/20120524213646/http://www.forbes.com/2007/07/07/beckham-soccer-marketing-face-markets-cx_pm_0707autofacescan01.html Becks And Bucks]</ref>。
ベッカムがレアル・マドリードとの契約延長にサインせず、アメリカ・ロサンゼルスギャラクシーへの移籍を発表した際、レアルの[[ラモン・カルデロン|カルデロン]]会長はマドリー市内の大学の講義でチーム内の非難発言を繰り返した。その中で「ベッカムはアメリカ以外のどのチームからもオファーはなかった。彼はアメリカに行ってなんにでもなれるだろう」と発言し、発言を録音していた学生からラジオ局に流れ大問題に発展した。しかし、実際はACミランやイングランドの複数のクラブからオファーがあった事が後に明るみに出て、会長はミーティングの席でベッカムに謝罪した。
またこの一連の騒動に関してシーズン終了後に元チームメイトである[[ジネディーヌ・ジダン|ジダン]]は「レアル・マドリードは重大なミスを犯した。ベッカムを手放した事で来シーズン代わりの選手を探さなければならない。まぁ彼と同等の選手を探す事は不可能に近いだろうけどね」と語っている。
=== ロサンゼルス・ギャラクシー ===
[[ファイル:David Beckham Nov 11 2007 Direction.jpg|thumb|200px|right|ギャラクシーでキャプテンを務めるベッカム(2007年)]]
ベッカムとロサンゼルス・ギャラクシーとの契約は2007年7月11日に結ばれ、13日に[[ホーム・デポ・センター]]でギャラクシーへの入団発表が行われた。ベッカムは23番を選び、入団発表前に既にギャラクシーのレプリカユニフォームの販売枚数は250,000枚以上の記録的な販売数になっているとの報道がなされた<ref>[http://www.socceramerica.com/index.cfm?fuseaction=Articles.san&s=22622&Nid=32279&p=406999 The Beckham has Landed]、socceramerica.com、2007年7月13日。</ref>。
ギャラクシーでのデビュー戦は、7月21日に行われたワールドシリーズの[[チェルシーFC]]戦であり、0-1で敗れたが、ベッカムは78分から出場した<ref>[http://espnmediazone.com/press_releases/2007_07_jul/20070705_DavidBeckham.htm David Beckham’s First Match in Major League Soccer Live on ESPN Saturday, July 21] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081224213616/http://espnmediazone.com/press_releases/2007_07_jul/20070705_DavidBeckham.htm |date=2008年12月24日 }}、[[ESPN]]、2007年7月5日。</ref>。8月9日の[[D.C. ユナイテッド]]戦に途中出場し、リーグデビューを果たした<ref>[http://www.usatoday.com/sports/soccer/mls/2007-08-09-beckham-debut_N.htm Beckham makes MLS debut but Galaxy stumbles in D.C.]、[[USAトゥデイ]]。</ref>。
翌週の[[スーパーリーガ (北中米サッカー)|スーパーリーガ]]準決勝のD.C.ユナイテッド戦はで初めてスターティングメンバーとして出場し、キャプテンを務めた。試合中にイエローカードを貰いはしたものの、前半にフリーキックから初ゴールを決め、後半には[[ランドン・ドノバン]]の得点をアシストした<ref>[http://soccernet.espn.go.com/columns/story?id=453684&root=mls&cc=4716 Beckham takes captain's armband to great effect]、ESPN.com、2007年8月16日。</ref>。チームも2-0で勝利し、8月29日の[[CFパチューカ|パチューカ]]との決勝戦に進むことになった。決勝戦でベッカムは右足の膝を負傷し、[[核磁気共鳴画像法|MRI]]を行った結果、[[靭帯損傷|内側側副靭帯]]の損傷であることが判明し、その後6週間チームから離脱することになった。チームに復帰したのはシーズンの最終戦であった。10月21日に行われた[[シカゴ・ファイアー]]との最終戦で途中交代で出場したが、チームは0-1で敗れ、プレーオフに進出することは出来なかった。デビューシーズンはリーグ戦5試合を含め、8試合に出場、リーグ戦では得点を挙げられなかったが、2アシストを記録した。
2008年1月4日から、ギャラクシーのプレシーズンが始まるまでの3週間、アーセナルの練習に参加した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/7171836.stm Beckham begins Arsenal training]、BBC News、2008年1月4日。</ref>。
リーグ戦初得点は、4月3日の[[サンノゼ・アースクエイクス]]戦の前半9分に決めたものであった<ref>[http://soccernet.espn.go.com/report?id=237757&cc=4716 Beckham, Donovan propel L.A. past Quakes]、ESPN.com、2008年4月4日。</ref>。5月24日の[[カンザスシティ・ウィザーズ]]戦で3-1で勝ち、チームは西カンファレンスの首位に浮上した。その試合の終了間際に、ベッカムは1996年に決めたゴールと同じような位置から、無人のゴールにシュートを入れた<ref>[http://soccernet.espn.go.com/columns/story?id=538785&root=mls&cc=4716 Beckham shows scoring touch against Wizards]、Soccernet.espn.go.com。</ref>。しかし、ギャラクシーは最終的にカンファレンス6位の成績に終わり、プレーオフ進出を果たすことは出来なかった。
2009年シーズンは、[[ACミラン]]とのレンタル契約延長のため、シーズンの前半を欠場し、そのために2009年7月19日に行われたACミランとの親善試合でファンから「詐欺師」などとブーイングを浴びるなど<ref>[http://www.cnn.co.jp/sports/CNN200907210029.html ベッカム、LAギャラクシーのファンから「詐欺師」と]『CNN.co.jp』2009年7月21日更新、22日閲覧</ref>、チームに復帰したベッカムを良く思わないファンもいたが、ギャラクシーは近年で最も良いシーズンを送り、ベッカム復帰後にチームは西カンファレンスの3位から首位に浮上した。ベッカムはチームの中心選手として活躍し、[[MLSカップ]]では[[ヒューストン・ダイナモ]]を2-0で降し、決勝進出を果たした<ref>[http://www.nytimes.com/2009/11/15/sports/soccer/15galaxy.html Two Blackouts and Two Goals Send Galaxy to M.L.S. Final]、[[ニューヨーク・タイムズ]]、2009年11月14日。</ref>。2009年11月22日に行われた決勝の[[レアル・ソルトレイク]]戦ではベッカムもフル出場したが、延長戦を終えても1-1のまま決着はつかず、PK戦の末に4-5で敗れた<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=702587&sec=global&cc=4716 MLS: David Beckham's LA Galaxy beaten]、ESPN、2009年11月23日。</ref>。
=== ACミラン ===
[[ファイル:David Beckham of AC Milan, April 19, 2009.jpg|thumb|right|180px|レンタル移籍中のミランでプレーするベッカム(2009年)]]
ワールドカップの予選は[[メジャーリーグサッカー|MLS]]のシーズンオフにも行われるためベッカムは、[[ファビオ・カペッロ]]率いるイングランド代表でプレイするためのコンディションを維持するために、ヨーロッパに戻るのでないかとの噂が流れ、2008年10月22日にACミランは、2009年1月7日から、ベッカムがレンタルで加入すると発表した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/7697377.stm Beckham to join Milan in January]、BBC Sport、2008年10月30日。</ref>。様々な憶測がなされたが、ベッカムはMLSを去る意思はなく、2009年3月の開幕にはギャラクシーに戻ると明らかにした<ref>[http://web.mlsnet.com/media/player/mp_tpl.jsp?w=mms%3A//a1503.v115042.c11504.g.vm.akamaistream.net/7/1503/11504/v0001/mlbmls.download.akamai.com/11504/2008/shows/t106/102408_lag_beckham_int2.wmv&w_id=27284&catCode=shows&type=v_free&_mp=1 Beckham Milan Update] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081028032340/http://web.mlsnet.com/media/player/mp_tpl.jsp?w=mms%3A%2F%2Fa1503.v115042.c11504.g.vm.akamaistream.net%2F7%2F1503%2F11504%2Fv0001%2Fmlbmls.download.akamai.com%2F11504%2F2008%2Fshows%2Ft106%2F102408_lag_beckham_int2.wmv&w_id=27284&catCode=shows&type=v_free&_mp=1 |date=2008年10月28日 }}、Major League Soccer、2008年10月25日。</ref>。一部からは、マーケティング目的の移籍であると揶揄されたが、ミランはチームを強化するために必要な移籍であると主張した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/7887918.stm How Beckham Conquered Milan]、BBC Sport、2009年2月14日。</ref>。7番と23番は既に他の選手が付けていたため、ベッカムは32番を選んだ。メディカルチェックを終えたベッカムは、クラブの医師から、38歳になる5年後までサッカー選手としてプレイすることが可能だと告げられた<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=605972&cc=4716 Becks "can play until he is 38," says doc]、ESPN、2008年12月30日。</ref>。
2009年1月10日の2-2で引き分けた[[ASローマ]]戦でスターティングメンバーとして89分まで出場し、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]デビューを飾り<ref>[http://soccernet.espn.go.com/report?id=251467&cc=4716&league=ITA.1 AS Roma 2-2 AC Milan]、ESPN、2009年1月11日。</ref>、4-1で勝利した1月25日の[[ボローニャFC]]戦で初ゴールを決めた<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=612673&&cc=4716 Beckham scores first goal for AC Milan]、ESPN、2009年1月25日。</ref>。
3月にはミラノからロサンゼルスへ戻ることになっていたが、ベッカムは最初の4試合で2ゴールを挙げ、数アシストを記録するなどの活躍をすると、ミランに残りたいと希望し、ミランもベッカム残留のために数百万ドルを支払う意思があるとの報道がされた。2月4日には、[[2010 FIFAワールドカップ]]でイングランド代表としてプレイするためにも、ベッカムはミランに完全移籍することを求めていることが明らかになったが、ミランの提示した1000-1500万ドルの金額は、ギャラクシーのベッカムへの評価に見合う額ではなかった<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=616973&cc=4716 Galaxy reject AC Milan's opening gambit for Becks]、ESPN、2009年2月7日。</ref>。
しかし、交渉は1ヶ月間続き<ref>[http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=619909&cc=4716 Beckham's future to be resolved on Friday?]、ESPN、2009年2月17日</ref>、3月2日の[[ロサンゼルス・タイムズ]]は、ベッカムの移籍期間は7月中旬まで延長されたと報じ<ref>[http://articles.latimes.com/2009/mar/03/sports/sp-beckham-milan-galaxy3 Beckham agrees to return to Galaxy in mid-July]、[[ロサンゼルス・タイムズ]]、2009年3月8日。</ref>、ベッカムも7月中旬から、2009年のMLSのシーズン終了まで、ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイをすると話した<ref>[http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/football/european_football/article5871341.ece David Beckham ‘dream’ deal]、The Times、2009年3月9日。</ref>。
2009年11月、2010年1月から再びレンタルでACミランに加入することが明らかになった<ref>[http://www.guardian.co.uk/sport/2009/nov/02/david-beckham-milan-loan David Beckham's loan move to Milan from LA Galaxy is confirmed]、[[ガーディアン]]、2009年11月2日。</ref>。セリエAに復帰して初めて迎えた2010年1月6日に行われた[[ジェノアCFC]]戦にスターティングメンバーとして75分間出場し、チームも5-2で勝利した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8444755.stm David Beckham makes winning return for AC Milan]、[[BBCスポーツ]]、2010年1月6日。</ref>。2010年2月16日には2003年にクラブを離れてから初めてマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、ベッカムも76分間プレイしたが、チームは[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]で行われた[[チャンピオンズリーグ]]の決勝トーナメント1回戦のファーストレグを2-3で落とした<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8515983.stm AC Milan 2-3 Man Utd]、BBCスポーツ、2010年2月16日。</ref>。
2010年3月10日、ベッカムは2ndレグの試合のためにミランの選手として[[オールド・トラッフォード]]に帰還した。スターティングメンバーからは外れたが、交代で64分から出場すると、ファンからは温かい歓迎を受けた。[[オールド・トラッフォード]]でマンチェスター・ユナイテッドと対戦するのは初めての経験であったが、クロスとコーナーキックからチャンスを演出した。しかし、チームは0-4で敗れ、トータルスコア2-7で1回戦敗退となってしまった<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8567353.stm Man Utd 4-0 AC Milan (agg 7 - 2)]、BBCスポーツ、2010年3月10日。</ref>。その後に行われた[[ACキエーヴォ・ヴェローナ]]戦にはスターティングメンバーとして出場したが、[[アキレス腱断裂]]の重傷を負ってしまった<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8567353.stm David Beckham set to miss World Cup with injury]、BBCスポーツ、2010年3月14日。</ref>。2010年3月15日に[[フィンランド]]の[[トゥルク]]でサカリ・オラヴァ医師の手術を受け<ref>[http://www.gazzetta.it/Calcio/SerieA/Milan/15-03-2010/beckham-stagione-finita-603312286519.shtml Beckham, stagione finita È sicuro: salta il Mondiale]</ref>、手術を終えたオラヴァは「現段階ではすべて上手くいっている。」と、述べた<ref>[http://temporeale.libero.it/libero/news/2010-03-15_115460615.html Beckham operato, 'tutto bene']</ref>。
=== ロサンゼルス・ギャラクシー復帰後 ===
[[ファイル:David Beckham 2010 LA Galaxy.jpg|thumb|180px|right|ロサンゼルス・ギャラクシーでプレイするベッカム(2010年)]]
2009-10シーズン終了後はロサンゼルス・ギャラクシーに復帰し、怪我が完治した9月11日には実戦にも復帰。2得点を挙げるなど、ギャラクシーの地区優勝とサポーターズシールド(レギュラーシーズン1位)獲得に貢献した。
シーズン終了後の2010年12月、当時プレミアリーグ[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]]の監督であった[[ハリー・レドナップ]]がベッカムに興味を示していると報じられ、1月にはミランと同じように期限付き移籍での加入が目前とも報じられたが、保険の問題で破談となった。しかしレドナップはベッカムがチームにいい影響をもたらすとの判断から練習への参加を打診し、ベッカムとギャラクシーもこれを受諾した<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/5258338/ ベッカム、トッテナム移籍頓挫も練習参加] Livedoorスポーツ 2011年1月9日</ref>。
2012年11月19日、シーズン限りでの[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]退団が発表された<ref>[http://www.goal.com/jp/news/3723/%E5%8C%97%E4%B8%AD%E7%B1%B3/2012/11/20/3541102/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%8C%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%AE%E9%80%80%E5%9B%A3%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A1%A8 ギャラクシーがベッカムの退団を発表] Goal.com 2012年11月20日</ref>。
=== パリ・サンジェルマン ===
2013年1月31日の移籍期限日を前に移籍のためのメディカルチェックを[[パリ・サンジェルマンFC]]と行っていることが明らかとなった<ref>{{cite web|last=Smith |first=Ben |url=http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/21276595 |title=David Beckham set for Paris St Germain move |work=BBC Sport |date=2013-01-31 |accessdate=2016-02-05}}</ref>。その日の午後に5ヶ月間の契約を結んだことが発表され<ref>[http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/21281665 David Beckham joins Paris St-Germain and will play for free] BBC sport 2013年1月31日</ref>、併せて受け取る年俸はすべて地元の子どものための慈善団体へ寄附する意向であることが発表された<ref>{{cite news |title= David Beckham joins Paris St-Germain and will play for free |url= http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/21281665 |publisher= BBC |date= 2013-01-31 |accessdate= 2016-02-05}}</ref>。2013年2月24日に行われた[[オリンピック・マルセイユ]]戦で76分から交代で出場し、デビューを飾ったベッカムはパリ・サンジェルマンでプレイした400人目の選手となった<ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/players/david-beckham/9892078/David-Beckham-calls-his-Paris-St-Germain-debut-perfect-as-he-helps-to-set-up-their-win-over-Marseille.html|title= David Beckham calls his Paris St Germain debut 'perfect' as he helps to set up their win over Marseille|date=2013-02-25|work=The Telegraph Sport|accessdate=2016-02-05 |location=London}}</ref>。2013年5月12日、パリ・サンジェルマンは[[オリンピック・リヨン]]を1-0で降しリーグ優勝を決め、ベッカムは自身にとって異なるトップリーグで4度リーグ優勝を経験することになった<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/22506180|title=David Beckham's Paris St-Germain clinch French title|author=Andy Brassell|work=BBC Sport|accessdate=2016-02-05}}</ref>。
2013年5月13日、2012-13シーズン終了後に現役を引退することを発表した<ref>[http://www.goal.com/jp/news/74/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89/2013/05/16/3983385/%E5%85%83%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%81%8C%E5%BC%95%E9%80%80%E3%82%92%E8%A1%A8%E6%98%8E?source=breakingnews&ICID=HP_BN_2 元イングランド代表ベッカムが引退を表明] Goal.com 2013年5月16日閲覧</ref><ref>{{cite web | url=http://uk.eurosport.yahoo.com/news/football-david-beckham-retires-football-135743830.html | title=Football – David Beckham retires from football | publisher=Yahoo! Sport | date=2013-05-16 | accessdate=2016-02-05 | author=Chick, Alex | archiveurl=https://web.archive.org/web/20130516152717/http://uk.eurosport.yahoo.com/news/football-david-beckham-retires-football-135743830.html | archivedate=2013年5月16日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/22558393 | title=David Beckham to retire from football at end of season | publisher=BBC Sport | date=2013-05-16 | accessdate=2016-02-05}}</ref>。2013年5月18日に行われたホームの[[スタッド・ブレスト29]]戦が最後の出場となり、ユニオン・ジャックカラーの特別仕様のスパイクが用意され、ベッカムはキャプテンを務めた<ref name="PSG"/>。試合では[[ブレーズ・マテュイディ]]のゴールをコーナーキックからアシストし、80分に退く際には選手と監督から抱擁され、ファンからは[[スタンディングオベーション]]で讃えられた<ref name="PSG">{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/players/david-beckham/10066590/David-Beckham-PSGs-captain-for-his-final-match-bows-out-as-a-winner.html|title=David Beckham, PSG's captain for his final match, bows out as a winner|date=2013-05-19|work=Telegraph.co.uk|accessdate=2016-02-05}}</ref>。試合は3-1でパリ・サンジェルマンが勝利を挙げた<ref name="PSG" />。
== 代表経歴 ==
[[ファイル:David Beckham.jpg|thumb|250px|right|イングランド代表でキャプテンを務めるベッカム(2006年)]]
1996年9月1日に行われたワールドカップ予選の[[サッカーモルドバ代表|モルドバ]]戦でA代表デビュー<ref>[http://www.englandstats.com/matchreport.php?mid=727 Moldova 0 - England 3]、englandstats.com。</ref>。
その後の予選の試合にも出場を続け、[[1998 FIFAワールドカップ]]を戦う[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]のメンバーに選出された<ref>[http://www.englandfootballonline.com/CmpWC/CmpWC1998Squad.html England in World Cup 1998 Squad Records]、englandfootballonline.com。</ref>。監督を務めていた[[グレン・ホドル]]が、大会に集中できていないと判断し<ref>[http://www.dispatch.co.za/1998/06/29/sport/HODDLE.HTM Beckham Blasts Hoddle] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090514100417/http://www.dispatch.co.za/1998/06/29/sport/HODDLE.HTM |date=2009年5月14日 }}、Dispatch Online、1998年6月29日。</ref>、最初の2試合はスターティングメンバーから外されたが、3戦目の[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦でスターティングメンバーに抜擢されると、フリーキックからゴールを決め、2-0の勝利に貢献した。このゴールは、ベッカムの代表初ゴールであった。
しかし、決勝トーナメント1回戦の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]戦、[[ディエゴ・シメオネ]]に報復攻撃を加え退場処分となり<ref>[http://www.englandfc.com/reports/report_arg_v_eng_wc98.html Argentina 2-2 England]、englandfc.com、1998年6月30日。</ref>、また、チームもPK戦の末に敗退したこともあり、[[デイリー・ミラー]]に「10 heroic lions one stupid boy(10人の勇敢な獅子と1人の愚かな若者)」という標語をつけられ、戦犯としてメディアを含め多くの批判を浴び、ベッカムは死の脅迫をも受けた<ref>[http://en.uefa.com/news/newsId=27844,printer.htmx Beckham's Darkest Hour] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060112062436/http://en.uefa.com/news/newsId%3D27844%2Cprinter.htmx |date=2006年1月12日 }}、Article on official UEFA website。</ref>。
ベッカムへのファンによる批判がピークに達したのが、2-3で敗れた[[UEFA EURO 2000|EURO 2000]]の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]戦(ベッカムは2得点を演出した)である。サポーターは試合を通してベッカムにブーイングを浴びせ続けたが<ref>[http://www.newstatesman.com/200006260003 Play games behind closed doors]、New Statesman、2000年6月26日。</ref>、ベッカムはそれに対して右手の中指を立てて応えた。その行為もまた非難されたが、かつて彼を批判していた[[新聞社]]は読者に対し、もうベッカムを批判するのは止めるようにしようと求めた<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/euro2000/teams/england/790657.stm Media sympathy for Beckham's gesture]、BBC News、2000年6月14日。</ref>。
2000年11月15日、10月に監督を辞任した[[ケヴィン・キーガン]]の後を継いだ[[ピーター・テイラー (サッカー選手)|ピーター・テイラー]]監督にキャプテンに指名され、続いて監督に就任した[[スヴェン・ゴラン・エリクソン]]の下でもキャプテンとしてプレイし続けることとなった。ベッカムは、5-1で勝利した[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦を含め、ワールドカップ最終予選で活躍を続けた。[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]戦では、1-2とリードされている後半ロスタイム、同点となるフリーキックを決めイングランドをワールドカップ出場へと導いた。これらの活躍を通して、ベッカムがブーイングを浴び批判されるようなことはなくなった。その年は、BBCスポーツ・パーソナリティー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、[[FIFA最優秀選手賞]]では2位に選ばれている。
怪我から回復し、[[2002 FIFAワールドカップ]]初戦の[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦に出場を果たし、アルゼンチン戦では、PKからゴールを決めた。イングランド代表は準々決勝で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]に敗れ、ベスト8で大会を後にした。ベッカムは、翌月に[[マンチェスター]]で開催された[[2002年コモンウェルスゲームズ|コモンウェルスゲームズ]]の開会式に参加した。
[[UEFA EURO 2004|EURO2004]]にもイングランド代表として出場したが、1-2で敗れた[[サッカーフランス代表|フランス]]戦でPKを失敗した他、準々決勝のポルトガル戦のPK戦でも最初のキッカーとして外してしまうなど活躍することは出来なかった。
2004年10月4日の[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦で、[[ベン・サッチャー]]にファウルを犯し、[[イエローカード]]を受け、累積で次戦の[[サッカーアゼルバイジャン代表|アゼルバイジャン]]戦は出場停止となった。ベッカムは試合中に[[肋骨]]を負傷していることに気付き、次の試合には出場できないことを悟り、イエローカードを貰うために意図的にファウルを犯したと明かした。[[イングランドサッカー協会]]は調査に乗り出し、ベッカムは「重大な過ちを犯してしまった」と認め謝罪をした<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/3735276.stm FA wants explanation from Beckham]、BBC News、2004年10月14日。</ref>。
2005年1月に[[国際連合児童基金|UNICEF]][[ユニセフ親善大使の一覧|親善大使]]に任命された。また、[[ロンドン]]での開催を目指す[[2012年ロンドンオリンピック|オリンピック]]の誘致活動に参加し、大きな貢献をした<ref>[http://www.unicef.org.uk/celebrity/celebrity_biography.asp?celeb_id=27&nodeid=celeb27§ion=2 David Beckham, Goodwill Ambassador] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101101114432/http://www.unicef.org.uk/celebrity/celebrity_biography.asp?celeb_id=27&nodeid=celeb27§ion=2 |date=2010年11月1日 }}、UNICEF official website。</ref>。2005年10月に行われた[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦で退場し、代表キャプテンとして初めて退場処分を受けた選手となり、イングランド代表として2度退場した初めての選手にもなった。
2006年6月10日、イングランド代表にとっての[[2006 FIFAワールドカップ]]初戦である[[サッカーパラグアイ代表|パラグアイ]]戦では、ベッカムのフリーキックが[[カルロス・ガマーラ]]の[[オウンゴール]]を招き、1-0で勝利した。6月15日に行われた2戦目の[[サッカートリニダード・トバゴ代表|トリニダード・トバゴ]]戦では、83分にベッカムのクロスから[[ピーター・クラウチ]]のゴールが生まれ、終了間際には、[[スティーヴン・ジェラード]]のゴールもアシストした。試合は2-0で勝利し、大会スポンサーの[[バドワイザー]]が選出するマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。決勝トーナメント1回戦の[[サッカーエクアドル代表|エクアドル]]戦では、59分にフリーキックからゴールを決め、イングランド代表選手としてワールドカップ3大会で得点を挙げた初めての選手となり、試合も1-0で勝利し、準々決勝進出を果たした<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/world_cup_2006/5103974.stm England 1-0 Ecuador]、BBC Sport、2006年6月25日。</ref>。ベッカムは試合前から体調が悪く、体調不良と脱水症状に陥いった結果、得点後もプレイを続けたが、試合中に数回嘔吐した。準々決勝のポルトガル戦では、怪我のために52分で交代し、試合は延長戦を終えても0-0のままで、PK戦の末に敗れた。交代後ベッカムは、プレイできないことから目に見えて落胆しており、ベンチで涙を流した。
ワールドカップ敗退後の翌日、記者会見で代表キャプテンを退くとの声明を出した<ref name="BBC" />。「キャプテンとして代表を率いることはとても名誉な特権であり、代表では95試合(実際は94試合)に出場し、58試合でキャプテンを務めたが、チームは[[スティーブ・マクラーレン]]監督の下で新しい時代を開こうとしている時で、キャプテンマークを譲り渡すのが正しい選択であると考えている。」と、述べた。その後[[ジョン・テリー]]がキャプテンに就任した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/4782197.stm Terry named new England skipper]</ref>。
キャプテン辞任後の2006年8月11日、スティーブ・マクラーレンは初めて代表を招集したが、ベッカムはメンバーから外れ、マクラーレンは「チームは新しい方向に進もうとしており、そこにベッカムは含まれていない。」と、述べた。ただし、将来的には呼ぶ可能性があると話した。ベッカムに代わって、ワールドカップのメンバーであった[[ショーン・ライト=フィリップス]]、[[キーラン・リチャードソン]]、[[アーロン・レノン]]が起用されたが、マクラーレンは最終的に右サイドは[[スティーヴン・ジェラード]]に任せた。
[[ファイル:Beckhamtakesfreekick.jpg|thumb|250px|right|[[ジョン・テリー]]へのアシストとなるフリーキックを蹴るベッカム(2007年5月26日)]]
2007年5月26日、マクラーレンは監督就任後に初めてベッカムを招集し、新しい[[ウェンブリー・スタジアム]]で行われた[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]との親善試合にスターティングメンバーとして出場し、後半に[[ジョン・テリー]]のゴールをアシストするなど、良いパフォーマンスを見せた。イングランドが勝利するかに思われたが、[[ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ|ジエゴ]]の終了間際の得点により、1-1の引き分けに終わった。続くEURO2008予選の[[サッカーエストニア代表|エストニア]]戦にも出場し、代名詞とも言えるクロスから、[[マイケル・オーウェン]]と[[ピーター・クラウチ]]のゴールをアシストし、3-0の勝利に貢献した。ベッカムは2試合で決まったゴールの内、3ゴールをアシストし<ref>[http://www.thefa.com/England/SeniorTeam/NewsAndFeatures/Postings/2007/06/EstoniaEngland_report.htm Three's the magic number] {{webarchive|url=https://archive.is/20080509055532/http://www.thefa.com/England/SeniorTeam/NewsAndFeatures/Postings/2007/06/EstoniaEngland_report.htm |date=2008年5月9日 }}、TheFA.com、2007年6月6日。</ref>、マクラーレンも「今の彼以上の右サイドの選手は、世界中探してもいない」と評価を改め、MLS移籍後も代表でプレイし続けたいというベッカムの願いは実現することになった。
2007年8月22日に行われたドイツとの親善試合に出場し、初めてヨーロッパ以外のクラブチームに所属しながら代表でプレイした選手となった<ref>[http://soccernet.espn.go.com/columns/story?id=455849&root=euro2008&cc=4716 Becks and England suffer Wembley woe]、Soccernet.espn.go.com。</ref>。2007年11月11日の[[サッカークロアチア代表|クロアチア]]との試合に途中出場し99キャップ目を記録すると、ピーター・クラウチの2-2となるゴールの起点なったが、2-3で敗れ、イングランドは[[UEFA EURO 2008|EURO2008]]の出場権を逃してしまった。しかし、ベッカムは代表引退はせずに、これからも代表でのプレイを続けるとの意向を示した<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/7106741.stm Beckham dismisses retirement talk]、BBC Sport、2007年11月21日。</ref>。その後、レアル・マドリード在籍時に監督を務めていた[[ファビオ・カペッロ]]が監督に就任した。初陣となる[[サッカースイス代表|スイス]]との親善試合に出場すれば100キャップ目となるが、ベッカムは3ヶ月間試合に出場していないために体力面に問題があるとして、メンバーには加えなかった<ref>[http://msn.foxsports.com/soccer/story/7845276/Beckham-acknowledges-lack-of-fitness Beckham acknowledges lack of fitness] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080302003736/http://msn.foxsports.com/soccer/story/7845276/Beckham-acknowledges-lack-of-fitness |date=2008年3月2日 }}、[[FOXスポーツ]]、2008年2月28日。</ref>。
2008年3月20日、カペッロは、26日の[[サッカーフランス代表|フランス]]との親善試合に向けたメンバーにベッカムを招集した。ベッカムはスターティングメンバーとして試合に出場し、イングランド人として100キャップを記録した5人目の選手となった。カペッロは、前日の会見でベッカムをフランス代表戦に起用すると明言し、将来的なことはこれから考えると話していた<ref>[http://edition.cnn.com/2008/SPORT/football/03/26/football.beckham/index.html Beckham to start in Paris for 100th cap]、CNN、2008年3月28日。</ref>。2008年5月11日、カペッロは28日にウェンブリーで行われる[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]との試合と、6月1日にアウェー行われる試合に臨む代表メンバー31名を発表し、ベッカムもそこに含まれた。試合前にベッカムは100キャップを記念した金色の帽子を贈られ、[[ボビー・チャールトン|サー・ボビー・チャールトン]]から渡された時には、観衆はスタンディングオベーションで讃えた。試合では決勝点となったジョン・テリーのゴールをアシストし、後半から交代で[[デヴィッド・ベントリー]]がピッチに入った時に観衆は、その交代に対してブーイングを送った<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/7395247.stm Hart & Jagielka in England squad]、BBC、2008年5月11日。</ref>。6月1日のトリニダード・トバゴ戦では、カペッロはベッカムをキャプテンに指名し、ベッカムはワールドカップ以来、2年ぶりにキャプテンとして試合に出場した<ref>[http://msn.foxsports.com/soccer/story/8193404/Capello-names-Beckham-as-captain-for-T&T-friendly Capello names Beckham as captain for T&T friendly] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080712104347/http://msn.foxsports.com/soccer/story/8193404/Capello-names-Beckham-as-captain-for-T%26T-friendly |date=2008年7月12日 }}、[[FOXスポーツ]]、2008年5月31日。</ref>。
ワールドカップ予選の[[サッカーベラルーシ代表|ベラルーシ]]戦で87分から出場し107キャップを記録し、歴代3位の出場数となり、2009年2月11日に行われた[[サッカースペイン代表|スペイン]]との親善試合では、[[スチュワート・ダウニング]]に代わり後半から出場、代表108キャップ目を記録し、[[ボビー・ムーア]]の持つフィールドプレイヤーとしての最多出場数の記録に並び、[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]歴代2位タイの出場数となった<ref>[http://soccernet.espn.go.com/report?id=260599&cc=4716 Report: Spain vs England - International Friendly - ESPN Soccernet]、Soccernet.espn.go.com、2009年2月11日。</ref>。
2009年3月28日の[[サッカースロバキア代表|スロバキア]]との試合に途中出場し、ムーアの記録を更新し、試合では[[ウェイン・ルーニー]]のゴールをアシストした<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/7966672.stm BBC SPORT | Football | Internationals | International football as it happened]、BBC News。</ref>。2009年6月10日の[[サッカーアンドラ代表|アンドラ]]戦でスターティングメンバーとして100試合目の出場を果たした。
[[2010 FIFAワールドカップ]]は、怪我により選手として出場する機会は逃すことになったが、2010年5月14日にワールドカップに臨むコーチ陣と選手の間を取り持つ役を担いチームに帯同することが発表された<ref>[http://www.dailymail.co.uk/sport/worldcup2010/article-1278264/Coach-Becks-join-Team-Fabio-Beckham-travel-World-Cup.html Coach Becks to join Team Fabio: Beckham to travel to World Cup]、[[デイリー・メール]]、2010年5月14日</ref>。
2012年の[[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|ロンドンオリンピック]]では、オーバーエージ枠での代表入りは叶わなかったが、直前までロンドン五輪親善大使として活躍した<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/london_olympic/26162/ ロンドン五輪開幕!MVPはベッカム | 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社]</ref>。[[2012年ロンドンオリンピックの開会式|開会式]]当日は、女子サッカーU17代表のJade Baileyを乗せた高速ボートの操縦士を務め、[[テムズ川]]を疾走。[[ロンドン・スタジアム|主競技場]]近くの船着き場で[[スティーヴ・レッドグレーヴ]]に[[オリンピック聖火|聖火]]を手渡す際もアシストをした<ref>[http://www.asahi.com/sports/update/0728/TKY201207280214.html 朝日新聞デジタル:ベッカム、テムズ川疾走 クールに花添える - スポーツ]</ref>。
=== 代表で記録したゴール ===
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|+
! ゴール !! 日付 !! 会場 !! 対戦国 !! スコア !! 結果 !! 大会 !! 詳細
|-
| 1. || 1998年6月26日|| [[スタッド・フェリックス・ボラール]]、[[ランス (パ=ド=カレー県)|ランス]] || {{COLf}} || 2–0 || 2–0 || [[1998 FIFAワールドカップ]] || [https://web.archive.org/web/20131204052922/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D1013/results/matches/match%3D8770/report.html]
|-
| 2. || 2001年3月24日 || [[アンフィールド]]、[[リヴァプール]] || {{FINf}} || 2–1 || 2–1 || [[2002 FIFAワールドカップ・予選|2002 FIFAワールドカップ予選]] || [https://web.archive.org/web/20100215004635/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D4395/preliminaries/preliminary%3D3835/matches/match%3D19736/report.html]
|-
| 3. || 2001年5月25日 || [[プライド・パーク]]、[[ダービー (イギリス)|ダービー]] || {{MEXf}} || 3–0 || 4–0 || [[エキシビション|親善試合]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=779]
|-
| 4. || 2001年6月6日 || [[アテネ・オリンピックスタジアム]]、[[アテネ]] || rowspan="2" | {{GREf}} || 2–0 || 2–0 || rowspan="2" | [[2002 FIFAワールドカップ・予選|2002 FIFAワールドカップ予選]] || [https://web.archive.org/web/20100210225343/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D4395/preliminaries/preliminary%3D3835/matches/match%3D19742/report.html]
|-
| 5. || 2001年10月6日 || [[オールド・トラッフォード]]、[[マンチェスター]] || 2–2 || 2–2 ||[https://web.archive.org/web/20090904203235/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D4395/preliminaries/preliminary%3D3835/matches/match%3D19747/report.html]
|-
| 6. || 2001年11月10日 || [[オールド・トラッフォード]]、[[マンチェスター]] || {{SWEf}} || 1–0 || 1–1 || [[エキシビション|親善試合]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=785]
|-
| 7. || 2002年6月7日 || [[札幌ドーム]]、[[札幌市]]|| {{ARGf}} || 1–0 || 1–0 || [[2002 FIFAワールドカップ]] || [https://web.archive.org/web/20100615212912/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition%3D4395/results/matches/match%3D43950023/report.html]
|-
| 8. || 2002年10月12日 || [[テヘレネ・ポーレ]]、[[ブラチスラヴァ]] || {{SVKf}} || 1–1 || 2–1 || rowspan="4" | [[UEFA欧州選手権2004|UEFA EURO2004予選]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=797]
|-
| 9. || 2002年10月16日 || [[セント・メリーズ・スタジアム]]、[[サウサンプトン]] || {{MKDf}} || 1–1 || 2–2 ||[http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=798]
|-
| 10. || 2003年3月29日 || [[ラインパーク・シュタディオン]]、[[ファドゥーツ]] || {{LIEf}} || 2–0 || 2–0 ||[http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=800]
|-
| 11. || 2003年4月2日 || [[スタジアム・オブ・ライト]]、[[サンダーランド (イングランド)|サンダーランド]] || {{TURf}} || 2–0 || 2–0 ||[http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=801]
|-
| 12. || 2003年8月20日 || [[ポートマン・ロード]]、[[イプスウィッチ]] || {{CROf}} || 1–0 || 3–1 || [[エキシビション|親善試合]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=805]
|-
| 13. || 2003年9月6日 || [[ピリッポス2世アレナ|グラドスキ]]、[[スコピエ]] || {{MKDf}} || 2–1 || 2–1 || [[UEFA欧州選手権2004|UEFA EURO2004予選]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=806]
|-
| 14. || 2004年8月18日 || [[セント・ジェームズ・パーク (ニューカッスル・アポン・タイン)|セント・ジェームズ・パーク]]、[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]] || {{UKRf}} || 1–0 || 3–0 || [[エキシビション|親善試合]] || [http://www.thefa.com/England/MensSeniorTeam/Archive.aspx?x=818]
|-
| 15. || 2004年10月9日 || [[オールド・トラッフォード]]、[[マンチェスター]]|| {{WALf}} || 2– 0 || 2–0 || rowspan="2" | [[2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選#グループ6|2006 FIFAワールドカップ予選]] || [https://web.archive.org/web/20090125102643/http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/preliminaries/preliminary%3D8071/matches/match%3D36621/report.html]
|-
| 16. || 2005年3月30日 || [[セント・ジェームズ・パーク (ニューカッスル・アポン・タイン)|セント・ジェームズ・パーク]]、[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]|| {{AZEf}} || 2– 0 || 2–0 ||[http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/preliminaries/preliminary=8071/matches/match=36632/report.html]
|-
| 17. || 2006年6月25日 || [[ゴットリーブ・ダイムラー・シュタディオン]]、[[シュトゥットガルト]] || {{ECUf}} || 1–0 || 1–0 || [[2006 FIFAワールドカップ]] || [https://web.archive.org/web/20090507194310/http://www.fifa.com/worldcup/archive/germany2006/results/matches/match%3D97410051/report.html]
|}
== タイトル ==
=== クラブタイトル ===
; マンチェスター・ユナイテッド
* [[プレミアリーグ]] 1995-96, 1996-97, 1998-99, 1999-2000, 2000-01, 2002-03
* [[UEFAチャンピオンズリーグ]] 1998-99
* [[FAカップ]] 1995-96, 1998-99
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] 1999
* [[FAコミュニティ・シールド]] 1993, 1994, 1996, 1997
; レアル・マドリード
* [[プリメーラ・ディビシオン]] 2006-07
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]] 2003
; ロサンゼルス・ギャラクシー
* [[MLSカップ]] 2011, 2012
* [[サポーターズ・シールド]] 2010, 2011
* MLSウエスタン・カンファレンス 2009, 2010, 2011
; パリ・サンジェルマンFC
* [[リーグ・アン]] 2012-13
=== 個人タイトル ===
* [[PFA年間最優秀若手選手賞]]:1997年
* [[マット・バスビー|サー・マット・バスビー]]賞:1997年
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 49位:1999年
* [[UEFA年間最優秀選手]]:1999年
* BBC スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー:2001年
* プレミアリーグ10周年記念ベストイレブン:2003年
* プレミアリーグ10周年記念ベストゴール:2003年(1996年8月17日、[[AFCウィンブルドン|ウィンブルドン]]戦でのゴール)
* [[FIFA100]]:2004年
* [[ESPY賞]]:2004, 2008年
* PFAベストイレブン(1997-07):2007年
* [[イングランドサッカー殿堂]]:2008年
* [[PFA年間ベストイレブン]]:1997, 1998, 1999, 2000, 2002年
* BBC スポーツ生涯功労賞:2010年
== 記録 ==
* 練習生契約:1991年7月8日
* プロ契約:1993年1月23日
* 初出場:1992年9月23日 対[[ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC|ブライトン&ホーヴ・アルビオン]]戦(リーグカップ、途中出場)
* リーグ戦初出場:1995年4月2日 対[[リーズ・ユナイテッドFC|リーズ・ユナイテッドAFC]]戦
* 初ゴール:1994年12月7日 対[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]戦(UEFAチャンピオンズリーグ)
* 代表初キャップ:1996年9月1日 対[[サッカーモルドバ代表|モルドバ]]戦(FIFAワールドカップ予選)
* 初ゴール:1998年6月26日 対[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦(FIFAワールドカップフランス大会)
== 個人成績 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-
!rowspan="2"|所属クラブ
!rowspan="2"|シーズン
!rowspan="2"|背番号<ref>イングランドのトップリーグは、1993-94シーズンより背番号の固定制を採用。</ref>
!rowspan="2"|所属リーグ
!colspan="2"|リーグ
!colspan="2"|カップ<ref>国内カップ戦(イングランドは[[FAカップ]]、スペインは[[コパ・デル・レイ]]、アメリカは[[USオープンカップ]]、イタリアは[[コッパ・イタリア]])。</ref>
!colspan="2"|[[フットボールリーグカップ|リーグカップ]]
!colspan="2"|[[UEFA]]主催<ref>[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]、95-96、08-09シーズンは[[UEFAカップ]]。</ref>
!colspan="2"|その他<ref>その他とは[[コミュニティーシールド]]、[[UEFAスーパーカップ]]、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]、[[FIFAクラブワールドカップ]]、[[スーパーリーガ (北米サッカー)|スーパーリーガ]]、[[MLSカップ]]、MLSカップ・プレーオフのこと。</ref>
!colspan="2"|期間通算
|-
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
|-
|rowspan="2" valign="middle"|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]
|[[FAプレミアリーグ1992-1993|1992-93]]
|
|rowspan="2"|[[プレミアリーグ]]
|0||0||0||0||1||0||0||0||0||0||1||0
|-
|[[FAプレミアリーグ1993-1994|1993-94]]
|28
|0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[プレストン・ノースエンドFC|プレストン・ノースエンド]]
|1994–95
|
|[[EFLリーグ2|ディビジョン3]]
|5||2||0||0||0||0||colspan="2"|–||0||0||5||2
|-
|rowspan="10" valign="middle"|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]
|[[FAプレミアリーグ1994-1995|1994-95]]
|28
|rowspan="9"|[[プレミアリーグ]]
|4||0||2||0||3||0||1||1||0||0||10||1
|-
|[[FAプレミアリーグ1995-1996|1995-96]]
|24
|33||7||3||1||2||0||2||0||0||0||40||8
|-
|[[FAプレミアリーグ1996-1997|1996-97]]
|10
|36||8||2||1||0||0||10||2||1||1||49||12
|-
|[[FAプレミアリーグ1997-1998|1997-98]]
|rowspan="6"|7
|37||9||4||2||0||0||8||0||1||0||50||11
|-
|[[FAプレミアリーグ1998-1999|1998-99]]
|34||6||7||1||1||0||12||2||1||0||55||9
|-
|[[プレミアリーグ1999-2000|1999-00]]
|31||6||colspan="2"|–||0||0||12||2||5||0||48||8
|-
|[[FAプレミアリーグ2000-2001|2000-01]]
|31||9||2||0||0||0||12||0||1||0||46||9
|-
|[[FAプレミアリーグ2001-2002|2001-02]]
|28||11||1||0||0||0||13||5||1||0||43||16
|-
|[[FAプレミアリーグ2002-2003|2002-03]]
|31||6||3||1||5||1||13||3||0||0||52||11
|-
!colspan="3"|期間通算
!265!!62!!24!!6!!12!!1!!83!!15!!10!!1!!394!!85
|-
|rowspan="5" valign="middle"|[[レアル・マドリード]]
|[[リーガ・エスパニョーラ2003-2004|2003–04]]
|rowspan="4"|23
|rowspan="4"|[[プリメーラ・ディビシオン]]
|32||3||4||2||colspan="2"|–||7||1||2||1||45||7
|-
|[[リーガ・エスパニョーラ2004-2005|2004–05]]
|30||4||0||0||colspan="2"|–||8||0||0||0||38||4
|-
|[[リーガ・エスパニョーラ2005-2006|2005–06]]
|31||3||3||1||colspan="2"|–||7||1||0||0||41||5
|-
|[[リーガ・エスパニョーラ2006-2007|2006–07]]
|23||3||2||1||colspan="2"|–||6||0||0||0||31||4
|-
!colspan="3"|期間通算
!116!!13!!9!!4!!colspan="2"|–!!28!!2!!2!!1!!155!!20
|-
|rowspan="7" valign="middle"|[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]
|2007
|rowspan="6"|23
|rowspan="6"|[[メジャーリーグサッカー|MLS]]
|5||0||0||0||colspan="2"|–||colspan="2"|–||2||1||7||1
|-
|2008
|25||5||0||0||colspan="2"|–||colspan="2"|–||0||0||25||5
|-
|2009
|11||2||0||0||colspan="2"|–||colspan="2"|–||4||0||15||2
|-
|2010
|7||2||0||0||colspan="2"|–||colspan="2"|–||3||0||10||2
|-
|2011
|26||2||0||0||colspan="2"|–||colspan="2"|–||4||0||30||2
|-
|2012
|24||7||0||0||colspan="2"|–||1||1||6||0||31||8
|-
!colspan="3"|期間通算
!98!!18!!0!!0!!colspan="2"|–!!1!!1!!19!!1!!118!!20
|-
|rowspan="3" valign="middle"|[[ACミラン]]
|[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]
|rowspan="2"|32
|rowspan="2"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]
|18||2||0||0||colspan="2"|–||2||0||0||0||20||2
|-
|[[セリエA (サッカー) 2009-2010|2009-10]]
|11||0||0||0||colspan="2"|–||2||0||0||0||13||0
|-
!colspan="3"|期間通算
!29!!2!!0!!0!!colspan="2"|–!!4!!0!!0!!0!!33!!2
|-
|valign="middle"|[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]
|[[2012-13 リーグ・アン|2012-13]]
|32
|[[リーグ・アン]]
|10||0||2||0||colspan="2"|–||2||0||0||0||14||0
|-
!colspan="4"|キャリア通算
!523!!97!!35!!10!!12!!1!!118!!18!!31!!3!!719!!129
|}
== 人物 ==
ミドルネームである'''ロバート'''は、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]の大先輩にあたり、自身が最も憧れていた選手である[[ボビー・チャールトン]]の本名から取られたものだと明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=ベッカムが明かす「一緒にプレーした中で最高の選手」「ベストゴール」は? ミドルネームの由来にも言及|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=111104|date=2022-6-10|accessdate=2022-10-17|publisher=SoccerDigest}}</ref>。
少年時代、天才サッカー少年としてテレビで紹介されたことがある。ユース時代にはチームでいちばんヘディングが強かったという。幼少の頃からマンチェスターUの試合を必ずと言っていいほど正装で観戦し、かなりの敬意を表していた。また、欧州に遠征して来た[[サッカー日本代表|日本代表]]と対戦したときは[[ジーコ]]監督(当時)に「小さい頃からファンだった」と試合前に正装をして挨拶に行ったこともある。
[[ロンドン]]近郊[[イーストロンドン]]([[エセックス州]]寄り)レイトンストーン育ちの為、エセックス訛りの下町言葉を話す。
趣味は[[切手集め]]と[[テディベア]]のコレクション。オークションで1800ポンドのテディベアをEBAYで購入したことが英国のBBCニュースで流れたことがある。またオーダーメードでバイクを注文するなど、バイク好きで知られている。
[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓ワールドカップ]]開催数ヶ月前の4月に、ベッカムは左足の第二[[中足骨]]を骨折したが、[[高圧酸素カプセル]]による治療もあり、出場に間に合った。まだ日本でなじみがなかったこの器具は当時、「'''ベッカムカプセル'''」と呼ばれることもあった<ref>[https://web.archive.org/web/20120809015511/http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/soccer/etc/news/20120807-OHO1T00044.htm 永井が強行出場へ!ベッカムカプセルで「内出血」急回復…五輪代表:その他:サッカー:スポーツ報知大阪版]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
[[ファイル:David Beckham Academy London at night.jpg|thumb|250px|right|ロンドンにあったサッカースクール]]
2005-06シーズン途中、[[カリフォルニア]]とイースト[[ロンドン]]にサッカー・アカデミーを設立し、2006年の英国文学賞の審査員に選ばれた<ref>[http://www.kirkusreviews.com/kirkusreviews/tbs_landing.jsp David Beckham: Soccer Star and Book Judge] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080308213411/http://www.kirkusreviews.com/kirkusreviews/tbs_landing.jsp |date=2008年3月8日 }}、The Book Standard、2006年1月11日。</ref>。
2006年、自身が[[強迫性障害]]であることをメディアに告白した。
2015年、[[ピープル (雑誌)|ピープル誌]]が選ぶ「[[ピープル (雑誌)#最もセクシーな男|この世で最もセクシーな男]]」に選ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1567829.html|title=D・ベッカムが2015年度「最もセクシーな男」|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2015-11-18|accessdate=2015-11-18}}</ref>。また、レジェンド・オブ・フットボール賞を受賞することになった<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/foreign_topics/2015/02/26/0007772031.shtml|title=ベッカムが名誉ある賞を受賞へ|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=20215-02-26|accessdate=2023-03-02}}</ref>。
2017年の映画『[[キング・アーサー (2017年の映画)|キング・アーサー]]』で俳優デビューした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0090641|title=デヴィッド・ベッカムが傷だらけ 映画出演で別人に|publisher=シネマトゥデイ|accessdate=2017-05-12|date=2017-03-30}}</ref>。[[ガイ・リッチー]]監督はその演技を高く評価したが、ファンや英メディアからは[[ヴィクトリア・ベッカム|ヴィクトリア夫人]]の歌声に例えられて酷評された<ref>{{Cite news|title=「キング・アーサー」出演のベッカム、監督は演技に太鼓判|newspaper=ロイター|date=2017-05-12|url=http://jp.reuters.com/article/beckham-film-idJPKBN1880CJ|accessdate=2017-05-12}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無残なかたち」ベッカム氏の俳優デビュー 英紙|newspaper=日刊スポーツ|date=2017-05-10|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1821249.html|accessdate=2017-05-12}}</ref>。
2019年、彼はスマートフォンのながら運転の罰則により、6ヶ月の免許停止の処分を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=ベッカム氏、運転中に携帯電話使用で運転禁止処分に|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3224319|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-05-13|language=ja}}</ref>。
2021年、FX(外国為替取引)会社 [[GEMFOREX|Gemforex]]のアジア圏におけるブランドアンバサダーに就任した<ref>{{Cite web|和書|title=プレスリリース:GemForex、世界的なスポーツアイコンであるデビッド・ベッカム(David Beckham)との契約を発表(共同通信PRワイヤー) |url=https://mainichi.jp/articles/20211203/pls/00m/020/543000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-08-16 |date=2021-12-03}}</ref>。
=== 家族 ===
1997年に[[ヴィクトリア・ベッカム|ヴィクトリア・アダムズ]]がマンチェスター・ユナイテッドの試合の観戦に訪れた後に、交際が始まった。スター二人の交際関係は[[マスメディア|メディア]]の多くの注目を集め、このカップルは「ポッシュ & ベックス」と呼ばれた。1999年7月4日に[[アイルランド]]にある[[ルトレスタウン・キャッスル]]で式を挙げ、二人は結婚した。
二人の間には、息子が三人、娘が一人いる。ブルックリン・ジョセフ・ベッカム(1999年生)、ロメオ・ジェームズ・ベッカム(2002年9月1日生)、クルス・デイヴィッド・ベッカム(2005年2月20日生)、ハーパー・セブン・ベッカム(2011年7月10日生)<ref>[http://marriage.about.com/od/sports/a/davidbeckham.htm Victoria and David Beckham Marriage Profile]、Marriage.about.com。</ref><ref>[http://www.people.com/people/article/0,,1029920,00.html David, Victoria Beckham Have a Third Son]、[http://www.people.com/people/article/0,,1029920,00.html People.com]。</ref>。
2014年11月、長男ブルックリンが[[アーセナルFC]]と契約、次男ロメオと三男クルスもアーセナルのユースチームに所属している<ref>[http://www.footballchannel.jp/2014/11/10/post55192/ 15歳のベッカム長男がアーセナルと契約。ヴェンゲル監督にも好印象「とてつもないポテンシャル」]、Goal、2014年11月10日</ref>。ブルックリンは2015年にアーセナルU-18にも招集されるなどしたが、契約延長に至らず、2014-2015シーズンを持って退団した<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20150304/287144.html ベッカム氏の長男ブルックリン、今夏に父と同じマンUユースに入団か]、サッカーキング、2015年3月4日</ref>。その後は父親のキャリアの原点であるマンチェスター・ユナイテッド加入なども報じられたが、引退を選択している。その年の11月14日に行われた[[ユニセフ]]主催のチャリティーマッチでは、父・デビッドと共に「イギリス・アイルランド合同チーム」の一員としてプレーし、ピッチ上で親子競演を果たした<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20151115/370251.html 息子ブルックリンとの共演を喜ぶベッカム氏「特別な瞬間だった」]、サッカーキング、2015年11月15日</ref>。12月にはブルックリンに続き、次男のロメオも引退する意向を両親に伝えたと報じられている<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151208-00000019-mvwalk-movi ベッカム家の次男ロメオ、父に衝撃の告白!]、Movie Walker、2015年12月8日</ref>。
2016年、三男のクルーズが[[ジャスティン・ビーバー]]などのマネージャーである[[スクーター・ブラウン]]とマネジメント契約を結び、オフィシャルインスタグラムを開設。「''If Every Day Was Christmas''」で歌手デビューを果たす<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0088108|title=ベッカムの11歳息子が歌手デビュー!|newspaper=シネマトゥデイ|date=2016-12-07|accessdate=2016-12-07}}</ref>。
=== 刺青 ===
ベッカムの身体の各所には、妻や子供たちの名前が[[入れ墨|タトゥー]]として刻まれている。左腕には、インドの[[ヒンディー語]]等の言語で使用される[[デーヴァナーガリー文字]]で『VHIKTORIYA』と彫られている。デーヴァナーガリー文字にはCの音をあらわす文字がないので、代わりにKが用いられる。英単語の語尾のAがYAに変わるのはインド英語の特徴である。VHIはスペル間違いである。脇腹には論語の一節「死生有命、富貴在天(死生は命にあり、富貴は天にあり)」と彫られている。
* 1999年4月 -背中に「ブルックリン(''Brooklyn'')」
* 1999年4月 - 背中に「守護天使(''Guardian Angel'')」
* 2000年 - [[ヒンディー語]]で「ヴィクトリア(''Victoria'')」を左手内側
* 2002年4月 - [[ローマ数字]]“7”(''VII'')右前臂
* 2003年5月 - [[ラテン語]]「精神の家(''Perfectio In Spiritu'')」右臂
* 2003年5月 - [[ラテン語]]「愛すること慕うこと(''Ut Amem Et Foveam'')」左臂
* 2003年 - 「ロメオ(''Romeo'')」を背中
* 2003年 - 古典芸術の意匠を右肩
* 2004年 - 有翼の十字架を頸部
* 2004年 - 天使と[[格言]]「逆境にあっても(''In The Face of Adversity'')」を右臂
* 2005年3月 - 背中に「クルーズ(''Cruz'')」
* 2006年6月 - 2人の天使と雲を右臂と肩
* 2008年1月 - ヴィクトリアの肖像を左前臂
* 2008年2月 - 「ずっとあなたのそばに(''Forever by your side'')」を左前臂
* 2008年3月<ref>[http://www1.appledaily.atnext.com//template/apple/art_main.cfm?iss_id=20080310&sec_id=4104&subsec_id=12731&art_id=10845406 {{zh-hk}} 碧咸魅力掀動萬四球迷心 昨夜往紋身店紋身] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080312203246/http://www1.appledaily.atnext.com/template/apple/art_main.cfm?iss_id=20080310&sec_id=4104&subsec_id=12731&art_id=10845406|date=2008年3月12日}}, [[2008年]][[3月10日]], 壹蘋果網絡, 於[[2008年]][[11月6日]]查閱, 碧咸於[[2008年]][[3月9日]]在[[香港]]接受“龍威雕師”Gabie師傅的紋身。[[NBA]]巨星[[勒邦·占士]]及[[科比·布莱恩特|高比·拜恩]]亦曾在此紋身。</ref> - [[漢文]]「生死は命にありて、富貴は天にあり(“生死有命 富貴由天”)」
* 2009年7月 - 「薔薇の花輪」(''ring o' roses'')を左臂、結婚10周年記念<ref>{{cite web |language=en |url=http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1199725/David-Beckham-unveils-latest-piece-body-art--Posh-say.html |title=David Beckham unveils his new 'ring o' roses' tattoo... but what will Posh say? |publisher=dailymail.co.uk |date=2009-07-15 |accessdate=2009-08-02}}</ref>
* 2010年1月 - [[マシュー・R・ブルック]]の『悲しみの子([[:en:Man of Sorrows]])』の[[イエス・キリスト]]を左右の腰に。
=== 収入・資産 ===
2015年、アメリカの経済誌[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]はデビッド・ベッカムの去年(2014年)の年収は約5080万ポンド(約91億円)であったと発表した、2012年の3460万ポンド(約62億円)からさらに1500万ポンド(約29億円)もの増収を上げている。現役を引退したスポーツ選手の長者番付では、[[マイケル・ジョーダン]]に続き、ベッカムが二位に付けている<ref>[https://www.cinemacafe.net/article/2015/03/17/30052.html デビッド・ベッカム、年収は現役時代から大幅増で約91億円に!]</ref>。
2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が『お金持ちリスト』を発表し、ベッカム夫妻が総資産1億6,500万ポンド(日本円で約217億8,000万円)で1位になった。デビッドはロサンゼルス・ギャラクシーから2年間で5,600万ポンド(約73億9,200万円)の契約を結んでいるほか、2012年のロンドン・オリンピックでサムスンのブランド大使を務める契約をしており、相当な額になっているという。さらに妻ビクトリアのファッションブランドからも収入が入るため、今後もベッカム家の資産は増え続けることになりそうだという<ref>{{cite news |title=デヴィッドとヴィクトリア・ベッカムの総資産は約217億8,000万円 |publisher=シネマトゥディ |date=2011-05-05 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032133 |accessdate=2011-05-07 }}</ref>。
ベッカムが[[ロンドン]]に所有している邸宅は、ベッキンガム宮殿(Beckingham Palace)と呼ばれることがある。これは[[バッキンガム宮殿]]をもじったもの。高級住宅街があることで知られる[[ハートフォードシャー]]に位置しており、ロンドン中心部から車で1時間程度の場所にある。約97,000[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]の敷地面積がある。
2007年4月に家族はベッカムのロサンゼルス・ギャラクシー移籍を踏まえて、[[ビバリーヒルズ]]に[[イタリア|イタリア風]][[ヴィラ]]を購入した。この建物は2,200万[[ドル]]で、近くには[[トム・クルーズ]]や[[ケイティ・ホームズ]]、[[ジェイ・レノ]]の家があり、街を一望できる丘の上に立つ[[ゲーテッドコミュニティ]]である。2018年10月には、このロサンゼルスの豪邸を3300万ドル(2018年当時約36億3000万円)で売却し、差額1100万ドルの利益を得たと報道された<ref>{{cite news |title=デビッド・ベッカム夫妻、ロス豪邸売却で12億利益 |publisher=日刊スポーツ |date=2018-10-06 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201810060000016.html |accessdate=2018-10-06 }}</ref>。報道によれば、ロサンゼルス・ギャラクシー退団後ロンドンで過ごすことが多くなった上、ベッカムは[[マイアミ]]で新たに[[インテル・マイアミCF]]を立ち上げ、マイアミを頻繁に訪れるようになったため、一家はマイアミ・ビーチの{{仮リンク|フィッシャー・アイランド|en|Fisher Island, Florida}}で新居を探しているという。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|23em}}
== 関連項目 ==
* [[ヴィクトリア・ベッカム]]
* [[ベッカムに恋して]]
* [[GOAL!]]
* [[インテル・マイアミCF]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|year=2002
|title=DAVID BECKHAM オール・アバウト・ベッカム・スタイル
|publisher=[[徳間書店]]
|isbn=4-19-861568-3
|ref=DAVID BECKHAM オール・アバウト・ベッカム・スタイル
}}
* {{Cite book|和書
|author=デイヴィッド・ベッカム&トム・ワット
|others=高月園子ほか
|year=2003
|title=ベッカム:マイ・サイド
|publisher=[[扶桑社]]
|isbn=4-594-04217-1
|ref=ベッカム:マイ・サイド
}}
* {{Cite journal|和書
|year=2002
|journal=WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号
|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]
|id=雑誌 29896-9/20
|ref=WORLD SOCCER DIGEST 2002年9月20日号増刊 デイビッド・ベッカム特集号
}}
* {{Cite journal|和書
|year=2003
|journal=さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集
|publisher=講談社MOOK
|isbn=4-06-179414-0
|id=雑誌 63898-01
|ref=さよならベッカム:マンチェスター・ユナイテッドオフィシャルマガジン特別編集
}}
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:David Beckham}}
* {{Soccerbase|547}}
* [http://www.davidbeckham.com/ The Official David Beckham Website]{{en icon}}
* [http://www.thedavidbeckhamacademy.com/ The David Beckham Academy]{{en icon}}
* [http://la.galaxy.mlsnet.com/players/bio.jsp?team=t106&player=beckham_d&playerId=bec369464&statType=current LA.Galaxy.MLSnet.com]{{en icon}}
* {{FIFA player|161454}}{{en icon}}
* [http://www.manutd.com/default.sps?pagegid={847FFC5F-947A-470D-A13B-E757FD63C2A8}&teamid=1445&bioid=92112 Manchester United Legends Profile]{{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20070329045059/http://www.photosbeckham.com/ 写真及びビデオ]{{en icon}}
* {{Instagram|davidbeckham}}{{en icon}}
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[[Category:デビッド・ベッカム|*]]
[[Category:イングランドのサッカー選手]]
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<!--[[Category:強迫性障害の人物]]-->
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