id
int64
5
471k
title
stringlengths
1
74
text
stringlengths
0
233k
paragraphs
list
abstract
stringlengths
1
4.6k
wikitext
stringlengths
22
486k
date_created
stringlengths
20
20
date_modified
stringlengths
20
20
is_disambiguation_page
bool
2 classes
is_sexual_page
bool
2 classes
is_violent_page
bool
2 classes
templates
list
url
stringlengths
31
561
13,510
結集
結集(けつじゅう、梵: संगीति、saṃgīti, サンギーティ)とは、仏教の経・論・律(三蔵)をまとめた編集会議のことである。「結集」のサンスクリット語の本来の意味は「ともに唱えること」であった。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議のうえで阿含経を編集した事業を結集と呼んでいる。 釈迦の死後、その教えはもっぱら記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防いで教団の統一をはかる目的で、弟子たちが各自の伝聞にもとづく資料をもちよって阿含経の編纂がなされた。 伝承によると、釈迦(ブッダ)入滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の比丘(大勢の比丘=修行者という意味)が集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)。 Yo kho ānanda mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto so vo mamaccayena satthā ti. アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である。 このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ 法(Dharma)と 律(Vinaya)の編集責任者となった。マガダ国の阿闍世王(アジャータシャトル)が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、文殊菩薩は十大弟子とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある。 その後のインドにおける結集には、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)がある。婆沙論によれば、アショーカ王の時代に根本分裂が起きた事になっている。南伝の『マハーワンサ』によればシシュナーガ朝のカーラーショーカ王の治世においてであるとしている。 南伝によれば、ブッダ入滅後200年にあたるマウリヤ朝第3代アショーカ王(阿育王)の治下、モッガリプッタ・ティッサ(目犍連帝須)による提唱と主宰の下で華氏城(けしじよう、パータリプトラ)で1000人の比丘を集めて行われた(千人結集)。紀元前3世紀半ばとされる。 北伝の説一切有部の伝承では、紀元後2世紀頃クシャーナ朝のカニシカ王のもとで、カシミールの比丘500人を集めて開かれた結集があったとされる。 他の部派の記録には3回以降が行われた記録は見当たらない。 南伝では、紀元前1世紀、ヴァッタガーマニ・アバヤ王の治世に、スリランカのアルヴィハーラ石窟寺院にて、500人の比丘を集めて第4結集が行われたとされる。 1871年、英国に併合される(1886年)前のビルマコンバウン朝のミンドン王治世、新首都マンダレーにて、第5結集が行われた。 1954年、ビルマのヤンゴン(ラングーン)にて、第6結集が行われた。現在、大蔵出版から刊行されている片山一良訳『パーリ仏典』シリーズは、この第6結集本を底本としている。 第3回の結集については南伝仏教と北伝仏教では伝承の内容が一致していない。 なお、結集には大乗経典の伝説(『プトゥン仏教史』ほか)もあり、文殊菩薩と弥勒菩薩が阿難とともに鉄囲山の外で行われた(『八千頌般若経』、『大智度論』)などともいわれているが、これも、あくまでも言い伝えであって確証されたものではない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "結集(けつじゅう、梵: संगीति、saṃgīti, サンギーティ)とは、仏教の経・論・律(三蔵)をまとめた編集会議のことである。「結集」のサンスクリット語の本来の意味は「ともに唱えること」であった。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議のうえで阿含経を編集した事業を結集と呼んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "釈迦の死後、その教えはもっぱら記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防いで教団の統一をはかる目的で、弟子たちが各自の伝聞にもとづく資料をもちよって阿含経の編纂がなされた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "伝承によると、釈迦(ブッダ)入滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の比丘(大勢の比丘=修行者という意味)が集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)。", "title": "第1回" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Yo kho ānanda mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto so vo mamaccayena satthā ti.", "title": "第1回" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「法と律」が、私の死後は、あなた方の師である。", "title": "第1回" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ 法(Dharma)と 律(Vinaya)の編集責任者となった。マガダ国の阿闍世王(アジャータシャトル)が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、文殊菩薩は十大弟子とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある。", "title": "第1回" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後のインドにおける結集には、仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)がある。婆沙論によれば、アショーカ王の時代に根本分裂が起きた事になっている。南伝の『マハーワンサ』によればシシュナーガ朝のカーラーショーカ王の治世においてであるとしている。", "title": "第2回" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "南伝によれば、ブッダ入滅後200年にあたるマウリヤ朝第3代アショーカ王(阿育王)の治下、モッガリプッタ・ティッサ(目犍連帝須)による提唱と主宰の下で華氏城(けしじよう、パータリプトラ)で1000人の比丘を集めて行われた(千人結集)。紀元前3世紀半ばとされる。", "title": "第3回" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北伝の説一切有部の伝承では、紀元後2世紀頃クシャーナ朝のカニシカ王のもとで、カシミールの比丘500人を集めて開かれた結集があったとされる。", "title": "第3回" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "他の部派の記録には3回以降が行われた記録は見当たらない。", "title": "第3回" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "南伝では、紀元前1世紀、ヴァッタガーマニ・アバヤ王の治世に、スリランカのアルヴィハーラ石窟寺院にて、500人の比丘を集めて第4結集が行われたとされる。", "title": "第4回" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1871年、英国に併合される(1886年)前のビルマコンバウン朝のミンドン王治世、新首都マンダレーにて、第5結集が行われた。", "title": "近代以降" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1954年、ビルマのヤンゴン(ラングーン)にて、第6結集が行われた。現在、大蔵出版から刊行されている片山一良訳『パーリ仏典』シリーズは、この第6結集本を底本としている。", "title": "近代以降" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第3回の結集については南伝仏教と北伝仏教では伝承の内容が一致していない。", "title": "伝承の異同その他" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、結集には大乗経典の伝説(『プトゥン仏教史』ほか)もあり、文殊菩薩と弥勒菩薩が阿難とともに鉄囲山の外で行われた(『八千頌般若経』、『大智度論』)などともいわれているが、これも、あくまでも言い伝えであって確証されたものではない。", "title": "伝承の異同その他" } ]
結集とは、仏教の経・論・律(三蔵)をまとめた編集会議のことである。「結集」のサンスクリット語の本来の意味は「ともに唱えること」であった。比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議のうえで阿含経を編集した事業を結集と呼んでいる。 釈迦の死後、その教えはもっぱら記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防いで教団の統一をはかる目的で、弟子たちが各自の伝聞にもとづく資料をもちよって阿含経の編纂がなされた。
{{See Wiktionary}} {{出典の明記|date=2017年9月22日 (金) 23:29 (UTC)}} {{初期仏教・部派仏教}} '''結集'''(けつじゅう、{{lang-sa-short|संगीति}}、{{lang|sa-Latn|saṃgīti}}, '''サンギーティ''')とは、[[仏教]]の経・論・律([[三蔵]])をまとめた編集会議のことである。「結集」のサンスクリット語の本来の意味は「ともに唱えること」であった<ref name="baba" />。[[比丘]]たちが集まって[[釈迦]]の教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議のうえで[[阿含経]]を編集した事業を結集と呼んでいる<ref name="baba" />。 釈迦の死後、その教えはもっぱら記憶や[[口承|暗唱]]を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防いで教団の統一をはかる目的で、弟子たちが各自の伝聞にもとづく資料をもちよって[[阿含経]]の編纂がなされた。 == 第1回 == 伝承によると、[[釈迦]](ブッダ)入滅後、[[王舎城]](ラージャグリハ)郊外の七葉窟(しちようくつ)に500人の[[比丘]](大勢の比丘=修行者という意味)が集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)<ref name="baba" />。 {{Quotation| Yo kho ānanda mayā dhammo ca vinayo ca desito paññatto so vo mamaccayena satthā ti. アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「[[法 (仏教)|法]]と[[律 (仏教)|律]]」が、私の死後は、あなた方の師である。<ref name="baba">{{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |pages=55-59}}</ref> | {{SLTP|[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]}} }} このときは、[[摩訶迦葉]](マハーカーシャパ)が座長となり、[[阿難]](アーナンダ)と[[優波離]](ウパーリ)が、それぞれ [[法 (仏教)|法]](Dharma)と [[律 (仏教)|律]](Vinaya)の編集責任者となった<ref name="baba" />。[[マガダ国]]の阿闍世王([[アジャータシャトル]])が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、[[文殊菩薩]]は[[十大弟子]]とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある。 == 第2回 == その後の[[インド]]における結集には、仏滅後100年頃、[[戒律]]上の異議が生じたことを契機に、[[毘舎離]](ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集(七百結集)がある。[[阿毘達磨大毘婆沙論|婆沙論]]によれば、[[アショーカ王]]の時代に[[根本分裂]]が起きた事になっている。南伝の『[[マハーワンサ]]』によれば[[シシュナーガ朝]]のカーラーショーカ王の治世においてであるとしている。 == 第3回 == 南伝によれば、ブッダ入滅後200年にあたる[[マウリヤ朝]]第3代[[アショーカ王]](阿育王)の治下、[[モッガリプッタ・ティッサ]](目犍連帝須){{efn|アショーカ王とその王子マヒンダの師。マヒンダを出家させてセイロン伝道の使節とした。}}による提唱と主宰の下で華氏城(けしじよう、[[パータリプトラ]])で1000人の比丘を集めて行われた(千人結集)<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/マヒンダ-137096 |title = マヒンダ |publisher = コトバンク |accessdate = 2020-06-29 }}</ref>。[[紀元前3世紀]]半ばとされる。 北伝の[[説一切有部]]の[[伝承]]では、紀元後[[2世紀]]頃[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世|カニシカ王]]のもとで、[[カシミール]]の比丘500人を集めて開かれた結集があったとされる。 他の部派の記録には3回以降が行われた記録は見当たらない。 == 第4回 == 南伝では、[[紀元前1世紀]]、ヴァッタガーマニ・アバヤ王の治世に、[[スリランカ]]のアルヴィハーラ石窟寺院にて、500人の比丘を集めて第4結集が行われたとされる。 == 近代以降 == === 第5回 === [[1871年]]、[[英国]]に併合される([[1886年]])前の[[ビルマ]][[コンバウン朝]]のミンドン王治世、新首都[[マンダレー]]にて、第5結集が行われた。 === 第6回 === [[1954年]]、[[ビルマ]]の[[ヤンゴン]]([[ラングーン]])にて、第6結集が行われた。現在、[[大蔵出版]]から刊行されている[[片山一良 (仏教学者)|片山一良]]訳『パーリ仏典』シリーズは、この第6結集本を底本としている<ref>[http://daizoshuppan.jinbunpub.com/daizo/Default.aspx?Category=%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%E4%BB%8F%E5%85%B8 大蔵出版 『パーリ仏典』]</ref>。 == 伝承の異同その他 == 第3回の結集については[[上座部仏教|南伝仏教]]と[[大乗仏教|北伝仏教]]では伝承の内容が一致していない。 なお、結集には大乗経典の伝説(『[[プトゥン|プトゥン仏教史]]』ほか)もあり、[[文殊菩薩]]と[[弥勒菩薩]]が阿難とともに鉄囲山の外で行われた(『[[八千頌般若経]]』{{Sfn|人見|2009|p=968}}、『[[大智度論]]』{{Sfn|人見|2009|p=967}})などともいわれているが、これも、あくまでも言い伝えであって確証されたものではない{{Sfn|人見|2009|p=970-969}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *松本文三郎 著 仏典結集(仏教史論 : 第1編)文明堂(明治36年9月15日発行)({{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818162|title=仏典結集 - 国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2019-01-21|website=dl.ndl.go.jp}}) *{{Cite journal|author=人見牧生|year=2009|title=大乗経典の結集者をめぐる一伝承|url=https://doi.org/10.4259/ibk.57.2_970|journal=印度學佛教學研究|volume=57|issue=2|pages=970-966|ref={{SfnRef|人見|2009}}}} 読み方や漢字意味 == 関連項目 == *[[仏典]] *[[パーリ語経典]] *[[スリランカの仏教]] *[[ミャンマーの仏教]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:けっしゅう}} [[Category:原始仏教]]
2003-08-18T12:53:25Z
2023-11-30T17:55:12Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Sfn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Lang", "Template:Efn", "Template:出典の明記", "Template:Lang-sa-short", "Template:Reflist", "Template:Buddhism2", "Template:初期仏教・部派仏教", "Template:Notelist", "Template:Cite web", "Template:See Wiktionary", "Template:Quotation" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E9%9B%86
13,511
阿難
阿難(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ 阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。 なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。 彼の出身は仏典によって諸説あり一致しない(後述)が、一般的には釈迦の従弟で、様々な仏典に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれているデーヴァダッタ(提婆達多)の弟と言われる。 彼は、釈迦が成道した夜に生まれたといわれる。大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦の実父であるシュッドーダナ王(浄飯王)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたといい、また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられたともいわれる。彼も阿那律(アヌルッダ)などの諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれる(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者となったという説もある)。 なお、『仏本行集経』によると、出家する時に釈迦仏から許しを得ず、阿難と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就いて出家し具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となったとされる。 彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われる。 釈迦の養母・摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家する際、釈迦が女人の出家をなかなか認めなかったので、阿難が釈迦仏を説得し、釈迦が女人の出家を認めるようになったことは特筆する点である(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高いと植木雅俊は主張している)。 出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。 こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。 仏の入滅の前後には悲嘆慟哭したので、阿那律から制止されたといわれ、また仏典の結集の際にも仏典以外の戒律などは細部の点を覚えておらず、他の弟子衆や摩訶迦葉から「なぜ釈迦仏に細かい点を質問しなかったのか?」と責められたという話も伝わっている。 阿育王経巻7、阿育王伝巻4、法顕の仏国記、また玄奘の大唐西域記などによると、彼はマガダ国やヴェーサリー国の離車族(リッチャヴィ=ヴァッジ国)族の人々から厚く信頼されていたといい、彼は自分の死後に遺骨が争奪されることを憂い、ガンジス河の中洲において、マガダ国の阿闍世(アジャータサットゥ)王と離車族が相来した後に、舟中から虚空に上昇し、火光三昧に入って120歳にて没し、その遺骨をそれぞれ二分して両岸に落としたという伝説がある。各国の王は、その遺骨を奉じ塔を建立したといわれる。 チベット仏教では、グル・パドマサンバヴァが出家する際に授戒した偉大な師としても知られている。 阿難及び釈迦族の系図は仏典によって様々であり、一致しないがここでは主だった説を記す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "阿難(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ 阿難陀)は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "彼の出身は仏典によって諸説あり一致しない(後述)が、一般的には釈迦の従弟で、様々な仏典に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれているデーヴァダッタ(提婆達多)の弟と言われる。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "彼は、釈迦が成道した夜に生まれたといわれる。大智度論によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦の実父であるシュッドーダナ王(浄飯王)のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたといい、また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられたともいわれる。彼も阿那律(アヌルッダ)などの諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれる(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者となったという説もある)。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、『仏本行集経』によると、出家する時に釈迦仏から許しを得ず、阿難と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就いて出家し具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となったとされる。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われる。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "釈迦の養母・摩訶波闍波提(まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家する際、釈迦が女人の出家をなかなか認めなかったので、阿難が釈迦仏を説得し、釈迦が女人の出家を認めるようになったことは特筆する点である(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高いと植木雅俊は主張している)。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の仏典結集には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉(まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の仏典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "仏の入滅の前後には悲嘆慟哭したので、阿那律から制止されたといわれ、また仏典の結集の際にも仏典以外の戒律などは細部の点を覚えておらず、他の弟子衆や摩訶迦葉から「なぜ釈迦仏に細かい点を質問しなかったのか?」と責められたという話も伝わっている。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "阿育王経巻7、阿育王伝巻4、法顕の仏国記、また玄奘の大唐西域記などによると、彼はマガダ国やヴェーサリー国の離車族(リッチャヴィ=ヴァッジ国)族の人々から厚く信頼されていたといい、彼は自分の死後に遺骨が争奪されることを憂い、ガンジス河の中洲において、マガダ国の阿闍世(アジャータサットゥ)王と離車族が相来した後に、舟中から虚空に上昇し、火光三昧に入って120歳にて没し、その遺骨をそれぞれ二分して両岸に落としたという伝説がある。各国の王は、その遺骨を奉じ塔を建立したといわれる。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "チベット仏教では、グル・パドマサンバヴァが出家する際に授戒した偉大な師としても知られている。", "title": "人物・出身" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "阿難及び釈迦族の系図は仏典によって様々であり、一致しないがここでは主だった説を記す。", "title": "出身の諸説について" } ]
阿難は、釈迦の十大弟子の一人であり、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と称せられた。禅宗では摩訶迦葉の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。阿難陀は漢語意訳では歓喜・慶喜とも記される。 なお各種仏典には、仏弟子や龍王をはじめとして、「-nanda(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば孫陀羅難陀も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。
{{redirect|アーナンダ|モンゴル(元王朝)の皇族|アナンダ|ホーリーネームがアーナンダのオウム真理教元幹部|井上嘉浩}} {{混同|阿南}} {{出典の明記|date=2017年7月24日 (月) 10:14 (UTC)}} {{Infobox Buddhist |名前=阿難陀 Ānanda(梵) Ānanda(巴) |生没年= |諡号= |尊称=多聞第一、仏教第三祖 |生地=[[コーサラ国]][[カピラ城]] |没地= |画像=[[Image:Ananda.gif|200px]] |説明文= |宗派=[[声聞]]([[初期仏教]]) |寺院= |師=[[釈迦]]、[[摩訶迦葉]] |弟子= |著作= }} '''阿難'''(あなん、梵/巴:Ānanda आनन्द アーナンダ '''阿難陀''')は、[[釈迦]]の[[十大弟子]]の一人であり、釈迦の[[侍従|侍者]]として常に説法を聴いていたことから'''多聞第一'''(たもんだいいち)と称せられた。[[禅宗]]では[[摩訶迦葉]]の跡を継いで仏法付法蔵の第3祖であるとする。<ref>これは日本の[[曹洞宗]]で顕著である。禅宗でも正法は阿難が付法したとすることもある。通教的には仏教は[[ジャイナ教]]のジナと同様、過去仏(七仏とも四仏ともされる)と釈迦との直接的な関係は説いておらず、付法について論議されることはない。</ref>阿難陀は漢語[[意訳]]では歓喜・慶喜とも記される。 なお各種仏典には、仏弟子や[[八大竜王|龍王]]をはじめとして、「-{{Lang|sa|nanda}}(○○難陀)」という名前が頻繁に登場する。たとえば[[孫陀羅難陀]]も本項の阿難陀と名前が似ているため、よく混同されるが別人である。 == 人物・出身 == [[File:Ananda, Shanxi Province, China, Tang Dynasty, 8th century, marble - Royal Ontario Museum - DSC09817.JPG|thumb|阿難の彫像]] 彼の出身は仏典によって諸説あり一致しない(後述)が、一般的には[[釈迦]]の従弟で、様々な[[仏典]]に釈迦とその教団に違背した悪人として描かれている[[提婆達多|デーヴァダッタ(提婆達多)]]の弟と言われる。 彼は、釈迦が[[成道]]した夜に生まれたといわれる。[[大智度論]]によると、彼の父である斛飯王(こくぼんのう、ドローノーダナ)が、釈迦の実父である[[浄飯王|シュッドーダナ王(浄飯王)]]のもとに使者を送り、阿難の誕生を知らせた時、浄飯王は非常に喜んだので「アーナンダ(歓喜)」と名づけられたといい、また国民は皆、王子の誕生を喜び、それによって名づけられたともいわれる。彼も[[阿那律|阿那律(アヌルッダ)]]などの諸王子と共に釈迦仏の元に赴き仏弟子となった。時に釈迦が55歳、阿難が25歳といわれる(もしくは8歳で沙彌=年少の修行者となったという説もある)。 なお、『[[仏本行集経]]』によると、出家する時に釈迦仏から許しを得ず、阿難と提婆達多の2人だけは、雪山(ヒマラヤ)のふもとの長老、優波陀(ウバッダ)に就いて出家し具足戒を受け、師の許しを得て仏所へ赴いて弟子となったとされる。 彼は美男子ゆえに、[[女難]]を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、[[漏尽通]]を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で[[阿羅漢]]果を得ていなかったと言われる。 釈迦の養母・[[摩訶波闍波提]](まか・はじゃはだい=マハー・プラジャパティー)たちが出家する際、釈迦が女人の出家をなかなか認めなかったので、阿難が釈迦仏を説得し、釈迦が女人の出家を認めるようになったことは特筆する点である(ただし、釈迦が女人の出家を躊躇ったとの逸話は原始仏典との矛盾が多く、後世に付加されたものである可能性が高いと[[植木雅俊]]は主張している<ref>{{cite book|和書|author= [[植木雅俊]]|title= 差別の超克――原始仏教と法華経の人間観|year= 2018|origyear= 2004|publisher= 講談社|series= 講談社学術文庫|pages= 175, 179}}</ref>)。 出家後、釈迦が死ぬまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていた。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の[[仏典]][[結集]]には彼の参加が望まれたが、当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった[[大迦葉|摩訶迦葉]](まかかしょう)は、阿難の参加を認めなかった。そのため彼は熱誠を込めて[[瞑想]]修行を続け、あるときその疲れから寝具に倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに仏典結集当日の朝のことであったという。 こうして王舎城・七葉窟にて行われた第1回の[[仏典]][[結集]]に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、仏典が編纂されたという<ref name="baba">{{Cite |和書|title=初期仏教――ブッダの思想をたどる |series=岩波新書 |author=馬場紀寿 |isbn=978-4004317357 |date=2018 |pages=55-59}}</ref>。漢訳仏典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。 仏の入滅の前後には悲嘆慟哭したので、阿那律から制止されたといわれ、また仏典の結集の際にも仏典以外の戒律などは細部の点を覚えておらず、他の弟子衆や摩訶迦葉から「なぜ釈迦仏に細かい点を質問しなかったのか?」と責められたという話も伝わっている。 [[阿育王]]経巻7、阿育王伝巻4、[[法顕]]の[[仏国記]]、また[[玄奘]]の[[大唐西域記]]などによると、彼は[[マガダ国]]やヴェーサリー国の離車族(リッチャヴィ=[[ヴァッジ国]])族の人々から厚く信頼されていたといい、彼は自分の死後に遺骨が争奪されることを憂い、ガンジス河の中洲において、マガダ国の[[アジャータシャトル|阿闍世]](アジャータサットゥ)王と離車族が相来した後に、舟中から虚空に上昇し、火光三昧に入って120歳にて没し、その遺骨をそれぞれ二分して両岸に落としたという伝説がある。各国の王は、その遺骨を奉じ塔を建立したといわれる。 [[チベット仏教]]では、グル・[[パドマサンバヴァ]]が出家する際に授戒した偉大な師としても知られている。 == 出身の諸説について == 阿難及び釈迦族の系図は仏典によって様々であり、一致しないがここでは主だった説を記す。 * 白飯王(はくぼんのう、シュクローダナ)の子、兄:阿難、弟:提婆達多(五分律の説) * 斛飯王の子、兄:提婆達多、弟:阿難とする(大智度論の説) * 甘露飯王(かんろぼんのう、アムリトーダナ)の子、兄:阿難、弟:提婆達多(起世経、衆許摩訶帝経の説) * 白飯王の子、兄:アーナンダ、次男:ウパダーナ、三男:デーヴァダッタ([[マハーヴァストゥ]]の説) == 関連項目 == * [[十大弟子]]([[舎利弗|シャーリプトラ]]/モッガラーナ/[[大迦葉|大カッサパ]]/[[須菩提|スブーティ]]/[[富楼那|プンナ]]/[[迦旃延|大カッチャーナ]]/[[阿那律|アヌルッダ]]/[[優波離|ウパーリ]]/[[羅睺羅|ラーフラ]]/'''アーナンダ''') *[[提婆達多]] * [[結集|第一結集]] == 登場作品 == * 『[[西遊記]]』にも[[釈迦如来]]の弟子として[[迦葉]]とともに登場している。もっとも、二人で三蔵法師に[[賄賂]]を求めるというキャラクターになっている。 * [[手塚治虫]]の『[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]』にも主要キャラクターとして登場するが、そのキャラクターは史実とはいささか異なる。詳しくは「[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]」の項を参照。 *ギャグ漫画『[[聖☆おにいさん]]』でも十大弟子の一人として登場する。キリスト教の使徒ヨハネと仲が良い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == {{ウィキプロジェクトリンク|仏教|[[File:Dharma wheel 1.png]]}} *[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/] 仏教夜話28・30・31、 仏弟子群像、アーナンダ(上)(中)(下) {{先代次代|[[仏教]]|第3祖|[[大迦葉]]|[[商那和修]]}} {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:あなん}} [[Category:仏弟子]] [[Category:原始仏教]] [[Category:ネパールの人物]] [[Category:阿羅漢]] [[Category:釈迦の家族]] [[Category:生没年不詳]]
2003-08-18T12:55:35Z
2023-12-26T13:32:32Z
false
false
false
[ "Template:Cite", "Template:先代次代", "Template:Redirect", "Template:出典の明記", "Template:Infobox Buddhist", "Template:Cite book", "Template:ウィキプロジェクトリンク", "Template:Buddhism-stub", "Template:Buddhism2", "Template:混同", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%9B%A3
13,512
ロナルド・リベスト
ロナルド・リン・リベスト(Ronald Linn Rivest、1947年5月6日 - )は、暗号の研究者。2018年現在はMITの計算機科学の教授で、MITコンピュータ科学・人工知能研究所の所員である。通称はロン・リベスト (Ron Rivest)。アメリカ合衆国選挙支援委員会の技術ガイドライン開発委員会の委員を務めており、Voluntary Voting System Guidelines の起草を助けた。 ニューヨーク州スケネクタディ生まれ。1969年にイェール大学で数学の学士号を取得し、1974年にスタンフォード大学で計算機科学の Ph.D. を取得。アルゴリズムの教科書として有名な Introduction to Algorithms (1990) の著者の1人である(他の執筆者は Thomas H. Cormen、Charles E. Leiserson、Clifford Stein)。MITコンピュータ科学・人工知能研究所 (CSAIL) では計算理論グループに属し、暗号と情報セキュリティグループを創設した。また、RSA Data Security(後のRSAセキュリティ)と Peppercoin を設立した。 1978年にアディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンとともに公開鍵暗号の一種RSA暗号を発明したことで知られる。共通鍵暗号アルゴリズム RC2, RC4, RC5 の発明者であり、RC6の共同発明者である。"RC" とは「リベスト暗号; Rivest Cipher」の略あるいは「ロンのコード; Ron's Code」の略とされている(RC3はRSAセキュリティで開発中に解読されてしまった。RC1も同様に開発中に解読できたため公表されていない)。リベストは暗号学的ハッシュ関数であるMD2, MD4, MD5の作者でもある。2006年9月25日、リベストは新たな発明 ThreeBallot voting system(ThreeBallot投票システム)を発表した。これは投票者が誰に投票したかというプライバシーを保護しつつ正しく投票数をカウントできる画期的な投票システムである。また、重要な点はこの投票システムが暗号技術に依存していない点である。「民主主義はあまりにも重要だ」として、リベストはこれをパブリックドメインとして掲載した。 リベストは全米技術アカデミーと全米科学アカデミーのメンバーであり、ACM、国際暗号学会(英語版)、アメリカ芸術科学アカデミーのフェローでもある。2000年、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンとともに IEEE Koji Kobayashi Computers and Communications Award と Secure Computing Lifetime Achievement Award を受賞した。また、2002年にチューリング賞を受賞。同年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学から名誉博士号を授与された。World Technology Network のフェローでもあり、2002年の World Technology Award for Communications Technology の最終選考まで残った。2005年、MITX Lifetime Achievement Award を受賞。2007年、マルコーニ財団のフェローに選ばれ、2008年5月29日にはカールトン・カレッジで Chesley lecture の講演者として講演を行った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロナルド・リン・リベスト(Ronald Linn Rivest、1947年5月6日 - )は、暗号の研究者。2018年現在はMITの計算機科学の教授で、MITコンピュータ科学・人工知能研究所の所員である。通称はロン・リベスト (Ron Rivest)。アメリカ合衆国選挙支援委員会の技術ガイドライン開発委員会の委員を務めており、Voluntary Voting System Guidelines の起草を助けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ニューヨーク州スケネクタディ生まれ。1969年にイェール大学で数学の学士号を取得し、1974年にスタンフォード大学で計算機科学の Ph.D. を取得。アルゴリズムの教科書として有名な Introduction to Algorithms (1990) の著者の1人である(他の執筆者は Thomas H. Cormen、Charles E. Leiserson、Clifford Stein)。MITコンピュータ科学・人工知能研究所 (CSAIL) では計算理論グループに属し、暗号と情報セキュリティグループを創設した。また、RSA Data Security(後のRSAセキュリティ)と Peppercoin を設立した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1978年にアディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンとともに公開鍵暗号の一種RSA暗号を発明したことで知られる。共通鍵暗号アルゴリズム RC2, RC4, RC5 の発明者であり、RC6の共同発明者である。\"RC\" とは「リベスト暗号; Rivest Cipher」の略あるいは「ロンのコード; Ron's Code」の略とされている(RC3はRSAセキュリティで開発中に解読されてしまった。RC1も同様に開発中に解読できたため公表されていない)。リベストは暗号学的ハッシュ関数であるMD2, MD4, MD5の作者でもある。2006年9月25日、リベストは新たな発明 ThreeBallot voting system(ThreeBallot投票システム)を発表した。これは投票者が誰に投票したかというプライバシーを保護しつつ正しく投票数をカウントできる画期的な投票システムである。また、重要な点はこの投票システムが暗号技術に依存していない点である。「民主主義はあまりにも重要だ」として、リベストはこれをパブリックドメインとして掲載した。", "title": "業績" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "リベストは全米技術アカデミーと全米科学アカデミーのメンバーであり、ACM、国際暗号学会(英語版)、アメリカ芸術科学アカデミーのフェローでもある。2000年、アディ・シャミア、レオナルド・エーデルマンとともに IEEE Koji Kobayashi Computers and Communications Award と Secure Computing Lifetime Achievement Award を受賞した。また、2002年にチューリング賞を受賞。同年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学から名誉博士号を授与された。World Technology Network のフェローでもあり、2002年の World Technology Award for Communications Technology の最終選考まで残った。2005年、MITX Lifetime Achievement Award を受賞。2007年、マルコーニ財団のフェローに選ばれ、2008年5月29日にはカールトン・カレッジで Chesley lecture の講演者として講演を行った。", "title": "受賞歴" } ]
ロナルド・リン・リベストは、暗号の研究者。2018年現在はMITの計算機科学の教授で、MITコンピュータ科学・人工知能研究所の所員である。通称はロン・リベスト。アメリカ合衆国選挙支援委員会の技術ガイドライン開発委員会の委員を務めており、Voluntary Voting System Guidelines の起草を助けた。
{{Infobox Scientist | name = Ronald L Rivest<br>ロナルド・L・リベスト | image = Ronald L Rivest photo.jpg | image_size = 200px | caption = | birth_date = [[1947年]][[5月6日]] | birth_place = {{USA}} [[ニューヨーク州]][[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]] | death_date = | death_place = | residence = {{USA}} | nationality = {{USA}} | field = [[暗号理論]] | work_institution = [[マサチューセッツ工科大学]] | alma_mater = [[スタンフォード大学]]<br />[[イェール大学]] | doctoral_advisor = [[ロバート・フロイド]] | known_for = [[公開鍵暗号]]<br /> [[RSA暗号]]、[[RC2]]、[[RC4]]、[[RC5]]、[[RC6]]<br />[[MD2]]、[[MD4]]、[[MD5]]、{{仮リンク|MD6|en|MD6}} | prizes = [[チューリング賞]](2002) }} '''ロナルド・リン・リベスト'''(''Ronald Linn Rivest''、[[1947年]][[5月6日]] - )は、[[暗号学者|暗号の研究者]]。2018年現在は[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]の計算機科学の教授で、[[MITコンピュータ科学・人工知能研究所]]の所員である。通称は'''ロン・リベスト''' (Ron Rivest)。[[アメリカ合衆国選挙支援委員会]]の技術ガイドライン開発委員会の委員を務めており、Voluntary Voting System Guidelines の起草を助けた<ref name="NIST">[http://vote.nist.gov/tgdcmem.htm TGDC members] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070608071658/http://vote.nist.gov/tgdcmem.htm |date=2007年6月8日 }}, from the [[アメリカ国立標準技術研究所|National Institute of Standards and Technology]]{{リンク切れ|date=2012年8月}}</ref>。 == 経歴 == [[ニューヨーク州]][[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]]生まれ。1969年に[[イェール大学]]で数学の[[学士]]号を取得し、1974年に[[スタンフォード大学]]で[[計算機科学]]の [[Ph.D.]] を取得。[[アルゴリズム]]の教科書として有名な ''[[:en:Introduction to Algorithms|Introduction to Algorithms]]'' (1990) の著者の1人である(他の執筆者は Thomas H. Cormen、Charles E. Leiserson、Clifford Stein)。[[MITコンピュータ科学・人工知能研究所]] (CSAIL) では[[計算理論]]グループに属し、暗号と情報セキュリティグループを創設した。また、RSA Data Security(後の[[RSAセキュリティ]])と [[:en:Peppercoin|Peppercoin]] を設立した。 == 業績 == [[1978年]]に[[アディ・シャミア]]、[[レオナルド・エーデルマン]]とともに[[公開鍵暗号]]の一種[[RSA暗号]]を発明したことで知られる。[[共通鍵暗号]]アルゴリズム [[RC2]], [[RC4]], [[RC5]] の発明者であり、[[RC6]]の共同発明者である。"RC" とは「リベスト暗号; Rivest Cipher」の略あるいは「ロンのコード; Ron's Code」の略とされている(RC3は[[RSAセキュリティ]]で開発中に解読されてしまった。RC1も同様に開発中に解読できたため公表されていない)。リベストは[[暗号学的ハッシュ関数]]である[[MD2]], [[MD4]], [[MD5]]の作者でもある。2006年9月25日、リベストは新たな発明 ThreeBallot voting system(ThreeBallot投票システム)を発表した。これは投票者が誰に投票したかというプライバシーを保護しつつ正しく投票数をカウントできる画期的な投票システムである。また、重要な点はこの投票システムが暗号技術に依存していない点である。「民主主義はあまりにも重要だ」として、リベストはこれをパブリックドメインとして掲載した。 == 受賞歴 == リベストは[[全米技術アカデミー]]と[[米国科学アカデミー|全米科学アカデミー]]のメンバーであり、[[Association for Computing Machinery|ACM]]、{{仮リンク|国際暗号学会|en|International Association for Cryptologic Research}}、[[アメリカ芸術科学アカデミー]]の[[フェロー]]でもある。[[2000年]]、[[アディ・シャミア]]、[[レオナルド・エーデルマン]]とともに [[IEEE]] Koji Kobayashi Computers and Communications Award と Secure Computing Lifetime Achievement Award を受賞した。また、[[2002年]]に[[チューリング賞]]を受賞。同年、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]]から名誉博士号を授与された<ref name="bio">[https://webcitation.org/63jGW7VaO?url=http://people.csail.mit.edu/rivest/bio.html Biography]. Archived from [http://people.csail.mit.edu/rivest/bio.html the original] on 2011-12-06.</ref>。World Technology Network のフェローでもあり、2002年の [[:en:World Technology Award|World Technology Award]] for Communications Technology の最終選考まで残った。2005年、MITX Lifetime Achievement Award を受賞。2007年、マルコーニ財団のフェローに選ばれ、2008年5月29日には[[カールトン・カレッジ]]で Chesley lecture の講演者として講演を行った。 == 著作 == * Cormen, Thomas H.; Leiserson, Charles E. との共著; (1990). Introduction to Algorithms (first edition ed.). MIT Press and McGraw-Hill. ISBN 0-262-03141-8 * Cormen, Thomas H.; Leiserson, Charles E.; Stein, Clifford との共著; (2001). Introduction to Algorithms (second edition ed.). MIT Press and McGraw-Hill. ISBN 0-262-53196-8 * Cormen, Thomas H.; Leiserson, Charles E.; Stein, Clifford との共著; (2009). Introduction to Algorithms (third edition ed.). MIT Press. ISBN 0-262-03384-4 == 脚注 == {{Reflist}} ==関連項目== * [[RCシリーズ|RCアルゴリズム]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ron Rivest}} * [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/r/Rivest:Ronald_L=.html List of Ron Rivest's publications on DBLP] * [http://www.ipexl.com/share/fecba62ecb1bfc4a861cfb31ea1373d1 List of Ron Rivest's patents on IPEXL] * [https://people.csail.mit.edu/rivest/ Home page of Ronald L. Rivest] * [http://www.rsasecurity.com/ RSA Security Inc. の公式サイト] (現在はEMCの一部) * [http://www.electiontechnology.com/who.php?id=17 Ron Rivest election research papers] * http://theory.csail.mit.edu/%7Erivest/Rivest-TheThreeBallotVotingSystem.pdf "The ThreeBallot Voting System " (PDF) * [https://rangevoting.org/Rivest3B.html RangeVoting.org - Rivest 3ballot secure voting scheme] ThreeBallot Voting System の一般人向け解説 {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りへすと ろなると}} [[Category:アメリカ合衆国の計算機科学者]] [[Category:アメリカ合衆国の暗号研究者]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:マサチューセッツ工科大学の教員]] [[Category:MITコンピュータ科学・人工知能研究所の人物]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:ACMフェロー]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[category:スケネクタディ出身の人物]] [[Category:ニューヨーク州の数学者]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
2003-08-18T13:09:47Z
2023-11-30T14:10:19Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Webarchive", "Template:リンク切れ", "Template:Commonscat", "Template:チューリング賞", "Template:典拠管理", "Template:Infobox Scientist", "Template:仮リンク" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88
13,513
アディ・シャミア
アディ・シャミア(Adi Shamir、ヘブライ語: עדי שמיר、1952年7月6日 - )は、イスラエルの暗号の研究者。ロナルド・リベスト、レオナルド・エーデルマンとともにRSA暗号を発明したことで知られる。また、ゼロ知識証明のファイゲ-フィアット-シャミア認証法(英語版)でも知られ、暗号理論と計算機科学に様々な貢献をしてきた。 テルアビブ生まれ。1973年、テルアビブ大学で数学の学士号を取得。ワイツマン科学研究所で計算機科学の修士号(1975年)と博士号(1977年)を取得した。学位論文のタイトルは "Fixed Points of Recursive Programs and their Relation in Differential Agard Calculus"。ウォーリック大学で1年間博士研究員として過ごした後、1977年から1980年にかけてMITで研究を行った。その後ワイツマン科学研究所で数学・計算機科学科で勤務。2006年からパリの高等師範学校でも教授を務めている。 RSA暗号以外にもシャミアの暗号関連の業績として以下のものが挙げられる。 暗号関連以外の計算機科学分野での貢献として、以下のものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アディ・シャミア(Adi Shamir、ヘブライ語: עדי שמיר、1952年7月6日 - )は、イスラエルの暗号の研究者。ロナルド・リベスト、レオナルド・エーデルマンとともにRSA暗号を発明したことで知られる。また、ゼロ知識証明のファイゲ-フィアット-シャミア認証法(英語版)でも知られ、暗号理論と計算機科学に様々な貢献をしてきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "テルアビブ生まれ。1973年、テルアビブ大学で数学の学士号を取得。ワイツマン科学研究所で計算機科学の修士号(1975年)と博士号(1977年)を取得した。学位論文のタイトルは \"Fixed Points of Recursive Programs and their Relation in Differential Agard Calculus\"。ウォーリック大学で1年間博士研究員として過ごした後、1977年から1980年にかけてMITで研究を行った。その後ワイツマン科学研究所で数学・計算機科学科で勤務。2006年からパリの高等師範学校でも教授を務めている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "RSA暗号以外にもシャミアの暗号関連の業績として以下のものが挙げられる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "暗号関連以外の計算機科学分野での貢献として、以下のものがある。", "title": "研究" } ]
アディ・シャミアは、イスラエルの暗号の研究者。ロナルド・リベスト、レオナルド・エーデルマンとともにRSA暗号を発明したことで知られる。また、ゼロ知識証明のファイゲ-フィアット-シャミア認証法でも知られ、暗号理論と計算機科学に様々な貢献をしてきた。
{{Infobox Scientist | name = アディ・シャミア | image = Adi_Shamir_Royal_Society.jpg | image_size = 200px | caption = アディ・シャミア(2018) | birth_date = {{生年月日と年齢|1952|7|6}} | birth_place = {{ISR}} [[テルアビブ]] | death_date = | death_place = | residence = {{ISR}} | field = [[暗号理論]] | work_institution = [[ワイツマン科学研究所]] | alma_mater = [[ワイツマン科学研究所]] | doctoral_advisor = [[:en:Zohar Manna|Zohar Manna]] | known_for = [[RSA暗号|RSA]]<br/>{{仮リンク|ファイゲ-フィアット-シャミア認証法|en|Feige–Fiat–Shamir identification scheme}}<br/>[[差分解読法]] | prizes = [[チューリング賞]](2002)<br/> [[イスラエル賞]](2008)<br/>[[日本国際賞]](2017) }} '''アディ・シャミア'''('''Adi Shamir'''、{{lang-he|עדי שמיר}}、[[1952年]][[7月6日]] - )は、[[イスラエル]]の[[暗号学者|暗号の研究者]]。[[ロナルド・リベスト]]、[[レオナルド・エーデルマン]]とともに[[RSA暗号]]を発明したことで知られる。また、[[ゼロ知識証明]]の{{仮リンク|ファイゲ-フィアット-シャミア認証法|en|Feige–Fiat–Shamir identification scheme}}でも知られ、[[暗号理論]]と[[計算機科学]]に様々な貢献をしてきた。 == 教育 == [[テルアビブ]]生まれ。1973年、[[テルアビブ大学]]で[[数学]]の学士号を取得。[[ワイツマン科学研究所]]で[[計算機科学]]の修士号(1975年)と博士号(1977年)を取得した。学位論文のタイトルは "Fixed Points of Recursive Programs and their Relation in Differential Agard Calculus"。[[ウォーリック大学]]で1年間[[博士研究員]]として過ごした後、1977年から1980年にかけて[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]で研究を行った。その後[[ワイツマン科学研究所]]で[[数学]]・[[計算機科学]]科で勤務。2006年からパリの[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]でも教授を務めている。 == 研究 == [[RSA暗号]]以外にもシャミアの暗号関連の業績として以下のものが挙げられる。 * {{仮リンク|シャミアの秘密分散法|en|Shamir's Secret Sharing}} * [[Merkle-Hellmanナップサック暗号]]の解読 * {{仮リンク|視覚暗号|en|visual cryptography}} * {{仮リンク|TWIRL|en|TWIRL}}、TWINKLE<small>([[:en:TWINKLE]])</small>([[素因数分解]]デバイス) * [[ブロック暗号]]を解読するための[[差分解読法]]([[:en:Eli Biham|Eli Biham]] との共同研究)。なお、差分解読法の手法は1970年代([[Data Encryption Standard|DES]]設計時)に既知であったことが後に明らかになった([[IBM]]<ref name="coppersmith">{{Cite journal|doi = 10.1147/rd.383.0243 |last = Coppersmith |first = Don |year = 1994 |month = May |title = The Data Encryption Standard (DES) and its strength against attacks |journal = IBM Journal of Research and Development |volume = 38 |issue = 3 |pages = 243 |url = http://dl.acm.org/citation.cfm?id=185915 |format = PDF }} (subscription required)</ref>と[[アメリカ国家安全保障局|NSA]]<ref name="levy">{{Cite book|last = Levy |first = Steven |title = Crypto: How the Code Rebels Beat the Government — Saving Privacy in the Digital Age |publisher = Penguin Books |year = 2001 |isbn = 0-14-024432-8 |pages = 55–56 }}</ref>がこれを機密扱いにしていた)。 暗号関連以外の計算機科学分野での貢献として、以下のものがある。 * 2SAT([[充足可能性問題]])を解く初の[[線形時間]]アルゴリズムの考案<ref name="EIS76">{{Citation|first1=S.|last1=Even |first2=A.|last2=Itai|first3=A.|last3=Shamir |title=On the complexity of time table and multi-commodity flow problems|journal= SIAM Journal on Computing |volume=5|issue=4|year=1976|pages=691–703|doi=10.1137/0205048}}.</ref>。 * [[計算複雑性理論]]の [[PSPACE]] と {{仮リンク|IP (計算複雑性理論)|en|IP (complexity)|label=IP}} が等価であることを示した。 == 受賞歴 == * 1983年 - {{仮リンク|エルデシュ賞|en|Erdős Prize}}(イスラエル数学会) * 1986年 - [[IEEE]] [[:en:IEEE W.R.G. Baker Award|W.R.G. Baker Award]]<ref>{{Cite web|url= http://www.ieee.org/documents/baker_rl.pdf |title=IEEE W.R.G. Baker Prize Paper Award Recipients |publisher=[[IEEE]] |accessdate=2011-02-05}}</ref> * 1992年 - [[ピウス11世メダル]] * 1996年 - [[:en:Paris Kanellakis Theory and Practice Award|Paris Kanellakis Theory and Practice Award]] (ACM)<ref>http://awards.acm.org/citation.cfm?id=8526038&srt=all&aw=147&ao=KANELLAK</ref> * 2000年 - [[IEEE小林宏治コンピュータ&コミュニケーション賞]]<ref>{{Cite web|url= http://www.ieee.org/documents/kobayashi_rl.pdf |title=IEEE Koji Kobayashi Computers and Communications Award Recipients |publisher=[[IEEE]] |accessdate=2011-02-15}}</ref> * 2002年 - [[Association for Computing Machinery|ACM]][[チューリング賞]]。暗号理論に関する貢献が認められ、[[ロナルド・リベスト]]、[[レオナルド・エーデルマン]]と共同受賞<ref>{{Cite web|url= http://amturing.acm.org/award_winners/shamir_0028491.cfm |title=A. M. Turing Award |publisher=[[Association for Computing Machinery]] |accessdate=2011-02-05}}</ref>。 * 2008年 - [[イスラエル賞]]<ref>{{Cite web| title = Israel Prize Official Site (in Hebrew) - Recipient's C.V. | url = http://cms.education.gov.il/EducationCMS/Units/PrasIsrael/Tashsch/AdiShamir/CvAdiShamir.htm |accessdate=2012-08-31}}</ref><ref>{{Cite web| title = Israel Prize Official Site (in Hebrew) - Judges' Rationale for Grant to Recipient | url = http://cms.education.gov.il/EducationCMS/Units/PrasIsrael/Tashsch/AdiShamir/NsAdiShamir.htm |accessdate=2012-08-31}}</ref> * 2009年 - 名誉博士号([[ウォータールー大学]])<ref>{{Cite web| title = Presentation of the honorary degree at the Fall 2009 Convcation | url = http://www.math.uwaterloo.ca/co/research/files/award_files/AShamircitation.pdf | accessdate=2011-10-31}}</ref> * 2012年 - [[グランドメダル (フランス科学アカデミー)|グランドメダル]] * 2017年 - [[日本国際賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=ジャパンプライズ(Japan Prize/日本国際賞)|website=[[国際科学技術財団]]|url=https://www.japanprize.jp/laureates_by_year2010.html |accessdate=2022-10-03}}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Adi Shamir}} * [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/s/Shamir:Adi.html List of Adi Shamir's publications on DBLP] * [http://patft.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?Sect1=PTO2&Sect2=HITOFF&u=%2Fnetahtml%2Fsearch-adv.htm&r=0&f=S&l=50&d=PTXT&RS=%28IN%2FShamir+AND+AN%2FYeda%29&Refine=Refine+Search&Refine=Refine+Search&Query=IN%2FShamir+AND+IN%2FAdi Adi Shamir's US Patents, 1976-present] {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやみあ あてい}} [[Category:20世紀の数学者|520000]] [[Category:21世紀の数学者|-520000]] [[Category:イスラエルの計算機科学者]] [[Category:イスラエルの数学者]] [[Category:イスラエルの暗号研究者]] [[Category:ユダヤ人の発明家]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:日本国際賞受賞者]] [[Category:イスラエル賞受賞者]] [[Category:イスラエル科学・人文アカデミー会員]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:フランス科学アカデミー会員]] [[Category:ヨーロッパ・アカデミー会員]] [[Category:ワイツマン科学研究所の教員]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:MITコンピュータ科学・人工知能研究所の人物]] [[Category:ユダヤ系イスラエル人]] [[Category:テルアビブ出身の人物]] [[Category:ウォーリック大学出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
2003-08-18T13:14:59Z
2023-11-29T14:33:19Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Scientist", "Template:Citation", "Template:Commonscat", "Template:チューリング賞", "Template:Lang-he", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Cite web", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%82%A2
13,514
レオナルド・エーデルマン
レオナルド・マックス・エーデルマン(Leonard Max Adleman, 1945年12月31日 - )は、アメリカの暗号の研究者で理論計算機科学者。レナード・エイドルマンとも 南カリフォルニア大学で計算機科学と分子生物学の教授を務めている。1978年にロナルド・リベスト、アディ・シャミアとともにRSA暗号を発明したことで知られる。RSA暗号は電子署名などコンピュータセキュリティアプリケーションに広く使われている。この業績により2002年にチューリング賞を受賞。また、DNAコンピュータの考案者でもある。 カリフォルニア州生まれでサンフランシスコ育ち。カリフォルニア大学バークレー校で学び、1968年に数学の学士号、1976年に情報工学の博士号を取得。 1982年にC. PomeranceやR. S. RumelyとともにAPR素数判定法を発見した。1994年、Molecular Computation of Solutions To Combinatorial Problems(組合せ問題の分子計算による解法)と題した論文で、計算機として実験的にDNAを使用することを論じた。この中で、彼は7ノードのハミルトン閉路問題や巡回セールスマン問題に似たNP完全問題を解いた。ノード7、パス14という問題規模は非常に小さかったが、この論文はDNAによるアルゴリズムの計算の成功例として知られている。使われたDNAは40bpのDNA鎖であり、プログラム内蔵型でもなかった。いずれにしても、これによってDNAコンピュータが大規模な組合せ最適化問題に適用できる可能性が示された。 RSA暗号の発明への貢献により、エーデルマンはロナルド・リベスト、アディ・シャミアと共に2002年のチューリング賞を受賞した。 教え子のフレッド・コーエンが1984年に書いた論文 Experiments with Computer Viruses(コンピュータウイルスの実験)によれば、コンピュータウイルスという用語はエーデルマンが考案したという。 エーデルマンはハッカーを描いた映画『スニーカーズ』で数学に関するコンサルタントとして関与した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レオナルド・マックス・エーデルマン(Leonard Max Adleman, 1945年12月31日 - )は、アメリカの暗号の研究者で理論計算機科学者。レナード・エイドルマンとも", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南カリフォルニア大学で計算機科学と分子生物学の教授を務めている。1978年にロナルド・リベスト、アディ・シャミアとともにRSA暗号を発明したことで知られる。RSA暗号は電子署名などコンピュータセキュリティアプリケーションに広く使われている。この業績により2002年にチューリング賞を受賞。また、DNAコンピュータの考案者でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カリフォルニア州生まれでサンフランシスコ育ち。カリフォルニア大学バークレー校で学び、1968年に数学の学士号、1976年に情報工学の博士号を取得。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1982年にC. PomeranceやR. S. RumelyとともにAPR素数判定法を発見した。1994年、Molecular Computation of Solutions To Combinatorial Problems(組合せ問題の分子計算による解法)と題した論文で、計算機として実験的にDNAを使用することを論じた。この中で、彼は7ノードのハミルトン閉路問題や巡回セールスマン問題に似たNP完全問題を解いた。ノード7、パス14という問題規模は非常に小さかったが、この論文はDNAによるアルゴリズムの計算の成功例として知られている。使われたDNAは40bpのDNA鎖であり、プログラム内蔵型でもなかった。いずれにしても、これによってDNAコンピュータが大規模な組合せ最適化問題に適用できる可能性が示された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "RSA暗号の発明への貢献により、エーデルマンはロナルド・リベスト、アディ・シャミアと共に2002年のチューリング賞を受賞した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "教え子のフレッド・コーエンが1984年に書いた論文 Experiments with Computer Viruses(コンピュータウイルスの実験)によれば、コンピュータウイルスという用語はエーデルマンが考案したという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "エーデルマンはハッカーを描いた映画『スニーカーズ』で数学に関するコンサルタントとして関与した。", "title": "経歴" } ]
レオナルド・マックス・エーデルマンは、アメリカの暗号の研究者で理論計算機科学者。レナード・エイドルマンとも 南カリフォルニア大学で計算機科学と分子生物学の教授を務めている。1978年にロナルド・リベスト、アディ・シャミアとともにRSA暗号を発明したことで知られる。RSA暗号は電子署名などコンピュータセキュリティアプリケーションに広く使われている。この業績により2002年にチューリング賞を受賞。また、DNAコンピュータの考案者でもある。
{{Infobox Scientist | name = Leonard Max Adleman<br>レオナルド・マックス・エーデルマン | image = Len-mankin-pic.jpg | image_size = 200px | caption = | birth_date = {{生年月日と年齢|1945|12|31}} | birth_place = {{USA}} [[カリフォルニア州]] | death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|****|**|**|****|**|**}}--> | death_place = | residence = | nationality = {{USA}} | field = [[計算機科学]]<br/>[[分子生物学]] | work_institution = [[南カリフォルニア大学]] | alma_mater = [[カリフォルニア大学バークレー校]] | doctoral_advisor = <!--博士課程指導教官--> | doctoral_students = <!--博士課程指導学生--> | known_for = [[RSA暗号]]<br/>[[DNAコンピュータ]] | prizes = [[チューリング賞]](2002) | religion = <!--信仰--> | footnotes = }} '''レオナルド・マックス・エーデルマン'''('''Leonard Max Adleman''', [[1945年]][[12月31日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[暗号学者|暗号の研究者]]で[[理論計算機科学|理論計算機科学者]]。'''レナード・エイドルマン'''とも [[南カリフォルニア大学]]で[[計算機科学]]と[[分子生物学]]の教授を務めている。[[1978年]]に[[ロナルド・リベスト]]、[[アディ・シャミア]]とともに[[RSA暗号]]を発明したことで知られる。RSA暗号は[[電子署名]]など[[コンピュータセキュリティ]]アプリケーションに広く使われている。この業績により[[2002年]]に[[チューリング賞]]を受賞。また、[[DNAコンピュータ]]の考案者でもある。 ==経歴== [[カリフォルニア州]]生まれで[[サンフランシスコ]]育ち。[[カリフォルニア大学バークレー校]]で学び、[[1968年]]に数学の学士号、[[1976年]]に情報工学の博士号を取得。 [[1982年]]にC. PomeranceやR. S. Rumelyとともに[[APR素数判定法]]を発見した。[[1994年]]、''Molecular Computation of Solutions To Combinatorial Problems''(組合せ問題の分子計算による解法)と題した論文で、計算機として実験的にDNAを使用することを論じた。この中で、彼は7ノードの[[ハミルトン閉路問題]]や[[巡回セールスマン問題]]に似た[[NP完全問題]]を解いた。ノード7、パス14という問題規模は非常に小さかったが、この論文はDNAによるアルゴリズムの計算の成功例として知られている。使われたDNAは40bpのDNA鎖であり、プログラム内蔵型でもなかった。いずれにしても、これによって[[DNAコンピュータ]]が大規模な[[組合せ最適化]]問題に適用できる可能性が示された。 [[RSA暗号]]の発明への貢献により、エーデルマンは[[ロナルド・リベスト]]、[[アディ・シャミア]]と共に[[2002年]]の[[チューリング賞]]を受賞した。 教え子の[[フレッド・コーエン]]が[[1984年]]に書いた論文 ''Experiments with Computer Viruses''(コンピュータウイルスの実験)によれば、[[コンピュータウイルス]]という用語はエーデルマンが考案したという。 エーデルマンは[[ハッカー]]を描いた映画『スニーカーズ』で数学に関するコンサルタントとして関与した。 ==参考文献== * R. L. Rivest, A. Shamir and L. M. Adleman, ''A method for obtaining digital signatures and public-key cryptosystems'', Comm. ACM, 21(1978年), 258--261. * L. M. Adleman, C. Pomerance and R. S. Rumely, ''On distinguishing prime numbers from composite numbers'', Ann. of Math. 117(1983年), 173--206. == 外部リンク == * [https://adleman.usc.edu/ Adleman's homepage] * [https://amturing.acm.org/award_winners/adleman_7308544.cfm Turing Award Citation] * [https://web.archive.org/web/20151101121012/http://www.usc.edu/dept/molecular-science/fm-sneakers.htm Mathematical consultant for movie ''Sneakers''] {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ええてるまん れおなると}} [[Category:アメリカ合衆国の計算機科学者]] [[Category:アメリカ合衆国の暗号研究者]] [[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:南カリフォルニア大学の教員]] [[Category:MITコンピュータ科学・人工知能研究所の人物]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:サンフランシスコ出身の人物]] [[Category:1945年生]] [[Category:存命人物]]
2003-08-18T13:19:16Z
2023-11-29T14:07:56Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Infobox Scientist", "Template:チューリング賞" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
13,515
急行
急行(きゅうこう)とは、仕事などを急いでやること、または目的地に急ぐことを指す(例:「現地に急行する」「急行運転」)。以下はその派生用語となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "急行(きゅうこう)とは、仕事などを急いでやること、または目的地に急ぐことを指す(例:「現地に急行する」「急行運転」)。以下はその派生用語となる。", "title": null } ]
急行(きゅうこう)とは、仕事などを急いでやること、または目的地に急ぐことを指す。以下はその派生用語となる。
'''急行'''(きゅうこう)とは、仕事などを急いでやること、または目的地に急ぐことを指す(例:「現地に急行する」「急行運転」)。以下はその派生用語となる。 == 鉄道 == ; [[列車種別]] {{see also|急行電車}} * [[急行列車]] - [[優等列車]]種別。 ** 日本の料金徴収の速達列車。[[日本国有鉄道|国鉄]]・[[JR]]では「普通急行列車」と「[[特別急行列車]](特急)」の総称。 *** 上記のうち、普通急行列車のこと。英語表記は「Express」。 ** [[急行列車 (インド)]] - [[インド鉄道]]が運行する長距離列車。 ** [[オリエント急行]] - [[ヨーロッパ]]の長距離列車。 * 料金不要の速達列車。国鉄・JRの「[[快速列車|快速]]」([[普通列車]])に相当する。 ** [[急行列車#急行電車(急電)|急行電車]] - かつて国鉄で運行されていた列車。略称「急電」。現在の快速。 ** 現在私鉄で運行されている列車。[[急行列車#料金不要の「急行」|こちら]]を参照。 *** ○○急行 - 上記の派生種別。「[[快速急行]]」「[[列車種別#通勤種別|通勤急行]]」「[[列車種別#区間種別|区間急行]]」など。 ** [[急行列車 (韓国)]] - [[大韓民国]]で運行されている料金不要の列車。 ; 路線等 * 急行線 ** [[複々線]]において、通過運転を行う列車が走る線路。前述の「急行電車」が走行することに由来する。「快速線」ともいう。「[[急行線]]」を参照。 ** ○○急行線 - 私鉄の路線名。[[伊豆急行線]]、[[富士急行線]]など。 ; 運行事業者 * ○○急行・○○急行電鉄 - 私鉄の事業者。[[伊豆急行]]、[[富士急行]]、[[京浜急行電鉄]]など。 == バス == * [[急行バス]] == 関連項目 == * [[エクスプレス]] * [[直行]] {{aimai}} {{デフォルトソート:きゆうこう}}
null
2023-04-15T09:39:01Z
true
false
false
[ "Template:See also", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E8%A1%8C
13,516
十大弟子
十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。最初は具体的な弟子を特定していなかったが、大乗経典により特定の弟子の呼称が定着した。特定の弟子への信仰は中国で始まったとされる。 経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、『維摩経弟子品』では出家順に以下の通りである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。最初は具体的な弟子を特定していなかったが、大乗経典により特定の弟子の呼称が定着した。特定の弟子への信仰は中国で始まったとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、『維摩経弟子品』では出家順に以下の通りである。", "title": "十大弟子" } ]
十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。最初は具体的な弟子を特定していなかったが、大乗経典により特定の弟子の呼称が定着した。特定の弟子への信仰は中国で始まったとされる。
'''十大弟子''' (じゅうだいでし)とは、[[釈迦]](釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。最初は具体的な弟子を特定していなかったが、大乗経典により特定の弟子の呼称が定着した。特定の弟子への信仰は中国で始まったとされる<ref>{{Cite web|和書|author=[[石上善應]]|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90|title=十大弟子(じゅうだいでし)|publisher=コトバンク|accessdate=2023-04-09}}</ref>。 ==十大弟子== [[File:JIGAGE E SHŌ 1814.jpg|thumb|釈尊と十大弟子を描いた江戸期の挿絵。『法華自我偈絵抄』1814年]] 経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、『[[維摩経]]弟子品』では{{要出典範囲|出家順に|date=2017年6月17日 (土) 07:44 (UTC)|title=}}以下の通りである<ref name="ib484">{{Cite book |和書 |editor=[[中村元 (哲学者)|中村元]] ほか |date=2002-10-30 |title=岩波仏教辞典 |edition=第2版 |publisher=岩波書店 |page=484 |isbn=978-4-00-080205-5 }}</ref>。 #'''[[舎利弗]]'''(しゃりほつ) #:[[パーリ語]]でサーリプッタ (Sāriputta、&#x0938;&#x093e;&#x0930;&#x093f;&#x092a;&#x0941;&#x0924;&#x094d;&#x0924;)。[[サンスクリット|サンスクリット語]]でシャーリプトラ(Śāriputra)。舎利子とも書く。'''智慧第一'''。 #:『[[般若心経]]』では仏の力を承けた観音菩薩の説法の相手として登場。また、『[[阿弥陀経]]』では仏の説法相手として登場するなど、多くの経典に登場する。 #'''[[目連|摩訶目&#x728d;連]]'''(まかもっけんれん) #:[[パーリ語]]でマハーモッガラーナ (Mahāmoggallāna、&#x092e;&#x0939;&#x093e;&#x092e;&#x094b;&#x0917;&#x094d;&#x0917;&#x0933;&#x093e;&#x0928;)。[[サンスクリット|サンスクリット語]]でマハーマウドガリヤーヤナ (Mahāmaudgalyāyana)。 一般に目連(もくれん)と略称される。'''神通第一'''(じんずう・だいいち)。 #:舎利弗とともに懐疑論者[[サンジャヤ・ベーラッティプッタ]]の弟子であったが、ともに仏弟子となった。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『[[盂蘭盆|盂蘭盆会]]』(うらぼんえ)の起源だとしている。 #'''[[大迦葉|摩訶迦葉]]'''(まかかしょう) #:[[パーリ語]]でマハーカッサパ(Mahākassapa、&#x092e;&#x0939;&#x093e;&#x0915;&#x0938;&#x094d;&#x0938;&#x092a;)、[[サンスクリット語]]でマハーカーシャパ(Mahākāśyapa)。[[大迦葉]]とも呼ばれる、'''頭陀'''(ずだ) '''第一'''。 #:釈迦の死後、その教団を統率し、第1[[結集]]では500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集する座長を務めた。[[禅宗]]は付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第2祖とする。 #'''[[須菩提]]'''(しゅぼだい) #:[[パーリ語]]でも[[サンスクリット語]]でもスブーティ(Subhūti、&#x0938;&#x0941;&#x092d;&#x0942;&#x0924;&#x093f;)。'''解空第一'''(げくう・だいいち)。 #:『[[金剛般若経]]』等、[[空 (仏教)|空]]を説く大乗経典にしばしば登場する<ref group="注釈">『西遊記』の主人公である[[孫悟空]]の[[仙術]]の師匠が須菩提という名前である。ただし釈迦十大弟子の須菩提と同一人物であると特定できるような描かれ方はされていない。</ref>。 #'''[[富楼那|富楼那弥多羅尼子]]'''(ふるなみたらにし) #:[[パーリ語]]でプンナ・マンターニープッタ(Puṇṇa Mantānīputta)、[[サンスクリット語]]でプールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra、&#x092a;&#x0942;&#x0930;&#x094d;&#x0923;&#x092e;&#x0948;&#x0924;&#x094d;&#x0930;&#x093e;&#x092f;&#x0928;&#x0940;&#x092a;&#x0941;&#x0924;&#x094d;&#x0930;)。 #:略称として「富楼那」。他の弟子より説法が優れていた。'''説法第一'''。 #'''[[迦旃延|摩訶迦旃延]]'''(まかかせんねん) #:[[パーリ語]]でマハーカッチャーナ(Mahākaccāna、&#x092e;&#x0939;&#x093e;&#x0915;&#x091a;&#x094d;&#x091a;&#x093e;&#x0928;)、[[サンスクリット語]]でマハーカートゥヤーヤナ(Mahākātyāyana)。'''論議第一'''。 #:辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。 #'''[[阿那律]]'''(あなりつ) #:[[パーリ語]]でアヌルッダ(Anuruddha)、[[サンスクリット語]]でアニルッダ(Aniruddha、&#x0905;&#x0928;&#x093f;&#x0930;&#x0941;&#x0926;&#x094d;&#x0927;)。'''天眼第一'''(てんげん・だいいち)。 #:釈迦の従弟。阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのためかえって真理を見る眼をえた。 #'''[[優波離]]'''(うぱり) #:[[パーリ語]]でも、[[サンスクリット語]]でもウパーリ(Upāli、&#x0909;&#x092a;&#x093e;&#x0932;&#x093f;)。'''持律第一'''。 #:もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。 #'''[[羅睺羅]]'''(らごら) #:[[パーリ語]]でも、[[サンスクリット語]]でもラーフラ(Rāhula、&#x0930;&#x093e;&#x0939;&#x0941;&#x0932;)。羅雲とも書かれる。'''密行第一'''(みつぎょう・だいいち)。 #:釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し出家して最初の[[僧|沙弥]](少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で[[羅子]](らご)と言う。[[十六羅漢]]の一人。 #'''[[阿難|阿難陀]]'''(あなんだ) #:[[パーリ語]]でも、[[サンスクリット語]]でもアーナンダ(Ānanda、&#x0906;&#x0928;&#x0928;&#x094d;&#x0926;)。阿難とも書く。'''多聞第一'''(たもん・だいいち)。 #:釈迦の従弟。nandaは歓喜(かんぎ)という意味がある。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人をした。第一結集のときアーナンダの記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。『[[無量寿経]]』等に仏の説法相手として登場する。 == 著名な十大弟子像・十大弟子図== ===十大弟子像=== *[[興福寺]]、[[734年]] *[[清凉寺]]、[[平安時代]] *[[大報恩寺]]、[[快慶]]作、[[鎌倉時代]] *[[愛宕念仏寺]]、[[西村公朝]]作、[[1994年]]-[[2003年]] *[[パラミタミュージアム]]、[[中村晋也]]作 ===十大弟子図=== *[[棟方志功]]作「二菩薩釈迦十大弟子」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[十六羅漢]] == 外部リンク == *{{Kotobank|十大弟子}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しゆうたいてし}}<!--カテゴリの50音順--> [[Category:紀元前4世紀の仏教]] [[Category:紀元前5世紀の仏教]] [[Category:原始仏教]] [[Category:十大|てし]] [[Category:仏教の名数10|てし]] [[Category:仏弟子|*しゆうたいてし]]
2003-08-18T14:00:13Z
2023-11-15T05:17:11Z
false
false
false
[ "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:Buddhism2", "Template:要出典範囲", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BC%9F%E5%AD%90
13,517
定期乗車券
定期乗車券(ていきじょうしゃけん)とは、鉄道・バスなどの公共交通機関において、通勤・通学を主に特定の区間を繰り返し乗車する乗客を対象として、一定の期間を区切って発行される乗車券である。一般的に定期券(ていきけん)または定期(ていき)と略して呼ばれる。 定期乗車券の運賃は、券面記載経路を、普通乗車券で有効期間内に1日1往復する場合の額より安価に設定されている。 利用には、券面記載氏名の本人が使用する場合のみ有効とする記名式が原則である。事業者によっては乗車時の所持者であれば誰でも有効とする持参人式を設定している場合がある。 基本的に紛失した場合は同一内容で再発行は出来ず、再度新規で購入する必要があるが、ICカード形式で発行した場合は手続きを行うことで再発行が可能であり、紛失したカードを無効にする事ができる。 定期乗車券は運賃体系に合わせて導入されている。日本においては、原則として券面記載経路しか乗車することができず、普通乗車券などで認められている選択乗車などのルールも一部を除き適用されていないが、その経路内の駅(停留所)であれば、原則として下車や乗車が可能である。イギリスのロンドン地下鉄などでは特定区間ではなくゾーン制の運賃となっており定期券も「ゾーン1内7日間有効」や「ゾーン2-3内1か月間有効」のような形態で発行される。 自動改札機の普及に伴い、Suica、PASMOなどのICカードに定期券の情報を記録して、読み取り部分にタッチ(接触)させるだけで利用できるICカード式の定期乗車券も多い。この形式の乗車券は乗客の利便性を図るだけでなく、乗車券の偽造防止や専用改札口を設けることによる自動改札機本体の省力化など、事業者側にもメリットがある。 なお、定期航路を持つ船舶の場合、定期乗車券と同様の扱いの定期乗船券(ていきじょうせんけん)を発行している場合がある。通学定期乗船券を発行している航路もある。駐車場の繰り返し利用に対して定期駐車券が発行されることがある。 鉄道発祥の国であるイギリスでは20世紀に入り馬車鉄道は市街電車、乗合馬車は乗合自動車となり、地下鉄道も電化されるなど現代の交通機関がほぼ確立された。都市の拡大により労働者は都市の外周部にまで進出したが、安くて便利な市街電車が鉄道の近距離客を吸収した。一方、鉄道会社はさらに外縁地域の開発に力を注ぐとともに、定期乗車券の発行などにより交通手段の利便を図ったことで、中流階級を中心とする居住地は更に拡張された。 日本における鉄道定期乗車券は1873年(明治6年)5月、新橋・横浜間の上等車旅客に対し3か月(後に90日)の「常乗切手」を120円(この区間の片道運賃は1円12銭5厘)で発行することを計画したのが最初である。この計画は6月5日、太政大臣から正式に認可も受けたが、実施前になぜか中止となり、実際には発行されなかった。次いで1874年(明治7年)7月、大阪・神戸間の上等および中等旅客に対して3・6・9・12か月の「期限切手」が計画され、7月18日に伊藤博文工部卿から認可されたが、こちらも実施には至らなかった。 実際に日本初の定期乗車券としては、1886年(明治19年)1月1日「定期乗車券発行規約」の実施により上等および中等の旅客に対して、1・3・6・12か月の4種類が新橋・横浜間の特定の駅間(全部の駅間相互ではない)で発売され、1890年(明治23年)7月には、新橋および横浜を中心に発売範囲が拡大された。近畿地方では1887年(明治21年)5月に神戸、大阪、京都、大津の各駅で発売された。どちらも下等旅客に対しては発売されず、その理由は不明である。下等旅客に対するものは1895年(明治28年)3月1日から発売された学生定期乗車券が最初で、通用1か月のものが発売された。また、まだ発売は1・2等のみであったが、指定した駅間相互の運賃が個別に定められ発行されていた定期券は、1898年(明治31年)11月からマイルごとの運賃によるものに改められた。のち1899年(明治32年)からは3等(従来の下等)に対する普通定期乗車券が発売された。 通勤用の職工定期券は1908年(明治41年)3月11日から、普通定期券に対して特定の海軍工廠に勤務する職工に、あらかじめ決められた駅から最寄り駅(横須賀、田浦、呉のみ。佐世保と舞鶴は除外)に割り引き運賃で発売されたのが最初である。その後、1918年(大正7年)7月6日から職工定期券の名称で1か月通用3等のみが発売されたが、1922年(大正11年)3月21日の改正からは3か月も発売されるようになった。発売の対象となる勤務先は海軍工廠の外、軍需に関係のある工場(大阪鉄工場、大阪汽車製造、住友鋳鋼場、住友電線製造所、三菱造船神戸造船所)だけであり、発着駅や区間、乗車する列車や車両が指定されるなど制約の多いものであった。 1918年(大正7年)7月6日には「定期券規程」が制定され、運賃の割引率の整理が行われ、この時から12か月通用の学生定期券が発売された。1921年(大正10年)の鉄道開通50周年に合わせて規程類の整理・統合・改訂を行うため、1920年(大正9年)10月に「国有鉄道旅客及荷物運送取扱規則」を制定し、さらに同年12月「国有鉄道旅客及荷物運送取扱細則」を制定、いずれも翌10年1月11日から施行した。この時に普通定期の1等が廃止されている。 国鉄自動車に対する定期乗車券は、1930年(昭和5年)12月17日「国有鉄道旅客及荷物運送規程」および「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の改訂で自動車定期乗車券が定められた。通用期間は1・3・6・12か月で、さらに1934年(昭和9年)11月15日には1・3か月の通学自動車定期乗車券が制定され、従来の自動車定期乗車券は自動車普通定期乗車券と改称した。 1932年(昭和7年)になると、第一次世界大戦の好景気の時期である1921年(大正10年)に制定された規程が昭和恐慌の時期に合わなくなり、同年6月に大改訂が行われた。「旅客及荷物運送規則」が制定されて8月1日から施行された。この時、職工定期乗車券の3か月が追加され、定期券購入の条件が「工場法または鉱業法の適用を受け且つ鉄道省の指定したもの」に拡充された。 1937年(昭和12年)6月1日改正では、普通定期の12か月定期が廃止された。さらに1943年(昭和17年)、6か月普通定期および12か月学生定期が廃止された。 1943年(昭和17年)4月1日の改正では、既に学生定期乗車券のみであった12か月通用定期券が廃止された。職工定期券については工員定期乗車券と名称が改められ、購入条件が国民労務手帳法による国民労務手帳所持者に拡大され、6か月定期券も発売された。これによって定期乗車券は、普通、学生、工員の3種類で、通用期間は1・3・6か月だけに統合された。 太平洋戦争後、1946年(昭和21年)3月1日からは、工員定期券と学生定期券を統合して、特殊定期(工員用特殊定期乗車券と通学用特殊定期乗車券)とし、普通定期券との2本立てになった。戦後、蒸気機関車の燃料に使われる石炭の不足による輸送力の逼迫は深刻なものとなり、炭鉱労働者の輸送・乗車を確保するため、1945年(昭和20年)12月1日から、蒸気列車区間の通学定期の使用停止や、通学を目的とする定期乗車券の発売停止(12月21日)などが一時的に行われた。 さらにインフレもすさまじく、1947年(昭和22年)7月1日には3倍半という大幅な値上げが実施されるとともに、工員用特殊定期乗車券を普通定期乗車券に統合して通勤定期乗車券とし、学生用特殊定期乗車券を通学定期乗車券と改称した。 1953年(昭和28年)1月15日になると、誰でも自由に購入出来る1・3か月の普通定期乗車券が発売されたが、2等通勤定期乗車券は廃止となった。これにより、定期券は自由に購入出来る普通定期乗車券、勤務先の発行する身分証明書が必要な3等通勤定期乗車券、通学証明書が必要な通学定期乗車券(3等用)の3種類となった。同時に上記に定期券のほか、東京電車環状線内(東京山手線内)に通用する1か月の3等均一定期乗車券が新設された。1960年(昭和35年)7月1日から実施された改定では、2等級が採用され、従来の2等は1等に、3等は2等に等級呼称を変更した。1966年(昭和41年)3月5日改正では普通定期乗車券が廃止され、通勤定期乗車券を1等通勤定期乗車券と2等通勤定期乗車券とし、身分証明書の提出も廃止して誰でも購入出来るようになり、おおむね現在の定期券制度ができあがった。2等の通勤定期乗車券および通学定期乗車券は1・3・6か月が発売され、2等の通勤定期乗車券は1・3か月が発売された。 1969年(昭和44年)5月1日の改正で1等が廃止されてグリーン車となり、従来の1等通勤定期乗車券はグリーン定期乗車券と名称変更され、その後の定期券制度が基礎がおおむね確立した。 JRの旅客営業規則において規定されている定期乗車券の種類は、通勤定期乗車券、通学定期乗車券、特別車両定期乗車券、特殊均一定期乗車券の4種である。 日本の鉄道は定期券客の占める比重が大きく、国土交通省が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によるとJR各社合計の輸送人員の62%が定期券客となっている。 JR以外の私鉄(民鉄)、地下鉄、第三セクター鉄道でも基本的には通勤定期乗車券と通学定期乗車券の2種類が発行される場合が多い。JRと同様に定期乗車券で利用可能なのは、原則として特別料金不要の列車の普通車のみであるが、有料で運行される特急・急行列車と特別席(指定席)については、それに対応する料金を支払えば乗車できる場合が多い。 事業者によって定期券の割引率は異なるが、首都圏の大手民鉄の場合、普通運賃が低い水準にあるので通勤定期の場合はJRよりも割引率が低く40%弱(1か月に約19往復しないと元が取れない)が多い。地下鉄に至っては30%程度(1か月に約21往復しないと元が取れない)となっている。これに対して、通学定期は割引率が高く77% - 80%前後(1か月に約7往復すれば元が取れる)の事業者が多い。東京地下鉄や都営地下鉄の割引率は約65%(通勤定期の約半額・1か月に約10往復すれば元が取れる)である。近畿の大手民鉄でも通学定期の割引率は高く、中でも近畿日本鉄道の場合は66km以上の区間(鶴橋 - 名張間など)については1か月にわずか3往復するだけで元が取れるような設定になっている。 第三セクターや地下鉄の場合は割引率が低い傾向にあり、バス並みの割引率(通勤定期で約30%・1か月に約21往復しないと元が取れない)しかない事業者も存在し、勤務形態や日数によっては却って定期券を購入することが損をする場合が生じる可能性がある。一例として北総鉄道では通勤定期の割引率が約27%(43回乗車相当分・端数切上、2月分は25%)に対して、日中回数券・土休日回数券は約33.3%と回数券の方が安い。2000年代以降はこの点を考慮して平日のみ利用可能な定期券を発売している事業者(近江鉄道や遠州鉄道など)もある。値下げ後の北総鉄道の通勤定期最高額は34440円でこれは北総と同程度の営業キロを運営する長野電鉄や上信電鉄よりも高く、東武鉄道では120km相当の金額となっている。 地方私鉄の場合は区間によってまちまちなのが多く、長距離になる程割引率が高くなる傾向がある他、通学用に年間定期も発売されていることが多い。一例として長電や上信は短距離帯は40回前後の設定だが、全線運賃は1200円弱に対して通勤定期は30000円強と約30回乗車相当と半額近くに設定されており、北総鉄道よりも安くなっている。 大阪市高速電気軌道の「地下鉄・いまざとライナー連絡」1区が普通運賃の45回相当(端数切上)で一番高いとされているが、区数が上がると割引率も上がるので5区では34回分となっている。時点は値下前の北総が一律でIC運賃43回分相当。値下後の北総と豊橋鉄道は一律42回相当になっている。最安は東京モノレールの6区で23回乗車相当分となっており、1区でも30回相当なので半額近くとなっている。ゆりかもめも定期比率が低いせいか30回分相当である。平均割引率では黒部峡谷鉄道の59.6 %と通勤定期においては国内最高割引率となっている。黒部峡谷鉄道では定期券を通勤や通学などに分けていない。ただし、東洋経済などの書籍・メディアでは便宜上「通勤定期」としている。 また、きわめて稀ではあるが、割引運賃や加算運賃との兼ね合いで、定期券を買わずに31往復するほうが1か月定期券を買うより安い区間も存在する。たとえば、多摩都市モノレールの1駅110円で乗車できるが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券のほうが30往復より高額となっている。沖縄都市モノレールではOKICA限定で隣接駅まで150円で乗車できる「おとなりきっぷ」が導入されているが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券とほぼ同程度の58回乗車相当分なので、2月分に関しては定期券のが高額となっている。その他、東京地下鉄全線定期(17300円)は東京地下鉄一日乗車券(710円・25回分)を踏襲したままで「東京メトロ24時間券」(600円)に値下げしても全線定期代はそのままだったので29日分となっているので、殆ど割引が無い状態で2月分に関しては24時間券28枚よりも高くなる。 運賃計算に使用する運賃表の距離区分については、普通乗車券と同一の事業者(例:京王電鉄)と、普通乗車券よりも区分を細かく設定する事業者(例:東武鉄道)とが存在する。西武鉄道や北総鉄道(値下げ後)のように通勤は普通運賃と同一キロ程を用いるが通学定期は1キロ毎と言う事業者もある。南海電気鉄道の様に定期券と普通乗車券でのキロ程の分水嶺が異なるケースや、京阪電気鉄道の様に京阪線と京津線で運賃形態が異なっても定期運賃は同一形態を採用する事業者もある。 発売期間は1・3・6ヶ月が基本で、3ヶ月は5%引、6ヶ月は10%引が多い。 中には2・4・9・12ヶ月の他、学期毎の発売もある。9ヶ月は15%引、年間は20%引が多いが東急電鉄の年間定期は6ヶ月を踏襲している。 但しこれらの定期は自社線内限定が多く、他社線との連絡定期では買えないことが多い。 近年はIC化により紛失再発行が可能となった他、ひたちなか海浜鉄道も年間定期については顔写真付きなので紛失再発行が可能となっている。 国土交通省が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によると、最も定期券比率の高い私鉄路線は養老鉄道養老線の79%だった。なお、利用者の多い大手私鉄16社および各都市の地下鉄の計87路線で最も定期券比率の高い私鉄路線は東武越生線の77.4%だった。 定期乗車券の種類は鉄道用とほぼ同じである。だが、バスの定期乗車券は電車の定期乗車券のように磁気加工がされておらず、乗務員に定期乗車券を提示するという形になっている。一般的に通勤・通学・小児および各障害者定期券が発行されている。そのため、通常の定期券についての解説は省略する。それに対し、バス以外の公共交通ではあまり見られない種類の定期乗車券が一部事業者から発行されている。通学定期券は鉄道と同じく通学用途・区間に限る事業者が多いが、遠州鉄道や名古屋市交通局(2010年度より)の様に用途・区間を限定しない事業者もある。 バスの通勤定期の割引率は30%前後の事業者が多く、1か月当たり約20往復しないと元が取れない場合がある。よって、割引率が高い回数券やバスカード類が発行されている地区では、定期券による運賃がこれらの利用時に比べて上回る場合がある。ただし、通学定期で利用する場合はこの限りではない。 日本一高額な路線バス定期券は、奈良交通の八木新宮特急バス・八木駅 - 新宮駅間の通勤6か月定期券(94万4460円)である。実際に発売可能かはともかく同社のWebには当該定期券の料金が掲載されている。 京阪バスでは、かつて設定されていたくるっとBUSにおいて、専用定期券「くるっとマンスリーパス」を通常定期運賃9,240円相当の区間を3,000円で発行していた。ただし乗車可能なバスは、くるっとBUS全便と一部指定運行経路で一部の時間帯のみ乗車可能なものであったが、くるっとBUS廃止によりこの定期券も廃止となっている。 区間式定期券が一般的であったが、券面の表示される特定の均一運賃区エリアで利用できる定期券に加え、ICカード乗車券の普及によって、2011年4月に京王バスが多区間路線において「金額式定期券」の利用を開始した。券面の金額以内の運賃区であればどの路線でも利用ができるというもので、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。 リムジンバスや高速バスにおいても定期乗車券を発行している例もある。 台湾では一部バス会社や台湾鉄路管理局、台湾高速鉄道、高雄捷運、台北捷運、桃園機場捷運において定期券が存在する。 大韓民国では韓国鉄道公社(KORAIL)の高速列車(KTX)・一般列車、SR、首都圏電鉄、空港鉄道(青羅国際都市 - 仁川国際空港2ターミナル間)、釜山交通公社において定期券が存在する。基本的に1か月定期券のみの発行となるが、釜山交通公社は7日券、SRは10日券も存在し、KORAILは10日 - 1か月の期間内で利用者が自由に選択できる。 日本とは異なり、有効期間の他に乗車回数が制限されており、日本におけるバスの定期回数券と同じような乗車券である。乗車回数は首都圏電鉄・釜山交通公社が60回(7日券は20回)、空港鉄道(青羅国際都市 - 仁川国際空港2ターミナル)が55回となっている。首都圏電鉄、釜山交通公社のものは、区間が指定されていない発駅フリータイプとなっている。また首都圏電鉄においては、ソウル地下鉄全線(7号線温水 - 富平区庁間を除く)、ソウル軽電鉄牛耳新設線、KORAIL(電鉄)・空港鉄道のソウル特別市内区間が利用可能な「ソウル専用定期券」、仁川交通公社全線(仁川都市鉄道1号線、仁川都市鉄道2号線)利用可能な「仁川都市鉄道専用定期券」も発売している。 KORAIL、SRの定期券は上記とは異なり、SRは1日2回の回数制限が付く。またKORAILの「週中定期券」の場合、土日祝日は利用できない。一般用と青少年用(学生用ではない)の2種類があり、列車種別ごとに発売される(下位種別の列車も利用可能)。SRの場合、購入時にあらかじめ乗車する列車を指定する必要がある。基本的には指定列車に限り有効となるが、指定列車に乗車できなかった場合に限り、指定列車の前後、及び1時間以内に出発する列車への乗車も特例として認められる。KORAIL、SRともに座席指定はできないため、自由席、立席利用となる。ただし、KTXに限り1日2回、利用区間の普通運賃の15%を支払い座席指定が可能。 地下鉄では、定期券専用ICカードを購入し、券売機でチャージ(定期券情報の記録)して利用するが、KORAIL、SRは専用のアプリでのみ発売。 イギリスではロンドンおよび、その近郊では定期乗車券のかわりにトラベルカード(英語版)がある。最大の特徴は特定の乗車駅、降車駅、乗車区間が指定されないかわりに、ゾーン制で値段が決まる点である。中心部をゾーン1として、そこから放射線状にひろがり、ドーナッツのような形でゾーン2、ゾーン3などと決まっている。さらに、地下鉄に限らずバス、ゾーン内にある路面電車や他の一部の電車にも乗車可能である。 香港では香港MTRと合併する以前の九広鉄路公司路線である東鐵線および西鐵線、また連絡バスとLRTに限定した1か月間有効パスが存在するが、定期券という形ではなく、ICカード「オクトパス(八達通)に定期利用情報を書き込むタイプのものである。 それ以外の区間においては定期乗車券制度自体が存在しないが、「オクトパス」利用者については、現金利用よりも運賃が優遇される制度となっている。 シンガポールではMRT、LRT、バス全路線が期間中無制限に利用できる「エンハンスト・シーズンパス」と、バスは無制限だが鉄道の利用が1日4乗車に制限される「ベーシック・シーズンパス」の2種類があり、価格が異なる。定期券という形ではなく、ICカード「Ez-link」に定期利用情報を書き込むタイプのものである。 ただし、価格が190SGD(エンハンスト・1か月)と比較的高額であり、長距離高頻度利用者でなければ、定期契約でなく通常のEz-Linkカードに入金して利用した方が月額ベースであっても廉価となることが多い。 ニューヨーク市交通局、シカゴ交通局など、一部の公共交通機関において、1週間、1か月などの期間内に何度でも乗り降りできるコミューター・パス(通勤定期)を発売している。長距離旅客列車を運行するアムトラックには原則として設定がないが、北東回廊のノースイースト・リージョナルやシカゴ近郊各線、アムトラック・カリフォルニアの各線など一部の中近距離列車に限って1か月定期券を発売している。また、ロサンゼルス近郊の通勤鉄道「メトロリンク」では1か月定期(Monthly Pass)保持者を対象に、一部路線で並行するアムトラック列車(パシフィック・サーフライナー号)への定期券区間での便乗を認める"Rail 2 Rail program"を実施している。 JRの旅客営業規則において規定されている定期乗車券の種類は、次の4種類である。 原則として普通列車の普通車の自由席のみであり、急行・特急列車、グリーン車、指定席車にはそれに対応する料金を支払っても乗車することができない。これらの利用には、定期乗車券の有効区間であっても、別途乗車区間に対応する普通乗車券の購入も必要である。ただし、別料金を支払うことで特急列車および普通列車指定席に乗車できる例外規定が設けられている例が多数ある。それらを次項で示す。 なお、JRでは、発売する駅から有効な定期乗車券のみを発売するのが原則であるが、実際には私鉄駅発着の定期乗車券を発売することもある。鉄道駅のみどりの窓口以外では各支社に属する販売センターで発売することもある。 主に通勤目的のための定期乗車券であるが、購入時に通勤証明書などを提示する必要はなく、誰でも任意の区間で購入することができる。小児用の通勤定期乗車券もあるが、こちらは学習塾や病院に通う際に利用されることがある。 なお、1966年(昭和41年)までは通勤定期乗車券の購入には勤務先の証明が必要で、別に勤務先の証明が不要な普通(2等)定期乗車券も存在していた。通勤以外にも使えるのに「通勤」と名が付くのはこの名残である。 有効期限は1・3・6か月である。 JRの通勤定期の割引率は他の交通機関と比べると高く、1か月定期で約50%、3か月定期で約55%、6か月定期で約60%である。また、JR会社線のおおむね600円区間までの6か月定期運賃は1カ月定期の6倍した金額から20%割引(多くの事業者は10%)なのも特徴である。なお、3か月定期は1カ月定期の3倍した金額から5%割引で、長距離の6カ月定期の場合、1カ月定期の6倍した金額から15%前後となる。 児童・生徒・学生の通学のための定期乗車券であり、通勤定期乗車券より安価に設定されている。購入時に通学を証明する通学証明書(学生証と一体型のものもある)の提示が必要で、販売区間も自宅の最寄駅と学校が指定する最寄駅との間の最短、最速、最安、乗換回数が少ないのいずれかに該当する必要がある。複数の駅が使用できる場合は、このいずれかに該当すれば最寄りでなくても基本的には使用可能。また、翌年度に在籍している証明ができない場合は翌年度の5月1日以降にまたがるものは発行できない。JRでは大学生用・高校生用・中学生用・小学生用の4種類がある。有効期限は通勤定期と同様1・3・6か月である。新学期(特に入学式当日)には新学年の証明書類が必要になるため、新規に窓口で発行しなければならない学生の長蛇の列ができることも珍しくない。また、これらの事情を考慮して輸送機関の職員が学校に出向いて、新入生が入学式終了後に窓口に行かず定期乗車券を購入できるよう販売するケースもある他、学校側に専用の申込用紙を送付し、入学説明会などで記入し、自宅最寄駅で提出しての入学式前日又は当日に代引で受け取るケースもある。 高校生用は大学生用の1割引、中学生用は大学生用の3割引、小学生用は中学生用の半額の運賃が設定されている。大学生用定期の価格は通常の約30%なので、月10往復程度で元が取れる。なお、3か月定期は1か月定期の5%引、6か月定期は1か月定期の10%引の運賃が設定されている。 通学定期乗車券は、卒業に必要な単位取得などのための通学用として発行が認められるものであって、部活動など課外活動のために校舎とは別の場所にあるグラウンドに通うようなケースでは発売は認められないが、通信教育(放送大学を除く)におけるスクーリング参加や、教育実習、単位取得に必要な医療施設・福祉施設での実習などでは当該施設等に通うための定期乗車券の発行が認められる場合がある。 また、購入ができるのはJRに指定された指定学校の学生・生徒・児童であり、指定学校ではない教育施設に通う場合は発売は認められないが、大学受験に失敗した浪人生については学校登録の全日制予備校(本科生)に限り大学生扱いになるほか、横浜市営地下鉄では通学証明証と同じ書式の「通塾証明証」の提出と学生証の提示により通学定期で発行可能である。また、1年以上通う職業訓練校は高校生扱いの場合がある。 運賃が安いだけあって、発売には様々な制限がある。通学定期乗車券の購入ができない場合は、通勤定期乗車券またはその他の乗車券(「乗車券#乗車券の種類」を参照)を購入することになる。 なお、通学定期乗車券の規定による減収分は鉄道事業者の負担、より正確には割引率の低い他の利用者からの収入で負担しているのが現状である。かつての国鉄ローカル線を引き継いだ事業者を含む地方の民鉄・第三セクター鉄道が廃線となったり、苦境に陥ったりしているのも、通勤利用者が自家用車に転移し、割引率の高い(収益性が低い)通学定期乗車券利用者が利用者の主流で、さらに過疎化・少子化や保護者による自家用車送迎で数を減じていることも背景の一つである。 一部の自治体では、公共交通機関の利用促進のために通学定期乗車券に補助金を支出したりするところもある。 「グリーン定期券」ともいい、グリーン車の利用を前提にしていることから、あらかじめ利用する区間のグリーン券に相当する金額も合わせて計算されている。なお、グリーン車の連結していない区間を含めて発行することができる。かつてのグリーン定期券の料金は、一等車定期乗車券時代の名残もあり、普通運賃部分の割引率も通勤定期乗車券に比べて低く設定されていたが、2004年10月16日以降の計算方法は、グリーン車利用区間のキロ数に応じた一定料金(1か月では、おおむね22往復分のグリーン券の販売額)を、全区間の通勤定期乗車券額と合算する方式となった。有効期間は1か月と3か月のみである。 2004年10月16日の制度改正により、首都圏では自由席グリーン券を買うことで、通勤・通学定期券でもグリーン車に乗車できるようになったが、それ以前にはグリーン定期券でない定期券でグリーン車に乗車することはできず、グリーン券のほか普通乗車券も購入する必要があった。 なお、東京山手線内相互発着用の運賃表がある。これは、1984年の東京山手線相互発着用の普通運賃表の新設に伴うもので、この区間内でのグリーン車は日暮里駅 - 田端駅間と秋葉原駅・神田駅 - 代々木駅間を除く全区間で運転されているものの、いずれも短距離である。 「山手線内均一定期券」が唯一の例である。東京山手線内の全区間に有効であり、山手線環状運転区間(並走区間は京浜東北線と埼京線も含む)、中央本線神田 - 代々木間および総武本線秋葉原 - 御茶ノ水間の各駅間で乗降することが可能な定期乗車券である。有効期間は1か月のみ。発売は東京山手線内各駅のみどりの窓口(東京駅・品川駅はJR東海管轄も含む)に限られる。運賃は14,970円。なお、Suica定期券での発売はなく、磁気定期券でのみ購入可能である。 JRは、かつては公共企業体の日本国有鉄道(国鉄)であったため、民鉄にはない種類の割引が存在する。 JRの定期乗車券は、新幹線の「フレックス」「新幹線エクセルパス」を除く在来線で乗車区間が100kmを超える区間を購入する場合、駅長の承認が必要となる。また、乗車区間が200kmを超える場合は、購入理由を記載した書面を提出しなければならない。 定期乗車券では、運賃計算や区間外乗車の特例について、適用の可否が普通乗車券・回数券と異なる場合がある。 遠距離通勤・通学の増加に伴い、新幹線用の通勤定期乗車券「FREX(フレックス)」、通学定期乗車券「FREX(フレックス)パル」(JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本)、「新幹線エクセルパス」(JR九州)が発売されている。ただし、これらは旅客営業規則においては特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の扱いである。新幹線の普通車自由席または、普通車指定席の空席(自由席がない便のみ)を利用できるため、発売額には乗車区間の定期旅客運賃に加え新幹線自由席特急料金に相当する定期特急料金が加えてある。また、途中の区間において新幹線を利用する定期乗車券も設定可能であるが、この場合、全区間の定期旅客運賃と新幹線乗車区間の新幹線自由席特急料金に相当する額を合算し発売される。例えば、新宿 - 宝積寺間の乗車券に新幹線を大宮 - 宇都宮間で利用する定期券も発売できる。新幹線の異なる路線間については、直通する列車が存在する場合であっても、博多駅(山陽新幹線 - 九州新幹線)、新青森駅(東北新幹線 - 北海道新幹線)をまたがる定期券は設定・発売されていない。また、山形新幹線(福島駅 - 新庄駅間)、秋田新幹線(盛岡駅 - 秋田駅間)についても、営業上は新幹線ではなく在来線の扱いとなるため、発売されていない。さらに、北陸新幹線の会社境界駅である上越妙高駅をまたがる定期券も設定されていない。 新幹線定期乗車券の所持者が増加したことから、通勤時間帯の新幹線の普通車自由席が通勤列車並みに混雑するようになった。東海道新幹線では平日朝9時までの上り列車において新横浜 - 東京間で普通車指定席の空席を新幹線定期乗車券や自由席特急券で乗車可能とする特例措置をとっている。また、新幹線定期乗車券使用者を対象とした普通車指定席やグリーン車への着席を目的とした料金回数券を設定・発売している。詳しくは特別企画乗車券を参照のこと。 東北・上越・北陸新幹線の一部区間はSuica定期券に搭載可能で、他鉄道事業者との連絡定期券も発売(JR東日本のみ)している。なお2021年3月13日から東海道新幹線の全線にTOICA定期券、山陽新幹線の新大阪 - 新岩国間にICOCA定期券が導入され、2022年3月12日から新岩国 - 徳山間、2023年4月1日から徳山 -博多間にも導入され、山陽新幹線の全線で利用可能となった。 遠距離通勤・通学は、新幹線沿線のみならず在来線の特急列車にもみられる。JR東海を除くJR旅客5社がそれぞれ発売している。これらも新幹線と同様に特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の扱いである。北海道旅客鉄道(JR北海道、名称:「かよエール」)・東日本旅客鉄道(JR東日本、名称:「定期券用月間料金券」)の一部区間と、西日本旅客鉄道(JR西日本、名称:「パスカル」「○○○特急料金定期券(○○○は列車名)」)・四国旅客鉄道(JR四国、名称:「快て〜き」)・九州旅客鉄道(JR九州、名称:「エクセルパス」)の全特急運転区間において、特急列車の普通車自由席を利用できる料金定期券、または特急料金相当額を運賃部分に加算した定期乗車券を発売している。料金定期券は、定期乗車券の購入と同時かあるいはすでに所持している定期乗車券を提示し、定期乗車券区間内の特急列車停車駅間の特急料金定期券を購入する形をとる。博多南線の場合は全列車が特急列車であるので、提示の必要がなく定期券に特急料金定期券が含まれる。なお、JR西日本で発売している指定席特急料金定期券「マイシート」は定期乗車券と組み合わせて有効期間中普通車のあらかじめ指定した座席を利用できる。 JR北海道で発売されていた分岐の外方で近隣する2駅のどちらでも乗降可能な定期乗車券。対象は、新札幌・厚別 - 白石以西の各駅間と、琴似・八軒 - 桑園以東の各駅間(新札幌・厚別 - 琴似・八軒という両方とも2駅併用にもできる)。運賃は対象の2駅のうち高額となる駅の定期券を購入した場合に適用される。例えば、白石 - 八軒・琴似の場合、白石 - 琴似間(通勤1か月6,780円)ではなく、白石 - 八軒間(通勤1か月7,130円)を購入しなければ2駅併用とはならない。なお、区間がKitaca利用可能エリア内でも磁気式でなければ2駅併用とはならない。 なお、2014年10月24日にJR北海道が2015年3月31日で2駅併用定期券発売終了を発表。これにより2駅併用定期券利用者は4月1日以降「琴似・八軒」のいずれかの駅、「新札幌・厚別」のいずれかの駅を選択しなければならない。 社員が業務の必要により、路線を使って移動する場合に使用する社員証型の“定期券”。機能は全線定期や株主優待乗車証と同一で、JR以外の事業者の場合は家族にも支給される所もある。ただし同一企業グループをまたがる移動は出来ない。JR各社によっては階級に応じて利用できるエリアが異なってくる。社によっては制服着用の上「添乗」と表記された腕章を嵌め、運転室に同乗する場合もある。 駅改札内への入場・通行ができる「定期入場券」がある。日本国有鉄道(国鉄)時代には有人駅のほぼ全駅で発行されており、かつては観光地周辺の駅で旅館などの従業員が客を駅改札内で歓送迎するのに使用されていた。ただし、現在では駅構内に自由通路がない場合、または駅弁を売る業者など、駅改札内に定期的に立ち入る必要がある場合に限り発行されており、前者の場合は駅を大きく迂回することにより時間や労力を要することになる高齢者や身体障害者などに対して定期入場券購入費用の補助制度を設けている地方自治体もある。 なお、定期「乗車券」を入場券代わりに使用することはできない。駅改札内への入場には「乗車船の目的」と「乗車船以外の目的」の二つに分けられ、前者は乗車券類、後者は入場券が必要となる。定期乗車券は乗車券の一種であり、乗車券は乗車券類に含まれるため、「乗車船の目的」に限り使用でき、「乗車船以外の目的」(送迎等の入場目的)には使用できないのである。SuicaなどのICカード式乗車券についても同様で、これらもあくまで乗車券類であることから、入場券代わりに使用することはできなかったが、JR東日本においては、2021年3月13日より、Suicaエリア内の券面表示区間外の在来線駅で入場券と同様に利用できる「タッチでエキナカ」を開始した。 定期券の券面氏名欄を「持参人様」表記や無記名にすることによって、定期券を持参した人が定期券として使用できる乗車券である。環境定期券とは違い、通勤定期以外で持参人定期を発行している社局は見られない。 仕事のかたわら定時制・通信制の学校に通う場合や通学のかたわらアルバイト先に行く場合などに、自宅・勤務先・学校の3か所の最寄り停留所を結んで発売されるものである。公営交通では一部の路面電車や地下鉄も含めて制度化されている事業者が多い。「三角定期券」とも呼ばれる。 マイカー台数の削減や地球環境保全を目的に、1997年に神奈川中央交通が開始したのをきっかけに、翌1998年には東京都交通局(都営バス)、京阪宇治交通(現在廃止)、その翌1999年には京阪バスなどでも採用され、近年では都市部の多くの社・局が採用しているサービスである。 これは、「環境定期」という乗車券を別に発行する訳ではなく、普段使用している定期乗車券を乗務員に提示することによって定期乗車券所持者以外の家族も利用できるか割引措置を受けられるという制度で、以下の2つがある。 一般的に利用可能な日は土曜・休日・長大連休期間(GW・旧盆・年末年始時期)などの土曜・休日ダイヤ実施日で、利用可能な定期券も通勤定期乗車券のみが多いが、神奈川中央交通など一部社局では通学定期乗車券も利用できる。なお、このサービスはその地区や社局によって受けられるサービスが大幅に違う場合がある。平日は対象外なので、定期券所持者以外の方は、通常運賃(実際に乗車した区間の運賃)が必要となる。 上記の様に既存の定期券利用者に対するサービスであるため、一部の事業者では「環境定期」という名称を用いず、「休日家族割引」などといった名称で同様のサービスを実施している。 事業者と沿線の企業が契約し、退職や異動などの特別な場合を除いて払い戻しをしないことを条件に、通勤定期券よりも割安な運賃で一括して発売するものである。勤務先の証明が必要であった時代の通勤定期券に近いものといえる。企業定期券・団体定期券と呼んでいる事業者もある。 また、筑波大学では、キャンパス内を走るバスである関東鉄道から定期券を一括購入し、それを学生や教職員などに販売することで学内の交通システムとする、筑波大学キャンパス交通システム事業を行っている。詳しくは当該項目を参照のこと。 主に高齢者を対象にして、その事業者のすべての路線を一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できる定期乗車券を発売している事業者もある。おおむね購入時に本人の年齢を確認できる公的証明書の提示を求められる。以下に例を記す。 定期乗車券ではないが、東京都が発行する「東京都シルバーパス」のように、地方公共団体がその区域の高齢者・障害者に対して社会参加を促す目的で福祉乗車証を交付している例もある。これらの中には指定範囲内の鉄道・バスを一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できるものもあるが、交付を受けるには年齢だけではなくその地方公共団体の定める条件を満たしている必要があり、発行時に支払う費用や利用条件なども年収などの条件により異なることがある。詳細は福祉乗車証を参照。 公営事業者であっても民間事業者と同様に、年齢以外の条件のない高齢者向け定期券を発売している事業者もある。例として尼崎市営バスにおいては、65歳以上の高齢者に1か月3,000円、12か月30,000円で市バス全線乗り放題となる「寿定期」を発売している(2009年4月1日現在/他に3か月券、6か月券がある)。年度ごとの初回購入時に年齢を確認できる公的証明書の提示が必要である。 事業者が自社の路線から乗り継ぎ可能な他事業者の路線(バス・地下鉄・路面電車などを含む)との「連絡定期券」を発行する場合がある。通常は出発地から目的地までの区間で利用する事業者数分の定期券が必要となるが、連絡定期券を利用することにより複数枚の定期券を1枚にまとめることができる。発行可能な対象区間は事業者ごとに異なり、他社の全線を対象とする場合や他社の一部区間のみを対象とする場合がある。また、運賃も利用する区間の定期旅客運賃を単純に合算した額とする場合やこの合算した額から一定額を割り引いたものを運賃とする場合などがある。利用区間と連絡定期券の発行可能な区間が合致しない場合(もしくは発行区間が重複する場合)は、定期乗車券を本来の枚数より減らすこと自体は可能であるが、複数枚となる。なお、連絡定期券は利用区間に関連するすべての事業者が発行している訳ではない。このほかにも、特定の条件に合致した場合のみ他社線で乗降が可能となる定期券「共通定期券」を発行するケースもある。 遠州鉄道では、自社の鉄道とバスを乗り継ぐ定期券を相互に5%割り引いた値段で販売している。東京都交通局ではバス・地下鉄の他、都電や日暮里舎人ライナーも連絡定期券の発行の対象である。 近畿圏では割引こそないものの私鉄・JRとバス事業者間での連絡定期券が比較的多く出ている。1980年に近畿日本鉄道が自社バス(近鉄バス)との連絡定期券を発行開始。のちに近鉄バスはJR西日本や阪急電鉄との間でも連絡定期券も発行するようになった。いずれも鉄道駅の定期券発売所で発行しており、近鉄バスは駅に連絡する停留所からのゾーン定期(「近鉄八尾駅から2区」というように運賃区界でゾーンを設定)で発売しており、そのゾーン範囲内であればどの停留所でも乗降しても良い。近畿日本鉄道は奈良交通との連絡定期券も発行している(奈良交通はJR西日本とも連絡定期券を発行)。阪急バスは阪急電鉄、北大阪急行電鉄、阪神電気鉄道、神戸電鉄と連絡定期券を発行しているが、こちらはバスも区間が指定されている。このほか、阪神電鉄と阪神バス、JR西日本・阪急電鉄・阪神電鉄と尼崎市交通局、南海電気鉄道と南海バスなどでみられるが、これらも鉄道駅での発行である。 通常、A停留所 - B停留所として発行しているものを均一運賃区間内(例:210円区間)のすべての路線に乗車可能としているものである。事業者によっては指定金額以外の区間を差額の精算のみで利用できる場合もある。 上記の均一区間定期券に類似しているが、均一区間内のみという区分けをせずに、ある一定のエリアを「XX地区」という形で設定し、そのエリア内で乗車可能としているものである。京阪バスなどで採用。同社では一部エリアでさらに安くした代わりに範囲を狭くした「にこにこミニパス」も1992年より導入していたが、現在は廃止された。西武バスではひばりヶ丘駅・田無駅・片山地区をメインに利用出来る「ひばり・田無フリー定期券」を発売していた。 金額式定期券 多区間運賃の路線を有するバス路線において、券面に表示される運賃以内の区間であれば自社線のバスが利用できるもの。2011年4月に京王バスが『モットクパス』の利用を開始したことをきっかけに、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。阪急バス・阪神バスの金額式定期券は相互の他社線区の路線を利用することができる。 京王電鉄では特定の利用区間が含まれ、自社で発行するPASMO通勤定期を購入する際にオプションで『どっちーも』を選択する事ができる。発売料金は通常の定期券料金に1か月定期券の場合1,000円を追加するのみで購入できる。ただし、オプションで選択した駅より前の駅で途中下車した場合は乗り越し精算が必要となる。 相模鉄道では西谷-羽沢横浜国大駅・新横浜駅を含む他社購入分も含めたIC定期券を購入した場合に『YOKOHAMAどっちも定期』として、追加運賃不要で本線の横浜駅でも乗降が可能である。 なお、これらは通勤定期のみの発売が多く、通学や障害者割引、福祉乗車については対象外・未発売が多い。 運賃や区間に関わらず一定の定期旅客運賃のみで全線が自由に使用できる定期券である。 地下鉄では福岡市交通局(ちかパス)など一部社局が発行している。通常の鉄道定期券は記名人のみ使用可能だが、全線定期券については、東京メトロ(磁気定期券に限る)・都営地下鉄・大阪市高速電気軌道大阪地下鉄・大阪シティバス・(ニュートラムを含む)共通全線定期券など、持参人式を採用している事業者もある。 バスでは東急バスや横浜市営バスなど一部社局が発行している。 従来A駅 - B停留所のみ利用可能だった定期券をA駅 - B停留所とC駅 - B停留所の2区間を1枚の定期券で乗車可能としたものである。前述の区間外の特定の駅を乗降できるものと異なり、区間に含まれている途中駅でも利用可能である。 片道しか利用できないことを条件に運賃を割り引くものである。坂道の多い土地柄の事業者に多い。往復で利用できる定期乗車券の半額としている場合が多い。 津軽鉄道では、片道通学定期券を扱っている。往復利用できる一般的な通学定期券の購入数が減っていた状況で「通学時あるいは下校時のみ列車を利用している学生も多い」ことが各駅からの報告で分かり、2006年に導入した。 名古屋鉄道では、特急特別車ミューの座席について、利用者があらかじめ定めた1往復の列車の座席を1か月(平日ダイヤ運行日のみ)確保する「ミュー定期券」と称するものが存在する。1か月13,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。 座席指定は券面記載の列車・座席にしか適用されないが、ミュー定期券を所持していれば当該区間内であれば休日ダイヤ運行日も含めて券面表示以外の列車の特別車にも追加料金なしで乗車できる。ただし、座席の指定がないため、座席の指定を受けた他の旅客が乗車してきた場合は席を譲らなければならない。 なお、ミュー定期券利用区間を含む通勤・通学定期乗車券を所有する旅客のみに対して発売され、乗車する際も定期券とミュー定期券の2枚を組み合わせて使わなければならない。また、定期券以外の乗車券とミュー定期券の併用はできない。 南海電気鉄道では「ラピート」と「サザン」の全列車と「りんかん」1 - 7・9・11・13号の座席を1か月単位で購入できる定期特別急行券・定期座席指定券がある。特急券と座席指定券のみなので、乗車する際には他の乗車券類が必要となる。詳しくは当該項目を参照のこと。 乗車列車のみが指定される例として、京成電鉄では「モーニングライナー」用の「モーニングPASS」を設定している。発売額は「モーニングライナー券」20回分の8,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。 有効期間は発行する事業者によって異なったり、同じ事業者で複数設定されていたりする。1か月・3か月・6か月のものが多く、12か月という例もある。有効期間が長ければ長いほど割引率が高くなるが、先述のとおり、紙式の定期券の場合、紛失時に再発行が出来ないことから有効期間が6か月以上の定期券はICカード形式のみでの発行に限られるか、複数回に分けて発行して販売する事が多い。 秋田中央交通では、6か月券のほか、0.5か月有効なものも存在する(0.5か月券は、1か月定期の半額相当額での販売)。京都市営バスでは通勤定期券に1年間有効なものも存在する。なお、通学定期券に6か月が設定されていない事業者もある。 弘南鉄道では年間定期券を発売しており、通学(S-pass)については4月のみの発売で9か月分の通学定期代で正規運賃の109日分で発売している。2018年3月17日より、東京急行電鉄が自社線内に限り、12か月定期券を発売する。当面は割引率は1か月定期×12か月分から1割引きした金額で6か月定期の2倍である。 京都京阪バスや京阪バス、西武バスなどでは通学定期券に限り学期別定期券が発行されている。これは1学期・2学期・3学期期間のみ有効な定期券である。関東バスでは、1か月または3か月通学定期券に端数日を付加して発売する定期券がある。また、尼崎市営バスや国際興業バス、庄内交通では、通学定期券に前述の学期別定期券のほか、4月1日 - 翌年3月31日を有効期間とする年度定期券がある。ちなみに、遠鉄バス・電車でも通学定期に限って学期定期(終了日指定定期)を販売しているが、学期の日数にかかわらず任意の日数で購入可能である。 2006年7月限定で平成筑豊鉄道は1か月分の定期乗車券などが当たる懸賞つき定期乗車券を発売していた。 主に東日本旅客鉄道(JR東日本)での例を挙げる。 「みどりの窓口」、指定席券売機、多機能券売機で発売している。特に年度始めに初めて購入する通学定期券(新規・継続とも)は、学校からの証明書の提出あるいは提示が必要になるため、原則として有人のみどりの窓口でしか扱えないが、係員が証明書を確認した後に自動券売機の設定を切り替えて発売する場合もある。これらの窓口や機器が設置されていない無人駅や業務委託駅からの定期券を購入する場合、最寄りの窓口や機器のある駅で発売することになっている。 JR東日本のアプリ「モバイルSuica」では窓口に出向かなくても定期券の購入ができる。 北海道旅客鉄道(JR北海道)では、石北本線西留辺蘂駅 - 網走駅間と、釧網本線網走駅 - 緑駅間でスマートフォンアプリ「バスもり!」を利用した定期券が発売されている。通学定期券は、事前に学校事務に申し込むことで証明書の提出を省略して購入できる。約140キロメートルの当該区間に有人駅が3駅(北見駅、網走駅、知床斜里駅)しかないことから、駅窓口に出向かずアプリの操作のみでクレジットカードやコンビニ決済の可能な本システムが導入された。 発売拠点については、主要駅の定期券発売所に集約されている(特に都市部の大手私鉄や地下鉄。ただ、名古屋鉄道や遠州鉄道のように全ての有人駅で発売しているケースや、小田急電鉄や阪急電鉄などのように、全駅に定期券(ただし、通勤定期や年度内の継続通学定期に限る)を発売可能な自動券売機を設置しているケースもある。 このため、定期券を発売していない駅からの定期券や、JR同様に、年度始めに新規を含めて初めて購入する通学定期券を購入する場合、乗車駅から発売駅までの普通乗車券(あるいは定期券購入専用の乗車券)を購入した上で乗車券に証明を受け、定期券発売窓口で定期券の購入時に発売駅までの乗車券を払い戻してもらい、帰りの無料乗車券(乗車票)を受取って乗車駅まで戻る形となる。 PASMO導入事業者では「モバイルPASMO」を利用して窓口に出向かなくても鉄道やバスの定期券購入ができる。 バス会社の営業所(車庫)、バスターミナルなどの案内所で発売されている。 京王バス(京王電鉄)や小田急バス(小田急電鉄)のように、系列の鉄道会社の定期券発売窓口や券売機で発売することもある。 また、他事業者の出札窓口や駅前の商店に自社定期券の発売を委託している事業者もあるが、この場合購入出来る定期券の種類に制約がある場合もある。 1か月の定期券を約50枚の回数券方式にした形態の定期券である。降車時に使用者名が記載された表紙を乗務員に提示して、1回分の券面を切り取って運賃箱に投入する。通常の定期乗車券と異なり利用回数に制限を設けており、回数乗車券と異なり使用者以外の利用に制限を設けているのが特徴。 京阪バス(2010年5月31日までで券種廃止)の一部区間や近江鉄道で発行されている。従来は廃止前の京阪宇治交通の一部区間、鉄道では廃止前の屋島登山鉄道や、比叡山鉄道でも発行されていた。 このほか、複数のバス会社が少数の便を運行しているが共通乗車の扱いがなされていない区間で、学生の利便のため通学定期券に相当する氏名記載の表紙を持つ定期回数券のみ、共通乗車用に発行した事例がある。(例 古川駅 - 吉岡 (大和町)間の国道4号線一般道を走っていた 国鉄バス(当時)古川線の一部・宮城交通(当時)相互での発行) 乗車券を購入する場合、運賃に距離逓減制を採用している場合には乗車券の分割購入を行うと全区間非分割の運賃(通しの運賃)より通常は高くなる。しかし、経路の一部区間に割安の特定運賃を採用している場合や、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合においては、全区間を分割しないで購入するよりも特定の地点で分割して購入する方が運賃計算上割安になる事例が存在する(非分割の場合は全区間で特定運賃が非適用になったり、割高の価格帯で算出されることがある)。 大都市近郊のJRにおいて、競合する私鉄が存在する区間(特定運賃区間)とそれ以外の区間を通して移動する場合に、特定運賃区間分とそれ以外の区間分に分けた運賃の合算の方が全区間を分割しないで乗車券を購入するよりも安い場合が多数あり、上記の事例として挙げられる。また、JRの定期運賃の算出は表引き方式であるが、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合があり、その価格帯にあるキロ数のもっとも多い区間同士で分割した場合に、それらを合算した場合の定期運賃額より低廉になる場合があり、同じく上記の事例として挙げられる。 分割購入は合法的であり、規約に反せず、かつ利用者も割安となる手法であるが、分割地点を必ず経由する必要があることから、突発的な状況により選択された経路を経由できない場合では別途通常運賃を要することとなる。 Suica・ICOCA・PASMOなどのIC乗車券では2枚以上の定期券情報を載せることが可能であり、特にSuica・ICOCAでは上記のような区間を分割しての購入が可能である。また、1枚で発行できない経路(T・Y・X状になる)であれば、二区間定期券という形で発行が可能である。 ただし、一部区間に長期間の不通が生じた場合など、分割購入していると不利益を被るリスクもある。 これとは逆に、バスにおいて全線定期乗車券を発行している事業者では分割購入を使用しない方が安くなる場合もある。一例を挙げると、A地点 - B地点までバス、B地点 - C地点まで鉄道、C地点 - D地点までバスを利用するとする。この場合、バスの全線定期乗車券の利用範囲にA地点 - B地点およびC地点 - D地点の両方が含まれていれば各地点間の定期券の分割購入よりも全線定期券の購入が安くなる事例も地区により発生している。 主に、次のようなパターンがある。 運賃は、一枚ずつ分割で持った場合と同じ、すなわち合算額である。 T字経路の場合、例えば、上記の場合、発券できる区間の組み合わせとして、(1)戸塚 - 藤沢+大船 - 鎌倉、(2)戸塚 - 鎌倉+大船 - 藤沢、(3)鎌倉 - 藤沢+大船 - 戸塚の3通りがある。それぞれの組み合わせの運賃は、通勤1か月の場合、(1)6930+5350=12280 (2)6300+5350=11650 (3)5670+4730=10400 となるが、運賃の高低に関わらず旅客が希望した組み合わせで発券される。原則として計算方式は合算方式である。 西武鉄道は、西武線豊島園および西武池袋線中村橋以西(西武狭山線および西武秩父線ならびに西武新宿線小平 - 本川越間を含む)から練馬 - 池袋を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>ならびに東急線の渋谷以南/以西のいずれかの区間の定期券で練馬を分岐駅として練馬 - 池袋間を西武有楽町線小竹向原駅経由東京メトロ有楽町線(副都心線)と西武池袋線の双方を利用できる2区間定期券(特殊連絡定期券)の「だぶるーと」と、高田馬場を分岐駅に、西武線下落合以西 - 西武新宿とJR高田馬場 - 新大久保以南のJR線新宿方面との組み合わせとなる2区間定期「Oneだぶる」を発売している。 なお、「だぶるーと」は、合算方式ではない。なお、「だぶるーと」の場合、券面に表示される区間は西武線豊島園または西武線中村橋以西 - 西武池袋と西武線練馬 - 新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>・渋谷以南<東急東横線>/以西<東急田園都市線>のいずれか(西武有楽町線小竹向原経由東京メトロ線・東急線)となる。 東武鉄道でも、東武東上線朝霞以西から和光市 - 池袋間を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>のいずれかの区間の定期券で、和光市を分岐駅とし和光市 - 池袋間を東武東上線と東京メトロ有楽町線(副都心線)の双方を利用できる2区間定期券「二東流」を発売している。なお、券面に表示される区間は、朝霞以西 - 東武線池袋とメトロ線和光市 - (新大塚以東・東池袋以東・雑司が谷以南のいずれか)となる。 小田急電鉄では、東北沢以西から代々木上原を分岐駅として、東京メトロ各駅発着区間を代々木上原から東京メトロ千代田線を経由する区間または小田急線新宿を経由する区間の双方を利用できる2区間定期券を「小田急・東京メトロ PASMO 二区間定期券」の名称で2016年3月26日から発売している。なお、券面には東北沢以西 - 東京メトロ各駅 [代々木上原 - 新宿間乗降可能]と表記される。 JR東日本は、区間の特定はなく発売している。なお、2012年3月17日より、Suicaでの発売を開始し、さらに、連絡会社線を最大2社まで絡めて発売する。 JR西日本は、ICOCAのみで、ICOCAエリア内完結で、連絡会社線の絡まない経路を発売する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "定期乗車券(ていきじょうしゃけん)とは、鉄道・バスなどの公共交通機関において、通勤・通学を主に特定の区間を繰り返し乗車する乗客を対象として、一定の期間を区切って発行される乗車券である。一般的に定期券(ていきけん)または定期(ていき)と略して呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "定期乗車券の運賃は、券面記載経路を、普通乗車券で有効期間内に1日1往復する場合の額より安価に設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "利用には、券面記載氏名の本人が使用する場合のみ有効とする記名式が原則である。事業者によっては乗車時の所持者であれば誰でも有効とする持参人式を設定している場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "基本的に紛失した場合は同一内容で再発行は出来ず、再度新規で購入する必要があるが、ICカード形式で発行した場合は手続きを行うことで再発行が可能であり、紛失したカードを無効にする事ができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "定期乗車券は運賃体系に合わせて導入されている。日本においては、原則として券面記載経路しか乗車することができず、普通乗車券などで認められている選択乗車などのルールも一部を除き適用されていないが、その経路内の駅(停留所)であれば、原則として下車や乗車が可能である。イギリスのロンドン地下鉄などでは特定区間ではなくゾーン制の運賃となっており定期券も「ゾーン1内7日間有効」や「ゾーン2-3内1か月間有効」のような形態で発行される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自動改札機の普及に伴い、Suica、PASMOなどのICカードに定期券の情報を記録して、読み取り部分にタッチ(接触)させるだけで利用できるICカード式の定期乗車券も多い。この形式の乗車券は乗客の利便性を図るだけでなく、乗車券の偽造防止や専用改札口を設けることによる自動改札機本体の省力化など、事業者側にもメリットがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、定期航路を持つ船舶の場合、定期乗車券と同様の扱いの定期乗船券(ていきじょうせんけん)を発行している場合がある。通学定期乗船券を発行している航路もある。駐車場の繰り返し利用に対して定期駐車券が発行されることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "鉄道発祥の国であるイギリスでは20世紀に入り馬車鉄道は市街電車、乗合馬車は乗合自動車となり、地下鉄道も電化されるなど現代の交通機関がほぼ確立された。都市の拡大により労働者は都市の外周部にまで進出したが、安くて便利な市街電車が鉄道の近距離客を吸収した。一方、鉄道会社はさらに外縁地域の開発に力を注ぐとともに、定期乗車券の発行などにより交通手段の利便を図ったことで、中流階級を中心とする居住地は更に拡張された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本における鉄道定期乗車券は1873年(明治6年)5月、新橋・横浜間の上等車旅客に対し3か月(後に90日)の「常乗切手」を120円(この区間の片道運賃は1円12銭5厘)で発行することを計画したのが最初である。この計画は6月5日、太政大臣から正式に認可も受けたが、実施前になぜか中止となり、実際には発行されなかった。次いで1874年(明治7年)7月、大阪・神戸間の上等および中等旅客に対して3・6・9・12か月の「期限切手」が計画され、7月18日に伊藤博文工部卿から認可されたが、こちらも実施には至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "実際に日本初の定期乗車券としては、1886年(明治19年)1月1日「定期乗車券発行規約」の実施により上等および中等の旅客に対して、1・3・6・12か月の4種類が新橋・横浜間の特定の駅間(全部の駅間相互ではない)で発売され、1890年(明治23年)7月には、新橋および横浜を中心に発売範囲が拡大された。近畿地方では1887年(明治21年)5月に神戸、大阪、京都、大津の各駅で発売された。どちらも下等旅客に対しては発売されず、その理由は不明である。下等旅客に対するものは1895年(明治28年)3月1日から発売された学生定期乗車券が最初で、通用1か月のものが発売された。また、まだ発売は1・2等のみであったが、指定した駅間相互の運賃が個別に定められ発行されていた定期券は、1898年(明治31年)11月からマイルごとの運賃によるものに改められた。のち1899年(明治32年)からは3等(従来の下等)に対する普通定期乗車券が発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "通勤用の職工定期券は1908年(明治41年)3月11日から、普通定期券に対して特定の海軍工廠に勤務する職工に、あらかじめ決められた駅から最寄り駅(横須賀、田浦、呉のみ。佐世保と舞鶴は除外)に割り引き運賃で発売されたのが最初である。その後、1918年(大正7年)7月6日から職工定期券の名称で1か月通用3等のみが発売されたが、1922年(大正11年)3月21日の改正からは3か月も発売されるようになった。発売の対象となる勤務先は海軍工廠の外、軍需に関係のある工場(大阪鉄工場、大阪汽車製造、住友鋳鋼場、住友電線製造所、三菱造船神戸造船所)だけであり、発着駅や区間、乗車する列車や車両が指定されるなど制約の多いものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)7月6日には「定期券規程」が制定され、運賃の割引率の整理が行われ、この時から12か月通用の学生定期券が発売された。1921年(大正10年)の鉄道開通50周年に合わせて規程類の整理・統合・改訂を行うため、1920年(大正9年)10月に「国有鉄道旅客及荷物運送取扱規則」を制定し、さらに同年12月「国有鉄道旅客及荷物運送取扱細則」を制定、いずれも翌10年1月11日から施行した。この時に普通定期の1等が廃止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国鉄自動車に対する定期乗車券は、1930年(昭和5年)12月17日「国有鉄道旅客及荷物運送規程」および「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の改訂で自動車定期乗車券が定められた。通用期間は1・3・6・12か月で、さらに1934年(昭和9年)11月15日には1・3か月の通学自動車定期乗車券が制定され、従来の自動車定期乗車券は自動車普通定期乗車券と改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)になると、第一次世界大戦の好景気の時期である1921年(大正10年)に制定された規程が昭和恐慌の時期に合わなくなり、同年6月に大改訂が行われた。「旅客及荷物運送規則」が制定されて8月1日から施行された。この時、職工定期乗車券の3か月が追加され、定期券購入の条件が「工場法または鉱業法の適用を受け且つ鉄道省の指定したもの」に拡充された。 1937年(昭和12年)6月1日改正では、普通定期の12か月定期が廃止された。さらに1943年(昭和17年)、6か月普通定期および12か月学生定期が廃止された。 1943年(昭和17年)4月1日の改正では、既に学生定期乗車券のみであった12か月通用定期券が廃止された。職工定期券については工員定期乗車券と名称が改められ、購入条件が国民労務手帳法による国民労務手帳所持者に拡大され、6か月定期券も発売された。これによって定期乗車券は、普通、学生、工員の3種類で、通用期間は1・3・6か月だけに統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "太平洋戦争後、1946年(昭和21年)3月1日からは、工員定期券と学生定期券を統合して、特殊定期(工員用特殊定期乗車券と通学用特殊定期乗車券)とし、普通定期券との2本立てになった。戦後、蒸気機関車の燃料に使われる石炭の不足による輸送力の逼迫は深刻なものとなり、炭鉱労働者の輸送・乗車を確保するため、1945年(昭和20年)12月1日から、蒸気列車区間の通学定期の使用停止や、通学を目的とする定期乗車券の発売停止(12月21日)などが一時的に行われた。 さらにインフレもすさまじく、1947年(昭和22年)7月1日には3倍半という大幅な値上げが実施されるとともに、工員用特殊定期乗車券を普通定期乗車券に統合して通勤定期乗車券とし、学生用特殊定期乗車券を通学定期乗車券と改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)1月15日になると、誰でも自由に購入出来る1・3か月の普通定期乗車券が発売されたが、2等通勤定期乗車券は廃止となった。これにより、定期券は自由に購入出来る普通定期乗車券、勤務先の発行する身分証明書が必要な3等通勤定期乗車券、通学証明書が必要な通学定期乗車券(3等用)の3種類となった。同時に上記に定期券のほか、東京電車環状線内(東京山手線内)に通用する1か月の3等均一定期乗車券が新設された。1960年(昭和35年)7月1日から実施された改定では、2等級が採用され、従来の2等は1等に、3等は2等に等級呼称を変更した。1966年(昭和41年)3月5日改正では普通定期乗車券が廃止され、通勤定期乗車券を1等通勤定期乗車券と2等通勤定期乗車券とし、身分証明書の提出も廃止して誰でも購入出来るようになり、おおむね現在の定期券制度ができあがった。2等の通勤定期乗車券および通学定期乗車券は1・3・6か月が発売され、2等の通勤定期乗車券は1・3か月が発売された。 1969年(昭和44年)5月1日の改正で1等が廃止されてグリーン車となり、従来の1等通勤定期乗車券はグリーン定期乗車券と名称変更され、その後の定期券制度が基礎がおおむね確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "JRの旅客営業規則において規定されている定期乗車券の種類は、通勤定期乗車券、通学定期乗車券、特別車両定期乗車券、特殊均一定期乗車券の4種である。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本の鉄道は定期券客の占める比重が大きく、国土交通省が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によるとJR各社合計の輸送人員の62%が定期券客となっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "JR以外の私鉄(民鉄)、地下鉄、第三セクター鉄道でも基本的には通勤定期乗車券と通学定期乗車券の2種類が発行される場合が多い。JRと同様に定期乗車券で利用可能なのは、原則として特別料金不要の列車の普通車のみであるが、有料で運行される特急・急行列車と特別席(指定席)については、それに対応する料金を支払えば乗車できる場合が多い。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "事業者によって定期券の割引率は異なるが、首都圏の大手民鉄の場合、普通運賃が低い水準にあるので通勤定期の場合はJRよりも割引率が低く40%弱(1か月に約19往復しないと元が取れない)が多い。地下鉄に至っては30%程度(1か月に約21往復しないと元が取れない)となっている。これに対して、通学定期は割引率が高く77% - 80%前後(1か月に約7往復すれば元が取れる)の事業者が多い。東京地下鉄や都営地下鉄の割引率は約65%(通勤定期の約半額・1か月に約10往復すれば元が取れる)である。近畿の大手民鉄でも通学定期の割引率は高く、中でも近畿日本鉄道の場合は66km以上の区間(鶴橋 - 名張間など)については1か月にわずか3往復するだけで元が取れるような設定になっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第三セクターや地下鉄の場合は割引率が低い傾向にあり、バス並みの割引率(通勤定期で約30%・1か月に約21往復しないと元が取れない)しかない事業者も存在し、勤務形態や日数によっては却って定期券を購入することが損をする場合が生じる可能性がある。一例として北総鉄道では通勤定期の割引率が約27%(43回乗車相当分・端数切上、2月分は25%)に対して、日中回数券・土休日回数券は約33.3%と回数券の方が安い。2000年代以降はこの点を考慮して平日のみ利用可能な定期券を発売している事業者(近江鉄道や遠州鉄道など)もある。値下げ後の北総鉄道の通勤定期最高額は34440円でこれは北総と同程度の営業キロを運営する長野電鉄や上信電鉄よりも高く、東武鉄道では120km相当の金額となっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "地方私鉄の場合は区間によってまちまちなのが多く、長距離になる程割引率が高くなる傾向がある他、通学用に年間定期も発売されていることが多い。一例として長電や上信は短距離帯は40回前後の設定だが、全線運賃は1200円弱に対して通勤定期は30000円強と約30回乗車相当と半額近くに設定されており、北総鉄道よりも安くなっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大阪市高速電気軌道の「地下鉄・いまざとライナー連絡」1区が普通運賃の45回相当(端数切上)で一番高いとされているが、区数が上がると割引率も上がるので5区では34回分となっている。時点は値下前の北総が一律でIC運賃43回分相当。値下後の北総と豊橋鉄道は一律42回相当になっている。最安は東京モノレールの6区で23回乗車相当分となっており、1区でも30回相当なので半額近くとなっている。ゆりかもめも定期比率が低いせいか30回分相当である。平均割引率では黒部峡谷鉄道の59.6 %と通勤定期においては国内最高割引率となっている。黒部峡谷鉄道では定期券を通勤や通学などに分けていない。ただし、東洋経済などの書籍・メディアでは便宜上「通勤定期」としている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、きわめて稀ではあるが、割引運賃や加算運賃との兼ね合いで、定期券を買わずに31往復するほうが1か月定期券を買うより安い区間も存在する。たとえば、多摩都市モノレールの1駅110円で乗車できるが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券のほうが30往復より高額となっている。沖縄都市モノレールではOKICA限定で隣接駅まで150円で乗車できる「おとなりきっぷ」が導入されているが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券とほぼ同程度の58回乗車相当分なので、2月分に関しては定期券のが高額となっている。その他、東京地下鉄全線定期(17300円)は東京地下鉄一日乗車券(710円・25回分)を踏襲したままで「東京メトロ24時間券」(600円)に値下げしても全線定期代はそのままだったので29日分となっているので、殆ど割引が無い状態で2月分に関しては24時間券28枚よりも高くなる。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "運賃計算に使用する運賃表の距離区分については、普通乗車券と同一の事業者(例:京王電鉄)と、普通乗車券よりも区分を細かく設定する事業者(例:東武鉄道)とが存在する。西武鉄道や北総鉄道(値下げ後)のように通勤は普通運賃と同一キロ程を用いるが通学定期は1キロ毎と言う事業者もある。南海電気鉄道の様に定期券と普通乗車券でのキロ程の分水嶺が異なるケースや、京阪電気鉄道の様に京阪線と京津線で運賃形態が異なっても定期運賃は同一形態を採用する事業者もある。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "発売期間は1・3・6ヶ月が基本で、3ヶ月は5%引、6ヶ月は10%引が多い。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "中には2・4・9・12ヶ月の他、学期毎の発売もある。9ヶ月は15%引、年間は20%引が多いが東急電鉄の年間定期は6ヶ月を踏襲している。 但しこれらの定期は自社線内限定が多く、他社線との連絡定期では買えないことが多い。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "近年はIC化により紛失再発行が可能となった他、ひたちなか海浜鉄道も年間定期については顔写真付きなので紛失再発行が可能となっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国土交通省が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によると、最も定期券比率の高い私鉄路線は養老鉄道養老線の79%だった。なお、利用者の多い大手私鉄16社および各都市の地下鉄の計87路線で最も定期券比率の高い私鉄路線は東武越生線の77.4%だった。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "定期乗車券の種類は鉄道用とほぼ同じである。だが、バスの定期乗車券は電車の定期乗車券のように磁気加工がされておらず、乗務員に定期乗車券を提示するという形になっている。一般的に通勤・通学・小児および各障害者定期券が発行されている。そのため、通常の定期券についての解説は省略する。それに対し、バス以外の公共交通ではあまり見られない種類の定期乗車券が一部事業者から発行されている。通学定期券は鉄道と同じく通学用途・区間に限る事業者が多いが、遠州鉄道や名古屋市交通局(2010年度より)の様に用途・区間を限定しない事業者もある。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "バスの通勤定期の割引率は30%前後の事業者が多く、1か月当たり約20往復しないと元が取れない場合がある。よって、割引率が高い回数券やバスカード類が発行されている地区では、定期券による運賃がこれらの利用時に比べて上回る場合がある。ただし、通学定期で利用する場合はこの限りではない。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本一高額な路線バス定期券は、奈良交通の八木新宮特急バス・八木駅 - 新宮駅間の通勤6か月定期券(94万4460円)である。実際に発売可能かはともかく同社のWebには当該定期券の料金が掲載されている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "京阪バスでは、かつて設定されていたくるっとBUSにおいて、専用定期券「くるっとマンスリーパス」を通常定期運賃9,240円相当の区間を3,000円で発行していた。ただし乗車可能なバスは、くるっとBUS全便と一部指定運行経路で一部の時間帯のみ乗車可能なものであったが、くるっとBUS廃止によりこの定期券も廃止となっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "区間式定期券が一般的であったが、券面の表示される特定の均一運賃区エリアで利用できる定期券に加え、ICカード乗車券の普及によって、2011年4月に京王バスが多区間路線において「金額式定期券」の利用を開始した。券面の金額以内の運賃区であればどの路線でも利用ができるというもので、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "リムジンバスや高速バスにおいても定期乗車券を発行している例もある。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "台湾では一部バス会社や台湾鉄路管理局、台湾高速鉄道、高雄捷運、台北捷運、桃園機場捷運において定期券が存在する。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大韓民国では韓国鉄道公社(KORAIL)の高速列車(KTX)・一般列車、SR、首都圏電鉄、空港鉄道(青羅国際都市 - 仁川国際空港2ターミナル間)、釜山交通公社において定期券が存在する。基本的に1か月定期券のみの発行となるが、釜山交通公社は7日券、SRは10日券も存在し、KORAILは10日 - 1か月の期間内で利用者が自由に選択できる。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本とは異なり、有効期間の他に乗車回数が制限されており、日本におけるバスの定期回数券と同じような乗車券である。乗車回数は首都圏電鉄・釜山交通公社が60回(7日券は20回)、空港鉄道(青羅国際都市 - 仁川国際空港2ターミナル)が55回となっている。首都圏電鉄、釜山交通公社のものは、区間が指定されていない発駅フリータイプとなっている。また首都圏電鉄においては、ソウル地下鉄全線(7号線温水 - 富平区庁間を除く)、ソウル軽電鉄牛耳新設線、KORAIL(電鉄)・空港鉄道のソウル特別市内区間が利用可能な「ソウル専用定期券」、仁川交通公社全線(仁川都市鉄道1号線、仁川都市鉄道2号線)利用可能な「仁川都市鉄道専用定期券」も発売している。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "KORAIL、SRの定期券は上記とは異なり、SRは1日2回の回数制限が付く。またKORAILの「週中定期券」の場合、土日祝日は利用できない。一般用と青少年用(学生用ではない)の2種類があり、列車種別ごとに発売される(下位種別の列車も利用可能)。SRの場合、購入時にあらかじめ乗車する列車を指定する必要がある。基本的には指定列車に限り有効となるが、指定列車に乗車できなかった場合に限り、指定列車の前後、及び1時間以内に出発する列車への乗車も特例として認められる。KORAIL、SRともに座席指定はできないため、自由席、立席利用となる。ただし、KTXに限り1日2回、利用区間の普通運賃の15%を支払い座席指定が可能。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地下鉄では、定期券専用ICカードを購入し、券売機でチャージ(定期券情報の記録)して利用するが、KORAIL、SRは専用のアプリでのみ発売。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イギリスではロンドンおよび、その近郊では定期乗車券のかわりにトラベルカード(英語版)がある。最大の特徴は特定の乗車駅、降車駅、乗車区間が指定されないかわりに、ゾーン制で値段が決まる点である。中心部をゾーン1として、そこから放射線状にひろがり、ドーナッツのような形でゾーン2、ゾーン3などと決まっている。さらに、地下鉄に限らずバス、ゾーン内にある路面電車や他の一部の電車にも乗車可能である。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "香港では香港MTRと合併する以前の九広鉄路公司路線である東鐵線および西鐵線、また連絡バスとLRTに限定した1か月間有効パスが存在するが、定期券という形ではなく、ICカード「オクトパス(八達通)に定期利用情報を書き込むタイプのものである。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "それ以外の区間においては定期乗車券制度自体が存在しないが、「オクトパス」利用者については、現金利用よりも運賃が優遇される制度となっている。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "シンガポールではMRT、LRT、バス全路線が期間中無制限に利用できる「エンハンスト・シーズンパス」と、バスは無制限だが鉄道の利用が1日4乗車に制限される「ベーシック・シーズンパス」の2種類があり、価格が異なる。定期券という形ではなく、ICカード「Ez-link」に定期利用情報を書き込むタイプのものである。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ただし、価格が190SGD(エンハンスト・1か月)と比較的高額であり、長距離高頻度利用者でなければ、定期契約でなく通常のEz-Linkカードに入金して利用した方が月額ベースであっても廉価となることが多い。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ニューヨーク市交通局、シカゴ交通局など、一部の公共交通機関において、1週間、1か月などの期間内に何度でも乗り降りできるコミューター・パス(通勤定期)を発売している。長距離旅客列車を運行するアムトラックには原則として設定がないが、北東回廊のノースイースト・リージョナルやシカゴ近郊各線、アムトラック・カリフォルニアの各線など一部の中近距離列車に限って1か月定期券を発売している。また、ロサンゼルス近郊の通勤鉄道「メトロリンク」では1か月定期(Monthly Pass)保持者を対象に、一部路線で並行するアムトラック列車(パシフィック・サーフライナー号)への定期券区間での便乗を認める\"Rail 2 Rail program\"を実施している。", "title": "各国の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "JRの旅客営業規則において規定されている定期乗車券の種類は、次の4種類である。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "原則として普通列車の普通車の自由席のみであり、急行・特急列車、グリーン車、指定席車にはそれに対応する料金を支払っても乗車することができない。これらの利用には、定期乗車券の有効区間であっても、別途乗車区間に対応する普通乗車券の購入も必要である。ただし、別料金を支払うことで特急列車および普通列車指定席に乗車できる例外規定が設けられている例が多数ある。それらを次項で示す。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、JRでは、発売する駅から有効な定期乗車券のみを発売するのが原則であるが、実際には私鉄駅発着の定期乗車券を発売することもある。鉄道駅のみどりの窓口以外では各支社に属する販売センターで発売することもある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "主に通勤目的のための定期乗車券であるが、購入時に通勤証明書などを提示する必要はなく、誰でも任意の区間で購入することができる。小児用の通勤定期乗車券もあるが、こちらは学習塾や病院に通う際に利用されることがある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、1966年(昭和41年)までは通勤定期乗車券の購入には勤務先の証明が必要で、別に勤務先の証明が不要な普通(2等)定期乗車券も存在していた。通勤以外にも使えるのに「通勤」と名が付くのはこの名残である。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "有効期限は1・3・6か月である。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "JRの通勤定期の割引率は他の交通機関と比べると高く、1か月定期で約50%、3か月定期で約55%、6か月定期で約60%である。また、JR会社線のおおむね600円区間までの6か月定期運賃は1カ月定期の6倍した金額から20%割引(多くの事業者は10%)なのも特徴である。なお、3か月定期は1カ月定期の3倍した金額から5%割引で、長距離の6カ月定期の場合、1カ月定期の6倍した金額から15%前後となる。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "児童・生徒・学生の通学のための定期乗車券であり、通勤定期乗車券より安価に設定されている。購入時に通学を証明する通学証明書(学生証と一体型のものもある)の提示が必要で、販売区間も自宅の最寄駅と学校が指定する最寄駅との間の最短、最速、最安、乗換回数が少ないのいずれかに該当する必要がある。複数の駅が使用できる場合は、このいずれかに該当すれば最寄りでなくても基本的には使用可能。また、翌年度に在籍している証明ができない場合は翌年度の5月1日以降にまたがるものは発行できない。JRでは大学生用・高校生用・中学生用・小学生用の4種類がある。有効期限は通勤定期と同様1・3・6か月である。新学期(特に入学式当日)には新学年の証明書類が必要になるため、新規に窓口で発行しなければならない学生の長蛇の列ができることも珍しくない。また、これらの事情を考慮して輸送機関の職員が学校に出向いて、新入生が入学式終了後に窓口に行かず定期乗車券を購入できるよう販売するケースもある他、学校側に専用の申込用紙を送付し、入学説明会などで記入し、自宅最寄駅で提出しての入学式前日又は当日に代引で受け取るケースもある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "高校生用は大学生用の1割引、中学生用は大学生用の3割引、小学生用は中学生用の半額の運賃が設定されている。大学生用定期の価格は通常の約30%なので、月10往復程度で元が取れる。なお、3か月定期は1か月定期の5%引、6か月定期は1か月定期の10%引の運賃が設定されている。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "通学定期乗車券は、卒業に必要な単位取得などのための通学用として発行が認められるものであって、部活動など課外活動のために校舎とは別の場所にあるグラウンドに通うようなケースでは発売は認められないが、通信教育(放送大学を除く)におけるスクーリング参加や、教育実習、単位取得に必要な医療施設・福祉施設での実習などでは当該施設等に通うための定期乗車券の発行が認められる場合がある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、購入ができるのはJRに指定された指定学校の学生・生徒・児童であり、指定学校ではない教育施設に通う場合は発売は認められないが、大学受験に失敗した浪人生については学校登録の全日制予備校(本科生)に限り大学生扱いになるほか、横浜市営地下鉄では通学証明証と同じ書式の「通塾証明証」の提出と学生証の提示により通学定期で発行可能である。また、1年以上通う職業訓練校は高校生扱いの場合がある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "運賃が安いだけあって、発売には様々な制限がある。通学定期乗車券の購入ができない場合は、通勤定期乗車券またはその他の乗車券(「乗車券#乗車券の種類」を参照)を購入することになる。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、通学定期乗車券の規定による減収分は鉄道事業者の負担、より正確には割引率の低い他の利用者からの収入で負担しているのが現状である。かつての国鉄ローカル線を引き継いだ事業者を含む地方の民鉄・第三セクター鉄道が廃線となったり、苦境に陥ったりしているのも、通勤利用者が自家用車に転移し、割引率の高い(収益性が低い)通学定期乗車券利用者が利用者の主流で、さらに過疎化・少子化や保護者による自家用車送迎で数を減じていることも背景の一つである。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一部の自治体では、公共交通機関の利用促進のために通学定期乗車券に補助金を支出したりするところもある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「グリーン定期券」ともいい、グリーン車の利用を前提にしていることから、あらかじめ利用する区間のグリーン券に相当する金額も合わせて計算されている。なお、グリーン車の連結していない区間を含めて発行することができる。かつてのグリーン定期券の料金は、一等車定期乗車券時代の名残もあり、普通運賃部分の割引率も通勤定期乗車券に比べて低く設定されていたが、2004年10月16日以降の計算方法は、グリーン車利用区間のキロ数に応じた一定料金(1か月では、おおむね22往復分のグリーン券の販売額)を、全区間の通勤定期乗車券額と合算する方式となった。有効期間は1か月と3か月のみである。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2004年10月16日の制度改正により、首都圏では自由席グリーン券を買うことで、通勤・通学定期券でもグリーン車に乗車できるようになったが、それ以前にはグリーン定期券でない定期券でグリーン車に乗車することはできず、グリーン券のほか普通乗車券も購入する必要があった。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "なお、東京山手線内相互発着用の運賃表がある。これは、1984年の東京山手線相互発着用の普通運賃表の新設に伴うもので、この区間内でのグリーン車は日暮里駅 - 田端駅間と秋葉原駅・神田駅 - 代々木駅間を除く全区間で運転されているものの、いずれも短距離である。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "「山手線内均一定期券」が唯一の例である。東京山手線内の全区間に有効であり、山手線環状運転区間(並走区間は京浜東北線と埼京線も含む)、中央本線神田 - 代々木間および総武本線秋葉原 - 御茶ノ水間の各駅間で乗降することが可能な定期乗車券である。有効期間は1か月のみ。発売は東京山手線内各駅のみどりの窓口(東京駅・品川駅はJR東海管轄も含む)に限られる。運賃は14,970円。なお、Suica定期券での発売はなく、磁気定期券でのみ購入可能である。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "JRは、かつては公共企業体の日本国有鉄道(国鉄)であったため、民鉄にはない種類の割引が存在する。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "JRの定期乗車券は、新幹線の「フレックス」「新幹線エクセルパス」を除く在来線で乗車区間が100kmを超える区間を購入する場合、駅長の承認が必要となる。また、乗車区間が200kmを超える場合は、購入理由を記載した書面を提出しなければならない。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "定期乗車券では、運賃計算や区間外乗車の特例について、適用の可否が普通乗車券・回数券と異なる場合がある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "遠距離通勤・通学の増加に伴い、新幹線用の通勤定期乗車券「FREX(フレックス)」、通学定期乗車券「FREX(フレックス)パル」(JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本)、「新幹線エクセルパス」(JR九州)が発売されている。ただし、これらは旅客営業規則においては特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の扱いである。新幹線の普通車自由席または、普通車指定席の空席(自由席がない便のみ)を利用できるため、発売額には乗車区間の定期旅客運賃に加え新幹線自由席特急料金に相当する定期特急料金が加えてある。また、途中の区間において新幹線を利用する定期乗車券も設定可能であるが、この場合、全区間の定期旅客運賃と新幹線乗車区間の新幹線自由席特急料金に相当する額を合算し発売される。例えば、新宿 - 宝積寺間の乗車券に新幹線を大宮 - 宇都宮間で利用する定期券も発売できる。新幹線の異なる路線間については、直通する列車が存在する場合であっても、博多駅(山陽新幹線 - 九州新幹線)、新青森駅(東北新幹線 - 北海道新幹線)をまたがる定期券は設定・発売されていない。また、山形新幹線(福島駅 - 新庄駅間)、秋田新幹線(盛岡駅 - 秋田駅間)についても、営業上は新幹線ではなく在来線の扱いとなるため、発売されていない。さらに、北陸新幹線の会社境界駅である上越妙高駅をまたがる定期券も設定されていない。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "新幹線定期乗車券の所持者が増加したことから、通勤時間帯の新幹線の普通車自由席が通勤列車並みに混雑するようになった。東海道新幹線では平日朝9時までの上り列車において新横浜 - 東京間で普通車指定席の空席を新幹線定期乗車券や自由席特急券で乗車可能とする特例措置をとっている。また、新幹線定期乗車券使用者を対象とした普通車指定席やグリーン車への着席を目的とした料金回数券を設定・発売している。詳しくは特別企画乗車券を参照のこと。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "東北・上越・北陸新幹線の一部区間はSuica定期券に搭載可能で、他鉄道事業者との連絡定期券も発売(JR東日本のみ)している。なお2021年3月13日から東海道新幹線の全線にTOICA定期券、山陽新幹線の新大阪 - 新岩国間にICOCA定期券が導入され、2022年3月12日から新岩国 - 徳山間、2023年4月1日から徳山 -博多間にも導入され、山陽新幹線の全線で利用可能となった。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "遠距離通勤・通学は、新幹線沿線のみならず在来線の特急列車にもみられる。JR東海を除くJR旅客5社がそれぞれ発売している。これらも新幹線と同様に特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の扱いである。北海道旅客鉄道(JR北海道、名称:「かよエール」)・東日本旅客鉄道(JR東日本、名称:「定期券用月間料金券」)の一部区間と、西日本旅客鉄道(JR西日本、名称:「パスカル」「○○○特急料金定期券(○○○は列車名)」)・四国旅客鉄道(JR四国、名称:「快て〜き」)・九州旅客鉄道(JR九州、名称:「エクセルパス」)の全特急運転区間において、特急列車の普通車自由席を利用できる料金定期券、または特急料金相当額を運賃部分に加算した定期乗車券を発売している。料金定期券は、定期乗車券の購入と同時かあるいはすでに所持している定期乗車券を提示し、定期乗車券区間内の特急列車停車駅間の特急料金定期券を購入する形をとる。博多南線の場合は全列車が特急列車であるので、提示の必要がなく定期券に特急料金定期券が含まれる。なお、JR西日本で発売している指定席特急料金定期券「マイシート」は定期乗車券と組み合わせて有効期間中普通車のあらかじめ指定した座席を利用できる。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "JR北海道で発売されていた分岐の外方で近隣する2駅のどちらでも乗降可能な定期乗車券。対象は、新札幌・厚別 - 白石以西の各駅間と、琴似・八軒 - 桑園以東の各駅間(新札幌・厚別 - 琴似・八軒という両方とも2駅併用にもできる)。運賃は対象の2駅のうち高額となる駅の定期券を購入した場合に適用される。例えば、白石 - 八軒・琴似の場合、白石 - 琴似間(通勤1か月6,780円)ではなく、白石 - 八軒間(通勤1か月7,130円)を購入しなければ2駅併用とはならない。なお、区間がKitaca利用可能エリア内でも磁気式でなければ2駅併用とはならない。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、2014年10月24日にJR北海道が2015年3月31日で2駅併用定期券発売終了を発表。これにより2駅併用定期券利用者は4月1日以降「琴似・八軒」のいずれかの駅、「新札幌・厚別」のいずれかの駅を選択しなければならない。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "社員が業務の必要により、路線を使って移動する場合に使用する社員証型の“定期券”。機能は全線定期や株主優待乗車証と同一で、JR以外の事業者の場合は家族にも支給される所もある。ただし同一企業グループをまたがる移動は出来ない。JR各社によっては階級に応じて利用できるエリアが異なってくる。社によっては制服着用の上「添乗」と表記された腕章を嵌め、運転室に同乗する場合もある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "駅改札内への入場・通行ができる「定期入場券」がある。日本国有鉄道(国鉄)時代には有人駅のほぼ全駅で発行されており、かつては観光地周辺の駅で旅館などの従業員が客を駅改札内で歓送迎するのに使用されていた。ただし、現在では駅構内に自由通路がない場合、または駅弁を売る業者など、駅改札内に定期的に立ち入る必要がある場合に限り発行されており、前者の場合は駅を大きく迂回することにより時間や労力を要することになる高齢者や身体障害者などに対して定期入場券購入費用の補助制度を設けている地方自治体もある。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお、定期「乗車券」を入場券代わりに使用することはできない。駅改札内への入場には「乗車船の目的」と「乗車船以外の目的」の二つに分けられ、前者は乗車券類、後者は入場券が必要となる。定期乗車券は乗車券の一種であり、乗車券は乗車券類に含まれるため、「乗車船の目的」に限り使用でき、「乗車船以外の目的」(送迎等の入場目的)には使用できないのである。SuicaなどのICカード式乗車券についても同様で、これらもあくまで乗車券類であることから、入場券代わりに使用することはできなかったが、JR東日本においては、2021年3月13日より、Suicaエリア内の券面表示区間外の在来線駅で入場券と同様に利用できる「タッチでエキナカ」を開始した。", "title": "JRの定期乗車券" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "定期券の券面氏名欄を「持参人様」表記や無記名にすることによって、定期券を持参した人が定期券として使用できる乗車券である。環境定期券とは違い、通勤定期以外で持参人定期を発行している社局は見られない。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "仕事のかたわら定時制・通信制の学校に通う場合や通学のかたわらアルバイト先に行く場合などに、自宅・勤務先・学校の3か所の最寄り停留所を結んで発売されるものである。公営交通では一部の路面電車や地下鉄も含めて制度化されている事業者が多い。「三角定期券」とも呼ばれる。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "マイカー台数の削減や地球環境保全を目的に、1997年に神奈川中央交通が開始したのをきっかけに、翌1998年には東京都交通局(都営バス)、京阪宇治交通(現在廃止)、その翌1999年には京阪バスなどでも採用され、近年では都市部の多くの社・局が採用しているサービスである。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "これは、「環境定期」という乗車券を別に発行する訳ではなく、普段使用している定期乗車券を乗務員に提示することによって定期乗車券所持者以外の家族も利用できるか割引措置を受けられるという制度で、以下の2つがある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一般的に利用可能な日は土曜・休日・長大連休期間(GW・旧盆・年末年始時期)などの土曜・休日ダイヤ実施日で、利用可能な定期券も通勤定期乗車券のみが多いが、神奈川中央交通など一部社局では通学定期乗車券も利用できる。なお、このサービスはその地区や社局によって受けられるサービスが大幅に違う場合がある。平日は対象外なので、定期券所持者以外の方は、通常運賃(実際に乗車した区間の運賃)が必要となる。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "上記の様に既存の定期券利用者に対するサービスであるため、一部の事業者では「環境定期」という名称を用いず、「休日家族割引」などといった名称で同様のサービスを実施している。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "事業者と沿線の企業が契約し、退職や異動などの特別な場合を除いて払い戻しをしないことを条件に、通勤定期券よりも割安な運賃で一括して発売するものである。勤務先の証明が必要であった時代の通勤定期券に近いものといえる。企業定期券・団体定期券と呼んでいる事業者もある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、筑波大学では、キャンパス内を走るバスである関東鉄道から定期券を一括購入し、それを学生や教職員などに販売することで学内の交通システムとする、筑波大学キャンパス交通システム事業を行っている。詳しくは当該項目を参照のこと。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "主に高齢者を対象にして、その事業者のすべての路線を一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できる定期乗車券を発売している事業者もある。おおむね購入時に本人の年齢を確認できる公的証明書の提示を求められる。以下に例を記す。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "定期乗車券ではないが、東京都が発行する「東京都シルバーパス」のように、地方公共団体がその区域の高齢者・障害者に対して社会参加を促す目的で福祉乗車証を交付している例もある。これらの中には指定範囲内の鉄道・バスを一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できるものもあるが、交付を受けるには年齢だけではなくその地方公共団体の定める条件を満たしている必要があり、発行時に支払う費用や利用条件なども年収などの条件により異なることがある。詳細は福祉乗車証を参照。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "公営事業者であっても民間事業者と同様に、年齢以外の条件のない高齢者向け定期券を発売している事業者もある。例として尼崎市営バスにおいては、65歳以上の高齢者に1か月3,000円、12か月30,000円で市バス全線乗り放題となる「寿定期」を発売している(2009年4月1日現在/他に3か月券、6か月券がある)。年度ごとの初回購入時に年齢を確認できる公的証明書の提示が必要である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "事業者が自社の路線から乗り継ぎ可能な他事業者の路線(バス・地下鉄・路面電車などを含む)との「連絡定期券」を発行する場合がある。通常は出発地から目的地までの区間で利用する事業者数分の定期券が必要となるが、連絡定期券を利用することにより複数枚の定期券を1枚にまとめることができる。発行可能な対象区間は事業者ごとに異なり、他社の全線を対象とする場合や他社の一部区間のみを対象とする場合がある。また、運賃も利用する区間の定期旅客運賃を単純に合算した額とする場合やこの合算した額から一定額を割り引いたものを運賃とする場合などがある。利用区間と連絡定期券の発行可能な区間が合致しない場合(もしくは発行区間が重複する場合)は、定期乗車券を本来の枚数より減らすこと自体は可能であるが、複数枚となる。なお、連絡定期券は利用区間に関連するすべての事業者が発行している訳ではない。このほかにも、特定の条件に合致した場合のみ他社線で乗降が可能となる定期券「共通定期券」を発行するケースもある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "遠州鉄道では、自社の鉄道とバスを乗り継ぐ定期券を相互に5%割り引いた値段で販売している。東京都交通局ではバス・地下鉄の他、都電や日暮里舎人ライナーも連絡定期券の発行の対象である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "近畿圏では割引こそないものの私鉄・JRとバス事業者間での連絡定期券が比較的多く出ている。1980年に近畿日本鉄道が自社バス(近鉄バス)との連絡定期券を発行開始。のちに近鉄バスはJR西日本や阪急電鉄との間でも連絡定期券も発行するようになった。いずれも鉄道駅の定期券発売所で発行しており、近鉄バスは駅に連絡する停留所からのゾーン定期(「近鉄八尾駅から2区」というように運賃区界でゾーンを設定)で発売しており、そのゾーン範囲内であればどの停留所でも乗降しても良い。近畿日本鉄道は奈良交通との連絡定期券も発行している(奈良交通はJR西日本とも連絡定期券を発行)。阪急バスは阪急電鉄、北大阪急行電鉄、阪神電気鉄道、神戸電鉄と連絡定期券を発行しているが、こちらはバスも区間が指定されている。このほか、阪神電鉄と阪神バス、JR西日本・阪急電鉄・阪神電鉄と尼崎市交通局、南海電気鉄道と南海バスなどでみられるが、これらも鉄道駅での発行である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "通常、A停留所 - B停留所として発行しているものを均一運賃区間内(例:210円区間)のすべての路線に乗車可能としているものである。事業者によっては指定金額以外の区間を差額の精算のみで利用できる場合もある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "上記の均一区間定期券に類似しているが、均一区間内のみという区分けをせずに、ある一定のエリアを「XX地区」という形で設定し、そのエリア内で乗車可能としているものである。京阪バスなどで採用。同社では一部エリアでさらに安くした代わりに範囲を狭くした「にこにこミニパス」も1992年より導入していたが、現在は廃止された。西武バスではひばりヶ丘駅・田無駅・片山地区をメインに利用出来る「ひばり・田無フリー定期券」を発売していた。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "金額式定期券", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "多区間運賃の路線を有するバス路線において、券面に表示される運賃以内の区間であれば自社線のバスが利用できるもの。2011年4月に京王バスが『モットクパス』の利用を開始したことをきっかけに、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。阪急バス・阪神バスの金額式定期券は相互の他社線区の路線を利用することができる。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "京王電鉄では特定の利用区間が含まれ、自社で発行するPASMO通勤定期を購入する際にオプションで『どっちーも』を選択する事ができる。発売料金は通常の定期券料金に1か月定期券の場合1,000円を追加するのみで購入できる。ただし、オプションで選択した駅より前の駅で途中下車した場合は乗り越し精算が必要となる。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "相模鉄道では西谷-羽沢横浜国大駅・新横浜駅を含む他社購入分も含めたIC定期券を購入した場合に『YOKOHAMAどっちも定期』として、追加運賃不要で本線の横浜駅でも乗降が可能である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "なお、これらは通勤定期のみの発売が多く、通学や障害者割引、福祉乗車については対象外・未発売が多い。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "運賃や区間に関わらず一定の定期旅客運賃のみで全線が自由に使用できる定期券である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "地下鉄では福岡市交通局(ちかパス)など一部社局が発行している。通常の鉄道定期券は記名人のみ使用可能だが、全線定期券については、東京メトロ(磁気定期券に限る)・都営地下鉄・大阪市高速電気軌道大阪地下鉄・大阪シティバス・(ニュートラムを含む)共通全線定期券など、持参人式を採用している事業者もある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "バスでは東急バスや横浜市営バスなど一部社局が発行している。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "従来A駅 - B停留所のみ利用可能だった定期券をA駅 - B停留所とC駅 - B停留所の2区間を1枚の定期券で乗車可能としたものである。前述の区間外の特定の駅を乗降できるものと異なり、区間に含まれている途中駅でも利用可能である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "片道しか利用できないことを条件に運賃を割り引くものである。坂道の多い土地柄の事業者に多い。往復で利用できる定期乗車券の半額としている場合が多い。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "津軽鉄道では、片道通学定期券を扱っている。往復利用できる一般的な通学定期券の購入数が減っていた状況で「通学時あるいは下校時のみ列車を利用している学生も多い」ことが各駅からの報告で分かり、2006年に導入した。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "名古屋鉄道では、特急特別車ミューの座席について、利用者があらかじめ定めた1往復の列車の座席を1か月(平日ダイヤ運行日のみ)確保する「ミュー定期券」と称するものが存在する。1か月13,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "座席指定は券面記載の列車・座席にしか適用されないが、ミュー定期券を所持していれば当該区間内であれば休日ダイヤ運行日も含めて券面表示以外の列車の特別車にも追加料金なしで乗車できる。ただし、座席の指定がないため、座席の指定を受けた他の旅客が乗車してきた場合は席を譲らなければならない。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "なお、ミュー定期券利用区間を含む通勤・通学定期乗車券を所有する旅客のみに対して発売され、乗車する際も定期券とミュー定期券の2枚を組み合わせて使わなければならない。また、定期券以外の乗車券とミュー定期券の併用はできない。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "南海電気鉄道では「ラピート」と「サザン」の全列車と「りんかん」1 - 7・9・11・13号の座席を1か月単位で購入できる定期特別急行券・定期座席指定券がある。特急券と座席指定券のみなので、乗車する際には他の乗車券類が必要となる。詳しくは当該項目を参照のこと。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "乗車列車のみが指定される例として、京成電鉄では「モーニングライナー」用の「モーニングPASS」を設定している。発売額は「モーニングライナー券」20回分の8,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "有効期間は発行する事業者によって異なったり、同じ事業者で複数設定されていたりする。1か月・3か月・6か月のものが多く、12か月という例もある。有効期間が長ければ長いほど割引率が高くなるが、先述のとおり、紙式の定期券の場合、紛失時に再発行が出来ないことから有効期間が6か月以上の定期券はICカード形式のみでの発行に限られるか、複数回に分けて発行して販売する事が多い。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "秋田中央交通では、6か月券のほか、0.5か月有効なものも存在する(0.5か月券は、1か月定期の半額相当額での販売)。京都市営バスでは通勤定期券に1年間有効なものも存在する。なお、通学定期券に6か月が設定されていない事業者もある。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "弘南鉄道では年間定期券を発売しており、通学(S-pass)については4月のみの発売で9か月分の通学定期代で正規運賃の109日分で発売している。2018年3月17日より、東京急行電鉄が自社線内に限り、12か月定期券を発売する。当面は割引率は1か月定期×12か月分から1割引きした金額で6か月定期の2倍である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "京都京阪バスや京阪バス、西武バスなどでは通学定期券に限り学期別定期券が発行されている。これは1学期・2学期・3学期期間のみ有効な定期券である。関東バスでは、1か月または3か月通学定期券に端数日を付加して発売する定期券がある。また、尼崎市営バスや国際興業バス、庄内交通では、通学定期券に前述の学期別定期券のほか、4月1日 - 翌年3月31日を有効期間とする年度定期券がある。ちなみに、遠鉄バス・電車でも通学定期に限って学期定期(終了日指定定期)を販売しているが、学期の日数にかかわらず任意の日数で購入可能である。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2006年7月限定で平成筑豊鉄道は1か月分の定期乗車券などが当たる懸賞つき定期乗車券を発売していた。", "title": "各種の定期乗車券" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "主に東日本旅客鉄道(JR東日本)での例を挙げる。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "「みどりの窓口」、指定席券売機、多機能券売機で発売している。特に年度始めに初めて購入する通学定期券(新規・継続とも)は、学校からの証明書の提出あるいは提示が必要になるため、原則として有人のみどりの窓口でしか扱えないが、係員が証明書を確認した後に自動券売機の設定を切り替えて発売する場合もある。これらの窓口や機器が設置されていない無人駅や業務委託駅からの定期券を購入する場合、最寄りの窓口や機器のある駅で発売することになっている。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "JR東日本のアプリ「モバイルSuica」では窓口に出向かなくても定期券の購入ができる。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "北海道旅客鉄道(JR北海道)では、石北本線西留辺蘂駅 - 網走駅間と、釧網本線網走駅 - 緑駅間でスマートフォンアプリ「バスもり!」を利用した定期券が発売されている。通学定期券は、事前に学校事務に申し込むことで証明書の提出を省略して購入できる。約140キロメートルの当該区間に有人駅が3駅(北見駅、網走駅、知床斜里駅)しかないことから、駅窓口に出向かずアプリの操作のみでクレジットカードやコンビニ決済の可能な本システムが導入された。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "発売拠点については、主要駅の定期券発売所に集約されている(特に都市部の大手私鉄や地下鉄。ただ、名古屋鉄道や遠州鉄道のように全ての有人駅で発売しているケースや、小田急電鉄や阪急電鉄などのように、全駅に定期券(ただし、通勤定期や年度内の継続通学定期に限る)を発売可能な自動券売機を設置しているケースもある。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "このため、定期券を発売していない駅からの定期券や、JR同様に、年度始めに新規を含めて初めて購入する通学定期券を購入する場合、乗車駅から発売駅までの普通乗車券(あるいは定期券購入専用の乗車券)を購入した上で乗車券に証明を受け、定期券発売窓口で定期券の購入時に発売駅までの乗車券を払い戻してもらい、帰りの無料乗車券(乗車票)を受取って乗車駅まで戻る形となる。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "PASMO導入事業者では「モバイルPASMO」を利用して窓口に出向かなくても鉄道やバスの定期券購入ができる。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "バス会社の営業所(車庫)、バスターミナルなどの案内所で発売されている。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "京王バス(京王電鉄)や小田急バス(小田急電鉄)のように、系列の鉄道会社の定期券発売窓口や券売機で発売することもある。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "また、他事業者の出札窓口や駅前の商店に自社定期券の発売を委託している事業者もあるが、この場合購入出来る定期券の種類に制約がある場合もある。", "title": "定期乗車券の発売" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1か月の定期券を約50枚の回数券方式にした形態の定期券である。降車時に使用者名が記載された表紙を乗務員に提示して、1回分の券面を切り取って運賃箱に投入する。通常の定期乗車券と異なり利用回数に制限を設けており、回数乗車券と異なり使用者以外の利用に制限を設けているのが特徴。", "title": "定期回数券" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "京阪バス(2010年5月31日までで券種廃止)の一部区間や近江鉄道で発行されている。従来は廃止前の京阪宇治交通の一部区間、鉄道では廃止前の屋島登山鉄道や、比叡山鉄道でも発行されていた。", "title": "定期回数券" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "このほか、複数のバス会社が少数の便を運行しているが共通乗車の扱いがなされていない区間で、学生の利便のため通学定期券に相当する氏名記載の表紙を持つ定期回数券のみ、共通乗車用に発行した事例がある。(例 古川駅 - 吉岡 (大和町)間の国道4号線一般道を走っていた 国鉄バス(当時)古川線の一部・宮城交通(当時)相互での発行)", "title": "定期回数券" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "乗車券を購入する場合、運賃に距離逓減制を採用している場合には乗車券の分割購入を行うと全区間非分割の運賃(通しの運賃)より通常は高くなる。しかし、経路の一部区間に割安の特定運賃を採用している場合や、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合においては、全区間を分割しないで購入するよりも特定の地点で分割して購入する方が運賃計算上割安になる事例が存在する(非分割の場合は全区間で特定運賃が非適用になったり、割高の価格帯で算出されることがある)。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "大都市近郊のJRにおいて、競合する私鉄が存在する区間(特定運賃区間)とそれ以外の区間を通して移動する場合に、特定運賃区間分とそれ以外の区間分に分けた運賃の合算の方が全区間を分割しないで乗車券を購入するよりも安い場合が多数あり、上記の事例として挙げられる。また、JRの定期運賃の算出は表引き方式であるが、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合があり、その価格帯にあるキロ数のもっとも多い区間同士で分割した場合に、それらを合算した場合の定期運賃額より低廉になる場合があり、同じく上記の事例として挙げられる。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "分割購入は合法的であり、規約に反せず、かつ利用者も割安となる手法であるが、分割地点を必ず経由する必要があることから、突発的な状況により選択された経路を経由できない場合では別途通常運賃を要することとなる。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "Suica・ICOCA・PASMOなどのIC乗車券では2枚以上の定期券情報を載せることが可能であり、特にSuica・ICOCAでは上記のような区間を分割しての購入が可能である。また、1枚で発行できない経路(T・Y・X状になる)であれば、二区間定期券という形で発行が可能である。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "ただし、一部区間に長期間の不通が生じた場合など、分割購入していると不利益を被るリスクもある。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "これとは逆に、バスにおいて全線定期乗車券を発行している事業者では分割購入を使用しない方が安くなる場合もある。一例を挙げると、A地点 - B地点までバス、B地点 - C地点まで鉄道、C地点 - D地点までバスを利用するとする。この場合、バスの全線定期乗車券の利用範囲にA地点 - B地点およびC地点 - D地点の両方が含まれていれば各地点間の定期券の分割購入よりも全線定期券の購入が安くなる事例も地区により発生している。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "主に、次のようなパターンがある。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "運賃は、一枚ずつ分割で持った場合と同じ、すなわち合算額である。 T字経路の場合、例えば、上記の場合、発券できる区間の組み合わせとして、(1)戸塚 - 藤沢+大船 - 鎌倉、(2)戸塚 - 鎌倉+大船 - 藤沢、(3)鎌倉 - 藤沢+大船 - 戸塚の3通りがある。それぞれの組み合わせの運賃は、通勤1か月の場合、(1)6930+5350=12280 (2)6300+5350=11650 (3)5670+4730=10400 となるが、運賃の高低に関わらず旅客が希望した組み合わせで発券される。原則として計算方式は合算方式である。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "西武鉄道は、西武線豊島園および西武池袋線中村橋以西(西武狭山線および西武秩父線ならびに西武新宿線小平 - 本川越間を含む)から練馬 - 池袋を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>ならびに東急線の渋谷以南/以西のいずれかの区間の定期券で練馬を分岐駅として練馬 - 池袋間を西武有楽町線小竹向原駅経由東京メトロ有楽町線(副都心線)と西武池袋線の双方を利用できる2区間定期券(特殊連絡定期券)の「だぶるーと」と、高田馬場を分岐駅に、西武線下落合以西 - 西武新宿とJR高田馬場 - 新大久保以南のJR線新宿方面との組み合わせとなる2区間定期「Oneだぶる」を発売している。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "なお、「だぶるーと」は、合算方式ではない。なお、「だぶるーと」の場合、券面に表示される区間は西武線豊島園または西武線中村橋以西 - 西武池袋と西武線練馬 - 新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>・渋谷以南<東急東横線>/以西<東急田園都市線>のいずれか(西武有楽町線小竹向原経由東京メトロ線・東急線)となる。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "東武鉄道でも、東武東上線朝霞以西から和光市 - 池袋間を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>のいずれかの区間の定期券で、和光市を分岐駅とし和光市 - 池袋間を東武東上線と東京メトロ有楽町線(副都心線)の双方を利用できる2区間定期券「二東流」を発売している。なお、券面に表示される区間は、朝霞以西 - 東武線池袋とメトロ線和光市 - (新大塚以東・東池袋以東・雑司が谷以南のいずれか)となる。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "小田急電鉄では、東北沢以西から代々木上原を分岐駅として、東京メトロ各駅発着区間を代々木上原から東京メトロ千代田線を経由する区間または小田急線新宿を経由する区間の双方を利用できる2区間定期券を「小田急・東京メトロ PASMO 二区間定期券」の名称で2016年3月26日から発売している。なお、券面には東北沢以西 - 東京メトロ各駅 [代々木上原 - 新宿間乗降可能]と表記される。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "JR東日本は、区間の特定はなく発売している。なお、2012年3月17日より、Suicaでの発売を開始し、さらに、連絡会社線を最大2社まで絡めて発売する。", "title": "分割購入" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "JR西日本は、ICOCAのみで、ICOCAエリア内完結で、連絡会社線の絡まない経路を発売する。", "title": "分割購入" } ]
定期乗車券(ていきじょうしゃけん)とは、鉄道・バスなどの公共交通機関において、通勤・通学を主に特定の区間を繰り返し乗車する乗客を対象として、一定の期間を区切って発行される乗車券である。一般的に定期券(ていきけん)または定期(ていき)と略して呼ばれる。
{{複数の問題 |出典の明記 = 2018年3月 |独自研究 = 2018年3月 |内容過剰 = 2021年9月 |更新 = 2021年9月<!--記載されている券が現在も発売されているか、金額が正しいか等--> }} [[ファイル:Monthly ticket JNR Machida Fuchinobe.jpg|thumb|定期乗車券の例(旧[[日本国有鉄道]])]] [[ファイル:通学定期券.jpg|thumb|[[磁気]]定期乗車券の例([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])]] '''定期乗車券'''(ていきじょうしゃけん)とは、[[鉄道]]・[[バス (交通機関)|バス]]などの[[公共交通機関]]において、[[通勤]]・[[通学]]を主に特定の区間を繰り返し乗車する乗客を対象として、一定の期間を区切って発行される[[乗車券]]である。一般的に'''定期券'''(ていきけん)または'''[[定期]]'''(ていき)と略して呼ばれる。 == 概要 == 定期[[乗車券]]の[[運賃]]は、券面記載経路を、[[普通乗車券]]で有効期間内に1日1往復する場合の額より安価に設定されている。 利用には、券面記載[[氏名]]の本人が使用する場合のみ有効とする'''記名式'''<ref group="注釈">乗り降り自由のフリー乗車券などの一部でも記名式を採用している。</ref>が原則である。事業者によっては乗車時の所持者であれば誰でも有効とする'''持参人式'''を設定している場合がある。 基本的に紛失した場合は同一内容で再発行は出来ず、再度新規で購入する必要があるが、ICカード形式で発行した場合は手続きを行うことで再発行が可能であり、紛失したカードを無効にする事ができる。 定期乗車券は運賃体系に合わせて導入されている。[[日本]]においては、原則として券面記載経路しか乗車することができず、普通乗車券などで認められている[[選択乗車]]などのルールも一部を除き適用されていないが、その経路内の[[鉄道駅|駅]]([[バス停留所|停留所]])であれば、原則として下車や乗車が可能である。イギリスのロンドン地下鉄などでは特定区間ではなくゾーン制の運賃となっており定期券も「ゾーン1内7日間有効」や「ゾーン2-3内1か月間有効」のような形態で発行される<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/173818?page=2 東京の満員電車対策は「ロンドン」に学べ ] 東洋経済、2019年7月7日閲覧。</ref>。 [[自動改札機]]の普及に伴い、[[Suica]]、[[PASMO]]などの[[ICカード乗車券|ICカード]]に定期券の情報を記録して、読み取り部分にタッチ(接触)させるだけで利用できるICカード式の定期乗車券も多い。この形式の乗車券は乗客の利便性を図るだけでなく、乗車券の[[偽造]]防止や専用改札口を設けることによる自動改札機本体の省力化など、事業者側にもメリットがある。 なお、定期[[航路]]を持つ船舶の場合、定期乗車券と同様の扱いの'''定期乗船券'''(ていきじょうせんけん)を発行している場合がある。通学定期乗船券を発行している航路もある<ref>例:[http://www.city.kagoshima.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/aq70210661.html 鹿児島市一般旅客定期航路事業使用料条例]</ref>。[[駐車場]]の繰り返し利用に対して'''定期駐車券'''が発行されることがある<ref>例:[http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/dorokan/kanri/teikichuusya.html 沖縄県・定期駐車について]([[沖縄県]]、2015年11月4日閲覧、2014年3月20日更新)</ref>。 == 歴史 == === イギリス === 鉄道発祥の国である[[イギリス]]では20世紀に入り馬車鉄道は市街電車、乗合馬車は乗合自動車となり、地下鉄道も電化されるなど現代の交通機関がほぼ確立された<ref name="UK" />。都市の拡大により労働者は都市の外周部にまで進出したが、安くて便利な市街電車が鉄道の近距離客を吸収した<ref name="UK" />。一方、鉄道会社はさらに外縁地域の開発に力を注ぐとともに、定期乗車券の発行などにより交通手段の利便を図ったことで、中流階級を中心とする居住地は更に拡張された<ref name="UK">清水正之、「[https://doi.org/10.5632/jila1934.31.4_12 イギリスの緑地帯政策に関する史的考察]」 『造園雑誌』 1967年 31巻 4号 p.12-18, {{doi|10.5632/jila1934.31.4_12}}</ref>。 === 日本 === 日本における鉄道定期乗車券は[[1873年]]([[明治]]6年)5月、新橋・横浜間の上等車旅客に対し3か月(後に90日)の「常乗切手」を120円(この区間の片道運賃は1円12銭5厘)で発行することを計画したのが最初である<ref name="名前なし-1">日本国有鉄道100年史 巻1 468頁</ref><ref>国立公文書館 太政類典・第二編・明治四年 - 明治十年・第百八十一巻・運漕七・陸運鉄道一 常乗切手ヲ製ス・二条</ref>。この計画は6月5日、[[太政大臣]]から正式に認可も受けたが、実施前になぜか中止となり、実際には発行されなかった。次いで1874年(明治7年)7月、大阪・神戸間の上等および中等旅客に対して3・6・9・12か月の「期限切手」が計画され、7月18日に[[伊藤博文]][[工部省|工部卿]]から認可されたが、こちらも実施には至らなかった<ref name="名前なし-1"/>。 実際に日本初の定期乗車券としては、[[1886年]](明治19年)1月1日「定期乗車券発行規約」の実施により上等および中等の旅客に対して、1・3・6・12か月の4種類が新橋・横浜間の特定の駅間(全部の駅間相互ではない)で発売され<ref>日本鉄道史 上 89頁</ref>、1890年(明治23年)7月には、新橋および横浜を中心に発売範囲が拡大された。近畿地方では1887年(明治21年)5月に神戸、大阪、京都、大津の各駅で発売された。どちらも下等旅客に対しては発売されず、その理由は不明である。下等旅客に対するものは1895年(明治28年)3月1日から発売された学生定期乗車券が最初で、通用1か月のものが発売された。また、まだ発売は1・2等のみであったが、指定した駅間相互の運賃が個別に定められ発行されていた定期券は、1898年(明治31年)11月からマイルごとの運賃によるものに改められた<ref>日本鉄道史 中 186頁</ref>。のち1899年(明治32年)からは3等(従来の下等)に対する普通定期乗車券が発売された。 [[通勤]]用の職工定期券は1908年(明治41年)3月11日から、普通定期券に対して特定の[[海軍工廠]]に勤務する職工に、あらかじめ決められた駅から最寄り駅(横須賀、田浦、呉のみ。佐世保と舞鶴は除外)に割り引き運賃で発売されたのが最初である<ref>{{アジア歴史資料センター|C06092127700|職工定期乗車割引の件}}</ref>。その後、1918年([[大正]]7年)7月6日から職工定期券の名称で1か月通用3等のみが発売されたが、1922年(大正11年)3月21日の改正からは3か月も発売されるようになった<ref>日本国有鉄道100年史 巻8 51頁</ref>。発売の対象となる勤務先は海軍工廠の外、軍需に関係のある工場([[日立造船|大阪鉄工場]]、大阪[[汽車製造]]、[[日本製鉄関西製鉄所製鋼所地区|住友鋳鋼場]]、[[住友電気工業|住友電線製造所]]、[[三菱重工業神戸造船所|三菱造船神戸造船所]])だけであり、発着駅や区間、乗車する列車や車両が指定されるなど制約の多いものであった<ref>日本国有鉄道100年史 巻5 471頁</ref>。 1918年(大正7年)7月6日には「定期券規程」が制定され、運賃の割引率の整理が行われ、この時から12か月通用の学生定期券が発売された<ref>[[官報]]第1778号 大正7年7月6日 鉄道院告示第53号</ref>。1921年(大正10年)の鉄道開通50周年に合わせて規程類の整理・統合・改訂を行うため、1920年(大正9年)10月に「[[日本国有鉄道|国有鉄道]]旅客及荷物運送取扱規則」を制定し、さらに同年12月「国有鉄道旅客及荷物運送取扱細則」を制定、いずれも翌10年1月11日から施行した。この時に普通定期の1等が廃止されている<ref>日本国有鉄道100年史 巻8 11頁</ref>。 国鉄自動車に対する定期乗車券は、1930年(昭和5年)12月17日「国有鉄道旅客及荷物運送規程」および「国有鉄道旅客及荷物運送細則」の改訂で自動車定期乗車券が定められた。通用期間は1・3・6・12か月で、さらに1934年(昭和9年)11月15日には1・3か月の通学自動車定期乗車券が制定され、従来の自動車定期乗車券は自動車普通定期乗車券と改称した<ref>日本国有鉄道100年史 巻8 438頁</ref>。 1932年(昭和7年)になると、[[第一次世界大戦]]の好景気の時期である1921年(大正10年)に制定された規程が[[昭和恐慌]]の時期に合わなくなり、同年6月に大改訂が行われた。「旅客及荷物運送規則」が制定されて8月1日から施行された<ref>官報 昭和7年6月6日号外</ref>。この時、職工定期乗車券の3か月が追加され、定期券購入の条件が「[[工場法 (日本)|工場法]]または鉱業法の適用を受け且つ[[鉄道省]]の指定したもの」に拡充された。 1937年(昭和12年)6月1日改正では、普通定期の12か月定期が廃止された<ref>日本国有鉄道100年史 巻10 718頁</ref>。さらに1943年(昭和17年)、6か月普通定期および12か月学生定期が廃止された。 1943年(昭和17年)4月1日の改正では、既に学生定期乗車券のみであった12か月通用定期券が廃止された。職工定期券については工員定期乗車券と名称が改められ、購入条件が国民労務手帳法による国民労務手帳所持者に拡大され、6か月定期券も発売された。これによって定期乗車券は、普通、学生、工員の3種類で、通用期間は1・3・6か月だけに統合された<ref>日本国有鉄道100年史 巻11 731頁</ref>。 [[太平洋戦争]]後、1946年(昭和21年)3月1日からは、工員定期券と学生定期券を統合して、特殊定期(工員用特殊定期乗車券と通学用特殊定期乗車券)とし、普通定期券との2本立てになった<ref>日本国有鉄道100年史 巻10 750頁</ref>。戦後、[[蒸気機関車]]の燃料に使われる[[石炭]]の不足による輸送力の逼迫は深刻なものとなり、炭鉱労働者の輸送・乗車を確保するため、1945年(昭和20年)12月1日から、蒸気列車区間の通学定期の使用停止や、通学を目的とする定期乗車券の発売停止(12月21日)などが一時的に行われた<ref>日本国有鉄道100年史 巻10 758頁</ref>。 さらに[[インフレーション|インフレ]]もすさまじく、1947年(昭和22年)7月1日には3倍半という大幅な値上げが実施されるとともに、工員用特殊定期乗車券を普通定期乗車券に統合して通勤定期乗車券とし、学生用特殊定期乗車券を通学定期乗車券と改称した<ref>日本国有鉄道100年史 巻10 754頁</ref>。 1953年(昭和28年)1月15日になると、誰でも自由に購入出来る1・3か月の普通定期乗車券が発売されたが、2等通勤定期乗車券は廃止となった<ref>日本国有鉄道100年史 巻13 82頁</ref>。これにより、定期券は自由に購入出来る普通定期乗車券、勤務先の発行する身分証明書が必要な3等通勤定期乗車券、通学証明書が必要な通学定期乗車券(3等用)の3種類となった。同時に上記に定期券のほか、東京電車環状線内(東京山手線内)に通用する1か月の3等均一定期乗車券が新設された。1960年(昭和35年)7月1日から実施された改定では、2等級が採用され、従来の2等は1等に、3等は2等に等級呼称を変更した<ref>日本国有鉄道100年史 巻13 90頁</ref>。1966年(昭和41年)3月5日改正では普通定期乗車券が廃止され、通勤定期乗車券を1等通勤定期乗車券と2等通勤定期乗車券とし、[[身分証明書]]の提出も廃止して誰でも購入出来るようになり、おおむね現在の定期券制度ができあがった。2等の通勤定期乗車券および通学定期乗車券は1・3・6か月が発売され、2等の通勤定期乗車券は1・3か月が発売された<ref>日本国有鉄道100年史 巻13 100頁</ref>。 1969年(昭和44年)5月1日の改正で1等が廃止されて[[グリーン車]]となり、従来の1等通勤定期乗車券はグリーン定期乗車券と名称変更され<ref>日本国有鉄道100年史 巻13 106頁</ref>、その後の定期券制度が基礎がおおむね確立した。 == 各国の定期乗車券 == === 日本 === ==== JR ==== [[JR]]の[[旅客営業規則]]において規定されている定期乗車券の種類は、通勤定期乗車券、通学定期乗車券、特別車両定期乗車券、特殊均一定期乗車券の4種である。 日本の鉄道は定期券客の占める比重が大きく、[[国土交通省]]が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によるとJR各社合計の輸送人員の62%が定期券客となっている<ref name="toyokeizai122641">[https://toyokeizai.net/articles/-/122641 路線別「通勤定期&通学定期比率」ランキング] 東洋経済オンライン、2019年2月13日閲覧。</ref>。 ==== その他の鉄道 ==== JR以外の[[私鉄]](民鉄)、[[地下鉄]]、[[第三セクター鉄道]]でも基本的には通勤定期乗車券と通学定期乗車券の2種類が発行される場合が多い。JRと同様に定期乗車券で利用可能なのは、原則として特別料金不要の列車の普通車のみであるが、有料で運行される[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]列車と[[特別席]](指定席)については、それに対応する料金を支払えば乗車できる場合が多い。 事業者によって定期券の割引率は異なるが、首都圏の大手民鉄の場合、普通運賃が低い水準にあるので通勤定期の場合はJRよりも割引率が低く40%弱(1か月に約19往復しないと元が取れない)が多い。地下鉄に至っては30%程度(1か月に約21往復しないと元が取れない)となっている。これに対して、通学定期は割引率が高く77% - 80%前後(1か月に約7往復すれば元が取れる)の事業者が多い。東京地下鉄や都営地下鉄の割引率は約65%(通勤定期の約半額・1か月に約10往復すれば元が取れる)である。近畿の大手民鉄でも通学定期の割引率は高く、中でも[[近畿日本鉄道]]の場合は66km以上の区間(鶴橋 - 名張間など)については1か月にわずか3往復するだけで元が取れるような設定になっている。 第三セクターや地下鉄の場合は割引率が低い傾向にあり、バス並みの割引率(通勤定期で約30%・1か月に約21往復しないと元が取れない)しかない事業者も存在し、勤務形態や日数によっては却って定期券を購入することが損をする場合が生じる可能性がある。一例として[[北総鉄道]]では通勤定期の割引率が約27%(43回乗車相当分・端数切上、2月分は25%)に対して、日中回数券・土休日回数券は約33.3%と回数券の方が安い。2000年代以降はこの点を考慮して[[平日]]のみ利用可能な定期券を発売している事業者([[近江鉄道]]や[[遠州鉄道]]など)もある。値下げ後の北総鉄道の通勤定期最高額は34440円でこれは北総と同程度の営業キロを運営する[[長野電鉄]]や[[上信電鉄]]よりも高く、[[東武鉄道]]では120km相当の金額となっている。 地方私鉄の場合は区間によってまちまちなのが多く、長距離になる程割引率が高くなる傾向がある他、通学用に年間定期も発売されていることが多い。一例として長電や上信は短距離帯は40回前後の設定だが、全線運賃は1200円弱に対して通勤定期は30000円強と約30回乗車相当と半額近くに設定されており、北総鉄道よりも安くなっている。 [[大阪市高速電気軌道]]の「地下鉄・[[いまざとライナー]]連絡」1区が普通運賃の45回相当(端数切上)で一番高いとされているが、区数が上がると割引率も上がるので5区では34回分となっている。時点は値下前の北総が一律でIC運賃43回分相当。値下後の北総と[[豊橋鉄道]]は一律42回相当になっている。最安は[[東京モノレール]]の6区で23回乗車相当分となっており、1区でも30回相当なので半額近くとなっている。[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]も定期比率が低いせいか30回分相当である。平均割引率では[[黒部峡谷鉄道]]の59.6 %と通勤定期においては国内最高割引率となっている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/349046?page=2 全国1位は「超」意外、定期券割引率ランキング] - 東洋経済オンライン、2020年5月11日</ref>。黒部峡谷鉄道では定期券を通勤や通学などに分けていない。ただし、[[東洋経済新報社|東洋経済]]などの書籍・メディアでは便宜上「通勤定期」としている。 また、きわめて稀ではあるが、割引運賃や加算運賃との兼ね合いで、定期券を買わずに31往復するほうが1か月定期券を買うより安い区間も存在する。たとえば、[[多摩都市モノレール]]の1駅110円で乗車できるが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券のほうが30往復より高額となっている。[[沖縄都市モノレール]]<ref>[http://www.yui-rail.co.jp/howto/ticket.html 乗車券の種類] 沖縄都市モノレール、2014年1月25日閲覧。</ref>では[[OKICA]]限定で隣接駅まで150円で乗車できる「おとなりきっぷ」が導入されているが、定期券については隣接駅であっても通常の1区として計算するため、1か月定期券とほぼ同程度の58回乗車相当分なので、2月分に関しては定期券のが高額となっている。その他、[[東京地下鉄]]全線定期(17300円)は東京地下鉄一日乗車券(710円・25回分)を踏襲したままで「[[東京メトロ24時間券]]」(600円)に値下げしても全線定期代はそのままだったので29日分となっているので、殆ど割引が無い状態で2月分に関しては24時間券28枚よりも高くなる。 運賃計算に使用する運賃表の距離区分については、普通乗車券と同一の事業者(例:[[京王電鉄]]<ref>[https://www.keio.co.jp/train/teiki/yoyaku/R2010 京王電鉄公式サイト]</ref>)と、普通乗車券よりも区分を細かく設定する事業者(例:[[東武鉄道]]<ref>[http://www.tobu.co.jp/station/ticket/pdf/unchinTable.pdf 東武鉄道公式サイト]</ref>)とが存在する。[[西武鉄道]]や北総鉄道(値下げ後)のように通勤は普通運賃と同一キロ程を用いるが通学定期は1キロ毎と言う事業者もある。[[南海電気鉄道]]の様に定期券と普通乗車券でのキロ程の分水嶺が異なるケースや、[[京阪電気鉄道]]の様に京阪線と京津線で運賃形態が異なっても定期運賃は同一形態を採用する事業者もある。 発売期間は1・3・6ヶ月が基本で、3ヶ月は5%引、6ヶ月は10%引が多い。 中には2・4・9・12ヶ月の他、学期毎の発売もある。9ヶ月は15%引、年間は20%引が多いが[[東急電鉄]]の年間定期は6ヶ月を踏襲している。 但しこれらの定期は自社線内限定が多く、他社線との連絡定期では買えないことが多い。 近年はIC化により紛失再発行が可能となった他、ひたちなか海浜鉄道も年間定期については顔写真付きなので紛失再発行が可能となっている。 <!-- 発売拠点については発売の節に移動 --> 国土交通省が公表している「平成25年度鉄道統計年報」によると、最も定期券比率の高い私鉄路線は[[養老鉄道養老線]]の79%だった<ref name="toyokeizai122641" />。なお、利用者の多い大手私鉄16社および各都市の地下鉄の計87路線で最も定期券比率の高い私鉄路線は[[東武越生線]]の77.4%だった<ref name="toyokeizai122641" />。 ==== 路線バス ==== [[ファイル:Monthly ticket Kanachu.jpg|thumb|バスの定期乗車券の例 ※氏名の部分は画像修正([[神奈川中央交通]])]] 定期乗車券の種類は鉄道用とほぼ同じである。だが、バスの定期乗車券は電車の定期乗車券のように磁気加工がされておらず、乗務員に定期乗車券を提示するという形になっている<ref group="注釈">ただし、近年ではIC乗車券カードを導入した事業者を中心にIC定期乗車券に切り替える事業者も出てきている。</ref>。一般的に通勤<ref group="注釈">「普通定期」と称する事業者もある。</ref>・通学・小児および各障害者定期券が発行されている。そのため、通常の定期券についての解説は省略する。それに対し、バス以外の公共交通ではあまり見られない種類の定期乗車券が一部事業者から発行されている。通学定期券は鉄道と同じく通学用途・区間に限る事業者が多いが、[[遠鉄バス|遠州鉄道]]や[[名古屋市営バス|名古屋市交通局]](2010年度より)の様に用途・区間を限定しない事業者もある。 バスの通勤定期の割引率は30%前後の事業者が多く、1か月当たり約20往復しないと元が取れない場合がある<ref group="注釈">ただし、直通バスのない区間で同一事業者のバスを乗り継ぐ場合運賃の通算や乗り継ぎ運賃の設定があるためこの限りではない。また、均一運賃区間のバスを1日に数回乗車するときは定期券で元が取れることもある。</ref>。よって、割引率が高い[[回数乗車券|回数券]]やバスカード類が発行されている地区では、定期券による運賃がこれらの利用時に比べて上回る場合がある<ref group="注釈">過去の運賃形態や週6日制などが原因の場合もある。http://d.hatena.ne.jp/Utori_Z/20121007/1349582854 </ref>。ただし、通学定期で利用する場合はこの限りではない。 日本一高額な路線バス定期券は、[[奈良交通]]の[[八木新宮特急バス]]・[[大和八木駅|八木駅]] - [[新宮駅]]間の通勤6か月定期券(94万4460円)である<ref group="注釈">両停留所間を直通する便は一日3往復のみで片道6時間半かかるため、2013年時点、新宮駅5:53→12:21八木駅13:45→20:19新宮駅の便を利用しない限り、その日の内に両停留所間を往復できない。</ref>。実際に発売可能かはともかく同社のWebには当該定期券の料金が掲載されている。<ref>{{Cite web|和書|title=定期運賃早見表 - 奈良バスなびweb |url=https://navi.narakotsu.co.jp/commuter_fare/ |website=navi.narakotsu.co.jp |access-date=2023-02-23}}</ref><!-- 神奈川中央交通の小田原駅から八王子駅南口のが高額だという意見が出ましたが、HPからは定期代が確認できないためコメントアウトしております。単一事業者で関東一では間違いないと思われますが。--> [[京阪バス]]では、かつて設定されていた[[くるっとBUS]]において、専用定期券「くるっとマンスリーパス」を通常定期運賃9,240円相当の区間を3,000円で発行していた。ただし乗車可能なバスは、くるっとBUS全便と一部指定運行経路で一部の時間帯のみ乗車可能なものであったが、くるっとBUS廃止によりこの定期券も廃止となっている。 区間式定期券が一般的であったが、券面の表示される特定の均一運賃区エリアで利用できる定期券に加え、ICカード乗車券の普及によって、2011年4月に京王バスが多区間路線において「'''金額式定期券'''」の利用を開始した。券面の金額以内の運賃区であればどの路線でも利用ができるというもので、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。 ====リムジンバス・高速バス==== [[リムジンバス]]や[[高速バス]]においても定期乗車券を発行している例もある。 * [[京成バス]]・[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]・[[関東鉄道]]・[[ジェイアールバス関東]]では、[[かしま号]]や[[アクアライン]]など千葉県内〜東京都内を中心に、1・3か月定期券を発行している。金額は平行するJR運賃の1.5倍程度の金額。 * [[福島交通]]・[[新常磐交通]]・[[会津乗合自動車]]では、[[会津若松 - 郡山 - いわき線]]において定期券の発売が行なわれている。 * [[西日本鉄道]]では[[ひのくに号]](福岡・福岡空港 - 熊本線)と[[わかくす号]](福岡 - 佐賀線)において1か月定期券を発売している<ref>{{Cite web|和書|title=ひのくに号・わかくす号定期券のご案内|高速バスのご利用案内|高速バス情報|バス情報|西鉄グループ |url=https://www.nishitetsu.jp/bus/highwaybus/guide/hinokuni/ |website=西鉄グループ |access-date=2022-04-20 |language=ja}}</ref>。また、福岡 - 北九州・直方・行橋方面と福岡空港 - 久留米・佐賀・日田方面については、1・3・6か月の定期券が発売されている<ref>{{Cite web|和書|title=高速バス定期券運賃一覧表|高速バスのご利用案内|高速バス情報|バス情報|西鉄グループ |url=https://www.nishitetsu.jp/bus/highwaybus/guide/highwaylist/ |website=西鉄グループ |access-date=2022-04-20 |language=ja}}</ref>。ひのくに号については共同運行を行う[[九州産交バス]]も発売を行う。 * [[ジェイアールバス関東]]では、マロニエ号東京・新宿ー佐野線の同区間において、1か月フリー定期券を発売している。(2013年3月1日までの試験導入で開始されたが、期限を2014年3月1日まで延長したのち、本格導入に至った) * [[明光バス]]・[[和歌山バス]]では、白浜・和歌山線のみ定期券の発売が行なわれていた。 * [[新潟交通]]では、県内高速バスの定期券を「紙式」のみ販売している。(共同運行会社は各社において確認が必要)[https://www.niigata-kotsu.co.jp/~noriai/highway-bus/intra-pref/unchin/kousoku_teiki.pdf] === 台湾 === [[台湾]]では[[台湾のバス交通|一部バス会社]]や[[台湾鉄路管理局]]、[[台湾高速鉄道]]、[[高雄捷運]]、[[台北捷運]]、[[桃園機場捷運]]において定期券が存在する。 ;台湾鉄路管理局 :磁気券、非磁気券([[自動改札機]]未設置駅発売)の2種類があり、有効期限はともに30日、60日('''乗車回数制限なし''')である。かつては、券種によって有効期限が異なっており、磁気券は2か月(50回制限)と、5か月(150回制限)の2種類が発売されていた。その後、非磁気券と効力を同一にした。無記名、持参人式で、列車種別に関係なく、全ての列車([[普快車]]・[[区間車]]・区間快車・[[莒光号]]・[[自強号]]含て)に乗車することが出来る(団体、[[観光列車 (台湾)|観光列車]]、[[太魯閣号]]、[[普悠瑪列車|普悠瑪号]]除く)。ただし[[対号列車]]でも座席指定は出来ず、空席利用となる。 ;台湾高速鉄道 :ICカード式の「定期票」がある。記名式で裏面に本人の写真がついている。30日間有効で'''乗車回数制限なし'''に自由席を利用することが出来る。 ;高雄捷運 :2010年から2013年まで数度にわたり、ICカード式の「30天高雄幸福カード」<ref>{{Zh-tw icon}}[http://www.nownews.com/n/2010/11/30/603390 (nownews/2010年11月30日)高雄捷運「30天漫遊卡」享無限搭乘 經濟又實惠]</ref>、「30天漫遊カード」<ref>{{Zh-tw icon}}[http://www.epochtimes.com/b5/11/8/5/n3335945.htm (大紀元/2011年8月5日)高捷幸福卡 30天無限搭]</ref>、「999幸福カード/799学生幸福カード」<ref>{{Zh-tw icon}}[http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/673733 (自由時報/2013年4月25日)〈南部〉《幸福卡5.3停發》高捷轉乘公車 改半價收費]</ref>などを発売していた。30日間有効で'''乗車回数制限、区間制限なし'''に全線利用することが出来る。また捷運だけでなく、市内バス(市営、民営)にも乗車することが出来る。2013年5月以降は記名式の[[一カー通|一卡通]]にその役割を譲った<ref>{{Zh-tw icon}}[https://www.i-pass.com.tw/About/Mileage (一卡通公司)重要里程]</ref>。 :2016年8月より'''発着駅指定、回数無制限'''の30日有効の記名式定期を新たに発売する<ref>{{Zh-tw icon}}[http://www.appledaily.com.tw/realtimenews/article/new/20160809/925361/ (蘋菓日報/2016年8月9日)高捷搶通勤族 推學生認同卡最低4折起]</ref>。 ;台北捷運 :2018年4月16日より、購入日から30日間、台北捷運、[[新北捷運]]、台北市内バス、新北市内バスに'''乗車回数制限、区間制限なし'''に乗車できる定期票を発売。また、[[レンタサイクル]]の「[[YouBike]]」も、最初の30分間の料金が無料になる。顧客の所持する[[悠遊カード]]にデータを記録する形で発売する。 ;桃園機場捷運 :初回乗車時から30・60・90・120日間、桃園機場捷運の直達、普通列車に'''発着駅指定、回数無制限'''に乗車できる定期票を発売。 ;バス :バス会社によって、発売券種や乗車回数制限、有効期限が異なる。鉄道とは異なり、多くは記名式である。以前は紙式であったが、近年は悠遊カード、一卡通のシステムを利用したIC定期券が導入されている。 === 大韓民国 === [[大韓民国]]では[[韓国鉄道公社]](KORAIL)の高速列車([[韓国高速鉄道|KTX]])・一般列車、[[SR (企業)|SR]]、[[首都圏電鉄]]、[[仁川国際空港鉄道|空港鉄道]]([[青羅国際都市駅|青羅国際都市]] - [[仁川国際空港2ターミナル駅|仁川国際空港2ターミナル]]間)、[[釜山交通公社]]において定期券が存在する。基本的に1か月定期券のみの発行となるが、釜山交通公社は7日券、SRは10日券も存在し、KORAILは10日 - 1か月の期間内で利用者が自由に選択できる。 日本とは異なり、有効期間の他に乗車回数が制限されており、日本におけるバスの定期回数券と同じような乗車券である。乗車回数は首都圏電鉄・釜山交通公社が60回(7日券は20回)、空港鉄道(青羅国際都市 - 仁川国際空港2ターミナル)が55回となっている。首都圏電鉄、釜山交通公社のものは、区間が指定されていない発駅フリータイプとなっている。また首都圏電鉄においては、[[ソウル地下鉄]]全線([[ソウル交通公社7号線|7号線]][[温水駅|温水]] - [[富平区庁駅|富平区庁]]間を除く)、[[ソウル軽電鉄牛耳新設線]]、KORAIL(電鉄)・空港鉄道の[[ソウル特別市]]内区間が利用可能な「ソウル専用定期券」、仁川交通公社全線([[仁川都市鉄道1号線]]、[[仁川都市鉄道2号線]])利用可能な「仁川都市鉄道専用定期券」も発売している。 KORAIL、SRの定期券は上記とは異なり、SRは1日2回の回数制限が付く。またKORAILの「週中定期券」の場合、土日祝日は利用できない。一般用と青少年用(学生用ではない)の2種類があり、列車種別ごとに発売される(下位種別の列車も利用可能)。SRの場合、購入時にあらかじめ乗車する列車を指定する必要がある。基本的には指定列車に限り有効となるが、指定列車に乗車できなかった場合に限り、指定列車の前後、及び1時間以内に出発する列車への乗車も特例として認められる。KORAIL、SRともに座席指定はできないため、自由席、立席利用となる。ただし、KTXに限り1日2回、利用区間の普通運賃の15%を支払い座席指定が可能。 地下鉄では、定期券専用ICカードを購入し、券売機でチャージ(定期券情報の記録)して利用するが、KORAIL、SRは専用のアプリでのみ発売。 === イギリス === [[イギリス]]では[[ロンドン]]および、その近郊では定期乗車券のかわりに{{仮リンク|トラベルカード|en|Travel card}}がある。最大の特徴は特定の乗車駅、降車駅、乗車区間が指定されないかわりに、ゾーン制で値段が決まる点である。中心部をゾーン1として、そこから放射線状にひろがり、[[ドーナッツ]]のような形でゾーン2、ゾーン3などと決まっている。さらに、地下鉄に限らずバス、ゾーン内にある[[路面電車]]や他の一部の電車にも乗車可能である<ref>http://www.tfl.gov.uk/tickets/faresandtickets/10628.aspx(英語)</ref>。 === 香港 === [[香港]]では[[香港MTR]]と合併する以前の[[九広鉄路公司]]路線である東鐵線および西鐵線、また連絡バスとLRTに限定した1か月間有効パスが存在するが、定期券という形ではなく、ICカード「[[八達通|オクトパス]](八達通)に定期利用情報を書き込むタイプのものである。 それ以外の区間においては定期乗車券制度自体が存在しないが、「オクトパス」利用者については、現金利用よりも運賃が優遇される制度となっている<ref>{{PDFlink|http://www.mtr.com.hk/eng/whatsnew/images/monthly_day_pass.pdf}}</ref>。 === シンガポール === [[シンガポール]]では[[マス・ラピッド・トランジット|MRT]]、LRT、バス全路線が期間中無制限に利用できる「エンハンスト・シーズンパス」と、バスは無制限だが鉄道の利用が1日4乗車に制限される「ベーシック・シーズンパス」の2種類があり、価格が異なる。定期券という形ではなく、ICカード「Ez-link」に定期利用情報を書き込むタイプのものである<ref>http://www.ezlink.com.sg/consumer/consumer_ispabout.jsp</ref>。 ただし、価格が190SGD(エンハンスト・1か月)と比較的高額であり、長距離高頻度利用者でなければ、定期契約でなく通常のEz-Linkカードに入金して利用した方が月額ベースであっても廉価となることが多い<ref group="注釈">これは、シンガポールの運賃制度の都合上、乗り継ぎ割引制度が充実していることや、2010年7月3日から一斉導入される総距離方式による運賃制度によるさらなる運賃低減(一連の旅程で最大運賃が2ドル10セント程度となる見込み)の影響が大きい。</ref>。 === アメリカ合衆国 === [[ファイル:Los Angeles Railway Weekly Pass 1944.jpg|thumb|[[ロサンゼルス鉄道]]のウィークリー・パス(1944年10月29日から11月4日まで有効)]] [[ニューヨーク市交通局]]、[[シカゴ交通局]]など、一部の公共交通機関において、1週間、1か月などの期間内に何度でも乗り降りできるコミューター・パス(通勤定期)を発売している。長距離旅客列車を運行する[[アムトラック]]には原則として設定がないが、[[北東回廊]]の[[ノースイースト・リージョナル]]や[[シカゴ]]近郊各線、[[アムトラック・カリフォルニア]]の各線など一部の中近距離列車に限って1か月定期券を発売している<ref>{{cite web | title=Multi-Ride Tickets | author=アムトラック公式ウェブサイト | url=https://www.amtrak.com/multi-ride-tickets?WT.z_va_evt=redirect&WT.z_va_topic=Make%20a%20Reservation%20and%20Fares&WT.z_va_unit=Multi-Ride%20Tickets&WT.z_va_group=Book%20a%20Train%20Ticket | accessdate=2017-08-29}}</ref>。また、[[ロサンゼルス]]近郊の通勤鉄道「[[メトロリンク (南カリフォルニア)|メトロリンク]]」では1か月定期(Monthly Pass)保持者を対象に、一部路線で並行するアムトラック列車([[パシフィック・サーフライナー]]号)への定期券区間での便乗を認める"Rail 2 Rail program"を実施している<ref>{{cite web | title=Rail 2 Rail® Program | author=メトロリンク公式ウェブサイト | url=http://www.metrolinktrains.com/ticketspricing/page/title/rail2rail | accessdate=2016-05-19}}</ref>。 == JRの定期乗車券 == [[ファイル:継続定期券発行機.jpg|thumb|180px|JR西日本の定期券自動継続発行機([[JR難波駅]])]] '''[[JR]]の[[旅客営業規則]]において規定されている定期乗車券の種類は、次の4種類である。''' * 通勤定期乗車券 * 通学定期乗車券 * 特別車両定期乗車券 * 特殊均一定期乗車券 === 利用可能な列車 === 原則として[[普通列車]]<ref group="注釈">[[快速列車]]を含む広義の普通列車(通勤電車)</ref>の[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]の[[自由席]]のみであり、[[急行列車|急行]]・[[特別急行列車|特急]]列車、[[グリーン車]]、[[座席指定席|指定席車]]にはそれに対応する料金を支払っても乗車することができない。これらの利用には、定期乗車券の有効区間であっても、別途乗車区間に対応する普通乗車券の購入も必要である。ただし、別料金を支払うことで特急列車および普通列車指定席に乗車できる例外規定が設けられている例が多数ある。それらを次項で示す。 ==== 例外規定 ==== * 特例として区間・列車を限定して[[特別急行券#特定特急券|特定特急券]]、[[特別急行券#自由席特急券|自由席特急券]]または[[急行券]]を購入すれば普通車自由席に乗車できる場合がある。[[1980年代]]以降は特急列車が大衆化し、また特急列車が通勤に利用されることが増加したことから、この特例の適用は非常に多くなり、2020年現在では普通車自由席が設定されている全ての在来線定期特急列車で普通車自由席が定期券と自由席特急券の組み合わせで乗車できる。 * [[新幹線]]については、磁気定期券<!--磁気の入っていない紙の定期券は既に発売されていないと思われるので-->の場合{{refnest|group="注釈"|[[2021年]][[3月13日]]現在、主に交通系ICカードで発売できない区間の定期券、または九州旅客鉄道(JR九州)管内で、新幹線利用を希望した場合が該当する([[SUGOCA]]定期券では特急券のみを購入しても新幹線には乗車できないため)<ref name="jrk-sugoca-area">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210529231536/https://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html|url=https://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html|archivedate=2021-05-29|date=2021-04-01|accessdate=2021-09-20|title=SUGOCA利用可能エリア|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。}}、券面に新幹線停車駅を2駅以上含む定期乗車券では、当該区間の新幹線自由席特急券(または新幹線特定特急券)を購入することで普通車自由席に乗車できる。一部の新幹線単独駅については在来線の対応駅を同一とみなす特例がある<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210402233018/https://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/rule11.html|url=https://railway.jr-central.co.jp/ticket-rule/rule11.html|archivedate=2021-04-02|date=|accessdate=2021-09-19|title=きっぷのルール・定期券|publisher=東海旅客鉄道}}</ref>。この場合、2枚以上の定期乗車券を組合せて新幹線利用可能とする方法はできず、事前に定期乗車券に新幹線利用可能区間の表示を受ける必要がある。この扱いは新幹線と在来線を運営しているJR旅客会社が異なる場合でも適用されるが<ref>{{cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210418052851/http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/qa/index.html|url=http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/qa/index.html|archivedate=2021-04-18|date=|accessdate=2021-09-21|title=SUGOCA Q&A|publisher=九州旅客鉄道}} - SUGOCA定期券での山陽新幹線の利用可否について記載。</ref>、JR以外の[[第三セクター鉄道]]に移管された場合は対象外である。 * 同様に新幹線について、交通系ICカード定期券(JR九州管内を除く<ref name="jrk-sugoca-area"/>)で券面に新幹線停車駅を2駅以上含む場合は、新幹線利用時に自動改札機にタッチすることにより自動的に特急料金がチャージ残額から引き落とされる<ref name="tokaido-sanyo-shinkansen-20210119">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130200659/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040926.pdf|format=pdf|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040926.pdf|archivedate=2021-01-30|date=2021-01-19|accessdate=2021-09-20|title=在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について・2021年3月13日(土)からサービスを開始します!|publisher=東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道}}</ref><ref name="jre-suica-shinkansen">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113044150/https://www.jreast.co.jp/suica/use/shinkansen/commute.html|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/shinkansen/commute.html|archivedate=2020-11-13|date=|accessdate=2021-09-20|title=新幹線停車駅が2駅以上含まれる「Suica定期券」での利用|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>{{refnest|group="注釈"|[[三島駅]] - [[岐阜羽島駅]]間を除く[[東海道・山陽新幹線]]では2021年3月13日からの取り扱い<ref name="tokaido-sanyo-shinkansen-20210119"/>。}}。 * [[首都圏 (日本)|首都圏]]の一部区間および快速「[[マリンライナー]]、ホームライナー大垣、ホームライナー瑞浪、JR北海道のホームライナー」では、[[グリーン券]]によりグリーン車に乗車することができる<ref group="注釈">[[グリーン券#東京圏におけるグリーン券の扱い|東京圏でのグリーン券の扱い]]も参照のこと。</ref>。また、「マリンライナー、JR西日本の関西エリアで運行している一部の新快速に連結されてるAシート、快速みえ」など指定席を連結している普通・快速列車の一部では、指定席券の追加購入により普通車指定席車両に乗車することができる。 * 「[[くろしお (列車)|くろしお]]」「[[きのさき (列車)|きのさき]]」「[[まいづる (列車)|まいづる]]」「[[はしだて (列車)|はしだて]]」「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」「[[びわこエクスプレス]]」「[[らくラクはりま]]」は、特急券を購入すれば普通車指定席に乗車することができる。 *「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」「[[ひたち (列車)|ひたち]]」「[[ひたち (列車)|ときわ]]」「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|かいじ]]」「[[富士回遊]]」「[[はちおうじ]]」「[[おうめ]]」「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」「[[湘南 (列車)|湘南]]」「[[成田エクスプレス]]」は、対応料金を支払えば、グリーン車も含めて乗車することができる。 *「[[つばさ (列車)|つばさ]]」・「[[こまち (列車)|こまち]]」の在来線区間は、対応料金を支払えばグリーン車も含めて乗車することができる。 * 「[[しなの (列車)|しなの]]」は、[[塩尻駅|塩尻]]〜[[長野駅|長野]]間は対応料金を支払えば、グリーン車も含めて乗車することができる。 * 「[[ふじさん]]」は、小田急線内も含め特急券を購入すれば乗車することができる。 * [[九州旅客鉄道]](JR九州)では、対応料金を支払えばグリーン車も含めて全ての在来線特急列車に定期乗車券で乗車することが可能である。但し、[[DXグリーン|DXグリーン車]]と[[コンパートメント席|個室]]、「[[36ぷらす3]]」は対象外<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210830121632/http://www.jrkyushu.co.jp/railway/ticket/rule/04/|url=http://www.jrkyushu.co.jp/railway/ticket/rule/04/|archivedate=2021-08-30|date=|accessdate=2021-09-21|title=きっぷのルール・定期券|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。 なお、JRでは、発売する駅から有効な定期乗車券のみを発売する<ref group="注釈">旅客営業規則第20条。[[無人駅]]の場合は隣接する有人駅において発売する。</ref>のが原則であるが、実際には私鉄駅発着の定期乗車券を発売することもある。[[鉄道駅]]の[[みどりの窓口]]以外では各支社に属する販売センター<ref group="注釈">鉄道駅とは別にある、法人向けの営業拠点を指す。</ref>で発売することもある<ref group="注釈">社員に定期券を現物支給するために、企業などで一括購入する場合など。</ref>。 === 旅客営業規則で規定されている定期乗車券 === ==== 通勤定期乗車券 ==== 主に通勤目的のための定期乗車券であるが、購入時に通勤証明書などを提示する必要はなく、誰でも任意の区間で購入することができる。小児用の通勤定期乗車券もあるが<ref>旅客営業規則第74条および第98条</ref>、こちらは[[学習塾]]や[[病院]]に通う際に利用されることがある。 なお、1966年(昭和41年)までは通勤定期乗車券の購入には勤務先の証明が必要で、別に勤務先の証明が不要な普通(2等)定期乗車券も存在していた。通勤以外にも使えるのに「通勤」と名が付くのはこの名残である。 有効期限は1・3・6か月である。 JRの通勤定期の割引率は他の交通機関と比べると高く、1か月定期で約50%<ref>16往復程度で元がとれる。</ref>、3か月定期で約55%、6か月定期で約60%である。また、JR会社線のおおむね600円区間までの6か月定期運賃は1カ月定期の6倍した金額から20%割引(多くの事業者は10%)なのも特徴である。なお、3か月定期は1カ月定期の3倍した金額から5%割引で、長距離の6カ月定期の場合、1カ月定期の6倍した金額から15%前後となる。 ==== 通学定期乗車券 ==== {{出典の明記|date=2018年3月|section=1}} [[File:School commuter pass 1956.jpg|thumb|[[京王電鉄|京王帝都電鉄]]の通学定期乗車券(1956年)]] [[在学生|児童・生徒・学生]]の通学のための定期乗車券であり、通勤定期乗車券より安価に設定されている。購入時に通学を証明する通学証明書(学生証と一体型のものもある)の提示が必要で、販売区間も自宅の最寄駅と学校が指定する最寄駅との間の最短、最速、最安、乗換回数が少ないのいずれかに該当する必要がある。複数の駅が使用できる場合は、このいずれかに該当すれば最寄りでなくても基本的には使用可能。また、翌年度に在籍している証明ができない場合は翌年度の5月1日以降にまたがるものは発行できない<ref group="注釈">その年度内に1回でも購入していれば自動券売機等で継続定期券の購入が出来るため、学年末の3月に1か月分の定期券を発行することも可能である。</ref>。JRでは大学生用{{refnest|name="school-type"|group="注釈"|「大学生用」の表現は大型[[時刻表]]にも掲載されているが<ref name="JRjikoku202304">{{Cite journal|和書 |date=2023-03 |journal=JR時刻表 |issue=719 |pages=939 - 950 |publisher=[[交通新聞社]] }}</ref>、[[旅客営業規則]]には記載がなく便宜的な呼称である。高校生・中学生・小学生にさらなる割引があるので(旅客営業規則38条)、それ以外の学校([[専門学校]]など)に通う場合は「大学生用」となる。[[大学院]]生や[[短期大学]]生、[[高等専門学校]]の4年生以上も同様に「大学生用」が適用されるが、高等学校の[[専攻科]]については「高校生用」となる<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://archive.is/TJl4x|url=https://www.osakagyoko.ed.jp/official/students-parents/35113/新年度の通学定期券購入について/|archivedate=2023-04-29|date=2023-03-08|accessdate=2023-04-29|title=【全学年】新年度の通学定期券購入について|publisher=[[大阪暁光高等学校]]}}</ref>。なお大学生の運賃を基準とした場合、高校生は90%、中学生は70%である。}}・高校生用<ref group="注釈">高等専門学校の1 - 3年生も「高校生用」の適用対象となる。</ref>・中学生用・小学生用の4種類がある。有効期限は通勤定期と同様1・3・6か月である<ref group="注釈">6か月定期は10月、3か月定期は1月までしか発行できない。</ref><ref group="注釈">他に[[JR北海道]]では、学校の[[夏休み|夏]]・[[冬休み|冬]]休みの日数が道外と大きく異なる事情を考慮して2・4か月の通学定期も設定していたが、2015年3月末で発行を取り止めることになった。</ref>。新学期(特に[[入学式]]当日)には新学年の証明書類が必要になるため、新規に窓口で発行しなければならない学生の長蛇の列ができることも珍しくない。また、これらの事情を考慮して輸送機関の職員が学校に出向いて、新入生が[[入学式]]終了後に窓口に行かず定期乗車券を購入できるよう販売するケースもある他、学校側に専用の申込用紙を送付し、入学説明会などで記入し、自宅最寄駅で提出しての入学式前日又は当日に代引で受け取るケースもある。 高校生用は大学生用の1割引、中学生用は大学生用の3割引、小学生用は中学生用の半額の運賃が設定されている。大学生用定期の価格は通常の約30%なので、月10往復程度で元が取れる。なお、3か月定期は1か月定期の5%引、6か月定期は1か月定期の10%引の運賃が設定されている。 通学定期乗車券は、[[卒業]]に必要な[[学年制と単位制|単位]]取得などのための通学用として発行が認められるものであって、[[クラブ活動|部活動]]など課外活動のために校舎とは別の場所にあるグラウンドに通うようなケースでは発売は認められない<ref group="注釈">課外活動は教育課程ではないため、卒業に必要な単位とはみなされない。</ref>が、[[通信教育]]([[放送大学]]を除く)における[[スクーリング]]参加<ref group="注釈">本学だけでなく、地方スクーリング会場での受講も対象。ただし、1か月間内のうち、ある程度の日数の参加が必要なケースがある。</ref>や、[[教育実習]]、単位取得に必要な[[医療施設]]・[[福祉施設]]での実習などでは当該施設等に通うための定期乗車券の発行が認められる場合がある。 また、購入ができるのはJRに指定された'''指定学校'''の学生・生徒・児童であり、指定学校ではない教育施設<ref group="注釈">学習塾([[株式会社]]等が運営する場合)や一部の[[専修学校]]、[[自動車教習所]]など。いわゆる「[[学校教育法#一条校|1条校]]」は無条件で指定学校となる。指定学校でない場合、差額を学校側が負担する場合もある([[N高等学校]]など)。</ref>に通う場合は発売は認められないが、大学受験に失敗した[[浪人生]]については学校登録の全日制予備校(本科生)に限り大学生扱いになるほか、[[横浜市営地下鉄]]では通学証明証と同じ書式の「通塾証明証」の提出と[[学生証]]の提示により通学定期で発行可能である。また、1年以上通う[[職業訓練校]]は高校生扱いの場合がある。 運賃が安いだけあって、発売には様々な制限がある。通学定期乗車券の購入ができない場合は、通勤定期乗車券またはその他の乗車券(「[[乗車券#乗車券の種類]]」を参照)を購入することになる。 なお、通学定期乗車券の規定による減収分は[[鉄道事業者]]の負担、より正確には割引率の低い他の利用者からの収入で負担しているのが現状である。かつての国鉄[[ローカル線]]を引き継いだ事業者を含む地方の民鉄・第三セクター鉄道が廃線となったり、苦境に陥ったりしているのも、通勤利用者が[[自家用車]]に転移し、割引率の高い(収益性が低い)通学定期乗車券利用者が利用者の主流で、さらに過疎化・少子化や保護者による自家用車送迎で数を減じていることも背景の一つである。 一部の[[地方公共団体|自治体]]では、[[公共交通機関]]の利用促進のために通学定期乗車券に[[補助金]]を支出したりするところもある。 [[File:通学証明書.jpg|thumb|通学証明書([[JR東日本]])の例。]] ==== 特別車両定期乗車券 ==== 「グリーン定期券」ともいい、グリーン車の利用を前提にしていることから、あらかじめ利用する区間のグリーン券に相当する金額も合わせて計算されている。なお、グリーン車の連結していない区間を含めて発行することができる。かつてのグリーン定期券の料金は、一等車定期乗車券時代の名残もあり、普通運賃部分の割引率も通勤定期乗車券に比べて低く設定されていたが、2004年10月16日以降の計算方法は、グリーン車利用区間のキロ数に応じた一定料金(1か月では、おおむね22往復分のグリーン券の販売額)を、全区間の通勤定期乗車券額と合算する方式となった。有効期間は1か月と3か月のみである。 2004年10月16日の制度改正により、[[首都圏 (日本)|首都圏]]では自由席グリーン券を買うことで、通勤・通学定期券でもグリーン車に乗車できるようになったが、それ以前にはグリーン定期券でない定期券でグリーン車に乗車することはできず、グリーン券のほか[[普通乗車券]]も購入する必要があった。 なお、[[東京山手線内]]相互発着用の運賃表がある。これは、1984年の東京山手線相互発着用の普通運賃表の新設に伴うもので、この区間内でのグリーン車は日暮里駅 - 田端駅間と秋葉原駅・神田駅 - 代々木駅間を除く全区間で運転されている<ref group="注釈">ただし、池袋駅 - 田端駅間、品川駅 - 大崎駅間は停車駅がない。</ref>ものの、いずれも短距離である。 ==== 特殊均一定期乗車券 ==== [[File:東京山手線内均一定期券.png|thumb|right|JR東海発行の山手線内均一定期券の写真。]] 「[[山手線]]内均一定期券」が唯一の例である。東京山手線内の全区間に有効であり、山手線環状運転区間(並走区間は[[京浜東北線]]と[[埼京線]]も含む)、[[中央本線]]神田 - 代々木間および総武本線秋葉原 - 御茶ノ水間の各駅間で乗降することが可能な定期乗車券である。有効期間は1か月のみ。発売は東京山手線内各駅のみどりの窓口(東京駅・品川駅はJR東海管轄も含む)に限られる。運賃は14,970円。なお、[[Suica]]定期券での発売はなく、磁気定期券でのみ購入可能である。 === 旅客営業規則で規定されている定期乗車券に関連する制度 === ==== 特殊な割引制度 ==== JRは、かつては[[公共企業体]]の[[日本国有鉄道]](国鉄)であったため、[[私鉄|民鉄]]にはない種類の割引が存在する。 ; 特定者割引定期券 [[File:特定者用定期乗車券.png|thumb|right|JR東日本の特定者用定期乗車券 (生活保護受給者用) の写真。]] : おおむね[[生活保護]]受給世帯や[[児童扶養手当]]を受給しているひとり親世帯を対象にした割引。割引を受けるためには生活保護世帯などであることも然ることながら一定の条件がある。旅客営業規則に運賃表が掲載されているが、市販の[[時刻表]]には掲載されていない<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/450/cmsfiles/contents/0000109/109722/p11-20.pdf 参考リンク 川崎市幸区役所のサイト]</ref>。通勤定期運賃の3割引をするものとされている。 ; 身体障害者・知的障害者割引定期券 :第1種の身体障害者・知的障害者並びに満12歳未満の第2種の身体障害者・知的障害者に関しては介護人と同伴して乗車される場合に限り、本人と介護人に対し、5割引<ref group="注釈">小児用定期を除く。介護人は大人用通勤定期に限る。</ref>で定期券を発売することとされている。 ; 通学定期券の種類 : 通常、一般[[私鉄]]では大学生でも高校生でも中学生でも運賃は同一であるが、JRの場合(新幹線定期券は除く)、大学・高校・中学と異なる運賃が設定されている<ref group="注釈" name="school-type"/>。 : このため、JR線との[[#連絡定期券・共通定期券|連絡定期券]]を発行している鉄道事業者がJR線分の発売区分を誤って発券(学生の区分をすべて大学生扱い)し、過剰に運賃を収受していた事例が[[2008年]]になって発覚した。件数・過徴収期間・過徴収額は記録が残っていないため把握が難しいという。現在では新規購入時に申込用紙を記入する際に、これらのどれに当てはまるかを購入者に選択させていることが多い。 ==== 長距離区間の定期券の購入について ==== JRの定期乗車券は、[[新幹線]]の「フレックス」「新幹線エクセルパス」を除く在来線で乗車区間が100kmを超える区間を購入する場合、[[駅長]]の承認が必要となる。また、乗車区間が200kmを超える場合は、購入理由を記載した書面を提出しなければならない<ref>参考リンク:[https://web.archive.org/web/20130601130819/http://ken.akari-house.net/yakumon_teiki.html 「塚本〜八雲間の定期券は購入可能か?」] -- [[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[スクールランブル]]』の[[キャラクター]]名にちなむ。</ref>。 ==== 特例の取り扱い ==== 定期乗車券では、運賃計算や[[区間外乗車]]の特例について、適用の可否が普通乗車券・回数券と異なる場合がある。 ;適用されるもの :* 特定の分岐区間に対する区間外乗車 :* [[経路特定区間]](JR東日本・JR北海道) :* [[列車特定区間]] ;適用されないもの :* 分岐駅通過列車に対する区間外乗車の取り扱い :* 経路特定区間(JR西日本) :* [[選択乗車]] :* [[電車大環状線]]の各特例 === その他の定期乗車券 === ==== 新幹線定期乗車券 ==== {{see also|新幹線通勤|エクセルパス}} 遠距離通勤・通学の増加に伴い、新幹線用の通勤定期乗車券「FREX(フレックス)」、通学定期乗車券「FREX(フレックス)パル」([[北海道旅客鉄道|JR北海道]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])、「新幹線エクセルパス」([[九州旅客鉄道|JR九州]])が発売されている。ただし、これらは旅客営業規則においては[[特別企画乗車券]](トクトクきっぷ)の扱いである。新幹線の普通車自由席または、普通車指定席の空席(自由席がない便のみ)を利用できるため、発売額には乗車区間の定期旅客運賃に加え新幹線自由席特急料金に相当する定期特急料金が加えてある。また、途中の区間において新幹線を利用する定期乗車券も設定可能であるが、この場合、全区間の定期旅客運賃と新幹線乗車区間の新幹線自由席特急料金に相当する額を合算し発売される。例えば、[[新宿駅|新宿]] - [[宝積寺駅|宝積寺]]間の乗車券に新幹線を[[大宮駅_(埼玉県)|大宮]] - [[宇都宮駅|宇都宮]]間で利用する定期券も発売できる。新幹線の異なる路線間については、直通する列車が存在する場合であっても、[[博多駅]]([[山陽新幹線]] - [[九州新幹線]])、[[新青森駅]]([[東北新幹線]] - [[北海道新幹線]])をまたがる定期券は設定・発売されていない。また、[[山形新幹線]]([[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[新庄駅]]間){{refnest|group="注釈"|山形新幹線の福島駅 - 新庄駅間については、「つばさ定期券」が発売されている。ただしJR東日本のウェブサイトでは一部のプレスリリースに記載されているのみで<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211116094911/https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211116_s01.pdf|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211116_s01.pdf|format=pdf|date=2021-11-16|archivedate=2021-11-16|accessdate=2021-12-18|title=山形新幹線の全車指定席化と山形・秋田新幹線の特急料金の改定について|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>、[https://www.jreast.co.jp/tickets/ おトクなきっぷ]の検索などでは表示されない。}}、[[秋田新幹線]]([[盛岡駅]] - [[秋田駅]]間)についても、営業上は新幹線ではなく[[在来線]]の扱いとなるため、発売されていない。さらに、[[北陸新幹線]]の会社[[境界駅]]である[[上越妙高駅]]をまたがる定期券も設定されていない<ref name="jikokuhyo202103-944-947">{{Cite journal |和書|title=新幹線エクセルパス・FREX・FREXパル発売額 |date=2021-03 |publisher=交通新聞社 |journal=JR時刻表 |issue=695 |pages= 944-947}}</ref><ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210919012020/https://www.sankei.com/article/20150419-2UJW3DDEMBOY3NEIZKVLA3DJYQ/2/|url=https://www.sankei.com/article/20150419-2UJW3DDEMBOY3NEIZKVLA3DJYQ/2/|date=2015-04-19|archivedate=2021-09-19|accessdate=2021-09-20|title=日本の議論「北口に出られない!」混雑、不便、人手不足・北陸新幹線で難題次々|page=2|publisher=[[産経新聞社]]}}</ref>。 新幹線定期乗車券の所持者が増加したことから、通勤時間帯の新幹線の普通車自由席が通勤列車並みに混雑するようになった。[[東海道新幹線]]では平日朝9時までの上り列車において[[新横浜駅|新横浜]] - [[東京駅|東京]]間で普通車指定席の空席を新幹線定期乗車券や自由席特急券で乗車可能とする特例措置をとっている<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330062952/https://news.yahoo.co.jp/byline/sakuraiyukio/20190315-00117242/|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/sakuraiyukio/20190315-00117242/|date=2019-03-15|archivedate=2019-03-15|accessdate=2020-08-03|title=新幹線で余裕の通勤・通学なら、小田原がお勧めの理由|author=櫻井幸雄|publisher=[[Yahoo!ニュース]]}}</ref>。また、新幹線定期乗車券使用者を対象とした普通車指定席やグリーン車への着席を目的とした料金回数券を設定・発売している。詳しくは[[特別企画乗車券]]を参照のこと。 [[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線]]の一部区間は[[Suica#Suicaカード|Suica定期券]]に搭載可能で、他鉄道事業者との連絡定期券も発売(JR東日本のみ)している。なお2021年3月13日から[[東海道新幹線]]の全線に[[TOICA#TOICA定期券|TOICA定期券]]、[[山陽新幹線]]の新大阪 - 新岩国間に[[ICOCA#ICOCA定期券・こどもICOCA定期券|ICOCA定期券]]が導入され<ref name="shinkansen20190920">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040007.pdf|format=PDF|title=在来線 および新幹線におけるIC定期券 のサービス向上について|publisher=東日本旅客鉄道株式会社・東海旅客鉄道株式会社・西日本旅客鉄道株式会社|date=2019-09-20|accessdate=2019-09-23}}</ref><ref name="tokaido-sanyo-shinkansen-20210119"/>、2022年3月12日から新岩国 - [[徳山駅|徳山]]間<ref>{{Cite press release|和書|title=山陽線南岩国駅から徳山駅間のICOCAサービス開始日について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-12-17|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/211217_10_sanyou.pdf|format=PDF|accessdate=2021-12-17}}</ref>、2023年4月1日から徳山 -博多間にも導入され、山陽新幹線の全線で利用可能となった<ref>{{Cite press release|和書|title=在来線および新幹線におけるIC定期券のサービス向上について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-7-28|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220728_00_press_teikikenn_2.pdf|format=PDF|archive-url=https://web.archive.org/web/20220728051813/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220728_00_press_teikikenn_2.pdf|archive-date=2022-7-28|accessdate=2022-7-31}}</ref>。 ==== 特急料金定期券 ==== 遠距離通勤・通学は、新幹線沿線のみならず[[在来線]]の[[特別急行列車|特急列車]]にもみられる。JR東海を除くJR旅客5社がそれぞれ発売している。これらも新幹線と同様に特別企画乗車券(トクトクきっぷ)の扱いである。[[北海道旅客鉄道]](JR北海道、名称:「[[かよエール]]」)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本、名称:「定期券用月間料金券」)の一部区間と、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本、名称:「[[パスカル定期券|パスカル]]」「○○○特急料金定期券(○○○は列車名)」)・[[四国旅客鉄道]](JR四国、名称:「快て〜き」)・[[九州旅客鉄道]](JR九州、名称:「[[エクセルパス]]」)の全特急運転区間において、特急列車の普通車自由席を利用できる料金定期券、または特急料金相当額を運賃部分に加算した定期乗車券を発売している。料金定期券は、定期乗車券の購入と同時かあるいはすでに所持している定期乗車券を提示し、定期乗車券区間内の特急列車停車駅間の特急料金定期券を購入する形をとる。[[博多南線]]の場合は全列車が特急列車であるので、提示の必要がなく定期券に特急料金定期券が含まれる。なお、JR西日本で発売している指定席特急料金定期券「マイシート」は定期乗車券と組み合わせて有効期間中普通車のあらかじめ指定した座席を利用できる。 ==== 2駅併用定期券(発売終了) ==== JR北海道で発売されていた分岐の外方で近隣する2駅のどちらでも乗降可能な定期乗車券。対象は、[[新札幌駅|新札幌]]・[[厚別駅|厚別]] - [[白石駅 (JR北海道)|白石]]以西の各駅間と、[[琴似駅 (JR北海道)|琴似]]・[[八軒駅|八軒]] - [[桑園駅|桑園]]以東の各駅間(新札幌・厚別 - 琴似・八軒という両方とも2駅併用にもできる)。運賃は対象の2駅のうち高額となる駅の定期券を購入した場合に適用される。例えば、白石 - 八軒・琴似の場合、白石 - 琴似間(通勤1か月6,780円)ではなく、白石 - 八軒間(通勤1か月7,130円)を購入しなければ2駅併用とはならない。なお、区間が[[Kitaca]]利用可能エリア内でも磁気式でなければ2駅併用とはならない。 {{main|総販 (システム)#備考}} なお、2014年10月24日にJR北海道が2015年3月31日で2駅併用定期券発売終了を発表。これにより2駅併用定期券利用者は4月1日以降「琴似・八軒」のいずれかの駅、「新札幌・厚別」のいずれかの駅を選択しなければならない<ref>[http://www.jrhokkaido.co.jp/pdf/141024.pdf 定期券・回数券のルール変更等について] - JR北海道 2014年10月24日</ref>。 ==== 職務乗車証 ==== 社員が業務の必要により、路線を使って移動する場合に使用する社員証型の“定期券”。機能は全線定期や株主優待乗車証と同一で、JR以外の事業者の場合は家族にも支給される所もある。ただし同一企業グループをまたがる移動は出来ない。JR各社によっては階級に応じて利用できるエリアが異なってくる。社によっては制服着用の上「添乗」と表記された腕章を嵌め、運転室に同乗する場合もある。<!--あくまでJRでの説明です。また不正云々を記載する場ではありません--> === 旅客営業規則で規定されている乗車券でない定期券 === ==== 定期入場券 ==== {{redirect|定期入場券|駅以外|入場券}} [[File:新宿駅定期入場券.png|thumb|right|JR新宿駅の定期入場券の写真]] [[鉄道駅|駅]][[改札]]内への入場・通行ができる「定期[[入場券]]」がある。[[日本国有鉄道]](国鉄)時代には[[有人駅]]のほぼ全駅で発行されており、かつては[[観光地]]周辺の駅で[[旅館]]などの[[従業員]]が客を駅改札内で歓送迎するのに使用されていた。ただし、現在では駅構内に[[自由通路]]がない場合、または[[駅弁]]を売る業者など、駅改札内に定期的に立ち入る必要がある場合に限り発行されており<ref group="注釈">業者の場合は、自社の従業員証の提示でこれに代えることがほとんどである。</ref>、前者の場合は駅を大きく迂回することにより時間や労力を要することになる[[高齢者]]や[[身体障害|身体障害者]]などに対して定期入場券購入費用の補助制度を設けている[[地方公共団体|地方自治体]]もある<ref>{{Cite web|和書|title=JR高尾駅構内の通行費用を補助 |url=https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/001/006/001/003/p014484.html |website=八王子市公式ホームページ |access-date=2022-08-31 |date=2022-04-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=春日部駅構内通行費用支援事業 |url=https://www.city.kasukabe.lg.jp/soshikikarasagasu/tetsudokokaseibika/gyomuannai/3/6050.html |website=春日部市公式ホームページ |access-date=2022-08-31 |date=2022-04-21}}</ref>。 なお、定期「[[乗車券]]」を入場券代わりに使用することはできない。駅改札内への入場には「乗車船の目的」と「乗車船以外の目的」の二つに分けられ、前者は乗車券類、後者は入場券が必要となる<ref group="注釈">[[JR]]の[[旅客営業規則]]第294条には「次の各号に掲げる者が、乗車船以外の目的で乗降場に入場しようとする場合は、[[入場券]]を購入し、これを所持しなければならない。(後略)」と規定されている。</ref>。定期乗車券は乗車券の一種であり、乗車券は乗車券類に含まれるため、「乗車船の目的」に限り使用でき、「乗車船以外の目的」(送迎等の入場目的)には使用できないのである<ref group="注釈">旅客営業規則第147条第6項には「[[乗車券]]類は、乗車船以外の目的で乗降場に入出する場合には、使用することができない。」という規定があり、他の多くの鉄道事業者においても同様の規定がある。</ref>。[[Suica]]などの[[ICカード式乗車券]]についても同様で、これらもあくまで乗車券類であることから、入場券代わりに使用することはできなかったが、JR東日本においては、2021年3月13日より、Suicaエリア内の券面表示区間外<ref>ICカード乗車券取扱規則第54条の2第2項</ref>の在来線駅で入場券と同様に利用できる「タッチでエキナカ」を開始した<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119090122/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho02.pdf|format=pdf|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210119_ho02.pdf|archivedate=2021-01-19|date=2021-01-19|accessdate=2021-09-25|title=IC入場サービス「タッチでエキナカ」の開始について|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 ==== 定期手回り品切符 ==== {{main|チッキ}} == 各種の定期乗車券 == === 持参人式定期券 === <!-- 節名称変更時は注意:他記事からのリンクあり --> 定期券の券面氏名欄を「持参人様」表記や無記名にすることによって、定期券を持参した人が定期券として使用できる乗車券である。環境定期券とは違い、通勤定期以外で持参人定期を発行している社局は見られない。 <!--導入順に--> * 京阪バスでは通勤定期券は、1981年より持参人式となった。これが日本最初とは特定できないものの、日本ではかなり早い事例である。当時存在していた京阪宇治交通でも1992年4月1日以降全て持参人方式となった。 * 東京都交通局の[[都営地下鉄]]全線定期券<!-- 都営地下鉄の全線定期券は、正確には「記名持参人式」である。-->・[[都営バス]]23区内定期券(フリーカード)・[[都電荒川線]]の定期券の券面には購入者名が記載されている(ただし、都営バスと都電の通勤定期券には『持参人様』と記載)が、1992年[[2月]]より持参人式を採用しており、紙式の通勤定期券は購入者や本来の利用者以外であっても1乗車につき持参人1人が利用することができる。また、定額定期券(都営バス用・都電用がありそれぞれ1万円で発売)も紙式で購入した場合は持参人式である。 ** 発行時に使用者名の記載処理を省くことが出来ることから、都営バスと都電の紙式の定額定期券は購入日から有効のものであれば車内の運賃箱に1万円札を投入する事で購入ができる。 * [[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro・[[大阪シティバス]])で発売されている定期券の種類の中で、共通全線定期券は持参人方式で、文字通り、全線([[ニュートラム]]も含む)で利用可能となっている。公式サイト上では、券面に氏名および「持参人一名様有効」の両方あるため、正確には「記名持参人式」である。 * [[札幌市交通局]]の通勤定期券は、記名はされているが、磁気式では持参人が使用でき、[[SAPICA#カード種別|SAPICA定期券]]では記名人以外の使用はできない。 * [[遠州鉄道]]では、[[遠鉄バス]]・[[遠州鉄道鉄道線|遠鉄電車]]全線(空港直行バスは除く)が利用できる[[ナイスパス (遠州鉄道)#全線定期|通勤ワイドフリー定期券]]に限り持参人式となっている。 * [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営バス]])の通勤定期券([[身体障害者]]など特定の条件に基づいて発売される「割引通勤定期券」を除く)については、2006年4月1日から持参人方式で全線(ただし、共同運行区間の[[名鉄バス]]は除く)で利用可能となっている。 === 対象旅客 === ==== 通勤定期券と通学定期券 ==== * [[#通勤定期乗車券|通勤定期乗車券]] ** [[神戸市営地下鉄]]([[神戸市交通局]])などは普通定期乗車券と称する。 * [[#通学定期乗車券|通学定期乗車券]] ** [[愛知環状鉄道]]のように、事業者によっては学校の就学期間に合わせて4月上旬から7月中旬までという期間を設定している場合もある。また、一部の事業者([[名古屋市交通局]]など)においては通学証明書を必要とせず、学生であれば任意の区間の定期券が割引で買える事例(そのため、名古屋市交通局では通学定期券ではなく「学生定期券」と呼ぶ)や、[[横浜市交通局]]のように通塾対応として「[[学習塾]]在籍証明書」を提出することで通学定期券が購入できる事例も存在する。 ==== 通勤・通学定期券 ==== [[ファイル:Sapporo City Transportation Bureau (Sapporo Streetcar) monthly ticket. 2010.jpg|thumb|札幌市交通局([[札幌市電]])の三角定期券]] 仕事のかたわら[[高等学校#定時制の課程|定時制・通信制]]の学校に通う場合や通学のかたわらアルバイト先に行く場合などに、自宅・勤務先・学校の3か所の最寄り停留所を結んで発売されるものである。[[公営交通]]では一部の[[路面電車]]や[[地下鉄]]も含めて制度化されている事業者が多い。「三角定期券」とも呼ばれる。 ==== 環境定期券 ==== <!-- 節名称変更時は注意:他記事からのリンクあり --> [[自家用自動車|マイカー]]台数の削減や地球環境保全を目的に、1997年に[[神奈川中央交通]]が開始したのをきっかけに、翌1998年には[[東京都交通局]]([[都営バス]])、[[京阪宇治交通]](現在廃止)、その翌1999年には京阪バスなどでも採用され、近年では都市部の多くの社・局が採用しているサービスである。 これは、「環境定期」という乗車券を別に発行する訳ではなく、'''普段使用している定期乗車券'''を乗務員に提示することによって定期乗車券所持者以外の家族も利用できるか割引措置を受けられるという制度で、以下の2つがある。 * 1.定期区間外の発行者の運行する区間を割引運賃(ほとんど100円で現金払いのみ。事業者により異なる。また小児半額としている事業者もある。)で乗車することが可能となる。 * 2.定期区間内のみの利用で、定期乗車券所有者に同伴者(ほとんどは同居親族の同伴者)がいる場合、その同伴者も割引運賃で乗車することができるようにしている社・局が多い。意味合いとしては、定期乗車券利用者に対する割引サービスと捉えられる。 一般的に利用可能な日は土曜・休日・長大連休期間([[ゴールデンウィーク|GW]]・[[旧盆]]・[[年末年始]]時期)などの土曜・休日ダイヤ実施日で、利用可能な定期券も通勤定期乗車券のみが多いが、神奈川中央交通など一部社局では通学定期乗車券も利用できる。なお、このサービスはその地区や社局によって受けられるサービスが大幅に違う場合がある。平日は対象外なので、定期券所持者以外の方は、通常運賃(実際に乗車した区間の運賃)が必要となる。 上記の様に既存の定期券利用者に対するサービスであるため、一部の事業者では「環境定期」という名称を用いず、「休日家族割引」などといった名称で同様のサービスを実施している。 ==== 契約定期券 ==== 事業者と沿線の企業が契約し、退職や異動などの特別な場合を除いて払い戻しをしないことを条件に、通勤定期券よりも割安な運賃で一括して発売するものである。勤務先の証明が必要であった時代の通勤定期券に近いものといえる。企業定期券・団体定期券と呼んでいる事業者もある。 また、[[筑波大学]]では、キャンパス内を走るバスである[[関東鉄道]]から定期券を一括購入し、それを学生や教職員などに販売することで学内の交通システムとする、[[筑波大学キャンパス交通システム]]事業を行っている。詳しくは当該項目を参照のこと。 ==== 高齢者向け定期券類 ==== 主に[[高齢者]]を対象にして、その事業者のすべての路線を一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できる定期乗車券を発売している事業者もある。おおむね購入時に本人の年齢を確認できる公的証明書の提示を求められる。以下に例を記す。 <!--例を述べる場であり、すべての事業者の例を列挙する場ではありませんから、同種の例は特筆性が無い場合には追加しないで下さい。--> * [[西日本鉄道]]においては、65歳以上の人を対象に1か月6,000円、3か月13,000円、6か月23,000円、1年間42,000円で同社(グループ各社含む)一般路線バス全線を自由に乗車できる「[[グランドパス65 (西鉄バス)|グランドパス65]]」を発売している。 * [[神奈川中央交通]]においては、65歳以上の人を対象に3か月3,000円、6か月5,000円、1年間9,000円で同社(グループ各社含む)一般路線バス全線を一定運賃(100円)で乗車できる「かなちゃん手形」を発売している。 * [[遠州鉄道]]においては、満65歳以上の高齢者と自動車[[運転免許証]]を返納した満60歳以上の高齢者に1か月5,000円、3か月14,250円、6か月27,000円で[[遠鉄バス]]・[[遠州鉄道鉄道線|遠鉄電車]]全線が乗り放題となる「[[ナイスパス (遠州鉄道)#全線定期|シルバーワイドフリー定期券]]」を販売している。<!--鉄道線でも利用できる点、運転免許返納者に対して発行する点で特筆できると思います--> * [[肥薩おれんじ鉄道]]には65歳以上の[[高齢者]]を対象に割引率を通学定期乗車券並みに引き上げた「いきいきシルバー定期」がある。 定期乗車券ではないが、東京都が発行する「[[東京都シルバーパス]]」のように、[[地方公共団体]]がその区域の高齢者・[[障害者]]に対して社会参加を促す目的で[[福祉乗車証]]を交付している例もある。これらの中には指定範囲内の鉄道・バスを一定期間自由に、あるいは一定額で乗車できるものもあるが、交付を受けるには年齢だけではなくその地方公共団体の定める条件を満たしている必要があり、発行時に支払う費用や利用条件なども年収などの条件により異なることがある。詳細は[[福祉乗車証]]を参照。 公営事業者であっても民間事業者と同様に、年齢以外の条件のない高齢者向け定期券を発売している事業者もある。例として[[尼崎市交通局|尼崎市営バス]]においては、65歳以上の高齢者に1か月3,000円、12か月30,000円で市バス全線乗り放題となる「寿定期」を発売している([[2009年]]4月1日現在/他に3か月券、6か月券がある)。年度ごとの初回購入時に年齢を確認できる公的証明書の提示が必要である。 === 連絡定期券・共通定期券 === 事業者が[[連絡運輸|自社の路線から乗り継ぎ可能な他事業者の路線]](バス・[[地下鉄]]・[[路面電車]]などを含む)との「連絡定期券」を発行する場合がある。通常は出発地から目的地までの区間で利用する事業者数分の定期券が必要となるが、連絡定期券を利用することにより複数枚の定期券を1枚にまとめることができる<ref group="注釈">例えば、バス事業者A - 鉄道事業者B - 鉄道事業者Cのように乗り継ぐ場合、事業者によってA区間からC区間までの連絡定期券が発行されていれば、通常は定期券が3枚必要であるが、1枚の連絡定期券にまとめることができる。</ref>。発行可能な対象区間は事業者ごとに異なり、他社の全線を対象とする場合や他社の一部区間のみを対象とする場合がある。また、運賃も利用する区間の定期旅客運賃を単純に合算した額とする場合やこの合算した額から一定額を割り引いたものを運賃とする場合などがある。利用区間と連絡定期券の発行可能な区間が合致しない場合(もしくは発行区間が重複する場合)は、定期乗車券を本来の枚数より減らすこと自体は可能であるが、複数枚となる<ref group="注釈">例えば、バス事業者A - 鉄道事業者B - 鉄道事業者Cのうち、Aの区間とBの区間、もしくはBの区間とCの区間の連絡定期券が事業者によって発行されている場合、通常は定期券が3枚必要であるが、Aの区間とBの区間をまとめた連絡定期券1枚とCの区間の定期券1枚の計2枚、もしくはAの区間の定期券1枚とBの区間とCの区間をまとめた連絡定期券1枚の計2枚にまとめることができる。</ref>。なお、連絡定期券は利用区間に関連するすべての事業者が発行している訳ではない<ref group="注釈">例えば、[[近畿日本鉄道]]は自社線の一部の駅からJR西日本を経由して[[阪急電鉄]]など他社線へ連絡する連絡定期券を発行しているが、阪急電鉄やJR西日本でこれと同一の区間を設定した連絡定期券を購入することはできない。</ref><ref group="注釈">[[西日本鉄道]]と[[福岡市交通局]]の連絡定期券の場合、区間制定期券は西鉄の定期券売場でも地下鉄の定期券売場でも取り扱っているが、地下鉄全線定期券を含む場合は、西鉄での取り扱いはなく地下鉄窓口でのみの発券である。</ref>。このほかにも、特定の条件に合致した場合のみ他社線で乗降が可能となる定期券「共通定期券」を発行するケースもある<ref group="注釈">具体例として、阪急電鉄・[[阪神電気鉄道]]・[[神戸高速鉄道]]の3社間でのケースがある。阪急・阪神と神戸高速鉄道は相互直通運転を行っており、磁気式の通勤定期乗車券で梅田 - 三宮間を含む場合は阪急・阪神双方の梅田駅で、また三宮 - 高速神戸間を含む場合は阪急・阪神双方の三宮駅から神戸高速鉄道の高速神戸駅までの各駅(花隈・西元町・元町)でそれぞれ乗降が可能とする共通利用制度を[[1996年]]から実施している。発行について特別な手数料や手続きは必要なく、設定された条件をクリアしている場合に自動的に適用されるという性質のものである。</ref><ref group="注釈">[[西武鉄道]]では[[練馬駅]] - [[池袋駅]]間を[[西武池袋線]]、[[西武有楽町線]]、[[東京メトロ有楽町線]]、[[東京メトロ副都心線|副都心線]]のいずれも乗車可能とした特殊連絡定期券「だぶるーと」を[[PASMO]]限定で発売している。</ref>。 [[遠州鉄道]]では、自社の鉄道とバスを乗り継ぐ定期券を相互に5%割り引いた値段で販売している。[[東京都交通局]]ではバス・地下鉄の他、都電や日暮里舎人ライナーも連絡定期券の発行の対象である。 近畿圏では割引こそないものの私鉄・JRとバス事業者間での連絡定期券が比較的多く出ている。[[1980年]]に[[近畿日本鉄道]]が自社バス([[近鉄バス]])との連絡定期券を発行開始<ref>『最近10年のあゆみ』 P.25・80 近畿日本鉄道 1990年。開始当初は駅から2区以内もしくは均一運賃区間に限定していた。</ref>。のちに近鉄バスはJR西日本や[[阪急電鉄]]との間でも連絡定期券も発行するようになった。いずれも鉄道駅の定期券発売所で発行しており、近鉄バスは駅に連絡する停留所からのゾーン定期(「[[近鉄八尾駅]]から2区」というように運賃区界でゾーンを設定)で発売しており、そのゾーン範囲内であればどの停留所でも乗降しても良い。近畿日本鉄道は[[奈良交通]]との連絡定期券も発行している(奈良交通はJR西日本とも連絡定期券を発行)。阪急バスは阪急電鉄、[[北大阪急行電鉄]]、[[阪神電気鉄道]]、[[神戸電鉄]]と連絡定期券を発行しているが、こちらはバスも区間が指定されている。このほか、阪神電鉄と阪神バス、JR西日本・阪急電鉄・阪神電鉄と[[尼崎市交通局]]、[[南海電気鉄道]]と[[南海バス]]などでみられるが、これらも鉄道駅での発行である。 === 通用区間 === ==== 均一区間定期券 ==== 通常、A停留所 - B停留所として発行しているものを均一運賃区間内(例:210円区間)のすべての路線に乗車可能としているものである<ref group="注釈">均一区間のみのバス路線を持っている事業者の中には、全社局全線で利用できるタイプの定期乗車券を発行している場合もある。</ref>。事業者によっては指定金額以外の区間を差額の精算のみで利用できる場合もある<ref group="注釈">例として、200円区間の定期券で190円区間をそのまま利用でき、210円区間を利用した場合は差額の10円のみを精算するだけよい場合がある。[[京王電鉄バス]]グループ各社や[[西東京バス]]などで導入されている。</ref>。 ==== 地区定期券 ==== 上記の均一区間定期券に類似しているが、均一区間内のみという区分けをせずに、ある一定のエリアを「XX地区」という形で設定し、そのエリア内で乗車可能としているものである。[[京阪バス]]などで採用。同社では一部エリアでさらに安くした代わりに範囲を狭くした「にこにこミニパス」も[[1992年]]より導入していたが、現在は廃止された。[[西武バス]]では[[ひばりヶ丘駅]]・[[田無駅]]・[[片山村 (埼玉県)|片山]]地区をメインに利用出来る「ひばり・田無フリー定期券」を発売していた。 '''金額式定期券''' 多区間運賃の路線を有するバス路線において、券面に表示される運賃以内の区間であれば自社線のバスが利用できるもの。2011年4月に京王バスが『モットクパス』の利用を開始したことをきっかけに、関東圏では2013年4月には西東京バス・相鉄バス、関西圏では2014年6月には阪急バス・阪神バスで利用開始になった。阪急バス・阪神バスの金額式定期券は相互の他社線区の路線を利用することができる。 ==== 区間外の特定の駅で乗降可能な定期券 ==== [[京王電鉄]]では特定の利用区間が含まれ、自社で発行するPASMO通勤定期を購入する際にオプションで『[[どっちーも]]』を選択する事ができる<ref>[https://www.keio.co.jp/campaign/teiki/index.html 新・通勤定期券どっちーも] 京王電鉄ホームページ(2018年6月2日閲覧)。</ref>。発売料金は通常の定期券料金に1か月定期券の場合1,000円を追加するのみで購入できる。ただし、オプションで選択した駅より前の駅で途中下車した場合は乗り越し精算が必要となる。 *[[明大前駅]]以西または以北の各駅から新宿駅([[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]・[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]])が利用区間に含まれるどっちーも定期券で渋谷駅を乗降しても明大前駅からの区間は乗り越し精算をせずに利用できる。同様に明大前駅以西または以北の各駅から渋谷駅が利用区間に含まれるどっちーも定期券で京王線新宿駅または新線新宿駅を乗降しても明大前駅からの区間は乗り越し精算をせずに利用できる。 *[[調布駅]]以東の各駅から[[聖蹟桜ヶ丘駅]]までのどっちーも定期券で[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]または[[永山駅 (東京都)|京王永山駅]]を乗降しても調布駅からの区間は乗り越し精算をせずに利用できる。同様に調布駅以東の各駅から京王多摩センター駅または京王永山駅までのどっちーも定期券で聖蹟桜ヶ丘駅を乗降しても調布駅からの区間は乗り越し精算をせずに利用できる。 *阪神電気鉄道では[[阪神なんば線]]の[[九条駅 (大阪府)|九条駅]] - [[大物駅]]を含む定期券を購入した場合に『OSAKAどっちも定期』<!-- 2009年3月20日(なんば線九条以東開業当日)よりこの愛称がついている -->として、追加運賃不要で本線の大阪梅田駅でも乗降が可能である<!-- <ref>[https://rail.hanshin.co.jp/ticket/teikiken/teiki02.html 通勤定期券の選択乗車] 阪神電気鉄道</ref> -->ほか、神戸三宮以遠-大阪梅田の場合は途中駅乗降は出来ないものの阪急の大阪梅田でも乗降可能になっており、阪急経由も阪神の大阪梅田で乗降可能。 相模鉄道では西谷-[[羽沢横浜国大駅]]・[[新横浜駅]]を含む他社購入分も含めたIC定期券を購入した場合に『YOKOHAMAどっちも定期』<!-- 2023年3月18日(新横浜線・新横浜駅開業当日)より運用開始 -->として、追加運賃不要で本線の横浜駅でも乗降が可能である<!-- <ref>[https://cdn.sotetsu.co.jp/media/2023/train/tickets/pass/both-commuter-pass.pdf 「YOKOHAMAどっちも定期」]</ref> -->。 なお、これらは通勤定期のみの発売が多く、通学や障害者割引、福祉乗車については対象外・未発売が多い。 ==== 全線定期券 ==== [[File:東京メトロ全線定期券.png|thumb|right|持参人式である東京メトロ線全線定期券の写真。]] 運賃や区間に関わらず一定の定期旅客運賃のみで全線が自由に使用できる定期券である。 地下鉄では[[福岡市交通局]]([[ちかパス]])など一部社局が発行している。通常の鉄道定期券は記名人のみ使用可能だが、全線定期券については、[[東京地下鉄|東京メトロ]](磁気定期券に限る)・[[都営地下鉄]]・[[大阪市高速電気軌道]]大阪地下鉄・大阪シティバス・([[ニュートラム]]を含む)共通全線定期券など、持参人式を採用している事業者もある。 バスでは[[東急バス]]や[[横浜市交通局|横浜市営バス]]など一部社局が発行している。 * [[西鉄バス]]などの一部では、特定の区域を一定期間自由に乗降できる定期乗車券を発売している。 * 京阪バスでは、大阪府下および京都府八幡市の路線が、一部の例外を除き、乗降できる定期乗車券「ワイド定期券」を270円区間定期券相当の発売額で発行している。これらも全線定期券と類似している部分もある。 * 遠州鉄道ではバス・電車全線を利用できる[[ナイスパス (遠州鉄道)#全線定期|(通勤・通学・シルバー)ワイドフリー定期券]]を販売している。このうち通勤ワイドフリー定期券は持参人式を採用している([[#持参人式定期券|後述]])。 * 対馬交通では1ヶ月5230円で全線定期が販売されている<ref group="注釈">厳原 - 比田勝を往復すれば元が取れる程度である。</ref>。 * 前述の均一区間定期券を発売している事業者であっても、一定額以上の区間であれば全線定期券として発売することもある。これは、対象となる会社の路線で導入しているの最大運賃の区間を購入すれば必然的に全線で利用可能になるが、一部事業者では最大運賃よりも低い金額を設定し、その金額区間の定期券を全線定期券として発売していることがある。 ** 西武バスでは230円区間定期券は全線定期券として発売しており、240円以上の区間を乗車しても差額の精算は行わない(同社の最大片道運賃は680円)。 ==== 複数区間併合定期券 ==== 従来A駅 - B停留所のみ利用可能だった定期券をA駅 - B停留所とC駅 - B停留所の2区間を1枚の定期券で乗車可能としたものである<ref group="注釈">発行社局が少ない上に一般的な定期券呼称がないため、ここでは便宜上「複数区間併合定期券」と表記した。</ref>。前述の区間外の特定の駅を乗降できるものと異なり、区間に含まれている途中駅でも利用可能である。 *[[西武鉄道]]では自社で発行するPASMO連絡定期券において並行する区間のどちらでも乗車可能な定期券を発売している。 **[[西武池袋線|池袋線]]([[練馬駅]] - [[池袋駅]])と並行する[[西武有楽町線]]・[[東京メトロ有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]])を利用可能な定期券を『だぶるーと』として発売している。 **[[西武新宿線|新宿線]]([[高田馬場駅]] - [[西武新宿駅]])と並行する[[山手線|JR山手線]]を利用可能な定期券を『Oneだぶる』として発売している。 *[[東武鉄道]]では[[東武東上線|東上線]]([[和光市駅]] - 池袋駅)と並行する東京メトロ有楽町線・副都心線を利用可能なPASMO定期券を『二東流』<!-- <ref>[https://www.tobu.co.jp/railway/ticket/tojo/2way/ 定期1つで2ルート利用 便利な二区間定期「二東流」]</ref> -->として発売している。 *[[小田急電鉄]]では小田急線(東北沢駅以西 - 新宿駅間)と代々木上原駅からの東京メトロ線<!-- 購入者が指定した駅まで -->を利用可能なPASMO定期券を発売している。 ==== 片道定期券 ==== 片道しか利用できないことを条件に運賃を割り引くものである。坂道の多い土地柄の事業者に多い。往復で利用できる定期乗車券の半額としている場合が多い。 [[津軽鉄道]]では、片道通学定期券を扱っている。往復利用できる一般的な通学定期券の購入数が減っていた状況で「通学時あるいは下校時のみ列車を利用している学生も多い」ことが各駅からの報告で分かり、2006年に導入した<ref>{{Cite web|和書|title=片道の通学定期、親の通勤スタイルが関係?|url=https://trafficnews.jp/post/68896/2/|publisher=乗りものニュース|date=2017-04-25|accessdate=2017-05-24}}</ref>。 ==== 座席指定定期券 ==== [[名古屋鉄道]]では、[[名鉄特急|特急特別車]]ミューの座席について、利用者があらかじめ定めた1往復の列車の座席を1か月(平日ダイヤ運行日のみ)確保する「[[名鉄特急#特別車|ミュー定期券]]」と称するものが存在する。1か月13,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。 座席指定は券面記載の列車・座席にしか適用されないが、ミュー定期券を所持していれば当該区間内であれば休日ダイヤ運行日も含めて券面表示以外の列車の特別車にも追加料金なしで乗車できる。ただし、座席の指定がないため、座席の指定を受けた他の旅客が乗車してきた場合は席を譲らなければならない。 なお、ミュー定期券利用区間を含む通勤・通学定期乗車券を所有する旅客のみに対して発売され、乗車する際も定期券とミュー定期券の2枚を組み合わせて使わなければならない。また、定期券以外の乗車券とミュー定期券の併用はできない。 [[南海電気鉄道]]では「[[ラピート]]」と「[[サザン (列車)|サザン]]」の全列車と「[[こうや|りんかん]]」1 - 7・9・11・13号の座席を1か月単位で購入できる[[定期特別急行券・定期座席指定券]]がある。特急券と座席指定券のみなので、乗車する際には他の乗車券類が必要となる。詳しくは当該項目を参照のこと。 乗車列車のみが指定される例として、[[京成電鉄]]では「[[スカイライナー#モーニングライナー・イブニングライナー|モーニングライナー]]」用の「[[スカイライナー#ライナー券|モーニングPASS]]」を設定している。発売額は「モーニングライナー券」20回分の8,000円で、有効期間は毎月1日 - 末日の1か月。 === 通用期間 === 有効期間は発行する事業者によって異なったり、同じ事業者で複数設定されていたりする。1か月・3か月・6か月のものが多く、12か月という例もある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25463320Z00C18A1TJ2000/ 「東急電鉄、有効期限が12カ月の定期券発売」]『日本経済新聞』ニュースサイト(2018年1月9日)2018年6月2日閲覧。</ref>。有効期間が長ければ長いほど割引率が高くなるが、先述のとおり、紙式の定期券の場合、紛失時に再発行が出来ないことから有効期間が6か月以上の定期券はICカード形式のみでの発行に限られるか、複数回に分けて発行して販売する事が多い<ref group="注釈">[[十和田観光電鉄]]では通学定期券に限り、12か月の有効期間の定期券を発売しているが、乗車券は年4回に分けて発行している。</ref>。 [[秋田中央交通]]では、6か月券のほか、0.5か月有効なものも存在する(0.5か月券は、1か月定期の半額相当額での販売)。京都市営バスでは通勤定期券に1年間有効なものも存在する。なお、通学定期券に6か月が設定されていない事業者もある。 [[弘南鉄道]]では年間定期券を発売しており、通学(S-pass)については4月のみの発売で9か月分の通学定期代で正規運賃の109日分で発売している。2018年3月17日より、[[東京急行電鉄]]が自社線内に限り、12か月定期券を発売する。当面は割引率は1か月定期×12か月分から1割引きした金額で6か月定期の2倍である<ref>http://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/b483496153d422e19cda81626a6ca072b9f09bd9.pdf</ref>。 [[京都京阪バス]]や京阪バス、[[西武バス]]などでは通学定期券に限り学期別定期券が発行されている。これは[[3学期制|1学期・2学期・3学期]]期間のみ有効な定期券である<ref group="注釈">学期日数換算は、平均的な期間で算出</ref>。[[関東バス]]では、1か月または3か月通学定期券に端数日を付加して発売する定期券がある<ref group="注釈">例:4月8日 - 7月7日通用の定期券に、7月8日 - 7月20日の日数を付加して発売することにより、学期中全日の定期券使用を可能とする。</ref>。また、尼崎市営バスや[[国際興業バス]]、[[庄内交通]]では、通学定期券に前述の学期別定期券のほか、4月1日 - 翌年3月31日を有効期間とする年度定期券がある<ref group="注釈">発行日にかかわらず有効期限は3月31日に設定されている。</ref>。ちなみに、[[遠州鉄道|遠鉄]][[遠鉄バス|バス]]・[[遠州鉄道鉄道線|電車]]でも通学定期に限って[[ナイスパス (遠州鉄道)#種類|学期定期(終了日指定定期)]]を販売しているが、学期の日数にかかわらず任意の日数<ref group="注釈">例えば4月29日 - 6月3日など。</ref>で購入可能である。 === 利用日時 === * 運賃割増で運行される[[日本の深夜バス|深夜バス]]においては、普通運賃と深夜運賃の差額(通常、普通運賃と同額)を払うだけで乗車可能としている事業者が多い。 * [[西鉄バス]]([[ひるパス]])、[[長崎自動車]]<ref>[http://www.nagasaki-bus.co.jp/bus/free/index.html 昼間全線フリー定期券] 長崎自動車、2014年1月6日閲覧。</ref>、[[九州産交バス|産交バス]]<ref>[http://www.kyusanko.co.jp/sankobus/pass/dayfree_pass/dayfree_pass3.php 昼間時間帯専用フリーパス] 産交バス、2014年1月6日閲覧。</ref>のように、通用する時間を昼間に限定した定期券や、[[庄内交通]]<ref>[http://www.shonaikotsu.jp/local_bus/teiki.html 回数券・定期券] 庄内交通、2014年1月6日閲覧。</ref>や[[江若交通]]<ref>[http://www.kojak.co.jp/bus/ticket/ 運賃・回数券・定期券] 江若交通、2014年1月6日閲覧。</ref>のように平日のみ利用可能な定期券、さらには[[ホリデーアクトパス]](西鉄バス)のような土休日限定で利用可能な定期券も存在する。 * [[福島交通]]では、土・日曜日・祝日と平日の10 - 17時にバスを降車する場合に限り、一般路線バス(市町村生活バスを除く)全線で乗車可能な専用定期券「おでかけノルカ(旧:ショッピングパス)」を発売している。[[定期乗車券#全線定期券|全線定期券]]とほぼ同趣旨の定期券であるが、利用範囲が比較的限定されている点が差異として挙げられる。また、同社の通勤バス定期券を同じ職場などの団体が5名以上で購入する場合、元来の定期券代からさらに5%以上割り引かれる「NORUCAグリーン定期券」が発売される<ref>[http://www.fukushima-koutu.co.jp/bus/corp/green/index.html グリーン定期券とは?] - 福島交通公式ページ</ref>。 === その他の定期乗車券 === 2006年7月限定で[[平成筑豊鉄道]]は1か月分の定期乗車券などが当たる[[懸賞]]つき定期乗車券を発売していた。 == 定期乗車券の発売 == === JR === {{節スタブ}} 主に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)での例を挙げる。 [[File:乗車券類購入乗車票.jpg|thumb|right|JR東日本の定期券を発売していない駅からの定期券を購入するために隣接駅に行く際に発行された乗車票と購入した定期券。]] 「[[みどりの窓口]]」、[[指定席券売機]]、[[自動券売機|多機能券売機]]で発売している。特に年度始めに初めて購入する通学定期券(新規・継続とも)は、学校からの証明書の提出あるいは提示が必要になるため、原則として有人のみどりの窓口でしか扱えないが、係員が証明書を確認した後に自動券売機の設定を切り替えて発売する場合もある<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190919231522/http://jreastfaq.okbiz.okwave.jp/faq/show/1007?category_id=16&site_domain=default|url=http://jreastfaq.okbiz.okwave.jp/faq/show/1007?category_id=16&site_domain=default|archivedate=2019-09-19|date=|accessdate=2021-10-07|title=通学定期券も機械(券売機)で購入できますか?|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。これらの窓口や機器が設置されていない[[無人駅]]や[[業務委託駅]]からの定期券を購入する場合、最寄りの窓口や機器のある駅で発売することになっている。 JR東日本のアプリ「[[モバイルSuica]]」では窓口に出向かなくても定期券の購入ができる。 [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では、[[石北本線]][[西留辺蘂駅]] - [[網走駅]]間と、[[釧網本線]]網走駅 - [[緑駅]]間で[[スマートフォン]]アプリ「バスもり!」を利用した定期券が発売されている。通学定期券は、事前に学校事務に申し込むことで証明書の提出を省略して購入できる。約140キロメートルの当該区間に有人駅が3駅([[北見駅]]、網走駅、[[知床斜里駅]])しかないことから、駅窓口に出向かずアプリの操作のみでクレジットカードやコンビニ決済の可能な本システムが導入された<ref>{{Cite web|和書|author=日経コンピュータ 清嶋直樹|authorlink=|date=2018年1月18日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25842570Y8A110C1000000/|title=無人駅でも購入可能 JR北海道が「スマホ定期券」|website=日本経済新聞|language=日本語|accessdate=2021-08-23}}。</ref>。 === 私鉄・地下鉄 === {{節スタブ}} 発売拠点については、主要駅の定期券発売所に集約されている(特に都市部の[[大手私鉄]]や地下鉄。ただ、[[名古屋鉄道]]や遠州鉄道のように全ての[[有人駅]]で発売しているケースや、[[小田急電鉄]]や[[阪急電鉄]]などのように、全駅に定期券(ただし、通勤定期や年度内の継続通学定期に限る)を発売可能な[[自動券売機]]を設置しているケースもある。 このため、定期券を発売していない駅からの定期券や、JR同様に、年度始めに新規を含めて初めて購入する通学定期券を購入する場合、乗車駅から発売駅までの普通乗車券(あるいは定期券購入専用の乗車券)を購入した上で乗車券に証明を受け、定期券発売窓口で定期券の購入時に発売駅までの乗車券を払い戻してもらい、帰りの無料乗車券(乗車票)を受取って乗車駅まで戻る形となる。 [[PASMO]]導入事業者では「[[モバイルPASMO]]」を利用して窓口に出向かなくても鉄道やバスの定期券購入ができる。 === バス === {{節スタブ}} バス会社の営業所(車庫)、[[バスターミナル]]などの案内所で発売されている。 [[京王電鉄バス|京王バス]]([[京王電鉄]])や[[小田急バス]]([[小田急電鉄]])のように、系列の鉄道会社の定期券発売窓口や券売機で発売することもある。 また、他事業者の出札窓口や駅前の商店に自社定期券の発売を委託している事業者もあるが、この場合購入出来る定期券の種類に制約がある場合もある。 == 定期乗車券の払い戻し == {{節スタブ}} * 不要になった定期券は発売窓口で手続きをすることによって払い戻しを受けることが出来る。 ** 払い戻しの場合、定期券の残日数に応じた払い戻し額から手数料を引いて払い戻しされる。残日数(有効期限が1か月以内など)によっては払い戻しがない場合がある。 ** ただし、利用区間の変更によって定期券を買い直した場合、窓口で新たに購入した定期券を提示することによって残日数が1か月未満の場合でも払い戻しを受けることが出来る場合がある。 * 1週間以上路線が不通になった時は手数料の差し引き無しで購入時の全額を返金することができる。 * 定期券の有効期限を前に対象となる交通機関が廃止や大幅な減便により定期券を使用出来なくなった場合、窓口でその旨を伝えると手数料なしで払い戻しに応じる事がある。 ** また、[[自然災害]]や[[ストライキ]]などの理由により全便が運休となった場合、運休期間分のみの払い戻しに応じる場合もある。 == 定期回数券 == 1か月の定期券を約50枚の回数券方式にした形態の定期券である。降車時に使用者名が記載された表紙を乗務員に提示して、1回分の券面を切り取って運賃箱に投入する。通常の定期乗車券と異なり利用回数に制限を設けており、回数乗車券と異なり使用者以外の利用に制限を設けているのが特徴。 京阪バス(2010年5月31日までで券種廃止)<ref group="注釈">京阪バスでは「特別定期券」が50枚綴りの回数券式の定期券であった。</ref>の一部区間や[[近江鉄道]]で発行されている。従来は廃止前の京阪宇治交通の一部区間、鉄道では廃止前の[[屋島登山鉄道]]や、[[比叡山鉄道]]でも発行されていた。 このほか、複数のバス会社が少数の便を運行しているが共通乗車の扱いがなされていない区間で、学生の利便のため通学定期券に相当する[[氏名]]記載の表紙を持つ定期回数券のみ、共通乗車用に発行した事例がある。(例 [[陸前古川駅|古川駅]] - [[吉岡 (大和町)]]間の国道4号線一般道を走っていた [[国鉄バス]](当時)古川線の一部・[[宮城交通]](当時)相互での発行) == 分割購入 == 乗車券を購入する場合、運賃に距離逓減制を採用している場合には乗車券の分割購入を行うと全区間非分割の運賃(通しの運賃)より通常は高くなる。しかし、経路の一部区間に割安の特定運賃を採用している場合や、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合においては、全区間を分割しないで購入するよりも特定の地点で分割して購入する方が運賃計算上割安になる事例が存在する(非分割の場合は全区間で特定運賃が非適用になったり、割高の価格帯で算出されることがある)。 大都市近郊のJRにおいて、競合する私鉄が存在する区間(特定運賃区間)とそれ以外の区間を通して移動する場合に、特定運賃区間分とそれ以外の区間分に分けた運賃の合算の方が全区間を分割しないで乗車券を購入するよりも安い場合が多数あり、上記の事例として挙げられる。また、JRの定期運賃の算出は表引き方式であるが、便宜的に一定の距離区間の定期運賃額を同一としている場合があり、その価格帯にあるキロ数のもっとも多い区間同士で分割した場合に、それらを合算した場合の定期運賃額より低廉になる場合があり、同じく上記の事例として挙げられる。 分割購入は合法的であり、規約に反せず、かつ利用者も割安となる手法であるが、分割地点を必ず経由する必要があることから、突発的な状況により選択された経路を経由できない場合では別途通常運賃を要することとなる<ref group="注釈">ただし、JR定期券の場合は、分割しない場合(通しの場合)も、原則として購入時に選択した一つの経路固定([[大都市近郊区間 (JR)#大回り乗車|大回り乗車]]は不可)であり、ごく一部の特定区間においてのみ使用時に複数の経路が選択できることから、分割定期にしなくても、多くの場合は上記の不利益を回避できない。</ref>。 [[Suica]]・[[ICOCA]]・[[PASMO]]などの[[乗車カード|IC乗車券]]では2枚以上の定期券情報を載せることが可能であり、特にSuica・ICOCAでは上記のような区間を分割しての購入が可能である。また、1枚で発行できない経路(T・Y・X状になる)であれば、'''二区間定期券'''という形で発行が可能である。 ただし、一部区間に長期間の不通が生じた場合など、分割購入していると不利益を被るリスクもある<ref group="注釈">例えば、A駅 - B駅 - C駅を利用するにあたって[A駅 - B駅]と[B駅 - C駅]に分割して定期券を購入しているとする。もし、B駅 - C駅間が事故や災害で不通になったとすると救済措置(有効期間延長、無手数料での払い戻し、他の交通機関への振替乗車など)が認められるのは[B駅 - C駅]の定期券だけになる。</ref>。 これとは逆に、バスにおいて全線定期乗車券を発行している事業者では分割購入を使用しない方が安くなる場合もある。一例を挙げると、A地点 - B地点までバス、B地点 - C地点まで鉄道、C地点 - D地点までバスを利用するとする。この場合、バスの全線定期乗車券の利用範囲にA地点 - B地点およびC地点 - D地点の両方が含まれていれば各地点間の定期券の分割購入よりも全線定期券の購入が安くなる事例も地区により発生している。 === 二区間定期券 === 主に、次のようなパターンがある。 * 経路がT字・Y字型(すなわち、二股に別れる)になる。(例:戸塚 - 藤沢、大船 - 鎌倉) * 通学・通勤定期券を一葉化したもの。(例:通学:戸塚 - 藤沢、通勤:戸塚 - 横浜。自宅:戸塚、学校:藤沢、アルバイト先:横浜のように逆方面だった場合。) * 通勤定期券同士を一葉化したもの。(例:通勤:戸塚 - 藤沢、通勤:戸塚 - 横浜。会社の指示や、兼職で、勤め先が逆方面だった場合など。) 運賃は、一枚ずつ分割で持った場合と同じ、すなわち合算額である。 T字経路の場合、例えば、上記の場合、発券できる区間の組み合わせとして、(1)戸塚 - 藤沢+大船 - 鎌倉、(2)戸塚 - 鎌倉+大船 - 藤沢、(3)鎌倉 - 藤沢+大船 - 戸塚の3通りがある。それぞれの組み合わせの運賃は、通勤1か月の場合、(1)6930+5350=12280 (2)6300+5350=11650 (3)5670+4730=10400 となるが、運賃の高低に関わらず旅客が希望した組み合わせで発券される。原則として計算方式は合算方式である。 西武鉄道は、西武線豊島園および西武池袋線中村橋以西(西武狭山線および西武秩父線ならびに西武新宿線小平 - 本川越間を含む)から練馬 - 池袋を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>ならびに東急線の渋谷以南/以西のいずれかの区間の定期券で練馬を分岐駅として練馬 - 池袋間を西武有楽町線小竹向原駅経由東京メトロ有楽町線(副都心線)と西武池袋線の双方を利用できる2区間定期券(特殊連絡定期券)の「だぶるーと」と<ref name="Seibu200912">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20091229043919/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2009/12/24/tokushu_teiki.pdf 池袋~練馬駅間を西武線でも東京メトロ線でも1枚で利用できるPASMO定期券を発売いたします]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)。</ref><ref name="Seibu201003">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120721070714/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/08/19/20100819daburuuto-8000over.pdf 便利な東京メトロ線連絡定期券「だぶるーと」発売以来、大変好評をいただいております!!]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref>、高田馬場を分岐駅に、西武線下落合以西 - 西武新宿とJR高田馬場 - 新大久保以南のJR線新宿方面との組み合わせとなる2区間定期「Oneだぶる」を発売している<ref name="Seibu200902">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20090306120005/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2008/0217.pdf 3月14日(土)より西武新宿駅での乗降と高田馬場駅JR線乗換えが1枚で利用できるPASMO定期券を発売いたします]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)。</ref><ref name="Seibu201012">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20101231123051/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/12/13/20101213Onedaburu.pdf 新宿線特殊連絡定期券の愛称が決まりました!Oneだぶる]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref>。 なお、「だぶるーと」は、合算方式ではない。<!--定められた額をプラスする「付加方式」。その点から特殊連絡定期券の2区間定期とされている。-->なお、「だぶるーと」の場合、券面に表示される区間は西武線豊島園または西武線中村橋以西 - 西武池袋と西武線練馬 - 新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>・渋谷以南<東急東横線>/以西<東急田園都市線>のいずれか(西武有楽町線小竹向原経由東京メトロ線・東急線)となる。 <!--また、阪神電鉄では「OSAKAどっちも定期」として阪神なんば線の新線区間(西九条 - 大阪難波の各駅(最低でも大物 - 九条間))を含む通勤定期を所持している方に無料で梅田駅でも乗降可能にしたり(※2009年3月20日(新線区間開業日)から)、京王電鉄では「どっちーも」として、明大前を分岐駅として、新宿または渋谷までの通勤定期運賃に1千円プラスするだけで、新宿または渋谷のいずれか異なる駅でも乗降車できるサービスを2014年9月1日からそれぞれ実施している。[http://www.keio.co.jp/campaign/teiki/index.html 新・通勤定期券「どっちーも」のご案内]--> 東武鉄道でも、東武東上線朝霞以西から和光市 - 池袋間を挟む東京メトロ線の新大塚以東<丸ノ内線>・東池袋以東<有楽町線>・雑司が谷以南<副都心線>のいずれかの区間の定期券で、和光市を分岐駅とし和光市 - 池袋間を東武東上線と東京メトロ有楽町線(副都心線)の双方を利用できる2区間定期券「二東流」を発売している。<!--[http://www.tobu.co.jp/tojo/2way/ 定期1つで2ルート利用 便利な二区間定期券「二東流」]-->なお、券面に表示される区間は、朝霞以西 - 東武線池袋とメトロ線和光市 - (新大塚以東・東池袋以東・雑司が谷以南のいずれか)となる。 小田急電鉄では、東北沢以西から代々木上原を分岐駅として、東京メトロ各駅発着区間を代々木上原から東京メトロ千代田線を経由する区間または小田急線新宿を経由する区間の双方を利用できる2区間定期券を「小田急・東京メトロ PASMO 二区間定期券」の名称で2016年3月26日から発売している。なお、券面には東北沢以西 - 東京メトロ各駅 [代々木上原 - 新宿間乗降可能]と表記される。 JR東日本は、区間の特定はなく発売している。なお、2012年3月17日より、Suicaでの発売を開始し、さらに、連絡会社線を最大2社まで絡めて発売する。 JR西日本は、ICOCAのみで、ICOCAエリア内完結で、連絡会社線の絡まない経路を発売する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[回数乗車券]] * [[乗車カード]] {{公共交通}} {{DEFAULTSORT:ていきしようしやけん}} [[Category:鉄道運賃と切符]] [[Category:乗合バス事業]] [[Category:通勤]]
2003-08-18T14:00:47Z
2023-11-28T02:55:05Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Refnest", "Template:出典の明記", "Template:See also", "Template:Main", "Template:Redirect", "Template:複数の問題", "Template:節スタブ", "Template:Doi", "Template:Cite web", "Template:仮リンク", "Template:PDFlink", "Template:アジア歴史資料センター", "Template:Zh-tw icon", "Template:Cite journal", "Template:Cite press release", "Template:公共交通" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%9C%9F%E4%B9%97%E8%BB%8A%E5%88%B8
13,518
応身
応身(おうじん、サンスクリット語: निर्माणकाय nirmāṇa-kāya)は仏教用語であり、法身・報身・応身の三身の1つ。 「応現した身体」という意味から応身と言い、サンスクリット語の「ニルマーナ」の「化成」という意味から、化身と同じ意味であり、これから「応化身」と呼ばれた。仏が衆生を済度するため、様々な形態で出現する際の姿。このような仏身についての考え方は、仏が単なる「法」や「理」ではなく、人間という一定の形をとるのでもなく、恒に衆生に向かって働きかけているものと考えられていることを示している。 チベット仏教では、すぐれた宗教者を化身と考え、その宗教者の没後に「生まれ変わり」を探し、同一人格の持ち主として扱い、その宗教者の地位を継承させる化身ラマ(いわゆる転生活仏)制度が14世紀から15世紀にかけて広く普及、定着した。 後世、日本では、訳語の応身と化身に意味上の区別が発生し、応身は衆生教化の対象に応じて現れた仏であり、化身は人間以外のほかの衆生への応現化成と考える用法が出現した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "応身(おうじん、サンスクリット語: निर्माणकाय nirmāṇa-kāya)は仏教用語であり、法身・報身・応身の三身の1つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「応現した身体」という意味から応身と言い、サンスクリット語の「ニルマーナ」の「化成」という意味から、化身と同じ意味であり、これから「応化身」と呼ばれた。仏が衆生を済度するため、様々な形態で出現する際の姿。このような仏身についての考え方は、仏が単なる「法」や「理」ではなく、人間という一定の形をとるのでもなく、恒に衆生に向かって働きかけているものと考えられていることを示している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チベット仏教では、すぐれた宗教者を化身と考え、その宗教者の没後に「生まれ変わり」を探し、同一人格の持ち主として扱い、その宗教者の地位を継承させる化身ラマ(いわゆる転生活仏)制度が14世紀から15世紀にかけて広く普及、定着した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "後世、日本では、訳語の応身と化身に意味上の区別が発生し、応身は衆生教化の対象に応じて現れた仏であり、化身は人間以外のほかの衆生への応現化成と考える用法が出現した。", "title": null } ]
応身は仏教用語であり、法身・報身・応身の三身の1つ。 「応現した身体」という意味から応身と言い、サンスクリット語の「ニルマーナ」の「化成」という意味から、化身と同じ意味であり、これから「応化身」と呼ばれた。仏が衆生を済度するため、様々な形態で出現する際の姿。このような仏身についての考え方は、仏が単なる「法」や「理」ではなく、人間という一定の形をとるのでもなく、恒に衆生に向かって働きかけているものと考えられていることを示している。 チベット仏教では、すぐれた宗教者を化身と考え、その宗教者の没後に「生まれ変わり」を探し、同一人格の持ち主として扱い、その宗教者の地位を継承させる化身ラマ(いわゆる転生活仏)制度が14世紀から15世紀にかけて広く普及、定着した。 後世、日本では、訳語の応身と化身に意味上の区別が発生し、応身は衆生教化の対象に応じて現れた仏であり、化身は人間以外のほかの衆生への応現化成と考える用法が出現した。
'''応身'''(おうじん、{{Lang-sa|निर्माणकाय}} {{IAST|nirmāṇa-kāya}})は[[仏教用語]]であり、[[法身]]・[[報身]]・応身の[[三身]]の1つ。 「応現した身体」という意味から応身と言い、[[サンスクリット語]]の「ニルマーナ」の「化成」という意味から、'''[[化身]]'''と同じ意味であり、これから「応化身」と呼ばれた。仏が[[衆生]]を[[済度]]するため、様々な形態で出現する際の姿。このような仏身についての考え方は、[[仏]]が単なる「法」や「理」ではなく、人間という一定の形をとるのでもなく、恒に衆生に向かって働きかけているものと考えられていることを示している。 [[チベット仏教]]では、すぐれた宗教者を[[化身]]と考え、その宗教者の没後に「生まれ変わり」を探し、同一人格の持ち主として扱い、その宗教者の地位を継承させる[[化身ラマ]](いわゆる[[転生活仏]])制度が14世紀から15世紀にかけて広く普及、定着した。 後世、日本では、訳語の応身と化身に意味上の区別が発生し、'''応身'''は衆生教化の対象に応じて現れた仏であり、'''化身'''は人間以外のほかの[[衆生]]への応現化成と考える用法が出現した。 {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:おうしん}} [[category:仏]] [[Category:仏教用語]] [[ru:Нирманакая]]
null
2022-07-07T14:08:48Z
false
false
false
[ "Template:IAST", "Template:Buddhism-stub", "Template:Buddhism2", "Template:Lang-sa" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E8%BA%AB
13,520
六祖壇経
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経六祖恵能大師於韶州大梵寺施法壇経』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。 唐代の初め頃、韶州刺史の韋璩(いきょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。 北宋の時代、967年に恵昕(えきん)が文章を整理し、上下巻に分けた本が広く通用している。それによると、全体は十一門に分けられている。 上巻・下巻に分けたのは分量の関係で、意味はないようである。 「縁起説法門」は説法の背景の説明。「悟法伝衣門」は説法の導入部分として、慧能の略歴を述べている。そこから「問答功徳及西方相状門」までは説法。そこで慧能は大梵寺から曹渓宝林寺へ帰り、「諸宗難問門」以下の篇では弟子たちとの問答が記されている。最後は慧能の入滅で終わる。 『壇経』の主題は「見性成仏」である。それを語る、慧能が六祖となるまでの逸話が興味深い。五祖弘忍の弟子たちへの問いかけに応じて、新しい白壁に筆頭弟子の神秀が書いた詩に「莫使染塵埃」(塵埃に染さしむること莫かれ)とあったのを聞いて、読み書きできなかった下男の慧能は人に頼んでその隣に詩を書いた。その中には「何処有塵埃」(何処に塵埃有らん)とあった。つまり、一般的には心を清めて悟りに達すれば、塵など気にかからなくなると考えがちだ。もはや塵にとらわれることがないと解釈する。しかし、慧能の考えでは、それではまだ心の中に塵を認識するものが残っている。それも捨て去っていったところで、初めてどこに塵があるのか、あるのはただそのものだけじゃないかという境涯に達する。それに気付くのが見性成仏ということである。様々の汚れは妄想により存在するので、妄想を止めれば、そのものが仏の世界なのだという思想である。『壇経』においては、その思想が明確に(中国禅の典籍にしては、という但し書きが付くが)語られている。 南方禅(頓悟禅)は『六祖壇経』の教義を基盤にしている。というよりは、慧能の弟子の神会がその宗旨をもとに、慧能の説法の記録だった『六祖壇経』を編修したという説が有力であり、後の禅宗の発展に大きな影響を及ぼした。 『壇経』の成立について疑いを抱く人も多い。道元は偽書だと言っている。 同時代すでに、慧能の弟子である慧忠が「『壇経』は改変された」と憤慨している。改変者はおそらく荷沢神会(かたくじんね)である。神会は慧能の死後もその教えを守ることに務め、南方禅を広めて北方禅(神秀の系統)を圧倒した。 『壇経』は嗣法の証として代々伝授され、世には顕れなかった。しかし9世紀以降は一般に広まった。 現在残る本としては大きく分けて、敦煌出土本と、恵昕編集本の二つの系統が見られる。時代的には敦煌出土本の方が古いが、内容では恵昕本の方が優れているとの指摘もあり、どちらが本来の形を留めているかいまだ意見の対立がある。前者を荷沢宗、後者を洪州宗の一門の手による成立とする見方もある。 中国語では『六祖大師法寶壇經』と表記される。英語では"Platform Sutra"。Philip Yampolskyによって英訳された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経六祖恵能大師於韶州大梵寺施法壇経』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "唐代の初め頃、韶州刺史の韋璩(いきょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北宋の時代、967年に恵昕(えきん)が文章を整理し、上下巻に分けた本が広く通用している。それによると、全体は十一門に分けられている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "上巻・下巻に分けたのは分量の関係で、意味はないようである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「縁起説法門」は説法の背景の説明。「悟法伝衣門」は説法の導入部分として、慧能の略歴を述べている。そこから「問答功徳及西方相状門」までは説法。そこで慧能は大梵寺から曹渓宝林寺へ帰り、「諸宗難問門」以下の篇では弟子たちとの問答が記されている。最後は慧能の入滅で終わる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『壇経』の主題は「見性成仏」である。それを語る、慧能が六祖となるまでの逸話が興味深い。五祖弘忍の弟子たちへの問いかけに応じて、新しい白壁に筆頭弟子の神秀が書いた詩に「莫使染塵埃」(塵埃に染さしむること莫かれ)とあったのを聞いて、読み書きできなかった下男の慧能は人に頼んでその隣に詩を書いた。その中には「何処有塵埃」(何処に塵埃有らん)とあった。つまり、一般的には心を清めて悟りに達すれば、塵など気にかからなくなると考えがちだ。もはや塵にとらわれることがないと解釈する。しかし、慧能の考えでは、それではまだ心の中に塵を認識するものが残っている。それも捨て去っていったところで、初めてどこに塵があるのか、あるのはただそのものだけじゃないかという境涯に達する。それに気付くのが見性成仏ということである。様々の汚れは妄想により存在するので、妄想を止めれば、そのものが仏の世界なのだという思想である。『壇経』においては、その思想が明確に(中国禅の典籍にしては、という但し書きが付くが)語られている。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "南方禅(頓悟禅)は『六祖壇経』の教義を基盤にしている。というよりは、慧能の弟子の神会がその宗旨をもとに、慧能の説法の記録だった『六祖壇経』を編修したという説が有力であり、後の禅宗の発展に大きな影響を及ぼした。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『壇経』の成立について疑いを抱く人も多い。道元は偽書だと言っている。", "title": "伝来と影響" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同時代すでに、慧能の弟子である慧忠が「『壇経』は改変された」と憤慨している。改変者はおそらく荷沢神会(かたくじんね)である。神会は慧能の死後もその教えを守ることに務め、南方禅を広めて北方禅(神秀の系統)を圧倒した。", "title": "伝来と影響" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『壇経』は嗣法の証として代々伝授され、世には顕れなかった。しかし9世紀以降は一般に広まった。", "title": "伝来と影響" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在残る本としては大きく分けて、敦煌出土本と、恵昕編集本の二つの系統が見られる。時代的には敦煌出土本の方が古いが、内容では恵昕本の方が優れているとの指摘もあり、どちらが本来の形を留めているかいまだ意見の対立がある。前者を荷沢宗、後者を洪州宗の一門の手による成立とする見方もある。", "title": "伝来と影響" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "中国語では『六祖大師法寶壇經』と表記される。英語では\"Platform Sutra\"。Philip Yampolskyによって英訳された。", "title": "伝来と影響" } ]
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、仏教の経典で、中国禅宗の第六祖慧能の説法集である。禅宗における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経六祖恵能大師於韶州大梵寺施法壇経』と名づけられる。『六祖大師法宝壇経』とも、単に『壇経』とも言う。 唐代の初め頃、韶州刺史の韋璩(いきょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。
{{出典の明記|date=2019年4月}} 『'''六祖壇経'''』(ろくそだんきょう)は、[[仏教]]の[[経典]]で、[[中国]][[禅宗]]の第六祖[[慧能]]の説法集である。[[禅宗]]における根本教典のひとつ。最も古い写本は『南宗頓教最上大乗摩訶般若波羅蜜経六祖恵能大師於韶州大梵寺施法壇経』と名づけられる。『'''六祖大師法宝壇経'''』とも、単に『'''壇経'''』とも言う。 [[唐]]代の初め頃、韶州刺史の韋璩(いきょ)の求めに応じて、大梵寺において行った説法をおもな内容とする。書き留めたのは弟子の法海である。 ==構成== [[北宋]]の時代、[[967年]]に恵昕(えきん)が文章を整理し、上下巻に分けた本が広く通用している。それによると、全体は十一門に分けられている。 *上巻 **縁起説法門 **悟法伝衣門 **為時衆説定慧門 **教授坐禅門 **説伝香懺悔発願門 **説一体三身仏相門 *下巻 **説摩訶般若波羅蜜門 **問答功徳及西方相状門 **諸宗難問門 **南北二宗見性門 **教示十僧伝法門 上巻・下巻に分けたのは分量の関係で、意味はないようである。 「縁起説法門」は説法の背景の説明。「悟法伝衣門」は説法の導入部分として、慧能の略歴を述べている。そこから「問答功徳及西方相状門」までは説法。そこで慧能は大梵寺から曹渓宝林寺へ帰り、「諸宗難問門」以下の篇では弟子たちとの問答が記されている。最後は慧能の入滅で終わる。 ==内容== 『壇経』の主題は「'''[[見性]]成仏'''」である。それを語る、慧能が六祖となるまでの逸話が興味深い。五祖[[弘忍]]の弟子たちへの問いかけに応じて、新しい白壁に筆頭弟子の[[神秀]]が書いた詩に「莫使染塵埃」(塵埃に染さしむること莫かれ)とあったのを聞いて、読み書きできなかった下男の慧能は人に頼んでその隣に詩を書いた。その中には「何処有塵埃」(何処に塵埃有らん)とあった。つまり、一般的には心を清めて悟りに達すれば、塵など気にかからなくなると考えがちだ。もはや塵にとらわれることがないと解釈する。しかし、慧能の考えでは、それではまだ心の中に塵を認識するものが残っている。それも捨て去っていったところで、初めてどこに塵があるのか、あるのはただそのものだけじゃないかという境涯に達する。それに気付くのが見性成仏ということである。様々の汚れは妄想により存在するので、妄想を止めれば、そのものが仏の世界なのだという思想である。『壇経』においては、その思想が明確に(中国禅の典籍にしては、という但し書きが付くが)語られている。 南方禅(頓悟禅)は『六祖壇経』の教義を基盤にしている。というよりは、慧能の弟子の[[荷沢神会|神会]]がその宗旨をもとに、慧能の説法の記録だった『六祖壇経』を編修したという説が有力であり、後の禅宗の発展に大きな影響を及ぼした。 ==伝来と影響== 『壇経』の成立について疑いを抱く人も多い。[[道元]]は偽書だと言っている。 同時代すでに、慧能の弟子である慧忠が「『壇経』は改変された」と憤慨している。改変者はおそらく荷沢神会(かたくじんね)である。神会は慧能の死後もその教えを守ることに務め、南方禅を広めて北方禅(神秀の系統)を圧倒した。 『壇経』は嗣法の証として代々伝授され、世には顕れなかった。しかし9世紀以降は一般に広まった。 現在残る本としては大きく分けて、敦煌出土本と、恵昕編集本の二つの系統が見られる。時代的には敦煌出土本の方が古いが、内容では恵昕本の方が優れているとの指摘もあり、どちらが本来の形を留めているかいまだ意見の対立がある。前者を[[荷沢宗]]、後者を[[洪州宗]]の一門の手による成立とする見方もある。 中国語では『六祖大師法寶壇經』と表記される。英語では"Platform Sutra"。Philip Yampolskyによって英訳された。 ==脚注・出典== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{禅}} {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:ろくそたんきよう}} [[Category:8世紀の中国語書籍]] [[Category:唐代の書籍]] [[Category:諸宗部 (大正蔵)]] [[Category:禅籍]] [[Category:語録]]
null
2021-07-19T22:54:52Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:禅", "Template:Buddhism2", "Template:Buddhism-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%96%E5%A3%87%E7%B5%8C
13,521
MamiのRADIかるコミュニケーション
『mamiのRADIかるコミュニケーション』(マミのラディかるコミュニケーション)は、1984年10月13日から2009年10月4日まで、東海ラジオ放送、九州朝日放送(KBCラジオ)、STVラジオ、ラジオ関西で放送されていたラジオ番組である。略称はRADIコミ(ラディコミ)。RADIかるはRADIO+カルチャー、またradical、軽〜くなどの意味を込めた造語。 メインパーソナリティは小森まなみ。アシスタントはミンキー♥ヤス。 小森まなみのポリシーである一回一回の放送を大切に・心と心のキャッチボールをモットーにしているあたたかさとエンターテインメント性を兼ね備えているラジオ番組。リスナー同士のコミュニケーションも旺盛で、1990年代後半から2000年にかけてのアニラジブームでは中心的存在の番組であった。 2003年12月には1000回の放送を記録し、2009年10月の最終回までに25年、放送回数1,305回となった長寿番組である。23周年放送で小森は「変わらないものを守るためには、変わることをもおそれない」と宣言した。目やからだの不自由なリスナーからの多くの要望を受け、メールでの投稿の受付を開始した。 夏に名古屋市内(名古屋城、名古屋市公会堂など)で行なわれる番組イベントは、全国から数千人のリスナーが集まる「伝説的なイベント」になっていた。1994年(平成6年)に番組10周年兼、東海ラジオ放送創立35周年記念として名古屋市総合体育館(現・日本ガイシスポーツプラザ)にて挙行されたイベントには、東海地方を始め全国各地から一ラジオ番組のイベントとしては異例ともいえる約7000人ものリスナーを集めている。1995年の阪神淡路大震災時では、「できることを できるところから」と誰でもが手にしているテレフォンカードを換金するという小森の発案により「救援テレカ支援」を行なう。累計800万円を超える募金をラジオ関西・兵庫県学童保育連絡協議会・あしなが育英会などに、番組を通じ5年間にわたり寄付をした。 番組は開始当時からお便りを郵送でしか扱っておらず、FAX(生放送を除く)やEメールでの募集は通常行っていなかったが、2007年10月14日放送分で郵政民営化によりポストや郵便局が遠くなったり体の不自由な人がパソコンからアクセスしたいという要望を受け、2007年11月4日放送分より[email protected]宛てのEメールでの受付も行うことになった。ハガキは各放送局の本社から東京支社に転送されて、そこからさらに収録スタジオのフラミンゴスタジオに届けられるため、ハガキを投函してから番組で読み上げられるのに2週間程度かかることがあった。このタイムラグの関係上、番組で取り上げられたお便りに対するリスナーからのレスポンスは、原則としてオンエアの翌々週以降に取り上げられた。 番組は小森の「ワン」(犬の鳴き声。矢尾時代は「ウー、ワン!」(犬の吠える声)、新年1回目の放送はその年の干支の鳴き声)の決まり文句で始まり、それに続いてリスナーからの小ネタ、通称「○○さんの今週のひと言」或いは「今週の独り言」の読み上げから始まる。 タイトルコールは「俺は、『北斗の拳』のケンシロウだ。708ある経絡秘孔のうち、mamiを突いた。お前はこれから、ずーっとこの放送を聴くことになる。お前はもう、聴いている」(2004年10月10日からは「mamiを突いた」が「mamiのRADIかるコミュニケーションを突いた」に変更され、「お前はこれから~聴くことになる」の部分が無くなった)という神谷明の声の後に小森の「mamiのRADIかる♪」という声が入り、テーマ曲の歌声によって「コミュニケーション」と続く。その後でパーソナリティ2人の自己紹介が行われるが、特に小森の自己紹介の前に「みんな一週間元気だったかな、いいこといっぱいあったかな?」と言うのが定例の決まり文句となっていた。 この神谷によるタイトルコールのナレーションは、同時期(1984年10月11日)にはじまった『北斗の拳』のアニメを元にしたもので、ケンシロウの声で行われている。当時、声優の指導をしていた小森の新番組ということでの友情出演だった。テーマ曲はスパンダー・バレエの楽曲「Communication」のリミックス・ヴァージョンで、番組開始当初から使用されていた。 番組内容はリスナーから様々な話題のハガキを募集し、それを紹介するのがメイン。大枠で「全国流行通信」というコーナーで、テーマ曲はGoon Squad(英語版)の「Eight Arms To Hold You(英語版)」。特に反響があった話題については、それ専用の特別コーナーが設けられる。本来の歌詞とは違って聞こえる曲や面白い聞き間違いを紹介する「空耳タイム」は、月に1度だったが人気があり定期コーナーと化した。最近では、馬の名前を付けてヤスのアドリブ実況により競争させる「RADIコミダービー」も月に1度の定期コーナーとなっている。 番組後半はヤスによるアニメ関連の話題で進行した(コーナータイトルは「アニメフォーカス」→「アニメ塾」→「アニメタイム」→「アニメールタイム」と移り変わっている)。かつてキングレコード(スターチャイルド)やラポートがスポンサーだった頃にはBGMにスターチャイルド関連の曲を流したり、ファンロード等ラポートが発行する雑誌や書籍等の宣伝が行われていたが、末期はそれらに必ずしもこだわらなかった。以上の経緯から、この番組をアニラジに分類する場合もある。 このコーナー前後辺りで「モエールの館」というコーナーが2007年4月開始。その後モエールちゃんが何らかの任務に出てしまい休業中。執事は「ピエール・ヤス」で、メイドは「ヘルツ・モエール」である。なお、表記の区切りに関しては公式な発表がないため不明。このコーナーではご主人様またはお嬢様の悩みに、モエールが答えるというものである。ちなみに小森やヤスは彼らについて別人扱いしているが、モエールが金魚が嫌いな描写を見せたため紛れもなく小森やヤス本人である。 番組ラストの人気コーナー「マミのキュンキュン」(1998年10月開始)では身の回りで起こった心に残ること(キュンときたこと)を紹介する他、多数寄せられるリスナーの悩みに小森が答えている。それに対するリスナーの反響が大きければ2週間後にリスナーの意見を発表することもあり、小森とリスナーが共にリスナーの悩みを解決しているといえよう。時に涙することもあり、多くの共感を得ているラジオらしいコーナー。 最後にパーソナリティ二人の自己紹介と「こころもからだも元気でね」「バッハハーイ」の決まり文句で終わる。 番組開始時には「円盤観察日記」(1984 - 1987年)「ポップスドクター」(1987 - 1988年)「アーティストディクショナリー」(1988 - 1989年)「ポップス人名辞典」(1989 - 1994年)といった洋楽に関するコーナーもあった。このコーナーは当時ディレクターを勤めていた是枝正美の選曲によるもので、是枝ディレクターの色彩が濃かったといえよう。また円盤観察日記開始半年後から選曲された曲とその歌手をリスナーが当てるという、クイズの要素も持っていた。しかし番組自体のアニラジ人気が強くなり始めた1994年のリニューアルで終了。 1990年4月29日から1991年4月7日までの1年間、小森の産休・病気療養のため矢尾一樹がメインパーソナリティを務め、1990年11月からは、番組タイトルも「mamiのRADIかるコミュニケーション 矢尾だよ~ん」となった。小森が復帰してからもしばらく番組に出演していた。ピンチヒッター候補には日髙のり子、森口博子、井潤千代美(小森の友人の漫画家、現:月嶋つぐ美)などが挙がっていた。このピンチヒッターは番組で候補者を挙げ、リスナーのハガキ投票で最終的に決定された。この投票をダービーゲームに例え、ミンキーヤスが競馬実況風に発表した(RADIコミダービーの前身にあたるのだろうか?)。この際候補者それぞれに競馬風の名前がつけられており、矢尾一樹は「サケノミホマレ」であった。 リスナーによって開かれるリスナーの集いや公開録音・ライブなどのイベントで知り合ってリスナー同士が結婚することもあり、RADIコミのイベント(名古屋城夏まつりなど)にはその子供を連れて来る事もある。親子2代に渡ってリスナーという人も増え、家族で聞ける愛される番組となっている。時には親から「不登校のこどもが唯一、この番組なら受け入れている。ラジオでどうか呼びかけて欲しい」といった内容の手紙が届く。 また身体が不自由だったり重い病気と闘うリスナーからも多くのアクセスがあり、なおかつ後述の公開録音・イベントなどにも足を運ぶ人が多い。それらにも平等に小森が応えている。 2003年頃から世界に緑を増やそうと家庭から出てくる植物の種を集めて砂漠化している地域に贈る「みどりのたまごプロジェクト」を小森が提案、イベントや番組内で種を集めていた。しかし2005年、外来種輸入規正法により送り先である自然農法家の組織が存続を断念。「個々で緑を広げていってほしい」という理念を受け、番組でも種集めは一時中止となっている。 2007年からは“ひとりの力は小さくても集まれば大きなウェーブになる”と、「世界のこどもにワクチンを送ろう!」を目標に捨ててしまうペットボトルのキャップを集める運動「エコキャップレボリューション」を小森が番組で提案した。2007年8月19日に行なわれた「名古屋城宵祭り」には全国からリスナーが集結し、3万3852個のエコキャップが集まった。約44人分のワクチンに相当する数をエコキャップ推進全国連絡協議会に贈った。さらに翌年2008年8月17日に行なわれた「名古屋城宵祭り」の公開録音でも、重量にして188.3kg(約7万5000個余り)、約94人のワクチン相当分のエコキャップを集めた。 放送は終了したが、復活できる機会があれば復活させたいと最終回で語っていた。その後放送終了から10年経った2019年9月22日に東海ラジオ開局60周年の企画として『東海ラジオ開局60周年記念! mamiのRADIかるコミュニケーションスペシャル〜ラジオがくれた贈り物〜』のタイトルで放送回数1,306回目となる1時間の生放送特番が放送された(13時 - 14時)。合わせて放送前にはオアシス21銀河の広場で行われた「開局60周年記念 東海ラジオ大感謝祭2019」の「日曜も歌謡曲スペシャルステージ」にも小森とヤスが出演した。 コーナーは番組終了時点での「全国流行通信(パート1・パート2の2部構成)」「RADIコミダービー」 「アニメールタイム」 「マミのキュンキュン」で構成、リスナーからの投稿は郵便・FAX・メール(以前とは異なるメールアドレス「[email protected]」に変更)で受け付け、「全国流行通信」は「ラジオがくれた贈り物」のテーマで募集したほか、小森や本番組にまつわる曲のリクエストも募集した。また、生放送である事を活かすために、Twitterにおいてハッシュタグ「#RADIコミスペシャル」が付けられたツイートを放送中に随時取り上げる試みも行われた。この反響が凄まじく、放送中には当該ハッシュタグがTwitterトレンドにおいて日本1位、世界10位を叩き出している。これとは別に番組と小森のTwitter公式アカウントを開設、前者はヤスが随時ツイートを行い、後者に関しては9月22日の1日限定で小森がツイートを行った(それ以外の日はスタッフが情報を発信している)。 放送中には前述のタイトルコールナレーションを担当した神谷明、ラジオ関西『青春ラジメニア』パーソナリティの岩崎和夫と南かおり、番組準レギュラーだった高橋直純からの東海ラジオ開局60周年と本番組復活放送を祝うスペシャルメッセージも放送された。また、リスナーからの投稿の中には、声優の松嵜麗や俳優の小松利昌といった現在業界内で活動しているリスナー出身者からのものも読まれている。 (2008年10月改編〜2009年10月放送終了まで) 2008年4月改編でラジオ関西が木曜日から日曜日に変更したため、全局放送曜日が統一された。 1984年10月13日に『ラジオアニメック・決定!アニメ最前線』(ニッポン放送制作)の後番組として、東海ラジオとラジオ大阪の2局ネット体制でスタート。放送時間は、開始当初は毎週土曜日20:00-20:30。 その後、ラジオ大阪は1985年3月30日をもってネットを一時休止、同年4月からSTVラジオ・KBCラジオの2局がネットを開始する。関西地区では1986年4月13日よりKBS京都でネット開始し、1989年4月9日まで放送された。その後1989年4月16日から1990年4月1日まで再びラジオ大阪で、1992年10月8日から1993年5月27日までラジオ関西で放送された後、1993年6月6日にラジオ大阪で3度目のネットが再開するが2004年6月13日をもって放送を終了した。2004年7月4日よりラジオ関西で2度目のネットを開始、4局ネットとなった。 このように関西地方ではネット局の変遷が著しかったが、その他の地域では放送時間や曜日の変更こそあれ最終回まで東海ラジオ・KBCラジオ・STVラジオでのネットを一貫して継続していた。特に東海ラジオ・ラジオ大阪・KBCラジオ・STVラジオの4局はいずれもNRNの親局出力50kW局であり、NRNの事実上の基幹局でもある。また、ラジオ大阪のネット離脱期間中に関西エリアをフォローしたKBS京都とラジオ関西の両局も前述の4局にこそ及ばないが、親局出力20kWの高出力局だった。 公開収録など一部の放送回を除き、開始から終了まで、東京都港区赤坂のフラミンゴスタジオで収録されていた。収録風景の見学は許可されていた時期もあったが心無い熱狂的リスナーが小森に危害を加えようとした事件があったため、その後スタジオの見学やスタジオ前での出待ち等は不可となる。隣では、2008年3月まで『TV Game Radions V3』が収録されていた。プロデューサーはボス是枝(是枝正美)、ディレクターは1998年10月11日まではボス是枝、同年10月18日からはさとDUE、2000年9月3日からはガンちゃん(フルネーム:マシンガン野郎)。 2004年3月7日より、ディレクターにボス是枝(BOSS KOREEDER)が復帰(事実上のスーパーバイザー)。2006年10月よりディレクターはたぐっちゃん。ADは2006年まで桂(かつら)ちゃん。 公開録音は、放送局の地元で行われる。ミンキー♥ヤスのコスプレが披露される。また、リスナーのしるしとして左手の手首にバンダナなどを巻く。かつてはRADIコミエイドと称し左手の甲に絆創膏を貼り付けていたのがリスナーのしるしだった。イベント終了後は手の甲の日焼けの後を見て思い出を偲ぼうという趣旨だったが、汗で絆創膏が剥がれるといった為に廃止された。またこれが以後のラジオ番組(特にアニラジ)における“リスナーのしるし”の元祖だと言われている。リスナーの一部がボランティアスタッフとなり、会場への誘導や会場の掃除が行われる健全なモデル番組。前述の名古屋城における「エコキャップ」の受入及び集計も、番組で公募したリスナーによって行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『mamiのRADIかるコミュニケーション』(マミのラディかるコミュニケーション)は、1984年10月13日から2009年10月4日まで、東海ラジオ放送、九州朝日放送(KBCラジオ)、STVラジオ、ラジオ関西で放送されていたラジオ番組である。略称はRADIコミ(ラディコミ)。RADIかるはRADIO+カルチャー、またradical、軽〜くなどの意味を込めた造語。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メインパーソナリティは小森まなみ。アシスタントはミンキー♥ヤス。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "小森まなみのポリシーである一回一回の放送を大切に・心と心のキャッチボールをモットーにしているあたたかさとエンターテインメント性を兼ね備えているラジオ番組。リスナー同士のコミュニケーションも旺盛で、1990年代後半から2000年にかけてのアニラジブームでは中心的存在の番組であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2003年12月には1000回の放送を記録し、2009年10月の最終回までに25年、放送回数1,305回となった長寿番組である。23周年放送で小森は「変わらないものを守るためには、変わることをもおそれない」と宣言した。目やからだの不自由なリスナーからの多くの要望を受け、メールでの投稿の受付を開始した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "夏に名古屋市内(名古屋城、名古屋市公会堂など)で行なわれる番組イベントは、全国から数千人のリスナーが集まる「伝説的なイベント」になっていた。1994年(平成6年)に番組10周年兼、東海ラジオ放送創立35周年記念として名古屋市総合体育館(現・日本ガイシスポーツプラザ)にて挙行されたイベントには、東海地方を始め全国各地から一ラジオ番組のイベントとしては異例ともいえる約7000人ものリスナーを集めている。1995年の阪神淡路大震災時では、「できることを できるところから」と誰でもが手にしているテレフォンカードを換金するという小森の発案により「救援テレカ支援」を行なう。累計800万円を超える募金をラジオ関西・兵庫県学童保育連絡協議会・あしなが育英会などに、番組を通じ5年間にわたり寄付をした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "番組は開始当時からお便りを郵送でしか扱っておらず、FAX(生放送を除く)やEメールでの募集は通常行っていなかったが、2007年10月14日放送分で郵政民営化によりポストや郵便局が遠くなったり体の不自由な人がパソコンからアクセスしたいという要望を受け、2007年11月4日放送分より[email protected]宛てのEメールでの受付も行うことになった。ハガキは各放送局の本社から東京支社に転送されて、そこからさらに収録スタジオのフラミンゴスタジオに届けられるため、ハガキを投函してから番組で読み上げられるのに2週間程度かかることがあった。このタイムラグの関係上、番組で取り上げられたお便りに対するリスナーからのレスポンスは、原則としてオンエアの翌々週以降に取り上げられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "番組は小森の「ワン」(犬の鳴き声。矢尾時代は「ウー、ワン!」(犬の吠える声)、新年1回目の放送はその年の干支の鳴き声)の決まり文句で始まり、それに続いてリスナーからの小ネタ、通称「○○さんの今週のひと言」或いは「今週の独り言」の読み上げから始まる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "タイトルコールは「俺は、『北斗の拳』のケンシロウだ。708ある経絡秘孔のうち、mamiを突いた。お前はこれから、ずーっとこの放送を聴くことになる。お前はもう、聴いている」(2004年10月10日からは「mamiを突いた」が「mamiのRADIかるコミュニケーションを突いた」に変更され、「お前はこれから~聴くことになる」の部分が無くなった)という神谷明の声の後に小森の「mamiのRADIかる♪」という声が入り、テーマ曲の歌声によって「コミュニケーション」と続く。その後でパーソナリティ2人の自己紹介が行われるが、特に小森の自己紹介の前に「みんな一週間元気だったかな、いいこといっぱいあったかな?」と言うのが定例の決まり文句となっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この神谷によるタイトルコールのナレーションは、同時期(1984年10月11日)にはじまった『北斗の拳』のアニメを元にしたもので、ケンシロウの声で行われている。当時、声優の指導をしていた小森の新番組ということでの友情出演だった。テーマ曲はスパンダー・バレエの楽曲「Communication」のリミックス・ヴァージョンで、番組開始当初から使用されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "番組内容はリスナーから様々な話題のハガキを募集し、それを紹介するのがメイン。大枠で「全国流行通信」というコーナーで、テーマ曲はGoon Squad(英語版)の「Eight Arms To Hold You(英語版)」。特に反響があった話題については、それ専用の特別コーナーが設けられる。本来の歌詞とは違って聞こえる曲や面白い聞き間違いを紹介する「空耳タイム」は、月に1度だったが人気があり定期コーナーと化した。最近では、馬の名前を付けてヤスのアドリブ実況により競争させる「RADIコミダービー」も月に1度の定期コーナーとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "番組後半はヤスによるアニメ関連の話題で進行した(コーナータイトルは「アニメフォーカス」→「アニメ塾」→「アニメタイム」→「アニメールタイム」と移り変わっている)。かつてキングレコード(スターチャイルド)やラポートがスポンサーだった頃にはBGMにスターチャイルド関連の曲を流したり、ファンロード等ラポートが発行する雑誌や書籍等の宣伝が行われていたが、末期はそれらに必ずしもこだわらなかった。以上の経緯から、この番組をアニラジに分類する場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このコーナー前後辺りで「モエールの館」というコーナーが2007年4月開始。その後モエールちゃんが何らかの任務に出てしまい休業中。執事は「ピエール・ヤス」で、メイドは「ヘルツ・モエール」である。なお、表記の区切りに関しては公式な発表がないため不明。このコーナーではご主人様またはお嬢様の悩みに、モエールが答えるというものである。ちなみに小森やヤスは彼らについて別人扱いしているが、モエールが金魚が嫌いな描写を見せたため紛れもなく小森やヤス本人である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "番組ラストの人気コーナー「マミのキュンキュン」(1998年10月開始)では身の回りで起こった心に残ること(キュンときたこと)を紹介する他、多数寄せられるリスナーの悩みに小森が答えている。それに対するリスナーの反響が大きければ2週間後にリスナーの意見を発表することもあり、小森とリスナーが共にリスナーの悩みを解決しているといえよう。時に涙することもあり、多くの共感を得ているラジオらしいコーナー。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "最後にパーソナリティ二人の自己紹介と「こころもからだも元気でね」「バッハハーイ」の決まり文句で終わる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "番組開始時には「円盤観察日記」(1984 - 1987年)「ポップスドクター」(1987 - 1988年)「アーティストディクショナリー」(1988 - 1989年)「ポップス人名辞典」(1989 - 1994年)といった洋楽に関するコーナーもあった。このコーナーは当時ディレクターを勤めていた是枝正美の選曲によるもので、是枝ディレクターの色彩が濃かったといえよう。また円盤観察日記開始半年後から選曲された曲とその歌手をリスナーが当てるという、クイズの要素も持っていた。しかし番組自体のアニラジ人気が強くなり始めた1994年のリニューアルで終了。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1990年4月29日から1991年4月7日までの1年間、小森の産休・病気療養のため矢尾一樹がメインパーソナリティを務め、1990年11月からは、番組タイトルも「mamiのRADIかるコミュニケーション 矢尾だよ~ん」となった。小森が復帰してからもしばらく番組に出演していた。ピンチヒッター候補には日髙のり子、森口博子、井潤千代美(小森の友人の漫画家、現:月嶋つぐ美)などが挙がっていた。このピンチヒッターは番組で候補者を挙げ、リスナーのハガキ投票で最終的に決定された。この投票をダービーゲームに例え、ミンキーヤスが競馬実況風に発表した(RADIコミダービーの前身にあたるのだろうか?)。この際候補者それぞれに競馬風の名前がつけられており、矢尾一樹は「サケノミホマレ」であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "リスナーによって開かれるリスナーの集いや公開録音・ライブなどのイベントで知り合ってリスナー同士が結婚することもあり、RADIコミのイベント(名古屋城夏まつりなど)にはその子供を連れて来る事もある。親子2代に渡ってリスナーという人も増え、家族で聞ける愛される番組となっている。時には親から「不登校のこどもが唯一、この番組なら受け入れている。ラジオでどうか呼びかけて欲しい」といった内容の手紙が届く。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また身体が不自由だったり重い病気と闘うリスナーからも多くのアクセスがあり、なおかつ後述の公開録音・イベントなどにも足を運ぶ人が多い。それらにも平等に小森が応えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2003年頃から世界に緑を増やそうと家庭から出てくる植物の種を集めて砂漠化している地域に贈る「みどりのたまごプロジェクト」を小森が提案、イベントや番組内で種を集めていた。しかし2005年、外来種輸入規正法により送り先である自然農法家の組織が存続を断念。「個々で緑を広げていってほしい」という理念を受け、番組でも種集めは一時中止となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2007年からは“ひとりの力は小さくても集まれば大きなウェーブになる”と、「世界のこどもにワクチンを送ろう!」を目標に捨ててしまうペットボトルのキャップを集める運動「エコキャップレボリューション」を小森が番組で提案した。2007年8月19日に行なわれた「名古屋城宵祭り」には全国からリスナーが集結し、3万3852個のエコキャップが集まった。約44人分のワクチンに相当する数をエコキャップ推進全国連絡協議会に贈った。さらに翌年2008年8月17日に行なわれた「名古屋城宵祭り」の公開録音でも、重量にして188.3kg(約7万5000個余り)、約94人のワクチン相当分のエコキャップを集めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "放送は終了したが、復活できる機会があれば復活させたいと最終回で語っていた。その後放送終了から10年経った2019年9月22日に東海ラジオ開局60周年の企画として『東海ラジオ開局60周年記念! mamiのRADIかるコミュニケーションスペシャル〜ラジオがくれた贈り物〜』のタイトルで放送回数1,306回目となる1時間の生放送特番が放送された(13時 - 14時)。合わせて放送前にはオアシス21銀河の広場で行われた「開局60周年記念 東海ラジオ大感謝祭2019」の「日曜も歌謡曲スペシャルステージ」にも小森とヤスが出演した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コーナーは番組終了時点での「全国流行通信(パート1・パート2の2部構成)」「RADIコミダービー」 「アニメールタイム」 「マミのキュンキュン」で構成、リスナーからの投稿は郵便・FAX・メール(以前とは異なるメールアドレス「[email protected]」に変更)で受け付け、「全国流行通信」は「ラジオがくれた贈り物」のテーマで募集したほか、小森や本番組にまつわる曲のリクエストも募集した。また、生放送である事を活かすために、Twitterにおいてハッシュタグ「#RADIコミスペシャル」が付けられたツイートを放送中に随時取り上げる試みも行われた。この反響が凄まじく、放送中には当該ハッシュタグがTwitterトレンドにおいて日本1位、世界10位を叩き出している。これとは別に番組と小森のTwitter公式アカウントを開設、前者はヤスが随時ツイートを行い、後者に関しては9月22日の1日限定で小森がツイートを行った(それ以外の日はスタッフが情報を発信している)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "放送中には前述のタイトルコールナレーションを担当した神谷明、ラジオ関西『青春ラジメニア』パーソナリティの岩崎和夫と南かおり、番組準レギュラーだった高橋直純からの東海ラジオ開局60周年と本番組復活放送を祝うスペシャルメッセージも放送された。また、リスナーからの投稿の中には、声優の松嵜麗や俳優の小松利昌といった現在業界内で活動しているリスナー出身者からのものも読まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(2008年10月改編〜2009年10月放送終了まで)", "title": "放送局・放送時間" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2008年4月改編でラジオ関西が木曜日から日曜日に変更したため、全局放送曜日が統一された。", "title": "放送局・放送時間" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1984年10月13日に『ラジオアニメック・決定!アニメ最前線』(ニッポン放送制作)の後番組として、東海ラジオとラジオ大阪の2局ネット体制でスタート。放送時間は、開始当初は毎週土曜日20:00-20:30。", "title": "放送局・放送時間" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、ラジオ大阪は1985年3月30日をもってネットを一時休止、同年4月からSTVラジオ・KBCラジオの2局がネットを開始する。関西地区では1986年4月13日よりKBS京都でネット開始し、1989年4月9日まで放送された。その後1989年4月16日から1990年4月1日まで再びラジオ大阪で、1992年10月8日から1993年5月27日までラジオ関西で放送された後、1993年6月6日にラジオ大阪で3度目のネットが再開するが2004年6月13日をもって放送を終了した。2004年7月4日よりラジオ関西で2度目のネットを開始、4局ネットとなった。", "title": "放送局・放送時間" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このように関西地方ではネット局の変遷が著しかったが、その他の地域では放送時間や曜日の変更こそあれ最終回まで東海ラジオ・KBCラジオ・STVラジオでのネットを一貫して継続していた。特に東海ラジオ・ラジオ大阪・KBCラジオ・STVラジオの4局はいずれもNRNの親局出力50kW局であり、NRNの事実上の基幹局でもある。また、ラジオ大阪のネット離脱期間中に関西エリアをフォローしたKBS京都とラジオ関西の両局も前述の4局にこそ及ばないが、親局出力20kWの高出力局だった。", "title": "放送局・放送時間" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "公開収録など一部の放送回を除き、開始から終了まで、東京都港区赤坂のフラミンゴスタジオで収録されていた。収録風景の見学は許可されていた時期もあったが心無い熱狂的リスナーが小森に危害を加えようとした事件があったため、その後スタジオの見学やスタジオ前での出待ち等は不可となる。隣では、2008年3月まで『TV Game Radions V3』が収録されていた。プロデューサーはボス是枝(是枝正美)、ディレクターは1998年10月11日まではボス是枝、同年10月18日からはさとDUE、2000年9月3日からはガンちゃん(フルネーム:マシンガン野郎)。", "title": "収録" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2004年3月7日より、ディレクターにボス是枝(BOSS KOREEDER)が復帰(事実上のスーパーバイザー)。2006年10月よりディレクターはたぐっちゃん。ADは2006年まで桂(かつら)ちゃん。", "title": "収録" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "公開録音は、放送局の地元で行われる。ミンキー♥ヤスのコスプレが披露される。また、リスナーのしるしとして左手の手首にバンダナなどを巻く。かつてはRADIコミエイドと称し左手の甲に絆創膏を貼り付けていたのがリスナーのしるしだった。イベント終了後は手の甲の日焼けの後を見て思い出を偲ぼうという趣旨だったが、汗で絆創膏が剥がれるといった為に廃止された。またこれが以後のラジオ番組(特にアニラジ)における“リスナーのしるし”の元祖だと言われている。リスナーの一部がボランティアスタッフとなり、会場への誘導や会場の掃除が行われる健全なモデル番組。前述の名古屋城における「エコキャップ」の受入及び集計も、番組で公募したリスナーによって行われている。", "title": "公開録音・イベント" } ]
『mamiのRADIかるコミュニケーション』(マミのラディかるコミュニケーション)は、1984年10月13日から2009年10月4日まで、東海ラジオ放送、九州朝日放送(KBCラジオ)、STVラジオ、ラジオ関西で放送されていたラジオ番組である。略称はRADIコミ(ラディコミ)。RADIかるはRADIO+カルチャー、またradical、軽〜くなどの意味を込めた造語。 メインパーソナリティは小森まなみ。アシスタントはミンキー♥ヤス。
{{小文字|title=mamiのRADIかるコミュニケーション}} {{基礎情報 ラジオ番組 |番組名=mamiのRADIかるコミュニケーション |ジャンル=[[バラエティ番組|バラエティ]] |放送=録音<ref>1990年11月18日・2000年12月31日・2019年9月22日等、生放送の回あり。</ref> |放送時間=[[#放送局・放送時間]]参照 |パーソナリティ=[[小森まなみ]] |出演=[[ミンキー・ヤス|ミンキー♥ヤス]] |放送局=[[東海ラジオ放送]] |ネットワーク=[[STVラジオ]]、[[ラジオ関西]]、[[九州朝日放送]]<br />([[#ネット局の変遷]]も参照) |放送期間=[[1984年]][[10月13日]] - [[2009年]][[10月4日]]<br />[[2019年]][[9月22日]] |放送回数=1306 |スポンサー=[[キングレコード]]他 }} 『'''mamiのRADIかるコミュニケーション'''』(マミのラディかるコミュニケーション)は、[[1984年]][[10月13日]]から[[2009年]][[10月4日]]まで、[[東海ラジオ放送]]、[[九州朝日放送]](KBCラジオ)、[[STVラジオ]]、[[ラジオ関西]]で放送されていた[[ラジオ番組]]である。略称は'''RADIコミ'''(ラディコミ)。'''RADIかる'''はRADIO+カルチャー、またradical、軽〜くなどの意味を込めた造語。 メイン[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]は[[小森まなみ]]。アシスタントは[[ミンキー・ヤス|ミンキー♥ヤス]]。 == 概要 == 小森まなみのポリシーである'''一回一回の放送を大切に'''・'''心と心のキャッチボール'''を[[モットー]]にしているあたたかさとエンターテインメント性を兼ね備えているラジオ番組。[[リスナー]]同士のコミュニケーションも旺盛で、[[1990年代]]後半から[[2000年]]にかけてのアニラジブームでは中心的存在の番組であった。 [[2003年]]12月には1000回の放送を記録し、[[2009年]]10月の最終回までに25年、放送回数1,305回となった[[長寿番組の一覧|長寿番組]]である。23周年放送で小森は「'''変わらないものを守るためには、変わることをもおそれない'''」と宣言した。目やからだの不自由なリスナーからの多くの要望を受け、メールでの投稿の受付を開始した。 夏に名古屋市内([[名古屋城]]、[[名古屋市公会堂]]など)で行なわれる番組イベントは、全国から数千人のリスナーが集まる「伝説的なイベント」になっていた。[[1994年]](平成6年)に番組10周年兼、[[東海ラジオ放送]]創立35周年記念として[[名古屋市総合体育館|名古屋市総合体育館(現・日本ガイシスポーツプラザ)]]にて挙行されたイベントには、東海地方を始め全国各地から一ラジオ番組のイベントとしては異例ともいえる約7000人ものリスナーを集めている。[[1995年]]の[[阪神淡路大震災]]時では、「'''できることを できるところから'''」と誰でもが手にしている[[テレフォンカード]]を換金するという小森の発案により「'''救援テレカ支援'''」を行なう。累計800万円を超える募金をラジオ関西・[[兵庫県]][[学童保育]]連絡協議会・[[あしなが育英会]]などに、番組を通じ5年間にわたり寄付をした。 === 終了直前の番組構成 === 番組は開始当時からお便りを郵送でしか扱っておらず、[[ファクシミリ|FAX]](生放送を除く)や[[Eメール]]での募集は通常行っていなかったが、[[2007年]][[10月14日]]放送分で[[郵政民営化]]によりポストや郵便局が遠くなったり体の不自由な人が[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]からアクセスしたいという要望を受け、2007年[[11月4日]]放送分より'''[email protected]'''宛てのEメールでの受付も行うことになった。ハガキは各放送局の本社から東京支社に転送されて、そこからさらに収録スタジオのフラミンゴスタジオに届けられるため、ハガキを投函してから番組で読み上げられるのに2週間程度かかることがあった。このタイムラグの関係上、番組で取り上げられたお便りに対するリスナーからのレスポンスは、原則としてオンエアの翌々週以降に取り上げられた。 番組は小森の「ワン」(犬の鳴き声。矢尾時代は「ウー、ワン!」(犬の吠える声)、新年1回目の放送はその年の干支の鳴き声)の決まり文句で始まり、それに続いてリスナーからの小ネタ、通称「○○さんの今週のひと言」或いは「今週の独り言」の読み上げから始まる。 タイトルコールは「俺は、『[[北斗の拳]]』の[[ケンシロウ]]だ。708ある経絡秘孔のうち、mamiを突いた。お前はこれから、ずーっとこの放送を聴くことになる。お前はもう、聴いている」(2004年[[10月10日]]からは「mamiを突いた」が「mamiのRADIかるコミュニケーションを突いた」に変更され、「お前はこれから~聴くことになる」の部分が無くなった)という[[神谷明]]の声の後に小森の「mamiのRADIかる♪」という声が入り、テーマ曲の歌声によって「コミュニケーション」と続く。その後で[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]2人の自己紹介が行われるが、特に小森の自己紹介の前に「'''みんな一週間元気だったかな、いいこといっぱいあったかな?'''」と言うのが定例の決まり文句となっていた。 この神谷によるタイトルコールのナレーションは、同時期(1984年[[10月11日]])にはじまった『北斗の拳』のアニメを元にしたもので、ケンシロウの声で行われている。当時、声優の指導をしていた小森の新番組ということでの友情出演だった。テーマ曲は[[スパンダー・バレエ]]の楽曲「[[コミュニケイション (スパンダー・バレエの曲)|Communication]]」のリミックス・ヴァージョンで、番組開始当初から使用されていた。 番組内容はリスナーから様々な話題のハガキを募集し、それを紹介するのがメイン。大枠で「全国流行通信」というコーナーで、テーマ曲は{{仮リンク|Goon Squad|en|Goon Squad (band)}}の「{{仮リンク|Eight Arms To Hold You|en|Eight Arms to Hold You (song)}}」。特に反響があった話題については、それ専用の特別コーナーが設けられる。本来の歌詞とは違って聞こえる曲や面白い聞き間違いを紹介する「空耳タイム」は、月に1度だったが人気があり定期コーナーと化した。最近では、馬の名前を付けてヤスのアドリブ実況により競争させる「RADIコミダービー」も月に1度の定期コーナーとなっている。 番組後半はヤスによるアニメ関連の話題で進行した(コーナータイトルは「アニメフォーカス」→「アニメ塾」→「アニメタイム」→「アニメールタイム」と移り変わっている)。かつて[[キングレコード]]([[スターチャイルド]])や[[ラポート]]がスポンサーだった頃にはBGMにスターチャイルド関連の曲を流したり、[[ファンロード]]等ラポートが発行する雑誌や書籍等の宣伝が行われていたが、末期はそれらに必ずしもこだわらなかった。以上の経緯から、この番組を[[アニラジ]]に分類する場合もある。 このコーナー前後辺りで「モエールの館」というコーナーが[[2007年]]4月開始。その後モエールちゃんが何らかの任務に出てしまい休業中。執事は「ピエール・ヤス」で、メイドは「ヘルツ・モエール」である。なお、表記の区切りに関しては公式な発表がないため不明。このコーナーではご主人様またはお嬢様の悩みに、モエールが答えるというものである。ちなみに小森やヤスは彼らについて別人扱いしているが、'''モエールが金魚が嫌い'''な描写を見せたため紛れもなく小森やヤス本人である。 番組ラストの人気コーナー「'''マミのキュンキュン'''」([[1998年]]10月開始)では身の回りで起こった心に残ること([[キュンキュン|キュン]]ときたこと)を紹介する他、多数寄せられるリスナーの悩みに小森が答えている。それに対するリスナーの反響が大きければ2週間後にリスナーの意見を発表することもあり、小森とリスナーが共にリスナーの悩みを解決しているといえよう。時に涙することもあり、多くの共感を得ている[[ラジオ]]らしいコーナー。 最後に[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]二人の自己紹介と「こころもからだも元気でね」「バッハハーイ」の決まり文句で終わる。 === 過去の番組構成 === 番組開始時には「円盤観察日記」(1984 - [[1987年]])「ポップスドクター」(1987 - [[1988年]])「アーティストディクショナリー」(1988 - [[1989年]])「ポップス人名辞典」(1989 - [[1994年]])といった洋楽に関するコーナーもあった。このコーナーは当時ディレクターを勤めていた'''是枝正美'''の選曲によるもので、是枝ディレクターの色彩が濃かったといえよう。また円盤観察日記開始半年後から選曲された曲とその歌手をリスナーが当てるという、クイズの要素も持っていた。しかし番組自体のアニラジ人気が強くなり始めた1994年のリニューアルで終了。 [[1990年]][[4月29日]]から[[1991年]][[4月7日]]までの1年間、小森の産休・病気療養のため[[矢尾一樹]]がメインパーソナリティを務め、1990年11月からは、番組タイトルも「'''mamiのRADIかるコミュニケーション 矢尾だよ~ん'''」となった。小森が復帰してからもしばらく番組に出演していた。ピンチヒッター候補には[[日髙のり子]]、[[森口博子]]、井潤千代美(小森の友人の漫画家、現:月嶋つぐ美)などが挙がっていた。このピンチヒッターは番組で候補者を挙げ、リスナーのハガキ投票で最終的に決定された。この投票をダービーゲームに例え、ミンキーヤスが競馬実況風に発表した(RADIコミダービーの前身にあたるのだろうか?)。この際候補者それぞれに競馬風の名前がつけられており、矢尾一樹は「サケノミホマレ」であった。 === その他 === リスナーによって開かれる'''リスナーの集い'''や公開録音・ライブなどのイベントで知り合ってリスナー同士が結婚することもあり、RADIコミのイベント(名古屋城夏まつりなど)にはその子供を連れて来る事もある。親子2代に渡ってリスナーという人も増え、家族で聞ける愛される番組となっている。時には親から「[[不登校]]のこどもが唯一、この番組なら受け入れている。ラジオでどうか呼びかけて欲しい」といった内容の手紙が届く。 また身体が不自由だったり重い病気と闘うリスナーからも多くのアクセスがあり、なおかつ後述の公開録音・イベントなどにも足を運ぶ人が多い。それらにも平等に小森が応えている。 [[2003年]]頃から世界に緑を増やそうと家庭から出てくる植物の種を集めて砂漠化している地域に贈る「'''みどりのたまごプロジェクト'''」を小森が提案、イベントや番組内で種を集めていた。しかし[[2005年]]、[[外来種]]輸入規正法により送り先である[[自然農法]]家の[[福岡正信|組織]]が存続を断念。「個々で緑を広げていってほしい」という理念を受け、番組でも種集めは一時中止となっている。 [[2007年]]からは“ひとりの力は小さくても集まれば大きな[[波#比喩|ウェーブ]]になる”と、「世界のこどもに[[ワクチン]]を送ろう!」を目標に捨ててしまう[[ペットボトル]]の[[蓋|キャップ]]を集める運動「'''[[エコキャップ運動|エコキャップ]]レボリューション'''」を小森が番組で提案した。2007年[[8月19日]]に行なわれた「[[名古屋城]]宵祭り」には全国から[[リスナー]]が集結し、3万3852個のエコキャップが集まった。約44人分のワクチンに相当する数を[[エコキャップ運動|エコキャップ推進全国連絡協議会]]に贈った。さらに翌年[[2008年]][[8月17日]]に行なわれた「名古屋城宵祭り」の公開録音でも、重量にして188.3kg(約7万5000個余り)、約94人のワクチン相当分のエコキャップを集めた。 === 10年ぶりの復活放送 === 放送は終了したが、復活できる機会があれば復活させたいと最終回で語っていた。その後放送終了から10年経った2019年9月22日に東海ラジオ開局60周年の企画として『'''東海ラジオ開局60周年記念! mamiのRADIかるコミュニケーションスペシャル〜ラジオがくれた贈り物〜'''』のタイトルで放送回数1,306回目となる1時間の生放送特番が放送された(13時 - 14時)。合わせて放送前には[[オアシス21]]銀河の広場で行われた「開局60周年記念 東海ラジオ大感謝祭2019」の「[[松原敬生の日曜も歌謡曲|日曜も歌謡曲]]スペシャルステージ」にも小森とヤスが出演した<ref>[https://mantan-web.jp/article/20190905dog00m200077000c.html mamiのRADIかるコミュニケーション:小森まなみの伝説のラジオ番組が10年ぶり復活],まんたんウェブ,2019年9月6日</ref><ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1571105670 小森まなみ&ミンキー・ヤス|ラジオ『RADIコミスペシャル』レポ],アニメイトタイムズ,2019年10月16日</ref>。 コーナーは番組終了時点での「全国流行通信(パート1・パート2の2部構成)」「RADIコミダービー」 「アニメールタイム」 「マミのキュンキュン」で構成、リスナーからの投稿は郵便・FAX・メール(以前とは異なるメールアドレス「'''[email protected]'''」に変更)で受け付け、「全国流行通信」は「ラジオがくれた贈り物」のテーマで募集したほか、小森や本番組にまつわる曲のリクエストも募集した。また、生放送である事を活かすために、Twitterにおいてハッシュタグ「#RADIコミスペシャル」が付けられたツイートを放送中に随時取り上げる試みも行われた。この反響が凄まじく、放送中には当該ハッシュタグがTwitterトレンドにおいて日本1位、世界10位を叩き出している<ref>{{Twitter_status|mami1332|1175990226184851456}}</ref>。これとは別に番組と小森のTwitter公式アカウントを開設、前者はヤスが随時ツイートを行い、後者に関しては9月22日の1日限定で小森がツイートを行った(それ以外の日はスタッフが情報を発信している)。 放送中には前述のタイトルコールナレーションを担当した神谷明<ref>{{Twitter_status|manamikomori922|1175776168047304704}}</ref>、[[ラジオ関西]]『[[青春ラジメニア]]』パーソナリティの[[岩崎和夫]]と[[南かおり]]<ref>[https://ameblo.jp/kaorintanken/entry-12528604341.html 9/22(日) マミ姉とヤスさんのRADIコミ],かおりんの関西探検隊R,2019年9月22日</ref>、番組準レギュラーだった[[高橋直純]]<ref>{{Twitter_status|manamikomori922|1175779168446889992}}</ref>からの東海ラジオ開局60周年と本番組復活放送を祝うスペシャルメッセージも放送された。また、リスナーからの投稿の中には、声優の[[松嵜麗]]<ref>{{Twitter_status|reimatsuzaki|1175628655369715712}}</ref>や俳優の[[小松利昌]]<ref>{{Twitter_status|shokunin777|1175630887997734912}}</ref>といった現在業界内で活動しているリスナー出身者からのものも読まれている。 == 放送局・放送時間 == (2008年10月改編〜2009年10月放送終了まで) *[[東海ラジオ放送]] 日曜22:00 - 22:30 *[[九州朝日放送]] 月曜0:35 - 1:05(日曜24:35 - 25:05) *[[STVラジオ]] 月曜0:30 - 1:00(日曜24:30 - 25:00) *[[ラジオ関西]] 月曜1:30 - 2:00(日曜25:30 - 26:00) 2008年4月改編でラジオ関西が木曜日から日曜日に変更したため、全局放送曜日が統一された。 === ネット局の変遷 === [[1984年]][[10月13日]]に『[[週刊ラジオアニメック|ラジオアニメック・決定!アニメ最前線]]』([[ニッポン放送]]制作)の後番組として、東海ラジオとラジオ大阪の2局ネット体制でスタート。放送時間は、開始当初は毎週土曜日20:00-20:30。 その後、ラジオ大阪は[[1985年]][[3月30日]]をもってネットを一時休止、同年4月からSTVラジオ・KBCラジオの2局がネットを開始する。関西地区では[[1986年]][[4月13日]]より[[京都放送|KBS京都]]でネット開始し、[[1989年]][[4月9日]]まで放送された。その後[[1989年]][[4月16日]]から[[1990年]][[4月1日]]まで再びラジオ大阪で、[[1992年]][[10月8日]]から[[1993年]][[5月27日]]までラジオ関西で放送された後、[[1993年]][[6月6日]]にラジオ大阪で3度目のネットが再開するが[[2004年]][[6月13日]]をもって放送を終了した。[[2004年]][[7月4日]]よりラジオ関西で2度目のネットを開始、4局ネットとなった。 このように関西地方ではネット局の変遷が著しかったが、その他の地域では放送時間や曜日の変更こそあれ最終回まで東海ラジオ・KBCラジオ・STVラジオでのネットを一貫して継続していた。特に東海ラジオ・ラジオ大阪・KBCラジオ・STVラジオの4局はいずれも[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の親局出力50kW局であり、NRNの事実上の[[基幹局]]でもある。また、ラジオ大阪のネット離脱期間中に関西エリアをフォローしたKBS京都とラジオ関西の両局<ref>KBS京都はNRN加盟局。独立局のラジオ関西も1970年代末頃までNRN加盟局だった。</ref>も前述の4局にこそ及ばないが、親局出力20kWの高出力局だった。 == 年中行事 == *1月1日0時 - [[オリオン座]]におめでとう *年始 - 新春句会 *1月 - 空耳リクエストアワー *1月下旬 - アニメソングベスト10(小森の曲が一位になる事もしばしば) *2月上旬 - RADIコミ大明神(受験生リスナーの合格祈願企画) *2月14日頃 - ブルーバレンタイン(バレンタインの悲しい思い出を語る) *4月1日頃 - ハッピーエイプリルフール(みんながハッピーになる嘘をつく) *8月上旬 - [[名古屋城#イベント|名古屋城夏まつり]]で、イベントと公開録音 *クリスマス頃 - クリスマススペシャルドラマ *年末 - 今年の重大(ベスト)ニュース、お間抜け紅白 == 過去にあったコーナー == *牛乳早飲みコーナー(牛乳をどれだけ早く飲めるかを競う) *五代君をさがせ(『[[めぞん一刻]]』の五代君のような男前を捜す) *どれにしようかな?コーナー(「どれにしようかな神様の言うとおり」の地域ごとの違いを調べる) *東京ショック(東京に出てきて受けたカルチャーショックを披露する) *ゲゲボドリンクのコーナー(断続的にコーナー化。メッコール、麦コーラーなどを飲んで小森は「おしっこの味」がすると感想を述べた。「ゲゲボドリンク」の言葉はスポンサーだった[[ラポート]]の雑誌「[[ファンロード]]」から) *シュガー納豆(納豆に砂糖をはじめとした色々な調味料を入れた食べ方を紹介するコーナー。1988年と[[1995年]]に登場) *替え歌大王に挑戦(アルバムが出るごとにコーナー化される) *情けないカッコ(学校などのテストでの珍回答をリスナーが披露する) *タコの星へ愛をこめて(全国色々なたこ焼きの中身を紹介する。タイトルの元ネタは「[[水の星へ愛をこめて]]」で、コーナーに沿った同曲の替え歌も作られ、番組イベントで[[森口博子]]が歌ったこともある) *[[ペンタックス|PENTAX]]“マミのSFX日記”(リスナーが撮った写真を紹介する。月一で月間賞を選ぶ。小森休養期間中は「YY写真館」というコーナー名だった) *校門にタッチ・おしり合い大作戦(同じ学校のリスナーを探す企画、玉砕多し) *[[桃太郎伝説]]の「も」の数はいくつ?(アニメ『[[桃太郎伝説 (アニメ)|桃太郎伝説]]』の主題歌『[[桃変化で行こう!]]』の「も」の数を数える、小森本人が歌っているものだけでなくコーラスの[[NG5]]などが歌っている分も数えるので結論出ず。原作者の[[さくまあきら]]が構成していた『[[ジャンプ放送局]]』にも飛び火し、さくま本人からコメントも届く) *みそ・からし論争(おでんにみそをつけるかカラシをつけるかで大論争) *キキマタコーナー(『[[魔女の宅急便]]』のキキはほうきにまたがって飛ぶ時股間が痛くないのかを検証) *ホットケー記念日(小森が30代の頃、毎年誕生日の週に年齢をネタにしてあそぶ) *洗うのはパンツ千円(空耳タイムのはしり、コーナー名は[[a-ha]]の曲『[[テイク・オン・ミー]]』より) *つぶかつ(つぶれそうな部活を紹介する、コーナーのBGMは『[[究極超人あ〜る]]』の『やあ』) *僕も貴方も千昌夫(100円玉を額に糊などを使わずに皮脂だけでどれだけの時間貼り付ける事ができるか) *「にくのおおいおおのくに」(回文) *スターチャイルド・リリースカウントダウン(ミンキーヤス担当、月末のみ。翌月に発売されるスターチャイルドのCD発売情報。冒頭でヤスが'''「月一のお待た~」'''と叫ぶ。余談だがその部分が'''「[[金髪|パツキン]]一のお股~」'''と聞こえる空耳が寄せられたことがある) *[[ペーパームーン (アニメショップ)|ペーパームーン]]・CDアルバムベストテン(ミンキーヤス担当、東海ラジオ放送分のみ。ペーパームーンでのCDアルバム売り上げチャートを発表。ディレクターがさとDUEの時期には、東海ラジオ以外の各局独自のコーナーがこの時間に入れられた) == CD・ビデオ == ; RADIO LOVE([[キングレコード]]、1995年[[8月4日]]発売) : 放送開始10周年記念で制作されたビデオ。 ; 虹を追いかけて…(キングレコード、1995年[[10月25日]]発売) : 1994年12月に名古屋レインボーホールで行われたイベントを収録したビデオ。 ; mamiのRADIかるコミュニケーション ラジオ伝説(キングレコード、2001年[[10月3日]]発売) : 以上の2作のDVD-BOX版。 ; HERTZ 20シリーズ(東海ラジオ放送) : 放送開始20年目突入を記念して制作された番組CD3部作。 :# HERTZ 20 〜FIRST STAGE(1984年〜1991年)〜 - 2003年12月上旬発売 :# HERTZ 20 〜2nd STAGE(1991年4月〜1998年3月)〜 - 2004年6月上旬発売 :# HERTZ 20 〜Final Stage(1998年4月〜2004年10月)〜 - 2004年12月中旬発売 ; HERTZ 25 〜memorial stage〜(東海ラジオ放送、2009年12月中旬発売) : 放送開始25周年記念で制作される番組CD。2004年から2009年までの内容を収録。 ; Quarter century(東海ラジオ放送、2009年12月中旬発売) : 上記4枚の番組CDと新規収録の特典CDをセットにしたCD-BOX。 == 本 == *「ハートパニック」[[マンガハウス|花伝社]]・刊([[1986年]][[11月10日]]) - 発行元の花伝社は[[さくまあきら]]が立ち上げた会社で、2012年現在存在する[[花伝社|同名の出版社]]とは無関係。同人誌の装丁で発行され、書店流通には乗らなかった。 *「mamiのRADIかるコミュニケーション ラジオ伝説」[[ラポート]]・刊([[1988年]][[10月26日]]) *「RADIコミ新聞 COMPLETE BOOK」[[大阪放送|ラジオ大阪]]・刊(出版を予定されていたが、権利問題などの事情で発売中止) == 企画 == *電光戦士マミリンダー(8cmシングルCD『ハイカラRADIコミ音頭』のカップリング。キングレコード スターチャイルドよりリリース) *: [[羽原信義]]によるデザインがされたコスチュームを小森まなみが着用しイベントでも披露された。 *ハイカラRADIコミ音頭(本人がCDを持って小森の地元の盆踊りに売り込みに行ったことがある) *独身戦隊ゴチョンガー(ミンキーヤス〔当時〕を除く全員が結婚したため解散) == 収録 == 公開収録など一部の放送回を除き、開始から終了まで、東京都港区赤坂のフラミンゴスタジオで収録されていた。収録風景の見学は許可されていた時期もあったが心無い熱狂的リスナーが小森に危害を加えようとした事件があったため、その後スタジオの見学やスタジオ前での出待ち等は不可となる。隣では、2008年3月まで『[[TV Game Radions V3]]』が収録されていた。プロデューサーはボス是枝(是枝正美)、ディレクターは1998年10月11日まではボス是枝、同年10月18日からは[[佐藤卓矢|さとDUE]]、2000年9月3日からはガンちゃん(フルネーム:マシンガン野郎)。 2004年3月7日より、ディレクターにボス是枝(BOSS KOREEDER)が復帰(事実上の[[スーパーバイザー]])。2006年10月よりディレクターはたぐっちゃん。ADは2006年まで桂(かつら)ちゃん。 == 公開録音・イベント == 公開録音は、放送局の地元で行われる。ミンキー♥ヤスのコスプレが披露される。また、''リスナーのしるし''として左手の手首に[[バンダナ]]などを巻く。かつては''RADIコミエイド''と称し左手の甲に[[絆創膏]]を貼り付けていたのがリスナーのしるしだった。イベント終了後は手の甲の日焼けの後を見て思い出を偲ぼうという趣旨だったが、汗で絆創膏が剥がれるといった為に廃止された。またこれが以後のラジオ番組(特にアニラジ)における“リスナーのしるし”の元祖だと言われている。リスナーの一部がボランティアスタッフとなり、会場への誘導や会場の掃除が行われる健全なモデル番組。前述の名古屋城における「エコキャップ」の受入及び集計も、番組で公募したリスナーによって行われている。 *1994年12月18日 10周年記念イベント・[[ヴェルデ]]ミュージックフェスティバル「小森まなみ『虹を追いかけて…』」 *:名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシスポーツプラザ) *:東海ラジオ放送創立35周年イベントも兼ねていた *:ゲストとして矢尾一樹、日髙のり子が出演 *2004年5月 RADIコミ20thツアー第一弾 *:北海道自治労会館 *:ミンキー♥ヤスと元師弟関係の[[内藤寛]]が友情出演。 *2004年7月4日 14:00-15:00 RADIコミ20thツアー第二弾 *:専門学校九州ビジュアルアーツ内エスペランサホール *2004年8月1日 18:30-20:30 mamiのRADIかるコミュニケーション 20th Anniversary 〜ユ・メ・ノ・チ・カ・ラ〜 *:名古屋城夏まつり 名古屋城内イベントステージ *2004年12月25日 17:00-19:15 mamiのRADIかるコミュニケーション 20th *:*:Anniversary 「Dream Power Party X」 *:名古屋市公会堂 大ホール *:こちらは公開録音ではなく記念イベントとして開催。イベントの模様の一部が年明けにラジオで放送された。 *2005年8月7日 11:00-13:00 [[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]スペシャル “WE LOVE THE EARTH” *:[[2005年日本国際博覧会]] 愛地球博 長久手会場 [[愛知万博の施設|EXPOドーム]] *:RADIコミを始め、東海ラジオで放送中の有名番組パーソナリティーが集結する。 *2005年11月13日 12:00-13:00 RADIコミスペシャル at ナガシマスパーランド *:[[ナガシマスパーランド]] 催事館 *:こちらは通常の放送時間ではなく、2005年11月19日(土曜日) 21:30-22:00に放送された。(余談だが、当時この時間は「[[流石の源石]]」が放送されており、休止をリスナーからのメールで知ったパーソナリティの[[源石和輝]]が「自分の枠でやれ!」と激怒したエピソードがある。) *2006年8月20日 18:00-19:30 mamiのRADIかるコミュニケーション *:“~ユ・メ・ノ・チ・カ・ラ~+GP” *:[[名古屋城宵まつり]] 名古屋城内[[本丸]]ステージ *2007年8月19日 18:00-20:00 mamiのRADIかるコミュニケーション *:“みんなのパワーだ☆ちょこエコナイト!” *:名古屋城宵まつり [[二の丸]]ステージ *2008年8月17日 18:30-20:30 mamiのRADIかるコミュニケーション *:“名古屋城夏フェス☆ちょこエコミラクルナイト!” *:名古屋城宵まつり 二の丸ステージにて。 *:前年に引き続き捨ててしまうペットボトルのキャップを集め、世界の子供にワクチンを贈る「エコキャップレボリューション」を展開し日本全国からリスナーが集まる。 *2009年8月16日 18:30-20:30 mamiのRADIかるコミュニケーション *:“25th Anniversary HERTZ コンプリートパーティー” *:名古屋城宵まつり 二の丸イベントステージにて。 *:前年に引き続き捨ててしまうペットボトルのキャップを集め、世界の子供にワクチンを贈る「エコキャップレボリューション」を展開し日本全国からリスナーが集まる。 *:同年7月5日放送分(東海ラジオ)で番組終了の告知をしたので、このイベントが最後の公開放送となる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20091115230120/http://www.tokairadio.co.jp/program/radical/index.htm mamiのRADIかるコミュニケーション] - [[東海ラジオ放送]]。閉鎖(2009年11月15日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * [https://web.archive.org/web/20100704084153/http://anitama.com/bangumi_i/radical_communication.html mamiのRADIかるコミュニケーション] - [[ラジオ関西]]。閉鎖(2010年7月4日時点のアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20190922123013/http://www.tokairadio.co.jp/topics/thanks/mami.html 東海ラジオ 60周年記念イベントにマミ姉&ヤスさん登場!伝説の番組が10年ぶりの復活] * [https://web.archive.org/web/20000510124819/http://www.mirai.ne.jp/~believe/Mami/Repo/Radicomi.html 資料館「まみりん」RADIコミ日記(番組レポート)] *{{Twitter|mami1332|mamiのRADIかるコミュニケーション【東海ラジオ公式】}} *{{Twitter|manamikomori922|小森まなみ【公式】✨RADIコミスペシャル限定}} <!-- * [http://listen.to/mami/index.php 小森まなみ総合開発研究所] --> {{前後番組| 放送局=[[東海ラジオ放送]]| 放送枠=日曜22:00 - 22:30| 番組名=mamiのRADIかるコミュニケーション<br />(1984年10月13日 - 2009年10月4日)| 前番組=[[週刊ラジオアニメック|ラジオアニメック・決定!アニメ最前線]]| 次番組=[[サンライズラヂオEX。]]<br />(2009年10月11日 - 2011年4月3日)| 2放送局=[[ラジオ関西]]| 2放送枠=金曜1:30 - 2:00| 2番組名=mamiのRADIかるコミュニケーション| 2前番組=[[ノン子とのび太のアニメスクランブル]]| 2次番組=[[コードギアス 反逆の山々|コードギアス 反逆の山々DX]] |}} {{小森まなみ}} {{DEFAULTSORT:まみのらしかるこみにゆけえしよん}} [[Category:東海ラジオの番組の歴史]] [[Category:アニラジ]] [[Category:ラジオの声優バラエティ番組]] [[Category:1984年のラジオ番組 (日本)]]
2003-08-18T14:43:49Z
2023-11-13T05:21:51Z
false
false
false
[ "Template:小文字", "Template:基礎情報 ラジオ番組", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Twitter status", "Template:Twitter", "Template:前後番組", "Template:小森まなみ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Mami%E3%81%AERADI%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
13,526
ハーバート・サイモン
ハーバート・アレクサンダー・サイモン(Herbert Alexander Simon、1916年6月15日 - 2001年2月9日)は、アメリカ合衆国の政治学者・認知心理学者・経営学者・情報科学者である。心理学、人工知能、経営学、組織論、言語学、社会学、政治学、経済学、システム科学などに影響を与えた。大組織の経営行動と意思決定に関する生涯にわたる研究で、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。 2012年3月の日本経済新聞「やさしい経済学」において、「シリーズ 危機・先人に学ぶ」の一人として取り上げられた。記事によれば、少年時代のサイモンの座右の銘は「戦って逃げる者は生きて再び戦える」というフレーズだという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハーバート・アレクサンダー・サイモン(Herbert Alexander Simon、1916年6月15日 - 2001年2月9日)は、アメリカ合衆国の政治学者・認知心理学者・経営学者・情報科学者である。心理学、人工知能、経営学、組織論、言語学、社会学、政治学、経済学、システム科学などに影響を与えた。大組織の経営行動と意思決定に関する生涯にわたる研究で、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2012年3月の日本経済新聞「やさしい経済学」において、「シリーズ 危機・先人に学ぶ」の一人として取り上げられた。記事によれば、少年時代のサイモンの座右の銘は「戦って逃げる者は生きて再び戦える」というフレーズだという。", "title": "日本語訳著作" } ]
ハーバート・アレクサンダー・サイモンは、アメリカ合衆国の政治学者・認知心理学者・経営学者・情報科学者である。心理学、人工知能、経営学、組織論、言語学、社会学、政治学、経済学、システム科学などに影響を与えた。大組織の経営行動と意思決定に関する生涯にわたる研究で、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。
{{Infobox scientist |birth_name = |image = File:Herbert Simon, RIT NandE Vol13Num11 1981 Mar19 Complete.jpg |birth_date = {{birth date|1916|6|15|mf=y}} |birth_place = [[ウィスコンシン州]], [[ミルウォーキー]] |death_date = {{death date and age|2001|2|9|1916|6|15|mf=y}} |death_place = [[ペンシルヴァニア州]], [[ピッツバーグ]] |nationality = {{USA}} |field = [[人工知能]]<br />[[認知心理学]]<br />コンピューター・サイエンス<br />[[経済学]]<br />[[政治学]] |work_institutions = [[カーネギーメロン大学]]<br />[[カリフォルニア大学バークレー校]]<br />[[イリノイ工科大学]] |alma_mater = [[シカゴ大学]] |religion = [[プロテスタントのユニテリアン派]] |doctoral_advisor = [[:en:Henry Schultz|ヘンリー・シュルツ]] |doctoral_students = [[エドワード・ファイゲンバウム]]<br />[[アレン・ニューウェル]]<br />[[:en:Richard Waldinger|リチャード・ウォルディンガー]] |known_for = [[:en:Logic Theorist|Logic Theorist]]<br/>[[:en:General Problem Solver|General Problem Solver]]<br/>[[限定合理性]] |prizes = [[チューリング賞]] 1975<br />[[ノーベル経済学賞]] 1978<br />[[アメリカ国家科学賞]] 1986<br />[[ジョン・フォン・ノイマン理論賞]] 1988 }} {{Thumbnail:begin}} {{Thumbnail:ノーベル賞受賞者|1978年|ノーベル経済学賞|経済組織内部での意思決定プロセスにおける先駆的な研究を称えて}} {{Thumbnail:end}} [[File:Herbert simon red complete.jpg|thumb|ハーバート・サイモン]] '''ハーバート・アレクサンダー・サイモン'''('''Herbert Alexander Simon'''、[[1916年]][[6月15日]] - [[2001年]][[2月9日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治学者]]・[[認知心理学者]]・[[経営学者]]・[[情報科学者]]である。[[心理学]]、[[人工知能]]、[[経営学]]、[[組織論]]、[[言語学]]、[[社会学]]、[[政治学]]、[[経済学]]、[[システム科学]]などに影響を与えた。<br/>大組織の経営行動と[[意思決定]]に関する生涯にわたる研究で、1978年にノーベル経済学賞を受賞した。 == 略歴 == *1916年 [[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]生まれ。 *1936年 [[シカゴ大学]]でBAを取る([[チャールズ・メリアム]]や[[ハロルド・ラスウェル]]の指導を受ける)。 *1936年~1938年 シカゴ大学の研究助手の職をえる。 *その後、国際都市管理者協会のスタッフと、公営及び自治体年鑑の副編集長となる。 *1942年 [[イリノイ工科大学]]の教員となる。 *[[1943年]] [[シカゴ大学]]よりPh.D.([[政治学]]博士号)を取得(1942年取得と書いた資料もある)。 *1947年 [[イリノイ工科大学]]の政治学教授となる。 *1947年~1960年 [[コウルズ委員会]]に参加する。 *[[1949年]]~[[1955年]] [[カーネギーメロン大学]]の行政学と心理学の教授として移る。 *1955年 [[カーネギーメロン大学]]のコンピューター・サイエンスと心理学の教授となる。 *1961年~1965年 社会科学研究会議の理事長の議長を務める。 *1968年~1971年 米大統領の科学諮問委員を務める。 *1969年 アメリカ心理学会の科学特別功労賞を受賞する。 *1974年 全国科学アカデミーの大気品質管理委員会の議長を務める。 *[[1975年]] 人工知能への貢献から[[チューリング賞]]を受ける。 *1976年 アメリカ経済学会の特別研究員となる。 *[[1978年]] [[ノーベル経済学賞]]を受賞する。 *[[1986年]] [[アメリカ国家科学賞]]を受賞する。 *[[2001年]] [[ペンシルヴァニア州]][[ピッツバーグ]]にて死去(84歳)。 ==研究の特徴== *研究の機軸は組織論の分野であり、組織における[[人間]]の[[限定合理性]]と[[意思決定]]過程の研究を行なっていた。その一方で[[人工知能]]のパイオニアでもあり、[[アレン・ニューウェル]]と幾つもの[[意思決定支援システム]]の構築に携わった。 == 日本語訳著作 == ===単著=== *『経営行動』([[ダイヤモンド社]], 1965年/新版, 1989年)ISBN 4478300283 *『システムの科学』(ダイヤモンド社, 1969年/新訳版, 1977年/新版, パーソナルメディア, 1987年/第3版, 1999年)ISBN 489362167X *『人間行動のモデル』([[同文舘出版]], 1970年) *『意思決定の科学』([[産業能率大学出版部]], 1979年) *『人間の理性と行動』([[文真堂]], 1984年) *『意思決定と合理性』(文真堂, 1987年) *『学者人生のモデル』([[岩波書店]], 1998年)ISBN 4000028243 ===共著=== *(O・ティード)『コンピューターと経営』(日本生産性本部, 1964年) *([[ジェームズ・マーチ|J・G・マーチ]])『オーガニゼーションズ』(ダイヤモンド社, 1977年) *(D・W・スミスバーグ、V・A・トンプソン)『組織と管理の基礎理論』(ダイヤモンド社, 1977年) *(クラレンス・E・リドレー)『行政評価の基準――自治体活動の測定』(北樹出版, 1999年) ===補足=== 2012年3月の日本経済新聞「やさしい経済学」において、「シリーズ 危機・先人に学ぶ」の一人として取り上げられた。記事によれば、少年時代のサイモンの座右の銘は「戦って逃げる者は生きて再び戦える」というフレーズだという。 == 関連項目 == * [[政治学者]] * [[経済学者]] * [[経営学者]] * [[ノーベル経済学賞]] * [[行動経済学]] * [[ハーバート・サイモン賞]] == 外部リンク == * [http://nobelprize.org/economics/laureates/1978/index.html ノーベル財団の公式ホームページ] {{En icon}} * [http://www.multilingualarchive.com/ma/enwiki/ja/Herbert_Simon ハーバート・サイモン] *{{MathGenealogy |id=87903 |title=Herbert Alexander Simon}} *{{AIGenealogy|id=171|title=Herbert Alexander Simon}} *[http://www.cs.cmu.edu/simon/ A Tribute to Herbert A. Simon] *[http://diva.library.cmu.edu/Simon/ Full-text digital archive of Herbert Simon papers] *[http://shelf1.library.cmu.edu/IMLS/MindModels/index.html Mind Models] online Artificial Intelligence exhibit *[http://werdet.atspace.com/bin/simonntation-speech.html pioneering research into the decision-making process within economic organizations] *[http://www.philsci.com History of Twentieth-Century Philosophy of Science] BOOK VIII: Herbert Simon, Paul Thagard and Others on Discovery Systems – with free downloads for public use. *[http://www.ecoplexity.org/files/uploads/Simon.pdf The Architecture of Complexity] American Philosophical Society (Vol. 106, No.6) (December 12, 1962) *[http://ideas.repec.org/e/psi29.html IDEAS/RePEc] {{ノーベル経済学賞受賞者 (1976年-2000年)}} {{チューリング賞}} {{経済学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいもん はあはあと}} [[Category:20世紀の経済学者]] [[Category:21世紀の経済学者]] [[Category:20世紀の数学教育者]] [[Category:21世紀の数学教育者]] [[Category:アメリカ合衆国の経済学者]] [[Category:アメリカ合衆国の経営学者]] [[Category:アメリカ合衆国の心理学者]] [[Category:アメリカ合衆国の社会学者]] [[Category:アメリカ合衆国の教育心理学者]] [[Category:アメリカ合衆国の認知心理学者]] [[Category:計量経済学者]] [[Category:認知科学者]] [[Category:行政学者]] [[Category:ジョージスト経済学者]] [[Category:アメリカ合衆国の人工知能学者]] [[Category:アメリカ合衆国のノーベル賞受賞者]] [[Category:アメリカ合衆国の無神論者]] [[Category:ノーベル経済学賞受賞者]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:アメリカ国家科学賞受賞者]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ACMフェロー]] [[Category:Econometric Societyのフェロー]] [[Category:ランド研究所の人物]] [[Category:カーネギーメロン大学の教員]] [[Category:イリノイ工科大学の教員]] [[Category:シカゴ大学出身の人物]] [[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]] [[Category:ミルウォーキー出身の人物]] [[Category:1916年生]] [[Category:2001年没]]
2003-08-18T18:19:54Z
2023-09-12T23:19:46Z
false
false
false
[ "Template:経済学", "Template:Thumbnail:ノーベル賞受賞者", "Template:Thumbnail:end", "Template:MathGenealogy", "Template:AIGenealogy", "Template:ノーベル経済学賞受賞者 (1976年-2000年)", "Template:Infobox scientist", "Template:Thumbnail:begin", "Template:En icon", "Template:チューリング賞", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3
13,527
休暇村
休暇村(きゅうかむら)とは、国立公園や国定公園内の景色や環境の良いところに、滞在型のバカンスを楽しめるように設置されたレクリエーション、保養施設である。スキー、テニス、海水浴、オリエンテーリングなどのスポーツ、レクリエーションや自然歩道の散策、合宿、研修に利用されている。 日本国内で知られているのは国民休暇村である。2021年現在、『休暇村』の名称にて『一般財団法人休暇村協会』(旧称『財団法人国民休暇村協会』。)が35施設を運営している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "休暇村(きゅうかむら)とは、国立公園や国定公園内の景色や環境の良いところに、滞在型のバカンスを楽しめるように設置されたレクリエーション、保養施設である。スキー、テニス、海水浴、オリエンテーリングなどのスポーツ、レクリエーションや自然歩道の散策、合宿、研修に利用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本国内で知られているのは国民休暇村である。2021年現在、『休暇村』の名称にて『一般財団法人休暇村協会』(旧称『財団法人国民休暇村協会』。)が35施設を運営している。", "title": null } ]
休暇村(きゅうかむら)とは、国立公園や国定公園内の景色や環境の良いところに、滞在型のバカンスを楽しめるように設置されたレクリエーション、保養施設である。スキー、テニス、海水浴、オリエンテーリングなどのスポーツ、レクリエーションや自然歩道の散策、合宿、研修に利用されている。 日本国内で知られているのは国民休暇村である。2021年現在、『休暇村』の名称にて『一般財団法人休暇村協会』(旧称『財団法人国民休暇村協会』。)が35施設を運営している。
{{出典の明記|date=2023年12月}} '''休暇村'''(きゅうかむら)とは、[[国立公園]]や[[国定公園]]内の景色や環境の良いところに、滞在型のバカンスを楽しめるように設置されたレクリエーション、保養施設である。[[スキー]]、[[テニス]]、[[海水浴]]、[[オリエンテーリング]]などのスポーツ、レクリエーションや自然歩道の散策、合宿、研修に利用されている。 日本国内で知られているのは'''[[国民休暇村]]'''である。2021年現在、『休暇村』の名称にて'''『[[休暇村協会|一般財団法人休暇村協会]]』'''(旧称『財団法人国民休暇村協会』。)が35施設を運営している。 == 全国の休暇村 == === 北海道 === *北海道・[[休暇村支笏湖]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する28ヶ所目の休暇村として1977(昭和52)年9月19日に開業したもの。施設名称は「支笏湖畔国民休暇村→支笏湖国民休暇村→支笏湖畔国民休暇村→休暇村支笏湖畔→休暇村支笏湖」と変遷。現名称は1996(平成8)年4月1日より使用。現在は宿泊施設の他に『モラップキャンプ場』を持つ。 *北海道・[[中札内農村休暇村 フェーリエンドルフ]] :『[[キャピタル・ゼンリン|キャピタル・ゼンリン株式会社]]』経営の休暇村として2003(平成15)年に開業したもの。現在は『グランピングリゾート フェーリエンドルフ』の名で営業中。 === 東北 === *岩手県・[[休暇村岩手網張温泉]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する14ヶ所目の休暇村として1965(昭和40)年8月7日に開業したもの。施設名称は「岩手山麓国民休暇村→休暇村岩手山麓→休暇村岩手→休暇村岩手網張温泉」と変遷。現在は宿泊施設『東館』『本館』『西館』の他に『温泉館』(2002(平成14)年12月開業。)、『網張温泉キャンプ場』(旧称『網張キャンプ場』。)、『網張温泉スキー場』(旧称『網張スキー場』。)、芝生広場を持つ。 *岩手県・[[休暇村陸中宮古]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する22ヶ所目の休暇村として1974(昭和49)年4月に開業したもの。施設名称は「宮古国民休暇村→休暇村陸中宮古」と変遷。現在は宿泊施設の他に『宮古姉ヶ崎オートキャンプ場』(2014(平成26)年開業。)を持つ。 *秋田県・[[休暇村乳頭温泉郷]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する15ヶ所目の休暇村として1965(昭和40)年12月10日に開業したもの(ただし、秋田魁新報の記事では11日に開村式を挙行し、16ヶ所目の国民休暇村として20日に開業と報道されている。)。施設名称は「田沢湖高原国民休暇村→休暇村田沢湖高原→休暇村乳頭温泉郷」と変遷。現名称は2008(平成20)年7月1日より使用。現在は宿泊施設『本館』の他に『乳頭キャンプ場』、広場を持つ。『国民休暇村乳頭スキー場』(後に『休暇村乳頭スキー場』に改称。)も1965(昭和40)年に開設されていたが、2004(平成16)年より営業を休止し、2007(平成19)年に閉設されている。 *宮城県・[[休暇村気仙沼大島]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する29ヶ所目の休暇村として1978(昭和53)年11月2日に開業したもの。施設名称は「気仙沼大島国民休暇村→休暇村気仙沼大島」と変遷。現在は宿泊施設の他に『休暇村気仙沼大島キャンプ場』を持つ。 *山形県・[[休暇村庄内羽黒]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する26ヶ所目の休暇村として1975(昭和50)年10月26日に開業したもの。施設名称は「羽黒国民休暇村→休暇村羽黒→休暇村庄内羽黒」と変遷。現名称は2019(平成31)年4月1日より使用。現在は宿泊施設の他に『羽黒山キャンプ場』、『羽黒山スキー場』、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。 *福島県・[[休暇村裏磐梯]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する9ヶ所目の休暇村として1964(昭和39)年4月20日に開業したもの。施設名称は「磐梯高原国民休暇村→裏磐梯国民休暇村→休暇村磐梯高原→休暇村裏磐梯」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設『本館』(2001(平成13)年7月開業。)の他に『裏磐梯キャンプ場』、『裏磐梯クロスカントリースキー場』、テニスコート、芝生広場を持つ。 === 関東 === *栃木県・[[休暇村那須]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する21ヶ所目の休暇村として1972(昭和47)年7月に開業したもの。施設名称は「那須国民休暇村→休暇村那須」と変遷。現在は宿泊施設『本館』(1973(昭和48)年4月25日開業。)を持つ。『休暇村那須キャンプ場』とコテージも以前は開設されていたが、2020(令和2)年8月31日に閉設されている。 *栃木県・[[休暇村日光湯元]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する33ヶ所目の休暇村として1994(平成6)年7月20日に開業したもの。『[[国立公園協会|財団法人国立公園協会]]』経営の宿泊施設『国民宿舎[[日光湯元レークロッジ]]』(ユースホステルとの兼営。ユースホステルとしての名称は『[[ユースホステル湯元山の家]]』。)を『財団法人国民休暇村協会』が買収し、建物を取り壊した跡地に開設した。施設名称は「日光湯元国民休暇村→休暇村日光湯元」と変遷。現在は宿泊施設『本館』の他に芝生広場を持つ。 *群馬県・[[休暇村嬬恋鹿沢]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する3ヶ所目の休暇村として1962(昭和37)年12月20日に開業したもの。施設名称は「鹿沢国民休暇村→鹿沢高原国民休暇村→休暇村鹿沢高原→休暇村嬬恋鹿沢」と変遷。現名称は2016(平成28)年4月1日より使用。現在は2代目となる宿泊施設(通称『からまつ荘』と呼ばれた初代の宿泊施設は1995(平成7)年に解体済み。)の他に『嬬恋鹿沢キャンプ場』(旧称『鹿沢高原キャンプ場』。)を持つ。『国民休暇村鹿沢スキー場』と『湯の丸ロッジ』も1962(昭和37)年に開設されていたが、1996(平成8)年に営業を休止している。 *埼玉県・[[休暇村奥武蔵]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する37ヶ所目の休暇村として2013(平成25)年7月1日に開業したもの。[[埼玉県]]経営の宿泊施設『[[埼玉県奥武蔵あじさい館]]』を『一般財団法人休暇村協会』が買収し、施設を改修して開設した。現在は宿泊施設『本館』(新館の開業を機に通称を『あがの館』とした。)『新館』(通称『にしかわ館』。2018(平成30)年7月10日開業。)、プール、ログハウス、広場を持つ。 *千葉県・[[休暇村館山]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する10ヶ所目の休暇村として1964(昭和39)年7月11日に開業したもの。施設名称は「館山国民休暇村→休暇村館山」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(初代の宿泊施設通称『にしざき荘』は解体済み。)の他に『温泉館』、プール、芝生広場を持つ。 *神奈川県・[[相模原市立緑の休暇村センター]] :[[相模原市]]立の休暇村として開業したもの。『[[青根振興協議会|一般社団法人青根振興協議会]]』が2019(平成31)年4月1日から指定管理者として運営。 === 中部 === *新潟県・[[休暇村佐渡]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する34ヶ所目の休暇村として1995(平成7)年4月に開業したもの。[[新潟県]]が整備した『佐渡オートキャンプ場』を指定管理者として運営を受託し、開設した。2019(令和元)年8月の契約終了に伴い、閉業。施設名称は「佐渡関岬休暇村→休暇村佐渡関岬→休暇村佐渡」と変遷。『休暇村佐渡オートキャンプ場』を持つ。現在は『[[佐渡関岬オートキャンプ場]]』として営業を継続中。 *新潟県・[[休暇村妙高]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する13ヶ所目の休暇村として1965(昭和40)年7月に開業したもの。関山エリアと笹ヶ峰エリアで構成。施設名称は「妙高山麓国民休暇村(五最杉地区)(笹ガ峰地区)→妙高山麓国民休暇村(関山地区)(笹ガ峰地区)→休暇村妙高山麓(関山地区)(笹ガ峰地区)→休暇村妙高(関山エリア)(笹ヶ峰エリア)」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(1997(平成9)年開業。初代の建物は解体済み。)の他に『笹ヶ峰キャンプ場』、『休暇村妙高ルンルンスキー場』(旧称『国民休暇村妙高スキー場』『休暇村妙高スキー場』。)を持つ。宿泊施設『笹ヶ峰ロッジ』も以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 *山梨県・[[羽村市自然休暇村清里]] :[[羽村市]]経営の休暇村として1989(平成元)年4月30日に開業したもの。『[[レパスト|株式会社レパスト]]』が2005(平成17)年10月1日から2013(平成25)年3月31日まで、『グリーンハウス・太平ビルサービス共同事業体』が2013(平成25)年4月1日から指定管理者として運営。施設の老朽化や運営に多額の費用が必要となることを理由に2021(令和3)年3月31日に閉業した。 *山梨県・[[羽村市自然休暇村八ヶ岳少年自然の家]] :羽村市自然休暇村清里と同様に羽村市経営の休暇村として1989(平成元)年4月30日に開業したもの。こちらも施設の老朽化や運営に多額の費用が必要となることを理由に2021(令和3)年3月31日に閉業した。 *山梨県・[[富士緑の休暇村]] :『[[富士観光開発|富士観光開発株式会社]]』経営の休暇村として1972(昭和47)年10月に開業したもの。 *長野県・[[美ヶ原市民休暇村]] :[[藤沢市]]所有の休暇村として1974(昭和49)年8月に開業したもの。[[松本市]]の土地を借用して開設された。『ふじさわ山荘』の名称で『[[財団法人藤沢市生活経済公社]]』により運営されていたが、2010(平成22)年4月1日より『[[望月地所株式会社]]』に譲渡された。現在は休業中。 *長野県・[[刈谷市民休暇村 サンモリーユ下條]] :[[刈谷市]]所有の休暇村として1998(平成10)年5月3日に開業したもの。『[[西洋フード・コンパスグループ|西洋フード・コンパスグループ株式会社]]』が2016(平成28)年4月1日から指定管理者として運営。 *長野県・[[川崎市八ヶ岳市民休暇村]] :2005(平成17)年3月閉業。閉業後は『川崎市少年自然の家』に転用された。 *長野県・[[休暇村乗鞍高原]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する8ヶ所目の休暇村として1963(昭和38)年11月26日に開業したもの。施設名称は「乗鞍高原国民休暇村→休暇村乗鞍高原」と変遷。現在は宿泊施設『東館』『西館』(1990(平成2)年7月開業。)の他に『安曇乗鞍温泉館』(2003(平成15)年12月10日開業。)、『Mt.乗鞍スノーリゾート休暇村ゲレンデ』(旧称『乗鞍高原温泉スキー場』。)を持つ。『一の瀬キャンプ場』も1965(昭和40)年に開設されていたが、2017(平成27)年9月に閉設されている。 *長野県・[[休暇村リトリート安曇野ホテル]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する38ヶ所目の休暇村として2019(令和元)年6月1日に開業したもの。[[豊田市]]経営の宿泊施設『豊田市民山の家『リゾート安曇野』』を『一般財団法人休暇村協会』が買収し、施設を改修して開設した。施設名称は「休暇村安曇野Bed&Breakfast→休暇村リトリート安曇野ホテル」と変遷。現名称は2020(令和2)年4月22日より使用。 *長野県・[[せせらぎの里 町田市自然休暇村]] :[[町田市]]所有の休暇村として開業したもの。『[[川上村振興公社|一般財団法人川上村振興公社]]』が2014(平成26)年4月1日より指定管理者として運営。 *長野県・[[おんたけ休暇村|名古屋市民御岳休暇村]] :[[名古屋市]]所有の休暇村として1973(昭和48)年に開業したもの。『[[名古屋市民休暇村管理公社|公益財団法人名古屋市民休暇村管理公社]]』が指定管理者として運営。 *長野県・[[八ヶ岳市民休暇村]] :[[川崎市]]所有の休暇村として開業したもの。2005(平成17)年3月に開業した。建物は閉業後、『八ヶ岳少年自然の家』の一施設として転用されている。 *静岡県・[[休暇村富士]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する36ヶ所目の休暇村として2000(平成12)年7月10日に開業したもの。現在は宿泊施設の他にコテージを持つ。 *静岡県・[[休暇村南伊豆]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する20ヶ所目の休暇村として1969(昭和44)年10月1日に開業したもの。施設名称は「南伊豆国民休暇村→休暇村南伊豆」と変遷。現在は宿泊施設の他にプール(1985(昭和60)年開業。)を持つ。 *静岡県・[[調布市市民休暇村熱海多賀荘]] :[[調布市]]の休暇村として1978(昭和53)年に開業したもの。行財政改革の一環として2006(平成18)年3月31日に閉業、4月1日に廃止された。 *愛知県・[[休暇村伊良湖]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する17ヶ所目の休暇村として1966(昭和41)年12月に開業したもの。『[[名古屋鉄道|名古屋鉄道株式会社]]』が所有する土地に開設した。[[愛知県]]が管理する園地、キャンプ場、屋外プール(現在は廃止撤去済み。)の指定管理者も『一般財団法人休暇村協会』が受諾している。施設名称は「伊良湖国民休暇村→休暇村伊良湖」と変遷。2016(平成28)年4月1日に読み仮名を『きゅうかむらいらこ』から『きゅうかむらいらご』へと改称。現在は宿泊施設『本館』(1986(昭和61)年開業。)の他に『伊良湖オートキャンプ場』、コテージ、テニスコート、グラウンドゴルフ場、グラウンド、体育館、バーベキュー場を持つ。 *愛知県・[[休暇村茶臼山高原]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する32ヶ所目の休暇村として1980(昭和55)年7月に開業したもの。施設名称は「茶臼山高原国民休暇村→休暇村茶臼山高原」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(1993(平成5)年開業。)の他に『休暇村茶臼山高原チャウシカノモリキャンプ場』(旧称『休暇村茶臼山高原キャンプ場』。1982(昭和57)年開業。)、コテージを持つ。 *石川県・[[休暇村能登千里浜]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する23ヶ所目の休暇村として1974(昭和49)年6月に開業したもの。施設名称は「能登千里浜国民休暇村→休暇村能登千里浜」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(1995(平成7)年開業。)の他に『能登千里浜シーサイドオートキャンプ場』、芝生広場を持つ。 *福井県・[[休暇村越前三国]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する35ヶ所目の休暇村として1996(平成8)年7月20日に開業したもの(中日新聞の記事では10日に開所式を挙行したとの報道がある。)。[[三国町]]が購入したキャンプ施設『日本海キャンプ村』(1960(昭和35)年1月に『[[日本海観光株式会社]]』が民有地を購入し整備したもの。))の土地と施設に加え、土地交換で取得した旧三国無線中継所の鉄塔敷地上に開設された。現在は宿泊施設の他に『越前三国オートキャンプ場』(1998(平成10)年7月開業。)、プール、テニスコート、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。 === 近畿 === [[File:Kyukamura NANKI-KATSUURA Front.jpg|thumb|280px|和歌山県那智勝浦町の休暇村南紀勝浦]] *滋賀県・[[休暇村近江八幡]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する1ヶ所目の休暇村として1962(昭和37)年7月21日に開業したもの。施設名称は「近江八幡国民休暇村→休暇村近江八幡」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設『東館』(1998(平成10)年7月10日開業。1963(昭和38)年に開業した宿泊施設『東館』通称『宮ヶ浜荘』とは別の建物で、こちらは1997(平成9)年2月より取り壊された。)『西館』(1981(昭和56)年開業の旧『新館』を改称したもの。)の他に『宮ヶ浜水泳場』(1962(昭和37)年7月21日開業。)、『近江八幡キャンプ場』、プール、グラウンドゴルフ場、グラウンド、芝生広場を持つ。 *兵庫県・[[休暇村竹野海岸]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する30ヶ所目の休暇村として1979(昭和54)年7月5日に開業したもの。施設名称は「竹野海岸国民休暇村→休暇村竹野海岸」と変遷。現在は宿泊施設の他に『休暇村竹野海岸キャンプ場』、テニスコート、芝生広場を持つ。 *兵庫県・[[休暇村南淡路]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する4ヶ所目の休暇村として1963(昭和38)年4月12日に開業したもの。施設名称は「南淡路国民休暇村→休暇村南淡路」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設『本館』(2006(平成18)年4月18日開業。)の他に『天文館』(2007(平成19)年3月19日開業。)、『南淡路シーサイドキャンプ場』、プール(1974(昭和49)年開業。)を持つ。 *和歌山県・[[休暇村紀州加太]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する5ヶ所目の休暇村として1963(昭和38)年5月24日に開業したもの。施設名称は「加太国民休暇村→休暇村加太→休暇村紀州加太」と変遷。現在は宿泊施設『本館』(2016(平成28)年7月1日のリニューアル開業時より通称名『みやま館』。)『新館』(2016(平成28)年7月1日開業。通称名『さくら館』。)の他に『紀州加太オートキャンプ場』、プール、テニスコート、芝生広場を持つ。 *和歌山県・[[休暇村南紀勝浦]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する18ヶ所目の休暇村として1967(昭和42)年4月に開業したもの。施設名称は「勝浦国民休暇村→休暇村南紀勝浦」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(初代の宿泊施設通称『新勝浦荘』は解体済み。)を持つ。プールも以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 === 中国 === *鳥取県・[[休暇村奥大山]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する2ヶ所目の休暇村として1962(昭和37)年12月15日に開業したもの。施設名称は「鏡ガ成国民休暇村→大山鏡ガ成国民休暇村→休暇村大山鏡ケ成→休暇村大山鏡ヶ成→休暇村奥大山」と変遷。現名称は2010(平成22)年1月1日より使用。現在は2代目となる宿泊施設(1994(平成6)年開業。初代の宿泊施設通称『ぎぼし山荘』は解体済み。)の他に『鏡ヶ成キャンプ場』、『鏡ヶ成スキー場』(旧称『大山鏡ヶ成スキー場』。)、芝生広場を持つ。宿泊施設『鏡ヶ成ロッジ』も1962(昭和37)年に開設されていたが、現在は閉設されている。 *岡山県・[[金山休暇村]] :『[[山陽新聞社会事業団|社会福祉法人山陽新聞社会事業団]]』が運営する2ヶ所目の休暇村として1967(昭和42)年5月に開業したもの。『[[山陽新聞]]』創刊85周年の記念事業として開設された。経営不振等を理由に1997(平成9)年5月に休業。施設は一部を除き解体済み。 *岡山県・[[休暇村蒜山高原]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する7ヶ所目の休暇村として1963(昭和38)年11月15日に開業したもの。施設名称は「蒜山国民休暇村→休暇村蒜山高原」と変遷。現在は宿泊施設『本館』(2018(平成30)年12月1日に旧『東館』を改称したもの。)『ロッジ館』(2018(平成30)年12月1日に旧『西館』を改称したもの。)の他に『蒜山高原キャンプ場』、『ひるぜんキッズスノーパーク』(2016(平成28)年開設。)、テニスコート、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。『上蒜山スキー場』も以前は開設されていたが、2016(平成28)年に閉設されている。 *岡山県・[[山陽休暇村]] :『社会福祉法人山陽新聞社会事業団』が運営する1ヶ所目の休暇村として1961(昭和36)年8月に開業したもの。『山陽新聞』創刊80周年の記念事業として開設された。現在は閉業。施設は解体済み。 *広島県・[[休暇村吾妻山ロッジ]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する31ヶ所目の休暇村として1980(昭和55)年7月20日に開業したもの。施設名称は「吾妻帝釈国民休暇村(吾妻地区)→吾妻山国民休暇村→休暇村吾妻山→休暇村吾妻山ロッジ」と変遷。現名称は2008(平成20)年7月1日より使用。経営不振と新型コロナウイルス感染拡大に伴う利用客の減少を理由に2020(令和2)年11月15日を以って営業を終了し、2021(令和3)年3月31日に閉業した。広島県の所有地を借用して開設した。2代目となる宿泊施設(1992(平成4)年開業。)の他に『吾妻山野鳥の森キャンプ場』、コテージ、芝生広場を持つ。 *広島県・[[休暇村大久野島]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する6ヶ所目の休暇村として1963(昭和38)年7月15日に開業したもの。旧日本陸軍施設の跡地でもある国有地に開設された。[[竹原市]]所有の博物館『[[大久野島毒ガス資料館]]』の指定管理者も『一般財団法人休暇村協会』が受諾。施設名称は「大久野島国民休暇村→休暇村大久野島」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(1991(平成3)年開業。)の他に『ウサギ島大久野島キャンプ場』『大久野島海水浴場』、プール、テニスコート、芝生広場を持つ。 *広島県・[[休暇村帝釈峡]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する25ヶ所目の休暇村として1975(昭和50)年10月に開業したもの。施設名称は「吾妻帝釈国民休暇村(帝釈地区)→帝釈峡国民休暇村→休暇村帝釈峡」と変遷。現在は宿泊施設『本館』の他に『くぬぎの森キャンプ場』、コテージ、テニスコート、グラウンドゴルフ場、体育館、芝生広場、運動広場を持つ。プールも以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 === 四国 === [[File:Setoutitouyo 20221021 3.jpg|thumb|280px|[[休暇村瀬戸内東予]]]] *香川県・[[休暇村讃岐五色台]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する19ヶ所目の休暇村として1968(昭和43)年9月に開業したもの。施設名称は「五色台国民休暇村→休暇村五色台→休暇村讃岐五色台」と変遷。現在は宿泊施設の他に『讃岐五色台キャンプ場』、プール、テニスコート、多目的広場を持つ。 *愛媛県・[[休暇村瀬戸内東予]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する16ヶ所目の休暇村として1965(昭和40)年12月17日に開業したもの。施設名称は「東予国民休暇村→休暇村瀬戸内東予」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設『本館』(2003(平成15)年7月開業。初代の宿泊施設通称『ひうちなだ荘』は解体済み。)の他に『瀬戸内東予シーサイドキャンプ場』、『休暇村瀬戸内東予海水浴場』、芝生広場を持つ。プールも以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 === 九州 === *福岡県・[[休暇村志賀島]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する11ヶ所目の休暇村として1964(昭和39)年7月に開業したもの。施設名称は「志賀島国民休暇村→休暇村志賀島」と変遷。現在は2代目となる宿泊施設(2006(平成18)年3月12日開業。)の他に『温泉館』(2005(平成17)年12月3日開業。)、『下馬ヶ浜海水浴場』、プール、テニスコート、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。 *長崎県・[[休暇村雲仙]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する24ヶ所目の休暇村として1974(昭和49)年10月に開業したもの。雲仙市が所有する土地に開設した。施設名称は「雲仙国民休暇村→休暇村雲仙」と変遷。経営不振と新型コロナウイルス感染拡大に伴う利用客の減少を理由に2020(令和2)年11月30日を以って営業を終了し、2021(令和3)年3月31日に閉業した。宿泊施設の他に『休暇村雲仙諏訪の池キャンプ場』、プール、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。 *熊本県・[[休暇村南阿蘇]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する27ヶ所目の休暇村として1976(昭和51)年10月1日に開業したもの。施設名称は「南阿蘇国民休暇村→休暇村南阿蘇」と変遷。現在は宿泊施設の他に『南阿蘇キャンプ場』、テニスコート、グラウンドゴルフ場を持つ。プールも以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 *熊本県・[[球泉洞休暇村]] :『[[球磨村森林組合]]』経営の休暇村として開業したもの。 *鹿児島県・[[休暇村指宿]] :『一般財団法人休暇村協会』が運営する12ヶ所目の休暇村として1965(昭和40)年4月に開業したもの。施設名称は「指宿国民休暇村→休暇村指宿」と変遷。指宿市より土地を賃借して開設された。現在は2代目となる宿泊施設(2013(平成25)年8月開業。初代の宿泊施設通称『さつなん荘』『さつなん荘 レクリェーションセンター』は解体済み。)の他に『指宿エコキャンプ場』、グラウンドゴルフ場、芝生広場を持つ。プールも以前は開設されていたが、現在は閉設されている。 == 関連項目 == *[[国民休暇村]] == 外部リンク == *[https://www.qkamura.or.jp/ 一般財団法人 休暇村協会] {{DEFAULTSORT:きゆうかむら}} [[Category:旅行]] [[Category:日本の宿泊施設]] [[Category:保養所]]
2003-08-18T21:24:05Z
2023-12-03T09:31:06Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%91%E6%9A%87%E6%9D%91
13,528
修学旅行
修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本の初等教育・中等教育の諸学校(特別支援学校を含む)における学校行事(教育課程)の一つとして、教職員の引率のもとに児童、生徒が集団で見学・研修等をするための宿泊を伴う旅行。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会科見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。広義の校外学習(または校外教育)の一種。 学習指導要領においては、特別活動のうちの学校行事の一つとして、小学校では「遠足・集団宿泊的行事」、中学校及び高等学校では「旅行・集団宿泊的行事」に分類され、共通のねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」とされている。 主に学年単位で実施され、多くは最終学年で行われるが、中学校や高等学校では2年時に行われることも多い(最終学年は入学試験・入社試験など進路に関わる行事が控えているため)。 学校行事としての修学旅行の始まりは明治時代に遡る。その実質的な歴史的起源は、1886年(明治19年)2月に東京師範学校(現・筑波大学)が実施した「長途遠足」であり、「修学旅行」という名称も、同校が1886年中に独自に使用しはじめた造語である。 日本以外では、台湾、韓国に日本の統治時代(植民地教育)の名残として存在し、中国でも実施されている。ヨーロッパ諸国などでも泊まりがけの旅行は学校行事として存在し、ドイツ・ベルリンの学生たちがポーランドの海岸で1週間を過ごすことを背景とした映画『同級生の旅行(ドイツ語版)』(2002年)も制作されている。 近代教育史上、類似する校外学習的事例としては、1877年(明治10年)の設立当初から東京大学で実施されていた各学部教員・生徒らによる動植物採集・地質調査・貝塚発掘などの専門教育としての「実地研究旅行」や、1881年(明治14年)に栃木県第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の生徒らが教員の引率で第二回内国勧業博覧会(東京・上野公園)を観覧したという単発的事例などがあるが、定期的な学校行事として、今日に至る「修学旅行の嚆矢」とされているのは、兵式体操導入を契機として実施された東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)による軍隊式の「長途遠足」である。 この遠足については、当時の新聞や教育雑誌で多くの事前事後報道がなされ、『大日本教育会雑誌』第30号(1886年4月)掲載の最も整備された報告日誌「東京師範学校生徒長途遠足」によれば、1886年(明治19年)2月15日〜25日、同校男子師範生徒99名は「戎装」=軍装で、「銃器及ヒ背嚢外套毛布ヲ附着シ、数部ノ兵書及ヒ靴、靴下シャツノ着代ヘ等数品」を携えて、東京〜千葉県銚子間を往復行軍したという(兵式及び学術教員・職員を含め総勢121名)。その実施にいたる経緯は、同校監督を兼任した初代文部大臣・森有礼による師範教育改革において、兵式体操などの軍隊的規律訓練が過度に導入されることに抵抗した高嶺秀夫校長及び教員らが、当初予定されていた行軍・発火演習に「諸学科ヲ実地ニ研究」する要素(気象観測・測量・動植物採集・写生・名所見学・貝塚採集・学校参観など)を採り入れたとされる。それら実地研究は、当時の教員らにとっては各専門領域の基礎的実習であり、また高嶺秀夫が主導していた開発主義教育(実物教授)によって必然化された方法的実践であり、かつ教材としての実物資料の発見収集という当時の師範教育特有の技術的実習を兼ねていた。 「修学旅行」という名称の初出は、『東京茗溪会雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」であり、これは東京師範学校が師範学校令により高等師範学校に改編後の1886年8〜9月、男子師範学科生徒が長途遠足と同形式で下野地方(塩原・日光)へ旅行した過程と成果を詳細にまとめたものである(「第二回」とは長途遠足を第一回とみなしたことを示す)。この後、翌1887年(明治20年)3月に同校は正式に修学旅行の実施期間を定め、実際、当時の報道によれば、同年2月には鎌倉・駿州地方へ、8〜9月には長野・山梨・静岡・神奈川を縦断、88年3月には再び房総へ、同年7〜8月には群馬・新潟・福島地方へと、継続的に実施された。ただし、すでに1887年末には「一泊以上の行軍は、夏冬両季休業中、及び春期試験の後に限り、これは学術研究旁々することとして、兵式体操の用具を携帯せしめず、常時臨時に於てするものは総て一泊がけ若くは一日往復と定めて、兵式教師の引率に任ず」と改め、1888年以降は学術研究としての修学旅行と兵式体操としての行軍演習とが事実上分離された。 一方、女子生徒による修学旅行もまた、高等師範学校の女子師範学科(現・お茶の水女子大学)によって1887年の夏季休業中に千葉県へ向け実施されており、修学旅行とは明記されていないが、『教育報知』第79号(1887年8月)は、「高等師範学校女子部の遠足」という見出しで「避暑傍ら地理博物等実地研究のため上総鹿野山地方へ、去九日出発し凡そ二週日間の遠足」と報じている。女子生徒は兵式体操とは無縁であったことから、この遠足は専ら学術研究を目的とする文字通りの修学旅行であり、同校男子生徒のそれを先取りしていた。 1886年の尋常師範学校及び尋常中学校等の体操科への兵式体操の正式導入とともに、1887年以降、長途遠足をモデルとした集団旅行も府県尋常師範学校を中心に急速に普及し、文部省もその師範教育における有益性を追認した。文部省が尋常師範学校の行事としての修学旅行を法令上に明記したのは、1888年(明治21年)の「尋常師範学校設備準則」であり、末尾に列挙された諸支出項目に「修学旅行」を掲げ、「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ一ヶ年六十日以内トシ可成生徒常食費以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」と経費上の実施基準(制約)を示した。ちなみに、1883年段階で東京師範学校が生徒に支給した学資金は一ヶ月6円、そこから月々食料費として3.25円(一日当たり約10銭)を徴収した。高等師範学校では1898年段階で被服費とは別に一日当たり14.5銭の割合で食費を月々支給、修学旅行時は食費の代わりに旅費が支給され、府県の財政に左右される尋常師範学校に比べ恵まれていた。 1896年(明治29年)には、長崎県立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)が上海(当時は清国)への修学旅行を敢行しており、日本初の海外修学旅行とされている。 1890年代以降、修学旅行が中等教育の諸学校を中心に全国的に普及する一方、文部省普通学務局(澤柳政太郎局長)は時間と費用の空費となりかねない修学旅行の目的、旅行先の適否、適切な事前事後教授の方法について指針を示すべく、1900年(明治33年)に参考図書『独国ノ修学旅行』を編集発行した(12月12日普通学務局通牒にて中等学校への配布依頼)。ドイツの教育旅行を参考とした同書では、「修学旅行トハ全校生徒ガ一人以上ノ教師ノ指導ノ下ニ少クトモ二日(宿泊ヲナシテ)旅行シテ体育知育情育意育ニ等シク益セシメルコトヲイフ」と定義され、ドイツの教育学者クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンがシュネッフェンタールの学校で1784年から1803年まで数回実施したモデルが紹介された。 19世紀末〜戦前期には、鉄道の普及と団体割引料金導入などのインフラ整備も進み、高等小学校にいたるまで修学旅行が学校行事として定着していった。1940年(昭和15年)6月の文部省による修学旅行制限の通牒、戦時体制に伴う1943年(昭和18年)以降の実質的禁止まで、戦前には、伊勢神宮、橿原神宮、厳島神社、金刀比羅宮といった国家神道教育に通じる神社を目的地とする参宮旅行が盛んに行われた。これらは敬神思想の啓蒙を目的とするもので、現在のような古美術観光も一部で行われてはいたものの、1940年以前の修学旅行のガイドブックでは古美術観光を取り入れた事例は目立たず、一般的とは言えなかった。また、旧制の高等商業学校では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、朝鮮半島や満蒙地域など東アジアへの、いわゆる満鮮旅行(満韓旅行)を実施し、東亜同文書院のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。 太平洋戦争後は、1946年(昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現・大阪市立東高等学校)が九州・阿蘇への修学旅行を再開したのが始まりとされる。本格的な再開は1950年代以降で、同時に古美術観光が積極的に取り入れられている。修学旅行関係者のための専門誌として発行された機関紙『修学旅行』(日本修学旅行協会発行)では、古美術観光を修学旅行に組み込むことが奨励され、教師向けに各社寺が持つ所蔵古美術品の解説、写真を用いた事前指導、現地での実地指導例、古美術見学の教育理念などが取り上げられている。この転換の理由は、1950年代半ばの社寺観光ブームや、戦前の参宮旅行のような国家主義教育否定の方針、交通の利便性や団体宿泊の受入れ環境などを考えあわせた場合、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる。また、1970~1980年頃までは、現在のように交通インフラが多様化していなかったため移動手段には専ら鉄道が利用され、あらかじめ専用列車のダイヤを決めて数校の修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた(詳しくは修学旅行列車を参照)。その後、私立高校では1970年代後半以降、国立高校・公立高校においても1990年代後半以降には航空機を利用するケースも増え、特に私立高校では1980年代後半以降、海外旅行を選択する学校が増加した。 地元から比較的近い観光地への旅行が主流である。たとえば南関東ならば日光・那須・箱根・伊豆・新潟県・長野県などが多く、南東北や北関東、中部地方東部などからは東京や神奈川県(横浜・鎌倉・江ノ島)などに行く場合が多い。近畿地方や中京圏ならば奈良・京都・大阪・伊勢志摩・南紀が多い。集団での入浴を目的として温泉のある地域を選ぶ場合も多い。また、西日本・南日本(除く鹿児島県)では平和学習の一環として広島・長崎・沖縄へ行く場合も少なくない。鹿児島県の場合は熊本県あるいは宮崎県と南九州完結となることがほとんどである。 北海道の学校は道内の主要都市(主に札幌や函館)や、東北地方や中京圏の学校は首都圏へ、首都圏や中部地方東部、中国・四国地方、九州地方(除く鹿児島県)の学校は近畿地方へ、西日本の学校は東日本へ行く場合が多い。また、鹿児島県の場合は九州島内完結(主な行き先は福岡県・長崎県あるいは大分県)となる学校がほとんどを占めていたが、九州新幹線全線開業以降は山口県や広島県・岡山県まで足を伸ばす学校も徐々に増えつつある。 修学旅行での主な見学地としては、首都圏及び関東方面では、日光、皇居前広場・国会議事堂・羽田空港(以上1970年代)、東京ドームシティや東京ディズニーリゾートなどのテーマパーク、東京タワー・横浜みなとみらい21・東京スカイツリーなどのランドマーク、東京証券取引所・日本銀行本店といった日本の政治・経済・文化を象徴するスポットが多い。 関西では京都・奈良の法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・清水寺・金閣寺・平等院・三十三間堂・京都御所・奈良公園などの仏閣や歴史的建築物が挙げられる。また、近年ではユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業に伴い大阪へ、あるいは防災学習を目的として阪神・淡路大震災の被災地である神戸へ行く学校も増えている。 私学では近年、航空機を利用して北海道や沖縄に行くケースも多い。北海道方面では、開拓初期の歴史的建造物(札幌市時計台、北海道庁赤レンガ庁舎、北海道大学構内など)やさっぽろテレビ塔、小樽運河、函館の元町地区、五稜郭、富良野・美瑛のラベンダー畑などが多い。 一方、物見遊山ではなく字義通り「学を修める」活動を主目的として、旅行先でフィールドワークや地域調査、取材活動等を行いレポートにまとめる活動をしている学校(筑波大学附属中学校や愛知教育大学附属岡崎中学校など)もあり、伝統ある形態が現在も受け継がれているところもある。 日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位京都、2位奈良、3位東京、4位大阪、5位千葉、6位沖縄、7位広島、8位神奈川、9位長崎、10位福岡、2020年度は1位京都、2位奈良・山梨、4位長野、5位北海道・三重、7位栃木、8位静岡、9位岩手、10位兵庫・長崎であった。 公立・私立を問わず東京や近畿が長く主流だったが、近年は、自然体験や太平洋戦争の追体験を目的として、北海道・広島・長崎・沖縄などを旅行先として選択する学校が多い。また、四国や九州など雪のほとんど降らない地方では、体験学習としてスキー教室を実施している学校もある。 1990年代以降、日本国内だけではなく、ハワイ、アメリカ西海岸、英国、韓国、台湾などの日本国外への修学旅行も増えている。特に私立では、国外への修学旅行を学校の宣伝材料としている場合も多い。公立でも地理的に朝鮮半島に近い九州や山口県の学校では、韓国に行く学校も多い。 神社仏閣などは、特定の宗教に対する特別扱いではないかという意見もあることから、そういった場所を選択する学校は減少傾向にある。しかし、歴史を学ぶ目的や観光で訪れることが本当に特定宗教の特別扱いになるのかという点では反対意見もある。 中学校以上では、小グループによる官庁や出版社・新聞社、テレビ局などへの見学も行われるようになっており、それらを職場として理解する進路学習を目的とする場合が多い。また一部の高校では進学先理解のために大学や研究施設を見学先とする例もある。これらは主に大都市圏外の学校が大都市圏を見学先とする場合に多いが、逆に大都市圏の学校においては、農業などの大都市圏外の産業・社会・文化に理解を深めるために、遠隔地(たとえば東京周辺の学校において、東北地方北部などへ)の農業体験を行う例も存在する。 国際的な博覧会の開催年に修学旅行が実施される場合、その観覧がメインとなることも多い(1970年の大阪万博、1985年のつくば科学万博、2005年の愛・地球博など)。その場合、サブの見学地として会場周辺地域の観光地・産業施設などが充てられることも多い。 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のような大規模災害が発生した後に、その被害・復興状況などを学習・体験するため被災地へ赴く学校もある(福岡県立修猷館高等学校)。 日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位沖縄、2位大阪、3位京都、4位東京、5位奈良、6位千葉、7位北海道、8位兵庫・長崎、10位福岡、2020年度は1位長崎、2位沖縄、3位広島、4位大阪、5位北海道・兵庫、7位福岡、8位京都、9位熊本、10位鹿児島であった。 修学旅行先として日本国外が選択されるケースも増えてきている。目的としては国際感覚を養うなどが挙げられるが、費用は国内よりも高く、安全面での配慮が求められる。 2011年度には全国で737校(国公立304校・私立433校)が実施した。国立高校または公立高校では8.0%、私立高校では32.8%の実施率であった。私立高校の多い首都圏や、地理的に韓国や中国に近い西日本で実施率が高い傾向がある。 2011年度の渡航先割合は東南アジア29.7%、韓国21.2%、北アメリカ17.6%、中国11.8%、台湾8.5%、オセアニア7.7%、ヨーロッパ3.6%。近隣のアジア地域が多いものの、首都圏など大都市圏の私立高校では欧米諸国など遠方に行くケースもある。 引率する教職員は、遠足など他の学校行事での旅行と異なり、学級担任・学年主任・副担任などの当該学年担当の教職員のみならず、校長(時にその代理としての教頭)や、養護教諭が加わることが多い。なお、引率に伴い校長・養護教諭等が不在となる場合は、職務代理者がその校務を代行する。 公立学校における修学旅行の実施にあたっては、小中学校(都道府県立の中学校を除く)については各市町村または特別区の教育委員会が、高等学校、中等教育学校、特別支援学校及び都道府県立の中学校については各都道府県または政令指定都市の教育委員会がそれぞれ通達により基準を定めている。特に保護者の負担軽減のために旅費の総額に制限を設けたり、旅行期間の上限を設けたりする例が多い。また旅行先を一定の地域に限ったり、総行程(移動距離)に上限を設けたりする例もある。その結果、国立学校または公立学校における修学旅行の旅程は、小学校(義務教育学校を含む)では原則1泊2日、高等学校(中等教育学校を含む)でも5泊6日程度が上限となっている。また日本国外への渡航は原則として高等学校(中等教育学校を含む)に限られており、小中学校で日本国外への修学旅行を実施する例は非常に稀である。 一方で私立学校の場合は上記のような制約を受けないため、小中学校から日本国外へ渡航する例も珍しくない。また旅程も公立学校より長くなる傾向があり、2008年の調査によれば、国立高等学校または公立高等学校で5日間以上の旅程を組んだ学校が23.8%にとどまるのに対し、私立高等学校では53.9%と倍以上の割合となった。 高度経済成長以前、日本の一般家庭の所得水準が低く、高速交通網も未発達で家族旅行自体が稀であった時期は、修学旅行によって見聞を広めることがその基本的な目的とされていた。しかし、所得の上昇、交通インフラの整備などにより、自家用車で頻繁に家族旅行をしたり、海外も含め遠方へ旅行に行く機会も増えてきた頃から、修学旅行の存在意義を問う声も聞かれるようになった。加えて目前に差し迫った進学や就職へのマイナス面を心配する声や、学校や教育委員会と旅行代理店の癒着への批判から、修学旅行を廃止、あるいは廃止を模索する学校が増えてきた。 しかし、「短い学生時代に友人たちと一緒に昼夜を過ごす共同生活の体験をとおし、対人関係の望ましい態度や習慣を身につける」・「実物の資料に触れるなど、平素と異なる生活環境(現地の自然や文化など)に親しむ中から見聞を深める」「集団生活や公衆道徳の在り方について望ましい体験を積む」体験を通し、「多感な世代の人間形成に大切な役割を担う」などの見地から、学校関係者・生徒・保護者のいずれも今のところ修学旅行に肯定的な見方をする者の方が多く、修学旅行そのものの見直しに踏み切った学校は数少ない。ただし、修学旅行という呼称を止めて「宿泊研修」など呼称を変更した学校もある。 なお、低所得世帯、生活保護世帯、ひとり親家庭をはじめとする子どもの貧困が増えたことで、修学旅行積立金の費用捻出が困難となった家庭が珍しくなくなるという観点から、その意義を問う意見もある。 2020年以降はCOVID-19禍の感染防止という観点から、学校側の判断で修学旅行を中止、または日数を短縮するケースが多く見られたが、中止になった修学旅行をそのまま廃止、あるいは廃止を模索する中学校も存在する。 修学旅行を廃止した例として、公立では宮城県仙台第二高等学校・茨城県立土浦第一高等学校・富山県立高校の大半の学校・島根県立高校の31校、私立では函館ラ・サール高等学校・私立武蔵高等学校・早稲田大学高等学院などが挙げられる。また、生徒の修学旅行先の不祥事から修学旅行を中止とした学校もある。しかし、この場合も修学旅行に代わる宿泊を伴う校外実習や大学授業体験などの校外学習が行われていることも多い(例:函館ラ・サール→高1の10月に檜山管内の奥尻島にて災害学習。仙台二高→高1の7月に栗駒山を2泊3日で登山)。 また、学年全体での行動ではなく、ある程度のコースを用意し、その中から生徒個々人の希望に応じたコースを選ばせる学校や、修学旅行とは別に希望者のみの海外研修(ホームステイ)などを用意する学校も存在する。 体育会系や吹奏楽などのクラブ活動に所属している生徒が、クラブ全体で練習や試合を優先させるために修学旅行を欠席せざるを得ない場合がある。特に高校野球などの全国大会ないしはそれにつながる大会を控えている場合に多く見られる。 私学など国外を修学旅行先としている学校では、費用と経済上の都合から欠席せざるを得ない生徒も存在するほか、治安などに対する不安から欠席する生徒も存在する。 他にも持病・怪我といった理由や、高所恐怖症で飛行機に乗れないなどの理由で欠席するケースもある。 いずれの場合も、登校が可能な場合は学校で自習となるケースが多い。 秋田県では「秋田は農業県、子供は宝」という考えのもと、「初めて外泊する子供が多くその安否を知りたい」という親の気持ちを叶えるために1970年頃から秋田テレビが当時営業部社員だった相澤孝(後の代表取締役社長)の発案で放映を始めた。提供は各学区にあるスーパーや個人商店であることが多い。放映時間はほとんどが夕方に放映され、無事に日程通り行われているときだけ放映されている。秋田テレビと秋田放送の2局と、まれに秋田朝日放送で15秒ほどのCMを放映しており、小学校と中学校の情報が確認できる。 山梨県でも山梨放送とテレビ山梨でそれぞれ、修学旅行安否情報、研修旅行情報として夕方のローカルニュース枠内で修学旅行生の情報を流している。 ラジオ福島でも情報を放送する場合がある。 京都府ではKBS京都では平日の最終ニュース(テレビは月曜日から木曜日は21:55 - 22:00、金曜日は『京bizW』(21:25 - 22:25)枠内内包、ラジオは毎日21:50 - 22:00=野球シーズン中は原則)の中で「修学旅行だより」として京都府内の各学校の修学旅行生の安否放送を長年放送していたが、携帯電話の普及などを理由として2009年3月に終了した。 愛媛県ではNHK松山放送局が、1956年より安否確認放送を行っていたことがある(終了時期は不明)。 長崎県では長崎放送が、前身のラジオ長崎時代の1953年9月よりラジオで安否確認放送を行っている。 他の連絡方法として、各地域にある市町村防災行政無線を使用したり、2000年代以降ではコミュニティ放送でも各家庭に知らせる方法をとっているところもある。その他、2010年代以降はSNSやLINEなどを利用して安否確認を行う学校も増えている。 これは民放のテレビ番組『トリビアの泉』、『秘密のケンミンSHOW』、『嵐にしやがれ』で紹介された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本の初等教育・中等教育の諸学校(特別支援学校を含む)における学校行事(教育課程)の一つとして、教職員の引率のもとに児童、生徒が集団で見学・研修等をするための宿泊を伴う旅行。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会科見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。広義の校外学習(または校外教育)の一種。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "学習指導要領においては、特別活動のうちの学校行事の一つとして、小学校では「遠足・集団宿泊的行事」、中学校及び高等学校では「旅行・集団宿泊的行事」に分類され、共通のねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」とされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "主に学年単位で実施され、多くは最終学年で行われるが、中学校や高等学校では2年時に行われることも多い(最終学年は入学試験・入社試験など進路に関わる行事が控えているため)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "学校行事としての修学旅行の始まりは明治時代に遡る。その実質的な歴史的起源は、1886年(明治19年)2月に東京師範学校(現・筑波大学)が実施した「長途遠足」であり、「修学旅行」という名称も、同校が1886年中に独自に使用しはじめた造語である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本以外では、台湾、韓国に日本の統治時代(植民地教育)の名残として存在し、中国でも実施されている。ヨーロッパ諸国などでも泊まりがけの旅行は学校行事として存在し、ドイツ・ベルリンの学生たちがポーランドの海岸で1週間を過ごすことを背景とした映画『同級生の旅行(ドイツ語版)』(2002年)も制作されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近代教育史上、類似する校外学習的事例としては、1877年(明治10年)の設立当初から東京大学で実施されていた各学部教員・生徒らによる動植物採集・地質調査・貝塚発掘などの専門教育としての「実地研究旅行」や、1881年(明治14年)に栃木県第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の生徒らが教員の引率で第二回内国勧業博覧会(東京・上野公園)を観覧したという単発的事例などがあるが、定期的な学校行事として、今日に至る「修学旅行の嚆矢」とされているのは、兵式体操導入を契機として実施された東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)による軍隊式の「長途遠足」である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この遠足については、当時の新聞や教育雑誌で多くの事前事後報道がなされ、『大日本教育会雑誌』第30号(1886年4月)掲載の最も整備された報告日誌「東京師範学校生徒長途遠足」によれば、1886年(明治19年)2月15日〜25日、同校男子師範生徒99名は「戎装」=軍装で、「銃器及ヒ背嚢外套毛布ヲ附着シ、数部ノ兵書及ヒ靴、靴下シャツノ着代ヘ等数品」を携えて、東京〜千葉県銚子間を往復行軍したという(兵式及び学術教員・職員を含め総勢121名)。その実施にいたる経緯は、同校監督を兼任した初代文部大臣・森有礼による師範教育改革において、兵式体操などの軍隊的規律訓練が過度に導入されることに抵抗した高嶺秀夫校長及び教員らが、当初予定されていた行軍・発火演習に「諸学科ヲ実地ニ研究」する要素(気象観測・測量・動植物採集・写生・名所見学・貝塚採集・学校参観など)を採り入れたとされる。それら実地研究は、当時の教員らにとっては各専門領域の基礎的実習であり、また高嶺秀夫が主導していた開発主義教育(実物教授)によって必然化された方法的実践であり、かつ教材としての実物資料の発見収集という当時の師範教育特有の技術的実習を兼ねていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「修学旅行」という名称の初出は、『東京茗溪会雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」であり、これは東京師範学校が師範学校令により高等師範学校に改編後の1886年8〜9月、男子師範学科生徒が長途遠足と同形式で下野地方(塩原・日光)へ旅行した過程と成果を詳細にまとめたものである(「第二回」とは長途遠足を第一回とみなしたことを示す)。この後、翌1887年(明治20年)3月に同校は正式に修学旅行の実施期間を定め、実際、当時の報道によれば、同年2月には鎌倉・駿州地方へ、8〜9月には長野・山梨・静岡・神奈川を縦断、88年3月には再び房総へ、同年7〜8月には群馬・新潟・福島地方へと、継続的に実施された。ただし、すでに1887年末には「一泊以上の行軍は、夏冬両季休業中、及び春期試験の後に限り、これは学術研究旁々することとして、兵式体操の用具を携帯せしめず、常時臨時に於てするものは総て一泊がけ若くは一日往復と定めて、兵式教師の引率に任ず」と改め、1888年以降は学術研究としての修学旅行と兵式体操としての行軍演習とが事実上分離された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一方、女子生徒による修学旅行もまた、高等師範学校の女子師範学科(現・お茶の水女子大学)によって1887年の夏季休業中に千葉県へ向け実施されており、修学旅行とは明記されていないが、『教育報知』第79号(1887年8月)は、「高等師範学校女子部の遠足」という見出しで「避暑傍ら地理博物等実地研究のため上総鹿野山地方へ、去九日出発し凡そ二週日間の遠足」と報じている。女子生徒は兵式体操とは無縁であったことから、この遠足は専ら学術研究を目的とする文字通りの修学旅行であり、同校男子生徒のそれを先取りしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1886年の尋常師範学校及び尋常中学校等の体操科への兵式体操の正式導入とともに、1887年以降、長途遠足をモデルとした集団旅行も府県尋常師範学校を中心に急速に普及し、文部省もその師範教育における有益性を追認した。文部省が尋常師範学校の行事としての修学旅行を法令上に明記したのは、1888年(明治21年)の「尋常師範学校設備準則」であり、末尾に列挙された諸支出項目に「修学旅行」を掲げ、「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ一ヶ年六十日以内トシ可成生徒常食費以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」と経費上の実施基準(制約)を示した。ちなみに、1883年段階で東京師範学校が生徒に支給した学資金は一ヶ月6円、そこから月々食料費として3.25円(一日当たり約10銭)を徴収した。高等師範学校では1898年段階で被服費とは別に一日当たり14.5銭の割合で食費を月々支給、修学旅行時は食費の代わりに旅費が支給され、府県の財政に左右される尋常師範学校に比べ恵まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1896年(明治29年)には、長崎県立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)が上海(当時は清国)への修学旅行を敢行しており、日本初の海外修学旅行とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1890年代以降、修学旅行が中等教育の諸学校を中心に全国的に普及する一方、文部省普通学務局(澤柳政太郎局長)は時間と費用の空費となりかねない修学旅行の目的、旅行先の適否、適切な事前事後教授の方法について指針を示すべく、1900年(明治33年)に参考図書『独国ノ修学旅行』を編集発行した(12月12日普通学務局通牒にて中等学校への配布依頼)。ドイツの教育旅行を参考とした同書では、「修学旅行トハ全校生徒ガ一人以上ノ教師ノ指導ノ下ニ少クトモ二日(宿泊ヲナシテ)旅行シテ体育知育情育意育ニ等シク益セシメルコトヲイフ」と定義され、ドイツの教育学者クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンがシュネッフェンタールの学校で1784年から1803年まで数回実施したモデルが紹介された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "19世紀末〜戦前期には、鉄道の普及と団体割引料金導入などのインフラ整備も進み、高等小学校にいたるまで修学旅行が学校行事として定着していった。1940年(昭和15年)6月の文部省による修学旅行制限の通牒、戦時体制に伴う1943年(昭和18年)以降の実質的禁止まで、戦前には、伊勢神宮、橿原神宮、厳島神社、金刀比羅宮といった国家神道教育に通じる神社を目的地とする参宮旅行が盛んに行われた。これらは敬神思想の啓蒙を目的とするもので、現在のような古美術観光も一部で行われてはいたものの、1940年以前の修学旅行のガイドブックでは古美術観光を取り入れた事例は目立たず、一般的とは言えなかった。また、旧制の高等商業学校では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、朝鮮半島や満蒙地域など東アジアへの、いわゆる満鮮旅行(満韓旅行)を実施し、東亜同文書院のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "太平洋戦争後は、1946年(昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現・大阪市立東高等学校)が九州・阿蘇への修学旅行を再開したのが始まりとされる。本格的な再開は1950年代以降で、同時に古美術観光が積極的に取り入れられている。修学旅行関係者のための専門誌として発行された機関紙『修学旅行』(日本修学旅行協会発行)では、古美術観光を修学旅行に組み込むことが奨励され、教師向けに各社寺が持つ所蔵古美術品の解説、写真を用いた事前指導、現地での実地指導例、古美術見学の教育理念などが取り上げられている。この転換の理由は、1950年代半ばの社寺観光ブームや、戦前の参宮旅行のような国家主義教育否定の方針、交通の利便性や団体宿泊の受入れ環境などを考えあわせた場合、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる。また、1970~1980年頃までは、現在のように交通インフラが多様化していなかったため移動手段には専ら鉄道が利用され、あらかじめ専用列車のダイヤを決めて数校の修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた(詳しくは修学旅行列車を参照)。その後、私立高校では1970年代後半以降、国立高校・公立高校においても1990年代後半以降には航空機を利用するケースも増え、特に私立高校では1980年代後半以降、海外旅行を選択する学校が増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "地元から比較的近い観光地への旅行が主流である。たとえば南関東ならば日光・那須・箱根・伊豆・新潟県・長野県などが多く、南東北や北関東、中部地方東部などからは東京や神奈川県(横浜・鎌倉・江ノ島)などに行く場合が多い。近畿地方や中京圏ならば奈良・京都・大阪・伊勢志摩・南紀が多い。集団での入浴を目的として温泉のある地域を選ぶ場合も多い。また、西日本・南日本(除く鹿児島県)では平和学習の一環として広島・長崎・沖縄へ行く場合も少なくない。鹿児島県の場合は熊本県あるいは宮崎県と南九州完結となることがほとんどである。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "北海道の学校は道内の主要都市(主に札幌や函館)や、東北地方や中京圏の学校は首都圏へ、首都圏や中部地方東部、中国・四国地方、九州地方(除く鹿児島県)の学校は近畿地方へ、西日本の学校は東日本へ行く場合が多い。また、鹿児島県の場合は九州島内完結(主な行き先は福岡県・長崎県あるいは大分県)となる学校がほとんどを占めていたが、九州新幹線全線開業以降は山口県や広島県・岡山県まで足を伸ばす学校も徐々に増えつつある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "修学旅行での主な見学地としては、首都圏及び関東方面では、日光、皇居前広場・国会議事堂・羽田空港(以上1970年代)、東京ドームシティや東京ディズニーリゾートなどのテーマパーク、東京タワー・横浜みなとみらい21・東京スカイツリーなどのランドマーク、東京証券取引所・日本銀行本店といった日本の政治・経済・文化を象徴するスポットが多い。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "関西では京都・奈良の法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・清水寺・金閣寺・平等院・三十三間堂・京都御所・奈良公園などの仏閣や歴史的建築物が挙げられる。また、近年ではユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業に伴い大阪へ、あるいは防災学習を目的として阪神・淡路大震災の被災地である神戸へ行く学校も増えている。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "私学では近年、航空機を利用して北海道や沖縄に行くケースも多い。北海道方面では、開拓初期の歴史的建造物(札幌市時計台、北海道庁赤レンガ庁舎、北海道大学構内など)やさっぽろテレビ塔、小樽運河、函館の元町地区、五稜郭、富良野・美瑛のラベンダー畑などが多い。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、物見遊山ではなく字義通り「学を修める」活動を主目的として、旅行先でフィールドワークや地域調査、取材活動等を行いレポートにまとめる活動をしている学校(筑波大学附属中学校や愛知教育大学附属岡崎中学校など)もあり、伝統ある形態が現在も受け継がれているところもある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位京都、2位奈良、3位東京、4位大阪、5位千葉、6位沖縄、7位広島、8位神奈川、9位長崎、10位福岡、2020年度は1位京都、2位奈良・山梨、4位長野、5位北海道・三重、7位栃木、8位静岡、9位岩手、10位兵庫・長崎であった。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "公立・私立を問わず東京や近畿が長く主流だったが、近年は、自然体験や太平洋戦争の追体験を目的として、北海道・広島・長崎・沖縄などを旅行先として選択する学校が多い。また、四国や九州など雪のほとんど降らない地方では、体験学習としてスキー教室を実施している学校もある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年代以降、日本国内だけではなく、ハワイ、アメリカ西海岸、英国、韓国、台湾などの日本国外への修学旅行も増えている。特に私立では、国外への修学旅行を学校の宣伝材料としている場合も多い。公立でも地理的に朝鮮半島に近い九州や山口県の学校では、韓国に行く学校も多い。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "神社仏閣などは、特定の宗教に対する特別扱いではないかという意見もあることから、そういった場所を選択する学校は減少傾向にある。しかし、歴史を学ぶ目的や観光で訪れることが本当に特定宗教の特別扱いになるのかという点では反対意見もある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "中学校以上では、小グループによる官庁や出版社・新聞社、テレビ局などへの見学も行われるようになっており、それらを職場として理解する進路学習を目的とする場合が多い。また一部の高校では進学先理解のために大学や研究施設を見学先とする例もある。これらは主に大都市圏外の学校が大都市圏を見学先とする場合に多いが、逆に大都市圏の学校においては、農業などの大都市圏外の産業・社会・文化に理解を深めるために、遠隔地(たとえば東京周辺の学校において、東北地方北部などへ)の農業体験を行う例も存在する。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "国際的な博覧会の開催年に修学旅行が実施される場合、その観覧がメインとなることも多い(1970年の大阪万博、1985年のつくば科学万博、2005年の愛・地球博など)。その場合、サブの見学地として会場周辺地域の観光地・産業施設などが充てられることも多い。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のような大規模災害が発生した後に、その被害・復興状況などを学習・体験するため被災地へ赴く学校もある(福岡県立修猷館高等学校)。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位沖縄、2位大阪、3位京都、4位東京、5位奈良、6位千葉、7位北海道、8位兵庫・長崎、10位福岡、2020年度は1位長崎、2位沖縄、3位広島、4位大阪、5位北海道・兵庫、7位福岡、8位京都、9位熊本、10位鹿児島であった。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "修学旅行先として日本国外が選択されるケースも増えてきている。目的としては国際感覚を養うなどが挙げられるが、費用は国内よりも高く、安全面での配慮が求められる。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2011年度には全国で737校(国公立304校・私立433校)が実施した。国立高校または公立高校では8.0%、私立高校では32.8%の実施率であった。私立高校の多い首都圏や、地理的に韓国や中国に近い西日本で実施率が高い傾向がある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2011年度の渡航先割合は東南アジア29.7%、韓国21.2%、北アメリカ17.6%、中国11.8%、台湾8.5%、オセアニア7.7%、ヨーロッパ3.6%。近隣のアジア地域が多いものの、首都圏など大都市圏の私立高校では欧米諸国など遠方に行くケースもある。", "title": "修学旅行先" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "引率する教職員は、遠足など他の学校行事での旅行と異なり、学級担任・学年主任・副担任などの当該学年担当の教職員のみならず、校長(時にその代理としての教頭)や、養護教諭が加わることが多い。なお、引率に伴い校長・養護教諭等が不在となる場合は、職務代理者がその校務を代行する。", "title": "引率する教職員" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "公立学校における修学旅行の実施にあたっては、小中学校(都道府県立の中学校を除く)については各市町村または特別区の教育委員会が、高等学校、中等教育学校、特別支援学校及び都道府県立の中学校については各都道府県または政令指定都市の教育委員会がそれぞれ通達により基準を定めている。特に保護者の負担軽減のために旅費の総額に制限を設けたり、旅行期間の上限を設けたりする例が多い。また旅行先を一定の地域に限ったり、総行程(移動距離)に上限を設けたりする例もある。その結果、国立学校または公立学校における修学旅行の旅程は、小学校(義務教育学校を含む)では原則1泊2日、高等学校(中等教育学校を含む)でも5泊6日程度が上限となっている。また日本国外への渡航は原則として高等学校(中等教育学校を含む)に限られており、小中学校で日本国外への修学旅行を実施する例は非常に稀である。", "title": "実施基準" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方で私立学校の場合は上記のような制約を受けないため、小中学校から日本国外へ渡航する例も珍しくない。また旅程も公立学校より長くなる傾向があり、2008年の調査によれば、国立高等学校または公立高等学校で5日間以上の旅程を組んだ学校が23.8%にとどまるのに対し、私立高等学校では53.9%と倍以上の割合となった。", "title": "実施基準" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "高度経済成長以前、日本の一般家庭の所得水準が低く、高速交通網も未発達で家族旅行自体が稀であった時期は、修学旅行によって見聞を広めることがその基本的な目的とされていた。しかし、所得の上昇、交通インフラの整備などにより、自家用車で頻繁に家族旅行をしたり、海外も含め遠方へ旅行に行く機会も増えてきた頃から、修学旅行の存在意義を問う声も聞かれるようになった。加えて目前に差し迫った進学や就職へのマイナス面を心配する声や、学校や教育委員会と旅行代理店の癒着への批判から、修学旅行を廃止、あるいは廃止を模索する学校が増えてきた。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、「短い学生時代に友人たちと一緒に昼夜を過ごす共同生活の体験をとおし、対人関係の望ましい態度や習慣を身につける」・「実物の資料に触れるなど、平素と異なる生活環境(現地の自然や文化など)に親しむ中から見聞を深める」「集団生活や公衆道徳の在り方について望ましい体験を積む」体験を通し、「多感な世代の人間形成に大切な役割を担う」などの見地から、学校関係者・生徒・保護者のいずれも今のところ修学旅行に肯定的な見方をする者の方が多く、修学旅行そのものの見直しに踏み切った学校は数少ない。ただし、修学旅行という呼称を止めて「宿泊研修」など呼称を変更した学校もある。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、低所得世帯、生活保護世帯、ひとり親家庭をはじめとする子どもの貧困が増えたことで、修学旅行積立金の費用捻出が困難となった家庭が珍しくなくなるという観点から、その意義を問う意見もある。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2020年以降はCOVID-19禍の感染防止という観点から、学校側の判断で修学旅行を中止、または日数を短縮するケースが多く見られたが、中止になった修学旅行をそのまま廃止、あるいは廃止を模索する中学校も存在する。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "修学旅行を廃止した例として、公立では宮城県仙台第二高等学校・茨城県立土浦第一高等学校・富山県立高校の大半の学校・島根県立高校の31校、私立では函館ラ・サール高等学校・私立武蔵高等学校・早稲田大学高等学院などが挙げられる。また、生徒の修学旅行先の不祥事から修学旅行を中止とした学校もある。しかし、この場合も修学旅行に代わる宿泊を伴う校外実習や大学授業体験などの校外学習が行われていることも多い(例:函館ラ・サール→高1の10月に檜山管内の奥尻島にて災害学習。仙台二高→高1の7月に栗駒山を2泊3日で登山)。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、学年全体での行動ではなく、ある程度のコースを用意し、その中から生徒個々人の希望に応じたコースを選ばせる学校や、修学旅行とは別に希望者のみの海外研修(ホームステイ)などを用意する学校も存在する。", "title": "意義の再検討" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "体育会系や吹奏楽などのクラブ活動に所属している生徒が、クラブ全体で練習や試合を優先させるために修学旅行を欠席せざるを得ない場合がある。特に高校野球などの全国大会ないしはそれにつながる大会を控えている場合に多く見られる。", "title": "欠席・不参加" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "私学など国外を修学旅行先としている学校では、費用と経済上の都合から欠席せざるを得ない生徒も存在するほか、治安などに対する不安から欠席する生徒も存在する。", "title": "欠席・不参加" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "他にも持病・怪我といった理由や、高所恐怖症で飛行機に乗れないなどの理由で欠席するケースもある。", "title": "欠席・不参加" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "いずれの場合も、登校が可能な場合は学校で自習となるケースが多い。", "title": "欠席・不参加" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "秋田県では「秋田は農業県、子供は宝」という考えのもと、「初めて外泊する子供が多くその安否を知りたい」という親の気持ちを叶えるために1970年頃から秋田テレビが当時営業部社員だった相澤孝(後の代表取締役社長)の発案で放映を始めた。提供は各学区にあるスーパーや個人商店であることが多い。放映時間はほとんどが夕方に放映され、無事に日程通り行われているときだけ放映されている。秋田テレビと秋田放送の2局と、まれに秋田朝日放送で15秒ほどのCMを放映しており、小学校と中学校の情報が確認できる。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "山梨県でも山梨放送とテレビ山梨でそれぞれ、修学旅行安否情報、研修旅行情報として夕方のローカルニュース枠内で修学旅行生の情報を流している。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ラジオ福島でも情報を放送する場合がある。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "京都府ではKBS京都では平日の最終ニュース(テレビは月曜日から木曜日は21:55 - 22:00、金曜日は『京bizW』(21:25 - 22:25)枠内内包、ラジオは毎日21:50 - 22:00=野球シーズン中は原則)の中で「修学旅行だより」として京都府内の各学校の修学旅行生の安否放送を長年放送していたが、携帯電話の普及などを理由として2009年3月に終了した。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "愛媛県ではNHK松山放送局が、1956年より安否確認放送を行っていたことがある(終了時期は不明)。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "長崎県では長崎放送が、前身のラジオ長崎時代の1953年9月よりラジオで安否確認放送を行っている。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "他の連絡方法として、各地域にある市町村防災行政無線を使用したり、2000年代以降ではコミュニティ放送でも各家庭に知らせる方法をとっているところもある。その他、2010年代以降はSNSやLINEなどを利用して安否確認を行う学校も増えている。", "title": "安否情報の放送" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これは民放のテレビ番組『トリビアの泉』、『秘密のケンミンSHOW』、『嵐にしやがれ』で紹介された。", "title": "安否情報の放送" } ]
修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本の初等教育・中等教育の諸学校(特別支援学校を含む)における学校行事(教育課程)の一つとして、教職員の引率のもとに児童、生徒が集団で見学・研修等をするための宿泊を伴う旅行。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会科見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。広義の校外学習(または校外教育)の一種。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses||教育旅行全般|教育旅行}} {{混同|卒業旅行}} '''修学旅行'''(しゅうがくりょこう)は、日本の[[初等教育]]・[[中等教育]]の諸学校([[特別支援学校]]を含む)における[[学校行事]]([[教育課程]])の一つとして、[[教育関係職員|教職員]]の引率のもとに[[在籍者 (学習者)|児童、生徒]]が集団で[[見学]]・研修等をするための宿泊を伴う[[旅行]]。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で[[遠足]]や[[社会科見学]]とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で[[アウトドア|野外活動]]と区別される。広義の[[校外学習]](または校外教育)の一種。 [[ファイル:Akiyoshidai-Minamiyama.jpg|350px|thumb|修学旅行の風景の一例([[山口県]]・[[秋吉台]])]] == 概要 == [[学習指導要領]]においては、[[特別活動]]のうちの[[学校行事]]の一つとして、[[小学校]]では「遠足・集団宿泊的行事」、[[中学校]]及び[[高等学校]]では「旅行・集団宿泊的行事」に分類され、共通のねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm 文部科学省:小学校及び中学校学習指導要領(平成29年告示)、高等学校学習指導要領(平成30年告示)]</ref>とされている。 主に[[学年]]単位で実施され、多くは最終学年で行われるが、中学校や高等学校では2年時に行われることも多い(最終学年は[[入学試験]]・[[入社試験]]など進路に関わる行事が控えているため)。 学校行事としての修学旅行の始まりは[[明治#明治時代|明治時代]]に遡る。その実質的な歴史的起源は、1886年(明治19年)2月に[[東京高等師範学校#東京師範学校|東京師範学校]](現・[[筑波大学]])が実施した「長途遠足」であり、「修学旅行」という名称<ref group="注釈" name=":0">1885-90年の『[[官報]]』教育関係欄では、官立学校、府県の尋常師範学校や[[高等中学校]]・[[旧制中学校|尋常中学校]]等による行軍記事(88件)とともに、学術研究を伴う行軍記事(85件)が掲載され、特に1887-88年に掲載数が増加。なお、後者の記事では修学旅行以外にも修学遠足、修学遠行、習学旅行、実地修学旅行などの名称が使用された(小口幸洋「『修学旅行』の誕生」東京都立大学人文科学研究科修士論文・未公刊、1997年度、第一章より)。</ref>も、同校が1886年中に独自に使用しはじめた[[造語]]である。 日本以外では、[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]に日本の統治時代([[植民地]]教育)の名残として存在し、[[中華人民共和国|中国]]でも実施されている<ref>{{PDFlink|[https://www.dalian.cn.emb-japan.go.jp/doc/syugakuryoko.pdf 中国人修学旅行生に対する査証免除措置の実施要領]}} [[外務省]] 2008年10月1日</ref>。[[ヨーロッパ]]諸国などでも泊まりがけの旅行は学校行事として存在し、ドイツ・[[ベルリン]]の学生たちがポーランドの海岸で1週間を過ごすことを背景とした映画『{{仮リンク|同級生の旅行|de|Klassenfahrt (2002)}}』(2002年)も制作されている。 == 歴史 == 近代教育史上、類似する校外学習的事例としては、[[1877年]](明治10年)の設立当初から[[東京大学]]で実施されていた各学部教員・生徒らによる動植物採集・地質調査・[[貝塚]]発掘などの[[一般教育と専門教育|専門教育]]としての'''「実地研究旅行」'''<ref>『文部省年報』付録「東京大学法理文学部年報」の他、1881年2月改正の[https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/1347358 「東京大学法理文学部実地研究旅費規則」](第一条 内外教員及ヒ生徒実地研究ノ為メ旅行スルトキハ水陸旅行及ヒ滞在共一切ノ費用トシテ管内外ヲ区別シ甲号表面之通リ旅費ヲ支給ス)など参照</ref>や、[[1881年]](明治14年)に栃木県第一中学校(現・[[栃木県立宇都宮高等学校]])の生徒らが教員の引率で第二回[[内国勧業博覧会]](東京・[[上野恩賜公園|上野公園]])を観覧した{{要出典|date=2022年3月}}という単発的事例などがあるが、定期的な学校行事として、今日に至る「修学旅行の嚆矢」<ref name=":1">『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992343 東京高等師範学校沿革略志]』東京高等師範学校、1911年 p.37-38</ref>とされているのは、[[兵式体操]]導入<ref>『文部省第十三年報』(1885年)「(五月)五日東京師範学校体操科中ニ仮ニ兵式体操ヲ加フ」</ref>を契機として実施された東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)による軍隊式の'''「長途遠足」'''である。 この遠足については、当時の新聞や教育雑誌で多くの事前事後報道がなされ<ref group="注釈" name=":2">事後報道の例としては、同時期に『大日本教育会雑誌』掲載のものとほぼ同文の記事が、『[[東京日日新聞]]』4月18-21日では「東京師範学校生徒千葉県下長途遠足報告」(→後日『教育報知』が孫引き掲載)、『東京[[茗渓会|茗溪会]]雑誌』第39-40号では「東京師範学校生徒長途遠足報告」と題して掲載されている。また、すでに3月後半には『教育時論』第33-35号及び『東京教育新誌』第114-115号は、「東京師範学校生徒行軍日誌」という同見出しでそれぞれ異なる日誌を掲載。</ref>、『大日本教育会雑誌』第30号(1886年4月)掲載の最も整備された報告日誌「東京師範学校生徒長途遠足」によれば、[[1886年]](明治19年)2月15日〜25日、同校男子師範生徒99名は「戎装」=軍装で、「銃器及ヒ[[ランドセル|背嚢]]外套毛布ヲ附着シ、数部ノ兵書及ヒ靴、靴下シャツノ着代ヘ等数品」を携えて、東京〜千葉県[[銚子市|銚子]]間を往復[[行軍]]したという(兵式及び学術教員<ref group="注釈">学兵首席校員として[[後藤牧太]](理化学)及び[[松石安治]](陸軍歩兵少尉)の他、学術教員としては[[岩川友太郎]](動植物学)、[[小山正太郎]](図画)、[[三宅米吉]](歴史)、大村芳樹(付属小学校訓導)など。</ref>・職員を含め総勢121名)。その実施にいたる経緯は<ref>[[後藤牧太]]による講話速記録「修学旅行の始まり」(茗溪会『教育』第344号,1911年)、『東京高等師範学校沿革略志』1911年、『[https://www.digital.archives.go.jp/img/2515774 高嶺秀夫先生伝]』1921年など参照</ref>、同校監督を兼任した初代[[文部大臣]]・[[森有礼]]による師範教育改革において、兵式体操などの軍隊的規律訓練が過度に導入されることに抵抗した[[高嶺秀夫]]校長及び教員らが、当初予定されていた行軍・発火演習<ref group="注釈">『官報』によれば、同校生徒らは[[体操伝習所]]伝習員とともに、すでに前年1885年に[[飛鳥山公園|飛鳥山]](11月26日付「生徒行軍」)及び[[木母寺]](12月23日付「学校生徒及伝習員行軍」)へ日帰りの行軍を定期的に実施。また、『時事新報』1886年2月13日は学事彙報欄にて「東京師範学校生徒は来る十五日より向ふ一週間下総[[習志野#習志野原(陸軍習志野錬兵場)|習志野原]]に於て歩兵演習をなすよし」とのみ報じており、実際に長途遠足中の2月16-17日は習志野原での演習にあてられた。</ref>に「諸学科ヲ実地ニ研究」する要素(気象観測・測量・動植物採集・写生・名所見学・貝塚採集・学校参観など)を採り入れたとされる。それら実地研究は、当時の教員らにとっては各専門領域の基礎的実習であり<ref group="注釈">高嶺秀夫は米国留学で[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]の開発主義教育理論とともに独自に[[動物学]]を学び、帰国直後には東京大学理学部で[[エドワード・S・モース|モース]]の助手として解剖や動植物採集に携わった。後藤牧太は独自に簡易実験器具の開発に務める一方、貝塚発掘にも手を染める幅広い学識を有する洋学者。三宅米吉は[[実証主義]]的な近代的日本史学とそれに基づく[[歴史教育]]の確立を志し、理化学にも精通していた。岩川友太郎は東京大学理学部でモースや[[チャールズ・オーティス・ホイットマン|ホイットマン]]に師事し、日本の動物学研究者としてその成果を初めて海外(英国)の学術専門雑誌で発表。小山正太郎はイタリアの風景画家[[アントニオ・フォンタネージ|フォンタネージ]]に師事し、[[遠近法]]に基づく写実的な近代[[洋画家|洋画]]の啓蒙・普及を目論んでいた。なお、高嶺・後藤・三宅はともに[[慶應義塾|慶応義塾]]で学んだ。</ref>、また高嶺秀夫が主導していた開発主義教育([[実物教授]])によって必然化された方法的実践であり、かつ教材としての実物資料の発見収集という当時の師範教育特有の技術的実習<ref>『東京茗溪会雑誌』第2号掲載の高嶺秀夫による1882年の演説「…人或は言はん本校は官立学校にして実物標品を購求する資力に乏しからず故に斯くの如しと是決して然らざるなり彼動植金石の標品の如き外国産のもの甚だ多からず又大に資本を出して購入したるものも太だ多からず或は教師生徒休日に近傍より採蒐したるものあり夏期冬期の休業に各其郷里より携え帰りたるものあり卒業生其就職の地方より遠く逓送したる者あり教員の周旋により有志の徒より寄付したるものあり此校に余あるものを以て他の校と交換したるものあり斯くの如く標品採蒐のことに心を用い終始怠ることなく漸くに其数を増し遂に普通の教授上其用に乏しからざるの地位に達したり」</ref>を兼ねていた。 [[File:明治大学予科生の修学旅行(1904年11月、日光東照宮門前).jpg|thumb|250px|[[明治大学]]高等予科の修学旅行<br/ >(1904年11月、[[日光東照宮]]門前)]] [[File:京都市立第一工業学校の修学旅行 平壌玄武門前(1933年).jpg|thumb|250px|[[京都市立洛陽工業高等学校|京都市立第一工業学校]]の修学旅行<br/ >(1933年、[[平壌直轄市|平壌]]玄武門)]] [[File:山口高等女学校高等科の修学旅行 水師営会見所(1937年).jpg|thumb|250px|[[山口県立山口中央高等学校|山口高等女学校高等科]]の修学旅行<br/ >(1937年、[[水師営|水師営会見所]])]] '''「修学旅行」という名称の初出'''は、『東京[[茗渓会|茗溪会]]雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」であり、これは東京師範学校が[[師範学校令]]により[[高等師範学校]]に改編後の1886年8〜9月、男子師範学科生徒が長途遠足と同形式で下野地方(塩原・[[日光市|日光]])へ旅行した過程と成果を詳細にまとめたものである(「第二回」とは長途遠足を第一回とみなしたことを示す)。この後、翌[[1887年]](明治20年)3月に同校は正式に修学旅行の実施期間を定め<ref name=":1" />、実際、当時の報道によれば、同年2月には[[鎌倉]]・駿州地方へ<ref>『教育時論』第67号(1887年2月)</ref>、8〜9月には長野・山梨・静岡・神奈川を縦断<ref>『教育報知』第80,82,83,86-88号(1887年8-9月)</ref>、88年3月には再び房総へ<ref>『教育時論』第107号(1888年4月)</ref>、同年7〜8月には群馬・新潟・福島地方へ<ref>『教育報知』第130-134,136,138,140-143号(1888年8-10月)</ref>と、継続的に実施された。ただし、すでに1887年末には「一泊以上の行軍は、夏冬両季休業中、及び春期試験の後に限り、これは学術研究旁々することとして、兵式体操の用具を携帯せしめず、常時臨時に於てするものは総て一泊がけ若くは一日往復と定めて、兵式教師の引率に任ず」<ref>『教育時論』第99号(1888年1月)「高等師範学校行軍の例規」</ref>と改め、1888年以降は学術研究としての修学旅行と兵式体操としての行軍演習とが事実上分離された<ref>『教育報知』第128号(1888年7月)「(高等師範学校)男子部の生徒諸氏は修学旅行として昨廿日信州地方へ向け出発せられたり。越後地方より福島県若松の地方へ出て帰京せらるべしと云ふ。此度は銃を担わず、只ランドセルのみにて、各科相分れて専ら研究に従事せらるる由なれば、定めて得る所多かるべし」</ref>。 一方、'''女子生徒による修学旅行'''もまた、高等師範学校の[[東京女子高等師範学校|女子師範学科]](現・[[お茶の水女子大学]])によって1887年の夏季休業中に千葉県へ向け実施されており、修学旅行とは明記されていないが、『教育報知』第79号(1887年8月)は、「高等師範学校女子部の遠足」という見出しで「避暑傍ら地理博物等実地研究のため上総[[鹿野山]]地方へ、去九日出発し凡そ二週日間の遠足」と報じている。女子生徒は兵式体操とは無縁であったことから、この遠足は専ら学術研究を目的とする文字通りの修学旅行であり、同校男子生徒のそれを先取りしていた。 1886年の[[師範学校|尋常師範学校]]及び[[旧制中学校|尋常中学校]]等の[[体操#日本|体操科]]への兵式体操の正式導入とともに<ref group="注釈">1886年5月「尋常師範学校ノ学科及其程度」に基づく男子の体操科の内容は「普通体操ハ準備法矯正術徒手唖鈴棍棒球竿ノ諸体操兵式体操ハ生兵学中隊学行軍演習兵学大意測図」、6月「尋常中学校ノ学科及其程度」では第4-5学年の男子の体操科での兵式体操実施とその細目が定められた。なお、高等中学校には全2学年に課しながら内容には触れず(工学理学志望生は除外)、小学校については「男児ニ隊列運動」として集団的行動の訓練のみ指定した。</ref>、1887年以降、長途遠足をモデルとした集団旅行も府県尋常師範学校を中心に急速に普及し<ref group="注釈" name=":0" />、[[文部省]]もその師範教育における有益性を追認した<ref>『文部省第十五年報』(1887年)では、師範学校「男生徒ノ修学旅行ヲ施行シ以テ地理ヲ探求シ動植物ヲ採集シ実地写景及ヒ発火演習等ヲナサシムルハ府県ノ概ネ挙行スル所ニシテ其ノ生徒ニ益スルコト少ナカラスト云フ」とされ、さらに『同 第十八年報』(1890年)では「修学旅行ノ教員養成上ニ有益ナルハ府県ノ既ニ是認スル所ニシテ年々之ヲ行ハサルモノナク又之ヲ行フコト多キハ毎年四五回ニ及フモノアリ」と報告。</ref>。文部省が'''尋常師範学校の行事としての修学旅行を法令上に明記'''したのは、[[1888年]](明治21年)の[https://www.digital.archives.go.jp/img/1658710 「尋常師範学校設備準則」]であり、末尾に列挙された諸支出項目に「修学旅行」を掲げ、「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ一ヶ年六十日以内トシ可成生徒常食費以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」と経費上の実施基準(制約)を示した<ref group="注釈">同準則末尾の但書きでは「物理化学器械ノ中教員生徒ノ制作ニ係ル簡単器械ヲ代用スルモ妨ケナシ又博物農業標品ノ中其得易キモノハ教員生徒ヲシテ之ヲ採集セシムヘシ」として、必要に応じた標本収集活動を推奨した。ちなみに博物科で必要とされる植物・動物・鉱物標本だけで計386種指定されていた。</ref>。ちなみに、1883年段階で東京師範学校が生徒に支給した学資金は一ヶ月6円、そこから月々食料費として3.25円(一日当たり約10銭)を徴収した<ref>『官報』1883年9月24日付録「東京師範学校小学師範学科改正規則」</ref>。高等師範学校では1898年段階で被服費とは別に一日当たり14.5銭の割合で食費を月々支給、修学旅行時は食費の代わりに旅費が支給され<ref>『高等師範学校一覧(明治31年4月-明治32年3月)』掲載の「学資支給規定」による(36-38頁)。なお、「学資に関する心得」によれば、「試験生」段階で自弁すべき食費は一日当たり12.5銭とされ、「本入学ヲ許サレタル時ヨリ学資(食料及ビ被服費)ヲ支給セラレ又修学旅行ヲナサシムル時ハ其ノ費用ヲ給セラルルモ猶教科用図書購入費、筆墨紙等学用品購入費、暑中休業ノ際帰省旅行等ヲナスニ要スル費用、寄宿舎諸雑費等」で卒業までに総額約200円の私費が必要とされた(163-164頁)。</ref>、府県の財政に左右される尋常師範学校に比べ恵まれていた。 [[1896年]](明治29年)には、長崎県立長崎商業学校(現・[[長崎市立長崎商業高等学校]])が[[上海市|上海]](当時は[[清|清国]])への修学旅行を敢行しており、'''日本初の海外修学旅行'''とされている<ref name="seki">{{Cite journal |和書|author =関儀久|title=明治期の地方商業学校に於ける海外修学旅行について-熊本商業学校・函館商業学校の事例を中心に-|date =2015|publisher=日本教育学会 |journal=教育学研究 |volume=82 |issue=2 |doi=10.11555/kyoiku.82.2_299 |pages=299-311 |ref =}}</ref>。 1890年代以降、修学旅行が[[中等教育]]の諸学校を中心に全国的に普及する一方、文部省普通学務局([[澤柳政太郎]]局長)は時間と費用の空費となりかねない修学旅行の目的、旅行先の適否、適切な事前事後教授の方法について指針を示すべく、[[1900年]](明治33年)に参考図書'''『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809543 独国ノ修学旅行]』'''を編集発行した(12月12日普通学務局通牒にて中等学校への配布依頼)。ドイツの[[教育旅行]]を参考とした同書では、「修学旅行トハ全校生徒ガ一人以上ノ教師ノ指導ノ下ニ少クトモ二日(宿泊ヲナシテ)旅行シテ体育知育情育意育ニ等シク益セシメルコトヲイフ」と定義され、ドイツの教育学者[[クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン]]がシュネッフェンタールの学校で1784年から1803年まで数回実施したモデルが紹介された<ref name="fujita">{{Cite web|和書|author=藤田和志、[[家田仁]] |url=http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00039/201406_no49/pdf/177.pdf |title=修学旅行にみる『旅』の意義〜自己錬磨型教育旅行の導入・変容そして現代的意義〜 |publisher=土木学会 |accessdate=2021-02-12}}</ref>。 19世紀末〜戦前期には、鉄道の普及と団体割引料金導入などのインフラ整備も進み、[[高等小学校]]にいたるまで修学旅行が学校行事として定着していった。[[1940年]](昭和15年)6月の文部省による修学旅行制限の通牒<ref>文部時報 693号</ref>、[[戦時体制]]に伴う[[1943年]](昭和18年)以降の実質的禁止まで、戦前には、[[伊勢神宮]]、[[橿原神宮]]、[[厳島神社]]、[[金刀比羅宮]]といった[[国家神道]]教育に通じる[[神社]]を目的地とする'''参宮旅行'''が盛んに行われた<ref name="hoshino">星野朗「修学旅行の歴史」『地理教育』第26・27・29号、1997・98・2000年。</ref>。これらは敬神思想の啓蒙を目的とするもので、現在のような古美術観光も一部で行われてはいたものの<ref group="注釈">[[1911年]](明治44年)の[[奈良女子高等師範学校]]での京都修学旅行や、美術家育成を目的とした[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]での近畿の古美術をめぐる修学旅行など。</ref>、1940年以前の修学旅行のガイドブックでは古美術観光を取り入れた事例は目立たず、一般的とは言えなかった<ref>太田智己 『社会とつながる美術史学 近現代のアカデミズムとメディア・娯楽』 [[吉川弘文館]]、2015年2月20日、pp.149-151。</ref>。また、旧制の[[高等商業学校]]では、「海外に雄飛する人材の育成」を標榜していたことから、[[朝鮮半島]]や満蒙地域など[[東アジア]]への、いわゆる'''満鮮旅行(満韓旅行)'''を実施し、[[東亜同文書院大学 (旧制)|東亜同文書院]]のように旅行後学生に報告書の提出を求めるケースもあった。 [[太平洋戦争]]後は、[[1946年]](昭和21年)に大阪市立東高等女学校(現・[[大阪市立東高等学校]])が九州・[[阿蘇市|阿蘇]]への修学旅行を再開したのが始まりとされる。本格的な再開は[[1950年代]]以降で、同時に古美術観光が積極的に取り入れられている。修学旅行関係者のための専門誌として発行された機関紙『修学旅行』(日本修学旅行協会発行)では、古美術観光を修学旅行に組み込むことが奨励され、教師向けに各社寺が持つ所蔵古美術品の解説、写真を用いた事前指導、現地での実地指導例、古美術見学の教育理念などが取り上げられている。この転換の理由は、1950年代半ばの社寺観光ブームや、戦前の参宮旅行のような[[国家主義]]教育否定の方針、交通の利便性や団体宿泊の受入れ環境などを考えあわせた場合、旅行先は必然的に京都・奈良中心にならざるを得なかったためと考えられる<ref name="hoshino" />。また、1970~1980年頃までは、現在のように交通インフラが多様化していなかったため移動手段には専ら[[鉄道]]が利用され、あらかじめ専用列車のダイヤを決めて数校の修学旅行客輸送を一括して請け負う修学旅行者専用列車の設定も見られた(詳しくは[[修学旅行列車]]を参照)。その後、私立高校では[[1970年代]]後半以降、[[国立大学法人|国立高校]]・公立高校においても[[1990年代]]後半以降には[[航空機]]を利用するケースも増え、特に私立高校では[[1980年代]]後半以降、[[海外旅行]]を選択する学校が増加した。 == 修学旅行先 == ;小学校 地元から比較的近い[[観光地]]への旅行が主流である。たとえば[[南関東]]ならば[[日光市|日光]]・[[那須]]・[[箱根町|箱根]]・[[伊豆半島|伊豆]]・[[新潟県]]・[[長野県]]などが多く、[[東北地方|南東北]]や[[北関東]]、[[中部地方]]東部などからは[[東京都|東京]]や神奈川県([[横浜市|横浜]]・[[鎌倉市|鎌倉]]・[[江ノ島]])などに行く場合が多い。[[近畿地方]]や[[中京圏]]ならば[[奈良県|奈良]]・[[京都府|京都]]・[[大阪市|大阪]]・[[伊勢志摩国立公園|伊勢志摩]]・[[南紀]]が多い。集団での[[入浴]]を目的として[[温泉]]のある地域を選ぶ場合も多い。また、[[西日本]]・[[南日本]](除く[[鹿児島県]])では[[平和教育|平和学習]]の一環として[[広島県|広島]]・[[長崎県|長崎]]・[[沖縄県|沖縄]]へ行く場合も少なくない。鹿児島県の場合は[[熊本県]]あるいは[[宮崎県]]と[[南九州]]完結となることがほとんどである。 ;中学校 [[北海道]]の学校は道内の主要都市(主に[[札幌市|札幌]]や[[函館市|函館]])や、[[東北地方]]や中京圏の学校は[[首都圏 (日本)|首都圏]]へ、首都圏や中部地方東部、[[中国地方|中国]]・[[四国地方]]、[[九州|九州地方]](除く[[鹿児島県]])の学校は近畿地方へ、西日本の学校は東日本へ行く場合が多い。また、鹿児島県の場合は[[北部九州]]周遊(主な行き先は福岡県・長崎県あるいは[[大分県]])となる学校がほとんどを占めていたが、[[九州新幹線|2011年の九州新幹線全線開業]]以降は山口県や広島県・[[岡山県]](行き先は広島県の場合、[[厳島|宮島]]・[[原爆ドーム]]が主)まで足を伸ばす学校も徐々に増えつつある。 修学旅行での主な見学地としては、首都圏及び関東方面では、日光、[[皇居]]前広場・[[国会議事堂]]・[[東京国際空港|羽田空港]](以上1970年代)、[[東京ドームシティ]]や[[東京ディズニーリゾート]]などのテーマパーク、[[東京タワー]]・[[横浜みなとみらい21]]・[[東京スカイツリー]]などのランドマーク、[[東京証券取引所]]・[[日本銀行本店]]といった日本の政治・経済・文化を象徴するスポットが多い。 関西では[[京都市|京都]]・[[奈良県|奈良]]の[[法隆寺]]・[[東大寺]]・[[興福寺]]・[[薬師寺]]・[[清水寺]]・[[鹿苑寺|金閣寺]]・[[平等院]]・[[三十三間堂]]・[[京都御所]]・[[奈良公園]]などの仏閣や歴史的建築物が挙げられる。また、近年では[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の開業に伴い[[大阪市|大阪]]へ、あるいは防災学習を目的として[[阪神・淡路大震災]]の被災地である[[神戸市|神戸]]へ行く学校も増えている。 私学では近年、航空機を利用して[[北海道]]や[[沖縄県|沖縄]]に行くケースも多い。北海道方面では、開拓初期の歴史的建造物([[札幌市時計台]]、[[北海道庁旧本庁舎|北海道庁赤レンガ庁舎]]、[[北海道大学|北海道大学構内]]など)や[[さっぽろテレビ塔]]、[[小樽運河]]、函館の元町地区、[[五稜郭]]、[[富良野市|富良野]]・[[美瑛町|美瑛]]のラベンダー畑などが多い。 一方、物見遊山ではなく字義通り「'''学'''を'''修'''める」活動を主目的として、旅行先で[[フィールドワーク]]や[[地域調査]]、[[取材]]活動等を行いレポートにまとめる活動をしている学校([[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属中学校]]や[[愛知教育大学附属岡崎中学校]]など)もあり、伝統ある形態が現在も受け継がれているところもある。 日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位京都、2位奈良、3位東京、4位大阪、5位千葉、6位沖縄、7位広島、8位神奈川、9位長崎、10位福岡、2020年度は1位京都、2位奈良・山梨、4位長野、5位北海道・三重、7位栃木、8位静岡、9位岩手、10位兵庫・長崎であった<ref name="名前なし-1">{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15115967.html|title=(フカボリ)修学旅行「地方で学び」人気 コロナ下、被爆地の広島・長崎、自然体験の三重…:朝日新聞デジタル|newspaper=|date=2021-11-19}}</ref>。 ;高等学校 公立・私立を問わず東京や[[近畿地方|近畿]]が長く主流<ref group="注釈">関西では瀬戸内海航路を利用して九州に行く学校が多く、[[関西汽船]]では修学旅行専用船が在籍していた時期もある。</ref>だったが、近年は、自然体験や[[太平洋戦争]]の追体験を目的として、[[北海道]]・[[広島県|広島]]・[[長崎県|長崎]]・沖縄などを旅行先として選択する学校が多い。また、[[四国]]や[[九州]]など雪のほとんど降らない地方では、体験学習として[[スキー]]教室を実施している学校もある。 1990年代以降、日本国内だけではなく、[[ハワイ州|ハワイ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]西海岸、[[イギリス|英国]]、[[大韓民国|韓国]]、[[台湾]]などの日本国外への修学旅行も増えている<ref>[http://www.reocities.com/CapitolHill/parliament/3570/oda.html 修学旅行研究論「ODAから海外修学旅行を考えてみる」]</ref>。特に私立では、国外への修学旅行を学校の宣伝材料としている場合も多い。公立でも地理的に朝鮮半島に近い[[九州]]や[[山口県]]の学校では、韓国に行く学校も多い。 神社仏閣などは、特定の宗教に対する特別扱いではないかという意見もあることから、そういった場所を選択する学校は減少傾向にある。しかし、歴史を学ぶ目的や観光で訪れることが本当に特定宗教の特別扱いになるのかという点では反対意見もある。 中学校以上では、小グループによる[[官庁]]や[[出版社]]・[[新聞|新聞社]]、[[テレビジョン放送局|テレビ局]]などへの見学も行われるようになっており、それらを職場として理解する進路学習を目的とする場合が多い。また一部の高校では進学先理解のために[[大学]]や研究施設を見学先とする例もある。これらは主に大都市圏外の学校が大都市圏を見学先とする場合に多いが、逆に大都市圏の学校においては、[[農業]]などの大都市圏外の産業・社会・文化に理解を深めるために、遠隔地(たとえば東京周辺の学校において、東北地方北部などへ)の農業体験を行う例も存在する。 国際的な[[博覧会]]の開催年に修学旅行が実施される場合、その観覧がメインとなることも多い(1970年の[[日本万国博覧会|大阪万博]]、1985年の[[筑波科学万博|つくば科学万博]]、2005年の[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]など)。その場合、サブの見学地として会場周辺地域の観光地・産業施設などが充てられることも多い。 [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])のような大規模災害が発生した後に、その被害・復興状況などを学習・体験するため被災地へ赴く学校もある([[福岡県立修猷館高等学校]])。 日本修学旅行会調べ:修学旅行先は、2019年度は1位沖縄、2位大阪、3位京都、4位東京、5位奈良、6位千葉、7位北海道、8位兵庫・長崎、10位福岡、2020年度は1位長崎、2位沖縄、3位広島、4位大阪、5位北海道・兵庫、7位福岡、8位京都、9位熊本、10位鹿児島であった<ref name="名前なし-1"/>。 ===国外への渡航=== 修学旅行先として日本国外が選択されるケースも増えてきている。目的としては国際感覚を養うなどが挙げられるが、費用は国内よりも高く、安全面での配慮が求められる。 [[2011年]]度には全国で737校(国公立304校・私立433校)が実施した。国立高校または公立高校では8.0%、私立高校では32.8%の実施率であった<ref>http://shugakuryoko.com/chosa/kaigai/2010-02-gaiyou.pdf</ref>。私立高校の多い首都圏や、地理的に韓国や中国に近い西日本で実施率が高い傾向がある。 2011年度の渡航先割合は東南アジア29.7%、韓国21.2%、北アメリカ17.6%、中国11.8%、台湾8.5%、オセアニア7.7%、ヨーロッパ3.6%。近隣のアジア地域が多いものの、首都圏など大都市圏の私立高校では欧米諸国など遠方に行くケースもある。 == 引率する教職員 == 引率する教職員は、遠足など他の学校行事での旅行と異なり、学級担任・学年主任・副担任などの当該学年担当の教職員のみならず、[[校長]](時にその代理としての[[教頭]])や、[[養護教諭]]が加わることが多い。なお、引率に伴い校長・養護教諭等が不在となる場合は、職務代理者がその校務を代行する。 == 実施基準 == 公立学校における修学旅行の実施にあたっては、小中学校(都道府県立の中学校を除く)については各市町村または[[特別区]]の[[教育委員会]]が、高等学校、[[中等教育学校]]、特別支援学校及び都道府県立の中学校については各都道府県または[[政令指定都市]]の教育委員会がそれぞれ通達により基準を定めている<ref name=domestic>[http://shugakuryoko.com/chosa/kijun/2013-01-seirei.pdf 平成25年度 国内修学旅行実施基準(都道府県・政令指令都市)] - 修学旅行ドットコム</ref><ref name=abroad>[http://shugakuryoko.com/chosa/kijun/2013-02-kaigai.pdf 平成25年度 海外修学旅行実施基準] - 修学旅行ドットコム</ref>。特に保護者の負担軽減のために旅費の総額に制限を設けたり、旅行期間の上限を設けたりする例が多い。また旅行先を一定の地域に限ったり、総行程(移動距離)に上限を設けたりする例もある。その結果、国立学校または公立学校における修学旅行の旅程は、小学校([[義務教育学校]]を含む)では原則1泊2日、高等学校(中等教育学校を含む)でも5泊6日程度が上限となっている。また日本国外への渡航は原則として高等学校(中等教育学校を含む)に限られており、小中学校で日本国外への修学旅行を実施する例は非常に稀である。 一方で私立学校の場合は上記のような制約を受けないため、小中学校から日本国外へ渡航する例も珍しくない。また旅程も公立学校より長くなる傾向があり、2008年の調査によれば、国立高等学校または公立高等学校で5日間以上の旅程を組んだ学校が23.8%にとどまるのに対し、私立高等学校では53.9%と倍以上の割合となった<ref>[https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/houkoku/doukou.pdf II.修学旅行及び参加・体験型学習プログラムの動向] - 内閣府</ref>。 == 意義の再検討 == === 実施の意義を問う声 === [[高度経済成長]]以前、日本の一般家庭の所得水準が低く、高速交通網も未発達で家族旅行自体が稀であった時期は<ref group="注釈">当時の一般庶民にとっては、都道府県をまたぐような私的な移動の機会は帰省や冠婚葬祭の時ぐらいしかなかった。</ref>、修学旅行によって見聞を広めることがその基本的な目的とされていた。しかし、所得の上昇、交通インフラの整備などにより、[[自家用自動車|自家用車]]で頻繁に家族旅行をしたり、海外も含め遠方へ旅行に行く機会も増えてきた頃から<ref group="注釈">ちょうどその頃には小中高生の保護者の世代が、若い頃から旅行慣れしていた[[アンノン族]]以降の世代に交代していた。</ref>、修学旅行の存在意義を問う声も聞かれるようになった。加えて目前に差し迫った進学や就職へのマイナス面を心配する声や、学校や教育委員会と旅行代理店の癒着への批判から、修学旅行を廃止、あるいは廃止を模索する学校が増えてきた。 しかし、「短い学生時代に友人たちと一緒に昼夜を過ごす共同生活の体験をとおし、対人関係の望ましい態度や習慣を身につける」・「実物の資料に触れるなど、平素と異なる生活環境(現地の自然や文化など)に親しむ中から見聞を深める」「集団生活や公衆道徳の在り方について望ましい体験を積む」体験を通し、「多感な世代の人間形成に大切な役割を担う<ref>{{PDFlink|http://kyotoshugakuryoko.jp/information/image/influenza/okoshiyasu.pdf 京都府「安心しておこしやす」宣言}}</ref>」などの見地から、学校関係者・生徒・保護者のいずれも今のところ修学旅行に肯定的な見方をする者の方が多く、修学旅行そのものの見直しに踏み切った学校は数少ない。ただし、修学旅行という呼称を止めて「宿泊研修」など呼称を変更した学校もある。 なお、[[ワーキングプア|低所得世帯]]、[[生活保護|生活保護世帯]]、[[一人親家庭|ひとり親家庭]]をはじめとする[[子どもの貧困]]が増えたことで、修学旅行積立金の費用捻出が困難となった家庭が珍しくなくなるという観点から、その意義を問う意見もある{{誰|date=2008年4月}}。 [[2020年]]以降は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19禍]]の感染防止という観点から、学校側の判断で修学旅行を中止、または日数を短縮するケースが多く見られたが、中止になった修学旅行をそのまま廃止、あるいは廃止を模索する中学校も存在する。 === 修学旅行を廃止した例 === 修学旅行を廃止した例として、公立では[[宮城県仙台第二高等学校]]・[[茨城県立土浦第一高等学校・附属中学校|茨城県立土浦第一高等学校]]・富山県立高校の大半の学校・島根県立高校の31校、私立では[[函館ラ・サール中学校・高等学校|函館ラ・サール高等学校]]・[[武蔵中学校・高等学校|私立武蔵高等学校]]・[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院]]などが挙げられる。また、生徒の修学旅行先の不祥事から修学旅行を中止とした学校もある。しかし、この場合も修学旅行に代わる宿泊を伴う校外実習や大学授業体験などの校外学習が行われていることも多い(例:函館ラ・サール→高1の10月に[[檜山振興局|檜山]]管内の[[奥尻島]]にて災害学習。仙台二高→高1の7月に[[栗駒山]]を2泊3日で登山)。 また、学年全体での行動ではなく、ある程度のコースを用意し、その中から生徒個々人の希望に応じたコースを選ばせる学校や、修学旅行とは別に希望者のみの海外研修([[ホームステイ]])などを用意する学校も存在する。 == 欠席・不参加 == 体育会系や[[吹奏楽]]などのクラブ活動に所属している生徒が、クラブ全体で練習や試合を優先させるために修学旅行を欠席せざるを得ない場合がある。特に[[日本の高校野球|高校野球]]などの全国大会ないしはそれにつながる大会を控えている場合に多く見られる<ref group="注釈">高校野球を題材とした漫画『[[ダイヤのA]]』でも、メンバーが修学旅行を欠席して学校で自習をする描写が見られる。</ref><ref group="注釈">逆に、修学旅行へ参加するため大会を辞退するという場合もある。</ref>。 私学など国外を修学旅行先としている学校では、費用と経済上の都合から欠席せざるを得ない生徒も存在するほか、治安などに対する不安から欠席する生徒も存在する。 他にも持病・怪我といった理由や、高所恐怖症で飛行機に乗れないなどの理由で欠席するケースもある。 いずれの場合も、登校が可能な場合は学校で[[自習]]となるケースが多い<ref group="注釈">修学旅行は卒業するために必要な要件や単位に含まれ、参加しない場合は自習等で単位を穴埋めする必要があり、日程も出席日数に含まれているため。</ref>。 == 安否情報の放送 == 秋田県では「秋田は農業県、子供は宝」という考えのもと、「初めて外泊する子供が多くその安否を知りたい」という親の気持ちを叶えるために[[1970年]]頃から[[秋田テレビ]]が当時営業部社員だった相澤孝(後の代表取締役社長)の発案で放映を始めた<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜4 |publisher=講談社}}</ref>。提供は各学区にあるスーパーや個人商店であることが多い。放映時間はほとんどが夕方に放映され、無事に日程通り行われているときだけ放映されている<ref name="trivia"/>。秋田テレビと[[秋田放送]]の2局と、まれに[[秋田朝日放送]]で15秒ほどのCMを放映しており、[[小学校]]と[[中学校]]の情報が確認できる。 [[山梨県]]でも[[山梨放送]]と[[テレビ山梨]]でそれぞれ、修学旅行安否情報、研修旅行情報として夕方のローカルニュース枠内で修学旅行生の情報を流している。 [[ラジオ福島]]でも情報を放送する場合がある。 京都府では[[京都放送|KBS京都]]では[[京都新聞ニュース|平日の最終ニュース]](テレビは月曜日から木曜日は21:55 - 22:00、金曜日は『[[京bizW]]』(21:25 - 22:25)枠内内包、ラジオは毎日21:50 - 22:00=野球シーズン中は原則)の中で「修学旅行だより」として京都府内の各学校の修学旅行生の安否放送を長年放送していたが、携帯電話の普及などを理由として2009年3月に終了した<ref>[https://web.archive.org/web/20091031125929/http://www.kbs-kyoto.co.jp/contents/syugaku/index.htm 修学旅行だより放送実施要領] - KBS京都</ref>。 [[愛媛県]]では[[NHK松山放送局]]が、[[1956年]]より安否確認放送を行っていたことがある(終了時期は不明)<ref>[http://shugakuryoko.com/museum/shinbun/pdf/001-020/shinbun-013.pdf 旅と文化・昭和34年3月30日号] - 全国修学旅行研究協会</ref>。 [[長崎県]]では[[長崎放送]]が、前身のラジオ長崎時代の[[1953年]]9月よりラジオで安否確認放送を行っている<ref>[http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/radio/index.php?itemid=3286 NBC創立60周年「3月1日はNBCラジオの誕生日」★] - NBCラジオブログ</ref>。 他の連絡方法として、各地域にある[[市町村防災行政無線]]を使用したり、2000年代以降では[[コミュニティ放送]]でも各家庭に知らせる方法をとっているところもある。その他、2010年代以降は[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などを利用して安否確認を行う学校も増えている。 ;放送例 *「○○小学校修学旅行団は全員元気に(目的地)で遊園中です。ご安心下さい。」 *「○○中学校の皆さんは日程一日目を終え全員東京ドームでナイターを観戦中です。」 *「○○高校修学旅行団は全ての日程を終えて帰路に着きました。」 これは民放のテレビ番組『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]』<ref name="trivia"/>、『[[秘密のケンミンSHOW]]』、『[[嵐にしやがれ]]』<ref>[https://www.ntv.co.jp/arashinishiyagare/contents/20110305.html 放送内容 嵐にしやがれ(2011年3月5日放送)]</ref>で紹介された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー−明治期学校行事の考察』新泉社、1973年 *佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年 *佐竹道盛「兵式体操導入をめぐる学校教育の諸問題」『北海道教育大学紀要 第一部C 教育科学編』第28巻第1号、1977年 *[https://jstb.or.jp/publics/index/15/ 「修学旅行の歴史年表」]『教育旅行年報データブック』所収、財団法人 日本修学旅行協会 *速水栄『うれしなつかし修学旅行 国民的行事に若者はどう参加したか』ネスコ、1999年、 ISBN 4890360921 *『事前に調べる修学旅行パーフェクトガイド』シリーズ、監修:財団法人日本修学旅行協会、発行:[[金の星社]] == 関連項目 == * [[修学旅行列車]] * [[団体乗車券]](団券) * [[卒業旅行]] * [[林間学校]] * [[臨海学校]] * [[お泊まり保育]] * [[舟木一夫]] (シングルレコード 『修学旅行』1963年発売) * [[合宿]] * [[校外学習]] == 外部リンク == {{Commonscat|Field trips in Japan}} * [http://jstb.or.jp/ 財団法人 日本修学旅行協会] * [http://shugakuryoko.com/ 財団法人 全国修学旅行研究協会] * [https://www.youtube.com/watch?v=JbGyACEYDXM 修学旅行 京都・奈良をたずねて] - 1980年制作の[[文部省]]選定教育映画、NPO法人[[科学映像館]] * [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767167/1 遼東修学旅行記] - 東京高等師範学校修学旅行団記録係、明治40年 {{観光}} {{DEFAULTSORT:しゆうかくりよこう}} [[Category:学校教育]] [[Category:観光の形式]] [[Category:旅行の形式]] [[en:Field trip#School trip in Asia]]
2003-08-18T21:30:36Z
2023-12-22T03:42:51Z
false
false
false
[ "Template:Pp-vandalism", "Template:仮リンク", "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:観光", "Template:Otheruses", "Template:混同", "Template:誰", "Template:PDFlink", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Commonscat", "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E6%97%85%E8%A1%8C
13,530
王座戦 (将棋)
王座戦(おうざせん)は、日本経済新聞社及び日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。 1953年に一般棋戦として創設(同年、囲碁の王座戦も開始)されたが、「王座戦」の棋戦名の命名は棋士の花村元司による。 1983年(31期)にタイトル戦に格上げされた。前身は「世代別対抗将棋戦」。五番勝負の勝者は王座のタイトル称号を得る。 一次予選・二次予選・挑戦者決定トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。王座と挑戦者が王座戦五番勝負を行う。前期挑戦者決定トーナメントベスト4(前期敗れた王座を含む)およびタイトル保持者はシード者となり、予選が免除される。従って、年によりシード者の人数は変動する。 五番勝負を含む全ての対局で、持ち時間は各5時間(1日制)である。第67期よりチェスクロック方式に移行した。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで勝ち進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。 シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士(永世称号者を除く)と、女流棋士4名によりトーナメント方式で行われ、6名が二次予選に進出する。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績など、後述(方式の遍歴)の条件を満たすものは二次予選からの出場となる場合がある。 一次予選の勝ち抜き者6名と、シード者以外の棋士によりトーナメント方式で行われる。挑戦者決定トーナメントへの出場枠はシード者の人数によって異なり、最小で5枠(タイトル保持者が8人で、全員が前期ベスト4に残らなかった場合)、最多で12枠(全タイトル保持者が王座および前期ベスト4であった場合)となる。毎年10枠前後で推移している。 二次予選の勝ち抜き者とシード者の計16名によるトーナメントである。トーナメントの勝者が王座と五番勝負を戦う。 挑戦者決定戦(決勝戦)の対局時間については、第65期より午前9時の対局開始となっている。 王座と挑戦者が王座戦五番勝負を戦う。五番勝負は全国各地のホテルや旅館、料亭などで実施される。 休憩時間については、昼食休憩は12時10分からの50分間(第67期以降)、夕食休憩は17時からの30分間(第71期以降)となっている。第63期以前の休憩時間は昼食休憩(12時から)・夕食休憩(18時から)いずれも60分間、第64-66期の休憩時間はいずれも50分間(12時10分/18時10分から)、第67-70期の夕食休憩は17時半からの30分間(昼食休憩は変更なし)と変更されており、休憩時間が以前よりも短縮されている。なお、8つのタイトル戦の番勝負において夕食休憩があるのは、名人戦(2日目)と王座戦の2棋戦のみである。 番勝負の模様はABEMA 将棋チャンネル、Paravi(2019年より)で配信される。かつてはニコニコ生放送(2019年まで)でも生配信が行われていた。 持ち時間の「※」はチェスクロック方式。 特別な記載はないが、フリークラスに転出した棋士について、永世称号保持者の米長邦雄、中原誠、森内俊之は、転出後も二次予選シードになっている。また、順位戦B級2組からフリークラスに転出した勝浦修も、転出後の第46期から第52期王座戦まで(「順位戦在籍可能最短年数」に相当する期間)は二次予選シードとして扱われた。 王座戦には、第39期(1990年)から女流棋士の出場枠が設けられている。第54期(2005年)より枠が4名に増え、翌年の第55期から第59期までは、女流棋士が関わる対局の緒戦(一次予選1回戦)が同日に行われた。この女流棋士の一斉対局では、ネット中継や大盤解説会が実施された。 出場する女流棋士には女流タイトル保持者などの実力上位者が選抜され、1回戦で対戦する男性棋士はほとんどが若手の四段である。一斉対局になる前は女流棋士が勝ち星を挙げたこともあるが、一斉対局後は3年連続で女流棋士が全敗に終わっていた。2009年に石橋幸緒女流王位が一斉対局で初めて勝利し、2回戦に進出した。 第60期(2011年)から一斉対局ではなくなったが、女流枠の4名は変わっていない。女流棋士の勝数は60期1勝、61期0勝、62期0勝、63期2勝、64期2勝、65期0勝、66期1勝。特に第63期は香川愛生が2勝し、3回戦まで進出した。 第67期(2018年)は里見香奈が第57期以来の久々の参戦となり、3勝して一次予選準決勝(4回戦)まで進出し、香川の記録を更新した。また、渡部愛も同じく3勝して一次予選準決勝進出を果たした。この他、伊藤沙恵も1勝し、当期は女流棋士が合計7勝を挙げるという大きな変化のあった期となった。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。 永世称号である名誉王座は、王座を連続5期もしくは通算10期以上保持した棋士に与えられる。将棋界で8大タイトルの永世称号として「永世」ではなく「名誉」を冠するのは、王座戦だけである(その他の棋戦ではNHK杯テレビ将棋トーナメントでも同じ要領で「名誉NHK杯」と紹介される。これはいずれも囲碁と同一スポンサーの提供による優勝杯をかけたものであるため)。 主催の日本経済新聞社が1996年9月に同称号を制定した際、中原誠はタイトル戦昇格前の優勝回数10回と昇格後の獲得6期を合わせて16期(16回)の実績により名誉王座の資格を与えられた。同年、羽生善治も連続5期達成により資格を得た。 他の永世称号と違い、現役のままでも満60歳に達すると名乗ることができるため、中原は60歳の誕生日である2007年9月2日から名誉王座を名乗っている。 ※タイトル戦となった第31期以降について記載。 ※タイトル戦となった第31期以降について記載。かっこ書きの数字は一般棋戦時代も含めた参考記録。 ※氏名欄の"*"は王座保持者。氏名の太字表記は名誉王座・名誉王座資格者。数字の太字表記は最多記録。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "王座戦(おうざせん)は、日本経済新聞社及び日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1953年に一般棋戦として創設(同年、囲碁の王座戦も開始)されたが、「王座戦」の棋戦名の命名は棋士の花村元司による。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1983年(31期)にタイトル戦に格上げされた。前身は「世代別対抗将棋戦」。五番勝負の勝者は王座のタイトル称号を得る。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一次予選・二次予選・挑戦者決定トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。王座と挑戦者が王座戦五番勝負を行う。前期挑戦者決定トーナメントベスト4(前期敗れた王座を含む)およびタイトル保持者はシード者となり、予選が免除される。従って、年によりシード者の人数は変動する。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "五番勝負を含む全ての対局で、持ち時間は各5時間(1日制)である。第67期よりチェスクロック方式に移行した。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで勝ち進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士(永世称号者を除く)と、女流棋士4名によりトーナメント方式で行われ、6名が二次予選に進出する。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績など、後述(方式の遍歴)の条件を満たすものは二次予選からの出場となる場合がある。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一次予選の勝ち抜き者6名と、シード者以外の棋士によりトーナメント方式で行われる。挑戦者決定トーナメントへの出場枠はシード者の人数によって異なり、最小で5枠(タイトル保持者が8人で、全員が前期ベスト4に残らなかった場合)、最多で12枠(全タイトル保持者が王座および前期ベスト4であった場合)となる。毎年10枠前後で推移している。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "二次予選の勝ち抜き者とシード者の計16名によるトーナメントである。トーナメントの勝者が王座と五番勝負を戦う。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "挑戦者決定戦(決勝戦)の対局時間については、第65期より午前9時の対局開始となっている。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "王座と挑戦者が王座戦五番勝負を戦う。五番勝負は全国各地のホテルや旅館、料亭などで実施される。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "休憩時間については、昼食休憩は12時10分からの50分間(第67期以降)、夕食休憩は17時からの30分間(第71期以降)となっている。第63期以前の休憩時間は昼食休憩(12時から)・夕食休憩(18時から)いずれも60分間、第64-66期の休憩時間はいずれも50分間(12時10分/18時10分から)、第67-70期の夕食休憩は17時半からの30分間(昼食休憩は変更なし)と変更されており、休憩時間が以前よりも短縮されている。なお、8つのタイトル戦の番勝負において夕食休憩があるのは、名人戦(2日目)と王座戦の2棋戦のみである。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "番勝負の模様はABEMA 将棋チャンネル、Paravi(2019年より)で配信される。かつてはニコニコ生放送(2019年まで)でも生配信が行われていた。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "持ち時間の「※」はチェスクロック方式。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "特別な記載はないが、フリークラスに転出した棋士について、永世称号保持者の米長邦雄、中原誠、森内俊之は、転出後も二次予選シードになっている。また、順位戦B級2組からフリークラスに転出した勝浦修も、転出後の第46期から第52期王座戦まで(「順位戦在籍可能最短年数」に相当する期間)は二次予選シードとして扱われた。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "王座戦には、第39期(1990年)から女流棋士の出場枠が設けられている。第54期(2005年)より枠が4名に増え、翌年の第55期から第59期までは、女流棋士が関わる対局の緒戦(一次予選1回戦)が同日に行われた。この女流棋士の一斉対局では、ネット中継や大盤解説会が実施された。", "title": "女流棋士枠" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "出場する女流棋士には女流タイトル保持者などの実力上位者が選抜され、1回戦で対戦する男性棋士はほとんどが若手の四段である。一斉対局になる前は女流棋士が勝ち星を挙げたこともあるが、一斉対局後は3年連続で女流棋士が全敗に終わっていた。2009年に石橋幸緒女流王位が一斉対局で初めて勝利し、2回戦に進出した。", "title": "女流棋士枠" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第60期(2011年)から一斉対局ではなくなったが、女流枠の4名は変わっていない。女流棋士の勝数は60期1勝、61期0勝、62期0勝、63期2勝、64期2勝、65期0勝、66期1勝。特に第63期は香川愛生が2勝し、3回戦まで進出した。", "title": "女流棋士枠" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第67期(2018年)は里見香奈が第57期以来の久々の参戦となり、3勝して一次予選準決勝(4回戦)まで進出し、香川の記録を更新した。また、渡部愛も同じく3勝して一次予選準決勝進出を果たした。この他、伊藤沙恵も1勝し、当期は女流棋士が合計7勝を挙げるという大きな変化のあった期となった。", "title": "女流棋士枠" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった。", "title": "女流棋士枠" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "永世称号である名誉王座は、王座を連続5期もしくは通算10期以上保持した棋士に与えられる。将棋界で8大タイトルの永世称号として「永世」ではなく「名誉」を冠するのは、王座戦だけである(その他の棋戦ではNHK杯テレビ将棋トーナメントでも同じ要領で「名誉NHK杯」と紹介される。これはいずれも囲碁と同一スポンサーの提供による優勝杯をかけたものであるため)。", "title": "名誉王座" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "主催の日本経済新聞社が1996年9月に同称号を制定した際、中原誠はタイトル戦昇格前の優勝回数10回と昇格後の獲得6期を合わせて16期(16回)の実績により名誉王座の資格を与えられた。同年、羽生善治も連続5期達成により資格を得た。", "title": "名誉王座" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "他の永世称号と違い、現役のままでも満60歳に達すると名乗ることができるため、中原は60歳の誕生日である2007年9月2日から名誉王座を名乗っている。", "title": "名誉王座" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "※タイトル戦となった第31期以降について記載。", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "※タイトル戦となった第31期以降について記載。かっこ書きの数字は一般棋戦時代も含めた参考記録。", "title": "記録" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※氏名欄の\"*\"は王座保持者。氏名の太字表記は名誉王座・名誉王座資格者。数字の太字表記は最多記録。", "title": "記録" } ]
王座戦(おうざせん)は、日本経済新聞社及び日本将棋連盟主催の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。 1953年に一般棋戦として創設(同年、囲碁の王座戦も開始)されたが、「王座戦」の棋戦名の命名は棋士の花村元司による。 1983年(31期)にタイトル戦に格上げされた。前身は「世代別対抗将棋戦」。五番勝負の勝者は王座のタイトル称号を得る。
{{Infobox 棋戦 |イベント名称=王座戦 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |分類 =タイトル戦(31期より) |旧名称 =世代別対抗将棋戦(前身) |開催時期 =予選:8月 - 翌年3月<br>挑戦者決定トーナメント:4月 - 8月<br>タイトル戦:9月 - 10月 |初回開催 =一般棋戦:1953年度(第1期)<br>タイトル戦:1983年度(第31期) |持ち時間 =5時間(チェスクロック方式) |番勝負 =五番勝負 |主催 =[[日本経済新聞社]]、[[日本将棋連盟]] |協賛 =[[東海東京証券]](特別協賛) |URL =[https://www.shogi.or.jp/match/ouza/ 王座戦:日本将棋連盟] |種類 =王座 |前期優勝 =[[藤井聡太]](第71期) |永世資格 =[[中原誠]](名誉王座)<br>[[羽生善治]](名誉王座資格) |最多優勝 =羽生善治(24期) |最長連覇 =羽生善治(19連覇) |備考 = }} '''王座戦'''(おうざせん)は、[[日本経済新聞社]]及び[[日本将棋連盟]]主催{{Efn2|2021年現在、王座戦中継サイトのトップでは主催は日本経済新聞社と将棋連盟が併記されており、日本将棋連盟のサイトでも「日本将棋連盟主催棋戦一覧」のページに王座戦を載せている。}}の[[将棋]]の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]で、[[棋戦 (将棋)#タイトル戦|タイトル戦]]のひとつ。 1953年に一般棋戦として創設(同年、囲碁の[[王座 (囲碁)|王座戦]]も開始)された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.co.jp/nikkeiinfo/about/ourhistory/archives/shogi.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20210511102302/https://www.nikkei.co.jp/nikkeiinfo/about/ourhistory/archives/shogi.html|access-date=2021-05-11|archive-date=2021-05-11|title=王座戦、進取の「気風」で70年 : Our History {{!}} 日本経済新聞社}}</ref>が、「王座戦」の棋戦名の命名は棋士の[[花村元司]]による<REF>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.180</REF>。 1983年(31期)にタイトル戦に格上げされた。前身は「世代別対抗将棋戦」<ref>『将棋八大棋戦秘話』(河出書房新社)P.170</ref>。[[番勝負|五番勝負]]の勝者は'''王座'''のタイトル称号を得る。 == 方式 == 一次予選・二次予選・挑戦者決定トーナメントの3段階で挑戦者を決定する。王座と挑戦者が王座戦五番勝負を行う。前期挑戦者決定トーナメントベスト4(前期敗れた王座を含む)およびタイトル保持者<ref>第69期は木村一基九段が前王位保持者として、第70期は豊島将之 九段が前竜王位保持者としてシードされている</ref>はシード者となり、予選が免除される。従って、年によりシード者の人数は変動する。 五番勝負を含む全ての対局で、[[持ち時間]]は各5時間(1日制)である。第67期よりチェスクロック方式に移行した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/ouza/67/itizi.html|title=第67期王座戦一次予選|accessdate=2018-08-28|website=www.shogi.or.jp}}</ref>。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで勝ち進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。 === 一次予選 === シード者以外の[[順位戦]]C級1組以下の[[棋士 (将棋)|棋士]](永世称号者を除く)と、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]4名により[[トーナメント方式]]で行われ、6名が二次予選に進出する{{Efn2|第56期より6名。第55期以前の一次予選通過枠は5名であった。}}。なお、シード者以外の順位戦C級1組以下の棋士であっても、前期の戦績など、後述(方式の遍歴)の条件を満たすものは二次予選からの出場となる場合がある。 === 二次予選 === 一次予選の勝ち抜き者6名と、シード者以外の棋士によりトーナメント方式で行われる。挑戦者決定トーナメントへの出場枠はシード者の人数によって異なり、最小で5枠(タイトル保持者が8人で、全員が前期ベスト4に残らなかった場合)、最多で12枠(全タイトル保持者が王座および前期ベスト4であった場合)となる。毎年10枠前後で推移している。 === 挑戦者決定トーナメント === 二次予選の勝ち抜き者とシード者の計16名によるトーナメントである。トーナメントの勝者が王座と五番勝負を戦う。 挑戦者決定戦(決勝戦)の対局時間については、第65期より午前9時の対局開始となっている。 ;在籍期限を満了したフリークラス編入棋士の特例参加 :挑戦者決定トーナメント準決勝進出者(ベスト4)が、[[順位戦#フリークラス|フリークラス規定]]の在籍期限を満了したフリークラス編入棋士である場合<ref group="注">順位戦C級2組からの降級・棋士編入試験の合格・奨励会三段リーグで次点(リーグ3位)2回獲得によりフリークラスに編入した棋士が対象となる。60歳以上で順位戦C級2組から降級した棋士を含む。ただし「フリークラス宣言」による転出者については含まれない。</ref>、その在籍期限満了者は他棋戦については出場資格がなくなるが、王座戦については次年度の棋戦に参加が可能となり、引退とはならない(2010年7月9日以降)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2010/07/post_307.html |title=フリークラス棋士の引退について|将棋ニュース|日本将棋連盟 |date=2010-07-14 |access-date=2010-07-14}}</ref><ref group="注">他棋戦においても同様の規定があるが、2022年時点での適用例は竜王戦のみとなっている。</ref>。 === 王座戦五番勝負 === 王座と挑戦者が王座戦五番勝負を戦う。五番勝負は全国各地のホテルや旅館、料亭などで実施される。 休憩時間については、昼食休憩は12時10分からの50分間(第67期以降)、夕食休憩は17時からの30分間(第71期以降)となっている<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2023/08/post-3ea2.html 本日のスケジュール(第71期王座戦五番勝負第1局)] - 王座戦中継Blog (2023年8月31日)</ref>。第63期以前の休憩時間は昼食休憩(12時から)・夕食休憩(18時から)いずれも60分間<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2015/09/post-7785.html 王座戦中継Blog: ご観戦ありがとうございました(第63期王座戦五番勝負第1局 )]</ref>、第64-66期の休憩時間はいずれも50分間(12時10分/18時10分から)<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2016/09/post-e12e.html おはようございます(第64期王座戦五番勝負第1局)] - 王座戦中継Blog・2016年9月6日</ref>、第67-70期の夕食休憩は17時半からの30分間(昼食休憩は変更なし)<ref>[https://kifulog.shogi.or.jp/ouza/2019/09/post-e12e.html おはようございます] - 王座戦中継Blog(2019年9月2日)</ref>と変更されており、休憩時間が以前よりも短縮されている。なお、8つのタイトル戦の番勝負において夕食休憩があるのは、[[名人戦_(将棋)|名人戦]](2日目)と王座戦の2棋戦のみである。 番勝負の模様は[[ABEMA 将棋チャンネル]]、[[Paravi]](2019年より)で配信される<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2019/08/paravi_67.html 動画配信サイト「Paravi(パラビ)」で 第67期王座戦五番勝負をライブ配信] - 日本将棋連盟・2019年8月30日</ref>。かつては[[ニコニコ生放送]](2019年まで)でも生配信が行われていた。 === 方式の遍歴 === {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;" ! rowspan="2" |期 ! rowspan="2" |タイトル<br/>扱い ! rowspan="2" |持ち時間 ! colspan="2" |王座戦番勝負 ! colspan="2" |挑戦者決定トーナメント !二次予選 ! colspan="2" |一次予選 |- !番数 !決定方法 !style="line-height:110%"|出場<br/>人数 !シード条件 !シード条件 !style="line-height:110%"|通過<br/>人数 !style="line-height:110%"|女流枠 |- !{{0}}1 - 11 | rowspan="5" |一般棋戦 | rowspan="2" |7時間 | rowspan="5" |三番勝負 | rowspan="3" style="text-align:left;"|トーナメント決勝<br/>=王座決定戦 | rowspan="12" |16名 | colspan="2" rowspan="5" |不明 | 不明 | rowspan="7" |なし |- !12 - 13 | rowspan="3" |2名 |- !14 - 17 | rowspan="4" |6時間 |- !18 - 23 | rowspan="9" style="text-align:left;"|【挑戦手合制】<br/>前期王座 vs<br/>トーナメント優勝者 |- !24 - 30 | rowspan="3" |3名 |- !31 - 36 | rowspan="7" |タイトル戦 | rowspan="7" |五番勝負 | rowspan="7" style="text-align:left;"|・前期ベスト4<br/>・タイトルホルダー | rowspan="7" style="text-align:left;"|・順位戦B級2組以上<br/>・前期本戦トーナメント進出者<br/>・タイトル挑戦者および失冠者<br/>・非タイトル棋戦優勝者<br/>・前期二次予選戦績優秀者<br/><small>&nbsp; (一次予選通過者で二次予選1勝以上)</small><br/><ref name="ouza_system">[https://www.shogi.or.jp/match_news/2020/05/ouza68.html 「王座戦」の仕組みや特長について]</ref> |- !37 - 38 | rowspan="5" |5時間 |- !39 - 49 | rowspan="3" |5名 |2名<br/>(39期は3名) |- !50 - 53 |3名 |- !54 - 55 | rowspan="3" |4名 |- !56 - 66 | rowspan="2" |6名 |- !67期以降 |5時間※ |} 持ち時間の「※」は[[対局時計|チェスクロック]]方式。 特別な記載はないが、[[順位戦#フリークラス|フリークラス]]に転出した棋士について、永世称号保持者の[[米長邦雄]]、[[中原誠]]、[[森内俊之]]は、転出後も二次予選シードになっている。また、順位戦B級2組からフリークラスに転出した[[勝浦修]]も、転出後の第46期から第52期王座戦まで(「順位戦在籍可能最短年数」に相当する期間)は二次予選シードとして扱われた。 == 女流棋士枠 == 王座戦には、第39期(1990年)から[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の出場枠が設けられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/oza/index.cfm?i=20020729s2006s2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081004101534/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/oza/index.cfm?i=20020729s2006s2|title=「王座戦に女流棋士も参加」(1990年6月14日/日本経済新聞 朝刊)NIKKEI NET 将棋王国|accessdate=2008-10-04|archivedate=2008-10-04}}</ref>{{Efn2|出場する女流棋士はタイトル保持者で、第39期には清水市代女流名人、林葉直子女流王将、中井広恵女流王位の3人が出場。それまで将棋界は男女別棋戦が原則で、それまでの女流参加の一般棋戦は[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]](1981年から女流参加)だけであり、王座戦は女流棋士が参加する2つ目の棋戦となった。}}。第54期(2005年)より枠が4名に増え{{Efn2|女流棋士の出場枠4名は、[[朝日杯将棋オープン戦]]の6名に次いで多い。}}、翌年の第55期から第59期までは、女流棋士が関わる対局の緒戦(一次予選1回戦)が同日に行われた。この女流棋士の一斉対局では、ネット中継や大盤解説会が実施された。 {| class="wikitable" ! 期 !! 対局日 !! 結果 |- | 55 || 2006年7月29日 || 男性4勝 [[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]] 女流0勝 |- | 56 || 2007年7月28日 || 男性4勝 [[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]] 女流0勝 |- | 57 || 2008年7月26日 || 男性4勝 [[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]] 女流0勝 |- | 58 || 2009年7月11日 || 男性3勝 [[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:r30.png]] 女流1勝 |- | 59 || 2010年7月31日 || 男性4勝 [[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]][[画像:g30.png]] 女流0勝 |} 出場する女流棋士には女流タイトル保持者などの実力上位者が選抜され、1回戦で対戦する男性棋士はほとんどが若手の四段である。一斉対局になる前は女流棋士が勝ち星を挙げたこともあるが、一斉対局後は3年連続で女流棋士が全敗に終わっていた{{Efn2|2006年の対局後、[[先崎学]]は「4局とも熱戦で、序中盤の実力は男性棋士に遜色ない」<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/report/ladies2006.cfm?i=20060729su047sz|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080530171006/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/report/ladies2006.cfm?i=20060729su047sz|title= 先崎八段「女流トップ棋士のすごさを実感」(2006年7月29日)|accessdate=2008-05-30|archivedate=2008-05-30}}</ref>とコメントしており、2007年には[[藤井猛]]が「持ち時間5時間の棋戦は女流にはなく、経験の差が出た」<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/report/ladies.cfm?i=20070728su041su|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080530171001/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/report/ladies.cfm?i=20070728su041su|title= <藤井九段の目>「5時間の棋戦経験の差でしょう」(2007年7月28日)|accessdate=2008-05-30|archivedate=2008-05-30}}</ref>と分析している。}}。2009年に[[石橋幸緒]][[女流王位戦|女流王位]]が一斉対局で初めて勝利し、2回戦に進出した。 第60期(2011年)から一斉対局ではなくなったが、女流枠の4名は変わっていない。女流棋士の勝数は60期1勝、61期0勝、62期0勝、63期2勝、64期2勝、65期0勝、66期1勝。特に第63期は[[香川愛生]]が2勝し、3回戦まで進出した。 第67期(2018年)は[[里見香奈]]が第57期以来の久々の参戦となり、3勝して一次予選準決勝(4回戦)まで進出し、香川の記録を更新した。また、[[渡部愛]]も同じく3勝して一次予選準決勝進出を果たした。この他、[[伊藤沙恵]]も1勝し、当期は女流棋士が合計7勝を挙げるという大きな変化のあった期となった。 2021年2月より、女流棋士が挑戦者決定トーナメントベスト8まで進んだ場合に、棋士編入試験の受験資格を与えられることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。 == 名誉王座 == [[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]である'''名誉王座'''は、王座を'''連続5期'''もしくは'''通算10期'''以上保持した棋士に与えられる。将棋界で8大タイトルの永世称号として「永世」ではなく「名誉」を冠するのは、王座戦だけである(その他の棋戦では[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]でも同じ要領で「名誉NHK杯」と紹介される。これはいずれも[[囲碁]]と同一スポンサーの提供による優勝杯をかけたものであるため)。 主催の日本経済新聞社が1996年9月に同称号を制定した際、[[中原誠]]はタイトル戦昇格前の優勝回数10回と昇格後の獲得6期を合わせて16期(16回)の実績により名誉王座の資格を与えられた<ref name="meiyo">[https://www.shogi.or.jp/news/2007/08/post_131.html "中原 誠 永世十段・名誉王座"誕生へ](2007年8月29日、日本将棋連盟)</ref>。同年、[[羽生善治]]も連続5期達成により資格を得た。 他の永世称号と違い、現役のままでも満60歳に達すると名乗ることができるため、中原は60歳の誕生日である2007年9月2日から名誉王座を名乗っている<ref name="meiyo"/>。 == 歴代五番勝負 == {| border="1" class="wikitable" style="font-size:80%;" | ;番勝負勝敗(王座側から見た勝敗) :○:勝ち  ●:負け  千:[[千日手]]  持:[[持将棋]] ;王座戦番勝負 :{| | style="background-color:#ffcccc; border:1px solid #aaaaaa;"|'''太字'''||:王座獲得者(五番勝負勝者) | style="background-color:#ff6699; border:1px solid #aaaaaa;" |'''太字'''{{sup|永}}|| :永世資格獲得者(五番勝負勝者) |} *一般公式棋戦時代、第1回は一番勝負、第2回以降は三番勝負。 ;挑戦者決定トーナメント :<sup>△</sup>:一次予選からの勝ち上がり者 |} ===一般公式棋戦(1953 - 82年度)=== {| style="background-color: transparent; !width:100%;" | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" colspan="2"| *優勝棋戦(第1回-第17回) |- | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {|class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center;margin-right:1em;" !回!!年度!!優勝!!勝敗!!準優勝 |- ![[第1回王座戦 (将棋)|1]] |[[1953年度の将棋界|1953]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[大山康晴]]'''||○{{small|(一番勝負)}}||[[丸田祐三]] |- ![[第2回王座戦 (将棋)|2]] |[[1954年度の将棋界|1954]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○●□{{Efn2|第2回第3局は、升田が病気のため不戦局。}}||[[升田幸三]] |- ![[第3回王座戦 (将棋)|3]] |[[1955年度の将棋界|1955]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||●○○||[[灘蓮照]] |- ![[第4回王座戦 (将棋)|4]] |[[1956年度の将棋界|1956]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[小堀清一]]'''||○●○||[[高島一岐代]] |- ![[第5回王座戦 (将棋)|5]] |[[1957年度の将棋界|1957]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[松田茂役|松田茂行]]'''||●○○||小堀清一 |- ![[第6回王座戦 (将棋)|6]] |[[1958年度の将棋界|1958]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[塚田正夫]]'''||●○○||[[二上達也]] |- ![[第7回王座戦 (将棋)|7]] |[[1959年度の将棋界|1959]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○-||[[山田道美]] |- ![[第8回王座戦 (将棋)|8]] |[[1960年度の将棋界|1960]]||style="background-color: #ffcccc"|'''丸田祐三'''||○●○||大山康晴 |- ![[第9回王座戦 (将棋)|9]] |[[1961年度の将棋界|1961]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[本間爽悦]]'''||○○-||[[加藤一二三]] |- ![[第10回王座戦 (将棋)|10]] |[[1962年度の将棋界|1962]]||style="background-color: #ffcccc"|'''加藤一二三'''||○○-||[[熊谷達人]] |} | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {|class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center;margin-right:1em;" !回!!年度!!優勝!!勝敗!!準優勝 |- ![[第11回王座戦 (将棋)|11]] |[[1963年度の将棋界|1963]]||style="background-color: #ffcccc"|'''灘蓮照'''||●○○||[[芹沢博文]] |- ![[第12回王座戦 (将棋)|12]] |[[1964年度の将棋界|1964]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○-||加藤一二三 |- ![[第13回王座戦 (将棋)|13]] |[[1965年度の将棋界|1965]]||style="background-color: #ffcccc"|'''丸田祐三'''||○○-||[[内藤國雄]] |- ![[第14回王座戦 (将棋)|14]] |[[1966年度の将棋界|1966]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○-||丸田祐三 |- ![[第15回王座戦 (将棋)|15]] |[[1967年度の将棋界|1967]]||style="background-color: #ffcccc"|'''山田道美'''||○○-||内藤國雄 |- ![[第16回王座戦 (将棋)|16]] |[[1968年度の将棋界|1968]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○○-||加藤一二三 |- ![[第17回王座戦 (将棋)|17]] |[[1969年度の将棋界|1969]]||style="background-color: #ffcccc"|'''[[中原誠]]'''||●○○||[[有吉道夫]] |} |- | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" colspan="2" | *前年度優勝者とトーナメント勝ち抜き者による三番勝負<ref>田辺忠幸編 『将棋八大棋戦秘話』 [[河出書房新社]]、2006年、ISBN 4-309-26870-6、169頁</ref>(第18回-第30回) |- | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {|class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center" !回!!年度!!王座!!勝敗!!挑戦者 |- ![[第18回王座戦 (将棋)|18]] |[[1970年度の将棋界|1970]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||二上達也 |- ![[第19回王座戦 (将棋)|19]] |[[1971年度の将棋界|1971]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||加藤一二三 |- ![[第20回王座戦 (将棋)|20]] |[[1972年度の将棋界|1972]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||内藤國雄 |- ![[第21回王座戦 (将棋)|21]] |[[1973年度の将棋界|1973]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||[[大野源一]] |- ![[第22回王座戦 (将棋)|22]] |[[1974年度の将棋界|1974]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○●○||大山康晴 |- ![[第23回王座戦 (将棋)|23]] |[[1975年度の将棋界|1975]]||中原誠||●●-||style="background-color: #ffcccc"|'''[[桐山清澄]]''' |- ![[第24回王座戦 (将棋)|24]] |[[1976年度の将棋界|1976]]||桐山清澄||●●-||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠''' |} | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {|class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center" !回!!年度!!王座!!勝敗!!挑戦者 |- ![[第25回王座戦 (将棋)|25]] |[[1977年度の将棋界|1977]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||[[大内延介]] |- ![[第26回王座戦 (将棋)|26]] |[[1978年度の将棋界|1978]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||大内延介 |- ![[第27回王座戦 (将棋)|27]] |[[1979年度の将棋界|1979]]||style="background-color: #ffcccc"|'''中原誠'''||○○-||大内延介 |- ![[第28回王座戦 (将棋)|28]] |[[1980年度の将棋界|1980]]||中原誠||●●-||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴''' |- ![[第29回王座戦 (将棋)|29]] |[[1981年度の将棋界|1981]]||style="background-color: #ffcccc"|'''大山康晴'''||○●○||[[勝浦修]] |- ![[第30回王座戦 (将棋)|30]] |[[1982年度の将棋界|1982]]||大山康晴||●●-||style="background-color: #ffcccc"|'''内藤國雄''' |} |} ===タイトル戦(1983年度 -)=== {| class="wikitable" style="font-size:90%;white-space:nowrap;text-align:center" !rowspan="2"|期!!rowspan="2"|年度!!colspan="3"|王座戦五番勝負!!colspan="2"|挑戦者決定トーナメント |- !王座!!勝敗!!挑戦者!!挑決敗者!!ベスト4 |- ![[第31期王座戦 (将棋)|31]] |[[1983年度の将棋界|1983]]||内藤國雄||style="line-height:110%"|●○●<br>{{small|(三番勝負)}}|| style="background-color: #ffcccc" |'''中原誠''' |[[宮田利男]]{{sup|△}} |加藤一二三 / 桐山清澄 |- ![[第32期王座戦 (将棋)|32]] |[[1984年度の将棋界|1984]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''中原誠'''||●●○○○||[[森安秀光]] |[[真部一男]] |[[田中寅彦]] / 内藤國雄 |- ![[第33期王座戦 (将棋)|33]] |[[1985年度の将棋界|1985]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''中原誠'''||●○○○-||[[谷川浩司]] |田中寅彦 |[[森雞二]] / [[高橋道雄]] |- ![[第34期王座戦 (将棋)|34]] |[[1986年度の将棋界|1986]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''中原誠'''||○○○--||桐山清澄 |谷川浩司 |森安秀光 / [[田丸昇]] |- ![[第35期王座戦 (将棋)|35]] |[[1987年度の将棋界|1987]]||中原誠||○○●●●|| style="background-color: #ffcccc" |'''[[塚田泰明]]''' |[[中村修 (棋士)|中村修]] |森安秀光 / 谷川浩司 |- ![[第36期王座戦 (将棋)|36]] |[[1988年度の将棋界|1988]]||塚田泰明||●●●--|| style="background-color: #ffcccc" |'''中原誠''' |桐山清澄 |加藤一二三 / [[井上慶太]]{{sup|△}} |- ![[第37期王座戦 (将棋)|37]] |[[1989年度の将棋界|1989]]||style="background-color: #ff6699;line-height:90%"|'''中原誠'''{{sup|永}}<br/>{{Efn2|1996年9月に名誉王座が制定された。制定前の規定達成。}}||●○●○○||'''[[青野照市]]''' |[[南芳一]] |井上慶太 / 高橋道雄 |- ![[第38期王座戦 (将棋)|38]] |[[1990年度の将棋界|1990]]||中原誠||●○●●-|| style="background-color: #ffcccc" |'''谷川浩司''' |高橋道雄 |内藤國雄 / 塚田泰明 |- ![[第39期王座戦 (将棋)|39]] |[[1991年度の将棋界|1991]]||谷川浩司 |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|●|○|○|千<br/>●}} | style="background-color: #ffcccc" |'''[[福崎文吾]]''' |[[米長邦雄]] |中原誠 / 南芳一 |- ![[第40期王座戦 (将棋)|40]] |[[1992年度の将棋界|1992]]||福崎文吾||●●●--|| style="background-color: #ffcccc" |'''[[羽生善治]]''' |米長邦雄 |桐山清澄 / [[富岡英作]] |- ![[第41期王座戦 (将棋)|41]] |[[1993年度の将棋界|1993]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○●○○-||谷川浩司 |[[森内俊之]] |[[島朗]] / 中村修 |- ![[第42期王座戦 (将棋)|42]] |[[1994年度の将棋界|1994]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||谷川浩司 |米長邦雄 |富岡英作 / 南芳一 |- ![[第43期王座戦 (将棋)|43]] |[[1995年度の将棋界|1995]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||森けい二|森&#38622;二 |[[深浦康市]]{{sup|△}} |米長邦雄 / [[佐藤康光]] |- ![[第44期王座戦 (将棋)|44]] |[[1996年度の将棋界|1996]]|| style="background-color: #ff6699" |'''羽生善治'''{{sup|永}}||○○○--||島朗 |谷川浩司 |高橋道雄 / 森&#38622;二 |- ![[第45期王座戦 (将棋)|45]] |[[1997年度の将棋界|1997]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||島朗 |[[郷田真隆]] |[[森下卓]] / [[畠山成幸]] |- ![[第46期王座戦 (将棋)|46]] |[[1998年度の将棋界|1998]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||●●○○○||谷川浩司 |郷田真隆 |深浦康市 / 南芳一 |- ![[第47期王座戦 (将棋)|47]] |[[1999年度の将棋界|1999]]|| style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○●○○-||[[丸山忠久]] |郷田真隆 |中原誠 / 佐藤康光 |- ![[第48期王座戦 (将棋)|48]] |[[2000年度の将棋界|2000]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|○|千<br/>●|○|○}} |[[藤井猛]] |谷川浩司 |佐藤康光 / 丸山忠久 |- ![[第49期王座戦 (将棋)|49]] |[[2001年度の将棋界|2001]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |○○●○- |[[久保利明]] |丸山忠久 |佐藤康光 / 森内俊之 |- ![[第50期王座戦 (将棋)|50]] |[[2002年度の将棋界|2002]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |○○○-- |佐藤康光 |藤井猛 |森下卓 / 森内俊之 |- ![[第51期王座戦 (将棋)|51]] |[[2003年度の将棋界|2003]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|●|●|千<br/>○|○}} |[[渡辺明_(棋士)|渡辺明]] |[[阿部隆]] |丸山忠久 / 森内俊之 |- ![[第52期王座戦 (将棋)|52]] |[[2004年度の将棋界|2004]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○●○-||森内俊之 |渡辺明 |[[三浦弘行]] / [[堀口一史座]] |- ![[第53期王座戦 (将棋)|53]] |[[2005年度の将棋界|2005]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>○|○|○|-|-}} |佐藤康光 |深浦康市 |丸山忠久 / 中村修 |- ![[第54期王座戦 (将棋)|54]] |[[2006年度の将棋界|2006]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||佐藤康光 |深浦康市 |渡辺明 / 森下卓 |- ![[第55期王座戦 (将棋)|55]] |[[2007年度の将棋界|2007]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||久保利明 |森内俊之 |郷田真隆 / 佐藤康光 |- ![[第56期王座戦 (将棋)|56]] |[[2008年度の将棋界|2008]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||[[木村一基]] |谷川浩司 |郷田真隆 / [[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]] |- ![[第57期王座戦 (将棋)|57]] |[[2009年度の将棋界|2009]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||[[山崎隆之]] |[[中川大輔 (棋士)|中川大輔]] |藤井猛 / 渡辺明 |- ![[第58期王座戦 (将棋)|58]] |[[2010年度の将棋界|2010]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||藤井猛 |深浦康市 |三浦弘行 / 青野照市 |- ![[第59期王座戦 (将棋)|59]] |[[2011年度の将棋界|2011]] |羽生善治||●●●--|| style="background-color: #ffcccc" |'''渡辺明''' |久保利明 |丸山忠久 / [[屋敷伸之]] |- ![[第60期王座戦 (将棋)|60]] |[[2012年度の将棋界|2012]] |渡辺明 |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|●|●|千<br/>●|-}} | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |[[中村太地 (棋士)|中村太地]]{{sup|△}} |[[行方尚史]] / 木村一基 |- ![[第61期王座戦 (将棋)|61]] |[[2013年度の将棋界|2013]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|○|●|千<br/>○|○}} |中村太地 |郷田真隆 |森内俊之 / 渡辺明 |- ![[第62期王座戦 (将棋)|62]] |[[2014年度の将棋界|2014]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○●●○||[[豊島将之]] |丸山忠久 |中村太地 / 深浦康市 |- ![[第63期王座戦 (将棋)|63]] |[[2015年度の将棋界|2015]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○●●○○||[[佐藤天彦]] |豊島将之 |久保利明 / 渡辺明 |- ![[第64期王座戦 (将棋)|64]] |[[2016年度の将棋界|2016]] | style="background-color: #ffcccc" |'''羽生善治'''||○○○--||[[糸谷哲郎]] |佐藤天彦 |[[稲葉陽]] / [[松尾歩]] |- ![[第65期王座戦 (将棋)|65]] |[[2017年度の将棋界|2017]] |羽生善治||●●○●-|| style="background-color: #ffcccc" |'''中村太地''' |[[青嶋未来]]{{sup|△}} |[[斎藤慎太郎]] / [[菅井竜也]] |- ![[第66期王座戦 (将棋)|66]] |[[2018年度の将棋界|2018]] |中村太地||●●○○●|| style="background-color: #ffcccc" |'''斎藤慎太郎''' |渡辺明 |[[永瀬拓矢]]{{sup|△}} / [[藤井聡太]]{{sup|△}} |- ![[第67期王座戦 (将棋)|67]] |[[2019年度の将棋界|2019]] |斎藤慎太郎 |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|千<br/>●|●|●|-|-}} | style="background-color: #ffcccc" |'''永瀬拓矢''' |豊島将之 |佐藤天彦 / 羽生善治 |- ![[第68期王座戦 (将棋)|68]] |[[2020年度の将棋界|2020]] |style="background-color: #ffcccc"|'''永瀬拓矢''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|●|○|●|○}} |久保利明 |渡辺明 |[[大橋貴洸]]{{sup|△}} / 豊島将之 |- ![[第69期王座戦 (将棋)|69]] |[[2021年度の将棋界|2021]] |style="background-color: #ffcccc"|'''永瀬拓矢''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|○|○|○|-}} |木村一基 |佐藤康光 |[[飯島栄治]] / [[石井健太郎 (棋士)|石井健太郎]]{{sup|△}} |- ![[第70期王座戦 (将棋)|70]] |[[2022年度の将棋界|2022]] |style="background-color: #ffcccc"|'''永瀬拓矢''' |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|●|千<br/>○|○|○|-}} |豊島将之 |大橋貴洸 |木村一基 / 石井健太郎 |- ![[第71期王座戦 (将棋)|71]] |[[2023年度の将棋界|2023]] ||永瀬拓矢 |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%|○|●|●|●|- }} |style="background-color: #ffcccc"|'''藤井聡太'''<br/>{{small|【八冠達成】}} |豊島将之 |羽生善治 / 渡辺明 |- ![[第72期王座戦 (将棋)|72]] |[[2024年度の将棋界|2024]] ||藤井聡太 |{{table2|class=none|cols=5|style=border-spacing:0;line-height:90%| | | | | }} | | | |} == 記録 == <!-- 第71期終了時の記録 --> <!-- 記録の更新はタイトル戦が終わってから。進行中の状態で更新しない。 --> ※タイトル戦となった第31期以降について記載。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" ! !獲得 !番勝負出場 !挑戦者決定トーナメント参加 |- !最多 |[[羽生善治]]<br/>( 通算24期 ) |羽生善治<br/>( 通算26期 ) |羽生善治<br/>( 通算30期 ) |- !連続 |羽生善治<br/>( 19連覇 )<br/>第40期 - 第58期 |羽生善治<br/>( 連続26期 )<br/>第40期 - 第65期 |羽生善治<br/>( 連続30期 )<br/>第39期 - 第68期 |- !最年少 | [[藤井聡太]]<br/>( {{age in years and days|2002|7|19|2023|10|11|age=yes|to=none}} )<br>第71期 | [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]<br/>( {{age in years and days|1984|04|23|2003|09|02|age=yes|to=none}} )<br>{{000}}第51期<ref group="注">番勝負第1局時点。挑戦決定時は{{age in years and days|1984|04|23|2003|08|05|age=yes|to=none}}。</ref> | 藤井聡太<br/>( {{age in years and days|2002|07|19|2018|05|07|age=yes|to=none}} )<br>{{000}}第66期<ref group="注">トーナメント1回戦時点。二次予選決勝時は{{age in years and days|2002|07|19|2018|03|22|age=yes|to=none}}。</ref> |- !最年長 | 羽生善治<br>( {{age in years and days|1970|9|27|2016|10|04|age=yes|to=none}} )<br>{{000}}第64期<ref group="注">在位は{{age in years and days|1970|9|27|2017|10|11|age=yes|to=none}}まで。</ref> | [[森雞二]]<br>( {{age in years and days|1946|04|06|1995|09|02|age=yes|to=none}} )<br>{{000}}第43期<ref group="注">番勝負第1局時点。挑戦決定時は{{age in years and days|1946|04|06|1995|08|02|age=yes|to=none}}。番勝負最終局時点では{{age in years and days|1946|04|06|1995|09|22|age=yes|to=none}}。</ref> | [[大山康晴]]<br>( {{age in years and days|1923|3|13|1990|05|01|age=yes|to=none}} )<br>{{000}}第38期<ref group="注">トーナメント1回戦時点。2回戦(敗退)時点では{{age in years and days|1923|3|13|1990|06|07|age=yes|to=none}}。二次予選決勝時は{{age in years and days|1923|3|13|1990|01|16|age=yes|to=none}}。</ref> |} <!-- 第71期終了時の記録 --> <!-- 記録の更新はタイトル戦が終わってから。進行中の状態で更新しない。 --> ※タイトル戦となった第31期以降について記載。かっこ書きの数字は一般棋戦時代も含めた参考記録。 ※氏名欄の"*"は王座保持者。氏名の太字表記は名誉王座・名誉王座資格者。数字の太字表記は最多記録。 {| class="wikitable" |+ ! rowspan="2" |氏名 ! colspan="2" |王座在位 ! colspan="2" |五番勝負出場 (在位、挑戦問わず) ! colspan="2" |挑戦者決定トーナメント参加 (在位含む) |- !通算 !連続 !通算 !連続 !通算 !連続 |- |'''[[羽生善治]]''' |'''24''' |'''19''' |'''26''' |'''26''' |'''31''' |'''31''' |- |'''[[中原誠]]''' |6(16) |4(6) |8(20<ref name="kiroku1">第1回-第17回は決勝戦進出、第18回-第31回は決勝三番勝負。</ref>) |8(12<ref name="kiroku1" />) |17(33) |12(28) |- |[[永瀬拓矢]] |4 |4 |5 |5 |8 |6 |- |[[谷川浩司]] |1 |1 |6 |2 |26 |19 |- |[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] |1 |1 |3 |2 |21 |21 |- |[[中村太地 (棋士)|中村太地]] |1 |1 |3 |2 |8 |8 |- |[[福崎文吾]] |1 |1 |2 |2 |9(10) |4 |- |[[塚田泰明]] |1 |1 |2 |2 |9 |6 |- |[[斎藤慎太郎]] |1 |1 |2 |2 |4 |4 |- |[[藤井聡太]]* |1 |1 |1 |1 |5 |3 |- |[[大山康晴]] |0(9) |0(3) |0(12<ref name="kiroku1" />) |0(3<ref name="kiroku1" />) |5(35) |2(31) |} * {| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:90%" |+ style="text-align:left"|女流推薦出場 !氏名!!通算!!連続!!期!!最高成績 |- |[[清水市代]]||24||18||39,41-42,44-61,63-64,68||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第50,51,53期) |- |[[中井広恵]]||12||5||39-43,45,47,49,51-54||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第43期) |- |[[石橋幸緒]]||8||4||48,52-55,57-59||一次予選2勝(一次予選ベスト8進出 第53期) |- |[[甲斐智美]]||7||6||57,59-64||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第63期) |- |[[里見香奈]]||7||6||59,67-72||一次予選3勝(一次予選ベスト4進出 第67期) |- |[[西山朋佳]]||6||6||67-72||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第68期) |- |[[加藤桃子]]||6||4||65-66,69-72||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第70,71期) |- |[[伊藤沙恵]]||6||3||65-67,70-72||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第67期) |- |[[斎田晴子]]||6||2||43-44,46,50-51,56||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第44期) |- |[[矢内理絵子]]||5||4||50,55-58||一次予選0勝 |- |[[上田初美]]||4||3||60-62,66||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第66期) |- |[[千葉涼子]]||3||3||54-56||一次予選0勝 |- |[[香川愛生]]||3||3||63-65||一次予選2勝(一次予選ベスト8進出 第63期) |- |[[渡部愛]]||3||3||67-69||一次予選3勝(一次予選ベスト4進出 第67期) |- |[[中村真梨花]]||2||2||62-63||一次予選0勝 |- |[[山田久美]]||2||2||64-65||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第64期) |- |[[林葉直子]]||1||1||40||一次予選0勝 |- |[[岩根忍]]||1||1||60||一次予選1勝(一次予選2回戦進出 第60期) |- |[[長谷川優貴]]||1||1||61||一次予選0勝 |- |[[本田小百合]]||1||1||62||一次予選0勝 |- |[[室谷由紀]]||1||1||66||一次予選0勝 |} == エピソード == *将棋と囲碁の王座戦が1957年(昭和32年)に創設される際、[[日本将棋連盟]]理事として[[日本経済新聞社]]と折衝した[[丸田祐三]]によると、どのような棋戦にするかという構想は[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]によるもので、「王座戦」の名称は[[花村元司]]が考案した<ref>{{Cite web|和書|url=http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|title=追悼・丸田祐三九段 王座戦半世紀共に歩む|accessdate=2017-06-26|author=|date=2002-09-13|publisher=日本経済新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707063048/http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|archivedate=2017-07-07}}</ref>。 *第21回(1973年)では、62歳の[[大野源一]]が挑戦権を獲得。[[中原誠]]との三番勝負は0勝2敗に終わるも、60歳代での番勝負への勝ち上がりは快挙だった。 *[[大山康晴]]は優勝棋戦時代(第1回 - 第17回)に7回、前年優勝者と挑戦者による三番勝負時代(第18回 - 第30回)で2回王座になっている。名誉王座の資格には該当しなかったものの、第29回(1981年)では58歳で[[勝浦修]]との三番勝負に勝利しており、同年度に[[王将戦|王将位]]の防衛で史上最高齢のタイトル保持者となっていたのと同様、当棋戦でも第一人者としての実力を示していた。 *羽生が[[福崎文吾]]から王座位を奪取して以降19期タイトルを保持し続けていたため、福崎は長年“名目上の前王座”ということになっていたが、こちらも19期連続という珍記録であったため、福崎自身も「名誉前王座」などと笑い話として披露していた<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2011/04/14/ 名誉前王座] - 将棋ペンクラブログ・2011年4月14日</ref>。2011年9月に羽生が失冠したため福崎も「前王座」ではなくなったが、以後も話のネタとして使われることがある。 *羽生は2011年に20連覇を逸したものの、翌2012年に挑戦者として奪還に成功し、その後2017年に再び失冠して翌2018年(第66期)に本戦1回戦で敗れるまで同一タイトル戦連続出場記録26期(1992年 - 2017年)を数えた。それまでの最長記録は大山康晴が名人戦と王将戦で持つ21期であった。また、羽生の通算24期在位は、一つのタイトル獲得期数としては史上最多となっている。 *第34期二次予選において、係の手違いで決勝トーナメント出場者が1名少なくなることが判明。二次予選決勝敗者から抽選で追加のトーナメント進出者が決められることになり、[[脇謙二]]が追加出場者となった。 *第67期(2019年度)において、挑戦者決定トーナメントへのシードが史上初めて半数を超え10名となったため、予選からの挑戦者決定トーナメントへの出場枠が6名と過去最少になった。これは第66期挑戦者決定トーナメントベスト4にタイトル保持者は[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]棋王しか残れず、かつ第89期棋聖戦の結果複数冠者がいなくなったことで、タイトル保持者シードが6名(羽生善治竜王、[[佐藤天彦]]名人、[[高見泰地]]叡王、[[菅井竜也]]王位、[[久保利明]]王将、[[豊島将之]]棋聖)となったことによる。 *第71期(2023年度)、[[藤井聡太]]が[[永瀬拓矢]]から王座を奪取し'''史上初の八冠独占を達成'''した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD062RB0W3A001C2000000/ |title=藤井聡太八冠が誕生、史上初の独占 将棋王座戦を制す |website=日本経済新聞 |date=2023-10-11 |accessdate=2023-10-11}}</ref>。 *タイトル戦に昇格してから、第69期(2021年度)までの時点において王座を防衛(2期以上連続で獲得)した棋士は中原誠・羽生善治・永瀬拓矢の3名のみであり、一般棋戦時代に王座戦連覇を経験した大山康晴を含めても、王座戦の連覇者は4名しかいない。第4回(1956年度)優勝者の[[小堀清一]]は、翌第5回も決勝まで進出するも、[[松田茂役|松田茂行]]との三番勝負を1勝2敗で連覇を逃し、[[大内延介]]は第25回(1977年度)から3回連続で挑戦権を獲得するも、3回とも中原に0勝2敗で退けられている。 *第71期(2023年度)現在、一次予選からの挑戦者は一度も現れていない。挑戦者決定トーナメントベスト4進出まででも第65期までは通算5名(各期1人ずつ)しか出ておらず、うち4名は決定戦まで進出するも破れて挑戦とはならなかった。ところが第66期(2018年度)に一次予選から出場した[[永瀬拓矢]]と[[藤井聡太]]の2名がベスト4に進出したことで、タイトル戦移行後では初めて一次予選からの挑戦者決定トーナメントベスト4進出者が複数名出る珍事が発生した。しかしいずれも準決勝で敗れている。 *王座戦五番勝負で、これまで[[持将棋]]が出たことは一度もない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本将棋連盟]] * [[女流王座戦]] * [[王座 (囲碁)]] - 同名の囲碁タイトル戦。 * [[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]] - 同名のタイトル戦が開催されている。 == 外部リンク == * [https://www.shogi.or.jp/match/ouza/index.html 王座戦:日本将棋連盟] * [https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00001980Z20C22A7000000/ 将棋王座戦 写真で振り返る70年 - 日本経済新聞] * [https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00001990Z20C22A7000000/ 囲碁王座戦 写真で振り返る70年 - 日本経済新聞] {{棋戦 (将棋)}} {{王座戦 (一般公式棋戦)}} {{王座戦 (将棋)}} {{各期の王座戦}} {{DEFAULTSORT:おうさせん}} [[Category:将棋の棋戦]] [[Category:将棋のタイトル]] [[Category:日本経済新聞社]] [[Category:王座戦 (将棋)|*]]
2003-08-19T00:01:29Z
2023-12-13T15:25:08Z
false
false
false
[ "Template:Notelist2", "Template:王座戦 (一般公式棋戦)", "Template:Infobox 棋戦", "Template:Table2", "Template:Age in years and days", "Template:脚注ヘルプ", "Template:王座戦 (将棋)", "Template:Efn2", "Template:0", "Template:Sup", "Template:Small", "Template:000", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:棋戦 (将棋)", "Template:各期の王座戦" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%BA%A7%E6%88%A6_(%E5%B0%86%E6%A3%8B)
13,532
入滅
入滅(にゅうめつ)は、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。 「涅槃」「泥洹(ないおん)」などとも音写される。また、老荘思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。 ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。 一般に仏の死亡は入滅といい、高僧の死亡は遷化というが、特に宗祖の遷化を入滅と表現することもある。僧の死亡を入寂(にゅうじゃく)や示寂(じじゃく)ということもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "入滅(にゅうめつ)は、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「涅槃」「泥洹(ないおん)」などとも音写される。また、老荘思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一般に仏の死亡は入滅といい、高僧の死亡は遷化というが、特に宗祖の遷化を入滅と表現することもある。僧の死亡を入寂(にゅうじゃく)や示寂(じじゃく)ということもある。", "title": "概要" } ]
入滅(にゅうめつ)は、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。
'''入滅'''(にゅうめつ)は、仏教用語で、'''滅度'''(めつど)・'''寂滅'''(じゃくめつ)ともいい、[[サンスクリット]]の「&#x0928;&#x093f;&#x0930;&#x094d;&#x0935;&#x093e;&#x0923;」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、[[煩悩]]の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する[[解脱]]のことである。 == 概要 == 「[[涅槃]]」「泥{{lang|ko|洹}}(ないおん)」などとも音写される。また、[[老荘]]思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。 ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結することから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。 一般に仏の[[死亡]]は入滅といい、高僧の死亡は[[遷化]]というが、特に[[宗祖]]の遷化を入滅と表現することもある。僧の死亡を'''入寂'''(にゅうじゃく)や'''示寂'''(じじゃく)ということもある。 == 関連項目 == * [[仏滅]] {{buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:にゆうめつ}} [[Category:仏教用語]] [[Category:死生観]]
null
2022-07-17T03:31:41Z
false
false
false
[ "Template:Lang", "Template:Buddhism2", "Template:Buddhism-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%BB%85
13,533
生身
生身(しょうじん、しゃうじん、しゃうしん、さうじみ)とは、生まれながらの身体を言う。父母から生まれた身体一般を指し、釈迦の肉体を意味し、仏像の対語として用いられる。 のちに、特に仏・菩薩が衆生を救済するために化現(けげん)する化身(けしん)としての身体と同一視される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "生身(しょうじん、しゃうじん、しゃうしん、さうじみ)とは、生まれながらの身体を言う。父母から生まれた身体一般を指し、釈迦の肉体を意味し、仏像の対語として用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "のちに、特に仏・菩薩が衆生を救済するために化現(けげん)する化身(けしん)としての身体と同一視される。", "title": null } ]
生身(しょうじん、しゃうじん、しゃうしん、さうじみ)とは、生まれながらの身体を言う。父母から生まれた身体一般を指し、釈迦の肉体を意味し、仏像の対語として用いられる。 のちに、特に仏・菩薩が衆生を救済するために化現(けげん)する化身(けしん)としての身体と同一視される。
{{字引|date=2010年3月13日 (土) 13:04 (UTC)}} {{出典の明記| date = 2023年5月}} '''生身'''(しょうじん、しゃうじん、しゃうしん、さうじみ)とは、生まれながらの身体を言う。父母から生まれた身体一般を指し、[[釈迦]]の肉体を意味し、[[仏像]]の対語として用いられる。 のちに、特に[[仏]]・[[菩薩]]が[[衆生]]を救済するために化現(けげん)する[[化身]](けしん)としての身体と同一視される。 == 関連項目 == * [[生身天満宮]] * [https://kotobank.jp/word/生身-532120 kotobank] == 脚注 == {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しようしん}} [[Category:仏教用語]] [[Category:仏]] [[Category:仏像]] {{Buddhism-stub}} {{language-stub}}
null
2023-05-01T16:08:49Z
false
false
false
[ "Template:Buddhism2", "Template:Buddhism-stub", "Template:Language-stub", "Template:字引", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E8%BA%AB
13,534
法身
法身 (ほっしん、梵: धर्मकाय dharma-kāya)は三身(法身、報身、応身)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体。色も形もない真実そのものの体をいう。 真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「法仏」「法身仏」「自性身」「法性身」などともいう。 部派仏教の時代、説一切有部では、仏陀の肉身である生身に対して、仏陀の説いた正法や十力などの功徳を法身と呼んだ。大乗仏教では絶待的な真理を法身という。また、如来蔵説では、如来蔵が煩悩を離れてそれ自身を現したものをいう。法身の本性については、密教では自性・受用・変化・等流の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。 イスラーム神秘主義では、預言者ムハンマドを「普通の、一般の『人間』であるムハンマド」と「はるか昔から存在している『真理』としてのムハンマド、ムハンマドの本質(ハキーカ・ムハンマディーヤ、ムハンマド的真実在)」に分けて考える思想がある。 またキリスト教のヨハネによる福音書では、イエス・キリストとは父なる神の言葉が受肉した存在であるという考えが中心になっている。肉体的な身体だけでなく、その教えや話をした内容が時空を超えて身体となるという考え方が普遍的として認められている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "法身 (ほっしん、梵: धर्मकाय dharma-kāya)は三身(法身、報身、応身)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体。色も形もない真実そのものの体をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「法仏」「法身仏」「自性身」「法性身」などともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "部派仏教の時代、説一切有部では、仏陀の肉身である生身に対して、仏陀の説いた正法や十力などの功徳を法身と呼んだ。大乗仏教では絶待的な真理を法身という。また、如来蔵説では、如来蔵が煩悩を離れてそれ自身を現したものをいう。法身の本性については、密教では自性・受用・変化・等流の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イスラーム神秘主義では、預言者ムハンマドを「普通の、一般の『人間』であるムハンマド」と「はるか昔から存在している『真理』としてのムハンマド、ムハンマドの本質(ハキーカ・ムハンマディーヤ、ムハンマド的真実在)」に分けて考える思想がある。", "title": "他宗教の類似教義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "またキリスト教のヨハネによる福音書では、イエス・キリストとは父なる神の言葉が受肉した存在であるという考えが中心になっている。肉体的な身体だけでなく、その教えや話をした内容が時空を超えて身体となるという考え方が普遍的として認められている。", "title": "他宗教の類似教義" } ]
法身は三身(法身、報身、応身)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体。色も形もない真実そのものの体をいう。 真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「法仏(ほうぶつ)」「法身仏(ほっしんぶつ)」「自性身(じしょうしん)」「法性身(ほっしょうしん)」などともいう。 部派仏教の時代、説一切有部(せついっさいうぶ)では、仏陀(ぶっだ)の肉身である生身(しょうしん)に対して、仏陀の説いた正法(しょうぼう)や十力(じゅうりき)などの功徳(くどく)を法身と呼んだ。大乗仏教では絶待的な真理を法身という。また、如来蔵(にょらいぞう)説では、如来蔵が煩悩(ぼんのう)を離れてそれ自身を現したものをいう。法身の本性(ほんしょう)については、密教では自性(じしょう)・受用(じゅゆう)・変化(へんげ)・等流(とうる)の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。
'''法身''' (ほっしん、{{lang-sa-short|धर्मकाय}} {{IAST|dharma-kāya}})は[[三身]](法身、[[報身]]、[[応身]])の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体。色も形もない真実そのものの体をいう。 真理([[法 (仏教)|法]])の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、「{{ruby|法仏|ほうぶつ}}」「{{ruby|法身仏|ほっしんぶつ}}」「{{ruby|自性身|じしょうしん}}」「{{ruby|法性身|ほっしょうしん}}」などともいう。 [[部派仏教]]の時代、{{ruby|[[説一切有部]]|せついっさいうぶ}}では、{{ruby|[[仏陀]]|ぶっだ}}の肉身である{{ruby|生身|しょうしん}}に対して、仏陀の説いた{{ruby|[[正法]]|しょうぼう}}や{{ruby|十力|じゅうりき}}などの{{ruby|[[功徳]]|くどく}}を法身と呼んだ。[[大乗仏教]]では絶待的な真理を法身という。また、{{ruby|[[如来蔵]]|にょらいぞう}}説では、如来蔵が{{ruby|[[煩悩]]|ぼんのう}}を離れてそれ自身を現したものをいう。法身の{{ruby|本性|ほんしょう}}については、[[密教]]では{{ruby|自性|じしょう}}・{{ruby|受用|じゅゆう}}・{{ruby|変化|へんげ}}・{{ruby|等流|とうる}}の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。 ==他宗教の類似教義== イスラーム神秘主義では、預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]を「普通の、一般の『人間』であるムハンマド」と「はるか昔から存在している『真理』としてのムハンマド、ムハンマドの本質(ハキーカ・ムハンマディーヤ、ムハンマド的真実在)」に分けて考える思想がある。 またキリスト教の[[ヨハネによる福音書]]では、[[イエス・キリスト]]とは[[父なる神]]の[[ロゴス|言葉]]が[[受肉]]した存在であるという考えが中心になっている。肉体的な身体だけでなく、その教えや話をした内容が時空を超えて身体となるという考え方が普遍的として認められている。 {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ほつしん}} [[category:仏]] [[Category:仏性]] [[Category:仏教用語]] [[Category:仏教哲学の概念]]
null
2023-02-18T08:29:54Z
false
false
false
[ "Template:IAST", "Template:Ruby", "Template:Buddhism-stub", "Template:Buddhism2", "Template:Lang-sa-short" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%BA%AB
13,535
ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルク(フランス語: Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc、IPA: [ʒan daʁk]、英: Joan of Arc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orléans/英: The Maid of Orléans)とも呼ばれる。 ジャンヌは現在のフランス東部ドンレミ(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという街)に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた。 その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。 ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。 ジャンヌは、王太子シャルル(後のシャルル7世)を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。結果、王太子はランスでフランス王位に就くことができフランス王シャルル7世となることができた。 フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。 歴史家ケリー・デヴリーズ(英語版)は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している。 ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。 オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。 王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。 1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。 1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュはフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。 ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1377年 - 1458年11月28日)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。 ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(la Pucelle d'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。 ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。 のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年頃に生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは13歳くらいの時だったと証言している。このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。 1428年、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール(英語版)(現在のムーズ県)へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス(英語版)とベルトラン・ド・プーランジ(英語版)という2人の貴族の知己を得た。この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。 ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。シノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。 当時、シャルル7世の妃マリーとルネの母でアンジュー公ルイ2世妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。 神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。 ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。 これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官(サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボット、トーマス・スケールズなど)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間)。 イングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌがラ・イル、ジル・ド・レらとともに到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。しかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。 ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している。 ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。 ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。 この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。 オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディー攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった。 イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。 戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、ギー14世・ド・ラヴァル・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟やアルテュール・ド・リッシュモンなどが参加した。リッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。しかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った。 6月18日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。 フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。 ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。 イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦(英語版)で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦(英語版)にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。 フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。 フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまう。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった。 当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。イギリスとの和平の邪魔になることを恐れたシャルル7世自身がジャンヌダルクの復権を嫌ったという見方が有力です。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。 水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。 ジャンヌへの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。 ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。 さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した。 この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。 この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。 さらに数名の法廷関係者がのちに、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、中にはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した。 裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた。 当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。 ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身につけた。『乙女の記録』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった。 ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、のちに復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯した(戻り異端)として死刑判決を受けた。 1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている。 2006年2月に法医学の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を6か月かけて調査すると発表した(調査結果の詳細は後述「偽造されたジャンヌの遺骨」を参照)。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている。 百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。 イングランド軍が1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、アラスでフランス、イングランド、ブルゴーニュの3か国会議が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなり、アラスの和約締結に繋がった。 シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公が1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている。 ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンで、パテーの戦いからシャルル7世に疎まれ再度遠ざけられていたが、1432年にヨランドの要請で復帰、翌1433年に政敵のラ・トレモイユを追放して宮廷の実権を握った。それからリッシュモンは軍事・外交に手腕を発揮して各地でイングランド軍を駆逐、ブルゴーニュとフランスの和睦にも尽力して交渉をまとめ上げ、1435年に両国の和睦を果たし、1436年4月13日にパリをイングランドから奪還する手柄を挙げた。 パリ解放後もリッシュモンは活発な軍事活動を展開、ラ・イルとザントライユらジャンヌの戦友たちもリッシュモンのもとで従軍してフランス奪還を進めていった。1439年にリッシュモンはシャルル7世とともに貴族への課税と正規軍創設を考え、反対する貴族たちを1440年のプラグリーの乱で平定、イングランド軍掃討を続け1445年には正規軍制度を発足、大砲部隊も充実させフランス軍を精鋭部隊へと改良した。この軍隊を率いてリッシュモンは1449年にノルマンディーの大半を平定、翌1450年に奪還を図ったイングランド軍をフォルミニーの戦いで撃破、勢いに乗りノルマンディーをすべて制圧した。そして1453年にフランス軍はカスティヨンの戦いでタルボットを討ち取り、ボルドー平定をもって百年戦争を終結させた。 百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇カリストゥス3世も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判(nullification trial)」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。 修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。 1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた。しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外にあたるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した。 ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー(英語版)がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となっていった。 ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ(Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている。 辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。 その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー 男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった。 しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母ジャンヌ・ド・リュクサンブールは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている。 ジャンヌはナポレオン1世の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。第二次世界大戦では、親ドイツのヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンス(英語版)の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。 フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。 ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺るぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、聖マルグリット、聖カトリーヌ、そして大天使ミシェルだったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの3人であったかどうかに関しては曖昧な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。 ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかは判明していない。歴史家のなかには、ジャンヌの信仰心の顕(あらわ)れだといわれる神秘体験については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる。 ジャンヌの軍事的側面の研究者ケリー・デヴリーズは次のように述べている。 ただし、ジャンヌと同時代の記録も20世紀近くの歴史家たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致をみており、現代の学者の多くが、ジャンヌの神秘体験を精神医学あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの幻視の原因となった症例として、てんかん、偏頭痛、結核、統合失調症などが可能性として考えられている。ただし、ジャンヌの生涯に関する情報が不足していることもあり、これらの仮説の中で定説といえるものは存在しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した2人の医学者は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。 最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという可能性はありえない。 ジャンヌが加熱殺菌されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している。 ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王シャルル6世が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王シャルル5世も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王ヘンリー6世が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。 聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。 シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった。 ジャンヌが統合失調症などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが明敏(めいびん)だったことが証言されている。 彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした。 尋問に対するジャンヌの明晰な答えを恐れた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた。 精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。アメリカ精神医学会が定めた『精神障害の診断と統計マニュアル』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。ただ統合失調症の病態は非常に多様で幻聴が聞こえる以外の症状が全く存在しない例も存在する。しかし、天使などの幻視は比較的まれである。 ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。イェール大学の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている。 オルレアン公シャルル・ドルレアンがオルレアンの町の解放の謝礼としてジャンヌに送った衣服には詳細な覚書が残されており、それらの記述からアドリアン・アルマン(Adrian Harmand)は彼女の体格を次のように考察している。「ジャンヌ・ダルクの体は四肢の均等が取れ、強健で、美形で姿が整っていた。身長はだいたい1メートル58センチぐらいだと思われる。というのも彼女のブリュッセル布地の服の丈は80センチだからである」。当時男物の衣服の長さは必ず膝までであったという。 1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフランス人フィリップ・シャルリエ(フランス語版)がこの遺物を調査した。そして、放射性炭素年代測定やさまざまな分光分析が実施された結果、紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明した。真っ黒な外観は燃焼によるものではなく、死体防腐処理に使用された薬物によるものだった。また、調査では大量のマツの花粉も見つかっており、これはミイラ制作に使用された松脂の存在と一致する。さらに燃えた跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材でもあった。著名な香水製造者であるゲランとジャン・パトゥー(英語版)はかつて、この遺物からはバニラの匂いがすると語ったことがあったが、バニラ臭は肉体の腐敗する時に生ずる。中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。 世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。イングランドの劇作家ウィリアム・シェークスピアの戯曲『ヘンリー六世 第1部』、フランスの詩人ヴォルテールの詩『オルレアンの乙女(英語版)』、ドイツの思想家フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの乙女(英語版)』、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーの歌劇『オルレアンの乙女』、アメリカの作家マーク・トウェインの小説『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想(英語版)』、フランスの劇作家ジャン・アヌイの戯曲『ひばり(英語版)』、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの戯曲『食肉市場のジャンヌ・ダルク(英語版)』、『聖女ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョウン』、『ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアメリカの劇作家マクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』、デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤーの映画『裁かるるジャンヌ』、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの映画『ジャンヌ・ダルク裁判』、フランスの作曲家アルテュール・オネゲルが曲を書いたオラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』、カナダの詩人レナード・コーエンの楽曲『ジャンヌ・ダルク(英語版)』、イギリスのバンドオーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークの楽曲『ジャンヌ・ダルク(英語版)』などである。現在に至るまで映画、演劇、テレビ番組、テレビゲーム、音楽などさまざまな媒体で、ジャンヌを題材とした作品が作り続けられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジャンヌ・ダルク(フランス語: Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc、IPA: [ʒan daʁk]、英: Joan of Arc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orléans/英: The Maid of Orléans)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ジャンヌは現在のフランス東部ドンレミ(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという街)に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王シャルル7世の戴冠を成功させた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ジャンヌは、王太子シャルル(後のシャルル7世)を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。結果、王太子はランスでフランス王位に就くことができフランス王シャルル7世となることができた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。ナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "歴史家ケリー・デヴリーズ(英語版)は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。また当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュはフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1377年 - 1458年11月28日)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(la Pucelle d'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年頃に生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは13歳くらいの時だったと証言している。このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1428年、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール(英語版)(現在のムーズ県)へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス(英語版)とベルトラン・ド・プーランジ(英語版)という2人の貴族の知己を得た。この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。シノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当時、シャルル7世の妃マリーとルネの母でアンジュー公ルイ2世妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官(サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボット、トーマス・スケールズなど)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間)。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌがラ・イル、ジル・ド・レらとともに到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。しかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領かノルマンディー攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、ギー14世・ド・ラヴァル・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟やアルテュール・ド・リッシュモンなどが参加した。リッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。しかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "6月18日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦(英語版)で軍に復帰した。続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦(英語版)にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまう。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。イギリスとの和平の邪魔になることを恐れたシャルル7世自身がジャンヌダルクの復権を嫌ったという見方が有力です。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。ブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ジャンヌへの異端審問は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらに数名の法廷関係者がのちに、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、中にはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身につけた。『乙女の記録』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、のちに復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯した(戻り異端)として死刑判決を受けた。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2006年2月に法医学の専門家たちが、シノンの博物館に残るジャンヌのものだといわれている骨と皮膚を6か月かけて調査すると発表した(調査結果の詳細は後述「偽造されたジャンヌの遺骨」を参照)。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全なでっちあげともいえないとされた。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと結論づけられている。", "title": "ジャンヌの生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "イングランド軍が1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、アラスでフランス、イングランド、ブルゴーニュの3か国会議が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなり、アラスの和約締結に繋がった。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公が1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンで、パテーの戦いからシャルル7世に疎まれ再度遠ざけられていたが、1432年にヨランドの要請で復帰、翌1433年に政敵のラ・トレモイユを追放して宮廷の実権を握った。それからリッシュモンは軍事・外交に手腕を発揮して各地でイングランド軍を駆逐、ブルゴーニュとフランスの和睦にも尽力して交渉をまとめ上げ、1435年に両国の和睦を果たし、1436年4月13日にパリをイングランドから奪還する手柄を挙げた。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "パリ解放後もリッシュモンは活発な軍事活動を展開、ラ・イルとザントライユらジャンヌの戦友たちもリッシュモンのもとで従軍してフランス奪還を進めていった。1439年にリッシュモンはシャルル7世とともに貴族への課税と正規軍創設を考え、反対する貴族たちを1440年のプラグリーの乱で平定、イングランド軍掃討を続け1445年には正規軍制度を発足、大砲部隊も充実させフランス軍を精鋭部隊へと改良した。この軍隊を率いてリッシュモンは1449年にノルマンディーの大半を平定、翌1450年に奪還を図ったイングランド軍をフォルミニーの戦いで撃破、勢いに乗りノルマンディーをすべて制圧した。そして1453年にフランス軍はカスティヨンの戦いでタルボットを討ち取り、ボルドー平定をもって百年戦争を終結させた。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇カリストゥス3世も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判(nullification trial)」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた。しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外にあたるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ジャンヌは16世紀にフランスのカトリック同盟の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー(英語版)がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会で崇敬されているもっとも有名な聖人の一人となっていった。", "title": "ジャンヌの死後" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ(Jehanne)」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていたサリカ法の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 — スティーヴン・リッチー", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌはフェミニストではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母ジャンヌ・ド・リュクサンブールは、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃アンヌも、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者クリスティーヌ・ド・ピザンから今日に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ジャンヌはナポレオン1世の時代から、フランスを代表する政治的象徴だとみなされている。第二次世界大戦では、親ドイツのヴィシー政権と反ドイツのフランス・レジスタンス(英語版)の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌがナチの占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である国民戦線もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、出版する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの殉教をモチーフとした三色旗が使用されている。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "フランス海軍にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が2013年現在までに3隻存在している。1902年竣工の装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1931年竣工の軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク、1964年竣工のヘリ空母ジャンヌ・ダルクである。", "title": "後世への影響と評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺るぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、聖マルグリット、聖カトリーヌ、そして大天使ミシェルだったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの3人であったかどうかに関しては曖昧な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかは判明していない。歴史家のなかには、ジャンヌの信仰心の顕(あらわ)れだといわれる神秘体験については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ジャンヌの軍事的側面の研究者ケリー・デヴリーズは次のように述べている。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ただし、ジャンヌと同時代の記録も20世紀近くの歴史家たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致をみており、現代の学者の多くが、ジャンヌの神秘体験を精神医学あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの幻視の原因となった症例として、てんかん、偏頭痛、結核、統合失調症などが可能性として考えられている。ただし、ジャンヌの生涯に関する情報が不足していることもあり、これらの仮説の中で定説といえるものは存在しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した2人の医学者は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという可能性はありえない。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ジャンヌが加熱殺菌されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王シャルル6世が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王シャルル5世も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王ヘンリー6世が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ジャンヌが統合失調症などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが明敏(めいびん)だったことが証言されている。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "尋問に対するジャンヌの明晰な答えを恐れた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。アメリカ精神医学会が定めた『精神障害の診断と統計マニュアル』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。ただ統合失調症の病態は非常に多様で幻聴が聞こえる以外の症状が全く存在しない例も存在する。しかし、天使などの幻視は比較的まれである。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。イェール大学の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている。", "title": "幻視と神からの声" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "オルレアン公シャルル・ドルレアンがオルレアンの町の解放の謝礼としてジャンヌに送った衣服には詳細な覚書が残されており、それらの記述からアドリアン・アルマン(Adrian Harmand)は彼女の体格を次のように考察している。「ジャンヌ・ダルクの体は四肢の均等が取れ、強健で、美形で姿が整っていた。身長はだいたい1メートル58センチぐらいだと思われる。というのも彼女のブリュッセル布地の服の丈は80センチだからである」。当時男物の衣服の長さは必ず膝までであったという。", "title": "体格" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフランス人フィリップ・シャルリエ(フランス語版)がこの遺物を調査した。そして、放射性炭素年代測定やさまざまな分光分析が実施された結果、紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明した。真っ黒な外観は燃焼によるものではなく、死体防腐処理に使用された薬物によるものだった。また、調査では大量のマツの花粉も見つかっており、これはミイラ制作に使用された松脂の存在と一致する。さらに燃えた跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材でもあった。著名な香水製造者であるゲランとジャン・パトゥー(英語版)はかつて、この遺物からはバニラの匂いがすると語ったことがあったが、バニラ臭は肉体の腐敗する時に生ずる。中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。", "title": "偽造されたジャンヌの遺骨" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。イングランドの劇作家ウィリアム・シェークスピアの戯曲『ヘンリー六世 第1部』、フランスの詩人ヴォルテールの詩『オルレアンの乙女(英語版)』、ドイツの思想家フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの乙女(英語版)』、イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーの歌劇『オルレアンの乙女』、アメリカの作家マーク・トウェインの小説『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想(英語版)』、フランスの劇作家ジャン・アヌイの戯曲『ひばり(英語版)』、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの戯曲『食肉市場のジャンヌ・ダルク(英語版)』、『聖女ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョウン』、『ジャンヌ・ダーク』として映画化されたアメリカの劇作家マクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』、デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤーの映画『裁かるるジャンヌ』、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの映画『ジャンヌ・ダルク裁判』、フランスの作曲家アルテュール・オネゲルが曲を書いたオラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』、カナダの詩人レナード・コーエンの楽曲『ジャンヌ・ダルク(英語版)』、イギリスのバンドオーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークの楽曲『ジャンヌ・ダルク(英語版)』などである。現在に至るまで映画、演劇、テレビ番組、テレビゲーム、音楽などさまざまな媒体で、ジャンヌを題材とした作品が作り続けられている。", "title": "ジャンヌ・ダルクが主題の作品" } ]
ジャンヌ・ダルクは、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」とも呼ばれる。
{{Otheruses}} {{脚注の不足|date=2023-10}} {{Infobox 聖人 |名前 = ジャンヌ・ダルク |画像 = Joan of Arc miniature graded.jpg |画像サイズ = 250px |画像コメント = 1900年頃に描かれた[[ミニアチュール]]。ジャンヌを直接のモデルとして描いた肖像画は現存しておらず、このミニアチュールもジャンヌの死後に想像で描かれた作品である (Centre Historique des Archives Nationales, Paris, AE II 2490)。 |他言語表記 = {{lang-fr-short|Jeanne d'Arc}} |称号 = 殉教者 |生誕地 = [[File:Pavillon royal de la France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[ドンレミ=ラ=ピュセル|ドンレミ]]<ref>{{cite web|url=http://www.chemainustheatrefestival.ca/season_saint_timeline.html|title=Chemainus Theatre Festival > The 2008 Season > Saint Joan > Joan of Arc Historical Timeline|publisher=Chemainustheatrefestival.ca|date=|accessdate=2012-11-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130602171425/http://www.chemainustheatrefestival.ca/season_saint_timeline.html|archivedate=2013年6月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> |生誕年(日) = [[1412年]]頃[[1月6日]]<ref name=Pernoud>(see Pernoud's ''Joan of Arc By Herself and Her Witnesses'', p. 98: 「ブーランビリエはジャンヌがドンレミで生まれたと語った。そして正確な、あるいは正確だと思われるジャンヌの誕生日は、御公現の祝日1月6日だと証言した」</ref> |死去地 = {{ENG927}}(占領下)、[[ルーアン]] |死去年(日) = {{死亡年月日と没年齢|1412|1|6|1431|5|30}} |崇敬する教派 = |記念日 = [[5月30日]] |列福日 = [[1909年]][[4月18日]] |列福場所 = {{FRA1870}} [[ノートルダム大聖堂 (パリ)]] |列福決定者 = [[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]] |列聖日 = [[1920年]][[5月16日]] |列聖場所 = {{VAT}} [[サン・ピエトロ大聖堂]] |列聖決定者 = [[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]] |主要聖地 = |象徴 = |守護対象 = {{FRA}}、殉教者、捕虜、軍人、女性従軍者など<ref>http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=295</ref> |論争 = |崇敬対象除外日 = |崇敬対象除外者 = }} {{基礎情報 軍人 |氏名=ジャンヌ・ダルク |各国語表記= |箱サイズ= |生年月日= |没年月日= |画像=Coat of Arms of Jeanne d'Arc.svg |画像サイズ=200px |画像説明=ジャンヌ・ダルクの紋章 |渾名=オルレアンの乙女 |生誕地= |死没地= |所属組織= |軍歴= |最終階級= |除隊後= |墓所= |署名= }} '''ジャンヌ・ダルク'''({{lang-fr|Jeanne d'Arc}}、古綴:{{lang|fr|Jehanne Darc}}<ref group="注">D'Arc という綴りは[[近世]]になって変化してできたもので、[[15世紀]]当時には姓に[[アポストロフィ|アポストロフ]]をつける[[習慣]]は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている [http://www.stjoan-center.com/Album/part47.html www.stjoan-center.com/Album/, parts 47] and [http://www.stjoan-center.com/Album/part49.html 49]; it is also noted in Pernoud and Clin).</ref>、{{IPA-fr|ʒan daʁk|IPA}}、{{lang-en-short|Joan of Arc}}、[[ユリウス暦]][[1412年]]ごろ[[1月6日]]{{refnest|group="注"|現代の研究書ではジャンヌの誕生日が1月6日だと断言しているものが多い。しかしながら、ジャンヌは自身の年齢でさえも推測で答えることしかできなかった。ジャンヌの復権審理の場でもジャンヌの年齢は推測であり、復権審理に証人として出廷したジャンヌの名付親ですら、ジャンヌの生年月日を明らかにすることはなかった。1月6日がジャンヌの誕生日であるという説は、1429年7月21日のペルスヴァル・ブーランビリエ卿の証言を元にした書簡ただ1つに拠っている<ref name=Pernoud/>。しかしながらブーランビリエはドンレミの出身ではなく、このブーランビリエが語ったとされる証言の記録も残っていない。教区教会の出生記録に貴族以外の誕生日が記録され始めたのは、数世代後になってからのことである{{citation needed|date=January 2012}}。}} - [[1431年]][[5月30日]])は、[[15世紀]]の[[フランス王国]]の[[軍人]]。[[フランス]]の[[ヒロイン|国民的ヒロイン]]で、[[カトリック教会]]における[[聖人]]でもある。「'''オルレアンの乙女'''」({{lang-fr|la Pucelle d'Orléans}}<ref>[[アカデミー・フランセーズ]]国語辞典([http://artflx.uchicago.edu/cgi-bin/dicos/pubdico1look.pl?strippedhw=Pucelle])(''Dictionnaire de l'Académie française'', 仏語)</ref>/{{lang-en-short|The Maid of Orléans}}<ref>新グローバル英和辞典([http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0&dtype=1&dname=1ss&p=Maid])</ref>)とも呼ばれる。 == 概要 == ジャンヌは[[現在]]の[[フランス]]東部ドンレミ(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという街)に、[[農家|農夫]]の[[娘]]として生まれた。[[神]]の[[啓示]]を受けたとしてフランス軍に従軍し、[[イングランド王国|イングランド]]との[[百年戦争]]で重要な戦いに参戦し勝利を収め、各都市をフランスへ取り戻し、のちのフランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の戴冠を成功させた。 その後ジャンヌは[[ブルゴーニュ公国]]軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教[[ピエール・コーション]]によって「不服従と異端<ref>Marina Warner, Joan of Arc, Image of Female heroism, p.5</ref>」の疑いで[[異端審問]]にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で[[火刑]]に処せられてその生涯を終えた<ref name=ward/>。 ジャンヌが[[死亡|死去]]して25年後に、[[教皇|ローマ教皇]][[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]の命でジャンヌの[[ジャンヌ・ダルク復権裁判|復権裁判]]が行われた結果、ジャンヌの無実と[[殉教]]が宣言された<ref name=ward>Andrew Ward (2005) {{IMDb title|id=0421212|title=Joan of Arc}}</ref>。その後ジャンヌは[[1909年]]に[[列福]]、[[1920年]]には[[列聖]]され、フランスの守護聖人の一人となっている<ref group="注">他にフランスの守護聖人として、[[パリのディオニュシウス|聖ドニ]]、[[トゥールのマルティヌス|聖マルタン]]、[[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ9世]]、[[リジューのテレーズ|聖テレーズ]]などがいる。</ref>。 <!-- 以下の箇所は、上の「神の啓示を〜戴冠に貢献した。」と重複しているので、統合すべき。 --> ジャンヌは、[[ドーファン|王太子]]シャルル(後の[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。これを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だった[[オルレアン]]へとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。オルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。そしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。結果、王太子は[[ランス (マルヌ県)|ランス]]でフランス王位に就くことができフランス王[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]となることができた。 フランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。 == 背景 == 歴史家{{仮リンク|ケリー・デヴリーズ|en|Kelly DeVries}}は、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、[[1429年]]当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。[[1337年]]に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。ほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の[[焦土作戦]]によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた<ref>John Aberth. ''From the Brink of the Apocalypse'',Routledge, 2000 ISBN 0-415-92715-3, ISBN 978-0-415-92715-4 [https://books.google.co.uk/books?id=4xyp-SscNBkC&pg=PA85&hl=en p. 85]</ref>。また当時のフランスは[[ペスト#歴史|黒死病]]によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。ジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。デヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の([[カペー朝]]の)面影すらなかった」と記している<ref>DeVries, pp. 27 – 28.</ref>。 ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王は[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]だったが、精神障害に悩まされており<ref>{{cite web |url=http://www.history.ac.uk/richardII/charlesVI.html |title=Charles VI |publisher=Institute of Historical Research |accessdate=9 March 2010}}</ref>、国内統治がほとんど不可能な状態だった。王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟の[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]と、従兄弟のブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)がフランス[[摂政]]の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして[[1407年]]にオルレアン公が無怖公の配下に[[暗殺]]されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった<ref>{{cite web |url=http://www.burgundytoday.com/historic-places/history-of-burgundy/dukes-of-burgundy.htm |title=The Glorious Age of the Dukes of Burgundy |publisher=Burgundy Today |accessdate=9 March 2010}}</ref>。 オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれ[[アルマニャック派]]と[[ブルゴーニュ派]]と呼ばれるようになっていった。イングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は[[1415年]]の[[アジャンクールの戦い]]で大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る<ref>DeVries, pp. 15 – 19.</ref>。そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた<ref>Pernoud and Clin, p. 167.</ref>。 王太子が果たした最初の重要な公式活動は、[[1419年]]にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子の[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった<ref>DeVries, p. 24.</ref>。 [[1420年]]にシャルル6世妃[[イザボー・ド・バヴィエール|イザボー]]は、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容の[[トロワ条約]]にサインした。この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった<ref>Pernoud and Clin, pp. 188 – 189.</ref>。ヘンリー5世は[[1422年]]8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟[[ベッドフォード公爵|ベッドフォード公]][[ジョン・オブ・ランカスター|ジョン]]が[[摂政]]として国政を司った<ref>DeVries, p. 24, 26.</ref>。 1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュはフランス王室と関係が深い[[ランス (マルヌ県)|ランス]]を支配下に置いた。ランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。[[パリ]]と[[ルーアン]]を占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した([[オルレアン包囲戦]])。[[ロワール川]]沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである<ref>Pernoud and Clin, p. 10.</ref>。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた<ref>DeVries, p. 28.</ref>。 == ジャンヌの生涯 == === 生い立ち === [[File:Jeannedarcbirthplace.jpg|thumb|ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。]] ジャンヌは[[ジャック・ダルク]]と{{仮リンク|イザベル・ロメ|en|Isabelle Romée}}の娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1377年 - 1458年11月28日)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている<ref group="注">シャルル7世は1429年12月29日にジャック一家の[[家格]]を引き上げ、1430年1月20日には貴族に叙したというフランス会計院の記録が残っている。これによってジャック一家の姓は「ドゥ・リス({{lang|fr|du Lys}})」に変わった。</ref>。 ジャンヌが生まれたのは[[バル公領]]の村[[ドンレミ=ラ=ピュセル|ドンレミ]]で、当時のバル公領は、[[マース川]]西部がフランス領、マース川東部が[[神聖ローマ帝国]]領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。バル公領はのちに[[ロレーヌ公国]]に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン({{lang|fr|la Pucelle d'Orléans}})」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている<ref>Condemnation trial, p. 37.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html]. Retrieved 23 March 2006.</ref>。 ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた<ref>Pernoud and Clin, p. 221.</ref>。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。 === 神の声を聴く === のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年頃に生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは13歳くらいの時だったと証言している。このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、[[大天使]][[ミカエル]]、[[アレクサンドリアのカタリナ]]、[[アンティオキアのマルガリタ]]の姿を[[幻覚|幻視]]し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルを[[ランス (マルヌ県)|ランス]]へと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている<ref>Condemnation trial, pp. 58 – 59.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html]. Retrieved 23 March 2006.</ref>。 [[1428年]]、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んで{{仮リンク|ヴォクルール|en|Vaucouleurs}}(現在の[[ムーズ県]])へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者[[ルネ・ダンジュー]]の顧問官でもあった[[ロベール・ド・ボードリクール]]伯に[[シノン]]の[[シノン城|仮王宮]]を訪れる許可を願い出た。ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった<ref>DeVries, pp. 37 – 40.</ref>。翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、{{仮リンク|ジャン・ド・メス|en|Jean de Metz|redirect=1}}と{{仮リンク|ベルトラン・ド・プーランジ|en|Bertrand de Poulengy|redirect=1}}という2人の貴族の知己を得た<ref name="Nullification">Nullification trial testimony of Jean de Metz.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null04.html]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊での[[ニシンの戦い]]でフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した<ref>Oliphant, ch. 2.[http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。 === 歴史への登場 === [[File:Traité de Troyes.svg|300px|thumb|'''1415年-1429年'''{{Legend|#ea8b9d|イングランド王ヘンリー6世の支配下}} {{Legend|#c896c8|ブルゴーニュ公フィリップ3世の支配下}} {{Legend|#7f9ad7|フランス王太子シャルル7世の支配下}} {{Legend|#ffff00|主戦場}} {{Legend-line|red dotted 2px|1415年のイングランド軍侵攻路}} {{Legend-line|white dotted 2px|ドンレミからシノンに至るジャンヌの進路}} {{Legend-line|blue dotted 2px|1429年のランスに至るジャンヌの進路}}]] {{See also|オルレアン包囲戦}} ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。ジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮がある[[シノン]]へと向かった<ref name="Richey">Richey, p. 4.</ref>。シノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。 当時、シャルル7世の妃[[マリー・ダンジュー|マリー]]とルネの母で[[アンジュー]]公[[ルイ2世・ダンジュー|ルイ2世]]妃の[[ヨランド・ダラゴン]]が、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。ジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。ジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。フランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。 {{Quotation|1= 度重なる屈辱的な敗戦でフランスの軍事力も国力も瓦解し、その指導力は失墜しきっていた。王太子シャルルがジャンヌの突拍子もない軍備の要求を認め、さらには軍の指揮官の一人に据えた背景には、それまで試みてきたありとあらゆる正攻法が失敗に終わったことに大きな原因があろう。崩壊寸前の絶望的な状況に置かれた政権のみが、母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたなどという無学な農夫の娘の訴えに耳を傾けるのだ。 |2=Stephen W. Richey |3="Joan of Arc: A Military Appreciation"<ref>{{cite web |url=http://www.stjoan-center.com/military/stephenr.html |title=Joan of Arc: A Military Appreciation |last=Richey|first=Stephen W. |year=2000 |publisher=The Saint Joan of Arc Center |accessdate=10 July 2011 }}</ref> }} 神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた<ref name="Vale, M.G.A. 1974, p. 55">Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 55.</ref>。しかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。シャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。 ジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、[[ポワチエ]]での教理問答を命じた。そして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した<ref name="Vale, M.G.A. 1974, p. 55"/>。一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。ただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。 これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは[[聖霊]]の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した<ref>Vale, M.G.A., 'Charles VII', 1974, p. 56.</ref>。ジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官([[サフォーク伯]][[ウィリアム・ド・ラ・ポール (初代サフォーク公)|ウィリアム・ド・ラ・ポール]]、[[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]、[[トーマス・スケールズ]]など)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間){{sfn|ペルヌー|クラン|1992|p=74 - 76}}{{sfn|清水|1994|p=148 - 150}}。 イングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌが[[ラ・イル]]、[[ジル・ド・レ]]らとともに到着したのは1429年4月29日だった。当時オルレアン公[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]はイングランドの捕虜となっており、異母弟[[ジャン・ド・デュノワ]]がオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった<ref group="注">歴史書や小説では、ジャンヌを冷遇したデュノワを別の名前で記していることが多い。ジャンヌの死後にデュノワが叙爵された、デュノワ伯爵という称号で記述している書物もある。ジャンの存命時には、デュノワは庶子でフランス王シャルル7世の最年長の従兄弟だったことから敬意をこめて「オルレアンの私生児」と呼ばれていた。現在の「私生児({{lang|en|bastard}})という言葉には侮蔑的な意味が強いため、「私生児」と呼ばれていた当時のド・デュノワが馬鹿にされていたと勘違いされることも少なくない。オルレアン公家との関係を強調した「ジャン・ドルレアン({{lang|fr|Jean d'Orleans}})」という呼称は必ずしも正確ではないが、時代錯誤的な間違いとはいえない (see Pernoud and Clin, pp. 180 – 181)。</ref>。しかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。 ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。エドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている<ref>Perroy, p. 283.</ref>。この説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。この説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。スティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている<ref name="Richey"/>。ただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している<ref>Pernoud and Clin, p. 230.</ref>。 === ジャンヌの軍事指揮能力 === {| class="toccolours" style="float:right; margin-left:10px; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5" |- | style="text-align:left;"|「... ここにいる乙女が八日間でロワール川に陣取っていたイングランド軍を打ち破り、完全に駆逐しました。イングランド兵士は戦死あるいは捕虜となり、戦いの意思を失っています。サフォーク伯、ラ・ポール卿兄弟、タルボット卿、スケールズ卿、ファストルフ卿ら、イングランドの貴顕や指揮官たちが敗北したことは紛れもない事実なのです」 |- | style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年6月25日にトゥルネー市民に送った書簡。Quicherat V, pp.&nbsp;125–126. |} ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。ジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。 ジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。デュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。 この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。しかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した<ref>DeVries, pp. 74 – 83</ref>。ジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった<ref group="注">敬虔なカトリック教徒はこの出来事がジャンヌが聖なる使命を帯びていたことの証拠だと見なしている。シノンとポワチエで、ジャンヌはオルレアンへ向かえという神の声を聴いたと公言した。オルレアンでの戦功で高まったジャンヌの名声は、アンブラン大司教などの有力な聖職者や著名な神学者[[ジャン・ジェルソン]]からの支持を得ることにつながった。両者ともにこの出来事の直後にジャンヌを支持する声明を発表している</ref>。 オルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。イングランド軍はパリの再占領か[[ノルマンディー]]攻略を目指していた。予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身を[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン公]][[ジャン2世 (アランソン公)|ジャン2世]]の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。しかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった<ref>DeVries, pp. 96 – 97.</ref>。 イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日に[[ジャルジョーの戦い]]、6月15日に[[モン=シュル=ロワールの戦い]]、6月17日に[[ボージャンシーの戦い (1429年)|ボージャンシーの戦い]]と、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。ジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。そして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。ジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた<ref>Nullification trial testimony of Jean, Duke of Alençon.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。このジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に[[カタパルト (投石機)|投石器]]から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。 戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、[[ギー14世・ド・ラヴァル]]・[[アンドレ・ド・ラヴァル]]兄弟や[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]などが参加した。リッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。しかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った{{sfn|清水|1994|p=197 - 201}}。 6月18日に[[ジョン・ファストルフ]]卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間に[[パテーの戦い]]の戦端が開かれた。フランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年の[[アジャンクールの戦い]]とは比較されることがある。パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルと[[ジャン・ポトン・ド・ザントライユ]]らフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。これによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。ファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった<ref>DeVries, pp. 114 –115.</ref>。 {| class="toccolours" style="float:right; margin-left:10px; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5" |- | style="text-align:left;"|「ブルゴーニュ大公。私は伏して貴君に心からお願いいたします。これ以上、聖なるフランス王国と戦いを続けるのはおやめください。聖なる王国の国土や城塞から、一日も早く軍を退いていただけますよう。そして私は、平和を愛するフランス国王の名代として、国王が名誉にかけて貴君との和平を望んでいることをお伝えします」 |- | style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年7月17日にブルゴーニュ公フィリップ3世に宛てた書簡。Quicherat V, pp.&nbsp;126–127. |} フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日には[[オセール]]を占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結された[[トロワ]]も、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した<ref>DeVries, pp. 122 – 126.</ref>。また、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。この問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。そして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである<ref>Lucie-Smith, pp. 156 – 160.</ref>。 ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。ジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。しかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った<ref>DeVries, p. 134.</ref>。ブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。 イングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である([[パリ包囲戦 (1429年)|パリ包囲戦]])。この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。しかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯[[ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ]]の意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している<ref group="注">[[歴史家]]たちの間でもラ・トレモイユに対する[[非難]]の度合いには温度差があり、ちょっとした陰謀に加担したというものから、口を極めて[[侮蔑|罵倒]]しているものまでさまざまである。Gower, ch. 4.[http://www.gutenberg.org/files/16933/16933.txt] (Retrieved 12 February 2006) ,Pernoud and Clin, pp. 78 – 80; DeVries, p. 135; and Oliphant, ch. 6.[http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。10月にジャンヌは{{仮リンク|サン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦|en|Siege of Saint-Pierre-le-Moûtier}}で軍に復帰した。続いて11月から12月の{{仮リンク|ラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦|en|Siege of La Charité}}にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。そして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。 {{-}} <gallery> File:Grande salle château de Chinon.JPG|ジャンヌと王太子シャルル7世が出会ったシノン城の大広間跡。シノン城で唯一現存している塔がジャンヌの記念博物館になっている。 File:The Maid of Orléans.PNG|[[ヤン・マテイコ]]が描いた、1429年のジャンヌのランス進駐。 File:Chateau Beaugency ballon.jpg|ジャンヌの戦場となった現存する数少ない城塞{{仮リンク|ボージャンシー城|en|Beaugency}}。フランス軍が都市の城壁を打ち破ると、イギリス軍は画面右上に見える塔に立て篭もった。 File:Notre Dame de Reims - détail haut.JPG|歴代フランス王が戴冠式を挙行したランスの[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]。1481年に火災に遭っており、現在見られる尖塔は火災後に増築されたもの。 File:ingres coronation charles vii.jpg|[[ドミニク・アングル]]が1854年に描いた『シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク』([[ルーヴル美術館]]、パリ)。長い髪、スカートなど、ジャンヌの女性らしさをより強調した作風となっている。 </gallery> === 捕縛 === [[File:Capture de Jeanne.JPG|thumb|[[コンピエーニュ]]でブルゴーニュ公国軍に捕らえられるジャンヌ。パリの[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]の壁画。]] フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派[[フス派]]への書簡を書き取らせた。フス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。ジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた<ref>Pernoud and Clin, pp. 258 - 259.</ref>。 フランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月に[[コンピエーニュ包囲戦]]の援軍として[[コンピエーニュ]]へ向かった。1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯[[ジャン2世・ド・リュクサンブール (リニー伯)|ジャン2世]]の捕虜となってしまう<ref name="barbara_geiger1"> {{cite journal | title=A Friend to Compiegne | author=Geiger,Barbara | journal=Calliope Magazine | year=2008 | month=April | volume=18 | issue=8 | pages=32 – 34 }}</ref>。ブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ<ref name="barbara_geiger1" />、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。しかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった<ref>DeVries, pp. 161 – 170.</ref>。 {| class="toccolours" style="float:left; margin-left:0; margin-right:1em; font-size:85%; background:#c6dbf7; color:black; width:30em; max-width:40%;" cellspacing="5" |- | style="text-align:left;"|「王(シャルル7世)がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだのは事実であり、ブルゴーニュ公が15日が経たないうちにパリへと兵を進軍させたのも事実です。私がすぐさまパリに向かわなかったとしても驚くことではありません。私はこういった休戦協定には反対であり、私自身がこの協定を破る可能性すらあります。私がこの協定を尊重するとすれば、それは王の名誉を守るためという一点だけです。王族の間で交わされるこのような協定が今回の15日間の休戦協定のように平和をもたらさない馬鹿げたものであっても、私は協定を守り、不測の事態に備えて軍を整えることでしょう」 |- | style="text-align:left;"| -- ジャンヌが1429年8月5日にランス市民に宛てた書簡。 Quicherat I, p.&nbsp;246. |} <span style="white-space:nowrap">当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って</span>、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。イギリスとの和平の邪魔になることを恐れたシャルル7世自身がジャンヌダルクの復権を嫌ったという見方が有力です。母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。ブルゴーニュ公領の[[アラス]]に移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった<ref>Pernoud, Regine. ''Joan of Arc: Her Story'', p. 96.</ref>。 水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教[[ピエール・コーション]]がイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ヘンリー・ボーフォート]]枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った{{sfn|清水|1994|p=265 - 272}}。そしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる<ref>"Joan of Arc, Saint". ''Encyclopædia Britannica''. 2007. Encyclopædia Britannica Online Library Edition. 12 September 2007 <http://www.library.eb.com.ezproxy.ae.talonline.ca/eb/article-27055{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}>.</ref>。 {{-}} === 異端審問 === {{See also|ジャンヌ・ダルク処刑裁判}} [[File:Tour Jeanne D'Arc10.jpg|thumb|異端審問裁判期間にジャンヌが監禁されていたルーアン城の塔。後に「ジャンヌ・ダルクの塔」として知られるようになった。]] ジャンヌへの[[異端審問]]は政治的思惑を背景としていた。ベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。ジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。そして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていた[[ルーアン]]で、ジャンヌの異端審問裁判が開始された<ref group="注">判事たちによる予審が1月9日から3月26日まで、通常の審理が3月26日から5月24日まで、異議申し立てが5月24日、再審理が5月28日と29日という日程だった。</ref>。しかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。 [[File:joan of arc interrogation.jpg|thumb|left|[[ポール・ドラローシュ]]が1824年に描いた『ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク』([[ルーアン美術館]]、ルーアン)。]] ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる<ref group="注">後の復権裁判では、コーションがジャンヌの裁判について何の権能も持っていなかったことが判決文中に明示されている(''Joan of Arc: Her Story'', Pernoud and Clin, p. 108)。フランス人の副裁判官は、最初からこの裁判は管轄外であるとして異議を唱えていた。</ref>。コーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。ジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった<ref>Nullification trial testimony of Father Nicholas Bailly.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null03.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。 さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した<ref>Taylor, Craig, ''Joan of Arc: La Pucelle'', p. 137.</ref>。 この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。 {{quotation|「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから。」|『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 86-87頁<ref>Condemnation trial, p. 52.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>}} この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している<ref name="Pernoud112">Pernoud and Clin, p. 112.</ref>。20世紀の劇作家[[ジョージ・バーナード・ショー]]はこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた<ref>Shaw, "Saint Joan". Penguin Classics; Reissue edition (2001). ISBN 0-14-043791-6</ref>。 さらに数名の法廷関係者がのちに、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。審問官の[[ジャン・ル・メートル]]も意に沿わぬ裁判に集められた一人で、中にはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。また、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。しかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。コーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議である[[バーゼル公会議]]や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した<ref>Pernoud and Clin, p. 130.</ref>。 裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している<ref>Condemnation trial, pp. 314 – 316.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。ジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた<ref>Condemnation trial, pp. 342 – 343.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] (Retrieved 12 February 2006) Also nullification trial testimony of Brother Pierre Migier, "As to the act of recantation, I know it was performed by her; it was in writing, and was about the length of a Pater Noster."[http://www.stjoan-center.com/Trials/null09.html] (Retrieved 12 February 2006) In modern English this is better known as the [[:en:Lord's Prayer]], Latin and English text available here:[http://www.christusrex.org/www1/pater/] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。 === 処刑 === [[File:Stilke Hermann Anton - Joan of Arc's Death at the Stake.jpg|thumb|ヘルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』([[エルミタージュ美術館]]、[[サンクトペテルブルク]])。ジャンヌは白いロングスカートを身に付け、頭には罪人を示す被り物がある。]] 当時[[異端]]の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけだった。ジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた<ref>See Pernoud, p. 220, which quotes appellate testimony by Friar Martin Ladvenu and Friar Isambart de la Pierre.</ref>。このような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった<ref>Nullification trial testimony of Jean Massieu.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null02.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。 [[File:Joan of Arc Roen Burning place IMG 1602.JPG|thumb|left|150px|マキシム・レアル・デル・サルトが1928年に制作したジャンヌの彫像。ジャンヌが処刑された場所から数インチのところに設置されている。2002年10月には歴史的記念物に登録された。]] ジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身につけた。『乙女の記録』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。ジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している<ref>Nullification trial testimony of Guillaume de Manchon.[http://www.stjoan-center.com/Trials/#nullification] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった<ref group="注">中世装束の専門家アドリアン・ハルマンは、ジャンヌが20もの留め具で上着と結びつけられた2枚の[[ズボン]]を着用していたとしている。さらに表のズボンはブーツのような[[皮革|皮革製]]だった。"Jeanne d'Arc, son costume, son armure."[http://lerozier.free.fr/chausses.htm]{{fr icon}} . Retrieved 23 March 2006.</ref>。 ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。ポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。ジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった<ref group="注">Condemnation trial, p. 78.[http://www.fordham.edu/halsall/basis/joanofarc-trial.html] (Retrieved 12 February 2006) ポワティエの神学理論教授でジャンヌの復権裁判でも証言した司祭セガンは、直接的にはジャンヌの服装について言及していないが、その供述はジャンヌが非常に信心深い女性だったかということを肯定する心情にあふれている。[http://www.stjoan-center.com/Trials/null05.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。ジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。神学者[[ジャン・ジェルソン]]などジャンヌの支持者たちは、のちに復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの[[髪型#短髪(ショートヘア)|短髪]]を弁護している<ref>Fraioli, "Joan of Arc: The Early Debate", p. 131.</ref>。しかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが[[女装]]をするという誓いを破って[[男装]]に戻ったことが[[異端]]にあたると宣告され、異端の[[犯罪|罪]]を再び犯した(戻り異端)として[[死刑]][[判決]]を受けた。 1431年5月30日に執行されたジャンヌの[[火刑]]の目撃証言が残っている。場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、[[立会人]]のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に[[十字架]]を掲げて欲しいと頼んだ。一人のイングランド兵士も、ジャンヌの[[被服|服]]の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。そして火刑に処せられて[[死去|息絶えた]]ジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが[[薪]]の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの[[死体|遺体]]を人々の前に晒した。さらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び[[火]]がつけられて[[灰]]になるまで燃やされた。灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。ジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「[[地獄]]へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている<ref>Pernoud, p. 233.</ref>。 2006年2月に[[法医学]]の専門家たちが、シノンの[[博物館]]に残るジャンヌのものだといわれている[[骨]]と[[皮膚]]を6か月かけて調査すると発表した(調査結果の詳細は後述「[[#偽造されたジャンヌの遺骨|偽造されたジャンヌの遺骨]]」を参照)。この調査からはこれらの骨や皮膚がジャンヌのものであるかどうかは判明しなかったが、放射線炭素年代測定や性別調査の結果から、完全な[[偽情報|でっちあげ]]ともいえないとされた<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4711784.stm]. Retrieved 1 March 2006)</ref>。しかしながら、2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、ジャンヌのものとは考えられないと[[結果|結論]]づけられている<ref>[http://www.msnbc.msn.com/id/16257470/] . Retrieved 17 December 2006.</ref>。 == ジャンヌの死後 == === 百年戦争の趨勢 === [[File:Joan of Arc-Notre Dame.jpg|thumb|upright|right|パリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]に安置されているジャンヌの彫像。]] 百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。 イングランド軍が1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった[[1435年]]に、[[アラス]]でフランス、イングランド、ブルゴーニュの3か国会議が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなり、[[アラスの和約 (1435年)|アラスの和約]]締結に繋がった。 シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公が1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている<ref>DeVries, pp. 179 – 180.</ref>。 <!--In 1452, during the posthumous investigation into her execution, the Church declared that a religious play in her honor at Orléans would allow attendees to gain an [[indulgence]] (remission of temporal punishment for sin) by making a [[pilgrimage]] to the event.--> ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンで、パテーの戦いからシャルル7世に疎まれ再度遠ざけられていたが、[[1432年]]にヨランドの要請で復帰、翌[[1433年]]に政敵のラ・トレモイユを追放して宮廷の実権を握った。それからリッシュモンは軍事・外交に手腕を発揮して各地でイングランド軍を駆逐、ブルゴーニュとフランスの和睦にも尽力して交渉をまとめ上げ、1435年に両国の和睦を果たし、[[1436年]][[4月13日]]にパリをイングランドから奪還する手柄を挙げた{{sfn|ペルヌー|クラン|1992|p=266 - 267,269 - 270}}{{sfn|清水|1994|p=351 - 353,353 - 359}}。 パリ解放後もリッシュモンは活発な軍事活動を展開、ラ・イルとザントライユらジャンヌの戦友たちもリッシュモンのもとで従軍してフランス奪還を進めていった。[[1439年]]にリッシュモンはシャルル7世とともに貴族への課税と正規軍創設を考え、反対する貴族たちを[[1440年]]の[[プラグリーの乱]]で平定、イングランド軍掃討を続け[[1445年]]には正規軍制度を発足、大砲部隊も充実させフランス軍を精鋭部隊へと改良した{{sfn|清水|1994|p=359 - 362,365 - 379}}。この軍隊を率いてリッシュモンは[[1449年]]にノルマンディーの大半を平定、翌[[1450年]]に奪還を図ったイングランド軍を[[フォルミニーの戦い]]で撃破、勢いに乗りノルマンディーをすべて制圧した。そして[[1453年]]にフランス軍は[[カスティヨンの戦い]]で[[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|タルボット]]を討ち取り、[[ボルドー]]平定をもって百年戦争を終結させた{{sfn|ペルヌー|クラン|1992|p=272 - 273,279}}{{sfn|清水|1994|p=379 - 381,387 - 389,392 - 393}}。 === 復権裁判 === {{Main|ジャンヌ・ダルク復権裁判}} 百年戦争の終結後に、ジャンヌの復権裁判が開かれた。ローマ教皇[[カリストゥス3世 (ローマ教皇)|カリストゥス3世]]も公式に承認したこの裁判は「(異端)無効化裁判({{lang|en|nullification trial}})」とも呼ばれ、フランス異端審問官長ジャン・ブレアルとジャンヌの母イザベル・ヴトンからの要請によるものだった。この復権裁判の目的はジャンヌに対する有罪宣告と陪審評決が、教会法の観点から正当なものだったがどうかを明らかにすることだった。 修道士ギョーム・ブイユによる調査から裁判が開始され、ブレアルが1452年からこの裁判を主導することとなった。ジャンヌの復権裁判の開廷が公式に宣言されたのは1455年11月である。この裁判にはヨーロッパ各地の聖職者たちも関与しており、正式な法的手順を逸脱することのないように注視されていた。裁判に携わった神学者たちは115人分の宣誓供述を審理した。 1456年6月にブレアルは、ジャンヌが殉教者であり、異端審問を主導したピエール・コーションが無実の女性に異端の罪を被せたとする結果をまとめ上げた。ジャンヌの直接の処刑の原因となった男装については、女性の服装に関する教会法の観点から有効とされていた<ref>{{bibleref|Deuteronomy|22:5}}</ref>。しかしながら、有罪を宣告される過程においてジャンヌが拘束されていたことが教義上の例外にあたるとして、復権裁判では異端審問での有罪判決が覆されている。そして復権裁判法廷は、1456年7月7日にジャンヌの無罪を宣告した<ref>Nullification trial sentence rehabilitation.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null13.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。 <gallery> File:Vigiles du roi Charles VII 02.jpg|『シャルル7世年代記』の、ジャンヌとシャルル7世が描かれたミニアチュール。 File:Jeanne d'Arc - Les vies des femmes célèbres.jpg|1505年の装飾写本に描かれた、騎乗するジャンヌ。 File:Vigiles du roi Charles VII 05.jpeg|『シャルル7世年代記』の、パリ攻撃が描かれたミニアチュール。 File:Vigiles du roi Charles VII 10.jpg|『シャルル7世年代記』の、捕縛されるジャンヌが描かれたミニアチュール。 </gallery> === 列聖 === [[File:Jeandarc-07can 1920 Bernini's gloria.jpg|thumb|ジャンヌ・ダルク列聖(1920年5月16日)。]] {{Main|ジャンヌ・ダルク列聖}} ジャンヌは16世紀にフランスの[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]の象徴となっていった。1849年にオルレアン大司教に任命された{{仮リンク|フェリックス・デュパンルー|en|Félix Dupanloup}}がジャンヌを大いに賞賛する演説を行い、フランスのみならずイングランドの耳目も集めた。デュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介は、1909年4月18日にローマ教皇[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]からのジャンヌの[[列福]]となって結実した。さらに1920年5月16日には、ローマ教皇[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]がジャンヌを[[列聖]]した。そしてジャンヌはローマ・カトリック教会で[[崇敬]]されているもっとも有名な[[聖人]]の一人となっていった<ref group="注">ジャンヌはカトリック教会公式サイトで、もっとも閲覧されている聖人となっている [http://www.catholic.org/saints/popular.php]。Retrieved 12 February 2006.</ref>。 == 後世への影響と評価 == [[File:Jehanne signature.jpg|thumb|ジャンヌは文盲だったため、[[手紙|書簡]]はすべて[[筆記|口述筆記]]させたものだった。現存する3通のジャンヌの書簡にはジャンヌの[[署名]]が入っている。]] ジャンヌはその死後4世紀にわたって半ば神格化されてきた。ジャンヌに関する伝記の主たる情報源は年代記によるものである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見された。この発見からまもなく歴史家たちの手によって、115人分の宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出された。当時やりとりされたさまざまな書簡も発見され、それらの中の3通の書簡からは「ジャンヌ({{lang|fr|Jehanne}})」という、明らかに読み書きの教育を受けていない人物の手による署名が見つかった<ref>Pernoud and Clin, pp. 247 – 264.</ref>。これらジャンヌに関して発見された大量の一次資料について、デヴリーズは「男女を問わず中世の人物のなかで、これほど研究の対象となっているものはいない」としている<ref>DeVries in "Fresh Verdicts on Joan of Arc", edited by Bonnie Wheeler, p. 3.</ref>。 辺鄙な小村に生まれた無学な農夫の娘ジャンヌ・ダルクは10代にして途方もない名声を手にいれた。フランスとイングランドの国王は、およそ1000年前に成立し、ヨーロッパの王位継承権の根拠となっていた[[サリカ法典|サリカ法]]の解釈の違いを言い立て、自分たちの立場を正当化しつつ戦争を継続した。百年戦争は王位継承権に関するフランス王家とイングランド王家との対立だったといえる。しかしジャンヌは、この両国間の戦争に新たな概念と視点をもたらした。あるときジャン・ド・メスがジャンヌに「フランス王が国を追われたら、我々はイングランド人となるのだろうか」と問いかけたことがある<ref name="Nullification"/>。スティーヴン・リッチーは「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒したときは別だということをジャンヌは理解していた」としている<ref name="stjoan-center">Richey,[http://www.stjoan-center.com/military/stephenr.html] . Retrieved 12 12 February 2006.</ref>。リッチーはジャンヌは後世に与えた広い訴求力を次のように記している。 {{quotation| その死後5世紀にわたって、人々は彼女(ジャンヌ)をありとあらゆることに関連付けようとしてきた。悪魔崇拝、神秘主義、権力悪用の言い訳、近現代ナショナリズムの始祖にして象徴、畏敬すべきヒロイン、聖人。拷問におびえ、火刑に処せられるそのときであっても、彼女は神の声に導かれたのだと主張し続けた。実際に彼女が神の声を聞いたかどうかに関係なく、彼女がその生涯で成し遂げたことを知った人は、誰もが驚嘆と感嘆で心を揺さぶられることだろう。 |スティーヴン・リッチー<ref name=stjoan-center/> }} 男勝りの活躍をしたとはいえ、ジャンヌは[[フェミニスト]]ではなかった。ジャンヌの行動原理は、神の声を聴き自身が選ばれた人間だと信じた、あらゆる階層の人々に見られる伝統的な宗教観に則ったものだった。ジャンヌはフランス軍から戦闘に関係のない女性を追い出し、時には言うことを聞かないこれら非戦闘従軍者を剣の腹で殴りつけたこともあった<ref group="注">[[通説]]とは異なり、もちろん[[売春]]も行われてはいたが、[[女性]]の非戦闘従軍者の主な[[役割]]はそれではなく、[[調理|炊事]]、[[洗濯]]、荷駄[[運搬]]といった支援の役目を果たしていた。また、従軍している[[兵士]]の[[妻]]であることも多かった。Byron C. Hacker and Margaret Vining, "The World of Camp and Train: Women's Changing Roles in Early Modern Armies".[http://www.assostoria.it/Armisovrano/Hacker-Vining.pdf] . Retrieved 12 February 2006.</ref><ref group="注">ジャンヌの上司だったアランソン公は、ジャンヌが[[サン=ドニ]]で非戦闘従軍者に向けて剣を叩き折るのを目撃した。ジャンヌの小姓だったルイ・ド・コンテは復権裁判で、ティエリ城近くで起きたこの出来事は単なる口頭での注意に過ぎなかったと証言している。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] . Retrieved 12 February 2006.</ref>。 しかし、ジャンヌが受けた重要な支援のなかには女性から受けたものもある。シャルル7世の姑であるアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンはジャンヌの処女性を支持し、彼女がオルレアンへ向かうために必要な財政支援をした女性だった。コンピエーニュで監禁されていたジャンヌの監視責任者だったリニー伯の叔母[[ジャンヌ・ド・リュクサンブール]]は、ジャンヌに対する待遇を改善し、おそらくは彼女がイングランド軍へ引き渡されるのを遅らせようとした女性だった。そしてブルゴーニュ公フィリップ3世の妹で、ジャンヌと敵対していたベッドフォード公の妃[[アンヌ・ド・ブルゴーニュ (1404-1432)|アンヌ]]も、異端審問に先立つ審理でジャンヌが処女であると証言した女性だった<ref group="注">ジャンヌの聴罪司祭が処女膜検査と記している手法は、処女かどうかを判断するのに十分とはいえない。しかし、当時の最上流階級の既婚女性たちが賛同した手法だった。 Rehabilitation trial testimony of Jean Pasquerel.[http://www.stjoan-center.com/Trials/null07.html] Retrieved 12 March 2006.</ref> 。これにより、異端審問ではジャンヌが悪魔と交わって取引をした魔女であると告発することはできなかった。結果的にはこのことが、のちにジャンヌの正当性と聖性を証明する一助となった。15世紀の女権論者の文学者[[クリスティーヌ・ド・ピザン]]から[[今日]]に至るまで、ジャンヌは勇敢で行動的な女性の好例とみなされている<ref>English translation of Christine de Pizan's poem "La Ditie de Jeanne d'Arc" by L. Shopkow.[http://www.indiana.edu/~sotl/portfolios/shopkow/joan.htm] (Retrieved 12 February 2006) Analysis of the poem by Professors Kennedy and Varty of Magdalen College, Oxford.[https://web.archive.org/web/20080616120159/http://www.smu.edu/ijas/cdepisan/intro.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。 ジャンヌは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の[[時代]]から、フランスを[[代表]]する[[政治]]的[[象徴]]だとみなされている。[[第二次世界大戦]]では、親[[ドイツ]]の[[ヴィシー政権]]と反ドイツの{{仮リンク|フランス・レジスタンス|en|French Resistance}}の両方からジャンヌのイメージが利用された。親ドイツで反イギリスのヴィシー政権側は、ジャンヌがイングランドに対抗して戦ったことを思い出させる宣伝ポスターを作成した。このポスターにはイギリスの軍用機がルーアンを爆撃しているイラストが描かれ、「こいつらはいつでも罪を犯しにルーアンへ戻ってくる」という脅迫文句が書かれていた。一方レジスタンス側は、ジャンヌが祖国フランスを占領していた敵国と戦ったこと、ジャンヌの出身地であるロレーヌが[[ナチズム|ナチ]]の占領下にあることを強調した。1972年に結成されたフランスの極右政党である[[国民戦線 (フランス)|国民戦線]]もジャンヌをイメージ戦略に使っている。政党の会合場所にはジャンヌの彫像が、[[出版]]する刊行物にはジャンヌの肖像が、そして党章にはジャンヌの[[殉教]]をモチーフとした三色旗が使用されている。 [[フランス海軍]]にはジャンヌ・ダルクの名前を冠した種類の異なる艦船が[[2013年]][[現在]]までに3隻存在している。1902年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (装甲巡洋艦)|装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク]]、1931年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (軽巡洋艦)|軽巡洋艦ジャンヌ・ダルク]]、1964年竣工の[[ジャンヌ・ダルク (ヘリ空母)|ヘリ空母ジャンヌ・ダルク]]である。 <gallery> File:Joan of Arc Emmanuel Fremiet.jpg|[[エマニュエル・フレミエ]]が1874年に制作したジャンヌの黄金像。ピラミッド広場、パリ。 File:Flag of Free France (1940-1944).svg|第二次世界大戦中に[[シャルル・ド・ゴール]]率いる自由フランス旗。中央の赤い十字架はジャンヌを象徴する[[ロレーヌ十字]]である。 File:Jeanne d'Arc Joan of Arc at San Francisco's Palace of the Legion of Honor and crepuscular rays.jpg|剣を振り掲げるジャンヌの騎馬像。 カリフォルニア・レジョンドヌール美術館、サンフランシスコ。 </gallery> <!-- [[Traditionalist Catholic]]s, in France and elsewhere, also use her as a symbol of inspiration, often comparing the 1988 excommunication of Archbishop [[Marcel Lefebvre]] (founder of the [[Society of St. Pius X]] and a dissident against the Vatican II reforms), to her excommunication. [[Philippe-Alexandre Le Brun de Charmettes]] is the first historian who wrote Joan of Arc's complete history<ref>[http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne01lebr Histoire de Jeanne d`Arc by P.A Le Brun de Charmettes-Tome1] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne02lebr Tome2] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne03lebr Tome3] [http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne04lebr Tome4]</ref> in 1817, in an attempt to restore her family's reputation from Joan's status as a relapsed heretic. His interest in Joan came at a time when France was still struggling to define its new identity after the [[French revolution|Revolution]] and the [[Napoleonic wars]]. The national ''[[ethos]]'' was in search of non-controversial heroes. As a staunch supporter of King and country, Joan of Arc was an acceptable symbol to the monarchists. As a patriot and the daughter of commoners, she was seen as one prototype of the low-born volunteers (the ''soldats de l'an II'') who had victoriously fought for revolutionary France in 1802 and as such could be claimed by the Republicans. As a religious martyr, she was also popular in the powerful Catholic community. De Charmette's ''Orléanide'', today largely forgotten, was another attempt to magnify the national ''ethos'' as writers like [[Virgil]] (the ''[[Aeneid]]''), or [[Luís de Camões|Camoens]] (''[[Os Lusíadas]]'') had done for Rome and Portugal.--> == 幻視と神からの声 == [[File:Jeanne d' Arc (Eugene Thirion).jpg|thumb|ウージェーヌ・ティリオンが1876年に描いた大天使ミシェルの声を聞く『ジャンヌ・ダルク』。[[普仏戦争]]の敗北により、1871年に[[プロイセン王国]]との間に[[アルザス=ロレーヌ|アルザス=ロレーヌ地方]]を割譲するという[[フランクフルト講和条約]]が結ばれたこともあって、19世紀後半のフランスでは、ジャンヌをモチーフとしたこのような作品には政治的な意味合いが隠されていた。]] ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺るぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、[[アンティオキアのマルガリタ|聖マルグリット]]、[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カトリーヌ]]、そして[[ミカエル|大天使ミシェル]]だったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの3人であったかどうかに関しては[[曖昧]]な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。 ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかは判明していない<ref>Condemnation trial, pp. 36 – 37, 41 – 42, 48 – 49. . Retrieved 1 September 2006.</ref>。[[歴史家]]のなかには、ジャンヌの[[信仰|信仰心]]の{{読み仮名_ruby不使用|顕|あらわ}}れだといわれる[[神秘体験]]については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる。 ジャンヌの軍事的側面の研究者[[ケリー・デヴリーズ]]は次のように述べている。 {{Quotation| (ジャンヌが見たとする聖人たちの)幻視や幻視の信憑性は、ジャンヌの軍事的資質を考える上で重要な要素ではない。真に重要なことは、ジャンヌの軍事指揮官としての資質が神からの賜物だと「彼女自身が」信じていたということだ。|DeVries, p. 35.| }} ただし、ジャンヌと同時代の記録も[[20世紀]]近くの[[歴史家]]たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致をみており、[[現代 (時代区分)|現代]]の[[学者]]の多くが、ジャンヌの[[神秘体験]]を[[精神医学]]あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの[[幻覚|幻視]]の原因となった症例として、[[てんかん]]、[[偏頭痛]]、[[結核]]、[[統合失調症]]などが可能性として考えられている<ref group="注">これらの[[仮説]]の多くが、[[医学|医学者]]からではなく[[歴史家|歴史研究者]]によって唱えられている。ジャンヌの幻視を疾病に求めた医学者の論文としては次のようなものがある。<br/> {{cite journal |author=d'Orsi G, Tinuper P |title="I heard voices...": from semiology, an historical review, and a new hypothesis on the presumed epilepsy of Joan of Arc |journal=Epilepsy Behav |volume=9 |issue=1 |pages=152–7 |year=2006 |month=August |pmid=16750938 |doi=10.1016/j.yebeh.2006.04.020 |url=http://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S1525-5050(06)00175-2}} (idiopathic partial epilepsy with auditory features)<br/> {{cite journal |doi=10.1111/j.1528-1157.1991.tb05537.x |author=Foote-Smith E, Bayne L |title=Joan of Arc |journal=Epilepsia |volume=32 |issue=6 |pages=810–5 |year=1991 |pmid=1743152 }} (epilepsy)<br/> {{cite journal |doi=10.1097/00007611-198412000-00003 |author=Henker FO |title=Joan of Arc and DSM III |journal=South. Med. J. |volume=77 |issue=12 |pages=1488–90 |year=1984 |month=December |pmid=6390693 |url=http://meta.wkhealth.com/pt/pt-core/template-journal/lwwgateway/media/landingpage.htm?issn=0038-4348&volume=77&issue=12&spage=1488 }} (various psychiatric definitions)<br/> {{cite journal |author=Allen C |title=The schizophrenia of Joan of Arc |journal=Hist Med |volume=6 |issue=3–4 |pages=4–9 |date=Autumn–Winter 1975 |pmid=11630627 }} (schizophrenia)</ref>。ただし、ジャンヌの生涯に関する[[情報]]が不足していることもあり、これらの[[仮説]]の中で[[定説]]といえるものは[[存在]]しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した{{誰範囲|date= 2020年11月12日 (木) 17:55 (UTC)|2人の[[医学|医学者]]}}は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。 {{quotation| 最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという[[可能性]]はありえない<ref> {{cite journal |doi=10.1159/000119218 |author=Nores JM, Yakovleff Y |title=A historical case of disseminated chronic tuberculosis |journal=Neuropsychobiology |volume=32 |issue=2 |pages=79–80 |year=1995 |pmid=7477805 }}</ref>。 }} ジャンヌが[[パスチャライゼーション|加熱殺菌]]されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している<ref>Pernoud, p. 275.</ref>。 ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王[[シャルル6世 (フランス王)|シャルル6世]]が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。 {{quotation| 聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。 }} [[File:Vigiles misc 03.jpg|thumb|『シャルル7世年代記』のミニアチュール。トロワ市民が城門の鍵をシャルル7世とジャンヌに渡す場面が描かれている。]] シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった<ref>Pernoud and Clin, pp. 3, 169, 183.</ref><ref group="注">「当初の彼女(ジャンヌ)は[[きちがい|狂人]]ではないかとみなされており、{{読み仮名_ruby不使用|放擲|ほうてき}}すべきだという意見もありました。しかしながら彼女の立ち居振る舞いに皆が魅了されていったのです」:復権裁判での王室顧問官[[寡婦|未亡人]]マルグリットの証言。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null05.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。 ジャンヌが[[統合失調症]]などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが{{読み仮名_ruby不使用|明敏|めいびん}}だったことが[[証言]]されている。 {{Quotation| 彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした<ref>復権裁判でのギョーム・ド・マンションの証言。 [http://www.stjoan-center.com/Trials/null09.html] Retrieved 12 February 2006.</ref>。 }} 尋問に対するジャンヌの明晰な答えを恐れた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた<ref name="Pernoud112"/>。 精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。[[アメリカ精神医学会]]が定めた『[[精神障害の診断と統計マニュアル]]』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている<ref>APA's ''Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders'', fourth edition, pp. 273 – 275. Online copy of the print manual available at: [http://www.psychiatryonline.com/DSMPDF/dsm-iv.pdf]. Retrieved 19 November 2010.</ref>。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。ただ統合失調症の病態は非常に多様で幻聴が聞こえる以外の症状が全く存在しない例も存在する。しかし、天使などの幻視は比較的まれである。 ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。[[イェール大学]]の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている<ref>Hoffman, "Auditory Hallucinations: What's It Like Hearing Voices?" in HealthyPlace.com, 27 September 2003.[http://www.healthyplace.com/Communities/Thought_Disorders/schizo/articles/hearing_voices.htm]. Retrieved 12 February 2006.</ref>。 == 体格 == [[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ドルレアン]]がオルレアンの町の解放の謝礼としてジャンヌに送った衣服には詳細な覚書が残されており、それらの記述からアドリアン・アルマン(Adrian Harmand)は彼女の体格を次のように考察している。「ジャンヌ・ダルクの体は四肢の均等が取れ、強健で、美形で姿が整っていた。身長はだいたい1メートル58センチぐらいだと思われる。というのも彼女のブリュッセル布地の服の丈は80センチだからである」。当時男物の衣服の長さは必ず膝までであったという{{sfn|ペルヌー|クラン|1992|p=305 - 306}}。 == 偽造されたジャンヌの遺骨 == 1867年にパリの薬局で「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑跡から採取された」という説明書きがある瓶が発見された。この瓶の中には黒焦げの人間の肋骨、炭化した木材、麻布の切れ端、猫の大腿骨(魔女を火刑に処するときに火中に放り込まれた黒猫の骨だとされた)が入っていた。これらは現在シノンの博物館に所蔵されている。2006年にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフランス人{{仮リンク|フィリップ・シャルリエ|fr|Philippe Charlier}}がこの遺物を調査した。そして、[[放射性炭素年代測定]]やさまざまな[[分光法|分光分析]]が実施された結果<ref name="Nature"> {{cite journal |author=Declan Butler. |title=Joan of Arc's relics exposed as forgery |journal=[[:en:Nature (magazine)|Nature]] |volume=446 |issue=7136 |page= 593 |date=4 April 2007 |doi=10.1038/446593a |url=http://www.nature.com/nature/journal/v446/n7136/full/446593a.html }}</ref>、[[紀元前6世紀]]から[[紀元前3世紀]]の[[エジプト]]の[[ミイラ]]であることが判明した。真っ黒な外観は燃焼によるものではなく、死体防腐処理に使用された薬物によるものだった。また、調査では大量のマツの花粉も見つかっており、これはミイラ制作に使用された松脂の存在と一致する。さらに燃えた跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材でもあった。著名な香水製造者である[[ゲラン]]と{{仮リンク|ジャン・パトゥー|en|Jean Patou}}はかつて、この遺物からは[[バニラ]]の匂いがすると語ったことがあったが、バニラ臭は肉体の腐敗する時に生ずる。中世ではミイラが薬の原料とされており、この遺物ももともとは薬瓶だったものが、フランスのナショナリズムが高揚した時期に偽造されたものだと考えられている。 <!-- == Revisionist theories == {{Main|Alternative historical interpretations of Joan of Arc}} The accuracy of the standard accounts of the life of Joan of Arc has been questioned by revisionist authors. --> == ジャンヌ・ダルクが主題の作品 == 世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。イングランドの劇作家[[ウィリアム・シェークスピア]]の戯曲『[[ヘンリー六世 第1部]]』、フランスの詩人[[ヴォルテール]]の詩『{{仮リンク|オルレアンの乙女|en|The Maid of Orleans (poem)}}』、ドイツの思想家[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の戯曲『{{仮リンク|オルレアンの乙女|en|The Maid of Orleans (play)}}』、イタリアの作曲家[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の歌劇『{{仮リンク|ジョヴァンナ・ダルコ|en|Giovanna d'Arco}}』、ロシアの作曲家[[ピョートル・チャイコフスキー]]の歌劇『[[オルレアンの少女 (オペラ)|オルレアンの乙女]]』、アメリカの作家[[マーク・トウェイン]]の小説『{{仮リンク|ジャンヌ・ダルクについての個人的回想|en|Personal Recollections of Joan of Arc}}』、フランスの劇作家[[ジャン・アヌイ]]の戯曲『{{仮リンク|ひばり (戯曲)|en|L'Alouette (The Lark)|label=ひばり}}』、ドイツの劇作家[[ベルトルト・ブレヒト]]の戯曲『{{仮リンク|食肉市場のジャンヌ・ダルク|en|Saint Joan of the Stockyards}}』、『[[聖女ジャンヌ・ダーク]]』として映画化されたアイルランドの劇作家[[ジョージ・バーナード・ショー]]の戯曲『聖女ジョウン』、『[[ジャンヌ・ダーク]]』として映画化されたアメリカの劇作家[[マクスウェル・アンダーソン]]の戯曲『ロレーヌのジャンヌ』、デンマークの映画監督[[カール・テオドア・ドライヤー]]の映画『[[裁かるるジャンヌ]]』、フランスの映画監督[[ロベール・ブレッソン]]の映画『[[ジャンヌ・ダルク裁判]]』、フランスの作曲家[[アルテュール・オネゲル]]が曲を書いた[[オラトリオ]]『[[火刑台上のジャンヌ・ダルク]]』、カナダの詩人[[レナード・コーエン]]の楽曲『{{仮リンク|ジャンヌ・ダルク (レナード・コーエンの曲)|en|Joan of Arc (Leonard Cohen song)|label=ジャンヌ・ダルク}}』、イギリスのバンド[[オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク]]の楽曲『{{仮リンク|ジャンヌ・ダルク (オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークの曲)|en|Joan of Arc (Orchestral Manoeuvres in the Dark song)|label=ジャンヌ・ダルク}}』などである。現在に至るまで映画、演劇、テレビ番組、テレビゲーム、音楽などさまざまな媒体で、ジャンヌを題材とした作品が作り続けられている。 <!-- 以下、ジャンヌ・ダルクが主題でないものが紛れている模様。 --> === 小説 === * [[マーク・トウェイン]]『ジャンヌ・ダルクについての個人的回想』"Personal Recollections of Joan of Arc", 1895年 ** 日本語訳書は「マーク・トウェインのジャンヌ・ダルク」([[大久保博 (翻訳家)|大久保博]]訳 [[角川書店]]、[[1996年]]) * [[ミシェル・トゥルニエ]] ''Michel Tournier''(原著), [[榊原晃三]](翻訳)『聖女ジャンヌと悪魔ジル』[[白水社]]、[[1992年]] ISBN 456004306X * [[渡邉由自]]『ラ・ピュセル(小説)』[[角川書店]][[角川スニーカー文庫]]、[[1993年]](全3巻) * [[佐藤賢一]]『[[傭兵ピエール]]』[[集英社]]、[[1996年]] ISBN 4087751961 * [[木下亜由子]]『ジャンヌ・ダルクの肖像画』[[けやき出版]]、[[1998年]] ISBN 487751046X * [[フィリップ・セギ]] ''Philippe S´eguy''『ジャンヌ・ダルク』[[ソニー・マガジンズ|ソニー・マガジンズ文庫]]、[[1999年]] ISBN 4789714926 * [[藤本ひとみ]]『ジャンヌ・ダルク暗殺』[[講談社]]、[[2001年]] ISBN 4062109875 * 藤本ひとみ『聖女ジャンヌと娼婦ジャンヌ』[[新潮文庫]]、[[2005年]] ISBN 4101236224 * [[矢崎努]]『裁判素記〜ジャンヌ・ダルクへの道』[[文芸社]]、[[2007年]] ISBN 428602699X * 佐藤賢一『ジャンヌ・ダルクまたはロメ』[[講談社]]、[[2012年]] ISBN 4062753189 * [[東出祐一郎]]『[[Fate/Apocrypha]]』TYPE-MOON BOOKS、2012年 - [[2014年]] * [[春日みかげ]]『[[ユリシーズ ジャンヌ・ダルクと錬金の騎士]]』[[集英社]][[ダッシュエックス文庫]]、[[2015年]] - [[進行|続刊]] === 音楽 === * [[ピョートル・チャイコフスキー]] オペラ『[[オルレアンの少女 (オペラ)|オルレアンの少女]]』 * [[ジュゼッペ・ヴェルディ]] オペラ『[[ジョヴァンナ・ダルコ]]』 * [[アルテュール・オネゲル]] 劇的オラトリオ『[[火刑台上のジャンヌ・ダルク]]』 * [[Janne Da Arc]] 『-救世主 メシア-』 アルバム『[[Z-HARD]]』収録。ジャンヌ・ダルクの人生を歌った曲。 * [[DEEN]]の[[2013年]][[12月18日]]発売24thアルバム[[CIRCLE (DEENのアルバム)|CIRCLE]]収録『永遠のジャンヌダルク』 - 主題ではないがジャンヌ・ダルクが登場する曲。 * [[坂井貴祐]] 吹奏楽のための叙事詩「ジャンヌ・ダルク」 - 2部構成の[[吹奏楽曲]]。第1部「ドンレミ村の情景、戦い」、第2部「裏切り、火刑、讃歌」。 <!--「じょるじん」を追加しないこと。立項されているもののみ記載すること。--> === 戯曲 === * [[ジョージ・バーナード・ショー]] 『聖女ジョウン』(または『聖女ジャンヌ・ダルク』、Saint Joan)、[[1923年]] 日本語訳は『福田恆存翻訳全集』[[文藝春秋]]に所収 === 映画 === * Exécution de Jeanne d'Arc(1898年・フランス、日本未公開) * {{仮リンク|ジャンヌ・ダルク (1900年の映画)|label=ジャンヌ・ダルク|fr|Jeanne d'Arc (film, 1900)}}(1900年・フランス) * Giovanna d'Arco(1908年・イタリア、日本未公開) * Giovanna d'Arco(1913年・イタリア、日本未公開) * {{仮リンク|ヂャンヌ・ダーク|label=ヂャンヌ・ダーク(前後篇)|en|Joan_the_Woman}}(1916年・アメリカ) * Saint Joan(1927年・米、イングランド合同、日本未公開) * [[裁かるるジャンヌ]] (1928年・フランス、日本では1929年公開) * La Merveilleuse Vie de Jeanne d'Arc, fille de Lorraine(1929年・仏独合同、日本未公開) * {{仮リンク|ジャンヌダーク|de|Das_Mädchen_Johanna}} (1935年・ドイツ) * [[ジャンヌ・ダーク]] (1948年・アメリカ、日本では1950年公開) * {{仮リンク|火刑台上のジャンヌ・ダルク (映画)|label=火刑台上のジャンヌ・ダルク|en|Giovanna d'Arco al rogo}} (1954年・イタリア) * {{仮リンク|運命 (1954年の映画)|label=運命|fr|Destinées (film)}}(1954年・仏伊合同) - ジャンヌを含む3つの時代の女性を描いた作品。 * [[聖女ジャンヌ・ダーク]] (1957年・英米合同) * [[ジャンヌ・ダルク裁判]] (1962年・フランス、日本では1969年公開) * {{lang|ru|Начало}}(1970年・ソ連、日本未公開) * [[哀しみのベラドンナ]](1973年・日本) * Jeanne d'Arc, le pouvoir et l'innocence(1989年・フランス、日本未公開) * {{仮リンク|ジャンヌ (1994年の映画)|label=ジャンヌ|fr|Jeanne la Pucelle (film)}}(1994年・フランス。日本では短縮版が1995年公開、完全版が1996年公開) - 二部構成で、日本ではオリジナルより短い短縮バージョンが、前編「愛と自由の天使」、後編「薔薇の十字架」のサブタイトルで公開。完全版は『ジャンヌ・ダルク/I 戦闘 II 牢獄』の邦題で公開。 * [[ジャンヌ・ダルク (映画)|ジャンヌ・ダルク]] (1999年・米仏合同、同年日本公開) * Jeanne captive(2011年・フランス、日本未公開) * {{仮リンク|ジャネット (映画)|fr|Jeannette, l'enfance de Jeanne d'Arc|label=ジャネット}}(2017年・フランス)<ref name="jeanne">{{Cite web|和書|url=https://jeannette-jeanne.com/|title=『ジャネット』『ジャンヌ』|publisher=ブリュノ・デュモン監督『ジャネット』『ジャンヌ』公式サイト|date=|accessdate=2021-12-17}}</ref> * {{仮リンク|ジャンヌ (2019年の映画)|fr|Jeanne (film, 2019)|label=ジャンヌ}}(2019年・フランス)<ref name="jeanne"/> === テレビドラマ === * Johanna aus Lothringen(1959年・ドイツ、日本未公開) * Saint Joan(1967年・アメリカ、日本未公開) * [[ヴァージン・ブレイド ジャンヌ・ダルクの真実]] (1999年・カナダ) === 舞台 === * [[傭兵ピエール -ジャンヌ・ダルクの恋人-]]([[2003年]]、[[宝塚歌劇団]][[宙組]]公演、[[佐藤賢一]]の『傭兵ピエール』([[集英社]])を[[舞台]]化、[[脚本]]・[[演出]]:[[石田昌也]]、[[主演]]:ピエール - [[和央ようか]]、ジャンヌ・ダルク - [[花總まり]]) * GOOD-BYE-JOURNEY(演出・脚本:[[西田大輔]]) **([[2007年]]、主演:[[高梨臨]]) **([[2017年]]、主演:[[文音]]) * ジャンヌ・ダルク(演出:[[白井晃]]、脚本:[[中島かずき]]([[劇団☆新感線]])) ** ([[2010年]]、主演:[[堀北真希]]) ** ([[2014年]]、主演:[[有村架純]]) ** ([[2023年]]、主演:[[清原果耶]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://jd2023.jp/cast |title=Cast/Staff |website=舞台『ジャンヌ・ダルク』公式サイト |date=2023-07-21 |accessdate=2023-07-21}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://spice.eplus.jp/articles/324368 |title= 9年ぶりの再演がスタート 清原果耶、小関裕太らによる 舞台『ジャンヌ・ダルク』公演レポート |newspaper= SPICE |publisher= 株式会社イープラス |date= 2023-12-04 |accessdate= 2023-12-05 }}</ref> * 劇団プロジェクト ゲキハロ第13回公演 「我らジャンヌ〜少女聖戦歌劇〜」(2013年、脚本・演出:末満健一、主演:[[Berryz工房]]、[[スマイレージ]]) * 愛聖女(サントダムール)-Sainte♡d’Amour-([[2018年]]、宝塚歌劇団[[月組]]公演、作・演出:[[齋藤吉正]]、主演:[[愛希れいか]]) * オルレアンの少女-ジャンヌ・ダルク-([[2022年]]、演出:[[深作健太]]、主演:[[夏川椎菜]]) === 絵本 === * [[ジョゼフィーン・プール]] ''Josephine Poole''(著), アンジェラ・バレット ''Angela Barrett''([[イラストレーション|イラスト]]), [[片岡しのぶ]]([[翻訳]])『絵本ジャンヌ・ダルク伝』 [[あすなろ書房]]、[[2004年]] ISBN 4751522728 === 漫画 === * [[美内すずえ]] 『白ゆりの騎士』 [[花とゆめコミックス]]、[[1974年]] - [[主人公]]名はジャンヌ・ド・アルクと言う名前にされている。 * [[酒見賢一]](著)・[[近藤勝也]](イラスト) 『D’arc〜ジャンヌ・ダルク伝』 [[アニメージュ#アニメージュコミックス|アニメージュコミックス]]ワイド判、[[1995年]] * [[天川すみこ]] 『ジャンヌ・ダルク』 [[あすかコミックス]]DX、[[1995年]] ISBN 4048525786 * [[安彦良和]](著)・[[大谷暢順]](原作) 『ジャンヌ』 [[日本放送出版協会]]、[[1995年]](愛蔵版、[[2002年]] ISBN 4140053860) * [[雑君保プ]] 『[[ワールドヒーローズ2 (漫画)|ワールドヒーローズ2]]』全5巻 [[新声社]]、[[1993年]] - [[1997年]] - 第2巻以降は「オルレアンの少女編」としてジャンヌを主題にしている。 * [[秋里和国|秋里和国弐]] 『ボン・クラージュ!乙女(ラ・ピュセル)』 [[フラワーコミックス]]、[[1995年]] - [[1996年]] - 主人公はジャンヌの[[転生|生まれ変わり。]] * [[種村有菜]]『[[神風怪盗ジャンヌ]]』全7巻 [[集英社]]、[[りぼん]]、[[1998年]] - [[2000年]] - 主人公はジャンヌの生まれ変わりの変身ヒロイン。 * 枡狐/蛙空 『[[魔法少女まどか☆マギカの漫画作品#魔法少女たると☆マギカ The Legend of "Jeanne d'Arc"|魔法少女たると☆マギカ The Legend of "Jeanne d'Arc"]]』 [[芳文社]]、[[まんがタイムきらら☆マギカ]]、[[2013年]]-[[2017年]] - ジャンヌ・ダルクが[[魔法少女]]だったという設定の元、ジャンヌの生涯を[[魔法少女]]の[[物語]]として描く。 * [[山岸凉子]] 『レベレーション(啓示)』[[講談社]]、[[週刊モーニング]]、[[2014年]] - [[2020年]] * [[岡児志太郎]] 『デゾルドル』[[講談社]]、[[月刊モーニングtwo]]、[[2017年]] - [[2018年]](打ち切り) === ゲーム === * [[エイジ オブ エンパイアII]] - シングルプレイシナリオ「ジャンヌ・ダルク」 * [[JEANNE D'ARC]] * [[Fate/Grand Order]] * [[#コンパス]] * [[オンゲキ]] - オリジナル楽曲「ジャンヌ・ダルクの慟哭」(作曲:ガリガリさむし) === 関連図書=== <!-- 小説以外 --> {{Refbegin}} ; [[伝記|伝記書]] * {{Cite |和書 |author = アンドレ・ボシュア |translator = [[新倉俊一 (フランス文学者)|新倉俊一]] |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1969 |edition = |publisher = [[白水社]]〈文庫クセジュ〉 |isbn = 4560054584}} * {{Cite |和書 |author = [[高山一彦]] |title = ジャンヌ・ダルクの神話 |date = 1982 |edition = |publisher = [[講談社現代新書]] |isbn = 4061456423}} * {{Cite |和書 |author = [[ジュール・ミシュレ]] |translator = 森井真・田代葆 |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1987 |edition = |publisher = [[中央公論新社|中公文庫]] |isbn = 4122014085}} * {{Cite |和書 |author = [[堀越孝一]] |title = ジャンヌ=ダルクの百年戦争 |date = 1984 |edition = |publisher = [[清水書院]] |isbn = 438944042X}} * {{Cite |和書 |author = [[堀越孝一]] |title = ジャンヌ=ダルク |date = 1991 |edition = |publisher = [[朝日新聞社]] |isbn = 402260655X}} * {{Cite |和書 |author = [[清水正晴]] |title = ジャンヌ・ダルクとその時代 |date = 1994 |edition = |publisher = [[現代書館]] |isbn = 476846646X}} * {{Cite |和書 |author = レジーヌ・ペルヌー |translator = 高山一彦 |title = ジャンヌ・ダルクの実像 |date = 1995 |edition = |publisher = 白水社〈文庫クセジュ〉 |isbn = 4560057664}} * {{Cite |和書 |author = レジーヌ・ペルヌー |translator = 遠藤ゆかり |title = 奇跡の少女ジャンヌ・ダルク |date = 2002 |edition = |publisher = [[創元社]]〈「知の再発見」双書〉 |isbn = 4422211625}} * {{Cite |和書 |author = 高山一彦 |title = ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 |date = 2005 |edition = |publisher = [[岩波新書]] |isbn = 4004309689}} * {{Cite |和書 |author = アナトオル・フランス |translator = 吉江孤雁 |title = ジャンヌ・ダルク |date = 1917 |edition = |publisher = 早稲田大学出版部 |isbn = }}[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955947 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー] * {{Cite book|author=Anon|title=The First Biography of Joan of Arc with the Chronicle Record of a Contemporary Account|url=http://www.smu.edu/ijas/texts/joan.pdf|others=trans. Rankin, Daniel & Quintal, Claire|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110709132031/http://smu.edu/ijas/texts/joan.pdf|archivedate=2011年7月9日|deadurldate=2017年9月}} * {{Cite book|editor=Barrett, W.P.|title=The trial of Jeanne d'Arc|year=1932|publisher=Gotham house|location=New York|oclc=1314152}} * {{Cite book|last=Brooks|first=Polly Schoyer|title=Beyond the Myth: The Story of Joan of Arc|year=1999|publisher=Houghton Mifflin Co|location=New York|oclc=20319268|isbn=0-397-32422-7}} * {{Cite book|last=de Quincey|first=Thomas|title=The English Mail-Coach and Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/7mjnc10.txt}} * {{Cite book|last=Fraioli|first=Deborah|title=Joan of Arc: The Early Debate|year=2002|publisher=Boydell Press,|location=London|oclc=48680250|isbn=0-85115-880-3}} * {{Cite book|last=France|first=Anatole|title=The Life of Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/etext/19488}} * {{Cite book|last=Gower|first=Ronald Sutherland|title=Joan of Arc|url=http://www.gutenberg.org/files/16933/16933.txt}} * {{Cite book|last=Heimann|first=Nora|title=Joan of Arc in French Art and Culture (1700–1855): From Satire to Sanctity|year=2005|publisher=Ashgate|location=Aldershot|isbn=0-7546-5085-5}} * {{Cite book|title=Joan of Arc: Her Image in France and America|year=2006|publisher=Corcoran Gallery of Art in association with D Giles Limited|location=Washington, DC|last1=Heimann|last2=Coyle|first1=Nora|first2=Laura|isbn=1-904832-19-9}} * {{Cite book|last=Le Brun de Charmettes|first=Philippe-Alexandre|title=Histoire de Jeanne d`Arc|url=http://openlibrary.org/details/histoiredejeanne01lebr|year=1817|publisher=ED. Artus Bertrand|language=French|location=Paris|oclc=8443774}} * {{Cite book|last=Le Brun de Charmettes|editor=Smith, Audin|first=Philippe-Alexandre|title=L`ORLEANIDE,POEME NATIONAL EN VINGT-HUIT CHANTS|year=1821|language=French|location=Paris}} * {{Cite book|title=Le procès de condamnation et le procès de réhabilitation de Jeanne d'Arc. L'histoire en appel.|year=1959|publisher=Éditions Denoël|location=Paris|others=trans. Oursel, Raymond|oclc=1823703}} * {{Cite book|last=Meltzer|first=Francoise|title=For Fear of the Fire: Joan of Arc and the Limits of Subjectivity|year=2001|publisher=University of Chicago Press|location=Chicago|oclc=46240234|isbn=0-226-51982-1}} * {{Cite book|last=Pernoud|first=Régine|title=The Retrial of Joan of Arc; The Evidence at the Trial For Her Rehabilitation 1450–1456|year=1955|publisher=Harcourt, Brace and Company|location=New York|others=trans. J.M. Cohen|oclc=1338471}} * {{Cite book|last=Pernoud|first=Régine|title=Joan of Arc By Herself and Her Witnesses|year=1994|publisher=Scarborough House|location=London|others=trans. E. Hymans|oclc=31535658|isbn=0-8128-1260-3}} * {{Cite book|last=Pernoud|first=Régine|title=Jeanne d'Arc: La Reconquête de la France|year=1995|publisher=Gallimard|language=French|oclc=39883861|isbn=2-07-040230-4}} * {{Cite book|title=Joan of Arc: Her Story|year=1999|publisher=St. Martin's Griffin|location=New York|last1=Pernoud|last2=Clin|first1=Régine|first2=Marie-Véronique|others=trans. Jeremy Duquesnay Adams|oclc=39890535|isbn=0-312-22730-2}} * {{Cite book|editor=Quicherat, Jules-Étienne-Joseph|title=Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d'Arc dite la Pucelle. Publiés pour la première fois d'après les manuscrits de la Bibliothèque nationale, suivis de tous les documents historiques qu'on a pu réunir et accompagnés de notes et d'éclaircissements.|year=1965|publisher=Johnson|language=French|volume=1–5|location=New York|origyear=1841–1849|oclc=728420}} * {{Cite book|last=Richey|first=Stephen W.|title=Joan of Arc: The Warrior Saint|year=2003|publisher=Praeger|location=Westport, CT|oclc=52030963|isbn=0-275-98103-7}} * {{Cite book |author=Romm F. |title=Загадки Орлеанской девы |url=http://enas.ru/npp/chep/zhanna-800.htm |year=2008 |publisher=ENAS |language=Russian|location=Moscow |trans-title=Mysteries of The Maid of Orleans }} * {{Cite book|last=Spoto|first=Donald|title=Joan : the mysterious life of a heretic who became a saint|year=2007|publisher=HarperSanFrancisco|location=San Francisco|oclc=84655969|isbn=0-06-081517-5}} * {{Cite book|title=The trial of Joan of Arc : being the verbatim report of the proceedings from the Orleans manuscript|year=1956|publisher=Folio Society|location=London|others=trans. Scot, W.S.|oclc=1182797}} {{Refend}} {{Refbegin}} ; [[歴史書]] * {{Cite book|last=Allmand|first=C.|title=The Hundred Years War: England and France at War c. 1300&nbsp;– 1450|year=1988|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=0-521-31923-4 }} * {{Cite book|last=Davis|first=H.W.C|title=Medieval Europe|url=http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/mdvlp10.txt}} * {{Cite book|last=Guizot|first=François Pierre Guillaume|title=A Popular History of France from the Earliest Times|url=http://www.gutenberg.org/files/11953/11953.txt|volume=3}} * {{Cite book|title=Famous Men of the Middle Ages|url=http://www.authorama.com/famous-men-of-the-middle-ages-1.html|last1=Haaren|last2=Poland|first1=John Henry|first2=A.B.}} * {{Cite book|last=Lacroix|first=Paul|title=Manners, Custom and Dress During the Middle Ages and During the Renaissance Period|url=http://www.gutenberg.org/files/10940/10940.txt}} * {{Cite book|last=Lingard|first=John|title=The History of England|url=http://www.authorama.com/history-of-england-1.html}} * {{Cite book|last=Perroy|first=Edouard|title=The Hundred Years War|year=1965|publisher=Capricorn Books|location=New York|others=trans. W.B. Wells}} * {{Cite book|last=Pollard|first=A.F.|title=The History of England: A Study in Political Evolution|url=http://www.gutenberg.org/dirs/etext04/hstng10.txt}} * {{Cite book|last=Power|first=Eileen Edna|title=Medieval People|url=http://www.gutenberg.org/files/13144/13144.txt}} * {{Cite book|last=Vauchez|first=André|title=Sainthood in the Later Middle Ages|year=1997|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|others=trans. Jean Birrell|isbn=0-521-44559-0}} {{Refend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注|2}} === 出典 === {{reflist|colwidth=20em}} == 参考文献 == * {{Cite book|last=DeVries|first=Kelly|title=Joan of Arc: A Military Leader|publisher=Sutton Publishing |location=Stroud, Gloucestershire |year=1999 |isbn=0-7509-1805-5 |oclc=42957383}} * {{Cite book|first=Richard C. |last=Famiglietti|title=Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI 1392–1420|publisher=AMS Press|location=New York |series=AMS studies in the Middle Ages, 9 |year=1987|isbn=0-404-61439-6}}<!-- Was "Pernoud and Clin". --> * {{Cite book|last=Lucie-Smith |first=Edward |title=Joan of Arc |year=1976 |publisher=Allen Lane |location=Bristol |isbn=0-7139-0857-2}} * {{Cite book|last=Oliphant |first=Mrs. (Margaret) |title=Jeanne d'Arc: Her Life and Death |isbn=978-1404310865 |series=Heroes of the Nations |date=June 2002 (Web page: November 2003) |origyear=1896 |publisher=IndyPublish.com |url=http://www.authorama.com/book/jeanne-d-arc.html}} * {{cite book |title=Joan of Arc: Her Story |last=Pernoud |first=Régine |coauthors=Marie-Véronique Clin |others=translated and revised by Jeremy duQuesnay Adams; edited by Bonnie Wheeler |year=1999 |publisher=St. Martin's Press |location=New York |isbn=9780312214425 |url=http://www.amazon.com/dp/0312214421/#reader-link |oclc=39890535}}<!-- Added, but references may actually refer to Famiglietti. --> ** 日本語訳 - {{Cite book|和書|last1=ペルヌー|first1=レジーヌ|last2=クラン|first2=マリ=ヴェロニック|translator=[[福本直之]]|year=1992|title=ジャンヌ・ダルク|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4487761531|ref=harv}} ** 日本語訳 - {{Cite book|和書|last1=ペルヌー|first1=レジーヌ|last2=|first2=|translator=塚本哲也監修、遠藤ゆかり|year=2016|title=奇跡の少女ジャンヌ・ダルク|publisher=創元社|isbn=978-4-422-21162-6|ref=harv}} == 関連項目 == * [[ジャンヌ・ダルクの異名を持つ人物の一覧]] * [[エミリア・プラテル]] - [[ロシア帝国]]の支配を排して[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指した19世紀初頭の[[11月蜂起|ポーランド11月蜂起]]で活躍した[[実在]]の[[女性]][[軍人]]。 * [[サント=ジャンヌ=ダルク (曖昧さ回避)]] * [[聖ジャンヌ・ダルク教会 (ルーアン)]] == 外部リンク == {{commons|Jeanne d'Arc}} {{wikisourcelang|en|Joan of Arc}} {{wikiquote|en:Joan of Arc|ジャンヌ・ダルク}} <!--- Please add new links in alphabetical order. Please be careful: this list concentrates on sites with scholarly research value. ---> * [http://www.newadvent.org/cathen/08409c.htm "Blessed Joan of Arc" (written before her canonization)]—1919 version of the ''[[Catholic Encyclopedia]]'' * [http://archive.joan-of-arc.org/ Archive of Joan of Arc materials] * [http://www.medailles-jeannedarc.fr Médailles Jeanne d’Arc], Exonumia: Medallions devoted to Joan of Arc * [http://gardenofpraise.com/ibdjoan.htm Garden of Praise&nbsp;– Joan of Arc] * [http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=295 Catholic Online Saints] * [http://www.britannica.com/eb/article-9106457/Saint-Joan-of-Arc "Joan of Arc"]—''[[ブリタニカ百科事典|Encyclopaedia Britannica]]'' article * [http://perso.wanadoo.fr/musee.jeannedarc/indexanglais.htm Site of the Joan of Arc Museum] in Rouen, France. * [http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/10/AR2008101001919.html?hpid=features1&hpv=national "A Stirring Icon of Girl Power: A Father and a Daughter Follow the Trail of Joan of Arc"]—Article in ''[[The Washington Post]]'' by Steve Hendrix, 12 October 2008. * [https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1ssLJ34TwxSzOj4vN33CJ9Z-9zFs&ie=UTF8&hl=en&msa=0&t=h&z=11 Joan of Arc's Loire Valley Battles] on [[Google Maps]] * Poems by Florence Earle Coates: "[[wikisource:Rouen: In the Prison of Joan of Arc|Rouen: In the Prison of Joan of Arc]]", "[[wikisource:Joan of Arc (Coates)|Joan of Arc]]", "[[wikisource:Blessèd|Blessèd]]", "[[wikisource:Rheims|Rheims]]" * La triple donation et l'anneau de Jeanne d'Arc.([http://www.a-la-francaise.com/blog/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AFvs%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC/ 日本語で]) * [http://www.stjoan-center.com/Trials/ Saint Joan of Arc's Trials The Saint Joan of Arc Center] * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:たるく しやんぬ}} [[Category:ジャンヌ・ダルク|*]] [[Category:女性神秘思想家]] [[Category:ロレーヌ公国の人物]] [[Category:百年戦争の人物]] [[Category:女性軍人]] [[Category:フランスの軍人]] [[Category:カトリック教会の聖人]] [[Category:中世キリスト教の聖女]] <!--[[Category:カトリックの殉教者]]--> [[Category:カトリック教会に破門された人物]] [[Category:フランスのキリスト教史]] [[Category:ヨーロッパの伝説の人物]] [[Category:オルレアン]] [[Category:刑死したフランスの人物]] [[Category:15世紀ヨーロッパの軍人]] [[Category:15世紀フランスの女性]] [[Category:1412年生]] [[Category:1431年没]]
2003-08-19T00:55:54Z
2023-12-14T02:53:01Z
false
false
false
[ "Template:仮リンク", "Template:See also", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:脚注の不足", "Template:Infobox 聖人", "Template:Main", "Template:Cite", "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:Wikisourcelang", "Template:-", "Template:読み仮名 ruby不使用", "Template:Quotation", "Template:Refend", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:IMDb title", "Template:Commons", "Template:Wikiquote", "Template:Normdaten", "Template:IPA-fr", "Template:Refnest", "Template:Legend", "Template:Sfn", "Template:Fr icon", "Template:Cite news", "Template:Good article", "Template:基礎情報 軍人", "Template:Lang-en-short", "Template:誰範囲", "Template:Refbegin", "Template:Bibleref", "Template:Lang", "Template:Legend-line", "Template:Cite book", "Template:Lang-fr" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF
13,536
ベジェ曲線
ベジェ曲線(ベジェきょくせん、Bézier Curve)またはベジエ曲線とは、N 個の制御点から得られる N − 1 次曲線である。フランスの自動車メーカー、シトロエン社のド・カステリョ(英語版) とルノー社のピエール・ベジェにより独立に考案された。ド・カステリョの方が先んじていたが、その論文が公知とならなかったためベジェの名が冠されている。コンピューター上で滑らかな曲線を描くのに2次ベジェ曲線 (Quadratic Bézier curve) や3次ベジェ曲線 (Cubic Bézier curve) などが広く利用されている。 原語(フランス語)における Bézier の発音はベズィエに近く、「ベジェ曲線」より「ベジエ曲線」の方がこれに忠実と言えるが、いずれの呼称も用いられている。 コンピュータ上で滑らかな曲線を書く場合にベジェ曲線はよく利用されており、ベクターグラフィクスなどのコマンドにも用意されていることが多い。 特に、2次だけでなく、3次ベジェ曲線までサポートされていることが多い。これは、始点と第1制御点を結ぶ線分が始点における曲線の接線になり、第2制御点と終点を結ぶ線分が終点における曲線の接線になるため、直感的に理解しやすいことにある。また、始点と第1制御点の距離によって始点付近の曲率が制御できるため、作図を行うソフトウェア(ドローソフト)で手作業により曲線を描く際に線の形を整えやすい。 PostScriptやそのフォント (Type1フォント)、SVGやHTML5のcanvasで3次ベジェ曲線を使うことができる。Adobe Flash Playerも11.0以降では使える。Microsoft WindowsのGDI/GDI+、Direct2D、.NET FrameworkのSystem.Drawing.Drawing2D.GraphicsPath、WPFのSystem.Windows.Media.BezierSegmentでは3次ベジェをサポートする。 一部は2次ベジェ曲線までのサポートである。Adobe Flash Playerは10.3までは2次までである。 AWT(Java 1.2以降で追加されたQuadCurve2D, CubicCurve2Dの派生クラス)、SkiaのSkPathおよびAndroidのandroid.graphics.Pathは2次と3次のベジェ両方を直接サポートする。 制御点を B0, B1, ..., BN−1 とすると、ベジェ曲線は、 と表現される。ここで、Jn, i(t) はバーンスタイン基底関数である。 t が 0 から 1 まで変化する時、B0 と BN−1 を両端とするベジェ曲線が得られる。一般には両端以外の制御点は通らない。 ベジェ曲面(曲面パッチなどとも)と呼ばれるような、3次元空間内の曲面への拡張にはいくつか手法がある。たとえば、目的の曲面においてパッチの端点となる3点とその3点における接平面を指定するという方法や、4点を指定し2方向のクロスハッチングのようにして面を構成するという方法がある。 前節の数式を適宜変形するなどして、コンピュータプログラムに実装すれば描画はできるわけだが、以下では3次のベジェ曲線(4個の制御点で示される曲線)を例として、手作業を念頭に置いた作図法を示す。この手順を基にした描画プログラムにも有用性があり、また人によってはベジェ曲線の性質を直観的に把握するにも有効かもしれない。 右図の P0, P1, P2, P3 が与えられた制御点である。今、ベジェ曲線の P0 から t (0 < t < 1) の比率の位置の点の座標を求めるためには、次のように計算すればよい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ベジェ曲線(ベジェきょくせん、Bézier Curve)またはベジエ曲線とは、N 個の制御点から得られる N − 1 次曲線である。フランスの自動車メーカー、シトロエン社のド・カステリョ(英語版) とルノー社のピエール・ベジェにより独立に考案された。ド・カステリョの方が先んじていたが、その論文が公知とならなかったためベジェの名が冠されている。コンピューター上で滑らかな曲線を描くのに2次ベジェ曲線 (Quadratic Bézier curve) や3次ベジェ曲線 (Cubic Bézier curve) などが広く利用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "原語(フランス語)における Bézier の発音はベズィエに近く、「ベジェ曲線」より「ベジエ曲線」の方がこれに忠実と言えるが、いずれの呼称も用いられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コンピュータ上で滑らかな曲線を書く場合にベジェ曲線はよく利用されており、ベクターグラフィクスなどのコマンドにも用意されていることが多い。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "特に、2次だけでなく、3次ベジェ曲線までサポートされていることが多い。これは、始点と第1制御点を結ぶ線分が始点における曲線の接線になり、第2制御点と終点を結ぶ線分が終点における曲線の接線になるため、直感的に理解しやすいことにある。また、始点と第1制御点の距離によって始点付近の曲率が制御できるため、作図を行うソフトウェア(ドローソフト)で手作業により曲線を描く際に線の形を整えやすい。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "PostScriptやそのフォント (Type1フォント)、SVGやHTML5のcanvasで3次ベジェ曲線を使うことができる。Adobe Flash Playerも11.0以降では使える。Microsoft WindowsのGDI/GDI+、Direct2D、.NET FrameworkのSystem.Drawing.Drawing2D.GraphicsPath、WPFのSystem.Windows.Media.BezierSegmentでは3次ベジェをサポートする。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一部は2次ベジェ曲線までのサポートである。Adobe Flash Playerは10.3までは2次までである。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "AWT(Java 1.2以降で追加されたQuadCurve2D, CubicCurve2Dの派生クラス)、SkiaのSkPathおよびAndroidのandroid.graphics.Pathは2次と3次のベジェ両方を直接サポートする。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "制御点を B0, B1, ..., BN−1 とすると、ベジェ曲線は、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "と表現される。ここで、Jn, i(t) はバーンスタイン基底関数である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "t が 0 から 1 まで変化する時、B0 と BN−1 を両端とするベジェ曲線が得られる。一般には両端以外の制御点は通らない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ベジェ曲面(曲面パッチなどとも)と呼ばれるような、3次元空間内の曲面への拡張にはいくつか手法がある。たとえば、目的の曲面においてパッチの端点となる3点とその3点における接平面を指定するという方法や、4点を指定し2方向のクロスハッチングのようにして面を構成するという方法がある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前節の数式を適宜変形するなどして、コンピュータプログラムに実装すれば描画はできるわけだが、以下では3次のベジェ曲線(4個の制御点で示される曲線)を例として、手作業を念頭に置いた作図法を示す。この手順を基にした描画プログラムにも有用性があり、また人によってはベジェ曲線の性質を直観的に把握するにも有効かもしれない。", "title": "作図法" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "右図の P0, P1, P2, P3 が与えられた制御点である。今、ベジェ曲線の P0 から t (0 < t < 1) の比率の位置の点の座標を求めるためには、次のように計算すればよい。", "title": "作図法" } ]
ベジェ曲線またはベジエ曲線とは、N 個の制御点から得られる N − 1 次曲線である。フランスの自動車メーカー、シトロエン社のド・カステリョ とルノー社のピエール・ベジェにより独立に考案された。ド・カステリョの方が先んじていたが、その論文が公知とならなかったためベジェの名が冠されている。コンピューター上で滑らかな曲線を描くのに2次ベジェ曲線 や3次ベジェ曲線 などが広く利用されている。 原語(フランス語)における Bézier の発音はベズィエに近く、「ベジェ曲線」より「ベジエ曲線」の方がこれに忠実と言えるが、いずれの呼称も用いられている。
'''ベジェ曲線'''(ベジェきょくせん、{{Fr|B&eacute;zier Curve}})または'''ベジエ曲線'''とは、{{mvar|N}} 個の制御点から得られる {{math|''N'' &minus; 1}} 次[[曲線]]である。[[フランス]]の[[自動車]]メーカー、[[シトロエン]]社の{{仮リンク|ポール・ド・カステリョ|label=ド・カステリョ|en|Paul de Casteljau|}} と[[ルノー]]社の[[ピエール・ベジェ]]により独立に考案された。ド・カステリョの方が先んじていたが、その論文が公知とならなかったためベジェの名が冠されている<ref>{{Cite book |author=鳥谷浩志 |coauthors=千代倉弘明 |title=3次元CADの基礎と応用 |year=1991 |publisher=共立出版 |isbn=9784320025394}}</ref>。[[コンピューター]]上で滑らかな曲線を描くのに2次ベジェ曲線 ({{En|Quadratic Bézier curve}}) や3次ベジェ曲線 ({{En|Cubic Bézier curve}}) などが広く利用されている。 原語([[フランス語]])における {{Fr|B&eacute;zier}} の発音はベズィエに近く、「ベジェ曲線」より「ベジエ曲線」の方がこれに忠実と言えるが、いずれの呼称も用いられている。 == 応用 == コンピュータ上で滑らかな曲線を書く場合にベジェ曲線はよく利用されており、[[ベクターグラフィクス]]などのコマンドにも用意されていることが多い。 特に、2次だけでなく、3次ベジェ曲線までサポートされていることが多い。これは、始点と第1制御点を結ぶ線分が始点における曲線の接線になり、第2制御点と終点を結ぶ線分が終点における曲線の接線になるため、直感的に理解しやすいことにある。また、始点と第1制御点の距離によって始点付近の曲率が制御できるため、作図を行うソフトウェア([[ドローソフト]])で手作業により曲線を描く際に線の形を整えやすい。 [[PostScript]]やその[[フォント]] ([[PostScriptフォント#Type 1|Type1フォント]])、[[Scalable Vector Graphics|SVG]]や[[HTML5]]の[[canvas要素|canvas]]で3次ベジェ曲線を使うことができる。Adobe Flash Playerも11.0以降では使える。[[Microsoft Windows]]の[[Graphics Device Interface|GDI]]/GDI+、[[Direct2D]]、[[.NET Framework]]の<code>System.Drawing.Drawing2D.GraphicsPath</code>、[[Windows Presentation Foundation|WPF]]の<code>System.Windows.Media.BezierSegment</code>では3次ベジェをサポートする<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/windows/desktop/gdi/line-and-curve-functions Line and Curve Functions - Windows applications | Microsoft Docs]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/windows/desktop/api/d2d1/nf-d2d1-id2d1geometrysink-addbezier(constd2d1_bezier_segment) ID2D1GeometrySink::AddBezier(const D2D1_BEZIER_SEGMENT) (d2d1.h) | Microsoft Docs]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/windows/desktop/api/d2d1/ns-d2d1-d2d1_bezier_segment D2D1_BEZIER_SEGMENT (d2d1.h) | Microsoft Docs]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/api/system.drawing.drawing2d.graphicspath.addbezier GraphicsPath.AddBezier Method (System.Drawing.Drawing2D) | Microsoft Docs]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/api/system.windows.media.beziersegment BezierSegment Class (System.Windows.Media) | Microsoft Docs]</ref>。 一部は2次ベジェ曲線までのサポートである。[[Adobe Flash]] Playerは10.3までは2次までである。 [[Abstract Window Toolkit|AWT]]([[Java]] 1.2以降で追加された{{Javadoc:SE|java/awt/geom|QuadCurve2D}}, {{Javadoc:SE|java/awt/geom|CubicCurve2D}}の派生クラス)、[[Skia]]の<code>SkPath</code>および[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]の<code>android.graphics.Path</code>は2次と3次のベジェ両方を直接サポートする<ref>[https://docs.oracle.com/javase/tutorial/2d/overview/primitives.html Geometric Primitives (The Java™ Tutorials &gt; 2D Graphics &gt; Overview of the Java 2D API Concepts)]</ref><ref>[https://github.com/google/skia/blob/master/include/core/SkPath.h skia/SkPath.h at master · google/skia]</ref><ref>[https://developer.android.com/reference/android/graphics/Path Path | Android Developers]</ref>。 == 定義 == 制御点を {{math2|'''B'''{{sub|0}}, '''B'''{{sub|1}}, ..., '''B'''{{sub|''N''&minus;1}}}} とすると、ベジェ曲線は、 :<math>\mathbf{P}(t) = \sum_{i=0}^{N-1} \mathbf{B}_i J_{N-1,i}(t)</math> と表現される。ここで、{{math|''J''{{sub|''n'', ''i''}}(''t'')}} は[[バーンスタイン基底関数]]である。 :<math>J_{n,i}(t) = {n \choose i} t^i (1-t)^{n-i}</math> {{mvar|t}} が 0 から 1 まで変化する時、{{math|'''B'''{{sub|0}}}} と {{math|'''B'''{{sub|''N''&minus;1}}}} を両端とするベジェ曲線が得られる。'''一般には両端以外の制御点は通らない'''。 ベジェ曲面(曲面パッチなどとも)と呼ばれるような、3次元空間内の曲面への拡張にはいくつか手法がある。たとえば、目的の曲面においてパッチの端点となる3点とその3点における接平面を指定するという方法や、4点を指定し2方向のクロスハッチングのようにして面を構成するという方法がある。 == 作図法 == [[File:Cubic Bézier Curve.svg|thumb|端点 {{math2|P{{sub|0}}, P{{sub|3}}}} および制御点 {{Math|P{{sub|1}}, P{{sub|2}}}} からなる3次ベジェ曲線]] 前節の数式を適宜変形するなどして、コンピュータプログラムに実装すれば描画はできるわけだが、以下では3次のベジェ曲線(4個の制御点で示される曲線)を例として、手作業を念頭に置いた作図法を示す。この手順を基にした描画プログラムにも有用性があり、また人によってはベジェ曲線の性質を直観的に把握するにも有効かもしれない。 右図の {{Math|'''P{{sub|0}}, P{{sub|1}}, P{{sub|2}}, P{{sub|3}}'''}} が与えられた制御点である。今、ベジェ曲線の {{Math|P{{sub|0}}}} から {{math|''t'' (0 < ''t'' < 1)}} の比率の位置の点の座標を求めるためには、次のように計算すればよい。 #まず、制御点を順に結んで得られる3つの線分 {{Math|P{{sub|0}}P{{sub|1}}, P{{sub|1}}P{{sub|2}}, P{{sub|2}}P{{sub|3}}}}(水色の折れ線)をそれぞれ {{math|''t'' : 1 &minus; ''t''}} の比率で分割する点、{{Math|P{{sub|4}}, P{{sub|5}}, P{{sub|6}}}} を求める。 #次に、これらの点を順に結んで得られる2つの線分 {{Math|P{{sub|4}}P{{sub|5}}, P{{sub|5}}P{{sub|6}}}}(橙色の折れ線)を再びそれぞれ {{math|''t'' : 1 &minus; ''t''}} の比率で分割する点 {{Math|P{{sub|7}}, P{{sub|8}}}} を求める。 #最後に、この2点を結ぶ線分 {{Math|P{{sub|7}}P{{sub|8}}}}(緑色の線分)をさらに {{math|''t'' : 1 &minus; ''t''}} の比率で分割する点 {{Math|P{{sub|9}}}} を求めると、この点がベジェ曲線上の点となる。 #この作業を {{math|0 < ''t'' < 1}} の範囲で繰り返し行うことにより、{{Math|P{{sub|0}}, P{{sub|1}}, P{{sub|2}}, P{{sub|3}}}} を制御点とする3次ベジェ曲線(赤色の曲線)が得られる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[Adobe Illustrator]] *[[CorelDRAW]] *[[Canvas (グラフィックソフト)|Canvas]] *[[スプライン曲線]]<!-- *[[円_(数学)]] - 正円のベジェ曲線による近似 *[[三角関数]] - 三角関数のベジェ曲線による近似--><!--リンク先の記事にその近似法について記述は無いのだからリンクすべきでない。あらゆる曲線について「ベジェ曲線による近似」は考えられるのだから、あらゆる曲線をここに挙げることができてしまう--> == 外部リンク == * {{高校数学の美しい物語|2530|ベジェ曲線の定義と4つの性質}} {{DEFAULTSORT:へしえきよくせん}} [[Category:曲線]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]]
null
2023-05-07T00:51:44Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:高校数学の美しい物語", "Template:Mvar", "Template:En", "Template:Javadoc:SE", "Template:Cite book", "Template:Reflist", "Template:Fr", "Template:Math", "Template:仮リンク", "Template:Math2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%B8%E3%82%A7%E6%9B%B2%E7%B7%9A
13,537
報身
報身(ほうしん、ほうじん、サンスクリット語: संभोगकाय、saṃbhoga-kāya)は、仏身(仏の身体、からだ、すなわち姿)を表す三身(法身、報身、応身)の一つ。受用身(じゅゆうしん)ともいう。 仏陀となるための因としての行を積み、その報いとしての完全な功徳を備えた仏身である。また、「受用される身」とも訳すことができるので、人間がこの仏の身体を受用して成仏するという意味ともなる。 『成唯識論』には「自ら法楽を受用す」とあり、これを仏教で自受法楽という。すなわち仏がその悟りの奥深広大なるを自ら楽しんで受けることをいう。これには成道直後の釈迦如来や大日如来が相当する。 この考えから、報身(受用身)が発展して、さらに2つの仏身観が生まれた。 智顗は『摩訶止観』巻6下で「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身となす」と説明し、仏の智慧の身であるとした。 この報身という考え方から、やがてそれを具体的に彫刻や絵にしようとして、三十二相八十種好などの仏の相貌が整えられてきたと考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "報身(ほうしん、ほうじん、サンスクリット語: संभोगकाय、saṃbhoga-kāya)は、仏身(仏の身体、からだ、すなわち姿)を表す三身(法身、報身、応身)の一つ。受用身(じゅゆうしん)ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "仏陀となるための因としての行を積み、その報いとしての完全な功徳を備えた仏身である。また、「受用される身」とも訳すことができるので、人間がこの仏の身体を受用して成仏するという意味ともなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『成唯識論』には「自ら法楽を受用す」とあり、これを仏教で自受法楽という。すなわち仏がその悟りの奥深広大なるを自ら楽しんで受けることをいう。これには成道直後の釈迦如来や大日如来が相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この考えから、報身(受用身)が発展して、さらに2つの仏身観が生まれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "智顗は『摩訶止観』巻6下で「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身となす」と説明し、仏の智慧の身であるとした。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この報身という考え方から、やがてそれを具体的に彫刻や絵にしようとして、三十二相八十種好などの仏の相貌が整えられてきたと考えられている。", "title": null } ]
報身は、仏身(仏の身体、からだ、すなわち姿)を表す三身(法身、報身、応身)の一つ。受用身(じゅゆうしん)ともいう。 仏陀となるための因としての行を積み、その報いとしての完全な功徳を備えた仏身である。また、「受用される身」とも訳すことができるので、人間がこの仏の身体を受用して成仏するという意味ともなる。 『成唯識論』には「自ら法楽を受用す」とあり、これを仏教で自受法楽という。すなわち仏がその悟りの奥深広大なるを自ら楽しんで受けることをいう。これには成道直後の釈迦如来や大日如来が相当する。 この考えから、報身(受用身)が発展して、さらに2つの仏身観が生まれた。 自受用報身(じじゅゆうほうしん) 他受用報身(たじゅゆうほうしん) 智顗は『摩訶止観』巻6下で「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身となす」と説明し、仏の智慧の身であるとした。 この報身という考え方から、やがてそれを具体的に彫刻や絵にしようとして、三十二相八十種好などの仏の相貌が整えられてきたと考えられている。
'''報身'''(ほうしん、ほうじん、{{翻字併記|sa|संभोगकाय|saṃbhoga-kāya|n|区=、}})は、[[仏身]]([[仏]]の身体、からだ、すなわち姿)を表す[[三身]]([[法身]]、報身、[[応身]])の一つ。受用身(じゅゆうしん)ともいう。 [[仏陀]]となるための因としての[[行 (仏教)|行]]を積み、その報いとしての完全な[[功徳]]を備えた仏身である。また、「受用される身」とも訳すことができるので、人間がこの仏の身体を受用して[[成仏]]するという意味ともなる。 『[[成唯識論]]』には「自ら法楽を受用す」とあり、これを[[仏教]]で'''自受法楽'''という。すなわち仏がその[[悟り]]の奥深広大なるを自ら楽しんで受けることをいう。これには成道直後の[[釈迦如来]]や[[大日如来]]が相当する。 この考えから、報身(受用身)が発展して、さらに2つの仏身観が生まれた。 *自受用報身(じじゅゆうほうしん) :仏が自らに法楽、利益を受用する報身のこと *他受用報身(たじゅゆうほうしん) :仏が他に法楽、利益を受用させる報身のこと [[智顗]]は『[[摩訶止観]]』巻6下で「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身となす」と説明し、仏の智慧の身であるとした。 この報身という考え方から、やがてそれを具体的に彫刻や絵にしようとして、[[三十二相]][[八十種好]]などの仏の相貌が整えられてきたと考えられている。 == 関連項目 == *[[三身]] *[[法身]] *[[応身]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ほうしん}} [[category:仏]] [[Category:仏教用語]]
null
2023-01-06T00:09:28Z
false
false
false
[ "Template:翻字併記", "Template:Buddhism-stub", "Template:Buddhism2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E8%BA%AB
13,539
システムオペレーター
システムオペレーター (System Operator) とは、コンピュータ・ネットワークの運営・管理を行う者を指す。シスオペ (SYSOP) とも呼ばれる。システムの維持と効率化のため、ホストコンピュータを管理、運営をする技術者、または代表者のこと。ネットワークを管理する人も指す。 一般にシステムの運用状況の監視や小規模なメンテナンスを行い、システム加入者の質問・要求に応えたり、全体にインフォメーションを提供したりする。 特に、電子フォーラムにおいて、その運営に当たる者を指すことがある。シスオペは、ネットワーク機器やソフトの管理よりも、参加者の間に争いが起きないように意見を調整したり、不適切な発言を削除する役割をすることが多い。ネットワークシステムの管理をする者は、システムアドミニストレータ(シスアド)やシステム管理者と呼ばれることが多い。 システムオペレーターは、企業が配備しているITなどのシステムが問題無く稼働しているかどうかや企業が持つシステムの運用・保守・管理をしている。また、システムを利用しているユーザーからの質問に答えたり、セキュリティーの管理、システムのアップデート、システムの改善提案、広告掲示システムの管理、必要に応じてハードウェアの増設なども行う。さらには、パソコン通信サービスにおけるフォーラムを運営するため、その企画から質問への受け答えや主催者からの通知、参加者のチェック、ホスト局の管理なども行う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "システムオペレーター (System Operator) とは、コンピュータ・ネットワークの運営・管理を行う者を指す。シスオペ (SYSOP) とも呼ばれる。システムの維持と効率化のため、ホストコンピュータを管理、運営をする技術者、または代表者のこと。ネットワークを管理する人も指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般にシステムの運用状況の監視や小規模なメンテナンスを行い、システム加入者の質問・要求に応えたり、全体にインフォメーションを提供したりする。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特に、電子フォーラムにおいて、その運営に当たる者を指すことがある。シスオペは、ネットワーク機器やソフトの管理よりも、参加者の間に争いが起きないように意見を調整したり、不適切な発言を削除する役割をすることが多い。ネットワークシステムの管理をする者は、システムアドミニストレータ(シスアド)やシステム管理者と呼ばれることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "システムオペレーターは、企業が配備しているITなどのシステムが問題無く稼働しているかどうかや企業が持つシステムの運用・保守・管理をしている。また、システムを利用しているユーザーからの質問に答えたり、セキュリティーの管理、システムのアップデート、システムの改善提案、広告掲示システムの管理、必要に応じてハードウェアの増設なども行う。さらには、パソコン通信サービスにおけるフォーラムを運営するため、その企画から質問への受け答えや主催者からの通知、参加者のチェック、ホスト局の管理なども行う。", "title": "概要" } ]
システムオペレーター とは、コンピュータ・ネットワークの運営・管理を行う者を指す。シスオペ (SYSOP) とも呼ばれる。システムの維持と効率化のため、ホストコンピュータを管理、運営をする技術者、または代表者のこと。ネットワークを管理する人も指す。 一般にシステムの運用状況の監視や小規模なメンテナンスを行い、システム加入者の質問・要求に応えたり、全体にインフォメーションを提供したりする。 特に、電子フォーラムにおいて、その運営に当たる者を指すことがある。シスオペは、ネットワーク機器やソフトの管理よりも、参加者の間に争いが起きないように意見を調整したり、不適切な発言を削除する役割をすることが多い。ネットワークシステムの管理をする者は、システムアドミニストレータ(シスアド)やシステム管理者と呼ばれることが多い。
{{WikipediaPage||Wikipedia:管理者}} '''システムオペレーター''' (System Operator) とは、コンピュータ・ネットワークの運営・管理を行う者を指す<ref>{{Cite Kotobank|word=システムオペレーター|encyclopedia=デジタル大辞泉、ASCII.jpデジタル用語辞典|accessdate=2022-06-11}}</ref>。'''シスオペ''' (SYSOP) とも呼ばれる<ref name="it-nettowa-ku">{{Cite web|和書|url=https://web-seisaku-kaisha.com/it-yougo-jiten/tsuushin-network/it-nettowa-ku/shisuope.html|title=シスオペ:SYSOP|website=Web制作会社.com|publisher=Web制作会社.com|accessdate=2020-06-13}}</ref><ref name="Kotobank">{{Cite Kotobank|word=システム・オペレーター|encyclopedia=ASCII.jpデジタル用語辞典、DBM用語辞典|accessdate=2022-06-11}}</ref>。システムの維持と効率化のため、ホストコンピュータを管理、運営をする技術者、または代表者のこと<ref name="it-nettowa-ku" />。ネットワークを管理する人も指す<ref name="it-nettowa-ku" />。 一般にシステムの運用状況の監視や小規模なメンテナンスを行い<ref name="it-nettowa-ku" />、システム加入者の質問・要求に応えたり、全体にインフォメーションを提供したりする。 特に、[[インターネットコミュニティ|電子フォーラム]]において、その運営に当たる者を指すことがある。シスオペは、ネットワーク機器やソフトの管理よりも、参加者の間に争いが起きないように意見を調整したり、不適切な発言を削除する役割をすることが多い<ref name="nttpc">{{Cite web|和書|author=下島朗|url=http://www.nttpc.co.jp/yougo/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC.html|title=システムオペレーター|publisher=[[NTTPC]]|accessdate=2022-06-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120419123335/http://www.nttpc.co.jp/yougo/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC.html|archivedate=2012-04-19}}</ref>。ネットワークシステムの管理をする者は、[[システムアドミニストレータ]](シスアド)やシステム管理者と呼ばれることが多い<ref name="nttpc" />。 == 概要 == システムオペレーターは、企業が配備している[[情報技術|IT]]などの[[システム]]が問題無く稼働しているかどうかや企業が持つシステムの運用・保守・管理をしている<ref name="naritaijob">{{Cite web|和書|title=システムオペレーター|url=https://www.naritaijob.com/syokugyou/pc/systemoperator/|website=なるには資格.com|date=2014-10-23|accessdate=2020-06-13}}</ref>{{出典無効|date=2022-06-11}}。また、システムを利用しているユーザーからの質問に答えたり、セキュリティーの管理、システムのアップデート、システムの改善提案、広告掲示システムの管理<ref name="Kotobank" />、必要に応じてハードウェアの増設なども行う<ref name="naritaijob" />{{出典無効|date=2022-06-11}}。さらには、パソコン通信サービスにおけるフォーラムを運営するため、その企画から質問への受け答えや主催者からの通知、参加者のチェック、ホスト局の管理なども行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinronavi.com/newadvise/answer?q_id=183|title=システムオペレーターとは何をする人ですか。|website=進路ナビ|publisher=ライセンスアカデミー|accessdate=2022-06-11}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Internet-stub}} {{DEFAULTSORT:しすてむおへれえたあ}} [[Category:システム管理]] [[Category:コンピュータ関連の職業]] [[fr:Bulletin board system#Administration]]
2003-08-19T01:37:21Z
2023-10-16T11:03:15Z
false
false
false
[ "Template:出典無効", "Template:Reflist", "Template:Cite Kotobank", "Template:Cite web", "Template:Internet-stub", "Template:WikipediaPage" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
13,540
海洋冒険小説
海洋冒険小説(かいようぼうけんしょうせつ)は、冒険小説の一分野で、海洋を舞台としたもの。多くの作者と読者層はイギリス人とアメリカ人である。 イギリスでは、大航海時代や大英帝国時代に植民地獲得のために世界各地に雄飛し、大海洋帝国を築いた歴史的経緯から、海洋冒険小説がごく身近なものである。一方、日本ではC・W・ニコルの『勇魚』、『盟約』など、新しいものでは、白石一郎の『海狼伝』、『海王伝』、和田竜『村上海賊の娘』が該当するが、あまり例がない。 19世紀から20世紀の欧米文学の作品では、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』、ジョゼフ・コンラッドの『ナーシサス号の黒人』、『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』が翻案とした)、フレデリック・マリアットの『ピーター・シムプル』などがある。 また架空の海洋の存在を定義したものとしてウィリアム・H・ホジスンによる『サルガッソー海』神話譚などがある。 特に帆船時代のナポレオン戦争下の、若いイギリス海軍士官・水兵を主人公にした成長小説の類は、多くのシリーズものがある。多くの亜流を産んだC・S・フォレスターのホーンブロワーシリーズの『海の勇者 ホレイショ・ホーンブロワー』(イギリスにて長編ドラマ化)を代表に、ボライソーシリーズの『海の勇士 リチャード・ボライソー』、オーブリー&マチュリンシリーズの『英国海軍の雄 ジャック・オーブリー』(ハリウッドで映画化)、『ラミジ艦長物語』、アラン、海へゆくシリーズの『アラン、海へゆく〈1〉はみだし者の海戦』、トマス・キッドシリーズの『海の覇者 トマス・キッド』などがある。 また、アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』、後にスパイ小説で知られるブライアン・フリーマントルの処女作『バウンティ号の反乱』、ユーモアものとしてはブライアン・キャリスンの『無頼船長トラップ』など。 日本語作品では先述の作品の他、多島斗志之『海賊モア船長の遍歴』『海賊モア船長の憂鬱』、鈴木光司『楽園』の前半部、景山民夫『遠い海から来たCOO』等がある。 児童文学のジャンルでは上に挙げた『宝島』、『海底二万里』の他にアーサー・ランサムの『ツバメ号』シリーズ、海洋詩人、ジョン・メイスフィールドの『ニワトリ号一番のり』などがある。 日本語作品としては、川村たかしの『熊野海賊』があげられる。 最近では宇宙SFのなかで海洋冒険小説に大きく影響されたものが復権し、人気を博している(古くは、『銀河辺境シリーズ』A・バートラム・チャンドラー 作や、テレビシリーズ「スタートレック」がある)『銀河の荒鷲シーフォート』シリーズ(デイヴィッド・ファインタック)や『紅の勇者オナー・ハリントン・シリーズ』(デイヴィッド・ウェーバー)が例にあげられよう。 “イギリス海軍物”との共通点は軍隊としての、規律・指揮官の苦悩・懲罰処刑の舞台背景および、敵勢力より劣る戦力で主人公が機転を利かせて危機を乗り切るというストーリなど。「オナー・ハリントン」シリーズなどは、主人公のイニシャルがHHであることや、自国と敵国の体制や人物名がナポレオン戦争当時の英仏になぞらえてあることなど、ホーンブロワーシリーズへのオマージュであることがわかる構成になっている。 帆船時代の各シリーズに関しては海事専門用語の日本語への翻訳が作品によって異なる事案が多くあり、同一の訳者であっても作品によって翻訳を変えていることがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "海洋冒険小説(かいようぼうけんしょうせつ)は、冒険小説の一分野で、海洋を舞台としたもの。多くの作者と読者層はイギリス人とアメリカ人である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イギリスでは、大航海時代や大英帝国時代に植民地獲得のために世界各地に雄飛し、大海洋帝国を築いた歴史的経緯から、海洋冒険小説がごく身近なものである。一方、日本ではC・W・ニコルの『勇魚』、『盟約』など、新しいものでは、白石一郎の『海狼伝』、『海王伝』、和田竜『村上海賊の娘』が該当するが、あまり例がない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "19世紀から20世紀の欧米文学の作品では、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』、ジョゼフ・コンラッドの『ナーシサス号の黒人』、『闇の奥』(映画『地獄の黙示録』が翻案とした)、フレデリック・マリアットの『ピーター・シムプル』などがある。", "title": "古典作品" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また架空の海洋の存在を定義したものとしてウィリアム・H・ホジスンによる『サルガッソー海』神話譚などがある。", "title": "古典作品" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "特に帆船時代のナポレオン戦争下の、若いイギリス海軍士官・水兵を主人公にした成長小説の類は、多くのシリーズものがある。多くの亜流を産んだC・S・フォレスターのホーンブロワーシリーズの『海の勇者 ホレイショ・ホーンブロワー』(イギリスにて長編ドラマ化)を代表に、ボライソーシリーズの『海の勇士 リチャード・ボライソー』、オーブリー&マチュリンシリーズの『英国海軍の雄 ジャック・オーブリー』(ハリウッドで映画化)、『ラミジ艦長物語』、アラン、海へゆくシリーズの『アラン、海へゆく〈1〉はみだし者の海戦』、トマス・キッドシリーズの『海の覇者 トマス・キッド』などがある。", "title": "現代の作品" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』、後にスパイ小説で知られるブライアン・フリーマントルの処女作『バウンティ号の反乱』、ユーモアものとしてはブライアン・キャリスンの『無頼船長トラップ』など。", "title": "現代の作品" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本語作品では先述の作品の他、多島斗志之『海賊モア船長の遍歴』『海賊モア船長の憂鬱』、鈴木光司『楽園』の前半部、景山民夫『遠い海から来たCOO』等がある。", "title": "現代の作品" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "児童文学のジャンルでは上に挙げた『宝島』、『海底二万里』の他にアーサー・ランサムの『ツバメ号』シリーズ、海洋詩人、ジョン・メイスフィールドの『ニワトリ号一番のり』などがある。", "title": "児童文学" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語作品としては、川村たかしの『熊野海賊』があげられる。", "title": "児童文学" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最近では宇宙SFのなかで海洋冒険小説に大きく影響されたものが復権し、人気を博している(古くは、『銀河辺境シリーズ』A・バートラム・チャンドラー 作や、テレビシリーズ「スタートレック」がある)『銀河の荒鷲シーフォート』シリーズ(デイヴィッド・ファインタック)や『紅の勇者オナー・ハリントン・シリーズ』(デイヴィッド・ウェーバー)が例にあげられよう。", "title": "SF派生作品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "“イギリス海軍物”との共通点は軍隊としての、規律・指揮官の苦悩・懲罰処刑の舞台背景および、敵勢力より劣る戦力で主人公が機転を利かせて危機を乗り切るというストーリなど。「オナー・ハリントン」シリーズなどは、主人公のイニシャルがHHであることや、自国と敵国の体制や人物名がナポレオン戦争当時の英仏になぞらえてあることなど、ホーンブロワーシリーズへのオマージュであることがわかる構成になっている。", "title": "SF派生作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "帆船時代の各シリーズに関しては海事専門用語の日本語への翻訳が作品によって異なる事案が多くあり、同一の訳者であっても作品によって翻訳を変えていることがある。", "title": "専門用語の日本語訳" } ]
海洋冒険小説(かいようぼうけんしょうせつ)は、冒険小説の一分野で、海洋を舞台としたもの。多くの作者と読者層はイギリス人とアメリカ人である。 イギリスでは、大航海時代や大英帝国時代に植民地獲得のために世界各地に雄飛し、大海洋帝国を築いた歴史的経緯から、海洋冒険小説がごく身近なものである。一方、日本ではC・W・ニコルの『勇魚』、『盟約』など、新しいものでは、白石一郎の『海狼伝』、『海王伝』、和田竜『村上海賊の娘』が該当するが、あまり例がない。
{{出典の明記|date=2023年9月}} [[File:Moby Dick final chase.jpg|thumb|[[アメリカ]]の有名な海洋小説の1つである『[[白鯨]]』の[[1902年]]の印刷版のイラスト]] '''海洋冒険小説'''(かいようぼうけんしょうせつ)は、[[冒険小説]]の一分野で、[[海|海洋]]を舞台としたもの。多くの作者と読者層は[[イギリス人]]と[[アメリカ人]]である。 [[イギリス]]では、[[大航海時代]]や[[大英帝国]]時代に[[植民地]]獲得のために世界各地に雄飛し、大海洋帝国を築いた歴史的経緯から、海洋冒険小説がごく身近なものである。一方、日本では[[C・W・ニコル]]の『勇魚』、『盟約』など、新しいものでは、[[白石一郎]]の『海狼伝』、『海王伝』、[[和田竜]]『[[村上海賊の娘]]』が該当するが、あまり例がない。 == 古典作品 == [[19世紀]]から[[20世紀]]の欧米文学の作品では、[[ハーマン・メルヴィル]]の『[[白鯨]]』、[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の『[[宝島]]』、[[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[海底二万里]]』、[[ジョゼフ・コンラッド]]の『ナーシサス号の黒人』、『[[闇の奥]]』(映画『[[地獄の黙示録]]』が翻案とした)、[[フレデリック・マリアット]]の『[[ピーター・シムプル]]』などがある。 また架空の海洋の存在を定義したものとして[[ウィリアム・H・ホジスン]]による『サルガッソー海』神話譚などがある。 == 現代の作品 == 特に[[帆船]]時代の[[ナポレオン戦争]]下の、若いイギリス海軍士官・水兵を主人公にした成長小説の類は、多くのシリーズものがある。多くの亜流を産んだ[[セシル・スコット・フォレスター|C・S・フォレスター]]の[[ホーンブロワーシリーズ]]の『海の勇者 [[ホレイショ・ホーンブロワー]]』(イギリスにて長編ドラマ化)を代表に、[[ボライソーシリーズ]]の『海の勇士 リチャード・ボライソー』、[[オーブリー&マチュリンシリーズ]]の『英国海軍の雄 ジャック・オーブリー』(ハリウッドで映画化)、『ラミジ艦長物語』、[[アラン、海へゆくシリーズ]]の『アラン、海へゆく〈1〉はみだし者の海戦』、[[トマス・キッドシリーズ]]の『海の覇者 トマス・キッド』などがある。 また、[[アリステア・マクリーン]]の『[[女王陛下のユリシーズ号]]』、後に[[スパイ小説]]で知られる[[ブライアン・フリーマントル]]の処女作『[[バウンティ号の反乱]]』、ユーモアものとしては[[ブライアン・キャリスン]]の『[[無頼船長トラップ]]』など。 日本語作品では先述の作品の他、[[多島斗志之]]『[[海賊モア船長の遍歴]]』『[[海賊モア船長の憂鬱]]』、[[鈴木光司]]『[[楽園 (鈴木光司の小説)|楽園]]』の前半部、[[景山民夫]]『[[遠い海から来たCOO]]』等がある。 ==児童文学== [[児童文学]]のジャンルでは上に挙げた『宝島』、『海底二万里』の他に[[アーサー・ランサム]]の『ツバメ号』シリーズ、海洋詩人、[[ジョン・メイスフィールド]]の『ニワトリ号一番のり』などがある。 日本語作品としては、[[川村たかし]]の『熊野海賊』があげられる。 ==SF派生作品== 最近では宇宙[[サイエンス・フィクション|SF]]のなかで海洋冒険小説に大きく影響されたものが復権し、人気を博している(古くは、『[[銀河辺境シリーズ]]』[[A・バートラム・チャンドラー]] 作や、テレビシリーズ「[[スタートレック]]」がある)『銀河の荒鷲シーフォート』シリーズ([[デイヴィッド・ファインタック]])や『紅の勇者[[オナー・ハリントン・シリーズ]]』([[デイヴィッド・ウェーバー]])が例にあげられよう。 “イギリス海軍物”との共通点は軍隊としての、規律・指揮官の苦悩・懲罰処刑の舞台背景および、敵勢力より劣る戦力で主人公が機転を利かせて危機を乗り切るというストーリなど。「オナー・ハリントン」シリーズなどは、主人公のイニシャルがHHであることや、自国と敵国の体制や人物名が[[ナポレオン戦争]]当時の英仏になぞらえてあることなど、[[ホーンブロワーシリーズ]]へのオマージュであることがわかる構成になっている。 == 専門用語の日本語訳 == 帆船時代の各シリーズに関しては海事専門用語の日本語への翻訳が作品によって異なる事案が多くあり、同一の訳者であっても作品によって翻訳を変えていることがある。 === 例 === * post captain:勅任艦長、正規艦長 * ''Commander:海尉艦長、将校艦長'' * lieutenant:将校、[[海尉]] * midshipman:見習士官、将校見習、士官候補生 ==関連項目== *[[アウトワード・バウンド]] *[[帆船]] *[[大航海時代]] == 外部リンク == * [http://www.t3.rim.or.jp/~tomohide/ 帆桁亭(海洋冒険小説HP)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいようほうけんしようせつ}} [[Category:海洋冒険小説|*]] [[Category:海]]
2003-08-19T01:51:47Z
2023-09-30T07:49:08Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E5%86%92%E9%99%BA%E5%B0%8F%E8%AA%AC
13,541
後梁
後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。 朱全忠は黄巣の乱において反乱軍に属していた。しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し、斉の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。 また組織の上層部でも権力抗争が発生した。この黄巣軍の前途を悲観して、黄巣軍を見限った朱全忠は唐に寝返り、黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。 黄巣の乱以後、唐はかつての帝国の勢いを失い、地方政権に転落した。朱全忠は物流の中心地である開封の「宣武節度使」となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら唐の支配領域を広げていった。その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。 元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、朱全忠は宰相側について宦官たちを一掃した。 その後、朱全忠は宰相たち高級官僚も粛清し、唐の皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。 また朱全忠は、経済的には不便な土地にあった「長安」から「洛陽」へ唐の首都を遷都して、同時に住民も移動させ建物は解体して運び、完全に破壊した。 901年、朱全忠は「梁王」に封じられ、まもなく唐の皇帝の昭宗は殺された。 907年、朱全忠は次の哀帝より禅譲をされ、自らが皇帝になり、後梁を建国した。それからまもなくして、唐の元皇帝や一族たちは毒殺された。(唐の滅亡) 後梁は、汴州を東都、洛陽を西都とした。その後、汴州(汴京)は「開封」に改称し、開封府東都として国の首都とした。 後梁は、唐の時代において弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史のある唐帝国を滅ぼし、700年続いた貴族制を終焉させた後梁では、しばらくは実力を持った武人たちが横行する時代になった。 朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王の李克用らは、唐末の混乱に乗じて各地方で勝手に自立していき、軍閥(節度使)を作っていった。 各地方の軍閥(節度使)は、後梁の建国を認めず、朱全忠に反対して各地で自立したため、ここに「五代十国の分裂時代」が到来した。 後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都「開封」は中国経済の中心地だった。また「開封」は黄河と大運河の結節点に当たるため、 物流の拠点でもあった。 しかし後梁の版図は元来の唐の4分の一にすぎなかった。 建国後の後梁軍は李克用の子の李存勗の「晋国」(後の後唐)と戦争をして敗北し、その後は勢いを失い、押され気味となった。また、呉との戦いでも敗北した。 また後梁の皇帝の朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり、部下を罰することが多くなった。将来を期待していた長男の朱友裕にも先立たれるなど後継者にも恵まれなかった。 そのため912年、朱全忠は病床より養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたが、実子の郢王朱友珪によって殺された。 後梁の次の皇帝になった朱友珪は即位の経緯もあり人望を周囲からあまり得られず、贅沢三昧の日々を送っていたが、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。 こうした国内政治の内部の乱れは国の弱体化・不安定化を招き、やがて、後梁は晋国に侵食されるようになった。 その後、朱友貞は李存勗の「晋国」と戦争をして敗れて殺された。 こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもってあっけなく滅んだ。 その後の五代の王朝も、この後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。 現代の中国でも、朱全忠は農民反乱軍の裏切者とみなされ、高い評価は与えられていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "朱全忠は黄巣の乱において反乱軍に属していた。しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し、斉の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また組織の上層部でも権力抗争が発生した。この黄巣軍の前途を悲観して、黄巣軍を見限った朱全忠は唐に寝返り、黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "黄巣の乱以後、唐はかつての帝国の勢いを失い、地方政権に転落した。朱全忠は物流の中心地である開封の「宣武節度使」となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら唐の支配領域を広げていった。その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、朱全忠は宰相側について宦官たちを一掃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、朱全忠は宰相たち高級官僚も粛清し、唐の皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また朱全忠は、経済的には不便な土地にあった「長安」から「洛陽」へ唐の首都を遷都して、同時に住民も移動させ建物は解体して運び、完全に破壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "901年、朱全忠は「梁王」に封じられ、まもなく唐の皇帝の昭宗は殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "907年、朱全忠は次の哀帝より禅譲をされ、自らが皇帝になり、後梁を建国した。それからまもなくして、唐の元皇帝や一族たちは毒殺された。(唐の滅亡)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "後梁は、汴州を東都、洛陽を西都とした。その後、汴州(汴京)は「開封」に改称し、開封府東都として国の首都とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "後梁は、唐の時代において弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史のある唐帝国を滅ぼし、700年続いた貴族制を終焉させた後梁では、しばらくは実力を持った武人たちが横行する時代になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王の李克用らは、唐末の混乱に乗じて各地方で勝手に自立していき、軍閥(節度使)を作っていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "各地方の軍閥(節度使)は、後梁の建国を認めず、朱全忠に反対して各地で自立したため、ここに「五代十国の分裂時代」が到来した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都「開封」は中国経済の中心地だった。また「開封」は黄河と大運河の結節点に当たるため、 物流の拠点でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし後梁の版図は元来の唐の4分の一にすぎなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "建国後の後梁軍は李克用の子の李存勗の「晋国」(後の後唐)と戦争をして敗北し、その後は勢いを失い、押され気味となった。また、呉との戦いでも敗北した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また後梁の皇帝の朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり、部下を罰することが多くなった。将来を期待していた長男の朱友裕にも先立たれるなど後継者にも恵まれなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そのため912年、朱全忠は病床より養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたが、実子の郢王朱友珪によって殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "後梁の次の皇帝になった朱友珪は即位の経緯もあり人望を周囲からあまり得られず、贅沢三昧の日々を送っていたが、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうした国内政治の内部の乱れは国の弱体化・不安定化を招き、やがて、後梁は晋国に侵食されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、朱友貞は李存勗の「晋国」と戦争をして敗れて殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもってあっけなく滅んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後の五代の王朝も、この後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現代の中国でも、朱全忠は農民反乱軍の裏切者とみなされ、高い評価は与えられていない。", "title": "歴史" } ]
後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。
{{Otheruses|五代十国時代の907年から923年にかけて中原を支配した朱氏の政権|南北朝時代の554年から587年にかけて江陵一帯に拠った蕭氏の政権|後梁 (南朝)}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 朱梁 |日本語国名 = 後梁 |公式国名 = 大梁 |建国時期 = [[907年]] |亡国時期 = [[923年]] |先代1 = 唐 |先旗1 = blank.png |次代1 = 後唐 |次旗1 = blank.png |次代2 = 閩 |次旗2 = blank.png |次代3 = 趙 (五代十国時代) |次旗3 = blank.png |位置画像 = Imperial Dynasties in China 917 CE (Chinese).png  |位置画像説明 = {{Legend|#44c695|後梁(917年)}} |位置画像幅 = 250 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = [[開封府|開封]]<ref name="都城">{{Harvnb|愛宕|1997|p=9}}では「汴州を東都開封府と改称して都城とした」とする。</ref> |元首等肩書 = [[皇帝]] |元首等年代始1 = [[907年]] |元首等年代終1 = [[912年]] |元首等氏名1 = [[朱全忠|太祖]] |元首等年代始2 = 912年 |元首等年代終2 = [[913年]] |元首等氏名2 = [[朱友珪|郢王]] |元首等年代始3 = 913年 |元首等年代終3 = [[923年]] |元首等氏名3 = <ref name="matsutei">廟号も諡号もなし</ref> [[朱友貞| 末帝]] |変遷1 = [[唐]]より[[禅譲]] |変遷年月日1 = [[907年]] |変遷2 = [[後唐]]によって滅亡 |変遷年月日2 = [[923年]] }} [[ファイル:五代后梁前期形势图(繁).png|right|thumb|250px|{{Legend|#e7996c|後梁}}]] {{中国の歴史}} '''後梁'''(こうりょう)は、[[五代十国時代|五代]]の最初の王朝。[[唐]]末の混乱期に[[唐]]の朝廷を掌握した軍閥の首領[[朱全忠]]が、[[907年]]に[[唐]]の[[哀帝 (唐)|哀帝]]より[[禅譲]]を受けて建国した。都は[[開封府|開封]]<ref name="都城"/>。中国では、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[後梁 (南朝)|後梁]](西梁)と区別して'''朱梁'''とも呼ぶ。 == 歴史 == [[朱全忠]]は[[黄巣|黄巣の乱]]において反乱軍に属していた。しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し、'''斉'''の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。 また組織の上層部でも権力抗争が発生した。この黄巣軍の前途を悲観して、黄巣軍を見限った[[朱全忠]]は[[唐]]に寝返り、黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。 黄巣の乱以後、唐はかつての帝国の勢いを失い、地方政権に転落した。[[朱全忠]]は物流の中心地である開封の「宣武節度使」となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら[[唐]]の支配領域を広げていった。その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。 元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、[[朱全忠]]は宰相側について宦官たちを一掃した。 その後、[[朱全忠]]は宰相たち高級官僚も粛清し、唐の皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。 また[[朱全忠]]は、経済的には不便な土地にあった「[[長安]]」から「[[洛陽]]」へ[[唐]]の首都を遷都して、同時に住民も移動させ建物は解体して運び、完全に破壊した。 901年、朱全忠は「梁王」に封じられ、まもなく[[唐]]の皇帝の昭宗は殺された。 907年、[[朱全忠]]は次の哀帝より禅譲をされ、自らが皇帝になり、'''後梁'''を建国した。それからまもなくして、[[唐]]の元皇帝や一族たちは毒殺された。(唐の滅亡) 後梁は、[[汴州]]を東都、[[洛陽]]を西都とした。その後、汴州(汴京)は「[[開封府|開封]]」に改称し、開封府東都として国の首都とした。 後梁は、[[唐]]の時代において弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。歴史のある唐帝国を滅ぼし、700年続いた[[貴族制]]を終焉させた後梁では、しばらくは実力を持った武人たちが横行する時代になった。 [[朱全忠]]が[[唐]]を滅ぼしたとき、晋王の[[李克用]]らは、唐末の混乱に乗じて各地方で勝手に自立していき、軍閥([[節度使]])を作っていった。 各地方の軍閥([[節度使]])は、後梁の建国を認めず、[[朱全忠]]に反対して各地で自立したため、ここに「[[五代十国時代|五代十国]]の分裂時代」が到来した。 後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都「[[開封府|開封]]」は中国経済の中心地だった。また「[[開封府|開封]]」は黄河と大運河の結節点に当たるため、 物流の拠点でもあった。 しかし後梁の版図は元来の唐の4分の一にすぎなかった。 建国後の後梁軍は李克用の子の[[李存勗]]の「晋国」(後の'''[[後唐]]''')と戦争をして敗北し、その後は勢いを失い、押され気味となった。また、[[呉 (十国)|呉]]との戦いでも敗北した。 また後梁の皇帝の[[朱全忠]]は、病気もあって性格が苛烈となり、部下を罰することが多くなった。将来を期待していた長男の[[朱友裕]]にも先立たれるなど後継者にも恵まれなかった。 そのため[[912年]]、[[朱全忠]]は病床より養子の博王[[朱友文]]を後嗣に立てようとしたが、実子の郢王[[朱友珪]]によって殺された。 後梁の次の皇帝になった[[朱友珪]]は即位の経緯もあり人望を周囲からあまり得られず、贅沢三昧の日々を送っていたが、弟の均王[[朱友貞]]に殺されて帝位を奪われた。 こうした国内政治の内部の乱れは国の弱体化・不安定化を招き、やがて、後梁は晋国に侵食されるようになった。 その後、[[朱友貞]]は[[李存勗]]の「晋国」と戦争をして敗れて殺された。 こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもってあっけなく滅んだ。 その後の五代の王朝も、この後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。 現代の中国でも、[[朱全忠]]は農民反乱軍の裏切者とみなされ、高い評価は与えられていない。 == 後梁の皇帝 == {| class="wikitable" |+ ! 代数 !! 廟号 !! 名前 !! 在位 !! 備考 |- ! 1 | 太祖 || [[朱全忠]] || [[907年]] - [[912年]] || {{Sfn|愛宕|1997|pp=9-11}} |- ! 2 | 郢王 || [[朱友珪]] || 912年 - [[913年]] || 朱全忠の三男<ref name="朱友珪">{{Harvnb|愛宕|1997|pp=11-13}}では実子朱友珪について三男とする記載はなく、912年6月の太祖朱全忠を殺害し即位したとし、その後913年2月に朱友貞に殺害されその朱友貞を2代目末帝としている。</ref>。 |- ! 3 | [[末帝]]<ref name="matsutei"/> || [[朱友貞]] || 913年 - [[923年]] || 朱友珪の弟<ref name="朱友珪"/>{{Sfn|愛宕|1997|p=13}}。 |} == 系図 == {{familytree/start}} {{familytree|border=1 | AAA |-| BBB |v| CCC |v| DDD | AAA=[[朱信]] |BBB=[[朱誠]] |CCC=広王[[朱全昱]] |DDD=広王[[朱友諒]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |)| EEE | EEE=恵王[[朱友能]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |`| FFF | FFF=邵王[[朱友誨]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | | | | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | |)| GGG |v| HHH | GGG=朗王[[朱存]] |HHH=安王[[朱友寧]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | |`| III | III=密王[[朱友倫]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | |!| | | | | | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | |`| JJJ |v| KKK | JJJ=<sup>1</sup>'''[[朱全忠|太祖]]'''(朱全忠) |KKK=郴王[[朱友裕]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| LLL | LLL=<sup>2</sup>'''郢王[[朱友珪]]'''}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| MMM | MMM=<sup>3</sup>'''[[朱友貞|末帝]]'''(朱友貞)}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| NNN | NNN=福王[[朱友璋]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| OOO | OOO=賀王[[朱友雍]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| PPP | PPP=建王[[朱友徽]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |!| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |)| QQQ | QQQ=康王[[朱友敬]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |:| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |D| RRR | RRR=博王[[朱友文]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |:| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |D| SSS | SSS=冀王[[朱友謙]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |:| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |D| TTT | TTT=[[朱友恭]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |:| | | | }} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | |L| UUU | UUU=[[朱友譲]]}} {{familytree|border=1 | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree|border=0 | | | | | |-|-| VVV |~|~| WWW | VVV=実子 |WWW=養子(仮子)}} {{familytree/end}} == 後梁の元号 == {| class="wikitable" |+ ! !! 元号 !! 年数 |- ! 1 | [[開平 (五代後梁)|開平]] || [[907年]] - [[911年]] |- ! 2 | [[乾化]] || 911年 - [[915年]] |- ! 3 | [[鳳暦 (五代後梁)|鳳暦]] || [[913年]]<ref>913年、朱友珪により改元。2月、朱友貞が乾化を復活。</ref> |- ! 4 | [[貞明 (五代後梁)|貞明]] || 915年 - [[921年]] |- ! 5 | [[龍徳 (五代後梁)|龍徳]] || 921年 - [[923年]] |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[五代十国時代]] * [[朱全忠]] * [[朱友貞]] * [[黄巣|黄巣の乱]] * [[唐]] * [[汴州]] * [[開封府]] ==参考文献== * {{Citation|和書|last=愛宕|first=元|chapter=第1章五代 1.五代王朝の興亡|title=中国史3:五代 - 元|editor1=松丸道雄|editor2=池田温|editor3=斯波義信|editor4=神田信夫|editor5=濱下武志|publisher=[[山川出版社]]|series=世界歴史体系|year=1997|pages=9-14|isbn=4-634-46170-6}} * {{Cite book|和書|author=竺沙雅章|title=征服王朝の時代|publisher=講談社|year=1977}} {{先代次代 |'''後梁''' |907年 - 923年 |[[唐]] |[[後唐]] }} {{五代十国}} {{デフォルトソート:こうりよう}} [[Category:五代十国]] [[Category:後梁|*]]
null
2023-06-24T05:59:02Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:Sfn", "Template:Familytree/end", "Template:Cite book", "Template:Familytree/start", "Template:脚注ヘルプ", "Template:基礎情報 過去の国", "Template:中国の歴史", "Template:Familytree", "Template:Harvnb", "Template:先代次代", "Template:Legend", "Template:Reflist", "Template:Citation", "Template:五代十国" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%A2%81
13,545
飛騨国
飛騨国(ひだのくに、旧字体: 飛驒國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 ここでは、飛騨国についての歴史的な記述と、現在の岐阜県飛騨地方についての記述の両方を記載する。 「飛騨」は飛騨山脈の西側一帯を示す言葉で、現在は岐阜県北部に位置する。今日その名を受け継ぐのは飛騨地区北端の飛騨市だが、自治体としての規模や文化の中心的存在としては、ほぼ中央に位置する高山市の方が大きく、高山市は「飛騨高山」と呼ばれることが多い。 飛騨山脈の北側に位置する飛騨地方は、雪が多い日本海側型の気候である。飛騨は交通の便から隣接する富山県(越中)と経済的文化的な結びつきが強く、両者をまとめて飛越地方ともよばれる。一方で岐阜県内の太平洋側地域とは山脈に遮られる形で交通の便が悪かった。 なお、岐阜県は美濃地方と飛騨地方に分けられ、さらに美濃地方は一般的に岐阜地域(または岐阜圏域、以下同様)、西濃地域、中濃地域、東濃地域の4つに分けられる。しかし飛騨地方には飛騨地域(飛騨圏域)しかないので、飛騨地方と飛騨地域は同義であり、岐阜県などの行政上は飛騨地域の用語が多く用いられる(岐阜県#行政区画も参照)。 古くは表記が一定せず、『日本書紀』では「飛驒」、『万葉集』では「斐太」、『国造本紀』や『賦役令』では「斐陀」と書かれている。このほか「卑田」「比太」「飛駄」「飛弾」の表記も存在した。 8世紀初頭までは「斐陀」や「斐太」などと表記されることが多く、飛騨地方では「斐太」を企業名に採用している例も多い。岐阜県立斐太高等学校の「斐太」表記は万葉集に由来する。 「飛驒(飛騨)」と表記されるようになったのは和銅年間以降と考えられている。 「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『続日本紀』に文武天皇の治世下の大宝2年(702年)夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『万葉集』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。 『和漢三才図会』七十にある飛騨国風土記の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元美濃の内なり。住昔(むかし)、江州の大津に王宮を造りし時(天智天皇造営)、この郡より良き材(き)を多く出して、馬の駄に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛駄の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『日本古典文学大系』(の脚注)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。 「飛驒」と「飛騨」については、本来は騨の字ではなく驒の字を用いて飛驒国と表記した。高山市の飛騨高山まちの博物館の設置条例では正式名称として「飛騨」の字を採用している。 4世紀の成務朝に斐陀国造が設置されたことが『先代旧事本紀』「国造本紀」に見え、国造墓と見られる三日町大塚古墳や亀塚古墳などの大型古墳が国府町付近に造営された。また『日本書紀』には仁徳朝に両面宿儺の反乱が見られる。 7世紀には斐陀国造領域を中心に律令国として成立した。飛驒は当時辺境地帯を除けば最も過疎地域であったため税制上の特例が認められた。すなわち、庸・調を免除されるかわり大工(飛騨工)が徴発された。これは後世、大工業が発達する一因ともなる。なお律令制施行以降も大野郡大領や中央下級官人として斐陀国造の一族が見られる。郷は、益田郡2郷、大野郡4郷、荒城郡7郷で計13郷にすぎず、人口は、沢田吾一氏の推計で、13,850である(奈良朝時代民政経済の数的研究)。 京極氏が代々飛騨守護を勤め京極氏の領国だったが、後に京極氏の支流で守護代の三木氏が台頭、江馬氏・内ヶ島氏・照蓮寺などの諸勢力とが、上杉謙信や武田信玄、一向一揆の影響を受けながら争っていた。 戦国時代には、姉小路氏に改姓した三木氏が悲願の飛騨国統一を達成し、一時的にだが支配していた。本能寺の変以後は、金森長近が羽柴秀吉と対立した姉小路頼綱を攻め、高山城を本拠地とした。 江戸時代になると、当初は高山藩が置かれていたが、後に公儀御料(幕領)となり高山代官所(1777年に飛騨郡代に昇格)が飛騨国を治める事となる。この時代には、飛騨国は林業地帯として発展し、「飛騨の匠」と呼ばれる大工を多く輩出した。以来、飛騨地方には、家具などの木工産業が多く立地している。 明治維新直後には、天領と呼ばれるようになった旧幕領が廃藩置県に先立ってまず府または県という行政単位に改編された。飛騨国は早くも明治元年5月(1868年6月)に飛騨県となり、そのわずか1週間後には高山県となった。明治2年(1869年)には県知事梅村速水の急激な改革に対しての暴動(梅村騒動)が発生する。廃藩置県後の明治4年(1871年)に行われた府県合併により、近隣の信濃国中部南部の諸県と合併して筑摩県の一部となった。明治9年(1876年)に筑摩県が廃止された後は、当初旧美濃国のみで構成されていた岐阜県に編入され、これが現在に至っている。 明治時代には、国家的な重要産業であった製糸業を担う労働力として、飛騨地方の村落から、山道を通って諏訪湖周辺に多くの女性が流出した(『あゝ野麦峠』)。 平成時代には平成の大合併が行われて自治体が再編され3市1村まで統合が進んだ。現在の高山市と下呂市の大部分、飛騨市、白川村は、かつての三木氏・江馬氏・内ヶ島氏の支配領域とそれぞれがほぼ一致している。 明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。 国府は『和名抄』によると大野郡にあった。『拾芥抄』では、「大原(大野郡のこと)、府」とある。これは平成の大合併以前の旧高山市域にあったと考えられている。 また、奈良時代前期以前は現在の高山市国府町にあったとされる説もあるが(国府盆地から高山盆地への国府移転説)、双方ともに国衙の遺跡はいまだ発見されていない。 山国なので、気候は飛騨地方全域内陸性気候を呈しており、それに併せて大部分は日本海側気候、一部地域は中央高地式気候、地域によっては豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)で冬季は雪が多い。また、スーパーカミオカンデを抱える地方でもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "飛騨国(ひだのくに、旧字体: 飛驒國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ここでは、飛騨国についての歴史的な記述と、現在の岐阜県飛騨地方についての記述の両方を記載する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「飛騨」は飛騨山脈の西側一帯を示す言葉で、現在は岐阜県北部に位置する。今日その名を受け継ぐのは飛騨地区北端の飛騨市だが、自治体としての規模や文化の中心的存在としては、ほぼ中央に位置する高山市の方が大きく、高山市は「飛騨高山」と呼ばれることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "飛騨山脈の北側に位置する飛騨地方は、雪が多い日本海側型の気候である。飛騨は交通の便から隣接する富山県(越中)と経済的文化的な結びつきが強く、両者をまとめて飛越地方ともよばれる。一方で岐阜県内の太平洋側地域とは山脈に遮られる形で交通の便が悪かった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、岐阜県は美濃地方と飛騨地方に分けられ、さらに美濃地方は一般的に岐阜地域(または岐阜圏域、以下同様)、西濃地域、中濃地域、東濃地域の4つに分けられる。しかし飛騨地方には飛騨地域(飛騨圏域)しかないので、飛騨地方と飛騨地域は同義であり、岐阜県などの行政上は飛騨地域の用語が多く用いられる(岐阜県#行政区画も参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古くは表記が一定せず、『日本書紀』では「飛驒」、『万葉集』では「斐太」、『国造本紀』や『賦役令』では「斐陀」と書かれている。このほか「卑田」「比太」「飛駄」「飛弾」の表記も存在した。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "8世紀初頭までは「斐陀」や「斐太」などと表記されることが多く、飛騨地方では「斐太」を企業名に採用している例も多い。岐阜県立斐太高等学校の「斐太」表記は万葉集に由来する。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「飛驒(飛騨)」と表記されるようになったのは和銅年間以降と考えられている。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『続日本紀』に文武天皇の治世下の大宝2年(702年)夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『万葉集』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『和漢三才図会』七十にある飛騨国風土記の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元美濃の内なり。住昔(むかし)、江州の大津に王宮を造りし時(天智天皇造営)、この郡より良き材(き)を多く出して、馬の駄に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛駄の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『日本古典文学大系』(の脚注)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「飛驒」と「飛騨」については、本来は騨の字ではなく驒の字を用いて飛驒国と表記した。高山市の飛騨高山まちの博物館の設置条例では正式名称として「飛騨」の字を採用している。", "title": "名称と表記" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "4世紀の成務朝に斐陀国造が設置されたことが『先代旧事本紀』「国造本紀」に見え、国造墓と見られる三日町大塚古墳や亀塚古墳などの大型古墳が国府町付近に造営された。また『日本書紀』には仁徳朝に両面宿儺の反乱が見られる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "7世紀には斐陀国造領域を中心に律令国として成立した。飛驒は当時辺境地帯を除けば最も過疎地域であったため税制上の特例が認められた。すなわち、庸・調を免除されるかわり大工(飛騨工)が徴発された。これは後世、大工業が発達する一因ともなる。なお律令制施行以降も大野郡大領や中央下級官人として斐陀国造の一族が見られる。郷は、益田郡2郷、大野郡4郷、荒城郡7郷で計13郷にすぎず、人口は、沢田吾一氏の推計で、13,850である(奈良朝時代民政経済の数的研究)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京極氏が代々飛騨守護を勤め京極氏の領国だったが、後に京極氏の支流で守護代の三木氏が台頭、江馬氏・内ヶ島氏・照蓮寺などの諸勢力とが、上杉謙信や武田信玄、一向一揆の影響を受けながら争っていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦国時代には、姉小路氏に改姓した三木氏が悲願の飛騨国統一を達成し、一時的にだが支配していた。本能寺の変以後は、金森長近が羽柴秀吉と対立した姉小路頼綱を攻め、高山城を本拠地とした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "江戸時代になると、当初は高山藩が置かれていたが、後に公儀御料(幕領)となり高山代官所(1777年に飛騨郡代に昇格)が飛騨国を治める事となる。この時代には、飛騨国は林業地帯として発展し、「飛騨の匠」と呼ばれる大工を多く輩出した。以来、飛騨地方には、家具などの木工産業が多く立地している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治維新直後には、天領と呼ばれるようになった旧幕領が廃藩置県に先立ってまず府または県という行政単位に改編された。飛騨国は早くも明治元年5月(1868年6月)に飛騨県となり、そのわずか1週間後には高山県となった。明治2年(1869年)には県知事梅村速水の急激な改革に対しての暴動(梅村騒動)が発生する。廃藩置県後の明治4年(1871年)に行われた府県合併により、近隣の信濃国中部南部の諸県と合併して筑摩県の一部となった。明治9年(1876年)に筑摩県が廃止された後は、当初旧美濃国のみで構成されていた岐阜県に編入され、これが現在に至っている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治時代には、国家的な重要産業であった製糸業を担う労働力として、飛騨地方の村落から、山道を通って諏訪湖周辺に多くの女性が流出した(『あゝ野麦峠』)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "平成時代には平成の大合併が行われて自治体が再編され3市1村まで統合が進んだ。現在の高山市と下呂市の大部分、飛騨市、白川村は、かつての三木氏・江馬氏・内ヶ島氏の支配領域とそれぞれがほぼ一致している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "国府は『和名抄』によると大野郡にあった。『拾芥抄』では、「大原(大野郡のこと)、府」とある。これは平成の大合併以前の旧高山市域にあったと考えられている。 また、奈良時代前期以前は現在の高山市国府町にあったとされる説もあるが(国府盆地から高山盆地への国府移転説)、双方ともに国衙の遺跡はいまだ発見されていない。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "山国なので、気候は飛騨地方全域内陸性気候を呈しており、それに併せて大部分は日本海側気候、一部地域は中央高地式気候、地域によっては豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)で冬季は雪が多い。また、スーパーカミオカンデを抱える地方でもある。", "title": "地理" } ]
飛騨国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 ここでは、飛騨国についての歴史的な記述と、現在の岐阜県飛騨地方についての記述の両方を記載する。
{{JIS2004}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 飛騨国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|飛騨国}} |別称 = 飛州(ひしゅう) |所属 = [[東山道]] |領域 = [[岐阜県]]北部 |国力 = [[下国]] |距離 = [[中国 (令制国)|中国]] |郡 = 3郡13郷 |国府 = (推定)岐阜県[[高山市]] |国分寺 = 岐阜県高山市([[飛騨国分寺|飛騨国分寺塔跡]]) |国分尼寺 = 岐阜県高山市([[辻ヶ森三社|国分尼寺金堂跡]]) |一宮 = [[飛騨一宮水無神社]](岐阜県高山市) }} '''飛騨国'''(ひだのくに、[[旧字体]]: 飛驒國)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。 ここでは、飛騨国についての歴史的な記述と、現在の[[岐阜県]]飛騨地方についての記述の両方を記載する。 [[File:Hommachi Street Shopping Area in Takayama at dusk 20150123-2.JPG|thumb|[[高山市]]]] [[File:Hida Furukawa Seto river ac.jpg|thumb|[[飛騨市]]]] [[File:Gero-Onsen001.JPG|thumb|[[下呂市]]]] [[File:Shirakawago Ogimachi, february 2008 (2274408982).jpg|thumb|[[大野郡]][[白川村]]]] == 概要 == 「飛騨」は[[飛騨山脈]]の西側一帯を示す言葉で、現在は岐阜県北部に位置する。今日その名を受け継ぐのは飛騨地区北端の[[飛騨市]]だが、自治体としての規模や文化の中心的存在としては、ほぼ中央に位置する[[高山市]]の方が大きく、高山市は「飛騨高山」と呼ばれることが多い。 飛騨山脈の北側に位置する'''飛騨地方'''は、雪が多い日本海側型の気候である。飛騨は交通の便から隣接する富山県([[越中]])と経済的文化的な結びつきが強く、両者をまとめて'''飛越地方'''ともよばれる<ref>[http://www.hietsu.jp/block/index.html 飛越協議会「飛越地方とは」]</ref>。一方で岐阜県内の太平洋側地域とは山脈に遮られる形で交通の便が悪かった。 なお、岐阜県は[[美濃地方]]と飛騨地方に分けられ、さらに美濃地方は一般的に[[岐阜地区|岐阜地域]](または岐阜圏域、以下同様)、[[西濃|西濃地域]]、[[中濃|中濃地域]]、[[東濃|東濃地域]]の4つに分けられる。しかし飛騨地方には'''飛騨地域'''(飛騨圏域)しかないので、飛騨地方と飛騨地域は同義であり、岐阜県などの行政上は飛騨地域の用語が多く用いられる([[岐阜県#行政区画]]も参照)<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220619112829/https://www.pref.gifu.lg.jp/site/ken-shisetsu/|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/site/ken-shisetsu/|archivedate=2022-06-19|accessdate=2022-06-26|date=2020-10-01|title=県の施設案内|publisher=岐阜県広報課}} - 飛騨地域の例。</ref><ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626125640/https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/298074.pdf|format=pdf|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/298074.pdf|archivedate=2022-06-26|accessdate=2022-06-26|date=2022-04-22|title=令和3年岐阜県人口動態統計調査結果|publisher=岐阜県統計課人口労働係|page=10}} - 飛騨圏域の例。</ref>。 == 名称と表記 == 古くは表記が一定せず、『[[日本書紀]]』では「飛驒」、『[[万葉集]]』では「斐太」、『[[国造本紀]]』や『[[賦役令]]』では「斐陀」と書かれている<ref name="hida-hs">{{Cite web|和書|url=https://school.gifu-net.ed.jp/wordpress/hida-hs/school_info/origin/ |title=斐太高校に関係した名称について |publisher=[[岐阜県立斐太高等学校]] |accessdate=2020-07-14}}</ref><ref name="naraoka2">{{Cite web|和書|author=奈良岡勉|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2011061900003.html%3Fpage=2.html |title=「單」か「単」か 「ひだ」を歩く~中編~ 2|publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2020-07-14|page=2}}</ref>。このほか「卑田」「比太」「飛駄」「飛弾」の表記も存在した<ref>{{Cite web|和書|author=奈良岡勉|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2011061900003.html%3Fpage=3.html |title=「單」か「単」か 「ひだ」を歩く~中編~ 3|publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2020-07-14|page=3}}</ref>。 8世紀初頭までは「斐陀」や「斐太」などと表記されることが多く、飛騨地方では「斐太」を企業名に採用している例も多い<ref name="naraoka2" />。[[岐阜県立斐太高等学校]]の「斐太」表記は万葉集に由来する<ref name="hida-hs" />。 「飛驒(飛騨)」と表記されるようになったのは和銅年間以降と考えられている<ref name="hida-hs" />。 「騨」は野生の馬や葦毛の馬を意味する文字で、『[[続日本紀]]』に[[文武天皇]]の治世下の[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])夏4月8日、飛騨国が神馬を献じた記録があり、『[[万葉集]]』巻16には「ぬばたまの 斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ) 見るごとに 巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し 思ほゆるかも」(3844)とある。この神馬(大黒)を瑞祥とし、天下に大赦を行った。 『[[和漢三才図会]]』七十にある飛騨国[[風土記]]の逸文には次のように記されている。「飛騨国風土記に云わく、この国は、元[[美濃国|美濃]]の内なり。住昔(むかし)、[[近江国|江州]]の大津に王宮を造りし時([[天智天皇]]造営<ref>『風土記 [[日本古典文学大系]]2』 [[岩波書店]] 14刷1971年(1刷1958年) p.461.</ref>)、この郡より良き材(き)を多く出して、[[駄馬|馬の駄]]に負(おお)せて来たる。その速きこと、飛ぶが如し。よりて改めて飛'''駄'''の国という」として、駄馬と関連したものとして語られるが、この表記を『[[日本古典文学大系]]』(の脚注<!-- p.461 -->)では、後代によるもの(古代説話には見られないもの)とする。 「飛驒」と「飛騨」については、本来は'''騨'''の字ではなく'''驒'''の字を用いて'''飛驒国'''と表記した。高山市の[[飛騨高山まちの博物館]]の設置条例では正式名称として「飛騨」の字を採用している<ref name="naraoka2" />。 == 沿革 == === 前史 === [[4世紀]]の[[成務天皇|成務朝]]に'''[[斐陀国造]]'''が設置されたことが『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」に見え、国造墓と見られる三日町大塚古墳や亀塚古墳などの大型[[古墳]]が国府町付近に造営された。また『[[日本書紀]]』には[[仁徳天皇|仁徳朝]]に[[両面宿儺]]の反乱が見られる。 === 律令時代 === [[7世紀]]には斐陀国造領域を中心に[[律令国]]として成立した。飛驒は当時辺境地帯を除けば最も[[過疎地域]]であったため税制上の特例が認められた。すなわち、[[庸]]・[[調 (律令制)|調]]を免除されるかわり大工([[官人#仕丁|飛騨工]])が徴発された。これは後世、[[大工|大工業]]が発達する一因ともなる。なお律令制施行以降も[[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[大領]]や中央下級官人として斐陀国造の一族が見られる。郷は、益田郡2郷、大野郡4郷、荒城郡7郷で計13郷にすぎず、人口は、沢田吾一氏の推計で、13,850である(奈良朝時代民政経済の数的研究)<ref>{{Cite book|title=角川日本地名大辞典 21 岐阜県|date=昭和55年9月20日|year=1980|publisher=角川書店}}</ref>。 === 室町時代 === [[京極氏]]が代々飛騨[[守護]]を勤め京極氏の領国だったが、後に京極氏の支流で[[守護代]]の[[三木氏]]が台頭、[[江馬氏]]・[[内ヶ島氏理|内ヶ島氏]]・[[照蓮寺]]などの諸勢力とが、[[上杉謙信]]や[[武田信玄]]、[[一向一揆]]の影響を受けながら争っていた。 === 戦国時代から江戸時代まで === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[姉小路氏]]に改姓した三木氏が悲願の飛騨国統一を達成し、一時的にだが支配していた。[[本能寺の変]]以後は、[[金森長近]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と対立した[[姉小路頼綱]]を攻め、[[高山城 (飛騨国)|高山城]]を本拠地とした。 [[江戸時代]]になると、当初は[[飛騨高山藩|高山藩]]が置かれていたが、後に[[天領|公儀御料(幕領)]]となり[[高山陣屋|高山代官所]](1777年に[[飛騨郡代]]に昇格)が飛騨国を治める事となる。この時代には、飛騨国は[[林業]]地帯として発展し、「飛騨の匠」と呼ばれる[[大工]]を多く輩出した。以来、飛騨地方には、家具などの[[木工]]産業が多く立地している。 === 明治時代以後 === [[明治維新]]直後には、天領と呼ばれるようになった旧幕領が[[廃藩置県]]に先立ってまず[[府]]または[[県]]という行政単位に改編された。飛騨国は早くも[[明治]]元年5月(1868年6月)に'''[[飛騨県]]'''となり、そのわずか1週間後には'''[[高山県]]'''となった。明治2年(1869年)には県知事[[梅村速水]]の急激な改革に対しての暴動([[梅村騒動]])が発生する。廃藩置県後の明治4年(1871年)に行われた府県合併により、近隣の[[信濃国]]中部南部の諸県と合併して'''[[筑摩県]]'''の一部となった。明治9年(1876年)に筑摩県が廃止された後は、当初旧美濃国のみで構成されていた[[岐阜県]]に編入され、これが現在に至っている。 明治時代には、国家的な重要産業であった[[製糸業]]を担う労働力として、飛騨地方の[[村落]]から、山道を通って[[諏訪湖]]周辺に多くの女性が流出した(『[[あゝ野麦峠]]』)。 平成時代には[[平成の大合併]]が行われて自治体が再編され3市1村まで統合が進んだ。現在の[[高山市]]と[[下呂市]]の大部分、[[飛騨市]]、[[白川村]]は、かつての[[三木氏]]・[[江馬氏]]・[[内ヶ島氏]]の支配領域とそれぞれがほぼ一致している。 === 近代以降の沿革 === * 「[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点では国内の全域が[[天領|幕府領]]であり、[[高山陣屋]]の[[飛騨郡代]]が管轄。(414村・5万7,182石余) ** [[益田郡]](100村・1万514石余)、[[大野郡]](136村・2万2,264石余)、[[吉城郡]](178村・2万4,403石余) * [[慶応]]4年 ** [[5月23日 (旧暦)|5月23日]]([[1868年]][[7月12日]]) - 全域が'''[[飛騨県]]'''の管轄となる。 ** [[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1868年[[7月21日]]) - 飛騨県が'''[[高山県]]'''に改称。 * 明治4年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1871年]][[12月31日]]) - 第1次府県統合により、'''[[筑摩県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、'''[[岐阜県]]'''の管轄となる。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。'''太字'''の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。 * [[岐阜県]] ** '''[[高山市]]''' ** '''[[飛騨市]]''' ** [[下呂市]](金山町弓掛・金山町卯野原・金山町岩瀬・金山町東沓部・金山町金山・金山町田島より南西の地域を除く) ** '''[[大野郡]]''' == 国内の施設 == === 国府 === 国府は『[[和名抄]]』によると大野郡にあった。『[[拾芥抄]]』では、「大原(大野郡のこと)、府」とある。これは[[平成の大合併]]以前の旧高山市域にあったと考えられている。 また、奈良時代前期以前は現在の[[高山市]][[国府町 (岐阜県)|国府町]]にあったとされる説もあるが([[国府盆地]]から[[高山盆地]]への国府移転説)、双方ともに国衙の遺跡はいまだ発見されていない。 === 国分寺・国分尼寺 === * [[飛騨国分寺]] === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社8座8社が記載されている。大社はない。[[飛騨国の式内社一覧]]を参照。 * [[大野郡]] 水無神社 (現 [[飛騨一宮水無神社]]、高山市一之宮町) * 大野郡 [[槻本神社]] (高山市丹生川町山口) * 大野郡 荏名神社 - [[荏名神社]](高山市江名子町)または[[荒神社 (高山市)|荒神社]](高山市江名子町)に比定。 * [[荒城郡]] 大津神社 - [[大津神社 (飛騨市)|大津神社]] (飛騨市神岡町大字船津)または[[天満神社 (高山市)|天満神社]](高山市国府町村山)に比定。 * 荒城郡 [[荒城神社]] (高山市国府町宮地) * 荒城郡 高田神社 - [[貴船神社 (飛騨市)|貴船神社]](飛騨市古川町貴船町)または[[高田神社 (飛騨市)|高田神社]](飛騨市古川町太江神垣内)に比定。 * 荒城郡 阿多由太神社 - [[阿多由太神社]](高山市国府町木曽垣内)または中宮神社(飛騨市古川町 [[大歳神社 (飛騨市)|大歳神社]]に合祀)に比定。 * 荒城郡 [[栗原神社 (高山市)|栗原神社]] (高山市上宝町宮原) ; [[総社]]・[[一宮]] * 総社 - [[飛騨総社]] * 一宮 - '''[[飛騨一宮水無神社]]''' == 地域 == === 郡 === * [[大野郡]] * [[益田郡]] * [[吉城郡]] - 古代は「荒城郡」。 === 江戸時代の藩 === {| class="wikitable" |+ 飛騨国の藩の一覧 ! 藩名 !! 居城 !! 藩主 |- ! [[飛騨高山藩]] | [[高山城 (飛騨国)|高山城]] || *[[金森氏|金森家]]:5万3,000石→3万3,000石(2万石は[[上有知藩]]に分地)、1600年 - 1692年(出羽[[上山藩]]3万8,700石に移封) *[[天領|公儀御料]]:1692年 - 1871年(廃藩置県) |} == 人物 == === 国造 === * [[斐陀国造]] === 国司 === *[[姉小路高基]]:[[従三位]][[参議]]。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]][[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])に国司に任じられ[[下向]]。子孫が飛騨守を世襲した「飛騨国司家」と呼ばれる[[姉小路家]] *[[姉小路基綱]]:古川姉小路氏当主。[[左近衛中将]]のち[[従二位]][[権中納言]] *[[姉小路済継]]:基綱の子。[[正三位]][[参議]] ==== 飛騨守 ==== *[[上道斐太都]] (従四位下) :[[天平神護]]元年 ([[765年]]) 任官<ref>岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年、77頁。</ref> *[[粟田道麻呂]] (従四位下) :天平神護元年 (765年) 任官 (権守) *[[百済王利善]] :天平神護2年 ([[766年]]) 任官 *[[秦忌寸伊波多気]] (従五位下) :[[宝亀]]5年([[774年]]) 任官 *[[紀大宅]] (従五位下) :宝亀7年([[776年]]) 任官 *[[飛鳥部造弟見]] (従五位下) :[[延暦]]3年([[784年]]) 任官 *[[藤原貞本]](従五位下):[[弘仁]]元年([[810年]])任官(権守) *[[橘末茂]](正六位上):[[承和 (日本)|承和]]9年([[842年]])任官(権守) *[[菅原兼茂]](正六位上) :[[延喜]]元年 ([[901年]]) 任官 (権掾) *[[藤原辰忠]]:[[延喜]]5年([[905年]])在任 *[[大春日道光]]:[[承平 (日本)|承平]]4年([[934年]])在任 *[[高階高俊]] :[[天徳 (日本)|天徳]]、[[応和]]の頃 任官 *[[藤原茂包]]:[[応和]]元年([[961年]])任官 *[[橘是輔]]:[[康保]]2年([[965年]])在任 *[[高岳相如]]:[[正暦]]3年([[992年]])任官 *[[大春日遠晴]](正六位上):[[長徳]]2年([[996年]])任官 *[[大江以言]]:[[長徳]]2年([[996年]])任官(権守) *[[藤原為延]]:[[長和]]2年([[1013年]])任官 *[[橘惟通]]:[[万寿]]3年([[1026年]])任官 *[[紀忠任]]:[[康平]]6年([[1063年]])任官 *[[賀茂定材]] 不詳 *[[大中臣隆種]] 不詳 *[[平繁識]] : [[長治]]2年 ([[1105年]]) 任官 *[[平時輔]] : [[保延]]、[[永治]]の頃 在任 *[[平時景]] : [[久安]]の頃 在任 *[[平景則]] : [[保元]]の頃 在任 *[[藤原景家|平景家]] : [[安元]]、[[治承]]の頃 在任 *[[平景高]] : [[寿永]]2年 ([[1183年]]) 任官 *[[藤原朝高]] : [[弘安]]年中 ([[1278年]]) 在任 (地頭)<ref>岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年、78頁。</ref> === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== {{節スタブ}} ==== 室町幕府 ==== * 1359年 - 1365年 - [[佐々木道誉|京極高氏]] * 1372年 - ? - [[佐々木高秀|京極高秀]] * 1379年 - ? - [[京極高詮]] * 1381年 - 1391年 - 京極高秀 * 1391年 - 1401年 - 京極高詮 * 1401年 - 1413年 - [[京極高光]] * 1413年 - ? - 京極吉童子丸([[京極持高|持光]]?) * 1422年 - 1439年 - 京極持光 * 1439年 - 1441年 - [[京極高数]] * 1441年 - 1470年 - [[京極持清]] * 1470年 - 1471年 - [[京極孫童子丸]] * 1472年 - 1473年 - 京極乙童子丸([[京極高清|高清]]※一度目) * 1473年 - ? - [[京極政経]] * ? - 1508年 - 京極政経? * 1508年 - ? - [[京極吉童子丸]] ===国人=== {{節スタブ}} ;大野郡 *[[内ヶ島氏]] - 白川郷。室町幕府奉公衆。[[帰雲城]]主として西北部に割拠したが[[天正地震]]で帰雲城が崩壊・滅亡した。 *[[牛丸氏]] - 牛丸邑。平氏か。小鷹利城主。江馬氏と勢力を競ったが膨張した姉小路氏に追われる。しかし金森長近に属して飛驒攻めで先鋒を勤め、小鷹利城に復帰し三千石を得た。 *[[須川氏]] ;益田郡 *[[姉小路氏|三木氏]] - 竹原郷。後、姉小路氏を名乗る。 ;吉城郡 *[[江馬氏]]:飛騨北部の戦国大名。1582年、[[八日町の戦い]]で姉小路氏に敗れ滅亡。 === 戦国大名 === *[[姉小路良頼|三木良頼(姉小路良頼)]]:姉小路氏(国司家)を実質滅ぼした三木直頼の子。[[永禄]]元年([[1558年]])従五位下で任官。翌年、息子に古川姉小路家の名跡を継がせ、国司に任官させる。のち姉小路に改姓。[[従三位]]参議 *[[姉小路頼綱|三木自綱(姉小路頼綱)]]:家格向上を狙った父の良頼の手により、[[永禄]]2年([[1559年]])任官。同時に姉小路の名跡を継ぐ。[[大納言]] *[[姉小路氏]](三木氏):飛騨国司[[姉小路家]]の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取る。1585年、[[金森長近]]に敗北して戦国大名としての姉小路氏は滅亡。 === 織豊大名 === *[[金森長近]]:[[高山城 (飛騨国)|高山]]3万3千石、1585年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、美濃上有知2万石を加増) === 武家官位としての飛騨守 === *江戸時代以前 **[[高山友照]] {{節スタブ}} *江戸時代[[飛騨高山藩]]主 **[[金森長近]] : 初代藩主 **[[金森頼業]] : 第5代藩主 *江戸時代その他 **[[立花宗茂]]:[[陸奥国]][[棚倉藩]]主、[[筑後国]][[柳河藩]]初代藩主 {{節スタブ}} == 地理 == 山国なので、[[気候]]は飛騨地方全域[[内陸性気候]]を呈しており、それに併せて大部分は[[日本海側気候]]、一部地域は[[中央高地式気候]]、地域によっては[[豪雪地帯]](一部特別豪雪地帯)で冬季は雪が多い。また、[[スーパーカミオカンデ]]を抱える地方でもある。 * [[山地]]:[[飛騨山脈]]、[[両白山地]]、[[飛騨高地]] * [[山]]:[[乗鞍岳]]、[[槍ヶ岳]]、[[穂高岳]]、[[焼岳]]、[[黒部五郎岳]]、[[双六岳]]、[[樅沢岳]]、[[笠ヶ岳]]、[[御嶽山]]、[[白山]]、[[笈ヶ岳]]、白木峰、[[三方岩岳]]、[[人形山]]、[[猿ヶ馬場山 (岐阜県)|猿ヶ馬場山]]、[[大日ヶ岳]]、[[鷲ヶ岳]]、[[川上岳]]、[[位山]] * [[川]]:[[飛騨川]]、[[馬瀬川]]、[[宮川 (岐阜県)|宮川]]、[[高原川]]、[[庄川]] * [[温泉]]:[[下呂温泉]]、[[奥飛騨温泉郷]]、[[小坂温泉郷]]等 * [[盆地]]:[[高山盆地]]、[[古川国府盆地]] * 旧[[鉱山]]:[[神岡鉱山]] == 現在の交通網 == ; 鉄道 * [[東海旅客鉄道|JR]][[高山本線]] ; 道路 * [[東海北陸自動車道]] * [[中部縦貫自動車道]] * [[濃飛横断自動車道]] * [[国道41号]] * [[国道156号]] * [[国道158号]] * [[国道256号]] * [[国道257号]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 岐阜県益田郡役所、『岐阜県益田郡誌』合名会社大衆書房、1960年 == 関連項目 == {{Commonscat|Hida Province}} * [[下呂市]] * [[飛騨市]] * [[高山市]] * [[白川村]] * [[飛騨國テレビ]] * [[合掌造り]] {{令制国一覧}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひたのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東山道|国ひた]] [[Category:岐阜県の歴史]] [[Category:飛騨国|*]]
2003-08-19T03:59:11Z
2023-12-04T23:03:48Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 令制国", "Template:節スタブ", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:令制国一覧", "Template:Normdaten", "Template:JIS2004" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%9B%BD
13,546
マラウイ
マラウイ共和国(マラウイきょうわこく)、通称マラウイは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国のひとつ。旧称ニヤサランド。首都はリロングウェである。北・北西はタンザニア、東・南・南西はモザンビーク、西はザンビアと国境を接している。 マラウイはアフリカ大地溝帯に位置する内陸国で、アフリカではボツワナと並んで独立以来対外戦争や内戦を経験していない数少ない国でもある。「アフリカの温かい心(The Warm Heart of Africa)」という別称を持つ。 マラウイ湖の西岸にあり、東西の幅は90-161km、南北の長さは900kmと南北に細長い形をしている。国土はほとんど高原上にあり、マラウイ湖が大きな面積を占める。国民はチェワ族が主流となっている。 正式名称は、チェワ語で、Dziko la Malaŵi。 英語ではRepublic of Malawi(リパブリック・オブ・マラウィ)。通称はMalawi。 日本語の表記は、マラウイ共和国。マラウイはチェワ語で「炎」を意味する。 かつてこの地にはサン人が居住していたが、15世紀にチェワ族を中心とするバントゥー系の複数の部族が連合してマラヴィ(Maravi)と呼ばれるようになり、マラビ帝国(マラヴィ帝国、マラウィ帝国とも)が建国された。マラビ帝国はモザンビーク方面から到来したポルトガル人やスワヒリ都市のアラブ人との交易を行いながら、19世紀末までこの地を統治した。 スコットからの強力なキリスト教宣教活動による結果、1891年にイギリスの保護領となり、1893年にイギリス中央アフリカ保護領(1893年 - 1907年)と改称されたのち1907年にニヤサランド保護領(1907年 - 1953年)となった。1915年には牧師のジョン・チレンブウェが反乱を起こすものの鎮圧されたが、この反乱はマラウイで植民地支配への抵抗の象徴とされ、マラウイ・クワチャ紙幣にはチレンブウェの肖像が使用されている。 第二次世界大戦後、1953年に北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)、ニヤサランドをあわせたローデシア・ニヤサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦、CAF、1953年 - 1963年)が成立した。これは、地下資源の豊富な北ローデシア、製造業が盛んな南ローデシアと、黒人労働力の供給先であるニヤサランドを結びつけて経済発展を図った白人入植者(アングロアフリカン)の策であった。しかし、1958年11月23日の全アフリカ人民会議(英語版)(AAPC)に出席したバンダをはじめとした急進派の独立運動がアフリカ各地で高揚した。ニヤサランドでは1959年にローデシア・ニヤサランド連邦への反対運動を続けたバンダがグウェル(現ジンバブエ領内)に投獄されていて、いわゆる1960年の「アフリカの年」を迎える中で連邦分離の動きは止まらず、連邦の維持は困難になっていた。1962年には連邦内の自治権を獲得。同年には連邦離脱の権利を認めさせ、翌1963年にローデシア・ニヤサランド連邦は解体した。 1964年7月6日にニヤサランドはイギリス連邦内の英連邦王国の形式で独立、国際連合にも加盟した。初代大統領はヘイスティングズ・カムズ・バンダ。バンダは民主化がなされた1994年まで大統領職にあった。バンダは就任後すぐに独裁傾向を強め、1966年にマラウイはマラウイ会議党 (MCP) による一党制国家になり、1970年にはバンダは終身大統領の座についた。外交的には、経済発展の必要性から、マラウイ国民の主要な出稼ぎ先であったアパルトヘイト時代の南アフリカ共和国とも外交関係を維持した。ほかにも、アフリカにおける植民地帝国を維持しようとしていたポルトガルとも連携してモザンビーク経由で沿岸部との繋がりを持とうとするなど、アフリカ南部の白人政権への接近がみられた。そのため、首都改造や鉄道網整備に際して、南アフリカ共和国から経済支援を受けた。また、この時代には反共の観点から台湾(中華民国)との友好関係が保たれた。 1992年になるとバンダの圧政に対し国内の反発が強くなり、1993年の国民投票で複数政党制が認められ、民主的に行われた1994年の選挙では統一民主戦線のバキリ・ムルジが大統領に当選した。 2004年の選挙では同じ統一民主戦線のビング・ワ・ムタリカが大統領に当選。ムタリカは、2005年に民主進歩党(DPP)を旗揚げし、2009年に再選されたが、2012年4月5日に急死した。4月7日に副大統領で民主進歩党から除名されて人民党を立ち上げていたジョイス・バンダが憲法の規定により大統領に昇格し、マラウイ初の女性大統領となった。しかし、2014年5月20日に実施された2014年の選挙で、ビング・ワ・ムタリカ元大統領の実弟で、民主進歩党のピーター・ムタリカが当選して第5代大統領に就任した。2019年の大統領選ではムタリカ大統領が再選されたが僅差での勝利となり、野党が選挙不正を訴え抗議する事態となった。 マラウイは共和制、大統領制を採る立憲国家である。現行憲法は1995年5月18日に公布されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止。閣僚は大統領により任命される。首相職は1966年以降廃止されたままである。 立法府は一院制で、正式名称は国民議会。国民議会の定数は193議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。議員の任期は5年である。 1994年からマラウイは複数政党制が認められており、旧一党支配政党でありチェワ族主体で中部に地盤を持つのマラウイ会議党(MCP)のほか、ピーター・ムタリカ大統領が率いる自由主義政党の民主進歩党(DPP)、ヤオ族主体で南部に地盤を持ちムタリカ大統領が2005年にDPPを設立するまで所属していた統一民主戦線(UDF)、ジョイス・バンダ前大統領が率いる人民党、共和党(RP)を中心とする政党連合ムグウイリザノ連合(MC)などが活動している。 マラウイは独立後、南アフリカ共和国との経済関係を重視する立場から、ブラックアフリカでは例外的に南アフリカのアパルトヘイト政権と友好関係を築き、白人国家ローデシアや1975年までアフリカ植民地から撤退しなかったポルトガルとも同様に友好関係を結んでいた。 また、親西側政策から1966年から台湾(中華民国)と外交関係を有していたが、2007年末に断交し、中華人民共和国と国交を樹立した。 日本はマラウイを独立と同時に承認し、現在では相互に大使館を開設している。 マラウイ軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約5,300人である。兵制は志願制を採用している。2000年度の軍事予算は950万ドルでGDPの0.76%である。 マラウイの面積は約11.8万km、11万8484kmであり、ほぼ北海道と九州をあわせた面積に相当する。国土の北部はほとんど高原となっているが、マラウイ湖沿岸は北部台地からはかなり標高が低くなっている。南部は標高が低く、マラウイ湖から流れ出したシーレ川が流れる。マラウイ湖の面積が国土の20%以上を占めており、国土の5分の1が湖や川などの水域である。マラウイ湖南方の大きな湖としてはマロンベ湖が、さらにその南東のモザンビークとの国境地帯にはチウタ湖とチルワ湖がある。チルワ湖はほかの湖と比べ非常に浅いが魚影が濃く、マラウイ全体の漁獲量の20%から30%を占める大漁場となっている。ただし浅いために水位が変動しやすく、2018年には旱魃によって水位が大幅に低下した。同国には、5つの国立公園と4つの野生生物保護区があり、その他には2つの保護区が存在している。2019年時点での森林景観保全指数(英語版)の平均値は5.74/10であり、172ヶ国中で96位に挙げられている。 気候は、高原となっている北部・中部は温帯夏雨気候(Cw)であり、南部の低地は熱帯モンスーン気候に属する。5月から10月までが乾季、11月から4月までが雨季である。降水量は全般に多く、高原部では2000ミリ以上降るところもあり、最も降水量の少ない南部の低地においても800ミリ程度の降水量はある。気温もさほど激しいものではなく、首都リロングウェの気温は夏が17度~29度、冬が7度~23度くらいとなっている。 マラウイ国内では約187種の哺乳類の生息が確認されている。湖や川には約500種の魚類が生息しており、その多くは固有種である。また鳥類は約648種の存在が記録されている。 マラウイ湖の南北の総延長は約560kmあるが、幅は75km位しかない。面積はほぼ2万9500kmで、九州島の面積の約80パーセントに当たる。最大水深は706m。湖は大切な漁獲資源を得る場であり、観光資源でもある。500種以上の魚類が生息している。漁業も盛んであり、シクリッド科に属するチャンボという白身魚が特産となっているほか、様々な魚が水揚げされる。その他、湖にはカワウソ、ワニ、カバといった動物や様々な色鮮やかな鳥も生息している。マラウイ湖国立公園は、ユネスコの指定する世界遺産の一つである。 北部州、中部州、南部州の3つの州(Region)に分かれており、その下にさらに28の県(District)がある。 北部州は、チティパ(Chitipa)、カロンガ(Karonga)、ルンピ(Runphi)、ムジンバ(Mzimba)、カタベイ(Nkhata Bay)、リコマ(Likoma)の6県に分かれている。 中部州は、カスング(Kasungu)、ンチシ(Ntchisi)、ドーワ(Dowa)、ムチンジ(Mchinji)、コタコタ(Nkhotakota)、サリマ(Salima)、リロングウェ(Lilongwe)、デッザ(Dedza)、ンチェウ(Ntcheu)の9県に分かれている。 南部州は、マンゴチ(Mangochi)、バラカ(Balaka)、マチンガ(Machinga)、ゾンバ(Zomba)、チラズル(Chiradzulu)、ムワンザ(Mwanza)、チョロ(Tyolo)、ムランジェ(Mulanje)、パロンベ(Phalombe)、チクワワ(Chikwawa)、ンサンジェ(Nsanje)、ブランタイヤ(Blantyre)、ネノ(Neno)の13県に分かれている。 マラウイ最大の都市は中部にある首都のリロングウェ (Lilongwe)であり、人口は約98万人(2014年)である。リロングウェは独立以前は地方都市に過ぎなかったが、1975年に南部のゾンバから遷都されたのち急速に人口が増大し、2000年代中盤にブランタイヤを抜いて国内最大の都市となった。産業はそれほど存在せず、政治の中心としての性格が強い都市である。これに次ぐのが南部のブランタイヤ (Blantyre)であり、人口は66万人(2008年)を数える。政治のリロングウェに対してブランタイヤは経済の中心であり、盛んな商業のほか、食品や醸造などの工業も立地している。 マラウイの都市人口はリロングウェとブランタイヤの二大都市が突出しており、それ以外の都市ははるかに小さな規模にとどまっている。第三都市であるムズズ (Mzuzu) は北部の中心地であるが、人口は13万人(2008年)に過ぎない。これに次ぐのが南部にあるマラウイ第4の都市ゾンバ (Zomba) であり、人口は9万人(2008年)である。ゾンバは高原上にあって風光明媚な風景と冷涼な気候を持ち、イギリス植民地時代には植民地の首都がおかれた。独立後も引き続き1975年まで首都が置かれ、遷都後もマラウイ大学の本部が置かれる文教都市となっている。 このほか主要な町 (Township)として、以下の町がある。 通貨はマラウイ・クワチャ(クワチャ、クワッチャ、kwacha,Mkw,M.K)。補助通貨としてタンバラが存在し、1マラウイ・クワチャ=100タンバラである。また、中央銀行はマラウイ準備銀行である。2006年には世界銀行の統計によれば8%台の経済成長を遂げたが、依然として世界最貧国の一つである。世界銀行によると、2014年の1人当たり国民所得は250米ドルで、世界最下位である(2022年には640米ドルまで上昇したが、この年のデータのある国では依然下から9番目である)。 主要産業は農業であり、人口の84.5%(1998年)が第一次産業に従事しているが、ほとんどが天水農業であるために生産性が低く、また気候変動に収穫が大きく左右される。主な作物としてはトウモロコシ、サツマイモ(世界生産量2位の6.4%、2019年)が全土で広く栽培されるが、自給作物としての性格が強い。商品作物として最も有力なものは葉タバコで、2013年には総輸出の46.6%を占める最大輸出品となっていた。このほか商品作物としては、砂糖(総輸出の9.5%、2013年)、茶(総輸出の7.1%、2013年)、落花生(総輸出の5.0%、2013年)などが生産されている。主力作物のタバコに頼る率が高い上に禁煙運動などによって先行きに不安があるため、商品作物の多角化が進められ、マカダミアナッツなどいくつかの小規模な輸出作物が開発された。マカダミアナッツは日本向け輸出の50.4%(2014年)を占めており、42.5%を占める葉たばことともに日本向けの主力商品となっている。ただし対日貿易はマラウイからの輸出が輸入の3分の1以下であり、マラウイの大幅な貿易赤字となっている。可耕地の多くが農地とされているため牧畜はあまり行われていない。 一方でマラウイは鉱産資源に恵まれていない。わずかに石灰石と少量の石炭が採掘されているのみである。2009年には北部カエレケラでウラン鉱山が開発され、2013年には総輸出の11.3%を占めるまでに成長したものの、2014年に価格低迷によって休山に追い込まれた。 マラウイは雨量が多いため豊かな森林も広がっていたが、農地の開墾や燃料(薪炭)用の伐採などによって速いテンポで森林減少が続いている。 上で述べるように降水量は少なくはないが年較差が激しく、灌漑設備も整っていないため旱魃に見舞われやすい。2005年には旱魃などのため収穫量が激減し、国際連合世界食糧計画などが援助を行った。2005年10月、ムタリカ大統領は食糧危機に対し緊急宣言を行った。2016年にも旱魃に襲われ、大きな被害を出した。 傍ら洪水に見舞われることも少なくなく、2019年には主に南部で100万人近くが被災する大規模な水害がおきた。 90%の地域には未だ電気が通っていない。発電はシーレ川などマラウイ湖の流出・流入河川における水力発電に依存しており、2012年には発電量の89.1%が水力発電によって占められた。このため、特に乾季は電力不足や停電が深刻である。 2001年にウィリアム・カムクワンバが独力で発電用の風車を完成させたことは、マラウイ中、さらには全世界から強い関心を集め、自伝である「風をつかまえた少年」は2018年には映画化され、2019年には日本でも公開された。 社会基盤となる交通の整備は未だ不十分な状態である。 幹線道路の舗装率は約50%となっている。長距離移動では、主要都市を拠点として長距離バスが各地を結んでおり、国外主要都市に向かうバスもある。近距離で市民の足として広く利用されているのはミニバスである。 鉄道の路線は北部域へ通じておらず、中南部のみとなっている。鉄道はザンビア国境のムチンジから、首都リロングウェやマラウイ湖畔のサリマ、ブランタイヤ市を通って国土南端のンサンジェからモザンビークのベイラ港へ抜けるルートと、途中のンカヤから東部国境のナユチへと通じ、モザンビークのナカラ港へ抜ける路線が存在する。対外貿易のメインルートはモザンビーク経由であったが、1980年代のモザンビーク内戦によってこのルートが絶たれ、道路を利用したザンビア経由へと移行した。1990年代初頭にモザンビークで和平が成立した後、同国経由ルートは再び活況を取り戻した。このほか、タンザニアのダルエスサラームから同国南部のムベヤまでタンザン鉄道で物資を運び、そこからトラックでマラウイ北部へ入る輸送ルートも多用され、ムベヤにはマラウイ向けの物資を保管するマラウィ・デポと呼ばれる倉庫が置かれている。 空運は、リロングウェのリロングウェ国際空港とブランタイヤのチレカ国際空港の2つの国際空港が存在し、そのほかムズズ空港など小規模な空港がいくつか存在する。 マラウイの人口は急増を続けている。独立直前、1962年の人口は295万人だったが、1994年には995万人となり、2015年には1730万人となった。この地域は植民地化以前から人口が多く、ニヤサランド植民地時代はローデシアや南アフリカへの労働力供給地となっていて、多くの人々がこれら近隣諸国へ出稼ぎを行っていた。人口密度は中南部が非常に高いが、北部ではやや低い。 マラウイ最大の民族集団はチェワ族であり、総人口の32.6%(2008年)を占める。そのほか、トゥンブーカ族(トゥンブカ族)、ンゴニ族(アンゴニ族)、ヤオ族、ニャンジャ族、チポカ族、トンガ族、アマゴロゴロ族、ンセンガ族、ズールー族、コーサ族、スワジ族、ンデベレ族(英語版)などが存在する。マラウィ内には40程度の民族集団が存在するといわれるが、それぞれの民族集団の輪郭は曖昧である。 国語はチェワ語であり、英語も公用語となっている。その他にも、チェワ語はほぼ同じ言語であるニャンジャ語と合わせると人口の半数以上の母語となっており、主に中南部で広く使用される。このほか、北部で広く使用されるトゥンブカ語(トゥンブーカ語)をはじめ、トンガ語、ヤオ語、マラウイ・ロムウェ語(英語版)(ロムウェ語)、Kokola(マクア語)、マラウイ・セナ語(セナ語)、ランブヤ語(英語版)、ンコンデ語(ニャキュサ語)、ニイカ語(英語版)、その他諸部族語が話され、少数だがフランス語、スワヒリ語を話す人々も存在する。 マラウイにおいては、婚姻時に改姓する法的な必要はない。とくに北部においては伝統的に改姓しない(夫婦別姓)。 1998年のセンサスによれば、国民の79.9%がキリスト教、12.8%がイスラーム、その他が3%、無宗教が4.8%である。キリスト教はカトリックよりもプロテスタント各派のほうが多い。マラウイのイスラームにおいてはムスリムはマラウイ湖畔や北部に比較的多い。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は62.7%(男性:76.1%、女性:49.8%)である。2003年にはGDPの5.8%が教育費に支出された。教育制度は小学校8年・中等学校4年・大学4年の8・4・4制である。義務教育制度は存在しないが、小学校の授業料は無料である。この無料化は1994年に実施されたが、これによって就学率こそ向上したものの、財源や人材の不足などによって教育の質が低下し、学力の低下などが問題となっている。 主な高等教育機関としては1964年に南部のゾンバに設立された総合大学であるマラウイ大学があるほか、1999年には教員養成用の単科大学として北部のムズズにムズズ大学が設立された。 国民の健康状態は良好ではなく、HIV/AIDSが蔓延しているために平均余命も52.9歳である。2007年のHIV感染者は約930,000人であり、感染率は11.9%である。マラリアの患者も非常に多く、人口の3分の1以上に当たる600万人が毎年マラリアに罹患しているとされる。またマラウイ湖はビルハルツ住血吸虫に汚染されているため遊泳は危険である。 マラウイの治安は他のアフリカ諸国に比べると比較的安定している方であるが、日本と比べると確実に安全性が高いとはいえない。犯罪の大半は、窃盗、ひったくり、建造物侵入などの軽犯罪が主体となっている。しかしながら近年は、国内の収入格差の広がりによる貧困層の増加、近隣諸国からの不法滞在者が銃器と供に流入している点から、犯罪の手口が凶悪化かつ組織化しているケースも見受けられるようになっている面がある。 首都リロングウェや南部の商業都市であるブランタイヤにおける犯罪は、複数の強盗団による建物侵入事案が主流となっており、電気会社や警察を装う、警備員が犯罪者を手引きする、集団で住居に侵入するなどのケースが報告されている。 また、慢性的な電力不足から街灯は消灯していることが多く、道路に置き石をして停車させ、車両を襲撃するなどの事案が発生しているために、夜間の外出には十分な注意が必要とされている。 マラウイでは携帯電話の所持率は10%弱である。インターネット普及率も低く、通信環境に恵まれていない面が強い。 マラウイ人の多くは、ンシマと呼ばれるトウモロコシ粉を湯で練って作ったものを主食として食べる。多くの場合、魚・牛肉・鶏肉や調理された野菜を副菜にして一緒に食べる。米やキャッサバ粉から作られた食物なども好んで食べる。また、畑などに現れるネズミもよく食べる。マラウイではネズミはポピュラーな食糧で、よく市場で売られているという。 マラウイを代表する作家にはレグソン・カイラ(英語版、フランス語版)が挙げられる。 マラウイにおける音楽文化は、歴史的に英国とアメリカの音楽文化からの影響を受けている面がある。 マラウイ共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在する。 マラウイ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1986年にサッカーリーグのマラウイ・プレミアディビジョンが創設された。ニャサ・ビッグ・ブレットFC(英語版)がリーグ最多14度の優勝に輝いている。サッカーマラウイ代表はFIFAワールドカップへの出場歴こそないものの、アフリカネイションズカップには3度出場しており、2021年大会では初めてグループリーグを突破しベスト16入りを果たした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マラウイ共和国(マラウイきょうわこく)、通称マラウイは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国のひとつ。旧称ニヤサランド。首都はリロングウェである。北・北西はタンザニア、東・南・南西はモザンビーク、西はザンビアと国境を接している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "マラウイはアフリカ大地溝帯に位置する内陸国で、アフリカではボツワナと並んで独立以来対外戦争や内戦を経験していない数少ない国でもある。「アフリカの温かい心(The Warm Heart of Africa)」という別称を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マラウイ湖の西岸にあり、東西の幅は90-161km、南北の長さは900kmと南北に細長い形をしている。国土はほとんど高原上にあり、マラウイ湖が大きな面積を占める。国民はチェワ族が主流となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称は、チェワ語で、Dziko la Malaŵi。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語ではRepublic of Malawi(リパブリック・オブ・マラウィ)。通称はMalawi。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、マラウイ共和国。マラウイはチェワ語で「炎」を意味する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "かつてこの地にはサン人が居住していたが、15世紀にチェワ族を中心とするバントゥー系の複数の部族が連合してマラヴィ(Maravi)と呼ばれるようになり、マラビ帝国(マラヴィ帝国、マラウィ帝国とも)が建国された。マラビ帝国はモザンビーク方面から到来したポルトガル人やスワヒリ都市のアラブ人との交易を行いながら、19世紀末までこの地を統治した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "スコットからの強力なキリスト教宣教活動による結果、1891年にイギリスの保護領となり、1893年にイギリス中央アフリカ保護領(1893年 - 1907年)と改称されたのち1907年にニヤサランド保護領(1907年 - 1953年)となった。1915年には牧師のジョン・チレンブウェが反乱を起こすものの鎮圧されたが、この反乱はマラウイで植民地支配への抵抗の象徴とされ、マラウイ・クワチャ紙幣にはチレンブウェの肖像が使用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、1953年に北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)、ニヤサランドをあわせたローデシア・ニヤサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦、CAF、1953年 - 1963年)が成立した。これは、地下資源の豊富な北ローデシア、製造業が盛んな南ローデシアと、黒人労働力の供給先であるニヤサランドを結びつけて経済発展を図った白人入植者(アングロアフリカン)の策であった。しかし、1958年11月23日の全アフリカ人民会議(英語版)(AAPC)に出席したバンダをはじめとした急進派の独立運動がアフリカ各地で高揚した。ニヤサランドでは1959年にローデシア・ニヤサランド連邦への反対運動を続けたバンダがグウェル(現ジンバブエ領内)に投獄されていて、いわゆる1960年の「アフリカの年」を迎える中で連邦分離の動きは止まらず、連邦の維持は困難になっていた。1962年には連邦内の自治権を獲得。同年には連邦離脱の権利を認めさせ、翌1963年にローデシア・ニヤサランド連邦は解体した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1964年7月6日にニヤサランドはイギリス連邦内の英連邦王国の形式で独立、国際連合にも加盟した。初代大統領はヘイスティングズ・カムズ・バンダ。バンダは民主化がなされた1994年まで大統領職にあった。バンダは就任後すぐに独裁傾向を強め、1966年にマラウイはマラウイ会議党 (MCP) による一党制国家になり、1970年にはバンダは終身大統領の座についた。外交的には、経済発展の必要性から、マラウイ国民の主要な出稼ぎ先であったアパルトヘイト時代の南アフリカ共和国とも外交関係を維持した。ほかにも、アフリカにおける植民地帝国を維持しようとしていたポルトガルとも連携してモザンビーク経由で沿岸部との繋がりを持とうとするなど、アフリカ南部の白人政権への接近がみられた。そのため、首都改造や鉄道網整備に際して、南アフリカ共和国から経済支援を受けた。また、この時代には反共の観点から台湾(中華民国)との友好関係が保たれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1992年になるとバンダの圧政に対し国内の反発が強くなり、1993年の国民投票で複数政党制が認められ、民主的に行われた1994年の選挙では統一民主戦線のバキリ・ムルジが大統領に当選した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2004年の選挙では同じ統一民主戦線のビング・ワ・ムタリカが大統領に当選。ムタリカは、2005年に民主進歩党(DPP)を旗揚げし、2009年に再選されたが、2012年4月5日に急死した。4月7日に副大統領で民主進歩党から除名されて人民党を立ち上げていたジョイス・バンダが憲法の規定により大統領に昇格し、マラウイ初の女性大統領となった。しかし、2014年5月20日に実施された2014年の選挙で、ビング・ワ・ムタリカ元大統領の実弟で、民主進歩党のピーター・ムタリカが当選して第5代大統領に就任した。2019年の大統領選ではムタリカ大統領が再選されたが僅差での勝利となり、野党が選挙不正を訴え抗議する事態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "マラウイは共和制、大統領制を採る立憲国家である。現行憲法は1995年5月18日に公布されたもの。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止。閣僚は大統領により任命される。首相職は1966年以降廃止されたままである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "立法府は一院制で、正式名称は国民議会。国民議会の定数は193議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。議員の任期は5年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1994年からマラウイは複数政党制が認められており、旧一党支配政党でありチェワ族主体で中部に地盤を持つのマラウイ会議党(MCP)のほか、ピーター・ムタリカ大統領が率いる自由主義政党の民主進歩党(DPP)、ヤオ族主体で南部に地盤を持ちムタリカ大統領が2005年にDPPを設立するまで所属していた統一民主戦線(UDF)、ジョイス・バンダ前大統領が率いる人民党、共和党(RP)を中心とする政党連合ムグウイリザノ連合(MC)などが活動している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "マラウイは独立後、南アフリカ共和国との経済関係を重視する立場から、ブラックアフリカでは例外的に南アフリカのアパルトヘイト政権と友好関係を築き、白人国家ローデシアや1975年までアフリカ植民地から撤退しなかったポルトガルとも同様に友好関係を結んでいた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、親西側政策から1966年から台湾(中華民国)と外交関係を有していたが、2007年末に断交し、中華人民共和国と国交を樹立した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本はマラウイを独立と同時に承認し、現在では相互に大使館を開設している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マラウイ軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約5,300人である。兵制は志願制を採用している。2000年度の軍事予算は950万ドルでGDPの0.76%である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マラウイの面積は約11.8万km、11万8484kmであり、ほぼ北海道と九州をあわせた面積に相当する。国土の北部はほとんど高原となっているが、マラウイ湖沿岸は北部台地からはかなり標高が低くなっている。南部は標高が低く、マラウイ湖から流れ出したシーレ川が流れる。マラウイ湖の面積が国土の20%以上を占めており、国土の5分の1が湖や川などの水域である。マラウイ湖南方の大きな湖としてはマロンベ湖が、さらにその南東のモザンビークとの国境地帯にはチウタ湖とチルワ湖がある。チルワ湖はほかの湖と比べ非常に浅いが魚影が濃く、マラウイ全体の漁獲量の20%から30%を占める大漁場となっている。ただし浅いために水位が変動しやすく、2018年には旱魃によって水位が大幅に低下した。同国には、5つの国立公園と4つの野生生物保護区があり、その他には2つの保護区が存在している。2019年時点での森林景観保全指数(英語版)の平均値は5.74/10であり、172ヶ国中で96位に挙げられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "気候は、高原となっている北部・中部は温帯夏雨気候(Cw)であり、南部の低地は熱帯モンスーン気候に属する。5月から10月までが乾季、11月から4月までが雨季である。降水量は全般に多く、高原部では2000ミリ以上降るところもあり、最も降水量の少ない南部の低地においても800ミリ程度の降水量はある。気温もさほど激しいものではなく、首都リロングウェの気温は夏が17度~29度、冬が7度~23度くらいとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マラウイ国内では約187種の哺乳類の生息が確認されている。湖や川には約500種の魚類が生息しており、その多くは固有種である。また鳥類は約648種の存在が記録されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "マラウイ湖の南北の総延長は約560kmあるが、幅は75km位しかない。面積はほぼ2万9500kmで、九州島の面積の約80パーセントに当たる。最大水深は706m。湖は大切な漁獲資源を得る場であり、観光資源でもある。500種以上の魚類が生息している。漁業も盛んであり、シクリッド科に属するチャンボという白身魚が特産となっているほか、様々な魚が水揚げされる。その他、湖にはカワウソ、ワニ、カバといった動物や様々な色鮮やかな鳥も生息している。マラウイ湖国立公園は、ユネスコの指定する世界遺産の一つである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "北部州、中部州、南部州の3つの州(Region)に分かれており、その下にさらに28の県(District)がある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "北部州は、チティパ(Chitipa)、カロンガ(Karonga)、ルンピ(Runphi)、ムジンバ(Mzimba)、カタベイ(Nkhata Bay)、リコマ(Likoma)の6県に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "中部州は、カスング(Kasungu)、ンチシ(Ntchisi)、ドーワ(Dowa)、ムチンジ(Mchinji)、コタコタ(Nkhotakota)、サリマ(Salima)、リロングウェ(Lilongwe)、デッザ(Dedza)、ンチェウ(Ntcheu)の9県に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南部州は、マンゴチ(Mangochi)、バラカ(Balaka)、マチンガ(Machinga)、ゾンバ(Zomba)、チラズル(Chiradzulu)、ムワンザ(Mwanza)、チョロ(Tyolo)、ムランジェ(Mulanje)、パロンベ(Phalombe)、チクワワ(Chikwawa)、ンサンジェ(Nsanje)、ブランタイヤ(Blantyre)、ネノ(Neno)の13県に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マラウイ最大の都市は中部にある首都のリロングウェ (Lilongwe)であり、人口は約98万人(2014年)である。リロングウェは独立以前は地方都市に過ぎなかったが、1975年に南部のゾンバから遷都されたのち急速に人口が増大し、2000年代中盤にブランタイヤを抜いて国内最大の都市となった。産業はそれほど存在せず、政治の中心としての性格が強い都市である。これに次ぐのが南部のブランタイヤ (Blantyre)であり、人口は66万人(2008年)を数える。政治のリロングウェに対してブランタイヤは経済の中心であり、盛んな商業のほか、食品や醸造などの工業も立地している。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "マラウイの都市人口はリロングウェとブランタイヤの二大都市が突出しており、それ以外の都市ははるかに小さな規模にとどまっている。第三都市であるムズズ (Mzuzu) は北部の中心地であるが、人口は13万人(2008年)に過ぎない。これに次ぐのが南部にあるマラウイ第4の都市ゾンバ (Zomba) であり、人口は9万人(2008年)である。ゾンバは高原上にあって風光明媚な風景と冷涼な気候を持ち、イギリス植民地時代には植民地の首都がおかれた。独立後も引き続き1975年まで首都が置かれ、遷都後もマラウイ大学の本部が置かれる文教都市となっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このほか主要な町 (Township)として、以下の町がある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "通貨はマラウイ・クワチャ(クワチャ、クワッチャ、kwacha,Mkw,M.K)。補助通貨としてタンバラが存在し、1マラウイ・クワチャ=100タンバラである。また、中央銀行はマラウイ準備銀行である。2006年には世界銀行の統計によれば8%台の経済成長を遂げたが、依然として世界最貧国の一つである。世界銀行によると、2014年の1人当たり国民所得は250米ドルで、世界最下位である(2022年には640米ドルまで上昇したが、この年のデータのある国では依然下から9番目である)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "主要産業は農業であり、人口の84.5%(1998年)が第一次産業に従事しているが、ほとんどが天水農業であるために生産性が低く、また気候変動に収穫が大きく左右される。主な作物としてはトウモロコシ、サツマイモ(世界生産量2位の6.4%、2019年)が全土で広く栽培されるが、自給作物としての性格が強い。商品作物として最も有力なものは葉タバコで、2013年には総輸出の46.6%を占める最大輸出品となっていた。このほか商品作物としては、砂糖(総輸出の9.5%、2013年)、茶(総輸出の7.1%、2013年)、落花生(総輸出の5.0%、2013年)などが生産されている。主力作物のタバコに頼る率が高い上に禁煙運動などによって先行きに不安があるため、商品作物の多角化が進められ、マカダミアナッツなどいくつかの小規模な輸出作物が開発された。マカダミアナッツは日本向け輸出の50.4%(2014年)を占めており、42.5%を占める葉たばことともに日本向けの主力商品となっている。ただし対日貿易はマラウイからの輸出が輸入の3分の1以下であり、マラウイの大幅な貿易赤字となっている。可耕地の多くが農地とされているため牧畜はあまり行われていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方でマラウイは鉱産資源に恵まれていない。わずかに石灰石と少量の石炭が採掘されているのみである。2009年には北部カエレケラでウラン鉱山が開発され、2013年には総輸出の11.3%を占めるまでに成長したものの、2014年に価格低迷によって休山に追い込まれた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マラウイは雨量が多いため豊かな森林も広がっていたが、農地の開墾や燃料(薪炭)用の伐採などによって速いテンポで森林減少が続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上で述べるように降水量は少なくはないが年較差が激しく、灌漑設備も整っていないため旱魃に見舞われやすい。2005年には旱魃などのため収穫量が激減し、国際連合世界食糧計画などが援助を行った。2005年10月、ムタリカ大統領は食糧危機に対し緊急宣言を行った。2016年にも旱魃に襲われ、大きな被害を出した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "傍ら洪水に見舞われることも少なくなく、2019年には主に南部で100万人近くが被災する大規模な水害がおきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "90%の地域には未だ電気が通っていない。発電はシーレ川などマラウイ湖の流出・流入河川における水力発電に依存しており、2012年には発電量の89.1%が水力発電によって占められた。このため、特に乾季は電力不足や停電が深刻である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2001年にウィリアム・カムクワンバが独力で発電用の風車を完成させたことは、マラウイ中、さらには全世界から強い関心を集め、自伝である「風をつかまえた少年」は2018年には映画化され、2019年には日本でも公開された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "社会基盤となる交通の整備は未だ不十分な状態である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "幹線道路の舗装率は約50%となっている。長距離移動では、主要都市を拠点として長距離バスが各地を結んでおり、国外主要都市に向かうバスもある。近距離で市民の足として広く利用されているのはミニバスである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "鉄道の路線は北部域へ通じておらず、中南部のみとなっている。鉄道はザンビア国境のムチンジから、首都リロングウェやマラウイ湖畔のサリマ、ブランタイヤ市を通って国土南端のンサンジェからモザンビークのベイラ港へ抜けるルートと、途中のンカヤから東部国境のナユチへと通じ、モザンビークのナカラ港へ抜ける路線が存在する。対外貿易のメインルートはモザンビーク経由であったが、1980年代のモザンビーク内戦によってこのルートが絶たれ、道路を利用したザンビア経由へと移行した。1990年代初頭にモザンビークで和平が成立した後、同国経由ルートは再び活況を取り戻した。このほか、タンザニアのダルエスサラームから同国南部のムベヤまでタンザン鉄道で物資を運び、そこからトラックでマラウイ北部へ入る輸送ルートも多用され、ムベヤにはマラウイ向けの物資を保管するマラウィ・デポと呼ばれる倉庫が置かれている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "空運は、リロングウェのリロングウェ国際空港とブランタイヤのチレカ国際空港の2つの国際空港が存在し、そのほかムズズ空港など小規模な空港がいくつか存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "マラウイの人口は急増を続けている。独立直前、1962年の人口は295万人だったが、1994年には995万人となり、2015年には1730万人となった。この地域は植民地化以前から人口が多く、ニヤサランド植民地時代はローデシアや南アフリカへの労働力供給地となっていて、多くの人々がこれら近隣諸国へ出稼ぎを行っていた。人口密度は中南部が非常に高いが、北部ではやや低い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "マラウイ最大の民族集団はチェワ族であり、総人口の32.6%(2008年)を占める。そのほか、トゥンブーカ族(トゥンブカ族)、ンゴニ族(アンゴニ族)、ヤオ族、ニャンジャ族、チポカ族、トンガ族、アマゴロゴロ族、ンセンガ族、ズールー族、コーサ族、スワジ族、ンデベレ族(英語版)などが存在する。マラウィ内には40程度の民族集団が存在するといわれるが、それぞれの民族集団の輪郭は曖昧である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "国語はチェワ語であり、英語も公用語となっている。その他にも、チェワ語はほぼ同じ言語であるニャンジャ語と合わせると人口の半数以上の母語となっており、主に中南部で広く使用される。このほか、北部で広く使用されるトゥンブカ語(トゥンブーカ語)をはじめ、トンガ語、ヤオ語、マラウイ・ロムウェ語(英語版)(ロムウェ語)、Kokola(マクア語)、マラウイ・セナ語(セナ語)、ランブヤ語(英語版)、ンコンデ語(ニャキュサ語)、ニイカ語(英語版)、その他諸部族語が話され、少数だがフランス語、スワヒリ語を話す人々も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "マラウイにおいては、婚姻時に改姓する法的な必要はない。とくに北部においては伝統的に改姓しない(夫婦別姓)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1998年のセンサスによれば、国民の79.9%がキリスト教、12.8%がイスラーム、その他が3%、無宗教が4.8%である。キリスト教はカトリックよりもプロテスタント各派のほうが多い。マラウイのイスラームにおいてはムスリムはマラウイ湖畔や北部に比較的多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は62.7%(男性:76.1%、女性:49.8%)である。2003年にはGDPの5.8%が教育費に支出された。教育制度は小学校8年・中等学校4年・大学4年の8・4・4制である。義務教育制度は存在しないが、小学校の授業料は無料である。この無料化は1994年に実施されたが、これによって就学率こそ向上したものの、財源や人材の不足などによって教育の質が低下し、学力の低下などが問題となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては1964年に南部のゾンバに設立された総合大学であるマラウイ大学があるほか、1999年には教員養成用の単科大学として北部のムズズにムズズ大学が設立された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "国民の健康状態は良好ではなく、HIV/AIDSが蔓延しているために平均余命も52.9歳である。2007年のHIV感染者は約930,000人であり、感染率は11.9%である。マラリアの患者も非常に多く、人口の3分の1以上に当たる600万人が毎年マラリアに罹患しているとされる。またマラウイ湖はビルハルツ住血吸虫に汚染されているため遊泳は危険である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "マラウイの治安は他のアフリカ諸国に比べると比較的安定している方であるが、日本と比べると確実に安全性が高いとはいえない。犯罪の大半は、窃盗、ひったくり、建造物侵入などの軽犯罪が主体となっている。しかしながら近年は、国内の収入格差の広がりによる貧困層の増加、近隣諸国からの不法滞在者が銃器と供に流入している点から、犯罪の手口が凶悪化かつ組織化しているケースも見受けられるようになっている面がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "首都リロングウェや南部の商業都市であるブランタイヤにおける犯罪は、複数の強盗団による建物侵入事案が主流となっており、電気会社や警察を装う、警備員が犯罪者を手引きする、集団で住居に侵入するなどのケースが報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、慢性的な電力不足から街灯は消灯していることが多く、道路に置き石をして停車させ、車両を襲撃するなどの事案が発生しているために、夜間の外出には十分な注意が必要とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "マラウイでは携帯電話の所持率は10%弱である。インターネット普及率も低く、通信環境に恵まれていない面が強い。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "マラウイ人の多くは、ンシマと呼ばれるトウモロコシ粉を湯で練って作ったものを主食として食べる。多くの場合、魚・牛肉・鶏肉や調理された野菜を副菜にして一緒に食べる。米やキャッサバ粉から作られた食物なども好んで食べる。また、畑などに現れるネズミもよく食べる。マラウイではネズミはポピュラーな食糧で、よく市場で売られているという。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "マラウイを代表する作家にはレグソン・カイラ(英語版、フランス語版)が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "マラウイにおける音楽文化は、歴史的に英国とアメリカの音楽文化からの影響を受けている面がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "マラウイ共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "マラウイ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1986年にサッカーリーグのマラウイ・プレミアディビジョンが創設された。ニャサ・ビッグ・ブレットFC(英語版)がリーグ最多14度の優勝に輝いている。サッカーマラウイ代表はFIFAワールドカップへの出場歴こそないものの、アフリカネイションズカップには3度出場しており、2021年大会では初めてグループリーグを突破しベスト16入りを果たした。", "title": "スポーツ" } ]
マラウイ共和国(マラウイきょうわこく)、通称マラウイは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国のひとつ。旧称ニヤサランド。首都はリロングウェである。北・北西はタンザニア、東・南・南西はモザンビーク、西はザンビアと国境を接している。
{{Otheruseslist|国|フィリピンの都市|マラウィ (ラナオ・デル・スル州)|エジプトの都市|マラウィ (エジプト)}} {{基礎情報 国 | 略名 =マラウイ | 日本語国名 =マラウイ共和国 | 公式国名 ='''{{Lang|ny|Dziko la Malaŵi}}''' <small>(チェワ語)</small><br/>'''{{Lang|en|Republic of Malawi}}''' <small>(英語)</small> | 国旗画像 =Flag_of_Malawi.svg | 国章画像 =[[File:Coat_of_arms_of_Malawi.svg|125px]] | 国章リンク =([[マラウイの国章|国章]]) | 標語 =''{{Lang|ny|Unity and Freedom}}''<br/> (英語: 統一と自由) | 位置画像 =Malawi (orthographic projection).svg | 公用語 =[[チェワ語]]、[[英語]] | 首都 =[[リロングウェ]] | 最大都市 =[[リロングウェ]] | 元首等肩書 =[[マラウイの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 =[[ラツルス・チャクウェラ]] | 首相等肩書 =[[マラウイの副大統領一覧|副大統領]] | 首相等氏名 ={{仮リンク|サウロス・チリマ|en|Saulos Chilima}} | 面積順位 =98 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =118,480 | 水面積率 =20.6% | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =62 | 人口大きさ =1 E7 | 人口値 =19,130,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mw.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 =202.9<ref name=population/> | GDP統計年元 =2019 | GDP値元 =8兆2198億5300万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月18日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=676,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER =2019 | GDP順位MER =143 | GDP値MER =110億3100万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 543.685(推計)<ref name="economy" /> | GDP統計年 =2019 | GDP順位 =136 | GDP値 =298億4400万<ref name="economy" /> | GDP/人 =1470.941(推計)<ref name="economy" /> | 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 日付 | 建国年月日 =[[イギリス]]より<br/>[[1964年]][[7月6日]] | 通貨 =[[マラウイ・クワチャ]] | 通貨コード =MWK | 時間帯 =+2 | 夏時間 =なし | 国歌名 =おお、神よ、マラウイに祝福を | ISO 3166-1 = MW / MWI | ccTLD =[[.mw]] | 国際電話番号 =265 | 注記 = |国歌=[[おお、神よ、マラウイに祝福を|{{lang|ny|Mlungu dalitsani Malaŵi}}]]{{ny icon}}<br>''おお、神よ、マラウイに祝福を''<br>[[ファイル:Malawian national anthem.oga]]}} '''マラウイ共和国'''(マラウイきょうわこく)、通称'''マラウイ'''は、[[アフリカ大陸]]南東部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[イギリス連邦]]加盟国のひとつ。旧称'''ニヤサランド'''。首都は[[リロングウェ]]である。北・北西は[[タンザニア]]、東・南・南西は[[モザンビーク]]、西は[[ザンビア]]と国境を接している。 == 概要 == マラウイは[[アフリカ大地溝帯]]に位置する[[内陸国]]で、アフリカでは[[ボツワナ]]と並んで[[独立]]以来対外[[戦争]]や[[内戦]]を経験していない数少ない国でもある。「'''アフリカの温かい心'''(The Warm Heart of Africa)」という別称を持つ<ref>[[国際協力機構|JICA]]の現場から(46)マラウイ事務所長・木藤耕一氏/インフラ整備 日本の技術を『[[日刊工業新聞]]』2018年6月29日(2面)。</ref>。 [[マラウイ湖]]の西岸にあり、東西の幅は90 - 161 km、南北の長さは900 kmと南北に細長い形をしている。国土はほとんど[[高原]]上にあり、マラウイ湖が大きな面積を占める。国民は[[チェワ族]]が主流となっている。 == 国名 == 正式名称は、[[チェワ語]]で、''{{Lang|ny|Dziko la Malaŵi}}''。 英語では''{{Lang|en|Republic of Malawi}}''(リパブリック・オブ・マラウィ)。通称は''Malawi''。 日本語の表記は、'''マラウイ共和国'''。マラウイは[[チェワ語]]で「炎」を意味する。 == 歴史 == {{main|マラウイの歴史}} かつてこの地には[[サン人]]が居住していたが、15世紀に[[チェワ族]]を中心とする[[バントゥー系民族|バントゥー系]]の複数の部族が連合してマラヴィ(Maravi)と呼ばれるようになり、[[マラビ帝国]](マラヴィ帝国、マラウィ帝国とも)が建国された。マラビ帝国は[[モザンビーク]]方面から到来した[[ポルトガル人]]や[[スワヒリ]]都市の[[アラブ人]]との交易を行いながら、19世紀末までこの地を統治した。 [[ファイル:Stamp British Central Africa 1897 6p.jpg|thumb|left|160px|[[イギリス中央アフリカ保護領]]の切手([[1897年]])]] [[スコットランド|スコット]]からの強力な[[キリスト教]]宣教活動による結果、[[1891年]]にイギリスの保護領となり、[[1893年]]に[[イギリス中央アフリカ保護領]]([[1893年]] - [[1907年]])と改称されたのち[[1907年]]に[[ニヤサランド|ニヤサランド保護領]]([[1907年]] - [[1953年]])となった。1915年には[[牧師]]の[[ジョン・チレンブウェ]]が反乱を起こすものの鎮圧されたが、この反乱はマラウイで植民地支配への抵抗の象徴とされ、マラウイ・クワチャ紙幣にはチレンブウェの肖像が使用されている<ref>『マラウィを知るための45章』p60、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 [[第二次世界大戦]]後、[[1953年]]に[[北ローデシア]](現[[ザンビア]])、[[南ローデシア]](現[[ジンバブエ]])、ニヤサランドをあわせた[[ローデシア・ニヤサランド連邦]](イギリス領中央アフリカ連邦、CAF、[[1953年]] - [[1963年]])が成立した。これは、地下資源の豊富な北ローデシア、製造業が盛んな南ローデシアと、[[黒人]]労働力の供給先であるニヤサランドを結びつけて経済発展を図った白人入植者([[アングロアフリカン]])の策であった。しかし、[[1958年]][[11月23日]]の{{仮リンク|全アフリカ人民会議|en|All-African Peoples' Conference}}(AAPC)に出席した[[ヘイスティングズ・カムズ・バンダ|バンダ]]をはじめとした急進派の独立運動がアフリカ各地で高揚した。ニヤサランドでは1959年にローデシア・ニヤサランド連邦への反対運動を続けたバンダが[[グウェル]](現[[ジンバブエ]]領内)に投獄されていて、いわゆる1960年の「[[アフリカの年]]」を迎える中で連邦分離の動きは止まらず、連邦の維持は困難になっていた。1962年には連邦内の自治権を獲得。同年には連邦離脱の権利を認めさせ、翌1963年にローデシア・ニヤサランド連邦は解体した<ref name="名前なし-1">田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.522、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。 === 独立 === [[1964年]]7月6日にニヤサランドは[[イギリス連邦]]内の[[英連邦王国]]の形式で独立、[[国際連合]]にも加盟した。初代大統領は[[ヘイスティングズ・カムズ・バンダ]]。バンダは民主化がなされた1994年まで大統領職にあった。バンダは就任後すぐに独裁傾向を強め、[[1966年]]にマラウイは[[マラウイ会議党]] (MCP) による[[一党制]]国家になり、1970年にはバンダは終身大統領の座についた。外交的には、経済発展の必要性から、マラウイ国民の主要な[[出稼ぎ]]先であった[[アパルトヘイト]]時代の[[南アフリカ共和国]]とも外交関係を維持した。ほかにも、アフリカにおける植民地帝国を維持しようとしていた[[ポルトガル]]とも連携して[[モザンビーク]]経由で沿岸部との繋がりを持とうとするなど、アフリカ南部の白人政権への接近がみられた<ref name="名前なし-1"/>。そのため、首都改造や鉄道網整備に際して、南アフリカ共和国から経済支援を受けた。また、この時代には[[反共]]の観点から[[台湾]]([[中華民国]])との友好関係が保たれた。 1992年になるとバンダの圧政に対し国内の反発が強くなり、1993年の国民投票で[[複数政党制]]が認められ、民主的に行われた[[1994年マラウイ総選挙|1994年の選挙]]では[[統一民主戦線 (マラウイ)|統一民主戦線]]の[[バキリ・ムルジ]]が大統領に当選した<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p.523、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。 [[2004年マラウイ総選挙|2004年の選挙]]では同じ統一民主戦線の[[ビング・ワ・ムタリカ]]が大統領に当選。ムタリカは、[[2005年]]に[[民主進歩党 (マラウイ)|民主進歩党]](DPP)を旗揚げし、[[2009年]]に再選されたが、[[2012年]][[4月5日]]に急死した<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2869992?cx_part=search 「マラウイ大統領死去、水面下で権力闘争開始か」AFPBB 2012年4月7日 2019年10月20日閲覧</ref>。[[4月7日]]に副大統領で民主進歩党から除名されて人民党を立ち上げていた[[ジョイス・バンダ]]が憲法の規定により大統領に昇格し、マラウイ初の[[選出もしくは任命された女性の元首の一覧|女性大統領]]となった<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2870072?cx_part=search 「マラウイ新大統領が就任、団結呼び掛ける 現職死去で昇格」AFPBB 2012年4月8日 2019年10月20日閲覧</ref>。しかし、[[2014年]][[5月20日]]に実施された[[2014年マラウイ総選挙|2014年の選挙]]で、ビング・ワ・ムタリカ元大統領の実弟で、民主進歩党の[[ピーター・ムタリカ]]が当選して第5代大統領に就任した<ref name="名前なし-2">「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p307 二宮書店 平成28年1月10日発行</ref>。2019年の大統領選ではムタリカ大統領が再選されたが僅差での勝利となり、野党が選挙不正を訴え抗議する事態となった<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45347740Y9A520C1EAF000/ 「マラウイ大統領が再選 ムタリカ氏、野党不正訴え」日本経済新聞 2019/5/28 2019年10月20日閲覧</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Joyce Banda August 2012.jpg|thumb|160px|第4代大統領[[ジョイス・バンダ]]]] {{main|マラウイの政治}} マラウイは[[共和制]]、[[大統領制]]を採る立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1995年]][[5月18日]]に公布されたもの。 === 行政 === [[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止。[[閣僚]]は大統領により任命される。[[首相]]職は1966年以降廃止されたままである。 {{See also|マラウイの大統領一覧|マラウイの首相一覧}} === 立法 === [[立法府]]は[[一院制]]で、正式名称は'''国民議会'''。[[国民議会 (マラウイ)|国民議会]]の定数は193議席で、議員は国民の直接選挙により選出される。議員の任期は5年である。 === 政党 === [[1994年]]からマラウイは[[複数政党制]]が認められており、旧一党支配政党であり[[チェワ族]]主体で中部に地盤を持つの[[マラウイ会議党]](MCP)のほか、[[ピーター・ムタリカ]]大統領が率いる[[自由主義]]政党の[[民主進歩党 (マラウイ)|民主進歩党]](DPP)、[[ヤオ族 (アフリカ)|ヤオ族]]主体で南部に地盤を持ちムタリカ大統領が[[2005年]]にDPPを設立するまで所属していた[[統一民主戦線 (マラウイ)|統一民主戦線]](UDF)、ジョイス・バンダ前大統領が率いる[[人民党 (マラウイ)|人民党]]、[[共和党 (マラウイ)|共和党]](RP)を中心とする政党連合[[ムグウイリザノ連合]](MC)などが活動している。 {{see also|マラウイの政党|2009年マラウイ総選挙}} === 司法 === {{Main|{{仮リンク|マラウイの司法|en|Judiciary of Malawi}}}} {{節スタブ}} == 国際関係 == {{main|マラウイの国際関係}} マラウイは独立後、[[南アフリカ共和国]]との経済関係を重視する立場から、[[ブラックアフリカ]]では例外的に南アフリカの[[アパルトヘイト]]政権と友好関係を築き、白人国家[[ローデシア]]や1975年までアフリカ植民地から撤退しなかった[[ポルトガル]]とも同様に友好関係を結んでいた<ref name="名前なし-1"/>。 また、親西側政策から1966年から[[台湾]]([[中華民国]])と[[外交関係]]を有していたが、2007年末に断交し、[[中華人民共和国]]と国交を樹立した<ref>『マラウィを知るための45章』p243、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 <br /> === 日本との関係 === {{Main|日本とマラウイの関係}} 日本はマラウイを独立と同時に[[国家の承認|承認]]し、現在では相互に[[大使館]]を開設している。 * 在留日本人数 - 99名(2021年10月)<ref name="mofa">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malawi/data.html#section6|title=マラウイ共和国 基礎データ|publisher=外務省|accessdate=2021-09-20}}</ref> * 在日マラウイ人数 - 132名(2021年){{R|mofa}} == 軍事 == [[File:Malawian female soldier (45745891874).jpg|thumb|マラウイ軍の女性兵士]] {{main|マラウイの軍事}} マラウイ軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約5,300人である。兵制は[[志願制]]を採用している。2000年度の軍事予算は950万ドルでGDPの0.76%である。 == 地理 == [[ファイル:Malawi-CIA WFB Map.png|right|thumb|200px|マラウイの地図]] [[File:Livingstoniamountainsmalawi.jpg|thumb|left|マラウイ北部に存在する山々。画像は雨季の様子を撮影したもの]] {{main|マラウイの地理}} マラウイの面積は約11.8万km<sup>2</sup>、11万8484km<sup>2</sup>であり、ほぼ[[北海道]]と[[九州]]をあわせた面積に相当する。国土の北部はほとんど高原となっているが、マラウイ湖沿岸は北部台地からはかなり標高が低くなっている。南部は標高が低く、マラウイ湖から流れ出した[[シーレ川]]が流れる。[[マラウイ湖]]の面積が国土の20%以上を占めており<ref name="名前なし-3">『マラウィを知るための45章』p18、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>、国土の5分の1が湖や川などの水域である。マラウイ湖南方の大きな湖としては[[マロンベ湖]]が、さらにその南東のモザンビークとの国境地帯には[[チウタ湖]]と[[チルワ湖]]がある。チルワ湖はほかの湖と比べ非常に浅いが魚影が濃く、マラウイ全体の漁獲量の20%<ref>『マラウィを知るための45章』p96、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>から30%<ref name="名前なし-4">https://www.afpbb.com/articles/-/3203258 「むき出しになった湖底、気候変動で深刻化する干ばつ マラウイ」AFPBB 2018年12月19日 2019年10月21日</ref>を占める大漁場となっている。ただし浅いために水位が変動しやすく、2018年には旱魃によって水位が大幅に低下した<ref name="名前なし-4"/>。同国には、5つの国立公園と4つの野生生物保護区があり、その他には2つの保護区が存在している<ref>{{Cite book|last=Briggs|first=Philip|url=https://books.google.com/books?id=fqhc-1eKDOIC&q=There+are+five+national+parks%2C+four+wildlife+and+game+reserves+and+two+other+protected+areas+in+Malawi&pg=PA27|title=Malawi|date=2010|publisher=Bradt Travel Guides|isbn=978-1-84162-313-9|language=en}}</ref>。2019年時点での{{仮リンク|森林景観保全指数|en|Forest Landscape Integrity Index}}の平均値は5.74/10であり、172ヶ国中で96位に挙げられている<ref name="FLII-Supplementary">{{cite journal|last1=Grantham|first1=H. S.|last2=Duncan|first2=A.|last3=Evans|first3=T. D.|last4=Jones|first4=K. R.|last5=Beyer|first5=H. L.|last6=Schuster|first6=R.|last7=Walston|first7=J.|last8=Ray|first8=J. C.|last9=Robinson|first9=J. G.|last10=Callow|first10=M.|last11=Clements|first11=T.|last12=Costa|first12=H. M.|last13=DeGemmis|first13=A.|last14=Elsen|first14=P. R.|last15=Ervin|first15=J.|last16=Franco|first16=P.|last17=Goldman|first17=E.|last18=Goetz|first18=S.|last19=Hansen|first19=A.|last20=Hofsvang|first20=E.|last21=Jantz|first21=P.|last22=Jupiter|first22=S.|last23=Kang|first23=A.|last24=Langhammer|first24=P.|last25=Laurance|first25=W. F.|last26=Lieberman|first26=S.|last27=Linkie|first27=M.|last28=Malhi|first28=Y.|last29=Maxwell|first29=S.|last30=Mendez|first30=M.|last31=Mittermeier|first31=R.|last32=Murray|first32=N. J.|last33=Possingham|first33=H.|last34=Radachowsky|first34=J.|last35=Saatchi|first35=S.|last36=Samper|first36=C.|last37=Silverman|first37=J.|last38=Shapiro|first38=A.|last39=Strassburg|first39=B.|last40=Stevens|first40=T.|last41=Stokes|first41=E.|last42=Taylor|first42=R.|last43=Tear|first43=T.|last44=Tizard|first44=R.|last45=Venter|first45=O.|last46=Visconti|first46=P.|last47=Wang|first47=S.|last48=Watson|first48=J. E. M.|display-authors=1|title=Anthropogenic modification of forests means only 40% of remaining forests have high ecosystem integrity – Supplementary Material|journal=Nature Communications|volume=11|issue=1|year=2020|page=5978|issn=2041-1723|doi=10.1038/s41467-020-19493-3|pmid=33293507|pmc=7723057|doi-access=free}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|フローラ・ザンベシアカ|en|Flora Zambesiaca}}}} 気候は、高原となっている北部・中部は[[温帯夏雨気候]](Cw)であり、南部の低地は[[熱帯モンスーン気候]]に属する。5月から10月までが[[乾季]]、11月から4月までが[[雨季]]である。[[降水量]]は全般に多く、高原部では2000ミリ以上降るところもあり、最も降水量の少ない南部の低地においても800ミリ程度の降水量はある<ref name="名前なし-3"/>。気温もさほど激しいものではなく、首都リロングウェの気温は夏が17度~29度、冬が7度~23度くらいとなっている<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p519、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。 === 生態系 === [[File:Elephant at Majete wildlife reserve.jpg|thumb|left|[[マジェテ動物保護区]]に生息する[[アフリカゾウ]]]] {{main|{{仮リンク|マラウイの野生動物|en|Wildlife of Malawi}}}} マラウイ国内では約187種の哺乳類の生息が確認されている。湖や川には約500種の魚類が生息しており、その多くは固有種である。また鳥類は約648種の存在が記録されている。 {{節スタブ}} === マラウイ湖 === [[File:Monoxylon beach Lake Malawi 1557.jpg|right|thumb|マラウイ湖の湖岸]] {{main|マラウイ湖国立公園}} {{see also|マラウイの国立公園および保護区の一覧}} [[マラウイ湖]]の南北の総延長は約560kmあるが、幅は75km位しかない。面積はほぼ2万9500km<sup>2</sup>で、[[九州]]島の面積の約80パーセントに当たる。最大水深は706m。湖は大切な漁獲資源を得る場であり、観光資源でもある。500種以上の魚類が生息している。漁業も盛んであり、シクリッド科に属する[[チャンボ]]という白身魚が特産となっているほか、様々な魚が水揚げされる<ref>『マラウィを知るための45章』p94-95、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。その他、湖には[[カワウソ]]、[[ワニ]]、[[カバ]]といった動物や様々な色鮮やかな鳥も生息している。[[マラウイ湖国立公園]]は、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の指定する[[世界遺産]]の一つである。 == 地方行政区分 == {{main|マラウイの州|マラウイの行政区画}} [[北部州 (マラウイ)|北部州]]、[[中部州 (マラウイ)|中部州]]、[[南部州 (マラウイ)|南部州]]の3つの州(Region)に分かれており、その下にさらに28の県(District)がある。 北部州は、[[チティパ]](Chitipa)、[[カロンガ]](Karonga)、[[ルンピ]](Runphi)、[[ムジンバ]](Mzimba)、[[カタベイ]](Nkhata Bay)、[[リコマ]](Likoma)の6県に分かれている。 中部州は、[[カスング]](Kasungu)、[[ンチシ]](Ntchisi)、[[ドーワ]](Dowa)、[[ムチンジ]](Mchinji)、[[コタコタ]](Nkhotakota)、[[サリマ]](Salima)、[[リロングウェ]](Lilongwe)、[[デッザ]](Dedza)、[[ンチェウ]](Ntcheu)の9県に分かれている。 南部州は、[[マンゴチ]](Mangochi)、[[バラカ (マラウイ)|バラカ]](Balaka)、[[マチンガ]](Machinga)、[[ゾンバ]](Zomba)、[[チラズル]](Chiradzulu)、[[ムワンザ]](Mwanza)、[[チョロ (マラウイ)|チョロ]](Tyolo)、[[ムランジェ]](Mulanje)、[[パロンベ]](Phalombe)、[[チクワワ]](Chikwawa)、[[ンサンジェ]](Nsanje)、[[ブランタイヤ]](Blantyre)、[[ネノ]](Neno)の13県に分かれている。 === 主要都市 === {{main|マラウイの都市の一覧}} マラウイ最大の都市は中部にある首都の[[リロングウェ]] (Lilongwe)であり、人口は約98万人(2014年)である<ref name="名前なし-5">「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p306 二宮書店 平成28年1月10日発行</ref>。リロングウェは独立以前は地方都市に過ぎなかったが、1975年に南部のゾンバから遷都された<ref>『マラウィを知るための45章』p105、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>のち急速に人口が増大し、2000年代中盤にブランタイヤを抜いて国内最大の都市となった<ref>『マラウィを知るための45章』p104、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。産業はそれほど存在せず、政治の中心としての性格が強い都市である。これに次ぐのが南部の[[ブランタイヤ]] (Blantyre)であり、人口は66万人(2008年)を数える<ref name="名前なし-2"/>。政治のリロングウェに対してブランタイヤは経済の中心であり、盛んな商業のほか、食品や醸造などの工業も立地している<ref>『マラウィを知るための45章』p112-113、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 マラウイの都市人口はリロングウェとブランタイヤの二大都市が突出しており、それ以外の都市ははるかに小さな規模にとどまっている。第三都市である[[ムズズ]] (Mzuzu) は北部の中心地であるが、人口は13万人(2008年)に過ぎない<ref name="名前なし-2"/>。これに次ぐのが南部にあるマラウイ第4の都市[[ゾンバ]] (Zomba) であり、人口は9万人(2008年)である<ref>『マラウィを知るための45章』p118、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。ゾンバは高原上にあって風光明媚な風景と冷涼な気候を持ち、イギリス植民地時代には植民地の首都がおかれた。独立後も引き続き1975年まで首都が置かれ、遷都後も[[マラウイ大学]]の本部が置かれる文教都市となっている<ref>『マラウィを知るための45章』p120、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 このほか主要な町 (Township)として、以下の町がある。 * 北部:[[カロンガ]] (Karonga) * 中部:[[カスング]] (Kasungu)、[[サリマ]] (Salima)、[[デッザ]] (Dedza) * 南部:[[バラカ (マラウイ)|バラカ]] (Balaka)、[[リウォンデ]] (Liwonde)、[[マンゴチ]] (Mangochi) == 経済 == [[File:Blantyre City.jpg|thumb|マラウイの経済の中心である[[ブランタイヤ]]市]] [[File:Lilongwe (Malawi) - crafts market.JPG|thumb|right|[[リロングウェ]]の工芸品市場]] {{main|マラウイの経済}} 通貨は[[マラウイ・クワチャ]](クワチャ、クワッチャ、kwacha,Mkw,M.K)。補助通貨としてタンバラが存在し、1マラウイ・クワチャ=100タンバラである。また、[[中央銀行]]は[[マラウイ準備銀行]]である。2006年には[[世界銀行]]の統計によれば8%台の経済成長を遂げたが、依然として世界[[最貧国]]の一つである。世界銀行によると、2014年の1人当たり国民所得は250米ドルで、世界最下位である(2022年には640米ドルまで上昇したが、この年のデータのある国では依然下から9番目である)。<ref>http://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf</ref> === 産業 === 主要産業は農業であり、人口の84.5%(1998年)が第一次産業に従事している<ref name="名前なし-2"/>が、ほとんどが天水農業であるために生産性が低く、また気候変動に収穫が大きく左右される。主な作物としては[[トウモロコシ]]、[[サツマイモ]](世界生産量2位の6.4%、2019年)が全土で広く栽培されるが、自給作物としての性格が強い。商品作物として最も有力なものは葉[[タバコ]]で、2013年には総輸出の46.6%を占める最大輸出品となっていた。このほか商品作物としては、[[砂糖]](総輸出の9.5%、2013年)、[[茶]](総輸出の7.1%、2013年)、[[落花生]](総輸出の5.0%、2013年)などが生産されている<ref name="名前なし-2"/>。主力作物のタバコに頼る率が高い上に禁煙運動などによって先行きに不安があるため、商品作物の多角化が進められ、[[マカダミアナッツ]]などいくつかの小規模な輸出作物が開発された<ref>『マラウィを知るための45章』p85-86、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。マカダミアナッツは日本向け輸出の50.4%(2014年)を占めており、42.5%を占める葉たばことともに日本向けの主力商品となっている。ただし対日貿易はマラウイからの輸出が輸入の3分の1以下であり、マラウイの大幅な貿易赤字となっている<ref name="名前なし-2"/>。可耕地の多くが農地とされているため[[牧畜]]はあまり行われていない<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p525、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>。 {{See also|{{仮リンク|マラウイの農業|en|Agriculture in Malawi}}}} 一方でマラウイは鉱産資源に恵まれていない。わずかに[[石灰石]]と少量の[[石炭]]が採掘されているのみである<ref>『マラウィを知るための45章』p87、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。2009年には北部カエレケラで[[ウラン]]鉱山が開発され、2013年には総輸出の11.3%を占めるまでに成長した<ref name="名前なし-2"/>ものの、2014年に価格低迷によって休山に追い込まれた<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malawi/data.html 「マラウイ基礎データ」日本国外務省 令和元年9月9日 2019年10月20日閲覧</ref>。 マラウイは雨量が多いため豊かな[[森林]]も広がっていたが、農地の開墾や燃料(薪炭)用の伐採などによって速いテンポで森林減少が続いている<ref>https://www.kkc.co.jp/service/env_energy/pdf/report_vol_13.pdf 「マラウイ森林レポート― 森林とマラウイ人の関係 ―」p3-6 髙主知佳 国際航業株式会社 2019年2月 2019年10月22日閲覧</ref>。 上で述べるように降水量は少なくはないが年較差が激しく、灌漑設備も整っていないため旱魃に見舞われやすい。2005年には旱魃などのため収穫量が激減し、[[国際連合世界食糧計画]]などが援助を行った。2005年10月、ムタリカ大統領は食糧危機に対し緊急宣言を行った。2016年にも旱魃に襲われ、大きな被害を出した<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3073695?cx_part=search 「アフリカ南部、1400万人に飢餓の危機 国連が警鐘」AFPBB 2016年1月19日 2019年10月20日閲覧</ref>。{{See also|{{仮リンク|マラウイにおける食料安全保障|en|Food security in Malawi}}}} 傍ら[[洪水]]に見舞われることも少なくなく、2019年には主に南部で100万人近くが被災する大規模な水害がおきた<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3216084?cx_part=search 「アフリカ南東部の豪雨災害、犠牲者126人に モザンビークにはサイクロン襲来」AFPBB 2019年3月16日 2019年10月21日</ref>。 === インフラ整備 === 90%の地域には未だ電気が通っていない。発電は[[シーレ川]]などマラウイ湖の流出・流入河川における[[水力発電]]に依存しており、2012年には発電量の89.1%が水力発電によって占められた<ref name="名前なし-2"/>。このため、特に乾季は電力不足や停電が深刻である<ref>https://www.kkc.co.jp/service/env_energy/pdf/report_vol_13.pdf 「マラウイ森林レポート― 森林とマラウイ人の関係 ―」p3 髙主知佳 国際航業株式会社 2019年2月 2019年10月22日閲覧</ref>。 2001年に[[ウィリアム・カムクワンバ]]が独力で[[風力発電|発電用の風車]]を完成させたことは、マラウイ中、さらには全世界から強い関心を集め、自伝である「風をつかまえた少年」は2018年には映画化され、2019年には日本でも公開された<ref>https://globe.asahi.com/article/12572434 「『風をつかまえた少年』 アフリカ最貧国から米名門大へ 1冊の本が開いた道」朝日新聞GLOBE 2019.07.26 2019年10月20日閲覧</ref>。 == 交通 == {{main|マラウイの交通}} 社会基盤となる交通の整備は未だ不十分な状態である。 === 道路 === 幹線道路の舗装率は約50%となっている<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007907.html 「マラウイの物流円滑化及び交通利便性向上のための無償資金協力に関する書簡の交換」日本国外務省 令和元年10月9日 2019年10月22日</ref>。長距離移動では、主要都市を拠点として長距離バスが各地を結んでおり、国外主要都市に向かう[[バス (交通機関)|バス]]もある。近距離で市民の足として広く利用されているのは[[ミニバス]]である<ref>『マラウィを知るための45章』p178-180、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 {{節スタブ}} === 鉄道 === {{main|マラウイの鉄道}} 鉄道の路線は北部域へ通じておらず、中南部のみとなっている。鉄道はザンビア国境のムチンジから、首都リロングウェやマラウイ湖畔の[[サリマ]]、ブランタイヤ市を通って国土南端の[[ンサンジェ]]からモザンビークの[[ベイラ]]港へ抜けるルートと、途中のンカヤから東部国境のナユチへと通じ、モザンビークの[[ナカラ]]港へ抜ける路線が存在する<ref>「世界の鉄道」p357 [[海外鉄道技術協力協会|一般社団法人海外鉄道技術協力協会]]著 ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行</ref>。対外貿易のメインルートはモザンビーク経由であったが、1980年代の[[モザンビーク内戦]]によってこのルートが絶たれ、道路を利用したザンビア経由へと移行した。1990年代初頭にモザンビークで和平が成立した後、同国経由ルートは再び活況を取り戻した<ref>『マラウィを知るための45章』p236、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。このほか、タンザニアの[[ダルエスサラーム]]から同国南部の[[ムベヤ]]まで[[タンザン鉄道]]で物資を運び、そこから[[貨物自動車|トラック]]でマラウイ北部へ入る輸送ルートも多用され、ムベヤにはマラウイ向けの物資を保管するマラウィ・デポと呼ばれる倉庫が置かれている<ref>「交流の中で」栗田和明/「タンザニアを知るための50章」p257 栗田和明・根本利通編著 明石書店 2006年7月10日初版第1刷</ref>。 {{節スタブ}} === 空港 === 空運は、リロングウェの[[リロングウェ国際空港]]とブランタイヤの[[チレカ国際空港]]の2つの国際空港が存在し、そのほか[[ムズズ空港]]など小規模な空港がいくつか存在する。 {{節スタブ}} == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|マラウイの科学技術|en|Science and technology in Malawi}}}} {{節スタブ}} == 国民 == [[ファイル:Malawi-demography.png|thumb|260px|FAOによる1961年から2003年までのマラウイの人口動態グラフ。]] [[ファイル:Chancellor college zomba.jpg|thumb|260px|[[マラウイ大学]]チャンセラー校の校舎。]] {{main|マラウイの国民}} === 人口 === マラウイの人口は急増を続けている。独立直前、1962年の人口は295万人だった<ref>「各国別 世界の現勢Ⅰ」(岩波講座 現代 別巻Ⅰ)p344 1964年9月14日第1刷 岩波書店</ref>が、1994年には995万人となり<ref name="名前なし-6">田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p520、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>、2015年には1730万人となった<ref name="名前なし-5"/>。この地域は植民地化以前から人口が多く、ニヤサランド植民地時代はローデシアや南アフリカへの労働力供給地となっていて、多くの人々がこれら近隣諸国へ出稼ぎを行っていた<ref>『マラウィを知るための45章』p58-59、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。人口密度は中南部が非常に高いが、北部ではやや低い<ref>『マラウィを知るための45章』p25-26、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 === 民族 === マラウイ最大の民族集団は[[チェワ族]]であり、総人口の32.6%(2008年)を占める<ref name="名前なし-2"/>。そのほか、[[トゥンブーカ族]](トゥンブカ族)、[[ンゴニ族]](アンゴニ族)、[[ヤオ族 (アフリカ)|ヤオ族]]、[[ニャンジャ族]]、[[チポカ族]]、[[トンガ族]]、[[アマゴロゴロ族]]、[[ンセンガ族]]、[[ズールー族]]、[[コーサ族]]、[[スワジ族]]、{{仮リンク|北ンデベレ人|en|Northern Ndebele people|label=ンデベレ族}}などが存在する。マラウィ内には40程度の[[民族集団]]が存在するといわれるが、それぞれの民族集団の輪郭は曖昧である。 === 言語 === [[国語]]は[[チェワ語]]であり、[[英語]]も[[公用語]]となっている。その他にも、チェワ語はほぼ同じ言語である[[ニャンジャ語]]<ref name="名前なし-7">『マラウィを知るための45章』p28、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>と合わせると人口の半数以上の母語となっており<ref name="名前なし-6"/>、主に中南部で広く使用される<ref name="名前なし-7"/>。このほか、北部で広く使用される[[トゥンブカ語]](トゥンブーカ語)<ref name="名前なし-7"/>をはじめ、[[トンガ語 (ニアサ)|トンガ語]]、[[ヤオ語 (バントゥー)|ヤオ語]]、{{仮リンク|マラウイ・ロムウェ語|en|Malawi Lomwe language}}([[ロムウェ語]])、Kokola([[マクア語]])、マラウイ・セナ語([[セナ語]])、{{仮リンク|ランブヤ語|en|Lambya language}}、ンコンデ語([[ニャキュサ語]])、{{仮リンク|ニイカ語|en|Nyika language}}、その他諸部族語が話され、少数だが[[フランス語]]、[[スワヒリ語]]を話す人々も存在する。 === 婚姻 === マラウイにおいては、婚姻時に改姓する法的な必要はない。とくに北部においては伝統的に改姓しない([[夫婦別姓]])<ref>[https://mwnation.com/surnames-of-married-women/ Surnames of married women], The Nation, March 3, 2015.</ref>。 === 宗教 === {{main|マラウイの宗教}} 1998年のセンサスによれば、国民の79.9%が[[キリスト教]]、12.8%が[[イスラーム]]、その他が3%、[[無宗教]]が4.8%である<ref name=2010cia/>。キリスト教は[[カトリック教会|カトリック]]よりも[[プロテスタント]]各派のほうが多い。[[マラウイにおけるイスラーム|マラウイのイスラーム]]においては[[ムスリム]]はマラウイ湖畔や北部に比較的多い。 {{See also|{{仮リンク|マラウイのキリスト教|en|Christianity in Malawi}}|マラウイのイスラム教}} === 教育 === {{main|マラウイの教育}} 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は62.7%(男性:76.1%、女性:49.8%)である<ref name=2010cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mi.html CIA World Factbook]2010年1月14日閲覧。</ref>。2003年にはGDPの5.8%が教育費に支出された<ref name=2010cia/>。教育制度は小学校8年・中等学校4年・大学4年の8・4・4制である。[[義務教育]]制度は存在しないが、小学校の授業料は無料である<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC74300.html 「諸外国・地域の学校情報 マラウイ共和国」日本国外務省 平成29年10月 2019年10月21日閲覧</ref>。この無料化は1994年に実施されたが、これによって就学率こそ向上したものの、財源や人材の不足などによって教育の質が低下し、学力の低下などが問題となっている<ref>https://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/uploads/2014/02/12-2-17.pdf 「マラウイの初等教育無償化後の現実―学校レベルの質的改善―」p203-207 澤村信英 広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第 12 巻 第 2 号(2009)2019年10月21日閲覧</ref>。 主な[[高等教育]]機関としては1964年に南部のゾンバに設立された総合大学である[[マラウイ大学]]があるほか、1999年には教員養成用の単科大学として北部のムズズに[[ムズズ大学]]が設立された<ref>『マラウィを知るための45章』p155、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|マラウイの保健|en|Health in Malawi}}}} {{see also|{{仮リンク|マラウイの地区保健制度|en|District health system in Malawi}}|マラウイにおけるHIV/AIDS}} 国民の健康状態は良好ではなく、[[HIV]]/[[AIDS]]が蔓延しているために[[平均余命]]も52.9歳である<ref>[[国際連合]] 世界の人口推計2008年版の概要:[http://www.un.org/esa/population/publications/wpp2008/wpp2008_text_tables.pdf The 2008 Revision Highlights]Table A.17、男女別平均寿命[http://esa.un.org/unpp/index.asp?panel=2 World Population Prospects: The 2008 Revision Popuation Database] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090215000125/http://esa.un.org/unpp/index.asp?panel=2 |date=2009年2月15日 }}</ref>。2007年のHIV感染者は約930,000人であり<ref name=2010cia/>、感染率は11.9%である<ref name=2010cia/>。[[マラリア]]の患者も非常に多く、人口の3分の1以上に当たる600万人が毎年マラリアに罹患しているとされる<ref>「世界初のマラリアワクチン、マラウイで接種開始」AFPBB 2019年4月24日 2019年10月22日閲覧</ref>。またマラウイ湖は[[ビルハルツ住血吸虫]]に汚染されているため遊泳は危険である<ref>https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_120.html 「海外安全ホームページ マラウイ共和国」日本国外務省 2018年01月11日 2019年10月21日閲覧</ref>。 ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|マラウイの医療|en|Healthcare in Malawi}}}} {{節スタブ}} == 治安 == マラウイの治安は他のアフリカ諸国に比べると比較的安定している方であるが、日本と比べると確実に安全性が高いとはいえない。[[犯罪]]の大半は、[[窃盗]]、[[ひったくり]]、建造物侵入などの軽犯罪が主体となっている。しかしながら近年は、国内の収入格差の広がりによる貧困層の増加、近隣諸国からの不法滞在者が[[銃器]]と供に流入している点から、犯罪の手口が凶悪化かつ組織化しているケースも見受けられるようになっている面がある。 首都リロングウェや南部の商業都市であるブランタイヤにおける犯罪は、複数の強盗団による建物侵入事案が主流となっており、電気会社や警察を装う、警備員が犯罪者を手引きする、集団で住居に侵入するなどのケースが報告されている。 また、慢性的な電力不足から[[街灯]]は消灯していることが多く、道路に[[置き石]]をして停車させ、車両を襲撃するなどの事案が発生しているために、夜間の外出には十分な注意が必要とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_120.html#ad-image-0|title=マラウイ 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-4-19|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|マラウイの人権|en|Human rights in Malawi}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|マラウイのメディア|en|Mass media in Malawi}}}} マラウイでは[[携帯電話]]の所持率は10%弱である。[[インターネット]]普及率も低く、通信環境に恵まれていない面が強い。 {{See also|マラウイの通信|{{仮リンク|MISAマラウイ|en|Media Institute of Southern Africa (MISA) Malawi}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|マラウイの文化}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|マラウイ料理|en|Malawian cuisine}}}} マラウイ人の多くは、[[ンシマ]]と呼ばれる[[トウモロコシ]]粉を湯で練って作ったものを[[主食]]として食べる<ref>『マラウィを知るための45章』p184、栗田和明、明石書店、2004年。</ref>。多くの場合、魚・牛肉・鶏肉や調理された野菜を副菜にして一緒に食べる。[[米]]や[[キャッサバ]]粉から作られた食物なども好んで食べる。また、畑などに現れる[[ネズミ]]もよく食べる。マラウイではネズミはポピュラーな食糧で、よく市場で売られているという。 === 文学 === マラウイを代表する[[作家]]には{{仮リンク|レグソン・カイラ|en|Legson Kayira|fr|Legson Kayira}}が挙げられる。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|マラウイの作家の一覧|en|List of Malawian writers}}}} === 音楽 === [[File:Drums exhibit, Blantyre Chichiri Museum.jpg|thumb|マラウイの伝統的な楽器]] {{main|[[マラウイの音楽]]}} マラウイにおける音楽文化は、歴史的に[[イギリス|英国]]と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の音楽文化からの影響を受けている面がある。 {{節スタブ}} === 映画 === {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|マラウイの世界遺産}} マラウイ共和国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が1件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 <gallery> ファイル:Lake Malawi, view from Likoma Island.jpg|[[マラウイ湖国立公園]] - (1984年、自然遺産) ファイル:Chongoni rock art.jpg|[[チョンゴニの岩絵地域]] - (2006年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|マラウイの祝日|en|Public holidays in Malawi}}}} {| class="wikitable" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]] || [[元日]] || || |- |[[1月15日]] || ジョン・チレンブウェ記念日 || ||[[バプテスト]]の[[牧師]]兼[[教育者]]であった[[ジョン・チレンブウェ]]を称えて制定された。 <br> チレンブウェは第一次世界大戦においての強制労働と当時のアフリカの関与に抗議して1914年~1915年に最初の国民主義者の蜂起を主導した人物である。 |- |[[3月3日]]([[3月4日]]交互)|| {{仮リンク|殉教者の日|en|Martyrs' Day}} || || イギリスの植民地主義との闘いで戦死した政治的英雄を称える日である。 |- |[[3月]]から[[5月]]、年により移動 || [[復活祭]]|| || 前日に[[聖金曜日]]を祝い、終了後には[[イースターマンデー]]を祝う。 |- |[[5月1日]]([[5月2日]]または3日交互) || [[労働者の日]] || || [[メーデー]]に該当する。 |- |[[5月14日]] || カムズ・バンダ記念日 || || 同国の初代大統領である[[ヘイスティングズ・カムズ・バンダ]]の誕生日を記念したものである。 |- |[[7月6日]] || [[独立記念日]] || ||1966年のイギリスからの独立を記念したもの。 |- |[[10月15日]] || [[母の日]] || ||この休日は、[[農山漁村女性のための国際デー|世界農山漁村女性の日]]ともなっている。 |- |[[12月25日]] || [[クリスマス]] || || |- |[[12月26日]] || [[ボクシングデー]] || || |- |[[ヒジュラ暦]]第10月 ||{{仮リンク|シャウワール|en|Shawwal}} || || |- |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|マラウイのスポーツ|en|Sports in Malawi}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|マラウイのサッカー|en|Football in Malawi}}}} マラウイ国内でも他の[[アフリカ]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1986年]]にサッカーリーグの[[マラウイ・プレミアディビジョン]]が創設された。{{仮リンク|ニャサ・ビッグ・ブレットFC|en|Nyasa Big Bullets FC}}がリーグ最多14度の優勝に輝いている。[[サッカーマラウイ代表]]は[[FIFAワールドカップ]]への出場歴こそないものの、[[アフリカネイションズカップ]]には3度出場しており、[[アフリカネイションズカップ2021|2021年大会]]では初めてグループリーグを突破しベスト16入りを果たした。 === オリンピック === {{See also|オリンピックのマラウイ選手団|{{仮リンク|オリンピックにおけるマラウイ|en|Malawi at the Olympics}}}} == 著名な出身者 == {{main|マラウイ人の一覧}} == 参考文献 == === 書籍 === * 栗田和明、『マラウィを知るための45章』、明石書店、2004年。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[マラウイ関係記事の一覧]] * [[サッカーマラウイ代表]] * [[マラウイ・プレミアディビジョン]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Malawi|Malawi}} ; 政府 ** [https://www.malawi.gov.mw/ マラウイ共和国政府] {{en icon}} ** [http://www.malawiembassy.org/ 在日マラウイ大使館] {{ja icon}} ** [http://www.photopassport.gr/index_029.html 写真マラウイから] ; 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malawi/ 日本外務省 - マラウイ] {{ja icon}} * [http://www.malawiembassy.org/jp/index.html 駐日マラウイ大使館] === ウェブサイト === * [https://www.jica.go.jp/malawi/index.html JICA-国際協力機構 マラウイ基本情報] * {{Kotobank}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:まらうい}} [[Category:マラウイ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
2003-08-19T04:41:12Z
2023-11-30T06:45:18Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 国", "Template:Main", "Template:See also", "Template:Cite journal", "Template:Kotobank", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:En icon", "Template:Commons&cat", "Template:アフリカ", "Template:イギリス連邦", "Template:Otheruseslist", "Template:節スタブ", "Template:R", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Lang", "Template:Webarchive", "Template:Ja icon", "Template:Authority control" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A4
13,547
美濃国
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。 そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。 別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。 柳田国男は著書『地名考』で、美濃、耳納、三納など、ミノと読む地名を挙げ、これらは一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した地名であるとし、島根県美濃郡、岡山県の美濃県(みぬのあがた)などを例示した。当国本巣郡に美濃郷があり、この本巣郡は根尾川両岸を占める山地丘陵地帯で、美濃国造の本拠とされている。 美濃国は『先代旧事本紀』によれば、もともと三野前国、三野後国、額田国の三国、『古事記』によれば、この二国に本巣国と牟義都国を加えた五ヵ国であったとされる。それぞれの国には国造が設置され、また美濃県、鴨県、刀支県の三県に県主が設置された。後にこれらの国々と県を統合した結果、美濃国が7世紀に成立した。成立時の範囲は、現在の岐阜県の南部地域(美濃地方)と長野県の南西部地域の一部の木曽郡(木蘇国)にほぼ相当した。南隣の尾張国との境は木曽川であったが、当時の流路は現在より北で、現在の境川下流を通っていた。 霊亀元年(715年)7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた(『続日本紀』)。岐阜県本巣市の舂稲神社には、当地が邇近の墓であるという伝承が残っている。大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』斉明天皇6年10月条)。 明治維新直前の領域は、現在の岐阜県から下記を除き、愛知県一宮市の一部(東加賀野井の一部)と稲沢市の一部(祖父江町拾町野・祖父江町馬飼および祖父江町祖父江の一部)、豊田市の一部(須渕町・浅谷町・三分山町・下切町・下中町・島崎町・上中町・上切町・一色町)を加えた区域に相当する。 702年(大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡絵上郷に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中の859年~876年に天皇の勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界で木曽川の水源から北にある境峠)と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡絵上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである。しかし平安時代末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。 天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。 該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町、笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町、旧平田町の大部分)である。 現在の愛知県豊田市の上切町・上中町・下中町・下切町・島崎町・一色町は、元は三河国加茂郡足助庄仁木郷であったが、室町時代にこの地域を支配する領主が、隣接する美濃国恵那郡南部の領主であった明知遠山氏へ娘を嫁がせる際に美濃国恵那郡に化粧料として割き与えたと伝えられている。しかし1955年(昭和30年)4月1日にこの地域に存在した岐阜県恵那郡三濃村が岐阜県と愛知県に分裂し、愛知県東加茂郡旭村に越県編入された。 以下三郡は、安土桃山時代に尾張国より移管された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。", "title": "「美濃」の名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。", "title": "「美濃」の名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。", "title": "「美濃」の名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "柳田国男は著書『地名考』で、美濃、耳納、三納など、ミノと読む地名を挙げ、これらは一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した地名であるとし、島根県美濃郡、岡山県の美濃県(みぬのあがた)などを例示した。当国本巣郡に美濃郷があり、この本巣郡は根尾川両岸を占める山地丘陵地帯で、美濃国造の本拠とされている。", "title": "「美濃」の名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "美濃国は『先代旧事本紀』によれば、もともと三野前国、三野後国、額田国の三国、『古事記』によれば、この二国に本巣国と牟義都国を加えた五ヵ国であったとされる。それぞれの国には国造が設置され、また美濃県、鴨県、刀支県の三県に県主が設置された。後にこれらの国々と県を統合した結果、美濃国が7世紀に成立した。成立時の範囲は、現在の岐阜県の南部地域(美濃地方)と長野県の南西部地域の一部の木曽郡(木蘇国)にほぼ相当した。南隣の尾張国との境は木曽川であったが、当時の流路は現在より北で、現在の境川下流を通っていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "霊亀元年(715年)7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた(『続日本紀』)。岐阜県本巣市の舂稲神社には、当地が邇近の墓であるという伝承が残っている。大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』斉明天皇6年10月条)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "明治維新直前の領域は、現在の岐阜県から下記を除き、愛知県一宮市の一部(東加賀野井の一部)と稲沢市の一部(祖父江町拾町野・祖父江町馬飼および祖父江町祖父江の一部)、豊田市の一部(須渕町・浅谷町・三分山町・下切町・下中町・島崎町・上中町・上切町・一色町)を加えた区域に相当する。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "702年(大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡絵上郷に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中の859年~876年に天皇の勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界で木曽川の水源から北にある境峠)と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡絵上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである。しかし平安時代末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。 該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町、笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町、旧平田町の大部分)である。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在の愛知県豊田市の上切町・上中町・下中町・下切町・島崎町・一色町は、元は三河国加茂郡足助庄仁木郷であったが、室町時代にこの地域を支配する領主が、隣接する美濃国恵那郡南部の領主であった明知遠山氏へ娘を嫁がせる際に美濃国恵那郡に化粧料として割き与えたと伝えられている。しかし1955年(昭和30年)4月1日にこの地域に存在した岐阜県恵那郡三濃村が岐阜県と愛知県に分裂し、愛知県東加茂郡旭村に越県編入された。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下三郡は、安土桃山時代に尾張国より移管された。", "title": "地域" } ]
美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 美濃国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|美濃国}} |別称 = 濃州(じょうしゅう、のうしゅう)<ref group="注">[[美作国]](作州)との重複を避けるため二文字目を用いるが、古くは「美州」とも呼ばれた。「のうしゅう」と読むのは江戸時代後期以降(「[[wikt:濃|濃]]」の[[漢音]]は「じょう」で、「のう」と読むのは[[慣用音]]とされる)。[[ジョアン・ロドリゲス]]『日本語小文典』では"Giôxû"(ヂョーシュー)と綴られ、[[山城国|城州]]・[[上野国|上州]]・[[常陸国|常州]]の"Iôxû"(ジョーシュー)とは発音が区別されている。</ref> |所属 = [[東山道]] |領域 = [[岐阜県]]南部、[[愛知県]]のごく一部 |国力 = [[上国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 18郡131郷 |国府 = 岐阜県[[不破郡]][[垂井町]]([[美濃国府跡]]) |国分寺 = 岐阜県[[大垣市]]([[美濃国分寺#美濃国分寺跡|美濃国分寺跡]]) |国分尼寺 = (推定)岐阜県不破郡垂井町 |一宮 = [[南宮大社]](岐阜県不破郡垂井町) }} '''美濃国'''(みののくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。 == 「美濃」の名称 == 美濃国を指す[[木簡]]は多く見つかっているが、[[石神遺跡]]・[[飛鳥池遺跡]]・[[藤原京|藤原宮]]跡など7世紀の木簡はみな「'''三野国'''」と記す。青野(現・[[大垣市]]青野)、大野(現・[[揖斐郡]][[大野町]])、各務野(現・[[各務原市]])という3つの「野」に由来するという説がある。 そして8世紀初頭の[[大宝 (日本)|大宝]]2年戸籍([[702年]])や同3年([[703年]])の藤原宮跡木簡に「'''御野国'''」という表記が出てくる<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、20頁。</ref>。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。 別に、平城宮から出土した木簡には「'''美野国'''」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義('''美乃国''')、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『[[新抄格勅符抄]]』(神事諸家封戸[[大同 (日本)|大同]]元年牒)にも、「美乃国」とある。  [[柳田國男|柳田国男]]は著書『地名考』で、美濃、耳納、三納など、ミノと読む地名を挙げ、これらは一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した地名であるとし、[[島根県]]美濃郡、[[岡山県]]の美濃県(みぬのあがた)などを例示した。当国[[本巣郡]]に美濃郷があり、この本巣郡は[[根尾川]]両岸を占める山地丘陵地帯で、[[本巣国造|美濃国造]]の本拠とされている。<ref>{{Cite book|title=角川地名大辞典 21 岐阜県|date=昭和55年9月20日|year=1980年|publisher=角川書店}}</ref> == 沿革 == 美濃国は『[[先代旧事本紀]]』によれば、もともと[[三野前国]]、[[三野後国]]、[[額田国]]の三国、『[[古事記]]』によれば、この二国に[[本巣国造|本巣国]]と[[牟義都国]]を加えた五ヵ国であったとされる。それぞれの国には[[国造]]が設置され、また[[美濃県]]、[[鴨県]]、[[刀支県]]の三県に[[県主]]が設置された。後にこれらの国々と県を統合した結果、美濃国が[[7世紀]]に成立した。成立時の範囲は、現在の[[岐阜県]]の南部地域([[美濃地方]])と[[長野県]]の南西部地域の一部の[[木曽郡]]([[木蘇国造|木蘇国]])にほぼ相当した。南隣の[[尾張国]]との境は[[木曽川]]であったが、当時の流路は現在より北で、現在の[[境川 (岐阜県)|境川]]下流を通っていた。 [[霊亀]]元年([[715年]])[[7月 (旧暦)|7月]]、[[席田邇近|席田君邇近]](むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、[[席田郡]]がつくられた(『[[続日本紀]]』)。[[岐阜県]][[本巣市]]の[[舂稲神社]]には、当地が邇近の墓であるという伝承が残っている<ref>「船来山古墳群保存活用基本構想 概要版[https://www.city.motosu.lg.jp/cmsfiles/contents/0000001/1147/gaiyoubann.pdf]ー</ref>。[[大宝]]2年([[702年]])の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の[[富加町]]羽生)[[戸籍]]に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』[[斉明天皇]]6年10月条)。<ref>筧敏生「古代国家の形成と美濃・飛騨」 松田之利・谷口和人・筧敏生・所史隆・上村恵宏・黒田隆志『岐阜の歴史』山川出版社 2000年 52-53ページ</ref> == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の[[岐阜県]]から下記を除き、[[愛知県]][[一宮市]]の一部(東加賀野井の一部<ref group="注">[[1887年]]([[明治]]20年)に[[尾張国]]に移管。</ref>)と[[稲沢市]]の一部(祖父江町拾町野・祖父江町馬飼および祖父江町祖父江の一部<ref group="注">いずれも1887年(明治20年)に尾張国に移管。</ref>)、[[豊田市]]の一部(須渕町・浅谷町・三分山町・下切町・下中町・島崎町・上中町・上切町・一色町)を加えた区域に相当する。 ;[[飛騨国]]に属する範囲 * [[高山市]]、[[飛騨市]]、[[大野郡]][[白川村]]の全域 * [[下呂市]]の大部分([[馬瀬村 (岐阜県益田郡)|馬瀬]]惣島・西村・門原・保井戸・瀬戸および[[金山町 (岐阜県)|金山町]]中切・渡・下原町・大船渡・中津原・福来より北東の地域) ;[[信濃国]]に属する範囲 * [[中津川市]]の一部([[山口村 (長野県)|山口]]・[[馬籠宿|馬籠]]・[[神坂村|神坂]]) ;[[越前国]]に属する範囲 * [[郡上市]]の一部([[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]]石徹白) ;[[伊勢国]]に属する範囲 * [[海津市]]の一部(海津町金廻・海津町油島<ref group="注">いずれも[[1883年]](明治16年)に美濃国に編入。</ref>) ;[[尾張国]]に属する範囲 * 海津市の一部(海津町駒ケ江の一部<ref group="注">1887年(明治20年)に美濃国に編入。</ref>) === 木曽も含んでいた古代から近世 === [[702年]](大宝2年)に「始めて'''美濃国'''の岐蘇山道を開く」と[[続日本紀]]に記されているのが岐蘇([[木曽地域|木曽]])の史料上の初見であるが、このとき[[木曾谷|木曽路]]を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、[[木曾谷]]は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡[[絵上郷]]に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、[[貞観 (日本)|貞観]]年中の[[859年]]~[[876年]]に天皇の勅命により、朝廷より[[藤原正範]]と[[靭負直継雄]]が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、[[和銅]]6年(713年)に美濃守[[満誓|笠麻呂]]らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府([[不破郡]][[垂井町]]府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府([[松本市]])のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」([[木祖村]]と旧[[奈川村]]との境界で木曽川の水源から北にある[[境峠 (長野県)|境峠]])と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡絵上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである<ref>恵那郡史、1926年。すなわち古代には木曾は美濃国恵奈郡に属していたのである。そして[[元慶]]3年([[879年]])9月に懸坂上岑と[[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵奈郡絵上郷と定められた。</ref>。しかし[[平安時代]]末期になると、[[源義仲]]が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。平安時代中期の[[拾遺和歌集]]には、[[源頼光]]の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。 *信濃地名考という文献には、木曾が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間([[901年]] - [[923年]])と記されている。 *美濃国恵奈郡であった木曾全域が信濃国に移った時期について、[[信州大学]]人文学部の[[山本英二]]教授が[[長野県]][[木曽郡]][[大桑村]]の[[定勝寺]]の古文書の[[回向文]]の中から年代が分かる5点で、[[延徳]]3年([[1491年]])には、美濃州恵奈郡木曽庄とあるが、[[永正]]12年([[1515年]])には、信濃州木曽荘と書かれているので木曾が美濃国恵奈郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。 *[[木曾古道記]]には[[木曽川]]より東側にある定勝寺の[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])作の鐘銘には信州木曾庄と書かれてあるのに対し、[[木曽川]]より西側にある[[興禅寺 (長野県木曽町)|興禅寺]]にある[[承応]]2年([[1653年]])作の鐘銘には美濃国恵那郡木曾庄となっていることを述べた上で、[[天正]]以来の記録に木曽川より東を信濃国[[筑摩郡]]、木曽川より西を美濃国恵那郡と分けていたが、[[享保]]9年([[1724年]])に木曽川の東も西も信濃国筑摩郡木曾と定められたと記されている。 === 尾張国から美濃国へ移された地域 === [[天正]]14年([[1586年]])に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち[[境川 (岐阜県)|境川]]と木曽川にはさまれた一帯、中洲は[[各務原市]]川島にあたる。 該当するのは、[[岐阜市]](旧[[柳津町 (岐阜県)|柳津町]]の一部等)、[[各務原市]](旧[[稲羽町]]の一部、旧[[川島町 (岐阜県)|川島町]])と、[[羽島郡]]のほぼ全域([[岐南町]]、[[笠松町]])、[[羽島市]]のほぼ全域、[[海津市]](旧[[海津町]]、旧[[平田町 (岐阜県)|平田町]]の大部分)である。 === 三河国から美濃国へ、岐阜県から愛知県へ移った地域 === 現在の愛知県[[豊田市]]の上切町・上中町・下中町・下切町・島崎町・一色町は、元は[[三河国]][[加茂郡 (三河国)|加茂郡]]足助庄仁木郷であったが、[[室町時代]]にこの地域を支配する領主が、隣接する美濃国恵那郡南部の領主であった[[明知遠山氏]]へ娘を嫁がせる際に美濃国恵那郡に[[化粧料]]として割き与えたと伝えられている。しかし[[1955年]]([[昭和]]30年)[[4月1日]]にこの地域に存在した岐阜県恵那郡[[三濃村]]が岐阜県と愛知県に分裂し、愛知県[[東加茂郡]][[旭町 (愛知県東加茂郡)|旭村]]に[[越境合併|越県編入]]された。 == 国内の施設 == === 国府 === ; [[美濃国府跡|美濃国府]] : [[国府]]は[[不破郡]](現:[[垂井町]]府中)にあった。様々な遺構や遺物が発掘され「美濃国府跡」として国の史跡となっている。 === 国分寺・国分尼寺 === ; [[美濃国分寺]] : 上記の国府に近い青野ヶ原(現:大垣市)に建立された。現在の美濃国分寺は江戸時代初期の再興。 ; [[美濃国分尼寺]] : 国分寺の南西約1km(現:垂井町平尾)に建立されたとされており、平成16年から発掘調査が行われ尼寺建物の[[基壇]]の一部が見つかっている。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社1座1社・小社38座37社の計39座38社が記載されている([[美濃国の式内社一覧]]参照)。大社1社は[[名神大社]]である。 * [[多芸郡|多藝郡]] ** 多伎神社 (現 [[多岐神社]]、[[養老郡]][[養老町]]) ** [[大神神社 (大垣市)|大神神社]] ([[大垣市]]上石津町) ** [[御井神社 (養老町)|御井神社]] (養老郡養老町) ** [[久久美雄彦神社]] (養老郡養老町) *[[不破郡]] ** 仲山金山彦神社 (現 [[南宮大社]]、不破郡[[垂井町]]) - '''[[名神大社]]'''。 ** [[大領神社]] (不破郡垂井町) ** [[伊富岐神社]] (不破郡垂井町) * [[池田郡]] ** [[養基神社]] ([[揖斐郡]][[池田町 (岐阜県)|池田町]]) * [[安八郡]] ** 宇波刀神社 - [[宇波刀神社 (安八町)|宇波刀神社]] (安八郡[[安八町]])または[[宇波刀神社 (神戸町)|宇波刀神社]] (安八郡[[神戸町]])に比定。 ** [[加毛神社]] (安八郡[[輪之内町]]) ** [[墨俣神社]] (大垣市墨俣町) ** 荒方神社 - [[八幡神社 (大垣市墨俣町)|八幡神社]] (大垣市墨俣町)または[[白鬚神社 (大垣市墨俣町)|白鬚神社]] (大垣市墨俣町)に比定。 * [[大野郡 (美濃国)|大野郡]] ** 花長神社 - 花長神社 (現 [[花長上神社]]、[[揖斐郡]][[揖斐川町]]谷汲)または[[能郷白山神社]] ([[本巣市]]根尾)に比定。 ** [[花長下神社]] (揖斐郡揖斐川町谷汲) ** 來振神社 (現 [[来振神社]]、揖斐郡[[大野町]]) * [[方県郡]] ** 方縣津神社 - [[津神社]] ([[岐阜市]]曽我屋)、[[方県津神社]] (岐阜市八代)または[[縣神社 (岐阜市)|縣神社]] (岐阜市佐野)に比定。 ** [[若江神社]] (岐阜市) * [[厚見郡]] ** 比奈守神社 - [[比奈守神社]] (岐阜市)または[[手力雄神社 (岐阜市)|手力雄神社]] (岐阜市)に比定。 ** [[茜部神社]] (岐阜市) ** 物部神社 - [[伊奈波神社]]に合祀。 * [[各務郡]] ** [[伊波乃西神社]] (岐阜市) ** [[飛鳥田神社 (各務原市)|飛鳥田神社]] ([[各務原市]]) ** [[加佐美神社]] (各務原市) ** 村國神社二座 (現 [[村国神社]]、各務原市) ** 村國真墨田神社 (現 [[村国真墨田神社]]、各務原市) ** [[御井神社 (各務原市)|御井神社]] (各務原市) * [[加茂郡]] ** [[縣主神社 (美濃加茂市)|縣主神社]] ([[美濃加茂市]]) ** [[坂祝神社]] (加茂郡[[坂祝町]]) ** 大山神社 - [[大山神社 (富加町)|大山神社]] (加茂郡[[富加町]])または[[大山白山神社]] (加茂郡白川町)に比定。 ** [[佐久太神社]] (加茂郡富加町) ** 太部神社 - [[太部神社]] (加茂郡[[川辺町]])または[[太部古天神社]] (加茂郡川辺町)に比定。 ** [[阿夫志奈神社]] (加茂郡川辺町) ** [[神田神社 (東白川村)|神田神社]] (加茂郡[[東白川村]]) ** [[多為神社 (関市)|多為神社]] ([[関市]]) ** 中山神社 - [[諏訪神社 (美濃加茂市)|諏訪神社]] (美濃加茂市)または[[中山神社 (美濃加茂市)|中山神社]] (美濃加茂市)に比定。 * [[恵那郡|恵奈郡]] ** 坂本神社 - [[八幡神社 (中津川市千旦林)|八幡神社]] ([[中津川市]])または[[諏訪神社 (中津川市茄子川)|諏訪神社]] (中津川市)に比定。 ** [[中川神社 (中津川市)|中川神社]] (中津川市) ** 惠奈神社 (現 [[恵那神社]]、中津川市) ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社:不詳 **[[南宮御旅神社]]の位置にあったとされる。(不破郡垂井町) * 一宮: **'''[[南宮大社]]'''(不破郡垂井町) * 二宮: **[[伊富岐神社]](不破郡垂井町) **[[大領神社]](不破郡垂井町) * 三宮: **[[多岐神社]](養老郡養老町) **[[伊奈波神社]](岐阜市) === 関所 === *[[不破関]](不破郡関ケ原町) == 地域 == === 郡 === *[[多芸郡|多藝郡]]-富上郷、物部郷、垂穂郷、立野郷、有田郷、田後郷、佐伯郷、建部郷 *[[石津郡]]-桜樹郷、山埼郷、大庭郷、建部郷 *[[不破郡]]-三桑郷、野上郷、高家郷、藍川郷、新居郷、袁佐郷、栗原郷、荒埼郷、眞野郷、山本郷、有寶郷、文部郷、駅家郷 *[[安八郡]]-那珂郷、太田郷、物部郷、安八郷、服織郷、長友郷 *[[池田郡]]-額田郷、壬生郷、小島郷、伊福郷、春日郷、池田郷 *[[大野郡 (美濃国)|大野郡]]-大神郷、明見郷、三桑郷、上秋郷、下秋郷、郡家郷、志麻郷、太田郷、石太郷、栗田郷、七埼郷、駅家郷 *[[本巣郡]]-鹿立郷、遠市郷、安堵郷、美濃郷、穂積郷、物部郷、船木郷、栗田郷 *[[席田郡 (岐阜県)|席田郡]]-美和郷、磯部郷、那珂郷、名太郷 *[[方県郡]]-村部郷、大唐郷、鵜飼郷、方縣郷、思淡郷、駅家郷 *[[厚見郡]]-市俣郷、川邊郷、厚見郷、郡家郷、三家郷、皆太郷 *[[各務郡]]-村国郷、各務郷、那加郷、芥見郷、三井郷、大榛郷、駅家郷 *[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]-出石郷、大神郷、片野郷、三田郷、大桑郷、餘部郷 *[[武儀郡|武藝郡]]-御佩郷、跡部郷、生櫛郷、有知郷、白金郷、大山郷、稲杇郷、菅田郷、揖可郷 *[[郡上郡]]-郡上郷、安郡郷、和良郷、栗栖郷 *[[加茂郡]]-埴生郷、生部郷、井門郷、小山郷、曰理郷、神田郷、中家郷、川邊郷、志麻郷、駅家郷 *[[可児郡]]-可兒郷、郡家郷、曰理郷、大井郷、矢集郷、池田郷、駅家郷 *[[土岐郡]]-日吉郷、楢原郷、異味郷、土岐郷、餘部郷、駅家郷 *[[恵那郡|恵奈郡]]-淡気郷、安岐郷、竹折郷、坂本郷、絵下郷、絵上郷 以下三郡は、[[安土桃山時代]]に[[尾張国]]より移管された。 *[[羽栗郡]] *[[中島郡 (岐阜県)|中島郡]] *[[海西郡 (岐阜県)|海西郡]] === 江戸時代の藩 === {| class="wikitable" |+ 美濃国の藩の一覧 ! 藩名 !! 居城 !! 藩主 |- ! [[大垣藩]] | [[大垣城]] | *[[石川氏#三河石川氏|石川家]]:5万石、1601年 - 1616年(豊後日田藩6万石に移封) *[[久松松平家]]:2万石、1616年 - 1624年(信濃[[小諸藩]]5万石に移封) *[[岡部氏 (藤原南家)|岡部家]]:5万石、1624年 - 1633年(播磨[[龍野藩]]5万3千石に移封) *[[松平定綱]]:6万石、1633年 - 1635年(伊勢[[桑名藩]]11万3千石 に移封) *[[戸田氏|戸田家]]:10万石、1635年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[大垣新田藩]]<br>大垣藩支藩 | 畑村陣屋 | *[[戸田氏|戸田家]]:1万石、1688年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[郡上藩]] | [[郡上八幡城]] | *[[遠藤氏|遠藤家]]:2万7千石→2万4千石、1600年 - 1692年(無嗣、常陸・下野両国内1万石に移封) *[[井上氏#三河井上氏|井上家]]:5万石、1692年 - 1697年([[丹波亀山藩]]4万7千石に移封) *[[金森氏|金森家]]:3万8千石、1697年 - 1758年([[郡上一揆]]等のため改易) *[[青山氏|青山家]]:4万8千石、1758年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[加納藩]] | [[加納城]] | *[[奥平氏|奥平家]]:10万石、1601年 - 1632年(無嗣断絶) *[[大久保忠職]]:5万石、1632年 - 1639年(播磨[[明石藩]]7万石に移封) *[[戸田松平家]]:7万石、1639年 - 1711年(山城[[淀藩]]6万石に移封) *[[安藤氏|安藤家]]:6万5千石→5万石、1711年 - 1756年(陸奥[[磐城平藩]]6万7千石に移封) *[[永井氏|永井家]]:3万2千石、1711年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[岩村藩]] | [[岩村城]] | *[[大給松平家]]:2万石、1601年 - 1638年(遠州[[浜松藩]]3万5千石に移封) *[[丹羽氏|丹羽家]]:2万石、1638年 - 1702年(越後[[高柳藩]]1万石に移封) *大給松平家:2万石→3万石、1702年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[苗木藩]] | [[苗木城]] | *[[遠山氏|遠山家]]:1万石、1600年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[高富藩]] | 高富陣屋 | *[[本庄氏|本庄家]]:1万石、1709年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[今尾藩]] | [[今尾城]]<br>[[今尾陣屋]] | *[[市橋長勝]]:2万石、1600年 - 1610年(伯耆[[矢橋藩]]2万3千石に移封) *竹腰家([[尾張藩]]附家老):1万石→2万石→3万石→2万石、1611年 - 1871年(廃藩置県) |- ! [[高須藩]] | 高須城<br>高須陣屋 | *徳永家:5万石、1600年 - 1628年(不始末改易) *[[小笠原貞信]]:2万2千石 1640年 - 1691年(越前勝山藩2万2千石に転封) *[[尾張徳川家|尾張松平家]](尾張藩支藩):3万石、1700年 - 1870年(本藩に吸収) |- ! [[黒野藩]] | [[黒野城]] | *[[加藤貞泰]]:4万石、1600年 - 1610年(伯耆[[米子藩]]6万石に移封) |- ! [[揖斐藩]] | [[揖斐城]] | *西尾家:3万石→2万5千石、1600年 - 1623年(無嗣断絶) |- ! [[金山藩]] | | *[[松平忠頼]]:2万5千石、1600年 - 1601年(遠州[[浜松藩]]5万石に移封) |- ! [[上有知藩]] | [[小倉山城 (美濃国)|小倉山城]] | *[[金森氏|金森家]]:1万8千石→2万石、1600年 - 1611年(無嗣断絶) |- ! [[十七条藩]] | [[十七条城]] | *[[稲葉正成]]:1万石→2万石、1607年 - 1627年(下野[[真岡藩]]2万石に移封) |- ! [[青野藩]] | 青野陣屋 | *[[稲葉正休]]:1万2千石、1681年 - 1684年(江戸城内で[[堀田正俊]]を刺殺後、自らも殺害される) |- ! [[関藩]] | 関陣屋 | *[[大島光義]]:1万8千石、1600年 - 1604年(没後子孫に領地を分配し、それぞれ旗本に) |- ! [[清水藩]] | 清水城 | *[[稲葉通重]]:1万2千石、1600年 - 1607年(素行不良のため改易) |- ! [[岩滝藩]] | 岩滝陣屋 | *[[本庄道章]]:1万石、1705年 - 1709年(高富藩に移転) |- ! [[徳野藩]] | 徳野陣屋 | *平岡家:1万石、1604年 - 1653年(家督争いを咎められ改易) |- ! [[野村藩]] | | *[[織田氏|織田家]]:1万石、1600年 - 1631年(無嗣断絶) |- ! [[美濃長谷川藩]] | | *[[長谷川守知]]:1万石、1617年 - 1635年頃(分知のため旗本に) |- ! [[美濃脇坂藩]] | | *[[脇坂安信]]:1万石、1615年 - 1632年(不始末改易) |} === 幕末の領主 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,561村・654,872石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[厚見郡]](57村・41,543石余) - [[天領|幕府領]]([[美濃郡代]]・大垣藩[[預地]])、[[地方知行|旗本領]]、'''[[加納藩]]'''、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]、[[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]] ** [[各務郡]](41村・20,532石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩、高富藩 ** [[羽栗郡]](63村・21,375石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩、陸奥磐城平藩 ** [[中島郡 (岐阜県)|中島郡]](32村・14,565石余) - 幕府領(美濃郡代・名古屋藩[[給人]]毛利源内預地)、旗本領、尾張名古屋藩、尾張[[犬山藩]] ** [[海西郡 (岐阜県)|海西郡]](25村・11,750石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、高須藩 ** [[石津郡]](77村・26,373石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、旗本領、'''[[高須藩]]'''、大垣藩、尾張名古屋藩、今尾藩 ** [[多芸郡]](61村・34,408石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、大垣藩、今尾藩、尾張名古屋藩、尾張犬山藩、高須藩 ** [[不破郡]](45村・37,212石余) - 幕府領(大垣藩預地)、旗本領、大垣藩、尾張名古屋藩 ** [[安八郡]](152村・81,850石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、旗本領、'''[[大垣藩]]'''、尾張名古屋藩、'''[[今尾藩]]'''、尾張犬山藩、岩村藩 ** [[池田郡]](67村・18,973石余) - 幕府領(大垣藩預地)、旗本領、大垣藩、尾張名古屋藩、[[備中国|備中]][[岡田藩]] ** [[大野郡 (美濃国)|大野郡]](122村・50,037石余) - 幕府領(大垣藩預地)、旗本領、大垣藩、'''[[野村藩]]'''、尾張名古屋藩、岩村藩 ** [[本巣郡]](71村・35,899石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、旗本領、大垣藩、陸奥磐城平藩、尾張名古屋藩 ** [[席田郡 (岐阜県)|席田郡]](9村・5,726石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、旗本領 ** [[方県郡]](54村・33,795石余) - 幕府領(美濃郡代・大垣藩預地)、旗本領、陸奥磐城平藩、高富藩、尾張名古屋藩、大垣藩 ** [[山県郡 (岐阜県)|山県郡]](50村・26,330石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、岩村藩、尾張名古屋藩、'''[[高富藩]]''' ** [[武儀郡]](135村・33,827石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩、岩村藩、今尾藩 ** [[郡上郡]](164村・30,274石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、'''[[郡上藩]]''' ** [[加茂郡]](116村・42,818石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩、苗木藩、今尾藩 ** [[可児郡]](95村・32,444石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩 ** [[土岐郡]](44村・19,895石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、尾張名古屋藩、岩村藩 ** [[恵那郡]](81村・35,233石余) - 幕府領(美濃郡代)、旗本領、'''[[岩村藩]]'''、'''[[苗木藩]]'''、尾張名古屋藩 == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 美濃守 ==== *[[満誓|笠麻呂]]は[[慶雲]]3年([[706年]])7月から[[養老]]4年([[720年]])10月まで14年間にわたって美濃守を務め、美濃と信濃をつなぐ「岐蘇山道」(きそのやまみち)(「吉蘇路」)を開削した。 *[[大伴兄麻呂]]:[[745年]] *[[藤原執棹]](従五位下):[[天平宝字]]8年([[764年]])任官 *[[藤原楓麻呂]](従四位下):天平宝字8年(764年)任官 *[[百済教俊]](従五位下):[[延暦]]25年([[806年]])任官 *[[藤原綱継]](従五位上):[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])任官 *[[藤原縵麻呂]](従四位下):大同3年([[808年]])任官 *[[佐伯社屋]](従五位下):大同3年(808年)任官 *[[藤原今河]](従四位下):大同3年(808年)任官 *[[藤原縵麻呂]](従四位下):大同3年(808年)任官 *[[紀広浜]](従四位下):大同3年(808年)任官 *[[藤原緒嗣]](従四位下):大同5年([[810年]])任官 *[[小野岑守]](従五位下):[[弘仁]]3年([[812年]])任官 **[[安倍易笠]](従四位下):弘仁9年([[818年]])任官(権守) *[[春原五百枝]](従三位):[[天長]]3年([[826年]])任官 *[[源弘]](従四位下):[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])任官 *[[笠広庭]](従四位下):承和7年([[840年]])任官 *[[紀諸綱]](従五位上):承和8年([[841年]])任官 *[[紀名虎]](従四位上):承和9年([[842年]])任官 *[[藤原経永]](従五位下):承和13年([[846年]])任官 *[[藤原宮房]](従五位上):承和15年([[848年]])任官 *[[清原岑成|岑成王]](従四位下):[[嘉祥]]2年([[849年]])任官 *[[田口房富]](従五位上):嘉祥2年(849年)任官 *[[紀今守]](従五位上):[[仁寿]]3年([[853年]])任官 *[[藤原直道]](従五位下):[[斉衡]]3年([[856年]])任官 *[[笠数道]](従五位下):[[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]])任官 *[[良岑清風]](正五位下):[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])任官 *[[坂上貞守]](従五位上):貞観2年(860年)任官 *[[滋野善根]](従五位下):貞観4年([[862年]])任官 **[[滋野安成]](従五位上):貞観7年([[865年]])任官(権守) *[[源穎]](従五位上):貞観8年([[866年]])任官 *[[大江音人]](従四位下):貞観10年([[868年]])任官 **[[滋野安城]](従五位上):貞観10年(868年)任官(権守) **[[藤原冬緒]](従四位上):貞観10年(868年)任官(権守) **[[源能有]](従四位上):貞観12年([[870年]])任官(権守) *[[文室巻雄]](従五位上):貞観14年([[872年]])任官 **[[藤原良近]](従五位下):貞観16年([[874年]])任官(権守) *[[源覚]](従四位上):貞観18年([[876年]])任官 **[[橘広相]](従五位上):貞観18年(876年)任官(権守) **[[在原業平]](従四位上):[[元慶]]4年([[880年]])任官(権守) **[[忠貞王]](正四位下):元慶5年([[881年]])任官(権守) *[[源直]](正四位上):元慶6年([[882年]])任官 *[[源貞恒]](従四位上):元慶9年([[885年]])任官 **[[藤原諸公]](従四位下):[[仁和]]3年([[887年]])任官(権守) **[[藤原諸葛]](従四位下):仁和3年(887年)任官(権守) *[[源雄]](従三位):仁和5年([[889年]])任官 **[[源昇]](正五位下):[[寛平]]4年([[892年]])任官(権守) **[[在原友子]](従四位上):寛平9年([[897年]])任官(権守) **[[源湛]](従四位上):[[昌泰]]2年([[899年]])任官(権守) *[[源是恒]]:[[延喜]]5年([[905年]])任官 *[[源是茂]](従四位上):延喜10年([[910年]])任官 **[[源悦]](従四位下):延喜13年([[913年]])任官(権守) *[[源正明]](従四位下):延喜14年([[914年]])任官 *[[源悦]](従四位下):延喜14年(914年)任官 **[[源等]](従五位上):延喜17年([[917年]])任官(権守) **[[橘良殖]](従四位上):延喜17年(917年)任官(権守) **[[平中興]](従五位上):延喜22年([[922年]])任官(権守) *[[藤原玄上]](従三位):[[承平 (日本)|承平]]2年([[932年]])任官 *[[藤原伊衡]](正四位下):承平4年([[934年]])任官 **[[平随時]](従五位上):承平4年(934年)任官(権守) *[[藤原師氏]](従四位下):[[天慶]]3年([[940年]])任官 **[[藤原元名]](従四位下):天慶5年([[942年]])任官(権守) *[[大江維時]](正四位下):天慶10年([[947年]])任官 **[[藤原興方]]:[[天暦]]4年([[950年]])任官(権守) *[[伴彦真]]:天暦6年([[952年]])任官 **[[源重信]](従四位上):天暦6年(952年)任官(権守) **[[大江朝綱]](従四位上):[[天徳 (日本)|天徳]]9年([[955年]])任官(権守) **[[藤原斉敏]](従四位下):天徳2年([[958年]])任官(権守) *[[平真材]]:天徳4年([[960年]])任官 **[[藤原兼通]](従四位下):[[応和]]3年([[963年]])任官(権守) **[[藤原兼家]](従四位下):[[康保]]4年([[967年]])任官(権守) *[[藤原時柄]]:康保5年([[968年]])任官 **[[大江斉光]](従五位上):[[安和]]2年([[969年]])任官(権守) *[[橘恒平]](従五位上):[[天禄]]3年([[972年]])任官 **[[藤原元輔]](従五位上):天禄4年([[973年]])任官(権守) **[[藤原為輔]](正五位下):[[天元 (日本)|天元]]3年([[980年]])任官(権守) **[[藤原実資]](従四位上):[[永観]]2年([[984年]])任官(権守) *[[源遠資]]:[[永延]]元年([[987年]])在任 **[[源時中]](正三位):永延2年([[988年]])任官(権守) **[[藤原道信]](正四位下):[[正暦]]3年([[992年]])任官(権守) *[[藤原忠信 (三乃三位)|藤原忠信]](正四位上):正暦4年([[993年]])離任 *[[藤原共政]]:正暦4年(993年)任官 **[[藤原誠信]](正四位下):正暦5年([[994年]])任官(権守) *[[源為憲]]:[[長徳]]3年([[997年]])任官 *[[源頼光]]:[[長保]]3年([[1001年]])任官 *[[源国擧]]:[[寛弘]]5年([[1008年]])任官 **[[藤原実成]](従三位):寛弘6年([[1009年]])任官(権守) *[[源済政]]:寛弘8年([[1011年]])在任 *[[源頼光]]:[[長和]]4年([[1015年]])任官 *[[藤原泰通]]:長和5年([[1016年]])任官 **[[藤原師成]](従五位下):[[寛仁]]5年([[1021年]])任官 *[[藤原頼任]]:[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])任官 *[[藤原頼明]](従四位下):[[万寿]]2年([[1025年]])任官 *[[藤原庶政]](従四位下):万寿4年([[1027年]])任官 *[[源頼信]](従四位下):[[長元]]5年([[1032年]])任官 **[[藤原顕家 (小野宮流)|藤原顕家]](従五位下):長元8年([[1035年]])任官(権守) *[[橘義通]]:長元9年([[1036年]])任官 *[[藤原国成]]:[[長暦]]4年([[1040年]])任官 **[[藤原良基 (隆家流)|藤原良基]](従五位上):[[長久]]2年([[1041年]])任官(権守) *[[藤原基貞]]:[[寛徳]]3年([[1046年]])任官 *[[高階業敏]]:[[永承]]7年([[1052年]])在任 *[[藤原定房]]:[[天喜]]5年([[1057年]])在任 *[[源実基]]:[[康平]]4年([[1061年]])在任 *[[藤原隆経]](正四位下):[[延久]]3年([[1071年]])在任 ==== 美濃介 ==== *[[島田忠臣]]:[[883年]] *[[紀貫之]]:[[延喜]]18年([[918年]])任官 *[[藤原伊尹]]:[[天暦]]3年([[949年]])任官 *[[鈴木重氏]]:[[応和]]2年([[962年]])任官(権介)<ref>宝賀寿男『古代氏族系譜集成 中巻』</ref> *[[藤原頼嗣]]:[[寛元]]3年([[1245年]])任官(権介) === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *1187年~1211年 - [[大内惟義]] *?~1221年 - [[大内惟信]]? *1252年~? - [[宇都宮泰綱]] *1285年~? - 北条氏 *1296年~1300年 - [[北条時村 (政村流)|北条時村]] *?~1333年 - [[北条政高]]? ==== 室町幕府 ==== *1336年~1339年 - [[土岐頼貞]] *1339年~1342年 - [[土岐頼遠]] *1342年~1387年 - [[土岐頼康]] *1387年~1389年 - [[土岐康行]] *1390年~1394年 - [[土岐頼世]] *1395年~1414年 - [[土岐頼益]] *1422年~1465年 - [[土岐持益 (守護)|土岐持益]] *1468年~1495年 - [[土岐成頼]] *1495年~1519年 - [[土岐政房]] *1519年~1542年 - [[土岐頼芸]] === 戦国時代 === ==== 戦国大名 ==== *[[土岐氏#美濃土岐氏|美濃土岐氏]]:美濃守護。1552年頃[[土岐頼芸]]が家臣の[[斎藤道三]]に追放され、没落 *[[斎藤氏#美濃斎藤氏|美濃斎藤氏]]:美濃守護代。長井規秀(斎藤道三)が名跡を継承、主家を乗っ取り美濃一国の大名となる。1567年、道三の孫の[[斎藤龍興]]が[[織田信長]]に[[稲葉山城]]を攻略され、実質滅亡 ==== 織豊政権の大名 ==== *[[西美濃三人衆]]:斎藤氏の家臣であったが、[[織田信長]]の美濃侵攻時に織田方に加担し、本領を安堵された **[[稲葉良通]](一鉄):[[曽根城]]→清水城→[[揖斐城]]、1567年 - 1579年(家督を長子の[[稲葉貞通]]に譲る) **[[安藤守就]]:[[北方城]]、1567年 - 1580年(信長に追放される。本能寺の変後、再起を図るが敗北・自決) **[[氏家直元]](卜全):[[大垣城]]、1567年 - 1571年(伊勢[[長島一向一揆|長島攻め]]で戦死、[[氏家直昌]]が跡を継ぐ) *[[岐阜城]]主 **[[織田信忠]]:1576年に信長から織田家の家督と美濃東部・尾張国の一部を譲られる。1582年、[[本能寺の変]]で父と共に討ち死に。 **[[織田信孝]]:1582年、兄・信忠の領地であった美濃国を与えられるが、[[柴田勝家]]と結んだため、翌1583年、[[織田信雄]]に攻められ降伏・自害 **[[池田元助]]:本城は父池田恒興の大垣城、1582年 - 1584年([[小牧・長久手の戦い]]で戦死) **[[池田輝政]]:13万石、1584年 - 1590年(三河吉田15万2千石に移封) **[[豊臣秀勝]]:1591年 - 1592年(朝鮮出兵中に病没) **[[織田秀信]]:1592年 - 1600年(関ヶ原の戦い後に改易) *[[大垣城]]主 **[[氏家直昌]]:1571年 - 1583年(死亡、家督は弟の[[氏家行広]]が継いだが、美濃三塚1万5千石に移封) **[[池田恒興]]・輝政:13万石、1583年 - 1584年(岐阜城へ移動) **[[一柳直末]]:3万石、1585年 - 1589年([[軽海西城]]6万石に移封) **[[伊藤盛景]]・[[伊藤盛正|盛正]]:3万4千石、1589年 - 1600年(関ヶ原の戦い後に改易) *その他 **[[森長可]]・[[森忠政|忠政]]:[[岩村城]]4万石、1582年 - 1600年(信濃川中島に移封) **[[田丸直昌]]:[[岩村城]]4万石、 1600年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) **[[稲葉貞通]]:[[曽根城]]→[[郡上八幡城]]4万石、1579年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、豊後[[臼杵藩]]5万石に移封) **[[加藤貞泰]]:[[黒野城]]4万石、1594年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、本領安堵[[黒野藩]]に) **[[徳永寿昌]]:美濃高松3万石、1583年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、美濃[[高須藩]]5万石に移封) **[[関一政]]:[[多良城]]3万石、1600年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、本領安堵[[多良藩]]に) **[[原長頼]]:美濃太田3万石、1598年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、自害・改易) **[[西尾光教]]:[[曽根城]]2万石、1585年頃 - 1600年(関ヶ原の戦い後、美濃[[揖斐藩]]3万石に移封) **[[丸毛兼利]]:福束城2万石、1589年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) **[[佐藤秀方]]・[[佐藤方政|方政]]:上有知2万石、? - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易) **[[氏家行広]]:三塚城1万5千石、1583年 - 1590年(伊勢桑名2万2千石に移封) **[[稲葉重通]]・[[稲葉通重|通重]]:清水1万2千石、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、本領安堵[[清水藩]]に) **[[市橋長利]]・[[市橋長勝|長勝]]:今尾1万石、1563年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、2万石に加増、[[今尾藩]]に) **[[平塚為広]]:[[垂井城]]1万石、1600年 - 1600年(関ヶ原の戦い後で戦死、改易) **[[河尻秀長]]:苗木1万石、1599年 - 1600年(関ヶ原の戦いで戦死、改易) **[[木村由信]]:北方1万石、1595年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、大垣城で殺害、改易) **[[高木守之]]:高須1万石、1592年 - 1600年関ヶ原の戦い後、改易) === 武家官位としての美濃守 === ==== 江戸時代以前 ==== *美濃守護[[土岐氏]] **[[土岐頼忠]]:第8代当主。南北朝時代・室町時代の武将 **[[土岐頼益]]:第9代当主。南北朝時代・室町時代の武将 **[[土岐持益 (守護)|土岐持益]]:第10代当主。 室町時代の武将、守護大名 **[[土岐成頼]]:第11代当主。室町時代から戦国時代の武将 **[[土岐頼芸]]:第14代・第16代当主。戦国時代の武将 *その他 **[[大内惟義]]:平安時代末期・鎌倉時代初期の武将、[[鎌倉幕府]]御家人。伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津[[守護]](惣追捕使) **[[甲斐常治]]:室町時代中期の武将、[[斯波氏]]執事、越前・遠江守護代 **[[斎藤義龍]]:戦国時代の武将、美濃の戦国大名。[[斎藤道三]]の子 **[[馬場信春]]:戦国時代の甲斐[[武田氏]]の武将。[[武田四名臣]]の一人 **[[原虎胤]]:戦国時代の甲斐[[武田氏]]の武将。[[武田の五名臣]]の一人 **[[太田資頼]]:戦国時代の武将、太田資正の父 **[[太田資正]]:戦国時代・安土桃山時代の武将 **[[黒田職隆]]:戦国時代・安土桃山時代の武将、[[黒田孝高]]の父 **[[豊臣秀長]]:戦国時代・安土桃山時代の武将・大名。[[豊臣秀吉]]の弟 ==== 江戸時代 ==== *[[稲葉正成|正成系]][[稲葉氏|稲葉家]]宗家 **[[稲葉正則]]:宗家3代。相模[[小田原藩]]第2代藩主・老中 **[[稲葉正知]]:宗家5代。下総[[佐倉藩]]第2代藩主、山城[[淀藩]]初代藩主 **[[稲葉正任]]:宗家6代。山城[[淀藩]]第2代藩主 **[[稲葉正弘]]:宗家10代。淀藩第6代藩主 **[[稲葉正邦]]:宗家16代。淀藩12代目藩主・老中 *[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]岡部家 **[[岡部宣勝]]:美濃[[大垣藩]]第2代藩主、播磨[[龍野藩]]主、摂津[[高槻藩]]主、和泉[[岸和田藩]]初代藩主 **[[岡部長泰]]:岸和田藩第3代藩主 **[[岡部長著]]:岸和田藩第5代藩主 **[[岡部長修]]:岸和田藩第7代藩主 **[[岡部長備]]:岸和田藩の第8代藩主 **[[岡部長慎]]:岸和田藩第9代藩主 **[[岡部長発]]:岸和田藩第11代藩主 *[[上野国|上野]][[沼田藩]][[土岐氏|土岐家]] **[[土岐定経]]:沼田藩第3代藩主 **[[土岐定吉]]:沼田藩第5代藩主 **[[土岐頼布]]:沼田藩第7代藩主 **[[土岐頼之]]:沼田藩第11代藩主 *[[伊予国|伊予]][[小松藩]][[一柳氏|一柳家]] **[[一柳頼寿]]:第5代藩主 **[[一柳頼欽]]:第6代藩主 **[[一柳頼親]]:第7代藩主 *河内[[狭山藩]][[後北条氏|北条家]] **[[北条氏規]]:戦国時代・安土桃山時代の武将。[[北条氏康]]の五男 **[[北条氏盛]]:初代藩主、北条氏規の子 **[[北条氏信 (狭山藩主)|北条氏信]]:第2代藩主 **[[北条氏治]]:第4代藩主 **[[北条氏貞]]:第6代藩主 *[[大和国|大和]][[郡山藩]][[柳沢氏|柳沢家]] **[[柳沢吉保]]:武蔵[[川越藩]]主・甲斐[[甲府藩]]主・[[側用人]] **[[柳沢信鴻]]:大和郡山藩第2代藩主。[[柳沢吉保]]の孫 **[[柳沢保泰]]:郡山藩第4代藩主 *その他 **[[青木一新]]:摂津[[麻田藩]]第8代藩主 **[[青木一興]]:麻田藩第12代藩主 **[[板倉勝武]]:[[備中松山藩]]第2代藩主 **[[植村家貴]]:大和[[高取藩]]第11代藩主 **[[遠藤胤城]]:近江[[三上藩]]第6代藩主、和泉[[吉見藩]]主 **[[大岡忠恒]]:三河[[西大平藩]]第3代藩主。[[大岡忠相|大岡越前守忠相]]の孫 **[[織田信就]]:上野[[小幡藩]]第4代藩主 **[[織田信邦]]:小幡藩第7代藩主 **[[木下利潔]]:備中[[足守藩]]第6代藩主 **[[黒田長溥]]:筑前[[福岡藩]]第11代藩主 **[[土井利見]]:下総[[古河藩]]第2代藩主 **[[遠山友寿]]:美濃[[苗木藩]]第11代藩主 **[[遠山友禄]]:苗木藩第12代藩主 **[[内藤正弼]]:信濃[[岩村田藩]]第3代藩主 **[[内藤正国]]:岩村田藩第5代藩主 **[[南部利剛]]:陸奥[[盛岡藩]]14代藩主 **[[堀親広]]:信濃[[信濃飯田藩|飯田藩]]第12代藩主 **[[本多忠政]]:伊勢[[桑名藩]]第2代藩主、播磨[[姫路藩]]初代藩主。[[本多忠勝|本多平八郎忠勝]]の長男 **[[本多忠民]]:三河[[岡崎藩]]第5第藩主・老中 **[[松平勝房]]:下総[[多古藩]]第2代藩主 **[[松平信興]]:常陸[[土浦藩]]主、[[大坂城代]] **[[毛利高誠]]:豊後[[佐伯藩]]第9代藩主 **[[森忠賛]]:播磨[[赤穂藩]]第7代藩主 == 美濃国の合戦 == *[[672年]]:[[壬申の乱]]、[[天武天皇|大海人皇子]]軍(大海人皇子)x[[近江朝廷]]軍([[弘文天皇|大友皇子]]) *[[1181年]]:[[墨俣川の戦い]]、[[平家]]軍([[平重衡]]) x 反平家軍([[源行家]]) *[[1221年]]:[[承久の乱|承久の乱(大井戸渡の戦い)]]、鎌倉幕府軍([[武田信光]]・[[小笠原長清]]) x 朝廷軍([[大内惟信]]) *[[1338年]]:[[青野原の戦い]]、南朝方([[北畠顕家]]) x 北朝方([[土岐頼遠]]) *[[1468年]]:[[篠脇城の戦い]]、[[東常縁]] x [[斎藤妙椿]] *[[1480年]]:[[文明美濃の乱]]、[[斎藤利藤]] x [[斎藤妙純]] *[[1495年]]:[[船田合戦]]、[[斎藤妙純]]・[[土岐政房]] x [[石丸利光]]・[[土岐元頼]] *[[1525年]]:[[牧田の戦い]]、[[浅井亮政]] x [[土岐頼芸]] *[[1540年]]:篠脇城の戦い、[[東常慶]] x [[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]] *[[1556年]]:[[長良川の戦い]]、[[斎藤義龍]] x [[斎藤道三]] *[[1561年]]:[[森部の戦い]]、[[斎藤義龍]] x [[織田信長]] *[[1565年]]~[[1566年]]:[[中濃攻略戦]]、[[織田信長]] x [[斎藤龍興]] **[[堂洞合戦]]:[[織田信長]]・[[佐藤忠能]] x 斉藤軍([[岸信周]]) **[[関・加治田合戦]]:織田軍([[斎藤利治]]・[[佐藤忠能]]・[[佐藤忠康]]) x 斉藤軍[[長井道利]] *[[1567年]]:[[稲葉山城の戦い]]、織田信長 x 斎藤龍興 *[[1572年]]:武田信玄の[[西上作戦]] **[[上村合戦]]、武田軍([[秋山虎繁]](信友)) x [[遠山景任]]・[[遠山景行]]・[[遠山友忠]] **[[岩村城の戦い#元亀3年(1572年)の織田氏の遠征|元亀3年の岩村城の戦い]]、武田軍(秋山虎繁) x 織田軍([[織田勝長]]) *[[1575年]]:[[岩村城の戦い#天正3年(1575年)の織田氏の遠征|天正3年の岩村城の戦い]]、織田軍([[織田信忠]]) x [[武田勝頼]]軍(秋山虎繁) *[[1582年]]:[[加治田・兼山合戦]]、[[森長可]] x [[斎藤利堯]] *[[1583年]]:[[立花山の戦い]]、[[佐藤秀方]]・[[森長可]] x [[遠藤慶隆]]・[[遠藤胤基]] *[[1584年]]:[[小牧・長久手の戦い]] **[[竹ヶ鼻城の戦い#竹ヶ鼻城の水攻め|竹ヶ鼻城の戦い]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]] x [[不破広綱]] *[[1600年]]:[[関ヶ原の戦い]]、東軍([[徳川家康]]他) x 西軍([[石田三成]]他) **[[木曽川・合渡川の戦い]]、東軍([[福島正則]]・[[池田輝政]]等) x 西軍([[織田秀信]]) **[[竹ヶ鼻城の戦い#慶長5年の竹ヶ鼻城の戦い|竹ヶ鼻城の戦い]]、東軍([[福島正則]]) x 西軍([[杉浦重勝]]) **[[八幡城の合戦]]、東軍([[遠藤慶隆]]・[[金森可重]] x 西軍([[稲葉貞通]]・[[遠藤胤直]]) **[[岐阜城の戦い]]、東軍([[池田輝政]]) x 西軍([[織田秀信]]) **[[杭瀬川の戦い]]、西軍([[島清興]]・[[明石全登]]) x 東軍([[中村一栄]]・[[有馬豊氏]]・[[野一色助義]]) **[[大垣城の戦い]]、東軍([[水野勝成]]・[[西尾光教]]・[[松平康長]]・[[津軽為信]]) x 西軍([[福原長堯]]等) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons cat|Mino Province}} * [[美濃市]] * [[美濃加茂市]] * [[令制国一覧]] {{令制国一覧}} {{美濃国の郡}} {{デフォルトソート:みののくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東山道|国みの]] [[Category:岐阜県の歴史]] [[Category:戦国時代 (日本)]] [[Category:安土桃山時代]] [[Category:美濃国|*]]
2003-08-19T06:10:07Z
2023-10-26T13:11:53Z
false
false
false
[ "Template:令制国一覧", "Template:美濃国の郡", "Template:基礎情報 令制国", "Template:節スタブ", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Commons cat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD
13,548
教育課程
教育課程(きょういくかてい)とは、学校教育の内容を系統立てて配列したものをいう。 教育課程は、教育内容の広範かつ一般的な計画という側面を持つ。カリキュラムの同義語と捉えられることもあるが、カリキュラムのうち、具体的な教育計画を指すこともある。一般的に教育課程に定められた条件を満たすことによって、修了や卒業などが認定されることが多い。 教育課程は、一般的に学校教育をはじめ、児童、生徒、学生などによって学ばれることの体系である。教育課程には、特定の職業分野において必要な資質を育むためにある程度、厳密に定められているものもある。 教育課程の同音異義語に、教育のプロセス(教育活動の過程全体とその要素と働き方)を指す教育過程があるが、教育過程は、教育課程と区別される別々のものである。 教育課程は、教科・科目の目標や内容などを定めた教科課程(きょうかかてい)・学科課程(がっかかてい)などと、教科・科目以外のさまざまな活動からなる教科外活動(特別活動、旧: 特別教育活動)などの2つの部門から成り立っている。 第二次世界大戦前の日本における教育では、教科課程・学科課程などが教育課程のほぼすべてとも言えた。このため、教育課程については、どのような教科・科目をどれほどの時間数をかけて学習するのかということを中心に考えられていることも多い。しかし、教科・科目のみによって教育を発展させることが困難なこともあり、教科外活動などの重要な意義が認められ、一定の活動については、教育課程の一部として正式に規定されている。現代社会では、教科・科目とそれ以外の諸活動を連携させて教育課程を編成することも注目され、この2つの部門の組み合わせは、今日の教育において大切な要素になっている。 現在の学校教育においては、教科外活動として、学級活動・ホームルーム活動、児童会活動・生徒会活動(どちらも委員会活動を含む)、学校行事(運動会、学習発表会、修学旅行など)、クラブ活動(部活動とは異なる)などからなる特別活動と、道徳の時間や総合的な学習の時間、外国語活動などが、全員が行う活動として学習指導要領に規定されている。また、その他の教科外活動としては、各学校における状況に合わせて、校内清掃や地域社会との交流などが行われている。 一方で部活動など、生徒等が自発的に参加する課外活動もあるが、それらは本項における教育課程には含まれない。 日本の幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校における教育課程は、文部科学大臣が「教育課程の基準」として公示する教育要領・学習指導要領に基づいて定められる。各学校の教育課程を定める際には、学校の設置者が文部科学省その他の官公署(都道府県の教育委員会、「市町村」「特別区」「地方公共団体の組合」の教育委員会、知事部局)が作成した「解説」や「手引」を参考にして大綱を定めて、各学校がさらに年間計画などの詳細を定める。 教育要領・学習指導要領は、「幼稚園教育要領」「小学校学習指導要領」「中学校学習指導要領」「高等学校学習指導要領」「特別支援学校幼稚部教育要領」「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領」「特別支援学校高等部学習指導要領」があり、約10年ごとに全部改正が行われている。 第二次世界大戦前における教育課程は、各学校種に応じた教則に基づいていた。 幼稚園および特別支援学校の幼稚部における教育課程その他の保育内容について定められている。 認定こども園をはじめとする幼保一元化の動きもあり、厚生労働省が公示する「保育所保育指針」の位置づけも高まっている。 各授業科目にかかる授業時間数(後期中等教育の場合。初等教育・前期中等教育においては学校教育法施行規則に授業時間数は定められている)、指導する内容、特別活動の内容などが細かく定められている。詳細は学習指導要領を参照のこと。 かつては、国立学校・公立学校・私立学校ともに例外なく学習指導要領に従うことが学校教育の要だった。1998年改定時のゆとり教育導入に関する件により、学習指導要領は従来の「教育の上限」から「教育の下限」へとその性質を変えたとされるものの、下限でありながらも高等学校必履修科目未履修問題などが起こった。 明治時代中期から学校教育法が施行されるまで、教育課程の詳細を定めていた文部省(現在の文部科学省)の文書である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "教育課程(きょういくかてい)とは、学校教育の内容を系統立てて配列したものをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "教育課程は、教育内容の広範かつ一般的な計画という側面を持つ。カリキュラムの同義語と捉えられることもあるが、カリキュラムのうち、具体的な教育計画を指すこともある。一般的に教育課程に定められた条件を満たすことによって、修了や卒業などが認定されることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "教育課程は、一般的に学校教育をはじめ、児童、生徒、学生などによって学ばれることの体系である。教育課程には、特定の職業分野において必要な資質を育むためにある程度、厳密に定められているものもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "教育課程の同音異義語に、教育のプロセス(教育活動の過程全体とその要素と働き方)を指す教育過程があるが、教育過程は、教育課程と区別される別々のものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "教育課程は、教科・科目の目標や内容などを定めた教科課程(きょうかかてい)・学科課程(がっかかてい)などと、教科・科目以外のさまざまな活動からなる教科外活動(特別活動、旧: 特別教育活動)などの2つの部門から成り立っている。", "title": "教科・科目と教科外活動など" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前の日本における教育では、教科課程・学科課程などが教育課程のほぼすべてとも言えた。このため、教育課程については、どのような教科・科目をどれほどの時間数をかけて学習するのかということを中心に考えられていることも多い。しかし、教科・科目のみによって教育を発展させることが困難なこともあり、教科外活動などの重要な意義が認められ、一定の活動については、教育課程の一部として正式に規定されている。現代社会では、教科・科目とそれ以外の諸活動を連携させて教育課程を編成することも注目され、この2つの部門の組み合わせは、今日の教育において大切な要素になっている。", "title": "教科・科目と教科外活動など" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在の学校教育においては、教科外活動として、学級活動・ホームルーム活動、児童会活動・生徒会活動(どちらも委員会活動を含む)、学校行事(運動会、学習発表会、修学旅行など)、クラブ活動(部活動とは異なる)などからなる特別活動と、道徳の時間や総合的な学習の時間、外国語活動などが、全員が行う活動として学習指導要領に規定されている。また、その他の教科外活動としては、各学校における状況に合わせて、校内清掃や地域社会との交流などが行われている。", "title": "教科・科目と教科外活動など" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方で部活動など、生徒等が自発的に参加する課外活動もあるが、それらは本項における教育課程には含まれない。", "title": "教科・科目と教科外活動など" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本の幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校における教育課程は、文部科学大臣が「教育課程の基準」として公示する教育要領・学習指導要領に基づいて定められる。各学校の教育課程を定める際には、学校の設置者が文部科学省その他の官公署(都道府県の教育委員会、「市町村」「特別区」「地方公共団体の組合」の教育委員会、知事部局)が作成した「解説」や「手引」を参考にして大綱を定めて、各学校がさらに年間計画などの詳細を定める。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "教育要領・学習指導要領は、「幼稚園教育要領」「小学校学習指導要領」「中学校学習指導要領」「高等学校学習指導要領」「特別支援学校幼稚部教育要領」「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領」「特別支援学校高等部学習指導要領」があり、約10年ごとに全部改正が行われている。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前における教育課程は、各学校種に応じた教則に基づいていた。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "幼稚園および特別支援学校の幼稚部における教育課程その他の保育内容について定められている。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "認定こども園をはじめとする幼保一元化の動きもあり、厚生労働省が公示する「保育所保育指針」の位置づけも高まっている。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "各授業科目にかかる授業時間数(後期中等教育の場合。初等教育・前期中等教育においては学校教育法施行規則に授業時間数は定められている)、指導する内容、特別活動の内容などが細かく定められている。詳細は学習指導要領を参照のこと。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "かつては、国立学校・公立学校・私立学校ともに例外なく学習指導要領に従うことが学校教育の要だった。1998年改定時のゆとり教育導入に関する件により、学習指導要領は従来の「教育の上限」から「教育の下限」へとその性質を変えたとされるものの、下限でありながらも高等学校必履修科目未履修問題などが起こった。", "title": "日本の学校の教育課程" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "明治時代中期から学校教育法が施行されるまで、教育課程の詳細を定めていた文部省(現在の文部科学省)の文書である。", "title": "日本の学校の教育課程" } ]
教育課程(きょういくかてい)とは、学校教育の内容を系統立てて配列したものをいう。
{{混同|カリキュラム}} {{出典の明記|date=2020年1月}} '''教育課程'''(きょういくかてい)とは、[[学校教育]]の内容を系統立てて配列したものをいう。 == 概要 == 教育課程は、教育内容の広範かつ一般的な[[計画]]という側面を持つ。[[カリキュラム]]の同義語と捉えられることもあるが、カリキュラムのうち、具体的な教育計画を指すこともある<ref group="注釈">[[教育方法学]]の観点から見た場合。[[カリキュラム]]の項目、浅野信彦「カリキュラム開発」『教育の方法と技術』平沢茂編、図書文化社、2006年、pp.52-53などを参照。</ref>。一般的に教育課程に定められた条件を満たすことによって、[[修了]]や[[卒業]]などが認定されることが多い。 教育課程は、一般的に[[学校教育]]をはじめ、[[児童]]、[[生徒]]、[[学生]]などによって学ばれることの体系である。教育課程には、特定の職業分野において必要な資質を育むためにある程度、厳密に定められているものもある。 教育課程の同音異義語に、教育のプロセス(教育活動の過程全体とその要素と働き方)を指す教育過程があるが、教育過程は、教育課程と区別される別々のものである。 == 教科・科目と教科外活動など == 教育課程は、教科・科目の目標や内容などを定めた'''教科課程'''(きょうかかてい)・'''学科課程'''(がっかかてい)などと、教科・科目以外のさまざまな活動からなる'''教科外活動'''([[特別活動]]、旧: [[特別教育活動]])などの2つの部門から成り立っている。 [[第二次世界大戦]]前の[[日本]]における教育では、教科課程・学科課程などが教育課程のほぼすべてとも言えた。このため、教育課程については、どのような[[教科]]・[[科目]]をどれほどの時間数をかけて学習するのかということを中心に考えられていることも多い。しかし、教科・科目のみによって教育を発展させることが困難なこともあり、教科外活動などの重要な意義が認められ、一定の活動については、教育課程の一部として正式に規定されている。[[現代社会]]では、教科・科目とそれ以外の諸活動を連携させて教育課程を編成することも注目され、この2つの部門の組み合わせは、今日の教育において大切な要素になっている。 現在の[[学校教育]]においては、教科外活動として、[[学級活動・ホームルーム活動]]、[[児童会]]活動・[[生徒会]]活動(どちらも委員会活動を含む)、[[学校行事]]([[運動会]]、[[文化祭|学習発表会]]、[[修学旅行]]など)、[[クラブ活動]]<ref group="注釈">[[2002年]]度から実施されている学習指導要領では、[[小学校]]などの[[初等教育]]のみでクラブ活動が規定されている。</ref>(部活動とは異なる)などからなる[[特別活動]]と、[[道徳の時間]]や[[総合的な学習の時間]]、[[英語 (教科)|外国語活動]]などが、全員が行う活動として[[学習指導要領]]に規定されている。また、その他の教科外活動としては、各学校における状況に合わせて、校内[[清掃]]や[[地域]][[社会]]との交流などが行われている。 一方で[[部活動]]など、生徒等が自発的に参加する[[課外活動]]もあるが、それらは本項における教育課程には含まれない。 == 日本の学校の教育課程 == 日本の[[幼稚園]]、[[小学校]]、[[中学校]]、[[義務教育学校]]、[[高等学校]]、[[中等教育学校]]、[[特別支援学校]]における教育課程は、[[文部科学大臣]]が「教育課程の[[基準]]」として[[公示]]する[[学習指導要領|教育要領]]・学習指導要領に基づいて定められる。各学校の教育課程を定める際には、[[学校の設置者]]が[[文部科学省]]その他の[[官公署]]([[都道府県]]の[[教育委員会]]<ref group="注釈">公立学校の場合。</ref>、「[[市町村]]」「[[特別区]]」「[[地方公共団体の組合]]」の教育委員会<ref group="注釈">「市町村」「特別区」「地方公共団体の組合」が設置する学校の場合。</ref>、知事部局<ref group="注釈">私立学校の場合。</ref>)が作成した「解説」や「手引」を参考にして大綱を定めて、各学校がさらに年間計画などの詳細を定める。 教育要領・学習指導要領は、「幼稚園教育要領」「小学校学習指導要領」「中学校学習指導要領」「高等学校学習指導要領」「特別支援学校幼稚部教育要領」「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領」「特別支援学校高等部学習指導要領」があり、約10年ごとに全部改正が行われている。 [[第二次世界大戦]]前における教育課程は、各学校種に応じた教則に基づいていた。 === 教育要領 === 幼稚園および特別支援学校の幼稚部における教育課程その他の[[保育]]内容について定められている。 [[認定こども園]]をはじめとする幼保一元化の動きもあり、厚生労働省が公示する「[[保育所保育指針]]」の位置づけも高まっている。 === 学習指導要領 === 各授業科目にかかる授業時間数(後期中等教育の場合。初等教育・前期中等教育においては学校教育法施行規則に授業時間数は定められている)、指導する内容、特別活動の内容などが細かく定められている。詳細は[[学習指導要領]]を参照のこと。 かつては、[[国立学校]]・[[公立学校]]・[[私立学校]]ともに例外なく学習指導要領に従うことが学校教育の要だった。1998年改定時の[[ゆとり教育]]導入に関する件により、学習指導要領は従来の「教育の上限」から「教育の下限」へとその性質を変えたとされるものの、下限でありながらも[[高等学校必履修科目未履修問題]]などが起こった。 === 教則(旧制度) === 明治時代中期から学校教育法が施行されるまで、教育課程の詳細を定めていた文部省(現在の文部科学省)の文書である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} == 参考文献 == * 平沢茂編『教育の方法と技術』図書文化社、2006年 == 関連事項 == * [[義務教育]] * [[予備役将校訓練課程]] * [[カリキュラム]] {{education-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きよういくかてい}} [[Category:教育制度]] [[Category:日本の教育制度]] [[Category:日本の教育行政]]
2003-08-19T06:19:10Z
2023-08-02T16:34:58Z
false
false
false
[ "Template:混同", "Template:出典の明記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Education-stub", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AA%B2%E7%A8%8B
13,549
ほっぺにチューボー!
『ほっぺにチューボー!』は、夏川涼香原作、おおうちえいこ作画の漫画作品。「なかよし」(講談社)に2002年4月号から2003年10月号まで連載された。 主人公の矢吹美味(やぶき みみ、通称ヤミー)はレストランの娘だが、料理は下手。 夢はあこがれの剛においしい手料理を食べてもらうこと。 しかし、服辻料理学園のひとり娘・まいも剛のことが好き・・・といった内容。 恋物語に料理の情報をからめて仕上げられた作品。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ほっぺにチューボー!』は、夏川涼香原作、おおうちえいこ作画の漫画作品。「なかよし」(講談社)に2002年4月号から2003年10月号まで連載された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主人公の矢吹美味(やぶき みみ、通称ヤミー)はレストランの娘だが、料理は下手。 夢はあこがれの剛においしい手料理を食べてもらうこと。 しかし、服辻料理学園のひとり娘・まいも剛のことが好き・・・といった内容。 恋物語に料理の情報をからめて仕上げられた作品。", "title": "概要" } ]
『ほっぺにチューボー!』は、夏川涼香原作、おおうちえいこ作画の漫画作品。「なかよし」(講談社)に2002年4月号から2003年10月号まで連載された。
『'''ほっぺにチューボー!'''』は、[[夏川涼香]]原作、[[おおうちえいこ]]作画の[[漫画]]作品。「[[なかよし]]」([[講談社]])に2002年4月号から2003年10月号まで連載された。 == 概要 == 主人公の矢吹美味(やぶき みみ、通称ヤミー)はレストランの娘だが、料理は下手。 夢はあこがれの剛においしい手料理を食べてもらうこと。 しかし、服辻料理学園のひとり娘・まいも剛のことが好き・・・といった内容。 恋物語に料理の情報をからめて仕上げられた作品。 ==登場人物== ; 矢吹美味(やぶき みみ) : 本作の[[主人公]]。通称「'''ヤミー'''」。物語開始時点で11歳の小学5年生<ref>2巻では12歳の小学6年生、3巻は中学生。</ref>。小さなレストラン「アンブラッセ」の一人娘だが、料理は下手。家族構成は父とヤミーの二人暮らしで、母は既に他界している<ref>ヤミーが小学4年生の時に他界した。</ref>。幼馴染の剛に想いを寄せているが、ライバル達の料理対決を些細な事で受ける事になり、母の形見のエプロンから現れた妖精ホッペと共に料理をすることになる。 : 性格は泣き虫で、思ったことをすぐ口に出したり<ref>単行本1巻で剛がイギリスに留学することをクラスメイトの男子に聞かされた事で、「剛の嘘つき!」と怒鳴って不登校になり、剛と会えない寂しさから素直になれず強い言葉を言う、単行本2巻「[[クリスマス]]編」で剛がクリスマスに興味がないにもかかわらず、「年に一度のクリスマスだよ?」と問いかけた事で「クリスマスなんかどうでもいい」と一蹴されるなど。</ref>、時には自分勝手な行動をして怒られたりと<ref>単行本2巻[[バレンタインデー|バレンタイン]]編でセシルのチョコを見た事で自分の手作りは渡せないとホッペの意見を無視し、市販のチョコを買おうとして夜間外出した所を剛に見られ、彼に怒られるなど。</ref>、精神的には大きく成長していない場面があった。しかし、最終的には己の弱さを劇中で反省し、最終回で剛と両想いになっている。 ; ホッペ : 亡き母の形見であるエプロンに住み着いている妖精。ウサギに似たような外見が特徴。ヤミーだけでは無く、亡き母の事も知っている。本人曰く「エプロンをつけている人にしか見えない」との事で、剛等の人物に正体を知られることはない。大抵はヤミーが泣いている時に姿を現す事が多い。語尾に「-ヤム」と付く。 ; 天高剛(てんたか つよし) : ヤミーの幼馴染で、ヤミーが好意を抱いているサッカー好きな短髪の少年。彼の容姿端麗さは女子の人目を引いてしまうほどである。家族構成は不明だが、一人っ子。両親は既に別居している。少々ぶっきらぼうな性格で、それが災いしてヤミーと喧嘩になる事もあるが<ref>単行本1巻の夏休みでまいの別荘に泊まりに行くことになった際、ヤミーがカナヅチで泳げないにもかかわらず彼女に泳ぎを教えるため深い場所に連れて行ったために溺れた彼女を助けるが、その際に指輪を落としたために彼女と喧嘩になってしまう。その後、たった一人でヤミーの指輪を探し、拾った後にヤミーと合流した後に謝罪した。</ref>、根は心優しい。後に[[イギリス]]に留学することになる<ref>単行本1巻で彼の親友は前から知っているが、ヤミーは剛から聞いていないため知らない。剛自身も「お前にだから言えなかった」とヤミーに伝えることに抵抗を感じていた。</ref>。 ; 服辻まい(ふくつじ-) : 服辻料理学園の一人娘。剛に想いを寄せている。従ってヤミーを一方的にライバル視する高飛車でワガママなお嬢様。1巻では行く先々でヤミーに料理対決を強要していたが、最終回では彼女と協力する。 ; ミッシェル : 剛が日本に帰還した頃にやってきた少年で、セシルの双子の兄。 ; セシル : 剛が日本に帰還した頃にやって来た美少女で、ミッシェルの双子の妹。2巻ではヤミーに料理対決を強要していたが、最終回では彼女と協力する。 ; シュー : セシルのエプロンに住む妖精。外見はホッペにほぼ類似しているが、性別と語尾が異なる。 ; 一青(いっせい) : 剛と同様、女の子に好かれる美少年で、作った料理で女の子を魅了する事も出来る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{manga-stub}} {{デフォルトソート:ほつへにちゆうほう}} [[Category:漫画作品 ほ|つへにちゆうほう]] [[Category:なかよし本誌の漫画作品]]
null
2023-07-06T15:34:48Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Manga-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BB%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC!
13,552
コミックマーケット
コミックマーケット(Comic Market、略称:コミケ、コミケット)とは、コミックマーケット準備会(以下、「準備会」と表記)が主催する世界最大の同人誌即売会である。1975年12月21日、伝説的な漫画雑誌『COM』と24年組に触発された漫画批評集団「迷宮'75」によって開始された。現在は年2回の開催で、夏は8月、冬は12月に開催される。コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化しており、即売会のみならず国内最大規模の屋内イベントとなっている。 コミックマーケットは1975年12月21日、まんが批評集団「迷宮'75」こと亜庭じゅん、原田央男、米澤嘉博、高宮成河の企画・主催のもと、旧日本消防会館ビル内の会議室を借りて32サークルが出展し、参加者約700人で初開催された。なお、コミックマーケットの主催団体は当初から「コミックマーケット準備委員会」であるが、実質は「迷宮」そのものだった。その後、主催団体は「コミックマーケット準備会」の名称で定着し、現在は「迷宮」から独立した組織として運営されている。 コミックマーケットは毎年8月(通例、8月15日頃の旧盆にかかる週末)と12月(通例、12月29日から31日)の年2回、東京国際展示場(東京ビッグサイト)に開催される。現在の開催期間は主に3日間。8月に開催されるものは「夏コミ」、12月に開催されるものは「冬コミ」と呼ばれる。2022年8月現在、開催回数は定期開催だけで100回を数える。 コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化し、それに伴い一般にもその存在が知られた。2013年夏に行われた「コミックマーケット84」では東京ビッグサイトを3日間借り切った状態でサークル参加者数は約3万5000スペース、一般参加者数は59万人にも上った。準備会がサークル参加者に提供するブース(「スペース」という単位で呼ばれる)は不足しており、いくつかの特例(用意した大量の頒布物を捌く必要性から毎回2 - 3スペース分を準備会より与えられる一部の大手サークルへの優遇など)を除いては書類審査と抽選によって選ばれる。参加ジャンルによるが応募のおよそ50~70%程度が当選し、残りは落選という形になる。 大規模化に伴い、いくつかの問題点も指摘されるようになった。詳細はコミックマーケットが抱える問題を参照されたい。 コミックマーケットは世界最大の同人誌即売会である。また屋内で行われるイベント(展示会なども含む)としても最大規模を誇る。アメリカ最大のコミック・ポップカルチャーコンベンションである「コミコン・インターナショナル」や日本国内では「SUPER COMIC CITY」などこれに迫りつつある同人誌即売会も存在する。コミックマーケットには多種多様な同人サークルが自作の物品を展示・頒布する。コミックマーケットというイベント名から漫画やアニメだけを扱うイベントと思われがちであるが、規則に抵触しない限りはどのようなジャンルの作品でも頒布可能であり、漫画・アニメ・ゲーム以外の音楽・アイドルグループのファン同人誌、ゴスロリ服やコスプレ衣装、手作りアクセサリー、同人ハードウェア、ガレージキット、人形作家による人形、教師・看護師・操縦士・鉄道員・エンジニアなどの専門的職業従事者の日常が描かれたもの、またペット・ガーデニング・紅茶などの愛好家による同人誌まで現代日本の様々なポップカルチャーが一堂に集うイベントとなっている。他にも過激派(中核派等)が参加したことがある。また多種多様なコスプレイヤーが参加することでも有名で、コスプレ撮影は指定エリア以外は禁止されているが、コスプレのまま会場全域を廻ることもできる。 コミックマーケットには膨大な参加者が集まるため、サークル参加者の多くが年間スケジュールをコミックマーケット開催周期に合わせており、コミックマーケット以外では同人誌の頒布を行わないというようなサークルも多数存在する。そのため、徹夜組や転売屋などの問題も発生している。1990年代後半以降では同人誌を専門に取り扱う書店の販売網拡大やインターネットの普及などにより、こうしたサークルの発行物も入手する手段が他にも増えてきており一部発行物に限って言えば会場まで足を運ばずとも入手出来るようになった。しかし依然としてコミックマーケットは同人サークルと参加者が一堂に会する最大級の同人イベントとして存続している。※参加者の区分については「参加者の区分」の節を参照。 SNSや動画共有サービスにおける現地映像の共有の他にアニメ作品でもコミケの様子が描かれることがあるため、海外でも日本のオタク文化を代表するイベントとして知られている。コミケ全参加者の数%が外国人との情報もあり、コミケのために来日する外国人も数多く居る。2019年のコミックマーケット97準備会の国際部デスクを訪れた外国人参加者だけでも5大陸45ヶ国からの参加を確認している。従って、コミケは既に国際的なイベントになりつつあると言える。 現在のコミックマーケットが、理念として掲げているのは以下の内容である。 コミケットの理念は、大まかに2度大きく手を加えられている。 言葉によってマンガに関わっていこうとする意志において一致し現在の一見平穏に見えるマンガ状況に動乱と混迷を注ぎ込み、一切を変革の激流の中へ叩き込むべく活動する。 〔......〕我々は、批評活動の別の側面として、同じ方向性を持つ全ての運動に関わっていく。マンガ空間の拡大の為の一切の活動は我々の内にある。アニメ、演劇、資料整備、各種大会、さらには海外ファンダムとの交流等、そして各種ファン・グループの連絡センター等やるべきことは余りに多い。しかし、我々はそれをやっていかねばならない。状況に対して否という以上、我々はその責任を回避する意識は全くない。ファンダムの現状を幻影として棄て去った今、我々は、自らの手で、そのファンダムを現実に出現させ、一切、幻影のかけらを放逐し、マンガの変革への巨大なうねりを巻き起こさねばならない。 ────すべてはここより始まる。だが、序章は序章にすぎない。本論とは、次号より連載される諸々の論考と共々、我々自身の行動そのものによってこそ展開されるであろう。我々ははっきりと予告しておく。 ────我々の本論が明らかになる時、マンガ状況は、まさしく変革の嵐の中で、果てしない迷宮となることを! 批評集団 迷宮'75 米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化したMGMが引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。〔......〕 コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、「同人誌即売会とは何か」そして「自分は何故即売会を開くのか」ということだった。 原田央男は距離を開いてゆくこの二つの問いの間で自分の位置を決めることができずに代表を辞任した。 あにじゅんは離れようとする二つの問いを強引にひとまとめにし、即売会が始まった時の原点に戻ろうとした。 米やんは両方の問いを棚上げにし、意図的に思考停止することで、辛うじて開催の維持を可能にした。 おおむね、以下の流れで進行する(一部の日程は前後する)。 コミックマーケットは、「コミケット」(Comiket)あるいは「コミケ」(Comike)という略称で呼ばれることが多い。開催開始当初は「コミック=マーケット」とダブルハイフン入りで表記していた。この名付け親は、立ち上げ時のスタッフの1人であり防火管理責任者の明石良信である。このイベントの正式名称である「コミックマーケット」及びその略称・俗称である「コミケット」「コミケ」は、いずれもコミックマーケットの運営法人である有限会社コミケットが1998年に商標登録している。 しかし商標登録前から「○○コミケ」(例 広島コミケなど)という名称で開催されているイベントは商標権の侵害とならないため、コミックマーケット以外の同人誌即売会で「コミケ」という名称が使われることは珍しくない。これまで東京・神奈川・千葉・茨城・沖縄の1都4県以外でコミックマーケットが開催された実績はないが、この影響かコミックマーケットを知らない首都圏以外の地方在住者や参加し始めたばかりの若い年代層や同人誌即売会に詳しくない者の間では他の似通った形態の同人誌即売会も一律に「コミケ」と呼ぶ傾向がある。 コミックマーケットでは開催されるたびに「コミックマーケット○○」と呼び、○○に回数を入れる。略称は「C○○」。例えば2017年12月29日 - 12月31日に開催されたコミックマーケットは「コミックマーケット93」、略して「C93」と呼び「第93回コミックマーケット」とは呼ばない。ただし、初回は「第1回コミック=マーケット」である。 上記の形式は、C4 - 5の頃に固まった。これはコミックマーケット準備会そのものが形式的には開催1回毎に解散及び結成を繰り返し、連続した団体としての体裁を持たないというスタイルから来たものである。この様式はC72まで続けられたが、開催ごとに解散を繰り返さないC73以降も呼称としてのCxxは継続されている。 定期開催以外には通常5年ごとに開催されている「コミケットスペシャル」があるが、こちらは独立して回数が計算され、通常の定期開催の回数には含まれない。 コミックマーケットでは、企業、サークル、スタッフ、一般来場者も全て含めての来場者を「参加者」と呼ぶ。これはコミックマーケットにおいて参加者は対等であり、「お客様」は存在せず、皆がコミックマーケットの参加者なのである、との理念からである。参加者の主な区分は以下の通りである。 なお、下記はコロナ禍が発生する前の参加方法であることに注意すること。コロナ禍発生以降は状況に応じて参加方法が変更されているため、公式サイトで確認する必要がある。 ※サークル参加及びコミケットスタッフへの参加資格は、公式サイトでは「申込時点で義務教育を修了している人」とされているが、「法的に中学校卒業以上の学歴がある人」という意味であり、中学校卒業以上の学歴がない場合は許可されない(ただし、開催前日の設営については特に制限はない)。 これらの区分とは別に、以下のような形での参加もある。 サークル参加を希望する際は、指定された期間にコミケットに対してサークル参加の申込を行う必要がある。 申込には参加を希望する回の前の回のコミックマーケットで準備会販売スペースで販売される「申込書セット」を1スペースにつき1部購入し、申込期間中に参加費の振込み及びサークル情報をまとめた「短冊」と呼ばれるものを準備会に送付する必要がある。申込期間外の送付は原則、全て書類不備として落選となるので注意が必要である。 郵送以外の申込方法としてオンライン申込がある。インターネットを利用したオンライン申込が長い間切望されてきたが、有限会社コミケットは有限会社サークル・ドット・エムエスとWeb申込受付に関する業務委託契約を締結し、コミックマーケット70(2006年夏)の申込よりオンラインによる申込受付サービスを開始した。オンラインでの申込にも郵送と同様に申込書セットが必要となり、さらに郵送申し込みで必要な郵便払い込み手数料に代えシステム利用料として申込書セット以外に1000円がかかり事実上申込手数料が倍となるが申込期間が約1週間、サークルカット提出と申し込み内容修正がオンライン申し込み終了後更に1週間と期間が延長される利点がある。主に夏コミ終了後から3日間と期間が非常に短い冬コミの申込期間が延長される点で利用者は毎回増加している。ただし、その数の急増による事務処理上の問題からC75(2008年冬開催)の期間延長日数は圧縮された。 なお、参加を希望する回の前の回のコミケに参加出来ないサークル参加希望者の為に申込書セットはサークル・ドット・エムエスにより通信販売も行われている。この通販は会期前及び会期後にそれぞれ行われ、基本的にオンライン申込用としている。しかし、夏の会期後のもの以外は基本的に郵送申込にも利用可能である。 サークル参加では机半分(90cm×45cm)分と椅子2脚が自スペースとして提供されるが、大手と呼ばれるサークルでは多数の一般参加者を捌く為にそれ以上のスペースが提供される場合もある。また、合同誌頒布の際などに友人のサークルと隣同士に配置をしてもらう「合体参加」という申込も可能となっており、その際は合体申込を行った2サークルで机1本分の配置となる。なお、郵送申込時には専用の合体封筒の購入が必要となるがオンライン申込の際はフォーム上のみで処理が可能となっており合体封筒を購入する必要はない。 C100の申込みにおいては、C99の状況を見てから日数などの詳細を決めることになったため申し込みセットは会場では販売されず郵送申し込みを対象とした通信販売のみとなる。オンライン申込みの場合はPDF版が供給されセット代が申込時に追加請求される形となる。また、手持ちのC99用セットも使用可能である。 サークルでの参加は申し込みサークル数に対して会場スペースが少ないため、抽選制となっている。 コミックマーケット準備会が発行している広報誌「COMIKET PRESS」によると人気ジャンルは申し込みが非常に多くなるため、若干当選率が下がり、逆に申し込みが少なく特にそのジャンルで申し込んだサークルが1つだけといった場合は、当選率を高くする傾向にあるという。これは、落選によるジャンルの存亡の危機を招かないようにするための配慮である。3回以上連続で(夏だけ、冬だけの申し込みも含む)落選すると、次の申し込みでは救済措置で優先的に当選するといわれているが、人気が高いジャンルにおいては4回以上連続して落選することもある。また、落選が書類不備による場合、この3回目救済措置は受けられない。サークル申し込みの際にアンケートにきちんと記入すると若干、当選率が上がるともいわれている。 ジャンル「学漫」については以前のコミケ代表だった米澤嘉博の「学生による漫画活動を援護したい」という考えにより軽度の不備であれば救済されることがあるが、学校名が記載されていない場合や申し込み代表者が学生ではない場合は落選となる(コミケットカタログ『配置担当者の一言』コーナーより)。同一校で複数の「学漫」サークルの申し込みがあると一サークル以外は落選することがある。しかし大学などで複数キャンパスを持つような場合はキャンパスごとに当選させるなどの配慮もしている。 なお、コミックマーケットにスタッフとして参加を行った場合、次回のコミックマーケット申込用の専用封筒が配布されており、これを用いた場合は軽微な書類不備であれば即落選にならない。(不備が複数個所や重要部分の場合はもちろん落選する) また申込封筒は大手の壁サークルや前日設営を手伝った一般やサークルに対しても配布されることがある。 サークル参加申込用紙は記入事項が多く、変更される個所も多い。「正確に申込用紙を記入しているサークル」と「記入や添付に不備があるサークル」を明確に区別して扱う方針のため、参加ジャンルを問わず書類不備による落選はかなりの割合を占める。しかし2000年代以降では3日間開催日程の回ならば実質の当選率はかなり上がっており、毎回書類の書き方にさえ注意すれば7割以上の当選を見込めるようになっている。例えば2017年冬のC93では当選率 76.19% で書類不備は落選数の一割未満ある。逆に2日間開催の時は書類不備を除いてもなお4割程度落選となり2004年冬のC68では当選率49%、不備で落選20%、抽選で落選29%で従って不備を除いた申込の62.8%が当選している。 いわゆる大手サークルと呼ばれているサークルについては致命的な書類の不備、準備会への非協力行為などがない限りは当選するといわれている。ただし、抽選免除が公にされているのはコミックマーケットの母体となった「迷宮」のみ。また、免除ではなく「永久スペース提供」と表現されており、公にされているのも母体ゆえの特例と言える。しかし一般的なサークルの抽選も無作為抽出ではなく、申し込み時の内容が考慮されることが「COMIKET PRESS」などで明らかにされている。 また、作業期間の関係で夏コミに比べ冬コミの方が書類不備の基準は厳格になる。例えばジャンルを間違えて申し込んだ場合、夏ならば正しいジャンルに配置してくれることもあるが冬は落選となる可能性が高い。特に開催日の違うジャンルと間違えた場合、配置作業は開催日ごとに並行して進めるためフォローが困難という理由で基本的に落選となる。 過去に不正な行為を行ったり、サークルスペースを確保したにもかかわらず参加しなかったり、参加したにもかかわらず頒布物がなかったようなサークルは以後の開催で落選させられることがあるといわれている。過去にはコミックマーケットスペシャル開催妨害や、サークル専用通行証のインターネットオークションでの転売を理由として永久追放になったサークルも存在する。ただ異論を排斥しない理念を掲げている(「コミックマーケット開催まで」参照)以上、永久追放は最後の手段と位置付けられており懲罰的に落選させられたサークルでもほとんどの場合は前述の救済措置の適用は受けるといわれており、最低でも4回に1回は参加できることになる。 なお、ジャンルが二次創作の場合、申込が原作の発表(発売・放映・公開など)以前だと基本的に落選になる。これは、たとえ事前情報が出回っていたとしても「作品を鑑賞してからこそのパロディでありファン活動ではないのか?」という方針があるからである。ただしケースバイケースであり、また例外的に原著作者本人によるものは当選する可能性がある。 当初カタログがただ一枚の紙だった時代、およびその後の中綴じの時代には「背表紙」は存在しなかったが1986年冬(C31)に今のような平綴じになり白い背表紙ができた。当初は「コミックマーケット×× カタログ」としか書いていなかったが、1989年冬コミ(初の幕張メッセ開催、C37)で発行されたカタログで初めて背表紙に絵が登場した。翌C38のカタログのマンガレポートにそのことに対する反響が2枚掲載されている。うち、1枚に対して編集が「カタログの背表紙の絵は永遠に続くよ」というコメントを寄せている。主に同人界で人気のあったジャンルが背表紙になっている。カタログが薄かった頃は背表紙のやや上の方とやや下のほうに交互に人物が配置されていたが今ではカタログが厚くなったため、交互に人物を配置する必要がなくなっただけでなく1作品から2人物を登場させることができるようになっている。最初期に背表紙に登場したジャンル、キャラクターは以下の通り。 1994年12月のC47より創刊された広報誌。カタログ、サークル参加申込書の補完と、準備会と参加者の交流の場の一つになっている。単独で購入することもできるが、サークル参加申込書を購入するとおまけに付く。2019年夏の第50号で冊子版の発行を終了し、以後はカタログ内やweb上で継続するとしている。バックナンバーをまとめた総集編も発売されている。毎号の主な内容は以下の通りである。 サークル参加者は頒布物の見本を無料頒布物を含め、必ず準備会に提出する必要がある。現在では年齢制限や過激な表現などの点検も兼ねており、性器の無修正や修正が小さいと判断した場合はある程度の修正を命じられる。 見本誌提出はコミックマーケットが始まった当初から行われており、現在では都内に専用の倉庫を用意して保存している。初期には完全には強制できず買い取った物や他の即売会で買い取った同人誌もあるため、収蔵漏れやコミックマーケットでは実際には頒布していない同人誌も混じっている。現状、他の大規模な即売会で見本誌提出制を取っているのは「コミティア」「COMIC1」など少数である。 コミックマーケットとしては見本誌で資料館、あるいは図書館を設立する構想を1995年より表明していた。また、構想の実現前にコミックマーケットが終了する事態になったなら国立国会図書館への寄贈も検討していた。制度上、同人誌も一部は(ホチキス留めなどの簡易製本や、表現上広く公開することに支障のある物は含まれない)国立国会図書館の納本対象に入る。ただし、同人誌の納本例は少ない。 2008年、市川孝一がコミックマーケットとは別に代表を務める即売会「COMIC1」で見本誌を明治大学に寄贈する話が出た。しかし事前の告知が無くサークル参加者から反発が起こり、サークルが申し出れば寄贈対象から外すことでおさまった。同年冬に開催されたC75のサークル参加申し込みにでは同人誌図書館を設立する場合、どのような形で公開することが望ましいかという内容のアンケートが行われた。アンケートについては、その後の拡大準備集会でCOMIC1での見本誌寄贈は同人誌図書館構想のテストケースであると説明された。同人誌は不特定多数への頒布を想定していない物が多く、愛好者で内々に活動しているジャンルも多い。また、奥付に住所氏名などの個人情報を載せているケースもあるため、この件は見送られた。 その後も見本誌公開に向けた検討が行われ、2009年10月31日に開館した米沢嘉博記念図書館においてC77の見本誌より閲覧を開始すると発表されている。ただし現在の構想では公開期間は限定であり有料の図書館利用者登録が必要になるほか、同人誌に関する詳細な情報を指定しないと実際に閲覧することはできないため実際の閲覧にはある程度のハードルが設けられる。問題となっている奥付の個人情報に関しては、所定の申請手続きをとれば該当部分にシールを貼って見えなくする措置が検討されている。 コミックマーケット公式の調査によると、参加者の年齢の中心層は中学生から30代ぐらいまでであった。回次と共に平均年齢は上昇傾向にあり、2013年8月のC84サークル参加者データによると、サークル代表者の平均年齢は男性31歳、女性32歳であった。 男女比については、2010年8月のコミックマーケット78での調査によれば、一般参加者では男性64.4%、女性35.6%と男性の比率が高く、サークル参加者では男性34.8%、女性65.2%と女性の比率が高い。一方、2008年2月に準備会が公開した資料「コミックマーケットとは何か?」によれば、一般参加者は女性57%、男性43%、サークル参加者は女性71%、男性29%であり、当時の準備会は「世の中の認識とは異なり、女性の参加者が多い」と結論づけた。また、2004年8月のコミックマーケット66でのコミック文化研究会(九州大学助教授・杉山あかし)と準備会による試験的な計測では、男性がやや多いかも知れないという結果であった。2013年8月のC84サークル代表者内訳は、男性43%、女性57%と依然として女性が多いが、以前より男性が増えていると指摘している。 2013年8月のC84サークル代表者の住所は、約7割が首都圏である。開催会場が有明に移転して以来、日本国外からの参加者も増えている。参加形態も一般参加者だけでなくサークル参加者もある。一部には行列のできるサークルを主宰する者も出ている。このため準備会では「国際部」と呼ばれる外国語接遇セクションを強化、「フェロースタッフ」と呼ばれる他部署兼務の外国語対応スタッフを導入している。そのほか簡単な会話帳を配布するなどで対策を講じている。 アニメ・漫画のイベントとしては、日本国外にも以下のようなものがある。 参考リンク:世界のコスプレイベント一覧 初期は「迷宮」による運営で実質的には原田央男、亜庭じゅん、米澤嘉博、高宮成河の4人が中心となっていた。名称も「準備委員会」だったり「準備会」だったりと、一定しなかった(C1では「準備委員会」)。「準備委員会」の名称は、「『準備する会』ならともかく『準備会』では、言葉の使い方がおかしい」と思った原田の提案だったが、「委員など決める必要はない」「“委員”という言葉は権威主義的」と批判を受け、定着しなかった。また、佐川俊彦によれば、草案に「準備委員会」となっていたのを、佐川は自分の苦手な、左翼運動的な名称と感じた。そこで「準備会」の名称を提案し、認められたという。米澤は、準備会が現在の(独立した組織としての)原形を持つ(ようになった)のは自身が代表になってからとしている。原田は1979年7月28〜29日開催のC12を最後に、準備会の運営から離れた。 その後、米澤は約26年間の長期にわたって代表を務めたが体調不良の為、C70を最後に退任した。後任には副代表だった安田かほる、筆谷芳行、市川孝一の3人が米澤によって指名され、共同代表となった。米澤夫人の米澤英子は代表補佐でもあったが、夫の退任後も補佐に留任し、その後C82を持って代表補佐を退任している。 C69まで準備会は常設の組織ではなくコミックマーケット開催のたびに結成し、終了後解散する形を取っていた。会社設立以降は継続的な日常の業務については有限会社コミケットが請け負っていたが、個人情報保護法の施行によりC70以降は日常の業務も行うようになったため、解散すること無く継続して存在するようになった。 コミックマーケットはその会員(イベントの性質に見合った用語を用いるなら、同人)の集会という扱いである。しかしイベント開催規模が大きくなってからは任意団体のコミックマーケット準備会では通常の事務作業とその作業場所の確保、会場借り上げの契約を行うことが出来なくなった。そこで、1985年に株式会社コミケットを設立してそれを行うこととした。後に有限会社(2006年5月より特例有限会社)となり、現在に至る。社長は米澤が準備会代表と兼任していたが、彼の死去により米澤英子が後任となり、その後共同代表の1人でコミケット社員の安田かほるが社長を引き継いでいる。 業務はコミックマーケット準備会からサークル配置データの提供を受け、コミックマーケットカタログを製作。代わりに会場と契約して場所を提供している形になる。その他の業務としては事務所の維持、倉庫の管理、作品集や同人誌に関わる内容の出版も行っている。また、直営店として中古同人誌を取り扱う古書店「コミケットサービス」、同人誌以外の古書・古洋書・ミリタリーグッズを扱う販売店「B-Maniacs」の運営も行っていたが、B-Maniacsは2009年6月末をもって営業を終了、コミケットサービスも実店舗・オンラインショップ共に2017年12月末で営業を終了した。 通称CPS。過去にはコミックマーケットカタログやカタログCD-ROM・次回申込書の通販業務を行うほか、コミックマーケットにて同人誌委託コーナーの運営もしていた。 しかし同人誌委託はC71を最後にコーナー自体が中止され(参加者の区分を参照)、通販もC72を最後にカタログ通常版は準備会の直販、CD-ROM版は株式会社クリエイション、次回申込書は有限会社サークル・ドット・エムエスの業務にそれぞれ変更され、3代目代表の体制になってからCPSの排除が行われた。 この間の事情についてコミケット準備会とCPS、双方の公式見解が出されている。また、「運営組織の変遷」も参照のこと。 2008年4月に株式会社シーピーエスへの社名変更が発表された。2010年1月からは社業をプログラマ養成を主としたIT関連事業に転換し、現在のコミックマーケットとは関係無くなっている。 共信印刷は、東京都千代田区の印刷会社。コミックマーケットのカタログや申し込みサークル向けの案内書であるコミケットアピール・サークル参加申込書・コミケットプレスなど多くの準備会発行物印刷を請け負っており、カタログについては創刊からC95までの印刷を担当していたが、C96からは大陽出版の担当に変更された。CD-ROM版カタログについては販売とサポートも請け負っている。かつては一般の印刷も受注していたが、同人誌印刷の受注は少ない方であったが、コミックマーケットのカタログそのものも「同人誌」という扱いであるため、そういう意味では大手とも言える。2009年現在、コミックマーケット準備会との資本関係は一切無い。 2020年9月11日を以て、同人誌印刷の取り扱いを休止。その後、同年10月中旬に企業を解散することを同月9日に発表した。2020年冬のコミケ中止が決まり、それがきっかけで廃業を決意したという。 サークル・ドット・エムエスは東京都千代田区の企業。2006年にコミックマーケットのサークルオンライン申し込みサービスの開発を委託する流れで設立された。オンライン申し込みサービスはコミックマーケット以外の同人誌即売会でも利用できるようになったほか、これを核として同人作家・サークル向けポータルサイトの運営業務を行い、その中で印刷所検索サイト「印刷Navi」や電子書籍サービス「emes-えむえす-」(2012年終了)の運営も行っている。また、コミックマーケット関連では公式ウェブサイトの管理運営や2012年開始のコミケWebカタログの開発運営を手がけている。サークル・ドット・エムエスは現在も法人としては存在するものの、実務は本社所在地と会社首脳を同じくする株式会社コサットが行っている。 シー・エージェントは東京都豊島区の企業。コミックマーケットのカタログ広告、企業パンフレット広告、漫画広告などのカタログ広告全般、ビッグサイト大型ビジョン広告、エントランスホール柱巻き広告、エスカレーター壁広告など会場広告全般、献血応援イベントなどコミックマーケットで行われる付帯イベントを取り扱っている。また、企業ブース運営、漫画グッズ通信販売などを手掛ける。 コミックマーケットの歴史は、創設母体となった同人サークル「迷宮」の歴史であり、同時に開催場所移転の歴史でもある。以下でそれを追っていく。 コミックマーケットのように自主制作本を頒布するイベントの起源は、1939年にアメリカのニューヨークで行われたワールドコンだと言われている。また1960年代に入ると、漫画・SFや映画などに積極的に興味を示す人々が出現、同時に表現の場としての同人誌が多数制作されるようになった。 1966年12月、長井勝一が主宰する日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』(青林堂)に対抗して、手塚治虫はオルタナティブ志向の漫画雑誌『COM』(虫プロ商事)を創刊した。その後、同誌1967年3月号で、読者や漫画家予備軍としての同人作家を全国的に組織化する野心的な構想を発表し、これを「ぐら・こん」と称した。すなわち、同人作家のプロデビューの道筋を示したものである。この構想は『COM』の路線転換や休刊(1971年12月号)もあり失敗に終わったが、漫画同人誌に与えた影響は大きかった。コミックマーケット創設者のひとりであり、準備会の二代目代表を長く務めた米澤嘉博は、1975年時点における漫画界の閉塞状況について次のように総括している。 そこで、時代の潮流として大型の同人誌即売会の開催が求められた。そんな中で出現したのがコミックマーケットである。 まんが批評集団「迷宮'75」がコミックマーケットを立ち上げるまでに至った主なきっかけは、SF大会を模して開催された「日本漫画大会」や流行の端境期に直面していた旧来の漫画と漫画評論への反発、そして「ぐら・こん」の挫折を繰り返さず、まんがマニアのための新たなフィールドを作り出すということにあった。グループの全活動を一貫していたものは、単なるまんがマニアに一体何ができるのかという意識である。また「日本漫画大会」を批判したある前回参加者が参加を拒否された事件があったことから「迷宮'75」はこれを告発するとともにコミックマーケットでは批判者を排斥しない理念が形作られることになった。そして「日本漫画大会」や「マンガフェスティバル」などではイベントの一つに過ぎなかった同人誌即売会を独立させ、「ファンのファンによるファンのためのイベント」を目標にした。従って「ぐら・こん」のようにプロ漫画家予備軍ではなく、また「日本漫画大会」のようにプロの漫画家を登壇させる漫画イベントの一つでもなく、ただ同人誌を描き頒布するならば誰でも参加できる「マーケット(=市場)」となった。 コミックマーケットを企画・主催したのは「迷宮」だが、名目上の主催は当初から「コミックマーケット準備委員会(のちの準備会)」である。実態として両者は表裏一体だが、将来の分離も視野に入れていた。準備委員会の初代代表は「迷宮」同人で人脈の一番広い、原田央男に落ち着いた。 C1(第1回)のコミックマーケットは1975年12月21日、「迷宮'75」の実質的な主催の下、東京虎の門の日本消防会館会議室において、参加サークル32(ただし委託・展示サークルがほぼ半数)、参加者推定700名で開催された。開催前日には合宿も行われ、アニメソングが高歌放吟されたというSF大会の影響の濃いものだったらしい。また、参加サークルの半分近くを学漫(学校内クラブ活動としての漫画研究会)が占め、萩尾望都作品を中心とした少女漫画ファンクラブがそれに次いだ。コミケ準備会によると、入場者の9割余を「中高生の少女漫画ファンを中心とした女子」が占めたという。また、この時「迷宮'75」が頒布した『漫画新批評大系』所収のパロディ漫画『ポルの一族』(原田央男)を端緒とする所謂「やおい」や「BL」の先駆的な同人誌もすでに出されていたとされる。なお、日本消防会館での開催は第1回のみであった。 当時、同人誌といえば一般には文学同人誌を指し、漫画同人誌の知名度は低かった。そこでSFファン向け同人誌の用語として用いられた「ファンジン(Fanzine)」がまだしもわかりやすいだろうと借用し、「まんがファンジンフェア」と名乗った。しかしその後コミックマーケット自体の知名度が上がるに連れ、漫画同人誌を指す用法が定着していった。 このC1以降、春・夏・冬の学校の休みに合わせた年3回の開催が定着する。 この時、冊子型のカタログは存在せず、公式のポスターは迷宮とかかわりがあったサークル・MOBの鈴木哲也が手がけたもので、多色の謄写版で製作された。また、竹本健治は知人の鈴木を介して主催者と繋がりができたことで、第1回に出品したという。 1976年のC2からC4の春・夏・冬コミは、板橋区仲宿の板橋産業連合会館で開催される。この頃はまだ参加サークルは100に満たない状態だったが、1977年春のC5より大田区産業会館に移ったあたりから、入場待ちの行列ができるようになっていく。途中、四谷公会堂(1978年夏・C9)と東京都立産業会館・台東館(1979年夏・C12)をそれぞれ1度ずつ使用したものの、結局1979年冬のC13まで大田区産業会館での開催は続き、そのC13では参加サークル300弱、参加者約4,000人と、規模は確実に大きくなっていった。また、参加サークルにおける学漫(学校の部活動、サークルとしての漫画・同人サークル)の占める割合は低下し、オリジナル創作が増えていった。さらに、『宇宙戦艦ヤマト』などアニメのファンサークルの参加も目立ちだした。とくに同作や『機動戦士ガンダム』のアニメブームと、いわゆる「おたく」が出現したことは、コミックマーケットを牽引する大きな原動力となった。 原田は、オリジナル創作漫画サークルの発展を期待していたが、二次創作が主流となり、創作漫画も既存の商業作品の二番煎じと思しき作品のサークルが多かったコミックマーケットの実情は誤算だった。しかし、コミックマーケットの理念として、もとより二次創作を排斥すべきではないと考えた原田は、C12を最後に代表を辞任、この時期を最後に「迷宮」も運営から手を引き、C14からは米澤嘉博が代表に就任した。以降、コミックマーケットは組織として独り立ちしたとされる。その後、原田はコミックマーケットそのものから身を引き、のちに米澤が亡くなるまで再参加することはなかった。のちに原田は「迷宮がやろうとしたのはコミケではない」「つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ」と述懐している。また原田は『コミックマーケット創世記』で26年間の空白を次のように語った。 そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、「迷宮」を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。 以来、米やんの他界を知らされ、再び昔の仲間たちと顔を合わせるまでに26年の空白。 帰ってきたのか?それとも新しく始めるのか? ただ一つわかったことは、26年ぶりに訪れたコミックマーケットの会場前に立った僕は、参加者の誰よりもそれについて知らない浦島太郎になっていたということである。 『漫画新批評大系』はその後、第15号を1981年12月20日に発行して以来、休刊状態。それでも『漫画新批評大系』を置く場所は、現在でもコミックマーケットの会場に「迷宮」のための即売スペースとして特別に提供され続けている。 その後「迷宮」は1980年、創作漫画専門の即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完として開催した。これはコミケットの規模拡大で売り手と買い手、作者と読者、さらにはファン同士の交流が薄れ始めたため、適正規模の即売会を別に設けること、また頒布物における二次創作の占める割合が高まったため、純粋な創作同人だけの場を設けるべきではないかという声に応じたためという。まんが・ミニ・マーケットは1981年にMGM(Manga Gallery & Market)と改称。1984年には、MGMの模倣から始まったと自称する世界最大規模の創作同人誌即売会「COMITIA」が創設された。ふたつの即売会は、2023年12月現在も存続している。 ちなみに「迷宮」はコミックマーケットから離れた後も、サークル参加の永久スペース取得権を有している。これは、コミックマーケット準備会が帳簿上「迷宮」からの借入金が残ったままになっており、その代償という形を取っているためと言われている。 1980年春のC14から1981年春のC17は川崎市民プラザで開催され、参加サークル350〜400、参加者約7,000人規模で推移するが、すぐに会場が手狭になった。1981年夏のC18では横浜産貿ホールが使用され、この時初めて2日間の開催を行ったが、ついに参加サークルが500、参加者が1万人を上回った。 換言すれば、この時期まではコミックマーケットといえば女性参加者が主体だったが、この時期より『うる星やつら』のヒットに伴い、同作のサークルが激増、当時のロリコンブームと相まって、男性参加者が本格的に進出。ジャンルとしての男性向け創作の基礎が作られ、わいせつな内容の同人誌、いわゆる「エロ同人誌」(面妖本)が増えた。漫画家の吾妻ひでおや蛭児神建らによる日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ)の行列が館外に作られ、現在の「壁サークル」の走りとなったのもこの時期である。 1981年冬のC19は、当初川崎市民プラザで開催される予定だった。しかし、そこに主催者の内部分裂騒動が発生し、「反主流派(「クーデター派」「コミケ改革派」などと自称した)」は先手を打って会場を押さえてしまった。「反主流派」の行動の動機については、規模拡大に伴い規制強化が必要と認識したからとも、既に同人界に影響力を持ち始めていたコミケットの名声に目が眩み、乗っ取りを謀ったなどの諸説がある。また、声優を呼んだりアニメの上映会を開いたりできないかとする意見が当時からあったが、コミケットの趣旨にはそぐわないと却下された経緯もあったという(ただし後者は後年、企業ブースとしてコミックマーケットでも実現する)。こうして、コミケット準備会は望まぬまま、晴海にあった東京国際見本市会場(通称:晴海)の使用に踏み切った。なお、分裂した「反主流派」は「新・コミックマーケット」を名乗り、後に「コミックスクウェア」と改称した。しかしいつまで続いたのかは文献が確認出来ず不明である。また、2006年時点で現存する同人誌即売会「コミックスクエア」とは無関係である。「コミックスクウェア」終了後、「反主流派」の流れを汲む人物の一部は「コミックレヴォリューション」開催に加わったとも言われている。 コミケット創設メンバーの高宮成河は、クーデター騒動について「コミケットの歴史に汚点として残る」としながらも、これにより米澤はコミケットを持続する決断に迫られたと述べている。 準備会を組織し直し主催者はサークルから独立した運営機能になり、他方で「理念」と言われるものを作る。「コミケットにお客はいない」という言葉は、しかしぼくにはこれも理念の衣を纏った運営のための言葉に聞こえる。そして「表現の自由」という聞き慣れたスローガンの下に、ファンのお遊びと創作とを横一線に同等に扱うことで遂には創作までもが、その場だけの遊びとしての創作になってしまうことへの責任は参加者の「自由」とされた。〔......〕 以後、コミックマーケットの会場は6年間にわたって晴海で行われた。その間も参加サークル・参加者数共に増大を続け、1983年冬のC22において参加サークルは1,000を超え、さらに第1期晴海時代の最後の開催であるC30(1986年夏)には、3,900サークル、約35,000人が参加するに至る。また、この間に1983年以降、1988年の冬コミが中止になったことから、代替として1989年春に開催されたC35を除き、春コミは廃止された。 この間、1985年頃から『キャプテン翼』(『C翼』と略された)が女性サークルに絶大な人気を呼び、商業作品を題材に男性キャラクター同士の同性愛を表現した同人誌を制作・頒布する所謂「やおい」サークルが増加。若い女性参加者を大きく増やすこととなった。1983年より運営スタッフに加わった岩田次夫は、『キャプテン翼』ブームが少女漫画再生の鍵になると見てやおい漫画サークルを激賞。同作そのものは少年漫画であるにもかかわらず、女性がほとんどを占めたことが同人サークルの特異性である。ブームから外れた時期になるが、1992年のC43での公表データによると、『C翼』サークル代表者は男性6、女性1083で女性比率は99%を超えている。少年漫画(特に「週刊少年ジャンプ」作品)サークルが女性中心の傾向は現在でも変わっておらず、むしろ出版社側も利用する動きがある。 また、岩田はサークル情報などの事務管理のコンピュータ化を企画・実行し、急激な作業量の膨張に対応した。これには、参加可能なサークル数を増やすことで人材発掘・育成を進めようという意図もあったという。岩田はスタッフの第一線を退いた後も「イワえもん」の愛称で親しまれ、同人誌評論などの活動で同人界に影響力を持ち続けた。岩田は2004年に死去したが、現在でもカタログや参加申込書にはイワえもんが欠かさず登場する。 商業イベント(コミュニケーションカーニバル 夢工場'87など)との競合により、晴海の確保が不可能になったため、1986年冬のC31から1987年冬のC33まで、平和島にある東京流通センターで開催した。会場面積の減少を補うため2日間開催を実施。この間4,400サークル、4〜6万の参加者を記録した。また、ジャンル別にサークルを割り振るジャンルコードが導入された。 東京流通センターでの2日開催でも人員・サークルを収容しきれなくなったため、翌1988年夏のC34より、会場を晴海に戻すことになった。この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、倍以上の9,200サークルの参加を実現させた。とはいえ、この間も会場の確保に困難を極める状況に変わりはなく、1988年冬に開催予定としていたC35開催に至ってはついに会場を確保できず、年号が平成となった翌1989年3月まで開催延期を余儀なくされる。このため、C34が昭和最後のコミックマーケット開催となった。これが、通常開催としては最後の春コミであった。また、1989年夏のC36では、サークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。 参加規模の急激な膨張はとどまるところを知らず、ついには晴海の全館2日使用でさえ収容能力の限界を露呈するほどになったため、1989年冬のC37より、当時日本国内屈指の巨大イベント会場だった千葉県の幕張メッセへと会場を移した。 ところが、有害コミック騒動などの影響で、1991年夏のC40は開催直前に幕張メッセ側から会場の使用を拒否され、急遽会場を晴海に戻さざるを得なくなった。後に「コミケ幕張メッセ追放事件」などと呼ばれる出来事であり、コミックマーケットの歴史の中では最大級の存続の危機となった。 以上のような経緯を経て、コミックマーケットは1991年夏のC40から1995年冬のC49まで、三たび晴海に舞い戻ることになる。そのため、しかし、猥褻図画に対する自主規制の強化は避けられず、この時期に見本誌チェックによる規制を導入している。 この時期には1980年代後半の『聖闘士星矢』とその商業的成功の影響を受けて製作された『鎧伝サムライトルーパー』などの所謂美少年アニメが若い女性のアニメファンの間でブームとなり、ファンダムにおける盛り上がりはテレビアニメ自体の放映終了後もなお数年間にわたり持続した。これは同人界・コミケットにも大きな波及を見せ、この時期に大量の同人誌が制作されコミケ内でそれぞれ単体ジャンルとして成立するほどの隆盛を見せた。しかしながら、その多くが「やおい」と呼ばれる男性同性愛の性描写を多かれ少なかれ含むもので、元が子供向けアニメである作品の二次創作としては内容面で非常に問題があると言わざるを得ないものであった上、これらを収録した同人アンソロジーコミックが多数制作されたこと、さらにはこれら同人アンソロジーコミックが著作権などの面で違法性の高い同人誌やコミケットの状況を利用して商業出版の流通に乗せられたことなどは、それ以降のアニメ制作プロダクションやメディアミックス関連企業の二次創作全般に対する姿勢を改めさせる要因の1つとなり、最終的には著作権者である企業の著作権管理の強化にも繋がっていった。この著作権管理の厳格化は、以降のコミックマーケットの同人誌も含めた二次創作全般に大きな影響を与え、そこでは様々な制約の増加や自主規制のさらなる強化という形で影を落とすことになった。とはいえ、これら「やおい」同人誌の隆盛は、以降のアニメ作品でも繰り返され、1990年代半ばになるとさらに発展し、商業出版・同人の枠を超えてボーイズラブジャンルが隆盛する礎となっていく。 参加者の膨張はとどまることを知らず、1992年夏のC42では、入場待ちの長蛇の列に折からの猛暑が加わり、数百人が熱中症で救護室に運ばれる騒ぎになった(所謂「ジェノサイドコミケ」)。また、1995年夏のC48は、開催20周年記念として初の3日間開催を行うなど、イベント自体の規模もまた膨張を続けていく。 この時期のコミックマーケットにおいて特筆すべきは、1992年の『美少女戦士セーラームーン』の登場である。男女両性の読者へ幅広くアピールした同作品の台頭をきっかけに、女性作家による男性向け創作が大幅に増えることとなり、この傾向は以後の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームへと続いてゆく。また、1990年代半ばから2000年頃に掛けて、商業出版の男性向け成人向け漫画に数多くの女性作家が登場するその端緒ともなった。 その後、晴海の閉鎖が決定し、1995年冬のC49をもって晴海での定期開催を終了。翌1996年春の「さよなら晴海!! コミケットスペシャル」をもって晴海での開催は終了となった。 1996年夏のC50から、コミケは同年完成した東京ビッグサイト(有明)での開催となる。C50の開催はビッグサイトの会場の一部で行われたが、同時開催の他のイベントからの多数の苦情が来たことから、次のC51では、早くも全館貸し切りでの開催となった。1997年夏のC52以降、夏コミは3日間開催が定着、参加サークルは3万を超えるまでに至っており、2013年夏のC84では普段の夏コミの金・土・日の開催ではなく土・日・月の開催となり、普段の2日目と3日目のジャンルが入れ替わる形となった。冬コミについても、L'Arc〜en〜Cielのカウントダウンライブが行われた関係上、1999年冬のC57で3日間開催を実施、2002年冬のC63以降(C67・69を除く)は3日間開催が定着しており、2006年冬のC71以降(C75・87を除く)は大晦日を含む3日間開催となっている。一例として、C81とC87の概ねの日割を紹介しておく。 有明に移ってからの1990年代後半は『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがコミックマーケットを席巻した。『美少女戦士セーラームーン』や『カードキャプターさくら』などの美少女アニメや、各種対戦型格闘ゲームに続く同人誌バブルともいえるこのブームで、いっそうの活況を呈した。一方でSFジャンルの存在感はさらに薄れ、所謂「萌え」を打ち出した同人誌が急激に増加した。また、Windows 95などのパソコンの普及に伴い、CD-ROM系のPCゲームが登場し、いわゆるエロゲーやギャルゲーなどの同人誌が増加した。この流行は2005年頃まで続いた。 2000年代前半に入ると、同人ソフト『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』、『東方Project』などの登場により、これらの同人ソフトを基にした同人誌という「同人の同人」とも呼ばれる現象(ただし前述の作品は同人といってもオリジナル創作であり、そのパロディなどが出ることは矛盾も重複もしていない)が生じた。これもコミックマーケットの巨大化の一つの現れであった。また、『月姫』については、製作サークルTYPE-MOONがのちに商業メーカーへの転換している。さらに、同作品を題材とした渡辺製作所(フランスパン)製作の対戦格闘ゲーム『MELTY BLOOD』のアーケードゲーム進出、音系の同人に関しても片霧烈火らがメジャーへの道を辿るなど、漫画以外の表現方法についても同人活動をプロへの登竜門とする流れが生まれつつある。 2000年12月のC59よりブロックノート(サークル参加者がイベントの感想や絵を描くノート。幾つかの参加スペースを一つのブロックとしてその中のサークル間で回された)が廃止される。 2006年9月30日、代表の米澤が急病に倒れ、C71より後任の代表は安田かほる・筆谷芳行・市川孝一の共同代表制に移行した(米澤は翌10月1日死去)。 2000年代後半になると、『涼宮ハルヒの憂鬱』、『灼眼のシャナ』、『とある魔術の禁書目録』をはじめとするライトノベルを元にした同人誌が増加、『らき☆すた』や『けいおん!』などの深夜アニメも大人気となり、その関連同人誌も増加した。さらに、YouTubeやニコニコ動画という動画サイトの誕生や、イラストサイトPixivの開設などで二次創作の活動場所が広がり、コミケのおしながきやサークルの宣伝がされるようになった。また、2006年頃から東方Project関連のサークルが急増し、アレンジ楽曲やボーカルアレンジなどを出すサークルが現れた。 また、この頃からジャンルの超多様化(従来の同人活動の概念を逸脱する、オリジナルアクセサリーなどのサークルも出現)が発生している。2006年冬のC71では現役の声優である堀江由衣が自らがパーソナリティを務めるラジオ番組の企画で設立したバンド・黒薔薇保存会の作品を後述する企業ブース内で販売した実績があり、日本国内のあらゆる「表現」を呑み込んで今もなお成長している。2007年冬のC73では、VOCALOIDの初音ミクと鏡音リン・レンが発売され、オリジナル曲が発表・頒布されるようになった。コミケは漫画家・作家・イラストレーターのみならず、声優や歌手などのプロ活動する人物が自ら活動の発表の場の一つとしてサークル参加を行うようになった。 2010年代に入ると、2011年夏のC80では『魔法少女まどか☆マギカ』のブーム、2012年冬のC83以降は『ガールズ&パンツァー』のヒットによって所謂「萌えミリ(萌え+ミリタリー)」が新たなジャンルとなった。また、この年代からブラウザゲームやスマートフォンのアプリゲームから生まれたジャンルが増えたことも特記する点である。特に2013年夏のC84からは『艦隊これくしょん -艦これ-』のサークルが爆発的に増加し、2015年夏のC88からは『刀剣乱舞』などのブラウザゲームの同人サークルが激増した。このため前者はC86、後者はC89からジャンルコードに指定された。 2014年夏のC86では、演歌歌手の小林幸子が、これまでVOCALOIDを使って発表された楽曲をカバーした(歌ってみた)CDを製作、個人サークルとして参加し自ら手売りを行ったことが大きな話題となった。叶姉妹は、2016年冬のC91では来場しただけでも大きな話題となり、C92、C93ではサークル参加し、2000人を超える列ができた。 スマホアプリゲームの普及に伴い、『あんさんぶるスターズ!』『アイドリッシュセブン』『A3!』のソーシャル乙女ゲーム御三家や『グランブルーファンタジー』などを扱う同人サークルも増えている。C92では『けものフレンズ』、C93ではスマホアプリゲーム『Fate/Grand Order』や『Fateシリーズ』の人気に伴い、C93では『TYPE-MOON』関連のサークルが急増した。また、『アズールレーン』などの中国発のブラウザゲーム作品の同人誌を出すサークルやバーチャルYouTuber等のYouTube発祥のコンテンツの同人誌を出すサークルが出てきた。また、最近では中国や台湾、韓国など東アジア諸国からのサークル参加者も増えてきている。 有明移転後のコミックマーケットで特筆すべき点は、会場建物の構造上の問題からサークルスペースとしての運用が難しい西地区4階フロアを、コミックマーケット準備会が企業に販売・プロモーション・市場調査のスペースとして提供する「企業ブース」の本格的導入である(1996年冬のC51より)。企業ブースについては、初めて導入された晴海のC48(この時は新館2階奥半分を使用)にも導入がされており、企業の参加に関する趣旨について、C48の反省会時に当時の米澤代表より説明がなされていた。やがて企業ブースの常態化に伴って当初ほど批判の声は聞かれなくなり、企業ブースで販売・配布される限定商品を目当てに来場し、同人誌には目もくれない「企業専」と呼ばれる来場者たちも出てきているほどである。企業側でも、コミックマーケットが貸し出す企業ブースは高い販売効果が望めるプロモーションの場として注目されていると言われている。その結果、2000年代に入ると同人サークルなどと同様に抽選によって落選する企業まで出る事例もみられるようになり、2009年以降は企業ブースに落選した美少女ゲームメーカーの中にはコミックマーケット開催日前日に開催される「秋葉原電気外祭り」へと出展するケースもある。また、従来ではアニメ、ゲームなどに関する企業の出展が中心となっていたが、2012年夏のC82にグーグルが、同年冬のC83にマイクロソフトが出展すると、これまで企業ブースでは見られなかった一般的な企業・団体が出展するようになり、中には雪印メグミルク(雪印コーヒー)、サントリーフーズ(オランジーナ)、日本国際映画著作権協会(NO MORE 映画泥棒)(いずれもC84〜)、ディズニー(C85、『エンダーのゲーム』のPR)、本田技研工業(C86)、浜松市(C101、『夢見る男子は現実主義者』のPR)といった多様な企業がプロモーションの場として活用している。C87ではNHKが初の出展を行った。 会場利用の面でも企業ブースへの来場者が増えたことから、2008年夏のC74より安全面を考慮し、西地区4階フロアを全面的に企業ブースとして使用し、屋上展示場を来場者待機場所に変更、従来まで屋上展示場を使用していたコスプレ広場を北コンコースレストラン街そばの庭園に移転、同年冬のC75からは庭園と1・2日目は屋外展示場、3日目は屋外展示場が駐車場として占有される代わりに企業ブース待機列が少なくなる屋上展示場を開放して併用する形となる。その後ブリッジの慢性的混雑緩和のため東1ホールと西1ホール間の公道を試験的に通行出来るようにし、その後本運用するようになった。2012年冬のC83からはコスプレ広場を「コスプレエリア」と名称変更し、トラックヤードやエントランスプラザもコスプレの場として開放、さらに2014年夏のC86からは屋外展示場を全日使用開始体制を取ったが、3日目にトラブルが起きたため、念のために確保していた有明西ふ頭公園を急遽使用し、続くC87では正式にコスプレエリア化した。また、2009年夏のC76では会議棟の国際会議場でシンポジウムやステージイベントを開催、ついに東京ビッグサイトを全面使用する体制となった。 2013年夏のC84において、2日目の東ホールにてコミケに訪れた大勢の来場者達の身体から発せられた汗などの水分によって水蒸気が発生し、ホールの天井付近に溜まっていった水分が会場内の空調(冷房)によって冷却された結果、水蒸気が凝結して室内に白い霧のようなものが発生する現象(通称「コミケ雲」)が発生したといわれる。この現象は晴海時代にも目撃されているが、有明では近年においてはこれが初めてとなる。 2016年夏のC90では2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた西ホール拡張棟建設開始や企業ブースの慢性的な混雑に伴い、企業ブースを西地区1階に移動して会期から最終日を削減した2日間のみにし(2日目の企業ブースは16時で終了)、サークルの配置も西4階も含めて変更したほか、ビッグサイト前交差点の横断も可能にし、庭園と東4・5・6ホールトラックヤードへのコスプレしたままでの行き来や、東京臨海広域防災公園で2014年冬のC87から併催されている「有明防災フェア」へのコスプレでの来場(実質的なコスプレエリアとしての使用)が可能となった。企業ブース出展期間が短縮された件に関しては、売上面では「初日で6割、2日目で3割」という状況から「大きな問題はない」と見る一方、プロモーション面では「コミケは体験する楽しみもある。最終日のダラダラ感も大事」「業界関係者が一堂に会しての意見交換をする時間がなくなる」などの指摘も見られ、これに関連して「出展企業も手慣れてしまい、サプライズがなく、プロモーション効果も弱くなっている」とマンネリ感に陥っている事や、「(個人サークルとして一般ブースに出展した)T.M.Revolutionの西川貴教や叶姉妹に対抗し得る、パワーのある作品を生み出せていない」という手厳しい意見も見られる。続くC91では東地区に新たに完成する東7・8ホールの使用を開始、最大規模での開催となったが、今後もビッグサイトの工事等に合わせてホールの使用形態が変わることになる。C91では後に「ラブライブ!スーパースター!!」の唐可可役に抜擢されるLiyuuが初めて来場したことも大きなトピックスであった。2017年開催のC92、C93ではサークルは東地区のみの配置となった。(西は企業のみであった)2018年のC94では西2ホールの工事完了にともないサークルは西地区への配置が再開され、企業は初の西地区と東地区との2か所配置となった。平成最後のコミックマーケットとなったC95では『みんなで筋肉体操』の小林航太がコスプレ参加し、大きな話題を集めた。 元号が令和に変わった初のコミケとなったC96ではオリンピック・パラリンピック開催準備のため東地区を使えず、西展示棟および南展示棟をサークル配置とし、青海会場を企業ブースとして初の4日間開催となった。C96では準備会公式ツイッター発表で73万人の参加者とコミケ史上最大の参加者数となった。 2019年開催のC96、C97および2020年5月開催予定のC98はコミケ史上初の4日間開催であることが発表された(但しC98は中止、理由は後述)。また、東展示棟において東京オリンピック関連の一部占用が始まるため、C96よりサークルについては西展示棟ならびに2019年に完成した南展示棟とし、企業ブースについては別地区である青海展示棟が使用された。会場外の待機スペースとして確保できる面積が縮小された関係で、後半2日間の一般参加者の待機場所を確保するため、企業ブースが前半2日間に縮小されることになった。また、この4日間開催期間中は運営費用負担増のために一般参加者も有料化され、冊子カタログに付属または別途購入するリストバンドがないと入場できなくなった。そのC96では、第25回参議院議員通常選挙で比例当選を果たした山田太郎がサークル参加、現役国会議員がコミックマーケットに参加すること自体異例の出来事であった。冬に行われたC97ではなかやまきんに君が成長したゴン=フリークスのコスプレで参加して話題を集めた一方で、2020年12月14日にLiyuuが「ラブライブ!スーパースター!!」の唐可可役に抜擢されたことでスケジュールの調整が困難になったことを理由に、コミケに来場したのはこれが最後となった。 2019年冬のC97に続いて2020年夏に開催予定であったC98は、東京オリンピック・パラリンピックの開催時期と重なることもあり、開催日を5月2日 - 5日のゴールデンウィーク期間に前倒して開催される予定であった。 しかし、2019年冬に発生した新型コロナウイルス(COVID-19)の世界中への感染拡大により、日本政府が2020年2月に決定した大規模イベント自粛要請や開催時の影響などを鑑み、同年3月27日にC98の開催中止が発表された。開催が決定していたコミケが中止されるのは、1975年の開始以来初めてのことである。東京オリンピック・パラリンピックも1年延期になるが、C98の延期はなく。次回の冬の開催番号はC99となるため、C98は開催番号としては初の欠番となった。C98の冊子版カタログについては、すでに印刷製本されていたために書店などで販売され、C98限定で電子書籍版も販売された(今後のコミケの開催存続に関わることから、コミックとらのあなとメロンブックスはC98の冊子版カタログの売上全額をコミックマーケット準備会に還元することを表明している)。そのためカタログには欠番はなく、カタROMについては製造されなかった。 その後、新型コロナウイルスの更なる感染拡大に伴い、2020年4月7日に日本国政府より新型インフルエンザ等対策特別措置法32条1項に基づく緊急事態宣言が発令され、東京ビッグサイトの使用ができなくなった。 なお、本来の開催期間だった2020年5月2日 - 5日は「緊急事態措置を実施すべき期間」と重なったこともあり、「コミックマーケット98」という証を残すべく、『がんばろう同人!』プロジェクトの一環としてTwitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ」を付けたつぶやきを上げることにより、C98が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ』が準備会主体で開催され、その公式Twitterでは本来の設営日である5月1日からリアルタイムで実際の時間に行なわれるはずだった出来事の過去の画像・映像が、実際の時間に合わせて投稿された。その際、一斉点検のジングルおよび開会・閉会のアナウンス(C98各日仕様)も実際の時間に合わせて投稿されている。準備会は「東京ビッグサイトは緊急事態宣言発令を受けて全館休館となっているため、絶対に東京ビッグサイトの近くには行かないでください。ビッグサイト周辺にスタッフはいません。」と強い警告を出していた。 2020年7月12日、冬に開催予定であったC99についても、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点と、東京オリンピック・パラリンピックの開催延期に伴い東京ビッグサイト東展示棟が使用できないことを受けて開催を断念し、2021年のゴールデンウィークでのC99の開催を目指すことを正式に決定した。 同年11月17日に、C99(旧C99)を2021年5月2日 - 4日の3日間で開催することを発表するが、新型コロナウイルスによるさまざまな制約条件の下、1日数万人程度の来場者の規模とならざるを得ないと考えられるとしている。サークルの募集数は約2万3000で、C97の3万2000サークルから9000減になり、サークルに配る入場チケットも3枚から2枚に減り、一般参加の入場には事前の参加証購入が必要で、参加証を持たない人が自由に入場できる時間帯はない。その上で、購入希望者多数の場合は一般参加も抽選になる可能性があるとしている。参加者の負荷軽減の観点から青海展示棟は使用しない。また、特定の条件に該当する参加者に対しては、来場を自粛もしくは入場を拒否する旨を公表している。 12月30日 - 31日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ2」を付けたつぶやきを上げることにより、冬コミが実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ2』が準備会主体で開催された。専用の公式ホームページも作られ、開催期間中は午前10時からYouTubeにてコミケスタッフによる生放送も配信された。その際、開会・閉会のアナウンス(エアコミケ2各日仕様)も本来の時間に合わせて番組内で流されている。2021年5月2日 - 4日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ3」を付けたつぶやきを上げることにより、C99が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ3』が準備会主体で開催された。初日には、まんがレポート(まんレポ)特別版が公開された。 これにより、コミケ誕生から45周年だった2020年はコミケが通年で開催されなかったという異例の年となり、当初2021年夏に予定されていたC100は更に2022年夏に延期された。東京ビッグサイトの関係者は「年末年始が全館休館になったことは開場以来初めて」と異例の事態を物語っていた。 同人誌の印刷業務を一手に引き受け、市場規模の拡大と共に急成長してきた印刷業者は、相次ぐコミケの開催中止や延期に伴う受注減少で打撃を受け、中には従業員の勤務日数縮小や来年度の新卒採用を見送ったり、会社自体の廃業や倒産などの影響が発生した。 その一方で、2020年9月17日には「マンガファンを愛するコミックマーケットに感謝と更なる発展を祈って」として、第49回日本漫画家協会賞特別賞がコミックマーケット準備会に贈られている。 2021年3月8日、3月7日までの予定だった1都3県に出された緊急事態宣言が3月21日までの2週間の延長になった影響により、イベントにおいて10,000人を収容人数の上限とする経過措置期間が2021年GWまで延長される可能性を考慮してC99(旧C99)の開催を延期し、2021年冬のC99(新C99)開催を目指すことを正式に決定した。 延期発表後、4月12日に東京都に蔓延防止等重点措置が発動されたのち、4月23日に緊急事態宣言が発令・同月25日に施行された結果、東京都からの通告で東京ビッグサイトの使用が禁じられた。 2021年8月2日、2019年冬以来2年ぶりとなるコミックマーケット99(新C99)を同年12月30日から31日までの2日間で開催することを発表した。翌C100以降も2日間開催となる。コミックマーケットの2日間開催は、2005年冬のC69以来16年ぶりのことである。なお、新型コロナウイルスの感染状況の経過次第では再延期の可能性も示唆していた。 強制的ではしないとしながらもワクチンの接種を奨励し、11月12日に来場者予定を55,000人とするのに合わせて『ワクチン・検査パッケージ』の導入と技術実証に参加することを表明した。これにより、C99の入場には2回接種してから14日を経過したことを示す『ワクチン接種証明』(予防接種済証、ワクチン接種証明書、接種記録書及びTOKYOワクションアプリのいずれか)又は『PCR検査結果での陰性証明』が必要条件となった。 C99の冊子版カタログについては印刷しなかったことから、冊子版カタログで初めて欠番が発生した。また、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入、東西間のホール移動制限、無銭参加するコスプレカメラマンが後を絶たなかったことによる防災公園の使用取りやめおよび「有明防災フェア」の同時開催取りやめなど、新たな感染症対策を講じた。11月10日には、Cygamesから『ウマ娘 プリティーダービー』の性的描写および暴力的描写に関する二次創作の禁止が発表された。この影響は多岐に渡り、多くの印刷会社がウマ娘の成人向けの製本や、書店での委託を禁止する方針を固め、多くのサークルがウマ娘の成人向け作品の頒布を自粛するほど影響が大きかった。 そして同年12月30日・31日、ついにコミックマーケット99(新C99)が開催された。当初、不安視されていた徹夜組や、国際展示場駅における始発ダッシュが確認できなかったことから、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入による一定の成果を挙げることができた。その一方で、感染症対策を理由に参加を辞退したサークルも少なくなかった。 C99では、会場への新たなアクセス手段として、ジェイアールバス関東が東京駅 - 国際展示場駅 - 東京ビッグサイト - 東京港フェリーターミナル間の路線バスの運行を開始した。この路線は都営バスなどよりは運賃が割高ではあるが、Suica、PASMOなどの交通系ICカードによる運賃の割引もあり、高速バス車両を使用した座席定員制運行でトイレやFree Wi-fiを装備しているなどの差別化を図っている。C99期間中は多くの利用があり、東京駅や東京ビッグサイトには乗り場に係員が配置され、混雑状況により臨時便の運行もされた。 また、江ノ島電鉄300形の夜間試運転の際に騒がせた、江ノ電自転車ニキことHome taco barの店主がサークルとして参加し、話題を集めた。2020年秋季にテレビアニメが放送され、なおかつ東京ビッグサイトが虹ヶ咲学園として登場した関係上、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』のコスプレをしたコスプレイヤーが激増した。 2022年夏開催のC100では記念ロゴが作られ、準備会は「C100で頒布するものに限り、C100記念ロゴを使用しても良い」という特例が設けられた。TYPE-MOONの竹箒がC74以来の出展、C95のカタログ表紙を描いたワダアルコもサークル参加、「3月のライオン」等で知られる羽海野チカが1999年のC57以来の出展、羽海野チカのサークルにはマフィア梶田が売り子として参加し、大熱狂に包まれた。また、2022年1月17日よりゆうちょ銀行ATMの利用手数料が設定されたことを受けて、準備会から「東京ビッグサイトにあるゆうちょ銀行のATMで金を引き出す際、曜日と時間によっては手数料を取られます」と改めて注意喚起が出された。 2022年冬開催のC101では参加可能人数を拡大、2022年のトレンドとなったテレビアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の作者であるはまじあきが参加したことにより、列が非常に長くなったことを確認し、はまじが準備会にスペースの位置を移動するよう要望を出したほどであった。『仮面ライダー龍騎』で秋山蓮 / 仮面ライダーナイトを演じた松田悟志がサークル参加し、コスプレ広場にも顔を見せ、仮面ライダー王蛇のコスプレをしたコスプレイヤーとの共演が実現する。その後に、『仮面ライダーギーツ』のコスプレをしたコスプレレイヤーも加わった。また、同年インターネット・ミームになった『車道で叫ぶ米津玄師を叫びながら撥ねる宮本浩次』というマニアックなコスプレも登場。この撥ねられる米津玄師のコスプレや、チェンソーマンのキャラクターとともに小走りで行進する米津玄師のコスプレが香港のメディアでも取り上げられるなど話題になった。『ブルーアーカイブ』の統括プロデューサーであるキム・ヨンハが来日し、Yostarブースとブルーアーカイブの同人誌を扱うサークルを視察した。これがきっかけでC102でブルアカを扱うサークルが急増し、C103でジャンルコードが独立した。 2023年夏開催のC102では、コロナウイルスが5類に移行したことにより、入場制限を撤廃した。ビッグモーターの保険金不正請求問題を受け、ビッグモーターのコスプレをするコスプレイヤーの参加が目立った。 1990年代に入ると技術革新により各種同人作品の制作が容易となったことなどから、コミックマーケット参加者は急激に増加した。東京秋葉原・大阪日本橋を中心として日本全国に同人誌専門店などが増えインターネットなどを通じてより手軽に同人誌が入手できるようになっている(中には、コミックマーケット開催前に同人誌専門店で販売されるケースもある)。また、取扱ジャンルの細分化が進んだ状況としても日本全国の同人作品の制作者とファンが一堂に会する同人イベント最大の場として存続している。中にはこのイベントでしか扱っていないマイナージャンルもある(例:漫画研究会のサークル)。また、「モノづくり」をテーマともしているジャンルも存在しており、京都大学機械研究会OBのサークルが紹介されている。 近年、コミケを題材に制作されたドラマや秋葉原、池袋周辺などが注目された関連で社会的に広く認知されるイベントになった。開催日の前後にはコミックマーケットがテレビのニュースや個人のSNSでとりあげられることも多い。その一方、予備知識を持たない興味本心だけの参加者の増加もしている。そういった参加者向けに運営側は注意事項等を公式サイトで公開している。 その一方で参加者の驚異的とも言える増大によるイベント巨大化、企業との関係、さらには法令による「有害図書」規制やコスプレ、二次創作、パロディ表現にまつわる表現(とりわけ性的表現)との関係、イベントにおける多大な頒布・売買行為の税務上処理などいくつかの課題も内包している。そのため、1996年以降は一部の「コミックマーケットSP」以外は別会場の例外はあるが、主に東京国際展示場(東京ビッグサイト)であることが多い所からも会場管理の東京都や警視庁(管轄:深川警察署・2008年以降は東京湾岸警察署)との調整も行っている。コミックマーケットは以前の漫画マニア向けイベントから一般化が進み、参加者数は3日開催で55万人、4日開催で75万人(C97)を超え、開催日数にあわせてサークル参加者も増大した大イベントとなっており、施設の効率的な運用方法や行政からの指導などの対策すべき問題も多く存在している。 しかし前述のとおり、新型コロナウイルス感染拡大に伴う事象の変化と、徹夜組・始発ダッシュ組を排除する対策の方針により、C99以降はホールの拡大により会期が2日間に短縮され、一般参加者にも入場料が求められるようになり、入場券は事前抽選制へ移行。当日券の発売もなくなった。このため来場者数そのものが急減しており、C99の来場者数は2日間で11万人にまで縮減されていた。一般参加の制限が無くなったC102でも猛暑を嫌う一般参加者が続出し、C102の来場者数は26万人と、最盛期であったC97の75万人の1/3まで減少している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コミックマーケット(Comic Market、略称:コミケ、コミケット)とは、コミックマーケット準備会(以下、「準備会」と表記)が主催する世界最大の同人誌即売会である。1975年12月21日、伝説的な漫画雑誌『COM』と24年組に触発された漫画批評集団「迷宮'75」によって開始された。現在は年2回の開催で、夏は8月、冬は12月に開催される。コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化しており、即売会のみならず国内最大規模の屋内イベントとなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コミックマーケットは1975年12月21日、まんが批評集団「迷宮'75」こと亜庭じゅん、原田央男、米澤嘉博、高宮成河の企画・主催のもと、旧日本消防会館ビル内の会議室を借りて32サークルが出展し、参加者約700人で初開催された。なお、コミックマーケットの主催団体は当初から「コミックマーケット準備委員会」であるが、実質は「迷宮」そのものだった。その後、主催団体は「コミックマーケット準備会」の名称で定着し、現在は「迷宮」から独立した組織として運営されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "コミックマーケットは毎年8月(通例、8月15日頃の旧盆にかかる週末)と12月(通例、12月29日から31日)の年2回、東京国際展示場(東京ビッグサイト)に開催される。現在の開催期間は主に3日間。8月に開催されるものは「夏コミ」、12月に開催されるものは「冬コミ」と呼ばれる。2022年8月現在、開催回数は定期開催だけで100回を数える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化し、それに伴い一般にもその存在が知られた。2013年夏に行われた「コミックマーケット84」では東京ビッグサイトを3日間借り切った状態でサークル参加者数は約3万5000スペース、一般参加者数は59万人にも上った。準備会がサークル参加者に提供するブース(「スペース」という単位で呼ばれる)は不足しており、いくつかの特例(用意した大量の頒布物を捌く必要性から毎回2 - 3スペース分を準備会より与えられる一部の大手サークルへの優遇など)を除いては書類審査と抽選によって選ばれる。参加ジャンルによるが応募のおよそ50~70%程度が当選し、残りは落選という形になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大規模化に伴い、いくつかの問題点も指摘されるようになった。詳細はコミックマーケットが抱える問題を参照されたい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "コミックマーケットは世界最大の同人誌即売会である。また屋内で行われるイベント(展示会なども含む)としても最大規模を誇る。アメリカ最大のコミック・ポップカルチャーコンベンションである「コミコン・インターナショナル」や日本国内では「SUPER COMIC CITY」などこれに迫りつつある同人誌即売会も存在する。コミックマーケットには多種多様な同人サークルが自作の物品を展示・頒布する。コミックマーケットというイベント名から漫画やアニメだけを扱うイベントと思われがちであるが、規則に抵触しない限りはどのようなジャンルの作品でも頒布可能であり、漫画・アニメ・ゲーム以外の音楽・アイドルグループのファン同人誌、ゴスロリ服やコスプレ衣装、手作りアクセサリー、同人ハードウェア、ガレージキット、人形作家による人形、教師・看護師・操縦士・鉄道員・エンジニアなどの専門的職業従事者の日常が描かれたもの、またペット・ガーデニング・紅茶などの愛好家による同人誌まで現代日本の様々なポップカルチャーが一堂に集うイベントとなっている。他にも過激派(中核派等)が参加したことがある。また多種多様なコスプレイヤーが参加することでも有名で、コスプレ撮影は指定エリア以外は禁止されているが、コスプレのまま会場全域を廻ることもできる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "コミックマーケットには膨大な参加者が集まるため、サークル参加者の多くが年間スケジュールをコミックマーケット開催周期に合わせており、コミックマーケット以外では同人誌の頒布を行わないというようなサークルも多数存在する。そのため、徹夜組や転売屋などの問題も発生している。1990年代後半以降では同人誌を専門に取り扱う書店の販売網拡大やインターネットの普及などにより、こうしたサークルの発行物も入手する手段が他にも増えてきており一部発行物に限って言えば会場まで足を運ばずとも入手出来るようになった。しかし依然としてコミックマーケットは同人サークルと参加者が一堂に会する最大級の同人イベントとして存続している。※参加者の区分については「参加者の区分」の節を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "SNSや動画共有サービスにおける現地映像の共有の他にアニメ作品でもコミケの様子が描かれることがあるため、海外でも日本のオタク文化を代表するイベントとして知られている。コミケ全参加者の数%が外国人との情報もあり、コミケのために来日する外国人も数多く居る。2019年のコミックマーケット97準備会の国際部デスクを訪れた外国人参加者だけでも5大陸45ヶ国からの参加を確認している。従って、コミケは既に国際的なイベントになりつつあると言える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現在のコミックマーケットが、理念として掲げているのは以下の内容である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "コミケットの理念は、大まかに2度大きく手を加えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "言葉によってマンガに関わっていこうとする意志において一致し現在の一見平穏に見えるマンガ状況に動乱と混迷を注ぎ込み、一切を変革の激流の中へ叩き込むべく活動する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "〔......〕我々は、批評活動の別の側面として、同じ方向性を持つ全ての運動に関わっていく。マンガ空間の拡大の為の一切の活動は我々の内にある。アニメ、演劇、資料整備、各種大会、さらには海外ファンダムとの交流等、そして各種ファン・グループの連絡センター等やるべきことは余りに多い。しかし、我々はそれをやっていかねばならない。状況に対して否という以上、我々はその責任を回避する意識は全くない。ファンダムの現状を幻影として棄て去った今、我々は、自らの手で、そのファンダムを現実に出現させ、一切、幻影のかけらを放逐し、マンガの変革への巨大なうねりを巻き起こさねばならない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "────すべてはここより始まる。だが、序章は序章にすぎない。本論とは、次号より連載される諸々の論考と共々、我々自身の行動そのものによってこそ展開されるであろう。我々ははっきりと予告しておく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "────我々の本論が明らかになる時、マンガ状況は、まさしく変革の嵐の中で、果てしない迷宮となることを!", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "批評集団 迷宮'75", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化したMGMが引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。〔......〕", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、「同人誌即売会とは何か」そして「自分は何故即売会を開くのか」ということだった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "原田央男は距離を開いてゆくこの二つの問いの間で自分の位置を決めることができずに代表を辞任した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "あにじゅんは離れようとする二つの問いを強引にひとまとめにし、即売会が始まった時の原点に戻ろうとした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "米やんは両方の問いを棚上げにし、意図的に思考停止することで、辛うじて開催の維持を可能にした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "おおむね、以下の流れで進行する(一部の日程は前後する)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コミックマーケットは、「コミケット」(Comiket)あるいは「コミケ」(Comike)という略称で呼ばれることが多い。開催開始当初は「コミック=マーケット」とダブルハイフン入りで表記していた。この名付け親は、立ち上げ時のスタッフの1人であり防火管理責任者の明石良信である。このイベントの正式名称である「コミックマーケット」及びその略称・俗称である「コミケット」「コミケ」は、いずれもコミックマーケットの運営法人である有限会社コミケットが1998年に商標登録している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし商標登録前から「○○コミケ」(例 広島コミケなど)という名称で開催されているイベントは商標権の侵害とならないため、コミックマーケット以外の同人誌即売会で「コミケ」という名称が使われることは珍しくない。これまで東京・神奈川・千葉・茨城・沖縄の1都4県以外でコミックマーケットが開催された実績はないが、この影響かコミックマーケットを知らない首都圏以外の地方在住者や参加し始めたばかりの若い年代層や同人誌即売会に詳しくない者の間では他の似通った形態の同人誌即売会も一律に「コミケ」と呼ぶ傾向がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "コミックマーケットでは開催されるたびに「コミックマーケット○○」と呼び、○○に回数を入れる。略称は「C○○」。例えば2017年12月29日 - 12月31日に開催されたコミックマーケットは「コミックマーケット93」、略して「C93」と呼び「第93回コミックマーケット」とは呼ばない。ただし、初回は「第1回コミック=マーケット」である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "上記の形式は、C4 - 5の頃に固まった。これはコミックマーケット準備会そのものが形式的には開催1回毎に解散及び結成を繰り返し、連続した団体としての体裁を持たないというスタイルから来たものである。この様式はC72まで続けられたが、開催ごとに解散を繰り返さないC73以降も呼称としてのCxxは継続されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "定期開催以外には通常5年ごとに開催されている「コミケットスペシャル」があるが、こちらは独立して回数が計算され、通常の定期開催の回数には含まれない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "コミックマーケットでは、企業、サークル、スタッフ、一般来場者も全て含めての来場者を「参加者」と呼ぶ。これはコミックマーケットにおいて参加者は対等であり、「お客様」は存在せず、皆がコミックマーケットの参加者なのである、との理念からである。参加者の主な区分は以下の通りである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、下記はコロナ禍が発生する前の参加方法であることに注意すること。コロナ禍発生以降は状況に応じて参加方法が変更されているため、公式サイトで確認する必要がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "※サークル参加及びコミケットスタッフへの参加資格は、公式サイトでは「申込時点で義務教育を修了している人」とされているが、「法的に中学校卒業以上の学歴がある人」という意味であり、中学校卒業以上の学歴がない場合は許可されない(ただし、開催前日の設営については特に制限はない)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これらの区分とは別に、以下のような形での参加もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "サークル参加を希望する際は、指定された期間にコミケットに対してサークル参加の申込を行う必要がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "申込には参加を希望する回の前の回のコミックマーケットで準備会販売スペースで販売される「申込書セット」を1スペースにつき1部購入し、申込期間中に参加費の振込み及びサークル情報をまとめた「短冊」と呼ばれるものを準備会に送付する必要がある。申込期間外の送付は原則、全て書類不備として落選となるので注意が必要である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "郵送以外の申込方法としてオンライン申込がある。インターネットを利用したオンライン申込が長い間切望されてきたが、有限会社コミケットは有限会社サークル・ドット・エムエスとWeb申込受付に関する業務委託契約を締結し、コミックマーケット70(2006年夏)の申込よりオンラインによる申込受付サービスを開始した。オンラインでの申込にも郵送と同様に申込書セットが必要となり、さらに郵送申し込みで必要な郵便払い込み手数料に代えシステム利用料として申込書セット以外に1000円がかかり事実上申込手数料が倍となるが申込期間が約1週間、サークルカット提出と申し込み内容修正がオンライン申し込み終了後更に1週間と期間が延長される利点がある。主に夏コミ終了後から3日間と期間が非常に短い冬コミの申込期間が延長される点で利用者は毎回増加している。ただし、その数の急増による事務処理上の問題からC75(2008年冬開催)の期間延長日数は圧縮された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、参加を希望する回の前の回のコミケに参加出来ないサークル参加希望者の為に申込書セットはサークル・ドット・エムエスにより通信販売も行われている。この通販は会期前及び会期後にそれぞれ行われ、基本的にオンライン申込用としている。しかし、夏の会期後のもの以外は基本的に郵送申込にも利用可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "サークル参加では机半分(90cm×45cm)分と椅子2脚が自スペースとして提供されるが、大手と呼ばれるサークルでは多数の一般参加者を捌く為にそれ以上のスペースが提供される場合もある。また、合同誌頒布の際などに友人のサークルと隣同士に配置をしてもらう「合体参加」という申込も可能となっており、その際は合体申込を行った2サークルで机1本分の配置となる。なお、郵送申込時には専用の合体封筒の購入が必要となるがオンライン申込の際はフォーム上のみで処理が可能となっており合体封筒を購入する必要はない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "C100の申込みにおいては、C99の状況を見てから日数などの詳細を決めることになったため申し込みセットは会場では販売されず郵送申し込みを対象とした通信販売のみとなる。オンライン申込みの場合はPDF版が供給されセット代が申込時に追加請求される形となる。また、手持ちのC99用セットも使用可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "サークルでの参加は申し込みサークル数に対して会場スペースが少ないため、抽選制となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コミックマーケット準備会が発行している広報誌「COMIKET PRESS」によると人気ジャンルは申し込みが非常に多くなるため、若干当選率が下がり、逆に申し込みが少なく特にそのジャンルで申し込んだサークルが1つだけといった場合は、当選率を高くする傾向にあるという。これは、落選によるジャンルの存亡の危機を招かないようにするための配慮である。3回以上連続で(夏だけ、冬だけの申し込みも含む)落選すると、次の申し込みでは救済措置で優先的に当選するといわれているが、人気が高いジャンルにおいては4回以上連続して落選することもある。また、落選が書類不備による場合、この3回目救済措置は受けられない。サークル申し込みの際にアンケートにきちんと記入すると若干、当選率が上がるともいわれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ジャンル「学漫」については以前のコミケ代表だった米澤嘉博の「学生による漫画活動を援護したい」という考えにより軽度の不備であれば救済されることがあるが、学校名が記載されていない場合や申し込み代表者が学生ではない場合は落選となる(コミケットカタログ『配置担当者の一言』コーナーより)。同一校で複数の「学漫」サークルの申し込みがあると一サークル以外は落選することがある。しかし大学などで複数キャンパスを持つような場合はキャンパスごとに当選させるなどの配慮もしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、コミックマーケットにスタッフとして参加を行った場合、次回のコミックマーケット申込用の専用封筒が配布されており、これを用いた場合は軽微な書類不備であれば即落選にならない。(不備が複数個所や重要部分の場合はもちろん落選する)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また申込封筒は大手の壁サークルや前日設営を手伝った一般やサークルに対しても配布されることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "サークル参加申込用紙は記入事項が多く、変更される個所も多い。「正確に申込用紙を記入しているサークル」と「記入や添付に不備があるサークル」を明確に区別して扱う方針のため、参加ジャンルを問わず書類不備による落選はかなりの割合を占める。しかし2000年代以降では3日間開催日程の回ならば実質の当選率はかなり上がっており、毎回書類の書き方にさえ注意すれば7割以上の当選を見込めるようになっている。例えば2017年冬のC93では当選率 76.19% で書類不備は落選数の一割未満ある。逆に2日間開催の時は書類不備を除いてもなお4割程度落選となり2004年冬のC68では当選率49%、不備で落選20%、抽選で落選29%で従って不備を除いた申込の62.8%が当選している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "いわゆる大手サークルと呼ばれているサークルについては致命的な書類の不備、準備会への非協力行為などがない限りは当選するといわれている。ただし、抽選免除が公にされているのはコミックマーケットの母体となった「迷宮」のみ。また、免除ではなく「永久スペース提供」と表現されており、公にされているのも母体ゆえの特例と言える。しかし一般的なサークルの抽選も無作為抽出ではなく、申し込み時の内容が考慮されることが「COMIKET PRESS」などで明らかにされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、作業期間の関係で夏コミに比べ冬コミの方が書類不備の基準は厳格になる。例えばジャンルを間違えて申し込んだ場合、夏ならば正しいジャンルに配置してくれることもあるが冬は落選となる可能性が高い。特に開催日の違うジャンルと間違えた場合、配置作業は開催日ごとに並行して進めるためフォローが困難という理由で基本的に落選となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "過去に不正な行為を行ったり、サークルスペースを確保したにもかかわらず参加しなかったり、参加したにもかかわらず頒布物がなかったようなサークルは以後の開催で落選させられることがあるといわれている。過去にはコミックマーケットスペシャル開催妨害や、サークル専用通行証のインターネットオークションでの転売を理由として永久追放になったサークルも存在する。ただ異論を排斥しない理念を掲げている(「コミックマーケット開催まで」参照)以上、永久追放は最後の手段と位置付けられており懲罰的に落選させられたサークルでもほとんどの場合は前述の救済措置の適用は受けるといわれており、最低でも4回に1回は参加できることになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、ジャンルが二次創作の場合、申込が原作の発表(発売・放映・公開など)以前だと基本的に落選になる。これは、たとえ事前情報が出回っていたとしても「作品を鑑賞してからこそのパロディでありファン活動ではないのか?」という方針があるからである。ただしケースバイケースであり、また例外的に原著作者本人によるものは当選する可能性がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "当初カタログがただ一枚の紙だった時代、およびその後の中綴じの時代には「背表紙」は存在しなかったが1986年冬(C31)に今のような平綴じになり白い背表紙ができた。当初は「コミックマーケット×× カタログ」としか書いていなかったが、1989年冬コミ(初の幕張メッセ開催、C37)で発行されたカタログで初めて背表紙に絵が登場した。翌C38のカタログのマンガレポートにそのことに対する反響が2枚掲載されている。うち、1枚に対して編集が「カタログの背表紙の絵は永遠に続くよ」というコメントを寄せている。主に同人界で人気のあったジャンルが背表紙になっている。カタログが薄かった頃は背表紙のやや上の方とやや下のほうに交互に人物が配置されていたが今ではカタログが厚くなったため、交互に人物を配置する必要がなくなっただけでなく1作品から2人物を登場させることができるようになっている。最初期に背表紙に登場したジャンル、キャラクターは以下の通り。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1994年12月のC47より創刊された広報誌。カタログ、サークル参加申込書の補完と、準備会と参加者の交流の場の一つになっている。単独で購入することもできるが、サークル参加申込書を購入するとおまけに付く。2019年夏の第50号で冊子版の発行を終了し、以後はカタログ内やweb上で継続するとしている。バックナンバーをまとめた総集編も発売されている。毎号の主な内容は以下の通りである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "サークル参加者は頒布物の見本を無料頒布物を含め、必ず準備会に提出する必要がある。現在では年齢制限や過激な表現などの点検も兼ねており、性器の無修正や修正が小さいと判断した場合はある程度の修正を命じられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "見本誌提出はコミックマーケットが始まった当初から行われており、現在では都内に専用の倉庫を用意して保存している。初期には完全には強制できず買い取った物や他の即売会で買い取った同人誌もあるため、収蔵漏れやコミックマーケットでは実際には頒布していない同人誌も混じっている。現状、他の大規模な即売会で見本誌提出制を取っているのは「コミティア」「COMIC1」など少数である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "コミックマーケットとしては見本誌で資料館、あるいは図書館を設立する構想を1995年より表明していた。また、構想の実現前にコミックマーケットが終了する事態になったなら国立国会図書館への寄贈も検討していた。制度上、同人誌も一部は(ホチキス留めなどの簡易製本や、表現上広く公開することに支障のある物は含まれない)国立国会図書館の納本対象に入る。ただし、同人誌の納本例は少ない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2008年、市川孝一がコミックマーケットとは別に代表を務める即売会「COMIC1」で見本誌を明治大学に寄贈する話が出た。しかし事前の告知が無くサークル参加者から反発が起こり、サークルが申し出れば寄贈対象から外すことでおさまった。同年冬に開催されたC75のサークル参加申し込みにでは同人誌図書館を設立する場合、どのような形で公開することが望ましいかという内容のアンケートが行われた。アンケートについては、その後の拡大準備集会でCOMIC1での見本誌寄贈は同人誌図書館構想のテストケースであると説明された。同人誌は不特定多数への頒布を想定していない物が多く、愛好者で内々に活動しているジャンルも多い。また、奥付に住所氏名などの個人情報を載せているケースもあるため、この件は見送られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その後も見本誌公開に向けた検討が行われ、2009年10月31日に開館した米沢嘉博記念図書館においてC77の見本誌より閲覧を開始すると発表されている。ただし現在の構想では公開期間は限定であり有料の図書館利用者登録が必要になるほか、同人誌に関する詳細な情報を指定しないと実際に閲覧することはできないため実際の閲覧にはある程度のハードルが設けられる。問題となっている奥付の個人情報に関しては、所定の申請手続きをとれば該当部分にシールを貼って見えなくする措置が検討されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "コミックマーケット公式の調査によると、参加者の年齢の中心層は中学生から30代ぐらいまでであった。回次と共に平均年齢は上昇傾向にあり、2013年8月のC84サークル参加者データによると、サークル代表者の平均年齢は男性31歳、女性32歳であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "男女比については、2010年8月のコミックマーケット78での調査によれば、一般参加者では男性64.4%、女性35.6%と男性の比率が高く、サークル参加者では男性34.8%、女性65.2%と女性の比率が高い。一方、2008年2月に準備会が公開した資料「コミックマーケットとは何か?」によれば、一般参加者は女性57%、男性43%、サークル参加者は女性71%、男性29%であり、当時の準備会は「世の中の認識とは異なり、女性の参加者が多い」と結論づけた。また、2004年8月のコミックマーケット66でのコミック文化研究会(九州大学助教授・杉山あかし)と準備会による試験的な計測では、男性がやや多いかも知れないという結果であった。2013年8月のC84サークル代表者内訳は、男性43%、女性57%と依然として女性が多いが、以前より男性が増えていると指摘している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2013年8月のC84サークル代表者の住所は、約7割が首都圏である。開催会場が有明に移転して以来、日本国外からの参加者も増えている。参加形態も一般参加者だけでなくサークル参加者もある。一部には行列のできるサークルを主宰する者も出ている。このため準備会では「国際部」と呼ばれる外国語接遇セクションを強化、「フェロースタッフ」と呼ばれる他部署兼務の外国語対応スタッフを導入している。そのほか簡単な会話帳を配布するなどで対策を講じている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アニメ・漫画のイベントとしては、日本国外にも以下のようなものがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "参考リンク:世界のコスプレイベント一覧", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "初期は「迷宮」による運営で実質的には原田央男、亜庭じゅん、米澤嘉博、高宮成河の4人が中心となっていた。名称も「準備委員会」だったり「準備会」だったりと、一定しなかった(C1では「準備委員会」)。「準備委員会」の名称は、「『準備する会』ならともかく『準備会』では、言葉の使い方がおかしい」と思った原田の提案だったが、「委員など決める必要はない」「“委員”という言葉は権威主義的」と批判を受け、定着しなかった。また、佐川俊彦によれば、草案に「準備委員会」となっていたのを、佐川は自分の苦手な、左翼運動的な名称と感じた。そこで「準備会」の名称を提案し、認められたという。米澤は、準備会が現在の(独立した組織としての)原形を持つ(ようになった)のは自身が代表になってからとしている。原田は1979年7月28〜29日開催のC12を最後に、準備会の運営から離れた。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後、米澤は約26年間の長期にわたって代表を務めたが体調不良の為、C70を最後に退任した。後任には副代表だった安田かほる、筆谷芳行、市川孝一の3人が米澤によって指名され、共同代表となった。米澤夫人の米澤英子は代表補佐でもあったが、夫の退任後も補佐に留任し、その後C82を持って代表補佐を退任している。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "C69まで準備会は常設の組織ではなくコミックマーケット開催のたびに結成し、終了後解散する形を取っていた。会社設立以降は継続的な日常の業務については有限会社コミケットが請け負っていたが、個人情報保護法の施行によりC70以降は日常の業務も行うようになったため、解散すること無く継続して存在するようになった。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "コミックマーケットはその会員(イベントの性質に見合った用語を用いるなら、同人)の集会という扱いである。しかしイベント開催規模が大きくなってからは任意団体のコミックマーケット準備会では通常の事務作業とその作業場所の確保、会場借り上げの契約を行うことが出来なくなった。そこで、1985年に株式会社コミケットを設立してそれを行うこととした。後に有限会社(2006年5月より特例有限会社)となり、現在に至る。社長は米澤が準備会代表と兼任していたが、彼の死去により米澤英子が後任となり、その後共同代表の1人でコミケット社員の安田かほるが社長を引き継いでいる。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "業務はコミックマーケット準備会からサークル配置データの提供を受け、コミックマーケットカタログを製作。代わりに会場と契約して場所を提供している形になる。その他の業務としては事務所の維持、倉庫の管理、作品集や同人誌に関わる内容の出版も行っている。また、直営店として中古同人誌を取り扱う古書店「コミケットサービス」、同人誌以外の古書・古洋書・ミリタリーグッズを扱う販売店「B-Maniacs」の運営も行っていたが、B-Maniacsは2009年6月末をもって営業を終了、コミケットサービスも実店舗・オンラインショップ共に2017年12月末で営業を終了した。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "通称CPS。過去にはコミックマーケットカタログやカタログCD-ROM・次回申込書の通販業務を行うほか、コミックマーケットにて同人誌委託コーナーの運営もしていた。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "しかし同人誌委託はC71を最後にコーナー自体が中止され(参加者の区分を参照)、通販もC72を最後にカタログ通常版は準備会の直販、CD-ROM版は株式会社クリエイション、次回申込書は有限会社サークル・ドット・エムエスの業務にそれぞれ変更され、3代目代表の体制になってからCPSの排除が行われた。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "この間の事情についてコミケット準備会とCPS、双方の公式見解が出されている。また、「運営組織の変遷」も参照のこと。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2008年4月に株式会社シーピーエスへの社名変更が発表された。2010年1月からは社業をプログラマ養成を主としたIT関連事業に転換し、現在のコミックマーケットとは関係無くなっている。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "共信印刷は、東京都千代田区の印刷会社。コミックマーケットのカタログや申し込みサークル向けの案内書であるコミケットアピール・サークル参加申込書・コミケットプレスなど多くの準備会発行物印刷を請け負っており、カタログについては創刊からC95までの印刷を担当していたが、C96からは大陽出版の担当に変更された。CD-ROM版カタログについては販売とサポートも請け負っている。かつては一般の印刷も受注していたが、同人誌印刷の受注は少ない方であったが、コミックマーケットのカタログそのものも「同人誌」という扱いであるため、そういう意味では大手とも言える。2009年現在、コミックマーケット準備会との資本関係は一切無い。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2020年9月11日を以て、同人誌印刷の取り扱いを休止。その後、同年10月中旬に企業を解散することを同月9日に発表した。2020年冬のコミケ中止が決まり、それがきっかけで廃業を決意したという。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "サークル・ドット・エムエスは東京都千代田区の企業。2006年にコミックマーケットのサークルオンライン申し込みサービスの開発を委託する流れで設立された。オンライン申し込みサービスはコミックマーケット以外の同人誌即売会でも利用できるようになったほか、これを核として同人作家・サークル向けポータルサイトの運営業務を行い、その中で印刷所検索サイト「印刷Navi」や電子書籍サービス「emes-えむえす-」(2012年終了)の運営も行っている。また、コミックマーケット関連では公式ウェブサイトの管理運営や2012年開始のコミケWebカタログの開発運営を手がけている。サークル・ドット・エムエスは現在も法人としては存在するものの、実務は本社所在地と会社首脳を同じくする株式会社コサットが行っている。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "シー・エージェントは東京都豊島区の企業。コミックマーケットのカタログ広告、企業パンフレット広告、漫画広告などのカタログ広告全般、ビッグサイト大型ビジョン広告、エントランスホール柱巻き広告、エスカレーター壁広告など会場広告全般、献血応援イベントなどコミックマーケットで行われる付帯イベントを取り扱っている。また、企業ブース運営、漫画グッズ通信販売などを手掛ける。", "title": "コミックマーケット準備会とその関連企業" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "コミックマーケットの歴史は、創設母体となった同人サークル「迷宮」の歴史であり、同時に開催場所移転の歴史でもある。以下でそれを追っていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "コミックマーケットのように自主制作本を頒布するイベントの起源は、1939年にアメリカのニューヨークで行われたワールドコンだと言われている。また1960年代に入ると、漫画・SFや映画などに積極的に興味を示す人々が出現、同時に表現の場としての同人誌が多数制作されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1966年12月、長井勝一が主宰する日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』(青林堂)に対抗して、手塚治虫はオルタナティブ志向の漫画雑誌『COM』(虫プロ商事)を創刊した。その後、同誌1967年3月号で、読者や漫画家予備軍としての同人作家を全国的に組織化する野心的な構想を発表し、これを「ぐら・こん」と称した。すなわち、同人作家のプロデビューの道筋を示したものである。この構想は『COM』の路線転換や休刊(1971年12月号)もあり失敗に終わったが、漫画同人誌に与えた影響は大きかった。コミックマーケット創設者のひとりであり、準備会の二代目代表を長く務めた米澤嘉博は、1975年時点における漫画界の閉塞状況について次のように総括している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "そこで、時代の潮流として大型の同人誌即売会の開催が求められた。そんな中で出現したのがコミックマーケットである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "まんが批評集団「迷宮'75」がコミックマーケットを立ち上げるまでに至った主なきっかけは、SF大会を模して開催された「日本漫画大会」や流行の端境期に直面していた旧来の漫画と漫画評論への反発、そして「ぐら・こん」の挫折を繰り返さず、まんがマニアのための新たなフィールドを作り出すということにあった。グループの全活動を一貫していたものは、単なるまんがマニアに一体何ができるのかという意識である。また「日本漫画大会」を批判したある前回参加者が参加を拒否された事件があったことから「迷宮'75」はこれを告発するとともにコミックマーケットでは批判者を排斥しない理念が形作られることになった。そして「日本漫画大会」や「マンガフェスティバル」などではイベントの一つに過ぎなかった同人誌即売会を独立させ、「ファンのファンによるファンのためのイベント」を目標にした。従って「ぐら・こん」のようにプロ漫画家予備軍ではなく、また「日本漫画大会」のようにプロの漫画家を登壇させる漫画イベントの一つでもなく、ただ同人誌を描き頒布するならば誰でも参加できる「マーケット(=市場)」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "コミックマーケットを企画・主催したのは「迷宮」だが、名目上の主催は当初から「コミックマーケット準備委員会(のちの準備会)」である。実態として両者は表裏一体だが、将来の分離も視野に入れていた。準備委員会の初代代表は「迷宮」同人で人脈の一番広い、原田央男に落ち着いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "C1(第1回)のコミックマーケットは1975年12月21日、「迷宮'75」の実質的な主催の下、東京虎の門の日本消防会館会議室において、参加サークル32(ただし委託・展示サークルがほぼ半数)、参加者推定700名で開催された。開催前日には合宿も行われ、アニメソングが高歌放吟されたというSF大会の影響の濃いものだったらしい。また、参加サークルの半分近くを学漫(学校内クラブ活動としての漫画研究会)が占め、萩尾望都作品を中心とした少女漫画ファンクラブがそれに次いだ。コミケ準備会によると、入場者の9割余を「中高生の少女漫画ファンを中心とした女子」が占めたという。また、この時「迷宮'75」が頒布した『漫画新批評大系』所収のパロディ漫画『ポルの一族』(原田央男)を端緒とする所謂「やおい」や「BL」の先駆的な同人誌もすでに出されていたとされる。なお、日本消防会館での開催は第1回のみであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "当時、同人誌といえば一般には文学同人誌を指し、漫画同人誌の知名度は低かった。そこでSFファン向け同人誌の用語として用いられた「ファンジン(Fanzine)」がまだしもわかりやすいだろうと借用し、「まんがファンジンフェア」と名乗った。しかしその後コミックマーケット自体の知名度が上がるに連れ、漫画同人誌を指す用法が定着していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "このC1以降、春・夏・冬の学校の休みに合わせた年3回の開催が定着する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "この時、冊子型のカタログは存在せず、公式のポスターは迷宮とかかわりがあったサークル・MOBの鈴木哲也が手がけたもので、多色の謄写版で製作された。また、竹本健治は知人の鈴木を介して主催者と繋がりができたことで、第1回に出品したという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1976年のC2からC4の春・夏・冬コミは、板橋区仲宿の板橋産業連合会館で開催される。この頃はまだ参加サークルは100に満たない状態だったが、1977年春のC5より大田区産業会館に移ったあたりから、入場待ちの行列ができるようになっていく。途中、四谷公会堂(1978年夏・C9)と東京都立産業会館・台東館(1979年夏・C12)をそれぞれ1度ずつ使用したものの、結局1979年冬のC13まで大田区産業会館での開催は続き、そのC13では参加サークル300弱、参加者約4,000人と、規模は確実に大きくなっていった。また、参加サークルにおける学漫(学校の部活動、サークルとしての漫画・同人サークル)の占める割合は低下し、オリジナル創作が増えていった。さらに、『宇宙戦艦ヤマト』などアニメのファンサークルの参加も目立ちだした。とくに同作や『機動戦士ガンダム』のアニメブームと、いわゆる「おたく」が出現したことは、コミックマーケットを牽引する大きな原動力となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "原田は、オリジナル創作漫画サークルの発展を期待していたが、二次創作が主流となり、創作漫画も既存の商業作品の二番煎じと思しき作品のサークルが多かったコミックマーケットの実情は誤算だった。しかし、コミックマーケットの理念として、もとより二次創作を排斥すべきではないと考えた原田は、C12を最後に代表を辞任、この時期を最後に「迷宮」も運営から手を引き、C14からは米澤嘉博が代表に就任した。以降、コミックマーケットは組織として独り立ちしたとされる。その後、原田はコミックマーケットそのものから身を引き、のちに米澤が亡くなるまで再参加することはなかった。のちに原田は「迷宮がやろうとしたのはコミケではない」「つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ」と述懐している。また原田は『コミックマーケット創世記』で26年間の空白を次のように語った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、「迷宮」を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "以来、米やんの他界を知らされ、再び昔の仲間たちと顔を合わせるまでに26年の空白。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "帰ってきたのか?それとも新しく始めるのか? ただ一つわかったことは、26年ぶりに訪れたコミックマーケットの会場前に立った僕は、参加者の誰よりもそれについて知らない浦島太郎になっていたということである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "『漫画新批評大系』はその後、第15号を1981年12月20日に発行して以来、休刊状態。それでも『漫画新批評大系』を置く場所は、現在でもコミックマーケットの会場に「迷宮」のための即売スペースとして特別に提供され続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "その後「迷宮」は1980年、創作漫画専門の即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完として開催した。これはコミケットの規模拡大で売り手と買い手、作者と読者、さらにはファン同士の交流が薄れ始めたため、適正規模の即売会を別に設けること、また頒布物における二次創作の占める割合が高まったため、純粋な創作同人だけの場を設けるべきではないかという声に応じたためという。まんが・ミニ・マーケットは1981年にMGM(Manga Gallery & Market)と改称。1984年には、MGMの模倣から始まったと自称する世界最大規模の創作同人誌即売会「COMITIA」が創設された。ふたつの即売会は、2023年12月現在も存続している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ちなみに「迷宮」はコミックマーケットから離れた後も、サークル参加の永久スペース取得権を有している。これは、コミックマーケット準備会が帳簿上「迷宮」からの借入金が残ったままになっており、その代償という形を取っているためと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1980年春のC14から1981年春のC17は川崎市民プラザで開催され、参加サークル350〜400、参加者約7,000人規模で推移するが、すぐに会場が手狭になった。1981年夏のC18では横浜産貿ホールが使用され、この時初めて2日間の開催を行ったが、ついに参加サークルが500、参加者が1万人を上回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "換言すれば、この時期まではコミックマーケットといえば女性参加者が主体だったが、この時期より『うる星やつら』のヒットに伴い、同作のサークルが激増、当時のロリコンブームと相まって、男性参加者が本格的に進出。ジャンルとしての男性向け創作の基礎が作られ、わいせつな内容の同人誌、いわゆる「エロ同人誌」(面妖本)が増えた。漫画家の吾妻ひでおや蛭児神建らによる日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ)の行列が館外に作られ、現在の「壁サークル」の走りとなったのもこの時期である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1981年冬のC19は、当初川崎市民プラザで開催される予定だった。しかし、そこに主催者の内部分裂騒動が発生し、「反主流派(「クーデター派」「コミケ改革派」などと自称した)」は先手を打って会場を押さえてしまった。「反主流派」の行動の動機については、規模拡大に伴い規制強化が必要と認識したからとも、既に同人界に影響力を持ち始めていたコミケットの名声に目が眩み、乗っ取りを謀ったなどの諸説がある。また、声優を呼んだりアニメの上映会を開いたりできないかとする意見が当時からあったが、コミケットの趣旨にはそぐわないと却下された経緯もあったという(ただし後者は後年、企業ブースとしてコミックマーケットでも実現する)。こうして、コミケット準備会は望まぬまま、晴海にあった東京国際見本市会場(通称:晴海)の使用に踏み切った。なお、分裂した「反主流派」は「新・コミックマーケット」を名乗り、後に「コミックスクウェア」と改称した。しかしいつまで続いたのかは文献が確認出来ず不明である。また、2006年時点で現存する同人誌即売会「コミックスクエア」とは無関係である。「コミックスクウェア」終了後、「反主流派」の流れを汲む人物の一部は「コミックレヴォリューション」開催に加わったとも言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "コミケット創設メンバーの高宮成河は、クーデター騒動について「コミケットの歴史に汚点として残る」としながらも、これにより米澤はコミケットを持続する決断に迫られたと述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "準備会を組織し直し主催者はサークルから独立した運営機能になり、他方で「理念」と言われるものを作る。「コミケットにお客はいない」という言葉は、しかしぼくにはこれも理念の衣を纏った運営のための言葉に聞こえる。そして「表現の自由」という聞き慣れたスローガンの下に、ファンのお遊びと創作とを横一線に同等に扱うことで遂には創作までもが、その場だけの遊びとしての創作になってしまうことへの責任は参加者の「自由」とされた。〔......〕", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "以後、コミックマーケットの会場は6年間にわたって晴海で行われた。その間も参加サークル・参加者数共に増大を続け、1983年冬のC22において参加サークルは1,000を超え、さらに第1期晴海時代の最後の開催であるC30(1986年夏)には、3,900サークル、約35,000人が参加するに至る。また、この間に1983年以降、1988年の冬コミが中止になったことから、代替として1989年春に開催されたC35を除き、春コミは廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "この間、1985年頃から『キャプテン翼』(『C翼』と略された)が女性サークルに絶大な人気を呼び、商業作品を題材に男性キャラクター同士の同性愛を表現した同人誌を制作・頒布する所謂「やおい」サークルが増加。若い女性参加者を大きく増やすこととなった。1983年より運営スタッフに加わった岩田次夫は、『キャプテン翼』ブームが少女漫画再生の鍵になると見てやおい漫画サークルを激賞。同作そのものは少年漫画であるにもかかわらず、女性がほとんどを占めたことが同人サークルの特異性である。ブームから外れた時期になるが、1992年のC43での公表データによると、『C翼』サークル代表者は男性6、女性1083で女性比率は99%を超えている。少年漫画(特に「週刊少年ジャンプ」作品)サークルが女性中心の傾向は現在でも変わっておらず、むしろ出版社側も利用する動きがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また、岩田はサークル情報などの事務管理のコンピュータ化を企画・実行し、急激な作業量の膨張に対応した。これには、参加可能なサークル数を増やすことで人材発掘・育成を進めようという意図もあったという。岩田はスタッフの第一線を退いた後も「イワえもん」の愛称で親しまれ、同人誌評論などの活動で同人界に影響力を持ち続けた。岩田は2004年に死去したが、現在でもカタログや参加申込書にはイワえもんが欠かさず登場する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "商業イベント(コミュニケーションカーニバル 夢工場'87など)との競合により、晴海の確保が不可能になったため、1986年冬のC31から1987年冬のC33まで、平和島にある東京流通センターで開催した。会場面積の減少を補うため2日間開催を実施。この間4,400サークル、4〜6万の参加者を記録した。また、ジャンル別にサークルを割り振るジャンルコードが導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "東京流通センターでの2日開催でも人員・サークルを収容しきれなくなったため、翌1988年夏のC34より、会場を晴海に戻すことになった。この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、倍以上の9,200サークルの参加を実現させた。とはいえ、この間も会場の確保に困難を極める状況に変わりはなく、1988年冬に開催予定としていたC35開催に至ってはついに会場を確保できず、年号が平成となった翌1989年3月まで開催延期を余儀なくされる。このため、C34が昭和最後のコミックマーケット開催となった。これが、通常開催としては最後の春コミであった。また、1989年夏のC36では、サークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "参加規模の急激な膨張はとどまるところを知らず、ついには晴海の全館2日使用でさえ収容能力の限界を露呈するほどになったため、1989年冬のC37より、当時日本国内屈指の巨大イベント会場だった千葉県の幕張メッセへと会場を移した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ところが、有害コミック騒動などの影響で、1991年夏のC40は開催直前に幕張メッセ側から会場の使用を拒否され、急遽会場を晴海に戻さざるを得なくなった。後に「コミケ幕張メッセ追放事件」などと呼ばれる出来事であり、コミックマーケットの歴史の中では最大級の存続の危機となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "以上のような経緯を経て、コミックマーケットは1991年夏のC40から1995年冬のC49まで、三たび晴海に舞い戻ることになる。そのため、しかし、猥褻図画に対する自主規制の強化は避けられず、この時期に見本誌チェックによる規制を導入している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "この時期には1980年代後半の『聖闘士星矢』とその商業的成功の影響を受けて製作された『鎧伝サムライトルーパー』などの所謂美少年アニメが若い女性のアニメファンの間でブームとなり、ファンダムにおける盛り上がりはテレビアニメ自体の放映終了後もなお数年間にわたり持続した。これは同人界・コミケットにも大きな波及を見せ、この時期に大量の同人誌が制作されコミケ内でそれぞれ単体ジャンルとして成立するほどの隆盛を見せた。しかしながら、その多くが「やおい」と呼ばれる男性同性愛の性描写を多かれ少なかれ含むもので、元が子供向けアニメである作品の二次創作としては内容面で非常に問題があると言わざるを得ないものであった上、これらを収録した同人アンソロジーコミックが多数制作されたこと、さらにはこれら同人アンソロジーコミックが著作権などの面で違法性の高い同人誌やコミケットの状況を利用して商業出版の流通に乗せられたことなどは、それ以降のアニメ制作プロダクションやメディアミックス関連企業の二次創作全般に対する姿勢を改めさせる要因の1つとなり、最終的には著作権者である企業の著作権管理の強化にも繋がっていった。この著作権管理の厳格化は、以降のコミックマーケットの同人誌も含めた二次創作全般に大きな影響を与え、そこでは様々な制約の増加や自主規制のさらなる強化という形で影を落とすことになった。とはいえ、これら「やおい」同人誌の隆盛は、以降のアニメ作品でも繰り返され、1990年代半ばになるとさらに発展し、商業出版・同人の枠を超えてボーイズラブジャンルが隆盛する礎となっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "参加者の膨張はとどまることを知らず、1992年夏のC42では、入場待ちの長蛇の列に折からの猛暑が加わり、数百人が熱中症で救護室に運ばれる騒ぎになった(所謂「ジェノサイドコミケ」)。また、1995年夏のC48は、開催20周年記念として初の3日間開催を行うなど、イベント自体の規模もまた膨張を続けていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "この時期のコミックマーケットにおいて特筆すべきは、1992年の『美少女戦士セーラームーン』の登場である。男女両性の読者へ幅広くアピールした同作品の台頭をきっかけに、女性作家による男性向け創作が大幅に増えることとなり、この傾向は以後の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームへと続いてゆく。また、1990年代半ばから2000年頃に掛けて、商業出版の男性向け成人向け漫画に数多くの女性作家が登場するその端緒ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "その後、晴海の閉鎖が決定し、1995年冬のC49をもって晴海での定期開催を終了。翌1996年春の「さよなら晴海!! コミケットスペシャル」をもって晴海での開催は終了となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1996年夏のC50から、コミケは同年完成した東京ビッグサイト(有明)での開催となる。C50の開催はビッグサイトの会場の一部で行われたが、同時開催の他のイベントからの多数の苦情が来たことから、次のC51では、早くも全館貸し切りでの開催となった。1997年夏のC52以降、夏コミは3日間開催が定着、参加サークルは3万を超えるまでに至っており、2013年夏のC84では普段の夏コミの金・土・日の開催ではなく土・日・月の開催となり、普段の2日目と3日目のジャンルが入れ替わる形となった。冬コミについても、L'Arc〜en〜Cielのカウントダウンライブが行われた関係上、1999年冬のC57で3日間開催を実施、2002年冬のC63以降(C67・69を除く)は3日間開催が定着しており、2006年冬のC71以降(C75・87を除く)は大晦日を含む3日間開催となっている。一例として、C81とC87の概ねの日割を紹介しておく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "有明に移ってからの1990年代後半は『新世紀エヴァンゲリオン』のブームがコミックマーケットを席巻した。『美少女戦士セーラームーン』や『カードキャプターさくら』などの美少女アニメや、各種対戦型格闘ゲームに続く同人誌バブルともいえるこのブームで、いっそうの活況を呈した。一方でSFジャンルの存在感はさらに薄れ、所謂「萌え」を打ち出した同人誌が急激に増加した。また、Windows 95などのパソコンの普及に伴い、CD-ROM系のPCゲームが登場し、いわゆるエロゲーやギャルゲーなどの同人誌が増加した。この流行は2005年頃まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2000年代前半に入ると、同人ソフト『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』、『東方Project』などの登場により、これらの同人ソフトを基にした同人誌という「同人の同人」とも呼ばれる現象(ただし前述の作品は同人といってもオリジナル創作であり、そのパロディなどが出ることは矛盾も重複もしていない)が生じた。これもコミックマーケットの巨大化の一つの現れであった。また、『月姫』については、製作サークルTYPE-MOONがのちに商業メーカーへの転換している。さらに、同作品を題材とした渡辺製作所(フランスパン)製作の対戦格闘ゲーム『MELTY BLOOD』のアーケードゲーム進出、音系の同人に関しても片霧烈火らがメジャーへの道を辿るなど、漫画以外の表現方法についても同人活動をプロへの登竜門とする流れが生まれつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2000年12月のC59よりブロックノート(サークル参加者がイベントの感想や絵を描くノート。幾つかの参加スペースを一つのブロックとしてその中のサークル間で回された)が廃止される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "2006年9月30日、代表の米澤が急病に倒れ、C71より後任の代表は安田かほる・筆谷芳行・市川孝一の共同代表制に移行した(米澤は翌10月1日死去)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2000年代後半になると、『涼宮ハルヒの憂鬱』、『灼眼のシャナ』、『とある魔術の禁書目録』をはじめとするライトノベルを元にした同人誌が増加、『らき☆すた』や『けいおん!』などの深夜アニメも大人気となり、その関連同人誌も増加した。さらに、YouTubeやニコニコ動画という動画サイトの誕生や、イラストサイトPixivの開設などで二次創作の活動場所が広がり、コミケのおしながきやサークルの宣伝がされるようになった。また、2006年頃から東方Project関連のサークルが急増し、アレンジ楽曲やボーカルアレンジなどを出すサークルが現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "また、この頃からジャンルの超多様化(従来の同人活動の概念を逸脱する、オリジナルアクセサリーなどのサークルも出現)が発生している。2006年冬のC71では現役の声優である堀江由衣が自らがパーソナリティを務めるラジオ番組の企画で設立したバンド・黒薔薇保存会の作品を後述する企業ブース内で販売した実績があり、日本国内のあらゆる「表現」を呑み込んで今もなお成長している。2007年冬のC73では、VOCALOIDの初音ミクと鏡音リン・レンが発売され、オリジナル曲が発表・頒布されるようになった。コミケは漫画家・作家・イラストレーターのみならず、声優や歌手などのプロ活動する人物が自ら活動の発表の場の一つとしてサークル参加を行うようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2010年代に入ると、2011年夏のC80では『魔法少女まどか☆マギカ』のブーム、2012年冬のC83以降は『ガールズ&パンツァー』のヒットによって所謂「萌えミリ(萌え+ミリタリー)」が新たなジャンルとなった。また、この年代からブラウザゲームやスマートフォンのアプリゲームから生まれたジャンルが増えたことも特記する点である。特に2013年夏のC84からは『艦隊これくしょん -艦これ-』のサークルが爆発的に増加し、2015年夏のC88からは『刀剣乱舞』などのブラウザゲームの同人サークルが激増した。このため前者はC86、後者はC89からジャンルコードに指定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2014年夏のC86では、演歌歌手の小林幸子が、これまでVOCALOIDを使って発表された楽曲をカバーした(歌ってみた)CDを製作、個人サークルとして参加し自ら手売りを行ったことが大きな話題となった。叶姉妹は、2016年冬のC91では来場しただけでも大きな話題となり、C92、C93ではサークル参加し、2000人を超える列ができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "スマホアプリゲームの普及に伴い、『あんさんぶるスターズ!』『アイドリッシュセブン』『A3!』のソーシャル乙女ゲーム御三家や『グランブルーファンタジー』などを扱う同人サークルも増えている。C92では『けものフレンズ』、C93ではスマホアプリゲーム『Fate/Grand Order』や『Fateシリーズ』の人気に伴い、C93では『TYPE-MOON』関連のサークルが急増した。また、『アズールレーン』などの中国発のブラウザゲーム作品の同人誌を出すサークルやバーチャルYouTuber等のYouTube発祥のコンテンツの同人誌を出すサークルが出てきた。また、最近では中国や台湾、韓国など東アジア諸国からのサークル参加者も増えてきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "有明移転後のコミックマーケットで特筆すべき点は、会場建物の構造上の問題からサークルスペースとしての運用が難しい西地区4階フロアを、コミックマーケット準備会が企業に販売・プロモーション・市場調査のスペースとして提供する「企業ブース」の本格的導入である(1996年冬のC51より)。企業ブースについては、初めて導入された晴海のC48(この時は新館2階奥半分を使用)にも導入がされており、企業の参加に関する趣旨について、C48の反省会時に当時の米澤代表より説明がなされていた。やがて企業ブースの常態化に伴って当初ほど批判の声は聞かれなくなり、企業ブースで販売・配布される限定商品を目当てに来場し、同人誌には目もくれない「企業専」と呼ばれる来場者たちも出てきているほどである。企業側でも、コミックマーケットが貸し出す企業ブースは高い販売効果が望めるプロモーションの場として注目されていると言われている。その結果、2000年代に入ると同人サークルなどと同様に抽選によって落選する企業まで出る事例もみられるようになり、2009年以降は企業ブースに落選した美少女ゲームメーカーの中にはコミックマーケット開催日前日に開催される「秋葉原電気外祭り」へと出展するケースもある。また、従来ではアニメ、ゲームなどに関する企業の出展が中心となっていたが、2012年夏のC82にグーグルが、同年冬のC83にマイクロソフトが出展すると、これまで企業ブースでは見られなかった一般的な企業・団体が出展するようになり、中には雪印メグミルク(雪印コーヒー)、サントリーフーズ(オランジーナ)、日本国際映画著作権協会(NO MORE 映画泥棒)(いずれもC84〜)、ディズニー(C85、『エンダーのゲーム』のPR)、本田技研工業(C86)、浜松市(C101、『夢見る男子は現実主義者』のPR)といった多様な企業がプロモーションの場として活用している。C87ではNHKが初の出展を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "会場利用の面でも企業ブースへの来場者が増えたことから、2008年夏のC74より安全面を考慮し、西地区4階フロアを全面的に企業ブースとして使用し、屋上展示場を来場者待機場所に変更、従来まで屋上展示場を使用していたコスプレ広場を北コンコースレストラン街そばの庭園に移転、同年冬のC75からは庭園と1・2日目は屋外展示場、3日目は屋外展示場が駐車場として占有される代わりに企業ブース待機列が少なくなる屋上展示場を開放して併用する形となる。その後ブリッジの慢性的混雑緩和のため東1ホールと西1ホール間の公道を試験的に通行出来るようにし、その後本運用するようになった。2012年冬のC83からはコスプレ広場を「コスプレエリア」と名称変更し、トラックヤードやエントランスプラザもコスプレの場として開放、さらに2014年夏のC86からは屋外展示場を全日使用開始体制を取ったが、3日目にトラブルが起きたため、念のために確保していた有明西ふ頭公園を急遽使用し、続くC87では正式にコスプレエリア化した。また、2009年夏のC76では会議棟の国際会議場でシンポジウムやステージイベントを開催、ついに東京ビッグサイトを全面使用する体制となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2013年夏のC84において、2日目の東ホールにてコミケに訪れた大勢の来場者達の身体から発せられた汗などの水分によって水蒸気が発生し、ホールの天井付近に溜まっていった水分が会場内の空調(冷房)によって冷却された結果、水蒸気が凝結して室内に白い霧のようなものが発生する現象(通称「コミケ雲」)が発生したといわれる。この現象は晴海時代にも目撃されているが、有明では近年においてはこれが初めてとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2016年夏のC90では2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた西ホール拡張棟建設開始や企業ブースの慢性的な混雑に伴い、企業ブースを西地区1階に移動して会期から最終日を削減した2日間のみにし(2日目の企業ブースは16時で終了)、サークルの配置も西4階も含めて変更したほか、ビッグサイト前交差点の横断も可能にし、庭園と東4・5・6ホールトラックヤードへのコスプレしたままでの行き来や、東京臨海広域防災公園で2014年冬のC87から併催されている「有明防災フェア」へのコスプレでの来場(実質的なコスプレエリアとしての使用)が可能となった。企業ブース出展期間が短縮された件に関しては、売上面では「初日で6割、2日目で3割」という状況から「大きな問題はない」と見る一方、プロモーション面では「コミケは体験する楽しみもある。最終日のダラダラ感も大事」「業界関係者が一堂に会しての意見交換をする時間がなくなる」などの指摘も見られ、これに関連して「出展企業も手慣れてしまい、サプライズがなく、プロモーション効果も弱くなっている」とマンネリ感に陥っている事や、「(個人サークルとして一般ブースに出展した)T.M.Revolutionの西川貴教や叶姉妹に対抗し得る、パワーのある作品を生み出せていない」という手厳しい意見も見られる。続くC91では東地区に新たに完成する東7・8ホールの使用を開始、最大規模での開催となったが、今後もビッグサイトの工事等に合わせてホールの使用形態が変わることになる。C91では後に「ラブライブ!スーパースター!!」の唐可可役に抜擢されるLiyuuが初めて来場したことも大きなトピックスであった。2017年開催のC92、C93ではサークルは東地区のみの配置となった。(西は企業のみであった)2018年のC94では西2ホールの工事完了にともないサークルは西地区への配置が再開され、企業は初の西地区と東地区との2か所配置となった。平成最後のコミックマーケットとなったC95では『みんなで筋肉体操』の小林航太がコスプレ参加し、大きな話題を集めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "元号が令和に変わった初のコミケとなったC96ではオリンピック・パラリンピック開催準備のため東地区を使えず、西展示棟および南展示棟をサークル配置とし、青海会場を企業ブースとして初の4日間開催となった。C96では準備会公式ツイッター発表で73万人の参加者とコミケ史上最大の参加者数となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2019年開催のC96、C97および2020年5月開催予定のC98はコミケ史上初の4日間開催であることが発表された(但しC98は中止、理由は後述)。また、東展示棟において東京オリンピック関連の一部占用が始まるため、C96よりサークルについては西展示棟ならびに2019年に完成した南展示棟とし、企業ブースについては別地区である青海展示棟が使用された。会場外の待機スペースとして確保できる面積が縮小された関係で、後半2日間の一般参加者の待機場所を確保するため、企業ブースが前半2日間に縮小されることになった。また、この4日間開催期間中は運営費用負担増のために一般参加者も有料化され、冊子カタログに付属または別途購入するリストバンドがないと入場できなくなった。そのC96では、第25回参議院議員通常選挙で比例当選を果たした山田太郎がサークル参加、現役国会議員がコミックマーケットに参加すること自体異例の出来事であった。冬に行われたC97ではなかやまきんに君が成長したゴン=フリークスのコスプレで参加して話題を集めた一方で、2020年12月14日にLiyuuが「ラブライブ!スーパースター!!」の唐可可役に抜擢されたことでスケジュールの調整が困難になったことを理由に、コミケに来場したのはこれが最後となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2019年冬のC97に続いて2020年夏に開催予定であったC98は、東京オリンピック・パラリンピックの開催時期と重なることもあり、開催日を5月2日 - 5日のゴールデンウィーク期間に前倒して開催される予定であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "しかし、2019年冬に発生した新型コロナウイルス(COVID-19)の世界中への感染拡大により、日本政府が2020年2月に決定した大規模イベント自粛要請や開催時の影響などを鑑み、同年3月27日にC98の開催中止が発表された。開催が決定していたコミケが中止されるのは、1975年の開始以来初めてのことである。東京オリンピック・パラリンピックも1年延期になるが、C98の延期はなく。次回の冬の開催番号はC99となるため、C98は開催番号としては初の欠番となった。C98の冊子版カタログについては、すでに印刷製本されていたために書店などで販売され、C98限定で電子書籍版も販売された(今後のコミケの開催存続に関わることから、コミックとらのあなとメロンブックスはC98の冊子版カタログの売上全額をコミックマーケット準備会に還元することを表明している)。そのためカタログには欠番はなく、カタROMについては製造されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "その後、新型コロナウイルスの更なる感染拡大に伴い、2020年4月7日に日本国政府より新型インフルエンザ等対策特別措置法32条1項に基づく緊急事態宣言が発令され、東京ビッグサイトの使用ができなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "なお、本来の開催期間だった2020年5月2日 - 5日は「緊急事態措置を実施すべき期間」と重なったこともあり、「コミックマーケット98」という証を残すべく、『がんばろう同人!』プロジェクトの一環としてTwitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ」を付けたつぶやきを上げることにより、C98が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ』が準備会主体で開催され、その公式Twitterでは本来の設営日である5月1日からリアルタイムで実際の時間に行なわれるはずだった出来事の過去の画像・映像が、実際の時間に合わせて投稿された。その際、一斉点検のジングルおよび開会・閉会のアナウンス(C98各日仕様)も実際の時間に合わせて投稿されている。準備会は「東京ビッグサイトは緊急事態宣言発令を受けて全館休館となっているため、絶対に東京ビッグサイトの近くには行かないでください。ビッグサイト周辺にスタッフはいません。」と強い警告を出していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "2020年7月12日、冬に開催予定であったC99についても、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点と、東京オリンピック・パラリンピックの開催延期に伴い東京ビッグサイト東展示棟が使用できないことを受けて開催を断念し、2021年のゴールデンウィークでのC99の開催を目指すことを正式に決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "同年11月17日に、C99(旧C99)を2021年5月2日 - 4日の3日間で開催することを発表するが、新型コロナウイルスによるさまざまな制約条件の下、1日数万人程度の来場者の規模とならざるを得ないと考えられるとしている。サークルの募集数は約2万3000で、C97の3万2000サークルから9000減になり、サークルに配る入場チケットも3枚から2枚に減り、一般参加の入場には事前の参加証購入が必要で、参加証を持たない人が自由に入場できる時間帯はない。その上で、購入希望者多数の場合は一般参加も抽選になる可能性があるとしている。参加者の負荷軽減の観点から青海展示棟は使用しない。また、特定の条件に該当する参加者に対しては、来場を自粛もしくは入場を拒否する旨を公表している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "12月30日 - 31日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ2」を付けたつぶやきを上げることにより、冬コミが実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ2』が準備会主体で開催された。専用の公式ホームページも作られ、開催期間中は午前10時からYouTubeにてコミケスタッフによる生放送も配信された。その際、開会・閉会のアナウンス(エアコミケ2各日仕様)も本来の時間に合わせて番組内で流されている。2021年5月2日 - 4日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ3」を付けたつぶやきを上げることにより、C99が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『エアコミケ3』が準備会主体で開催された。初日には、まんがレポート(まんレポ)特別版が公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "これにより、コミケ誕生から45周年だった2020年はコミケが通年で開催されなかったという異例の年となり、当初2021年夏に予定されていたC100は更に2022年夏に延期された。東京ビッグサイトの関係者は「年末年始が全館休館になったことは開場以来初めて」と異例の事態を物語っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "同人誌の印刷業務を一手に引き受け、市場規模の拡大と共に急成長してきた印刷業者は、相次ぐコミケの開催中止や延期に伴う受注減少で打撃を受け、中には従業員の勤務日数縮小や来年度の新卒採用を見送ったり、会社自体の廃業や倒産などの影響が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "その一方で、2020年9月17日には「マンガファンを愛するコミックマーケットに感謝と更なる発展を祈って」として、第49回日本漫画家協会賞特別賞がコミックマーケット準備会に贈られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2021年3月8日、3月7日までの予定だった1都3県に出された緊急事態宣言が3月21日までの2週間の延長になった影響により、イベントにおいて10,000人を収容人数の上限とする経過措置期間が2021年GWまで延長される可能性を考慮してC99(旧C99)の開催を延期し、2021年冬のC99(新C99)開催を目指すことを正式に決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "延期発表後、4月12日に東京都に蔓延防止等重点措置が発動されたのち、4月23日に緊急事態宣言が発令・同月25日に施行された結果、東京都からの通告で東京ビッグサイトの使用が禁じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2021年8月2日、2019年冬以来2年ぶりとなるコミックマーケット99(新C99)を同年12月30日から31日までの2日間で開催することを発表した。翌C100以降も2日間開催となる。コミックマーケットの2日間開催は、2005年冬のC69以来16年ぶりのことである。なお、新型コロナウイルスの感染状況の経過次第では再延期の可能性も示唆していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "強制的ではしないとしながらもワクチンの接種を奨励し、11月12日に来場者予定を55,000人とするのに合わせて『ワクチン・検査パッケージ』の導入と技術実証に参加することを表明した。これにより、C99の入場には2回接種してから14日を経過したことを示す『ワクチン接種証明』(予防接種済証、ワクチン接種証明書、接種記録書及びTOKYOワクションアプリのいずれか)又は『PCR検査結果での陰性証明』が必要条件となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "C99の冊子版カタログについては印刷しなかったことから、冊子版カタログで初めて欠番が発生した。また、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入、東西間のホール移動制限、無銭参加するコスプレカメラマンが後を絶たなかったことによる防災公園の使用取りやめおよび「有明防災フェア」の同時開催取りやめなど、新たな感染症対策を講じた。11月10日には、Cygamesから『ウマ娘 プリティーダービー』の性的描写および暴力的描写に関する二次創作の禁止が発表された。この影響は多岐に渡り、多くの印刷会社がウマ娘の成人向けの製本や、書店での委託を禁止する方針を固め、多くのサークルがウマ娘の成人向け作品の頒布を自粛するほど影響が大きかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "そして同年12月30日・31日、ついにコミックマーケット99(新C99)が開催された。当初、不安視されていた徹夜組や、国際展示場駅における始発ダッシュが確認できなかったことから、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入による一定の成果を挙げることができた。その一方で、感染症対策を理由に参加を辞退したサークルも少なくなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "C99では、会場への新たなアクセス手段として、ジェイアールバス関東が東京駅 - 国際展示場駅 - 東京ビッグサイト - 東京港フェリーターミナル間の路線バスの運行を開始した。この路線は都営バスなどよりは運賃が割高ではあるが、Suica、PASMOなどの交通系ICカードによる運賃の割引もあり、高速バス車両を使用した座席定員制運行でトイレやFree Wi-fiを装備しているなどの差別化を図っている。C99期間中は多くの利用があり、東京駅や東京ビッグサイトには乗り場に係員が配置され、混雑状況により臨時便の運行もされた。 また、江ノ島電鉄300形の夜間試運転の際に騒がせた、江ノ電自転車ニキことHome taco barの店主がサークルとして参加し、話題を集めた。2020年秋季にテレビアニメが放送され、なおかつ東京ビッグサイトが虹ヶ咲学園として登場した関係上、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』のコスプレをしたコスプレイヤーが激増した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2022年夏開催のC100では記念ロゴが作られ、準備会は「C100で頒布するものに限り、C100記念ロゴを使用しても良い」という特例が設けられた。TYPE-MOONの竹箒がC74以来の出展、C95のカタログ表紙を描いたワダアルコもサークル参加、「3月のライオン」等で知られる羽海野チカが1999年のC57以来の出展、羽海野チカのサークルにはマフィア梶田が売り子として参加し、大熱狂に包まれた。また、2022年1月17日よりゆうちょ銀行ATMの利用手数料が設定されたことを受けて、準備会から「東京ビッグサイトにあるゆうちょ銀行のATMで金を引き出す際、曜日と時間によっては手数料を取られます」と改めて注意喚起が出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2022年冬開催のC101では参加可能人数を拡大、2022年のトレンドとなったテレビアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の作者であるはまじあきが参加したことにより、列が非常に長くなったことを確認し、はまじが準備会にスペースの位置を移動するよう要望を出したほどであった。『仮面ライダー龍騎』で秋山蓮 / 仮面ライダーナイトを演じた松田悟志がサークル参加し、コスプレ広場にも顔を見せ、仮面ライダー王蛇のコスプレをしたコスプレイヤーとの共演が実現する。その後に、『仮面ライダーギーツ』のコスプレをしたコスプレレイヤーも加わった。また、同年インターネット・ミームになった『車道で叫ぶ米津玄師を叫びながら撥ねる宮本浩次』というマニアックなコスプレも登場。この撥ねられる米津玄師のコスプレや、チェンソーマンのキャラクターとともに小走りで行進する米津玄師のコスプレが香港のメディアでも取り上げられるなど話題になった。『ブルーアーカイブ』の統括プロデューサーであるキム・ヨンハが来日し、Yostarブースとブルーアーカイブの同人誌を扱うサークルを視察した。これがきっかけでC102でブルアカを扱うサークルが急増し、C103でジャンルコードが独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "2023年夏開催のC102では、コロナウイルスが5類に移行したことにより、入場制限を撤廃した。ビッグモーターの保険金不正請求問題を受け、ビッグモーターのコスプレをするコスプレイヤーの参加が目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1990年代に入ると技術革新により各種同人作品の制作が容易となったことなどから、コミックマーケット参加者は急激に増加した。東京秋葉原・大阪日本橋を中心として日本全国に同人誌専門店などが増えインターネットなどを通じてより手軽に同人誌が入手できるようになっている(中には、コミックマーケット開催前に同人誌専門店で販売されるケースもある)。また、取扱ジャンルの細分化が進んだ状況としても日本全国の同人作品の制作者とファンが一堂に会する同人イベント最大の場として存続している。中にはこのイベントでしか扱っていないマイナージャンルもある(例:漫画研究会のサークル)。また、「モノづくり」をテーマともしているジャンルも存在しており、京都大学機械研究会OBのサークルが紹介されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "近年、コミケを題材に制作されたドラマや秋葉原、池袋周辺などが注目された関連で社会的に広く認知されるイベントになった。開催日の前後にはコミックマーケットがテレビのニュースや個人のSNSでとりあげられることも多い。その一方、予備知識を持たない興味本心だけの参加者の増加もしている。そういった参加者向けに運営側は注意事項等を公式サイトで公開している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "その一方で参加者の驚異的とも言える増大によるイベント巨大化、企業との関係、さらには法令による「有害図書」規制やコスプレ、二次創作、パロディ表現にまつわる表現(とりわけ性的表現)との関係、イベントにおける多大な頒布・売買行為の税務上処理などいくつかの課題も内包している。そのため、1996年以降は一部の「コミックマーケットSP」以外は別会場の例外はあるが、主に東京国際展示場(東京ビッグサイト)であることが多い所からも会場管理の東京都や警視庁(管轄:深川警察署・2008年以降は東京湾岸警察署)との調整も行っている。コミックマーケットは以前の漫画マニア向けイベントから一般化が進み、参加者数は3日開催で55万人、4日開催で75万人(C97)を超え、開催日数にあわせてサークル参加者も増大した大イベントとなっており、施設の効率的な運用方法や行政からの指導などの対策すべき問題も多く存在している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "しかし前述のとおり、新型コロナウイルス感染拡大に伴う事象の変化と、徹夜組・始発ダッシュ組を排除する対策の方針により、C99以降はホールの拡大により会期が2日間に短縮され、一般参加者にも入場料が求められるようになり、入場券は事前抽選制へ移行。当日券の発売もなくなった。このため来場者数そのものが急減しており、C99の来場者数は2日間で11万人にまで縮減されていた。一般参加の制限が無くなったC102でも猛暑を嫌う一般参加者が続出し、C102の来場者数は26万人と、最盛期であったC97の75万人の1/3まで減少している。", "title": "歴史" } ]
コミックマーケットとは、コミックマーケット準備会(以下、「準備会」と表記)が主催する世界最大の同人誌即売会である。1975年12月21日、伝説的な漫画雑誌『COM』と24年組に触発された漫画批評集団「迷宮'75」によって開始された。現在は年2回の開催で、夏は8月、冬は12月に開催される。コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化しており、即売会のみならず国内最大規模の屋内イベントとなっている。
{{複数の問題 | 参照方法 = 2010年8月9日 (月) 11:07 (UTC) | 更新 = 2011年9月4日 (日) 15:12 (UTC) | 独自研究 = 2010年8月9日 (月) 11:07 (UTC) }} {{イベントインフォメーション |イベント名称=コミックマーケット |英文表記=Comic Market |種類=即売|即売会 |画像=Comiket logo.svg |画像サイズ=270px |画像説明= |通称=コミケ、コミケット、Cxx(xには開催回数) |開催時期=8月中旬([[お盆]])<br />12月下旬([[年末]]) |初回開催=[[1975年]][[12月21日]]([[日本消防会館]]会議室) |会場=[[東京国際展示場]]<br />{{Small|{{See also|#歴史}}}} |主催=[[#コミックマーケット準備会とその関連企業|コミックマーケット準備会]] |共催= |後援= |協賛= |企画制作=[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]] |協力= |運営= |プロデューサー=[[霜月たかなか|原田央男]]→[[米澤嘉博]]→[[安田かほる]]+[[筆谷芳行]]+[[市川孝一]] |出展数=約2万[[同人サークル|サークル]] (C100)<ref>{{Cite web|和書|date=2022-08-23|url=https://www.comiket.co.jp/info-a/C100/C100AfterReport.html|title=コミックマーケット100アフターレポート|publisher=有限会社コミケット |accessdate=2022-09-25 }}</ref> |来場者数=約26万人 (C102)<ref>[https://mantan-web.jp/amp/article/20230813dog00m200023000c.html コミケ102:2日間で26万人来場 前回より8万人増 入場規制を大幅緩和],2023年8月13日,まんたんウェブ</ref> |会場アクセス名= |最寄駅=[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]・[[東京ビッグサイト駅]]<br />[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[国際展示場駅]] |直通バス=[[都営バス]]が[[東京駅]]・[[門前仲町駅]]から<br/>[[ジェイアールバス関東]]が東京駅八重洲口から |駐車場=なし |URL=https://www.comiket.co.jp/ |特記事項= }} [[ファイル:Big sight east(sky view).jpg|280px|thumb|会場の一つとなる東京国際展示場 東展示棟]] [[ファイル:big sight west(sky view).jpg|280px|thumb|会場の一つとなる東京国際展示場 西展示棟(左)]] '''コミックマーケット'''({{lang|en|''Comic Market''}}、略称:'''コミケ'''、'''コミケット''')とは、コミックマーケット準備会(以下、「準備会」と表記)が主催する世界最大の[[同人誌即売会]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202208130001039.html|title=国内最大の同人誌即売会「コミックマーケット」開催100回迎える「素晴らしい伝統」参加者|publisher=日刊スポーツ|date=2022-08-13|accessdate=2022-08-14}}</ref>。[[1975年]][[12月21日]]、伝説的な漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』と[[24年組]]に触発された[[漫画評論|漫画批評]][[同人サークル|集団]]「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]」によって開始された。現在は年2回の開催で、夏は8月、冬は12月に開催される。コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化しており、即売会のみならず国内最大規模の屋内イベントとなっている。 == 概要 == コミックマーケットは[[1975年]][[12月21日]]、[[漫画評論|まんが批評]][[同人サークル|集団]]「'''[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]'''」こと[[亜庭じゅん]]、[[霜月たかなか|原田央男]]、[[米澤嘉博]]、[[高宮成河]]の企画・主催のもと、旧[[日本消防会館]]ビル内の会議室を借りて32サークルが出展し、参加者約700人で初開催された<ref>「2007年末に東京ビッグサイトで行われた『コミックマーケット73』は3日間の開催中にのべ50万人が参加し、参加サークルの数は3万5000。これに対して『第1回コミックマーケット』は1日のみの開催だったが、参加者は700人。参加サークル数はわずか32にすぎなかった。両者の間に32年の差があるとはいえ、規模から見れば雲泥の差どころの話ではない。それでもコミックマーケットはまさしく、このささやかなイベントから歩みを始めたのである」[[霜月たかなか]]『コミックマーケット創成記』[[朝日新聞出版]]([[朝日新書]])2008年, Kindle版, 位置No.全2937中58 / 1%。ISBN 978-4022732507</ref>。なお、コミックマーケットの主催団体は当初から「コミックマーケット準備委員会」であるが、実質は「迷宮」そのものだった<ref name="dilemma">「『コミックマーケット準備会』設立に至った経緯は、亜庭じゅんによれば次のようになる。/『マジに開催のことを考えなければならなくなった時、“迷宮”はちょっとしたジレンマに陥る。コミケットの運営主体をどうするかという問題であった。理論上はコミケットの運営は参加者自身が行なうべきだという点で異論はなかった。だが、数々のイベントを批判的に検討してきた結果から、組織は必ずと言っていい程硬直するという認識も共有されていた。“迷宮”が主催ということで立てばいいという話ではない。理想としていたのはサークルの自由連合による運営だった。だが、運営主体が暴走し始めた時のセーフティネットをどう担保するか。/そこで僕らはある姑息な手を打った。コミケットの運営を“迷宮”とは別組織にして、サークル主体に見せながら、実体として“迷宮”が運営を担うことで当面はそのポリシーは維持する。将来的にこちらが信頼できる人材が出てくれば、そちらに徐々に運営を移行していく。平たくいえば、裏で糸を引こうという発想である。準備会という名前にはそんな隠れた意図もないわけではなかった。“迷宮”はコミケットのさらに先を見ようとしていた。しかしそんなはかりごとはうまくいくわけもなく、ひょっとしたらと期待した準備集会でも、参加者はコミケットのイメージすら判然としない状態、とても運営までは頭が回らない。こちらも海のものとも山のものともつかない状態であってみれば、当然の結果ではあった。』」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)143P</ref>。その後、主催団体は「コミックマーケット準備会」の名称で定着し、現在は「迷宮」から独立した組織として運営されている。 コミックマーケットは毎年8月(通例、8月15日頃の[[お盆|旧盆]]にかかる週末<ref>3日間開催以降、2012年までは金曜日から始まり日曜日で終わるのが主だったが、2013年は土曜日から始まり月曜日に終わる。</ref>)と12月(通例、12月29日から31日<ref>[[12月28日]]が[[日曜日]]([[主日]])の場合、12月28日から30日。</ref>)の年2回、[[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)に開催される。現在の開催期間は主に3日間<ref>後述の通り、[[2021年]]は[[12月30日]]と[[12月31日|31日]]の2日間。</ref>。8月に開催されるものは「'''夏コミ'''」、12月に開催されるものは「'''冬コミ'''」と呼ばれる。2022年8月現在、開催回数は定期開催だけで100回を数える。 コミックマーケットは回を重ねるごとに大規模化し、それに伴い一般にもその存在が知られた。[[2013年]]夏に行われた「コミックマーケット84」では東京ビッグサイトを3日間借り切った状態でサークル参加者数は約3万5000スペース、一般参加者数は59万人にも上った。準備会がサークル参加者に提供するブース(「スペース」という単位で呼ばれる)は不足しており、いくつかの特例(用意した大量の頒布物を捌く必要性から毎回2 - 3スペース分を準備会より与えられる一部の大手サークルへの優遇など)を除いては書類審査と抽選によって選ばれる。参加ジャンルによるが応募のおよそ50~70%程度が当選し、残りは落選という形になる。 大規模化に伴い、いくつかの問題点も指摘されるようになった。詳細は[[コミックマーケットが抱える問題]]を参照されたい。 === 特徴 === コミックマーケットは世界最大の同人誌即売会である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/game/news/1217389_1124.html|title=世界最大の同人誌即売会“コミックマーケット74”にゲームメーカーが多数出展|date=2008-08-15|author=ファミ通.com |accessdate=2011-02-07 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://akiba.kakaku.com/event/1012/29/204500.php|title=コミックマーケット79(C79)開催! 冬コミとしては過去最高規模の人出|author=アキバ総研|date=2010-12-29 |accessdate=2011-02-07 }}</ref>。また屋内で行われるイベント(展示会なども含む)としても最大規模を誇る<ref>一日当たりの入場者が10万人を超える屋内イベントは、日本ではコミックマーケットのみである。東京ゲームショウは2011年で最大83,744人(最終日・過去最大)、東京モーターショーは2009年で最大73,400人(9日目)</ref>。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]最大の[[漫画|コミック]]・[[ポップカルチャー]]コンベンションである「[[コミコン・インターナショナル]]」や日本国内では「[[コミックシティ|SUPER COMIC CITY]]」などこれに迫りつつある同人誌即売会も存在する。コミックマーケットには多種多様な[[同人]]サークルが自作の物品を展示・頒布する。コミックマーケットというイベント名から[[漫画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]だけを扱うイベントと思われがちであるが、規則に抵触しない限りはどのようなジャンルの作品でも頒布可能であり、漫画・アニメ・ゲーム以外の音楽・[[アイドル]]グループの[[ファン]][[同人誌]]、[[ゴシック・アンド・ロリータ|ゴスロリ]]服や[[コスチューム・プレイ|コスプレ]]衣装、手作り[[装身具|アクセサリー]]、同人[[ハードウェア]]、[[ガレージキット]]、人形作家による人形、[[教員|教師]]・[[看護師]]・[[パイロット (航空)|操縦士]]・[[鉄道員]]・[[エンジニア]]などの専門的職業従事者の日常が描かれたもの、また[[ペット]]・[[ガーデニング]]・[[紅茶]]などの愛好家による同人誌まで現代日本の様々な[[ポップカルチャー]]が一堂に集うイベントとなっている。他にも[[過激派]]([[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]等)が参加したことがある<ref>{{Cite web|和書|title=「天皇決戦」叫んだ中核派、今はコミケ出展 ブースで売っていたもの |url=https://withnews.jp/article/f0190524001qq000000000000000G00110101qq000019219A |website=withnews.jp |access-date=2022-08-06 |language=ja |last=withnews編集部}}</ref>。また多種多様な[[コスプレ|コスプレイヤー]]が参加することでも有名で、コスプレ撮影は指定エリア以外は禁止されているが、コスプレのまま会場全域を廻ることもできる。 コミックマーケットには膨大な参加者が集まるため、サークル参加者の多くが年間スケジュールをコミックマーケット開催周期に合わせており、コミックマーケット以外では同人誌の頒布を行わないというようなサークルも多数存在する。そのため、[[コミックマーケットが抱える問題#徹夜組|徹夜組]]や[[転売屋]]などの問題も発生している。[[1990年代]]後半以降では[[同人ショップ|同人誌を専門に取り扱う書店]]の販売網拡大や[[インターネット]]の普及などにより、こうしたサークルの発行物も入手する手段が他にも増えてきており一部発行物に限って言えば会場まで足を運ばずとも入手出来るようになった。しかし依然としてコミックマーケットは同人サークルと参加者が一堂に会する最大級の同人イベントとして存続している。※参加者の区分については「[[コミックマーケット#参加者の区分|参加者の区分]]」の節を参照。 [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]や[[動画共有サービス]]における現地映像の共有の他にアニメ作品でもコミケの様子が描かれることがあるため、海外でも日本のオタク文化を代表するイベントとして知られている。コミケ全参加者の数%が外国人との情報もあり<ref>{{Cite web|和書|title=コミケ参加 数%が外国人~シリーズ五輪の影~ |url=https://ev-news.jp/?p=3002 |website=国際イベントニュース |access-date=2022-08-06}}</ref>、コミケのために来日する外国人も数多く居る<ref name="訪日ラボ">{{Cite web|和書|title=外国人にとってコミケが「特別」な理由/現地同人誌事情とコスプレイヤーの思惑 |url=https://honichi.com/news/2020/05/15/comicmarket/ |website=訪日ラボ |date=2020-05-15 |access-date=2022-08-06 |language=ja}}</ref>。[[2019年]]のコミックマーケット97準備会の国際部デスクを訪れた外国人参加者だけでも5大陸45ヶ国からの参加を確認している<ref name="訪日ラボ"/>。従って、コミケは既に国際的なイベントになりつつあると言える。 === 理念 === 現在のコミックマーケットが、理念として掲げているのは以下の内容である<ref name="comiketoutline">[http://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn201401.pdf コミックマーケットとは何か? 2014年1月] - コミックマーケット準備会</ref>。 * コミックマーケットは同人誌を中心としてすべての表現者を許容し継続することを目的とした表現の可能性を広げる為の「場」である。コミックマーケットは、サークル参加者、一般参加者、スタッフ参加者、企業参加者等全ての参加者の相互協力によって運営される「場」であると自らを規定し、これを遵守する * コミックマーケットは、法令と最低限の運営ルールに違反しない限り、一人でも多くの表現者を受け入れることを目標とする * コミックマーケットは、全ての参加者に取って「[[ケとハレ|ハレの日]]」であることを願い、継続を最大の役割として行動する コミケットの理念は、大まかに2度大きく手を加えられている。 * 第1期 「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」の理念 - コミックマーケットの創設母体となった批評集団「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]」が『[[漫画新批評大系]]』所収「マニア運動体論・序説」([[亜庭じゅん]])で発表した内容である<ref name="mania">「『マニア運動体論』は新批評大系の第1期を通じて6回連載された。批評集団として出発し、自らを『運動体』と規定した[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]の状況認識であり、活動方針であり、宣言でもあった。迷宮というグループの結成後、毎週末ごとの会合での話し合いを基に、メンバーを代表する形で[[亜庭じゅん]]が執筆した。従って、公式には執筆は『迷宮』ということになる。『マニア運動体論』6回の連載はコミックマーケットの開始と並行していた。『序説』と『第1回』『第2回』が書かれた時点ではコミックマーケットは構想のみ存在し、姿を見せておらず、続く3回の連載はようやくコミケットが安定していく過程に重なる。『マニア運動体論』は暗中模索で走りだしたコミケットの初期、迷宮=コミケットの共通認識として機能した。亜庭じゅんは殆んど徒手空拳の状況でこの連載を書いたが、[[COM (雑誌)|COM]]以後のファン状況を可能な限り批判的に見ることは、新しい道を探るために必要な作業でもあった。この論考は亜庭じゅんにとって新批評大系7年の批評活動を越えて、ダイレクトに後の創作同人誌即売会・[[まんが ギャラリー&マーケット|MGM]]の開催に繋がっていくように見える」「マニア運動体論・編注」『漫画批評大系 vol.16 亜庭じゅん大全 A LONG LONG STORY』([[迷宮 (同人サークル)|迷宮'11]] 2011年12月31日)477P</ref>。自らが「運動体」であること、まんがファンの、まんがファンによる、まんがファンのための「場の構築に向けた[[社会運動|運動]]」であることを理念とし、コミックマーケットもまた、「迷宮」の行う「運動」として位置付けられた<ref name="mania"/><ref>『コミックマーケット40周年史』 p.206-209</ref><ref>「立ち上げた時にみずからの活動理念として『マニア運動体論』(本書巻末に序説全文再録)を掲げた『迷宮'75』は、それを『漫画新批評大系』に発表。このなかでコミックマーケットも、『迷宮』の行う『運動』として位置づけている。つまり『マーケット』といっても市場の機能を果たすだけではなく、まんがファンの交流の場としてそれを成立させたうえで、そのような場を持続・発展させていかなければならないと考えたわけである。そのためには参加サークルの協力が欠かせないことから、僕らは参加サークルを集めての『事前集会』や『反省会』を通して主催者及び参加サークルどうしの交流をはかり、お互いが補完関係にあることの認識を深めてもらおうとしたのだ。いや、こう書くと何か堅苦しいが、要はそういう交流を通していろいろなサークルとつながっていくこともまた、コミックマーケットを主催するうえでの大きな楽しみだったのである」霜月たかなか『コミックマーケット創成記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年 (Kindle版, 位置No.全2936中 211-218 / 7%。ISBN 978-4022732507)</ref>。ただし、序説が書かれた段階でコミックマーケットは構想のみ存在しており、姿を見せておらず、この時点ではコミックマーケットの理念として、体系的にまとめられたわけではなかった<ref name="mania"/>。 {{Quotation|〔……〕批評者の集団としての[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]は文字どおり、マンガ状況に迷宮をもたらすものとして登場した。 言葉によってマンガに関わっていこうとする意志において一致し現在の一見平穏に見えるマンガ状況に動乱と混迷を注ぎ込み、一切を変革の激流の中へ叩き込むべく活動する。 〔……〕我々は、批評活動の別の側面として、同じ方向性を持つ全ての運動に関わっていく。マンガ空間の拡大の為の一切の活動は我々の内にある。アニメ、演劇、資料整備、各種大会、さらには海外ファンダムとの交流等、そして各種ファン・グループの連絡センター等やるべきことは余りに多い。しかし、我々はそれをやっていかねばならない。状況に対して否という以上、我々はその責任を回避する意識は全くない。ファンダムの現状を幻影として棄て去った今、我々は、自らの手で、そのファンダムを現実に出現させ、一切、幻影のかけらを放逐し、マンガの変革への巨大なうねりを巻き起こさねばならない。 ────すべてはここより始まる。だが、序章は序章にすぎない。本論とは、次号より連載される諸々の論考と共々、我々自身の行動そのものによってこそ展開されるであろう。我々ははっきりと予告しておく。 ────我々の本論が明らかになる時、マンガ状況は、まさしく変革の嵐の中で、果てしない迷宮となることを! 批評集団 <ruby><rb>迷宮</rb><rp>(</rp><rt>ラビリンス</rt><rp>)</rp></ruby>'75 |迷宮'75『[[漫画新批評大系]]』vol.0 創刊準備号所収「マニア運動体論・序説」から抜粋}} * 第2期 「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」からの自立と分裂騒動 - 初代代表([[霜月たかなか|原田央男]])の辞任と共に、コミックマーケットは「迷宮」の手を離れ、1980年から[[米澤嘉博]]代表体制となった。準備会の分裂騒動を機に、改めてコミックマーケットの理念が明文化され、1982年夏のC21から、サークル参加者に頒布される『[https://www2.comiket.co.jp/archives/30th/30th_353_382.pdf コミケットマニュアル]』に収録された。ここで準備会は、まんがに関わるすべての表現を受け入れることを目的として開催の責任は負いつつも、コミックマーケットの生み出すものについては主体的に関わらない立場を明確にした。それは創業者サークル「迷宮」が掲げた「運動体」であることの放棄でもあった<ref name="aniwa748"> 「現在『マンガ世代』とはそのような自己を没入しうる者であり、オタクとも呼ばれる彼らが主役として迎えられる状況をコミケが作り出してしまった。だが『そういう場を最初に作り出したのはおまえたちではないか』と言われれば、全面降伏はしないまでも迷宮に立つ瀬はない。/しかし亜庭じゅんであれば、話は別だ。迷宮の名前でMGMを主催し、『これこそが迷宮のやろうとしていることだ』と言えば、数のうえではどうであれ、迷宮=MGMとして『迷宮がやろうとしたのはコミケではない』と言い切ることができる。つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ。もちろんそれを言うために亜庭じゅんがMGMを始めたわけではないし、MGM自体コミケを批判こそすれ、敵対するものではなかったが、迷宮の始めた運動を具現するものとして、MGMが存在した意味は少なくない。実体に即してみても、初期のMGMは亜庭じゅんみずからによる『マニア運動体論』の実践であったし、MGMの活動とはまさしく迷宮の活動であった。困難を抱えた小さな運動であっても、その意味においてMGMは、コミックマーケットに対して互角に屹立する即売会であったということが可能なのである。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P</ref><ref>「迷宮による『マニア運動体論』といっても、その実質は亜庭じゅんの執筆によるものであり、僕も米やんもいわば結果としてそれを追認したにすぎない。それほど言葉を駆使する亜庭じゅんの力は圧倒的であったが、筆鋒鋭く既存のまんがサークルを切り捨て、さらには米澤コミケにも斬りつけた言葉は、みずからMGMを開催した実践の段階においては、彼自身を切り裂く諸刃の刃となる。それでも彼は言葉に留まる『理論』よりも、現実に傷つく『実践』のほうを選んだと僕は考える。/そしてそれこそが『マニア運動体論』を反故にしないために彼が取ることが出来た、唯一の方法であったはずだ。さらにそのように『マニア運動体論』を貫徹しようとした限りにおいて、コミケ代表の立場を投げ捨てた僕でも、存続を目的としてコミケに主体的に関わることを放棄した米やんでも、東京という活動の場を共有できなかった高宮でもなく、ただ亜庭じゅんだけが最後まで『迷宮』であり続けたということができるだろう。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)749P</ref>。その後、1991年のわいせつ図画事件を期に法令遵守を明記するなど、状況に応じた小規模な改訂はあったが、2013年の改訂まで基本的に引き継がれて行くことになる。 {{Quotation|米やんが肚を決めて晴海で背負うことにしたのは、全ての参加希望者を受け入れた上でコミケットを開催し続けること、開催そのものを目的とし、それのみに責任を負う。そして後は全てを棚上げにして成り行きにまかせることだった。〔……〕 米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化した[[まんが ギャラリー&マーケット|MGM]]が引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。〔……〕 コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、「同人誌即売会とは何か」そして「自分は何故即売会を開くのか」ということだった。 原田央男は距離を開いてゆくこの二つの問いの間で自分の位置を決めることができずに代表を辞任した。 あにじゅんは離れようとする二つの問いを強引にひとまとめにし、即売会が始まった時の原点に戻ろうとした。 米やんは両方の問いを棚上げにし、意図的に思考停止することで、辛うじて開催の維持を可能にした。 三者三様に出した答えの可否を今になって問う気はないが、それが共に「始めたこと」に対する夫々の責任の取り方だったとは思う。〔……〕|高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』迷宮'13、2013年1月、27-28頁。}} * 第3期 共同代表体制による再定義 - 2006年に米澤が死去すると、後継となった共同代表([[安田かほる]]、[[筆谷芳行]]、[[市川孝一]])は「自分の言葉で」理念を語るべく、その改訂に着手した。その間、2012年に起こった[[黒子のバスケ脅迫事件]]で、警察による同作品同人の頒布自粛の「非常に強い要請」を受け、それを受け入れたことは、コミックマーケットにとって痛恨の事態となった。そして準備会にとっても、場の存続と表現の自由のいずれを取るかが迫られることになった。その結果、場の存続により比重を置いた新たな理念が、2013年8月のC84での改訂で発表された。同時に、[[非営利団体|営利を目的]]としない、[[アマチュア]]のための「システム」であり、「[[ムーブメント]]」として自らを規定した記述は削除された<ref>[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]がコミケットの運営から退いたあとも、運動体としてのコミケットという理念は(形式的とはいえ)残り続け、C83までの『コミケットマニュアル』には「元々、ムーブメント、趣味の活動として始まったコミックマーケット」(各回ごとの『カタログ』「準備会スタッフについて」)、「一つのムーブメントとして自らを規定します」(各回ごとの『サークル参加申込書セット』「コミケットの理念と目的」)といった言及があった。しかし、2013年8月の全面的な改訂を経た、C84以降の『コミケットマニュアル』からは「ムーブメント」の文言が全く消え、理念として「(自由な表現の)場」「ハレの日」としての機能がより強調されるようになった。</ref>。 === 開催ごとの流れ === おおむね、以下の流れで進行する(一部の日程は前後する)。 # 日程の決定。 # サークル参加申し込み受付開始、締切。 # 企業参加申し込み受付開始、締切。 # スタッフ参加者募集を兼ねた、「拡大準備集会」を[[東京]]で開催。通常、1開催につき3度開かれ、それぞれ1拡・2拡・3拡と略される。スタッフ参加を希望する者は2回以上参加する必要がある。また3回目(3拡)では一般・サークル参加者向けの質疑応答時間を設けていて共同代表に直接質問が可能である。3回目の日程は、サークル参加者向けのニュースメールおよびコミケットアピールで告知される。※2017年の冬コミの拡大準備集会は2回のみ開催された。以降も冬コミについては同様になると想定されるので注意。 # サークル・企業当落確定。カタログ製本開始。 # 前日搬入。開催前日から机イスなどスペースの準備を行い、初日参加のサークル搬入も受け付ける。次期サークル参加申込用紙頒布開始。 # 当日搬入、見本誌点検・提出。サークル参加者は一般参加者より先に入場し、開催の準備を行う。 # コミックマーケット開催。各日とも、4:30入場待機列整列開始、7:00サークル入場開始( - 9:00)、10:00一般入場・頒布開始、16:00サークル頒布終了、17:00企業頒布終了(最終日はサークルと同じく16:00終了)となる時間割が一般的である。4:30以前の来場は禁止されているが、違反する徹夜来場者が後を絶たない。 # 終了後、即日撤収。備品の片付け終了後、全体の、そしてスタッフ部署ごとの反省会を行う。全体の反省会は、代表や主立ったスタッフによる報告と一般・サークル参加者との質疑応答などを行う。拡大準備集会と同じく、代表が直接回答する。 === イベント名称 === コミックマーケットは、「'''コミケット'''」(Comiket)あるいは「'''コミケ'''」(Comike)という略称で呼ばれることが多い。開催開始当初は「'''コミック=マーケット'''」と[[ダブルハイフン]]入りで表記していた。この名付け親は、立ち上げ時のスタッフの1人であり防火管理責任者の明石良信である<ref>「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ――」『コミックマーケット20周年記念資料集』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P</ref>。このイベントの正式名称である「コミックマーケット」及びその略称・俗称である「コミケット」「コミケ」は、いずれもコミックマーケットの運営法人である有限会社コミケットが[[1998年]]に[[商標登録]]している。 しかし商標登録前から「○○コミケ」(例 広島コミケなど)という名称で開催されているイベントは商標権の侵害とならないため、コミックマーケット以外の同人誌即売会で「コミケ」という名称が使われることは珍しくない。これまで[[東京都|東京]]・[[神奈川県|神奈川]]・[[千葉県|千葉]]・[[茨城県|茨城]]・[[沖縄県|沖縄]]の1都4県以外でコミックマーケットが開催された実績はないが、この影響かコミックマーケットを知らない首都圏以外の地方在住者や参加し始めたばかりの若い年代層や同人誌即売会に詳しくない者の間では他の似通った形態の同人誌即売会も一律に「コミケ」と呼ぶ傾向がある。 === 開催回数の数え方 === コミックマーケットでは開催されるたびに「コミックマーケット○○」と呼び、○○に回数を入れる。略称は「C○○」。例えば2017年12月29日 - [[12月31日]]に開催されたコミックマーケットは「コミックマーケット93」、略して「C93」と呼び「第93回コミックマーケット」とは呼ばない。ただし、初回は「第1回コミック=マーケット」である。 上記の形式は、C4 - 5の頃に固まった<ref>コミックマーケット準備会『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』より</ref>。これはコミックマーケット準備会そのものが形式的には開催1回毎に解散及び結成を繰り返し、連続した団体としての体裁を持たないというスタイルから来たものである。この様式はC72まで続けられたが、開催ごとに解散を繰り返さないC73以降も呼称としてのCxxは継続されている。 定期開催以外には通常5年ごとに開催されている「コミケットスペシャル」があるが、こちらは独立して回数が計算され、通常の定期開催の回数には含まれない。 === 参加者の区分 === [[File:Doujincircle.jpg|thumb|サークル参加者のスペース例]] コミックマーケットでは、企業、サークル、スタッフ、一般来場者も全て含めての来場者を「参加者」と呼ぶ。これは'''コミックマーケットにおいて参加者は対等であり、「お客様」は存在せず、皆がコミックマーケットの参加者なのである'''<ref>参加者の一部にはこの理念を硬直的に理解し「客」という単語に過剰反応を示す者もいるが、各サークルが自サークルへの訪問者・購入者に対して「お客」と呼ぶことはこの理念とはまた別のものである</ref>、との理念からである。参加者の主な区分は以下の通りである。 なお、下記は[[コロナ禍]]が発生する前の参加方法であることに注意すること。コロナ禍発生以降は状況に応じて参加方法が変更されているため、公式サイトで確認する必要がある。 ; サークル参加者 : [[同人サークル]]として参加し、コミックマーケットより与えられた個々のスペース(ブース)で自作の同人誌やグッズなどの頒布を行う参加者。参加するためには事前にサークル参加の申込を行い、当選しないと参加することができない。参加するためには参加費が必要である。通常は机半分、椅子2脚が1スペースである。コミケでは通称として「サークル」と呼ばれる。 ; スタッフ参加者 : コミックマーケット準備会のスタッフとして参加し、運営や各種作業を行う参加者。無償の[[ボランティア]]だが[[弁当]]など飲食物とカタログ、サークル参加申込書が支給される。(カタログと次回のサークル申込書はスタッフとして注意事項やサークル参加者への告知内容を理解するために支給されている)スタッフ参加には事前に開催される「拡大準備集会」に複数回参加する義務がある。また開催時は設営から撤収までの通日参加が原則となっている。コミケでは通称として「コミケスタッフ」、「スタッフ」と呼ばれる。 ; 一般参加者 :サークルが頒布する同人誌や企業ブースの販売物の購入を目的とした参加者をいう。コミケ会場でのコスプレイヤーとしてのみの参加やコスプレイヤーを撮影するためだけの参加も一般参加者となる。参加するための事前申請・登録は不要で、入場料は無料。多くの他の同人誌即売会と異なり入場券がわりのカタログ購入が必須ではないため、カタログに記載されている注意事項や案内について理解されない参加者が増えており、禁止行為である会場付近での徹夜行為や早朝からの来場、会場内での飲酒のほかサークルや運営側に対していわゆる「お客様」対応を求める行為など「コミケの常識」を理解されない一般参加者がいるのも事実である(準備会が発行する[[コミックマーケット#カタログ|カタログ]]はコミックマーケットでの注意事項やルール、マナーを伝える手段でもあるため、準備会ではすべての参加者に熟読を呼び掛けている。C74より公式サイトでカタログの注意事項やルール・マナー部分を抜粋して公開をしている)。コミケでは通称として「一般」と呼ばれる。 ; 企業参加者 : コミックマーケット企業スペースに参加する法人・各種団体をいう。また、出版社・放送局などの取材も企業参加者に含まれる場合がある。コミケでは通称として「企業」と呼ばれる。 ※サークル参加及びコミケットスタッフへの参加資格は、公式サイトでは「申込時点で義務教育を修了している人」とされているが、「法的に中学校卒業以上の学歴がある人」という意味であり、中学校卒業以上の学歴がない場合は許可されない<ref>[http://www31.atwiki.jp/kizune/pages/32.html 義務教育の意味についての疑問] 2010年8月2日閲覧。</ref>(ただし、開催前日の設営については特に制限はない)。 これらの区分とは別に、以下のような形での参加もある。 ; 委託参加者(委託サークル) : スペースの取得に落選した、あるいはコミケに申し込みをしなかったなどの理由で、他のサークル参加者に同人誌その他の頒布を委託した者、またはサークルをいう。来場していない場合もあれば、一般参加者として来場している場合もある。当選したサークルが複数日、複数場所で頒布する目的で他のサークルに委託する場合もある。 :※コミックマーケット準備会でも過去に「同人誌委託コーナー」を設けていたこともあったが[[2007年]]夏のC72以降、委託コーナーを設けないと発表した<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C72/ConsignmentCornerConcluded.html 『同人誌委託コーナー』の中止について 2007年5月31日 コミックマーケット準備会]</ref>。準備会はその理由として、以下を挙げている。 :* 3日間開催において、抽選率70%以上を確保できる状況にある :* 抽選漏れサークルの救済という趣旨とは異なってそもそもコミケットにサークル申込を行っていないサークルが増え、コーナーの性格も変わりつつある :* これまでの会場の使い方では現状に適合しない部分もいくつか見えており、(現在委託コーナーが置かれている)会議棟含め会場施設などの利用方法について会場側とも調整を行いながら現在見直しを行っている : ※一方、中止はそれまで委託コーナーを運営してきた[[コミックマーケット#株式会社コミケプランニングサービス|CPS]]に関する事情もあると準備会は付け加えている(詳細は[[#株式会社コミケプランニングサービス|株式会社コミケプランニングサービス]]を参照のこと)。 ; コスプレ参加者 : [[コスプレ|コスチューム・プレイ]]を行う者たちを指し、開催当日の登録(有料)が必要。コミックマーケットではコスプレも表現の一部ととらえており、コスプレイヤーのために専用更衣室の用意や着替えを早くすることができる「先行入場」システム(事前申込が必要)を行っている。なお、企業参加者の中にコスプレをした企業社員や[[イベントコンパニオン|コンパニオン]]もいるが、これらは参加要件の違いからコスプレ登録は行っていない。 === サークル参加の方法 === サークル参加を希望する際は、指定された期間にコミケットに対してサークル参加の申込を行う必要がある。 * 夏コミ:2月上旬の約1週間 * 冬コミ:夏コミ前日設営日を初日とし、終了3日後までの約1週間 ** 期間は開催回によって異なる場合があるので、詳細はコミックマーケットオフィシャルサイトを参考のこと。 申込には参加を希望する回の前の回のコミックマーケットで準備会販売スペースで販売される「申込書セット」を1スペースにつき1部購入し、申込期間中に参加費の振込み及びサークル情報をまとめた「短冊」と呼ばれるものを準備会に送付する必要がある。申込期間外の送付は原則、全て書類不備として落選となるので注意が必要である。 郵送以外の申込方法としてオンライン申込がある。インターネットを利用したオンライン申込が長い間切望されてきたが、有限会社コミケットは有限会社サークル・ドット・エムエスとWeb申込受付に関する業務委託契約を締結し、コミックマーケット70([[2006年]]夏)の申込よりオンラインによる申込受付サービスを開始した。オンラインでの申込にも郵送と同様に申込書セットが必要となり、さらに郵送申し込みで必要な郵便払い込み手数料に代えシステム利用料として申込書セット以外に1000円がかかり事実上申込手数料が倍となるが申込期間が約1週間、サークルカット提出と申し込み内容修正がオンライン申し込み終了後更に1週間と期間が延長される利点がある。主に夏コミ終了後から3日間と期間が非常に短い冬コミの申込期間が延長される点で利用者は毎回増加している。ただし、その数の急増による事務処理上の問題からC75([[2008年]]冬開催)の期間延長日数は圧縮された。 なお、参加を希望する回の前の回のコミケに参加出来ないサークル参加希望者の為に申込書セットはサークル・ドット・エムエスにより通信販売も行われている。この通販は会期前及び会期後にそれぞれ行われ、基本的にオンライン申込用としている。しかし、夏の会期後のもの以外は基本的に郵送申込にも利用可能である。 サークル参加では机半分(90cm×45cm)分と椅子2脚が自スペースとして提供されるが、大手と呼ばれるサークルでは多数の一般参加者を捌く為にそれ以上のスペースが提供される場合もある。また、合同誌頒布の際などに友人のサークルと隣同士に配置をしてもらう「合体参加」という申込も可能となっており、その際は合体申込を行った2サークルで机1本分の配置となる。なお、郵送申込時には専用の合体封筒の購入が必要となるがオンライン申込の際はフォーム上のみで処理が可能となっており合体封筒を購入する必要はない。 C100の申込みにおいては、C99の状況を見てから日数などの詳細を決めることになったため申し込みセットは会場では販売されず郵送申し込みを対象とした通信販売のみとなる。オンライン申込みの場合はPDF版が供給されセット代が申込時に追加請求される形となる。また、手持ちのC99用セットも使用可能である。 === サークル参加の抽選 === サークルでの参加は申し込みサークル数に対して会場スペースが少ないため、抽選制となっている。 コミックマーケット準備会が発行している広報誌「COMIKET PRESS」によると人気ジャンルは申し込みが非常に多くなるため、若干当選率が下がり、逆に申し込みが少なく特にそのジャンルで申し込んだサークルが1つだけといった場合は、当選率を高くする傾向にあるという。これは、落選によるジャンルの存亡の危機を招かないようにするための配慮である。3回以上連続で(夏だけ、冬だけの申し込みも含む)落選すると、次の申し込みでは救済措置で優先的に当選するといわれているが、人気が高いジャンルにおいては4回以上連続して落選することもある。また、落選が書類不備による場合、この3回目救済措置は受けられない。サークル申し込みの際にアンケートにきちんと記入すると若干、当選率が上がるともいわれている。 ジャンル「学漫」については以前のコミケ代表だった[[米澤嘉博]]の「学生による漫画活動を援護したい」という考えにより軽度の不備であれば救済されることがあるが、学校名が記載されていない場合や申し込み代表者が学生ではない場合は落選となる(コミケットカタログ『配置担当者の一言』コーナーより)。同一校で複数の「学漫」サークルの申し込みがあると一サークル以外は落選することがある。しかし[[大学]]などで複数[[キャンパス]]を持つような場合はキャンパスごとに当選させるなどの配慮もしている。 なお、コミックマーケットにスタッフとして参加を行った場合、次回のコミックマーケット申込用の専用封筒が配布されており、これを用いた場合は軽微な書類不備であれば即落選にならない。(不備が複数個所や重要部分の場合はもちろん落選する) また申込封筒は大手の壁サークルや前日設営を手伝った一般やサークルに対しても配布されることがある。<ref>この封筒については通常の申し込み封筒と色が異なり青色となっていることから青封筒と呼ばれている。</ref><ref>[http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok7i.htm スタッフ用封筒/ 青封筒]</ref> サークル参加申込用紙は記入事項が多く、変更される個所も多い。「正確に申込用紙を記入しているサークル」と「記入や添付に不備があるサークル」を明確に区別して扱う方針のため、参加ジャンルを問わず書類不備による落選はかなりの割合を占める。しかし[[2000年代]]以降では3日間開催日程の回ならば実質の当選率はかなり上がっており、毎回書類の書き方にさえ注意すれば7割以上の当選を見込めるようになっている。例えば[[2017年]]冬のC93では当選率 76.19% で書類不備は落選数の一割未満ある<ref>「COMIKET PRESS」21号による</ref>。逆に2日間開催の時は書類不備を除いてもなお4割程度落選となり2004年冬のC68では当選率49%、不備で落選20%、抽選で落選29%<ref>「COMIKET PRESS」21号による。数値は原文のまま。</ref>で従って不備を除いた申込の62.8%が当選している。 いわゆる大手サークルと呼ばれているサークルについては致命的な書類の不備、準備会への非協力行為などがない限りは当選するといわれている。ただし、抽選[[免除]]が公にされているのはコミックマーケットの母体となった「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」のみ。また、免除ではなく「永久スペース提供」と表現されており、公にされているのも母体ゆえの特例と言える。しかし一般的なサークルの抽選も[[無作為抽出]]ではなく、申し込み時の内容が考慮されることが「COMIKET PRESS」などで明らかにされている。 [[画像:C88-firstdaycircleticket.jpg|thumb|300px|right|<SMALL>コミックマーケットのサークル参加者に送付される出展サークル専用通行証(コミックマーケット88。1日目(2015年8月14日開催)のもの。)。転売防止および個人情報を特定できるよう、5桁(5桁の上2桁は開催回、下3桁はジャンルコードとなっている)+4桁のサークル受付番号・配置場所・責任者の名前(本名)そしてサークル名が印字されている(いずれもぼかしの部分)。</SMALL>]] また、作業期間の関係で夏コミに比べ冬コミの方が書類不備の基準は厳格になる。例えばジャンルを間違えて申し込んだ場合、夏ならば正しいジャンルに配置してくれることもあるが冬は落選となる可能性が高い。特に開催日の違うジャンルと間違えた場合、配置作業は開催日ごとに並行して進めるためフォローが困難という理由で基本的に落選となる。 過去に不正な行為を行ったり、サークルスペースを確保したにもかかわらず参加しなかったり、参加したにもかかわらず頒布物がなかったようなサークルは以後の開催で落選させられることがあるといわれている。過去にはコミックマーケットスペシャル開催妨害や、サークル専用通行証の[[インターネットオークション]]での転売<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C88/C88Notice2.html 出展サークル専用通行証のネットオークションへの出品を行ったサークルの参加お断りについて 2015年8月9日] - コミックマーケット準備会</ref>を理由として永久追放になったサークルも存在する。ただ異論を排斥しない理念を掲げている(「[[#コミックマーケット開催まで|コミックマーケット開催まで]]」参照)以上、永久追放は最後の手段と位置付けられており懲罰的に落選させられたサークルでもほとんどの場合は前述の救済措置の適用は受けるといわれており、最低でも4回に1回は参加できることになる。 なお、ジャンルが[[二次創作]]の場合、申込が原作の発表(発売・放映・公開など)以前だと基本的に落選になる。これは、たとえ事前情報が出回っていたとしても「作品を鑑賞してからこそのパロディでありファン活動ではないのか?」<ref>「コミックマーケット73 カタログ」1298ページ</ref>という方針があるからである。ただしケースバイケースであり、また例外的に原著作者本人によるものは当選する可能性がある。 === カタログ === ;冊子版カタログ :コミックマーケットには数多くのサークルが参加するため、手ぶらの状態で会場に訪れて目的のサークルを探すのは会場の広さも相まって非常に困難である。このため、コミックマーケット準備会は毎回参加する各サークルの紹介とその配置の紹介を兼ねた冊子「コミックマーケットカタログ」を刊行している。カタログの印刷は、C95までは[[#共信印刷株式会社|共信印刷]]が、C96以降は[[大陽出版]]が担当している。参加するサークル及びその配置は毎回異なるので、カタログの内容も対応する回にのみ適用される。 :このカタログはおおむね開催の1カ月ほど前からコミックマーケット準備会のほか、大手書店や同人ショップによる通販などで販売される(C72まではCPSにおいても販売されていた。事情は「[[#株式会社コミケプランニングサービス|株式会社コミケプランニングサービス]]」を参照)。コミックマーケットの開催期間中に入場待機列付近や会場内でも購入することも出来る。 :巻頭には、コミックマーケットへの参加に関しての諸注意事項が掲載されている。大まかな諸注意については漫画形式で掲載されている。巻末には、投稿コーナー「まんがレポート(MR)」が掲載される。この記事は、前回のコミックマーケットに参加した人たちから募集した意見や感想を、一コマ漫画形式でその話題ごとにまとめたものである。まんがレポートは読み物としてほか、参加者のマナーの向上や問題提起、疑問の解決などに一役買っている。他、読み物としてカタログに掲載される記事には前回の開催内容を紹介する「アフターレポート」、準備会からの告知やアンケートへの返答を行う「コミケットプレス出張版」、コミケの諸事情を風刺した[[Dr.モロー]]によるショートコミック、コミケビギナーのためのアドバイスコーナー「Comi-Navi」などがある。 :カタログの巻頭には会場の各ホールの配置図が[[白地図]]様式で折り込まれていて本冊から取り外しして使用できる。この会場図に目的のサークルの場所を記したり同行者との待ち合わせの場所を記したりするなど、各々自由に利用することが出来る。目的のサークル等を記入した会場図は一部の参加者からは「宝の地図」と呼ばれている。 :数万のサークルを紹介するカタログのページ数は1000ページ以上にも及ぶ為、本文には特製の薄い用紙([[日本製紙]]製「ヘンリーコート R-50」)が採用されているが、それでもなおカタログ全体の厚さは数センチ、重さは数キロに達する。より厚い月刊漫画雑誌などより重いのは、サークルカットの刷り上がりが最適になるよう採用している用紙の性質による。それゆえ会場内で持ち歩くことを考慮し、綴じ部分(いわゆる「のど」の部分)からカッターナイフなどを用いて切り分けるなどカタログを分冊する者も少なくない。このことから一時期(C48、C52)は準備会側もカタログを開催日ごとに分冊化しての発行を試みていたが、開催日に対応した冊子のうちのいずれかが売れ残るなどの問題が解決出来ず結局1冊にまとめての状態へと戻った。 :かつては、開場後しばらくすれば会場内のゴミ箱からカタログを拾うことができたが、現在はほぼ全てのゴミ箱に会場の清掃業者が常駐し捨てられたものを分類・管理しているため、会場内のゴミ箱からカタログを拾うのはほぼ不可能となっている。一方で、以前から有志によって行われてきたカタログのリサイクルが近年では準備会によって行われるようになった。準備会スタッフによって回収された中古カタログは、当日販売用に用意された新品のカタログが売り切れた場合に限り、「森林保護募金の協力者への謝礼」という形で配布が行われる。 :C98ではカタログを制作したが後に中止が決定し同人書店などで記念品として販売されたものの大量に売れ残り、その影響でC99では一般販売はされずスタッフ向け業務用カタログのみが少量オンデマンド印刷で作成された。前述の薄い用紙ではなく汎用の用紙に印刷されたため開催日別の2分冊で、また背表紙の続き絵も省略された。 ;CD-ROMカタログ(カタROM) :C56からは従来の冊子型のカタログに加え、パソコン([[Windows]]・[[Macintosh]])で利用できる[[CD-ROM]](C81から[[DVD-ROM]])版のカタログも登場している([[通称]]「カタROM」)。当初は[[アスキー (企業)|アスキー]]の持ち込み企画として始まり、その後制作期間の問題が発生したことからC58より冊子版同様共信印刷が手がけることになった<ref>『コミックマーケット40周年史』 p.26</ref>。発売は毎回、冊子版の約1週間後となる。パソコンで扱えるデータということもあり、基本的な検索機能以外にも、チェックを入れた配置図やチェックリストのサークルカットを含めた一覧の印刷機能、過去のCD/DVD-ROM版カタログで出力されたチェックリストを元にしてサークル・作家のスペース配置状態をオートチェックできる「過去のカタログ読み込み機能」、サークル情報のオンラインアップデート機能や[[google]]を使ったサークル検索機能などのインターネット接続を活用した機能も搭載されている。また、冊子版に収録の情報に加え、落選となったサークルの情報まで収録されていることも大きな特徴である。C82からはまんがレポートも収録されるようになった。C88からは制作体制の見直しに伴い、カタROMはWindowsのみ利用できることとなった。共信印刷の廃業によりC97を持って制作発行は終了した。 ;WEBカタログ :Web上では、C74からは公式Webサイトにて開催前に諸注意ページ(コスプレの注意事項である「ちぇんじ」、コスプレ撮影の注意事項である「さいと」も同時に公開されている)を、開催後にまんがレポートを公開している。また、2012年7月31日に公式Webサイト上でWeb版カタログの開発を行うと表明、C83でβ版として11月2日より公開し、2013年夏のC84で正式版を公開しており<ref>[http://www.comiket.co.jp/WebCatalog/index.html Webカタログを始めるにあたってのご挨拶]</ref>、機能の拡充や動作スピードの向上、モバイル端末への対応、カタROM及び[[pixiv]]や[[ニコニコ動画]]、[[Twitter]]など外部サービスとの連携、コスプレ参加者向けのサービス「コミケコスプレコミュニティ」の運営などを行っている。Webカタログの開発に当たっては、サークル参加オンライン申し込みシステムを手がけたサークル・ドット・エムエスが中心となって行い、[[マイクロソフト|日本マイクロソフト]]の協力を得て、[[クラウドコンピューティング|クラウドプラットフォーム]]の[[Microsoft Windows Azure]]上にシステムが構築されている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20121104-a029/ 「コミックマーケット」カタログのWeb版がついに登場!! 無料β版を公開中],マイナビニュース,2012年11月4日</ref>。無料会員の場合は閲覧にライフ制を設定し、それが切れると5分後に回復するのを待たなければならない(有料会員になるとその制限は無くなる)。 :なお、これまでカタROM収録データを会場内でも活用できるよう、各種[[携帯情報端末|PDA]]や[[スマートフォン]]、[[タブレットPC|タブレット端末]]で閲覧するための[[ウェブアプリケーション|オンラインソフト]]・[[アプリケーションソフト|アプリ]]も複数公開されていたが、カタROM自体の不正コピー利用が多くなっているため、C86からWindows版で、C87からMac版で[[アクティベーション]]がかけられ、収録データもWindows版・Mac版収録の専用ソフトと[[iOS]]版・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版の専用アプリのみが使える形に移行、その後前述の通りC88からMac版への対応が終了したことに伴いWindows・iOS・Androidの専用ソフト・アプリのみ対応という形になっている。これに呼応する形でWebカタログではそのデータなどを外部ソフト・アプリで使えるようにする[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を公開しており、従来からあるアプリを含めC86からWebカタログのデータを扱えるアプリが登場してきている。 :#ブロンズ会員<ref name="WebCatalog_Charges">{{Cite web|和書 | last = | first = | author = | authorlink = | url = https://docs.circle.ms/webcatalog/ctn/credit/001.html | title = 有料会員サービス内容 | date = | website = Comike Web Catalog Cosplay Community 総合ガイド | publisher = Circle.ms | format = | doi = | accessdate = 2022-01-04 }}</ref> - 無料会員。有料エリアの利用制限は連続3分までで、使い切ると5分間待機。以下の機能は使用不可:お気に入り機能・コミケWebカタログアーカイブス、地図を含めたデータの印刷・保存・エクスポート(DVDカタログとのデータ連携)。 :#シルバー会員<ref>{{Cite web|和書 | last = | first = | author = | authorlink = | url = https://docs.circle.ms/webcatalog/ctn/credit/004.html | title = 申込サークルへのサービス提供(シルバー会員のご案内) | date = | website = Comike Web Catalog Cosplay Community 総合ガイド | publisher = Circle.ms | format = | doi = | accessdate = 2022-01-04 }}</ref> - サークル参加者の無料会員。PC版に限り、有料エリアの一部の利用制限が無くなる。対象はサークル一覧ページ(WebカタログView以外)、サークル詳細ページ、簡易検索ページ、詳細検索ページ、お気に入り機能。その他の制限はブロンズ会員と同様。また、C99では、チケットを購入した一般参加者もシルバー会員となることができた。いずれも、当該の回次限定の会員で、有料会員の手続を取らない限り、回次終了の7日後にブロンズ会員に戻る。 :#ゴールド会員<ref name="WebCatalog_Charges" /> - 有料会員。全ての機能が利用できる他、広告が一つ減り、専用サーバが用意されるため動作が速くなる。 === カタログの背表紙 === 当初カタログがただ一枚の紙だった時代、およびその後の[[中綴じ]]の時代には「背表紙」は存在しなかったが[[1986年]]冬(C31)に今のような[[平綴じ]]になり白い背表紙ができた。当初は「コミックマーケット×× カタログ」としか書いていなかったが、[[1989年]]冬コミ(初の幕張メッセ開催、C37)で発行されたカタログで初めて背表紙に絵が登場した。翌C38のカタログのマンガレポートにそのことに対する反響が2枚掲載されている。うち、1枚に対して編集が「カタログの背表紙の絵は永遠に続くよ」というコメントを寄せている。主に同人界で人気のあったジャンルが背表紙になっている。カタログが薄かった頃は背表紙のやや上の方とやや下のほうに交互に人物が配置されていたが今ではカタログが厚くなったため、交互に人物を配置する必要がなくなっただけでなく1作品から2人物を登場させることができるようになっている。最初期に背表紙に登場したジャンル、キャラクターは以下の通り。 * C37 原稿用紙と[[ペン]]を持って[[椅子|イス]]に座っている女性、[[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|ヤマト]](『[[宇宙戦艦ヤマト]]』) * C38 女性、ヤマトと[[古代進]]、[[シャア・アズナブル]](『[[機動戦士ガンダム]]』) * C39 古代進、シャア、ブラスター・キッド/木戸丈太郎(『[[銀河旋風ブライガー]]』) ===COMIKET PRESS(コミケットプレス)=== 1994年12月のC47より創刊された広報誌。カタログ、サークル参加申込書の補完と、準備会と参加者の交流の場の一つになっている。単独で購入することもできるが、サークル参加申込書を購入するとおまけに付く。2019年夏の第50号で冊子版の発行を終了し、以後はカタログ内やweb上で継続するとしている。バックナンバーをまとめた総集編も発売されている。毎号の主な内容は以下の通りである。 *表紙、裏表紙 - いずれもサークル参加者が原画を描いている。会場で直接制作を依頼するのが特徴。 *特集 - 各回ごとの特集。コミケットが関わる時事問題も扱う。 *ジャンル紹介 - コミケットのジャンル紹介とサークルの傾向などを解説。 *あの頃のコミケット - 過去のコミケットを振り返る。 *はたらくおぢさん - コミケットに関わる様々な職業と仕事の内容を紹介。相手が女性の時は「おねーさん」と呼ぶ。元ネタはNHK教育テレビで放送されていた『[[はたらくおじさん]]』。 *COMIKET PRESS Q & A - コミケットへの質問と回答。 *人として - コミケットの関連イベント、コミケットスペシャルなどの紹介。 *スタッフお仕事紹介 - 部署ごとのスタッフの仕事のあらましを紹介。 *○コミの不幸者 - 前回のコミケットで不幸な目に遭った参加者のエピソード。○は発売号が夏なら冬、冬なら夏が基本。 *コミケットトピックス - 前回のコミケットから今回開催までの主な出来事など。 *アンケートより - 読者投稿とコメント。   *トーンやかけ網の印刷目安や縮小率などの作画ヒント。 === 見本誌 === サークル参加者は頒布物の見本を無料頒布物を含め、必ず準備会に提出する必要がある。現在では年齢制限や過激な表現などの点検も兼ねており、性器の無修正や修正が小さいと判断した場合はある程度の修正を命じられる。 見本誌提出はコミックマーケットが始まった当初から行われており、現在では都内に専用の倉庫を用意して保存している<ref>C93より以前の埼玉に替わり都内にある倉庫に保管している。</ref>。初期には完全には強制できず買い取った物や他の即売会で買い取った同人誌もあるため、収蔵漏れやコミックマーケットでは実際には頒布していない同人誌も混じっている。現状、他の大規模な即売会で見本誌提出制を取っているのは「[[COMITIA|コミティア]]」「[[COMIC1]]」など少数である。 コミックマーケットとしては見本誌で資料館、あるいは図書館を設立する構想を[[1995年]]より表明していた。また、構想の実現前にコミックマーケットが終了する事態になったなら[[国立国会図書館]]への寄贈も検討していた<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/deposit_01qa05.html Q&A―企業・団体、個人]</ref>。制度上、同人誌も一部は(ホチキス留めなどの簡易製本や、表現上広く公開することに支障のある物は含まれない)国立国会図書館の[[納本制度|納本]]対象に入る。ただし、同人誌の納本例は少ない。 [[2008年]]、[[市川孝一]]がコミックマーケットとは別に代表を務める即売会「[[COMIC1]]」で見本誌を[[明治大学]]に寄贈する話が出た。しかし事前の告知が無くサークル参加者から反発が起こり、サークルが申し出れば寄贈対象から外すことでおさまった。同年冬に開催されたC75のサークル参加申し込みにでは同人誌図書館を設立する場合、どのような形で公開することが望ましいかという内容のアンケートが行われた。アンケートについては、その後の拡大準備集会でCOMIC1での見本誌寄贈は同人誌図書館構想のテストケースであると説明された。同人誌は不特定多数への頒布を想定していない物が多く、愛好者で内々に活動しているジャンルも多い。また、奥付に住所氏名などの個人情報を載せているケースもあるため、この件は見送られた。 その後も見本誌公開に向けた検討が行われ、[[2009年]][[10月31日]]に開館した[[米沢嘉博記念図書館]]においてC77の見本誌より閲覧を開始すると発表されている。ただし現在の構想では公開期間は限定であり有料の図書館利用者登録が必要になるほか、同人誌に関する詳細な情報を指定しないと実際に閲覧することはできないため実際の閲覧にはある程度のハードルが設けられる。問題となっている奥付の個人情報に関しては、所定の申請手続きをとれば該当部分にシールを貼って見えなくする措置が検討されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/qa/|title=米沢嘉博記念図書館 Q&A|publisher=[[明治大学]]|language={{ja icon}}|accessdate=2009-11-03}}</ref>。 === 参加者の年齢層・男女比などの内訳 === コミックマーケット公式の調査によると、参加者の年齢の中心層は[[中学生]]から30代ぐらいまでであった。回次と共に平均年齢は上昇傾向にあり、[[2013年]]8月のC84サークル参加者データによると、サークル代表者の平均年齢は男性31歳、女性32歳であった<ref name="comiketoutline" />。 男女比については、[[2010年]]8月のコミックマーケット78での調査<ref>コミックマーケット準備会、コンテンツ研究チーム(出口弘(東京工業大学)ら)「コミックマーケット35周年調査 調査報告」 『コミックマーケット81カタログ』2011年12月、1315-1334頁</ref>によれば、一般参加者では男性64.4%、女性35.6%と男性の比率が高く、サークル参加者では男性34.8%、女性65.2%と女性の比率が高い。一方、[[2008年]]2月に準備会が公開した資料「コミックマーケットとは何か?」によれば、一般参加者は女性57%、男性43%、サークル参加者は女性71%、男性29%であり、当時の準備会は「世の中の認識とは異なり、女性の参加者が多い」と結論づけた。また、[[2004年]]8月のコミックマーケット66でのコミック文化研究会([[九州大学]][[助教授]]・[[杉山あかし]])と準備会による試験的な計測では、男性がやや多いかも知れないという結果であった。2013年8月のC84サークル代表者内訳は、男性43%、女性57%と依然として女性が多いが、以前より男性が増えていると指摘している<ref name="comiketoutline" />。 2013年8月のC84サークル代表者の住所は、約7割が[[首都圏 (日本)|首都圏]]である<ref name="comiketoutline" />。開催会場が有明に移転して以来、日本国外からの参加者も増えている。参加形態も一般参加者だけでなくサークル参加者もある。一部には行列のできるサークルを主宰する者も出ている。このため準備会では「国際部」と呼ばれる外国語接遇セクションを強化、「フェロースタッフ」と呼ばれる他部署兼務の外国語対応スタッフを導入している。そのほか簡単な会話帳を配布するなどで対策を講じている。 === 定期開催以外のコミケット === ; コミケットスペシャル : [[1978年]][[5月6日]]に行われた、定期開催以外では初のコミケット。場所は新宿・[[四谷公会堂]]。運営費の赤字を救済するために行われたが、結果として赤字をさらに増大させてしまった。周年記念行事としてコミケットSP3以降は5年毎に開催されている。 ; コミケット IN 一橋祭 : 1978年[[11月5日]]に、[[一橋大学]]の[[大学祭|学園祭]]の一環として行われた。 ; さよなら晴海!!コミケットスペシャル(コミケットスペシャル2) : コミケット20周年記念として[[1996年]][[3月17日]]に開催。晴海国際見本市会場が東京国際展示場(ビッグサイト)へと役目を引き継ぎ閉鎖されることとなったため。サークルは申込ではなく招待とし、一般参加は事前申し込み制で開催された。 ; リゾコミ in 沖縄(コミケットスペシャル3) : コミケット25周年を記念して[[2000年]][[3月19日]]に[[沖縄県]][[宜野湾市]]で開催。首都圏以外では初の開催である。開催直前に宜野湾市の教育委員会に成人向け同人誌数冊とともに怪文書が送られた。なお、怪文書を作成したのはとある同人サークルでコミックマーケットから永久追放となっている。 : このイベントから5年に1度の周期でスペシャル版が開催されている。 ; 30周年記念 24耐(!?)コミケットスペシャル4 : コミケット30周年記念として[[2005年]][[3月21日]]に開催。設営から撤収までの全てを開催日の深夜0時から24時間以内で行い、サークルも午前と午後で総入れ替えを行った。準備会側では少々の赤字を出すにとどまった。 ; コみケッとスペシャル5 in 水戸 : [[2010年]]3月21・[[3月22日|22日]]に[[茨城県]][[水戸市]]の[[伊勢甚]]泉町北ビル(旧[[京成百貨店]])で開催された。開催コンセプトを「コミケで[[地域おこし|まちおこし]]」とし、同人誌即売会で町おこしを行いたい自治体や観光協会に呼びかけ、開催地を公募し決定した<ref>「[http://www.comiket.co.jp/info-c/CS5/ コミケットスペシャル5 コミケットでまちおこし]」、コミックマーケット準備会、[[2008年]][[9月15日]]<br/>「[http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20080915mog00m200003000c.html コミケ:2010年開催「スペシャル」の開催地を公募へ テーマは「まちおこし」]」、まんたんウェブ、2008年9月15日</ref>。同人誌即売会以外にも、[[偕楽園]]などの名所を巡るスタンプラリー、人気作家のイラスト入りパッケージによる地元特産品の販売、映画館でのアニメ作品オールナイト上映などが行われ、街を挙げての大イベントとなった。中夜祭では[[ご当地ヒーロー]]・[[イバライガー]]のステージショーと[[高取ヒデアキ]]のライブが行われた。タイトルは「コミケット」と「水戸(みと)」をかけている。このときのイラスト入りの各種特産品商品はいわゆる「萌えパッケージ」の先駆けとなった。 ; コミケットスペシャル6〜OTAKUサミット2015〜 : コミケット40周年記念として[[2015年]][[3月28日]]・[[3月29日|29日]]に[[千葉県]][[千葉市]]の[[幕張メッセ]]で開催された。「世界のコミケット」を目指すことをコンセプトに、日本だけでなく海外の参加者を招き入れることにした<ref>[https://otapol.com/2013/12/post-269.html オリンピック対策へ向けた布石か? 次回コミケットスペシャルが幕張メッセに決定] - [[おたぽる]]、2013年12月10日</ref><ref>[http://www.comiket.co.jp/info-a/CS6/CS6announcementJPN.html コミケットスペシャル6 ~OTAKUサミット2015~開催のお知らせ],コミックマーケット公式ウェブサイト,2013年12月29日</ref>。通常開催における幕張メッセの使用は[[#幕張メッセとコミケ追放騒動|後述]]。 : 通常通り国内外のサークル参加による同人誌即売会や企業出展を行ったほか、サークルが企画する展示ブース、海外の同人誌即売会やアニメ・漫画イベントを紹介するブース、国内外の漫画関連のミュージアムや国内の漫画などの舞台になった自治体が出展するブース、コミケが開催40周年を記念しての展示コーナーなどが設けられた。また、ステージ企画としてコスプレSNSの[[Cure (SNS)|Cure]]が協力して行うコスプレのステージイベント、千葉市長・[[熊谷俊人]]らの参加する[[シンポジウム]]や[[賀東招二]]、[[氷川へきる]]、[[松智洋]]によるトークライブ、中夜祭では[[魔法少女オーバーエイジ|魔法少女オーバーエイジズ]]([[砂守岳央]](沙P)&[[buzzG]]&[[飯田里穂]]&[[遠藤ゆりか]])、[[畑亜貴]]、[[少女病]]、[[Angela (音楽ユニット)|angela]]、[[上坂すみれ]]、[[小林幸子]]が出演するライブイベントが開催された。 : また、[[黒子のバスケ脅迫事件]]の影響を受けてC83で『[[黒子のバスケ]]』のサークルが参加中止になったことの代替イベントとして、同作品オンリーの同人誌即売会「くろケット」を[[コミックシティ|赤ブーブー通信社]]と[[スタジオYOU]]の協力を得る形で併催された<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/CS6/Release/20140425.html 黒子のバスケオンリー同人誌即売会『くろケット』開催決定について],コミックマーケット公式ウェブサイト,2014年4月25日</ref>。 ; 超コミケットスペシャル : [[2015年]][[4月25日]]・[[4月26日|26日]]に幕張メッセで開催の『[[ニコニコ超会議]]2015』内で行われたコミックマーケットの簡易出張版。即売会は行われず、コミケの歴史をたどっていく展示をおこなった。 ; 2020年 コミケットスペシャル開催見送り : 2020年は東京オリンピックの開催が近かったことや、GWにC98が予定されていたなどの理由により、コミケットスペシャルの開催が見送られた。 === 日本国外の類似イベント === アニメ・漫画のイベントとしては、日本国外にも以下のようなものがある。 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]] - [[OTAKON]] * [[アメリカ合衆国|アメリカ]] - [[ニューヨーク・アニメ・フェスティバル]] * [[カナダ]] - [[アニメ・ノース]] * [[オランダ]] - [[AnimeCon]] * [[フランス]] - [[Japan Expo]] * [[イタリア]] - [[ルッカコミックス&ゲームズ|Lucca Comics & Games]] * [[ドイツ]] - [[Animagic]]-[[Connichi]] * [[スロバキア]] - コミクス・サローン([[:en:Comics Salón|Comics Salón]]、秋イベント)、アニメショウ([[:sk:AnimeSHOW|AnimeSHOW]]、春イベント) - [[チェコスロバキア社会主義共和国]]時代の[[1988年]]に始まった[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ファンタジー]]・[[恐怖|ホラー]]ファンのイベント、イストロコン([[:sk:IstroCON|IstroCON]])が母体。現在のイストロコンは秋のコミクス・サローンと併催。 * [[スペイン]] - [[Salon del Manga]] * [[ルーマニア]] - [[NIJIKON (ルーマニア)|Nijikon]] * [[シンガポール]] - [[Cosfest]] * [[台湾]] - [[:zh:Comic World Taiwan|Comic World Taiwan]]、[[Fancy Frontier 開拓動漫祭|開拓動漫祭(FANCY FRONTIER)]] * [[中華人民共和国|中国]] - [[ComiCUP]]、[[ComicCon]]、[[:zh:成都同人作品交流会|成都ComiDay]] * [[香港]] - [[コミックワールド]]、[[:zh:Creative Paradise|創天綜合同人祭(Creative Paradise)]]、[[:zh:Rainbow_Gala|Rainbow Gala]] * [[マレーシア]] - [[Comic Fiesta]] 参考リンク:[http://www.cosplay.com/conventions.php 世界のコスプレイベント一覧] == コミックマーケット準備会とその関連企業 == {{Quotation|表向き、コミケットはサークルのもの、[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]がそれを主催するのは僭越であるという口実はあった。同時に迷宮以外には、ついにコミケットをその意味づけまでも含めて担いきる存在はないだろうという自負もあった。この二点のせめぎ合いから、出てきたのが「準備会」という聞き慣れぬ名前だったのだ。それは一回ごとのコミケットを運営するという以上に、毎回々々のコミケットの過程の果てに、幻のコミケットをいつか実現させるための捨て石だという自覚の結果であった。|亜庭じゅん「明石さんへ──」『コミケット20's』コミックマーケット準備会、1996年3月、420頁。}} === コミックマーケット準備会の代表 === # [[霜月たかなか|原田央男]] - [[1975年]]〜[[1979年]](C1〜C12) # [[米澤嘉博]] - [[1980年]]?〜[[2006年]]夏(C14?<ref>C84以降の『サークル参加申込書』「コミックマーケット年表(抜粋版)」では[[1979年]]のC13より「代表に就任」と記載されている。しかし、『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』では1980年就任とあり、矛盾する。また、C13時点で米澤が代表になったことを示す記録は公表されていない。</ref>〜C70) # [[安田かほる]]、[[筆谷芳行]]、[[市川孝一]] - [[2006年]]冬〜(C71〜) 初期は「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」による運営で実質的には[[霜月たかなか|原田央男]]、[[亜庭じゅん]]、[[米澤嘉博]]、[[高宮成河]]の4人が中心となっていた。名称も「準備委員会」だったり「準備会」だったりと、一定しなかった(C1では「準備委員会」)。「準備委員会」の名称は、「『準備する会』ならともかく『準備会』では、言葉の使い方がおかしい」と思った原田の提案だったが、「委員など決める必要はない」「“委員”という言葉は権威主義的」と批判を受け、定着しなかった<ref>霜月たかなか(原田央男)『コミックマーケット創世記』 pp.149-150</ref>。また、[[佐川俊彦]]によれば、草案に「準備委員会」となっていたのを、佐川は自分の苦手な、[[左翼]]運動的な名称と感じた。そこで「準備会」の名称を提案し、認められたという<ref>佐川俊彦「愛する米澤さんへ」 虎馬書房『米澤嘉博に花束を』 p68</ref>。米澤は、準備会が現在の(独立した組織としての)原形を持つ(ようになった)のは自身が代表になってからとしている<ref>コミックマーケット準備会『コミックマーケット30'sファイル』</ref>。原田は[[1979年]][[7月28日|7月28]]〜[[7月29日|29日]]開催のC12を最後に、準備会の運営から離れた。 その後、米澤は約26年間の長期にわたって代表を務めたが体調不良の為、C70を最後に退任した<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C71/060930.html 準備会による退任発表]。なお、米澤はこの発表の翌日に死去。</ref>。後任には副代表だった[[安田かほる]]、[[筆谷芳行]]、[[市川孝一]]の3人が米澤によって指名され、共同代表となった。米澤夫人の米澤英子は代表補佐でもあったが、夫の退任後も補佐に留任し、その後C82を持って代表補佐を退任している。 C69まで準備会は常設の組織ではなくコミックマーケット開催のたびに結成し、終了後解散する形を取っていた。会社設立以降は継続的な日常の業務については有限会社コミケットが請け負っていたが、個人情報保護法の施行によりC70以降は日常の業務も行うようになったため、解散すること無く継続して存在するようになった。 === 有限会社コミケット === {{基礎情報 会社 |社名= 有限会社コミケット |英文社名= |ロゴ= |画像= |画像説明= |種類= [[特例有限会社]] |機関設計= |市場情報= |略称= |国籍={{JPN}} |本社郵便番号= 150-0043 |本社所在地= [[東京都]][[渋谷区]][[道玄坂]]一丁目17番9号 | 本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = | 本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = | 本社地図国コード = |本店郵便番号= |本店所在地= | 本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = | 本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = | 本店地図国コード = |設立= [[1996年]]3月 |業種= |法人番号= 3011002016880 |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= ディスプレイ業<br />書籍・雑誌小売 |代表者= [[代表取締役]][[社長]] 安田かほる |資本金=300万円 |発行済株式総数= |売上高= |営業利益= |経常利益= |純利益= |純資産= |総資産= |従業員数= 7名 |支店舗数= |決算期=1月31日 |会計監査人= |所有者= |主要株主= |主要部門= |主要子会社= |関係する人物= [[米澤嘉博]]<br />[[筆谷芳行]]<br />[[市川孝一]] |外部リンク= https://www.comiket.co.jp/ |特記事項= }} コミックマーケットはその[[会員]](イベントの性質に見合った用語を用いるなら、[[同人]])の[[集会]]という扱いである。しかしイベント開催規模が大きくなってからは[[権利能力なき社団|任意団体]]のコミックマーケット準備会では通常の事務作業とその作業場所の確保、会場借り上げの契約を行うことが出来なくなった。そこで、[[1985年]]に'''株式会社コミケット'''を設立してそれを行うこととした。後に[[有限会社]](2006年5月より[[特例有限会社]])となり、現在に至る。社長は米澤が準備会代表と兼任していたが、彼の死去により米澤英子が後任となり、その後共同代表の1人でコミケット社員の安田かほるが社長を引き継いでいる。 業務はコミックマーケット準備会からサークル配置データの提供を受け、コミックマーケットカタログを製作<ref name="comiketmanual"/>。代わりに会場と契約して場所を提供している形になる<ref name="comiketmanual"/>。その他の業務としては事務所の維持、倉庫の管理、作品集や同人誌に関わる内容の出版も行っている<ref name="comiketmanual">コミックマーケット86申込書セット12ページ</ref>。また、直営店として中古同人誌を取り扱う古書店「[[コミケットサービス]]」、同人誌以外の古書・古洋書・ミリタリーグッズを扱う販売店「[[B-Maniacs]]」の運営も行っていたが、B-Maniacsは2009年6月末をもって営業を終了、コミケットサービスも実店舗・オンラインショップ共に2017年12月末で営業を終了した<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1712/01/news035.html 30年余の歴史に幕 下北沢「コミケットサービス」が2017年末で閉店へ],ねとらぼ,2017年12月1日</ref>。 === 株式会社コミケプランニングサービス === 通称'''CPS'''。過去にはコミックマーケットカタログやカタログCD-ROM・次回申込書の通販業務を行うほか、コミックマーケットにて同人誌委託コーナーの運営もしていた。 しかし同人誌委託はC71を最後にコーナー自体が中止され([[#参加者の区分|参加者の区分]]を参照)、通販もC72を最後にカタログ通常版は準備会の直販、CD-ROM版は[http://cdrom-catalog.com/index.shtml 株式会社クリエイション]、次回申込書は[http://circle.ms/Top.aspx 有限会社サークル・ドット・エムエス]の業務にそれぞれ変更され、3代目代表の体制になってからCPSの排除が行われた。 この間の事情についてコミケット準備会とCPS、双方の公式見解<ref>[http://www.comiket.co.jp/info-c/C73/CPSitaku.html (株)コミケプランニングサービスへの業務委託終了について](コミックマーケット準備会)<br/>[https://web.archive.org/web/20120414060026/http://www.cps-co.jp/frame/20071110.html 弊社業務内容の変更に関する社告](CPS)</ref>が出されている。また、「[[クリエイション (同人即売会)#運営組織の変遷|運営組織の変遷]]」も参照のこと。 2008年4月に'''株式会社シーピーエス'''への社名変更が発表された。2010年1月からは社業を[[プログラマ]]養成を主とした[[情報技術|IT]]関連事業に転換し、現在のコミックマーケットとは関係無くなっている<ref>[https://www.cpscorp.jp/ CPS Corporation Inc.]</ref>。 === 共信印刷株式会社 === 共信印刷は、東京都[[千代田区]]の[[印刷会社]]。コミックマーケットのカタログや申し込みサークル向けの案内書であるコミケットアピール・サークル参加申込書・コミケットプレスなど多くの準備会発行物印刷を請け負っており、カタログについては創刊からC95までの印刷を担当していたが、C96からは[[大陽出版]]の担当に変更された<ref>{{cite book|和書|author=コミックマーケット準備会|title=コミックマーケット96カタログ|publisher=有限会社コミケット|date=2019-08-09|pages=74}}「奥付」</ref>。CD-ROM版カタログについては販売とサポートも請け負っている。かつては一般の印刷も受注していたが、同人誌印刷の受注は少ない方であった<ref>「コミケplus」58ページ ISBN 978-4-89610-577-3</ref>が、コミックマーケットのカタログそのものも「同人誌」という扱いであるため、そういう意味では大手とも言える。2009年現在、コミックマーケット準備会との資本関係は一切無い。 2020年9月11日を以て、同人誌印刷の取り扱いを休止<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyoshin.net/contents/docs/20200831_closeprint.pdf |title=同人誌印刷の扱い休止について |publisher=共信印刷 |date=2020-08-31 |accessdate=2020-09-11}}</ref>。その後、同年10月中旬に企業を解散することを同月9日に発表した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=同人誌印刷の老舗「共信印刷」が撤退、解散へ コミケカタログ創刊から手がける|url=https://kai-you.net/article/78450|website=KAI-YOU.net|accessdate=2020-10-10|publisher=|date=2020-10-10}}</ref>。2020年冬のコミケ中止が決まり、それがきっかけで廃業を決意したという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20201019_01.html |title=コミケ活況の陰で、同人誌印刷の「共信印刷」が解散 |publisher=東京商工リサーチ |date=2020-10-19 |accessdate=2020-10--22}}</ref>。 === 有限会社サークル・ドット・エムエス === サークル・ドット・エムエスは東京都千代田区の企業。2006年にコミックマーケットのサークルオンライン申し込みサービスの開発を委託する流れで設立された<ref>[http://www.microsoft.com/ja-jp/casestudies/circle.ms.aspx 有限会社 サークル・ドット・エムエス - マイクロソフト導入事例|Microsoft for Business]</ref>。オンライン申し込みサービスはコミックマーケット以外の同人誌即売会でも利用できるようになったほか、これを核として同人作家・サークル向けポータルサイトの運営業務を行い、その中で印刷所検索サイト「印刷Navi」や電子書籍サービス「emes-えむえす-」(2012年終了)の運営も行っている。また、コミックマーケット関連では公式ウェブサイトの管理運営や2012年開始のコミケWebカタログの開発運営を手がけている。サークル・ドット・エムエスは現在も法人としては存在するものの、実務は本社所在地と会社首脳を同じくする株式会社コサットが行っている。 === 株式会社シー・エージェント === シー・エージェントは東京都豊島区の企業。コミックマーケットのカタログ広告、企業パンフレット広告、漫画広告などのカタログ広告全般、ビッグサイト大型ビジョン広告、エントランスホール柱巻き広告、エスカレーター壁広告など会場広告全般、献血応援イベントなどコミックマーケットで行われる付帯イベントを取り扱っている。また、企業ブース運営、漫画グッズ通信販売などを手掛ける<ref>{{Cite web|和書|title=株式会社シーエージェント|url=https://www.c-agent.net/index.html|website=www.c-agent.net|accessdate=2020-05-05}}</ref>。 == 歴史 == {{独自研究|section=1|date=2008年7月}} [[画像:迷宮'22.jpg|right|thumb|300px|コミックマーケットの母体となった創業者サークル「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」のスペース(C101)]] {{Quotation|コミケことコミックマーケットは、まんが批評集団「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]」の活動、すなわち、当時のまんが状況の活性化、変革、可能性の追求等の目的の為の活動の二本柱、①批評誌『[[漫画新批評大系]]』の発行、②それを発売し、また、まんがファン同志のコミュニケーションの為のだれもが参加できる場の設定、の②の実際の形として[[同人誌即売会]]をもうけたことが始まりで、その後、拡大と共に他のサークルと共に準備会を形成し、数度の曲折をへて現在の形のコミケとなり現在にいたっている。|明石良信(コミックマーケット副代表)「コミケットの混雑に関するデーターによる一考察」『コミケット年鑑'84』コミックマーケット準備会、1985年8月、151頁。}} コミックマーケットの歴史は、創設母体となった[[同人サークル]]「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」の歴史であり、同時に開催場所移転の歴史でもある。以下でそれを追っていく。 === コミックマーケット開催まで === {{Main|COM (雑誌)#ぐら・こん|迷宮 (同人サークル)}} コミックマーケットのように自主制作本を頒布するイベントの起源は、[[1939年]]に[[アメリカ]]の[[ニューヨーク]]で行われた[[ワールドコン]]だと言われている。また[[1960年代]]に入ると、漫画・[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[映画]]などに積極的に興味を示す人々が出現、同時に表現の場としての同人誌が多数制作されるようになった。 [[1966年]]12月、[[長井勝一]]が主宰する日本初の青年漫画雑誌『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』([[青林堂]])に対抗して、[[手塚治虫]]はオルタナティブ志向の漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』([[虫プロダクション#虫プロ商事|虫プロ商事]])を創刊した。その後、同誌1967年3月号で、読者や漫画家予備軍としての同人作家を全国的に組織化する野心的な構想を発表し、これを「'''[[COM (雑誌)#ぐら・こん|ぐら・こん]]'''」と称した。すなわち、同人作家のプロデビューの道筋を示したものである。この構想は『COM』の路線転換や[[休刊]](1971年12月号)もあり失敗に終わったが、漫画同人誌に与えた影響は大きかった<ref name="guracon">「『COM』という本は、編集方針が定まらず、読者を何度か失望させました。『ぐらこん』も会社にとっては販売部数を増やすためのものという面がありました。また、本部だ支部だと言っても有名無実な面がありました。『ぐらこん』の精神には賛同したけれど、頼むに足りない面がありました。ですから、虫プロ商事出版部の都合なんかに左右されない、漫画ファンのフィールドを作る必要がありました。『ぐらこん』から、『コミックマーケット』への発展は、それを、漫画ファン自身の企画で実現したという所に価値があります。なんと実行力のあるファンでしょう。『COM』の影響で、ドッと有為な人材が入って来たから可能になったんだとも思いますが、誇りに思っていいんじゃないでしょうか」中島隆「[https://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2010/05/post-1c52.html 『ぐら・こん』がなくなった日]」([[夏目房之介]]「夏目房之介の『で?』」所収)</ref>。コミックマーケット創設者のひとりであり、準備会の二代目代表を長く務めた[[米澤嘉博]]は、1975年時点における漫画界の閉塞状況について次のように総括している。{{Quotation|70年に実質的に『COM』は休刊、71年に再刊するが、虫プロ商事の倒産と共に完全に消えていった。拠点を失ったマンガファンたちは、『COM』以後のマンガ状況をどう生きるか、様々な道を探っていくことになる。〔…〕戦後マンガ世代による、運動体的マンガ活動は72年から75年にかけて、様々な形で起こり、活発化していった。その背景には、石油ショック後のマンガ雑誌の後退があった。先鋭的だった青年マンガ誌は自閉し、成長し常に前衛たろうとしていた『少年マガジン』などの少年誌は内容を低年齢化させ、かつて次々と新たな驚きを提供していた『ガロ』も低迷し、スポ根やアクション物が本流となっていた。実験マンガや革新的な表現は誌面から消えていった。それはマンガの可能性を閉ざしていこうとする状況にも見えたのだ。そんな中、少女漫画において、萩尾望都、竹宮恵子を始めとする『COM』世代の新人たちの作品が、新たな可能性としてほの見えていた。これが75年の状況だ。|米沢嘉博「前史」『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』有限会社コミケット、2005年7月、26頁。}} そこで、時代の潮流として大型の[[同人誌即売会]]の開催が求められた。そんな中で出現したのがコミックマーケットである。 [[漫画評論|まんが批評]][[同人サークル|集団]]「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮'75]]」がコミックマーケットを立ち上げるまでに至った主なきっかけは、[[SF大会]]を模して開催された「[[日本漫画大会]]」や流行の端境期に直面していた旧来の漫画と[[漫画評論]]への反発<ref>「迷宮が対しようとしていたのは、スポ根や学園ラブコメに堕ちた商業誌マンガであり、旧態依然のマンガ評論であり、BNF(ビッグネームファン)など自閉した遊びに堕ちていったマンガファンダムであり、また『COM』の幻想に引きずられているファンたちであり、何も考えていない新興の若い世代だった。全てを解体した上で、混迷の状況の中に新たなマンガ状況を創り出して行くこと。その中には漫画大会や、コレクターたち中心のマンフェスへの決別の意志も含まれていた。そして、そうした中で、状況に検討を加え、新たな芽を育てていくこと。/そこに持ち込まれた漫画大会拒否事件は、早急に手をつけなければいけない問題でもあったのである」米沢嘉博「前史」『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』有限会社コミケット、2005年7月、27頁。</ref>、そして「[[COM (雑誌)#ぐら・こん|ぐら・こん]]」の挫折を繰り返さず、まんがマニアのための新たなフィールドを作り出すということにあった<ref name="guracon"/>。グループの全活動を一貫していたものは、単なるまんがマニアに一体何ができるのかという意識である<ref name="東京人">「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか? 答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんという皮肉だろう。それでもコミックマーケットというシステムが成立しえたのは、まぎれもなくそのヒントとなった『COM』が、まんがファンあるいはマニアのあからさまな実態を示してくれたからにほかならない。コミックマーケットが『同人の実態に即した』イベントであったからこそ、それは同人誌の流通拠点となりえたのだ」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『[[東京人]]』No.341(東京出版 2014年7月3日)37P</ref>。また「日本漫画大会」を批判したある前回参加者が参加を拒否された事件があったことから「迷宮'75」はこれを告発するとともにコミックマーケットでは批判者を排斥しない理念が形作られることになった。そして「日本漫画大会」や「マンガフェスティバル」などではイベントの一つに過ぎなかった同人誌即売会を独立させ、「ファンのファンによるファンのためのイベント」を目標にした。従って「[[COM (雑誌)#ぐら・こん|ぐら・こん]]」のようにプロ漫画家予備軍ではなく、また「日本漫画大会」のようにプロの漫画家を登壇させる漫画イベントの一つでもなく、ただ同人誌を描き頒布するならば誰でも参加できる「マーケット(=[[市場]])」となった。 コミックマーケットを企画・主催したのは「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」だが、名目上の主催は当初から「コミックマーケット準備委員会(のちの準備会)」である。実態として両者は表裏一体だが、将来の分離も視野に入れていた<ref name="dilemma"/>。準備委員会の初代代表は「迷宮」同人で人脈の一番広い、'''[[霜月たかなか|原田央男]]'''に落ち着いた<ref>「なかなかヤバい話にはなるんですけれども、なぜ原田氏が代表になったかということなんですが、見ていただくとわかるとおりに、一番誠実そうに見えるんですよ(笑)。僕はたぶんそれはダメだし、米やんもそういう意味じゃあ当時はまだちょっとピリピリしてたとこがあったし。まあ米やん自身は一番若かったということもあって…それとまあ上に二人年上がいるとなると、なかなかこう前には出られません。でまあ、やっぱりこういうコミケットみたいなイベントの場合、露骨に言います、同情を買うようなタイプが一番いいと(笑)。それは俺と米やんの共通見解よ。原田氏だったらみんなが同情してくれるだろうと。ということで、まあ人格的に原田氏が一番ベストなんじゃないかと。でまあ『いちゃもん』の漫研リストを作ったのも彼ですし、そういうようなことを含めて原田氏が代表には一番ふさわしいだろうということで、代表になったというのが事実関係です。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)738P</ref>。 === 日本消防会館会議室 === C1(第1回)のコミックマーケットは[[1975年]][[12月21日]]、「迷宮'75」の実質的な主催の下、東京[[虎の門]]の[[日本消防会館]]会議室において、参加サークル32(ただし委託・展示サークルがほぼ半数)、参加者推定700名で開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202208140000068.html|title=100回目のコミックマーケット 「SPY×FAMILY」などコスプレで楽しむ参加者の姿|date=2022-08-14|accessdate=2022-08-15}}</ref>。開催前日には合宿も行われ、アニメソングが高歌放吟されたというSF大会の影響の濃いものだったらしい。また、参加サークルの半分近くを学漫(学校内クラブ活動としての漫画研究会)が占め、[[萩尾望都]]作品を中心とした[[少女漫画]]ファンクラブがそれに次いだ。コミケ準備会によると、入場者の9割余を「中高生の少女漫画ファンを中心とした女子」<ref>『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』より</ref>が占めたという。また、この時「迷宮'75」が頒布した『[[漫画新批評大系]]』所収の[[パロディ漫画]]『[[ポルの一族]]』([[原田央男]])を端緒とする所謂「[[やおい]]」や「[[ボーイズラブ|BL]]」の先駆的な同人誌もすでに出されていたとされる。なお、日本消防会館での開催は第1回のみであった。 当時、同人誌といえば一般には文学同人誌を指し、漫画同人誌の知名度は低かった。そこでSFファン向け同人誌の用語として用いられた「ファンジン([[:en:Fanzine|Fanzine]])」がまだしもわかりやすいだろうと借用し、「まんがファンジンフェア」と名乗った<ref name="takemo_01">[https://twitter.com/takemootoo/status/577907419348484097] - [[竹本健治]]のツイート</ref>。しかしその後コミックマーケット自体の知名度が上がるに連れ、漫画同人誌を指す用法が定着していった。 このC1以降、春・夏・冬の学校の休みに合わせた年3回の開催が定着する。 この時、冊子型のカタログは存在せず、公式のポスターは迷宮とかかわりがあったサークル・MOBの鈴木哲也が手がけたもので、多色の[[謄写版]]で製作された<ref name=takemo_01 />。また、[[竹本健治]]は知人の鈴木を介して主催者と繋がりができたことで、第1回に出品したという<ref name=takemo_01 />。 === 板橋産業連合会館から都内各産業会館 === [[1976年]]のC2からC4の春・夏・冬コミは、[[板橋区]][[仲宿]]の[[板橋産連会館|板橋産業連合会館]]で開催される。この頃はまだ参加サークルは100に満たない状態だったが、[[1977年]]春のC5より[[大田区産業プラザ|大田区産業会館]]に移ったあたりから、入場待ちの行列ができるようになっていく。途中、[[四谷公会堂]]([[1978年]]夏・C9)と[[東京都立産業貿易センター|東京都立産業会館・台東館]]([[1979年]]夏・C12)をそれぞれ1度ずつ使用したものの、結局1979年冬のC13まで大田区産業会館での開催は続き、そのC13では参加サークル300弱、参加者約4,000人と、規模は確実に大きくなっていった。また、参加サークルにおける学漫([[学校]]の[[部活動]]、サークルとしての漫画・同人サークル)の占める割合は低下し、オリジナル創作が増えていった。さらに、『[[宇宙戦艦ヤマト]]』などアニメのファンサークルの参加も目立ちだした。とくに同作や『[[機動戦士ガンダム]]』のアニメブームと、いわゆる「[[おたく]]」が出現したことは、コミックマーケットを牽引する大きな原動力となった。 ==== 「迷宮」からの独立 ==== 原田は、オリジナル創作漫画サークルの発展を期待していたが、[[二次創作]]が主流となり、創作漫画も既存の商業作品の二番煎じと思しき作品のサークルが多かったコミックマーケットの実情は誤算だった<ref>「自分たちがコミケを始めたのは、商業誌とは違う世界をつくりたかったから。それがいつの間にか商業誌の人気作品のキャラクターを使って、自分たちが好きに描き変えてしまう二次創作が出てきた。それが一部だったから良かったのが、だんだん主流となって数が増えていく。そうして同人誌でしか読めない作品がどんどん減っていったこともあって、僕はコミックマーケットの代表を離れました」「コミケ第1世代の僕の見方では、同人誌の一次創作が少数派になった段階で『商業誌に負けたな』と。商業誌をさらに盛り上げるための同人誌という流れができてしまった。僕らのような古い世代から見ると、同人誌だけでしか表現できない世界が消失したのはとても悲しかったです」{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/230831b|title=今の漫画編集者は“編集権を放棄”している!? 鳥嶋和彦氏×霜月たかなか×筆谷芳行『同人誌vs商業誌』白熱のトークバトルから見えてきた漫画業界の過去・現在・未来|date=2023-08-31|author=電ファミニコゲーマー|accessdate=2023-09-16}}</ref>。しかし、コミックマーケットの理念として、もとより二次創作を排斥すべきではないと考えた原田は、C12を最後に代表を辞任、この時期を最後に「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」も運営から手を引き、C14からは'''[[米澤嘉博]]'''が代表に就任した<ref>「米やんが二代目になったのは他に適当な人間が居なかったということが理由だったが、受けた米やんは決してそれを歓迎したわけではなかった。原田の辞任は唐突なものだったし、困惑しながらの就任だったことは傍目にも分かった。」「あの時期の米やんには酷な言い方になるけれど、それでも少なくとも準備会の内部では危機感を共有し意思統一を計ることだけはしておかねばならなかったが、その部分でも米やんはネグった。亜庭じゅんの言葉で言えば『米澤は半分投げていた』ということになる。米やんのこの無責任にも見える姿勢が、遂にはクーデター騒動を引き起こすことになる。クーデター派から見れば米やんは何も決められない独裁者に見えていたのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P</ref>。以降、コミックマーケットは組織として独り立ちしたとされる<ref>「迷宮スタッフ=準備会スタッフという構造は大田区産業会館の終りまで変らなかった。メンバー五人に手伝い数人といった小人数の構成だったが大きくなり始めていたコミケットはそろそろ手に余り始めていた。ちょうどこの頃、原田氏の引退があり、机を壊した理由で大田区産業会館を追われたこともあって、準備会は再編成に入った。というより、始めて、準備会という形をとろうとしたといってもいい。次々と若い人達が入ってきた。警備隊、救護班等が生まれ、ブロック長制が導入され、あっという間に準備会は数十人の大所帯に振れあがったのだ。」米澤嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)149P</ref>。その後、原田はコミックマーケットそのものから身を引き、のちに米澤が亡くなるまで再参加することはなかった。のちに原田は「迷宮がやろうとしたのはコミケではない」「つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ」と述懐している<ref name="aniwa748"/>。また原田は『コミックマーケット創世記』で26年間の空白を次のように語った。 {{Quotation|[[亜庭じゅん]]や米やんともさんざん話し合ったが、だからといって創作サークル主体にコミックマーケットを作り替えることもできず、それ以前に作り変えるつもりもなかった。コミックマーケットは準備会が作るものではなく、参加サークルと一般参加者がみずから作り上げるものだからだ。そんな大原則に忠実にやってきたつもりの僕としては、目の前にあるコミックマーケットがみずからの望むものでないのなら、自分が身を引くしか方法がない。 そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、「迷宮」を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。 以来、米やんの他界を知らされ、再び昔の仲間たちと顔を合わせるまでに26年の空白。 帰ってきたのか?それとも新しく始めるのか? ただ一つわかったことは、26年ぶりに訪れたコミックマーケットの会場前に立った僕は、参加者の誰よりもそれについて知らない浦島太郎になっていたということである。 『[[漫画新批評大系]]』はその後、第15号を1981年12月20日に発行して以来、休刊状態。それでも『漫画新批評大系』を置く場所は、現在でもコミックマーケットの会場に「迷宮」のための即売スペースとして特別に提供され続けている。 けれどそのスペースを与えられた「迷宮」がどんなサークルなのか、知っている参加者はもう誰もいない。|[[霜月たかなか]](原田央男)『コミックマーケット創世記』[[朝日新聞出版]]([[朝日新書]])2008年,183-184頁から抜粋}} その後「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」は[[1980年]]、創作漫画専門の即売会「[[まんが ギャラリー&マーケット|まんが・ミニ・マーケット]]」をコミックマーケットの補完として開催した<ref name="aniwa748"/><ref>「少なくともコミケットが仮に潰れたとしても、別に創作同人誌即売会が存続していれば、その部分だけでも救い出せることになる筈だった。あの時期のあにじゅんの取れる方法としては率直で妥当なものだったし、MGMの意図するところは米やんも理解していた。『米やんはMGMはコミケットの保険だと言ってたよ』これは米やんの死後に、米やんの言葉としてベルから聞いた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P</ref><ref>「あにじゅんの死後、『ぼくは他の何を信じられなくなってもMGMだけは信じられる』と米やんは言ってたよ、とベルから聞いた。ぼくは米やんの孤独をうっすらと感じた。そして米やんはMGMの何を信じようとしていたのかと考えた。コミケットの喧噪のなかに居ながら、米やんが信じたかったのは、迷宮の、そして即売会の始まりのあの時期、あにじゅんや原田央男たちと幾晩も徹夜で話した時間と、自分がコミケットの維持のために失ってしまったもの、あにじゅんがMGMで死守し続けた『子供の理想論』だったのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)28P</ref>。これはコミケットの規模拡大で売り手と買い手、作者と読者、さらにはファン同士の交流が薄れ始めたため、適正規模の即売会を別に設けること、また頒布物における[[二次創作]]の占める割合が高まったため、純粋な創作同人だけの場を設けるべきではないかという声に応じたためという。まんが・ミニ・マーケットは[[1981年]]に[[まんが ギャラリー&マーケット|MGM(Manga Gallery & Market)]]と改称。[[1984年]]には、MGMの模倣から始まったと自称する世界最大規模の創作同人誌即売会「[[COMITIA]]」が創設された<ref>COMITIA95 ごあいさつ「[https://www.comitia.co.jp/history/095greeting.html MGMがなかったら、コミティアも生まれなかった、という証明]」([[中村公彦 (コミティア)|中村公彦]])</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[ばるぼら (ライター)|ばるぼら]] |url=https://natalie.mu/comic/column/394626|title=コミティア―マンガの未来のために今できること 第2回/コミティアの歴史―存続が危ぶまれる今、問い直される「コミティアとは何か」 |date=2020-09-04|accessdate=2023-09-12}}</ref>。ふたつの即売会は、{{#time:Y年F}}現在も存続している<ref>MGMは会場の都合で[[2007年]]から休止、主催者代表・[[亜庭じゅん]]の逝去を経て、[[2012年]]に再開された。[[2013年]]より運営を交代し、「MGM2.XX」と改称した。XXは開催回次が入り、[[2013年]][[9月8日]]、改称第1回となる「MGM2.01」が開催された。</ref>。 ちなみに「迷宮」はコミックマーケットから離れた後も、サークル参加の永久スペース取得権を有している。これは、コミックマーケット準備会が帳簿上「迷宮」からの借入金が残ったままになっており、その代償という形を取っているためと言われている<ref>「迷宮を始めるに当たってメンバーは、3000円ずつ最初に出している。コピー機の購入などにあてるためだ。その後、資金となったのは本の売り上げ、予約金だった。コミケットも迷宮から借金しながら77年頃までは開かれることになっていく。それと、当日集まったカンパによって、なんとかなっていたというのが実状である。準備会が立ち上がってからも、迷宮への借金は残ったままの形となり、コミケット永久スペース提供という約束が交わされ、それは今も続けられている」米澤嘉博「前史」『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』(有限会社コミケット 2005年7月25日)29P</ref>。 === 川崎市民プラザから横浜産貿ホール === [[画像:Rusha_paper.jpg|thumb|right|「謎の黒本」と呼ばれた日本初の[[コミックマーケットのジャンルコード#男性向|男性向けエロ同人誌]]『[[シベール (同人誌)|シベール]]』]] [[File:Ken_Hirukogami.png|thumb|黎明期のロリコン同人誌『[[愛栗鼠]]』『[[シベール (同人誌)|シベール]]』『[[幼女嗜好]]』創刊者の[[蛭児神建]]。[[変質者]]の[[コスプレ]]で[[同人誌即売会]]に出没していたことから当時のコミケの風物詩となった。]] [[1980年]]春のC14から[[1981年]]春のC17は[[川崎市民プラザ]]で開催され、参加サークル350〜400、参加者約7,000人規模で推移するが、すぐに会場が手狭になった。1981年夏のC18では[[横浜産貿ホール]]が使用され、この時初めて2日間の開催を行ったが、ついに参加サークルが500、参加者が1万人を上回った。 換言すれば、この時期まではコミックマーケットといえば女性参加者が主体だったが、この時期より『[[うる星やつら]]』のヒットに伴い、同作のサークルが激増、当時の[[ロリータ・コンプレックス#ロリコン・ブーム|ロリコンブーム]]と相まって、男性参加者が本格的に進出。ジャンルとしての男性向け創作の基礎が作られ、わいせつな内容の同人誌、いわゆる「エロ同人誌」(面妖本)が増えた。漫画家の[[吾妻ひでお]]や[[蛭児神建]]らによる日本初の[[ロリコン漫画]]同人誌『[[シベール (同人誌)|シベール]]』([[無気力プロ]])の行列が館外に作られ、現在の「[[壁サークル]]」の走りとなったのもこの時期である。 === 晴海(1期) === [[1981年]]冬のC19は、当初川崎市民プラザで開催される予定だった。しかし、そこに主催者の内部分裂騒動が発生し、「反主流派(「[[クーデター]]派」「コミケ改革派」などと自称した)」は先手を打って会場を押さえてしまった。「反主流派」の行動の動機については、規模拡大に伴い規制強化が必要と認識したからとも、既に同人界に影響力を持ち始めていたコミケットの名声に目が眩み、乗っ取りを謀ったなどの諸説がある。また、声優を呼んだりアニメの上映会を開いたりできないかとする意見が当時からあったが、コミケットの趣旨にはそぐわないと却下された経緯もあったという(ただし後者は後年、企業ブースとしてコミックマーケットでも実現する)。こうして、コミケット準備会は望まぬまま、晴海にあった[[東京国際見本市会場]](通称:[[晴海 (東京都中央区)|晴海]])の使用に踏み切った。なお、分裂した「反主流派」は「新・コミックマーケット」を名乗り、後に「コミックスクウェア」と改称した。しかしいつまで続いたのかは文献が確認出来ず不明である。また、2006年時点で現存する同人誌即売会「コミックスクエア」とは無関係である。「コミックスクウェア」終了後、「反主流派」の流れを汲む人物の一部は「[[コミックレヴォリューション]]」開催に加わったとも言われている。 コミケット創設メンバーの[[高宮成河]]は、クーデター騒動について「コミケットの歴史に汚点として残る」としながらも、これにより米澤はコミケットを持続する決断に迫られたと述べている。{{Quotation|コミケットのクーデター騒動は準備会内部で表面化していた不満に正面から対峙しなかった米やんの優柔不断な態度が引き起こした内紛に過ぎないが、結果的に昨日までの仲間を粛正に近い形で切り捨てたことで確実にコミケットの歴史の汚点として残る。だが皮肉なことにこの騒動はコミケットにとって幸いした。米やんは会場を晴海に移すことで、騒動による迫られた選択の結果だったとはいえ、ようやくコミケットを持続することに対して肚を固めることになる。 準備会を組織し直し主催者はサークルから独立した運営機能になり、他方で「理念」と言われるものを作る。「コミケットにお客はいない」という言葉は、しかしぼくにはこれも理念の衣を纏った運営のための言葉に聞こえる。そして「表現の自由」という聞き慣れたスローガンの下に、ファンのお遊びと創作とを横一線に同等に扱うことで遂には創作までもが、その場だけの遊びとしての創作になってしまうことへの責任は参加者の「自由」とされた。〔……〕 ここで米やんがとった路線はしかし、あの12回の初期コミケットでの子供の理想論を捨てることだったが、そこを半ば意図的に曖昧にした。芯には現実論を置きながら表面は理想論のベールをかぶせるというマジックを使った。開催することのみを目的とする路線は、コミケットが生き延びていくための米やんの選択として理解するにせよ、あにじゅんはこの詐術の如何わしさに対しては強力な批判者となった<ref>「表面上の自由を謳うコミケットの中に原田央男は必死に新しい創作の出現を見ようとした。原田央男から米沢嘉博への移行に伴って、表面のたてまえが、すべてを縛り始めた。それと反比例して、コミケットは作品のための場から、売買の場へ変質した。形は似ても全く非なるものが、出来あがってしまったのだ。自立した創作(まんが)のドラマとして時間軸上に展開していたコミケットは、ヌボーッとした肥大しか能がない空間へと転化した。未来も過去もない、ただ茫漠とした今、この瞬間、それがコミケットである。まさに、生みだすものもなくだ。」亜庭じゅん「コミケットは趣味が不自由なのである」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)632P </ref><ref>「コミケットはもはや趣味でやれる範囲をこえている。しかもなお、『趣味』でやらねばコミケットではないだろう。アマチュアでもプロでもない第三の場を創ること。『同人誌』でも『商業誌』でもない既成概念の転倒。人が人と作品を通して媒介される場――コミケットの道は本来ここにあった。スタンスは、『創る』の一点を軸にしていた。プロもアマもでは決してない。プロでもない、アマでもない、否定形を通しての未来。それがコミケットの視線の行く先、見すえた焦点であった。それを見つづけるのは、『趣味』かもしれない。そして、この視線を、『プロもアマも』に移行させるのは、はっきり言って悪い趣味である。その『趣味』の悪さが、コミケットをダメにしたのだ。つまりこういうことだ。『米ヤンのバカァーッ!』。あんたはもっと趣味のいい人間だった筈だ。」亜庭じゅん「コミケットは趣味が不自由なのである」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)634P</ref>。米やんは沈黙を守った。|高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』迷宮'13、2013年1月、27頁。}} 以後、コミックマーケットの会場は6年間にわたって晴海で行われた。その間も参加サークル・参加者数共に増大を続け、[[1983年]]冬のC22において参加サークルは1,000を超え、さらに第1期晴海時代の最後の開催であるC30([[1986年]]夏)には、3,900サークル、約35,000人が参加するに至る。また、この間に1983年以降、[[1988年]]の冬コミが中止になったことから、代替として[[1989年]]春に開催されたC35を除き、春コミは廃止された。 この間、1985年頃から『[[キャプテン翼]]』(『C翼』と略された)が女性サークルに絶大な人気を呼び、商業作品を題材に男性キャラクター同士の同性愛を表現した同人誌を制作・頒布する所謂「[[やおい]]」サークルが増加。若い女性参加者を大きく増やすこととなった。1983年より運営スタッフに加わった[[岩田次夫]]は、『キャプテン翼』ブームが少女漫画再生の鍵になると見てやおい漫画サークルを激賞。同作そのものは[[少年漫画]]であるにもかかわらず、女性がほとんどを占めたことが同人サークルの特異性である。ブームから外れた時期になるが、[[1992年]]のC43での公表データによると、『C翼』サークル代表者は男性6、女性1083で女性比率は99%を超えている。少年漫画(特に「[[週刊少年ジャンプ]]」作品)サークルが女性中心の傾向は現在でも変わっておらず、むしろ出版社側も利用する動きがある。 また、岩田はサークル情報などの事務管理の[[コンピュータ]]化を企画・実行し、急激な作業量の膨張に対応した。これには、参加可能なサークル数を増やすことで人材発掘・育成を進めようという意図もあったという。岩田はスタッフの第一線を退いた後も「イワえもん」の愛称で親しまれ、同人誌評論などの活動で同人界に影響力を持ち続けた。岩田は[[2004年]]に死去したが、現在でもカタログや参加申込書にはイワえもんが欠かさず登場する。 === 東京流通センター === 商業イベント([[コミュニケーションカーニバル 夢工場'87]]など)との競合により、晴海の確保が不可能になったため、[[1986年]]冬のC31から[[1987年]]冬のC33まで、[[平和島]]にある[[東京流通センター]]で開催した。会場面積の減少を補うため2日間開催を実施。この間4,400サークル、4〜6万の参加者を記録した。また、ジャンル別にサークルを割り振るジャンルコードが導入された。 === 晴海(2期) === 東京流通センターでの2日開催でも人員・サークルを収容しきれなくなったため、翌[[1988年]]夏のC34より、会場を晴海に戻すことになった。この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、倍以上の9,200サークルの参加を実現させた。とはいえ、この間も会場の確保に困難を極める状況に変わりはなく、1988年冬に開催予定としていたC35開催に至ってはついに会場を確保できず、年号が[[平成]]となった翌[[1989年]]3月まで開催延期を余儀なくされる<ref>奇しくもこの時期は[[昭和天皇]]の病状悪化による自粛ムードと重なったため、これに伴う開催延期という説もあった。しかしこれは誤りで、準備会は「C35は昭和天皇の病状悪化が原因で開催延期はしていない」と否定声明を出している。</ref>。このため、C34が昭和最後のコミックマーケット開催となった。これが、通常開催としては最後の春コミであった。また、1989年夏のC36では、サークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。 === 幕張メッセとコミケ追放騒動 === 参加規模の急激な膨張はとどまるところを知らず、ついには晴海の全館2日使用でさえ収容能力の限界を露呈するほどになったため、[[1989年]]冬のC37より、当時日本国内屈指の巨大イベント会場だった[[千葉県]]の[[幕張メッセ]]へと会場を移した。 ところが、[[有害コミック騒動]]などの影響で、[[1991年]]夏のC40は開催直前に幕張メッセ側から会場の使用を拒否され、急遽会場を晴海に戻さざるを得なくなった。後に「[[コミケ幕張メッセ追放事件]]」などと呼ばれる出来事であり、コミックマーケットの歴史の中では最大級の存続の危機となった。 === 晴海(3期) === [[ファイル:Comicmarket49 00.jpg|thumb|right|晴海に別れを告げる看板(C49)]] 以上のような経緯を経て、コミックマーケットは[[1991年]]夏のC40から[[1995年]]冬のC49まで、三たび晴海に舞い戻ることになる。そのため、しかし、猥褻図画に対する自主規制の強化は避けられず、この時期に見本誌チェックによる規制を導入している。 この時期には1980年代後半の『[[聖闘士星矢]]』とその商業的成功の影響を受けて製作された『[[鎧伝サムライトルーパー]]』などの所謂[[美少年アニメ]]が若い女性のアニメファンの間でブームとなり、[[ファンダム]]における盛り上がりはテレビアニメ自体の放映終了後もなお数年間にわたり持続した。これは同人界・コミケットにも大きな波及を見せ、この時期に大量の同人誌が制作されコミケ内でそれぞれ単体ジャンルとして成立するほどの隆盛を見せた。しかしながら、その多くが「やおい」と呼ばれる男性[[同性愛]]の性描写を多かれ少なかれ含むもので、元が[[子供向けアニメ]]である作品の二次創作としては内容面で非常に問題があると言わざるを得ないものであった上、これらを収録した同人[[アンソロジーコミック#二次創作物漫画のアンソロジーコミック|アンソロジーコミック]]が多数制作されたこと、さらにはこれら同人アンソロジーコミックが著作権などの面で違法性の高い同人誌やコミケットの状況を利用して商業出版の流通に乗せられたことなどは、それ以降のアニメ[[制作プロダクション]]や[[メディアミックス]]関連企業の二次創作全般に対する姿勢を改めさせる要因の1つとなり、最終的には著作権者である企業の著作権管理の強化にも繋がっていった。この著作権管理の厳格化は、以降のコミックマーケットの同人誌も含めた二次創作全般に大きな影響を与え、そこでは様々な制約の増加や自主規制のさらなる強化という形で影を落とすことになった。とはいえ、これら「やおい」同人誌の隆盛は、以降のアニメ作品でも繰り返され、1990年代半ばになるとさらに発展し、商業出版・同人の枠を超えて[[ボーイズラブ]]ジャンルが隆盛する礎となっていく。 参加者の膨張はとどまることを知らず、[[1992年]]夏のC42では、入場待ちの長蛇の列に折からの猛暑が加わり、数百人が[[熱中症]]で救護室に運ばれる騒ぎになった(所謂「'''[[ジェノサイド]]コミケ'''」)。また、[[1995年]]夏のC48は、開催20周年記念として初の3日間開催を行うなど、イベント自体の規模もまた膨張を続けていく。 この時期のコミックマーケットにおいて特筆すべきは、[[1992年]]の『[[美少女戦士セーラームーン]]』の登場である。男女両性の読者へ幅広くアピールした同作品の台頭をきっかけに、女性作家による男性向け創作が大幅に増えることとなり、この傾向は以後の『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』のブームへと続いてゆく。また、1990年代半ばから2000年頃に掛けて、商業出版の男性向け[[成人向け漫画]]に数多くの女性作家が登場するその端緒ともなった。 その後、晴海の閉鎖が決定し、1995年冬のC49をもって晴海での定期開催を終了。翌[[1996年]]春の「さよなら晴海!! コミケットスペシャル」をもって晴海での開催は終了となった。 === 有明 === ==== 平成時代(C50-C95)==== 1996年夏のC50から、コミケは同年完成した[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]](有明)での開催となる。C50の開催はビッグサイトの会場の一部で行われたが、同時開催の他のイベントからの多数の苦情が来たことから、次のC51では、早くも全館貸し切りでの開催となった。[[1997年]]夏のC52以降、夏コミは3日間開催が定着、参加サークルは3万を超えるまでに至っており、[[2013年]]夏のC84では普段の夏コミの金・土・日の開催ではなく土・日・月の開催となり、普段の2日目と3日目のジャンルが入れ替わる形となった。冬コミについても、[[L'Arc〜en〜Ciel]]のカウントダウンライブが行われた関係上、[[1999年]]冬のC57で3日間開催を実施、[[2002年]]冬のC63以降(C67・69を除く)は3日間開催が定着しており、[[2006年]]冬のC71以降(C75・87を除く)は[[大晦日]]を含む3日間開催となっている。一例として、C81とC87の概ねの日割を紹介しておく。 *C81における3日間開催の日割りは、1日目がゲーム系・芸能・[[週刊少年ジャンプ]]作品、2日目は[[東方Project]]・[[VOCALOID]]・アニメ全般、3日目は男性向け全般・歴史物となっている。 *C87における3日間開催の日割りは、1日目が交通関係・芸能・週刊少年ジャンプ作品、2日目は週刊少年ジャンプ作品以外の漫画作品、ゲーム系、3日目は男性向け全般、評論となっている。 有明に移ってからの1990年代後半は『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』のブームがコミックマーケットを席巻した。『美少女戦士セーラームーン』や『[[カードキャプターさくら]]』などの美少女アニメや、各種[[対戦型格闘ゲーム]]に続く同人誌バブルともいえるこのブームで、いっそうの活況を呈した。一方でSFジャンルの存在感はさらに薄れ、所謂「[[萌え]]」を打ち出した同人誌が急激に増加した。また、[[Windows 95]]などのパソコンの普及に伴い、[[CD-ROM]]系のPCゲームが登場し、いわゆる[[エロゲー]]や[[ギャルゲー]]などの同人誌が増加した。この流行は2005年頃まで続いた。 [[ファイル:The_Cosplayers_of_Comiket_69.jpg|thumb|right|[[コスプレ]](C69)。2005年12月]] [[2000年代]]前半に入ると、同人ソフト『[[月姫 (ゲーム)|月姫]]』や『[[ひぐらしのなく頃に]]』、『[[東方Project]]』などの登場により、これらの同人ソフトを基にした同人誌という「[[同人の同人]]」とも呼ばれる現象(ただし前述の作品は同人といってもオリジナル創作であり、そのパロディなどが出ることは矛盾も重複もしていない)が生じた。これもコミックマーケットの巨大化の一つの現れであった。また、『月姫』については、製作サークル[[TYPE-MOON]]がのちに商業メーカーへの転換している。さらに、同作品を題材とした[[渡辺製作所]]([[フランスパン (同人サークル)|フランスパン]])製作の対戦格闘ゲーム『[[MELTY BLOOD]]』のアーケードゲーム進出、[[音系]]の同人に関しても[[片霧烈火]]らがメジャーへの道を辿るなど、漫画以外の表現方法についても同人活動をプロへの登竜門とする流れが生まれつつある。 2000年12月のC59よりブロックノート(サークル参加者がイベントの感想や絵を描くノート。幾つかの参加スペースを一つのブロックとしてその中のサークル間で回された)が廃止される<ref>{{Cite web|和書|url=https://myrmecoleon.hatenablog.com/entry/20070830/1188482883|title=ブロックノート終了時期 - Myrmecoleon in Paradoxical Library. はてな新館|accessdate=令和3年9月13日}}</ref>。 2006年9月30日、代表の米澤が急病に倒れ、C71より後任の代表は安田かほる・筆谷芳行・市川孝一の共同代表制に移行した(米澤は翌10月1日死去)。 2000年代後半になると、『[[涼宮ハルヒの憂鬱]]』、『[[灼眼のシャナ]]』、『[[とある魔術の禁書目録]]』をはじめとする[[ライトノベル]]を元にした同人誌が増加、『[[らき☆すた]]』や『[[けいおん!]]』などの[[深夜アニメ]]も大人気となり、その関連同人誌も増加した。さらに、[[YouTube]]や[[ニコニコ動画]]という動画サイトの誕生や、イラストサイト[[Pixiv]]の開設などで二次創作の活動場所が広がり、コミケのおしながきやサークルの宣伝がされるようになった。また、2006年頃から東方Project関連のサークルが急増し、アレンジ楽曲やボーカルアレンジなどを出すサークルが現れた。 また、この頃からジャンルの超多様化(従来の同人活動の概念を逸脱する、オリジナルアクセサリーなどのサークルも出現)が発生している。[[2006年]]冬のC71では現役の[[声優]]である[[堀江由衣]]が[[堀江由衣の天使のたまご|自らがパーソナリティを務めるラジオ番組]]の企画で設立したバンド・[[黒薔薇保存会]]の作品を後述する企業ブース内で販売した実績があり、日本国内のあらゆる「表現」を呑み込んで今もなお成長している。[[2007年]]冬のC73では、[[VOCALOID]]の[[初音ミク]]と[[鏡音リン・レン]]が発売され、オリジナル曲が発表・頒布されるようになった。コミケは漫画家・作家・イラストレーターのみならず、声優や歌手などのプロ活動する人物が自ら活動の発表の場の一つとしてサークル参加を行うようになった。 [[ファイル:Cosplay at Comiket 84.jpg|thumb|right|コミックマーケット(C84)。2013年]] 2010年代に入ると、2011年夏のC80では『[[魔法少女まどか☆マギカ]]』のブーム、2012年冬のC83以降は『[[ガールズ&パンツァー]]』のヒットによって所謂「萌えミリ(萌え+ミリタリー)」が新たなジャンルとなった。また、この年代からブラウザゲームやスマートフォンのアプリゲームから生まれたジャンルが増えたことも特記する点である。特に2013年夏のC84からは『[[艦隊これくしょん -艦これ-]]』のサークルが爆発的に増加し、2015年夏のC88からは『[[刀剣乱舞]]』などのブラウザゲームの同人サークルが激増した。このため前者はC86、後者はC89からジャンルコードに指定された。 [[2014年]]夏のC86では、[[演歌]]歌手の[[小林幸子]]が、これまでVOCALOIDを使って発表された楽曲をカバーした(歌ってみた)CDを製作、個人サークルとして参加し自ら手売りを行ったことが大きな話題となった。[[叶姉妹]]は、2016年冬のC91では来場しただけでも大きな話題となり、C92、C93ではサークル参加し、2000人を超える列ができた<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/50216/ コミケ“降臨”で好感度上昇 叶姉妹とオタク文化が共鳴したワケ] オリコン 2017年8月16日</ref>。 スマホアプリゲームの普及に伴い、『[[あんさんぶるスターズ!]]』『[[アイドリッシュセブン]]』『[[A3!]]』のソーシャル乙女ゲーム御三家や『[[グランブルーファンタジー]]』などを扱う同人サークルも増えている。C92では『[[けものフレンズ]]』、C93ではスマホアプリゲーム『[[Fate/Grand Order]]』や『[[Fate/stay night|Fateシリーズ]]』の人気に伴い、C93では『[[TYPE-MOON]]』関連のサークルが急増した。また、『[[アズールレーン]]』などの[[中華人民共和国|中国]]発のブラウザゲーム作品の同人誌を出すサークルや[[バーチャルYouTuber]]等のYouTube発祥のコンテンツの同人誌を出すサークルが出てきた。また、最近では中国や台湾、韓国など東アジア諸国からのサークル参加者も増えてきている。 有明移転後のコミックマーケットで特筆すべき点は、会場建物の構造上の問題からサークルスペースとしての運用が難しい西地区4階フロアを、コミックマーケット準備会が企業に販売・[[宣伝|プロモーション]]・[[市場調査]]のスペースとして提供する「企業ブース」の本格的導入である(1996年冬のC51より)。企業ブースについては、初めて導入された晴海のC48(この時は新館2階奥半分を使用)にも導入がされており、企業の参加に関する趣旨について、C48の反省会時に当時の米澤代表より説明がなされていた。やがて企業ブースの常態化に伴って当初ほど批判の声は聞かれなくなり、企業ブースで販売・配布される限定商品を目当てに来場し、同人誌には目もくれない「企業専」と呼ばれる来場者たちも出てきているほどである。企業側でも、コミックマーケットが貸し出す企業ブースは高い販売効果が望めるプロモーションの場として注目されていると言われている。その結果、2000年代に入ると同人サークルなどと同様に抽選によって落選する企業まで出る事例もみられるようになり、2009年以降は企業ブースに落選した美少女ゲームメーカーの中にはコミックマーケット開催日前日に開催される「[[秋葉原電気外祭り]]」へと出展するケースもある。また、従来ではアニメ、ゲームなどに関する企業の出展が中心となっていたが、2012年夏のC82に[[グーグル]]が、同年冬のC83に[[マイクロソフト]]が出展すると、これまで企業ブースでは見られなかった一般的な企業・団体が出展するようになり、中には[[雪印メグミルク]]([[雪印コーヒー]])、[[サントリーフーズ]]([[オランジーナ]])、[[日本国際映画著作権協会]]([[NO MORE 映画泥棒]])(いずれもC84〜)、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]](C85、『[[エンダーのゲーム (映画)|エンダーのゲーム]]』のPR)、[[本田技研工業]](C86)、[[浜松市]](C101、『[[夢見る男子は現実主義者]]』のPR)といった多様な企業がプロモーションの場として活用している。C87ではNHKが初の出展を行った<ref>[https://mantan-web.jp/article/20141228dog00m200003000c.html コミケ87:NHK初出展で“薄い本”配布 狙いは大河「花燃ゆ」PR - MANTANWEB(まんたんウェブ)]</ref>。 会場利用の面でも企業ブースへの来場者が増えたことから、[[2008年]]夏のC74より安全面を考慮し、西地区4階フロアを全面的に企業ブースとして使用し、屋上展示場を来場者待機場所に変更、従来まで屋上展示場を使用していたコスプレ広場を北コンコースレストラン街そばの庭園に移転、同年冬のC75からは庭園と1・2日目は屋外展示場、3日目は屋外展示場が駐車場として占有される代わりに企業ブース待機列が少なくなる屋上展示場を開放して併用する形となる。その後ブリッジの慢性的混雑緩和のため東1ホールと西1ホール間の公道を試験的に通行出来るようにし、その後本運用するようになった。[[2012年]]冬のC83からはコスプレ広場を「コスプレエリア」と名称変更し、トラックヤードやエントランスプラザもコスプレの場として開放、さらに2014年夏のC86からは屋外展示場を全日使用開始体制を取ったが、3日目にトラブルが起きたため、念のために確保していた[[有明西ふ頭公園]]を急遽使用し、続くC87では正式にコスプレエリア化した。また、[[2009年]]夏のC76では会議棟の国際会議場でシンポジウムやステージイベントを開催、ついに東京ビッグサイトを全面使用する体制となった。 2013年夏のC84において、2日目の東ホールにてコミケに訪れた大勢の来場者達の身体から発せられた汗などの水分によって水蒸気が発生し、ホールの天井付近に溜まっていった水分が会場内の空調(冷房)によって冷却された結果、水蒸気が凝結して室内に白い霧のようなものが発生する現象(通称「コミケ雲」)が発生したといわれる。この現象は晴海時代にも目撃されているが、有明では近年においてはこれが初めてとなる。 [[ファイル:3,_2,_1..._Fight!_(29648964575).jpg|thumb|right|コミックマーケット(C90)。[[東京国際展示場]] 2016年8月]] [[2016年]]夏のC90では[[2020年]]の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]に向けた西ホール拡張棟建設開始や企業ブースの慢性的な混雑に伴い、企業ブースを西地区1階に移動して会期から最終日を削減した2日間のみにし(2日目の企業ブースは16時で終了)、サークルの配置も西4階も含めて変更したほか、ビッグサイト前交差点の横断も可能にし、庭園と東4・5・6ホールトラックヤードへのコスプレしたままでの行き来や、[[東京臨海広域防災公園]]で2014年冬のC87から併催されている「有明防災フェア」へのコスプレでの来場(実質的なコスプレエリアとしての使用)が可能となった。企業ブース出展期間が短縮された件に関しては、売上面では「初日で6割、2日目で3割」という状況から「大きな問題はない」と見る一方、プロモーション面では「コミケは体験する楽しみもある。最終日のダラダラ感も大事」「業界関係者が一堂に会しての意見交換をする時間がなくなる」などの指摘も見られ、これに関連して「出展企業も手慣れてしまい、サプライズがなく、プロモーション効果も弱くなっている」とマンネリ感に陥っている事や、「(個人サークルとして一般ブースに出展した)[[T.M.Revolution]]の[[西川貴教]]や叶姉妹に対抗し得る、パワーのある作品を生み出せていない」という手厳しい意見も見られる<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160813/dyo/00m/200/014000c コミケ90 企業ブースの会期短縮「影響なし」もマンネリに危機感] [[毎日新聞]] 2016年8月13日、同20日閲覧。</ref>。続くC91では東地区に新たに完成する東7・8ホールの使用を開始、最大規模での開催となったが、今後もビッグサイトの工事等に合わせてホールの使用形態が変わることになる。C91では後に「[[ラブライブ!スーパースター!!]]」の唐可可役に抜擢される[[Liyuu]]が初めて来場したことも大きなトピックスであった。2017年開催のC92、C93ではサークルは東地区のみの配置となった。(西は企業のみであった)2018年のC94では西2ホールの工事完了にともないサークルは西地区への配置が再開され、企業は初の西地区と東地区との2か所配置となった。[[平成]]最後のコミックマーケットとなったC95では『[[みんなで筋肉体操]]』の[[小林航太]]がコスプレ参加し、大きな話題を集めた<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1812/30/news028.html 冬コミで1番熱い漢たち! NHK「みんなで筋肉体操」コスプレに“本人”が降臨してしまう] ねとらぼ(ITmedia) 2018年12月30日</ref>。 ==== 令和時代(C96から現在) ==== [[File:ComicMarket 97 - Corporate Area(201912291245).jpg|thumb|right|コミックマーケットC96とC97では、青海展示棟に企業ブースが設置された。画像は2019年12月(C97)]] {{Anchors|令和}}元号が[[令和]]に変わった初のコミケとなったC96では[[2020年東京オリンピック|オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催準備のため東地区を使えず、西展示棟および南展示棟をサークル配置とし、青海会場を企業ブースとして初の4日間開催となった。C96では準備会公式ツイッター発表で73万人の参加者とコミケ史上最大の参加者数となった。 [[2019年]]開催のC96、C97および2020年5月開催予定のC98はコミケ史上初の4日間開催であることが発表された(但しC98は中止、理由は後述)。また、東展示棟において[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]関連の一部占用が始まるため、C96よりサークルについては西展示棟ならびに2019年に完成した南展示棟とし、企業ブースについては別地区である青海展示棟が使用された<ref>[https://www.comiket.co.jp/info-a/C94/in2019.html コミックマーケット96・97開催日程について]</ref>。会場外の待機スペースとして確保できる面積が縮小された関係で、後半2日間の一般参加者の待機場所を確保するため、企業ブースが前半2日間に縮小されることになった<ref>[https://www.comiket.co.jp/info-a/C98/C98AomiUse.html 2020年GWコミックマーケット98の開催における開催形態の一部変更について] - コミックマーケット準備会、2019年12月27日、同年12月29日閲覧。</ref>。また、この4日間開催期間中は運営費用負担増のために一般参加者も有料化され、冊子カタログに付属または別途購入するリストバンドがないと入場できなくなった。そのC96では、[[第25回参議院議員通常選挙]]で比例当選を果たした[[山田太郎 (参議院議員)|山田太郎]]がサークル参加、現役国会議員がコミックマーケットに参加すること自体異例の出来事であった。冬に行われたC97では[[なかやまきんに君]]が成長した[[ゴン=フリークス]]のコスプレで参加して話題を集めた一方で<ref>[https://rocketnews24.com/2019/12/30/1311975/ 【C97】まだまだ行くぜ! 冬コミ2日目のコスプレレポート / コスプレ美女となかやまきんに君、そしてデカすぎるニャース] ロケットニュース24 2019年12月30日</ref>、2020年[[12月14日]]に[[Liyuu]]が「ラブライブ!スーパースター!!」の唐可可役に抜擢されたことでスケジュールの調整が困難になったことを理由に、コミケに来場したのはこれが最後となった。 ===== 新型コロナウイルスに伴うコミケのない空白の2年間 ===== [[2019年]]冬のC97に続いて[[2020年]]夏に開催予定であった'''C98'''は、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]の開催時期と重なることもあり、開催日を5月2日 - 5日のゴールデンウィーク期間に前倒して開催される予定であった。 しかし、2019年冬に発生した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界中への感染拡大]]により、日本政府が2020年2月に決定した大規模イベント自粛要請や開催時の影響などを鑑み、同年3月27日にC98の開催中止が発表された。'''開催が決定していたコミケが中止されるのは、1975年の開始以来初めてのことである'''。東京オリンピック・パラリンピックも1年延期になるが、C98の延期はなく。次回の冬の開催番号はC99となるため、'''C98は開催番号としては初の[[欠番]]となった'''。C98の冊子版カタログについては、すでに印刷製本されていたために書店などで販売され、C98限定で電子書籍版も販売された(今後のコミケの開催存続に関わることから、[[コミックとらのあな]]と[[メロンブックス]]はC98の冊子版カタログの売上全額をコミックマーケット準備会に還元することを表明している)。そのためカタログには欠番はなく、カタROMについては製造されなかった。 その後、新型コロナウイルスの更なる感染拡大に伴い、[[2020年]][[4月7日]]に[[日本国]][[政府]]より'''[[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]32条1項に基づく[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]'''が発令され、東京ビッグサイトの使用ができなくなった。 なお、本来の開催期間だった2020年5月2日 - 5日は「緊急事態措置を実施すべき期間」と重なったこともあり、「コミックマーケット98」という証を残すべく、『がんばろう同人!』プロジェクトの一環として[[Twitter]]上に[[ハッシュタグ]]として「#エアコミケ」を付けたつぶやきを上げることにより、C98が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『'''エアコミケ'''』が準備会主体で開催され、その公式Twitterでは本来の設営日である5月1日からリアルタイムで実際の時間に行なわれるはずだった出来事の過去の画像・映像が、実際の時間に合わせて投稿された。その際、一斉点検のジングルおよび開会・閉会のアナウンス(C98各日仕様)も実際の時間に合わせて投稿されている。準備会は「東京ビッグサイトは緊急事態宣言発令を受けて全館休館となっているため、絶対に東京ビッグサイトの近くには行かないでください。ビッグサイト周辺にスタッフはいません。」と強い警告を出していた。 2020年7月12日、冬に開催予定であったC99についても、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点と、東京オリンピック・パラリンピックの開催延期に伴い東京ビッグサイト東展示棟が使用できないことを受けて開催を断念し、[[2021年]]の[[ゴールデンウィーク]]でのC99の開催を目指すことを正式に決定した。 同年11月17日に、C99('''旧C99''')を2021年5月2日 - 4日の3日間で開催することを発表するが、新型コロナウイルスによるさまざまな制約条件の下、1日数万人程度の来場者の規模とならざるを得ないと考えられるとしている。サークルの募集数は約2万3000で、C97の3万2000サークルから9000減になり、サークルに配る入場チケットも3枚から2枚に減り、一般参加の入場には事前の参加証購入が必要で、参加証を持たない人が自由に入場できる時間帯はない。その上で、購入希望者多数の場合は一般参加も抽選になる可能性があるとしている。参加者の負荷軽減の観点から青海展示棟は使用しない。また、特定の条件に該当する参加者に対しては、来場を自粛もしくは入場を拒否する旨を公表している。 12月30日 - 31日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ2」を付けたつぶやきを上げることにより、冬コミが実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『'''エアコミケ2'''』が準備会主体で開催された。専用の公式ホームページも作られ、開催期間中は午前10時から[[YouTube]]にてコミケスタッフによる生放送も配信された。その際、開会・閉会のアナウンス(エアコミケ2各日仕様)も本来の時間に合わせて番組内で流されている。2021年5月2日 - 4日には、Twitter上にハッシュタグとして「#エアコミケ3」を付けたつぶやきを上げることにより、C99が実際に行なわれたように振る舞う架空のイベント『'''エアコミケ3'''』が準備会主体で開催された。初日には、まんがレポート(まんレポ)特別版が公開された。 これにより、コミケ誕生から45周年だった2020年はコミケが通年で開催されなかったという異例の年となり、当初2021年夏に予定されていたC100は更に2022年夏に延期された。東京ビッグサイトの関係者は「年末年始が全館休館になったことは開場以来初めて」と異例の事態を物語っていた。 <!-- 特定個人の情報をこの記事に掲載する意味は? この影響により、コミケに来場すると毎回のように大きな囲みを作る[[えなこ]]が、コミケの中止によってスケジュールが空いたため、「[[ももいろ歌合戦]]」に出場する異例の出来事があった。 --> 同人誌の印刷業務を一手に引き受け、市場規模の拡大と共に急成長してきた印刷業者は、相次ぐコミケの開催中止や延期に伴う受注減少で打撃を受け、中には従業員の勤務日数縮小や来年度の[[就職活動|新卒採用]]を見送ったり、会社自体の廃業や倒産などの影響が発生した<ref>廃業に追い込まれた例として、コミックマーケットのカタログ印刷を手掛けていた[[共信印刷]]が2020年10月をもって廃業した。</ref><ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=同人誌即売会「コミケ」中止で印刷業苦境 成長市場に水、「作家の意欲減退」|url=https://www.chugoku-np.co.jp/localeco/article/article.php?comment_id=680118&comment_sub_id=0&category_id=113|website=中国新聞|accessdate=2020-09-12|publisher=|date=2020-09-11}}</ref>。 その一方で、2020年9月17日には「マンガファンを愛するコミックマーケットに感謝と更なる発展を祈って」として、第49回[[日本漫画家協会賞]]特別賞がコミックマーケット準備会に贈られている<ref>[http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/?tbl=event&id=8714 2020年度 第49回日本漫画家協会賞 発表],公益社団法人日本漫画家協会,2020年9月17日</ref>。 [[2021年]]3月8日、3月7日までの予定だった1都3県に出された緊急事態宣言が3月21日までの2週間の延長になった影響により、イベントにおいて10,000人を収容人数の上限とする経過措置期間が2021年GWまで延長される可能性を考慮してC99('''旧C99''')の開催を延期し、2021年冬のC99('''新C99''')開催を目指すことを正式に決定した。 延期発表後、4月12日に東京都に[[蔓延防止等重点措置]]が発動されたのち、4月23日に緊急事態宣言が発令・同月25日に施行された結果、東京都からの通告で東京ビッグサイトの使用が禁じられた。 ===== 開催再開(C99 - ) ===== {{正確性|section=1|date=2022年12月}} [[2021年]][[8月2日]]、2019年冬以来2年ぶりとなるコミックマーケット99('''新C99''')を同年[[12月30日]]から[[12月31日|31日]]までの2日間で開催することを発表した。翌C100以降も2日間開催となる。コミックマーケットの2日間開催は、2005年冬のC69以来16年ぶりのことである。なお、新型コロナウイルスの感染状況の経過次第では再延期の可能性も示唆していた。 強制的ではしないとしながらもワクチンの接種を奨励し<ref>{{Cite press release|和書|title=コミックマーケット99の新日程とサークル申込について|publisher=コミックマーケット準備会|date=2021-08-02|url=https://www.comiket.co.jp/info-a/C99A/C99ANotice1.html|accessdate=2021-08-10}}</ref>、11月12日に来場者予定を55,000人とするのに合わせて『'''[[ワクチン・検査パッケージ]]'''』の導入と技術実証に参加することを表明した<ref>{{Cite press release|和書|title=コミックマーケット99の開催について|publisher=コミックマーケット準備会|date=2021-11-12|url=https://www.comiket.co.jp/info-a/C99A/C99ANotice2.html|accessdate=2021-12-06}}</ref>。これにより、C99の入場には'''2回接種してから14日を経過したことを示す'''『'''[[接種証明書#新型コロナワクチン接種証明書|ワクチン接種証明]]'''』(予防接種済証、ワクチン接種証明書、接種記録書及びTOKYOワクションアプリのいずれか)又は『'''PCR検査結果での陰性証明'''』が必要条件となった<ref>{{Cite press release|和書|title=コミックマーケット99(新C99)におけるワクチン・検査パッケージの実施について|publisher=コミックマーケット準備会|date=2021-12-01|url=https://www.comiket.co.jp/info-a/C99A/C99AVTPackage.html|accessdate=2021-12-06}}</ref>。 C99の冊子版カタログについては印刷しなかったことから、冊子版カタログで初めて欠番が発生した<ref>一般向けに発売されないものの、スタッフ向けに業務用カタログがオンデマンド印刷で少量制作された。汎用品の本文用紙が使われたため各日ごとの2分冊となったほか、背表紙の続き絵も省略された</ref>。また、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入、東西間のホール移動制限<ref>結果的には最初の数時間のみの移動制限にとどまった</ref>、無銭参加するコスプレカメラマンが後を絶たなかったことによる防災公園の使用取りやめおよび「有明防災フェア」の同時開催取りやめなど、新たな感染症対策を講じた。11月10日には、[[Cygames]]から『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』の性的描写および暴力的描写に関する二次創作の禁止が発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=「ウマ娘 プリティーダービー」の二次創作のガイドライン|publisher=Cygames|date=2021-11-10|url=https://umamusume.jp/derivativework_guidelines/|accessdate=2022-06-28}}</ref>。この影響は多岐に渡り、多くの印刷会社がウマ娘の成人向けの製本や、書店での委託を禁止する方針を固め、多くのサークルがウマ娘の成人向け作品の頒布を自粛するほど影響が大きかった。 そして同年12月30日・31日、ついにコミックマーケット99('''新C99''')が開催された。当初、不安視されていた徹夜組や、国際展示場駅における始発ダッシュが確認できなかったことから、フリー入場の廃止およびアーリーチケットの導入による一定の成果を挙げることができた。その一方で、感染症対策を理由に参加を辞退したサークルも少なくなかった。 C99では、会場への新たなアクセス手段として、[[ジェイアールバス関東]]が[[東京駅]] - [[国際展示場駅]] - [[東京ビッグサイト]] - [[東京港フェリーターミナル]]間の路線バスの運行を開始した。この路線は[[都営バス]]などよりは運賃が割高ではあるが、Suica、PASMOなどの交通系ICカードによる運賃の割引もあり、高速バス車両を使用した座席定員制運行でトイレやFree Wi-fiを装備しているなどの差別化を図っている。C99期間中は多くの利用があり、東京駅や東京ビッグサイトには乗り場に係員が配置され、混雑状況により臨時便の運行もされた。 また、[[江ノ島電鉄]][[江ノ島鎌倉観光300形電車|300形]]の夜間試運転の際に騒がせた、[[江ノ電自転車ニキ]]ことHome taco barの店主がサークルとして参加し、話題を集めた<ref>{{Cite web|和書|title=『コミケ99』江ノ電自転車ニキが“鉄道島”へ来て話題に…「みんなに謝りたい」|publisher=しらべぇ|date=2022-01-01|url=https://sirabee.com/2022/01/01/20162770038/|accessdate=2022年1月4日}}</ref>。2020年秋季にテレビアニメが放送され、なおかつ東京ビッグサイトが虹ヶ咲学園として登場した関係上、『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』のコスプレをしたコスプレイヤーが激増した。 [[2022年]]夏開催の'''C100'''では記念ロゴが作られ、準備会は「C100で頒布するものに限り、C100記念ロゴを使用しても良い」という特例が設けられた。TYPE-MOONの竹箒がC74以来の出展、C95のカタログ表紙を描いた[[ワダアルコ]]もサークル参加、「[[3月のライオン]]」等で知られる[[羽海野チカ]]が1999年のC57以来の出展、羽海野チカのサークルには[[マフィア梶田]]が売り子として参加し、大熱狂に包まれた<ref>{{Cite web|和書|title=羽海野チカが23年ぶりコミケ出展 マフィア梶田も売り子に「参加できた自分は果報者」|publisher=KAI-YOU|date=2022-08-15|url=https://kai-you.net/article/84483|accessdate=2022年8月16日}}</ref>。また、2022年1月17日よりゆうちょ銀行ATMの利用手数料が設定されたことを受けて<ref>{{Cite press release|和書|title=一部商品・サービスの料金新設・改定について|publisher=ゆうちょ銀行|date=2021-07-02|url=https://www.jp-bank.japanpost.jp/news/2021/news_id001686.html|accessdate=2022-06-28}}</ref>、準備会から「東京ビッグサイトにあるゆうちょ銀行のATMで金を引き出す際、曜日と時間によっては手数料を取られます」と改めて注意喚起が出された。 [[File:Cosplay of Kenshi Yonezu who is hit by Koji Miyamoto.jpg|thumb|[[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]に撥ねられる[[米津玄師]]のコスプレ]] [[2022年]]冬開催の'''C101'''では参加可能人数を拡大、2022年のトレンドとなったテレビアニメ『[[ぼっち・ざ・ろっく! (アニメ)|ぼっち・ざ・ろっく!]]』の作者である[[はまじあき]]が参加したことにより、列が非常に長くなったことを確認し、はまじが準備会にスペースの位置を移動するよう要望を出したほどであった<ref>{{Cite tweet|title=【C101 "BLANK802." お知らせ(1)】現在、コミケ運営スタッフさんにご状況を伺い、サークルが外のスペースへ移動となりましたことをお知らせいたします。場所は画像をご参考下さい。寒空の中、誠に申し訳ございません何卒よろしくお願いいたします。|user=hamazi__|number=1608614110048169985|date=2022-12-30|accessdate=2023-01-06}}</ref>。『[[仮面ライダー龍騎]]』で秋山蓮 / 仮面ライダーナイトを演じた[[松田悟志]]がサークル参加し、コスプレ広場にも顔を見せ、仮面ライダー王蛇のコスプレをしたコスプレイヤーとの共演が実現する。その後に、『[[仮面ライダーギーツ]]』のコスプレをしたコスプレレイヤーも加わった<ref>{{Cite web|和書|title=「仮面ライダーナイト」本家の“コスプレ”にファン歓喜「いつまでも俺らのヒーローなんですよ」|publisher=スポーツニッポン|date=2022-12-30|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/30/kiji/20221230s00041000489000c.html|accessdate=2023-01-01}}</ref>。また、同年[[インターネット・ミーム]]になった『車道で叫ぶ[[米津玄師]]を叫びながら撥ねる[[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]』という[[マニア|マニアック]]なコスプレも登場<ref>{{Cite web|和書|title=コミケのコスプレ面白い! 行けなかった人もニッコリ年を越せるコス写真まとめ|publisher=[[ねとらぼ]]|date=2022-12-30|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2212/30/news091.html|accessdate=2023-01-02}}</ref>。この撥ねられる米津玄師のコスプレや、[[チェンソーマン]]のキャラクターとともに小走りで行進する米津玄師のコスプレが[[香港]]のメディアでも取り上げられるなど話題になった<ref>{{Cite web|title=同人盛會C101搞笑Cosplay:真人Cos重現宮本浩次駕車撞到的「KICKBACK」米津玄師|publisher=喜愛日本 Like Japan|date=2022-12-30|url=https://www.facebook.com/likejpn/photos/a.366319040144677/5492000187576511/?|accessdate=2023-01-02}}</ref><ref>{{Cite web|title=同人盛會C101搞笑Cosplay:《鏈鋸人》cos列陣 有奇怪的東西混進去了|publisher=喜愛日本 Like Japan|date=2022-12-30|url=https://www.facebook.com/likejpn/videos/%E5%90%8C%E4%BA%BA%E7%9B%9B%E6%9C%83c101%E6%90%9E%E7%AC%91cosplay%E9%8F%88%E9%8B%B8%E4%BA%BAcos%E5%88%97%E9%99%A3-%E6%9C%89%E5%A5%87%E6%80%AA%E7%9A%84%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E6%B7%B7%E9%80%B2%E5%8E%BB%E4%BA%86/1533994773778222/|accessdate=2023-01-02}}</ref>。『[[ブルーアーカイブ -Blue Archive-|ブルーアーカイブ]]』の統括プロデューサーである[[キム・ヨンハ]]が来日し、Yostarブースとブルーアーカイブの同人誌を扱うサークルを視察した<ref>{{Cite tweet |title=本日からコミックマーケット101が開催!Yostarブースにブルーアーカイブのキム・ヨンハ統括Pも遊びに来てくれました!|user=yostarjp_info |number=1608622923400773632 |date=2022-12-30 |accessdate=2023-08-14}}</ref>。これがきっかけでC102でブルアカを扱うサークルが急増し、C103でジャンルコードが独立した。 [[2023年]]夏開催の'''C102'''では、コロナウイルスが5類に移行したことにより、入場制限を撤廃した。[[ビッグモーター]]の保険金不正請求問題を受け、ビッグモーターのコスプレをするコスプレイヤーの参加が目立った。 === 最大イベントの場として === [[File:Comic_Market_92_Day_3-_Cosplayers_(38738505232).jpg|thumb|時事ネタを扱ったコスプレの一例。<br/>C92開催前の2017年1月に[[てるみくらぶ]]が破産した事件に絡み、ボロボロになって帰国した同社ツアーの参加者という設定のコスプレ。]] {{複数の問題 |section=1|正確性=2010年12月|独自研究=2010年12月}} 1990年代に入ると技術革新により各種同人作品の制作が容易となったことなどから、コミックマーケット参加者は急激に増加した。東京[[秋葉原]]・大阪[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]を中心として日本全国に同人誌専門店などが増えインターネットなどを通じてより手軽に同人誌が入手できるようになっている(中には、コミックマーケット開催前に同人誌専門店で販売されるケースもある)。また、取扱ジャンルの細分化が進んだ状況としても日本全国の同人作品の制作者とファンが一堂に会する同人イベント最大の場として存続している。中にはこのイベントでしか扱っていないマイナージャンルもある(例:漫画研究会のサークル)。また、「モノづくり」をテーマともしているジャンルも存在しており、[[京都大学]]機械研究会[[OB・OG|OB]]のサークルが紹介されている<ref>{{Cite web|和書|website=ライブドアニュース|date=2018年8月25日|url=http://news.livedoor.com/article/detail/15208135/|title=モノづくりや工業をテーマに出展する人も 「コミケ」の同人誌に意外な需要|publisher=LINE|accessdate=2019年3月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180826114719/http://news.livedoor.com/article/detail/15208135/|archivedate=2018年8月26日}}</ref>。 近年、コミケを題材に制作されたドラマや秋葉原、池袋周辺などが注目された関連で社会的に広く認知されるイベントになった。開催日の前後にはコミックマーケットがテレビのニュースや個人のSNSでとりあげられることも多い。その一方、予備知識を持たない興味本心だけの参加者の増加もしている<ref>{{Cite web|和書|website=BLOGOS|date=2018年08月12日|url=http://blogos.com/article/317425/|title=迷惑動画を増やすな!|publisher=LINE|accessdate=2019年3月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180813113326/http://blogos.com/article/317425/|archivedate=2018年08月13日}}</ref>。そういった参加者向けに運営側は注意事項等を公式サイトで公開している。<!-- ただし、2019年以降のイベントでは一般参加者の負担も必要になるのでこの限りではありません。 --> その一方で参加者の驚異的とも言える増大によるイベント巨大化、企業との関係、さらには法令による「[[有害図書]]」規制や[[コスプレ]]<ref>{{Cite web|和書|website=ライブドアニュース|date=2018年8月12日|url=http://news.livedoor.com/article/detail/15148680/|title=夏コミのコスプレにおける「表現の規制」問題 参加者はどう受け止める?|publisher=LINE|accessdate=2019年3月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180813113124/http://news.livedoor.com/article/detail/15148680/|archivedate=2018年8月13日}}</ref>、二次創作、パロディ表現にまつわる表現(とりわけ性的表現)との関係、イベントにおける多大な頒布・売買行為の税務上処理などいくつかの課題も内包している。そのため、1996年以降は一部の「コミックマーケットSP」以外は別会場の例外はあるが、主に東京国際展示場(東京ビッグサイト)であることが多い所からも会場管理の東京都や[[警視庁]](管轄:[[深川警察署 (東京都)|深川警察署]]・2008年以降は[[東京湾岸警察署]])との調整も行っている。コミックマーケットは以前の漫画マニア向けイベントから一般化が進み、参加者数は3日開催で55万人、4日開催で75万人(C97)を超え、開催日数にあわせてサークル参加者も増大した<ref>[http://www.comiket.co.jp/archives/Chronology.html コミックマーケット年表] C87時点で参加サークル35000、一般参加者56万人、最高は[[2019年]]夏のC97で75万人</ref>大イベントとなっており、施設の効率的な運用方法や行政からの指導などの対策すべき問題も多く存在している。 しかし前述のとおり、新型コロナウイルス感染拡大に伴う事象の変化と、徹夜組・始発ダッシュ組を排除する対策の方針により、C99以降はホールの拡大により会期が2日間に短縮され、一般参加者にも入場料が求められるようになり、入場券は事前抽選制へ移行。当日券の発売もなくなった。このため来場者数そのものが急減しており、C99の来場者数は2日間で11万人にまで縮減されていた。一般参加の制限が無くなったC102でも猛暑を嫌う一般参加者が続出し、C102の来場者数は26万人と、最盛期であったC97の75万人の1/3まで減少している。 == その他 == === 関連行事 === * [[フジネットワーク|フジテレビ系列局]]で放送された[[テレビドラマ]]『[[電車男]]』の第6回で、このコミックマーケットが題材として取り上げられた。ここでは「コミックキングダム」という架空の同人誌即売会として登場したが、設定は現実のコミケとはかけ離れている。もっともこれはどんなドラマのどんな分野にもある「話を面白く見せる為、あえて現実離れした展開にした」ということも考えられる。この放送回は折りしもC68の前日だった。[[ロケーション撮影|ロケ]]は、多数のエキストラを集めて東京ビッグサイトと幕張メッセで行われた。 * コミックマーケットの館内放送は長年、[[米澤英子]]がほぼ1人で担当しておりその象徴の一つだった。しかしC67の際、アナウンス中に喉を痛めてしまい発声できなくなるトラブルが発生。C68では放送要員増員を図り、予備要員の人間が交代で放送に当たった。コミックマーケット初の試みとして、C68の1日目の放送に男性が起用された。 * 会期中の各日9時45分、12時30分、15時45分にはそれぞれ不審物の発見等を目的とした一斉点検放送が行われる。この放送では毎回冒頭の数秒間で[[井上陽水]]の『[[夢の中へ]]』が流されており、単に「探し物」以上の意味でもイベント内容に通用する歌詞であることからこの曲を事実上のコミケのテーマソングとして捉える向きも多い。当初はイントロのみ使用されたが、後に参加者に使用意図を明確にするため歌い出しの「探し物はなんですか? 見つけにくい物ですか?」の部分まで延長されるようになった。なお、2013年春に[[ニコニコ動画]]でオリジナルジングルが募集され、採用されたジングル『一斉点検!サーチ&マーチ』がC84から一斉点検放送で使用されることが決定したため、『夢の中へ』はC83をもって廃止された。また、C84より開会時・閉会時にもオリジナルジングルが導入された<ref>[http://www.comiket.co.jp/jingle/ 『コミケ・ジングル超募集!』受賞作発表!!](コミックマーケット準備会)</ref>。 * 冬コミに限り、コミックマーケット開催中の会場内および[[東京臨海高速鉄道りんかい線]][[国際展示場駅]]前で東京都[[赤十字血液センター]]による[[献血]]が実施される<ref>夏コミ時も同様のイベントが開催されるが、献血参加者の健康への配慮から会場及び国際展示場駅での献血は行わず、都内及び周辺3県の血液センターでの開催になる。</ref>。他の献血行事同様、特定の場所に献血バスが来て献血が出来るが、年末の押し迫った時期に献血バスを配車しているのは都内でも冬コミだけである<ref>C83冊子版カタログ1328〜1329ページ</ref>。例年、冬場は血液不足になりがちな時期であるが、そんな中にあって冬コミは毎回ある程度まとまった量の血液の確保が見込めるため、近年は献血実施側がアニメやゲームの制作会社と協力して冬コミ会場や都内の献血センターで献血した人にポスターなどをプレゼントする企画を行う<ref>コンテンツエージェント株式会社[http://www.c-agent.net/comike/kenketsu/index.html 「コミックマーケット 献血応援イベント」]</ref><ref>2012年のC82より千葉県内の血液センターで(C82の時は同時開催ではなく9〜10月の開催)、2013年のC84からは埼玉県・神奈川県血液のセンターでも開催した。</ref>など、さらなる献血協力者の確保を狙っている。また、このように少なからず献血活動に貢献しているとして、コミックマーケット準備会は日本赤十字社から感謝状を贈られている<ref>「はたらくおぢさん総集編」54ページ(企画・編集:横川俊・コミックマーケット準備会)</ref>。また、2023年11月21日には、「令和5年度・東京都赤十字大会」(同年10月26日開催)において、日本赤十字社から「コミックマーケット」として金色有功賞を受賞し、コミックマーケット準備会共同代表である安田かほるが、日本赤十字社名誉副総裁[[正仁親王妃華子|常陸宮妃華子]]より盾の贈呈を受けたことを発表した<ref>{{Cite web |url=https://www.comiket.co.jp/info-a/RedCrossAward.html |title=日本赤十字社金色有功章・受章について |access-date=2023/11/21}}</ref><ref>当初はコミックマーケット準備会として受賞という話を東京都赤十字血液センターから受けていたとのことだが、「献血を行っているのは多くが参加者であり、準備会は場所等の提供を行っているに過ぎない」との考えから、「コミックマーケット」として受賞することになったとのこと。</ref>。この件は、ねとらぼをはじめとする多くのメディアが伝えている<ref>{{Cite web |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2311/21/news144.html |title=コミケに日本赤十字社から「金色有功章」、献血への貢献で |access-date=2023/11/21}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/45835f1e0778f22c0f67ea26f0380e44d9872b84 |title=「コミックマーケット」日本赤十字社の金色有功章を受章 長年の献血への協力が評価 |access-date=2023/11/21}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://kai-you.net/article/88246 |title=コミックマーケット、日本赤十字社の金色有功章を受章 開催ごとに献血へ協力 |access-date=2023/11/21}}</ref>。 ** 献血バスの配車は1997年から、ポスター等の記念品を付加した「コミックマーケット献血応援イベント」は2011年12月開催のC81から、2013年の12月からは、コミックマーケットなどのイベントが終わった後も、全国の血液センターでも同じノベルティを配布するキャンペーンを展開している<ref>{{Cite web|和書|title=いつもの1.7倍献血者が集まる!「コミケ時の献血バス」の実態を日赤に聞いてみた|url=https://otapol.com/2017/04/post-10436.html|website=otapol.com|date=2017-04-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200603160607/https://otapol.com/2017/04/post-10436.html|archivedate=2020-06-03|accessdate=2020-12-30|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=(2ページ目)いつもの1.7倍献血者が集まる!「コミケ時の献血バス」の実態を日赤に聞いてみた|url=https://otapol.com/2017/04/post-10436_2.html|website=otapol.com|date=2017-04-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200621031225/https://otapol.com/2017/04/post-10436_2.html|archivedate=2020-06-21|accessdate=2020-12-30|language=ja}}</ref>。 ** 2020年冬に予定されていたC99については開催が延期された影響により、献血も中止となった。その代替として「[https://air.comiket.co.jp/ エアコミケ2]」にて、献血応援イベントが開催された<ref>{{Cite web|和書|title=エアコミケ2 献血応援イベント開催について|url=https://www.c-agent.net/kenketsu/|website=www.c-agent.net|date=2020-12-09|accessdate=2020-12-30}}</ref>(対象エリアは東京都<ref>{{Cite web|和書|title=「エアコミケ2 献血応援イベント」を実施します!|url=https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/tokyo/2020/12/post-299.html|website=www.bs.jrc.or.jp|date=2020-12-15|accessdate=2020-12-30}}</ref>、千葉県<ref>{{Cite web|和書|title=【12/30(水)スタート】エアコミケ2献血応援イベントを開催します♪|url=https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/chiba/2020/12/98.html|website=www.bs.jrc.or.jp|date=2020-12-25|accessdate=2020-12-30}}</ref>、埼玉県<ref>{{Cite web|和書|title=エアコミケ2 献血応援イベントを開催します♪|url=https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/saitama/2020/12/post-410.html|website=www.bs.jrc.or.jp|date=2020-12-17|accessdate=2020-12-30}}</ref>、神奈川県<ref>{{Cite web|和書|title=エアコミケ2 献血応援イベントの開催について|url=https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/kanagawa/2020/12/post-235.html|website=www.bs.jrc.or.jp|date=2020-12-20|accessdate=2020-12-30}}</ref>)。新C99では会場の都合によりコミケから切り離しての開催となった。 * 東京ビッグサイトの至近にある[[東京ファッションタウン]]内のTFTホールで「となりでコスプレ博」が開催されており、暑さ・寒さを嫌がってコミックマーケットに行きたくないコスプレイヤーや、コミックマーケット終了後のアフター利用のためのコスプレイヤーやカメラマンでにぎわう。2012年冬開催時は、上述した脅迫事件の影響で参加を取りやめた「黒子のバスケ」のコスプレイヤーを受け入れた。主催である勇者屋は、「荷物をTFT内で預けるのはよいが、コスプレのまま(コミックマーケットの)会場に行かないように」と、注意を促している。なお、2019年12月開催のC97ではTFTホールにもコミックマーケットの更衣室が設置されたことと、運営上の問題により、となコスの同時開催は行われなかった<ref>{{Cite news|url=https://ascii.jp/elem/000/002/003/2003627/|title=2019冬、コミックマーケット【C97】コスプレイヤーフォトレポート|work=ASCII.jp|agency=[[アスキー (企業)|角川アスキー総合研究所]]|date=2020-01-11|accessdate=2020-01-14}}</ref>。 * 同様に現行会場である東京ビッグサイトの至近にある[[シンボルプロムナード公園|イーストプロムナード]]が[[ヘブンアーティスト]]の正式な活動許可区域なこともあり、コミックマーケットの期間中に会場付近で彼らによる[[大道芸]]や[[大道芸|路上パフォーマンス]]が行われることも近年増えている。彼らは主に昼過ぎから夕方にかけての「コミックマーケットの来場者が帰宅者に転じだす」時間帯に多く活動しておりコミックマーケットからの帰途につく人たちを楽しませている。 *2014年冬(C87)から2019年冬(C97)まで、隣接する[[東京臨海広域防災公園]]の「有明防災フェア」にも協賛していた。ただし、冬の最終日(12月31日)は終日閉鎖されるため使用できない。2021年冬(C99)以降は東京臨海広域防災公園が会場から除外されている。 **2022年夏(C100)は、主催である自衛隊応援クラブDSC、準備会、コスプレ博実行委員会の三者による協議の結果、会期を9月3日・4日に変更し、会場もシンボルプロムナード公園に変更された。 === 問題と対策 === {{See also|コミックマーケットが抱える問題}} * [[2008年]][[7月16日]]の「コミケ会場に[[手榴弾]]を投げ込む」旨のものをはじめとする複数の[[テロリズム|テロ予告]]があり、また、[[秋葉原通り魔事件]]といった様々な事案がある状況であることを理由に警察当局から手荷物確認を実施するよう強い指導を受け、C74にて手荷物確認が初めて実施された。 * 2008年夏に開催されたC74は、直前の[[8月3日]]に開催された[[ワンダーフェスティバル]]における西館の上りエスカレーターでの事故をうけて、約半数のエスカレーターの使用を中止した。開催直前だったため、公式HP以外にアニメショップや参加各企業とサークルにも事前に参加者に告知するように徹底された。2008年冬に開催されたC75においても、西館の上りのエスカレーターの使用を中止した(C75では上りのエスカレーターが使用できないという告知はなかった)。西館の上りのエスカレーターの使用中止は、C76からC83までは全面的に利用が禁止された。C84からC89までは関係者のみが利用できたが、ビッグサイトの拡張工事の影響もありC90にて西館の上りと下りのエスカレーターの一般参加者の使用が復活した。 * [[2009年]]夏に開催されたC76の最終日では、来場者が現金を引き出すために[[ゆうちょ銀行]]の[[現金自動預け払い機|ATM]](本店東京ビッグサイト内出張所)に殺到し、ATM内の残金が一時的になくなる事態が発生した<ref>[https://www.j-cast.com/2009/08/17047602.html 使いすぎ?「コミケ」でゆうちょ銀行ATM残金ゼロ 身ぐるみ剥がされる!!] [[ジェイ・キャスト|J-CASTニュース]]、2009年8月17日</ref>(コミケ開催期間中にゆうちょ銀行ATM内の千円札がなくなることは頻繁に起きているが、一万円札も一緒に残金が全部なくなったのは今回が初めて)。 * [[2012年]]冬に開催されたC83は、2日目において「[[黒子のバスケ]]」サークルの不参加を要求する[[黒子のバスケ脅迫事件|脅迫事件]]への対策として、通常通りの開催が行われれば以降のコミックマーケットでの東京ビッグサイトの使用が禁止される恐れがあったことから、「黒子のバスケ」サークルの参加と当該作品の同人誌・グッズなどの頒布を中止させた。参加できなかったサークルは約900に及び、サークル参加料は返金となった。同時にC74以来となる手荷物確認を実施することになった<ref>[http://docs.circle.ms/webcatalog/info-a/C83/C83Notice1.html コミックマーケット83における『黒子のバスケ』サークル・頒布物対応に関する緊急のお知らせ]</ref><ref>[https://mantan-web.jp/article/20121208dog00m200022000c.html コミケ83:「黒子のバスケ」脅迫で一部出展見合わせを決定 - MANTANWEB(まんたんウェブ)]</ref><ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1212/08/news012.html コミックマーケット83、「黒子のバスケ」関連すべて中止へ 脅迫状への対応として - ねとらぼ]</ref>。自粛ムードが広がり、初日のコスプレでは「黒子のバスケ」のコスプレイヤーは見当たらず、近隣のイベントへ流出した<ref>[https://mantan-web.jp/article/20121230dog00m200011000c.html コミケ83:「黒子のバスケ」同人誌900サークル出展見合わせ 37年で初の大規模自粛]</ref>。 * 2015年冬に開催されるC89以降、テロ対策に伴う警察からの要請のため、手荷物確認が行われることとなった<ref>[https://mantan-web.jp/article/20151215dog00m200017000c.html コミケ:3年ぶりに手荷物確認実施へ テロ対策強化の要請を受け] まんたんウェブ 2015年12月15日</ref><ref>[http://www.comiket.co.jp/info-a/C89/C89Notice1.html コミックマーケット89における警備強化に関するお知らせ] コミックマーケット公式サイト 2015年12月15日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * コミックマーケット準備会『コミケット年鑑'84』(1985年8月、[[自費出版]]) * コミックマーケット準備会『コミケット20's コミックマーケット20周年記念資料集』(1996年3月17日、コミックマーケット準備会20周年資料編集部、自費出版、432頁) * コミックマーケット準備会『[https://www.comiket.co.jp/archives/30th/ コミックマーケット30'sファイル]』(2005年3月21日、[[自費出版]]。商業出版された版は2005年7月 発行:コミケット、発売:[[青林工藝舎]]、2100円、391頁、ISBN 4-88379-192-0) * 霜月たかなか(原田央男)『コミックマーケット創世記』(2008年12月30日(発売日は12月12日) [[朝日新聞出版]]、[[朝日新書]]、税抜き700円、216頁、ISBN 978-4-02-273250-7) * [[迷宮 (同人サークル)|迷宮'11]]『漫画批評大系 vol.16 亜庭じゅん大全 A LONG LONG STORY』(2011年12月31日、自費出版、2000円、832頁) * 迷宮'13『MGM100カタログ』(2013年1月27日、迷宮内[[まんが ギャラリー&マーケット|MGM]]、自費出版) * コミックマーケット準備会『コミックマーケット40周年史』(2015年[[8月14日]]、コミックマーケット準備会、発行コミケット、自費出版、2000円、343頁) == 関連項目 == {{Commons&cat|Comic Market|Comic Market}} <!--アルファベット順・五十音順。--> * [[:en:Otakon]] * [[アマチュアリズム]] * [[げっちゅ屋]] * [[コミックシティ]] * [[コミックマーケットのジャンルコード]] * [[コミックマーケットが抱える問題]] * [[こみっくパーティー#同人誌即売会|こみっくパーティー]] * [[世界コスプレサミット]] * [[日本SF大会]] * [[日本漫画大会]] * [[迷宮 (同人サークル)|迷宮]] == 外部リンク == * {{Official website}} ** {{PDFlink|[http://www.comiket.co.jp/info-a/WhatIsJpn080225.pdf コミックマーケットとは何か?]}} * [http://www.tsp.ne.jp/~setuei/ コミックマーケット設営部] * {{Wayback|url=http://kyoshin.net/catarom/ |title=COMIC MARKET DVD-ROM CATALOG サポートページ|date=20220409053704}} - 共信印刷 * {{Wayback|url=http:///www.cps-co.jp/frame/20071110.html/|title=株式会社コミケプランニングサービス(現:株式会社シーピーエス) 弊社業務内容の変更に関する社告|date=20120414060026}} * {{Twitter|comiketofficial|コミックマーケット準備会}} * {{Twitter|setueibu|コミケット設営部}} {{コミックマーケット}} {{コミックマーケットカタログ表紙}} {{日本の同人誌即売会}} {{日本のアニメコンベンション}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こみつくまあけつと}} [[Category:コミックマーケット|*]] [[Category:東京都の行事・イベント]] [[Category:東京ビッグサイトの行事・イベント]] [[Category:夏のイベント]] [[Category:日本の冬季イベント]] [[Category:8月]] [[Category:12月]] [[Category:同人誌即売会]] [[Category:1975年開始のイベント]] [[Category:渋谷区の企業]] [[Category:コスプレ]] [[Category:日本の文化]] [[Category:漫画のムーブメント]] [[Category:日本のサブカルチャー]]
2003-08-19T09:35:40Z
2023-12-25T10:44:04Z
false
false
false
[ "Template:複数の問題", "Template:Reflist", "Template:日本の同人誌即売会", "Template:Cite tweet", "Template:イベントインフォメーション", "Template:正確性", "Template:PDFlink", "Template:日本のアニメコンベンション", "Template:独自研究", "Template:Commons&cat", "Template:Normdaten", "Template:Main", "Template:Cite web", "Template:Wayback", "Template:基礎情報 会社", "Template:Official website", "Template:コミックマーケット", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Twitter", "Template:Cite press release", "Template:See also", "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:コミックマーケットカタログ表紙", "Template:Lang", "Template:Quotation", "Template:Anchors" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
13,554
エノコログサ
エノコログサ(狗尾草、学名:Setaria viridis)は、イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草本である。ブラシのように長い穂の形が独特な雑草である。 夏から秋にかけてつける花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になったとされ、漢字でも「狗(犬)の尾の草」と表記する。ネコジャラシ(猫じゃらし)の俗称は、花穂を猫の視界で振ると、猫がじゃれつくことから。逆に猫をじゃらす、草状のものを「お遊び草」と呼ぶようになった。穀物のアワ(粟)の原種とされ、交雑もよくおこる。 全世界の温帯に分布する。日本でも全土の日当たりのよい畑地、荒地に分布する。縄文時代前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される。 草丈は40cm - 70 cmになる。茎は細く、基部は少し地表を這い、節から根を下ろす。夏には茎が立ち上がって伸び、先端に穂をつける。 葉は匍匐茎にも花茎にも多数ついており、最大20 cm位、イネ科としてはやや幅広く、細長い楕円形、薄く、緑色でつやがない。茎を包む葉鞘と、葉身の境目につく葉舌は退化して、その部分に毛だけが残る。また、よく葉が裏表逆になっている。葉の付け根でねじれて、裏側が上を向くもので、そのような葉では、上を向いた裏側の方が濃い緑でつやがあり、下を向いた表側の方が、裏のような様子になる。 花序は円柱形で、一面に花がつき、多数の毛が突き出すので、外見はブラシ状になる。イヌビエなどの穂から出る毛は、小穂を包む鱗片(穎)の先端から伸びる芒であるが、エノコログサの場合、この毛は芒ではなく、小穂の柄から生じる長い突起である。 鳥や動物に食べられても、種子が消化されずに排泄されるため、生息域を広げることができる。 現在は、一般的に食用としては認識されてはいないが、アワ(粟)の原種のため食用に使える。基本的に穀物であるので、粟やほかの穀物同様、種子の部分を脱穀・脱稃して食用とする。近代以前の農村では、飢饉の際にカラスムギなどと共にこれを食用としたこともあった。オオエノコロは粟の遺伝子が流入しているので食用に供しやすい。 食用とする場合、エノコログサは脱粒しやすいのではたきなどで叩き落とし、ざるで受けるのがよい。脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる。 また、猫じゃらしの名の通り、これを用いて猫をじゃらすことができる。 エノコログサはさまざまな所に生え、そのためもあってか種内変異が多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エノコログサ(狗尾草、学名:Setaria viridis)は、イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草本である。ブラシのように長い穂の形が独特な雑草である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "夏から秋にかけてつける花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になったとされ、漢字でも「狗(犬)の尾の草」と表記する。ネコジャラシ(猫じゃらし)の俗称は、花穂を猫の視界で振ると、猫がじゃれつくことから。逆に猫をじゃらす、草状のものを「お遊び草」と呼ぶようになった。穀物のアワ(粟)の原種とされ、交雑もよくおこる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全世界の温帯に分布する。日本でも全土の日当たりのよい畑地、荒地に分布する。縄文時代前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "草丈は40cm - 70 cmになる。茎は細く、基部は少し地表を這い、節から根を下ろす。夏には茎が立ち上がって伸び、先端に穂をつける。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "葉は匍匐茎にも花茎にも多数ついており、最大20 cm位、イネ科としてはやや幅広く、細長い楕円形、薄く、緑色でつやがない。茎を包む葉鞘と、葉身の境目につく葉舌は退化して、その部分に毛だけが残る。また、よく葉が裏表逆になっている。葉の付け根でねじれて、裏側が上を向くもので、そのような葉では、上を向いた裏側の方が濃い緑でつやがあり、下を向いた表側の方が、裏のような様子になる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "花序は円柱形で、一面に花がつき、多数の毛が突き出すので、外見はブラシ状になる。イヌビエなどの穂から出る毛は、小穂を包む鱗片(穎)の先端から伸びる芒であるが、エノコログサの場合、この毛は芒ではなく、小穂の柄から生じる長い突起である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "鳥や動物に食べられても、種子が消化されずに排泄されるため、生息域を広げることができる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在は、一般的に食用としては認識されてはいないが、アワ(粟)の原種のため食用に使える。基本的に穀物であるので、粟やほかの穀物同様、種子の部分を脱穀・脱稃して食用とする。近代以前の農村では、飢饉の際にカラスムギなどと共にこれを食用としたこともあった。オオエノコロは粟の遺伝子が流入しているので食用に供しやすい。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "食用とする場合、エノコログサは脱粒しやすいのではたきなどで叩き落とし、ざるで受けるのがよい。脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、猫じゃらしの名の通り、これを用いて猫をじゃらすことができる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "エノコログサはさまざまな所に生え、そのためもあってか種内変異が多い。", "title": "変異" } ]
エノコログサは、イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草本である。ブラシのように長い穂の形が独特な雑草である。 夏から秋にかけてつける花穂が、犬の尾に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になったとされ、漢字でも「狗(犬)の尾の草」と表記する。ネコジャラシ(猫じゃらし)の俗称は、花穂を猫の視界で振ると、猫がじゃれつくことから。逆に猫をじゃらす、草状のものを「お遊び草」と呼ぶようになった。穀物のアワ(粟)の原種とされ、交雑もよくおこる。
{{Redirect|ねこじゃらし|お笑いコンビ|ねこじゃらし (お笑いコンビ)}} {{生物分類表 |色 = lightgreen |名称 = エノコログサ |画像 = [[ファイル:Setaria viridis 15-p.bot-seta.viridi-09.jpg|250px|''Setaria viridis'']] |画像キャプション = {{Snamei|Setaria viridis}} |status = <!-- IUCNのレッドリストランク及びワシントン条約の附属書 --> |分類体系 = [[APG III]] |界 = [[植物|植物界]] {{Sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[単子葉類]] {{Sname||Monocots}} |亜綱階級なし = [[ツユクサ類]] {{Sname||Commelinids}} |目 = [[イネ目]] {{Sname||Poales}} |科 = [[イネ科]] {{Sname||Poaceae}} |亜科 = [[キビ亜科]] {{Sname||Panicoideae}} |連 = [[キビ連]] {{Sname||Paniceae}} |属 = [[エノコログサ属]] {{Snamei||Setaria}} |種 = '''エノコログサ''' {{Snamei|S. viridis}} |学名 = {{Snamei||Setaria viridis}}<br> ({{AU|L.}}) {{AU|P.Beauv.}} |シノニム = {{Snamei|Setaria viridis}} ({{AU|L.}}) {{AU|P.Beauv.}} subsp. {{Snamei|minor}} ({{AU|Thunb.}}) {{AU|T.Koyama}}<br>{{Snamei|Setaria viridis}} ({{AU|L.}}) {{AU|P.Beauv.}} var. {{Snamei|minor}} ({{AU|Thunb.}}) {{AU|Ohwi}}<br>{{Snamei|Panicum italicum}}<br>{{Snamei|Panicum flavum}}<br>{{Snamei|Chaetochloa italica}} |和名 = エノコログサ(狗尾草)、ネコジャラシ |英名 = [[:en:green bristlegrass|green bristlegrass]] |下位分類名 = [[亜種]]・[[変種]]・[[品種]] |下位分類 = * {{Snamei|S. v.}} subsp. {{Snamei|pachystachys}} * {{Snamei|S. v.}} subsp. {{Snamei|pycnocoma}} * {{Snamei|S. v.}} subsp. {{Snamei|viridis}} * ホソバノエノコログサ {{Snamei|S. v.}} var. {{Snamei|angustifolia}} * {{Snamei|S. v.}} var. {{Snamei|major}} * ハマエノコロ {{Snamei|S. v.}} var. {{Snamei|pachystachys}} * カタバエノコログサ {{Snamei|S. v.}} f. {{Snamei|japonica}} * ムラサキエノコロ {{Snamei|S. v.}} f. {{Snamei|misera}} }} '''エノコログサ'''(狗尾草、[[学名]]:{{Snamei|Setaria viridis}}<ref name="YList">{{Cite web|和書 |author = [[米倉浩司]] |coauthors = 梶田忠 |year = 2003- |url = http://ylist.info/ |title = 「BG Plants 和名−学名インデックス」(YList) |accessdate = 2011-08-22 }}</ref>)は、[[イネ科]][[エノコログサ属]]の[[植物]]で、[[一年生草本]]である。[[ブラシ]]のように長い穂の形が独特な[[雑草]]である。 夏から秋にかけてつける[[花穂]]が、[[イヌ|犬]]の[[尾]]に似ていることから、犬っころ草(いぬっころくさ)が転じてエノコログサという呼称になった<ref name=":0">{{Cite news|title=雑草の種類10パターンと見分け方を解説!庭や畑の雑草はどれ?|url=https://taskle.jp/media/articles/308|accessdate=2018-11-12|language=ja-JP|work=タスクル {{!}} 暮らしのお悩み解決サイト}}</ref>とされ、漢字でも「狗(犬)の尾の草」と表記する。'''ネコジャラシ'''(猫じゃらし)の俗称は、花穂を[[ネコ|猫]]の視界で振ると、[[ネコの遊びと玩具|猫がじゃれつく]]ことから。逆に猫をじゃらす、草状のものを「お遊び草」と呼ぶようになった<ref>ドギーマン-じゃれ猫-猫のお遊び草-2本セット {{ASIN|B002WSHMI6}}</ref>。[[穀物]]の[[アワ]](粟)の原種とされ、[[交雑]]もよくおこる{{Sfn|国分|2010|p=270}}。 == 分布 == 全世界の[[温帯]]に分布する<ref name="日本の野生植物">『日本の野生植物 草本I単子葉類』 {{Harvnb|佐竹|大井|北村|ほか|1982|page=100}}</ref>。[[日本]]でも全土の日当たりのよい畑地、荒地に分布する<ref name="日本の野生植物" />。[[縄文時代]]前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される{{Sfn|那須|2014|page=99}}。 == 特徴 == 草丈は40[[センチメートル|cm]] - 70 cmになる。[[茎]]は細く、基部は少し地表を這い、節から[[根]]を下ろす。夏には茎が立ち上がって伸び、先端に穂をつける。 [[葉]]は[[匍匐茎]]にも[[花茎]]にも多数ついており、最大20 cm位、イネ科としてはやや幅広く、細長い楕円形、薄く、緑色でつやがない。茎を包む[[葉鞘]]と、[[葉身]]の境目につく[[葉舌]]は退化して、その部分に毛だけが残る。また、よく葉が裏表逆になっている。葉の付け根でねじれて、裏側が上を向くもので、そのような葉では、上を向いた裏側の方が濃い緑でつやがあり、下を向いた表側の方が、裏のような様子になる。 [[花序]]は円柱形で、一面に[[花]]がつき、多数の毛が突き出すので、外見はブラシ状になる。[[イヌビエ]]などの穂から出る毛は、[[小穂]]を包む鱗片([[穎]])の先端から伸びる[[芒]]であるが、エノコログサの場合、この毛は芒ではなく、小穂の柄から生じる長い突起である。 鳥や動物に食べられても、種子が消化されずに排泄されるため、生息域を広げることができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://trustcorpkk.co.jp/archives/1076 |title=エノコログサの駆除方法と繁殖|date=2023-01-31|website=TRUSTCORP(トラストコープ)|publisher=TRUST・CORP|accessdate=2023-02-06}}</ref>。 <gallery> ファイル:Setaria viridis P. Beauv. (Enokorogusa-Japanese) gregarious.jpg|[[個体群生態学|群生]] </gallery> == 利用 == 現在は、一般的に[[食用]]としては認識されてはいないが、アワ(粟)の[[原種]]のため食用に使える<ref name=":0" />。基本的に穀物であるので、粟やほかの穀物同様、種子の部分を[[脱穀]]・脱稃して食用とする{{Sfn|河合|山口|2003|pages=31-33}}。近代以前の農村では、飢饉の際に[[カラスムギ]]などと共にこれを食用としたこともあった。オオエノコロは粟の[[遺伝子]]が流入しているので食用に供しやすい。 食用とする場合、エノコログサは脱粒しやすいのではたきなどで叩き落とし、ざるで受けるのがよい。脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる{{Sfn|河合|山口|2003|pages=31-33}}。 また、猫じゃらしの名の通り、これを用いて猫をじゃらすことができる。 == 変異 == [[ファイル:Setaria viridis var. pachystachys.jpg|サムネイル|右|海浜適応型変種のハマエノコロ]] エノコログサはさまざまな所に生え、そのためもあってか種内[[変異]]が多い。 ; ハマエノコロ {{Snamei|S. v.}} var. {{Snamei|pachystachys}} (Fr. et Sav.) : 海岸に生える型。違いとしては、背が低く、比較的よく地表を這うこと、茎や葉が短く硬いこと、それに、穂が短くほとんど楕円形で、小穂が密で毛が長く、そのために穂の外見がかなり異なる点が挙げられる。ただし、内陸に入ると次第に普通の型に移行する。 ; ムラサキエノコロ {{Snamei|S. v.}} f. {{Snamei|purpurascens}} Maxim. : これは特に穂の剛毛が紫に染まるものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典のみを列挙して下さい。) --> <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> {{Refbegin|2}} * {{Cite book|和書 |author1=平野隆久写真|authorlink1=平野隆久 |author2=畔上能力|authorlink2=畔上能力 |coauthors=ほか解説 |editos = [[林弥栄]]監修 |title = 野に咲く花 |year = 1989 |publisher = [[山と溪谷社]] |series = 山溪ハンディ図鑑 1 |isbn = 4-635-07001-8 |page = 568 }} * {{Cite book|和書 |author1=木場英久|author2=茨木靖|author3=勝山輝男|authorlink3=勝山輝男 |title = イネ科ハンドブック |year = 2011 |publisher = [[文一総合出版]] |isbn = 978-4-8299-1078-8 |page = 110 }} * {{Cite book|和書|title=新編 食用作物 |last=国分 |first=牧衛 |publisher=養賢堂 |date=2010-08-10 |edition=新訂第1版 |isbn=978-4-8425-0473-5 |ref=harv }} * {{Cite book|和書|page=100 |title=日本の野生植物 |volume=草本 I 単子葉類 |editor1-first=義輔|editor1-last=佐竹|editor1-link=佐竹義輔|editor2-first=次三郎|editor2-last=大井|editor2-link=大井次三郎|editor3-first=四郎 ほか|editor3-last=北村|editor3-link=北村四郎 |date=1982-01 |publisher=平凡社 |isbn=4-582-53501-1 |ref={{SfnRef|佐竹|大井|北村|ほか|1982}} }} * {{Cite journal|和書|last=那須|first=浩郎 |title=雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態 |journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |number=187|pages=95-110 |date=2014-07 |naid=120005689980 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|title=雑穀の自然史 その起源と文化を求めて |capter=雑穀の祖先、イネ科雑草の種子を食べる:採集・調整と調理・栄養 |last=河合 |first=初子 |last2=山口 |first2=裕文 |paes=31-33 |publisher=北海道大学図書刊行会 |date=2003-09-10 |edition=第1刷 |isbn=4-8329-8051-3 |ref=harv}} {{Refend}} == 関連項目 == <!-- 関連するウィキ間リンク、ウィキリンク --> {{ウィキポータルリンク|植物|[[Image:Gluecksklee.jpg|32px|ウィキポータル 植物]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|植物|[[Image:Gluecksklee.jpg|32px|ウィキプロジェクト 植物]]}} * [[草の一覧]] == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> {{Wikispecies|Setaria viridis}} {{Commonscat|Setaria viridis}} * {{ITIS |ID = 41231 |taxon = ''Setaria viridis'' (L.) P. Beauv. |accessdate = 2011-08-22 }} * {{NCBI|4556|''Setaria viridis''}} * {{Eol|1114660|''Setaria viridis'' (L.) Beauv.}}{{En icon}} * {{Cite web|和書 |author = 波田善夫 |url = http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/monocotyledoneae/gramineae/enokorogusa/enokorogusa.htm |title = エノコログサ |work = 植物雑学事典 |publisher = [[岡山理科大学]] |accessdate = 2011-08-22 }} * {{Cite web|和書 |author = 嶋田英誠 |url = https://web.archive.org/web/20160304191348/http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch5-wild%20flowers/enokorogusa.htm |title = 野草譜 エノコログサ |work = 跡見群芳譜 |publisher = [[跡見学園女子大学]] |accessdate = 2011-08-22 }} * {{Cite web|和書 |author = 中谷英夫 |date = 2003-03-24 |url = https://web.archive.org/web/20100522005925/http://www.syngenta.co.jp/cgi-bin/support/zasso/zasso.cgi?article=zasso04 |title = 第4話・エノコログサ属の植物について |work = 雑草の話 |publisher = シンジェンタ ジャパン |accessdate = 2011-08-22 }} {{DEFAULTSORT:えのころくさ}} [[Category:エノコログサ属]] [[Category:草]]
2003-08-19T10:26:35Z
2023-10-11T08:00:30Z
false
false
false
[ "Template:Sfn", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Redirect", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Refbegin", "Template:ウィキプロジェクトリンク", "Template:NCBI", "Template:En icon", "Template:生物分類表", "Template:Snamei", "Template:ASIN", "Template:Harvnb", "Template:Cite journal", "Template:ウィキポータルリンク", "Template:Commonscat", "Template:ITIS", "Template:Cite web", "Template:Refend", "Template:Wikispecies", "Template:Eol" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%82%B5
13,556
山本文緒
山本 文緒(やまもと ふみお、1962年11月13日 - 2021年10月13日)は、日本の女性小説家。 神奈川県横浜市生まれ。神奈川大学経済学部卒業。本名は大村暁美。 大学では落語研究会に所属、高座名は「則巻家あられ」)。 卒業後、証券系の財団法人に勤め、横浜の実家から毎日満員電車で通うのがつらく、会社のそばにアパートを借りるための副業として少女小説を書き始める。1987年に『プレミアム・プールの日々』でコバルト・ノベル大賞の佳作を1回めの応募で受賞し、少女小説家としてデビュー、後に「少女小説というジャンルが作家不足だったので、今だったら取れなかったと思うんですけど」と語る。ペンネームの「山本」は友人の名前に、「文緒」は槇村さとるの短編漫画の主人公の名前に由来し、「中性さを出したかった」と語る。1992年の『パイナップルの彼方』から一般文芸へシフトする。作品のタイトルを、少女小説では編集者に決められることが多かったが、一般文芸では『ブルーもしくはブルー』を除き自分で決めていた。 1999年、『恋愛中毒』で第20回吉川英治文学新人賞受賞。2000年に『プラナリア』で第124回直木賞を受賞。2002年に再婚。2003年、40歳の時にうつ病を発症し、治療のため執筆活動を中断し、約6年の闘病後、エッセイ『再婚生活』で復帰する。2011年に長野県北佐久郡軽井沢町に移住。2021年、7年ぶりに執筆した小説『自転しながら公転する』で第27回島清恋愛文学賞、第16回中央公論文芸賞を受賞。 2021年春頃より体調を崩し、ステージ4bの膵臓癌と診断され余命4か月の宣告を受けて自宅療養を続け、同年10月13日、軽井沢の自宅で死去した。58歳没。『小説新潮』(2021年12月号)に、親交があった角田光代、唯川恵らの追悼エッセイが掲載された。 2022年10月、亡くなる9日前まで綴った闘病日記『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』が刊行された。タイトルは2021年8月12日時点での担当者打ち合わせで最初から決まっていた。 「」内が山本文緒の作品
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "山本 文緒(やまもと ふみお、1962年11月13日 - 2021年10月13日)は、日本の女性小説家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神奈川県横浜市生まれ。神奈川大学経済学部卒業。本名は大村暁美。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大学では落語研究会に所属、高座名は「則巻家あられ」)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "卒業後、証券系の財団法人に勤め、横浜の実家から毎日満員電車で通うのがつらく、会社のそばにアパートを借りるための副業として少女小説を書き始める。1987年に『プレミアム・プールの日々』でコバルト・ノベル大賞の佳作を1回めの応募で受賞し、少女小説家としてデビュー、後に「少女小説というジャンルが作家不足だったので、今だったら取れなかったと思うんですけど」と語る。ペンネームの「山本」は友人の名前に、「文緒」は槇村さとるの短編漫画の主人公の名前に由来し、「中性さを出したかった」と語る。1992年の『パイナップルの彼方』から一般文芸へシフトする。作品のタイトルを、少女小説では編集者に決められることが多かったが、一般文芸では『ブルーもしくはブルー』を除き自分で決めていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1999年、『恋愛中毒』で第20回吉川英治文学新人賞受賞。2000年に『プラナリア』で第124回直木賞を受賞。2002年に再婚。2003年、40歳の時にうつ病を発症し、治療のため執筆活動を中断し、約6年の闘病後、エッセイ『再婚生活』で復帰する。2011年に長野県北佐久郡軽井沢町に移住。2021年、7年ぶりに執筆した小説『自転しながら公転する』で第27回島清恋愛文学賞、第16回中央公論文芸賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2021年春頃より体調を崩し、ステージ4bの膵臓癌と診断され余命4か月の宣告を受けて自宅療養を続け、同年10月13日、軽井沢の自宅で死去した。58歳没。『小説新潮』(2021年12月号)に、親交があった角田光代、唯川恵らの追悼エッセイが掲載された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2022年10月、亡くなる9日前まで綴った闘病日記『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』が刊行された。タイトルは2021年8月12日時点での担当者打ち合わせで最初から決まっていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「」内が山本文緒の作品", "title": "著作" } ]
山本 文緒は、日本の女性小説家。 神奈川県横浜市生まれ。神奈川大学経済学部卒業。本名は大村暁美。
{{別人|山本文郎|x1=フリーアナウンサー(元[[TBSテレビ|TBS]])の|山本文男|x2=元プロ野球選手・プロ野球審判員の}} {{Infobox 作家 | name = {{ruby|山本|やまもと}} {{ruby|文緒|ふみお}} | image = <!--写真、肖像画等のファイル名--> | image_size = <!--画像サイズ--> | caption = <!--画像説明--> | pseudonym = 山本 文緒<ref name="kokoro">{{Cite interview|和書|subject=山本文緒|interviewer=[[残間里江子]]|url=https://kokoro.mhlw.go.jp/column/intv009/|title=シリーズインタビュー「生きる力」 第九回 山本文緒さん(作家)|year=2010|month=11|work=こころの耳([[厚生労働省]])|publisher=厚生労働省|accessdate=2022-03-11}}</ref> | birth_date = {{生年月日と年齢|1962|11|13|no}} | birth_place = {{flagicon|JPN}} [[神奈川県]][[横浜市]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1962|11|13|2021|10|13}}<ref name="nordot20211018" /><ref name="yomiuri20211028" /> | death_place = {{flagicon|JPN}} [[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]<ref name="nordot20211018" /><ref name="yomiuri20211028" /><ref name="mainichi20211018" /> | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = [[小説家]] | language = {{ISO639言語名|ja}} | nationality = {{JPN}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> | alma_mater = [[神奈川大学]][[経済学部]]卒業 | period = 1987年 - 2021年 | genre = [[少女小説]]<br />[[エッセイ]] | notable_works = 『[[恋愛中毒]]』(1999年)<br />『プラナリア』(2001年)<br />『[[自転しながら公転する]]』(2020年) | spouse = 大村浩二<ref name="nordot20211018" /><ref name="yomiuri20211028" /> | influences = <!--影響を受けた作家名--> | influenced = <!--影響を与えた作家名--> | awards = 1987年 『プレミアム・プールの日々』 [[コバルト・ノベル大賞]] 佳作<ref name="profile" /><br />1999年 『恋愛中毒』 第20回[[吉川英治文学新人賞]]<ref name="profile" /><br />2001年 『プラナリア』 第124回[[直木賞]]<ref name="profile" /><br />2021年 『自転しながら公転する』 第27回[[島清恋愛文学賞]]<ref name="sankei20211018" /><br />同 第16回[[中央公論文芸賞]]<ref name="sankei20211018" /> | debut_works = 『プレミアム・プールの日々』(1987年) | signature = <!--署名・サイン--> | website = <!--本人の公式ウェブサイト--> | footnotes = <!--脚注・小話--> }} '''山本 文緒'''(やまもと ふみお、[[1962年]][[11月13日]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www001.upp.so-net.ne.jp/fumio/01_menu_F.html |title=【プロフィール】山本文緒インフォメーション |website=山本文緒オフィシャルサイト 旧ホームページ |accessdate=2021-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126061751/http://www001.upp.so-net.ne.jp/fumio/01_menu_F.html |archivedate=2021-01-26}}</ref> - [[2021年]][[10月13日]])は、[[日本]]の女性[[小説家]]。 [[神奈川県]][[横浜市]]生まれ<ref name="sankei">{{Cite interview|和書|subject=山本文緒|subjectlink=山本文緒|url=http://www.sankei.co.jp/yuyulife/mukiatte/200711/mkt071122001.htm|title=向き合って 作家・山本文緒さん(45)(上)|date=2007-11-22|work=ゆうゆうLife|publisher=[[産経新聞社]]|accessdate=2022-03-11}}</ref>。[[神奈川大学経済学部]]卒業<ref name="profile" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20131121-a423/ |title=鬱病から復帰の山本文緒氏「病前のことは遠い前世の出来事」 |website=マイナビニュース |publisher=マイナビ |date=2013-11-21 |accessdate=2022-03-11}}</ref>。本名は大村暁美<ref name="nordot20211018" /><ref name="yomiuri20211028" />。 == 経歴 == 大学では[[落語研究会 (サークル活動)|落語研究会]]に所属、高座名は「則巻家あられ<ref name="蒼生 第三十六号">{{Cite interview |和書|subject=山本文緒 |subjectlink=山本文緒 |title=山本文緒インタビュー 〜とらわれずに生きていく〜 『がんばらなきゃいけないのはこれからなんです』 |url=http://www001.upp.so-net.ne.jp/fumio/09_waseda_1.html |work=山本文緒オフィシャルサイト 旧ホームページより、蒼生 第三十六号 |publisher=早稲田大学 第一文学部 文芸専修室 |accessdate=2021-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126061957/http://www001.upp.so-net.ne.jp/fumio/09_waseda_1.html |archivedate=2021-01-26}}</ref><ref>{{Cite instagram |user=fumioyamamoto |author=山本文緒 |postid=CbWycPrusqu |title=〈中略〉高座名は「則巻家あられ」、キーンなんてね。 |date=2022-03-21 |accessdate=2022-11-23}}</ref>」)。 卒業後、証券系の財団法人に勤め、横浜の実家から毎日満員電車で通うのがつらく、会社のそばにアパートを借りるための副業として少女小説を書き始める。1987年に『プレミアム・プールの日々』で[[コバルト・ノベル大賞]]の佳作を1回めの応募で受賞し、[[少女小説]]家としてデビュー<ref name="profile" />、後に「少女小説というジャンルが作家不足だったので、今だったら取れなかったと思うんですけど」と語る<ref name="蒼生 第三十六号" />。ペンネームの「山本」は友人の名前に、「文緒」は[[槇村さとる]]の短編漫画の主人公の名前に由来し、「中性さを出したかった」と語る<ref name="蒼生 第三十六号" />。1992年の『パイナップルの彼方』から一般文芸へシフトする。作品のタイトルを、少女小説では編集者に決められることが多かったが、一般文芸では『[[ブルーもしくはブルー]]』を除き自分で決めていた<ref name="蒼生 第三十六号" />。 [[1999年]]、『[[恋愛中毒]]』で第20回[[吉川英治文学新人賞]]受賞<ref name="profile" />。[[2000年]]に『プラナリア』で第124回[[直木賞]]を受賞<ref name="profile" />。2002年に再婚<ref name="sankei" />。2003年、40歳の時に[[うつ病]]を発症し、治療のため執筆活動を中断し、約6年の闘病後、エッセイ『再婚生活』で復帰する<ref name="kokoro" />。2011年に[[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]に移住。2021年、7年ぶりに執筆した小説『[[自転しながら公転する]]』で第27回[[島清恋愛文学賞]]、第16回[[中央公論文芸賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|title=山本文緒さん受賞 「自転しながら公転する」 島清恋愛文学賞決定 金沢学院大が主催|url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/414298|website=北國新聞デジタル|publisher=[[北國新聞]]|date=2021-05-18|accessdate=2022-03-11}}</ref><ref name="sankei20211018">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20211018-4YDQCCKITBOBZC4WUOV353HPLM/|title=山本文緒さんが死去 直木賞作家|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=産経新聞社|date=2021-10-18|accessdate=2022-03-11}}</ref>。 [[2021年]]春頃より体調を崩し、ステージ4bの[[膵癌|膵臓癌]]と診断され余命4か月の宣告を受けて自宅療養を続け<ref name="sankei20211018" />、同年10月13日、軽井沢の自宅で死去した<ref name="nordot20211018">{{Cite web|和書|title=直木賞作家の山本文緒さんが死去 「恋愛中毒」、「プラナリア」|url=https://nordot.app/822684512492896256|website=共同通信|publisher=共同通信社|date=2021-10-18|accessdate=2022-03-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211018041629/https://nordot.app/822684512492896256 |archivedate=2021-10-18}}</ref><ref name="yomiuri20211028">{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211018-OYT1T50118/|title=「プラナリア」で直木賞、山本文緒さん死去…58歳|website=読売新聞オンライン|publisher=読売新聞社|date=2021-10-18|accessdate=2022-03-11}}</ref><ref name="mainichi20211018">{{Cite web|和書|title=直木賞作家、山本文緒さんが死去 58歳 「プラナリア」など|url=https://mainichi.jp/articles/20211018/k00/00m/040/076000c|website=毎日新聞|publisher=毎日新聞社|date=2021-10-18|accessdate=2022-03-11}}</ref>。{{没年齢|1962|11|113|2021|10|13}}。『[[小説新潮]]』(2021年12月号)に、親交があった[[角田光代]]、[[唯川恵]]らの追悼エッセイが掲載された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shinchosha.co.jp/shoushin/backnumber/20211122/ |title=小説新潮 |website=新潮社 |publisher=新潮社 |accessdate=2022-11-23 |quote=【追悼エッセイ】ありがとう、山本文緒さん}}</ref>。 [[2022]]年10月、亡くなる9日前まで綴った闘病日記『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』が刊行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shinchosha.co.jp/book/308013/ |title=山本文緒 『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』 |website=新潮社 |publisher=新潮社 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。タイトルは2021年8月12日時点での担当者打ち合わせで最初から決まっていた<ref>{{Cite interview |和書|date=2022-12-28 |subject=桜井京子(新潮社) |interviewer=FRaU web新町真弓 |title=58歳で天国に旅立った直木賞作家・山本文緒さんが最後まで担当編集者に伝えたこと(FRaU編集部) |url=https://gendai.media/articles/-/103901?page=2 |page=2 |work=FRaU - 現代ビジネス |publisher=講談社 |accessdate=2022-12-30}}</ref>。 == 著作 == === ジュニア小説 === * きらきら星をあげよう(1988年5月 集英社[[コバルト文庫]] / 1999年3月 [[集英社文庫]]) * 野菜スープに愛をこめて(1988年8月 集英社コバルト文庫 / 2001年5月 集英社文庫) * まぶしくて見えない(1988年10月 集英社コバルト文庫 / 2001年7月 集英社文庫) * おまえがパラダイス(1989年2月 集英社コバルト文庫) * ぼくのパジャマでおやすみ(1989年4月 集英社コバルト文庫 / 1999年5月 集英社文庫) * 黒板にハートのらくがき(1989年7月 集英社コバルト文庫) * 踊り場でハートのおしゃべり(1989年10月 集英社コバルト文庫) * ドリームラッシュにつれてって(1990年1月 集英社コバルト文庫) * 校庭でハートのよりみち(1990年4月 集英社コバルト文庫) * おひさまのブランケット(1990年7月 集英社コバルト文庫 / 1999年7月 集英社文庫) * 青空にハートのおねがい(1990年10月 集英社コバルト文庫) * シェイクダンスを踊れ(1991年1月 集英社コバルト文庫) * ラブリーをつかまえろ(1991年4月 集英社コバルト文庫) ** 【改題】チェリーブラッサム(2000年4月 [[角川文庫]] / 2009年3月 [[角川つばさ文庫]]) * アイドルをねらえ!(1991年8月 集英社コバルト文庫) ** 【改題】ココナッツ(2000年7月 角川文庫) - 「チェリーブラッサム」続編 * 新まい先生は学園のアイドル(1991年8月 [[ポプラ文庫]]) === 一般文芸 === * パイナップルの彼方(1992年1月 [[宙出版]] / 1995年12月 [[角川書店]]) * [[ブルーもしくはブルー]](1992年9月 宙出版 / 1996年5月 角川文庫) ** ブルーもしくはブルー 改版(2021年5月 角川文庫) * きっと、君は泣く(1993年7月 [[光文社]][[カッパ・ノベルス]]) ** 【改題】きっと君は泣く(1997年7月 角川文庫) * [[あなたには帰る家がある]](1994年8月 [[集英社]] / 1998年1月 集英社文庫 / 2013年6月 角川文庫) * 眠れるラプンツェル(1995年2月 [[ベネッセコーポレーション]] / 1998年4月 [[幻冬舎文庫]] / 2006年6月 角川文庫) * ブラック・ティー(1995年3月 角川書店 / 1997年12月 角川文庫) ** 収録作品:ブラック・ティー / 百年の恋 / 寿 / ママ・ドント・クライ / 少女趣味 / 誘拐犯 / 夏風邪 / ニワトリ / 留守番電話 / 水商売 * 絶対泣かない―あなたに向いている15の職業(1995年5月 [[大和書房]]) ** 【改題】絶対泣かない(1998年11月 角川文庫) *** 収録作品:花のような人 / ものすごく見栄っぱり / 今年はじめての半袖 / 愛でしょ、愛 / 話を聞かせて / 愛の奇跡 / アフターファイブ / 天使をなめるな / 女神の職業 / 気持ちを計る / 真面目であればあるほど / もういちど夢を見よう / 絶対、泣かない / 卒業式まで / 女に生まれてきたからには * [[群青の夜の羽毛布]](1995年11月 [[幻冬舎]] / 1999年4月 幻冬舎文庫 / 2006年5月 [[文春文庫]] / 2014年1月 角川文庫) * みんないってしまう(1997年1月 角川書店 / 1999年6月 角川文庫) ** 収録作品:裸のネルにシャツ / 表面張力 / いつも心に裁ちバサミ / 不完全自殺マニュアル / 愛はお財布の中 / ドーナッツ・リング / ハムスター / みんないってしまう / イバラ咲くおしゃれ道 / まくらともだち / 片恋症候群 / 泣かずに眠れ * シュガーレス・ラヴ(1997年5月 集英社 / 2000年6月 集英社文庫) ** 収録作品:彼女の冷蔵庫 / ご清潔な不倫 / 観賞用美人 / いるか療法 / ねむらぬテレフォン / 月も見ていない / 夏の空色 / 秤の上の小さな子供 / 過剰愛情失調症 / シュガーレス・ラヴ * 紙婚式(1998年10月 [[徳間書店]] / 2001年2月 角川文庫) ** 収録作品:土下座 / 子宝 / おしどり / 貞淑 / ますお / バツイチ / 秋茄子 / 紙婚式 * [[恋愛中毒]](1998年11月 角川書店 / 2002年6月 角川文庫) * 落花流水(1999年10月 集英社 / 2002年10月 集英社文庫 / 2015年1月 角川文庫) * プラナリア(2000年10月 [[文藝春秋]] / 2005年9月 文春文庫) ** 収録作品:プラナリア / ネイキッド / どこかでないここ / 囚われ人のジレンマ / あいあるあした * ファースト・プライオリティー(2002年9月 幻冬舎 / 2005年6月 角川文庫) ** 収録作品:偏屈 / 車 / 夫婦 / 処女 / 嗜好品 / 社畜 / うさぎ男 / ゲーム / 息子 / 薬 / 旅 / バンド / 庭 / 冒険 / 初恋 / 燗 / ジンクス / 禁欲 / 空 / ボランティア / チャンネル権 / 手紙 / 安心 / 更年期 / カラオケ / お城 / 当事者 / ホスト / 銭湯 / 三十一歳 / 小説 * アカペラ(2008年7月 [[新潮社]] / 2011年8月 [[新潮文庫]]) ** 収録作品:アカペラ / ソリチュード / ネロリ * カウントダウン(2010年10月 光文社 / 2016年12月 角川文庫) - コバルト文庫の『シェイクダンスを踊れ』を改題・大幅加筆・修正したもの * なぎさ(2013年10月 [[KADOKAWA]] / 2016年6月 角川文庫) * [[自転しながら公転する]](2020年9月 新潮社 / 2022年11月 新潮文庫) * ばにらさま(2021年9月 文藝春秋 / 2023年10月 文春文庫) === エッセイ === * かなえられない恋のために(1993年12月 大和書房 / 1997年6月 幻冬舎文庫 / 2009年2月 角川文庫) * そして私は一人になった(1997年5月 [[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]] / 2000年8月 幻冬舎文庫 / 2008年2月 角川文庫) * 結婚願望(2000年5月 [[三笠書房]] / 2003年11月 角川文庫) * 日々是作文(2004年4月 文藝春秋 / 2007年4月 文春文庫) * 再婚生活(2007年5月 角川書店) ** 【改題】再婚生活―私のうつ闘病日記(2009年10月 角川文庫) * 無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記(2022年10月 新潮社) === 共著 === * ひとり上手な結婚(2010年8月 [[講談社]] / 2014年2月 [[講談社文庫]]) - [[伊藤理佐]]との共著 === アンソロジー === 「」内が山本文緒の作品 * LOVE SONGS(1997年12月 幻冬舎 / 1999年4月 幻冬舎文庫)「これが私の生きる道」 * 短篇ベストコレクション 現代の小説2000(2000年5月 徳間文庫)「また夢をゆく」 * 短編復活(2002年11月 集英社文庫)「いるか療法」 * 君へ。―つたえたい気持ち三十七話(2004年3月 [[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]文庫)「試行錯誤はまだまだ続く」 * 鉄路に咲く物語(2005年6月 光文社文庫)「ブラック・ティー」 * 作家の放課後(2012年2月 新潮文庫)「一週間で痩せなきゃ日記」 * 文芸あねもね(2012年2月 新潮文庫)「子供おばさん」 === オーディオブック === * ファースト・プライオリティ(2008年、[[USEN]]・[[ことのは出版]]) * 文芸あねもね(2015年12月、[[FeBe|FeBe!]]) == メディア・ミックス == === テレビドラマ === * パイナップルの彼方へ(1992年9月11日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系「[[第一生命保険|第一生命]]90周年スペシャル」として放送、主演:[[富田靖子]]、原作:パイナップルの彼方) * [[恋愛中毒#テレビドラマ|恋愛中毒]](2000年1月20日 - 3月16日、全9話、[[テレビ朝日]]系「[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]」枠で放送、主演:[[薬師丸ひろ子]]) * [[ブルーもしくはブルー#テレビドラマ|ブルーもしくはブルー 〜もう一人の私〜]](2003年6月23日 - 7月17日、全16話、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]「[[NHK夜の連続ドラマ]]」枠で放送、主演:[[稲森いずみ]]) * [[あなたには帰る家がある#2003年版|あなたには帰る家がある]](2003年12月3日、[[BSフジ]]、主演:[[斉藤由貴]]) * [[あなたには帰る家がある#2018年版|あなたには帰る家がある]](2018年4月13日 - 6月22日、[[TBSテレビ|TBS]]系「[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]]」で放送、主演:[[中谷美紀]]) * [[自転しながら公転する#テレビドラマ|自転しながら公転する]](2023年12月14日 - 12月28日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系、主演:[[松本穂香]])<ref>{{Cite web2 |df=ja |url=https://natalie.mu/eiga/news/549265 |title=松本穂香×藤原季節のドラマ「自転しながら公転する」3週連続で放送、長谷川慎らも出演(コメントあり) |website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2023-11-16 |accessdate=2023-11-16}}</ref> === 映画 === * [[群青の夜の羽毛布#映画|群青の夜の羽毛布]](2002年10月5日公開、配給:[[ギャガ・コミュニケーションズ]]、監督:[[磯村一路]]、主演:[[本上まなみ]]) === アニメ === * [[大人女子のアニメタイム]]「[[大人女子のアニメタイム#どこかではないここ|どこかではないここ]]」(2013年3月24日、[[NHK BSプレミアム]]、声:[[木村多江]] 他) === 舞台 === * [[あなたには帰る家がある#舞台|あなたには帰る家がある]](2017年6月23日 - 7月2日、[[ワーサルシアター]]、脚本・演出:[[森岡利行]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * {{Twitter|fumiyama55}} * {{Instagram|fumioyamamoto}} * [http://charity-d.jugem.jp/ 文芸あねもね 公式ブログ] * {{NHK人物録|D0009072664_00000}} * [https://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi087_yamamoto/ 作家の読書道 第87回:山本文緒さん] - WEB本の雑誌 {{直木賞|第124回}} {{吉川英治文学新人賞|第20回}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:やまもと ふみお}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本の女性小説家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:日本の女性児童文学作家]] [[Category:20世紀日本の女性随筆家]] [[Category:21世紀日本の女性随筆家]] [[Category:直木賞受賞者]] [[Category:神奈川大学出身の人物]] [[Category:横浜市出身の人物]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:2021年没]]
2003-08-19T10:30:26Z
2023-12-29T17:13:42Z
false
false
false
[ "Template:別人", "Template:Cite news", "Template:直木賞", "Template:Infobox 作家", "Template:Reflist", "Template:Cite instagram", "Template:Twitter", "Template:没年齢", "Template:Cite web", "Template:Cite interview", "Template:Cite web2", "Template:Instagram", "Template:脚注ヘルプ", "Template:NHK人物録", "Template:吉川英治文学新人賞", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%96%87%E7%B7%92
13,558
ザ・キング・オブ・ファイターズ
『ザ・キング・オブ・ファイターズ』(THE KING OF FIGHTERS)は、1994年にSNK(旧社)がゲーム機「ネオジオ」で発売した対戦型格闘ゲームのシリーズ名、またその劇中で開催されている世界規模の格闘大会の名称。元々は同社の対戦格闘ゲーム作品『餓狼伝説』シリーズおよび『龍虎の拳2』の舞台である格闘大会。 公式な略称は、頭文字を取った『KOF』(ケーオーエフ)。SNK(新社、旧社名:SNKプレイモア)はこの略称も商標登録している。 なお、台湾では『格鬥天王』、香港と中国大陸では『拳皇』と訳される。 このシリーズ作品では、基本的にプレイヤーは3人一組(作品によっては4人1組)のチームを選択し、他のチームと勝ち抜き戦を行うというシステムである。 同時代にリリースされていたSNKの対戦型格闘ゲーム『餓狼伝説』と『龍虎の拳』、および1980年代のアーケードアクションゲームである『怒シリーズ』や『サイコソルジャー』など、SNKのキャラクターたちが作品の垣根を越えて一つの格闘大会に出場して覇を争う「ドリームマッチバトル」という設定をコンセプトに製作された。『餓狼伝説』シリーズで使われていた避け攻撃に加え、相手を遠くに吹っ飛ばす”ふっとばし攻撃”、相手の攻撃を完全にかわす”攻撃避け”、などの要素が追加された。キャラクターは『餓狼伝説』や『龍虎の拳』をふくめて描き起こしで調節がされている。だが、同じくSNKのヒット作である対戦型剣劇ゲーム『サムライスピリッツ』のキャラクターは「当時、KOFのゲームエンジンの基礎の部分に、武器やママハハといったキャラクターとは別のスプライトを被せる仕組みが組み込まれていなかった」という理由で本シリーズには参戦していなかったが、『THE KING OF FIGHTERS XIV』より同作のナコルルが正式参戦した。 また一方で、客演キャラクター以外にも、物語を動かす主要人物として生み出された、三種の神器の一族、オロチ一族、秘密結社ネスツなど『KOF』オリジナルキャラクターが登場する。新作の都度、チームの構成を変えるなど、時にはかつてのライバルや宿敵ともチームを組んで戦うことができ、これまで登場したキャラクターは100人以上にも及ぶ。3vs3という対戦格闘ゲームのチームバトルの基礎を築いた作品である。 1994年(平成6年)から毎年新作がリリースされているが、2001年(平成13年)はSNK(旧社)の倒産にともないサン・アミューズメントが、2002年(平成14年)以降はプレイモア→SNKプレイモア→SNK(新社)が販売している。SNKプレイモアは2016年(平成28年)に数年ぶりの新作となる『XIV』リリース発表に合わせ、社名を「SNK」に戻した。 ゲームは主に男性の対戦格闘ゲーマーに支持されているが、登場キャラクターは女性人気が高い。シリーズを通しての主要人物である、草薙京とそのライバルの八神庵は特に女性人気が高く、両者の関連グッズの購入者はほとんど女性である。 中国や韓国などのアジア圏にも人気があり、日本と同様のファン層を有している。 複数のゲーム作品のキャラクターが同一世界に共存する「クロスオーバー作品」として始まったゲーム作品であるため、原典となるゲーム作品群とは辿った歴史の異なる“パラレルワールド”としての物語を展開している。例として挙げると、原典となるゲーム作品では『龍虎の拳』は『餓狼伝説』の10年以上前が作品の舞台だが、本作では両作品のキャラクターが同時代の人物として大会に参加している。 作品が新作へと進むごとに劇中でも時間は経過しているものの、一部の主要人物が物語の進展に応じて要所要所で若干成長することはあるが、基本的には登場人物の年齢は設定されておらず歳を取らない。製作者いわく「『サザエさん』のような感じと思っていただいて構わない」とのこと。 8方向レバー(家庭用では十字キー)+A(弱パンチ)・B(弱キック)・C(強パンチ)・D(強キック)の4ボタンで操作する。作品によってはEが加わり5ボタンとなる。 ゲーム開始後、3人のプレイヤーキャラクター(作品によっては1チーム)を選択。お互いのプレイヤーにキャラクターが決定した後は3人を出す順番を決め、ゲームを開始する。キャラクターの順番は試合ごとに変えることができる。最初のラウンドではお互いに1人目のキャラクターが登場し、1人目を倒された側は次のラウンドで2人目のキャラクターが、2人目を倒された側は次のラウンドで3人目のキャラクターが登場し、先に3人目を倒したプレイヤーの勝ちという勝ち抜き方式。ラウンドを勝利したキャラクターは残り時間などに応じて一定量の体力が回復する。 『餓狼伝説スペシャル』や『龍虎の拳』のゲームシステムを折衷した形のゲームシステム。『'97』『'98』では「EXTRA」という操作モードとして用意されている。 従来のシステムは『'95』で完成していたものの、ゲームスピードが遅く、またキャラクター性能が波動昇龍に偏りすぎていることが待ちを助長することを憂い、相手に向かって前進していく攻撃的なプレイができるようにゲームシステムを大幅に変更している。『'97』『'98』では「ADVANCED」という操作モードとして用意されているため、その2作における説明の場合は、本項ではそのモードの解説として記す。 ネスツ編で採用されたシステムで、援護攻撃の発展形として登場したもの。あらかじめ指定したキャラクターが画面外から登場し攻撃などを行う(キャラクターにより体力回復などの効果をもたらす場合もある)。ストライカーにしたキャラクターは対戦で戦わせることができなくなる。『2000』まではストライカーストックを消費して使えたが、『2001』ではパワーゲージストックを消費して使うシステムに変更されている。 『2003』から『XI』までのシステム。対戦中に随時キャラクターを交代することができる。これに伴いラウンド制が廃止された。待機中でも体力が回復することはない。 ゲーム中の設定では、『餓狼伝説』の登場人物、ギース・ハワードがサウスタウンにて開催していたストリートファイトにいつしかスポンサーがつくようになり、全世界にTV中継されるような大規模な格闘大会に発展していったものである。 元々がストリートファイトであったための伝統から、試合はリングの上で行うようなことはほとんどなく、試合開始の合図とKOを宣言するレフェリーこそいるが基本的には野外などで行われている。ただし本シリーズにおける格闘大会「KOF」は、原典となる『餓狼伝説』や『龍虎の拳2』での同大会とは一部の設定が異なる。 全世界が注目する格闘大会であるため、優勝チームには莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が与えられる。しかし「平穏無事に終了したことは一度も無い」と言われるほど毎回決勝近くではトラブルが起こっている。これは大会主催者がルガール・バーンシュタインのような裏社会の権力者やオロチ一族のような存在だったり、ネスツといった秘密結社など後ろ暗い者たちが大会を利用したりするためである。そのため決勝近くもしくは決勝後は、大会主催者個人の空母や宇宙ステーションの秘密基地といった場所で、もはや格闘大会などではない殺し合いのような闘いが行われているが、世間には噂程度にしか伝わっていない。『餓狼伝説』シリーズでも大会主催者であるギースやクラウザーがテリーに敗北後、死亡するという問題が起こっており、『KOF』シリーズと違いこれは世間に知れ渡っている。対して『龍虎の拳2』では当時26歳の若いギースが第1回KOFを開催し、第1回KOF優勝者のリョウと殺し合いをするが、敗北した後は逃亡だけで済ませており、さらに莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉はリョウにしっかり与えたようで、大したトラブルとしては認知されなかったようである。 『XIII』までの『KOF』シリーズでの決勝近くもしくは決勝戦後のトラブルは噂程度しか伝わってなかったが、『XIV』ではそのトラブルが一部始終TVアナウンサーAMBCのクレメンス・ベラミーとTVカメラマンにより全て放送され、初めてKOFでのトラブルが世間に公表される事になった。更に毎回そのトラブルで『KOF』シリーズでは莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が無かった事にされていたが、『XIV』のKOF大会主催者アントノフがKOF史上初の格闘ゲームでも稀に見る全く裏が無い主催者だった為に『KOF』シリーズ初の莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉を与えた上にチャンピオンベルトも与えられた。 出場する選手の中でも、大会の開催者が選んだ実力のある格闘家(『餓狼伝説』チームや『龍虎の拳』チームなど)には招待状が届き、シードとして各地域の決勝トーナメントからの参加となり、小説版によればそれ以外の参加チームに対しては予選が行われる。 もっとも、大会主催者が悪意ある目的で特定の人間を参加させるために招待状を届けたり、自らの配下の人間を無条件に決勝トーナメントに進ませるために招待状を利用することもある。 なお、招待状はチームでなく個人に届く(そもそも後述の通り、個人戦が存在する大会もある)ものであり、招待状を持つ格闘家はチームメイトを独自に指名して参加することが可能。指名されるチームメイトの招待状所持は特に問われないようである。これは一緒に住んでいる『龍虎の拳』のサカザキ一家には個人宛にそれぞれ招待状が届いていることや、女性格闘家チームや餓狼伝説チームのようにいつも組んでいたチームメイトが都合によって参加できないため、偶然出くわしたり通りかかった知り合いの格闘家に声をかけて出場したことが公式ストーリー中で書かれている。招待状を貰ったが欠場する場合や、参加チームを決めた場合の申込みなどはKOF運営委員に連絡を入れることになっている。 加えて、オロチチームが他人から奪い取った招待状で参戦していることや、ルイーゼ・マイリンクが他者から譲り受けた招待状で参戦していることから、招待状の本来の持ち主も特に考慮されない模様。『KOF MI2』においては、公式サイドストーリー「夜のガスパール」にて「世界最強を決めるというふれ込みである以上、乱入者にも機会を与えるのがこの大会の伝統」と語られている。 細かな大会のルールなどは判明していないが、刃物や銃火器の使用は反則であることが小説版などで解っている。ただし鞭や棍棒といった鈍器、超能力(手から炎や氷を出して攻撃したり、サイコパワーの使用や手刀を突き刺して体力を吸い取ったりする)は認められている。しかしイヤリングに爆弾を仕込んだり(レオナ)、炎が出るように細工してある棍棒(ビリー・カーン)、巨大な鉄球(チャン・コーハン)、鋭いツメのついた手甲(チョイ・ボンゲ)、クナイなどの暗器(まりん)、匕首(山崎竜二。小説版では使った瞬間に反則負けになった)、サーベルのような剣(フォクシー)、デザートイーグル(ウィップ。小説版では威嚇の空砲と言っている)を使用する者、さらには銃火器を全身に仕込んだサイボーグ(マキシマ)といった人物が参加している。 『KOF』シリーズでは基本的にチーム戦だが、『餓狼伝説』シリーズや『龍虎の拳2』では個人戦である。ただし『KOF』シリーズにも個人戦を行える場合が存在し、そのような作品によってはチーム戦と個人戦の両方が行われているという設定になっている。 本シリーズオリジナルの主要人物以外にも、SNKの様々なゲーム作品(『餓狼伝説』『龍虎の拳』『怒』『サイコソルジャー』『サムライスピリッツ』)などからも多くのキャラクターが客演する。 アーケード向けに開発・販売される、基本となるシリーズ。西暦表記の数字部分の正式な呼び方は英語であるが、日本語読みされる場合もしばしばある。 シリーズ第1作目となる「開幕編」。 キャッチコピーは「夢のバトルにチームで挑め!!」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。 1994年8月25日にアーケードのMVS(業務用ネオジオ)で稼動後、同年10月1日に家庭用ネオジオでリリース。 2004年にPlayStation 2で『KOF』10周年記念作品として本作のリメイク版『THE KING OF FIGHTERS '94 RE-BOUT』が発売され、アーケードオリジナル版も同時収録されている。また、2009年にPlayStation Portableで発売された『SNK ARCADE CLASSICS Vol.1』にも16作品のうちの一つとして『'94』が収録されている。2007年にはWiiのバーチャルコンソールでも配信された。また、2010年6月24日に発売されたPSPソフト『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内に収録。2011年4月19日にPC向けゲームソフト配信サービスプロジェクトEGGにてNEOGEOタイトル配信第一弾として『餓狼伝説』とともに配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 国ごとの代表8チーム。チームメンバーは固定でエディットは無し。基本は3対3の勝ち抜き戦でKOかタイムアップで交代、仕切り直し。 対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。 主催者はルガール・バーンシュタイン。『'94』優勝チームは日本最強チーム。 操作系は『餓狼伝説スペシャル』をベースに『龍虎の拳』シリーズなどの要素を取り入れたもの。必殺技コマンドは基本的に出場元のゲームのままで、また超必殺技がインストラクションカードに書かれていない。 本作オリジナルキャラクター3名で組まれた日本チーム(日本最強チーム)のリーダー「草薙京」が本作の主人公にあたるが、1P側の初期カーソルはイタリアチーム(餓狼伝説チーム)に、2P側の初期カーソルはメキシコチーム(龍虎の拳チーム)に合わせられている。またゲームスタート時に流れる基本操作の説明(HOW TO PLAY)もテリーとリョウが務めているが、開発スタッフからは「ぜひ京を出してくれ」と要望されたという(『'95』以降は一部を除いて、その作品の主人公及びライバル或いは主人公のチームメイトが務める)。加えて当時の販促ポスターでも、主人公の京属する日本チームと同列に並んでイタリアチーム(餓狼伝説チーム)が前面に出されて描かれていた。またストーリーが軽視されがちな対戦格闘ゲームにおいて、チームとしての参戦理由をそれぞれ紹介するなど、キャラクターの背景やストーリー進行に対する工夫も見られる。キャラクターイラストは本作から『2000』まで森気楼が担当した。なお、主人公チームのコンセプトは「地震(大門)、雷(紅丸)、火事(京)、親父(柴舟)」であった。 世界中の名立たる格闘家達に、「R」と名乗る者から世界規模の格闘大会「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届いた。 今回より「3人1組のチームを組んで参戦する」という新たなルールの下、テリー・ボガード、リョウ・サカザキといった様々な分野で名を轟かせた格闘技界のスーパースター達が、世界各国の代表として大会に参加するも、その中にはハイデルン率いる格闘家では無い傭兵達で構成された怒チームの様に、何やら「事情」のある者達もいた。そんな中、日本異種格闘技大会優勝の経験を持った炎を操る草薙流古武術の使い手草薙京は、同じく日本異種格闘技大会で決勝を争った二階堂紅丸、大門五郎の二人とチームを結成。日本代表として予選を突破しキング・オブ・ファイターズの本戦にエントリーする。 大会の優勝チームが決定した後、彼等を載せたヘリは海上の巨大船「ブラック・ノア」に到着。そこで待っていたのは大会の主催者でブラックマーケットを牛耳る闇の武器商人であり、かつてハイデルンの部下達や妻子を殺害した張本人でもあるルガール・バーンシュタインであった。実力でねじ伏せ倒した名立たる格闘家達を銅像に塗りこみコレクションして飾るという残虐非道さの持ち主であった彼は、KOFを勝ち上がってきた優勝者達もコレクションに加えようと戦いを強要するのだが、優勝者チームに敗れたルガールは船ごと自爆。野望は潰えたのであった。 だが、これはKOFを舞台にした格闘家達の長きに渡る熱く激しい戦いのほんの序章に過ぎなかった...。 『THE KING OF FIGHTERS XIV 』のディレクターを務めた小田泰之は、稼働当時ヒットしていた『餓狼伝説』や『龍虎の拳』などのネオジオ作品では劇画調のデザインが主流だったが、シャープ且つ耽美なデザインの同作はインパクトが大きかったとファミ通とのインタビューで語っている。 2004年12月28日にKOF10周年記念作品としてPS2で発売された『'94』のリメイク作品。アーケードゲームとしては稼動していない。 チームエディットが可能になるなど、『'94』からシステムの細部に手が加えられている。また、エディット専用キャラクターとして『'95』の性能をベースにした柴舟が登場し、さらに最終ボスのルガールも使用可能になった。『'94』とは違い、1P側のデフォルトカーソルが日本チーム(京)、2P側が韓国チーム(チョイ)になっている。 グラフィックを完全ハイレゾ化でリニューアルしている。背景も3Dで描かれた新規のものに一新されており、『'95』以降も含む歴代SNKキャラクターが多数登場する他、攻撃避けの際には画面全体の視点が一瞬ズレる演出が起こる。キャラクターイラストは、オリジナル版『'94』の森気楼に代わり、ヒロアキが担当した。 なお、本作はネオジオ版『'94』も「ネオジオモード」として同時収録している。ネオジオモードでは原作仕様のためチームエディットはできずルガールと柴舟も使用できないが、リメイク版同様にゲームセレクトの一部変更や基本操作の説明削除などの改訂が加えられている。本作以降、PS2版のリメイク作品では原作のネオジオ版も同時収録しているケースが多々ある。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 2015年1月21日にはPS3向け配信サービス「PlayStation 2 アーカイブス」の一環として配信された。 本作から『'97』まで続く「オロチ編」三部作の第1章。主人公・草薙京のライバルである八神庵がこの作品から登場。 キャッチコピーは「お楽しみはこれからだ。」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「サイコーのファイターズは、この闘いでつくられる。」(ネオジオ、ネオジオCD版)、「サイコーのファイターズ、セガサターンに登場!」(セガサターン版)、「いよいよキングのお出ましだ。」(PlayStation版)。 1995年7月25日稼動。家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDに加え、セガサターンとPlayStationでも発売され、セガサターン版でSNKは久しぶりにゲームボーイ用ソフトの『ファニーフィールド』から約6年振りにサードパーティー社となり、両名タイトルで同社の両ハード参入第1弾ソフトとなった。セガサターン版は本作専用の拡張ROMが同梱されており、これを使用しないとプレイできない。CD-ROMとROMカセットを併用する『Twin Advanced Rom System』が採用された。ゲームシステムや背景データを読み込みの早いROMカセットに収めることで、内蔵RAMに代わって素早い情報処理を行っている。セガサターン版はボタンの数が増えたことによりパワー溜め、援護攻撃、挑発、など操作方法がより扱いやすいように改良された。 PlayStation版では、同一キャラクター3人のチームも可能。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PSV向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2009年にはWiiのバーチャルコンソールでも配信されている。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 この作品より「チームエディット」が可能になった。なお、この作品のみキャラクター選択時に「チームエディットしますか?」と問われる。またこの作品から『'97』までは、CPUのチームもエディットされることがある。このため、前作にあった国籍によるチーム分けが無くなった。 『'94』同様対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。 主催者は前年同様にルガール・バーンシュタイン(実際はオロチの力で復活、強化されたオメガ・ルガール)。ライバルチームと入れ替わる形でアメリカンスポーツチームが不参加となったが、設定上はライバルチームに地区予選で敗れたということになっている。『'95』優勝チームは主人公チーム。 設定で各キャラクターが「年を取った」のはこの作品のみで、以後年齢設定が固定された(出場を逃したアメリカンスポーツチームは復活した『'98』で1歳年を取っている)。 新たに、カウンター攻撃(攻撃避け中に出せる専用攻撃)が追加された。連続技に繋げられるため、強力な連続技が生まれた。バランス面では、パワーMAX時は攻撃力1.5倍・被ダメージ1.125倍になった。また、パワーMAX時はガードキャンセルを即座に使用できるなど、ハイリスクハイリターンのゲーム性となっている。『KOF』の中でも、各種の技の一発辺りの攻撃力が全体的に高めである。 前作では隠された存在であった超必殺技のコマンドがインストカードに記載されるようになった。 なお、アーケード版『KOF』の中では珍しく最終ボスが使用可能な作品でもある。アーケード版も家庭用ネオジオ版も共に、「チームエディットをしますか?」で「YES」を選択して、スタートボタンを押しながら↑+B →+C ←+A ↓+Dの入力が完了すると、草薙柴舟とオメガ・ルガールが現れ、プレイヤーキャラクターとして使用可能となる。 昨年の大会から1年、再び世界中の強豪たちの下に「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届いた。差出人の欄には、またもや「R」の1文字だけとなっており、昨年に参加したチームは不安を感じつつも、本大会でも次々とエントリーする事になった。 そんな中、今回は新たに京の宿敵である蒼い炎を操る八神流古武術の使い手八神庵が、ビリー・カーン、如月影二の二人と共にチームを組む形で、前回の「アメリカンスポーツチーム」を破り新たな本戦出場を果たしていた。それを知った京は、庵との決着をつける為にも、決意を新たにキング・オブ・ファイターズへの二度目の出場を決意するのだった。 一方、大会の主催者は、やはり前回大会の出場者達の予想通り、死んだと思われていたルガールであった、前回大会で敗れ去った復讐を遂げる為、ルガールは地球意思「オロチ」の力を手に入れて自らの身体に取り込み、オメガ・ルガールへとパワーアップしていた。そして、同じく前回大会の最中で自らが密かに回収した京の父・草薙柴舟に洗脳処置を施し、私兵となった彼を「余興」として優勝チームと激突させる。だが、柴舟は敗れ正気を取り戻す形で倒れる事となり、ルガールは自らの体内にあるオロチの力を解放。優勝チームへと襲い掛かり、死闘を展開する。 だが、その力をもってしても追い詰められたルガールは、更なるオロチの力を解放を試みるも、逆に暴走したエネルギーを制御出来ずに取り込まれ、消滅してしまう末路を迎えた。ルガールをもってしても、オロチの力は制御出来る物では無かったのだった。 1996年4月26日にゲームボーイで熱闘シリーズとしてタカラより発売。開発はガイブレイン。 『'95』をベースにしているが、ライバルチームの3人を除いたキャラクターは原作のチームから抜粋された数名ずつがバラバラに出場しており、固定されたチームは存在しない。隠しキャラクターとして『サムライスピリッツ』シリーズからナコルルが登場するほか、同じキャラクター同士でチームを組めたり、常にパワーゲージがMAXになる隠しモードが存在する。 日本語版はタイトルロゴがカタカナ表記となっている。欧米版のタイトルは「熱闘」が省かれて原作と同じ『THE KING OF FIGHTERS '95』となっており、タイトルのデザインもネオジオ版『'95』と同じ英字表記となっているが、ゲーム内容自体は日本GB版とほとんど相違点はない。アメリカ版は任天堂、ヨーロッパ版は有限会社Laguna Video Gamesが販売元となっている。 オロチ編三部作の第2章。 キャッチコピーは、「燃えてるかい?」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「俺を見たら、思い出せ。」(PlayStation版)。 1996年7月30日稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB)専用となり、同梱版も発売された(『'95』専用の拡張ROMとは互換性がない。後に製造された拡張ラムカートリッジ4MBを使用した場合はキャラクターが正常に表示されない。)。またセガサターン版において『'95』とセットになった、『KOFダブルパック』も限定発売された。PlayStation版では、主人公の京を差し置いて、人気キャラクターの庵が単独でパッケージとしてデザインされている。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された(家庭用ネオジオ版の移植。ただし、独自の要素として、元はCPU専用だったボスキャラクター2人が使用可能になっている)。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 キャラクター選択画面のカーソルは本作から個人単位の物のみとなったため、前作にあったモード選択ミスの危険が無くなっている。 主催者は神楽ちづる。なお、本作は前作までと異なり裏大会ではなく、各メディアへの報道も行われ、様々な企業もスポンサーとして協賛した公式大会という設定である(『'97』も同様)。『'96』優勝チームは主人公チーム。 大門とクラークを除くキャラクターの攻撃避けが廃止され、新たに緊急回避動作(前転後転)が導入。また、フロントステップがダッシュ(ラン)に変更された。ジャンプも小・中ジャンプが追加され、スピーディーなゲーム性になった。さらに、ガード耐久値とガードクラッシュ、投げ抜け、空中ガードなど新機能が追加された。バランス面でも修正がなされており、パワーMAX時における攻撃力は低下した。また、飛び道具が大幅に削除・変更され、接近戦での攻めを主体とする戦闘形態を意識させている。さらに、キャラクター間の相性システムが適用された。これは相性によって援護攻撃の可否が決まるしくみになっている。 本作から一部のキャラクターに複数の超必殺技が実装されるようにもなった。また、体力ゲージ点滅かつパワーMAXの状態で、高い威力と派手な演出に変化するパワーMAX超必殺技が使用できるようになった(MAX状態かつ点滅状態で超必殺技の威力が上昇するのはシリーズ過去作からの仕様だが、従来、技の見た目の演出は通常の超必殺技と同じで特に分けられてはいなかった)。 パワーMAX状態になるとパワーゲージが減少を始め、これが無くなるとMAX終了という形になった。それによって状態の残り時間が視認できるようになっている。 各キャラクターの必殺技コマンドが大幅に整理され、斜め上までの入力の廃止、コマンドの一部が被っていたキャラクターは入力向きやボタンを変更など、入力し易くなるよう変更が行われた。特に『餓狼伝説』や『龍虎の拳』のキャラクターの場合、原典のゲーム時そのままの「隠すこと、出しにくくすること」自体を目的とした超必殺技コマンドが変更され『KOF』のゲームスピードにあった使い方ができるようになった。ただしコマンドの入力判定に癖があり、技自体は若干出し辛くなってしまっていた。 本作からストーリーの分量が増え(ゲームの外で語られるチームストーリーも増加)、オロチ編のストーリーが本格化。オロチ編の鍵を握るゲーニッツや神楽ちづるといったキャラクターが登場し、ゲームコンセプトは「SNKゲームキャラクターの夢の対戦」から完全に『KOF』独自路線へと移行した。また、ラウンド前に特定のキャラクター同士での掛け合いが追加された。 本作は初めて既存のチームの編成に入れ替えが入り、怒チームにはハイデルンに替わり新キャラクターのレオナが加わった。龍虎の拳チームはタクマに替りユリが加わり、一方で女性格闘家チームにいたユリに替り「龍虎の拳外伝」に登場した藤堂香澄が加わった。 なお、ユリ、キングのサービスカット(脱衣KO)が本作から廃止された。ただしユリの場合、時間切れ引き分けの時に肩部分を露出させるという演出があった(下着は見えない)。 ボスキャラクター2人はネオジオCD版以降の家庭用移植版で使用可能。ネオジオCD版では隠しキャラクター扱いで、キャラクター選択画面で、スタートボタンを押しながら、「↑+B →+C ←+A ↓+D」と入力したら、画面にちづる、ゲーニッツが現れ、使用可能になる。 前回大会でオロチの力に飲み込まれ消滅したルガールによって開催された2度の大会が終結して1年、新たに開催される事になった本大会は、巨大企業数社のスポンサードによる全世界的スケールのメジャー大会として開催された。 世界各地で予選が開催され、前2回のKOF常連チームが本戦に顔を並べる中、何とそれぞれが争い世界の覇権を握ろうと野望を抱いていたあのギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、Mr.ビッグの3人がチームを組む形でエントリーするという驚愕な事態となった。その一方で、前回の大会で京を倒し損ねた庵もまたルガールの秘書を務めていた2人の女性マチュアとバイスの二人と新たにチームを組む形で出場しており、怒チームでは指揮官のハイデルンが後方からの指揮を担当する形でチームを抜けた代わりに彼の養女でもある新妹隊員のレオナ・ハイデルンが加入していた。 実は今回の大会にも大きな裏が隠されており、大会の主催者である神楽ちづるは、「三種の神器」と呼ばれる能力を守る為に存在してきた三つの一族(草薙家、八神家、神楽家)のうちの一つ「神楽家」の末裔であった。彼女は人類の滅亡を望んでいる地球意思「オロチ」に対抗しうる力として、オロチの復活を目論む「オロチ四天王」と戦えるだけの実力を備える戦士を探し出そうとしていたのである。優勝チームの実力を自ら戦って確かめるちづるであったが、そこに「三種の神器」の末裔を滅ぼそうとするオロチ四天王の一角・吹き荒ぶ風のゲーニッツが突如乱入した。 自らの行使する暴風をもってして会場の全てを破壊しつくそうとするゲーニッツであったが、最後は「人間」としての本能によって発動させた庵の「紅い炎」と京の力によってゲーニッツは倒される末路を迎えた。しかし、大会の終結直後、庵は「血の暴走」によってゲーニッツと袂を分かったマチュアとバイスの二人を手に掛け、レオナもまた自身がオロチの血を引いていた上にゲーニッツの手引きにより自らの手で両親を殺害してしまった真実を知る事となった。 1997年2月14日にネオジオCDで発売されたデータベースソフト。『'96』関連のデータなどが収録されたファンディスクとなっている。 1997年8月8日にゲームボーイで熱闘シリーズとしてタカラより発売。前作同様、開発はガイブレイン。 『'96』をベースとしているが、ボスチームの3人以外の出場メンバーは前作と同様に抜粋された数名ずつがバラバラに出場している。また、前作とは多少顔ぶれが変更されている。なお、本作では特定の組み合わせでチームを組むと「特殊イベント」が発生する。神楽ちづるが最初から選択可能になっており、隠しキャラクターとして『龍虎の拳』からMr.カラテや、『'97』のような暴走キャラクター、ボス性能版ちづるのKAGURAなどが登場する。また、隠しモードとして、超必殺技がいつでも出せるようになり、技の内容が強力なものに変化、パワーゲージが常に回復し続ける、といった内容の「熱闘モード」や、ボタンを同時押しするだけで必殺技が発動可能になるモードが存在する。スーパーゲームボーイ使用時は、攻撃などの効果音の一部がSFC音源に変わる。 ヨーロッパ版はタイトルが『The King of Fighters: Heat of Battle』に変更されており、前作と同じくLagunaが販売元となった。また、本作はアメリカでは発売されなかった。 オロチ編三部作の第3章(最終章)。 キャッチコピーは「KOF is just too HOT.」(MVS、ネオジオ版)、「呪われた宿命にピリオドを打て!」(セガサターン版)、「決着(ケリ)をつけようぜ。」(PlayStation版)。 1997年7月28日稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB/4MB)専用で、新規発売としてはSNK最後のサターン用ソフトとなった。その後、オロチ編3本(『'95』『'96』『'97』)をセットにした「ザ・キング・オブ・ファイターズ ベストコレクション」も発売された。また、最終ボスのオロチもセガサターン版ではプラクティスモード、PS版ではVSモードとプラクティスモードで使用が可能。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして本作のネオジオ版が収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。また、2013年にiOS/Android端末向けのネイティブアプリとして配信。2018年にはPS4・PS Vita・PC向けにオンラインに対応した『THE KING OF FIGHTERS'97 GLOBAL MATCH』が配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 キャラクターの性質を「アドヴァンストモード」と「エキストラモード」の2種類から選べるようになった。CPU側キャラクターはアドヴァンストモードしか使用しない。 主催者は前年同様に神楽ちづる。また本大会は全世界にTV中継も行われている設定である(ゲーム本編にもその設定を活かした演出が様々な面に盛り込まれている)。『'97』優勝チームは主人公チーム。 アドヴァンストモードの特色は、半永久的に持続できるゲージストックである。必殺技を出す、攻撃を相手に当てることでゲージが溜まり、最大3つまでゲージをストックできる。ストックが一つでもあれば通常の超必殺技、ガードキャンセル緊急回避・同ふっとばし攻撃が使用できる。また、ストックを1つ消費することでパワーMAX発動、この状態でさらにストックがもう1つあれば、MAX超必殺技が出せる。このモードでは緊急回避動作(前転後転)が使用できる。なお、本作から緊急回避動作(前転後転)に避け機能が付加された。移動方法もダッシュ、大・中・小ジャンプと豊富である。 エキストラモードは、『'96』までと同様任意でパワーゲージを溜め、超必殺技およびパワーMAX超必殺技発動の条件も『'96』に準拠する。パワーゲージの溜まる速さは『'96』より速くなっている。ただし、ジャンプは通常のジャンプと大ジャンプのみ、ダッシュではなくフロントステップおよび攻撃避けが使用可能であり、守備的に戦いたい人向けの仕様となっている。体力ゲージ点滅は今作から1/8に変更された。パワーMAX時のガードキャンセル回避に制限が加わった。 先述通り、試合前演出やステージ間デモが世界規模の格闘大会のテレビ中継を意識した演出になっており、ほとんどのステージBGMも歓声などの環境音によってのみ構成されているなど、シリーズの中でも特殊な音響演出が行われている。音楽としてのステージBGMは京、アテナなど特定のキャラクターの登場時しか使用されない。 本作でオロチ編の黒幕「オロチ」が復活を果たす。また前作の最終ボスであるゲーニッツ以外の「オロチ四天王」の残り3人(社〈乾いた大地の社〉、シェルミー〈荒れ狂う稲光のシェルミー〉、クリス〈炎のさだめのクリス〉)も本作で登場する。開発者によるとこの3人は、主人公チーム3人の能力に対する上位互換のような能力を設定したという。 「'97スペシャルチーム」のメンバーは『ゲーメスト』・『ネオジオフリーク』・『ファミ通』の3誌での投票で決まった(なお、ビリーは前々作『'95』以来の登場となり、KOFシリーズにおける初の復活キャラクターとなった)。過去のSNK作品の(格闘ゲーム以外も含めた)キャラクターから選び出すというものだったが、『サムライスピリッツ』『キング・オブ・ザ・モンスターズ』シリーズのキャラクターは時代設定や世界観を理由に除外されていた。また、同じKOFシリーズでも、前作『'96』に参戦していたキャラクターも投票対象外となっていた。 本作では、必殺技・超必殺技のコマンド入力受け付けが緩く、簡易コマンドで出すことができる。ただし、キャラクターによっては、似たようなコマンドの必殺技があれば意図しない技が出てしまうことがある。これにより、次作『'98』での一部キャラクターのコマンド変更につながった。 超必殺技使用時、画面が暗転して一時停止するようになった。また、飛び道具系のMAX超必殺技は強力な貫通能力が付加され、飛び道具系の超必殺技を貫通できるようになった。 「個人出場」としてエディット専用キャラクターが初登場。彼らのエンディングを見るには特定のチーム編成を行う必要がある(八神庵であれば京・庵・ちづるの「三種の神器チーム」、矢吹真吾であれば草薙京を必ず入れて、もう1人は通常の庵・レオナ以外のキャラクターにする)。またこれ以外にも、特殊なチーム構成でクリアすると、エンディング後にそのチーム編成のテーマに応じた専用の一枚絵が表示される隠し要素があり、これは『'99』まで受け継がれた。 本作では隠しキャラクターが多く、ボスキャラクターである暴走庵・覚醒レオナ・オロチチーム(オロチ四天王の3人が所属するニューフェイスチームの正体)も使用できる。これらの各キャラクターは通常版と同一のキャラクターとして扱われるため、同じキャラクターの通常版と隠し版を一つのチームに入れることはできない。オロチチームのエンディングは通常チームと同一で、オロチと通常の混成チームにした場合でもエンディングを見ることができる。 なお、庵は主人公チームまたはシングルで京をプレイし、京でオロチを倒すと隠しボスとして登場する。この試合は勝敗に関係なくそのままエンディングに繋がっていく。 後の『KOF』に繋がるゲームシステムは本作でほとんど完成していたが、隠しキャラクターの暴走庵・覚醒レオナがプレイヤーキャラクターとしては極端に高い性能を有していることや簡単な永久コンボが存在する。 決勝戦直後にゲーニッツの乱入というハプニングをもって幕を閉じていった前回大会。この事件は何者かによるテロ活動とのみ発表され、その詳細は世間に公表されることはなかった。 しかし、このようなきな臭い事件があったにもかかわらず、前回大会は興業的には大成功を収めた。それに興味を示した巨大企業数社がスポンサーの名乗りを挙げ「KOF」の再開催を熱望。世界各地でも、同じような現象が起こり「KOF'97」大会は開催の運びとなる。 引き続きすさまじい盛り上がりを見せた今大会には、新規の大会参加者である「ニューフェイスチーム」(七枷社、シェルミー、クリス)の3人が出場。一方、京に憧れ強引に弟子入りした学生の少年矢吹真吾もまた、未熟な身でありながらもキング・オブ・ファイターズにエントリーしており、更には前回大会に出場していたギースの命令を受けたビリーもまた、ブルー・マリー、そして山崎竜二の二人が新規参戦する形で「'97スペシャルチーム」を結成。オロチの混血児である庵だけでなく山崎の事を気に掛けるギースの真意を掴みかねながらも、ビリーは命令に従う形でキング・オブ・ファイターズへ復帰する。 しかし、ニューフェイスチームの3人は「自分達と因縁のある庵を倒す事」を表の目的としていたが、実は彼等こそ、前回大会の終盤で乱入したゲーニッツと同じくオロチ四天王の残りであった。オロチ復活の為に必要となる莫大な精神力を求めていた彼等3人は、心身共に鍛え上げた強靭な格闘家達のぶつかり合いで生まれる莫大な精神力を集められる「場」として、キング・オブ・ファイターズその物を利用する事を画策し、自分達もオロチとしての素性を隠した上で大会参加者として暗躍していたのである。 大会の優勝チームが確定した直後、乾いた大地の社、荒れ狂う稲光のシェルミー、炎のさだめのクリスとしてオロチの本性を現した3人は、ゲーニッツが遺した暗示によってオロチの血を持つ八神庵とレオナを暴走させ、大会を混乱に陥れる。何とか庵とレオナを制した後、四天王の3人が現れ、今回の目的を明かす事になるが、同時に今大会に出場していた山崎が、自分達やゲーニッツ、マチュア、バイスと同じく「オロチ八傑集」の一人であった事実が判明。今大会の時期にて彼が見せた異様なまでの「狂気」も、オロチの影響による物だったのだが、「オロチ」としてよりも「人間」としての本能が勝っていた山崎は、呼びかける社達の言葉など意にも返さず反抗的な態度を通すのだった。オロチ復活の為により強力な精神エネルギーを得ようとした社達は、優勝チームとの激闘の末に撃退されるのだが、四天王の1人であったクリスの肉体を依り代に利用する事で、遂にオロチが復活を果たしてしまう。 自らの恋人であるユキがオロチの完全復活の為の要となっていた生贄である「クシナダ」の転生した姿であった真実を聞かされた京は、何が何でも彼女を守るべく、庵、ちづると共に三種の神器として集うも、死闘の末に追い詰められたオロチによって庵は再び暴走。しかし、強靭な意志によって逆に庵はオロチへと掴み掛かり、京は庵の「封じる者」としての力で抑え込まれていたオロチに向けて、「祓いし者」として究極のの力である「最終決戦奥義・無式」を発動。巨大な爆発に飲み込まれるのだった...。 かくして、「護りし者」としての力を発動させたちづるによって再びオロチが封印される形で戦いは終結したものの、京と庵の二人はその行方が分からなくなってしまった。 1998年7月23日稼動。フルタイトルは『THE KING OF FIGHTERS '98 -DREAM MATCH NEVER ENDS-』で、シリーズで初めてサブタイトルを冠した作品となる。 キャッチコピーは「ゴージャスに行こうぜ。」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。 本作はネオジオ&ネオジオCDといった自社ハードだけでなく、PlayStationなどの他社ハードにも移植されてきたほか、2008年には『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』としてリメイク版が発売された。 国内最大規模の対戦格闘ゲーム大会である「闘劇」の2007年度大会「闘劇'07」の競技タイトルの1つに選ばれている。 一応本作KOF大会主催者は本作で復活を果たしたオメガ・ルガールになっているが、前作『'97』で「オロチ編」が完結したため本作では特にストーリーは設けられておらず、これまでのシリーズ(『'94』〜『'97』)をゲームとして総括した集大成的作品となる。代わりに各キャラクターへのインタビューが存在する。そのため、本シリーズ本来のコンセプトである「SNKのゲームキャラクターの夢の祭典」としての傾向が強くなっている。 システムは『'97』を踏襲し、主に細かい変更・修正がなされた。主なシステムの変更点は、EXTRAでは小・中ジャンプおよびカウンター攻撃が追加され、「ADVANCED」ではMAX超必殺技を使用した場合にパワーMAXが解除されるようになった。ゲージシステムも改良され、「ADVANCED」は一人倒されるごとにアドバンテージとしてゲージのストック数が1つずつ増え(最大で5つ)、「EXTRA」はゲージが短くなる。 本作より投げ系必殺技・超必殺技の仕様が変更され、コマンド入力時点で技が発動し、相手が投げ間合いにいない場合には空振りモーションが発生するようになった。また、キャラクター選択時にランダムでキャラクターを選択し、その後もそのゲーム中は1試合毎に再度ランダムで選択してくれる「ルーレットチームエディット」(本作は「?」アイコンにカーソルを合わせることで選択できる)と、CPU戦で負けてコンティニューした際に、プレイヤーが有利になる特典を得られるサービスである「コンティニューサービス」も本作より導入された。 この作品から『XI』までは、CPUは特別な場合を除き必ずデフォルトのチームで出てくるようになった。またこの作品以降、対戦中の名前表記が、苗字か名前の片方だけになった(顔アイコンのみの『2001』と『XI』を除く)。 前作同様に本作でも隠しキャラクターが多い。前作に登場した裏オロチチームに加えて、一部のキャラクターには、『95』に近い技性能を持った裏キャラクターが登場している。 家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)版と、ドリームキャスト(DC)版が発売されている。PS版には草薙京の目が開いている方と閉じている方の2種類があった。DC版はSNKの参入第1弾ソフトで、正式タイトルは西暦表記が1つずれた『THE KING OF FIGHTERS DREAM MATCH 1999』となっている。さらに後に、PS2で、NEOGEO オンラインコレクション第10弾として2008年6月26日に発売されたリメイク版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』にオリジナル版『'98』がネオジオモードとして同時収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。2014年にiOS / Android端末向けのネイティブアプリとしても配信。2009年のXBLA版『'98 UM』、2014年のSteam版『'98 UM FINAL EDITION』にもPS2版と同様にネオジオ版『'98』が同時収録されている。 そして、2017年3月3日にはハムスターの「アケアカNEOGEO」の一環としてNintendo Switchへの移植版が配信され、2018年1月11日にはPS4/Xbox Oneへの移植版が配信された。 全国大会「Duelling the KOF」の発起人・DUNEはファミ通とのインタビューの中で、1990年代後半~2000年代初期のKOFのシーンはピーク時より落ち着いたとはいえ、まだ対戦人口が多く、その具体例として全国どこへ行っても本作を遊べたことを挙げている。また、DUNEは2000年の時点で対戦人口が大幅に減ったものの、2001年に個人主催の『KOF ’98』の全国大会が開かれて驚き、これが「Duelling the KOF」の開催のきっかけとなったとも振り返っている。さらに、DUNEは2006年に上海で開かれた「The Great Battle」という大会の『KOF '98』部門への参加を通じて中国のプレイヤーの水準の高さを知ったと話している。 電撃オンラインのophionは、キャラクターの多さとゲームバランスの良さを評価している。 2008年3月18日稼動。『'98』のリメイク作品。略称は『'98UM』。『'98』を稼動してから約10年振りにアーケード版として再登場(基板にはTaito Type Xを使用)。 キャッチコピーは「ドリームバトル、究極進化。」。 春に稼動するのはシリーズ初であり、これで『KOF』シリーズは春夏秋冬すべてで稼動したこととなった。『'98』をベースとしゲームバランスの再調整、新システム「アルティメットモード」が追加されている。その後、アジア圏向けにPGM2システム基板対応作品として、さらに再調整された『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH 英雄』がリリースされた。また、NESiCAxLiveでも再調整版となる『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION』が2011年1月24日に配信されている。 本作では、『'98』までの全キャラクターが登場することに伴い、一部の対戦前の演出などが追加、変更された。『'98UM』の追加キャラクターの公式イラストは森気楼の画風に似せているが、これはイラスト担当のおぐらえいすけが当時の絵を参考に作画したものである。 アルティメットモードでは、アドヴァンストモードとエキストラモードからそれぞれ、移動方法・回避方法・パワーゲージを自由に組み合わせられ、よりプレイヤー自身の好みのシステムが選択可能となった。これにより、例えば「ダッシュ・緊急回避・エキストラゲージ」という『'96』のシステムでのプレイが可能である。従来のアドヴァンストモードとエキストラモードも改良されており、パワーMAXではない通常の状態からパワーMAX超必殺技を発動したり、攻撃中やガードしている状態からパワーMAXを発動するクイックMAX発動などが可能となっている。 CPU戦では、プレイ内容による乱入キャラクターや最終ボスの分岐が多種多様に設けられているのが特徴。 今作ではコマンドの斜め入力を省略した、例えば「←↓→+A」といった簡易コマンドが受け付けられるようになっている。連続技の内容によっては、この簡易コマンドを使用しなければ間に合わないことがある。 PS2版は2008年6月26日に発売。NEOGEOオンラインコレクションシリーズの第10弾である。アーケードモードに加え、チャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモードの他、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーモード等が収録されている。ある条件をクリアすることにより、ボスキャラクターの使用、および3人全員同じキャラクターでチームを組むことが可能になる。また、オリジナルの『'98』のネオジオ版も収録されている。ネットワーク対戦は『'98UM』(ボスあり・なし)、ネオジオ版『'98』のどちらにも対応していた。 2009年7月1日にXbox 360にてXBLA版が配信。PS2版に存在したチャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモード、ネオジオ版『'98』は収録されているが、その他の特典要素の多くが削られており、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーなどは収録されていない。また、ネットワーク対戦は『'98UM』のみ対応し、ネオジオ版には非対応。 2014年12月16日にSteam版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION』が配信開始。こちらは2011年稼働のNESiCAxLive版『FINAL EDITION』のゲームバランスをベースにした上で、XBLA版と同様の内容を収録している。ネオジオ版『'98』も同時収録されているが、XBLA版同様にPS2版での追加要素は一部省かれている。こちらはボスキャラクターと同キャラクターチームが最初から使用可能になっている。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。2022年6月21日にPS4版が配信され、2022年10月27日にはパッケージ版が発売。 なお、2016年8月25日にはスマホアプリ(Android・iOS)版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH Online』が配信されているが、本作とは全く異なるゲームとなっている(後述)。 SNKのネオジオ博士が『'98UM』公式ホームページに寄せたコラムによると複数のステージが追加されたという。このうち、『'96』のボスチームステージは同作のボスチーム3人の参戦に合わせて追加されており、同ステージの観客席にいたビリー・カーンは別のキャラクターに置き換えられている。一方お蔵入りとなったステージもあり、たとえばサウジアラビアのステージでは時間の経過に合わせて背景のラクダがどんどん増える予定だった。 キャラクターや技の中にもお蔵入りとなったケースがあり、前者の例としては『リアルバウト餓狼伝説』シリーズ仕様の裏キムら複数の追加裏キャラクターが時間の都合で導入を見送られた。後者の例としては、『龍虎の拳 外伝』のリョウの技の一つである虎煌撃の動きが遅く、ダウン時間の短い『KOF』シリーズには不向きであるため、裏リョウの「空中虎煌拳」にダウン追撃判定を入れるという代替措置が取られた。また、クラウザーは割り当てられた技の数が多く、これ以上コマンドを割り振ることができないため「カイザークロー」や「カイザーインフェルノ」がお蔵入りとなった。 本作から『2001』まで続く「ネスツ編」三部作の第1章。 キャッチコピーは「Kを超えるもの、その名はK'。」(MVS、ネオジオ版)。 1999年7月22日稼動。家庭用はネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)、ドリームキャスト(DC)、Microsoft Windowsでも発売。DC版はタイトルが『THE KING OF FIGHTERS '99 EVOLUTION』となっており、ネオジオポケットカラー専用ソフト『THE KING OF FIGHTERS バトルDEパラダイス』との連動によりパワーアップするエキストラストライカーが追加された。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版がともに移植された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。なお、本作がネオジオCDで最後に発売された作品となった。また、PSで発売された最後の『KOF』でもある。 シリーズで主人公の交代が初めて行われた作品で、ストーリーとしては新たな主人公・K'(ケイダッシュ)を主軸としたネスツ編(以降『2001』まで続く)の幕開けとなった作品。 主催者は不明とされるが後に秘密結社ネスツのゼロ(クローン)の命令で動いたクリザリッドである事が明かされる。また『'95』までと同様に裏大会に戻っている(後年の『2000』も同様)。『'99』優勝チームは主人公チーム。 新たなシステムとして、援護攻撃の発展形ともいえるストライカーシステムが導入され、4人チーム制となる。また、スーパーキャンセルが可能になる「カウンターモード」とスーパーアーマー状態になる「アーマーモード」といったシステムが導入された(3ゲージ使うことで発動できる。『2000』まで採用された)。また、緊急回避動作が「かわし移動」となったが、この作品のみの採用となっている。動作としては、前方へのかわし移動は前に移動しながら『'95』以前の攻撃避けを行う感じになっており、この際は「かわし移動攻撃」を出すことができる。後方へのかわし移動はバックステップをした後、即座にステップインするというものになっており、バックステップ着地時は必殺技か超必殺技でキャンセルができる。なお、この作品ではスコアではなく「バトルアビリティ」と呼ばれるバトルポイント制となっている(『2000』まで採用)。グラフィックは技術の向上により、雰囲気は『'97』までとは一線を画している。この作品以降『2003』『XII』を除きCPU戦には戦闘画面にステージ数が表記されるようになった。 MVS版では京と庵は隠しキャラクターである。ストーリーモードではバトルポイント280以上で京、それ以下(200以上280未満)なら庵が、隠しボスとして乱入してくる。一定条件を満たせば使用可能になる。家庭用では最初から使用可能。 オロチが封印されてから2年の時が過ぎ、また世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の開催を宣言した招待状が届けられる。だが今回は、以前の様な世界規模の盛り上がりを見せる気配が一向に無く、これまでの大会と様子が違っており、更には対戦形式にも「ストライカーマッチ」という新しいルール規定が盛り込まれ、チーム構成は3対3から実質的に4対4への変更となっていた。何やら裏があるかの様な前兆に対し格闘家達は不審に思い、怒チームの指揮官であるハイデルンもまた、今大会が裏大会形式で開催された可能性を推察。新妹の少女隊員であるウィップを4人目として加える形で怒チームに出場を命令する。 一方、不穏な気配の中、前回大会以降より京と連絡の取れなくなっていた二階堂紅丸は、招待選手で結成されたスペシャルチームの一員として大会に招かれるも、予め記されたチームメイトは K' とマキシマという全く聞きなれない名で、不信感を覚えつつも自身と共に京の行方を求めていた真吾と共にチームを組む形で出場する。 大会が決勝戦にまで進む中、不審な車両や戦闘ヘリが世界各地の主要都市へと移動していたのだが、彼等の輸送していた「中身」とは、行方不明になった草薙京と同じ顔をした者達であった。一際不穏な動きを見せていた今回の大会は、謎の秘密組織「ネスツ」によって仕組まれた物で、決勝戦の対戦相手として待ち構えていた組織の幹部・クリザリッドは、KOFで人類最高レベルの戦闘データを収集し、そのデータを世界各地の要所に配置された京のクローン戦士軍団に転送。「最強の兵器」として利用して、世界中の要所を制圧しネスツが新世界を築くという、凶悪な世界同時テロを計画していたのである。そして紅丸達がチームを組まされたK’とマキシマの二人もまた、ネスツによって生み出された改造人間であり、マキシマは全身を機械化したサイボーグで、K’はネスツに捕らわれていた京の操る炎の能力を移植された存在であった。 計画の最終段階を始動する為の最後の仕上げとして、世界中のクローン京を一斉稼動させるための「トリガーデータ」、すなわち「人を殺す」という概念を覚えさせるデータを完成させて転送するべく、自らも改造人間であったクリザリッドは優勝チームへと襲い掛かる。だが、改造人間にすると同時に記憶を奪ったネスツに不満を持っていたK'らや、オロチ戦で消耗していた隙を狙って拉致され勝手に大量のクローンを造られた借りを返そうとネスツから脱走していた京や彼の行方を追っていた庵等により、クリザリッドは敗北。世界各地に配置されていたクローンの京達もまた、抑えられてしまう事になった。そしてクリザリッドは、彼の上司から用済みとして口封じも兼ねる形で始末されてしまう。 その後、瀕死の重傷を負ったクリザリッドの前に彼が「姉さん」と呼んでいたウィップが姿を現す。彼女もまたネスツの一員であったのだが、真実を知った事でネスツと決別した彼女から、自身とクリザリッドが本当の姉弟ではなく、更にはK’のオリジナルと信じて居た自身こそが彼のクローンとして生み出された存在だったという驚愕の真実を聞かされ、最後はその介錯を受ける形で生涯を終える事になった。一方、K'とマキシマの二人はネスツを裏切る事を決意。K'が自身の能力を暴走させながらも、基地を脱出する事になるのだった。 未だかつて無い波乱に満ちた今回の大会は、世界の支配を目論む組織「ネスツ」の存在が明らかになる形で、幕を閉じる事になるのだった。 ネスツ編三部作の第2章。 キャッチコピーは「それは、宿命の邂逅。」(MVS、ネオジオ版)。 2000年7月26日稼動。本作がSNK(旧社)がアーケードとネオジオ向けに開発した最後の(過去作からの移植ではない)新規開発作品となった。 家庭用はネオジオ、ドリームキャスト(DC)、PlayStation 2(PS2)で発売。ネオジオ版以外はSNK(旧社)倒産後に版権を受け継いだプレイモアからの発売で、PS2版はプレイモア(現:SNK(2代目))の参入第1弾ソフトである。後に、再びPS2でNEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 ネスツ編のヒロインで、K'と対になる存在のクーラ・ダイアモンドがこの作品から初登場。 主催者は(ゼロ(クローン)に裏から掌握された)リング機関と、ハイデルン率いる傭兵部隊による共同主催。『2000』優勝チームは主人公チーム。 システムは『'99』を継承しているが、本作では「アクティブストライカーシステム」の採用により、ストライカーの使用が容易になったことで連続技の自由度が非常に上がった。しかし、それらのシステムの駆使による、一部キャラクターとストライカーの組み合わせによる簡単な「ハメ技」や「即死コンボ」が発見されてしまい、逆にゲームバランスにおいて弊害が生じる結果になった。 それまでのSNKのゲームに登場したキャラクターの多くを、各キャラクターに用意されたもう一人のストライカーであるアナザーストライカー(一部キャラクターは3人目であるマニアックストライカーもいる。また、PS2版ではさらに隠しマニアックストライカーが追加されている)として登場させている。 前回大会で秘密結社「ネスツ」の存在が明るみに出るも、それ以来ネスツは特に活動を起こす事なく、その情報は途絶えてしまう。 その一方、ネスツとは別に、世界各地ではテロ活動が頻発しており、ハイデルン指揮下の特殊部隊はそれが、元ネスツであるK'とマキシマの2人によるものであるということを掴んでいた。2人を捜索するハイデルンだったが、それと同時期に「キング・オブ・ファイターズ」開催の知らせが世界の実力者達に届く。 今回の大会も裏でネスツが関わっている事を確信していたハイデルンは、ヴァネッサやセスといった優秀なエージェントを擁する特殊機関「リング機関」の司令官であるリングと協力体制を取り、共同で作戦を行う事を決定。ハイデルンが前回大会と同様に怒チームの面々に出場を言い渡す一方、リング機関側ではヴァネッサがネスツに抵抗し続けていたK'とマキシマに接触し、彼等にルチャ・リブレの使い手であるラモンが加わる形で、今大会に特別招待チームとして出場する事になり、ネスツの本拠地を探るべく、大会の中でK'とマキシマの捕獲作戦を実行に移す事を決定する。その頃、ネスツに追われ続ける京の行方を捜索していた紅丸と真吾の二人は、紅丸と旧知の仲であるセスの誘いを受ける形でキング・オブ・ファイターズにエントリーする事になるのだが、彼が中国から連れてきた不気味な容姿をした謎の男・麟(リン)と一悶着を起こしつつも、紅丸チームを結成する。彼は中国の河北省を中心に活動する暗殺集団「飛賊」の長であり、先代の長であり一族を裏切って壊滅的被害をもたらした龍(ロン)の行方を追っており、その手掛かりを求めて出場を決意したのである。また一方では、オロチとの決戦後にてネスツに捕らわれて受けた屈辱を晴らすべく、追っ手を返り討ちにしながらも追い続けていた京と、その京を探し求め続けていた庵の二人もまた、今大会にネスツが関わっている事を確信し、乗り込もうとしていた。 世界各地でトーナメントが開始される中、突如冷気を操る謎の美少女クーラ・ダイアモンドが乱入する事態となり、彼女との戦いが終わった直後、リングは映像記録に残っていた彼女の姿を見て「アンチK'」と評していた。そして、大会の途中でアクシデントが発生しつつ、何とか「サウスタウン」を舞台とした決勝戦にまで進む事になるも、ハイデルンとリングの双方が指揮を執る作戦司令部で異変が起こる事になる。突如ハイデルンを裏切り取り押さえる事を命令したリングは、ネスツによって送り込まれた替え玉のクローンであり、本物のリングを殺害して彼に成り済ましていた人物の正体はネスツの上級幹部の1人・ゼロだったのである。彼こそが前大会でクリザリッドを用済みと始末した張本人でもあり、テロ行為としてメディアでは報じられたK'とマキシマの行動は、ネスツおよびゼロの不穏な動向を調査しての物であったのが明らかとなる。 ゼロがリングに成り済ましていた理由は、対ネスツ用の衛星兵器として開発された「ゼロ・キャノン」を奪う事で、これはかつてのオロチを巡る戦いでオロチ一族が格闘家達の精神エネルギーを集めてオロチの復活に利用していたのを軍事兵器として転用した物であった。そして、今大会の開催を仕向けて格闘家達を集めたのも、ゼロ・キャノンの発動に必要となる精神エネルギーを収集する為であったのだが、ゼロの真の目的は更にその先にあり、最終的にはネスツをも出し抜く形で自らが新世界の頂点に君臨せんと企んでいたのである。 ゼロ・キャノン発射の為に最高峰の格闘家の力をゼロ・キャノンに転送させようと試みるゼロだったが、それに抵抗した大会優勝チームによって敗北。最後の悪あがきとしてゼロ・キャノンを強引に発射させようとするも、何故か自分自身がゼロ・キャノンの標的となってしまう。実は、今回のゼロの目的はネスツの上層部からも予め把握されてしまっており、クーラが送り込まれたのもゼロの反抗計画を失敗に追い込む為で、クーラを擁するネスツの幹部であるダイアナとフォクシーの二人から「ペナルティを受け取れ」と宣告されたゼロは、ゼロ・キャノンの直撃を受けて消滅。作戦司令部を制圧していたリングのクローンもまた、ハイデルンによって倒された。その後、ヴァネッサ、ラモンの二人と別れたK'とマキシマの二人は、怒チームの面々と離別したウィップと三人で行動を共にする事になった。一方、紅丸達は麟が探し続けていた龍と遭遇。ネスツに降る形で力を手に入れた彼から自分に協力するよう要求された麟はそれを断固として拒否。その隙を突かれる形で、龍は背後から紅丸のエレクトリッガーを受ける事になり変わり身の術で逃走するも、あまりにも驚異的な速度を見せた龍の姿にセスは戦慄し、このまま放置すれば取り返しがつかなくなると確信する。そして、ゼロに借りを返した京は、自分を探し続けていた庵と再会。帰りを待ち続けるユキへ想いを馳せつつ、京は庵と激突する。 サウスタウンでの事件から一週間後、ゼロの拠点であった寺院等で調査を続けていたハイデルンは、ゼロが軌道上に存在していた20機のゼロ・キャノンで攻撃を行おうとしていたのはネスツの拠点ではないかと推測。いずれにせよ今回はネスツに完全敗北してしまった事を痛感するも、ハイデルンはまだネスツの打倒を諦めてはいなかった...。 ネスツ編三部作の第3章(最終章)。 2001年11月15日稼動。旧SNK倒産後初のKOFで、プレイモア(後のSNKプレイモア、現SNK)系列としては初の作品となる。また、本作は初めて秋に稼働開始した作品で、夏以外の季節に稼働開始するのも本作が初となった。以降は発売・稼動開始する時期が特に決まっておらず、作品ごとに異なるようになる。 家庭用はネオジオ、DC、PS2で発売。後に、再びPS2でNEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 主催者は秘密結社ネスツことイグニス。『2001』優勝チームは主人公チーム。 システム面では、4人のうち0 - 3人をストライカーにできるタクティカルオーダーが導入された(ライフはストライカー以外で分配。なお、CPUはラストの2ステージのボス戦を除いて、ストライカーが1人に固定されている)。このため、ROUND6、ROUND7がアナウンスされる唯一のKOF作品となる。また、相手が画面端まで吹き飛んで跳ね返るワイヤーダメージが導入されたのはこの作品からである。 ※グルガン・龍・クリザリッドの3名はゼロ(オリジナル)の専属ストライカーとして設定され、本来はゼロの特殊技扱いとして技の一部に設定されているが、PS2単体版で通常キャラクターを選択した場合はストライカー専用キャラクターとして個別に使用可能。 前回大会の終盤、ネスツの幹部であったゼロがクーデター起こした際に行ったゼロ・キャノンでの砲撃により、サウスタウンの一角1が消失。しかし、それは「人工衛星の落下事故」として報じられ、真相は世間には伝えられていなかった。常々何らかのアクシデントがついて回る「キング・オブ・ファイターズ」に中止の声は少なからずあったが、皮肉にも、いわく付きながらもこの人類最高峰の格闘大会は、97年の大会と同等かそれ以上に過熱していった。 そんな中、今大会では開催前より異常事態が巻き起こっていた。何と秘密組織であるはずのネスツが堂々と表舞台に進出し、更には前回大会で乱入してきた改造人間「アンチK'」の美少女であるクーラの他に、同じくネスツの改造人間であるアンへルやK9999(ケイ・フォーナイン)といったメンバーで構成された「ネスツチーム」がエントリーしており、K9999は同じ改造人間であるK'やクーラに対し、激しい憎悪を抱いていた。何故、これまで「秘密組織」で通し続けていた彼等が突然自分達の存在を公にする様な真似に出たのか、その真意が分からず不可解に思いながらも、ネスツの手掛かりが掴めなくなっていたK’、マキシマ、ウィップの三人は、龍の行方を突き止めるべく自分達をつけていた麟を加えた4人でキング・オブ・ファイターズへの出場を決意。同じくネスツとの決着を望んでいた京も、かつての仲間である紅丸や大門、そして真吾を加えた4人で「日本チーム」を復活させ、京を追い続ける庵もまた、前回大会で失態を犯してしまったヴァネッサ、セス、ラモンの三人と「庵チーム」を結成。これまでの二度の戦いでネスツに辛酸を嘗めさせられてきた格闘家達は、全ての決着をつけるべく、それぞれの決意と共にキング・オブ・ファイターズへと乗り込む。 大会が終盤へと進む中、飛行船の中で優勝記念式典が行われる事になるのだが、実は飛行船はロケットを偽装した物であり、ロケットが宇宙に向けて飛び立つ中、優勝チームの前に前回大会で死んだはずのゼロが現れた。前回大会でネスツを裏切って死亡したゼロはクローンに過ぎず、目の前にいる彼こそがオリジナルのゼロで、ネスツに忠実な最高幹部であった。そしてオリジナルのゼロは、優勝チームが地上最強のチームであるかを自ら確かめるべく、ペットである黒獅子のグルガン、元「飛賊」の長である龍(ロン)、そして前々回大会でクローンのゼロに始末されかけた所を密かに救出したクリザリッドを従えて、優勝チームに戦いを挑む。ゼロはクローンを遥か凌ぐ実力を持っていたが、何とか勝利した優勝チームは、地球に向けて落下するロケットから脱出。宇宙要塞へと乗り込み進んだその先に、ネスツの上級幹部の一人であるミスティー、そして組織の頂点に君臨する存在・イグニスが遂に現れる事になった。一方、宇宙で最終計画が進められるのを地上から見届けていたネスツチームであったのだが、突然K9999とアンヘルの二人が裏切る形でフォクシーに重傷を負わせる。優勝チームが決定した時点で、イグニスはネスツチームをもはや用済みと見なしており、互いに殺し合う形で自滅させようとK9999とアンヘルの二人に、ダイアナとフォクシー、そしてクーラの三人を抹殺するよう予め命令していたのである。 実は組織の本来の長は、当の昔に息子のイグニスによって抹殺されており、ネスツはいつからか組織を乗っ取った彼の個人的な願望を満たす為だけの道具となり果ててしまっていた。秘密組織であるはずのネスツが表舞台に進出するという組織の自滅に繋がりかねない方針に出たのも、その時にはイグニスにとってネスツは用済みとなっていたからであり、ネスツを切り捨てた彼の最終目的は、地球意思のオロチすら倒した京や庵、およびその因子を移植したネスツの改造人間の傑作であるK'とクーラ、そしてKOFで勝ち上がった格闘家達といった地球最高峰の実力者達を自身の圧倒的な力でまとめて一掃する事で、「自身が『神』を超えた存在である事を世界に証明する」という極めて個人的かつ身勝手な物であった。そして、K'は自らが「神」となる為の極上の生贄となるべく最初から選ばれていた存在で、共に戦ってきたマキシマやウィップ、敵対したクリザリッドやクーラ、K9999、アンヘルですらもK'の成長を促す為に用意されたモルモットでしかなく、何も知らず無意識に戦い続けていたK'は、イグニスから全力で戦える様にと記憶を返された直後、他者の人生を弄ぶイグニスに怒り、最終決戦を挑む。 戦いは熾烈を極めたが、最終的に人間の力をデータでしか推し量れなかったイグニスの敗北という形で決着がつき、自暴自棄になったイグニスは宇宙要塞の自爆装置を作動。地球に向けて大気圏突入を開始してしまう。宇宙要塞が海へと落下していく中、自分と同じ力を持つ「トモダチ」がいる事を感じ取ったクーラは、自らの冷気の力でイグニスや宇宙要塞と運命を共にしようとしていた格闘家達を助ける。 秘密組織として世界中に混乱を撒き散らしたネスツは、組織として終焉を迎えた。だが、イグニスのエゴの産物として翻弄されてきたK’達自身の戦いはまだ終わっていなかった。龍がまだ死んでいない事を確信していた麟は姿を消し、亡き親友の仇を討ったマキシマもまた彼の墓参りへと向かうと告げて去り、残されたK'は自身がこれから何をすべきか思案していた所、ウィップから「命の恩人に恩を返さなくちゃ」と言われ、自身達を救いダイアナと共にいたクーラの手を取るのだった。一方、今大会の参加チームの中でもネスツと深い因縁を持ち決着をつけた京達日本チームは別れてそれぞれの帰るべき場所へと向かい、残された真吾は目の前に現れた京の父・柴舟に弟子入りをする。 かくして、秘密組織ネスツを巡るキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。 これまでキャラクターイラストを担当していた森気楼の移籍により、後任としてノナを起用した。 SNK(旧社)の倒産に伴い、開発はブレッツァソフトと韓国のゲームメーカーイオリス(同時期に業務提携を結んでいたメガ・エンタープライズと共に金銭面でのスポンサーでもあった)が、販売はサン・アミューズメントとプレイモアがそれぞれ担当した。このためオープニングにはSNKのロゴが表示されるが、SNKの開発スタッフはゲームサウンドを除いてゲーム自体には一切制作に関わっていない。韓国資本の流入により、出場キャラクターなどにその影響が見られる。 従来までゲームサウンドを担当していたSNK新世界楽曲雑技団は会社の倒産により、事実上解散しているが、今作はSNKグループに残った一部のメンバーによってBGMが製作されている。 『KOF』全国大会”Duelling the KOF”の発起人DUNEは、ファミ通とのインタビューの中で、就職や進学でプレイヤーの世代交代が進んでいたことに加え、本作でゲーム性が変わったため、少しずつ対戦人口が減っていったと話している。 一方、本作は日韓戦が行われており、DUNEによると、日本ではフォクシーが禁止級のキャラクターとして認知されていたのに対し、韓国ではメイ・リーが禁止級扱いされており、イベント参加者からも同様の話があったという。 2002年10月10日稼動。フルタイトルは『THE KING OF FIGHTERS 2002 -Challenge to Ultimate Battle-』。一応本作KOF大会主催者は本作で二度目の復活を果たしたオメガ・ルガールだが、ネスツ編が完結したことで、オロチ編完結後の『'98』同様、ストーリーのないネスツ編の集大成的作品となった。 キャッチコピーは「BE THE FIGHTER!!」(MVS、ネオジオ、ドリームキャスト、Playstation 2版)。 家庭用はネオジオ、DC、PS2、Xboxで発売。DC版はSNK系列のセガ製ハード最後のソフトとなった。後にPS2で発売された『2002』のリメイク版である『THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH』にも、オリジナルである本作のネオジオ版が収録されている(ただし同作のアーケード版、XBLA版、Steam版にはいずれも未収録)。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 この作品を最後に開発元であるイオリスはプレイモアとの業務提携およびスポンサー契約を解消した。 ストライカーの廃止により、バトル形式は完全な3vs3に戻った。開発は『2001』同様イオリスと、販売はプレイモアがそれぞれ担当。今作はCPU戦でキャラクター曲なのは最後の1チーム・乱入してくる『2001』のネスツチームの内の1人(スコアで誰が乱入するか決まる)・ボスであるオメガ・ルガールのみで、あとは背景曲となる。ネスツ編の集大成であるが、ネスツ編のキャラクターが数人削除され、オロチ編のキャラクターも数人参戦している。 基本的なシステムは『'98』の「ADVANCED」を継承。大きく異なる点としては、MAX発動中にのみ、通常技の普段キャンセルできないポイントや、必殺技をキャンセルして別の必殺技を出すことができる「どこでもキャンセル」が使用できる。使うとMAX状態の残り時間が少し減る。また、このシステムのためMAX発動中は攻撃力が逆に減少する。また、隠し超必殺技として「MAX2」が存在。通常のMAX超必殺技の条件に加え、体力ゲージが一定量まで減ると使用できる。 『KOF98UM』と同様の趣旨で登場した『2002』のリメイク作品。略称は『2002UM』。登場総キャラクター数が66人も及ぶ大幅なキャラクター追加や、ゲームバランスの再調整、新技の追加、BGM・アナウンスの一新、デザイン・背景を中心としたグラフィックの変更などが施されている。イラストはヒロアキが担当。 システム的には『2002』を継承しているが、MAX発動中でなくともゲージ3本を消費することでMAX版超必殺技やMAX2を使用可能になるなどの変更がされている。また、デザイン面では大幅に一新され、インターフェイス周りやステージ等は総入れ替えとなり、MAX2使用時にカットインが入ったり、一部のキャラクターは特定の技で相手を倒すと勝利画面のイラストが変わるなど演出面も強化されている。 『'98UM』同様、本作のCPU戦にも、プレイ内容による乱入キャラクター、最終ボスの分岐が多種多様に設けられている。 ネオジオ版『2002』の出場キャラクターの内、K9999のみが登場せず、代わりに似たような設定・性能を持つ新キャラクター、ネームレスが新登場。PS2版にはオリジナルであるネオジオ版準拠の無印『2002』も同時収録されており、こちらは原作仕様であるためK9999も使用可能(ただし取扱説明書のキャラクター紹介欄からは除外されている)。 また、PS2・Xbox版『2002』に追加キャラクターとして出場していたギースとゲーニッツもPS2・XBLA版の今作に登場するが、同じく『2002』では出場していたツキノヨルオロチノチニクルフイオリは今作では登場していない。 PS2版の後に稼働されたアーケード版は更なるバランス調整が施されている他、背景が2Dに変更された代わりに新ステージが一部追加されている。また、基本的にPS2版のキャラクターはアーケード版にほぼ全て出場しているが、ボスキャラクターは全員CPU専用で使用できず、さらにギース(ナイトメア含む)とゲーニッツのみ登場していない。 後にアーケード版のゲームバランス準拠のものが『闘劇ver.』としてPS2版に逆輸入されている。これらでは対戦バランスや技の性能はアーケード版準拠だが、メニューやモードなどはPS2版無印準拠で同じく家庭用専用隠しキャラクターが使用可能になっている。なお、PS2版2作品ともにネオジオオンラインコレクションではないため、ネットワーク対戦には対応していない。 その後に配信されたXBLA版・Steam版のゲームバランスもアーケード版および『闘劇ver.』に準拠した上で、モード類はPS2版の要素を継承した移植となっているが、PS2版2作品には存在したネオジオ版『2002』、ギャラリー、カラーエディットなどが未収録となっている代わりに、ネットワーク対戦と実績機能に対応している。背景はPS2版の3Dではなく、アーケード版と同じ追加ステージありの2Dを採用している。Steam版はボスキャラクターと裏キャラクターが最初から全て無条件で選択可能になっている。 ボスキャラクターはプレイヤー仕様だと、CPUに比べて攻撃力が大幅低下、防御力が通常キャラクターと同じになる調整を施される。 2009年2月26日にPS2版が発売。同年7月9日にアーケード版が稼動開始(システム基板はSYSTEM BOARD Y2)され、本作はKOFシリーズ全体で初の、家庭用からアーケードへの逆移植タイトルとなった。さらに、2010年6月24日にアーケード版と同等のバランス調整が行われた『闘劇ver.』がPS2で発売され、特に『闘劇ver.』はSNKプレイモア最後のPS2用ソフトとなった。2010年11月3日にXbox 360のXbox LIVE アーケード版が配信された(詳細は上述)。2011年1月24日からはNESiCAxLiveでアーケード版準拠のものが配信されている。2015年2月27日にはSteamでXBLA版準拠のものが配信され、2020年11月には大型アップデートが行われネットワーク対戦のネットコードにロールバック方式が実装された。2021年2月9日にはPlayStation 4でSteamアップデート版準拠のもの配信され、同年4月15日にはパッケージ版も発売。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 本作品・『XI』・『XIII』と続く「アッシュ編」三部作の第1章。 キャッチコピーは「今、新たな闘いの扉が開く。」(MVS、ネオジオ版)、「新たな炎が燃え上がる。」(PlayStation 2版)。 2003年12月12日稼動。冬に稼働開始するのは本作がシリーズ初である。MVSでリリースされた『KOF』シリーズのうち、日本国内では唯一単体基板(MV-0)で発売されたタイトルで、MV-6などの複数スロット基板に入れて稼動することができない(なお、日本国外向けの後期出荷のみだが、通常のROMカートリッジ版も存在する)。 家庭用はネオジオ、PS2、Xboxで発売。本作はネオジオ最後のKOFとなった。ネオジオ版の『KOF』では唯一、最初の操作説明画面に説明役のキャラクターが存在しない。PS2版では主人公チーム3人のさらなる設定が収録されていたり、システム面を調整した「アレンジモード」が追加されている。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。 2019年2月21日には、アケアカNEOGEOの一環として、PlayStation 4/Nintendo Switch/Xbox One向けの移植版が発売された。 新主人公・アッシュ・クリムゾンを主軸に、オロチ編を伏線に利用した新たな展開が描かれる。 主催者は(牡丹に操られた)神楽ちづる。『2003』優勝チームは主人公チーム。 新たなシステムとして、ラウンド制が廃止され、全員KOされるまで試合が続行される途中交代可能なマルチシフト制が導入された。これによりPERFECTは3人全員がライフ満タンでなければならない。また、MAX超必殺技がリーダーのみが出せるリーダー超必殺技に変更された。なお従来よりも戦闘に時間がかかるため、制限時間は1カウント約2秒×60カウント=120秒である。 キャラクター選出にも過去作から大幅な変更も入り、アンディ・ボガードや椎 拳崇、鎮 元斎、チョイ・ボンゲといった前作まで皆勤だったキャラクターが初めて欠場した一方で、餓狼伝説シリーズのキャラクターの世代交代が行われた作品であり現時点で最終作の『餓狼 MARK OF THE WOLVES』より、テリー・ボガード以外のキャラクターが今作で初めて出場した(本作ではグリフォンマスクと牙刀が初参戦)。 ネスツの壊滅から2年後、またもや世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届けられた。本大会の主催者もやはり謎の存在であり、その正体について憶測が流れていたにもかかわらず、歴戦の格闘家達は次々と参戦を表明する。知名度の高い参加者が多数いることを確かめると、それまで慎重だった各メディアも、一斉に「キング・オブ・ファイターズ」を取り上げ始める事になった。 今大会から「ストライカーシステム」に代わって新ルール「マルチシフト」が採用され、それは社会現象にまで発展し、世界中の話題を独占してゆく。新ルール以外でも、名を知られつつキング・オブ・ファイターズに未参戦であった格闘家であるグリフォンマスクや牙刀等が新規参戦し、更には謎の組織に所属する女子高生の暗器使いであるまりん、飛賊の生き残りの一人であるデュオロン、上海を拠点に活動する無頼漢のシェン・ウー、そして正体不明の謎の男アッシュ・クリムゾン。今まで表舞台で名の挙がる事の無かった未知数の実力者が次第に出場する事になり、新たなる盛り上がりを見せ始めていた。 やがて大会が中盤に差し掛かる中、謎の主催者によって草薙京と瓜二つの姿をした謎の存在であるKUSANAGIが出没し、出場チームに襲い掛かる事態となる。更には、一部の出場チームが主催者と思われる女性によってとある場所へと転送されてしまい、そこにはかつてオロチの力に手を出して身を滅ぼしたあのルガールと同じく「バーンシュタイン」の苗字を持つ謎の美少女・ローズ・バーンシュタインがいた。主催者の女性によって飛ばされた場所は、彼女の拠点である巨大飛行艇「スカイ・ノア」の中であり、ローズによって彼女の兄で同じく「バーンシュタイン」の名を持った青年であるアーデルハイド・バーンシュタインと戦わされる事態となってしまう。そして優勝チームが決まった直後、主催者の正体がオロチを巡る事件の後に消息が掴めなくなっていたちづるであった事実が判明。しかし、彼女は八咫の力を狙った謎の組織「遥けし彼の地より出づる者」によって洗脳され操られていただけに過ぎず、組織の1人で石化する異形の能力を操る無界(ムカイ)との戦いの後、オロチの封印を解除する事に成功した彼等は「遥けし彼の地より出づる者」を名乗り、その場を去っていくのだった。 しかし、無界との死闘を演じたその直後、突如姿を現したアッシュはその場に居合わせた京と庵二人の目の前で、消耗し動けなくなっていたちづるの身体から「三種の神器」の一角である「八咫の鏡」の力を奪い取る。そして次は庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を狙う事を宣言したアッシュに対し、庵が攻撃を仕掛けるが、難無くかわして見せたアッシュは、そのまま姿を消してしまうのだった。 相次いで不可解な混乱が巻き起こる中で今大会は幕を降ろす事になり、近い未来の内に新たなる波乱が起きようとしていた。 開発が韓国から日本主導に戻る。開発はSNKネオジオ(旧:サン・アミューズメント)が、販売はSNKプレイモア(旧:プレイモア)がそれぞれ担当した。 キャラクターイラストは新たにFALCOONが担当(後の家庭用版KOFプロデューサー)。 対戦型格闘ゲーム大会「闘劇」第1回『KOF 2002』部門の優勝者であるごしょはファミ通とのインタビューの中で、本作でゲーム性が変わってしまったため、プレイヤー総数が若干減ってしまったと感じたものの、自分の地元である柏では闘劇出場を目標にしていた者はいたと話している。 アッシュ編三部作の第2章。 2005年10月26日稼働。PS2版は2006年6月22日に発売。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。ATOMISWAVEで発売された『KOF』シリーズ本編。SNKネオジオを吸収合併したSNKプレイモア単独による開発・販売となる。シリーズ本編としては前作『2003』より2年弱の間があり(前年の『NEOWAVE』は『2002』をベースとした番外編)、今作よりタイトルの西暦表記が廃止され、ナンバリング表記になった。前作『2003』のシステムを正統進化させたものを採用。 この作品がATOMISWAVEでの最後の『KOF』となった。なおATOMISWAVE版はROMカセットを採用しているにもかかわらず、試合開始までの読み込み時間がメディアがDVD-ROMであるPS2版よりも長い。これはATOMISWAVE基板の「処理中のロードが非常に困難」という特殊な構成によるものである。 主催者は当初は不明だが、後に遥けし彼の地より出ずる者の裏切り者の禍忌だと判明。『XI』優勝チームは主人公チーム。 タイムアップ時による判定が、攻撃を当てることでバランスが傾く「ジャッジメントインジケーター」に変化し、体力に依存するものではなくなった。なお、ジャッジメントインジケーターを採用したのはシリーズ中で本作が唯一である。タイムカウントは150秒で、1カウント1.5秒×99カウントとなっている。 PS2版ではシステム面やキャラクターを調整した「アレンジモード」、『ネオジオバトルコロシアム』からの追加キャラクター(その中でタンとほたるがKOFシリーズ初参戦、ビッグは『'96』以来、ロバートは中年の姿)、オリジナルアレンジBGMなどが追加されている。 「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団により洗脳されて表向きの大会主催者を務めていた神楽ちづるの負傷に加え、彼女から「八咫の鏡」の力をアッシュが奪っていったいう相次ぐ混乱を以って幕を下ろした前大会から、1年以上の時を隔て、新たな「KOF」の開催が宣言された。 前回大会で暗躍を行っていたアッシュは、今大会でも参加を決めており、前回大会でチームを組んだシェン・ウーの他に「カーネフェル」というカードを駆使したの使い手である老紳士オズワルドをメンバーに加える。一方、アッシュと関わりを持ったとある人物に招待されていた紅丸とデュオロンの二人はフランスの南部へと訪れており、二人を呼び出したフランスの田舎の名家ブラントルシュ家の現当主を務める女性エリザベート・ブラントルシュとチームを組んでキング・オブ・ファイターズに出場する事になった。他にも新参加者としてB.ジェニー、ダック・キング、桃子といった面々が新規参戦し、更には以前の大会に出場した如月影二や藤堂香澄も復帰。極限流打倒の信念を変わらず持っていた影二は、自分と同じ志を持つ者達とチームを組もうと考えた結果、同じ極限流の打倒を目指す香澄の他に、ユリ・サカザキに個人的な恨みを抱く前回大会の出場者であるまりんとチームを組むに至ったのである。また、一方では前回大会の終盤で「三種の神器」の力を奪われたちづるの代わりを自分から引き受けた真吾が、自分と京と庵の三人でチームを組み参加する事を提案。当然、二人は対等な立場でも無い彼の主張など相手にしなかったのだが、あまりにしつこくせがまれた上、「遥けし彼の地より出づる者」と名乗る謎の集団の動向、封印を解かれたオロチの力の行末、そしてアッシュの真の目的。それらの気配を感じ取り、渋々とチームを組んで出場する事になった。 だが、華やかな格闘大会というKOFの表向きの顔とは別に、今大会の裏側でも数々の思惑が交錯していた。大会が終盤に差し掛かった時、決勝会場を「遥けし彼の地より出づる者」の一人である紫苑(シオン)が襲撃。彼はオロチを完全に覚醒させる為に決勝戦にまで勝ち上がったチームに戦いを挑むも、結局オロチは覚醒しないままとなり、そこへ今大会の主催者である紫苑と同じ「遥けし彼の地より出づる者」の一人である禍忌(マガキ)が現れて失敗した紫苑を粛正される。そして、禍忌は異形の姿に変身して紫苑を破った者達に襲い掛かるも敗北してしまう事態となり、それでも余裕な態度を見せながらも焦りを覚えて異空間へと逃亡を図ろうとする。だが、オロチの覚醒に気付いて油断していた隙を突かれる形で、自らに復讐しようとした紫苑が投擲したと思われる槍が禍忌の心臓を貫き、紫色の血飛沫を上げながら禍忌はそのまま絶命する末路を迎えた。 その後、禍忌の遺体はハイデルンの部隊に回収され、怒チームやエージェントチーム、K’チームを作戦本部に招き入れたハイデルンは今後の「遥けし彼の地より出づる者」への対策会議を行う。今回の事件から、禍忌や前回大会で戦った無界といった「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達は人間と異なる種族である可能性が出始める中、「遥けし彼の地より出づる者」の一員であるシュルームとリメロの二人が、禍忌の肉体からデータを取られる事を阻止する為、ハイデルンの部隊の艦隊を構成していた一隻の戦艦を撃沈。禍忌の遺体は回収されてしまう。一方、オロチ覚醒の影響で庵は「血の暴走」を起こしており、疲労していた京は打ちのめされ、真吾もまた暴走した庵によって重傷を負わされるも、そこへアッシュが姿を見せる。その後、決着がついていたその場では、京、真吾、庵の三人が倒れており、そこへ駆けつけたエリザベートに呼び止められたアッシュは、彼女の事を「ベティ」と親しそうな名で呼ぶ。実は、アッシュとエリザベートの二人は、共に古の時代より「遥けし彼の地より出づる者」と敵対し彼等の野望を阻止すべく戦う「使命」を背負っていた一族の末裔であったのだが、同じ宿命を持っていたはずのアッシュは不可解な動向を繰り返す様になり、彼の行方を捜していたエリザベートは真意を訪ねようとするが、「使命なんて忘れた」とはぐらかすアッシュは前大会での宣告通りに庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を奪い取っていた。更には「八咫の鏡」の力も使いこなしていたアッシュはそのまま姿を消してしまい、またしても不穏な空気のまま、大会は幕を閉じる。また一方では、前回大会にて介入を行ったルガール・バーンシュタインの娘であるローズ・バーンシュタインが兄であるアーデルハイド・バーンシュタインと衝突。その心の隙を突く形で、「遥けし彼の地より出づる者」の一人である牡丹(ボタン)が、自らの術によってローズを操り人形にするのだった。 イラストはヒロアキが担当。ゲーム中のデモグラフィックなどはノナが担当。 2009年4月10日にアーケードゲームとして稼動開始し、PlayStation 3、Xbox 360版が同年7月30日に発売(オンライン専売ソフトの配信を除いてSNKプレイモアの両ハード初のゲームディスクソフトとなった)。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。 間にリメイク作品がリリースされたものの、正規のKOFシリーズでは約3年半振りの新作となった。本作では「KOF RE-BIRTH」を謳っており、新システム基板「Taito Type X2」での稼動に伴い、グラフィックを全てHDで新規に描き下ろしている。 キャッチコピーは「ライバルなど、いない。」。 本作には『KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION "A"』と同様に特定の固定チームが存在しない。一部のキャラクターは声優が変更されている。 本作ではマルチシフト制を廃止し通常の3on3制に回帰した一方、クリティカルカウンターゲージMAX時に相手の攻撃を近距離強攻撃で潰す(カウンターを取る)と一定時間オリジナルのコンボを決められる「クリティカルカウンター」をはじめとする新システムが導入された。 当初はこの作品でアッシュ編の決着をつける予定だったが、紆余曲折の末に「本作はゲームストーリー展開は無し」という帰結点が採られ、アッシュ編の完結は次回作である『XIII』に持ち越された。 2010年7月14日にアーケードゲームとして稼動を開始したのち、同年12月1日にはPS3/Xbox 360への移植版が発売された。 その後、2012年4月26日には、家庭用版の内容を元にしたアーケードゲーム『THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX』(以下:『CLIMAX』)が稼働開始した。 それから半年後の2013年9月12日にはNESiCAxLive対応版である『THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX for NESiCAxLive』が稼働開始した。 そして、2013年9月14日にはWindows向けの移植版である『THE KING OF FIGHTERS XIII STEAM EDITION』がSteamを通じて、『THE KING OF FIGHTERS XIII GALAXY EDITION』がGOG.comを通じてそれぞれ配信された。これは家庭用のDLCとして配信されていた3人を含めた36人のキャラクターが最初から使用可能で、グラフィックオプションの実装やネットワークコードの最適化など、PC向けの改良もなされている。 同作はアッシュ編三部作の最終章と位置付けられており、彼の行動の真意が明かされている。 「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団による暗躍が起きていた2度に渡る大会より2年の年月が過ぎた。 「八咫の鏡」が破れたのに次ぎ「八尺瓊の勾玉」までもが堕ちてしまい、残された「三種の神器」は最早「草薙の剣」ただ一つとなってしまった。あまりにアクシデントが起きるキング・オブ・ファイターズは最早いわく付きの祭典として開催が危惧される事になっていたが、ある政財界の実力者による強引な推進により、むしろこれまで以上の空前絶後の勢いで開催される事態となった。これまでキング・オブ・ファイターズに参加してきた実力者達に次々と招待状が行き渡り、差出人の頭文字は『R』...かつてチーム戦形式となる最初のキング・オブ・ファイターズを開催したルガール・バーンシュタインの娘、ローズ・バーンシュタインであった。 世界中において、キング・オブ・ファイターズの開催で話題が盛り上がる中、前回大会の終盤でアッシュ・クリムゾンを取り逃がしたエリザベートは、南フランスの廃墟にて、過去の日々に想いを馳せていた。幼い頃、アッシュと共にお互いの一族を火災で喪ったエリザベートは、彼だけが背負った「使命」を共感出来る者となり、実の姉弟の様に暮らしていた。だが、次第に自らを避ける様になった彼は遂にその姿を晦ましてしまい、宿敵である「遥けし彼の地より出づる者」が活動を開始し、再会した時には「『使命』なんて忘れた」と明確な拒絶を受けてしまう。それでも、自らの「使命」を全うする事だけに固執するエリザベートは、アッシュを手に掛けてでも成し遂げようと決意を胸に秘め、かつてアッシュとチームを組んだ二人であるデュオロン、シェン・ウーの二人とチームを結成して参戦する。一方、傷が癒え世界を巡り旅していた京の元に「遥けし彼の地より出づる者」の一員であるシュルームとリメロの二人が現れ、シュルームからの襲撃を受けた京は難無くあしらい、彼から『R』の封蝋が刻まれた招待状を手渡される。大会にアッシュが出てくる事を仄めかされた上で彼等は去っていき、二度も辛酸を嘗めさせられたアッシュに借りを返すべく、京は日本へと戻り、紅丸、大門の二人と「日本チーム」を復活させて参戦するのだった。また一方では、前回大会で自らの力の源でオロチの呪縛の証にもなっていた「八尺瓊の勾玉」の力を奪われた庵であったが、それでもその実力は色褪せる事のない物となっていた。しかし、庵に対し、ちづるはオロチの呪縛から逃れられると説得しようとするが、オロチや八神家の因縁になどまるで興味無いと言わんばかりに庵は一蹴。そんな彼の前に、かつてチームを組み「血の暴走」によって手に掛けてしまったあのマチュアとバイスの二人が現れ、「遥けし彼の地より出づる者」がオロチの力を横取りしようとしている事実が気に食わなかった彼女達は、八神が炎の力を取り戻す為の手助けも兼ねて再度のチームの結成を提案。庵はアッシュへの借りを返し、そして今日を倒すべく「八神チーム」の再結成を受け入れる。 ローズによって開催されるキング・オブ・ファイターズの準備が進む中、常識を超えた力を持つ「遥けし彼の地より出づる者」によって二度も出し抜かれる事態となったハイデルンは、様々な手を尽くす形で「遥けし彼の地より出づる者」の能力や目的を炙り出そうとしていた。そんな彼に協力を依頼されたK'、クーラ、マキシマの三人は、サウジアラビアの南部に突如現れたとされる石造建築の遺跡の元へ訪れ、調査を開始。マキシマのデータ収集能力によって、その遺跡は約千年以上前より存在していた物とされ、通路を真っ直ぐ進んでいく中で三人は、強大な力を持つ「何者」かによって大勢の人間達が無残にも殺されていくかの様な光景を想起させる壁画を目の当たりにし、更にその先の部屋には「扉」にも見える巨大な石碑が鎮座していた。その頃、「遥けし彼の地より出づる者」の種族や能力について解析を続けさせていたハイデルンは、「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達には時空間を操る得意な能力がある事を突き止め、それによって生じる空間の歪みを〈ギャップ〉と命名。やはり今大会の裏にも「遥けし彼の地より出づる者」の暗躍がある事、そしてそれにアッシュが大きく関与している事を想定し、ラルフ、クラーク、レオナ達が選手として大会に参加する中、ブルー・マリー、ヴァネッサ、セス、ラモンのエージェント達に、会場内に潜入しての調査を行い、人類の脅威となり得る「遥けし彼の地より出づる者」の目的を未然に防ぐよう命令する。一方、ローズの豹変ぶりに困惑を隠せないでいたアーデルハイドは、突然キング・オブ・ファイターズの開催を宣言した彼女の真意を問い質そうとするも、彼女はまるで上の空の状態であり、アーデルハイドの言葉を意に返さないまま彼女によってキング・オブ・ファイターズの開会式が行われ、いよいよトーナメントが始まる事になった。どうすれば良いのか独り悩むアーデルハイドであったが、そこへアッシュが姿を現し、ローズの身に起きた真相を知らされ激昂。しかし、彼等の目的を問い質した時に「友達に聞けば?」と返されたアーデルハイドは、急遽かつてポーランドで知り合ったハイデルンと連絡を取り、事の経緯について説明する事になった。 その頃、「遥けし彼の地より出づる者」側でも計画が着々と進みつつあったかに見えたが、計画は上手く進行していない状況にあった。前々回大会における無界の行動によってオロチの封印は解かれ、前回大会では紫苑と禍忌によってオロチの「気」の発見に成功。そして、今大会の開催中にて、牡丹に操られたローズによってオロチの氣の直上にスタジアムを建設させる事に成功し、「扉」を開く為の宴の準備は何とか整おうとしていた。しかし、ここまで来るのに時間が掛かり過ぎた以前に、未だにオロチは目覚める気配を見せず、更に計画実行のチャンスがたったの一度きりしかないという事実に、アッシュと瓜二つの姿をした「遥けし彼の地より出づる者」のリーダーである斎祀(サイキ)は苛立ちを隠せない様子を見せていた。一方、スカイノアのコンピュータ制御室で今大会の決勝戦が行われるスタジアムの「本来」の設計図を発見したアーデルハイドは、スタジアムの地下室に巨大な地下施設にエネルギー集積装置らしき物が設けられていた事実を突き止め、それがオロチに関連する物だと推測した上でハイデルンに報告する。ハイデルンからの指示を受けてエージェントチームが地下施設に辿り着いたその時、巨大な時空震が発生。スタジアム地表の<ギャップ>が急増する中、グラフパターンを過去の物と照合した結果、それが「オロチ」による物である事が発覚し、ハイデルンは部隊をスタジアムに向かわせる事を命令。ターゲットにアッシュ・クリムゾンを指定する。そして優勝チームが決定する中、斎祀は苛立ちを爆発させる寸前ながらも、どうにかオロチが覚醒した事で気を静め、計画を最終段階へと移行させる事になった。 彼等の真の目的...それはかつてのオロチの復活を巡る事件と同様、スタジアムで格闘家同士による熾烈な戦いをさせる事でオロチの覚醒を促し、その直後に自分達が保有するエネルギー集積装置に取り込ませる事で、「扉」を開く為の宴を起こす事にああった。そして、彼等の名乗った「遥けし彼の地」というのは「過去」を意味しており、扉は過去へ向かう為の所謂タイムマシンだったのである。三年前、「遥けし彼の地」から時空を超えて現代に跳んできた斎祀は、全ての人類が自分達の同族の奴隷と化し、世界の頂点に君臨する為の玉座が待っていると信じて疑わずにいたが、実際は自らが思い描いていた願望からは程遠く、人類を見くびっていた同胞達は失敗を重ねた末に、人類から隠れて生きていかなければならないまでに落ちぶれ、滅亡寸前にまで至っていた。この事態に強い不満を覚えた斎祀は、再び過去に戻って歴史を自分達の支配する世界へと正さなければならないと考え、ここ三度に渡るキング・オブ・ファイターズにおいて暗躍を重ねていたのだった。 主催者のローズが優勝チームを称える中、突如時間が停止した直後に「遥けし彼の地より出づる者」が総勢で姿を現し、その中央には斎祀の姿もあった。「時間が無いからとっとと配置に付け」と尊大な態度を見せる彼の指示を受け、部下達は次々と「宴」を始める為の配置へつこうとするのだが、武人として優勝チームとの決着を望んでいた無界は自分が戦うと主張。それに苛立った斎祀は無界を殺害してしまう。そして自らの真の姿を露にした斎祀は、彼等の憎悪や憤怒、最高級の闘気を励起させて目覚めつつあるオロチに捧げる為に襲い掛かり、死闘を演じる。だが、戦いの中で突如「扉」が閉まり始める事態となり、配置についていた牡丹は扉の時球の幾つかか消えている事実に気付き、それを聞いた斎祀が動揺する中、一人の人間の拳が彼の心臓を貫く。その正体は行方の分からなかったアッシュであり、最初から「草薙剣」を奪う意志は無く反抗の機会をずっと窺っていた彼は、この瞬間をずっと待ち続けていたのだった。しかし、斎祀の醜悪な執念はまだ死んでおらず、その魂に身体を乗っ取られてしまったアッシュは「血の螺旋に狂うアッシュ」として優勝チームに襲い掛かる。 だが、アッシュの身体を乗っ取り人類の力を終始見くびり続けていた斎祀は敗北。そこへ駆けつけたエリザベートがアッシュに呼びかけ、斎祀は最後の手段としてアッシュにまだ完全に閉まる前の扉の中へと飛び込むよう促すが、アッシュはそれを拒否。自分の全てを理解していると傲慢な態度を見せた斎祀に対し、「ボクは、この世界の事が結構気に入っているんだ」という嘘偽りのない返答を出す。この結果、過去と未来の矛盾が発生してしまった斎祀はタイムパラドックスによって消滅を迎える事になり、情けなく悲鳴を挙げ続けながら、斎祀は消滅。しかし、それは同時に斎祀の子孫であるアッシュ自身の消滅を意味しており、エリザベートに無邪気な笑顔を見せたアッシュは「自分がこの世界に『存在しなかった』事になる」と告げ、必死にアッシュに呼びかける彼女に詫びを入れるのと同時に、アッシュもまた消滅した。その頃、ハイデルンの元には「フレイム・オブ・ノヴァ」と名乗る送信者から未確認のアドレスからのメッセージが届き、中身となる音声ファイルを自らの専用回線で再生させたハイデルンは、彼の全ての真意を知る事になった。だが、斎祀やアッシュがタイムパラドックスで消滅した事で、彼に関する記憶を全ての人間が失う事となり、それが起こる前にハイデルンは部隊の引き上げ準備を命令。牡丹によって操り続けられたローズもまた、傀儡の糸から解放される事になり、それを抱きとめたアーデルハイドは、自分の中の「何か」に関する記憶が薄れていく違和感を感じ取っていたが、妹であるローズを守りきったという事実だけを確信する事にする。 アッシュの消滅によって、ちづるは「八咫の鏡」の力を取り戻し、庵もまた「八尺瓊の勾玉」の力を取り戻そうとしていた。だが、勾玉がひび割れているのは「660年という長い年月により八尺瓊とオロチの契約を不可分としていた証」であり、これを手中に収める事で庵は炎を取り戻すが、同時にまた「オロチの呪縛」に縛られ続ける事も意味していた。マチュアとバイスの二人は、本当に勾玉を取り戻してしまっても良いのかと庵の身を案じるが、庵は迷う事無く勾玉を手中に収め、高笑いと共に紫炎の力を取り戻す。そしてそのままの勢いで、庵はキング・オブ・ファイターズの会場にいる京を襲撃。何か重大な事を忘れて思い出せない事に違和感と苛立ちを覚えるも、目の前にいる庵にぶつけて解消する事を決意。京と庵...二人がぶつかる形で今回のキング・オブ・ファイターズは幕を閉じるのだった。「なべて世は事もなし......」。何処かからその言葉が笑い声と共に響いていた。 その後、大会が完全に終わりを迎える中、他の者達と同様にアッシュの事を忘れ去ってしまったデュオロンとシェン・ウーの二人であったが、エリザベートと別れた後、何故か会場に留まり続けていた。二人は「誰か」と何かの約束をしていた気がするのだが、それが消滅したアッシュの事だった為に思い出す事は出来ず、ただ一人、アッシュの事が記憶に残っていたエリザベートは、彼の形見となったカチューシャを手に涙を流すのだった。 かくして、斎祀の消滅によって自分達「遥けし彼の地より出づる者」の運命が決定付けられた彼等は、生き延びた牡丹を始め再び人々の集団の中へと還っていき、彼等を巡る人類の未来を賭けたキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。ただ一人、運命に抗い続けたアッシュ・クリムゾンの消滅と共に...。 『THE KING OF FIGHTERS XIV』は、2016年8月25日にPlayStation 4用ソフトとして発売された後、2017年6月16日にSteamでMicrosoft Windows 7 版『THE KING OF FIGHTERS XIV STEAM EDITION』が配信され、DLCキャラクター・衣装に加え「デジタル・アートブック」「デジタル・サウンドトラック」も収録した『DELUXE PACK』も同時発売された。さらに2017年6月29日には家庭用からの逆輸入という形で、NESiCAxLive2に対応したアーケード版『THE KING OF FIGHTERS XIV Arcade Ver.』が稼働開始。家庭用でのDLC要素は最初から搭載され、DLCキャラクター4人とボスキャラクターのアントノフとバースが最初から使用可能になっている。 2021年1月7日に全てのDLCキャラクター&コスチュームを収録した、PS4版『THE KING OF FIGHTERS XIV ULTIMATE EDITION』のダウンロード版を配信し、後にパッケージ版を2021年3月11日発売した。 ナンバリング作品第14弾である同作はKOF新編と銘打たれており、新キャラクターのシュンエイを中心として新たな物語が展開される。 物語の時系列はアッシュ編のその後であり、プレイキャラクターではないものの前シリーズヒロインのエリザベートが大会の裏で暗躍していたり、シュンエイが本作の最終ボス・バースと何らかの繋がりがあることなどが示唆されている。また、過去シリーズのオロチ編やネスツ編などの要素も盛り込まれている。 グラフィック面の特徴としては、本編シリーズとして初めて3Dポリゴングラフィックスが採用されている。システム面の特徴としては、従来の3on3チームバトルのほかに、オンライン上での3人1組のチームによるバトルが楽しめる「パーティバトル」が加えられている。 2022年2月17日にPlayStation 4、PlayStation 5、Xbox Series X/S、PC(Windows 10・Epic Games・Steam)で発売。 『XIV』から引き続き3Dグラフィックとなっており、各種演出はブラッシュアップされている。 2004年7月27日稼動。シリーズ初のATOMISWAVEでの作品。開発はナンバリングタイトルとは異なりノイズファクトリーが担当。内容は『2002』をベースにして制作されたマイナーアップバージョンのような作品であるが、本シリーズには含まれない。『2002』と同じくストーリー設定はなしだが、一部参戦キャラクターや最終ボスなどは変更されている。 3種類のモードを選択可能。A - Eの5ボタン。Eは、体力を徐々に減少させる代わりに体力が1/4以下になるか、相手の攻撃を受けるまで攻撃力を2割ほどアップさせる「ヒートモード」を発動するためのボタンである。AW-NETに対応しており、同ハード共通カード使用による特典あり(いわゆるエントリーカードが使用できるのはこの作品のみ)。 操作モードを必殺技を必殺技でキャンセルできる「スーパーキャンセル」、専用攻撃で相手のガードを崩す「ガードブレイク」、MAX2が使用できる「MAX2」から選択できる。一部のモードではガードキャンセルふっとばしが使えないなどの変化はあるが、基本的なシステムは変わらない。 ATOMISWAVE筺体では新作の『XI』に変わり、ネオジオでは引き続き『2002』が長期間稼働したこともあり、稼働期間は短かった。また、本作の最終ボスは『'96』でボスチームとして登場したギース・ハワードが『龍虎の拳2』に登場した頃の若い姿で務めている。イラストは中野友和が担当。 家庭用ではPS2およびXboxで発売されている。Xbox版は日本のXbox最後の新作ソフトである。PS2版ではK9999を除くAC版『2002』の出場キャラクターが全員登場することになった。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 3D格闘ゲームとして製作された外伝シリーズ。略称は『MI』、もしくは『KOF MI』。当初はPS2で展開してきたが、後にXboxやアーケード(システム基板は「Taito Type X2」)でも登場した。PlayStation 3やXbox 360での作品も予定されていたが、発売中止となった。 1998年10月28日にネオジオポケット(モノクロ)本体と同時発売。R-1は「ラウンド ワン」と読む。『'97』をベースにしており、熱闘シリーズ同様に抜粋されたメンバーが登場するが、本作では独自の公式チームが組まれている。ニューフェースチーム(本作では「フェース」が長音)以外は、新しいチームを組んでの参戦となる。 隠し要素として、簡単なコマンドで必殺技が出せる「あばれモード」が搭載されている。 1999年3月19日にネオジオポケットで発売。R-2は「ラウンド ツー」と読む。モノクロ本体でも遊べるが、今作ではネオジオポケットカラーにも対応し、この場合はカラー表示となる。『'98』をベースにしているが、『'98』にはいない藤堂香澄も登場。また、全キャラクターが単体で乱入キャラクターとして登場する可能性があり、一度ゲームをクリアした後は乱入キャラクターが1プレイ内に最大2体まで出現するようになり、2体目に出現する隠しキャラクターを倒すと解禁される。前作よりもCPU戦の難易度は下がっている。本作のみの特徴として、「テク」を集めて好きなキャラクター1人をカスタマイズし強化する「メイキングモード」がある。また、前作にあった「あばれモード」が標準で選べるようになった。1999年10月21日には価格の下がったキャンペーン版も登場。 2020年8月6日よりNintendo Switchにて「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION」シリーズとしてキング・オブ・ファイターズ R-2が移植版が配信された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。1本で2人対戦が可能だが、原作にあったドリームキャスト通信機能は非対応。2021年3月18日配信のコレクションソフト『NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.1』にも収録。 2002年1月1日にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売。開発はアートゥーン。サブタイトルは日本語に訳すと「新しい血統」、つまり新キャラクターを意味している。 任天堂の携帯ゲーム機向けとしては4年半ぶりの新作。SNK倒産後の発売だが、クレジットやタイトルデモにはSNKロゴが表示される。 『'99』のデザインと『2000』のシステムを主にベースとした作品だが、ストーリーはオロチ編を継承した新たなものになっている。新キャラクターの葉花萌の声優に千葉麗子を起用。 チーム構成はメイン3名+ストライカー1名という構成になっている。ストライカー専用のみとして登場するキャラクターはメインで使用することはできず、各チームのストーリー上もメンバーとしては存在しないような扱いになっているが、チーム単位のストーリーは正規のストライカーも加えないと見ることができない。 発売前は期待が集まっていた作品ではあったが、実際に発売された製品版は不具合が非常に多く、ゲームがフリーズする、操作ができなくなるなど一部プレイに支障が出るものもあるほどだった。 2003年1月1日にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売、開発はサン・テック。『EX』の続編で、前作同様に『2000』を基本にしている。前作に存在した不具合などの問題点は大幅に改善されている。 前作の葉花萌に加え、新たに大神零児、華守純、黒咲壬羽、天羽忍(最終ボス)の4名のオリジナルキャラクターが登場し、オロチ編に沿った新たな設定として「十種神宝」を中心としたストーリーが展開される。ストライカーのシステムも変更され、次の順番のキャラクターがストライカーを務めるようになった(3人目はストライカーを使用できない)。 1995年2月1日にMVSで稼動したクイズゲーム。発売元はザウルスで、同社のマスコットだった恐竜のキャラクターが随所に登場している。家庭用はネオジオROM版が1995年3月10日、ネオジオCD版が1995年4月7日に発売。 タイトルに『キング・オブ・ファイターズ』とついているが、草薙京などの『KOF』オリジナルキャラクターは登場しない。また、タイトルロゴのデザイン上では中黒が省かれた『クイズ キング オブ ファイターズ』のように表記されている。登場キャラクターは、『餓狼伝説』(『SPECIAL』準拠のデザイン)と『龍虎の拳』(『2』準拠のデザイン)に加え、本家『KOF』には参戦していなかった『サムライスピリッツ』(初代準拠のデザイン)から選ばれている。 ストーリーの大筋は、謎の組織「Q」に誘拐されたユリを救出するため6人の勇者(テリー・ボガード、不知火舞、リョウ・サカザキ、ロバート・ガルシア、覇王丸、ナコルル)が立ち上がるという、初代『龍虎の拳』をなぞらえたような展開で、『龍虎の拳』のボーナスゲーム「超必殺技伝授」と同様のボーナスゲームが今作にも取り入れられている。ゲーム内容はパロディ色が強く、コメディ調の世界観となっている。また、劇中の地名はサウスタウンではなく『クイズ大捜査線』と同じ「クイズシティー」となっている。ただし、ネオ&ジオを始めとする『大捜査線』の面々は本作には登場しない。本編との繋がりは特になくギャグ調のストーリーだが、舞のエンディングは『KOF』へと続くものになっている。 6名のプレイヤーキャラクターから1人を選択し、ルーレットを止めてスゴロク式のマップを進んでいくと、出題者キャラクターがプレイヤーにクイズ勝負を挑んでくる。クイズ形式はオーソドックスなノルマ達成型の4択問題。途中『クイズ大捜査線』にもあった連打クイズや間違い探しなども登場する。道中で歴代のSNK格闘ゲームのキャラクターたちがクイズを挑んでくることがあり、こちらは後述の「格闘クイズ」形式となる。各章の最後には固定ボスキャラクターが待ち構えており、第一章は暴走族のリーダー、第二章はマフィアの首領、第三章はタクマ・サカザキ、第四章はトーナメントのチャンピオンと戦うことになるが、タクマ以外のボスはギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、天草四郎時貞の3人からランダムでそれぞれの役割に割り当てられる。第四章でチャンピオンを倒した後は該当のボスが正気を取り戻して黒幕の正体を暴き、「Q」の首領キューリッチとの最終決戦に入る。 クイズノルマ達成時にお金やクイズを有利に進められるアイテムが手に入ることもある他、マップの途中にあるショップでお金を支払ってアイテムを購入可能。ただしアイテムには所持数制限がある。 ボス戦や対戦モードでは特殊な「格闘クイズ」となり、クイズに正解して敵にダメージを与えていき、敵の体力を0にすれば勝利となる。答えるまでの経過時間によって、「必殺技(強)→必殺技(弱)→ジャンプ攻撃→大キック→大パンチ→小キック→小パンチ(『サムライスピリッツ』のキャラクターのみ通常技が大斬り→中斬り→小斬り)」と技の威力が減少していくため、早く正解すれば派手な必殺技で大ダメージを与え、少ない問題数で倒すことができる。また、必殺技発動前に素早くキャラクター毎のコマンドを入れることで、さらに強力な「超必殺技」に変化させられる。対戦では通常の6名に加え、タクマ・サカザキ、ギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、天草四郎時貞のボス4名も使用可能。 1998年8月27日にPlayStationで発売。格闘ゲームではなく、夏元雅人による同名の漫画『ザ・キング・オブ・ファイターズ 京』をベースとしたアドベンチャーゲームとなっており、対戦はコマンド指示形式で行われる。『KOF'97』の開催直前が舞台となり、大会に出場するチームメイトを探していく。イベント時にはほとんどのキャラクターがボイス付きで会話するが、登場するKOFキャラクターの中でクラークのみボイスがない(セリフはある)。また、ゲーム作品では本作のみに登場するキャラクターも存在する。ゲーム中でのイラストも全て夏元雅人が担当している。開発元は夢工房。 1999年9月9日には「SNKベストコレクション」として廉価版が発売。また、2007年6月28日にはゲームアーカイブスでもザ・キング・オブ・ファイターズ 京として配信された。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。 2000年7月6日に発売されたネオジオポケットカラー専用ソフト。2022年11月10日に配信されたPC/Nintendo Switch用ソフト「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.2」にも収録されている。 双六形式のボードゲームで対戦する同作は、多くのスターを集めることが目的である。途中会話イベントなどがあり、選択肢次第でストライカーがダークかジャスティスの性能にチェンジする。また、ゲーム中チャレンジできるミニゲームがかなり豊富である。 このソフトはDC版『'99 EVOLUTION』との連動機能があり、ST霧島翔、天童凱は連動が無ければDC版『'99』では使用することができなかった。またDC版『'99』での追加のSPストライカー(セス&ヴァネッサ除く)のレベル(最高3)を上げるのにも欠かせないソフト。 主人公の一人、ユウGは『ネオジオバトルコロシアム』の背景にも登場している。 このソフトをネオジオポケットで起動すると、「このゲームソフトはネオジオポケットカラーせんようです モノクロにはたいおうしていません」と通常は警告文が表示されるが、数秒待つとさらに「...が」のメッセージが現れた直後「PLAY YO・SA・KU GAME」タイトル画面が表示され、隠しゲーム『与作』(新日本企画時代制作、1979年作品)のアレンジ移植がプレイできるようになる。この「YO・SA・KU」はカラー本体においても、ゲーム内のポイントであるAPを100万以上溜めることで解禁される最後の隠しバトルゲームとしてプレー可能になる。 2010年1月22日稼動のアーケードゲーム(システム基板はTaito Type X)。「正闘派シューティング」と銘打たれた、シリーズ初の縦スクロール型シューティングゲームとなっている。KOFのキャラクターを操作し、現れる敵を倒していく。2人プレイモードもあり、協力プレイもしくは対戦プレイを選択できる。 2010年7月29日に発売のPSP用ソフト『ネオジオヒーローズ 〜アルティメット シューティング〜』にもカップリング収録。 2010年9月15日には、Xbox 360のXbox LIVE アーケード用ソフトとしても配信が開始された。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。 韓国のスタジオDragonflyが開発したオンラインゲーム(Massively Online Battle Arena)。2013年9月4日にクローズドβテストが行われ、その後本格稼働した。 家庭用ゲーム機で発売されたタイトルには複数タイトルを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。 『ネオジオフリーク』を刊行していた芸文社による小説アンソロジーや、ドラゴンノベルス(KADOKAWA)より出版された八神庵が異世界へ転移するという設定の『THE KING OF FANTASY 八神庵の異世界無双 月を見るたび思い出せ!』シリーズ(著者:天河信彦、挿絵:おぐらえいすけ(SNK))などがある。 他、4コマ・アンソロジーが宙出版、光文社、新声社、スタジオDNA、ブロッコリー、ホビージャパン、ムービック、双葉社から発売されている。 パチスロ版 ザ・キング・オブ・ファイターズは2004年春、4号機大量獲得機として販売手前まで行ったが、各メーカーが射幸性の高い機種を見直す時期に差し掛かり、この機種も射幸性が高い機種であったため、自主的に販売を取りやめた。現在は携帯サイト『サミー777タウン』内でのみプレイ可能。 2006年5月下旬、上記の問題点を見直し、さらに『サムライスピリッツ』に登場するナコルルの演出も加えた5号機の稼働を開始。 2007年6月上旬、ネスツ編をベースにした続編『KOF2』の稼働を開始。 2012年10月、アッシュ編をベースにした『KOF3』の稼働を開始。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ザ・キング・オブ・ファイターズ』(THE KING OF FIGHTERS)は、1994年にSNK(旧社)がゲーム機「ネオジオ」で発売した対戦型格闘ゲームのシリーズ名、またその劇中で開催されている世界規模の格闘大会の名称。元々は同社の対戦格闘ゲーム作品『餓狼伝説』シリーズおよび『龍虎の拳2』の舞台である格闘大会。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "公式な略称は、頭文字を取った『KOF』(ケーオーエフ)。SNK(新社、旧社名:SNKプレイモア)はこの略称も商標登録している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、台湾では『格鬥天王』、香港と中国大陸では『拳皇』と訳される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "このシリーズ作品では、基本的にプレイヤーは3人一組(作品によっては4人1組)のチームを選択し、他のチームと勝ち抜き戦を行うというシステムである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "同時代にリリースされていたSNKの対戦型格闘ゲーム『餓狼伝説』と『龍虎の拳』、および1980年代のアーケードアクションゲームである『怒シリーズ』や『サイコソルジャー』など、SNKのキャラクターたちが作品の垣根を越えて一つの格闘大会に出場して覇を争う「ドリームマッチバトル」という設定をコンセプトに製作された。『餓狼伝説』シリーズで使われていた避け攻撃に加え、相手を遠くに吹っ飛ばす”ふっとばし攻撃”、相手の攻撃を完全にかわす”攻撃避け”、などの要素が追加された。キャラクターは『餓狼伝説』や『龍虎の拳』をふくめて描き起こしで調節がされている。だが、同じくSNKのヒット作である対戦型剣劇ゲーム『サムライスピリッツ』のキャラクターは「当時、KOFのゲームエンジンの基礎の部分に、武器やママハハといったキャラクターとは別のスプライトを被せる仕組みが組み込まれていなかった」という理由で本シリーズには参戦していなかったが、『THE KING OF FIGHTERS XIV』より同作のナコルルが正式参戦した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また一方で、客演キャラクター以外にも、物語を動かす主要人物として生み出された、三種の神器の一族、オロチ一族、秘密結社ネスツなど『KOF』オリジナルキャラクターが登場する。新作の都度、チームの構成を変えるなど、時にはかつてのライバルや宿敵ともチームを組んで戦うことができ、これまで登場したキャラクターは100人以上にも及ぶ。3vs3という対戦格闘ゲームのチームバトルの基礎を築いた作品である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)から毎年新作がリリースされているが、2001年(平成13年)はSNK(旧社)の倒産にともないサン・アミューズメントが、2002年(平成14年)以降はプレイモア→SNKプレイモア→SNK(新社)が販売している。SNKプレイモアは2016年(平成28年)に数年ぶりの新作となる『XIV』リリース発表に合わせ、社名を「SNK」に戻した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ゲームは主に男性の対戦格闘ゲーマーに支持されているが、登場キャラクターは女性人気が高い。シリーズを通しての主要人物である、草薙京とそのライバルの八神庵は特に女性人気が高く、両者の関連グッズの購入者はほとんど女性である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中国や韓国などのアジア圏にも人気があり、日本と同様のファン層を有している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "複数のゲーム作品のキャラクターが同一世界に共存する「クロスオーバー作品」として始まったゲーム作品であるため、原典となるゲーム作品群とは辿った歴史の異なる“パラレルワールド”としての物語を展開している。例として挙げると、原典となるゲーム作品では『龍虎の拳』は『餓狼伝説』の10年以上前が作品の舞台だが、本作では両作品のキャラクターが同時代の人物として大会に参加している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "作品が新作へと進むごとに劇中でも時間は経過しているものの、一部の主要人物が物語の進展に応じて要所要所で若干成長することはあるが、基本的には登場人物の年齢は設定されておらず歳を取らない。製作者いわく「『サザエさん』のような感じと思っていただいて構わない」とのこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "8方向レバー(家庭用では十字キー)+A(弱パンチ)・B(弱キック)・C(強パンチ)・D(強キック)の4ボタンで操作する。作品によってはEが加わり5ボタンとなる。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ゲーム開始後、3人のプレイヤーキャラクター(作品によっては1チーム)を選択。お互いのプレイヤーにキャラクターが決定した後は3人を出す順番を決め、ゲームを開始する。キャラクターの順番は試合ごとに変えることができる。最初のラウンドではお互いに1人目のキャラクターが登場し、1人目を倒された側は次のラウンドで2人目のキャラクターが、2人目を倒された側は次のラウンドで3人目のキャラクターが登場し、先に3人目を倒したプレイヤーの勝ちという勝ち抜き方式。ラウンドを勝利したキャラクターは残り時間などに応じて一定量の体力が回復する。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『餓狼伝説スペシャル』や『龍虎の拳』のゲームシステムを折衷した形のゲームシステム。『'97』『'98』では「EXTRA」という操作モードとして用意されている。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "従来のシステムは『'95』で完成していたものの、ゲームスピードが遅く、またキャラクター性能が波動昇龍に偏りすぎていることが待ちを助長することを憂い、相手に向かって前進していく攻撃的なプレイができるようにゲームシステムを大幅に変更している。『'97』『'98』では「ADVANCED」という操作モードとして用意されているため、その2作における説明の場合は、本項ではそのモードの解説として記す。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ネスツ編で採用されたシステムで、援護攻撃の発展形として登場したもの。あらかじめ指定したキャラクターが画面外から登場し攻撃などを行う(キャラクターにより体力回復などの効果をもたらす場合もある)。ストライカーにしたキャラクターは対戦で戦わせることができなくなる。『2000』まではストライカーストックを消費して使えたが、『2001』ではパワーゲージストックを消費して使うシステムに変更されている。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "『2003』から『XI』までのシステム。対戦中に随時キャラクターを交代することができる。これに伴いラウンド制が廃止された。待機中でも体力が回復することはない。", "title": "ゲームシステム・主な用語" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ゲーム中の設定では、『餓狼伝説』の登場人物、ギース・ハワードがサウスタウンにて開催していたストリートファイトにいつしかスポンサーがつくようになり、全世界にTV中継されるような大規模な格闘大会に発展していったものである。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "元々がストリートファイトであったための伝統から、試合はリングの上で行うようなことはほとんどなく、試合開始の合図とKOを宣言するレフェリーこそいるが基本的には野外などで行われている。ただし本シリーズにおける格闘大会「KOF」は、原典となる『餓狼伝説』や『龍虎の拳2』での同大会とは一部の設定が異なる。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "全世界が注目する格闘大会であるため、優勝チームには莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が与えられる。しかし「平穏無事に終了したことは一度も無い」と言われるほど毎回決勝近くではトラブルが起こっている。これは大会主催者がルガール・バーンシュタインのような裏社会の権力者やオロチ一族のような存在だったり、ネスツといった秘密結社など後ろ暗い者たちが大会を利用したりするためである。そのため決勝近くもしくは決勝後は、大会主催者個人の空母や宇宙ステーションの秘密基地といった場所で、もはや格闘大会などではない殺し合いのような闘いが行われているが、世間には噂程度にしか伝わっていない。『餓狼伝説』シリーズでも大会主催者であるギースやクラウザーがテリーに敗北後、死亡するという問題が起こっており、『KOF』シリーズと違いこれは世間に知れ渡っている。対して『龍虎の拳2』では当時26歳の若いギースが第1回KOFを開催し、第1回KOF優勝者のリョウと殺し合いをするが、敗北した後は逃亡だけで済ませており、さらに莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉はリョウにしっかり与えたようで、大したトラブルとしては認知されなかったようである。 『XIII』までの『KOF』シリーズでの決勝近くもしくは決勝戦後のトラブルは噂程度しか伝わってなかったが、『XIV』ではそのトラブルが一部始終TVアナウンサーAMBCのクレメンス・ベラミーとTVカメラマンにより全て放送され、初めてKOFでのトラブルが世間に公表される事になった。更に毎回そのトラブルで『KOF』シリーズでは莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が無かった事にされていたが、『XIV』のKOF大会主催者アントノフがKOF史上初の格闘ゲームでも稀に見る全く裏が無い主催者だった為に『KOF』シリーズ初の莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉を与えた上にチャンピオンベルトも与えられた。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "出場する選手の中でも、大会の開催者が選んだ実力のある格闘家(『餓狼伝説』チームや『龍虎の拳』チームなど)には招待状が届き、シードとして各地域の決勝トーナメントからの参加となり、小説版によればそれ以外の参加チームに対しては予選が行われる。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "もっとも、大会主催者が悪意ある目的で特定の人間を参加させるために招待状を届けたり、自らの配下の人間を無条件に決勝トーナメントに進ませるために招待状を利用することもある。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、招待状はチームでなく個人に届く(そもそも後述の通り、個人戦が存在する大会もある)ものであり、招待状を持つ格闘家はチームメイトを独自に指名して参加することが可能。指名されるチームメイトの招待状所持は特に問われないようである。これは一緒に住んでいる『龍虎の拳』のサカザキ一家には個人宛にそれぞれ招待状が届いていることや、女性格闘家チームや餓狼伝説チームのようにいつも組んでいたチームメイトが都合によって参加できないため、偶然出くわしたり通りかかった知り合いの格闘家に声をかけて出場したことが公式ストーリー中で書かれている。招待状を貰ったが欠場する場合や、参加チームを決めた場合の申込みなどはKOF運営委員に連絡を入れることになっている。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "加えて、オロチチームが他人から奪い取った招待状で参戦していることや、ルイーゼ・マイリンクが他者から譲り受けた招待状で参戦していることから、招待状の本来の持ち主も特に考慮されない模様。『KOF MI2』においては、公式サイドストーリー「夜のガスパール」にて「世界最強を決めるというふれ込みである以上、乱入者にも機会を与えるのがこの大会の伝統」と語られている。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "細かな大会のルールなどは判明していないが、刃物や銃火器の使用は反則であることが小説版などで解っている。ただし鞭や棍棒といった鈍器、超能力(手から炎や氷を出して攻撃したり、サイコパワーの使用や手刀を突き刺して体力を吸い取ったりする)は認められている。しかしイヤリングに爆弾を仕込んだり(レオナ)、炎が出るように細工してある棍棒(ビリー・カーン)、巨大な鉄球(チャン・コーハン)、鋭いツメのついた手甲(チョイ・ボンゲ)、クナイなどの暗器(まりん)、匕首(山崎竜二。小説版では使った瞬間に反則負けになった)、サーベルのような剣(フォクシー)、デザートイーグル(ウィップ。小説版では威嚇の空砲と言っている)を使用する者、さらには銃火器を全身に仕込んだサイボーグ(マキシマ)といった人物が参加している。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『KOF』シリーズでは基本的にチーム戦だが、『餓狼伝説』シリーズや『龍虎の拳2』では個人戦である。ただし『KOF』シリーズにも個人戦を行える場合が存在し、そのような作品によってはチーム戦と個人戦の両方が行われているという設定になっている。", "title": "設定" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "本シリーズオリジナルの主要人物以外にも、SNKの様々なゲーム作品(『餓狼伝説』『龍虎の拳』『怒』『サイコソルジャー』『サムライスピリッツ』)などからも多くのキャラクターが客演する。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アーケード向けに開発・販売される、基本となるシリーズ。西暦表記の数字部分の正式な呼び方は英語であるが、日本語読みされる場合もしばしばある。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "シリーズ第1作目となる「開幕編」。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「夢のバトルにチームで挑め!!」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1994年8月25日にアーケードのMVS(業務用ネオジオ)で稼動後、同年10月1日に家庭用ネオジオでリリース。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2004年にPlayStation 2で『KOF』10周年記念作品として本作のリメイク版『THE KING OF FIGHTERS '94 RE-BOUT』が発売され、アーケードオリジナル版も同時収録されている。また、2009年にPlayStation Portableで発売された『SNK ARCADE CLASSICS Vol.1』にも16作品のうちの一つとして『'94』が収録されている。2007年にはWiiのバーチャルコンソールでも配信された。また、2010年6月24日に発売されたPSPソフト『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内に収録。2011年4月19日にPC向けゲームソフト配信サービスプロジェクトEGGにてNEOGEOタイトル配信第一弾として『餓狼伝説』とともに配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国ごとの代表8チーム。チームメンバーは固定でエディットは無し。基本は3対3の勝ち抜き戦でKOかタイムアップで交代、仕切り直し。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "主催者はルガール・バーンシュタイン。『'94』優勝チームは日本最強チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "操作系は『餓狼伝説スペシャル』をベースに『龍虎の拳』シリーズなどの要素を取り入れたもの。必殺技コマンドは基本的に出場元のゲームのままで、また超必殺技がインストラクションカードに書かれていない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本作オリジナルキャラクター3名で組まれた日本チーム(日本最強チーム)のリーダー「草薙京」が本作の主人公にあたるが、1P側の初期カーソルはイタリアチーム(餓狼伝説チーム)に、2P側の初期カーソルはメキシコチーム(龍虎の拳チーム)に合わせられている。またゲームスタート時に流れる基本操作の説明(HOW TO PLAY)もテリーとリョウが務めているが、開発スタッフからは「ぜひ京を出してくれ」と要望されたという(『'95』以降は一部を除いて、その作品の主人公及びライバル或いは主人公のチームメイトが務める)。加えて当時の販促ポスターでも、主人公の京属する日本チームと同列に並んでイタリアチーム(餓狼伝説チーム)が前面に出されて描かれていた。またストーリーが軽視されがちな対戦格闘ゲームにおいて、チームとしての参戦理由をそれぞれ紹介するなど、キャラクターの背景やストーリー進行に対する工夫も見られる。キャラクターイラストは本作から『2000』まで森気楼が担当した。なお、主人公チームのコンセプトは「地震(大門)、雷(紅丸)、火事(京)、親父(柴舟)」であった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "世界中の名立たる格闘家達に、「R」と名乗る者から世界規模の格闘大会「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届いた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "今回より「3人1組のチームを組んで参戦する」という新たなルールの下、テリー・ボガード、リョウ・サカザキといった様々な分野で名を轟かせた格闘技界のスーパースター達が、世界各国の代表として大会に参加するも、その中にはハイデルン率いる格闘家では無い傭兵達で構成された怒チームの様に、何やら「事情」のある者達もいた。そんな中、日本異種格闘技大会優勝の経験を持った炎を操る草薙流古武術の使い手草薙京は、同じく日本異種格闘技大会で決勝を争った二階堂紅丸、大門五郎の二人とチームを結成。日本代表として予選を突破しキング・オブ・ファイターズの本戦にエントリーする。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大会の優勝チームが決定した後、彼等を載せたヘリは海上の巨大船「ブラック・ノア」に到着。そこで待っていたのは大会の主催者でブラックマーケットを牛耳る闇の武器商人であり、かつてハイデルンの部下達や妻子を殺害した張本人でもあるルガール・バーンシュタインであった。実力でねじ伏せ倒した名立たる格闘家達を銅像に塗りこみコレクションして飾るという残虐非道さの持ち主であった彼は、KOFを勝ち上がってきた優勝者達もコレクションに加えようと戦いを強要するのだが、優勝者チームに敗れたルガールは船ごと自爆。野望は潰えたのであった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "だが、これはKOFを舞台にした格闘家達の長きに渡る熱く激しい戦いのほんの序章に過ぎなかった...。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "『THE KING OF FIGHTERS XIV 』のディレクターを務めた小田泰之は、稼働当時ヒットしていた『餓狼伝説』や『龍虎の拳』などのネオジオ作品では劇画調のデザインが主流だったが、シャープ且つ耽美なデザインの同作はインパクトが大きかったとファミ通とのインタビューで語っている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2004年12月28日にKOF10周年記念作品としてPS2で発売された『'94』のリメイク作品。アーケードゲームとしては稼動していない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "チームエディットが可能になるなど、『'94』からシステムの細部に手が加えられている。また、エディット専用キャラクターとして『'95』の性能をベースにした柴舟が登場し、さらに最終ボスのルガールも使用可能になった。『'94』とは違い、1P側のデフォルトカーソルが日本チーム(京)、2P側が韓国チーム(チョイ)になっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "グラフィックを完全ハイレゾ化でリニューアルしている。背景も3Dで描かれた新規のものに一新されており、『'95』以降も含む歴代SNKキャラクターが多数登場する他、攻撃避けの際には画面全体の視点が一瞬ズレる演出が起こる。キャラクターイラストは、オリジナル版『'94』の森気楼に代わり、ヒロアキが担当した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、本作はネオジオ版『'94』も「ネオジオモード」として同時収録している。ネオジオモードでは原作仕様のためチームエディットはできずルガールと柴舟も使用できないが、リメイク版同様にゲームセレクトの一部変更や基本操作の説明削除などの改訂が加えられている。本作以降、PS2版のリメイク作品では原作のネオジオ版も同時収録しているケースが多々ある。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2015年1月21日にはPS3向け配信サービス「PlayStation 2 アーカイブス」の一環として配信された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "本作から『'97』まで続く「オロチ編」三部作の第1章。主人公・草薙京のライバルである八神庵がこの作品から登場。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「お楽しみはこれからだ。」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「サイコーのファイターズは、この闘いでつくられる。」(ネオジオ、ネオジオCD版)、「サイコーのファイターズ、セガサターンに登場!」(セガサターン版)、「いよいよキングのお出ましだ。」(PlayStation版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1995年7月25日稼動。家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDに加え、セガサターンとPlayStationでも発売され、セガサターン版でSNKは久しぶりにゲームボーイ用ソフトの『ファニーフィールド』から約6年振りにサードパーティー社となり、両名タイトルで同社の両ハード参入第1弾ソフトとなった。セガサターン版は本作専用の拡張ROMが同梱されており、これを使用しないとプレイできない。CD-ROMとROMカセットを併用する『Twin Advanced Rom System』が採用された。ゲームシステムや背景データを読み込みの早いROMカセットに収めることで、内蔵RAMに代わって素早い情報処理を行っている。セガサターン版はボタンの数が増えたことによりパワー溜め、援護攻撃、挑発、など操作方法がより扱いやすいように改良された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "PlayStation版では、同一キャラクター3人のチームも可能。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PSV向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2009年にはWiiのバーチャルコンソールでも配信されている。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この作品より「チームエディット」が可能になった。なお、この作品のみキャラクター選択時に「チームエディットしますか?」と問われる。またこの作品から『'97』までは、CPUのチームもエディットされることがある。このため、前作にあった国籍によるチーム分けが無くなった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "『'94』同様対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "主催者は前年同様にルガール・バーンシュタイン(実際はオロチの力で復活、強化されたオメガ・ルガール)。ライバルチームと入れ替わる形でアメリカンスポーツチームが不参加となったが、設定上はライバルチームに地区予選で敗れたということになっている。『'95』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "設定で各キャラクターが「年を取った」のはこの作品のみで、以後年齢設定が固定された(出場を逃したアメリカンスポーツチームは復活した『'98』で1歳年を取っている)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "新たに、カウンター攻撃(攻撃避け中に出せる専用攻撃)が追加された。連続技に繋げられるため、強力な連続技が生まれた。バランス面では、パワーMAX時は攻撃力1.5倍・被ダメージ1.125倍になった。また、パワーMAX時はガードキャンセルを即座に使用できるなど、ハイリスクハイリターンのゲーム性となっている。『KOF』の中でも、各種の技の一発辺りの攻撃力が全体的に高めである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "前作では隠された存在であった超必殺技のコマンドがインストカードに記載されるようになった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "なお、アーケード版『KOF』の中では珍しく最終ボスが使用可能な作品でもある。アーケード版も家庭用ネオジオ版も共に、「チームエディットをしますか?」で「YES」を選択して、スタートボタンを押しながら↑+B →+C ←+A ↓+Dの入力が完了すると、草薙柴舟とオメガ・ルガールが現れ、プレイヤーキャラクターとして使用可能となる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "昨年の大会から1年、再び世界中の強豪たちの下に「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届いた。差出人の欄には、またもや「R」の1文字だけとなっており、昨年に参加したチームは不安を感じつつも、本大会でも次々とエントリーする事になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "そんな中、今回は新たに京の宿敵である蒼い炎を操る八神流古武術の使い手八神庵が、ビリー・カーン、如月影二の二人と共にチームを組む形で、前回の「アメリカンスポーツチーム」を破り新たな本戦出場を果たしていた。それを知った京は、庵との決着をつける為にも、決意を新たにキング・オブ・ファイターズへの二度目の出場を決意するのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方、大会の主催者は、やはり前回大会の出場者達の予想通り、死んだと思われていたルガールであった、前回大会で敗れ去った復讐を遂げる為、ルガールは地球意思「オロチ」の力を手に入れて自らの身体に取り込み、オメガ・ルガールへとパワーアップしていた。そして、同じく前回大会の最中で自らが密かに回収した京の父・草薙柴舟に洗脳処置を施し、私兵となった彼を「余興」として優勝チームと激突させる。だが、柴舟は敗れ正気を取り戻す形で倒れる事となり、ルガールは自らの体内にあるオロチの力を解放。優勝チームへと襲い掛かり、死闘を展開する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "だが、その力をもってしても追い詰められたルガールは、更なるオロチの力を解放を試みるも、逆に暴走したエネルギーを制御出来ずに取り込まれ、消滅してしまう末路を迎えた。ルガールをもってしても、オロチの力は制御出来る物では無かったのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1996年4月26日にゲームボーイで熱闘シリーズとしてタカラより発売。開発はガイブレイン。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "『'95』をベースにしているが、ライバルチームの3人を除いたキャラクターは原作のチームから抜粋された数名ずつがバラバラに出場しており、固定されたチームは存在しない。隠しキャラクターとして『サムライスピリッツ』シリーズからナコルルが登場するほか、同じキャラクター同士でチームを組めたり、常にパワーゲージがMAXになる隠しモードが存在する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "日本語版はタイトルロゴがカタカナ表記となっている。欧米版のタイトルは「熱闘」が省かれて原作と同じ『THE KING OF FIGHTERS '95』となっており、タイトルのデザインもネオジオ版『'95』と同じ英字表記となっているが、ゲーム内容自体は日本GB版とほとんど相違点はない。アメリカ版は任天堂、ヨーロッパ版は有限会社Laguna Video Gamesが販売元となっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "オロチ編三部作の第2章。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは、「燃えてるかい?」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「俺を見たら、思い出せ。」(PlayStation版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1996年7月30日稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB)専用となり、同梱版も発売された(『'95』専用の拡張ROMとは互換性がない。後に製造された拡張ラムカートリッジ4MBを使用した場合はキャラクターが正常に表示されない。)。またセガサターン版において『'95』とセットになった、『KOFダブルパック』も限定発売された。PlayStation版では、主人公の京を差し置いて、人気キャラクターの庵が単独でパッケージとしてデザインされている。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された(家庭用ネオジオ版の移植。ただし、独自の要素として、元はCPU専用だったボスキャラクター2人が使用可能になっている)。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "キャラクター選択画面のカーソルは本作から個人単位の物のみとなったため、前作にあったモード選択ミスの危険が無くなっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "主催者は神楽ちづる。なお、本作は前作までと異なり裏大会ではなく、各メディアへの報道も行われ、様々な企業もスポンサーとして協賛した公式大会という設定である(『'97』も同様)。『'96』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "大門とクラークを除くキャラクターの攻撃避けが廃止され、新たに緊急回避動作(前転後転)が導入。また、フロントステップがダッシュ(ラン)に変更された。ジャンプも小・中ジャンプが追加され、スピーディーなゲーム性になった。さらに、ガード耐久値とガードクラッシュ、投げ抜け、空中ガードなど新機能が追加された。バランス面でも修正がなされており、パワーMAX時における攻撃力は低下した。また、飛び道具が大幅に削除・変更され、接近戦での攻めを主体とする戦闘形態を意識させている。さらに、キャラクター間の相性システムが適用された。これは相性によって援護攻撃の可否が決まるしくみになっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "本作から一部のキャラクターに複数の超必殺技が実装されるようにもなった。また、体力ゲージ点滅かつパワーMAXの状態で、高い威力と派手な演出に変化するパワーMAX超必殺技が使用できるようになった(MAX状態かつ点滅状態で超必殺技の威力が上昇するのはシリーズ過去作からの仕様だが、従来、技の見た目の演出は通常の超必殺技と同じで特に分けられてはいなかった)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "パワーMAX状態になるとパワーゲージが減少を始め、これが無くなるとMAX終了という形になった。それによって状態の残り時間が視認できるようになっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "各キャラクターの必殺技コマンドが大幅に整理され、斜め上までの入力の廃止、コマンドの一部が被っていたキャラクターは入力向きやボタンを変更など、入力し易くなるよう変更が行われた。特に『餓狼伝説』や『龍虎の拳』のキャラクターの場合、原典のゲーム時そのままの「隠すこと、出しにくくすること」自体を目的とした超必殺技コマンドが変更され『KOF』のゲームスピードにあった使い方ができるようになった。ただしコマンドの入力判定に癖があり、技自体は若干出し辛くなってしまっていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "本作からストーリーの分量が増え(ゲームの外で語られるチームストーリーも増加)、オロチ編のストーリーが本格化。オロチ編の鍵を握るゲーニッツや神楽ちづるといったキャラクターが登場し、ゲームコンセプトは「SNKゲームキャラクターの夢の対戦」から完全に『KOF』独自路線へと移行した。また、ラウンド前に特定のキャラクター同士での掛け合いが追加された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "本作は初めて既存のチームの編成に入れ替えが入り、怒チームにはハイデルンに替わり新キャラクターのレオナが加わった。龍虎の拳チームはタクマに替りユリが加わり、一方で女性格闘家チームにいたユリに替り「龍虎の拳外伝」に登場した藤堂香澄が加わった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "なお、ユリ、キングのサービスカット(脱衣KO)が本作から廃止された。ただしユリの場合、時間切れ引き分けの時に肩部分を露出させるという演出があった(下着は見えない)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ボスキャラクター2人はネオジオCD版以降の家庭用移植版で使用可能。ネオジオCD版では隠しキャラクター扱いで、キャラクター選択画面で、スタートボタンを押しながら、「↑+B →+C ←+A ↓+D」と入力したら、画面にちづる、ゲーニッツが現れ、使用可能になる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "前回大会でオロチの力に飲み込まれ消滅したルガールによって開催された2度の大会が終結して1年、新たに開催される事になった本大会は、巨大企業数社のスポンサードによる全世界的スケールのメジャー大会として開催された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "世界各地で予選が開催され、前2回のKOF常連チームが本戦に顔を並べる中、何とそれぞれが争い世界の覇権を握ろうと野望を抱いていたあのギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、Mr.ビッグの3人がチームを組む形でエントリーするという驚愕な事態となった。その一方で、前回の大会で京を倒し損ねた庵もまたルガールの秘書を務めていた2人の女性マチュアとバイスの二人と新たにチームを組む形で出場しており、怒チームでは指揮官のハイデルンが後方からの指揮を担当する形でチームを抜けた代わりに彼の養女でもある新妹隊員のレオナ・ハイデルンが加入していた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "実は今回の大会にも大きな裏が隠されており、大会の主催者である神楽ちづるは、「三種の神器」と呼ばれる能力を守る為に存在してきた三つの一族(草薙家、八神家、神楽家)のうちの一つ「神楽家」の末裔であった。彼女は人類の滅亡を望んでいる地球意思「オロチ」に対抗しうる力として、オロチの復活を目論む「オロチ四天王」と戦えるだけの実力を備える戦士を探し出そうとしていたのである。優勝チームの実力を自ら戦って確かめるちづるであったが、そこに「三種の神器」の末裔を滅ぼそうとするオロチ四天王の一角・吹き荒ぶ風のゲーニッツが突如乱入した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "自らの行使する暴風をもってして会場の全てを破壊しつくそうとするゲーニッツであったが、最後は「人間」としての本能によって発動させた庵の「紅い炎」と京の力によってゲーニッツは倒される末路を迎えた。しかし、大会の終結直後、庵は「血の暴走」によってゲーニッツと袂を分かったマチュアとバイスの二人を手に掛け、レオナもまた自身がオロチの血を引いていた上にゲーニッツの手引きにより自らの手で両親を殺害してしまった真実を知る事となった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1997年2月14日にネオジオCDで発売されたデータベースソフト。『'96』関連のデータなどが収録されたファンディスクとなっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1997年8月8日にゲームボーイで熱闘シリーズとしてタカラより発売。前作同様、開発はガイブレイン。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "『'96』をベースとしているが、ボスチームの3人以外の出場メンバーは前作と同様に抜粋された数名ずつがバラバラに出場している。また、前作とは多少顔ぶれが変更されている。なお、本作では特定の組み合わせでチームを組むと「特殊イベント」が発生する。神楽ちづるが最初から選択可能になっており、隠しキャラクターとして『龍虎の拳』からMr.カラテや、『'97』のような暴走キャラクター、ボス性能版ちづるのKAGURAなどが登場する。また、隠しモードとして、超必殺技がいつでも出せるようになり、技の内容が強力なものに変化、パワーゲージが常に回復し続ける、といった内容の「熱闘モード」や、ボタンを同時押しするだけで必殺技が発動可能になるモードが存在する。スーパーゲームボーイ使用時は、攻撃などの効果音の一部がSFC音源に変わる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ版はタイトルが『The King of Fighters: Heat of Battle』に変更されており、前作と同じくLagunaが販売元となった。また、本作はアメリカでは発売されなかった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "オロチ編三部作の第3章(最終章)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「KOF is just too HOT.」(MVS、ネオジオ版)、「呪われた宿命にピリオドを打て!」(セガサターン版)、「決着(ケリ)をつけようぜ。」(PlayStation版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1997年7月28日稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB/4MB)専用で、新規発売としてはSNK最後のサターン用ソフトとなった。その後、オロチ編3本(『'95』『'96』『'97』)をセットにした「ザ・キング・オブ・ファイターズ ベストコレクション」も発売された。また、最終ボスのオロチもセガサターン版ではプラクティスモード、PS版ではVSモードとプラクティスモードで使用が可能。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして本作のネオジオ版が収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。また、2013年にiOS/Android端末向けのネイティブアプリとして配信。2018年にはPS4・PS Vita・PC向けにオンラインに対応した『THE KING OF FIGHTERS'97 GLOBAL MATCH』が配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "キャラクターの性質を「アドヴァンストモード」と「エキストラモード」の2種類から選べるようになった。CPU側キャラクターはアドヴァンストモードしか使用しない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "主催者は前年同様に神楽ちづる。また本大会は全世界にTV中継も行われている設定である(ゲーム本編にもその設定を活かした演出が様々な面に盛り込まれている)。『'97』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アドヴァンストモードの特色は、半永久的に持続できるゲージストックである。必殺技を出す、攻撃を相手に当てることでゲージが溜まり、最大3つまでゲージをストックできる。ストックが一つでもあれば通常の超必殺技、ガードキャンセル緊急回避・同ふっとばし攻撃が使用できる。また、ストックを1つ消費することでパワーMAX発動、この状態でさらにストックがもう1つあれば、MAX超必殺技が出せる。このモードでは緊急回避動作(前転後転)が使用できる。なお、本作から緊急回避動作(前転後転)に避け機能が付加された。移動方法もダッシュ、大・中・小ジャンプと豊富である。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "エキストラモードは、『'96』までと同様任意でパワーゲージを溜め、超必殺技およびパワーMAX超必殺技発動の条件も『'96』に準拠する。パワーゲージの溜まる速さは『'96』より速くなっている。ただし、ジャンプは通常のジャンプと大ジャンプのみ、ダッシュではなくフロントステップおよび攻撃避けが使用可能であり、守備的に戦いたい人向けの仕様となっている。体力ゲージ点滅は今作から1/8に変更された。パワーMAX時のガードキャンセル回避に制限が加わった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "先述通り、試合前演出やステージ間デモが世界規模の格闘大会のテレビ中継を意識した演出になっており、ほとんどのステージBGMも歓声などの環境音によってのみ構成されているなど、シリーズの中でも特殊な音響演出が行われている。音楽としてのステージBGMは京、アテナなど特定のキャラクターの登場時しか使用されない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "本作でオロチ編の黒幕「オロチ」が復活を果たす。また前作の最終ボスであるゲーニッツ以外の「オロチ四天王」の残り3人(社〈乾いた大地の社〉、シェルミー〈荒れ狂う稲光のシェルミー〉、クリス〈炎のさだめのクリス〉)も本作で登場する。開発者によるとこの3人は、主人公チーム3人の能力に対する上位互換のような能力を設定したという。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "「'97スペシャルチーム」のメンバーは『ゲーメスト』・『ネオジオフリーク』・『ファミ通』の3誌での投票で決まった(なお、ビリーは前々作『'95』以来の登場となり、KOFシリーズにおける初の復活キャラクターとなった)。過去のSNK作品の(格闘ゲーム以外も含めた)キャラクターから選び出すというものだったが、『サムライスピリッツ』『キング・オブ・ザ・モンスターズ』シリーズのキャラクターは時代設定や世界観を理由に除外されていた。また、同じKOFシリーズでも、前作『'96』に参戦していたキャラクターも投票対象外となっていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "本作では、必殺技・超必殺技のコマンド入力受け付けが緩く、簡易コマンドで出すことができる。ただし、キャラクターによっては、似たようなコマンドの必殺技があれば意図しない技が出てしまうことがある。これにより、次作『'98』での一部キャラクターのコマンド変更につながった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "超必殺技使用時、画面が暗転して一時停止するようになった。また、飛び道具系のMAX超必殺技は強力な貫通能力が付加され、飛び道具系の超必殺技を貫通できるようになった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "「個人出場」としてエディット専用キャラクターが初登場。彼らのエンディングを見るには特定のチーム編成を行う必要がある(八神庵であれば京・庵・ちづるの「三種の神器チーム」、矢吹真吾であれば草薙京を必ず入れて、もう1人は通常の庵・レオナ以外のキャラクターにする)。またこれ以外にも、特殊なチーム構成でクリアすると、エンディング後にそのチーム編成のテーマに応じた専用の一枚絵が表示される隠し要素があり、これは『'99』まで受け継がれた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "本作では隠しキャラクターが多く、ボスキャラクターである暴走庵・覚醒レオナ・オロチチーム(オロチ四天王の3人が所属するニューフェイスチームの正体)も使用できる。これらの各キャラクターは通常版と同一のキャラクターとして扱われるため、同じキャラクターの通常版と隠し版を一つのチームに入れることはできない。オロチチームのエンディングは通常チームと同一で、オロチと通常の混成チームにした場合でもエンディングを見ることができる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "なお、庵は主人公チームまたはシングルで京をプレイし、京でオロチを倒すと隠しボスとして登場する。この試合は勝敗に関係なくそのままエンディングに繋がっていく。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "後の『KOF』に繋がるゲームシステムは本作でほとんど完成していたが、隠しキャラクターの暴走庵・覚醒レオナがプレイヤーキャラクターとしては極端に高い性能を有していることや簡単な永久コンボが存在する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "決勝戦直後にゲーニッツの乱入というハプニングをもって幕を閉じていった前回大会。この事件は何者かによるテロ活動とのみ発表され、その詳細は世間に公表されることはなかった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "しかし、このようなきな臭い事件があったにもかかわらず、前回大会は興業的には大成功を収めた。それに興味を示した巨大企業数社がスポンサーの名乗りを挙げ「KOF」の再開催を熱望。世界各地でも、同じような現象が起こり「KOF'97」大会は開催の運びとなる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "引き続きすさまじい盛り上がりを見せた今大会には、新規の大会参加者である「ニューフェイスチーム」(七枷社、シェルミー、クリス)の3人が出場。一方、京に憧れ強引に弟子入りした学生の少年矢吹真吾もまた、未熟な身でありながらもキング・オブ・ファイターズにエントリーしており、更には前回大会に出場していたギースの命令を受けたビリーもまた、ブルー・マリー、そして山崎竜二の二人が新規参戦する形で「'97スペシャルチーム」を結成。オロチの混血児である庵だけでなく山崎の事を気に掛けるギースの真意を掴みかねながらも、ビリーは命令に従う形でキング・オブ・ファイターズへ復帰する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "しかし、ニューフェイスチームの3人は「自分達と因縁のある庵を倒す事」を表の目的としていたが、実は彼等こそ、前回大会の終盤で乱入したゲーニッツと同じくオロチ四天王の残りであった。オロチ復活の為に必要となる莫大な精神力を求めていた彼等3人は、心身共に鍛え上げた強靭な格闘家達のぶつかり合いで生まれる莫大な精神力を集められる「場」として、キング・オブ・ファイターズその物を利用する事を画策し、自分達もオロチとしての素性を隠した上で大会参加者として暗躍していたのである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "大会の優勝チームが確定した直後、乾いた大地の社、荒れ狂う稲光のシェルミー、炎のさだめのクリスとしてオロチの本性を現した3人は、ゲーニッツが遺した暗示によってオロチの血を持つ八神庵とレオナを暴走させ、大会を混乱に陥れる。何とか庵とレオナを制した後、四天王の3人が現れ、今回の目的を明かす事になるが、同時に今大会に出場していた山崎が、自分達やゲーニッツ、マチュア、バイスと同じく「オロチ八傑集」の一人であった事実が判明。今大会の時期にて彼が見せた異様なまでの「狂気」も、オロチの影響による物だったのだが、「オロチ」としてよりも「人間」としての本能が勝っていた山崎は、呼びかける社達の言葉など意にも返さず反抗的な態度を通すのだった。オロチ復活の為により強力な精神エネルギーを得ようとした社達は、優勝チームとの激闘の末に撃退されるのだが、四天王の1人であったクリスの肉体を依り代に利用する事で、遂にオロチが復活を果たしてしまう。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "自らの恋人であるユキがオロチの完全復活の為の要となっていた生贄である「クシナダ」の転生した姿であった真実を聞かされた京は、何が何でも彼女を守るべく、庵、ちづると共に三種の神器として集うも、死闘の末に追い詰められたオロチによって庵は再び暴走。しかし、強靭な意志によって逆に庵はオロチへと掴み掛かり、京は庵の「封じる者」としての力で抑え込まれていたオロチに向けて、「祓いし者」として究極のの力である「最終決戦奥義・無式」を発動。巨大な爆発に飲み込まれるのだった...。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "かくして、「護りし者」としての力を発動させたちづるによって再びオロチが封印される形で戦いは終結したものの、京と庵の二人はその行方が分からなくなってしまった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1998年7月23日稼動。フルタイトルは『THE KING OF FIGHTERS '98 -DREAM MATCH NEVER ENDS-』で、シリーズで初めてサブタイトルを冠した作品となる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「ゴージャスに行こうぜ。」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "本作はネオジオ&ネオジオCDといった自社ハードだけでなく、PlayStationなどの他社ハードにも移植されてきたほか、2008年には『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』としてリメイク版が発売された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "国内最大規模の対戦格闘ゲーム大会である「闘劇」の2007年度大会「闘劇'07」の競技タイトルの1つに選ばれている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "一応本作KOF大会主催者は本作で復活を果たしたオメガ・ルガールになっているが、前作『'97』で「オロチ編」が完結したため本作では特にストーリーは設けられておらず、これまでのシリーズ(『'94』〜『'97』)をゲームとして総括した集大成的作品となる。代わりに各キャラクターへのインタビューが存在する。そのため、本シリーズ本来のコンセプトである「SNKのゲームキャラクターの夢の祭典」としての傾向が強くなっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "システムは『'97』を踏襲し、主に細かい変更・修正がなされた。主なシステムの変更点は、EXTRAでは小・中ジャンプおよびカウンター攻撃が追加され、「ADVANCED」ではMAX超必殺技を使用した場合にパワーMAXが解除されるようになった。ゲージシステムも改良され、「ADVANCED」は一人倒されるごとにアドバンテージとしてゲージのストック数が1つずつ増え(最大で5つ)、「EXTRA」はゲージが短くなる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "本作より投げ系必殺技・超必殺技の仕様が変更され、コマンド入力時点で技が発動し、相手が投げ間合いにいない場合には空振りモーションが発生するようになった。また、キャラクター選択時にランダムでキャラクターを選択し、その後もそのゲーム中は1試合毎に再度ランダムで選択してくれる「ルーレットチームエディット」(本作は「?」アイコンにカーソルを合わせることで選択できる)と、CPU戦で負けてコンティニューした際に、プレイヤーが有利になる特典を得られるサービスである「コンティニューサービス」も本作より導入された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "この作品から『XI』までは、CPUは特別な場合を除き必ずデフォルトのチームで出てくるようになった。またこの作品以降、対戦中の名前表記が、苗字か名前の片方だけになった(顔アイコンのみの『2001』と『XI』を除く)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "前作同様に本作でも隠しキャラクターが多い。前作に登場した裏オロチチームに加えて、一部のキャラクターには、『95』に近い技性能を持った裏キャラクターが登場している。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)版と、ドリームキャスト(DC)版が発売されている。PS版には草薙京の目が開いている方と閉じている方の2種類があった。DC版はSNKの参入第1弾ソフトで、正式タイトルは西暦表記が1つずれた『THE KING OF FIGHTERS DREAM MATCH 1999』となっている。さらに後に、PS2で、NEOGEO オンラインコレクション第10弾として2008年6月26日に発売されたリメイク版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』にオリジナル版『'98』がネオジオモードとして同時収録された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。2010年にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。2014年にiOS / Android端末向けのネイティブアプリとしても配信。2009年のXBLA版『'98 UM』、2014年のSteam版『'98 UM FINAL EDITION』にもPS2版と同様にネオジオ版『'98』が同時収録されている。 そして、2017年3月3日にはハムスターの「アケアカNEOGEO」の一環としてNintendo Switchへの移植版が配信され、2018年1月11日にはPS4/Xbox Oneへの移植版が配信された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "全国大会「Duelling the KOF」の発起人・DUNEはファミ通とのインタビューの中で、1990年代後半~2000年代初期のKOFのシーンはピーク時より落ち着いたとはいえ、まだ対戦人口が多く、その具体例として全国どこへ行っても本作を遊べたことを挙げている。また、DUNEは2000年の時点で対戦人口が大幅に減ったものの、2001年に個人主催の『KOF ’98』の全国大会が開かれて驚き、これが「Duelling the KOF」の開催のきっかけとなったとも振り返っている。さらに、DUNEは2006年に上海で開かれた「The Great Battle」という大会の『KOF '98』部門への参加を通じて中国のプレイヤーの水準の高さを知ったと話している。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "電撃オンラインのophionは、キャラクターの多さとゲームバランスの良さを評価している。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2008年3月18日稼動。『'98』のリメイク作品。略称は『'98UM』。『'98』を稼動してから約10年振りにアーケード版として再登場(基板にはTaito Type Xを使用)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「ドリームバトル、究極進化。」。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "春に稼動するのはシリーズ初であり、これで『KOF』シリーズは春夏秋冬すべてで稼動したこととなった。『'98』をベースとしゲームバランスの再調整、新システム「アルティメットモード」が追加されている。その後、アジア圏向けにPGM2システム基板対応作品として、さらに再調整された『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH 英雄』がリリースされた。また、NESiCAxLiveでも再調整版となる『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION』が2011年1月24日に配信されている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "本作では、『'98』までの全キャラクターが登場することに伴い、一部の対戦前の演出などが追加、変更された。『'98UM』の追加キャラクターの公式イラストは森気楼の画風に似せているが、これはイラスト担当のおぐらえいすけが当時の絵を参考に作画したものである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "アルティメットモードでは、アドヴァンストモードとエキストラモードからそれぞれ、移動方法・回避方法・パワーゲージを自由に組み合わせられ、よりプレイヤー自身の好みのシステムが選択可能となった。これにより、例えば「ダッシュ・緊急回避・エキストラゲージ」という『'96』のシステムでのプレイが可能である。従来のアドヴァンストモードとエキストラモードも改良されており、パワーMAXではない通常の状態からパワーMAX超必殺技を発動したり、攻撃中やガードしている状態からパワーMAXを発動するクイックMAX発動などが可能となっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "CPU戦では、プレイ内容による乱入キャラクターや最終ボスの分岐が多種多様に設けられているのが特徴。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "今作ではコマンドの斜め入力を省略した、例えば「←↓→+A」といった簡易コマンドが受け付けられるようになっている。連続技の内容によっては、この簡易コマンドを使用しなければ間に合わないことがある。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "PS2版は2008年6月26日に発売。NEOGEOオンラインコレクションシリーズの第10弾である。アーケードモードに加え、チャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモードの他、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーモード等が収録されている。ある条件をクリアすることにより、ボスキャラクターの使用、および3人全員同じキャラクターでチームを組むことが可能になる。また、オリジナルの『'98』のネオジオ版も収録されている。ネットワーク対戦は『'98UM』(ボスあり・なし)、ネオジオ版『'98』のどちらにも対応していた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "2009年7月1日にXbox 360にてXBLA版が配信。PS2版に存在したチャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモード、ネオジオ版『'98』は収録されているが、その他の特典要素の多くが削られており、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーなどは収録されていない。また、ネットワーク対戦は『'98UM』のみ対応し、ネオジオ版には非対応。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2014年12月16日にSteam版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION』が配信開始。こちらは2011年稼働のNESiCAxLive版『FINAL EDITION』のゲームバランスをベースにした上で、XBLA版と同様の内容を収録している。ネオジオ版『'98』も同時収録されているが、XBLA版同様にPS2版での追加要素は一部省かれている。こちらはボスキャラクターと同キャラクターチームが最初から使用可能になっている。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。2022年6月21日にPS4版が配信され、2022年10月27日にはパッケージ版が発売。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "なお、2016年8月25日にはスマホアプリ(Android・iOS)版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH Online』が配信されているが、本作とは全く異なるゲームとなっている(後述)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "SNKのネオジオ博士が『'98UM』公式ホームページに寄せたコラムによると複数のステージが追加されたという。このうち、『'96』のボスチームステージは同作のボスチーム3人の参戦に合わせて追加されており、同ステージの観客席にいたビリー・カーンは別のキャラクターに置き換えられている。一方お蔵入りとなったステージもあり、たとえばサウジアラビアのステージでは時間の経過に合わせて背景のラクダがどんどん増える予定だった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "キャラクターや技の中にもお蔵入りとなったケースがあり、前者の例としては『リアルバウト餓狼伝説』シリーズ仕様の裏キムら複数の追加裏キャラクターが時間の都合で導入を見送られた。後者の例としては、『龍虎の拳 外伝』のリョウの技の一つである虎煌撃の動きが遅く、ダウン時間の短い『KOF』シリーズには不向きであるため、裏リョウの「空中虎煌拳」にダウン追撃判定を入れるという代替措置が取られた。また、クラウザーは割り当てられた技の数が多く、これ以上コマンドを割り振ることができないため「カイザークロー」や「カイザーインフェルノ」がお蔵入りとなった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "本作から『2001』まで続く「ネスツ編」三部作の第1章。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「Kを超えるもの、その名はK'。」(MVS、ネオジオ版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "1999年7月22日稼動。家庭用はネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)、ドリームキャスト(DC)、Microsoft Windowsでも発売。DC版はタイトルが『THE KING OF FIGHTERS '99 EVOLUTION』となっており、ネオジオポケットカラー専用ソフト『THE KING OF FIGHTERS バトルDEパラダイス』との連動によりパワーアップするエキストラストライカーが追加された。後にPS2でも、NEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版がともに移植された。また、2007年にはPS3・PSP・PS Vita向けのゲームアーカイブスでもPS版が配信された。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。なお、本作がネオジオCDで最後に発売された作品となった。また、PSで発売された最後の『KOF』でもある。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "シリーズで主人公の交代が初めて行われた作品で、ストーリーとしては新たな主人公・K'(ケイダッシュ)を主軸としたネスツ編(以降『2001』まで続く)の幕開けとなった作品。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "主催者は不明とされるが後に秘密結社ネスツのゼロ(クローン)の命令で動いたクリザリッドである事が明かされる。また『'95』までと同様に裏大会に戻っている(後年の『2000』も同様)。『'99』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "新たなシステムとして、援護攻撃の発展形ともいえるストライカーシステムが導入され、4人チーム制となる。また、スーパーキャンセルが可能になる「カウンターモード」とスーパーアーマー状態になる「アーマーモード」といったシステムが導入された(3ゲージ使うことで発動できる。『2000』まで採用された)。また、緊急回避動作が「かわし移動」となったが、この作品のみの採用となっている。動作としては、前方へのかわし移動は前に移動しながら『'95』以前の攻撃避けを行う感じになっており、この際は「かわし移動攻撃」を出すことができる。後方へのかわし移動はバックステップをした後、即座にステップインするというものになっており、バックステップ着地時は必殺技か超必殺技でキャンセルができる。なお、この作品ではスコアではなく「バトルアビリティ」と呼ばれるバトルポイント制となっている(『2000』まで採用)。グラフィックは技術の向上により、雰囲気は『'97』までとは一線を画している。この作品以降『2003』『XII』を除きCPU戦には戦闘画面にステージ数が表記されるようになった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "MVS版では京と庵は隠しキャラクターである。ストーリーモードではバトルポイント280以上で京、それ以下(200以上280未満)なら庵が、隠しボスとして乱入してくる。一定条件を満たせば使用可能になる。家庭用では最初から使用可能。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "オロチが封印されてから2年の時が過ぎ、また世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の開催を宣言した招待状が届けられる。だが今回は、以前の様な世界規模の盛り上がりを見せる気配が一向に無く、これまでの大会と様子が違っており、更には対戦形式にも「ストライカーマッチ」という新しいルール規定が盛り込まれ、チーム構成は3対3から実質的に4対4への変更となっていた。何やら裏があるかの様な前兆に対し格闘家達は不審に思い、怒チームの指揮官であるハイデルンもまた、今大会が裏大会形式で開催された可能性を推察。新妹の少女隊員であるウィップを4人目として加える形で怒チームに出場を命令する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "一方、不穏な気配の中、前回大会以降より京と連絡の取れなくなっていた二階堂紅丸は、招待選手で結成されたスペシャルチームの一員として大会に招かれるも、予め記されたチームメイトは K' とマキシマという全く聞きなれない名で、不信感を覚えつつも自身と共に京の行方を求めていた真吾と共にチームを組む形で出場する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "大会が決勝戦にまで進む中、不審な車両や戦闘ヘリが世界各地の主要都市へと移動していたのだが、彼等の輸送していた「中身」とは、行方不明になった草薙京と同じ顔をした者達であった。一際不穏な動きを見せていた今回の大会は、謎の秘密組織「ネスツ」によって仕組まれた物で、決勝戦の対戦相手として待ち構えていた組織の幹部・クリザリッドは、KOFで人類最高レベルの戦闘データを収集し、そのデータを世界各地の要所に配置された京のクローン戦士軍団に転送。「最強の兵器」として利用して、世界中の要所を制圧しネスツが新世界を築くという、凶悪な世界同時テロを計画していたのである。そして紅丸達がチームを組まされたK’とマキシマの二人もまた、ネスツによって生み出された改造人間であり、マキシマは全身を機械化したサイボーグで、K’はネスツに捕らわれていた京の操る炎の能力を移植された存在であった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "計画の最終段階を始動する為の最後の仕上げとして、世界中のクローン京を一斉稼動させるための「トリガーデータ」、すなわち「人を殺す」という概念を覚えさせるデータを完成させて転送するべく、自らも改造人間であったクリザリッドは優勝チームへと襲い掛かる。だが、改造人間にすると同時に記憶を奪ったネスツに不満を持っていたK'らや、オロチ戦で消耗していた隙を狙って拉致され勝手に大量のクローンを造られた借りを返そうとネスツから脱走していた京や彼の行方を追っていた庵等により、クリザリッドは敗北。世界各地に配置されていたクローンの京達もまた、抑えられてしまう事になった。そしてクリザリッドは、彼の上司から用済みとして口封じも兼ねる形で始末されてしまう。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "その後、瀕死の重傷を負ったクリザリッドの前に彼が「姉さん」と呼んでいたウィップが姿を現す。彼女もまたネスツの一員であったのだが、真実を知った事でネスツと決別した彼女から、自身とクリザリッドが本当の姉弟ではなく、更にはK’のオリジナルと信じて居た自身こそが彼のクローンとして生み出された存在だったという驚愕の真実を聞かされ、最後はその介錯を受ける形で生涯を終える事になった。一方、K'とマキシマの二人はネスツを裏切る事を決意。K'が自身の能力を暴走させながらも、基地を脱出する事になるのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "未だかつて無い波乱に満ちた今回の大会は、世界の支配を目論む組織「ネスツ」の存在が明らかになる形で、幕を閉じる事になるのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ネスツ編三部作の第2章。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「それは、宿命の邂逅。」(MVS、ネオジオ版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2000年7月26日稼動。本作がSNK(旧社)がアーケードとネオジオ向けに開発した最後の(過去作からの移植ではない)新規開発作品となった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "家庭用はネオジオ、ドリームキャスト(DC)、PlayStation 2(PS2)で発売。ネオジオ版以外はSNK(旧社)倒産後に版権を受け継いだプレイモアからの発売で、PS2版はプレイモア(現:SNK(2代目))の参入第1弾ソフトである。後に、再びPS2でNEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ネスツ編のヒロインで、K'と対になる存在のクーラ・ダイアモンドがこの作品から初登場。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "主催者は(ゼロ(クローン)に裏から掌握された)リング機関と、ハイデルン率いる傭兵部隊による共同主催。『2000』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "システムは『'99』を継承しているが、本作では「アクティブストライカーシステム」の採用により、ストライカーの使用が容易になったことで連続技の自由度が非常に上がった。しかし、それらのシステムの駆使による、一部キャラクターとストライカーの組み合わせによる簡単な「ハメ技」や「即死コンボ」が発見されてしまい、逆にゲームバランスにおいて弊害が生じる結果になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "それまでのSNKのゲームに登場したキャラクターの多くを、各キャラクターに用意されたもう一人のストライカーであるアナザーストライカー(一部キャラクターは3人目であるマニアックストライカーもいる。また、PS2版ではさらに隠しマニアックストライカーが追加されている)として登場させている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "前回大会で秘密結社「ネスツ」の存在が明るみに出るも、それ以来ネスツは特に活動を起こす事なく、その情報は途絶えてしまう。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "その一方、ネスツとは別に、世界各地ではテロ活動が頻発しており、ハイデルン指揮下の特殊部隊はそれが、元ネスツであるK'とマキシマの2人によるものであるということを掴んでいた。2人を捜索するハイデルンだったが、それと同時期に「キング・オブ・ファイターズ」開催の知らせが世界の実力者達に届く。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "今回の大会も裏でネスツが関わっている事を確信していたハイデルンは、ヴァネッサやセスといった優秀なエージェントを擁する特殊機関「リング機関」の司令官であるリングと協力体制を取り、共同で作戦を行う事を決定。ハイデルンが前回大会と同様に怒チームの面々に出場を言い渡す一方、リング機関側ではヴァネッサがネスツに抵抗し続けていたK'とマキシマに接触し、彼等にルチャ・リブレの使い手であるラモンが加わる形で、今大会に特別招待チームとして出場する事になり、ネスツの本拠地を探るべく、大会の中でK'とマキシマの捕獲作戦を実行に移す事を決定する。その頃、ネスツに追われ続ける京の行方を捜索していた紅丸と真吾の二人は、紅丸と旧知の仲であるセスの誘いを受ける形でキング・オブ・ファイターズにエントリーする事になるのだが、彼が中国から連れてきた不気味な容姿をした謎の男・麟(リン)と一悶着を起こしつつも、紅丸チームを結成する。彼は中国の河北省を中心に活動する暗殺集団「飛賊」の長であり、先代の長であり一族を裏切って壊滅的被害をもたらした龍(ロン)の行方を追っており、その手掛かりを求めて出場を決意したのである。また一方では、オロチとの決戦後にてネスツに捕らわれて受けた屈辱を晴らすべく、追っ手を返り討ちにしながらも追い続けていた京と、その京を探し求め続けていた庵の二人もまた、今大会にネスツが関わっている事を確信し、乗り込もうとしていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "世界各地でトーナメントが開始される中、突如冷気を操る謎の美少女クーラ・ダイアモンドが乱入する事態となり、彼女との戦いが終わった直後、リングは映像記録に残っていた彼女の姿を見て「アンチK'」と評していた。そして、大会の途中でアクシデントが発生しつつ、何とか「サウスタウン」を舞台とした決勝戦にまで進む事になるも、ハイデルンとリングの双方が指揮を執る作戦司令部で異変が起こる事になる。突如ハイデルンを裏切り取り押さえる事を命令したリングは、ネスツによって送り込まれた替え玉のクローンであり、本物のリングを殺害して彼に成り済ましていた人物の正体はネスツの上級幹部の1人・ゼロだったのである。彼こそが前大会でクリザリッドを用済みと始末した張本人でもあり、テロ行為としてメディアでは報じられたK'とマキシマの行動は、ネスツおよびゼロの不穏な動向を調査しての物であったのが明らかとなる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "ゼロがリングに成り済ましていた理由は、対ネスツ用の衛星兵器として開発された「ゼロ・キャノン」を奪う事で、これはかつてのオロチを巡る戦いでオロチ一族が格闘家達の精神エネルギーを集めてオロチの復活に利用していたのを軍事兵器として転用した物であった。そして、今大会の開催を仕向けて格闘家達を集めたのも、ゼロ・キャノンの発動に必要となる精神エネルギーを収集する為であったのだが、ゼロの真の目的は更にその先にあり、最終的にはネスツをも出し抜く形で自らが新世界の頂点に君臨せんと企んでいたのである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "ゼロ・キャノン発射の為に最高峰の格闘家の力をゼロ・キャノンに転送させようと試みるゼロだったが、それに抵抗した大会優勝チームによって敗北。最後の悪あがきとしてゼロ・キャノンを強引に発射させようとするも、何故か自分自身がゼロ・キャノンの標的となってしまう。実は、今回のゼロの目的はネスツの上層部からも予め把握されてしまっており、クーラが送り込まれたのもゼロの反抗計画を失敗に追い込む為で、クーラを擁するネスツの幹部であるダイアナとフォクシーの二人から「ペナルティを受け取れ」と宣告されたゼロは、ゼロ・キャノンの直撃を受けて消滅。作戦司令部を制圧していたリングのクローンもまた、ハイデルンによって倒された。その後、ヴァネッサ、ラモンの二人と別れたK'とマキシマの二人は、怒チームの面々と離別したウィップと三人で行動を共にする事になった。一方、紅丸達は麟が探し続けていた龍と遭遇。ネスツに降る形で力を手に入れた彼から自分に協力するよう要求された麟はそれを断固として拒否。その隙を突かれる形で、龍は背後から紅丸のエレクトリッガーを受ける事になり変わり身の術で逃走するも、あまりにも驚異的な速度を見せた龍の姿にセスは戦慄し、このまま放置すれば取り返しがつかなくなると確信する。そして、ゼロに借りを返した京は、自分を探し続けていた庵と再会。帰りを待ち続けるユキへ想いを馳せつつ、京は庵と激突する。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "サウスタウンでの事件から一週間後、ゼロの拠点であった寺院等で調査を続けていたハイデルンは、ゼロが軌道上に存在していた20機のゼロ・キャノンで攻撃を行おうとしていたのはネスツの拠点ではないかと推測。いずれにせよ今回はネスツに完全敗北してしまった事を痛感するも、ハイデルンはまだネスツの打倒を諦めてはいなかった...。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "ネスツ編三部作の第3章(最終章)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "2001年11月15日稼動。旧SNK倒産後初のKOFで、プレイモア(後のSNKプレイモア、現SNK)系列としては初の作品となる。また、本作は初めて秋に稼働開始した作品で、夏以外の季節に稼働開始するのも本作が初となった。以降は発売・稼動開始する時期が特に決まっておらず、作品ごとに異なるようになる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "家庭用はネオジオ、DC、PS2で発売。後に、再びPS2でNEOGEO オンラインコレクションVol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "主催者は秘密結社ネスツことイグニス。『2001』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "システム面では、4人のうち0 - 3人をストライカーにできるタクティカルオーダーが導入された(ライフはストライカー以外で分配。なお、CPUはラストの2ステージのボス戦を除いて、ストライカーが1人に固定されている)。このため、ROUND6、ROUND7がアナウンスされる唯一のKOF作品となる。また、相手が画面端まで吹き飛んで跳ね返るワイヤーダメージが導入されたのはこの作品からである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "※グルガン・龍・クリザリッドの3名はゼロ(オリジナル)の専属ストライカーとして設定され、本来はゼロの特殊技扱いとして技の一部に設定されているが、PS2単体版で通常キャラクターを選択した場合はストライカー専用キャラクターとして個別に使用可能。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "前回大会の終盤、ネスツの幹部であったゼロがクーデター起こした際に行ったゼロ・キャノンでの砲撃により、サウスタウンの一角1が消失。しかし、それは「人工衛星の落下事故」として報じられ、真相は世間には伝えられていなかった。常々何らかのアクシデントがついて回る「キング・オブ・ファイターズ」に中止の声は少なからずあったが、皮肉にも、いわく付きながらもこの人類最高峰の格闘大会は、97年の大会と同等かそれ以上に過熱していった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "そんな中、今大会では開催前より異常事態が巻き起こっていた。何と秘密組織であるはずのネスツが堂々と表舞台に進出し、更には前回大会で乱入してきた改造人間「アンチK'」の美少女であるクーラの他に、同じくネスツの改造人間であるアンへルやK9999(ケイ・フォーナイン)といったメンバーで構成された「ネスツチーム」がエントリーしており、K9999は同じ改造人間であるK'やクーラに対し、激しい憎悪を抱いていた。何故、これまで「秘密組織」で通し続けていた彼等が突然自分達の存在を公にする様な真似に出たのか、その真意が分からず不可解に思いながらも、ネスツの手掛かりが掴めなくなっていたK’、マキシマ、ウィップの三人は、龍の行方を突き止めるべく自分達をつけていた麟を加えた4人でキング・オブ・ファイターズへの出場を決意。同じくネスツとの決着を望んでいた京も、かつての仲間である紅丸や大門、そして真吾を加えた4人で「日本チーム」を復活させ、京を追い続ける庵もまた、前回大会で失態を犯してしまったヴァネッサ、セス、ラモンの三人と「庵チーム」を結成。これまでの二度の戦いでネスツに辛酸を嘗めさせられてきた格闘家達は、全ての決着をつけるべく、それぞれの決意と共にキング・オブ・ファイターズへと乗り込む。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "大会が終盤へと進む中、飛行船の中で優勝記念式典が行われる事になるのだが、実は飛行船はロケットを偽装した物であり、ロケットが宇宙に向けて飛び立つ中、優勝チームの前に前回大会で死んだはずのゼロが現れた。前回大会でネスツを裏切って死亡したゼロはクローンに過ぎず、目の前にいる彼こそがオリジナルのゼロで、ネスツに忠実な最高幹部であった。そしてオリジナルのゼロは、優勝チームが地上最強のチームであるかを自ら確かめるべく、ペットである黒獅子のグルガン、元「飛賊」の長である龍(ロン)、そして前々回大会でクローンのゼロに始末されかけた所を密かに救出したクリザリッドを従えて、優勝チームに戦いを挑む。ゼロはクローンを遥か凌ぐ実力を持っていたが、何とか勝利した優勝チームは、地球に向けて落下するロケットから脱出。宇宙要塞へと乗り込み進んだその先に、ネスツの上級幹部の一人であるミスティー、そして組織の頂点に君臨する存在・イグニスが遂に現れる事になった。一方、宇宙で最終計画が進められるのを地上から見届けていたネスツチームであったのだが、突然K9999とアンヘルの二人が裏切る形でフォクシーに重傷を負わせる。優勝チームが決定した時点で、イグニスはネスツチームをもはや用済みと見なしており、互いに殺し合う形で自滅させようとK9999とアンヘルの二人に、ダイアナとフォクシー、そしてクーラの三人を抹殺するよう予め命令していたのである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "実は組織の本来の長は、当の昔に息子のイグニスによって抹殺されており、ネスツはいつからか組織を乗っ取った彼の個人的な願望を満たす為だけの道具となり果ててしまっていた。秘密組織であるはずのネスツが表舞台に進出するという組織の自滅に繋がりかねない方針に出たのも、その時にはイグニスにとってネスツは用済みとなっていたからであり、ネスツを切り捨てた彼の最終目的は、地球意思のオロチすら倒した京や庵、およびその因子を移植したネスツの改造人間の傑作であるK'とクーラ、そしてKOFで勝ち上がった格闘家達といった地球最高峰の実力者達を自身の圧倒的な力でまとめて一掃する事で、「自身が『神』を超えた存在である事を世界に証明する」という極めて個人的かつ身勝手な物であった。そして、K'は自らが「神」となる為の極上の生贄となるべく最初から選ばれていた存在で、共に戦ってきたマキシマやウィップ、敵対したクリザリッドやクーラ、K9999、アンヘルですらもK'の成長を促す為に用意されたモルモットでしかなく、何も知らず無意識に戦い続けていたK'は、イグニスから全力で戦える様にと記憶を返された直後、他者の人生を弄ぶイグニスに怒り、最終決戦を挑む。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "戦いは熾烈を極めたが、最終的に人間の力をデータでしか推し量れなかったイグニスの敗北という形で決着がつき、自暴自棄になったイグニスは宇宙要塞の自爆装置を作動。地球に向けて大気圏突入を開始してしまう。宇宙要塞が海へと落下していく中、自分と同じ力を持つ「トモダチ」がいる事を感じ取ったクーラは、自らの冷気の力でイグニスや宇宙要塞と運命を共にしようとしていた格闘家達を助ける。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "秘密組織として世界中に混乱を撒き散らしたネスツは、組織として終焉を迎えた。だが、イグニスのエゴの産物として翻弄されてきたK’達自身の戦いはまだ終わっていなかった。龍がまだ死んでいない事を確信していた麟は姿を消し、亡き親友の仇を討ったマキシマもまた彼の墓参りへと向かうと告げて去り、残されたK'は自身がこれから何をすべきか思案していた所、ウィップから「命の恩人に恩を返さなくちゃ」と言われ、自身達を救いダイアナと共にいたクーラの手を取るのだった。一方、今大会の参加チームの中でもネスツと深い因縁を持ち決着をつけた京達日本チームは別れてそれぞれの帰るべき場所へと向かい、残された真吾は目の前に現れた京の父・柴舟に弟子入りをする。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "かくして、秘密組織ネスツを巡るキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "これまでキャラクターイラストを担当していた森気楼の移籍により、後任としてノナを起用した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "SNK(旧社)の倒産に伴い、開発はブレッツァソフトと韓国のゲームメーカーイオリス(同時期に業務提携を結んでいたメガ・エンタープライズと共に金銭面でのスポンサーでもあった)が、販売はサン・アミューズメントとプレイモアがそれぞれ担当した。このためオープニングにはSNKのロゴが表示されるが、SNKの開発スタッフはゲームサウンドを除いてゲーム自体には一切制作に関わっていない。韓国資本の流入により、出場キャラクターなどにその影響が見られる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "従来までゲームサウンドを担当していたSNK新世界楽曲雑技団は会社の倒産により、事実上解散しているが、今作はSNKグループに残った一部のメンバーによってBGMが製作されている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "『KOF』全国大会”Duelling the KOF”の発起人DUNEは、ファミ通とのインタビューの中で、就職や進学でプレイヤーの世代交代が進んでいたことに加え、本作でゲーム性が変わったため、少しずつ対戦人口が減っていったと話している。 一方、本作は日韓戦が行われており、DUNEによると、日本ではフォクシーが禁止級のキャラクターとして認知されていたのに対し、韓国ではメイ・リーが禁止級扱いされており、イベント参加者からも同様の話があったという。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "2002年10月10日稼動。フルタイトルは『THE KING OF FIGHTERS 2002 -Challenge to Ultimate Battle-』。一応本作KOF大会主催者は本作で二度目の復活を果たしたオメガ・ルガールだが、ネスツ編が完結したことで、オロチ編完結後の『'98』同様、ストーリーのないネスツ編の集大成的作品となった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「BE THE FIGHTER!!」(MVS、ネオジオ、ドリームキャスト、Playstation 2版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "家庭用はネオジオ、DC、PS2、Xboxで発売。DC版はSNK系列のセガ製ハード最後のソフトとなった。後にPS2で発売された『2002』のリメイク版である『THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH』にも、オリジナルである本作のネオジオ版が収録されている(ただし同作のアーケード版、XBLA版、Steam版にはいずれも未収録)。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "この作品を最後に開発元であるイオリスはプレイモアとの業務提携およびスポンサー契約を解消した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "ストライカーの廃止により、バトル形式は完全な3vs3に戻った。開発は『2001』同様イオリスと、販売はプレイモアがそれぞれ担当。今作はCPU戦でキャラクター曲なのは最後の1チーム・乱入してくる『2001』のネスツチームの内の1人(スコアで誰が乱入するか決まる)・ボスであるオメガ・ルガールのみで、あとは背景曲となる。ネスツ編の集大成であるが、ネスツ編のキャラクターが数人削除され、オロチ編のキャラクターも数人参戦している。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "基本的なシステムは『'98』の「ADVANCED」を継承。大きく異なる点としては、MAX発動中にのみ、通常技の普段キャンセルできないポイントや、必殺技をキャンセルして別の必殺技を出すことができる「どこでもキャンセル」が使用できる。使うとMAX状態の残り時間が少し減る。また、このシステムのためMAX発動中は攻撃力が逆に減少する。また、隠し超必殺技として「MAX2」が存在。通常のMAX超必殺技の条件に加え、体力ゲージが一定量まで減ると使用できる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "『KOF98UM』と同様の趣旨で登場した『2002』のリメイク作品。略称は『2002UM』。登場総キャラクター数が66人も及ぶ大幅なキャラクター追加や、ゲームバランスの再調整、新技の追加、BGM・アナウンスの一新、デザイン・背景を中心としたグラフィックの変更などが施されている。イラストはヒロアキが担当。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "システム的には『2002』を継承しているが、MAX発動中でなくともゲージ3本を消費することでMAX版超必殺技やMAX2を使用可能になるなどの変更がされている。また、デザイン面では大幅に一新され、インターフェイス周りやステージ等は総入れ替えとなり、MAX2使用時にカットインが入ったり、一部のキャラクターは特定の技で相手を倒すと勝利画面のイラストが変わるなど演出面も強化されている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "『'98UM』同様、本作のCPU戦にも、プレイ内容による乱入キャラクター、最終ボスの分岐が多種多様に設けられている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "ネオジオ版『2002』の出場キャラクターの内、K9999のみが登場せず、代わりに似たような設定・性能を持つ新キャラクター、ネームレスが新登場。PS2版にはオリジナルであるネオジオ版準拠の無印『2002』も同時収録されており、こちらは原作仕様であるためK9999も使用可能(ただし取扱説明書のキャラクター紹介欄からは除外されている)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "また、PS2・Xbox版『2002』に追加キャラクターとして出場していたギースとゲーニッツもPS2・XBLA版の今作に登場するが、同じく『2002』では出場していたツキノヨルオロチノチニクルフイオリは今作では登場していない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "PS2版の後に稼働されたアーケード版は更なるバランス調整が施されている他、背景が2Dに変更された代わりに新ステージが一部追加されている。また、基本的にPS2版のキャラクターはアーケード版にほぼ全て出場しているが、ボスキャラクターは全員CPU専用で使用できず、さらにギース(ナイトメア含む)とゲーニッツのみ登場していない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "後にアーケード版のゲームバランス準拠のものが『闘劇ver.』としてPS2版に逆輸入されている。これらでは対戦バランスや技の性能はアーケード版準拠だが、メニューやモードなどはPS2版無印準拠で同じく家庭用専用隠しキャラクターが使用可能になっている。なお、PS2版2作品ともにネオジオオンラインコレクションではないため、ネットワーク対戦には対応していない。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "その後に配信されたXBLA版・Steam版のゲームバランスもアーケード版および『闘劇ver.』に準拠した上で、モード類はPS2版の要素を継承した移植となっているが、PS2版2作品には存在したネオジオ版『2002』、ギャラリー、カラーエディットなどが未収録となっている代わりに、ネットワーク対戦と実績機能に対応している。背景はPS2版の3Dではなく、アーケード版と同じ追加ステージありの2Dを採用している。Steam版はボスキャラクターと裏キャラクターが最初から全て無条件で選択可能になっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "ボスキャラクターはプレイヤー仕様だと、CPUに比べて攻撃力が大幅低下、防御力が通常キャラクターと同じになる調整を施される。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "2009年2月26日にPS2版が発売。同年7月9日にアーケード版が稼動開始(システム基板はSYSTEM BOARD Y2)され、本作はKOFシリーズ全体で初の、家庭用からアーケードへの逆移植タイトルとなった。さらに、2010年6月24日にアーケード版と同等のバランス調整が行われた『闘劇ver.』がPS2で発売され、特に『闘劇ver.』はSNKプレイモア最後のPS2用ソフトとなった。2010年11月3日にXbox 360のXbox LIVE アーケード版が配信された(詳細は上述)。2011年1月24日からはNESiCAxLiveでアーケード版準拠のものが配信されている。2015年2月27日にはSteamでXBLA版準拠のものが配信され、2020年11月には大型アップデートが行われネットワーク対戦のネットコードにロールバック方式が実装された。2021年2月9日にはPlayStation 4でSteamアップデート版準拠のもの配信され、同年4月15日にはパッケージ版も発売。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "本作品・『XI』・『XIII』と続く「アッシュ編」三部作の第1章。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「今、新たな闘いの扉が開く。」(MVS、ネオジオ版)、「新たな炎が燃え上がる。」(PlayStation 2版)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "2003年12月12日稼動。冬に稼働開始するのは本作がシリーズ初である。MVSでリリースされた『KOF』シリーズのうち、日本国内では唯一単体基板(MV-0)で発売されたタイトルで、MV-6などの複数スロット基板に入れて稼動することができない(なお、日本国外向けの後期出荷のみだが、通常のROMカートリッジ版も存在する)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "家庭用はネオジオ、PS2、Xboxで発売。本作はネオジオ最後のKOFとなった。ネオジオ版の『KOF』では唯一、最初の操作説明画面に説明役のキャラクターが存在しない。PS2版では主人公チーム3人のさらなる設定が収録されていたり、システム面を調整した「アレンジモード」が追加されている。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。 2019年2月21日には、アケアカNEOGEOの一環として、PlayStation 4/Nintendo Switch/Xbox One向けの移植版が発売された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "新主人公・アッシュ・クリムゾンを主軸に、オロチ編を伏線に利用した新たな展開が描かれる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "主催者は(牡丹に操られた)神楽ちづる。『2003』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "新たなシステムとして、ラウンド制が廃止され、全員KOされるまで試合が続行される途中交代可能なマルチシフト制が導入された。これによりPERFECTは3人全員がライフ満タンでなければならない。また、MAX超必殺技がリーダーのみが出せるリーダー超必殺技に変更された。なお従来よりも戦闘に時間がかかるため、制限時間は1カウント約2秒×60カウント=120秒である。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "キャラクター選出にも過去作から大幅な変更も入り、アンディ・ボガードや椎 拳崇、鎮 元斎、チョイ・ボンゲといった前作まで皆勤だったキャラクターが初めて欠場した一方で、餓狼伝説シリーズのキャラクターの世代交代が行われた作品であり現時点で最終作の『餓狼 MARK OF THE WOLVES』より、テリー・ボガード以外のキャラクターが今作で初めて出場した(本作ではグリフォンマスクと牙刀が初参戦)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "ネスツの壊滅から2年後、またもや世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届けられた。本大会の主催者もやはり謎の存在であり、その正体について憶測が流れていたにもかかわらず、歴戦の格闘家達は次々と参戦を表明する。知名度の高い参加者が多数いることを確かめると、それまで慎重だった各メディアも、一斉に「キング・オブ・ファイターズ」を取り上げ始める事になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "今大会から「ストライカーシステム」に代わって新ルール「マルチシフト」が採用され、それは社会現象にまで発展し、世界中の話題を独占してゆく。新ルール以外でも、名を知られつつキング・オブ・ファイターズに未参戦であった格闘家であるグリフォンマスクや牙刀等が新規参戦し、更には謎の組織に所属する女子高生の暗器使いであるまりん、飛賊の生き残りの一人であるデュオロン、上海を拠点に活動する無頼漢のシェン・ウー、そして正体不明の謎の男アッシュ・クリムゾン。今まで表舞台で名の挙がる事の無かった未知数の実力者が次第に出場する事になり、新たなる盛り上がりを見せ始めていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "やがて大会が中盤に差し掛かる中、謎の主催者によって草薙京と瓜二つの姿をした謎の存在であるKUSANAGIが出没し、出場チームに襲い掛かる事態となる。更には、一部の出場チームが主催者と思われる女性によってとある場所へと転送されてしまい、そこにはかつてオロチの力に手を出して身を滅ぼしたあのルガールと同じく「バーンシュタイン」の苗字を持つ謎の美少女・ローズ・バーンシュタインがいた。主催者の女性によって飛ばされた場所は、彼女の拠点である巨大飛行艇「スカイ・ノア」の中であり、ローズによって彼女の兄で同じく「バーンシュタイン」の名を持った青年であるアーデルハイド・バーンシュタインと戦わされる事態となってしまう。そして優勝チームが決まった直後、主催者の正体がオロチを巡る事件の後に消息が掴めなくなっていたちづるであった事実が判明。しかし、彼女は八咫の力を狙った謎の組織「遥けし彼の地より出づる者」によって洗脳され操られていただけに過ぎず、組織の1人で石化する異形の能力を操る無界(ムカイ)との戦いの後、オロチの封印を解除する事に成功した彼等は「遥けし彼の地より出づる者」を名乗り、その場を去っていくのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "しかし、無界との死闘を演じたその直後、突如姿を現したアッシュはその場に居合わせた京と庵二人の目の前で、消耗し動けなくなっていたちづるの身体から「三種の神器」の一角である「八咫の鏡」の力を奪い取る。そして次は庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を狙う事を宣言したアッシュに対し、庵が攻撃を仕掛けるが、難無くかわして見せたアッシュは、そのまま姿を消してしまうのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "相次いで不可解な混乱が巻き起こる中で今大会は幕を降ろす事になり、近い未来の内に新たなる波乱が起きようとしていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "開発が韓国から日本主導に戻る。開発はSNKネオジオ(旧:サン・アミューズメント)が、販売はSNKプレイモア(旧:プレイモア)がそれぞれ担当した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "キャラクターイラストは新たにFALCOONが担当(後の家庭用版KOFプロデューサー)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "対戦型格闘ゲーム大会「闘劇」第1回『KOF 2002』部門の優勝者であるごしょはファミ通とのインタビューの中で、本作でゲーム性が変わってしまったため、プレイヤー総数が若干減ってしまったと感じたものの、自分の地元である柏では闘劇出場を目標にしていた者はいたと話している。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "アッシュ編三部作の第2章。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "2005年10月26日稼働。PS2版は2006年6月22日に発売。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。ATOMISWAVEで発売された『KOF』シリーズ本編。SNKネオジオを吸収合併したSNKプレイモア単独による開発・販売となる。シリーズ本編としては前作『2003』より2年弱の間があり(前年の『NEOWAVE』は『2002』をベースとした番外編)、今作よりタイトルの西暦表記が廃止され、ナンバリング表記になった。前作『2003』のシステムを正統進化させたものを採用。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "この作品がATOMISWAVEでの最後の『KOF』となった。なおATOMISWAVE版はROMカセットを採用しているにもかかわらず、試合開始までの読み込み時間がメディアがDVD-ROMであるPS2版よりも長い。これはATOMISWAVE基板の「処理中のロードが非常に困難」という特殊な構成によるものである。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "主催者は当初は不明だが、後に遥けし彼の地より出ずる者の裏切り者の禍忌だと判明。『XI』優勝チームは主人公チーム。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "タイムアップ時による判定が、攻撃を当てることでバランスが傾く「ジャッジメントインジケーター」に変化し、体力に依存するものではなくなった。なお、ジャッジメントインジケーターを採用したのはシリーズ中で本作が唯一である。タイムカウントは150秒で、1カウント1.5秒×99カウントとなっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "PS2版ではシステム面やキャラクターを調整した「アレンジモード」、『ネオジオバトルコロシアム』からの追加キャラクター(その中でタンとほたるがKOFシリーズ初参戦、ビッグは『'96』以来、ロバートは中年の姿)、オリジナルアレンジBGMなどが追加されている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団により洗脳されて表向きの大会主催者を務めていた神楽ちづるの負傷に加え、彼女から「八咫の鏡」の力をアッシュが奪っていったいう相次ぐ混乱を以って幕を下ろした前大会から、1年以上の時を隔て、新たな「KOF」の開催が宣言された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "前回大会で暗躍を行っていたアッシュは、今大会でも参加を決めており、前回大会でチームを組んだシェン・ウーの他に「カーネフェル」というカードを駆使したの使い手である老紳士オズワルドをメンバーに加える。一方、アッシュと関わりを持ったとある人物に招待されていた紅丸とデュオロンの二人はフランスの南部へと訪れており、二人を呼び出したフランスの田舎の名家ブラントルシュ家の現当主を務める女性エリザベート・ブラントルシュとチームを組んでキング・オブ・ファイターズに出場する事になった。他にも新参加者としてB.ジェニー、ダック・キング、桃子といった面々が新規参戦し、更には以前の大会に出場した如月影二や藤堂香澄も復帰。極限流打倒の信念を変わらず持っていた影二は、自分と同じ志を持つ者達とチームを組もうと考えた結果、同じ極限流の打倒を目指す香澄の他に、ユリ・サカザキに個人的な恨みを抱く前回大会の出場者であるまりんとチームを組むに至ったのである。また、一方では前回大会の終盤で「三種の神器」の力を奪われたちづるの代わりを自分から引き受けた真吾が、自分と京と庵の三人でチームを組み参加する事を提案。当然、二人は対等な立場でも無い彼の主張など相手にしなかったのだが、あまりにしつこくせがまれた上、「遥けし彼の地より出づる者」と名乗る謎の集団の動向、封印を解かれたオロチの力の行末、そしてアッシュの真の目的。それらの気配を感じ取り、渋々とチームを組んで出場する事になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "だが、華やかな格闘大会というKOFの表向きの顔とは別に、今大会の裏側でも数々の思惑が交錯していた。大会が終盤に差し掛かった時、決勝会場を「遥けし彼の地より出づる者」の一人である紫苑(シオン)が襲撃。彼はオロチを完全に覚醒させる為に決勝戦にまで勝ち上がったチームに戦いを挑むも、結局オロチは覚醒しないままとなり、そこへ今大会の主催者である紫苑と同じ「遥けし彼の地より出づる者」の一人である禍忌(マガキ)が現れて失敗した紫苑を粛正される。そして、禍忌は異形の姿に変身して紫苑を破った者達に襲い掛かるも敗北してしまう事態となり、それでも余裕な態度を見せながらも焦りを覚えて異空間へと逃亡を図ろうとする。だが、オロチの覚醒に気付いて油断していた隙を突かれる形で、自らに復讐しようとした紫苑が投擲したと思われる槍が禍忌の心臓を貫き、紫色の血飛沫を上げながら禍忌はそのまま絶命する末路を迎えた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "その後、禍忌の遺体はハイデルンの部隊に回収され、怒チームやエージェントチーム、K’チームを作戦本部に招き入れたハイデルンは今後の「遥けし彼の地より出づる者」への対策会議を行う。今回の事件から、禍忌や前回大会で戦った無界といった「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達は人間と異なる種族である可能性が出始める中、「遥けし彼の地より出づる者」の一員であるシュルームとリメロの二人が、禍忌の肉体からデータを取られる事を阻止する為、ハイデルンの部隊の艦隊を構成していた一隻の戦艦を撃沈。禍忌の遺体は回収されてしまう。一方、オロチ覚醒の影響で庵は「血の暴走」を起こしており、疲労していた京は打ちのめされ、真吾もまた暴走した庵によって重傷を負わされるも、そこへアッシュが姿を見せる。その後、決着がついていたその場では、京、真吾、庵の三人が倒れており、そこへ駆けつけたエリザベートに呼び止められたアッシュは、彼女の事を「ベティ」と親しそうな名で呼ぶ。実は、アッシュとエリザベートの二人は、共に古の時代より「遥けし彼の地より出づる者」と敵対し彼等の野望を阻止すべく戦う「使命」を背負っていた一族の末裔であったのだが、同じ宿命を持っていたはずのアッシュは不可解な動向を繰り返す様になり、彼の行方を捜していたエリザベートは真意を訪ねようとするが、「使命なんて忘れた」とはぐらかすアッシュは前大会での宣告通りに庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を奪い取っていた。更には「八咫の鏡」の力も使いこなしていたアッシュはそのまま姿を消してしまい、またしても不穏な空気のまま、大会は幕を閉じる。また一方では、前回大会にて介入を行ったルガール・バーンシュタインの娘であるローズ・バーンシュタインが兄であるアーデルハイド・バーンシュタインと衝突。その心の隙を突く形で、「遥けし彼の地より出づる者」の一人である牡丹(ボタン)が、自らの術によってローズを操り人形にするのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "イラストはヒロアキが担当。ゲーム中のデモグラフィックなどはノナが担当。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "2009年4月10日にアーケードゲームとして稼動開始し、PlayStation 3、Xbox 360版が同年7月30日に発売(オンライン専売ソフトの配信を除いてSNKプレイモアの両ハード初のゲームディスクソフトとなった)。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "間にリメイク作品がリリースされたものの、正規のKOFシリーズでは約3年半振りの新作となった。本作では「KOF RE-BIRTH」を謳っており、新システム基板「Taito Type X2」での稼動に伴い、グラフィックを全てHDで新規に描き下ろしている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "キャッチコピーは「ライバルなど、いない。」。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "本作には『KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION \"A\"』と同様に特定の固定チームが存在しない。一部のキャラクターは声優が変更されている。 本作ではマルチシフト制を廃止し通常の3on3制に回帰した一方、クリティカルカウンターゲージMAX時に相手の攻撃を近距離強攻撃で潰す(カウンターを取る)と一定時間オリジナルのコンボを決められる「クリティカルカウンター」をはじめとする新システムが導入された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "当初はこの作品でアッシュ編の決着をつける予定だったが、紆余曲折の末に「本作はゲームストーリー展開は無し」という帰結点が採られ、アッシュ編の完結は次回作である『XIII』に持ち越された。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "2010年7月14日にアーケードゲームとして稼動を開始したのち、同年12月1日にはPS3/Xbox 360への移植版が発売された。 その後、2012年4月26日には、家庭用版の内容を元にしたアーケードゲーム『THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX』(以下:『CLIMAX』)が稼働開始した。 それから半年後の2013年9月12日にはNESiCAxLive対応版である『THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX for NESiCAxLive』が稼働開始した。 そして、2013年9月14日にはWindows向けの移植版である『THE KING OF FIGHTERS XIII STEAM EDITION』がSteamを通じて、『THE KING OF FIGHTERS XIII GALAXY EDITION』がGOG.comを通じてそれぞれ配信された。これは家庭用のDLCとして配信されていた3人を含めた36人のキャラクターが最初から使用可能で、グラフィックオプションの実装やネットワークコードの最適化など、PC向けの改良もなされている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "同作はアッシュ編三部作の最終章と位置付けられており、彼の行動の真意が明かされている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団による暗躍が起きていた2度に渡る大会より2年の年月が過ぎた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "「八咫の鏡」が破れたのに次ぎ「八尺瓊の勾玉」までもが堕ちてしまい、残された「三種の神器」は最早「草薙の剣」ただ一つとなってしまった。あまりにアクシデントが起きるキング・オブ・ファイターズは最早いわく付きの祭典として開催が危惧される事になっていたが、ある政財界の実力者による強引な推進により、むしろこれまで以上の空前絶後の勢いで開催される事態となった。これまでキング・オブ・ファイターズに参加してきた実力者達に次々と招待状が行き渡り、差出人の頭文字は『R』...かつてチーム戦形式となる最初のキング・オブ・ファイターズを開催したルガール・バーンシュタインの娘、ローズ・バーンシュタインであった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "世界中において、キング・オブ・ファイターズの開催で話題が盛り上がる中、前回大会の終盤でアッシュ・クリムゾンを取り逃がしたエリザベートは、南フランスの廃墟にて、過去の日々に想いを馳せていた。幼い頃、アッシュと共にお互いの一族を火災で喪ったエリザベートは、彼だけが背負った「使命」を共感出来る者となり、実の姉弟の様に暮らしていた。だが、次第に自らを避ける様になった彼は遂にその姿を晦ましてしまい、宿敵である「遥けし彼の地より出づる者」が活動を開始し、再会した時には「『使命』なんて忘れた」と明確な拒絶を受けてしまう。それでも、自らの「使命」を全うする事だけに固執するエリザベートは、アッシュを手に掛けてでも成し遂げようと決意を胸に秘め、かつてアッシュとチームを組んだ二人であるデュオロン、シェン・ウーの二人とチームを結成して参戦する。一方、傷が癒え世界を巡り旅していた京の元に「遥けし彼の地より出づる者」の一員であるシュルームとリメロの二人が現れ、シュルームからの襲撃を受けた京は難無くあしらい、彼から『R』の封蝋が刻まれた招待状を手渡される。大会にアッシュが出てくる事を仄めかされた上で彼等は去っていき、二度も辛酸を嘗めさせられたアッシュに借りを返すべく、京は日本へと戻り、紅丸、大門の二人と「日本チーム」を復活させて参戦するのだった。また一方では、前回大会で自らの力の源でオロチの呪縛の証にもなっていた「八尺瓊の勾玉」の力を奪われた庵であったが、それでもその実力は色褪せる事のない物となっていた。しかし、庵に対し、ちづるはオロチの呪縛から逃れられると説得しようとするが、オロチや八神家の因縁になどまるで興味無いと言わんばかりに庵は一蹴。そんな彼の前に、かつてチームを組み「血の暴走」によって手に掛けてしまったあのマチュアとバイスの二人が現れ、「遥けし彼の地より出づる者」がオロチの力を横取りしようとしている事実が気に食わなかった彼女達は、八神が炎の力を取り戻す為の手助けも兼ねて再度のチームの結成を提案。庵はアッシュへの借りを返し、そして今日を倒すべく「八神チーム」の再結成を受け入れる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "ローズによって開催されるキング・オブ・ファイターズの準備が進む中、常識を超えた力を持つ「遥けし彼の地より出づる者」によって二度も出し抜かれる事態となったハイデルンは、様々な手を尽くす形で「遥けし彼の地より出づる者」の能力や目的を炙り出そうとしていた。そんな彼に協力を依頼されたK'、クーラ、マキシマの三人は、サウジアラビアの南部に突如現れたとされる石造建築の遺跡の元へ訪れ、調査を開始。マキシマのデータ収集能力によって、その遺跡は約千年以上前より存在していた物とされ、通路を真っ直ぐ進んでいく中で三人は、強大な力を持つ「何者」かによって大勢の人間達が無残にも殺されていくかの様な光景を想起させる壁画を目の当たりにし、更にその先の部屋には「扉」にも見える巨大な石碑が鎮座していた。その頃、「遥けし彼の地より出づる者」の種族や能力について解析を続けさせていたハイデルンは、「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達には時空間を操る得意な能力がある事を突き止め、それによって生じる空間の歪みを〈ギャップ〉と命名。やはり今大会の裏にも「遥けし彼の地より出づる者」の暗躍がある事、そしてそれにアッシュが大きく関与している事を想定し、ラルフ、クラーク、レオナ達が選手として大会に参加する中、ブルー・マリー、ヴァネッサ、セス、ラモンのエージェント達に、会場内に潜入しての調査を行い、人類の脅威となり得る「遥けし彼の地より出づる者」の目的を未然に防ぐよう命令する。一方、ローズの豹変ぶりに困惑を隠せないでいたアーデルハイドは、突然キング・オブ・ファイターズの開催を宣言した彼女の真意を問い質そうとするも、彼女はまるで上の空の状態であり、アーデルハイドの言葉を意に返さないまま彼女によってキング・オブ・ファイターズの開会式が行われ、いよいよトーナメントが始まる事になった。どうすれば良いのか独り悩むアーデルハイドであったが、そこへアッシュが姿を現し、ローズの身に起きた真相を知らされ激昂。しかし、彼等の目的を問い質した時に「友達に聞けば?」と返されたアーデルハイドは、急遽かつてポーランドで知り合ったハイデルンと連絡を取り、事の経緯について説明する事になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "その頃、「遥けし彼の地より出づる者」側でも計画が着々と進みつつあったかに見えたが、計画は上手く進行していない状況にあった。前々回大会における無界の行動によってオロチの封印は解かれ、前回大会では紫苑と禍忌によってオロチの「気」の発見に成功。そして、今大会の開催中にて、牡丹に操られたローズによってオロチの氣の直上にスタジアムを建設させる事に成功し、「扉」を開く為の宴の準備は何とか整おうとしていた。しかし、ここまで来るのに時間が掛かり過ぎた以前に、未だにオロチは目覚める気配を見せず、更に計画実行のチャンスがたったの一度きりしかないという事実に、アッシュと瓜二つの姿をした「遥けし彼の地より出づる者」のリーダーである斎祀(サイキ)は苛立ちを隠せない様子を見せていた。一方、スカイノアのコンピュータ制御室で今大会の決勝戦が行われるスタジアムの「本来」の設計図を発見したアーデルハイドは、スタジアムの地下室に巨大な地下施設にエネルギー集積装置らしき物が設けられていた事実を突き止め、それがオロチに関連する物だと推測した上でハイデルンに報告する。ハイデルンからの指示を受けてエージェントチームが地下施設に辿り着いたその時、巨大な時空震が発生。スタジアム地表の<ギャップ>が急増する中、グラフパターンを過去の物と照合した結果、それが「オロチ」による物である事が発覚し、ハイデルンは部隊をスタジアムに向かわせる事を命令。ターゲットにアッシュ・クリムゾンを指定する。そして優勝チームが決定する中、斎祀は苛立ちを爆発させる寸前ながらも、どうにかオロチが覚醒した事で気を静め、計画を最終段階へと移行させる事になった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "彼等の真の目的...それはかつてのオロチの復活を巡る事件と同様、スタジアムで格闘家同士による熾烈な戦いをさせる事でオロチの覚醒を促し、その直後に自分達が保有するエネルギー集積装置に取り込ませる事で、「扉」を開く為の宴を起こす事にああった。そして、彼等の名乗った「遥けし彼の地」というのは「過去」を意味しており、扉は過去へ向かう為の所謂タイムマシンだったのである。三年前、「遥けし彼の地」から時空を超えて現代に跳んできた斎祀は、全ての人類が自分達の同族の奴隷と化し、世界の頂点に君臨する為の玉座が待っていると信じて疑わずにいたが、実際は自らが思い描いていた願望からは程遠く、人類を見くびっていた同胞達は失敗を重ねた末に、人類から隠れて生きていかなければならないまでに落ちぶれ、滅亡寸前にまで至っていた。この事態に強い不満を覚えた斎祀は、再び過去に戻って歴史を自分達の支配する世界へと正さなければならないと考え、ここ三度に渡るキング・オブ・ファイターズにおいて暗躍を重ねていたのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "主催者のローズが優勝チームを称える中、突如時間が停止した直後に「遥けし彼の地より出づる者」が総勢で姿を現し、その中央には斎祀の姿もあった。「時間が無いからとっとと配置に付け」と尊大な態度を見せる彼の指示を受け、部下達は次々と「宴」を始める為の配置へつこうとするのだが、武人として優勝チームとの決着を望んでいた無界は自分が戦うと主張。それに苛立った斎祀は無界を殺害してしまう。そして自らの真の姿を露にした斎祀は、彼等の憎悪や憤怒、最高級の闘気を励起させて目覚めつつあるオロチに捧げる為に襲い掛かり、死闘を演じる。だが、戦いの中で突如「扉」が閉まり始める事態となり、配置についていた牡丹は扉の時球の幾つかか消えている事実に気付き、それを聞いた斎祀が動揺する中、一人の人間の拳が彼の心臓を貫く。その正体は行方の分からなかったアッシュであり、最初から「草薙剣」を奪う意志は無く反抗の機会をずっと窺っていた彼は、この瞬間をずっと待ち続けていたのだった。しかし、斎祀の醜悪な執念はまだ死んでおらず、その魂に身体を乗っ取られてしまったアッシュは「血の螺旋に狂うアッシュ」として優勝チームに襲い掛かる。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "だが、アッシュの身体を乗っ取り人類の力を終始見くびり続けていた斎祀は敗北。そこへ駆けつけたエリザベートがアッシュに呼びかけ、斎祀は最後の手段としてアッシュにまだ完全に閉まる前の扉の中へと飛び込むよう促すが、アッシュはそれを拒否。自分の全てを理解していると傲慢な態度を見せた斎祀に対し、「ボクは、この世界の事が結構気に入っているんだ」という嘘偽りのない返答を出す。この結果、過去と未来の矛盾が発生してしまった斎祀はタイムパラドックスによって消滅を迎える事になり、情けなく悲鳴を挙げ続けながら、斎祀は消滅。しかし、それは同時に斎祀の子孫であるアッシュ自身の消滅を意味しており、エリザベートに無邪気な笑顔を見せたアッシュは「自分がこの世界に『存在しなかった』事になる」と告げ、必死にアッシュに呼びかける彼女に詫びを入れるのと同時に、アッシュもまた消滅した。その頃、ハイデルンの元には「フレイム・オブ・ノヴァ」と名乗る送信者から未確認のアドレスからのメッセージが届き、中身となる音声ファイルを自らの専用回線で再生させたハイデルンは、彼の全ての真意を知る事になった。だが、斎祀やアッシュがタイムパラドックスで消滅した事で、彼に関する記憶を全ての人間が失う事となり、それが起こる前にハイデルンは部隊の引き上げ準備を命令。牡丹によって操り続けられたローズもまた、傀儡の糸から解放される事になり、それを抱きとめたアーデルハイドは、自分の中の「何か」に関する記憶が薄れていく違和感を感じ取っていたが、妹であるローズを守りきったという事実だけを確信する事にする。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "アッシュの消滅によって、ちづるは「八咫の鏡」の力を取り戻し、庵もまた「八尺瓊の勾玉」の力を取り戻そうとしていた。だが、勾玉がひび割れているのは「660年という長い年月により八尺瓊とオロチの契約を不可分としていた証」であり、これを手中に収める事で庵は炎を取り戻すが、同時にまた「オロチの呪縛」に縛られ続ける事も意味していた。マチュアとバイスの二人は、本当に勾玉を取り戻してしまっても良いのかと庵の身を案じるが、庵は迷う事無く勾玉を手中に収め、高笑いと共に紫炎の力を取り戻す。そしてそのままの勢いで、庵はキング・オブ・ファイターズの会場にいる京を襲撃。何か重大な事を忘れて思い出せない事に違和感と苛立ちを覚えるも、目の前にいる庵にぶつけて解消する事を決意。京と庵...二人がぶつかる形で今回のキング・オブ・ファイターズは幕を閉じるのだった。「なべて世は事もなし......」。何処かからその言葉が笑い声と共に響いていた。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "その後、大会が完全に終わりを迎える中、他の者達と同様にアッシュの事を忘れ去ってしまったデュオロンとシェン・ウーの二人であったが、エリザベートと別れた後、何故か会場に留まり続けていた。二人は「誰か」と何かの約束をしていた気がするのだが、それが消滅したアッシュの事だった為に思い出す事は出来ず、ただ一人、アッシュの事が記憶に残っていたエリザベートは、彼の形見となったカチューシャを手に涙を流すのだった。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "かくして、斎祀の消滅によって自分達「遥けし彼の地より出づる者」の運命が決定付けられた彼等は、生き延びた牡丹を始め再び人々の集団の中へと還っていき、彼等を巡る人類の未来を賭けたキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。ただ一人、運命に抗い続けたアッシュ・クリムゾンの消滅と共に...。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "『THE KING OF FIGHTERS XIV』は、2016年8月25日にPlayStation 4用ソフトとして発売された後、2017年6月16日にSteamでMicrosoft Windows 7 版『THE KING OF FIGHTERS XIV STEAM EDITION』が配信され、DLCキャラクター・衣装に加え「デジタル・アートブック」「デジタル・サウンドトラック」も収録した『DELUXE PACK』も同時発売された。さらに2017年6月29日には家庭用からの逆輸入という形で、NESiCAxLive2に対応したアーケード版『THE KING OF FIGHTERS XIV Arcade Ver.』が稼働開始。家庭用でのDLC要素は最初から搭載され、DLCキャラクター4人とボスキャラクターのアントノフとバースが最初から使用可能になっている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "2021年1月7日に全てのDLCキャラクター&コスチュームを収録した、PS4版『THE KING OF FIGHTERS XIV ULTIMATE EDITION』のダウンロード版を配信し、後にパッケージ版を2021年3月11日発売した。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "ナンバリング作品第14弾である同作はKOF新編と銘打たれており、新キャラクターのシュンエイを中心として新たな物語が展開される。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "物語の時系列はアッシュ編のその後であり、プレイキャラクターではないものの前シリーズヒロインのエリザベートが大会の裏で暗躍していたり、シュンエイが本作の最終ボス・バースと何らかの繋がりがあることなどが示唆されている。また、過去シリーズのオロチ編やネスツ編などの要素も盛り込まれている。 グラフィック面の特徴としては、本編シリーズとして初めて3Dポリゴングラフィックスが採用されている。システム面の特徴としては、従来の3on3チームバトルのほかに、オンライン上での3人1組のチームによるバトルが楽しめる「パーティバトル」が加えられている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "2022年2月17日にPlayStation 4、PlayStation 5、Xbox Series X/S、PC(Windows 10・Epic Games・Steam)で発売。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "『XIV』から引き続き3Dグラフィックとなっており、各種演出はブラッシュアップされている。", "title": "ナンバリングタイトル" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "2004年7月27日稼動。シリーズ初のATOMISWAVEでの作品。開発はナンバリングタイトルとは異なりノイズファクトリーが担当。内容は『2002』をベースにして制作されたマイナーアップバージョンのような作品であるが、本シリーズには含まれない。『2002』と同じくストーリー設定はなしだが、一部参戦キャラクターや最終ボスなどは変更されている。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "3種類のモードを選択可能。A - Eの5ボタン。Eは、体力を徐々に減少させる代わりに体力が1/4以下になるか、相手の攻撃を受けるまで攻撃力を2割ほどアップさせる「ヒートモード」を発動するためのボタンである。AW-NETに対応しており、同ハード共通カード使用による特典あり(いわゆるエントリーカードが使用できるのはこの作品のみ)。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "操作モードを必殺技を必殺技でキャンセルできる「スーパーキャンセル」、専用攻撃で相手のガードを崩す「ガードブレイク」、MAX2が使用できる「MAX2」から選択できる。一部のモードではガードキャンセルふっとばしが使えないなどの変化はあるが、基本的なシステムは変わらない。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "ATOMISWAVE筺体では新作の『XI』に変わり、ネオジオでは引き続き『2002』が長期間稼働したこともあり、稼働期間は短かった。また、本作の最終ボスは『'96』でボスチームとして登場したギース・ハワードが『龍虎の拳2』に登場した頃の若い姿で務めている。イラストは中野友和が担当。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "家庭用ではPS2およびXboxで発売されている。Xbox版は日本のXbox最後の新作ソフトである。PS2版ではK9999を除くAC版『2002』の出場キャラクターが全員登場することになった。レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "3D格闘ゲームとして製作された外伝シリーズ。略称は『MI』、もしくは『KOF MI』。当初はPS2で展開してきたが、後にXboxやアーケード(システム基板は「Taito Type X2」)でも登場した。PlayStation 3やXbox 360での作品も予定されていたが、発売中止となった。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "1998年10月28日にネオジオポケット(モノクロ)本体と同時発売。R-1は「ラウンド ワン」と読む。『'97』をベースにしており、熱闘シリーズ同様に抜粋されたメンバーが登場するが、本作では独自の公式チームが組まれている。ニューフェースチーム(本作では「フェース」が長音)以外は、新しいチームを組んでの参戦となる。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "隠し要素として、簡単なコマンドで必殺技が出せる「あばれモード」が搭載されている。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "1999年3月19日にネオジオポケットで発売。R-2は「ラウンド ツー」と読む。モノクロ本体でも遊べるが、今作ではネオジオポケットカラーにも対応し、この場合はカラー表示となる。『'98』をベースにしているが、『'98』にはいない藤堂香澄も登場。また、全キャラクターが単体で乱入キャラクターとして登場する可能性があり、一度ゲームをクリアした後は乱入キャラクターが1プレイ内に最大2体まで出現するようになり、2体目に出現する隠しキャラクターを倒すと解禁される。前作よりもCPU戦の難易度は下がっている。本作のみの特徴として、「テク」を集めて好きなキャラクター1人をカスタマイズし強化する「メイキングモード」がある。また、前作にあった「あばれモード」が標準で選べるようになった。1999年10月21日には価格の下がったキャンペーン版も登場。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "2020年8月6日よりNintendo Switchにて「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION」シリーズとしてキング・オブ・ファイターズ R-2が移植版が配信された。レイティングはCERO:A(全年齢対象)。1本で2人対戦が可能だが、原作にあったドリームキャスト通信機能は非対応。2021年3月18日配信のコレクションソフト『NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.1』にも収録。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "2002年1月1日にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売。開発はアートゥーン。サブタイトルは日本語に訳すと「新しい血統」、つまり新キャラクターを意味している。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "任天堂の携帯ゲーム機向けとしては4年半ぶりの新作。SNK倒産後の発売だが、クレジットやタイトルデモにはSNKロゴが表示される。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "『'99』のデザインと『2000』のシステムを主にベースとした作品だが、ストーリーはオロチ編を継承した新たなものになっている。新キャラクターの葉花萌の声優に千葉麗子を起用。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "チーム構成はメイン3名+ストライカー1名という構成になっている。ストライカー専用のみとして登場するキャラクターはメインで使用することはできず、各チームのストーリー上もメンバーとしては存在しないような扱いになっているが、チーム単位のストーリーは正規のストライカーも加えないと見ることができない。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "発売前は期待が集まっていた作品ではあったが、実際に発売された製品版は不具合が非常に多く、ゲームがフリーズする、操作ができなくなるなど一部プレイに支障が出るものもあるほどだった。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "2003年1月1日にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売、開発はサン・テック。『EX』の続編で、前作同様に『2000』を基本にしている。前作に存在した不具合などの問題点は大幅に改善されている。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "前作の葉花萌に加え、新たに大神零児、華守純、黒咲壬羽、天羽忍(最終ボス)の4名のオリジナルキャラクターが登場し、オロチ編に沿った新たな設定として「十種神宝」を中心としたストーリーが展開される。ストライカーのシステムも変更され、次の順番のキャラクターがストライカーを務めるようになった(3人目はストライカーを使用できない)。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "1995年2月1日にMVSで稼動したクイズゲーム。発売元はザウルスで、同社のマスコットだった恐竜のキャラクターが随所に登場している。家庭用はネオジオROM版が1995年3月10日、ネオジオCD版が1995年4月7日に発売。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "タイトルに『キング・オブ・ファイターズ』とついているが、草薙京などの『KOF』オリジナルキャラクターは登場しない。また、タイトルロゴのデザイン上では中黒が省かれた『クイズ キング オブ ファイターズ』のように表記されている。登場キャラクターは、『餓狼伝説』(『SPECIAL』準拠のデザイン)と『龍虎の拳』(『2』準拠のデザイン)に加え、本家『KOF』には参戦していなかった『サムライスピリッツ』(初代準拠のデザイン)から選ばれている。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "ストーリーの大筋は、謎の組織「Q」に誘拐されたユリを救出するため6人の勇者(テリー・ボガード、不知火舞、リョウ・サカザキ、ロバート・ガルシア、覇王丸、ナコルル)が立ち上がるという、初代『龍虎の拳』をなぞらえたような展開で、『龍虎の拳』のボーナスゲーム「超必殺技伝授」と同様のボーナスゲームが今作にも取り入れられている。ゲーム内容はパロディ色が強く、コメディ調の世界観となっている。また、劇中の地名はサウスタウンではなく『クイズ大捜査線』と同じ「クイズシティー」となっている。ただし、ネオ&ジオを始めとする『大捜査線』の面々は本作には登場しない。本編との繋がりは特になくギャグ調のストーリーだが、舞のエンディングは『KOF』へと続くものになっている。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "6名のプレイヤーキャラクターから1人を選択し、ルーレットを止めてスゴロク式のマップを進んでいくと、出題者キャラクターがプレイヤーにクイズ勝負を挑んでくる。クイズ形式はオーソドックスなノルマ達成型の4択問題。途中『クイズ大捜査線』にもあった連打クイズや間違い探しなども登場する。道中で歴代のSNK格闘ゲームのキャラクターたちがクイズを挑んでくることがあり、こちらは後述の「格闘クイズ」形式となる。各章の最後には固定ボスキャラクターが待ち構えており、第一章は暴走族のリーダー、第二章はマフィアの首領、第三章はタクマ・サカザキ、第四章はトーナメントのチャンピオンと戦うことになるが、タクマ以外のボスはギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、天草四郎時貞の3人からランダムでそれぞれの役割に割り当てられる。第四章でチャンピオンを倒した後は該当のボスが正気を取り戻して黒幕の正体を暴き、「Q」の首領キューリッチとの最終決戦に入る。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "クイズノルマ達成時にお金やクイズを有利に進められるアイテムが手に入ることもある他、マップの途中にあるショップでお金を支払ってアイテムを購入可能。ただしアイテムには所持数制限がある。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "ボス戦や対戦モードでは特殊な「格闘クイズ」となり、クイズに正解して敵にダメージを与えていき、敵の体力を0にすれば勝利となる。答えるまでの経過時間によって、「必殺技(強)→必殺技(弱)→ジャンプ攻撃→大キック→大パンチ→小キック→小パンチ(『サムライスピリッツ』のキャラクターのみ通常技が大斬り→中斬り→小斬り)」と技の威力が減少していくため、早く正解すれば派手な必殺技で大ダメージを与え、少ない問題数で倒すことができる。また、必殺技発動前に素早くキャラクター毎のコマンドを入れることで、さらに強力な「超必殺技」に変化させられる。対戦では通常の6名に加え、タクマ・サカザキ、ギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、天草四郎時貞のボス4名も使用可能。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "1998年8月27日にPlayStationで発売。格闘ゲームではなく、夏元雅人による同名の漫画『ザ・キング・オブ・ファイターズ 京』をベースとしたアドベンチャーゲームとなっており、対戦はコマンド指示形式で行われる。『KOF'97』の開催直前が舞台となり、大会に出場するチームメイトを探していく。イベント時にはほとんどのキャラクターがボイス付きで会話するが、登場するKOFキャラクターの中でクラークのみボイスがない(セリフはある)。また、ゲーム作品では本作のみに登場するキャラクターも存在する。ゲーム中でのイラストも全て夏元雅人が担当している。開発元は夢工房。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "1999年9月9日には「SNKベストコレクション」として廉価版が発売。また、2007年6月28日にはゲームアーカイブスでもザ・キング・オブ・ファイターズ 京として配信された。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "2000年7月6日に発売されたネオジオポケットカラー専用ソフト。2022年11月10日に配信されたPC/Nintendo Switch用ソフト「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.2」にも収録されている。 双六形式のボードゲームで対戦する同作は、多くのスターを集めることが目的である。途中会話イベントなどがあり、選択肢次第でストライカーがダークかジャスティスの性能にチェンジする。また、ゲーム中チャレンジできるミニゲームがかなり豊富である。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "このソフトはDC版『'99 EVOLUTION』との連動機能があり、ST霧島翔、天童凱は連動が無ければDC版『'99』では使用することができなかった。またDC版『'99』での追加のSPストライカー(セス&ヴァネッサ除く)のレベル(最高3)を上げるのにも欠かせないソフト。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "主人公の一人、ユウGは『ネオジオバトルコロシアム』の背景にも登場している。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "このソフトをネオジオポケットで起動すると、「このゲームソフトはネオジオポケットカラーせんようです モノクロにはたいおうしていません」と通常は警告文が表示されるが、数秒待つとさらに「...が」のメッセージが現れた直後「PLAY YO・SA・KU GAME」タイトル画面が表示され、隠しゲーム『与作』(新日本企画時代制作、1979年作品)のアレンジ移植がプレイできるようになる。この「YO・SA・KU」はカラー本体においても、ゲーム内のポイントであるAPを100万以上溜めることで解禁される最後の隠しバトルゲームとしてプレー可能になる。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "2010年1月22日稼動のアーケードゲーム(システム基板はTaito Type X)。「正闘派シューティング」と銘打たれた、シリーズ初の縦スクロール型シューティングゲームとなっている。KOFのキャラクターを操作し、現れる敵を倒していく。2人プレイモードもあり、協力プレイもしくは対戦プレイを選択できる。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "2010年7月29日に発売のPSP用ソフト『ネオジオヒーローズ 〜アルティメット シューティング〜』にもカップリング収録。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "2010年9月15日には、Xbox 360のXbox LIVE アーケード用ソフトとしても配信が開始された。レイティングはCERO:B(12才以上対象)。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "韓国のスタジオDragonflyが開発したオンラインゲーム(Massively Online Battle Arena)。2013年9月4日にクローズドβテストが行われ、その後本格稼働した。", "title": "スピンオフ作品" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "家庭用ゲーム機で発売されたタイトルには複数タイトルを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "『ネオジオフリーク』を刊行していた芸文社による小説アンソロジーや、ドラゴンノベルス(KADOKAWA)より出版された八神庵が異世界へ転移するという設定の『THE KING OF FANTASY 八神庵の異世界無双 月を見るたび思い出せ!』シリーズ(著者:天河信彦、挿絵:おぐらえいすけ(SNK))などがある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "他、4コマ・アンソロジーが宙出版、光文社、新声社、スタジオDNA、ブロッコリー、ホビージャパン、ムービック、双葉社から発売されている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "パチスロ版 ザ・キング・オブ・ファイターズは2004年春、4号機大量獲得機として販売手前まで行ったが、各メーカーが射幸性の高い機種を見直す時期に差し掛かり、この機種も射幸性が高い機種であったため、自主的に販売を取りやめた。現在は携帯サイト『サミー777タウン』内でのみプレイ可能。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "2006年5月下旬、上記の問題点を見直し、さらに『サムライスピリッツ』に登場するナコルルの演出も加えた5号機の稼働を開始。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "2007年6月上旬、ネスツ編をベースにした続編『KOF2』の稼働を開始。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "2012年10月、アッシュ編をベースにした『KOF3』の稼働を開始。", "title": "関連作品" } ]
『ザ・キング・オブ・ファイターズ』は、1994年にSNK(旧社)がゲーム機「ネオジオ」で発売した対戦型格闘ゲームのシリーズ名、またその劇中で開催されている世界規模の格闘大会の名称。元々は同社の対戦格闘ゲーム作品『餓狼伝説』シリーズおよび『龍虎の拳2』の舞台である格闘大会。 公式な略称は、頭文字を取った『KOF』(ケーオーエフ)。SNKはこの略称も商標登録している。 なお、台湾では『格鬥天王』、香港と中国大陸では『拳皇』と訳される。
{{出典の明記| date = 2022年11月}} {{混同|キング・オブ・ザ・モンスターズ}} {{コンピュータゲームシリーズ |タイトル = ザ・キング・オブ・ファイターズシリーズ |開発元 = |発売元 = [[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](1994 - 2000)→<br />SNKプレイモア(2001 - 2016)→<br />[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]<ref name="sinsnk"/>(Present) |ジャンル = [[対戦型格闘ゲーム]] |1作目 = THE KING OF FIGHTERS '94 |1作目発売日 = [[1994年]][[8月25日]] |最新作 = [[THE KING OF FIGHTERS XV]] |最新作発売日 = [[2022年]][[2月17日]] |スピンオフ作品 = |公式サイトURL = https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-portal/ |公式サイトタイトル = THE KING OF FIGHTERS OFFICIAL WEB SITE }} 『'''ザ・キング・オブ・ファイターズ'''』(THE KING OF FIGHTERS)は、[[1994年]]に[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](旧社)が[[ゲーム機]]「[[ネオジオ]]」で発売した[[対戦型格闘ゲーム]]のシリーズ名、またその劇中で開催されている世界規模の格闘大会の名称。元々は同社の対戦格闘ゲーム作品『[[餓狼伝説]]』シリーズおよび『[[龍虎の拳|龍虎の拳2]]』の舞台である格闘大会。 公式な略称は、頭文字を取った『'''KOF'''』(ケーオーエフ)。[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]](新社、旧社名:SNKプレイモア)はこの略称も[[商標]]登録している。 なお、[[台湾]]では『'''格鬥天王'''』、[[香港]]と[[中国大陸]]では『'''拳皇'''』と訳される。 == 概要 == このシリーズ作品では、基本的にプレイヤーは3人一組(作品によっては4人1組)のチームを選択し、他のチームと勝ち抜き戦を行うというシステムである。 同時代にリリースされていたSNKの対戦型格闘ゲーム『[[餓狼伝説]]』と『[[龍虎の拳]]』、および1980年代のアーケードアクションゲームである『[[怒 (ゲーム)|怒]]シリーズ』や『[[サイコソルジャー]]』など、SNKのキャラクターたちが作品の垣根を越えて一つの格闘大会に出場して覇を争う「'''ドリームマッチバトル'''」という設定をコンセプトに製作された。『餓狼伝説』シリーズで使われていた避け攻撃に加え、相手を遠くに吹っ飛ばす”ふっとばし攻撃”、相手の攻撃を完全にかわす”攻撃避け”、などの要素が追加された。キャラクターは『餓狼伝説』や『龍虎の拳』をふくめて描き起こしで調節がされている<ref>{{Cite book|title=月刊電撃王9月号|date=1994年9月1日|year=1994|publisher=主婦の友社|page=132}}</ref>。だが、同じくSNKのヒット作である対戦型剣劇ゲーム『[[サムライスピリッツ]]』のキャラクターは「当時、KOFのゲームエンジンの基礎の部分に、武器やママハハといったキャラクターとは別のスプライトを被せる仕組みが組み込まれていなかった」という理由で本シリーズには参戦していなかったが{{efn2|ただし、一部の外伝作品にはプレイヤーキャラクターとして参戦していたり、本編においてもストライカーや背景キャラクターとして登場している者もいる。}}<ref name="sinsnk">[https://www.4gamer.net/games/317/G031749/20160613002/ 新生SNKのモノ作りはここから始まる。「餓狼MOW2」の話題も飛び出した,「THE KING OF FIGHTERS XIV」開発陣インタビュー] 4Gamer.net、2016年6月25日</ref>、『[[THE KING OF FIGHTERS XIV]]』より同作の[[ナコルル]]が正式参戦した。 また一方で、客演キャラクター以外にも、物語を動かす主要人物として生み出された、三種の神器の一族、オロチ一族、秘密結社ネスツなど『KOF』オリジナルキャラクターが登場する。新作の都度、チームの構成を変えるなど、時にはかつてのライバルや宿敵ともチームを組んで戦うことができ、これまで登場したキャラクターは100人以上にも及ぶ。3vs3という対戦格闘ゲームのチームバトルの基礎を築いた作品である。 [[1994年]](平成6年)から毎年新作がリリースされているが、[[2001年]](平成13年)はSNK(旧社)の[[倒産]]にともないサン・アミューズメントが、[[2002年]](平成14年)以降はプレイモア→SNKプレイモア→[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]](新社)が販売している。SNKプレイモアは[[2016年]](平成28年)に数年ぶりの新作となる『XIV』リリース発表に合わせ、社名を「SNK」に戻した<ref name="825snk">{{Cite web|和書|url=https://www.jp.playstation.com/blog/detail/2915/20160426-kofxiv.html|title=『KOF XIV』の発売日が8月25日に決定! "SNK"ブランドの復活のニュースも飛び出した、プレス発表会レポート|publisher=PlayStation.Blog|accessdate=2016-09-12}}</ref>。 ゲームは主に男性の対戦格闘ゲーマーに支持されているが、登場キャラクターは女性人気が高い。シリーズを通しての主要人物である、草薙京とそのライバルの八神庵は特に女性人気が高く、両者の関連グッズの購入者はほとんど女性である<ref>『マーチャンダイジングライツレポート』1997年11月号</ref>。 [[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]などのアジア圏にも人気があり、日本と同様のファン層を有している。 複数のゲーム作品のキャラクターが同一世界に共存する'''「[[クロスオーバー作品]]」'''として始まったゲーム作品であるため、原典となるゲーム作品群とは辿った歴史の異なる'''“[[パラレルワールド]]”'''としての物語を展開している。例として挙げると、原典となるゲーム作品では『龍虎の拳』は『餓狼伝説』の10年以上前が作品の舞台だが、本作では両作品のキャラクターが同時代の人物として大会に参加している。 作品が新作へと進むごとに劇中でも時間は経過しているものの、一部の主要人物が物語の進展に応じて要所要所で若干成長することはあるが、基本的には登場人物の年齢は設定されておらず歳を取らない。製作者いわく「『[[サザエさん]]』のような感じと思っていただいて構わない」とのこと<ref>[http://www.famitsu.com/news/201608/22113485.html 『ザ・キング・オブ・ファイターズ XIV』発売直前インタビュー―開発秘話からアップデート情報、懐かしのネオジオ話まで!]の[https://www.famitsu.com/news/201608/22113485.html?page=3 3ページ目]より(『'95』で1つ歳を取って以降は固定) ファミ通.com、2016年8月22日</ref>。 == ゲームシステム・主な用語 == 8方向レバー(家庭用では十字キー)+A(弱パンチ)・B(弱キック)・C(強パンチ)・D(強キック)の4ボタンで操作する。作品によってはEが加わり5ボタンとなる。 === 基本ルール === ゲーム開始後、3人のプレイヤーキャラクター(作品によっては1チーム)を選択。お互いのプレイヤーにキャラクターが決定した後は3人を出す順番を決め、ゲームを開始する。キャラクターの順番は試合ごとに変えることができる。最初のラウンドではお互いに1人目のキャラクターが登場し、1人目を倒された側は次のラウンドで2人目のキャラクターが、2人目を倒された側は次のラウンドで3人目のキャラクターが登場し、先に3人目を倒したプレイヤーの勝ちという勝ち抜き方式。ラウンドを勝利したキャラクターは残り時間などに応じて一定量の体力が回復する。 === '94・'95でのゲームシステム === 『餓狼伝説スペシャル』や『龍虎の拳』のゲームシステムを折衷した形のゲームシステム。『'97』『'98』では「EXTRA」という操作モードとして用意されている。 ;ダッシュ・バックステップ :前または後ろに素早く2回レバーを入力。一足飛びで素早く前進する。 ;攻撃避け :A・B同時押しで使える。その場で回避行動をとる。これは『餓狼伝説』のライン移動がモデル。『'95』、『'98』のEXTRAモードでは避け動作中にボタンを押すと専用の攻撃('''カウンター攻撃''')ができる。『'96』では大門とクラークのみ、『2002』ではシェルミー(裏は不可)のみが固有の技として使用可能。 ;ふっとばし攻撃 :C・D同時押しで使える。名前の通り相手をふっ飛ばす=ヒットするとダウンする攻撃を出す。他にも、判定が強い・キャンセルが可能という特徴がある。『[[餓狼伝説スペシャル]]』でのライン飛ばし攻撃が元になっている。ジャンプ中にも出すことができるが、この場合は立ち・しゃがみどちらでもガード可能になる。それぞれ「地上」・「空中」とつけて区別される。 ;挑発 :B・C同時押しで挑発を行い相手のパワーゲージを減らすことが可能。 ;パワーゲージ :体力ゲージとは別のゲージ。A・B・C同時押しで'''パワー溜め'''動作を行うことで溜めることができるほか、相手の攻撃をガードすることでも溜まっていく。また、'''挑発'''することで相手のパワーゲージを減少させることができる。 :最大まで溜まると'''パワーMAX状態'''になり、攻撃力が1.5倍に上昇し、超必殺技が1回だけ使用できるようになる。パワーMAXは超必殺技を使用するか時間経過で自然解除される。 ;超必殺技 :特殊なコマンド入力で使用できる必殺技より強力な必殺技。体力が減少して赤く発光している状態かパワーMAX時に使用できる。後述のMAX超必殺技のある作品では、この両方の条件を満たすことで使用できるようになる。 :システムを大幅に刷新した『'96』でもこのパワーゲージや超必殺技のシステムは継承されている。 ;ガードキャンセル :ガード中に必殺技を出して反撃する『'94』では連続ガードしなければ使えなかったため使用機会はほぼ皆無だったが、『'95』ではパワーMAXになればガードさえすればいつでも何回でも出せたため、その攻撃力と相まってガード待ちが非常に強力な戦法となった。 :『'96』以降では、『'95』以前を再現したEXTRAでもこのガードキャンセルは再現されていない。 ;援護攻撃 :『'98』まで存在したシステム。つかみ技を受けているか気絶中に、背景の控え中のキャラクターが飛び込んできて相手の攻撃を阻止する。『'96』以降はキャラクター同士の相性によっては全く援護してくれない場合もある。背景に控え中のキャラクターがいない『'94 RE-BOUT』では、ストライカー同様に画面外から飛び込んでくる。下記の3つの条件(作品によっては2つ)を満たした時にA・B・Cボタン同時押しで援護攻撃(ヘルプアタック)となる。 :# 気絶している、または相手の掴み技を受けている。 :# 出場前のメンバーが画面内に見えている。 :# 体力ゲージが相手より少ない。 === '96以降のゲームシステム === 従来のシステムは『'95』で完成していたものの、ゲームスピードが遅く、またキャラクター性能が波動昇龍に偏りすぎていることが待ちを助長することを憂い、相手に向かって前進していく攻撃的なプレイができるようにゲームシステムを大幅に変更している。『'97』『'98』では「ADVANCED」という操作モードとして用意されているため、その2作における説明の場合は、本項ではそのモードの解説として記す。 ;ダッシュ :前に2回レバーを入力するとキャラクターが相手に向かって走っていく。レバーをニュートラルに戻すことで急停止することができ、従来のものより柔軟性が高い。バックステップは従来同様。 ;緊急回避 :打撃に対し無敵状態になりながら一定距離を移動する行動。A・Bボタン同時押しで使用できる。通常は前方に、レバーを進行方向と逆に同時入力すると後方に移動する。 :『'96』の「緊急回避」は避けの機能としては薄く(無敵状態の時間が短く)、相手との間合いを詰める(相手の裏へ移動する)、あるいは離す程度の機能しかなく実用性はイマイチであった。『'97』以降では避け機能が強化された。 :『2002』、『XI』ではパワーゲージを消費することで、自分の通常技をキャンセルして緊急回避を行うことができる('''クイック緊急回避''')。『'98 ULTIMATE MATCH』ではこれに加えて攻撃避けでキャンセルする「'''クイック攻撃避け'''」も可能。 ;のけぞり :攻撃をヒットさせた際の食らった相手の状態を指す。食らい硬直、食らいポーズとも呼ぶ。のけぞっている間は操作不能になるので更に追撃することができる。のけぞり状態は当てた攻撃の種類によってのけぞっている時間が異なる。のけぞり時間は弱攻撃を当てた時よりも強攻撃を当てた時の方が長いことが多い<ref>{{Cite book|title=月刊ネオジオフリーク 12月号|date=1998年12月1日|year=1998|publisher=芸文社|pages=84,85,}}</ref>。 ;ふっとばし攻撃 :『'95』までと同じ。 ;ジャンプのバリエーション :『KOF』の特徴の一つに「ジャンプにバリエーションがある」という点がある。ジャンプが普通のジャンプに加えて、高度も低く距離が短い「'''小ジャンプ'''」と、高度は低いが長い距離を移動できる「'''中ジャンプ'''」、通常より高く飛ぶ「'''大ジャンプ'''」(『'95』から存在)が用意され、4種類のジャンプを使い分けることができる。 ;パワーゲージ :『'96』のみゲージ周りのシステムは『'95』以前のものと変わらないが、『'97』以降はパワー溜め動作が廃止され、主に相手に攻撃を当てるかガードさせたり、必殺技を出すといった攻撃行動を行うことで溜める仕様に変更。加えて、ガードしたり、攻撃を喰らった場合でも微弱ながら一応溜まる。また、『'97』からは時間制限なしに複数本ストックできる形式のパワーゲージが登場した。 ;アドヴァンテージシステム :『'98』以降のタイトルで導入されているシステム。味方が1人敗北する毎に、パワーゲージの最大ストック上限が1本増加し、最大5本まで貯められるようになる。 :ネスツ編3部作のみ、このシステムは採用されていない(『'99』『2000』では代わりにストライカーストックの(最大)個数が1個増える)。 ;超必殺技 :パワーゲージストックを1個消費して使用できる。また、パワーMAX中にはMAX超必殺技という超必殺技の上位版が使用でき、通常の必殺技に比べて演出が派手になったりダメージが上昇するなどの効果を持つ。後年の作品ではパワーMAX状態にならずとも、コマンドをボタン同時押しすることでゲージを複数消費して使用できるなどの条件が追加されている(この場合、対応技が予め決まっていることもある)。 : 『'96』では使用時にキャラクターにエフェクトが出る。さらに『'97』からは使用時に背景が暗転して少し時間が止まる演出が出るようになり、これにより「パワーウェイブと見せかけてパワーゲイザー」などといった戦術は不可能になったが、逆に時間停止があることで連続技や対空などに使いやすくなるといったメリットも付与された。 : 『XIII』『XIV』ではゲージ3本消費のNEO MAX超必殺技やCLIMAX超必殺技が導入されている。これらはヒットすると全体力の半分程度を奪う強力なものとなっている。 ;ガードキャンセル :パワーゲージストックを1個消費して使用できる。ガードをすると即座に動けるようにはならないが、ガードの硬直をキャンセルしいきなり行動を起こす、特定の条件下で可能な行動。ガードキャンセルに使用できるのは前後への緊急回避とふっとばし攻撃。 ;ガードクラッシュ :相手の攻撃をガードし続けているとガードクラッシュが発生し、ガードモーションを崩しのけぞったようなモーションを見せる。このときガードができず、相手が攻撃を出していた場合はガードできずヒットしてしまう。また、一定時間内に連続攻撃からのガードを続け、許容量を超える最初の一撃を空中ガードの時に受けると空中でもガードクラッシュが発生する。 ;連続技 :通常技からキャンセルして必殺技に繋げて連続技にするという流れは本作にも存在している。 :本作独自の要素として、通常技をキャンセルして特殊技を出すことができ、このとき出した特殊技は性能が変化するようになっており、例えば通常しゃがみガード不能の特殊技なら、しゃがみガードされるようになる代わりに必殺技などでのキャンセルが可能になる(例外もあり)。これにより、このシリーズでは「通常技 → 特殊技 → 必殺技」という技の繋ぎが一般的なものとなっている。また空中判定になる特殊技を通常技キャンセルで出すことで、空中でのみ出せる必殺技へ移行できるキャラクターも一部存在する。 :また、相手を投げる必殺技も通常技からキャンセルすることで連続技に組み込むことができる。当初このシステムはジャンプ攻撃ののけぞりからも繋がる仕様であったが、『'98』以降はその仕様は廃止されている。 ;打撃防御(ガードポイント) :『'96』以降、キャラクターの一部の技に備わっている。技動作の途中に相手の攻撃をガードできる部分が発生し、相手の攻撃を受け止めながら攻撃を行うことができる。無敵技に近いが、あくまでもガードなので削りダメージは受ける。ガード不能の打撃技も受け止められるが、ガードクラッシュはしてしまう可能性がある。また、ガードであるが故に、投げには無力。 === ストライカー === ネスツ編で採用されたシステムで、援護攻撃の発展形として登場したもの。あらかじめ指定したキャラクターが画面外から登場し攻撃などを行う(キャラクターにより体力回復などの効果をもたらす場合もある)。ストライカーにしたキャラクターは対戦で戦わせることができなくなる。『2000』まではストライカーストックを消費して使えたが、『2001』ではパワーゲージストックを消費して使うシステムに変更されている。 ;アクティブストライカーシステム :『2000』より登場。ストライカーがストックがある限り、食らい中でなければほぼどこでもいつでも呼び出せるようになっている。 ;タクティカルオーダー :『2001』のみ採用されたシステム。ストライカーを0 - 3人まで選択可能で、ストライカーの人数次第で、パワーゲージの長さや最大ストック数が決まる。ストライカーが0人の場合はパワーゲージ1本のみでゲージの長さが最も長く、パワーMAX超必殺技が使用不可。ストライカーが1人増えるごとにゲージの長さが短くなり最大ゲージストック数が1個ずつ増える。ストライカーが2人以上の場合は、指定したキャラクターを任意でストライカーとして使用することができる。 === マルチシフト === 『2003』から『XI』までのシステム。対戦中に随時キャラクターを交代することができる。これに伴いラウンド制が廃止された。待機中でも体力が回復することはない。 ;リーダーシステム :3人のうちから1人を選ぶ(『2003』では選択画面で最初に選んだキャラクターに固定)。リーダーにしたキャラクターは超必殺技の上位版である'''リーダー超必殺技'''を使用可能なほか、『XI』では攻撃によるジャッジメントインジケーターの傾きがより大きくなる。 ;交代攻撃 :専用の攻撃動作を出した後素早く交代する。『2003』のみ。 ;スキルゲージ :『XI』で設定された、パワーゲージとは別に存在するゲージ。最大2本で、時間が経つごとに上昇する。これを消費してスーパーキャンセルやクイックシフト(後述)などが可能。 ;クイックシフト :通常の攻撃をキャンセルして交代する。『XI』で追加。 ;ガードキャンセルシフト :ガードキャンセルして交代する。『XI』で追加。 ;セービングシフト :のけぞり中に交代する。『XI』で追加。 === ゲージ消費関連 === ;カウンターモード :『'99』および『2000』にのみ存在するモード。パワーゲージを3本全て消費しつつ、ABC同時押しで発動する。 :このモード中はキャラクターが赤く光り、通常版のみではあるが超必殺技を無制限に出せ、「スーパーキャンセル」が可能になるという攻撃に特化したモード。また、攻撃による相手の硬直時間も長くなり、弱攻撃でも強攻撃ぶんの硬直を与えることができ、普段ではできない連続技が作り出せる。なお、この間に出した超必殺技は暗転+時間停止の演出がなくなるため、技によっては発生が遅くなる。 ;アーマーモード :『'99』および『2000』にのみ存在するモード。パワーゲージを3本全て消費しつつ、BCD同時押しで発動する。こちらのモードも上記同様、攻撃による相手の硬直時間が長くなる。 :このモード中はキャラクターが黄色く光り、ごく一部の攻撃以外では仰け反りも転びもしなくなるが、超必殺技は一切出せなくなる。また持続時間もカウンターモードに比べ短い。 ;スーパーキャンセル :特定の必殺技をキャンセルして超必殺技に連続させるシステム。『'99』『2000』ではカウンターモード中限定の行動であるが、『2001』以降ではキャンセル1回でゲージを1本消費するようになった代わりに、いつでもできるようになった。『NEOWAVE』では超必殺技だけでなく必殺技を出すことも可能。『XI』ではパワーゲージの代わりにスキルゲージを1本消費するよう変更された。 :他、『XI』以降は超必殺技から上位の超必殺技へキャンセルすることができるシステムも存在する。例えば『XIV』では超必殺技からMAX超必殺技へのキャンセルが可能なアドバンスドキャンセル、超必殺技からCLIMAX超必殺技へのキャンセルが可能なクライマックスキャンセルもある。 === 技の特性 === ;打撃投げ :『'95』で初登場。他の格闘ゲームでは「打撃投げ」といえばヒットすると投げ技に移行する打撃技のことであるが、『KOF』では投げ技と同様の条件で出すことができる、初段がガード不能な(もしくはガードクラッシュを誘発する)コンビネーションの打撃技のことを指す。 :『'98』以降はコマンド投げには投げ失敗時のポーズが出るようになったものの、こちらは『XI』まではそれが出ないためリスクは少なかった。 ;無条件追撃判定 / 特殊空中ヒット判定 :『'99』から存在する、キャラクターの一部の技が持つ特性。この特性があると、通常追い打ちのできない吹っ飛び・ダウン状態にヒットさせることができる。『'99』や『2000』ではほぼストライカー攻撃にのみ存在する特性であったが、中でも[[ジョー・ヒガシ]]のストライカー攻撃が非常に使いやすく、なおかつダウン中に当てると強制的に立ち状態になっていたので、大半のプレイヤーがジョーをストライカーにしていた。『2001』以降はプレイヤーキャラクターの技にも多く見られ始めた。「なんでも判定」と呼ばれることが多い。 === KOF MAXIMUM IMPACT === ;サイドステップ :『MAXIMUM IMPACT』シリーズでは前方・後方の緊急回避に加えて縦軸移動して回避する「'''サイドステップ'''」が追加され、これも動作中にボタンで専用の攻撃が出せる。移動後にボタンを押しっぱなしで円を描くように移動する「'''サークルモーション'''」となる。 ;スタイリッシュアート :『MAXIMUM IMPACT』シリーズでのシステム。レバーとボタンを決められた順番で押していくことで連続攻撃を出すことができる。キャンセルが利くため連続技に使えるものから、中段・下段の二択を迫れるものなどバリエーションは多数。 ;さばき :『MAXIMUM IMPACT 2』以降のシステム。『[[月華の剣士]]』の弾きに類似したもので、相手の攻撃に合わせることで少しの間無防備状態にすることができる。弾きと異なる点としてさばかれた側もさばきの入力を行えばさばき返すことができるが、入力タイミングは難しい。さばき返す代わりに、パワーゲージを消費することでキャンセルで緊急回避かふっとばし攻撃を行うことも可能。 == 設定 == ゲーム中の設定では、『[[餓狼伝説]]』の登場人物、[[ギース・ハワード]]がサウスタウンにて開催していたストリートファイトにいつしかスポンサーがつくようになり、全世界にTV中継されるような大規模な格闘大会に発展していったものである。 元々がストリートファイトであったための伝統から、試合はリングの上で行うようなことはほとんどなく、試合開始の合図とKOを宣言するレフェリーこそいるが基本的には野外などで行われている。ただし本シリーズにおける格闘大会「KOF」は、原典となる『餓狼伝説』や『龍虎の拳2』での同大会とは一部の設定が異なる。 全世界が注目する格闘大会であるため、優勝チームには莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が与えられる。しかし「平穏無事に終了したことは一度も無い」と言われるほど毎回決勝近くではトラブルが起こっている。これは大会主催者が[[ルガール・バーンシュタイン]]のような裏社会の権力者やオロチ一族のような存在だったり、ネスツといった秘密結社など後ろ暗い者たちが大会を利用したりするためである。そのため決勝近くもしくは決勝後は、大会主催者個人の空母や宇宙ステーションの秘密基地といった場所で、もはや格闘大会などではない殺し合いのような闘いが行われているが、世間には噂程度にしか伝わっていない。『餓狼伝説』シリーズでも大会主催者であるギースやクラウザーがテリーに敗北後、死亡するという問題が起こっており、『KOF』シリーズと違いこれは世間に知れ渡っている。対して『龍虎の拳2』では当時26歳の若いギースが第1回KOFを開催し、第1回KOF優勝者のリョウと殺し合いをするが、敗北した後は逃亡だけで済ませており、さらに莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉はリョウにしっかり与えたようで、大したトラブルとしては認知されなかったようである。 『XⅢ』までの『KOF』シリーズでの決勝近くもしくは決勝戦後のトラブルは噂程度しか伝わってなかったが、『XIV』ではそのトラブルが一部始終TVアナウンサーAMBCのクレメンス・ベラミーとTVカメラマンにより全て放送され、初めてKOFでのトラブルが世間に公表される事になった。更に毎回そのトラブルで『KOF』シリーズでは莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉が無かった事にされていたが、『XIV』のKOF大会主催者アントノフがKOF史上初の格闘ゲームでも稀に見る全く裏が無い主催者だった為に『KOF』シリーズ初の莫大な賞金と格闘家として最大級の栄誉を与えた上にチャンピオンベルトも与えられた。 出場する選手の中でも、大会の開催者が選んだ実力のある格闘家(『餓狼伝説』チームや『[[龍虎の拳]]』チームなど)には招待状が届き、シードとして各地域の決勝トーナメントからの参加となり、小説版によればそれ以外の参加チームに対しては予選が行われる。 もっとも、大会主催者が悪意ある目的で特定の人間を参加させるために招待状を届けたり、自らの配下の人間を無条件に決勝トーナメントに進ませるために招待状を利用することもある。 なお、招待状はチームでなく個人に届く(そもそも後述の通り、個人戦が存在する大会もある)ものであり、招待状を持つ格闘家はチームメイトを独自に指名して参加することが可能。指名されるチームメイトの招待状所持は特に問われないようである。これは一緒に住んでいる『龍虎の拳』のサカザキ一家には個人宛にそれぞれ招待状が届いていることや、女性格闘家チームや餓狼伝説チームのようにいつも組んでいたチームメイトが都合によって参加できないため、偶然出くわしたり通りかかった知り合いの格闘家に声をかけて出場したことが公式ストーリー中で書かれている。招待状を貰ったが欠場する場合や、参加チームを決めた場合の申込みなどはKOF運営委員に連絡を入れることになっている。 加えて、オロチチームが他人から奪い取った招待状で参戦していることや、[[ルイーゼ・マイリンク]]が他者から譲り受けた招待状で参戦していることから、招待状の本来の持ち主も特に考慮されない模様。『KOF MI2』においては、公式サイドストーリー「夜のガスパール」にて「世界最強を決めるというふれ込みである以上、乱入者にも機会を与えるのがこの大会の伝統」と語られている。 細かな大会のルールなどは判明していないが、刃物や銃火器の使用は反則であることが小説版などで解っている。ただし鞭や棍棒といった鈍器、超能力(手から炎や氷を出して攻撃したり、サイコパワーの使用や手刀を突き刺して体力を吸い取ったりする)は認められている。しかしイヤリングに爆弾を仕込んだり(レオナ)、炎が出るように細工してある棍棒([[ビリー・カーン]])、巨大な鉄球([[チャン・コーハン]])、鋭いツメのついた手甲([[チョイ・ボンゲ]])、クナイなどの暗器(まりん)、[[匕首]]([[山崎竜二]]。小説版では使った瞬間に反則負けになった)、サーベルのような剣(フォクシー)、[[デザートイーグル]](ウィップ。小説版では威嚇の空砲と言っている)を使用する者、さらには銃火器を全身に仕込んだサイボーグ([[マキシマ (KOF)|マキシマ]])といった人物が参加している。 『KOF』シリーズでは基本的にチーム戦だが、『餓狼伝説』シリーズや『龍虎の拳2』では個人戦である。ただし『KOF』シリーズにも個人戦を行える場合が存在し、そのような作品によってはチーム戦と個人戦の両方が行われているという設定になっている。 == 登場人物 == 本シリーズオリジナルの主要人物以外にも、SNKの様々なゲーム作品(『[[餓狼伝説]]』『[[龍虎の拳]]』『[[怒 (ゲーム)|怒]]』『[[サイコソルジャー]]』『[[サムライスピリッツ]]』)などからも多くのキャラクターが客演する。 {{main|ザ・キング・オブ・ファイターズの登場人物}} == ナンバリングタイトル == [[アーケードゲーム|アーケード]]向けに開発・販売される、基本となるシリーズ。西暦表記の数字部分の正式な呼び方は英語であるが、日本語読みされる場合もしばしばある。 === THE KING OF FIGHTERS '94 === {{See also|w:The King of Fighters '94}} シリーズ第1作目となる「'''開幕編'''」。 キャッチコピーは「'''夢のバトルにチームで挑め!!'''」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。 [[1994年]][[8月25日]]にアーケードの[[Multi Video System|MVS]](業務用ネオジオ)で稼動後、同年[[10月1日]]に家庭用[[ネオジオ]]でリリース。 2004年に[[PlayStation 2]]で『KOF』10周年記念作品として本作のリメイク版『'''[[#THE KING OF FIGHTERS '94 RE-BOUT|THE KING OF FIGHTERS '94 RE-BOUT]]'''』が発売され、アーケードオリジナル版も同時収録されている。また、[[2009年]]に[[PlayStation Portable]]で発売された『SNK ARCADE CLASSICS Vol.1』にも16作品のうちの一つとして『'94』が収録されている。[[2007年]]には[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]でも配信された。また、[[2010年]][[6月24日]]に発売されたPSPソフト『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内に収録。[[2011年]][[4月19日]]にPC向けゲームソフト配信サービス[[プロジェクトEGG]]にてNEOGEOタイトル配信第一弾として『[[餓狼伝説]]』とともに配信された。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== 国ごとの代表8チーム。チームメンバーは固定でエディットは無し。基本は3対3の勝ち抜き戦でKOかタイムアップで交代、仕切り直し。 対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。 主催者はルガール・バーンシュタイン。『'94』優勝チームは日本最強チーム<ref name="名前なし-1">[https://www.famitsu.com/matome/kof-xv/story01.html/ シリーズの歴史をプレイバック! 『KOF』ヒストリーその1 オロチ編]</ref>。 操作系は『[[餓狼伝説スペシャル]]』をベースに『龍虎の拳』シリーズなどの要素を取り入れたもの。必殺技コマンドは基本的に出場元のゲームのままで、また超必殺技が[[インストラクションカード]]に書かれていない。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名(国) || colspan="3"| メンバー |- ! 日本最強チーム([[日本]]) | [[草薙京]] || [[二階堂紅丸]] || [[大門五郎]] |- ! 餓狼伝説チーム([[イタリア]]) | [[テリー・ボガード]] || [[アンディ・ボガード]] || [[ジョー・ヒガシ]] |- ! 龍虎の拳チーム([[メキシコ]]) | [[リョウ・サカザキ]] || [[ロバート・ガルシア (龍虎の拳)|ロバート・ガルシア]] || [[タクマ・サカザキ]] |- ! 女性格闘家チーム([[イギリス]]) | [[ユリ・サカザキ]] || [[不知火舞]] || [[キング (龍虎の拳)|キング]] |- ! [[怒 (ゲーム)|怒]]チーム([[ブラジル]]) | [[ハイデルン (KOF)|ハイデルン]] || [[ラルフ・ジョーンズ|ラルフ]] || [[クラーク・スティル|クラーク]] |- ! [[サイコソルジャー]]チーム([[中華人民共和国|中国]]) | [[麻宮アテナ]] || [[椎拳崇]] || [[鎮元斎]] |- ! アメリカンスポーツチーム([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) | [[ヘビィ・D!]] || [[ラッキー・グローバー]] || [[ブライアン・バトラー]] |- ! キムの教育してやるチーム([[大韓民国|韓国]]) | [[キム・カッファン]] || [[チャン・コーハン]] || [[チョイ・ボンゲ]] |- ! [[ボスキャラクター]] | colspan="3"|[[ルガール・バーンシュタイン]] |} ==== 開発 ==== 本作オリジナルキャラクター3名で組まれた日本チーム(日本最強チーム)のリーダー「[[草薙京]]」が本作の主人公にあたるが、1P側の初期カーソルはイタリアチーム(餓狼伝説チーム)に、2P側の初期カーソルはメキシコチーム(龍虎の拳チーム)に合わせられている。またゲームスタート時に流れる基本操作の説明(HOW TO PLAY)もテリーとリョウが務めているが、開発スタッフからは「ぜひ京を出してくれ」と要望されたという(『'95』以降は一部を除いて、その作品の主人公及びライバル或いは主人公のチームメイトが務める)。加えて当時の販促ポスターでも、主人公の京属する日本チームと同列に並んでイタリアチーム(餓狼伝説チーム)が前面に出されて描かれていた。またストーリーが軽視されがちな対戦格闘ゲームにおいて、チームとしての参戦理由をそれぞれ紹介するなど、キャラクターの背景やストーリー進行に対する工夫も見られる。キャラクターイラストは本作から『2000』まで[[森気楼]]が担当した。なお、主人公チームのコンセプトは「地震(大門)、雷(紅丸)、火事(京)、親父(柴舟)」であった。 ==== あらすじ ==== 世界中の名立たる格闘家達に、「R」と名乗る者から世界規模の格闘大会「'''キング・オブ・ファイターズ'''」の招待状が届いた。 今回より「3人1組のチームを組んで参戦する」という新たなルールの下、'''[[テリー・ボガード]]'''、'''[[リョウ・サカザキ]]'''といった様々な分野で名を轟かせた格闘技界のスーパースター達が、世界各国の代表として大会に参加するも、その中には'''[[ハイデルン (KOF)|ハイデルン]]'''率いる格闘家では無い傭兵達で構成された怒チームの様に、何やら「事情」のある者達もいた。そんな中、日本異種格闘技大会優勝の経験を持った炎を操る草薙流古武術の使い手'''[[草薙京]]'''は、同じく日本異種格闘技大会で決勝を争った'''[[二階堂紅丸]]'''、'''[[大門五郎]]'''の二人とチームを結成。日本代表として予選を突破しキング・オブ・ファイターズの本戦にエントリーする。 大会の優勝チームが決定した後、彼等を載せたヘリは海上の巨大船「ブラック・ノア」に到着。そこで待っていたのは大会の主催者でブラックマーケットを牛耳る闇の武器商人であり、かつてハイデルンの部下達や妻子を殺害した張本人でもある'''[[ルガール・バーンシュタイン]]'''であった。実力でねじ伏せ倒した名立たる格闘家達を銅像に塗りこみコレクションして飾るという残虐非道さの持ち主であった彼は、KOFを勝ち上がってきた優勝者達もコレクションに加えようと戦いを強要するのだが、優勝者チームに敗れたルガールは船ごと自爆。野望は潰えたのであった。 だが、これはKOFを舞台にした格闘家達の長きに渡る熱く激しい戦いのほんの序章に過ぎなかった…。 ==== 反響 ==== 『THE KING OF FIGHTERS XIV 』のディレクターを務めた小田泰之は、稼働当時ヒットしていた『餓狼伝説』や『龍虎の拳』などのネオジオ作品では劇画調のデザインが主流だったが、シャープ且つ耽美なデザインの同作はインパクトが大きかったとファミ通とのインタビューで語っている<ref name="famitsu20151210P1">{{Cite web|和書|title=『ザ・キング・オブ・ファイターズ XIV』プロデューサーインタビュー! 最新作は新旧スタッフが総力を挙げて開発 |url=https://www.famitsu.com/news/201512/10094237.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-01-03 |date= 2015.12.10 }}</ref>。 ==== THE KING OF FIGHTERS '94 RE-BOUT ==== [[2004年]][[12月28日]]{{efn2|2004年11月5日に掲載されたSOFTBANK GAMESの企画記事では2004年12月22日予定である旨が記載されている<ref name="SBG20041105">{{Cite web|和書|title=SBG:編集部の勝利で「KOF’94 RE-BOUT」3本獲得! |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0411/05/news09.html |website=nlab.itmedia.co.jp|date=2004年11月5日 |access-date=2023-01-29}}</ref>}}にKOF10周年記念作品としてPS2で発売された『'94』のリメイク作品{{R|SBG20041105}}。アーケードゲームとしては稼動していない。 チームエディットが可能になるなど、『'94』からシステムの細部に手が加えられている。また、エディット専用キャラクターとして『'95』の性能をベースにした柴舟が登場し、さらに最終ボスのルガールも使用可能になった。『'94』とは違い、1P側のデフォルトカーソルが日本チーム(京)、2P側が韓国チーム(チョイ)になっている。 グラフィックを完全ハイレゾ化でリニューアルしている。背景も3Dで描かれた新規のものに一新されており、『'95』以降も含む歴代SNKキャラクターが多数登場する他、攻撃避けの際には画面全体の視点が一瞬ズレる演出が起こる。キャラクターイラストは、オリジナル版『'94』の森気楼に代わり、ヒロアキが担当した。 なお、本作は[[ネオジオ]]版『'94』も「ネオジオモード」として同時収録している。ネオジオモードでは原作仕様のためチームエディットはできずルガールと柴舟も使用できないが、リメイク版同様にゲームセレクトの一部変更や基本操作の説明削除などの改訂が加えられている。本作以降、PS2版のリメイク作品では原作のネオジオ版も同時収録しているケースが多々ある。レイティングは全て{{CERO-B}}。 2015年1月21日にはPS3向け配信サービス「PlayStation 2 アーカイブス」の一環として配信された<ref>{{Cite web|和書|title=PS2アーカイブス『ザ・キング・オブ・ファイターズ'94 RE-BOUT』が配信開始 |url=https://www.famitsu.com/news/201501/21069896.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-01-29 |date=2015.01.21}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名(国) || colspan="3"| メンバー |- ! 日本最強チーム(日本) | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム(イタリア) | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム(メキシコ) | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || タクマ・サカザキ |- ! 女性格闘家チーム(イギリス) | ユリ・サカザキ || 不知火舞 || キング |- ! 怒チーム(ブラジル) | ハイデルン || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム(中国) | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! アメリカンスポーツチーム(アメリカ) | ヘビィ・D! || ラッキー・グローバー || ブライアン・バトラー |- ! キムの教育してやるチーム(韓国) | キム || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! 追加キャラクター<br />(エディット専用) | colspan="3"|草薙柴舟 |- ! ボスキャラクター<br />(エディット専用として使用可) | colspan="3"|ルガール・バーンシュタイン<br />(※使用できるのは上着を脱いだ状態のみ) |} ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(1994年10月1日発売) *[[ネオジオCD]]版(1994年11月2日発売) *NEOGEO Station版<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/neogeostation/ NEOGEO Station]</ref>([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]]) - ネオジオ版を配信。(2010年12月22日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof94/index_kof94_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'94] (2007年11月6日配信開始) *[[プロジェクトEGG]]版([[Windows]])[http://www.amusement-center.com/project/egg/cgi/ecatalog-detail.cgi?product_id=918 ザ・キング・オブ・ファイターズ'94](2011年4月19日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof94.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'94](2016年10月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof94.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'94](2017年3月9日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof94.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'94](2017年3月16日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof94/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'94](2022年2月10日配信開始) *[[PlayStation 2]]版 - ザ・キング・オブ・ファイターズ'94 RE-BOUT (2004年12月28日発売 / スペシャル限定版あり) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00077_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS'94 RE-BOUT](2015年1月21日配信開始・PS3のみ) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ '94 :著者:[[真行寺たつや]]、『[[月刊少年エース]]』で連載された漫画。 :単行本ほとんどのチームに見せ場があるが、基本的にはイタリアチーム(餓狼伝説チーム)と日本チームが中心となっている。ルガールの秘書としてマチュアも登場する(ゲームでも名前が公表されていないので名前は出てこない)が、オロチ関連の設定がこの時点では存在していないため、ルガールの[[愛人]]のような描写になっている。『[[龍虎の拳]]』の[[ジャック・ターナー (龍虎の拳)|ジャック・ターナー]]、『[[餓狼伝説2]]』の[[山田十平衛]]の弟子、[[チン・シンザン]]、[[アクセル・ホーク]]も登場。また、オリジナルキャラクターとしてルガールの部下の女性であるバーバラ(第4巻でマチュアにより銃殺)および[[ワイン]]の種類を間違え殺される[[メイド]](姓名不詳)も登場。台詞はゲーム本編のものをそのまま使用している個所もある。単行本全4巻。 ;ザ・キング・オブ・ファイターズ '94 外伝 :著者:[[鷹岬諒]]、『[[コミックゲーメスト]]』で連載された漫画 :イギリスチーム(女性格闘家チーム)を主軸としたストーリー展開。『[[餓狼伝説]]』のホア・ジャイ、『餓狼伝説2』の山田十平衛、チン・シンザン、龍虎の拳シリーズの[[ミッキー・ロジャース]]も登場。また、[[ヴォルフガング・クラウザー]]も名前だけ出てくる。第6巻には[[八神庵]]が登場し、マチュアの名前も公表されている(ゲーム稼動開始に対して連載開始が遅かったこと、連載が長期に渡ったことなどから連載中に『'95』『'96』が発売したため)。単行本全6巻。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'94([[電撃文庫#電撃CD文庫|電撃CD文庫]]) : ドラマCD : 脚本:[[あみやまさはる]] / 演出:鈴木久尋 : この作品のみ声優のキャスティングがゲーム版とは異なる。キャストは以下の通り。 :* 草薙京 - [[置鮎龍太郎]] :* 二階堂紅丸 - [[緑川光]] :* 大門五郎 - [[大友龍三郎]] :* テリー・ボガード - [[草尾毅]] :* アンディ・ボガード - [[堀川りょう|堀川亮]] :* ジョー・ヒガシ - [[矢尾一樹]] :* リョウ・サカザキ - [[神谷明]] :* ロバート・ガルシア - [[石川英郎]] :* タクマ・サカザキ - [[大塚芳忠]] :* 不知火舞 - [[林原めぐみ]] :* ユリ・サカザキ - [[丹下桜]] :* キング - [[冬馬由美]] :* ルガール・バーンシュタイン - [[銀河万丈]] ; The King of Fighters'94 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'94 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS '95 === {{See also|w:The King of Fighters '95}} 本作から『'97』まで続く'''「オロチ編」三部作の第1章'''。主人公・'''草薙京'''のライバルである'''八神庵'''がこの作品から登場。 キャッチコピーは「'''お楽しみはこれからだ。'''」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「'''サイコーのファイターズは、この闘いでつくられる。'''」(ネオジオ、ネオジオCD版)、「'''サイコーのファイターズ、セガサターンに登場!'''」(セガサターン版)、「'''いよいよキングのお出ましだ。'''」(PlayStation版)。 [[1995年]][[7月25日]]稼動。家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDに加え、[[セガサターン]]と[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]でも発売され、セガサターン版で[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]は久しぶりに[[ゲームボーイ]]用ソフトの『[[ファニーフィールド]]』から約6年振りに[[サードパーティー]]社となり、両名タイトルで同社の両ハード参入第1弾ソフトとなった。セガサターン版は本作専用の拡張ROMが同梱されており、これを使用しないとプレイできない。CD-ROMとROMカセットを併用する『Twin Advanced Rom System』が採用された。ゲームシステムや背景データを読み込みの早いROMカセットに収めることで、内蔵RAMに代わって素早い情報処理を行っている<ref>{{Cite book|和書|title=電撃王 通巻48号|date=1996年4月1日|year=1996|publisher=主婦の友社|page=129}}</ref>。セガサターン版はボタンの数が増えたことによりパワー溜め、援護攻撃、挑発、など操作方法がより扱いやすいように改良された<ref>{{Cite book|title=週刊ファミ通 No.380|date=1996年3月29日|year=1996|publisher=アスキー}}</ref>。 PlayStation版では、同一キャラクター3人のチームも可能。後にPS2でも、[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された。また、[[2007年]]にはPS3・PSP・PSV向けの[[ゲームアーカイブス]]でもPS版が配信された。[[2009年]]にはWiiのバーチャルコンソールでも配信されている。[[2010年]]にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== この作品より「チームエディット」が可能になった。なお、この作品のみキャラクター選択時に「チームエディットしますか?」と問われる。またこの作品から『'97』までは、CPUのチームもエディットされることがある。このため、前作にあった国籍によるチーム分けが無くなった。 『'94』同様対戦中にピンチのときに同チームのキャラが見える場所で一定条件とボタン入力でのもとで助けてくれることもある。 主催者は前年同様にルガール・バーンシュタイン(実際はオロチの力で復活、強化されたオメガ・ルガール)。ライバルチームと入れ替わる形でアメリカンスポーツチームが不参加となったが、設定上はライバルチームに地区予選で敗れたということになっている<ref>[[ネオジオフリーク|『ネオジオフリーク』]] [[1997年]]3月号 8頁。「KOFシリーズ徹底大研究」</ref>。『'95』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-1"/>。 設定で各キャラクターが「年を取った」のはこの作品のみで、以後年齢設定が固定された(出場を逃したアメリカンスポーツチームは復活した『'98』で1歳年を取っている)。 新たに、カウンター攻撃(攻撃避け中に出せる専用攻撃)が追加された。連続技に繋げられるため、強力な連続技が生まれた。バランス面では、パワーMAX時は攻撃力1.5倍・被ダメージ1.125倍になった。また、パワーMAX時はガードキャンセルを即座に使用できるなど、ハイリスクハイリターンのゲーム性となっている。『KOF』の中でも、各種の技の一発辺りの攻撃力が全体的に高めである。 前作では隠された存在であった超必殺技のコマンドがインストカードに記載されるようになった。 なお、アーケード版『KOF』の中では珍しく最終ボスが使用可能な作品でもある。アーケード版も家庭用ネオジオ版も共に、「チームエディットをしますか?」で「YES」を選択して、スタートボタンを押しながら↑+B →+C ←+A ↓+Dの入力が完了すると、[[草薙柴舟]]とオメガ・ルガールが現れ、プレイヤーキャラクターとして使用可能となる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || タクマ・サカザキ |- ! 怒チーム | ハイデルン || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 女性格闘家チーム | ユリ・サカザキ || 不知火舞 || キング |- ! キムチーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! ライバルチーム | [[八神庵]] || [[如月影二]] || [[ビリー・カーン]] |- ! ボスキャラクター<br />(隠しキャラクターとしても使用可) | colspan="3"|ボス:[[草薙柴舟]]<br />[[最終ボス]]:[[ルガール・バーンシュタイン#オメガ・ルガール|オメガ・ルガール]] |} ==== あらすじ ==== 昨年の大会から1年、再び世界中の強豪たちの下に「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届いた。差出人の欄には、またもや「R」の1文字だけとなっており、昨年に参加したチームは不安を感じつつも、本大会でも次々とエントリーする事になった。 そんな中、今回は新たに京の宿敵である蒼い炎を操る八神流古武術の使い手'''[[八神庵]]'''が、'''[[ビリー・カーン]]'''、'''[[如月影二]]'''の二人と共にチームを組む形で、前回の「アメリカンスポーツチーム」を破り新たな本戦出場を果たしていた。それを知った京は、庵との決着をつける為にも、決意を新たにキング・オブ・ファイターズへの二度目の出場を決意するのだった。 一方、大会の主催者は、やはり前回大会の出場者達の予想通り、死んだと思われていたルガールであった、前回大会で敗れ去った復讐を遂げる為、ルガールは地球意思「'''オロチ'''」の力を手に入れて自らの身体に取り込み、'''[[ルガール・バーンシュタイン#オメガ・ルガール|オメガ・ルガール]]'''へとパワーアップしていた。そして、同じく前回大会の最中で自らが密かに回収した京の父・'''[[草薙柴舟]]'''に洗脳処置を施し、私兵となった彼を「余興」として優勝チームと激突させる。だが、柴舟は敗れ正気を取り戻す形で倒れる事となり、ルガールは自らの体内にあるオロチの力を解放。優勝チームへと襲い掛かり、死闘を展開する。 だが、その力をもってしても追い詰められたルガールは、更なるオロチの力を解放を試みるも、逆に暴走したエネルギーを制御出来ずに取り込まれ、消滅してしまう末路を迎えた。ルガールをもってしても、オロチの力は制御出来る物では無かったのだった。 ==== 熱闘ザ・キング・オブ・ファイターズ'95 ==== [[1996年]][[4月26日]]にゲームボーイで[[熱闘シリーズ]]としてタカラより発売。開発は[[ガイブレイン]]。 『'95』をベースにしているが、ライバルチームの3人を除いたキャラクターは原作のチームから抜粋された数名ずつがバラバラに出場しており、固定されたチームは存在しない。隠しキャラクターとして『[[サムライスピリッツ]]』シリーズから[[ナコルル]]が登場するほか、同じキャラクター同士でチームを組めたり、常にパワーゲージがMAXになる隠しモードが存在する。 日本語版はタイトルロゴがカタカナ表記となっている。[[欧米]]版のタイトルは「熱闘」が省かれて原作と同じ『THE KING OF FIGHTERS '95』となっており、タイトルのデザインも[[ネオジオ]]版『'95』と同じ英字表記となっているが、ゲーム内容自体は日本GB版とほとんど相違点はない。アメリカ版は[[任天堂]]、ヨーロッパ版は有限会社Laguna Video Gamesが販売元となっている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="3"|出場キャラクター |- | 草薙京 || 二階堂紅丸 || ハイデルン |- | 八神庵 || テリー・ボガード || ジョー・ヒガシ |- | 不知火舞 || キム・カッファン || ビリー・カーン |- | リョウ・サカザキ || ユリ・サカザキ || 如月影二 |- | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || ラルフ |- ! colspan="3"|ボスキャラクター(隠しキャラクターとして使用可) |- | colspan="3"|ボス:草薙柴舟<br />最終ボス:オメガ・ルガール |- ! colspan="3"|乱入キャラクター(隠しキャラクターとして使用可) |- | colspan="3"|ナコルル |} ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(1995年9月1日発売) *[[ネオジオCD]]版(1995年9月29日発売) *[[セガサターン]]版(1996年3月28日発売、専用ROMカセット同梱) *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版(1996年6月28日発売)(廉:1997年3月28日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00050_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'95](2007年5月31日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof95/index_kof95_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'95] (2009年12月1日配信開始) *NEOGEO Station版<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/neogeostation/ NEOGEO Station]</ref>([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]]) - ネオジオ版を配信。ザ・キング・オブ・ファイターズ'95(2011年7月14日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof95.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'95](2017年3月30日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof95.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'95](2017年4月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof95.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'95](2017年10月12日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof95/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'95](2022年6月2日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'95 :著者:[[いさき玲衣]]、挿絵は[[土屋杏子]]が担当。 :ゲームの前日談を描いた小説。作者の趣味で庵の設定がかなり変更されている(ベーシストだったのが、ボーカルになっている)。ユキは高校を卒業して[[モデル (職業)|モデル]]をやっている。また、草薙柴舟の名前が「'''紫'''舟」になっている。 ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'95 :著者:[[細井雄二]]、『[[コミックボンボン|コミックボンボン増刊号]]』で連載された漫画。 :草薙京とテリーボガードをメインに描き、最終話では両者が対決している。未単行本化。 ; The King of Fighters'95 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'95 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS '96 === {{See also|w:The King of Fighters '96}} '''オロチ編三部作の第2章'''。 キャッチコピーは、「'''燃えてるかい?'''」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)、「'''俺を見たら、思い出せ。'''」(PlayStation版)。 [[1996年]][[7月30日]]稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB)専用となり、同梱版も発売された(『'95』専用の拡張ROMとは互換性がない。後に製造された拡張ラムカートリッジ4MBを使用した場合はキャラクターが正常に表示されない。)。またセガサターン版において『'95』とセットになった、『KOFダブルパック』も限定発売された。PlayStation版では、主人公の京を差し置いて、人気キャラクターの庵が単独でパッケージとしてデザインされている。後にPS2でも、[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして収録された(家庭用ネオジオ版の移植。ただし、独自の要素として、元はCPU専用だったボスキャラクター2人が使用可能になっている)。また、[[2007年]]にはPS3・PSP・PS Vita向けの[[ゲームアーカイブス]]でもPS版が配信された。[[2010年]]にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== キャラクター選択画面のカーソルは本作から個人単位の物のみとなったため、前作にあったモード選択ミスの危険が無くなっている。 主催者は神楽ちづる。なお、本作は前作までと異なり裏大会ではなく、各メディアへの報道も行われ、様々な企業もスポンサーとして協賛した公式大会という設定である(『'97』も同様)。『'96』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-1"/>。 大門とクラークを除くキャラクターの攻撃避けが廃止され、新たに緊急回避動作(前転後転)が導入。また、フロントステップがダッシュ(ラン)に変更された。ジャンプも小・中ジャンプが追加され、スピーディーなゲーム性になった。さらに、ガード耐久値とガードクラッシュ、投げ抜け、空中ガードなど新機能が追加された。バランス面でも修正がなされており、パワーMAX時における攻撃力は低下した。また、飛び道具が大幅に削除・変更され、接近戦での攻めを主体とする戦闘形態を意識させている。さらに、キャラクター間の相性システムが適用された。これは相性によって援護攻撃の可否が決まるしくみになっている。 本作から一部のキャラクターに複数の超必殺技が実装されるようにもなった。また、体力ゲージ点滅かつパワーMAXの状態で、高い威力と派手な演出に変化するパワーMAX超必殺技が使用できるようになった(MAX状態かつ点滅状態で超必殺技の威力が上昇するのはシリーズ過去作からの仕様だが、従来、技の見た目の演出は通常の超必殺技と同じで特に分けられてはいなかった)。 パワーMAX状態になるとパワーゲージが減少を始め、これが無くなるとMAX終了という形になった。それによって状態の残り時間が視認できるようになっている。 各キャラクターの必殺技コマンドが大幅に整理され、斜め上までの入力の廃止、コマンドの一部が被っていたキャラクターは入力向きやボタンを変更など、入力し易くなるよう変更が行われた。特に『餓狼伝説』や『龍虎の拳』のキャラクターの場合、原典のゲーム時そのままの「隠すこと、出しにくくすること」自体を目的とした超必殺技コマンドが変更され『KOF』のゲームスピードにあった使い方ができるようになった。ただしコマンドの入力判定に癖があり、技自体は若干出し辛くなってしまっていた。 本作からストーリーの分量が増え(ゲームの外で語られるチームストーリーも増加)、オロチ編のストーリーが本格化。オロチ編の鍵を握るゲーニッツや神楽ちづるといったキャラクターが登場し、ゲームコンセプトは「SNKゲームキャラクターの夢の対戦」から完全に『KOF』独自路線へと移行した。また、ラウンド前に特定のキャラクター同士での掛け合いが追加された。 本作は初めて既存のチームの編成に入れ替えが入り、怒チームにはハイデルンに替わり新キャラクターのレオナが加わった。龍虎の拳チームはタクマに替りユリが加わり、一方で女性格闘家チームにいたユリに替り「[[龍虎の拳#ART OF FIGHTING 龍虎の拳 外伝|龍虎の拳外伝]]」に登場した[[藤堂香澄]]が加わった。 なお、ユリ、キングのサービスカット(脱衣KO)が本作から廃止された。ただしユリの場合、時間切れ引き分けの時に肩部分を露出させるという演出があった(下着は見えない)。 ボスキャラクター2人はネオジオCD版以降の家庭用移植版で使用可能。ネオジオCD版では隠しキャラクター扱いで、キャラクター選択画面で、スタートボタンを押しながら、「↑+B →+C ←+A ↓+D」と入力したら、画面にちづる、ゲーニッツが現れ、使用可能になる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 新・怒チーム | [[レオナ・ハイデルン|レオナ]] || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 新・女性格闘家チーム | [[藤堂香澄]] || 不知火舞 || キング |- ! キムチーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! 八神チーム | 八神庵 || [[マチュア]] || [[バイス (KOF)|バイス]] |- ! ボスチーム | [[ギース・ハワード]] || [[ヴォルフガング・クラウザー]] || [[Mr.ビッグ (龍虎の拳)|Mr.ビッグ]] |- ! ボスキャラクター<br />(一部家庭用のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|ボス:[[神楽ちづる]]<br />最終ボス:[[ゲーニッツ (KOF)|ゲーニッツ]] |} ==== あらすじ ==== 前回大会でオロチの力に飲み込まれ消滅したルガールによって開催された2度の大会が終結して1年、新たに開催される事になった本大会は、巨大企業数社のスポンサードによる全世界的スケールのメジャー大会として開催された。 世界各地で予選が開催され、前2回のKOF常連チームが本戦に顔を並べる中、何とそれぞれが争い世界の覇権を握ろうと野望を抱いていたあの'''[[ギース・ハワード]]'''、'''[[ヴォルフガング・クラウザー]]'''、'''[[Mr.ビッグ (龍虎の拳)|Mr.ビッグ]]'''の3人がチームを組む形でエントリーするという驚愕な事態となった。その一方で、前回の大会で京を倒し損ねた庵もまたルガールの秘書を務めていた2人の女性'''[[マチュア]]'''と'''[[バイス (KOF)|バイス]]'''の二人と新たにチームを組む形で出場しており、怒チームでは指揮官のハイデルンが後方からの指揮を担当する形でチームを抜けた代わりに彼の養女でもある新妹隊員の'''[[レオナ・ハイデルン]]'''が加入していた。 実は今回の大会にも大きな裏が隠されており、大会の主催者である'''[[神楽ちづる]]'''は、「'''三種の神器'''」と呼ばれる能力を守る為に存在してきた三つの一族(草薙家、八神家、神楽家)のうちの一つ「神楽家」の末裔であった。彼女は人類の滅亡を望んでいる地球意思「オロチ」に対抗しうる力として、オロチの復活を目論む「'''オロチ四天王'''」と戦えるだけの実力を備える戦士を探し出そうとしていたのである。優勝チームの実力を自ら戦って確かめるちづるであったが、そこに「三種の神器」の末裔を滅ぼそうとするオロチ四天王の一角・'''[[ゲーニッツ (KOF)|吹き荒ぶ風のゲーニッツ]]'''が突如乱入した。 自らの行使する暴風をもってして会場の全てを破壊しつくそうとするゲーニッツであったが、最後は「人間」としての本能によって発動させた庵の「紅い炎」と京の力によってゲーニッツは倒される末路を迎えた。しかし、大会の終結直後、庵は「血の暴走」によってゲーニッツと袂を分かったマチュアとバイスの二人を手に掛け、レオナもまた自身がオロチの血を引いていた上にゲーニッツの手引きにより自らの手で両親を殺害してしまった真実を知る事となった。 ==== THE KING OF FIGHTERS '96 ネオジオコレクション ==== [[1997年]][[2月14日]]にネオジオCDで発売されたデータベースソフト。『'96』関連のデータなどが収録されたファンディスクとなっている。 ==== 熱闘ザ・キング・オブ・ファイターズ'96 ==== [[1997年]][[8月8日]]にゲームボーイで[[熱闘シリーズ]]としてタカラより発売。前作同様、開発はガイブレイン。 『'96』をベースとしているが、ボスチームの3人以外の出場メンバーは前作と同様に抜粋された数名ずつがバラバラに出場している。また、前作とは多少顔ぶれが変更されている。なお、本作では特定の組み合わせでチームを組むと「特殊イベント」が発生する。[[神楽ちづる]]が最初から選択可能になっており、隠しキャラクターとして『[[龍虎の拳]]』から[[タクマ・サカザキ|Mr.カラテ]]や、『'97』のような暴走キャラクター、ボス性能版ちづるのKAGURAなどが登場する。また、隠しモードとして、超必殺技がいつでも出せるようになり、技の内容が強力なものに変化、パワーゲージが常に回復し続ける、といった内容の「熱闘モード」や、ボタンを同時押しするだけで必殺技が発動可能になるモードが存在する。スーパーゲームボーイ使用時は、攻撃などの効果音の一部がSFC音源に変わる。 ヨーロッパ版はタイトルが『The King of Fighters: Heat of Battle』に変更されており、前作と同じくLagunaが販売元となった。また、本作はアメリカでは発売されなかった。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="3"|出場キャラクター |- | 草薙京 || 大門五郎 || レオナ |- | 神楽ちづる || 八神庵 || マチュア |- | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || 不知火舞 |- | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || 麻宮アテナ |- | ギース・ハワード || ヴォルフガング・クラウザー || Mr.ビッグ |- ! colspan="3"|ボスキャラクター(隠しキャラクターとして使用可) |- | colspan="3"|ボス:KAGURA(ボス性能の神楽ちづる)<br />最終ボス:ゲーニッツ |- ! colspan="3"|乱入キャラクター(隠しキャラクターとして使用可) |- | colspan="3"|IORI'(ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ)<br />LEONA'(ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナ)<br />Mr.カラテ |} *ゲーニッツを倒した後に「特殊イベント」が発生するチーム **三種の神器チーム:草薙京、神楽ちづる、八神庵 ***「草薙京&神楽ちづる VS IORI'(暴走化)」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターがいるチームを操作。 **主人公チーム:草薙京、テリー・ボガード、リョウ・サカザキ ***「ゲーニッツを倒したキャラクター1名 VS 他2名」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターを操作。 **オロチチーム:八神庵、マチュア、レオナ ***「八神庵&マチュア VS LEONA'(暴走化)」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターがいるチームを操作。 **餓狼伝説メインキャラクターチーム:テリー・ボガード、アンディ・ボガード、ギース・ハワード ***「ボガード兄弟 VS ギース・ハワード」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターがいるチームを操作。 **龍虎の拳メインキャラクターチーム:リョウ・サカザキ、ロバート・ガルシア、Mr.ビッグ ***「極限流2名 VS Mr.ビッグ」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターがいるチームを操作。 **ボスチーム:ギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、Mr.ビッグ ***「ゲーニッツを倒したキャラクター1名 VS 他2名」のバトル。ゲーニッツを倒したキャラクターを操作。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版 (1996年9月27日発売) *[[ネオジオCD]]版(1996年10月25日発売) *[[セガサターン]]版(1996年12月31日発売 / 拡張RAMカセット同梱版あり) *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版(1997年7月4日発売)(廉:1998年7月23日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00051_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'96](2007年5月31日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof96/index_kof96_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'96] (2011年2月15日配信開始) *NEOGEO Station版<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/neogeostation/ NEOGEO Station]</ref>([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]]) - ネオジオ版を配信。(2011年9月29日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof96.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'96](2017年8月10日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof96.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'96](2017年8月10日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof96.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'96](2017年12月28日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof96/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'96](2022年7月7日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'96 〜Rumbling on the City〜 :著者:[[嬉野秋彦]])、挿絵は[[伊ノ上ゆか]]が担当。 :ゲームの前日談を描いた小説。庵とレオナの対決が見られるが、『'97』よりも先駆けて覚醒レオナが登場している(庵も暴走した状態で覚醒レオナと交戦する)。サブタイトルは怒チームBGMの曲名。 ;ザ・キング・オブ・ファイターズ G(ギガ) :著者:鷹岬諒、『コミックゲーメスト』で連載された漫画。 :麻宮アテナを中心としたエディットチームを主役にしている。前作(『'94外伝』)よりも短期間で終了した。単行本全3巻。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'96 : ドラマCD : 大会2週間前のアメリカを舞台に、本編とは違うゲーニッツや神楽ちづるとの出会いを描く。 : なお、『'96』 - 『2000』のドラマCDに収録されているドラマはラジオ番組『[[子安・氷上のゲムドラナイト]]』において放送されたもので、『'96』 - 『'99』については「各話ごとにA・Bの2種類の予告を流し、リスナーの投票でどちらか一方の本編を流す」という形式で放送が行われた(そのため、特に『'96』『'97 激闘編』では両パート共通のイベントが描写され、AパートとBパートの話が混ざっても違和感がないように構成されている)。CDでは、AパートとBパートが完全に独立している『2000』を除き、共通の第1話のあとにAパートの第2話 - 第4話、Bパートの第2話 - 第4話の順で両方のストーリーが収録されている。 ; The King of Fighters'96 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'96 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS '97 === {{See also|w:The King of Fighters '97}} '''オロチ編三部作の第3章(最終章)'''。 キャッチコピーは「'''KOF is just too HOT.'''」(MVS、ネオジオ版)、「'''呪われた宿命にピリオドを打て!'''」(セガサターン版)、「'''決着(ケリ)をつけようぜ。'''」(PlayStation版)。 [[1997年]][[7月28日]]稼動。家庭用としては前作同様、ネオジオ、ネオジオCD、セガサターン、PlayStationで発売。セガサターン版は汎用の拡張ラムカートリッジ(1MB/4MB)専用で、新規発売としてはSNK最後のサターン用ソフトとなった。その後、オロチ編3本(『'95』『'96』『'97』)をセットにした「ザ・キング・オブ・ファイターズ ベストコレクション」も発売された。また、最終ボスのオロチもセガサターン版ではプラクティスモード、PS版ではVSモードとプラクティスモードで使用が可能。後にPS2でも、[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.3の『THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-』内の1タイトルとして本作のネオジオ版が収録された。また、[[2007年]]にはPS3・PSP・PS Vita向けの[[ゲームアーカイブス]]でもPS版が配信された。[[2010年]]にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録。また、[[2013年]]に[[iOS]]/[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]端末向けのネイティブアプリとして配信。[[2018年]]にはPS4・PS Vita・PC向けにオンラインに対応した『'''THE KING OF FIGHTERS'97 GLOBAL MATCH'''』が配信された。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== キャラクターの性質を「アドヴァンストモード」と「エキストラモード」の2種類から選べるようになった。CPU側キャラクターはアドヴァンストモードしか使用しない。 主催者は前年同様に神楽ちづる。また本大会は全世界にTV中継も行われている設定である(ゲーム本編にもその設定を活かした演出が様々な面に盛り込まれている)。『'97』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-1"/>。 アドヴァンストモードの特色は、半永久的に持続できるゲージストックである。必殺技を出す、攻撃を相手に当てることでゲージが溜まり、最大3つまでゲージをストックできる。ストックが一つでもあれば通常の超必殺技、ガードキャンセル緊急回避・同ふっとばし攻撃が使用できる。また、ストックを1つ消費することでパワーMAX発動、この状態でさらにストックがもう1つあれば、MAX超必殺技が出せる。このモードでは緊急回避動作(前転後転)が使用できる。なお、本作から緊急回避動作(前転後転)に避け機能が付加された。移動方法もダッシュ、大・中・小ジャンプと豊富である。 エキストラモードは、『'96』までと同様任意でパワーゲージを溜め、超必殺技およびパワーMAX超必殺技発動の条件も『'96』に準拠する。パワーゲージの溜まる速さは『'96』より速くなっている。ただし、ジャンプは通常のジャンプと大ジャンプのみ、ダッシュではなくフロントステップおよび攻撃避けが使用可能であり、守備的に戦いたい人向けの仕様となっている。体力ゲージ点滅は今作から1/8に変更された。パワーMAX時のガードキャンセル回避に制限が加わった。 先述通り、試合前演出やステージ間デモが世界規模の格闘大会のテレビ中継を意識した演出になっており、ほとんどのステージBGMも歓声などの環境音によってのみ構成されているなど、シリーズの中でも特殊な音響演出が行われている。音楽としてのステージBGMは京、アテナなど特定のキャラクターの登場時しか使用されない。 本作でオロチ編の黒幕「オロチ」が復活を果たす。また前作の最終ボスであるゲーニッツ以外の「オロチ四天王」の残り3人(社〈乾いた大地の社〉、シェルミー〈荒れ狂う稲光のシェルミー〉、クリス〈炎のさだめのクリス〉)も本作で登場する。開発者によるとこの3人は、主人公チーム3人の能力に対する上位互換のような能力を設定したという。 「'97スペシャルチーム」のメンバーは『[[ゲーメスト]]』・『[[ネオジオフリーク]]』・『[[ファミ通]]』の3誌での投票で決まった(なお、ビリーは前々作『'95』以来の登場となり、KOFシリーズにおける初の復活キャラクターとなった)。過去のSNK作品の(格闘ゲーム以外も含めた)キャラクターから選び出すというものだったが、『サムライスピリッツ』『[[キング・オブ・ザ・モンスターズ]]』シリーズのキャラクターは時代設定や世界観を理由に除外されていた。また、同じKOFシリーズでも、前作『'96』に参戦していたキャラクターも投票対象外となっていた。 本作では、必殺技・超必殺技のコマンド入力受け付けが緩く、簡易コマンドで出すことができる。ただし、キャラクターによっては、似たようなコマンドの必殺技があれば意図しない技が出てしまうことがある。これにより、次作『'98』での一部キャラクターのコマンド変更につながった。 超必殺技使用時、画面が暗転して一時停止するようになった。また、飛び道具系のMAX超必殺技は強力な貫通能力が付加され、飛び道具系の超必殺技を貫通できるようになった。 「個人出場」としてエディット専用キャラクターが初登場。彼らのエンディングを見るには特定のチーム編成を行う必要がある(八神庵であれば京・庵・ちづるの「三種の神器チーム」、矢吹真吾であれば草薙京を必ず入れて、もう1人は通常の庵・レオナ以外のキャラクターにする)。またこれ以外にも、特殊なチーム構成でクリアすると、エンディング後にそのチーム編成のテーマに応じた専用の一枚絵が表示される隠し要素があり、これは『'99』まで受け継がれた。 本作では隠しキャラクターが多く、ボスキャラクターである暴走庵・覚醒レオナ・オロチチーム(オロチ四天王の3人が所属するニューフェイスチームの正体)も使用できる。これらの各キャラクターは通常版と同一のキャラクターとして扱われるため、同じキャラクターの通常版と隠し版を一つのチームに入れることはできない。オロチチームのエンディングは通常チームと同一で、オロチと通常の混成チームにした場合でもエンディングを見ることができる。 なお、庵は主人公チームまたはシングルで京をプレイし、京でオロチを倒すと隠しボスとして登場する。この試合は勝敗に関係なくそのままエンディングに繋がっていく。 後の『KOF』に繋がるゲームシステムは本作でほとんど完成していたが、隠しキャラクターの暴走庵・覚醒レオナがプレイヤーキャラクターとしては極端に高い性能を有していることや簡単な永久コンボ<!--例:テリーの必殺技「パワーチャージ」ヒット後、通常技を空振りさせて「パワーチャージ」のコマンドを入力してキャンセル(空振りキャンセル)すると空中の敵にパワーチャージがヒット、その繰り返しで永久コンボ-->が存在する。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 女性格闘家チーム | 神楽ちづる || 不知火舞 || キング |- ! キムチーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! ニューフェイスチーム | [[七枷社]] || [[シェルミー]] || [[クリス (KOF)|クリス]] |- ! '97スペシャルチーム | [[山崎竜二]] || [[ブルー・マリー]] || ビリー・カーン |- ! エディット専用、隠しキャラクター | 八神庵{{efn2|name="97yagami"|京を使用時に隠しボスとして登場}} || [[矢吹真吾]] || '94草薙京 |- ! ボス1<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|[[八神庵#ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ|ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ]](暴走庵)<br />[[レオナ・ハイデルン#概要|ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナ]](覚醒レオナ) |- ! ボス2(オロチチーム)<br />(隠しキャラクターとして使用可) | [[七枷社#「乾いた大地の社」として|乾いた大地の社]] || [[シェルミー#「荒れ狂う稲光のシェルミー」として|荒れ狂う稲光のシェルミー]] || [[クリス (KOF)#「炎のさだめのクリス」として|炎のさだめのクリス]] |- ! 最終ボス<br />(SS・PS版のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|[[オロチ (KOF)|オロチ]] |} ==== あらすじ ==== 決勝戦直後にゲーニッツの乱入というハプニングをもって幕を閉じていった前回大会。この事件は何者かによるテロ活動とのみ発表され、その詳細は世間に公表されることはなかった。 しかし、このようなきな臭い事件があったにもかかわらず、前回大会は興業的には大成功を収めた。それに興味を示した巨大企業数社がスポンサーの名乗りを挙げ「KOF」の再開催を熱望。世界各地でも、同じような現象が起こり「KOF'97」大会は開催の運びとなる。 引き続きすさまじい盛り上がりを見せた今大会には、新規の大会参加者である「ニューフェイスチーム」('''[[七枷社]]'''、'''[[シェルミー]]'''、'''[[クリス (KOF)|クリス]]''')の3人が出場。一方、京に憧れ強引に弟子入りした学生の少年'''[[矢吹真吾]]'''もまた、未熟な身でありながらもキング・オブ・ファイターズにエントリーしており、更には前回大会に出場していたギースの命令を受けたビリーもまた、'''[[ブルー・マリー]]'''、そして'''[[山崎竜二]]'''の二人が新規参戦する形で「'97スペシャルチーム」を結成。オロチの混血児である庵だけでなく山崎の事を気に掛けるギースの真意を掴みかねながらも、ビリーは命令に従う形でキング・オブ・ファイターズへ復帰する。 しかし、ニューフェイスチームの3人は「自分達と因縁のある庵を倒す事」を表の目的としていたが、実は彼等こそ、前回大会の終盤で乱入したゲーニッツと同じくオロチ四天王の残りであった。オロチ復活の為に必要となる莫大な精神力を求めていた彼等3人は、心身共に鍛え上げた強靭な格闘家達のぶつかり合いで生まれる莫大な精神力を集められる「場」として、キング・オブ・ファイターズその物を利用する事を画策し、自分達もオロチとしての素性を隠した上で大会参加者として暗躍していたのである。 大会の優勝チームが確定した直後、'''[[七枷社#「乾いた大地の社」として|乾いた大地の社]]'''、'''[[シェルミー#「荒れ狂う稲光のシェルミー」として|荒れ狂う稲光のシェルミー]]'''、'''[[クリス (KOF)#「炎のさだめのクリス」として|炎のさだめのクリス]]'''としてオロチの本性を現した3人は、ゲーニッツが遺した暗示によってオロチの血を持つ八神庵とレオナを暴走させ、大会を混乱に陥れる。何とか庵とレオナを制した後、四天王の3人が現れ、今回の目的を明かす事になるが、同時に今大会に出場していた山崎が、自分達やゲーニッツ、マチュア、バイスと同じく「オロチ八傑集」の一人であった事実が判明。今大会の時期にて彼が見せた異様なまでの「狂気」も、オロチの影響による物だったのだが、「オロチ」としてよりも「人間」としての本能が勝っていた山崎は、呼びかける社達の言葉など意にも返さず反抗的な態度を通すのだった。オロチ復活の為により強力な精神エネルギーを得ようとした社達は、優勝チームとの激闘の末に撃退されるのだが、四天王の1人であったクリスの肉体を[[依り代]]に利用する事で、遂に'''[[オロチ (KOF)|オロチ]]'''が復活を果たしてしまう。 自らの恋人である'''[[ユキ (KOF)|ユキ]]'''がオロチの完全復活の為の要となっていた生贄である「[[クシナダヒメ|クシナダ]]」の転生した姿であった真実を聞かされた京は、何が何でも彼女を守るべく、庵、ちづると共に三種の神器として集うも、死闘の末に追い詰められたオロチによって庵は再び暴走。しかし、強靭な意志によって逆に庵はオロチへと掴み掛かり、京は庵の「封じる者」としての力で抑え込まれていたオロチに向けて、「祓いし者」として究極のの力である「最終決戦奥義・無式」を発動。巨大な爆発に飲み込まれるのだった…。 かくして、「護りし者」としての力を発動させたちづるによって再びオロチが封印される形で戦いは終結したものの、京と庵の二人はその行方が分からなくなってしまった。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(1997年9月25日発売) *[[ネオジオCD]]版(1997年10月30日発売) *[[セガサターン]]版(1998年3月26日発売 / 4M拡張RAMカセット同梱版あり) *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版(1998年5月28日発売)(廉:1999年6月24日発売)(廉:2003年3月27日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00052_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'97](2007年5月31日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof97/index_kof97_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'97] (2011年9月6日配信開始) *[[iOS]]版、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 - [http://game.snk-corp.co.jp/official/kof97/ THE KING OF FIGHTERS’97](2013年11月14日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof97.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'97](2017年11月2日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof97.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'97](2017年11月2日配信開始) *[[Steam]]版([[Windows]])[http://store.steampowered.com/app/702120/ THE KING OF FIGHTERS '97 GLOBAL MATCH](2018年4月4日配信開始) *[[PlayStation 4]]版 [http://store.playstation.com/ja-jp/product/JP0576-CUSA11088_00-KOF97GLOBALMATCH THE KING OF FIGHTERS '97 GLOBAL MATCH](2018年4月5日配信開始) *[[PlayStation Vita]]版 [http://store.playstation.com/ja-jp/product/JP0576-PCSG01188_00-KOF97GLOBALMATCH THE KING OF FIGHTERS '97 GLOBAL MATCH](2018年4月5日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof97.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'97](2018年7月26日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof97/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'97](2023年12月7日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'97 上巻 〜終わりなき夏の最期に〜 、下巻 〜660年目のふたり〜 :著者:嬉野秋彦、挿絵は[[柴崎泪]]が担当。 :前後編合わせて京と庵の因縁の対決と、オロチとの決着を主眼に置いた小説。ゲームとはエピローグが多少異なる(京と庵がオロチを封印した後、そのまま対決に移る)。 ;京と庵 炎を統べるもの :[[MOVIC]]より出版された小説。著者:[[新井諒]]、挿絵:ルーガル・ガメ夫 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'97激闘編 : ドラマCD : 八神庵の力を狙い山崎竜二に彼の拉致を依頼した何者か(『宿命編』でその正体が明らかになる)とオロチ四天王がそれぞれ暗躍する、大会前の日本を舞台にしたパラレルストーリー。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'97宿命編 : ドラマCD : 脚本:滝本正至 : 『激闘編』の続編。『'96』と同じく、本編とは違う形でオロチと邂逅する。オロチのみゲーム版と声優が異なり、[[くまいもとこ]]が演じている。 :* 草薙京 - [[野中政宏]] :* 八神庵 - [[安井邦彦]] :* 神楽ちづる - [[斉藤亜紀子]] :* 二階堂紅丸 - [[前塚あつし]](旧・モンスター前塚) :* 不知火舞 - [[曽木亜古弥]] :* 麻宮アテナ - [[栗栖ゆきな]] :* ユキ - 小島明子 :* 山崎竜二 - [[石井康嗣]] :* 七枷社 - [[粟根まこと]] :* [[クリス (KOF)|クリス]] - [[緒方りお]] :* シェルミー - [[西川葉月]] :* [[オロチ (KOF)|オロチ]] - [[くまいもとこ]] :* ナレーション - [[大塚明夫]] :* アナウンサー - [[松田佑貴|松田健浩]] :* 男A - [[船戸健行]] :* ナンパ男 - [[飛鳥幸一|飛鳥紅一]] :* 女の子 - 綾瀬なつき :* 女子高生 - 伊藤麻衣<ref>{{Cite book|和書|title=説明書|publisher=ポニーキャニオン|page=16}}</ref> : ; The King of Fighters'97 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'97 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS '98 === {{See also|w:The King of Fighters '98}} {{コンピュータゲーム | Title = THE KING OF FIGHTERS '98 -DREAM MATCH NEVER ENDS-<br />THE KING OF FIGHTERS DREAM MATCH 1999(ドリームキャスト版) | image = <!-- 画像ファイル名(著作権に注意) --> | caption = <!-- 画像ファイルのキャプション --> | Genre =対戦型格闘ゲーム | Plat = アーケード<br />ネオジオ<br />ネオジオCD<br />PlayStation<br />[[ドリームキャスト]] | Dev = SNK | Pub = SNK | distributor = <!-- 販売元 --> | producer = <!-- 担当プロデューサー --> | director = <!-- 担当ディレクター --> | designer = <!-- 担当ゲームデザイナー --> | writer = <!-- シナリオ担当スタッフ --> | programmer = <!-- 担当プログラマー --> | composer = <!-- 音楽担当スタッフ --> | artist = <!-- 美術関係の主なスタッフ --> | license = <!-- ソフトウェアライセンス(無料配布ゲームの場合のみ) --> | series = <!-- ゲームシリーズ --> | Ver = <!-- バージョン --> | Play = <!-- プレイ人数 --> | Media = <!-- ソフト媒体 --> | discless = <!-- ディスクレス起動(PCゲームの場合のみ) --> | activation = <!-- アクティベーション(PCゲームの場合のみ) --> | Date = '''アーケード''':[[1998年]][[7月23日]]<br/>'''PS版''':1999年3月25日{{R|ITmedia19990406}}<ref name="dengeki20140310">{{Cite web|和書|title=『ザ・キング・オブ・ファイターズ’98』シリーズ最高峰のゲームバランスを誇るSNKキャラクター夢の祭典!【電撃PS×PS Store】 |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/815/815468/ |website=電撃オンライン |access-date=2023-01-29 |date=2014年3月10日|author=ophion}}</ref> | latest release version = <!-- 最新バージョン --> | latest release date = <!-- 最新バージョンリリース日 --> | latest preview version = <!-- 最新評価版 --> | latest preview date = <!-- 最新評価版リリース日 --> | Rating = {{CERO-B}} | ContentsIcon = <!-- コンテンツアイコン --> | Download content = <!-- ダウンロードコンテンツ --> | Device = <!-- 使用可能デバイス --> | Spec = <!-- 必要環境(PCゲームの場合のみ) --> | Engine = <!-- 使用ゲームエンジン --> | aspect ratio = <!-- 画面のアスペクト比 --> | resolution = <!-- 画面の解像度 --> | cabinet = <!-- アーケード筐体(アーケードゲームの場合のみ) --> | Arcade system = <!-- システム基板(アーケードゲームの場合のみ) --> | cpu = <!-- 使用CPU(アーケードゲームの場合のみ) --> | sound = <!-- 使用サウンドハードウェア(アーケードゲームの場合のみ) --> | display = <!-- 使用ディスプレイ(アーケードゲームの場合のみ) --> | Sale = <!-- 出荷・販売本数 --> | Lang = <!-- 対応言語 --> | etc = }} [[1998年]][[7月23日]]稼動。フルタイトルは『'''THE KING OF FIGHTERS '98 -DREAM MATCH NEVER ENDS-'''』で、シリーズで初めてサブタイトルを冠した作品となる。 キャッチコピーは「'''ゴージャスに行こうぜ。'''」(MVS、ネオジオ、ネオジオCD版)。 本作はネオジオ&ネオジオCDといった自社ハードだけでなく、PlayStationなどの他社ハードにも移植されてきたほか、2008年には『'''[[#THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH|THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH]]'''』としてリメイク版が発売された。 国内最大規模の対戦格闘ゲーム大会である「[[闘劇]]」の2007年度大会「闘劇'07」の競技タイトルの1つに選ばれている。 ==== ゲームシステム ==== 一応本作KOF大会主催者は本作で復活を果たしたオメガ・ルガールになっているが、前作『'97』で「オロチ編」が完結したため本作では特にストーリーは設けられておらず、これまでのシリーズ(『'94』〜『'97』)をゲームとして総括した集大成的作品となる。代わりに各キャラクターへのインタビューが存在する。そのため、本シリーズ本来のコンセプトである「SNKのゲームキャラクターの夢の祭典」としての傾向が強くなっている。 システムは『'97』を踏襲し、主に細かい変更・修正がなされた。主なシステムの変更点は、EXTRAでは小・中ジャンプおよびカウンター攻撃が追加され、「ADVANCED」ではMAX超必殺技を使用した場合にパワーMAXが解除されるようになった。ゲージシステムも改良され、「ADVANCED」は一人倒されるごとにアドバンテージとしてゲージのストック数が1つずつ増え(最大で5つ)、「EXTRA」はゲージが短くなる。 本作より投げ系必殺技・超必殺技の仕様が変更され、コマンド入力時点で技が発動し、相手が投げ間合いにいない場合には空振りモーションが発生するようになった。また、キャラクター選択時にランダムでキャラクターを選択し、その後もそのゲーム中は1試合毎に再度ランダムで選択してくれる「ルーレットチームエディット」(本作は「?」アイコンにカーソルを合わせることで選択できる)と、CPU戦で負けてコンティニューした際に、プレイヤーが有利になる特典を得られるサービスである「コンティニューサービス」も本作より導入された。 この作品から『XI』までは、CPUは特別な場合を除き必ずデフォルトのチームで出てくるようになった。またこの作品以降、対戦中の名前表記が、苗字か名前の片方だけになった(顔アイコンのみの『2001』と『XI』を除く)。 前作同様に本作でも隠しキャラクターが多い。前作に登場した裏オロチチームに加えて、一部のキャラクターには、『95』に近い技性能を持った裏キャラクターが登場している。しかし、オリジナルの新キャラクターはいない<ref>{{Cite book|和書 |title=[[電撃王]] |date=1998年9月1日 |year=1998 |publisher=[[メディアワークス]] |page=18 |issue=通巻81号}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 女性格闘家チーム | 神楽ちづる || 不知火舞 || キング |- ! キムチーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! オロチチーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! '97スペシャルチーム | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- ! 八神チーム | 八神庵 || マチュア || バイス |- ! おやじチーム | ハイデルン || タクマ・サカザキ || 草薙柴舟 |- ! アメリカンスポーツチーム | ヘビィ・D! || ラッキー・グローバー || ブライアン・バトラー |- ! 裏オロチチーム<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! エディット専用 | colspan="3"|ルガール・バーンシュタイン<br />矢吹真吾(※乱入キャラクターとしても登場) |- ! 隠しキャラクター | colspan="3"|'95草薙京、裏テリー・ボガード、裏アンディ・ボガード、裏ジョー・ヒガシ<br />裏リョウ・サカザキ、裏ロバート・ガルシア、裏ユリ・サカザキ、裏不知火舞、裏ビリー・カーン |- ! ボスキャラクター<br />(家庭用でのみ使用可) | colspan="3"|オメガ・ルガール |} ==== 移植版('98)==== 家庭用としてはネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)版と、[[ドリームキャスト]](DC)版が発売されている。PS版には草薙京の目が開いている方と閉じている方の2種類があった<ref name="ITmedia19990406">[http://gamez.itmedia.co.jp/games/news/9904/06/news02.html SBG:PS版『KOF98』のパッケージに100分の1の確率で特別版が?] ITmedia Gamez 1999年4月6日</ref>。DC版はSNKの参入第1弾ソフトで、正式タイトルは西暦表記が1つずれた『'''THE KING OF FIGHTERS DREAM MATCH 1999'''』となっている。さらに後に、PS2で、[[NEOGEO オンラインコレクション]]第10弾として2008年6月26日に発売されたリメイク版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』にオリジナル版『'98』がネオジオモードとして同時収録された。また、[[2007年]]にはPS3・PSP・PS Vita向けの[[ゲームアーカイブス]]でもPS版が配信された。[[2010年]]にはPSP版『THE KING OF FIGHTERS PORTABLE'94〜'98 Chapter of Orochi』内にも収録<ref>{{Cite web|和書|title=SNKプレイモア、「KOF'94」から「KOF'98」までの5タイトルを収録 PSP「KOF PORTABLE '94~'98 Chapter of Orochi」発売決定 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/359462.html |website=GAME Watch |date=2010-04-06 |access-date=2023-01-29 |publisher=株式会社インプレス}}</ref>。2014年にiOS / Android端末向けのネイティブアプリとしても配信。2009年のXBLA版『'98 UM』、2014年のSteam版『'98 UM FINAL EDITION』にもPS2版と同様にネオジオ版『'98』が同時収録されている。 そして、2017年3月3日にはハムスターの「[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]」の一環としてNintendo Switchへの移植版が配信され<ref>{{Cite web|和書|title=NEOGEOの名作がNintendo Switchで遊べる! 『KOF’98』、『メタルスラッグ3』など5タイトルが3月3日配信 |url=https://www.famitsu.com/news/201703/01128033.html |website=ファミ通.com|date= 2017.03.01 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>、2018年1月11日にはPS4/Xbox Oneへの移植版が配信された<ref>{{Cite web|和書|title=【名作発掘】「アケアカNEOGEO ザ・キング・オブ・ファイターズ '98」レビュー 「KOF」シリーズの集大成がアケアカNEOGEOで蘇る!! アケアカNEOGEO ザ・キング・オブ・ファイターズ '98|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/review/1101848.html |website=GAME Watch |date=2018-01-19 |access-date=2023-01-29 |publisher=株式会社インプレス}}</ref>。 ==== 反響('98)==== {{出典範囲|text1=全国大会「Duelling the KOF」の発起人・DUNEはファミ通とのインタビューの中で、1990年代後半~2000年代初期のKOFのシーンはピーク時より落ち着いたとはいえ、まだ対戦人口が多く、その具体例として全国どこへ行っても本作を遊べたことを挙げている。また、DUNEは2000年の時点で対戦人口が大幅に減ったものの、2001年に個人主催の『KOF ’98』の全国大会が開かれて驚き、これが「Duelling the KOF」の開催のきっかけとなったとも振り返っている。さらに、DUNEは2006年に上海で開かれた「The Great Battle」という大会の『KOF '98』部門への参加を通じて中国のプレイヤーの水準の高さを知ったと話している|ref1=<ref name="Famitsu20220202"/>}}。 ==== 評価('98)==== 電撃オンラインのophionは、キャラクターの多さとゲームバランスの良さを評価している{{R|dengeki20140310}}。 ;音楽に対する評価 :ライター・風のイオナは、4Gamer.netに寄せた記事の中で、『'98』版「ESAKA?」(主人公チーム)について「サンプリングギターを前面に出したロック色の強いアレンジになっています。」と評している<ref name="4Gamer.net20200925">{{Cite web|和書|title=ミュージック フロム ゲームワールド:Track 209 メガドライブ版「マッドストーカー」,「KOF'98」&「KOF'99」|url=https://www.4gamer.net/games/296/G029627/20200916122/|website=www.4gamer.net|accessdate=2020-09-25|date=2020-09-25|publisher=Aetas|author=風のイオナ}}</ref>。また、風のイオナは、餓狼伝説チームのテーマ曲である「クリキントン ~ごまめギターVer~」については、陽気でファンキーな雰囲気がさらに強くなったとした一方、スタッフロール曲の「ZERO」については「カラッと爽快に仕上がったフュージョン風の曲。中盤にあるドラムの見せ場など,全体をとおして各パートの演奏を楽しめます。」と評価している{{R|4Gamer.net20200925}}。 ==== THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH ==== [[2008年]][[3月18日]]稼動。『'98』のリメイク作品。略称は『'98UM』。『'98』を稼動してから約10年振りにアーケード版として再登場(基板にはTaito Type Xを使用)。 キャッチコピーは「'''ドリームバトル、究極進化。'''」。 春に稼動するのはシリーズ初であり、これで『KOF』シリーズは春夏秋冬すべてで稼動したこととなった。『'98』をベースとしゲームバランスの再調整、新システム「アルティメットモード」が追加されている。その後、アジア圏向けにPGM2システム基板対応作品として、さらに再調整された『'''THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH 英雄'''』がリリースされた<ref>[http://blog.am-net.jp/article/32501387.html 「KOF98 英雄」先行稼働予定]{{出典無効|date=2016年8月25日|title=個人ブログ}}</ref>。また、[[NESiCAxLive]]でも再調整版となる『'''THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION'''』が[[2011年]][[1月24日]]に配信されている。 本作では、『'98』までの全キャラクターが登場することに伴い、一部の対戦前の演出などが追加、変更された。『'98UM』の追加キャラクターの公式イラストは森気楼の画風に似せているが、これはイラスト担当のおぐらえいすけが当時の絵を参考に作画したものである。 アルティメットモードでは、アドヴァンストモードとエキストラモードからそれぞれ、移動方法・回避方法・パワーゲージを自由に組み合わせられ、よりプレイヤー自身の好みのシステムが選択可能となった。これにより、例えば「ダッシュ・緊急回避・エキストラゲージ」という『'96』のシステムでのプレイが可能である。従来のアドヴァンストモードとエキストラモードも改良されており、パワーMAXではない通常の状態からパワーMAX超必殺技を発動したり、攻撃中やガードしている状態からパワーMAXを発動するクイックMAX発動などが可能となっている。 CPU戦では、プレイ内容による乱入キャラクターや最終ボスの分岐が多種多様に設けられているのが特徴。 今作ではコマンドの斜め入力を省略した、例えば「←↓→+A」といった簡易コマンドが受け付けられるようになっている。連続技の内容によっては、この簡易コマンドを使用しなければ間に合わないことがある。 PS2版は[[2008年]][[6月26日]]に発売。[[NEOGEOオンラインコレクション]]シリーズの第10弾である。アーケードモードに加え、チャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモードの他、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーモード等が収録されている。ある条件をクリアすることにより、ボスキャラクターの使用、および3人全員同じキャラクターでチームを組むことが可能になる。また、オリジナルの『'98』のネオジオ版も収録されている<ref>{{Cite web|和書|title=ネオジオ博士の98UM講座:THE KING OF FIGHTERS'98 ULTIMATE MATCH |url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof98um/hakase/10.html |website=game.snk-corp.co.jp |access-date=2023-06-07}}</ref>。ネットワーク対戦は『'98UM』(ボスあり・なし)、ネオジオ版『'98』のどちらにも対応していた。 [[2009年]][[7月1日]]にXbox 360にてXBLA版が配信。PS2版に存在したチャレンジモード、エンドレスモード、プラクティスモード、ネオジオ版『'98』は収録されているが、その他の特典要素の多くが削られており、3D背景、アレンジBGM、カラーエディット、ギャラリーなどは収録されていない。また、ネットワーク対戦は『'98UM』のみ対応し、ネオジオ版には非対応。 [[2014年]][[12月16日]]にSteam版『'''THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION'''』が配信開始。こちらは2011年稼働のNESiCAxLive版『FINAL EDITION』のゲームバランスをベースにした上で、XBLA版と同様の内容を収録している。ネオジオ版『'98』も同時収録されているが、XBLA版同様にPS2版での追加要素は一部省かれている。こちらはボスキャラクターと同キャラクターチームが最初から使用可能になっている。レイティングは全て{{CERO-B}}。[[2022年]][[6月21日]]にPS4版が配信され、2022年[[10月27日]]にはパッケージ版が発売。 なお、[[2016年]][[8月25日]]にはスマホアプリ([[Android (オペレーティングシステム)|Android]]・[[iOS]])版『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH Online』が配信されているが、'''本作とは全く異なるゲーム'''となっている(後述)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 女性格闘家チーム | 神楽ちづる || 不知火舞 || キング |- ! キムチーム | キム || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! オロチチーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! '97スペシャルチーム | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- ! 八神チーム | 八神庵 || マチュア || バイス |- ! おやじチーム | ハイデルン || タクマ・サカザキ || 草薙柴舟 |- ! アメリカンスポーツチーム | ヘビィ・D! || ラッキー・グローバー || ブライアン・バトラー |- ! '96ボスチーム(ゲーニッツルート限定ボス) | ギース・ハワード || ヴォルフガング・クラウザー || Mr.ビッグ |- ! 裏オロチチーム(オロチルート限定ボス)<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! エディット専用{{efn2|name="98umedit"|キャラクター選択画面では、真吾、影二、香澄の3人が「EDIT」枠として3人組チームのように配置されているが、公式チーム扱いではない。}}<br />(乱入キャラクターとしても登場) | colspan="3" | 矢吹真吾、如月影二、藤堂香澄、ルガール・バーンシュタイン |- ! 最終ボス('98UMボスチーム)<br />(家庭用のみ隠しキャラクターとして使用可) | オメガ・ルガール|| ゲーニッツ || オロチ |- ! 隠しキャラクター | colspan="3"|'95草薙京、裏テリー・ボガード、裏アンディ・ボガード、裏ジョー・ヒガシ、裏リョウ・サカザキ、裏ロバート・ガルシア、裏ユリ・サカザキ<br />裏不知火舞、裏キング、裏山崎竜二、裏ブルー・マリー、裏ビリー・カーン、裏ギース・ハワード |- ! 乱入キャラクター<br />(家庭用のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ<br />ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナ |} ==== 開発(98'UM) ==== SNKのネオジオ博士が『'98UM』公式ホームページに寄せたコラムによると複数のステージが追加されたという。このうち、『'96』のボスチームステージは同作のボスチーム3人の参戦に合わせて追加されており、同ステージの観客席にいたビリー・カーンは別のキャラクターに置き換えられている<ref name="DrNeoGeo4">{{Cite web|和書|title=ネオジオ博士の98UM講座:THE KING OF FIGHTERS'98 ULTIMATE MATCH |url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof98um/hakase/04.html |website=game.snk-corp.co.jp |access-date=2023-06-07}}</ref>。一方お蔵入りとなったステージもあり、たとえばサウジアラビアのステージでは時間の経過に合わせて背景のラクダがどんどん増える予定だった{{R|DrNeoGeo4}}。 {{出典範囲|text1=キャラクターや技の中にもお蔵入りとなったケースがあり、前者の例としては『リアルバウト餓狼伝説』シリーズ仕様の裏キムら複数の追加裏キャラクターが時間の都合で導入を見送られた。後者の例としては、『龍虎の拳 外伝』のリョウの技の一つである虎煌撃の動きが遅く、ダウン時間の短い『KOF』シリーズには不向きであるため、裏リョウの「空中虎煌拳」にダウン追撃判定を入れるという代替措置が取られた。また、クラウザーは割り当てられた技の数が多く、これ以上コマンドを割り振ることができないため「カイザークロー」や「カイザーインフェルノ」がお蔵入りとなった。|ref1=<ref>{{Cite web|和書|title=ネオジオ博士の98UM講座:THE KING OF FIGHTERS'98 ULTIMATE MATCH |url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof98um/hakase/11.html |website=game.snk-corp.co.jp |access-date=2023-06-07}}</ref>}} ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(1998年9月23日発売) *[[ネオジオCD]]版(1998年12月23日発売 / 初回限定版あり) *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版(1999年3月25日発売)(廉:2003年3月27日発売) *[[ドリームキャスト]]版 ザ・キング・オブ・ファイターズ DREAM MATCH 1999 (1999年6月24日発売)(廉:2000年12月21日発売) *[[PlayStation 2]]版 [[NEOGEO オンラインコレクション]] ザ・キング・オブ・ファイターズ'98 ULTIMATE MATCH (2008年6月26日発売)(廉:2009年6月18日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00056_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'98](2007年6月28日配信開始) *[[Xbox Live#Xbox Live Arcade(Xbox 360のみ)|Xbox LIVE アーケード]]版([[Xbox 360]])[https://marketplace.xbox.com/ja-JP/Product/KOF98UM/66acd000-77fe-1000-9115-d802584108d1?cid=search ザ・キング・オブ・ファイターズ'98 ULTIMATE MATCH](2009年7月1日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof98/index_kof98_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'98] (2012年10月23日配信開始) *[[iOS]]版、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 [http://game.snk-corp.co.jp/official/kof98/ THE KING OF FIGHTERS’98](2014年7月24日配信開始) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00063_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS’98 ULTIMATE MATCH](2014年11月19日配信開始・PS3のみ) *[[Steam]]版([[Windows]])[http://store.steampowered.com/app/222420/ THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION](2014年12月16日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof98.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'98](2017年3月3日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof98.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'98](2018年1月11日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof98.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'98](2018年1月11日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof98/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'98](2023年10月5日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'98 〜遺された者たち〜 :著者:嬉野秋彦、挿絵は[[戸橋ことみ]]が担当 :前作「660年目のふたり」の直系の続編を描いた小説。前作のラストで京と庵が行方不明になったため2人は登場しない(京は回想場面で登場)。真吾と紅丸を主役とした作品で、真吾・紅丸・ちづるの、“草薙京に置いて行かれた者たち”のそれぞれが秘める京に対する思いに決着を付ける物語(チームを組むのもこの3人)。この時点では『'99』で紅丸と真吾が同じチームを組むとは思っていなかったことを著者は次々作『BEYOND THE "K"』の後書きで語っている。 ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'98 〜最大多数の最大幸福〜 (著者:嬉野秋彦) :コメディを描いた小説。『遺された者たち』(話は繋がっていない)とは逆に京と庵も登場、京の(ご都合主義による)1年ぶりの帰還から始まる。登場キャラクター全員を(多少強引にだが)出している。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'98 : ドラマCD ; The King of Fighters'98 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'98 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'98 Ultimate Match : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS '99 === {{See also|w:The King of Fighters '99}} 本作から『2001』まで続く'''「ネスツ編」三部作の第1章'''。 キャッチコピーは「'''Kを超えるもの、その名はK'。'''」(MVS、ネオジオ版)。 [[1999年]][[7月22日]]稼動。家庭用はネオジオ&ネオジオCDのほか、PlayStation(PS)、ドリームキャスト(DC)、[[Microsoft Windows]]でも発売。DC版はタイトルが『THE KING OF FIGHTERS '99 EVOLUTION』となっており、[[ネオジオポケットカラー]]専用ソフト『[[#THE KING OF FIGHTERS バトルDEパラダイス|THE KING OF FIGHTERS バトルDEパラダイス]]』との連動によりパワーアップするエキストラストライカーが追加された。後にPS2でも、[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版がともに移植された。また、[[2007年]]にはPS3・PSP・PS Vita向けの[[ゲームアーカイブス]]でもPS版が配信された。レイティングは全て{{CERO-B}}。<br />なお、本作がネオジオCDで最後に発売された作品となった。また、PSで発売された最後の『KOF』でもある。 ==== ゲームシステム ==== シリーズで主人公の交代が初めて行われた作品で、ストーリーとしては新たな主人公・'''K''''('''ケイダッシュ''')を主軸としたネスツ編(以降『2001』まで続く)の幕開けとなった作品。 主催者は不明とされるが後に秘密結社ネスツのゼロ(クローン)の命令で動いたクリザリッドである事が明かされる。また『'95』までと同様に裏大会に戻っている(後年の『2000』も同様)。『'99』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-2">[https://www.famitsu.com/matome/kof-xv/story02.html/ シリーズの歴史をプレイバック! 『KOF』ヒストリー その2 ネスツ編]</ref>。 新たなシステムとして、援護攻撃の発展形ともいえるストライカーシステムが導入され、4人チーム制となる。また、スーパーキャンセルが可能になる「カウンターモード」とスーパーアーマー状態になる「アーマーモード」といったシステムが導入された(3ゲージ使うことで発動できる。『2000』まで採用された)。また、緊急回避動作が「かわし移動」となったが、この作品のみの採用となっている。動作としては、前方へのかわし移動は前に移動しながら『'95』以前の攻撃避けを行う感じになっており、この際は「かわし移動攻撃」を出すことができる。後方へのかわし移動はバックステップをした後、即座にステップインするというものになっており、バックステップ着地時は必殺技か超必殺技でキャンセルができる。なお、この作品ではスコアではなく「バトルアビリティ」と呼ばれるバトルポイント制となっている(『2000』まで採用)。グラフィックは技術の向上により、雰囲気は『'97』までとは一線を画している。この作品以降『2003』『XII』を除きCPU戦には戦闘画面にステージ数が表記されるようになった。 MVS版では京と庵は隠しキャラクターである。ストーリーモードではバトルポイント280以上で京、それ以下(200以上280未満)なら庵が、隠しボスとして乱入してくる。一定条件を満たせば使用可能になる。家庭用では最初から使用可能。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="5"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="4"|メンバー |- ! 主人公チーム | [[K']] || [[マキシマ (KOF)|マキシマ]] || 二階堂紅丸 || 矢吹真吾 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ || 不知火舞 |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ || タクマ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク || [[ウィップ (KOF)|ウィップ]] |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 || [[包 (KOF)|包]] |- ! 女性格闘家チーム | キング || ブルー・マリー || 藤堂香澄 || [[李香緋]] |- ! 韓国チーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ || [[ジョン・フーン]] |- ! エディット専用 | colspan="2"|[[草薙京#草薙京-1|草薙京-1]] || colspan="2"|[[草薙京#草薙京-2|草薙京-2]] |- ! ボスキャラクター<br />(PS版ではVS・プラクティス限定隠しキャラクターとして使用可)<br />(DC版・PS2版では最初から使用可) | colspan="4"|[[クリザリッド]](※家庭用で使用できるのは第2形態のみ) |- ! [[隠しボス]]<br />(業務用では隠しキャラクターとして使用可)<br />(家庭用では最初から使用可) | colspan="2"|草薙京 || colspan="2"|八神庵 |- ! エキストラストライカー<br />(『'99EVOLUTION』のみ) | colspan="4"| [[セス (KOF)|セス]]、[[ヴァネッサ (KOF)|ヴァネッサ]]、大門五郎、ビリー・カーン<br />山崎竜二、草薙京SP、神楽ちづる、麻宮アテナSP<br />[[リアルバウト餓狼伝説|アルフレッド]]、[[フィオ・ジェルミ|フィオ]]、[[武力 〜BURIKI ONE〜|天童凱]]、[[霧島翔]] |} ==== あらすじ ==== オロチが封印されてから2年の時が過ぎ、また世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の開催を宣言した招待状が届けられる。だが今回は、以前の様な世界規模の盛り上がりを見せる気配が一向に無く、これまでの大会と様子が違っており、更には対戦形式にも「ストライカーマッチ」という新しいルール規定が盛り込まれ、チーム構成は3対3から実質的に4対4への変更となっていた。何やら裏があるかの様な前兆に対し格闘家達は不審に思い、怒チームの指揮官であるハイデルンもまた、今大会が裏大会形式で開催された可能性を推察。新妹の少女隊員である'''[[ウィップ (KOF)|ウィップ]]'''を4人目として加える形で怒チームに出場を命令する。 一方、不穏な気配の中、前回大会以降より京と連絡の取れなくなっていた二階堂紅丸は、招待選手で結成されたスペシャルチームの一員として大会に招かれるも、予め記されたチームメイトは '''K' '''と'''[[マキシマ (KOF)|マキシマ]]'''という全く聞きなれない名で、不信感を覚えつつも自身と共に京の行方を求めていた真吾と共にチームを組む形で出場する。 大会が決勝戦にまで進む中、不審な車両や戦闘ヘリが世界各地の主要都市へと移動していたのだが、彼等の輸送していた「中身」とは、行方不明になった草薙京と同じ顔をした者達であった。一際不穏な動きを見せていた今回の大会は、謎の秘密組織「'''ネスツ'''」によって仕組まれた物で、決勝戦の対戦相手として待ち構えていた組織の幹部・'''[[クリザリッド]]'''は、KOFで人類最高レベルの戦闘データを収集し、そのデータを世界各地の要所に配置された京のクローン戦士軍団に転送。「最強の兵器」として利用して、世界中の要所を制圧しネスツが新世界を築くという、凶悪な世界同時[[テロ]]を計画していたのである。そして紅丸達がチームを組まされたK’とマキシマの二人もまた、ネスツによって生み出された改造人間であり、マキシマは全身を機械化したサイボーグで、K’はネスツに捕らわれていた京の操る炎の能力を移植された存在であった。 計画の最終段階を始動する為の最後の仕上げとして、世界中のクローン京を一斉稼動させるための「トリガーデータ」、すなわち「人を殺す」という概念を覚えさせるデータを完成させて転送するべく、自らも改造人間であったクリザリッドは優勝チームへと襲い掛かる。だが、改造人間にすると同時に記憶を奪ったネスツに不満を持っていたK'らや、オロチ戦で消耗していた隙を狙って拉致され勝手に大量のクローンを造られた借りを返そうとネスツから脱走していた京や彼の行方を追っていた庵等により、クリザリッドは敗北。世界各地に配置されていたクローンの京達もまた、抑えられてしまう事になった。そしてクリザリッドは、彼の上司から用済みとして口封じも兼ねる形で始末されてしまう。 その後、瀕死の重傷を負ったクリザリッドの前に彼が「姉さん」と呼んでいたウィップが姿を現す。彼女もまたネスツの一員であったのだが、真実を知った事でネスツと決別した彼女から、自身とクリザリッドが本当の姉弟ではなく、更にはK’のオリジナルと信じて居た自身こそが彼のクローンとして生み出された存在だったという驚愕の真実を聞かされ、最後はその介錯を受ける形で生涯を終える事になった。一方、K'とマキシマの二人はネスツを裏切る事を決意。K'が自身の能力を暴走させながらも、基地を脱出する事になるのだった。 未だかつて無い波乱に満ちた今回の大会は、世界の支配を目論む組織「ネスツ」の存在が明らかになる形で、幕を閉じる事になるのだった。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(1999年9月23日発売) *[[ネオジオCD]]版(1999年12月2日発売) *[[ドリームキャスト]]版 ザ・キング・オブ・ファイターズ'99 EVOLUTION (2000年3月30日発売)(廉:2001年10月25日発売。当初は9月27日に発売予定だったが、製造ミスにより誤って前作『'98』の移植である『DREAM MATCH 1999』をプレスしたことが判明したため、一旦回収されて発売延期された<ref>[https://pomegd.hatenablog.com/entry/2019/11/16/140000 発売直前に製造ミス発覚して回収された「KOF99 EVOLUTION」ベスト版を実際に起動させてみた] - 個人ブログ『はじまりはビープ音』</ref>。) *[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版(2000年3月23日発売)(廉:2001年3月29日発売) *[[Microsoft Windows|Windows]]版 ザ・キング・オブ・ファイターズ'99 EVOLUTION ([[Microsoft Windows 98|Windows 98]]、サイバーフロント、2000年12月22日発売)、低価格版(サイバーフロント、2002年11月7日発売)、スリムパッケージ版 (ソースネクスト/サイバーフロント、2005年9月22日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00057_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'99](2007年6月28日配信開始) *[[バーチャルコンソール]]版([[Wii]]) - ネオジオ版を配信。[http://game.snk-corp.co.jp/event/virtual-console/kof99/index_kof99_j.html ザ・キング・オブ・ファイターズ'99] (2012年12月18日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof99.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'99](2017年5月25日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof99.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'99](2018年4月5日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof99.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ'99](2018年4月5日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof99/ ザ・キング・オブ・ファイターズ'99](2022年8月18日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ'99 〜BEYOND THE "K"〜 :著者:嬉野秋彦、挿絵は[[戸橋ことみ]]が担当 :主人公チームをメインに描いた小説。明言されてはいないが『遺された者たち』の続編と思しき描写がある(紅丸がチームを組む際にちづるを挙げている)。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ'99 : ドラマCD ; The King of Fighters'99 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'99 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS 2000 === {{See also|w:The King of Fighters 2000}} '''ネスツ編三部作の第2章'''。 キャッチコピーは「'''それは、宿命の邂逅。'''」(MVS、ネオジオ版)。 [[2000年]][[7月26日]]稼動。本作がSNK(旧社)がアーケードとネオジオ向けに開発した最後の(過去作からの移植ではない)新規開発作品となった<ref>他社開発で発売のみを担当したMVS/ネオジオ向け新規開発作品も含めた場合、ノイズファクトリー開発で翌年2001年稼働開始の『[[戦国伝承2001]]』が最後。また、据え置きハード全体におけるSNKの新規開発最終作は、同年2000年8月発売のドリームキャスト向けソフト『[[COOL COOL TOON]]』で、携帯ゲーム機向け作品も含めた場合は翌年2001年9月発売の[[ネオジオポケットカラー]]用ソフト『[[SNK VS. CAPCOM 激突カードファイターズ|SNK VS. CAPCOM 激突カードファイターズ2 EXPAND EDITION]]』が最後。</ref>。 家庭用はネオジオ、ドリームキャスト(DC)、PlayStation 2(PS2)で発売。ネオジオ版以外はSNK(旧社)倒産後に版権を受け継いだプレイモアからの発売で、PS2版はプレイモア(現:SNK(2代目))の参入第1弾ソフトである。後に、再びPS2で[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== ネスツ編のヒロインで、K'と対になる存在のクーラ・ダイアモンドがこの作品から初登場。 主催者は(ゼロ(クローン)に裏から掌握された)リング機関と、ハイデルン率いる傭兵部隊による共同主催。『2000』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-2"/>。 システムは『'99』を継承しているが、本作では「アクティブストライカーシステム」の採用により、ストライカーの使用が容易になったことで連続技の自由度が非常に上がった。しかし、それらのシステムの駆使による、一部キャラクターとストライカーの組み合わせによる簡単な「ハメ技」や「即死コンボ」が発見されてしまい、逆にゲームバランスにおいて弊害が生じる結果になった。 それまでのSNKのゲームに登場したキャラクターの多くを、各キャラクターに用意されたもう一人のストライカーであるアナザーストライカー(一部キャラクターは3人目であるマニアックストライカーもいる。また、PS2版ではさらに隠しマニアックストライカーが追加されている)として登場させている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="5"|出場キャラクター |- ! rowspan="2"|チーム名 !! colspan="4"|メンバー |- ! colspan="4"| アナザーストライカー<br />(下段はマニアックストライカー、カッコ内のキャラクターはPS2単体版のみ登場) |- ! rowspan="2"|主人公チーム | K' || マキシマ || [[ラモン (KOF)|ラモン]] || [[ヴァネッサ (KOF)|ヴァネッサ]] |- | アナザーK'<br />(クリザリッド) || ロッキー || [[バーニングファイト|デューク・エドワーズ]]<br />[[クイズ大捜査線|ネオ&ジオ]] || フィオ |- ! rowspan="2"|紅丸チーム | 二階堂紅丸 || 矢吹真吾 || 麟 || [[セス (KOF)|セス]] |- | アナザー紅丸<br />(暴走庵) || コスプレイヤー京子 || 如月影二 ||大門五郎 |- ! rowspan="2"|餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ || ブルー・マリー |- | ギース・ハワード<br />(ブライアン・バトラー) || ビリー・カーン<br />(ラッキー・グローバー) || [[ダック・キング]]<br />(ヘビィ・D!) || 山崎竜二 |- ! rowspan="2"|龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || キング || タクマ・サカザキ |- | [[楓 (月華の剣士)|楓]]<br />[[ネオジオ|ゲーマント]] || アナザーロバート || [[獅子王 (風雲黙示録)|獅子王]] || [[武力 〜BURIKI ONE〜|天童凱]]<br />(Mr.ビッグ) |- ! rowspan="2"|怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク || ウィップ |- | ゲーニッツ<br />(オロチ) || 七枷社<br />(暴走レオナ) || シェルミー || クリス<br />(ハイデルン) |- ! rowspan="2"|サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 || 包 |- | [[アテナ (ゲーム)|初代アテナ]] || [[サイコソルジャー|PSケンスウ]] || 白湯 || 渡部薫 |- ! rowspan="2"|女性格闘家チーム | 不知火舞 || ユリ・サカザキ || 藤堂香澄 || [[四条雛子]] |- | 神楽ちづる<br />(ヴォルフガング・クラウザー) || [[ナコルル]] || 李香緋<br />[[藤堂竜白|アンノウン]] || リリィ・カーン |- ! rowspan="2"|韓国チーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ || ジョン・フーン |- | [[風雲スーパータッグバトル|キム・スイル]] || [[キム・ドンファン]]<br />スマートチャン || [[キム・ジェイフン]]<br />クールチョイ || カン・ベダル |- ! rowspan="2"|エディット専用 | colspan="2"|草薙京 || colspan="2"|八神庵 |- | colspan="2"|霧島翔<br />草薙柴舟 ||colspan="2"| [[マチュア]]&[[バイス (KOF)|バイス]]<br />アナザー庵 |- ! rowspan="2"|乱入キャラクター<br />(業務用では隠しキャラクターとして使用可)<br />(家庭用では最初から使用可) | colspan="4"|[[クーラ・ダイアモンド]] |- | colspan="4"|キャンディー・ダイアモンド(※ノーマルストライカー)<br />[[フォクシー (KOF)|フォクシー]]<br />ルガール・バーンシュタイン |- ! ボスキャラクター<br />(家庭用のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="4"|[[ゼロ (KOF)#クローン|ゼロ(クローン)]](※ストライカーとしての選択不可) |} ==== あらすじ ==== 前回大会で秘密結社「ネスツ」の存在が明るみに出るも、それ以来ネスツは特に活動を起こす事なく、その情報は途絶えてしまう。 その一方、ネスツとは別に、世界各地ではテロ活動が頻発しており、ハイデルン指揮下の特殊部隊はそれが、元ネスツであるK'とマキシマの2人によるものであるということを掴んでいた。2人を捜索するハイデルンだったが、それと同時期に「キング・オブ・ファイターズ」開催の知らせが世界の実力者達に届く。 今回の大会も裏でネスツが関わっている事を確信していたハイデルンは、'''[[ヴァネッサ (KOF)|ヴァネッサ]]'''や'''[[セス (KOF)|セス]]'''といった優秀なエージェントを擁する特殊機関「リング機関」の司令官である'''リング'''と協力体制を取り、共同で作戦を行う事を決定。ハイデルンが前回大会と同様に怒チームの面々に出場を言い渡す一方、リング機関側ではヴァネッサがネスツに抵抗し続けていたK'とマキシマに接触し、彼等にルチャ・リブレの使い手である'''[[ラモン (KOF)|ラモン]]'''が加わる形で、今大会に特別招待チームとして出場する事になり、ネスツの本拠地を探るべく、大会の中でK'とマキシマの捕獲作戦を実行に移す事を決定する。その頃、ネスツに追われ続ける京の行方を捜索していた紅丸と真吾の二人は、紅丸と旧知の仲であるセスの誘いを受ける形でキング・オブ・ファイターズにエントリーする事になるのだが、彼が中国から連れてきた不気味な容姿をした謎の男・'''[[麟 (KOF)|麟(リン)]]'''と一悶着を起こしつつも、紅丸チームを結成する。彼は中国の河北省を中心に活動する暗殺集団「飛賊」の長であり、先代の長であり一族を裏切って壊滅的被害をもたらした'''[[ザ・キング・オブ・ファイターズの登場人物#「飛賊」の長|龍(ロン)]]'''の行方を追っており、その手掛かりを求めて出場を決意したのである。また一方では、オロチとの決戦後にてネスツに捕らわれて受けた屈辱を晴らすべく、追っ手を返り討ちにしながらも追い続けていた京と、その京を探し求め続けていた庵の二人もまた、今大会にネスツが関わっている事を確信し、乗り込もうとしていた。 世界各地でトーナメントが開始される中、突如冷気を操る謎の美少女'''[[クーラ・ダイアモンド]]'''が乱入する事態となり、彼女との戦いが終わった直後、リングは映像記録に残っていた彼女の姿を見て「アンチK'」と評していた。そして、大会の途中でアクシデントが発生しつつ、何とか「[[サウスタウン]]」を舞台とした決勝戦にまで進む事になるも、ハイデルンとリングの双方が指揮を執る作戦司令部で異変が起こる事になる。突如ハイデルンを裏切り取り押さえる事を命令したリングは、ネスツによって送り込まれた替え玉のクローンであり、本物のリングを殺害して彼に成り済ましていた人物の正体はネスツの上級幹部の1人・'''[[ゼロ (KOF)#クローン|ゼロ]]'''だったのである。彼こそが前大会でクリザリッドを用済みと始末した張本人でもあり、テロ行為としてメディアでは報じられたK'とマキシマの行動は、ネスツおよびゼロの不穏な動向を調査しての物であったのが明らかとなる。 ゼロがリングに成り済ましていた理由は、対ネスツ用の衛星兵器として開発された「'''ゼロ・キャノン'''」を奪う事で、これはかつてのオロチを巡る戦いでオロチ一族が格闘家達の精神エネルギーを集めてオロチの復活に利用していたのを軍事兵器として転用した物であった。そして、今大会の開催を仕向けて格闘家達を集めたのも、ゼロ・キャノンの発動に必要となる精神エネルギーを収集する為であったのだが、ゼロの真の目的は更にその先にあり、最終的にはネスツをも出し抜く形で自らが新世界の頂点に君臨せんと企んでいたのである。 ゼロ・キャノン発射の為に最高峰の格闘家の力をゼロ・キャノンに転送させようと試みるゼロだったが、それに抵抗した大会優勝チームによって敗北。最後の悪あがきとしてゼロ・キャノンを強引に発射させようとするも、何故か自分自身がゼロ・キャノンの標的となってしまう。実は、今回のゼロの目的はネスツの上層部からも予め把握されてしまっており、クーラが送り込まれたのもゼロの反抗計画を失敗に追い込む為で、クーラを擁するネスツの幹部である'''[[クーラ・ダイアモンド#ダイアナ|ダイアナ]]'''と'''[[フォクシー (KOF)|フォクシー]]'''の二人から「ペナルティを受け取れ」と宣告されたゼロは、ゼロ・キャノンの直撃を受けて消滅。作戦司令部を制圧していたリングのクローンもまた、ハイデルンによって倒された。その後、ヴァネッサ、ラモンの二人と別れたK'とマキシマの二人は、怒チームの面々と離別したウィップと三人で行動を共にする事になった。一方、紅丸達は麟が探し続けていた龍と遭遇。ネスツに降る形で力を手に入れた彼から自分に協力するよう要求された麟はそれを断固として拒否。その隙を突かれる形で、龍は背後から紅丸のエレクトリッガーを受ける事になり変わり身の術で逃走するも、あまりにも驚異的な速度を見せた龍の姿にセスは戦慄し、このまま放置すれば取り返しがつかなくなると確信する。そして、ゼロに借りを返した京は、自分を探し続けていた庵と再会。帰りを待ち続けるユキへ想いを馳せつつ、京は庵と激突する。 サウスタウンでの事件から一週間後、ゼロの拠点であった寺院等で調査を続けていたハイデルンは、ゼロが軌道上に存在していた20機のゼロ・キャノンで攻撃を行おうとしていたのはネスツの拠点ではないかと推測。いずれにせよ今回はネスツに完全敗北してしまった事を痛感するも、ハイデルンはまだネスツの打倒を諦めてはいなかった…。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(2000年12月21日発売) *[[ドリームキャスト]]版(2002年8月8日発売)(廉:2003年9月11日発売) *[[PlayStation 2]]版(2002年11月28日発売)(廉:2004年11月18日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00083_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS 2000](2015年3月18日配信開始・PS3のみ) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof2000.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2000](2017年8月10日配信開始) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof2000.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2000](2018年6月21日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof2000.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2000](2018年6月21日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof2000/ ザ・キング・オブ・ファイターズ2000](2022年9月8日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ2000 ICICLE DOLL :著者:嬉野秋彦、挿絵は[[戸橋ことみ]]が担当 :主人公チームをメインに描いた小説。クーラが主人公チームの敵として登場する。 ;ザ・キング・オブ・ファイターズ2000 STRIKERS STRIKE BACK :著者:嬉野秋彦、挿絵は戸橋ことみが担当 :5つの短編で構成されたコメディを描いた小説。『最大多数の最大幸福』同様、今回もストライカーを含めた全キャラクター登場に挑戦しているが、設定の接合を付けるために幼い姿で登場したキャラクター(『MOW』のキム兄弟)や、中には名前が挙げられただけのキャラクターがいる(セスなど、名前すら挙げられず「モヒカン野郎」とだけ言われたキャラクターも)。どうしても作中に登場できなかったキャラクターは後書きに登場する。『ICICLE DOLL』と『STRIKERS STRIKE BACK』の2冊での全キャラクター登場を目標にしていたため、『ICICLE DOLL』に登場した一部のキャラクターは登場しない。 ; ザ・キング・オブ・ファイターズ2000 : ドラマCD : この作品のみ、AパートとBパートが完全に独立している(前述の『ゲムドラナイト』ではAパートのみ放送された)。 : Aパート:とある島を舞台に、故障した制御グローブの修理を目的にネスツ基地を狙うK'たちと、街中で偶然クーラと出会い親しくなった紅丸の再会を描く。 : Bパート:アイドルとしての仕事が長引きKOFへの出発が遅れてしまったアテナの珍道中を描く、ギャグストーリー。 ; 夕陽と月 〜プロローグ〜 : 草薙京と対面する前の八神庵と、谷間菊理という病弱な少女とその姉を中心とした物語。声優のキャスティングがゲーム版同じ。キャストは以下の通り。ナレーションは[[根本央紀]]。 :* 八神庵 - [[安井邦彦]] :* 谷間このえ - RUMI :* 谷間菊理 - [[かかずゆみ]] :* 桑原 - [[中村大樹]] :* 姫宮、医師 - [[宇垣秀成]] :* オーナー - [[根本央紀]] ; K.O.F.THE BEST 〜Selected by Characters〜 : ラジオ番組風ベストCD。厳密に言うとCDドラマの名場面集+α。 ; The King of Fighters'2000 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'2000 Arrange Sound Trax : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS 2001 === {{See also|w:The King of Fighters 2001}} '''ネスツ編三部作の第3章(最終章)'''。 [[2001年]][[11月15日]]稼動。旧SNK倒産後初のKOFで、プレイモア(後のSNKプレイモア、現SNK)系列としては初の作品となる。また、本作は初めて秋に稼働開始した作品で、夏以外の季節に稼働開始するのも本作が初となった。以降は発売・稼動開始する時期が特に決まっておらず、作品ごとに異なるようになる。 家庭用はネオジオ、DC、PS2で発売。後に、再びPS2で[[NEOGEO オンラインコレクション]]Vol.7の『THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-』内の収録タイトルとして、ネオジオ版とDC版を移植したバージョンが登場した。レイティングは全て{{CERO-B}}。 ==== ゲームシステム ==== 主催者は秘密結社ネスツことイグニス。『2001』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-2"/>。 システム面では、4人のうち0 - 3人をストライカーにできるタクティカルオーダーが導入された(ライフはストライカー以外で分配。なお、CPUはラストの2ステージのボス戦を除いて、ストライカーが1人に固定されている)。このため、ROUND6、ROUND7がアナウンスされる唯一のKOF作品となる。また、相手が画面端まで吹き飛んで跳ね返る[[ワイヤーダメージ]]が導入されたのはこの作品からである。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="5"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="4"|メンバー |- ! 主人公チーム | K' || マキシマ || ウィップ || 麟 |- ! 日本チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 || 矢吹真吾 |- ! 庵チーム | 八神庵 || ヴァネッサ || セス || ラモン |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク || ハイデルン |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ || ブルー・マリー |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ || タクマ・サカザキ |- ! 女性格闘家チーム | キング || 不知火舞 || 四条雛子 || 李香緋 |- ! ネスツチーム | クーラ・ダイアモンド || フォクシー || [[K9999]] || [[アンヘル (KOF)|アンヘル]] |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 || 包 |- ! 韓国チーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ || [[メイ・リー]] |- ! ボスキャラクター<br />(家庭用のみ使用可) |[[ゼロ (KOF)#オリジナル|ゼロ(オリジナル)]] ||colspan=3| グルガン、 龍、クリザリッド※ |- ! 最終ボス<br />(家庭用のみ使用可) | colspan="4"|[[イグニス (KOF)|イグニス]] |} ※グルガン・龍・クリザリッドの3名はゼロ(オリジナル)の専属ストライカーとして設定され、本来はゼロの特殊技扱いとして技の一部に設定されているが、PS2単体版で通常キャラクターを選択した場合はストライカー専用キャラクターとして個別に使用可能。 ==== あらすじ ==== 前回大会の終盤、ネスツの幹部であったゼロがクーデター起こした際に行ったゼロ・キャノンでの砲撃により、サウスタウンの一角1が消失。しかし、それは「人工衛星の落下事故」として報じられ、真相は世間には伝えられていなかった。常々何らかのアクシデントがついて回る「キング・オブ・ファイターズ」に中止の声は少なからずあったが、皮肉にも、いわく付きながらもこの人類最高峰の格闘大会は、97年の大会と同等かそれ以上に過熱していった。 そんな中、今大会では開催前より異常事態が巻き起こっていた。何と秘密組織であるはずのネスツが堂々と表舞台に進出し、更には前回大会で乱入してきた改造人間「アンチK'」の美少女であるクーラの他に、同じくネスツの改造人間である'''[[アンヘル (KOF)|アンへル]]'''や'''[[K9999|K9999(ケイ・フォーナイン)]]'''といったメンバーで構成された「ネスツチーム」がエントリーしており、K9999は同じ改造人間であるK'やクーラに対し、激しい憎悪を抱いていた。何故、これまで「秘密組織」で通し続けていた彼等が突然自分達の存在を公にする様な真似に出たのか、その真意が分からず不可解に思いながらも、ネスツの手掛かりが掴めなくなっていたK’、マキシマ、ウィップの三人は、龍の行方を突き止めるべく自分達をつけていた麟を加えた4人でキング・オブ・ファイターズへの出場を決意。同じくネスツとの決着を望んでいた京も、かつての仲間である紅丸や大門、そして真吾を加えた4人で「日本チーム」を復活させ、京を追い続ける庵もまた、前回大会で失態を犯してしまったヴァネッサ、セス、ラモンの三人と「庵チーム」を結成。これまでの二度の戦いでネスツに辛酸を嘗めさせられてきた格闘家達は、全ての決着をつけるべく、それぞれの決意と共にキング・オブ・ファイターズへと乗り込む。 大会が終盤へと進む中、飛行船の中で優勝記念式典が行われる事になるのだが、実は飛行船はロケットを偽装した物であり、ロケットが宇宙に向けて飛び立つ中、優勝チームの前に前回大会で死んだはずの'''[[ゼロ (KOF)#オリジナル|ゼロ]]'''が現れた。前回大会でネスツを裏切って死亡したゼロはクローンに過ぎず、目の前にいる彼こそがオリジナルのゼロで、ネスツに忠実な最高幹部であった。そしてオリジナルのゼロは、優勝チームが地上最強のチームであるかを自ら確かめるべく、ペットである黒獅子の'''グルガン'''、元「飛賊」の長である龍(ロン)、そして前々回大会でクローンのゼロに始末されかけた所を密かに救出したクリザリッドを従えて、優勝チームに戦いを挑む。ゼロはクローンを遥か凌ぐ実力を持っていたが、何とか勝利した優勝チームは、地球に向けて落下するロケットから脱出。宇宙要塞へと乗り込み進んだその先に、ネスツの上級幹部の一人である'''ミスティー'''、そして組織の頂点に君臨する存在・'''[[イグニス (KOF)|イグニス]]'''が遂に現れる事になった。一方、宇宙で最終計画が進められるのを地上から見届けていたネスツチームであったのだが、突然K9999とアンヘルの二人が裏切る形でフォクシーに重傷を負わせる。優勝チームが決定した時点で、イグニスはネスツチームをもはや用済みと見なしており、互いに殺し合う形で自滅させようとK9999とアンヘルの二人に、ダイアナとフォクシー、そしてクーラの三人を抹殺するよう予め命令していたのである。 実は組織の本来の長は、当の昔に息子のイグニスによって抹殺されており、ネスツはいつからか組織を乗っ取った彼の個人的な願望を満たす為だけの道具となり果ててしまっていた。秘密組織であるはずのネスツが表舞台に進出するという組織の自滅に繋がりかねない方針に出たのも、その時にはイグニスにとってネスツは用済みとなっていたからであり、ネスツを切り捨てた彼の最終目的は、地球意思のオロチすら倒した京や庵、およびその因子を移植したネスツの改造人間の傑作であるK'とクーラ、そしてKOFで勝ち上がった格闘家達といった地球最高峰の実力者達を自身の圧倒的な力でまとめて一掃する事で、「自身が『神』を超えた存在である事を世界に証明する」という極めて個人的かつ身勝手な物であった。そして、K'は自らが「神」となる為の極上の生贄となるべく最初から選ばれていた存在で、共に戦ってきたマキシマやウィップ、敵対したクリザリッドやクーラ、K9999、アンヘルですらもK'の成長を促す為に用意されたモルモットでしかなく、何も知らず無意識に戦い続けていたK'は、イグニスから全力で戦える様にと記憶を返された直後、他者の人生を弄ぶイグニスに怒り、最終決戦を挑む。 戦いは熾烈を極めたが、最終的に人間の力をデータでしか推し量れなかったイグニスの敗北という形で決着がつき、自暴自棄になったイグニスは宇宙要塞の自爆装置を作動。地球に向けて大気圏突入を開始してしまう。宇宙要塞が海へと落下していく中、自分と同じ力を持つ「トモダチ」がいる事を感じ取ったクーラは、自らの冷気の力でイグニスや宇宙要塞と運命を共にしようとしていた格闘家達を助ける。 秘密組織として世界中に混乱を撒き散らしたネスツは、組織として終焉を迎えた。だが、イグニスのエゴの産物として翻弄されてきたK’達自身の戦いはまだ終わっていなかった。龍がまだ死んでいない事を確信していた麟は姿を消し、亡き親友の仇を討ったマキシマもまた彼の墓参りへと向かうと告げて去り、残されたK'は自身がこれから何をすべきか思案していた所、ウィップから「命の恩人に恩を返さなくちゃ」と言われ、自身達を救いダイアナと共にいたクーラの手を取るのだった。一方、今大会の参加チームの中でもネスツと深い因縁を持ち決着をつけた京達日本チームは別れてそれぞれの帰るべき場所へと向かい、残された真吾は目の前に現れた京の父・柴舟に弟子入りをする。 かくして、秘密組織ネスツを巡るキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。 ==== 開発 ==== これまでキャラクターイラストを担当していた森気楼の移籍により、後任としてノナを起用した。 SNK(旧社)の[[倒産]]に伴い、開発は[[ブレッツァソフト]]と[[大韓民国|韓国]]のゲームメーカー[[イオリス]](同時期に業務提携を結んでいたメガ・エンタープライズと共に金銭面でのスポンサーでもあった)が、販売はサン・アミューズメントとプレイモアがそれぞれ担当した。このためオープニングにはSNKのロゴが表示されるが、SNKの開発スタッフはゲームサウンドを除いてゲーム自体には一切制作に関わっていない。韓国資本の流入により、出場キャラクターなどにその影響が見られる。 従来までゲームサウンドを担当していた[[SNK新世界楽曲雑技団]]は会社の倒産により、事実上解散しているが、今作はSNKグループに残った一部のメンバーによってBGMが製作されている。 ==== 反響(2001)==== 『KOF』全国大会”Duelling the KOF”の発起人DUNEは、ファミ通とのインタビューの中で、就職や進学でプレイヤーの世代交代が進んでいたことに加え、本作でゲーム性が変わったため、少しずつ<!--KOF全体?-->対戦人口が減っていったと話している<ref name="Famitsu20220202">{{Cite web|和書|title=歴史の目撃者に聞く! 『KOF』対戦史その1(2000年代以前~2000年代中盤編) - THE KING OF FIGHTERS XV特設サイト|url=https://www.famitsu.com/matome/kof-xv/review05.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-01-09 |date=2022-02-02 }}</ref>。 一方、本作は日韓戦が行われており、DUNEによると、日本ではフォクシーが禁止級のキャラクターとして認知されていたのに対し、韓国ではメイ・リーが禁止級扱いされており、イベント参加者からも同様の話があったという{{R|Famitsu20220202}}。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(2002年3月14日発売) *[[ドリームキャスト]]版(2002年12月26日発売)(廉:2004年1月22日発売) *[[PlayStation 2]]版(2003年10月23日発売)(廉:2005年2月17日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00102_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS 2001](2015年7月15日配信開始・PS3のみ) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof2001.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2001](2018年9月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof2001.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2001](2018年9月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof2001.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2001](2018年9月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof2001/ ザ・キング・オブ・ファイターズ2001](2022年10月13日配信開始) ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ2001 MORE THAN HUMAN 、THE GODS THEMSELVES :著者:嬉野秋彦、前後編とも挿絵はゲームのイラストを描いた[[ハシモトヒロアキ]](ヒロアキ)が担当している。 :主人公チームをメインに描いた小説。ゲーム中明かされなかった設定の数々が明かされている。 ; The King of Fighters'2001 : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS 2002 === {{See also|w:The King of Fighters 2002}} [[2002年]][[10月10日]]稼動。フルタイトルは『'''THE KING OF FIGHTERS 2002 -Challenge to Ultimate Battle-'''』。一応本作KOF大会主催者は本作で二度目の復活を果たしたオメガ・ルガールだが、ネスツ編が完結したことで、オロチ編完結後の『'98』同様、ストーリーのないネスツ編の集大成的作品となった。 キャッチコピーは「'''BE THE FIGHTER!!'''」(MVS、ネオジオ、ドリームキャスト、Playstation 2版)。 家庭用はネオジオ、DC、PS2、[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]で発売。DC版はSNK系列の[[セガ]]製ハード最後のソフトとなった。後にPS2で発売された『2002』のリメイク版である『'''[[#THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH|THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH]]'''』にも、オリジナルである本作のネオジオ版が収録されている(ただし同作のアーケード版、XBLA版、Steam版にはいずれも未収録)。レイティングは全て{{CERO-B}}。 この作品を最後に開発元であるイオリスはプレイモアとの業務提携およびスポンサー契約を解消した。 ==== ゲームシステム ==== ストライカーの廃止により、バトル形式は完全な3vs3に戻った。開発は『2001』同様イオリスと、販売はプレイモアがそれぞれ担当。今作はCPU戦でキャラクター曲なのは最後の1チーム・乱入してくる『2001』のネスツチームの内の1人(スコアで誰が乱入するか決まる)・ボスであるオメガ・ルガールのみで、あとは背景曲となる。ネスツ編の集大成であるが、ネスツ編のキャラクターが数人削除され、オロチ編のキャラクターも数人参戦している。 基本的なシステムは『'98』の「ADVANCED」を継承。大きく異なる点としては、MAX発動中にのみ、通常技の普段キャンセルできないポイントや、必殺技をキャンセルして別の必殺技を出すことができる「どこでもキャンセル」が使用できる。使うとMAX状態の残り時間が少し減る。また、このシステムのためMAX発動中は攻撃力が逆に減少する。また、隠し超必殺技として「MAX2」が存在。通常のMAX超必殺技の条件に加え、体力ゲージが一定量まで減ると使用できる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 日本チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 韓国チーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || タクマ・サカザキ |- ! 女性格闘家チーム | 不知火舞 || ユリ・サカザキ || メイ・リー |- ! KOF'96チーム | 八神庵 || マチュア || バイス |- ! KOF'97チーム | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- ! KOF'98チーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! KOF'99チーム | K' || マキシマ || ウィップ |- ! KOF2000チーム | ヴァネッサ || セス || ラモン |- ! KOF2001チーム<br />(乱入キャラクターとしても登場) | クーラ・ダイアモンド || K9999 || アンヘル |- ! ボスキャラクター<br />(家庭用のみ使用可) | colspan="3"|オメガ・ルガール |- ! オロチチーム<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! 隠しキャラクター | colspan="3"|[[KUSANAGI (KOF)|KUSANAGI]] |- ! 家庭用追加キャラクター<br />(DC版・PS2版・Xbox版)<br />(乱入キャラクターとしても登場) | colspan="3"|矢吹真吾<br />キング(ネオジオ版では背景に登場) |- ! 家庭用追加キャラクター<br />(PS2版・Xbox版)<br />(乱入キャラクターとしても登場) | colspan="3"|ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ<br />ゲーニッツ<br />ギース・ハワード(ネオジオ版・DC版では背景に登場) |} ==== THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH ==== 『KOF98UM』と同様の趣旨で登場した『2002』のリメイク作品。略称は『2002UM』。登場総キャラクター数が66人も及ぶ大幅なキャラクター追加や、ゲームバランスの再調整、新技の追加、BGM・アナウンスの一新、デザイン・背景を中心としたグラフィックの変更などが施されている。イラストはヒロアキが担当。 システム的には『2002』を継承しているが、MAX発動中でなくともゲージ3本を消費することでMAX版超必殺技やMAX2を使用可能になるなどの変更がされている。また、デザイン面では大幅に一新され、インターフェイス周りやステージ等は総入れ替えとなり、MAX2使用時にカットインが入ったり、一部のキャラクターは特定の技で相手を倒すと勝利画面のイラストが変わるなど演出面も強化されている。 『'98UM』同様、本作のCPU戦にも、プレイ内容による乱入キャラクター、最終ボスの分岐が多種多様に設けられている。 ネオジオ版『2002』の出場キャラクターの内、[[K9999]]のみが登場せず、代わりに似たような設定・性能を持つ新キャラクター、[[ネームレス (KOF)|ネームレス]]が新登場。PS2版にはオリジナルであるネオジオ版準拠の無印『2002』も同時収録されており、こちらは原作仕様であるためK9999も使用可能(ただし取扱説明書のキャラクター紹介欄からは除外されている)。 また、PS2・Xbox版『2002』に追加キャラクターとして出場していたギースとゲーニッツもPS2・XBLA版の今作に登場するが、同じく『2002』では出場していたツキノヨルオロチノチニクルフイオリは今作では登場していない。 PS2版の後に稼働されたアーケード版は更なるバランス調整が施されている他、背景が2Dに変更された代わりに新ステージが一部追加されている。また、基本的にPS2版のキャラクターはアーケード版にほぼ全て出場しているが、ボスキャラクターは全員CPU専用で使用できず、さらにギース(ナイトメア含む)とゲーニッツのみ登場していない。 後にアーケード版のゲームバランス準拠のものが『'''闘劇ver.'''』としてPS2版に逆輸入されている。これらでは対戦バランスや技の性能はアーケード版準拠だが、メニューやモードなどはPS2版無印準拠で同じく家庭用専用隠しキャラクターが使用可能になっている。なお、PS2版2作品ともにネオジオオンラインコレクションではないため、ネットワーク対戦には対応していない。 その後に配信されたXBLA版・Steam版のゲームバランスもアーケード版および『闘劇ver.』に準拠した上で、モード類はPS2版の要素を継承した移植となっているが、PS2版2作品には存在したネオジオ版『2002』、ギャラリー、カラーエディットなどが未収録となっている代わりに、ネットワーク対戦と実績機能に対応している。背景はPS2版の3Dではなく、アーケード版と同じ追加ステージありの2Dを採用している。Steam版はボスキャラクターと裏キャラクターが最初から全て無条件で選択可能になっている。 ボスキャラクターはプレイヤー仕様だと、CPUに比べて攻撃力が大幅低下、防御力が通常キャラクターと同じになる調整を施される。 [[2009年]][[2月26日]]にPS2版が発売。同年[[7月9日]]にアーケード版が稼動開始(システム基板は[[SYSTEM BOARD Y2]])され、本作はKOFシリーズ全体で初の、家庭用からアーケードへの逆移植タイトルとなった。さらに、[[2010年]][[6月24日]]にアーケード版と同等のバランス調整が行われた『闘劇ver.』がPS2で発売され、特に『闘劇ver.』は[[SNK (2001年設立の企業)|SNKプレイモア]]最後のPS2用ソフトとなった。[[2010年]][[11月3日]]にXbox 360の[[Xbox Live#Xbox Live Arcade(Xbox 360のみ)|Xbox LIVE アーケード]]版が配信された(詳細は上述)。[[2011年]][[1月24日]]からは[[NESiCAxLive]]でアーケード版準拠のものが配信されている。[[2015年]][[2月27日]]にはSteamでXBLA版準拠のものが配信され、2020年11月には大型アップデートが行われネットワーク対戦のネットコードにロールバック方式が実装された。[[2021年]][[2月9日]]には[[PlayStation 4]]でSteamアップデート版準拠のもの配信され、同年[[4月15日]]にはパッケージ版も発売。レイティングは全て{{CERO-B}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 京チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 包 |- ! 女性格闘家チーム | キング || 不知火舞 || 藤堂香澄 |- ! キムチーム | キム || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! オロチチーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! K'チーム | K' || マキシマ || ウィップ |- ! '97スペシャルチーム | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- ! 八神チーム | 八神庵 || マチュア || バイス |- ! ネスツチーム<br />(乱入キャラクターとしても登場) | クーラ・ダイアモンド || フォクシー || アンヘル |- ! エージェントチーム | ヴァネッサ || セス || ラモン |- ! 美少女格闘家チーム | メイ・リー || 四条雛子 || 李香緋 |- ! マスターチーム | ハイデルン || タクマ・サカザキ || 鎮元斎 |- ! ジョンチーム | ジョン・フーン || 麟 || 矢吹真吾 |- ! クローンチーム<br />(乱入キャラクターとしても登場) | KUSANAGI || 草薙京-1 || 草薙京-2 |- ! 裏オロチチーム<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! エディット専用<br />(乱入キャラクターとしても登場) | colspan="3"|[[ネームレス (KOF)|ネームレス]] |- ! 隠しキャラクター<br />(PS2版・XBLA版では使用に解禁が必要) | colspan="3"|ロバート・ガルシア(KOF2000Ver.)<br />椎拳崇(KOF2000Ver.)<br />タクマ・サカザキ(KOF2000Ver.) |- ! 家庭用追加隠しキャラクター<br />(アーケード版には未登場) | colspan="3"|ゲーニッツ<br />ギース・ハワード<br />ナイトメアギース |- ! 最終ボス(ネスツボスチーム)<br />(家庭用のみ使用可) | colspan="3"|クリザリッド<br />ゼロ(クローン)<br />ゼロ(オリジナル)<br />イグニス |- ! 隠しボス<br />(家庭用のみ使用可) | colspan="3"|オメガ・ルガール |} ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(2002年12月19日発売) *[[ドリームキャスト]]版(2003年6月19日発売)(廉:2004年11月11日発売) *[[PlayStation 2]]版(2004年3月25日発売)(廉:2005年11月23日発売) *[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]版(2005年3月24日発売 / 初回版あり) *[[PlayStation 2]]版 ザ・キング・オブ・ファイターズ2002 UNLIMITED MATCH (2009年2月26日発売)、闘劇ver.(2010年6月24日発売) *[[Xbox Live#Xbox Live Arcade(Xbox 360のみ)|Xbox LIVE アーケード]]版([[Xbox 360]])[https://marketplace.xbox.com/ja-JP/Product/KOF2002UM/66acd000-77fe-1000-9115-d802584109ad?cid=search ザ・キング・オブ・ファイターズ2002 UNLIMITED MATCH](2010年11月3日配信開始) *[[Steam]]版([[Windows]])[http://store.steampowered.com/app/222440/ THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH](2015年2月27日配信開始) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00093_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS 2002](2015年5月20日配信開始・PS3のみ) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof2002.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2002](2018年12月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof2002.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2002](2018年12月27日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof2002.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2002](2018年12月27日配信開始) *[[PlayStation 4]]版 [https://store.playstation.com/ja-jp/product/JP0576-CUSA04972_00-KOF2002UM0000PS4 THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH](2021年2月9日配信開始)(2021年4月15日パッケージ版発売) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof2002/ ザ・キング・オブ・ファイターズ2002](2022年1月27日配信開始) ==== 関連作品 ==== ; The King of Fighters'2002 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters'2002 Unlimited Match : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS 2003 === {{See also|w:The King of Fighters 2003}} 本作品・『XI』・『XIII』と続く'''「アッシュ編」三部作の第1章'''。 キャッチコピーは「'''今、新たな闘いの扉が開く。'''」(MVS、ネオジオ版)、「'''新たな炎が燃え上がる。'''」(PlayStation 2版)。 [[2003年]][[12月12日]]稼動。冬に稼働開始するのは本作がシリーズ初である。[[Multi Video System|MVS]]でリリースされた『KOF』シリーズのうち、日本国内では唯一単体基板(MV-0)で発売されたタイトルで、MV-6などの複数スロット基板に入れて稼動することができない(なお、日本国外向けの後期出荷のみだが、通常のROMカートリッジ版も存在する)。 家庭用はネオジオ、PS2、Xboxで発売。本作はネオジオ最後のKOFとなった。ネオジオ版の『KOF』では唯一、最初の操作説明画面に説明役のキャラクターが存在しない。PS2版では主人公チーム3人のさらなる設定が収録されていたり、システム面を調整した「アレンジモード」が追加されている。レイティングは{{CERO-B}}。 2019年2月21日には、アケアカNEOGEOの一環として、PlayStation 4/Nintendo Switch/Xbox One向けの移植版が発売された。 ==== ゲームシステム ==== 新主人公・'''アッシュ・クリムゾン'''を主軸に、オロチ編を伏線に利用した新たな展開が描かれる。 主催者は(牡丹に操られた)神楽ちづる。『2003』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-3">[https://www.famitsu.com/matome/kof-xv/story03.html/ シリーズの歴史をプレイバック! 『KOF』ヒストリーその3 アッシュ編]</ref>。 新たなシステムとして、ラウンド制が廃止され、全員KOされるまで試合が続行される途中交代可能なマルチシフト制が導入された。これによりPERFECTは3人全員がライフ満タンでなければならない。また、MAX超必殺技がリーダーのみが出せるリーダー超必殺技に変更された。なお従来よりも戦闘に時間がかかるため、制限時間は1カウント約2秒×60カウント=120秒である。 キャラクター選出にも過去作から大幅な変更も入り、アンディ・ボガードや椎 拳崇、鎮 元斎、チョイ・ボンゲといった前作まで皆勤だったキャラクターが初めて欠場した一方で、餓狼伝説シリーズのキャラクターの世代交代が行われた作品であり現時点で最終作の『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』より、テリー・ボガード以外のキャラクターが今作で初めて出場した(本作ではグリフォンマスクと牙刀が初参戦)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | [[アッシュ・クリムゾン]] || [[デュオロン]] || [[シェン・ウー]] |- ! 餓狼チーム | テリー・ボガード || ジョー・ヒガシ || [[グリフォンマスク]] |- ! 極限流チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- ! 韓国チーム | キム{{efn2|『2003』から『XIV』までは下の名前である「カッファン」が省かれた。}} || チャン・コーハン || ジョン・フーン |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! アウトローチーム | [[牙刀]]||ビリー・カーン || 山崎竜二 |- ! 女性格闘家チーム | キング || 不知火舞 || ブルー・マリー |- ! 紅丸チーム | 二階堂紅丸 || 矢吹真吾 || 大門五郎 |- ! 女子高生チーム | 麻宮アテナ || 四条雛子 || [[まりん]] |- ! K'チーム | K' || マキシマ || ウィップ |- ! 三種の神器チーム{{efn2|キャラクター選択画面ではこの3名はチームとしては並んでおらず、庵と京は画面中央でエディット専用のような立ち位置、ちづるのみボス枠の方で別に配置されているが、本作の公式サイトでは公式チームの1つとして扱われ、専用のストーリーとエンディングが用意されている。}}<br />(ちづるのみ業務用では隠しキャラクター)<br />(PS2版・Xbox版では最初から使用可) | 草薙京 || 八神庵 || 神楽ちづる |- ! 乱入キャラクター(隠しキャラクターとして使用可)<br />(PS2版・Xbox版では最初から使用可) | colspan="3"| KUSANAGI |- ! ボスキャラクター(アーデルハイドルート)<br />(PS2版・Xbox版のみ使用可) | colspan="3"| [[アーデルハイド・バーンシュタイン]] |- ! ボスキャラクター(無界ルート)<br />(マキと無界はPS2版・Xbox版のみ使用可){{efn2|マキはPS2版・Xbox版では最初から使用可能。}} | colspan="3"|ボス:神楽ちづる&[[神楽ちづる#神楽マキ|神楽マキ]]<br />最終ボス:無界 |} ==== あらすじ ==== ネスツの壊滅から2年後、またもや世界各地の格闘家達へ「キング・オブ・ファイターズ」の招待状が届けられた。本大会の主催者もやはり謎の存在であり、その正体について憶測が流れていたにもかかわらず、歴戦の格闘家達は次々と参戦を表明する。知名度の高い参加者が多数いることを確かめると、それまで慎重だった各メディアも、一斉に「キング・オブ・ファイターズ」を取り上げ始める事になった。 今大会から「ストライカーシステム」に代わって新ルール「マルチシフト」が採用され、それは社会現象にまで発展し、世界中の話題を独占してゆく。新ルール以外でも、名を知られつつキング・オブ・ファイターズに未参戦であった格闘家である'''[[グリフォンマスク]]'''や'''[[牙刀]]'''等が新規参戦し、更には謎の組織に所属する女子高生の暗器使いである'''[[まりん]]'''、飛賊の生き残りの一人である'''[[デュオロン]]'''、上海を拠点に活動する無頼漢の'''[[シェン・ウー]]'''、そして正体不明の謎の男'''アッシュ・クリムゾン'''。今まで表舞台で名の挙がる事の無かった未知数の実力者が次第に出場する事になり、新たなる盛り上がりを見せ始めていた。 やがて大会が中盤に差し掛かる中、謎の主催者によって草薙京と瓜二つの姿をした謎の存在である[[草薙京#KUSANAGI|KUSANAGI]]が出没し、出場チームに襲い掛かる事態となる。更には、一部の出場チームが主催者と思われる女性によってとある場所へと転送されてしまい、そこにはかつてオロチの力に手を出して身を滅ぼしたあのルガールと同じく「バーンシュタイン」の苗字を持つ謎の美少女・'''[[アーデルハイド・バーンシュタイン#ローズ・バーンシュタイン|ローズ・バーンシュタイン]]'''がいた。主催者の女性によって飛ばされた場所は、彼女の拠点である巨大飛行艇「スカイ・ノア」の中であり、ローズによって彼女の兄で同じく「バーンシュタイン」の名を持った青年である'''[[アーデルハイド・バーンシュタイン]]'''と戦わされる事態となってしまう。そして優勝チームが決まった直後、主催者の正体がオロチを巡る事件の後に消息が掴めなくなっていたちづるであった事実が判明。しかし、彼女は八咫の力を狙った謎の組織「'''遥けし彼の地より出づる者'''」によって洗脳され操られていただけに過ぎず、組織の1人で石化する異形の能力を操る'''[[無界|無界(ムカイ)]]'''との戦いの後、オロチの封印を解除する事に成功した彼等は「'''遥けし彼の地より出づる者'''」を名乗り、その場を去っていくのだった。 しかし、無界との死闘を演じたその直後、突如姿を現したアッシュはその場に居合わせた京と庵二人の目の前で、消耗し動けなくなっていたちづるの身体から「三種の神器」の一角である「八咫の鏡」の力を奪い取る。そして次は庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を狙う事を宣言したアッシュに対し、庵が攻撃を仕掛けるが、難無くかわして見せたアッシュは、そのまま姿を消してしまうのだった。 相次いで不可解な混乱が巻き起こる中で今大会は幕を降ろす事になり、近い未来の内に新たなる波乱が起きようとしていた。 ==== 開発 ==== 開発が韓国から日本主導に戻る。開発はSNKネオジオ(旧:サン・アミューズメント)が、販売はSNKプレイモア(旧:プレイモア)がそれぞれ担当した。 キャラクターイラストは新たにFALCOONが担当(後の家庭用版KOFプロデューサー)。 ==== 反響(2003)==== 対戦型格闘ゲーム大会「[[闘劇]]」第1回『KOF 2002』部門の優勝者であるごしょはファミ通とのインタビューの中で、本作でゲーム性が変わってしまったため、プレイヤー総数が若干減ってしまったと感じたものの、自分の地元である柏では闘劇出場を目標にしていた者はいたと話している<ref>{{Cite web|和書|title=歴史の目撃者に聞く! 『KOF』対戦史その1(2000年代以前~2000年代中盤編) - THE KING OF FIGHTERS XV特設サイト |url=https://www.famitsu.com/matome/kof-xv/review05.html |website=ファミ通.com|access-date=2023-01-09 |date=2022-02-02 }}</ref>。 ==== 発売機種一覧 ==== *家庭用[[ネオジオ]]ROMカセット版(2004年3月18日発売) *[[PlayStation 2]]版(2004年10月28日発売)(廉:2006年3月9日発売) *[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]版(2005年8月25日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00084_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS 2003](2015年4月15日配信開始・PS3のみ) *[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]版([[PlayStation 4]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/kof2003.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2003](2019年2月21日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Xbox One]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/kof2003.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2003](2019年2月21日配信開始) *アケアカNEOGEO版([[Nintendo Switch]]) - MVS版を配信。[http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/kof2003.htm ザ・キング・オブ・ファイターズ2003](2019年2月21日配信開始) *アケアカNEOGEO版(iOS、Android)[https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/kof2003/ ザ・キング・オブ・ファイターズ2003](2022年11月17日配信開始) ==== 関連作品 ==== ; The King of Fighters'2003 Arrange Trax Consumer Version : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS XI === {{See also|w:The King of Fighters XI}} '''アッシュ編三部作の第2章'''。 [[2005年]][[10月26日]]稼働。PS2版は[[2006年]]6月22日に発売。レイティングは{{CERO-B}}。[[ATOMISWAVE]]で発売された『KOF』シリーズ本編。SNKネオジオを吸収合併したSNKプレイモア単独による開発・販売となる。シリーズ本編としては前作『2003』より2年弱の間があり(前年の『NEOWAVE』は『2002』をベースとした番外編)、今作よりタイトルの西暦表記が廃止され、ナンバリング表記になった。前作『2003』のシステムを正統進化させたものを採用。 この作品がATOMISWAVEでの最後の『KOF』となった。なおATOMISWAVE版はROMカセットを採用しているにもかかわらず、試合開始までの読み込み時間がメディアがDVD-ROMであるPS2版よりも長い。これはATOMISWAVE基板の「処理中のロードが非常に困難」という特殊な構成によるものである。 ==== ゲームシステム ==== 主催者は当初は不明だが、後に遥けし彼の地より出ずる者の裏切り者の禍忌だと判明。『XI』優勝チームは主人公チーム<ref name="名前なし-3"/>。 タイムアップ時による判定が、攻撃を当てることでバランスが傾く「ジャッジメントインジケーター」に変化し、体力に依存するものではなくなった。なお、ジャッジメントインジケーターを採用したのはシリーズ中で本作が唯一である。タイムカウントは150秒で、1カウント1.5秒×99カウントとなっている。 PS2版ではシステム面やキャラクターを調整した「アレンジモード」、『[[ネオジオバトルコロシアム]]』からの追加キャラクター(その中でタンとほたるがKOFシリーズ初参戦、ビッグは『'96』以来、ロバートは中年の姿)、オリジナルアレンジBGMなどが追加されている<ref>{{Cite web|和書|title=数多くのオリジナル要素を引っさげ、PS2版「THE KING OF FIGHTERS XI」登場 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0604/28/news011.html |website=ねとらぼ |access-date=2023-01-10 |date=2006年04月28日}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 主人公チーム | アッシュ・クリムゾン || [[オズワルド (KOF)|オズワルド]] || シェン・ウー |- ! ライバルチーム | [[エリザベート・ブラントルシュ]] || デュオロン || 二階堂紅丸 |- ! 餓狼チーム | テリー・ボガード || キム || ダック・キング |- ! 龍虎チーム | リョウ・サカザキ || ユリ・サカザキ || キング |- ! 餓狼MOWチーム | [[B.ジェニー]] || 牙刀 || グリフォンマスク |- ! 怒チーム | ラルフ・ジョーンズ || クラーク・スティル || ウィップ |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 桃子 |- ! エージェントチーム | ヴァネッサ || ブルー・マリー || ラモン |- ! アンチ極限流チーム | まりん || 藤堂香澄 || 如月影二 |- ! K'チーム | K' || クーラ・ダイアモンド || マキシマ |- ! 京&庵チーム | 草薙京 || 八神庵 || 矢吹真吾 |- ! 乱入キャラクター<br />(タイムリリースで使用可) | colspan="3"|アーデルハイド・バーンシュタイン、天童凱、[[ショー・疾風]]<br />[[武力 〜BURIKI ONE〜|ズィルバー]]、[[風雲スーパータッグバトル|邪頭]] |- ! ボスキャラクター<br />(PS2版のみ使用可) | colspan="3"|ボス:紫苑<br />最終ボス:禍忌 |- ! PS2版追加キャラクター | colspan="3"|[[双葉ほたる]]、不知火舞、ロバート・ガルシア<br />[[タン・フー・ルー]]、EX草薙京(ネスツスタイル)、Mr.ビッグ、ギース・ハワード |} ==== あらすじ ==== 「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団により洗脳されて表向きの大会主催者を務めていた神楽ちづるの負傷に加え、彼女から「八咫の鏡」の力をアッシュが奪っていったいう相次ぐ混乱を以って幕を下ろした前大会から、1年以上の時を隔て、新たな「KOF」の開催が宣言された。 前回大会で暗躍を行っていたアッシュは、今大会でも参加を決めており、前回大会でチームを組んだシェン・ウーの他に「カーネフェル」というカードを駆使したの使い手である老紳士[[オズワルド (KOF)|オズワルド]]をメンバーに加える。一方、アッシュと関わりを持ったとある人物に招待されていた紅丸とデュオロンの二人はフランスの南部へと訪れており、二人を呼び出したフランスの田舎の名家ブラントルシュ家の現当主を務める女性'''[[エリザベート・ブラントルシュ]]'''とチームを組んでキング・オブ・ファイターズに出場する事になった。他にも新参加者として'''[[B.ジェニー]]'''、'''[[ダック・キング]]'''、'''[[桃子 (KOF)|桃子]]'''といった面々が新規参戦し、更には以前の大会に出場した如月影二や藤堂香澄も復帰。極限流打倒の信念を変わらず持っていた影二は、自分と同じ志を持つ者達とチームを組もうと考えた結果、同じ極限流の打倒を目指す香澄の他に、ユリ・サカザキに個人的な恨みを抱く前回大会の出場者であるまりんとチームを組むに至ったのである。また、一方では前回大会の終盤で「三種の神器」の力を奪われたちづるの代わりを自分から引き受けた真吾が、自分と京と庵の三人でチームを組み参加する事を提案。当然、二人は対等な立場でも無い彼の主張など相手にしなかったのだが、あまりにしつこくせがまれた上、「遥けし彼の地より出づる者」と名乗る謎の集団の動向、封印を解かれたオロチの力の行末、そしてアッシュの真の目的。それらの気配を感じ取り、渋々とチームを組んで出場する事になった。 だが、華やかな格闘大会というKOFの表向きの顔とは別に、今大会の裏側でも数々の思惑が交錯していた。大会が終盤に差し掛かった時、決勝会場を「遥けし彼の地より出づる者」の一人である'''[[紫苑 (KOF)|紫苑(シオン)]]'''が襲撃。彼はオロチを完全に覚醒させる為に決勝戦にまで勝ち上がったチームに戦いを挑むも、結局オロチは覚醒しないままとなり、そこへ今大会の主催者である紫苑と同じ「遥けし彼の地より出づる者」の一人である'''[[禍忌|禍忌(マガキ)]]'''が現れて失敗した紫苑を粛正される。そして、禍忌は異形の姿に変身して紫苑を破った者達に襲い掛かるも敗北してしまう事態となり、それでも余裕な態度を見せながらも焦りを覚えて異空間へと逃亡を図ろうとする。だが、オロチの覚醒に気付いて油断していた隙を突かれる形で、自らに復讐しようとした紫苑が投擲したと思われる槍が禍忌の心臓を貫き、紫色の血飛沫を上げながら禍忌はそのまま絶命する末路を迎えた。 その後、禍忌の遺体はハイデルンの部隊に回収され、怒チームやエージェントチーム、K’チームを作戦本部に招き入れたハイデルンは今後の「遥けし彼の地より出づる者」への対策会議を行う。今回の事件から、禍忌や前回大会で戦った無界といった「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達は人間と異なる種族である可能性が出始める中、「遥けし彼の地より出づる者」の一員である'''シュルーム'''と'''リメロ'''の二人が、禍忌の肉体からデータを取られる事を阻止する為、ハイデルンの部隊の艦隊を構成していた一隻の戦艦を撃沈。禍忌の遺体は回収されてしまう。一方、オロチ覚醒の影響で庵は「血の暴走」を起こしており、疲労していた京は打ちのめされ、真吾もまた暴走した庵によって重傷を負わされるも、そこへアッシュが姿を見せる。その後、決着がついていたその場では、京、真吾、庵の三人が倒れており、そこへ駆けつけたエリザベートに呼び止められたアッシュは、彼女の事を「ベティ」と親しそうな名で呼ぶ。実は、アッシュとエリザベートの二人は、共に古の時代より「遥けし彼の地より出づる者」と敵対し彼等の野望を阻止すべく戦う「使命」を背負っていた一族の末裔であったのだが、同じ宿命を持っていたはずのアッシュは不可解な動向を繰り返す様になり、彼の行方を捜していたエリザベートは真意を訪ねようとするが、「使命なんて忘れた」とはぐらかすアッシュは前大会での宣告通りに庵の持つ「八尺瓊の勾玉」の力を奪い取っていた。更には「八咫の鏡」の力も使いこなしていたアッシュはそのまま姿を消してしまい、またしても不穏な空気のまま、大会は幕を閉じる。また一方では、前回大会にて介入を行ったルガール・バーンシュタインの娘であるローズ・バーンシュタインが兄であるアーデルハイド・バーンシュタインと衝突。その心の隙を突く形で、「遥けし彼の地より出づる者」の一人である'''牡丹(ボタン)'''が、自らの術によってローズを操り人形にするのだった。 ==== 開発 ==== イラストはヒロアキが担当。ゲーム中のデモグラフィックなどはノナが担当。 ==== 発売機種一覧 ==== *[[PlayStation 2]]版(2006年6月22日発売)(廉:2007年6月28日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00071_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS XI](2014年12月17日配信開始・PS3のみ) ==== 関連作品 ==== ; The King of Fighters'XI Sound Collection : サウンドトラックCD === THE KING OF FIGHTERS XII === {{Main|THE KING OF FIGHTERS XII}} [[2009年]][[4月10日]]にアーケードゲームとして稼動開始し、[[PlayStation 3]]、[[Xbox 360]]版が同年[[7月30日]]に発売(オンライン専売ソフトの配信を除いて[[SNK (2001年設立の企業)|SNKプレイモア]]の両ハード初のゲームディスクソフトとなった)。レイティングは{{CERO-B}}。 間にリメイク作品がリリースされたものの、正規のKOFシリーズでは約3年半振りの新作となった。本作では「KOF RE-BIRTH」を謳っており<ref name="Dengeki20081012">{{Cite web|和書|title=1ドットに魂を込めて! 『KOF XII』開発陣と声優陣による豪華トークショー開催!! |url=https://dengekionline.com/elem/000/000/112/112731/ |website=電撃オンライン |access-date=2023-01-08 |date=2008年10月12日}}</ref>、新システム基板「[[Taito Type X|Taito Type X2]]」での稼動<ref>{{Cite web|和書|title=「第44回アミューズメントマシンショー」ブースレポート ~タイトー編~ |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20060915/taito.htm |website=Game Watch|access-date=2023-01-08}}</ref>に伴い、グラフィックを全て[[ハイディフィニション|HD]]で新規に描き下ろしている。 キャッチコピーは「'''ライバルなど、いない。'''」。 本作には『[[KOF MAXIMUM IMPACT#KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION "A"|KOF MAXIMUM IMPACT REGULATION "A"]]』と同様に特定の固定チームが存在しない。一部のキャラクターは声優が変更されている。 本作ではマルチシフト制を廃止し通常の3on3制に回帰した一方、クリティカルカウンターゲージMAX時に相手の攻撃を近距離強攻撃で潰す(カウンターを取る)と一定時間オリジナルのコンボを決められる「クリティカルカウンター」をはじめとする新システムが導入された。 当初はこの作品でアッシュ編の決着をつける予定だったが、紆余曲折の末に「本作はゲームストーリー展開は無し」という帰結点が採られ<ref name="4Gamer.net20100825P1">{{Cite web|和書|title=時代を超え受け継がれる「KOFイズム」とは。西川善司が挑む,AC「THE KING OF FIGHTERS XIII」開発者インタビュー |url=https://www.4gamer.net/games/111/G011100/20100820077/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-01-04 |publisher=Aetas |date=2010/08/25}}</ref>、アッシュ編の完結は次回作である『[[THE KING OF FIGHTERS XIII|XIII]]』に持ち越された。 === THE KING OF FIGHTERS XIII === {{Main|THE KING OF FIGHTERS XIII}} [[2010年]][[7月14日]]にアーケードゲームとして稼動を開始したのち、同年[[12月1日]]にはPS3/Xbox 360への移植版が発売された。 その後、[[2012年]][[4月26日]]には、家庭用版の内容を元にしたアーケードゲーム『'''THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX'''』(以下:『CLIMAX』)が稼働開始した<ref>{{Cite web|和書|title=『THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX』稼働開始、ビリー・カーンやMr.カラテなど家庭用版のキャラも参戦 |url=https://www.famitsu.com/news/201204/26013881.html |website=ファミ通.com |access-date=2023-01-07 |date= 2012.04.26}}</ref>。 それから半年後の[[2013年]][[9月12日]]には[[NESiCAxLive]]対応版である『'''THE KING OF FIGHTERS XIII CLIMAX for NESiCAxLive'''』が稼働開始した。 そして、[[2013年]][[9月14日]]にはWindows向けの移植版である『'''THE KING OF FIGHTERS XIII STEAM EDITION'''』が[[Steam]]を通じて、『'''THE KING OF FIGHTERS XIII GALAXY EDITION'''』が[[GOG.com]]を通じてそれぞれ配信された。これは家庭用のDLCとして配信されていた3人を含めた36人のキャラクターが最初から使用可能で、グラフィックオプションの実装やネットワークコードの最適化など、PC向けの改良もなされている。 同作はアッシュ編三部作の最終章と位置付けられており、彼の行動の真意が明かされている。 ==== あらすじ ==== 「遥けし彼の地より出づる者」を名乗る謎の異形の集団による暗躍が起きていた2度に渡る大会より2年の年月が過ぎた。 「八咫の鏡」が破れたのに次ぎ「八尺瓊の勾玉」までもが堕ちてしまい、残された「三種の神器」は最早「草薙の剣」ただ一つとなってしまった。あまりにアクシデントが起きるキング・オブ・ファイターズは最早いわく付きの祭典として開催が危惧される事になっていたが、ある政財界の実力者による強引な推進により、むしろこれまで以上の空前絶後の勢いで開催される事態となった。これまでキング・オブ・ファイターズに参加してきた実力者達に次々と招待状が行き渡り、差出人の頭文字は『R』…かつてチーム戦形式となる最初のキング・オブ・ファイターズを開催したルガール・バーンシュタインの娘、ローズ・バーンシュタインであった。 世界中において、キング・オブ・ファイターズの開催で話題が盛り上がる中、前回大会の終盤でアッシュ・クリムゾンを取り逃がしたエリザベートは、南フランスの廃墟にて、過去の日々に想いを馳せていた。幼い頃、アッシュと共にお互いの一族を火災で喪ったエリザベートは、彼だけが背負った「使命」を共感出来る者となり、実の姉弟の様に暮らしていた。だが、次第に自らを避ける様になった彼は遂にその姿を晦ましてしまい、宿敵である「遥けし彼の地より出づる者」が活動を開始し、再会した時には「『使命』なんて忘れた」と明確な拒絶を受けてしまう。それでも、自らの「使命」を全うする事だけに固執するエリザベートは、アッシュを手に掛けてでも成し遂げようと決意を胸に秘め、かつてアッシュとチームを組んだ二人であるデュオロン、シェン・ウーの二人とチームを結成して参戦する。一方、傷が癒え世界を巡り旅していた京の元に「遥けし彼の地より出づる者」の一員であるシュルームとリメロの二人が現れ、シュルームからの襲撃を受けた京は難無くあしらい、彼から『R』の封蝋が刻まれた招待状を手渡される。大会にアッシュが出てくる事を仄めかされた上で彼等は去っていき、二度も辛酸を嘗めさせられたアッシュに借りを返すべく、京は日本へと戻り、紅丸、大門の二人と「日本チーム」を復活させて参戦するのだった。また一方では、前回大会で自らの力の源でオロチの呪縛の証にもなっていた「八尺瓊の勾玉」の力を奪われた庵であったが、それでもその実力は色褪せる事のない物となっていた。しかし、庵に対し、ちづるはオロチの呪縛から逃れられると説得しようとするが、オロチや八神家の因縁になどまるで興味無いと言わんばかりに庵は一蹴。そんな彼の前に、かつてチームを組み「血の暴走」によって手に掛けてしまったあのマチュアとバイスの二人が現れ、「遥けし彼の地より出づる者」がオロチの力を横取りしようとしている事実が気に食わなかった彼女達は、八神が炎の力を取り戻す為の手助けも兼ねて再度のチームの結成を提案。庵はアッシュへの借りを返し、そして今日を倒すべく「八神チーム」の再結成を受け入れる。 ローズによって開催されるキング・オブ・ファイターズの準備が進む中、常識を超えた力を持つ「遥けし彼の地より出づる者」によって二度も出し抜かれる事態となったハイデルンは、様々な手を尽くす形で「遥けし彼の地より出づる者」の能力や目的を炙り出そうとしていた。そんな彼に協力を依頼されたK'、クーラ、マキシマの三人は、サウジアラビアの南部に突如現れたとされる石造建築の遺跡の元へ訪れ、調査を開始。マキシマのデータ収集能力によって、その遺跡は約千年以上前より存在していた物とされ、通路を真っ直ぐ進んでいく中で三人は、強大な力を持つ「何者」かによって大勢の人間達が無残にも殺されていくかの様な光景を想起させる[[壁画]]を目の当たりにし、更にその先の部屋には「扉」にも見える巨大な[[石碑]]が鎮座していた。その頃、「遥けし彼の地より出づる者」の種族や能力について解析を続けさせていたハイデルンは、「遥けし彼の地より出づる者」に所属する者達には時空間を操る得意な能力がある事を突き止め、それによって生じる空間の歪みを〈ギャップ〉と命名。やはり今大会の裏にも「遥けし彼の地より出づる者」の暗躍がある事、そしてそれにアッシュが大きく関与している事を想定し、ラルフ、クラーク、レオナ達が選手として大会に参加する中、ブルー・マリー、ヴァネッサ、セス、ラモンのエージェント達に、会場内に潜入しての調査を行い、人類の脅威となり得る「遥けし彼の地より出づる者」の目的を未然に防ぐよう命令する。一方、ローズの豹変ぶりに困惑を隠せないでいたアーデルハイドは、突然キング・オブ・ファイターズの開催を宣言した彼女の真意を問い質そうとするも、彼女はまるで上の空の状態であり、アーデルハイドの言葉を意に返さないまま彼女によってキング・オブ・ファイターズの開会式が行われ、いよいよトーナメントが始まる事になった。どうすれば良いのか独り悩むアーデルハイドであったが、そこへアッシュが姿を現し、ローズの身に起きた真相を知らされ激昂。しかし、彼等の目的を問い質した時に「友達に聞けば?」と返されたアーデルハイドは、急遽かつてポーランドで知り合ったハイデルンと連絡を取り、事の経緯について説明する事になった。 その頃、「遥けし彼の地より出づる者」側でも計画が着々と進みつつあったかに見えたが、計画は上手く進行していない状況にあった。前々回大会における無界の行動によってオロチの封印は解かれ、前回大会では紫苑と禍忌によってオロチの「気」の発見に成功。そして、今大会の開催中にて、牡丹に操られたローズによってオロチの氣の直上にスタジアムを建設させる事に成功し、「扉」を開く為の宴の準備は何とか整おうとしていた。しかし、ここまで来るのに時間が掛かり過ぎた以前に、未だにオロチは目覚める気配を見せず、更に計画実行のチャンスがたったの一度きりしかないという事実に、アッシュと瓜二つの姿をした「遥けし彼の地より出づる者」のリーダーである[[アッシュ・クリムゾン#斎祀|斎祀(サイキ)]]は苛立ちを隠せない様子を見せていた。一方、スカイノアのコンピュータ制御室で今大会の決勝戦が行われるスタジアムの「本来」の設計図を発見したアーデルハイドは、スタジアムの地下室に巨大な地下施設にエネルギー集積装置らしき物が設けられていた事実を突き止め、それがオロチに関連する物だと推測した上でハイデルンに報告する。ハイデルンからの指示を受けてエージェントチームが地下施設に辿り着いたその時、巨大な時空震が発生。スタジアム地表の<ギャップ>が急増する中、グラフパターンを過去の物と照合した結果、それが「オロチ」による物である事が発覚し、ハイデルンは部隊をスタジアムに向かわせる事を命令。ターゲットにアッシュ・クリムゾンを指定する。そして優勝チームが決定する中、斎祀は苛立ちを爆発させる寸前ながらも、どうにかオロチが覚醒した事で気を静め、計画を最終段階へと移行させる事になった。 彼等の真の目的…それはかつてのオロチの復活を巡る事件と同様、スタジアムで格闘家同士による熾烈な戦いをさせる事でオロチの覚醒を促し、その直後に自分達が保有するエネルギー集積装置に取り込ませる事で、「扉」を開く為の宴を起こす事にああった。そして、彼等の名乗った「遥けし彼の地」というのは「過去」を意味しており、扉は過去へ向かう為の所謂[[タイムマシン]]だったのである。三年前、「遥けし彼の地」から時空を超えて現代に跳んできた斎祀は、全ての人類が自分達の同族の奴隷と化し、世界の頂点に君臨する為の玉座が待っていると信じて疑わずにいたが、実際は自らが思い描いていた願望からは程遠く、人類を見くびっていた同胞達は失敗を重ねた末に、人類から隠れて生きていかなければならないまでに落ちぶれ、滅亡寸前にまで至っていた。この事態に強い不満を覚えた斎祀は、再び過去に戻って歴史を自分達の支配する世界へと正さなければならないと考え、ここ三度に渡るキング・オブ・ファイターズにおいて暗躍を重ねていたのだった。 主催者のローズが優勝チームを称える中、突如時間が停止した直後に「遥けし彼の地より出づる者」が総勢で姿を現し、その中央には斎祀の姿もあった。「時間が無いからとっとと配置に付け」と尊大な態度を見せる彼の指示を受け、部下達は次々と「宴」を始める為の配置へつこうとするのだが、武人として優勝チームとの決着を望んでいた無界は自分が戦うと主張。それに苛立った斎祀は無界を殺害してしまう。そして自らの真の姿を露にした斎祀は、彼等の憎悪や憤怒、最高級の闘気を励起させて目覚めつつあるオロチに捧げる為に襲い掛かり、死闘を演じる。だが、戦いの中で突如「扉」が閉まり始める事態となり、配置についていた牡丹は扉の時球の幾つかか消えている事実に気付き、それを聞いた斎祀が動揺する中、一人の人間の拳が彼の心臓を貫く。その正体は行方の分からなかったアッシュであり、最初から「草薙剣」を奪う意志は無く反抗の機会をずっと窺っていた彼は、この瞬間をずっと待ち続けていたのだった。しかし、斎祀の醜悪な執念はまだ死んでおらず、その魂に身体を乗っ取られてしまったアッシュは「'''[[アッシュ・クリムゾン|血の螺旋に狂うアッシュ]]'''」として優勝チームに襲い掛かる。 だが、アッシュの身体を乗っ取り人類の力を終始見くびり続けていた斎祀は敗北。そこへ駆けつけたエリザベートがアッシュに呼びかけ、斎祀は最後の手段としてアッシュにまだ完全に閉まる前の扉の中へと飛び込むよう促すが、アッシュはそれを拒否。自分の全てを理解していると傲慢な態度を見せた斎祀に対し、「ボクは、この世界の事が結構気に入っているんだ」という嘘偽りのない返答を出す。この結果、過去と未来の矛盾が発生してしまった斎祀は[[タイムパラドックス]]によって消滅を迎える事になり、情けなく悲鳴を挙げ続けながら、斎祀は消滅。しかし、それは同時に斎祀の子孫であるアッシュ自身の消滅を意味しており、エリザベートに無邪気な笑顔を見せたアッシュは「自分がこの世界に『存在しなかった』事になる」と告げ、必死にアッシュに呼びかける彼女に詫びを入れるのと同時に、アッシュもまた消滅した。その頃、ハイデルンの元には「フレイム・オブ・ノヴァ」と名乗る送信者から未確認のアドレスからのメッセージが届き、中身となる音声ファイルを自らの専用回線で再生させたハイデルンは、彼の全ての真意を知る事になった。だが、斎祀やアッシュがタイムパラドックスで消滅した事で、彼に関する記憶を全ての人間が失う事となり、それが起こる前にハイデルンは部隊の引き上げ準備を命令。牡丹によって操り続けられたローズもまた、傀儡の糸から解放される事になり、それを抱きとめたアーデルハイドは、自分の中の「何か」に関する記憶が薄れていく違和感を感じ取っていたが、妹であるローズを守りきったという事実だけを確信する事にする。 アッシュの消滅によって、ちづるは「八咫の鏡」の力を取り戻し、庵もまた「八尺瓊の勾玉」の力を取り戻そうとしていた。だが、勾玉がひび割れているのは「660年という長い年月により八尺瓊とオロチの契約を不可分としていた証」であり、これを手中に収める事で庵は炎を取り戻すが、同時にまた「オロチの呪縛」に縛られ続ける事も意味していた。マチュアとバイスの二人は、本当に勾玉を取り戻してしまっても良いのかと庵の身を案じるが、庵は迷う事無く勾玉を手中に収め、高笑いと共に紫炎の力を取り戻す。そしてそのままの勢いで、庵はキング・オブ・ファイターズの会場にいる京を襲撃。何か重大な事を忘れて思い出せない事に違和感と苛立ちを覚えるも、目の前にいる庵にぶつけて解消する事を決意。京と庵…二人がぶつかる形で今回のキング・オブ・ファイターズは幕を閉じるのだった。「なべて世は事もなし……」。何処かからその言葉が笑い声と共に響いていた。 その後、大会が完全に終わりを迎える中、他の者達と同様にアッシュの事を忘れ去ってしまったデュオロンとシェン・ウーの二人であったが、エリザベートと別れた後、何故か会場に留まり続けていた。二人は「誰か」と何かの約束をしていた気がするのだが、それが消滅したアッシュの事だった為に思い出す事は出来ず、ただ一人、アッシュの事が記憶に残っていたエリザベートは、彼の形見となったカチューシャを手に涙を流すのだった。 かくして、斎祀の消滅によって自分達「遥けし彼の地より出づる者」の運命が決定付けられた彼等は、生き延びた牡丹を始め再び人々の集団の中へと還っていき、彼等を巡る人類の未来を賭けたキング・オブ・ファイターズを舞台とした一連の戦いは、終焉を迎えた。ただ一人、運命に抗い続けたアッシュ・クリムゾンの消滅と共に…。 === THE KING OF FIGHTERS XIV === {{Main|THE KING OF FIGHTERS XIV}} 『'''THE KING OF FIGHTERS XIV'''』は、[[2016年]][[8月25日]]に[[PlayStation 4]]用ソフトとして発売された後、[[2017年]][[6月16日]]に[[Steam]]で[[Microsoft Windows 7]] 版『'''THE KING OF FIGHTERS XIV STEAM EDITION'''』が配信され、DLCキャラクター・衣装に加え「デジタル・アートブック」「デジタル・サウンドトラック」も収録した『DELUXE PACK』も同時発売された。さらに[[2017年]][[6月29日]]には家庭用からの逆輸入という形で、NESiCAxLive2に対応したアーケード版『'''THE KING OF FIGHTERS XIV Arcade Ver.'''』が稼働開始。家庭用でのDLC要素は最初から搭載され、DLCキャラクター4人とボスキャラクターのアントノフとバースが最初から使用可能になっている。 [[2021年]][[1月7日]]に全てのDLCキャラクター&コスチュームを収録した、PS4版『'''THE KING OF FIGHTERS XIV ULTIMATE EDITION'''』のダウンロード版を配信し、後にパッケージ版を2021年[[3月11日]]発売した。 ナンバリング作品第14弾である同作は'''KOF新編'''と銘打たれており<ref name="psblog160825">[https://www.jp.playstation.com/blog/detail/3551/20160825-kofxiv.html 『THE KING OF FIGHTERS XIV』発売!開発者スペシャルインタビューをお届け!【特集第4回/電撃PS】]PlayStation.Blog、2016年8月25日。</ref>、新キャラクターの'''[[シュンエイ (KOF)|シュンエイ]]'''を中心として新たな物語が展開される{{R|825snk|psblog160825}}<ref>「[https://www.4gamer.net/games/317/G031749/20160425088/ 『THE KING OF FIGHTERS XIV』ストーリーの鍵を握るのは中国チームの「シュンエイ」。石澤英敏氏も登場したプレス発表会の模様をレポート]」4Gamer.net、2016年4月25日。</ref>{{efn2|ソフトのパッケージイラストや版権イラストでも新キャラクターで唯一人、シュンエイが草薙京や八神庵と同格に並びで描かれている。}}。 物語の時系列はアッシュ編のその後であり、プレイキャラクターではないものの前シリーズヒロインのエリザベートが大会の裏で暗躍していたり、シュンエイが本作の最終ボス・バースと何らかの繋がりがあることなどが示唆されている。また、過去シリーズのオロチ編やネスツ編などの要素も盛り込まれている。 グラフィック面の特徴としては、本編シリーズとして初めて3Dポリゴングラフィックスが採用されている。システム面の特徴としては、従来の3on3チームバトルのほかに、オンライン上での3人1組のチームによるバトルが楽しめる「パーティバトル」が加えられている。 === THE KING OF FIGHTERS XV === {{Main|THE KING OF FIGHTERS XV}} 2022年2月17日に[[PlayStation 4]]、[[PlayStation 5]]、[[Xbox Series X/S]]、PC([[Windows 10]]・[[Epic Games]]・[[Steam]])で発売{{efn2|デジタル版『THE KING OF FIGHTERS XV Deluxe Edition』には、ゲーム本編+KOF XV TEAM PASS 1(DLCキャラクター×6体)が含まれる}}。 『XIV』から引き続き3Dグラフィックとなっており、各種演出はブラッシュアップされている<ref>{{Cite web|和書|publisher=|work=[[4Gamer.net]]|url=https://www.4gamer.net/games/472/G047267/20210108022/|title=「THE KING OF FIGHTERS XV」は2021年に発売。公式トレイラーが公開,さらにPS4版「KOF 2002 UNLIMITED MATCH」発売情報も|date=2021-01-08|accessdate=2021-02-21}}</ref>。 == スピンオフ作品 == === THE KING OF FIGHTERS NEOWAVE === {{See also|w:The King of Fighters Neowave}} [[2004年]][[7月27日]]稼動。シリーズ初のATOMISWAVEでの作品。開発はナンバリングタイトルとは異なりノイズファクトリーが担当。内容は『[[#THE KING OF FIGHTERS 2002|2002]]』をベースにして制作されたマイナーアップバージョンのような作品であるが、本シリーズには含まれない。『2002』と同じくストーリー設定はなしだが、一部参戦キャラクターや最終ボスなどは変更されている。 3種類のモードを選択可能。A - Eの5ボタン。Eは、体力を徐々に減少させる代わりに体力が1/4以下になるか、相手の攻撃を受けるまで攻撃力を2割ほどアップさせる「ヒートモード」を発動するためのボタンである。AW-NETに対応しており、同ハード共通カード使用による特典あり(いわゆるエントリーカードが使用できるのはこの作品のみ)。 操作モードを必殺技を必殺技でキャンセルできる「スーパーキャンセル」、専用攻撃で相手のガードを崩す「ガードブレイク」、MAX2が使用できる「MAX2」から選択できる。一部のモードではガードキャンセルふっとばしが使えないなどの変化はあるが、基本的なシステムは変わらない。 ATOMISWAVE筺体では新作の『[[#THE KING OF FIGHTERS XI|XI]]』に変わり、[[ネオジオ]]では引き続き『[[#THE KING OF FIGHTERS 2002|2002]]』が長期間稼働したこともあり、稼働期間は短かった。また、本作の最終ボスは『'96』でボスチームとして登場した[[ギース・ハワード]]が『龍虎の拳2』に登場した頃の若い姿で務めている。イラストは[[中野友和]]が担当。 家庭用ではPS2およびXboxで発売されている。Xbox版は[[日本]]のXbox最後の新作ソフトである。PS2版ではK9999を除くAC版『2002』の出場キャラクターが全員登場することになった。レイティングは全て{{CERO-B}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー |- ! 日本チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- ! 韓国チーム | ジョン・フーン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ・ジョーンズ || クラーク・スティル |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || タクマ・サカザキ |- ! 女性格闘家チーム | 不知火舞 || ユリ・サカザキ || キング |- ! KOF'96チーム | 八神庵 || マチュア || バイス |- ! KOF'97チーム | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- ! KOF'98チーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! KOF'99チーム | K' || マキシマ || ウィップ |- ! 混合チーム | クーラ・ダイアモンド || 矢吹真吾 || 草薙柴舟 |- ! オロチチーム<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! 隠しキャラクター | colspan="3"|キム、ヴァネッサ、ラモン |- ! ボスキャラクター<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|ギース・ハワード(『龍虎の拳2』Ver.) |- ! 家庭用追加キャラクター<br />(PS2・Xbox版のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|セス、KUSANAGI、オメガ・ルガール |- ! PS2版追加キャラクター<br />(PS2版のみ隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|アンヘル、メイ・リー |} ==== 関連作品 ==== ; The King of Fighters Neo Wave : サウンドトラックCD ; The King of Fighters Neo Wave Arrange Trax Consumer Version : サウンドトラックCD ==== 発売機種一覧 ==== *[[PlayStation 2]]版(2005年7月21日発売)(廉:2006年11月22日発売) *[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]版(2006年3月30日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]])[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00106_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS NEOWAVE](2015年8月19日配信開始・PS3のみ) *[[Xbox One]] 下位互換性ゲーム ライブラリ版(Xbox One) - [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]版を配信。[https://marketplace.xbox.com/ja-jp/Product/THE-KING-OF-FIGHTERS-NEOWAVE/66acd000-77fe-1000-9115-d802534e07de?DownloadType=Game#LiveZone THE KING OF FIGHTERS ネオウェイブ](2017年10月23日配信開始) === KOF MAXIMUM IMPACTシリーズ === {{Main|KOF MAXIMUM IMPACT}} 3D格闘ゲームとして製作された外伝シリーズ。略称は『MI』、もしくは『KOF MI』。当初はPS2で展開してきたが、後にXboxやアーケード(システム基板は「[[Taito Type X|Taito Type X2]]」)でも登場した。PlayStation 3やXbox 360での作品も予定されていたが、発売中止となった。 ==== 関連作品 ==== ; The King of Fighters Maximum Impact : サウンドトラックCD ; The King of Fighters Maximum Impact2 : サウンドトラックCD ; The King of Fighters Maximum Impact REGULATION "A" Original Sound Trax : サウンドトラックCD === キング・オブ・ファイターズ R-1 === {{See also|w:King of Fighters R-1}} [[1998年]][[10月28日]]にネオジオポケット(モノクロ)本体と同時発売。R-1は「ラウンド ワン」と読む。『'97』をベースにしており、熱闘シリーズ同様に抜粋されたメンバーが登場するが、本作では独自の公式チームが組まれている。ニューフェースチーム(本作では「フェ'''ー'''ス」が長音)以外は、新しいチームを組んでの参戦となる。 隠し要素として、簡単なコマンドで必殺技が出せる「あばれモード」が搭載されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 || colspan="3"| メンバー |- ! 三種の神器チーム | 草薙京 || 神楽ちづる || 八神庵 |- ! ニューフェースチーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! サウスタウンチーム | テリー・ボガード || キム・カッファン || リョウ・サカザキ |- ! ヒロインチーム | 不知火舞 || ユリ・サカザキ || 麻宮アテナ |- ! エディット専用 | colspan="3"|矢吹真吾、レオナ |- ! 隠しキャラクター | colspan="3"|'94草薙京 |- ! ボス1<br />(隠しキャラクターとして使用可){{efn2|name=uraorochi|キャラクター選択画面ではツキノヨルオロチノチニクルフイオリ、オロチ、ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナの組み合わせが「うらオロチチーム」として表示され、「うらオロチチーム」で進めた場合のストーリーも用意されている。}} | colspan="3"|ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ<br />ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナ |- ! ボス2(オロチチーム)<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 炎のさだめのクリス || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 乾いた大地の社 |- ! 最終ボス<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|オロチ{{efn2|name=uraorochi}} |} === キング・オブ・ファイターズ R-2 === {{See also|w:King of Fighters R-2}} [[1999年]][[3月19日]]にネオジオポケットで発売。R-2は「ラウンド ツー」と読む。モノクロ本体でも遊べるが、今作では[[ネオジオポケットカラー]]にも対応し、この場合はカラー表示となる。『'98』をベースにしているが、『'98』にはいない[[藤堂香澄]]も登場。また、全キャラクターが単体で乱入キャラクターとして登場する可能性があり、一度ゲームをクリアした後は乱入キャラクターが1プレイ内に最大2体まで出現するようになり、2体目に出現する隠しキャラクターを倒すと解禁される。前作よりもCPU戦の難易度は下がっている。本作のみの特徴として、「テク」を集めて好きなキャラクター1人をカスタマイズし強化する「メイキングモード」がある。また、前作にあった「あばれモード」が標準で選べるようになった。1999年[[10月21日]]には価格の下がったキャンペーン版も登場。 [[2020年]][[8月6日]]より[[Nintendo Switch]]にて「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION」シリーズとして[https://ec.nintendo.com/JP/ja/titles/70010000031832 キング・オブ・ファイターズ R-2]が移植版が配信された。レイティングは{{CERO-A}}。1本で2人対戦が可能だが、原作にあったドリームキャスト通信機能は非対応。[[2021年]][[3月18日]]配信のコレクションソフト『NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.1』にも収録。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 || colspan="3"| メンバー |- ! 草薙流チーム | 草薙京 || 草薙柴舟 || 矢吹真吾 |- ! オロチチーム | 七枷社 || シェルミー || クリス |- ! 新サウスタウンチーム | テリー・ボガード || 不知火舞 || リョウ・サカザキ |- ! ちょうヒロインチーム | 麻宮アテナ || ユリ・サカザキ || 藤堂香澄 |- ! エディット専用 | colspan="3"|レオナ、八神庵 |- ! 乱入キャラクター<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|'95草薙京、裏テリー・ボガード、裏不知火舞<br />裏リョウ・サカザキ、裏ユリ・サカザキ |- ! ボスキャラクター(裏オロチチーム)<br />(隠しキャラクターとして使用可) | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- ! 最終ボス<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|オメガ・ルガール |} === THE KING OF FIGHTERS EX 〜NEO BLOOD〜 === [[2002年]][[1月1日]]にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売。開発はアートゥーン。サブタイトルは日本語に訳すと「新しい血統」、つまり新キャラクターを意味している。 任天堂の携帯ゲーム機向けとしては4年半ぶりの新作。SNK倒産後の発売だが、クレジットやタイトルデモにはSNKロゴが表示される。 『'99』のデザインと『2000』のシステムを主にベースとした作品だが、ストーリーはオロチ編を継承した新たなものになっている。新キャラクターの葉花萌の声優に[[千葉麗子]]を起用。 チーム構成はメイン3名+ストライカー1名という構成になっている。ストライカー専用のみとして登場するキャラクターはメインで使用することはできず、各チームのストーリー上もメンバーとしては存在しないような扱いになっているが、チーム単位のストーリーは正規のストライカーも加えないと見ることができない。 発売前は期待が集まっていた作品ではあったが、実際に発売された製品版は不具合が非常に多く、ゲームがフリーズする、操作ができなくなるなど一部プレイに支障が出るものもあるほどだった。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small |- ! colspan="5"|出場キャラクター |- ! チーム名 !! colspan="3"|メンバー !! ストライカー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 葉花萌 || 矢吹真吾<small>*</small> |- ! 餓狼チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || 不知火舞 || ジョー・ヒガシ<small>*</small> |- ! 龍虎チーム | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || キング || ユリ・サカザキ<small>*</small> |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク || ウィップ<small>*</small> |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 包 || 鎮元斎<small>*</small> |- ! 韓国チーム | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ || ジョン・フーン<small>*</small> |- ! ボスキャラクター<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="4"|ボス:八神庵<br />最終ボス:ギース・ハワード |- ! エキストラストライカー<br />(隠しストライカーとして選択可)<small>*</small> | colspan="4"|K'、マキシマ、ヴァネッサ、山崎竜二 |- ! colspan="5" style="text-align:left" | <small>*はストライカー専用キャラクター。</small> |} === THE KING OF FIGHTERS EX2 〜HOWLING BLOOD〜 === [[2003年]][[1月1日]]にGBAでマーベラスエンターテイメントから発売、開発はサン・テック。『EX』の続編で、前作同様に『2000』を基本にしている。前作に存在した不具合などの問題点は大幅に改善されている。 前作の葉花萌に加え、新たに大神零児、華守純、黒咲壬羽、天羽忍(最終ボス)の4名のオリジナルキャラクターが登場し、オロチ編に沿った新たな設定として「十種神宝」を中心としたストーリーが展開される。ストライカーのシステムも変更され、次の順番のキャラクターがストライカーを務めるようになった(3人目はストライカーを使用できない)。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="4"|出場キャラクター |- ! チーム名 || colspan="3"| メンバー |- ! 主人公チーム | 草薙京 || 葉花萌 || 大神零児 |- ! 餓狼伝説チーム | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || 不知火舞 |- ! 龍虎の拳チーム | リョウ・サカザキ || ユリ・サカザキ || タクマ・サカザキ |- ! 怒チーム | レオナ || ラルフ || クラーク |- ! サイコソルジャーチーム | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 包 |- ! 韓国チーム | キム・カッファン || チョイ・ボンゲ || チャン・コーハン |- ! 八神チーム | 八神庵 || 華守純 || 黒咲壬羽 |- ! ボスキャラクター<br />(隠しキャラクターとして使用可) | colspan="3"|ボス:天羽忍<br />最終ボス:暴走忍 |} === その他の格闘ゲーム === ; The King of Fighters Extreme(日本国外) : 日本国外で、2005年に[[ノキア]]より[[N-Gage]]向けに発売された。GBA版『EX2』をベースとした作品となっている。開発は[[ハドソン]]。 ; THE KING OF FIGHTERS-MOBILE- : 2005年7月4日より[[i-mode]]で配信開始<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=2&c=&g=12&s=&page=1 |title=THE KING OF FIGHTERS -MOBILE- |date=20160314020642}}</ref>。2008年10月1日には[[Yahoo!ケータイ]]、2009年7月9日には[[EZweb]]でも配信された。こちらは原作から抜粋された12名のキャラクターが参戦している。ストーリーなどは『'94』に準拠しているが、イラストは一新されている。 :* 登場キャラクター:京、アテナ、リョウ、キング、テリー、舞、ラルフ、ユリ :* 隠しキャラクター:キム、紅丸、庵、ルガール(最終ボス) ; THE KING OF FIGHTERS MOBILE R-2 : 2006年10月2日より[[i-mode]]で配信開始<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=31&c=&g=12&s=&page=1 |title=THE KING OF FIGHTERS MOBILE R-2 |date=20160314083242}}</ref>。前作に3名を加えた総勢15名が戦う。チームバトルではなく1対1のラウンド制になっている。 :* 追加キャラクター:柴舟、タクマ、ジョー : ; THE KING OF FIGHTERS-i / THE KING OF FIGHTERS Android : iPhone/iPod Touch版『-i』が2011年7月7日配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/iphone/kof-i/ THE KING OF FIGHTERS-i]</ref>、Android版『Android』が2012年3月22日配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/android/kof-android/ THE KING OF FIGHTERS Android]</ref>。『ザ・キング・オブ・ファイターズXIII』をベースにアレンジされている。 ; THE KING OF FIGHTERS-i 2012 / THE KING OF FIGHTERS-A 2012 : iPhone/iPod Touch版『-i 2012』が2012年5月2日配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/iphone/kof-i2012/ THE KING OF FIGHTERS-1 2012]</ref>、Android版『-A 2012』が2013年8月31日配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/game/android/kof-a2012/ THE KING OF FIGHTERS-A 2012]</ref>。前作の内容に加え、新要素としてWi-Fiネットワーク対戦、新キャラクターや新ステージ、タイムアタックモード、チーム毎のエンディングムービーなどが追加されている。 : 『-A 2012』は、『-i 2012』で有料ダウンロードコンテンツであった「ネスツスタイル京」「炎を取り戻した庵」の2名が最初から使用可能になっている。 : 後に無料版として、Android版『-A 2012(F)』が2014年12月4日に、iPhone/iPod Touch版『-i 2012(F)』が2015年2月11日に配信開始されている。 === クイズ キング・オブ・ファイターズ === [[1995年]][[2月1日]]に[[Multi Video System|MVS]]で稼動した[[クイズゲーム]]。発売元は[[ザウルス (ゲーム会社)|ザウルス]]で、同社のマスコットだった[[恐竜]]のキャラクターが随所に登場している。家庭用はネオジオROM版が1995年[[3月10日]]、ネオジオCD版が1995年[[4月7日]]に発売。 タイトルに『キング・オブ・ファイターズ』とついているが、草薙京などの『KOF』オリジナルキャラクターは登場しない。また、タイトルロゴのデザイン上では中黒が省かれた『クイズ キング オブ ファイターズ』のように表記されている。登場キャラクターは、『餓狼伝説』(『SPECIAL』準拠のデザイン)と『龍虎の拳』(『2』準拠のデザイン)に加え、本家『KOF』には参戦していなかった『[[サムライスピリッツ]]』(初代準拠のデザイン)から選ばれている。 ストーリーの大筋は、謎の組織「Q」に誘拐されたユリを救出するため6人の勇者(テリー・ボガード、不知火舞、リョウ・サカザキ、ロバート・ガルシア、[[覇王丸]]、ナコルル)が立ち上がるという、初代『龍虎の拳』をなぞらえたような展開で、『龍虎の拳』のボーナスゲーム「超必殺技伝授」と同様のボーナスゲームが今作にも取り入れられている。ゲーム内容はパロディ色が強く、コメディ調の世界観となっている。また、劇中の地名はサウスタウンではなく『[[クイズ大捜査線]]』と同じ「クイズシティー」となっている。ただし、ネオ&ジオを始めとする『大捜査線』の面々は本作には登場しない。本編との繋がりは特になくギャグ調のストーリーだが、舞のエンディングは『KOF』へと続くものになっている。 6名のプレイヤーキャラクターから1人を選択し、ルーレットを止めてスゴロク式のマップを進んでいくと、出題者キャラクターがプレイヤーにクイズ勝負を挑んでくる。クイズ形式はオーソドックスなノルマ達成型の4択問題。途中『[[クイズ大捜査線]]』にもあった連打クイズや間違い探しなども登場する。道中で歴代のSNK格闘ゲームのキャラクターたちがクイズを挑んでくることがあり、こちらは後述の「格闘クイズ」形式となる。各章の最後には固定ボスキャラクターが待ち構えており、第一章は[[暴走族]]のリーダー、第二章は[[マフィア]]の首領、第三章はタクマ・サカザキ、第四章はトーナメントのチャンピオンと戦うことになるが、タクマ以外のボスはギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、[[天草四郎時貞 (サムライスピリッツ)|天草四郎時貞]]の3人からランダムでそれぞれの役割に割り当てられる。第四章でチャンピオンを倒した後は該当のボスが正気を取り戻して黒幕の正体を暴き、「Q」の首領キューリッチとの最終決戦に入る。 クイズノルマ達成時にお金やクイズを有利に進められるアイテムが手に入ることもある他、マップの途中にあるショップでお金を支払ってアイテムを購入可能。ただしアイテムには所持数制限がある。 ボス戦や対戦モードでは特殊な「格闘クイズ」となり、クイズに正解して敵にダメージを与えていき、敵の体力を0にすれば勝利となる。答えるまでの経過時間によって、「必殺技(強)→必殺技(弱)→ジャンプ攻撃→大キック→大パンチ→小キック→小パンチ(『サムライスピリッツ』のキャラクターのみ通常技が大斬り→中斬り→小斬り)」と技の威力が減少していくため、早く正解すれば派手な必殺技で大ダメージを与え、少ない問題数で倒すことができる。また、必殺技発動前に素早くキャラクター毎のコマンドを入れることで、さらに強力な「超必殺技」に変化させられる。対戦では通常の6名に加え、タクマ・サカザキ、ギース・ハワード、ヴォルフガング・クラウザー、天草四郎時貞のボス4名も使用可能。 === ザ・キング・オブ・ファイターズ 京 === [[1998年]][[8月27日]]にPlayStationで発売。格闘ゲームではなく、[[夏元雅人]]による同名の[[漫画]]『ザ・キング・オブ・ファイターズ 京』をベースとした[[アドベンチャーゲーム]]となっており、対戦はコマンド指示形式で行われる。『KOF'97』の開催直前が舞台となり、大会に出場するチームメイトを探していく。イベント時にはほとんどのキャラクターがボイス付きで会話するが、登場するKOFキャラクターの中でクラークのみボイスがない(セリフはある)。また、ゲーム作品では本作のみに登場するキャラクターも存在する。ゲーム中でのイラストも全て夏元雅人が担当している。開発元は夢工房。 [[1999年]][[9月9日]]には「SNKベストコレクション」として廉価版が発売。また、2007年6月28日には[[ゲームアーカイブス]]でも[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00059_000000000000000001.html ザ・キング・オブ・ファイターズ 京]として配信された。レイティングは{{CERO-B}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" style=font-size:small ! colspan="3"|出場キャラクター |- | 草薙京 || 二階堂紅丸 || 大門五郎 |- | テリー・ボガード || アンディ・ボガード || ジョー・ヒガシ |- | リョウ・サカザキ || ロバート・ガルシア || ユリ・サカザキ |- | キング || 不知火舞 || 神楽ちづる |- | 七枷社 || シェルミー || クリス |- | キム・カッファン || チャン・コーハン || チョイ・ボンゲ |- | レオナ || ラルフ || クラーク |- | 麻宮アテナ || 椎拳崇 || 鎮元斎 |- | 山崎竜二 || ブルー・マリー || ビリー・カーン |- | 矢吹真吾 || 八神庵 || Mr.ビッグ |- | ギース・ハワード |- ! colspan="3"|隠しキャラクター(バトルモードで使用可) |- | 千堂恭司 || 千堂翔太 || 千堂順子 |- | 草薙蒼司 || 草薙柴舟 || ツキノヨルオロチノチニ<br />クルフイオリ |- | 乾いた大地の社 || 荒れ狂う稲光のシェルミー || 炎のさだめのクリス |- | オロチ |} ==== 関連作品 ==== ;ザ・キング・オブ・ファイターズ 京 :著者:[[夏元雅人]]、『[[覇王マガジン]]』並びに『[[コミックボンボン]]』で連載された漫画。 :ゲーム版の『'95』から『'96』の間の話を描いている。『覇王マガジン』休刊により、最終回のみ『コミックボンボン増刊号』に掲載。単行本全3巻。 :その後、ゲーム版『KOF京』の発売に合わせて『'96』から『'97』の間の話が『コミックボンボン』で短期読み切りが掲載された。こちらは未単行本化。 === THE KING OF FIGHTERS バトルDEパラダイス === [[2000年]][[7月6日]]に発売されたネオジオポケットカラー専用ソフト。2022年11月10日に配信されたPC/Nintendo Switch用ソフト「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.2」にも収録されている<ref>{{Cite web|和書|title=「NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.2」のDL版が本日発売に。傑作タイトル10作品を収録した夢のコレクション第2弾 |url=https://www.4gamer.net/games/667/G066718/20221110010/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-01-27 |publisher=Aetas |date=2022/11/10 }}</ref>。 双六形式のボードゲームで対戦する同作は、多くのスターを集めることが目的である。途中会話イベントなどがあり、選択肢次第でストライカーがダークかジャスティスの性能にチェンジする。また、ゲーム中チャレンジできるミニゲームがかなり豊富である。 このソフトはDC版『'99 EVOLUTION』との連動機能があり、ST霧島翔、天童凱は連動が無ければDC版『'99』では使用することができなかった。またDC版『'99』での追加のSPストライカー(セス&ヴァネッサ除く)のレベル(最高3)を上げるのにも欠かせないソフト。 主人公の一人、ユウGは『[[ネオジオバトルコロシアム]]』の背景にも登場している。 *プレイヤーキャラクター:ユウG、マサムネ、はとこ、アイ *プレイヤーストライカー:[[草薙京]]、[[麻宮アテナ]]、[[大門五郎]]、[[山崎竜二]]、[[ビリー・カーン]]、[[神楽ちづる]]、[[フィオ・ジェルミ|フィオ]]、[[アルフレッド (餓狼伝説)|アルフレッド]]、[[霧島翔]]、[[武力 〜BURIKI ONE〜#登場キャラクター|天童凱]] このソフトを[[ネオジオポケット]]で起動すると、「このゲームソフトはネオジオポケットカラーせんようです モノクロにはたいおうしていません」と通常は警告文が表示されるが、数秒待つとさらに「...が」のメッセージが現れた直後「PLAY YO・SA・KU GAME」タイトル画面が表示され、隠しゲーム『[[与作 (ゲーム)|与作]]』(新日本企画時代制作、1979年作品)のアレンジ移植がプレイできるようになる。この「YO・SA・KU」はカラー本体においても、ゲーム内のポイントであるAPを100万以上溜めることで解禁される最後の隠しバトルゲームとしてプレー可能になる。 === KOF SKY STAGE === {{Main|KOF SKY STAGE}} [[2010年]][[1月22日]]稼動のアーケードゲーム(システム基板は[[Taito Type X]])。「正闘派シューティング」と銘打たれた、シリーズ初の縦スクロール型[[シューティングゲーム]]となっている。KOFのキャラクターを操作し、現れる敵を倒していく。2人プレイモードもあり、協力プレイもしくは対戦プレイを選択できる。 2010年7月29日に発売のPSP用ソフト『[[ネオジオヒーローズ 〜アルティメット シューティング〜]]』にもカップリング収録。 2010年9月15日には、Xbox 360の[[Xbox Live#Xbox Live Arcade(Xbox 360のみ)|Xbox LIVE アーケード]]用ソフトとしても配信が開始された。レイティングは{{CERO-B}}。 *プレイヤーキャラクター:[[草薙京]]、[[八神庵]]、[[クーラ・ダイアモンド]]、[[テリー・ボガード]]、[[不知火舞]]、[[麻宮アテナ]] === The King of Fighters Online === 韓国のスタジオDragonflyが開発したオンラインゲーム(Massively Online Battle Arena)。2013年9月4日にクローズドβテストが行われ<ref>[http://www.gamespark.jp/article/2013/08/27/43050.html 人気対戦格闘『KOF』がMOBAタイトルに、『The King of Fighters Online』が発表] Game Spark 2013年8月27日</ref>、その後本格稼働した。 === その他の格闘ゲーム以外 === ; KOF検定 めざせカルトクイズ王!<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=65&c=&g=4&s=&page=1 |title=KOF検定 めざせカルトクイズ王! |date=20160312171019}}</ref> : クイズゲーム。 ; THE KING OF FIGHTERS -Volleyball-<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=1&c=&g=7&s=&page=1 |title=THE KING OF FIGHTERS -Volleyball- |date=20160314020550}}</ref> : バレーボールゲーム。 ; 燃えよ! KOF大運動会<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=72&c=&g=7&s=&page=1 |title=燃えよ! KOF大運動会 |date=20160314083246}}</ref> : スポーツアクション。 ; KOFギャルズ麻雀<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=9&c=&g=8&s=&page=1 |title=KOFギャルズ麻雀 |date=20160314022716}}</ref> : 麻雀ゲーム。 ; THE KING OF FIGHTERS麻雀<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=48&c=&g=8&s=&page=1 |title=THE KING OF FIGHTERS麻雀 |date=20160314081049}}</ref> : 麻雀ゲーム。 ; THE KING OF MILLIONAIRE<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=13&c=&g=8&s=&page=1 |title=THE KING OF MILLIONAIRE |date=20160313113135}}</ref> : トランプの大富豪。 ; THE KING OF REVERSI<ref>{{Wayback |url=http://game.snkplaymore.co.jp/mobile/game/details.php?id=20&c=&g=8&s=&page=1 |title=THE KING OF REVERSI |date=20160313202137}}</ref> : リバーシ。 ; THE KING OF FIGHTERS バトルフェスタ : 2011年4月28日より[[Mobage]]にて配信された[[ソーシャルゲーム]]<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/official/kof_battlefesta/ THE KING OF FIGHTERS バトルフェスタ]</ref>。基本プレイ無料のアイテム課金制。2013年4月26日をもって配信終了。 ; SNKドリームバトル : 2012年3月26日より[[GREE]]にて配信されたソーシャルゲーム<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/official/dreambattle/ SNKドリームバトル]</ref>。SNKの様々なゲームのキャラクターたちが一堂に会するソーシャルカードゲーム。後にスマートフォン向けにも2012年6月14日に配信開始。基本プレイ無料のアイテム課金制。2013年4月30日をもって配信終了。 ; SNKハイスクールコレクション : 2012年5月23日より[[Mobage]]にて配信されたソーシャルゲーム。SNKプレイモアによる様々なSNKキャラクター、とくに美少女・美女キャラクターたちが多く通う覇天学園の生徒となり、カードを収集しながら数々のストーリーをクリアしていくソーシャルカードゲーム。基本プレイ無料のアイテム課金制。2012年11月をもって配信終了。 ; KOF(旧名:KOF×餓狼伝説) : 2013年2月13日より[[Mobage]]にて配信されたソーシャルゲーム<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/official/kof-garou/ KOF]</ref>。SNKプレイモアを代表する2D対戦格闘ゲーム『KOF』と『餓狼伝説』のキャラクターたちが100人以上登場するソーシャルカードゲーム。スマートフォン向けにも配信。2013年5月16日に名称を『KOF×餓狼伝説』から『KOF』に変更。基本プレイ無料のアイテム課金制。2013年9月30日をもって配信終了。 ; THE KING OF FIGHTERS ENCOUNTER -KOF すれちがいバトル!- : iPhone/iPod Touch向けに2011年10月18日より配信された位置情報連動のソーシャルゲーム<ref>[http://www.kayac.com/news/2011/10/kof 街ですれ違うとバトルスタート!人気格闘ゲーム「THE KING OF FIGHTERS」のソーシャルゲーム北米同時リリース!] 面白法人カヤック 2011年10月18日</ref>。[[面白法人カヤック]]がSNKプレイモアのライセンスを得て制作。基本プレイ無料。2012年3月にタイトルが『KOF すれちがいバトル!』へと変更され、同年10月にユーザー減少を理由にサービス終了<ref>[http://www.kayac.com/service/socialgame/819 KOF すれちがいバトル!] 面白法人カヤック</ref>。 ; THE RHYTHM OF FIGHTERS : iPhone/iPod Touch版とAndroid版が共に2014年6月25日配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/official/rof/ THE RHYTHM OF FIGHTERS]</ref>。「格闘ゲーム」と「音楽ゲーム」が融合した新感覚のリズムアクションゲーム。基本プレイ無料のアイテム課金制。2015年7月15日をもって配信終了。 ; BEAST BUSTERS featuring KOF : Android版が2014年12月22日に、iPhone/iPod Touch版が2015年2月6日に配信開始<ref>[http://game.snk-corp.co.jp/official/bbk/ BEAST BUSTERS featuring KOF]</ref>。[[ガンシューティングゲーム]]『[[ビーストバスターズ]]』誕生25周年と『KOF』誕生20周年を記念したコラボレーション。基本プレイ無料のアイテム課金制。2015年8月31日をもってサービス終了。 ; THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH Online : iOS・Androidで[[2016年]][[8月25日]]配信開始。運営はSNKからライセンス契約を取得した[[OURPALM]]<ref>[http://kof98.ourpalm.co.jp/t3/166/3146/1500004488.html?page=31 正式サービス開始!] - OURPALM公式サイトより。</ref>。格闘ゲーム『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH』の派生作品だがゲーム性は原作と全く異なり、キャラクターを集めて育て、最大6名でチームを組み、敵を倒してストーリーを進めるゲームとなっている。『KOF '98』というタイトルであるが、『KOF '99』以降に登場するキャラクターも続々登場している。 ; THE KING OF FIGHTERS D 〜DyDo Smile STAND〜 : iOS・Androidで2017年10月20日配信開始。飲料メーカー[[ダイドードリンコ]]とコラボしたゲームアプリ。ダイドードリンコ社製のスマートフォン連動機能が付いた自動販売機「スマイルスタンド」と連動。対応の自販機で商品を購入することで、ポイントが貯まり、ゲーム内のガチャなどで利用可能となる<ref>[https://app.famitsu.com/20170810_1110706/ ダイドードリンコとSNKがコラボ!自販機と連動した『ザ・キング・オブ・ファイターズD ~DyDo Smile STAND~』今秋リリース]</ref>。2018年4月12日をもってサービス終了。 ; THE KING OF FIGHTERS:DESTINY 拳皇命运 : 中国のiOS・Androidで2018年5月17日配信開始。YINHAN GAMES社が開発し、Tencent社より配信。横スクロールアクションゲーム。 ; THE KING OF FIGHTERS ALLSTAR : iOS・Androidで2018年7月26日配信開始。原作と同様に3人1組でチームを組んで戦う、横スクロールアクションゲーム。運営は[[ネットマーブルジャパン|Netmarble]]。 : 担当声優は『XIV』、もしくはアニメ『DESTINY』に合わせられている。そこに登場しないキャラクターは独自のキャスティングが行われている場合が多い。 : 『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』や『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』、『[[GUILTY GEAR]]』などの他社格闘ゲームや、『[[銀魂]]』や『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』、『[[WWE]]』など他コンテンツとのコラボレーションを積極的に行っている。 ; SNKオールスター : iOS・Androidで2019年5月8日配信。SNKの対戦格闘ゲーム『THE KING OF FIGHTERS’98 ULTIMATE MATCH』、『THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH』、『[[サムライスピリッツ 天草降臨]]』、『[[月華の剣士|幕末浪漫第二幕 月華の剣士~月に咲く華、散りゆく花~]]』の人気キャラクターが集結し、新たな物語を綴るRPG。2021年11月26日をもってサービス終了。 ; KOFクロニクル : iOS・Androidで2019年10月17日配信開始。最大6人1組でチームを組んで戦う、タワーディフェンス型RPG。原作を再現したストーリーイベント等が用意されている。2020年10月15日をもってサービス終了。 ; {{Anchors|THE KING OF FIGHTERS for GIRLS}}THE KING OF FIGHTERS for GIRLS : iOS・Androidで2019年11月8日配信開始。[[乙女ゲーム]]。開発は[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント・ゲームズ]]。KOFシリーズに登場する男性キャラクターたちとの友情・恋愛といったストーリーが描かれる<ref>{{Cite web|和書|work=[[4Gamer.net]]|title=「KOF」の乙女向け新プロジェクトが発表に。「THE KING OF FIGHTERS for GIRLS」は2019年夏にリリース|url=https://www.4gamer.net/games/464/G046449/20190611035/|date=2019-06-12|accessdate=2019-08-14}}</ref>。2021年3月31日をもってサービス終了<ref>{{Cite web|和書|publisher=|work=THE KING OF FIGHTERS for GIRLS|url=https://kofg.net/20210304-info/|title=【重要】サービス終了のお知らせ|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-23}}</ref>。 :* メインキャラクター:[[草薙京]]、[[二階堂紅丸]]、[[矢吹真吾]]、[[テリー・ボガード]]、[[アンディ・ボガード]]、[[ジョー・ヒガシ]]、[[リョウ・サカザキ]]、[[ロバート・ガルシア (龍虎の拳)|ロバート・ガルシア]]、[[包 (KOF)|包]]、[[八神庵]]、[[K']]、[[マキシマ (KOF)|マキシマ]]、[[八神庵]]、ナギ、ヨミ、[[ビリー・カーン]]、[[七枷社]]、[[クリス (KOF)|クリス]] :* サブキャラクター:[[大門五郎]]、[[椎拳崇]]、[[山崎竜二]]、[[キム・カッファン]]、[[ジョン・フーン]]、[[チャン・コーハン]]、[[チョイ・ボンゲ]]、[[ゲーニッツ (KOF)|ゲーニッツ]] : 京、真吾、テリー、マキシマ、庵は『XIV』以降に準じたキャストだが、それ以外のキャラクターは本作オリジナルのキャストが担当している。当初はサブキャラクターにボイスはなかったが、アップデートにより順次実装された。 ; KOF ARENA : iOS・Androidで2022年11月14日配信開始。『THE KING OF FIGHTERS ALLSTAR』のPvPコンテンツを独立させ、より対戦に特化したシステムを搭載。原作のゲームシステム同様、3人1組のチーム戦で対戦を行なっていく。運営は[[ネットマーブルジャパン|Netmarble]]。 ; KOF Survival City : iOS・Androidで2023年4月19日配信開始。運営はJOYCITY。基地を整備し、最大3人で戦うサバイバルゲーム。 == コレクション作品 == 家庭用ゲーム機で発売されたタイトルには複数タイトルを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。 *[[セガサターン]]版 **(限定)ザ・キング・オブ・ファイターズ ダブルパック (1996年12月31日発売 / 『'95』+専用ROM、『'96』+拡張RAMのセット) **(廉)ザ・キング・オブ・ファイターズ ベストコレクション (1998年10月1日発売、『'95』+専用ROM、『'96』、『'97』のセット。拡張RAMは未同梱){{efn2|[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]最後の[[セガサターン]]用ソフトとなった。同ハードのKOFシリーズはオロチ編3部作のみの発売であった。}} *[[PlayStation 2]]版 **[[NEOGEO オンラインコレクション]] ザ・キング・オブ・ファイターズ -オロチ編- (2006年4月20日発売 / 限定版あり) ***(廉)NEOGEO オンラインコレクション THE BEST ザ・キング・オブ・ファイターズ -オロチ編- (2007年6月21日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]]) **[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00100_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS オロチ編](2015年7月15日配信開始・PS3のみ) *[[PlayStation 2]]版 **[[NEOGEO オンラインコレクション]] ザ・キング・オブ・ファイターズ -ネスツ編- (2007年4月19日発売) ***(廉)NEOGEO オンラインコレクション THE BEST ザ・キング・オブ・ファイターズ -ネスツ編- (2008年5月29日発売) *[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation Portable]]、[[PlayStation 3]]、[[PlayStation Vita]]) **[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjd00095_000000000000000000.html THE KING OF FIGHTERS ネスツ編](2015年6月17日配信開始・PS3のみ) *[[PlayStation 2]]版 **[[NEOGEOオンラインコレクション]] コンプリートBOX(下巻) (2009年12月23日発売、『オロチ編』『'98UM』『ネスツ編』を収録) **キング・オブ・ファイターズ オロチ サーガ King of Fighters Orochi Saga (欧米版 2008年10月28日発売) *[[PlayStation Portable]]版 **SNK ARCADE CLASSICS Vol.1(2009年5月21日発売、16タイトルのひとつとして『'94』を収録) ***(廉)SNK BEST COLLECTION SNK ARCADE CLASSICS Vol.1 (2010年6月24日発売) **ザ・キング・オブ・ファイターズ ポータブル '94〜'98 チャプター・オブ・オロチ(2010年6月24日発売、'94から'98までのオロチ編5タイトルを1本にまとめて移植) *[[PlayStation Portable]]版 **SNK ARCADE CLASSICS Vol.1(2009年8月17日配信開始) ***(廉)SNK BEST COLLECTION SNK ARCADE CLASSICS Vol.1 (2010年6月24日配信開始)配信終了。 **ザ・キング・オブ・ファイターズ ポータブル '94〜'98 チャプター・オブ・オロチ(2010年6月24日配信開始) *[[Steam]]版([[Windows]]) **[http://store.steampowered.com/sub/64698/ THE KING OF FIGHTERS Triple Pack](『THE KING OF FIGHTERS XIII STEAM EDITION』『THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH』『THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH FINAL EDITION』をセットにしたパック、2015年4月10日配信開始) *[[Nintendo Switch]]版 - ネオジオポケット版を配信。 **[https://store-jp.nintendo.com/list/software/70010000032661.html NEOGEO POCKET COLOR SELECTION Vol.1](2021年3月18日配信開始) == 関連作品 == === 書籍 === ;THE KING OF FIGHTERS FIGHTING EVOLUTION 10th (編集:[[不知火プロ]]) ;ザ・キング・オブ・ファイターズ完全読本(編集:[[日経BP社|日経キャラクターズ!]]) :付録のCDにはボイスドラマ「KOF:Mid Summer Struggle」(脚本:[[嬉野秋彦]])と、個人サイト「墓標」の人気コンテンツ「美形会議」の出張版「美形会議 -DOKUHON-」が収録。 ==== 小説 ==== 『[[ネオジオフリーク]]』を刊行していた[[芸文社]]による小説アンソロジーや、[[ドラゴンノベルス]]([[KADOKAWA]])より出版された八神庵が異世界へ転移するという設定の『'''THE KING OF FANTASY 八神庵の異世界無双 月を見るたび思い出せ!'''』シリーズ(著者:天河信彦、挿絵:おぐらえいすけ(SNK))などがある。 ==== 漫画 ==== ;THE KING OF FANTASY 八神庵の異世界無双 月を見るたび思い出せ!(著者:[[蒼木雅彦]]、原作:天河信彦、原作イラスト:おぐらえいすけ、『COMIC Hu』連載) :同名タイトルの小説の漫画化。単行本既刊5巻。 ;THE KING OF FIGHTERS 外伝 ―炎の起源― 真吾、タイムスリップ! 行っきまーす!(著者:[[あずま京太郎]]、『水曜日のシリウス』連載) :単行本既刊1巻。 他、4コマ・アンソロジーが[[宙出版]]、[[光文社]]、[[新声社]]、[[一迅社|スタジオDNA]]、[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]、[[ホビージャパン]]、[[ムービック]]、[[双葉社]]から発売されている。<!--どなたか、詳しい情報求ム。大幅な書換もアリという方向で。--> === サウンドトラック === * The King of Fighters Best arrange collection 〜Since 94 to 00〜 === パチスロ === パチスロ版 ザ・キング・オブ・ファイターズは2004年春、4号機大量獲得機として販売手前まで行ったが、各メーカーが射幸性の高い機種を見直す時期に差し掛かり、この機種も射幸性が高い機種であったため、自主的に販売を取りやめた。現在は携帯サイト『[[サミー777タウン]]』内でのみプレイ可能。 2006年5月下旬、上記の問題点を見直し、さらに『[[サムライスピリッツ]]』に登場する[[ナコルル]]の演出も加えた5号機の稼働を開始。 2007年6月上旬、ネスツ編をベースにした続編『KOF2』の稼働を開始。 2012年10月、アッシュ編をベースにした『KOF3』の稼働を開始。 === 映像作品 === ; アニメーション『The King of Fighters<nowiki>:</nowiki> Another Day』 : {{main|The King of Fighters: Another Day}} : 2005年に公開されたアニメーション作品。 ; 実写映画版『The King of Fighters』 : 詳細は「{{仮リンク|ザ・キング・オブ・ファイターズ (映画)|en|The King of Fighters (film)}}」を参照 : 2009年にカナダで撮影が行われた。主演は不知火舞役の[[マギー・Q]]。[[オリジナルビデオ]]としてアメリカ国内で発売された。日本では2011年[[7月2日]]より吹き替え版のみが公開された。 ; アニメーション『THE KING OF FIGHTERS<nowiki>:</nowiki> DESTINY』 : 2017年に公開された3DCGによるアニメーション作品。 == 関連イベント == ; ザ・バンド・オブ・ファイターズ(BOF) : メンバーは[[麻宮アテナ]](ボーカル)、[[草薙京]](ギター)、[[八神庵]](ベース)、[[テリー・ボガード]](ドラム)、[[ナコルル]](キーボード)の5人。 : 等身大のロボットが制作され、当時ネオジオワールドでライブが行われていた。 ; KOF忘年会 : 2004年から開催される。2005年度・2006年度ではクイズ企画で「美形会議」が登場。 == 他作品への客演 == ; [[Days of Memories]] : SNKプレイモア発売の携帯電話およびニンテンドーDS用[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛シミュレーションゲーム]]。SNKおよびSNKプレイモア作品のキャラクターが設定を変えて登場するパラレルワールドを舞台にした作品で、『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 ; [[LORD of VERMILION|LORD of VERMILION Re:2]] : スクウェア・エニックス発売の[[オンライン]][[トレーディングカードアーケードゲーム]]。『KOF』から[[草薙京]]と[[八神庵]]がゲスト出演している。 ; [[ヴァルキリーコネクト]] : エイチーム発売のRPG。『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 ; [[パズル&ドラゴンズ]] : ガンホー・オンライン・エンターテイメント発売のパズルRPG。『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 ; グランドサマナーズ : グッドスマイルカンパニー発売のRPG。『KOF』から[[草薙京]]、[[八神庵]]、[[不知火舞]]が登場している。 ; [[クラッシュフィーバー]] : ワンダープラネット発売のパズルRPG。『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 ; ジョーカー~ギャングロード~ : アプリボット発売のRPG。『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 ; [[誰ガ為のアルケミスト]] : FgG発売の[[シミュレーションRPG]]。『KOF』からのキャラクターも数名登場している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[SNKの対戦型格闘ゲーム一覧]] * [[熱闘シリーズ]] == 外部リンク == * [https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-portal/ THE KING OF FIGHTERS PORTAL SITE] * [https://kofaniv.snk-corp.co.jp/sitemap/index.php THE KING OF FIGHTERS OFFICIAL WEB SITE](旧公式サイト、サイトマップ) * [https://game.snk-corp.co.jp/official/online/orochi/ THE KING OF FIGHTERS -オロチ編-:NEOGEO オンラインコレクション] * [https://game.snk-corp.co.jp/official/online/nests/ THE KING OF FIGHTERS -ネスツ編-:NEOGEO オンラインコレクション] * [https://game.snk-corp.co.jp/official/kof98um/ THE KING OF FIGHTERS'98 ULTIMATE MATCH オフィシャルウェブサイト] * [https://game.snk-corp.co.jp/official/kof2002um/ THE KING OF FIGHTERS 2002 UNLIMITED MATCH オフィシャルウェブサイト] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-xv/ THE KING OF FIGHTERS XV 公式サイト] * [https://game.snk-corp.co.jp/official/kof-skystage/ KOF SKY STAGE] {{SNK対戦格闘}} {{DEFAULTSORT:さきんくおふふあいたあす}} [[Category:ザ・キング・オブ・ファイターズ|*]] [[Category:1994年のコンピュータゲーム]] [[Category:アーケードゲーム作品]] [[Category:ネオジオ用ソフト]] [[Category:ネオジオポケット用ソフト]] [[Category:セガサターン用ソフト]] [[Category:ドリームキャスト用ソフト]] [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:PlayStation 3用ソフト]] [[Category:PlayStation 4用ソフト]] [[Category:PlayStation 5用ソフト]] [[Category:Xbox用ソフト]] [[Category:Xbox 360用ソフト]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:ゲームアーカイブス対応ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Xbox Live Arcade対応ソフト]] [[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]] [[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:ファミ通ゲーム文庫]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:月刊少年エースの漫画作品]] [[Category:コミックボンボン]] [[Category:ゲーメストの漫画作品]] [[Category:マガジンポケット]] [[Category:格闘技漫画]] [[Category:ドラマCD]] [[Category:クローンを題材としたフィクション作品]]
2003-08-19T10:44:22Z
2023-12-11T09:00:19Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:コンピュータゲームシリーズ", "Template:Main", "Template:R", "Template:コンピュータゲーム", "Template:Anchors", "Template:脚注ヘルプ", "Template:出典無効", "Template:出典の明記", "Template:CERO-B", "Template:CERO-A", "Template:仮リンク", "Template:Notelist2", "Template:Cite book", "Template:Efn2", "Template:Wayback", "Template:混同", "Template:See also", "Template:出典範囲", "Template:SNK対戦格闘" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
13,559
ゴシック・アンド・ロリータ
ゴシック・アンド・ロリータ (Gothic & Lolita) は、本来異なるゴシックとロリータの要素を結びつけた日本独自のファッションスタイル。またそのようなサブカルチャーを指して言う語。ゴスロリと略して呼ぶことが多い。カルチャーとしてのゴスロリは、ヴィジュアル系バンド、嶽本野ばらの提唱する「乙女」、ドール文化などの要素を内包する。 一般的にはロリータ・ファッションの総称ととらえられているが、本来はロリータ・ファッションというカテゴリーの中のジャンルの一つである。 ゴシック・アンド・ロリータは、ロココスタイルのような ヨーロッパ文化を思わせる幻想的な装いを特徴としている。またロココのほかにもヴィクトリア朝時代との関連の指摘もあるなど、ストリートファッションでありながらも西洋の文化を継承しようとする姿勢を持つ性格が独特である。また、ゴシック・アンド・ロリータ・ブランドのデザイナーもヨーロッパの伝統的な服飾文化をよく学んでおり、そうした技術やスタイルを模倣し典型的な西洋のイメージを形にするアイディアを打ち出している。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ自体は日本独自の文化とみなされており、欧米では18世紀のドレスを着た者がストリートを歩いている国などありえず、伝統とモダンがこれほど同時に存在している国は他にないともいわれている。 ただし、ゴシック・アンド・ロリータファッションには、「暑い」、「動きにくい」、「収納に困る」、「高価」、「品薄」 など、着心地の悪さやスタイル維持の難しさという問題もある。さらに、ロリータをターゲットとしたブランドが大小問わず増えているのに対して、ゴシック・アンド・ロリータをメインターゲットとしたブランドはほとんどなく、ゴシックとロリータが重なり合う部分にいるゴシック・アンド・ロリータの人口も減っているとも言われている。 ゴスロリの女王とも表現されることがあり、元祖ゴシック&ロリータを自認する宝野アリカは、ゴシック・アンド・ロリータの外見的特徴について と述べている。なおアイテムの主な色は黒、白、赤、紫、ピンク、青が挙げられる。 全体のコーディネートの特徴は「甘過ぎず辛過ぎず」で、甘過ぎるとただの「黒いロリータ」になってしまいがちである(#外見的特徴)。 個々の部分については、ヘア・アクセサリーはボンネットやカチューシャ、ミニハットを合わせるが、薔薇のコサージュがついたものが一番それらしく見えると言われている。また、トップスやボトムスは黒で、ロリータ感を出すためにフリルは必須であるが、ロリータになりすぎないようにするためにパニエは控えめがよく、さらに黒一色になってしまうのも好ましくないとされるため、ワンピースやジャンパースカートなどのメインの洋服は黒をメインカラーとしつつも差し色を用いるが、赤や青など抑えめの色がよいとされており、パステルカラーは用いるべきではないとされている。ソックスはひざ下丈のハイソックスで、黒地に黒レースあるいは白レースが無難である。靴はロリータ・ファッションと同じく、つま先の丸いものを用いるが、色は黒で、ヒールのあるものや光沢のあるエナメル素材がよいとされる。 ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、極端に白い肌色や濃いアイシャドウの病的な雰囲気を出し、赤や黒あるいはダークな色みの強い口紅を用いるというゴシック調である。また、メイクにはヴィジュアル系バンドの影響がみられるほか、顔は白塗りのこともまれにある。ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、魔女のような死人めいたメイクと表現されることもある。こうしたメイクはゴシック・アンド・ロリータの非現実感を強調するために必須で、「メイクもファッションの一部」、「全身ゴスロリなのに靴はローファー、顔もスッピンはNG」 とブランドのデザイナーもメイクの重要性を指摘している。 また、髪型については縦ロールや姫カットが好まれる。縦ロールは巻くのが大変であるためウィッグを用いるものも多い。ヘアメイクや小物によってゴシック・アンド・ロリータにもロリータにもなると言われており、ヘアメイクはスタイルを左右するものである。 ゴシック・アンド・ロリータは精神性も大事にするといわれている。例えば、嶽本野ばらは、Mana、三原ミツカズとの対談の中で、 と述べている。また、Manaも と述べている。そのほかにもヴィクトリア朝期のロマン主義思想、神秘主義、怪奇猟奇趣味、フランスの世紀末思想、耽美主義などもバックボーンとして挙げられることがある。 またゴシック・アンド・ロリータは、少女の夢やそこに潜む心の闇を、自己表現するファッションともいわれている。その一方で、ロココ調の装いに暗い死の影が浸透しており、それゆえに可憐さが際立っているようなスタイルであるという意見もある。しかし、奥底に流れる社会に対する冷ややかな眼差しを感じ取らせてしまうため一般の人々に嫌悪されやすいという指摘もあり、ゴシック・アンド・ロリータのように感情を全身にまとい町を歩く者を受け入れることができないのだろうとも言われている。 1980年代、1990年代にかけて、文学、歴史学、民俗学などの各分野の研究者たちが、ほとんどの童話の主人公が少女であり、また日本においても「かぐや姫」のような神秘性を持った主人公のほとんどが少女であることに対し、研究を行った。その少女の持つ神秘性(とくに男性からの視点における)を、とくに顕著に表すようなスタイルでもある。 ゴシック・アンド・ロリータは20代、30代になると着られないと考える者が多いため、愛好者は20代までの若い層が大半を占める。また同年代の女性をターゲットとするギャルブランドやカジュアルブランドが売上げ増のために市場の変動に合わせた新しいトレンドを追い求めているのに比べ、ゴシック・アンド・ロリータ・ブランドはある程度一箇所に留まり一つのテーマを表現している。 しかしゴシック・アンド・ロリータは、肌の露出が少なく体型を隠せることや、大きなリボンなどが目を引くことから着る人を選ばない。そのため50代から60代の中高年のものも存在する。 ゴシック・アンド・ロリータは様々な種類があり、今は廃れつつあるものや変化のあるものが多く存在する。流行によっても大きく左右されるため一概に言えないものも存在する。 ゴシック・アンド・ロリータには色々なこだわりや切り口があるため、一言ではいえないともいわれているが、アトリエサードの出版するクロスカルチャーマガジン『トーキングヘッズ叢書』No.33では「ゴシック・ロリータの種類」として分類されている。以下の類型に、当てはまる者が嗜好するものと、主に好むブランドを転記する。 しかし、これらも個人の嗜好の問題であるため、時間と共に変化・重複して複雑になっていることが多い。さらに、ヴィジュアル系バンドやアニメ主題歌の変化などによって、境界線は曖昧になってきている。 ゴシック・アンド・ロリータの通称はゴスロリである。由来についてゴスロリ関連雑誌の編集長を務めた鈴木真理子は、「私達編集者などの、誰かが狙って「仕掛け人」となって作った言葉ではなく、ストリートの女の子達から生まれて育っていった言葉なのです。」と述べている。鈴木によると、1998年1月から原宿でスナップ撮影を始めたところ、1998年5月ごろからボンネットを付けた人形のような服を着た少女たちに会うようになり、そのファッションが「ゴシック&ロリータ」略して「ゴスロリ」と呼ばれていることを知ったという。また、表記としては他にゴス・ロリ、ゴス&ロリ、ゴシック・ロリィタ、ゴシックロリータ なども存在する。また「ゴシック調ロリータ・ファッション」 や「ゴシック調のロリータスタイル」 という表現も存在する。 なお、ゴスロリという語が一般に市民権を得たのは、2003年に起きた河内長野市家族殺傷事件の報道の影響が大きい。 ロココやヴィクトリア朝時代 のファッション・スタイルとの関連が指摘されているゴシック・アンド・ロリータであるが、ストリート・ファッションとしてのルーツには、ナゴムギャルとトランスギャルの融合とするもの や、海外のゴシック・ファッションの要素を取り込んだ日本のロリータ・ファッションから派生した とするものなど諸説あり、主に次のようなものが挙げられる。 1980年代頃、トランスギャルとナゴムギャルという2種類のおっかけが存在した。トランスギャルは、トランスレコードのYBO2、Z.O.A、ASYLUM、SODOMなどのおっかけをし、全身を真っ黒の出で立ちに青白いメイクと髑髏のアクセサリーを身に付け、MILK、OZONE COMMUNITY、Y's、COMME des GARCONSなどのブランドを好んだ。またナゴムギャルは、ナゴムレコードの有頂天、たま、人生、筋肉少女帯、ばちかぶり、死ね死ね団などのバンドのおっかけをし、ボーダーのニーソックスにリボン、派手なTシャツにラバーソウルを着た実年齢よりも幼い印象で、Jane Maple、MILK、PINK HOUSEなどのブランドを好んだ。その後イカ天でバンドブームが到来し、歩行者天国でストリートライブが行われるようになってくると、様々なバンドを見るファンによって、ナゴム系とトランス系の双方の要素が混ざっていき生まれた。 これに関連する意見としては、トランスギャルはジャパニーズ・ゴシックの原型であるとするものや、現在のゴシック・アンド・ロリータとほとんど変わらないとするもの、ナゴムギャルとトランスギャルをロリータとゴシックのルーツであるとしつつも、ゴシック・アンド・ロリータの原型を作ったのはMALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンたちであるとするものがある。MALICE MIZERとの関連については#MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合、#ゴスとヴィジュアル系の関係とゴシック・アンド・ロリータでも述べる。なお、バンドブームの衰退とともにトランスギャルの好んだ服装もナゴムギャルの好んだ服装も主流から消えていった。 また、ナゴムレコードに所属していた筋肉少女帯の大槻ケンヂは、「「ゴシック&ロリータ」という言葉は、モアティエのMana様が作ったと言われているんです。しかしその存在というか、いわゆるゴシックでロリータな格好の女の子は、僕の記憶では既に80年代にいましたね。」と述べている。また大槻は「目黒の鹿鳴館ってライブハウスでヘヴィメタがよくライブしてて、ヘヴィメタルってヨーロピアンな流れもあるから、そこで女の子たちがヨーロピアンな服装をするんだけども、まあちょっと感性が違ったりして、今にして思えばゴシック&ロリータな服に偶然なってる場合が多々ありましたかねえ。」と述べている。しかし、当時はゴシック・アンド・ロリータという言葉はなかったため、大槻らはそれらを「鹿鳴館ギャル」と呼んでいた。 1990年頃、関東はゴシックテイスト中心、関西はロリータテイスト中心であった。そのころ、大阪のブランドVISIBLEが東京のセレクトショップATELIER-PIERROTのオーナー、大橋敬子の「真っ黒で作って欲しい」という要望から黒のアイテムを作ったことから生まれた。 VISIBLEは当初、デザイナーのレイチェルと大阪モード学園で同期だったMARBLEの泉さおりが家賃を折半し店舗を借り、MARBLE/VISIBLEとして開店した。このMARBLE/VISIBLEはゴシック・アンド・ロリータのさきがけであるともいわれているが、泉のMARBLEとレイチェルのVISIBLEは初めから別々のブランドで2002年には独立店舗を持つに至っている。 MALICE MIZERはそれまでのヴィジュアル系と比べて、群を抜いて濃いメイクと衣装、過剰な演出をしていたが、MALICE MIZERの中で女性的な位置づけであったManaのスタイルをエレガント・ゴシック・ロリータと称したものがルーツ で、Manaがゴシック・アンド・ロリータを最初に定義した。 この「MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合」は有力な説の一つであるが、一般の少女たちが行っていたロリータ・ファッションのアレンジをまとめたのがManaの「Moi-même-moitié」であるとも言われている。前述の大槻 の他に『KERAマニアックス』編集長の鈴木真理子も、ゴシック・アンド・ロリータが売れるようになったのはMALICE MIZERがメジャーデビューし、ゴシック・アンド・ロリータを着るManaの姿が全国的に映し出されたためであると述べている他、「Manaがゴシック・アンド・ロリータと名づけた」という説はMana自身否定している。しかしManaが自分のファッション・スタイルについて「エレガントで、ゴシックで、ロリータな」スタイルと表現していたため、ファンの間で「ゴシック・アンド・ロリータ」という言葉が生まれたとも言われており、また、MALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンによってゴシック・アンド・ロリータの原型が誕生したという説もある。 なお、Manaは「ブランドの構想を考え出した97 - 98年頃、世の中にLolita系ブランドはあったのですが、ダークで可愛いものを扱っているブランドが、僕が知っている限りではありませんでした。僕は怪しくて、Gothic的なものも大好きだったので、そこにLolitaの持つ可愛らしさを組み合わせたら、と考え、Gothic&Lolitaというものを創り出したのです。」とも述べている。 前述のトランスギャル、ナゴムギャルのほかにも、ゴシック・アンド・ロリータには志向・外見が類似したいくつかのファッション傾向がある。 前述のようにゴシック・アンド・ロリータは、ゴシック・ファッションとロリータ・ファッションの融合である。そのためそれぞれの要素を含んでいるが、美術評論家の樋口ヒロユキは、著書『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』の中でゴスイベントに来る、ゴシック・アンド・ロリータ・ファッション、ゴシック・ファッション、ロリータ・ファッションの愛好家を比較して次のように大別している。 その上で樋口は、ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの間にあるもので、ゴシック寄りのものは死の匂いが強く、ロリータ寄りのものは少女趣味が強くなるとした。 「ゴシック」(Gothic)とは、「ゴート族風の」という意味で、「野蛮・残酷」を意味する語である。 ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの要素を結びつけたものである。そのうちゴシックな要素として次のようなものが挙げられている。 こうした要素のいくらかを内包していなければゴシック・アンド・ロリータとは呼ばない。 欧米のゴスの成功の理由は、アンチ・キリストの表象を前面に出したことによって、「堕天使サタンの物語」というもっとも共感域の広い悲劇を想起させたことにあるとも言われているが、ゴシック・アンド・ロリータや、そのカリスマたちがアンチ・キリストの悲劇に宗教的共感を寄せているとは考え難いという指摘もある。 また、ゴシック的な感覚を基に生まれたゴス(Goth)は、日本ではX JAPANやMALICE MIZERが伝道したスタイルである。X JAPAN、MALICE MIZER共にヴィジュアル系バンドであるが、ゴスの流れを汲むヴィジュアル系バンドのファン層を中心に広がっていったとも言われている。 一方でヴィジュアル系バンドがステージ衣装を取り入れたり、雑誌でゴシック・アンド・ロリータ系ブランドのモデルにヴィジュアル系バンドのメンバーが起用されたりと相互に影響を与え合っており ヴィジュアル系バンドに憧れる層もゴシック・アンド・ロリータに関心を抱くようになったという指摘もある。 ロリータは、ロシア人作家ウラジミール・ナボコフの代表作である小説『ロリータ』に由来する。この「ロリータ」とは作中に登場するドロレス・ヘイズという少女の愛称であるが、この少女は少女期特有の妖しい魅力(ニンフェット)の持ち主で、それゆえ「少女的である」という要素が強調されやすい。 嶽本野ばらはロリータの共通して偏愛する要素について「アリス、王冠、天使、テディベア、キティちゃん......。澁澤龍彦、森茉莉、恋月姫、楠本まき......。バッハ、パンク、アンティークオルゴール......。」を挙げている。また嶽本は、ロリータは各自が自分流のロリータの定義を持っており、自らの美意識のみを拠り所とし、自分のルールにしか従わないのがロリータとして生きていくための条件であると主張しており、その定義について、フリルが満載の洋服を着ている、ヘッドドレスをつけているなどの表層的な部分を定番どおりになぞらえても真のロリータにはなりえず、ロリータの解釈と実践は各人によって異なり、ロリータな精神さえ持っていればロリータである、と述べている。 パンク・ファッションとゴシック・アンド・ロリータは音楽ムーブメントと深く関連し、奇抜なファッション傾向があり、大人への反抗心などを持つなど、それと重なる部分がある ほか、ヴィヴィアン・ウエストウッドの行ったような伝統回帰やロマンティシズムへの憧憬も志向している。実際、ゴシック・アンド・ロリータにパンクの要素を取り入れたゴスパン(Gothic Punk)や、ロリータ・ファッションにパンクの要素を取り入れたパンクロリ(Punk Lolita)などの派生ファッションも存在する。 また、ゴシック・アンド・ロリータの愛好者にもヴィヴィアン・ウエストウッドは人気で、バッグ、アクセサリー、ジャケットなどのアイテムをあわせることがあり、中でも足首に紐を巻きつけるバレリーナシューズ(ロッキンホース・バレリーナ)は最もポピュラーで ある。 2005年頃よりミラノやパリなど各地のファッションコレクションにおいてゴシックロリータの影響が見られる。CHANELやYves Saint Laurentがその例である。 ピンクハウスは1971年に金子功をデザイナーとしてニコルから誕生し、1983年のオリーブ少女ブーム で大ブレイクしたブランドであるが、そのデザインは極端にロマンチックなものであった。このロマンチックなデザインや独特の印象から、ロリータ・ファッションと同列視する者がいるが、両者には決定的な違いがある。金子のデザインした服は、肩から下までストンと落ちるような直線的なラインで足をほとんど見せないものが多いのに対し、ロリータ・ファッションは、スカートを膨らませウエストをしっかり絞って強調しており、一部にロングスカートのものもあるものの足は見えるのが一般的である。 また、ピンクハウスのシルエットはヴィクトリア朝時代(1837年から1901年)の庶民的ファッションに近いのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは王族に近いという指摘もある。また、ピンクハウスなどの1980年代DCブランドとゴシック・アンド・ロリータとの違いについてデザイン・コンセプトを指摘するものもいる。その指摘は、金子功のデザインの方針が「大人の女性の為の少女趣味」であり、「ヨーロッパの田園」を補強するイメージ写真を掲載するなどしていることに手がかりがある。Pink Houseの想定する「少女」は「自然」と結びつくものであった。さらに、この「少女=自然」「ヨーロッパの田園」イメージは、日本人男性による「想像」の産物である。というものである。 1980年代には少女趣味的な服の代表であったピンクハウスであるが、現在ではロリータ・ファッションに分類されていない。 東京のファッションカルチャーの代表として、ゴシック・アンド・ロリータとギャル系ファッションは双璧をなしているが、ギャルは「レース、フリル、リボンにあふれた『かわいいおしゃれ』が大好き」とも言われており、ギャルから派生した姫系や姫ロリと呼ばれるファッションスタイルが存在する。 一部のギャルから派生した姫ロリは、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTやJESUS DIAMANTEの洋服を着て、ブロンドの髪を高く盛り、ティアラや大きなリボンを付け、ネイルや小物にはたくさんのラインストーンを付けるものであった。姫系は、ギャルが標榜するお姫様のようなファッション傾向で、JESUS DIAMANTE、Barbie、Pinky Girls、RUBY ROSE、A mon avisなどのブランドも好まれている。 ゴスロリとギャルとの間に親和性があると感じるというものもおり、ギャルとロリータを行き来するもの や、ゴスロリと姫ギャルをターゲットにしたシューズブランドも存在する。また、ロリータのカリスマ嶽本野ばらもギャルのカリスマ浜崎あゆみ好きを明言している。 また、ゴシック・アンド・ロリータの着用者の中には、ギャル雑誌『小悪魔ageha』を参考にメイクをするものもいる。 2009年4月3日付けの日経トレンディネットの記事では「ちょいゴスロリ」という傾向が取り上げられている。それによると「ちょいゴスロリ」とは「カラーを黒中心に据えてシューズをベロアにしたり、レースや中世を思わせるアンティーク調アイテムを使ったりなど個々のアイテムはゴスロリを思わせるが、全体のスタイルは完全なゴスロリではない。」というように、ディテールを取り込んで雰囲気を出す、「よく見れば」、「なんとなく」ゴスロリというものである。 2003年6月6日付けの繊研新聞では、各ブランドが初めて作ったゴスロリゆかたのファッションショーが取り上げられた。記事によると新宿マルイワンで行われたショーにはMAXICIMAM、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、metamorphose temps de fille、SEXY DYNAMITE LONDON、BLACK PEACE NOW、MIHO MATSUDAなど11ブランドが参加した。また、そのデザインは「黒地にバラや血糊のプリント、そろいのヘッドドレスやスタッズを打ったレザーの帯、チュールレースとのコーディネートなど」とあり、形もベーシックなゆかたにプリントだけゴシック・パンクというものや、ドレスのようなデザインのものが見られた。また2007年にもATELIER-PIERROTやh.NAOTO、despair、Deorartなどもゆかたを制作している。 ニューヨーク州立ファッション工科大学は2009年2月に「サブカルチャー&スタイル」と題したシンポジウムを二日間にわたって開き、前述の川村由仁夜、京都造形芸術大学助教授の成美弘至、クリエーティブ・コンサルタントのティファニー・ゴドイが日本のサブカルチャーをテーマに講演を行ったが、その中でゴドイは日本人が制服や着物のように「型」の決まった服を着用してきたことを指摘し、さらにゴシック・アンド・ロリータも、それを着用する者にとっては制服のようなもの、という見方を示した。服飾コードの供給源としてはミュージシャンや漫画家、服飾デザイナー、人形作家などのカリスマが挙げられる。また、ロリータ・ファッションにも「美しさや、着こなしのルールがあり、完璧性を競う」といわれており、その点がカジュアルダウンで自身を表現するストリートカジュアルとの決定的な違いとする意見もある。 ゆるふわのスカートのボリューム感のあるシルエットは、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションに似ているが、それらがウエストを絞った半円のようなシルエットであるのに対して、ゆるふわは「Aライン気味」とも言える緩いふくらみである。また決定的な違いとしてゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションのスカートがひざ丈やひざ上であるのに対して、ゆるふわはロング丈で統一されている。さらに、「レースや装飾がなく無地でシンプルなものが多い」、「甘い雰囲気を引き締めるためにブラックを適所に置いてバランスを保つ」、「パーカーやスエットなどのカジュアルアイテムを取り入れる」などのコーディネートの特徴も指摘されている 宝塚歌劇に関する特集は、ゴシック&ロリータバイブルでも複数回組まれている。また2005年3月9日付の『繊研新聞』では50代から60代の中高年のゴシック・アンド・ロリータ着用者について触れ、その中で、現代社会研究所所長で青森大学社会学部教授の古田隆彦は、50代から60代の女性の多くは少女時代に宝塚歌劇や、中原淳一、内藤ルネらの少女画に熱中した世代であることを指摘し、少女時代からの宝塚や少女画のファッションへの憧れが、若者たちやモードに後押しされたのではないかと推測している。なお、内藤ルネとロリータブランドHeart Eのコラボレーション商品も存在する。また宝塚は「夢の世界」と言われるが、コスプレとゴシック・アンド・ロリータも同じく「夢の世界」の実現にコミットする文化である。これらは「夢の世界」を形成するにあたって「西洋」のファンタジーを用いている点でも似ているが、水野麗はこの場合の「西洋」を「単に異国情緒・異国趣味といったものではなく、また単純に「先進国」として見習うべき手本といったものでもない。それぞれの文化の根幹にかかわる重要な要素であり、複雑なダイナミズムをもって実現されている、情熱の矛先とでも言うべきものである。」と論じている。 また水野は宝塚、コスプレ、ゴスロリそれぞれの「西洋」について次の点を指摘している。 さらに水野は、東洋人的な身体が「夢の世界」としての「西洋」を宝塚やコスプレ、ゴスロリで演じているところに、現実の西洋が混ざるとファンタジーと現実の水準の混乱を招くために目立つ、としている。 しかし同じ西洋のファンタジーを源泉とする宝塚とゴスロリには、コスプレで決定的に違う点がある。それは宝塚が「西洋物」を確立したのに対して、ゴスロリやコスプレが1980年代以降の欧米風の生活スタイルが違和感なく存在する時代から楽しまれている点である(コスプレとゴシック・アンド・ロリータの関係については#コスチュームとしてのゴシック・アンド・ロリータでも述べる)。なお宝塚歌劇団で上演している『ベルサイユのばら』(1974年初演)は、フランス革命期をマリー・アントワネットの生涯を中心に描いた作品である。 また、宝塚にはファンクラブが役者を招いて行う「お茶会」というイベントがあり、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションにおいてもやはり「お茶会」というイベントがある。ブランド主催のお茶会の中には読者モデル やデザイナー などが参加して行われることもある。ゴシック・アンド・ロリータにおけるお茶会については#お茶会でも述べる。 なお、ヴィジュアル系のルーツが宝塚にあるという意見も存在する。 これまで、ファッションではアンダーカバーやユニクロ、音楽ではピチカート・ファイヴやPUFFYが日本から海外進出を果たし支持を得ていたが、それらがあくまでもブランドやアーティスト単体が支持されるにとどまっていた それに対し、ゴスロリは日本生まれのジャンルそのものが受け入れられているとも言われている。 ゴシック・アンド・ロリータは欧米でもgosulori(またはgoth-loli) として知られている。ゴスの本場欧米では、本来なら崇高美学とホラーに結びつくゴシック愛好者がミニスカートを履くことを奇妙に感じるなどの批判があるもののゴシック・アンド・ロリータを好むものもいる。 アメリカ合衆国ではゴシック・アンド・ロリータは既に研究対象としても扱われている。実際ニューヨーク州立ファッション工科大学の付属美術館ディレクター、ヴァレリー・スティールは来日した際、h.NAOTOの廣岡直人へインタビューを行っている。 また、アメリカにゴシック・アンド・ロリータを広めたことで知られるエヴァネッセンスのボーカル、エイミー・リーは、ゴシック・アンド・ロリータ愛好家である。このほかにも、マリリン・マンソンやシンディ・ローパー、レディー・ガガはゴスロリ関係の服を来日した際に購入しており、アメリカでの人気の高さが窺える。 フランスでも、2006年12月1日にパリ初のゴスロリ専門洋服店「ハラジュク」がオープンし、翌2007年6月にはフランス初のゴスロリブランドKAWAIKOがパリ市内に店舗をオープンしている。ほかにも、Japan Expoでラフォーレ原宿がファッションショーを行ったり、ヨーロッパ初のゴスロリイベントJ-POP COLLECTIONS in Paris 2007が開かれるなど、ゴシック・アンド・ロリータが輸入されている。 また、ロリータ・ファッションを愛好するものの中には、ビジュアル系への興味からゴシック・アンド・ロリータを愛好した時期を持つものが多い。例えばBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのパリ店では開店当初は黒一色の客が多かったが一年もたたないうちにカラフルなファッションへとかわっていったという。ちなみにこの変化は、コーディネートしやすい初心者向きの「黒」から、ファッションに目覚めた結果であるともいわれている。 ドイツはヨーロッパで最も多くのゴスロリファンがいるともいわれており、500人規模のファングループが4・5グループある。 そのほか日本のツアー企画旅行会社による、ゴスロリ店をめぐるツアーを企画が人気を博しており、原宿のゴスロリショップでは買い物客の4割が日本人以外(特に欧米系)であるという指摘もある。 このように、欧米人がゴシック・アンド・ロリータに注目するのは、欧米人が行えば単なる懐古趣味の域に留まってしまうものを、東洋人による別のスタイルにしてしまったからだという指摘もある。その一方で、18世紀、19世紀の西洋服飾史をベースにしたロリータと、ヨーロッパ発祥の様式であるゴシックという文化的背景を考えると、ヨーロッパに流入しカルチャーとしてとらえられ広まったことも自然なことかもしれないという指摘もある。 日本では百貨店との同質化を避けたファッションビルがゴシック・アンド・ロリータの希少性の高さ、客単価の高さ、固定ファンの存在、ファッション傾向の追い風を受けて導入し始めた。ゴスロリ系ブランドを集積した主な商業施設としてラフォーレ原宿 やマルイワン新宿が挙げられる。その後、新宿地区再編に取り組んだマルイは、マルイシティー1やマルイシティー2など改装を進め、新宿マルイワンをオープンさせ、旧マルイヤング新宿にあったゴスロリ系ブランドを集めた。 さらに2002年、京都四条河原町の阪急百貨店がゴスロリ系のブランドを導入し、百貨店からもゴスロリがファッションとして認知されるようになった。また北海道でも2002年、三越が札幌店で取り込みきれない18歳から22歳の客層を狙って札幌アルタを開店し、ゴスロリ系をテーマとしたフロアを設けた。 2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれた。インディビジュアル・ファッション・エキスポについては#インディビジュアル・ファッション・エキスポでも述べる。 前述のようにファッションビルはゴシック・アンド・ロリータの客単価の高さに注目している。しかしその一方で松浦桃は、ゴシック・アンド・ロリータの市場規模が拡大しないのは「着られる時間」、「その分購入されるアイテム=実際に動く購買力、それによって増減する販売数」、「ゴシック・アンド・ロリータというジャンルに所属する人口」の三点で不安定とみられているからだと指摘した。これはゴシック・アンド・ロリータが職場や学校へ着て行くことができないため実際に着用する回数が少なく、購入するアイテム数が限定されるという問題と、20代、30代になると着られないと考える者が多いため、購買層が20代までの若い層に集まり、客単価が上がらないという問題を示している。またゴシック・アンド・ロリータ市場の特徴として、店頭に出ることなく予約のみで商品が完売してしまうことが多いという点も指摘されており、品薄なためスタイル維持が難しいという問題もある。 『オタク市場の研究』では、ファッションオタクを人口4万人、市場規模130億円 としているが、2004年1月30日付の読売新聞東京版夕刊には、ゴシック・アンド・ロリータ人口は推定4、5万人との記載もある。また丸井の平岩国泰は、人口100万人、200億円市場であると述べている。 日本のデザイン学校の中には、ゴシック・アンド・ロリータを採りあげている所もあり、バンタンデザイン研究所ではゴシック・アンド・ロリータを教えるファッション学部コスチュームデザイン学科 が開設され、その理由を社長の菊池健蔵は、 と説明した。 2009年2月、KERA、ゴシック&ロリータバイブルの読者モデル青木美沙子が外務省から「カワイイ大使」に任命され、様々なイベントに参加する予定した。なお、青木は外務省のサイトでは「ロリータファッション界のカリスマ」としてその名が挙げられている。 ポップカルチャー発信使については#JAPAN EXPO、#Japan Pop Culture Festivalでも述べる。 ゴシック・アンド・ロリータに関連するイベントとしては小規模な私的なものから、ファッションブランドが主催するもの、ファッションビルが主催するもの、行政機関が主催するものなど主催者、規模さまざまなものが日本国内外に存在する。 「お茶会」とは、昼間の時間帯にゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着用して集まり、紅茶を飲むという会である。しかしただお茶を飲むだけではなく、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着る機会、友達作りの場、顧客受注会 などの意味も持つ。また、お茶会は全国各地で行われており、その規模も服飾メーカーが主催する100人規模のものから、私的な10人前後の集まりまでさまざまである。 日本国外でもフランスや、韓国でお茶会が開催されている。 2007年12月8日、パリのムーランルージュ横のライブ会場でヨーロッパ初のゴスロリイベント・J-POP COLECTIONS in Paris 2007が開催された。開催時間は14時から20時、入場料2ユーロのイベントに500人が訪れ、ファッションショーにはmetamorphose temps de fille、EXCENTRIQUE、Emily Templecute、A+LIDEL、BLACK PEACE NOW、SEXY DYNAMITE LONDON、ALGONQUINSといったブランドが参加した。また、翌年5月24日には第二回がロンドンで開催され、マルイワンがゴシック・アンド・ロリータのファッションショーを披露した。 JAPAN EXPOは日本のポップカルチャーを集めたヨーロッパ最大のイベントである。実行委員代表のトーマス・シルデによると、2005年ごろからJAPAN EXPOにはアニメだけでなく音楽やファッションも求められてきていた。そのため、2006年の第7回JAPAN EXPOではマルキュー系のブランドを集めた「東京スタイルコレクション」が初めて開催され、翌2007年に開催された第8回JAPAN EXPOではラフォーレ原宿がファッションショーを行った。第一回のショーには13のブランドが参加し、秋冬の最新ルックが100ルック以上披露された。翌2008年に行われたラフォーレ原宿の2回目のショーにも多数ブランドが参加し、10000人以上の観客を集めた。2009年のラフォーレ原宿コレクションでは10のブランドが参加参加し、15000人を動員した。 櫻井孝昌は2009年に出版した著作『世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか』の中で、 と述べている。なおラフォーレ原宿コレクションは、パリコレクションでも不可能な動員規模で、JAPAN EXPOのメインイベントのひとつと目されている。また、JAPAN EXPOの他にもフランスではJapan Pop Culture Festivalが開催された。しかし、日本のアパレルメーカーは中小企業がほとんどであるため、企業体力の点から、日本国外人気があることが分かっていても海外進出が難しい。よってこうしたブランドがまとまって海外進出できる支援・仕組みはクールジャパンを世界に広める上で不可欠であるという指摘もある。 2009年7月2日から5日にかけて、外務省所管の国際交流基金とラフォーレ原宿 主催のJapan Pop Culture Festivalが開催された。これは外務省初の日本カルチャーのイベントであった。また、このイベントの一環として行われたラフォーレ・カワイイ・コレクションには10のブランドが参加した。 なお2009年9月26日・27日にも同名の「Japan Pop Culture Festival」というイベントが大阪の関西国際空港で開かれている。 2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポの第1回が『KERA』の発行元、インデックス・コミュニケーションズの主催で開かれた。インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは日本独自の個性派ファッション・イノベーターに向けたファッション・イベントであるが、ファッション・ショーだけでなく、ヴィジュアル系アーティストによるライブなども行われた。 2006年10月8日に新木場のスタジオコートで2回目のインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれ「インディビジュアル・マジック」をテーマとしたショーにはPEACE NOW、BLACK PEACE NOW、ALGONQUINS、SEXY DYNAMITE LONDON、Metamorphose、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、ALICE and the PIRATES、KERA SHOP ANGEL/ARENAなどゴスロリ系の10ブランド、G、相原玲、菅原麻里、青木美沙子、Uri、千景などのモデルの参加がアナウンスされた。なお来場者は1500人であった。 2008年9月23日にJCBホールで開催されたINDIVIDUAL FASHION EXPO IVのファッション・ショーには、ALGONQUINS、Angelic Pretty、Metamorphose、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、SEXY DYNAMITE LONDON、Sixh.、HANGRY & ANGRY、ALICE and the PIRATES、artherapie、Ozz croce、Emily Temple cute、BLACK PEACE NOW、PEACE NOW、KERA SHOP ARENA(Qutie Frash、HIDEROCK Design、LISTEN FLAVOR、HYPER CORE、SUPER LOVERS)、KERA SHOP ANGEL(ATELIER BOZ、Princess Doll、Victorian maiden)などが参加した。参加ブランドはゴスロリ系とロック系あわせて約20ブランドである。また、ゲストライブには分島花音、Plastic Tree、jealkbが参加した。なおインディヴィジュアル・ファッションとは、人とは違う「独自性」を強く反映させたファッション・スタイルであるが 来場者は約3000人近くおり、 東京ガールズコレクションや神戸コレクションなどの他のファッションイベントと比べ日本人以外の来場者がかなり多くいた。 なお、インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは、マルイワン新宿のプロモーションのほかに、「“ゴスロリファッションを楽しむ場”の提供」も目的としているという。 『ゴシック&ロリータバイブル』は、2000年にゴシック・アンド・ロリータに特化したムック誌として創刊された。これ以前には、『装苑』が金子系などのロマンチックなファッションの関係や日本発のモードとして、『CUTiE』がストリート・ファッションの中の小さな一派として、それぞれ取り上げたりしていたものの、ゴシック・アンド・ロリータの専門誌は存在しなかった。また、『CUTiE』でも1998年以降になるとほとんど取り上げられていない。 編集長の鈴木真理子によると2000年春、ゴスロリ服とヴィジュアル系バンドの動きを面白く思い、ヴィジュアル系バンドとそのファンのためのファッション雑誌を作ることを会社に提案したが会社は承認しなかった。しかし夏の終わり頃、提案に反対していた上司が繊研新聞の記事を読んで、今ゴシック&ロリータの服だけが売れているということを知り、鈴木に「ゴシック&ロリータのバイブル」を作るように求めてきた。そこで創刊が決まり、同時に誌名も決まった。『KERA』の別冊として創刊された『ゴシック&ロリータバイブル』は、ムック誌でありながら4度の重版を重ねた。さらに2003年に『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』、『ゴシック&ロリータバイブル VOL.20』が発行され、2007年には創刊号が『ゴシック&ロリータバイブル Premium 1st』として復刊された。 『ゴシック&ロリータバイブル』が創刊されたことから、2000年までの段階でロリータ・ファッションや、ゴシック・ファッション、ゴシック・アンド・ロリータを特集して一冊の本ができるほどブランド数が増加していたとも言われている。 2004年は、ゴスロリ系雑誌創刊ラッシュと言われたが定着と拒否が分かれた。なお2007年時点で刊行が続いていたのは『ゴシック&ロリータバイブル』と『ゴスロリ』(ブティック社)のみであった。また、メタモルフォーゼのデザイナー加藤も と指摘している。ゴシック・アンド・ロリータ愛好者には、幻想文学や現代アートなどを扱う『夜想』のコアな読者もいる。 2008年2月に発行された『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』では、過去に『KERA』、『KERA マニアックス』、『ゴシック&ロリータバイブル』に掲載されたスナップを再編集した「Gothic&Lolitaファッションの歴史がわかる!! SNAPヒストリー1998年〜2008年」という特集が組まれた。それによると各年のゴシック・アンド・ロリータの特徴は次のようにまとめられている。 1998年、マルイワンの改装に伴いKERA! SHOPがスタートすると『KERA』の出版元バウハウスの編集広告担当者を発起人とし、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTの磯部明徳が会長の「ゴシック&ロリータ協会」が発足された。ゴシック&ロリータ協会はバウハウスの編集広報担当、関西と関東のブランド数社が集まり、ゴシック・アンド・ロリータというカテゴリーと現在のムーブメントの原型を作った。 2001年8月12日に、ゴシック&ロリータ協会が主催した「GOTHIC LOLITA SECRET TOUR」の広告や、その他の『ゴシック&ロリータバイブル』の広告によると、加盟していたのは次の企業と個人である。 なお、ゴシック&ロリータ協会は『KERA』の出版元がインデックスコミュニケーションズに変わった際、解散している。 ゴシック・アンド・ロリータとオタク文化には似た部分があり、見解の一つとして樋口ヒロユキは と指摘した上で、オタクは性的妄想を隠そうとしない「エロスの文化」で、ゴシック・アンド・ロリータは性の代わりに死を用いる「タナトスの文化」であるとした。さらに、両者共にジェンダー・パニックを抱えた存在で、ゴシック・アンド・ロリータの一部にも「やおい」のようなオタク文化を愛好するものがいると指摘した。 またオタク文化で生まれたものをゴシック・アンド・ロリータ文化で消費するボークスのスーパードルフィーのような例もある。スーパードルフィーは男性向けのガレージキットを制作してきたボークスが女性向けに制作した球体関節人形で、耽美的な繊細な容姿・世界観でファンを魅了し、コレクタブル・ドールの世界を拡大させた。ゴシック・アンド・ロリータはスーパードルフィーの衣装としても人気が高く、所有者の中にはスーパードルフィーとお揃いの着こなしをする者もいる。ゴスロリブランドも人形用の服を販売しており、h.NAOTOのようにボークスと協業したブランドもある。また、スーパードルフィーの人気は1990年代のヴィジュアル系バンドの隆盛や、ゴシック・アンド・ロリータブームの影響も大きいという指摘もある。 とはいえ、やおいやスーパードルフィーを愛好する者は一部でしかなく、ゴシック・アンド・ロリータとオタク文化は相反する存在であるとの見解もある。例えば、メイドカフェに見られるようなアキバ系のコスプレファッションの本質はゴシック・アンド・ロリータとは全く違う。メイドカフェのメイドが一部の人々の享楽のためにあるのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは、それを着る少女達を精神的に癒すもの で、ただ自分のためだけに着飾るもの である。また、ゴシック・アンド・ロリータと同じ頃に発生したメイドというコンセプトが、ストリートファッションとして定着せずにオタク文化の中に留まっているのは、ロリータがどこにいても緩やかな枠で位置づけられているのに対して、メイドは限定された位置づけにあるためとも言われている。 MIHO MATSUDAのデザイナーがDevil May Cryの登場キャラクター衣装をデザインした例もあり、コラボレーショングッズの取り扱いも行われた。MIHO MATSUDAのほかにもh.NAOTOがオタク文化と関わりのある取り組みを行っている。 前述のように、h.NAOTOはボークスと協業しているが、h.NAOTOのデザイナー廣岡直人は、ゴシック・アンド・ロリータに次ぐ柱 として登場した「ヘブン」でコスプレ、アニメ、ゲームなどを題材としたラインを発表している。ヘブンは声優の高橋直純や水樹奈々が着用したことで顧客を一気に獲得し、東京原宿にオープンした路面店では開店初日に500人のファンが列をつくり、約600万円を売り上げた。また、人気声優とのタイアップも企画し、高橋直純とのコラボレーションショーも行われた。また2005年8月4日付けの繊研新聞に掲載された、あるレディスアパレルメーカーについての記事によると、東京原宿で開いた路面店に全国からアキバ系が集まり、初日だけで約800万円を売り切った。 またh.NAOTOは、東京ビッグサイトで2006年8月11日から3日間の日程で開催されたコミック・マーケットに「ハングリー&アングリー」を出展した。この出展は商標権と製造・販売ライセンスを玩具メーカーのサンリオに供与することが決まっていた「ハングリー&アングリー」の全国展開を前に、知名度を上げることが目的であった。また12日、13日には声優の酒井香奈子も来店した。酒井はマルイヤング新宿店のイベントスペースに開店した期間限定ショップにもキャラクターグッズに身を包んで登場した。2007年の段階でコミックマーケットへの出展は3回行われている。 また日本では、オタク市場が認知度、市場規模で優位に立っており、ゴシック・アンド・ロリータが吸収されかねない状態にある。樋口ヒロユキは、このようなオタク文化とゴシック・アンド・ロリータ文化の規模の差について、男性の文化と女性の文化という違いによる、ジェンダー・バイアスの影響を認めつつも、私見として、ゴシック・アンド・ロリータが社会への主張・説明の機会を逸してきた点を指摘した。その例として、オタクとの関連を指摘された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の際にはオタク文化人が積極的に寄せたが、ゴシック・アンド・ロリータとの関連を指摘された河内長野市家族殺傷事件の際にはゴシック・アンド・ロリータ文化人がコメントを拒否したことをあげている。また海外でもゴシック・カルチャーが盛んなアメリカ合衆国でゴシック・カルチャーとの関連を指摘されたコロンバイン高校銃乱射事件の際に、マリリン・マンソンが主張した。 しかし、ゴシック・アンド・ロリータのマーケットはヴィジュアル系バンドから、パンク・ロック、ロック、コスプレ、アニメ声優などの切り口を巻き込み、より大きなマーケットを形成しつつあるという指摘も見られる。 ゴシック・アンド・ロリータの流行によって、アニメや漫画にもゴシック・アンド・ロリータ的な装いのキャラクターが登場するようになると、現実離れしたゴシック・アンド・ロリータ服は、漫画の登場人物になってみたい、登場人物のような服装をしたいというコスプレイヤーにも受け入れられるようになった。さらに、コスプレが禁止されている会場においても、あくまでファッションであるという理由でゴシック、ロリータ、ゴシック・アンド・ロリータは許可されている場合もある。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ愛好者の中にはコスプレとしてゴシック・アンド・ロリータを着ることに対して嫌悪感を示すものもいる。なお、コスプレ雑誌『電撃レイヤーズ』は「コスロリ」という言葉を提唱している。コスロリとは「コスプレゴスロリ」や「コスプレロリータ」を意味する語であるが、愛好者のなかにはこれらコスロリを好まないものもいる。その一方で、それらコスロリも、ゴシック・アンド・ロリータを着用しない人々から見れば、定期的に着用するユーザーとみることもできる、という指摘もある。また、同人誌即売会に小物類や衣装を出展することもあり、前述のh.NAOTOのようにアパレルメーカーが同人誌即売会に出店するケースもある。そのため、ファン層の何割かは、漫画やアニメと密接に関係した部分の影響を受けており共存している、との指摘もある。またヨーロッパにおけるゴシック・アンド・ロリータの定着に『NANA』や『DEATH NOTE』が与えた影響は大きいとも言われており、『DEATH NOTE』の弥海砂や『NANA』のような格好がしたいという部分がきっかけになっているのは間違いないという指摘もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータ (Gothic & Lolita) は、本来異なるゴシックとロリータの要素を結びつけた日本独自のファッションスタイル。またそのようなサブカルチャーを指して言う語。ゴスロリと略して呼ぶことが多い。カルチャーとしてのゴスロリは、ヴィジュアル系バンド、嶽本野ばらの提唱する「乙女」、ドール文化などの要素を内包する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的にはロリータ・ファッションの総称ととらえられているが、本来はロリータ・ファッションというカテゴリーの中のジャンルの一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは、ロココスタイルのような ヨーロッパ文化を思わせる幻想的な装いを特徴としている。またロココのほかにもヴィクトリア朝時代との関連の指摘もあるなど、ストリートファッションでありながらも西洋の文化を継承しようとする姿勢を持つ性格が独特である。また、ゴシック・アンド・ロリータ・ブランドのデザイナーもヨーロッパの伝統的な服飾文化をよく学んでおり、そうした技術やスタイルを模倣し典型的な西洋のイメージを形にするアイディアを打ち出している。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ自体は日本独自の文化とみなされており、欧米では18世紀のドレスを着た者がストリートを歩いている国などありえず、伝統とモダンがこれほど同時に存在している国は他にないともいわれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ただし、ゴシック・アンド・ロリータファッションには、「暑い」、「動きにくい」、「収納に困る」、「高価」、「品薄」 など、着心地の悪さやスタイル維持の難しさという問題もある。さらに、ロリータをターゲットとしたブランドが大小問わず増えているのに対して、ゴシック・アンド・ロリータをメインターゲットとしたブランドはほとんどなく、ゴシックとロリータが重なり合う部分にいるゴシック・アンド・ロリータの人口も減っているとも言われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ゴスロリの女王とも表現されることがあり、元祖ゴシック&ロリータを自認する宝野アリカは、ゴシック・アンド・ロリータの外見的特徴について", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "と述べている。なおアイテムの主な色は黒、白、赤、紫、ピンク、青が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全体のコーディネートの特徴は「甘過ぎず辛過ぎず」で、甘過ぎるとただの「黒いロリータ」になってしまいがちである(#外見的特徴)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "個々の部分については、ヘア・アクセサリーはボンネットやカチューシャ、ミニハットを合わせるが、薔薇のコサージュがついたものが一番それらしく見えると言われている。また、トップスやボトムスは黒で、ロリータ感を出すためにフリルは必須であるが、ロリータになりすぎないようにするためにパニエは控えめがよく、さらに黒一色になってしまうのも好ましくないとされるため、ワンピースやジャンパースカートなどのメインの洋服は黒をメインカラーとしつつも差し色を用いるが、赤や青など抑えめの色がよいとされており、パステルカラーは用いるべきではないとされている。ソックスはひざ下丈のハイソックスで、黒地に黒レースあるいは白レースが無難である。靴はロリータ・ファッションと同じく、つま先の丸いものを用いるが、色は黒で、ヒールのあるものや光沢のあるエナメル素材がよいとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、極端に白い肌色や濃いアイシャドウの病的な雰囲気を出し、赤や黒あるいはダークな色みの強い口紅を用いるというゴシック調である。また、メイクにはヴィジュアル系バンドの影響がみられるほか、顔は白塗りのこともまれにある。ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、魔女のような死人めいたメイクと表現されることもある。こうしたメイクはゴシック・アンド・ロリータの非現実感を強調するために必須で、「メイクもファッションの一部」、「全身ゴスロリなのに靴はローファー、顔もスッピンはNG」 とブランドのデザイナーもメイクの重要性を指摘している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、髪型については縦ロールや姫カットが好まれる。縦ロールは巻くのが大変であるためウィッグを用いるものも多い。ヘアメイクや小物によってゴシック・アンド・ロリータにもロリータにもなると言われており、ヘアメイクはスタイルを左右するものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは精神性も大事にするといわれている。例えば、嶽本野ばらは、Mana、三原ミツカズとの対談の中で、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "と述べている。また、Manaも", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "と述べている。そのほかにもヴィクトリア朝期のロマン主義思想、神秘主義、怪奇猟奇趣味、フランスの世紀末思想、耽美主義などもバックボーンとして挙げられることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "またゴシック・アンド・ロリータは、少女の夢やそこに潜む心の闇を、自己表現するファッションともいわれている。その一方で、ロココ調の装いに暗い死の影が浸透しており、それゆえに可憐さが際立っているようなスタイルであるという意見もある。しかし、奥底に流れる社会に対する冷ややかな眼差しを感じ取らせてしまうため一般の人々に嫌悪されやすいという指摘もあり、ゴシック・アンド・ロリータのように感情を全身にまとい町を歩く者を受け入れることができないのだろうとも言われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1980年代、1990年代にかけて、文学、歴史学、民俗学などの各分野の研究者たちが、ほとんどの童話の主人公が少女であり、また日本においても「かぐや姫」のような神秘性を持った主人公のほとんどが少女であることに対し、研究を行った。その少女の持つ神秘性(とくに男性からの視点における)を、とくに顕著に表すようなスタイルでもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは20代、30代になると着られないと考える者が多いため、愛好者は20代までの若い層が大半を占める。また同年代の女性をターゲットとするギャルブランドやカジュアルブランドが売上げ増のために市場の変動に合わせた新しいトレンドを追い求めているのに比べ、ゴシック・アンド・ロリータ・ブランドはある程度一箇所に留まり一つのテーマを表現している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかしゴシック・アンド・ロリータは、肌の露出が少なく体型を隠せることや、大きなリボンなどが目を引くことから着る人を選ばない。そのため50代から60代の中高年のものも存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは様々な種類があり、今は廃れつつあるものや変化のあるものが多く存在する。流行によっても大きく左右されるため一概に言えないものも存在する。 ゴシック・アンド・ロリータには色々なこだわりや切り口があるため、一言ではいえないともいわれているが、アトリエサードの出版するクロスカルチャーマガジン『トーキングヘッズ叢書』No.33では「ゴシック・ロリータの種類」として分類されている。以下の類型に、当てはまる者が嗜好するものと、主に好むブランドを転記する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、これらも個人の嗜好の問題であるため、時間と共に変化・重複して複雑になっていることが多い。さらに、ヴィジュアル系バンドやアニメ主題歌の変化などによって、境界線は曖昧になってきている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータの通称はゴスロリである。由来についてゴスロリ関連雑誌の編集長を務めた鈴木真理子は、「私達編集者などの、誰かが狙って「仕掛け人」となって作った言葉ではなく、ストリートの女の子達から生まれて育っていった言葉なのです。」と述べている。鈴木によると、1998年1月から原宿でスナップ撮影を始めたところ、1998年5月ごろからボンネットを付けた人形のような服を着た少女たちに会うようになり、そのファッションが「ゴシック&ロリータ」略して「ゴスロリ」と呼ばれていることを知ったという。また、表記としては他にゴス・ロリ、ゴス&ロリ、ゴシック・ロリィタ、ゴシックロリータ なども存在する。また「ゴシック調ロリータ・ファッション」 や「ゴシック調のロリータスタイル」 という表現も存在する。", "title": "表記と経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、ゴスロリという語が一般に市民権を得たのは、2003年に起きた河内長野市家族殺傷事件の報道の影響が大きい。", "title": "表記と経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ロココやヴィクトリア朝時代 のファッション・スタイルとの関連が指摘されているゴシック・アンド・ロリータであるが、ストリート・ファッションとしてのルーツには、ナゴムギャルとトランスギャルの融合とするもの や、海外のゴシック・ファッションの要素を取り込んだ日本のロリータ・ファッションから派生した とするものなど諸説あり、主に次のようなものが挙げられる。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1980年代頃、トランスギャルとナゴムギャルという2種類のおっかけが存在した。トランスギャルは、トランスレコードのYBO2、Z.O.A、ASYLUM、SODOMなどのおっかけをし、全身を真っ黒の出で立ちに青白いメイクと髑髏のアクセサリーを身に付け、MILK、OZONE COMMUNITY、Y's、COMME des GARCONSなどのブランドを好んだ。またナゴムギャルは、ナゴムレコードの有頂天、たま、人生、筋肉少女帯、ばちかぶり、死ね死ね団などのバンドのおっかけをし、ボーダーのニーソックスにリボン、派手なTシャツにラバーソウルを着た実年齢よりも幼い印象で、Jane Maple、MILK、PINK HOUSEなどのブランドを好んだ。その後イカ天でバンドブームが到来し、歩行者天国でストリートライブが行われるようになってくると、様々なバンドを見るファンによって、ナゴム系とトランス系の双方の要素が混ざっていき生まれた。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これに関連する意見としては、トランスギャルはジャパニーズ・ゴシックの原型であるとするものや、現在のゴシック・アンド・ロリータとほとんど変わらないとするもの、ナゴムギャルとトランスギャルをロリータとゴシックのルーツであるとしつつも、ゴシック・アンド・ロリータの原型を作ったのはMALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンたちであるとするものがある。MALICE MIZERとの関連については#MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合、#ゴスとヴィジュアル系の関係とゴシック・アンド・ロリータでも述べる。なお、バンドブームの衰退とともにトランスギャルの好んだ服装もナゴムギャルの好んだ服装も主流から消えていった。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、ナゴムレコードに所属していた筋肉少女帯の大槻ケンヂは、「「ゴシック&ロリータ」という言葉は、モアティエのMana様が作ったと言われているんです。しかしその存在というか、いわゆるゴシックでロリータな格好の女の子は、僕の記憶では既に80年代にいましたね。」と述べている。また大槻は「目黒の鹿鳴館ってライブハウスでヘヴィメタがよくライブしてて、ヘヴィメタルってヨーロピアンな流れもあるから、そこで女の子たちがヨーロピアンな服装をするんだけども、まあちょっと感性が違ったりして、今にして思えばゴシック&ロリータな服に偶然なってる場合が多々ありましたかねえ。」と述べている。しかし、当時はゴシック・アンド・ロリータという言葉はなかったため、大槻らはそれらを「鹿鳴館ギャル」と呼んでいた。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年頃、関東はゴシックテイスト中心、関西はロリータテイスト中心であった。そのころ、大阪のブランドVISIBLEが東京のセレクトショップATELIER-PIERROTのオーナー、大橋敬子の「真っ黒で作って欲しい」という要望から黒のアイテムを作ったことから生まれた。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "VISIBLEは当初、デザイナーのレイチェルと大阪モード学園で同期だったMARBLEの泉さおりが家賃を折半し店舗を借り、MARBLE/VISIBLEとして開店した。このMARBLE/VISIBLEはゴシック・アンド・ロリータのさきがけであるともいわれているが、泉のMARBLEとレイチェルのVISIBLEは初めから別々のブランドで2002年には独立店舗を持つに至っている。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "MALICE MIZERはそれまでのヴィジュアル系と比べて、群を抜いて濃いメイクと衣装、過剰な演出をしていたが、MALICE MIZERの中で女性的な位置づけであったManaのスタイルをエレガント・ゴシック・ロリータと称したものがルーツ で、Manaがゴシック・アンド・ロリータを最初に定義した。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この「MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合」は有力な説の一つであるが、一般の少女たちが行っていたロリータ・ファッションのアレンジをまとめたのがManaの「Moi-même-moitié」であるとも言われている。前述の大槻 の他に『KERAマニアックス』編集長の鈴木真理子も、ゴシック・アンド・ロリータが売れるようになったのはMALICE MIZERがメジャーデビューし、ゴシック・アンド・ロリータを着るManaの姿が全国的に映し出されたためであると述べている他、「Manaがゴシック・アンド・ロリータと名づけた」という説はMana自身否定している。しかしManaが自分のファッション・スタイルについて「エレガントで、ゴシックで、ロリータな」スタイルと表現していたため、ファンの間で「ゴシック・アンド・ロリータ」という言葉が生まれたとも言われており、また、MALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンによってゴシック・アンド・ロリータの原型が誕生したという説もある。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、Manaは「ブランドの構想を考え出した97 - 98年頃、世の中にLolita系ブランドはあったのですが、ダークで可愛いものを扱っているブランドが、僕が知っている限りではありませんでした。僕は怪しくて、Gothic的なものも大好きだったので、そこにLolitaの持つ可愛らしさを組み合わせたら、と考え、Gothic&Lolitaというものを創り出したのです。」とも述べている。", "title": "ストリート・ファッションとしてのルーツ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前述のトランスギャル、ナゴムギャルのほかにも、ゴシック・アンド・ロリータには志向・外見が類似したいくつかのファッション傾向がある。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前述のようにゴシック・アンド・ロリータは、ゴシック・ファッションとロリータ・ファッションの融合である。そのためそれぞれの要素を含んでいるが、美術評論家の樋口ヒロユキは、著書『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』の中でゴスイベントに来る、ゴシック・アンド・ロリータ・ファッション、ゴシック・ファッション、ロリータ・ファッションの愛好家を比較して次のように大別している。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その上で樋口は、ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの間にあるもので、ゴシック寄りのものは死の匂いが強く、ロリータ寄りのものは少女趣味が強くなるとした。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「ゴシック」(Gothic)とは、「ゴート族風の」という意味で、「野蛮・残酷」を意味する語である。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの要素を結びつけたものである。そのうちゴシックな要素として次のようなものが挙げられている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "こうした要素のいくらかを内包していなければゴシック・アンド・ロリータとは呼ばない。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "欧米のゴスの成功の理由は、アンチ・キリストの表象を前面に出したことによって、「堕天使サタンの物語」というもっとも共感域の広い悲劇を想起させたことにあるとも言われているが、ゴシック・アンド・ロリータや、そのカリスマたちがアンチ・キリストの悲劇に宗教的共感を寄せているとは考え難いという指摘もある。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、ゴシック的な感覚を基に生まれたゴス(Goth)は、日本ではX JAPANやMALICE MIZERが伝道したスタイルである。X JAPAN、MALICE MIZER共にヴィジュアル系バンドであるが、ゴスの流れを汲むヴィジュアル系バンドのファン層を中心に広がっていったとも言われている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一方でヴィジュアル系バンドがステージ衣装を取り入れたり、雑誌でゴシック・アンド・ロリータ系ブランドのモデルにヴィジュアル系バンドのメンバーが起用されたりと相互に影響を与え合っており ヴィジュアル系バンドに憧れる層もゴシック・アンド・ロリータに関心を抱くようになったという指摘もある。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ロリータは、ロシア人作家ウラジミール・ナボコフの代表作である小説『ロリータ』に由来する。この「ロリータ」とは作中に登場するドロレス・ヘイズという少女の愛称であるが、この少女は少女期特有の妖しい魅力(ニンフェット)の持ち主で、それゆえ「少女的である」という要素が強調されやすい。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "嶽本野ばらはロリータの共通して偏愛する要素について「アリス、王冠、天使、テディベア、キティちゃん......。澁澤龍彦、森茉莉、恋月姫、楠本まき......。バッハ、パンク、アンティークオルゴール......。」を挙げている。また嶽本は、ロリータは各自が自分流のロリータの定義を持っており、自らの美意識のみを拠り所とし、自分のルールにしか従わないのがロリータとして生きていくための条件であると主張しており、その定義について、フリルが満載の洋服を着ている、ヘッドドレスをつけているなどの表層的な部分を定番どおりになぞらえても真のロリータにはなりえず、ロリータの解釈と実践は各人によって異なり、ロリータな精神さえ持っていればロリータである、と述べている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "パンク・ファッションとゴシック・アンド・ロリータは音楽ムーブメントと深く関連し、奇抜なファッション傾向があり、大人への反抗心などを持つなど、それと重なる部分がある ほか、ヴィヴィアン・ウエストウッドの行ったような伝統回帰やロマンティシズムへの憧憬も志向している。実際、ゴシック・アンド・ロリータにパンクの要素を取り入れたゴスパン(Gothic Punk)や、ロリータ・ファッションにパンクの要素を取り入れたパンクロリ(Punk Lolita)などの派生ファッションも存在する。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、ゴシック・アンド・ロリータの愛好者にもヴィヴィアン・ウエストウッドは人気で、バッグ、アクセサリー、ジャケットなどのアイテムをあわせることがあり、中でも足首に紐を巻きつけるバレリーナシューズ(ロッキンホース・バレリーナ)は最もポピュラーで ある。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2005年頃よりミラノやパリなど各地のファッションコレクションにおいてゴシックロリータの影響が見られる。CHANELやYves Saint Laurentがその例である。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ピンクハウスは1971年に金子功をデザイナーとしてニコルから誕生し、1983年のオリーブ少女ブーム で大ブレイクしたブランドであるが、そのデザインは極端にロマンチックなものであった。このロマンチックなデザインや独特の印象から、ロリータ・ファッションと同列視する者がいるが、両者には決定的な違いがある。金子のデザインした服は、肩から下までストンと落ちるような直線的なラインで足をほとんど見せないものが多いのに対し、ロリータ・ファッションは、スカートを膨らませウエストをしっかり絞って強調しており、一部にロングスカートのものもあるものの足は見えるのが一般的である。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、ピンクハウスのシルエットはヴィクトリア朝時代(1837年から1901年)の庶民的ファッションに近いのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは王族に近いという指摘もある。また、ピンクハウスなどの1980年代DCブランドとゴシック・アンド・ロリータとの違いについてデザイン・コンセプトを指摘するものもいる。その指摘は、金子功のデザインの方針が「大人の女性の為の少女趣味」であり、「ヨーロッパの田園」を補強するイメージ写真を掲載するなどしていることに手がかりがある。Pink Houseの想定する「少女」は「自然」と結びつくものであった。さらに、この「少女=自然」「ヨーロッパの田園」イメージは、日本人男性による「想像」の産物である。というものである。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1980年代には少女趣味的な服の代表であったピンクハウスであるが、現在ではロリータ・ファッションに分類されていない。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "東京のファッションカルチャーの代表として、ゴシック・アンド・ロリータとギャル系ファッションは双璧をなしているが、ギャルは「レース、フリル、リボンにあふれた『かわいいおしゃれ』が大好き」とも言われており、ギャルから派生した姫系や姫ロリと呼ばれるファッションスタイルが存在する。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一部のギャルから派生した姫ロリは、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTやJESUS DIAMANTEの洋服を着て、ブロンドの髪を高く盛り、ティアラや大きなリボンを付け、ネイルや小物にはたくさんのラインストーンを付けるものであった。姫系は、ギャルが標榜するお姫様のようなファッション傾向で、JESUS DIAMANTE、Barbie、Pinky Girls、RUBY ROSE、A mon avisなどのブランドも好まれている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ゴスロリとギャルとの間に親和性があると感じるというものもおり、ギャルとロリータを行き来するもの や、ゴスロリと姫ギャルをターゲットにしたシューズブランドも存在する。また、ロリータのカリスマ嶽本野ばらもギャルのカリスマ浜崎あゆみ好きを明言している。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、ゴシック・アンド・ロリータの着用者の中には、ギャル雑誌『小悪魔ageha』を参考にメイクをするものもいる。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2009年4月3日付けの日経トレンディネットの記事では「ちょいゴスロリ」という傾向が取り上げられている。それによると「ちょいゴスロリ」とは「カラーを黒中心に据えてシューズをベロアにしたり、レースや中世を思わせるアンティーク調アイテムを使ったりなど個々のアイテムはゴスロリを思わせるが、全体のスタイルは完全なゴスロリではない。」というように、ディテールを取り込んで雰囲気を出す、「よく見れば」、「なんとなく」ゴスロリというものである。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2003年6月6日付けの繊研新聞では、各ブランドが初めて作ったゴスロリゆかたのファッションショーが取り上げられた。記事によると新宿マルイワンで行われたショーにはMAXICIMAM、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、metamorphose temps de fille、SEXY DYNAMITE LONDON、BLACK PEACE NOW、MIHO MATSUDAなど11ブランドが参加した。また、そのデザインは「黒地にバラや血糊のプリント、そろいのヘッドドレスやスタッズを打ったレザーの帯、チュールレースとのコーディネートなど」とあり、形もベーシックなゆかたにプリントだけゴシック・パンクというものや、ドレスのようなデザインのものが見られた。また2007年にもATELIER-PIERROTやh.NAOTO、despair、Deorartなどもゆかたを制作している。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ニューヨーク州立ファッション工科大学は2009年2月に「サブカルチャー&スタイル」と題したシンポジウムを二日間にわたって開き、前述の川村由仁夜、京都造形芸術大学助教授の成美弘至、クリエーティブ・コンサルタントのティファニー・ゴドイが日本のサブカルチャーをテーマに講演を行ったが、その中でゴドイは日本人が制服や着物のように「型」の決まった服を着用してきたことを指摘し、さらにゴシック・アンド・ロリータも、それを着用する者にとっては制服のようなもの、という見方を示した。服飾コードの供給源としてはミュージシャンや漫画家、服飾デザイナー、人形作家などのカリスマが挙げられる。また、ロリータ・ファッションにも「美しさや、着こなしのルールがあり、完璧性を競う」といわれており、その点がカジュアルダウンで自身を表現するストリートカジュアルとの決定的な違いとする意見もある。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ゆるふわのスカートのボリューム感のあるシルエットは、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションに似ているが、それらがウエストを絞った半円のようなシルエットであるのに対して、ゆるふわは「Aライン気味」とも言える緩いふくらみである。また決定的な違いとしてゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションのスカートがひざ丈やひざ上であるのに対して、ゆるふわはロング丈で統一されている。さらに、「レースや装飾がなく無地でシンプルなものが多い」、「甘い雰囲気を引き締めるためにブラックを適所に置いてバランスを保つ」、「パーカーやスエットなどのカジュアルアイテムを取り入れる」などのコーディネートの特徴も指摘されている", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "宝塚歌劇に関する特集は、ゴシック&ロリータバイブルでも複数回組まれている。また2005年3月9日付の『繊研新聞』では50代から60代の中高年のゴシック・アンド・ロリータ着用者について触れ、その中で、現代社会研究所所長で青森大学社会学部教授の古田隆彦は、50代から60代の女性の多くは少女時代に宝塚歌劇や、中原淳一、内藤ルネらの少女画に熱中した世代であることを指摘し、少女時代からの宝塚や少女画のファッションへの憧れが、若者たちやモードに後押しされたのではないかと推測している。なお、内藤ルネとロリータブランドHeart Eのコラボレーション商品も存在する。また宝塚は「夢の世界」と言われるが、コスプレとゴシック・アンド・ロリータも同じく「夢の世界」の実現にコミットする文化である。これらは「夢の世界」を形成するにあたって「西洋」のファンタジーを用いている点でも似ているが、水野麗はこの場合の「西洋」を「単に異国情緒・異国趣味といったものではなく、また単純に「先進国」として見習うべき手本といったものでもない。それぞれの文化の根幹にかかわる重要な要素であり、複雑なダイナミズムをもって実現されている、情熱の矛先とでも言うべきものである。」と論じている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また水野は宝塚、コスプレ、ゴスロリそれぞれの「西洋」について次の点を指摘している。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "さらに水野は、東洋人的な身体が「夢の世界」としての「西洋」を宝塚やコスプレ、ゴスロリで演じているところに、現実の西洋が混ざるとファンタジーと現実の水準の混乱を招くために目立つ、としている。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかし同じ西洋のファンタジーを源泉とする宝塚とゴスロリには、コスプレで決定的に違う点がある。それは宝塚が「西洋物」を確立したのに対して、ゴスロリやコスプレが1980年代以降の欧米風の生活スタイルが違和感なく存在する時代から楽しまれている点である(コスプレとゴシック・アンド・ロリータの関係については#コスチュームとしてのゴシック・アンド・ロリータでも述べる)。なお宝塚歌劇団で上演している『ベルサイユのばら』(1974年初演)は、フランス革命期をマリー・アントワネットの生涯を中心に描いた作品である。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、宝塚にはファンクラブが役者を招いて行う「お茶会」というイベントがあり、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションにおいてもやはり「お茶会」というイベントがある。ブランド主催のお茶会の中には読者モデル やデザイナー などが参加して行われることもある。ゴシック・アンド・ロリータにおけるお茶会については#お茶会でも述べる。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "なお、ヴィジュアル系のルーツが宝塚にあるという意見も存在する。", "title": "類似するファッション傾向との比較・関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これまで、ファッションではアンダーカバーやユニクロ、音楽ではピチカート・ファイヴやPUFFYが日本から海外進出を果たし支持を得ていたが、それらがあくまでもブランドやアーティスト単体が支持されるにとどまっていた それに対し、ゴスロリは日本生まれのジャンルそのものが受け入れられているとも言われている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータは欧米でもgosulori(またはgoth-loli) として知られている。ゴスの本場欧米では、本来なら崇高美学とホラーに結びつくゴシック愛好者がミニスカートを履くことを奇妙に感じるなどの批判があるもののゴシック・アンド・ロリータを好むものもいる。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国ではゴシック・アンド・ロリータは既に研究対象としても扱われている。実際ニューヨーク州立ファッション工科大学の付属美術館ディレクター、ヴァレリー・スティールは来日した際、h.NAOTOの廣岡直人へインタビューを行っている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、アメリカにゴシック・アンド・ロリータを広めたことで知られるエヴァネッセンスのボーカル、エイミー・リーは、ゴシック・アンド・ロリータ愛好家である。このほかにも、マリリン・マンソンやシンディ・ローパー、レディー・ガガはゴスロリ関係の服を来日した際に購入しており、アメリカでの人気の高さが窺える。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "フランスでも、2006年12月1日にパリ初のゴスロリ専門洋服店「ハラジュク」がオープンし、翌2007年6月にはフランス初のゴスロリブランドKAWAIKOがパリ市内に店舗をオープンしている。ほかにも、Japan Expoでラフォーレ原宿がファッションショーを行ったり、ヨーロッパ初のゴスロリイベントJ-POP COLLECTIONS in Paris 2007が開かれるなど、ゴシック・アンド・ロリータが輸入されている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、ロリータ・ファッションを愛好するものの中には、ビジュアル系への興味からゴシック・アンド・ロリータを愛好した時期を持つものが多い。例えばBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのパリ店では開店当初は黒一色の客が多かったが一年もたたないうちにカラフルなファッションへとかわっていったという。ちなみにこの変化は、コーディネートしやすい初心者向きの「黒」から、ファッションに目覚めた結果であるともいわれている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ドイツはヨーロッパで最も多くのゴスロリファンがいるともいわれており、500人規模のファングループが4・5グループある。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "そのほか日本のツアー企画旅行会社による、ゴスロリ店をめぐるツアーを企画が人気を博しており、原宿のゴスロリショップでは買い物客の4割が日本人以外(特に欧米系)であるという指摘もある。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "このように、欧米人がゴシック・アンド・ロリータに注目するのは、欧米人が行えば単なる懐古趣味の域に留まってしまうものを、東洋人による別のスタイルにしてしまったからだという指摘もある。その一方で、18世紀、19世紀の西洋服飾史をベースにしたロリータと、ヨーロッパ発祥の様式であるゴシックという文化的背景を考えると、ヨーロッパに流入しカルチャーとしてとらえられ広まったことも自然なことかもしれないという指摘もある。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本では百貨店との同質化を避けたファッションビルがゴシック・アンド・ロリータの希少性の高さ、客単価の高さ、固定ファンの存在、ファッション傾向の追い風を受けて導入し始めた。ゴスロリ系ブランドを集積した主な商業施設としてラフォーレ原宿 やマルイワン新宿が挙げられる。その後、新宿地区再編に取り組んだマルイは、マルイシティー1やマルイシティー2など改装を進め、新宿マルイワンをオープンさせ、旧マルイヤング新宿にあったゴスロリ系ブランドを集めた。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "さらに2002年、京都四条河原町の阪急百貨店がゴスロリ系のブランドを導入し、百貨店からもゴスロリがファッションとして認知されるようになった。また北海道でも2002年、三越が札幌店で取り込みきれない18歳から22歳の客層を狙って札幌アルタを開店し、ゴスロリ系をテーマとしたフロアを設けた。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれた。インディビジュアル・ファッション・エキスポについては#インディビジュアル・ファッション・エキスポでも述べる。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "前述のようにファッションビルはゴシック・アンド・ロリータの客単価の高さに注目している。しかしその一方で松浦桃は、ゴシック・アンド・ロリータの市場規模が拡大しないのは「着られる時間」、「その分購入されるアイテム=実際に動く購買力、それによって増減する販売数」、「ゴシック・アンド・ロリータというジャンルに所属する人口」の三点で不安定とみられているからだと指摘した。これはゴシック・アンド・ロリータが職場や学校へ着て行くことができないため実際に着用する回数が少なく、購入するアイテム数が限定されるという問題と、20代、30代になると着られないと考える者が多いため、購買層が20代までの若い層に集まり、客単価が上がらないという問題を示している。またゴシック・アンド・ロリータ市場の特徴として、店頭に出ることなく予約のみで商品が完売してしまうことが多いという点も指摘されており、品薄なためスタイル維持が難しいという問題もある。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "『オタク市場の研究』では、ファッションオタクを人口4万人、市場規模130億円 としているが、2004年1月30日付の読売新聞東京版夕刊には、ゴシック・アンド・ロリータ人口は推定4、5万人との記載もある。また丸井の平岩国泰は、人口100万人、200億円市場であると述べている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "日本のデザイン学校の中には、ゴシック・アンド・ロリータを採りあげている所もあり、バンタンデザイン研究所ではゴシック・アンド・ロリータを教えるファッション学部コスチュームデザイン学科 が開設され、その理由を社長の菊池健蔵は、", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "と説明した。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2009年2月、KERA、ゴシック&ロリータバイブルの読者モデル青木美沙子が外務省から「カワイイ大使」に任命され、様々なイベントに参加する予定した。なお、青木は外務省のサイトでは「ロリータファッション界のカリスマ」としてその名が挙げられている。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ポップカルチャー発信使については#JAPAN EXPO、#Japan Pop Culture Festivalでも述べる。", "title": "各国での展開" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータに関連するイベントとしては小規模な私的なものから、ファッションブランドが主催するもの、ファッションビルが主催するもの、行政機関が主催するものなど主催者、規模さまざまなものが日本国内外に存在する。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "「お茶会」とは、昼間の時間帯にゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着用して集まり、紅茶を飲むという会である。しかしただお茶を飲むだけではなく、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着る機会、友達作りの場、顧客受注会 などの意味も持つ。また、お茶会は全国各地で行われており、その規模も服飾メーカーが主催する100人規模のものから、私的な10人前後の集まりまでさまざまである。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日本国外でもフランスや、韓国でお茶会が開催されている。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2007年12月8日、パリのムーランルージュ横のライブ会場でヨーロッパ初のゴスロリイベント・J-POP COLECTIONS in Paris 2007が開催された。開催時間は14時から20時、入場料2ユーロのイベントに500人が訪れ、ファッションショーにはmetamorphose temps de fille、EXCENTRIQUE、Emily Templecute、A+LIDEL、BLACK PEACE NOW、SEXY DYNAMITE LONDON、ALGONQUINSといったブランドが参加した。また、翌年5月24日には第二回がロンドンで開催され、マルイワンがゴシック・アンド・ロリータのファッションショーを披露した。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "JAPAN EXPOは日本のポップカルチャーを集めたヨーロッパ最大のイベントである。実行委員代表のトーマス・シルデによると、2005年ごろからJAPAN EXPOにはアニメだけでなく音楽やファッションも求められてきていた。そのため、2006年の第7回JAPAN EXPOではマルキュー系のブランドを集めた「東京スタイルコレクション」が初めて開催され、翌2007年に開催された第8回JAPAN EXPOではラフォーレ原宿がファッションショーを行った。第一回のショーには13のブランドが参加し、秋冬の最新ルックが100ルック以上披露された。翌2008年に行われたラフォーレ原宿の2回目のショーにも多数ブランドが参加し、10000人以上の観客を集めた。2009年のラフォーレ原宿コレクションでは10のブランドが参加参加し、15000人を動員した。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "櫻井孝昌は2009年に出版した著作『世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか』の中で、", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "と述べている。なおラフォーレ原宿コレクションは、パリコレクションでも不可能な動員規模で、JAPAN EXPOのメインイベントのひとつと目されている。また、JAPAN EXPOの他にもフランスではJapan Pop Culture Festivalが開催された。しかし、日本のアパレルメーカーは中小企業がほとんどであるため、企業体力の点から、日本国外人気があることが分かっていても海外進出が難しい。よってこうしたブランドがまとまって海外進出できる支援・仕組みはクールジャパンを世界に広める上で不可欠であるという指摘もある。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2009年7月2日から5日にかけて、外務省所管の国際交流基金とラフォーレ原宿 主催のJapan Pop Culture Festivalが開催された。これは外務省初の日本カルチャーのイベントであった。また、このイベントの一環として行われたラフォーレ・カワイイ・コレクションには10のブランドが参加した。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお2009年9月26日・27日にも同名の「Japan Pop Culture Festival」というイベントが大阪の関西国際空港で開かれている。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポの第1回が『KERA』の発行元、インデックス・コミュニケーションズの主催で開かれた。インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは日本独自の個性派ファッション・イノベーターに向けたファッション・イベントであるが、ファッション・ショーだけでなく、ヴィジュアル系アーティストによるライブなども行われた。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2006年10月8日に新木場のスタジオコートで2回目のインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれ「インディビジュアル・マジック」をテーマとしたショーにはPEACE NOW、BLACK PEACE NOW、ALGONQUINS、SEXY DYNAMITE LONDON、Metamorphose、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、ALICE and the PIRATES、KERA SHOP ANGEL/ARENAなどゴスロリ系の10ブランド、G、相原玲、菅原麻里、青木美沙子、Uri、千景などのモデルの参加がアナウンスされた。なお来場者は1500人であった。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2008年9月23日にJCBホールで開催されたINDIVIDUAL FASHION EXPO IVのファッション・ショーには、ALGONQUINS、Angelic Pretty、Metamorphose、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT、SEXY DYNAMITE LONDON、Sixh.、HANGRY & ANGRY、ALICE and the PIRATES、artherapie、Ozz croce、Emily Temple cute、BLACK PEACE NOW、PEACE NOW、KERA SHOP ARENA(Qutie Frash、HIDEROCK Design、LISTEN FLAVOR、HYPER CORE、SUPER LOVERS)、KERA SHOP ANGEL(ATELIER BOZ、Princess Doll、Victorian maiden)などが参加した。参加ブランドはゴスロリ系とロック系あわせて約20ブランドである。また、ゲストライブには分島花音、Plastic Tree、jealkbが参加した。なおインディヴィジュアル・ファッションとは、人とは違う「独自性」を強く反映させたファッション・スタイルであるが 来場者は約3000人近くおり、 東京ガールズコレクションや神戸コレクションなどの他のファッションイベントと比べ日本人以外の来場者がかなり多くいた。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "なお、インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは、マルイワン新宿のプロモーションのほかに、「“ゴスロリファッションを楽しむ場”の提供」も目的としているという。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "『ゴシック&ロリータバイブル』は、2000年にゴシック・アンド・ロリータに特化したムック誌として創刊された。これ以前には、『装苑』が金子系などのロマンチックなファッションの関係や日本発のモードとして、『CUTiE』がストリート・ファッションの中の小さな一派として、それぞれ取り上げたりしていたものの、ゴシック・アンド・ロリータの専門誌は存在しなかった。また、『CUTiE』でも1998年以降になるとほとんど取り上げられていない。", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "編集長の鈴木真理子によると2000年春、ゴスロリ服とヴィジュアル系バンドの動きを面白く思い、ヴィジュアル系バンドとそのファンのためのファッション雑誌を作ることを会社に提案したが会社は承認しなかった。しかし夏の終わり頃、提案に反対していた上司が繊研新聞の記事を読んで、今ゴシック&ロリータの服だけが売れているということを知り、鈴木に「ゴシック&ロリータのバイブル」を作るように求めてきた。そこで創刊が決まり、同時に誌名も決まった。『KERA』の別冊として創刊された『ゴシック&ロリータバイブル』は、ムック誌でありながら4度の重版を重ねた。さらに2003年に『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』、『ゴシック&ロリータバイブル VOL.20』が発行され、2007年には創刊号が『ゴシック&ロリータバイブル Premium 1st』として復刊された。", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "『ゴシック&ロリータバイブル』が創刊されたことから、2000年までの段階でロリータ・ファッションや、ゴシック・ファッション、ゴシック・アンド・ロリータを特集して一冊の本ができるほどブランド数が増加していたとも言われている。", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2004年は、ゴスロリ系雑誌創刊ラッシュと言われたが定着と拒否が分かれた。なお2007年時点で刊行が続いていたのは『ゴシック&ロリータバイブル』と『ゴスロリ』(ブティック社)のみであった。また、メタモルフォーゼのデザイナー加藤も", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "と指摘している。ゴシック・アンド・ロリータ愛好者には、幻想文学や現代アートなどを扱う『夜想』のコアな読者もいる。", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2008年2月に発行された『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』では、過去に『KERA』、『KERA マニアックス』、『ゴシック&ロリータバイブル』に掲載されたスナップを再編集した「Gothic&Lolitaファッションの歴史がわかる!! SNAPヒストリー1998年〜2008年」という特集が組まれた。それによると各年のゴシック・アンド・ロリータの特徴は次のようにまとめられている。", "title": "『ゴシック&ロリータバイブル』" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1998年、マルイワンの改装に伴いKERA! SHOPがスタートすると『KERA』の出版元バウハウスの編集広告担当者を発起人とし、BABY, THE STARS SHINE BRIGHTの磯部明徳が会長の「ゴシック&ロリータ協会」が発足された。ゴシック&ロリータ協会はバウハウスの編集広報担当、関西と関東のブランド数社が集まり、ゴシック・アンド・ロリータというカテゴリーと現在のムーブメントの原型を作った。", "title": "ゴシック&ロリータ協会" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2001年8月12日に、ゴシック&ロリータ協会が主催した「GOTHIC LOLITA SECRET TOUR」の広告や、その他の『ゴシック&ロリータバイブル』の広告によると、加盟していたのは次の企業と個人である。", "title": "ゴシック&ロリータ協会" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "なお、ゴシック&ロリータ協会は『KERA』の出版元がインデックスコミュニケーションズに変わった際、解散している。", "title": "ゴシック&ロリータ協会" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータとオタク文化には似た部分があり、見解の一つとして樋口ヒロユキは", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "と指摘した上で、オタクは性的妄想を隠そうとしない「エロスの文化」で、ゴシック・アンド・ロリータは性の代わりに死を用いる「タナトスの文化」であるとした。さらに、両者共にジェンダー・パニックを抱えた存在で、ゴシック・アンド・ロリータの一部にも「やおい」のようなオタク文化を愛好するものがいると指摘した。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "またオタク文化で生まれたものをゴシック・アンド・ロリータ文化で消費するボークスのスーパードルフィーのような例もある。スーパードルフィーは男性向けのガレージキットを制作してきたボークスが女性向けに制作した球体関節人形で、耽美的な繊細な容姿・世界観でファンを魅了し、コレクタブル・ドールの世界を拡大させた。ゴシック・アンド・ロリータはスーパードルフィーの衣装としても人気が高く、所有者の中にはスーパードルフィーとお揃いの着こなしをする者もいる。ゴスロリブランドも人形用の服を販売しており、h.NAOTOのようにボークスと協業したブランドもある。また、スーパードルフィーの人気は1990年代のヴィジュアル系バンドの隆盛や、ゴシック・アンド・ロリータブームの影響も大きいという指摘もある。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "とはいえ、やおいやスーパードルフィーを愛好する者は一部でしかなく、ゴシック・アンド・ロリータとオタク文化は相反する存在であるとの見解もある。例えば、メイドカフェに見られるようなアキバ系のコスプレファッションの本質はゴシック・アンド・ロリータとは全く違う。メイドカフェのメイドが一部の人々の享楽のためにあるのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは、それを着る少女達を精神的に癒すもの で、ただ自分のためだけに着飾るもの である。また、ゴシック・アンド・ロリータと同じ頃に発生したメイドというコンセプトが、ストリートファッションとして定着せずにオタク文化の中に留まっているのは、ロリータがどこにいても緩やかな枠で位置づけられているのに対して、メイドは限定された位置づけにあるためとも言われている。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "MIHO MATSUDAのデザイナーがDevil May Cryの登場キャラクター衣装をデザインした例もあり、コラボレーショングッズの取り扱いも行われた。MIHO MATSUDAのほかにもh.NAOTOがオタク文化と関わりのある取り組みを行っている。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "前述のように、h.NAOTOはボークスと協業しているが、h.NAOTOのデザイナー廣岡直人は、ゴシック・アンド・ロリータに次ぐ柱 として登場した「ヘブン」でコスプレ、アニメ、ゲームなどを題材としたラインを発表している。ヘブンは声優の高橋直純や水樹奈々が着用したことで顧客を一気に獲得し、東京原宿にオープンした路面店では開店初日に500人のファンが列をつくり、約600万円を売り上げた。また、人気声優とのタイアップも企画し、高橋直純とのコラボレーションショーも行われた。また2005年8月4日付けの繊研新聞に掲載された、あるレディスアパレルメーカーについての記事によると、東京原宿で開いた路面店に全国からアキバ系が集まり、初日だけで約800万円を売り切った。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "またh.NAOTOは、東京ビッグサイトで2006年8月11日から3日間の日程で開催されたコミック・マーケットに「ハングリー&アングリー」を出展した。この出展は商標権と製造・販売ライセンスを玩具メーカーのサンリオに供与することが決まっていた「ハングリー&アングリー」の全国展開を前に、知名度を上げることが目的であった。また12日、13日には声優の酒井香奈子も来店した。酒井はマルイヤング新宿店のイベントスペースに開店した期間限定ショップにもキャラクターグッズに身を包んで登場した。2007年の段階でコミックマーケットへの出展は3回行われている。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "また日本では、オタク市場が認知度、市場規模で優位に立っており、ゴシック・アンド・ロリータが吸収されかねない状態にある。樋口ヒロユキは、このようなオタク文化とゴシック・アンド・ロリータ文化の規模の差について、男性の文化と女性の文化という違いによる、ジェンダー・バイアスの影響を認めつつも、私見として、ゴシック・アンド・ロリータが社会への主張・説明の機会を逸してきた点を指摘した。その例として、オタクとの関連を指摘された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の際にはオタク文化人が積極的に寄せたが、ゴシック・アンド・ロリータとの関連を指摘された河内長野市家族殺傷事件の際にはゴシック・アンド・ロリータ文化人がコメントを拒否したことをあげている。また海外でもゴシック・カルチャーが盛んなアメリカ合衆国でゴシック・カルチャーとの関連を指摘されたコロンバイン高校銃乱射事件の際に、マリリン・マンソンが主張した。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "しかし、ゴシック・アンド・ロリータのマーケットはヴィジュアル系バンドから、パンク・ロック、ロック、コスプレ、アニメ声優などの切り口を巻き込み、より大きなマーケットを形成しつつあるという指摘も見られる。", "title": "オタク文化との関係" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "ゴシック・アンド・ロリータの流行によって、アニメや漫画にもゴシック・アンド・ロリータ的な装いのキャラクターが登場するようになると、現実離れしたゴシック・アンド・ロリータ服は、漫画の登場人物になってみたい、登場人物のような服装をしたいというコスプレイヤーにも受け入れられるようになった。さらに、コスプレが禁止されている会場においても、あくまでファッションであるという理由でゴシック、ロリータ、ゴシック・アンド・ロリータは許可されている場合もある。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ愛好者の中にはコスプレとしてゴシック・アンド・ロリータを着ることに対して嫌悪感を示すものもいる。なお、コスプレ雑誌『電撃レイヤーズ』は「コスロリ」という言葉を提唱している。コスロリとは「コスプレゴスロリ」や「コスプレロリータ」を意味する語であるが、愛好者のなかにはこれらコスロリを好まないものもいる。その一方で、それらコスロリも、ゴシック・アンド・ロリータを着用しない人々から見れば、定期的に着用するユーザーとみることもできる、という指摘もある。また、同人誌即売会に小物類や衣装を出展することもあり、前述のh.NAOTOのようにアパレルメーカーが同人誌即売会に出店するケースもある。そのため、ファン層の何割かは、漫画やアニメと密接に関係した部分の影響を受けており共存している、との指摘もある。またヨーロッパにおけるゴシック・アンド・ロリータの定着に『NANA』や『DEATH NOTE』が与えた影響は大きいとも言われており、『DEATH NOTE』の弥海砂や『NANA』のような格好がしたいという部分がきっかけになっているのは間違いないという指摘もある。", "title": "オタク文化との関係" } ]
ゴシック・アンド・ロリータ は、本来異なるゴシックとロリータの要素を結びつけた日本独自のファッションスタイル。またそのようなサブカルチャーを指して言う語。ゴスロリと略して呼ぶことが多い。カルチャーとしてのゴスロリは、ヴィジュアル系バンド、嶽本野ばらの提唱する「乙女」、ドール文化などの要素を内包する。 一般的にはロリータ・ファッションの総称ととらえられているが、本来はロリータ・ファッションというカテゴリーの中のジャンルの一つである。
[[File:Two gothic lolitas in Harajuku 20050427.jpg|thumb|right|300px|ゴシック・アンド・ロリータの例(2007年、[[東京都]][[渋谷区]][[原宿]][[神宮橋]])]] '''ゴシック・アンド・ロリータ''' ('''Gothic & Lolita''') は、本来異なる[[ゴス (サブカルチャー)|ゴシック]]と[[ロリータ・ファッション|ロリータ]]の要素を結びつけた日本独自の[[ファッション]]スタイル{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}<ref name="fashion-shingo238">{{Harvnb|吉村誠一|2007|p=238}}</ref>。またそのような[[サブカルチャー]]を指して言う語<ref name="hanbai200604p94-96">『ファッション販売 2006年4月号』商業界、2006年(94-96頁)</ref><ref name="inter153-154">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=153-154}}</ref><ref name="joseigaku107">{{Harvnb|水野麗|2004|p=107}}</ref>。'''ゴスロリ'''と略して呼ぶことが多い。カルチャーとしてのゴスロリは、[[ヴィジュアル系]]バンド、[[嶽本野ばら]]の提唱する「乙女」、ドール文化などの要素を内包する<ref name="street39">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|p=39}}</ref>。 一般的には[[ロリータ・ファッション]]の総称ととらえられているが<ref name="yogo500" /><ref name="kenkai3-2">[http://www.h2.dion.ne.jp/~dokuzetu/dokuzetsudiary/aboutlolita/about-lolita3-2.htm 『ロリータについての見解3-2』metamorphose temps de filleデザイナー加藤訓仁子のブログ]{{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref><ref name="sekai29-39">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=29-39}}</ref>、本来はロリータ・ファッションというカテゴリーの中のジャンルの一つである<ref name="kenkai3-2" /><ref name="sekai29-39" />。 == 概要 == [[File:François Boucher 018.jpg|thumb|right|200px|ヨーロッパ近世の貴婦人([[ロココ]]文化とモードのリーダー[[ポンパドゥール夫人]] {{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}})]] ゴシック・アンド・ロリータは、[[ロココ]]スタイルのような<ref name="yogo500">『ファッション販売必須用語500』商業界、2008年8月5日発行(70頁)</ref> {{Sfn|氏原寛|西川隆蔵|康智善|2006}}ヨーロッパ文化を思わせる[[幻想]]的な装いを特徴としている<ref name="fashion-shingo238" />。またロココのほかにも[[ヴィクトリア朝]]時代との関連の指摘もあるなど<ref name="TH No.33 p80">{{Harvnb|アトリエサード|2008|p=80}}</ref><ref name="escargot48-49">『エスカルゴスキン VOL.1』飛鳥新社、2005年2月1日発行(48-49頁)</ref>、[[ストリートファッション]]でありながらも[[西洋文化|西洋の文化]]を継承しようとする姿勢を持つ性格が独特である<ref name="fashion-ron42">[http://www.fashion-j.com/fashion_essay/vol_42.html 『ファッション論 VOL.42』兵庫県立大学経営学部准教授小野原教子のエッセイ] 2009年4月11日閲覧</ref>。また、ゴシック・アンド・ロリータ・ブランドのデザイナーもヨーロッパの伝統的な服飾文化をよく学んでおり、そうした技術やスタイルを模倣し典型的な西洋のイメージを形にするアイディアを打ち出している<ref name="takaraduka291-297" />。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ自体は日本独自の文化とみなされており<ref name="takaraduka291-297" />、欧米では18世紀のドレスを着た者がストリートを歩いている国などありえず、伝統とモダンがこれほど同時に存在している国は他にないともいわれている<ref name="senken050521">『繊研新聞』2005年5月21日付</ref>。 ただし、ゴシック・アンド・ロリータファッションには、「暑い」、「動きにくい」、「収納に困る」、「高価」、「品薄」<ref name="siebold" /> など、着心地の悪さやスタイル維持の難しさという問題もある<ref name="siebold">{{Harvnb|吉光正絵|2002|pp=219-226}}</ref>。さらに、ロリータをターゲットとしたブランドが大小問わず増えているのに対して、ゴシック・アンド・ロリータをメインターゲットとしたブランドはほとんどなく<ref name="hanbai200211p75">『ファッション販売2002年11月号』商業界、2002年11月1日発行(75頁)</ref>、ゴシックとロリータが重なり合う部分にいるゴシック・アンド・ロリータの人口も減っているとも言われている<ref name="TH No.33 85-89">{{Harvnb|アトリエサード|2008|pp=85-89}}</ref>。 === 外見的特徴 === ゴスロリの女王とも表現されることがあり<ref name="jinzo142-153">{{Harvnb|巽孝之|2006|pp=142-153}}</ref>、元祖ゴシック&ロリータを自認する<ref name="jinzo88-98">{{Harvnb|巽孝之|2006|pp=88-98}}</ref>[[宝野アリカ]]は、ゴシック・アンド・ロリータの外見的特徴について {{cquote|黒を基調とした、[[レース (手芸)|レース]]、[[フリル]]、[[リボン]]、に飾られた華美な洋服、[[スカート]]は[[パニエ]]で脹らませ、靴は編み上げのブーツや厚底のワンストラップシューズ。髪は長く、ヘアスタイルの理想は[[縦ロール]]で、[[リボン]]や[[ヘッドドレス]]で飾る。装いは黒だけでなく真っ白でも[[タペストリー|ゴブラン織り]]風の花模様でもよい。少年の場合は、主に黒で、[[小公子]]風のスーツやパンキッシュな革素材など。[[東京コレクション]]にも参加するようなデザイナーの作るものならなおよし、[[ヴィヴィアン・ウエストウッド]]は高価だが憧れのブランド、云々。}} と述べている<ref name="jinzo88-98" />。なおアイテムの主な色は黒、白、赤、紫、ピンク、青が挙げられる<ref name="style">[http://www.style-arena.jp/tribe/0017.html 『style-arena.jp』「ゴシック&ロリータ」財団法人日本ファッション協会の運営するサイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 2009年4月11日閲覧</ref>。 ==== コーディネート ==== 全体のコーディネートの特徴は「甘過ぎず辛過ぎず」で、甘過ぎるとただの「黒いロリータ」になってしまいがちである<ref name="ensemble1p50-55">『ゴシック&ロリータアンサンブル Vol.1』インフォレスト、2010年4月5日発行(50-55頁)</ref>([[#外見的特徴]])。 個々の部分については、ヘア・アクセサリーはボンネットやカチューシャ、ミニハットを合わせるが、薔薇の[[コサージュ]]がついたものが一番それらしく見えると言われている<ref name="ensemble1p50-55" />。また、トップスやボトムスは黒で、ロリータ感を出すためにフリルは必須であるが、ロリータになりすぎないようにするためにパニエは控えめがよく<ref name="ensemble1p50-55" />、さらに黒一色になってしまうのも好ましくないとされるため、[[ワンピース]]や[[ジャンパースカート]]などのメインの洋服は黒をメインカラーとしつつも[[差し色]]を用いるが、赤や青など抑えめの色がよいとされており、パステルカラーは用いるべきではないとされている<ref name="ensemble1p50-55" />。ソックスはひざ下丈のハイソックスで、黒地に黒レースあるいは白レースが無難である<ref name="ensemble1p50-55" />。靴はロリータ・ファッションと同じく、つま先の丸いものを用いるが、色は黒で、ヒールのあるものや光沢のあるエナメル素材がよいとされる<ref name="ensemble1p50-55" />。 ====ヘアメイク==== [[File:Maryan MG.jpg|thumb|right|200px|ゴシック・アンド・ロリータのヘアメイクの例]] ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、極端に白い肌色や濃いアイシャドウの病的な雰囲気を出し、赤や黒あるいはダークな色みの強い口紅を用いるというゴシック調である{{Sfn|古賀令子|2009|pp=106-111}}。また、メイクにはヴィジュアル系バンドの影響がみられる{{Sfn|古賀令子|2009|pp=106-111}}ほか、顔は白塗りのこともまれにある<ref name="shiso14-26" />。ゴシック・アンド・ロリータのメイクは、魔女のような死人めいたメイクと表現されることもある<ref name="jinnai23">{{Harvnb|西村則昭|2005|p=23}}</ref>。こうしたメイクはゴシック・アンド・ロリータの非現実感を強調するために必須で{{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}}、「メイクもファッションの一部」<ref name="GLBex2p85-94">『ゴシック&ロリータバイブル エクストラ2』インデックス・コミュニケーションズ、2006年7月22日(85-94頁)</ref>、「全身ゴスロリなのに靴はローファー、顔もスッピンはNG」<ref name="GLBex2p85-94"/> とブランドのデザイナーもメイクの重要性を指摘している。 また、髪型については[[縦ロール]]や[[姫カット]]が好まれる{{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}}。縦ロールは巻くのが大変であるためウィッグを用いるものも多い<ref name="street40">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|p=40}}</ref>。ヘアメイクや小物によってゴシック・アンド・ロリータにもロリータにもなると言われており<ref name="GLBex2p85-94" />、ヘアメイクはスタイルを左右するものである。 === 精神性 === ゴシック・アンド・ロリータは精神性も大事にするといわれている<ref name="street113-117">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|pp=113-117}}</ref>{{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}}。例えば、[[嶽本野ばら]]は、[[Mana (ミュージシャン)|Mana]]、[[三原ミツカズ]]との対談の中で、 {{cquote|そのお洋服を着たら、そのお洋服に似合う女の子になってほしい。言葉使い、立ち振る舞いとか。服だけゴス・ロリしていても、何か違う。}} と述べている<ref name="GLB VOL.2p92-93">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.2』ヌーベルグー、2001年8月25日発行(92-93頁)</ref>。また、Manaも {{cquote|ゴシックロリータとは、流行に左右されず、神秘的な世界観が永遠に好きでいられる人達、そんな人達のための空間・シーンだと思っています。}} と述べている<ref name="GLB VOL.12p50-51">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.2』インデックス・マガジンズ、2004年4月9日発行(50-51頁)</ref>。そのほかにもヴィクトリア朝期の[[ロマン主義]]思想、[[神秘主義]]、[[グロテスク|怪奇猟奇趣味]]、フランスの[[世紀末|世紀末思想]]、[[耽美主義]]などもバックボーンとして挙げられることがある{{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}}。 またゴシック・アンド・ロリータは、少女の夢やそこに潜む心の闇を、自己表現するファッションともいわれている<ref name="hanbai200604p94-96" />。その一方で、ロココ調の装いに暗い死の影が浸透しており、それゆえに可憐さが際立っているようなスタイルであるという意見もある{{Sfn|氏原寛|西川隆蔵|康智善|2006}}。しかし、奥底に流れる社会に対する冷ややかな眼差しを感じ取らせてしまうため一般の人々に嫌悪されやすいという指摘もあり、ゴシック・アンド・ロリータのように感情を全身にまとい町を歩く者を受け入れることができないのだろうとも言われている<ref name="TH No.33 65-68" />。 1980年代、1990年代にかけて、文学、歴史学、民俗学などの各分野の研究者たちが、ほとんどの童話の主人公が少女であり、また日本においても「かぐや姫」のような神秘性を持った主人公のほとんどが少女であることに対し、研究を行った。その少女の持つ神秘性(とくに男性からの視点における)を、とくに顕著に表すようなスタイルでもある。 === 年齢層 === ゴシック・アンド・ロリータは20代、30代になると着られないと考える者が多いため、愛好者は20代までの若い層が大半を占める<ref name="sekai79-81">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=79-81}}</ref><ref name="sekai125-126">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=125-126}}</ref>。また同年代の女性をターゲットとする[[ギャル]]ブランドや[[カジュアル]]ブランドが売上げ増のために市場の変動に合わせた新しい[[トレンド]]を追い求めているのに比べ、[[ゴスロリブランド一覧|ゴシック・アンド・ロリータ・ブランド]]はある程度一箇所に留まり一つのテーマを表現している<ref name="hanbai200604p94-96" />。 しかしゴシック・アンド・ロリータは、肌の露出が少なく体型を隠せることや、大きなリボンなどが目を引くことから着る人を選ばない<ref name="sankei20080909" />。そのため50代から60代の中高年のものも存在する<ref name="senken050309">『繊研新聞』2005年3月9日付</ref><ref name="otaku210">野村総合研究所オタク市場予測チーム『オタク市場の研究』東洋経済新報社、2005年10月27日(210頁)</ref>。 === 種類 === ゴシック・アンド・ロリータは様々な種類があり、今は廃れつつあるものや変化のあるものが多く存在する。流行によっても大きく左右されるため一概に言えないものも存在する。 ゴシック・アンド・ロリータには色々なこだわりや切り口があるため、一言ではいえないともいわれているが<ref name="GLBex2p85-94"/>、[[アトリエサード]]の出版する[[クロスカルチャー]]マガジン『トーキングヘッズ叢書』No.33では「ゴシック・ロリータの種類」として分類されている。以下の類型に、当てはまる者が嗜好するものと、主に好むブランドを転記する<ref name="TH No.33 72">{{Harvnb|アトリエサード|2008|p=72}}</ref>。 ; [[V系]] :バンドの追っかけギャル、[[バンギャル|バンギャ]]。<br />[[Moi-même-Moitié]]、[[VISIBLE]]、[[MARBLE]]、[[h.NAOTO]]、[[BLACK PEACE NOW]]、[[Angelic Pretty]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[metamorphose temps de fille]]、[[beauty:beast]] ; 澁澤乙女系 : [[澁澤龍彦]]、[[江戸川乱歩]]、[[荒俣宏]]などの小説家系を好む。[[球体関節人形]]が好き。[[クラシック音楽]]好き、[[古典美術]]好き、[[針子|お針子]]見習い等。 : [[Victorian maiden]]、[[Juliette et Justine]]、[[EXCENTRIQUE]]、[[Michal Negrin]]、[[Mary Magdalene]]、[[Jane Maple]]、[[Emily Temple cute]] ; [[アキバ系|A系]] : [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[漫画]]、[[声優]]に詳しい、元[[コスプレイヤー|レイヤー]]だったり。[[スーパードルフィー]]なども数体持っていたりする。 : [[metamorphose temps de fille]]、[[ゴスロリブランド一覧#Innocent World|Innocent World]]、[[MAXICIMAM|MA・MAM・ネコミミ]]、[[A+LIDEL]]、[[ALICE and the PIRATES]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[Angelic Pretty]] ; イベント・クラブ系 : ゴシック[[イベント]]や[[クラブ (曖昧さ回避)|クラブ]]に出没する人達。 : [[危機裸裸商店]]、[[TAKUYA Angel]]、[[Fotus]]、[[Baby Doll]]、[[EXCENTRIQUE]]、[[Michal Negrin]]、[[alice auaa]] ; 1990年代的ロリータ : 昔の「[[CUTiE]]」「[[Zipper]]」に影響された年季の入ったロリータ。 : [[MILK (ファッションブランド)|MILK]]、[[Jane Maple]]、[[Emily Temple cute]]、[[Fairy wish]] ; 無所属 : 「[[下妻物語]]」を観てからなど、まだ正体不明。 : [[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[Angelic Pretty]]、[[MILK (ファッションブランド)|MILK]]、[[Emily Temple cute]] しかし、これらも個人の嗜好の問題であるため、時間と共に変化・重複して複雑になっていることが多い<ref name="TH No.33 72" />。さらに、ヴィジュアル系バンドやアニメ主題歌の変化などによって、境界線は曖昧になってきている<ref name="TH No.33 72" />。 == 表記と経緯 == ゴシック・アンド・ロリータの通称は'''ゴスロリ'''である<ref name="TH No.33 65-68">{{Harvnb|アトリエサード|2008|pp=65-68}}</ref>。由来についてゴスロリ関連雑誌の編集長を務めた鈴木真理子は、「私達編集者などの、誰かが狙って「仕掛け人」となって作った言葉ではなく、ストリートの女の子達から生まれて育っていった言葉なのです。」と述べている<ref name="GLBB94-95">『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』インデックス・コミュニケーションズ、2008年2月28日発行(94-95頁)</ref>。鈴木によると、1998年1月から原宿でスナップ撮影を始めたところ、1998年5月ごろからボンネットを付けた人形のような服を着た少女たちに会うようになり、そのファッションが「ゴシック&ロリータ」略して「ゴスロリ」と呼ばれていることを知ったという<ref name="GLBB94-95" />。また、表記としては他にゴス・ロリ<ref name="GLB VOL.2p92-93" /><ref name="inter154-156">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=154-156}}</ref>、ゴス&ロリ<ref name="inter153-154" /><ref name="GLB VOL.6p104-105">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.6』インデックス・マガジンズ、2002年11月15日発行(104-105頁)</ref>、ゴシック・ロリィタ<ref name="inter153-154" /><ref>{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429}}</ref>、ゴシックロリータ<ref name="TH No.33 65-68" /><ref name="GLB VOL.1p10-11">『ゴシック&ロリータバイブル 創刊号』バウハウス、2000年12月(10-11頁)</ref> なども存在する。また「ゴシック調ロリータ・ファッション」<ref>城一夫・渡辺直樹『日本のファッション 明治・大正・昭和・平成』青幻社、2007年10月1日(199頁)</ref> や「ゴシック調のロリータスタイル」<ref name="senken050223" /> という表現も存在する。 なお、ゴスロリという語が一般に市民権を得たのは、[[2003年]]に起きた[[河内長野市家族殺傷事件]]の報道の影響が大きい<ref name="esprit112-115">{{Harvnb|小野原教子|2005|pp=112-115}}</ref><ref name="sekai141-146">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=141-146}}</ref><ref name="aera040712">『AERA 2004年7月12日号』朝日新聞社、2004年7月12日発行(60-62頁)</ref>。 == ストリート・ファッションとしてのルーツ == [[ロココ]]<ref name="yogo500" />{{Sfn|氏原寛|西川隆蔵|康智善|2006}}や[[ヴィクトリア朝|ヴィクトリア朝時代]] <ref name="TH No.33 p80" /><ref name="escargot48-49" /> のファッション・スタイルとの関連が指摘されているゴシック・アンド・ロリータであるが、[[ストリート・ファッション]]としてのルーツには、ナゴムギャルとトランスギャルの融合とするもの<ref name="TH No.33 65-68" /> や、海外のゴシック・ファッションの要素を取り込んだ日本のロリータ・ファッションから派生した<ref name="hanbai200604p94-96" /><ref name="yogo500" /><ref name="doraku68">{{Harvnb|植田裕子|2005|p=68}}</ref> とするものなど諸説あり、主に次のようなものが挙げられる。 === ナゴムギャルとトランスギャルによるゴシックとロリータの融合 === [[1980年代]]頃、'''トランスギャル'''と'''ナゴムギャル'''という2種類の[[おっかけ]]が存在した。'''トランスギャル'''は、[[トランスレコード]]の[[YBO2]]、[[Z.O.A]]、[[ASYLUM (バンド)|ASYLUM]]、[[THE SODOM PROJECT|SODOM]]などのおっかけをし、全身を真っ黒の出で立ちに青白いメイクと髑髏のアクセサリーを身に付け<ref name="TH No.33 65-68" />、[[MILK (ファッションブランド)|MILK]]、[[OZONE COMMUNITY]]、[[Y's]]、[[COMME des GARCONS]]などのブランドを好んだ<ref name="GLB VOL.24p41-46">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.24』インデックス・コミュニケーションズ、2007年3月24日発行(41-46頁)</ref>。また'''ナゴムギャル'''は、[[ナゴムレコード]]の[[有頂天 (バンド)|有頂天]]、[[たま (バンド)|たま]]、[[人生 (バンド)|人生]]、[[筋肉少女帯]]、[[ばちかぶり]]、[[死ね死ね団 (バンド)|死ね死ね団]]などのバンドのおっかけをし、[[ボーダー柄|ボーダー]]の[[ニーソックス]]に[[リボン]]、派手なTシャツに[[ラバーソウル]]を着た実年齢よりも幼い印象で<ref name="TH No.33 65-68" />、[[Jane Maple]]、[[MILK (ファッションブランド)|MILK]]、[[PINK HOUSE]]などのブランドを好んだ<ref name="sekai44-60">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=44-60}}</ref>。その後[[三宅裕司のいかすバンド天国|イカ天]]で[[バンドブーム]]が到来し、[[歩行者天国]]でストリートライブが行われるようになってくると、様々なバンドを見るファンによって、ナゴム系とトランス系の双方の要素が混ざっていき生まれた<ref name="TH No.33 65-68" />。 これに関連する意見としては、トランスギャルはジャパニーズ・ゴシックの原型であるとするものや{{Sfn|古賀令子|2009|pp=106-111}}、現在のゴシック・アンド・ロリータとほとんど変わらないとするもの<ref name="GLB VOL.5p88-89">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.5』バウハウス、2002年7月発行(88-89頁)</ref>、ナゴムギャルとトランスギャルをロリータとゴシックのルーツであるとしつつも、ゴシック・アンド・ロリータの原型を作ったのはMALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンたちであるとするものがある<ref name="rococo VOL.1 90-93">『ゴスロリ&パンクスタイル ROCOCO VOL.1』辰巳出版、2004年10月25日発行(90-93頁)</ref>。MALICE MIZERとの関連については[[#MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合]]、[[#ゴスとヴィジュアル系の関係とゴシック・アンド・ロリータ]]でも述べる。なお、バンドブームの衰退とともにトランスギャルの好んだ服装もナゴムギャルの好んだ服装も主流から消えていった<ref name="inter161-162" />。 また、ナゴムレコードに所属していた筋肉少女帯の[[大槻ケンヂ]]は、「「ゴシック&ロリータ」という言葉は、[[Moi-même-moitié|モアティエ]]のMana様が作ったと言われているんです。しかしその存在というか、いわゆるゴシックでロリータな格好の女の子は、僕の記憶では既に[[1980年代|80年代]]にいましたね。」と述べている<ref name="street113-117" />。また大槻は「[[目黒 (目黒区)|目黒]]の[[目黒鹿鳴館|鹿鳴館]]って[[ライブハウス]]で[[ヘヴィメタ]]がよくライブしてて、[[ヘヴィメタル]]ってヨーロピアンな流れもあるから、そこで女の子たちがヨーロピアンな服装をするんだけども、まあちょっと感性が違ったりして、今にして思えばゴシック&ロリータな服に偶然なってる場合が多々ありましたかねえ。」と述べている<ref name="street113-117" />。しかし、当時はゴシック・アンド・ロリータという言葉はなかったため、大槻らはそれらを「鹿鳴館ギャル」と呼んでいた<ref name="street113-117" />。 === VISIBLEとATELIER-PIERROTによるゴシックとロリータの融合 === [[1990年]]頃、関東は[[ゴシック・ファッション|ゴシック]]テイスト中心、関西は[[ロリータ・ファッション|ロリータ]]テイスト中心であった。そのころ、大阪のブランド[[VISIBLE]]が東京のセレクトショップ[[ATELIER-PIERROT]]のオーナー、大橋敬子の「真っ黒で作って欲しい」という要望から黒のアイテムを作ったことから生まれた<ref name="sekai44-60" /><ref name="interview" />。 VISIBLEは当初、[[ファッションデザイナー|デザイナー]]のレイチェルと[[大阪モード学園]]で同期だった[[MARBLE]]の泉さおりが家賃を折半し店舗を借り、MARBLE/VISIBLEとして開店した<ref name="interview">『ゴシック・ロリータ&パンク インタビューBOOK』辰巳出版、2007年3月10日発行(66-67頁)</ref>。このMARBLE/VISIBLEはゴシック・アンド・ロリータのさきがけであるともいわれているが{{Sfn|ステュディオ・パラボリカ|2003|pp=118-119}}、泉の[[MARBLE]]とレイチェルの[[VISIBLE]]は初めから別々のブランドで2002年には独立店舗を持つに至っている<ref name="interview"/>。 === MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合 === [[ファイル:Visual kei.jpg|thumb|right|200px|ヴィジュアル系バンド([[MALICE MIZER]])の[[コスプレ]]]][[MALICE MIZER]]はそれまでの[[ヴィジュアル系]]と比べて、群を抜いて濃いメイクと衣装、過剰な演出をしていたが、MALICE MIZERの中で女性的な位置づけであった[[Mana (ミュージシャン)|Mana]]のスタイルをエレガント・ゴシック・ロリータと称したものがルーツ<ref name="fashion-shingo238" /><ref name="sekai44-60" /><ref name="heart17-18">{{Harvnb|高原英理|2004|pp=17-18}}</ref> で、Manaがゴシック・アンド・ロリータを最初に定義した<ref name="GLB VOL.24p41-46" /><ref name="hanbai200604p86-87">『ファッション販売 2006年4月号』商業界、2006年発行(86-87頁)</ref>。 この「MALICE MIZERのManaによるゴシックとロリータの融合」は有力な説の一つであるが{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}、一般の少女たちが行っていたロリータ・ファッションのアレンジをまとめたのがManaの「[[Moi-même-moitié]]」であるとも言われている{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。[[#ナゴムギャルとトランスギャルによるゴシックとロリータの融合|前述]]の大槻<ref name="street113-117" /> の他に『[[KERAマニアックス]]』編集長の鈴木真理子も、ゴシック・アンド・ロリータが売れるようになったのはMALICE MIZERがメジャーデビューし、ゴシック・アンド・ロリータを着るManaの姿が全国的に映し出されたためであると述べている{{Sfn|ステュディオ・パラボリカ|2003|pp=118-119}}他、「Manaがゴシック・アンド・ロリータと名づけた」という説はMana自身否定している{{Sfn|ステュディオ・パラボリカ|2003|pp=118-119}}。しかしManaが自分のファッション・スタイルについて「エレガントで、ゴシックで、ロリータな」スタイルと表現していたため、ファンの間で「ゴシック・アンド・ロリータ」という言葉が生まれたとも言われており<ref name="style" />、また、MALICE MIZERの世界観に影響を受けたファンによってゴシック・アンド・ロリータの原型が誕生したという説もある<ref name="rococo VOL.1 90-93" />。 なお、Manaは「ブランドの構想を考え出した97 - 98年頃、世の中にLolita系ブランドはあったのですが、ダークで可愛いものを扱っているブランドが、僕が知っている限りではありませんでした。僕は怪しくて、Gothic的なものも大好きだったので、そこにLolitaの持つ可愛らしさを組み合わせたら、と考え、Gothic&Lolitaというものを創り出したのです。」とも述べている<ref name="ensemble1p66">『ゴシック&ロリータアンサンブル Vol.1』インフォレスト、2010年4月5日発行(66頁)</ref>。 == 類似するファッション傾向との比較・関係 == [[ファイル:Classicloli.JPG|thumb|left|200px|[[ゴシック・ファッション]]の男性(左)とゴシック・アンド・ロリータの女性(右)(東京都渋谷区原宿神宮橋)<ref name="asahi080711">『朝日新聞 東京版夕刊』2008年7月11日付</ref><ref name="asahi080711" />。]] [[#ナゴムギャルとトランスギャルによるゴシックとロリータの融合|前述]]のトランスギャル、ナゴムギャルのほかにも、ゴシック・アンド・ロリータには志向・外見が類似したいくつかの[[ファッション]]傾向がある。 === ゴシック・ファッション、ロリータ・ファッション === 前述のようにゴシック・アンド・ロリータは、ゴシック・ファッションとロリータ・ファッションの融合である<ref name="hanbai200604p94-96" /><ref name="yogo500" /><ref name="doraku68" />。そのためそれぞれの要素を含んでいるが、[[美術評論家]]の[[樋口ヒロユキ]]は、著書『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』の中で[[ゴス (サブカルチャー)|ゴス]]イベントに来る、'''ゴシック・アンド・ロリータ・ファッション'''、[[ゴシック・ファッション]]、[[ロリータ・ファッション]]の愛好家を比較して次のように大別している<ref name="shiso14-26">{{Harvnb|樋口ヒロユキ|2007|pp=14-26}}</ref>。 *'''ゴシック・アンド・ロリータ・ファッション''':[[フリル]]や[[レース (手芸)|レース]]たっぷりのロリータ服とラバー小物、顔はまれに白塗り *'''[[ゴシック・ファッション]]''':[[SM (性風俗)|SM]]系のラバーやパンク服、顔は白塗り *'''[[ロリータ・ファッション]]''':フリルやレースたっぷりのロリータ服、顔は[[ナチュラル・メイク]] その上で樋口は、ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの間にあるもので、ゴシック寄りのものは[[死]]の匂いが強く、ロリータ寄りのものは[[少女趣味]]が強くなるとした<ref name="shiso14-26" />。 ==== ゴシック ==== 「[[ゴシック]]」(Gothic)とは、「[[ゴート族]]風の」という意味で、「野蛮・残酷」を意味する語である<ref name="heart10-17">{{Harvnb|高原英理|2004|pp=10-17}}</ref><ref name="shiso26-36">{{Harvnb|樋口ヒロユキ|2007|pp=26-36}}</ref>。 ===== ゴシック的な要素 ===== [[画像:Gothic girl.jpg|thumb|200px|right|ゴシック・ファッションの女性]] ゴシック・アンド・ロリータは、ゴシックとロリータの要素を結びつけたものである。そのうちゴシックな要素として次のようなものが挙げられている。 :「色ならば[[黒]]。時間なら[[夜]]か[[夕|夕暮れ]]。場所は文字通り[[ゴシック建築]]の中か、それに準ずるような荒涼感と薄暗さをもつ[[廃墟]]や古い建築物のあるところ。現代より過去。[[ヨーロッパ]]の中世(風)。古めかしい装い。温かみより冷たさ。[[怪物]]・[[異形]]・[[異端]]・[[悪]]・[[苦痛]]・[[死]]の表現。損なわれたものや損なわれた身体。身体の改変・変容。物語として描かれる場合には暴力と惨劇。[[怪奇]]と[[恐怖]]。[[猟奇的]]なもの。[[頽廃]]的なもの。あるいは一転して[[無垢]]なものへの憧憬。その表現としての[[人形]]。[[少女趣味]]。[[様式美]]の尊重。[[両性具有]]・[[天使]]・[[悪魔]]など、西洋由来の[[神秘]]的イメージ。[[驚異]]。[[崇高]]さへの傾倒。[[終末観]]。装飾的・[[儀式]]的・[[呪術]]的なしぐさや振る舞い。[[夢]]と[[幻想]]への耽溺。別世界への夢想。[[反キリスト|アンチキリスト]]。[[アンチ・ヒューマン]]。」{{Harv|高原英理|2004|pp=8-10}}) こうした要素のいくらかを内包していなければゴシック・アンド・ロリータとは呼ばない<ref name="sekai29-39" />。 欧米のゴスの成功の理由は、アンチ・キリストの表象を前面に出したことによって、「堕天使サタンの物語」というもっとも共感域の広い悲劇を想起させたことにあるとも言われているが、ゴシック・アンド・ロリータや、そのカリスマたちがアンチ・キリストの悲劇に宗教的共感を寄せているとは考え難いという指摘もある{{Sfn|吉光正絵|2003|pp=56-61}}。 ===== ゴスとヴィジュアル系の関係とゴシック・アンド・ロリータ ===== [[File:Dio Distraught Overlord 20070708 Japan Expo 33.jpg|thumb|right|200px|ヴィジュアル系]] また、ゴシック的な感覚を基に生まれた[[ゴス (サブカルチャー)|ゴス]](Goth)は、日本では[[X JAPAN]]や[[MALICE MIZER]]が伝道したスタイルである<ref name="heart17-18" />。X JAPAN、MALICE MIZER共に[[ヴィジュアル系]]バンドであるが、ゴスの流れを汲むヴィジュアル系バンドのファン層を中心に広がっていったとも言われている<ref name="sankei20080909">『産経新聞 首都圏版』2008年9月9日付</ref><ref name="doraku74">{{Harvnb|植田裕子|2005|p=74}}</ref>。 一方でヴィジュアル系バンドがステージ衣装を取り入れたり、雑誌でゴシック・アンド・ロリータ系ブランドのモデルにヴィジュアル系バンドのメンバーが起用されたりと相互に影響を与え合っており<ref name="shojo-bunka3.127-144">{{Harvnb|まえがわまさな|2009|pp=127-144}}</ref> ヴィジュアル系バンドに憧れる層もゴシック・アンド・ロリータに関心を抱くようになったという指摘もある{{Sfn|成美弘至|2009|pp=56-83}}。 ==== ロリータ ==== [[ロリータ]]は、ロシア人作家[[ウラジミール・ナボコフ]]の代表作である{{Sfn|若島正|2007}}小説『[[ロリータ]]』に由来する<ref name="GLB VOL.1p50">『ゴシック&ロリータバイブル 創刊号』バウハウス、2001年(50頁)</ref><ref name="esprit104-106">{{Harvnb|小野原教子|2005|pp=104-106}}</ref><ref name="shiso267-287">{{Harvnb|樋口ヒロユキ|2007|pp=267-287}}</ref>。この「ロリータ」とは作中に登場する[[ドロレス・ヘイズ]]という少女の愛称であるが、この少女は[[少女期]]特有の妖しい魅力([[ニンフェット]])の持ち主で<ref name="sekai29-39" />、それゆえ「少女的である」という要素が強調されやすい<ref name="sekai29-39" />。 ===== ロリータな要素 ===== 嶽本野ばらはロリータの共通して偏愛する要素について「[[アリス (不思議の国のアリス)|アリス]]、[[西洋の冠|王冠]]、[[天使]]、[[テディベア]]、[[ハローキティ|キティちゃん]]……。[[澁澤龍彦]]、[[森茉莉]]、[[恋月姫]]、[[楠本まき]]……。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[パンク・ロック|パンク]]、[[アンティークオルゴール]]……。」を挙げている<ref name="patchwork70-73" />。また嶽本は、ロリータは各自が自分流のロリータの定義を持っており、自らの美意識のみを拠り所とし、自分のルールにしか従わないのがロリータとして生きていくための条件であると主張しており<ref name="patchwork70-73">{{Harvnb|嶽本野ばら|2002|pp=70-73}}</ref>、その定義について、[[フリル]]が満載の洋服を着ている、ヘッドドレスをつけているなどの表層的な部分を定番どおりになぞらえても真のロリータにはなりえず、ロリータの解釈と実践は各人によって異なり、ロリータな精神さえ持っていればロリータである、と述べている<ref name="patchwork84-86">{{Harvnb|嶽本野ばら|2002|pp=84-46}}</ref>。 === パンク・ファッション === [[ファイル:Punk Red Mohawk Morecambe 2003.jpeg|thumb|right|200px|パンク・ファッション]] [[パンク・ファッション]]とゴシック・アンド・ロリータは音楽ムーブメントと深く関連し、奇抜なファッション傾向があり、大人への反抗心などを持つなど、それと重なる部分がある<ref name="hanbai200604p94-96" /><ref name="fashion-ron42" /><ref name="rolling">[http://xbrand.yahoo.co.jp/magazine/rollingstone/1812/4.html 『Rolling Stone』美馬亜貴子「シンディ・ローパーが特別な理由 来日記念特別インタヴュー」] 2009年4月11日閲覧</ref> ほか、ヴィヴィアン・ウエストウッドの行ったような伝統回帰やロマンティシズムへの憧憬も志向している<ref name="fashion-ron42" /><ref name="hanbai200604p92-93">『ファッション販売 2006年4月号』商業界、2006年発行(92-93頁)</ref>。実際、ゴシック・アンド・ロリータにパンクの要素を取り入れたゴスパン(Gothic Punk)や、ロリータ・ファッションにパンクの要素を取り入れたパンクロリ(Punk Lolita)などの派生ファッションも存在する。 また、ゴシック・アンド・ロリータの愛好者にもヴィヴィアン・ウエストウッドは人気で<ref name="brand147-150">『ゴシック・ロリータ&パンク ブランドBOOK VOL.1』辰巳出版、2005年6月25日発行(147-150頁)</ref><ref name="senken060101">『繊研新聞』2006年1月1日付</ref>、[[バッグ]]、アクセサリー、[[ジャケット]]などのアイテムをあわせることがあり<ref name="soen2005Feb p156-157">『装苑 2005年2月号』文化出版局、2005年2月21日発行(156-157頁)</ref>、中でも足首に紐を巻きつける[[バレリーナシューズ]]([[ロッキンホース・バレリーナ]])は最もポピュラーで<ref name="aladdin">{{Cite book|和書|author=嶽本野ばら |title=アラジンと魔法のお買物 : 千夜一夜騎士 |date=2007 |publisher=メディアファクトリー |isbn=9784840120364 |pages=65-67}}</ref> ある。 === モード === 2005年頃より[[ミラノ]]や[[パリ]]など各地のファッションコレクションにおいてゴシックロリータの影響が見られる。[[CHANEL]]や[[Yves Saint Laurent]]がその例である<ref name="senken050223">『繊研新聞』2005年2月23日付</ref><ref name="inter161-162">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=161-162}}</ref><ref name="senken050318">『繊研新聞』2005年3月18日付</ref><ref name="senken050407">『繊研新聞』2005年4月7日付</ref><ref name="soen2005Feb p62-63">『装苑 2005年2月号』文化出版局、2005年2月21日発行(62-63頁)</ref><ref name="senken050926">『繊研新聞』2005年9月26日付</ref><ref name="street 33">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|p=33}}</ref><ref name="senken080126">『繊研新聞』2008年1月26日付</ref>。 [[File:Alice Liddell 2.jpg|thumb|right|150px|乞食に扮した[[アリス・リデル]]([[1859年]]ごろ[[ルイス・キャロル]]が撮影)]] === ピンクハウス === [[ピンクハウス]]は[[1971年]]に[[金子功]]をデザイナーとして[[ニコル (アパレル)|ニコル]]から誕生し<ref name="street 32">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|p=32}}</ref>、1983年の[[オリーブ少女]]ブーム<ref name="sekai44-60" /><ref name="street 32" /> で大ブレイクしたブランドであるが、そのデザインは極端に[[ロマンチック]]なものであった<ref name="sekai44-60" />。このロマンチックなデザインや独特の印象から、ロリータ・ファッションと同列視する者がいるが、両者には決定的な違いがある<ref name="sekai44-60" />。金子のデザインした服は、肩から下までストンと落ちるような直線的なラインで足をほとんど見せないものが多いのに対し、ロリータ・ファッションは、スカートを膨らませウエストをしっかり絞って強調しており、一部にロングスカートのものもあるものの足は見えるのが一般的である<ref name="sekai44-60" />。 また、ピンクハウスのシルエットは[[ヴィクトリア朝]]時代([[1837年]]から[[1901年]])の庶民的ファッションに近いのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは王族に近いという指摘もある<ref name="TH No.33 p80" /><ref name="GLB VOL.2p80-81">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.2』バウハウス、2001年8月25日発行(80-81頁)</ref>。また、ピンクハウスなどの[[1980年代]][[DCブランド]]とゴシック・アンド・ロリータとの違いについてデザイン・コンセプトを指摘するものもいる<ref name="inter153-154" />。その指摘は、金子功のデザインの方針が「大人の女性の為の少女趣味」であり、「ヨーロッパの田園」を補強するイメージ写真を掲載するなどしていることに手がかりがある。Pink Houseの想定する「少女」は「自然」と結びつくものであった。さらに、この「少女=自然」「ヨーロッパの田園」イメージは、日本人男性による「想像」の産物である。というものである<ref name="inter180-181">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=180-181}}</ref>。 1980年代には少女趣味的な服の代表であったピンクハウスであるが、現在ではロリータ・ファッションに分類されていない<ref name="inter162-164"/><ref name="GLB VOL.9p">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.9』インデックス・マガジンズ、200年月日発行</ref>。 === その他のファッション === ==== ギャル系 ==== [[File:Yamanba de dos.jpg|thumb|right|200px|ギャル(2006年、[[東京都]][[渋谷区]][[道玄坂]][[109 (商業施設)|109]]前)]] 東京のファッションカルチャーの代表として、ゴシック・アンド・ロリータとギャル系ファッションは双璧をなしているが<ref name="tyoi1">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20090401/1025178/?P=1 日系トレンディネット 原宿のストリートで増殖中!“ちょいゴスロリ”の神髄に迫る1] 2009年7月21日閲覧</ref>、ギャルは「レース、フリル、リボンにあふれた『かわいいおしゃれ』が大好き」とも言われており<ref name="aera090608">『AERA 2004年7月12日号』朝日新聞社、2009年6月8日発行(頁)</ref>、ギャルから派生した姫系や姫ロリと呼ばれるファッションスタイルが存在する。 一部のギャルから派生した姫ロリは、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]や[[JESUS DIAMANTE]]の洋服を着て、ブロンドの髪を高く盛り、ティアラや大きなリボンを付け、ネイルや小物にはたくさんのラインストーンを付けるものであった<ref name="GLBB56-71" />。姫系は、ギャルが標榜するお姫様のようなファッション傾向で、[[JESUS DIAMANTE]]、[[Barbie]]、[[Pinky Girls]]、[[RUBY ROSE]]、[[A mon avis]]などのブランドも好まれている<ref name="doraku74" />。 ゴスロリとギャルとの間に親和性があると感じるというものもおり<ref name="shojo-bunka3.148-156">{{Harvnb|まえがわまさな|2008|pp=148-156}}</ref>、ギャルとロリータを行き来するもの<ref name="doraku74" /> や、ゴスロリと姫ギャルをターゲットにしたシューズブランドも存在する<ref name="senken080708">『繊研新聞』2008年7月8日付</ref>。また、ロリータのカリスマ嶽本野ばらもギャルのカリスマ浜崎あゆみ好きを明言している。 また、ゴシック・アンド・ロリータの着用者の中には、ギャル雑誌『[[小悪魔ageha]]』を参考にメイクをするものもいる<ref name="style.">[http://www.style-arena.jp/tribe/detail/d1678.html?TB_iframe=true&width=804&height=670 『style-arena.jp』]{{リンク切れ|date=October 2012}}</ref>。 ==== ちょいゴスロリ ==== 2009年4月3日付けの日経トレンディネットの記事では「ちょいゴスロリ」という傾向が取り上げられている<ref name="tyoi2">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20090401/1025178/?P=2 日経トレンディネット 原宿のストリートで増殖中!“ちょいゴスロリ”の神髄に迫る2]</ref>。それによると「ちょいゴスロリ」とは「カラーを黒中心に据えてシューズをベロアにしたり、レースや中世を思わせるアンティーク調アイテムを使ったりなど個々のアイテムはゴスロリを思わせるが、全体のスタイルは完全なゴスロリではない。」というように、ディテールを取り込んで雰囲気を出す、「よく見れば」、「なんとなく」ゴスロリというものである<ref name="tyoi2" />。 ==== 浴衣 ==== 2003年6月6日付けの繊研新聞では、各ブランドが初めて作ったゴスロリ[[ゆかた]]のファッションショーが取り上げられた<ref name="senken030606">『繊研新聞』2003年6月6日付け</ref>。記事によると新宿マルイワンで行われたショーには[[MAXICIMAM]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[metamorphose temps de fille]]、[[SEXY DYNAMITE LONDON]]、[[BLACK PEACE NOW]]、[[MIHO MATSUDA]]など11ブランドが参加した<ref name="senken030606" />。また、そのデザインは「黒地にバラや[[血糊]]のプリント、そろいの[[ヘッドドレス]]や[[スタッドボタン|スタッズ]]を打ったレザーの[[帯]]、[[トーション|チュールレース]]とのコーディネートなど」とあり、形もベーシックなゆかたにプリントだけゴシック・パンクというものや、ドレスのようなデザインのものが見られた<ref name="senken030606" />。また2007年にも[[ATELIER-PIERROT]]や[[h.NAOTO]]、[[despair]]、[[Deorart]]などもゆかたを制作している<ref>『KERA vol.120』インデックス・コミュニケーションズ、2008年7月16日発行(46-51頁)</ref>。 [[ニューヨーク州立ファッション工科大学]]は2009年2月に「サブカルチャー&スタイル」と題したシンポジウムを二日間にわたって開き、前述の川村由仁夜、[[京都造形芸術大学]]助教授の[[成美弘至]]、[[クリエーティブ・コンサルタント]]のティファニー・ゴドイが日本のサブカルチャーをテーマに講演を行ったが、その中でゴドイは日本人が制服や着物のように「型」の決まった服を着用してきたことを指摘し、さらにゴシック・アンド・ロリータも、それを着用する者にとっては制服のようなもの、という見方を示した<ref name="senken090316">『繊研新聞』2009年3月16日付</ref>。服飾コードの供給源としてはミュージシャンや漫画家、服飾デザイナー、人形作家などのカリスマが挙げられる<ref name="siebold" />。また、ロリータ・ファッションにも「美しさや、着こなしのルールがあり、完璧性を競う」といわれており、その点が[[カジュアルダウン]]で自身を表現するストリートカジュアルとの決定的な違いとする意見もある<ref name="senken061014">『繊研新聞』2006年10月14日付</ref>。 ==== ゆるふわ ==== ゆるふわのスカートのボリューム感のあるシルエットは、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションに似ているが、それらがウエストを絞った半円のようなシルエットであるのに対して、ゆるふわは「[[Aライン]]気味」とも言える緩いふくらみである<ref name="NikkeiTrendy2009">{{Cite web|和書|date=2009-10-09|title=人気急上昇の「ゆるふわ」スタイル。“森ガール”との違いは?|author=日経トレンディネット|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20091008/1029494/|accessdate=2012-02-06}}</ref>。また決定的な違いとしてゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションのスカートがひざ丈やひざ上であるのに対して、ゆるふわはロング丈で統一されている<ref name="NikkeiTrendy2009" />。さらに、「レースや装飾がなく無地でシンプルなものが多い」、「甘い雰囲気を引き締めるためにブラックを適所に置いてバランスを保つ」、「パーカーやスエットなどのカジュアルアイテムを取り入れる」などのコーディネートの特徴も指摘されている<ref name="NikkeiTrendy2009" /> [[File:The elegy of a white flower-Takarazuka1951.jpg|thumb|right|300px|宝塚歌劇団[[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]によるレビュー『[[白き花の悲歌]]』(1951年)中央:春日野八千代、[[朝倉道子]]]] ==== 宝塚歌劇 ==== 宝塚歌劇に関する特集は、ゴシック&ロリータバイブルでも複数回組まれている<ref name="GLB VOL.18p69-71">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.18』インデックス・マガジンズ、2005年9月21日発行(69-71頁)</ref><ref name="GLB VOL.19p88-91">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.19』インデックス・マガジンズ、2005年12月21日発行(88-91頁)</ref><ref name="GLB VOL.22p77">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.22』インデックス・コミュニケーションズ、2006年9月21日発行(77頁)</ref>。また2005年3月9日付の『繊研新聞』では50代から60代の中高年のゴシック・アンド・ロリータ着用者について触れ、その中で、[[現代社会研究所]]所長で[[青森大学]]社会学部教授の[[古田隆彦]]は、50代から60代の女性の多くは少女時代に[[宝塚歌劇]]や、[[中原淳一]]、[[内藤ルネ]]らの[[少女画]]に熱中した世代であることを指摘し、少女時代からの宝塚や少女画のファッションへの憧れが、若者たちやモードに後押しされたのではないかと推測している<ref name="senken050309" />。なお、内藤ルネとロリータブランド[[Heart E]]のコラボレーション商品も存在する<ref name="heart e">[http://www.hearte.co.jp/product/105 Heart E公式サイト]{{リンク切れ|date=October 2012}} 2009年8月25日閲覧</ref>。また宝塚は「夢の世界」と言われるが、コスプレとゴシック・アンド・ロリータも同じく「夢の世界」の実現にコミットする文化である<ref name="takaraduka280-281">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=280-281}}</ref>。これらは「夢の世界」を形成するにあたって「西洋」のファンタジーを用いている点でも似ているが、水野麗はこの場合の「西洋」を「単に異国情緒・異国趣味といったものではなく、また単純に「先進国」として見習うべき手本といったものでもない。それぞれの文化の根幹にかかわる重要な要素であり、複雑なダイナミズムをもって実現されている、情熱の矛先とでも言うべきものである。」と論じている<ref name="takaraduka280-281" />。 また水野は宝塚、コスプレ、ゴスロリそれぞれの「西洋」について次の点を指摘している。 ;宝塚と「西洋」 :「西洋物」の作品で、念入りな化粧で彫りを深くして「西洋人」を演じるのに、東洋人以外の外国人の入団がないねじれ<ref name="takaraduka281-285">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=281-285}}</ref> ;コスプレと「西洋」 :「西洋」の世界観を持つマンガ・アニメ・ゲーム作品の白人のキャラクターのコスプレを白人がすることへの日本人コスプレイヤーの違和感<ref name="takaraduka285-291">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=285-291}}</ref> ;ゴスロリと「西洋」 :「西洋」が憧れの世界として機能しているゴスロリやロリータ・ファッションを着た白人への日本人の愛好家の違和感<ref name="takaraduka291-297">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=291-297}}</ref> さらに水野は、東洋人的な身体が「夢の世界」としての「西洋」を宝塚やコスプレ、ゴスロリで演じているところに、現実の西洋が混ざるとファンタジーと現実の水準の混乱を招くために目立つ、としている<ref name="takaraduka297-299">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=297-299}}</ref>。 しかし同じ西洋のファンタジーを源泉とする宝塚とゴスロリには、コスプレで決定的に違う点がある。それは宝塚が「西洋物」を確立したのに対して、ゴスロリやコスプレが1980年代以降の欧米風の生活スタイルが違和感なく存在する時代から楽しまれている点である<ref name="takaraduka299-301">{{Harvnb|水野麗|2009|Ref=Takarazuka2009|pp=299-301}}</ref>(コスプレとゴシック・アンド・ロリータの関係については[[#コスチュームとしてのゴシック・アンド・ロリータ]]でも述べる)。なお宝塚歌劇団で上演している『[[ベルサイユのばら (宝塚歌劇)|ベルサイユのばら]]』(1974年初演)は、[[フランス革命]]期を[[マリー・アントワネット]]の生涯を中心に描いた作品である<ref name="GLB VOL11p78-80">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.11』インデックス・マガジンズ、2005年1月16日発行(78-80頁)</ref>。 また、宝塚にはファンクラブが役者を招いて行う「お茶会」というイベントがあり<ref name="takaraduka22-25">{{Harvnb|東園子|2009|Ref=Takarazuka2009 |loc=「「宝塚」というメディアの構造――タカラジェンヌの四層構造と物語消費」(22-25頁)}}</ref>、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションにおいてもやはり「お茶会」というイベントがある。ブランド主催のお茶会の中には読者モデル<ref name=" KERAVOL.134p37" /> やデザイナー<ref name="BSSBkanazawa">[http://blog.livedoor.jp/baby_kanazawa/archives/51134956.html BABY, THE STARS SHINE BRIGHT金沢店ブログ] 2009年9月2日閲覧</ref><ref name=" KERAVOL.134p46-47">『KERA VOL.134』インデックス・コミュニケーションズ、2009年10月16日発行(46-47頁)</ref> などが参加して行われることもある。ゴシック・アンド・ロリータにおけるお茶会については[[#お茶会]]でも述べる。 なお、ヴィジュアル系のルーツが宝塚にあるという意見も存在する<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081118/1021036/?P=2 ビジュアル系バンド「アンティック-珈琲店-」が欧州で大人気の理由(前編)]</ref>。 == 各国での展開 == これまで、ファッションではアンダーカバーやユニクロ、音楽ではピチカート・ファイヴやPUFFYが日本から海外進出を果たし支持を得ていたが、それらがあくまでもブランドやアーティスト単体が支持されるにとどまっていた<ref name="NikkeiTrendy200802">{{Cite web|和書|title=丸井が「クールジャパン」に本格進出 日本文化のセレクトショップで外国人狙う|publisher=日経トレンディ|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080208/1006889 | accessdate=2008-02-19}}</ref> それに対し、ゴスロリは日本生まれのジャンルそのものが受け入れられているとも言われている<ref name="NikkeiTrendy200802" />。 === 欧米での展開 === ゴシック・アンド・ロリータは欧米でもgosulori(またはgoth-loli)<ref name="esprit108-112">{{Harvnb|小野原教子|2005|pp=108-112}}</ref> として知られている。[[ゴス (サブカルチャー)|ゴス]]の本場欧米では、本来なら崇高美学とホラーに結びつくゴシック愛好者がミニスカートを履くことを奇妙に感じる{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}などの批判があるもののゴシック・アンド・ロリータを好むものもいる。 ==== アメリカでの展開 ==== [[アメリカ合衆国]]ではゴシック・アンド・ロリータは既に研究対象としても扱われている<ref name="fashion-ron42" />。実際[[ニューヨーク州立ファッション工科大学]]の付属美術館ディレクター、[[ヴァレリー・スティール]]は来日した際、[[h.NAOTO]]の廣岡直人へインタビューを行っている<ref name="asahi080717">『朝日新聞 東京版朝刊』2008年7月17日付</ref>。 また、アメリカにゴシック・アンド・ロリータを広めたことで知られる[[エヴァネッセンス]]のボーカル、[[エイミー・リー]]は<ref name="asahi070220">『朝日新聞 東京版夕刊』2007年2月20日付</ref>、ゴシック・アンド・ロリータ愛好家である<ref>『ゴシック・ロリータ&パンク ブランドBOOK VOL.1』辰巳出版、2005年6月25日発行(64-65頁)</ref><ref name="soen2005Feb p75">『装苑 2005年2月号』文化出版局、2005年(75頁)</ref>。このほかにも、[[マリリン・マンソン]]や<ref name="soen2005Feb p75" />[[シンディ・ローパー]]、[[レディー・ガガ]]はゴスロリ関係の服を来日した際に購入しており<ref name="rolling" />、アメリカでの人気の高さが窺える。 ==== フランスでの展開 ==== フランスでも、2006年12月1日にパリ初のゴスロリ専門洋服店「ハラジュク」がオープンし<ref name="EuroJapanHarajuku">{{Cite web|和書|url=http://www.eurojapancomic.com/co/shop_harajuku/harajuku.shtml |title=パリ発ヨーロッパのマンガ情報:パリ初ゴスロリ店 HARAJUKU (ハラジュク)|author=EuroJapanComic|accessdate=2012-02-06}}</ref>、翌2007年6月にはフランス初のゴスロリブランド[[KAWAIKO]]がパリ市内に店舗をオープンしている<ref name="EuroJapanKawaiko">{{Cite web|和書|url=http://www.eurojapancomic.com/co/kawaiko/kawaiko.shtml |title=パリ発ヨーロッパのマンガ情報:パリのパンク、ゴシック店 KAWAIKO (カワイコ)|author=EuroJapanComic|accessdate=2012-02-06}}</ref>。ほかにも、[[Japan Expo]]で[[ラフォーレ原宿]]が[[ファッションショー]]を行ったり<ref name="senken070711">『繊研新聞』2007年7月11日付け</ref><ref>『装苑 2008年10月号』文化出版局、2008年10月1日発行(6頁)</ref><ref name="KERAVOL.122">『KERA VOL.122』インデックス・コミュニケーションズ、2008年9月16日発行(48-51頁)</ref><ref>[http://japan-expo.com/index.php?page=232 Japan Expo公式サイト] 2009年4月11日閲覧</ref><ref name="laforet">[http://www.laforet.ne.jp/harajuku/special/807japan/index.html ラフォーレ原宿公式サイト]{{リンク切れ|date=October 2012}} 2009年4月11日閲覧</ref>、ヨーロッパ初のゴスロリイベントJ-POP COLLECTIONS in Paris 2007が開かれるなど<ref name="jpc07"/>、ゴシック・アンド・ロリータが輸入されている。 また、ロリータ・ファッションを愛好するものの中には、ビジュアル系への興味からゴシック・アンド・ロリータを愛好した時期を持つものが多い。例えばBABY, THE STARS SHINE BRIGHTのパリ店では開店当初は黒一色の客が多かったが一年もたたないうちにカラフルなファッションへとかわっていったという<ref name="kakumei93-97">{{Harvnb|櫻井孝昌|2009|pp=93-97}}</ref>。ちなみにこの変化は、コーディネートしやすい初心者向きの「黒」から、ファッションに目覚めた結果であるともいわれている<ref name="ascii20090922">『週刊アスキー 2009.9.22』アスキー・メディアワークス、2009年9月22日発行(136-137頁)</ref>。<!-- ==== スペイン ==== サロン・デル・マンガ ==== イタリア ==== ROMICS ==== ロシア ==== --> ==== その他欧米での展開 ==== ドイツはヨーロッパで最も多くのゴスロリファンがいるともいわれており、500人規模のファングループが4・5グループある<ref>[http://www.eurojapancomic.com/europe/german/animagic08.shtml EURO JAPAN COMIC]</ref>。 そのほか日本のツアー企画旅行会社による、ゴスロリ店をめぐるツアーを企画が人気を博しており<ref name="sankei20080909" /><ref name="TJ327">[http://apalog.com/kurita/archive/327 テンカイジャパン327] 2009年8月25日閲覧</ref>、原宿のゴスロリショップでは買い物客の4割が日本人以外(特に欧米系)であるという指摘もある<ref name="apalog69">[http://apalog.com/cooljapan/archive/69 クールジャパンブログ69] 2009年8月25日閲覧</ref><ref name="marui">[http://maruione.jp/ MARUI web channel]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 2009年7月21日閲覧</ref>。 このように、欧米人がゴシック・アンド・ロリータに注目するのは、欧米人が行えば単なる[[懐古趣味]]の域に留まってしまうものを、東洋人による別のスタイルにしてしまったからだという指摘もある<ref name="esprit108-112" />。その一方で、[[18世紀]]、[[19世紀]]の西洋服飾史をベースにしたロリータと、ヨーロッパ発祥の様式であるゴシックという文化的背景を考えると、ヨーロッパに流入しカルチャーとしてとらえられ広まったことも自然なことかもしれないという指摘もある<ref name="soen2009Oct p106-107" >『装苑 2009年10月号』文化出版局、2009年10月1日発行</ref>。 === アジアでの展開 ===<!-- ==== 韓国での展開 ==== ==== タイでの展開 ==== ==== 台湾 ==== ゴスロリブランドのベルベットパラダイス [http://blog.yam.com/velvetparadise [http://japanpop.jp/kixcollection/index.html] --> ==== 日本での展開 ==== [[File:Americamura.JPG|thumb|left|200px|[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[西心斎橋]]の[[アメリカ村]]三角公園付近(2007年)ゴシック・アンド・ロリータの発祥はアメリカ村ともいわれている<ref name="style" />]] [[ファイル:Laforet Harajuku 2008.jpg|thumb|right|200px|ゴスロリの聖地原宿<ref name="GLB VOL.4p66-71">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.3』ヌーベルグー、2002年1月10日発行(66-71頁)</ref> に建つ[[ラフォーレ原宿]]]] 日本では[[百貨店]]との同質化を避けた[[ファッションビル]]がゴシック・アンド・ロリータの希少性の高さ、客単価の高さ、固定ファンの存在、ファッション傾向の追い風を受けて導入し始めた<ref name="hanbai200211p71-72">『ファッション販売2002年11月号』商業界、2002年11月1日発行(71-72頁)</ref>。ゴスロリ系ブランドを集積した主な商業施設として[[ラフォーレ原宿]]<ref name="hanbai200211p71-72" /> やマルイワン新宿が挙げられる<ref name="hanbai200211p72-73">『ファッション販売2002年11月号』商業界、2002年11月1日発行(72-73頁)</ref>。その後、新宿地区再編に取り組んだマルイは、マルイシティー1やマルイシティー2など改装を進め、新宿マルイワンをオープンさせ、旧マルイヤング新宿にあったゴスロリ系ブランドを集めた<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090224/1024028/?P=1 日経トレンディネット 「新宿マルイワン」がオープン!海外も視野に最新の“東京ファッション”を発信1] 2009年12月14日閲覧</ref><ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090224/1024028/?P=2 日経トレンディネット 「新宿マルイワン」がオープン!海外も視野に最新の“東京ファッション”を発信2]</ref>。 さらに2002年、[[京都]][[四条河原町]]の[[阪急百貨店]]がゴスロリ系のブランドを導入し、百貨店からもゴスロリがファッションとして認知されるようになった<ref name="hanbai200211p73">『ファッション販売2002年11月号』商業界、2002年11月1日発行(73頁)</ref>。また北海道でも2002年、[[三越]]が札幌店で取り込みきれない18歳から22歳の客層を狙って[[札幌アルタ]]を開店し、ゴスロリ系をテーマとしたフロアを設けた<ref name="hanbai200211p73" /><ref name="hokkaido020704">『北海道新聞』2002年7月4日付け</ref><ref name="senken021010">『繊研新聞』2002年10月10日付け</ref>。 2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれた<ref name="senken061006">『繊研新聞』2006年10月6日付け</ref>。インディビジュアル・ファッション・エキスポについては[[#インディビジュアル・ファッション・エキスポ]]でも述べる。 ===== 日本での市場規模 ===== 前述のようにファッションビルはゴシック・アンド・ロリータの客単価の高さに注目している<ref name="hanbai200211p71-72" />。しかしその一方で[[松浦桃]]は、ゴシック・アンド・ロリータの市場規模が拡大しないのは「着られる時間」、「その分購入されるアイテム=実際に動く購買力、それによって増減する販売数」、「ゴシック・アンド・ロリータというジャンルに所属する人口」の三点で不安定とみられているからだと指摘した<ref name="sekai79-81" />。これはゴシック・アンド・ロリータが職場や学校へ着て行くことができないため実際に着用する回数が少なく、購入するアイテム数が限定されるという問題と、20代、30代になると着られないと考える者が多いため、購買層が20代までの若い層に集まり、客単価が上がらないという問題を示している<ref name="sekai79-81" />。またゴシック・アンド・ロリータ市場の特徴として、店頭に出ることなく予約のみで商品が完売してしまうことが多いという点も指摘されており<ref name="senken050926" />、品薄なためスタイル維持が難しいという問題もある<ref name="siebold" />。 『オタク市場の研究』では、ファッションオタクを人口4万人<ref name="otaku210" />、市場規模130億円<ref name="otaku210" /> としているが、2004年1月30日付の読売新聞東京版夕刊には、ゴシック・アンド・ロリータ人口は推定4、5万人との記載もある<ref name="yomiuri040130">『読売新聞 東京版夕刊』2004年1月30日付</ref>。また[[丸井]]の平岩国泰は、人口100万人、200億円市場であると述べている<ref name="ascii090602">[http://research.ascii.jp/elem/000/000/023/23052/ アスキー総合研究所 ゴスロリ人口100万人、200億円市場]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 2009年7月21日閲覧</ref>。 ===== 教育現場 ===== 日本のデザイン学校の中には、ゴシック・アンド・ロリータを採りあげている所もあり、[[バンタンデザイン研究所]]ではゴシック・アンド・ロリータを教える[[ファッション学部]][[コスチュームデザイン学科]]<ref name="bantan kenkyu">[http://www.vantan.com/courses_h/fd_c03.html バンタンデザイン研究所公式サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} 2009年4月11日閲覧</ref> が開設され、その理由を社長の[[菊池健蔵]]は、 {{cquote|欧米は、子供と大人の中間のファッションが見当たらないが、日本の『キュート』『かわいい』はそれに当たる独自のセンス。日本の"ポップカルチャー"として海外で支持され、その尖端ファッションを学びたいという学生が増えている。}} と説明した<ref name="sankei20080909" /><ref name="bantan">[http://www.vantan.jp/corporate/release/kiji.html?e_id=8 株式会社バンタン公式サイト]{{リンク切れ|date=October 2012}} 2009年4月11日閲覧</ref>。 === ポップカルチャー発信使(カワイイ大使) === [[2009年]]2月、[[KERA]]、[[ゴシック&ロリータバイブル]]の[[読者モデル]][[青木美沙子]]が[[外務省]]から「[[ポップカルチャー発信使|カワイイ大使]]」に任命され<ref name="mofa200902">{{Cite press release|和書|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/koryu/pop/kawaii/ |title=ポップカルチャー発信使(ファッション分野)の委嘱|publisher=[[外務省]]|date=2009-02}}</ref>、様々なイベントに参加する予定した<ref name="mainichi090227">『毎日新聞』2009年2月27日付</ref><ref name="asahi090227">『朝日新聞』2009年2月27日付</ref><ref name="mainichi090321" /><ref name="mainichi090321">『毎日新聞 東京版夕刊』2009年3月21日付</ref><ref name="yomiuri090227">『読売新聞』2009年2月27日付</ref><ref name="jpf.JPCF">{{Cite web|author=[[国際交流基金]]|url=http://www.jpf.go.jp/j/popculture/laforet/laforet.html |title=Japan Pop Culture|accessdate=2012-02-07}}{{リンク切れ|date=October 2012}}</ref><ref name="apalog88">[http://apalog.com/cooljapan/archive/88 クールジャパンブログ] 2009年8月25日閲覧</ref><ref name="GLB VOL.34p16-17">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.34』インデックス・コミュニケーションズ、2009年9月20日発行(16-17頁)</ref><ref name=" KERAVOL.134p176">『KERA VOL.134』インデックス・コミュニケーションズ、2009年10月16日発行(176頁)</ref><ref name="apalog100">[http://apalog.com/cooljapan/archive/100 クールジャパンブログ100] 2009年8月25日閲覧</ref><ref name="mainichi.jp090708">[http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/07/08/20090709k0000m030048000c.html 毎日jp]{{リンク切れ|date=October 2012}}</ref>。なお、青木は外務省のサイトでは「ロリータファッション界のカリスマ」としてその名が挙げられている<ref name="mofa200902" />。 ポップカルチャー発信使については[[#JAPAN EXPO]]、[[#Japan Pop Culture Festival]]でも述べる。 ==イベント== ゴシック・アンド・ロリータに関連するイベントとしては小規模な私的なものから、[[ファッションブランド]]が主催するもの、[[ファッションビル]]が主催するもの、[[行政機関]]が主催するものなど主催者、規模さまざまなものが日本国内外に存在する。 === お茶会 === 「お茶会」とは、昼間の時間帯にゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着用して集まり、紅茶を飲むという会である<ref name="siebold" />。しかしただお茶を飲むだけではなく、ゴシック・アンド・ロリータやロリータ・ファッションを着る機会<ref name="senken050926" />、友達作りの場<ref name="senken050926" />、顧客受注会<ref name="senken080715" /> などの意味も持つ。また、お茶会は全国各地で行われており、その規模も服飾メーカーが主催する100人規模のものから、私的な10人前後の集まりまでさまざまである<ref name="siebold" /><ref name="senken040630">『繊研新聞』2004年6月30日付</ref>。 日本国外でも[[フランス]]や<ref name=" KERAVOL.134p37">『KERA VOL.134』インデックス・コミュニケーションズ、2009年10月16日発行(37頁)</ref><ref name=" KERAVOL.134p46-47"/><ref name="senken080715">『繊研新聞』2008年7月15日付</ref>、韓国でお茶会が開催されている<ref>[https://ameblo.jp/ribbon-misa/entry-10343125230.html 青木美沙子のピンクなラブリー日記』]</ref><ref name="hanbai201001p20">『ファッション販売2010年1月特大号』商業界、2010年1月1日発行(20頁)</ref>。 === J-POP COLECTIONS === 2007年12月8日、パリの[[ムーランルージュ]]横のライブ会場でヨーロッパ初のゴスロリイベント・J-POP COLECTIONS in Paris 2007が開催された<ref name="jpc07">[http://www.eurojapancomic.com/co/jpc07/jpc07.shtml EURO JAPAN COMIC]</ref>。開催時間は14時から20時<ref>[http://www.eurojapancomic.com/co/jpc/jpc_info.shtml EURO JAPAN COMIC]</ref>、入場料2ユーロのイベントに500人が訪れ、ファッションショーには[[metamorphose temps de fille]]、[[EXCENTRIQUE]]、[[Emily Templecute]]、[[A+LIDEL]]、[[BLACK PEACE NOW]]、[[SEXY DYNAMITE LONDON]]、[[ALGONQUINS]]といったブランドが参加した<ref name="jpc07" />。また、翌年5月24日には第二回がロンドンで開催され、マルイワンがゴシック・アンド・ロリータのファッションショーを披露した<ref>[http://www.eurojapancomic.com/europe/uk/lonexpo08_report.shtml EURO JAPAN COMIC]</ref>。 ==== JAPAN EXPO ==== [[File:Nana Kitade 20070707 Japan Expo 20.jpg|thumb|170px|JAPAN EXPOにおけるラフォーレ原宿コレクション(2007年)[[Fairy wish]]]] [[Japan Expo|JAPAN EXPO]]は日本のポップカルチャーを集めたヨーロッパ最大のイベントである<ref name="ITNews">[http://www.youtube.com/watch?v=jIg5It_50wk 東京ITニュースJAPAN EXPO Paris ファッション編]</ref>。実行委員代表のトーマス・シルデによると、2005年ごろからJAPAN EXPOにはアニメだけでなく音楽やファッションも求められてきていた<ref name="senken060719">『繊研新聞』2006年7月19日付</ref>。そのため、2006年の第7回JAPAN EXPOでは[[109 (商業施設)|マルキュー]]系のブランドを集めた「東京スタイルコレクション」が初めて開催され<ref name="senken060719" />、翌[[2007年]]に開催された第8回JAPAN EXPOでは[[ラフォーレ原宿]]が[[ファッションショー]]を行った<ref name="senken070711" /><ref name="KERAVOL.122" />。第一回のショーには13のブランドが参加し<ref name="senken070711" /><ref name="JE2007.houkoku">[http://www.japan-expo.com/exposants/documents/je08_bilan-VJ.pdf ジャパネキスポ2007イベント結果報告書]{{リンク切れ|date=October 2012}} 2009年8月12日閲覧</ref>、秋冬の最新ルックが100ルック以上披露された<ref name="sibuya070710">[http://www.shibukei.com/headline/6221/ シブヤ経済新聞 2007年7月10日]</ref>。翌2008年に行われたラフォーレ原宿の2回目のショーにも多数ブランドが参加し<ref name="senken080715" />、10000人以上の観客を集めた<ref name="kakumei24-26">{{Harvnb|櫻井孝昌|2009|pp=24-26}}</ref><ref name="sibuya090701">[http://www.shibukei.com/headline/6221/ シブヤ経済新聞 2009年7月1日]</ref>。2009年のラフォーレ原宿コレクションでは10のブランドが参加参加し、15000人を動員した<ref name="soen2009Oct p106-107" /><ref name="KERAVOL.134p43">『KERA VOL.134』インデックス・コミュニケーションズ、2009年10月16日発行(43頁)</ref>。 [[櫻井孝昌]]は2009年に出版した著作『世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか』の中で、 {{cquote|フランスのジャパン・エキスポというとコスプレとアニメのイメージが強いが、ここ数年の入場者数激増(二〇〇六年:五万六〇〇〇人、二〇〇七年:八万人、二〇〇八年:十三万四〇〇〇人、二〇〇九年:一六万四〇〇〇人)の背景には、原宿ファッションのパリでの人気急騰もあることはあることはまちがいない。}} と述べている<ref name="kakumei24-26" />。なおラフォーレ原宿コレクションは、パリコレクションでも不可能な動員規模で、JAPAN EXPOのメインイベントのひとつと目されている<ref name="soen2009Oct p106-107" />。また、JAPAN EXPOの他にもフランスではJapan Pop Culture Festivalが開催された。しかし、日本のアパレルメーカーは中小企業がほとんどであるため、企業体力の点から、日本国外人気があることが分かっていても海外進出が難しい。よってこうしたブランドがまとまって海外進出できる支援・仕組みは[[クールジャパン]]を世界に広める上で不可欠であるという指摘もある<ref name="apalog88" />。 ==== Japan Pop Culture Festival ==== 2009年7月2日から5日にかけて、[[外務省]]所管の[[国際交流基金]]とラフォーレ原宿<ref name="apalog88" /><ref name="nissenmedia">[http://www.nissenmedia.com/news/kouri/2009/06/03100556.php 日本繊維新聞] 2009年8月23日閲覧</ref><ref name="jpf.press">{{Cite press release|和書|url=http://www.jpf.go.jp/j/about/press/dl/0447.pdf |publisher=[[国際交流基金]]|title=日本のポップカルチャーをパリから発信 パリ日本文化会館で「ジャパン・ポップカルチャー・フェスティバル」|date=2009-06-11|accessdate=2009-08-25}}</ref> 主催の[[Japan Pop Culture Festival]]が開催された<ref name="jpf.JPCF" /><ref name="apalog88" />。これは外務省初の日本カルチャーのイベントであった<ref name="apalog77">[http://apalog.com/cooljapan/archive/77 クールジャパンブログ77] 2009年8月25日閲覧</ref>。また、このイベントの一環として行われたラフォーレ・カワイイ・コレクションには10のブランドが参加した。 なお2009年9月26日・27日にも同名の「Japan Pop Culture Festival」というイベントが大阪の[[関西国際空港]]で開かれている<ref name="Japanpop outline">[http://japanpop.jp/outline/index.html Japan Pop Culture Festival]</ref>。 ==== インディビジュアル・ファッション・エキスポ ==== 2005年10月にはゴスロリとレディスパンクの最大のイベントといわれるインディビジュアル・ファッション・エキスポの第1回が『KERA』の発行元、インデックス・コミュニケーションズの主催で開かれた<ref name="senken061006"/>。インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは日本独自の個性派ファッション・イノベーターに向けたファッション・イベントであるが、ファッション・ショーだけでなく、[[ヴィジュアル系]]アーティストによるライブなども行われた<ref name="fashionjp">[http://fashionjp.net/event/individual_fashionexpo.html fashionjp.net インディヴィジュアルファッションエキスポ] 2009年8月20日閲覧</ref>。 2006年10月8日に[[新木場]]の[[スタジオコート]]で2回目のインディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれ「インディビジュアル・マジック」をテーマとしたショーには[[PEACE NOW]]、[[BLACK PEACE NOW]]、[[ALGONQUINS]]、[[SEXY DYNAMITE LONDON]]、[[metamorphose temps de fille|Metamorphose]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[ALICE and the PIRATES]]、[[KERA SHOP|KERA SHOP ANGEL/ARENA]]などゴスロリ系の10ブランド、[[G]]、[[相原玲]]、[[菅原麻里]]、[[青木美沙子]]、[[Uri]]、[[千景 (ファッションモデル)|千景]]などのモデルの参加がアナウンスされた<ref name="senken061006" />。なお来場者は1500人であった<ref name="senken061014">『繊研新聞』2006年10月14日付</ref>。 [[ファイル:JCB HALL.jpg|thumb|right|200px|[[JCBホール]](style-arena<ref name="style" /> には2008年9月23日にJCBホールの外で撮影された写真が掲載されている)]] 2008年9月23日に[[JCBホール]]で開催されたINDIVIDUAL FASHION EXPO IVのファッション・ショーには、[[ALGONQUINS]]、[[Angelic Pretty]]、[[metamorphose temps de fille|Metamorphose]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]、[[SEXY DYNAMITE LONDON]]、[[h.NAOTO|Sixh.]]、[[h.NAOTO|HANGRY & ANGRY]]、[[ALICE and the PIRATES]]、[[artherapie]]、[[Ozz croce]]、[[Emily Temple cute]]、[[BLACK PEACE NOW]]、[[PEACE NOW]]、KERA SHOP ARENA([[Qutie Frash]]、[[HIDEROCK Design]]、[[LISTEN FLAVOR]]、[[HYPER CORE]]、[[SUPER LOVERS]])、KERA SHOP ANGEL([[ATELIER BOZ]]、[[Princess Doll]]、[[Victorian maiden]])などが参加した<ref name="individual">[http://www.0101.co.jp/topics/fashionexpo4/ INDIVIDUAL FASHION EXPO IV REPORT] 2009年8月20日閲覧</ref><ref name="GLB VOL.30p75">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.30』インデックス・コミュニケーションズ、2008年9月21日発行(75頁)</ref>。参加ブランドはゴスロリ系とロック系あわせて約20ブランドである<ref name="apalog18">[http://apalog.com/cooljapan/archive/18 クールジャパンブログ18] 2009年8月25日閲覧</ref>。また、ゲストライブには[[分島花音]]、[[Plastic Tree]]、[[jealkb]]が参加した<ref name="TJ329">[http://apalog.com/kurita/archive/329 テンカイジャパン329] 2009年8月25日閲覧</ref><ref>『装苑 2008年10月号』文化出版局、2008年10月1日発行(156頁)</ref>。なおインディヴィジュアル・ファッションとは、人とは違う「独自性」を強く反映させたファッション・スタイルであるが<ref name="fashionjp" /> 来場者は約3000人近くおり<ref name="apalog18" />、 [[東京ガールズコレクション]]や[[神戸コレクション]]などの他のファッションイベントと比べ日本人以外の来場者がかなり多くいた<ref name="apalog18" />。 なお、インディヴィジュアル・ファッション・エキスポは、マルイワン新宿のプロモーションのほかに、「“ゴスロリファッションを楽しむ場”の提供」も目的としているという{{要出典|date=2012年5月|title=過去の編集により出典情報が失われたようです}}。 == 『ゴシック&ロリータバイブル』 == 『ゴシック&ロリータバイブル』は、2000年にゴシック・アンド・ロリータに特化したムック誌として創刊された<ref name="style" />。これ以前には、『[[装苑]]』が金子系などのロマンチックなファッションの関係や日本発の[[モード]]として、『[[CUTiE]]』が[[ストリート・ファッション]]の中の小さな一派として、それぞれ取り上げたりしていたものの、ゴシック・アンド・ロリータの専門誌は存在しなかった<ref name="sekai60-65">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=60-65}}</ref>。また、『CUTiE』でも1998年以降になるとほとんど取り上げられていない。 編集長の鈴木真理子によると2000年春、ゴスロリ服とヴィジュアル系バンドの動きを面白く思い、ヴィジュアル系バンドとそのファンのためのファッション雑誌を作ることを会社に提案したが会社は承認しなかった<ref name="GLBB94-95" />。しかし夏の終わり頃、提案に反対していた上司が[[繊研新聞]]の記事を読んで、今ゴシック&ロリータの服だけが売れているということを知り、鈴木に「'''ゴシック&ロリータ'''の'''バイブル'''」を作るように求めてきた<ref name="GLBB94-95" />。そこで創刊が決まり、同時に誌名も決まった<ref name="GLBB94-95" />。『KERA』の別冊として創刊された『ゴシック&ロリータバイブル』は<ref name="street56-59" />、ムック誌でありながら4度の重版を重ねた<ref name="style" />。さらに2003年に『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』<ref>『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』インデックス・マガジンズ、2003年10月26日発行</ref>、『ゴシック&ロリータバイブル VOL.20』が発行され、2007年には創刊号が『ゴシック&ロリータバイブル Premium 1st』として復刊された<ref>『ゴシック&ロリータバイブル Premium 1st』インデックス・コミュニケーションズ、2007年5月24日</ref>。 『ゴシック&ロリータバイブル』が創刊されたことから、2000年までの段階でロリータ・ファッションや、ゴシック・ファッション、ゴシック・アンド・ロリータを特集して一冊の本ができるほどブランド数が増加していたとも言われている<ref name="inter161-162" />。 [[2004年]]は、ゴスロリ系雑誌創刊ラッシュと言われたが定着と拒否が分かれた<ref name="street 33" />。なお2007年時点で刊行が続いていたのは『ゴシック&ロリータバイブル』と『ゴスロリ』([[ブティック社]])のみであった<ref name="sekai211">{{Harvnb|松浦桃|2007|p=211}}</ref>。また、メタモルフォーゼのデザイナー加藤も {{cquote|特に2004年は、ロリータファッション(ゴスロリ?)当たり年!!といっていいほど、何冊も新しい雑誌が発行され、まぁ・・お堅い出版社さんからサブカルチャー系まで・・・・・ホント凄いですね。だけど、中をめくってみれば全部一緒。というのが実際のところ。「ゴスロリってこういうものでしょう?」みたいな。出版社さんも頑張ってるんだろうけど・・・・「子供騙し」と、ベテラン?ロリータさん達は苦笑。結果、マニュアル通りの着こなししか出来ない「制服ロリータ」ちゃんが街に溢れ出す結果に。}} と指摘している<ref name="kenkai4-1">[http://www.h2.dion.ne.jp/~dokuzetu/dokuzetsudiary/aboutlolita/about-lolita4-1.htm 『ロリータについての見解4-1』metamorphose temps de filleデザイナー加藤訓仁子のブログ]{{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref>。ゴシック・アンド・ロリータ愛好者には、幻想文学や現代アートなどを扱う『[[夜想]]』のコアな読者もいる<ref name="genkiti2005b62">『現代用語の基礎知識2005別冊付録』2005年1月1日発行(62-63頁)</ref>。 === スナップから見られる変遷 === [[ファイル:Harajuku centre.jpg|thumb|right|200px|原宿:[[ギャップ (企業)|GAP]]前はスナップ撮影が行われることもある]] 2008年2月に発行された『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』では、過去に『KERA』、『KERA マニアックス』、『ゴシック&ロリータバイブル』に掲載されたスナップを再編集した「Gothic&Lolitaファッションの歴史がわかる!! SNAPヒストリー1998年〜2008年」という特集が組まれた<ref name="GLBB56-71">『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』インデックス・コミュニケーションズ、2008年2月28日発行(56-71頁)</ref>。それによると各年のゴシック・アンド・ロリータの特徴は次のようにまとめられている。 ;創世記(1998年 - 2000年) 『KERA』VOL.3 -25、『Gothic&Lolita Bible』VOL.1、『KERAマニアックス』VOL.1 :この頃はゴシック・アンド・ロリータブランドが少なかったため、ヴィヴィアン・ウエストウッドやジェーン・マープルなどのブランドに手作りしたヘア・アクセサリーやスカート、ジャケットなどのアイテムを合わせる者が多数いた<ref name="GLBB56-71" />。また、[[楠本まき]]の漫画作品『[[KISS xxxx]]』の主人公「かめの」に憧れる者も多かった<ref name="GLBB56-71" />。 ;2001年『Gothic&Lolita Bible』VOL.2 - 3 :街にはピンクの甘いロリータ・ファッションよりも黒や白のゴシック・アンド・ロリータを着た者が多かった<ref name="GLBB56-71" />。 ;2002年『Gothic&Lolita Bible』VOL.4 - 7 :女性の王子スタイルが見られるようになった<ref name="GLBB56-71" />。 ;2003年『Gothic&Lolita Bible』VOL.8 - 11 :ゴシック・アンド・ロリータを基調とする様々なファッション・スタイルが発生し、フェティッシュやサイバーと合わさったものも現れた<ref name="GLBB56-71" />。 ;2004年『Gothic&Lolita Bible』VOL.12 - 15 :『下妻物語』が映画化されたことで、アンダーグラウンドなファッションであったロリータやゴシック・アンド・ロリータが世間に知られるようになり、主人公の桃子のスタイルをまねてピンクの甘ロリに日傘が多く見られた<ref name="GLBB56-71" />。 ;2005年『Gothic&Lolita Bible』VOL.16 - 19 :和ゴス、和ロリなどが流行り、チャイナや和のテイストをミックスした[[Qutie Frash]]、和の素材や[[カッティング]]{{要曖昧さ回避|date=2022年8月}}の[[despair]]などの人気が上昇した<ref name="GLBB56-71" />。 ;2006年『Gothic&Lolita Bible』VOL.20 - 23 :ゴシック・アンド・ロリータの頭モノとしてそれまで主流であったヘッドドレスにかわって、リボンカチューシャの着用者が増えた<ref name="GLBB56-71" />。 ;2007年『Gothic&Lolita Bible』VOL.24 - 26 :前年頃一部のギャルから派生した姫ロリがブレイクした<ref name="GLBB56-71" />。 === 著名な読者モデル ===<!-- 単なる読者モデル一覧にはせず、『ゴシック&ロリータバイブル』以外で特筆性のある活動を行っている読者モデルを、出典を確保した上で追加してください。--> ;[[青木美沙子]] :当初、活動は『KERA』本誌のみだったが『ゴシック&ロリータバイブル VOL.3』で初登場した<ref name="GLBB106-107">『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』インデックス・コミュニケーションズ、2008年2月28日発行(106-107頁)</ref>。その後[[#ポップカルチャー発信使(カワイイ大使)|前述]]のように2009年に外務省からポップカルチャー発信使(カワイイ大使)に任命された<ref name="mofa200902" /><ref name="mainichi090227" /><ref name="asahi090227" />。 ;[[井上麻里奈]]<ref name="GLB VOL17p23">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.17』インデックス・マガジンズ、2005年6月20日発行(23頁)</ref> :[[声優]]。デビュー作の『[[コゼットの肖像]]』は『ゴシック&ロリータバイブル』誌上にも[[声優]]オーディションの広告が掲載された<ref name="GLB VOL.10p80">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』インデックス・マガジンズ、2003年10月26日発行(80頁)</ref>。 ;[[紫泉]] :[[ディスクジョッキー|インダストリアルDJ]] <ref name=" KERAVOL.130p113">『KERA VOL.130』インデックス・コミュニケーションズ、2009年6月16日発行(113頁)</ref>。2001年『ゴシック&ロリータバイブル』の街頭スナップ撮影を受けたことがきっかけで同誌の読者モデルとなる<ref name="GLBB56">『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』インデックス・コミュニケーションズ、2008年2月28日発行(56頁)</ref>。<!-- 単なる読者モデル一覧にはせず、『ゴシック&ロリータバイブル』以外で特筆性のある活動を行っている読者モデルを、出典を確保した上で追加してください。--> == ゴシック&ロリータ協会 == [[1998年]]、[[マルイワン]]の改装に伴い[[KERA! SHOP]]がスタートすると『[[KERA]]』の出版元[[バウハウス (出版)|バウハウス]]の編集広告担当者を発起人とし、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]の磯部明徳が会長の「ゴシック&ロリータ協会」が発足された。ゴシック&ロリータ協会は[[バウハウス (出版)|バウハウス]]の編集広報担当、関西と関東のブランド数社が集まり、ゴシック・アンド・ロリータというカテゴリーと現在のムーブメントの原型を作った<ref name="street56-59">{{Harvnb|ストリートモード研究会|2007|pp=56-59}}</ref>。 === 会員 === 2001年8月12日に、ゴシック&ロリータ協会が主催した「GOTHIC LOLITA SECRET TOUR」の広告や、その他の『ゴシック&ロリータバイブル』の広告によると、加盟していたのは次の企業と個人である<ref name="GLB VOL.2p112-113">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.2』ヌーベルグー、2001年8月25日発行(112-113頁)</ref><ref name="GLB VOL.3p10-11">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.3』ヌーベルグー、2002年1月10日発行(10-11頁)</ref>。 {{Columns-list|2| *[[Angelic Pretty]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[ATELIER BOZ]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /> *[[ATELIER-PIERROT]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[BLACK PEACE NOW]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Classic Lolita]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[GOLD SEAL]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /> *[[ゴスロリブランド一覧#Innocent World|Innocent World]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Lapin d'or]] <ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Like an Edison]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[MAXICIMAM|MAM]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *marionette<ref name="GLB VOL.2p112-113" /> *[[MASK]]{{要曖昧さ回避|date=2020年5月}}<ref name="GLB VOL.2p112-113" /> *[[metamorphose temps de fille|Metamorphose]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Michiru Produce]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[MIHO MATSUDA]] <ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Na+H]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[丸井|OIONE SHIBUYA]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /> *[[丸井|OIONE SHINJUKU]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[PS COMPANY]]<ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[PUTUMAYO]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[S・E・X]]<ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[SUPPURATE SYSTEM]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[Victorian Maiden|Victorian maiden]]<ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[zazou planet]] <ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> *[[三原ミツカズ]] <ref name="GLB VOL.2p112-113" /><ref name="GLB VOL.3p10-11" /> }} なお、ゴシック&ロリータ協会は『KERA』の出版元が[[インデックスコミュニケーションズ]]に変わった際、解散している<ref name="street56-59" />。 == オタク文化との関係 == ゴシック・アンド・ロリータと[[オタク文化]]には似た部分があり、見解の一つとして樋口ヒロユキは {{cquote|両者ともにジェンダー・バランスが極端に偏っている。[[オタク]]は[[美少女]]に「[[萌える]]」男性に偏っているが、ゴシック・ロリータは[[美少年]]の[[ゴス (サブカルチャー)|ゴス]]・バンドを偏愛する少女達に偏っている。オタクは巨大な[[乳房]]を好み、ゴシック・ロリータは[[中性的]]な美少年を好む。オタクは[[フィギュア|美少女フィギュア]]を好み、ゴシック・ロリータは[[ナルシシズム|ナルシスティック]]な[[球体関節人形]]を愛する・・・・・・}} と指摘した上で、オタクは性的妄想を隠そうとしない「[[エロス]]の文化」で、ゴシック・アンド・ロリータは性の代わりに死を用いる「[[タナトス]]の文化」であるとした{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。さらに、両者共にジェンダー・パニックを抱えた存在で、ゴシック・アンド・ロリータの一部にも「[[やおい]]」のようなオタク文化を愛好するものがいると指摘した{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。 [[ファイル:Maid character.png|thumb|left|200px|オタク文化における[[メイド]]]] [[ファイル:De Alice's Abenteuer im Wunderland Carroll pic 04.jpg|thumb|right|200px|[[ジョン・テニエル]]の描いたアリス。なおテニエルは[[1893年]]に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から[[ナイト]]の[[称号]]を与えられている<ref name="illustration">『イラストレーション 2009年5月号No.177』玄光社、2009年5月1日発行(44-45頁)</ref>。]] またオタク文化で生まれたものをゴシック・アンド・ロリータ文化で消費する[[ボークス]]の[[スーパードルフィー]]のような例もある{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。スーパードルフィーは男性向けの[[ガレージキット]]を制作してきた[[ボークス]]が女性向けに制作した[[球体関節人形]]で<ref name="sekai165-170">{{Harvnb|松浦桃|2007|pp=165-170}}</ref>、耽美的な繊細な容姿・世界観でファンを魅了し、コレクタブル・ドールの世界を拡大させた{{Sfn|榎本秋|2009|p=179}}。ゴシック・アンド・ロリータはスーパードルフィーの衣装としても人気が高く、所有者の中にはスーパードルフィーとお揃いの着こなしをする者もいる<ref name="sekai165-170" />。ゴスロリブランドも人形用の服を販売しており<ref name="inter162-164">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=162-164}}</ref>、h.NAOTOのようにボークスと協業したブランドもある<ref name="senken080126">『繊研新聞』2008年1月26日付</ref><ref name="senken060715">『繊研新聞』2006年7月15日付</ref>。また、スーパードルフィーの人気は1990年代のヴィジュアル系バンドの隆盛や、ゴシック・アンド・ロリータブームの影響も大きいという指摘もある{{Sfn|榎本秋|2009|p=179}}。 とはいえ、やおいやスーパードルフィーを愛好する者は一部でしかなく、ゴシック・アンド・ロリータとオタク文化は相反する存在であるとの見解もある{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。例えば、メイドカフェに見られるような[[アキバ系]]の[[コスプレ]]ファッションの本質はゴシック・アンド・ロリータとは全く違う<ref name="hanbai200604p92-93" />。メイドカフェのメイドが一部の人々の享楽のためにあるのに対し、ゴシック・アンド・ロリータは、それを着る少女達を精神的に癒すもの<ref name="hanbai200604p92-93" /> で、ただ自分のためだけに着飾るもの<ref name="TH No.33 65-68" /> である。また、ゴシック・アンド・ロリータと同じ頃に発生したメイドというコンセプトが、ストリートファッションとして定着せずにオタク文化の中に留まっているのは、ロリータがどこにいても緩やかな枠で位置づけられているのに対して、メイドは限定された位置づけにあるためとも言われている{{Sfn|松浦桃|2007|pp=185-187}}。 [[ファイル:Wikipe-tan GothLoli.png|thumb|right|200px|ゴシック・アンド・ロリータを着る[[Wikipedia:ウィキペたん|ウィキペたん]](オタク文化におけるゴシック・アンド・ロリータの例)オタク文化にはゴスロリカフェも存在していたが、2008年2月11日に閉店している<ref name="asahi080320">『朝日新聞 大阪版朝刊』2008年3月20日付</ref><ref>[http://corneilleblog.blog101.fc2.com/ Gothic&Lolita Cafe Corneilleスタッフブログ]</ref><ref name="GLB VOL.25p25">『ゴシック&ロリータバイブル VOL.25』インデックス・コミュニケーションズ、2007年6月21日発行(25頁)</ref>。またゴシック・アンド・ロリータは「お嬢様」キャラクターの服装として着物やお嬢様学校の制服と並んで挙げられる<ref>ライトノベル作法研究所『キャラクター設計教室』秀和システム、2009年8月発行</ref>。]] [[MIHO MATSUDA]]のデザイナーが[[Devil May Cry]]の登場キャラクター衣装をデザインした例もあり、コラボレーショングッズの取り扱いも行われた<ref name="shojo-bunka3.159-161">{{Harvnb|東園子|2009|pp=159-161}}</ref>。MIHO MATSUDAのほかにもh.NAOTOがオタク文化と関わりのある取り組みを行っている。 === オタク文化とh.NAOTO === 前述のように、h.NAOTOはボークスと協業しているが<ref name="senken080126" /><ref name="senken060715" />、h.NAOTOのデザイナー廣岡直人は、ゴシック・アンド・ロリータに次ぐ柱<ref name="senken050726" /> として登場した「ヘブン」でコスプレ、アニメ、ゲームなどを題材としたラインを発表している<ref name="senken060715" />。ヘブンは声優の[[高橋直純]]や[[水樹奈々]]が着用したことで顧客を一気に獲得し、東京原宿にオープンした路面店では開店初日に500人のファンが列をつくり、約600万円を売り上げた<ref name="senken050726">『繊研新聞』2005年7月26日付</ref>。また、人気声優とのタイアップも企画し<ref name="senken050726" />、高橋直純とのコラボレーションショーも行われた<ref name="senken060101" />。また2005年8月4日付けの繊研新聞に掲載された、あるレディスアパレルメーカーについての記事によると、東京原宿で開いた路面店に全国からアキバ系が集まり、初日だけで約800万円を売り切った<ref name="senken050804">『繊研新聞』2005年8月4日付</ref>。 またh.NAOTOは、[[東京ビッグサイト]]で2006年8月11日から3日間の日程で開催された[[コミック・マーケット]]に「ハングリー&アングリー」を出展した<ref name="senken060728">『繊研新聞』2005年7月28日付</ref><ref name="senken060816">『繊研新聞』2005年8月16日付</ref>。この出展は商標権と製造・販売ライセンスを玩具メーカーの[[サンリオ]]に供与することが決まっていた「ハングリー&アングリー」の全国展開を前に、知名度を上げることが目的であった<ref name="senken060728" /><ref name="senken060816" />。また12日、13日には声優の[[さかいかな|酒井香奈子]]も来店した<ref name="senken060816" />。酒井はマルイヤング新宿店のイベントスペースに開店した期間限定ショップにもキャラクターグッズに身を包んで登場した<ref name="senken0612">『繊研新聞』2006年12月9日付</ref>。2007年の段階でコミックマーケットへの出展は3回行われている<ref name="senken070823">『繊研新聞』2007年8月23日付</ref>。 === オタク文化との格差 === また日本では、オタク市場が認知度、市場規模で優位に立っており、ゴシック・アンド・ロリータが吸収されかねない状態にある。樋口ヒロユキは、このようなオタク文化とゴシック・アンド・ロリータ文化の規模の差について、男性の文化と女性の文化という違いによる、[[ジェンダー・バイアス]]の影響を認めつつも、私見として、ゴシック・アンド・ロリータが社会への主張・説明の機会を逸してきた点を指摘した。その例として、オタクとの関連を指摘された[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の際にはオタク文化人が積極的に寄せたが、ゴシック・アンド・ロリータとの関連を指摘された[[河内長野市家族殺傷事件]]の際にはゴシック・アンド・ロリータ文化人がコメントを拒否したことをあげている。また海外でも[[ゴス (サブカルチャー)|ゴシック・カルチャー]]が盛んなアメリカ合衆国でゴシック・カルチャーとの関連を指摘された[[コロンバイン高校銃乱射事件]]の際に、[[マリリン・マンソン]]が主張した{{Sfn|樋口ヒロユキ|2007|pp=258-267}}。 しかし、ゴシック・アンド・ロリータのマーケットはヴィジュアル系バンドから、[[パンク・ロック]]、[[ロック (音楽)|ロック]]、[[コスプレ]]、[[アニメ声優]]などの切り口を巻き込み、より大きなマーケットを形成しつつあるという指摘も見られる<ref name="senken060101" />。 ===コスチュームとしてのゴシック・アンド・ロリータ === {{Otheruses||性風俗業界のコスプレにおけるゴシック・アンド・ロリータ|性的ロールプレイ}} ゴシック・アンド・ロリータの流行によって、アニメや漫画にもゴシック・アンド・ロリータ的な装いのキャラクターが登場するようになると、現実離れしたゴシック・アンド・ロリータ服は、漫画の登場人物になってみたい、登場人物のような服装をしたいというコスプレイヤーにも受け入れられるようになった<ref name="shojo-bunka3.127-144" /><ref name="joseigaku109">{{Harvnb|水野麗|2004|p=109}}</ref>。さらに、コスプレが禁止されている会場においても、あくまでファッションであるという理由でゴシック、ロリータ、ゴシック・アンド・ロリータは許可されている場合もある<ref name="shojo-bunka3.127-144" />。しかし、ゴシック・アンド・ロリータ愛好者の中にはコスプレとしてゴシック・アンド・ロリータを着ることに対して嫌悪感を示すものもいる<ref name="inter161-162" />。なお、コスプレ雑誌『[[電撃レイヤーズ]]』は「コスロリ」という言葉を提唱している<ref name="inter161-162" />。コスロリとは「'''コス'''プレゴス'''ロリ'''」や「'''コス'''プレ'''ロリ'''ータ」を意味する語であるが、愛好者のなかにはこれらコスロリを好まないものもいる<ref name="shojo-bunka3.127-144" />。その一方で、それらコスロリも、ゴシック・アンド・ロリータを着用しない人々から見れば、定期的に着用するユーザーとみることもできる、という指摘もある<ref name="shojo-bunka3.127-144" />。また、同人誌即売会に小物類や衣装を出展することもあり<ref name="shojo-bunka3.127-144" />、[[#オタク文化とh.NAOTO|前述]]のh.NAOTOのようにアパレルメーカーが同人誌即売会に出店するケースもある<ref name="senken060728" /><ref name="senken060816" />。そのため、ファン層の何割かは、漫画やアニメと密接に関係した部分の影響を受けており共存している、との指摘もある<ref name="shojo-bunka3.127-144" />。またヨーロッパにおけるゴシック・アンド・ロリータの定着に『[[NANA]]』や『[[DEATH NOTE]]』が与えた影響は大きいとも言われており<ref name="kakumei26-28">{{Harvnb|櫻井孝昌|2009|pp=26-28}}</ref>、『DEATH NOTE』の弥海砂や『NANA』のような格好がしたいという部分がきっかけになっているのは間違いないという指摘もある<ref name="kakumei170-173">{{Harvnb|櫻井孝昌|2009|pp=170-173}}</ref>。 == ゴシック・アンド・ロリータ関連年表 == *[[18世紀]]、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]のフランス宮廷から[[ロココ]]文化が始まる{{Sfn|古賀令子|2009|pp=111-119}} *[[1764年]]、『[[オトラント城奇譚]]』発表{{Sfn|吉村純司|1996|pp=27-28}} *[[1795年]]、『[[マンク (小説)|マンク]]』発表{{Sfn|吉村純司|1996|pp=9-25}} *[[1818年]]、『[[フランケンシュタイン]]』発表<ref name="jinzo310-314">{{Harvnb|巽孝之|2006|pp=310-314}}</ref> *[[1837年]]、[[ヴィクトリア朝]]時代の始まり<ref name="GLB VOL.2p80-81" /> *[[1865年]]、『[[不思議の国のアリス]]』発表{{Sfn|坂井妙子|2007|pp=3-6}}<ref name="jinzo310-314" /> *[[1886年]]、『[[小公子]]』出版{{Sfn|坂井妙子|2007|pp=3-6}} *[[1897年]]、『[[吸血鬼ドラキュラ]]』発表{{Sfn|アトリエサード|2008|p=126}} *[[1901年]]、ヴィクトリア朝時代の終わり<ref name="GLB VOL.2p80-81" /> *[[1922年]]、『[[吸血鬼ノスフェラトゥ]]』発表<ref name="daizen">{{Cite book|和書|author=AVエクスプレス |title=映画大全集 |date=2003 |edition=増補改訂版 |publisher=メタモル出版 |isbn=4895953785 |page=236}}</ref> {{Sfn|スティングレイ|日外アソシエーツ|2008|p=168}} *[[1931年]]、『フランケンシュタイン』映画化{{Sfn|スティングレイ|日外アソシエーツ|2008|p=550}} *[[1955年]]、『[[ロリータ]]』発表<ref name="jinzo310-314" /> *[[1970年]]、[[MILK (ファッションブランド)|MILK]]誕生{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}} *[[1971年]]、[[ピンクハウス]]誕生<ref name="street 32" /> *1971年、[[ヴィヴィアン・ウエストウッド]]活動開始{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}} *[[1979年]]、[[Angelic Pretty]]の前身、[[セレクトショップ]]Prettyがラフォーレ原宿にオープン<ref name="ensemble1p67-79">『ゴシック&ロリータアンサンブル Vol.1』インフォレスト、2010年4月5日発行(67-79頁)</ref> *[[1983年]]、[[ナゴムレコード]]創立{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}}<ref name="rococo VOL.1 90-93" /> *[[1984年]]、[[トランスレコード]]創立{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}}<ref name="rococo VOL.1 90-93" /> *[[1988年]]、[[BABY, THE STARS SHINE BRIGHT]]の前身となる婦人服製造会社設立<ref name="ensemble1p67-79" /> *[[1989年]]、[[X JAPAN|X]]メジャーデビュー<ref name="inter158-159">{{Harvnb|水野麗|2007|Ref=OCLC162720429|pp=158-159}}</ref> *1989年、[[Kazuko Ogawa]]誕生<ref name="street 32" /> *[[1980年代]]、ナゴムギャル、トランスギャル出現<ref name="GLB VOL.24p41-46" /><ref name="sekai44-60" /> *[[1990年]]頃、[[VISIBLE]]が黒いアイテムを作る<ref name="sekai44-60" /> *[[1992年]]、[[MALICE MIZER]]結成<ref name="street 33" /> *1992年、BABY, THE STARS SHINE BRIGHT設立<ref name="deco">『Alice DECO a la mode Summer 2009』インフォレスト、2009年8月10日発行(48-49頁)</ref> *[[1998年]]3月、『KEROUAC』(後の『[[KERA]]』)誕生<ref name="KERAVOL.127">『KERA VOL.127』インデックス・コミュニケーションズ、2009年3月16日発行(118頁)</ref> *1998年5月、『KEROUAC』の原宿スナップ隊が「ゴシック&ロリータ」、「ゴスロリ」と呼ばれるファッションを確認する<ref name="GLBB94-95" /> *1998年9月、『KEROUAC』で「ゴスロリ」という語が登場する<ref name="GLBB94-95" /> *1998年、ゴシック&ロリータ協会発足<ref name="street56-59" /> *1998年、MALICE MIZERメジャーデビュー<ref name="street 33" /><ref name="inter158-159" />、[[merveilles]]発表 *[[1999年]]、[[Moi-même-moitié]]が誕生<ref name="inter161-162" /><ref name="street 33" /> *1999年、『[[KERA|KEROUAC]]』[[独立創刊|創刊]]{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}}<ref name="KERAVOL.127" /> *1999年、[[スーパードルフィー]]発売{{Sfn|松浦桃|2007|pp=209-210}} *1990年代、ゴシック・アンド・ロリータが認知され始める<ref name="jinzo310-314" /> *[[2000年]]、ゴシック・アンド・ロリータが徐々に浸透する<ref name="street 33" /> *[[2001年]]、ゴシック・アンド・ロリータやパンク系[[トレンド]]が浮上<ref name="senken021029">『繊研新聞』2002年10月29日付</ref> *2001年、『[[ゴシック&ロリータバイブル]]』が創刊<ref name="inter154-156" /> *[[2002年]]、『[[下妻物語]]』発表<ref name="jinzo310-314" /> *[[2003年]]、[[河内長野市家族殺傷事件]]が発生<ref name="shiso14-26" /> *[[2004年]]、『下妻物語』映画化<ref name="rococo VOL.1 90-93" /><ref name="jinzo310-314" /> *2004年、ゴスロリ系雑誌創刊ラッシュ<ref name="street 33" /> *2004年1月、『[[ゴスロリ (雑誌)|ゴスロリ]]』発行<ref>『ゴスロリ』ブティック社、2004年1月発行</ref> *2004年5月、『[[FRiLL]]』発行<ref>『FRiLL』主婦と生活社、2004年5月発行</ref> *2004年9月、『[[メゾン〜ゴシック&ロリータSTYLEBOOK]]』発行<ref>『メゾン〜ゴシック&ロリータSTYLEBOOK』学習研究社、2004年9月11日発行</ref> *2004年10月、『[[ゴスロリ&パンクスタイル ROCOCO]]』発行<ref name="rococo VOL.1">『ゴスロリ&パンクスタイル ROCOCO VOL.1』辰巳出版、2004年10月25日発行</ref> *[[2005年]]、モードでゴシック・アンド・ロリータが取り上げられる<ref name="senken050318" /> *2005年10月、インディビジュアル・ファッション・エキスポが開かれる<ref name="senken061006" /> *[[2006年]][[12月1日]]、フランスパリ初のゴスロリ専門洋服店「ハラジュク」がオープンする<ref name="EuroJapanHarajuku" /> *[[2007年]]、[[Japan Expo|JAPAN EXPO]]にて[[ラフォーレ原宿]]がファッション・ショーを行う<ref name="senken070711" /><ref name="KERAVOL.122" /> *2007年、[[h.NAOTO]]が08年春夏[[東京コレクション]]に参加する<ref name="asahi070220" /><ref name="senken070711" /> *2007年6月、フランス初のゴスロリブランド[[KAWAIKO]]がパリ市内に店舗をオープンする<ref name="EuroJapanKawaiko" />。 *[[2008年]]、[[横浜美術館]]で「ゴス展」が開かれる<ref name="asahi080711">『朝日新聞 東京版夕刊』2008年7月11日付</ref> *2008年、JAPAN EXPOにてラフォーレ原宿が2回目のファッション・ショーを行う<ref name="senken080715" />。 *[[2009年]]2月、青木美沙子がポップカルチャー発信使(カワイイ大使)に任命される<ref name="mofa200902" /><ref name="mainichi090227" /><ref name="asahi090227" /> *2009年7月、[[Japan Pop Culture Festival]]<ref name="jpf.JPCF" /><ref name="apalog88" />、[[JAPAN EXPO]]にカワイイ大使が参加する *2010年4月、『[[ゴシック&ロリータアンサンブル]] Vol.1』発行<ref>『[[ゴシック&ロリータアンサンブル]] Vol.1』インフォレスト、2010年4月5日発行</ref> *2017年5月、[[Gothic&Lolita Bible]] 休刊。 *2018年6月、[[LE PANIER]] Vol.1』発行。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献一覧 ==<!-- 記事を書くにあたって参考にした文献です--> {{参照方法|date=2012-02}} === 論文 === * {{Cite journal|和書|author=吉光正絵 |title=サブカルチャーと共同体 |date=2002 |publisher=県立長崎シーボルト大学 |journal=県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 |number=3 |naid=40005697287 |pages=219-226 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=吉光正絵 |title=ゴスロリ--ロック・カルトの現在形 (特集 "有名する"ひとびと--21世紀のメディアと表現) -- (表現で「有名しよう!」) |date=2003-03 |publisher=京都精華大学 |journal=木野評論 |volume=34 |naid=40005786065 |pages=56-61 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=水野麗 |title=「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱--「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー (特集 役割としての「女」「男」--演じる・ずらす・抜け出す) |date=2004 |publisher=日本女性学研究会「女性学年報」編集委員会 |journal=女性学年報 |number=25 |naid=40006599486 |pages=107-135 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|publisher=大阪大学[[21世紀COEプログラム]]「インターフェイスの人文学」|date=2007-01-31|title=イメージとしての「日本」05:海外における日本のポピュラーカルチャー受容と日本研究の現在|quote=「ゴシック・ロリィタ」コミュニティにおけるセルフアイデンティティ|author=水野麗[et al]|oclc=162720429|ref=OCLC162720429}} * {{Cite journal|和書|author=西村則昭 |title=「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ : あるストリート・ファッションをめぐる魂の現象学の試み |date=2005-03-31 |publisher=仁愛大学 |journal=仁愛大学研究紀要 |volume=3 |naid=110004476012 |pages=23-37 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=小野原教子 |title=希(ねが)いの森--ゴスロリファッションに見る現代日本女性の下着観 (臨床の語用論(1)行為の方向を決めるもの) -- (コミュニケーション論) |date=2005-05 |publisher=至文堂 |journal=現代のエスプリ |number=454 |naid=40006745792 |pages=103-116 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=若島正 |authorlink=若島正 |title=翻訳という越境 : 『ロリータ』をめぐって | journal=連鎖する地域と文化 |date=2007-03 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |isbn=9784876987092 |ncid=BA81555038 |ref=harv}} *『年報「少女」文化研究: 「少女」文化の友第3号』 ** {{Cite journal|和書|author=水野麗|authorlink=水野麗|title=少女の異常な愛情--または私は如何にして心配するのを止めてデコ電を愛するようになったか|journal=年報『少女』文化研究|issue=3|year=2009|publisher=「少女」文化研究会|naid=40017145859 |ref=harv}} ** {{Cite journal|和書|author=まえがわまさな|title=日本におけるゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータ文化概説--附 日本におけるゴシック、ロリータ、ゴシック&ロリータ関係文献目録|journal=年報『少女』文化研究|issue=3|year=2009|publisher=「少女」文化研究会|naid=40017145858 |ref=harv}} ** {{Cite journal|和書|author=東園子|title=大阪ゴス&ロリツアーレポート|journal=年報『少女』文化研究|issue=3|year=2009|publisher=「少女」文化研究会|naid=40017145860 |ref=harv}} === 一般書 === *{{Cite book |和書 |author=氏原寛 |author2=西川隆蔵 |author3=康智善 |title=現代社会と臨床心理学 |date=2006 |publisher=金剛出版 |isbn=4772409017 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=吉村純司 |title=ゴシック・ロマンスの世界 |publisher=[[文化書房博文社]] |date=1996-12-10 |isbn=9784830107634 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |title=それいぬ―正しい乙女になるために |author=嶽本野ばら |authorlink=嶽本野ばら |publisher=文藝春秋 |date=2001 |isbn=978-4167660123 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |title=パッチワーク |author=嶽本野ばら |authorlink=嶽本野ばら |publisher=[[扶桑社]] |date=2002-12-10 |isbn=9784594037673 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=植田裕子 |publisher=マーブルトロン |title=ロリータ 衣装道楽 (マーブルブックス) |year=2005 |isbn=978-4123900867 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=高原英理 |authorlink=高原英理 |title=ゴシックハート |publisher=[[講談社]] |date=2004-9-15 |isbn=9784062125192 |ref=harv}} *[[野村総合研究所]]オタク市場予測チーム『オタク市場の研究』[[東洋経済新報社]]、2005年10月27日発行、(ISBN 9784492555415) *{{Cite book |和書 |title=人造美女は可能か |author=巽孝之 |date=2006 |publisher=慶應義塾大学出版会 |isbn=978-4766413014 |url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766413016 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=ストリートモード研究会 |title=ストリートモードブック―ネオ★ゴシック・ロリータ |publisher=[[グラフィック社]] |date=2007-01-25 |isbn=9784766117684 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=坂井妙子 |title=アリスの服が着たい : ヴィクトリア朝児童文学と子供服の誕生 |date=2007 |publisher=勁草書房 |isbn=9784326653270 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=樋口ヒロユキ |authorlink=樋口ヒロユキ |title=死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学 |publisher=[[冬弓社]] |date=2007-07-10 |isbn=9784925220224 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |author=松浦桃 |title=セカイと私とロリータファッション |publisher=[[青弓社]] |date=2007-08-22 |isbn=9784787232755 |ref=harv}} *[[三浦展]]、[[スタンダード通信社]]『日本溶解論-この国の若者たち』[[プレジデント社]]、2008年3月17日発行 (ISBN 9784833418669) *[[小原直花]]『婦国論 消費の国の女たち』[[弘文堂]]、2008年4月15日発行 (ISBN 9784335450372) *{{Cite book |和書 |editor=青弓社編集部 |title=宝塚という装置 |publisher=[[青弓社]] |date=2009-03-20 |isbn=9784787272607 |ref=Takarazuka2009}} ** [[東園子]]「「宝塚」というメディアの構造――タカラジェンヌの四層構造と物語消費」 ** [[水野麗]]「宝塚・コスプレ・ゴスロリ――「夢の世界」との距離」 * {{Cite book |和書 |author=成美弘至 |authorlink=成美弘至 |title=コスプレする社会―サブカルチャーの身体文化 |coauthors=[[小泉恭子]]、[[鈴木裕子]]{{要曖昧さ回避|date=2016年5月}}<!-- http://www.serica.co.jp/290.htm --> |section=「ヴィジュアル系とコスプレ」 |publisher=[[せりか書房]] |date=2009-06-25 |isbn=9784796702904 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=榎本秋 |authorlink=榎本秋 |title=オタクのことが面白いほどわかる本 : 日本の消費をけん引する人々 |date=2009 |publisher=中経出版 |isbn=9784806133582 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=古賀令子 |title=「かわいい」の帝国-モードとメディアと女の子たち |publisher=青土社 |date=2009-06-30 |isbn=9784791764860 |ref=harv}} *[[ライトノベル作法研究所]]『キャラクター設計教室』[[秀和システム]]、2009年8月発行(ISBN 9784798023397) *{{Cite book |和書 |author=櫻井孝昌 |authorlink=櫻井孝昌 |title=世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか |series=[[PHP新書]] |date=2009-11-30 |isbn=9784569775357 |ref=harv}} === 雑誌 === *『[[KERA]]』インデックス・コミュニケーションズ **『KERA VOL.120』インデックス・コミュニケーションズ、2008年7月16日発行 **『KERA VOL.122』インデックス・コミュニケーションズ、2008年9月16日発行 **『KERA VOL.127』インデックス・コミュニケーションズ、2009年3月16日発行(雑誌 13405-03) **『KERA VOL.130』インデックス・コミュニケーションズ、2009年6月16日発行(雑誌 13405-06) **『KERA VOL.134』インデックス・コミュニケーションズ、2009年10月16日発行(雑誌 13405-10) *『[[ゴシック&ロリータバイブル]]』 **『ゴシック&ロリータバイブル 創刊号』[[バウハウス (出版)|バウハウス]]、2001年1月発行(ISBN 9784894614178) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.2』バウハウス、2001年8月25日発行(ISBN 9784860480011) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.3』[[ヌーベルグー]]、2002年1月10日発行(ISBN 978-4860480165) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.6』[[インデックス・マガジンズ]]、2002年11月15日発行(ISBN 9784860480561) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.9』インデックス・マガジンズ、2003年発行 **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.10』インデックス・マガジンズ、2003年10月26日発行(ISBN 9784860480967) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.11』インデックス・マガジンズ、2004年1月16日発行(ISBN 978-4860481100) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.14』インデックス・マガジンズ、2004年9月20日発行(ISBN 978-4860481469) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.17』インデックス・マガジンズ、2005年6月20日発行(ISBN 978-4860481834) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.18』インデックス・マガジンズ、2005年9月21日発行(ISBN 978-4860481933) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.19』インデックス・マガジンズ、2005年12月21日発行(ISBN 978-4757333093) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.22』[[ジャック・メディア・キャピタル|インデックス・コミュニケーションズ]]、2006年9月21日発行(ISBN 978-4757333420) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.25』インデックス・コミュニケーションズ、2007年6月21日発行(ISBN 978-4757333741) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.26』インデックス・コミュニケーションズ、2007年6月21日発(ISBN 978-4757333833) **『ゴシック&ロリータバイブル VOL.34』インデックス・コミュニケーションズ、2009年9月20日発行(ISBN 978-4757334489) **『ゴシック&ロリータ ヘア&メイク バイブル』インデックス・マガジンズ、2004年9月27日発行 **『ゴシック&ロリータバイブル エクストラ2』インデックス・コミュニケーションズ、2006年7月22日発行(ISBN 9784757333369) **『ゴシック&ロリータバイブル ブドワール』インデックス・コミュニケーションズ、2008年2月28日発行(ISBN 9784757334021) *『[[装苑]]』[[文化出版局]] *『装苑 2005年2月号』文化出版局、2005年2月21日発行 **『装苑 2008年6月号』[[文化出版局]]、2008年6月1日発行 **『装苑 2008年10月号』文化出版局、2008年10月1日発行 **『装苑 2009年10月号』文化出版局、2009年10月1日発行 *『[[ファッション販売]]2002年11月号』[[商業界]] **『ファッション販売2002年11月号』商業界、2002年11月1日発行 **『ファッション販売 2006年4月号』商業界、2006年2月27日発行 **『ファッション販売2010年1月特大号』商業界、2010年1月1日発行 *『yaso夜想』 **{{Cite book|和書| author=ステュディオ・パラボリカ |title=yaso―特集+ゴス Yaso(夜想) |publisher=[[ステュディオ・パラボリカ]] |date=2003-12 |isbn=978-4990086848 |ref=harv}} **『yaso夜想 特集+ヴィクトリアン victorian』ステュディオ・パラボリカ、2008年10月11日発行(ISBN 978-4902916119) *『[[FriLL]]』[[主婦と生活社]]、2004年5月発行 (ISBN 978-4391619010) *『[[メゾン〜ゴシック&ロリータSTYLEBOOK]]』[[学習研究社]]、2004年9月11日発行 *『[[ゴスロリ&パンクスタイル ROCOCO]] VOL.1』[[辰巳出版]]、2004年10月25日発行 *『[[エスカルゴスキン]] VOL.1』[[飛鳥新社]]、2005年2月1日発行 *『ゴシック・ロリータ&パンク ブランドBOOK VOL.1』辰巳出版、2005年6月25日発行 *{{Cite book|和書|title=ネオ・ゴシック・ヴィジョン|series=トーキングヘッズ叢書|volume=33|author=アトリエサード|date=2008|isbn=978-4883750887 |ref=harv}} *『電撃Layers』メディアワークス、2005年10月25日発行 *『宝島 no.670 2008 MAY』宝島社、2008年4月25日発行 *『[[イラストレーション (雑誌)|イラストレーション]] 2009年5月号No.177』[[玄光社]]、2009年5月1日発行 *『Gothic Lolita Punk Draw Like the Hottest Japanese Artists』Collins Design、2009年6月1日発行(ISBN 0061149950) *『[[Alice DECO a la mode]] Summer 2009』[[インフォレスト]]、2009年8月10日発行(ISBN 978-4-86190-474-5) *『[[ゴシック&ロリータアンサンブル]] Vol.1』インフォレスト、2010年4月5日発行 === 小説・漫画 === *大槻ケンヂ『ロッキン・ホース・バレリーナ』メディアファクトリー、2004年7月6日発行 === 辞典・辞書・用語集 === *『現代用語の基礎知識』 **『現代用語の基礎知識2005別冊付録』2005年1月1日発行 **『現代用語の基礎知識2010』2010年1月1日発行 *『増補新版図解服飾用語事典』[[ブティック社]]、2006年4月10日発行 * {{Cite book|和書|author=吉村誠一 |title=ファッション新語辞典 |date=2007 |edition=増補最新版 |publisher=繊研新聞社 |isbn=9784881242001 |ref=harv}} *『ファッション販売必須用語500』[[商業界]]、2008年8月5日発行 * {{Cite book|和書|author=スティングレイ |author2=日外アソシエーツ |title=外国映画原作事典 |date=2008 |publisher=日外アソシエーツ |isbn=9784816921278 |ref=harv}} == 関連項目 == {{commonscat|Gothic lolita fashion|ゴシック・アンド・ロリータ}} *[[ゴスロリブランド一覧]] *[[ロリータ]] - [[ロリータ・ファッション]] *[[ゴシック]] - [[ゴシック・ファッション]] - [[ゴス (サブカルチャー)]] *[[パンク・ロック]] - [[パンク・ファッション]] *[[ヴィジュアル系]] *[[ギャル]] **[[小悪魔ageha]] *[[ロココ]] *[[ヴィクトリア朝]] *[[少女趣味]] *[[可愛い]] *[[ハローキティ]] *[[オカルト]] *[[森ガール]] *[[ゴチム]] - [[ゴチミル]] - [[ゴチルゼル]] ゴスロリがモチーフとされる[[ポケットモンスター (架空の生物)|ポケモン]] * [[原宿のファッション史]] === 関連人物 === ====アーティスト==== *[[ALI PROJECT]] **[[宝野アリカ]] *[[Asriel]] *[[Gackt]] *[[MALICE MIZER]] **[[Mana (ミュージシャン)|Mana]] *[[X JAPAN]] **[[YOSHIKI]] **[[hide]] *[[エイミー・リー]] *[[マリリン・マンソン]] *[[大槻ケンヂ]] *[[香奈]] *[[北出菜奈]] *[[黒色すみれ]] *[[妖精帝國]] *[[分島花音]] *[[田村ゆかり]] *[[ザ・ヒーナキャット]] ==== 作家・漫画家 ==== *[[雨宮処凛]] *[[楠本まき]] *[[澁澤龍彦]] *[[嶽本野ばら]] *[[三原ミツカズ]] === 関連作品 === *[[Londonian Gothics 〜迷宮のロリィタ〜]] *[[Paradise Kiss]] *[[エミリー・ザ・ストレンジ]] *[[コゼットの肖像]] *[[シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜]] *[[プリンセス・プリンセス (漫画)]] *[[プリンセスナイトメア]] *[[断罪のマリア|断罪のマリア THE EXORCISM OF MARIA]] *[[絶対迷宮グリム 〜七つの鍵と楽園の乙女〜]] *[[ローゼンメイデン]] *[[マリー&ガリー]] *[[下妻物語]] *[[不思議の国のアリス]] **[[アリス (1988年の映画)]] {{ゴス}} {{DEFAULTSORT:こしつくあんとろりいた}} [[Category:日本のファッション]] [[Category:日本の文化]] [[Category:美意識]] [[Category:趣味]] [[Category:ゴシック・ファッション]] [[Category:萌え属性]] [[cs:Gothic Lolita]] [[en:Lolita fashion#Gothic Lolita]]
2003-08-19T10:48:32Z
2023-10-15T10:03:50Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:参照方法", "Template:Otheruses", "Template:Reflist", "Template:Harvnb", "Template:Cite book", "Template:Sfn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite journal", "Template:ゴス", "Template:リンク切れ", "Template:Cite press release", "Template:Commonscat", "Template:Cquote", "Template:Harv", "Template:要出典", "Template:要曖昧さ回避", "Template:Columns-list" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF
13,561
対戦型格闘ゲーム一覧
対戦型格闘ゲーム一覧(たいせんがたかくとうゲームいちらん)は、コンピューターゲームの1ジャンルである対戦型格闘ゲームの一覧表である。なお、発売中止になった作品や同人ゲームなどは含まない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "対戦型格闘ゲーム一覧(たいせんがたかくとうゲームいちらん)は、コンピューターゲームの1ジャンルである対戦型格闘ゲームの一覧表である。なお、発売中止になった作品や同人ゲームなどは含まない。", "title": null } ]
対戦型格闘ゲーム一覧(たいせんがたかくとうゲームいちらん)は、コンピューターゲームの1ジャンルである対戦型格闘ゲームの一覧表である。なお、発売中止になった作品や同人ゲームなどは含まない。 ゲームの名称は「シリーズ名」のみとし、続編やVer.UPについては記載を省いた(ただし、続編の記事のみが存在するゲームは例外としてリンクを示している)。 続編やVer.UPについてはリンク先にて記載がある場合もある。 表記の順序は「会社名」→「シリーズ名」で原則的に五十音順に記載した。
{{Pathnav|コンピュータゲーム|コンピュータゲームのジャンル|アクションゲーム|対戦型格闘ゲーム|frame=1}} {{ウィキプロジェクトリンク|対戦型格闘ゲーム|[[ファイル:Karate icon.svg|36px]]|break=yes}} '''対戦型格闘ゲーム一覧'''(たいせんがたかくとうゲームいちらん)は、[[コンピューターゲーム]]の1ジャンルである'''[[対戦型格闘ゲーム]]'''の[[一覧の一覧|一覧]]表である。なお、発売中止になった作品や[[同人ゲーム]]などは含まない。 * ゲームの名称は「シリーズ名」のみとし、続編やVer.UPについては記載を省いた(ただし、続編の記事のみが存在するゲームは例外としてリンクを示している)。 * 続編やVer.UPについてはリンク先にて記載がある場合もある。 * 表記の順序は「会社名」→「シリーズ名」で原則的に[[五十音順]]に記載した。 == あ行 == ;[[アークシステムワークス]] :* [[カオスコード]](開発:FK Digital) :* [[GUILTY GEARシリーズ]] :* [[バトルファンタジア]] :* [[BLAZBLUE]] ; アールシーアイ → [[レインエンターテイメント]] :* [[真・恋姫†夢想 〜乙女対戦★三国志演義〜]] ;[[鈊象電子|IGS(鈊象電子)]] :* [[形意拳 (ゲーム)|形意拳]] :* [[傲剣狂刀]] :* [[黄飛鴻 (ゲーム)|黄飛鴻]] ;[[アイディアファクトリー]] :* [[スペクトラルVSジェネレーション]](開発:IGS) ;[[アピエス|アイレム]]([[アイレムソフトウェアエンジニアリング]]) :* [[パーフェクト・ソルジャーズ]] ;[[アクアプラス]] :* [[AQUAPAZZA]](開発:[[エクサム]]) ;アグミックス :* [[ザ・クイーン・オブ・デュエリスト]]シリーズ ;[[アタリ (企業)|アタリ]] :* [[ピットファイター]] :* [[プライマルレイジ]]シリーズ ;アトラティーバ・ジャパン :* [[仁義ストーム The Arcade]] :* [[アルカナハート|アルカナハートFULL!]](開発:[[エクサム]]) ;[[アニプレックス]] :* [[鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚]](開発:[[サイバーコネクトツー]]、Steam版発売:セガ) ;[[アリカ]] :* [[ファイティングEXレイヤー]] ;[[アルケミスト (企業)|アルケミスト]] :* [[黄金夢想曲#概要|黄金夢想曲X]] ;[[アルュメ]] :* [[ブランディア (ゲーム)|ブランディア]] ;[[ESP (ゲーム会社)|ESP]] :* [[餓狼伝 Breakblow]] ;[[イマジニア]] :* [[制服伝説 プリティ・ファイター]](開発:[[元気 (ゲーム会社)|元気]]) :* FIST(開発:元気) ;[[ILLUSION (ゲームブランド)|ILLUSION]] :* [[バトルレイパー]]シリーズ ;[[ジオテクノロジーズ|インクリメント・ピー]] :* [[格ゲー野郎 Fighting Game Creator]](共同開発:OUTBACK / D・A・S・T) ;インクレディブルテクノロジーズ :* [[:en:Time Killers|タイムキラーズ]] :* [[:en:BloodStorm|ブラッドストーム]] ;インタープレイ :* [[クレイファイター]]シリーズ ;[[エヴォガエンターテイメント]] :* [[レイジ・オブ・ザ・ドラゴンズ]](開発:[[ノイズファクトリー]]) ;[[エーディーケイ|ADK]] → SNK(新社) :* [[痛快GANGAN行進曲]] :* [[NINJA MASTER'S〜覇王忍法帖〜]] :* [[ワールドヒーローズ]]シリーズ ;[[エクサム]] → チームアルカナ :* [[アルカナハート]]シリーズ(2以降) :* [[デモンブライド]] ;[[エコールソフトウェア]] :* [[MELTY BLOOD]]シリーズ(『Type Lumina』は除く)(開発:[[フランスパン (同人サークル)|フランスパン]] / [[TYPE-MOON]]) :* [[アルカナハート]]シリーズ([[PlayStation 2]]版、販売:[[AQインタラクティブ]]) :* [[UNDER NIGHT IN-BIRTH]](開発:フランスパン) ;[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](旧社) :* [[ストリートスマート]] :* [[SNK GALS' FIGHTERS|SNKギャルズファイターズ]](開発:夢工房) :* [[餓狼伝説]]シリーズ :* [[月華の剣士]]シリーズ :* [[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]シリーズ(『KOF'94』 - 『KOF2000』) :* [[サムライスピリッツ]]シリーズ(「[[SAMURAI SPIRITS|初代]]」 - 『甦りし蒼紅の刃』) :* [[頂上決戦 最強ファイターズ SNK VS. CAPCOM]] :* [[風雲黙示録|風雲]]シリーズ :* [[武力 〜BURIKI ONE〜]] :* [[龍虎の拳]]シリーズ ;[[SNK (2001年設立の企業)|SNK(新社)]](SNKプレイモア) :* [[SNK VS. CAPCOM SVC CHAOS]] :* [[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]シリーズ(『KOF2001』以降) :** [[KOF MAXIMUM IMPACT]]シリーズ(開発:ノイズファクトリー) :* [[サムライスピリッツ]]シリーズ(『[[サムライスピリッツ零]]』シリーズ以降) :* [[ネオジオバトルコロシアム]] :* SNKヒロインズ Tag Team Frenzy ;エレクトロニック・アーツ・ビクター(現:[[エレクトロニック・アーツ]]) :* [[羅媚斗]](開発:AORN) ;Autumn Games :* [[スカルガールズ]](開発:Reverge Labs→Lab Zero Games) == か行 == ;[[カネコ]] :* [[富士山バスター]] :* [[大江戸ファイト]] :* [[パワーアスリート]](開発:システムビジョン) ;[[カプコン]] :* [[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイア]]シリーズ :* [[ウォーザード]] :* [[エックス・メン チルドレン オブ ジ アトム]] :* [[CAPCOM FIGHTING Jam]] :* [[激闘パワーモデラー]] :* [[サイバーボッツ]] :* [[ジャスティス学園]]シリーズ :* [[ジョジョの奇妙な冒険 (対戦型格闘ゲーム)|ジョジョの奇妙な冒険]]シリーズ :* [[スーパーマッスルボマー]] :* [[スターグラディエイター]]シリーズ :* [[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]シリーズ :** [[ストリートファイターII]]シリーズ :** [[ストリートファイターZERO]]シリーズ :** [[ストリートファイターIII]]シリーズ :** [[ストリートファイターEX]]シリーズ(開発:[[アリカ]]) :** [[ストリートファイターIV]]シリーズ(開発:[[ディンプス]]) :** [[ストリートファイターV]] :** [[ストリートファイター6]] :* [[戦国BASARA|戦国BASARA X]](開発:アークシステムワークス) :* [[超鋼戦紀キカイオー]] :* [[ファイナルファイト リベンジ]] :* [[VS.シリーズ]] :** [[CAPCOM VS. SNK]]シリーズ :** [[VS.シリーズ#VS.マーヴル|VS.マーヴル]]シリーズ :** [[タツノコ VS. CAPCOM CROSS GENERATION OF HEROES]](開発:[[エイティング]]) :* [[Fate/unlimited codes]](開発:エイティング) :* [[ポケットファイター]] :* [[マーヴル・スーパーヒーローズ]] ;[[カルチャーブレーンエクセル]](現:日本ゲーム) :* [[スーパーチャイニーズファイター]] :* [[飛龍の拳]]シリーズ ;[[戯画 (ブランド)|戯画]] :* [[ヴァリアブル・ジオ]]シリーズ ;[[元気 (ゲーム会社)|元気]] :* [[剣豪 (元気のゲームソフト)|剣豪]]シリーズ ;[[コーエーテクモゲームス]] : :;[[コーエー]] ::* [[三國無双]] ::* [[デストレーガ]] :;[[テクモ]] ::* [[デッド オア アライブ シリーズ]] ::* [[闘姫伝承 ANGEL EYES]] ;[[コナミグループ]](旧コナミホールディングス) :;[[コナミデジタルエンタテインメント]] /[[コナミアミューズメント]] ::* [[アウトバースト]] ::* [[悪魔城ドラキュラ ジャッジメント]] ::* [[イー・アル・カンフー]] ::* G.A.S.P.!!〜Fighters'NEXTream〜 ::* [[サンデーVSマガジン 集結!頂上大決戦]] ::* [[ティーンエージ ミュータント ニンジャ タートルズ トーナメント ファイターズ]] ::* [[ドラグーンマイト]] ::* [[バトルトライスト]] ::* [[FIGHTING武術]] ::** [[武戯 〜BUGI〜]] ::* [[マーシャルチャンピオン]] ::* [[ライトニングレジェンド 大悟の大冒険]] ::* [[らくがきっず]] :;[[ハドソン]] ::* [[カブキ一刀涼談]] ::* [[デュアルヒーローズ]] ::* [[天外魔境 真伝]] ::* [[ブラッディロア]]シリーズ(開発:[[ライジング]]) == さ行 == ;[[彩京]] → シティコネクション :* [[堕落天使]] :* [[バトルクロード]] ;[[Cygames]] :* [[グランブルーファンタジー ヴァーサス]](開発:アークシステムワークス) ;[[ザウルス (企業)|ザウルス]] → SNK(新社) :* [[神凰拳]](開発:システムビジョン) ;[[SUBTLE STYLE]] :* [[アカツキ電光戦記|アカツキ電光戦記 Ausf. Achse]](開発:[[ゲームのるつぼ|るつぼゲームワークス]]) :* [[エヌアイン完全世界]](開発:るつぼゲームワークス) ;[[サンソフト]] :* [[アストラスーパースターズ]](開発:サンタクロース) :* [[ギャラクシーファイト ユニバーサル・ウォーリアーズ]] :* [[わくわく7]] ;シネマサプライ :* [[THE MASTERS FIGHTER]] ;[[ジャレコ]] → [[シティコネクション (企業)|シティコネクション]] :* [[DEAD DANCE]] :* スラムドラゴン ;[[ショウエイシステム]] :* [[松村邦洋伝 最強の歴史をぬりかえろ!!]] ;[[小学館集英社プロダクション|Sho-Pro]] / [[東宝]] :* [[らんま1/2 超技乱舞篇]] :* らんま1/2 バトルルネッサンス ;[[ズーム (ゲーム会社)|ズーム]] :* [[ゼロ・ディバイド]]シリーズ ;[[スクウェア・エニックス・ホールディングス]] :;[[スクウェア・エニックス]] ::* [[エアガイツ]](開発:[[ドリームファクトリー]]) ::* [[トバル]]シリーズ(開発:ドリームファクトリー) ::* [[ブシドーブレード]]シリーズ(開発:[[ライトウェイト (ゲーム会社)|ライトウェイト]]) ::* [[ミリオンアーサー アルカナブラッド]](開発:エクサム) :;[[タイトー]] ::* [[エレメンタル ジェレイド]] ::* [[黄金の城]] ::* [[カイザーナックル]] ::* [[カオスブレイカー]](開発:[[イオリス]]) ::* [[サイキックフォース]]シリーズ ::* [[ダイノレックス]] ::* [[トップランキングスターズ]] ::* [[バイオレンスファイト]] ::* [[ファイターズインパクト]]シリーズ ;[[セガサミーホールディングス]] :;[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]] ::* [[豪血寺一族]]シリーズ ::* [[ヘブンズゲート]](開発:ラクジン) ::* [[ペルソナ4 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ]](共同開発:アークシステムワークス) :;[[サミー]] ::* [[GUILTY GEARシリーズ]](開発:アークシステムワークス、GUILTY GEAR XX #RELOADまで) ::* [[サバイバルアーツ]] ::* [[ザ・ランブルフィッシュ]]シリーズ(開発:ディンプス) ::* [[バトルブレイズ]] :;[[セガ]] ::* [[エターナルチャンピオンズ]] ::* [[ゴールデンアックス・ザ・デュエル]] ::* [[ああ播磨灘]] ::* [[GUILTY GEAR XX|GUILTY GEAR XX SLASH]](開発:アークシステムワークス) ::* [[ソニック・ザ・ファイターズ]] ::* [[ダークエッジ]] ::* ホロシアム ::* [[電撃文庫 FIGHTING CLIMAX]](開発:エコールソフトウェア / フランスパン) ::* [[トイファイター]](開発:アンカー) ::* [[バーチャファイターシリーズ]] ::* [[バーニングライバル]] ::* [[ファイターズメガミックス]] ::* [[ファイティングバイパーズ]]シリーズ ::* [[BLEACH DS]]シリーズ(開発:[[トレジャー]]) ::* [[ブレードアークス from シャイニング]](開発:スタジオ最前線) ::* [[北斗の拳 (対戦型格闘ゲーム)|北斗の拳]](開発:アークシステムワークス) ::* [[幽☆遊☆白書 魔強統一戦]](開発:トレジャー) ::* [[ラストブロンクス]] ;[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]](旧ソニー・コンピュータエンタテインメント) :* [[BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜]]シリーズ(開発:エイティング) :* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)#ゲーム|るろうに剣心 −明治剣客浪漫譚− 維新激闘編]] :* [[:en:Cardinal Syn|Cardinal Syn]](開発:[[:en:Digital Entertainment|Kronos Digital Entertainment]]) == た行 == ;[[タカラトミー]] / [[タカラトミーアーツ]] :;[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]] ::* [[タツノコファイト]] ::* [[闘神伝]]シリーズ(開発:[[タムソフト]]) ::* [[熱闘シリーズ]] :;[[トミー (企業)|トミー]] ::* [[覚悟のススメ#ゲーム|覚悟のススメ]] ::* [[ゾイドフルメタルクラッシュ]](開発:エイティング) ;[[データイースト]] → [[ジー・モード|G-MODE]] :* [[水滸演武]]シリーズ :* [[空手道 (ゲーム)|対戦空手道]]シリーズ :* [[:en:Tattoo_Assassins|タトゥーアサシンズ]] :* [[ファイターズヒストリー]]シリーズ ;[[データム・ポリスター]] :* [[負けるな!魔剣道|負けるな!魔剣道2]] ;テイジイエル企画(現:[[エンターグラム]]) :* [[ソードダンサー]]シリーズ ;[[DISCOVERY (ゲームブランド)|DISCOVERY]] :* ヴァルキリー ;[[ディライトワークス]] → [[ラセングル]] :* [[MELTY BLOOD#歴代作品|MELTY BLOOD: TYPE LUMINA]](開発:フランスパン、TYPE-MOON) ;[[テクノスジャパン]] → アークシステムワークス :* [[ダブルドラゴンシリーズ|ダブルドラゴン]] :* [[超人学園ゴウカイザー]] ;[[東映アニメーション|東映動画]] :* [[北斗の拳#コンピュータゲーム|北斗の拳6 激闘伝承拳 覇王への道]](開発:[[ショウエイシステム]]) :* 北斗の拳7 聖拳列伝 伝承者への道(開発:ショウエイシステム) ;[[東宝]] :*[[ゴジラ 爆闘烈伝]](開発:[[アルファ・システム]]) :*[[ゴジラ 怪獣大決戦]](開発:アルファ・システム) ;[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](現:[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]) :* [[バトル・マスター 究極の戦士たち]](開発:システムビジョン) == な行 == ;[[ニトロプラス]] :* [[ニトロ+ロワイヤル -ヒロインズデュエル-]] ;[[任天堂]] :* [[アーバンチャンピオン]] :* [[ARMS (対戦格闘ゲーム)|ARMS]]<ref>[https://www.famitsu.com/news/201702/10126682.html Nintendo Switchの対戦格闘ゲーム『ARMS』、闘会議2017向けのキャラクター&ARM紹介動画を公開 - ファミ通.com]</ref> :* [[キラーインスティンクト]]シリーズ(開発:レア) :* [[ジョイメカファイト]] ;[[ネクソン]] :* [[アラド戦記|DNF Duel]](開発:アークシステムワークス / エイティング) == は行 == ;[[ハッカーインターナショナル]] :* [[ストリップ・ファイターII]] ;[[バンダイナムコホールディングス]] :;ナムコ / バンダイナムコゲームス・ナムコレーベル / [[バンダイナムコアミューズメント]] / [[バンダイナムコスタジオ]] ::* [[:en:Weaponlord|ウェポンロード]](開発:[[ビジュアルコンセプツ]]) ::* [[ケルナグール]](開発:[[ゲームスタジオ#株式会社ゲームスタジオ(1985年設立)|ゲームスタジオ]]) ::* [[ソウルシリーズ|ソウルキャリバーシリーズ]](『[[ソウルキャリバーVI]]』のみ開発協力:ディンプス) ::* [[鉄拳シリーズ]] ::* [[ポッ拳 POKKÉN TOURNAMENT]] ::* [[ナックルヘッズ]] ::* [[ファイティングレイヤー]](開発:アリカ) ::* [[幽☆遊☆白書|幽☆遊☆白書2 格闘の章]] ::* るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 再閃 ::* るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 完醒 :;[[バンダイ|バンダイ ビデオゲーム事業部]] / バンダイナムコゲームス・バンダイレーベル ::* [[仮面ライダー クライマックスヒーローズ]]シリーズ(開発:エイティング) ::* [[ガンダム・ザ・バトルマスター]]シリーズ(開発:[[ナツメアタリ|ナツメ]]) ::* [[機動武闘伝Gガンダム (スーパーファミコン)|機動武闘伝Gガンダム]](開発:[[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]] → シャノン) ::* [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル]](開発:[[サイバーコネクトツー]]) ::* [[新機動戦記ガンダムW ENDLESS DUEL]](開発:ナツメ) ::* [[聖闘士星矢]]シリーズ(開発:ディンプス) ::* [[ドラゴンボールZ 超武闘伝]]シリーズ(開発:トーセ) ::* [[魔法少女リリカルなのはA's PORTABLE -THE BATTLE OF ACES-]](開発:[[ウィッチクラフト (ゲーム会社)|ウィッチクラフト]]) ::* [[ろくでなしBLUES|ろくでなしBLUES 対決!東京四天王]] :;[[バンプレスト]] / バンダイナムコゲームス・バンプレストレーベル ::* [[ウルトラマン Fighting Evolution]]シリーズ(開発:[[メトロ (ゲーム会社)|メトロ]]) ::* [[機動戦士ガンダム_(対戦型格闘ゲーム)|機動戦士ガンダム]](開発:[[アルュメ]]) ::** 機動戦士ガンダムEX-REVUE ::* [[キン肉マン マッスルグランプリ]]シリーズ(開発:[[シンソフィア|アキ]]) ::* [[幻影闘技]] ::** [[クリティカルブロウ]] ::* [[超ドラゴンボールZ]](開発:アリカ / [[クラフト&マイスター]]) ::* [[スーパーロボットスピリッツ]] ::* [[速攻生徒会]] ::* [[バーサスヒーロー 格闘王への道]] ::* [[バトルクラッシャー]](開発:さんえる) :;[[バンダイナムコエンターテインメント]] ::* [[ドラゴンボール ファイターズ]](開発:アークシステムワークス) :;[[ベック (ゲーム会社)|ベック]](現:[[B.B.スタジオ]]) ::*[[スーパービックリマン (スーパーファミコン)|スーパービックリマン]] :;エンジェル(現:[[メガハウス]]) ::*[[美少女戦士セーラームーン (ゲーム)#美少女戦士セーラームーンS 場外乱闘!? 主役争奪戦|美少女戦士セーラームーンS 場外乱闘!? 主役争奪戦]] ;[[ビスコ (ゲーム会社)|ビスコ]] :* [[ブレイカーズ (テレビゲーム)|ブレイカーズ]]シリーズ ;Pikki :* [[Blade Strangers]](開発:スタジオ最前線) ;ビッコム :* [[ファイトフィーバー]] ;[[ビデオシステム]] :* [[タオ体道]] ;[[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]] :* [[ブルーブレイカー 〜剣よりも微笑みを〜|ブルーブレイカーバースト]]シリーズ ;[[5pb.]] :* [[ファントムブレイカー]](開発:RUN) :** ファントムブレイカー アナザーコード(開発:デルタファクトリー) ;[[ファミリーソフト]] :* [[あすか120%]]シリーズ ;フウキ(富貴商会) :* アシュラシリーズ :** [[アシュラブレード]] :** [[アシュラバスター]] ;[[フォレスト (ゲーム会社)|フォレスト]] :* [[人形使い]]シリーズ ;[[PLAYISM]] :*[[カニノケンカ -Fight Crab-]](開発:カラッパゲームス) ;[[ホット・ビィ]] :* シュマイザーロボ ;[[ポニーキャニオン]] :* [[ファイティングアイズ]] ;[[ポリグラム]](現:ユニバーサルミュージック) :* [[ツインゴッデス]] == ま行 == ;[[マーベラス (企業)|マーベラス]] :* [[ニトロプラス ブラスターズ -ヒロインズ インフィニット デュエル-]](開発・AC版発売:ニトロプラス / エクサム) ;[[マイクロソフト]] :*[[格闘超人]](開発:ドリームファクトリー) ;[[マイルストーン (ゲーム会社)|マイルストーン]] :* [[トウィンクル クイーン]] :* [[LOST CHILD|プロジェクト ケルベルス]] ;[[ミッチェル (ゲーム会社)|ミッチェル]] :* [[チャタンヤラクーシャンク]] ;[[ミッドウェイゲームズ]] → ワーナー・ブラザース :* [[:en:War Gods (video game)|ウォーゴッズ]] :* [[:en:Bio F.R.E.A.K.S.|バイオフリークス]] :* [[:en:Mace: The Dark Age|メイス・ザ・ダークエイジ]] :* [[モータルコンバット]]シリーズ(初代 - 『VS.DCユニバース』) ;Mane6 :* [[Them's Fightin' Herds]]<ref>[https://www.famitsu.com/news/201802/23152452.html 『マイリトルポニー』インスパイアの動物格ゲー『Them's Fightin' Herds』がSteamでアーリーアクセス開始 - ファミ通.com]</ref> ;[[メサイヤ (ゲームブランド)|メサイヤ]]([[日本コンピュータシステム]]) → [[エクストリーム (企業)|エクストリーム]] :* 超兄貴 爆烈乱闘篇 :* [[らんま1/2 町内激闘篇]] :* [[らんま1/2 爆烈乱闘篇]] ;[[メディアリング]] :* [[3次元格闘ボールズ]] == や行 == ;[[悠紀エンタープライズ]] :* [[アルカナハート]](1のみ) :* [[サムライスピリッツ零]]シリーズ(開発担当) ;[[ユークス]] :* [[封神領域エルツヴァーユ]] ;[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル インタラクティブ スタジオ]] :* [[ウェイ・オブ・ザ・ウォリアー]] ;四次元 :* [[花の慶次|花の慶次 -雲のかなたに-]] == ら行 == ;[[ライトウェイト (ゲーム会社)|ライトウェイト]] :* [[剣豪 (元気のゲームソフト)]]シリーズ :* [[斬 歌舞伎]] ;[[ライトスタッフ (ゲーム会社)|ライトスタッフ]] :* [[フラッシュハイダース]] :* [[バトルタイクーン]] ;レーザーソフト([[日本テレネット (ゲーム会社)|日本テレネット]]) → [[エディア]] :* [[対決!! ブラスナンバーズ]] == わ行 == ;[[ワーナー・ブラザース]] :* [[インジャスティス:神々の激突]](開発:[[:en:NetherRealm Studios|ネザーレルム・スタジオ]]) :* モータルコンバットシリーズ(2011年版以降)(開発:ネザーレルム・スタジオなど) == その他 == ;メーカー不詳 :* [[Animelee]]<ref>[https://app.famitsu.com/20170225_976989/ 【新作】獣(けもの)界最強王者を賭けて大暴れする3Dアクションがすっご-い!!『Animelee』]</ref> :* [[Overgrowth (格闘アクション)|Overgrowth]]<ref>[https://www.gamespark.jp/article/2017/10/04/76148.html 擬人化ウサギ格闘アクション『Overgrowth』が最終ベータに突入―進化した最新映像も披露 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト]</ref> :* [[Smash Champs]]<ref>[https://www.4gamer.net/games/384/G038488/20170616128/ 二足歩行の動物を育成する格闘ゲーム「Smash Champs」を紹介する「(ほぼ)日刊スマホゲーム通信」第1448回 - 4Gamer.net]</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[SNKの対戦型格闘ゲーム一覧]] * [[対戦アクションゲーム一覧]] {{DEFAULTSORT:たいせんかたかくとうけえむいちらん}} [[Category:対戦型格闘ゲーム|*2]] [[Category:コンピュータゲームのタイトル一覧]]
2003-08-19T11:26:25Z
2023-12-22T17:36:10Z
false
false
false
[ "Template:Pathnav", "Template:ウィキプロジェクトリンク", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%88%A6%E5%9E%8B%E6%A0%BC%E9%97%98%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%80%E8%A6%A7
13,567
後唐
後唐(こうとう、923年 - 936年)は、中国の王朝で、五代の一つである。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす。都は洛陽。 唐末の混乱期に、突厥沙陀部族出身の李克用が河東節度使として晋陽(太原)に駐屯し、山西地方に打ち立てた軍閥(晋国。後世には前晋とも呼ばれる)がその前身である。 李克用は895年唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた。朱全忠が唐を滅ぼして「後梁」を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った。 李克用の死後、子の李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり、力を得た李存勗は923年皇帝を名乗って「後唐」を建てた。 この時、李存勗が国名に唐を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓李を賜っていたからである。 こうして、後唐は唐の後継を自認し、同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した。 後梁に形式的に臣従し、王に封じられていた南方の諸国(十国)は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した。このときに使者を派遣しなかった四川地方の前蜀は、925年に李存勗(荘宗)により攻められて滅ぼされた。 四川征服後、後唐の初代皇帝の李存勗(荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り、さらには朱全忠が廃止した唐の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失った。 926年、地方の反乱がおきて、皇帝の李存勗(荘宗)は部下によって殺された。 その後、李克用の養子の李嗣源(明宗)は、各地の反乱を収拾させると自ら後唐の2代皇帝になった。李嗣源(明宗)は宰相馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年、再び帝位をめぐる混乱が起こった。 933年、明宗(李嗣源)が病床に倒れると、秦王李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の死後、李従厚(閔帝)が後を継いで3代皇帝になった。 しかし、この動きに、明宗の養子の李従珂が反対し、李従珂が鳳翔で挙兵すると、李従厚(閔帝)はその軍勢に対抗することができず、洛陽を脱出して衛州に逃れた。 こうして、明宗の養子の李従珂が、次の後唐の皇帝になる流れができあがった。 しかし、李従珂と共に明宗(李嗣源)の古くからの腹心で、明宗(李嗣源)の女婿でもある石敬瑭は、李従珂が4代皇帝に即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。この時、石敬瑭は北の契丹(遼)に援軍を要請して、石敬瑭は自ら帝位について「後晋」を建てた(936年)。 936年、後晋軍は李従珂を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡) 後唐朝では、宰相馮道の提案により経書の木版印刷が932年から開始された。この事業は当初従来の王朝と同様に石刻によることが計画されたが、経費がかさむことから木版印刷となり、後周の代953年(広順3年)に完成をみた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "後唐(こうとう、923年 - 936年)は、中国の王朝で、五代の一つである。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす。都は洛陽。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "唐末の混乱期に、突厥沙陀部族出身の李克用が河東節度使として晋陽(太原)に駐屯し、山西地方に打ち立てた軍閥(晋国。後世には前晋とも呼ばれる)がその前身である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "李克用は895年唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、朱全忠との勢力争いに敗れた。朱全忠が唐を滅ぼして「後梁」を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "李克用の死後、子の李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり、力を得た李存勗は923年皇帝を名乗って「後唐」を建てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この時、李存勗が国名に唐を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓李を賜っていたからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "こうして、後唐は唐の後継を自認し、同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "後梁に形式的に臣従し、王に封じられていた南方の諸国(十国)は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した。このときに使者を派遣しなかった四川地方の前蜀は、925年に李存勗(荘宗)により攻められて滅ぼされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "四川征服後、後唐の初代皇帝の李存勗(荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り、さらには朱全忠が廃止した唐の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "926年、地方の反乱がおきて、皇帝の李存勗(荘宗)は部下によって殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後、李克用の養子の李嗣源(明宗)は、各地の反乱を収拾させると自ら後唐の2代皇帝になった。李嗣源(明宗)は宰相馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年、再び帝位をめぐる混乱が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "933年、明宗(李嗣源)が病床に倒れると、秦王李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の死後、李従厚(閔帝)が後を継いで3代皇帝になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、この動きに、明宗の養子の李従珂が反対し、李従珂が鳳翔で挙兵すると、李従厚(閔帝)はその軍勢に対抗することができず、洛陽を脱出して衛州に逃れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こうして、明宗の養子の李従珂が、次の後唐の皇帝になる流れができあがった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、李従珂と共に明宗(李嗣源)の古くからの腹心で、明宗(李嗣源)の女婿でもある石敬瑭は、李従珂が4代皇帝に即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。この時、石敬瑭は北の契丹(遼)に援軍を要請して、石敬瑭は自ら帝位について「後晋」を建てた(936年)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "936年、後晋軍は李従珂を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "後唐朝では、宰相馮道の提案により経書の木版印刷が932年から開始された。この事業は当初従来の王朝と同様に石刻によることが計画されたが、経費がかさむことから木版印刷となり、後周の代953年(広順3年)に完成をみた。", "title": "歴史" } ]
後唐は、中国の王朝で、五代の一つである。李淵の唐の後継者を自認して国号を唐としたので、区別するため後唐と呼び習わす。都は洛陽。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 後唐 |公式国名 = 唐 |建国時期 = [[923年]] |亡国時期 = [[936年]] |先代1 = 前晋 |先旗1 = blank.png |先代2 = 後梁 |先旗2 = blank.png |先代3 = 前蜀 |先旗3 = blank.png |次代1 = 後晋 |次旗1 = blank.png |次代2 = 遼 |次旗2 = blank.png |次代3 = 後蜀 (十国) |次旗3 = blank.png |位置画像 = 五代后唐(繁).png |位置画像説明 = {{Legend|#eed37f|後唐}} |位置画像幅 = 250 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = [[洛陽]] |元首等肩書 = [[皇帝]] |元首等年代始1 = [[923年]] |元首等年代終1 = [[926年]] |元首等氏名1 = [[荘宗]] [[李存勗]] |元首等年代始2 = 926年 |元首等年代終2 = [[933年]] |元首等氏名2 = [[明宗]] [[李嗣源]] |元首等年代始3 = 933年 |元首等年代終3 = [[934年]] |元首等氏名3 = [[閔帝]] [[李従厚]] |元首等年代始4 = 934年 |元首等年代終4 = [[936年]] |元首等氏名4 = [[末帝]]<ref name="matsutei">廟号も諡号もなし</ref> [[李従珂]] |変遷1 = 建国し[[後梁]]を滅ぼす |変遷年月日1 = [[923年]] |変遷2 = [[後晋]]によって滅亡 |変遷年月日2 = [[936年]] }} '''後唐'''(こうとう、[[923年]]<ref name="愛宕他_p15">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.15</ref> - [[936年]]<ref name="愛宕他_p16">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.16</ref>)は、[[中国]]の王朝で、[[五代十国時代|五代]]の一つである<ref name="愛宕他_p3">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.3</ref>。[[李淵]]の[[唐]]の後継者を自認して国号を'''唐'''とした<ref name="愛宕他_p15"/>ので、区別するため後唐と呼び習わす<ref name="愛宕他_p69">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.69</ref>。都は[[洛陽]]<ref name="愛宕他_p15"/>。 == 歴史 == [[唐]]末の混乱期に、[[突厥]][[沙陀族|沙陀部族]]出身の[[李克用]]が河東[[節度使]]として晋陽([[太原]])に駐屯し、[[山西省|山西地方]]に打ち立てた軍閥('''晋'''国。後世には前晋とも呼ばれる)がその前身である<ref name="愛宕他_pp14-15">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、pp.14-15</ref>。 李克用は895年[[唐]]の朝廷から'''晋王'''の位を授けられたが、[[朱全忠]]との勢力争いに敗れた<ref name="愛宕他_p14">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.14</ref>。[[朱全忠]]が[[唐]]を滅ぼして「'''[[後梁]]'''」を建てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った<ref name="愛宕他_p14" />。 李克用の死後、子の[[李存勗]]が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり<ref name="愛宕他_pp11-13">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、pp.11-13</ref>、力を得た[[李存勗]]は[[923年]]皇帝を名乗って「'''後唐」'''を建てた<ref name="愛宕他_p15" />。 この時、[[李存勗]]が国名に'''唐'''を号したのは、祖父の李国昌(朱邪赤心)がかつて唐の朝廷([[懿宗 (唐)|懿宗]])から反乱鎮圧の功により国姓'''李'''を賜っていたから<ref name="愛宕他_p14" />である。 こうして、'''後唐'''は[[唐]]の後継を自認し、同年に[[後梁]]を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した<ref name="愛宕他_p15" />。 後梁に形式的に臣従し<ref name="愛宕他_p10">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.10</ref>、王に封じられていた南方の諸国([[五代十国時代|十国]])は、後梁の滅亡により後唐へ使者を派遣した<ref name="周藤、中嶋_p39">[[#周藤、中嶋 (2004)|周藤、中嶋 (2004)]]、p.39</ref>。このときに使者を派遣しなかった[[四川省|四川地方]]の[[前蜀]]は<ref name="周藤、中嶋_p39" />、925年に[[李存勗]](荘宗)により攻められて滅ぼされた<ref name="愛宕他_p30">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.30</ref>。 四川征服後、'''後唐'''の初代皇帝の[[李存勗]](荘宗)は次第に驕慢となり奢侈に走り<ref name="周藤、中嶋_p39" />、さらには[[朱全忠]]が廃止した[[唐]]の遺習、軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させるなどして将士の信頼を失った。 [[926年]]、地方の反乱がおきて、皇帝の[[李存勗]](荘宗)は部下によって殺された<ref name="愛宕他_p15" /><ref name="周藤、中嶋_p39" />。 その後、李克用の養子の[[李嗣源]](明宗)は、各地の反乱を収拾させると自ら'''後唐'''の2代皇帝になった。[[李嗣源]](明宗)は宰相[[馮道]]を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年、再び帝位をめぐる混乱が起こった。 [[933年]]、明宗([[李嗣源]])が病床に倒れると、秦王[[李従栄]]が簒奪を企てて殺され、明宗の死後、[[李従厚]](閔帝)が後を継いで3代皇帝になった。 しかし、この動きに、明宗の養子の[[李従珂]]が反対し、[[李従珂]]が[[鳳翔府|鳳翔]]で挙兵すると、[[李従厚]](閔帝)はその軍勢に対抗することができず、[[洛陽]]を脱出して[[衛州]]に逃れた。 こうして、明宗の養子の[[李従珂]]が、次の'''後唐'''の皇帝になる流れができあがった。 しかし、[[李従珂]]と共に明宗([[李嗣源]])の古くからの腹心で、明宗([[李嗣源]])の女婿でもある[[石敬瑭]]は、[[李従珂]]が4代皇帝に即位すると晋陽で後唐に対する反乱を起こした。この時、[[石敬瑭]]は北の[[契丹]]([[遼]])に援軍を要請して、[[石敬瑭]]は自ら帝位について「'''[[後晋]]'''」を建てた([[936年]])。 936年、後晋軍は[[李従珂]]を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡) 後唐朝では、宰相[[馮道]]の提案により経書の木版印刷が932年から開始された<ref name="愛宕他_p66">[[#愛宕他 (1997)|愛宕他 (1997)]]、p.66</ref>{{#tag:ref|後唐以前の木版印刷は仏教関係および暦などに限られていた<ref name="愛宕他_p66"/>。|group=*}}。この事業は当初従来の王朝と同様に石刻によることが計画されたが、経費がかさむことから木版印刷となり、後周の代953年(広順3年)に完成をみた<ref name="愛宕他_p66"/>。 ==後唐の皇帝== {| class="wikitable" |+ ! 代数 !! 廟号(諡号) !! 名前 !! 在位 !! 備考 |- ! 1 | 荘宗 || [[李存勗]] || [[923年]] - [[926年]]||李克用の子 |- ! 2 | 明宗 || [[李嗣源]] || 926年 - [[933年]]||[[李克用]]の養子 |- ! 3 | 閔帝 || [[李従厚]] || 933年 - [[934年]]||李嗣源の子 |- ! 4 | [[末帝]]<ref name="matsutei"/> || [[李従珂]] || 934年 - [[936年]] ||李嗣源の養子 |} ==系図== {{familytree/start}} {{familytree|border=0 | AAA |-| BBB |-| CCC |v| DDD |v| EEE | AAA=朱邪執宜 |BBB=朱邪赤心<br />(李國昌) |CCC=[[李克用]]<br />(太祖) |DDD=荘宗[[李存勗]]<sup>1</sup>|EEE=某}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C02 |)| D02 | C02=永王李存覇 |D02=某}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C03 |)| D03 | C03=邕王李存美 |D03=魏王[[李継岌]]}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C04 |)| D04 | C04=薛王李存礼 |D04=守王李継潼}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C05 |)| D05 | C05=申王李存渥 |D05=光王李継嵩}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C06 |)| D06 | C06=陸王李存乂 |D06=真王李継嶦}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C07 |`| D07 | C07=通王李存確 |D07=川王李継嶢}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C08 | | | | | C08=雅王李存紀}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C09 | | | | | C09=李廷鸞}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C10 | | | | | C10=李落落}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | |)| C11 | | | | | C11=李存矩}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | 000 |i| FFF |v| F01 | 000=李霓<br />(徳宗)|FFF=明宗[[李嗣源]]<sup>2</sup> |F01=李従審}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |)| F02 | F02=秦王李従栄}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |)| F03 | F03=李従璨}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |)| F04 | F04=許王李従益}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |)| F05 | F05=閔帝[[李従厚]]<sup>3</sup><br />(宋王)}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |)| F06 | F06=永寧公主<br />(李皇后)}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | SEN |:| |:| | SEN=[[宣憲皇后]] }} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |:| |:| 1SH | |1SH=高祖[[石敬瑭]]<br />(後晋)}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | |}|-|^| GGG |v| G01 | GGG=末帝[[李従珂]]<sup>4</sup><br />(廃帝)|G01=李重吉}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | OHN | | | | |`| G02 | OHN=(王某)|G02=雍王李重美}} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree|border=0 | | | | | | | | | |-|-| VVV |~|~| WWW | VVV=実子 |WWW=養子(仮子)}} {{familytree/end}} ==後唐の元号== {| class="wikitable" |+ !   !! 元号 !! 年数 |- ! 1 | [[同光]] || [[923年]] - [[926年]] |- ! 2 | [[天成 (後唐)|天成]] || 926年 - [[930年]] |- ! 3 | [[長興]] || 930年 - [[933年]] |- ! 4 | [[応順]] || [[934年]]1月 - 4月 |- ! 5 | [[清泰]] || 934年 - [[936年]] |} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=*}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[五代十国時代]] * [[李克用]] * [[李存勗]] * [[李嗣源]] * [[李従厚]] * [[李従珂]] * [[石敬瑭]] == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=愛宕元|authorlink1=愛宕元|author2=斯波義信|authorlink2=斯波義信|author3=森田憲司|authorlink3=森田憲司|editors =[[松丸道雄]]、[[池田温]]、[[斯波義信]]、[[神田信夫]]、[[濱下武志]]|title =中国史 3:五代 – 元|year = 1997|publisher = [[山川出版社]] |series=世界歴史大系|pages=3-71|chapter=第1章 五代|isbn = 4-634-46170-6|ref=愛宕他 (1997)}} * {{Cite book|和書|author1=周藤吉之|authorlink1=周藤吉之|author2=中嶋敏|authorlink2=中嶋敏|title=五代と宋の興亡|year=2004|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159679-9|ref=周藤、中嶋 (2004)}} == 関連項目 == * [[王妃の紋章]](映画) {{先代次代 |'''後唐''' |923年 - 936年 |[[後梁]] |[[後晋]] }} {{五代十国}} {{デフォルトソート:こうとう}} [[Category:五代十国]] [[Category:後唐|*]]
2003-08-19T12:39:35Z
2023-09-13T07:36:01Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 過去の国", "Template:Familytree/start", "Template:Familytree", "Template:Familytree/end", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:先代次代", "Template:五代十国" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%94%90
13,568
サムライスピリッツ
『サムライスピリッツ』(SAMURAI SPIRITS、侍魂)は、1993年にSNK(旧社)が制作した江戸時代の天明〜寛政期(『剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章』のみ文化期)を舞台とした対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称である。『サムスピ』とも略されることもある。日本国外では『SAMURAI SHODOWN』(サムライショーダウン)というタイトルになっており、シリーズのほとんどはナンバリングタイトルに変更されている。 素手を中心とした従来の格闘ゲームと異なり、武器を用いて戦う。 強攻撃の斬りである通称「大斬り」は、隙は大きいものの通常時でも一撃で3割ほどの体力を奪っていくほど攻撃力が高い。さらにダメージを蓄積されると「怒り状態」となり、攻撃力はさらに上昇する。ただし一気に体力ゲージの半分以上を奪うような連続技はほとんどない。よってこのゲームでは大斬りを受けずにいかにこちらの攻撃を当てていくかという駆け引きが要求される、まさに一撃がとても重いゲーム性になっている。また、真剣勝負による「負け=死」という演出でのシビアさが緊張感を作り出している。『天下一剣客伝』などでは必ずしも「負け=死」ではなく、勝負後に会話のやり取りがあるなどマイルドな表現になっていることもある。 ストーリーや一部キャラクターの設定に山田風太郎の伝奇小説『魔界転生(の主に映像化作品)』のパロディ、オマージュ要素が多々含まれており、『魔界武芸帖 サムライスピリッツ』原作者の七月鏡一は、『魔界武芸帳』を『新幻魔大戦』と『魔界転生』のオマージュ作品と語っている。 1994年9月には、『サムライスピリッツ 〜破天降魔の章〜』というタイトルでフジテレビ系によりテレビスペシャルアニメとして放送された。 本シリーズでは登場人物のナコルルが人気を博し、他のSNK作品にもゲスト出演することが多い。シリーズ関連としては1999年にはナコルルを主人公として、ゲーム版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』の世界観をベースに製作された、OVA版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』(全2巻)が発売された。 また、派生作品として、ナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』とそれをOVA化した『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編』(OVAは前後編予定であったが、発売元の倒産の影響で前編のみしか出ていない)がある。 1993年7月7日稼働。シリーズ1作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN』。 1994年10月28日稼働。シリーズ2作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN II』。 1995年11月27日稼働。シリーズ3作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN III』。前2作とシステムが大幅に変更された。またシリーズで初めて主人公が変更された。 1996年10月25日稼働。シリーズ4作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN IV AMAKUSA'S REVENGE』。前作のシステムと世界観を受け継いでいる。 1997年12月19日稼働。シリーズ5作目。1997年にSNK自社開発の新筐体ハイパーネオジオ64向けに製作された。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN 64』。グラフィックがこれまでの2Dから3Dポリゴンとなった。家庭用移植版は無い。時系列は『真』からの一年後となる。 この作品および、これを筆頭とした3Dシリーズは「3Dポリゴンのサムライスピリッツ」を略してしばしば「ポリサム」と通称される。 「修羅」・「羅刹」でナコルルのキャラクターグラフィックがさらに変化し、「修羅」はこれまで通りロングヘアにリボン、「羅刹」はボブヘアにヘアバンドになった。キャラクターの表情の違いに伴い、より別人格のナコルルというキャラクター付けがされるようになった。羅刹ナコルルの髪型が変化した理由は、羅刹ナコルルがシクルゥと共に戦うため、『侍魂』制作時の当時の3Dでは大きな狼であるシクルゥに取られ容量がオーバーになってしまったため、やむを得なくナコルルのロングヘアが削られ、ボブヘアになったという逸話がある。 システムは『天草降臨』のものを継承した形になっている。また、3Dゲームらしくステージ間移動などのフィーチャーも盛り込まれた。 勝利時や一閃時などに墨絵のキャラクターイラストが挿入される。 従来のシリーズからは10名の既存キャラクターが参戦。今作からの新キャラクターとして「色」「柳生磐馬」、その他CPU専用中ボスの「巖陀羅」「木偶♂」「木偶♀」が追加。ボスキャラクターは「壊帝ユガ」。 キャラクターイラストは北千里が担当(続編の『アスラ斬魔伝』も同様)。 1998年10月16日稼働。シリーズ6作目。1998年にハイパーネオジオ64向けに制作された。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN 64 WARRIORS RAGE』。前作と同様に3D格闘ゲーム。また、家庭用移植版は無い。時系列はポリサムから続く第二部にあたる。 前作とは異なり、システムのみ2D作品のようなシステムに戻っている。 今作からの新キャラクターは「アスラ」(本作の主人公でもある)と「八角泰山」の2名が追加。ボスキャラクターは前作に引き続き「壊帝ユガ」。前作に登場したキャラクターは「黒子」「木偶♂」「木偶♀」を除き全て続投され、「巖陀羅」と「壊帝ユガ」は前作同様にCPU専用のまま。 これまで「修羅」と「羅刹」ではキャラクターグラフィックの細分化が「ナコルル」のみであったが、今作では全キャラクターが修羅・羅刹で設定が区別された。修羅と羅刹で名前まで大きく異なるキャラクターは「アスラ」の羅刹は「反面のアスラ」、「色」の羅刹は「半陰となりし色」、「柳生磐馬」の羅刹は「柳生カラクリ磐馬」、「風間火月」の羅刹は「炎邪火月」、「風間蒼月」の羅刹は「水邪蒼月」などがいる。他に今作で明確にデザインの描き分けのあるキャラクターは「覇王丸」、「ナコルル」、「リムルル」、「服部半蔵」、「ガルフォード」がいる。 2003年10月10日稼働。シリーズ7作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN V』。再び2Dで制作されている。 今作から株式会社SNKプレイモア(旧SNKの後継会社、のち旧社と同じSNKに社名変更)がリリースしている。 2004年4月22日稼働。シリーズ8作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN V SPECIAL』。『サムライスピリッツ零』の対戦バランスを調整したバージョンアップ版であるが、オープニングやキャラクターセレクト画面の変更、演出の新規追加、2Dシリーズ歴代のボスがプレイアブルキャラクターに追加されている。また、イラストレーターを変更し、全キャラクターイラストは新規に描き下ろされている。 家庭用ネオジオで発売された最後の作品となった。 2005年9月14日稼働。シリーズ9作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN VI』。現時点では2Dシリーズ最終作と言われている。過去の2D作品に登場したキャラクターほぼ全てが出演。本作独自のストーリーを持ち、一連の作品と直接の繋がりはなく、パラレルワールドとなっている。 2008年4月18日稼働。シリーズ10作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN EDGE OF DESTINY』もしくは『SAMURAI SHODOWN SEN』。タイトーの新基板TAITO Type X2でリリースされた、PS作品『蒼紅の刃』以来の3D作品。製作動機は細谷壮一郎(SNKプレイモアのコンテンツ事業本部の本部長)によると「『SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜』で散ったリベンジ」とのこと。 時系列は『アスラ斬魔伝』の1年後だが、ポリサム関連の設定と一部矛盾が見られる。 既存キャラクターの声の出演は『零SPECIAL』より以前のキャスティングに戻っている。日本版では残虐描写は一切ないが、日本国外版では胴体切断や出血描写などがある。 2009年12月10日にはXbox 360版が発売された。 2011年10月5日からはネットワーク型業務用ビデオゲーム筐体NESiCAxLiveにてダウンロード配信されている。 2019年10月24日にNESiCAxLive2で配信。シリーズ11作目。サブタイトルは無く『SAMURAI SPIRITS』が正式タイトルとなっている。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN』。以下、シリーズ第1作目と区別するために本稿では便宜上『SAMURAI SPIRITS(2019)』と年号を明記する。 ゲームエンジンはアンリアルエンジン4を採用。グラフィックは『閃』と同じく3DCGで描かれた3D対戦型格闘ゲームであるが、システムは『ザ・キング・オブ・ファイターズXIV』などと同様に従来の2D対戦型格闘ゲームに準拠した内容になっている。 家庭用版はアーケードでの稼働に先駆けて、PlayStation 4、Xbox One版が2019年6月27日発売。その後、PC(Google Stadia)版が2019年11月19日発売。Nintendo Switch版が2019年12月12日発売。 2022年9月29日にexA-Arcadiaで配信予定。2004年10月にあるゲームセンターでロケテストが短期間行われたのが目撃されたものの、SNKプレイモア公式サイトで「同人ソフト」と存在を否定され幻となっていた作品。2020年発売の家庭用オムニパスソフト『サムライスピリッツ ネオジオコレクション』に収録され、公認ソフトに加えられることになった。さらに2022年にアーケード版が稼働される事が発表された。 1997年6月27日に家庭用ゲーム機ソフトとして開発され、ネオジオCD、セガサターン(SS)、PlayStation(PS)で発売されたRPG。いずれも日本国内のみ発売。 日本を舞台とした「邪天降臨之章」(『サムライスピリッツ』を題材としている)と全世界を舞台とする「妖花慟哭之章」(『真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変』を題材としている)の2本立て。なお、当初はこの2つのシナリオと江戸を舞台にした「魔都封滅之章」の計3つのシナリオの中からハード別に2つの組み合わせとする予定であったが、最終的にどのハードも前述の2つの収録となっている。 主人公は覇王丸、牙神幻十郎、ナコルル、ガルフォード、橘右京、チャムチャムの6人の中から1人を選択。各キャラクターのプロローグの後に、仲間となるキャラクター(幻十郎以外で主人公に選択したキャラクターを除いた4人とリムルル、千両狂死郎、シャルロット)とパーティーを組んで旅をすることになる。なお、幻十郎のみ「邪天降臨之章」ではパーティを組めない(「妖花慟哭之章」では「疾風の鈴音」との2人パーティ)。 各機種ごとにそれぞれ別々の隠し要素があり、ネオジオCD版には「緋雨閑丸」を主人公にしたおまけ短編シナリオ、PS版には各サブキャラクターのショートストーリー、SS版には黒子の質問コーナーがある。 キャラクターイラストは漫画家のしろー大野が担当。 エンディングテーマ「天空(そら)へ」の歌をKEN(錦織健)が担当。 1998年12月25日にネオジオポケットで発売。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN!』。 『天草降臨』をベースとしたアレンジ作品で、デフォルメキャラクターが画面狭しと剣を交える。ネオジオポケットカラー発売前の作品であるため、カラー本体で遊んだ場合でも画像は白黒表示である。 『天草降臨』と異なりタイムアタック要素はなく、登場キャラクターは「シャルロット」、「千両狂死郎」、「タムタム」、「首斬り破沙羅」、「花諷院骸羅」が削除されているが、独自の隠しキャラクターとして「色」が2D作品では初めて登場する。 1999年6月10日にネオジオポケットで発売。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN! 2』。2019年12月19日発売のNintendo Switch版『SAMURAI SPIRITS』(2019年版)の早期購入特典として初移植版となるNintendo Switch版が配信された。その後、2020年8月6日に一般配信された。 レイティングはCERO:A(全年齢対象)。 『アスラ斬魔伝』をベースとしたアレンジ作品だが、前作の続編という位置づけでもあるため、引き続き2Dのデフォルメキャラクターとなっている。モノクロ本体でも遊べるが、今作ではカラー表示にも対応している。 『アスラ斬魔伝』と異なり、修羅と羅刹でのグラフィック変化が無い他、「柳生磐馬」が削除され、使用キャラクターに「シャルロット」と「柳生十兵衛」、ランダムセレクトキャラクターとして「黒子」が追加されている。また、最終ボスである「壊帝ユガ」を隠しコマンドで使用できる唯一の作品。 各種条件で入手できるアイテムによりキャラクターの強化が可能。壊帝ユガはこれを使用しないと秘奥義が使用できない。 1999年12月22日にPlayStationで発売された家庭用完全オリジナルの3D格闘ゲーム。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN WARRIORS RAGE』。本作は『サムライスピリッツ新章』の部分が従来と逆順でサブタイトル扱いとなっており、公式サイトでは単に『剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃』とも表記される。 ストーリーは『アスラ斬魔伝』から約20年後の設定で、主人公は新キャラクターの「九葵蒼志狼」。ボスキャラクターは使用キャラクターによって異なる。次世代を描いた作品であるため、登場キャラクターがこれまでのシリーズから一新されており、過去作から続けてプレイヤーキャラクターとして登場するのは、年を経た覇王丸、服部半蔵(実際には半蔵の名を受け継いだ息子・真蔵であるため別人)、「幽堕」(正体は記憶を失ったアスラで、性能は全く異なる)のみ。ナコルルとリムルルはプレイヤーキャラクターではなく、ストーリー上の重要サブキャラクターおよびミニゲームの主役となっている。 現時点での「時系列順」によるストーリーはこの作品が一番後年となっている。 登場キャラクターは23人で、初期ではプレイできるキャラクターが少人数に限られているが、ストーリーモードで対応キャラクターでクリアすると、プレイできるキャラクターが増えてゆく。これまでのような「修羅・羅刹」設定は廃止されているが、使用技のモーションや性能を一部共有する別キャラクターが複数存在する。また、追加キャラクターの「ゴロツキ」と「朧衆」と「伊賀忍軍」と「お侍」は必殺技などを持たず特殊技しか使用できない。 ストーリーモードを進めるとギャラリーモードにイラストやムービー(歴代シリーズの多数のキャラクターイラスト、本作に挿入されたムービーが場面別に見られる)が追加されていく。 PocketStationの連動で、ナコルルと遊べるミニゲーム「ナコPG」、「サムライウォッチ」が存在する。 キャラクターイラストは『アスラ斬魔伝』から引き続き、北千里が担当。 ポリゴン化された3Dキャラクターの作り込みが甘い、武器が相手にヒットする過程の表現が2D的であり、3D作品であるはずが視覚的に違和感を抱いてしまう、などのような点からゲームとしての完成度はあまり高くないという評価が下されている。 2007年4月26日にはゲームアーカイブスでも配信開始されている。レイティングはCERO:C(15才以上対象)。 株式会社SNKが2001年に倒産したため、旧SNKが手がけた『サムライスピリッツ』シリーズ最後の作品となった。その後発売されたサムライスピリッツシリーズのソフトは、後継会社のSNKプレイモア(現SNK)からリリースされることになる。 上記のほか、セガサターン版『斬紅郎無双剣』と『天草降臨』を2枚組でカップリング収録した『サムライスピリッツ ベストコレクション』もあるが、そちらは各単体版と同内容となっている。 家庭用のみで発売されたものも含む。括弧内は発売元。 SAMURAI SPIRITS 真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変(以降は新キャラクターのみを記述) サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣 サムライスピリッツ 天草降臨 SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜 SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章 サムライスピリッツ零 / サムライスピリッツ零SPECIAL サムライスピリッツ 天下一剣客伝 サムライスピリッツ閃 SAMURAI SPIRITS(2019) 2001年に発表されたナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム。制作会社は『サムライスピリッツ』シリーズの「SNK」ではなく、「インターレッツ」の「ナコルル制作委員会」である。「サムライスピリッツ」でナコルルを作った企画(セイウチ)など、SNKのスタッフが参加している。Windows版とドリームキャスト(DC)版がある。 初代『サムライスピリッツ』から『真サムライスピリッツ』へと続く話で、戦いを終えてカムイコタンに帰ってきたナコルルたちの生活を、ナコルルの従者である主人公の「ミカト」の視点から描いている。ただし、サムライスピリッツのシリーズとは設定に矛盾があるため(ナコルルの祖父母の設定や、リムルルの血縁関係、本作で語られる結末部分)パラレルワールドに位置する。 紫ナコルルの設定を元にした「レラ」が初登場した作品。本作のオリジナルキャラクターの「マナリ」は『CAPCOM vs SNK 2』にもナコルルの試合前のデモなどで登場する。 携帯電話アプリゲームとして配信されている恋愛ゲーム『Days of Memories』シリーズの一部作品にて本作のキャラクターが登場する。特にシリーズ3作目となる『Days of Memories 〜大江戸恋愛絵巻〜』は、ほぼすべての登場人物が『サムライスピリッツ』のキャラクターで占められており、世界観もそれに合わせたものとなっている。なお、タイトルに「大江戸」とあるが舞台は大坂の江坂である。また、7作目『Days of Memories 〜僕と彼女と古都の恋〜』、8作目『Days of Memories 〜風舞う都でつかまえて!〜 』、9作目『Days of Memories 〜世界で一番熱い冬〜』にも本作のキャラクターが多数登場する。 これらの4作品は、後にニンテンドーDS用ソフト『Day of Memories』(『大江戸恋愛絵巻』を収録)、『Days of Memories 3』(『僕と彼女と古都の恋』から『世界で一番熱い冬』までの3作品を収録)に移植されている。 2007年よりi-mode用アプリゲームとして配信されている育成シミュレーションゲーム。『天下一剣客伝』から参戦した「いろは」を最高のメイドにすることを目的とする。 2008年より携帯電話アプリゲームとして配信されているビジュアルノベルのシリーズ。ヒロインは「いろは」で、舞台は現代。サブタイトルは1作目が『〜さくら咲く春〜』、2作目が『〜ひまわり輝く夏〜』、3作目が『〜もみじ色づく秋〜』、4作目が『〜さざんか散る冬〜』。 タイトルロゴが『電子メイド手帖 恋のいろは』(発売中止作品)の「恋のいろは」の部分と共通している。 1994年9月18日にフジテレビ系で放送された単発のテレビアニメ作品。ゲームとは異なるオリジナルストーリーである。DVDと小説(著・岸間信明)が発売されている。覇王丸の声をSMAPの香取慎吾が当て、『真サムライスピリッツ』における覇王丸の隠し技である「天覇封神斬」のコマンドが番組中で公開された。覇王丸が天覇封神斬を出す瞬間に閃光がコマンド型に走るという演出であった。右京は本編中に登場せず、エンディングのスタッフロールのバックに彼の映像が流れるのみとなっている。 覇王丸が主人公。本作ではシャルロットがストーリーのヒロインを務めている。 本作では覇王丸とシャルロットは「前世で恋人同志」というゲーム版には無い設定がされている。また、天草四郎時貞はゲーム版とは別の武器を使用している。 1999年にOVAとして発表された作品(全2巻)。「DVD」版と「VHS」版で発売された。声を当てている声優はゲーム版と同一である。当時、同人誌や雑誌のコラムなどでナコルルのファンであることを強烈にアピールしていた七瀬葵をキャラクターデザインに起用している。 本作ではナコルルが主人公。ナコルルとは別人格のキャラクターとして羅刹ナコルルも登場している。 ストーリーはゲーム版『アスラ斬魔伝』の前日譚となっている。 『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』のアニメ版。2002年にOVAとして発表。主人公はミカトからナコルルに変更されている。声優はアドベンチャーゲーム版とほぼ一緒であるが、レラの声優が生駒治美から氷上恭子に変更された。その影響から『サムライスピリッツ零』でも氷上がレラの声優を務めた。一応時代設定としては初代と『斬紅郎無双剣』の間となる。 前編・後編の2巻発売予定であったが、発売元のグルーヴコーポレーションが倒産した影響で続編の製作は中止になったらしく、ストーリーは中途半端に終わってしまっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『サムライスピリッツ』(SAMURAI SPIRITS、侍魂)は、1993年にSNK(旧社)が制作した江戸時代の天明〜寛政期(『剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章』のみ文化期)を舞台とした対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称である。『サムスピ』とも略されることもある。日本国外では『SAMURAI SHODOWN』(サムライショーダウン)というタイトルになっており、シリーズのほとんどはナンバリングタイトルに変更されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "素手を中心とした従来の格闘ゲームと異なり、武器を用いて戦う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "強攻撃の斬りである通称「大斬り」は、隙は大きいものの通常時でも一撃で3割ほどの体力を奪っていくほど攻撃力が高い。さらにダメージを蓄積されると「怒り状態」となり、攻撃力はさらに上昇する。ただし一気に体力ゲージの半分以上を奪うような連続技はほとんどない。よってこのゲームでは大斬りを受けずにいかにこちらの攻撃を当てていくかという駆け引きが要求される、まさに一撃がとても重いゲーム性になっている。また、真剣勝負による「負け=死」という演出でのシビアさが緊張感を作り出している。『天下一剣客伝』などでは必ずしも「負け=死」ではなく、勝負後に会話のやり取りがあるなどマイルドな表現になっていることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ストーリーや一部キャラクターの設定に山田風太郎の伝奇小説『魔界転生(の主に映像化作品)』のパロディ、オマージュ要素が多々含まれており、『魔界武芸帖 サムライスピリッツ』原作者の七月鏡一は、『魔界武芸帳』を『新幻魔大戦』と『魔界転生』のオマージュ作品と語っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1994年9月には、『サムライスピリッツ 〜破天降魔の章〜』というタイトルでフジテレビ系によりテレビスペシャルアニメとして放送された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本シリーズでは登場人物のナコルルが人気を博し、他のSNK作品にもゲスト出演することが多い。シリーズ関連としては1999年にはナコルルを主人公として、ゲーム版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』の世界観をベースに製作された、OVA版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』(全2巻)が発売された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、派生作品として、ナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』とそれをOVA化した『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編』(OVAは前後編予定であったが、発売元の倒産の影響で前編のみしか出ていない)がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1993年7月7日稼働。シリーズ1作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN』。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1994年10月28日稼働。シリーズ2作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN II』。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1995年11月27日稼働。シリーズ3作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN III』。前2作とシステムが大幅に変更された。またシリーズで初めて主人公が変更された。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1996年10月25日稼働。シリーズ4作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN IV AMAKUSA'S REVENGE』。前作のシステムと世界観を受け継いでいる。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1997年12月19日稼働。シリーズ5作目。1997年にSNK自社開発の新筐体ハイパーネオジオ64向けに製作された。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN 64』。グラフィックがこれまでの2Dから3Dポリゴンとなった。家庭用移植版は無い。時系列は『真』からの一年後となる。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この作品および、これを筆頭とした3Dシリーズは「3Dポリゴンのサムライスピリッツ」を略してしばしば「ポリサム」と通称される。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「修羅」・「羅刹」でナコルルのキャラクターグラフィックがさらに変化し、「修羅」はこれまで通りロングヘアにリボン、「羅刹」はボブヘアにヘアバンドになった。キャラクターの表情の違いに伴い、より別人格のナコルルというキャラクター付けがされるようになった。羅刹ナコルルの髪型が変化した理由は、羅刹ナコルルがシクルゥと共に戦うため、『侍魂』制作時の当時の3Dでは大きな狼であるシクルゥに取られ容量がオーバーになってしまったため、やむを得なくナコルルのロングヘアが削られ、ボブヘアになったという逸話がある。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "システムは『天草降臨』のものを継承した形になっている。また、3Dゲームらしくステージ間移動などのフィーチャーも盛り込まれた。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "勝利時や一閃時などに墨絵のキャラクターイラストが挿入される。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "従来のシリーズからは10名の既存キャラクターが参戦。今作からの新キャラクターとして「色」「柳生磐馬」、その他CPU専用中ボスの「巖陀羅」「木偶♂」「木偶♀」が追加。ボスキャラクターは「壊帝ユガ」。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "キャラクターイラストは北千里が担当(続編の『アスラ斬魔伝』も同様)。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1998年10月16日稼働。シリーズ6作目。1998年にハイパーネオジオ64向けに制作された。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN 64 WARRIORS RAGE』。前作と同様に3D格闘ゲーム。また、家庭用移植版は無い。時系列はポリサムから続く第二部にあたる。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "前作とは異なり、システムのみ2D作品のようなシステムに戻っている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "今作からの新キャラクターは「アスラ」(本作の主人公でもある)と「八角泰山」の2名が追加。ボスキャラクターは前作に引き続き「壊帝ユガ」。前作に登場したキャラクターは「黒子」「木偶♂」「木偶♀」を除き全て続投され、「巖陀羅」と「壊帝ユガ」は前作同様にCPU専用のまま。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これまで「修羅」と「羅刹」ではキャラクターグラフィックの細分化が「ナコルル」のみであったが、今作では全キャラクターが修羅・羅刹で設定が区別された。修羅と羅刹で名前まで大きく異なるキャラクターは「アスラ」の羅刹は「反面のアスラ」、「色」の羅刹は「半陰となりし色」、「柳生磐馬」の羅刹は「柳生カラクリ磐馬」、「風間火月」の羅刹は「炎邪火月」、「風間蒼月」の羅刹は「水邪蒼月」などがいる。他に今作で明確にデザインの描き分けのあるキャラクターは「覇王丸」、「ナコルル」、「リムルル」、「服部半蔵」、「ガルフォード」がいる。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2003年10月10日稼働。シリーズ7作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN V』。再び2Dで制作されている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "今作から株式会社SNKプレイモア(旧SNKの後継会社、のち旧社と同じSNKに社名変更)がリリースしている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2004年4月22日稼働。シリーズ8作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN V SPECIAL』。『サムライスピリッツ零』の対戦バランスを調整したバージョンアップ版であるが、オープニングやキャラクターセレクト画面の変更、演出の新規追加、2Dシリーズ歴代のボスがプレイアブルキャラクターに追加されている。また、イラストレーターを変更し、全キャラクターイラストは新規に描き下ろされている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "家庭用ネオジオで発売された最後の作品となった。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2005年9月14日稼働。シリーズ9作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN VI』。現時点では2Dシリーズ最終作と言われている。過去の2D作品に登場したキャラクターほぼ全てが出演。本作独自のストーリーを持ち、一連の作品と直接の繋がりはなく、パラレルワールドとなっている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年4月18日稼働。シリーズ10作目。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN EDGE OF DESTINY』もしくは『SAMURAI SHODOWN SEN』。タイトーの新基板TAITO Type X2でリリースされた、PS作品『蒼紅の刃』以来の3D作品。製作動機は細谷壮一郎(SNKプレイモアのコンテンツ事業本部の本部長)によると「『SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜』で散ったリベンジ」とのこと。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "時系列は『アスラ斬魔伝』の1年後だが、ポリサム関連の設定と一部矛盾が見られる。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "既存キャラクターの声の出演は『零SPECIAL』より以前のキャスティングに戻っている。日本版では残虐描写は一切ないが、日本国外版では胴体切断や出血描写などがある。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2009年12月10日にはXbox 360版が発売された。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2011年10月5日からはネットワーク型業務用ビデオゲーム筐体NESiCAxLiveにてダウンロード配信されている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2019年10月24日にNESiCAxLive2で配信。シリーズ11作目。サブタイトルは無く『SAMURAI SPIRITS』が正式タイトルとなっている。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN』。以下、シリーズ第1作目と区別するために本稿では便宜上『SAMURAI SPIRITS(2019)』と年号を明記する。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ゲームエンジンはアンリアルエンジン4を採用。グラフィックは『閃』と同じく3DCGで描かれた3D対戦型格闘ゲームであるが、システムは『ザ・キング・オブ・ファイターズXIV』などと同様に従来の2D対戦型格闘ゲームに準拠した内容になっている。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "家庭用版はアーケードでの稼働に先駆けて、PlayStation 4、Xbox One版が2019年6月27日発売。その後、PC(Google Stadia)版が2019年11月19日発売。Nintendo Switch版が2019年12月12日発売。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2022年9月29日にexA-Arcadiaで配信予定。2004年10月にあるゲームセンターでロケテストが短期間行われたのが目撃されたものの、SNKプレイモア公式サイトで「同人ソフト」と存在を否定され幻となっていた作品。2020年発売の家庭用オムニパスソフト『サムライスピリッツ ネオジオコレクション』に収録され、公認ソフトに加えられることになった。さらに2022年にアーケード版が稼働される事が発表された。", "title": "業務用作品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1997年6月27日に家庭用ゲーム機ソフトとして開発され、ネオジオCD、セガサターン(SS)、PlayStation(PS)で発売されたRPG。いずれも日本国内のみ発売。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本を舞台とした「邪天降臨之章」(『サムライスピリッツ』を題材としている)と全世界を舞台とする「妖花慟哭之章」(『真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変』を題材としている)の2本立て。なお、当初はこの2つのシナリオと江戸を舞台にした「魔都封滅之章」の計3つのシナリオの中からハード別に2つの組み合わせとする予定であったが、最終的にどのハードも前述の2つの収録となっている。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "主人公は覇王丸、牙神幻十郎、ナコルル、ガルフォード、橘右京、チャムチャムの6人の中から1人を選択。各キャラクターのプロローグの後に、仲間となるキャラクター(幻十郎以外で主人公に選択したキャラクターを除いた4人とリムルル、千両狂死郎、シャルロット)とパーティーを組んで旅をすることになる。なお、幻十郎のみ「邪天降臨之章」ではパーティを組めない(「妖花慟哭之章」では「疾風の鈴音」との2人パーティ)。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "各機種ごとにそれぞれ別々の隠し要素があり、ネオジオCD版には「緋雨閑丸」を主人公にしたおまけ短編シナリオ、PS版には各サブキャラクターのショートストーリー、SS版には黒子の質問コーナーがある。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "キャラクターイラストは漫画家のしろー大野が担当。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "エンディングテーマ「天空(そら)へ」の歌をKEN(錦織健)が担当。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1998年12月25日にネオジオポケットで発売。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN!』。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『天草降臨』をベースとしたアレンジ作品で、デフォルメキャラクターが画面狭しと剣を交える。ネオジオポケットカラー発売前の作品であるため、カラー本体で遊んだ場合でも画像は白黒表示である。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "『天草降臨』と異なりタイムアタック要素はなく、登場キャラクターは「シャルロット」、「千両狂死郎」、「タムタム」、「首斬り破沙羅」、「花諷院骸羅」が削除されているが、独自の隠しキャラクターとして「色」が2D作品では初めて登場する。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1999年6月10日にネオジオポケットで発売。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN! 2』。2019年12月19日発売のNintendo Switch版『SAMURAI SPIRITS』(2019年版)の早期購入特典として初移植版となるNintendo Switch版が配信された。その後、2020年8月6日に一般配信された。 レイティングはCERO:A(全年齢対象)。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "『アスラ斬魔伝』をベースとしたアレンジ作品だが、前作の続編という位置づけでもあるため、引き続き2Dのデフォルメキャラクターとなっている。モノクロ本体でも遊べるが、今作ではカラー表示にも対応している。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "『アスラ斬魔伝』と異なり、修羅と羅刹でのグラフィック変化が無い他、「柳生磐馬」が削除され、使用キャラクターに「シャルロット」と「柳生十兵衛」、ランダムセレクトキャラクターとして「黒子」が追加されている。また、最終ボスである「壊帝ユガ」を隠しコマンドで使用できる唯一の作品。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "各種条件で入手できるアイテムによりキャラクターの強化が可能。壊帝ユガはこれを使用しないと秘奥義が使用できない。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1999年12月22日にPlayStationで発売された家庭用完全オリジナルの3D格闘ゲーム。英語版タイトルは『SAMURAI SHODOWN WARRIORS RAGE』。本作は『サムライスピリッツ新章』の部分が従来と逆順でサブタイトル扱いとなっており、公式サイトでは単に『剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃』とも表記される。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ストーリーは『アスラ斬魔伝』から約20年後の設定で、主人公は新キャラクターの「九葵蒼志狼」。ボスキャラクターは使用キャラクターによって異なる。次世代を描いた作品であるため、登場キャラクターがこれまでのシリーズから一新されており、過去作から続けてプレイヤーキャラクターとして登場するのは、年を経た覇王丸、服部半蔵(実際には半蔵の名を受け継いだ息子・真蔵であるため別人)、「幽堕」(正体は記憶を失ったアスラで、性能は全く異なる)のみ。ナコルルとリムルルはプレイヤーキャラクターではなく、ストーリー上の重要サブキャラクターおよびミニゲームの主役となっている。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "現時点での「時系列順」によるストーリーはこの作品が一番後年となっている。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "登場キャラクターは23人で、初期ではプレイできるキャラクターが少人数に限られているが、ストーリーモードで対応キャラクターでクリアすると、プレイできるキャラクターが増えてゆく。これまでのような「修羅・羅刹」設定は廃止されているが、使用技のモーションや性能を一部共有する別キャラクターが複数存在する。また、追加キャラクターの「ゴロツキ」と「朧衆」と「伊賀忍軍」と「お侍」は必殺技などを持たず特殊技しか使用できない。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ストーリーモードを進めるとギャラリーモードにイラストやムービー(歴代シリーズの多数のキャラクターイラスト、本作に挿入されたムービーが場面別に見られる)が追加されていく。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "PocketStationの連動で、ナコルルと遊べるミニゲーム「ナコPG」、「サムライウォッチ」が存在する。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "キャラクターイラストは『アスラ斬魔伝』から引き続き、北千里が担当。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ポリゴン化された3Dキャラクターの作り込みが甘い、武器が相手にヒットする過程の表現が2D的であり、3D作品であるはずが視覚的に違和感を抱いてしまう、などのような点からゲームとしての完成度はあまり高くないという評価が下されている。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2007年4月26日にはゲームアーカイブスでも配信開始されている。レイティングはCERO:C(15才以上対象)。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "株式会社SNKが2001年に倒産したため、旧SNKが手がけた『サムライスピリッツ』シリーズ最後の作品となった。その後発売されたサムライスピリッツシリーズのソフトは、後継会社のSNKプレイモア(現SNK)からリリースされることになる。", "title": "家庭用オリジナル作品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "上記のほか、セガサターン版『斬紅郎無双剣』と『天草降臨』を2枚組でカップリング収録した『サムライスピリッツ ベストコレクション』もあるが、そちらは各単体版と同内容となっている。", "title": "カップリング作品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "家庭用のみで発売されたものも含む。括弧内は発売元。", "title": "家庭用移植版" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "SAMURAI SPIRITS", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変(以降は新キャラクターのみを記述)", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "サムライスピリッツ 天草降臨", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "サムライスピリッツ零 / サムライスピリッツ零SPECIAL", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "サムライスピリッツ 天下一剣客伝", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "サムライスピリッツ閃", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "SAMURAI SPIRITS(2019)", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2001年に発表されたナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム。制作会社は『サムライスピリッツ』シリーズの「SNK」ではなく、「インターレッツ」の「ナコルル制作委員会」である。「サムライスピリッツ」でナコルルを作った企画(セイウチ)など、SNKのスタッフが参加している。Windows版とドリームキャスト(DC)版がある。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "初代『サムライスピリッツ』から『真サムライスピリッツ』へと続く話で、戦いを終えてカムイコタンに帰ってきたナコルルたちの生活を、ナコルルの従者である主人公の「ミカト」の視点から描いている。ただし、サムライスピリッツのシリーズとは設定に矛盾があるため(ナコルルの祖父母の設定や、リムルルの血縁関係、本作で語られる結末部分)パラレルワールドに位置する。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "紫ナコルルの設定を元にした「レラ」が初登場した作品。本作のオリジナルキャラクターの「マナリ」は『CAPCOM vs SNK 2』にもナコルルの試合前のデモなどで登場する。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "携帯電話アプリゲームとして配信されている恋愛ゲーム『Days of Memories』シリーズの一部作品にて本作のキャラクターが登場する。特にシリーズ3作目となる『Days of Memories 〜大江戸恋愛絵巻〜』は、ほぼすべての登場人物が『サムライスピリッツ』のキャラクターで占められており、世界観もそれに合わせたものとなっている。なお、タイトルに「大江戸」とあるが舞台は大坂の江坂である。また、7作目『Days of Memories 〜僕と彼女と古都の恋〜』、8作目『Days of Memories 〜風舞う都でつかまえて!〜 』、9作目『Days of Memories 〜世界で一番熱い冬〜』にも本作のキャラクターが多数登場する。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "これらの4作品は、後にニンテンドーDS用ソフト『Day of Memories』(『大江戸恋愛絵巻』を収録)、『Days of Memories 3』(『僕と彼女と古都の恋』から『世界で一番熱い冬』までの3作品を収録)に移植されている。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2007年よりi-mode用アプリゲームとして配信されている育成シミュレーションゲーム。『天下一剣客伝』から参戦した「いろは」を最高のメイドにすることを目的とする。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2008年より携帯電話アプリゲームとして配信されているビジュアルノベルのシリーズ。ヒロインは「いろは」で、舞台は現代。サブタイトルは1作目が『〜さくら咲く春〜』、2作目が『〜ひまわり輝く夏〜』、3作目が『〜もみじ色づく秋〜』、4作目が『〜さざんか散る冬〜』。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "タイトルロゴが『電子メイド手帖 恋のいろは』(発売中止作品)の「恋のいろは」の部分と共通している。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1994年9月18日にフジテレビ系で放送された単発のテレビアニメ作品。ゲームとは異なるオリジナルストーリーである。DVDと小説(著・岸間信明)が発売されている。覇王丸の声をSMAPの香取慎吾が当て、『真サムライスピリッツ』における覇王丸の隠し技である「天覇封神斬」のコマンドが番組中で公開された。覇王丸が天覇封神斬を出す瞬間に閃光がコマンド型に走るという演出であった。右京は本編中に登場せず、エンディングのスタッフロールのバックに彼の映像が流れるのみとなっている。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "覇王丸が主人公。本作ではシャルロットがストーリーのヒロインを務めている。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "本作では覇王丸とシャルロットは「前世で恋人同志」というゲーム版には無い設定がされている。また、天草四郎時貞はゲーム版とは別の武器を使用している。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1999年にOVAとして発表された作品(全2巻)。「DVD」版と「VHS」版で発売された。声を当てている声優はゲーム版と同一である。当時、同人誌や雑誌のコラムなどでナコルルのファンであることを強烈にアピールしていた七瀬葵をキャラクターデザインに起用している。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "本作ではナコルルが主人公。ナコルルとは別人格のキャラクターとして羅刹ナコルルも登場している。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ストーリーはゲーム版『アスラ斬魔伝』の前日譚となっている。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』のアニメ版。2002年にOVAとして発表。主人公はミカトからナコルルに変更されている。声優はアドベンチャーゲーム版とほぼ一緒であるが、レラの声優が生駒治美から氷上恭子に変更された。その影響から『サムライスピリッツ零』でも氷上がレラの声優を務めた。一応時代設定としては初代と『斬紅郎無双剣』の間となる。", "title": "他メディア作品" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "前編・後編の2巻発売予定であったが、発売元のグルーヴコーポレーションが倒産した影響で続編の製作は中止になったらしく、ストーリーは中途半端に終わってしまっている。", "title": "他メディア作品" } ]
『サムライスピリッツ』は、1993年にSNK(旧社)が制作した江戸時代の天明〜寛政期を舞台とした対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称である。『サムスピ』とも略されることもある。日本国外では『SAMURAI SHODOWN』(サムライショーダウン)というタイトルになっており、シリーズのほとんどはナンバリングタイトルに変更されている。
{{Otheruses||1993年発売の1作目|SAMURAI SPIRITS|2019年発売の11作目|SAMURAI SPIRITS (2019年のビデオゲーム)}} 『'''サムライスピリッツ'''』(SAMURAI SPIRITS、侍魂)は、[[1993年]]に[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](旧社)が制作した[[江戸時代]]の[[天明]]〜[[寛政]]期(『剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章』のみ[[文化 (元号)|文化]]期)を舞台とした[[対戦型格闘ゲーム]]、およびその[[シリーズ (作品)|シリーズ]]の総称である。『'''サムスピ'''』とも略されることもある<ref>{{Cite web|title=『KOF』、『餓狼伝説』、『サムスピ』などSNKの名作原画展“画廊伝説”ART OF FIGHTING”が11/16より秋葉原にてスタート [ファミ通App]|url=https://app.famitsu.com/20191115_1540890/|website=ファミ通App|accessdate=2019-12-07|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=Switch『サムスピ』DL版が予約受付開始。早期購入割引が実施|url=https://dengekionline.com/articles/18462|website=電撃オンライン|accessdate=2019-12-07|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=サムスピの世界観を元にしたMMORPG「侍魂オンライン-朧月伝-」が正式サービスを開始。映画監督の三池崇史氏による実写PVも公開に|url=https://www.4gamer.net/games/417/G041745/20190808019/|website=www.4gamer.net|accessdate=2019-12-07|language=ja|first=Aetas|last=Inc}}</ref>。日本国外では『'''SAMURAI SHODOWN'''』(サムライショーダウン)というタイトルになっており、シリーズのほとんどはナンバリングタイトルに変更されている{{Refnest|「SHODOWN」は真剣勝負を意味する「SHOWDOWN」と「SHOGUN」を組み合わせた造語。よりゲーム内容が伝わりやすいにとタイトル変更を相談した際、当時アメリカで『[[将軍 SHŌGUN]]』が人気だったことが理由の一つとなって考案されたもの。<ref>{{Cite web |author= |date= |url=https://www.polygon.com/2017/4/10/15223966/the-making-of-samurai-shodown |title=The making of samurai shodown |website=[[:en:Polygon (website)|Polygon]] |publisher=James Mielke |language=[[英語]] |accessdate=2022-05-24}}</ref>。}}。 == 概要 == 素手を中心とした従来の格闘ゲームと異なり、[[武器]]を用いて戦う。 強攻撃の斬りである通称「'''大斬り'''」は、隙は大きいものの通常時でも一撃で3割ほどの体力を奪っていくほど攻撃力が高い。さらにダメージを蓄積されると「怒り状態」となり、攻撃力はさらに上昇する。ただし一気に体力ゲージの半分以上を奪うような連続技はほとんどない。よってこのゲームでは大斬りを受けずにいかにこちらの攻撃を当てていくかという駆け引きが要求される、まさに一撃がとても重いゲーム性になっている<ref name="natsumega">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編『懐かしのメガドライブ 蘇れメガドライバー!!』マイウェイ出版発行、2018年、ISBN 9784865118704、p43。</ref>。また、真剣勝負による「負け=死」という[[演出]]でのシビアさが緊張感を作り出している。『天下一剣客伝』などでは必ずしも「負け=死」ではなく、勝負後に会話のやり取りがあるなどマイルドな表現になっていることもある。 ストーリーや一部キャラクターの設定に[[山田風太郎]]の伝奇小説『[[魔界転生]](の主に映像化作品)』のパロディ、オマージュ要素が多々含まれており、『魔界武芸帖 サムライスピリッツ』原作者の[[七月鏡一]]<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/july_mirror/status/921267708661866497|title=七月鏡一@JULY_MIRROR|date=2017-10-20|accessdate=2018-01-16}}</ref>は、『魔界武芸帳』を『新幻魔大戦』と『魔界転生』のオマージュ作品と語っている。 [[1994年]][[9月]]には、『サムライスピリッツ 〜破天降魔の章〜』というタイトルで[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系によりテレビスペシャル[[テレビアニメ|アニメ]]として放送された。 本シリーズでは登場人物の[[ナコルル]]が人気を博し、他のSNK作品にもゲスト出演することが多い。シリーズ関連としては[[1999年]]にはナコルルを[[主人公]]として、ゲーム版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』の世界観をベースに製作された、[[OVA]]版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』(全2巻)が発売された。 また、派生作品として、ナコルルがヒロインの[[アドベンチャーゲーム]]『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』とそれをOVA化した『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編』(OVAは前後編予定であったが、発売元の倒産の影響で前編のみしか出ていない)がある。 == 業務用作品 == {{Timeline of release years | 1993 = [[SAMURAI SPIRITS]] | 1994 = [[真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変]] | 1995 = [[サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣]] | 1996 = [[サムライスピリッツ 天草降臨]] | 1997 = SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜 | 1998 = SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜 | 2003 = [[サムライスピリッツ零]] | 2004 = サムライスピリッツ零SPECIAL | 2005 = [[サムライスピリッツ 天下一剣客伝]] | 2008 = [[サムライスピリッツ閃]] | 2019 = [[SAMURAI SPIRITS (2019年のビデオゲーム)|SAMURAI SPIRITS (2019年版)]] | 2022 = サムライスピリッツ零SPECIAL完全版 }} === SAMURAI SPIRITS === {{Main|SAMURAI SPIRITS}} [[1993年]][[7月7日]]稼働。シリーズ1作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN'''』。 === 真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変 === {{Main|真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変}} [[1994年]][[10月28日]]稼働。シリーズ2作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN II'''』。 === サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣 === {{Main|サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣}} [[1995年]][[11月27日]]稼働。シリーズ3作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN III'''』。前2作とシステムが大幅に変更された。またシリーズで初めて主人公が変更された。 === サムライスピリッツ 天草降臨 === {{Main|サムライスピリッツ 天草降臨}} [[1996年]][[10月25日]]稼働。シリーズ4作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN IV AMAKUSA'S REVENGE'''』。前作のシステムと世界観を受け継いでいる。 === SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜 === [[1997年]][[12月19日]]稼働。シリーズ5作目。1997年にSNK自社開発の新筐体[[ハイパーネオジオ64]]向けに製作された。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN 64'''』。グラフィックがこれまでの2Dから3D[[ポリゴン]]となった。家庭用移植版は無い。時系列は『真』からの一年後となる。 この作品および、これを筆頭とした3Dシリーズは「3Dポリゴンのサムライスピリッツ」を略してしばしば「'''ポリサム'''」と通称される。 「修羅」・「羅刹」で[[ナコルル]]のキャラクターグラフィックがさらに変化し、「修羅」はこれまで通りロングヘアにリボン、「羅刹」はボブヘアにヘアバンドになった。キャラクターの表情の違いに伴い、より別人格のナコルルというキャラクター付けがされるようになった。羅刹ナコルルの髪型が変化した理由は、羅刹ナコルルがシクルゥと共に戦うため、『侍魂』制作時の当時の3Dでは大きな狼であるシクルゥに取られ容量がオーバーになってしまったため、やむを得なくナコルルのロングヘアが削られ、ボブヘアになったという逸話がある。 システムは『天草降臨』のものを継承した形になっている。また、3Dゲームらしくステージ間移動などのフィーチャーも盛り込まれた。 勝利時や一閃時などに墨絵のキャラクターイラストが挿入される。 従来のシリーズからは10名の既存キャラクターが参戦。今作からの新キャラクターとして「[[色 (サムライスピリッツ)|色]]」「[[柳生磐馬]]」、その他CPU専用中ボスの「巖陀羅」「木偶♂」「木偶♀」が追加。ボスキャラクターは「[[壊帝ユガ]]」。 キャラクターイラストは[[北千里 (イラストレーター)|北千里]]が担当(続編の『アスラ斬魔伝』も同様)。 === SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜 === [[1998年]][[10月16日]]稼働。シリーズ6作目。1998年にハイパーネオジオ64向けに制作された。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN 64 WARRIORS RAGE'''』。前作と同様に3D格闘ゲーム。また、家庭用移植版は無い。時系列はポリサムから続く第二部にあたる。前作までは、怒りゲージがMAXの状態でないと「怒り爆発」を発動できなかったが、本作の発動条件はキャラクターが着地しており、操作可能な状態のみとなった。また、相手の攻撃を弾いて隙を作る「弾き返し」などのシステムが追加された<ref>{{Cite book|和書 |title=[[電撃王]] |date=1998年9月1日 |year=1998 |publisher=[[メディアワークス]] |page=135 |issue=通巻81号}}</ref>。 前作とは異なり、システムのみ2D作品のようなシステムに戻っている。 今作からの新キャラクターは「[[アスラ (サムライスピリッツ)|アスラ]]」(本作の主人公でもある)と「[[八角泰山]]」の2名が追加。ボスキャラクターは前作に引き続き「壊帝ユガ」。前作に登場したキャラクターは「[[黒子 (サムライスピリッツ)|黒子]]」「木偶♂」「木偶♀」を除き全て続投され、「巖陀羅」と「壊帝ユガ」は前作同様にCPU専用のまま。 これまで「修羅」と「羅刹」ではキャラクターグラフィックの細分化が「ナコルル」のみであったが、今作では全キャラクターが修羅・羅刹で設定が区別された。修羅と羅刹で名前まで大きく異なるキャラクターは「アスラ」の羅刹は「反面のアスラ」、「色」の羅刹は「半陰となりし色」、「柳生磐馬」の羅刹は「柳生カラクリ磐馬」、「[[風間火月]]」の羅刹は「炎邪火月」、「[[風間蒼月]]」の羅刹は「水邪蒼月」などがいる。他に今作で明確にデザインの描き分けのあるキャラクターは「[[覇王丸]]」、「[[ナコルル]]」、「[[リムルル]]」、「[[服部半蔵 (サムライスピリッツ)|服部半蔵]]」、「[[ガルフォード]]」がいる。 === サムライスピリッツ零 === {{Main|サムライスピリッツ零}} [[2003年]][[10月10日]]稼働。シリーズ7作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN V'''』。再び2Dで制作されている。 今作から株式会社SNKプレイモア(旧SNKの後継会社、のち旧社と同じ[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]に社名変更)がリリースしている。 === サムライスピリッツ零SPECIAL === {{Main|サムライスピリッツ零#サムライスピリッツ零SPECIAL}} [[2004年]][[4月22日]]稼働。シリーズ8作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN V SPECIAL'''』。『サムライスピリッツ零』の対戦バランスを調整したバージョンアップ版であるが、オープニングやキャラクターセレクト画面の変更、演出の新規追加、2Dシリーズ歴代のボスがプレイアブルキャラクターに追加されている。また、イラストレーターを変更し、全キャラクターイラストは新規に描き下ろされている。 家庭用ネオジオで発売された最後の作品となった。 === サムライスピリッツ 天下一剣客伝 === {{Main|サムライスピリッツ 天下一剣客伝}} [[2005年]][[9月14日]]稼働。シリーズ9作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN VI'''』。現時点では2Dシリーズ最終作と言われている。過去の2D作品に登場したキャラクターほぼ全てが出演。本作独自のストーリーを持ち、一連の作品と直接の繋がりはなく、パラレルワールドとなっている。 === サムライスピリッツ閃 === {{Main|サムライスピリッツ閃}} [[2008年]][[4月18日]]稼働。シリーズ10作目。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN EDGE OF DESTINY'''』もしくは『'''SAMURAI SHODOWN SEN'''』。[[タイトー]]の新基板[[Taito Type X#Taito Type X2|TAITO Type X2]]でリリースされた、PS作品『蒼紅の刃』以来の3D作品。製作動機は[[細谷壮一郎]](SNKプレイモアのコンテンツ事業本部の本部長)によると「『SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜』で散ったリベンジ」とのこと。 時系列は『アスラ斬魔伝』の1年後だが、ポリサム関連の設定と一部矛盾が見られる。 既存キャラクターの声の出演は『零SPECIAL』より以前のキャスティングに戻っている。日本版では残虐描写は一切ないが、日本国外版では胴体切断や出血描写などがある。 2009年12月10日にはXbox 360版が発売された。 2011年10月5日からはネットワーク型業務用ビデオゲーム筐体[[NESiCAxLive]]にてダウンロード配信されている。 === SAMURAI SPIRITS(2019) === {{Main|SAMURAI SPIRITS (2019年のビデオゲーム)}} [[2019年]]10月24日に[[NESiCAxLive|NESiCAxLive2]]で配信。シリーズ11作目。サブタイトルは無く『'''SAMURAI SPIRITS'''』が正式タイトルとなっている。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN'''』。以下、シリーズ第1作目と区別するために本稿では便宜上『SAMURAI SPIRITS(2019)』と年号を明記する。 ゲームエンジンは[[Unreal Engine|アンリアルエンジン4]]を採用。グラフィックは『閃』と同じく3DCGで描かれた3D対戦型格闘ゲームであるが、システムは『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|ザ・キング・オブ・ファイターズXIV]]』などと同様に従来の2D対戦型格闘ゲームに準拠した内容になっている。 家庭用版はアーケードでの稼働に先駆けて、[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]版が2019年6月27日発売。その後、PC([[Google Stadia]])版が2019年11月19日発売。[[Nintendo Switch]]版が2019年12月12日発売<ref>{{Cite web|title=『SAMURAI SPIRITS(サムライスピリッツ)』の発売日が6月27日に決定、Switch版とPC版も今冬発売に!|url=https://www.famitsu.com/news/201904/05174370.html|website=ファミ通.com|date=2019-04-05|accessdate=2019-04-18}}</ref>。 === サムライスピリッツ零SPECIAL完全版 === {{Main|サムライスピリッツ零#サムライスピリッツ零SPECIAL完全版}} [[2022年]]9月29日に[[exA-Arcadia]]で配信予定。2004年10月にあるゲームセンターでロケテストが短期間行われたのが目撃されたものの、SNKプレイモア公式サイトで「同人ソフト」と存在を否定され幻となっていた作品。2020年発売の家庭用オムニパスソフト『サムライスピリッツ ネオジオコレクション』に収録され、公認ソフトに加えられることになった。さらに2022年にアーケード版が稼働される事が発表された。 == 家庭用オリジナル作品 == === 真説サムライスピリッツ 武士道烈伝 === [[1997年]][[6月27日]]に家庭用ゲーム機ソフトとして開発され、[[ネオジオCD]]、[[セガサターン]](SS)、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](PS)で発売された[[コンピュータRPG|RPG]]。いずれも日本国内のみ発売。 [[日本]]を舞台とした「'''邪天降臨之章'''」(『サムライスピリッツ』を題材としている)と全世界を舞台とする「'''妖花慟哭之章'''」(『真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変』を題材としている)の2本立て。なお、当初はこの2つのシナリオと[[江戸]]を舞台にした「魔都封滅之章」の計3つのシナリオの中からハード別に2つの組み合わせとする予定であったが、最終的にどのハードも前述の2つの収録となっている。 主人公は[[覇王丸]]、[[牙神幻十郎]]、[[ナコルル]]、[[ガルフォード]]、[[橘右京]]、[[チャムチャム]]の6人の中から1人を選択。各キャラクターのプロローグの後に、仲間となるキャラクター(幻十郎以外で主人公に選択したキャラクターを除いた4人と[[リムルル]]、千両狂死郎、[[シャルロット (サムライスピリッツ)|シャルロット]])とパーティーを組んで旅をすることになる。なお、幻十郎のみ「邪天降臨之章」ではパーティを組めない(「妖花慟哭之章」では「疾風の鈴音」との2人パーティ)。 各機種ごとにそれぞれ別々の隠し要素があり、ネオジオCD版には「[[緋雨閑丸]]」を主人公にしたおまけ短編シナリオ<ref>この隠しシナリオには没シナリオ「魔都封滅之章」の一部分のみが再利用されている他、『[[龍虎の拳]]』や『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』のキャラクターと同じ姿の人物(名前や衣装などが時代設定に合わせて変更されている)が端役で登場する。</ref>、PS版には各サブキャラクターのショートストーリー、SS版には黒子の質問コーナーがある。 キャラクターイラストは漫画家の[[しろー大野]]が担当。 エンディングテーマ「天空(そら)へ」の歌をKEN([[錦織健]])が担当。 === サムライスピリッツ! === {{Main|サムライスピリッツ 天草降臨}} [[1998年]][[12月25日]]に[[ネオジオポケット]]で発売。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN!'''』。 『天草降臨』をベースとしたアレンジ作品で、デフォルメキャラクターが画面狭しと剣を交える。[[ネオジオポケットカラー]]発売前の作品であるため、カラー本体で遊んだ場合でも画像は白黒表示である。 『天草降臨』と異なりタイムアタック要素はなく、登場キャラクターは「[[シャルロット (サムライスピリッツ)|シャルロット]]」、「[[千両狂死郎]]」、「[[タムタム (サムライスピリッツ)|タムタム]]」、「[[首斬り破沙羅]]」、「[[花諷院骸羅]]」が削除されているが、独自の隠しキャラクターとして「[[色 (サムライスピリッツ)|色]]」が2D作品では初めて登場する。 === サムライスピリッツ!2 === [[1999年]][[6月10日]]にネオジオポケットで発売。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN! 2'''』。2019年12月19日発売の[[Nintendo Switch]]版『SAMURAI SPIRITS』(2019年版)の早期購入特典として初移植版となるNintendo Switch版が配信された<ref name="4Gamer.net20200806">{{Cite web |title=ネオジオポケットカラーの「サムライスピリッツ!2」「キング・オブ・ファイターズ R-2」がSwitchで本日リリース |url=https://www.4gamer.net/games/515/G051595/20200806029/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-01-21 |publisher=Aetas |date=2020年8月6日}}</ref>。その後、2020年8月6日に一般配信された{{R|4Gamer.net20200806}}。 レイティングは{{CERO-A}}。 『アスラ斬魔伝』をベースとしたアレンジ作品だが、前作の続編という位置づけでもあるため、引き続き2Dのデフォルメキャラクターとなっている。モノクロ本体でも遊べるが、今作ではカラー表示にも対応している。 『アスラ斬魔伝』と異なり、修羅と羅刹でのグラフィック変化が無い他、「柳生磐馬」が削除され、使用キャラクターに「シャルロット」と「柳生十兵衛」、ランダムセレクトキャラクターとして「[[黒子 (サムライスピリッツ)|黒子]]」が追加されている。また、最終ボスである「壊帝ユガ」を隠しコマンドで使用できる唯一の作品。 各種条件で入手できるアイテムによりキャラクターの強化が可能。壊帝ユガはこれを使用しないと秘奥義が使用できない。 === 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章 === 1999年[[12月22日]]にPlayStationで発売された家庭用完全オリジナルの3D格闘ゲーム。英語版タイトルは『'''SAMURAI SHODOWN WARRIORS RAGE'''』。本作は『サムライスピリッツ新章』の部分が従来と逆順でサブタイトル扱いとなっており<ref>[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0576npjj00041_000000000000000001.html 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章] - ソフトウェアカタログ プレイステーション オフィシャルサイト</ref><ref>[http://game.snkplaymore.co.jp/games/details.php?item_id=90 ゲーム製品情報 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章] - SNKプレイモア</ref>、公式サイトでは単に『'''剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃'''』<ref>[http://samuraianiv.snkplaymore.co.jp/title/samurai-spirits7/index.php 歴代演目: 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃] - サムライスピリッツ総合公式サイトでの紹介</ref>とも表記される。 ストーリーは『アスラ斬魔伝』から約20年後の設定で、主人公は新キャラクターの「九葵蒼志狼」。ボスキャラクターは使用キャラクターによって異なる。次世代を描いた作品であるため、登場キャラクターがこれまでのシリーズから一新されており、過去作から続けてプレイヤーキャラクターとして登場するのは、年を経た覇王丸、服部半蔵(実際には半蔵の名を受け継いだ息子・真蔵であるため別人)、「幽堕」(正体は記憶を失ったアスラで、性能は全く異なる)のみ。ナコルルとリムルルはプレイヤーキャラクターではなく、ストーリー上の重要サブキャラクターおよびミニゲームの主役となっている。 現時点での「時系列順」によるストーリーはこの作品が一番後年となっている。 登場キャラクターは23人で、初期ではプレイできるキャラクターが少人数に限られているが、ストーリーモードで対応キャラクターでクリアすると、プレイできるキャラクターが増えてゆく。これまでのような「修羅・羅刹」設定は廃止されているが、使用技のモーションや性能を一部共有する別キャラクターが複数存在する。また、追加キャラクターの「ゴロツキ」と「朧衆」と「伊賀忍軍」と「お侍」は必殺技などを持たず特殊技しか使用できない。 ストーリーモードを進めるとギャラリーモードにイラストやムービー(歴代シリーズの多数のキャラクターイラスト、本作に挿入されたムービーが場面別に見られる)が追加されていく。 [[PocketStation]]の連動で、ナコルルと遊べるミニゲーム「ナコPG」、「サムライウォッチ」が存在する。 キャラクターイラストは『アスラ斬魔伝』から引き続き、北千里が担当。 [[ポリゴン]]化された3Dキャラクターの作り込みが甘い、武器が相手にヒットする過程の表現が2D的であり、3D作品であるはずが視覚的に違和感を抱いてしまう、などのような点からゲームとしての完成度はあまり高くないという評価が下されている<ref name="playkuso">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編『プレイステーションクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2018年、ISBN 9784865118346、p81。</ref>。 2007年4月26日には[[ゲームアーカイブス]]でも配信開始されている。レイティングは{{CERO-C}}。 株式会社SNKが2001年に倒産したため、旧SNKが手がけた『サムライスピリッツ』シリーズ最後の作品となった。その後発売されたサムライスピリッツシリーズのソフトは、後継会社の[[SNK (2001年設立の企業)|SNKプレイモア(現SNK)]]からリリースされることになる。 == カップリング作品 == ; サムライスピリッツ 剣客指南パック : PlayStationにて[[1998年]][[3月26日]]に発売されたソフト。初代と『真』のシリーズ初期2作品が一枚のCDに収録されている。追加要素として、VSモードでボスキャラクターが使える。PS版オリジナルの「トレーニングモード」と体力が続く限り、コンピュータ戦の勝ち抜きを展開できる「クラスマッチモード」が追加されている。<ref>{{Cite book|title=PlayStationMagazine No.2|date=1997年1月31日|year=1997|publisher=株式会社徳間書店|page=67}}</ref> : [[2007年]][[5月31日]]には[[ゲームアーカイブス]]で配信。レイティングは{{CERO-B}}。 ; サムライスピリッツ 六番勝負 : [[PlayStation 2]](PS2)、Wiiにて[[2008年]][[7月24日]]に発売されたソフト。レイティングは{{CERO-B}}。PS2版は『[[NEOGEO オンラインコレクション]]』シリーズの1本である。PS2版は[[2009年]][[6月18日]]にベスト版が発売されている。[[PlayStation Portable]](PSP)版も発売予定であったが、日本では発売中止された(日本国外では発売されている)。 : PS2版、Wii版ともに初代と『真』に加えて、『斬紅郎無双剣』、『天草降臨』、『零』(以上5作品はネオジオ版準拠)、『天下一剣客伝』(本作のみPS2版の改良版)の6作品が収録されている。 : アーケードおよび単体ソフトの『天下一剣客伝』では声優が一新されていたが、このソフトに入っている『天下一剣客伝』では『零』まで務めていた声優の声が新たに収録されており、「オプション」設定でゲーム内のキャラクターの声をどちらかに設定することができる。 ; サムライスピリッツ ネオジオコレクション : 2020年にEpic Games ストア及びSteamでPC版が、PS4、Switchで家庭用番が発売。NEOGEOで出た初代から『零SPECIAL』の6本に加え、ロケテストのみで未発売だった『サムライスピリッツ零SPECIAL完全版』を収録。 上記のほか、セガサターン版『斬紅郎無双剣』と『天草降臨』を2枚組でカップリング収録した『サムライスピリッツ ベストコレクション』もあるが、そちらは各単体版と同内容となっている。 == 家庭用移植版 == 家庭用のみで発売されたものも含む。括弧内は発売元。 ; SAMURAI SPIRITS :* [[ネオジオ]](SNK):1993年8月11日 :* [[ネオジオCD]](SNK):1994年9月9日 :* [[ゲームボーイ]]『[[熱闘シリーズ|熱闘]]サムライスピリッツ』(タカラ):1994年6月30日 :* [[スーパーファミコン]](タカラ):1994年9月22日 :* [[メガドライブ]](セガ):1994年11月18日 :** 覇王丸が牽制に用いる遠距離中切りや、カウンターで威力を発揮した大斬り、ジャンプ大斬りが削除され、別の技に入れ替えられている。静と動のメリハリあるテンポなど原作再現を試みた痕跡はあるが、ROM容量の問題が如何ともしがたくゲームの根幹部を削るほどの妥協を行ったなりの移植度となっている。巨漢のアースクエイクは存在そのものを完全にカットされている<ref name="natsumega"/>。 :* [[ゲームギア]](タカラ):1994年12月16日 :* [[メガCD]]([[ビクターエンタテインメント]]):日本では発売中止(欧米版『SAMURAI SHODOWN』のみ1995年発売) :* [[3DO]]『サムライショーダウン』([[BMGビクター]]):1995年2月10日 :* [[FM TOWNS]](ジャパンホームビデオ):1995年4月28日 :* [[Wii]]([[バーチャルコンソール]]):2007年10月16日配信 :* [[PlayStation Portable|PSP]]『SNK ARCADE CLASSICS Vol.1』(SNKプレイモア):2009年5月21日 :* [[PlayStation 3]]/PSP(NEO GEO Station):2010年12月22日配信 ; 真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変 :* ネオジオ(SNK):1994年12月2日 :* ネオジオCD(SNK):1994年12月15日 :* [[Microsoft Windows 95]](ゲームバンク):1996年11月14日(XP対応版〈[[メディアカイト]]〉:2004年2月19日) :* Wii(バーチャルコンソール):2008年7月23日配信 :* Xbox 360([[Xbox Live Arcade]]):2008年9月10日配信 :* [[iOS]]/[[Android (オペレーティングシステム)|Android]](SNKプレイモア):2013年6月27日配信 ; サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣 :* ネオジオ(SNK):1995年12月1日 :* ネオジオCD(SNK):1995年12月29日 :* ゲームボーイ『[[熱闘シリーズ|熱闘]]サムライスピリッツ斬紅郎無双剣』(タカラ):1996年8月23日 :* [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](SNK):1996年8月30日(ベスト版〈SNKプレイモア〉:2003年4月24日) :* [[セガサターン]](SNK):1996年11月8日、(拡張RAMカートリッジ同梱版あり) :* セガサターン『サムライスピリッツ ベストコレクション』(セガサターン版『天草降臨』とのカップリング)(SNK):1998年8月6日 :* [[ゲームアーカイブス]](SNKプレイモア)2007年6月28日 ; サムライスピリッツ 天草降臨 :* ネオジオ(SNK):1996年11月29日 :* ネオジオCD(SNK):1996年12月27日 :* セガサターン(SNK):1997年10月2日(拡張RAMカートリッジ同梱版あり) :* PlayStation『サムライスピリッツ天草降臨スペシャル』(SNK):1997年12月25日(ベスト版〈SNKプレイモア〉:2003年4月24日) :* セガサターン『サムライスピリッツ ベストコレクション』(セガサターン版『斬紅郎無双剣』とのカップリング)(SNK):1998年8月6日 :* ゲームアーカイブス『サムライスピリッツ天草降臨スペシャル』(SNKプレイモア):2007年6月28日 ; 真説サムライスピリッツ 武士道烈伝 :* ネオジオCD(SNK):1997年6月27日 :* PlayStation(SNK):1997年6月27日(ベスト版:1998年7月23日) :* セガサターン(SNK):1997年6月27日 ; サムライスピリッツ剣客指南パック :* PlayStation(SNK):1998年3月26日 :* ゲームアーカイブス(SNKプレイモア)2007年5月31日 ; サムライスピリッツ! :* [[ネオジオポケット]](SNK):1998年12月25日(限定版あり) ; サムライスピリッツ!2 :* [[ネオジオポケットカラー]](SNK):1999年6月10日(ベスト版:2000年7月20日) ; 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章 :* PlayStation(SNK):1999年12月22日 :* ゲームアーカイブス(SNKプレイモア):2007年4月26日 ; サムライスピリッツ零 :* ネオジオ(SNKプレイモア):2003年12月11日 :* [[PlayStation 2]](SNKプレイモア):2004年7月29日(ベスト版:2005年11月23日) ; サムライスピリッツ零SPECIAL :* ネオジオ(SNKプレイモア):2004年7月15日 :* [[PlayStation 4]]、[[PlayStation Vita]](SNK):2017年9月14日 ; サムライスピリッツ 天下一剣客伝 :* PlayStation 2(SNKプレイモア):2006年1月26日(ベスト版:2007年1月25日) ; サムライスピリッツ 六番勝負 :* Wii(SNKプレイモア):2008年7月24日 :* PlayStation 2(SNKプレイモア):2008年7月24日(ベスト版:2009年6月18日) ; サムライスピリッツ閃 :* [[Xbox 360]](SNKプレイモア):2009年12月10日 ; SAMURAI SPIRITS(2019) :* PlayStation 4(SNK):2019年6月27日 :* [[Xbox One]](SNK):2019年6月27日 :* [[Google Stadia]](SNK):2019年11月19日 :* [[Nintendo Switch]](SNK):2019年12月12日 == 主な用語 == ; つばぜり合い : 両者の武器攻撃がぶつかるなどの条件において発生することがある。この状態になった後、一定時間両者がボタンを連打し、勝った側が相手の武器を飛ばす。飛ばされた武器は地面に落ち、飛ばされた側は拾うことができるが拾う際に隙が生じる。また武器がない状態では使用できない必殺技もあり、武器を落とすことは戦略上損失と見られることが多い(逆に武器がなくなることで必殺技が強化されたり、武器なし状態でのみ使える必殺技を持つキャラクターもいる)。 ; 怒りゲージ : 相手の攻撃でダメージを受けるごとに蓄積され、MAXになるとキャラクターが怒って肌が赤くなり(『天下一剣客伝』では体全体が赤く明滅し)一定時間攻撃力がアップする。『天草降臨』やポリサムでは、一部の必殺技が強化される。キャラクターによってゲージの溜まりやすさと怒っている時間には差異がある。『真サムライスピリッツ』以後の作品では武器破壊技や武器飛ばし技もゲージMAX時に使用できる。『斬紅郎無双剣』と、『天下一剣客伝』の斬スピリッツでは自分からゲージを溜めることができ、また体力がある程度まで減ると常時MAXになる。 : なお、『天下一剣客伝』では「スピリッツゲージ」と言う名称が使われており、剣スピリッツ(および魔スピリッツ)ではMAXになっても怒り状態にはならない(武器飛ばし技・武器破壊技は使用可能)。 ; 黒子 : 試合中に審判員として登場する。一部作品ではCPU専用キャラクターやプレイヤーキャラクターとして登場することもある。花諷院和狆とはかつて共に戦った仲。RPG版ではセーブ係として各地に現れるが、これは全員兄弟であるとのこと。なお、RPG版では金を払って体力を回復させてくれる赤黒子も存在する。 : 後述する武器破壊技で破壊された武器を投げ込むが、これはこの黒子が修復しているとのこと。 ; 飛脚 : 一部作品ではステージ後方から飛脚がアイテムを投げ込んでくることがある。アイテムには得点になるものや体力を回復するものなどがある。かつては天草四郎時貞に妹を人質に取られたため強制的にやらされていたが、柳生十兵衛に助けられてからは趣味でやっている。なお、『真サムライスピリッツ』では稀に飛脚の代わりに『[[餓狼伝説]]』シリーズのキャラクターである[[キム・カッファン]]が登場することがある。 : また、黒子や飛脚にも詳細なプロフィール(流派や嗜好など)が存在する。 ; 武器破壊技 : 『真サムライスピリッツ』で登場した、他の格闘ゲームでの超必殺技に相当するもの。『天下一剣客伝』の真/魔スピリッツでも使用可能。怒りゲージがMAXになっている間に使用でき、ヒットすると相手の武器を破壊して一定時間素手状態を強制する(一定時間後に黒子が新しい武器を投入する)。相手にヒットしない限りは怒り状態が終了するまで何度でも出せ、ヒット時は怒り状態が終了する(『天下一剣客伝』の魔スピリッツではMAX1回につき1回のみ)。ただし、『真サムライスピリッツ』ではシャルロットのみガードされても怒り状態終了となってしまう。 : なお、これとは別に、初代『サムライスピリッツ』でもお互いの武器同士が何度かかち合う(ガードではない)と武器が壊れる場合がある。キャラクター毎に設定されている武器耐久値がかち合うたびに減少していき、0になると武器が破壊される。武器が破壊されるとそのラウンド中は武器を使用できない。 ; 武器飛ばし技 : 『斬紅郎無双剣』以降のゲージMAX技(『天下一剣客伝』の怒/真/魔スピリッツを除く)。ヒットさせれば相手が素手になるが、持っていた武器は破壊されず地面に残るだけになっていることを除けば武器破壊技と同様である。 : コマンドは武器破壊技を含めて『斬紅郎無双剣』までは各キャラクター個別のものだが、『天草降臨』から共通のコマンドに変更されている。 ; 秘奥義 : 『真サムライスピリッツ』では覇王丸、ナコルル、服部半蔵、ガルフォードのみに用意されていた隠し必殺技。ゲージなどの条件はなかったが、複雑なコマンドが用意されていた。なお、覇王丸の「天覇封神斬」のコマンドはアニメ『サムライスピリッツ 〜破天降魔の章〜』で公開されていた。 : ポリサムでは2Dシリーズでの武器飛ばし技が置き換えられたもので、同様の条件で使える。 : 『剣客異聞録 蘇りし蒼紅の刃』では、体力ゲージが最後の段階(赤い1ブロックで、総体力の1/6以下)になると1回だけ使える技。 : 『天下一剣客伝』では真スピリッツと剣スピリッツで使用可能だが、双方で使用条件やコマンドが異なる。真スピリッツでは体力に関係なく1戦につき1回のみ使用可能で、コマンドも複雑なものとなっている。一方、剣スピリッツでは体力が一定レベル以下(残り体力が全て緑で表示されている状態)になると使用可能となり、使用した後もしばらくするとゲージが緑色に戻り再使用可能。このしきい値(秘奥義ゲージ)は後述するミキリスライドにより増やすことが可能。またコマンドは各キャラクター共通の簡素なものとなっている。 ; ぬいぐるみ : 『真サムライスピリッツ』に存在した特殊動作。コマンドを入力するとそのキャラクターの2頭身のぬいぐるみに変化する。『天下一剣客伝』でも真スピリッツで使用可能。これは、当時発表された『真サムライスピリッツ』の[[プライズゲーム]]用商品とのタイアップのために導入されたものである。 ; 修羅、羅刹(剣質選択) : 『斬紅郎無双剣』で登場した、キャラクターのバリエーション。使用可能な技が修羅と羅刹で異なるケースがあり、作品とキャラクターによっては設定そのものが異なるケースもある。例えば、ナコルルでは修羅はそれまでの作品同様に鷹のママハハを連れているのに対して羅刹ではオオカミのシクルゥを連れている、ガルフォードでは犬のパピーがいるのは修羅のみ、など。 ; 剣客、剣豪、剣聖(レベル選択) : 『斬紅郎無双剣』で初登場。剣質のあとに選択する。剣客は5回まで操作しなくても自動的にガードをしてくれる初心者用で、『天草降臨』ではさらに連斬(後述)の入り込み以降の攻撃を自動で行ってくれる。剣豪は普通の状態。剣聖は常に怒りMAX状態であるが、ガードができない上級者用。しかし、それでも強力すぎたのか『天草降臨』では怒りMAX状態ではなくなった。 ; 不意打ち : 『斬紅郎無双剣』から登場した、システムで用意された中段技。小ジャンプして攻撃するが、『天草降臨』以降は一部のキャラクターのものが飛ばずに攻撃するようになった。『天下一剣客伝』で廃止され、一部のキャラクターに特殊技として残された。 ; 怒り爆発 : 怒りゲージと引き替えに一定時間攻撃力を大幅にアップさせる。爆発中は怒りゲージの所に爆発状態の残り時間を表示するタイマーが出現する。吹っ飛ばされていない限り、攻撃を喰らっている最中にも出せるので、相手の連続技から脱出することが可能。武器飛ばし技・一閃を使用したり制限時間を越えると怒りゲージが消滅する。『天草降臨』で初登場。 ; 一閃 : 直線的に高速で突進し大ダメージを与える攻撃。使用条件は怒り爆発中だったりなど、作品によって様々。 : なお、『[[ネオジオバトルコロシアム]]』での覇王丸と牙神幻十郎のアナザーダブルアサルトにもなっている。ただしいきなり突進はせず、その場での始動攻撃を決めることでさらに2人が同時に一閃を繰り出す。 ; 連斬 : 一定の順序でボタンを入力することで発動する連続技。入り込み用のコマンドで出した技を当てた後、いくつかある内の1つのパターンを入力することになる。一番長いパターンでは怒りゲージがたまる効果もある。『天草降臨』で初登場した。『天下一剣客伝』では天スピリッツで使用可能。 : ポリサムでは「S.C.S.」(Samurai Combination System)という名称になっている。なおPS2版『天下一剣客伝』の獣スピリッツにも同名のシステム(ただし正式名称はSamurai Combination Slash)が搭載されているが、こちらはいわゆる[[ヴァンパイア (ゲーム)#特徴的なゲームシステム|チェーンコンボ]]である。 ; 武器捨て挑発 : 自分から武器を手放し素手状態になる、『サムライスピリッツ』シリーズ独特の挑発。キャラクターによっては素手の方が必殺技が強力になることもあるため、戦略の一つとして使われることもある。また、『天草降臨』では「断末奥義」を出すための条件の1つでもある。『天下一剣客伝』では通常の挑発と同時に用意されている。 ; 自決 : 『天草降臨』で初登場。自らの命を絶つ(キャラクターによっては逃げる)ことでそのラウンドは相手の勝利となる代わりに、次のラウンドでは最初から怒りMAX状態になっている。『零SPECIAL』では怒りMAX状態にならず、ただ相手の勝利数が増えるだけである。 ; 断末奥義 : 『天草降臨』で登場。決着が着いたラウンドで圧勝など特定の条件下で勝利した場合、画面に表示されたコマンドを入力すると相手にさらなる攻撃を加えバラバラにしたりする。これを行うと勝利画面に「快勝」とボイス付きで表示され、キャラクターの勝利メッセージが変化する。 ; 無の境地 : 『零』で登場したシステムで、怒りゲージと引き替えに一定時間相手の動作スピードを落とす。効果時間中は自分の行動スピードは変わらないため、相手の攻撃を防御したり反撃したりすることが容易になる。使用可能な条件が「落とすと負けになるラウンドであり、体力が一定レベル以下(特殊操作「瞑想」でそのしきい値(無ゲージ)を増やすことができる。また、『天下一剣客伝』では青く視認できる)であり、怒りゲージが残っていること」と非常に厳しいが、相手の全ての行動が遅くなるため強力な連続技を決めることができる。 ; 剣気 : 『零』で登場したシステムで、攻撃力がこのゲージの量に比例するというもの。攻撃をすると剣気ゲージが技ごとに決められた量だけ減少し、攻撃しないでいると回復する。これにより、攻撃を出し続けていると攻撃力が低下し、連続技ダメージにはコンボ補正に似た効果が出る。 ; 絶命奥義 : 『零SPEICAL』にのみ登場。相手が無の境地を使える条件で怒り爆発を発動させると使用できる。一閃のような突進を行い、これがヒットすれば相手を殺害する演出に移行して勝利となる。相手が無の境地発動中でも遅くならないという特徴がある。 ; スピリッツ : 『天下一剣客伝』での操作のバリエーション。それまでの2D作品のそれぞれに対応する怒・真・斬・天・零と、本作オリジナルの剣が基本で、この他にアーケード版では最終ボスが使用した「魔」、PS2版では動物キャラクター用の「獣」と、自分で特殊動作やゲージMAX技などを選択できる「祭」がある(3つともPS2版では隠し要素となっている)。 : 「怒」ではMAX時に使える技がないが、攻撃力の上昇率が高いほか、動作は非常に重いが威力も大きい「超斬り」が常時使える。「真」はゲージMAX後一定時間内は武器破壊技が使用可能、「斬」、「天」、「零」、「獣」ではMAX後一定時間内、「剣」ではMAX後1回武器飛ばし技が使える。「魔」ではMAX後1回武器破壊技が使用可能。 : デフォルトの6つの内、「剣」以外の特殊動作は元作品に準じる。また、「獣」のみガードができないという特徴がある。 : 祭スピリッツで選択できるものには連続ミキリ、開幕行動、サムライドライブ(いわゆるスーパーキャンセル)といった専用のものもある。 ; ミキリスライド : 『天下一剣客伝』の剣スピリッツにおける回避動作。これで出ている残像に相手の攻撃がヒットした場合、秘奥義の使用可能条件である秘奥義ゲージ(体力残量のしきい値)が増える。 == 登場キャラクター == '''SAMURAI SPIRITS''' * [[覇王丸]]:[[臼井雅基]] / [[中村大樹]](『侍魂』〜『新章』、『2019』) / [[古賀寛之]](『剣客伝』) * [[ナコルル]]:[[生駒治美]] / [[高橋美佳子]](『剣客伝』) / [[中原麻衣]](『2019』) * [[橘右京]]:[[や乃えいじ]] / [[石井一貴]](『剣客伝』) / [[櫻井慎二朗]](『2019』) * [[シャルロット (サムライスピリッツ)|シャルロット]]:[[生駒治美]] / [[新堂真弓]](『剣客伝』) / [[土師亜文]](『2019』) * [[服部半蔵 (サムライスピリッツ)|服部半蔵]]:[[臼井雅基]] / [[新居利光]](『真』〜『零SPECIAL』) / [[古賀寛之]](『剣客伝』) / [[西前忠久]](『2019』) * [[ガルフォード]]:[[Kay稲毛]] / [[小市慢太郎]](『天草降臨』〜『零SPECIAL』) / [[間島淳司]](『剣客伝』) / [[駒田航]](『2019』) * [[王虎 (サムライスピリッツ)|王虎]]:[[坂井貴行]] / [[西村寿一]](『真』) / [[中まさる]](『武士道烈伝』) / [[岡崎雅紘]](『剣客伝』) / [[堂坂晃三]](『2019』) * [[千両狂死郎]]:[[Kay稲毛|稲毛一弘]] / [[前塚あつし]](『真』〜『零SPECIAL』、『閃』、『2019』) / [[増岡太郎]](『剣客伝』) * [[柳生十兵衛 (サムライスピリッツ)|柳生十兵衛]]:[[坂井貴行]] / [[小林清志]](『真』〜『零SPECIAL』) / [[大川透]](『剣客伝』) / [[中博史]](『2019』) * [[不知火幻庵]]:[[や乃えいじ]] / [[岡崎雅紘]](『剣客伝』) * [[タムタム (サムライスピリッツ)|タムタム]]: [[Kay稲毛]] / [[西村寿一]](『天草降臨』〜『零SPECIAL』) / [[石井一貴]](『剣客伝』) / [[森田了介]](『2019』) * [[アースクェイク (サムライスピリッツ)|アースクェイク]]:[[臼井雅基]] / [[菅原正志]](『武士道列伝』) / [[佐藤巧 (声優)|佐藤巧]](『剣客伝』) / [[利根健太朗]](『2019』) * [[天草四郎時貞 (サムライスピリッツ)|天草四郎時貞]]:[[や乃えいじ]] / [[真殿光昭]](『武士道烈伝』) / [[大原崇]](『零SPECIAL』) / [[間島淳司]](『剣客伝』)/ [[白川周作]](『2019』) '''真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変'''(以降は新キャラクターのみを記述) * [[牙神幻十郎]]:[[コング桑田]] / [[大川透]](『剣客伝』) * [[チャムチャム]]:[[千葉麗子]] / [[大沢つむぎ]](『剣客伝』) * [[花諷院和狆]]:[[前塚あつし|モンスター前塚]] / [[矢薙直樹]](『剣客伝』) * [[ナインハルト・ズィーガー]]:[[コング桑田]] / [[石井康嗣]](『武士道烈伝』) / [[古賀寛之]](『剣客伝』) * [[黒子 (サムライスピリッツ)|黒子]]:[[臼井雅基]](初代、『斬紅郎無双剣』) / [[や乃えいじ]](『真』・判定時) / [[西村寿一]](『真』・戦闘時) / [[南かおり]](『侍魂』) / [[佐藤巧 (声優)|佐藤巧]](『剣客伝』) / [[中博史]](『2019』) * [[羅将神ミヅキ]]:[[生駒治美]] / [[松本梨香]](『武士道烈伝』) / [[伊藤静]](『零SPECIAL』) / [[大沢つむぎ]](『剣客伝』) '''サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣''' * [[緋雨閑丸]]:[[金田美穂]] / [[高城元気]](『剣客伝』) / [[小市眞琴]](『2019』) * [[リムルル]]:[[櫻井智|桜井智]] / [[松本莉緒|松本恵]](『天草降臨』、『武士道烈伝』) / [[神谷けいこ]](『侍魂』〜) / [[生天目仁美]](『零』〜) / [[釘宮理恵]](『剣客伝』) / [[大野柚布子]](『2019』) * [[花諷院骸羅]](金雄載):[[水津浩志|水津光司]] / [[渡辺健 (俳優)|渡辺健]](『天草降臨』〜) / [[佐藤巧 (声優)|佐藤巧]](『剣客伝』) * [[首斬り破沙羅]]:[[野中政宏]] / [[高城元気]](『剣客伝』) / [[村井雄治]](『2019』) * [[壬無月斬紅郎]]:[[有田洋之]] / [[伊藤えん魔]](『天草降臨』) / [[中田和宏|中多和宏]](『零SPECIAL』) / [[大塚明夫]](『剣客伝』) '''サムライスピリッツ 天草降臨''' * [[風間火月]]:[[山西惇]] / [[岡崎雅紘]](『剣客伝』)/ [[政木まさき]](『2019』) * [[風間蒼月]]:[[及川直紀]] / [[間島淳司]](『剣客伝』)/ [[長谷川芳明]](『2019』) '''SAMURAI SPIRITS 〜侍魂〜''' * [[色 (サムライスピリッツ)|色]] / 半陰となりし色:[[南かおり]](『侍魂』、『斬魔伝』) / [[森永千才]](『2019』) * [[柳生磐馬]] / カラクリ磐馬:[[渡辺健 (俳優)|渡辺健]] * 巌陀羅:[[真砂勝美]](『斬魔伝』) * 木偶:[[中村大樹]]、南かおり * [[壊帝ユガ]]:中村大樹、南かおり / [[中谷さとみ]](『斬魔伝』) '''SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜''' * [[アスラ (サムライスピリッツ)|アスラ]] / 反面のアスラ:[[一条和矢]] * [[八角泰山]]:[[山内圭哉]] * [[風間火月#炎邪|炎邪]](炎邪火月):[[山西惇]] / [[大畑伸太郎]](『零』〜) * [[風間蒼月#水邪|水邪]](水邪蒼月):[[及川直紀]] / [[野瀬育二]](『零』〜) '''剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ新章''' * 九葵蒼志狼 / 九皇蒼志狼:[[及川直紀]] * 九鬼刀馬:[[酒井哲也]] * 花房迅衛門:[[花田光]] * 服部半蔵:[[小西克幸]] ※他シリーズの服部半蔵とは別人 * 榊銃士浪:[[安井邦彦]] * 沙耶:[[氷上恭子]] * 吉野凛花:[[浅田葉子]] * 七坐灰人:[[西村朋紘]] * 十六薙夜血:[[野田晋市]] * 乱鳳:[[葛西美香]] * 眠兎:[[葛西美香]] * 陀流磨:[[野田晋市]] * つむじ風の臥龍:[[伊藤えん魔]] * 命:[[かかずゆみ]] * 朧:[[上田敏也]] * 大熊猫:[[及川直紀]] * 無限示:[[伊藤えん魔]] * ゴロツキ:[[水津浩志]] * 朧衆:[[西川葉月]] * 伊賀忍軍:[[岩本義幸]] * お侍:[[浅川博貴]] * 幽堕:[[一条和矢]] '''サムライスピリッツ零''' / '''サムライスピリッツ零SPECIAL''' * [[徳川慶寅]]:[[結城比呂]] / [[矢薙直樹]](『剣客伝』) / [[古川慎]](『2019』) * [[真鏡名ミナ]]:[[雪野五月]] / [[大沢つむぎ]](『剣客伝』) / [[石川由依]](『2019』) ** チャンプル:[[生天目仁美]] / [[釘宮理恵]](『剣客伝』) * [[レラ (サムライスピリッツ)|レラ]]:[[氷上恭子]] / [[高橋美佳子]](『剣客伝』) * [[劉雲飛 (サムライスピリッツ)|劉雲飛]]:[[滝知史]] / [[大川透]](『剣客伝』) * [[羅刹丸]]:[[最上嗣生]] / [[福井信介]](『剣客伝』) * [[妖怪腐れ外道]]:[[四宮豪]] / [[増岡太郎]](『剣客伝』) * [[萬三九六]]:[[志村知幸]] / [[福井信介]](『剣客伝』) * [[黒河内夢路]]:[[斎賀みつき]] * [[兇國日輪守我旺]] / 魔界を統べし我旺:[[内海賢二]] / [[大塚明夫]](『剣客伝』) '''サムライスピリッツ 天下一剣客伝''' * [[アンドリュー (サムライスピリッツ)|アンドリュー]]:[[石井一貴]] * [[いろは (サムライスピリッツ)|いろは]]:[[新堂真弓]] / [[ミルノ純]](『2019』) * [[機巧おちゃ麻呂]]:[[新堂真弓]] * [[祭囃子双六]]:[[増岡太郎]] '''サムライスピリッツ閃''' * [[猛千代]] * [[鈴姫]]:[[荒木香衣|荒木香恵]] * [[キリアン (サムライスピリッツ)|キリアン]] * [[クロード (サムライスピリッツ)|クロード]]:[[脇田竜蔵]] * [[アンジェリカ (サムライスピリッツ)|アンジェリカ]]:[[松川奈央]] * [[ガロス]] * [[ブラック・ホーク (サムライスピリッツ)|ブラック・ホーク]] * [[キム・ヘリョン]] * [[ヴァルター (サムライスピリッツ)|ヴァルター]] * [[菅又刃兵衛]] * [[J.]]:[[高橋祐斗]] * ドラコ * ゴルバ:[[若本規夫]] '''SAMURAI SPIRITS(2019)''' * [[ダーリィ・ダガー]]:[[小林ゆう]] * [[呉瑞香]]:[[劉セイラ]] * [[鞍馬夜叉丸]]:[[天﨑滉平]] * 静御前:[[上田純子]] == 派生作品 == === ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 === [[2001年]]に発表されたナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム。制作会社は『サムライスピリッツ』シリーズの「SNK」ではなく、「インターレッツ」の「ナコルル制作委員会」である。「サムライスピリッツ」でナコルルを作った企画(セイウチ)など、SNKのスタッフが参加している。[[Microsoft Windows|Windows]]版と[[ドリームキャスト]](DC)版がある。 初代『サムライスピリッツ』から『真サムライスピリッツ』へと続く話で、戦いを終えてカムイコタンに帰ってきたナコルルたちの生活を、ナコルルの従者である主人公の「ミカト」の視点から描いている。ただし、サムライスピリッツのシリーズとは設定に矛盾があるため(ナコルルの祖父母の設定や、リムルルの血縁関係、本作で語られる結末部分)パラレルワールドに位置する。 紫ナコルルの設定を元にした「レラ」が初登場した作品。本作のオリジナルキャラクターの「マナリ」は『[[CAPCOM VS. SNK 2 MILLIONAIRE FIGHTING 2001|CAPCOM vs SNK 2]]』にもナコルルの試合前のデモなどで登場する。 * 声の出演 ** ナコルル / レラ:[[生駒治美]] ** マナリ:[[川澄綾子]] ** リムルル:[[神谷けいこ]] ** ヤンタムゥ:[[子安武人]] ** ナコルルの母 / ウババ:[[氷上恭子]] ** ミババ:[[前塚あつし|モンスター前塚]](現:前塚あつし) ** ヒババ:[[や乃えいじ]] ** ホクテ:[[蓮池拓也]] ** オユダタ:[[重塚利弘]] ** ミカト:[[矢野裕紀子]] ** 羅将神ミヅキ:[[土屋実紀]] === Days of Memories === {{Main|Days of Memories}} [[携帯電話ゲーム|携帯電話アプリゲーム]]として配信されている恋愛ゲーム『Days of Memories』シリーズの一部作品にて本作のキャラクターが登場する。特にシリーズ3作目となる『Days of Memories 〜大江戸恋愛絵巻〜』は、ほぼすべての登場人物が『サムライスピリッツ』のキャラクターで占められており、世界観もそれに合わせたものとなっている。なお、タイトルに「大江戸」とあるが舞台は[[大坂]]の[[江坂]]である。また、7作目『Days of Memories 〜僕と彼女と古都の恋〜』、8作目『Days of Memories 〜風舞う都でつかまえて!〜 』、9作目『Days of Memories 〜世界で一番熱い冬〜』にも本作のキャラクターが多数登場する。 これらの4作品は、後に[[ニンテンドーDS]]用ソフト『Day of Memories』(『大江戸恋愛絵巻』を収録)、『Days of Memories 3』(『僕と彼女と古都の恋』から『世界で一番熱い冬』までの3作品を収録)に移植されている。 === メイドbyいろは === 2007年よりi-mode用アプリゲームとして配信されている育成シミュレーションゲーム。『天下一剣客伝』から参戦した「いろは」を最高のメイドにすることを目的とする。 === 恋のいろは === 2008年より携帯電話アプリゲームとして配信されているビジュアルノベルのシリーズ。ヒロインは「いろは」で、舞台は現代。サブタイトルは1作目が『〜さくら咲く春〜』、2作目が『〜ひまわり輝く夏〜』、3作目が『〜もみじ色づく秋〜』、4作目が『〜さざんか散る冬〜』。 タイトルロゴが『[[電子メイド手帖 恋のいろは]]』(発売中止作品)の「恋のいろは」の部分と共通している。 == 他メディア作品 == === アニメ === ==== SAMURAI SPIRITS 〜破天降魔の章〜 ==== [[1994年]][[9月18日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で放送された単発のテレビアニメ作品。ゲームとは異なるオリジナルストーリーである。[[DVD]]と[[小説]](著・[[岸間信明]])が発売されている。覇王丸の声を[[SMAP]]の[[香取慎吾]]が当て、『真サムライスピリッツ』における覇王丸の隠し技である「天覇封神斬」のコマンドが番組中で公開された。覇王丸が天覇封神斬を出す瞬間に閃光がコマンド型に走るという演出であった。右京は本編中に登場せず、エンディングのスタッフロールのバックに彼の映像が流れるのみとなっている。 覇王丸が主人公。本作ではシャルロットがストーリーのヒロインを務めている。 本作では覇王丸とシャルロットは「前世で恋人同志」というゲーム版には無い設定がされている。また、天草四郎時貞はゲーム版とは別の武器を使用している。 * ストーリー *: 時は[[寛永]]15年、[[島原の乱]]。善神アニスレイザに選ばれた聖剣士たちは、天草四郎時貞と対峙していた。天草も聖剣士の1人だったが、仲間を裏切り暗黒神アンブロジァの封印を解いていた。アンブロジァの力を得た天草は聖剣士たちを亡き者とするが、アニスレイザによってその魂は100年後の未来へ転生される。 *: そして100年後、[[徳川吉宗]]の治世。天草は吉宗を屈服させ転生した聖剣士たちの行方を捜していた。一方転生した聖剣士の王虎、ナコルル、タムタム、ガルフォード、シャルロットの5人も最後の1人を探しに日本へ。その最後の1人である覇王丸は未覚醒で前世の記憶もなく、自慢の剣術で道場破りをして暮らしていた。しかし、ある日彼の暮らす村が謎の兵士たちによって襲われる。 * スタッフ ** 企画:[[清水賢治]](フジテレビ)、[[片岡義朗]](NAS) ** 監督:[[石踊宏]] ** 脚本:[[岸間信明]] ** キャラクターデザイン・総作画監督:[[岩倉和憲]] ** 色彩設計:佐藤和子 ** 美術監督:西川淳一郎 ** 撮影監督:森下成一 ** 編集:[[岡安肇]] ** 音響監督:[[三間雅文]] ** 音楽:[[和田薫 (作曲家)|和田薫]] ** プロデューサー:[[鈴木吉弘]](フジテレビ)、山崎立士(NAS)、[[茂垣弘道]](コメット) ** 制作協力(アニメーション制作):[[スタジオコメット]] ** 制作:[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[日本アドシステムズ|NAS]] * 主題歌 ** ED「"大好き"という嘘をついた」(作詞:橙育琉 作曲・編曲:岩崎文紀 歌:[[GWINKO]]) ** イメージソング「BRAND-NEW SPIRITS」(作詞:原真弓 作曲:新世界楽曲雑技団 歌:千葉麗子) * 声の出演 ** 覇王丸:[[香取慎吾]] ** 天草四郎時貞:[[大輝ゆう]] ** ナコルル:[[千葉麗子]] ** シャルロット:[[玉川砂記子|玉川紗己子]](現:玉川砂記子) ** 王虎:[[玄田哲章]] ** ガルフォード:[[高木渉]] ** タムタム:[[子安武人]] ** 服部半蔵:[[青野武]] ** アースクェイク:[[笹岡繁蔵]] ** 不知火幻庵:[[北村弘一]] ** 千両狂死郎:[[三ツ矢雄二]] ** 徳川吉宗:[[岸野一彦]] ** 千代:[[寺瀬今日子|寺瀬めぐみ]](現:寺瀬今日子) ** 吾郎の母:[[巴菁子]] ** 子供A:[[カシワクラツトム|柏倉つとむ]](現:カシワクラツトム) ** 子供B:[[Chiko|丸尾知子]](現:Chiko) ** 子供C:[[松下美由紀]] ** 吾郎:[[麻生智久]] ** 従者:[[センルイトオル|泉類亨]](現:センルイトオル) ** 子供: [[瀧本富士子]] ** 柳生十兵衛:[[地井武男]](特別出演) ==== SAMURAI SPIRITS 2 〜アスラ斬魔伝〜 ==== [[1999年]]にOVAとして発表された作品(全2巻)。「DVD」版と「VHS」版で発売された。声を当てている声優はゲーム版と同一である。当時、同人誌や雑誌のコラムなどでナコルルのファンであることを強烈にアピールしていた[[七瀬葵]]をキャラクターデザインに起用している。 本作では[[ナコルル]]が主人公。ナコルルとは別人格のキャラクターとして羅刹ナコルルも登場している。 ストーリーはゲーム版『アスラ斬魔伝』の前日譚となっている。 * スタッフ ** 監督:[[佐々木和宏]] ** キャラクターデザイン:[[七瀬葵]] * 声の出演 ** ナコルル:[[生駒治美]] ** 覇王丸:[[中村大樹]] ** リムルル:[[神谷けいこ]] ** 色:[[南かおり]] ** ガルフォード:[[小市慢太郎]] ** 牙神幻十郎:[[コング桑田]] ** アスラ:[[一条和矢]] ==== ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編 ==== 『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』のアニメ版。[[2002年]]にOVAとして発表。主人公はミカトからナコルルに変更されている。声優はアドベンチャーゲーム版とほぼ一緒であるが、レラの声優が生駒治美から氷上恭子に変更された。その影響から『サムライスピリッツ零』でも氷上がレラの声優を務めた。一応時代設定としては初代と『斬紅郎無双剣』の間となる。 前編・後編の2巻発売予定であったが、発売元のグルーヴコーポレーションが倒産した影響で続編の製作は中止になったらしく、ストーリーは中途半端に終わってしまっている。 * スタッフ ** 原作:有限会社インターレッツ ** 製作:成澤章 ** 企画:尾川匠 ** プロデューサー:野崎慎太郎 ** スーパーバイザー:Dr.POCHI ** 監督:[[金澤勝眞]] ** 脚本:たきもとまさし、松川しゅうさく ** キャラクター原案:44 ** キャラクターデザイン:[[梅津泰臣]] ** 作画監督、絵コンテ:宮澤努 ** 演出:[[草川啓造]] ** 美術監督:[[池田繁美]] ** 色彩設定:北沢希美子 ** 撮影監督:森口洋輔 ** 音響監督:[[本田保則]] ** 音楽:山手安生 ** 制作:[[アームス|ARMS]] ** 製作:グルーヴコーポレーション * 主題歌 ** エンディングテーマ「巫女の伝承唄」(作詞:たきもとまさし 作曲、編曲:山手安生 歌:生駒治美) ** 挿入歌「二番目の奇跡」(作詞:松川しゅうさく 作曲、編曲:山手安生 歌:川澄綾子) * 声の出演 ** ナコルル:[[生駒治美]] ** マナリ:[[川澄綾子]] ** ヤンタムゥ:子安武人 ** リムルル:[[神谷けいこ]] ** レラ、ナコルルの母:[[氷上恭子]] ** ミババ:福島七菜子 ** ウババ:[[藤井あさこ]] ** ヒババ:[[津野田なるみ]] ** ミカト:[[松来未祐]] ** ホクテ:[[森田樹優|森田チアキ]] ** 長老:[[麻生智久]] ** 子供A:[[桃森すもも]] ** 子供C:[[亜城めぐ|小林恵美]](現:亜城めぐ) ** 村人:[[藤原泰浩]] === 漫画 === ; 「サムライスピリッツ」([[島本和彦]]) : [[講談社]]、[[デラックスボンボン]]連載 ; 「サムライスピリッツ」([[内藤泰弘]]) : [[徳間書店]]、[[ファミリーコンピュータMagazine]]連載 ; 「魔界武芸帖 サムライスピリッツ」(原作・[[七月鏡一]] / 漫画・[[三好雄己]]) : [[小学館]]、[[週刊少年サンデー超|増刊少年サンデー]]連載 ; 「サムライスピリッツ 島原天草邪神城攻略編」([[石川賢 (漫画家)|石川賢]]) : 講談社、[[覇王マガジン]]連載 ; 「サムライスピリッツ カントリーロード雪伝」([[島津わか乃]]) : [[芸文社]]、[[ネオジオフリーク]]連載 ; 「剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃〜サムライスピリッツ新章〜」([[矢口岳]]) : 講談社、[[月刊マガジンZ]]連載 ; 「聖剣士伝説 サムライスピリッツ」([[真行寺たつや]]) : [[メディアワークス]]、[[電撃少年]]掲載 ; 「サムライスピリッツ 覇王丸地獄行」、「真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変」([[しろー大野]]) : メディアワークス刊 * これ以外に[[コミックゲーメスト]]で[[車田正美]]、[[いのうえ空]]による漫画作品が連載予定であったが、企画変更の後に中止となった。 === 小説 === <!--他にもあると思いますので、追加よろしくおねがいします。--> ; サムライスピリッツ 破天降魔の章 : 前述のアニメ版の小説化作品。作者は[[岸間信明]]。1994年12月発売。ISBN 978-4-09-440391-6 ; サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣 : 作者はいさき玲衣。1996年7月発売。ISBN 978-4-89366-543-0 ; サムライスピリッツ 天草降臨 夏の風花 : 作者は[[嬉野秋彦]]。1997年3月発売。ISBN 978-4-89366-675-8 ; 真説サムライスピリッツ 武士道烈伝 : 作者はいさき玲衣。RPG版の小説化作品。「天草編」(1997年6月発売。ISBN 978-4-89366-715-1)と「ミヅキ編」(1997年7月発売。ISBN 978-4-89366-752-6)の2冊が発売された。 ; 小説 サムライスピリッツ アスラ斬魔伝 : 作者は[[梅村崇]]。1999年10月発売。ISBN 978-4757500808 === パチスロ === ; サムライスピリッツS : [[ユニバーサルエンターテインメント|メーシー販売]]から2001年発売。獲得枚数の異なる2種類のビッグボーナスを備えたツインビッグ仕様。 ; サムライスピリッツ外伝 チャムチャム : SNKプレイモアから2007年7月発売。 ; サムライスピリッツ鬼 : SNKプレイモアから2011年10月発売。[[リプレイタイム|ART]]搭載機で、ループ率約99%のプレミアムART・「鬼羅刹」がポイント。 :* 声の出演 :** 覇王丸:[[森川智之]] :** ナコルル:[[中原麻衣]] :** リムルル:[[加藤英美里]] :** いろは:[[後藤沙緒里]] :** 色:[[田中理恵 (声優)|田中理恵]] :** 天草四郎時貞:[[速水奨]] :** 牙神幻十郎:[[乃村健次]] :** 堕日堕:[[喜多村英梨]] ; サムライスピリッツ〜剣豪八番勝負〜 : SNKプレイモアから2014年4月発売。 === パチンコ === ; CRサムライスピリッツ : [[ニューギン|EXCITE]]から2014年9月発売。 === ソーシャルゲーム === ; サムライスピリッツ 絆 : SNKプレイモアにより2011年11月17日<ref>[http://www.gpara.com/article/cms_show.php?c_id=28093&c_num=14 Mobageオープンプラットフォームで『サムライスピリッツ 絆』配信開始] Gパラドットコム、2011年11月17日、2013年9月29日観覧</ref>に[[Mobage]]にてサービスが提供された。プレイヤーは、剣豪大名として『サムライスピリッツ』に登場する剣客たちを集め育成し、剣客たちとともに各地で巻き起こる合戦に出陣したり、他プレイヤーの道場を破ったりして天下一の流派を目指す。 ; SNKドリームバトル : SNKプレイモアにより2012年3月27日に[[Mobage]]にてサービスが提供された。『[[THE KING OF FIGHTERS]]』や『[[餓狼伝説]]』、『サムライスピリッツ』といったシリーズをはじめ、SNKの様々なゲームのキャラクターたちが一堂に会するソーシャルカードゲーム。 ; 侍魂オンライン-朧月伝- : X.D.Globalより2019年8月8日リリース。SNKから許諾をとり開発された3Dアクション[[MMORPG]]。 :; 本作オリジナルキャラクター :* 橘秀一 - [[福山潤]] :* 龍馬 - [[松岡禎丞]] :* 羽生千代 - [[早見沙織]] :* 槿 - [[佐倉綾音]] === オリジナル サウンドトラック === * サムライスピリッツ([[1993年]][[9月17日]] [[ポニーキャニオン]]) * サムライスピリッツ イメージアルバム([[1994年]][[2月18日]]) * 真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変 (1994年11月2日) * 真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変 ARRANGE SOUND TRAX(1994年12月16日) * サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣([[1995年]][[12月16日]]) * サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣 ARRANGE SOUND TRAX([[1996年]][[2月7日]]) * サムライスピリッツ 天草降臨(1996年12月4日) * サムライスピリッツ 天草降臨 ARRANGE SOUND TRAX(1996年12月16日) * 侍魂〜サムライスピリッツ〜([[1998年]][[1月8日]]) * 侍魂〜サムライスピリッツ〜 ARRANGE SOUND TRAX(1998年2月18日) * SAMURAI SPIRITS2 アスラ斬魔伝(1998年10月7日) * SAMURAI SPIRITS2 アスラ斬魔伝 ARRANGE SOUND TRAX(1998年10月21日) * 剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃 サムライスピリッツ 新章([[1999年]][[12月18日]]) * 真説 サムライスピリッツ 武士道烈伝([[1997年]]3月21日) * 侍魂 THE BEST(1998年8月18日) * 侍魂 Symphonic Sound Trax(1995年11月17日) * SAMURAI REMIX V.A(1995年3月1日) * 音盤 サムライスピリッツ 天下一剣客伝 零の巻([[2006年]][[8月9日]] [[ハピネット]]) * サムライスピリッツ 閃([[2008年]][[5月21日]] [[SME]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[月華の剣士]] - [[幕末]]期を舞台とした侍対戦ゲーム * [[対戦型格闘ゲーム一覧]] * [[SNKの対戦型格闘ゲーム一覧]] == 外部リンク == * [https://samuraianiv.snk-corp.co.jp/ SAMURAI SPIRITS OFFICIAL WEBSITE] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/samuraispirits-portal/ SAMURAI SPIRITS PORTAL | SNK] * [https://slot.snk-corp.co.jp/official/samurai_oni/ サムライスピリッツ鬼] {{サムライスピリッツ}} {{SNK対戦格闘}} {{スタジオコメット}} {{アームス}} {{石踊宏監督作品}} {{DEFAULTSORT:さむらいすひりつつ}} [[Category:サムライスピリッツ|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:ファミ通ゲーム文庫]] [[Category:漫画作品 さ|むらいすひりつつ]] [[Category:ゲーム雑誌掲載漫画作品]] [[Category:ファミリーコンピュータMagazine]] [[Category:島本和彦の漫画作品]] [[Category:石川賢の漫画作品]] [[Category:アニメ作品 さ|むらいすひりつつ]] [[Category:スタジオコメット]] [[Category:SNK原作のアニメ作品]] [[Category:格闘技アニメ]]
2003-08-19T12:44:16Z
2023-12-11T05:40:57Z
false
false
false
[ "Template:CERO-B", "Template:サムライスピリッツ", "Template:スタジオコメット", "Template:Refnest", "Template:R", "Template:Cite web", "Template:Main", "Template:CERO-C", "Template:アームス", "Template:CERO-A", "Template:Timeline of release years", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:SNK対戦格闘", "Template:石踊宏監督作品", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84
13,569
文字列探索
文字列探索 (もじれつたんさく) とは、ある文字列の中から、別の文字列(単一の文字列である場合もあれば、数千語から数万語以上の辞書の語彙である場合もある)を探索することである。前者の単一の文字列の探索は英文のテキストエディタ等で必須の機能であり(いわゆるスペルチェッと関連する)、後者は「かな漢字変換」等で必須の機能であるため、これまでさまざまなアルゴリズムが考案されている。 ここでいう文字列とは、ある定まった文字集合の要素を任意に並べた系列のことである。通常、文字はアルファベット等の言語に依拠した文字セットを指すことが多いが、生物情報学における染色体の塩基配列A, T, G, Cの4文字を対象とするもののように、特定の領域に特化した応用も行われている。 正規表現にマッチする文字列の探索、と類似した問題だが、正規表現で可能なパターンに比べ検索対象を絞ることで、より高速に探索するものとして研究されている(ユーザの使うプログラムでは、検索するパターンに応じて、アルゴリズムを切り替えるものもある)。正規表現による探索については正規表現の記事を参照のこと。 近年は、暗号化された文字列を復号せずに探索する秘匿検索、圧縮テキスト中の文字列探索の研究、多国語文字列のバイト列表現に対する探索の研究、なども行われている。 欧米語のような、空白文字列で区切られている言語のテキストに関しては、効率のよいアルゴリズムが知られている。ところが日本語のように「どこからどこまでに対して辞書引きをするか」が不明確な場合、「あるバイト列に対し、不定長のバイト列に対して検索を行う」という作業が必要となる。 こうした要求に応えるものとしてトリプル配列法(および、トリプル配列法のスペースファクターを改善する目的で開発されたダブル配列法)があるが、ジップの法則によって、「頻出するバイト列にのみ対処すれば、出現頻度の少ないものに対しては、他の(実行効率の低い)アルゴリズムを用いても、システム全体のスループットには、ほとんど影響しない」という経験則があるため、トリプル配列法はあまり知られていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "文字列探索 (もじれつたんさく) とは、ある文字列の中から、別の文字列(単一の文字列である場合もあれば、数千語から数万語以上の辞書の語彙である場合もある)を探索することである。前者の単一の文字列の探索は英文のテキストエディタ等で必須の機能であり(いわゆるスペルチェッと関連する)、後者は「かな漢字変換」等で必須の機能であるため、これまでさまざまなアルゴリズムが考案されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ここでいう文字列とは、ある定まった文字集合の要素を任意に並べた系列のことである。通常、文字はアルファベット等の言語に依拠した文字セットを指すことが多いが、生物情報学における染色体の塩基配列A, T, G, Cの4文字を対象とするもののように、特定の領域に特化した応用も行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正規表現にマッチする文字列の探索、と類似した問題だが、正規表現で可能なパターンに比べ検索対象を絞ることで、より高速に探索するものとして研究されている(ユーザの使うプログラムでは、検索するパターンに応じて、アルゴリズムを切り替えるものもある)。正規表現による探索については正規表現の記事を参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "近年は、暗号化された文字列を復号せずに探索する秘匿検索、圧縮テキスト中の文字列探索の研究、多国語文字列のバイト列表現に対する探索の研究、なども行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "欧米語のような、空白文字列で区切られている言語のテキストに関しては、効率のよいアルゴリズムが知られている。ところが日本語のように「どこからどこまでに対して辞書引きをするか」が不明確な場合、「あるバイト列に対し、不定長のバイト列に対して検索を行う」という作業が必要となる。", "title": "探索効率" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "こうした要求に応えるものとしてトリプル配列法(および、トリプル配列法のスペースファクターを改善する目的で開発されたダブル配列法)があるが、ジップの法則によって、「頻出するバイト列にのみ対処すれば、出現頻度の少ないものに対しては、他の(実行効率の低い)アルゴリズムを用いても、システム全体のスループットには、ほとんど影響しない」という経験則があるため、トリプル配列法はあまり知られていない。", "title": "探索効率" } ]
文字列探索 (もじれつたんさく) とは、ある文字列の中から、別の文字列(単一の文字列である場合もあれば、数千語から数万語以上の辞書の語彙である場合もある)を探索することである。前者の単一の文字列の探索は英文のテキストエディタ等で必須の機能であり(いわゆるスペルチェッと関連する)、後者は「かな漢字変換」等で必須の機能であるため、これまでさまざまなアルゴリズムが考案されている。 ここでいう文字列とは、ある定まった文字集合の要素を任意に並べた系列のことである。通常、文字はアルファベット等の言語に依拠した文字セットを指すことが多いが、生物情報学における染色体の塩基配列A, T, G, Cの4文字を対象とするもののように、特定の領域に特化した応用も行われている。 正規表現にマッチする文字列の探索、と類似した問題だが、正規表現で可能なパターンに比べ検索対象を絞ることで、より高速に探索するものとして研究されている(ユーザの使うプログラムでは、検索するパターンに応じて、アルゴリズムを切り替えるものもある)。正規表現による探索については正規表現の記事を参照のこと。 近年は、暗号化された文字列を復号せずに探索する秘匿検索、圧縮テキスト中の文字列探索の研究、多国語文字列のバイト列表現に対する探索の研究、なども行われている。
{{出典の明記|date=2023年8月}} '''文字列探索''' (もじれつたんさく) とは、ある[[文字列]]の中から、別の文字列(単一の文字列である場合もあれば、数千語から数万語以上の辞書の語彙である場合もある)を[[探索]]することである。前者の単一の文字列の探索は英文の[[テキストエディタ]]等で必須の機能であり(いわゆる[[スペルチェッ]]と関連する)、後者は「かな漢字変換」等で必須の機能であるため、これまでさまざまな[[アルゴリズム]]が考案されている。 ここでいう文字列とは、ある定まった文字集合の要素を任意に並べた系列のことである。通常、文字は[[アルファベット]]等の言語に依拠した文字セットを指すことが多いが、[[生物情報学]]における染色体の塩基配列A, T, G, Cの4文字を対象とするもののように、特定の領域に特化した応用も行われている。 [[正規表現]]にマッチする文字列の探索、と類似した問題だが、正規表現で可能なパターンに比べ検索対象を絞ることで、より高速に探索するものとして研究されている(ユーザの使うプログラムでは、検索するパターンに応じて、アルゴリズムを切り替えるものもある)。正規表現による探索については[[正規表現]]の記事を参照のこと。 近年は、[[暗号化]]された文字列を復号せずに探索する'''秘匿検索'''、圧縮テキスト中の文字列探索の研究、多国語文字列のバイト列表現に対する探索の研究、なども行われている。 == 探索効率 == 欧米語のような、空白文字列で区切られている言語のテキストに関しては、効率のよいアルゴリズムが知られている。ところが日本語のように「どこからどこまでに対して辞書引きをするか」が不明確な場合、「あるバイト列に対し、不定長のバイト列に対して検索を行う」という作業が必要となる。 こうした要求に応えるものとして[[トリプル配列法]](および、トリプル配列法のスペースファクターを改善する目的で開発されたダブル配列法)があるが、[[ジップの法則]]によって、「頻出するバイト列にのみ対処すれば、出現頻度の少ないものに対しては、他の(実行効率の低い)アルゴリズムを用いても、システム全体の[[スループット]]には、ほとんど影響しない」という経験則があるため、トリプル配列法はあまり知られていない。 == 各種アルゴリズム == *[[クヌース-モリス-プラット法]] *[[ボイヤー-ムーア文字列検索アルゴリズム|ボイヤー-ムーア法]] *[[Quick Search法]] ボイヤー-ムーア法の亜種の一つで、さまざまな亜種のうちもっとも簡単で、かつ高速。 *[[エイホ-コラシック法]] *[[ラビン-カープ文字列検索アルゴリズム|ラビン-カープ法]] *[[Bitapアルゴリズム]](shift-and, shift-orなどでも知られる)他[[並列計算#ビットレベルの並列性|Bit-parallel]]手法 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> ==外部リンク== *[https://www-igm.univ-mlv.fr/~lecroq/string/ EXACT STRING MATCHING ALGORITHMS] {{DEFAULTSORT:もしれつたんさく}} [[Category:検索]] [[Category:検索アルゴリズム]] [[Category:文字列]]
2003-08-19T12:52:36Z
2023-08-19T16:39:26Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%97%E5%88%97%E6%8E%A2%E7%B4%A2
13,570
五代十国時代
五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。 五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。 一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち特に、前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢を指して十国と言う。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。 960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。 五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。 唐の中央政府は755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。 このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えた者があったとも言われている。 黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。 しかしこれにより皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。 この時期に中央を争っていたのが、開封を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と晋陽を中心に山西を支配した李克用である。この他の有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。 その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。 李克用の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。 十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、906年には、唐朝から「呉王」に任命された。呉の軍は戦争が強く、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉の国内では、楊行密の死後、配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって国を簒奪された(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」と改めた。この国は後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。 同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。 呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は国内で内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。 西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。 四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。 中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。 後周で世宗(柴栄)の死後、次の皇帝になったのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。 幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。 宋の太祖(趙匡胤)はそれまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。 まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北の荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼした。 これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。 太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。 ここに、五代十国時代は終わり、これは唐の滅亡から72年後のことである。 五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』が編纂されたが、後に欧陽脩が春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に国子監に納められて認められて大いに広まったことから、金では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。 清の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。 欧陽脩はこの時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。 明の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている。 欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界でありそれを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている。 例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、岐などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される)、 欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたと言われている。こうした一連の歴史観は日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。 唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。 五代十国時代はこうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い。 小島毅や與那覇潤は、五代十国時代が北宋によって統一されず、中国が分裂したままだったとしたら、ヨーロッパと同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の王権や軍閥がミニ国家をつくって、やがてヨーロッパのヴェストファーレン体制に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが、東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち特に、前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢を指して十国と言う。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "唐の中央政府は755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えた者があったとも言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかしこれにより皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この時期に中央を争っていたのが、開封を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と晋陽を中心に山西を支配した李克用である。この他の有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "李克用の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、906年には、唐朝から「呉王」に任命された。呉の軍は戦争が強く、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉の国内では、楊行密の死後、配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって国を簒奪された(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」と改めた。この国は後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は国内で内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠はアラブ系と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "後周で世宗(柴栄)の死後、次の皇帝になったのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "宋の太祖(趙匡胤)はそれまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北の荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ここに、五代十国時代は終わり、これは唐の滅亡から72年後のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』が編纂されたが、後に欧陽脩が春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に国子監に納められて認められて大いに広まったことから、金では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "清の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "欧陽脩はこの時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "明の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界でありそれを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、岐などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される)、", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたと言われている。こうした一連の歴史観は日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "五代十国時代はこうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い。", "title": "後世から見た研究と評価" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "小島毅や與那覇潤は、五代十国時代が北宋によって統一されず、中国が分裂したままだったとしたら、ヨーロッパと同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の王権や軍閥がミニ国家をつくって、やがてヨーロッパのヴェストファーレン体制に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが、東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している。", "title": "後世から見た研究と評価" } ]
五代十国時代は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。 五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。 一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち特に、前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢を指して十国と言う。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。 960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。
{{脚注の不足|date=2023年1月}} {{中国の歴史}} {{満州の歴史}} '''五代十国時代'''(ごだいじっこくじだい、[[907年]] - [[960年]])は、[[中国]]の[[唐]]の滅亡から[[北宋]]の成立までの間に、[[黄河]]流域を中心とした[[華北]]・[[中原]]を統治した5つの王朝('''五代''')と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権('''十国''')とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。[[朱全忠]]が[[哀帝 (唐)|哀帝]]より禅譲を受け[[後梁]]を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥([[節度使]])達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。 五代という言葉は北宋の[[欧陽脩]]による歴史書『[[新五代史|五代史記]]』に由来し、唐の滅亡後に[[中原]]を支配した[[後梁]]・[[後唐]]・[[後晋]]・[[後漢 (五代)|後漢]]・[[後周]]の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。 一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち特に、[[前蜀]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]・[[呉 (十国)|呉]]・[[南唐]]・[[荊南]]・[[呉越]]・[[閩]]・[[楚 (十国)|楚]]・[[南漢]]・[[北漢]]を指して十国と言う。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。 960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。 == 歴史 == 五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した[[907年]]が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は[[875年]]から[[884年]]にかけて起きた[[黄巣|黄巣の乱]]によって滅んでおり、その後は[[長安]]を中心とした[[関中]]地域を支配する一地方政権としての唐と[[朱全忠]]や[[李克用]]などの[[節度使]]勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。 === 唐の完全滅亡まで === 唐の中央政府は[[755年]]から[[763年]]にかけて起きた[[安史の乱]]により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の[[節度使]]勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の[[皇帝]]達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし[[節度使]]勢力を抑え込むために利用した[[宦官]]勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。 このような状態の中で黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて手心を加えた者があったとも言われている。 黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝[[僖宗]]は[[蜀郡|蜀]]へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、[[突厥]][[沙陀族|沙陀部]]出身の[[李克用]]と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた[[朱温]](後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。 しかしこれにより皇帝はその名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、[[周]]の東遷以降([[春秋時代]])や[[後漢]]末期の[[献帝 (漢)|献帝]]などを考えると近いかと思われる。 この時期に中央を争っていたのが、[[開封府|開封]]を中心に[[山東省|山東]]・[[河南省|河南]]を支配していた朱全忠と[[太原府|晋陽]]を中心に[[山西省|山西]]を支配した李克用である。この他の有力者に、[[河北省|河北]]を支配した[[劉仁恭]]や陝西の一部を支配した[[李茂貞]]などがいる。 その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。 [[李克用]]の軍は真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、[[朱全忠]]には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、[[907年]]には遂に[[禅譲]]を受けて[[後梁]](国号は単に「梁」である。「後」の字は後世の歴史家が区別するために付けた。以下全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。 === 五代 === [[画像:五代十国(923年).png|thumb|250px|[[923年]]頃の勢力地図]] * [[後梁]]([[907年]]-[[923年]]) *:[[朱全忠]]が皇帝となると、これに従うことを良しとしない各地の勢力は自らも皇帝を名乗った。一方、[[後梁]]と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。 *:朱全忠の宿敵である李克用は[[908年]]に死去し、後を継いだ[[李存勗]]は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は913年、[[桀燕|燕]]王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼしてその故地を併合。自信を付けた李存勗は[[923年]]には唐皇帝(荘宗)を名乗って[[後唐|唐(後唐)]]を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。 * [[後唐]]([[923年]]-[[936年]]) *:李克用らの李姓は、黄巣の乱での功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、[[後唐]]を建てたのである。後梁を滅ぼした後、[[岐]]王を名乗っていた[[李茂貞]]や[[四川省|四川]]を支配していた[[前蜀]]を相次いで滅ぼし、領土を拡大した。しかし荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように[[洛陽]]へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将達の不満を買った。この不満が、[[926年]]の武将達による[[李嗣源]](後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍([[近衛兵]])により荘宗は殺された。 *:即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の[[検地]]を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として「[[三司|三司使]]」を創設した。また自分のような有力軍人達による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は、後の[[北宋|宋]]にも受け継がれている。明宗は、五代の中では[[後周]]の[[柴栄|世宗]]に次ぐ名君と称えられる。 * [[後晋]]([[936年]]-[[946年]]) *:しかし明宗は、在位わずか7年で病死する([[933年]])。三男の[[李従厚]]がその後を継ぐが、すぐに明宗の義子(養子)である[[李従珂]]によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って明宗の女婿であり、実力者である[[石敬瑭]]を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は北の[[契丹]]に対して援助を求め、その見返りとして[[燕雲十六州]]の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗[[耶律徳光]]は大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。 *:[[936年]]、皇帝に即位して[[後晋]]を建てた石敬瑭(高祖)は契丹に対して臣従し、後晋はほとんど契丹の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の[[呉 (十国)|呉]]に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。 *:その鎮圧に追われて、高祖は[[942年]]に病死する。後を甥の[[石重貴]]が継いだが、彼の即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。[[946年]]、契丹(翌年に国号を[[遼]]とした)の太宗は再び[[親征]]の大軍を南下させ、後晋の首都の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。 *:遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。 * [[後漢 (五代)|後漢]]([[947年]]-[[950年]]) *:それを傍観していた石敬瑭の元側近の[[劉知遠]]は、自らの任地である晋陽で[[947年]]に皇帝に即位して[[後漢 (五代)|後漢]]を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。 *:しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の[[劉承祐]]がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近達は有力者の排除を図り、次々と軍人達を誅殺していった。反乱の鎮圧に出ていてこれを免れた枢密使の[[郭威]]は自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ、開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近達を一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこにあたる[[劉贇]]を擁立しようとしたが、考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位し(太祖)[[後周]]を建てた。それから間もなく、劉贇の父の[[劉崇]]は晋陽の地で自立し、[[北漢]]を建国した。 * [[後周]]([[951年]]-[[960年]]) *:即位した太祖[[郭威]]は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。 *:この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、[[954年]]に即位した[[柴栄]](世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。 *:世宗([[柴栄]])がまず行ったことは、自立性の強い軍人達を抑えることである。その軍人達を抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に[[南唐]]・[[後蜀 (十国)|後蜀]]・[[北漢]]・[[遼]]などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えたことで南唐の生殺与奪権を掌握したと言っても良い。 *:また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では「[[三武一宗の法難]]」と言われる廃仏運動が行われており、「一宗」が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るための[[銅]]が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」という銅銭を鋳造した。 *:統一への道を突き進んでいた世宗([[柴栄]])だったが、[[959年]]に遠征から帰る途上で病死する。 === 十国 === 十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った'''[[呉 (十国)|呉]]'''であった。建国者の[[楊行密]]は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、906年には、唐朝から「呉王」に任命された。呉の軍は戦争が強く、一時は北の[[後梁]]と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉の国内では、楊行密の死後、配下の[[徐温]]の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって国を[[簒奪]]された(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて[[李昪]]と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」と改めた。この国は後世の歴史家からは'''[[南唐]]'''と呼ばれる。 同時期に南の[[浙江省|浙江]]では、'''[[呉越]]'''が勢力を張った。建国者の[[銭鏐]](せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。 呉越の南の[[福建省|福建]]では、威武軍節度使の[[王審知]]がこの地を制圧して'''[[閩]]'''を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は国内で内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって[[945年]]に滅ぼされる。 西に目を向けると[[湖北省|湖北]]には'''[[荊南]](南平)'''、[[湖南省|湖南]]には'''[[楚 (十国)|楚]]'''、[[広東省|広東]]には'''[[南漢]]'''が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は[[茶]]の貿易で栄えた国で、建国者の[[馬殷]]の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、[[951年]]に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の[[劉隠]]は[[アラブ人|アラブ系]]と言われており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし後期にはその政治も堕落し、[[宦官]]政治へと変質した。 [[四川省|四川]]は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが'''[[前蜀]]'''・'''[[後蜀 (十国)|後蜀]]'''の両蜀政権である。前蜀の建国者の[[王建 (前蜀)|王建]]は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は[[925年]]、[[後唐]]によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の[[孟知祥]]が自立して934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの[[詞]]を集めた『[[花間集]]』の編纂はこの時代の文化を伝える上で大きく貢献した。 中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて[[契丹]]などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の[[後周]]が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。 * [[北漢]] *:[[劉崇]]によって建てられた[[北漢]]は中原を支配することができなかったため、五代ではなく十国のひとつに数えられる。[[太原]]を首都とし、現在の山西省北部を支配した。北漢は国力が少なかったために[[後周]]に対抗するために[[遼]]の援助を求め、事実上は[[遼]]の衛星国家となった。遼の兵力によって[[後周]]に対して有位を保ったこともあるが、それは一時的なものにとどまった。後周の後を継いで[[北宋]]が成立すると、北宋の圧力によって国内は混乱し、979年にはついに北宋に屈して北漢は滅びた。 === 宋(北宋)の成立と中国再統一 === [[後周]]で世宗([[柴栄]])の死後、次の皇帝になったのは、わずか7歳の[[柴宗訓]]である。この状況を見た[[北漢]]は遼の後押しを受けて[[後周]]に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の[[趙匡胤]](太祖)である。 幼帝を戴いて[[遼]]と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で[[趙匡胤]]を強引に擁立した([[陳橋の変]])。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して[[禅譲]]を受け、宋([[北宋]])を建てた([[960年]])。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は[[南宋]]の滅亡まで手厚く保護されている。 宋の太祖([[趙匡胤]])はそれまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。[[科挙]]の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。 まず、[[963年]]に中国大陸の中央部の要地である[[湖北省|湖北]]の[[荊南]]を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで[[965年]]に四川の[[後蜀 (十国)|後蜀]]を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、[[971年]]には[[広東省|広東]]を支配する[[南漢]]を滅ぼした。そして[[975年]]、華南における最大勢力の南唐を滅ぼした。 これで残るのは北の北漢と南の[[呉越]]だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝[[太宗 (宋)|太宗]]となる趙光義<ref group="注">もともとの[[諱]]は、「匡義」であったが、兄が皇帝になったので[[避諱]]して「光義」とした。</ref>による毒殺も疑われている([[千載不決の議]])。 太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、[[978年]]に呉越を併呑し、[[979年]]に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。 ここに、五代十国時代は終わり、これは[[唐]]の滅亡から72年後のことである。 == 国々 == === 五代 === {| class="wikitable" |+ ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 国家 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 首都 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 建国 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 滅亡 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 君主 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 代 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 初代 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 最終代 |- | align="center" | '''[[後梁]]''' | [[開封府|開封]] || 907年 || 923年 || 皇帝 || 3代 || [[朱全忠]](太祖) || [[朱友貞]](末帝) |- | align="center" | '''[[後唐]]''' | [[洛陽]] || 923年 || 937年 || 皇帝 || 4代 || [[李存勗]](荘宗) || [[李従珂]](末帝) |- | align="center" | '''[[後晋]]''' | [[開封府|開封]] || 936年 || 947年 || 皇帝 || 2代 || [[石敬瑭]](高祖) || [[石重貴]](少帝) |- | align="center" | '''[[後漢 (五代)|後漢]]''' | [[開封府|開封]] || 947年 || 951年 || 皇帝 || 2代 || [[劉知遠]](高祖) || [[劉承祐]](隠帝) |- | align="center" | '''[[後周]]''' | [[開封府|開封]] || 951年 || 960年 || 皇帝 || 3代 || [[郭威]](太祖) || [[柴宗訓]](恭帝) |- ! align="center" bgcolor="gainsboro"| 期間 | colspan=7 | 907年の[[唐]]の滅亡と[[後梁]]の成立から、960年の[[後周]]の滅亡と[[北宋]]の成立まで |} === 十国 === {| class="wikitable" |+ ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 国家 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 首都 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 建国 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 滅亡 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 君主 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 代 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 初代 ! align="center" bgcolor="gainsboro" | 最終代 |- | align="center" | '''[[前蜀]]''' | [[成都府|成都]] || 907年 || 925年 || 皇帝 || 2代 || [[王建 (前蜀)|王建]](高祖) || [[王衍 (前蜀)|王衍]](後主) |- | align="center" | '''[[後蜀 (十国)|後蜀]]''' | [[成都府|成都]] || 934年 || 965年 || 皇帝 || 2代 || [[孟知祥]](高祖) || [[孟昶]](後主) |- | align="center" | '''[[呉 (十国)|呉]]''' | [[揚州 (古代)|江都]] || 902年 || 937年 || 王 || 4代 || [[楊行密]](武忠王、太祖武帝) || [[楊溥 (十国呉)|楊溥]](睿帝) |- | align="center" | '''[[南唐]]''' | [[江寧府 (清)|江寧]]、[[南昌府|南昌]] || 937年 || 975年 || 皇帝 || 3代 || [[李昪]](烈祖) || [[李煜]](後主) |- | align="center" | '''[[荊南]]''' | [[荊州|江陵]] || 912年 || 963年 || 王 || 5代 || [[高季興]](武信王) || [[高継沖]] |- | align="center" | '''[[呉越]]''' | [[杭州|銭塘]] || 907年 || 978年 || 王 || 5代 || [[銭鏐]](太祖武粛王) || [[銭弘俶]](忠懿王) |- | align="center" | '''[[閩]]''' | [[福州 (福建省)|長楽]] || 909年 || 945年 || 王 || 6代 || [[王審知]](太祖) || [[王延政]] |- | align="center" | '''[[楚 (十国)|楚]]''' | [[潭州|長沙]] || 907年 || 951年 || 王 || 6代 || [[馬殷]](武穆王) || [[馬希崇]] |- | align="center" | '''[[南漢]]''' | [[広州 (広東省)|興王府]] || 909年 || 971年 || 皇帝 || 4代 || [[劉龑]](高祖) || [[劉鋹]](後主) |- | align="center" | '''[[北漢]]''' | [[太原府|太原]] || 951年 || 979年 || 皇帝 || 4代 || [[劉崇]](世祖神武帝) || [[劉継元]](英武帝) |- ! align="center" bgcolor="gainsboro"| 期間 | colspan=7 | 902年の[[楊行密]]の[[呉 (十国)|呉王]]拝命から、979年の[[北宋]]による[[北漢]]の滅亡まで |} === 十国以外 === {| class="wikitable" |- ! 国名 ! 始祖 |- | [[岐]] || [[李茂貞]] |- | [[桀燕|燕]] || [[劉守光]] |} === 同時期の周辺国家 === *[[遼|契丹(遼)]] *[[大理国|大理]] *[[呉朝|安南]] *[[渤海 (国)|渤海]] *[[東丹国|東丹]] *[[高麗]] == 主な人物 == *[[馮道]] *[[張全義]] *[[耶律突欲]] *{{仮リンク|敬翔|zh|敬翔}}(後梁) *[[李振 (五代)|李振]](後梁) *王彦章(後梁) *[[郭崇韜]](後唐) *周徳威(後唐) *[[桑維翰]](後晋) *杜重威(後晋) *[[王朴]](後周) *[[楊行密]](呉) *[[劉崇]](北漢) == 後世から見た研究と評価 == 五代十国時代に関しては、北宋成立直後に[[薛居正]]らが正史である『[[旧五代史|五代史]]』を編纂したが、後に[[欧陽脩]]が[[春秋の筆法]]の影響を強く受けた『[[新五代史|五代史記]]』を著した。これが欧陽脩の没後に[[国子監]]に納められて認められて大いに広まったことから、[[金 (王朝)|金]]では[[1207年]]に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は[[南宋]]では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。 [[清]]の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『[[永楽大典]]』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。 欧陽脩はこの時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。 [[明]]の遺臣である[[王夫之]]は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている<ref name="yamazaki2010">山崎覚士「五代政治史研究の成果と課題」(『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年)序章)</ref>。 欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界でありそれを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている<ref name="yamazaki2010" /><ref name="yamazaki2009">山崎覚士「五代の〈中国〉と平王」(初出:宋代史研究会研究報告第九集『「宋代中国」の相対化』(汲古書院、2009年/所収:山崎『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年))</ref>。 例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような[[世家]]は立てておらず、[[岐]]などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される<ref name="yamazaki2009" />)、 欧陽脩より少し前の人物である[[路振]]が編纂した諸国に関する歴史書も北楚([[荊南]])を除いた『[[九国志]]』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。南平王・荊南節度使の[[高季興]]およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたと言われている<ref name="yamazaki2009" />。こうした一連の歴史観は日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。 唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。 五代十国時代はこうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い<ref name="yamazaki2010" />。 [[小島毅]]や[[與那覇潤]]は、五代十国時代が北宋によって統一されず、中国が分裂したままだったとしたら、[[ヨーロッパ]]と同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の[[王権]]や[[軍閥]]が[[ミニ国家]]をつくって、やがて[[ヨーロッパ]]の[[ヴェストファーレン体制]]に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが、東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している<ref>{{Cite book|和書|author1=池田信夫|authorlink1=池田信夫|author2=與那覇潤|authorlink2=與那覇潤|date=2015-03-04|title=「日本史」の終わり|series=PHP文庫|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=4569762506|page=113}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == *山崎覚士『中国五代国家論』(思文閣出版、2010年) ISBN 978-4-7842-1545-4 == 関連項目 == *[[沙陀族]] *[[澶淵の盟]] *[[契丹]] *[[開封]](汴州) *[[十国春秋]] *短い王朝交代期 **[[牧野の戦い|殷周革命]]  **[[楚漢戦争]] **[[新末後漢初]] **[[隋末唐初]] **[[元末明初]] **[[明清交替]] *長い混乱期 **[[春秋戦国時代]] **[[魏晋南北朝時代]] **[[五胡十六国時代]] == 外部リンク == *五代十国の形勢図:[https://web.archive.org/web/20070927031756/http://ls.nje.cn/qixia/TPK/dituku/WDDT01.jpg 梁][http://home.olemiss.edu/~gg/hstrymap/08910979.jpg 唐][https://web.archive.org/web/20051103054845/http://lib.yctc.edu.cn/history/map/wudaishiguo.jpg 晋1][http://www.songdu.net/lishi/016.jpg 2]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}漢 [https://web.archive.org/web/20070317215210/http://ls.nje.cn/qixia/TPK/dituku/WDDT02.jpg 周] {{先代次代|[[五代十国]]|907年-960年|[[唐]]|[[北宋]]}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こたいしつこくしたい}} [[Category:五代十国|*こたいしつこくしたい]] [[Category:中世アジア]] [[Category:中国の名数5|たい こたいしつこくしたい]] [[Category:中国の名数10|こく こたいしつこくしたい]]
2003-08-19T12:55:04Z
2023-10-10T17:06:03Z
false
false
false
[ "Template:脚注の不足", "Template:中国の歴史", "Template:脚注ヘルプ", "Template:リンク切れ", "Template:Normdaten", "Template:満州の歴史", "Template:仮リンク", "Template:Notelist2", "Template:Cite book", "Template:先代次代" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
13,571
923年
923年(923 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 筥崎宮創立
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "923年(923 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "筥崎宮創立", "title": "カレンダー" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
923年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{出典の明記|date=2011年11月21日 (月) 04:51 (UTC)}} {{年代ナビ|923}} {{year-definition|923}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[癸未]] * [[日本]] ** [[延喜]]23年、[[延長 (日本)|延長]]元年 ** [[皇紀]]1583年 * [[中国]] ** 五代 *** [[後梁]]:[[龍徳 (五代後梁)|龍徳]]3年 *** [[後唐]]:[[同光]]元年 ** 十国 *** [[呉 (十国)|呉]]:[[順義]]3年 *** [[呉越]]:龍徳3年(後梁の元号を使用) *** [[閩]]:龍徳3年、同光元年(後梁、後唐の元号を使用) *** [[南漢]]:[[乾亨 (南漢)|乾亨]]7年 *** [[前蜀]]:[[乾徳 (前蜀)|乾徳]]5年 ** その他 *** [[遼]]:[[天賛]]2年 *** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]12年 * [[朝鮮]] ** [[高麗]]:[[天授 (高麗)|天授]]6年 ** [[後百済]]:[[正開]]24年 * [[仏滅紀元]]: * [[ユダヤ暦]]: {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=923|Type=J|表題=可視}} 筥崎宮創立 == 誕生 == {{see also|Category:923年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月7日]](延長元年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[朱雀天皇]]、第61代[[天皇]](+ [[952年]]) * [[高階成忠]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[998年]]) * [[定宗 (高麗王)|定宗]]、第3代[[高麗王]](+ [[949年]]) * [[藤原仲文]]、平安時代の[[歌人]]、[[三十六歌仙]]の一人(+ [[992年]]) == 死去 == {{see also|Category:923年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月14日]](延喜23年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[保明親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[903年]]) * [[6月15日]] - [[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール1世]]、[[西フランク王国]]の[[国王]](* [[866年]]) * [[11月13日]](延長元年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[平貞文]]、平安時代の[[歌人]]、[[中古三十六歌仙]]の一人(* [[872年]]) * [[朱友徽]]、[[後梁]]の皇族、初代[[皇帝]]の[[朱全忠]]の第七子(* 生年未詳) * [[朱友貞]]、[[五代十国時代]]後梁の第3代皇帝(* [[888年]]) * [[朱友雍]]、後梁の皇族、初代皇帝の朱全忠の第六子(* 生年未詳) * [[タバリー]]、[[アッバース朝]]時代の[[ウラマー]](* [[838年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|923}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=10|年代=900}} {{デフォルトソート:923ねん}} [[Category:923年|*]]
null
2022-05-21T03:19:24Z
false
false
false
[ "Template:十年紀と各年", "Template:出典の明記", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/923%E5%B9%B4
13,572
936年
936年(936 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "936年(936 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
936年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|936}} {{year-definition|936}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[丙申]] * [[日本]] ** [[承平 (日本)|承平]]6年 ** [[皇紀]]1596年 * [[中国]] ** 五代 *** [[後唐]]:[[清泰]]3年 *** [[後晋]]:[[天福 (後晋)|天福]]元年 ** 十国 *** [[呉 (十国)|呉]]:[[天祚]]2年 *** [[呉越]]:清泰3年、天福元年(後唐、後晋の元号を使用) *** [[閩]]:[[通文]]元年 *** [[南漢]]:[[大有]]9年 *** [[楚 (十国)|楚]]:清泰3年、天福元年(後唐、後晋の元号を使用) *** [[荊南]]:清泰3年、天福元年(後唐、後晋の元号を使用) *** [[後蜀 (十国)|後蜀]]:[[明徳 (後蜀)|明徳]]3年 ** その他 *** [[遼]]:[[天顕]]11年 **** [[東丹国]]:[[甘露 (東丹)|甘露]]11年 *** [[南詔]]:[[大明 (南詔)|大明]]6年 *** [[于闐]]:[[同慶 (于闐)|同慶]]25年 * [[朝鮮]] ** [[後百済]]:[[正開]]37年 * [[ベトナム]] * [[仏滅紀元]]: * [[ユダヤ暦]]: {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=936|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[石敬瑭]]が、[[遼|契丹]]の[[耶律堯骨|耶律徳光]]の援助を受けて[[後晋]]を建国して即位し、即位後に[[燕雲十六州]]を契丹に割譲する。 * [[8月7日]] - [[東フランク王国|東フランク王]]・オットー1世(オットー大帝、後の初代神聖ローマ皇帝)が戴冠式を挙行。 == 誕生 == {{see also|Category:936年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[藤原道綱母]]、[[平安時代]]の[[歌人]]、[[藤原兼家]]の妻(+ [[995年]]) == 死去 == {{see also|Category:936年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]] - [[ラウール (西フランク王)|ラウール]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]、[[西フランク王国|西フランク王]](* 生年未詳) * [[1月20日]](承平5年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[会理]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](* [[852年]]) * [[6月2日]](承平6年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[斉子内親王 (醍醐天皇皇女)|斉子内親王]]、平安時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](* [[921年]]) * [[7月2日]] - [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]、[[ザクセン公]]、[[東フランク王国|東フランク王]](* [[876年]]) * [[8月3日]](承平6年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[藤原保忠]]、平安時代の[[公卿]](* [[890年]]) * [[9月27日]](清泰3年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]) - [[甄萱]]、[[後百済]]の王(* [[867年]]) * [[耶律突欲]]、[[遼]]の皇太子、[[東丹国]]の[[国王]](* [[867年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|936}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=10|年代=900}} {{デフォルトソート:936ねん}} [[Category:936年|*]]
2003-08-19T12:58:00Z
2023-08-14T07:38:37Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/936%E5%B9%B4
13,573
侍魂
侍魂(さむらいだましい)は2001年1月18日に開設された個人運営のテキストサイトである。管理人は健(本名非公開)。文字の色や大きさを変えることにより面白みやインパクトを出す視覚効果を特徴とする。中国の人型ロボット先行者を扱ったお笑いテキストなどで大きな人気を集めた。 侍魂のヒットをきっかけに、文字情報をベースとするテキストサイトと呼ばれたウェブサイトのジャンルに大きな注目が集まるとともに、文字の演出の手法がテキストサイトを中心に大流行するなど、2000年代初頭のテキストサイト流行に大きな影響を与えた。 侍魂は健が大学生だった2001年1月18日に開設された。当時人気を集めていたテキストサイト「"FUNNY" GAMER'S HEAVEN」に触発され、家業を継ぐために就職活動をする必要がなく時間があったこともあってサイトをはじめたという。フォントをいじる手法は「A_prompt」というサイトが発祥で、それを「ファーニーゲーマーズヘブン」が進化させて使っていたものを参考にしたという。 2001年2月、元彼女の現在の彼氏にストーカーと勘違いされて殺すと脅された数日間の顛末を話題とした「ヒットマン事件簿」が評判をよびテキストサイトの中でも人気を集めるようになる。そして、2001年3月3日に「最先端ロボット技術」として先行者をギャグを交えて紹介したところ、ネット上にまたたく間に拡がって、大反響を巻き起こし、当時テキストサイトの一日あたりのアクセス数が多くても一日あたり2千から3千程度だったところに20万という驚異的なアクセスを記録するようになる。サイトにバナー広告をつけたところ最初の1週間で60万円、1、2ヶ月の間に100万円以上の収入があったという。ただし、この当初のバナーはクリック数の多さからすぐに打ち切られ、その後に設置した新しいバナーではクリック率も下がり月当たりの収入は4万円程度にとどまったという。 また侍魂が呼び水となってそれまで地味な存在でしかなかったテキストサイトというジャンル全体に注目が集まるようになり、テキストサイトのポータルサイト「ReadMe!」ではランキングにランクインするサイトのアクセス数がそれまでの10倍以上に膨れ上がった。HTMLを駆使し「黒い背景+文章センタリング+強調部はフォントの拡大と色分け」という侍魂と共通するスタイルをとった「フォントいじり系」と呼ばれるサイトも多数登場した。一方で大量の読者の流入と「フォントいじり系」の流行については、既存のテキストサイト側からの反発も生んでいる。 管理人の健は雑誌・新聞・ラジオなどのマスメディアから取材され、インタビューや番組出演をこなした。またその人気からパソコンソフト「INTERNET サムライ」(プロジー(のちのライブドア))のパッケージや、ナムコのPlayStation 2用ソフト「鉄拳4」のテレビCMにも起用された。特に「鉄拳4」は健が元々鉄拳の大ファンであり、また鉄拳の開発者も侍魂を見ており作品中に先行者を模した戦闘者(コンボット)なるロボットまで登場させている。またイベントにも数多く出演、テキストサイトのトークイベントから、書店でのサイン会、自治体主催の講演会など数回に及んだが、中でも京都で開かれた声優・日高のり子とのトークイベントは定員600人に対し、10倍以上の応募があり、追っかけまで出る程だった。 2002年にはAV制作会社が、健とやはり同時期に人気を集めていたバーチャルネットアイドル ちゆ12歳をモチーフにアダルトビデオ作品「ちゆAV」を制作・販売した。作品には健そっくりのAV男優が出演し、ちゆに扮した当時の人気AV女優堤さやかと絡んでいる。 2003年からはEzweb有料公式携帯サイト「学校へGO!」(タイトー)にて健による悩み相談コーナーが設けられ、のちに書籍も発売された。こうしたタレント的な活動は2001年から2004年頃まで続いた。なお、これら一連の活動は裏ニュース、連邦の管理人である吉野健太郎、放送作家のトトロ大嶋。らがプロデュースしていた。 2004年11月24日に雑誌ネットランナーの創刊5周年を記念して発売されたオリジナルアニメ『ねとらん者 THE MOVIE』ではネットのキャラクターとして「侍魂 健」が登場した。声は大塚芳忠が担当。 侍魂自体については2002年頃には健の就職に関連して更新頻度が低下し、2006年以降は更新が行われていない。なお健は家業を継ぎ、地方の中小企業の社長を務めている。プライベートでは、2008年に結婚、子供もいるという。 そのためしばらく侍魂として表舞台に登場することはなかったが、2016年、かつてのテキストサイト関係者の誘いにより、おもコロで行われたテキストサイトをふりかえる座談会企画で久々にその姿を見せ、続いて、2019年にNHKEテレで放送された特番「平成ネット史(仮)」の番組内で日本のインターネット史に残るWEBサイトとして「侍魂」が取り上げられ、健がインタビューに登場。これがテレビ番組での初登場となり、その中で当時を振り返った。また2019年1月13日に、東京・渋谷渋谷ヒカリエで行われた番組主催のイベントに、他のテキストサイト管理人たちとともに出演し、久々にファン・読者の前に姿を見せ、近況を語った。それによれば大学生時代にやっていたテキストサイトでの体験、その仲間たちとの関係をもうひとつの「青春時代」だったとし、また何かを書きたい気持ちはあるが、凝り性のため、社長業との両立が難しく、再開する予定はないということや、小学生の子供がいて、子供にだけはサイトをやっていたことがバレたくないなどの心情を語っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "侍魂(さむらいだましい)は2001年1月18日に開設された個人運営のテキストサイトである。管理人は健(本名非公開)。文字の色や大きさを変えることにより面白みやインパクトを出す視覚効果を特徴とする。中国の人型ロボット先行者を扱ったお笑いテキストなどで大きな人気を集めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "侍魂のヒットをきっかけに、文字情報をベースとするテキストサイトと呼ばれたウェブサイトのジャンルに大きな注目が集まるとともに、文字の演出の手法がテキストサイトを中心に大流行するなど、2000年代初頭のテキストサイト流行に大きな影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "侍魂は健が大学生だった2001年1月18日に開設された。当時人気を集めていたテキストサイト「\"FUNNY\" GAMER'S HEAVEN」に触発され、家業を継ぐために就職活動をする必要がなく時間があったこともあってサイトをはじめたという。フォントをいじる手法は「A_prompt」というサイトが発祥で、それを「ファーニーゲーマーズヘブン」が進化させて使っていたものを参考にしたという。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2001年2月、元彼女の現在の彼氏にストーカーと勘違いされて殺すと脅された数日間の顛末を話題とした「ヒットマン事件簿」が評判をよびテキストサイトの中でも人気を集めるようになる。そして、2001年3月3日に「最先端ロボット技術」として先行者をギャグを交えて紹介したところ、ネット上にまたたく間に拡がって、大反響を巻き起こし、当時テキストサイトの一日あたりのアクセス数が多くても一日あたり2千から3千程度だったところに20万という驚異的なアクセスを記録するようになる。サイトにバナー広告をつけたところ最初の1週間で60万円、1、2ヶ月の間に100万円以上の収入があったという。ただし、この当初のバナーはクリック数の多さからすぐに打ち切られ、その後に設置した新しいバナーではクリック率も下がり月当たりの収入は4万円程度にとどまったという。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また侍魂が呼び水となってそれまで地味な存在でしかなかったテキストサイトというジャンル全体に注目が集まるようになり、テキストサイトのポータルサイト「ReadMe!」ではランキングにランクインするサイトのアクセス数がそれまでの10倍以上に膨れ上がった。HTMLを駆使し「黒い背景+文章センタリング+強調部はフォントの拡大と色分け」という侍魂と共通するスタイルをとった「フォントいじり系」と呼ばれるサイトも多数登場した。一方で大量の読者の流入と「フォントいじり系」の流行については、既存のテキストサイト側からの反発も生んでいる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "管理人の健は雑誌・新聞・ラジオなどのマスメディアから取材され、インタビューや番組出演をこなした。またその人気からパソコンソフト「INTERNET サムライ」(プロジー(のちのライブドア))のパッケージや、ナムコのPlayStation 2用ソフト「鉄拳4」のテレビCMにも起用された。特に「鉄拳4」は健が元々鉄拳の大ファンであり、また鉄拳の開発者も侍魂を見ており作品中に先行者を模した戦闘者(コンボット)なるロボットまで登場させている。またイベントにも数多く出演、テキストサイトのトークイベントから、書店でのサイン会、自治体主催の講演会など数回に及んだが、中でも京都で開かれた声優・日高のり子とのトークイベントは定員600人に対し、10倍以上の応募があり、追っかけまで出る程だった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2002年にはAV制作会社が、健とやはり同時期に人気を集めていたバーチャルネットアイドル ちゆ12歳をモチーフにアダルトビデオ作品「ちゆAV」を制作・販売した。作品には健そっくりのAV男優が出演し、ちゆに扮した当時の人気AV女優堤さやかと絡んでいる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2003年からはEzweb有料公式携帯サイト「学校へGO!」(タイトー)にて健による悩み相談コーナーが設けられ、のちに書籍も発売された。こうしたタレント的な活動は2001年から2004年頃まで続いた。なお、これら一連の活動は裏ニュース、連邦の管理人である吉野健太郎、放送作家のトトロ大嶋。らがプロデュースしていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2004年11月24日に雑誌ネットランナーの創刊5周年を記念して発売されたオリジナルアニメ『ねとらん者 THE MOVIE』ではネットのキャラクターとして「侍魂 健」が登場した。声は大塚芳忠が担当。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "侍魂自体については2002年頃には健の就職に関連して更新頻度が低下し、2006年以降は更新が行われていない。なお健は家業を継ぎ、地方の中小企業の社長を務めている。プライベートでは、2008年に結婚、子供もいるという。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そのためしばらく侍魂として表舞台に登場することはなかったが、2016年、かつてのテキストサイト関係者の誘いにより、おもコロで行われたテキストサイトをふりかえる座談会企画で久々にその姿を見せ、続いて、2019年にNHKEテレで放送された特番「平成ネット史(仮)」の番組内で日本のインターネット史に残るWEBサイトとして「侍魂」が取り上げられ、健がインタビューに登場。これがテレビ番組での初登場となり、その中で当時を振り返った。また2019年1月13日に、東京・渋谷渋谷ヒカリエで行われた番組主催のイベントに、他のテキストサイト管理人たちとともに出演し、久々にファン・読者の前に姿を見せ、近況を語った。それによれば大学生時代にやっていたテキストサイトでの体験、その仲間たちとの関係をもうひとつの「青春時代」だったとし、また何かを書きたい気持ちはあるが、凝り性のため、社長業との両立が難しく、再開する予定はないということや、小学生の子供がいて、子供にだけはサイトをやっていたことがバレたくないなどの心情を語っていた。", "title": "沿革" } ]
侍魂(さむらいだましい)は2001年1月18日に開設された個人運営のテキストサイトである。管理人は健(本名非公開)。文字の色や大きさを変えることにより面白みやインパクトを出す視覚効果を特徴とする。中国の人型ロボット先行者を扱ったお笑いテキストなどで大きな人気を集めた。 侍魂のヒットをきっかけに、文字情報をベースとするテキストサイトと呼ばれたウェブサイトのジャンルに大きな注目が集まるとともに、文字の演出の手法がテキストサイトを中心に大流行するなど、2000年代初頭のテキストサイト流行に大きな影響を与えた。
{{Otheruses}} {{Infobox Website | name = 侍魂 | url = http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/index.htm | commercial = 非営利 | type = [[テキストサイト]] | language = [[日本語]] | owner = 健 | launch date = [[2001年]][[1月18日]] | current status = 最終更新:[[2006年]]2月20日 | footnotes = }} '''侍魂'''(さむらいだましい)は[[2001年]][[1月18日]]に開設された個人運営の[[テキストサイト]]である。管理人は健(本名非公開)。文字の色や大きさを変えることにより面白みやインパクトを出す視覚効果を特徴とする。[[中国]]の人型ロボット[[先行者]]を扱ったお笑いテキストなどで大きな人気を集めた。 侍魂のヒットをきっかけに、文字情報をベースとするテキストサイトと呼ばれたウェブサイトのジャンルに大きな注目が集まるとともに、文字の演出の手法がテキストサイトを中心に大流行するなど、2000年代初頭のテキストサイト流行に大きな影響を与えた。 == 沿革 == 侍魂は健が大学生だった2001年1月18日に開設された<ref name="教科書には載らない326">{{Harv|ばるぼら|2005|p=326|Ref=教科書には載らない}}</ref><ref name="テキストサイト大全14-15">{{Harv|くぼうち、釜本|2002|pp=14-15|Ref=テキストサイト大全}}</ref>。当時人気を集めていたテキストサイト「"FUNNY" GAMER'S HEAVEN」に触発され、家業を継ぐために就職活動をする必要がなく時間があったこともあってサイトをはじめたという<ref name="テキストサイト大全14-15"/>。フォントをいじる手法は「A_prompt」というサイトが発祥で、それを「ファーニーゲーマーズヘブン」が進化させて使っていたものを参考にしたという<ref name="インプレス010730">{{Cite news |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2001/0730/megahit.htm |title=エッケ・ホモ! これがメガヒット級の個人サイトだ |work=INTERNET Watch |publisher=インプレス |date=2001年7月30日 |accessdate=2010-08-01 }}</ref>。 2001年2月、元彼女の現在の彼氏に[[ストーカー]]と勘違いされて殺すと脅された数日間の顛末を話題とした「ヒットマン事件簿」が評判をよびテキストサイトの中でも人気を集めるようになる<ref name="インプレス010730"/>。そして、2001年[[3月3日]]に「最先端ロボット技術」として[[先行者]]をギャグを交えて紹介したところ、ネット上にまたたく間に拡がって、大反響を巻き起こし、当時テキストサイトの一日あたりのアクセス数が多くても一日あたり2千から3千程度だったところに20万という驚異的なアクセスを記録するようになる<ref name="テキストサイト大全34">{{Harv|くぼうち、釜本|2002|p=34|Ref=テキストサイト大全}}</ref>。サイトにバナー広告をつけたところ最初の1週間で60万円、1、2ヶ月の間に100万円以上の収入があったという<ref name="テキストサイト大全20">{{Harv|くぼうち、釜本|2002|p=20|Ref=テキストサイト大全}}</ref>。ただし、この当初のバナーはクリック数の多さからすぐに打ち切られ、その後に設置した新しいバナーではクリック率も下がり月当たりの収入は4万円程度にとどまったという<ref name="テキストサイト大全20"/>。 また侍魂が呼び水となってそれまで地味な存在でしかなかったテキストサイトというジャンル全体に注目が集まるようになり、テキストサイトのポータルサイト「ReadMe!」ではランキングにランクインするサイトのアクセス数がそれまでの10倍以上に膨れ上がった<ref name="テキストサイト大全34"/>。[[HyperText Markup Language|HTML]]を駆使し「黒い背景+文章センタリング+強調部はフォントの拡大と色分け」という侍魂と共通するスタイルをとった「フォントいじり系」と呼ばれるサイトも多数登場した<ref name="教科書には載らない326"/>。一方で大量の読者の流入と「フォントいじり系」の流行については、既存のテキストサイト側からの反発も生んでいる<ref>{{Harv|くぼうち、釜本|2002|p=11|Ref=テキストサイト大全}}</ref><ref>{{Harv|ばるぼら|2005|pp=326-327|Ref=教科書には載らない}}</ref>。 管理人の健は雑誌・新聞・ラジオなどのマスメディアから取材され、インタビューや番組出演をこなした。またその人気からパソコンソフト「INTERNET サムライ」([[プロジー]](のちの[[ライブドア]]))のパッケージや、[[ナムコ]]の[[PlayStation 2]]用ソフト「[[鉄拳4]]」のテレビCMにも起用された<ref name="ZAKZAK">{{Cite news |url = http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20100526/zsp1005261659006-n1.htm |title = 2ちゃんねると双璧をなしたサイト「侍魂」の管理人・健氏 ★時代を席巻した「元・ネット有名人」の今 |work = ZAKZAK |publisher = 産経デジタル |date = 2010年5月26日 |accessdate = 2010-08-01 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120423044342/http://nikkan-spa.jp/1936 |archivedate = 2012年4月23日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。特に「鉄拳4」は健が元々鉄拳の大ファンであり、また鉄拳の開発者も侍魂を見ており作品中に[[先行者]]を模した戦闘者(コンボット)なるロボットまで登場させている<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.namco.co.jp/home/nours/special/index.html |title = 侍魂vs鉄拳 座談会 |publisher = ナムコ |archiveurl = https://web.archive.org/web/20030212194913/http://www.namco.co.jp/home/nours/special/index.html |archivedate = 2003年2月12日 |accessdate = 2010-08-01 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。またイベントにも数多く出演、テキストサイトのトークイベントから、書店でのサイン会、自治体主催の講演会など数回に及んだが、{{要出典範囲|中でも京都で開かれた声優・日高のり子とのトークイベントは定員600人に対し、10倍以上の応募があり、追っかけまで出る程だった|date=2010年8月}}。 2002年にはAV制作会社が、健とやはり同時期に人気を集めていた[[バーチャルネットアイドル ちゆ12歳]]をモチーフにアダルトビデオ作品「ちゆAV」を制作・販売した。作品には健そっくりのAV男優が出演し、ちゆに扮した当時の人気AV女優[[堤さやか]]と絡んでいる<ref>[http://actress.dmm.co.jp/-/product/=/link_id=104negd001/ ちゆAV視聴・作品紹介]</ref>。 2003年からはEzweb有料公式携帯サイト「学校へGO!」([[タイトー]])にて健による悩み相談コーナーが設けられ<ref name="インプレス030415">{{Cite news |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/13623.html |title=侍魂の健が学生の悩みに回答するEZwebサイト「学校へGO!」 |work=ケータイ Watch |publisher=インプレス |date=2003年4月15日 |accessdate=2010-08-01 }}</ref>、のちに書籍も発売された。{{要出典範囲|こうしたタレント的な活動は2001年から2004年頃まで続いた。なお、これら一連の活動は裏ニュース、連邦の管理人である[[吉野健太郎]]、放送作家の[[トトロ大嶋。]]らがプロデュースしていた|date=2010年8月}}。 2004年11月24日に雑誌[[ネトラン|ネットランナー]]の創刊5周年を記念して発売されたオリジナルアニメ『[[ねとらん者 THE MOVIE]]』ではネットのキャラクターとして「侍魂 健」が登場した。声は[[大塚芳忠]]が担当。 侍魂自体については2002年頃には健の就職に関連して更新頻度が低下し、2006年以降は更新が行われていない<ref name="ZAKZAK"/>。なお健は家業を継ぎ、地方の中小企業の社長を務めている。プライベートでは、2008年に結婚、子供もいる<ref name="ZAKZAK"/>という。 そのためしばらく侍魂として表舞台に登場することはなかったが、2016年、かつてのテキストサイト関係者の誘いにより、[[バーグハンバーグバーグ#主な運営メディア|おもコロ]]で行われたテキストサイトをふりかえる座談会企画で久々にその姿を見せ、続いて、2019年にNHKEテレで放送された特番「[[平成ネット史(仮)]]」の番組内で日本のインターネット史に残るWEBサイトとして「侍魂」が取り上げられ、健がインタビューに登場。これがテレビ番組での初登場となり、その中で当時を振り返った。また2019年1月13日に、東京・渋谷[[渋谷ヒカリエ]]で行われた番組主催のイベントに、他のテキストサイト管理人たちとともに出演し、久々にファン・読者の前に姿を見せ、近況を語った。それによれば大学生時代にやっていたテキストサイトでの体験、その仲間たちとの関係をもうひとつの「青春時代」だったとし、また何かを書きたい気持ちはあるが、凝り性のため、社長業との両立が難しく、再開する予定はないということや、小学生の子供がいて、子供にだけはサイトをやっていたことがバレたくないなどの心情を語っていた。 == 関連書籍 == *「学校へGO!by侍魂、POPOI、じーらぼ!」(バジリコ、2003年) == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} *{{Cite book|和書 |author=くぼうちのぶゆき |coauthors=釜本雪生 |year=2002 |title=テキストサイト大全 |publisher=ソフトマジック |ref=テキストサイト大全 |isbn=4-921181-59-4 }} *{{Cite book|和書 |author=ばるぼら |year=2005 |title=教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書 |publisher=翔泳社 |ref=教科書には載らない |isbn=4-7981-0657-7 }} == 外部リンク == * [http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/index.htm 侍魂] * [http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/list/tekken4/index.php namco鉄拳4公式サイト] - 健が登場する『鉄拳4』のラジオCMを公開。 {{DEFAULTSORT:さむらいたましい}} [[Category:日本のウェブサイト]] [[Category:2001年開設のウェブサイト]]
2003-08-19T13:21:41Z
2023-11-13T01:43:39Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:Infobox Website", "Template:要出典範囲", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Harv", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D%E9%AD%82
13,575
IBM 701
IBM 701電子データ処理マシン (IBM 701 Electronic Data Processing Machine)は、1952年4月29日に一般に発表されたIBM初の商用科学技術計算機で、科学技術計算用につくられたプログラム内蔵方式の大型コンピュータである。開発中は国防計算機 (Defense Calculator)として知られていた。これはナサニエル・ロチェスターによって設計され、プリンストン大学のIASマシンに基づいている。 その後継機はIBM 704であり、そのコンピュータの姉妹機は、ビジネス用のIBM 702と低コストの汎用IBM 650である。 IBMは現在、IBM 701を最初のメインフレームと呼んでいる。 IBM 701は、UNIVAC Iに続く2番目の商用コンピュータで、科学計算市場でレミントン・ランド社のUNIVAC 1103と競合しており、米国国家安全保障局(NSA)向けに開発されていたため、1953年に販売許可が得られるまで秘密にされた。 1954年初頭、米国統合参謀本部の委員会は、合同数値気象予測プロジェクトに使用するために2つのマシンを比較するように要請した。その結果、2つのマシンの計算速度は同等であり、IBMのマシンにはわずかな利点があったものの、UNIVACは入出力装置が大幅に高速であることから全会一致で支持された。例えば、UNIVACが磁気テープを入力機器としていたのに対し、IBM 701はパンチカード方式であった。 その結果、計19台だけのIBM 701システムが導入された。最初の701はニューヨークにあるIBMワールドヘッドクオーターに納入された。8台は航空機会社に納入された。ローレンス・リバモア国立研究所では、IBM 701を使用することで、科学者が核爆発物の計算をより速く実行できるようになった。 「恐らく世界には5台のコンピュータ市場があると思う」という言葉は、1943年にトーマス・ワトソン・シニアと、1950年代の数日でのトーマス・ワトソン・ジュニアに起因すると考えられている。この誤解は、1953年のIBMの年次株主総会でのものである。トーマス・ワトソン・ジュニアは、IBM 701コンピュータが市場に受け入れられたことを説明していた。生産が始まる前に、ワトソンは潜在的な顧客である20社を訪問した。株主総会での彼の発言は、「5台の受注を予想していた旅の結果、18台の受注を持って帰ってきた。」ということである。 1953年5月11日付のAviation Weekによると、701のレンタル料は月額約12,000ドルで、American Aviationは1953年11月9日付で「40時間のシフトで月に15,000ドル。2回目の40時間シフトの場合、レンタル料は月額20,000ドルに引き上げる。」と書いている。政府や軍を主要顧客とし、ソフトウェアの豊富さや高額でのリースで、IBMが巨大企業に成長する一つの要因となった。 701の後継機は、701の4年後に導入されたインデックスレジスタを搭載したIBM 704であった。ただし、704は追加機能をサポートするために命令サイズを18ビットから36ビットに増やしたため、701との互換性はなかった。704の特徴として磁気コアメモリへの移行もある。この系統は、さらにIBM 7090へと受け継がれていった。 真空管式で、メモリにはウィリアムス管が使われていた。1秒間に21,000回の演算が可能だったとされる。 IBM 701システムは、以下のユニットで構成されていた。 総重量 (構成によって異なる)は約20,516ポンド (10.3ショートトン;9.3トン) だった。 このシステムには真空管論理回路と静電記憶装置が使われており、72本のウィリアムズ管 (各1024ビット) で構成され、合計2048ワード、各36ビットのメモリを提供した。72本のウィリアムズ管はそれぞれ直径3インチである。メモリは、72本のウィリアムズ管を2セット目に追加するか、(後で)メモリ全体を磁気コアメモリに置き換えることで、最大36ビットの4096ワードまで拡張することができた。ウィリアムズ管メモリとそれ以降のコアメモリは、それぞれ12マイクロ秒のメモリサイクルタイムを持っていた。ウィリアムズ管メモリは定期的なリフレッシュが必要で、701のタイミングにリフレッシュサイクル(英語版)を挿入する必要があった。加算演算には5回の12マイクロ秒サイクルが必要で、そのうち2回はリフレッシュサイクルであり、乗算や除算には38サイクル (456マイクロ秒)が必要であった。また、2次記憶としては、磁気ドラムと磁気テープが採用された。 命令は18ビット長のシングルアドレスであった。 数値は36ビットか18ビット長で、符号付きの大きさの固定小数点であった。ワード全体は、約10進数で約10桁の精度を持っている。10進数の桁は l o g 2 10 {\displaystyle log_{2}10} または3.322ビットに相当する。 IBM 701には、プログラマがアクセス可能なレジスタが2つしかなかった。 磁気ドラムリーダー/レコーダーは、高速I/Oの必要性を減らすことができるというジョン・フォン・ノイマンの勧告で追加された。 最初の磁気テープドライブはテープ・プロセシング・マシン (TPM) で使用され、その後701に搭載された。 701は、アーサー・サミュエルのチェッカー・プレイング・プログラムで人工知能の可能性を示した最初のコンピュータであると主張される。 カリフォルニア大学リバモア放射線研究所では、701のためにKOMPILER(英語版)と呼ばれる言語コンパイルとランタイムシステムを開発した。FortranコンパイラはIBM 704までIBMからリリースされなかった。 1954年、IBM 701は世界初の自動翻訳(ロシア語から英語)を行った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "IBM 701電子データ処理マシン (IBM 701 Electronic Data Processing Machine)は、1952年4月29日に一般に発表されたIBM初の商用科学技術計算機で、科学技術計算用につくられたプログラム内蔵方式の大型コンピュータである。開発中は国防計算機 (Defense Calculator)として知られていた。これはナサニエル・ロチェスターによって設計され、プリンストン大学のIASマシンに基づいている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "その後継機はIBM 704であり、そのコンピュータの姉妹機は、ビジネス用のIBM 702と低コストの汎用IBM 650である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "IBMは現在、IBM 701を最初のメインフレームと呼んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "IBM 701は、UNIVAC Iに続く2番目の商用コンピュータで、科学計算市場でレミントン・ランド社のUNIVAC 1103と競合しており、米国国家安全保障局(NSA)向けに開発されていたため、1953年に販売許可が得られるまで秘密にされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1954年初頭、米国統合参謀本部の委員会は、合同数値気象予測プロジェクトに使用するために2つのマシンを比較するように要請した。その結果、2つのマシンの計算速度は同等であり、IBMのマシンにはわずかな利点があったものの、UNIVACは入出力装置が大幅に高速であることから全会一致で支持された。例えば、UNIVACが磁気テープを入力機器としていたのに対し、IBM 701はパンチカード方式であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その結果、計19台だけのIBM 701システムが導入された。最初の701はニューヨークにあるIBMワールドヘッドクオーターに納入された。8台は航空機会社に納入された。ローレンス・リバモア国立研究所では、IBM 701を使用することで、科学者が核爆発物の計算をより速く実行できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「恐らく世界には5台のコンピュータ市場があると思う」という言葉は、1943年にトーマス・ワトソン・シニアと、1950年代の数日でのトーマス・ワトソン・ジュニアに起因すると考えられている。この誤解は、1953年のIBMの年次株主総会でのものである。トーマス・ワトソン・ジュニアは、IBM 701コンピュータが市場に受け入れられたことを説明していた。生産が始まる前に、ワトソンは潜在的な顧客である20社を訪問した。株主総会での彼の発言は、「5台の受注を予想していた旅の結果、18台の受注を持って帰ってきた。」ということである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1953年5月11日付のAviation Weekによると、701のレンタル料は月額約12,000ドルで、American Aviationは1953年11月9日付で「40時間のシフトで月に15,000ドル。2回目の40時間シフトの場合、レンタル料は月額20,000ドルに引き上げる。」と書いている。政府や軍を主要顧客とし、ソフトウェアの豊富さや高額でのリースで、IBMが巨大企業に成長する一つの要因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "701の後継機は、701の4年後に導入されたインデックスレジスタを搭載したIBM 704であった。ただし、704は追加機能をサポートするために命令サイズを18ビットから36ビットに増やしたため、701との互換性はなかった。704の特徴として磁気コアメモリへの移行もある。この系統は、さらにIBM 7090へと受け継がれていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "真空管式で、メモリにはウィリアムス管が使われていた。1秒間に21,000回の演算が可能だったとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "IBM 701システムは、以下のユニットで構成されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "総重量 (構成によって異なる)は約20,516ポンド (10.3ショートトン;9.3トン) だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このシステムには真空管論理回路と静電記憶装置が使われており、72本のウィリアムズ管 (各1024ビット) で構成され、合計2048ワード、各36ビットのメモリを提供した。72本のウィリアムズ管はそれぞれ直径3インチである。メモリは、72本のウィリアムズ管を2セット目に追加するか、(後で)メモリ全体を磁気コアメモリに置き換えることで、最大36ビットの4096ワードまで拡張することができた。ウィリアムズ管メモリとそれ以降のコアメモリは、それぞれ12マイクロ秒のメモリサイクルタイムを持っていた。ウィリアムズ管メモリは定期的なリフレッシュが必要で、701のタイミングにリフレッシュサイクル(英語版)を挿入する必要があった。加算演算には5回の12マイクロ秒サイクルが必要で、そのうち2回はリフレッシュサイクルであり、乗算や除算には38サイクル (456マイクロ秒)が必要であった。また、2次記憶としては、磁気ドラムと磁気テープが採用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "命令は18ビット長のシングルアドレスであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "数値は36ビットか18ビット長で、符号付きの大きさの固定小数点であった。ワード全体は、約10進数で約10桁の精度を持っている。10進数の桁は l o g 2 10 {\\displaystyle log_{2}10} または3.322ビットに相当する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "IBM 701には、プログラマがアクセス可能なレジスタが2つしかなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "磁気ドラムリーダー/レコーダーは、高速I/Oの必要性を減らすことができるというジョン・フォン・ノイマンの勧告で追加された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "最初の磁気テープドライブはテープ・プロセシング・マシン (TPM) で使用され、その後701に搭載された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "701は、アーサー・サミュエルのチェッカー・プレイング・プログラムで人工知能の可能性を示した最初のコンピュータであると主張される。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "カリフォルニア大学リバモア放射線研究所では、701のためにKOMPILER(英語版)と呼ばれる言語コンパイルとランタイムシステムを開発した。FortranコンパイラはIBM 704までIBMからリリースされなかった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1954年、IBM 701は世界初の自動翻訳(ロシア語から英語)を行った。", "title": "ソフトウェア" } ]
IBM 701電子データ処理マシンは、1952年4月29日に一般に発表されたIBM初の商用科学技術計算機で、科学技術計算用につくられたプログラム内蔵方式の大型コンピュータである。開発中は国防計算機として知られていた。これはナサニエル・ロチェスターによって設計され、プリンストン大学のIASマシンに基づいている。 その後継機はIBM 704であり、そのコンピュータの姉妹機は、ビジネス用のIBM 702と低コストの汎用IBM 650である。 IBMは現在、IBM 701を最初のメインフレームと呼んでいる。
{{Infobox information appliance | name = IBM 701 電子データ処理マシン | aka = 国防計算機 | logo = | logo caption = | image = IBM 701console.jpg | caption = IBM 701のオペレーター・コンソール | developer = [[ナサニエル・ロチェスター]]; [[プリンストン大学]]の[[IASマシン]]がベース | manufacturer = [[IBM]] | type = | generation = | release date = {{Start date and age|1952}} | baseprice = レンタル料月額12,000ドル/40時間シフトで月額15,000ドル | units shipped = 19 | os = | cpu = | CPUspeed = | memory = 各36ビットの2048[[ワード]]の合計メモリ | RAMtype = 各1024[[ビット]]の容量を持つ72本の[[ウィリアムズ管]] | memory card = | weight = | predecessor = | successor = [[IBM 704]] }} '''IBM 701電子データ処理マシン''' (IBM 701 Electronic Data Processing Machine)は、1952年4月29日に一般に発表された[[IBM]]初の商用科学技術計算機で<ref>{{cite web|url=https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/701/701_1415bx01.html|title=IBM Archives: IBM 701 Electronic analytical control unit|accessdate=2020-09-19|publisher=}}</ref>、科学技術計算用につくられた[[プログラム内蔵方式]]の大型コンピュータである。開発中は'''国防計算機''' (Defense Calculator)として知られていた。これは[[ナサニエル・ロチェスター]]によって設計され、[[プリンストン大学]]の[[IASマシン]]に基づいている<ref>''Turing's Cathedral'', by George Dyson, 2012, {{ISBN2|978-1-4000-7599-7}}, p. 267-68, 287</ref>。 その後継機は[[IBM 704]]であり、そのコンピュータの姉妹機は、ビジネス用の[[IBM 702]]と低コストの汎用[[IBM 650]]である。 IBMは現在、IBM 701を最初の[[メインフレーム]]と呼んでいる<ref>[http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/mainframe/mainframe_intro.html IBM Mainframes - IBM Archives]</ref>。 == 歴史 == IBM 701は、[[UNIVAC I]]に続く2番目の商用コンピュータで、科学計算市場でレミントン・ランド社の[[UNIVAC 1103]]と競合しており、[[アメリカ国家安全保障局|米国国家安全保障局(NSA)]]向けに開発されていたため、1953年に販売許可が得られるまで秘密にされた{{Citation needed|reason=1952年の701の発表は、1953年まで秘密にされていたというこの記述と矛盾している。|date=2020-09-19}}。 1954年初頭、[[アメリカ統合参謀本部|米国統合参謀本部]]の委員会は、合同数値気象予測プロジェクトに使用するために2つのマシンを比較するように要請した。その結果、2つのマシンの計算速度は同等であり、IBMのマシンにはわずかな利点があったものの、UNIVACは入出力装置が大幅に高速であることから全会一致で支持された<ref>[[Emerson Pugh|Emerson W. Pugh]], Lyle R. Johnson, John H. Palmer, ''IBM's 360 and early 370 systems'', MIT Press, 1991, {{ISBN2|0-262-16123-0}} pp. 23-34</ref>。例えば、UNIVACが[[磁気テープ]]を[[入力機器]]としていたのに対し、IBM 701は[[パンチカード]]方式であった。 その結果、計19台だけのIBM 701システムが導入された<ref>{{cite web|url=https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/701/701_customers.html|title=IBM Archives: 701 Customers|accessdate=2020-09-19|publisher=}}</ref>。最初の701はニューヨークにあるIBMワールドヘッドクオーターに納入された。8台は航空機会社に納入された。[[ローレンス・リバモア国立研究所]]では、IBM 701を使用することで、科学者が核爆発物の計算をより速く実行できるようになった。 「恐らく世界には5台のコンピュータ市場があると思う」という言葉は、1943年に[[トーマス・J・ワトソン・シニア|トーマス・ワトソン・シニア]]と、1950年代の数日での[[トーマス・J・ワトソン・ジュニア|トーマス・ワトソン・ジュニア]]に起因すると考えられている。この誤解は、1953年のIBMの年次株主総会でのものである。トーマス・ワトソン・ジュニアは、IBM 701コンピュータが市場に受け入れられたことを説明していた。生産が始まる前に、ワトソンは潜在的な顧客である20社を訪問した。株主総会での彼の発言は、「5台の受注を予想していた旅の結果、18台の受注を持って帰ってきた。」ということである<ref name="IBM FAQ">{{Cite web|title=Frequently Asked Questions|publisher=IBM|url=https://www.ibm.com/ibm/history/documents/pdf/faq.pdf|page=26|date=April 10, 2007|accessdate=2020-09-19}}</ref>。 1953年5月11日付の''Aviation Week''によると、701のレンタル料は月額約12,000ドルで、''American Aviation''は1953年11月9日付で「40時間のシフトで月に15,000ドル。2回目の40時間シフトの場合、レンタル料は月額20,000ドルに引き上げる。」と書いている。政府や軍を主要顧客とし、ソフトウェアの豊富さや高額でのリースで、IBMが巨大企業に成長する一つの要因となった。 701の後継機は、701の4年後に導入された[[インデックスレジスタ]]を搭載した[[IBM 704]]であった。ただし、704は追加機能をサポートするために命令サイズを18ビットから36ビットに増やしたため、701との互換性はなかった。704の特徴として[[磁気コアメモリ]]への移行もある。この系統は、さらに[[IBM 7090]]へと受け継がれていった。 == 概要 == [[真空管]]式で、メモリには[[ウィリアムス管]]が使われていた。1秒間に21,000回の演算が可能だったとされる{{要出典|date=2020年9月}}。 ===ハードウェア構成=== [[File:IBM 701 frame.jpg|thumb|1071個の真空管を見せるIBM 701プロセッサフレーム、]] [[File:IBM 700 logic module.jpg|thumb|700シリーズIBMコンピュータに搭載されていた[[真空管]]ロジックモジュール。]] IBM 701システムは、以下のユニットで構成されていた<ref>{{cite journal|date=October 1953|title=12. IBM Type 701 Electronic Data Processing Machine|url=http://www.bitsavers.org/pdf/onr/Digital_Computer_Newsletter/|journal=Digital Computer Newsletter|volume=5|issue=4|pages=7–8|language=en|others=Digital_Computer_Newsletter_V05N04_Oct53.pdf, description of 701 system with some parameters}}</ref>。 * IBM 701 - 分析制御ユニット (CPU) * IBM 706 - 静電ストレージユニット (2048ワードの[[ウィリアムス管|ウィリアムズ管]]メモリ) * {{仮リンク|IBM 711|en|IBM 711|label=}} - [[パンチカード]]リーダー (150枚/分) * {{仮リンク|IBM 716|en|IBM 716|label=}} - プリンタ (150行/分) * IBM 721 - パンチカードレコーダ (100枚/分) * [[IBM 726]] - [[磁気テープ]]リーダ/レコーダ (100ビット/インチ) * [[IBM 727]] - 磁気テープリーダ/レコーダ (200ビット/インチ) * IBM 731 - [[磁気ドラムメモリ|磁気ドラム]]リーダー/レコーダー * IBM 736 - 電力フレーム #1 * IBM 737 - 磁気コアストレージユニット (4096ワードの12マイクロ秒コアメモリ) * {{仮リンク|IBM 740|en|IBM 740|label=}} - 陰極線管出力レコーダー * IBM 741 - 電力フレーム #2 * IBM 746 - 電力分配ユニット * IBM 753 - 磁気テープ制御ユニット (最大10台のIBM 727を制御) 総重量 (構成によって異なる)は約20,516ポンド (10.3ショートトン;9.3トン) だった。<ref>* {{Cite web|url=http://www.ed-thelen.org/comp-hist/BRL61-ibm07.html#IBM-701|title=IBM 701|last=Weik|first=Martin H.|date=March 1961|website=www.ed-thelen.org|series=A Third Survey of Domestic Electronic Digital Computing Systems|archive-url=|archive-date=|url-status=|access-date=2018-05-25}}What's included in total weight: * {{Cite web|url=http://ed-thelen.org/comp-hist/BRL-i.html#IBM-701|title=IBM-701|last=Weik|first=Martin H.|date=December 1955|website=www.ed-thelen.org|series=A Survey of Domestic Electronic Digital Computing Systems|archive-url=|archive-date=|url-status=|access-date=2018-05-25}}</ref> === メモリ === [[Image:Williams tube.agr.jpg|thumb|upright|[[コンピュータ歴史博物館]]にあるIBM 701のウィリアムズ管]] このシステムには[[真空管]]論理回路と静電記憶装置が使われており、72本の[[ウィリアムス管|ウィリアムズ管]] (各1024ビット) で構成され、合計2048[[ワード]]、各36ビットのメモリを提供した。72本のウィリアムズ管はそれぞれ直径3インチである。メモリは、72本のウィリアムズ管を2セット目に追加するか、(後で)メモリ全体を[[磁気コアメモリ]]に置き換えることで、最大36ビットの4096ワードまで拡張することができた。ウィリアムズ管メモリとそれ以降のコアメモリは、それぞれ12マイクロ秒のメモリサイクルタイムを持っていた。ウィリアムズ管メモリは定期的なリフレッシュが必要で、701のタイミングに{{仮リンク|リフレッシュサイクル|en|Memory refresh|label=}}を挿入する必要があった。加算演算には5回の12マイクロ秒サイクルが必要で、そのうち2回はリフレッシュサイクルであり、乗算や除算には38サイクル (456マイクロ秒)が必要であった。また、2次記憶としては、磁気ドラムと磁気テープが採用された<ref name="comp-arch-n-org">{{cite book |title=Computer Architecture and Organization |last1=Hayes |first1=John.P |isbn=0-07-027363-4 |year=1978,1979 |page=22 |date= |publisher=}}</ref>。 === 命令セット === [[命令セット|命令]]は18[[ビット]]長のシングルアドレスであった。 * 符号(1ビット) - ワード全体(-)またはハーフワード(+)オペランドアドレス * オペコード(5ビット) - 32命令 * アドレス(12ビット) - 4096 ハーフワードアドレス 数値は36ビットか18ビット長で、符号付きの大きさの固定小数点であった。ワード全体は、約10進数で約10桁の精度を持っている。10進数の桁は<math>log_2 10</math>または3.322ビットに相当する。 IBM 701には、プログラマがアクセス可能なレジスタが2つしかなかった。 # アキュムレータは38ビット長であった(2つのオーバーフロービットを追加)。 # 乗算/商は36ビット長であった。 === 周辺機器 === 磁気ドラムリーダー/レコーダーは、高速I/Oの必要性を減らすことができるという[[ジョン・フォン・ノイマン]]の勧告で追加された<ref>''John von Neumann: Selected Letters, Letter to R.S. Burlington, p.73 et seq, Published jointly by the American Mathematical Society and the London Mathematical Society, 2005.''</ref><ref>Rédei, Miklós (ed.). "Letter to R. S. Burlington.". John Von Neumann: Selected Letters. The American Mathematics Society and The London Mathematical Society. pp. 73 ff. ISBN 978-0-8218-9126-1.</ref><ref>Dyson, George (2012). Turing's Cathedral: the Origins of the Digital Universe. New York: Pantheon Books. ISBN 978-0-375-42277-5. OCLC 745979775. pp. 267–268, 287.</ref>。 最初の磁気テープドライブはテープ・プロセシング・マシン (TPM) で使用され、その後701に搭載された<ref>{{cite web|url=http://www.columbia.edu/cu/computinghistory/701-tape.html|title=IBM 701 Tape Drive - The First Magnetic Tape Drive for Computer Data Storage|accessdate=2020-09-19|publisher=}}</ref>。 == ソフトウェア == 701は、[[アーサー・サミュエル]]のチェッカー・プレイング・プログラムで人工知能の可能性を示した最初のコンピュータであると主張される<ref>{{cite news|last=Ed Feigenbaum|author2=Gio Wiederhold|author3=John McCarthy|title=Memorial Resolution: Arthur L. Samuel|year=1990|publisher=[[Stanford University]] Historical Society|url=http://histsoc.stanford.edu/pdfmem/SamuelA.pdf|work=|access-date=April 29, 2011|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110526195107/http://histsoc.stanford.edu/pdfmem/SamuelA.pdf|archive-date=May 26, 2011|df=}}</ref>。 カリフォルニア大学[[ローレンス・リバモア国立研究所|リバモア放射線研究所]]では、701のために{{仮リンク|KOMPILER|en|KOMPILER|label=}}と呼ばれる言語コンパイルとランタイムシステムを開発した。[[FORTRAN|Fortran]]コンパイラは[[IBM 704]]までIBMからリリースされなかった。 1954年、IBM 701は世界初の自動翻訳([[ロシア語]]から[[英語]])を行った。 == IBM 701の顧客 == * IBMワールドヘッドクオーター、ニューヨーク、N.Y. (1952) * カリフォルニア大学、ロスアラモス、ニューメキシコ(1953) * ロッキード・エアクラフト社、グレンデール、カリフォルニア州 (1953) * 国家安全保障局、ワシントンD.C. (1953) * ダグラス・エアクラフト・カンパニー、サンタモニカ、カリフォルニア州 (1953) * ゼネラル・エレクトリック社、ロックランド、オハイオ州(1953) * コンベアー、フォートワース、テキサス州 (1953) * アメリカ海軍、イニョカーン、カリフォルニア州 (1953) * ユナイテッド・エアクラフト、イースト・ハートフォード、コネチカット州 (1953) * ノースアメリカンアビエーション、サンタモニカ、カリフォルニア州 (1953) * ランド社、サンタモニカ、カリフォルニア州 (1953) * ボーイング社、シアトル、ワシントン州 (1953) * ダグラス・エアクラフト・カンパニー、エルセグンド、カリフォルニア州 (1954) * 海軍航空補給廠、フィラデルフィア、ペンシルバニア州 (1954) * カリフォルニア大学、リバモア、カリフォルニア州 (1954) * ゼネラル・モーターズ・コーポレーション、デトロイト、ミシガン州 (1954) * ロッキード・エアクラフト・カンパニー、グレンデール、カリフォルニア州 (1954) * アメリカ気象局、ワシントンD.C. (1955) * デュポン・セントラル・リサーチ、ウィルミントン、デラウェア州 (1954)<ref>{{Cite web|url=https://www.sciencehistory.org/distillations/the-dream-in-the-machine|title=The Dream in the Machine|date=2010-08-26|website=Science History Institute|language=en|access-date=2019-05-10}}</ref> == 参照項目 == * [[:en:IBM_700/7000_series|IBM 700/7000 series]] * [[:en:List_of_IBM_products|List of IBM products]] * [[:en:List_of_vacuum_tube_computers|List of vacuum tube computers]] * [[:en:SHARE_(computing)|SHARE (computing)]] * [[:en:Strela_computer|Strela computer]], comparable Soviet design == 脚注 == <references /> === ノート === * Charles J. Bashe, Lyle R. Johnson, John H. Palmer, Emerson W. Pugh, ''IBM's Early Computers'' (MIT Press, Cambridge, 1986) * [[:en:Cuthbert_Hurd|Cuthbert Hurd]] (editor), ''Special Issue: The IBM 701 Thirtieth Anniversary - IBM Enters the Computing Field'', ''Annals of the History of Computing'', Vol. 5 (No. 2), 1983 == 外部リンク == * [http://www-1.ibm.com/ibm/history/exhibits/701/701_intro.html A Notable First: The IBM 701] (IBM Archives) * [http://purl.umn.edu/104341 Oral history interview with Gene Amdahl] [[:en:Charles_Babbage_Institute|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota, Minneapolis. [[:en:Gene_Amdahl|Amdahl]] discusses his role in the design of several computers for IBM including the IBM 701, the [[:en:IBM_704|IBM 704]] and the [[:en:IBM_7030_Stretch|STRETCH]]. He discusses his work with [[:en:Nathaniel_Rochester_(computer_scientist)|Nathaniel Rochester]] and IBM's management of the design process for computers. * [https://web.archive.org/web/20030216135550/http://www.computer50.org/kgill/williams/williams.html The Williams Tube] {{IBM_Computers}} [[Category:IBMのメインフレーム|IBM 0701]] [[Category:コンピュータ (歴代)|IBM 0701]] [[Category:アセンブリ言語]]
2003-08-19T14:00:38Z
2023-12-06T00:35:07Z
false
false
false
[ "Template:Infobox information appliance", "Template:仮リンク", "Template:Cite journal", "Template:Citation needed", "Template:要出典", "Template:Cite web", "Template:ISBN2", "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:IBM Computers" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM_701
13,576
ミンキー・ヤス
ミンキー・ヤス(本名:岩崎 康雄(いわさき やすお)、1951年7月7日 - )は、ラジオパーソナリティ・タレント。東京都出身。左利き。血液型O型。既婚。 芸名の由来は、1982年放映のアニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』から。「ミンキー♥ヤス」「ミンキーヤス」などとも表記される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ミンキー・ヤス(本名:岩崎 康雄(いわさき やすお)、1951年7月7日 - )は、ラジオパーソナリティ・タレント。東京都出身。左利き。血液型O型。既婚。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "芸名の由来は、1982年放映のアニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』から。「ミンキー♥ヤス」「ミンキーヤス」などとも表記される。", "title": null } ]
ミンキー・ヤスは、ラジオパーソナリティ・タレント。東京都出身。左利き。血液型O型。既婚。 芸名の由来は、1982年放映のアニメ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』から。「ミンキー♥ヤス」「ミンキーヤス」などとも表記される。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2023年11月 |独自研究=2023年11月|分野=人物 }} '''ミンキー・ヤス'''(本名:岩崎 康雄(いわさき やすお)、[[1951年]][[7月7日]] - )は、[[ラジオパーソナリティ]]・[[タレント]]。[[東京都]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]O型。既婚。 芸名の由来は、[[1982年]]放映の[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』から。「ミンキー♥ヤス」「ミンキーヤス」などとも表記される。 == 略歴 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2023年11月|section=1}} *[[東京都立青山高等学校]]、[[成城大学]]文芸学部国文学科卒業。[[東京電機大学高等学校]]での[[教員|教師]]の前歴を持つ。その傍ら「[[東京アナウンスアカデミー]]」にも通い、ラジオ番組『[[週刊ラジオアニメック|ラジオアニメック・決定!アニメ最前線]]』の[[レポーター]][[オーディション]]を受けて合格、業界入り。 *アシスタント[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務める[[ラジオ番組]]『[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]』では、'''ヤスさん'''と呼ばれている。また[[スターチャイルド]]([[キングレコード]])提供時代には、同レーベルのラジオCMを担当している。 *岩崎康雄名義で[[全国FM放送協議会|JFN]]系『[[THIS MORNING]]』のパーソナリティを長年務めた。現在、[[東京都]][[江東区]]の[[コミュニティ放送|コミュニティFM局]]「[[レインボータウンエフエム放送|レインボータウンFM 大江戸放送局]]」で、『大江戸ワイド スーパーモーニング』の月・水・金曜を岩崎康雄名義で担当している。日曜昼の『ヤス&O野のラジオトークバトル』は終了。 *アマチュア[[落語]]サークルの講師を務め、ボランティア公演等にも「優三亭円我朝」として参加している。 *[[コスプレ]]という言葉が誕生する前からコスプレをしている。 *学生時代、[[サンリオ]]でアルバイトしていたことがある。 *『mamiのRADIかるコミュニケーション』の公開録音イベントなどで、コスプレが披露される。それを称して「人間コス宝」と本人が話したところから、リスナー間で人間コス宝が定着。 *[[堀江由衣]]のファン。 *[[花粉症]]が一般的に知られていない頃からの重度の花粉症。 *2004年、[[バードウオッチング検定]]の2級を取得。 *mamiのRADIかるコミュニケーションの番組企画として、ゲームクリエイターの[[内藤寛]]と師弟ボーイズ(CITEY BOYS)というユニットを組んでCDデビュー。1998年7月24日、シングルCD『シテイロマン』を発売。ユニット名は、岩崎が教師(師)と内藤が教え子(弟)の関係にあることと[[シティボーイズ]]をもじっての2つに由来する。 *2013年1月1日、一般人女性と結婚したことを公式サイトで公表<ref>[http://www2.ocn.ne.jp/~iwasan/kinkyou.html 岩崎康雄オフィシャルサイト・YASU 近況報告]{{リンク切れ|date=2019年8月}} 2013年1月1日更新</ref><ref>[http://www2.ocn.ne.jp/~iwasan/minky.html ヤス&O野の ラジオトークバトル・ハイパー!]{{リンク切れ|date=2019年8月}} 2013年1月1日〜2013年1月31日配信</ref>。 == 主な出演番組 == *[[週刊ラジオアニメック|ラジオアニメック・決定!アニメ最前線]]([[ニッポン放送]] 他) *[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]] 他) *[[魔法使いTai!|魔法使い隊の子ッ!]](東海ラジオ) *東京アップタウンステーション(東海ラジオ) *[[かおりのHello!アニポップ]](東海ラジオ) *[[ルックルックこんにちは]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) *[[ポップス・アニメ情報局]](東海ラジオ 他) **アニメ情報局ラジオマガジン **やってやるぜ情報局 *[[THIS MORNING]]([[全国FM放送協議会|JFN]]系列局) *大江戸ワイド スーパーモーニング([[レインボータウンエフエム放送|レインボータウンFM]]、月・水・金曜担当) *ヤス&O野のラジオトークバトル(レインボータウンFM) *[[全日本空輸|全日空]]寄席(ANA機内放送、構成担当平成13年11月〜平成19年3月まで) *ヤス&O野のラジオトークバトル・ハイパー!(インターネットラジオ 配信平成24年7月〜) == 関連項目 == *[[小森まなみ]] - 『mamiのRADIかるコミュニケーション』の相方パーソナリティー。 *[[岩崎和夫]] - 同じ岩崎姓、名前が一字違い「やすお」と「かずお」、血液型がO型、[[落語研究会 (サークル活動)|落研]]出身、元教諭から放送業界に転職したという経歴の近似から、互いの番組内で生き別れの兄弟と冗談交じりに言われたことがある。 *[[内藤寛]] - 高校教師時代の教え子の一人。番組企画でユニットを結成しCDを出したこともある。 *[[ショッカーO野]] - RADIコミ時代から付き合いのある友人。イベント司会やラジオ番組でも共演多数。 *[[糸居五郎]] - 東京アナウンスアカデミー時代の恩師。 *[[WITH YOU (音楽ユニット)]] - [[阪神・淡路大震災]]の復興支援チャリティユニット。岩崎和夫・ショッカーO野らとともに参加している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://www2.ocn.ne.jp/~iwasan/ |title=岩崎康雄ホームページ |date=20000920031806}} {{DEFAULTSORT:みんきいやす}} [[Category:魔法のプリンセス ミンキーモモ]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:アニラジ]] [[Category:成城大学出身の人物]] [[Category:東京都立青山高等学校出身の人物]] [[Category:日本の中等教育の教員]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]]
2003-08-19T14:03:25Z
2023-12-20T14:12:47Z
false
false
false
[ "Template:複数の問題", "Template:雑多な内容の箇条書き", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:リンク切れ", "Template:Wayback" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B9
13,578
ヴィジュアル系
ヴィジュアル系(ヴィジュアルけい)は、日本のロックバンド 及びミュージシャンの様式の一つ。bounce.comの出嶌孝次は、「特定のサウンドを示す言葉ではなく、化粧やファッション等の視覚表現により世界観や様式美を構築するもの」と定義している。一方で音楽ジャンルの1つとして扱わう文献も存在しており、グラムロック、パンク・ロック、ヘヴィメタルと関連づけられている。「ビジュアル系」とも表記され、「V系」(ブイけい)、「V-ROCK」(ブイ・ロック)とも呼称される。 「ヴィジュアル系」という呼称はX JAPANの『BLUE BLOOD』のキャッチコピー「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」が起源だとされることが多い。星子誠一は、雑誌『SHOXX』を創刊する際に、HIDEの言葉を引用して「ヴィジュアル&ハードショック・マガジン」というサブタイトルをつけ始めたのが始まりだと主張している。また、ヴィジュアル系という言葉が定着する前は、「お化粧系」という言葉が使われていたとも証言している。 1997年、SHAZNAのブレイク期に一般にも定着するようになり、「新語・流行語」化した。その後、『日本俗語大辞典』では、谷恒生の小説『闇呪』の文章を引用し、音楽や男性に限定せず、少女に対しての使用例を挙げている。なお、この語は日本国外においても「Visual-Kei」で通用する言葉となっている。 しかし、1998年にデビューしたPIERROTの元ギタリストであり、LM.Cの現ギタリストでもあるAijiは、シーンに属していた当事者の視点からこう語っている。 上記の通り、当初この言葉自体に侮蔑的な意味合いは込められていなかった。当時のミュージシャンの多くが優先していたのはあくまでサウンドであり、メイクは世界観を表現するためであったり、観客を喜ばすためのものだったが、1990年代から2000年代にかけて、ヴィジュアル系という用語は中身よりも外面重視というような批判を込めた差別的な言葉だととらえられていた。音楽評論家の市川哲史は、当時"ヴィジュアル系"という言葉がシーンでどのように受け止められていたかについて、「僕が仕事的に関わっていた黎明期から隆盛期――あの時代のバンドたちはそもそも自分たちをV系だとは思ってなかったし、表立ってヴィジュアル系といわれることに否定はしないけど『今に見てろよコラ』みたいな、差別語・侮蔑語的な捉え方をしているバンドが多かったですねぇ」と証言している。このように1990年代のヴィジュアル系バンドの中にはヴィジュアル系と称されるのを嫌がるものも多く、実際にL'Arc〜en〜Cielが番組内で「ヴィジュアル系バンド」と呼ばれたことを理由にポップジャムへの出演をキャンセルする事件が起きている。 ヴィジュアル系が差別された要因としてはさまざまなものが考えられる。音楽雑誌が各々ジャンルを区別し、バンドの掲載可否を決めたことが結果的にはファンや関係者の意識に作用したという説もある一方、「コスプレ的」「キャラクター的」な側面が嫌悪されたのではないかという説もある。 2010年代になると、90年代ヴィジュアル系の再評価が進み、差別用語としてとらえられることは少なくなった。ヴィジュアル系という言葉の意味合いが変わった経緯について、市川は現在大物のキッスも出てきた当初は批判されたので、ヴィジュアル系が最初は批判されてのちに評価されたのもそれと同じようなものではないかと述べている。 音楽性は多岐にわたっており、明確な定義をあげるのは困難である。しかし、基本的には日本国外のハードロックやヘヴィメタル、日本のパンク・ロックやビートロック等から影響を受けたロックバンドが地下だといえる。 『SHOXX』の元編集長鈴木ぽっくんと音楽ライター長澤智典の対談では、ヴィジュアル系の音楽的な要素としてポジティブパンクとヘヴィメタルが挙げられている。実際にポストパンクやヘヴィメタルからの影響を語っているバンドとしては、TRANS RECORDS所属のASYLUM やDEAD END から影響を受けていた黒夢、デュラン・デュランやジャパニーズ・メタルから影響を受けていたLaputa、ザ・キュアー やGASTUNK から影響を受けたL'Arc〜en〜Ciel、Japan やAION からの影響を語っているLUNA SEA などがいる。ジャンル自体が急速にメジャー化していった2000年以降のバンドは、これらの初期のヴィジュアル系バンドの他、歌謡曲等から影響を受けていることが多く、より洗練され、ポップな様式となった。一方でMERRYやMUCC、蜉蝣等、華やかさや煌びやかさよりも、哀愁や官能美、グロテスクな表現やレトロな表現等で魅せるバンドも存在する。 視覚表現もバンドによって様々であるといわれている。 1980年代は、ゴシック・ファッションのような黒服が王道であった。1990年代になると煌びやかなファッションが主流となり、cali≠gariのように80年代の王道の流れにあるバンドは異色な存在となる。ヴィジュアル系バンドにとってメイクは音楽とともに自己表現の一つであったが、2000年以降はブームと時流により、ヴィジュアル系はメイクをするということが前提とされた。2001年に結成したbaroqueは、後にオサレ系と呼ばれるポップでカラフルなメイクと衣装の原点となる。オサレ系以外のジャンルに、ゴージャスな衣装と濃いメイクのコテヴィ系(コテコテのヴィジュアル系。コテ系とも称される。)、オサレ系以上にストリート的でナチュラルメイクのソフヴィ系(ソフトヴィジュアル系)、黒いエナメルや革に鋲を大量に身に付ける黒系、派手な甲冑や着ぐるみ、制服などを着るコスプレ系、白いドーランを塗り、和服や昭和のような服を着ていることが多い白塗り系等がある。 ヴィジュアル系バンドのファンの女性をバンギャル、男性をギャ男という。ファンの中には、バンドのメンバーと同じような服や、バンドの衣装を作っているブランドの同じ服を着たり、手作りをしたりといった、コスプレをする者が多い。 ヴィジュアル系という言葉がまだ存在しなかった頃に染髪と化粧をしていたバンドとして、1977年に結成されたヘヴィメタルバンドの44MAGNUM、プログレッシブ・ロックバンドのNOVELAがいる。 1980年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える。1984年には、後のヴィジュアル系のシーンに大きな影響を与えたDEAD ENDが結成されている。 1986年になると、X(1992年に「X JAPAN」に改名)のYOSHIKIはエクスタシーレコードを設立し、「オルガスム」を発売。 1977年に音楽雑誌FOOL'S MATEが創刊される。初代編集長を務めた北村昌士は、のちにイギリスのポストパンク、ニュー・ウェイヴの流れを受けてTRANS RECORDSを設立している。同じくイギリスのポスト・パンクシーンの影響を受けたバンドとしては、「1979年秋から1980年中期までロンドンに帯在し、バウハウスに多大な影響を受け」たGENETが1980年に結成したAUTO-MODなどがある。 1982年には、ニュー・ウェイヴバンド一風堂がシングル「すみれ September Love」をリリースし、ヒットさせる。のちに、この曲はSHAZNAやメガマソといったヴィジュアル系バンドによってカバーされることとなった。 1985年ごろになるとTHE WILLARD、LAUGHIN' NOSE、有頂天のインディーズ御三家を中心にインディーズブームが起こる。黒夢の人時は高校時代にLAUGHIN' NOSEのコピーをしたと語っている。清春も当時のインディーズシーンについて、「ビジュアルが衝撃的だった。男なのに化粧してる。こんな世界もあるんだって」と述べ、なかでもTHE WILLARDのヴォーカリストJUNからの影響を公言している。 1986年、COLORのダイナマイト・トミーはフリーウィルを設立し、「MOLT GRAIN」を発売する。 1980年代のシーンについて、ニュー・ウェイヴバンドロマンポルシェ。のメンバーである掟ポルシェは「80年代って情念の塊のような時代だったと思うんです。(中略)例えば、80年代はメイクしなくちゃステージに立てなかった。つまり何か人と違ったことをしなければステージに出れないのが80年代だった」と振り返っている。 1980年代の終わり頃から1990年代のはじめにかけて、1980年代の音楽シーンの影響を受けたバンドが現れる。音楽ジャーナリストの沢田太陽は、「(この時期に現れたバンドは)X JAPANやDEAD ENDのようなメタルの影響の強いものや、BUCK-TICKのような80sのゴス系ニュー・ウェイヴのタイプ、ハードコア・パンクからメタルに進化したGastunkに影響されたものまで雑多なものでしたが、それらはやがて外見上の傾向で括られ“ヴィジュアル系”と呼ばれるように」なったと分析している。上記のバンド以外にはMadame Edwarda やDER ZIBET、AUTO-MOD、D'ERLANGER、COLOR、かまいたち、BY-SEXUAL、AURA、ZI:KILLなどもヴィジュアル系の先駆者として挙げられる。 1990年には、ヴィジュアル系専門誌SHOXXが創刊される。1989年に結成されたLUNA SEAが1991年にエクスタシーレコードからアルバムを発表。この頃には「エクスタシー・サミット」と呼ばれるエクスタシーレコード所属のバンドが一堂に会するライブイベントが行われていた。 90年代初頭ごろから名古屋のシーンも活性化している。インディーズシーンでは黒夢がSilver-Roseと並んで「名古屋2大巨頭」とされるまでになった。 90年代初頭に結成されたバンドには、黒夢のほかにL'Arc〜en〜Ciel、La'cryma Christi、PENICILLIN、FANATIC◇CRISIS、MALICE MIZER、SIAM SHADE、Laputa、ROUAGE、SHAZNA、cali≠gariなどがおり、これらのバンドが後にシーンを盛り上げていくことになる。 1994年に黒夢、GLAY、L'Arc〜en〜Ciel がメジャーデビューを果たす。同年、Silver-Roseが解散し、後にギターのKouichiはLaputa に、ベースのKaikiはROUAGEに、ドラムのKyoはMerry Go Roundにそれぞれ加入している。また、この年には L.S.B.と題してLUNA SEA、SOFT BALLET、BUCK-TICKが全国ツアーを敢行。各地の公演ではL'Arc〜en〜Ciel、THE YELLOW MONKEY、THE MAD CAPSULE MARKETS、DIE IN CRIESらがオープニングアクトを務めた。 ヴィジュアル四天王と呼ばれるLa'cryma Christi、SHAZNA、FANATIC◇CRISIS、MALICE MIZERも活動を始める。97年にはSHAZNA がメジャーデビューシングル「Melty Love」を累計88万枚、2ndシングル「すみれ September Love」を累計65万枚を売り上げ、1997年の日本有線大賞最優秀新人賞を受賞している。またeast west japanに移籍したPENICILLINも6thシングル「ロマンス」を累計90万枚売り上げた。ただし、トリプル・ミリオンになったアルバムやダブル・ミリオンを達成したシングルはほとんどなく、CDバブル時代にもっとも活躍したのはヴィジュアル系ではなかったとされる。一方でライヴを観に行くファンは他ジャンルよりも多かったため、市川哲史は「V系が90年代音楽シーンにもたらした最大の功績とは、(中略)ロックバンドのライヴの規模を圧倒的に拡大し」、「大道具やらサウンド・システムやら照明やらコンサートに関するあらゆるノウハウ」を発展させた点にあると述べている。 アリーナやドームクラスの会場でワンマンライヴをするバンドも現れ、PIERROTはメジャーデビューから日本武道館と西武ドームでのワンマンライブに至るまでの当時の最短記録を更新した。1996年には、インディーズバンドを紹介する音楽番組「Break Out」の放送が始まる。1999年にはDIR EN GREY、Janne Da Arcなどがメジャーデビューしている。 往時は隆盛を極めたヴィジュアル系であったが、2000年以降、世間からは既に「終わった」ものであると見なされ、ヴィジュアル系氷河期を迎える。 しかし、2002年にはcali≠gari、Psycho le Cemuがメジャーデビューし、これらの世代のバンドの功績が、その後のネオ・ヴィジュアル系ブームへと繋がってゆくこととなる。2003年にはMUCC、baroqueがメジャーデビューする。 2004年前後に台頭した新たなヴィジュアル系アーティストを、ネオ・ヴィジュアル系と呼ぶ。ヴィジュアル系の専門媒体、専門レコード店、V箱(ぶいばこ)と呼ばれる専門ライブハウスを中心にムーブメントを起こしたこれらのバンドについて、SHOXX編集部は「ルックスの良さがまず先にあって、ある意味でアイドル的な盛り上がり方に似ています」、「ライヴも、よりエンターテインメント性が強く、芝居の要素を取り入れるバンドも目立っていて、そんなライヴの雰囲気をファンは楽しんでいるようです」と述べた。 the GazettE、ナイトメア、アリス九號.、アンティック-珈琲店-、シドなどのバンドがオリコンチャートでヒットを記録する。また、2009年10月下旬には、初のヴィジュアル系ロック・フェスティバルである「V-ROCK FESTIVAL '09」が幕張メッセにて開催され、ネオ・ヴィジュアル系をはじめとして多くのヴィジュアル系バンドが出演した。 しかし、レコード会社がネオ・ヴィジュアル系ブームの絶頂期にバンドのメジャーデビューを企図してから、実際にメジャーデビューが果たされるころには既にブームが衰退しかけていた。 ヴィジュアル系シーンでは特筆すべき音楽専門誌であった『Neo genesis』は、2011年3月8日発売のVol.53を最後に、以降の新刊の発行が停止され、『Zy.』は、2011年4月1日発売のNo.56を最後に休刊した。『FOOL'S MATE』も、2012年12月発売の第376号をもって、以降の新刊の発行を停止した。 2010年代に入ってからは、Alice Nine、シド、ゴールデンボンバー などが日本武道館でワンマンライブを行った。 2007年に、D'ERLANGERが再結成する。2000年代の末ごろには他にもDEAD ENDが再結成を果たし、X JAPANが『攻撃再開 2008 I.V.〜破滅に向かって〜』と題して復活コンサートを行う など、ジャンルの始祖とされるバンドの再活動が行われた。このように、90~00年代を駆け抜け、解散・休止したバンドメンバーの活躍が徐々に増えはじめ、根強い人気を得たが、テレビへの露出などは少なく、一般的な知名度は全盛期と比べるとかなり低くなる。Angelo、LM.C はタイアップの反響も大きくオリコンチャート10位以内に入り、日本武道館公演も行った。Acid Black Cherryは大阪城ホール、横浜アリーナ等を含めたツアーを行い、オリコンチャートは全て5位以内を現在もキープし続けている。 また、ヴィジュアル系ロック・フェスティバルの「V-ROCK FESTIVAL 2011」が、二年ぶりとなる2011年10月23日にさいたまスーパーアリーナで開催された。 前年に一夜限りの復活をしたLa'cryma Christiが2010年にはツアー開催を発表、同じく前年に一夜限りの復活をしていた黒夢も再始動をし、LUNA SEAも「LUNA SEA REBOOT」と題して再活動を宣言する など、90年代に活動したバンドの再活動が発表された。また、限定復活したバンドとして2012年にライブを行ったMASCHERA、2014年にライブを行ったPIERROT がいる。 2013年には、ジャンルに大きな影響を与えたDEAD ENDへのトリビュートとしてLUNA SEA、L'Arc〜en〜Ciel、黒夢、SIAM SHADE、cali≠gari、Janne Da Arcなどのメンバーが参加した『DEAD END Tribute -SONG OF LUNATICS-』が発売された。 2015年には、LUNA SEAが幕張メッセで開催したロック・フェスティバル「LUNATIC FEST.」を開催し、ヴィジュアル系を中心とした1980年代、1990年代、2000年代、2010年代で活躍したロックバンドが一堂に会し、シーンを盛り上げた。 2016年7月25日には、X JapanのYoshiki、LUNA SEAのSUGIZO、GLAYのTAKUROが共同会見を開き、2016年10月14日(金)、15日(土)、16日(日)の3日間、幕張メッセにて3daysのV系フェス<VISUAL JAPAN SUMMIT 2016 Powered by Rakuten>が開催されることを発表。 2019年にはFANATIC◇CRISISのメンバー3人が「FANTASTIC◇CIRCUS」を結成し再始動(なお本人たちは「転生」だとしている)、2022年以降ライブ活動も本格的に再開している。 1990年代初頭、X JAPANが日本国外への進出を模索するようになる。1990年代末ごろになるとLUNA SEAやGLAYがアジア公演を行い、1999年にはLaputaが香港のロックイベント「Rock'n Roll Circuit In Hong Kong」に参加し、イベントのトリをつとめている。このように、1990年代にも日本国外への進出の試みはあった。とはいえ、このような動きは縮小する日本国内の市場にかわるマーケットを海外に求めた音楽業界が積極的に主導していたものであり、YOSHIKIなど一部の例外を除けば、ミュージシャンの多くは消極的だったとされる。 2000年代に突入すると、MyspaceやYouTubeを通してインディーズヴィジュアル系バンドの人気も高まっていった。また、DIR EN GREY、MUCC、Miyaviらが日本国外で単独ツアーを果たしている。このようなグローバルでの展開も手伝って、日本国外においてもYOHIOやMaleRose、Lilithなどのヴィジュアル系アーティストがうまれている。 現在、ヴィジュアル系の人気はアジア圏では保たれているものの、ヨーロッパ圏では下落しており、そのシェアはK-POPに奪われたとされる。2000年代後半にヨーロッパでヴィジュアル系が人気を博した際、実力のないバンドが多数日本国外へと出かける一方で人気のあるバンドはなかなか国外ツアーを行わなかったことが、このような状況を招いたのではないかとライターの藤谷千明は指摘している。藤谷は日本国外のファンの需要を無視してきた音楽業界の「<上から目線>」を批判しており、今後ヴィジュアル系アーティストがアジア圏などでツアーを行う際には現地の状況をよく調査し、各国で盛んなSNSをアーティスト自身が使うなど、積極的な海外戦略を展開することが肝要なのではないかと結論づけている。 ヴィジュアル系の音楽的基礎となったゴシックロックシーンにおいては、イクスマル・ドイチュラント やスージー・アンド・ザ・バンシーズ などのように女性アーティストが活躍することもあった。日本においても、ゴシックロックバンドGille' Lovesのヴォーカリストであり、のちにヴィジュアル系シーンに属することとなるLucifer Luscious Violenoueが1980年代から活動を行っている。 しかし、依然としてヴィジュアル系シーン内での女性アーティストの総数は低い傾向にあった。その後、2004年には全員女性のバンドexist†traceが結成されているが、彼女らは「音楽をやりたいんじゃなくて、他のバンドのメンバーと仲良くなったりしたいんでしょ?」というようにみられたり、「なんで女がヴィジュアル系をやってるの?」というようなバッシングを受けたこともあったといい、女性アーティストがシーンで受け入れられづらい現状が浮き彫りとなった。 音楽評論家の市川哲史は、ヴィジュアル系バンドマンの多くは音楽的には真面目だったと評価している。市川によれば、ヴィジュアル系ミュージシャンは好きなバンドやその背景にあるバンドを聴きあさる傾向がある一方で、多様な機材を用いたり、楽器の練習に真面目に取り組むものもいたりと音楽への探究心が強かったという。 また、市川とライターの藤谷千明の対談では、ある年代のロックファンにとってはヴィジュアル系が日本国外のロックの入り口として機能していたことが指摘されている。実際、ヴィジュアル系のミュージシャンは雑誌のインタヴューやラジオ等で音楽を盛んに紹介しており、ファンの側も紹介された音楽を実際に聞いてみるなど、音楽に関しては真面目だったという。 ジャンル自体には「世界のどこにもない日本オリジナルのロック」であると述べるなど、音楽的に肯定的な評価をしているといえる。 マーティ・フリードマンによれば、ヴィジュアル系はX JAPANの功績によって、一般的に広く認知され、曲調に関してもヘヴィメタルを基軸にしながらもその実は非常に広い音楽性の幅を持っているという。本来、ひとりの人間が好む曲調はある程度の幅に収まるはずであるがX JAPANは「Silent Jealousy」のような過激かつ攻撃的・高速の曲から「Say Anything」のようなバラードまで発表しており、ファンもそれを受け入れている。それはX JAPANがその外見と共にサウンドもブランドとして確立した証拠であるとしている。また、日本のヴィジュアル系は世界に誇れる最高の文化であるとしている。現在のアメリカやイギリスやヨーロッパでは、外見をより重要視するようなバンドは蔑視される傾向にある(日本においても一部そういった傾向が見られる場合が少なくない)が、ロックバンドはキッスのようにイメージもかっこよくあるべきであるとの意見を述べている。さらに、外見も表現の一部として取り入れているJ-POPならではの現象は、「形」を重視する日本文化、特に男性が化粧をする歌舞伎文化との関連性をも推測している。キッスは歌舞伎に影響されたという説もあるため、ヴィジュアル系は日本文化の逆輸入とも捉えられる、としている。ただし、キッスの創立者であるジーン・シモンズは、自伝で歌舞伎からの影響を否定している。 NoGoDの団長は2012年12月31日時点の取材に応じ、本人の活動経験も踏まえたうえで、『「ヴィジュアル系」って、もうとっくに終わってる』、『音楽業界の中で「ネオヴィジュアル系ブーム」と言われてた頃には本当はもう終わりかけていた』との見解を示した。ヴィジュアル系シーンは、若手のインディーズ・バンドの活躍がメジャーも含めたシーン全体の活性化へと結びついていた側面があった。しかし、衰退の著しいヴィジュアル系シーンを嫌気し、新たに参入する若手は減少してしまった。結果として、ライブハウスに足を運ぶ客数は、ネオ・ヴィジュアル系の流行期であった2005年と比して3分の1にまで減少した。 「ヴィジュアル系の父」とも称される音楽評論家の市川哲史は2013年6月28日時点の取材に応じ、「ヴィジュアル系は終わった」との見解を示した。市川は、DIR EN GREYやムックの世代のバンドまでは確固たる信念に基づくヴィジュアル系としての必然性を備えていたことを認めたが、それ以降の世代のバンドに関しては単にヴィジュアル系という様式の上辺のみをなぞっていたにすぎず、彼らがヴィジュアル系であることの必然性は失われたと批評した。NoGoDの団長も、「別にヴィジュアル系じゃなくてもいい、音楽が出来ればいい」という姿勢のバンドに対し「信念が曲がった」と批判し、「最初にヴィジュアル系をはじめようと思った理由はなんなのか聞きたいです」と疑念を呈した。また、「人と同じような化粧をすることが目的になった時点で、このジャンルの精神は死んでる」と述べた。 市川も、NoGoDの団長も、紅白歌合戦の出場経験を複数回有するゴールデンボンバーというバンドのみが際立って広く世間一般に受け入れられた点に関しては、好意的に評価した。しかし、市川はゴールデンボンバーをもってしてヴィジュアル系の「最後の後継者」であると述べ、彼らを後継するバンドが今後現れる可能性はなく、ヴィジュアル系はゴールデンボンバーによって終わりを告げられたと結論づけた。ヴィジュアル系のシーン全体を見ると、ヴィジュアル系そのものが支持されたという論証には至らなかった。 極一部の見た目やサウンドがあまりにも似ているヴィジュアル系の出現に苦言を呈する者は多い。 以下、抄訳して引用する。 かまいたちのけんchanは「(昔のV系は試行錯誤の末に)人々は違うことをやろうとしていた。」「(今のV系は特定のバンド)をコピーしている(バンドが多い)。(自分らが把握している限りでは、)自分らの(知っている)ヴィジュアル系はもう存在しない。」と述べている。 又、上記の星子も独自性の無いバンドの出現に警鐘を鳴らした上で、「ファンが同じ古いパフォーマンスを何度も繰り返し聞いたり見たりする事にうんざりしている時に大きな問題になる」「(これらの似たり寄ったりなバンドが人気が出ると考えると)想像を絶する」と苦言を呈している。 PIERROTのキリトは「違うように見せるためではなく、他の人に似せるためにやっている(バンドもいる)」「これは明らかに、自分らが(バンドを)始めたときとは大きく異なる。」と述べている。 2009年10月4日、ヴィジュアル系が日本国外で人気を博しているという報道がオリコンによりなされた。しかし、日本国外へ向けて日本の音楽を販売する音楽配信サイト「HearJapan」の代表であるネイサン・リーヴンは、特に日本国外のヴィジュアル系ファンへ向けて、自社のウェブサイトに書簡を掲載した。以下に抄訳して引用する。 結局、ヴィジュアル系の音楽を売る唯一の方法は、リリース日直前までのゴリ押し(と結果としての購入予約)以外にはないことが分かりました。リリース日以降は、すぐに売れなくなってしまうのです。その理由は明快で、バンド、レーベル、または楽曲制作に時間と金銭を投資した関係者らの許可なく、音楽ファイルがネットにアップロードされてしまうことに他なりません。ネット上の多くのユーザーが、他のヴィジュアル系ファンへ音楽を無料でダウンロードさせることに誇りと喜びを持っており、さらに重要なことには、それが権利者(アーティスト、音楽プロダクション、レコードレーベル、著作権管理団体、撮影者など)の許諾なく行われているということなのです。これが、ヴィジュアル系がリリース日以降に売れなくなる理由です。(中略) HearJapanでのダウンロード販売だけの問題ではありません。私はいくつかのヴィジュアル系バンドのCD輸出データを拝見したのですが、残念ながら、そこにはHearJapanのダウンロード販売と同様の悲しい相関関係が見られました。この手紙はHearJapanがこうむった損失についてお伝えするものではありません。ヴィジュアル系以外のジャンルの売上が、ヴィジュアル系の売上不振を補ってあまりあるものだからです。この手紙でお伝えしたいことは、ネットで音源を不法に頒布する行為が、アーティストに対してだけではなく、巡り巡って結果としてはファン自身へともたらされる問題であるということなのです。 私は(HearJapanでは配信されていない)多くのヴィジュアル系バンドおよびレーベルと話をしてきたなかで、異口同音に同じ話を耳にしました。公式サイトやMySpaceに海外からのアクセスが殺到していることから、彼らは期待を膨らませて海外ファンへ音楽を販売しようと努力したところ、巨額の損失をこうむってしまったとのことです。(中略) バンドの情報を正確に翻訳し、音楽ファイルのエンコーディングにかかりっきりとなり、サイトのページにはタグをつけ、宣伝し、バンド側の要請に基づき万事これで問題ないかとバンド側へ確認の電話を何度もかけた私もまた、損失をこうむりました。しかしバンド側がこうむった損失に比べれば、私の損失など微々たるものです。果たしてあなたは、全精力を傾けて、時間もお金も使って制作した何かを世に発表し万人から称讃の嵐を浴びたとしても、最後には一銭ももらえずに馬鹿を見ただけだとしたら、そんなことをまた続けたいと思うでしょうか。私には、とてもそうは思えません。(中略) リーヴンは、インターネットにて楽曲を不法に頒布する多くのヴィジュアル系ファンを痛烈に批判し、その不法行為はバンドの音楽活動を阻害するのみならず、バンドが今後飛躍する可能性を(とりわけ金銭面から)摘み取ってしまうとして警鐘を鳴らした。また、日本国外のヴィジュアル系ファンの間において音楽ファイルの不法な共有が常態化しているという実態に関しては、リーヴンの指摘のみならず、アニメの情報サイト「Japanator」もリーヴンの発言を受けて記事を発表した。以下に抄訳して引用する。 (中略) ベンツの指摘により、いわゆる「顔ファン」(バンドマンの外見のみでファンになり音楽には興味がないファンを指す俗語)が日本だけではなく日本国外においても存在し、むしろ「顔ファン」が日本国外では主流であることが明らかにされた。 日本国内では、ヴィジュアル系アーティストのCD売上はヴィジュアル系専門レコード店での限定購入特典や、専門レコード店で開催される「インストア・イベント」に支えられることが多い。これは「AKB商法」としてしばしば批判される売り方と共通してはいるものの、限定グッズや限定写真を入手したり、あるいは本人と会話や握手をするためにCDを(一人で何枚も)購入するという購買の動機づけには結びつく。しかし「顔ファン」にとっては音楽は「意味がない」ため、ライブやイベントなどで本人と接触する機会に乏しい海外在住者は、音楽そのものにお金を払う理由がなくなる。 リーヴンが書簡のなかで例示しているが(上記引用文では未訳のため原文 を参照されたい)、原盤制作には少なくとも一万米ドル以上の予算が必要とされる。メジャー・レーベルによるフルアルバムの原盤制作ともなれば、一千万円近くの費用が生ずる。しかし日本国外の音楽ファンは、アーティストやレーベル側から正規の購入方法を提示されても、音楽に対してあまりお金を払おうとしない。それはアーティストやレーベル側が費やした原盤制作費を回収できず、次の原盤を作る費用を捻出できないことを意味する。リーヴンらの指摘は、楽曲の違法アップロードが日本国外でのヴィジュアル系の人気を助けているものの、それがヴィジュアル系音楽業界に経済的利益を直接与えることはなく、ゆえにその衰退を助長しうることを明らかにした。 ヴィジュアル系を専門範囲とするレーベルおよび音楽プロダクションは、1980年代後期よりその存在が確認されている。 初期ヴィジュアル系バンドの音楽プロダクションとしては、YOSHIKIの主宰するエクスタシーレコードとDYNAMITE TOMMYが総指揮を執るフリーウィル・レコードが、「東のエクスタシー、西のフリーウィル」と謳われるジャンルのフロンティアとして双璧をなした。その後はアナーキストレコード、デンジャークルー、クライス、キーパーティーなどの専門レーベルが次々と台頭した。現役か、もしくはかつてヴィジュアル系ミュージシャンとして活動していた経営者が主宰する場合も少なくはない。ミュージシャンの主宰以外では、イベンターやライブハウスの系列事務所、エイベックスなどの大手レコード会社の傘下の事務所もヴィジュアル系のマネージメントを手がけている。ただし、1990年代のヴィジュアル系全盛期のブームに乗って乱立したレーベル・プロダクションには、ブームが終息し市場が収縮を始めると早々に姿を消したものも少なくない。 なお、タレントを主力とする芸能事務所が手がけたケースは少ない。これらの会社の手法ではヴィジュアル系バンドを商業的に成功させることが難しく、田辺エージェンシー、ホリプロなどは撤退している。 現在刊行されている雑誌 休刊・廃刊した雑誌
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系(ヴィジュアルけい)は、日本のロックバンド 及びミュージシャンの様式の一つ。bounce.comの出嶌孝次は、「特定のサウンドを示す言葉ではなく、化粧やファッション等の視覚表現により世界観や様式美を構築するもの」と定義している。一方で音楽ジャンルの1つとして扱わう文献も存在しており、グラムロック、パンク・ロック、ヘヴィメタルと関連づけられている。「ビジュアル系」とも表記され、「V系」(ブイけい)、「V-ROCK」(ブイ・ロック)とも呼称される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「ヴィジュアル系」という呼称はX JAPANの『BLUE BLOOD』のキャッチコピー「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」が起源だとされることが多い。星子誠一は、雑誌『SHOXX』を創刊する際に、HIDEの言葉を引用して「ヴィジュアル&ハードショック・マガジン」というサブタイトルをつけ始めたのが始まりだと主張している。また、ヴィジュアル系という言葉が定着する前は、「お化粧系」という言葉が使われていたとも証言している。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1997年、SHAZNAのブレイク期に一般にも定着するようになり、「新語・流行語」化した。その後、『日本俗語大辞典』では、谷恒生の小説『闇呪』の文章を引用し、音楽や男性に限定せず、少女に対しての使用例を挙げている。なお、この語は日本国外においても「Visual-Kei」で通用する言葉となっている。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、1998年にデビューしたPIERROTの元ギタリストであり、LM.Cの現ギタリストでもあるAijiは、シーンに属していた当事者の視点からこう語っている。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "上記の通り、当初この言葉自体に侮蔑的な意味合いは込められていなかった。当時のミュージシャンの多くが優先していたのはあくまでサウンドであり、メイクは世界観を表現するためであったり、観客を喜ばすためのものだったが、1990年代から2000年代にかけて、ヴィジュアル系という用語は中身よりも外面重視というような批判を込めた差別的な言葉だととらえられていた。音楽評論家の市川哲史は、当時\"ヴィジュアル系\"という言葉がシーンでどのように受け止められていたかについて、「僕が仕事的に関わっていた黎明期から隆盛期――あの時代のバンドたちはそもそも自分たちをV系だとは思ってなかったし、表立ってヴィジュアル系といわれることに否定はしないけど『今に見てろよコラ』みたいな、差別語・侮蔑語的な捉え方をしているバンドが多かったですねぇ」と証言している。このように1990年代のヴィジュアル系バンドの中にはヴィジュアル系と称されるのを嫌がるものも多く、実際にL'Arc〜en〜Cielが番組内で「ヴィジュアル系バンド」と呼ばれたことを理由にポップジャムへの出演をキャンセルする事件が起きている。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系が差別された要因としてはさまざまなものが考えられる。音楽雑誌が各々ジャンルを区別し、バンドの掲載可否を決めたことが結果的にはファンや関係者の意識に作用したという説もある一方、「コスプレ的」「キャラクター的」な側面が嫌悪されたのではないかという説もある。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年代になると、90年代ヴィジュアル系の再評価が進み、差別用語としてとらえられることは少なくなった。ヴィジュアル系という言葉の意味合いが変わった経緯について、市川は現在大物のキッスも出てきた当初は批判されたので、ヴィジュアル系が最初は批判されてのちに評価されたのもそれと同じようなものではないかと述べている。", "title": "呼称に関して" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "音楽性は多岐にわたっており、明確な定義をあげるのは困難である。しかし、基本的には日本国外のハードロックやヘヴィメタル、日本のパンク・ロックやビートロック等から影響を受けたロックバンドが地下だといえる。", "title": "傾向・特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『SHOXX』の元編集長鈴木ぽっくんと音楽ライター長澤智典の対談では、ヴィジュアル系の音楽的な要素としてポジティブパンクとヘヴィメタルが挙げられている。実際にポストパンクやヘヴィメタルからの影響を語っているバンドとしては、TRANS RECORDS所属のASYLUM やDEAD END から影響を受けていた黒夢、デュラン・デュランやジャパニーズ・メタルから影響を受けていたLaputa、ザ・キュアー やGASTUNK から影響を受けたL'Arc〜en〜Ciel、Japan やAION からの影響を語っているLUNA SEA などがいる。ジャンル自体が急速にメジャー化していった2000年以降のバンドは、これらの初期のヴィジュアル系バンドの他、歌謡曲等から影響を受けていることが多く、より洗練され、ポップな様式となった。一方でMERRYやMUCC、蜉蝣等、華やかさや煌びやかさよりも、哀愁や官能美、グロテスクな表現やレトロな表現等で魅せるバンドも存在する。", "title": "傾向・特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "視覚表現もバンドによって様々であるといわれている。", "title": "傾向・特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1980年代は、ゴシック・ファッションのような黒服が王道であった。1990年代になると煌びやかなファッションが主流となり、cali≠gariのように80年代の王道の流れにあるバンドは異色な存在となる。ヴィジュアル系バンドにとってメイクは音楽とともに自己表現の一つであったが、2000年以降はブームと時流により、ヴィジュアル系はメイクをするということが前提とされた。2001年に結成したbaroqueは、後にオサレ系と呼ばれるポップでカラフルなメイクと衣装の原点となる。オサレ系以外のジャンルに、ゴージャスな衣装と濃いメイクのコテヴィ系(コテコテのヴィジュアル系。コテ系とも称される。)、オサレ系以上にストリート的でナチュラルメイクのソフヴィ系(ソフトヴィジュアル系)、黒いエナメルや革に鋲を大量に身に付ける黒系、派手な甲冑や着ぐるみ、制服などを着るコスプレ系、白いドーランを塗り、和服や昭和のような服を着ていることが多い白塗り系等がある。", "title": "傾向・特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系バンドのファンの女性をバンギャル、男性をギャ男という。ファンの中には、バンドのメンバーと同じような服や、バンドの衣装を作っているブランドの同じ服を着たり、手作りをしたりといった、コスプレをする者が多い。", "title": "傾向・特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系という言葉がまだ存在しなかった頃に染髪と化粧をしていたバンドとして、1977年に結成されたヘヴィメタルバンドの44MAGNUM、プログレッシブ・ロックバンドのNOVELAがいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える。1984年には、後のヴィジュアル系のシーンに大きな影響を与えたDEAD ENDが結成されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1986年になると、X(1992年に「X JAPAN」に改名)のYOSHIKIはエクスタシーレコードを設立し、「オルガスム」を発売。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1977年に音楽雑誌FOOL'S MATEが創刊される。初代編集長を務めた北村昌士は、のちにイギリスのポストパンク、ニュー・ウェイヴの流れを受けてTRANS RECORDSを設立している。同じくイギリスのポスト・パンクシーンの影響を受けたバンドとしては、「1979年秋から1980年中期までロンドンに帯在し、バウハウスに多大な影響を受け」たGENETが1980年に結成したAUTO-MODなどがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1982年には、ニュー・ウェイヴバンド一風堂がシングル「すみれ September Love」をリリースし、ヒットさせる。のちに、この曲はSHAZNAやメガマソといったヴィジュアル系バンドによってカバーされることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1985年ごろになるとTHE WILLARD、LAUGHIN' NOSE、有頂天のインディーズ御三家を中心にインディーズブームが起こる。黒夢の人時は高校時代にLAUGHIN' NOSEのコピーをしたと語っている。清春も当時のインディーズシーンについて、「ビジュアルが衝撃的だった。男なのに化粧してる。こんな世界もあるんだって」と述べ、なかでもTHE WILLARDのヴォーカリストJUNからの影響を公言している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1986年、COLORのダイナマイト・トミーはフリーウィルを設立し、「MOLT GRAIN」を発売する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年代のシーンについて、ニュー・ウェイヴバンドロマンポルシェ。のメンバーである掟ポルシェは「80年代って情念の塊のような時代だったと思うんです。(中略)例えば、80年代はメイクしなくちゃステージに立てなかった。つまり何か人と違ったことをしなければステージに出れないのが80年代だった」と振り返っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1980年代の終わり頃から1990年代のはじめにかけて、1980年代の音楽シーンの影響を受けたバンドが現れる。音楽ジャーナリストの沢田太陽は、「(この時期に現れたバンドは)X JAPANやDEAD ENDのようなメタルの影響の強いものや、BUCK-TICKのような80sのゴス系ニュー・ウェイヴのタイプ、ハードコア・パンクからメタルに進化したGastunkに影響されたものまで雑多なものでしたが、それらはやがて外見上の傾向で括られ“ヴィジュアル系”と呼ばれるように」なったと分析している。上記のバンド以外にはMadame Edwarda やDER ZIBET、AUTO-MOD、D'ERLANGER、COLOR、かまいたち、BY-SEXUAL、AURA、ZI:KILLなどもヴィジュアル系の先駆者として挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1990年には、ヴィジュアル系専門誌SHOXXが創刊される。1989年に結成されたLUNA SEAが1991年にエクスタシーレコードからアルバムを発表。この頃には「エクスタシー・サミット」と呼ばれるエクスタシーレコード所属のバンドが一堂に会するライブイベントが行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "90年代初頭ごろから名古屋のシーンも活性化している。インディーズシーンでは黒夢がSilver-Roseと並んで「名古屋2大巨頭」とされるまでになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "90年代初頭に結成されたバンドには、黒夢のほかにL'Arc〜en〜Ciel、La'cryma Christi、PENICILLIN、FANATIC◇CRISIS、MALICE MIZER、SIAM SHADE、Laputa、ROUAGE、SHAZNA、cali≠gariなどがおり、これらのバンドが後にシーンを盛り上げていくことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1994年に黒夢、GLAY、L'Arc〜en〜Ciel がメジャーデビューを果たす。同年、Silver-Roseが解散し、後にギターのKouichiはLaputa に、ベースのKaikiはROUAGEに、ドラムのKyoはMerry Go Roundにそれぞれ加入している。また、この年には L.S.B.と題してLUNA SEA、SOFT BALLET、BUCK-TICKが全国ツアーを敢行。各地の公演ではL'Arc〜en〜Ciel、THE YELLOW MONKEY、THE MAD CAPSULE MARKETS、DIE IN CRIESらがオープニングアクトを務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル四天王と呼ばれるLa'cryma Christi、SHAZNA、FANATIC◇CRISIS、MALICE MIZERも活動を始める。97年にはSHAZNA がメジャーデビューシングル「Melty Love」を累計88万枚、2ndシングル「すみれ September Love」を累計65万枚を売り上げ、1997年の日本有線大賞最優秀新人賞を受賞している。またeast west japanに移籍したPENICILLINも6thシングル「ロマンス」を累計90万枚売り上げた。ただし、トリプル・ミリオンになったアルバムやダブル・ミリオンを達成したシングルはほとんどなく、CDバブル時代にもっとも活躍したのはヴィジュアル系ではなかったとされる。一方でライヴを観に行くファンは他ジャンルよりも多かったため、市川哲史は「V系が90年代音楽シーンにもたらした最大の功績とは、(中略)ロックバンドのライヴの規模を圧倒的に拡大し」、「大道具やらサウンド・システムやら照明やらコンサートに関するあらゆるノウハウ」を発展させた点にあると述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アリーナやドームクラスの会場でワンマンライヴをするバンドも現れ、PIERROTはメジャーデビューから日本武道館と西武ドームでのワンマンライブに至るまでの当時の最短記録を更新した。1996年には、インディーズバンドを紹介する音楽番組「Break Out」の放送が始まる。1999年にはDIR EN GREY、Janne Da Arcなどがメジャーデビューしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "往時は隆盛を極めたヴィジュアル系であったが、2000年以降、世間からは既に「終わった」ものであると見なされ、ヴィジュアル系氷河期を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、2002年にはcali≠gari、Psycho le Cemuがメジャーデビューし、これらの世代のバンドの功績が、その後のネオ・ヴィジュアル系ブームへと繋がってゆくこととなる。2003年にはMUCC、baroqueがメジャーデビューする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2004年前後に台頭した新たなヴィジュアル系アーティストを、ネオ・ヴィジュアル系と呼ぶ。ヴィジュアル系の専門媒体、専門レコード店、V箱(ぶいばこ)と呼ばれる専門ライブハウスを中心にムーブメントを起こしたこれらのバンドについて、SHOXX編集部は「ルックスの良さがまず先にあって、ある意味でアイドル的な盛り上がり方に似ています」、「ライヴも、よりエンターテインメント性が強く、芝居の要素を取り入れるバンドも目立っていて、そんなライヴの雰囲気をファンは楽しんでいるようです」と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "the GazettE、ナイトメア、アリス九號.、アンティック-珈琲店-、シドなどのバンドがオリコンチャートでヒットを記録する。また、2009年10月下旬には、初のヴィジュアル系ロック・フェスティバルである「V-ROCK FESTIVAL '09」が幕張メッセにて開催され、ネオ・ヴィジュアル系をはじめとして多くのヴィジュアル系バンドが出演した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし、レコード会社がネオ・ヴィジュアル系ブームの絶頂期にバンドのメジャーデビューを企図してから、実際にメジャーデビューが果たされるころには既にブームが衰退しかけていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系シーンでは特筆すべき音楽専門誌であった『Neo genesis』は、2011年3月8日発売のVol.53を最後に、以降の新刊の発行が停止され、『Zy.』は、2011年4月1日発売のNo.56を最後に休刊した。『FOOL'S MATE』も、2012年12月発売の第376号をもって、以降の新刊の発行を停止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2010年代に入ってからは、Alice Nine、シド、ゴールデンボンバー などが日本武道館でワンマンライブを行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2007年に、D'ERLANGERが再結成する。2000年代の末ごろには他にもDEAD ENDが再結成を果たし、X JAPANが『攻撃再開 2008 I.V.〜破滅に向かって〜』と題して復活コンサートを行う など、ジャンルの始祖とされるバンドの再活動が行われた。このように、90~00年代を駆け抜け、解散・休止したバンドメンバーの活躍が徐々に増えはじめ、根強い人気を得たが、テレビへの露出などは少なく、一般的な知名度は全盛期と比べるとかなり低くなる。Angelo、LM.C はタイアップの反響も大きくオリコンチャート10位以内に入り、日本武道館公演も行った。Acid Black Cherryは大阪城ホール、横浜アリーナ等を含めたツアーを行い、オリコンチャートは全て5位以内を現在もキープし続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、ヴィジュアル系ロック・フェスティバルの「V-ROCK FESTIVAL 2011」が、二年ぶりとなる2011年10月23日にさいたまスーパーアリーナで開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "前年に一夜限りの復活をしたLa'cryma Christiが2010年にはツアー開催を発表、同じく前年に一夜限りの復活をしていた黒夢も再始動をし、LUNA SEAも「LUNA SEA REBOOT」と題して再活動を宣言する など、90年代に活動したバンドの再活動が発表された。また、限定復活したバンドとして2012年にライブを行ったMASCHERA、2014年にライブを行ったPIERROT がいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年には、ジャンルに大きな影響を与えたDEAD ENDへのトリビュートとしてLUNA SEA、L'Arc〜en〜Ciel、黒夢、SIAM SHADE、cali≠gari、Janne Da Arcなどのメンバーが参加した『DEAD END Tribute -SONG OF LUNATICS-』が発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2015年には、LUNA SEAが幕張メッセで開催したロック・フェスティバル「LUNATIC FEST.」を開催し、ヴィジュアル系を中心とした1980年代、1990年代、2000年代、2010年代で活躍したロックバンドが一堂に会し、シーンを盛り上げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2016年7月25日には、X JapanのYoshiki、LUNA SEAのSUGIZO、GLAYのTAKUROが共同会見を開き、2016年10月14日(金)、15日(土)、16日(日)の3日間、幕張メッセにて3daysのV系フェス<VISUAL JAPAN SUMMIT 2016 Powered by Rakuten>が開催されることを発表。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年にはFANATIC◇CRISISのメンバー3人が「FANTASTIC◇CIRCUS」を結成し再始動(なお本人たちは「転生」だとしている)、2022年以降ライブ活動も本格的に再開している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年代初頭、X JAPANが日本国外への進出を模索するようになる。1990年代末ごろになるとLUNA SEAやGLAYがアジア公演を行い、1999年にはLaputaが香港のロックイベント「Rock'n Roll Circuit In Hong Kong」に参加し、イベントのトリをつとめている。このように、1990年代にも日本国外への進出の試みはあった。とはいえ、このような動きは縮小する日本国内の市場にかわるマーケットを海外に求めた音楽業界が積極的に主導していたものであり、YOSHIKIなど一部の例外を除けば、ミュージシャンの多くは消極的だったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2000年代に突入すると、MyspaceやYouTubeを通してインディーズヴィジュアル系バンドの人気も高まっていった。また、DIR EN GREY、MUCC、Miyaviらが日本国外で単独ツアーを果たしている。このようなグローバルでの展開も手伝って、日本国外においてもYOHIOやMaleRose、Lilithなどのヴィジュアル系アーティストがうまれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "現在、ヴィジュアル系の人気はアジア圏では保たれているものの、ヨーロッパ圏では下落しており、そのシェアはK-POPに奪われたとされる。2000年代後半にヨーロッパでヴィジュアル系が人気を博した際、実力のないバンドが多数日本国外へと出かける一方で人気のあるバンドはなかなか国外ツアーを行わなかったことが、このような状況を招いたのではないかとライターの藤谷千明は指摘している。藤谷は日本国外のファンの需要を無視してきた音楽業界の「<上から目線>」を批判しており、今後ヴィジュアル系アーティストがアジア圏などでツアーを行う際には現地の状況をよく調査し、各国で盛んなSNSをアーティスト自身が使うなど、積極的な海外戦略を展開することが肝要なのではないかと結論づけている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系の音楽的基礎となったゴシックロックシーンにおいては、イクスマル・ドイチュラント やスージー・アンド・ザ・バンシーズ などのように女性アーティストが活躍することもあった。日本においても、ゴシックロックバンドGille' Lovesのヴォーカリストであり、のちにヴィジュアル系シーンに属することとなるLucifer Luscious Violenoueが1980年代から活動を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし、依然としてヴィジュアル系シーン内での女性アーティストの総数は低い傾向にあった。その後、2004年には全員女性のバンドexist†traceが結成されているが、彼女らは「音楽をやりたいんじゃなくて、他のバンドのメンバーと仲良くなったりしたいんでしょ?」というようにみられたり、「なんで女がヴィジュアル系をやってるの?」というようなバッシングを受けたこともあったといい、女性アーティストがシーンで受け入れられづらい現状が浮き彫りとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "音楽評論家の市川哲史は、ヴィジュアル系バンドマンの多くは音楽的には真面目だったと評価している。市川によれば、ヴィジュアル系ミュージシャンは好きなバンドやその背景にあるバンドを聴きあさる傾向がある一方で、多様な機材を用いたり、楽器の練習に真面目に取り組むものもいたりと音楽への探究心が強かったという。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、市川とライターの藤谷千明の対談では、ある年代のロックファンにとってはヴィジュアル系が日本国外のロックの入り口として機能していたことが指摘されている。実際、ヴィジュアル系のミュージシャンは雑誌のインタヴューやラジオ等で音楽を盛んに紹介しており、ファンの側も紹介された音楽を実際に聞いてみるなど、音楽に関しては真面目だったという。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ジャンル自体には「世界のどこにもない日本オリジナルのロック」であると述べるなど、音楽的に肯定的な評価をしているといえる。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "マーティ・フリードマンによれば、ヴィジュアル系はX JAPANの功績によって、一般的に広く認知され、曲調に関してもヘヴィメタルを基軸にしながらもその実は非常に広い音楽性の幅を持っているという。本来、ひとりの人間が好む曲調はある程度の幅に収まるはずであるがX JAPANは「Silent Jealousy」のような過激かつ攻撃的・高速の曲から「Say Anything」のようなバラードまで発表しており、ファンもそれを受け入れている。それはX JAPANがその外見と共にサウンドもブランドとして確立した証拠であるとしている。また、日本のヴィジュアル系は世界に誇れる最高の文化であるとしている。現在のアメリカやイギリスやヨーロッパでは、外見をより重要視するようなバンドは蔑視される傾向にある(日本においても一部そういった傾向が見られる場合が少なくない)が、ロックバンドはキッスのようにイメージもかっこよくあるべきであるとの意見を述べている。さらに、外見も表現の一部として取り入れているJ-POPならではの現象は、「形」を重視する日本文化、特に男性が化粧をする歌舞伎文化との関連性をも推測している。キッスは歌舞伎に影響されたという説もあるため、ヴィジュアル系は日本文化の逆輸入とも捉えられる、としている。ただし、キッスの創立者であるジーン・シモンズは、自伝で歌舞伎からの影響を否定している。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "NoGoDの団長は2012年12月31日時点の取材に応じ、本人の活動経験も踏まえたうえで、『「ヴィジュアル系」って、もうとっくに終わってる』、『音楽業界の中で「ネオヴィジュアル系ブーム」と言われてた頃には本当はもう終わりかけていた』との見解を示した。ヴィジュアル系シーンは、若手のインディーズ・バンドの活躍がメジャーも含めたシーン全体の活性化へと結びついていた側面があった。しかし、衰退の著しいヴィジュアル系シーンを嫌気し、新たに参入する若手は減少してしまった。結果として、ライブハウスに足を運ぶ客数は、ネオ・ヴィジュアル系の流行期であった2005年と比して3分の1にまで減少した。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「ヴィジュアル系の父」とも称される音楽評論家の市川哲史は2013年6月28日時点の取材に応じ、「ヴィジュアル系は終わった」との見解を示した。市川は、DIR EN GREYやムックの世代のバンドまでは確固たる信念に基づくヴィジュアル系としての必然性を備えていたことを認めたが、それ以降の世代のバンドに関しては単にヴィジュアル系という様式の上辺のみをなぞっていたにすぎず、彼らがヴィジュアル系であることの必然性は失われたと批評した。NoGoDの団長も、「別にヴィジュアル系じゃなくてもいい、音楽が出来ればいい」という姿勢のバンドに対し「信念が曲がった」と批判し、「最初にヴィジュアル系をはじめようと思った理由はなんなのか聞きたいです」と疑念を呈した。また、「人と同じような化粧をすることが目的になった時点で、このジャンルの精神は死んでる」と述べた。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "市川も、NoGoDの団長も、紅白歌合戦の出場経験を複数回有するゴールデンボンバーというバンドのみが際立って広く世間一般に受け入れられた点に関しては、好意的に評価した。しかし、市川はゴールデンボンバーをもってしてヴィジュアル系の「最後の後継者」であると述べ、彼らを後継するバンドが今後現れる可能性はなく、ヴィジュアル系はゴールデンボンバーによって終わりを告げられたと結論づけた。ヴィジュアル系のシーン全体を見ると、ヴィジュアル系そのものが支持されたという論証には至らなかった。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "極一部の見た目やサウンドがあまりにも似ているヴィジュアル系の出現に苦言を呈する者は多い。 以下、抄訳して引用する。 かまいたちのけんchanは「(昔のV系は試行錯誤の末に)人々は違うことをやろうとしていた。」「(今のV系は特定のバンド)をコピーしている(バンドが多い)。(自分らが把握している限りでは、)自分らの(知っている)ヴィジュアル系はもう存在しない。」と述べている。 又、上記の星子も独自性の無いバンドの出現に警鐘を鳴らした上で、「ファンが同じ古いパフォーマンスを何度も繰り返し聞いたり見たりする事にうんざりしている時に大きな問題になる」「(これらの似たり寄ったりなバンドが人気が出ると考えると)想像を絶する」と苦言を呈している。 PIERROTのキリトは「違うように見せるためではなく、他の人に似せるためにやっている(バンドもいる)」「これは明らかに、自分らが(バンドを)始めたときとは大きく異なる。」と述べている。", "title": "評価と影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2009年10月4日、ヴィジュアル系が日本国外で人気を博しているという報道がオリコンによりなされた。しかし、日本国外へ向けて日本の音楽を販売する音楽配信サイト「HearJapan」の代表であるネイサン・リーヴンは、特に日本国外のヴィジュアル系ファンへ向けて、自社のウェブサイトに書簡を掲載した。以下に抄訳して引用する。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "結局、ヴィジュアル系の音楽を売る唯一の方法は、リリース日直前までのゴリ押し(と結果としての購入予約)以外にはないことが分かりました。リリース日以降は、すぐに売れなくなってしまうのです。その理由は明快で、バンド、レーベル、または楽曲制作に時間と金銭を投資した関係者らの許可なく、音楽ファイルがネットにアップロードされてしまうことに他なりません。ネット上の多くのユーザーが、他のヴィジュアル系ファンへ音楽を無料でダウンロードさせることに誇りと喜びを持っており、さらに重要なことには、それが権利者(アーティスト、音楽プロダクション、レコードレーベル、著作権管理団体、撮影者など)の許諾なく行われているということなのです。これが、ヴィジュアル系がリリース日以降に売れなくなる理由です。(中略) HearJapanでのダウンロード販売だけの問題ではありません。私はいくつかのヴィジュアル系バンドのCD輸出データを拝見したのですが、残念ながら、そこにはHearJapanのダウンロード販売と同様の悲しい相関関係が見られました。この手紙はHearJapanがこうむった損失についてお伝えするものではありません。ヴィジュアル系以外のジャンルの売上が、ヴィジュアル系の売上不振を補ってあまりあるものだからです。この手紙でお伝えしたいことは、ネットで音源を不法に頒布する行為が、アーティストに対してだけではなく、巡り巡って結果としてはファン自身へともたらされる問題であるということなのです。 私は(HearJapanでは配信されていない)多くのヴィジュアル系バンドおよびレーベルと話をしてきたなかで、異口同音に同じ話を耳にしました。公式サイトやMySpaceに海外からのアクセスが殺到していることから、彼らは期待を膨らませて海外ファンへ音楽を販売しようと努力したところ、巨額の損失をこうむってしまったとのことです。(中略) バンドの情報を正確に翻訳し、音楽ファイルのエンコーディングにかかりっきりとなり、サイトのページにはタグをつけ、宣伝し、バンド側の要請に基づき万事これで問題ないかとバンド側へ確認の電話を何度もかけた私もまた、損失をこうむりました。しかしバンド側がこうむった損失に比べれば、私の損失など微々たるものです。果たしてあなたは、全精力を傾けて、時間もお金も使って制作した何かを世に発表し万人から称讃の嵐を浴びたとしても、最後には一銭ももらえずに馬鹿を見ただけだとしたら、そんなことをまた続けたいと思うでしょうか。私には、とてもそうは思えません。(中略)", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "リーヴンは、インターネットにて楽曲を不法に頒布する多くのヴィジュアル系ファンを痛烈に批判し、その不法行為はバンドの音楽活動を阻害するのみならず、バンドが今後飛躍する可能性を(とりわけ金銭面から)摘み取ってしまうとして警鐘を鳴らした。また、日本国外のヴィジュアル系ファンの間において音楽ファイルの不法な共有が常態化しているという実態に関しては、リーヴンの指摘のみならず、アニメの情報サイト「Japanator」もリーヴンの発言を受けて記事を発表した。以下に抄訳して引用する。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "(中略)", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ベンツの指摘により、いわゆる「顔ファン」(バンドマンの外見のみでファンになり音楽には興味がないファンを指す俗語)が日本だけではなく日本国外においても存在し、むしろ「顔ファン」が日本国外では主流であることが明らかにされた。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本国内では、ヴィジュアル系アーティストのCD売上はヴィジュアル系専門レコード店での限定購入特典や、専門レコード店で開催される「インストア・イベント」に支えられることが多い。これは「AKB商法」としてしばしば批判される売り方と共通してはいるものの、限定グッズや限定写真を入手したり、あるいは本人と会話や握手をするためにCDを(一人で何枚も)購入するという購買の動機づけには結びつく。しかし「顔ファン」にとっては音楽は「意味がない」ため、ライブやイベントなどで本人と接触する機会に乏しい海外在住者は、音楽そのものにお金を払う理由がなくなる。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "リーヴンが書簡のなかで例示しているが(上記引用文では未訳のため原文 を参照されたい)、原盤制作には少なくとも一万米ドル以上の予算が必要とされる。メジャー・レーベルによるフルアルバムの原盤制作ともなれば、一千万円近くの費用が生ずる。しかし日本国外の音楽ファンは、アーティストやレーベル側から正規の購入方法を提示されても、音楽に対してあまりお金を払おうとしない。それはアーティストやレーベル側が費やした原盤制作費を回収できず、次の原盤を作る費用を捻出できないことを意味する。リーヴンらの指摘は、楽曲の違法アップロードが日本国外でのヴィジュアル系の人気を助けているものの、それがヴィジュアル系音楽業界に経済的利益を直接与えることはなく、ゆえにその衰退を助長しうることを明らかにした。", "title": "問題" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ヴィジュアル系を専門範囲とするレーベルおよび音楽プロダクションは、1980年代後期よりその存在が確認されている。", "title": "ヴィジュアル系のレーベルおよび音楽プロダクション" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "初期ヴィジュアル系バンドの音楽プロダクションとしては、YOSHIKIの主宰するエクスタシーレコードとDYNAMITE TOMMYが総指揮を執るフリーウィル・レコードが、「東のエクスタシー、西のフリーウィル」と謳われるジャンルのフロンティアとして双璧をなした。その後はアナーキストレコード、デンジャークルー、クライス、キーパーティーなどの専門レーベルが次々と台頭した。現役か、もしくはかつてヴィジュアル系ミュージシャンとして活動していた経営者が主宰する場合も少なくはない。ミュージシャンの主宰以外では、イベンターやライブハウスの系列事務所、エイベックスなどの大手レコード会社の傘下の事務所もヴィジュアル系のマネージメントを手がけている。ただし、1990年代のヴィジュアル系全盛期のブームに乗って乱立したレーベル・プロダクションには、ブームが終息し市場が収縮を始めると早々に姿を消したものも少なくない。", "title": "ヴィジュアル系のレーベルおよび音楽プロダクション" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なお、タレントを主力とする芸能事務所が手がけたケースは少ない。これらの会社の手法ではヴィジュアル系バンドを商業的に成功させることが難しく、田辺エージェンシー、ホリプロなどは撤退している。", "title": "ヴィジュアル系のレーベルおよび音楽プロダクション" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "現在刊行されている雑誌", "title": "ヴィジュアル系を扱うメディア" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "休刊・廃刊した雑誌", "title": "ヴィジュアル系を扱うメディア" } ]
ヴィジュアル系(ヴィジュアルけい)は、日本のロックバンド 及びミュージシャンの様式の一つ。bounce.comの出嶌孝次は、「特定のサウンドを示す言葉ではなく、化粧やファッション等の視覚表現により世界観や様式美を構築するもの」と定義している。一方で音楽ジャンルの1つとして扱わう文献も存在しており、グラムロック、パンク・ロック、ヘヴィメタルと関連づけられている。「ビジュアル系」とも表記され、「V系」(ブイけい)、「V-ROCK」(ブイ・ロック)とも呼称される。
{{Infobox Music genre | name = ヴィジュアル系 | color = white | bgcolor = crimson | stylistic_origins = [[アバンギャルド]]<br>[[インダストリアル]]<br>[[クラシック音楽]]<br>[[グラムロック]]<br>[[ゴシック・ロック]]<br>[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]<br>[[ニューロマンティック]]<br>[[ハードコア・パンク]]<br>[[ハードロック]]<br>[[ビートロック]]<br>[[プログレッシブ・ロック]]<br>[[ヘヴィメタル]]<br>[[ポスト・パンク]]<br>[[ポップ・ミュージック]]<br>[[ロック (音楽)|ロック]] | cultural_origins = {{JPN}} [[1980年代]]中期 | instruments = [[ボーカル]]<br>[[ギター]]<br>[[ベース (弦楽器)|ベース]]<br>[[ドラムセット|ドラムス]]<br>[[キーボード (楽器)|キーボード]] | popularity = {{Hlist-comma|{{JPN}} [[1990年代]]初期|同中期|[[2000年代]]中期}} | derivatives = | subgenrelist = | subgenres = オサレ系<br>黒系<br>コスプレ系<br>コテ系<br>白塗り系<br>ソフトヴィジュアル系<br>耽美系<br>ネオヴィジュアル系<br>ネタ系<br>キラキラ系<br>[[密室ノイローゼ#密室系・地下室系|密室系・地下室系]] | fusiongenres = | regional_scenes = [[名古屋系]] | local_scenes = | other_topics = [[サブカルチャー]]<br>[[ロリータ・ファッション]]<br>[[ゴス (サブカルチャー)]]<br>[[ゴシック&ロリータ]]<br>[[バンギャル]] }} '''ヴィジュアル系'''(ヴィジュアルけい){{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=345}}は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]<ref name="anjo">{{Cite web|和書|url=http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E7%B3%BB |title=Artwords(アートワード) ヴィジュアル系 Visual-kei |author=安城寿子 |accessdate=2018-11-23 |publisher=[[大日本印刷]]}}</ref> 及び[[音楽家|ミュージシャン]]の様式の一つ。bounce.comの出嶌孝次は、「特定のサウンドを示す言葉ではなく、[[化粧]]や[[ファッション]]等の視覚表現により[[世界観]]や様式美を構築するもの」と定義している<ref name="bounce">{{Cite web|和書|author=出嶌孝次|date=2007-05-24|url=http://www.bounce.com/article/article.php/3419/|title=第13回 - VISUAL-KEI|work=bounce.com|page=1|publisher=[[タワーレコード]]|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930153851/http://www.bounce.com/article/article.php/3419/|archivedate=2007年9月30日|accessdate=2015-05-23|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。一方で音楽ジャンルの1つとして扱う文献も存在しており<ref name="key-into">{{cite book|last=Heinrich|first=Sally|title=Key into Japan|year=2006|publisher=Curriculum Corporation|isbn=1-86366-772-5|pages=80}}</ref><ref name=ink>{{cite book|author=Josephine Yun|title=Jrock, Ink.: A concise report on 40 of the biggest rock acts in Japan|year=2005|publisher=Stone Bridge Press|isbn=1-880656-95-7|url-access=registration|url=https://archive.org/details/jrockinkconciser0000yunj}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |title=情報学研究: 学環 : 東京大学大学院情報学環紀要 |issue=第77-80号 |year=2009 |publisher=東京大学大学院情報学環 |page=77 }}</ref>、[[グラムロック]]、[[パンク・ロック]]、[[ヘヴィメタル]]と関連づけられている<ref name="grammy_kabuki">{{cite news|author=Reesman, Bryan|title=Kabuki Rock|work=Grammy.com|date=2006-11-30|url=http://www.grammylive.com/Latin/News/Default.aspx?newsID=2278|accessdate=2007-08-07|quote=Josephine Yun, author of the book Jrock, Ink., explains that visual kei originated in the late 1970s and early 1980s as Japan's rock scene began cultivating its own identity. 'It was rock 'n roll, punk rock, glam and metal with a twist – a twist just as angry and rebellious as what came before it – but a poetic one, artistic, with painstaking attention to detail,' Yun explains. She points out that "visual kei" literally translates as "visual style" and spans a wide range of musical genres.; Musically, it can be anything: American rock, British punk, glam, metal, Euro-pop, techno, new wave, electronica," explains Yun. "Visually, the influences are diverse as well: traditional Japanese dress, S&M outfits, costumes made of vinyl, leather, lace, plastic...you name it."|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928204954/http://www.grammylive.com/Latin/News/Default.aspx?newsID=2278|archivedate=2007-09-28|deadlinkdate=2021年2月|df=dmy-all}}</ref><ref name="carillion">{{cite web|author=Subha Arulvarathan|title=For those about to J-Rock|work=[[:en:The Carillon (Regina)|The Carillon]]|date=2006-04-15|url=http://www.carillon.uregina.ca/03.09.06/arts6.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011161750/http://carillon.uregina.ca/03.09.06/arts6.html|url-status=dead|archivedate=2007-10-11|accessdate=2021-02-13|quote=Visual kei is a branch of Japanese rock. It has its roots as an underground movement in the late '80s and early '90s and can be considered pastiche, as it aims to experiment with various established genres such as rock, punk, metal, goth and glam in an attempt to create a wholly new sound.}}</ref><ref name="UCLA">{{cite web|author=Chi Minnie|title=X <nowiki>[Japan]</nowiki>: Reliving the Height of Japan's Superlative Visual Rock Band|website=asiaarts.ucla.edu|date=2006-04-15|url=http://www.asiaarts.ucla.edu/article.asp?parentid=7936|accessdate=2013-06-07|quote=...a fleeting genre known to fans as 'Visual Kei'. Nonetheless, this fusion of metal, punk and gothic aesthetics ignited at least two generations of followers with its shocking visual appeal...; 'Visual Kei' as a genre has more or less expired since the late '90s. The music that derived from the scene has transformed and visual bands have generally subdued their appearance.|deadlinkdate=2021年2月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011140930/http://asiaarts.ucla.edu/article.asp?parentid=7936|archivedate=2007-10-11|df=dmy-all}}</ref><ref name="FWWeekly">{{cite web|author=Dave Gibson|title=Rising Sun|publisher=[[:en:Fort Worth Weekly|Fort Worth Weekly]]|date=1998-11-02|url=http://weeklywire.com/ww/11-02-98/fw_music.html|accessdate=2017-08-20|quote=Born of a combination of hard rock and metal, visual rock leans toward a more theatrical presentation emphasizing imagery as much as music. One only needs to watch an X-Japan video to recognize its decadent glam influences, as drummer Yoshiki is often decked out in lace stockings and torn black leather vests. However, the band's androgynous looks can be attributed as much to kayou kyoku (traditional Japanese pop) as to the eccentric costumes of '70s David Bowie and '80s hair bands. It is precisely this hodgepodge of international styles that makes visual rock such a noteworthy new genre.}}</ref>。「'''ビジュアル系'''」とも表記され、「'''V系'''」(ブイけい){{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=345}}、「'''V-ROCK'''」(ブイ・ロック)とも呼称される。 == 呼称に関して == === 起源 === 「ヴィジュアル系」という呼称は[[X JAPAN]]の『[[BLUE BLOOD (Xのアルバム)|BLUE BLOOD]]』のキャッチコピー「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」が起源だとされることが多い<ref name="bounce" />。[[星子誠一]]は、雑誌『[[SHOXX]]』を創刊する際に、[[hide|HIDE]]の言葉を引用して「ヴィジュアル&ハードショック・マガジン」というサブタイトルをつけ始めたのが始まりだと主張している<ref name="SC">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120322113830/http://www.musicman-net.com/focus/11.html |title=世界へファン層を拡大するヴィジュアル系の現状 (株)スターチャイルド 代表取締役 星子誠一氏インタビュー |publisher=Musicman-NET |language=日本語 |accessdate=2015-07-18}}</ref>。また、ヴィジュアル系という言葉が定着する前は、「お化粧系」という言葉が使われていたとも証言している<ref name="SC"/>。 1997年、[[SHAZNA]]のブレイク期に一般にも定着するようになり、「新語・流行語」<ref name="shingo">{{Cite book|和書 | author = 木村傳兵衛 | coauthor = 谷川由布子 | title = 新語・流行語大全 1945→2005 ことばの戦後史 | date = 2005年12月 | publisher = [[自由国民社]] | language = 日本語 | isbn = 978-4-426-11012-3 | asin = 4426110122 }}</ref>化した。その後、『日本俗語大辞典』では、[[谷恒生]]の小説『闇呪』の文章を引用し、音楽や男性に限定せず、少女に対しての使用例を挙げている<ref>{{Cite book|和書 | editor = 米川明彦 | title = 日本俗語大辞典 | url = http://www.tokyodoshuppan.com/book/b79642.html | date = 2003年11月 | publisher = [[東京堂出版]] | language = 日本語 | isbn = 978-4-490-10638-1 | asin = 4490106386 }}</ref>。なお、この語は日本国外においても「Visual-Kei」で通用する言葉となっている<ref name="anjo"/><ref>{{Cite book|和書 | author=櫻井孝昌|authorlink=櫻井孝昌 | title = 世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか | url = http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-77535-7 | accessdate = 2011-02-07 | date = 2009-11-30 | publisher = [[PHP研究所]] | series = PHP新書 | language = 日本語 | isbn = 978-4-569-77535-7 | asin = 4569775357 | page = 65 | chapter = 第2章 「カワイイ」に生きる女の子たち | quote = ちなみに「ビジュアルケイ」という言葉も、フランスではそのまま日本語で通じることが多い }}</ref>。 しかし、1998年にデビューした[[PIERROT]]の元ギタリストであり、[[LM.C]]の現ギタリストでもあるAijiは、シーンに属していた当事者の視点からこう語っている。{{cquote|ヴィジュアル系っていう言い方は、ライヴハウス界隈では93年ぐらいからあったはあったんですけど、それが市民権を得た後にデビューした自分らであっても、ヴィジュアル系という言葉には違和感がありました。それよりも、“お化粧系”のほうがしっくりくるというか。やっぱり10代で一番使ってた言葉だから<ref>{{Cite web|和書|url=http://e.usen.com/special/4616/ |title=Aijiからみた90年代 |publisher=USEN CORPORATION. |author=片貝久美子 |language=日本語 |accessdate=2016-06-19}}</ref>。}} === 蔑称としてのヴィジュアル系 === 上記の通り、当初この言葉自体に侮蔑的な意味合いは込められていなかった。当時のミュージシャンの多くが優先していたのはあくまでサウンドであり、メイクは世界観を表現するためであったり<ref name="geki_sugi">{{cite web|url=https://gekirock.com/interview/2018/06/luna_sea_brahman.php |publisher=激ロック|title=SUGIZO (LUNA SEA) × TOSHI-LOW (BRAHMAN) |date= 2018-06-04|accessdate=2018-10-22 |author=TAISHI IWAMI}}</ref><ref name="fm195">{{Cite journal|和書|author = 加納一美 |date = 1998-01-01|title = aki Laputa 呼応する光と闇|journal = FOOL’S MATE|publisher = [[FOOL'S MATE]]|volume = Vol.195|page = 177-179}}</ref>、観客を喜ばすためのものだったが、1990年代から2000年代にかけて、ヴィジュアル系という用語は中身よりも外面重視というような批判を込めた{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=125}}差別的な言葉だととらえられていた{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=120}}。音楽評論家の[[市川哲史]]は、当時"ヴィジュアル系"という言葉がシーンでどのように受け止められていたかについて、「僕が仕事的に関わっていた黎明期から隆盛期――あの時代のバンドたちはそもそも自分たちをV系だとは思ってなかったし、表立ってヴィジュアル系といわれることに否定はしないけど『今に見てろよコラ』みたいな、差別語・侮蔑語的な捉え方をしているバンドが多かったですねぇ」と証言している<ref name="ichikawa1" />。このように1990年代のヴィジュアル系バンドの中にはヴィジュアル系と称されるのを嫌がるものも多く{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=107}}<ref name="geki_sugi"/>、実際に[[L'Arc〜en〜Ciel]]が番組内で「ヴィジュアル系バンド」と呼ばれたことを理由に[[ポップジャム]]への出演をキャンセルする事件が起きている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=126-127}}。 ヴィジュアル系が差別された要因としてはさまざまなものが考えられる。音楽雑誌が各々ジャンルを区別し、バンドの掲載可否を決めたことが結果的にはファンや関係者の意識に作用したという説もある一方{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=121}}、「コスプレ的」「キャラクター的」な側面が嫌悪されたのではないかという説もある{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=132}}。 === 再評価 === 2010年代になると、90年代ヴィジュアル系の再評価が進み{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=122-123}}、差別用語としてとらえられることは少なくなった{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=120}}。ヴィジュアル系という言葉の意味合いが変わった経緯について、市川は現在大物の[[キッス]]も出てきた当初は批判されたので、ヴィジュアル系が最初は批判されてのちに評価されたのもそれと同じようなものではないかと述べている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=134}}。 == 傾向・特徴 == [[ファイル:Visual_kei_1.jpg|thumb|right|200px|神宮橋でヴィジュアル系(2006年3月26日)]] === 音楽的な特徴 === 音楽性は多岐にわたっており、明確な定義をあげるのは困難である<ref name="anjo"/>。しかし、基本的には日本国外の[[ハードロック]]や[[ヘヴィメタル]]、[[日本のパンク・ロック]]や[[ビートロック]]等から影響を受けた[[ロック (音楽)|ロック]]バンドが地下だといえる<ref name="bounce" />。 『[[SHOXX]]』の元編集長鈴木ぽっくんと音楽ライター長澤智典の対談では、ヴィジュアル系の音楽的な要素として[[ポストパンク|ポジティブパンク]]{{Refnest|group="†"|ポジティブパンクは[[ポストパンク]]のサブジャンルである[[ゴシック・ロック]]の一部のシーンを指す言葉。詳しくは[[ゴシック・ロック#イギリス|ゴシック・ロック]]参照。}}{{Refnest|group="†"|ポジティブパンクという言葉を広めたのは自分だと[[AUTO-MOD]]のGENETは主張している。{{Quotation|イギリス本国では、余り使われこともなく、ポジティヴパンクなんて言葉は、消えてしまいました。だから、海外では、ポジティヴパンクなんて言葉は、殆ど知られていないんです。だいたい海外ではダークウエーブ、ゴシックロック、ポストパンク、デスロックなんて呼ばれてますね。そんないい加減なポジティブパンクなんて言葉が、未だに何故日本で生き残っているかと言うと、それはこの食いしん坊ブログを書いてる張本人が策略的に日本中に広めたからに、他ならないからなのです。兎に角僕は、良く分からないポジティブパンクなんて言葉を耽美系表現主義ロックを推進する為に、積極的に使わせていただきました。(中略)でもそんなポジパンを広めている僕自身も何でこんなにネガティブな存在の自分たちが、ポジティブパンクなんて言葉を使っているんだろうと、本当のところ最初から、違和感を感じてはいたんですけどね(笑)!!|GENET|「フェティッシュダディーのゴス日記」2014年2月6日<ref name="PositivePunk">{{Cite web|和書|title=《拡散希望》時の葬列迄後9日ですよ!! |author=GENET |url= http://genet.jugem.jp/?eid=4794 |date=2014-02-06 |accessdate=2016-07-30 }}</ref>}}とのことである。}}と[[ヘヴィメタル]]が挙げられている<ref name="Myuu">{{Cite web|和書|author=鈴木ぽっくん・長澤智典|url=http://myuu.jp/?p=1395 |title=前編:対談 V(ヴィジュアル)系ロックの歴史総括&まとめ! |publisher=Myuu |language=日本語 |accessdate=2015-07-18}}</ref>。実際に[[ポストパンク]]やヘヴィメタルからの影響を語っているバンドとしては、[[TRANS RECORDS]]所属の[[ASYLUM (バンド)|ASYLUM]]<ref name="kuroyume">{{Cite web|和書|title=独占インタビュー】黒夢 PART.1 | 音楽ニュース【LikeDis】 |url=http://likedis.jp/feature/interview/4/1 |publisher=[[LikeDis]] |accessdate=2015-05-06}}</ref> や[[DEAD END (バンド)|DEAD END]]<ref>{{Cite web|和書|title=V.A.「DEAD END Tribute -SONG OF LUNATICS-」特集 MORRIE×清春対談 |url=https://natalie.mu/music/pp/deadend |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2015-05-06}}</ref> から影響を受けていた[[黒夢]]、[[デュラン・デュラン]]{{sfn|Kano|1999|p=74}}{{sfn|Kano|1999|p=83}}や[[ジャパニーズ・メタル]]{{sfn|Kano|1999|p=54}}{{sfn|Kano|1999|p=62}}{{sfn|Kano|1999|p=88}}から影響を受けていた[[Laputa]]、[[ザ・キュアー]]<ref>{{cite web |title=Q&A: Vamps |url=http://www.completemusicupdate.com/article/qa-vamps/ |publisher=CMU |accessdate=2015-05-06}}</ref> や[[GASTUNK]]<ref name="Myuu"/> から影響を受けた[[L'Arc〜en〜Ciel]]、[[ジャパン (バンド)|Japan]]<ref name="SGZ">{{Cite web|和書|author=大島暁美 |url=http://www.club-zy.com/sp/sugizo/index.php |title=緊急単独取材!SUGIZO(LUNA SEA,X JAPAN)超ロングインタビュー大特集:全4回- 日本最大級のV系動画配信サイト【club Zy.】 |publisher=Zy. |language=日本語 |accessdate=2015-07-20}}</ref> や[[AION]]<ref name="SGZ2">{{Cite web|和書|author=大島暁美 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2052549/full/ |title=LUNA SEAフェス出演者第2弾発表 敬愛するDEAD ENDら6組 |publisher=[[オリコン]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-20}}</ref> からの影響を語っている[[LUNA SEA]]<ref name="Myuu"/> などがいる。ジャンル自体が急速にメジャー化していった2000年以降のバンドは、これらの初期のヴィジュアル系バンドの他、歌謡曲等から影響を受けていることが多く、より洗練され、ポップな様式となった<ref name="CINRA">{{Cite web|和書|author=市川哲史|date=2015-02-26|url=https://www.cinra.net/article/interview-201502-acidblackcherry?page=2|title=Acid Black CherryはV系か?サブカルを取り込んだ独自の哲学|work=CINRA.NET|page=2|accessdate=2015-05-17}}</ref>。一方で[[MERRY]]や[[MUCC]]、[[蜉蝣 (バンド)|蜉蝣]]等、華やかさや煌びやかさよりも、哀愁や官能美、グロテスクな表現やレトロな表現等で魅せるバンドも存在する<ref name="MERRY">{{Cite web|和書|author=冬将軍|date=2015-03-23|url=https://realsound.jp/2015/03/post-2800.html|title=ネオ・ヴィジュアル系の旗手、MERRYはどう進化してきた?その異形のスタンスを振り返る|work=Real Sound|page=1|accessdate=2015-05-17}}</ref>。 === 外見的な特徴 === [[ファイル:Visual kei.jpg|thumb|right|200px|ヴィジュアル系バンド([[MALICE MIZER]])の[[コスプレ]]]] 視覚表現もバンドによって様々であるといわれている<ref name="anjo"/>。 1980年代は、[[ゴシック・ファッション]]のような黒服が王道であった。1990年代になると煌びやかなファッションが主流となり、[[cali≠gari]]のように80年代の王道の流れにあるバンドは異色な存在となる<ref name="RealSound1">{{Cite web|和書|author=冬将軍|date=2014-09-20|url=https://realsound.jp/2014/09/post-1335.html|title=cali≠gariはいかにしてV系シーンに一石を投じたか?音楽性の進化とバンドの在り方を考察|work=Real Sound||page=1|accessdate=2015-05-18}}</ref>。ヴィジュアル系バンドにとってメイクは音楽とともに自己表現の一つであったが、2000年以降はブームと時流により、ヴィジュアル系はメイクをするということが前提とされた<ref name="RealSound2">{{Cite web|和書|author=冬将軍|date=2014-09-20|url=https://realsound.jp/2014/09/post-1335_2.html|title=cali≠gariはいかにしてV系シーンに一石を投じたか?音楽性の進化とバンドの在り方を考察|work=Real Sound|page=2|accessdate=2015-05-18}}</ref>。2001年に結成した[[baroque]]は、後に'''オサレ系'''と呼ばれるポップでカラフルなメイクと衣装の原点となる{{sfn|Ohshima, Sugie|2013|p=120}}。オサレ系以外のジャンルに、ゴージャスな衣装と濃いメイクの'''コテヴィ系'''(コテコテのヴィジュアル系。コテ系とも称される<ref name="anjo"/>。)、オサレ系以上にストリート的でナチュラルメイクの'''ソフヴィ系'''(ソフトヴィジュアル系)、黒いエナメルや革に鋲を大量に身に付ける'''黒系'''、派手な甲冑や着ぐるみ、制服などを着る'''コスプレ系'''、白い[[ドーラン]]を塗り、和服や昭和のような服を着ていることが多い'''白塗り系'''等がある{{sfn|Ohshima, Sugie|2013|pp=32-34}}。 === ファンの特徴 === {{Main|バンギャル}} ヴィジュアル系バンドのファンの女性を[[バンギャル]]、男性をギャ男という。ファンの中には、バンドのメンバーと同じような服や、バンドの衣装を作っているブランドの同じ服を着たり、手作りをしたりといった、[[コスプレ]]をする者が多い{{sfn|Ohshima, Sugie|2013|pp=32-34}}。 == 歴史 == === ヴィジュアル系黎明期 === ヴィジュアル系という言葉がまだ存在しなかった頃に染髪と化粧をしていたバンドとして、1977年に結成されたヘヴィメタルバンドの[[44MAGNUM]]<ref name="Myuu"/>、[[プログレッシブ・ロック]]バンドの[[ノヴェラ|NOVELA]]がいる<ref>「ビジュアル系の偉大なる“先駆者”たち」『X JAPANと「ヴィジュアル系」黄金伝説』 加藤明典、宝島社〈別冊宝島821 音楽誌が書かないJポップ批評27〉、2003年、96-97頁。ISBN 4-7966-3382-0</ref>。 ==== ヘヴィメタル ==== {{Main|ジャパニーズ・メタル#1980年代前期}} 1980年代に入ると、[[ヘヴィメタル]]が流行を迎える<ref name="kawashima">{{Cite web|和書|url=http://www.hmv.co.jp/news/article/1506040087/ |title=SIGH 川嶋未来氏コラム最新版!|author=川嶋未来 |publisher=HMV |language=日本語||accessdate=2015-08-29}}</ref>。1984年には、後のヴィジュアル系のシーンに大きな影響を与えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://avex.jp/deadendtribute/index.html |title=DEAD END TRIBUTE |publisher=avex |language=日本語|accessdate=2015-08-29}}</ref>[[DEAD END (バンド)|DEAD END]]が結成されている。 1986年になると、X(1992年に「[[X JAPAN]]」に改名)の[[YOSHIKI]]は[[エクスタシーレコード]]を設立し{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=360}}、「[[オルガスム (Xの曲)|オルガスム]]」を発売。 ==== パンク ==== {{Main|日本のパンク・ロック#1980年代前半}} 1977年に音楽雑誌[[FOOL'S MATE]]が創刊される<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20130628225715/http://www.musicman-net.com/business/21398.html |title=FOOL'S MATEが定期刊行を廃止、季刊発行へ |publisher=musicman-net |language=日本語|date=2012-10-31|accessdate=2015-08-29}}</ref>。初代編集長を務めた北村昌士は、のちにイギリスのポストパンク、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]の流れを受けて[[TRANS RECORDS]]を設立している<ref name="okite">{{Cite web|和書|url=https://www.loft-prj.co.jp/interview/0204/10.html |title=掟ポルシェ インタビュー |author=加藤梅造 |language=日本語|accessdate=2015-08-29}}</ref>。同じくイギリスのポスト・パンクシーンの影響を受けたバンドとしては、「1979年秋から1980年中期までロンドンに帯在し、[[バウハウス (バンド)|バウハウス]]に多大な影響を受け<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.auto-mod.com/history.html |title=AUTO-MOD History |language=日本語|accessdate=2016-07-03}}</ref>」たGENETが1980年に結成した[[AUTO-MOD]]などがある。 1982年には、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]バンド[[一風堂 (バンド)|一風堂]]がシングル「[[すみれ September Love]]」をリリースし、ヒットさせる<ref name="drill108">{{Cite web|和書|url=http://www.drillspin.com/articles/view/824 |title=第108回:「ロックと日本の60年」第9章 80s前半、MTVとポップス黄金時代 |publisher=drill spin |language=日本語|author=沢田太陽|date=2015-07-07|accessdate=2015-12-09}}</ref>。のちに、この曲は[[SHAZNA]]や[[メガマソ]]といったヴィジュアル系バンドによってカバーされることとなった。 1985年ごろになると[[THE WILLARD]]、[[LAUGHIN' NOSE]]、[[有頂天 (バンド)|有頂天]]のインディーズ御三家を中心にインディーズブームが起こる<ref name="willard">{{Cite web|和書|url=https://okmusic.jp/news/52720 |title=インディーズ黎明期の旗手、THE WILLARDが放った インディペンデントの矜持、『GOOD EVENING WONDERFUL FIEND』 |author=帆苅竜太郎 |publisher=OK Music |language=日本語||accessdate=2015-08-29}}</ref>。黒夢の[[人時]]は高校時代に[[LAUGHIN' NOSE]]のコピーをしたと語っている<ref name="kuroyume"/>。[[清春]]も当時のインディーズシーンについて、「ビジュアルが衝撃的だった。男なのに化粧してる。こんな世界もあるんだって<ref name="zakzak">{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/people/news/20121116/peo1211160713000-n1.htm |title=【清春】たどり着いた“極彩色”の音楽 咲き…散り…REBORN |publisher=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]|language=日本語|date=2012-11-16|accessdate=2015-08-29}}</ref>」と述べ、なかでもTHE WILLARDのヴォーカリストJUNからの影響を公言している<ref name="willard"/>。 1986年、[[COLOR (ロックバンド)|COLOR]]の[[ダイナマイト・トミー]]は[[フリーウィル]]を設立し、「MOLT GRAIN」を発売する。 1980年代のシーンについて、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]バンド[[ロマンポルシェ。]]のメンバーである[[掟ポルシェ]]は「80年代って情念の塊のような時代だったと思うんです。(中略)例えば、80年代はメイクしなくちゃステージに立てなかった。つまり何か人と違ったことをしなければステージに出れないのが80年代だった」と振り返っている<ref name="okite"/>。 === ヴィジュアル系黄金時代 === 1980年代の終わり頃から1990年代のはじめにかけて、1980年代の音楽シーンの影響を受けたバンドが現れる。音楽ジャーナリストの沢田太陽は、「(この時期に現れたバンドは)[[X JAPAN]]や[[DEAD END (バンド)|DEAD END]]のようなメタルの影響の強いものや、[[BUCK-TICK]]のような80sのゴス系ニュー・ウェイヴのタイプ、ハードコア・パンクからメタルに進化した[[Gastunk]]に影響されたものまで雑多なものでしたが、それらはやがて外見上の傾向で括られ“ヴィジュアル系”と呼ばれるように」なったと分析している<ref name="drill110">{{Cite web|和書|url=http://www.drillspin.com/articles/view/826 |title=第110回:「ロックと日本の60年」第11章 バブルの喧噪に射し込んだニルヴァーナ |publisher=drill spin |language=日本語|author=沢田太陽|date=2015-07-07|accessdate=2015-12-09}}</ref>。上記のバンド以外には[[Madame Edwarda]]{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=10}}<ref name="anjo"/> や[[DER ZIBET]]{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=10}}、[[AUTO-MOD]]<ref name="anjo"/>、[[D'ERLANGER]]、[[COLOR (ロックバンド)|COLOR]]、[[かまいたち (バンド)|かまいたち]]、[[BY-SEXUAL]]、[[AURA (ロックバンド)|AURA]]、[[ZI:KILL]]などもヴィジュアル系の先駆者として挙げられる。 1990年には、ヴィジュアル系専門誌[[SHOXX]]が創刊される。1989年に結成された[[LUNA SEA]]が1991年に[[エクスタシーレコード]]からアルバムを発表。この頃には「エクスタシー・サミット」と呼ばれるエクスタシーレコード所属のバンドが一堂に会するライブイベントが行われていた。 90年代初頭ごろから[[名古屋系|名古屋のシーン]]も活性化している<ref name="nagoya">{{Cite web|和書|url=http://v-kei.jp/series/?seriesId=88 |title=SHUN.'S FAVORITE THINGS Vol.30 90年代名古屋系 |accessdate=2015-08-17|publisher=Visulog |date=2015-01-27}}</ref>。インディーズシーンでは[[黒夢]]が[[Silver-Rose]]と並んで「名古屋2大巨頭」とされるまでになった<ref name="nagoya"/>。 90年代初頭に結成されたバンドには、黒夢のほかに[[L'Arc〜en〜Ciel]]、[[La'cryma Christi]]、[[PENICILLIN]]、[[FANATIC◇CRISIS]]、[[MALICE MIZER]]、[[SIAM SHADE]]、[[Laputa]]、[[ROUAGE]]、[[SHAZNA]]、[[cali≠gari]]などがおり、これらのバンドが後にシーンを盛り上げていくことになる。 1994年に[[黒夢]]<ref name="Nico">{{Cite web|和書|author=市川哲史・藤谷千明|url=https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar805436 |title=【新連載】市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第1回「元祖・フィジカルエンターテイナーとしてのYOSHIKI」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.338 ☆ |publisher=[[ニワンゴ]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-18}}</ref>、[[GLAY]]<ref name="Nico"/>、[[L'Arc〜en〜Ciel]]<ref name="Nico"/> がメジャーデビューを果たす。同年、Silver-Roseが解散し、後にギターの[[Kouichi]]は[[Laputa]]<ref>[[#CITEREFKano1999|extrax Laputa(1999)]] pp.104-105</ref> に、ベースのKaikiは[[ROUAGE]]に、ドラムのKyoは[[Merry Go Round]]にそれぞれ加入している。また、この年には L.S.B.と題して[[LUNA SEA]]、[[SOFT BALLET]]、[[BUCK-TICK]]が全国ツアーを敢行<ref name="LSB2">{{Cite web|和書|author=市川哲史|url=https://realsound.jp/2015/05/post-3352_2.html |title=【市川哲史の「すべての音楽はリスナーのもの」第17回『LUNATIC FEST.』が蘇らせる、90年代V系遺産 市川哲史が当時の秘話を明かす |publisher=リアルサウンド |language=日本語 |accessdate=2015-07-20}}</ref>。各地の公演では[[L'Arc〜en〜Ciel]]、[[THE YELLOW MONKEY]]、[[THE MAD CAPSULE MARKETS]]、[[DIE IN CRIES]]らがオープニングアクトを務めた<ref name="LSB2"/>。 '''ヴィジュアル四天王'''と呼ばれる[[La'cryma Christi]]、[[SHAZNA]]、[[FANATIC◇CRISIS]]、[[MALICE MIZER]]も活動を始める。97年にはSHAZNA<ref name="Nico"/> がメジャーデビューシングル「[[Melty Love]]」を累計88万枚、2ndシングル「[[すみれ September Love]]」を累計65万枚を売り上げ、1997年の[[日本有線大賞]]最優秀新人賞を受賞している。また[[east west japan]]に移籍した[[PENICILLIN]]も6thシングル「[[ロマンス (PENICILLINの曲)|ロマンス]]」を累計90万枚売り上げた。ただし、トリプル・ミリオンになったアルバムやダブル・ミリオンを達成したシングルはほとんどなく、CDバブル時代にもっとも活躍したのはヴィジュアル系ではなかったとされる{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=189-190}}。一方でライヴを観に行くファンは他ジャンルよりも多かったため、市川哲史は「V系が90年代音楽シーンにもたらした最大の功績とは、(中略)ロックバンドのライヴの規模を圧倒的に拡大し」、「大道具やらサウンド・システムやら照明やらコンサートに関するあらゆるノウハウ」を発展させた点にあると述べている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=190-191}}。 アリーナやドームクラスの会場でワンマンライヴをするバンドも現れ、[[PIERROT]]はメジャーデビューから[[日本武道館]]と[[西武ドーム]]でのワンマンライブに至るまでの当時の最短記録を更新した。1996年には、インディーズバンドを紹介する音楽番組「[[Break Out (テレビ番組)|Break Out]]」の放送が始まる。1999年には[[DIR EN GREY]]、[[Janne Da Arc]]などがメジャーデビューしている。 === ヴィジュアル系氷河期 === 往時は隆盛を極めたヴィジュアル系であったが、2000年以降、世間からは既に「終わった」ものであると見なされ、'''ヴィジュアル系氷河期'''を迎える<ref name="asai2">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/17518?page=2 |title=金爆との出会いは麻雀!? 人気DJ浅井博章さんが語る“V系シーン今昔” |accessdate=2015-05-23 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2013-10-04 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=2 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。 しかし、2002年には[[cali≠gari]]、[[Psycho le Cemu]]がメジャーデビューし、これらの世代のバンドの功績が、その後の'''ネオ・ヴィジュアル系ブーム'''へと繋がってゆくこととなる<ref name="asai2" />。2003年には[[MUCC]]、[[baroque]]がメジャーデビューする。 === ネオ・ヴィジュアル系ブーム === 2004年前後に台頭した新たなヴィジュアル系アーティストを、'''ネオ・ヴィジュアル系'''と呼ぶ{{Refnest|group="†"|これに対して、90年代のヴィジュアル系を'''オールドスクール・ヴィジュアル系'''と表現することもある{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=357-358}}<ref name="ichikawataidan2">{{Cite web|和書|author=市川哲史 × 藤谷千明 |date=2016-07-31|url=https://realsound.jp/2016/07/post-8568_2.html |title=市川哲史『逆襲の〈ヴィジュアル系〉-ヤンキーからオタクに受け継がれたもの-』発売記念 PART.3 LUNA SEAの“ROSIER”はまさに〈VISUAL SHOCK〉だった 市川哲史×藤谷千明〈V系〉対談 |publisher=real sound |language=日本語|accessdate=2016-08-05}}</ref>。}}。ヴィジュアル系の専門媒体、専門レコード店、V箱(ぶいばこ)と呼ばれる専門ライブハウスを中心にムーブメントを起こしたこれらのバンドについて、[[SHOXX]]編集部は「ルックスの良さがまず先にあって、ある意味でアイドル的な盛り上がり方に似ています」、「ライヴも、よりエンターテインメント性が強く、芝居の要素を取り入れるバンドも目立っていて、そんなライヴの雰囲気をファンは楽しんでいるようです」と述べた<ref name="oricon23482">{{Cite web|和書|author=ORICON STYLE|authorlink=オリコン|date=2006-06-07|url=https://www.oricon.co.jp/news/23842/|title=新時代に突入!ネオ・ヴィジュアル系バンド台頭の兆し|publisher=[[オリコン|オリコンDD]]|language=日本語|accessdate=2010-07-25}}</ref>。 [[the GazettE]]、[[ナイトメア (バンド)|ナイトメア]]、[[アリス九號.]]、[[アンティック-珈琲店-]]、[[シド (バンド)|シド]]などのバンドが[[オリコンチャート]]でヒットを記録する。また、2009年10月下旬には、初のヴィジュアル系[[ロック・フェスティバル]]である「[[V-ROCK FESTIVAL]] '09」が[[幕張メッセ]]にて開催され<ref name="oriconbiz" />、ネオ・ヴィジュアル系をはじめとして多くのヴィジュアル系バンドが出演した。 しかし、レコード会社がネオ・ヴィジュアル系ブームの絶頂期にバンドのメジャーデビューを企図してから、実際にメジャーデビューが果たされるころには既にブームが衰退しかけていた<ref name="dancho2">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/11436?page=2 |title=【V系】ヴィジュアル系はもう「終わり」?「2012年のV系を振り返る」第3回(ゲスト:NoGoD 団長) |accessdate=2015-04-29 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2012-12-31 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=2 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>{{Refnest|group="†"|たとえば、Dはオリコンチャートの最高順位をファーストアルバム『[[Genetic World]]』の11位からセカンドアルバム『7th ROSE』で37位に下げ、メガマソはファーストアルバム『M of Beauty』の最高順位が76位となり、宇宙戦隊NOIZはファーストアルバム『GREAT ROCK'N' ROLL HEROES』 がベスト盤でありながらも最高順位を158位(その後のシングル『BRAND NEW WORLD』は最高順位117位)に留め、D'espairsRayはファーストアルバム『REDEEMER』が最高順位39位であった。宇宙戦隊NOIZは、その後再びインディーズレーベルへ移籍している。}}。 ヴィジュアル系シーンでは特筆すべき音楽専門誌であった『[[Neo genesis]]』は、2011年3月8日発売のVol.53を最後に、以降の新刊の発行が停止され、『Zy.』は、2011年4月1日発売のNo.56を最後に休刊した。『[[FOOL'S MATE]]』も、2012年12月発売の第376号をもって、以降の新刊の発行を停止した<ref name="fm_info_main">{{Cite web|和書|author=羽積秀明 |date=2012年10月 |url=http://www.fools-mate.co.jp/pc/info_main.html |title=本誌読者の皆さまへ |work=FOOL'S MATE OFFICIAL WEB |publisher=[[FOOL'S MATE]] |accessdate=2012-12-18}}</ref>。 2010年代に入ってからは、[[Alice Nine]]<ref>{{Cite web|和書|date=2011-01-07 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000066878 |title=Alice Nine、初武道館の前日は「楽しみで寝れませんでした」 |work=[[BARKS]] |publisher=[[ITmedia]] |language=日本語 |accessdate=2011-06-24}}</ref>、[[シド (バンド)|シド]]<ref>{{Cite web|和書|author=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |date=2011-04-20 |url=https://natalie.mu/music/news/48158 |title=「ここはホーム」シド、ツアー代々木公演でファンに感謝 |publisher=ナターシャ |language=日本語 |accessdate=2011-09-11}}</ref>、[[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]<ref>{{Cite web|和書|author=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|date=2012-01-24|url=https://natalie.mu/music/news/63240|title=溶接!書き初め!全裸!? ゴールデンボンバー衝撃の初武道館|publisher=ナターシャ|accessdate=2012-05-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|date=2012-06-21|url=https://natalie.mu/music/news/71547|title=金粉!生キス!リレー!ゴールデンボンバー抱腹絶倒3時間半|publisher=ナターシャ|accessdate=2012-11-15}}</ref> などが[[日本武道館]]でワンマンライブを行った。 === 再結成 === 2007年に、[[D'ERLANGER]]が再結成する{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=298}}。2000年代の末ごろには他にも[[DEAD END (バンド)|DEAD END]]が再結成を果たし<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000050783 |title=伝説のバンド、DEAD END復活 |publisher=[[BARKS]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref>、[[X JAPAN]]が『[[攻撃再開 2008 I.V.〜破滅に向かって〜]]』と題して復活コンサートを行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1600104/ |title=【インタビュー】YOSHIKIが語った抜け殻の2年間― |publisher=[[女性自身]] |language=日本語 |accessdate=2021-02-22}}</ref> など、ジャンルの始祖とされるバンドの再活動が行われた。このように、90~00年代を駆け抜け、解散・休止したバンドメンバーの活躍が徐々に増えはじめ、根強い人気を得たが、テレビへの露出などは少なく、一般的な知名度は全盛期と比べるとかなり低くなる。[[Angelo]]、[[LM.C]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/62468|title=LM.C、5周年の締めくくりに初武道館「一緒に輝こうぜ!」|accessdate=2012-11-15|author=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|date=2012-01-10|publisher=ナターシャ|language=日本語}}</ref> はタイアップの反響も大きくオリコンチャート10位以内に入り、日本武道館公演も行った。[[Acid Black Cherry]]は[[大阪城ホール]]、[[横浜アリーナ]]等を含めたツアーを行い、オリコンチャートは全て5位以内を現在もキープし続けている。 また、ヴィジュアル系ロック・フェスティバルの「[[V-ROCK FESTIVAL]] 2011」が、二年ぶりとなる2011年10月23日に[[さいたまスーパーアリーナ]]で開催された<ref>{{Cite web|和書 |author=西村綾乃|date=2011-10-28|url=http://recochoku.jp/pickup/111028b/index.html|title=V-ROCK FESTIVAL’11レポ(@さいたまスーパーアリーナ)|publisher=[[レコチョク]]|language=日本語|accessdate=2011-12-09}}</ref>。 前年に一夜限りの復活をした[[La'cryma Christi]]が2010年にはツアー開催を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/70055/full/ |title=ラクリマ再結成! 来年ツアーへ 世界初のV-ROCKフェス初日に1万5000人 |publisher=[[オリコン]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref>、同じく前年に一夜限りの復活をしていた[[黒夢]]も再始動をし<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/26997 |title=解散から1年を経て黒夢本格的復活&SADSも7年ぶり再始動 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref>、[[LUNA SEA]]も「LUNA SEA REBOOT」と題して再活動を宣言する<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.techinsight.jp/2013/12/lunasea-syuumaku-livemon20131201.html |title=【エンタがビタミン♪】LUNA SEAが終幕と復活の真相語る。「ここで終わらせるのは罪だと思った」。 |publisher=[[Techinsight]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref> など、90年代に活動したバンドの再活動が発表された。また、限定復活したバンドとして2012年にライブを行った[[MASCHERA]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/maschera2012/status/206011218266296320 |title=MASCHERAのツイート |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref>、2014年にライブを行った[[PIERROT]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000109071 |title=【ライヴレポート】PIERROT、復活ライヴ最終日に「ここで終わりだということも言いません」 |publisher=[[BARKS]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref> がいる。 2013年には、ジャンルに大きな影響を与えたDEAD ENDへのトリビュートとして[[LUNA SEA]]、[[L'Arc〜en〜Ciel]]、[[黒夢]]、[[SIAM SHADE]]、[[cali≠gari]]、[[Janne Da Arc]]などのメンバーが参加した『[[DEAD END Tribute -SONG OF LUNATICS-]]』が発売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://avex.jp/deadendtribute/index.html |title=DEAD END Tribute -SONG OF LUNATICS- |publisher=[[avex]] |language=日本語 |accessdate=2015-07-19}}</ref>。 2015年には、[[LUNA SEA]]が幕張メッセで開催したロック・フェスティバル「[[LUNATIC FEST.]]」を開催し、ヴィジュアル系を中心とした1980年代、1990年代、2000年代、2010年代で活躍したロックバンドが一堂に会し、シーンを盛り上げた{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=77-92}}。 2016年7月25日には、[[X JAPAN|X Japan]]の[[YOSHIKI|Yoshiki]]、[[LUNA SEA]]の[[SUGIZO]]、[[GLAY]]の[[TAKURO]]が共同会見を開き、2016年10月14日(金)、15日(土)、16日(日)の3日間、幕張メッセにて3daysのV系フェス<[[VISUAL JAPAN SUMMIT]] 2016 Powered by [[楽天グループ|Rakuten]]>が開催されることを発表<ref>https://www.barks.jp/news/?id=1000129279</ref>。 2019年には[[FANATIC◇CRISIS]]のメンバー3人が「FANTASTIC◇CIRCUS」を結成し再始動(なお本人たちは「転生」だとしている)、2022年以降ライブ活動も本格的に再開している<ref name=rn230509>[https://rocketnews24.com/2023/05/09/1837763/ 【直撃】あの伝説のバンドに「 ビジュアル系って呼ばれてどう思ってたの?」って聞いてみた] - ROCKET NEWS 24・2023年5月9日</ref>。 === 日本国外への進出 === 1990年代初頭、X JAPANが日本国外への進出を模索するようになる{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=254}}。1990年代末ごろになるとLUNA SEAやGLAYがアジア公演を行い{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=254}}、1999年には[[Laputa]]が香港のロックイベント「Rock'n Roll Circuit In Hong Kong」に参加し、イベントのトリをつとめている<ref>『FOOL'S MATE Vol.219』、 FOOL’S MATE、2000年、p.39</ref>。このように、1990年代にも日本国外への進出の試みはあった。とはいえ、このような動きは縮小する日本国内の市場にかわるマーケットを海外に求めた音楽業界が積極的に主導していたものであり、YOSHIKIなど一部の例外を除けば、ミュージシャンの多くは消極的だったとされる{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=256-257}}。 2000年代に突入すると、[[Myspace]]や[[YouTube]]を通してインディーズヴィジュアル系バンドの人気も高まっていった{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=254}}。また、[[DIR EN GREY]]、[[MUCC]]、[[Miyavi]]らが日本国外で単独ツアーを果たしている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=254-255}}。このようなグローバルでの展開も手伝って、日本国外においても[[YOHIO]]やMaleRose、[[Lilith]]などのヴィジュアル系アーティストがうまれている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=266}}。 現在、ヴィジュアル系の人気はアジア圏では保たれているものの、ヨーロッパ圏では下落しており、そのシェアは[[K-POP]]に奪われたとされる{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=261}}。2000年代後半にヨーロッパでヴィジュアル系が人気を博した際、実力のないバンドが多数日本国外へと出かける一方で人気のあるバンドはなかなか国外ツアーを行わなかったことが、このような状況を招いたのではないかとライターの藤谷千明は指摘している{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=261-262}}。藤谷は日本国外のファンの需要を無視してきた音楽業界の「<上から目線>」を批判しており、今後ヴィジュアル系アーティストがアジア圏などでツアーを行う際には現地の状況をよく調査し、各国で盛んなSNSをアーティスト自身が使うなど、積極的な海外戦略を展開することが肝要なのではないかと結論づけている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=263-272}}。 === ヴィジュアル系における女性アーティスト === ヴィジュアル系の音楽的基礎となったゴシックロックシーンにおいては、[[:en:Xmal Deutschland|イクスマル・ドイチュラント]]<ref>{{Cite web|url=http://www.allmusic.com/artist/xmal-deutschland-mn0000684256/biography |title=Xmal Deutschland |author=Michael Sutton |publisher= allmusic |language=English |accessdate=2016-08-19}}</ref> や[[スージー・アンド・ザ・バンシーズ]]<ref>{{Cite web|url=http://www.allmusic.com/artist/siouxsie-and-the-banshees-mn0000748222/biography |title=Siouxsie and the Banshees |author=Jason Ankeny |publisher= allmusic |language=English |accessdate=2016-08-19}}</ref> などのように女性アーティストが活躍することもあった。日本においても、ゴシックロックバンドGille' Lovesのヴォーカリストであり、のちにヴィジュアル系シーンに属することとなる[[Lucifer Luscious Violenoue]]が1980年代から活動を行っている。 しかし、依然としてヴィジュアル系シーン内での女性アーティストの総数は低い傾向にあった<ref name="et">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000070929 |title=男前な女性V系バンド、exist†traceが“女子としての夢”を語った |author=赤木まみ |publisher= barks |language=日本語 |accessdate=2016-08-19}}</ref>。その後、2004年には全員女性のバンド[[exist†trace]]が結成されているが、彼女らは「音楽をやりたいんじゃなくて、他のバンドのメンバーと仲良くなったりしたいんでしょ?」というようにみられたり<ref name="RO69">{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/feat/existtrace_201409/page:1 |title=exist✝trace「リアル」と「マジカル」の臨界点。渾身の2nd『WORLD MAKER』を語る! |author=高橋智樹|publisher= RO69 |language=日本語 |accessdate=2016-08-23}}</ref>、「なんで女がヴィジュアル系をやってるの?」というようなバッシングを受けたこともあったといい<ref name="et"/>、女性アーティストがシーンで受け入れられづらい現状が浮き彫りとなった。 == 評価と影響 == === 市川哲史による評価 === 音楽評論家の市川哲史は、ヴィジュアル系バンドマンの多くは音楽的には真面目だったと評価している{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=139}}。市川によれば、ヴィジュアル系ミュージシャンは好きなバンドやその背景にあるバンドを聴きあさる傾向がある一方で{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=139}}、多様な機材を用いたり、楽器の練習に真面目に取り組むものもいたりと音楽への探究心が強かったという{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|pp=140-141}}。 また、市川とライターの藤谷千明の対談では、ある年代のロックファンにとってはヴィジュアル系が日本国外のロックの入り口として機能していたことが指摘されている{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=73}}。実際、ヴィジュアル系のミュージシャンは雑誌のインタヴューやラジオ等で音楽を盛んに紹介しており、ファンの側も紹介された音楽を実際に聞いてみるなど、音楽に関しては真面目だったという{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=139}}。 ジャンル自体には「世界のどこにもない日本オリジナルのロック」であると述べるなど、音楽的に肯定的な評価をしているといえる{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=131}}。 === マーティ・フリードマンによる評価 === [[マーティ・フリードマン]]によれば、ヴィジュアル系は[[X JAPAN]]の功績によって、一般的に広く認知され、曲調に関してもヘヴィメタルを基軸にしながらもその実は非常に広い音楽性の幅を持っているという<ref>ドキュメンタリー映画「グローバル・メタル」(2008年)でのマーティのインタビューより。</ref>。本来、ひとりの人間が好む曲調はある程度の幅に収まるはずであるがX JAPANは「[[Silent Jealousy]]」のような過激かつ攻撃的・高速の曲から「[[Say Anything]]」のようなバラードまで発表しており、ファンもそれを受け入れている。それはX JAPANがその外見と共にサウンドもブランドとして確立した証拠であるとしている<ref name="marty">{{Cite web|和書|author=マーティ・フリードマン|authorlink=マーティ・フリードマン|coauthors=日経トレンディネット|date=2007-11-07|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20071106/1004227/?ST=life&P=1|title=歌舞伎を逆輸入!? 日本にビジュアル系ロックバンドが多いわけ、そしてX JAPANの功績とは…|work=マーティ・フリードマンのJ-POPメタル斬り/延長戦|publisher=[[日経BP]]|language=日本語|accessdate=2008-01-01}}</ref>。また、日本のヴィジュアル系は世界に誇れる最高の文化であるとしている。現在のアメリカやイギリスやヨーロッパでは、外見をより重要視するようなバンドは蔑視される傾向にある(日本においても一部そういった傾向が見られる場合が少なくない)が、ロックバンドは[[キッス]]のようにイメージもかっこよくあるべきであるとの意見を述べている。さらに、外見も表現の一部として取り入れている[[J-POP]]ならではの現象は、「形」を重視する日本文化、特に男性が化粧をする[[歌舞伎]]文化との関連性をも推測している。キッスは歌舞伎に影響されたという説もあるため、ヴィジュアル系は日本文化の逆輸入とも捉えられる、としている<ref name="marty" />。ただし、キッスの創立者である[[ジーン・シモンズ (ミュージシャン)|ジーン・シモンズ]]は、自伝で歌舞伎からの影響を否定している。 === ヴィジュアル系シーンの衰退・終焉 === [[NoGoD]]の団長は2012年12月31日時点の取材に応じ、本人の活動経験も踏まえたうえで、『「ヴィジュアル系」って、もうとっくに終わってる』、『音楽業界の中で「ネオヴィジュアル系ブーム」と言われてた頃には本当はもう終わりかけていた』との見解を示した<ref name="dancho2" /><ref name="dancho1">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/11436 |title=【V系】ヴィジュアル系はもう「終わり」?「2012年のV系を振り返る」第3回(ゲスト:NoGoD 団長) |accessdate=2015-05-23 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2012-12-31 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=1 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。ヴィジュアル系シーンは、若手のインディーズ・バンドの活躍がメジャーも含めたシーン全体の活性化へと結びついていた側面があった<ref name="dancho2" />。しかし、衰退の著しいヴィジュアル系シーンを嫌気し、新たに参入する若手は減少してしまった<ref name="dancho4">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/11436?page=4 |title=【V系】ヴィジュアル系はもう「終わり」?「2012年のV系を振り返る」第3回(ゲスト:NoGoD 団長) |accessdate=2015-04-29 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2012-12-31 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=4 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。結果として、ライブハウスに足を運ぶ客数は、ネオ・ヴィジュアル系の流行期であった2005年と比して3分の1にまで減少した<ref name="dancho2" /><ref name="dancho4" />。 「ヴィジュアル系の父」とも称される[[音楽評論家]]の[[市川哲史]]は2013年6月28日時点の取材に応じ、「ヴィジュアル系は終わった」との見解を示した<ref name="ichikawa1">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/14906 |title=金爆は「最後のV系後継者」!? "V系の父"市川哲史ロングインタビュー |accessdate=2015-05-23 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2013-06-28 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=1 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。市川は、[[DIR EN GREY]]や[[MUCC|ムック]]の世代のバンドまでは確固たる信念に基づくヴィジュアル系としての必然性を備えていたことを認めたが、それ以降の世代のバンドに関しては単にヴィジュアル系という様式の上辺のみをなぞっていたにすぎず、彼らがヴィジュアル系であることの必然性は失われたと批評した<ref name="ichikawa1" />。NoGoDの団長も、「別にヴィジュアル系じゃなくてもいい、音楽が出来ればいい」という姿勢のバンドに対し「信念が曲がった」と批判し、「最初にヴィジュアル系をはじめようと思った理由はなんなのか聞きたいです」と疑念を呈した<ref name="dancho3">{{Cite web|和書|author=藤谷千明|date=2012-12-31|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/11436?page=3|title=【V系】ヴィジュアル系はもう「終わり」?「2012年のV系を振り返る」第3回(ゲスト:NoGoD 団長)|work=ウレぴあ総研|page=3|accessdate=2015-05-18}}</ref>。また、「人と同じような化粧をすることが目的になった時点で、このジャンルの精神は死んでる」と述べた<ref name="dancho3" />。 市川も、NoGoDの団長も、[[紅白歌合戦]]の出場経験を複数回有する[[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]というバンドのみが際立って広く世間一般に受け入れられた点に関しては、好意的に評価した<ref name="ichikawa1" /><ref name="dancho2" /><ref name="dancho1" />。しかし、市川はゴールデンボンバーをもってしてヴィジュアル系の「最後の後継者」であると述べ、彼らを後継するバンドが今後現れる可能性はなく、ヴィジュアル系はゴールデンボンバーによって終わりを告げられたと結論づけた<ref name="ichikawa4">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/14906?page=4 |title=金爆は「最後のV系後継者」!? "V系の父"市川哲史ロングインタビュー |accessdate=2015-05-23 |last= |first= |author=藤谷千明 |authorlink= |coauthors= |date=2013-06-28 |year= |month= |format= |work=ウレぴあ総研 |publisher=[[ぴあ]] |page=4 |pages= |quote= |language= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。ヴィジュアル系のシーン全体を見ると、ヴィジュアル系そのものが支持されたという論証には至らなかった<ref name="dancho2" /><ref name="dancho1" />。 === オリジナリティの無いバンドの出現 === 極一部の見た目やサウンドがあまりにも似ているヴィジュアル系の出現に苦言を呈する者は多い。<ref name="Jd ME">{{cite web |url=https://www.jame-world.com/en/article/92525-introducing-globalizing-visual-kei-a-web-series.html |title=Introducing Globalizing Visual Kei: A Web Series|author=Megan Pfeifle |accessdate=2011-05-06 |publisher=Jd ME}}</ref> 以下、抄訳して引用する。 [[かまいたち (バンド)|かまいたち]]のけんchanは「(昔のV系は試行錯誤の末に)人々は違うことをやろうとしていた。」「(今のV系は特定のバンド)をコピーしている(バンドが多い)。(自分らが把握している限りでは、)自分らの(知っている)ヴィジュアル系はもう存在しない。」と述べている。<ref name="KENZI">{{cite web |url=http://jrockrevolution.com/interview-the-killing-red-addiction/ |title=INTERVIEW: THE KILLING RED ADDICTION |author=JKLEIN |accessdate=2009-07-12 |publisher=JROCK REVOLUTION.COM}}</ref> 又、上記の星子も独自性の無いバンドの出現に警鐘を鳴らした上で、「ファンが同じ古いパフォーマンスを何度も繰り返し聞いたり見たりする事にうんざりしている時に大きな問題になる」「(これらの似たり寄ったりなバンドが人気が出ると考えると)想像を絶する」と苦言を呈している。<ref name="JRN">{{cite web |url=https://jrocknews.com/2018/01/interview-seiichi-hoshiko-part-2-impacted-hide-x-japan.html |title=INTERVIEW: JRN JROCK NEWS|author=NBT |accessdate=2018-01-31 |publisher=JRN JROCK NEWS}}</ref> [[PIERROT]]の[[キリト]]は「違うように見せるためではなく、他の人に似せるためにやっている(バンドもいる)」「これは明らかに、自分らが(バンドを)始めたときとは大きく異なる。」と述べている。<ref name="JRN JROCK NEWS">{{cite web |url=https://web.archive.org/web/20131113194419/http://jrockrevolution.com/2008/11/webzine/interview-with-angelo-250 |title=INTERVIEW: JRN JROCK NEWS|author=JRR |accessdate=2008-11-24 |publisher=JRN JROCK NEWS}}</ref> == 問題 == === 日本国外での受容の実態と不法ダウンロード === 2009年10月4日、ヴィジュアル系が日本国外で人気を博しているという報道がオリコンによりなされた<ref name="oriconbiz">{{Cite web|和書 |author=ORICON BiZ online |authorlink=オリコン |date=2009-10-14 |url=http://biz-m.oricon.co.jp/news/data/174.shtml |title=ヴィジュアル系アーティストが海外で大人気の理由 |publisher=[[オリコン|オリコン・リサーチ]] |language=日本語 |accessdate=2010-10-13 }}</ref>。しかし、日本国外へ向けて日本の音楽を販売する音楽配信サイト「HearJapan」の代表であるネイサン・リーヴンは、特に日本国外のヴィジュアル系ファンへ向けて、自社のウェブサイトに書簡を掲載した<ref name="hearjapan">{{Cite web |last=Reaven |first=Nathan |author=Nathan Reaven |authorlink= |coauthors= |date=2009-01-09 |url=http://www.hearjapan.com/news/hearjapan_news/A_Message_To_The_Fans |title=A Message To Visual Kei Fans |publisher=HearJapan |language=[[英語]] |accessdate=2010-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110718195754/http://www.hearjapan.com/news/hearjapan_news/A_Message_To_The_Fans |archivedate=2011-07-18 }}</ref>。以下に抄訳して[[引用]]する。 {{Quotation|日本国外において、日本の音楽のファン層は急速に拡大しており、バンドもようやく海外へ赴くようになり、現地のファンとのつながりを持とうと行動し始めました。この流れは特にヴィジュアル系で顕著であったため、私は(HearJapanの設立に当たり)ヴィジュアル系の充実を図りました。しかし、ヴィジュアル系以外の他のどのジャンルの売上も、ヴィジュアル系と比較して五倍の大差をつけたのです。この衝撃は筆舌に尽くせません。各ヴィジュアル系バンドについているファンは無数にいるのにもかかわらず、なぜヴィジュアル系のアルバムの売上はまるで振るわないのか、私は自問しました。(中略)<br /> <br /> 結局、ヴィジュアル系の音楽を売る唯一の方法は、リリース日直前までのゴリ押し(と結果としての購入予約)以外にはないことが分かりました。リリース日以降は、すぐに売れなくなってしまうのです。その理由は明快で、バンド、レーベル、または楽曲制作に時間と金銭を投資した関係者らの許可なく、音楽ファイルがネットにアップロードされてしまうことに他なりません。ネット上の多くのユーザーが、他のヴィジュアル系ファンへ音楽を無料でダウンロードさせることに誇りと喜びを持っており、さらに重要なことには、それが権利者(アーティスト、音楽プロダクション、レコードレーベル、著作権管理団体、撮影者など)の許諾なく行われているということなのです。これが、ヴィジュアル系がリリース日以降に売れなくなる理由です。(中略)<br /> <br /> HearJapanでのダウンロード販売だけの問題ではありません。私はいくつかのヴィジュアル系バンドのCD輸出データを拝見したのですが、残念ながら、そこにはHearJapanのダウンロード販売と同様の悲しい相関関係が見られました。この手紙はHearJapanがこうむった損失についてお伝えするものではありません。ヴィジュアル系以外のジャンルの売上が、ヴィジュアル系の売上不振を補ってあまりあるものだからです。この手紙でお伝えしたいことは、ネットで音源を不法に頒布する行為が、アーティストに対してだけではなく、巡り巡って結果としてはファン自身へともたらされる問題であるということなのです。<br /> <br /> 私は(HearJapanでは配信されていない)多くのヴィジュアル系バンドおよびレーベルと話をしてきたなかで、異口同音に同じ話を耳にしました。公式サイトやMySpaceに海外からのアクセスが殺到していることから、彼らは期待を膨らませて海外ファンへ音楽を販売しようと努力したところ、巨額の損失をこうむってしまったとのことです。(中略)<br /> <br /> バンドの情報を正確に翻訳し、音楽ファイルのエンコーディングにかかりっきりとなり、サイトのページにはタグをつけ、宣伝し、バンド側の要請に基づき万事これで問題ないかとバンド側へ確認の電話を何度もかけた私もまた、損失をこうむりました。しかしバンド側がこうむった損失に比べれば、私の損失など微々たるものです。果たしてあなたは、全精力を傾けて、時間もお金も使って制作した何かを世に発表し万人から称讃の嵐を浴びたとしても、最後には一銭ももらえずに馬鹿を見ただけだとしたら、そんなことをまた続けたいと思うでしょうか。私には、とてもそうは思えません。(中略)<br /> <br /> しかしながら、(権利者の許諾なく音楽ファイルをネット上で不法に頒布するユーザーらがうそぶく)もっとも大きな言い訳は、「私はバンドをさらに多くのファンへと紹介している。多くのファンを作ることで私がバンドを助けている」から問題ないとする主張です。これは確かに一片の真実を含んでもいます。しかし私が見た(不法)ダウンロードはどれも、JロックファンからJロックファンへと回されていました。JロックファンからJロックファンへと音楽ファイルを共有したところで、バンドの助けにはいささかも'''なりません'''。新しいファンが作り出されることにはならないからです。ネットへの不法アップロードでもたらされることといえば、バンドが(金銭面でも)苦心惨憺して制作したアルバムから得られるであろう利益のすべてを抹殺してしまうことくらいです。ファンは、無料で手に入る音楽にお金を払おうとはしません。すでに日本国外に一万人を超えるファンがいるというのに、楽曲を無料で頒布しなければならない理由はどこにもありません。私は、ヴィジュアル系のファン層が、これらの不法行為によって大きく拡張されてきたことをよく存じております。しかし、私はヴィジュアル系のアルバムの売上がまったく増加していないという事実にも気がついています。もしあなたが他の誰かに、まだ聴いたことがないであろう音楽を紹介したい場合は、その楽曲を(ネットで頒布せずに)ただ単に送るか、YouTubeのPVのリンクを送るだけに留めてくださいませんか。アーティストのわずかなチャンスを瞬時に抹殺するような行為は、どうか慎んでください。|ネイサン・リーヴン|HearJapan}} リーヴンは、インターネットにて楽曲を不法に頒布する多くのヴィジュアル系ファンを痛烈に批判し、その不法行為はバンドの音楽活動を阻害するのみならず、バンドが今後飛躍する可能性を(とりわけ金銭面から)摘み取ってしまうとして警鐘を鳴らした。また、日本国外のヴィジュアル系ファンの間において音楽ファイルの不法な共有が常態化しているという実態に関しては、リーヴンの指摘のみならず、アニメの情報サイト「Japanator」もリーヴンの発言を受けて記事を発表した<ref name="japanator">{{Cite web |last=Bentz |first=Zac |author=Zac Bentz |authorlink= |coauthors= |date=2009-01-09 |url=http://www.japanator.com/elephant/post.phtml?pk=9146 |title=Visual-kei fans are killing visual-kei bands |publisher=Japanator |language=英語 |accessdate=2010-10-09 |quote=The real problem is when you combine shallow fans with the ephemeral state of file sharing. Visual-kei is ripe for plunder because a vast majority of the fans only care about what the band members look like and wouldn't know a skilled musician if she sat on their face and bounced. To these people, music really is nothing. It's just this thing attached to a pretty face. A face that will make mom and dad shake their heads in confusion. For many of these kids, the bands are just a tool used to carve out their own special sense of self. The mere possession of the band’s album is a sign of rebellion and oh-so-worldly-wise views. ... File sharing isn't killing the music industry. Shallow fans are. }}</ref>。以下に抄訳して引用する。 {{Quotation|真の問題は、[[ファイル共有]]というその場限りの入手方法へと、浅はかなファンを結びつけてしまうことだ。ヴィジュアル系は略奪の格好の的だ。それというのも、ファンの圧倒的多数はヴィジュアル系バンドメンバーの外見にしか興味を示さず、たとえ熟達したミュージシャンが目の前で飛び跳ねようとも彼女について深く知ろうとはしないからだ。そういう人々にとって、音楽は一切'''意味がない'''。音楽はかわいい顔の単なるオマケ程度のものでしかない。それも、親たちが当惑して首を振るような顔の。こうした若者の多くにとって、ヴィジュアル系バンドは自分は特別な存在なのだという自意識を築くための小道具にすぎないし、単にバンドのアルバムを持っていることが反抗と世慣れした価値観のしるしとなる。<br /> (中略)<br /> ファイル共有が音楽産業を殺そうとしているのではない。浅はかなファンが殺すのだ。|ザック・ベンツ|Japanator}} ベンツの指摘により、いわゆる「顔ファン」(バンドマンの外見のみでファンになり音楽には興味がないファンを指す俗語)が日本だけではなく日本国外においても存在し、むしろ「顔ファン」が日本国外では主流であることが明らかにされた。 日本国内では、ヴィジュアル系アーティストのCD売上はヴィジュアル系専門レコード店での限定購入特典や、専門レコード店で開催される「インストア・イベント」に支えられることが多い。これは「[[AKB48#AKB48に関する評論|AKB商法]]」としてしばしば批判される売り方と共通してはいるものの、限定グッズや限定写真を入手したり、あるいは本人と会話や握手をするためにCDを(一人で何枚も)購入するという購買の動機づけには結びつく。しかし「顔ファン」にとっては音楽は「意味がない」ため、ライブやイベントなどで本人と接触する機会に乏しい海外在住者は、音楽そのものにお金を払う理由がなくなる。 リーヴンが書簡のなかで例示しているが(上記引用文では未訳のため原文<ref name="hearjapan" /> を参照されたい)、原盤制作には少なくとも一万米ドル以上の予算が必要とされる。[[レコード会社|メジャー・レーベル]]によるフルアルバムの原盤制作ともなれば、一千万円近くの費用が生ずる<ref name="enomoto_2012-07-12">{{Cite web|和書|author=[[榎本幹朗]] |date=2012-07-12 |url=https://web.archive.org/web/20120923202305/http://www.musicman-net.com/SPPJ01/12.html |title=連載第08回 違法DL刑罰化で揺れるイギリス Spotifyにスポットライト |work=Musicman-NET |publisher=エフ・ビー・コミュニケーションズ |page=1 |accessdate=2012-11-11 }}</ref>。しかし日本国外の音楽ファンは、アーティストやレーベル側から正規の購入方法を提示されても、音楽に対してあまりお金を払おうとしない。それはアーティストやレーベル側が費やした原盤制作費を回収できず、次の原盤を作る費用を捻出できないことを意味する。リーヴンらの指摘は、楽曲の違法アップロードが日本国外でのヴィジュアル系の人気を助けているものの、それがヴィジュアル系音楽業界に経済的利益を直接与えることはなく、ゆえにその衰退を助長しうることを明らかにした。 == 主なヴィジュアル系アーティスト == {{Main|ヴィジュアル系アーティストの一覧|Category:ヴィジュアル系|Category:ヴィジュアル系ミュージシャン}} == ヴィジュアル系のレーベルおよび音楽プロダクション == ヴィジュアル系を専門範囲とするレーベルおよび音楽プロダクションは、1980年代後期よりその存在が確認されている。 初期ヴィジュアル系バンドの音楽プロダクションとしては、YOSHIKIの主宰する[[エクスタシーレコード]]とDYNAMITE TOMMYが総指揮を執る[[フリーウィル]]・レコードが、「東のエクスタシー、西のフリーウィル」と謳われるジャンルのフロンティアとして双璧をなした。その後は[[アナーキストレコード]]、[[デンジャークルー]]、[[Kreis|クライス]]、[[キーパーティー]]などの専門レーベルが次々と台頭した。現役か、もしくはかつてヴィジュアル系ミュージシャンとして活動していた経営者が主宰する場合も少なくはない。ミュージシャンの主宰以外では、イベンターやライブハウスの系列事務所、[[エイベックス]]などの大手レコード会社の傘下の事務所もヴィジュアル系のマネージメントを手がけている。ただし、1990年代のヴィジュアル系全盛期のブームに乗って乱立したレーベル・プロダクションには、ブームが終息し市場が収縮を始めると早々に姿を消したものも少なくない。 なお、タレントを主力とする[[芸能事務所]]が手がけたケースは少ない。これらの会社の手法ではヴィジュアル系バンドを商業的に成功させることが難しく、[[田辺エージェンシー]]、[[ホリプロ]]{{Refnest|group="†"|田辺エージェンシーは[[D-SHADE]]、ホリプロは[[MASCHERA]]}}{{sfn|Ichikawa, Fujitani|2018|p=168}}などは撤退している。 === ミュージシャンが主宰するレーベル、プロダクション === {| class="wikitable" |- ! レーベル、プロダクション !! 主宰者 |- | [[アナーキストレコード]] || [[THE DEAD P☆P STARS|KENZI]] |- | [[Matina]](解散)→[[UNDER CODE PRODUCTION]](解散) || [[KISAKI]] |- | [[エクスタシーレコード]] || [[YOSHIKI]]<ref>{{Cite journal|和書|date=2003-07|title=エクスタシー・レコードの功績|journal=音楽誌が書かないJポップ批評27 X JAPANと「ヴィジュアル系」黄金伝説|page=49|publisher=[[宝島社]]}} ISBN 978-4796633826</ref> |- | [[Keasler Japan Limited]] || [[TOKI]] |- | [[Kreis]]→[[Tokyo Monochrome Factory Records]] || [[YUKIYA]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000069335|title=Kαin、新宿BLAZEにてワンマンライブ|publisher=[[BARKS]]|accessdate=2012-02-03}}</ref> |- | [[CROW MUSIC]] || TATSUYA |- | [[:es:Loop Ash Records|LOOP ASH]]([[株式会社マーサ]]傘下レーベル) || 未散 |- | [[APPLAUSE RECORDS]] || [[KAMIJO]] |- | [[Sherow Artist Society]] || KAMIJO |- | [[Sequence Records]] || TOMOZO |- | [[Starwave Records]] || Kiwamu |- | [[フリーウィル]] || [[ダイナマイト・トミー]] |- | FULLFACE RECORDS || [[清春]] |- | midfield || 清春 |- | [[marder suitcase]]([[株式会社フジプロダクション]]内レーベル) || [[:en:Mahiro|MAHIRO]] |- | GRADATION(解散) || 紫 |- | [[:en:Midi:Nette|Midi:Nette]] || MANA |- | [[密室ノイローゼ]](株式会社3.14内レーベル) || [[桜井青]] |- | [[デンジャークルー|DANGER CRUE RECORDS]]([[MAVERICK D.C. GROUP]]内レーベル) || 大石征裕 |- | [[犬神サーカス団|オフィスキンメダイ]] || 犬神明 |- |GOD CHILD RECORDS |[[ASAGI]] |- | [[アビーミュージックファクトリー]] || [[BabyKingdom]] |- |} === ミュージシャンが主宰していないレーベル、プロダクション === {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年9月}} * [http://www.explosionworks.net/ explosion works](ライヴハウス[[池袋サイバー]]のレーベル) * [[SWEET CHILD]] * [[SWORD RECORDS]]([[SWEET CHILD]]の元社員が立ち上げた事務所で、所属バンドもともに一部移籍しており実質的に同社から分裂した会社。) *[[ヘッドワックスオーガナイゼーション]][[hide]]の実弟が代表を務める事務所。 * [[DONUTS RECORD WEST]] * [[SPEED DISK]](ライヴハウス[[高田馬場AREA]]のレーベル) * [[ティアーズ音楽事務所]] * [[MONSTER PRODUCTION]](M-EPS 解散) * [[MISSION MUSIC FACTORY]] * [[PLUG RECORDS]] * [[PS COMPANY]] * [[ライカロリーポップ]](ヴィジュアル系専門ショップ[[LIKE an EDISON]]の経営会社) * [[株式会社マーサ]] * [[タイムリーレコード]] * [[Zenite Music Facotry]](ライヴハウス浦和ナルシスのレーベル) * [[ミジンコレコード]](大阪のイベンター[[フェイス音楽出版|FACE MUSIC]]のレーベル) * [[Red List Entertainment]]([[日本デジタルコミュニケーションズ]]内レーベル) * ARTPOP RECORDS / 濱書房 / 寺子屋([[ART POP ENTERTAINMENT]]内のレーベル) * B.P.RECORDS([[ビーフォレスト]]内のレーベル) == ヴィジュアル系を扱うメディア == === テレビ・ラジオ === ;放送中のテレビ番組 * [[HOT WAVE (テレビ埼玉)|HOT WAVE]] ([[テレビ埼玉]]) ;放送中のラジオ番組 * [[BEAT SHUFFLE|Beat Shuffle]] ([[エフエムナックファイブ|NACK5]]) * [[BUZZ ROCK]] ([[エフエム大阪|FM OSAKA]]) ;終了したテレビ番組 * [[SPARK!]] ([[テレビ東京]]) * [[神言基地 〜HOLIDAY TV〜]] ([[テレビ大阪]]) * [[VISUAL SHOCK]] (テレビ東京) * [[VISUAL ROCK GATE]] ([[テレビ大阪]]) * [[Vの流儀]] (テレビ東京) * [[ロック兄弟]] (テレビ東京) * GIRA GIRA J 白組 ([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]) * [[LIFE IS V]] (TOKYO MX) * [[V-STYLE“Move!!"]] ([[スターカラオケ]]) ;終了したラジオ番組 * [[Tokyo V-stock]] ([[エフエム東京|TOKYO FM]]) * [[Visualize Zone]](FM FUJI) * [[REDNIQS]] ([[FM802]]) * 激音([[九州朝日|KBCラジオ]]) * [[Slash&Burn]]([[エフエム富士|FM FUJI]]) * [[AV Music Channel]]([[Air-G]]) * [[LIVECAST.JP]] ([[ライブキャスト]]) * [[Neo I.D.]] ([[エフエムちゅうおう]]) === 専門誌 === 現在刊行されている雑誌 * [[Stuppy]] * [[We ROCK/ロッキンf|ロッキンf]] (但し、90年代から一度出版社が倒産した2001年まで。復刊した2002年以降はごく一部のバンドのみ)→We ROCK * [[ROCK AND READ]] 休刊・廃刊した雑誌 * [[Vicious]] * [[M-GAZETTE]] * [[V-Shot]] * [[Fruige]] * [[Zy.]] * [[Neo genesis]] * [[FOOL'S MATE]] * [[FOOL'S MATE EXPRESS]] * [[SHOXX]] * [[SHOCK WAVE]] *uv * [[Cure (雑誌)|Cure]]<ref>[https://www.fashionsnap.com/article/2022-04-18/cure-suspended/ ヴィジュアル系インディーズバンド専門誌「キュア」が休刊] レコオーランド 2022年4月18日</ref> ==脚注・出典== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=加納一美|date=1999-10-27|title=Laputa―from the cradle to the grave 1999 (Fool’s Mate extrax)|series=FOOL’S MATE extrax|publisher=FOOL’S MATE|isbn=4-938716-18-6|url=http://fools-mate.shop-pro.jp/?pid=19789549|ref={{sfnref|Kano|1999}}}} * {{Cite book|和書|author=大島暁美・杉江優花 |title=VISUAL ROCK PERFECT DISC GUIDE 500 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |date=2013年8月7日 |ISBN=978-4-401-63825-3 |ref={{sfnref|Ohshima, Sugie|2013}}}} * {{Cite book|和書|title= すべての道はV系へ通ず。 |author1=市川哲史|authorlink1=市川哲史|author2=藤谷千明 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント]] |date=2018-08-26 |isbn=978-4-401-64639-5 |ref= {{sfnref|Ichikawa, Fujitani|2018}}}} == 関連文献 == *[[市川哲史]]『私が「ヴィジュアル系」だった頃。』[[竹書房]]、2005年7月30日、ISBN 9784812421918 *市川哲史『私も「ヴィジュアル系」だった頃。』竹書房、2006年4月28日、ISBN 9784812426432 *[[雨宮処凛]]『バンギャル ア ゴーゴー』[[講談社]]、2006年10月14日、上巻 ISBN 4-06-212075-5 / 下巻 ISBN 4-06-213369-5 *市川哲史『さよなら「ヴィジュアル系」〜紅に染まったSLAVEたちに捧ぐ』竹書房〈竹書房文庫〉、2008年5月9日、ISBN 9784812434819 == 関連項目 == *[[LUNA MATTINO]] *[[日本のバンド一覧]] == 外部リンク == {{Commons category|visual kei|Visual kei}} * [https://www.jame-world.com/en/theme/932-globalizing-visual-kei-a-web-series.html Globalizing Visual Kei: A Web Series] {{En icon}} {{日本の音楽}} {{DEFAULTSORT:ういしゆあるけい}} [[Category:ヴィジュアル系|*]] [[Category:日本のロック]] [[Category:日本のサブカルチャー]]
2003-08-19T14:54:29Z
2023-11-13T13:57:05Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cquote", "Template:Refnest", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commons category", "Template:日本の音楽", "Template:Sfn", "Template:Main", "Template:Cite journal", "Template:雑多な内容の箇条書き", "Template:Cite news", "Template:En icon", "Template:Infobox Music genre", "Template:Quotation", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E7%B3%BB
13,580
宮野ともちか
宮野 ともちか(みやの ともちか)は、日本の漫画家。青年誌に恋愛漫画を描いている。代表作は『ゆびさきミルクティー』。男性。 髙橋ツトムのアシスタント出身。『肌色ソーダ水』、『reason』、『ナマイキなあまあし』(いずれも『ヤングアニマル増刊Arasi』)と読み切りを書いた後、『ヤングアニマル』本誌で『ゆびさきミルクティー』を2003年1号より6回にわたって短期集中連載。2003年14号より正式に連載が開始された。 なお2003年7月に発売された『ゆびさきミルクティー』の第1巻は、新人のため部数が少なくあっという間に品薄になったようである。これを受けて2004年1月に第2巻は発行部数を大幅に増やした。また、第1巻も増刷されている(初版の第1巻は、元々連載自体の継続の予定もなかったことから巻数を表す「1」の数字がない)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "宮野 ともちか(みやの ともちか)は、日本の漫画家。青年誌に恋愛漫画を描いている。代表作は『ゆびさきミルクティー』。男性。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "髙橋ツトムのアシスタント出身。『肌色ソーダ水』、『reason』、『ナマイキなあまあし』(いずれも『ヤングアニマル増刊Arasi』)と読み切りを書いた後、『ヤングアニマル』本誌で『ゆびさきミルクティー』を2003年1号より6回にわたって短期集中連載。2003年14号より正式に連載が開始された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお2003年7月に発売された『ゆびさきミルクティー』の第1巻は、新人のため部数が少なくあっという間に品薄になったようである。これを受けて2004年1月に第2巻は発行部数を大幅に増やした。また、第1巻も増刷されている(初版の第1巻は、元々連載自体の継続の予定もなかったことから巻数を表す「1」の数字がない)。", "title": "経歴" } ]
宮野 ともちかは、日本の漫画家。青年誌に恋愛漫画を描いている。代表作は『ゆびさきミルクティー』。男性。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 宮野ともちか | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}} | 生年 = | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[2000年]] - | 代表作 = 『[[ゆびさきミルクティー]]』 | 公式サイト = [https://raisinsec.com/ ほしぶどう] }} '''宮野 ともちか'''(みやの ともちか)は、<!-- [[女性]]ではなく、[[男性]]の[[漫画家]]{{要出典}}。-->[[日本]]の[[漫画家]]。青年誌に[[恋愛漫画]]を描いている。代表作は『[[ゆびさきミルクティー]]』。男性。 ==経歴== [[髙橋ツトム]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]出身。『肌色ソーダ水』、『reason』、『ナマイキなあまあし』(いずれも『[[ヤングアニマル嵐|ヤングアニマル増刊Arasi]]』)と読み切りを書いた後、『[[ヤングアニマル]]』本誌で『[[ゆびさきミルクティー]]』を[[2003年]]1号より6回にわたって短期集中連載。2003年14号より正式に連載が開始された。 なお[[2003年]]7月に発売された『ゆびさきミルクティー』の第1巻は、新人のため部数が少なくあっという間に品薄になったようである。これを受けて[[2004年]]1月に第2巻は発行部数を大幅に増やした。また、第1巻も増刷されている(初版の第1巻は、元々連載自体の継続の予定もなかったことから巻数を表す「1」の数字がない)。 == 作品リスト == === 連載中 === * オペラグラス(『[[ヤングアニマル#ヤングアニマルDensi|ヤングアニマルDensi]]』2016年6月10日 - 連載中) === 連載終了 === * [[ゆびさきミルクティー]](『ヤングアニマル』2003年1号 - 2010年6号、全10巻) * [[リカ (漫画)|リカ]](『ヤングアニマル増刊Arasi』2011年No.5 - 2013年No.10、全2巻) === 読切 === * 肌色ソーダ水(『ヤングアニマル増刊Arasi』2000年No.3、ゆびさきミルクティー1巻に収録。) * reason(『ヤングアニマル増刊Arasi』2001年Vol.1、ゆびさきミルクティー2巻に収録。) * ナマイキなあまあし(『ヤングアニマル増刊Arasi』2001年No.5、ゆびさきミルクティー1巻に収録。) * エデュケーション(『ヤングアニマルあいらんど』No.4・5) == 外部リンク == * [https://raisinsec.com/ ほしぶどう] - 公式ブログ {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:みやの ともちか}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:存命人物]]
null
2022-06-01T17:38:14Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 漫画家", "Template:Normdaten", "Template:Manga-artist-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%87%8E%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A1%E3%81%8B
13,583
ワールドヒーローズ
『ワールドヒーローズ』(WORLD HEROES)は、1992年から1995年までにADK(1作目はアルファ電子)がネオジオ向けに製作した対戦型格闘ゲーム。本項ではシリーズ全4作について説明する。 本作は、服部半蔵やジャンヌ・ダルク、ラスプーチンなどの歴史上の人物や「著名なフィクションの登場人物」に類似した、漫画的なキャラクターが登場するという特徴がある。 1992年7月28日発売。 使用可能キャラクターは全部で8人で、同キャラクター対戦は不可能。 Aボタンはパンチ、Bボタンはキック、Cボタンは投げに使用する。Dボタンは使用しない。パンチ・キックについてはボタンを短く押すと弱攻撃、長く押すことで強攻撃となる。 通常の対戦モードの他に「デスマッチモード」が存在する。このモードでは地雷、電流リング、壁一面のトゲ、オイルリングなど様々なトラップが用意されており、ダウンやバウンドした際に追加ダメージを受けたり、操作が困難になったりする。これにより、攻撃を仕掛けた側が思わぬダメージを喰らうことや不利な状況に立たされることもあった。髪切りマッチも存在し、負けたキャラクターは坊主頭にされてしまう過激な演出も存在したが、『ワールドヒーローズ2』(以下『2』)では多少マイルドになっている。 キャラクターのバランス調整が悪く、ジャンヌが必殺技の「フラッシュソード」を連発しただけでマッスルパワーは全ての戦略を封印された。そのため、対戦ダイヤグラムではまず存在しないとされていた「10:0」の数値がはじき出される事態が起こった。はめ技にはJ.カーンの「覇極道はめ」、ブロッケンの「しゃがみ弱パンチはめ」も存在する。 初代のみにみられるその他の特徴としては、気絶した際とコンティニューの際に場外からの応援としてキャラクターの名前が連呼される演出が挙げられる。 本作は横尾公敏が新人研修で出したMVSの新型筐体の企画であり、この時点では4人プレイが可能なベルトスクロールアクションゲームだった。このバージョンはある程度遊べるところまで出来ていたものの、CPUのアルゴリズムを他のモードへ流用することは不可能であり、CPUがプレイヤーを無視して同士討ちをするといった齟齬があった。また、当時は対面配置の筐体が普及しつつあったことから、本作は4人用筐体のゲームとしてではなく、当時流行していた2人用の対戦型格闘ゲームの企画として再スタートした。 本作はゲームセンターのコア層だった中高生以上の年代よりも、むしろ小学生をメインターゲットにしており、社内では児童向けの漫画雑誌などから子どもの好みを分析する試みが行われた。加えて、MVS筐体は海外での稼働が多いため、海外のユーザーでも理解しやすいキャラクターや作風が求められていた。このため、本作に登場するキャラクターは、同時期に稼働していた対戦型格闘ゲームよりも漫画的なデザインとなった。 多くのキャラクターのデザインは企画立案者の横尾が手がけたが、正統派のヒーローのデザインを不得意としていたという理由から、半蔵のデザインは本作のグラフィックスチーフが担当した。同様の理由からジャンヌのデザインはディレクターが手がけた。横尾によるジャンヌの初期デザインは中世風の鎧を着込んだものであり、チーム内からゲームで動かせないと指摘が挙がった。 本作の大ヒットにより会社としての規模が大きくなったアルファ電子は、社名をADKに改め、より大きなビルへと引っ越した。 空閑叉京は2019年にエキサイトに寄せた記事の中で、個性的なキャラクターや、デスマッチを評価した一方、負けると坊主頭にされる「髪切りデスマッチ」は90年代だったからこそ出来たものだと述べている。 ADKに改名後の1993年4月28日発売。100メガショック第4弾(ADKとしては初)。同キャラクター対戦が可能になり、個性的な6人の新キャラクターが加わった。また、Cボタンが挑発を兼ねるようになった。 新システムとして「投げ返し」「跳ね返し」が追加され、他の格闘ゲームとは違う戦略が生み出された。CPUキャラクターはほぼ確実に投げ返しや跳ね返しを成功させるため、CPU戦の難易度が飛躍的に上昇した。 「デスマッチモード」では床を移動する回転ノコギリ、一画面分の広さしかない鉄の檻など新たなトラップに加え、1本で2人分の体力を表すシーソーゲージが採用された。対戦時にプレイヤーの意志が「ノーマルモード」と「デスマッチモード」で分かれた場合、コイントスにより決定する。 本作のキャラクターの選定にはMVSの普及度が考慮されていたものの、マッドマンなどのようにそれ以外の理由で登場したケースもある。 ムエタイ選手のシュラは、タイにMVSが多く輸出されていたことから登場が実現した。当初シュラは女性として出す予定であり、グラフィックスチーフによるデザインも用意されていた。ところが、女性キャラクターを増やす話になった際、日本人が良いということからリョウコが追加されたため、タイ出身だったシュラは男性に変更された。 ジャックとマッドマンは横尾によるデザインであり、後者は奇抜なキャラクターを出したいという横尾の意向から登場が決まった。横尾は、当時のADKでは面倒なアイデアや提案を出した者がそのキャラクターのドットを担当するという風潮があり、その積み重ねによって色物のドッターを任されるようになったと4Gamer.netとのインタビューの中で話している。また、開発開始の時点から、各キャラクターには指定された容量が割り振られており、グラフィッカーが必須動作を作成した上で、技の取捨選択や統合をしたり、余った容量で別の動作を作るなどして、容量をやりくりした。このため、ジョニーやエリックといった大柄なキャラクターはデータサイズが大きいことから技の数が少なく、エフェクトを派手にして区別化するといった施策も採られた。 1994年4月26日発売。『2』の続編であるが、同作から多くが変更されている。前作のボスであったネオギガスとDIOは登場しない。 ゲームルールが大きく変更されたほか、前作まで存在したデスマッチモードは削除された。 システム面では、「ダッシュ」や「バックステップ」などが追加され、スピード感が増した。一方で「投げ返し」などが削除された。 その他の変更点 1995年5月25日発売。シリーズ最終作。システム面が従来から大幅に変更された。モード選択がなくなり、単にストーリーモードのみとなった。キャラクターの名前もフルネームが設定され、ハンゾウやフウマなどは漢字で表示されるようになった。キャラクターごとのステージは一部を除いて設定されておらず、地球創世紀・ジュラ紀・氷河期・石器時代・巨石文明・中世暗黒時代・元禄時代・産業革命・世界大戦・現代まで様々な時代で戦う。ステージの具体的な地点は不明なものが多いが、巨石文明はピラミッド建設中のエジプト、元禄時代は江戸、産業革命はイギリス、現代は東京渋谷となっている。 システム面の変更点 裏技でキャラクターを超小型にすることが可能である。攻撃力が極端に低下する代わりに、勝利時の獲得スコアが桁違いに増加するため、一部のスコアラーを意識していた模様だが、ネオジオCD版では攻撃力が通常時と変わらないのでバランスが著しく崩れる。 レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。 『ワールドヒーローズ』シリーズを題材にした漫画・コミカライズ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ワールドヒーローズ』(WORLD HEROES)は、1992年から1995年までにADK(1作目はアルファ電子)がネオジオ向けに製作した対戦型格闘ゲーム。本項ではシリーズ全4作について説明する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本作は、服部半蔵やジャンヌ・ダルク、ラスプーチンなどの歴史上の人物や「著名なフィクションの登場人物」に類似した、漫画的なキャラクターが登場するという特徴がある。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1992年7月28日発売。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "使用可能キャラクターは全部で8人で、同キャラクター対戦は不可能。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Aボタンはパンチ、Bボタンはキック、Cボタンは投げに使用する。Dボタンは使用しない。パンチ・キックについてはボタンを短く押すと弱攻撃、長く押すことで強攻撃となる。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "通常の対戦モードの他に「デスマッチモード」が存在する。このモードでは地雷、電流リング、壁一面のトゲ、オイルリングなど様々なトラップが用意されており、ダウンやバウンドした際に追加ダメージを受けたり、操作が困難になったりする。これにより、攻撃を仕掛けた側が思わぬダメージを喰らうことや不利な状況に立たされることもあった。髪切りマッチも存在し、負けたキャラクターは坊主頭にされてしまう過激な演出も存在したが、『ワールドヒーローズ2』(以下『2』)では多少マイルドになっている。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "キャラクターのバランス調整が悪く、ジャンヌが必殺技の「フラッシュソード」を連発しただけでマッスルパワーは全ての戦略を封印された。そのため、対戦ダイヤグラムではまず存在しないとされていた「10:0」の数値がはじき出される事態が起こった。はめ技にはJ.カーンの「覇極道はめ」、ブロッケンの「しゃがみ弱パンチはめ」も存在する。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "初代のみにみられるその他の特徴としては、気絶した際とコンティニューの際に場外からの応援としてキャラクターの名前が連呼される演出が挙げられる。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本作は横尾公敏が新人研修で出したMVSの新型筐体の企画であり、この時点では4人プレイが可能なベルトスクロールアクションゲームだった。このバージョンはある程度遊べるところまで出来ていたものの、CPUのアルゴリズムを他のモードへ流用することは不可能であり、CPUがプレイヤーを無視して同士討ちをするといった齟齬があった。また、当時は対面配置の筐体が普及しつつあったことから、本作は4人用筐体のゲームとしてではなく、当時流行していた2人用の対戦型格闘ゲームの企画として再スタートした。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本作はゲームセンターのコア層だった中高生以上の年代よりも、むしろ小学生をメインターゲットにしており、社内では児童向けの漫画雑誌などから子どもの好みを分析する試みが行われた。加えて、MVS筐体は海外での稼働が多いため、海外のユーザーでも理解しやすいキャラクターや作風が求められていた。このため、本作に登場するキャラクターは、同時期に稼働していた対戦型格闘ゲームよりも漫画的なデザインとなった。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "多くのキャラクターのデザインは企画立案者の横尾が手がけたが、正統派のヒーローのデザインを不得意としていたという理由から、半蔵のデザインは本作のグラフィックスチーフが担当した。同様の理由からジャンヌのデザインはディレクターが手がけた。横尾によるジャンヌの初期デザインは中世風の鎧を着込んだものであり、チーム内からゲームで動かせないと指摘が挙がった。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本作の大ヒットにより会社としての規模が大きくなったアルファ電子は、社名をADKに改め、より大きなビルへと引っ越した。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "空閑叉京は2019年にエキサイトに寄せた記事の中で、個性的なキャラクターや、デスマッチを評価した一方、負けると坊主頭にされる「髪切りデスマッチ」は90年代だったからこそ出来たものだと述べている。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ADKに改名後の1993年4月28日発売。100メガショック第4弾(ADKとしては初)。同キャラクター対戦が可能になり、個性的な6人の新キャラクターが加わった。また、Cボタンが挑発を兼ねるようになった。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "新システムとして「投げ返し」「跳ね返し」が追加され、他の格闘ゲームとは違う戦略が生み出された。CPUキャラクターはほぼ確実に投げ返しや跳ね返しを成功させるため、CPU戦の難易度が飛躍的に上昇した。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「デスマッチモード」では床を移動する回転ノコギリ、一画面分の広さしかない鉄の檻など新たなトラップに加え、1本で2人分の体力を表すシーソーゲージが採用された。対戦時にプレイヤーの意志が「ノーマルモード」と「デスマッチモード」で分かれた場合、コイントスにより決定する。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "本作のキャラクターの選定にはMVSの普及度が考慮されていたものの、マッドマンなどのようにそれ以外の理由で登場したケースもある。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ムエタイ選手のシュラは、タイにMVSが多く輸出されていたことから登場が実現した。当初シュラは女性として出す予定であり、グラフィックスチーフによるデザインも用意されていた。ところが、女性キャラクターを増やす話になった際、日本人が良いということからリョウコが追加されたため、タイ出身だったシュラは男性に変更された。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ジャックとマッドマンは横尾によるデザインであり、後者は奇抜なキャラクターを出したいという横尾の意向から登場が決まった。横尾は、当時のADKでは面倒なアイデアや提案を出した者がそのキャラクターのドットを担当するという風潮があり、その積み重ねによって色物のドッターを任されるようになったと4Gamer.netとのインタビューの中で話している。また、開発開始の時点から、各キャラクターには指定された容量が割り振られており、グラフィッカーが必須動作を作成した上で、技の取捨選択や統合をしたり、余った容量で別の動作を作るなどして、容量をやりくりした。このため、ジョニーやエリックといった大柄なキャラクターはデータサイズが大きいことから技の数が少なく、エフェクトを派手にして区別化するといった施策も採られた。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1994年4月26日発売。『2』の続編であるが、同作から多くが変更されている。前作のボスであったネオギガスとDIOは登場しない。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ゲームルールが大きく変更されたほか、前作まで存在したデスマッチモードは削除された。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "システム面では、「ダッシュ」や「バックステップ」などが追加され、スピード感が増した。一方で「投げ返し」などが削除された。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その他の変更点", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1995年5月25日発売。シリーズ最終作。システム面が従来から大幅に変更された。モード選択がなくなり、単にストーリーモードのみとなった。キャラクターの名前もフルネームが設定され、ハンゾウやフウマなどは漢字で表示されるようになった。キャラクターごとのステージは一部を除いて設定されておらず、地球創世紀・ジュラ紀・氷河期・石器時代・巨石文明・中世暗黒時代・元禄時代・産業革命・世界大戦・現代まで様々な時代で戦う。ステージの具体的な地点は不明なものが多いが、巨石文明はピラミッド建設中のエジプト、元禄時代は江戸、産業革命はイギリス、現代は東京渋谷となっている。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "システム面の変更点", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "裏技でキャラクターを超小型にすることが可能である。攻撃力が極端に低下する代わりに、勝利時の獲得スコアが桁違いに増加するため、一部のスコアラーを意識していた模様だが、ネオジオCD版では攻撃力が通常時と変わらないのでバランスが著しく崩れる。", "title": "作品概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "レイティングは全てCERO:B(12才以上対象)。", "title": "家庭用移植作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『ワールドヒーローズ』シリーズを題材にした漫画・コミカライズ。", "title": "コミカライズ" } ]
『ワールドヒーローズ』は、1992年から1995年までにADK(1作目はアルファ電子)がネオジオ向けに製作した対戦型格闘ゲーム。本項ではシリーズ全4作について説明する。
{{Redirect|ワールドヒーローズ2|[[雑君保プ]]の漫画|ワールドヒーローズ2 (漫画)}} 『'''ワールドヒーローズ'''』(''WORLD HEROES'')は、[[1992年]]から[[1995年]]までに[[エーディーケイ|ADK]](1作目はアルファ電子)が[[ネオジオ]]向けに製作した[[対戦型格闘ゲーム]]。本項ではシリーズ全4作について説明する。 == 作品概要 == 本作は、[[服部半蔵]]や[[ジャンヌ・ダルク]]、[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]などの歴史上の人物や「著名なフィクションの登場人物」に類似した<ref name="natsukashi">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編『[http://diapress.jp/archives/7402.html 懐かしスーパーファミコン パーフェクトガイド]』[http://www.magazinebox.co.jp/ マガジンボックス](M.B.ムック)、2016年。ISBN 9784866400082 p21</ref>、漫画的なキャラクターが登場するという特徴がある。 === ワールドヒーローズ(初代) === [[1992年]][[7月28日]]発売。 使用可能キャラクターは全部で8人で、同キャラクター対戦は不可能。 Aボタンはパンチ、Bボタンはキック、Cボタンは投げに使用する。Dボタンは使用しない。パンチ・キックについてはボタンを短く押すと弱攻撃、長く押すことで強攻撃となる。 通常の対戦モードの他に「デスマッチモード」が存在する。このモードでは地雷、電流リング、壁一面のトゲ、オイルリングなど様々な[[罠|トラップ]]が用意されており、ダウンやバウンドした際に追加ダメージを受けたり、操作が困難になったりする。これにより、攻撃を仕掛けた側が思わぬダメージを喰らうことや不利な状況に立たされることもあった<ref name="natsukashi"/>。髪切りマッチも存在し、負けたキャラクターは[[丸刈り|坊主頭]]にされてしまう過激な演出も存在した<ref name="natsukashi"/>が、『ワールドヒーローズ2』(以下『2』)では多少マイルドになっている。 キャラクターのバランス調整が悪く、ジャンヌが必殺技の「フラッシュソード」を連発しただけでマッスルパワーは全ての戦略を封印された。そのため、対戦ダイヤグラムではまず存在しないとされていた「10:0」の数値がはじき出される事態が起こった。はめ技にはJ.カーンの「覇極道はめ」、ブロッケンの「しゃがみ弱パンチはめ」も存在する。 初代のみにみられるその他の特徴としては、気絶した際とコンティニューの際に場外からの応援としてキャラクターの名前が連呼される演出が挙げられる。 * マッスルパワーに対する応援は「マッスルパワー」ではなく「ナンバーワン」と連呼される。 * J.カーンは「ジェイ・カーン」ではなく「ジンギスカン」と呼ばれる。 * 他の6人は「ハンゾウ」「ジャンヌ」など、通称ないしは略称で呼ばれる。ただしブロッケンだけは「ブロッケン、チャチャチャ」と拍手が入る。 ==== 開発(初代) ==== 本作は横尾公敏が新人研修で出したMVSの新型筐体の企画であり、この時点では4人プレイが可能なベルトスクロールアクションゲームだった。このバージョンはある程度遊べるところまで出来ていたものの、CPUのアルゴリズムを他のモードへ流用することは不可能であり、CPUがプレイヤーを無視して同士討ちをするといった齟齬があった<ref name="4Gamer.net20190805">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/093/G009326/20190731161/|title=平成のカルト格闘ゲーム「ワールドヒーローズ」のコミック第1巻が本日発売。漫画作者であり,元ADKスタッフの横尾公敏氏インタビューをお届け|accessdate=2019-09-21|publisher=Aetas|website=4Gamer.net|date=2019-08-05|author=丸谷健太}}</ref>。また、当時は対面配置の筐体が普及しつつあったことから、本作は4人用筐体のゲームとしてではなく、当時流行していた2人用の対戦型格闘ゲームの企画として再スタートした<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 本作はゲームセンターのコア層だった中高生以上の年代よりも、むしろ小学生をメインターゲットにしており、社内では児童向けの漫画雑誌などから子どもの好みを分析する試みが行われた<ref name="4Gamer.net20190805"/>。加えて、MVS筐体は海外での稼働が多いため、海外のユーザーでも理解しやすいキャラクターや作風が求められていた<ref name="4Gamer.net20190805"/>。このため、本作に登場するキャラクターは、同時期に稼働していた対戦型格闘ゲームよりも漫画的なデザインとなった<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 多くのキャラクターのデザインは企画立案者の横尾が手がけたが、正統派のヒーローのデザインを不得意としていたという理由から、半蔵のデザインは本作のグラフィックスチーフが担当した<ref name="4Gamer.net20190805"/>。同様の理由からジャンヌのデザインはディレクターが手がけた<ref name="4Gamer.net20190805"/>。横尾によるジャンヌの初期デザインは中世風の鎧を着込んだものであり、チーム内からゲームで動かせないと指摘が挙がった<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 ==== 反響(初代) ==== 本作の大ヒットにより会社としての規模が大きくなったアルファ電子は、社名をADKに改め、より大きなビルへと引っ越した<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 空閑叉京は2019年にエキサイトに寄せた記事の中で、個性的なキャラクターや<ref>{{Cite web|和書|title=「ワールドヒーローズ」シリーズの濃すぎるキャラと設定が多くのゲーマーを虜にした(1/2)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1548209277084/|website=エキサイトニュース|accessdate=2019-09-21|author=空閑叉京|date=2019年1月27日 }}</ref>、デスマッチを評価した一方、負けると坊主頭にされる「髪切りデスマッチ」は90年代だったからこそ出来たものだと述べている<ref>{{Cite web|和書|title=「ワールドヒーローズ」シリーズの濃すぎるキャラと設定が多くのゲーマーを虜にした(2/2)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1548209277084/?p=2|website=エキサイトニュース|accessdate=2019-09-21|author=空閑叉京|date=2019年1月27日 }}</ref>。 === ワールドヒーローズ2 === ADKに改名後の[[1993年]][[4月28日]]発売。100メガショック第4弾(ADKとしては初)。同キャラクター対戦が可能になり、個性的な6人の新キャラクターが加わった。また、Cボタンが挑発を兼ねるようになった。 新システムとして「投げ返し」「跳ね返し」が追加され、他の格闘ゲームとは違う戦略が生み出された。CPUキャラクターはほぼ確実に投げ返しや跳ね返しを成功させるため、CPU戦の難易度が飛躍的に上昇した。 ; 投げ返し : 相手が投げを仕掛けてきた時にAボタンを押すと、逆に相手を投げることができる。最大6回まで投げ返しの投げ返しも可能。『2』のみに存在。 ; 跳ね返し : 『2』『ワールドヒーローズ2JET』(以下『2JET』)『ワールドヒーローズ パーフェクト』(以下『パーフェクト』)([[ネオジオCD]]版のみ)では飛び道具がヒットする直前でガードすると、跳ね返すことができる。9回跳ね返すと自動的に消滅する。 「デスマッチモード」では床を移動する[[鋸#動力鋸|回転ノコギリ]]、一画面分の広さしかない鉄の檻など新たなトラップに加え、1本で2人分の体力を表すシーソーゲージが採用された。対戦時にプレイヤーの意志が「ノーマルモード」と「デスマッチモード」で分かれた場合、[[コイントス]]により決定する。 ==== 開発(2) ==== 本作のキャラクターの選定にはMVSの普及度が考慮されていたものの、マッドマンなどのようにそれ以外の理由で登場したケースもある<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 ムエタイ選手のシュラは、タイにMVSが多く輸出されていたことから登場が実現した<ref name="4Gamer.net20190805"/>。当初シュラは女性として出す予定であり、グラフィックスチーフによるデザインも用意されていた<ref name="4Gamer.net20190805"/>。ところが、女性キャラクターを増やす話になった際、日本人が良いということからリョウコが追加されたため、タイ出身だったシュラは男性に変更された<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 ジャックとマッドマンは横尾によるデザインであり、後者は奇抜なキャラクターを出したいという横尾の意向から登場が決まった<ref name="4Gamer.net20190805"/>。横尾は、当時のADKでは面倒なアイデアや提案を出した者がそのキャラクターのドットを担当するという風潮があり、その積み重ねによって色物のドッターを任されるようになったと4Gamer.netとのインタビューの中で話している<ref name="4Gamer.net20190805"/>。また、開発開始の時点から、各キャラクターには指定された容量が割り振られており、グラフィッカーが必須動作を作成した上で、技の取捨選択や統合をしたり、余った容量で別の動作を作るなどして、容量をやりくりした<ref name="4Gamer.net20190805"/>。このため、ジョニーやエリックといった大柄なキャラクターはデータサイズが大きいことから技の数が少なく、エフェクトを派手にして区別化するといった施策も採られた<ref name="4Gamer.net20190805"/>。 === ワールドヒーローズ2JET === [[1994年]][[4月26日]]発売。『2』の続編であるが、同作から多くが変更されている。前作のボスであったネオギガスとDIOは登場しない。 ゲームルールが大きく変更されたほか、前作まで存在したデスマッチモードは削除された。 ;「超武会」モード : 『2JET』のメインとなる。3人ずつ現れる相手と1本勝負で戦い、その2人以上に勝つと次のステージに進める。ボーナスステージを挟んで4ステージを勝ち抜いた後は相手が1人ずつで3本勝負となる。 ; 「武者修行」モード : 任意の相手を選択して戦う。4人を倒すと「超武会に出場する」というエンディングを迎え終了。各キャラクターの対人戦用個別ステージはこちらのモードでしか登場しないが、新登場のジャックと呂布以外は前作と同じ。 システム面では、「ダッシュ」や「バックステップ」などが追加され、スピード感が増した。一方で「投げ返し」などが削除された。 その他の変更点 * 通常技の強攻撃をガードしても体力が削られる。 * カウンターシステムの導入。 * 対戦時に「バランス」「攻撃重視」「防御重視」「スピード重視」の4種を選択可能。攻撃・防御・スピードのパラメータが変化する。 * 投げガード。 * Cボタンが挑発専用に変更された。通常の挑発ポーズの他、レバー入力によって「気絶ポーズ」や「勝利ポーズ」も取ることができる。 * 「字幕スーパー」が追加。体力ゲージの下に攻撃や状況によって変化するメッセージが表示される。 === ワールドヒーローズ パーフェクト === [[1995年]][[5月25日]]発売。シリーズ最終作。システム面が従来から大幅に変更された。モード選択がなくなり、単にストーリーモードのみとなった。キャラクターの名前もフルネームが設定され、ハンゾウやフウマなどは漢字で表示されるようになった。キャラクターごとのステージは一部を除いて設定されておらず、地球創世紀・ジュラ紀・氷河期・石器時代・巨石文明・中世暗黒時代・元禄時代・産業革命・世界大戦・現代まで様々な時代で戦う。ステージの具体的な地点は不明なものが多いが、巨石文明はピラミッド建設中のエジプト、元禄時代は江戸、産業革命はイギリス、現代は東京渋谷となっている。 システム面の変更点 * 技の強弱が前作までの「弱・強」2段階から「弱・中・強」の3段階に変更。ボタンを押す長さで強弱をつけるシステムは廃止され、4つのボタンが弱・中のパンチ・キックに割り当てられた。強攻撃は弱ボタンと中ボタンの同時押しで出る。 * 体力半減時に「究極奥義」を出せる。いわゆる超必殺技。 * ヒーローゲージの追加。ゲージMAX時には特定の必殺技や究極奥義が強化される。 * エクストラアタック、ガードはじき攻撃、飛び道具破壊技などの採用。 * 飛び道具の跳ね返しが削除された。ネオジオCD版とセガサターン版では飛び道具逸らしに変更。 * 連続技を決めた際、字幕スーパーに「○段」とコンボ数が表示される。 裏技でキャラクターを超小型にすることが可能である。攻撃力が極端に低下する代わりに、勝利時の獲得スコアが桁違いに増加するため、一部のスコアラーを意識していた模様だが、ネオジオCD版では攻撃力が通常時と変わらないのでバランスが著しく崩れる。 ; ストーリー : 暗黒超武会から1年。全世界に平和が戻り、自らのときの流れに帰って行った英雄たちのもとに、またしてもブラウン博士からの手紙"第3回世界英雄大会"の招待状が届けられた。修行の成果を試そうとする者、ライバルとの決着をつけようとする者など、それぞれの決意を胸に英雄たちがふたたび集結する。それを聞きつけたゼウスたちもまた、前回での雪辱を晴らすべく大会への乱入をたくらんでいた。だが、真の恐怖は、それだけではなかった<ref>{{Cite book|和書|title=[[ファミ通|週刊ファミコン通信]] no.341 ビデヲゲーム道場|date=1995年6月30日|year=1995|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|page=162}}</ref>。 == 登場キャラクター == === 初代から登場 === ; [[服部半蔵 (ワールドヒーローズ)|ハンゾウ(服部半蔵:はっとり はんぞう)]] : [[主人公]]。[[服部半蔵]]をモチーフとする[[日本]]国籍の[[忍者]]キャラクター、伊賀忍軍頭目。年代は西暦1581年。身長175cm、体重69kg。修行好き。 : キャラクターネームの表記が初代ではHANZOだったが、『2』以降ではHANZO'''U'''になっている。 : 『2』では髪切りデスマッチに負けると半刈りにされる。 ; [[風魔小太郎 (ワールドヒーローズ)|フウマ(風魔小太郎:ふうま こたろう)]] : ハンゾウのライバル。風魔一族の頭領の[[風魔小太郎]]をモチーフとする日本国籍の忍者キャラクター。風魔忍軍若頭。年代は西暦1581年。身長175cm、体重70kg。 : 生まれながらの才能を活かし負け知らずでいたが、19歳の時に初めてハンゾウに敗れた。以後、ハンゾウを倒すため修行を続けてきた。 : [[タイムマシン]]を利用して、現代で金髪でメガネの[[サラリーマン]]として二重生活を送る。女癖が悪い。 : 現代の世界が舞台の『[[痛快GANGAN行進曲]]』にも登場。そちらではハンゾウのような「ござる」口調になっているが、理由はエンディングで明かされる。 : 『[[ニンジャコマンドー]]』に登場するリュー・イーグルは「32代目風魔小太郎」で、フウマの子孫という設定。 : 『2』では髪切りデスマッチに負けると頭頂部を剃られる。 ; ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク) : [[ジャンヌ・ダルク]]をモチーフとする[[フランス]]国籍の女剣士。ブロンドのロングヘアが特徴の美人。年代は西暦1431年。身長168cm、体重53kg(自称)。 : 聖剣「バスタードバスター」を使い、聖鎧「シャイニングフォース」を着用する。剣と鎧は武器屋の親父から色仕掛けで騙し取った物である<ref name="world">[[ネオジオCD]]専用のバラエティゲーム『ADKワールド』のメッセージより</ref>。 : 高飛車で、自分より弱い男を嫌うが、逆に自分より強い男には夢中になる。そのため、初代のエンディングでは「自分より強い男と結婚するのが夢」と語っている。 : 『2』から登場するリョウコに強い対抗意識を持っている。 : 愛剣のバスタードバスターは[[ガリアンソード|蛇腹剣]]の機能があり、必殺技の「フラッシュソード」などを繰り出す際は鞭状になる。さらに『パーフェクト』では究極奥義「エンジェルアロー」の使用時、弓に変形する。 : 「フラッシュソード」は初代において全キャラクターの技中で屈指の性能を誇った。下方向への溜め技であるが、初代では「溜め時間の継続」が可能だったため、「しゃがみ→立って近距離を歩く→しゃがみ」の繰り返しで「フラッシュソードを溜めながら移動」して、対戦相手にプレッシャーをかけることもできた。 : 『2』では「小スラ」と通称される弱足払いの対空性能が高く、前出の「フラッシュソード」や同じく対空技の立ち強キックなどを使い分けることによって、キャラクターによっては近づくことすら難しいことがある。一部のキャラクター以外は試合開始直後に「後ろにジャンプする」以外の行動をとると、そのまま即死させられる。 : デスマッチモードでの登場ステージが2作とも髪切りデスマッチになっている。『2』でも髪切りデスマッチに負けると初代と同じく坊主頭にされる。 ; ドラゴン(金龍:キム・ドラゴン) : [[ブルース・リー]]をモチーフとする拳法家。アクションスターであり、歌手としても活躍している。年代は西暦1967年。身長165cm、体重50kg。 : 初代では無地の茶色いズボンを穿いているが、『2』以降は赤いラインの入った黒いズボン。 : 『2』から登場するシュラからは「アニキ」と慕われている。 : 『2』のキャラクター選択画面では[[中華人民共和国の国旗|中国の国旗]]が表示されているが、ホームステージには[[大韓民国の国旗|韓国の国旗]]が翻っている。また『2』の説明書には「[[中華人民共和国|中国]]の格闘家だが、撮影で[[大韓民国|韓国]]を訪れた」と記載されている。公式設定の国籍は中国である。 : 『2』以降のキャラクター名表示は「K.DRAGON」で、『2』のゲーム内の音声では「キム」と呼ばれている。彼の母親は韓国出身<ref name="world"></ref>。 ; ラスプーチン : [[ロシア帝国|ロシア]]の怪僧[[グリゴリー・ラスプーチン]]をモチーフとする[[魔法使い]]で教祖も兼ねる。戦いがいかに空しいかを人々に伝えるために戦っている。自分の手や足を[[オーラ]]で巨大化させるなど、奇怪な攻撃を得意とする。防御の際は両手からバリアを発し、『2JET』以降は石化する。年代は西暦1914年。身長180cm(?)、体重68kg(?)。 : 『パーフェクト』の究極奥義「秘密の花園」は当人いわく「身を以て愛の素晴しさを教えている」とのこと。戦いの虚しさを人々に諭すため、何かと冷たい世間に対して妄信的に愛を説こうとする。 : 『2』から登場するマッドマンをライバル視し、一方的に「邪教の使徒」と決め付けている。 : 『2』では髪切りデスマッチに負けると頭頂部を剃られる。 : 『パーフェクト』におけるジャックの勝ち台詞によると、彼の血は変な味がするらしい。そのため、吐き出している(マッドマン、ブロッケン、NEO-DIOも同様)。 : 見習い魔法使いの孫娘「ラスプーチコ」がおり、『パーフェクト』のネオジオCD版とセガサターン版ではゲームクリア時に彼女の登場するおまけ漫画を閲覧可能(一部例外あり)。 ; ブロッケン : [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[サイボーグ]]。陸軍少佐とされている。年代は西暦1922年。身長185cm、体重200kg。 : 形式番号は『パーフェクト』の時点でODC-005。この“ODC”は「おいら(''O''ira)ドイツの(''D''eutsch-no)サイボーグ(''C''yborg)」の略。腕や足を伸ばす、ミサイルなどを発射する、手から電撃を発生させるなど、サイボーグならではの攻撃手段を多数擁する。飛行能力も有しており、『ADKワールド』収録のシューティングゲーム『19YY』では自機として登場。『パーフェクト』では究極奥義で自爆攻撃まで行うが、すぐに再生する。 : 血液型はサイボーグのため[[カストロール]]のオイルとなっている。ジャックがオイルを嫌うのは彼の血を吸おうとして吐き出したため。なお、彼自身はレギュラーガソリンが嫌い。 : 初代では密着した状態からしゃがみ弱パンチを連発するだけで気絶から気絶にすることが可能だった(いわゆる「しゃがみ小パンチはめ」)。また、ごく初期のバージョンではしゃがみ弱キックのダメージ幅がやたらと広く設定されており、減る時は一発で投げ以上に減り、最大ダメージが出続けると数発入れただけで相手を倒すことができた。 : 髪切りデスマッチで負けると頭部の皮膚が破れ機械部分が剥き出しになる範囲が通常敗北時より広くなる。 : デスマッチモードでの登場ステージが2作とも針壁デスマッチになっている。 ; マッスルパワー(クリス・ハンガー) : [[ハルク・ホーガン]]([[1953年]][[8月11日]] - )をモチーフとする[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国籍の[[プロレスラー]]。初代ではよく似た風貌であったが、『2』以降は口ヒゲが無くなった。初代での気絶時とコンティニュー時のコール「ナンバーワン」の由来は、モデルであるホーガンの日本での決めゼリフ「イチバン!」から。性格は典型的な肉体派。年代は西暦1984年。身長200cm、体重135kg。 : 自分の名前であるクリスを「女々しい」と思っており、本名が嫌いという面もある。 ; J.カーン(成吉思汗:ジンギスカン) : [[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]がモチーフ。肥満体格の大男で、黒い兜と鎧を着用している。年代は西暦1198年。身長170cm、体重120kg。 : 美人が好き<ref>『パーフェクト』の本人のエンディングより。</ref>だが、ジャンヌのようなプライドの高いタイプは大の苦手<ref name="world"></ref>。 : 『2JET』から登場するリョフを、同じ武人として尊敬している。 : 初代では必殺技「蒙虎覇極道」はガードされた場合の跳ね返りが小さく、すぐ投げに移行することができた。これがいわゆる「覇極道はめ」だが、『2』以降の作品ではバランス調整で跳ね返りが大きくなり、投げはめは不可能になった。 : 『2』では髪切りデスマッチに負けると頭頂部を残して剃られる。 ; ギガス : CPU専用キャラクター。本作の[[ボスキャラクター]]で、液体金属の生命体。自称「うちゅう最強のおとこ」。自己の格闘スタイルを持たず、ランダムで登場キャラクターの誰かに変身して攻撃してくる。通常は同キャラクター戦が無いが、誰に変身するか分らないため、この時に限り同キャラクター戦が起り得る。 : 世界征服を企む秘密結社「ダムド」によって生み出された液体金属兵士であり、対戦相手のデータを分析し、最適と判断した姿に変身して戦うはずだったが、頭脳プログラムにバグがあり、適当に変身するようになってしまった。その上、「うちゅう」([[宇宙]])、「ちきゅう」([[地球]])、「おとこ」(男)などの小学生レベルの漢字変換ができなくなっている。 === 『2』から登場 === ; キャプテンキッド : [[イギリス]]出身の[[海賊]]、[[ウィリアム・キッド|キャプテン・キッド]](1645年 - 1701年)がモチーフ。年代は西暦1572年。身長190cm、体重78kg。 : ゲーム中では国籍がなく、国旗の代わりに[[海賊旗]]が表示されている。ホームステージは[[大西洋]]にある島の洞窟内部。 : [[サメ]]型や海賊船型の飛び道具を使う。 : 「ワールドヒーローズ」参戦前からエリックの豪傑話は耳にしており手合わせを望んでいたが、自分より500年以上昔の人物だと知って落胆したというエピソードを持つ。 ; エリック(エリック・ザ・バイキング) : 10 - 11世紀の[[ノルウェー]]の[[ノルマン人]][[ヴァイキング]]、[[赤毛のエイリーク|赤毛のエリック]](エリック・ザ・レッド)がモチーフ。片手斧とラウンドシールドを持って戦う。年代は西暦998年。身長203cm、体重172kg。 : 勝利メッセージで妻レアの名を出す愛妻家。息子ビッケの他に、『パーフェクト』のエンディングでは新たに娘を授かる。 : キャプテンキッドとは、共に海の男同士として少なからずライバル意識を持っている。北国育ちゆえに多少の寒さでは動じないが、[[北極]]の寒さだけは堪えるらしい(『パーフェクト』で凍結技を喰らった際の字幕スーパーからそれが窺える)。 : 髪切りマッチで負けるとバーコード禿になってしまう。 : 海の男に違わない男気溢れる性格で、勝利時の台詞ではラスプーチンが掲げる愛に対して異議を唱えている。 : ポニーキャニオンから発売された『ワールドヒーローズ2 イメージアルバム』の「白夜のフィヨルド(エリックのテーマ)」(PCCB-00137)が[[フジテレビ]]『[[ニュースJAPAN]]』のオープニングテーマとして使用されていた。 ; マッドマン : [[パプアニューギニア]]の[[シャーマニズム|シャーマン]]。年代は西暦450年。身長166cm(仮面含210cm)、体重48kg。 : 胴体を覆うほどの巨大な仮面を着けているため、正面から見ると巨大な顔に手足が生えているかのような姿である。仮面の下の素顔は美形。語尾に「ザマス」とつける。 : 精霊を自在に操る戦士。正義を貫くために彼は戦うことを決意した<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=[[ゲーメスト]] No.86|date=1993年3月1日|year=1993|publisher=[[新声社]]|pages=3,4,5}}</ref>。従えている精霊の名前はアドン&サムソン。 : ラスプーチンと『2JET』から登場するジャックを変態と見なしている。 : 『2JET』のCMではメインを務め、子供たちからの声援を受けるシーンもある。 : 髪切りマッチで負けても仮面の上部が壊れるのみで、素顔のスキンヘッド姿を見ることはできない。 : なお、名前のスペルはM'''A'''DMANではなく、M'''U'''DMAN(泥の男)である。[[雑君保プ]]によるコミックでもM'''A'''DMANとの誤記が見られる。 ; リョウコ(出雲良子:いずも りょうこ) : 日本国籍の女子高生柔道家。柔道家らしく投げ技が得意で、強力な当身(打撃)技も使いこなす。ハンゾウに憧れ、ジャンヌを尊敬している(『パーフェクト』ではハンゾウに対する憧れが恋愛感情と似たものになるが、やや無自覚)。年代は西暦1992年。身長162cm、体重48kg。 : 必殺技の「戊殺掌」は後に『痛快GANGAN行進曲』の李海灌(イー・ハエクン)が似た技を使用し、『パーフェクト』では「彼から直伝された」ことになった。 : 髪切りマッチで負けると結んでいる髪の一部が残る。 ; ジョニー・マキシマム : アメリカ国籍の[[アメリカンフットボール]]の選手。年代は西暦1989年。身長215cm、体重107kg。 : 『2』のみ飛び道具技「アーモンドショット」を使う。肩を壊したために『2JET』以降は封印したが、『パーフェクト』のヒーローゲージMAX版究極奥義で解禁している。 : 究極奥義「ハイパージョニースペシャル」は、『痛快GANGAN行進曲』のボビー・ネルソンのGANGAN必殺技「ビッグバンアタック」をヒントに編み出した。 ; シュラ(シュラ・ナイ・カノム・トム) : [[アユタヤ王朝|アユタヤ]]時代の戦士、[[古式ムエタイ#ナーイ・カノム・トムの伝説|ナーイ・カノムトム]]をモチーフとする[[タイ王国|タイ]]国籍の[[ムエタイ]]格闘家。年代は西暦1762年。身長167cm、体重50kg。 : ドラゴンを兄貴分と慕う。何人もの挑戦者を退けてきた彼を「真空のシュラ」と呼んだ<ref name=":0" />。『2JET』以降は「○○[[ッス]]」という口調でしゃべる。 : 必要以上に濃いキャラクターの中で「地味」と言われることを密かに気にしている。他のキャラクターからも、このことをからかわれている。ラスプーチンは「カルマの法則が原因」と言っている。 : 髪切りマッチで負けると頭頂部を剃られる。 ; ネオ・ギガス : CPU専用キャラクターで、[[スーパーファミコン]]版(以下SFC版)のみ使用可能。前作での敗北により、頭脳プログラムを改良されて明確な自我を持つに至った。DIOを兄貴と思い、慕っている。 : 前作同様、様々なキャラクターに変身するが、大抵は『2』に新規参戦したキャラクターに変身、SFC版ではDIO以外のあらゆるキャラクターに変身する。 : 本作がキャラクターとして最後の登場となるが、SFC版で使用可能になった際には他のキャラクターに変身しなくとも戦えるようになり、ネオジオ版にはない自爆攻撃などが追加された。 ; DIO(ディオ) : CPU専用キャラクター。ネオジオCD版とSFC版のみ使用可能。本作のボスキャラクター。 : ギガスと同じく液体金属の生命体。自らの手足をナイフや剣などの形状に変化させて攻撃する。 : 秘密結社ダムドによって生み出された生体金属兵士だが、自らの強大な力ゆえの傲慢からダムドを壊滅させて逃走する。自分に仇なす者を悉く見下す冷酷な性格だが、心の奥底では自分を倒せるほどの強敵の存在を欲している。 : 『2JET』には登場しない。 === 『2JET』から登場 === ; ジャック(ジャック・ザ・リッパー) : [[切り裂きジャック]]をモチーフとしたキャラクター。[[イギリス]]国籍の殺人鬼。 : [[パンクファッション]]に身を包み、二対の鉤爪を始めとする全身の刃物を利用して戦う。地中に潜って移動する技も使う。キャラクターデザイナーはラスプーチンとマッドマンの担当と同一人物。 ; リョフ(呂布奉先:りょふ ほうせん) : [[後漢]]末期の武将、[[呂布|呂布奉先]](生年不詳 - 198年)がモチーフの戦士。槍の一種[[方天画戟]]を使い、リーチと攻撃力に優れる。酒を飲むことで火を吹いたり、一時的にパワーアップするなどの特技も持つ。 : J.カーンとは武人同士として尊敬し合っている。『パーフェクト』のエンディングでは愛馬・[[赤兎馬]]が登場する。 ; ゼウス : CPU専用キャラクターにして、本作のボスキャラクター。[[ゲームボーイ]]版『2JET』、『パーフェクト』のネオジオCD版・セガサターン版では使用可能。ジャックと呂布を従えている。 : [[ギリシア神話]]の神[[ゼウス]]がモチーフ。 : 歴史上のあらゆる戦乱を影から操ってきた一族の末裔。歴史操作にも飽きて退屈な日々を送っていたが、ブラウン博士のタイムマシンを見つけてワールドヒーローズの存在を知り、それを利用した世界征服を企む。ジャックとリョフを連れてきたのも彼だが、検索用コンピューターの設定時に「HERO」を「HEEL」にスペルミスしたのがその原因。 : 「サマンサちゃん」という名の猛牛をペットとして飼っており、「超武会」モードのボーナスステージでプレイヤーキャラクターに差し向けてくる。 : 『パーフェクト』では中ボスとして登場するが、勝敗に関わらず1ラウンドのみで終了する(後述)。 === 『パーフェクト』で登場 === ; 孫悟空 : 『[[西遊記]]』に登場する[[孫悟空]]がモチーフ。喋り方は『ドラゴンボール』の孫悟空に近い。 : 特定の条件を満たすとCPU戦で乱入してくる。また、キャラクターセレクト画面で特定のコマンドを入力することでプレイヤーキャラクターとして使用可能。[[セガサターン]]版ではゼウス、NEO-DIOと共に最初から使用可能。 ; NEO-DIO(ネオ・ディオ) : 本作の[[最終ボス]]。DIOがギガスを吸収して復活した。吸収された状態でも、ギガスは自我を保っているようである。 <!--: ブロッケンが対戦する時の字幕スーパー、ブロッケンの究極奥義、ブロッケンの『2』のEDの関連を考えると、『2』ではブロッケンに倒された模様。--> : ゼウス戦の1ラウンドが終わると乱入し、ゼウスを一瞬で倒してプレイヤーキャラクターに勝負を挑む。 : プレイヤーキャラクターとしては、凶悪な強さを持つ隠しキャラクターであり、簡単なコマンドで構成されている。 === その他 === ; ブラウン博士 : シリーズの主要サブキャラクターで、本名はブラウン・シュガー。[[タイムマシン]]を開発した天才科学者で、各時代の英雄たちを集結させて大会を提供した、「ワールドヒーローズ」の発起人でもある。ブロッケンのメンテナンスも担当し、『2JET』から登場するキャプテンキッドの飛空挺の製造も行っている。 : 元々は『[[ニンジャコマンドー]]』に登場していたが、本作品との関連はないとされている。 ; ナイチンゲール : 『2』の没キャラクターで、[[フローレンス・ナイチンゲール]]がモチーフ。シリーズ本編には登場しなかったが、ネオジオCDオリジナル作品『ADKワールド』では案内役として登場する。 == 家庭用移植作品 == レイティングは全て{{CERO-B}}。 ; ワールドヒーローズ :;家庭用[[ネオジオ]]版 ::[[1992年]][[9月11日]]発売。[[Multi Video System|MVS]]版と同等。 :;[[スーパーファミコン]]版 ::[[サン電子]]から[[1993年]][[8月12日]]発売。 ::ボタンがオリジナル通りのパンチ・キック・投げの3ボタン制と、通常の格闘ゲームに近い操作性になる強弱パンチ・強弱キック・投げの5ボタン制を選択することができる。また、オリジナル版では不可能だった同キャラクター対戦も可能になった(2Pカラーは『2』に準じている)。そのため、ゲーム性と操作性がオリジナル版より向上している。 ::パッケージイラストを[[アニメーター]]の[[大森英敏]]が担当。テレビCMも放映されており、ナレーションは[[家弓家正]]が担当した。 :;[[メガドライブ|ジェネシス]]版 ::北米メガドライブ版。北米で[[1994年]][[8月16日]]発売。日本では未発売。 :;[[ネオジオCD]]版 ::[[1995年]][[3月17日]]発売。BGMが全曲アレンジ音源になっている以外はMVS版と同等。 :;[[Wii]]版 ::[[バーチャルコンソール]]用タイトルとして[[2007年]][[9月28日]]より配信が開始された。家庭用ネオジオ版そのままであるため、MVSそのままの感覚で楽しめる。 :;[[PlayStation Portable]]版 ::『SNK Arcade Classics Vol.1』に収録。日本国内版では最初から遊べるが、国外版では最初から開放されている他タイトルを遊んでポイントを貯めることにより選択可能になる隠しタイトルとなっている。 :;PSP・[[PlayStation 3]]版 ::ネオジオステーション用タイトルとして[[2011年]][[8月25日]]より配信が開始された。ゲーム自体は家庭用ネオジオ版そのままであるが、オンライン対戦やリプレイモードなどの追加コンテンツも搭載。 :;[[PlayStation 4]]・[[Xbox One]]・[[Nintendo Switch]]・[[Microsoft Windows 10|PC]]・[[iOS]]・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 ::[[アーケードアーカイブス|アケアカNEOGEO]]の1作品として配信。PlayStation 4版は[[2017年]][[1月26日]]、Xbox One版は2017年[[2月23日]]、Nintendo Switch版は2017年[[11月30日]]より、PC版は[[2017年]][[12月15日]]より、iOS版とAndroid版は[[2022年]][[5月19日]]より配信開始。 ; ワールドヒーローズ2 :;家庭用ネオジオ版 ::[[1993年]][[6月4日]]発売。MVS版と同等。 :;[[PCエンジン]]版 ::[[ハドソン]]から[[1994年]][[6月4日]]発売。[[アーケードカード]]対応ソフト。 ::移植度は高いが、ロード時間がとても長い。このため、読み込みの進捗度がどこまで進んだかが数字で表示されるようになっており、0になるとロード完了。 ::ハード性能の都合上、ギガスが変身可能なキャラクターがプレイヤーが使用中のキャラクターと『2』からの新キャラクターに限られる。 :;[[スーパーファミコン]]版 ::[[ザウルス]]から1994年[[7月1日]]発売。ボタン設定は前作と同じく強弱制に変更可。キャラクターのカラーバリエーションは6色に増えた。ネオギガスとDIOも使用可能になり、これに伴いネオギガスに通常時の技が実装されている。 :;ネオジオCD版 ::[[1995年]][[4月14日]]発売。DIOが使用可能になった以外はMVS版と同等。 :;[[Wii]]版 ::[[バーチャルコンソール]]用タイトルとして[[2011年]][[11月15日]]より配信が開始された。 :;[[PlayStation 4]]・[[Xbox One]]・[[Nintendo Switch]]版・[[Microsoft Windows 10|PC]]・[[iOS]]・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 ::アケアカNEOGEOの1作品として配信。PlayStation 4版、Xbox One版は2017年[[5月25日]]より、Nintendo Switch版は[[2018年]][[1月25日]]より、PC版は[[2018年]][[2月28日]]より、iOS版、Android版は[[2022年]][[12月15日]]より配信開始。 ; ワールドヒーローズ2JET :;家庭用ネオジオ版 ::[[1994年]][[6月10日]]発売。MVS版と同等。 :;ネオジオCD版 ::1994年[[11月11日]]発売。MVS版と同等。 :;[[ゲームボーイ]]版 ::[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]から[[1995年]][[2月24日]]発売。『[[熱闘シリーズ]]』のひとつで、タイトルは『熱闘ワールドヒーローズ2JET』。二頭身デフォルメ体型にリメイクしたものだが、全キャラクターが登場する。 ::オリジナルの要素としてゼウスが使用可能になったほか、全キャラクターに『パーフェクト』の究極奥義とは別のオリジナルの超必殺技が追加されている。 :;[[Wii]]版 ::[[バーチャルコンソール]]用タイトルとして[[2011年]][[12月20日]]より配信が開始された。これにより全作品がバーチャルコンソールで配信された(『パーフェクト』は『2』より先に配信)。 :;[[PlayStation 4]]・[[Xbox One]]・[[Nintendo Switch]]版・[[Microsoft Windows 10|PC]]版・[[iOS]]版・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 ::アケアカNEOGEOの1作品として配信。PlayStation 4版とXbox One版が2017年[[11月30日]]、Nintendo Switch版が2018年[[3月22日]]、PC版が[[2018年]][[8月31日]]、iOSとAndroid版が[[2023年]][[2月2日]]よりそれぞれ配信開始。 ; ワールドヒーローズパーフェクト :;家庭用ネオジオ版 ::[[1995年]][[6月30日]]発売。MVS版と同等。 :;ネオジオCD版 ::1995年[[7月21日]]発売。一部の技のモーションやボイスが削除されているが、孫悟空とNEO-DIOが最初から使用可能になり、さらにゼウスが隠しコマンドでVSモードでのみ使用可能になった。チビキャラモードでも攻撃力の低下が無く、必殺技も使用できる。 :;[[セガサターン]]版 ::[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](旧社)から[[1996年]][[8月9日]]発売。ネオジオCD版をベースとしているが、増設RAMなしで本体のみで遊べ、読み込みも速い。隠しカラーが2色もある上に、ゼウス含むボス3体が全てのモードで使用可能となっている。 :;[[Wii]]版 ::[[バーチャルコンソール]]用タイトルとして[[2011年]][[1月11日]]より配信が開始された。 :;[[Nintendo Switch]]・[[PlayStation 4]]・[[Xbox One]]版・[[Microsoft Windows 10|PC]]版・[[iOS]]版・[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 ::アケアカNEOGEOの1作品として配信。Nintendo Switch版は[[2017年]][[3月3日]]より、PlayStation 4版、Xbox Oneは[[2019年]][[1月31日]]より、PC版は[[2019年]][[11月15日]]より、iOS版、Android版は[[2022年]][[2月24日]]より配信開始。 ; ワールドヒーローズゴージャス([[NEOGEO オンラインコレクション]]) :;[[PlayStation 2]]版 ::[[SNK (2001年設立の企業)|SNKプレイモア]]から[[2007年]]10月18日発売。初代から『パーフェクト』までの全4作が収録されている。パッケージイラストは当時ADKに所属し、オフィシャルイラストを描いていた[[さいとうつかさ]]の描き下ろし。 == コミカライズ == 『ワールドヒーローズ』シリーズを題材にした漫画・コミカライズ。 *『[[ワールドヒーローズ2 (漫画)|ワールドヒーローズ2]]』([[コミックゲーメスト]]連載)作画:[[雑君保プ]] *『ワールドヒーローズ 激闘英雄伝』([[月刊コロコロコミック]]連載)作画:[[かとうひろし]] *『[[ワールドヒーローズ 光龍伝]]』([[少年王]]連載)作画:[[蜂文太]] *『ワールドヒーローズ』([[月刊ヒーローズ]]連載)原作:[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]、作画:横尾公敏 == 客演作品 == ; [[痛快GANGAN行進曲]] : フウマが登場している。 ; [[ネオジオバトルコロシアム]] : SNKプレイモア作品。服部半蔵、風魔小太郎、マッドマン、NEO-DIOが本作代表として登場している(ギガスもNEO-DIOの技演出で登場)。 ; NEOGEO HEROES 〜Ultimate Shooting〜 : 2010年に発売されたSNKプレイモア作品。シナリオの根幹にダムドとブラウン博士の開発したタイムマシンが大きく関わっており、最終ボスとしてギガスの系譜であるジオギガスが立ちはだかる。 ; SNKヒロインズ 〜Tag Team Frenzy〜 : 2018年に発売されたSNK作品。ジャンヌが[[ダウンロードコンテンツ|DLC]]キャラクターとして登場しており、エンディングでは本作登場のキャラクターが多数登場している。 == 関連記事 == * [[さいとうつかさ]] - オフィシャルイラストを担当。ADK退社後はフリーの漫画家になっている。 * [[対戦型格闘ゲーム一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://game.snkplaymore.co.jp/official/online/whg/index.php ワールドヒーローズゴージャス:NEOGEO オンラインコレクション] * [http://game.snkplaymore.co.jp/event/virtual-console/worldheroes/index_worldheroes_j.html バーチャルコンソール ワールドヒーローズ] * [http://game.snkplaymore.co.jp/event/virtual-console/worldheroes2/index_worldheroes2_j.html バーチャルコンソール ワールドヒーローズ2] * [http://game.snkplaymore.co.jp/event/virtual-console/worldheroes2jet/index_worldheroes2jet_j.html バーチャルコンソール ワールドヒーローズ2 JET] * [http://game.snkplaymore.co.jp/event/virtual-console/worldherosperfect/index_worldherosperfect_j.html バーチャルコンソール ワールドヒーローズ パーフェクト] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/worldheroes.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ(PS4版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/worldheroes.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ(Xbox One/PC版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/worldheroes.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ(Switch版)] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/worldheroes/ SNKアケアカNEOGEO公式サイト ワールドヒーローズ(iOS/Android版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/worldheroes2.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2(PS4版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/worldheroes2.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2(Xbox One/PC版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/worldheroes2.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2(Switch版)] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/wh2/ SNKアケアカNEOGEO公式サイト ワールドヒーローズ2(iOS/Android版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/worldheroes2jet.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2 JET(PS4版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/worldheroes2jet.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2 JET(Xbox One/PC版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/worldheroes2jet.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズ2 JET(Switch版)] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/wh2jet/ SNKアケアカNEOGEO公式サイト ワールドヒーローズ2 JET(iOS/Android版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/worldheroes_pf.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズパーフェクト(PS4版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/xboxone/worldheroes_pf.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズパーフェクト(Xbox One/PC版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/worldheroesp.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ワールドヒーローズパーフェクト(Switch版)] * [https://www.snk-corp.co.jp/official/akeakaneogeo/whp/ SNKアケアカNEOGEO公式サイト ワールドヒーローズパーフェクト(iOS/Android版)] {{SNK対戦格闘}} {{DEFAULTSORT:わあるとひいろおす}} [[Category:ADK]] [[Category:2D対戦型格闘ゲーム]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:1992年のアーケードゲーム]] [[Category:ネオジオ用ソフト]] [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:PCエンジン用ソフト]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:セガサターン用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]] [[Category:PlayStation Now対応ソフト]] [[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]] [[Category:世界各地を舞台としたゲーム作品]] [[Category:タイムトラベルを題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:忍者を題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:歴史の人物を題材とした作品]]<!--複数の人物が題材なので個別は不可--> [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
2003-08-19T17:04:40Z
2023-11-10T03:57:00Z
false
false
false
[ "Template:SNK対戦格闘", "Template:Redirect", "Template:CERO-B", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA
13,584
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。 近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。 近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。 古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。 栗太郡勢多に所在。1964年(昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。 国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年(弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。 『続日本紀』 『日本後紀』 『続日本後紀』 『日本文徳天皇実録』 『日本三代実録』 その後の平安時代 南北朝時代 2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。", "title": "「近江」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "栗太郡勢多に所在。1964年(昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年(弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『続日本紀』", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『日本後紀』", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『続日本後紀』", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『日本文徳天皇実録』", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『日本三代実録』", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後の平安時代", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "南北朝時代", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある。", "title": "その他" } ]
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 近江国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|近江国}} |別称 = 江州(ごうしゅう) |所属 = [[東山道]] |領域 = [[滋賀県]] |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 12郡93郷 |国府 = 滋賀県[[大津市]]([[近江国庁跡]]) |国分寺 = 1.(推定)滋賀県[[甲賀市]]([[紫香楽宮跡]])<br/>2.(推定)滋賀県大津市野郷原<br/>3.(推定)滋賀県大津市光が丘町 |国分尼寺 = (未詳) |一宮 = [[建部大社]](滋賀県大津市) }} '''近江国'''(おうみのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分であった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]に属する。 == 「近江」の名称と由来 == {{see also|琵琶湖#呼称}} 近江は、『[[古事記]]』では「'''近淡海'''(ちかつあはうみ)」「'''淡海'''(あはうみ)」と記されている。7世紀、[[飛鳥京]]から[[藤原宮]]期の遺跡から見つかった[[木簡]]の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「'''近水海'''」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。</ref>。国名は、[[琵琶湖]]を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない<ref>櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。</ref>。おおよそ[[大宝律令|大宝令]]の制定([[701年]])・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。 == 沿革 == {{Main|滋賀県#歴史}} === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,597村・858,618石7斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[滋賀郡]](110村・46,138石余) - [[天領|幕府領]]([[大津代官所]])、[[地方知行|旗本領]]、[[公家領]]、[[門跡]]領、'''[[膳所藩]]'''、宮川藩、[[下野国|下野]][[佐野藩]]、[[山城国|山城]][[淀藩]]、[[河内国|河内]][[狭山藩]] ** [[栗太郡]](125村・70,472石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、膳所藩、三上藩、[[上野国|上野]][[前橋藩]]、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]、河内狭山藩、[[伊勢国|伊勢]][[菰野藩]]、[[和泉国|和泉]][[伯太藩]] ** [[野洲郡]](99村・68,554石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、[[施薬院]]領、西大路藩、大溝藩、'''[[三上藩]]'''、宮川藩、山上藩、山城淀藩、[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]、丹後宮津藩、河内狭山藩、上野前橋藩、和泉伯太藩、[[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]<ref name="sendai">「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。</ref> ** [[甲賀郡]](140村・78,776石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、'''[[水口藩]]'''、山上藩、宮川藩、三上藩、膳所藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩 ** [[蒲生郡]](235村・139,733石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩[[預地]])、旗本領、公家領、門跡領、'''[[仁正寺藩|西大路藩]]'''、水口藩、宮川藩、山上藩、[[大和国|大和]][[郡山藩]]、武蔵川越藩、陸奥仙台藩<ref name="sendai" />、[[尾張国|尾張]][[尾張藩|名古屋藩]]、山城淀藩、丹後宮津藩、上野前橋藩、[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩]]、和泉伯太藩、丹後[[峰山藩]] ** [[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]](86村・48,583石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、'''[[山上藩]]'''、大和郡山藩 ** [[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]](117村・64,845石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩 ** [[犬上郡]](122村・62,137石余) - '''[[彦根藩]]''' ** [[坂田郡]](178村・92,105石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、'''[[近江宮川藩|宮川藩]]'''、水口藩、山上藩、大和郡山藩、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]、[[紀伊国|紀伊]][[紀州藩|和歌山藩]]、讃岐丸亀藩 ** [[浅井郡]](148村・76,876石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、膳所藩、山上藩、大和郡山藩、山城淀藩、[[三河吉田藩]]、出羽山形藩 ** [[伊香郡]](71村・36,243石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、彦根藩、膳所藩、山城淀藩、[[上総国|上総]][[飯野藩]]、三河吉田藩 ** [[高島郡 (滋賀県)|高島郡]](166村・74,151石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、'''[[大溝藩]]'''、膳所藩、大和郡山藩、[[越前国|越前]][[鞠山藩]]、武蔵川越藩、[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]、和泉伯太藩、[[加賀藩]]、山城淀藩、三河吉田藩、[[丹波国|丹波]][[福知山藩]] * [[慶応]]4年 ** [[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[1868年]][[3月30日]]) - 大津代官所に'''[[大津裁判所]]'''が設置され、幕府領を管轄。 ** [[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[5月20日]]) - 大津裁判所の管轄地域が'''[[大津県]]'''の管轄となる。 ** [[6月4日 (旧暦)|6月4日]](1868年[[7月23日]]) - [[戊辰戦争]]の処分により仙台藩が[[減封]]となり、郡内の領地が大津県の管轄となる。 * 明治元年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1869年]][[2月3日]]) - [[寺社領]]のうち滋賀郡の[[滋賀院]]領が大津県の管轄となる。 * 明治2年 ** [[6月17日 (旧暦)|6月17日]](1869年[[7月25日]]) - [[版籍奉還]]により、加賀藩(通称)の正式名称が'''金沢藩'''となる。 ** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1869年[[7月27日]]) - 版籍奉還により、吉田藩が改称して'''[[豊橋藩]]'''となる。 ** [[6月24日 (旧暦)|6月24日]](1869年[[8月1日]]) - 版籍奉還により、鞠山藩(通称)の正式名称が'''[[敦賀藩]]'''となる。 ** 彦根藩が[[戊辰戦争]]の戦功によって加増され、彦根藩預地のうち坂田郡および愛知郡の一部が彦根藩領となる。 * 明治3年 ** 2月 - 旗本領・狭山藩領<ref group="注釈">狭山藩は明治2年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]](1870年[[1月27日]])に廃藩。</ref>が大津県の管轄となる。 ** [[3月23日 (旧暦)|3月23日]]([[1870年]][[4月23日]]) - 敦賀藩が改称して'''鞠山藩'''となる。 ** [[4月14日 (旧暦)|4月14日]](1870年[[5月14日]]) - 三上藩が藩庁の移転により和泉'''[[吉見藩]]'''となる。 ** [[7月17日 (旧暦)|7月17日]](1870年[[8月13日]]) - 山形藩が[[転封]]により近江'''[[朝日山藩]]'''となる。それにともない坂田郡・浅井郡で領地替えが行われ、坂田郡の山形藩領と浅井郡の山上藩領が消滅。浅井郡の膳所藩領が滋賀郡の大津県の管轄地域に転封。 ** [[9月17日 (旧暦)|9月17日]](1870年[[10月11日]]) - 鞠山藩が小浜藩に編入。 ** 10月 - 丸亀藩<ref group="注釈">丸亀藩は明治4年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]](1871年[[5月28日]])に廃藩。</ref>領・飯野藩領が大津県の管轄となる。 ** このころ和歌山藩領が大津県の管轄となる。 * 明治4年 ** 4月 - 彦根藩預地が大津県の管轄となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[膳所県]]'''、'''[[宮川県]]'''、'''[[水口県]]'''、'''[[山上県]]'''、'''[[西大路県]]'''、'''[[彦根県]]'''、'''[[朝日山県]]'''および[[佐野県]]、[[淀県]]、[[前橋県]]、[[宮津県]]、[[菰野県]]、[[伯太県]]、[[川越県]]、[[郡山県]]、[[名古屋県]]、[[豊橋県]]、[[峰山県]]、[[小浜県]]、[[金沢県]]、[[福知山県]]、[[吉見県]]の飛地となる。 ** 10月 - 大溝藩領<ref group="注釈">大溝藩は明治4年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]](1871年[[4月16日]])に廃藩。</ref>・公家領・門跡領・寺社領が大津県の管轄となる。 ** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次府県統合により、前橋県の管轄地域が'''[[群馬県]]'''の管轄となる。 ** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、宮津県・峰山県の管轄地域が'''[[豊岡県]]'''の管轄となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、佐野県の管轄地域が'''[[栃木県]]'''、川越県の管轄地域が'''[[入間県]]'''の管轄となる。 ** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、豊橋県の管轄地域が'''[[額田県]]'''の管轄となる。 ** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、滋賀郡・栗太郡・甲賀郡・野洲郡・蒲生郡が'''大津県'''、神崎郡・愛知郡・犬上郡・坂田郡・浅井郡・伊香郡・高島郡が'''[[長浜県]]'''の管轄となる。 * 明治5年 ** [[1月19日 (旧暦)|1月19日]](1872年[[2月27日]]) - 大津県が改称して'''[[滋賀県]]'''となる。 ** [[2月27日 (旧暦)|2月27日]](1872年[[4月4日]]) - 長浜県が改称して'''[[犬上県]]'''となる。 ** [[9月28日 (旧暦)|9月28日]](1872年[[10月30日]]) - 全域が'''滋賀県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 宮 === 近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。 * [[大津宮]](大津京) - [[天智天皇]]-[[弘文天皇]] * [[紫香楽宮]] - [[聖武天皇]] * (伝)[[保良宮]] - [[淳仁天皇]]、[[陪都]]として [[古事記]],[[日本書紀]]には[[志賀高穴穂宮]]の存在が記述されており、[[景行天皇]],[[成務天皇]],[[仲哀天皇]]が都したとされている。 === 国府 === [[栗太郡]]勢多に所在。[[1964年]]([[昭和]]39年)に現在の[[大津市]]三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。 === 国分寺・国分尼寺 === [[国分寺|国分僧寺]]は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、[[紫香楽宮]]跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、[[820年]]([[弘仁]]11年)に国昌寺跡([[大津市]]国分)に移された。ここでは[[最澄]]が若き日に修学しているとされる。[[国分尼寺]]跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社13座10社・小社142座132社の計155座142社が記されている([[近江国の式内社一覧]]を参照)。大社10社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。 * [[滋賀郡]] ** [[小野神社 (大津市)|小野神社]]二座 ** 日吉神社 (現 [[日吉大社]]) * [[栗太郡]] ** [[佐久奈度神社]] ** 建部神社 (現 [[建部大社]]) * [[甲賀郡]] ** [[川田神社]]二座 * [[野洲郡]] ** [[御上神社]] ** 兵主神社 (現 [[兵主大社]]) * [[蒲生郡]] ** 奥津嶋神社 - [[奥津嶋神社]]または[[大嶋神社奥津嶋神社]]に比定。 * [[伊香郡]] ** [[伊香具神社]] * [[高島郡 (滋賀県)|高嶋郡]] ** [[水尾神社]]二座 ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 不明 * 一宮 '''[[建部大社]]''' * 二宮 [[日吉大社]] - [[比叡山]][[延暦寺]]と関係が深く、一宮を凌ぐほどの力があったと見られている。 * 三宮 [[多賀大社]]または[[御上神社]] == 地域 == === 郡 === [[ファイル:Districts of Omi province.png|right]] * [[滋賀郡]] * [[栗太郡]] * [[甲賀郡]] * [[野洲郡]] * [[蒲生郡]] * [[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]] * [[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]] * [[犬上郡]] * [[坂田郡]] * [[浅井郡]] * [[伊香郡]] * [[高島郡 (滋賀県)|高島郡]] === 江戸時代の藩 === {| class="wikitable" |+ 近江国の藩の一覧 ! 藩名 !! 居城 !! 藩主 |- ! [[彦根藩]] | [[佐和山城]]<br>(1600年~1606年)<BR>[[彦根城]]<br>(1606年~1871年) ||[[井伊氏|井伊家]](1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石) |- ! [[膳所藩]] | [[膳所城]] || [[戸田氏|戸田家]](1601年~1616年、3万石)<br> [[本多氏|本多家]](1616年~1621年、3万石)<br> [[菅沼氏|菅沼家]](1621年~1634年、3万1千石)<br> [[石川氏|石川家]](1634年~1651年、7万石→5万3千石)<br> 本多家(1651年~1871年、7万石) |- ! [[水口藩]] | [[水口城]] || [[加藤氏|加藤家]](1682年~1695年、2万石)<br> [[鳥居氏|鳥居家]](1695年~1712年、2万石)<br> 加藤家(1712年~1871年、2万5千石) |- ! [[大溝藩]] | [[大溝陣屋]] || [[分部氏|分部家]](1619年~1871年、2万石) |- ! [[仁正寺藩]] | [[仁正寺陣屋]] || [[市橋氏|市橋家]](1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石) |- ! [[山上藩]] | 山上陣屋 || [[三河稲垣氏|稲垣家]](1698年~1871年、1万3千石) |- ! [[近江宮川藩]] | 宮川陣屋 || [[堀田氏|堀田家]](1698年~1871年、1万石→1万3千石) |- ! [[三上藩]] | 三上陣屋 || [[遠藤氏|遠藤家]](1698年~1870年、1万石→1万2千石) |- ! [[堅田藩]] | 堅田陣屋 || 堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)<br> 下野[[佐野藩]]に転封、堅田藩は廃藩 |- ! [[朽木藩]] | 朽木陣屋 || [[朽木稙綱 (土浦藩主)|朽木稙綱]](1636年~1648年、1万石)<br> 朽木家は下野[[鹿沼藩]]に転封、朽木藩は廃藩 |- ! [[山形藩#大森藩|大森藩]] | 大森陣屋 || [[最上義俊]](1622年~1632年、1万石)<br> 嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩 |- ! [[近江高島藩]] | || [[佐久間安政]](1600年~1616年、1万5千石→2万石)<br> 信濃[[飯山藩]]に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった |- ! [[近江小室藩]] | 小室陣屋 || 小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)<br> 不正のため改易・廃藩 |} == 人物 == === 国司 === ==== 近江守 ==== 『[[続日本紀]]』 *[[多治比水守]]-[[和銅]]元年([[708年]])任官 *[[采女比良夫]]-和銅3年([[710年]])任官 *[[藤原武智麻呂]]-和銅5年([[712年]])任官<ref group="注釈">『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。</ref> *[[長田王 (摂津大夫)|長田王]]-[[霊亀]]2年([[716年]])任官 *[[甘南備神前]]-[[天平]]13年([[741年]])任官 *[[藤原仲麻呂]]-天平17年([[745年]])任官 *[[藤原縄麻呂]]-[[天平神護]]2年([[766年]])任官 *[[藤原家依]]-[[宝亀]]2年([[771年]])任官 *[[高倉福信]]-宝亀7年([[776年]])任官 *[[藤原種継]]-[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])任官 *[[多治比長野]]-[[延暦]]5年([[786年]]) 『[[日本後紀]]』 *[[大中臣諸魚]]-[[延暦]]8年([[789年]])任官 *[[紀勝長]] *[[巨勢野足]]-[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])任官 *[[藤原貞嗣]]-[[弘仁]]元年([[810年]])任官 *[[藤原継業]] *[[藤原緒嗣]]-弘仁3年([[812年]])任官 *[[秋篠安人]] *[[良岑安世]]-弘仁7年([[816年]]) 『[[続日本後紀]]』 *[[源信 (公卿)|源信]]-[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])任官 *[[源明]]-承和6年([[839年]])任官 *[[源融]]-承和9年([[842年]])任官,承和14年([[847年]])任官 *[[南淵永河]]-承和12年([[845年]])任官 *[[藤原岳守]]-承和15年([[848年]])任官 『[[日本文徳天皇実録]]』 *[[小野篁]]-[[仁寿]]元年([[851年]]) *[[藤原助]]-仁寿三年([[853年]])正月 *[[藤原氏宗]]-仁寿三年(853年)7月 *[[源冷]]-[[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]]) 『[[日本三代実録]]』 *源融-[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]]) *[[春澄善縄]]-貞観6年([[864年]]) *[[源多]] *[[在原善淵]]-貞観10年([[868年]]) *[[南淵年名]]-貞観12年([[870年]]) *[[源勤]] *[[菅原是善]] *[[在原行平]] *[[忠貞王]] *[[源是忠]]-[[仁和]]元年([[885年]]) その後の平安時代 *[[藤原有実]] - [[延喜]]11年([[911年]])任官 **[[藤原玄上]] - 延喜16年([[916年]])、延喜20年([[920年]])任官(権守) *[[藤原玄上]] - [[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])任官 *[[藤原師成]] - [[康平]]5年([[1062年]])任官 *[[源隆俊]] - 康平5年(1062年)任官 [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] * [[北朝 (日本)|北朝]] ** [[佐々木秀綱]] - [[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])任官 ** [[塩冶高貞]] - [[興国]]2年/[[暦応]]4年([[1341年]])3月ごろ在職 ==== 近江介 ==== *[[藤原有実]] - [[貞観 (日本)|貞観]]15年([[873年]])任官 *[[藤原恒佐]] - [[延喜]]7年([[907年]])任官 *[[源隆俊]] - [[長久]]2年([[1041年]])任官 *源隆俊 - [[永承]]3年([[1048年]])還任 *[[藤原顕家 (小野宮流)|藤原顕家]] - 永承7年([[1052年]])任官 ==== 近江掾 ==== *[[藤原有相]] - [[承平 (日本)|承平]]2年([[932年]])任官 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * 1187年~1191年 - [[佐々木定綱]] * 1193年~1205年 - 佐々木定綱 * 1205年~1221年 - [[佐々木広綱]] * 1221年~1233年 - [[佐々木信綱]] * 1245年~1252年 - [[佐々木泰綱]] * 1275年~1310年 - [[佐々木頼綱]] * 1310年~1333年 - [[六角時信|佐々木時信]] ==== 室町幕府 ==== * 1335年 - 1336年 - [[六角氏頼]] * 1336年 - 1338年 - [[佐々木道誉|京極高氏(佐々木道誉)]] * 1338年 - 1340年 - [[佐々木秀綱|京極秀綱(佐々木秀綱)]] * 1340年 - 1351年 - 六角氏頼 * 1351年 - [[山内信詮]]<ref group="注釈">六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、[[観応の擾乱]]で[[足利尊氏]]と敵対する[[足利直義]]方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。</ref> * 1351年 - [[六角直綱]] * 1352年 - 1353年 - [[六角義信]] * 1354年 - 1370年 - 六角氏頼 * 1370年 - 1377年 - [[六角高経]](後の京極高詮)<ref group="注釈">佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の[[満高]]が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。</ref> * 1377年 - 1411年 - [[六角満高]] * 1411年 - ? - [[青木持通]] * 1412年 - 1416年 - 六角満高 * 1416年 - 1441年 - [[六角満綱]] * 1441年 - 1445年 - [[六角持綱]] * 1445年 - 1456年 - [[六角久頼]] * 1456年 - 1458年 - [[六角高頼]](1度目)([[六角政頼]]?) * 1458年 - 1460年 - [[六角政堯]](1度目) * 1460年 - 1468年 - 六角高頼(2度目) * 1468年 - 1469年 - 六角政堯(2度目) * 1469年 - 1470年 - [[京極持清]] * 1470年 - 1471年 - [[京極孫童子丸]] * 1471年 - 1471年 - 六角政堯(3度目) * 1471年 - 1473年 - [[六角虎夜叉]] * 1473年 - 1478年 - [[京極政経|京極政高]](京極政経) * 1478年 - 1487年 - 六角高頼(3度目) * 1488年 - 1489年 - [[結城尚豊]] * 1489年 - 六角高頼 * 1490年 - 1492年 - [[細川政元]] * 1492年 - 1493年 - [[六角虎千代]] * 1493年 - 1494年 - [[山内就綱]] * 1495年 - ? - 六角高頼 * 1507年 - ? - [[六角氏綱]] * 1508年 - ? - [[京極高清]] * 1511年 - 1518年 - 六角氏綱 * 1518年 - 1552年 - [[六角定頼]] * 1552年 - ? - [[六角義賢]] === 戦国大名 === *[[六角氏]]([[観音寺城]]):守護大名から近江南部の戦国大名へ。1568年、[[観音寺城の戦い]]で織田信長に敗れて以降衰退 *[[京極氏]]([[上平寺城]]):近江北部の戦国大名。被官の浅井氏に実権を奪われ衰退、後[[豊臣秀吉]]に臣従して大名として復活 *[[浅井氏]]([[小谷城]]):北近江の国人から主家の京極氏に代わり戦国大名へ。1573年、[[小谷城の戦い]]で織田信長に敗れて滅亡 *[[織田信長]]([[安土城]]):近江平定後、1579年に[[岐阜城]]から安土に居城を移す *織田政権の大名 **[[明智光秀]]([[坂本城]]):1571年、[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]の後、信長より光秀に近江国滋賀郡が与えられた **[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]([[長浜城 (近江国)|長浜城]]):1579年の浅井氏滅亡後、信長から浅井氏旧領を拝領 **[[丹羽長秀]]([[佐和山城]]):浅井氏の旧領の一部と越前[[朝倉氏]]旧領南部を拝領 **[[津田信澄]]([[大溝城]]): *豊臣政権の大名 **[[八幡山城]]:[[豊臣秀次]](43万石、秀次は20万石、宿老23万石)→京極高次(2万8,000石)→1594年廃城・高次は大津城に転封 **長浜城:[[山内一豊]](2万石)→一豊は1591年遠江[[掛川城]]5万1,000石に転封・長浜城は江戸時代の1615年に廃城 **[[坂本城]]:[[丹羽長秀]]→[[杉原家次]]→[[浅野長政]]→1586年廃城・長政は大津城に転封 **[[大津城]]:浅野長政(2万石)→[[増田長盛]]→[[新庄直頼]](1万2,000石)→[[京極高次]](6万石)→1601年廃城・高次は[[若狭国|若狭]][[小浜城 (若狭国)|小浜城]]8万2,000石に転封 **[[佐和山城]]:[[堀秀政]](9万石)→[[堀尾吉晴]](4万石)→[[石田三成]](19万4,000石)→江戸時代の1606年に廃城 **[[大溝城]]:[[丹羽長秀]]→[[加藤光泰]]→[[生駒親正]]→京極高次→高次は八幡山城に転封 **[[水口岡山城]]:[[中村一氏]]→増田長盛→[[長束正家]] === 武家官位としての近江守 === ==== 江戸時代以前 ==== *[[浦上宗助]] *[[織田寛定]] *[[飯尾定宗]] *[[相良長毎]]:[[肥後国|肥後]][[相良氏]]の第13代当主 ==== 江戸時代 ==== *[[常陸国|常陸]][[下館藩]][[石川氏|石川家]] **[[石川総茂]]:[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩]]の第3代藩主、常陸下館藩初代藩主 **[[石川総親]]:第6代藩主 **[[石川総貨]]:第8代藩主 *その他 **[[浅野長員]]:安芸[[広島新田藩]]第3代藩主 **[[浅野長容]]:広島新田藩の第4代藩主 **[[加納久堅]]:伊勢[[八田藩]]第2代藩主 == 近江国の合戦 == *[[672年]]:[[壬申の乱]](瀬田橋の戦い)、[[天武天皇|大海人皇子]]軍([[村国男依]]) x [[弘文天皇|大友皇子(弘文天皇)]]軍 *[[764年]]:[[藤原仲麻呂の乱]]、[[藤原仲麻呂]]×[[孝謙天皇|孝謙上皇]] *[[1184年]]:[[粟津の戦い]]、[[源頼朝]]軍([[源範頼]]) x [[源義仲]]軍 *[[1336年]]:[[近江の戦い]]、[[新田義貞]] x [[小笠原貞宗]] *[[1468年]]:[[観音寺城#第一次観音寺城の戦い|第一次観音寺城の戦い]]、[[京極持清]]・[[京極勝秀]]連合軍 x [[六角高頼]]軍(伊庭行隆) *1468年:[[観音寺城#第二次観音寺城の戦い|第二次観音寺城の戦い]]、[[六角政堯]]・京極持清連合軍 x 六角高頼軍(山内政綱) *[[1469年]]:[[観音寺城#その後の観音寺城の戦闘年表|第三次観音寺城の戦い]]、六角高頼軍 x 京極持清軍([[多賀高忠]]、六角政堯) *[[1487年]] - [[1491年]]:[[長享・延徳の乱]]、室町幕府軍 x 六角高頼軍 *[[1509年]]:[[如意ヶ嶽の戦い]]、[[細川高国]]・[[大内義興]]軍 x [[細川澄元]]・[[三好之長]]軍 *[[1560年]]:[[野良田の戦い]]、[[浅井長政]]軍 x [[六角義賢]]軍 *[[1568年]]:[[観音寺城の戦い]]、[[織田信長]]軍 x [[六角義治]]・六角義賢軍 *[[1570年]]:[[野洲河原の戦い]]、織田信長軍([[柴田勝家]]、[[佐久間信盛]]) x 六角軍(六角義賢・義治) *1570年:[[姉川の戦い]]、織田信長・[[徳川家康]]軍 x [[浅井氏|浅井]]・[[朝倉氏|朝倉]]軍(浅井長政、[[朝倉景健]]) *1570年:[[志賀の陣]]、織田信長軍 x 浅井・朝倉・[[延暦寺]]軍 *1570年:[[宇佐山城#宇佐山城の戦い|宇佐山城の戦い]]、織田信長軍([[織田信治]]、[[森可成]]、[[青地茂綱]]、[[各務元正]]) x 浅井・朝倉・延暦寺・六角義賢軍 *[[1571年]]:[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、織田信長軍([[明智光秀]]、[[池田恒興]]、柴田勝家、佐久間信盛、[[豊臣秀吉|木下秀吉]]等) x 延暦寺軍 *[[1583年]]:[[賤ヶ岳の戦い]]、羽柴秀吉軍 x 柴田勝家軍 *[[1600年]]:[[大津城の戦い]]、西軍([[末次元康|毛利元康]]、[[立花宗茂]]、[[毛利秀包|小早川秀包]]、[[筑紫広門]]) x 東軍([[京極高次]]) *1600年:[[佐和山城の戦い]]、東軍([[小早川秀秋]]等) x 西軍([[石田正継]]、[[石田正澄]]) == その他 == 2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある<ref>[http://mokuzawa.exblog.jp/10546696/ 近江の人 木沢まさと: ブランド構築に向けて]、木沢成人、2009年12月11日更新、2011年3月8日閲覧。</ref>。 == 関連氏族 == * [[六角氏]] * [[京極氏]] * 塩津地頭[[熊谷氏]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 25 滋賀県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Omi Province}} * [[志賀清林]] * [[伯太藩]] * [[伊庭貞剛]] * [[近江町]] * [[近江八景]] * [[江州音頭]] * [[近江弁]] * [[近江商人]] * [[近江牛]] * [[三上山]](近江富士) ==外部リンク== *[https://purl.stanford.edu/hs631zg4177 Ōmi Kuni-ezu -- 近江國絵圖] {{令制国一覧}} {{近江国の郡}} {{デフォルトソート:おうみのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東山道|国おうみ]] [[Category:滋賀県の歴史]] [[Category:戦国時代 (日本)]] [[Category:安土桃山時代]] [[Category:近江国|*]]
2003-08-19T18:49:24Z
2023-08-09T10:40:48Z
false
false
false
[ "Template:See also", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:令制国一覧", "Template:基礎情報 令制国", "Template:Notelist", "Template:Commonscat", "Template:近江国の郡" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD
13,585
尾道市
尾道市(おのみちし)は、広島県南東部にある市。1898年(明治31年)市制施行。 山陽地方の中南部、岡山市と広島市のほぼ中間に位置している。瀬戸内海(対岸の向島との間はその狭さから尾道水道と呼ばれる)に面し、古くから海運による物流の集散地として繁栄していた。明治時代に山陽鉄道が開通して鉄道と海運の接点になったことで、広島県東部(備後地方)で最大の人口を抱える都市となるが、1960年代半ばには福山市(工業都市化で急速に発展し旧城下町で平地に恵まれた)に中心地の座を明け渡した。ただし、現在も備後都市圏の有力都市の一つとなっている。1999年5月の瀬戸内しまなみ海道開通によって四国の今治市と陸路で結ばれ、物流面での利便性が高まり、2015年3月には中国横断自動車道(尾道松江線)が全線開通し、「瀬戸内の十字路」と呼ばれることもある。 「坂の街」「文学の街」「映画の街」として知られる。文学では林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では小津安二郎監督の『東京物語』が尾道で撮影され、大林宣彦監督の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は「尾道三部作」として、若い世代に尾道を有名にした。他の自治体がロケ地観光の目的地になることを見込んで戦略的にロケ地の誘致に力を入れたのに対し、尾道は20世紀半ばから制作者の主体的判断による映画ロケが相次ぎ、全国に先駆けてロケ地観光の目的地になった点が異なる。2000年代以降にはアニメの舞台にもよく使われ、アニメファンから「五大聖地」の一つと呼ばれるようになった。テレビ番組やテレビドラマ、CM、ミュージック・ビデオ、グラビア、写真集などの撮影に使われることも多い。また、二大碁聖として知られる本因坊秀策の出身地である因島は「囲碁の島」として有名であり、公園にも石製の碁盤があったが、現在は撤去されている。 2009年から9年連続で観光客数過去最高を記録し、2017年には観光客数が680万人と、2006年の合併により現在の市域となって以降で最多を記録している。2008年から2017年までで約25%の上昇となった。その要因について、尾道市観光課では2015年の中国やまなみ街道の全線開通や、尾道水道の日本遺産認定、2016年の芸予諸島村上海賊、2018年の北前船と自治体最多の日本遺産認定、しまなみ海道サイクリングロードの認知度向上、メディア露出によるプロモーション効果を主原因と分析している。2015年度には海外向けのプロモーションなど情報発信効果もあって、外国人観光客数も最多の21万4045人を記録している。 山間地域から沿岸地域、多くの島により、地域性豊かな農産物が多く栽培されている。わけぎ、いちじく、レモン、ネーブルオレンジは全国1位の生産量を誇り、もも、ぶどう(デラウェア)、八朔、デコポン、みかん、串柿、スイカ、葉たばこ、きぬさやえんどうなどの生産は県内1位である。 市内中心部は概ね東西の国道2号、南北の国道184号及び長江通りと栗原本通りに沿って形成されている。尾道駅東側は国道2号に平行して古くからの商店などが立ち並んでいる。この地域は北側の山と南側の海に挟まれているため、平地が少なく山肌に住宅や神社仏閣が密集している。このため、道路も狭隘で傾斜するものが多く、「坂の街」と言われる所以となっている。このような独特の景観から映画のロケ地として多く使われている。尾道駅西側も平地が少なく山手まで住宅が密集しているが、高層マンションもあり、山頂を切り崩してバイパスに直結したニュータウン(平原台団地、竜王台団地など)が整備されるなど、いわゆる尾道的な景観からは外れている。新尾道駅北方の峠(仙入峠)を超えると徐々に山あいに田園風景の広がる農村地帯に入り、海に近い市内中心部とは大きく趣が異なる。 市内東部、山波町の造船所を越えた東側からは干拓により造られた平地で、福山市、三原市とほぼ等距離の位置にあり、両市を結ぶ国道2号バイパスを通じて山陽自動車道や瀬戸内しまなみ海道とのアクセスがよいことから、沿岸には卸売、工業団地、倉庫が多く立地している(尾道卸売団地など)。東尾道駅周辺には分譲マンション、賃貸アパートや戸建住宅、郊外型量販店等や都市公園などが立地している。都市化が進み隣接する福山市松永地区とは連続的な街並みを形成しており、市内中心部とは街並みが大きく異なっている。東部は旧・備後福山藩領の沼隈郡であったため、東側の松永湾を挟んだ対岸の沼隈半島とも古くから結びつきが強く、沼隈半島には尾道市の飛び地(浦崎町)が存在している。 向島地区の中心部は北岸、すなわち本土の市内中心部と尾道水道を挟んだ対岸にあり、本土の市内中心部とともに尾道的な景観を演出している。平地の多くは塩田に由来するもので、造船所や工場団地、港湾施設、住宅などが密集しており、本土とフェリーが頻繁に連絡している。南岸は高見山など山の斜面が海にまで達しているため平地は少なく、都市化も進んでいない。尾道市で海水浴場があるのも島の南岸である。 因島地区は西南部の土生港を中心とし、そこから国道317号を幹線として西北部へ向けて市街地が広がっている。重井、三庄、中庄といった地区にもまとまった住宅地がある。東部は海岸沿いに崖が連続する地形で、合間にある平坦地にいくつかの集落が点在している。 生口島地区は西北部の瀬戸田地区が中心部であり、瀬戸田港から耕三寺へ抜ける道沿いに商店街が形成されている。そこから北側の沿岸沿いに商業施設や工場などが並び、生口橋へと繋がっていく。南部沿岸はのどかな農村地域となっている。 人口は市内ほぼ全域で減少しているが、市内東部の東尾道地区は、福山市松永エリアと市街地が隣接しており同市のベッドタウン化しており、マンションや商店が増加傾向にある。2010年12月28日時点の住民基本台帳において、島嶼部の住民比率は43.2%である。 1169年(嘉応元年)、尾道村が備後大田庄(現・世羅町)の倉敷地として指定され、発展の基礎となる。江戸時代には現在の市域の北西部(旧・御調郡)が広島藩領、東部(旧・沼隈郡)が備後福山藩領であった。領地の境に建てられた備後福山藩番所「防地番所跡」や、方角を示す石碑等が現存している(尾道ふくしむら付近、防地峠)。 明治時代の廃藩置県時には当初広島県庁舎として使用していた広島城に鎮台を設置することとなったため、伊達宗興権令が県庁舎を尾道に移転し広島県を「御調県」に改称する計画を提案した。しかし、前島密大蔵省官僚が県として手狭になることや無暗に移転することを嫌がり、結局新県庁舎の場所が広島市内で落ち着いたため実現しなかった。 現職市長 歴代市長(官選) 歴代市長(公選) 福山市とともに備後都市圏を所管するため、一部の県庁所在地よりも国の出先機関が多い。 このほか、瀬戸内の小京都「尾道」として全国京都会議に加盟している。 友好交流都市 尾道地区は戦火を免れたため、西の小京都と呼ばれるほど多くの大小の寺が今もなお点在している。島嶼部は海や植物等の自然に関するレジャー施設が点在する。 神社仏閣 「古寺めぐりコース」という市内中心部の寺院を散策するための石畳で舗装された道があり、沿道に以下の神社仏閣がある。これらのうち、持光寺、天寧寺、千光寺、大山寺、西國寺、浄土寺、海龍寺は「尾道七佛めぐり」を構成している。 「古寺めぐりコース」沿道以外には以下の神社仏閣がある。 公園・庭園 美術館・資料館 展望台 史跡・建築 温泉 海水浴場 その他 このほか、『男たちの大和/YAMATO』撮影用に日立造船向島西工場跡地に造られた実物大戦艦大和オープンセットが、2006年5月まで一般公開されており人気を集めていた。このオープンセットは解体後、その一部や小道具類が呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に寄贈されている。 グルメ 農産物・農産加工品 水産物・水産加工品 伝統工芸品 その他 旧来より北前船が寄港するなど港町、商都として栄えた。戦前までは広島市に匹敵する程の経済力を持っていたといわれ、りそな銀行、三井物産など、多数の銀行の本店や企業の支店なども存在していた。また、水運に恵まれている立地から、古くから尾道、向島、因島に造船所が存在し、商都のみならず工業都市の一面も持っており、特に因島は造船景気で栄えていた。近年は造船業の斜陽化により衰退の一途を辿りつつも、「瀬戸内の十字路」として交通条件の良さを利用し、工業団地の造成により他産業の誘致を進めている。 商店街(市内中心部商業地区) 主な商業施設 金融機関 現在の主な産業としては下記のものが挙げられる。 尾道市内に本社を置く会社 主な工場・事業所 尾道市内に事業所があるものを記載する。 テレビ局 ラジオ局 新聞社 その他 新尾道駅は市街地から離れているため、関西方面から山陽新幹線で尾道駅周辺の市中心部にアクセスする場合、「のぞみ」や「ひかりレールスター」などが停車する福山駅で在来線に乗り換えて尾道駅に向かうルートが本数も多く、所要時間も短い。 1964年までは尾道駅から石畦駅、1957年まではさらに御調郡御調町(2005年に尾道市に編入)の市駅までを結ぶ尾道鉄道(現・中国バス)と呼ばれる私鉄も運行されていた。 市内バス 高速バス 停留所は主なものを示す。 自治体バス 高速道路 山陽自動車道と尾道自動車道は尾道JCTで接続しているが、両自動車道と西瀬戸自動車道は尾道市内で直接は接続していない(接続構想あり)ため、尾道IC - 西瀬戸尾道IC間で一般道を走るか、尾道ICより一つ岡山寄りの福山西IC(福山市)と西瀬戸尾道ICで相互に接続する国道2号のバイパス(尾道福山自動車道)を使って接続する形となる。 一般国道 主な県道 主な橋梁 道の駅 パーキングエリア 旅客・貨物港湾 漁港 海の駅 航路 因島は愛媛県上島町地域の交通の中心であり、この地域からの定期船は主に因島に航行している。 ホール 図書館 スポーツ・公園 映画館 「映画の街」として知られ、1960年代から1970年代にかけて10館ほどの映画館があった。2001年10月に尾道松竹が閉館して映画館がなくなったが、2008年10月にシネマ尾道が開館した。 美術館、博物館、資料館 市立 市立 2010年4月、因島南部にある田熊、土生、三庄中学校を統廃合し、因島高等学校旧校舎跡地に因島南中学校が開校した。因島市との合併後は、土生幼稚園と統合地区の小学校を含めた、公立では非常に珍しい幼小中一貫校である「因南学園」(仮称)を設置する方針もあったが実現しなかった。なお、因島北部にある因北中学校は、これが正式名称であり、「因島北中学校」の略称ではない。 私立 県立 市立 私立 林芙美子や志賀直哉をはじめとする文学人や、「尾道三部作」、「新・尾道三部作」で知られる大林宣彦監督に代表されるように、尾道を舞台とした文芸作品は数多く存在し、尾道は「文学の街」「映画の街」とも称される。林芙美子や志賀直哉のほか、歌人の中村憲吉も尾道に住んだことがあり、千光寺山登山道はこれら尾道にゆかりのある文学人の句碑が配置され、「文学のこみち」を称している。近年では、アニメも尾道を舞台としたり、テレビ番組やテレビドラマ、CMなどでもよく登場する。 大林宣彦監督作品 このほか、ヤマト運輸やコカ・コーラなどのCMも撮影されている。 旧・因島市名誉市民と旧・瀬戸田町名誉町民はそのまま尾道市名誉市民として引き継がれている。 (五十音順) 旧・因島市名誉市民 旧・瀬戸田町名誉町民 (五十音順) (五十音順) 市外局番は因島・瀬戸田地域が0845(20 - 39)、その他が0848(20 - 89)となっている。なお、0848(20 - 89)、084(900 - 909、930、933 - 939)は同一区域扱いとなる。旧市外局番が08487だった御調地域は2005年1月、旧市外局番が08452だった因島・瀬戸田地域は2005年2月に変更。 尾道市内の郵便物の集配は、以下の郵便局が行っている。 尾道市内に三代目俠道会が本部を置く。尾道に隣接する福山市内に三代目俠道会の二次団体の三代目下森組(したもりぐみ)が本部を置く。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "尾道市(おのみちし)は、広島県南東部にある市。1898年(明治31年)市制施行。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "山陽地方の中南部、岡山市と広島市のほぼ中間に位置している。瀬戸内海(対岸の向島との間はその狭さから尾道水道と呼ばれる)に面し、古くから海運による物流の集散地として繁栄していた。明治時代に山陽鉄道が開通して鉄道と海運の接点になったことで、広島県東部(備後地方)で最大の人口を抱える都市となるが、1960年代半ばには福山市(工業都市化で急速に発展し旧城下町で平地に恵まれた)に中心地の座を明け渡した。ただし、現在も備後都市圏の有力都市の一つとなっている。1999年5月の瀬戸内しまなみ海道開通によって四国の今治市と陸路で結ばれ、物流面での利便性が高まり、2015年3月には中国横断自動車道(尾道松江線)が全線開通し、「瀬戸内の十字路」と呼ばれることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「坂の街」「文学の街」「映画の街」として知られる。文学では林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では小津安二郎監督の『東京物語』が尾道で撮影され、大林宣彦監督の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は「尾道三部作」として、若い世代に尾道を有名にした。他の自治体がロケ地観光の目的地になることを見込んで戦略的にロケ地の誘致に力を入れたのに対し、尾道は20世紀半ばから制作者の主体的判断による映画ロケが相次ぎ、全国に先駆けてロケ地観光の目的地になった点が異なる。2000年代以降にはアニメの舞台にもよく使われ、アニメファンから「五大聖地」の一つと呼ばれるようになった。テレビ番組やテレビドラマ、CM、ミュージック・ビデオ、グラビア、写真集などの撮影に使われることも多い。また、二大碁聖として知られる本因坊秀策の出身地である因島は「囲碁の島」として有名であり、公園にも石製の碁盤があったが、現在は撤去されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2009年から9年連続で観光客数過去最高を記録し、2017年には観光客数が680万人と、2006年の合併により現在の市域となって以降で最多を記録している。2008年から2017年までで約25%の上昇となった。その要因について、尾道市観光課では2015年の中国やまなみ街道の全線開通や、尾道水道の日本遺産認定、2016年の芸予諸島村上海賊、2018年の北前船と自治体最多の日本遺産認定、しまなみ海道サイクリングロードの認知度向上、メディア露出によるプロモーション効果を主原因と分析している。2015年度には海外向けのプロモーションなど情報発信効果もあって、外国人観光客数も最多の21万4045人を記録している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "山間地域から沿岸地域、多くの島により、地域性豊かな農産物が多く栽培されている。わけぎ、いちじく、レモン、ネーブルオレンジは全国1位の生産量を誇り、もも、ぶどう(デラウェア)、八朔、デコポン、みかん、串柿、スイカ、葉たばこ、きぬさやえんどうなどの生産は県内1位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "市内中心部は概ね東西の国道2号、南北の国道184号及び長江通りと栗原本通りに沿って形成されている。尾道駅東側は国道2号に平行して古くからの商店などが立ち並んでいる。この地域は北側の山と南側の海に挟まれているため、平地が少なく山肌に住宅や神社仏閣が密集している。このため、道路も狭隘で傾斜するものが多く、「坂の街」と言われる所以となっている。このような独特の景観から映画のロケ地として多く使われている。尾道駅西側も平地が少なく山手まで住宅が密集しているが、高層マンションもあり、山頂を切り崩してバイパスに直結したニュータウン(平原台団地、竜王台団地など)が整備されるなど、いわゆる尾道的な景観からは外れている。新尾道駅北方の峠(仙入峠)を超えると徐々に山あいに田園風景の広がる農村地帯に入り、海に近い市内中心部とは大きく趣が異なる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "市内東部、山波町の造船所を越えた東側からは干拓により造られた平地で、福山市、三原市とほぼ等距離の位置にあり、両市を結ぶ国道2号バイパスを通じて山陽自動車道や瀬戸内しまなみ海道とのアクセスがよいことから、沿岸には卸売、工業団地、倉庫が多く立地している(尾道卸売団地など)。東尾道駅周辺には分譲マンション、賃貸アパートや戸建住宅、郊外型量販店等や都市公園などが立地している。都市化が進み隣接する福山市松永地区とは連続的な街並みを形成しており、市内中心部とは街並みが大きく異なっている。東部は旧・備後福山藩領の沼隈郡であったため、東側の松永湾を挟んだ対岸の沼隈半島とも古くから結びつきが強く、沼隈半島には尾道市の飛び地(浦崎町)が存在している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "向島地区の中心部は北岸、すなわち本土の市内中心部と尾道水道を挟んだ対岸にあり、本土の市内中心部とともに尾道的な景観を演出している。平地の多くは塩田に由来するもので、造船所や工場団地、港湾施設、住宅などが密集しており、本土とフェリーが頻繁に連絡している。南岸は高見山など山の斜面が海にまで達しているため平地は少なく、都市化も進んでいない。尾道市で海水浴場があるのも島の南岸である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "因島地区は西南部の土生港を中心とし、そこから国道317号を幹線として西北部へ向けて市街地が広がっている。重井、三庄、中庄といった地区にもまとまった住宅地がある。東部は海岸沿いに崖が連続する地形で、合間にある平坦地にいくつかの集落が点在している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "生口島地区は西北部の瀬戸田地区が中心部であり、瀬戸田港から耕三寺へ抜ける道沿いに商店街が形成されている。そこから北側の沿岸沿いに商業施設や工場などが並び、生口橋へと繋がっていく。南部沿岸はのどかな農村地域となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "人口は市内ほぼ全域で減少しているが、市内東部の東尾道地区は、福山市松永エリアと市街地が隣接しており同市のベッドタウン化しており、マンションや商店が増加傾向にある。2010年12月28日時点の住民基本台帳において、島嶼部の住民比率は43.2%である。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1169年(嘉応元年)、尾道村が備後大田庄(現・世羅町)の倉敷地として指定され、発展の基礎となる。江戸時代には現在の市域の北西部(旧・御調郡)が広島藩領、東部(旧・沼隈郡)が備後福山藩領であった。領地の境に建てられた備後福山藩番所「防地番所跡」や、方角を示す石碑等が現存している(尾道ふくしむら付近、防地峠)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "明治時代の廃藩置県時には当初広島県庁舎として使用していた広島城に鎮台を設置することとなったため、伊達宗興権令が県庁舎を尾道に移転し広島県を「御調県」に改称する計画を提案した。しかし、前島密大蔵省官僚が県として手狭になることや無暗に移転することを嫌がり、結局新県庁舎の場所が広島市内で落ち着いたため実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現職市長", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "歴代市長(官選)", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "歴代市長(公選)", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "福山市とともに備後都市圏を所管するため、一部の県庁所在地よりも国の出先機関が多い。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このほか、瀬戸内の小京都「尾道」として全国京都会議に加盟している。", "title": "姉妹都市・提携都市" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "友好交流都市", "title": "姉妹都市・提携都市" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "尾道地区は戦火を免れたため、西の小京都と呼ばれるほど多くの大小の寺が今もなお点在している。島嶼部は海や植物等の自然に関するレジャー施設が点在する。", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "神社仏閣", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「古寺めぐりコース」という市内中心部の寺院を散策するための石畳で舗装された道があり、沿道に以下の神社仏閣がある。これらのうち、持光寺、天寧寺、千光寺、大山寺、西國寺、浄土寺、海龍寺は「尾道七佛めぐり」を構成している。", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「古寺めぐりコース」沿道以外には以下の神社仏閣がある。", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "公園・庭園", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "美術館・資料館", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "展望台", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "史跡・建築", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "温泉", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "海水浴場", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その他", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このほか、『男たちの大和/YAMATO』撮影用に日立造船向島西工場跡地に造られた実物大戦艦大和オープンセットが、2006年5月まで一般公開されており人気を集めていた。このオープンセットは解体後、その一部や小道具類が呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に寄贈されている。", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "グルメ", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "農産物・農産加工品", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "水産物・水産加工品", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "伝統工芸品", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その他", "title": "名所・旧跡・観光スポット" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "旧来より北前船が寄港するなど港町、商都として栄えた。戦前までは広島市に匹敵する程の経済力を持っていたといわれ、りそな銀行、三井物産など、多数の銀行の本店や企業の支店なども存在していた。また、水運に恵まれている立地から、古くから尾道、向島、因島に造船所が存在し、商都のみならず工業都市の一面も持っており、特に因島は造船景気で栄えていた。近年は造船業の斜陽化により衰退の一途を辿りつつも、「瀬戸内の十字路」として交通条件の良さを利用し、工業団地の造成により他産業の誘致を進めている。", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "商店街(市内中心部商業地区)", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "主な商業施設", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "金融機関", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "現在の主な産業としては下記のものが挙げられる。", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "尾道市内に本社を置く会社", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "主な工場・事業所", "title": "経済・産業" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "尾道市内に事業所があるものを記載する。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "テレビ局", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ラジオ局", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "新聞社", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その他", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新尾道駅は市街地から離れているため、関西方面から山陽新幹線で尾道駅周辺の市中心部にアクセスする場合、「のぞみ」や「ひかりレールスター」などが停車する福山駅で在来線に乗り換えて尾道駅に向かうルートが本数も多く、所要時間も短い。", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1964年までは尾道駅から石畦駅、1957年まではさらに御調郡御調町(2005年に尾道市に編入)の市駅までを結ぶ尾道鉄道(現・中国バス)と呼ばれる私鉄も運行されていた。", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "市内バス", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "高速バス", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "停留所は主なものを示す。", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "自治体バス", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "高速道路", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "山陽自動車道と尾道自動車道は尾道JCTで接続しているが、両自動車道と西瀬戸自動車道は尾道市内で直接は接続していない(接続構想あり)ため、尾道IC - 西瀬戸尾道IC間で一般道を走るか、尾道ICより一つ岡山寄りの福山西IC(福山市)と西瀬戸尾道ICで相互に接続する国道2号のバイパス(尾道福山自動車道)を使って接続する形となる。", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一般国道", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "主な県道", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "主な橋梁", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "道の駅", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "パーキングエリア", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "旅客・貨物港湾", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "漁港", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "海の駅", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "航路", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "因島は愛媛県上島町地域の交通の中心であり、この地域からの定期船は主に因島に航行している。", "title": "運輸・交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ホール", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "図書館", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "スポーツ・公園", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "映画館", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「映画の街」として知られ、1960年代から1970年代にかけて10館ほどの映画館があった。2001年10月に尾道松竹が閉館して映画館がなくなったが、2008年10月にシネマ尾道が開館した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "美術館、博物館、資料館", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "市立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "市立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2010年4月、因島南部にある田熊、土生、三庄中学校を統廃合し、因島高等学校旧校舎跡地に因島南中学校が開校した。因島市との合併後は、土生幼稚園と統合地区の小学校を含めた、公立では非常に珍しい幼小中一貫校である「因南学園」(仮称)を設置する方針もあったが実現しなかった。なお、因島北部にある因北中学校は、これが正式名称であり、「因島北中学校」の略称ではない。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "私立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "県立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "市立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "私立", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "林芙美子や志賀直哉をはじめとする文学人や、「尾道三部作」、「新・尾道三部作」で知られる大林宣彦監督に代表されるように、尾道を舞台とした文芸作品は数多く存在し、尾道は「文学の街」「映画の街」とも称される。林芙美子や志賀直哉のほか、歌人の中村憲吉も尾道に住んだことがあり、千光寺山登山道はこれら尾道にゆかりのある文学人の句碑が配置され、「文学のこみち」を称している。近年では、アニメも尾道を舞台としたり、テレビ番組やテレビドラマ、CMなどでもよく登場する。", "title": "尾道を舞台(モデル)とした作品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "大林宣彦監督作品", "title": "尾道を舞台(モデル)とした作品" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "このほか、ヤマト運輸やコカ・コーラなどのCMも撮影されている。", "title": "尾道を舞台(モデル)とした作品" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "旧・因島市名誉市民と旧・瀬戸田町名誉町民はそのまま尾道市名誉市民として引き継がれている。", "title": "名誉市民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "(五十音順)", "title": "名誉市民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "旧・因島市名誉市民", "title": "名誉市民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "旧・瀬戸田町名誉町民", "title": "名誉市民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "(五十音順)", "title": "著名な出身者" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "(五十音順)", "title": "ゆかりのある人物" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "市外局番は因島・瀬戸田地域が0845(20 - 39)、その他が0848(20 - 89)となっている。なお、0848(20 - 89)、084(900 - 909、930、933 - 939)は同一区域扱いとなる。旧市外局番が08487だった御調地域は2005年1月、旧市外局番が08452だった因島・瀬戸田地域は2005年2月に変更。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "尾道市内の郵便物の集配は、以下の郵便局が行っている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "尾道市内に三代目俠道会が本部を置く。尾道に隣接する福山市内に三代目俠道会の二次団体の三代目下森組(したもりぐみ)が本部を置く。", "title": "その他" } ]
尾道市(おのみちし)は、広島県南東部にある市。1898年(明治31年)市制施行。
{{Otheruses|自治体としての尾道|尾道市街地|尾道}} {{日本の市 | 画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 290 | image_style = border:1; | perrow = 2/2/1 | image1 = Senkoji_Onomichi16s3872.jpg | image2 = Onomichi_Jodoji_05.JPG | image3 = Onomichi-eiga-shiryokan03s3200.jpg | image4 = 尾道市_因島村上水軍城_-_panoramio.jpg | image5 = Onomichi Channel03s3200.jpg }} | 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td>[[千光寺 (尾道市)|千光寺]]<td>[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]]</tr> <tr><td>[[おのみち映画資料館]]<td>[[因島水軍城]]</tr> <tr><td colspan="2">市街地と[[尾道水道]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Onomichi, Hiroshima.svg|100px|border|尾道市旗]] | 市旗の説明 = 尾道[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Symbol of Onomichi Hiroshima.svg|75px|border|尾道市章]] | 市章の説明 = 尾道[[市町村章|市章]]<br />[[1898年]][[10月14日]]制定 | 自治体名 = 尾道市 | 都道府県 = 広島県 | コード = 34205-0 | 隣接自治体 = [[福山市]]、[[三原市]]、[[府中市 (広島県)|府中市]]、[[世羅郡]][[世羅町]]<br />[[愛媛県]]:[[今治市]]、[[越智郡]][[上島町]] | 木 = [[サクラ]] | 花 = サクラ | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 722-8501 | 所在地 = 尾道市久保一丁目15番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-34|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=250|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=尾道市役所庁舎位置}}[[ファイル:Onomichi City Hall 2021-08 ac (1).jpg|250px|center|尾道市役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|34|205|image=Onomichi in Hiroshima Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = }} '''尾道市'''(おのみちし)は、[[広島県]]南東部にある[[市]]。[[1898年]]([[明治]]31年)[[市制]]施行。 == 概要 == [[ファイル:Onomichi Channel03s3200.jpg|thumb|right|市街地と[[尾道水道]]。奥に見える2本の斜張橋は、手前が[[西瀬戸自動車道]]の[[新尾道大橋]]で奥が[[国道317号]]の[[尾道大橋]]。]] [[ファイル:Onomichi.JPG|thumb|right|[[尾道水道]]より眺める市街地]] [[山陽地方]]の中南部、[[岡山市]]と[[広島市]]のほぼ中間に位置している。[[瀬戸内海]](対岸の[[向島 (広島県)|向島]]との間はその狭さから[[尾道水道]]と呼ばれる)に面し、古くから[[海運]]による物流の集散地として繁栄していた。[[明治時代]]に[[山陽鉄道]]が開通して鉄道と海運の接点になったことで、広島県東部([[備後国|備後地方]])で最大の人口を抱える都市となるが、1960年代半ばには[[福山市]](工業都市化で急速に発展し旧[[城下町]]で平地に恵まれた)に中心地の座を明け渡した。ただし、現在も[[備後都市圏]]の有力都市の一つとなっている。1999年5月の[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]開通によって[[四国]]の[[今治市]]と陸路で結ばれ、物流面での利便性が高まり、2015年3月には[[中国横断自動車道]](尾道松江線)が全線開通し、「瀬戸内の十字路」と呼ばれることもある。 「[[坂]]の街」「[[文学]]の街」「[[映画]]の街」として知られる。文学では[[林芙美子]]、[[志賀直哉]]などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では[[小津安二郎]]監督の『[[東京物語]]』が尾道で撮影され、[[大林宣彦]]監督の『[[転校生 (映画)|転校生]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』は「尾道三部作」として、若い世代に尾道を有名にした。他の自治体がロケ地観光の目的地になることを見込んで戦略的に[[ロケーション撮影|ロケ]]地の誘致に力を入れたのに対し、尾道は[[20世紀]]半ばから制作者の主体的判断による映画ロケが相次ぎ、全国に先駆けてロケ地観光の目的地になった点が異なる<ref>{{Cite web|和書|url=http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/pu-hiroshima/metadata/12532|title=「映画のまち・尾道」の認知度と観光行動―ロケ地観光の持続可能性―-県立広島大学|publisher=[[県立広島大学]]|date=2017-12-14|accessdate=2021-03-06}}</ref>。2000年代以降には[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の舞台にもよく使われ、アニメファンから「五大聖地」の一つと呼ばれるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/featuredarticles/560660/|title=ASCII.jp:アニメファンならぜひ行きたい ! 聖地巡礼ツアー|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|date=2014-01-25|accessdate=2021-03-06}}</ref>。テレビ番組や[[テレビドラマ]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]]、[[ミュージック・ビデオ]]、[[グラビア雑誌#グラビア写真|グラビア]]、写真集などの撮影に使われることも多い<ref name="cicinfonet180626">{{PDFlink|[http://www.cic-infonet.jp/section/main/pdf/180626_01.pdf 岩田勉『尾道市の観光の現状と課題』中国情報通信懇談会]}} 尾道市観光課 2018年6月26日</ref>。また、二大碁聖として知られる[[本因坊秀策]]の出身地である[[因島]]は「[[囲碁]]の島」として有名であり、公園にも石製の[[碁盤]]があったが、現在は撤去されている。 2009年から9年連続で[[観光客]]数過去最高を記録し、2017年には観光客数が680万人と、2006年の合併により現在の市域となって以降で最多を記録している。2008年から2017年までで約25%の上昇となった<ref name="cicinfonet180626"/>。その要因について、尾道市観光課では2015年の[[中国横断自動車道#尾道松江線|中国やまなみ街道]]の全線開通や、[[尾道水道]]の[[日本遺産]]認定<ref name="sankei16615">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20160615-U3AW3QWBLJOGZCXSC5BSV4EFBA/|title=尾道の観光客、昨年は674万人 やまなみ街道全通や日本遺産認定効果か|date=2016-06-15|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2021-03-06}}</ref>、2016年の[[芸予諸島]][[村上水軍|村上海賊]]、2018年の[[北前船]]と自治体最多の日本遺産認定、[[しまなみ海道サイクリングロード]]の認知度向上、メディア露出による[[宣伝|プロモーション]]効果を主原因と分析している<ref name="cicinfonet180626"/>。2015年度には海外向けのプロモーションなど情報発信効果もあって、外国人観光客数も最多の21万4045人を記録している<ref name="sankei16615"/>。 山間地域から沿岸地域、多くの島により、地域性豊かな農産物が多く栽培されている。[[わけぎ]]、[[いちじく]]、[[広島レモン|レモン]]、[[ネーブルオレンジ]]は全国1位の生産量を誇り、[[モモ|もも]]、[[ブドウ|ぶどう]]([[デラウェア (ブドウ)|デラウェア]])、[[八朔]]、[[デコポン]]、[[ウンシュウミカン|みかん]]、串柿、[[スイカ]]、[[葉たばこ]]、きぬさやえんどうなどの生産は県内1位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/nourin/sf/jiman.html|title=おのみち自慢 | スローフード|尾道市産業部 農林水産課|publisher=尾道市産業部農林水産課|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101124204218/https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/nourin/sf/jiman.html|archivedate=2010-11-24}}</ref>。 == 地理 == {{See also|尾道#地理}} [[ファイル:Onomichi senkoji-shinmichi01n3872.jpg|thumb|180px|山肌に住宅が密集する千光寺新道]] 市内中心部は概ね東西の[[国道2号]]、南北の[[国道184号]]及び[[広島県道363号栗原長江線|長江通り]]と栗原本通りに沿って形成されている。[[尾道駅]]東側は国道2号に平行して古くからの商店などが立ち並んでいる。この地域は北側の山と南側の海に挟まれているため、平地が少なく山肌に住宅や神社仏閣が密集している。このため、道路も狭隘で傾斜するものが多く、「坂の街」と言われる所以となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/96770?page=2|title=広島県民に「広島風お好み焼き大好き!」と言ってはいけない | 知ったら住みたくなるケンミン性 | ダイヤモンド・オンライン|publisher=[[ダイヤモンド社]]|date=2016-07-28|accessdate=2021-03-06}}</ref>。このような独特の景観から映画のロケ地として多く使われている。尾道駅西側も平地が少なく山手まで住宅が密集しているが、高層マンションもあり、山頂を切り崩してバイパスに直結した[[日本のニュータウン|ニュータウン]](平原台団地、竜王台団地など)が整備されるなど、いわゆる尾道的な景観からは外れている。[[新尾道駅]]北方の峠(仙入峠)を超えると徐々に山あいに田園風景の広がる農村地帯に入り、海に近い市内中心部とは大きく趣が異なる。 市内東部、山波町の造船所を越えた東側からは[[干拓]]により造られた平地で、[[福山市]]、[[三原市]]とほぼ等距離の位置にあり、両市を結ぶ国道2号バイパスを通じて[[山陽自動車道]]や[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]とのアクセスがよいことから、沿岸には[[卸売]]、工業団地、倉庫が多く立地している(尾道卸売団地など)。[[東尾道駅]]周辺には分譲マンション、賃貸アパートや戸建住宅、郊外型量販店等や都市公園などが立地している。都市化が進み隣接する福山市松永地区とは連続的な街並みを形成しており、市内中心部とは街並みが大きく異なっている。東部は旧・[[備後福山藩]]領の[[沼隈郡]]であったため、東側の松永湾を挟んだ対岸の[[沼隈半島]]とも古くから結びつきが強く、沼隈半島には尾道市の[[飛び地]](浦崎町)が存在している。 向島地区の中心部は北岸、すなわち本土の市内中心部と尾道水道を挟んだ対岸にあり、本土の市内中心部とともに尾道的な景観を演出している。平地の多くは塩田に由来するもので、[[造船所]]や工場団地、港湾施設、住宅などが密集しており、本土とフェリーが頻繁に連絡している。南岸は[[高見山 (広島県)|高見山]]など山の斜面が海にまで達しているため平地は少なく、都市化も進んでいない。尾道市で海水浴場があるのも島の南岸である。 因島地区は西南部の土生港を中心とし、そこから[[国道317号]]を幹線として西北部へ向けて市街地が広がっている。重井、三庄、中庄といった地区にもまとまった住宅地がある。東部は海岸沿いに崖が連続する地形で、合間にある平坦地にいくつかの集落が点在している。 生口島地区は西北部の瀬戸田地区が中心部であり、瀬戸田港から[[耕三寺]]へ抜ける道沿いに商店街が形成されている。そこから北側の沿岸沿いに商業施設や工場などが並び、[[生口橋]]へと繋がっていく。南部沿岸はのどかな農村地域となっている。 === 周辺海域 === [[ファイル:Onomichi Channel Aerial photograph.1981.jpg|thumb|300px|[[尾道水道]]の[[航空写真]](1981年)。東側に架けられた橋は[[尾道大橋]]。[[新尾道大橋]]はまだ建設されていない。]] * [[尾道水道]] …… 尾道 - [[向島 (広島県)|向島]]間 * 松永湾 …… 尾道市東部沖 * 御幸瀬戸 …… 向島 - [[岩子島]]間 * 戸崎瀬戸 …… 向島 - 浦崎半島間(松永湾南口) * 布刈瀬戸 …… 向島 - [[因島]]間 * 長崎瀬戸 …… 因島 - [[生名島]]([[愛媛県]][[上島町]])間 === 主要河川 === * 栗原川 * 門田川 …… 栗原川支流 * 藤井川 * 御調川 …… [[芦田川]]支流 === 水利 === * 門田水源地 * [[久山田ダム|久山田水源地]] * [[竜泉寺ダム]] * [[長江浄水場]] * 坊士浄水場 === 主要山林 === {{columns-list|2| * 尾道三山 ** [[千光寺 (尾道市)|千光寺山]](大宝山) ** 浄土寺山(瑠璃山) ** 西国寺山([[愛宕山#中国四国地方|愛宕山]]) * 鳴滝山 * 平木山 * [[竜王山#広島県|竜王山]] * [[高見山 (広島県)|高見山]]([[向島 (広島県)#地理|向島]]) * 白滝山([[因島#地理|因島]]) * [[青影山]](因島) * 奥山(因島) * [[観音山 (尾道市)|観音山]]([[生口島#地理|生口島]]) }} === 島嶼 === {{columns-list|4| * [[向島 (広島県)|向島]] * [[岩子島]] * 鯨島 * 地ノ雀島 * 沖ノ雀島 * [[百島 (広島県)|百島]] * [[加島 (広島県)|加島]] * 上江府島 * 下江府島 * 笹島 * [[因島]] * [[細島 (広島県)|細島]] * 小細島 * 四十島 * [[生口島]] * [[高根島]] * [[瓢箪島]] }} == 人口 == 人口は市内ほぼ全域で減少しているが、市内東部の東尾道地区は、[[福山市]]松永エリアと市街地が隣接しており同市の[[ベッドタウン]]化しており、[[マンション]]や商店が増加傾向にある。2010年12月28日時点の住民基本台帳において、島嶼部の住民比率は43.2%である。 {{人口統計|code=34205|name=尾道市|image=Population distribution of Onomichi, Hiroshima, Japan.svg}} == 歴史 == {{sect-stub}} {{See also|尾道#沿革}} [[ファイル:Map_of_BISAN_Area_,_Hiroshima 1929.jpg|thumb|1929年尾道都市計画区域図]] [[1169年]]([[嘉応]]元年)、尾道村が備後大田庄(現・[[世羅町]])の[[倉敷地]]として指定され、発展の基礎となる<ref name="shisei_2020">{{Cite web|和書|url=https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/soshiki/11/3781.html|title=尾道市市勢要覧 - 尾道市ホームページ|publisher=尾道市|date=2020-02-27|accessdate=2021-03-06}}</ref>。[[江戸時代]]には現在の市域の北西部(旧・[[御調郡]])が[[広島藩]]領、東部(旧・[[沼隈郡]])が[[備後福山藩]]領であった。領地の境に建てられた備後福山藩番所「[[防地番所跡]]」や、方角を示す石碑等が現存している(尾道ふくしむら付近、防地峠)。 [[明治時代]]の[[廃藩置県]]時には当初[[広島県庁舎]]として使用していた[[広島城]]に[[鎮台]]を設置することとなったため、[[伊達宗興 (紀州藩士)|伊達宗興]][[県令|権令]]が県庁舎を尾道に移転し広島県を「'''御調県'''」に改称する計画を提案した。しかし、[[前島密]][[大蔵省]]官僚が県として手狭になることや無暗に移転することを嫌がり、結局新県庁舎の場所が広島市内で落ち着いたため実現しなかった<ref>{{Cite web|和書|year = 2009|url=http://ns2.pref.hiroshima.jp/uploaded/attachment/41455.pdf|format=PDF|title=藩から県へ―広島県の誕生―|publisher=広島県立文書館|accessdate=2015-12-11}}</ref>。 === 沿革 === * 1878年([[明治]]11年)11月1日 …… [[郡区町村編制法]]施行により[[御調郡]]が発足。郡役所が尾道町に設置される。 * 1888年(明治21年) …… [[町村制]]施行時に御調郡栗原村から三軒家町を分村し、東御所、西御所とともに編入させて[[市制]]施行する予定であったが、御調郡栗原村から反対され白紙となる。 * 1889年(明治22年)4月1日 …… 町制施行し、御調郡'''尾道町'''が誕生<ref name="shisei_2020" />。 * 1891年(明治24年)11月3日 …… [[山陽鉄道]][[福山駅|福山]] - 尾道間が開通、山陽鉄道尾道駅(現・[[山陽本線]][[尾道駅]])が開業<ref name="shisei_2020" />。 * 1898年(明治31年)4月1日 …… 御調郡尾道町が広島県下で2番目に市制施行し、'''尾道市'''が誕生。 * 1925年([[大正]]14年)11月1日 …… [[尾道鉄道]](尾道 - [[石畦駅|石畦]]間)が開通<ref name="shisei_2020" />。 * 1935年(昭和10年)1月21日 …… 尾道港から[[豊島 (広島県)|豊島]]に向かっていた定期連絡船が沈没。死者11人<ref>尾道-豊島間の定期船・大崎丸が沈没『中国新聞』昭和10年1月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p635 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * 1937年([[昭和]]12年)4月1日 …… 御調郡[[栗原町]]、[[吉和村 (広島県御調郡)|吉和村]]を編入合併。 * 1939年(昭和14年)7月1日 …… [[沼隈郡]][[山波村]]を編入合併。 * 1945年(昭和20年)7月27日 …… [[旧向島捕虜収容所メモリアルプレート|日立造船向島工場が空襲]]にあう。 * 1951年(昭和26年)4月1日 …… 御調郡[[深田村 (広島県)|深田村]]大字久山田を編入合併。 * 1954年(昭和29年)3月31日 …… 御調郡[[美ノ郷村]]、[[木ノ庄村]]、[[原田村 (広島県)|原田村]]を編入合併。 * 1955年(昭和30年)2月1日 …… 沼隈郡[[高須村 (広島県)|高須村]]、[[西村 (広島県)|西村]]を編入合併。 * 1955年(昭和30年)4月1日 …… 沼隈郡[[百島村]]を編入合併。 * 1955年(昭和30年)7月15日 …… 尾道市高須町、西藤町の一部を[[松永市]](現・[[福山市]])に分離。 * 1957年(昭和32年)1月1日 …… 沼隈郡[[浦崎村]]を編入合併。 * 1957年(昭和32年)3月25日 …… 市営[[千光寺山ロープウェイ]](山麓 - 山頂間)が開通<ref name="shisei_2020" />。 * 1964年(昭和39年)8月1日 …… 尾道鉄道が廃止。 * 1968年(昭和43年)3月3日 …… [[尾道大橋]]が開通。 * 1969年(昭和44年)7月1日 …… 集中豪雨により防地町番所で土砂崩壊。6戸が全半壊して16人が下敷となる。2人が死亡<ref>「尾道でも生埋め 13人は救出、2人死ぬ」、[[朝日新聞]]、1969年7月2日朝刊12版、15面</ref>。 * 1970年(昭和45年)4月1日 …… 御調郡[[向東町]]を編入合併。 * 1975年(昭和50年) …… 年間を通じて[[交通事故]]による死者率が都市別で全国2位(10万人当たり19.2人)となった<ref>「交通事故死 地域差の解消に重点」、[[朝日新聞]]、1976年1月14日朝刊13版、22面</ref>。 * 1976年(昭和51年)9月12日 …… [[昭和51年台風第17号|台風17号]]の集中豪雨により三軒家町で[[土石流]]が発生。5軒全壊、3戸半壊により下敷きとなった7人が死亡<ref>「山からは鉄砲水 不明二十四人に 住民、巡視船で脱出」、[[朝日新聞]]、1976年9月13日朝刊13版、22面</ref>。 * 1983年(昭和58年)12月4日 …… [[因島大橋]]が開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/innoshima-bridge.html|title=因島大橋(いんのしまおおはし)|広島県|publisher=広島県|date=2015-03-11|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * 1988年(昭和63年)3月13日 …… [[山陽新幹線]][[新尾道駅]]が開業。 * 1991年([[平成]]3年)12月8日 …… [[生口橋]]が開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/ikuchi-bridge.html|title=生口橋(いくちばし)|広島県|publisher=広島県|date=2015-03-11|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * 1993年(平成5年)10月26日 …… [[山陽自動車道]][[福山西インターチェンジ|福山西IC]] - [[河内インターチェンジ|河内IC]]間が開通。[[尾道インターチェンジ|尾道IC]]供用開始。 * 1999年(平成11年)5月1日 …… [[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]([[西瀬戸尾道インターチェンジ|西瀬戸尾道IC]] - [[今治インターチェンジ|今治IC]]間)が全通。 * 2001年(平成13年)4月1日 …… 尾道大学(現・[[尾道市立大学]])が開学<ref name="shisei_2020" />。 * 2005年(平成17年)3月28日 …… 御調郡[[御調町]]、[[向島町]]を編入合併。 * 2006年(平成18年)1月10日 …… [[因島市]]、[[豊田郡]][[瀬戸田町]]を編入合併。 * 2015年(平成27年)3月22日 …… [[中国横断自動車道#尾道松江線|中国やまなみ街道]]([[尾道ジャンクション|尾道JCT]] - [[三次東ジャンクション|三次東JCT]] - [[宍道ジャンクション|宍道JCT]]間)が全通。 === 市域の変遷 === {{See also|向東町#沿革|御調町#沿革|向島町#沿革|因島市#沿革|瀬戸田町#略歴}} <div class="overflowbugx" style="overflow:auto; width: 100%;"> {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:small" ![[市町村制]]<br />施行以前<br />の[[郡]]域 ![[市町村制]]<br />施行以前<br />の[[町村]]域 !1889年<br />4月1日 !1898年<br />4月1日 !1918年<br />1月1日 !1921年<br />6月1日 !1923年<br />3月1日 !1937年<br />4月1日 !1939年<br />7月1日 !1944年<br />4月1日 !1948年<br />5月3日 !1949年<br />4月1日 !1950年<br />4月1日 !1950年<br />10月1日 !1951年<br />4月1日 !1953年<br />5月1日 !1954年<br />3月31日 !1955年<br />2月1日 !1955年<br />4月1日 !1957年<br />1月1日 !1970年<br />4月1日 !2005年<br />3月28日 !2006年<br />1月10日 |- |rowspan="5"|[[沼隈郡]] |浦崎村 |colspan="17"|[[浦崎村]] |rowspan="23" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |rowspan="24" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |rowspan="63" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |rowspan="86" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |- |百島村 |colspan="16"|[[百島村]] |rowspan="22" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |- |高須村 |colspan="15"|[[高須村 (広島県)|高須村]] |rowspan="21" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |- |西村 |colspan="15"|[[西村 (広島県)|西村]] |- |山波村 |colspan="6"|[[山波村]] |colspan="6" rowspan="6" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |colspan="2" rowspan="7" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |rowspan="19" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |- |rowspan="67"|[[御調郡]] |style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道町''' |style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道町''' |colspan="4" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |rowspan="5" style="color:#be0026; background-color:white"|'''尾道市''' |- |栗原村 |colspan="4"|栗原村 |[[栗原町]] |- |吉和村 |colspan="5" rowspan="3"|[[吉和村 (広島県御調郡)|吉和村]] |- |吉和塩浜 |- |吉和漁師村 |- |久山田村 |colspan="12"|[[深田村 (広島県)|深田村]](久山田) |- |三成村 |colspan="14" rowspan="5"|[[美ノ郷村]] |- |白江村 |- |猪子迫村 |- |本郷村 |- |中野村 |- |木門田村 |colspan="14" rowspan="5"|[[木ノ庄村]](木門田・畑・市原・木梨・木梨山方) |- |畑村 |- |市原村 |- |木梨村 |- |木梨山方村 |- |梶山田村 |colspan="14" rowspan="2"|[[原田村 (広島県)|原田村]] |- |小原村 |- |向島東村 |colspan="14"|向島東村 |colspan="4"|[[向東町]]<ref group="注">[[1954年]][[4月1日]]町制施行。</ref> |- |菅村 |colspan="15" rowspan="4"|[[菅野村 (広島県)|菅野村]] |colspan="4" rowspan="36"|[[御調町]] |- |平木村 |- |大塔村 |- |仁野村 |- |白太村 |colspan="15" rowspan="7"|[[上川辺村 (広島県)|上川辺村]] |- |三郎丸村 |- |大町村 |- |大蔵村 |- |中原村 |- |本村 |- |岩根村 |- |市村 |colspan="10" rowspan="7"|[[市村 (広島県御調郡)|市村]] |colspan="5" rowspan="9"|[[市村 (広島県御調郡)|市村]] |- |花尻村 |- |平村 |- |釜窪村 |- |貝ヶ原村 |- |高尾村 |- |神村 |- |江田村 |colspan="10" rowspan="2"|[[木ノ庄村]](江田・国守) |- |国守村 |- |丸河南村 |colspan="15" rowspan="4"|[[河内村 (広島県御調郡)|河内村]] |- |大田村 |- |徳永村 |- |丸門田村 |- |今田村 |colspan="15" rowspan="5"|[[今津野村]] |- |植野村 |- |津蟹村 |- |福井村 |- |rowspan="2"|野間村 |- |colspan="15" rowspan="4"|[[奥村 (広島県)|奥村]] |- |大原村 |- |公文村 |- |綾目村 |- |大山田村 |colspan="15" rowspan="3"|[[諸田村]](大山田・下山田・千堂) |- |下山田村 |- |千堂村 |- |向島西村 |colspan="11"|向島西村 |colspan="3"|[[向島町]] |rowspan="2"|[[向島町]] |colspan="4" rowspan="3"|[[向島町]] |- |[[岩子島|岩子島村]] |colspan="14"|[[岩子島|岩子島村]] |- |立花村 |colspan="15"|[[立花村 (広島県)|立花村]] |- |土生村 |colspan="2"|土生村 |colspan="11"|[[土生町]] |colspan="7" rowspan="11"|[[因島市]] |- |田熊村 |colspan="9"|田熊村 |colspan="4"|[[田熊町]] |- |三庄村 |colspan="3"|三庄村 |colspan="5"|[[三庄町]] |colspan="5" rowspan="2"|[[三庄町]] |- |椋ノ浦村 |colspan="8" rowspan="3"|[[三浦村 (広島県)|三浦村]] |- |鏡ノ浦村 |colspan="5" rowspan="3"|[[中庄村]] |- |外ノ浦村 |- |[[中庄村]] |colspan="8"|[[中庄村]] |- |大浜村 |colspan="13"|[[大浜村 (広島県)|大浜村]] |- |[[重井村]] |colspan="13"|[[重井村]] |- |rowspan="14"|[[豊田郡]] |洲江村 |colspan="13" rowspan="2"|[[東生口村]] |- |原村 |- |[[瀬戸田町]] |colspan="5" rowspan="2"|[[瀬戸田町]] |colspan="2" rowspan="4"|[[瀬戸田町]] |colspan="9" rowspan="9"|[[瀬戸田町]] |colspan="4" rowspan="12"|[[瀬戸田町]] |- |沢村 |- |垂水村 |colspan="5" rowspan="2"|[[西生口村]] |- |生口福田村 |- |林村 |colspan="7" rowspan="3"|[[北生口村]] |- |生口中野村 |- |鹿田原村 |- |高根島村 |colspan="7"|[[高根島村]] |- |名荷村 |colspan="7"|[[名荷村]] |- |御寺村 |colspan="16" rowspan="3"|[[南生口村]] |- |宮原村 |- |荻村 |- |} </div> === 尾道市史 === * 尾道市史 上巻・中巻・下巻(1939年-1940年) * 新修尾道市史(1971年-1977年) * 新尾道市史(2019年-) == 行政 == === 市長 === '''現職市長''' * [[平谷祐宏]] …… 2007年([[平成]]19年)4月27日就任、4期目<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/soshiki/10/3968.html|title=プロフィール - 尾道市ホームページ|publisher=尾道市秘書広報課|date=2019-05-07|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 '''歴代市長(官選)''' {| class="wikitable" |- ! 代 !! 氏名 !! 就任年月 !! 退任年月 !! 備考 |- | 1 - 2 || [[杉山新十郎]]|| [[1898年]]8月 || || |- | 3 - 4 || [[西村益三]]|| [[1905年]]10月 || || |- | 5 || [[向田幸蔵]]|| [[1916年]]7月 || || |- | 6 - 7 || [[向井団次]]|| [[1919年]]8月 || || |- | 8 || [[松田協輔]] || [[1927年]]6月 || || |- | 9 - 10 || [[奥山源三郎]]|| [[1932年]]3月 || || |- | 11 || [[斎藤勧治]] || [[1937年]]1月 || || |- | 12 || [[土屋寛]] || [[1940年]]3月 || || |- | 13 || [[中山幾太郎]]|| [[1942年]]5月 || || |- | 14 || [[橋本龍一]]|| 1942年9月 || || |- | 15 || [[田坂寧邦]]|| [[1945年]]6月 || || |- | 16 || [[石原善三郎]] || 1945年12月24日 || || |} '''歴代市長(公選)''' {| class="wikitable" |- ! 代 !! 氏名 !! 就任年月日 !! 退任年月日 !! 備考 |- | 17 || [[石原善三郎]] || [[1947年]]4月 || || |- | 18 - 19 || [[天野彦三]]|| [[1951年]]4月 || || |- | 20 || [[青山俊三]]|| [[1959年]]5月 || || |- | 21 - 22 || [[松谷勝]]|| [[1963年]][[4月27日]] || 1971年[[4月26日]] || |- | 23 || 石原善三郎 || [[1971年]]4月27日 || 1975年4月26日 || |- | 24 || [[佐藤勲 (政治家)|佐藤勲]]|| [[1975年]]4月27日 || 1979年4月26日 || 1979年2月に収賄容疑で逮捕されるも任期満了で退任。 |- | 25 - 28 || [[博田東平]] || [[1979年]]4月27日 || 1995年4月26日 || |- | 29 - 31 || [[亀田良一]] || [[1995年]]4月27日 || 2007年4月26日 || |- | 32 - 35 || [[平谷祐宏]] || [[2007年]]4月27日 || || 現職 |} === 行政機関 === [[ファイル:Onomichi Police stations.JPG|thumb|right|[[尾道警察署]]]] ; 尾道市役所 : [[総合支所]] …… [[因島]] : 支所 …… 御調、[[向島 (広島県)|向島]]、浦崎、百島、瀬戸田 : 出張所 …… 重井、中庄、三庄、東生口 : 連絡所 …… 向東 ; [[広島県警]] : [[尾道警察署]] …… 浦崎町を除く旧・尾道市域、旧・[[御調町]]、旧・[[向島町]]地域を管轄。 : [[因島警察署|尾道警察署因島分庁舎]] …… 旧・[[因島市]]、旧・[[瀬戸田町]]地域を管轄。 : [[福山西警察署]] …… 尾道市市域では浦崎町を管轄。 ; [[尾道市消防局]] : 尾道市・三原市消防指令センター : 尾道消防署 …… 北出張所、御調分署、向島分署 : 尾道西消防署 …… 2008年4月1日より西分署より昇格。 : 因島消防署 …… 瀬戸田分署 === 官公庁・公的機関 === [[福山市]]とともに備後都市圏を所管するため、一部の県庁所在地よりも国の出先機関が多い。 ; 国の機関 :; 防衛省 :: [[自衛隊広島地方協力本部]]尾道出張所 :; 法務省 :: [[広島刑務所]]尾道刑務支所 :: [[広島地方検察庁]]尾道支部 :: 尾道区検察庁 :: [[広島法務局]]尾道支局 :; 財務省 :: 尾道[[税務署]] :: [[神戸税関]]福山税関支署尾道糸崎出張所 :: 神戸税関福山税関支署因島出張所 :; 厚生労働省 :: 尾道[[公共職業安定所]] :: 尾道[[労働基準監督署]] :; 農林水産省 :: 神戸[[検疫所|植物防疫所]]尾道出張所 :; 国土交通省 :: [[第六管区海上保安本部]]尾道海上保安部 :: [[中国運輸局]]尾道海事事務所 :: 中国運輸局因島海事事務所 :; 裁判所 :: [[広島地方裁判所]]尾道支部 :: 尾道簡易裁判所 ; 県の機関 : 東部県税事務所尾道分室 : 東部厚生環境事務所東部保健所 : 東部農林水産事務所尾道農林事業所 ; 民間の機関 : [[本州四国連絡高速道路株式会社]]しまなみ尾道管理センター : [[中国電力]]尾道営業所 : [[日本郵便]][[尾道郵便局]]ほか == 議会 == === 尾道市議会 === {{main|尾道市議会}} === 広島県議会 === {{Main|2019年広島県議会議員選挙}} * 選挙区:尾道市選挙区 * 定数:3人 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 * 投票日:2019年4月7日 * 当日有権者数:114,500人 * 投票率:45.26% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考 |- | 吉井清介 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 60 || 無所属 || align="center" | 元 || 21,414票 || |- | 高山博州 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 65 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 11,544票 || 2022年2月7日に辞職<ref name="nhknewswebhiroshima20220207">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20220207/4000016255.html |title=大規模買収事件で「起訴相当」 高山博州県議が辞職│NHK NEWS WEB 広島 |publisher=NHK |date=2022-02-07 |accessdate=2022-02-07}}</ref> |- | 金口巖 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 64 || 無所属 || align="center" | 現 || align="right" | 9,588票 || |- | 松浦幸男 || style="text-align:center" | 落 || align="center" | 76 || 自由民主党 || align="center" | 現 || align="right" | 8,643票 || |} === 衆議院 === ;広島県第5区 * 選挙区:[[広島県第5区|広島5区]]([[呉市]]、[[竹原市]]、[[三原市]](旧[[本郷町 (広島県)|本郷町]]域)、尾道市(旧[[瀬戸田町]]域)、[[東広島市]](旧[[安芸津町]]域)、[[江田島市]](旧[[江田島町]]域)、[[豊田郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:242,034人 * 投票率:54.52% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[寺田稔]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 63 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 74,362票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || 野村功次郎 || style="text-align:center;" | 51 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 41,788票 || style="text-align:center;" | ○ |} ;広島県第6区 * 選挙区:[[広島県第6区|広島6区]]([[三原市]]の一部、尾道市(旧[[瀬戸田町]]域を除く)、[[府中市 (広島県)|府中市]]、[[三次市]]、[[庄原市]]、[[世羅郡]]、[[神石郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:294,154人 * 投票率:56.35% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[佐藤公治]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 62 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 83,796票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[小島敏文]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 71 || style="background-color:#ffdddd;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffdddd;" | 79,158票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○ |} == 姉妹都市・提携都市 == === 日本国内 === * {{Flagicon|愛媛県}} [[今治市]]([[愛媛県]]) * {{Flagicon|島根県}} [[松江市]]([[島根県]]) このほか、[[瀬戸内]]の[[小京都]]「[[尾道]]」として全国京都会議に加盟している。 === 海外 === '''友好交流都市''' * {{Flagicon|FRA}} [[オンフルール|オンフルール市]]([[フランス]]) * {{Flagicon|KOR}} [[中区 (釜山広域市)|釜山広域市中区]]([[大韓民国]]) * {{Flagicon|TWN}} [[嘉義市]]([[中華民国]])<ref>{{cite web|author=嘉義市政府民政處/行政處|title=共創雙贏 嘉義、尾道兩市簽署友好交流協定|url=http://www.chiayi.gov.tw/2015web/04_hot_news/content.aspx?id=49954|accessdate=2017-02-19|language=繁体中文|date=2016-12-22}}</ref> * {{Flagicon|TWN}} [[台中市]](中華民国) == 名所・旧跡・観光スポット == 尾道地区は戦火を免れたため、西の[[小京都]]と呼ばれるほど多くの大小の寺が今もなお点在している。島嶼部は海や植物等の自然に関するレジャー施設が点在する。 === 名所・旧跡 === {{See also|尾道#文化財}} '''神社仏閣''' [[ファイル:Tenneiji Onomichi01s3872.jpg|thumb|[[千光寺 (尾道市)|千光寺山]]から西国寺山山腹にかけて多数ある古寺]] 「古寺めぐりコース」という市内中心部の寺院を散策するための石畳で舗装された道があり、沿道に以下の神社仏閣がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ononavi.jp/sightseeing/temple/detail.html?detail_id=416|title=古寺めぐりコース|お寺・神社|観る|尾道市の観光情報|publisher=尾道観光協会|date=2020-05-12|accessdate=2021-03-06}}</ref>。これらのうち、持光寺、天寧寺、千光寺、大山寺、西國寺、浄土寺、海龍寺は「尾道七佛めぐり」を構成している<ref>{{Cite web|和書|url=https://shichibutsu.jp/|title=【公式】尾道 七佛めぐり|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 <!-- 以下は尾道観光協会 [https://www.ononavi.jp/sightseeing/temple/detail.html?detail_id=416] 掲載順に並べる --> * 日輪山金剛台院[[持光寺]]([[浄土宗西山禅林寺派|禅林寺派]]) …… [[アジサイ寺]]として知られる。 * &#x6DF8;淨山寶幢院[[光明寺 (尾道市東土堂町)|光明寺]](禅林寺派) …… [[横綱]][[陣幕久五郎]]ゆかりの寺。 * 無量山[[海福寺 (尾道市)|海福寺]]([[時宗]]) …… 三ツ首様伝説で知られる。 * 如意山宝土寺(禅林寺派) …… 境内西側にある[[吉備津彦神社 (尾道市)|吉備津彦神社]]([[一宮神社]])の[[神宮寺]]。 * 得生山安楽院信行寺(浄土宗) …… 尾道の歴史書『尾道志稿』の著者でかつての豪商油屋亀山士綱の墓、幕末維新の頃に尾道から大阪間の船使を開いた回船問屋竹内要助一門の墓、落語家で旅芸人であった尾道文治(旅文治ともいう)こと[[桂文治#別系統の文治|桂文治]]の墓がある。 * 大寶山權現院[[千光寺 (尾道市)|千光寺]]([[真言宗]]) …… 市街、[[尾道水道]]、[[向島 (広島県)|向島]]が一望できる。[[千光寺公園]]から徒歩約10分。 * 海雲山[[天寧寺 (尾道市)|天寧寺]]([[曹洞宗]]) …… 三重塔は国の[[重要文化財]](創建時は五重塔。[[江戸時代]]に改築)。 * [[艮神社 (尾道市長江)|艮神社]] …… 尾道最古の神社。真上を市営[[千光寺山ロープウェイ]]が通っている。 * 本覺山[[妙宣寺 (尾道市)|妙宣寺]]([[日蓮宗]]) …… 尾道唯一の日蓮宗寺院。[[加藤清正]]を祀るお堂があり、中にある清正の像は毎年清正公まつりで公開されている。 * 欣求山安養院慈観寺(時宗) …… [[ぼたん寺]]として知られる。 * 傳法山正授院善光寺(浄土宗) …… 尾道社寺めぐり十七番札所。[[東京都]][[目黒区]]の[[祐天寺]]と関係が深く、[[祐天]]上人の真筆名号やゆかりの品々がある。石造常念物五万日廻向塔は市の重要文化財。 * 潮音山善勝寺(真言宗) * 福善寺([[浄土真宗]]) * [[御袖天満宮]] …… [[菅原道真]]ゆかりの宮。 * 米瑠山天神坊[[大山寺 (尾道市)|大山寺]]([[真言宗醍醐派|醍醐派]]) * 尾陽山願王院[[常称寺 (尾道市)|常称寺]](時宗) * 金剛院(真言宗) * 摩尼山總持院[[西國寺]](醍醐派) …… 真言宗醍醐派大本山。[[鎌倉時代]]以来の堂塔が居並ぶ。金堂、三重塔は国の重要文化財。 ** 西國寺持善院 * 龜遊山淨泉寺([[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]) * 来迎山引接院正念寺(時宗) * 慈雪山尊光寺(本願寺派) …… 尾道では珍しい現代建築の寺。 * 智月山(獅子山)等持院[[西郷寺|西鄕寺]](時宗) …… 本堂、山門は国の重要文化財。 * 龍頭山[[海徳寺 (尾道市)|海徳寺]](時宗) * 轉法輪山大乘院[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]](時宗) …… [[足利尊氏]]ゆかりの寺。 * 海龍寺(真言宗) 「古寺めぐりコース」沿道以外には以下の神社仏閣がある。 * 潮聲山[[耕三寺]](本願寺派) …… [[瀬戸田町]]([[生口島]])。西の[[日光東照宮|日光]]と謳われる程の荘厳な寺。 * 潮音山[[向上寺]](曹洞宗) …… 瀬戸田町(生口島)。三重塔は[[国宝]]。 * 久保八幡神社 …… 西久保町。八坂神社、来迎山引接院正念寺、龜遊山淨泉寺、慈雪山尊光寺などに囲まれている。 * 三成八幡神社 …… 美ノ郷町。宗重院の管理下([[別当寺]])であった。 * 烏須井八幡神社 …… 西則末町。御祭神は[[応神天皇]]、[[神功皇后]]、[[仲哀天皇]]。尾道町、[[向東町|向島東村]]、[[向島町|向島西村]]、三成村、本郷村と5つの町村の氏神であったことから「五箇村頭八幡宮」と呼ばれ、明治時代の「栗原八幡神社」を経て現在の名前となった。縁結びの神様として有名。 '''公園・庭園''' * [[千光寺公園]] …… 桜の名所。麓から市営[[千光寺山ロープウェイ]]が通じている。公園内には[[尾道市立美術館]]、[[文学のこみち]]がある。 ** [[千光寺山グリーンランド]] …… 上記公園内にあった遊園地。廃園。 * [[広島県立びんご運動公園]] …… 県立の総合運動公園。 ** [[広島県立びんご運動公園野球場|尾道しまなみ球場]] …… 上記公園内にある野球場。[[日本野球機構|プロ野球]]の試合も開催される。 * 御調ソフトボール球場 * 御調グラウンド・ゴルフ場 * [[みつぎグリーンランド]] …… 1979年に旧・[[御調町]]が整備した森林レクリエーション施設。2018年に発生した[[平成30年7月豪雨|西日本豪雨]]により被災し長期休業中<ref>「みづきグリーンランド 豪雨で休園 再開見通せず」、[[中国新聞]]、2020年8月20日備後版</ref>。 * [[向島洋らんセンター]] * [[尾道市因島フラワーセンター]] * [[シトラスパーク瀬戸田]] …… 世界中の[[柑橘類]]を扱ったテーマパーク。 * 因島大橋記念公園 …… [[因島]]大浜町。広々とした芝生、野外ステージ、子供達の広場があり、付近に釣り場、大浜海水浴場、大浜埼灯台もある。 * 古浜町公園(旧・古浜児童公園) …… 蒸気機関車[[国鉄D51形蒸気機関車#保存機|D51形422号機]]を展示している。 '''美術館・資料館''' * [[尾道市立美術館]] …… [[千光寺公園]]内。 * [[なかた美術館]] …… 私設の美術館。 * [[おのみち文学の館]] …… [[志賀直哉]]、[[中村憲吉]]の旧居がある。 * [[圓鍔勝三]]彫刻美術館(旧・圓鍔記念館) * [[おのみち歴史博物館]] * [[おのみち映画資料館]] * [[因島水軍城]] …… [[因島]]中庄町。[[村上水軍]]についての資料が展示されている。 * [[平山郁夫美術館]] …… [[瀬戸田町]]([[生口島]])。 * [[本因坊秀策囲碁記念館]] …… 因島外浦町。二大碁聖として知られる[[本因坊秀策]]の父母に送った手紙や、署名入りの碁盤など、数多くの遺品が展示されている。 '''展望台''' [[ファイル:Onomichi Channel and Mukaishima Island from Senkoji Park Top Observation Deck 6.jpg|thumb|right|千光寺山展望台からの光景]] * 千光寺頂上展望台 …… [[千光寺公園]]頂上エリアに、新しい展望台「PEAK」が2022年3月29日にオープンした。 * 千光寺公園視点場……[[尾道城]]跡(千光寺公園西側)に、新しい眺望スポット「MiTeMi(みてみ)」が2022年3月11日にオープンした(愛称は同年11月に公募により決定。)。 * 浄土寺山(瑠璃山)展望台 …… 浄土寺の背後にそびえる山の頂上にある。 * [[高見山 (広島県)|高見山]] …… [[電波塔]]が多数建てられている。瀬戸内海の島々の眺望が出来る。 * 白滝山 …… [[因島]]重井町。山頂周辺には五百羅漢が据えられている。 * 因島公園 …… 因島土生町。四国連山や、瀬戸内海の島々の眺望が出来る。 * [[大浜埼灯台]] …… 因島大浜町。 '''史跡・建築''' * [[備後福山藩]][[番所]]跡 …… [[備後福山藩]]の番所建物と方角、[[広島藩]]との境界を示す石碑等が現存。街道を見下ろす往時のまま残っている番所跡は全国的に希少である(尾道ふくしむら付近、防地峠)。 * [[海物園跡]] …… 塩田を経営して隆盛をきわめた富島家が島崎一円を庭園とした跡。広島藩内では「西の[[縮景園]]、東の海物園」と謳われた程であるが、現在は沼となっている。 * [[竹村家]] …… 『[[東京物語]]』のロケ地の一つ。国の登録有形文化財。 * [[旧和泉家別邸]] …… 近代尾道における別邸建築の代表的なもの。国の登録有形文化財。 * [[みはらし亭]] …… 近代尾道における別邸建築の代表的なもの。国の登録有形文化財。 * [[吉原家住宅]] …… 日本最古の庄屋住宅。国の重要文化財。 '''温泉''' * [[養老温泉 (尾道市)|養老温泉]] * 尾道ふれあいの里 * 原田ゆうじん温泉 '''海水浴場''' * 干汐海水浴場 …… 営業休止中。 * 立花海水浴場 * 岩子島海水浴場 * 大浜海水浴場(しまなみビーチ) * [[瀬戸田サンセットビーチ]] '''その他''' [[ファイル:Yamato_Onomichi.jpg|thumb|right|対岸からみた実物大[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]オープンセット]] [[ファイル:Footpath of literature of Onomichi01bs3200.jpg|thumb|right|[[文学のこみち]]に配置された[[林芙美子]]の句碑]] このほか、『[[男たちの大和/YAMATO]]』撮影用に[[日立造船]]向島西工場跡地に造られた実物大[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]オープンセットが、2006年5月まで一般公開されており人気を集めていた。このオープンセットは解体後、その一部や小道具類が[[呉市海事歴史科学館]](大和ミュージアム)に寄贈されている。 * [[文学のこみち]] …… [[千光寺公園]]内。千光寺山登山道に尾道にゆかりのある文学人の句碑が配置されている。 * [[しまなみ交流館]] * 鼻の地蔵さん …… [[因島]]三庄町。岬の突端の岩に彫られた地蔵尊の傍の小石を持ち帰ると、子授け、安産、厄除など女性の願いが叶うといわれている。地蔵鼻ともいう。 * 岩屋巨石 … [[向東町]]。岩屋山山頂付近にある巨石群<ref>{{Cite web|和書|url=http://shimahito.com/area/25-2.php|title=岩屋山 | しまひと | しまなみ海道ポータルサイト|publisher=西日本観光|date=2015-02-25|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161104022548/http://shimahito.com/area/25-2.php|archivedate=2016-11-04}}</ref>。 * 猫の細道 …… [[艮神社 (尾道市長江)|艮神社]]の東側から海雲山[[天寧寺 (尾道市)|天寧寺]]三重塔にかけて続く細い路地。[[地域猫]]が多く集まっているほか、複数のアートスポットがある。 === 祭事・行事 === {{See also|尾道#祭り}} * 尾道みなと祭(4月下旬) …… 平山霊神社(尾道住吉神社)の例祭。 * [[おのみち住吉花火まつり]](7月最終週の土曜日) …… 平山霊神社(尾道住吉神社)の祭礼。 * [[ホーランエ (広島県)|ホーランエ]](7月頃) …… 高根厳島神社の例祭。 * [[因島水軍まつり]](8月頃) …… [[因島]]を支配していた[[村上水軍]]にちなんで行われるイベント。 * 尾道灯りまつり(10月上旬) …… 港町だった尾道に船が入る際に目印としていた[[常夜灯]]が寺まで続く様子を現代に再現したもの。 * [[ベッチャー祭り]](11月1日 - 3日) …… [[吉備津彦神社 (尾道市)|吉備津彦神社]]([[一宮神社]])の祭礼。 * 御調町秋祭り(10月頃) …… 年によって異なるが、主に尾道市御調支所周辺で行われる。 === 名産品・名物 === '''グルメ''' * [[尾道ラーメン]] …… 小魚で出汁をとった醤油味のスープと背油が特徴。1990年代にメディアなどに取り上げられ名物となった。 * [[鯨羊羹 (尾道市)|鯨羊羹]] …… 鯨のおばいけ(鯨の脂皮を薄く切って湯引きしたもの)を模した[[棹菓子]]。 * [[賀日あえ]] …… [[アナゴ]]と[[ホウレンソウ]]の[[和え物]]。 '''農産物・農産加工品''' * [[柿]] …… 御調町菅野地区の有名品。御調町の[[カントリーサイン]]には串柿のイラストが描かれている。 * 蓬莱柿(ほうらいし) …… [[イチジク]]の品種の一つ。全国一の生産量を誇り、2015年に尾道ブランド第1号として認証された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=190440&comment_sub_id=0&category_id=112 |title=尾道ブランド第1号に「蓬莱柿」 |date=2015-10-06 |publisher=[[中国新聞]] |archiveurl=https://archive.vn/Le903 |archivedate=2015-10-11 |accessdate=2021-06-04}}</ref>。 '''水産物・水産加工品''' * [[味付ちりめん]] * [[蒲鉾]] * でべら …… 小型の[[カレイ]]または[[ヒラメ]]を天日干しにしたもの。 '''伝統工芸品''' * 尾道帆布 …… [[機帆船]]時代から尾道で生産されている[[帆布]]を用いたバッグ等を製造している。 * [[びんご畳表]] …… 備後地方の[[イグサ]]で織られた[[畳]]。 '''その他''' * [[ドビン]] …… かつて「古寺めぐりコース」などに現れ「観光ガイド犬」として親しまれた犬。 == 経済・産業 == 旧来より[[北前船]]が寄港するなど港町、商都として栄えた。戦前までは[[広島市]]に匹敵する程の経済力を持っていたといわれ、[[協和銀行|りそな銀行]]、[[三井物産]]など、多数の銀行の本店や企業の支店なども存在していた。また、水運に恵まれている立地から、古くから尾道、[[向島 (広島県)|向島]]、[[因島]]に造船所が存在し、商都のみならず工業都市の一面も持っており、特に因島は造船景気で栄えていた。近年は造船業の斜陽化により衰退の一途を辿りつつも、「瀬戸内の十字路」として交通条件の良さを利用し、工業団地の造成により他産業の誘致を進めている。 === 経済 === '''商店街(市内中心部商業地区)''' * 一番街商店街 * 土堂中商店街 * 本町センター商店街 * 中央商店街 * 尾道通り商店街(旧・金座街) * 久保本町商店街 '''主な商業施設''' [[ファイル:Onomichi_fukuya.jpg|thumb|right|[[尾道福屋]]]] * [[フジグラン尾道]] * イオンスタイル尾道(旧・[[イオン尾道店]]) * [[尾道福屋]] * [[イズミ|ゆめマート]]尾道店 * [[ハローズ]] …… 東尾道店、因島店、尾道店 * [[天満屋ハピータウン]]向島店 * [[万惣]]尾道店 * [[フレスタ (スーパーマーケット)|フレスタ]]向島店 * [[エブリイ (スーパーマーケット)|エブリイ]] …… 尾道新浜店、向島店 '''金融機関''' {{columns-list|2| * 都市銀行 ** [[三井住友銀行]] …… 旧・[[住友銀行]]初の支店として開設された。 * 地方銀行 ** [[広島銀行]] …… 当銀行の発祥地でもある。 ** [[中国銀行 (日本)|中国銀行]] ** [[伊予銀行]] ** [[山口銀行]] …… 法人営業のみ。 * 第二地方銀行 ** [[もみじ銀行]] ** [[愛媛銀行]] * 信用金庫・信用組合 ** [[広島県信用組合]] ** [[しまなみ信用金庫]] ** [[備後信用組合]] ** [[中国労働金庫]] * 特殊法人 ** [[日本政策金融公庫]] * 証券会社 ** [[ひろぎん証券]] * 保険会社 <!-- 直営の店舗があるもの --> ** [[マニュライフ生命保険]] ** [[東京海上日動火災保険]] ** [[ジブラルタ生命保険]] ** [[大同生命保険]] ** [[日本生命保険]] ** [[三井住友海上火災保険]] ** [[明治安田生命]] }} === 産業 === 現在の主な産業としては下記のものが挙げられる。 * 造船業 * 農業 …… [[ミカン|みかん]]、[[ブドウ|ぶどう]]、[[イグサ|いぐさ]]、[[ワケギ|わけぎ]]など。 * 漁業及び海産物加工業 …… [[蒲鉾|かまぼこ]]、干物、イカ加工食品(のしいかのフライ)、[[佃煮]]など。 * 観光業 * 製造業 …… 金属加工品、[[食料品]]、[[液晶]]パネルなど。 '''尾道市内に本社を置く会社''' {{columns-list|2| * [[丸善製薬]] * [[福利物産]] * [[まるか食品 (広島県)|まるか食品]] * [[内海造船]] * [[向島ドック]] * [[尾道造酢]] * [[啓文社]] * [[大信産業]] * [[アンデックス]] * [[河原 (機械メーカー)|河原]] * [[万田発酵]] * [[ヨコハマタイヤリトレッド]] }} '''主な工場・事業所''' {{columns-list|2| * [[尾道造船]]尾道造船所 * [[ジャパン マリンユナイテッド]]艦船事業本部因島工場 * [[日立造船]]因島工場 * [[日立造船]]向島工場 * [[内海造船]]瀬戸田工場 * [[内海造船]]因島工場 * [[JFE商事造船加工]] * [[日東電工]]尾道事業所 * [[横浜ゴム]]尾道工場 * [[プレス工業]]尾道工場 * [[LIXIL]]尾道工場 * [[ユニオンプレート]]工場 * [[コカ・コーラウエストジャパン]]尾道営業所 * [[読売新聞]]尾道印刷工場 * [[シノブフーズ]](シノブデリカ)尾道工場 * [[アステム]]尾道営業所 * [[ティーエスアルフレッサ]]尾道物流センター * [[日本生活協同組合連合会]] 尾道流通センター * [[神明 (精米卸)|神明]]中四国工場 }} == マスメディア == 尾道市内に事業所があるものを記載する。 '''テレビ局''' * [[中国放送]]尾道テレビ中継局 …… [[高見山 (広島県)|高見山]]に設置されている。 * [[NHK広島放送局]]尾道支局 * [[尾道ケーブルテレビ]] '''ラジオ局''' * [[尾道エフエム放送|エフエムおのみち79.4]] '''新聞社''' {{columns-list|2| * [[中国新聞]]尾道支局、因島支局 * [[毎日新聞]]尾道支局 * [[読売新聞社]]尾道通信部 * [[産経新聞]]尾道通信部 * [[尾道新聞]]社 * [[暁新報社]] * [[解放新聞]]社広島支局 * [[せとうちタイムズ]] * [[びんご経済レポート]] * 有限会社[[備後レポート社]] * [[経済リポート]]尾道支局 }} '''その他''' * 尾道[[フィルム・コミッション|フィルムコミッション]] == 運輸・交通 == {{See also|尾道#交通}} === 鉄道・索道 === [[ファイル:Onomichi-Station-new-South-building2020.jpg|right|thumb|[[山陽本線]][[尾道駅]]]] [[ファイル:Shin-Onomichi Station.jpg|right|thumb|[[山陽新幹線]][[新尾道駅]]]] [[ファイル:Senkojiyama ropeway01n3200.jpg|right|thumb|市営[[千光寺山ロープウェイ]]]] [[新尾道駅]]は市街地から離れているため、関西方面から[[山陽新幹線]]で[[尾道駅]]周辺の市中心部にアクセスする場合、「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」や「[[ひかりレールスター]]」などが停車する[[福山駅]]で在来線に乗り換えて尾道駅に向かうルートが本数も多く、所要時間も短い。 1964年までは尾道駅から[[石畦駅]]、1957年まではさらに[[御調郡]][[御調町]](2005年に尾道市に編入)の[[市駅 (広島県)|市駅]]までを結ぶ[[尾道鉄道]](現・[[中国バス]])と呼ばれる[[私鉄]]も運行されていた。 * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[山陽本線]] …… [[尾道駅]]、[[東尾道駅]] ** [[山陽新幹線]] …… [[新尾道駅]] * 市営[[千光寺山ロープウェイ]] …… 山麓 - 山頂間 === バス === '''市内バス''' * [[おのみちバス]] * [[中国バス]] * [[本四バス開発]] * [[因の島運輸]] * [[鞆鉄道]] '''高速バス''' 停留所は主なものを示す。 * [[フラワーライナー]] [[広島交通]]・本四バス開発・因の島運輸・中国バス ** 因島(土生港) - 尾道駅前 - [[高坂パーキングエリア|高坂BS]] - [[広島バスセンター]](高坂BSで[[広島空港]]行に連絡) * [[リードライナー]] 広島交通・[[井笠鉄道]]・中国バス ** 平成大学 - [[クロスロードみつぎ]] - 高坂BS - 広島バスセンター(高坂BSで広島空港行に連絡) * [[シトラスライナー]] 中国バス・本四バス開発・因の島運輸 ** 因島(土生港) - (瀬戸内しまなみ海道) - (山陽自動車道) - [[福山駅]]前 * [[キララエクスプレス]] 中国バス・本四バス開発・[[伊予鉄バス]]・[[瀬戸内しまなみリーディング]] ** 福山駅前 - 新尾道駅前 - 向東BS - 向島BS - 因島大橋 - 瀬戸田BS - 瀬戸田PA - [[松山駅 (愛媛県)|松山駅]] - [[松山市駅]] *** (瀬戸田BS・瀬戸田PAからは因島・向島・新尾道駅・福山方面も相互利用可能、他は県内クローズドア) * [[しまなみライナー]] 中国バス(福山発着便のみ)・[[鞆鉄道]](福山発着便のみ)・[[瀬戸内運輸]]・瀬戸内しまなみリーディング・広交観光(広島発着便のみ) ** 福山駅前 - 向東BS - 向島BS - 因島大橋 - 瀬戸田BS - 瀬戸田PA - [[今治駅]] - [[今治桟橋]] *** (瀬戸田BS・瀬戸田PAからは因島・向島・福山方面も相互利用可能、他は県内クローズドア) ** 広島バスセンター - 向東BS - 向島BS - 因島大橋 - 瀬戸田BS - 瀬戸田PA - 今治駅 - 今治桟橋 *** (瀬戸田BS・瀬戸田PAからは広島・向島・因島方面も相互利用可能、他は県内クローズドア) * しまなみサイクルエクスプレス おのみちバス ** 尾道駅前 - 新尾道駅 - 栗原小学校北 - 向東BS - 向島BS - 因島大橋 - 瀬戸田BS - 瀬戸田PA - 今治駅 - 今治桟橋 *** (瀬戸田BS・瀬戸田PAからは因島・向島・尾道駅方面も相互利用可能、他は県内クローズドア) * [[びんごライナー]] 中国バス・[[近鉄バス]] ** 尾道営業所(三成) - 尾道駅前 - 福山駅前 - [[大阪駅周辺バスのりば|大阪・梅田]] - [[大阪シティエアターミナル|なんば]] * [[神戸ライナー]] 中国バス ** 甲山営業所 - 道の駅世羅 - 尾道駅前 - 福山駅前 - [[三宮駅バスのりば|三宮バスターミナル]] * [[エトワールセト号]](夜行) 中国バス・[[小田急シティバス|小田急ハイウェイバス]] ** 三原駅前 - 尾道駅前 - クロスロードみつぎ - 福山 - [[新宿駅|東京・新宿]] * エアポートバス おのみちバス ** 車庫前 - 東尾道駅 - 尾道駅前 - 新尾道駅 - 広島空港 '''自治体バス''' * [[尾道市百島町定期輸送車]] * [[尾道市因島定期輸送車]] === 道路 === '''高速道路''' [[山陽自動車道]]と[[尾道自動車道]]は[[尾道ジャンクション|尾道JCT]]で接続しているが、両自動車道と[[西瀬戸自動車道]]は尾道市内で直接は接続していない(接続構想あり)ため、[[尾道インターチェンジ|尾道IC]] - [[西瀬戸尾道インターチェンジ|西瀬戸尾道IC]]間で一般道を走るか、尾道ICより一つ岡山寄りの[[福山西インターチェンジ|福山西IC]](福山市)と西瀬戸尾道ICで相互に接続する国道2号のバイパス([[尾道福山自動車道]])を使って接続する形となる。 * [[山陽自動車道]] …… ([[岡山インターチェンジ|岡山]]、[[福山東インターチェンジ|福山]]方面) - [[尾道ジャンクション|尾道JCT]] - [[尾道インターチェンジ|尾道IC]] - ([[広島インターチェンジ|広島]]、[[下関インターチェンジ|下関]]方面) * [[尾道自動車道]] …… [[尾道ジャンクション|尾道JCT]] - [[尾道北インターチェンジ|尾道北IC]] - ([[中国自動車道]][[三次東ジャンクション|三次東JCT]]方面) * [[西瀬戸自動車道]](瀬戸内しまなみ海道) …… [[西瀬戸尾道インターチェンジ|西瀬戸尾道IC]] - [[尾道大橋出入口]] - [[向東バスストップ|向東BS]] - [[向島インターチェンジ|向島IC/TB]] - [[大浜パーキングエリア|大浜PA]] - [[因島北インターチェンジ|因島北IC]] - [[重井バスストップ|重井BS]] - [[因島南インターチェンジ|因島南IC]] - [[生口島北インターチェンジ|生口島北IC]] - [[瀬戸田バスストップ|瀬戸田BS]] - [[生口島南インターチェンジ|生口島南IC]] - [[瀬戸田パーキングエリア|瀬戸田PA/瀬戸田PABS]] - ([[今治インターチェンジ|今治]]、四国方面) '''一般国道''' * [[国道2号]] …… [[岡山市|岡山]]方面。[[広島市|広島]]方面。 * [[国道184号]] …… [[三次市|三次]]方面。[[松江市|松江]]方面。 * [[国道317号]] …… [[今治市|今治]]方面。[[松山市|松山]]方面。 * [[国道486号]] …… [[井原市|井原]]、[[福山市|福山]]北部、[[府中市 (広島県)|府中]]方面。[[三原市|三原]]、[[東広島市|東広島]]方面。 '''主な県道''' * [[広島県道363号栗原長江線]](長江通り) * [[広島県道366号西浦三庄田熊線]](因島水軍スカイライン) …… [[因島]]をほぼ一周する県道。 '''主な橋梁''' [[ファイル:OldNewOnomichiOhashi.jpg|right|thumb|[[尾道大橋]](奥)と並走する[[新尾道大橋]](手前)]] * [[尾道大橋]](国道317号) …… 尾道 - [[向島 (広島県)|向島]]間 * [[新尾道大橋]](瀬戸内しまなみ海道) …… 尾道 - 向島間 * [[向島大橋]](農道津部田向島線) …… 向島 - [[岩子島]]間 * [[因島大橋]](瀬戸内しまなみ海道) …… 向島 - [[因島]]間 * [[生口橋]](瀬戸内しまなみ海道) …… 因島 - [[生口島]]間 * [[多々羅大橋]](瀬戸内しまなみ海道) …… 生口島 - [[大三島]]([[愛媛県]][[今治市]])間 * [[高根大橋]](市道高根大橋線) …… 生口島 - [[高根島]]間 '''道の駅''' * [[道の駅クロスロードみつぎ|クロスロードみつぎ]](国道184号、国道486号) '''パーキングエリア''' * [[瀬戸田パーキングエリア|瀬戸田]](瀬戸内しまなみ海道) * [[大浜パーキングエリア|大浜]](瀬戸内しまなみ海道) === 海運 === '''旅客・貨物港湾''' {{columns-list|4| * [[尾道糸崎港]] * 歌港(向島) * [[土生港]](因島) * [[重井港]](因島) * 長崎港(因島) * 金山港(因島) * 椋浦港(因島) * 家老渡港(因島) * [[瀬戸田港]](生口島) * 沢港(生口島) * 洲江港(生口島) * 垂水港(生口島) * 鷺港(佐木島) * 向田港(佐木島) * 小佐木港(小佐木島) * 福田港(百島) }} '''漁港''' * 第2種漁港 ** 吉和漁港(よしわぎょこう) * 第1種漁港 ** 串浜漁港(くしはまぎょこう) ** 海老漁港(えびぎょこう) ** 泊漁港(とまりぎょこう) ** 西浦漁港(にしうらぎょこう ) ** 鏡浦漁港(かがみうらぎょこう ) ** 大町漁港(おおまちぎょこう) ** 干汐漁港(ひしおぎょこう) ** 立花漁港(たちばなぎょこう) '''海の駅''' * おのみち海の駅 '''航路''' [[ファイル:Onomichi Channel02s3200.jpg|thumb|right|[[尾道水道]]の渡船]] [[ファイル:OnomichiTosen_尾道渡船のりば.jpg|thumb|[[向島 (広島県)|向島]]行き渡船のりば]] [[因島]]は[[愛媛県]][[上島町]]地域の交通の中心であり、この地域からの定期船は主に因島に航行している。 * 駅前渡船(向島運航)・福本渡船・[[尾道渡船]]・桑田渡し(宮本汽船) ** 尾道 - 向島 * [[備後商船]] ** 尾道 - 戸崎 - 歌 - 満越 - 福田 - 常石(フェリー・快速船) * [[歌戸運航]] ** 歌桟橋(向東町) - 戸崎(浦崎町) * [[瀬戸内クルージング]] ** 尾道 - 因島 - 生口島(瀬戸田)(快速船) * 瀬戸田運航 ** 尾道 - 生口島(瀬戸田) - 因島 * [[芸予汽船]] ** 因島 - 今治(快速船) * 土生商船 ** 因島 - 三原(フェリー・快速船) * [[三光汽船]] ** 因島 - 生口島(フェリー) ** 因島 - 生口島 - 岩城島(フェリー) * 長江フェリー、岩城汽船、因島海運 ** 因島 - 岩城島(フェリー) * 弓削汽船 ** 因島 - 弓削(フェリー) * 家老渡フェリー汽船 ** 因島 - 弓削(フェリー) * 上島町魚島総合支所 ** 因島 - 弓削島 - [[魚島]](快速船) * 尾道市因島総合支所 ** 因島 - 細島(フェリー) === 航空 === * [[せとうちSEAPLANES]] …… 水陸両用機による遊覧飛行を行っていた。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの感染拡大]]の影響により、2021年1月30日の最終フライトをもって運休中<ref>{{Cite web|和書|title=瀬戸内遊覧、水陸両用機が最終フライト…1機は宮崎駿さんが塗装デザイン監修 : 経済 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210131-OYT1T50061/|website=読売新聞オンライン|date=2021-01-31|accessdate=2021-02-24|language=ja}}</ref>。 == 施設 == === 医療・福祉 === * [[尾道市立市民病院]] * [[公立みつぎ総合病院]] * 尾道市民病院附属瀬戸田診療所 …… 2009年4月に県立瀬戸田病院から移管。 * [[尾道総合病院]](農協病院) …… 2011年5月に平原台地区へ移転。 * 因島医師会病院 * 因島総合病院 * 尾道総合福祉センター * 尾道ふくしむら === 文化・スポーツ施設 === {{See also|尾道市#観光}} '''ホール''' * 尾道市公会堂 * [[しまなみ交流館]] * ベル・カントホール …… [[尾道市瀬戸田市民会館]]内。 * 因島市民会館 * むかいしま文化ホール '''図書館''' [[ファイル:尾道市立中央図書館.jpg|thumb|[[尾道市立中央図書館]]]] [[ファイル:Mitsugikodomotoshokan sukusuku01.jpg|thumb|みつぎ子ども図書館「すくすく」]] * [[尾道市立中央図書館]] * 尾道市立みつぎ子ども図書館「すくすく」 * 尾道市立因島図書館(芸予文化情報センター) * 尾道市立瀬戸田図書館 …… [[尾道市瀬戸田市民会館]]内。 * 尾道市立向島子ども図書館「わくわく」 * [[尾道市立大学]]付属図書館 '''スポーツ・公園''' * [[広島県立びんご運動公園]] * 因島フラワーセンター * 尾道市立千光寺体育館 * 御調町ソフトボール球場 * 長者原スポーツセンター * 向島運動公園 * [[因島運動公園]] * 瀬戸田町[[B&amp;G海洋センター]] * 境ガ浜マリーナ(旧・[[マリンパーク境ガ浜]]) * [[ONOMICHI U2]] …… サイクリストの為の複合施設。 * [[スピードウェイ広島サーキット]] …… 閉鎖。 '''映画館''' 「映画の街」として知られ、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて10館ほどの映画館があった。2001年10月に尾道松竹が閉館して映画館がなくなったが、2008年10月に[[シネマ尾道]]が開館した。 * [[シネマ尾道]] '''美術館、博物館、資料館''' [[ファイル:Onomichi City Museum of Art.jpg|thumb|right|[[尾道市立美術館]]]] * [[尾道市立美術館]] …… [[千光寺公園]]内。 * 尾道市立大学美術館(旧・尾道白樺美術館) * [[圓鍔勝三]]彫刻美術館(旧・圓鍔記念館) * [[平山郁夫美術館]] …… [[瀬戸田町]]([[生口島]])。 * [[おのみち映画資料館]] * [[おのみち文学の館]] * [[おのみち歴史博物館]] * 御調歴史民俗資料館 * 瀬戸田歴史民俗資料館 * 因島史料館 * アートベース百島 === 教育 === ==== 小学校 ==== '''市立''' {{columns-list|4| * [[尾道市立因北小学校|因北小学校]] * [[尾道市立因島南小学校|因島南小学校]] * [[尾道市立浦崎小学校|浦崎小学校]] * [[尾道市立久保小学校|久保小学校]] * [[尾道市立栗原小学校|栗原小学校]] * [[尾道市立栗原北小学校|栗原北小学校]] * [[尾道市立山波小学校|山波小学校]] * [[尾道市立重井小学校|重井小学校]] * [[尾道市立瀬戸田小学校|瀬戸田小学校]] * [[尾道市立高須小学校|高須小学校]] * [[尾道市立高見小学校|高見小学校]] * [[尾道市立土堂小学校|土堂小学校]] * [[尾道市立長江小学校|長江小学校]] * [[尾道市立西藤小学校|西藤小学校]] * [[尾道市立日比崎小学校|日比崎小学校]] * [[尾道市立美木原小学校|美木原小学校]] * [[尾道市立御調中央小学校|御調中央小学校]] * [[尾道市立御調西小学校|御調西小学校]] * [[尾道市立三成小学校|三成小学校]] * [[尾道市立三幸小学校|三幸小学校]] * [[尾道市立向島中央小学校|向島中央小学校]] * [[尾道市立向東小学校|向東小学校]] * [[尾道市立百島小学校|百島小学校]] * [[尾道市立吉和小学校|吉和小学校]] }} ==== 中学校 ==== '''市立''' 2010年4月、[[因島]]南部にある田熊、土生、三庄中学校を統廃合し、[[広島県立因島高等学校|因島高等学校]]旧校舎跡地に[[尾道市立因島南中学校|因島南中学校]]が開校した。[[因島市]]との合併後は、土生幼稚園と統合地区の小学校を含めた、公立では非常に珍しい幼小中一貫校である「因南学園」(仮称)を設置する方針もあったが実現しなかった。なお、因島北部にある[[尾道市立因北中学校|因北中学校]]は、これが正式名称であり、「因島北中学校」の略称ではない。 {{columns-list|4| * [[尾道市立因北中学校|因北中学校]] * [[尾道市立因島南中学校|因島南中学校]] * [[尾道市立浦崎中学校|浦崎中学校]] * [[尾道市立久保中学校|久保中学校]] * [[尾道市立栗原中学校|栗原中学校]] * [[尾道市立重井中学校|重井中学校]] * [[尾道市立瀬戸田中学校|瀬戸田中学校]] * [[尾道市立高西中学校|高西中学校]] * [[尾道市立長江中学校|長江中学校]] * [[尾道市立日比崎中学校|日比崎中学校]] * [[尾道市立美木中学校|美木中学校]] * [[尾道市立御調中学校|御調中学校]] * [[尾道市立向島中学校|向島中学校]] * [[尾道市立向東中学校|向東中学校]] * [[尾道市立百島中学校|百島中学校]] * [[尾道市立吉和中学校|吉和中学校]] }} '''私立''' * [[尾道中学校・高等学校|尾道中学校]] ==== 高等学校 ==== '''県立''' * [[広島県立尾道東高等学校|尾道東高等学校]] * [[広島県立尾道北高等学校|尾道北高等学校]] * [[広島県立尾道商業高等学校|尾道商業高等学校]] * [[広島県立御調高等学校|御調高等学校]] * [[広島県立因島高等学校|因島高等学校]] * [[広島県立瀬戸田高等学校|瀬戸田高等学校]] '''市立''' * [[尾道市立広島県尾道南高等学校|尾道南高等学校]](定時制) '''私立''' * [[尾道中学校・高等学校|尾道高等学校]] ==== 大学 ==== * [[尾道市立大学]] * [[広島大学]][[大学院]]理学研究科附属臨海実験所 * [[福山大学]]生命工学部附属内海生物資源研究所 ==== 専門学校 ==== * [[尾道海技学院]] * [[尾道福祉専門学校]] * [[尾道市医師会看護専門学校]] * [[広島県厚生連尾道看護専門学校]] ==== その他 ==== * [[広島県立尾道特別支援学校]] * [[広島県立尾道特別支援学校しまなみ分校]] * 尾道自由大学 ==== 統廃合及び廃止された教育機関 ==== * [[小学校]] ** [[尾道市立大浜小学校]] ** [[尾道市立木頃小学校]] ** [[尾道市立木ノ庄東小学校]] ** [[尾道市立木ノ庄西小学校]] ** [[尾道市立田熊小学校]] ** [[尾道市立土生小学校]] ** [[尾道市立原田小学校]] ** [[尾道市立東生口小学校]] ** [[尾道市立久山田小学校]] ** [[尾道市立三庄小学校]] ** [[尾道市立南小学校]] * [[中学校]] ** [[尾道市立生口中学校]] ** [[尾道市立田熊中学校]] ** [[尾道市立土生中学校]] ** [[尾道市立三庄中学校]] ** [[尾道市立原田中学校]] * [[高等学校]] ** [[広島県立尾道工業高等学校]] ** [[師友塾高等学校]](株式会社文学の館) == 尾道を舞台(モデル)とした作品 == [[林芙美子]]や[[志賀直哉]]をはじめとする文学人や、「[[尾道三部作]]」、「新・尾道三部作」で知られる[[大林宣彦]]監督に代表されるように、尾道を舞台とした文芸作品は数多く存在し、尾道は「文学の街」「映画の街」とも称される。林芙美子や志賀直哉のほか、歌人の[[中村憲吉]]も尾道に住んだことがあり、千光寺山登山道はこれら尾道にゆかりのある文学人の句碑が配置され、「[[文学のこみち]]」を称している。近年では、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]も尾道を舞台としたり、[[テレビ番組]]や[[テレビドラマ]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]]などでもよく登場する<ref name="cicinfonet180626"/>。 === 文学 === * 『[[放浪記]]』([[林芙美子]]) * 『[[暗夜行路]]』([[志賀直哉]]) * 『[[悪名]]』([[今東光]]) * 『[[内海の輪]]』([[松本清張]]) * 『尾道渡船場かいわい』([[森岡久元]]) * 『尾道物語』シリーズ(森岡久元) * 『扉守』([[光原百合]]) === 映画 === * 『[[東京物語]]』([[小津安二郎]]監督、[[1953年]]) * 『[[悲しみは女だけに]]』([[新藤兼人]]監督、[[1958年]]) * 『[[裸の島]]』(新藤兼人監督、[[1960年]]) * 『[[悪名]]』シリーズ([[田中徳三]]、[[森一生]]、[[安田公義]]、[[マキノ雅弘]]、[[増村保造]]、[[和泉聖治]]監督、[[1961年]] - [[1969年]]、[[1974年]]、[[2001年]]) * 『[[憎いあンちくしょう]]』([[蔵原惟繕]]監督、[[1962年]]) * 『[[はだしの花嫁]]』([[番匠義彰]]監督、[[1962年]]) * 『[[故郷 (1972年の映画)|故郷]]』([[山田洋次]]監督、[[1972年]]) * 『[[神様のくれた赤ん坊]]』([[前田陽一]]監督、[[1979年]]) * 『[[八月の幻]]』([[鈴木浩介 (演出家)|鈴木浩介]]監督、[[2002年]]) * 『[[男たちの大和/YAMATO]]』([[佐藤純彌]]監督、[[2005年]]) …… [[日立造船]]向島西工場跡地に造られた実物大[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]オープンセットで撮影。 * 『[[望郷 (湊かなえの小説)|望郷]]』([[菊地健雄]]監督、[[2017年]]) …… [[因島]]、[[向島 (広島県)|向島]]、[[生口島]]で撮影<ref>{{Cite web|和書|url=http://locationjapan.net/newss/onomichi_bokyo_0913/|title=湊かなえ原作の感動ミステリー『望郷』が映画化!舞台は広島県尾道市|publisher=LOCATION JAPAN.net|date=2017-09-13|accessdate=2017-11-27}}</ref>。原作者の[[湊かなえ]]は旧・[[因島市]]出身。 '''大林宣彦監督作品''' * [[尾道三部作]] ** 『[[転校生 (映画)|転校生]]』([[1982年]]) ** 『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』([[1983年]]) ** 『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』([[1985年]]) * 『[[彼のオートバイ、彼女の島]]』([[1986年]]) …… 旧・[[向島町]]、[[岩子島]]で撮影。 * 『[[野ゆき山ゆき海べゆき]]』([[1986年]]) * 『[[日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群]]』([[1988年]]) * 新・尾道三部作 ** 『[[ふたり]]』([[1991年]]) ** 『[[あした (映画)|あした]]』([[1995年]]) ** 『[[あの、夏の日]]』([[1999年]]) * 『マヌケ先生』([[2001年]]) === テレビドラマ === * 『[[うず潮 (小説)#連続テレビ小説版|うず潮]]』([[日本放送協会|NHK]] [[連続テレビ小説]]、[[1964年]][[4月6日]] - [[1965年]][[4月3日]]) * 『志都という女』(TBS、1967年11月13日~1967年12月29日) * 『[[やる気満々]]』([[TBSテレビ|TBS]]、[[1979年]][[4月24日]] - [[9月25日]]) * 『[[吉宗評判記 暴れん坊将軍]]』 第173・174話([[テレビ朝日]]、[[1981年]][[8月22日]]、[[8月29日]]) * 『[[てっぱん]]』(NHK 連続テレビ小説、[[2010年]][[9月27日]] - [[2011年]][[4月2日]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20101017041531/https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/100000/60212.html|title=ゲゲゲの次は「てっぱん」 9月27日(月)スタート! | 編集部イチオシ! | NHKドラマ|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2010-09-22|accessdate=2021-03-06}}</ref> * 『[[それでも、生きてゆく]]』 第10話([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[2011年]][[9月8日]]) …… [[因島]]が登場。 * 『タクシードライバーの推理日誌35 分かれ道の乗客 瀬戸内尾道~“道の駅”連続殺人!!』([[テレビ朝日]] 土曜ワイド劇場、[[2014年]][[10月11日]]) * 『[[龍が如くシリーズ#実写ドラマ|龍が如く 魂の詩。]]』(映像配信、[[2016年]][[11月30日]]) * 『[[好きな人がいること]]』 第7話(フジテレビ [[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]、[[2016年]][[8月29日]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.fujitv.co.jp/sukinahitogairukoto/E20160826001.html|title=好きな人がいること公式ホームページ - フジテレビ|publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]|date=2016-08-26|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161115050259/http://blog.fujitv.co.jp:80/sukinahitogairukoto/E20160826001.html|archivedate=2016-11-15}}</ref> * 『新・浅見光彦シリーズ 後鳥羽伝説殺人事件』(TBS 月曜名作劇場 内田康夫サスペンス、[[2018年]][[2月26日]]) === 漫画 === * 『[[ぱられる]]』([[小林俊彦 (漫画家)|小林俊彦]]、『[[マガジンSPECIAL]]』 [[2000年]]8号 - [[2002年]]1号、全4巻) ** 『[[ぱすてる]]』(小林俊彦、『[[週刊少年マガジン]]』 [[2002年]]32号 - [[2003年]]33号、『マガジンSPECIAL』 [[2003年]]10月号 - [[2017年]]2号、全44巻) …… 上記作品のリメイク作。 * 『[[アニメがお仕事!]]』([[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]、『[[ヤングキングアワーズ]]』 [[2004年]]4月号 - [[2007年]]9月号、全7巻) * 『[[タビと道づれ]]』([[たなかのか]]、『月刊[[コミックブレイド]]』 [[2006年]]9月号 - [[2010年]]4月号、全6巻) …… 作中では「緒道」と表記。 * 『[[空色スクエア。]]』([[浜弓場双|双]]、『[[まんがタイムきららフォワード]]』 [[2009年]]3月号 - [[2011年]]2月号、全4巻) * 『[[しまなみ誰そ彼]]』([[鎌谷悠希]]、『[[ヒバナ (雑誌)|ヒバナ]]』 [[2015年]]4月号 - [[2017年]]9月号、『[[裏サンデー]]』 [[2018年]]1月号 - 5月号、全4巻) === アニメ === * 『[[ヒカルの碁 (アニメ)|ヒカルの碁]]』 第61・62話([[テレビ東京]]、[[2002年]][[12月11日]]、[[12月18日]]) …… [[尾道駅]]、[[因島]]が登場。 * 『[[かみちゅ!]]』([[テレビ朝日]]、[[2005年]][[6月29日]] - [[9月28日]])…… [[向島]]、尾道水道の渡船が登場。 === ゲーム === * 『[[カラフルキッス 〜12コの胸キュン!〜]]』([[戯画 (ブランド)|戯画]]、[[2003年]][[3月14日]]) …… 作中では「此ノ道市」。オープニングに尾道市街が登場。 * 『[[夢見師]]』([[プリンセスソフト]]、[[2006年]][[12月28日]]) - 作中では「尾延市」。PC版OP及び本編で[[艮神社 (尾道市長江)|艮神社]]、本編で旧[[尾道駅]]などが登場。町の特徴も一致している。 * 『[[タイムリープ (ゲーム)|タイムリープ]]』([[フロントウイング]]、[[2007年]][[12月27日]]) …… オープニングで対岸に尾道市街が描かれていることや、公式サイト内のストーリー紹介ページに「尾道市の市街を挟んで瀬戸内海に浮かぶ島」と記述されていることから、[[向島 (広島県)|向島]]がモデルであることが分かる<ref>{{Cite web|和書|url=http://frontwing.jp/product/timeleap/story.html|title=タイムリープ公式サイト|publisher=[[フロントウイング]]|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * 『[[キスよりさきに恋よりはやく]]』([[SkyFish]]、[[2008年]][[10月24日]]) …… 公式サイト内のスタッフへのQ&Aコーナーで、本作のプロデューサーのひろもりさかなが尾道市がモチーフと明言している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sky-fish.jp/kisskoi/html/kiss_stf02_13.html|title=キスよりさきに恋よりはやく|publisher=[[SkyFish]]|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * 『[[ぼくのなつやすみ4 瀬戸内少年探偵団「ボクと秘密の地図」]]』([[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]、[[2009年]][[7月2日]]) …… 本作品に登場する「あっち島」の構造は向島をモデルとしている。ただし、ゲーム全体を通じて主にモデルとされているのは[[岡山県]][[笠岡諸島]]にある[[白石島]]であると明言されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/ayabekaz/status/991467103000514561|title=作者の綾部和氏によるツイート(2018 5/2)|accessdate=2021-03-06}}</ref>。 * 『[[ルーンロオド]]』([[CLOCKUP (ブランド)|CROCKUP]]、[[2010年]][[1月29日]]) * 『[[アッチむいて恋]]』([[ASa Project]]、[[2010年]][[4月30日]]) …… 本編で尾道本通り商店街や艮神社が登場。 * 『[[龍が如く6 命の詩。]]』([[セガゲームス]]、[[2016年]][[12月8日]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/328/1328702/|title=『龍が如く6』は桐生一馬伝説の最終章に。名越監督は「ドラマ性が高い作品だから終わりが来るべき」と発言 - 電撃オンライン|publisher=[[KADOKAWA]]|date=2016-07-26|accessdate=2021-03-06}}</ref> * 『ソラとウミのアイダ』([[広井王子]]・[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|フォワードワークス]]、[[2017年]][[9月28日]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2017/07/26/108767.html|title=【レポート】『ソラとウミのアイダ』配信時期とゲーム内容が明らかに!アニメ化、コミカライズなど幅広い展開も | インサイド|publisher=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]]|date=2017-07-26|accessdate=2021-03-06}}</ref> === ミュージックビデオ === * 「[[風を待つ]]」([[STU48]] 2ndシングル、[[2018年]][[12月26日]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rbbtoday.com/article/2018/12/27/166314.html|title=広島県尾道市をメンバーが駆ける!STU48、2ndシングル『風を待つ』MV公開! | RBB TODAY|publisher=RBB TODAY|date=2018-12-27|accessdate=2021-03-06}}</ref> === 広告 === このほか、[[ヤマト運輸]]や[[コカ・コーラ]]などのCMも撮影されている。 * [[アサヒビール]]、本生([[江口洋介]]、[[2006年]]) * [[ライフ (信販)|ライフカード]]、「カードの切り方が人生だシリーズ マドンナ編」([[オダギリジョー]]、[[2006年]])<ref>{{PDFlink|[http://www.lifecard.co.jp/press/pdf/180601.pdf 「カードの切り方が人生だ~マドンナ」篇]}} [[ライフ (信販)|ライフカード]] 2006年6月1日</ref> * [[トヨタ自動車]]、[[トヨタ・ラクティス]]、「自由とラーメンとラクティス編」([[佐藤隆太]]、[[2006年]]) * [[サントリー]]、[[ザ・プレミアム・モルツ]]、「お歳暮旅情篇」([[矢沢永吉]]、[[2006年]]) * [[東和薬品 (大阪府)|東和薬品]]、「歌でつながる編」([[黒柳徹子]]、[[2007年]]) * [[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]、「予想外な家族・白戸家 旅する父編」([[2008年]]) * [[三井生命保険]]、「電車を降りて編」「朝の町編」「最初の春編」([[戸田菜穂]]、[[2008年]]) * [[第一生命保険|第一生命]]、「幸せの道 おとうと篇」([[2010年]]) * [[ソニー]]、[[α (カメラ)|α]] NEX-C3、「尾道 猫と二人旅篇」([[北川景子]]、[[2011年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.jp/ichigan/message/|title=Focus Your Love 北川景子 尾道を訪ねる。 | デジタル一眼カメラ“α”(アルファ) [Eマウント] | ソニー|publisher=[[ソニー]]|accessdate=2021-03-06}}</ref> * [[イオンリテール|イオン]]、ネットスーパー、「親子編」([[2015年]]) * [[西日本旅客鉄道]]、「DISCOVER WEST 尾道編」([[2015年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/navi/discoverwest/cm/|title=林芙美子ゆかりの地を、仲間由紀恵さんが歩く。CMのロケ地を訪ねて。 |DISCOVER WEST ディスカバー・ウェスト:JRおでかけネット|publisher=[[西日本旅客鉄道]]|accessdate=2021-03-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190119120954/https://www.jr-odekake.net/navi/discoverwest/cm/|archivedate=2019-01-19}}</ref> * [[広島ガス]]、「このまち思い物語 第四話 大事な仕事編」([[杉咲花]]、[[2017年]]) …… アニメーションCM。 == 名誉市民 == 旧・因島市名誉市民と旧・瀬戸田町名誉町民はそのまま尾道市名誉市民として引き継がれている<ref name="shisei_2020" />。 (五十音順) * [[圓鍔勝三]]([[彫刻家]]) …… 日本彫刻会理事長。[[1981年]]選定。 * [[小林和作]]([[西洋画]]家) …… [[山口県]]出身。40代半ばより尾道に居住。[[1978年]]選定。 * [[平山角左衛門]](尾道町[[奉行]]) …… 住吉浜を造り尾道の港勢発展の礎を築いた。[[1968年]]選定。 * [[三木半左衛門]](呉服商、両替問屋) …… [[阿波国]](現・[[徳島県]])出身。共楽園(現・千光寺公園)を開き市に寄付した。1968年選定。 * [[山口玄洞]]([[実業家]]) …… 明徳商業学校(現・[[尾道市立広島県尾道南高等学校|尾道南高等学校]])を創設し、尾道市上水道建設に多大な寄与をした。1968年選定。 '''旧・因島市名誉市民''' * [[本因坊秀策]]([[棋士 (囲碁)|棋士]]) …… 二大碁聖として知られる。[[2003年]]選定。 * [[宮地茂 (福山大学)|宮地茂]]([[教育者]]) …… [[福山大学]]創立者、[[福山市]]名誉市民。2003年選定。 '''旧・瀬戸田町名誉町民''' * [[耕三寺耕三]]([[仏師]]) …… [[兵庫県]]出身。[[耕三寺]]開祖。[[1986年]]選定。 * [[平山郁夫]]([[日本画]]家) …… [[東京芸術大学]]学長、[[ユネスコ親善大使]]などを歴任。1986年選定。 == 大使など == * 尾道観光親善大使(旧・ミス尾道) * 尾道観光大使(尾道観光大使) == 著名な出身者 == (五十音順) === 学術・文化・芸術 === {{columns-list|2| * [[麻生路郎]]([[川柳|川柳家]]) * [[石堂淑朗]]([[脚本家]]) * [[今川憲英]](建築[[構造家]]) * [[大林宣彦]]([[映画監督]]) * [[かわぐちかいじ]]([[漫画家]]、旧・[[向東町]]) * [[坂井徳三]]([[詩人]]) * [[坂本昭悟]]([[漫画家]]) * [[島田哲夫]]([[スポーツ哲学研究者]]、旧・[[瀬戸田町]]) * [[清水啓典]]([[経済学者]]) * [[高垣眸]]([[小説家]]) * [[高橋源一郎]]([[小説家]]) * [[高橋玄洋]]([[小説家]]、[[脚本家]]) * [[田坂啓]]([[脚本家]]) * [[寺西重郎]]([[経済学者]]、旧・[[因島市]]) * [[はいむらきよたか]]([[イラストレーター]]) * [[東川篤哉]]([[小説家]]) * [[平山郁夫]]([[日本画家]]、旧・[[瀬戸田町]]) * [[福原五岳]]([[南画家]]) * [[藤原弘達]]([[政治学者]]、[[政治]][[評論家]]) * [[光原百合]]([[ミステリー作家]]) * [[湊かなえ]]([[小説家]]、旧・[[因島市]]) * [[宮地政司]]([[天文学者]]、旧・[[因島市]]) * [[村上正泰]]([[評論家]]、旧・[[因島市]]) * [[森岡久元]]([[作家]]) * [[八木國之]]([[法学者]]) * [[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]([[法学者]]) * [[八束澄子]]([[小説家]]、旧・[[因島市]]) * [[山根真樹]]([[映像作家|映像監督]]) * [[行友李風]]([[劇作家]]) * [[吉原敬典]]([[経営学者]]、旧・[[因島市]]) }} === 芸能・マスコミ === {{columns-list|2| * [[東ちづる]]([[俳優|女優]]、旧・[[因島市]]) * [[青山高治]]([[中国放送]][[アナウンサー]]) * [[石田好伸]]([[RSK山陽放送]][[アナウンサー]]、旧・[[因島市]]) * [[須山浩継]](フリーライター) * [[田窪一世]]([[俳優]]、旧・[[因島市]]) * [[成海瑠奈]](元[[声優]]、[[サンドリオン (声優ユニット)|サンドリオン]]元メンバー) * [[西山喜久恵]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]]) * [[速水けんたろう]]([[歌手]]、[[俳優]]) * [[細谷佳正]]([[声優]]) * [[三浦紘朗]]([[ラジオ関西]][[アナウンサー]]) * [[山本モナ]]([[フリーアナウンサー]]) * [[和泉紗江]](元[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役) }} === 音楽 === * [[UFO (フォークグループ)|UFO]](フォークグループ、旧・[[因島市]]) * [[河原真]]([[ベーシスト]]、[[ROCK'A'TRENCH]]、旧・[[瀬戸田町]]) * [[THE 東南西北]]([[ロックバンド]]) ** [[久保田洋司]]([[ボーカリスト]]) * [[手島章斗]]([[ボーカリスト]]、[[SOLIDEMO]]) * [[ポルノグラフィティ]]([[ロックバンド]]、旧・[[因島市]]) ** [[岡野昭仁]]([[ボーカリスト]]) ** [[新藤晴一]]([[ギタリスト]]) ** [[Tama (ベーシスト)|Tama]]([[ベーシスト]]) * [[YOSHI (歌手)|YOSHI]]([[シンガーソングライター]]) === 棋士 === * [[半田道玄]]([[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]]) * [[坂東香菜子]]([[将棋]][[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]、旧・[[因島市]]) * [[本因坊秀策]]([[囲碁]][[棋士 (囲碁)|棋士]]、旧・[[備後国]][[因島]]) === スポーツ === {{columns-list|2| * [[梅本勝]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]]指導者) * [[大前力也]]([[キックボクサー]]) * [[岡本知剛]]([[サッカー選手]]、[[ロアッソ熊本]]ミッドフィルダー) * [[兼本貴司]]([[ゴルファー]]) * [[川崎真琴]]([[プロボクサー]]) * [[瀬戸錦年光]]([[力士]]) * [[田頭剛]]([[体操選手]]、体操日本代表、旧・[[因島市]]) * [[谷原秀人]]([[ゴルファー]]) * [[男色ディーノ]]([[プロレスラー]]、旧・[[瀬戸田町]]) * [[土生翔平]]([[野球選手]]、[[広島東洋カープ]]外野手) * [[備前喜夫]]([[野球選手]]、[[広島東洋カープ]]投手) * [[村上恭和]]([[卓球]]選手、卓球女子日本代表監督、旧・[[向東町]]) * [[吉田万里子 (プロレスラー)|吉田万里子]](女子[[プロレスラー]]、旧・[[向島町]]) * [[山本英志]]([[競艇]]選手) }} === 政財界 === {{columns-list|2| * [[麻生イト]]([[実業家]]) * [[有元史郎]]([[芝浦工業大学]]創設者、[[岡山県]][[津山市|津山]][[市長]]) * [[岩瀬順三]]([[ベストセラーズ]]創業者) * [[小田原大造]]([[クボタ]]社長、大阪[[商工会議所]]会頭、[[日本万国博覧会|万国博大阪誘致]]委員会会長、旧・[[向東町]]) * [[木川眞]]([[ヤマトホールディングス]]会長、旧・[[向島町]]) * [[木曽功]]([[国連教育科学文化機関|ユネスコ]]日本政府代表部[[特命全権大使]]、[[内閣官房参与]]) * [[久保田権四郎]]([[クボタ]]創業者、旧・[[因島市]]) * [[田島治子]]([[サカイ引越センター]]創業者、旧・[[瀬戸田町]]) * [[多田修人]]([[日本システムウエア]]創業者) * [[寺西正司]]([[UFJ銀行]]頭取、旧・[[因島市]]) * [[橋本達吉]]([[丸物#京都近鉄百貨店|京都近鉄百貨店]]社長) * [[三浦惺]]([[NTT]]会長、旧・[[向東町]]) * [[村上弘]]([[日本共産党]]委員長、旧・[[因島市]]) * [[村上大祐]]([[佐賀県]][[嬉野市|嬉野]][[市長]]) * [[山内隆司 (実業家)|山内隆司]]([[ガンバ大阪]]社長、旧・[[因島市]]) * [[吉原貞敏]]([[東京鐵鋼]]創業者、[[馬主]]、旧・[[向島町]]) * [[若林辰雄]]([[三菱UFJ信託銀行]]会長) }} === その他 === * [[麻生文雄]]([[醍醐寺]]座主、[[三宝院]][[門跡]]、[[種智院大学]]学長、[[西國寺]]住職、旧・[[因島市]]) * [[市邨芳樹]]([[広島県立尾道商業高等学校|広島県立尾道商業]]、[[名古屋経済大学市邨中学校・高等学校|名古屋経済大学市邨高校]]、[[名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校|名古屋経済大学高蔵高校]]創立者) * 小林海暢([[真言宗泉涌寺派]]管長、[[泉涌寺]]長老、[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]]住職) * [[塩見孝也]]([[赤軍派]]議長) == ゆかりのある人物 == (五十音順) * [[石原善三郎]](尾道[[市長]]) …… [[大阪府]]出身。[[衆議院議員]]、[[奈良県]][[奈良市|奈良]][[市長]]を歴任。戦後、議会から迎えられて市長に就任。[[1971年]]には82歳で市長に返り咲いた。 * [[青山祐子]]([[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]) …… 広島県[[廿日市市]]出身。父方の実家が尾道であり、父が尾道市東京事務所所長を務める。 * [[上山英一郎]]([[大日本除虫菊]]創業者) …… [[紀伊国]](現・[[和歌山県]])出身。[[向島 (広島県)|向島]]で[[シロバナムシヨケギク|除虫菊]]の接種、栽培を行った。その功績により亀森八幡神社境内に祀られている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kincho.co.jp/tama/kiku/spot3.html|title=スポット3 瀬戸内の除虫菊発祥の地に祭られる「除虫菊神社」|publisher=[[大日本除虫菊]]|accessdate=2013-06-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100404035746/kincho.co.jp/tama/kiku/spot3.html|archivedate=2010-04-04}}</ref>。 * [[奥平邦彦]]([[フリーアナウンサー]]、元[[鹿児島テレビ放送]][[アナウンサー]]) …… [[京都府]][[京都市]]出身。幼稚園から中学1年生まで尾道市に住んでいた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.instagram.com/p/CRbpzSGjhmz/|title=幼稚園〜中1まで広島の尾道 居住|author=奥平邦彦|website=公式Instagram(@kunihiko_okudaira)|date=2021-07-17|accessdate=2022-11-15}}</ref>。 * [[金森達]]([[イラストレーター]]) …… 大阪府出身。両親の郷里である因島に疎開し、土生高等学校(現・[[広島県立因島高等学校|因島高等学校]])卒業まで居住。 * [[志賀直哉]]([[小説家]]) …… [[宮城県]]出身。初の短編集刊行時に半年ほど尾道に居住。尾道を舞台とする著作がある。 * [[新藤兼人]]([[映画監督]]) …… 広島県[[佐伯郡]][[石内村]](現・[[広島市]])出身。10代後半に[[尾道警察署]]に勤務していた長兄宅に居住。尾道を舞台とする作品がある。 * [[たなかのか]]([[漫画家]]) …… 広島県[[廿日市市]]出身。学生時代に尾道に居住。尾道を舞台とする著作がある。 * [[中村憲吉]]([[歌人]]) …… 広島県[[三次郡]][[布野村|上布野村]](現・[[三次市]])出身。晩年に病気療養のため尾道に居住。 * [[林芙美子]]([[小説家]]) …… [[山口県]]出身([[福岡県]]出身という説もある)。学生時代に尾道に居住。尾道を舞台とする著作がある。 == その他 == === 電話 === [[市外局番]]は因島・瀬戸田地域が0845(20 - 39)、その他が0848(20 - 89)となっている。なお、0848(20 - 89)、084(900 - 909、930、933 - 939)は同一区域扱いとなる。旧市外局番が08487だった御調地域は2005年1月、旧市外局番が08452だった因島・瀬戸田地域は2005年2月に変更。 * 0848(20 - 89)・084(900 - 909、930、933 - 939)エリア ** [[三原市]](三原・本郷地域)・尾道市(因島・瀬戸田地域を除く)・[[福山市]](松永地域) * 0845(20 - 39)エリア ** 尾道市(因島・瀬戸田地域) === 郵便 === 尾道市内の郵便物の集配は、以下の[[郵便局]]が行っている。 * [[尾道郵便局]] …… 722-00xx、722-85xx、722-86xx、722-87xx、722-02xx<ref group="注">「722-02xx」地域は元・美ノ郷郵便局管轄。2006年に美ノ郷郵便局の無集配局化に伴って尾道郵便局へ移管。</ref> * 宇津戸郵便局([[世羅町]]) …… 722-04xx * [[因島郵便局]] …… 722-23xx、722-21xx、722-22xx<ref group="注">「722-21xx」地域は元・重井郵便局管轄、「722-22xx」地域は元・中庄郵便局管轄。2006年に重井郵便局・中庄郵便局の無集配局化に伴って因島郵便局へ移管。</ref> * 瀬戸田郵便局 …… 722-24xx * [[三原郵便局 (広島県)|三原郵便局]]([[三原市]]) …… 723-00xx、723-85xx、723-86xx、723-87xx、722-03xx、722-15xx、723-01xx、729-03xx、729-04xx、729-22xx<ref group="注">「722-03xx」地域は元・御調郵便局管轄、「722-15xx」地域は元・垣内郵便局管轄、「723-01xx」地域は元・長谷郵便局管轄、「729-03xx」地域は元・糸崎郵便局管轄、「729-04xx」地域は元・本郷郵便局管轄、「729-22xx」地域は元・幸崎郵便局管轄。それぞれ、1998年に糸崎郵便局、2003年に幸崎郵便局、2004年に長谷郵便局、2006年に垣内郵便局・本郷郵便局、2018年に御調郵便局の無集配局化に伴って三原郵便局へ移管。</ref> * [[松永郵便局]]([[福山市]]) …… 729-01xx、720-05xx、729-02xx<ref group="注">「720-05xx」地域は元・藤江郵便局管轄、「729-02xx」地域は元・備後本郷郵便局管轄。2006年に藤江郵便局・備後本郷郵便局の無集配局化に伴って松永郵便局へ移管。</ref> === 暴力団 === 尾道市内に三代目[[俠道会]]が本部を置く。尾道に隣接する福山市内に三代目俠道会の二次団体の三代目下森組(したもりぐみ)が本部を置く。 == 市政テレビ番組 == * ピックアップ情報おのみち(ちゅピCOMおのみち) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Onomichi|Onomichi, Hiroshima}} {{multimedia|尾道市の画像}} '''公式''' * {{Official website}} '''観光''' * [https://www.ononavi.jp/index.html 尾道観光協会 広島県尾道市(しまなみ)の観光情報] * [https://kanko-innoshima.jp/ 因島観光協会WEBサイト] * {{ウィキトラベル インライン|尾道市|尾道市}} * {{wikivoyage-inline|Onomichi|尾道市{{en icon}}}} '''その他''' * {{Osmrelation|4090359}} * {{Googlemap|尾道市}} {{広島県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おのみちし}} [[Category:広島県の市町村]] [[Category:尾道市|*]] [[Category:日本の港町]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:囲碁ゆかりの地]]
2003-08-19T21:52:36Z
2023-11-22T20:41:25Z
false
false
false
[ "Template:Sect-stub", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Osmrelation", "Template:日本の市", "Template:PDFlink", "Template:Commons&cat", "Template:ウィキトラベル インライン", "Template:広島県の自治体", "Template:Normdaten", "Template:脚注ヘルプ", "Template:See also", "Template:人口統計", "Template:Multimedia", "Template:Otheruses", "Template:Main", "Template:Flagicon", "Template:Notelist2", "Template:Cite web", "Template:Official website", "Template:Wikivoyage-inline", "Template:Googlemap", "Template:Columns-list" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%81%93%E5%B8%82
13,586
[]
null
{{wiktionary}} ;梁(はり)、樑 :*[[梁 (建築)]] - 建築で、柱の上に渡す横木。 :*[[はり部材]] - 軸力が作用する{{疑問点|date=2021年10月}} 構造物の部材の種類。 :*[[そろばん|算盤]]の1の珠と5の珠の間の横木のこと。 :*[[フライング・バットレス]] - [[ゴシック建築]]の飛梁(とびばり) : ;梁(やな)、簗 :*[[梁 (漁具)]] - 魚を捕るしかけ。 :*[[やな]] - 梁漁ができたり、梁漁で捕れた魚を出す食事処。 :*日本の姓。 : ;梁(りょう) :*中国の都市名、国名、王朝名。 :**[[開封]] - '''大梁'''の古名をもつ都市。 :**[[梁 (春秋)]] - 春秋時代の諸侯国のひとつ(紀元前768年 - 紀元前641年)。姓は'''嬴'''。同族の秦の穆公に滅ぼされる。 :**[[魏 (戦国)|魏]] - [[戦国七雄|戦国の七雄]]のひとつ(紀元前453年あるいは紀元前403年 - 紀元前225年)。大梁に遷都したのちの国号が梁。 :**[[梁郡]] - 漢代から隋代にかけて、現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域に設置された郡。 :**[[梁 (南朝)]] - 南朝のひとつ。南北朝時代に蕭衍(武帝)が建てた王朝(502年 - 557年)。 :**[[後梁 (南朝)]] - 南北朝時代に蕭詧(宣帝)が建てた王朝(554年 - 587年)。 :**[[隋]]末に群雄[[梁師都]]が建てた政権(617年 - 628年)。 :**隋末に群雄[[蕭銑]]が建てた政権(618年 - 621年)。 :**隋末に群雄[[沈法興]]が建てた政権(619年 - 620年)。 :**[[後梁]] - 五代十国時代に朱全忠が建てた王朝(907年 - 923年)。 :*[[梁 (姓)]] - 中国人・華人、朝鮮人、ベトナム人などの姓。リアン(中国語読み、Liáng)、ヤン(朝鮮語読み、Yang、{{lang|ko|양}})、ルオン(ベトナム語読み、{{lang|vi|Lương}})など。 :*[[へびつかい座デルタ星|へびつかい座δ星]]の中国古代天文学における名前。 : == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * {{Prefix|梁}} * {{Intitle|梁}} {{aimai}}
null
2022-01-05T05:29:31Z
true
false
false
[ "Template:疑問点", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Prefix", "Template:Intitle", "Template:Aimai", "Template:Wiktionary" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81
13,587
ガイウス・サッルスティウス・クリスプス
ガイウス・サッルスティウス・クリスプス(ラテン語: Gaius Sallustius Crispus, 紀元前86年 - 紀元前35年)は、紀元前1世紀の共和政ローマの政務官。引退後は叙述に専念し歴史家としても知られ、タキトゥスに高く評価された。 イタリアのサビニ人の町アミテルヌム (Amiternum) (現ラクイラ近郊)で生まれ、その地方の有力者の家系であったと考えられている。アミテルヌムは同盟市戦争に加わり、ガイウス・マリウス派についたため、その後のルキウス・コルネリウス・スッラ時代に処罰の対象とされた可能性があり、幼少期に受けた戦乱の衝撃がその後の著作にも強く影響している可能性がある。留学経験はないものの、ギリシア文学についても博識であり、かなり高度な教育を受けていたと考えられる。 恐らく紀元前55年より前にローマへ来ており、前55年にクァエストル(財務官)、紀元前52年には護民官に就任、かなり手段を選ばない活動を行ったとみられ、紀元前50年にはケンソルの譴責を受け元老院を除名されている。護民官時代は、プブリウス・クロディウス・プルケルとオプティマテス側のティトゥス・アンニウス・ミロ(英語版)が激しく対立し、ミロと彼を弁護したマルクス・トゥッリウス・キケロを攻撃した護民官の一人と考えられている。元老院からの除名は、この騒動に関わったことや、その前にミロの妻との不倫をささやかれたことが原因であったとも考えられており、更に進めてガイウス・ユリウス・カエサル寄りであった彼に対するグナエウス・ポンペイウス派の報復人事ではないかとする説もある。 紀元前49年からのローマ内戦では、カエサルを助けて戦った。彼がいつ頃からカエサル派に立ったのか、研究者の間でも意見が分かれている。指揮官としてはいまいちであったが、アフリカ戦役でケルキナ島を占領し、その地の食糧を軍に供給した。タプススの戦いも目撃している。 カエサルの後押しで2度目の財務官からプラエトル(法務官)となり、アフリカ・ノウァ属州総督となったが、任期終了後、不法所得で告訴され、カエサルの力添えで無罪となった。カエサルが暗殺されると、政治から引退した。引退後はピンキウス丘の私邸に引きこもって贅沢を楽しみ、歴史叙述に専念した。この私邸の庭園は、観光名所となっている(サッルスティウス庭園(英語版))。 主著『歴史』は引退後の著作で、ラテン語で書かれた大著であったが、大部分が失われた。スッラの死後から自身の時代までを描いたものと推測されている。第1巻(紀元前78年-77年)、第2巻(紀元前76年-75年)、第3巻(紀元前74年-72年)、第4巻(紀元前72年-68年)、第5巻(紀元前68年-67年)が計画されていたという。 『カティリナ戦記』Bellum Catilinae と『ユグルタ戦記』Bellum Iugurthinum のほとんどが今日まで伝わる。共和政ローマの政治の腐敗を記してはいるが、タキトゥスと同じく共和主義者であると考えられる。これらの各事件ごとに取り上げるという形式は、トゥキディデスに倣ったことが強くうかがわれ、文体からもその影響が見て取れるが、それよりも更に各事件から全体の流れが感じ取れるような、特徴あるものとなっている。他にもデモステネス、プラトン、クセノポン、ポリュビオス、ポセイドニオスらの作品についても詳しかったことが推察される。 ラテン語の黄金時代の作家の中でも臨場感といった意味で優れた書き手であり、ルネサンス以降、ラテン語散文の典型として広く読まれ、文化的な影響力も大きかったものと考えられている。4世紀のヒエロニムスによって「最も信頼できる書き手」と評価され、『カティリナ戦記』と『ユグルタ戦記』は中世においても人気があった。1470年にヴェネツィアで印刷され出版されている。16世紀以降、写本間の検証が行われ補註がつけられると、19世紀まで教育現場で盛んに読まれていた。 自身に子はなく、同族から同名の養子ガイウス・サッルスティウス・クリスプスを迎えた。この養子はアウグストゥス、ティベリウスの私的な側近の地位を得た。 彼はアグリッパ・ポストゥムス殺害に関わったとされ、20年頃亡くなった。この子もルキウス・パッシエヌス・ルフス(英語版)から養子をとっており、ガイウス・サッルスティウス・クリスプス・パッシエヌスを名乗ると、カリグラの寵愛を受け執政官を2度務めた。 (年齢は概数)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガイウス・サッルスティウス・クリスプス(ラテン語: Gaius Sallustius Crispus, 紀元前86年 - 紀元前35年)は、紀元前1世紀の共和政ローマの政務官。引退後は叙述に専念し歴史家としても知られ、タキトゥスに高く評価された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イタリアのサビニ人の町アミテルヌム (Amiternum) (現ラクイラ近郊)で生まれ、その地方の有力者の家系であったと考えられている。アミテルヌムは同盟市戦争に加わり、ガイウス・マリウス派についたため、その後のルキウス・コルネリウス・スッラ時代に処罰の対象とされた可能性があり、幼少期に受けた戦乱の衝撃がその後の著作にも強く影響している可能性がある。留学経験はないものの、ギリシア文学についても博識であり、かなり高度な教育を受けていたと考えられる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "恐らく紀元前55年より前にローマへ来ており、前55年にクァエストル(財務官)、紀元前52年には護民官に就任、かなり手段を選ばない活動を行ったとみられ、紀元前50年にはケンソルの譴責を受け元老院を除名されている。護民官時代は、プブリウス・クロディウス・プルケルとオプティマテス側のティトゥス・アンニウス・ミロ(英語版)が激しく対立し、ミロと彼を弁護したマルクス・トゥッリウス・キケロを攻撃した護民官の一人と考えられている。元老院からの除名は、この騒動に関わったことや、その前にミロの妻との不倫をささやかれたことが原因であったとも考えられており、更に進めてガイウス・ユリウス・カエサル寄りであった彼に対するグナエウス・ポンペイウス派の報復人事ではないかとする説もある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "紀元前49年からのローマ内戦では、カエサルを助けて戦った。彼がいつ頃からカエサル派に立ったのか、研究者の間でも意見が分かれている。指揮官としてはいまいちであったが、アフリカ戦役でケルキナ島を占領し、その地の食糧を軍に供給した。タプススの戦いも目撃している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "カエサルの後押しで2度目の財務官からプラエトル(法務官)となり、アフリカ・ノウァ属州総督となったが、任期終了後、不法所得で告訴され、カエサルの力添えで無罪となった。カエサルが暗殺されると、政治から引退した。引退後はピンキウス丘の私邸に引きこもって贅沢を楽しみ、歴史叙述に専念した。この私邸の庭園は、観光名所となっている(サッルスティウス庭園(英語版))。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "主著『歴史』は引退後の著作で、ラテン語で書かれた大著であったが、大部分が失われた。スッラの死後から自身の時代までを描いたものと推測されている。第1巻(紀元前78年-77年)、第2巻(紀元前76年-75年)、第3巻(紀元前74年-72年)、第4巻(紀元前72年-68年)、第5巻(紀元前68年-67年)が計画されていたという。", "title": "著作活動" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『カティリナ戦記』Bellum Catilinae と『ユグルタ戦記』Bellum Iugurthinum のほとんどが今日まで伝わる。共和政ローマの政治の腐敗を記してはいるが、タキトゥスと同じく共和主義者であると考えられる。これらの各事件ごとに取り上げるという形式は、トゥキディデスに倣ったことが強くうかがわれ、文体からもその影響が見て取れるが、それよりも更に各事件から全体の流れが感じ取れるような、特徴あるものとなっている。他にもデモステネス、プラトン、クセノポン、ポリュビオス、ポセイドニオスらの作品についても詳しかったことが推察される。", "title": "著作活動" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ラテン語の黄金時代の作家の中でも臨場感といった意味で優れた書き手であり、ルネサンス以降、ラテン語散文の典型として広く読まれ、文化的な影響力も大きかったものと考えられている。4世紀のヒエロニムスによって「最も信頼できる書き手」と評価され、『カティリナ戦記』と『ユグルタ戦記』は中世においても人気があった。1470年にヴェネツィアで印刷され出版されている。16世紀以降、写本間の検証が行われ補註がつけられると、19世紀まで教育現場で盛んに読まれていた。", "title": "著作活動" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "自身に子はなく、同族から同名の養子ガイウス・サッルスティウス・クリスプスを迎えた。この養子はアウグストゥス、ティベリウスの私的な側近の地位を得た。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "彼はアグリッパ・ポストゥムス殺害に関わったとされ、20年頃亡くなった。この子もルキウス・パッシエヌス・ルフス(英語版)から養子をとっており、ガイウス・サッルスティウス・クリスプス・パッシエヌスを名乗ると、カリグラの寵愛を受け執政官を2度務めた。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(年齢は概数)", "title": "年譜" } ]
ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、紀元前1世紀の共和政ローマの政務官。引退後は叙述に専念し歴史家としても知られ、タキトゥスに高く評価された。
{{Infobox 共和政ローマ |人名=ガイウス・サッルスティウス・クリスプス |ラテン語表記=C. Sallustius Crispus{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.296}} |画像=Sallustio Crispo incisione.jpg |画像サイズ = |見出し=サッルスティウスを描いた版画 |出生=[[紀元前86年]] |生地=アミテルヌム |死没=[[紀元前35年]] |死没地=[[ローマ]] |出身階級=[[サビニ人]]{{Sfn|鷲田|loc=p.86}} |氏族名=[[サッルスティウス氏族]] |官職=[[クァエストル]]<span style="font-size: smaller">(紀元前55年)</span><br>[[護民官]]<span style="font-size: smaller">(紀元前52年)</span><br>[[レガトゥス]]?<span style="font-size: smaller">(紀元前49年)</span><br>クァエストル<span style="font-size: smaller">(紀元前48年)</span><br>[[プラエトル]]<span style="font-size: smaller">(紀元前46年)</span><br>[[プロコンスル]]<span style="font-size: smaller">(紀元前46-44年)</span> |属州総督=[[ヌミディア|アフリカ・ノウァ]] }} '''ガイウス・サッルスティウス・クリスプス'''({{lang-la|Gaius Sallustius Crispus}}, [[紀元前86年]] - [[紀元前35年]])は、[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]の[[政務官 (ローマ)|政務官]]。引退後は叙述に専念し[[歴史家]]としても知られ{{Sfn|鷲田|loc=p.86}}、[[タキトゥス]]に高く評価された{{Sfn|栗田|loc=p.385}}。 ==経歴== イタリアの[[サビニ人]]の町アミテルヌム ([[:en:Amiternum|Amiternum]]) (現[[ラクイラ]]近郊)で生まれ、その地方の有力者の家系であったと考えられている{{Sfn|栗田|loc=p.388}}。アミテルヌムは[[同盟市戦争]]に加わり、[[ガイウス・マリウス]]派についたため、その後の[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]時代に処罰の対象とされた可能性があり、幼少期に受けた戦乱の衝撃がその後の著作にも強く影響している可能性がある{{Sfn|栗田|loc=p.389}}。留学経験はないものの、[[ギリシア文学]]についても博識であり、かなり高度な教育を受けていたと考えられる{{sfn|レィスナー|p=67}}。 恐らく[[紀元前55年]]より前に[[ローマ]]へ来ており、前55年に[[クァエストル]](財務官)、[[紀元前52年]]には[[護民官]]に就任、かなり手段を選ばない活動を行ったとみられ、[[紀元前50年]]には[[ケンソル]]の譴責を受け[[元老院 (ローマ)|元老院]]を除名されている{{Sfn|鷲田|loc=p.86}}。護民官時代は、[[プブリウス・クロディウス・プルケル]]と[[オプティマテス]]側の{{仮リンク|ティトゥス・アンニウス・ミロ|en|Titus Annius Milo}}が激しく対立し、ミロと彼を弁護した[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]を攻撃した護民官の一人と考えられている{{Sfn|栗田|loc=p.390}}。元老院からの除名は、この騒動に関わったことや、その前にミロの妻との不倫をささやかれたことが原因であったとも考えられており{{sfn|レィスナー|pp=67-68}}、更に進めて[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]寄りであった彼に対する[[グナエウス・ポンペイウス]]派の報復人事ではないかとする説もある{{sfn|合阪・鷲田|p=9}}。 [[紀元前49年]]からの[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]では、カエサルを助けて戦った。彼がいつ頃からカエサル派に立ったのか、研究者の間でも意見が分かれている。指揮官としてはいまいちであったが、[[タプススの戦い|アフリカ戦役]]でケルキナ島を占領し、その地の食糧を軍に供給した。[[タプススの戦い]]も目撃している{{Sfn|栗田|loc=pp.390-391}}。 カエサルの後押しで2度目の財務官から[[プラエトル]](法務官)となり、[[ヌミディア|アフリカ・ノウァ]][[属州総督]]となったが、任期終了後、不法所得で告訴され、カエサルの力添えで無罪となった。カエサルが暗殺されると、政治から引退した{{Sfn|栗田|loc=p.392}}。引退後は[[ピンチョの丘|ピンキウス丘]]の私邸に引きこもって贅沢を楽しみ、歴史叙述に専念した。この私邸の庭園は、観光名所となっている{{sfn|レィスナー|p=68}}({{仮リンク|サッルスティウス庭園|en|Gardens of Sallust}})。 ==著作活動== 主著『歴史』は引退後の著作で、ラテン語で書かれた大著であったが、大部分が失われた。スッラの死後から自身の時代までを描いたものと推測されている{{Sfn|栗田|loc=p.386}}。第1巻([[紀元前78年]]-77年)、第2巻([[紀元前76年]]-75年)、第3巻([[紀元前74年]]-72年)、第4巻([[紀元前72年]]-68年)、第5巻([[紀元前68年]]-67年)が計画されていたという{{sfn|レィスナー|p=70}}。 『カティリナ戦記』''Bellum Catilinae'' と『ユグルタ戦記』''Bellum Iugurthinum'' のほとんどが今日まで伝わる。共和政ローマの政治の腐敗を記してはいるが、タキトゥスと同じく共和主義者であると考えられる{{Sfn|栗田|loc=p.393}}。これらの各事件ごとに取り上げるという形式は、[[トゥキディデス]]に倣ったことが強くうかがわれ、文体からもその影響が見て取れるが、それよりも更に各事件から全体の流れが感じ取れるような、特徴あるものとなっている{{Sfn|栗田|loc=pp.395-397}}。他にも[[デモステネス]]、[[プラトン]]、[[クセノポン]]、[[ポリュビオス]]、[[ポセイドニオス]]らの作品についても詳しかったことが推察される{{sfn|レィスナー|p=67}}。 ラテン語の黄金時代の作家の中でも臨場感といった意味で優れた書き手であり、[[ルネサンス]]以降、ラテン語散文の典型として広く読まれ、文化的な影響力も大きかったものと考えられている{{Sfn|栗田|loc=p.387}}。[[4世紀]]の[[ヒエロニムス]]によって「最も信頼できる書き手」と評価され、『カティリナ戦記』と『ユグルタ戦記』は[[中世]]においても人気があった。[[1470年]]に[[ヴェネツィア]]で印刷され出版されている。[[16世紀]]以降、写本間の検証が行われ補註がつけられると、[[19世紀]]まで教育現場で盛んに読まれていた{{sfn|レィスナー|pp=64-66}}。 ==家族== 自身に子はなく、同族から同名の養子ガイウス・サッルスティウス・クリスプスを迎えた。この養子は[[アウグストゥス]]、[[ティベリウス]]の私的な側近の地位を得た。 彼は[[アグリッパ・ポストゥムス]]殺害に関わったとされ、[[20年]]頃亡くなった。この子も{{仮リンク|ルキウス・パッシエヌス・ルフス|en|Lucius Passienus Rufus}}から養子をとっており、[[:en:Gaius Sallustius Passienus Crispus|ガイウス・サッルスティウス・クリスプス・パッシエヌス]]を名乗ると、[[カリグラ]]の寵愛を受け[[執政官]]を2度務めた{{Sfn|Benario|loc=p.321}}。 == 年譜 == (年齢は概数) * 前112年-前106年 [[ユグルタ戦争]]。 * 前86年 (0歳) イタリアのアミテルヌム市で生まれた。 * 前63年 (23歳) [[カティリナの陰謀]]事件。 * 前55年 (31歳) 財務官に選ばれた。 * 前52年 (34歳) 護民官に選ばれた。 * 前50年 (36歳) 元老院を追放された。 * 前49年 (37歳) カエサル軍に従軍した。 * 前47年 (39歳) 財務官に再び選ばれ、元老院に復帰。 * 前46年 (40歳) 法務官に選ばれた。アフリカ・ノウァ属州総督 * 前44年 (42歳) カエサル暗殺を機に政界を引退。 * 前35年 (51歳) 死去。 == 著書 == {{wikisourcelang|la|Scriptor:Gaius Sallustius Crispus|サッルスティウス}} * 歴史 * カティリナ戦記 (Bellum Catilinae) * ユグルタ戦記 (Bellum Iugurthinum) ;日本語訳 * {{Cite book|和書|ref={{sfnref|合阪・鷲田}}|translator=合阪學・鷲田睦朗|title=カティリーナの陰謀|publisher=[[大阪大学出版会]]|year=2008|ISBN=9784872592740}} * {{Cite book|和書|ref={{sfnref|栗田}}|translator=栗田伸子|title=ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀|publisher=[[岩波文庫]]|year=2019|ISBN=9784003349915}} * {{Cite book|和書|translator=[[小川正廣]]|title=カティリナ戦記/ユグルタ戦記|publisher=[[京都大学学術出版会]]|series=[[西洋古典叢書]]|volume=|year=2021|ISBN=9784814003488}} ==出典== {{reflist|20em}} ==参考文献== * {{Cite book|洋書|ref={{sfnref|Broughton Vol.2}}|author=[[:en:Thomas Robert Shannon Broughton|T. R. S. Broughton]]|title=The Magistrates of the Roman Republic Vol.2| publisher=American Philological Association | year=1952 |}} * {{Cite journal|洋書|ref={{sfnref|Benario}}|author=[[:de:Herbert W. Benario|Herbert W. Benario]] |title=The End of Sallustius Crispus|journal=The Classical Journal |volume=57|issue = 7 |pages=321-322|publisher=[[:en:Classical Association of the Middle West and South|CAMWS]] | year=1962 |JSTOR=3295285 }} * {{Cite book|和書|ref={{sfnref|レィスナー}}|author=M. L. W. レィスナー|translator=長友栄三郎・朝倉文市|title=ローマの歴史家|publisher=[[みすず書房]]|year=1978|ISBN=}} * {{Cite journal|和書|ref={{sfnref|鷲田}}|author=鷲田睦朗|title=偽り隠す者、サッルスティウス――『カティリーナの陰謀』の執筆理由―― |journal=パブリック・ヒストリー|volume=3|pages=77-87|publisher=大阪大学西洋史学会| year=2006|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/JHP_3_2006.html}} == 外部リンク == {{commons|Category:Sallust}} * [http://www.mediterranees.net/histoire_romaine/salluste/index.html Histoire romaine, œuvres de Salluste]. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さつるすていうす くりすふす かいうす}} [[Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]] [[Category:古代ローマの歴史家]] [[Category:古代ローマの文筆家]] [[Category:護民官]] [[Category:紀元前の学者]] [[Category:紀元前86年生]] [[Category:紀元前35年没]]
null
2023-07-27T05:41:03Z
false
false
false
[ "Template:仮リンク", "Template:Wikisourcelang", "Template:Cite book", "Template:Reflist", "Template:Commons", "Template:Infobox 共和政ローマ", "Template:Lang-la", "Template:Sfn", "Template:Cite journal", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%97%E3%82%B9
13,590
多摩都市モノレール線
多摩都市モノレール線(たまとしモノレールせん)は、多摩都市モノレールが運営する、東京都東大和市の上北台駅と同多摩市の多摩センター駅を結ぶモノレール路線。旅客案内上は「多摩モノレール」の呼称を使用する。駅ナンバリングの路線記号は、TT。 東京都多摩地域を南北に結ぶ公共交通を拡充するため、モノレール専用道として都市計画決定された。都市計画事業としての名称は各都市計画区域ともに、都市計画道路9・6・1号多摩南北線および都市計画都市高速鉄道都市モノレール第1号線である。 多摩都市モノレール線は、多摩地域の中央部を南北に縦断するモノレールであり、西武鉄道拝島線や、JR東日本の中央線、京王電鉄の京王線、相模原線、小田急電鉄多摩線といった東西に走る各鉄道路線との乗換駅(「駅一覧」参照)を結び、東京都区部などとの連絡輸送を担っている。多摩都市モノレール線や接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際は、代替経路として相互に振替輸送に利用される。 1998年(平成10年)11月27日に上北台駅 - 立川北駅間が先行開業し、2000年(平成12年)1月10日に立川北駅 - 多摩センター駅が延伸開業した。 多摩都市モノレール線の開業によって、多摩地域の鉄道空白地帯は大きく減じることとなったが北多摩や南多摩地域に多く残っており、さらなる延伸も計画・構想されている。 一日平均乗客数は、2001年度の7万9815人から、2017年度には過去最多の14万2498人へ増加した。 モノレールのためほぼ全線が高架鉄道となっており、基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅(橋上駅)となっている。当線は初めて本格的に可動式ホーム柵タイプのホームドアを採用した路線である。 上北台駅から甲州街道駅の区間は、高層建築物の多い立川駅周辺を除いて南西方向に富士山の眺望に恵まれており、開業20周年を迎えた2018年には、新たなブランドスローガン「さ、いこう!な見晴らしを。」を掲げたほか、2023年には日本夜景遺産に認定された。 沿線はおおむね住宅地で、通勤・通学客の多い朝夕ラッシュ時は非常に混雑する。周辺に大学などの教育機関が点在し、最寄り駅や他線の接続駅は学生で賑わう。駅のプラットホームと改札口を結ぶエスカレーターは、高松駅と立飛駅以外は常に上り方向に運転されている。 ほとんどの列車が多摩センター駅-上北台駅間の運転であり、平日ダイヤでは朝ラッシュ時は6-8分間隔、日中は10分間隔、夕方はおおむね8分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。また、休日ダイヤは朝-夕方は9分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。 区間運転は早朝時間帯に高松駅発多摩センター駅行きおよび高幡不動駅発上北台駅行き、朝ラッシュ後に多摩センター駅発高松駅行き、深夜帯に多摩センター駅発立川北駅行きがある。また、中央大学、明星大学、帝京大学の開校日の平日朝に、上北台駅または立川北駅 - 多摩センター駅間で2往復が運行されるほか、沿線でのイベント時に臨時列車の設定および定期列車の時刻変更が行われることがある。 高松駅の始発と終着は2009年6月1日のダイヤ改正で新設された。高幡不動駅の始発は2019年3月23日のダイヤ改正で新設された。 2019年3月23日に開業以来初めて全面的なダイヤ改正を行い、始発時間の繰り上げ、終電時間の繰り下げ、通勤・通学時間帯の運転間隔の調整、土休日の運転間隔の10分から9分への短縮による運転本数の増加が行われた。 2022年3月12日実施のダイヤ改正では、東芝グループが開発した輸送計画最適化AI(人工知能)を導入して列車ダイヤ・車両運用の効率化やコスト削減を図っている。 東京都道43号立川東大和線(芋窪街道新道)の真上に位置してバスターミナルと隣接する上北台駅は、市内に鉄道駅のない武蔵村山市の住民の足も担う。発車すると間もなく右手から芋窪街道旧道が合流し、延々と広がる住宅街を両手に見ながら走る。左方向へ曲がると左手に森永乳業東京多摩工場やイトーヨーカドー東大和店の看板などが見える。桜街道駅は芋窪街道と東大和市道である桜街道の交差点の真上に位置する。しばらく進むと立正佼成会の佼成霊園が右方向に広がり、駅構内に立川市の市境がある玉川上水駅に到着する。 玉川上水駅を発車すると西武拝島線と交差する。左手に西武鉄道の玉川上水車両基地が見える。玉川上水を渡ると、再び住宅街の風景を見ながら走行する。砂川七番駅を発車して間もなく東京都道7号杉並あきる野線の五日市街道と交差する。左方向へカーブして南東を向くと、右手に泉市民体育館が現れて泉体育館駅に到着する。発車すると右方向へ大きくカーブして南西を向き、芋窪街道から分岐して広大な工業地帯となる。左手に立飛企業、右手に宗教団体の真如苑応現院が見えると立飛駅に着き、左側に駅と直結するららぽーと立川立飛が、右側にはアリーナ立川立飛やいなげや青果センターなどが見える。多摩都市モノレール車両基地の引き込み線である三角のデルタ線を通過すると、列車運転の基点となる高松駅に到着する。発車すると左方向へカーブして、IKEA立川の東側で南方を向く。右手に自治大学校や農林水産省などの施設を望む。やがて両手から工場は消え、立川都市軸道路(サンサンロード)の真上を走り、百貨店など大型商業施設が目立って来ると、間もなく立川北駅に到着する。 立川北駅を発車すると大きくS字カーブを描き、直下にJR東日本の中央線・青梅線・南武線立川駅が見える。周辺は建設予定地のデパートも取り壊して大規模に開発された。東京都道149号立川日野線上にある立川南駅を発車すると、目立つ商業施設は消えて再び住宅街を望む。間もなく東京都道29号立川青梅線(奥多摩街道)と交差すると柴崎体育館駅に到着する。坂を下り新奥多摩街道と交差すると、立日橋で多摩川を渡り日野市へ入る。立日橋を渡り終えると左方向へ大きくカーブして東京都道149号立川日野線と分かれて南東を向き、東京都道256号八王子国立線(甲州街道)と交差し、甲州街道駅に到着する。同駅を発車すると中央自動車道を乗り越えて高幡不動尊の五重塔もよく見える。右カーブを描いて南を向くと万願寺駅に到着する。駅構内には新撰組ゆかりの地として、隊士が描かれた顔ハメ看板の写真撮影スポットが設置されている。万願寺駅を発車すると国道20号の甲州街道日野バイパスと交差する。緩いカーブを描きながら南西を向き、浅川を渡り、間もなく高幡不動駅に到着する。ここから右手に京王線の高幡不動駅、左手に京王電鉄の高幡不動検車区が見渡せる。 高幡不動駅で京王線・京王動物園線を乗り越えると東京都道41号稲城日野線(川崎街道)と交差する。ここから先は多摩丘陵に造成された住宅地を走行する。左手に京王動物園線が並行すると程久保駅へ到着する。京王動物園線と共にカーブをうねりながら進むと次第に住宅は少なくなり、南を向き多摩動物公園を右下に見て多摩動物公園駅に到着する。ここで神奈川県道・東京都道503号相模原立川線から分岐し、左手に明星大学日野校を見ると当路線内で唯一のトンネルである多摩丘陵トンネル(延長220m)を抜け、東方を向いて八王子市へ入る。中央大学多摩キャンパスと明星大学日野校に挟まれるこの付近のみ地上を走行し、中央大学・明星大学駅へ到着する。発車すると再び高架となり、坂を下ると東京都道20号府中相模原線(野猿街道)と交差して大塚・帝京大学駅に到着する。その先で大栗川を渡ると南方を向いて松が谷駅に到着する。発車すると次第に谷が開け、手前に巨大商業施設を望みながら右へカーブして南西方向を向く。京王相模原線・小田急多摩線を乗り越えると多摩センター駅に到着する。京王相模原線・小田急多摩線の高架を乗り越えることから、北側に位置する乞田川の渡河地点は地上高22mで、全線中で標高が最高である。この区間は多摩丘陵地帯を通ることから、30‰以上の急勾配が多数あり、大塚・帝京大学駅 - 中央大学・明星大学駅間では最大の57.5‰の勾配がある。 1981年度に発表された多摩都市モノレールの構想路線は現営業区間も含めると約93kmあり、このうち上北台駅から箱根ヶ崎方面、多摩センター駅から町田・八王子方面への延伸が検討されている。 上北台 - 箱根ヶ崎間の約7kmは、2000年の運輸政策審議会答申第18号では、2015年までに「整備着手することが適当」としており、導入空間となる新青梅街道の拡幅のため用地確保が進められている。 新青梅街道の拡幅は、東大和市上北台1丁目から武蔵村山市神明4丁目までの約1.1 kmを第1工区(2011年度 - 2017年度)、神明4丁目から中央1丁目までの約1.2 kmを第2工区(2015年度 - 2021年度)、中央1丁目から三ツ藤3丁目までの約1.6 kmを第3工区(2014年度 - 2020年度)、三ツ木2丁目から岸1丁目までの約1.2 kmを第4工区(2015年度 - 2021年度)、瑞穂町大字殿ヶ谷から瑞穂町大字武蔵までの約1.4 kmを第5工区(2012年度 - 2018年度)として開始されたが、第1工区は2023年度、第2工区は2028年度、第3工区は2027年度、第4工区は2028年度、第5工区は2024年度までそれぞれ延長された。 2016年の交通政策審議会答申第198号では、「導入空間となりうる道路整備が進んでおり、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。 2018年1月、東京都は鉄道新線建設等準備基金を新設し、本区間および多摩センター - 町田間を含む6路線について事業化に向けた検討の深度化を図ることを発表した。建設費は約800億円と試算されている。 2020年1月23日に、東京都は用地の確保が進んでおり鉄道空白地帯解消のために沿線自治体からの要望が強い、上北台 - 箱根ヶ崎間の延伸事業に着手することを正式に発表した。開業時期は未定だが2032年頃を目指し、新たに7駅を設置する予定である。 2022年10月には東京都によって東大和市・武蔵村山市・瑞穂町で延伸に関する都市計画素案説明会が行われ、7駅の設置場所が確定した。 多摩センター駅から南進して町田までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」とされており、既に多摩市内と町田市内の一部区間で導入空間を確保している。 2016年の交通政策審議会答申第198号では、「導入空間となりうる道路整備が前提となるため、その進捗を見きわめつつ、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。建設費は約1,700億円と試算されている。 2022年1月28日、「多摩都市モノレール町田方面延伸ルート検討委員会」によって、野津田高校、町田市立陸上競技場、日大三高、小山田桜台団地、桜美林学園、町田市民病院等各施設の近辺を通過する「己」の字の線形を含むルートが選定されたことが東京都より発表された。 多摩センター駅から西進し、唐木田、南大沢、京王片倉を経て八王子駅までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」とされており、導入空間の用地確保が進められている。 一方、八王子延伸の早期実現は難しいとの見方から、2016年1月に八王子市が単独でLRT(次世代型路面電車)を導入することも検討されたが、勾配が多く、技術上の問題があることから同年末に導入を事実上見送った。 2016年の交通政策審議会答申第198号では、「事業性に課題があるため、関係地方公共団体・鉄道事業者等において、事業計画について十分な検討が行われることを期待」とした。建設費は約1,900億円と試算されている。 このほか、構想路線には以下の路線も含まれるが、具体化されていない。 東京都の構想路線には含まれないが、上北台駅がある東京都東大和市に県境が接する埼玉県からも延伸要望がある。 2000年に多摩都市モノレールが開通して以降、所沢市の地域住民は上北台駅から西武ドーム(西武球場前)を経て西武池袋線の小手指駅までの路線誘致を行っている。2019年2月には延伸に関して県議会で質疑答弁されている。 2020年6月に埼玉県は「公共交通の利便性向上検討会議」を設置し、多摩都市モノレールを含む5路線を対象に、延伸の実現に向けた課題の整理などを行っている。2021年3月の会議では、延伸先に西武園ゆうえんちや多摩湖があることから、観光面では需要の創出が期待できるが、交通政策審議会答申第198号に位置付けられていないため、この答申に位置付けられている上北台 - 箱根ヶ崎間の整備状況を踏まえて、関係機関との調整が必要としている。 高松駅付近には多摩都市モノレール線の車両基地(運営基地)がある。敷地は東西方向に約150 m、南北方向に約350 mあり、敷地面積は約55,000 mである。 車両基地内には留置線が11線(8線は2編成を、3線は3編成を縦列留置可能)、検修庫1線、検車庫3線、洗浄線2線、タイヤ交換場のほか、保線作業を行う工作車車庫がある。留置線の最大収容能力は4両編成25本(100両)である。検修庫では主に重要部・全般検査を、検車庫では主に月検査、列車検査を行っている。 重要部・全般検査は年間4編成行っており、業務は協力会社の川重車両テクノに委託している。 敷地内には「総合指令所棟」があり、多摩都市モノレール本社、運転指令所、電力指令所、乗務区、施設区などの機関が入居している。車両基地内の主に留置線側の上部空間は人工地盤となっており、東京都住宅供給公社による都民住宅「トミンハイム立川泉町」が設けられている。 大人普通旅客運賃。小児半額(ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。 隣駅までの1駅区間は、特例運賃として110円(ICカードは102円)である。立川北駅と立川南駅は運賃計算上は1駅とされ、高松 - 立川南間と立川北 - 柴崎体育館間は110円となる。砂川七番 - 立川南間は220円(ICカード214円)、立川北 - 高幡不動間と桜街道 - 立川南間は270円(ICカード265円)となる特例運賃も設定されている。回数券や定期券には隣駅110円の特例は適用されない。1駅乗車の場合はICカード乗車券や普通乗車券で乗車する方が運賃は低くなる。 共通乗車カード「パスネット」を導入していたが、他社と異なり自動改札機は1枚のみしか投入できなかった。ICカード乗車券「PASMO」を導入する際に、IC読み取り機能と乗車券の2枚投入が可能な自動改札機へ切り替えられた。 全駅で全国相互利用対応ICカードのPASMO、Suica、Kitaca、manaca、TOICA、PiTaPa、ICOCA、nimoca、はやかけん、SUGOCAが利用できる。PASMOは2007年のサービス開始と同時に導入したが、2017年3月まで交通系ICカード全国相互利用サービスに対応せず、PASMO以外のICカード乗車券はSuicaのみしか使用できなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多摩都市モノレール線(たまとしモノレールせん)は、多摩都市モノレールが運営する、東京都東大和市の上北台駅と同多摩市の多摩センター駅を結ぶモノレール路線。旅客案内上は「多摩モノレール」の呼称を使用する。駅ナンバリングの路線記号は、TT。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都多摩地域を南北に結ぶ公共交通を拡充するため、モノレール専用道として都市計画決定された。都市計画事業としての名称は各都市計画区域ともに、都市計画道路9・6・1号多摩南北線および都市計画都市高速鉄道都市モノレール第1号線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多摩都市モノレール線は、多摩地域の中央部を南北に縦断するモノレールであり、西武鉄道拝島線や、JR東日本の中央線、京王電鉄の京王線、相模原線、小田急電鉄多摩線といった東西に走る各鉄道路線との乗換駅(「駅一覧」参照)を結び、東京都区部などとの連絡輸送を担っている。多摩都市モノレール線や接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際は、代替経路として相互に振替輸送に利用される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)11月27日に上北台駅 - 立川北駅間が先行開業し、2000年(平成12年)1月10日に立川北駅 - 多摩センター駅が延伸開業した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多摩都市モノレール線の開業によって、多摩地域の鉄道空白地帯は大きく減じることとなったが北多摩や南多摩地域に多く残っており、さらなる延伸も計画・構想されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一日平均乗客数は、2001年度の7万9815人から、2017年度には過去最多の14万2498人へ増加した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "モノレールのためほぼ全線が高架鉄道となっており、基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅(橋上駅)となっている。当線は初めて本格的に可動式ホーム柵タイプのホームドアを採用した路線である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "上北台駅から甲州街道駅の区間は、高層建築物の多い立川駅周辺を除いて南西方向に富士山の眺望に恵まれており、開業20周年を迎えた2018年には、新たなブランドスローガン「さ、いこう!な見晴らしを。」を掲げたほか、2023年には日本夜景遺産に認定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "沿線はおおむね住宅地で、通勤・通学客の多い朝夕ラッシュ時は非常に混雑する。周辺に大学などの教育機関が点在し、最寄り駅や他線の接続駅は学生で賑わう。駅のプラットホームと改札口を結ぶエスカレーターは、高松駅と立飛駅以外は常に上り方向に運転されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ほとんどの列車が多摩センター駅-上北台駅間の運転であり、平日ダイヤでは朝ラッシュ時は6-8分間隔、日中は10分間隔、夕方はおおむね8分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。また、休日ダイヤは朝-夕方は9分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "区間運転は早朝時間帯に高松駅発多摩センター駅行きおよび高幡不動駅発上北台駅行き、朝ラッシュ後に多摩センター駅発高松駅行き、深夜帯に多摩センター駅発立川北駅行きがある。また、中央大学、明星大学、帝京大学の開校日の平日朝に、上北台駅または立川北駅 - 多摩センター駅間で2往復が運行されるほか、沿線でのイベント時に臨時列車の設定および定期列車の時刻変更が行われることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "高松駅の始発と終着は2009年6月1日のダイヤ改正で新設された。高幡不動駅の始発は2019年3月23日のダイヤ改正で新設された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2019年3月23日に開業以来初めて全面的なダイヤ改正を行い、始発時間の繰り上げ、終電時間の繰り下げ、通勤・通学時間帯の運転間隔の調整、土休日の運転間隔の10分から9分への短縮による運転本数の増加が行われた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2022年3月12日実施のダイヤ改正では、東芝グループが開発した輸送計画最適化AI(人工知能)を導入して列車ダイヤ・車両運用の効率化やコスト削減を図っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "東京都道43号立川東大和線(芋窪街道新道)の真上に位置してバスターミナルと隣接する上北台駅は、市内に鉄道駅のない武蔵村山市の住民の足も担う。発車すると間もなく右手から芋窪街道旧道が合流し、延々と広がる住宅街を両手に見ながら走る。左方向へ曲がると左手に森永乳業東京多摩工場やイトーヨーカドー東大和店の看板などが見える。桜街道駅は芋窪街道と東大和市道である桜街道の交差点の真上に位置する。しばらく進むと立正佼成会の佼成霊園が右方向に広がり、駅構内に立川市の市境がある玉川上水駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "玉川上水駅を発車すると西武拝島線と交差する。左手に西武鉄道の玉川上水車両基地が見える。玉川上水を渡ると、再び住宅街の風景を見ながら走行する。砂川七番駅を発車して間もなく東京都道7号杉並あきる野線の五日市街道と交差する。左方向へカーブして南東を向くと、右手に泉市民体育館が現れて泉体育館駅に到着する。発車すると右方向へ大きくカーブして南西を向き、芋窪街道から分岐して広大な工業地帯となる。左手に立飛企業、右手に宗教団体の真如苑応現院が見えると立飛駅に着き、左側に駅と直結するららぽーと立川立飛が、右側にはアリーナ立川立飛やいなげや青果センターなどが見える。多摩都市モノレール車両基地の引き込み線である三角のデルタ線を通過すると、列車運転の基点となる高松駅に到着する。発車すると左方向へカーブして、IKEA立川の東側で南方を向く。右手に自治大学校や農林水産省などの施設を望む。やがて両手から工場は消え、立川都市軸道路(サンサンロード)の真上を走り、百貨店など大型商業施設が目立って来ると、間もなく立川北駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "立川北駅を発車すると大きくS字カーブを描き、直下にJR東日本の中央線・青梅線・南武線立川駅が見える。周辺は建設予定地のデパートも取り壊して大規模に開発された。東京都道149号立川日野線上にある立川南駅を発車すると、目立つ商業施設は消えて再び住宅街を望む。間もなく東京都道29号立川青梅線(奥多摩街道)と交差すると柴崎体育館駅に到着する。坂を下り新奥多摩街道と交差すると、立日橋で多摩川を渡り日野市へ入る。立日橋を渡り終えると左方向へ大きくカーブして東京都道149号立川日野線と分かれて南東を向き、東京都道256号八王子国立線(甲州街道)と交差し、甲州街道駅に到着する。同駅を発車すると中央自動車道を乗り越えて高幡不動尊の五重塔もよく見える。右カーブを描いて南を向くと万願寺駅に到着する。駅構内には新撰組ゆかりの地として、隊士が描かれた顔ハメ看板の写真撮影スポットが設置されている。万願寺駅を発車すると国道20号の甲州街道日野バイパスと交差する。緩いカーブを描きながら南西を向き、浅川を渡り、間もなく高幡不動駅に到着する。ここから右手に京王線の高幡不動駅、左手に京王電鉄の高幡不動検車区が見渡せる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "高幡不動駅で京王線・京王動物園線を乗り越えると東京都道41号稲城日野線(川崎街道)と交差する。ここから先は多摩丘陵に造成された住宅地を走行する。左手に京王動物園線が並行すると程久保駅へ到着する。京王動物園線と共にカーブをうねりながら進むと次第に住宅は少なくなり、南を向き多摩動物公園を右下に見て多摩動物公園駅に到着する。ここで神奈川県道・東京都道503号相模原立川線から分岐し、左手に明星大学日野校を見ると当路線内で唯一のトンネルである多摩丘陵トンネル(延長220m)を抜け、東方を向いて八王子市へ入る。中央大学多摩キャンパスと明星大学日野校に挟まれるこの付近のみ地上を走行し、中央大学・明星大学駅へ到着する。発車すると再び高架となり、坂を下ると東京都道20号府中相模原線(野猿街道)と交差して大塚・帝京大学駅に到着する。その先で大栗川を渡ると南方を向いて松が谷駅に到着する。発車すると次第に谷が開け、手前に巨大商業施設を望みながら右へカーブして南西方向を向く。京王相模原線・小田急多摩線を乗り越えると多摩センター駅に到着する。京王相模原線・小田急多摩線の高架を乗り越えることから、北側に位置する乞田川の渡河地点は地上高22mで、全線中で標高が最高である。この区間は多摩丘陵地帯を通ることから、30‰以上の急勾配が多数あり、大塚・帝京大学駅 - 中央大学・明星大学駅間では最大の57.5‰の勾配がある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1981年度に発表された多摩都市モノレールの構想路線は現営業区間も含めると約93kmあり、このうち上北台駅から箱根ヶ崎方面、多摩センター駅から町田・八王子方面への延伸が検討されている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "上北台 - 箱根ヶ崎間の約7kmは、2000年の運輸政策審議会答申第18号では、2015年までに「整備着手することが適当」としており、導入空間となる新青梅街道の拡幅のため用地確保が進められている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "新青梅街道の拡幅は、東大和市上北台1丁目から武蔵村山市神明4丁目までの約1.1 kmを第1工区(2011年度 - 2017年度)、神明4丁目から中央1丁目までの約1.2 kmを第2工区(2015年度 - 2021年度)、中央1丁目から三ツ藤3丁目までの約1.6 kmを第3工区(2014年度 - 2020年度)、三ツ木2丁目から岸1丁目までの約1.2 kmを第4工区(2015年度 - 2021年度)、瑞穂町大字殿ヶ谷から瑞穂町大字武蔵までの約1.4 kmを第5工区(2012年度 - 2018年度)として開始されたが、第1工区は2023年度、第2工区は2028年度、第3工区は2027年度、第4工区は2028年度、第5工区は2024年度までそれぞれ延長された。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2016年の交通政策審議会答申第198号では、「導入空間となりうる道路整備が進んでおり、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2018年1月、東京都は鉄道新線建設等準備基金を新設し、本区間および多摩センター - 町田間を含む6路線について事業化に向けた検討の深度化を図ることを発表した。建設費は約800億円と試算されている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2020年1月23日に、東京都は用地の確保が進んでおり鉄道空白地帯解消のために沿線自治体からの要望が強い、上北台 - 箱根ヶ崎間の延伸事業に着手することを正式に発表した。開業時期は未定だが2032年頃を目指し、新たに7駅を設置する予定である。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2022年10月には東京都によって東大和市・武蔵村山市・瑞穂町で延伸に関する都市計画素案説明会が行われ、7駅の設置場所が確定した。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "多摩センター駅から南進して町田までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」とされており、既に多摩市内と町田市内の一部区間で導入空間を確保している。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2016年の交通政策審議会答申第198号では、「導入空間となりうる道路整備が前提となるため、その進捗を見きわめつつ、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。建設費は約1,700億円と試算されている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2022年1月28日、「多摩都市モノレール町田方面延伸ルート検討委員会」によって、野津田高校、町田市立陸上競技場、日大三高、小山田桜台団地、桜美林学園、町田市民病院等各施設の近辺を通過する「己」の字の線形を含むルートが選定されたことが東京都より発表された。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "多摩センター駅から西進し、唐木田、南大沢、京王片倉を経て八王子駅までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」とされており、導入空間の用地確保が進められている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、八王子延伸の早期実現は難しいとの見方から、2016年1月に八王子市が単独でLRT(次世代型路面電車)を導入することも検討されたが、勾配が多く、技術上の問題があることから同年末に導入を事実上見送った。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2016年の交通政策審議会答申第198号では、「事業性に課題があるため、関係地方公共団体・鉄道事業者等において、事業計画について十分な検討が行われることを期待」とした。建設費は約1,900億円と試算されている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このほか、構想路線には以下の路線も含まれるが、具体化されていない。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東京都の構想路線には含まれないが、上北台駅がある東京都東大和市に県境が接する埼玉県からも延伸要望がある。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2000年に多摩都市モノレールが開通して以降、所沢市の地域住民は上北台駅から西武ドーム(西武球場前)を経て西武池袋線の小手指駅までの路線誘致を行っている。2019年2月には延伸に関して県議会で質疑答弁されている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2020年6月に埼玉県は「公共交通の利便性向上検討会議」を設置し、多摩都市モノレールを含む5路線を対象に、延伸の実現に向けた課題の整理などを行っている。2021年3月の会議では、延伸先に西武園ゆうえんちや多摩湖があることから、観光面では需要の創出が期待できるが、交通政策審議会答申第198号に位置付けられていないため、この答申に位置付けられている上北台 - 箱根ヶ崎間の整備状況を踏まえて、関係機関との調整が必要としている。", "title": "延伸計画" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "高松駅付近には多摩都市モノレール線の車両基地(運営基地)がある。敷地は東西方向に約150 m、南北方向に約350 mあり、敷地面積は約55,000 mである。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "車両基地内には留置線が11線(8線は2編成を、3線は3編成を縦列留置可能)、検修庫1線、検車庫3線、洗浄線2線、タイヤ交換場のほか、保線作業を行う工作車車庫がある。留置線の最大収容能力は4両編成25本(100両)である。検修庫では主に重要部・全般検査を、検車庫では主に月検査、列車検査を行っている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "重要部・全般検査は年間4編成行っており、業務は協力会社の川重車両テクノに委託している。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "敷地内には「総合指令所棟」があり、多摩都市モノレール本社、運転指令所、電力指令所、乗務区、施設区などの機関が入居している。車両基地内の主に留置線側の上部空間は人工地盤となっており、東京都住宅供給公社による都民住宅「トミンハイム立川泉町」が設けられている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃。小児半額(ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "隣駅までの1駅区間は、特例運賃として110円(ICカードは102円)である。立川北駅と立川南駅は運賃計算上は1駅とされ、高松 - 立川南間と立川北 - 柴崎体育館間は110円となる。砂川七番 - 立川南間は220円(ICカード214円)、立川北 - 高幡不動間と桜街道 - 立川南間は270円(ICカード265円)となる特例運賃も設定されている。回数券や定期券には隣駅110円の特例は適用されない。1駅乗車の場合はICカード乗車券や普通乗車券で乗車する方が運賃は低くなる。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "共通乗車カード「パスネット」を導入していたが、他社と異なり自動改札機は1枚のみしか投入できなかった。ICカード乗車券「PASMO」を導入する際に、IC読み取り機能と乗車券の2枚投入が可能な自動改札機へ切り替えられた。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "全駅で全国相互利用対応ICカードのPASMO、Suica、Kitaca、manaca、TOICA、PiTaPa、ICOCA、nimoca、はやかけん、SUGOCAが利用できる。PASMOは2007年のサービス開始と同時に導入したが、2017年3月まで交通系ICカード全国相互利用サービスに対応せず、PASMO以外のICカード乗車券はSuicaのみしか使用できなかった。", "title": "運賃" } ]
多摩都市モノレール線(たまとしモノレールせん)は、多摩都市モノレールが運営する、東京都東大和市の上北台駅と同多摩市の多摩センター駅を結ぶモノレール路線。旅客案内上は「多摩モノレール」の呼称を使用する。駅ナンバリングの路線記号は、TT。 東京都多摩地域を南北に結ぶ公共交通を拡充するため、モノレール専用道として都市計画決定された。都市計画事業としての名称は各都市計画区域ともに、都市計画道路9・6・1号多摩南北線および都市計画都市高速鉄道都市モノレール第1号線である。
{{画像提供依頼|駅ナンバリング導入後の路線図|date=2022年7月|cat=鉄道}} {{Infobox 鉄道路線 | 路線名 = [[File:Tama Toshi Monorail Logo.svg|15px|link=多摩都市モノレール]] 多摩都市モノレール線 | 路線色 = Darkorange | ロゴ = File:Tama Monorail Line symbol.svg | ロゴサイズ = 40px | 画像 = Tama-monorail 20210101.jpg | 画像サイズ = 300px | 画像説明 = [[立川市]]の[[GREEN SPRINGS]]内を走行する[[多摩都市モノレール1000系電車|1000系]] | 国 = {{JPN}} | 所在地 = [[東京都]] | 種類 = [[モノレール|跨座式モノレール]]([[モノレール#日本跨座式|日本跨座式]]) | 起点 = [[上北台駅]] | 終点 = [[多摩センター駅]] | 駅数 = 19駅 | 路線記号 = TT | 開業 = {{start date and age|1998|11|27}} | 休止 = | 廃止 = | 所有者 = [[多摩都市モノレール]] | 運営者 = 多摩都市モノレール | 車両基地 = [[#車両基地|多摩都市モノレール運営基地]] | 使用車両 = [[多摩都市モノレール1000系電車|1000系電車]] | 路線距離 = 16.0 [[キロメートル|km]] | 線路数 = [[複線]] | 電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]](剛体複線式) | 最大勾配 = 57.5‰(本線)<ref name="PICT1997-5">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1997年5月号「多摩都市モノレールの概要」pp.72 - 76。</ref> | 最小曲線半径 = 100m(本線)<ref name="PICT1997-5"/> | 閉塞方式 = [[車内信号]]式 | 保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]] | 最高速度 = 65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』([[ネコ・パブリッシング]])</ref> | 路線図 = Tama-toshi-monorail route map.png }} {|{{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|white|#ff6633}} {{BS-table}} {{BS5|||hKBHFa|||0.0|TT19 [[上北台駅]]|}} {{BS5|||hBHF|||0.7|TT18 [[桜街道駅]]|}} {{BS5|||hBHF|O3=HUBaq|HUBlg||1.5|TT17 [[玉川上水駅]]|}} {{BS5||STRq|hKRZ|BHFq|O4=HUBe||||←[[西武鉄道|西武]]:[[西武拝島線|拝島線]]→|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[玉川上水]]|}} {{BS5|||hBHF|||2.5|TT16 [[砂川七番駅]]|}} {{BS5|||hBHF|||3.0|TT15 [[泉体育館駅]]|}} {{BS5|||hBHF|||3.6|TT14 [[立飛駅]]|}} {{BS5||KDSTa|hSTR||||[[#車両基地|多摩都市モノレール運営基地]]||}} {{BS5||hSTRl|hABZgr+r|||||}} {{BS5|||hBHF|||4.2|TT13 [[高松駅 (東京都)|高松駅]]|}} {{BS5|||hBHF|O3=HUBaq|HUBlg||5.4|TT12 [[立川北駅]]|/↓[[立川駅]]|}} {{BS5||ABZq+r|hKRZ|KBHFeq|O4=HUB||||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[青梅線]]|}} {{BS5||ABZql+l|hKRZ|BHFq|O4=HUB||||←JR東:[[中央線快速|中央線]]→|}} {{BS5||ABZqr|hKRZ|BHFq|O4=HUB||||←JR東:青梅線([[青梅短絡線|短絡線]])/[[南武線]]→|}} {{BS5|||hBHF|O3=HUBaq|HUBrf||5.8|TT11 [[立川南駅]]|}} {{BS5|||hBHF|||6.5|TT10 [[柴崎体育館駅]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[根川]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[残堀川]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[多摩川]]|}} {{BS5|||hBHF|||8.0|TT09 [[甲州街道駅]]|}} {{BS5|||hSKRZ-A|||||[[中央自動車道]]|}} {{BS5|||hBHF|||9.3|TT08 [[万願寺駅]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[浅川 (東京都)|浅川]]|}} {{BS5|BHFq|O1=HUBa|ABZq+l|hKRZ|STRq||||←[[京王電鉄|京王]]:[[京王線]]→|}} {{BS5|KBHFaq|O1=HUB|ABZqr|hKRZ|STR+r||||京王:[[京王動物園線|動物園線]]→↓|}} {{BS5|HUBlf|HUBq|hBHF|O3=HUBeq|STR||10.5|TT07 [[高幡不動駅]]|}} {{BS5||WASSER+l|hKRZW|hKRZWae||||[[程久保川]]|}} {{BS5||WASSER|hBHF|STR2|STRc3|11.3|TT06 [[程久保駅]]|}} {{BS5||WASSERl|hKRZW|WASSER+r|O4=STRc1|STR+4|||程久保川|}} {{BS5|||hBHF|O3=HUBaq|WASSER|O4=HUBq|KBHFe|O5=HUBeq|12.3|TT05 [[多摩動物公園駅]]|}} {{BS5|||hKRZW|WASSERr||||程久保川|}} {{BS5|||TUNNEL1|||||多摩丘陵トンネル|}} {{BS5|||BHF|||13.4|TT04 [[中央大学・明星大学駅]]|}} {{BS5|||hBHFa|||14.3|TT03 [[大塚・帝京大学駅]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[大栗川]]|}} {{BS5|||hBHF|||15.1|TT02 [[松が谷駅]]|}} {{BS5|||hKRZW|||||[[乞田川]]|}} {{BS5|||hSTR|||||←京王:[[京王相模原線|相模原線]]→|}} {{BS5||hSTRq|hKRZho|hBHFq|O4=HUBa||||[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]|}} {{BS5||hSTRq|hKRZho|hBHFq|O4=HUB||||[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]|}} {{BS5|||hSTR|HUB||||←[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急多摩線|多摩線]]→|}} {{BS5|||hKBHFe|O3=HUBaq|HUBrf||16.0|TT01 [[多摩センター駅]]|}} |} |} '''多摩都市モノレール線'''<ref>[[国土交通省]]鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』平成28年度版([[電気車研究会]]・鉄道図書刊行会)p.239 線名欄</ref>(たまとしモノレールせん)は、[[多摩都市モノレール]]が運営する、[[東京都]][[東大和市]]の[[上北台駅]]と同[[多摩市]]の[[多摩センター駅#多摩都市モノレール(多摩センター駅)|多摩センター駅]]を結ぶ[[モノレール]]路線<ref name="路線図・各駅情報">[https://www.tama-monorail.co.jp/monorail/ 多摩モノレール 路線図・各駅情報](2022年7月9日閲覧)</ref>。旅客案内上は「'''多摩モノレール'''」の呼称を使用する<ref name="路線図・各駅情報"/>。[[駅ナンバリング]]の路線記号は、'''TT'''<ref name="路線図・各駅情報"/>。 東京都[[多摩地域]]を南北に結ぶ[[公共交通]]を拡充するため、モノレール専用道として[[都市計画]]決定された<ref name="basicplan" />。都市計画事業としての名称は各都市計画区域ともに、[[都市計画道路]]9・6・1号多摩南北線および都市計画[[都市高速鉄道]]都市モノレール第1号線である。 [[File:Tama-monorail-1114F-20191231-152700.jpg|thumb|200px|[[2020年東京オリンピック]]の[[ラッピング車両]]]] == 概要 == 多摩都市モノレール線は、多摩地域の中央部を南北に縦断するモノレールであり、[[西武鉄道]][[西武拝島線|拝島線]]や、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[中央線快速|中央線]]、[[京王電鉄]]の[[京王線]]、[[京王相模原線|相模原線]]、[[小田急電鉄]][[小田急多摩線|多摩線]]といった東西に走る各鉄道路線との[[乗換駅]](「[[#駅一覧|駅一覧]]」参照)を結び、[[東京都区部]]などとの連絡輸送を担っている。多摩都市モノレール線や接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際は、代替経路として相互に[[振替輸送]]に利用される<ref>[https://www.tama-monorail.co.jp/monorail/operation/pdf/transfer201904.pdf モノレール不通時の振替輸送ルートご案内](2022年7月9日閲覧)</ref>。 [[1998年]]([[平成]]10年)[[11月27日]]に[[上北台駅]] - [[立川北駅]]間が先行開業し、[[2000年]](平成12年)[[1月10日]]に立川北駅 - [[多摩センター駅]]が延伸開業した。 多摩都市モノレール線の開業によって、多摩地域の[[鉄道空白地帯]]は大きく減じることとなったが北多摩や南多摩地域に多く残っており、[[#延伸計画|さらなる延伸]]も計画・構想されている。 一日平均乗客数は、[[2001年]]度の7万9815人から、[[2017年]]度には過去最多の14万2498人へ増加した<ref name="yomiuri2018913">「多摩都市モノレール今秋20周年 記念ロゴやイベント」『[[読売新聞]]』朝刊2018年9月13日(地域面)</ref>。 モノレールのためほぼ全線が[[高架鉄道]]となっており、基本的には[[高架駅]]で統一されているが、[[中央大学・明星大学駅]]のみ[[地上駅]]([[橋上駅]])となっている。当線は初めて本格的に可動式ホーム柵タイプの[[ホームドア]]を採用した路線である。 上北台駅から[[甲州街道駅]]の区間は、高層建築物の多い[[立川駅]]周辺を除いて南西方向に[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]の眺望に恵まれており、開業20周年を迎えた[[2018年]]には、新たなブランドスローガン「さ、いこう!な見晴らしを。」を掲げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/20180910.pdf|title=おかげさまで開業20周年。多摩モノレールは地域に愛されるブランドづくりを進めます。|accessdate=2018-10-02|publisher=多摩都市モノレール株式会社|format=PDF|date=2018-09-10}}</ref>ほか、[[2023年]]には[[日本夜景遺産]]に認定された<ref>[http://yakei-isan.jp/topics/index.php?id=16913359363 世界の方々に見ていただきたい、日本の美夜景が続々。第18回「日本夜景遺産」新規認定地が決定!] - 日本夜景遺産、2023年8月7日</ref><ref>[http://yakei-isan.jp/spot/detail.php?id=279 多摩モノレール] - 日本夜景遺産 夜景遺産認定地、2023年8月11日閲覧</ref>。 沿線はおおむね住宅地で、通勤・通学客の多い朝夕[[ラッシュ時]]は非常に混雑する。周辺に[[大学]]などの教育機関が点在し、最寄り駅や他線の接続駅は学生で賑わう。駅の[[プラットホーム]]と[[改札|改札口]]を結ぶ[[エスカレーター]]は、[[高松駅 (東京都)|高松駅]]と[[立飛駅]]以外は常に上り方向に運転されている。 [[ファイル:Tamamono 20191026.jpg|thumb|200px|none|富士山をバックに走るモノレール]] === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):16.0 [[キロメートル|km]] * 方式:[[モノレール#跨座式|跨座式モノレール]]([[モノレール#日本跨座式|日本跨座式]]) * 複線区間:全線 * 電化方式:直流1,500 [[ボルト (単位)|ボルト]] (V)(剛体複線式) * 保安装置:[[自動列車制御装置|ATC]] 併用[[自動列車運転装置|ATO]] * 営業最高速度:65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada" /> * 軌道桁:主に全長22 [[メートル|m]]の[[プレストレスト・コンクリート|PCコンクリート製]]の組み合わせ * [[対面交通|走行方向]]:左側通行 == 運行形態 == ほとんどの列車が[[多摩センター駅]]-[[上北台駅]]間の運転であり、平日ダイヤでは朝ラッシュ時は6-8分間隔、日中は10分間隔、夕方はおおむね8分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。また、休日ダイヤは朝-夕方は9分間隔、夜間-深夜は10-15分間隔となっている。 区間運転は早朝時間帯に[[高松駅 (東京都)|高松駅]]発多摩センター駅行きおよび[[高幡不動駅]]発上北台駅行き、朝ラッシュ後に多摩センター駅発高松駅行き、深夜帯に多摩センター駅発[[立川北駅]]行きがある。また、[[中央大学]]、[[明星大学]]、[[帝京大学]]の開校日の平日朝に、上北台駅または立川北駅 - 多摩センター駅間で2往復が運行されるほか、沿線でのイベント時に臨時列車の設定および定期列車の時刻変更が行われることがある。 高松駅の始発と終着は[[2009年]]6月1日のダイヤ改正で新設された。高幡不動駅の始発は[[2019年]]3月23日のダイヤ改正で新設された。 2019年3月23日に開業以来初めて全面的な[[ダイヤ改正]]を行い<ref name="dia2019"> {{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/190222_daiyakaisei_p.pdf|title=2019年3月23日(土) 開業以来初の全面ダイヤ改正を実施します。 〜より利用しやすく、より愛されるモノレールを目指して〜 |format=PDF|date=2019-02-22|accessdate=2019-02-26|publisher=多摩都市モノレール株式会社}} </ref>、始発時間の繰り上げ、終電時間の繰り下げ、通勤・通学時間帯の運転間隔の調整、土休日の運転間隔の10分から9分への短縮による運転本数の増加が行われた。 2022年3月12日実施のダイヤ改正では、[[東芝]]グループが開発した輸送計画最適化AI([[人工知能]])を導入して列車ダイヤ・車両運用の効率化やコスト削減を図っている<ref>[https://www.global.toshiba/jp/news/infrastructure/2022/06/news-20220627-01.html 多摩都市モノレールにおけるAIを活用した列車ダイヤ・車両運用の最適化について] 東芝インフラシステムズ株式会社 株式会社東芝 ニュースリリース(2022年6月27日)2022年7月9日閲覧</ref>。 == 歴史 == * [[1979年]]([[昭和]]54年) - 東京都が「多摩都市モノレール等基本計画調査」を実施<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-25 |url=https://www.web-tamashin.jp/rire/tama-keizai/article/089/089_tama_no_ugoki.php |title=多摩モノレール特集 |publisher=[[多摩信用金庫|たましん地域経済研究所]] |accessdate=2020-07-27}}</ref>。 * [[1981年]](昭和56年) - 「多摩都市モノレール等基本計画」の調査報告で約93kmの構想路線が発表<ref name="basicplan">{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/cpproject/traffic/15/toshishisetsu15.html |title=多摩都市モノレール延伸検討 |publisher=東京都都市整備局 |accessdate=2020-07-27}}</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)9月 - 日本モノレール協会がモノレール計画試案を発表<ref>{{Cite book |和書 |year=1982 |title=多摩地域都市モノレール計画試案(新青梅街道―立川駅―多摩センター駅)(提案書) |publisher=日本モノレール協会 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)12月26日 - 多摩都市モノレールが上北台 - 多摩センター間の[[軌道法]]に基づく特許を取得<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版(電気車研究会・鉄道図書刊行会)p.239</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)9月 - 都市計画決定<ref name="monorail-124">日本モノレール協会『モノレール』No.124「開業15年を迎える多摩モノレールの取組について」。</ref>。 * [[1990年]](平成2年) ** 6月 - 上北台 - 立川北間の工事が認可<ref name="basicplan" />。 ** [[11月26日]] - 上北台駅建設予定地で、多摩都市モノレールの起工式を実施<ref name="PICT1991-3">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1991年3月号読者短信p.113。</ref>。 ** 12月 - 上記区間の建設工事に着手<ref name="monorail-124"/>。 * [[1991年]](平成3年) ** 9月 - 立川北 - 多摩センター間の工事が認可<ref name="basicplan" />。 ** 11月 - 上記区間の建設工事に着手<ref name="monorail-124"/>。 * [[1997年]](平成9年)[[12月19日]] - 先行して完成した立川北 - 砂川七番間で、初めて本線試運転を開始<ref name="JOURNAL1998-3">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1998年3月号RAILWAY TOPICS「多摩都市モノレール12月19日に本線試運転開始」p.86。</ref>。 * [[1998年]](平成10年)11月27日 - 上北台駅 - 立川北駅間が開業<ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1999-2 |volume = 33 |issue = 2 |page = 93 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref><ref name="youran" />。 * [[2000年]](平成12年)1月10日 - 立川北駅 - 多摩センター駅間が開業<ref>{{Cite news |title=多摩モノレール延伸開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-01-12 |page=1 }}</ref><ref name="youran" />。 * [[2002年]](平成14年)[[11月15日]] - 利用者数が延べ1億人を超える<ref name="TamaMono200111">[https://web.archive.org/web/20030204123944fw_/http://www.tama-monorail.co.jp/shinchaku/1okunin/toujitu.htm 多摩モノレール乗車1億人を達成いたしました] 多摩都市モノレール「新着情報」([[インターネットアーカイブ]]・2003年時点の版)</ref><ref name="user" >{{Cite web|和書|date=2016-08-29 |url=https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/280829-%20press.pdf |title=多摩モノレール利用者数 7 億人を突破 |format=PDF |publisher=多摩都市モノレール株式会社 |accessdate=2020-07-27}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)6月27日 - 開業から13年7か月目で利用者数が延べ5億人を超え<ref name="TamaMono201206">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120728192446/http://www.tama-monorail.co.jp/assets/files/5oku-tassei.pdf おかげさまでご乗車人数5億人を達成しました!]}}多摩都市モノレール「新着情報」(インターネットアーカイブ・2012年時点の版)。</ref><ref name="user" />、モノレールとして日本国内で最速の達成となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/news/20120628mog00m010014000c.html |title=多摩都市モノレール:乗客5億人突破 開業から13年7カ月目、国内最速 |publisher=[[毎日新聞]] |date=2012-06-28 |accessdate=2012-06-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120701000536/http://mainichi.jp/select/news/20120628mog00m010014000c.html |archivedate=2012-7-1 |deadlinkdate=2017-9 }}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)8月28日 - 開業から17年9か月で利用者数が延べ7億人を超える<ref name="user" />。 * [[2018年]](平成30年) - 2020年1月10日までを延伸開業20周年記念特別期間とし、20周年[[ロゴマーク]]制定、[[ラッピング車両|ラッピング列車]]の運行などを実施<ref name="yomiuri2018913"/>。 * [[2019年]](平成31年)3月23日 - 開業以来初となる全面的な[[ダイヤ改正]]を実施<ref name="dia2019" />。 == 沿線風景 == {{出典の明記| date = 2021-02-06| section = 1}} === 上北台駅 - 玉川上水駅 === [[東京都道43号立川東大和線]](芋窪街道新道)の真上に位置して[[バスターミナル]]と隣接する上北台駅は、市内に鉄道駅のない[[武蔵村山市]]の住民の足も担う。発車すると間もなく右手から芋窪街道旧道が合流し、延々と広がる住宅街を両手に見ながら走る。左方向へ曲がると左手に[[森永乳業]]東京多摩工場や[[イトーヨーカドー]]東大和店の看板などが見える。桜街道駅は芋窪街道と[[東大和市]]道である桜街道の交差点の真上に位置する。しばらく進むと[[立正佼成会]]の[[佼成霊園]]が右方向に広がり、駅構内に[[立川市]]の市境がある玉川上水駅に到着する。 <gallery> Tama-toshi-monorail cemetery.PNG|右手に霊園が広がる </gallery> === 玉川上水駅 - 立川北駅 === 玉川上水駅を発車すると[[西武拝島線]]と交差する。左手に[[西武鉄道]]の[[玉川上水車両基地]]が見える。[[玉川上水]]を渡ると、再び住宅街の風景を見ながら走行する。[[砂川七番駅]]を発車して間もなく[[東京都道7号杉並あきる野線]]の[[五日市街道]]と交差する。左方向へカーブして南東を向くと、右手に泉市民体育館が現れて[[泉体育館駅]]に到着する。発車すると右方向へ大きくカーブして南西を向き、芋窪街道から分岐して広大な工業地帯となる。左手に[[立飛企業]]、右手に宗教団体の[[真如苑]]応現院が見えると立飛駅に着き、左側に駅と直結する[[ららぽーと立川立飛]]が、右側には[[アリーナ立川立飛]]や[[いなげや]]青果センターなどが見える。多摩都市モノレール[[車両基地]]の[[専用鉄道|引き込み線]]である三角の[[デルタ線]]を通過すると、列車運転の基点となる高松駅に到着する。発車すると左方向へカーブして、[[IKEA]]立川の東側で南方を向く。右手に[[自治大学校]]や[[農林水産省]]などの施設を望む。やがて両手から工場は消え、立川都市軸道路(サンサンロード)の真上を走り、[[百貨店]]など大型商業施設が目立って来ると、間もなく立川北駅に到着する。 <gallery> Tama-toshi-monorail Delta.PNG|右手にデルタ線が見える </gallery> === 立川北駅 - 高幡不動駅 === 立川北駅を発車すると大きくS字カーブを描き、直下にJR東日本の[[中央本線|中央線]]・[[青梅線]]・[[南武線]][[立川駅]]が見える。周辺は建設予定地のデパートも取り壊して大規模に開発された。[[東京都道149号立川日野線]]上にある立川南駅を発車すると、目立つ商業施設は消えて再び住宅街を望む。間もなく[[東京都道29号立川青梅線]](奥多摩街道)と交差すると[[柴崎体育館駅]]に到着する。坂を下り新奥多摩街道と交差すると、[[立日橋]]で[[多摩川]]を渡り[[日野市]]へ入る。立日橋を渡り終えると左方向へ大きくカーブして東京都道149号立川日野線と分かれて南東を向き、[[東京都道256号八王子国立線]]([[甲州街道]])と交差し、甲州街道駅に到着する。同駅を発車すると[[中央自動車道]]を乗り越えて[[高幡不動尊]]の[[五重塔]]もよく見える。右カーブを描いて南を向くと[[万願寺駅]]に到着する。駅構内には[[新撰組]]ゆかりの地として、隊士が描かれた[[顔ハメ看板]]の写真撮影スポットが設置されている。万願寺駅を発車すると国道20号の甲州街道[[日野バイパス]]と交差する。緩いカーブを描きながら南西を向き、[[浅川 (東京都)|浅川]]を渡り、間もなく[[高幡不動駅]]に到着する。ここから右手に[[京王線]]の高幡不動駅、左手に[[京王電鉄]]の[[高幡不動検車区]]が見渡せる。 <gallery> Tama-toshi-monorail CHUO EXPRESSWAY.PNG|中央自動車道を乗り越える Tama-toshi-monorail-Tama-River.JPG|立日橋 </gallery> === 高幡不動駅 - 多摩センター駅 === 高幡不動駅で[[京王線]]・[[京王動物園線]]を乗り越えると[[東京都道41号稲城日野線]](川崎街道)と交差する。ここから先は[[多摩丘陵]]に造成された住宅地を走行する。左手に京王動物園線が並行すると[[程久保駅]]へ到着する。京王動物園線と共にカーブをうねりながら進むと次第に住宅は少なくなり、南を向き[[多摩動物公園]]を右下に見て[[多摩動物公園駅]]に到着する。ここで[[神奈川県道・東京都道503号相模原立川線]]から分岐し、左手に[[明星大学]]日野校を見ると当路線内で唯一の[[トンネル]]である多摩丘陵トンネル(延長220m)を抜け、東方を向いて[[八王子市]]へ入る。[[中央大学多摩キャンパス]]と明星大学日野校に挟まれるこの付近のみ地上を走行し、[[中央大学・明星大学駅]]へ到着する。発車すると再び高架となり、坂を下ると[[東京都道20号府中相模原線]]([[野猿街道]])と交差して[[大塚・帝京大学駅]]に到着する。その先で[[大栗川]]を渡ると南方を向いて松が谷駅に到着する。発車すると次第に谷が開け、手前に巨大商業施設を望みながら右へカーブして南西方向を向く。[[京王相模原線]]・[[小田急多摩線]]を乗り越えると多摩センター駅に到着する。京王相模原線・小田急多摩線の高架を乗り越えることから、北側に位置する[[乞田川]]の渡河地点は地上高22mで、全線中で[[標高]]が最高である。この区間は多摩丘陵地帯を通ることから、30‰以上の急勾配が多数あり、大塚・帝京大学駅 - 中央大学・明星大学駅間では最大の57.5‰の勾配がある<ref name="PICT1997-5"/>。 <gallery> Tama-monorail-1110F-20191231-121548.jpg|多摩動物公園駅付近 Tama-toshi-monorail tunnel.PNG|正面に見えるのが多摩丘陵トンネル 多摩ニュータウンを走る多摩モノレール(松が谷駅付近)150604.JPG|松が谷駅付近を走る多摩モノレール </gallery> == 延伸計画 == {{File clip| KoutsuSeisakuShigikai198 Tokyo.png | width= 300 | 36 | 69 | 32 | 16 | w= 3937 | h= 3325 |〈12〉が[[交通政策審議会答申第198号]]で示された、多摩都市モノレール延伸部(上北台 - 箱根ヶ崎、多摩センター - 八王子、多摩センター - 町田)の路線図 }} 1981年度に発表された多摩都市モノレールの構想路線は現営業区間も含めると約93kmあり<ref name="basicplan" />、このうち上北台駅から[[箱根ケ崎駅|箱根ヶ崎]]方面、多摩センター駅から[[町田駅|町田]]・[[八王子駅|八王子]]方面への延伸が検討されている。 === 上北台 - 箱根ヶ崎 === 上北台 - 箱根ヶ崎間の約7&nbsp;kmは<ref name=":0">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202001/CK2020012502000247.html|title=多摩モノレール延伸着手へ 武蔵村山の悲願 市民「早期完成を」|date=2020-01-25|accessdate=2020-01-26|newspaper=[[東京新聞]]|publisher=[[中日新聞社]]}}</ref>、2000年の[[運輸政策審議会答申第18号]]では、[[2015年]]までに「整備着手することが適当」としており<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/kotumo4_.htm|title=運輸政策審議会答申第18号 III 整備計画|accessdate=2020-04-09|publisher=[[国土交通省]]}}</ref><ref name="tousin18">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/images/zu2.jpg|title=運輸政策審議会答申第18号 付図2「東京圏鉄道網図」|accessdate=2020-04-09|publisher=国土交通省}}</ref>、導入空間となる[[新青梅街道]]の拡幅のため用地確保が進められている<ref name=武蔵村山市20220727>{{Cite web|和書|url=http://www.city.musashimurayama.lg.jp/shisei/shisaku/machizukuri/1002063/1002065.html |title=多摩都市モノレールの概要 |date=2022-07-27 |accessdate=2022-10-27 |publisher=[[武蔵村山市]]}}</ref>。 新青梅街道の拡幅は、[[東大和市]]上北台1丁目から武蔵村山市神明4丁目までの約1.1 kmを第1工区(2011年度 - 2017年度)、神明4丁目から中央1丁目までの約1.2 kmを第2工区(2015年度 - 2021年度)、中央1丁目から三ツ藤3丁目までの約1.6 kmを第3工区(2014年度 - 2020年度)、三ツ木2丁目から岸1丁目までの約1.2 kmを第4工区(2015年度 - 2021年度)、[[瑞穂町]]大字殿ヶ谷から瑞穂町大字武蔵までの約1.4 kmを第5工区(2012年度 - 2018年度)として開始された<ref>{{Wayback|url=https://www.city.musashimurayama.lg.jp/shisei/shisaku/machizukuri/1002063/1002065.html |title=多摩都市モノレールの概要 武蔵村山市 公式ホームページ |date=20160804094511}}</ref>が、第1工区は2023年度、第2工区は2028年度、第3工区は2027年度、第4工区は2028年度、第5工区は2024年度までそれぞれ延長された{{R|武蔵村山市20220727}}。 2016年の[[交通政策審議会答申第198号]]<ref name="tousin2016">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.mlit.go.jp/common/001138591.pdf#page=40 |title=東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(答申) |pages=37-38 |work=交通政策審議会 |publisher=国土交通省 |date=2016-04-20 |accessdate=2017-02-19}}</ref>では、「導入空間となりうる道路整備が進んでおり、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。 2018年1月、東京都は鉄道新線建設等準備基金を新設し、本区間および多摩センター - 町田間を含む6路線について事業化に向けた検討の深度化を図ることを発表した<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/01/26/documents/21_00_05.pdf#page=30 |title=中長期を見据えた財政運営 |publisher=東京都 |date=2018-01-26 |accessdate=2018-01-27}}</ref>。建設費は約800億円と試算されている<ref name="延伸建設費試算">{{Cite news|title=国交省/東京圏の鉄道新設・延伸23計画の概算建設費試算/都心直結線は4400億円|date=2016-10-21|newspaper=日刊建設工業新聞|url=https://www.decn.co.jp/?p=78110|accessdate=2017-10-30}}</ref>。 2020年1月23日に、東京都は用地の確保が進んでおり[[鉄道空白地帯]]解消のために沿線[[地方公共団体|自治体]]からの要望が強い、上北台 - 箱根ヶ崎間の延伸事業に着手することを正式に発表した。開業時期は未定だが2032年頃を目指し、新たに7駅を設置する予定である<ref name=":0" /><ref>{{Cite news|title=多摩都市モノレール延伸へ 新年度に基本設計 東京|date=2020-01-22|newspaper=NHK NEWS WEB|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200122/k10012254411000.html|accessdate=2020-01-26|publisher=[[日本放送協会]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200126073925/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200122/k10012254411000.html|archivedate=2020-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|title=多摩モノレール、箱根ケ崎区間延伸へ “鉄道なし”解消か|date=2020-01-22|newspaper=TOKYO MX NEWS|url=https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=1ivj9tj7arx03wvlp|accessdate=2020-01-26|publisher=[[東京メトロポリタンテレビジョン]]}}</ref><ref>{{Cite news|title=多摩モノレール延伸に都が着手へ、7駅設置計画…さらに2方向への延伸構想|date=2020-01-23|newspaper=読売新聞|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20200123-OYT1T50110/|accessdate=2020-01-24}}</ref>。 2022年10月には東京都によって東大和市・武蔵村山市・瑞穂町で延伸に関する都市計画素案説明会が行われ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.musashimurayama.lg.jp/shisei/shisaku/machizukuri/1002063/1016469/index.html |title=多摩都市モノレールの延伸(上北台~箱根ケ崎)計画及び関連する都市計画道路について |publisher=武蔵村山市 |date=2022-10-18 |accessdate=2022-10-27}}</ref>、7駅の設置地点が示された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/ |title=「多摩都市モノレールの延伸(上北台~箱根ケ崎)計画及び関連する都市計画道路」 |work=現在手続き中の主な都市施設(道路、鉄道等)のパンフレット等の紹介について |publisher=東京都 都市基盤部 交通企画課 |date=2022-10 |accessdate=2022-10-27}}</ref>。 [[File:Kamikitadai 20200524.jpg|240px|thumb|none|東京都東大和市上北台の新青梅街道と芋窪街道合流点。<br>将来写真右手奥にある上北台駅から写真手前右手方向の新青梅街道へ曲がり、箱根ヶ崎駅へと向かう予定。]] === 多摩センター - 町田 === 多摩センター駅から南進して町田までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」<ref name=":1" />とされており、既に多摩市内と町田市内の一部区間で導入空間を確保している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/sumai/kotsu/tetsukido/tamamonorail/tamamonorail.files/kaiteipanhuretto2018.pdf|title=未来のまちだにモノレールを!|accessdate=2018-03-25|publisher=[[町田市]]|format=PDF|year=2016|month=09}}</ref>。 2016年の交通政策審議会答申第198号<ref name="tousin2016" />では、「導入空間となりうる道路整備が前提となるため、その進捗を見きわめつつ、事業化に向けて関係地方公共団体・鉄道事業者等において具体的な調整を進めるべき」された。建設費は約1,700億円と試算されている<ref name="延伸建設費試算" />。 2022年1月28日、「多摩都市モノレール町田方面延伸ルート検討委員会」によって、[[東京都立野津田高等学校|野津田高校]]、[[町田市立陸上競技場]]、[[日本大学第三中学校・高等学校|日大三高]]、[[小山田桜台]]団地、[[学校法人桜美林学園|桜美林学園]]、[[町田市民病院]]等各施設の近辺を通過する「己」の字の線形を含むルートが選定されたことが東京都より発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bunyabetsu/kotsu_butsuryu/mono_route.html|title=多摩都市モノレール町田方面延伸 ルート検討委員会|website=東京都都市整備局|date=2022-01-28|accessdate=2022-02-27}}</ref>。 [[File:Tama-monorail.jpg|240px|thumb|none|多摩センター駅から[[町田市]]方面を望む。延伸案があるが、この先は建設されていない。]] === 多摩センター - 八王子 === 多摩センター駅から西進し、[[唐木田駅|唐木田]]、[[南大沢駅|南大沢]]、[[京王片倉駅|京王片倉]]を経て八王子駅までの路線は、運輸政策審議会答申第18号では「今後整備について検討すべき路線」<ref name=":1" />とされており、導入空間の用地確保が進められている。 一方、八王子延伸の早期実現は難しいとの見方から、2016年1月に八王子市が単独で[[ライトレール|LRT(次世代型路面電車)]]を導入することも検討されたが<ref>{{Cite news|title=LRT導入を検討 八王子市、市単独事業で整備|date=2016-01-26|newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]]|url=https://www.sankei.com/article/20160126-ZVLTW7MLUBJ4DMOKS2USHRCIEE/|accessdate=2017-02-19}}</ref>、勾配が多く、技術上の問題があることから同年末に導入を事実上見送った<ref>{{Cite news|title=八王子市長、LRT導入を当面見送り 技術上の問題を理由に|date=2016-12-16|newspaper=[[日本経済新聞]]|url=https://r.nikkei.com/article/DGXLZO10710320V11C16A2L83000?s=5|accessdate=2019-03-27}}</ref>。 2016年の交通政策審議会答申第198号<ref name="tousin2016" />では、「事業性に課題があるため、関係地方公共団体・鉄道事業者等において、事業計画について十分な検討が行われることを期待」とした。建設費は約1,900億円と試算されている<ref name="延伸建設費試算" />。 === その他の構想路線 === このほか、構想路線には以下の路線も含まれるが、具体化されていない<ref name="basicplan" />。 *箱根ヶ崎駅からさらに延伸し、[[羽村駅|羽村]]を経て八王子駅までを結ぶ路線。既存路線・延伸検討中の路線と併せると環状路線を形成する。周辺自治体<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.akiruno.tokyo.jp/0000000077.html |title=あきる野市基本構想(ヒューマン・グリーンあきる野) |publisher=あきる野市 |date=2009-08-25 |accessdate=2020-11-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nishi-kaze.com/2020/03/05/3712/ |title=モノレール西多摩東部の路線 瑞穂町、あきる野市、八王子市概ね賛同 羽村市が沿線首長に連携呼び掛け 循環路線は地域発展に多大な寄与 |publisher=西の風新聞社 |date=2020-03-05 |accessdate=2020-11-19}}</ref>や市民団体<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.railway-pressnet.com/archives/18913 |title=多摩モノレールあきる野延伸求める市民団体が発足 |publisher=鉄道プレスネット |date=2020-11-10 |accessdate=2020-11-19}}</ref>では延伸実現に向けた活動を推進している。 *唐木田付近で多摩センター - 八王子間の路線から分岐して[[若葉台駅|若葉台]]、[[南多摩駅|南多摩]]を経て[[是政駅|是政]]までを結ぶ路線。 *八王子駅から[[小宮駅|小宮]]、[[日野駅 (東京都)|日野]]を経て[[甲州街道駅]]までを結ぶ路線。 === 埼玉県からの路線誘致 === 東京都の構想路線には含まれないが、上北台駅がある東京都東大和市に県境が接する[[埼玉県]]からも延伸要望がある。 2000年に多摩都市モノレールが開通して以降、[[所沢市]]の地域住民は上北台駅から[[西武ドーム]]([[西武球場前駅|西武球場前]])を経て[[西武池袋線]]の[[小手指駅]]までの路線誘致を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokorozawa-nishirc.net/2017/weekly/1512.pdf|title=週報Rotary 第1512回例会|publisher=所沢西[[ロータリークラブ]]|accessdate=2019-11-09|format=PDF}}</ref>。2019年2月には延伸に関して県議会で質疑答弁されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/e1601/gikai-gaiyou/h3102/g070.html|title=平成31年2月定例会 一般質問 質疑質問・答弁全文(岡田静佳議員)|publisher=[[埼玉県議会]]|accessdate=2019-11-09|date=2019-03-11}}</ref>。 2020年6月に埼玉県は「公共交通の利便性向上検討会議」を設置し、多摩都市モノレールを含む5路線を対象に、延伸の実現に向けた課題の整理などを行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/koukyoukoutu-ribensei.html |title=公共交通の利便性向上検討会議 |work=くらし・環境 > まちづくり > 交通 |publisher=埼玉県庁 |date=2021-04-26 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。2021年3月の会議では、延伸先に[[西武園ゆうえんち]]や[[村山貯水池|多摩湖]]があることから、観光面では需要の創出が期待できるが、[[交通政策審議会答申第198号]]に位置付けられていないため、この答申に位置付けられている上北台 - 箱根ヶ崎間の整備状況を踏まえて、関係機関との調整が必要としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/177223/houkokusyo.pdf |title=公共交通の利便性向上検討会議 報告書 |work=第5回検討会議の開催結果について |format=PDF |publisher=埼玉県庁 |pages=25, 28-29, 37-38 |date=2021-03 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。 == 駅一覧 == * 全駅[[東京都]]に所在。 * 全列車が各駅に停車する。 * [[駅ナンバリング]]は2018年2月導入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/290630_press_Station_code.pdf|title=多摩モノレール全駅に「駅ナンバリング」を導入します!!|accessdate=2020-04-06|publisher=多摩都市モノレール株式会社|date=2017-06-30|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/11536324/www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/290630_press_Station_code.pdf|archivedate=2019-08-21|format=PDF}}</ref> {|class="wikitable" rules="all" |- !style="white-space:nowrap;"|駅番号 !style="white-space:nowrap;"|ステーション<br>シンボル !駅名 !style="width:2.5em"|駅間キロ !style="width:2.5em"|営業キロ !接続路線 !所在地 |- !TT19 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 19.svg|24px]] |[[上北台駅]] |style="text-align:center"| - |style="text-align:right"|0.0 | |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[東大和市]] |- !TT18 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 18.svg|24px]] |[[桜街道駅]] |style="text-align:right"|0.7 |style="text-align:right"|0.7 |&nbsp; |- !TT17 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 17.svg|24px]] |[[玉川上水駅]] |style="text-align:right"|0.8 |style="text-align:right"|1.5 |[[西武鉄道]]:[[File:SeibuShinjuku.svg|15px|SS]] [[西武拝島線|拝島線]] (SS33) |- !TT16 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 16.svg|24px]] |[[砂川七番駅]] |style="text-align:right"|1.0 |style="text-align:right"|2.5 |&nbsp; |rowspan="7"|[[立川市]] |- !TT15 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 15.svg|24px]] |[[泉体育館駅]] |style="text-align:right"|0.5 |style="text-align:right"|3.0 |&nbsp; |- !TT14 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 14.svg|24px]] |[[立飛駅]] |style="text-align:right"|0.6 |style="text-align:right"|3.6 |&nbsp; |- !TT13 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 13.svg|24px]] |[[高松駅 (東京都)|高松駅]] |style="text-align:right"|0.6 |style="text-align:right"|4.2 |&nbsp; |- !TT12 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 12.svg|24px]] |[[立川北駅]] |style="text-align:right"|1.2 |style="text-align:right"|5.4 |rowspan=2|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] [[中央線快速|中央線]]・[[File:JR JC line_symbol.svg|15px|JC]] [[青梅線]]・[[File:JR JN line_symbol.svg|15px|JN]] [[南武線]]([[立川駅]]:JC 19・JN 26) |- !TT11 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 11.svg|24px]] |[[立川南駅]] |style="text-align:right"|0.4 |style="text-align:right"|5.8 |- !TT10 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 10.svg|24px]] |[[柴崎体育館駅]] |style="text-align:right"|0.7 |style="text-align:right"|6.5 |&nbsp; |- !TT09 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 09.svg|24px]] |[[甲州街道駅]] |style="text-align:right"|1.5 |style="text-align:right"|8.0 |&nbsp; |rowspan="5"|[[日野市]] |- !TT08 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 08.svg|24px]] |[[万願寺駅]] |style="text-align:right"|1.3 |style="text-align:right"|9.3 |&nbsp; |- !TT07 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 07.svg|24px]] |[[高幡不動駅]] |style="text-align:right"|1.2 |style="text-align:right"|10.5 |[[京王電鉄]]:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王線]]・[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王動物園線|動物園線]] (KO29) |- !TT06 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 06.svg|24px]] |[[程久保駅]] |style="text-align:right"|0.8 |style="text-align:right"|11.3 |&nbsp; |- !TT05 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 05.svg|24px]] |[[多摩動物公園駅]] |style="text-align:right"|1.0 |style="text-align:right"|12.3 |京王電鉄:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 動物園線 (KO47) |- !TT04 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 04.svg|24px]] |[[中央大学・明星大学駅]] |style="text-align:right"|1.1 |style="text-align:right"|13.4 |&nbsp; |rowspan="3"|[[八王子市]] |- !TT03 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 03.svg|24px]] |[[大塚・帝京大学駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|14.3 |&nbsp; |- !TT02 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 02.svg|24px]] |[[松が谷駅]] |style="text-align:right"|0.8 |style="text-align:right"|15.1 |&nbsp; |- !TT01 |style="text-align:center"|[[File:Tama Monorail Color 01.svg|24px]] |[[多摩センター駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|16.0 |京王電鉄:[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]](京王多摩センター駅:KO41)<br />[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu tama.svg|15px|OT]] [[小田急多摩線|多摩線]](小田急多摩センター駅:OT06) |[[多摩市]] |} * 多摩動物公園駅は、公式路線図では京王動物園線との乗換駅として表記されているが、[[定期乗車券|定期券]]での[[連絡運輸]]は行っていない。 * 立川北駅と多摩センター駅に駅務管理所が設けられており、柴崎体育館駅以北の10駅を立川北駅で、甲州街道駅以南の9駅を多摩センター駅で管理している<ref>『運転協会誌』2016年11月号([[日本鉄道運転協会]])p.42</ref>。 === 車両基地 === [[高松駅 (東京都)|高松駅]]付近には多摩都市モノレール線の[[車両基地]](運営基地)がある<ref name="PICT1997-5"/>。敷地は東西方向に約150 m、南北方向に約350 mあり、敷地面積は約55,000 m<sup>2</sup>である<ref name="PICT1997-5"/>。 車両基地内には[[留置線]]が11線(8線は2[[編成 (鉄道)|編成]]を、3線は3編成を縦列留置可能<ref name="jtoa201206">日本鉄道運転協会『運転協会誌』2012年6月号車両基地特集「多摩都市モノレール車両基地の概要」pp.16 - 19</ref>)、検修庫1線、検車庫3線、洗浄線2線、タイヤ交換場のほか、[[保線]]作業を行う工作車車庫がある<ref name="PICT1997-5"/>。留置線の最大収容能力は4両編成25本(100両)である<ref name="jtoa201206"/>。検修庫では主に重要部・全般検査を、検車庫では主に月検査、列車検査を行っている<ref name="jtoa201206"/>。 重要部・全般検査は年間4編成行っており、業務は[[協力会社]]の川重車両テクノに委託している<ref>[https://www.khi.co.jp/corp/kst/contents/results/maintenace03.html 納入事例 - 多摩都市モノレール株式会社] - 川重車両テクノホームページ</ref>。 敷地内には「総合指令所棟」があり、多摩都市モノレール[[本社]]、[[運転指令所]]、電力指令所、乗務区、施設区などの機関が入居している<ref name="PICT1997-5"/>。車両基地内の主に留置線側の上部空間は[[地盤#人工地盤|人工地盤]]となっており、[[東京都住宅供給公社]]による都民住宅「トミンハイム立川泉町」が設けられている<ref name="PICT1997-5"/>。 == 運賃 == 大人普通旅客運賃。小児半額(ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符購入の場合は10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/unchin_kaitei_panfuret_3.pdf|title=消費税率改定に伴う運賃改定のお知らせ|accessdate=2019-10-01|publisher=多摩都市モノレール株式会社|format=PDF}}</ref>。 {|class="wikitable" rules="all" style="text-align:center" |- !rowspan="2"|キロ程 !colspan="2"|運賃(円) |- !ICカード !切符購入 |- |1駅区間||102||110 |- |3kmまで||214||220 |- |4 – 5 km||265||270 |- |6 – 7 km||316||320 |- |8 – 10 km||367||370 |- |11 – 16 km||408||410 |} 隣駅までの1駅区間は、特例運賃として110円(ICカードは102円)である。立川北駅と立川南駅は運賃計算上は1駅とされ、高松 - 立川南間と立川北 - 柴崎体育館間は110円となる。砂川七番 - 立川南間は220円(ICカード214円)、立川北 - 高幡不動間と桜街道 - 立川南間は270円(ICカード265円)となる特例運賃も設定されている。[[回数乗車券|回数券]]や[[定期乗車券|定期券]]には隣駅110円の特例は適用されない。1駅乗車の場合はICカード乗車券や[[普通乗車券]]で乗車する方が運賃は低くなる。 共通乗車カード「[[パスネット]]」を導入していたが、他社と異なり[[自動改札機]]は1枚のみしか投入できなかった。[[乗車カード|ICカード乗車券]]「[[PASMO]]」を導入する際に、IC読み取り機能と乗車券の2枚投入が可能な自動改札機へ切り替えられた。 全駅で全国相互利用対応ICカードの[[PASMO]]、[[Suica]]、[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[PiTaPa]]、[[ICOCA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用できる<ref name="tama-monorail20170323">{{Cite web|和書|url=https://www.tama-monorail.co.jp/info/list/mt_img/HP.pdf|title=2017.4.1スタート 交通系ICカード全国相互利用開始|accessdate=2020-04-09|publisher=多摩都市モノレール株式会社|format=PDF|date=2017-03-23}}</ref>。PASMOは2007年のサービス開始と同時に導入したが、2017年3月まで[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]に対応せず、PASMO以外のICカード乗車券はSuicaのみしか使用できなかった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』1997年5月号「多摩都市モノレールの概要」pp.72 - 76 * [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』2012年6月号車両基地特集: 多摩都市モノレール(株)運輸部工務課車両係 樋口宏志「多摩都市モノレール車両基地の概要」 == 関連項目 == * [[多摩都市モノレール]] ** [[多摩モノレールカード]] * [[モノレール]] / [[日本のモノレール]] * [[関東地方の鉄道路線]] * [[多摩丘陵]] / [[多摩ニュータウン]] * 多摩都市モノレール線が登場する作品 ** [[とある魔術の禁書目録 (アニメ)|とある魔術の禁書目録]] / [[とある科学の超電磁砲 (アニメ)|とある科学の超電磁砲]] *: 両作品は「とある自治体の地域振興」として[[立川市]]との[[コラボレーション]]も行われている。 ** [[パパのいうことを聞きなさい!#テレビアニメ|パパのいうことを聞きなさい!]] ** [[まちカドまぞく]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Tama Toshi Monorail}} * [https://www.tama-monorail.co.jp/ 多摩都市モノレール] {{日本のモノレール}} {{DEFAULTSORT:たまとしものれえるせん}} [[Category:日本のモノレール路線]] [[Category:関東地方の鉄道路線]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:多摩都市モノレール|路]] [[Category:跨座式モノレール]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:多摩ニュータウン]]
2003-08-20T02:36:47Z
2023-11-25T07:27:47Z
false
false
false
[ "Template:画像提供依頼", "Template:R", "Template:Cite web", "Template:Cite journal", "Template:PDFlink", "Template:日本のモノレール", "Template:UKrail-header2", "Template:BS5", "Template:File clip", "Template:Cite news", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Wayback", "Template:Commons", "Template:BS-table", "Template:出典の明記", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%B7%9A
13,591
箱根登山鉄道鋼索線
鋼索線(こうさくせん)は、神奈川県足柄下郡箱根町の強羅駅と早雲山駅とを結ぶ箱根登山鉄道の鋼索鉄道(ケーブルカー)である。一般には「箱根登山ケーブルカー」と呼ばれている。箱根観光の旅客輸送を担う。関東地方では最も古いケーブルカー路線である。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、鉄道線、当路線、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根海賊船の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、鉄道線・当路線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。 現行の通常ダイヤ(2022年3月12日改正)では、運行時間帯は8時台 - 18時台で、日中は毎時3本での運行。多客期には増発が行われる。 箱根登山鉄道の前身である小田原電気鉄道は、1911年に強羅の土地を取得し、旅館や別荘地として販売を行っていた。しかし、この地域の傾斜がきついため、この別荘地内の居住者の便を図って鋼索線を建設することになったもので、同時に箱根回遊コースの一環として敷設されたものである。1912年に敷設免許を申請し、1915年4月23日に免許が下りている。 しかし、鉄道線の工事が優先されたため、建設に着手したのは鉄道線開業後の1921年であった。軌条・車両・巻上げ装置など、一切の装置をすべてスイスから輸入したもので、同年12月1日に開業した。日本においては1918年に開業した生駒鋼索鉄道に続く2番目の鋼索鉄道で、関東では初の鋼索鉄道である。1922年7月1日には、下強羅駅を強羅駅に改称した。 1923年9月1日の関東大震災においても軽微な被害で済んでいるが、復旧工事は後回しとなり、運行が再開されたのは翌々年となる1925年3月21日であった。1926年7月10日、上強羅駅(初代)を早雲山駅に改称した。 1928年1月1日付けで、小田原電気鉄道は日本電力に合併となったが、同年8月16日には軌道線・鉄道線とともに箱根登山鉄道に分離された。 第二次世界大戦に入り、不要不急路線として施設をすべて撤去して供出することになり、1944年2月10日限りで運行を休止し、施設については早雲山駅の建物を除いた施設一切を産業設備営団に売却、撤去された。戦後、運行を再開したのは1950年7月1日からで、同日から運行を開始した同社の早雲山と湖尻を結ぶ路線バスによって、自社の路線のみによる芦ノ湖までのルートを形成することになった。1951年5月1日には、早雲館駅を上強羅駅(2代目)に改称した。 その後、鉄道線が3両編成化されたことに伴い、本路線も輸送力増強を行なうことになり、1995年3月16日よりスイス製の車両による2両編成での運行が開始された。この置き換えに際し、それまで987 mmであった軌間が983 mmに改軌された。 2019年には再び設備更新工事が行われることとなり、同年12月2日限りで運行を休止し、1995年に導入した車両の運行も終了した。その後、翌2020年3月20日より5代目となる新型車両での運行が再開された。 鋼索線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。1駅ごとの区間制運賃が採用されている。2019年10月1日改定。 鉄道線(箱根登山電車)と異なり、PASMOなどの交通系ICカードは利用できない。ただし、強羅駅・早雲山駅の券売機にて、交通系ICカードのSF残高を使用しての乗車券購入は可能である。 運行開始当初の車両ケ形は、歴史節で述べたようにスイス製で、フォードベルン社の車両であった。 戦後の運行再開時に車両も2代目のケ1形となり、1971年3月20日からは3代目の ケ2形 が運用を開始した。 その後、輸送力増強のため、1995年3月16日から2両編成・冷房付きとなったスイスのガングロフ社製ケ100・ケ200形車両に置き換えられた。 2020年3月20日からは設備の更新にあわせ、4代目の台車を流用した上で、座席をロングシートに変更した5代目のケ10・ケ20形車両の運用を開始した。 鋼索線(ケーブルカー)では、強羅駅・早雲山駅において「箱根八里」の発車メロディが使用されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鋼索線(こうさくせん)は、神奈川県足柄下郡箱根町の強羅駅と早雲山駅とを結ぶ箱根登山鉄道の鋼索鉄道(ケーブルカー)である。一般には「箱根登山ケーブルカー」と呼ばれている。箱根観光の旅客輸送を担う。関東地方では最も古いケーブルカー路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、鉄道線、当路線、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根海賊船の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、鉄道線・当路線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現行の通常ダイヤ(2022年3月12日改正)では、運行時間帯は8時台 - 18時台で、日中は毎時3本での運行。多客期には増発が行われる。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "箱根登山鉄道の前身である小田原電気鉄道は、1911年に強羅の土地を取得し、旅館や別荘地として販売を行っていた。しかし、この地域の傾斜がきついため、この別荘地内の居住者の便を図って鋼索線を建設することになったもので、同時に箱根回遊コースの一環として敷設されたものである。1912年に敷設免許を申請し、1915年4月23日に免許が下りている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし、鉄道線の工事が優先されたため、建設に着手したのは鉄道線開業後の1921年であった。軌条・車両・巻上げ装置など、一切の装置をすべてスイスから輸入したもので、同年12月1日に開業した。日本においては1918年に開業した生駒鋼索鉄道に続く2番目の鋼索鉄道で、関東では初の鋼索鉄道である。1922年7月1日には、下強羅駅を強羅駅に改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1923年9月1日の関東大震災においても軽微な被害で済んでいるが、復旧工事は後回しとなり、運行が再開されたのは翌々年となる1925年3月21日であった。1926年7月10日、上強羅駅(初代)を早雲山駅に改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1928年1月1日付けで、小田原電気鉄道は日本電力に合併となったが、同年8月16日には軌道線・鉄道線とともに箱根登山鉄道に分離された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦に入り、不要不急路線として施設をすべて撤去して供出することになり、1944年2月10日限りで運行を休止し、施設については早雲山駅の建物を除いた施設一切を産業設備営団に売却、撤去された。戦後、運行を再開したのは1950年7月1日からで、同日から運行を開始した同社の早雲山と湖尻を結ぶ路線バスによって、自社の路線のみによる芦ノ湖までのルートを形成することになった。1951年5月1日には、早雲館駅を上強羅駅(2代目)に改称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後、鉄道線が3両編成化されたことに伴い、本路線も輸送力増強を行なうことになり、1995年3月16日よりスイス製の車両による2両編成での運行が開始された。この置き換えに際し、それまで987 mmであった軌間が983 mmに改軌された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2019年には再び設備更新工事が行われることとなり、同年12月2日限りで運行を休止し、1995年に導入した車両の運行も終了した。その後、翌2020年3月20日より5代目となる新型車両での運行が再開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "鋼索線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。1駅ごとの区間制運賃が採用されている。2019年10月1日改定。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "鉄道線(箱根登山電車)と異なり、PASMOなどの交通系ICカードは利用できない。ただし、強羅駅・早雲山駅の券売機にて、交通系ICカードのSF残高を使用しての乗車券購入は可能である。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運行開始当初の車両ケ形は、歴史節で述べたようにスイス製で、フォードベルン社の車両であった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "戦後の運行再開時に車両も2代目のケ1形となり、1971年3月20日からは3代目の ケ2形 が運用を開始した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、輸送力増強のため、1995年3月16日から2両編成・冷房付きとなったスイスのガングロフ社製ケ100・ケ200形車両に置き換えられた。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2020年3月20日からは設備の更新にあわせ、4代目の台車を流用した上で、座席をロングシートに変更した5代目のケ10・ケ20形車両の運用を開始した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "鋼索線(ケーブルカー)では、強羅駅・早雲山駅において「箱根八里」の発車メロディが使用されている。", "title": "発車メロディ" } ]
鋼索線(こうさくせん)は、神奈川県足柄下郡箱根町の強羅駅と早雲山駅とを結ぶ箱根登山鉄道の鋼索鉄道(ケーブルカー)である。一般には「箱根登山ケーブルカー」と呼ばれている。箱根観光の旅客輸送を担う。関東地方では最も古いケーブルカー路線である。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、鉄道線、当路線、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根海賊船の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、鉄道線・当路線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。
{{画像提供依頼|2代目車両、[[箱根登山鉄道ケ1形客車|ケ1形]]|date=2022年11月|cat=鉄道}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名= 鋼索線 |路線色= #f04a00 |ロゴ=ファイル:Odakyu Hakone StaNo.svg |ロゴサイズ= 40px |画像= Hakone cablecar 2020.jpg |画像サイズ= 300px |画像説明= 箱根登山ケーブルカーの車両(5代目) |通称= 箱根登山ケーブルカー |国={{JPN}} |所在地= [[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]] |起点=[[強羅駅]] |終点=[[早雲山駅]] |駅数=6駅 |路線記号=OH |開業= {{start date and age|1921|12|1}} |最終延伸= |全通= |所有者=[[箱根登山鉄道]] |運営者= 箱根登山鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=1.2 [[キロメートル|km]]<!-- 後述の駅一覧での累計キロと異なるが、平成30年度鉄道要覧P.187でキロ程が「1.2」とされているのに拠った --> |軌間=983 [[ミリメートル|mm]] (3 [[フィート|ft]] 2 {{分数|11|16}} [[インチ|in]]) <!-- 特殊な軌間であるため他の記事で使用している{{RailGauge}}テンプレではエラー表示になる。--> |過去の軌間={{RailGauge|1000mm}}<ref>{{PDFlink|[http://www.jcca.or.jp/kaishi/234/234_toku8_nakamura.pdf 天下の険を駆け登る「箱根登山鉄道」]}}『協会誌 Consultant』第234号 p.36 - 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会、2015年5月4日閲覧</ref><br />(1921年 - 1944年)<br />987 mm (3 ft 2 {{分数|6|7}} in)<br />(1950年 - 1995年) |路線構造=単線2編成交走式(各2両編成) |複線区間= |電化区間= |電化方式= |車両限界= |高低差=標高 {{convert|750|m|ft|abbr=on}}<br />高低差 {{convert|209|m|ft|abbr=on}} |最大勾配=200 [[パーミル|‰]] (11[[度 (角度)|°]] 18[[分 (角度)|′]]) |最高速度={{convert|3.2|m/s|ft/s|abbr=on}} |閉塞方式= |保安装置= |路線図=[[File:Hakone Tozan Railway Linemap.svg|300px]] }} {{BS-map |title = 停車場・施設・接続路線 |title-bg = #f04a00 |title-color = #fff7c9 |map = {{BS2|KBHFaq|O1=HUBa||||[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]→|}} {{BS2|KBHFa|O1=HUBe||0.000|OH57 [[強羅駅]]||高541 m}} {{BS2|BHF||0.245|OH58 [[公園下駅]]||高574 m}} {{BS2|STRo|||}} {{BS2|BHF||0.495|OH59 [[公園上駅]]||高611 m}} {{BS2|STRo|||}} {{BS2|SPLa|FUNI||||}} {{BS2|SPLe||||}} {{BS2|eBUE||||関係者用踏切(廃止)|}} {{BS2|BHF||0.745|OH60 [[中強羅駅]]||高654 m}} {{BS2|BHF||0.995|OH61 [[上強羅駅]]||高703 m}} {{BS2|STRo|||}} {{BS2|KBHFe|O1=HUBa||1.240|OH62 [[早雲山駅]]||高750 m}} {{BS2|uKBHFa|O1=HUBe|AETRAM|||↓[[箱根ロープウェイ]]|}} }} [[File:Hakonetozan-Cable.JPG|thumb|250px|箱根登山ケーブルカーと箱根ロープウェイのルート([[明神ヶ岳 (神奈川県)|明神ヶ岳]]から撮影した画像で作成)]] [[File:Hakone Tozan Cable Line 01.jpg|thumb|250px|中強羅駅 - 公園上駅間の行き違い所]] '''鋼索線'''(こうさくせん)は、[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]の[[強羅駅]]と[[早雲山駅]]とを結ぶ[[箱根登山鉄道]]の鋼索鉄道([[ケーブルカー]])である。一般には「'''箱根登山ケーブルカー'''」と呼ばれている。[[箱根]][[観光]]の旅客輸送を担う。[[関東地方]]では最も古いケーブルカー路線である。 [[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''OH'''<ref group="注釈">'''O'''dakyu '''H'''akone</ref>で、番号は[[小田急小田原線]]の[[新宿駅]]から、鉄道線、当路線、[[箱根ロープウェイ]]を経て、[[芦ノ湖]]にある[[箱根観光船|箱根海賊船]]の[[元箱根港]]までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色([[File:Odakyu odawara logo.svg|20px|OH]])、鉄道線・当路線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色([[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|20px|OH]])で描かれている。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):1.2 km * [[軌間]]:983 mm * 駅数:6駅(起終点駅含む) * 高低差:209 m 現行の通常ダイヤ(2022年3月12日改正)では、運行時間帯は8時台 - 18時台で、日中は毎時3本での運行。多客期には増発が行われる。 == 歴史 == 箱根登山鉄道の前身である小田原電気鉄道は、[[1911年]]に[[箱根温泉#強羅温泉|強羅]]の土地を取得し<ref name="g100-38"/>、旅館や別荘地として販売を行っていた<ref name="g100-38"/>。しかし、この地域の傾斜がきついため、この別荘地内の居住者の便を図って鋼索線を建設することになったもので<ref name="1995-106"/>、同時に箱根回遊コースの一環として敷設されたものである<ref name="g100-47"/>。[[1912年]]に敷設免許を申請し<ref name="g100-47"/>、[[1915年]]4月23日に免許が下りている<ref name="kanpo19150426"/>。 しかし、鉄道線の工事が優先されたため、建設に着手したのは鉄道線開業後の[[1921年]]であった<ref name="1995-106"/>。軌条・車両・巻上げ装置など、一切の装置をすべて[[スイス]]から輸入したもので<ref name="g100-47"/>、同年12月1日に開業した<ref name="g100-47"/>。日本においては1918年に開業した[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索鉄道]]に続く2番目の鋼索鉄道で<ref name="1995-106"/>、関東では初の鋼索鉄道である。[[1922年]][[7月1日]]には、下強羅駅を強羅駅に改称した<ref name="kanpo19220731"/>。 [[1923年]]9月1日の[[関東大震災]]においても軽微な被害で済んでいる<ref name="g100-47"/>が、復旧工事は後回しとなり<ref name="1995-146"/><ref group="注釈">震災による被害は軽微であったが電燈事業、登山鉄道、軌道の復旧が優先されたため。</ref>、運行が再開されたのは翌々年となる[[1925年]]3月21日であった<ref name="g100-86"/><ref name="kanpo19250404"/>。[[1926年]][[7月10日]]、上強羅駅(初代)を早雲山駅に改称した<ref name="kanpo19260706"/>。 [[1928年]][[1月1日]]付けで、小田原電気鉄道は[[日本電力]]に合併となったが、同年[[8月16日]]には軌道線・鉄道線とともに箱根登山鉄道に分離された。 [[第二次世界大戦]]に入り、[[不要不急路線]]として施設をすべて撤去して供出することになり、[[1944年]]2月10日限りで運行を休止し<ref name="1995-174"/>、施設については早雲山駅の建物を除いた施設一切を産業設備営団に売却<ref name="ayumi188"/>、撤去された。戦後、運行を再開したのは[[1950年]]7月1日から<ref name="ayumi315"/>で、同日から運行を開始した同社の早雲山と湖尻を結ぶ路線バスによって、自社の路線のみによる芦ノ湖までのルートを形成することになった<ref name="rp679-99"/>。[[1951年]][[5月1日]]には、早雲館駅を上強羅駅(2代目)に改称した<ref name="chuzu4-45"/>。 その後、鉄道線が3両編成化されたことに伴い<ref name="1997-96"/>、本路線も輸送力増強を行なうことになり、[[1995年]]3月16日よりスイス製の車両による2両編成での運行が開始された<ref name="1997-96"/>。この置き換えに際し、それまで987&nbsp;mm<ref name="1981-93"/>であった軌間が983&nbsp;mmに[[改軌]]された。 [[2019年]]には再び設備更新工事が行われることとなり、同年[[12月2日]]限りで運行を休止し、1995年に導入した車両の運行も終了した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/%E3%80%90HP%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%8F%90%E5%87%BA%E7%89%88%E3%80%91%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%8B%E4%BC%91%202.pdf|title=ケーブルカー施設更新工事に伴う箱根登山ケーブルカー運転休止のお知らせ|date=2019-11-19|publisher=箱根登山鉄道|accessdate=2019-12-8}}</ref><ref name="response20191126">{{Cite web|和書|date=2019-11-26 |url=https://response.jp/article/2019/11/26/329202.html |title=箱根のケーブルカーが2020年春に新型化…1995年製のケ100・200形が12月2日にラストラン |website=レスポンス |publisher=イード |accessdate=2019-12-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-03 |url=https://railf.jp/news/2019/12/03/194500.html |title=4代目箱根登山ケーブルカーが引退 |website=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース |publisher=交友社 |accessdate=2019-12-04}}</ref>。その後、翌[[2020年]]3月20日より5代目となる新型車両での運行が再開された<ref name="tokyonp2020320">{{Cite web|和書|title=箱根登山鉄道 新ケーブルカー、きょう出発進行 「逆風」の観光地に追い風運ぶ |website=東京新聞(TOKYO Web) |date=2020-03-20 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/202003/CK2020032002000136.html |publisher=中日新聞東京本社 |accessdate=2020-03-26}}</ref><ref name="response20200318">{{Cite web|和書|title=箱根登山ケーブルカーが25年ぶりに車両リニューアル! 外国人観光客向けの機能強化なども |website=レスポンス |date=2020-03-18 |url=https://response.jp/article/2020/03/18/332753.html |publisher=イード |accessdate=2020-03-26}}</ref><ref>{{Cite news | title= ケーブルカー、運行を再開 強羅駅─早雲山駅 | newspaper=タウンニュース | url=https://www.townnews.co.jp/0607/2020/03/28/522930.html | date=2020年4月28日 | publisher=タウンニュース社}}</ref>。 == 駅一覧 == * [[駅ナンバリング|駅番号]]は、2014年1月より順次導入<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。 * 全駅[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]内に所在。 * 通常は全列車が各駅に停車するが、多客期の増発時には強羅駅 - 早雲山駅間途中無停車の「直通」が臨時に運行されることがある。 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅番号 !style="width:6em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|標高 (m) !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅間キロ<br><ref>{{Cite book|和書|author=国土交通省鉄道局 監修 |authorlink=鉄道局 |title=[[鉄道要覧]] |edition=平成30年度 |date=2018-09 |publisher=[[電気車研究会]] |isbn=978-4-88548-131-4 |page=331}}</ref> !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|累計キロ !style=" border-bottom:solid 3px #f15a22;"|接続路線・備考 |- !OH57 |[[強羅駅]] | style="text-align:right;" |541 | style="text-align:center;"| - | style="text-align:right;" |0 |[[箱根登山鉄道]]:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線(箱根登山電車)]] (OH57) |- !OH58 |[[公園下駅]] | style="text-align:right;" |574 | style="text-align:right;" |0.245 | style="text-align:right;" |0.245 |&nbsp; |- !OH59 |[[公園上駅]] | style="text-align:right;" |611 | style="text-align:right;" |0.250 | style="text-align:right;" |0.495 |&nbsp; |- !OH60 |[[中強羅駅]] | style="text-align:right;" |654 | style="text-align:right;" |0.250 | style="text-align:right;" |0.745 |&nbsp; |- !OH61 |[[上強羅駅]] | style="text-align:right;" |703 | style="text-align:right;" |0.250 | style="text-align:right;" |0.995 |&nbsp; |- !OH62 |[[早雲山駅]] | style="text-align:right;" |750 | style="text-align:right;" |0.245 | style="text-align:right;" |1.240 |箱根登山鉄道:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] [[箱根ロープウェイ]] (OH62) |} == 運賃 == 鋼索線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。1駅ごとの[[運賃制度#区間制|区間制運賃]]が採用されている。2019年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-05 |url=https://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/%E9%89%84%E9%81%93%E6%97%85%E5%AE%A2%E9%81%8B%E8%B3%83%E3%81%AE%E6%94%B9%E5%AE%9A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%90190905%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E6%8E%B2%E5%87%BA%E3%80%91.doc.pdf |title=鉄道旅客運賃の改定について |format=PDF |publisher=箱根登山鉄道 |accessdate=2019-10-08}}</ref>。 [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]](箱根登山電車)と異なり、[[PASMO]]などの交通系ICカードは利用できない。ただし、強羅駅・早雲山駅の券売機にて、交通系ICカードのSF残高を使用しての乗車券購入は可能である。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align: center;" !区間!!運賃(円) |- |1||style="text-align:right;"|90 |- |2||style="text-align:right;"|170 |- |3||style="text-align:right;"|250 |- |4||style="text-align:right;"|340 |- |5||style="text-align:right;"|430 |} == 車両 == {{Triple image aside|right|Tozan CableCar 1st 1921.jpg|105|Tozan-CableCar-3rd.jpg|190|Hakone cablecar 1.jpg|190|初代車両[[箱根登山鉄道ケ形客車|ケ形]]|3代目車両[[箱根登山鉄道ケ2形客車|ケ2形]]|4代目車両[[箱根登山鉄道ケ100・ケ200形客車|ケ100・ケ200形]]}} 運行開始当初の車両[[箱根登山鉄道ケ形客車|ケ形]]は、歴史節で述べたようにスイス製で、フォードベルン社の車両であった<ref name="1997-96"/>。 戦後の運行再開時に車両も2代目の[[箱根登山鉄道ケ1形客車|ケ1形]]となり、[[1971年]][[3月20日]]からは3代目の [[箱根登山鉄道ケ2形客車|ケ2形]] が運用を開始した<ref name="ayumi321"/>。 その後、輸送力増強のため、[[1995年]][[3月16日]]から2両編成・冷房付きとなったスイスのガングロフ社製[[箱根登山鉄道ケ100・ケ200形客車|ケ100・ケ200形]]車両に置き換えられた。 [[2020年]][[3月20日]]からは設備の更新にあわせ、4代目の台車を流用した上で、座席を[[ロングシート]]に変更した5代目の[[箱根登山鉄道ケ10・ケ20形客車|ケ10・ケ20形]]車両の運用を開始した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozan.co.jp/hakone_wp/wp-content/uploads/2020/02/421c0c28cd8c5d624aee4a3cbd368cfa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200724194154/https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozan.co.jp/hakone_wp/wp-content/uploads/2020/02/421c0c28cd8c5d624aee4a3cbd368cfa.pdf|format=PDF|language=日本語|title=箱根登山ケーブルカー リニューアル車両デビュー 新型ケーブルカー運転開始について|publisher=箱根登山鉄道|date=2020-01-30|accessdate=2020-07-24|archivedate=2020-07-24}}</ref><ref name="tokyonp2020320" /><ref name="response20200318" />。 == 発車メロディ == 鋼索線(ケーブルカー)では、強羅駅・早雲山駅において「[[箱根八里]]」の[[発車メロディ]]が使用されている。 {{clear}} == 航空写真 == {| |- |[[ファイル:箱根ケーブル航空写真1988-01.jpg|thumb|none|240px|航空写真。右上の強羅駅から左下の早雲山駅に一直線に伸びる。画面右中央には強羅公園が見える。{{国土航空写真}}]] |[[ファイル:箱根登山001.jpg|thumb|none|240px|箱根登山鉄道の路線の[[ランドサット]]衛星写真。赤が鉄道線、橙が鋼索線、水色が箱根ロープウェイである。]] |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="kanpo19150426">[{{NDLDC|2952924/4}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1915年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> <ref name="kanpo19220731">[{{NDLDC|2955117/6}} 「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1922年7月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> <ref name="kanpo19250404">[{{NDLDC|2955930/9}} 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』1925年4月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> <ref name="kanpo19260706">[{{NDLDC|2956311/10}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1926年7月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> <ref name="ayumi188">[[#ayumi|『箱根登山鉄道のあゆみ』]] p.188</ref> <ref name="ayumi315">[[#ayumi|『箱根登山鉄道のあゆみ』]] p.315</ref> <ref name="ayumi321">[[#ayumi|『箱根登山鉄道のあゆみ』]] p.321</ref> <ref name="g100-38">[[#tozan100|『すばらしい箱根』]] p.38</ref> <ref name="g100-47">[[#tozan100|『すばらしい箱根』]] p.47</ref> <ref name="g100-86">[[#tozan100|『すばらしい箱根』]] p.86</ref> <ref name="chuzu4-45">[[#今尾2008|『日本鉄道旅行地図帳』4号]] p.45</ref> <ref name="rp679-99">[[#青木679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.99]]</ref> <ref name="1981-93">[[#生方1981|『日本の私鉄 5 小田急』(1981年発行)]]p.93</ref> <ref name="1995-106">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』]] p.106</ref> <ref name="1995-146">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』]] p.146</ref> <ref name="1995-174">[[#加藤1995|『箱根山の近代交通』]] p.174</ref> <ref name="1997-96">[[#生方1997|『日本の私鉄 小田急』(1997年発行)]]p.96</ref> }} == 参考文献 == === 社史 === * {{Cite book|和書|author =箱根登山鉄道株式会社 |authorlink = |coauthors = |year = 1978|title = 箱根登山鉄道のあゆみ|publisher = 箱根登山鉄道|ref = ayumi|id = |isbn = }} * {{Cite book|和書|author =箱根登山鉄道株式会社総務部総務課 |authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = 箱根登山鉄道創業100周年記念 すばらしい箱根 グラフ100|publisher = 箱根登山鉄道|ref = tozan100|id = |isbn = }} === 書籍・ムック === * {{Cite book|和書|author =今尾恵介 |authorlink = |coauthors = |year = 2008|title = 日本鉄道旅行地図帳|volume = 4号 関東2|publisher = [[新潮社]]|ref = 今尾2008|id = |isbn = 978-4107900227}} * {{Cite book|和書|author = 生方良雄|year = 1981|title = 日本の私鉄 5 小田急|series=カラーブックス 530|publisher = [[保育社]]|ref = 生方1981}} * {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = |year = 1997|title = 日本の私鉄 小田急|series=カラーブックス 902|publisher = 保育社|ref = 生方1997|id = |isbn = 4586509023}} * {{Cite book|和書|author =加藤利之 |authorlink = |coauthors = |year = 1995|title = 箱根山の近代交通 |publisher = [[神奈川新聞|神奈川新聞社]]|ref = 加藤1995|id = |isbn = 978-4876451890}} === 雑誌記事 === * {{Cite journal|和書|author=青木栄一 |year=1999 |month=12|title=小田急電鉄のあゆみ(戦後編) |journal= 鉄道ピクトリアル|issue=679 |pages= 93-105 |publisher= 電気車研究会|ref = 青木679}} == 関連項目 == {{commonscat|Hakone Tozan Cable Car}} * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/cablecar/ 登山電車・ケーブルカー] - 箱根ナビ Powered by [[小田急箱根ホールディングス|小田急箱根グループ]] * [https://www.hakonenavi.jp/hakone-tozan/type_cablecar/ ケーブルカー](車両紹介) - 箱根ナビ Powered by 小田急箱根グループ {{日本のケーブルカー}} [[Category:関東地方の鉄道路線|こうさくせん]] [[Category:日本の鋼索式鉄道|はこねとさんてつとうこうさくせん]] [[Category:箱根登山鉄道|路こうさくせん]] [[Category:神奈川県の交通|はこねとさんてつとうこうさくせん]]
2003-08-20T03:05:28Z
2023-11-30T11:54:14Z
false
false
false
[ "Template:画像提供依頼", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:Reflist", "Template:日本のケーブルカー", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:BS-map", "Template:Clear", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:Triple image aside", "Template:国土航空写真", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:Cite book", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%99%BB%E5%B1%B1%E9%89%84%E9%81%93%E9%8B%BC%E7%B4%A2%E7%B7%9A
13,592
渡辺和郎
渡辺 和郎(わたなべ かずお、1955年5月1日 - )は、日本のアマチュア天文家。北海道釧路市生まれ。北海道釧路工業高等学校卒。日本天文学会・東亜天文学会会員。「北海道彗星・小惑星会議」代表。執筆活動や後進の指導のほか、800個以上の小惑星を発見した小惑星ハンターとして知られる。 中学1年生の時に本屋で偶然見た天文雑誌の望遠鏡の広告をきっかけに天文学に興味を持つようになり、自ら新聞配達等のアルバイトで1年後に購入した望遠鏡で天体観測を始める。27歳の時より北海道内に住む友人らと本格的に新惑星探索に乗り出し、観測を始めてから5年目の1988年に初めて小惑星"(3867) 知床"を発見する。以降観測歴15年あまりの間に発見した小惑星は800個以上におよんでいる。1990年代後半、それまでアマチュアの独擅場だった小惑星発見の分野に、専門家が乗り出して国家予算レベルでの観測をはじめたこともあって現場を退いた。その後は天文学の普及につとめている。 1987年10月25日に上田清二と金田宏が発見した小惑星 4155 Watanabe は渡辺和郎にちなんで命名された。 北海道の天文ファンが設立した「北海道彗星・小惑星会議」では、渡辺が代表を務める。 ほか多数。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "渡辺 和郎(わたなべ かずお、1955年5月1日 - )は、日本のアマチュア天文家。北海道釧路市生まれ。北海道釧路工業高等学校卒。日本天文学会・東亜天文学会会員。「北海道彗星・小惑星会議」代表。執筆活動や後進の指導のほか、800個以上の小惑星を発見した小惑星ハンターとして知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中学1年生の時に本屋で偶然見た天文雑誌の望遠鏡の広告をきっかけに天文学に興味を持つようになり、自ら新聞配達等のアルバイトで1年後に購入した望遠鏡で天体観測を始める。27歳の時より北海道内に住む友人らと本格的に新惑星探索に乗り出し、観測を始めてから5年目の1988年に初めて小惑星\"(3867) 知床\"を発見する。以降観測歴15年あまりの間に発見した小惑星は800個以上におよんでいる。1990年代後半、それまでアマチュアの独擅場だった小惑星発見の分野に、専門家が乗り出して国家予算レベルでの観測をはじめたこともあって現場を退いた。その後は天文学の普及につとめている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1987年10月25日に上田清二と金田宏が発見した小惑星 4155 Watanabe は渡辺和郎にちなんで命名された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "北海道の天文ファンが設立した「北海道彗星・小惑星会議」では、渡辺が代表を務める。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ほか多数。", "title": "発見・命名した小惑星" } ]
渡辺 和郎は、日本のアマチュア天文家。北海道釧路市生まれ。北海道釧路工業高等学校卒。日本天文学会・東亜天文学会会員。「北海道彗星・小惑星会議」代表。執筆活動や後進の指導のほか、800個以上の小惑星を発見した小惑星ハンターとして知られる。
{{存命人物の出典明記|date=2016年9月20日 (火) 01:39 (UTC)}} '''渡辺 和郎'''(わたなべ かずお{{R|kushiro|sapporo}}、[[1955年]][[5月1日]] - )は、[[日本]]の[[アマチュア天文学|アマチュア天文家]]。[[北海道]][[釧路市]]生まれ。[[北海道釧路工業高等学校]]卒。[[日本天文学会]]・[[東亜天文学会]]会員。「北海道彗星・小惑星会議」代表。執筆活動や後進の指導のほか、800個以上の[[小惑星]]を発見した小惑星ハンターとして知られる。 == 来歴 == 中学1年生の時に本屋で偶然見た天文雑誌の[[望遠鏡]]の広告をきっかけに[[天文学]]に興味を持つようになり、自ら新聞配達等のアルバイトで1年後に購入した望遠鏡で天体観測を始める。27歳の時より北海道内に住む友人らと本格的に新惑星探索に乗り出し、観測を始めてから5年目の1988年に初めて小惑星"(3867) 知床"を発見する。以降観測歴15年あまりの間に発見した小惑星は800個以上におよんでいる。1990年代後半、それまでアマチュアの独擅場だった小惑星発見の分野に、専門家が乗り出して国家予算レベルでの観測をはじめたこともあって現場を退いた。その後は天文学の普及につとめている。 1987年10月25日に[[上田清二]]と[[金田宏]]が発見した小惑星 4155 Watanabe は渡辺和郎にちなんで命名された{{R|MPC}}{{efn2|小惑星センターの回報では「'''Kazuro''' Watanabe」と記載されている{{R|MPC}}}}。 北海道の天文ファンが設立した「北海道彗星・小惑星会議」では、渡辺が代表を務める。 ;「北海道彗星・小惑星会議」の主なメンバー : [[上田清二]]・松山正則・[[箭内政之]]・[[円舘金]]・藤井哲也・高橋篤志・古川麟一郎・平井論など == 発見・命名した小惑星 == <!-- 時間のある時に表形式へ変更しましょう -->*(3867)知床(Shiretoko) - 北海道の地名、[[知床]]に由来。 :発見年月日:1988年4月16日、共同発見者:[[箭内政之]]、発見地:[[北見市]] *(3915)[[福島 (小惑星)|福島]](Fukushima) - [[北海道大学]]名誉教授・[[福島久雄]]に由来。 :発見年月日:1988年8月15日、共同発見者:箭内政之、発見地:北見市 *(4042)オホーツク(Okhotsk) - 地名、[[オホーツク]]に由来。 :発見年月日:1989年1月15日、共同発見者:[[円舘金]]、発見地:北見市 *(4126)摩周(Mashu) - 北海道の湖、[[摩周湖]]に由来。 :発見年月日:1988年1月19日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4263)網走(Abashiri) - 北海道の地名、[[網走]]に由来。 :発見年月日:1989年9月7日、共同発見者:箭内政之、発見地:北見市 *(4459)[[幣舞橋 (小惑星)|幣舞橋]](Nusamaibashi) - 北海道の橋、[[幣舞橋]]に由来。 :発見年月日:1990年1月30日、共同発見者:[[松山正則]]、発見地:[[釧路市]] *(4460)美幌(Bihoro) - 北海道の地名、網走郡[[美幌町]]に由来。 :発見年月日:1990年2月28日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4491)小樽(Otaru) - 北海道の地名、[[小樽市]]に由来。 :発見年月日:1988年9月7日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4497)田口(Taguchi) - 人名に由来。 :発見年月日:1989年1月4日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4508)高槻(Takatsuki) - 人名に由来。 :発見年月日:1990年3月27日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4547)マサチューセッツ(Massachusetts)- 地名、[[マサチューセッツ州]]に由来。 :発見年月日:1990年5月16日、共同発見者:円舘金、発見地:[[札幌市]] *(4557)美香(Mika) - 人名に由来。 :発見年月日:1987年12月14日、共同発見者:箭内政之、発見地:北見市 *(4584)阿寒(Akan) - 北海道の湖、[[阿寒湖]]に由来。 :発見年月日:1990年3月16日、共同発見者:松山正則、発見地:釧路市 *(4585)相内(Ainonai) - 北海道の地名、北見市相内町に由来。 :発見年月日:1990年5月16日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4607)セイランド・ファーム(Seilandfarm) :発見年月日:1987年11月25日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4613)[[衛 (小惑星)|衛]](Mamoru) - [[宇宙飛行士]]・[[毛利衛]]に由来。 :発見年月日:1990年7月22日、発見地:札幌市 *(4641)[[綾子 (小惑星)|綾子]](Ayako) - 共同発見者の円舘金の妻の名前に由来。 :発見年月日:1990年8月30日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4644)[[雄武 (小惑星)|雄武]] - 北海道の地名、[[紋別郡]][[雄武町]]に由来。 :発見年月日:1990年9月16日、共同発見者:[[高橋篤志]]、発見地:北見市 *(4645)天体工場 - [[天体工場]]([[札幌市]]にあった施設)に由来。 :発見年月日:1990年9月16日、共同発見者:[[藤井哲也]]、発見地:北見市 *(4676) 上田清二(Uedaseiji)- 天文家仲間[[上田清二]]に由来。 :発見年月日:1990年9月16日、共同発見者:藤井哲也、発見地:北見市 *(4677)宏(Hiroshi) - 人名に由来。 :発見年月日:1990年9月26日、共同発見者:高橋篤志、発見地:北見市 *(4712)[[岩泉 (小惑星)|岩泉]](Iwaizumi) - 円舘金の出身地[[岩手県]][[岩泉町]]に由来する。 :発見年月日:1989年8月25日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(4714)豊寛(Toyohiro) - 宇宙飛行士・[[秋山豊寛]]に由来。 :発見年月日:1989年9月29日、共同発見者:藤井哲也、発見地:北見市 *(4718)荒木(Araki) - 人名に由来。 :発見年月日:1990年11月21日、共同発見者:藤井哲也、発見地:北見市 *(6562)[[たこやき (小惑星)|たこ焼き]] *(6980)[[坂本九 (小惑星)|坂本九]](Kyusakamoto) - 歌手・[[坂本九]]に由来。 :発見年月日:1993年9月16日、共同発見者:円舘金、発見地:北見市 *(7241)[[黒田 (小惑星)|黒田]] *(12127)間宮 - 江戸時代の探検家[[間宮林蔵]]に由来。 * (14447) 保阪嘉内 - [[宮沢賢治]]の友人である[[保阪嘉内]]に由来。 :共同発見者:円舘金 *(20019)[[田中幸雄 (小惑星)|田中幸雄]](Yukiotanaka) - プロ野球選手・[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]に由来。 :発見年月日:1991年11月2日、共同発見者:高橋篤志、発見地:北見市 ほか多数。 == 著書・執筆 == * 『僕らの夢の星空 〜小惑星「北海道」発見物語』 - ISBN 4-89363-598-0(北海道新聞社、1991年2月28日) * 『小惑星ハンター』 - ISBN 9784416296103([[誠文堂新光社]]、[[1996年]]3月) * 『著書天体写真マニュアル』 - (地人書館・共著) * 雑誌『[[天文ガイド|月刊天文ガイド]]』(小惑星ガイドの執筆を担当) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|refs= <ref name="kushiro">{{cite news|和書 | title=釧路人{{small|54}} - 天文家 渡辺和郎さん | newspaper=[[釧路新聞]] | date=2020-11-20 | page=10}}</ref> <ref name="sapporo">{{Cite web|和書 |url=http://technical-atr.com/wata_hp/profeel/profeel.htm |title=渡辺和郎 |publisher=札幌天文倶楽部 |accessdate=2021-10-25}}</ref> <ref name="MPC">{{cite web | title=(4155) Watanabe = 1977 AO1 = 1983 RT5 = 1987 UB1 | website=IAU Minor Planet Center | url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?utf8=%E2%9C%93&object_id=Watanabe | access-date=2021-10-26}}</ref> }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わたなへ かすお}} [[Category:天文家]] [[Category:小惑星発見者]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:天文学に関する記事]]
2003-08-20T03:12:16Z
2023-11-27T12:52:05Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Normdaten", "Template:存命人物の出典明記", "Template:R", "Template:Efn2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%92%8C%E9%83%8E
13,593
箱根ロープウェイ
箱根ロープウェイ(はこねロープウェイ)は、神奈川県足柄下郡箱根町の早雲山駅と桃源台駅を結ぶ、箱根登山鉄道が運営する索道の総称である。早雲山線(そううんざんせん)と桃源台線(とうげんだいせん)の2路線で構成されている。 また、箱根ロープウェイ株式会社(英: Hakone Ropeway Inc.)は、2022年3月31日までこれを運営していた小田急グループの企業である。1959年の開業以来同社によって運営されていたが、2022年4月1日に箱根登山鉄道に吸収合併された。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、箱根登山ケーブルカー、当路線を経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色のOH()、箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・当路線・箱根海賊船は赤茶色のOH()で描かれている。 2004年12月18日をもって、六甲有馬ロープウェー(全長5 km)が利用者減に伴い部分休止したため、以降は営業区間が日本一長い索道路線である。乗車人員は2008年度に201万人を超え、2009年7月9日付でギネス世界記録のゴンドラ・リフト部門で乗車人数世界一に認定されている。 早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 姥子 - 桃源台間で運行設備が分割されており、全線を乗車する場合は大涌谷駅での乗り換えを必要とする(姥子駅では乗車したまま通過可能)。安全報告書などでは、大涌谷駅を境に以東の区間を早雲山線、以西の区間を桃源台線と呼称する場合がある。 沿線のうち大涌谷周辺は火山ガスの影響を受けるため、呼吸器疾患や心臓疾患を有する者、体調不良のある者などは早雲山 - 姥子間の乗車を控えるよう案内されている。また、火山ガス濃度が上昇した場合は全線で運休する場合がある。 2000年12月より順次架け替え工事を実施し、早雲山 - 大涌谷間では2002年、大涌谷 - 桃源台間では2007年より、オーストリアやスイスで採用されている「複式単線自動循環式(DLM)フニテル」が導入された。新型ロープウェイは、2本のロープでぶら下がったゴンドラが循環する形式であり、フニテルとは、屋根の左右にある握索装置の幅がゴンドラの幅よりも広いものを指す。なお、「フニテル」とはフランス語のFuniculaire(鋼索鉄道)とTeleferique(架空索道)を組み合わせた造語。フニテルは風に強いとされ、運休基準となる風速は毎秒20 mから30 mに引き上げ、従来は年間30日ほどあった運休日を15日程度に抑えられそうだとされる。 新型ロープウェイには、スイスCWA製のゴンドラ(定員18人)が50台設置されている。また、ゴンドラ・駅舎ともにバリアフリー対応になり、車椅子でも利用できる。架け替え後の年間送客数は5万人増の155万人を目指している。なお、ゴンドラに動力はなく、大涌谷駅と姥子駅のモーター(原動設備)でロープを操作している。終点駅である早雲山駅と桃源台駅には、ロープを引いて調節する緊張設備がある。ロープは直径48 mmであり、1本のロープを端でつなぎ合わせている。 なお、架け換え時期の違いから、早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 桃源台間では、ゴンドラのドア構造などに若干の差異がある。 2023年4月18日改定。全区間均一運賃で、片道利用は大人1,500円・小人500円、往復利用は大人2,500円・小人800円となっており、いずれも途中下車が可能。 鉄道線・鋼索線とは乗車券が異なり(合算不可)、ロープウェイの各駅にて線内完結の乗車券を購入する形となる。購入時にはPASMO、Suicaなど交通系ICカード全国相互利用サービス対応ICカード9種類を利用可能だが、電子マネーによる物販の扱いとなるため、PiTaPaは利用できない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "箱根ロープウェイ(はこねロープウェイ)は、神奈川県足柄下郡箱根町の早雲山駅と桃源台駅を結ぶ、箱根登山鉄道が運営する索道の総称である。早雲山線(そううんざんせん)と桃源台線(とうげんだいせん)の2路線で構成されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "また、箱根ロープウェイ株式会社(英: Hakone Ropeway Inc.)は、2022年3月31日までこれを運営していた小田急グループの企業である。1959年の開業以来同社によって運営されていたが、2022年4月1日に箱根登山鉄道に吸収合併された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、箱根登山ケーブルカー、当路線を経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色のOH()、箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・当路線・箱根海賊船は赤茶色のOH()で描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2004年12月18日をもって、六甲有馬ロープウェー(全長5 km)が利用者減に伴い部分休止したため、以降は営業区間が日本一長い索道路線である。乗車人員は2008年度に201万人を超え、2009年7月9日付でギネス世界記録のゴンドラ・リフト部門で乗車人数世界一に認定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 姥子 - 桃源台間で運行設備が分割されており、全線を乗車する場合は大涌谷駅での乗り換えを必要とする(姥子駅では乗車したまま通過可能)。安全報告書などでは、大涌谷駅を境に以東の区間を早雲山線、以西の区間を桃源台線と呼称する場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "沿線のうち大涌谷周辺は火山ガスの影響を受けるため、呼吸器疾患や心臓疾患を有する者、体調不良のある者などは早雲山 - 姥子間の乗車を控えるよう案内されている。また、火山ガス濃度が上昇した場合は全線で運休する場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2000年12月より順次架け替え工事を実施し、早雲山 - 大涌谷間では2002年、大涌谷 - 桃源台間では2007年より、オーストリアやスイスで採用されている「複式単線自動循環式(DLM)フニテル」が導入された。新型ロープウェイは、2本のロープでぶら下がったゴンドラが循環する形式であり、フニテルとは、屋根の左右にある握索装置の幅がゴンドラの幅よりも広いものを指す。なお、「フニテル」とはフランス語のFuniculaire(鋼索鉄道)とTeleferique(架空索道)を組み合わせた造語。フニテルは風に強いとされ、運休基準となる風速は毎秒20 mから30 mに引き上げ、従来は年間30日ほどあった運休日を15日程度に抑えられそうだとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "新型ロープウェイには、スイスCWA製のゴンドラ(定員18人)が50台設置されている。また、ゴンドラ・駅舎ともにバリアフリー対応になり、車椅子でも利用できる。架け替え後の年間送客数は5万人増の155万人を目指している。なお、ゴンドラに動力はなく、大涌谷駅と姥子駅のモーター(原動設備)でロープを操作している。終点駅である早雲山駅と桃源台駅には、ロープを引いて調節する緊張設備がある。ロープは直径48 mmであり、1本のロープを端でつなぎ合わせている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、架け換え時期の違いから、早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 桃源台間では、ゴンドラのドア構造などに若干の差異がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2023年4月18日改定。全区間均一運賃で、片道利用は大人1,500円・小人500円、往復利用は大人2,500円・小人800円となっており、いずれも途中下車が可能。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "鉄道線・鋼索線とは乗車券が異なり(合算不可)、ロープウェイの各駅にて線内完結の乗車券を購入する形となる。購入時にはPASMO、Suicaなど交通系ICカード全国相互利用サービス対応ICカード9種類を利用可能だが、電子マネーによる物販の扱いとなるため、PiTaPaは利用できない。", "title": "運賃" } ]
箱根ロープウェイ(はこねロープウェイ)は、神奈川県足柄下郡箱根町の早雲山駅と桃源台駅を結ぶ、箱根登山鉄道が運営する索道の総称である。早雲山線(そううんざんせん)と桃源台線(とうげんだいせん)の2路線で構成されている。 また、箱根ロープウェイ株式会社は、2022年3月31日までこれを運営していた小田急グループの企業である。1959年の開業以来同社によって運営されていたが、2022年4月1日に箱根登山鉄道に吸収合併された。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は小田急小田原線の新宿駅から、箱根登山鉄道線(箱根登山電車)、箱根登山ケーブルカー、当路線を経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色のOH()、箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・当路線・箱根海賊船は赤茶色のOH()で描かれている。
{{Pathnav|小田急電鉄|小田急箱根ホールディングス|箱根登山鉄道|frame=1}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = 箱根ロープウェイ |路線色 = #f04a00 |ロゴ = File:Odakyu_Hakone_StaNo.svg |ロゴサイズ = 40px |画像 = File:161223 Togendai Station Hakone Japan06s3.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 箱根ロープウェイ([[桃源台駅]]付近、2016年) |種類 = [[索道]] |国 = {{JPN}} |所在地 = [[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]] |起点 = [[早雲山駅]] |終点 = [[桃源台駅]] |経由路線 = 早雲山線、桃源台線 |駅数 = 4駅 |路線記号 = OH |開業 = [[1959年]][[12月6日]] |全通 = [[1960年]][[9月7日]] |運営者 = [[箱根登山鉄道]] |路線距離 = 4.0 [[キロメートル|km]] |最高速度 = 18 [[キロメートル毎時|km/h]] }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 箱根ロープウエイ株式会社 | 英文社名 = Hakone Ropeway Inc. | ロゴ = [[File:HakoneRopeway logo.svg|250px]] | 種類 = 株式会社 | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 250-0045 | 本社所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]城山1丁目15番1号 | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1959年]][[4月2日]]<ref name="odakyu-hakone">{{Cite web|和書|date=2020-6-10|url= http://www.odakyu-hakone.jp/group/|title= 小田急箱根グループ会社紹介|publisher= [[小田急箱根ホールディングス]]|accessdate=2021-11-25}}</ref> | 業種 = 陸運業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[索道|索道業]]・[[食事|飲食業]]・[[不動産|不動産業]]<ref name="odakyu-hakone" /> | 代表者 = 取締役[[社長]] 飯田 直保志 | 資本金 = 1億円<ref name="odakyu-hakone" /> | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 営業利益 = | 純利益 = | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = 63名<ref name="odakyu-hakone" /> | 支店舗数 = | 決算期 = | 主要株主 = [[小田急箱根ホールディングス]] 100% | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = | 特記事項 = [[2022年]][[4月1日]]に[[箱根登山鉄道]]に[[合併 (企業)|合併]]し解散。 }} {{BS-map |title = 停車場・施設・接続路線 |title-bg = #f04a00 |title-color = #fff7c9 |map = {{BS|FUNI||||}} {{BS|KBHFe|O1=HUBa|||[[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]]↑|}} {{BS|uKBHFa|O1=HUBe|0.000|OH62 [[早雲山駅]]||高757 m|}} {{BS|uSTR|}} {{BS|uKBHFe|O1=HUBa|1.472|OH63 [[大涌谷駅]]||高1044 m|}} {{BS|uKBHFa|O1=HUBe|}} {{BS|uSTR|}} {{BS|uBHF|2.737|OH64 [[姥子駅]]||高878 m|}} {{BS|uSTR|}} {{BS|uKBHFe|4.005|OH65 [[桃源台駅]]||高741 m|}} {{BS|BOOT|||[[箱根観光船|箱根海賊船]]|}} }} [[File:箱根登山001.jpg|thumb|250px|箱根登山鉄道の路線の[[ランドサット]]衛星写真。赤が鉄道線、橙が鋼索線、水色が箱根ロープウェイである。]] '''箱根ロープウェイ'''(はこねロープウェイ)は、[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]の[[早雲山駅]]と[[桃源台駅]]を結ぶ、[[箱根登山鉄道]]が運営する[[索道]]の総称である。'''早雲山線'''(そううんざんせん)と'''桃源台線'''(とうげんだいせん)の2路線で構成されている。 また、'''箱根ロープウェイ株式会社'''{{Efn|「ロープウェイ」の「エ」は公式サイトなど対外的には[[捨て仮名]]で表記されるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakoneropeway.co.jp/company/|title=会社案内|work=箱根ロープウェイ|accessdate=2020-08-28}}</ref>、登記上は「'''箱根ロープウエイ株式会社'''」と、「エ」を大書きで表記している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=6021001033114|title=箱根ロープウエイ株式会社の情報|website=国税庁法人番号公表サイト|accessdate=2020-08-28}}</ref>。}}({{Lang-en-short|Hakone Ropeway Inc.}})は、[[2022年]][[3月31日]]までこれを運営していた[[小田急グループ]]の企業である。[[1959年]]の開業以来同社によって運営されていたが、2022年[[4月1日]]に箱根登山鉄道に[[合併 (企業)|吸収合併]]された<ref name="2022-01-11"/>。 [[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''OH'''<ref group="注釈">'''O'''dakyu '''H'''akone</ref>で、番号は[[小田急小田原線]]の[[新宿駅]]から、[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]](箱根登山電車)、[[箱根登山鉄道鋼索線|箱根登山ケーブルカー]]、当路線を経て、[[芦ノ湖]]にある[[箱根観光船]](箱根海賊船)の[[元箱根港]]までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色のOH([[File:Odakyu odawara logo.svg|20px]])、箱根登山電車・箱根登山ケーブルカー・当路線・箱根海賊船は赤茶色のOH([[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|20px]])で描かれている。 == 概要 == [[2004年]][[12月18日]]をもって、[[六甲有馬ロープウェー]](全長5&nbsp;km)が利用者減に伴い部分休止したため、以降は営業区間が[[鉄道に関する日本一の一覧|日本一]]長い索道路線{{Refnest|group="注釈"|季節営業のスキーリフト・ゴンドラを含めると全長約5.5&nbsp;kmの[[ドラゴンドラ]]([[プリンスホテル]])が日本最長となる。}}である。乗車人員は2008年度に201万人を超え、[[2009年]][[7月9日]]付で[[ギネス世界記録]]のゴンドラ・リフト部門で乗車人数世界一に認定されている。 早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 姥子 - 桃源台間で運行設備が分割されており、全線を乗車する場合は大涌谷駅での乗り換えを必要とする(姥子駅では乗車したまま通過可能)。安全報告書<ref>{{Cite web|和書|title=安全報告書2021(2020年度安全報告書)|publisher=箱根ロープウェイ|date=2021-06-30|url=https://www.hakonenavi.jp/assets/file/saftyreport_2020.pdf|format=PDF|accessdate=2022-01-06|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>などでは、大涌谷駅を境に以東の区間を'''早雲山線'''、以西の区間を'''桃源台線'''と呼称する場合がある。 沿線のうち[[大涌谷]]周辺は[[火山ガス]]の影響を受けるため、[[呼吸器疾患]]や[[心臓病|心臓疾患]]を有する者、体調不良のある者などは早雲山 - 姥子間の乗車を控えるよう案内されている<ref name="volcanic_gas_info">{{Cite web|和書|url=https://www.hakonenavi.jp/volcanic_gas_info/caution/|title=注意喚起・安全対策|火山ガスについて|website=箱根ナビ|accessdate=2023-01-16}}</ref>。また、火山ガス濃度が上昇した場合は全線で運休する場合がある<ref name="volcanic_gas_info"/>。 === 新型ロープウェイへの架け替え === 2000年12月より順次架け替え工事を実施し、早雲山 - 大涌谷間では2002年、大涌谷 - 桃源台間では2007年より、[[オーストリア]]や[[スイス]]で採用されている「複式単線自動循環式(DLM)[[フニテル]]」が導入された<ref name="kaisetsu">{{Cite web|和書|url=https://www.hakonenavi.jp/hakone-ropeway/about/|title=ロープウェイの仕組み・設備|website=箱根ナビ|accessdate=2023-01-16}}</ref>。新型ロープウェイは、2本のロープでぶら下がったゴンドラが循環する形式であり、フニテルとは、屋根の左右にある握索装置の幅がゴンドラの幅よりも広いものを指す<ref name="kaisetsu" />。なお、「フニテル」とはフランス語のFuniculaire(鋼索鉄道)とTeleferique(架空索道)を組み合わせた造語<ref name="kaisetsu" />。フニテルは風に強いとされ、運休基準となる風速は毎秒20&nbsp;mから30&nbsp;mに引き上げ、従来は年間30日ほどあった運休日を15日程度に抑えられそうだとされる。 新型ロープウェイには、スイスCWA製のゴンドラ(定員18人)が50台設置されている。また、ゴンドラ・駅舎ともにバリアフリー対応になり、車椅子でも利用できる。架け替え後の年間送客数は5万人増の155万人を目指している。なお、ゴンドラに動力はなく、大涌谷駅と姥子駅のモーター(原動設備)でロープを操作している<ref name="kaisetsu" />。終点駅である早雲山駅と桃源台駅には、ロープを引いて調節する緊張設備がある<ref name="kaisetsu" />。ロープは直径48&nbsp;mmであり、1本のロープを端でつなぎ合わせている<ref name="kaisetsu" />。 なお、架け換え時期の違いから、早雲山 - 大涌谷間と大涌谷 - 桃源台間では、ゴンドラのドア構造などに若干の差異がある<ref name="kaisetsu" />。 * 設計製作メーカー - [[日本ケーブル]] * 搬器メーカー - [[ドッペルマイヤー・ガラベンタ・グループ#CWAコンストラクション| CWA-Constructions SA/Corp]]([http://www.cwa.ch/en/home.html 英語サイト]) == 歴史 == * [[1953年]](昭和28年)[[5月21日]]:事業許可<ref>『令和2年度 [[鉄道要覧]]』 p.373</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[12月6日]]:富士箱根伊豆国立公園の企画として開業<ref name="kaisetsu" />。当初は早雲山から大涌谷駅までだった<ref name="kaisetsu" />。 * [[1960年]](昭和35年)[[9月7日]]:大涌谷駅から桃源台駅までが開業し、全線開業となる<ref name="kaisetsu" />。この当時は早雲山駅 - 桃源台駅間を直通していた。 <!--* [[2000年]](平成12年)[[1月28日]]:新型ロープウェイに架け替える工事を行うため、代行のバスが運行開始([[3月2日]]まで)。--> ** [[2000年]]当時、設備全体が老朽化したことと、箱根の観光客が増えたためにロープウェイの輸送能力(当時は975人/時)が不足し、乗車待ちに1、2時間かかることもみられるようになったことから、ロープウェイの架け替えの検討が始まった<ref name="kaisetsu" />。検討の結果、箱根の気象に最も適していること、駅下部に動力機構を置くため耐震性に優れていること、屋根から左右に装置を取りつけて2本のケーブルを利用するため風に対する高い安定性を誇ることなどから、オーストリアやスイスで採用されていた複式単線自動循環式(DLM)フニテルの採用が決まった<ref name="kaisetsu" />。 * [[2001年]]12月から総工費約70億円をかけて、鉄塔解体、新設、駅舎改修などが行われた。スイス[[ドッペルマイヤー・ガラベンタ・グループ#CWAコンストラクション|CWA]]製のゴンドラ(定員18人)が全線に50台設置され、各駅で1分間隔の運行で、輸送力は1時間当たり975人から1440人に48%増となった。所要時間は架け替え前と比較して早雲山 - 大涌谷間で1分短縮の約8分、大涌谷 - 桃源台間で5分短縮の約15分となった。これにより運転区間が大涌谷で分断された。 * [[2002年]](平成14年) [[6月1日]]:早雲山駅から大涌谷駅まで、新型ロープウェイの運行が始まった<ref name="kaisetsu" />。 * [[2006年]](平成18年) [[6月1日]]:大涌谷駅から桃源台駅を新型ロープウェイに架け替える工事を行うため、代行のバスが運行開始(2007年(平成19年)5月31日まで)。 * [[2007年]](平成19年) 6月1日:大涌谷駅から桃源台駅まで、新型ロープウェイの運行が始まった<ref name="kaisetsu" />。 * [[2009年]](平成21年)[[7月9日]]:ギネスのゴンドラ・リフト部門で乗車人数世界一に認定された。 * [[2015年]](平成27年){{See also|大涌谷#2000年以後}} ** [[5月6日]]:気象庁により[[箱根山]]が[[噴火警戒レベル]]2(火口周辺規制)に指定<ref>[https://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_03_20150506060003.html 火山名 箱根山 噴火警報(火口周辺)平成27年5月6日06時00分] 気象庁地震火山部</ref>、大涌谷付近に[[避難指示]]が発令された事に伴い、早雲山駅 - 大涌谷駅間、大涌谷駅 - 桃源台駅間の全線全面運行停止<ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/700738.html|title=箱根ロープウェイ、箱根山 小規模噴火の可能性により全面運休|publisher=impress|date=2015-05-07|accessdate=2015-10-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201505/2015050600050|title=箱根山、火口周辺警報=小噴火の恐れ、初のレベル2-大涌谷付近に避難指示|publisher=時事ドットコム|date=2015-05-06 |accessdate=2015-05-13}}</ref>。 ** [[5月20日]]:運行停止措置長期化に伴い、早雲山駅 - 姥子駅 - 桃源台駅で代行バスの運行開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakoneropeway.co.jp/info/index.cgi#193 |title=貸切バスによる箱根ロープウェイの代行バス運行開始について |publisher=箱根ロープウェイ |date=2015-05-15 |accessdate=2015-05-20}}</ref>。運行は、かつての[[箱根山戦争|抗争相手]]でもあった[[西武グループ]]の[[伊豆箱根バス]]が担当。 ** [[6月30日]]:午後0時30分に噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられ、代行バスも運行停止<ref>[http://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/20150630180223984.pdf 観光客の皆さまへ(箱根町企画観光部観光課)]</ref>。 ** [[7月6日]]:運行経路を[[箱根登山鉄道]][[強羅駅]] - 桃源台駅と桃源台駅 - 姥子駅の2ルートに分け、代行バスの運行再開<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakoneropeway.co.jp/info/index.cgi#199|title=箱根ロープウェイ代行バス 7月6日(月)より運行開始|publisher=箱根ロープウェイ|date=2015-07-06|accessdate=2015-08-30}}</ref>。 ** [[9月14日]]:9月11日に噴火警戒レベルが2に下がったことから、代行バスの運行経路を早雲山駅 - 姥子駅 - 桃源台駅に変更<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakoneropeway.co.jp/info_img/206_pdf.pdf|title=箱根ロープウェイ代行バス 県道開通による運行経路の変更について|format=PDF|publisher=箱根ロープウェイ|date=2015-09-13|accessdate=2015-11-19}}</ref>。 ** [[10月30日]]:姥子駅 - 桃源台駅間の運行が再開。ただし、第2、第4木曜日はメンテナンスのため終日運休。代行バスは引き続き運行<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakoneropeway.co.jp/info_img/215_pdf.pdf|title=箱根ロープウェイ姥子駅~桃源台駅間の営業運転再開について|format=PDF|publisher=箱根ロープウェイ|date=2015-10-26|accessdate=2015-11-19}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[4月23日]]:姥子駅 - 大涌谷駅間の運行が再開。ただし、火山ガスの影響のため大涌谷駅の駅舎外に出ることはできず、駅舎内も一部の立ち入りのみとされる<ref>[http://www.hakoneropeway.co.jp/info_img/223_pdf.pdf 箱根ロープウェイ 営業運転区間の延長のお知らせ] 箱根ロープウェイ 2016年4月18日</ref>。 ** [[7月26日]]:全線運行再開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20160722/k10010605011000.html|publisher=NHK|date=2016-07-22 |accessdate=2016-07-22|title=箱根ロープウェイ 26日から全線での運行再開|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160723163313/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20160722/k10010605011000.html|archivedate=2016-07-23|deadlinkdate=2020-03-27}}</ref>。代行バスの運行終了。 * [[2019年]](令和元年) **[[5月19日]]:気象庁により箱根山が噴火警戒レベル2(火口周辺規制)に指定<ref>[https://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_03_20190518171517.html 火山名 箱根山 噴火警報(火口周辺) 令和元年 5月19日02時15分] 気象庁地震火山部</ref>、大涌谷付近に避難指示が発令された事に伴い全線で運行停止<ref>[https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakoneropeway.co.jp/wp-content/uploads/2019/05/190523_hakoneRWbus_japanese.pdf 箱根ロープウェイ運休および代行バスの運行について] 箱根ロープウェイ 2019年5月19日</ref>。同日より早雲山駅 - 姥子駅 - 桃源台駅で代行バスの運行開始。 **[[9月21日]]:桃源台駅 - 姥子駅間の運行が再開<ref name="交通20190925">{{Cite news |title=一部区間で営業運転再開 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2019-09-25 }}</ref>。代行バスは姥子駅から早雲山駅までの間で継続<ref name="交通20190925"/>。 **[[10月26日]]:全線運行再開<ref>{{Cite news |title=箱根ロープウェイ、全線で再開 5カ月ぶりの景色に歓声 |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |publisher=朝日新聞社 |url=https://www.asahi.com/articles/ASMBT514HMBTULOB00H.html |date=2019-10-26 |accessdate=2020-03-11}}</ref>。代行バスの運行終了。 * [[2022年]](令和4年)4月1日:運営会社の箱根ロープウエイ<!--登記上表記-->が同じ[[小田急箱根ホールディングス]]傘下の[[箱根登山鉄道]]と合併<ref name="2022-01-11">{{Cite press release|和書|url=https://www.hakone-tozan.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2022/01/6ad6378fbcf249a4e29200b2524a7f71.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220111143423/https://www.hakone-tozan.co.jp/_wp/wp-content/uploads/2022/01/6ad6378fbcf249a4e29200b2524a7f71.pdf|format=PDF|language=日本語|title=箱根登山鉄道株式会社と箱根ロープウェイ株式会社の合併に関するお知らせ|publisher=箱根登山鉄道/箱根ロープウェイ|date=2022-01-11|accessdate=2022-01-15|archivedate=2022-01-11}}</ref>。ロープウェイも箱根登山鉄道による運営となる。 === 今後の予定 === *ゴンドラをCWA製「TARIS(タリス)」に更新する計画がある<ref name="2018-08-01">{{Cite press release|和書|format=PDF|title=小田急箱根グループでは2020年度にかけて箱根エリアにおいて総額100億円規模の大型投資をスタートします|url=https://www.hakoneropeway.co.jp/info_img/284_pdf.pdf|publisher=小田急箱根ホールディングス|date=2018-08-01|accessdate=2020-07-01}}</ref><ref name="2018-08-03">{{Cite web|和書|title=箱根に100億円投資、小田急が挑む「国際観光地競争」|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1808/03/news041.html|author=[[杉山淳一]]|publisher=[[ITmedia]]|date=2018-08-03|accessdate=2020-07-01}}</ref>。[[2018年]](平成30年)の発表時点では、まず早雲山駅 - 大涌谷駅間で[[2021年]](令和3年)4月に更新<ref name="2018-08-01" />、その後時期未定ながら大涌谷駅 - 桃源台駅間も更新する予定としていた<ref name="2018-08-03" />。 == 運転方式 == * [[早雲山駅]] - [[大涌谷駅]]間 ** [[複線索道|複線自動循環式ロープウェイ]]( - [[2001年]]) ** 複式単線自動循環式 (DLM) [[フニテル]]([[2002年]] - ) * [[大涌谷駅]] - [[桃源台駅]]間 ** 複線自動循環式ロープウェイ( - [[2006年]]) ** 複式単線自動循環式 (DLM) フニテル([[2007年]] - ) == 駅一覧 == * [[駅ナンバリング|駅番号]]は、2014年1月より順次導入<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。 * 全駅とも[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]に所在。 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:1em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|{{縦書き|路線名}} !style="width:4em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅番号 !style="width:6em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅名 !style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|標高 (m) !style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅間距離 (m) !style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #f15a22;"|累計距離 (m) !style="border-bottom:solid 3px #f15a22;"|接続路線・備考 |- |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;font-size:80%;"|{{縦書き|早雲山線|height=4.5em}} !OH62 |[[早雲山駅]] |style="text-align:right;"|757 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0 |[[箱根登山鉄道]]:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] [[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]](箱根登山ケーブルカー) (OH62) |-style="height:1em;" !rowspan="2"|OH63 |rowspan="2"|[[大涌谷駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|1,044 |rowspan="2" style="text-align:right;"|1,472 |rowspan="2" style="text-align:right;"|1,472 |rowspan="2"|''早雲山駅方面と桃源台駅方面は大涌谷駅で乗換'' |-style="height:1em;" |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;font-size:80%;"|{{縦書き|桃源台線|height=4.5em}} |- !OH64 |[[姥子駅]] |style="text-align:right;"|878 |style="text-align:right;"|1,265 |style="text-align:right;"|2,737 |&nbsp; |- !OH65 |[[桃源台駅]] |style="text-align:right;"|741 |style="text-align:right;"|1,268 |style="text-align:right;"|4,005 |[[箱根観光船]]:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px|OH]] 箱根海賊船(桃源台港) (OH65) |} [[File:Route of Hakone Ropeway 01-ja.svg|thumb|left|550px|箱根ロープウェイのルート(比高断面図)]] {{clear}} == 運賃 == 2023年4月18日改定<ref name="fare2023">{{Cite web|和書|date=2023-02-10 |url=https://www.hakonenavi.jp/_wp/wp-content/uploads/2023/02/697091e1cfacbfb6ec34e74be415e12b.pdf |title=箱根ロープウェイの旅客運賃改定について |format=PDF |publisher=箱根登山鉄道 |accessdate=2023-10-02}}</ref>。全区間均一運賃で、片道利用は大人1,500円・小人500円、往復利用は大人2,500円・小人800円となっており、いずれも[[途中下車]]が可能<ref name="fare2023"/>。 [[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]・[[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]]とは乗車券が異なり(合算不可)、ロープウェイの各駅にて線内完結の乗車券を購入する形となる。購入時には[[PASMO]]、[[Suica]]など[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]対応ICカード9種類を利用可能だが、電子マネーによる物販の扱いとなるため、[[PiTaPa]]は利用できない。 == ギャラリー == <gallery> ファイル:Hakone-ropeway.JPG|箱根ロープウェイのルート([[金時山]]山頂より) </gallery> <gallery caption="早雲山駅 - 大涌谷駅間"> ファイル:161223 Owakudani Station Hakone Japan02s3.jpg|箱根ロープウェイ、[[大涌谷駅]]近く ファイル:Hakone Ropeway 2.jpg|[[早雲山駅]] - [[大涌谷駅]]間の索道、[[大涌谷駅]]近く File:Hakone Ropeway daikobus 01 2015-11-16.JPG|箱根ロープウェイ代行バス(2015年11月16日、早雲山駅にて) </gallery> <gallery caption="大涌谷駅 - 桃源台駅間"> ファイル:Hakone Ropeway 1.jpg|[[大涌谷駅]] - [[桃源台駅]]間の旧索道、[[大涌谷駅]]近く Image:Hakone Ropeway.jpg|旧型ゴンドラ(2007年8月、姥子駅前にて) File:Hakone Ropeway Gondola 20050105.jpg|金太郎柄の旧型ゴンドラ(2005年1月撮影) File:Hakone Ropeway cable grip 20050105.jpg|桃源台-大涌谷間旧ゴンドラ走行装置(2005年1月撮影) File:Hakone Ropeway trestles 20061230.jpg|新しい支柱(2006年12月撮影) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[箱根山戦争]] * [[箱根フリーパス]] == 外部リンク == {{CommonsCat|Hakone Ropeway}} * [https://www.hakonenavi.jp/hakone-ropeway/ 箱根ロープウェイ] - 箱根ナビ Powered by [[小田急箱根ホールディングス|小田急箱根グループ]] * {{YouTube|c=UCe2nln3RQj5E5vehicBi8TQ|箱根ロープウェイ Hakone Ropeway【公式】}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はこねろおふうえい}} [[Category:日本の索道]] [[Category:箱根町の交通]] [[Category:箱根登山鉄道|路はこねろおふうえい]] [[Category:索道事業者]] [[Category:小田原市の企業]] [[Category:小田急箱根グループ]] [[Category:日本のギネス世界記録]]
2003-08-20T03:14:42Z
2023-11-30T11:49:24Z
false
false
false
[ "Template:BS-map", "Template:Refnest", "Template:Cite news", "Template:YouTube", "Template:Pathnav", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:CommonsCat", "Template:縦書き", "Template:Lang-en-short", "Template:See also", "Template:Clear", "Template:Reflist", "Template:Cite press release", "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 会社" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4
13,594
日本天文学会
公益社団法人日本天文学会(にほんてんもんがっかい)は、日本の天文学研究者を中心とする学会である。天文学の進歩及び普及を目的とする。事務局は東京都三鷹市の国立天文台三鷹キャンパス内にある。 日本天文学会では、総会・理事会・評議員会の組織を設けている。以下に概要のみを記載する。 第1〜3代は「会長」、社団法人時は「理事長」、公益社団法人となってからの第47代以降は再び「会長」の呼称を使用している。第40代以降は1月1日を起点にして2年毎の任期制であったが、法人化移行に伴い会期の開始時期がずれたことに対応し、第47代以降は任期の起点が1月1日ではなくなっている。以下は歴代の理事長・会長の一覧である。括弧内の役職名は就任当時のものである。 多くの学術専門団体と同じくして、運営形態は社団法人の形を取る。理事・監事は正会員の中から選任される。任期は2年。評議員は、日本天文学会において、2年毎に正会員の投票によって半数が改選が行われる。評議員の仕事は、学会が行う各種事業の審議。任期は4年。 各事業を行うにあたり、各事業委員会を設置している。学会の定款や規則(各委員会の規則も含む)は、日本天文学会ホームページなどに掲載されている。 日本天文学会は正会員・準会員・団体会員・賛助会員の各会員から構成されている。会員数は2023年3月31日現在で3,358名。正会員は大学卒業程度の天文学の学識を有するか、天文学・天文観測に一定の経験があることを入会資格としており(学生は原則として大学院生(進学予定含む)以上)、入会時には正会員1名の推薦が必要。準会員は天文学会の目的に賛同し協力する会員であり、資格を問わない。賛助会員は若手研究者の育成趣旨に賛同する事業者及び個人。また、団体会員は法人か公共性のある団体。 年2回、春と秋に日本国内の大学等を会場として年会が開催され、研究者による研究発表や一般向けの講演会が行なわれる。年会の会期中には正会員による総会が開かれ、学会の運営に関する事項の議決などが行なわれる。 日本天文学会の年会では、日本国内の学会の中でいち早く保育室を設置したり、中学・高校生による天文学の研究発表のためのジュニアセッションを設けるなどの先進的な試みが注目を集めている。 今後、年会は学術機関を会場とすることのみならず、公開天文台などでも実施を行う予定。また、各地で講師派遣による講演会や教室支援を国立天文台、天文教育普及研究会、惑星協会と共同にて開催。 天文学会員同士の情報交換を行うためのメーリングリスト、TENNET(天文学ネットワーク)を運営。但し、非営利目的とした利用に限られている。 日本天文学会では、欧文研究報告 (Publications of the Astronomical Society of Japan, PASJ) を隔月で発行している。また、月刊誌『天文月報』を発行している。 日本天文学会では、事業の一環として以下の各賞を授与している。 日本天文学会では、会員を対象に以下のような助成事業を実施。 日本天文学会では、篤志家から寄せられた寄付による基金に基づき、21世紀初頭における天文学研究の最前線を説明した教科書の編纂を実施。 2018年から、天文学辞典が立ち上げられた。日本天文学会「インターネット天文学辞典編集委員会」が運営している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "公益社団法人日本天文学会(にほんてんもんがっかい)は、日本の天文学研究者を中心とする学会である。天文学の進歩及び普及を目的とする。事務局は東京都三鷹市の国立天文台三鷹キャンパス内にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本天文学会では、総会・理事会・評議員会の組織を設けている。以下に概要のみを記載する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第1〜3代は「会長」、社団法人時は「理事長」、公益社団法人となってからの第47代以降は再び「会長」の呼称を使用している。第40代以降は1月1日を起点にして2年毎の任期制であったが、法人化移行に伴い会期の開始時期がずれたことに対応し、第47代以降は任期の起点が1月1日ではなくなっている。以下は歴代の理事長・会長の一覧である。括弧内の役職名は就任当時のものである。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多くの学術専門団体と同じくして、運営形態は社団法人の形を取る。理事・監事は正会員の中から選任される。任期は2年。評議員は、日本天文学会において、2年毎に正会員の投票によって半数が改選が行われる。評議員の仕事は、学会が行う各種事業の審議。任期は4年。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "各事業を行うにあたり、各事業委員会を設置している。学会の定款や規則(各委員会の規則も含む)は、日本天文学会ホームページなどに掲載されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本天文学会は正会員・準会員・団体会員・賛助会員の各会員から構成されている。会員数は2023年3月31日現在で3,358名。正会員は大学卒業程度の天文学の学識を有するか、天文学・天文観測に一定の経験があることを入会資格としており(学生は原則として大学院生(進学予定含む)以上)、入会時には正会員1名の推薦が必要。準会員は天文学会の目的に賛同し協力する会員であり、資格を問わない。賛助会員は若手研究者の育成趣旨に賛同する事業者及び個人。また、団体会員は法人か公共性のある団体。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "年2回、春と秋に日本国内の大学等を会場として年会が開催され、研究者による研究発表や一般向けの講演会が行なわれる。年会の会期中には正会員による総会が開かれ、学会の運営に関する事項の議決などが行なわれる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本天文学会の年会では、日本国内の学会の中でいち早く保育室を設置したり、中学・高校生による天文学の研究発表のためのジュニアセッションを設けるなどの先進的な試みが注目を集めている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "今後、年会は学術機関を会場とすることのみならず、公開天文台などでも実施を行う予定。また、各地で講師派遣による講演会や教室支援を国立天文台、天文教育普及研究会、惑星協会と共同にて開催。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天文学会員同士の情報交換を行うためのメーリングリスト、TENNET(天文学ネットワーク)を運営。但し、非営利目的とした利用に限られている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本天文学会では、欧文研究報告 (Publications of the Astronomical Society of Japan, PASJ) を隔月で発行している。また、月刊誌『天文月報』を発行している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本天文学会では、事業の一環として以下の各賞を授与している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本天文学会では、会員を対象に以下のような助成事業を実施。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本天文学会では、篤志家から寄せられた寄付による基金に基づき、21世紀初頭における天文学研究の最前線を説明した教科書の編纂を実施。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2018年から、天文学辞典が立ち上げられた。日本天文学会「インターネット天文学辞典編集委員会」が運営している。", "title": "主な事業" } ]
公益社団法人日本天文学会(にほんてんもんがっかい)は、日本の天文学研究者を中心とする学会である。天文学の進歩及び普及を目的とする。事務局は東京都三鷹市の国立天文台三鷹キャンパス内にある。
{{出典の明記|date=2011年12月}} {{学会 |学会名 = 公益社団法人日本天文学会 |ふりがな = |画像 = <!-- ***.jpg --> |画像説明 = |英称 = The Astronomical Society of Japan |公用語表記 = <!-- {{Lang|言語タグ|文字列}} --> |学会の略称 = |法人格 = [[公益社団法人]] |学会種別 = [[天文学]]系 |設立年 = [[1908年]][[1月19日]]{{R|gaiyo}} |前身 = |代表者 = [[井田茂]]([[2023年]]6月 - ) |国 = {{JPN}} |郵便番号 = 181-8588 |住所 = [[東京都]][[三鷹市]]大沢2-21-1<br />[[国立天文台]]内 |会員数 = 3,358名([[2023年]][[3月31日]]現在){{R|gaiyo}} |刊行物 = 『欧文研究報告 (PASJ)』、『天文月報』、『年会予稿集』 |表彰 = [[林忠四郎賞]]など |ウェブサイト = {{Official URL}} }} '''公益社団法人日本天文学会'''(にほんてんもんがっかい)は、[[日本]]の[[天文学]]研究者を中心とする[[学会]]である。天文学の進歩及び普及を目的とする。事務局は[[東京都]][[三鷹市]]の[[国立天文台]]三鷹キャンパス内にある。 == 沿革 == * [[1908年]](明治41年) - [[任意団体]]として、設立。設立発起人は、[[寺尾寿]]らによる。 * [[1922年]] (大正11年) - [[平山信]](東京天文台第2代台長)らによって、[[ローマ市]]で開催された[[国際天文学連合]] ({{Lang|en|IAU}}) 第1回総会に出席。 * [[1935年]](昭和10年) - [[文部省]]による承認によって、[[社団法人]]化。 * [[1946年]](昭和21年) - 新法によって、現在の社団法人。 * [[1997年]](平成8年) - [[京都]]で {{Lang|en|IAU}} 総会を開催し、[[明仁天皇]]が臨席した。 * [[2008年]](平成20年) - 学会創立百周年を迎えた。 ** [[3月21日]] - 「日本天文学会創立100周年」記念切手が発行された{{R|japanpost}}。 ** [[3月24日]] - 記念講演会、祝賀会が催された。 ** [[4月2日]] - 恒星社厚生閣によって、学会創立百年記念事業の一環として「日本の天文学の百年」を刊行。[[東亜天文学会]]を初めとして、日本の天文学者が欧米の研究者と伴に切り開いた20世紀の天文学についての文献が刊行された。 == 組織 == 日本天文学会では、総会・理事会・評議員会の組織を設けている。以下に概要のみを記載する。 === 理事長・会長 === 第1〜3代は「会長」、社団法人時は「理事長」、公益社団法人となってからの第47代以降は再び「会長」の呼称を使用している{{R|asjpresidents}}。第40代以降は1月1日を起点にして2年毎の任期制であったが、法人化移行に伴い会期の開始時期がずれたことに対応し、第47代以降は任期の起点が1月1日ではなくなっている。以下は歴代の理事長・会長の一覧である。括弧内の役職名は就任当時のものである{{R|asjpresidents}}。 ==== 会長 (任意団体時) ==== * 初代:[[寺尾寿]]([[国立天文台|東京天文台]]長):明治41年1月19日 - 大正8年4月26日 * 第2代:[[平山信]](東京天文台長):大正8年4月26日 - 大正12年4月22日 * 第3代:[[平山清次]](東京帝国大学教授):大正12年4月22日 - 大正14年5月2日 ==== 理事長 ==== * 第4代:[[早乙女清房]](東京帝国大学教授):大正14年5月2日 - 昭和2年4月9日 * 第5代:平山信(東京天文台長):昭和2年4月9日 - 昭和4年4月20日 * 第6代:平山清次(東京帝国大学教授):昭和4年4月20日 - 昭和6年5月2日 * 第7代:早乙女清房(東京天文台長):昭和6年5月2日 - 昭和8年5月6日 * 第8代:平山清次(東京帝国大学教授):昭和8年5月6日 - 昭和10年4月21日 * 第9代:平山信(元 東京天文台長):昭和10年4月21日 - 昭和12年4月17日 * 第10代:[[関口鯉吉]](東京天文台長):昭和12年4月17日 - 昭和14年4月23日 * 第11代:[[国枝元治]]([[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]]教授):昭和14年4月23日 - 昭和16年4月19日 * 第12代:関口鯉吉(東京天文台長):昭和16年4月19日 - 昭和18年4月25日 * 第13代:[[本田親二]]([[東京物理学校]]教授):昭和18年4月25日 - 昭和20年<ref name="showa20">戦時中の資料消失のため月日は不明。</ref> * 第14代:関口鯉吉(東京天文台長):昭和20年<ref name="showa20"/> - 昭和22年10月19日 * 第15-16代:[[萩原雄祐]](東京天文台長):昭和22年10月19日 - 昭和28年5月1日 * 第17代:[[宮地政司]](東京大学教授):昭和28年5月1日 - 昭和30年4月30日 * 第18代:[[鏑木政岐]](東京大学教授):昭和30年4月30日 - 昭和32年4月27日 * 第19代:[[野附誠夫]](東京大学教授):昭和32年4月27日 - 昭和34年5月15日 * 第20代:[[池田徹郎]]([[水沢VLBI観測所|緯度観測所]]長):昭和34年5月15日 - 昭和36年5月12日 * 第21代:[[藤田良雄]](東京大学教授):昭和36年5月12日 - 昭和38年5月17日 * 第22代:[[一柳寿一]]([[東北大学]]教授):昭和38年5月17日 - 昭和40年5月8日 * 第23代:[[広瀬秀雄]](東京天文台長):昭和40年5月8日 - 昭和42年5月11日 * 第24代:[[清水彊]]([[京都大学]]教授):昭和42年5月11日 - 昭和44年5月21日 * 第25代:[[宮本正太郎]](京都大学教授):昭和44年5月21日 - 昭和46年5月19日 * 第26代:[[奥田豊三]](緯度観測所長):昭和46年5月19日 - 昭和48年5月17日 * 第27代:[[斉藤国治]](東京大学教授):昭和48年5月17日 - 昭和50年5月29日 * 第28代:[[弓滋]](緯度観測所部長):昭和50年5月29日 - 昭和52年5月19日 * 第29代:[[末元善三郎]](東京天文台長):昭和52年5月19日 - 昭和54年5月10日 * 第30代:[[坪川家恒]](緯度観測所長):昭和54年5月10日 - 昭和56年5月13日 * 第31代:[[川口市郎]](京都大学教授):昭和56年5月13日 - 昭和58年5月19日 * 第32代:[[古在由秀]](東京天文台長):昭和58年5月19日 - 昭和60年5月23日 * 第33代:[[早川幸男]](名古屋大学教授):昭和60年5月23日 - 昭和62年5月13日 * 第34代:[[高窪啓弥]](東北大学教授):昭和62年5月13日 - 平成元年5月17日 * 第35代:[[小暮智一]](京都大学教授):平成元年5月17日 - 平成3年5月16日 * 第36代:[[田中靖郎]]([[宇宙科学研究所]]教授):平成3年5月16日 - 平成5年5月12日 * 第37代:[[内田豊]](東京大学教授):平成5年5月12日 - 平成7年5月23日 * 第38代:[[杉本大一郎]](東京大学教授):平成7年5月23日 - 平成9年3月31日 * 第39代:[[奥田治之]](宇宙科学研究所教授):平成9年4月1日 - 平成10年12月31日 * 第40代:[[尾崎洋二]]([[東京大学]]教授):平成11年4月1日 - 平成12年12月31日 * 第41代:[[田原博人]]([[宇都宮大学]]教授):平成13年1月1日 - 平成14年12月31日 * 第42代:[[松田卓也]]([[神戸大学]]教授):平成15年1月1日 - 平成16年12月31日 * 第43代:[[祖父江義明]](東京大学教授):平成17年1月1日 - 平成18年12月31日 * 第44代:[[土佐誠]]([[東北大学]][[理学部]]教授):平成19年1月1日 - 平成20年12月31日 * 第45代:[[國枝秀世]]([[名古屋大学]]理学部教授):平成21年1月1日 - 平成22年12月31日 * 第46代:[[岡村定矩]](東京大学理学部教授):平成23年1月1日 - 平成24年12月28日 ==== 会長 ==== * 第47代:[[櫻井隆]](国立天文台教授):平成24年12月28日 - 平成27年5月31日 * 第48代:[[市川隆]](東北大学教授):平成26年5月31日 - 平成29年6月3日 * 第49代:[[柴田一成 (宇宙物理学者)|柴田一成]](京都大学理学研究科教授):平成29年6月3日 - [[令和]]元年6月7日 * 第50代:[[梅村雅之]]([[筑波大学]]教授):令和元年6月8日 - 令和3年6月7日 * 第51代:[[山本智]](東京大学教授):令和3年6月12日 - 令和5年6月 * 第52代:[[井田茂]]([[東京工業大学]]教授):令和5年6月 - === 理事・監事・評議員 === 多くの学術専門団体と同じくして、運営形態は社団法人の形を取る。理事・監事は正会員の中から選任される。任期は2年。評議員は、日本天文学会において、2年毎に正会員の投票によって半数が改選が行われる。評議員の仕事は、学会が行う各種事業の審議。任期は4年。 === 委員会・支部 === 各事業を行うにあたり、各事業委員会を設置している。学会の定款や規則(各委員会の規則も含む)は、日本天文学会ホームページなどに掲載されている。 === 会員 === 日本天文学会は正会員・準会員・団体会員・賛助会員の各会員から構成されている。会員数は2023年3月31日現在で3,358名。正会員は大学卒業程度の天文学の学識を有するか、天文学・天文観測に一定の経験があることを入会資格としており(学生は原則として大学院生(進学予定含む)以上)、入会時には正会員1名の推薦が必要。準会員は天文学会の目的に賛同し協力する会員であり、資格を問わない。賛助会員は若手研究者の育成趣旨に賛同する事業者及び個人。また、団体会員は法人か公共性のある団体。 == 主な事業 == === 年会 === 年2回、春と秋に日本国内の大学等を会場として年会が開催され、研究者による研究発表や一般向けの講演会が行なわれる。年会の会期中には正会員による総会が開かれ、学会の運営に関する事項の議決などが行なわれる。 日本天文学会の年会では、日本国内の学会の中でいち早く保育室を設置したり、中学・高校生による天文学の研究発表のための[[日本天文学会ジュニアセッション|ジュニアセッション]]を設けるなどの先進的な試みが注目を集めている。 今後、年会は学術機関を会場とすることのみならず、公開天文台などでも実施を行う予定。また、各地で講師派遣による講演会や教室支援を[[国立天文台]]、[[天文教育普及研究会]]、[[惑星協会]]と共同にて開催。 === メーリングリストの運営 === 天文学会員同士の情報交換を行うためのメーリングリスト、TENNET(天文学ネットワーク)を運営。但し、非営利目的とした利用に限られている。 === 刊行物 === 日本天文学会では、[[欧文研究報告]] (''Publications of the Astronomical Society of Japan'', PASJ) を隔月で発行している。また、月刊誌『[[天文雑誌|天文月報]]』を発行している。 === 賞 === 日本天文学会では、事業の一環として以下の各賞を授与している。 ; 天体発見賞・天体発見功労賞 : 新天体を発見した観測者を表彰。 ; 天文功労賞 : 観測活動によって天文学の進歩・普及に貢献した観測者を表彰。 ; 研究奨励賞 : 優れた研究成果を挙げた若手の天文学研究者を表彰。 ; [[林忠四郎賞]] : 宇宙物理学者[[林忠四郎]]からの寄付を基金とし、天文学での独創的な研究に対して授与。 ; [[欧文研究報告#欧文研究報告論文賞|欧文研究報告論文賞]] : PASJ に過去5年以内に掲載された論文の中で独創的かつ天文分野への寄与の大きい優れた論文に対して授与。 === 助成 === 日本天文学会では、会員を対象に以下のような助成事業を実施。 ; [[早川幸男]]基金 : 元理事長・早川幸男の遺族から寄せられた寄付による基金に基づき、若手研究者などへの助成を実施。 ; 内地留学奨学金 : 主にアマチュア天文研究者が日本国内にある研究機関において、短期的な研究をする為の費用の一部を助成。 === 教科書編纂 === 日本天文学会では、篤志家から寄せられた寄付による基金に基づき、21世紀初頭における天文学研究の最前線を説明した教科書の編纂を実施。 : シリーズ現代の天文学 全17巻, 日本評論社, 2007年1月〜 === 天文学辞典 === 2018年から、'''天文学辞典'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://astro-dic.jp/|title=天文学辞典|accessdate=2022-11-28|publisher=日本天文学会}}</ref>が立ち上げられた。日本天文学会「インターネット天文学辞典編集委員会」が運営している<ref>{{Cite web|和書|url=https://astro-dic.jp/about/astro-dic/|title=天文学辞典|accessdate=2022-11-28|publisher=日本天文学会}}</ref>。 === その他 === * [[天文学]]及び[[天体物理学]]の講演会を実施する場合には、関連する専門分野の講師紹介事業を行っている。 * [[世界天文年2009]]に向けて、[[国際連合教育科学文化機関]]、[[国際天文学連合]]、[[公開天文台一覧|日本公開天文台協会]]、[[プラネタリウムの一覧|日本プラネタリウム協議会]]、[[天文教育普及研究会]]などと伴に、世界イベントと連動する形で、国内イベントの企画・準備を担当。現在は、広報などを実施。 * 国立天文台(正確には、社団法人'''日本天文学会''')では現在、[[ペルー]]にある電波天文台の支援要請に応じて、ペルーにある電波望遠鏡の運営支援・研究協力等の活動も行っている<ref>罹災した電波望遠鏡の改築及び観測装置の近代化に向けた無償資金協力の実施による。</ref>。また、各国の国立天文台や王立天文台との間で研究支援を初めとして、施設利用等による観測協力、観測機器開発協力、観測データの相互利用、更には研究者の交流等の連携を実施。 * 夜の[[サーチライト]]などによる空への明かりを減らすことによって[[光害]]を防止し、[[省エネルギー]]と天体観測環境の保全に向けた要望を実施。空路照明・道路照明や家庭用・事業用照明などは仕方のないものであるが、宣伝目的などによって、夜空を照らす明かりを減らす事によって、より良い天体観測環境を維持し、天文科学の発展のために協力を要望している。 * 電力線を用いた情報通信ネットワーク([[電力線搬送通信]] : PLC)において、微弱な高周波電波が生じる。この電波が微弱な宇宙電波観測において障害となる恐れがあるため、この対策が確立する以前のPLC導入について[[総務省]]に対し強い懸念を表明している{{R|asj020708}}。なお、ローカルエリア内での電力線を用いた情報通信ネットワークでは、[[ノイズフィルタ]]等の設置により、回避が可能なため、特に要望は行っていない。 * 2019年に[[天文遺産#日本天文遺産|日本天文遺産]]を創設した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="asjpresidents">{{Cite web|和書 | url=https://www.asj.or.jp/asj/archive/presidents-list.pdf | title=日本天文学会歴代会長・理事長一覧 | access-date=2023-09-21 | date=2019-06-08 | publisher=日本天文学会}}</ref> <ref name="japanpost">{{Cite web|和書 | url=https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2007/h200321_t.html | title=日本天文学会創立100周年の発行(日本郵便) | access-date=2017-05-09|date=2007 | publisher=[[日本郵便]]}}</ref> <ref name="asj020708">{{Cite web|和書 | title=電力線搬送通信が低周波電波天文観測にもたらす有害干渉への懸念 | url=https://www.asj.or.jp/news/020708.html | date=2002-07-08 | access-date=2018-6-25}}</ref> <ref name="gaiyo">{{Cite web|和書 | title=日本天文学会の概要 | url=https://www.asj.or.jp/asj/intro.html | date=2023-6-19 | access-date=2023-09-21}}</ref> }} == 関連項目 == * [[学会]]、[[日本の学会一覧]]、[[日本学術会議協力学術研究団体]] * [[天文学]]、[[位置天文学]]、[[天体力学]]、[[天体物理学]] * [[天体観測]]、[[天体観望]] * [[天文学者の一覧]]、[[日本の天文学者の一覧]]、[[天文家]] * [[公開天文台一覧]]、[[国立天文台]] * [[理論天文学宇宙物理学懇談会]] * [[光学赤外線天文連絡会]] * [[宇宙電波懇談会]] * [[高エネルギー宇宙物理連絡会]] * [[太陽研究者連絡会]] * [[天文情報処理研究会]] * [[国際天文学連合]] * [[天文教育普及研究会]] * [[日本惑星科学会]] * [[日本スペースガード協会]] * [[東亜天文学会]] * [[惑星協会]] * [[日本天文学会ジュニアセッション]] * [[高校生天体観測ネットワーク]] == 外部リンク == * {{Official website}} * [https://astro-dic.jp/ 天文学辞典] {{天文学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんてんもんかつかい}} [[Category:公益社団法人 (内閣総理大臣認定)]] [[Category:公益社団法人 (学術団体)]] [[Category:東京都の公益法人]] [[Category:日本学術会議協力学術研究団体]] [[Category:天文学系学会]] [[Category:日本の天文学]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:三鷹市]] [[Category:1908年設立の組織]]
2003-08-20T03:19:36Z
2023-11-23T06:34:13Z
false
false
false
[ "Template:Official website", "Template:出典の明記", "Template:学会", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:R", "Template:Reflist", "Template:天文学", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%AD%A6%E4%BC%9A
13,595
田原市
田原市(たはらし)は、愛知県の南端部に位置する市。 東三河地方に位置し、東側で豊橋市と接している。太平洋に面する渥美半島の大部分を占めている。 平安時代中期頃に熊野修験者たちが当地に流入し、紀伊国の地名にちなんで集落の名をつけたものという。 地名の故地は和歌山県東牟婁郡串本町にあり、近在する蔵王山も同様の由来をもつ。 「田原」という地名自体の「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指すという。 田原市は渥美半島の大部分を占める自治体である。渥美半島は東西50km・南北5-8kmと東西に長く、標高200-300mの山地塊、洪積台地、沖積低地からなる。全体的に洪積台地である太平洋側が高く、三河湾に向かって徐々に低くなる。渥美半島の南西端には伊良湖岬がある。 渥美半島の北側は三河湾の渥美湾に面しており、渥美湾には田原市街地北東の田原湾と福江市街地北の福江湾という支湾がある。渥美半島の南側は太平洋に面しており、日出の石門から静岡県浜松市まで、約50kmにわたって片浜十三里と呼ばれる砂浜海岸が続いている。片浜十三里は伊良湖岬に近い恋路ヶ浜や赤羽根市街地の赤羽根海岸などに細分化される。 渥美半島の南西は伊良湖水道を挟んで志摩半島がある。伊良湖岬の沖には三島由紀夫の小説『潮騒』で有名な神島(三重県鳥羽市)があり、神島には伊良湖港より定期船が運航されている。神島までは鳥羽港からよりも伊良湖港からの方が若干近い。 渥美半島に約7ある山地塊は、赤石山脈や弓張山地から続く秩父帯の一部である。弓張山地に近い東側から順に、田原市街地北側の蔵王山(250m)、田原市街地西側の衣笠山(278m)、赤羽根市街地西側の大山(320m)、伊良湖岬東側の宮山(139m)、伊良湖岬の古山(91m)などがある。秩父帯は神島や答志島に続き、さらには紀伊山地へと続いている。 田原市街地を流れる汐川や、福江市街地を流れる免々田川は、標高5m以下の沖積低地を形成している。太平洋岸には高い海食崖が連続していることから、渥美半島に降った雨水の大半は三河湾に向かって北に流れる。このため太平洋岸には、赤羽根市街地を流れる池尻川流域以外には沖積低地が見られない。 渥美半島の先端から三河湾側には西山砂丘があり、その先の福江湾には砂州が発達している。田原市北東部には汐川干潟があり、渡り鳥の飛来地となっている。汐川干潟の先は埋め立て地であり、トヨタ自動車等が操業する工業用地となっている。田原市の市域は三河湾国定公園や渥美半島県立自然公園に指定されている。 太平洋を流れる黒潮の影響を受けるため、渥美半島は年間を通じて温暖な海洋性気候であり、年平均気温は摂氏16.9度である。伊良湖特別地域観測所の年間降水量は1,603mmであり、周辺地域と比較するとやや少ないため、豊川用水の通水以前は慢性的な渇水が農業などに大きな影響を与えた。降雪日数は10日以内の年が多く、積雪を記録することはほとんどない。太平洋に突き出した半島にあるため日照時間が比較的長い。このことは田原市で電照菊の栽培が盛んなこととも関係している。 渥美半島は風が強いという特徴があり、月ごとの平均風速は年間を通じて3mを超えている。特に冬季は北西の伊吹山方面から季節風が吹き、気温の割に体感温度は低い。かつてはこの強風を利用して干した大根が冬の風物詩であった。2004年(平成16年)以降にはこの強風を利用するために、西端部の西の浜や北東端部の臨海工業地帯などに風力発電施設が建設されている。 各町ともに田原市への合併と同時に町名が設置されている。 田原市域には縄文時代には人々が住んでいたことが知られ、縄文晩期の遺跡吉胡貝塚・伊川津貝塚からは多数の人骨が出土している。11世紀末~13世紀には窯業が栄えた。後世渥美焼と呼ばれることとなった陶器は、現在平泉など各所で発掘されている。渥美焼の窯跡であった大アラコ古窯跡や百々陶器窯跡などは国の史跡に指定されている。 また、12世紀末の東大寺再建の際には、建築物の屋根瓦の調達元となった(伊良湖町に窯跡が残る)。ただし渥美半島の陶器生産は14世紀ににわかに途絶えてしまっており、その原因も諸説あるものの不明である。 田原市の神戸地区は、伊勢神宮荘園であった。(飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良湖御厨) 市の中心部である田原は、戦国時代には戸田氏、江戸時代には三宅氏の城下町として栄えた。三宅氏の田原藩は1万2000石の小藩ながら譜代大名・城持の家格であり、最高裁判所のある東京の三宅坂は三宅氏の田原藩邸があったことから名付けられた。ただし、半島ということもあり慢性的に水不足に苦しみ、さらに強風と地味の悪いこともあって農業は振るわず、田原藩は経済的には困窮し続けることとなった。 田原藩から出た人物としては、江戸時代後期の代表的画家で、文人でもある渡辺崋山が有名である。田原藩の家老として政務をとった渡辺崋山は優れた政治家でもあり、農学者大蔵永常を招いて農政改革を行い、天保の大飢饉の際には藩内から1人も餓死者を出さないなど優れた行政手腕を発揮し、田原の一部の人々に今もなお慕われている。江戸時代の福江地区には、大垣系の戸田氏による陣屋が置かれ、畑村藩の領地であった場所もある。 明治以降は養蚕業が盛んとなり、戦前には小さいながら芸者街が出来るほどであった。田原町時代には豊橋電気 (1921-1939)が電気事業を行っていた。戦後は、唯一の産業であった農業が振るわず経済的に衰えた。この時期の田原を支えたのは市北部で産出する石灰岩の採掘であった。しかし1968年に豊川用水が開通、同時に土地改良と耕地整理を実施し、さらに商品作物や花卉園芸を集中的に行うことにより、全国有数の大規模近郊農業地帯として発展を遂げた。 1953年(昭和28年)以後には愛知県が町村合併を推進しており、1954年(昭和29年)には人口8,000人を超える町村をつくることを目的とする愛知県町村合併計画試案を策定している。1954年10月1日には田原町外二ヶ村合併促進協議会が設置され、1955年(昭和30年)1月1日に田原町・神戸村・野田村の1町2村が合併して新・田原町が発足した。合併促進協議会は杉山村も加えた1町3村での合併を念頭に置いていたが、杉山村は豊橋市との合併か田原町との合併かで揺れたが、遠州灘に面した六連地区は田原町、三河湾に面した杉山地区は豊橋市に分村合併することで合意に達し、1955年4月1日に田原町に編入された。 1962年(昭和37年)には三河港が愛知県3番目の重要港湾に指定され、その後は工業用地の整備が進んだ。その後は企業誘致を目的とする土地造成が行われ、1969年(昭和44年)から埋立地に企業が進出、1979年(昭和54年)にはトヨタ自動車田原工場が操業を開始した。第二次産業従事者の流入とともに人口も増え、田原町の財政は豊かになったことで、公共施設の建て替えや区画整理などの大型事業の実施が可能となった。田原町は普通交付税不交付団体であった。 2000年(平成12年)12月の合併特例法改正後には渥美郡の合併論議が加速し、2001年(平成13年)10月2日には田原町・赤羽根町・渥美町の渥美郡三町合併協議会の初会合が行われた。しかし、合併協議会は新自治体の名称や議員定数・議員任期をめぐって揺れ、2002年(平成14年)7月25日の第13回合併協議会をもって休止された。3町での合併協議の破綻後には、赤羽根町と渥美町の町民から住民発議がなされ、2003年2月5日には田原町と赤羽根町の2町による第1回合併協議会が開催された。2町の合併議論は順調に進み、2003年(平成15年)8月20日には田原町が赤羽根町を編入、同時に市制施行して田原市が発足した。愛知県32番目の市である。 2003年5月には渥美町の山本道雄町長が病気を理由に辞任した。渥美町長選挙で当選した原功一町長は田原市への編入合併を模索し、2004年(平成16年)5月23日に渥美町で行われた住民投票でも63%が編入合併に賛成した。同年8月16日には田原市・渥美町による第1回合併協議会が開催され、2005年(平成17年)10月1日に田原市が渥美町を編入した。 2005年度(平成17年度)までは東三河地方で唯一の普通交付税不交付団体だったが、渥美町編入後の2006年度の財政力指数は1.20であり、普通交付税交付団体となった。 2018年度(平成30年度)当初予算案 2005年(平成17年)に開催された2005年日本国際博覧会(愛知万博)では、「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われた。名古屋市を除く愛知県内の市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。 1968年(昭和43年)に豊川用水が通水したことで、渥美半島は全国屈指の農業地域となった。東三河地方は露地栽培の野菜や施設園芸作物で全国屈指の産地であり、中京圏・首都圏・関西圏など全国各地に出荷されている。農業は温暖な気候を生かして、野菜、果物、花などの近郊園芸農業が盛んである。野菜はキャベツ・ハクサイなどを生産し、キャベツは田原市と豊橋市が全国屈指の産地となっている。ブロッコリーの生産高は日本一で、電照菊、バラ、カーネーション、鉢物の栽培も盛んである。豊橋市と合わせて、特産品にあさりせんべいがある。昭和7年ごろから栽培されているアールスメロンは「あいち伝統野菜」に指定されている 2006年(平成18年)の農業産出額は724億円であり、愛知県全体の3109億円の23.3%を占めていた。市町村別農業産出額においては2006年(平成18年)から2018年(平成30年)まで12年連続で全国1位となった。 1964年(昭和39年)に東三河工業整備特別地域が指定され、三河湾岸に三河港臨海工業地帯田原地区が開発された。1979年(昭和54年)1月にはトヨタ自動車田原工場が生産を開始した。2011年(平成23年)には車両を32万2,000台、エンジンを27万7,000基を生産した。田原工場の主な生産品目は、LS、IS、ランドクルーザープラド、RAV4である。また、2009年(平成21年)11月には東京製鐵田原工場が進出、操業開始した。 田原町/田原市の製造品出荷額等は、1955年(昭和30年)に21億円、1965年(昭和40年)に61億円だったが、三河港臨海工業地帯の開発とともに急増した。1975年(昭和50年)に285億円となり、1985年(昭和60年)には愛知県第11位の6,598億円、1990年(平成2年)には1兆円を超えて愛知県第5位となった。1996年(平成8年)には豊田市と名古屋市に次ぐ愛知県第3位となり、2004年(平成16年)には1兆26億円で愛知県第3位・全国第13位となっている。2005年(平成17年)の製造品出荷額等は愛知県の自治体として第3位の2兆29億円であり、その大半を輸送機械製造業が占めていた。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は2兆536億3572万円であり、愛知県3位、全国17位だった。2017年(平成29年)の製造品出荷額等は1兆7769億円であり、豊田市(14兆2344億円)、名古屋市(3兆3442億円)、安城市(2兆1056億円)、岡崎市(2兆701億円)に次いで愛知県第5位だった。 田原市に大学のキャンパスは存在しないが、愛知教育大学の伊良湖臨海教育実験実習施設がある。 中心となる駅:三河田原駅 愛知県の市では、長久手市とともにJRと名鉄の両方が全く通らない市でもある。 1980年代後半までは、三河田原駅から田原市内の各集落を連結する民営バスもあったものの不採算から廃止された。交通空白地帯となった地区の交通確保のため、2002年からは市の委託運営によるコミュニティバス「田原市ぐるりんバス」が走っているが2015年ごろから利用者の減少に伴ってか、市内中心部以外では「田原市ぐるりんミニバス」が運行されている。 太平洋側に国道42号、三河湾側に国道259号が走っており、両者は伊良湖岬で合流している。 1-3月には渥美半島菜の花まつり、5月には凧まつり、9月には田原まつりが開催される。4月の伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りは、伊勢神宮との古くからの関係があり沢山の人が集まる。 田原市が認定する地域の資源や特性を生かした優れた産品。 2017年時点で91品目認定されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "田原市(たはらし)は、愛知県の南端部に位置する市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東三河地方に位置し、東側で豊橋市と接している。太平洋に面する渥美半島の大部分を占めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "平安時代中期頃に熊野修験者たちが当地に流入し、紀伊国の地名にちなんで集落の名をつけたものという。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地名の故地は和歌山県東牟婁郡串本町にあり、近在する蔵王山も同様の由来をもつ。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「田原」という地名自体の「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指すという。", "title": "地名の由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "田原市は渥美半島の大部分を占める自治体である。渥美半島は東西50km・南北5-8kmと東西に長く、標高200-300mの山地塊、洪積台地、沖積低地からなる。全体的に洪積台地である太平洋側が高く、三河湾に向かって徐々に低くなる。渥美半島の南西端には伊良湖岬がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "渥美半島の北側は三河湾の渥美湾に面しており、渥美湾には田原市街地北東の田原湾と福江市街地北の福江湾という支湾がある。渥美半島の南側は太平洋に面しており、日出の石門から静岡県浜松市まで、約50kmにわたって片浜十三里と呼ばれる砂浜海岸が続いている。片浜十三里は伊良湖岬に近い恋路ヶ浜や赤羽根市街地の赤羽根海岸などに細分化される。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "渥美半島の南西は伊良湖水道を挟んで志摩半島がある。伊良湖岬の沖には三島由紀夫の小説『潮騒』で有名な神島(三重県鳥羽市)があり、神島には伊良湖港より定期船が運航されている。神島までは鳥羽港からよりも伊良湖港からの方が若干近い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "渥美半島に約7ある山地塊は、赤石山脈や弓張山地から続く秩父帯の一部である。弓張山地に近い東側から順に、田原市街地北側の蔵王山(250m)、田原市街地西側の衣笠山(278m)、赤羽根市街地西側の大山(320m)、伊良湖岬東側の宮山(139m)、伊良湖岬の古山(91m)などがある。秩父帯は神島や答志島に続き、さらには紀伊山地へと続いている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "田原市街地を流れる汐川や、福江市街地を流れる免々田川は、標高5m以下の沖積低地を形成している。太平洋岸には高い海食崖が連続していることから、渥美半島に降った雨水の大半は三河湾に向かって北に流れる。このため太平洋岸には、赤羽根市街地を流れる池尻川流域以外には沖積低地が見られない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "渥美半島の先端から三河湾側には西山砂丘があり、その先の福江湾には砂州が発達している。田原市北東部には汐川干潟があり、渡り鳥の飛来地となっている。汐川干潟の先は埋め立て地であり、トヨタ自動車等が操業する工業用地となっている。田原市の市域は三河湾国定公園や渥美半島県立自然公園に指定されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "太平洋を流れる黒潮の影響を受けるため、渥美半島は年間を通じて温暖な海洋性気候であり、年平均気温は摂氏16.9度である。伊良湖特別地域観測所の年間降水量は1,603mmであり、周辺地域と比較するとやや少ないため、豊川用水の通水以前は慢性的な渇水が農業などに大きな影響を与えた。降雪日数は10日以内の年が多く、積雪を記録することはほとんどない。太平洋に突き出した半島にあるため日照時間が比較的長い。このことは田原市で電照菊の栽培が盛んなこととも関係している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "渥美半島は風が強いという特徴があり、月ごとの平均風速は年間を通じて3mを超えている。特に冬季は北西の伊吹山方面から季節風が吹き、気温の割に体感温度は低い。かつてはこの強風を利用して干した大根が冬の風物詩であった。2004年(平成16年)以降にはこの強風を利用するために、西端部の西の浜や北東端部の臨海工業地帯などに風力発電施設が建設されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "各町ともに田原市への合併と同時に町名が設置されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "田原市域には縄文時代には人々が住んでいたことが知られ、縄文晩期の遺跡吉胡貝塚・伊川津貝塚からは多数の人骨が出土している。11世紀末~13世紀には窯業が栄えた。後世渥美焼と呼ばれることとなった陶器は、現在平泉など各所で発掘されている。渥美焼の窯跡であった大アラコ古窯跡や百々陶器窯跡などは国の史跡に指定されている。 また、12世紀末の東大寺再建の際には、建築物の屋根瓦の調達元となった(伊良湖町に窯跡が残る)。ただし渥美半島の陶器生産は14世紀ににわかに途絶えてしまっており、その原因も諸説あるものの不明である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "田原市の神戸地区は、伊勢神宮荘園であった。(飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良湖御厨)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "市の中心部である田原は、戦国時代には戸田氏、江戸時代には三宅氏の城下町として栄えた。三宅氏の田原藩は1万2000石の小藩ながら譜代大名・城持の家格であり、最高裁判所のある東京の三宅坂は三宅氏の田原藩邸があったことから名付けられた。ただし、半島ということもあり慢性的に水不足に苦しみ、さらに強風と地味の悪いこともあって農業は振るわず、田原藩は経済的には困窮し続けることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "田原藩から出た人物としては、江戸時代後期の代表的画家で、文人でもある渡辺崋山が有名である。田原藩の家老として政務をとった渡辺崋山は優れた政治家でもあり、農学者大蔵永常を招いて農政改革を行い、天保の大飢饉の際には藩内から1人も餓死者を出さないなど優れた行政手腕を発揮し、田原の一部の人々に今もなお慕われている。江戸時代の福江地区には、大垣系の戸田氏による陣屋が置かれ、畑村藩の領地であった場所もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "明治以降は養蚕業が盛んとなり、戦前には小さいながら芸者街が出来るほどであった。田原町時代には豊橋電気 (1921-1939)が電気事業を行っていた。戦後は、唯一の産業であった農業が振るわず経済的に衰えた。この時期の田原を支えたのは市北部で産出する石灰岩の採掘であった。しかし1968年に豊川用水が開通、同時に土地改良と耕地整理を実施し、さらに商品作物や花卉園芸を集中的に行うことにより、全国有数の大規模近郊農業地帯として発展を遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)以後には愛知県が町村合併を推進しており、1954年(昭和29年)には人口8,000人を超える町村をつくることを目的とする愛知県町村合併計画試案を策定している。1954年10月1日には田原町外二ヶ村合併促進協議会が設置され、1955年(昭和30年)1月1日に田原町・神戸村・野田村の1町2村が合併して新・田原町が発足した。合併促進協議会は杉山村も加えた1町3村での合併を念頭に置いていたが、杉山村は豊橋市との合併か田原町との合併かで揺れたが、遠州灘に面した六連地区は田原町、三河湾に面した杉山地区は豊橋市に分村合併することで合意に達し、1955年4月1日に田原町に編入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)には三河港が愛知県3番目の重要港湾に指定され、その後は工業用地の整備が進んだ。その後は企業誘致を目的とする土地造成が行われ、1969年(昭和44年)から埋立地に企業が進出、1979年(昭和54年)にはトヨタ自動車田原工場が操業を開始した。第二次産業従事者の流入とともに人口も増え、田原町の財政は豊かになったことで、公共施設の建て替えや区画整理などの大型事業の実施が可能となった。田原町は普通交付税不交付団体であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)12月の合併特例法改正後には渥美郡の合併論議が加速し、2001年(平成13年)10月2日には田原町・赤羽根町・渥美町の渥美郡三町合併協議会の初会合が行われた。しかし、合併協議会は新自治体の名称や議員定数・議員任期をめぐって揺れ、2002年(平成14年)7月25日の第13回合併協議会をもって休止された。3町での合併協議の破綻後には、赤羽根町と渥美町の町民から住民発議がなされ、2003年2月5日には田原町と赤羽根町の2町による第1回合併協議会が開催された。2町の合併議論は順調に進み、2003年(平成15年)8月20日には田原町が赤羽根町を編入、同時に市制施行して田原市が発足した。愛知県32番目の市である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2003年5月には渥美町の山本道雄町長が病気を理由に辞任した。渥美町長選挙で当選した原功一町長は田原市への編入合併を模索し、2004年(平成16年)5月23日に渥美町で行われた住民投票でも63%が編入合併に賛成した。同年8月16日には田原市・渥美町による第1回合併協議会が開催され、2005年(平成17年)10月1日に田原市が渥美町を編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2005年度(平成17年度)までは東三河地方で唯一の普通交付税不交付団体だったが、渥美町編入後の2006年度の財政力指数は1.20であり、普通交付税交付団体となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2018年度(平成30年度)当初予算案", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)に開催された2005年日本国際博覧会(愛知万博)では、「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われた。名古屋市を除く愛知県内の市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)に豊川用水が通水したことで、渥美半島は全国屈指の農業地域となった。東三河地方は露地栽培の野菜や施設園芸作物で全国屈指の産地であり、中京圏・首都圏・関西圏など全国各地に出荷されている。農業は温暖な気候を生かして、野菜、果物、花などの近郊園芸農業が盛んである。野菜はキャベツ・ハクサイなどを生産し、キャベツは田原市と豊橋市が全国屈指の産地となっている。ブロッコリーの生産高は日本一で、電照菊、バラ、カーネーション、鉢物の栽培も盛んである。豊橋市と合わせて、特産品にあさりせんべいがある。昭和7年ごろから栽培されているアールスメロンは「あいち伝統野菜」に指定されている", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)の農業産出額は724億円であり、愛知県全体の3109億円の23.3%を占めていた。市町村別農業産出額においては2006年(平成18年)から2018年(平成30年)まで12年連続で全国1位となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)に東三河工業整備特別地域が指定され、三河湾岸に三河港臨海工業地帯田原地区が開発された。1979年(昭和54年)1月にはトヨタ自動車田原工場が生産を開始した。2011年(平成23年)には車両を32万2,000台、エンジンを27万7,000基を生産した。田原工場の主な生産品目は、LS、IS、ランドクルーザープラド、RAV4である。また、2009年(平成21年)11月には東京製鐵田原工場が進出、操業開始した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "田原町/田原市の製造品出荷額等は、1955年(昭和30年)に21億円、1965年(昭和40年)に61億円だったが、三河港臨海工業地帯の開発とともに急増した。1975年(昭和50年)に285億円となり、1985年(昭和60年)には愛知県第11位の6,598億円、1990年(平成2年)には1兆円を超えて愛知県第5位となった。1996年(平成8年)には豊田市と名古屋市に次ぐ愛知県第3位となり、2004年(平成16年)には1兆26億円で愛知県第3位・全国第13位となっている。2005年(平成17年)の製造品出荷額等は愛知県の自治体として第3位の2兆29億円であり、その大半を輸送機械製造業が占めていた。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は2兆536億3572万円であり、愛知県3位、全国17位だった。2017年(平成29年)の製造品出荷額等は1兆7769億円であり、豊田市(14兆2344億円)、名古屋市(3兆3442億円)、安城市(2兆1056億円)、岡崎市(2兆701億円)に次いで愛知県第5位だった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "田原市に大学のキャンパスは存在しないが、愛知教育大学の伊良湖臨海教育実験実習施設がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中心となる駅:三河田原駅", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "愛知県の市では、長久手市とともにJRと名鉄の両方が全く通らない市でもある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1980年代後半までは、三河田原駅から田原市内の各集落を連結する民営バスもあったものの不採算から廃止された。交通空白地帯となった地区の交通確保のため、2002年からは市の委託運営によるコミュニティバス「田原市ぐるりんバス」が走っているが2015年ごろから利用者の減少に伴ってか、市内中心部以外では「田原市ぐるりんミニバス」が運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "太平洋側に国道42号、三河湾側に国道259号が走っており、両者は伊良湖岬で合流している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1-3月には渥美半島菜の花まつり、5月には凧まつり、9月には田原まつりが開催される。4月の伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りは、伊勢神宮との古くからの関係があり沢山の人が集まる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "田原市が認定する地域の資源や特性を生かした優れた産品。 2017年時点で91品目認定されている。", "title": "文化" } ]
田原市(たはらし)は、愛知県の南端部に位置する市。 東三河地方に位置し、東側で豊橋市と接している。太平洋に面する渥美半島の大部分を占めている。
{{日本の市 | 画像 = Tahara montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse;"> <tr><td>[[伊良湖岬灯台]]<td>[[伊良湖岬]]の[[恋路ヶ浜]]</tr> <tr><td>[[田原城 (三河国)|田原城]]跡<td>[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]]展望台</tr> <tr><td>[[崋山神社]]<td>[[赤羽根海岸]]</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Tahara, Aichi.svg|100px|border|田原市旗]] | 市旗の説明 = 田原[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Tahara, Aichi.svg|80px|田原市章]] | 市章の説明 = 田原[[市町村章|市章]]<br />[[2005年]][[10月1日]]制定 | 自治体名 = 田原市 | 都道府県 = 愛知県 | コード = 23231-9 | 隣接自治体 = [[豊橋市]] | 木 = [[クスノキ]] | 花 = [[菜の花|なのはな]] | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 441-3492 | 所在地 = 田原市田原町南番場30-1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-23|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Tahara City Hall 2021-09 ac (1).jpg|250px|center|田原市役所南庁舎]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|23|231|image=基礎自治体位置図 23231.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=160|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.71|frame-longitude=137.22|text=市庁舎位置}} | 特記事項 = }} '''田原市'''(たはらし)は、[[愛知県]]の南端部に位置する[[市]]<ref name="田原市の位置と自然条件">[http://www.city.tahara.aichi.jp/seisaku/profile/1001448.html 田原市の位置と自然条件] 田原市</ref>。 [[東三河]]地方に位置し、東側で[[豊橋市]]と接している。[[太平洋]]に面する[[渥美半島]]の大部分を占めている<ref name="田原市の位置と自然条件"/>。 == 地名の由来 == [[平安時代]]中期頃に熊野修験者たちが当地に流入し、[[紀伊国]]の地名にちなんで集落の名をつけたものという<ref group="注">「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989 p808</ref>。 地名の故地は[[和歌山県]][[東牟婁郡]][[串本町]]にあり、近在する[[蔵王山]]も同様の由来をもつ<ref group="注">田原町文化財調査会 1971 p1000</ref>。 「田原」という地名自体の「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指すという<ref group="注">田原町文化財調査会 1971 p1000</ref>。 == 地理 == [[ファイル:TaharaJo MtZao.jpg|thumb|300px|[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]]頂から望む田原市街地]] [[ファイル:Tahara city center area Aerial photograph.1983.jpg|thumb|300px|田原市中心部周辺の空中写真。<br/>1983年撮影の6枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] === 地形 === 田原市は[[渥美半島]]の大部分を占める自治体である。渥美半島は東西50km・南北5-8kmと東西に長く、標高200-300mの山地塊、洪積台地、沖積低地からなる{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。全体的に[[洪積台地]]である[[太平洋]]側が高く、[[三河湾]]に向かって徐々に低くなる。渥美半島の南西端には[[伊良湖岬]]がある。 渥美半島の北側は三河湾の[[渥美湾]]に面しており、渥美湾には田原市街地北東の[[田原湾]]と福江市街地北の[[福江湾]]という支湾がある。渥美半島の南側は太平洋に面しており、[[日出の石門]]から[[静岡県]][[浜松市]]まで、約50㎞にわたって[[片浜十三里]]と呼ばれる砂浜海岸が続いている。片浜十三里は伊良湖岬に近い[[恋路ヶ浜 (田原市)|恋路ヶ浜]]や赤羽根市街地の[[赤羽根海岸]]などに細分化される。 渥美半島の南西は[[伊良湖水道]]を挟んで[[志摩半島]]がある。伊良湖岬の沖には[[三島由紀夫]]の小説『潮騒』で有名な[[神島 (三重県)|神島]]([[三重県]][[鳥羽市]])があり、神島には[[道の駅伊良湖クリスタルポルト|伊良湖港]]より定期船が運航されている。神島までは鳥羽港からよりも伊良湖港からの方が若干近い。 ==== 山地 ==== 渥美半島に約7ある山地塊は、[[赤石山脈]]や[[弓張山地]]から続く[[秩父帯]]の一部である{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。弓張山地に近い東側から順に、田原市街地北側の[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]](250m)、田原市街地西側の[[衣笠山 (愛知県)|衣笠山]](278m)、赤羽根市街地西側の[[大山 (愛知県)|大山]](320m)、[[伊良湖岬]]東側の宮山(139m)、伊良湖岬の古山(91m)などがある{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。秩父帯は[[神島]]や[[答志島]]に続き、さらには[[紀伊山地]]へと続いている{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。 ;主な山 *[[大山 (愛知県)|大山]](320m、[[渥美半島]]最高峰) *[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]](250m) *[[雨乞山 (愛知県)|雨乞山]](233m) *[[衣笠山 (愛知県)|衣笠山]](278m) *[[滝頭山 (愛知県)|滝頭山]](258m) *[[藤尾山 (愛知県)|藤尾山]](207m) <gallery> Oyama (Tahara, Aichi).JPG|[[大山 (愛知県)|大山]]と[[遠州灘]] Mount Zao Tahara.jpg|[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]] Mount Amagoi (Tahara, Aichi).jpg|[[雨乞山 (愛知県)|雨乞山]] Kinugasayama01a.jpg|[[衣笠山 (愛知県)|衣笠山]] Takigasirayama01.jpg|[[滝頭山 (愛知県)|滝頭山]] </gallery> ==== 河川 ==== 田原市街地を流れる[[汐川]]や、福江市街地を流れる[[免々田川]]は、標高5m以下の沖積低地を形成している{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。[[太平洋]]岸には高い[[海食崖]]が連続していることから、渥美半島に降った雨水の大半は[[三河湾]]に向かって北に流れる{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。このため太平洋岸には、赤羽根市街地を流れる[[池尻川]]流域以外には沖積低地が見られない{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=963-965}}。 ;主な川 *[[汐川]] *[[免々田川]] *[[池尻川]] <gallery> Shiokawa and Chuo Park.jpg|[[汐川]] Memedagawa.jpg|[[免々田川]] </gallery> ==== 湖沼 ==== ;主な池 *[[芦ヶ池]] *[[小塩津池]] *[[初立池]] <gallery> Ashigaike.jpg|[[芦ヶ池]] Hattachiike3.jpg|[[初立池]] </gallery> ==== 海岸 ==== 渥美半島の先端から三河湾側には[[西山砂丘]]があり、その先の福江湾には砂州が発達している。田原市北東部には[[汐川干潟]]があり、[[渡り鳥]]の飛来地となっている。汐川干潟の先は埋め立て地であり、[[トヨタ自動車]]等が操業する工業用地となっている。田原市の市域は[[三河湾国定公園]]や渥美半島県立自然公園に指定されている<ref name="田原市の位置と自然条件"/>。 *[[片浜十三里]] **[[恋路ヶ浜 (田原市)|恋路ヶ浜]] **[[赤羽根海岸]] *[[西山砂丘]] *[[汐川干潟]] <gallery> Iragomisaki5.jpg|[[恋路ヶ浜 (田原市)|恋路ヶ浜]] Akabanekaigan1.JPG|[[赤羽根海岸]] Mikawako Ohashi.jpg|[[汐川干潟]]と三河港大橋 </gallery> ==== 島嶼 ==== ;主な島 *[[姫島 (愛知県田原市)|姫島]] <gallery> Hime Island (Aichi).JPG|[[姫島 (愛知県田原市)|姫島]] </gallery> === 気候 === [[ファイル:田原市の風力発電所一覧図.jpg|thumb|350px|田原市の風力発電施設]] [[太平洋]]を流れる[[黒潮]]の影響を受けるため、渥美半島は年間を通じて温暖な[[海洋性気候]]であり、年平均気温は摂氏16.9度である{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。伊良湖特別地域観測所の年間降水量は1,603mmであり、周辺地域と比較するとやや少ないため、[[豊川用水]]の通水以前は慢性的な渇水が[[農業]]などに大きな影響を与えた{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。降雪日数は10日以内の年が多く、積雪を記録することはほとんどない{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。太平洋に突き出した半島にあるため日照時間が比較的長い。このことは田原市で電照菊の栽培が盛んなこととも関係している。 渥美半島は風が強いという特徴があり、月ごとの平均風速は年間を通じて3mを超えている{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。特に冬季は北西の[[伊吹山]]方面から[[季節風]]が吹き、気温の割に体感温度は低い。かつてはこの強風を利用して干した大根が冬の風物詩であった{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。2004年(平成16年)以降にはこの強風を利用するために、西端部の西の浜や北東端部の臨海工業地帯などに[[風力発電]]施設が建設されている{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=967-968}}。 {{Weather box |location = 伊良湖特別地域気象観測所(田原市福江町字金五郎坂、標高6m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 17.5 |Feb record high C = 21.4 |Mar record high C = 24.0 |Apr record high C = 28.2 |May record high C = 31.3 |Jun record high C = 36.3 |Jul record high C = 37.6 |Aug record high C = 38.4 |Sep record high C = 35.9 |Oct record high C = 30.3 |Nov record high C = 25.2 |Dec record high C = 23.4 |year record high C = 38.4 |Jan high C = 9.4 |Feb high C = 10.2 |Mar high C = 13.7 |Apr high C = 18.8 |May high C = 23.1 |Jun high C = 26.0 |Jul high C = 30.0 |Aug high C = 31.6 |Sep high C = 28.1 |Oct high C = 22.7 |Nov high C = 17.2 |Dec high C = 11.9 |year high C = 20.2 |Jan mean C = 6.0 |Feb mean C = 6.3 |Mar mean C = 9.4 |Apr mean C = 14.3 |May mean C = 18.8 |Jun mean C = 22.2 |Jul mean C = 26.1 |Aug mean C = 27.4 |Sep mean C = 24.4 |Oct mean C = 19.1 |Nov mean C = 13.6 |Dec mean C = 8.6 |year mean C = 16.4 |Jan low C = 2.9 |Feb low C = 2.9 |Mar low C = 5.4 |Apr low C = 10.1 |May low C = 15.0 |Jun low C = 19.2 |Jul low C = 23.3 |Aug low C = 24.5 |Sep low C = 21.5 |Oct low C = 16.0 |Nov low C = 10.1 |Dec low C = 5.2 |year low C = 13.0 |Jan record low C = -4.4 |Feb record low C = -4.0 |Mar record low C = -3.0 |Apr record low C = 1.2 |May record low C = 6.2 |Jun record low C = 12.1 |Jul record low C = 15.3 |Aug record low C = 16.8 |Sep record low C = 12.3 |Oct record low C = 6.4 |Nov record low C = 2.1 |Dec record low C = -3.6 |year record low C = -4.4 |Jan precipitation mm = 61.9 |Feb precipitation mm = 68.3 |Mar precipitation mm = 121.5 |Apr precipitation mm = 138.8 |May precipitation mm = 163.5 |Jun precipitation mm = 179.6 |Jul precipitation mm = 159.6 |Aug precipitation mm = 115.5 |Sep precipitation mm = 240.6 |Oct precipitation mm = 223.9 |Nov precipitation mm = 106.0 |Dec precipitation mm = 63.1 |year precipitation mm = 1642.1 |Jan humidity = 63 |Feb humidity = 63 |Mar humidity = 65 |Apr humidity = 68 |May humidity = 73 |Jun humidity = 80 |Jul humidity = 82 |Aug humidity = 79 |Sep humidity = 77 |Oct humidity = 72 |Nov humidity = 69 |Dec humidity = 66 |year humidity = 71 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 5.8 |Feb precipitation days = 6.9 |Mar precipitation days = 9.6 |Apr precipitation days = 10.0 |May precipitation days = 10.7 |Jun precipitation days = 13.1 |Jul precipitation days = 11.0 |Aug precipitation days = 7.5 |Sep precipitation days = 11.7 |Oct precipitation days = 10.9 |Nov precipitation days = 7.3 |Dec precipitation days = 6.5 |year precipitation days = 111.0 |Jan sun = 180.1 |Feb sun = 176.1 |Mar sun = 201.3 |Apr sun = 201.3 |May sun = 205.1 |Jun sun = 155.5 |Jul sun = 194.4 |Aug sun = 234.2 |Sep sun = 169.0 |Oct sun = 164.1 |Nov sun = 166.0 |Dec sun = 174.9 |year sun = 2222.0 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1947年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/normal/index.html | title = 平年値ダウンロード | accessdate = 2021-04 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=51&block_no=47653&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) | accessdate = 2021-04 | publisher = 気象庁}} </ref> }} === 地域 === ==== 地名 ==== 各町ともに田原市への合併と同時に町名が設置されている。 ;旧田原町 * [[田原町 (田原市)|田原町]](田原) * [[加治町]](加治) * [[谷熊町]](旧相川村谷熊) * [[豊島町 (田原市)|豊島町]](旧相川村豊島) * [[六連町]](旧相川村六連・杉山村六連) * [[吉胡町]](旧童浦村吉胡) * [[浦町 (田原市)|浦町]](旧童浦村浦) * [[波瀬町]](旧童浦村波瀬) * [[片浜町]](旧童浦村片浜) * [[白谷町]](旧童浦村白谷) * [[大久保町 (田原市)|大久保町]](旧大久保村) * [[野田町 (田原市)|野田町]](旧野田村野田) * [[仁崎町]](旧野田村仁崎) * [[芦町]]([[2005年]]芦村町より改称、旧野田村芦村) * [[神戸町 (田原市)|神戸町]](旧神戸村神戸) * [[西神戸町]](旧神戸村西神戸) * [[東神戸町]](旧神戸村東神戸) * [[南神戸町]](旧神戸村南神戸) * [[大草町 (田原市)|大草町]](旧神戸村大草) * [[緑が浜]]([[1972年]]、埋立地より成立) * [[白浜 (田原市)|白浜]]([[1980年]]、埋立地より成立) * [[相川町 (田原市)|相川町]]([[2005年]]、六連町の一部より成立) * [[御殿山 (田原市)|御殿山]]([[2008年]]、豊島町の一部より成立) * [[赤石]](成立年不明、田原町の一部より成立) * [[吉胡台]](成立年不明、吉胡町の一部より成立) * [[片西]]1~3丁目(成立年不明、片浜の一部より成立) * [[姫見台]](成立年不明、浦などの一部より成立) * [[光崎]]1~3丁目(成立年不明、波瀬などの一部より成立) * [[白磯]](成立年不明、埋立地より成立) * [[ほると台]](成立年不明、野田の一部より成立) * [[東赤石]](成立年不明、神戸町の一部より成立) ;旧赤羽根町 * [[赤羽根町 (田原市)|赤羽根町]](赤羽根) * [[高松町 (田原市)|高松町]](旧高松村) * [[若見町]](旧若戸村若見) * [[池尻町]](旧若戸村若見) * [[越戸町 (田原市)|越戸町]](旧若戸村越戸) ;旧渥美町 * [[福江町 (田原市)|福江町]](旧福江町畠(渥美町合併時に福江と改称)) * [[向山町 (田原市)|向山町]](旧福江町向山) * [[亀山町 (田原市)|亀山町]](旧福江町亀山) * [[保美町]](旧福江町保美) * [[中山町 (田原市)|中山町]](旧福江町中山) * [[小中山町]](旧福江町中山) * [[西山町 (田原市)|西山町]](旧福江町中山) * [[高木町 (田原市)|高木町]](旧福江町高木) * [[古田町 (田原市)|古田町]](旧福江町古田) * [[折立町 (田原市)|折立町]](旧福江町古田) * [[長沢町 (田原市)|長沢町]](旧福江町古田) * [[山田町 (田原市)|山田町]](旧福江町山田) * [[宇津江町]] (旧泉村宇津江) * [[江比間町]] (旧泉村江比間) * [[八王子町 (田原市)|八王子町]] (旧泉村八王子) * [[村松町 (田原市)|村松町]] (旧泉村村松) * [[馬伏町]] (旧泉村馬伏) * [[伊川津町]] (旧泉村伊川津) * [[石神町 (田原市)|石神町]] (旧泉村石神) * [[和地町 (田原市)|和地町]] (旧伊良湖岬村和地) * [[小塩津町]] (旧伊良湖岬村小塩津) * [[堀切町]] (旧伊良湖岬村堀切) * [[日出町 (田原市)|日出町]] (旧伊良湖岬村日出) * [[伊良湖町]] (旧伊良湖岬村伊良湖) * [[夕陽が浜]] (成立年不明、石神・伊川津の各一部より成立) === 人口 === {{人口統計|code=23231|name=田原市|image=Demography23231.svg}} === 隣接自治体 === ;{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] *[[豊橋市]] *[[知多郡]][[南知多町]](海上で隣接) ;{{Flagicon|三重県}}[[三重県]] *[[鳥羽市]](海上で隣接) == 歴史 == [[ファイル:Yoshigo kaizuka.JPG|thumb|[[吉胡貝塚]]]] [[ファイル:Iragotodaijigayou.jpg|thumb|[[伊良湖東大寺瓦窯跡]]]] [[ファイル:Tahara Castle SakuraMon.JPG|thumb|復元された[[田原城 (三河国)|田原城]]の桜門と二の丸櫓(現在は田原市博物館)]] === 古代 === 田原市域には[[縄文時代]]には人々が住んでいたことが知られ、縄文晩期の遺跡[[吉胡貝塚]]・[[伊川津貝塚]]からは多数の人骨が出土している。[[11世紀]]末~[[13世紀]]には[[窯業]]が栄えた。後世[[渥美焼]]と呼ばれることとなった陶器は、現在[[平泉]]など各所で発掘されている。渥美焼の窯跡であった[[大アラコ古窯跡]]や百々陶器窯跡などは国の[[史跡]]に指定されている。 また、12世紀末の[[東大寺]]再建の際には、建築物の屋根瓦の調達元となった([[伊良湖東大寺瓦窯跡|伊良湖町に窯跡]]が残る)。ただし渥美半島の陶器生産は14世紀ににわかに途絶えてしまっており、その原因も諸説あるものの不明である。 田原市の神戸地区は、伊勢神宮荘園であった。(飽海本神戸・新神戸・大津神戸・伊良湖御厨) === 中世~近世 === 市の中心部である田原は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[戸田氏]]、[[江戸時代]]には[[三宅氏]]の[[城下町]]として栄えた。三宅氏の[[田原藩]]は1万2000石の小藩ながら[[譜代大名]]・城持の家格であり、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]のある[[東京]]の[[三宅坂]]は[[三宅氏]]の田原藩邸があったことから名付けられた。ただし、半島ということもあり慢性的に水不足に苦しみ、さらに強風と地味の悪いこともあって農業は振るわず、田原藩は経済的には困窮し続けることとなった。 田原藩から出た人物としては、[[江戸時代]]後期の代表的画家で、文人でもある[[渡辺崋山]]が有名である。田原藩の家老として政務をとった渡辺崋山は優れた政治家でもあり、農学者[[大蔵永常]]を招いて農政改革を行い、[[天保の大飢饉]]の際には藩内から1人も餓死者を出さないなど優れた行政手腕を発揮し、田原の一部の人々に今もなお慕われている。江戸時代の福江地区には、[[大垣藩|大垣]]系の戸田氏による[[陣屋]]が置かれ、[[畑村藩]]の領地であった場所もある。 === 近現代 === [[明治]]以降は[[養蚕業]]が盛んとなり、戦前には小さいながら芸者街が出来るほどであった。田原町時代には[[豊橋電気 (1921-1939)]]が電気事業を行っていた。戦後は、唯一の産業であった[[農業]]が振るわず経済的に衰えた。この時期の田原を支えたのは市北部で産出する[[石灰岩]]の採掘であった。しかし1968年に[[豊川用水]]が開通、同時に土地改良と[[土地区画整理事業|耕地整理]]を実施し、さらに商品作物や花卉園芸を集中的に行うことにより、全国有数の大規模近郊農業地帯として発展を遂げた。 === 現代 === 1953年(昭和28年)以後には愛知県が町村合併を推進しており、1954年(昭和29年)には人口8,000人を超える町村をつくることを目的とする愛知県町村合併計画試案を策定している{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=3-7}}。1954年10月1日には田原町外二ヶ村合併促進協議会が設置され{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=7-9}}、1955年(昭和30年)1月1日に田原町・[[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]]・[[野田村 (愛知県)|野田村]]の1町2村が合併して新・田原町が発足した{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=14-17}}。合併促進協議会は[[杉山村]]も加えた1町3村での合併を念頭に置いていたが、杉山村は豊橋市との合併か田原町との合併かで揺れたが、[[遠州灘]]に面した六連地区は田原町、[[三河湾]]に面した杉山地区は豊橋市に分村合併することで合意に達し、1955年4月1日に田原町に編入された{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=27-29}}。 1962年(昭和37年)には[[三河港]]が愛知県3番目の[[重要港湾]]に指定され、その後は工業用地の整備が進んだ{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=533}}。その後は企業誘致を目的とする土地造成が行われ、1969年(昭和44年)から埋立地に企業が進出、1979年(昭和54年)には[[トヨタ自動車田原工場]]が操業を開始した{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=541}}。第二次産業従事者の流入とともに人口も増え、田原町の財政は豊かになったことで、公共施設の建て替えや区画整理などの大型事業の実施が可能となった。田原町は[[地方交付税#普通交付税|普通交付税]]不交付団体であった。 2000年(平成12年)12月の[[合併特例法]]改正後には渥美郡の合併論議が加速し、2001年(平成13年)10月2日には田原町・[[赤羽根町]]・[[渥美町]]の渥美郡三町合併協議会の初会合が行われた{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=34-35}}。しかし、合併協議会は新自治体の名称や議員定数・議員任期をめぐって揺れ、2002年(平成14年)7月25日の第13回合併協議会をもって休止された{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=56}}。3町での合併協議の破綻後には、赤羽根町と渥美町の町民から住民発議がなされ、2003年2月5日には田原町と赤羽根町の2町による第1回合併協議会が開催された{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=58}}。2町の合併議論は順調に進み、2003年(平成15年)8月20日には田原町が赤羽根町を[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|編入]]、同時に[[市制]]施行して田原市が発足した{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=61}}。愛知県32番目の市である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nihon-kankou.or.jp/home/userfiles/files/page/jigyou/nf/26-27mikawa.pdf |title=「魅力ある観光地域づくり推進モデル事業」 愛知県三河地域 実施報告書 |format=PDF |publisher =日本観光振興協会 |accessdate=2019-03-14}}</ref>。 2003年5月には渥美町の山本道雄町長が病気を理由に辞任した{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=62-67}}。渥美町長選挙で当選した原功一町長は田原市への編入合併を模索し、2004年(平成16年)5月23日に渥美町で行われた住民投票でも63%が編入合併に賛成した<ref>「愛知・渥美町 『田原市と合併』多数 住民投票 有権者の63%『賛成』」『中日新聞』2004年5月24日</ref>。同年8月16日には田原市・渥美町による第1回合併協議会が開催され、2005年(平成17年)10月1日に田原市が渥美町を編入した{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|p=67}}。 2005年度(平成17年度)までは[[東三河]]地方で唯一の普通交付税不交付団体だったが、渥美町編入後の2006年度の財政力指数は1.20であり、普通交付税交付団体となった。 === 市域の変遷 === {| class="wikitable" style="font-size:x-small;" ! 郡 ! colspan="3" | 明治22年以前 ! 明治22年10月1日 ! colspan="2" | 明治22年 - 明治45年 ! 大正元年 - 大正15年 ! colspan="2" | 昭和元年 - 昭和64年 ! colspan="2" | 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | style="background-color:#6ff;" rowspan="57" | '''[[渥美郡|渥<br />美<br />郡]]''' | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 田原村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 田原村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="2" | 明治25年10月3日<br />町制 '''田原町''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 明治39年7月16日<br />合併 '''田原町''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 田原町 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="26" | 昭和30年1月1日<br />合併 '''田原町''' | rowspan="32" | 平成15年8月20日<br />市制 '''田原市''' | rowspan="36" | '''田原市''' | rowspan="57" | '''田原市''' |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 加治村 |- | style="background-color:#9cf;" | 谷熊村 | style="background-color:#9cf;" | 杉谷村<br />(一部) | style="background-color:#9cf;" | 谷熊村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 相川村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 相川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 今田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="2" | 豊島村 |- | style="background-color:#9cf;" | 院内村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 浦村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 童浦村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 童浦村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 吉胡村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 波瀬村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 片浜村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 白谷村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 大久保村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | [[野田村 (愛知県)|野田村]] | style="background-color:#9cf;" | 明治24年4月15日<br />分立 '''大久保村''' |- | style="background-color:#9cf;" | 上野田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="2" | 野田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="4" | 野田村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 野田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下野田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 芦村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 仁崎村 |- | style="background-color:#9cf;" | 青津村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="10" | 神戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 神戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | [[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]] | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="11" | 神戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="11" | 神戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 漆田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 市場村 |- | style="background-color:#9cf;" | 水川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 赤松村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 西神戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 新美村 |- | style="background-color:#9cf;" | 志田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 東ケ谷村 | style="background-color:#9cf;" | 東神戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 谷ノ口村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 南神戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 本前村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 大草村 |- | style="background-color:#9cf;" | 百々村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="6" | 六連村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 六連村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 六連村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 明治39年9月10日<br />合併 '''[[杉山村]]'''<br />(一部) | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 杉山村(一部) | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 杉山村(一部) | style="background-color:#6ff;" rowspan="6" | 昭和30年4月1日<br />'''田原町'''に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 片神戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 浜田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 久美原村 |- | style="background-color:#9cf;" | 長仙寺村 |- | style="background-color:#9cf;" | 数原新田 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 赤羽根村 | style="background-color:#9cf;" | 赤羽根村 | style="background-color:#9cf;" | 赤羽根村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 明治39年7月16日<br />合併 '''赤羽根村''' | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 赤羽根村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 赤羽根村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 昭和33年11月1日<br />町制 '''[[赤羽根町]]''' | rowspan="4" | 平成15年8月20日<br />'''田原町'''に編入<br />即日市制 '''田原市''' |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 高松村 | style="background-color:#9cf;" | 高松村 | style="background-color:#9cf;" | 高松村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 若見村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 若戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 若戸村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 越戸村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 畠村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 福江村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 明治30年2月22日<br />町制 '''福江町''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="8" | 明治39年7月16日<br />合併 '''[[福江町 (愛知県)|福江町]]''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="8" | 福江町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="8" | 福江町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="21" | 昭和30年4月15日<br />合併 '''[[渥美町]]''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="21" | 渥美町 | rowspan="21" | 平成17年10月1日<br />'''田原市'''に編入 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 向山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 亀山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 保美村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 古田村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 清田村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 清田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 高木村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 山田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 中山村 | style="background-color:#9cf;" | 中山村 | style="background-color:#9cf;" | 中山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 伊良湖村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 伊良湖村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 伊良湖村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 明治39年7月16日<br />合併 '''[[伊良湖岬村]]''' | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 伊良湖岬村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 伊良湖岬村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 日出村 |- | style="background-color:#9cf;" | 堀切村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="2" | 堀切村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 明治23年11月7日<br />分立 '''堀切村''' |- | style="background-color:#9cf;" | 東堀切村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 小塩津村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 和地村 | style="background-color:#9cf;" | 和地村 | style="background-color:#9cf;" | 和地村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 伊川津村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | [[泉村 (愛知県)|泉村]] | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="7" | 泉村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 泉村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="7" | 泉村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 江比間村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 村松村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 八王子村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 石神村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 馬伏村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 宇津江村 |} == 行政 == === 市長 === *市長:[[山下政良]](2015年4月28日就任、2期目) ;歴代市長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- | 初代 || [[白井孝市]] || 2003年(平成15年)8月20日 || 2007年(平成19年)4月27日 || 旧田原町長 |- | 2-3代 || [[鈴木克幸]] || 2007年(平成19年)4月28日 || 2015年(平成27年)4月27日 || |- | 4代 || [[山下政良]] || 2015年(平成27年)4月28日 || 現職 || |} === 財政 === 2018年度(平成30年度)当初予算案<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.tahara.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/001/529/h30yosangaiyo.pdf |title=平成30年度予算の概要および主要事業 |format=PDF |publisher=田原市役所 |accessdate=2019-2-17 }}</ref> {| class="wikitable" !会計名!!予算額!!前年度対比 |- | 一般会計 || style="text-align:left" | 289億4,000万円 ||style="text-align:right" | 4.9%増 |- | 特別会計 || style="text-align:right" | 111億8,983万7千円 ||style="text-align:right" | 34.5%減 |- | 企業会計 || style="text-align:right" | 19億7,920万5千円 ||style="text-align:right" | 6.6%減 |- | style="background-color:#f2f2f2" | 全会計 || style="text-align:right; background-color:#f2f2f2;" | 421億{{0}}904万2千円 || style="text-align:right; background-color:#f2f2f2" |10.0%減 |} === 役所 === *田原市役所 ;支所 * 赤羽根支所 * 渥美支所 === 姉妹都市・提携都市 === ==== 海外 ==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|USA}} [[ジョージタウン (ケンタッキー州)|ジョージタウン市]]([[アメリカ合衆国]] [[ケンタッキー州]]) *:[[1990年]][[4月20日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|USA}} [[:en:Princeton, Indiana|プリンストン市]]([[アメリカ合衆国]] [[インディアナ州]]) *:[[2002年]][[8月8日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|KOR}} [[銅雀区]]([[大韓民国]] [[ソウル特別市]]) *:[[2006年]][[11月14日]] 姉妹都市提携 ;友好都市 *{{Flagicon|CHN}} [[崑山市]]([[中華人民共和国]] [[江蘇省]] [[蘇州市]]) *:[[1993年]][[5月14日]] 旧[[赤羽根町]]と友好都市提携 ;{{Visible anchor|フレンドシップ相手国}} 2005年(平成17年)に開催された[[2005年日本国際博覧会]](愛知万博)では、「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われた。名古屋市を除く愛知県内の市町村が、120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた<ref>[http://www.pref.aichi.jp/kokusai/friendship/city/h_mikawa/index.html#toyohashi 「あいちフレンドシップ交流アルバム」](あいちフレンドシップ交流アルバム)</ref>。 *{{Flagicon|DOM}}[[ドミニカ共和国]] *{{Flagicon|LAO}}[[ラオス|ラオス人民民主共和国]] *{{Flagicon|Libya}}[[リビア|リビア国]] ==== 国内 ==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|愛知県}}[[設楽町]]([[愛知県]]) *:[[1990年]][[3月24日]] 旧[[津具村]]と姉妹都市提携 合併後も関係を引き継ぐ *{{Flagicon|長野県}}[[宮田村]]([[長野県]]) *:[[1999年]][[11月9日]] 姉妹都市提携 == 議会 == === 田原市議会 === {{Main|田原市議会}} === 愛知県議会 === ;2019年愛知県議会議員選挙 * 選挙区:田原市選挙区 * 定数:1人 * 投票日:2019年4月7日 {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 山本浩史 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center;" | 48 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center;" | 現 || 無投票 |} ;2015年愛知県議会議員選挙 * 選挙区:田原市選挙区 * 定数:1人 * 投票日:2015年4月12日 * 当日有権者数:51,433人<ref name="sokuho2015">{{Cite web|和書|date=2015-4-12 |url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/56179.pdf |title=平成27年4月12日執行 愛知県議会議員一般選挙 投票状況速報 |publisher=愛知県選挙管理委員会 |format=PDF |accessdate=2019-4-7 }}</ref> * 投票率:53.07%<ref name="sokuho2015" /> {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 山本浩史 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center;" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center;" | 現 || 16,231票 |- | 牧野京史 || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center;" | 55 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || 10,697票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[愛知県第15区|愛知15区]]([[豊橋市]]、田原市) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:348,761人(豊橋市298,890人、田原市49,871人)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aichi.jp/senkyo/sokuho/data/L3039999.pdf | title=第49回衆議院議員総選挙(小選挙区) 投票状況速報 | publisher=愛知県選挙管理委員会 |format=PDF |date=2021-10-31 | accessdate=2021-11-1 }}</ref> * 投票率:58.10%(豊橋市56.83%、田原市65.67%) {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[根本幸典]] || align="center" | 56 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 104,204票 || align="center" | ○ |- | || [[関健一郎]] || align="center" | 43 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || align="right" | 80,776票 || align="center" | ○ |- | || 菅谷竜 || align="center" | 40 || [[れいわ新選組]] || align="center" | 新 || align="right" | 13,832票 || |} == 施設 == [[ファイル:Tahara Police Station.jpg|thumb|田原警察署]] [[ファイル:Tahara City Fire Station(2017.01.02).jpg|thumb|田原市消防署]] [[ファイル:Atsumi Hospital.JPG|thumb|[[渥美病院]]]] [[ファイル:Tahara City Central Library 2021-09 ac (1).jpg|thumb|田原市中央図書館]] [[ファイル:Tahara Post Office 2021-09 ac.jpg|thumb|田原郵便局]] [[ファイル:Tahara Municipal Gymnasium arena ac.jpg|thumb|田原市総合体育館]] === 警察 === *[[田原警察署|愛知県田原警察署]] ;幹部交番 *福江幹部交番([[福江町 (田原市)|福江町]]中羽根) ;交番 *田原駅前交番(田原市) ;駐在所 * 浦駐在所([[浦町 (田原市)|浦町]]) * 六連駐在所([[六連町]]) * 南神戸駐在所([[南神戸町]]) * 高松駐在所([[高松町 (田原市)|高松町]]) * 赤羽根駐在所([[赤羽根町 (田原市)|赤羽根町]]) * 若見駐在所([[若見町]]) * 野田駐在所([[野田町 (田原市)|野田町]]) * 大久保駐在所([[大久保町 (田原市)|大久保町]]) * 神戸駐在所([[神戸町 (田原市)|神戸町]]) * 伊川津駐在所([[伊川津町]]) * 和地駐在所([[和地町 (田原市)|和地町]]) === 消防 === ;本部 *[[田原市消防本部]] ;消防署 *田原市消防署(田原町丸田14) ;分署 *赤羽根分署(赤羽根町大石畑6) *渥美分署(福江町中羽根104) === 医療 === ;主な病院・診療所 *[[渥美病院]] * 田原市赤羽根診療所<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tahara.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/564/koho201802/koho201803/tahara1804-07.pdf |title=広報たはらNo.831(平成30年4月号)『地域医療の確保のため田原市赤羽根診療所が開所』 |publisher=田原市 |format=PDF |page=7 |date=2018-04-06 |accessdate=2018-04-24}}</ref> === 郵便局 === ;主な郵便局 *[[渥美郵便局]] *[[田原郵便局]] ===図書館=== *[[田原市図書館]](組織名) **[[田原市図書館|田原市中央図書館]] **[[田原市図書館#赤羽根図書館|田原市赤羽根図書館]] **[[田原市図書館#渥美図書館|田原市渥美図書館]] === 文化施設 === *[[田原市博物館]] *[[やしの実博物館]] *[[吉胡貝塚資料館]] *田原市総合体育館 == 経済 == === 第一次産業 === ==== 農業 ==== [[ファイル:電照菊 2011-05A.JPG|thumb|[[電照菊]]の温室]] 1968年(昭和43年)に豊川用水が通水したことで、[[渥美半島]]は全国屈指の農業地域となった<ref>「[http://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/3228 田原市博物館企画展『渥美半島の農業の歩みと豊川用水』]」『東愛知新聞』2018年7月18日</ref>。[[東三河]]地方は露地栽培の野菜や[[施設園芸農業|施設園芸作物]]で全国屈指の産地であり、中京圏・首都圏・関西圏など全国各地に出荷されている<ref name=東三河農業要覧2015/>。農業は温暖な気候を生かして、野菜、果物、花などの近郊[[園芸農業]]が盛んである。野菜は[[キャベツ]]・[[ハクサイ]]などを生産し、キャベツは田原市と豊橋市が全国屈指の産地となっている<ref name=東三河農業要覧2015/>。[[ブロッコリー]]の生産高は日本一で、[[電照菊]]、バラ、カーネーション、鉢物の栽培も盛んである。[[豊橋市]]と合わせて、特産品に[[あさりせんべい]]がある。昭和7年ごろから栽培されているアールスメロン<ref>[https://www.pref.aichi.jp/nogyo-keiei/nogyo-aichi/tokusanhin/earls-melon/index.html アールスメロン 田原市特産]愛知県、平成20年8月29日掲載</ref>は「あいち伝統野菜」に指定されている<ref>[https://www.pref.aichi.jp/engei/dentoyasai/list/atumiarus.html 渥美(あつみ)アールスメロン あいちの園芸農産]愛知県</ref> : 2006年(平成18年)の農業産出額は724億円であり、愛知県全体の3109億円の23.3%を占めていた<ref name=東三河農業要覧2015>[https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/206741.pdf 東三河農業要覧 2015] 愛知県東三河農林水産事務所農政課、2016年、p.3</ref>。市町村別農業産出額においては2006年(平成18年)から2018年(平成30年)まで12年連続で全国1位となった<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.city.tahara.aichi.jp/kankou/nogyou/1005074/1001901.html |title= 農業産出額“全国第1位”|publisher= 田原市 |date= 2020-04-06 |accessdate= 2023-01-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210126172937/http://www.city.tahara.aichi.jp/kankou/nogyou/1005074/1001901.html |archivedate= 2021-01-26 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.city.tahara.aichi.jp/kankou/nogyou/1005074/1001901.html |title= 農業産出額 全国第2位 |publisher= 田原市 |date= 2021-08-27 |accessdate= 2023-01-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210926223550/http://www.city.tahara.aichi.jp/kankou/nogyou/1005074/1001901.html |archivedate= 2021-09-26 }}</ref>。 === 第二次産業 === ==== 工業 ==== [[ファイル:Tahara seaside wind farm1.JPG|thumb|三河港臨海工業地帯田原地区]] 1964年(昭和39年)に東三河工業整備特別地域が指定され、[[三河湾]]岸に三河港臨海工業地帯田原地区が開発された<ref name=田原市の産業2015>[http://www.city.tahara.aichi.jp/seisaku/profile/1001450.html 田原市の産業] 田原市、2015年9月4日</ref><ref>[https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s5_9.html 人口・経済データで特徴のある市区町村: 愛知県田原市] 内閣府</ref>。1979年(昭和54年)1月には[[トヨタ自動車田原工場]]が生産を開始した<ref name=トヨタ田原工場>[https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/general_status/tahara.html 田原工場] トヨタ自動車</ref>。2011年(平成23年)には車両を32万2,000台、エンジンを27万7,000基を生産した<ref name=トヨタ田原工場/>。田原工場の主な生産品目は、[[レクサス・LS|LS]]、[[レクサス・IS|IS]]、[[トヨタ・ランドクルーザープラド|ランドクルーザープラド]]、[[トヨタ・RAV4|RAV4]]である。また、2009年(平成21年)11月には[[東京製鐵]]田原工場が進出、操業開始した<ref>{{Cite web|和書|title=東京製鐵株式会社 田原工場|url=http://www.tokyosteel.co.jp/factory/tahara_factory.html|website=www.tokyosteel.co.jp|accessdate=2019-03-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「田原に東京製鐵が進出」愛知県所部長 三河港説明会で明かす |newspaper=東日新聞 |date=2005-06-25 |author= |page=}}</ref>。 : 田原町/田原市の製造品出荷額等は、1955年(昭和30年)に21億円、1965年(昭和40年)に61億円だったが、三河港臨海工業地帯の開発とともに急増した<ref name=田原赤羽根史現代編566/>。1975年(昭和50年)に285億円となり、1985年(昭和60年)には愛知県第11位の6,598億円、1990年(平成2年)には1兆円を超えて愛知県第5位となった<ref name=田原赤羽根史現代編566/>。1996年(平成8年)には豊田市と名古屋市に次ぐ愛知県第3位となり、2004年(平成16年)には1兆26億円で愛知県第3位・全国第13位となっている<ref name=田原赤羽根史現代編566>田原・赤羽根史現代編編集委員会『田原・赤羽根史 現代編』田原市・田原市教育委員会、2017年、pp.566-567</ref>。2005年(平成17年)の製造品出荷額等は愛知県の自治体として第3位の2兆29億円であり、その大半を輸送機械製造業が占めていた<ref name=田原市の産業2015/>。2014年(平成26年)の製造品出荷額等は2兆536億3572万円であり、愛知県3位、全国17位だった<ref>[http://tahara-industry.idct.org/vision/outline.html 田原市の概要・環境] 田原市企業立地ガイド</ref>。2017年(平成29年)の製造品出荷額等は1兆7769億円であり、[[豊田市]](14兆2344億円)、[[名古屋市]](3兆3442億円)、[[安城市]](2兆1056億円)、[[岡崎市]](2兆701億円)に次いで愛知県第5位だった<ref>[https://www.pref.aichi.jp/soshiki/toukei/0000086314.html 平成29年工業統計調査結果(速報)] 愛知県、2018年3月2日</ref>。 === 第三次産業 === ==== 商業 ==== [[ファイル:CENTFARE.jpg|thumb|[[セントファーレ]]]] ;主な商業施設 *イオン田原店 *[[ケーズデンキ]]田原店 *[[セントファーレ]] *[[ヤマナカ]]田原店 *[[LaLaGran]] === 市内に本社を置く主な企業 === *[[愛知みなみ農業協同組合]] *[[キムラ漬物]] *[[新鮮組 (農業生産法人)|新鮮組]] *[[中神種苗店]] == 情報・通信 == ;中継局 *[[赤羽根テレビ中継局]] *[[蒲郡田原テレビ中継局]] == 生活基盤 == === 電力 === *[[中部電力パワーグリッド]] *[[JERA]] ;主な発電所 *[[渥美火力発電所]] *[[田原臨海風力発電所]] === ガス === *[[サーラグループ#エネルギー&ソリューションズ事業|サーラエナジー]]([[中部ガス]]) === 上下水道 === *[[愛知県企業庁]] === 電信 === * [[西日本電信電話]](NTT西日本)- [[NTT西日本-東海]]([[NTTビジネスソリューションズ]]) ** 市外局番 *** [[日本の市外局番|市外局番]]は、'''0531'''(田原[[単位料金区域|MA]])を使用している。市内局番は、旧赤羽根町が'''45'''、旧渥美町が'''3'''X、旧田原町が'''2'''Xを使用している(Xは任意の数字)。なお、旧赤羽根町・旧渥美町・旧田原町の市外局番が0531に統一されたのは、[[2000年]][[4月1日]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/new_number_h12.html|title=平成12年度に実施した電話番号の変更|work=[[総務省]]|accessdate=2021-02-06}}</ref>。 == 教育 == [[ファイル:Seisho-h.aichi1.jpg|thumb|[[愛知県立成章高等学校]]]] [[ファイル:Atsuminogyo-h1.jpg|thumb|[[愛知県立渥美農業高等学校]]]] [[ファイル:Fukue HS1.jpg|thumb|[[愛知県立福江高等学校]]]] === 大学 === 田原市に大学のキャンパスは存在しないが、[[愛知教育大学]]の伊良湖臨海教育実験実習施設がある。 ;国立 *[[愛知教育大学]] 伊良湖臨海教育実験実習施設 === 専門学校 === ;私立 *田原福祉グローバル専門学校<ref group="注">2021年3月までは市立の「田原福祉専門学校」だった。同年4月に民営化。</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2021-03-31 |url=https://www.tonichi.net/news/index.php?id=86974 |title=公立から民営化で新たなスタート 田原市立田原福祉専門学校が「田原福祉グローバル専門学校」に |publisher=[[東海日日新聞|東日新聞]] |accessdate=2021-04-01}}</ref> === 高等学校 === ;県立 * [[愛知県立成章高等学校]] * [[愛知県立渥美農業高等学校]] * [[愛知県立福江高等学校]] ; 廃校となった高校 * [[愛知県立成章高等学校]]野田分校(1963年3月廃校{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * [[愛知県立成章高等学校]]赤羽根分校(2006年3月廃校{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) === 中学校 === ;市立 * [[田原市立田原中学校]](1947年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立東部中学校]](1961年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立赤羽根中学校]](1947年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立福江中学校]](1947年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) ; 廃校となった中学校 * [[田原町立神戸中学校]](1947年開校、1961年9月に田原町立東部中学校に統合{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * 田原町立神戸中学校六連分校(1947年開校、1961年9月に田原町立東部中学校に統合{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * [[田原市立野田中学校]](1947年開校、2016年4月に田原市立田原中学校に統合{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * [[田原市立伊良湖岬中学校]](1947年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}、2019年4月に田原市立福江中学校に統合) * [[田原市立泉中学校]](1947年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}、2021年4月に田原市立赤羽根中学校に統合) {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" ! 地区 !! 開校年 !! 閉校年 !! 名称 !! 1947年- !! 1961年- !! 2016年- !! 2019年- !! 2021年- |- | rowspan=4| 田原 || 1947年 || || [[田原市立田原中学校]] || colspan=2| 田原中学校 || rowspan=2 colspan=3| 田原中学校 |- | 1947年 || 2016年 || [[田原市立野田中学校]] || colspan=2| 野田中学校 |- | 1947年 || 1961年 || [[田原市立神戸中学校]] || 神戸中学校 || rowspan=2 colspan=4| [[田原市立東部中学校]]<br>1961年開校 |- | 1947年 || 1961年 || 田原市立神戸中学校六連分校 || 神戸中学校六連分校 |- | 赤羽根 || 1947年 || || [[田原市立赤羽根中学校]] || colspan=4| 赤羽根中学校 || rowspan=2| 赤羽根中学校 |- | rowspan=3| 渥美 || 1947年 || 2021年 || [[田原市立泉中学校]] || colspan=4| 泉中学校 |- | 1947年 || || [[田原市立福江中学校]] || colspan=3| 福江中学校 || rowspan=2 colspan=2| 福江中学校 |- | 1947年 || 2019年 || [[田原市立伊良湖岬中学校]] || colspan=3| 伊良湖岬中学校 |} === 小学校 === ;市立 * [[田原市立田原中部小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立田原東部小学校]](1903年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立田原南部小学校]](1892年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立童浦小学校]](田原北部小学校と田原西部小学校を統合して1968年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立衣笠小学校]](田原中部小学校から分離して1985年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立神戸小学校]](1887年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立野田小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立大草小学校]](1875年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立六連小学校]](1897年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立高松小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立若戸小学校]](1896年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立赤羽根小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立中山小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立清田小学校]](1901年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立亀山小学校]](1879年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立伊良湖岬小学校]](堀切小学校と和地小学校と[[田原市立伊良湖小学校|伊良湖小学校]]の3校を統合して2015年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立福江小学校]](1873年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) * [[田原市立泉小学校]](1900年開校{{sfn|愛知県小中学校長会|1998}}) ; 廃校となった小学校 * [[田原町立田原北部小学校]](1907年に開校<ref name="愛知県小中学校長会1968">『新学制実施二十周年記念 愛知県小中学校誌』愛知県小中学校長会、1968年、p.541</ref>、1968年4月に廃校{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * [[田原町立田原西部小学校]](1892年に開校<ref name="愛知県小中学校長会1968"/>、1968年4月に廃校{{sfn|田原・赤羽根史現代編編集委員会 編|2017|pp=761-763}}) * [[田原市立堀切小学校]](1873年に開校、2015年3月に廃校) * [[田原市立和地小学校]](1873年に開校、2015年3月に廃校) * [[田原市立伊良湖小学校]](1878年に開校、2015年3月に廃校) {| class="wikitable" style="font-size: smaller;" ! 地区 !! 開校年 !! 閉校年 !! 名称 !! 1947年- !! 1968年 !! 1985年- !! 2015年- |- | rowspan=10| 田原 || 1873年 || || [[田原市立田原中部小学校]] || rowspan=2 colspan=2| 田原中部小学校 || colspan=2| 田原中部小学校 |- | 1985年 || || [[田原市立衣笠小学校]] || colspan=2| 衣笠小学校 |- | 1903年 || || [[田原市立田原東部小学校]] || colspan=4| 田原東部小学校 |- | 1892年 || || [[田原市立田原南部小学校]] || colspan=4| 田原南部小学校 |- | 1907年 || 1968年 || [[田原市立田原北部小学校]] || 田原北部小学校 || rowspan=2 colspan=3| [[田原市立童浦小学校|童浦小学校]]<br>1968年開校 |- | 1892年 || 1968年 || [[田原市立田原西部小学校]] || 田原西部小学校 |- | 1873年 || || [[田原市立野田小学校]] || colspan=4| 野田小学校 |- | 1887年 || || [[田原市立神戸小学校]] || colspan=4| 神戸小学校 |- | 1897年 || || [[田原市立六連小学校]] || colspan=4| 六連小学校 |- | 1875年 || || [[田原市立大草小学校]] || colspan=4| 大草小学校 |- | rowspan=3| 赤羽根 || 1873年 || || [[田原市立高松小学校]] || colspan=4| 高松小学校 |- | 1896年 || || [[田原市立若戸小学校]] || colspan=4| 若戸小学校 |- | 1873年 || || [[田原市立赤羽根小学校]] || colspan=4| 赤羽根小学校 |- | rowspan=8| 渥美 || 1873年 || || [[田原市立中山小学校]] || colspan=4| 中山小学校 |- | 1901年 || || [[田原市立清田小学校]] || colspan=4| 清田小学校 |- | 1873年 || 2015年 || [[田原市立堀切小学校]] || colspan=3| 堀切小学校 || rowspan=3| [[田原市立伊良湖岬小学校|伊良湖岬小学校]]<br>2015年開校 |- | 1873年 || 2015年 || [[田原市立和地小学校]] || colspan=3| 和地小学校 |- | 1878年 || 2015年 || [[田原市立伊良湖小学校]] || colspan=3| 伊良湖小学校 |- | 1879年 || || [[田原市立亀山小学校]] || colspan=4| 亀山小学校 |- | 1873年 || || [[田原市立福江小学校]] || colspan=4| 福江小学校 |- | 1900年 || || [[田原市立泉小学校]] || colspan=4| 泉小学校 |} == 交通 == === 鉄道 === [[ファイル:Toyohashi Railway 1800.jpg|thumb|[[豊橋鉄道渥美線]]]] [[ファイル:Mikawa-Tahara Station 2021-09 ac (2).jpg|thumb|[[三河田原駅]]]] '''中心となる駅:[[三河田原駅]]''' ;[[豊橋鉄道]](豊鉄) :[[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]:- [[やぐま台駅]] - [[豊島駅]] - [[神戸駅 (愛知県)|神戸駅]] - '''[[三河田原駅]]''' 愛知県の市では、[[長久手市]]とともに[[東海旅客鉄道|JR]]と[[名古屋鉄道|名鉄]]の両方が全く通らない市でもある<ref group="注">ただし、豊橋鉄道は[[名鉄グループ]]である。また1940年から、1954年に豊橋鉄道に譲渡されるまで渥美線は名鉄が保有していた。</ref>。 === バス === ==== 高速バス ==== * [[ほの国号|新宿・豊橋エクスプレス ほの国号]] ==== 路線バス ==== *[[豊鉄バス]][[豊鉄バス渥美営業所#伊良湖本線|伊良湖本線]] [[豊橋駅|豊橋駅前]] - 渥美病院 - 田原駅前 - 江比間 - 保美 - 伊良湖岬([[国道259号]]経由) *豊鉄バス[[豊鉄バス渥美営業所#伊良湖支線|伊良湖支線]] 渥美病院 - 田原駅前 - 赤羽根 - 堀切 - 保美([[国道42号]]経由) ;コミュニティバス [[ファイル:GururinBus city tahara.jpg|thumb|[[田原市ぐるりんバス]]]] 1980年代後半までは、三河田原駅から田原市内の各集落を連結する民営バスもあったものの不採算から廃止された。交通空白地帯となった地区の交通確保のため、2002年からは市の委託運営によるコミュニティバス「[[田原市ぐるりんバス]]」が走っているが2015年ごろから利用者の減少に伴ってか、市内中心部以外では「田原市ぐるりんミニバス」が運行されている。 === 道路 === ==== 国道 ==== :[[ファイル:Japanese National Route Sign 0042.svg|25px]][[国道42号]](表浜街道) :[[ファイル:Japanese National Route Sign 0259.svg|25px]][[国道259号]](田原街道) 太平洋側に国道42号、三河湾側に国道259号が走っており、両者は伊良湖岬で合流している。 ==== 県道 ==== ;主要地方道 *[[愛知県道2号豊橋渥美線]] *[[愛知県道28号田原高松線]] ;一般県道 *[[愛知県道397号城下田原線]] *[[愛知県道398号高松渥美線]] *[[愛知県道399号蔵王山線]] *[[愛知県道413号六連三河田原停車場線]] *[[愛知県道414号大草豊島線]] *[[愛知県道416号赤羽根野田線]] *[[愛知県道418号中山伊良湖線]] *[[愛知県道419号赤羽根泉港線]] *[[愛知県道420号和地福江港線]] *[[愛知県道421号中山保美線]] *[[愛知県道423号堀切中山線]] *[[愛知県道497号渥美豊橋自転車道線]] *[[愛知県道503号六連杉山線]] ==== 道の駅 ==== * [[道の駅田原めっくんはうす|田原めっくんはうす]] * [[道の駅伊良湖クリスタルポルト|伊良湖クリスタルポルト]] * [[道の駅あかばねロコステーション|あかばねロコステーション]] === 港湾 === *田原港([[重要港湾]]・[[特定港]]の[[三河港]]の一角である。) *[[伊良湖港]]:旅客ターミナルが[[道の駅]]の「[[道の駅伊良湖クリスタルポルト|伊良湖クリスタルポルト]]」となっている **[[鳥羽港]]([[伊勢湾フェリー]]) **[[師崎港]]([[名鉄海上観光船|名鉄フェリー]]) **[[篠島]] - [[日間賀島]] - [[河和港]](高速船) **[[神島 (三重県)|神島]](神島観光船) == 観光 == === 名所・旧跡 === ;主な城郭 *[[田原城 (三河国)|田原城]]([[田原市博物館]]) ;主な寺院 *[[城宝寺 (田原市)|城宝寺]] *[[長興寺 (田原市)|長興寺]] *[[常光寺 (田原市)|常光寺]] - [[烏丸資任]]が開基。江戸期幕府の保護を受け33寺の末寺を持った。 *[[正覚院 (田原市)|正覚院]] *[[栖了院]] *[[龍泉寺 (田原市)|龍泉寺]] *[[潮音寺 (田原市)|潮音寺]] *[[厳王寺 (田原市)|厳王寺]] ;主な神社 *[[伊良湖神社]] *[[崋山神社]] ;主な遺跡 *[[吉胡貝塚]] - 国の史跡 *[[城宝寺古墳]] - 愛知県指定史跡 *[[渥美窯]] **[[大アラコ古窯跡]] - 国の史跡 **[[伊良湖東大寺瓦窯跡]] - 国の史跡 **[[皿山古窯群]] - 愛知県指定史跡 **[[皿焼古窯跡群]] - 田原市指定史跡 *[[大垣新田藩畠村陣屋]] <gallery> Taharajou3.JPG|田原城復元桜門 Kazan Jinja, Tahara 2009.JPG|崋山神社 Jokoji.jpg|常光寺 潮音寺本堂.jpg|潮音寺 Yoshigo_kaizuka.JPG|吉胡貝塚 O-arako_koyou-ato_2009.jpg|大アラコ古窯跡 大垣新田藩畠村陣屋跡地.jpg|大垣新田藩畠村陣屋跡地 </gallery> === 観光スポット === ;主な公園 *[[池ノ原公園]] *[[サンテパルクたはら]] *[[滝頭公園]] *[[日出園地]] ;自然 *[[赤羽根海岸|太平洋ロングビーチ]] *[[蔵王山 (愛知県)|蔵王山]]展望台 *[[伊良湖岬]] *[[恋路ヶ浜 (田原市)|恋路ヶ浜]] *[[日出の石門]] ;主な観光ホテル *[[伊良湖ビューホテル]] ;その他 *[[初立池]](初立池公園) *皿焼古窯館([[皿焼古窯跡群]]) *[[田原まつり会館]] *[[渥美半島菜の花浪漫街道]] <gallery> The IRAGO-MISAKI promontory.jpg|[[渥美半島]]の先端にある[[伊良湖岬]] Taiheiyou long beach.jpg|[[赤羽根海岸|太平洋ロングビーチ]] Hattachiike2.jpg|[[初立池]]公園 Santeparktahara1.JPG|サンテパルクたはら 蔵王山展望台2.JPG|蔵王山展望台 Hiisekimon1.jpg|日出の石門 Iragotoudai.JPG|伊良湖岬灯台 IRAKO VIEW HOTEL entrance.JPG|伊良湖ビューホテル 池ノ原公園崋山幽居跡.JPG|池ノ原公園 Tahara Matsuri Kaikan 2021-09 ac (1).jpg|田原まつり会館 </gallery> == 文化 == === 祭事・催事 === [[ファイル:Tahana nanohana.jpg|thumb|渥美半島菜の花まつり]] ;主な祭事 1-3月には渥美半島菜の花まつり<ref>{{Cite web |title=渥美半島【菜の花まつり】-愛知県田原市 |url=https://www.taharakankou.gr.jp/nanohana |website=www.taharakankou.gr.jp |date=2023-12-15 |access-date=2023-12-27 |language=ja}}</ref>、5月には凧まつり、9月には田原まつりが開催される。4月の伊良湖神社の御衣(おんぞ)祭りは<ref>{{Cite web |title=おんぞまつり {{!}} イベント {{!}} 渥美半島だより【渥美半島観光ビューロー公式サイト】 |url=https://www.taharakankou.gr.jp/event/000004.html |website=www.taharakankou.gr.jp |access-date=2023-12-27 |language=jp}}</ref>、伊勢神宮との古くからの関係があり沢山の人が集まる。 ;主な催事 *[[中部・北陸実業団対抗駅伝競走大会]] === 名産・特産 === *[[シラス (魚) |しらす]] *[[釜揚げしらす]] *[[あさりせんべい (田原)|あさりせんべい]] *[[渥美沢庵]] *[[電照菊]] ==== 渥美半島たはらブランド ==== 田原市が認定する地域の資源や特性を生かした優れた産品。 [[2017年]]時点で91品目認定されている。<ref>「渥美半島たはらブランド」田原市役所 産業振興部 商工観光課 2017年</ref> {{colbegin|4}} *吉田園のほうれん草 *吉田園の春菊 *常春キャベツ *旬彩野菜バスケット *安田商店の朝採りとうもろこし *安田商店のベビーリーフ *ファーストトマト *くくむトマト真 *房採りカンパリトマト真 *丸玉トマト *セシル *鈴木農園のサンドパル *とまとのこころ *ミニトマト *ミニトマト アイコ *スイカ *タカミメロン *イエローキングメロン *日研農園アールスメロン(化粧箱入り) *アールスメロン「伊良湖メロン」 *いちじく *小林農園のこだわりハウスみかん「美甘きらり」 *伊良湖ハウスみかん *いちごのしあわせ *[[紅ほっぺ]] *[[章姫]] *[[ゆめのか]] *田原牛 *あつみ牛 *みなみ愛とん *保美豚プレミアム *田原ポーク *渥美たくあん一丁漬け *メロン漬け(酒かす) *昔のままの沢庵(酒かす) *昔のままの沢庵(本干ぬか) *上干渥美一丁漬 *どうまい牛乳シリーズ *渥美半島かすてらシリーズ *とろけるメロンロール *からっ風田原の芋切 *ミックスゼリー *メロンぱうんど *菜の花いちごロール *菜の花ぱうんど *崋山最中 報民倉 *バロックのジェラート・バトックソフト *渥美半島のあたたかい薔薇の贈り物 *セントレアマスコットイエロー *中村洋らんの胡蝶蘭 *フルレゾンマム *JA愛知みなみリシアンサス *JA愛知みなみカスミソウ *JA愛知みなみガーベラ *JA愛知みなみスィートピー *JA愛知みなみストック *JA愛知みなみバラ *JA愛知みなみグロリオサ *JA愛知みなみカーネーション *JA愛知みなみアルストロメリア *JA愛知みなみスプレーマム *JA愛知みなみディスバットマム *JA愛知みなみ輪菊 *貝づくし渥美 *渥美あさりの押し寿司 *田原銘菓あさりせんべい3種詰め合わせ *田原銘菓あさりせんべい7種詰め合わせ *H SURFBOARD IRAGO MODEL *しらす干し *釜揚げしらす *はじめましてあおさのりです。 *伊良湖のり *田原ポークのハム・ウィンナー贈答品 *保美豚プレミアム無添加ベーコン *保美豚プレミアム無添加ロースハム *保美豚プレミアム無添加ウインナー *たは・La・まん *俺の、黒カレー *俺の、黒カレーまん *キャベコロ *「made in 田原」魔法の万能ピュレ *「made in 田原」トマトジャム「真紅の結晶」 *「made in 田原」田原ミートソース *あじわいトマト酢 *田原産100%菜種油たはらっこ *田原蔵王山麓芋焼酎 亀若 *田原の銘酒 純米大吟醸 優 *とまテル *めろんハート *とまチュ {{colend}} == 出身・関連著名人 == {{columns-list|2| * [[村正#正真|三河文殊正真]] - 戦国時代の刀工、一説に[[天下三名槍]]「[[蜻蛉切]]」の作者 * [[糟谷磯丸]]<ref name=ijin>{{Cite book|和書|author= |title=ふるさとの偉人を訪ねる田原を築いた人々 |publisher=田原市教育委員会 |year= |page= |isbn=}}</ref>- 江戸時代後期の漁師で歌人 * [[渡辺崋山]]<ref>{{Cite book|和書|author= |title=渡辺崋山集第7巻 |publisher=日本図書センター |year=1999 |page=86 |isbn=4-8205-6311-4}}</ref> - 江戸時代後期の武士・田原藩家老で画家・江戸出身 * [[鈴木春山]]<ref>{{Cite book|和書|author= |title=田原藩と三山展 |publisher=田原町博物館 |year=1994 |page=15 |isbn=}}</ref> - 江戸時代後期の田原藩医・兵学者 * [[村上範致]]<ref>{{Cite book|和書|author= |title=田原町史 中巻 |publisher=田原町教育委員会 |year=1975 |page=1079 |isbn=}}</ref> - 江戸時代末期の砲術家・田原藩家老 * [[村松愛蔵]]<ref name=ijin/><ref name=tyosi>{{Cite book|和書|author= |title=田原町史 下巻 |publisher=田原町文化財保護審議会/編 田原町史編さん委員会/編 |year= |page= |isbn=}}</ref> - 明治~大正時代の[[自由民権運動]]家・政治家 * [[宮川春汀]]<ref name=ijin/> - 日本画家 挿画 * [[高橋明 (医学者)|高橋明]]<ref>{{Cite book|和書|author=泉村々史編纂会 |title=泉村々史 |publisher=泉村々史編纂会 |year=1956}}</ref> - 医学者、[[日本医師会]]会長 * [[鈴木翠軒]]<ref name=ijin/> - 書家 * [[近藤寿市郎]]<ref name=ijin/> - 戦前の政治家。 * [[伊藤武雄 (中国研究者)|伊藤武雄]]<ref>{{Cite book|和書|author= |title=新美日中友好碑 先覚・伊藤武雄先生 |publisher=伊藤武雄先生を顕彰する会 |year=2011 |page=1 |isbn=}}</ref> - [[南満州鉄道]]調査課長、中国研究者 * [[白井こう]]<ref name=ijin/><ref name=tyosi/> - 教育者。[[岡崎学園高等学校]]の創立者。 * [[八木喜平]]<ref name=ijin/> - [[アララギ]]歌人 * [[齋藤専吉]]<ref name=ijin/> - 教育者、文化人 * [[杉浦明平]]<ref name=ijin/> - 作家、歴史家、ルネサンス研究家、翻訳家 * [[山田もと]] - 児童文学作家 * [[白井文吾]]<ref name=taishi>[http://www.city.tahara.aichi.jp/seisaku/profile/1001458.html 田原市・田原市ふるさと大使ページ]</ref> - [[中日新聞]]記者、[[中日ドラゴンズ]]オーナー * [[光浦靖子]]<ref name=taishi/> - お笑い芸人([[オアシズ]]) * [[大久保佳代子]]<ref name=taishi/> - お笑い芸人(オアシズ) * [[AZUSA (ディスクジョッキー)|AZUSA]] - ラジオパーソナリティ(ZIP-FM) * [[原光隆]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokairadio.co.jp/announcer/hara/ |title=東海ラジオアナウンサープロフィール |publisher =東海ラジオ|accessdate =2019-04-18}}</ref> - [[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]アナウンサー * [[鈴木信二]] - 俳優 * [[尾川智子]]<ref name=taishi/> - ボルダラー(フリークライマー) * [[小笠原崇裕]] - プロMTBライダー * [[早瀬川修一]] - 大相撲力士 * [[渥美洋正征]] - 大相撲力士 * [[太田剣]]<ref>{{Cite news |title=田原市出身のジャズサックス奏者 太田剣さん 10月16日、凱旋ライブ |newspaper=東日新聞 |date=2011-08-06 |author= |page=}}</ref> - ジャズサックスプレーヤー * [[上田昇]]<ref>{{Cite news |title=こころは三河私の古里 元WGPライダー 上田昇さん 蔵王山で技術磨く |newspaper=中日新聞 |date=2015-02-23 |author= |page=}}</ref> - オートバイレーサー 豊田市生まれ・中学2年から田原市で育つ * [[金田哲]]<ref name=taishi/> - お笑い芸人([[はんにゃ.]]) * 廣瀬康幸<ref name=taishi/> - プロサーファー * [[金子大樹]]<ref name=taishi/> - プロボクサー * [[小川泰弘]]<ref name=taishi/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tonichi.net/news/index.php?id=26337|title=ヤクルト小川投手が喜びの帰郷|publisher=東日新聞|date=2012-12-20|accessdate=2020-11-26}}</ref> - プロ野球・[[東京ヤクルトスワローズ]] 投手 * [[清田真央]]<ref>{{Cite news |title=田原 マラソン・清田真央選手が山下市長表敬 力強く世界陸上へ意気込み |newspaper=東日新聞 |date=2017-04-03 |author= |page=7}}</ref> - [[陸上競技]]([[長距離走]]・[[マラソン]])選手 * 鈴木勝大<ref>{{Cite news |title=夢屋サーフィンゲームス田原オープン2015 健闘誓う地元勢 今大会を集大成に鈴木勝大プロ 夢のプロへ鈴木マリーンさん |newspaper=東愛知新聞 |date=2015-08-03 |author= |page=}}</ref>  プロサーファー * 増山裕亮 プロサーファー  * [[近藤真弓]]<ref>{{Cite book|和書|author=近藤真弓追悼コラージュキルト展実行委員会 |title=近藤真弓作品集 |publisher=近藤真弓追悼コラージュキルト展実行委員会 |year=2011 |page= |isbn=}}</ref> - コラージュキルト作家 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |title=六三制教育五十周年記念 愛知県小中学校誌 |author=愛知県小中学校長会 |year=1998 |publisher=愛知県小中学校長会 |ISBN= |ref= harv }} * {{Cite book|和書 |title=田原・赤羽根史 現代編 |author=田原・赤羽根史現代編編集委員会 編 |year=2017 |publisher=田原市・田原市教育委員会 |ISBN= |ref= harv }} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{osm box|r|4567413}} * {{Official website}} * [https://www.taharakankou.gr.jp/ 田原市観光ガイド] *[https://www.city.tahara.aichi.jp/kurashi/zeikin/1000800/1000802.html 渥美半島田原市応援寄附金(ふるさと納税)] *[https://www.city.tahara.aichi.jp/kurashi/zeikin/1000800/1009623.html 企業版ふるさと納税制度] * {{Googlemap|田原市}} * {{ウィキトラベル インライン|田原市|田原市}} * {{wikivoyage-inline|en:Tahara|田原市{{en icon}}}} {{愛知県の自治体}} {{田原市の町・字}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たはらし}} [[Category:愛知県の市町村]] [[Category:田原市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:田原三宅家|地たはらし]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]]
2003-08-20T03:51:42Z
2023-12-29T12:58:23Z
false
false
false
[ "Template:日本の市", "Template:0", "Template:Visible anchor", "Template:Colend", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Colbegin", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:国土航空写真", "Template:Sfn", "Template:Weather box", "Template:Flagicon", "Template:Main", "Template:Cite news", "Template:田原市の町・字", "Template:Normdaten", "Template:Columns-list", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:Googlemap", "Template:ウィキトラベル インライン", "Template:人口統計", "Template:Osm box", "Template:Official website", "Template:Wikivoyage-inline", "Template:愛知県の自治体" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%B8%82
13,596
蓄音機
蓄音機、蓄音器(ちくおんき、アメリカ英語: Phonograph、イギリス英語: Gramophone)は、狭義には、駆動や再生、増幅機構に電気を一切使わない機械式蓄音機をいう。広義には、駆動や音の増幅を電気で行う電気式蓄音機を含める。 19世紀半ば、会話や演奏を何らかの機械的な手段により記録し再生する録音再生機器の開発が欧米各地で試みられるようになった。 1857年、フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル (Édouard-Léon Scott de Martinville) が発明したフォノトグラフが、音を記憶する装置の最古のものである。実際に波形を記録しているが、当時の技術でそれを音として再生する手段はなかった。 1877年12月、トーマス・エジソンが、音による空気の振動を針先から回転する円筒軸に巻いた錫箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式フォノグラフを発明した(ティン・フォイル一号機の製作)。この空気振動と針先の振動との間で物理的に情報をやり取りするアイデアはLPレコードにまで受け継がれる。 エジソンは1878年1月にエジソン・スピーキング・フォノグラフ社を設立。しかし、最初のフォノグラフは周波数特性が狭く、SN比も悪く、再生を繰り返すとSN比が急低下するという極めて不十分な精度のものであった。その後、エジソンは白熱電球の開発に集中し、フォノグラフの研究開発はしばらく抛擲された。 その後、1888年にグラハム・ベルの研究所でチャールズ・サムナー・テンターらによる蓄音機の改良が試みられたが、錫箔に代わり、記録媒体に蝋を染み込ませたボール紙の円筒(ワックス・シリンダー)を用いるものだった。同機の開発を知って激怒したエジソンは同じように蝋管を用いる改良機を開発するようになった。 これに先立ってエミール・ベルリナー(Emile Berliner)は1887年に亜鉛円盤に横揺れの溝を刻む蓄音機を開発して円盤(ディスク)式蓄音機が誕生した。 駆動面では1895年から1896年にかけてゼンマイ(Spring motor)式フォノグラフが開発された(エジソン・スプリングモーター式蓄音機)。 1890年代になると蓄音機が学術目的で様々な言語や芸能を録音するのに利用されるようになった。 アメリカでは1890年に人類学者のJesse Walter Fewkesがパサマクォディ(Passamaquoddy Indians)の歌と物語をエジソンの蝋管式録音機で録音している。また、1895年から1897年にはFrancis La Flesche と Alice Cunningham FletcherがOmaha Indiansの歌を蝋管に記録した。20世紀になるとFrances Densmoreが1907年から1940年代初頭にかけてアメリカ先住民族の歌や語りを収録する活動を行った。 一方、ヨーロッパでは19世紀から20世紀にかけて本格的な録音アーカイブズが設立されるようになった。1899年にはオーストリアのウィーンに世界最初の録音アルヒーフが創設され、比較方言学・民族言語学・民族音楽学の資料音源の収録を行うようになった。1900年にはドイツのベルリンにも録音アルヒーフが開設され、世界の諸音楽を主な対象とする録音活動を始めた。 1900年パリ万国博覧会では、パリ人類学会が同地を訪れた世界各国の人々を対象に録音を行い、録音博物館 Musée phonographique のプロジェクトを展開した。 日本に初めて蓄音機が上陸したのは1877年(明治10年)に横浜の輸入商によってもたらされた。 1907年(明治40年)には松本武一郎が日米蓄音機製造株式会社を創立し、1910年(明治43年)4月に国産蓄音器第1号「ニッポノホン」の製造・販売の開始した。同社は1910年10月に日本蓄音器商会として法人化された(後の日本コロムビア)。普及が進んだのは蓄音機を製造する会社が増えた昭和初期のことである。 日本独自の装置として、1937年(昭和12年)日本フィルモン社が長さ13 m、幅35 mmのセルロイド系素材のベルトの両端を接続してエンドレスにし、そこに音溝を刻んだフィルモン音帯からレコード針で音を再生する装置「フィルモン」を売り出している。(日本では蓄音器と書くことが多かった) エレクトロニクスの進歩、真空管の小型化と性能向上に伴い、レコード針の動きを電気信号に変換して増幅し、スピーカーを鳴らす「電気式蓄音機」すなわち「電蓄」が登場した(順序としては駆動系の電化のほうが遅かった)。 LPレコードはレコードの溝が細かくなった上に、材質がポリ塩化ビニルとなってSP盤のような強い針圧に耐えられなくなったことから、電気式でないと再生できない。ステレオレコードに至っては、原理上電気信号を用いる方式でしか再生はほぼ不可能である。オーディオ機器のコンポーネント化により、レコードから電気信号を取り出し、ライン出力に増幅するところあたりまでの装置を独立させてレコードプレーヤーとするようになった。 また、電蓄の語は、レコード盤をはみださせてぎりぎり乗る大きさのターンテーブルと、そのままスピーカーを駆動できるアンプを内蔵したいわゆる「ポータブル電蓄」が普及し、昭和中期にはトランジスタ化されて一般家庭にも広く普及したことから、オーディオ機器の中で「レコードプレーヤー」の語が一般的になった後も、「ポータブル電蓄」にその名を留めていた。 現在では北海道大学の伊福部達らにより、レーザー光線による非接触の蝋管再生装置が開発されている(金属製の雄型の再生も可能である)。 日本オーディオ協会は、12月6日を音の日と定めた。これは、エジソンが1877年12月に蓄音機による録音・再生の実験を成功させたことにちなむ。なお、この時録音されたものは『メリーさんのひつじ (Mary Had a Little Lamb)』である。 エジソンの実験以前にも音を記録すること自体は成功していたが、再生は長らく不可能だった。2008年になって、フォノトグラフによって1860年4月9日に記録されたフランス民謡『月の光に (Au Clair de la Lune)』を、コンピュータ解析によって再生することに成功した。フランス科学アカデミーはこれを「人類最古の録音」としている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "蓄音機、蓄音器(ちくおんき、アメリカ英語: Phonograph、イギリス英語: Gramophone)は、狭義には、駆動や再生、増幅機構に電気を一切使わない機械式蓄音機をいう。広義には、駆動や音の増幅を電気で行う電気式蓄音機を含める。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "19世紀半ば、会話や演奏を何らかの機械的な手段により記録し再生する録音再生機器の開発が欧米各地で試みられるようになった。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1857年、フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル (Édouard-Léon Scott de Martinville) が発明したフォノトグラフが、音を記憶する装置の最古のものである。実際に波形を記録しているが、当時の技術でそれを音として再生する手段はなかった。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1877年12月、トーマス・エジソンが、音による空気の振動を針先から回転する円筒軸に巻いた錫箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式フォノグラフを発明した(ティン・フォイル一号機の製作)。この空気振動と針先の振動との間で物理的に情報をやり取りするアイデアはLPレコードにまで受け継がれる。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エジソンは1878年1月にエジソン・スピーキング・フォノグラフ社を設立。しかし、最初のフォノグラフは周波数特性が狭く、SN比も悪く、再生を繰り返すとSN比が急低下するという極めて不十分な精度のものであった。その後、エジソンは白熱電球の開発に集中し、フォノグラフの研究開発はしばらく抛擲された。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、1888年にグラハム・ベルの研究所でチャールズ・サムナー・テンターらによる蓄音機の改良が試みられたが、錫箔に代わり、記録媒体に蝋を染み込ませたボール紙の円筒(ワックス・シリンダー)を用いるものだった。同機の開発を知って激怒したエジソンは同じように蝋管を用いる改良機を開発するようになった。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これに先立ってエミール・ベルリナー(Emile Berliner)は1887年に亜鉛円盤に横揺れの溝を刻む蓄音機を開発して円盤(ディスク)式蓄音機が誕生した。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "駆動面では1895年から1896年にかけてゼンマイ(Spring motor)式フォノグラフが開発された(エジソン・スプリングモーター式蓄音機)。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1890年代になると蓄音機が学術目的で様々な言語や芸能を録音するのに利用されるようになった。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アメリカでは1890年に人類学者のJesse Walter Fewkesがパサマクォディ(Passamaquoddy Indians)の歌と物語をエジソンの蝋管式録音機で録音している。また、1895年から1897年にはFrancis La Flesche と Alice Cunningham FletcherがOmaha Indiansの歌を蝋管に記録した。20世紀になるとFrances Densmoreが1907年から1940年代初頭にかけてアメリカ先住民族の歌や語りを収録する活動を行った。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、ヨーロッパでは19世紀から20世紀にかけて本格的な録音アーカイブズが設立されるようになった。1899年にはオーストリアのウィーンに世界最初の録音アルヒーフが創設され、比較方言学・民族言語学・民族音楽学の資料音源の収録を行うようになった。1900年にはドイツのベルリンにも録音アルヒーフが開設され、世界の諸音楽を主な対象とする録音活動を始めた。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1900年パリ万国博覧会では、パリ人類学会が同地を訪れた世界各国の人々を対象に録音を行い、録音博物館 Musée phonographique のプロジェクトを展開した。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本に初めて蓄音機が上陸したのは1877年(明治10年)に横浜の輸入商によってもたらされた。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1907年(明治40年)には松本武一郎が日米蓄音機製造株式会社を創立し、1910年(明治43年)4月に国産蓄音器第1号「ニッポノホン」の製造・販売の開始した。同社は1910年10月に日本蓄音器商会として法人化された(後の日本コロムビア)。普及が進んだのは蓄音機を製造する会社が増えた昭和初期のことである。", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本独自の装置として、1937年(昭和12年)日本フィルモン社が長さ13 m、幅35 mmのセルロイド系素材のベルトの両端を接続してエンドレスにし、そこに音溝を刻んだフィルモン音帯からレコード針で音を再生する装置「フィルモン」を売り出している。(日本では蓄音器と書くことが多かった)", "title": "機械式蓄音機" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "エレクトロニクスの進歩、真空管の小型化と性能向上に伴い、レコード針の動きを電気信号に変換して増幅し、スピーカーを鳴らす「電気式蓄音機」すなわち「電蓄」が登場した(順序としては駆動系の電化のほうが遅かった)。", "title": "電気式蓄音機(電蓄)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "LPレコードはレコードの溝が細かくなった上に、材質がポリ塩化ビニルとなってSP盤のような強い針圧に耐えられなくなったことから、電気式でないと再生できない。ステレオレコードに至っては、原理上電気信号を用いる方式でしか再生はほぼ不可能である。オーディオ機器のコンポーネント化により、レコードから電気信号を取り出し、ライン出力に増幅するところあたりまでの装置を独立させてレコードプレーヤーとするようになった。", "title": "電気式蓄音機(電蓄)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、電蓄の語は、レコード盤をはみださせてぎりぎり乗る大きさのターンテーブルと、そのままスピーカーを駆動できるアンプを内蔵したいわゆる「ポータブル電蓄」が普及し、昭和中期にはトランジスタ化されて一般家庭にも広く普及したことから、オーディオ機器の中で「レコードプレーヤー」の語が一般的になった後も、「ポータブル電蓄」にその名を留めていた。", "title": "電気式蓄音機(電蓄)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現在では北海道大学の伊福部達らにより、レーザー光線による非接触の蝋管再生装置が開発されている(金属製の雄型の再生も可能である)。", "title": "電気式蓄音機(電蓄)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本オーディオ協会は、12月6日を音の日と定めた。これは、エジソンが1877年12月に蓄音機による録音・再生の実験を成功させたことにちなむ。なお、この時録音されたものは『メリーさんのひつじ (Mary Had a Little Lamb)』である。", "title": "記念日" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エジソンの実験以前にも音を記録すること自体は成功していたが、再生は長らく不可能だった。2008年になって、フォノトグラフによって1860年4月9日に記録されたフランス民謡『月の光に (Au Clair de la Lune)』を、コンピュータ解析によって再生することに成功した。フランス科学アカデミーはこれを「人類最古の録音」としている。", "title": "記念日" } ]
蓄音機、蓄音器は、狭義には、駆動や再生、増幅機構に電気を一切使わない機械式蓄音機をいう。広義には、駆動や音の増幅を電気で行う電気式蓄音機を含める。
{{Redirect|フォノグラフ|[[TOKIO]]の楽曲|glider (アルバム)}} [[Image:EdisonPhonograph.jpg|thumb|蝋管式蓄音機|150px]] [[Image:ColumbiaPhonographADV 1897.png|thumb|Graphpphone [[1897年]]に [[コロムビア・レコード|Columbia Phonograph]] 社から発表された家庭用蓄音機の広告。聴診器のようなイアホンを用いて回転する円筒に記録された擦過音を直接聴く機構。|150px]] '''蓄音機'''、'''蓄音器'''(ちくおんき、{{lang-en-us|Phonograph}}、{{lang-en-gb|Gramophone}})は、狭義には、駆動や再生、増幅機構に[[電気]]を一切使わない機械式蓄音機をいう<ref>{{Cite journal |和書|author=篠塚義弘|authorlink=|url=https://hdl.handle.net/10112/00023779 |title=関西大学博物館のSPレコードコレクションについて |journal=阡陵 : 関西大学博物館彙報 |volume=79 |issue= |publisher= |date=2019-09-30 |pages=12-13 |naid= |ref=}}</ref>。広義には、駆動や音の増幅を電気で行う電気式蓄音機を含める<ref name="nonoichi" />。 == 機械式蓄音機 == === 発明 === [[ファイル:Edison and phonograph edit2.jpg|サムネイル|252x252ピクセル|蝋管式蓄音機の2号機と写るエジソン(1878年4月)]] [[19世紀]]半ば、会話や演奏を何らかの機械的な手段により記録し再生する[[録音再生機器]]の開発が欧米各地で試みられるようになった<ref name="shimizu">{{Cite journal |和書|author=清水康行 |authorlink= |url=https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/old2/thesis/kokubun-mejiro/KOME_50_10.pdf|title=欧米の録音アーカイブズ―初期日本語録音資料所蔵機関を中心に― |journal=国文目白 田中功教授退任記念号 ; 田中功教授退任記念特集|volume= |issue= |publisher=日本女子大学国語国文学会 |date=2011-02|pages=19-29|naid= |ref=}}</ref>。 {{要出典範囲|1857年、フランス人[[エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル]] ([[:w:Édouard-Léon Scott de Martinville|Édouard-Léon Scott de Martinville]]) が発明した[[フォノトグラフ]]が、音を記憶する装置の最古のものである。実際に[[波形]]を記録しているが、当時の技術でそれを音として再生する手段はなかった。|date=2022年11月}} [[1877年]]12月、[[トーマス・エジソン]]が、音による空気の振動を針先から回転する円筒軸に巻いた[[錫]]箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式[[フォノグラフ]]を[[発明]]した(ティン・フォイル一号機の製作)<ref name="shimizu" /><ref name="osaka">{{Cite web|和書|author= |url=https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/1008 |title=大阪芸術大学所蔵『蓄音機デザイン調査研究』のための基礎資料作成 |publisher=大阪芸術大学 |date= |accessdate=2022-11-20}}</ref>。この空気振動と針先の振動との間で物理的に情報をやり取りするアイデアはLP[[レコード]]にまで受け継がれる<ref name="shimizu" />。 エジソンは[[1878年]]1月にエジソン・スピーキング・フォノグラフ社を設立<ref name="osaka" />。しかし、最初のフォノグラフは[[周波数特性]]が狭く、[[SN比]]も悪く、再生を繰り返すとSN比が急低下するという極めて不十分な精度のものであった<ref name="shimizu" />。その後、エジソンは[[白熱電球]]の開発に集中し、フォノグラフの研究開発はしばらく抛擲された<ref name="shimizu" />。 その後、[[1888年]]に[[グラハム・ベル]]の研究所で[[チャールズ・サムナー・テンター]]らによる蓄音機の改良が試みられたが、錫箔に代わり、記録媒体に[[蝋]]を染み込ませた[[ボール紙]]の円筒(ワックス・シリンダー)を用いるものだった<ref name="shimizu" /><ref name="osaka" />。同機の開発を知って激怒したエジソンは同じように蝋管を用いる改良機を開発するようになった<ref name="shimizu" /><ref name="osaka" /><ref>[http://www.tactec.co.jp/classic_audio/11_phonograph_recorder.html 蝋管式蓄音機]</ref>。 これに先立って[[エミール・ベルリナー]](Emile Berliner)は[[1887年]]に[[亜鉛]]円盤に横揺れの溝を刻む蓄音機を開発して円盤(ディスク)式蓄音機が誕生した<ref name="shimizu" />。 駆動面では[[1895年]]から[[1896年]]にかけて[[ぜんまいばね|ゼンマイ]](Spring motor)式フォノグラフが開発された(エジソン・スプリングモーター式蓄音機)<ref name="osaka" />。 === 欧米での普及 === 1890年代になると蓄音機が学術目的で様々な言語や芸能を録音するのに利用されるようになった<ref name="shimizu" />。 アメリカでは1890年に人類学者のJesse Walter Fewkesが[[パサマクォディ]](Passamaquoddy Indians)の歌と物語をエジソンの蝋管式録音機で録音している<ref name="shimizu" />。また、1895年から1897年にはFrancis La Flesche と Alice Cunningham FletcherがOmaha Indiansの歌を蝋管に記録した<ref name="shimizu" />。20世紀になるとFrances Densmoreが1907年から1940年代初頭にかけてアメリカ先住民族の歌や語りを収録する活動を行った<ref name="shimizu" />。 一方、ヨーロッパでは19世紀から20世紀にかけて本格的な録音アーカイブズが設立されるようになった<ref name="shimizu" />。1899年にはオーストリアのウィーンに世界最初の録音アルヒーフが創設され、比較方言学・民族言語学・民族音楽学の資料音源の収録を行うようになった<ref name="shimizu" />。1900年にはドイツのベルリンにも録音アルヒーフが開設され、世界の諸音楽を主な対象とする録音活動を始めた<ref name="shimizu" />。 [[1900年]][[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]では、パリ人類学会が同地を訪れた世界各国の人々を対象に録音を行い、録音博物館 Musée phonographique のプロジェクトを展開した<ref name="shimizu" />。 === 日本での普及 === [[日本]]に初めて蓄音機が上陸したのは[[1877年]]([[明治]]10年)に[[横浜市|横浜]]の輸入商によってもたらされた<ref name="kawasaki">{{Cite web|和書|author= |url=https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000025/25800/30-1.pdf |title=ニッポノホン |publisher=川崎区 |date= |accessdate=2022-11-20}}</ref>。 [[1907年]](明治40年)には松本武一郎が日米蓄音機製造株式会社を創立し、[[1910年]](明治43年)4月に国産蓄音器第1号「ニッポノホン」の製造・販売の開始した<ref name="kawasaki" /><ref name="nonoichi">{{Cite web|和書|author= |url=https://www.city.nonoichi.lg.jp/uploaded/attachment/11546.pdf |title=蓄音機 |publisher=野々市市 |date= |accessdate=2022-11-20}}</ref>。同社は1910年10月に日本蓄音器商会として法人化された(後の[[日本コロムビア]])<ref name="kawasaki" />。普及が進んだのは蓄音機を製造する会社が増えた昭和初期のことである<ref name="nonoichi" />。 日本独自の装置として、[[1937年]]([[昭和]]12年)日本フィルモン社が長さ13 m、幅35 mmの[[セルロイド]]系素材のベルトの両端を接続してエンドレスにし、そこに音溝を刻んだフィルモン音帯からレコード針で音を再生する装置「[[フィルモン]]」を売り出している。(日本では蓄音器と書くことが多かった) == 電気式蓄音機(電蓄) == {{出典の明記|date=2022年11月|section=1}} エレクトロニクスの進歩、[[真空管]]の小型化と性能向上に伴い、レコード針の動きを電気信号に変換して[[増幅]]し、[[スピーカー]]を鳴らす「電気式蓄音機」すなわち「電蓄」が登場した(順序としては駆動系の電化のほうが遅かった)。 [[LPレコード]]はレコードの溝が細かくなった上に、材質が[[ポリ塩化ビニル]]となって[[SPレコード|SP盤]]のような強い針圧に耐えられなくなったことから、電気式でないと再生できない。ステレオレコードに至っては、原理上電気信号を用いる方式でしか再生はほぼ不可能である。[[コンポーネントステレオ|オーディオ機器のコンポーネント化]]により、レコードから電気信号を取り出し、ライン出力に増幅するところあたりまでの装置を独立させて[[レコードプレーヤー]]とするようになった。 また、電蓄の語は、レコード盤をはみださせてぎりぎり乗る大きさのターンテーブルと、そのままスピーカーを駆動できるアンプを内蔵したいわゆる「ポータブル電蓄」が普及し、昭和中期にはトランジスタ化されて一般家庭にも広く普及したことから、オーディオ機器の中で「レコードプレーヤー」の語が一般的になった後も、「ポータブル電蓄」にその名を留めていた。 現在では[[北海道大学]]の[[伊福部達]]らにより、[[レーザー光線]]による非接触の蝋管再生装置が開発されている(金属製の雄型の再生も可能である)。 == アーカイブ == ; トマス・エディソン国立歴史公園 : エジソンが作製した蓄音機を展示する博物館、実験棟や実験装置などがあり、初期録音資料の一部を公開している<ref name="shimizu" />。 ; [[アメリカ議会図書館]] : ヒューカス(Jesse Walter Fewkes)による1890年録音やラ・フレッシュ等による1895~97年録音など最初期の録音資料を保有している<ref name="shimizu" />。 ; [[シラキュース大学]]ベルファー音響アーカイブ : 蝋管22,000本などを所蔵する全米有数の大規模録音アーカイブ<ref name="shimizu" />。 ; [[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]]蝋管保存・デジタル化プロジェクト : 同校の図書館であるDonald C. Davidson Libraryの特別コレクションを扱う Department of Special Collections にある蝋管のデジタル化のプロジェクト<ref name="shimizu" />。 ; オーストリア科学アカデミー録音アルヒーフ : 1899年に設立された録音アルヒーフで、その初期録音コレクションは1999年に世界記録遺産に登録された<ref name="shimizu" />。 ; ベルリン録音アルヒーフ : [[ベルリン]]の民族学博物館内にある録音アルヒーフで1999年に世界記録遺産に登録された<ref name="shimizu" />。 ; [[大英図書館]]音響アーカイブ : 1955年に私設の大英録音音響研究所として設立され、1983年に大英図書館の帰属となったアーカイブで、蝋管等の初期録音資料群も保有している<ref name="shimizu" />。 ; [[福井県立こども歴史文化館]] : かつては[[オーディオテクニカ]]のフォノギャラリーが世界有数のコレクションを誇っていたが、2014年3月に、その大半が[[福井県立こども歴史文化館]]に寄贈された。 == 記念日 == [[日本オーディオ協会]]は、[[12月6日]]を[[音の日]]と定めた。これは、[[トーマス・エジソン|エジソン]]が[[1877年]][[12月]]に蓄音機による[[録音]]・[[再生]]の実験を成功させたことにちなむ。なお、この時録音されたものは『[[メリーさんのひつじ|メリーさんのひつじ (Mary Had a Little Lamb)]]』である。 エジソンの実験以前にも音を記録すること自体は成功していたが、再生は長らく不可能だった。[[2008年]]になって、[[フォノトグラフ]]によって[[1860年]][[4月9日]]に記録された[[フランス]][[民謡]]『[[月の光に|月の光に (Au Clair de la Lune)]]』を、コンピュータ解析によって再生することに成功した。[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]はこれを「人類最古の録音」としている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2370877?pid=2782722 AFP通信記事]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[エミール・ベルリナー]] - 円盤式蓄音機「グラモフォン」を発明した。 * [[松本重雄]] - 実家が日本初の蓄音機専門店「三光堂」 * [[ニッパー (犬)]] - 蓄音機に耳を傾ける犬として知られる。 == 外部リンク == {{Commonscat|Phonographs}} * [http://www.firstsounds.org/press/032708/index.php ジョバンノーニ氏が再生に成功した史上初の録音] * [https://bluesdays.exblog.jp/140034 Disc Vs. Cylinder] ([https://bluesdays.exblog.jp/ BLUES Diary 2003.7-2004.3]) * [http://info.pref.fukui.jp/koreki/ 福井県立こども歴史文化館] {{音楽}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ちくおんき}} [[Category:音響機器]] [[Category:情報技術史]] [[Category:トーマス・エジソン]] [[Category:歴史上の機器]] [[Category:録音技術]]
2003-08-20T03:54:03Z
2023-12-01T18:58:54Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-gb", "Template:要出典範囲", "Template:出典の明記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Redirect", "Template:Lang-en-us", "Template:Cite journal", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:音楽", "Template:Authority control" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%84%E9%9F%B3%E6%A9%9F
13,597
電気録音
電気録音(でんきろくおん)とは、音楽録音において現在普通に行われる、楽器や歌手の演奏をマイクロフォンにより電気信号に変換した上で録音する方式であり、それまでの音響・機械的振動のみを用いた記録方式であるアコースティック録音と区別する。 初期には信号の調整後直接レコードの原盤(ラッカー盤)をカッティングしたが、録音機の発明とともにいったん記録したテープなどを介して間接的にカッティングが行われるようになった。 その結果、テープ上で編集を行うことができるようになったため、演奏家は最初から最後までミスの無い演奏を行うことを必須とされなくなったが、それはメリットであると同時に演奏の緊張感を損なう欠点であるという見方も長らくあった。 しかし、アコースティック録音時代の記録媒体はSPレコードであったため、最大でも5分程度しか演奏を続けることは無かった。かつてはオペラの一幕はおろか、交響曲の1楽章すら通して録音することは無かった。 演奏会を行わないことで有名だったピアニストのグレン・グールドは、変奏曲の各変奏を順序も別々に録音して制作したレコードを作ったこともあったし、オペラなどは出演する歌手のスケジュールに合わせるため、楽譜の順番どおり録音されることはめったに無い。そうした録音セッションを通して演奏の質を確保することに力を注ぎ、結果に責任を持つのは、演奏家だけではなくレコーディング・プロデューサーの重要な仕事である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "電気録音(でんきろくおん)とは、音楽録音において現在普通に行われる、楽器や歌手の演奏をマイクロフォンにより電気信号に変換した上で録音する方式であり、それまでの音響・機械的振動のみを用いた記録方式であるアコースティック録音と区別する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "初期には信号の調整後直接レコードの原盤(ラッカー盤)をカッティングしたが、録音機の発明とともにいったん記録したテープなどを介して間接的にカッティングが行われるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その結果、テープ上で編集を行うことができるようになったため、演奏家は最初から最後までミスの無い演奏を行うことを必須とされなくなったが、それはメリットであると同時に演奏の緊張感を損なう欠点であるという見方も長らくあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、アコースティック録音時代の記録媒体はSPレコードであったため、最大でも5分程度しか演奏を続けることは無かった。かつてはオペラの一幕はおろか、交響曲の1楽章すら通して録音することは無かった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "演奏会を行わないことで有名だったピアニストのグレン・グールドは、変奏曲の各変奏を順序も別々に録音して制作したレコードを作ったこともあったし、オペラなどは出演する歌手のスケジュールに合わせるため、楽譜の順番どおり録音されることはめったに無い。そうした録音セッションを通して演奏の質を確保することに力を注ぎ、結果に責任を持つのは、演奏家だけではなくレコーディング・プロデューサーの重要な仕事である。", "title": null } ]
電気録音(でんきろくおん)とは、音楽録音において現在普通に行われる、楽器や歌手の演奏をマイクロフォンにより電気信号に変換した上で録音する方式であり、それまでの音響・機械的振動のみを用いた記録方式であるアコースティック録音と区別する。 初期には信号の調整後直接レコードの原盤(ラッカー盤)をカッティングしたが、録音機の発明とともにいったん記録したテープなどを介して間接的にカッティングが行われるようになった。 その結果、テープ上で編集を行うことができるようになったため、演奏家は最初から最後までミスの無い演奏を行うことを必須とされなくなったが、それはメリットであると同時に演奏の緊張感を損なう欠点であるという見方も長らくあった。 しかし、アコースティック録音時代の記録媒体はSPレコードであったため、最大でも5分程度しか演奏を続けることは無かった。かつてはオペラの一幕はおろか、交響曲の1楽章すら通して録音することは無かった。 演奏会を行わないことで有名だったピアニストのグレン・グールドは、変奏曲の各変奏を順序も別々に録音して制作したレコードを作ったこともあったし、オペラなどは出演する歌手のスケジュールに合わせるため、楽譜の順番どおり録音されることはめったに無い。そうした録音セッションを通して演奏の質を確保することに力を注ぎ、結果に責任を持つのは、演奏家だけではなくレコーディング・プロデューサーの重要な仕事である。
{{出典の明記|date=2006年11月14日 (火) 03:55 (UTC)}} [[File:Zoom H4n audio recording levels.jpg|thumb|[[デジタルオーディオレコーダー]]の[[オーディオレベル]]表示 ([[:en:Zoom H4n|Zoom H4n]])]] '''電気録音'''(でんきろくおん)とは、音楽録音において現在普通に行われる、[[楽器]]や[[歌手]]の演奏を[[マイクロフォン]]により電気信号に変換した上で録音する方式であり、それまでの音響・機械的振動のみを用いた記録方式である[[アコースティック録音]]と区別する。 初期には信号の調整後直接[[レコード]]の原盤(ラッカー盤)をカッティングしたが、[[録音|録音機]]の発明とともにいったん記録したテープなどを介して間接的にカッティングが行われるようになった。 その結果、テープ上で編集を行うことができるようになったため、演奏家は最初から最後までミスの無い演奏を行うことを必須とされなくなったが、それはメリットであると同時に演奏の緊張感を損なう欠点であるという見方も長らくあった。 しかし、アコースティック録音時代の記録媒体は[[SPレコード]]であったため、最大でも5分程度しか演奏を続けることは無かった。かつては[[オペラ]]の一幕はおろか、[[交響曲]]の1[[楽章]]すら通して録音することは無かった。 演奏会を行わないことで有名だった[[ピアニスト]]の[[グレン・グールド]]は、[[変奏曲]]の各変奏を順序も別々に録音して制作したレコードを作ったこともあったし、オペラなどは出演する歌手のスケジュールに合わせるため、楽譜の順番どおり録音されることはめったに無い。そうした録音セッションを通して演奏の質を確保することに力を注ぎ、結果に責任を持つのは、演奏家だけではなくレコーディング・プロデューサーの重要な仕事である。 == 関連項目 == * [[レコード]] * [[ダイレクトカッティング]] {{music-stub}} {{audio-visual-stub}} {{DEFAULTSORT:てんきろくおん}} [[Category:録音]]
null
2023-04-01T04:11:23Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Music-stub", "Template:Audio-visual-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%8C%B2%E9%9F%B3
13,598
白金高輪駅
白金高輪駅(しろかねたかなわえき)は、東京都港区高輪一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 東京メトロ南北線と、都営地下鉄三田線が乗り入れている。改札は共用となっており、東京メトロと東京都交通局の共同使用駅である(東京メトロの管轄)。なお、当駅から目黒駅までの間は南北線・三田線の重複(共用)区間であり、この区間は東京メトロが第一種鉄道事業者、東京都交通局が第二種鉄道事業者となっている。 駅番号は南北線がN 03、三田線がI 03となっている。 「しろがねたかなわえき」と読まれる場合もあるが、当駅の正しい読み方は「しろかねたかなわえき」であり、濁音は付かない。 この駅名は、複数の地名「白金」と「高輪」に由来する。他の例では若松河田駅、落合南長崎駅、溜池山王駅、小竹向原駅、清澄白河駅、牛込神楽坂駅などと同様の複合駅名であり、「白金高輪」と称する地名そのものは存在しない。開業前の仮称は「清正公前駅」となっていた。 清正公前の仮称は1967年(昭和42年)まで存在した都電の停留場に由来し、その後も都バスの停留所名として現存していたため、決定に近い仮称だったとされる。南北線の開通の見通しがたった当初より配布されていた首都圏地下鉄路線図(開通前で南北線は路線が点線表示)にも駅名は清正公前として載せられ、車両の行先表示にも「清正公前」表示が用意されていた。 しかし、清正公(覚林寺)は駅から少し離れており、白金台にある。対して、白金高輪駅は白金と高輪の境界にある。加えて、白金台には南北線白金台駅ができる予定で、駅名を清正公前にすると白金あるいは高輪に関係した名前の駅ができず、白金台区域の地名表示駅が二つできることになる。また、地元の一部では「魚籃坂」、「白金一丁目」、「白金志田町」を駅名にしようとする動きもあった。紆余曲折を経た結果、地元の町会が「白高町会」に改名されていることにも因み、二地区の住所表示を取り入れた現在の駅名に至っている。 島式ホーム2面4線を有する地下駅。外側2線を三田線、内側2線を南北線が使用し、方向別に配置されている。両路線の目黒方面から来た列車が同じホーム(1・2番線)に、目黒方面への列車も同じホーム(3・4番線)に発着する構造のため、同じ方向の列車間の乗り換えをスムーズに行うことができる対面乗り換え駅である。 地下1階は駅事務室や改札口、乗務員事務室(白金高輪運転事務室)など、地下2階は信号通信機器室や電気室、変電所(東京都交通局白金高輪変電所)、地下3階はホームとなっている。東京メトロ・都営地下鉄でプラットホームと改札口を共用している。このため、中間改札なしで乗換が可能となっている。この点は西隣の白金台駅も同様である。 改札階とホーム階の間には、エスカレーターとエレベーターが設置されている。それ以外にもエスカレーターは改札外コンコースと各出入口間を、エレベーターは改札外コンコースと1・2番出入口を連絡している。トイレは改札内にあり、多機能トイレも併設されている。ホームにはフルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。 自動券売機は東京メトロと都営地下鉄の2種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある(定期券は東京メトロのみ)。ただし、白金台駅・目黒駅への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また過去には東京メトロの定期券発売所が設置されていた。 当駅は延長約307 m、幅員約24 - 32 m、掘削深さ約32 m、掘削土量約26万6,000 mにも及ぶ大規模な構築である。駅構築の上部には赤羽岩淵寄りに地下駐輪場(369台収容・港区立白金高輪駅自転車駐車場)を、目黒寄り(渡り線部)は建設省→国土交通省の地下駐車場(140台収容・現在は二輪車専用の白金高輪バイクイン)と東京電力の専用地下変電所が一体で構築されている。また、将来の道路のアンダーパス計画の設置スペースを確保している。 駅停車場部は約176 m、渡り線部は約130 mで、その先目黒方面への本線は単線シールドトンネル(白金換気室まで)、2本の引き上げ線は溜池山王 - 永田町間の掘削に使用したシールドマシンを再利用し建設された複線シールドトンネルである。 当駅の西側地上部には、南北線の総合事務所として「地下鉄白金高輪ビル」がある(地下1階・地上5階建て)。2000年(平成12年)9月の南北線全線開業時に建設される予定であったが、用地買収が遅れたことから完成は2003年(平成15年)7月となった。現在は白金高輪運転事務室の宿泊施設のほか、白金変電区、半蔵門線・南北線工務区白金分室、南北線電機区白金分室、南北線信通区白金分室が配置されている。また、白金高輪駅の換気塔にもなっている。 駅中心部における地表からレール面までの深さは29.8 mで、地表からホーム面までの深さは28.7 mである。南北線全駅では後楽園駅(深さ37.5 m)に続いて2番目に深い駅である(3番目は隣駅の白金台駅 28.3 m)。東京地下鉄全駅では8番目に深く、偶然だが都営地下鉄全駅でも8番目に深い(都営地下鉄大江戸線#駅の深さも参照)。 (出典:東京メトロ:駅構内図・都営地下鉄:駅構内図) 開業時から吉村弘作曲の南北線・三田線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月12日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。 開業以降の1日平均乗降人員は下表の通りである。 開業以降の1日平均乗車人員は下表の通りである。 最寄の停留所は、国道1号(桜田通り)、目黒通り、東京都道305号芝新宿王子線にある、白金高輪駅前 と高輪地区総合支所前、および2出口の先にある魚籃坂下 である。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局(都営バス)、東急バス、フジエクスプレスにより運行されている。 このほか、シェラトン都ホテル東京に東京空港交通(リムジンバス)の成田空港行、羽田空港行が発着している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "白金高輪駅(しろかねたかなわえき)は、東京都港区高輪一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京メトロ南北線と、都営地下鉄三田線が乗り入れている。改札は共用となっており、東京メトロと東京都交通局の共同使用駅である(東京メトロの管轄)。なお、当駅から目黒駅までの間は南北線・三田線の重複(共用)区間であり、この区間は東京メトロが第一種鉄道事業者、東京都交通局が第二種鉄道事業者となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅番号は南北線がN 03、三田線がI 03となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「しろがねたかなわえき」と読まれる場合もあるが、当駅の正しい読み方は「しろかねたかなわえき」であり、濁音は付かない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この駅名は、複数の地名「白金」と「高輪」に由来する。他の例では若松河田駅、落合南長崎駅、溜池山王駅、小竹向原駅、清澄白河駅、牛込神楽坂駅などと同様の複合駅名であり、「白金高輪」と称する地名そのものは存在しない。開業前の仮称は「清正公前駅」となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "清正公前の仮称は1967年(昭和42年)まで存在した都電の停留場に由来し、その後も都バスの停留所名として現存していたため、決定に近い仮称だったとされる。南北線の開通の見通しがたった当初より配布されていた首都圏地下鉄路線図(開通前で南北線は路線が点線表示)にも駅名は清正公前として載せられ、車両の行先表示にも「清正公前」表示が用意されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし、清正公(覚林寺)は駅から少し離れており、白金台にある。対して、白金高輪駅は白金と高輪の境界にある。加えて、白金台には南北線白金台駅ができる予定で、駅名を清正公前にすると白金あるいは高輪に関係した名前の駅ができず、白金台区域の地名表示駅が二つできることになる。また、地元の一部では「魚籃坂」、「白金一丁目」、「白金志田町」を駅名にしようとする動きもあった。紆余曲折を経た結果、地元の町会が「白高町会」に改名されていることにも因み、二地区の住所表示を取り入れた現在の駅名に至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線を有する地下駅。外側2線を三田線、内側2線を南北線が使用し、方向別に配置されている。両路線の目黒方面から来た列車が同じホーム(1・2番線)に、目黒方面への列車も同じホーム(3・4番線)に発着する構造のため、同じ方向の列車間の乗り換えをスムーズに行うことができる対面乗り換え駅である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地下1階は駅事務室や改札口、乗務員事務室(白金高輪運転事務室)など、地下2階は信号通信機器室や電気室、変電所(東京都交通局白金高輪変電所)、地下3階はホームとなっている。東京メトロ・都営地下鉄でプラットホームと改札口を共用している。このため、中間改札なしで乗換が可能となっている。この点は西隣の白金台駅も同様である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "改札階とホーム階の間には、エスカレーターとエレベーターが設置されている。それ以外にもエスカレーターは改札外コンコースと各出入口間を、エレベーターは改札外コンコースと1・2番出入口を連絡している。トイレは改札内にあり、多機能トイレも併設されている。ホームにはフルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自動券売機は東京メトロと都営地下鉄の2種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある(定期券は東京メトロのみ)。ただし、白金台駅・目黒駅への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また過去には東京メトロの定期券発売所が設置されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当駅は延長約307 m、幅員約24 - 32 m、掘削深さ約32 m、掘削土量約26万6,000 mにも及ぶ大規模な構築である。駅構築の上部には赤羽岩淵寄りに地下駐輪場(369台収容・港区立白金高輪駅自転車駐車場)を、目黒寄り(渡り線部)は建設省→国土交通省の地下駐車場(140台収容・現在は二輪車専用の白金高輪バイクイン)と東京電力の専用地下変電所が一体で構築されている。また、将来の道路のアンダーパス計画の設置スペースを確保している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "駅停車場部は約176 m、渡り線部は約130 mで、その先目黒方面への本線は単線シールドトンネル(白金換気室まで)、2本の引き上げ線は溜池山王 - 永田町間の掘削に使用したシールドマシンを再利用し建設された複線シールドトンネルである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当駅の西側地上部には、南北線の総合事務所として「地下鉄白金高輪ビル」がある(地下1階・地上5階建て)。2000年(平成12年)9月の南北線全線開業時に建設される予定であったが、用地買収が遅れたことから完成は2003年(平成15年)7月となった。現在は白金高輪運転事務室の宿泊施設のほか、白金変電区、半蔵門線・南北線工務区白金分室、南北線電機区白金分室、南北線信通区白金分室が配置されている。また、白金高輪駅の換気塔にもなっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "駅中心部における地表からレール面までの深さは29.8 mで、地表からホーム面までの深さは28.7 mである。南北線全駅では後楽園駅(深さ37.5 m)に続いて2番目に深い駅である(3番目は隣駅の白金台駅 28.3 m)。東京地下鉄全駅では8番目に深く、偶然だが都営地下鉄全駅でも8番目に深い(都営地下鉄大江戸線#駅の深さも参照)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:駅構内図・都営地下鉄:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "開業時から吉村弘作曲の南北線・三田線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月12日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "開業以降の1日平均乗降人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "開業以降の1日平均乗車人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "最寄の停留所は、国道1号(桜田通り)、目黒通り、東京都道305号芝新宿王子線にある、白金高輪駅前 と高輪地区総合支所前、および2出口の先にある魚籃坂下 である。以下の路線が乗り入れ、東京都交通局(都営バス)、東急バス、フジエクスプレスにより運行されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このほか、シェラトン都ホテル東京に東京空港交通(リムジンバス)の成田空港行、羽田空港行が発着している。", "title": "バス路線" } ]
白金高輪駅(しろかねたかなわえき)は、東京都港区高輪一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{駅情報 |社色 = #109ed4<!-- 東京メトロの管轄駅 --> |文字色 = |駅名 = 白金高輪駅 |画像 = Shirokane-Takanawa-STA Gate.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 改札口(2022年5月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |よみがな = しろかねたかなわ |ローマ字 = Shirokane-takanawa |電報略号 = シタ(東京メトロ)<br />白高(東京都交通局、駅名略称) |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)<br />[[東京都交通局]](都営地下鉄) |所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]一丁目3-20 |座標 = {{coord|35|38|34.4|N|139|44|2.9|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日= [[2000年]]([[平成]]12年)[[9月26日]]<ref name="pr20000207"/><ref name="交通20000209">{{cite news |title=営団南北線 都営三田線 9月26日に目黒延伸開業/都心の新動脈完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-02-09 |page=3 }}</ref> |廃止年月日 = |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面4線(共用) |乗降人員 = {{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />32,521*人/日<hr />{{Small|(東京都交通局)-2022年-}}<br /><ref group="都交" name="toei2022" />20,533 |統計年度 = <!--リンク不要--> |乗入路線数= 2 |所属路線1 = {{color|#00ac9b|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ南北線]]** |前の駅1 = N 02 [[白金台駅|白金台]] |駅間A1 = 1.0 |駅間B1 = 1.3 |次の駅1 = [[麻布十番駅|麻布十番]] N 04 |駅番号1 ={{駅番号r|N|03|#00ac9b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程1 = 2.3 |起点駅1 = [[目黒駅|目黒]] |所属路線2 = {{color|#006ab8|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄三田線]]** |前の駅2 = I 02 白金台 |駅間A2 = 1.0 |駅間B2 = 1.7 |次の駅2 = [[三田駅 (東京都)|三田]] I 04 |駅番号2 = {{駅番号r|I|03|#006ab8|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程2 = 2.3 |起点駅2 = [[目黒駅|目黒]] |乗換 = |備考 = [[共同使用駅]](東京メトロの管轄駅)<br />[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] |備考全幅 = * 直通連絡人員含む。<br />** 目黒 - 白金高輪間は都営と東京メトロの共用区間<ref name="交通20000209"/>。 }} '''白金高輪駅'''(しろかねたかなわえき)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == [[東京メトロ南北線]]と、[[都営地下鉄三田線]]が乗り入れている。改札は共用となっており、東京メトロと東京都交通局の[[共同使用駅]]である(東京メトロの管轄)<ref name="Namboku-Const322">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.322・328 - 331・400。</ref>。なお、当駅から[[目黒駅]]までの間は南北線・三田線の重複(共用)区間であり、この区間は東京メトロが[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]、東京都交通局が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となっている。 [[駅ナンバリング|駅番号]]は南北線が'''N 03'''、三田線が'''I 03'''となっている。 == 歴史 == * [[2000年]]([[平成]]12年)[[9月26日]]:開業<ref name="pr20000207">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175209/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|language=日本語|title=平成12年9月26日 営団南北線 溜池山王・目黒間、都営三田線 三田・目黒間開業 東急目黒線との相互直通運転開始 開業区間の運賃及び相互直通運転に伴う運行形態を決定|publisher=帝都高速度交通営団/東京急行電鉄/東京都交通局|date=2000-08-30|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref name="交通20000209"/>。 * [[2003年]](平成15年)夏:駅[[エア・コンディショナー|冷房]]を設置<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512164540/https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-06.html|language=日本語|title=平成15年度の収支予算・事業計画決まる。−民営化に向けた準備を推進します−|publisher=営団地下鉄|date=2003-02-26|accessdate=2021-03-28|archivedate=2012-05-12}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年) ** [[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 ** [[11月1日]]:白金高輪駅自転車駐輪場の供用開始<ref>[http://asp.db-search.com/minatokugikai/dsweb.cgi/documentframe!1!guest02!!16023!0!1!1,-1,1!4061!216736!1,-1,1!4061!216736!4,3,2!95!152!190384!!28?Template=DocOneFrame 平成16年建設常任委員会本文] - 港区議会 平成16年建設常任委員会 2004年9月21日</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[11月30日]]:白金アエルシティ開業に伴い、4番出入口の供用開始。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月12日]]:[[発車メロディ]]を変更<ref name="pr20150302">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 === 駅名の由来 === 「しろ'''が'''ねたかなわえき」と読まれる場合もあるが、当駅の正しい読み方は「しろ'''か'''ねたかなわえき」であり、[[濁音]]は付かない。 {{See also|白金 (東京都港区)}} この駅名は、複数の[[地名]]「白金」と「高輪」に由来する。他の例では[[若松河田駅]]、[[落合南長崎駅]]、[[溜池山王駅]]、[[小竹向原駅]]、[[清澄白河駅]]、[[牛込神楽坂駅]]などと同様の複合駅名であり、「白金高輪」と称する地名そのものは存在しない。開業前の仮称は「'''清正公前駅'''」となっていた<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/98-29.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205203931/http://www.tokyometro.go.jp/news/98-29.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 南北線目黒・溜池山王間、平成12年秋開業へ|publisher=営団地下鉄|date=1998-10-22|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref>。 清正公前の仮称は[[1967年]]([[昭和]]42年)まで存在した[[東京都電車|都電]]の停留場に由来し、その後も[[都営バス|都バス]]の停留所名として現存<ref group="注">但し、2013年4月以降同バス停に乗り入れているのは[[東急バス]][[東急バス目黒営業所#自由が丘線|東98系統]]のみ。</ref>していたため、決定に近い仮称だったとされる。南北線の開通の見通しがたった当初より配布されていた首都圏地下鉄路線図(開通前で南北線は路線が点線表示)にも駅名は清正公前として載せられ、車両の行先表示にも「清正公前」表示が用意されていた。 しかし、清正公([[覚林寺]])は駅から少し離れており、[[白金台]]にある。対して、白金高輪駅は白金と高輪の境界にある。加えて、白金台には南北線[[白金台駅]]ができる予定で、駅名を清正公前にすると白金あるいは高輪に関係した名前の駅ができず、白金台区域の地名表示駅が二つできることになる。また、地元の一部では「[[魚籃坂]]」、「白金一丁目」、「白金志田町」を駅名にしようとする動きもあった。紆余曲折を経た結果、地元の町会が「白高町会」に改名されていることにも因み、二地区の住所表示を取り入れた現在の駅名に至っている。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線を有する[[地下駅]]。外側2線を三田線、内側2線を南北線が使用し、方向別に配置されている。両路線の目黒方面から来た列車が同じホーム(1・2番線)に、目黒方面への列車も同じホーム(3・4番線)に発着する構造のため、同じ方向の列車間の乗り換えをスムーズに行うことができる[[対面乗り換え]]駅である<ref name="Namboku-Const322"/>。 地下1階は駅事務室や改札口、乗務員事務室(白金高輪運転事務室)など、地下2階は信号通信機器室や電気室、[[変電所]](東京都交通局白金高輪変電所)、地下3階はホームとなっている<ref name="Namboku-Const322"/>。東京メトロ・都営地下鉄でプラットホームと[[改札|改札口]]を共用している。このため、中間改札なしで乗換が可能となっている。この点は西隣の[[白金台駅]]も同様である。 改札階とホーム階の間には、[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が設置されている。それ以外にもエスカレーターは改札外コンコースと各出入口間を、エレベーターは改札外コンコースと1・2番出入口を連絡している。[[便所|トイレ]]は改札内にあり、多機能トイレも併設されている。ホームには[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|フルスクリーンタイプのホームドア]]が設置されている。 [[自動券売機]]は東京メトロと都営地下鉄の2種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある(定期券は東京メトロのみ)。ただし、[[白金台駅]]・[[目黒駅]]への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また過去には東京メトロの[[定期券]]発売所が設置されていた。 当駅は延長約307&nbsp;m、幅員約24 - 32&nbsp;m、掘削深さ約32&nbsp;m、掘削土量約26万6,000&nbsp;m<sup>3</sup>にも及ぶ大規模な構築である<ref name="Namboku-Const446">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.446 - 472。</ref><ref name="Namboku-Const322"/>。駅構築の上部には赤羽岩淵寄りに地下[[駐輪場]](369台収容・港区立白金高輪駅自転車駐車場)を、目黒寄り(渡り線部)は[[建設省]]→[[国土交通省]]の地下[[駐車場]](140台収容・現在は[[オートバイ|二輪車]]専用の白金高輪バイクイン)と[[東京電力ホールディングス|東京電力]]の専用地下[[変電所]]が一体で構築されている<ref name="Namboku-Const322"/><ref group="注">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]の巻頭カラーページに「白金高輪駅ふかん図」がある。地下駐車場は2層構造で、機械式駐車場が4基設置されている。</ref>。また、将来の道路の[[立体交差|アンダーパス]]計画の設置スペースを確保している<ref name="Namboku-Const322"/>。 駅停車場部は約176&nbsp;m、渡り線部は約130&nbsp;mで、その先目黒方面への本線は単線[[シールドトンネル]](白金換気室まで)、2本の[[引き上げ線]]は[[溜池山王駅|溜池山王]] - [[永田町駅|永田町]]間の掘削に使用した[[シールドマシン]]を再利用し建設された複線シールドトンネルである<ref name="Namboku-Const446"/>。 当駅の西側地上部には、南北線の総合事務所として「地下鉄白金高輪ビル」がある(地下1階・地上5階建て)<ref name="TRTA-Rail1">[[#construction|帝都高速度交通営団工務部のあゆみ【建築編】]]、pp.214 - 215。</ref>。2000年(平成12年)9月の南北線全線開業時に建設される予定であったが、用地買収が遅れたことから完成は[[2003年]](平成15年)7月となった<ref name="TRTA-Rail1"/>。現在は白金高輪運転事務室の宿泊施設のほか、白金変電区、[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]・南北線工務区白金分室、南北線電機区白金分室、南北線信通区白金分室が配置されている<ref name="RP926_17">{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=17|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref name="TRTA-Rail1"/><ref name="Namboku-Const384">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.384 - 385。</ref>。また、白金高輪駅の換気塔にもなっている<ref name="TRTA-Rail1"/>。 駅中心部における地表から'''レール面'''までの深さは29.8&nbsp;mで<ref name="TokyoMetrohandbook2021">東京地下鉄『東京メトロハンドブック2021』、pp.146 - 149。</ref>、地表から'''ホーム面'''までの深さは28.7&nbsp;mである<ref name="aramashi2019">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2019.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201104115927/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2019.pdf|title=都営交通のあらまし2019|page=10|date=2019-09|archivedate=2020-11-04|accessdate=2021-08-13|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref>。南北線全駅では[[後楽園駅]](深さ37.5 m)に続いて2番目に深い駅である(3番目は隣駅の白金台駅 28.3 m)<ref name="TokyoMetrohandbook2021"/>。東京地下鉄全駅では8番目に深く<ref name="TokyoMetrohandbook2021"/>、偶然だが都営地下鉄全駅でも8番目に深い([[都営地下鉄大江戸線#駅の深さ]]も参照)。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- ! 1 |[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 |[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/mita/I03ND.html |title=白金高輪 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- ! 2 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/shirokane-takanawa/timetable/namboku/a/index.html |title=白金高輪駅時刻表 赤羽岩淵・浦和美園・三田線西高島平方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 3 |rowspan=2|[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/shirokane-takanawa/timetable/namboku/b/index.html |title=白金高輪駅時刻表 目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 4 |[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/shirokane-takanawa/index.html 東京メトロ:駅構内図]・[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shirokane-takanawa.html 都営地下鉄:駅構内図]) * 白金台駅方に2本の[[引き上げ線]]が設けられている<ref name="RP926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ** 南北線・三田線とも、当駅終着の列車は一旦引き上げ線に入った後、始発列車として1・2番線に入線する。この引き上げ線は東京メトロ専用、都営地下鉄専用と分けず、両線の列車が2本の[[線路 (鉄道)|線路]]のどちらを問わず使用する。これは[[ラッシュ時]]には南北線より三田線の列車本数の方が多いことによる。なお、ラッシュ時に当駅の引き上げ線が満杯になった時の対策として、南北線で[[麻布十番駅|麻布十番]]折り返しの列車が、三田線で[[御成門駅|御成門]]折り返しの列車(現在は回送列車と試運転列車のみ)がそれぞれ設定されている<ref group="注">これは引き上げ線が麻布十番駅発着列車の設定時間帯には都営地下鉄三田線の折り返し列車で2本とも埋まっているため。御成門駅発着列車の設定時間帯には東京メトロ南北線の折り返し列車で2本とも埋まっているためである。また1973年11月27日より2008年6月22日ダイヤ改正前にも御成門折り返しの定期営業列車が設定されていたが、いたばし花火大会の臨時列車と終夜運転時、および非営業列車を除き、2008年6月22日に一度廃止された後、2016年10月21日に8年ぶりに再設定されたが、2017年に再度廃止された。</ref>。 ** この引き上げ線を活用する形で、路線を[[品川駅]]へ延伸する計画がある(詳細は「[[東京メトロ南北線#延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)]]」を参照)。 ** これとは別に異常時対応用の[[分岐器#形状による分類|渡り線(両渡りシーサス)]]が南北線の麻布十番側に設置され、これを使用しての折り返し運転も可能となっている。この場合、引き上げ線は三田線専用となる。 * 2003年3月19日の[[ダイヤ改正]]では、昼間時間帯に目黒 - 白金高輪間を増発により[[埼玉高速鉄道線]]浦和美園および三田線西高島平方面からの列車のそれぞれおよそ半分が当駅終着とし、一方の路線で当駅終着となる列車のほぼすべてがもう一方の路線の目黒方面行の列車に接続するようになり、当駅での時間調整を減らした。同様に目黒方面からの一方の路線の列車はもう一方の路線の始発列車に接続していた<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512163454/http://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-02.html|language=日本語|title=より便利な地下鉄を目指して 有楽町線・南北線のダイヤ改正を行います。|publisher=営団地下鉄|date=2003-01-24|accessdate=2020-05-03|archivedate=2012-05-12}}</ref>。しかし、2008年6月22日のダイヤ改正により両方向とも[[東急目黒線]][[武蔵小山駅]]での[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]が増えたため、当駅での列車の接続は減少した<ref group="注">日中では当駅始終着列車と日吉発着列車を4分で接続するダイヤになっている。また朝晩の日吉発着列車の多くは当駅始終着列車の接続待ちをすることが多い。</ref>。 * 2003年11月1日に浦和美園 - [[高島平駅|高島平]]間で運行された特別列車「くるっトレイン」は、乗客を乗せた状態で当駅の引き上げ線で進行方向を変えて南北線から三田線に移った(車両は東京急行電鉄)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-s15.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050306012125/https://www.tokyometro.jp/news/s2003/2003-s15.html|language=日本語|title=鉄道4社・局共同企画 営団南北線・都営三田線全線開業及び東急目黒線との直通運転開始3周年記念 埼玉高速鉄道線浦和美園駅→都営三田線高島平駅「くるっトレイン」号を運転! 320名様を募集いたします。 東京都交通局志村車両検修場にて車両写真撮影会及び鉄道物品販売会を開催!(入場無料) 平成15年11月1日(土)|publisher=営団地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東京急行電鉄|date=2003-09-19|accessdate=2021-02-10|archivedate=2005-03-06}}</ref>。 <gallery> ファイル:Shirokane-Takanawa station concourse.jpg|コンコース階・正面奥が改札口(2007年4月) ファイル:Shirokane-Takanawa-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年5月) ファイル:Shirokane-Takanawa-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年5月) </gallery> === 配線図 === {{駅配線図 |image = Rail Tracks map Shirokane-Takanawa Station.svg |title = [[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) 白金高輪駅 鉄道配線略図 |width = 400px |up = |up-align = |left = [[目黒駅|目黒]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]<br />・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]・[[新横浜駅|新横浜]]<br />・[[西谷駅|西谷]]・[[海老名駅|海老名]]・[[湘南台駅|湘南台]] 方面 |left-valign = middle |right = [[永田町駅|永田町]]・[[駒込駅|駒込]]<br />・[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・<br />[[浦和美園駅|浦和美園]] 方面 |right-valign = middle |down = [[大手町駅 (東京都)|大手町]]・[[春日駅 (東京都)|春日]]・[[巣鴨駅|巣鴨]]・<br />[[西高島平駅|西高島平]] 方面 |down-align = right |source = * 以下を参考に作成。<br />** {{Cite journal|和書|author=久多羅木吉治(帝都高速度交通営団建設本部設計部計画課)|title=東京圏の鉄道網整備 各線の概要 帝都高速度交通営団南北線/半蔵門線延伸・13号線|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2000-04-01|volume=50|issue=第4号(通巻第683号)|page=55|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}} |note=}} === 発車メロディ === 開業時から[[吉村弘]]作曲の南北線・三田線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月12日に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 {|class="wikitable" !番線 !路線 !曲名 !作曲者 |- !1 |[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15x15ピクセル]] 都営三田線 |つかの間の |[[福嶋尚哉]] |- !2 | rowspan="2" |[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15x15ピクセル]] 南北線 |躍動する都会 |[[山崎泰之]] |- !3 |エメラルド・グリーン |福嶋尚哉 |- !4 |[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15x15ピクセル]] 都営三田線 |素敵なお店 |山崎泰之 |} == 利用状況 == * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''32,521人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 白金台駅、目黒駅、東急目黒線方面の乗降人員を含む値である。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''20,533人'''([[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]:10,107人、[[乗車人員#降車人員|降車人員]]:10,426人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 白金台駅、目黒駅、東急目黒線方面の乗降人員を含まない値である。 === 年度別1日平均乗降人員 === 開業以降の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31" />18,916|| | || |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻第759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>21,053||11.3% |15,406||9.9% |- |2004年(平成16年) |22,714||7.9% |16,208||5.2% |- |2005年(平成17年) |25,423||11.9% |17,467||7.8% |- |2006年(平成18年) |30,176||18.7% |20,971||20.1% |- |2007年(平成19年) |35,917||19.0% |24,111||15.0% |- |2008年(平成20年) |37,731||5.1% |25,534||5.9% |- |2009年(平成21年) |38,088||0.9% |26,056||2.0% |- |2010年(平成22年) |39,449||3.6% |26,759||2.7% |- |2011年(平成23年) |39,497||0.1% |26,611||&minus;0.6% |- |2012年(平成24年) |40,985||3.8% |27,595||3.7% |- |2013年(平成25年) |39,270||&minus;4.2% |24,354||&minus;11.7% |- |2014年(平成26年) |40,020||1.9% |24,937||2.4% |- |2015年(平成27年) |41,406||3.5% |25,717||3.1% |- |2016年(平成28年) |42,216||2.0% |26,433||2.8% |- |2017年(平成29年) |42,541||0.8% |27,061||2.4% |- |2018年(平成30年) |43,264||1.7% |28,206||4.2% |- |2019年(令和元年) |42,763||&minus;1.2% |28,223||0.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>27,250||&minus;36.3% |<ref group="都交" name="toei2020" />17,795||&minus;36.9% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>29,429||8.0% |<ref group="都交" name="toei2021" />18,789||5.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>32,521||10.5% |<ref group="都交" name="toei2022" />20,533||9.3% |} === 年度別1日平均乗車人員 === 開業以降の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑、港区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="*">[http://www.city.minato.tokyo.jp/seisakukenkyu/26gyouseishiryousyuu.html 行政資料集] - 港区</ref> !年度!!営団 /<br/>東京メトロ!!都営地下鉄!!出典 |- |2000年(平成12年) |<ref group="備考" name="N-I">2000年9月26日開業。開業日から翌年3月31日までの計187日間を集計したデータ。</ref>5,759 |<ref group="備考" name="N-I"/>4,396 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |8,647 |6,058 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |9,630 |6,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |10,773 |7,743 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |11,542 |8,169 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |13,101 |8,893 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |15,597 |10,712 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |18,445 |12,029 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |19,288 |12,697 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |19,479 |12,877 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |20,181 |13,195 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |20,178 |13,145 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |20,942 |13,605 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |20,118 |11,943 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |20,425 |12,208 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |21,112 |12,623 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |21,493 |13,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |21,647 |13,319 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |22,052 |13,886 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |21,784 |13,907 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) | |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>8,782 | |- |2021年(令和{{0}}3年) | |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>9,247 |- |2022年(令和{{0}}4年) | |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>10,107 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{Vertical images list |幅 = 200px |枠幅 = 200px |1 = Shiroganetakanawa-eki-1.jpg |2 = 魚籃坂下方面2番出入口(2006年11月1日) |3 = Shirokane_takanawa_station_entrance.jpg |4 = 3番出入口出口(2006年11月25日) |5 = Shirokane_takana_station_entrance_4.jpg |6 = 白金アエルシティ直結4番出入口(2006年12月9日) }} {{See also|高輪|白金 (東京都港区)|白金台|三田 (東京都港区)}} <!--ATMのみ設置の銀行無人店舗や個人商店、新興宗教施設は記載しない--> ; 1番出入口<ref name="gate">[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shirokane-takanawa/gateway.html 白金高輪駅 出入口情報] - 東京都交通局 2014年7月20日</ref> * 高輪コミュニティーぷらざ ** [[港区役所 (東京都)|港区役所]]高輪総合支所<ref name="gate"/> ** 港区立高輪図書館 ** 港区高輪区民センター * 白金高輪バイクイン([[オートバイ]]専用地下[[駐車場]]) * [[シェラトン都ホテル東京]]<ref name="gate"/> * [[明治学院大学]]白金キャンパス<ref name="gate"/> ** [[明治学院高等学校]]<ref name="gate" /> * [[東海大学]]高輪キャンパス * [[東海大学付属高輪台高等学校・中等部]] * [[高輪中学校・高等学校]] * [[覚林寺|最正山覚林寺(清正公)]] ; 2番出入口<ref name="gate"/> * 港区地域生活支援センター * [[魚籃坂]]<ref name="gate"/> * 自転車駐輪場 * [[さわやか信用金庫]]本店営業部 * [[慶應義塾女子高等学校]] * [[普連土学園]] * [[明るいビル]] * [[スウィートパワー]]本社 ; 3番出入口<ref name="gate"/> * 白金1 - 4丁目<ref name="gate"/> * [[北里大学]]白金キャンパス ** [[北里研究所病院]] * [[学校法人聖心女子学院|聖心女子学院]]初等科・中等科・高等科 * [[東京消防庁第一消防方面本部#高輪消防署|東京消防庁高輪消防署]] * 港区白金福祉会館 * 港白金三郵便局 ; 4番出入口 * [[白金アエルシティ]] ** 白金タワー ** [[NBFプラチナタワー]] ** 白金プラザ ** 南街区(テクノスクェア) * 古川橋 * [[白金高輪SELENE STUDIO]] * 白金1・3丁目 * [[南麻布]]2・3丁目 * [[駐日イラン大使館]] * [[駐日フィンランド大使館]] == バス路線 == 最寄の停留所は、[[国道1号]](桜田通り)、[[東京都道312号白金台町等々力線|目黒通り]]、[[東京都道305号芝新宿王子線]]にある、'''白金高輪駅前'''<ref name="toeibus">[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/shiroganetakanawa.html バスのりば>白金高輪駅] - 東京都交通局 2014年7月20日</ref> と'''高輪地区総合支所前'''、および2出口の先にある'''魚籃坂下'''<ref name="toeibus" /> である。以下の路線が乗り入れ、[[東京都交通局]]([[都営バス]])、[[東急バス]]、[[フジエクスプレス]]により運行されている。 ;白金高輪駅前 * [[都営バス渋谷営業所#田87系統|田87系統]]:[[渋谷駅]]行 / [[田町駅]]行(都営)<ref name="toeibus" /> * [[都営バス品川営業所#反94系統|反94系統]]:([[高輪台駅]]前経由)[[五反田駅]]行(都営)<ref name="toeibus" /> * [[東急バス目黒営業所#自由が丘線|東98系統]]:[[目黒駅]]経由等々力操車所行(東急)<ref>[http://www.tokyubus.co.jp/top/route/flash_map/tokyu_rosenzu.html バス路線図|東急バス]、東急バス公式ホームページ、2013年4月27日閲覧</ref> ; 高輪地区総合支所前 * 港区コミュニティバス『[[ちぃばす]]』:高輪ルート [[品川駅]]港南口方面 / [[三田駅 (東京都)|三田駅]]方面(フジ)<ref>[http://www.fujikyu.co.jp/express/community/map/takanawa.html 高輪ルート路線図]、ちぃばす高輪ルート路線図、フジエクスプレス公式ページ、2013年4月27日閲覧</ref> ; 魚籃坂下 * 田87系統:渋谷駅行 / 田町駅行(都営)<ref name="toeibus" /> * 反94系統:(高輪台駅前経由)五反田駅行 / [[赤羽橋駅]]前行(都営)<ref name="toeibus" /> * [[都営バス品川営業所#反96系統|反96系統]]:(品川駅前経由)五反田駅行 / [[六本木ヒルズ]]行(都営)<ref name="toeibus" /> * [[都営バス杉並支所#品97系統|品97系統]]:品川駅高輪口行/[[新宿駅]][[新宿駅のバス乗り場|西口]]行(都営)<ref name="toeibus" /> このほか、'''シェラトン都ホテル東京'''に[[東京空港交通]](リムジンバス)の成田空港行、羽田空港行が発着している。 ; シェラトン都ホテル東京 * リムジンバス:[[東京国際空港|羽田空港]]行 * リムジンバス:[[成田国際空港|成田空港]]行 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 :: [[白金台駅]] (N 02) - '''白金高輪駅 (N 03)''' - [[麻布十番駅]] (N 04) ; 東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 :: 白金台駅 (I 02) - '''白金高輪駅 (I 03)''' - [[三田駅 (東京都)|三田駅]] (I 04) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; 地下鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}} * {{Cite book|和書|date=2005-07-04|title=帝都高速度交通営団工務部のあゆみ【建築編】|publisher=東京地下鉄鉄道本部工務部|ref=construction}} == 関連項目 == {{Commonscat|Shirokane-Takanawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/shirokane-takanawa/index.html 白金高輪駅/N03 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shirokane-takanawa.html 白金高輪駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{東京メトロ南北線}} {{都営地下鉄三田線}} {{DEFAULTSORT:しろかねたかなわ}} [[Category:東京都港区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 し|ろかねたかなわ]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:白金 (東京都港区)]] [[Category:2000年開業の鉄道駅]] [[Category:高輪|しろかねたかなわえき]]
2003-08-20T04:12:44Z
2023-11-28T20:00:38Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:駅情報", "Template:See also", "Template:Vertical images list", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:都営地下鉄三田線", "Template:Cite journal", "Template:東京メトロ南北線", "Template:Commonscat", "Template:駅配線図", "Template:0", "Template:Cite press release", "Template:Cite report" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%87%91%E9%AB%98%E8%BC%AA%E9%A7%85
13,599
電撃戦隊チェンジマン
『電撃戦隊チェンジマン』(でんげきせんたいチェンジマン)は、1985年2月2日から1986年2月22日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全55話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 スーパー戦隊シリーズは一種のファンタジーとして企画されている都合上、それまで現実の軍隊や警察機構といった存在の描写は極力抑え目であったが、本作品では宇宙的なSF色の濃かった前作『超電子バイオマン』や、従来のシリーズのヒーローとの差別化を図り、シリーズそのもののマンネリを防ぐため、自衛隊をベースとしたミリタリー性やヒーローの若さ、汗くささなどといった要素を前面に押し出す形で企画されている。また、脚本の曽田博久によると高年齢を狙った前作が低年齢に不評だったため、本作品では低年齢向けの作劇が目指された。プロデューサーの鈴木武幸は本作品を成功させれば、スーパー戦隊シリーズはある程度自分の理想とした完成形となると意気込んでいた。企画時の名称は『コスモマン』であったが、タイトル以外は初期から大きく変わらず決定している。 前作では従来のパターンを脱し、新たな試みが取り入れられたのとは対照的に、本作品では毎回の主役5人の名乗りや怪人の巨大化など、従来のパターンへの回帰が見られている。一方、前作も含めた従来の路線との差別化も試みられており、その最たるものが一枚岩の組織ではない大星団ゴズマの存在である。前作の敵組織である新帝国ギアが主にメカニカルなロボットによって構成されていたことから、本作品ではゴズマを止むに止まれぬ事情で侵略に加担せざるを得ない立場のエイリアン集団として設定すると同時に、デザイン面でも全体を生物的なイメージで統一することで、単純な悪の組織とは一線を画した路線が打ち出された。 また、一部の敵幹部や単発エピソードのみ登場のゲスト怪人を単なる悪役に設定せず、単発エピソードの怪人の関係者が後のエピソードでも登場するなど、前述の設定をクローズアップする形で敵側の苦悩を描くことにより物語の幅を広げ、高い年齢層へ向けてのドラマ強化も行われた。鈴木武幸は敵の女性キャラを魅力的にをつくることに腐心し、黒田福美演ずる「女王アハメス」を登場させた。デザイナーの出渕裕の気合いの入れようも物凄かったという。登場編の第17話、18話(脚本曽田博久、監督山田稔)は大スタッフで長崎ロケを敢行(当時建設中の長崎オランダ村で撮影)、退場編の第53話「炎のアハメス!」(脚本曽田博久、監督長石多可男)は本作品における最高視聴率16.1%を記録した。 これ以外にも、変身後の名前に色ではなくモチーフとなっている伝説獣の名前を取り入れたり、敵怪人の巨大化に初めてそれ専用のキャラクターを登場させたりするなどの試みがなされている。 宇宙刑事シリーズ終了を受けて本作品では宇宙指向で制作されている。 全55話という放送回数は、『秘密戦隊ゴレンジャー』に次ぐ記録である。これは当時スーパー戦隊シリーズが2月開始、メタルヒーローシリーズが3月開始と1ヶ月の間隔を置いていたが、次年度のメタルヒーローシリーズ『時空戦士スピルバン』が4月開始となり、次作『超新星フラッシュマン』をこれに併せて3月開始とするため、本作品が延長されたものである。 玩具の売上は商業的にスーパー戦隊シリーズでの過去最高を達成した前作『超電子バイオマン』を上回った。1984年のテレビキャラクターでキャラクター使用料のトップだった『キン肉マン』が玩具市場において失墜したため、本作品は1985年のテレビキャラクターとしてはトップのキャラクター使用料を誇る(当時はファミコンブームの影響で、男児キャラクター玩具市場は低迷していた)。こうした環境の中で、前年の男児キャラクターの三本柱であるスーパー戦隊シリーズ、メタルヒーローシリーズ、キン肉マンのうち、同年も期待通りの売上だったのは本作品のみであり、玩具市場におけるスーパー戦隊シリーズの安定感を印象づけた。 玩具展開以外については、本作品から新たに雪印食品がスポンサーとして加わり、同社からソーセージやウインナーのキャラクター食品が発売された。以後、同社は『百獣戦隊ガオレンジャー』までスーパー戦隊シリーズのスポンサーとして名を連ねた。 地球防衛を任務とする世界的な軍事組織・地球守備隊の日本支部では、各部隊から集められた精鋭たちに対して、鬼軍曹と呼ばれる教官・伊吹の激しい訓練が繰り広げられていた。しかし、あまりに過酷な極限状態の訓練に隊員は次々と脱落していってしまう。 そうした時、星王バズーが率いる数々の異星人が集まった宇宙帝国大星団ゴズマの地球侵略が始まった。ゴズマの戦闘員であるヒドラー兵から逃げ惑う隊員たちは惨殺され、絶体絶命のピンチに陥る。 その時、地球から光が放たれ、生き残った剣飛竜をはじめとした5人の隊員は演習中にその光を浴びて、強化服をまとった戦士に変身してしまう。自分たちの身に起きたことに驚く5人だが、目の前の危機を脱すべく、襲い掛かるヒドラー兵やゴズマの怪人宇宙獣士と戦って撃退する。 自分たちのパワーに驚く彼らに向けて伊吹は言った。自分がしてきた非常識ともいえるこの訓練は、地球守備隊内に設置されている特殊部隊電撃戦隊のメンバー選抜のためだったことと、電撃戦隊の長官は伊吹自身であること、そして彼ら5人は地球に危機が迫ったときに、その危機を脱するために発するアースフォースに選ばれ、その力によって強化服をまとうことができるようになった、と。 こうして5人は、これまで伊吹が選抜してきた電撃戦隊の新しい一員チェンジマンとしてゴズマの地球侵略に立ち向かうことになった。 アースフォースに選ばれた5人の戦士による、地球守備隊内の特殊部隊である。5人はそれぞれ地球に宿る5体の伝説獣(ドラゴン、グリフォン、ペガサス、マーメイド、フェニックス)の力を宿しており、それぞれ赤・黒・青・白・桃のスーツを纏う。軍服は男性陣は灰色、女性陣は赤を基調としており、女性陣はスカートでもある。5人の名前には必ず聖獣にちなんだ漢字が含まれている。 従来の戦隊よりもメンバーの個性化が意識されており、変身前後のイメージの統一が図られたほか、プライベートの場面も多くなっている。 チェンジマンがそれぞれ所持するパワーバズーカのパーツで、それぞれ必中必殺の最強武器としても使用可能で、強力な弾丸を放つ。チェンジマンのベルト左部にあるズーカボックスに収納されている。 星王バズーを頂点とし、全宇宙の支配を目論む強大な各惑星の異星人の混成軍団。全宇宙で侵略を進めており、地球も侵略対象の1つでしかない。宇宙の星々を次々と滅ぼし、その生き残りを自軍の戦力として取り込み戦力を増大させており、全宇宙最大級の脅威となっている。組織の規模は強大で、全宇宙の大部分を既に支配しており、地球にやって来たギルークたちの部隊でさえ一方面軍に過ぎず、歴代のスーパー戦隊の敵組織でも群を抜く規模を持つ。メンバーの中にはかつてはギルークやアハメスのようにゴズマの侵略に立ち向かった者もいるが、圧倒的な力の前に屈し、母星の再興を条件に忠誠を誓っている。地球遠征軍は戦艦ゴズマードを拠点とし、ゴズマ戦闘機や宇宙各地から呼び寄せた宇宙獣士を地球に送り込む。また、作戦によっては、宇宙獣士に関連した生物を持ち込んだこともある。 各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。 メインライターの曽田博久は、メンバーについて意図的にイケメン俳優を選んだと述べている。 チェンジドラゴン / 剣飛竜役の選考は難航し、適任者が見つからなかった場合は過去に2度ブラックを演じた春田純一を起用する案もあった。これはヒーローが軍隊に所属していることから、変身前でも激しいアクションが要求されることに因るものである。このためクランクインは従来より遅い1984年11月末からとなった。実際に起用された浜田治希は、面接1回のみで合格したという。 シーマ役の藤枝かなは本職がモデルで役者経験はなかったため、キャラクター性を確立させるために男性の声が当てられた。 女王アハメス役の黒田福美は特撮にまったく縁がなかったが、時代劇の若娘のような役ばかりで不遇をかこっていたこともあり、鈴木武幸からの出演オファーを快諾。彼女の登場を印象づけるために長崎オランダ村でのロケが組まれた。 ブーバ役の岡本美登は、ブーバが退場する第52話の撮影終了後に交通事故で重傷を負い、退院後にアフレコには参加したが、その後半年間休養した。 岡元次郎と清家利一は本作品でスーツアクターデビューした。 ※宇宙獣士関連は全てノンクレジット 当初は、軍隊であることから激しいアクションが変身前でも要求されるため、春田純一がレッド役の候補として一時期挙げられていた。 メインライターは前年までに引き続き曽田博久。脇を固めるサブライターも藤井邦夫、鷺山京子が健筆を振るっている。東映プロデューサーの鈴木武幸は、シリーズが続くにつれて曽田が飽きていると感じたことから、番組設定を変えることで刺激を与えていったことを語っている。曽田はインタビューにおいて自分がメインで関わった中では『チェンジマン』が一番のお気に入りであると述べている。 監督陣は前作から引き続き堀長文、山田稔が続投。堀は演出本数は少ないが劇場版2本を成功に導き、山田は1年間フルにローテーションを守り続け、1年間で31作品の演出を手掛けた。その布陣に加え、第9話より長石多可男が新たに参加。長石は途中で4か月ローテーションを離れているが、この間はTBS『赤い秘密』でメイン監督を担当している。 『ダイナマン』『バイオマン』に続いてキャラクターデザインで登板となった出渕裕は、本作品では敵側キャラやメカのデザインに加えて、電撃戦隊側の制服デザインなども担当した。当時は後年のようにバンダイがヒーロー側の変身前コスチュームをアパレル展開することはしていなかったため、キャラクターデザインの一環として出渕が手掛けている。 いずれも発売元は東映ビデオ。 いずれも東映まんがまつりの一編として上映された。1作品につき、劇場版オリジナル作品が複数公開されたのはこれが初めてである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『電撃戦隊チェンジマン』(でんげきせんたいチェンジマン)は、1985年2月2日から1986年2月22日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全55話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スーパー戦隊シリーズは一種のファンタジーとして企画されている都合上、それまで現実の軍隊や警察機構といった存在の描写は極力抑え目であったが、本作品では宇宙的なSF色の濃かった前作『超電子バイオマン』や、従来のシリーズのヒーローとの差別化を図り、シリーズそのもののマンネリを防ぐため、自衛隊をベースとしたミリタリー性やヒーローの若さ、汗くささなどといった要素を前面に押し出す形で企画されている。また、脚本の曽田博久によると高年齢を狙った前作が低年齢に不評だったため、本作品では低年齢向けの作劇が目指された。プロデューサーの鈴木武幸は本作品を成功させれば、スーパー戦隊シリーズはある程度自分の理想とした完成形となると意気込んでいた。企画時の名称は『コスモマン』であったが、タイトル以外は初期から大きく変わらず決定している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "前作では従来のパターンを脱し、新たな試みが取り入れられたのとは対照的に、本作品では毎回の主役5人の名乗りや怪人の巨大化など、従来のパターンへの回帰が見られている。一方、前作も含めた従来の路線との差別化も試みられており、その最たるものが一枚岩の組織ではない大星団ゴズマの存在である。前作の敵組織である新帝国ギアが主にメカニカルなロボットによって構成されていたことから、本作品ではゴズマを止むに止まれぬ事情で侵略に加担せざるを得ない立場のエイリアン集団として設定すると同時に、デザイン面でも全体を生物的なイメージで統一することで、単純な悪の組織とは一線を画した路線が打ち出された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、一部の敵幹部や単発エピソードのみ登場のゲスト怪人を単なる悪役に設定せず、単発エピソードの怪人の関係者が後のエピソードでも登場するなど、前述の設定をクローズアップする形で敵側の苦悩を描くことにより物語の幅を広げ、高い年齢層へ向けてのドラマ強化も行われた。鈴木武幸は敵の女性キャラを魅力的にをつくることに腐心し、黒田福美演ずる「女王アハメス」を登場させた。デザイナーの出渕裕の気合いの入れようも物凄かったという。登場編の第17話、18話(脚本曽田博久、監督山田稔)は大スタッフで長崎ロケを敢行(当時建設中の長崎オランダ村で撮影)、退場編の第53話「炎のアハメス!」(脚本曽田博久、監督長石多可男)は本作品における最高視聴率16.1%を記録した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これ以外にも、変身後の名前に色ではなくモチーフとなっている伝説獣の名前を取り入れたり、敵怪人の巨大化に初めてそれ専用のキャラクターを登場させたりするなどの試みがなされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "宇宙刑事シリーズ終了を受けて本作品では宇宙指向で制作されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "全55話という放送回数は、『秘密戦隊ゴレンジャー』に次ぐ記録である。これは当時スーパー戦隊シリーズが2月開始、メタルヒーローシリーズが3月開始と1ヶ月の間隔を置いていたが、次年度のメタルヒーローシリーズ『時空戦士スピルバン』が4月開始となり、次作『超新星フラッシュマン』をこれに併せて3月開始とするため、本作品が延長されたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "玩具の売上は商業的にスーパー戦隊シリーズでの過去最高を達成した前作『超電子バイオマン』を上回った。1984年のテレビキャラクターでキャラクター使用料のトップだった『キン肉マン』が玩具市場において失墜したため、本作品は1985年のテレビキャラクターとしてはトップのキャラクター使用料を誇る(当時はファミコンブームの影響で、男児キャラクター玩具市場は低迷していた)。こうした環境の中で、前年の男児キャラクターの三本柱であるスーパー戦隊シリーズ、メタルヒーローシリーズ、キン肉マンのうち、同年も期待通りの売上だったのは本作品のみであり、玩具市場におけるスーパー戦隊シリーズの安定感を印象づけた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "玩具展開以外については、本作品から新たに雪印食品がスポンサーとして加わり、同社からソーセージやウインナーのキャラクター食品が発売された。以後、同社は『百獣戦隊ガオレンジャー』までスーパー戦隊シリーズのスポンサーとして名を連ねた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "地球防衛を任務とする世界的な軍事組織・地球守備隊の日本支部では、各部隊から集められた精鋭たちに対して、鬼軍曹と呼ばれる教官・伊吹の激しい訓練が繰り広げられていた。しかし、あまりに過酷な極限状態の訓練に隊員は次々と脱落していってしまう。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そうした時、星王バズーが率いる数々の異星人が集まった宇宙帝国大星団ゴズマの地球侵略が始まった。ゴズマの戦闘員であるヒドラー兵から逃げ惑う隊員たちは惨殺され、絶体絶命のピンチに陥る。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その時、地球から光が放たれ、生き残った剣飛竜をはじめとした5人の隊員は演習中にその光を浴びて、強化服をまとった戦士に変身してしまう。自分たちの身に起きたことに驚く5人だが、目の前の危機を脱すべく、襲い掛かるヒドラー兵やゴズマの怪人宇宙獣士と戦って撃退する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "自分たちのパワーに驚く彼らに向けて伊吹は言った。自分がしてきた非常識ともいえるこの訓練は、地球守備隊内に設置されている特殊部隊電撃戦隊のメンバー選抜のためだったことと、電撃戦隊の長官は伊吹自身であること、そして彼ら5人は地球に危機が迫ったときに、その危機を脱するために発するアースフォースに選ばれ、その力によって強化服をまとうことができるようになった、と。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "こうして5人は、これまで伊吹が選抜してきた電撃戦隊の新しい一員チェンジマンとしてゴズマの地球侵略に立ち向かうことになった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アースフォースに選ばれた5人の戦士による、地球守備隊内の特殊部隊である。5人はそれぞれ地球に宿る5体の伝説獣(ドラゴン、グリフォン、ペガサス、マーメイド、フェニックス)の力を宿しており、それぞれ赤・黒・青・白・桃のスーツを纏う。軍服は男性陣は灰色、女性陣は赤を基調としており、女性陣はスカートでもある。5人の名前には必ず聖獣にちなんだ漢字が含まれている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "従来の戦隊よりもメンバーの個性化が意識されており、変身前後のイメージの統一が図られたほか、プライベートの場面も多くなっている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "チェンジマンがそれぞれ所持するパワーバズーカのパーツで、それぞれ必中必殺の最強武器としても使用可能で、強力な弾丸を放つ。チェンジマンのベルト左部にあるズーカボックスに収納されている。", "title": "装備・戦力" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "星王バズーを頂点とし、全宇宙の支配を目論む強大な各惑星の異星人の混成軍団。全宇宙で侵略を進めており、地球も侵略対象の1つでしかない。宇宙の星々を次々と滅ぼし、その生き残りを自軍の戦力として取り込み戦力を増大させており、全宇宙最大級の脅威となっている。組織の規模は強大で、全宇宙の大部分を既に支配しており、地球にやって来たギルークたちの部隊でさえ一方面軍に過ぎず、歴代のスーパー戦隊の敵組織でも群を抜く規模を持つ。メンバーの中にはかつてはギルークやアハメスのようにゴズマの侵略に立ち向かった者もいるが、圧倒的な力の前に屈し、母星の再興を条件に忠誠を誓っている。地球遠征軍は戦艦ゴズマードを拠点とし、ゴズマ戦闘機や宇宙各地から呼び寄せた宇宙獣士を地球に送り込む。また、作戦によっては、宇宙獣士に関連した生物を持ち込んだこともある。", "title": "大星団ゴズマ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。", "title": "大星団ゴズマ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "メインライターの曽田博久は、メンバーについて意図的にイケメン俳優を選んだと述べている。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "チェンジドラゴン / 剣飛竜役の選考は難航し、適任者が見つからなかった場合は過去に2度ブラックを演じた春田純一を起用する案もあった。これはヒーローが軍隊に所属していることから、変身前でも激しいアクションが要求されることに因るものである。このためクランクインは従来より遅い1984年11月末からとなった。実際に起用された浜田治希は、面接1回のみで合格したという。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "シーマ役の藤枝かなは本職がモデルで役者経験はなかったため、キャラクター性を確立させるために男性の声が当てられた。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "女王アハメス役の黒田福美は特撮にまったく縁がなかったが、時代劇の若娘のような役ばかりで不遇をかこっていたこともあり、鈴木武幸からの出演オファーを快諾。彼女の登場を印象づけるために長崎オランダ村でのロケが組まれた。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ブーバ役の岡本美登は、ブーバが退場する第52話の撮影終了後に交通事故で重傷を負い、退院後にアフレコには参加したが、その後半年間休養した。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "岡元次郎と清家利一は本作品でスーツアクターデビューした。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "※宇宙獣士関連は全てノンクレジット", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当初は、軍隊であることから激しいアクションが変身前でも要求されるため、春田純一がレッド役の候補として一時期挙げられていた。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "メインライターは前年までに引き続き曽田博久。脇を固めるサブライターも藤井邦夫、鷺山京子が健筆を振るっている。東映プロデューサーの鈴木武幸は、シリーズが続くにつれて曽田が飽きていると感じたことから、番組設定を変えることで刺激を与えていったことを語っている。曽田はインタビューにおいて自分がメインで関わった中では『チェンジマン』が一番のお気に入りであると述べている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "監督陣は前作から引き続き堀長文、山田稔が続投。堀は演出本数は少ないが劇場版2本を成功に導き、山田は1年間フルにローテーションを守り続け、1年間で31作品の演出を手掛けた。その布陣に加え、第9話より長石多可男が新たに参加。長石は途中で4か月ローテーションを離れているが、この間はTBS『赤い秘密』でメイン監督を担当している。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "『ダイナマン』『バイオマン』に続いてキャラクターデザインで登板となった出渕裕は、本作品では敵側キャラやメカのデザインに加えて、電撃戦隊側の制服デザインなども担当した。当時は後年のようにバンダイがヒーロー側の変身前コスチュームをアパレル展開することはしていなかったため、キャラクターデザインの一環として出渕が手掛けている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "いずれも発売元は東映ビデオ。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "いずれも東映まんがまつりの一編として上映された。1作品につき、劇場版オリジナル作品が複数公開されたのはこれが初めてである。", "title": "他媒体展開" } ]
『電撃戦隊チェンジマン』(でんげきせんたいチェンジマン)は、1985年2月2日から1986年2月22日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全55話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
{{半保護}} {{Pathnav|スーパー戦隊シリーズ|frame=1}} {{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}} {| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第8作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[超電子バイオマン|超電子<br />バイオマン]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1984年2月<br/>- 1985年1月 |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第9作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''電撃戦隊<br />チェンジマン''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1985年2月<br/>- 1986年2月 |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第10作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[超新星フラッシュマン|超新星<br />フラッシュマン]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1986年3月<br/>- 1987年2月 |} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = 電撃戦隊チェンジマン | ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]] | 放送時間 = 土曜 18:00 - 18:25 | 放送枠 = スーパー戦隊シリーズ | 放送分 = 25 | 放送期間 = [[1985年]][[2月2日]] -<br />[[1986年]][[2月22日]] | 放送回数 = 全55話 | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[テレビ朝日]] | 放送局 = [[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] | 企画 = | 製作総指揮 = | 監督 = [[堀長文]] 他 | 演出 = | 原作 = [[八手三郎]] | 脚本 = [[曽田博久]] 他 | プロデューサー = {{Plainlist| * 加藤守啓(テレビ朝日) * [[鈴木武幸]](東映) * 富田泰弘(東映AG) }} | 出演者 = {{Plainlist| * [[浜田治貴|浜田治希]] * [[和興|河合宏]] * [[和泉史郎]] * [[西本ひろ子]] * [[大石麻衣]] * [[藤巻潤]] * [[山本昌平]] * [[黒田福美]] * [[桑原一人]] * [[岡本美登]] * [[富田果菜|藤枝かな]] 他 }} | 声の出演 = {{Plainlist| * [[加藤精三 (声優)|加藤精三]] * [[飯田道朗|飯田道郎]] * [[増岡弘]] * [[渡部猛]] * [[高坂真琴]] }} | ナレーター = [[田中信夫]] | 音声 = {{Plainlist| * [[モノラル放送]] * [[シネテープ]] }} | 字幕 = | データ放送 = | 音楽=[[矢野立美]] | OPテーマ = 「電撃戦隊チェンジマン」<br />歌:[[影山ヒロノブ|KAGE]] | EDテーマ = 「NEVER STOPチェンジマン」<br />歌:KAGE | 言語 = [[日本語]] | 外部リンク = | 外部リンク名 = | 特記事項 =「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第9作 }} {{external media|align=right|image1=[[:en:File:Changeman Title Card.jpg|タイトルロゴ|英語版Wikipedia]]|image2=[[:en:File:Changeman 1.jpg|チェンジマンの5人|英語版Wikipedia]]}} 『'''電撃戦隊チェンジマン'''』(でんげきせんたいチェンジマン)は、[[1985年]][[2月2日]]から[[1986年]][[2月22日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週土曜18:00 - 18:25([[日本標準時|JST]])に全55話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 == 概要 == [[スーパー戦隊シリーズ]]は一種のファンタジーとして企画されている都合上、それまで現実の[[軍隊]]や[[警察機構]]といった存在の描写は極力抑え目であったが、本作品では宇宙的なSF色の濃かった前作『[[超電子バイオマン]]』や、従来のシリーズのヒーローとの差別化を図り、シリーズそのもののマンネリを防ぐため、[[自衛隊]]をベースとした'''ミリタリー性'''や'''ヒーローの若さ'''、'''汗くささ'''などといった要素を前面に押し出す形で企画されている{{R|大全集174|material62}}。また、脚本の[[曽田博久]]によると高年齢を狙った前作が低年齢に不評だったため、本作品では低年齢向けの作劇が目指された<ref>「曽田博久スペシャルインタビュー」、安藤幹夫『ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 東映スーパー戦隊大全2』双葉社、2004年7月、p.153。ISBN 4-575-29688-0</ref>。プロデューサーの[[鈴木武幸]]は本作品を成功させれば、スーパー戦隊シリーズはある程度自分の理想とした完成形となると意気込んでいた{{R|net}}。企画時の名称は『コスモマン』であったが、タイトル以外は初期から大きく変わらず決定している{{R|超世紀160}}。 前作では従来のパターンを脱し、新たな試みが取り入れられたのとは対照的に、本作品では毎回の主役5人の名乗りや怪人の巨大化など、従来のパターンへの回帰が見られている。一方、前作も含めた従来の路線との差別化も試みられており、その最たるものが一枚岩の組織ではない'''大星団ゴズマ'''の存在である。前作の敵組織である新帝国ギアが主にメカニカルなロボットによって構成されていたことから、本作品ではゴズマを止むに止まれぬ事情で侵略に加担せざるを得ない立場の[[エイリアン]]集団として設定すると同時に、デザイン面でも全体を生物的なイメージで統一することで、単純な悪の組織とは一線を画した路線が打ち出された{{R|material62}}{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|pp=140、229}}。 また、一部の敵幹部や単発エピソードのみ登場のゲスト怪人を単なる悪役に設定せず、単発エピソードの怪人の関係者が後のエピソードでも登場するなど、前述の設定をクローズアップする形で敵側の苦悩を描くことにより物語の幅を広げ、高い年齢層へ向けてのドラマ強化も行われた{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀160|material62}}<ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=178 |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref><ref>『特撮ザテレビジョン「仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦 公式読本」』68頁。</ref>}}。[[鈴木武幸]]は敵の女性キャラを魅力的にをつくることに腐心し、[[黒田福美]]演ずる「女王アハメス」を登場させた。デザイナーの[[出渕裕]]の気合いの入れようも物凄かったという。登場編の第17話、18話(脚本[[曽田博久]]、監督[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]])は大スタッフで長崎ロケを敢行(当時建設中の[[長崎オランダ村]]で撮影)、退場編の第53話「炎のアハメス!」(脚本[[曽田博久]]、監督[[長石多可男]])は本作品における最高視聴率16.1%を記録した{{R|net|20th5}}。 これ以外にも、変身後の名前に色ではなくモチーフとなっている'''伝説獣'''の名前を取り入れたり{{R|material62|20th5}}、敵怪人の巨大化に初めてそれ専用のキャラクターを登場させたり{{R|material62}}するなどの試みがなされている。 [[宇宙刑事シリーズ]]終了を受けて本作品では宇宙指向で制作されている{{R|大全鈴木}}。 全55話という放送回数は、『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』に次ぐ記録である{{efn|『[[バトルフィーバーJ]]』以降の作品としては最長である{{R|大全集174}}。}}。これは当時スーパー戦隊シリーズが2月開始、[[メタルヒーローシリーズ]]が3月開始と1ヶ月の間隔を置いていたが、次年度のメタルヒーローシリーズ『[[時空戦士スピルバン]]』が4月開始となり、次作『[[超新星フラッシュマン]]』をこれに併せて3月開始とするため、本作品が延長されたものである{{R|大全集174}}。 === 商業展開 === 玩具の売上は商業的にスーパー戦隊シリーズでの過去最高を達成した前作『[[超電子バイオマン]]』を上回った{{R|トイジャーナル1986}}。[[1984年]]のテレビキャラクターでキャラクター使用料のトップだった『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』が玩具市場において失墜したため、本作品は[[1985年]]のテレビキャラクターとしてはトップのキャラクター使用料を誇る<ref>マーチャンダイジングライツレポート1986年1月号{{要ページ番号|date=2017-12-17}}</ref>(当時は[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ブームの影響で、男児キャラクター玩具市場は低迷していた{{R|トイジャーナル1987}})。こうした環境の中で、前年の男児キャラクターの三本柱であるスーパー戦隊シリーズ、[[メタルヒーローシリーズ]]、[[キン肉マン]]のうち、同年も期待通りの売上だったのは本作品のみであり、玩具市場におけるスーパー戦隊シリーズの安定感を印象づけた{{R|トイジャーナル1986}}。 玩具展開以外については、本作品から新たに[[雪印食品]]がスポンサーとして加わり、同社から[[ソーセージ]]やウインナーのキャラクター食品が発売された。以後、同社は『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』までスーパー戦隊シリーズのスポンサーとして名を連ねた。 == あらすじ == 地球防衛を任務とする世界的な軍事組織・地球守備隊の日本支部では、各部隊から集められた精鋭たちに対して、鬼軍曹と呼ばれる教官・伊吹の激しい訓練が繰り広げられていた。しかし、あまりに過酷な極限状態の訓練に隊員は次々と脱落していってしまう。 そうした時、星王バズーが率いる数々の異星人が集まった宇宙帝国'''大星団ゴズマ'''の地球侵略が始まった。ゴズマの戦闘員であるヒドラー兵から逃げ惑う隊員たちは惨殺され、絶体絶命のピンチに陥る。 その時、地球から光が放たれ、生き残った剣飛竜をはじめとした5人の隊員は演習中にその光を浴びて、強化服をまとった戦士に変身してしまう。自分たちの身に起きたことに驚く5人だが、目の前の危機を脱すべく、襲い掛かるヒドラー兵やゴズマの怪人'''宇宙獣士'''と戦って撃退する。 自分たちのパワーに驚く彼らに向けて伊吹は言った。自分がしてきた非常識ともいえるこの訓練は、地球守備隊内に設置されている特殊部隊'''電撃戦隊'''のメンバー選抜のためだったことと、電撃戦隊の長官は伊吹自身であること、そして彼ら5人は地球に危機が迫ったときに、その危機を脱するために発する'''アースフォース'''に選ばれ、その力によって強化服をまとうことができるようになった、と。 こうして5人は、これまで伊吹が選抜してきた電撃戦隊の新しい一員'''チェンジマン'''としてゴズマの地球侵略に立ち向かうことになった。 == 登場人物 == === 電撃戦隊チェンジマン === アースフォースに選ばれた5人の戦士による、地球守備隊内の特殊部隊である。5人はそれぞれ地球に宿る'''5体の伝説獣([[ドラゴン]]、[[グリフォン]]、[[ペーガソス|ペガサス]]、[[人魚|マーメイド]]、[[フェニックス]])'''の力を宿しており、それぞれ'''赤・黒・青・白・桃'''のスーツを纏う。軍服は男性陣は灰色、女性陣は赤を基調としており、女性陣はスカートでもある{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook』では、シリーズ初の制服(共通衣裳)と位置づけている{{R|21st16}}。}}。5人の名前には必ず聖獣にちなんだ漢字が含まれている。 従来の戦隊よりもメンバーの個性化が意識されており、変身前後のイメージの統一が図られたほか、プライベートの場面も多くなっている{{R|超世紀160}}。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|剣 飛竜|つるぎ ひりゅう}}|剣飛竜}} : 元日本支部航空部隊将校{{R|20th8|学研の図鑑20}}。24歳{{R|20th8|学研の図鑑20}}。[[高知県]]出身{{efn|name="hamada"|演じた浜田も高知県出身で野球経験者。}}。[[剣道]]と[[射撃]]と[[オートバイ]]の腕前は抜群{{R|20th8}}。チェンジマンのリーダーであり、責任感の強い熱血漢であるが、直情的な面もある{{R|20th8|学研の図鑑20}}。突拍子もない作戦を考え出してメンバーを閉口させることも<ref group="ep">第24話など。</ref>。 : 高知南国高校時代は[[野球]]部のエース{{efn|name="hamada"}}であり、'''ドラゴンボール'''という[[消える魔球]]も披露した{{R|group="ep"|9話|38話}}{{R|学研の図鑑20}}。投球フォームはチェンジドラゴンの名乗りのポーズと似ている。ただし、第9話の冒頭ではドラゴンボールについて、キャッチャーだった親友の顔面に、ボールを受け損なったことが原因で大怪我をさせた責任を取って野球部を辞め、そのことが元でドラゴンボールを封印していたため{{Sfn|赤の伝説|2012|p=47}}、剣のファンの少年やメンバーの前でドラゴンボールを投げることはもとより話すこと自体避けていたが、メンバーの叱咤激励でトラウマを克服する。 :* 第13話から着用している赤いジャケットは演じる[[浜田治貴|浜田治希]]が自前で用意したもので、「主人公は赤だろう」とのイメージから衣裳の変更を提案したという{{R|20th18}}。 :; {{Visible anchor|チェンジドラゴン}} :: 剣飛竜が変身する戦士{{R|20th8}}。スーツカラーはレッド。 :: 伝説獣ドラゴンの力を宿し、チェンジソードによる剣技や蹴り技を得意とする{{R|20th8}}。 :: 変身後には利き腕が変わっている。これは剣を演じる浜田が左利きなのに対し、チェンジドラゴンのスーツアクターを担当した新堀が右利きであるため。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|疾風 翔|はやて しょう}}|疾風翔}} : 元日本支部[[レンジャー]]部隊将校{{R|20th10|学研の図鑑20}}。23歳{{R|20th10|学研の図鑑20}}。チェンジマンのサブリーダー{{R|20th10}}。ヘリコプターの操縦技術に秀でている{{R|学研の図鑑20}}。戦いの最中でも[[櫛]]を携帯し、序盤は「セットが乱れるぜ」を口癖とするなど身だしなみに気を配っている伊達男だが、根は人情家で涙もろい熱血漢で努力家の性格である{{R|20th10|学研の図鑑20}}。女性に甘く{{R|学研の図鑑20}}、黙っていれば格好がよいという典型的二枚目半のせいか、あまりモテない。片想いの相手だったメルル星人さくらのことを忘れられないなど、純情な一面もある。また、子供の命に重きを置いており、それを守るためにはいかなる危険も厭わず、弱者を守るためには命懸けで敵に挑んでいく好漢でもある。 : [[東北]]地方出身{{efn|演じた[[和興|河合宏]]も[[青森県]]出身。}}のため、時々東北なまりが出る{{R|20th10}}。中盤以降、ドラゴンがシャトルベースを召喚する際に、気合を込めた合いの手を[[アクセント]]として入れるようになる。 :; {{Visible anchor|チェンジグリフォン}} :: 疾風翔が変身する戦士{{R|20th10}}。スーツカラーはブラック。 :: 伝説獣グリフォンの力を宿し、メンバー一のパワーを誇り、スピードにも優れている{{R|20th10}}。敵のヒドラー兵の[[槍]]系の武器を奪う戦法を得意とする。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|大空 勇馬|おおぞら ゆうま}}|大空勇馬}} : 元日本支部陸上部隊将校{{R|20th12|学研の図鑑20}}。20歳{{R|20th12|学研の図鑑20}}。卓越したメカニックと[[爆弾]]技術のエキスパートである{{R|20th12|学研の図鑑20}}。第9話では、剣のために野球の硬式ボールと全く同じ大きさ・同じ重さの爆弾ボールを作っている。 : 子どもの純粋な心を忘れない無邪気さも持ち合わせた電撃戦隊のムードメーカーで{{R|20th12|学研の図鑑20}}、第1話の訓練の際にこっそり朝食のご飯を[[おにぎり]]にして携帯したり、ズーネの[[宝石]]をこっそり拾っておくなどちゃっかりとした一面を持つ。追い詰められると普段の快活さから一転、著しく弱気になることも。特にリゲルオーラを浴びてパワーアップしたアハメスの参戦で窮地に陥った際はアースフォースに縋り、その力を渇望するあまりに暴走したりもした{{R|group="ep"|35話}}。除隊したら将来は[[とんかつ]]屋を開くのが夢{{R|group="ep"|5話}}{{R|20th12}}。 : 第8話では、自分を痴漢と間違え、その後吸血鬼にされた女子学生の京子を勇気付けた{{efn|このエピソードでは、大空が宇宙獣士ドキュラに襲われた女性を介抱していたのを、女子学生の京子が、大空が痴漢で女性を襲ったものと間違えた。その後、京子が被害者を介抱したが、既に被害者は吸血鬼にされており、京子も吸血鬼にされてしまった。}}。 : 電撃戦隊内での[[カラオケ]]大会では[[チェッカーズ]]の「[[あの娘とスキャンダル]]」を熱唱するが酷い音痴であり、そのことを笑われて泣いてしまったこともある{{R|group="ep"|25話}}。そのため、当初は歌が嫌いで、カラオケ大会でも、自分が歌うことのないように隠れていた。なお、この音痴については、第25話で音痴の少年と出会ったことで隠すことはなくなった。 : 電撃戦隊メンバーの中では、子供への受けは一番良い{{R|20th12}}。第8話や第25話以外でも、子供とのエピソードはあり、第20話では調査に訪れた町の分校の児童たちから先生になって欲しいとせがまれたこともある。 : 第30話では、宇宙獣士デリカルのマグネシャワーで電撃戦隊のメカが使用不能にされた中、処分寸前となっていた老馬ペガサスに乗って敵陣に突入した{{R|20th12|20th26}}。 :; {{Visible anchor|チェンジペガサス}} :: 大空勇馬が変身する戦士{{R|20th12}}。スーツカラーはブルー。 :: 伝説獣ペガサスの力を宿し、高い跳躍力を活かした空中殺法{{Sfn|完全超百科|2006|p=28}}を得意とする{{R|daizen|20th12}}。パワー技や射撃も用いる{{R|20th12}}。 :: メンバー中で唯一、チェンジソード(剣モード)を逆手持ちで扱う{{R|20th12}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|渚 さやか|なぎさ さやか}}|渚さやか}} : 元日本支部作戦部隊将校{{R|20th14|学研の図鑑20}}。20歳{{R|20th14|学研の図鑑20}}。優れた洞察力で明晰な頭脳で新兵器の開発、敵や状況を冷静に分析、緻密な作戦を立てる参謀格であり{{R|20th14|学研の図鑑20}}、猪突猛進気味のリーダー・剣=チェンジドラゴンを擁くチェンジマンには欠かせない人材である。 : [[エチケット]]など礼儀作法には少々うるさく{{R|group="ep"|22話}}、[[絵]]もうまい{{R|group="ep"|6話}}{{R|学研の図鑑20}}。軍人としてはクールに振舞うが、素顔は明るくかわいい女性である。イカルス王子の母親に瓜二つである{{R|20th14}}。 : 第4話では、人類のペットの歴史からウーバの次の標的を見抜き、第6話では、被害者の女子高生の共通点からマーゾの次の標的を見抜いて彼女の在学する桜ヶ丘女学園の寮に潜入した。また、第9話ではドラゴンボールに対するトラウマを持つ剣を冷静に叱咤した。 : 第20話では、宇宙怪魚ピラーニに胸を噛まれ、「エッチ!何するのよ!」と普段の冷静さからは一転して怒りを露にした。 :; {{Visible anchor|チェンジマーメイド}} :: 渚さやかが変身する戦士{{R|20th14}}。スーツカラーはホワイト。 :: 伝説獣マーメイドの力を宿し、戦闘では水中戦も得意とする{{R|20th14}}。しなやかな回転攻撃で敵を翻弄し、スカイダイビングや射撃、頭脳戦が得意{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=32}}{{R|20th14}}}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|翼 麻衣|つばさ まい}}|翼麻衣}} : 元日本支部[[諜報]]部隊将校{{R|20th16|学研の図鑑20}}。20歳{{R|20th16|学研の図鑑20}}。天真爛漫な性格で、男勝りな体が先に動く行動派{{R|20th16|学研の図鑑20}}。ショートヘアーが特徴。一緒に行動した男性に「姉貴」と呼ばれたこともある{{R|group="ep"|15話}}。元諜報部隊所属だけあってか、大空の[[制服]]に盗聴マイクを仕掛ける素早さがある{{R|group="ep"|5話}}。[[オートバイ|バイク]]のテクニックは抜群{{R|20th16}}。 : 実は怪力の肉体派であり、時として衝突する頭脳派のさやかとはかなり性格が違うが、意外に馬が合い、コンビで行動することが多い{{R|学研の図鑑20}}。過去の恋愛経験は皆無だったらしく、リンド星の救援に旅立つ[[医師]]への想いが初恋だったらしい{{R|group="ep"|26話}}{{R|20th16}}。弱点は[[幽霊]]と[[絵]]の下手さで{{R|学研の図鑑20}}、第6話で[[女子高生]]をスケッチした際には[[へのへのもへじ]]を描いていた。カラオケ大会では[[中森明菜]]の「[[サザン・ウインド]]」を歌唱している{{R|group="ep"|25話}}。第44話では、さやかの服を着て外出してしまい、[[ウェディングドレス]]などの[[コスプレ]]を披露した{{R|group="ep"|44話}}。 :* 撮影会の衣装は、歌手の[[早見優]]がテレビ番組で着用した衣装を参考にして衣装部で用意したものであるが、本編では未使用となった。また、夏季に着用していた[[アロハシャツ]]は、演じる[[大石麻衣]]の母親が作った<ref>{{Cite book|和書|year=2005-03-10|title=東映ヒーローMAX|volume= Vol.12|pages=75-76|publisher=[[辰巳出版]]|series=タツミムック|id=ISBN 4-7778-0127-6}}</ref>。 :; {{Visible anchor|チェンジフェニックス}} :: 翼麻衣が変身する戦士{{R|20th16}}。スーツカラーはピンク。 :: 伝説獣フェニックスの力を宿し、鳥の羽ばたきのような動きで敵を蹴散らす拳法技を用いる{{R|20th16}}。また、疾風に負けない力を誇り、パワー攻撃も得意とする{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=32}}。 === 地球守備隊 === ; {{Visible anchor|{{読み仮名|伊吹長官|いぶきちょうかん}}|伊吹長官}} : 自身の提唱した「電撃戦隊」を率いる地球守備隊の指揮官。訓練の時は極めて厳しいが、普段は優しく頼もしい、隊員たちにとっての父親的存在。基地内に温泉を造って皆の交友を図ったりもしていた。戦士としてもかなり高い戦闘力を持っており、自ら先頭に立って戦ったこともあった。 : アースフォースの存在を把握していたことを初めとし、宇宙の伝説や生物に関する知識が豊富であるが、それは彼の隠された素性に原因があった。終盤でチェンジマンが危機に陥った際、自らその正体を明かす{{R|group="ep"|53話}}。 :; ヒース星人ユイ・イブキ :: ゴズマによって滅ぼされたヒース星唯一の生き残りであり、伊吹長官の真の姿。青い光球に変身することも可能。宇宙を彷徨い、様々な知識と教養を蓄えながら地球に辿り着いた。最終回にて同じく故郷を失った異星人たちとともに惑星再建のため宇宙へ旅立っていった。 : ; {{Visible anchor|戦士団}} : 伊吹長官の厳しい訓練を乗り越えてきた地球守備隊の科学開発チーム。アースフォースに選ばれたチェンジマン5人は彼らの代表である。チェンジマンのサポートが主な任務だが、歓迎式では剣たちを挑発したり、時には彼らに代わってゴズマと戦おうとするなど、内心ではチェンジマンになりたかった願望を秘めている。さやかとともにゴズマの宇宙獣士対策をするチームやマシンの整備を行うチームなどもいる。 : ; {{Visible anchor|その他}} : 第5話で地球守備隊の最高責任者のジョンソン総司令{{R|大全集192}}が、第5話と第36話で地球守備隊日本支部の最高司令官である本田司令官が登場している。 : ジョンソン総司令は日本に住む孫娘のマリアがゴズマに拉致されたこともあったが、事件解決後は電撃戦隊を全面的に支援した。本田司令官は伊吹長官の計画を支持し、電撃戦隊結成に尽力した{{R|20th6}}。 === 異星人 === ; {{Visible anchor|リゲル星人ナナ}} : 第13・14・32・33・42・43・51 - 55話に登場。天才的な頭脳を持つテクノ惑星リゲルの少女。リゲル星の宇宙小動物・クゥクをペットにしている。父親そっくりの地球人・熊沢博士を本物の父親と信じてしまう。ゴズマに協力する熊沢博士に騙され、ギョダーイをパワーアップさせるエネルギー転換フード装置を作り、バラスと[[トカゲ]]を巨大化させた。熊沢博士の死後は田村一家に助けられ、普通の女の子(小学2年生)として平和に暮らしていたが、リゲル星人は成長する段階でそれを浴びた生物を強化させる作用を持つリゲルオーラを発するため、その力を求めるギルークとアハメスに狙われる。当初は幼い女の子だったが、リゲルオーラを放出して一気に成長し、成人の姿になった。成長後は女子高に通うようになり学園生活を楽しんでいたが、ゴーストギルークに狙われ、生涯一度しか放出しないはずのリゲルオーラを再び放出した。剣飛竜に助けられ、それ以後は彼を慕うようになる。レーザーライフルが武器。第42話では剣と[[オクラホマミキサー]]を踊った。剣を助けるために単身危地に乗り込んで逆に捕まったことによって、物語は最終決戦へと突入していく。 ; {{Visible anchor|メルル星人さくら}} : 第16話、第55話に登場。天使のような翼を持つメルル星人の少女。メルル星人は人間の争いの感情を消す力を持っており、それゆえにバズーに真っ先に狙われ、滅ぼされた。だが、メルル星人はメルル星が滅ぶ時、その子孫をさまざまな星へ脱出させた。さくらもその一人であり、地球で普通の人間として暮らしていたが、メルル星人が残したメモリードールによってメルル星人としての記憶と能力が復活。宇宙に散っているメルル星人の子孫とともに宇宙の平和を取り戻すために飛び立っていったが、最終決戦で駆けつけ、チェンジマンに協力する。 ; {{Visible anchor|ゲーター一家}} :; ゾーリー :: 第27・47・49 - 51・53 - 55話に登場。ナビ星からやって来た航海士ゲーターの妻。夫をナビ星に連れ戻すため、一時はゴズマに協力する。登場時点で懐妊しており、終盤、地球でクックを出産した。 :: ピンク色のバリアーを作り出して対象を包んで守ったり、包んで守ったまま浮遊移動させる力を持ち、たびたびチェンジマンたちを危機から救っている。 ::* デザインイメージは[[大屋政子]]{{R|百化142}}。初登場時の造型はデザイン画に似ておらず、再登場時に修正された{{R|百化143}}。 :; ワラジー :: 第27・47・49 - 51・53 - 55話に登場。ゲーターの息子。父のことを尊敬しており、父に会いたい一心で地球に来た。彼が奏でるオカリナの音はゴズマの幹部たちに望郷の念を抱かせ、組織を大きく揺るがす契機になる。 ::* デザインイメージは吊りズボンの小学生{{R|百化142}}。 :; クック :: 第51・53 - 55話に登場。地球で生まれたゲーターの娘。彼女の誕生はゲーターの心を大きく揺さぶり、後に彼の離反に繋がった。 == 装備・戦力 == === 共通装備・技 === ; チェンジブレス{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|20th6}}{{Sfn|30大スーパー戦隊超全集|2007|p=210|loc=「変身」}}}} : チェンジマンの5人が左腕に装備している変身・通信用のブレス。「レッツ!チェンジ!」のコールとともにしゃがみ、すぐに立ち上がりながら自分のコード名{{efn|5人で変身する場合は「チェンジマン」。}}を発声し、ブレスを天にかざすとブレスから伝説獣マークと強化服が放出され、チェンジマンへの変身を完了する。ブレス脇の銃口部から'''ブレスレーザー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|20th6}}}}{{efn|第39話のみ'''ブレスレットレーザー'''と呼称している{{R|gahou186}}。}}を発射する機能も備えている。またブレス本体には通信モニターも搭載され、モニターのカバーはブレスレーザーの照準機としても機能する。「チェンジマンスーツ解除」のかけ声で、変身解除する。 : チェンジマンの5人だけでなく、第1話での地獄の特訓に参加していた士官も全員着用していた。 ; チェンジスーツ{{R|gahou186}} : 変身時にメンバーの周りにアースフォースが充満することで装着される強化服。地球の神秘の力と超科学の結晶である。ヘルメットの額の部分にはそれぞれ自身のコードネームと同じ聖獣のマークが施されている。 ; チェンジソード{{Refnest|group="出典"|{{R|daizen92|gahou186|30大212|20th6}}}} : メンバー全員が右腰のホルスターで携行するレーザー銃{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=31}}。銃身部とグリップ部に分かれており、銃身部からは刃が伸びて剣になり、グリップ部は展開して小型の盾になる。 : 第38話では[[野球]]の[[バット (野球)|バット]]に変形した{{R|20th6}}。 :* プロップは金属製・樹脂製・ウレタン製などが製作された{{R|daizen92}}。 === ズーカ === チェンジマンがそれぞれ所持するパワーバズーカのパーツで、それぞれ必中必殺の最強武器としても使用可能で、強力な弾丸を放つ{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}{{R|daizen92}}。チェンジマンのベルト左部にある'''ズーカボックス'''に収納されている{{R|daizen92}}。 ; ドラゴンズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|30大212|20th8}}}} : パワーバズーカ時は本体となるバズーカ砲。ズーカの中でも最大の威力を誇る{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}。大型戦車1台分のパワーを持つ{{R|20th8}}。 : ; グリフォンズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|30大212|20th10}}}} : パワーバズーカ時は銃口(マズル)部となるバズーカ砲。小型戦車並みの破壊力を持つ{{R|20th10}}。 : ; ペガサスズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou186|30大212|20th12}}}} : パワーバズーカ時は中央部下となるバズーカ砲。鉄骨を爆破する破壊力を持つ{{R|20th14}}。砲身はU字型で、唯一二つの銃口を有する。 : ; マーメイドズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|30大212|20th14}}}} : パワーバズーカ時はスコープ部となるバズーカ砲。小型で[[インスタントカメラ]]を持つように使用するが、大岩を砕く破壊力と高い命中精度を持つ{{R|20th14}}。 : ; フェニックスズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|30大212}}}} : パワーバズーカ時は中央部上となるバズーカ砲。[[籠手]]のような形状で弾道誘導装置も兼ねている。 : ; パワーバズーカ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|daizen92|gahou186|30大212|20th6}}}} : 5人の持つズーカを組み立てて完成する大型バズーカ砲。ドラゴンが「セット!」と叫んで弾丸を挿入し、マーメイドが狙いを定め「マーク」と発声した後、ドラゴンの「ファイア!」の発声とともにアースグレーンと呼ばれるごく小さな粒状の物質をコアとしたアースフォースによって変換された特殊砲弾{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}が発射される{{efn|第5話までは5色であったが、第7話からは金色となった{{R|daizen92}}。}}。 : 第36話以降は、アースフォースの強化により聖獣のパワーを込めた金色の強化弾丸{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=31}}を装填する形で敵に打ち込まれるようになり、3倍の威力に強化されている{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''強化パワーバズーカ'''{{R|daizen92}}、『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1985 電撃戦隊チェンジマン』では'''ニューパワーバズーカ'''{{R|20th6}}と記述している。}}。これ以後、宇宙獣士が粉々に砕け散るというシーン{{efn|撮影には人形を使用。}}が加わった演出によってパワーアップが表現されている。 :* 本作品以降、スーパー戦隊シリーズでは巨大バズーカ砲が必殺武器として定番化した{{Refnest|group="出典"|{{R|TMH|36L|JSK102}}}}{{efn|先例としては『ジャッカー電撃隊』のビッグボンバーや『バトルフィーバーJ』のペンタフォースなども存在するが{{R|JSK102}}、資料によってはパワーバズーカを最初の存在と位置づけている{{R|TMH|36L}}。}}。大型武器としては初めて玩具化もされた{{Sfn|戦隊Walker|2016|pp=72-73|loc=「ITEM PICKUP3 なりきり玩具 武器ほか編」}}。 === 個人武器・技 === ; チェンジドラゴン :; ドラゴンアタック{{Refnest|group="出典"|name="dragon"|{{R|大全集214|gahou188|30大211|20th8}}}} :: ドラゴンのポーズを取りアースフォースで体を包み、高く舞い上がった後、落下スピードを乗せてアースフォースエネルギーを両腕で敵の体に叩き込む{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}{{R|20th8}}。 :; ドラゴンサンダー{{R|group="出典"|dragon}} :: ドラゴンパワーで空中から電気エネルギーを全身に漲らせ、敵に電撃を浴びせる{{R|20th8}}。 :; ドラゴンボール{{R|大全集214|gahou188}} :: 剣が高校球児時代に編み出した消える剛球。親友の[[捕手|キャッチャー]]に大怪我をさせたために封印していたが、第9話でオーズの弱点である目を大空が開発した爆弾ボールで攻撃するために使用。第38話でも、ドロンの呼び出した幽霊野球選手と試合を行って成仏させるために使用。 :; ドラゴンキック{{R|group="出典"|dragon}} :: 右足にアースフォースを集中させて放つ、空中からの跳び蹴り{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}{{R|20th8}}。 :; ドラゴンソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou188|20th8}}}} :: ドラゴンボールの応用技。チェンジソードにアースフォースを集めてジャンプし、空中でひねりながら反転{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}し、敵に投げつける{{R|20th8}}。敵の目前で一瞬消えた後に敵に突き刺さる{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}。ドロンの不死身能力を破るために使用。 :; 反重力ベルト{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou186|30大211|20th8}}}} :: さやかが科学開発チームと共同で開発した重力を制御して空を飛ぶことが可能になるベルト{{R|20th8}}。チェンジドラゴンがジーグとの戦闘で使用。元は5人全員に作られたが、設計ミスで爆発し全員負傷、これに逆上した疾風が大空と麻衣を連れて、独断で出撃してしまったため、さやかを信じる剣の協力で完成した。 : ; チェンジグリフォン :; グリフォンアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou188|30大211|20th10}}}} :: グリフォンのポーズを取り、空中からアースフォースエネルギーを敵の体に叩き込む{{R|20th10}}。 :; グリフォンマグマギャラクシィ{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou188|30大211|20th10}}}}{{efn|名称を'''グリフォンマグマギャラクティー'''{{R|大全集214}}、'''グリフォンマグマギャラクシー'''{{R|学研の図鑑20}}とする資料もある。}} :: グリフォンパワーで大地を割り、マグマを噴出させて攻撃する{{R|20th10}}。 :; グリフォンアニマルアクション{{R|20th10}} :: 敵の体を掴み、[[バックドロップ]]を決める{{R|20th10}}。 : ; チェンジペガサス :; ペガサスアタック{{Refnest|group="出典"|name="pegasus"|{{R|gahou188|30大211|20th12}}}} :: ペガサスのポーズを取り、空中からアースフォースエネルギーを敵の体に叩き込む{{R|20th12}}。 :; ペガサスイナズマスパーク{{R|group="出典"|pegasus}} :: ペガサスパワーで空中からペガサスの形を模した雷光を放射する{{R|20th12}}。 : ; チェンジマーメイド :; マーメイドアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou188|30大211|20th14}}}} :: マーメイドのポーズを取り、空中からアースフォースエネルギーを両腕で敵の体に叩き込む{{R|20th14}}。 :; マーメイドタイフーンウェーブ{{Refnest|group="出典"|name="mermaid"|{{R|gahou188|30大211|20th14}}}} :: マーメイドパワーで凄まじい水流を両手から巻き起こし、相手を吹き飛ばす{{R|20th14}}。 :; マーメイドビッグウェーブ{{R|group="出典"|mermaid}} :: アースフォースの力で大波を呼び寄せ、波乗りのポーズで体当たりする{{R|20th14}}。 : ; チェンジフェニックス :; フェニックスアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou188|30大211|20th16}}}} :: フェニックスのポーズを取り空中からアースフォースエネルギーを両腕で敵の体に叩き込む{{R|20th16}}。フェニックスのみ、鳥のように舞いながら、空中一回転してから攻撃態勢に入る。他の戦士はほぼ垂直方向に飛んで攻撃態勢に入る。 :; フェニックスファイヤー{{Refnest|group="出典"|name="phoenix"|{{R|gahou188|30大211|20th16}}}}{{efn|書籍『決定版 全スーパー戦隊 完全超百科』では、名称を'''フェニックスファイアー'''と表記している{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}。}} :: フェニックスパワーで高熱火炎を前に出した両手から放射する{{R|20th16}}。 :; フェニックスファイヤーボンバー{{R|group="出典"|phoenix}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''フェニックスファイアーボンバー'''と表記している{{R|大全集214}}。}} :: 両腕を交差させ、背後に発生させた大爆発とともに敵に体当たりする{{R|20th16}}。 === 合体技 === ; 電撃フラッシュ{{Refnest|group="出典"|name="change"|{{R|大全集214|gahou186|30大212|20th6}}}} : 5つの伝説獣の力を集め、体から強烈な電撃を放射して敵に攻撃する。単体でも使用可能。劇場版第1作では、カミラによって[[ヒトデ]]人間にされた人々を元に戻した。 ; パワーシュート{{Refnest|group="出典"|name="change2"|{{R|gahou186|30大212|20th6}}}} : 額のマークから伝説獣の形を模したアースフォース{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}を放って攻撃する。単体でも使用可能。 ; チェンジフラッシュ{{R|20th6}} : 5人で同時に体を発光させて、敵の視力を奪う。第17話で使用、アハメスの目を眩ませて異空間から脱出した。 ; ペンタフォーメーション{{R|group="出典"|change2}} : 宇宙獣士を取り囲んで、5方向から一斉にチェンジソード銃モードの光線を放つ。 ; 電撃ビクトリービーム{{R|group="出典"|change}} : 空中で5人がV字を描くように並び、一点にチェンジソード銃モードの光線{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}を放つ。 ; アースフォース電撃ソード{{R|group="出典"|change2}} : 5人のアースフォースを込めたチェンジソード{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}を合わせ、剣先から電撃を放つ。ギラスの左胸の傷を攻撃してダメージを与えた。 ; クロスハリケーン{{R|gahou186|30大212}}{{efn|一部書籍では、名称を'''チェンジソードクロスハリケーン'''と記述している{{R|大全集214|20th6}}。}} : 「クロスハリケーンソード」とも呼ばれる{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}。5人のチェンジソードと盾を組み合わせた物を星状に組み合わせて敵の攻撃を跳ね返し、エネルギービーム{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}を放ち、星型の赤いオーラを浴びせる。 ; マーメイドとフェニックスの合体技 :; ダブルハリケーンソード{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou188|30大212|20th14}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''ペアハリケーンソード'''と記述している{{R|大全集214}}。}} :: マーメイドとフェニックスが背中合わせに立ち、空中で錐揉み回転{{Sfn|完全超百科|2006|p=29}}しながらチェンジソード銃モードを連射する{{R|20th14}}。 :; ダブルソードオーロラシューティング{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|gahou188|30大212|20th16}}}} :: マーメイドとフェニックスが空中で虹を描くようにきりもみ回転しながらチェンジソード銃モードを連射する{{R|20th16}}。 === 基地・メカニック === ; 電撃戦隊基地 : 東京郊外の富士山麓の地球守備隊日本支部の地下にある基地施設で{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では所在地は不明と記述している{{R|超世紀175}}。}}、内部には司令室、各メカニックの格納庫、各防衛施設や隊員の寄宿舎、共同浴場、プール、娯楽室など、多数の設備がある。地上の出入り口は厳重に監視されており、出入りには指紋認証や電波感知装置が必要{{R|学研の図鑑20}}。また、侵入者発見情報は「Time is money」の暗号で司令室に伝えられる{{R|学研の図鑑20}}。第53話でのアハメスによる奇襲・自爆により壊滅した。 ; オートチェンジャー : 各メンバーに配備された超機動オートバイ{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=33}}{{Sfn|超戦力超百科|2013|p=27}}。機体毎に各人のマークとカラーリングが施されている{{R|20th22a}}。高速走行の際に各人のパーソナルカラーのエネルギーを放出する{{R|20th22a}}。高い機動力を誇るが、全パワーを発揮すると危険なため、リミッターが掛けられており、戦士団のメカニック要員の猪熊しか調整することが出来ないが、一度だけフルパワーを出している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}{{R|20th22a}}。 : 武器に'''チェンジャーミサイル'''を追加装備しているが、作中では未使用{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|大全集214|gahou192|20th22a}}}}。 ; チェンジクルーザー : 全員で搭乗も可能な特殊4WD。主にドラゴンが運転する{{R|20th22a}}。 : 頑強な金属で製作された車体全体は、敵の攻撃を跳ね返し、レーダーや金属探査装置などのサーチメカを装備する{{Sfn|完全超百科|2006|p=30}}{{R|20th22a}}。ボンネット上のフォグランプが探査ビーム砲になっており、クルーザーミサイルを装備{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|超世紀175|daizen92|gahou192|20th22a}}}}。 : ベース車は、[[トヨタ・ハイラックス]]{{R|daizen92}}。 ; パトロールカー : 変身前に移動する際やパトロールする際に搭乗する車。特別な機能や武装は装備されていない。主に大空が運転するが、さやかや麻衣が運転することもあった。 ; パトロール用バイク : 変身前の移動やパトロールの際に搭乗するバイク。特別な改造や武装は装備されていない。主に剣と疾風が搭乗するが、大空や麻衣が搭乗することもあった。 ; ジェットスキー{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{R|大全集214|超世紀175|daizen92|gahou192|30大211b|20th22a}}}} : 各メンバーに配備された特殊機動マシン{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=33}}。車体はペガサスとマーメイド、フェニックスのカラーリングに塗られている。武装はない{{R|超世紀175|20th22a}}が、高い機動性を持つ。 ; 電撃戦隊ヘリ{{R|超世紀175}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1985 電撃戦隊チェンジマン』では、名称を'''地球守備隊ヘリコプター'''と記述している{{R|20th22a}}。}} : 地球平和守備隊のヘリコプター。[[AH-1 コブラ|AH-1 ヒューイコブラ]]のほか、第1話では[[MD 500|ヒューズモデル500]]、劇場版第2作では[[エンストロム・ヘリコプター・コーポレーション|エンストーム]]280C-シャークを使用している{{R|大全集214}}。 :* 東映プロデューサーの[[鈴木武幸]]によれば、第1話でのヘリコプターの使用は監督の[[堀長文]]の要望によるものであった{{R|20th5}}。 : ; シャトルベース : 電撃戦隊戦士団の活動拠点であり、チェンジロボに合体する3機のメカの母艦{{R|学研の図鑑42}}。割れた地表からカタパルトが展開し、発進する。無人操縦や大気圏を離脱して長期間の宇宙空間での惑星間航行が可能{{R|20th22b|学研の図鑑42}}。第7話では、アトランタ星人タロー(宇宙獣士デモス)の宇宙葬を執り行った。 : 武器はシャトルビッグレーザー{{Refnest|group="出典"|name="base"|{{R|大全集214|daizen92|gahou192|20th22b}}}}とシャトルミサイル{{R|group="出典"|base}}。 ; ジェットチェンジャー1 : チェンジドラゴンが搭乗する巨大戦闘機。シャトルベースでは機首内に格納され、開いた機首から発進する。3台のマシンの中では、ゴズマ戦闘機との戦いをメインとしている。 : 武器はレーザービーム砲{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE3"|{{R|大全集214|超世紀175|gahou192|20th22b}}}}。 : チェンジロボの頭・胴体・膝より上(大腿)を構成する。 ; ヘリチェンジャー2 : チェンジグリフォンとチェンジマーメイドが搭乗する巨大戦闘ヘリ。シャトルベースでは後部内に格納され、左右に展開した上部ハッチから発進する。垂直離着陸が可能で、その機動性からパトロールや探索任務にも活用される{{R|20th22b}}。パトロール目的でペガサスが、私用目的でフェニックスが同乗したこともあった。 : 武器はミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀175|gahou192|20th22b}}}}、[[バルカン砲]]{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE4"|{{R|大全集214|gahou192|20th22b}}}}、[[ガトリング砲]]{{R|gahou192|20th22b}}。ロープを機体下部から伸ばすことも可能{{R|20th22b}}。 : チェンジロボの胸部・両腕を構成する。 :* スーパー戦隊シリーズ初のヘリコプター型メカである{{Sfn|SUPER VISUAL|2002|p=122}}。飛行シーンは、セットを立ててミニチュアを横から吊るかたちで撮影された{{Sfn|大全集|1993|p=69|loc=「ザ・特撮 飛翔」}}。 ; ランドチェンジャー3 : チェンジペガサスとチェンジフェニックスが搭乗する巨大万能タンク。シャトルベースではボディが左右に分離した状態で後部内に格納され、ボディ中央で合体し機首から地上に降下する。ゴズマが地球に築いた侵略用施設への攻撃を主としている。 : 武器はミサイル{{R|group="出典"|MACHINE3}}とドリル{{R|group="出典"|MACHINE4}}。 : チェンジロボの膝より下の脚部を構成する。 ; チェンジロボ : ジェットチェンジャー1、ヘリチェンジャー2、ランドチェンジャー3がアースコンバージョンした巨大ロボ{{R|学研の図鑑42}}。チェンジドラゴンが「アースコンバージョン、スタート!」と言うとジェットチェンジャー1とヘリチェンジャー2が空中で上半身に合体、ランドチェンジャー3は地上で下半身に変形し、最後に全員で「'''合体・アースコンバージョン'''」の掛け声で空中の上半身が降下して地上の下半身と合体する。装甲はトラドクス合金製{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|超世紀175|20th23|学研の図鑑42}}}}で、防御力が高い。動力源はグランボルト融合エネルギーとアースフォーススーパー反応エネルギーを併用しており、ヒース星の技術を用いている{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2006|p=30}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=33}}{{R|20th23|学研の図鑑42}}}}。通常は3機のメカの形態で巨大空母シャトルベースに積載されているが、チェンジロボに合体した状態で出撃する場合もある。胸部内にオートチェンジャーを格納することもできる。 :; 装備 ::; 電撃剣{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|超世紀175|gahou192|20th23}}}} ::: チェンジロボの主装備である長剣。長さ:31.7メートル、刃渡り:23.2メートル、重さ:78トン{{R|大全集214|20th23}}。トラドニウム合金製{{R|大全集214|20th23}}。 ::; チェンジシールド{{Refnest|group="出典"|name="ROBO"|{{R|大全集214|gahou192|20th23}}}} ::: 電撃剣を収納する防御用の盾。トラドクス合金製{{R|大全集214|20th23}}。 ::; チェンジバルカン{{Refnest|group="出典"|name="ROBO2"|{{R|大全集214|gahou192|30大213|20th23}}}} ::: 空爆にも用いる両肩のバルカン砲。ヘリチェンジャー2のバルカン砲と同一{{R|大全集214}}。 ::; チェンジロボミサイル{{R|group="出典"|ROBO2}} ::: 開いた腹部ハッチから発射する二連装の小型ミサイル{{R|20th23}}。 ::; チェンジロボフラッシュ{{R|gahou192|20th23}} ::: 両目から発射する目つぶし光線{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}。 ::; チェンジロボビーム{{R|20th23}} ::: チェンジロボフラッシュの別仕様{{R|20th23}}。ビームの色や形状が異なる{{R|20th23}}。 :; 技 ::; 電撃剣スーパーサンダーボルト{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|daizen92|gahou192|30大213|20th23}}}} ::: 落とした稲妻によるプラズマエネルギーを帯びた電撃剣をアースフォースで強化{{Sfn|超戦力超百科|2013|p=51}}し、相手を袈裟懸けに2回斬る必殺技。メインパイロットであるチェンジドラゴンが「電撃剣!」と言ってボタンを押すとチェンジロボがチェンジシールドから電撃剣を引き抜く。その後で雷鳴とともにチェンジドラゴンが「電撃剣・スーパーサンダーボルト!」の掛け声とともに左右の操縦桿を右、左の順で引いた後2本同時に前へ倒す動作でコマンド入力が完了し、必殺技が発動される。 ::; 電撃剣風車斬り{{R|group="出典"|ROBO2}}{{efn|資料によっては、'''電撃剣風車切り'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}と表記している。}} ::: 独楽のようにスピン回転しながらすれ違いざまに横一文字に水平斬り{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}}。 ::; 電撃剣つばめ返し{{R|group="出典"|ROBO2}} ::: 第33話において、円を描きながら複数のゴズマ戦闘機を叩き落すように斬る。 ::; 電撃剣ブリザード返し{{R|group="出典"|ROBO2}} ::: 電撃剣とチェンジシールドを組み合わせて回転させた技。第50話のジャン戦でブリザードアタックを跳ね返すべく使用した。 ::; スーパージャンプ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=45}} ::: 空高く舞い上がって、ミサイル攻撃などに繋げる。 : ; スペック :{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1" |- ! 名称 !! 全長 !! 重量 !! スピード !! その他 |- ! シャトルベース |90.3{{nbsp}}[[メートル|m]]{{R|group="出典"|MACHINE3}} |6,700{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|MACHINE3}} |[[マッハ数|マッハ]]1.2{{R|group="出典"|MACHINE3}} |rowspan=4| |- ! ジェットチェンジャー1 |34.9{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE3}} |98{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE3}} |マッハ8.5{{R|group="出典"|MACHINE3}} |- ! ヘリチェンジャー2 |36.9{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE3}} |62{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE3}} |620{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE3}} |- ! ランドチェンジャー3 |30.6{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE3}} |870{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE3}} |280{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE3}} |- ! オートチェンジャー |2.3{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}} |rowspan=2| |340{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE2}} |最大跳躍力:50{{nbsp}}m{{R|gahou192|20th22a}} |- ! チェンジクルーザー |4.9{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}} |520{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE2}} | |- ! 電撃戦隊ヘリ | | |235{{nbsp}}km/h{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=40}} | |- ! 名称 !! 全高 !! 重量 !! スピード !! 出力 |- ! チェンジロボ |54.2{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|超世紀175|daizen92|gahou192|30大213|20th23}}}} |1,030{{nbsp}}t{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集214|超世紀175|gahou192|30大213|20th23}}}} |飛行速度:マッハ1.5{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀175|gahou192|20th23}}}} |175万馬力{{R|group="出典"|ROBO}} |} == 大星団ゴズマ == 星王バズーを頂点とし、全宇宙の支配を目論む強大な各惑星の異星人の混成軍団{{Sfn|完全超百科|2006|p=30}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=33}}。全宇宙で侵略を進めており、地球も侵略対象の1つでしかない。宇宙の星々を次々と滅ぼし、その生き残りを自軍の戦力として取り込み戦力を増大させており、全宇宙最大級の脅威となっている。組織の規模は強大で、全宇宙の大部分を既に支配しており、地球にやって来たギルークたちの部隊でさえ一方面軍に過ぎず、歴代のスーパー戦隊の敵組織でも群を抜く規模を持つ。メンバーの中にはかつてはギルークやアハメスのようにゴズマの侵略に立ち向かった者もいるが、圧倒的な力の前に屈し、母星の再興を条件に忠誠を誓っている。地球遠征軍は戦艦ゴズマードを拠点とし、ゴズマ戦闘機や宇宙各地から呼び寄せた宇宙獣士を地球に送り込む。また、作戦によっては、宇宙獣士に関連した生物を持ち込んだこともある。 各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない{{R|20th24}}。 * デザインを担当した[[出渕裕]]は、様々な星の宇宙人で構成されるという設定からあえて共通要素を持たせず、どれだけバリエーションを出せるかということを目指した{{R|20th33}}。出渕は従来の東映のイメージの他に[[円谷プロダクション]]や海外のSF作品のイメージも取り入れている{{R|20th33}}。 * 敵の設定が銀河規模の大帝国にされたのは宇宙刑事シリーズ終了を受けてのこと{{R|大全鈴木}}。 ; {{Visible anchor|星王バズー}} : 大星団ゴズマの支配者。手足のない機械の胴体に首だけが接続されたような姿をしており、その姿を見た全ての生物が恐怖を感じるという。惑星侵略さえ行っていれば、基本的な指針は部下が立てることに異論は挟まず静観する一方、目的のためには幹部クラスの部下でも使い捨てにすることを厭わない。額から雷撃光線・'''天罰光線'''{{R|20th24}}で作戦に失敗した者を罰する。実はその姿は暗黒空間から出現するホログラフィであり、正体は惑星型巨大生命体'''ゴズマスター'''であった。 :; ゴズマスター :: 第55話に登場。星王バズーの正体。巨大な意思を持つ{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=33}}惑星型生命体で、宇宙の星を食べて大きくなっていた。[[ハレー彗星]]の尾に隠れて地球を襲う一方、メルル星人さくらの導きでやって来たチェンジマンと伊吹長官を飲み込み、体内で溶かそうとしたが、一緒に飲み込んだメモリードールを、チェンジマンのパワーバズーカの音でやって来たギョダーイの巨大化光線で巨大化されて、チェンジマンたちは脱出。その後チェンジマンがチェンジロボに搭乗し、中心部に侵入して電撃剣スーパーサンダーボルトを炸裂させたことで、宇宙の藻屑となった。 ::* バズーの正体は当初設定されておらず、終盤に出渕裕のアイデアが採用された{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=141}}{{R|20th33}}。 : ; {{Visible anchor|ギルーク司令官}} : 第1 - 33話に登場。大星団ゴズマの地球方面遠征軍{{Sfn|完全超百科|2006|p=30}}司令官で、ギラス星の出身。ギラス星最強の武人でギラス鋼鉄を鍛えた'''ギラス剣'''{{R|20th24}}を携え、戦闘の際はギラス二刀流を駆使する。 : かつては勇猛な戦士としてギラス星防衛のためバズーと戦ったが、最終的には敗れその軍門に降った。母星の再興を条件に地球侵略に着手した。当初は副官に作戦を指揮させていたが、度重なる失敗のため21話以降自ら前線に立ち、33話で追放宣告を受け、同話で戦闘能力を喪失し致命傷を負ったところで「宇宙の墓場」へと追放される{{R|group="ep"|33話}}。 :* 初期はギラークという名称だった{{R|material62}}。デザイン段階で配役が決定していたため、初めから[[山本昌平]]を想定して描かれている{{R|百化142}}。デザインを担当した出渕裕は、顔は白塗りでスキンヘッドを飾りで覆う姿を想定していたが、飾りが演じる山本が被ることができなかったためヘルメット状に作り直され<ref>{{Cite journal|和書|date = 2003-12-10|journal = 東映ヒーローMAX|volume = Vol.7|page = 51|publisher = [[辰巳出版]]|isbn = 978-4-8864-1971-2}}</ref>、顔の色も山本の発案で金塗りとなった{{R|百化142|20th33}}。ゴーストギルークやスーパーギルークでは本来想定していた顔に近づけている{{R|百化142|20th33}}。 :; ゴーストギルーク :: 第38 - 43話に登場。死にかけた宇宙獣士ザドスに乗り移ることによって宇宙墓場から舞い戻った幽霊体。不完全な体のため、長時間実体化していることができず、完全な肉体を求めて行動することもある。 ::* デザインは舞台衣装を意識しており、出渕は[[辻村寿三郎|辻村ジュサブロー]]が人形制作を担当した『王女メディア』の影響を受けたと述べている{{R|百化142}}。 :; スーパーギルーク :: 第43 - 54話に登場。リゲルオーラを浴び、宇宙獣士ザドスとともに実体を取り戻した上、悪魔のスーパー能力を得てパワーアップを果たした完全体。 :: 両目と胸部の球体からビームを発射し、球体の回りのスリットからは宇宙獣士化光線を放ち、ステッキを掲げて炎の隕石弾'''スペースバスター'''を降らせる。 ::* デザインを担当した出渕は、デザインイメージとして山本が演じた特撮テレビ番組『[[スターウルフ]]』のハルカン司令を挙げている{{R|百化142}}。また、あえて古いものに立ち返ることで新鮮味を出すため『[[ナショナルキッド]]』のインカ金星人もイメージしている{{R|20th33}}。 ::{{キャラスペック |名称=宇宙獣士ギラス |身長=221{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{R|20th24}} |体重=234{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|20th24}} |2名称=巨大化時 |2身長=51.7{{nbsp}}m{{R|20th24}} |2体重=936{{nbsp}}t{{R|20th24}} }} :; 宇宙獣士ギラス :: 第54話に登場。冒頭でチェンジマンを圧倒し、ゴズマードの中で酒盛りをしていたところを、ドラゴンに後ろからチェンジソードを胸に食らい、ゴズマードごと放り出されたスーパーギルークが、最終決戦で変身した最後の宇宙獣士。 :: 武器は胸と眼からのビーム、両腕と一体化したギラス剣、ギラス剣をクロスして放つ電撃波{{R|20th24}}。 :: 恐るべき攻撃でチェンジマンを終始圧倒。これまでの最強の宇宙獣士とまで言わせるほど苦戦させたが、ギラスになる前につけられた左胸の傷をアースフォース電撃ソードで攻撃されて怯み、パワーバズーカの砲撃で敗れ去った。巨大化後も前述の武器で圧倒するが、胸を電撃剣風車斬りで斬られ、電撃剣スーパーサンダーボルトで爆死した。 ::* 頭部のデザインは、出渕がギルーク司令官で当初想定していた意匠となっている{{R|百化161}}。 : ; {{Visible anchor|副官ブーバ}} : 第1 - 52話に登場。元宇宙海賊で、星王バズーを恐れ屈服している以外、ゴズマ参入の経緯を含めたその出自は一切不明。戦闘力は極めて高く、ギルークの副官としてチェンジマンを幾度となく窮地に追い込んだ。 : 愛用する武器は'''ブルバドス'''{{R|20th24}}。初代は大鎌の形だったが、チェンジドラゴンに折られ{{R|group="ep"|9話}}、以降は2代目の大刀を使う{{R|20th24}}{{efn|演じる[[岡本美登]]は、鎌型は相手の剣に引っ掛けてしまうなど使い勝手が悪かったので変更されたと証言している{{R|仮面俳優143}}。}}。その2代目も宇宙獣士ゾルテのゾルテガスによって溶けてしまい{{R|group="ep"|40話}}、最後の一騎討ちの際に使い、自身の墓標となったブルバドスは3代目である。 : シーマが倒れかかった時に満更でもない反応をしたり{{R|group="ep"|21話}}、ワラジーのオカリナをシーマが吹いた後間接キスを気にしたり、後述のシーマ脱走の補助などシーマに思いを寄せている描写が随所にある。また、元相棒の女海賊ジールと2人で生きようと誘われるなど{{R|group="ep"|48話}}、硬派な一面に反して恋多き男だった。 : アハメスに使い捨てにされそうになったシーマを救うため、その脱走の意思を確認した上で秘技'''ブルバドス活人剣'''で彼女を斬殺するように見せかけて一時的な仮死状態にさせ、自らはドラゴンとの[[一騎討ち]]で壮絶な最期を遂げた{{R|group="ep"|52話}}{{efn|この場面は2001年発売のVシネマ『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』でも紹介された。}}。 :* モチーフは鎧武者{{R|material62}}。デザインのイメージは『[[スタートレック]]』の[[クリンゴン人]]{{R|百化142|20th33}}。また、和風テイストとして落ち武者のイメージも取り入れている{{R|20th33}}{{efn|出渕は、後年になり映画『[[妖怪大戦争 (1968年の映画)|妖怪大戦争]]』の青坊主の影響も受けていたことに思い至ったと述べている{{R|20th33}}。}}。 :* 後に、1987年の映画『[[プレデター (映画)|プレデター]]』の異星人と似ていると噂になった{{R|百化142|20th33}}。 : ; {{Visible anchor|副官シーマ}} : 元アマンガ星の王女。ブーバとともにギルークの副官として活躍する。武器は電磁鞭・'''シーバー'''{{R|20th24}}の仕込まれたシーバーステッキ。当初はトーンの低い男のような声でしゃべっていたが、それは戦士の状態での声らしく、作戦で変身した際や戦闘で記憶を失ったり、ゴズマ脱退後などに地球人とよく似たアマンガ星人の姿に戻った際には女性の声になっていた{{R|group="ep"|4話}}。また、宇宙的大スターである宇宙獣士ボルタのファンであり、彼の姿を見た時は興奮のあまり失神するという、意外にもミーハーな面もある{{R|group="ep"|21話}}。 : 終盤では強制的に宇宙獣士ズーネに変化させられたり{{R|group="ep"|49話}}、ゲーターの脱走を目の当たりにしたことで侵略行為への疑念に苛まれるようになる。そして、自らの出す'''アマンガエネルギー'''と相反する'''反アマンガエネルギー'''を出して故郷を壊滅させた種族の宇宙獣士ダリルとともに、アハメスからその命と引換えにチェンジマン抹殺を強要されたのを契機に、ブーバの協力によりゴズマを離反し、その後はチェンジマンとともにゴズマと戦った。離反後は長剣を武器としている。 :* ラフ案では参謀シーマという名称だった{{R|material62}}。デザイン画ではメッシュの入った金髪のショートカットであったが、藤枝が配役されたことを受けて長い黒髪に変更された{{R|百化143}}。 : ; {{Visible anchor|女王アハメス}} : 第17話より登場。かつてはギルークと同盟を組み、バズーに抗戦していた元アマゾ星の女王。当初は独自のルートで配下の宇宙獣士を呼び寄せ、ギルークたちとは別行動をとっていた。その後リゲルオーラを浴びてパワーアップし、ハードウォール、ハードアタックなどのスーパーパワーを手に入れる。三獣士や宇宙怪鳥ジャンゲランを従えたアハメスは、ギルークの失脚によって新たな司令官の座に着任する{{R|group="ep"|33話}}。リゲルオーラを横取りしたり、シーマとダリルを捨て駒にしてチェンジマンを倒そうとするなど、自分のみ甘い汁を吸う作戦が多く、その狡猾な性格から疾風に「女狐」呼ばわりされた。だが、電撃戦隊の奮闘の前に失敗を重ね、バズーによってジャンゲランを2体の宇宙獣士にされる。それは即ち司令官の座から降ろされたことを示していた{{R|group="ep"|50話}}。 : 最後はバズーとスーパーギルークの力で宇宙獣士メーズに変えられ、自力で宇宙獣士と分離するも既に精神が崩壊しており、母星の返還をバズーに懇願しながら狂乱状態のまま電撃戦隊の秘密基地もろとも爆死して果てた{{R|group="ep"|53話}}。 :* 非常に人気の高いキャラクターであり、アハメスの死が描かれた第53話は『チェンジマン』の最高視聴率を達成している{{Sfn|SUPER VISUAL|2002|p=162|loc=鈴木武幸インタビュー}}。 :* デザイナーの[[出渕裕]]によると、アハメスの初期スーツは[[妖狐]]をモチーフにしていたとのこと{{R|20th33}}。辻村ジュサブローによる人形のイメージから能や歌舞伎などの日本的な要素を取り入れている{{R|百化144}}。デザイン画では髪型は連獅子を意識していたが、かつらを新規に用意できなかったため実現しなかった{{R|百化144|20th33}}。強化後の衣装は鎧と陣羽織がモチーフとなっている{{R|百化144}}。 :* 演じた[[黒田福美]]は[[ギリシア神話]]の[[メーデイア|メディア]]をイメージしたが<ref>{{Cite book|和書|author = 石井博士ほか |year = 1997 |title = 日本特撮・幻想映画全集 |publisher = 勁文社 |page = 299 |isbn = 4766927060}}</ref>、実際の演技ではもっと高いテンションで演じる必要性を感じ、割り切った演技を心がけたという{{Sfn|大全集|1988|p=202|loc=「スーパー戦隊シリーズINTERVIEW CAST編 [[黒田福美]]」}}。 ::{{キャラスペック |名称=宇宙獣士メーズ |身長=220{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=210{{nbsp}}kg{{R|20th24}} |2名称=巨大化時 |2身長=51.5{{nbsp}}m{{R|20th24}} |2体重=840{{nbsp}}t{{R|20th24}} }} :; 宇宙獣士メーズ :: 第53話に登場。第52話の作戦の失敗、ブーバの戦死、シーマの裏切りの責任を取らされ、バズーとスーパーギルークによってアハメスが宇宙獣士と化した姿。その姿は強化前のアハメスに似ている。武器は鍚杖と眼からの強力な電撃波{{R|20th24}}。 :: 戦いの第1ラウンドではパワーバズーカをはじき返し、続く第2ラウンドでは電撃戦隊の秘密基地を割り出し攻撃するも、ヒース星人の正体を現した伊吹長官に阻まれる。そして最後は前述の通り、アハメスは自力で分離して、秘密基地もろとも爆死、一方のメーズは弱体化して、パワーバズーカ→電撃剣スーパーサンダーボルトに敗れた。 ::* デザインは初期の衣装をモチーフに連獅子のイメージが取り入れられている{{R|百化161}}。 : ; {{Visible anchor|航海士ゲーター}} : 母艦ゴズマードの航海士でナビ星の出身。ひょうきん者で、かなりの怖がり屋。故郷に身重の妻ゾーリーと息子ワラジーを置いて単身赴任している。犬とゴキブリが苦手。彼を追って地球にやってきたゾーリー・ワラジーの度重なる説得にもかかわらず、ゴズマに対する恐怖心から脱け出せずにいたが、ゾーリーがクックを出産したことを契機に「生まれてくる子供を抱きたい」という一心でゴズマから脱走する{{R|group="ep"|51話}}。バズーの発言によればゲーターがゴズマ始まって以来最初の裏切り者であるらしく、次第に表面化するゴズマ分裂の先駆けになった。妻子共々、関西弁をしゃべっていた。 : 当初は人間サイズの黒いブーツを履いていたが、途中から巨大なブーツに変更されている。 : ; {{Visible anchor|ギョダーイ}} : ギョダーイ星の原始生物で、口の中に巨大な単眼を持つ。この単眼から照射される光線には対象の生命力を活性化し、再生・巨大化{{Sfn|赤の伝説|2012|p=47}}させる作用があるため、倒された宇宙獣士を復活させる目的で飼育されている。光線発射にはかなりの体力を消耗するため、普段は母艦ゴズマード内で寝てばかりいる。その能力からゴズマによって乱獲され利用されているだけで、ギョダーイ自体は悪意の無い生物である{{R|20th24}}。 : 「ギョ〜ッ、ギョ〜ッ」という声を発するのみで言葉を話せないが、巨大化光線を照射する時は「ギョギョギョギョギョダーイ!」と叫ぶ。知能は[[ウシ]]くらい{{Sfn|30大戦隊超全集|2007|p=214}}。キーガに寄生されていた時は鉄を食べていたが<ref group="ep">第24話。</ref>、通常時の食料は不明。 : 爆発寸前のゴズマードから救出されて仲間になり、最終決戦にて意外な方法でチェンジマンのピンチを救う活躍をすることになる。 :* スーツは『超電子バイオマン』のクモカンスと同じ手に杖を持たせる構造が用いられている{{R|百化144}}。 : ; {{Visible anchor|宇宙獣士}} : ゴズマの侵略の尖兵となって働く宇宙動物と宇宙人を合成した野獣から知的生命体たち。故郷の星をゴズマに侵略され、解放を条件に服従した被征服者が多いが、単純に殺戮を楽しんでいる者も少なからずいる。知能や能力は個体差が大きく、第9話のオーズのように言葉も話せない獣同様の者から、第7話のデモスのように幹部級の戦闘能力や頭脳を有する者、ボルタのように宇宙の人気スターになった者までいる。戦歴も多様であり、ギラス星でギルークとコンビを組んでいたゾビーや、かつてシーマの養育係だったウーバ、ギルーク・アハメスの腹心だったマーゾ、幽閉の身から宇宙獣士に取り立てられてチェンジマンと戦わされたペインのようなものまでいろいろである。ことにデモスは地球人と先祖を同じくするほぼ同種族と言っていい存在であり、もしチェンジマンが戦いに敗れ地球がバズーに支配された場合、宇宙獣士として侵略に駆り出される運命になったであろうことが暗示されている。終盤ではゴズマの幹部がスーパーギルークやバズーの力で宇宙獣士化されるようになった。 : ; {{Visible anchor|ヒドラー兵}} : 怪物のような顔をしたゴズマの下級兵士。体色は青。卵から生み出される。知性はなく、攻撃本能のみで動くため、右手首に付いた口からの破壊光線やその口での噛み付き、リング状の剣を武器として、敵に獣のように襲い掛かる。神出鬼没で、土中や壁の中など、どこからでも出現する。また、胸を発光させることで互いに情報を伝達することも可能。体に付けられたパイプが弱点で、そこを切られると悶え苦しみ、ガスを噴出しながら消滅してしまう。 :* 前2作の戦闘員との差別化として不気味な雰囲気の宇宙人としてデザインされた{{R|百化144}}。 :* 第1話で大量のスライムをかけられて登場したため、子供の恐怖心を煽ってしまい、その後の地方ロケなどでもヒドラー兵が登場すると、撮影見学に来ていた子供たちが怖がって逃げ出してしまったという{{R|material62}}。 : ; {{Visible anchor|宇宙怪鳥ジャンゲラン}} : 第32-50話に登場。アハメスが騎乗する双頭の怪鳥で、支配下に置くことは困難とされていた。地球上では時速450キロで飛行し{{R|20th24}}、嵐を巻き起こす。金の首からは冷凍ストームを、銀の首からは火炎を吐く{{R|20th24}}。最後の登場となる第50話でバズーによって分離され、それぞれ'''ジャン'''・'''ゲラン'''として宇宙獣士化された。 :* 当初から2体の宇宙獣士に分離することが予定されていたため、双頭でデザインされた{{R|百化144}}。 === ゴズマの戦力 === ; 母艦ゴズマード : ゴズマ地球方面遠征軍本拠地である宇宙要塞戦艦。全長302.1メートル{{Sfn|大全集|1988|p=99|loc=「大星団ゴズマ」}}{{R|20th24}}。自己再生能力を有するゴズモナイト製。武器はキラーレーザーとゴズマ砲。宇宙空間から作戦行動を進めていたが、終盤で地球に侵攻し、稲妻状の攻撃で都市を破壊する。チェンジマンに占拠された後に大破した。 ; ゴズマ戦闘機 : ゴズマードから発進する量産型宇宙戦闘機。単座席だが通常は自動操縦で出撃し{{efn|戦闘員であるヒドラー兵の知能が低く、操縦技術を習得できないため。}}、武器は機首のレーザー砲{{R|20th24}}。ギョダーイが乗る特別仕様や、複座仕様のものも存在する。また、ドラゴンもゴズマードに乗り込む際に搭乗したことがある。 ; ゴズマポッド : 宇宙獣士用の小型宇宙ポッド。イカルス王子も搭乗した。 == キャスト == メインライターの[[曽田博久]]は、メンバーについて意図的に[[イケメン]]俳優を選んだと述べている{{R|20th88}}。 チェンジドラゴン / 剣飛竜役の選考は難航し、適任者が見つからなかった場合は過去に2度ブラックを演じた[[春田純一]]を起用する案もあった{{R|大全集174}}。これはヒーローが軍隊に所属していることから、変身前でも激しいアクションが要求されることに因るものである{{R|material62}}。このためクランクインは従来より遅い1984年11月末からとなった{{R|大全集174}}。実際に起用された[[浜田治貴|浜田治希]]は、面接1回のみで合格したという{{R|20th18}}。 シーマ役の[[富田果菜|藤枝かな]]は本職がモデルで役者経験はなかったため、キャラクター性を確立させるために男性の声が当てられた{{R|百化142}}。 女王アハメス役の[[黒田福美]]は特撮にまったく縁がなかったが、時代劇の若娘のような役ばかりで不遇をかこっていたこともあり、[[鈴木武幸]]からの出演オファーを快諾{{R|20th5}}。彼女の登場を印象づけるために[[長崎オランダ村]]でのロケが組まれた{{Sfn|SUPER VISUAL|2002|p=162|loc=鈴木武幸インタビュー}}。 ブーバ役の[[岡本美登]]は、ブーバが退場する第52話の撮影終了後に交通事故で重傷を負い、退院後にアフレコには参加したが、その後半年間休養した{{R|仮面俳優143}}。 [[岡元次郎]]と[[清家利一]]は本作品でスーツアクターデビューした{{Sfn|豪快演義|p=122|loc=SUIT ACTOR SPECIAL CROSS TALK}}。 === レギュラー・準レギュラー === * 剣飛竜 / チェンジドラゴン - [[浜田治貴|浜田治希]] * 疾風翔 / チェンジグリフォン - [[和興|河合宏]] * 大空勇馬 / チェンジペガサス - [[和泉史郎]] * 渚さやか / チェンジマーメイド - [[西本ひろ子]] * 翼麻衣 / チェンジフェニックス - [[大石麻衣]] * 伊吹長官 - [[藤巻潤]](1 - 8,11 - 53) * 鈴木隊員 - 鈴木玄秀 * 庄司隊員 - 庄司浩和 * 野本隊員 - 野本奈穂子 * 菊池隊員 - 菊池香理 * 渡辺隊員 - [[渡辺実 (俳優)|渡辺実]] * ワラジー - [[大原和彦]] * ナナ - 早川美也子(第13・14・32・33話)→[[柴田時江]](第33・42・43・51 - 55話) * ギルーク司令官→スーパーギルーク - [[山本昌平]](第1 - 33・38 - 54話) * 女王アハメス - [[黒田福美]](第17 - 21,24,26,29,31 - 53話) * 星王バズー - [[桑原一人]] * 副官ブーバ - [[岡本美登]](第1 - 52話) * 副官シーマ / 王女シーマ - [[富田果菜|藤枝かな]](演および第10・46・52 - 55話の声) === 声の出演 === ※宇宙獣士関連は全てノンクレジット * 星王バズー - [[加藤精三 (声優)|加藤精三]] * 副官シーマ - [[飯田道朗|飯田道郎]](第1 - 52話) * 航海士ゲーター - [[増岡弘]] * ギョダーイ - [[渡部猛]](1,2,13,14,24,53 - 55) * ゾーリー - [[高坂真琴]](53 - 55) * ナレーター - [[田中信夫]] === ゲスト === * 本田司令官 - [[松本朝生|松本朝夫]](第5・36話) * ジョンソン地球守備隊総司令官 - ウイルヘルム・ローシャイト(第5話) * マリア - エリシヤ・スペア(第5話) * 姉弟の姉 - [[秦暎花]](第12話) * 熊沢博士 - [[頭師孝雄]](第13話、14話) * サクラ - [[朝倉陽子|茂野幸子]](第16・55話) * みちこ先生 - [[名代杏子]](第20話) * 分校の生徒 - 斉藤吏絵子(第20話) * ポセドニア星人水原新平 - 松川傑(第23話) * 東郷直人 - [[武見潤]](第26話) * ゼグ - [[岩城力也]](第31話) * 田村夫婦 - [[松田章|松田章生]]、[[ひし美ゆり子]](第32・33話) * みゆき先生 - 小野瀬ひろみ(第39話) * イカルス - [[福田健次]](第41話) * アイラ - [[中村容子]](第45話) * 犬人間(第4話)、警備兵(第45話) - [[広瀬裕|広瀬和久]] * ジール - 橘美奈子(第48話) === スーツアクター === 当初は、軍隊であることから激しいアクションが変身前でも要求されるため、[[春田純一]]がレッド役の候補として一時期挙げられていた{{R|material62}}。 * チェンジドラゴン{{R|daizen}}{{Sfn|豪快演義|p=100|loc=LEGEND CAST INTERVIEW_03 和興}} - [[新堀和男]] * チェンジドラゴン(代役)<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-24|url=https://ameblo.jp/kamenrider-thefirst/entry-10572186616.html|title=『シールドの向こう側』 後楽園|publisher=「hiroshiのブログ」([[前田浩]]公式ブログ)|accessdate=2010-07-07}}</ref> - [[前田浩]] * チェンジグリフォン{{R|daizen}}{{Sfn|豪快演義|p=100|loc=LEGEND CAST INTERVIEW_03 和興}} - [[的場耕二]] * チェンジペガサス{{R|daizen|仮面俳優153}}、西本ひろ子吹き替え{{R|仮面俳優153}} - [[喜多川2tom|喜多川務]] * チェンジマーメイド{{R|daizen}} - [[赤田昌人]] * チェンジフェニックス{{R|daizen|仮面俳優37}} - [[蜂須賀祐一]] * チェンジマーメイド(代役)、チェンジフェニックス(代役){{R|仮面俳優199}} - [[宮崎剛 (俳優)|宮崎剛]] * ギョダーイ{{Sfn|豪快演義|p=122|loc=SUIT ACTOR SPECIAL CROSS TALK}}{{R|仮面俳優133}}、ブーバ(代役){{R|THM6090}} - [[日下秀昭]] * ギョダーイ{{Sfn|豪快演義|p=122|loc=SUIT ACTOR SPECIAL CROSS TALK}}{{R|仮面俳優47}}、ヒドラー兵{{R|仮面俳優47}} - [[岡元次郎]] * ヒドラー兵 - [[清家利一]]{{Sfn|豪快演義|p=122|loc=SUIT ACTOR SPECIAL CROSS TALK}}{{R|仮面俳優61}}、大竹浩二<ref name="toei-18">『東映ヒーローMAX』Vol,18、辰巳出版、73頁</ref> == スタッフ == メインライターは前年までに引き続き[[曽田博久]]。脇を固めるサブライターも[[藤井邦夫]]、[[鷺山京子]]が健筆を振るっている。東映プロデューサーの[[鈴木武幸]]は、シリーズが続くにつれて曽田が飽きていると感じたことから、番組設定を変えることで刺激を与えていったことを語っている{{R|20th5}}。曽田はインタビューにおいて自分がメインで関わった中では『チェンジマン』が一番のお気に入りであると述べている{{Full|date=2020年1月}}。 監督陣は前作から引き続き[[堀長文]]、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]が続投。堀は演出本数は少ないが劇場版2本を成功に導き、山田は1年間フルにローテーションを守り続け、1年間で31作品の演出を手掛けた。その布陣に加え、第9話より[[長石多可男]]が新たに参加。長石は途中で4か月ローテーションを離れているが、この間はTBS『[[赤い秘密]]』でメイン監督を担当している。 『ダイナマン』『バイオマン』に続いてキャラクターデザインで登板となった[[出渕裕]]は、本作品では敵側キャラやメカのデザインに加えて、電撃戦隊側の制服デザインなども担当した。当時は後年のようにバンダイがヒーロー側の変身前コスチュームをアパレル展開することはしていなかったため、キャラクターデザインの一環として出渕が手掛けている。 * プロデューサー - 加藤守啓(テレビ朝日)、[[鈴木武幸]](東映)、富田泰弘(東映エージエンシー) * 原作 - [[八手三郎]] * 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]] * 脚本 - [[曽田博久]]、[[藤井邦夫]]、[[鷺山京子]] * 音楽 - [[矢野立美]] * アクション監督 - [[山岡淳二]]、西本良治郎([[ジャパンアクションクラブ|ジャパン・アクション・クラブ]]) * 監督 - [[堀長文]]、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、[[長石多可男]] * 撮影 - [[いのくままさお]] * 照明 - 斉藤久、高橋弘 * 美術 - 山下宏 * キャラクターデザイン - [[出渕裕]]、[[神田正宏]](31話){{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=233}} * 録音 - 上出栄二郎 * 効果 - [[大泉音映]] * 選曲 - 石川孝 * 編集 - 山口一喜、成島一城、伊吹勝雄 * 製作担当 - 山本康郎 * 進行主任 - 奈良場稔 * 計測 - 黒須健雄、山賀俊夫、水野泰樹、川合俊二 * 記録 - 石川和枝、斉藤りさ、勝原成子、小林みどり * 助監督 - [[小中肇]]、八十島茂、[[諸田敏]] * 製作デスク - 寺崎英世 * 装置 - 東映美術センター * 操演 - 船越幹雄 * 美粧 - サン・メイク * 衣裳 - 鷹志衣裳 * 装飾 - [[装美社]] * 企画協力 - [[企画者104]] * キャラクター制作 - [[レインボー造型企画]] * 合成 - [[チャンネル16]] * 現像 - [[東映化学工業|東映化学]] * 車輌協力 - [[マツダ|MAZDA]] * オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|スズキ自動車]] * ビデオ合成 - [[東通ecgシステム]](山本博司、近藤弘志、前岡良徹) * (株)[[特撮研究所]] ** 操演 - [[鈴木昶]]、白熊栄次 ** 美術 - 藤田泰男 ** 撮影 - 高橋政千 ** 照明 - 加藤純弘 * 特撮監督 - [[矢島信男]] * 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]] == 音楽 == ; 主題歌 : 本作品の主題歌および挿入歌を歌っている「KAGE」は、後に数々の特撮・アニメ・ゲームの主題歌を歌う[[影山ヒロノブ]]である。影山が本作品で歌った楽曲はすべて「KAGE」名義となっており、「影山ヒロノブ」名義で歌うのは次回参加作の『[[光戦隊マスクマン]]』からとなっている。 : 影山によると、1985年当時はアニメ・特撮の地位が低かったことから、日本コロムビア側から「この先ロックシンガーとして進むのであれば、子供向けの歌のイメージが邪魔になる可能性もあるから別名義でいい」と気を使ってくれたことにより、本作品でのみKAGE名義として歌うことになったという<ref>影山ヒロノブ『ゴールをぶっ壊せ』(2018年 [[中公新書ラクレ]])45p</ref>。また、当時の影山は[[レイジー]]解散から本作品への参加まで歌手としての年収が7万円<ref>[https://ddnavi.com/interview/455717/a/ アニソンシンガー・影山ヒロノブがどん底生活で手に入れたもの【インタビュー】] ダ・ヴィンチニュース 2018年5月3日 2019年2月24日 閲覧</ref>になるほどのどん底を味わっていた時期でもあり、建設現場のアルバイトをしながら小規模のライブハウスで歌手活動を続けていたところで本作品の依頼が来た際には「俺の歌を必要としてくれる人がいた」ことが嬉しかったと語っている<ref>影山ヒロノブ『ゴールをぶっ壊せ』(2018年 [[中公新書ラクレ]])44p</ref>。一方で、当時はライブ活動が中心であったため日本語の発音が乱れており、それを直すのに苦労したという{{R|20th91}}。 :; オープニングテーマ「電撃戦隊チェンジマン」 :: 作詞:[[さがらよしあき]] / 作曲:[[大野克夫]] / 編曲:[[矢野立美]] / 歌:KAGE :: スーパー戦隊シリーズ歴代オープニングテーマでは初のシャッフルビートを用いた楽曲。これはアニメの普及とともに、番組主題歌のテンポが速くなってきたことを懸念した鈴木武幸が4ビートを主張したためで、反対はあったものの結果的に力強い曲が完成した{{Sfn|SUPER VISUAL|2002|p=162|loc=鈴木武幸インタビュー}}{{R|20th5}}。 :: 総合格闘技大会[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]で活躍している格闘家[[ホドリゴ・グレイシー]]は、自身の入場曲にオープニングテーマを使用している。 :; エンディングテーマ「NEVER STOPチェンジマン」 :: 作詞:さがらよしあき / 作曲:大野克夫 / 編曲:矢野立美 / 歌:KAGE :: 実際にエンディングテーマとして使用されたものの他、作曲の大野による同曲のデモテープが、2008年にリリースされたアルバム「[[幻のメロディー|幻のメロディー Vol.5]]」に収録されている。 : ; 挿入歌 :; 「輝け!チェンジマン」 :: 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:[[田中公平]] / 歌:KAGE、[[こおろぎ'73]]、SHINES :; 「ファイト!チェンジロボ」(第5・6・8〜15・18・19・22・23・25・27・30・32〜34・38・40・42・45・49・53話・劇場版1・2) :: 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:田中公平 / 歌:KAGE :; 「LOVE FOREVER」 :: 作詞:[[里乃塚玲央|園部和範]] / 作曲:大野克夫 / 編曲:矢野立美 / 歌:宮永尚美 :: エンディングテーマと同じく、作曲の大野による同曲のデモテープが、2008年にリリースされたアルバム「幻のメロディー Vol.5」に収録されている。 :; 「WE CAN CHANGE」(第36話・最終回) :: 作詞:園部和範 / 作曲・編曲:矢野立美 / 歌:ジャパン・エコーシンガーズ、こおろぎ'73 :; 「GREAT PASSION 〜情熱の嵐〜」(第8話) :: 作詞:さがらよしあき / 作曲:大野克夫 / 編曲:田中公平 / 歌:KAGE :: エンディングテーマと同じく、作曲の大野による同曲のデモテープが、2008年にリリースされたアルバム「幻のメロディー Vol.5」に収録されている。 :; 「ソルジャー・ドラゴン 〜勇者の道〜」 :: 作詞:さがらよしあき / 作曲:大野克夫 / 編曲:田中公平 / 歌:KAGE :; 「マーメイド&フェニックス」 :: 作詞:さがらよしあき / 作曲:大野克夫 / 編曲:田中公平 / 歌:宮永尚美 :: 第15話ではイントロ部分のみが使用された。 :: 次番組[[超新星フラッシュマン]]の劇場版予告においても、イントロ部分が使用された。 :; 「アースフォース、宿命の星」 :: 作詞:園部和範 / 作曲:熊谷安廣 / 編曲:田中公平 / 歌:KAGE :; 「若さでチェンジマン」(第30話) :: 作詞:[[及川恒平]] / 作曲・編曲:田中公平 / 歌:KAGE :; 「ピンチはチャンスだ、チェンジマン」(第29・30・31・36・39・41・54話) :: 作詞:園部和範 / 作曲・編曲:田中公平 / 歌:KAGE :: 第32・44話ではインストゥルメンタル版が使用された。第39・40・42話ではイントロ部分がゴーストギルークのテーマとして使用されている。 == 放送日程 == {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!監督 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|1985年{{0}}2月{{0}}2日 |1||出現!秘密の力! |style="text-align: left;"| * ガブー(声 - [[依田英助]]) |style="text-align: left;" rowspan="6"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月{{0}}9日 |2||星王バズーの怒り |style="text-align: left;"| * ゴーム(声 - [[西尾徳]]) |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月16日 |3||スクラム!戦士団 |style="text-align: left;"| * ゾビー(声 - 依田英助) |style="text-align: left;" rowspan="6"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月23日 |4||キスは戦いの後で |style="text-align: left;"| * ウーバ(声 - [[太地琴恵]]) * 犬人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} * 猫人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|3月{{0}}2日 |5||ペガサス逮捕指令 |style="text-align: left;"| * ピカラ(声 - [[丸山詠二]]) |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|3月{{0}}9日 |6||狙われた女子高生 |style="text-align: left;"| * マーゾ(声 - [[岸野一彦]]) * マーゾ人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|3月16日 |7||悲しき宇宙獣士! |style="text-align: left;"| * デモス(アトタンタ星人タロー){{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}}(演 - [[阿部雅彦]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|3月23日 |8||お嬢さんは吸血鬼 |style="text-align: left;"| * ドキュラ{{efn|書籍によっては'''ドラキュラ'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}}。}}(声 - 丸山詠二) * 吸血少女{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|3月30日 |9||輝け!必殺の魔球 |style="text-align: left;"| * オーズ |style="text-align: left;"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|4月{{0}}6日||10||恐怖の無人車軍団 |style="text-align: left;"| * ハウスト(声 - 岸野一彦) |style="text-align: left;" rowspan="2"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|4月13日 |11|| SOSココとキキ |style="text-align: left;"| * ゴースト(声 - 依田英助) * ポロ星人ココ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} * キキ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|4月20日 |12||ママはマーメイド |style="text-align: left;"| * バンバ * ヒトバンバ * ウーバ(回想) |style="text-align: left;" rowspan="3"|曽田博久 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|4月27日 |13||地球を売るパパ |style="text-align: left;" rowspan="2"| * バラス(声 - 岸野一彦) * 巨大トカゲ |style="text-align: left;" rowspan="4"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|5月{{0}}4日 |14||攻撃!巨大トカゲ |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|5月11日 |15||暴走ライダー麻衣 |style="text-align: left;"| * ロガン(声 - 西尾徳) |style="text-align: left;"|鷺山京子 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|5月18日 |16||翼を持った少女! |style="text-align: left;"| * ガウバー * メモリードール{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|5月25日 |17||長崎の謎の幽霊船 |style="text-align: left;" rowspan="2"| * 女王アハメス * ギルバ(声 - 丸山詠二) * 強化ヒドラー兵{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;" rowspan="5"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="4"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|6月{{0}}1日 |18||アハメスの挑戦! |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|6月{{0}}8日 |19||さやかに賭けろ! |style="text-align: left;"| * ジーグ(声 - [[飯塚昭三]]) |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|6月15日 |20||大逆襲!ギルーク |style="text-align: left;"| * シーラ(声 - 岸野一彦) * 宇宙怪魚ピラーニ{{efn|書籍によっては'''怪魚ピラーニ'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}}。}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|6月22日 |21||ゴズマの大スター |style="text-align: left;"| * ボルタ(声 - [[バッキー木場|木場剛]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|6月29日 |22||鏡に消えた戦士! |style="text-align: left;"| * ミラルカ(声 - [[鳳芳野]]) |style="text-align: left;"|鷺山京子 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|7月{{0}}6日 |23||イルカに乗る少年 |style="text-align: left;"| * ゼーラ(声 - [[拡森信吾|広森信吾]]) * ポセドニア星人{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} * 水原新平{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|7月13日 |24||ギョダーイの家出 |style="text-align: left;"| * キーガ(声 - 西尾徳) |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|7月20日 |25||歌え!大きな声で |style="text-align: left;"| * ゾノス(声 - [[桑原たけし]]) |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|7月27日 |26||麻衣20歳の初恋 |style="text-align: left;"| * ホーグル(声 - 依田英助) * ギギ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} * リンド星の少年{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|8月{{0}}3日 |27||ゲーター親子の夢 |style="text-align: left;"| * ギロム(声 - 岸野一彦) |style="text-align: left;"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="5"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|8月10日 |28||呪われたクレヨン |style="text-align: left;"| * ペイン(声 - 桑原たけし) * ピクト星人{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |style="text-align: left;"|鷺山京子 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|8月17日 |29||花を守れ!幻の蝶 |style="text-align: left;"| * 宇宙海賊ギガラ(声 - 丸山詠二) * 黄金蝶{{efn|書籍によっては'''黄金の蝶'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}}。}} |style="text-align: left;" rowspan="3"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|8月24日 |30||走れ!ペガサス! |style="text-align: left;"| * デリカル |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|8月31日 |31||暴け!バズーの謎 |style="text-align: left;"| * ゾルバス(声 - 岸野一彦) * 予言者ゼク{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} * スペースドール{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|9月{{0}}7日 |32||ナナ!危険な再会 |style="text-align: left;" rowspan="3"| * アハメス三獣士ダブン(声 - 飯塚昭三) * アハメス三獣士ジェラー(声 - [[坂井寿美江]]) * アハメス三獣士ギザン(声 - 桑原たけし) * 宇宙生物クーク |style="text-align: left;" rowspan="5"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="4"|堀長文 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|9月14日 |33||ギルークの最期?! |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|9月21日 |34||恐ろしきアハメス |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|9月28日 |35||地球よ!助けて! |style="text-align: left;"| * アハメス三獣士ギザン * アハメス三獣士ジェラー |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|10月{{0}}5日 |36||見たか!俺達の力 |style="text-align: left;"| * アハメス三獣士ギザン |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|10月12日 |37||消えたドラゴン! |style="text-align: left;"| * バルルカ(声 - 依田英助) |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|10月19日 |38||幽霊ベースボール |style="text-align: left;"| * ゴーストギルーク * ドロン(声 - 西尾徳) * 幽霊選手{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |style="text-align: left;" rowspan="3"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|10月26日 |39||恐怖のかくれんぼ |style="text-align: left;"| * ダムス |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|11月{{0}}2日 |40||おかしなお菓子 |style="text-align: left;"| * ゾルテ(声 - 桑原たけし) * お菓子ロボット{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|11月{{0}}9日 |41||消えた星の王子! |style="text-align: left;"| * イカルス王子 * イカルスの母{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} * ボーラ(声 - [[山下啓介]]) |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|11月16日 |42||セーラー服のナナ |style="text-align: left;"| * カーゲ(声 - 岸野一彦) |style="text-align: left;" rowspan="4"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|11月23日 |43||スーパーギルーク |style="text-align: left;"| * スーパーギルーク * ゴーダ(声 - 依田英助) * 宇宙ポタル{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|11月30日 |44||麻衣におまかせ! |style="text-align: left;"| * ザドス(声 - 岸野一彦、人間体:[[新堀和男]]) * 亡霊宇宙獣士{{efn|ジーグ・ボルタ・ゾノス・ゾルバスの4体。}}{{efn|書籍によっては'''亡霊戦士'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}}。}} |style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|12月{{0}}7日 |45||虹色の少女アイラ |style="text-align: left;"| * ダロス(声 - 桑原たけし) |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|12月14日 |46||美しきシーマ! |style="text-align: left;"| * ガルガ * ウーバ(回想) |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|12月21日 |47||ゲーター親子の涙 |style="text-align: left;"| * ジグラ(声 - 岸野一彦) |style="text-align: left;" rowspan="9"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|1986年{{0}}1月{{0}}8日{{efn|この回のみ水曜17:30 - 17:55に放送。当初は1985年12月28日に放送予定だったが、[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣の第2次改造]]の[[報道特別番組]]のため休止となり、この日に延期となった。}} |48||海賊ブーバ愛の嵐 |style="text-align: left;"| * 宇宙海賊ブブカ * 宇宙海賊ジール(演 - [[橘美奈子]]) * 宇宙海賊ギガラ |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|1月11日 |49||哀しきシーマ獣士 |style="text-align: left;"| * 宇宙獣士ズーネ(声 - 飯田道郎) |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|1月18日 |50||ゴズマが震えた日 |style="text-align: left;"| * 宇宙獣士ジャン(声 - 依田英助) * 宇宙獣士ゲラン(声 - 丸山詠二) |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|1月25日 |51||ナナよ!伝えて! |style="text-align: left;"| * 宇宙獣士ゲラン(声 - 丸山詠二) * 大怪鳥ネオジャンゲラン |style="text-align: left;" rowspan="2"|長石多可男 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月{{0}}1日 |52||ブーバ地球に死す |style="text-align: left;"| * ダリル(声 - 岸野一彦) * 副官ブーバ |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月{{0}}8日 |53||炎のアハメス! |style="text-align: left;"| * 宇宙獣士メーズ / 女王アハメス |style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔 |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月15日 |54||ギルーク大爆発! |style="text-align: left;"| * 宇宙獣士ギラス / スーパーギルーク |-style="text-align: center;" |style="text-align: right;"|2月22日 |55||さらば宇宙の友よ |style="text-align: left;"| * 星王バズー / ゴズマスター |} == 放映ネット局 == * 関東広域圏:[[テレビ朝日]] ※キーステーション * 北海道:[[北海道テレビ放送]] ** 北海道では、1990年5月11日から、[[テレビ朝日]]系列外の[[札幌テレビ放送]]にて再放送された。一度終了するも、その後は冬休みや春休みの『こども劇場』のプログラムとして放映された。 * 青森県:[[青森放送]] * 岩手県:[[IBC岩手放送]] * 宮城県:[[東日本放送]] * 秋田県:[[秋田放送]] * 山形県:[[山形放送]] * 福島県:[[福島放送]] * 新潟県:[[新潟テレビ21]] * 富山県:[[北日本放送]] * 石川県:[[北陸放送]] ** 1985年9月24日に打ち切り<ref>北國新聞 1985年9月24日付朝刊テレビ欄</ref>。数ヵ月後、[[石川テレビ放送|石川テレビ]]で最終回まで放映されるも、これ以降石川県では[[1991年]]に[[北陸朝日放送]]が開局するまでの間スーパー戦隊シリーズが放映されなかった。 * 福井県:[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]] * 山梨県:[[山梨放送]] * 長野県:[[テレビ信州]] * 静岡県:[[静岡朝日テレビ|静岡けんみんテレビ]](現・静岡朝日テレビ) * 中京広域圏:[[名古屋テレビ放送|名古屋放送]] * 近畿広域圏:[[朝日放送テレビ|朝日放送]](現・朝日放送テレビ) * 鳥取県・島根県:[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]] * 広島県:[[広島ホームテレビ]] * 山口県:[[テレビ山口]] * 徳島県:[[四国放送]] * 香川県・岡山県:[[瀬戸内海放送]] * 愛媛県:[[テレビ愛媛|愛媛放送]](現・テレビ愛媛) * 高知県:[[テレビ高知]] * 福岡県:[[九州朝日放送]] * 佐賀県:未放送 * 長崎県:[[長崎放送]] * 熊本県:[[テレビ熊本]] * 宮崎県:[[宮崎放送]] * 鹿児島県:[[鹿児島放送]] * 沖縄県:[[琉球放送]] == 他媒体展開 == === 映像ソフト化 === いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 * [[DVD]]は[[2009年]][[6月21日]]から[[10月21日]]にかけて全5巻が発売された。テレビシリーズの初ソフト化であり、各巻2枚組で11話収録。 * [[2021年]][[4月14日]]発売の「スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1982 - 1986」に計7話{{efn|第1・33・43・51 - 53・55話。}}が収録されている<ref name="ikkyomi">[https://www.toei-video.co.jp/special/supersentai-ikkyo/ 東映ビデオ:「スーパー戦隊一挙見Blu-ray」特集]</ref>。 * 劇場版2作品はビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通)と、[[2003年]][[7月21日]]発売のDVD-BOX「スーパー戦隊 THE MOVIE BOX」<ref>{{Cite journal |和書|date=2003-05-01 |title=DVD & VIDEO Selection |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.106 |issue=(2003年5月号) |page=88 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id=雑誌コード:01843-05}}</ref>や、[[2004年]]7月21日発売の「スーパー戦隊 THE MOVIE VOl.3」、「スーパー戦隊 THE MOVIE Blu-ray BOX 1976-1995」(2011年6月21日発売)、劇場版1は2012年12月発売の「復刻!東映まんがまつり1985春」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-video.co.jp/catalog/dstd03556/|title=「復刻!東映まんがまつり1985春」|accessdate=2021-10-15|publisher=東映ビデオ}}</ref>に収録されている。 === 他テレビシリーズ === ; 『[[高速戦隊ターボレンジャー]]』 : 第1話(特別編)「10大戦隊集合 頼むぞ!ターボレンジャー」で、チェンジマンの5人が登場。 ; 『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』 : 第51話(特別総集編)「スーパー戦隊大集合」で、タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の世界を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。 ; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』 : 第1話などのレジェンド大戦を描いた箇所に、チェンジマンの5人が他のスーパー戦隊とともに登場。第49話では疾風が登場。 === オリジナルビデオ === ; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』 : 『百獣戦隊ガオレンジャー』の[[スーパー戦隊Vシネマ]]作品。チェンジドラゴンおよびジェットチェンジャー1が登場。 === 映画作品 === ; 電撃戦隊チェンジマン<!--副題なし--> :* 監督:堀長文 :* 脚本:曽田博久 :* 登場宇宙獣士:カミラ(声:[[依田英助]])、ヒトデ人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=122}} : 1985年3月16日公開。上映時間24分。 ; 電撃戦隊チェンジマン シャトルベース!危機一髪! :* 監督:堀長文 :* 特撮監督:矢島信男 :* 脚本:曽田博久 :* 登場宇宙獣士:ドドン(声:[[安西正弘]])、寄生獣ヌウー : 1985年7月13日公開。上映時間20分。 いずれも[[東映まんがまつり]]の一編として上映された。1作品につき、劇場版オリジナル作品が複数公開されたのはこれが初めてである。 ; 『[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]』 : レジェンド大戦を描いた箇所に、チェンジマンの5人が他のスーパー戦隊とともに登場。チェンジロボも登場。 ; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]』 : ヒドラー兵が登場。 ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』 : 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。チェンジドラゴンが登場。 ===CS放送・ネット配信=== ; CS放送 * [[東映チャンネル]] **[[2003年]][[8月]] - [[2004年]][[2月]](「スーパー戦隊ワールド」枠) **[[2005年]][[2月]] - [[5月]](「アンコールアワー」枠) ; ネット配信 * 東映特撮 [[YouTube]] Official **[[2018年]][[12月1日]] - [[2019年]][[6月15日]] == 関連項目 == * [[ヤマハ発動機|ヤマハ除雪機]] - 2018年に販売40周年を迎えるにあたり、チェンジペガサスが[[秘密戦隊ゴレンジャー|アオレンジャー]]、[[星獣戦隊ギンガマン|ギンガブルー]]、[[忍風戦隊ハリケンジャー|ハリケンブルー]]、[[侍戦隊シンケンジャーの登場人物|シンケンブルー]]と共にイメージキャラクターに採用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/294005|title=アオレンジャー、チェンジペガサス、シンケンブルーら戦士5人が「除雪は青の時代!」|publisher=映画ナタリー|date=2018-08-03|accessdate=2019-04-01}}</ref>。2019年には[[獣拳戦隊ゲキレンジャーの登場人物|ゲキブルー]]と[[天装戦隊ゴセイジャー|ゴセイブルー]]を加えて引き続き起用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha-motor.co.jp/snowblower/2019sp/|title=除雪は青の時代|publisher=ヤマハ発動機|accessdate=2023-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190905144740/https://www.yamaha-motor.co.jp/snowblower/2019sp/|archivedate=2019-09-05}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="daizen">{{Harvnb|大全集|1988|p=89}}</ref> <ref name="daizen92">{{Harvnb|大全集|1988|pp=92-93|loc=「アースフォース」}}</ref> <ref name="大全集174">{{Harvnb|大全集|1988|pp=174-175|loc=「新たな宇宙観 電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="大全集192">{{Harvnb|大全集|1988|p=192|loc=「スーパー戦隊シリーズ人名録 電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="大全集214">{{Harvnb|大全集|1988|pp=214-215|loc=「スーパー戦隊全戦力 電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="TMH">{{Harvnb|ヒーロー大全集|1992|p=245|loc=「テレビマガジン作品ワールド 電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="超世紀160">{{Harvnb|大全集|1993|p=160|loc=「戦隊20年の戦い シリーズの変遷 登場人物の個性化 電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="超世紀175">{{Harvnb|大全集|1993|p=175|loc=「超世紀全戦隊メカニックファイル」}}</ref> <ref name="大全鈴木">{{Harvnb|宇宙刑事大全|2000|pp=71-72|loc=「鈴木武幸スペシャルインタビュー」}}</ref> <ref name="material62">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=62-63}}</ref> <ref name="gahou186">{{Harvnb|スーパー戦隊画報1|2005|pp=186-187|loc=「チェンジマン」}}</ref> <ref name="gahou188">{{Harvnb|スーパー戦隊画報1|2005|pp=188-189|loc=「アースフォースを浴びた戦士」}}</ref> <ref name="gahou192">{{Harvnb|スーパー戦隊画報1|2005|pp=192-193|loc=「Mechanics」}}</ref> <ref name="30大211">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|p=211|loc=「チェンジマンの個人武器・技」}}</ref> <ref name="30大211b">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|p=211|loc=「チェンジマンのマシン」}}</ref> <ref name="30大212">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|p=212|loc=「チェンジマンの合同武器・技」「チェンジマンの武器」}}</ref> <ref name="30大213">{{Harvnb|30大戦隊超全集|2007|p=213|loc=「チェンジマンの巨大ロボ」}}</ref> <ref name="百化142">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=142}}</ref> <ref name="百化143">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=143}}</ref> <ref name="百化144">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=144}}</ref> <ref name="百化161">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=161}}</ref> <ref name="36L">『スーパー戦隊 36LEGENDS』日之出出版〈HINODE MOOK〉、2012年2月25日、p.30。ISBN 978-4-89198-862-3</ref> <ref name="JSK102">{{Harvnb|常識|2012|pp=102-103|loc=「どんな必殺技で敵を倒すの?」}}</ref> <ref name="仮面俳優37">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=37-46|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 03 [[蜂須賀祐一]]」(東映ヒーローMAX vol.33掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優47">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=47-60|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 04 [[岡元次郎]]」(東映ヒーローMAX vol.31掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優61">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=61-70|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 05 [[清家利一]]」(東映ヒーローMAX vol.32掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優133">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=133-142|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 12 [[日下秀昭]]」}}</ref> <ref name="仮面俳優143">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=143-152|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 13 [[岡本美登]](東映ヒーローMAX vol.29掲載)」}}</ref> <ref name="仮面俳優153">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=153-162|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 14 [[喜多川2tom|喜多川務(2tom)]]」(東映ヒーローMAX vol.39掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優199">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=199-207|loc=「第15章 プレイヤーからアクション監督への転身 19 宮崎剛」}}</ref> <ref name="21st16">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-06-24|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.16|volume-title=[[動物戦隊ジュウオウジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=30|chapter=特集企画 スーパー戦隊その極意 Volume16 劇中衣裳|isbn=978-4-06-509527-0}}</ref> <ref name="トイジャーナル1986">{{Cite journal|和書 |date=1986-02-01 |editor=野村芳朗 |issue= 1986年2月号 |journal= [[トイジャーナル]] |pages=18-19 |publisher=東京玩具人形問屋協同組合 |title=総力特集/年末・年始商戦を多角分析!VOL.2 売れ筋集中化傾向強まる}}</ref> <ref name="トイジャーナル1987">{{Cite journal|和書 |date=1987-01-01 |editor=上野五郎 |issue= 1987年1月号 |journal= トイジャーナル |pages=18 |publisher=東京玩具人形問屋協同組合 |title=年頭特別インタビュー 山科直治 激変の業界を語る!}}</ref> <ref name="THM6090">{{Harvnb|東映HM60|2019|p=90|loc=「東映ヒーロー仮面俳優列伝 MAXIMUM 日下秀昭」}}</ref> <ref name="20th5">{{Harvnb|20th1985|2018|p=5|loc=「INTERVIEW チェンジマンの真実 鈴木武幸」}}</ref> <ref name="20th6">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=6-7|loc=「『電撃戦隊チェンジマン』」}}</ref> <ref name="20th8">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=8-9|loc=「剣飛竜/チェンジドラゴン」}}</ref> <ref name="20th10">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=10-11|loc=「疾風翔/チェンジグリフォン」}}</ref> <ref name="20th12">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=12-13|loc=「大空勇馬/チェンジペガサス」}}</ref> <ref name="20th14">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=14-15|loc=「渚さやか/チェンジマーメイド」}}</ref> <ref name="20th16">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=16-17|loc=「翼麻衣/チェンジフェニックス」}}</ref> <ref name="20th18">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=18-19|loc=「SPECIAL INTERVIEW'85 [[浜田治貴]]」}}</ref> <ref name="20th22a">{{Harvnb|20th1985|2018|p=22|loc=「電撃戦隊専用マシン」}}</ref> <ref name="20th22b">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=22-23|loc=「電撃戦隊巨大メカ」}}</ref> <ref name="20th23">{{Harvnb|20th1985|2018|p=23|loc=「電撃戦隊巨大ロボ」}}</ref> <ref name="20th24">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=24-25|loc=「大星団ゴズマ」}}</ref> <ref name="20th26">{{Harvnb|20th1985|2018|pp=26-27|loc=「宇宙獣士」}}</ref> <ref name="20th33">{{Harvnb|20th1985|2018|p=33|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 [[出渕裕]]」}}</ref> <ref name="20th88">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1988 [[超獣戦隊ライブマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[曽田博久]]|isbn=978-4-06-509615-4}}</ref> <ref name="20th91">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-05-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1991 [[鳥人戦隊ジェットマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=21|chapter=SPECIAL INTERVIEW [[影山ヒロノブ]]|isbn=978-4-06-509613-0}}</ref> <ref name="学研の図鑑20">{{Harvnb|学研の図鑑|2021|pp=20-21|loc=「電撃戦隊チェンジマン」}}</ref> <ref name="学研の図鑑42">{{Harvnb|学研の図鑑|2021|p=42|loc=「チェンジマン:地球守備隊のメカニック」}}</ref> <ref name="net">[https://web.archive.org/web/20110920060418/http://www.toeihero.net/archive/rgl/omoide/main_1.html 東映ヒーローネット]([[Internet Archive]] 2011年版)</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} === 参照話数 === {{Reflist|group="ep"|2 |refs= <ref name="4話">第4話。</ref> <ref name="5話">第5話。</ref> <ref name="6話">第6話。</ref> <ref name="9話">第9話。</ref> <ref name="15話">第15話。</ref> <ref name="21話">第21話。</ref> <ref name="22話">第22話。</ref> <ref name="25話">第25話。</ref> <ref name="26話">第26話。</ref> <ref name="33話">第33話。</ref> <ref name="35話">第35話。</ref> <ref name="38話">第38話。</ref> <ref name="40話">第40話。</ref> <ref name="44話">第44話。</ref> <ref name="48話">第48話。</ref> <ref name="49話">第49話。</ref> <ref name="50話">第50話。</ref> <ref name="51話">第51話。</ref> <ref name="52話">第52話。</ref> <ref name="53話">第53話。</ref> }} == 参考文献 == * 大全集シリーズ([[講談社]]) ** {{Cite book|和書|date=1988-04-25|title=スーパー戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178408-0|ref={{SfnRef|大全集|1988}}}} ** {{Cite book|和書|title=[[テレビマガジン]]特別編集 改訂増補版 テレビマガジンヒーロー大全集|publisher=講談社|date=1992-10-05|page=254|isbn=4-06-178414-5|ref={{SfnRef|ヒーロー大全集|1992}}}} ** {{Cite book|和書|date=1993-11-14|title=テレビマガジン特別編集 戦隊シリーズ20周年記念 超世紀全戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178416-1|ref={{SfnRef|大全集|1993}}}} * {{Cite book|和書|title=宇宙刑事大全 ギャバン・シャリバン・シャイダーの世界|date=2000-07-01|publisher=[[双葉社]]|isbn=4-575-29080-7|ref={{SfnRef|宇宙刑事大全|2000}}}} * {{Cite book|和書|year=2002|title=25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 上巻|publisher=[[勁文社]]|isbn=4-7669-3975-1|ref={{SfnRef|完全マテリアルブック 上巻|2002}}}} * {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 下巻|publisher = 勁文社|isbn = 4-7669-4108-X|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 下巻|2002}}}} *{{Cite book|和書|date=2002-01-20|title=SENTAI HERO SUPER VISUAL スーパー戦隊25シリーズ記念写真集|publisher=[[徳間書店]]|series=ROMAN ALBUM HYPER MOOK|isbn=4-19-720181-8|ref={{SfnRef|SUPER VISUAL|2002}}}} * {{Cite book|和書|date=2005-09-07|title=スーパー戦隊画報|volume=第1巻|publisher=[[竹書房]]|ISBN=4-8124-2219-1|ref={{SfnRef|スーパー戦隊画報1|2005}}}} * {{Cite book|和書|date = 2006-04-25|title =決定版 全スーパー戦隊 完全超百科|publisher = 講談社|isbn = 4-06-304567-6|ref = {{SfnRef|完全超百科|2006}}}} * {{Cite book|和書|date=2007-03-08|title=30大スーパー戦隊超全集|publisher=[[小学館]]|series=てれびくんデラックス愛蔵版|isbn=978-4-09-105112-7|ref={{SfnRef|30大戦隊超全集|2007}}}} * {{Cite book|和書|date = 2011-05-25|title =決定版 全スーパー戦隊 パーフェクト超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304815-5|ref = {{SfnRef|パーフェクト超百科|2011}}}} * {{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊シリーズ35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|isbn=978-4-8130-2163-6|ref={{SfnRef|百化繚乱 上之巻|2011}} }} *{{Cite book|和書|date=2012-04-22|title=スーパー戦隊の常識 ド派手に行くぜ!レジェンド戦隊篇|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4-575-30413-8|ref={{SfnRef|常識|2012}}}} * {{Cite book|和書|date = 2012-07-28|title =スーパー戦隊戦士列伝 赤の伝説|publisher = 角川書店|isbn = 978-4-04-110216-9|ref = {{SfnRef|赤の伝説|2012}}}} * {{Cite book|和書|date=2012-06-01|title=海賊戦隊ゴーカイジャー公式読本 豪快演義 SUPER SENTAI 35th UNIVERSE|series=グライドメディアムック|publisher=[[グライドメディア]]|id=ISBN 978-4-8130-8173-9|ref={{SfnRef|豪快演義}}}} * {{Cite book|和書|date = 2013-06-21|title =決定版 全スーパー戦隊 超戦力超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304838-4|ref = {{SfnRef|超戦力超百科|2013}}}} * {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}} * {{Cite book |和書|date=2016-04-12 |others=構成:[[五十嵐浩司 (アニメーション研究家)|五十嵐浩司]]([[TARKUS]])|title=スーパー戦隊Walker シリーズ40作記念 |publisher=[[KADOKAWA]] |isbn=978-4-04-894758-9 |ref={{SfnRef|戦隊Walker|2016}} }} * {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-05-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1985 電撃戦隊チェンジマン|series=講談社シリーズムック|publisher=[[講談社]]|id=ISBN 978-4-06-509612-3|ref={{SfnRef|20th1985|2018}}}} * {{Cite journal|和書|date=2019-09-02<!--奥付表記-->|journal=東映ヒーローMAX|volume=VOLUME60|issue=(2019 AUTUMN)|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-2388-8|ref={{SfnRef|東映HM60|2019}} }} * {{Cite book|和書|date = 2021-04-20<!--奥付表記-->|title =スーパー戦隊|series=学研の図鑑|publisher = 学研プラス|isbn = 978-4-0540-6788-2|ref = {{SfnRef|学研の図鑑|2021}}}} == 外部リンク == * [http://www.super-sentai.net/sentai/change.html 電撃戦隊チェンジマン](スーパー戦隊ネット内の紹介記事) * [https://www.toei-video.co.jp/special/changeman/ DVD 電撃戦隊チェンジマン特集](東映ビデオ内にあるサイト) {{前後番組 | 放送局 = [[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]| | 放送枠 = 土曜18:00 - 18:25| | 番組名 = 電撃戦隊チェンジマン<br />(1985年2月2日 - 1986年2月22日) | 前番組 = [[超電子バイオマン]]<br />(1984年2月4日 - 1985年1月26日) | 次番組 = [[超新星フラッシュマン]]<br />(1986年3月1日 - 1987年2月21日) }} {{スーパー戦隊シリーズ}} {{影山ヒロノブ}} {{デフォルトソート:てんけきせんたいちえんしまん}} [[Category:スーパー戦隊シリーズの特撮テレビドラマ]] [[Category:1985年のテレビドラマ]] [[Category:1980年代の特撮作品]] [[Category:曽田博久脚本のテレビドラマ]] [[Category:藤井邦夫脚本のテレビドラマ]] [[Category:鷺山京子脚本のテレビドラマ]] [[Category:巨大ロボットを題材としたテレビドラマ]] [[Category:地球外生命体を題材としたテレビドラマ]] [[Category:伝説の生物を題材としたテレビドラマ]] [[Category:1985年の映画]] [[Category:地球外生命体を題材とした映画作品]] [[Category:伝説の生物を題材とした映画作品]] [[Category:めばえ]] [[Category:おともだち]] [[Category:たのしい幼稚園]] [[Category:テレビマガジン]] [[Category:楽曲 て|んけきせんたいちえんしまん]] [[Category:大野克夫が制作した楽曲]] [[Category:影山ヒロノブの楽曲]]
2003-08-20T04:13:08Z
2023-12-04T14:27:08Z
false
false
false
[ "Template:Efn", "Template:Visible anchor", "Template:半保護", "Template:Pathnav", "Template:基礎情報 テレビ番組", "Template:External media", "Template:R", "Template:Refnest", "Template:Full", "Template:前後番組", "Template:スーパー戦隊シリーズ", "Template:注意", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Nbsp", "Template:キャラスペック", "Template:0", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Sfn", "Template:Notelist", "Template:要ページ番号", "Template:影山ヒロノブ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%92%83%E6%88%A6%E9%9A%8A%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%B3
13,600
赤羽岩淵駅
赤羽岩淵駅(あかばねいわぶちえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・埼玉高速鉄道の駅である。駅番号は東京メトロがN 19、埼玉高速鉄道がSR 19。 東京メトロの南北線と、埼玉高速鉄道の埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)が乗り入れている。この駅は前者の終点かつ後者の起点であるが、両路線は当駅を介して相互直通運転を行っている。そのため、当駅は東京メトロと埼玉高速鉄道の共同使用駅となっており、駅管轄は東京メトロが行っている。また、埼玉高速鉄道の運営する鉄道路線では唯一埼玉県外に所在する駅でもある。 なお、当駅では「SR一日乗車券」などの埼玉高速鉄道の企画乗車券は発売していない(当駅からは普通乗車券で乗車した上、着駅窓口で差額を支払い企画乗車券に変更する形となる)。 隣接する付近の地名、赤羽と岩淵町に由来する。仮称時の駅名は岩淵町駅であった。 島式ホーム1面2線を有する地下駅。保安用にホームドアシステムを装備する。南北線・埼玉高速鉄道線は当駅で相互直通運転を行っており、ホームを共用している。そのため、埼玉高速鉄道線で唯一のフルスクリーン式ホームドア設置駅でもある。 当駅の志茂駅寄りに両渡り分岐器が設置されており、埼玉高速鉄道線が開業するまでは南北線の折り返し運転に使用されていた。開業後は一部の列車を除いて直通運転を行っていたが、2018年・2019年のダイヤ改正により日中時間帯の鳩ヶ谷駅折り返し列車が当駅折り返しに変更され、下り線から2番線に到着して目黒方面へ折り返すために分岐器が使用されている。 当駅の埼玉高速鉄道側には分岐器などの折り返し設備がなく、折り返しは通常南北線側のみしか行われていないが、臨時列車で当駅終着が設定された実績はある。 (出典:東京メトロ:構内図) 開業時から吉村弘作曲の南北線・埼玉高速鉄道線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。 曲は1番線が「ティー・スプーン」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「リズムガーデン」(山崎泰之作曲)である。 開業以降の各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。 開業以降の各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 国道122号の赤羽交差点付近に所在し、1972年に廃止された都電の赤羽電停跡地のほぼ直下に位置する。 最寄り停留所は、国道122号赤羽交差点付近にある赤羽岩淵駅と、駅東側の赤羽岩淵駅交差点近くにある赤羽二丁目となる。以下の路線が発着する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "赤羽岩淵駅(あかばねいわぶちえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・埼玉高速鉄道の駅である。駅番号は東京メトロがN 19、埼玉高速鉄道がSR 19。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京メトロの南北線と、埼玉高速鉄道の埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)が乗り入れている。この駅は前者の終点かつ後者の起点であるが、両路線は当駅を介して相互直通運転を行っている。そのため、当駅は東京メトロと埼玉高速鉄道の共同使用駅となっており、駅管轄は東京メトロが行っている。また、埼玉高速鉄道の運営する鉄道路線では唯一埼玉県外に所在する駅でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、当駅では「SR一日乗車券」などの埼玉高速鉄道の企画乗車券は発売していない(当駅からは普通乗車券で乗車した上、着駅窓口で差額を支払い企画乗車券に変更する形となる)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "隣接する付近の地名、赤羽と岩淵町に由来する。仮称時の駅名は岩淵町駅であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅。保安用にホームドアシステムを装備する。南北線・埼玉高速鉄道線は当駅で相互直通運転を行っており、ホームを共用している。そのため、埼玉高速鉄道線で唯一のフルスクリーン式ホームドア設置駅でもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当駅の志茂駅寄りに両渡り分岐器が設置されており、埼玉高速鉄道線が開業するまでは南北線の折り返し運転に使用されていた。開業後は一部の列車を除いて直通運転を行っていたが、2018年・2019年のダイヤ改正により日中時間帯の鳩ヶ谷駅折り返し列車が当駅折り返しに変更され、下り線から2番線に到着して目黒方面へ折り返すために分岐器が使用されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅の埼玉高速鉄道側には分岐器などの折り返し設備がなく、折り返しは通常南北線側のみしか行われていないが、臨時列車で当駅終着が設定された実績はある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開業時から吉村弘作曲の南北線・埼玉高速鉄道線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "曲は1番線が「ティー・スプーン」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「リズムガーデン」(山崎泰之作曲)である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "開業以降の各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開業以降の各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国道122号の赤羽交差点付近に所在し、1972年に廃止された都電の赤羽電停跡地のほぼ直下に位置する。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "最寄り停留所は、国道122号赤羽交差点付近にある赤羽岩淵駅と、駅東側の赤羽岩淵駅交差点近くにある赤羽二丁目となる。以下の路線が発着する。", "title": "バス路線" } ]
赤羽岩淵駅(あかばねいわぶちえき)は、東京都北区赤羽一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・埼玉高速鉄道の駅である。駅番号は東京メトロがN 19、埼玉高速鉄道がSR 19。
{{出典の明記|date=2021年3月}} {{駅情報 |社色 = #109ed4<!-- 東京メトロの管轄駅のためこの色を使用致します --> |文字色 = |駅名 = 赤羽岩淵駅 |画像 = TokyoMetro-N19-SR19-Akabane-iwabuchi-station-entrance-1-20230505-113828.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 1番出入口(2023年5月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail-metro}} |よみがな = あかばねいわぶち |ローマ字 = Akabane-iwabuchi |副駅名 = |乗入路線数 = 2 |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)<br />[[埼玉高速鉄道]] |所属路線1 = {{color|#00ac9b|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ南北線]]<ref group="*" name="Mutual">両線で[[相互直通運転]]実施。</ref> |隣の駅1 = |前の駅1 = N 18 [[志茂駅|志茂]] |駅間A1 = 1.1 |駅間B1 = |次の駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|N|19|#00ac9b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程1 = 21.3 |起点駅1 = [[目黒駅|目黒]] |所属路線2 = {{color|#345caa|■}}[[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)<ref group="*" name="Mutual"/> |隣の駅2 = |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 2.4 |次の駅2 = [[川口元郷駅|川口元郷]] SR 20 |駅番号2 = {{駅番号r|SR|19|#3a5da3|4}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 赤羽岩淵 |電報略号 = アイ(東京メトロ) |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[赤羽]]一丁目52-8 |緯度度 = 35 |緯度分 = 47 |緯度秒 = 00 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 43 |経度秒 = 20 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = {{Small|(埼玉高速鉄道)-2022年-}}<br /><ref group="SR" name="SR2022" />40,109<ref group="*" name="sr-n"/> |乗降人員 = {{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="me2022" />82,352<ref group="*" name="sr-n">直通連絡人員を含む。</ref> |乗換 = |備考 = [[共同使用駅]](東京メトロの管轄駅) |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} '''赤羽岩淵駅'''(あかばねいわぶちえき)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[赤羽]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[埼玉高速鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は東京メトロが'''N 19'''、埼玉高速鉄道が'''SR 19'''。 == 概要 == 東京メトロの[[東京メトロ南北線|南北線]]と、埼玉高速鉄道の[[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)が乗り入れている。この駅は前者の終点かつ後者の起点であるが、両路線は当駅を介して相互[[直通運転]]を行っている。そのため、当駅は東京メトロと埼玉高速鉄道の[[共同使用駅]]となっており、駅管轄は東京メトロが行っている。また、埼玉高速鉄道の運営する鉄道路線では唯一埼玉県外に所在する駅でもある。 なお、当駅では「SR一日乗車券」などの埼玉高速鉄道の企画乗車券は発売していない(当駅からは普通乗車券で乗車した上、着駅窓口で差額を支払い企画乗車券に変更する形となる)<ref>{{Cite web|和書|title=おとくなきっぷのご紹介|publisher=埼玉高速鉄道|url=https://s-rail.co.jp/ticket/otoku.php|accessdate=2023-02-06}}</ref>。 == 歴史 == * [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]]:開業<ref name="RP555_50">{{Cite journal|和書|author=荒井正明(帝都高速度交通営団運輸本部計画部施設課)|title=営団南北線の開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-02-01|volume=42|issue=第2号(通巻第555号)|pages=50 - 54|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:埼玉高速鉄道線開業<ref name="pr20010220"/><ref name="tokyu20010221" />。南北線との相互直通運転を開始<ref name="pr20010220">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175954/http://www.tokyometro.go.jp/news/2001-01.html|language=日本語|title=首都圏のあらたな動脈が完成! 3月28日(水)南北線と埼玉高速鉄道線との相互直通運転開始|publisher=営団地下鉄|date=2001-02-20|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref name="tokyu20010221">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217053522/https://www.tokyu.co.jp/file/010221.pdf|format=PDF|language=日本語|title=3月28日(水)、目黒線が埼玉高速鉄道線と相互直通運転を開始 相互直通運転に先立ち、3月23日(金)、目黒線のダイヤ改正を実施|publisher=東京急行電鉄|date=2001-02-21|accessdate=2021-01-30|archivedate=2020-12-17}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年):[[エレベーター]]専用出口を新設。 * [[2015年]](平成27年)[[3月13日]]:[[発車メロディ]]を変更<ref name="melody">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 === 駅名の由来 === 隣接する付近の地名、赤羽と[[岩淵町 (東京都北区)|岩淵町]]に由来する。仮称時の駅名は岩淵町駅であった。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]。保安用に[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|ホームドア]]システムを装備する。南北線・埼玉高速鉄道線は当駅で[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、ホームを共用している。そのため、埼玉高速鉄道線で唯一のフルスクリーン式ホームドア設置駅でもある。 当駅の[[志茂駅]]寄りに[[分岐器#形状による分類|両渡り分岐器]]が設置されており<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=巻末付録|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、埼玉高速鉄道線が開業するまでは南北線の折り返し運転に使用されていた。開業後は一部の列車を除いて直通運転を行っていたが、2018年・2019年のダイヤ改正により日中時間帯の[[鳩ヶ谷駅]]折り返し列車が当駅折り返しに変更され、下り線から2番線に到着して目黒方面へ折り返すために分岐器が使用されている。 当駅の埼玉高速鉄道側には分岐器などの折り返し設備がなく、折り返しは通常南北線側のみしか行われていないが、[[臨時列車]]で当駅終着が設定された実績はある。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |[[File:Saitama Stadium Line symbol.svg|15px|SR]] 埼玉高速鉄道線 |[[浦和美園駅|浦和美園]]方面 |- !2 |[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[白金高輪駅|白金高輪]]・[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/akabane-iwabuchi/timetable/namboku/b/index.html |title=赤羽岩淵駅時刻表 白金高輪・目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/akabane-iwabuchi/index.html 東京メトロ:構内図]) * 埼玉高速鉄道線に直通運転する南北線車両に車両交換の必要が生じた場合は、通例、当該車両同士を2駅隣の[[王子神谷駅]]に隣接する[[王子検車区]]との間で[[回送]]し、当駅で車両交換を行う。その場合には両方のホームに車両を停車させた上で、乗客を南北線から埼玉高速鉄道線に乗り換えさせる措置をとっている。 <gallery> Akabane-Iwabuchi-STA Gate.jpg|改札口(2022年12月) Akabane-Iwabuchi-STA Concourse.jpg|構内コンコース(2022年12月) Akabane-Iwabuchi-STA Platform.jpg|ホーム(2022年12月) </gallery> === 発車メロディ === 開業時から[[吉村弘]]作曲の南北線・埼玉高速鉄道線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている<ref name="melody" />。 曲は1番線が「ティー・スプーン」([[福嶋尚哉]]作曲)、2番線が「リズムガーデン」([[山崎泰之]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 == 利用状況 == * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''82,352人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: この値には埼玉高速鉄道線との直通連絡人員を含む。埼玉高速鉄道開業前の1999年度までは、1日平均乗車人員が5,000人程度に留まっており、当駅自体の利用者は少ない。 * '''埼玉高速鉄道''' - 2022年度の東京メトロから埼玉高速鉄道への1日平均直通連絡人員は'''40,109人'''である<ref group="SR" name="SR2022" />。 *: 同社の駅では第1位。この値には当駅から埼玉高速鉄道線へ向かう乗車人員も含む。 === 年度別1日平均乗降人員 === 開業以降の各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2000年(平成12年) |18,104 | |- |2001年(平成13年) |41,316 |128.2% |- |2002年(平成14年) |48,813 |18.1% |- |2003年(平成15年) |52,558 |7.7% |- |2004年(平成16年) |56,880 |8.2% |- |2005年(平成17年) |59,541 |4.7% |- |2006年(平成18年) |63,481 |6.6% |- |2007年(平成19年) |70,300 |10.7% |- |2008年(平成20年) |71,147 |1.2% |- |2009年(平成21年) |71,685 |0.8% |- |2010年(平成22年) |73,238 |2.2% |- |2011年(平成23年) |72,807 |&minus;0.6% |- |2012年(平成24年) |75,150 |3.2% |- |2013年(平成25年) |78,880 |5.0% |- |2014年(平成26年) |80,742 |2.4% |- |2015年(平成27年) |84,473 |4.6% |- |2016年(平成28年) |87,514 |3.6% |- |2017年(平成29年) |92,093 |5.2% |- |2018年(平成30年) |97,360 |5.7% |- |2019年(令和元年) |100,337 |3.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>74,012 |&minus;26.2% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>74,273 |0.4% |- |2022年 (令和 4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>82,352 |10.9% |} === 年度別1日平均乗車人員 === 開業以降の各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 * 東京メトロのデータは、2000年度以降埼玉高速鉄道との直通人員を含んだものである。 * 埼玉高速鉄道のデータは、当駅の乗車人員と東京メトロ南北線からの直通人員を合算したものである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="乗降データ">[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/a310 埼玉県統計年鑑] - 埼玉県</ref><ref group="乗降データ">[http://www.city.kita.tokyo.jp/kuse/joho/shiryoshu/index.html 行政資料集] - 北区</ref> !年度 !営団 /<br />東京メトロ !埼玉高速鉄道 !出典 |- |1991年(平成{{0}}3年) |<ref group="備考">1991年11月29日開業。開業日から翌年3月31日までの計124日間を集計したデータ。</ref>5,847 |rowspan="9" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |1,329 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |1,384 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |1,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |1,478 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |3,586 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |4,151 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |5,507 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |4,945 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |5,507 |<ref group="備考">2001年3月28日開業。</ref> |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |20,647 |18,100 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |24,373 |21,700 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |26,459 |24,000 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |28,526 |26,400 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |30,025 |27,800 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |31,786 |29,500 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |35,322 |32,200 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |36,079 |33,800 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |36,088 |33,900 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |36,633 |34,549 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |36,552 |34,395 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |37,707 |35,553 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |39,699 |37,368 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |40,788 |38,397 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |42,637 |40,342 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |44,159 |41,786 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |46,425 |44,142 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |49,055 |47,003 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |50,560 |48,490 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) | |<ref group="SR" name="SR2020">{{Cite web|和書|title=経営状況、輸送状況|url=https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=埼玉高速鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220414172645/https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|archivedate=2022-04-14}}</ref>35,945 | |- |2021年(令和{{0}}3年) | |<ref group="SR" name="SR2021">{{Cite web|和書|title=経営状況、輸送状況|url=https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=埼玉高速鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230419104803/https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|archivedate=2023-04-19}}</ref>36,274 | |- |2022年(令和{{0}}4年) | |<ref group="SR" name="SR2022">{{Cite web|和書|title=経営状況、輸送状況|url=https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|page=|accessdate=2023-07-15|publisher=埼玉高速鉄道|format=|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230715013745/https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/financial.php|archivedate=2023-07-15}}</ref>40,109 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|赤羽|岩淵町 (東京都北区)}} [[国道122号]]の赤羽交差点付近に所在し、1972年に廃止された[[東京都電車|都電]]の赤羽電停跡地のほぼ直下に位置する。 * [[赤羽駅]] - 徒歩で10分弱。 * 北本通り(国道122号) * [[東京都道311号環状八号線]](環八通り) * [[新荒川大橋]] * [[荒川 (関東)|荒川]]・[[隅田川]]・[[新河岸川]] ** [[岩淵水門|岩淵水門(青水門)・旧岩淵水門(赤水門)]] ** 荒川知水資料館「amoa(アモア)」 * 北区赤羽ふれあい館 * 赤羽岩淵駅前郵便局 * 赤羽岩渕<!--正式名。「淵」ではない-->病院 * 赤羽病院 * 赤羽東口病院 == バス路線 == 最寄り停留所は、国道122号赤羽交差点付近にある'''赤羽岩淵駅'''と、駅東側の赤羽岩淵駅交差点近くにある'''赤羽二丁目'''となる。以下の路線が発着する。 ; 赤羽岩淵駅 * [[国際興業バス]] ** [[国際興業バス鳩ヶ谷営業所#赤羽駅 - 鳩ヶ谷庁舎 - 鳩ヶ谷地区方面線|赤20]]:赤羽駅東口行/[[川口市立医療センター]]行 ** [[国際興業バス鳩ヶ谷営業所#赤羽駅 - 鳩ヶ谷庁舎 - 鳩ヶ谷地区方面線|赤21]]:赤羽駅東口行/鳩ヶ谷公団住宅行 ** [[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - 荒川大橋 - 鹿浜 - 西新井駅線|赤23]]:赤羽駅東口行/[[西新井駅]]行 ** [[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅東口 - 荒川大橋 - 鹿浜 - 西新井駅線|赤23-3]]:赤羽駅東口行/[[西新井大師西駅]]行(深夜バス平日のみ) ;赤羽二丁目 * [[都営バス]] ** [[都営バス北営業所#王57・深夜02系統|王57]]:赤羽駅東口行/[[豊島 (東京都北区)|豊島]]五丁目団地行([[王子駅]]経由) == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 :: [[志茂駅]](N 18) - '''赤羽岩淵駅 (N 19)''' ; 埼玉高速鉄道 : [[File:Saitama Stadium Line symbol.svg|15px|SR]] 埼玉高速鉄道線 :: '''赤羽岩淵駅 (SR 19)''' - [[川口元郷駅]](SR 20) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} === 利用状況 === <!--埼玉高速鉄道は地下鉄路線--> ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ; 埼玉高速鉄道の1日平均利用客数 {{Reflist|group="SR"|3}} ; 地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Akabane-Iwabuchi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/akabane-iwabuchi/index.html 赤羽岩淵駅/N19 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://s-rail.co.jp/line/akabaneiwabuchi.php 埼玉高速鉄道 赤羽岩淵駅] {{東京メトロ南北線}} {{埼玉高速鉄道線}} {{デフォルトソート:あかはねいわふち}} [[Category:東京都北区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 あ|かはねいわふち]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:埼玉高速鉄道の鉄道駅]] [[Category:1991年開業の鉄道駅]] [[Category:赤羽 (東京都北区)]]
2003-08-20T04:20:56Z
2023-12-02T21:03:58Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:駅情報", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite journal", "Template:PDFlink", "Template:東京メトロ南北線", "Template:0", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite press release", "Template:Commonscat", "Template:埼玉高速鉄道線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E5%B2%A9%E6%B7%B5%E9%A7%85
13,601
西武多摩川線
多摩川線(たまがわせん)は、東京都武蔵野市の武蔵境駅と東京都府中市の是政駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSW。本記事では、かつてこの路線を運営していた多摩鉄道(旧西武鉄道に合併)についても述べる。 東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線との乗換駅である武蔵境駅からほぼ南西に延びる路線で、西武鉄道の他路線とは接続しておらず、孤立した路線となっている。これは大正時代に開業させた多摩鉄道が1927年(昭和2年)、旧西武鉄道に買収された歴史による(「路線名称」「歴史」参照)。 武蔵境駅付近は2006年12月に一部高架化され、2008年7月19日に全面高架化された。 多摩川線は路線名の変遷が激しい。多摩鉄道時代の1922年に是政駅まで全通後、1927年に(旧)西武鉄道に吸収合併され、西武鉄道多摩線となる。その後是政線に変更され、さらに1952年に武蔵境線に変更。1955年に武蔵境線から多摩川線に変更されて現在に至る。 なお、2000年8月6日に東京急行電鉄(当時)の目蒲線が分割され、目黒線と東急多摩川線となった際、既に西武鉄道が「多摩川線」の路線名を使用していたため、正式路線名を「東急多摩川線」とすることで区別している。 西武鉄道の路線としては孤立しているため、同社の他路線の各駅で発売されている企画乗車券の発売を行っておらず、多摩川線は西武鉄道発行の企画乗車券のフリー区間の適用外となっていることが多い。なお、西武鉄道では自社の鉄道路線全線を対象とした一日乗車券の発売を行っていない。例外的に東急電鉄の各駅(渋谷駅と世田谷線各駅を除く)で発売されている「東急線西武線まるごときっぷ」は多摩川線でも乗降できるが、この乗車券は西武鉄道側の駅では購入できない。 自動改札機が全駅に設置されていないため、西武線では唯一パスネットが利用できなかった。かつて発売されていた、SF機能を持たないレオカードでは切符を購入できたものの、2008年3月14日をもって使用できなくなった。SFレオカード(2008年1月10日発売終了)では切符の購入もできなかった。 自動改札機未設置駅から乗車するときは、乗車券を自動券売機で購入しそのまま入場する(武蔵境駅が有人改札だった時代は改札で「入鋏」のスタンプを押していた)。このため切符には「入鋏省略」と記載されている。出場時には駅係員により切符が回収される。連絡乗車券はJR武蔵境駅の連絡改札口の自動改札機にそのまま投入できる(「武蔵境駅#西武鉄道」も参照)。 2007年3月18日からサービスを開始した交通系ICカードのPASMOは当路線にも導入され、簡易ICカード改札機を各駅に設置している。西武鉄道では池袋線・西武秩父線の武蔵横手駅 - 横瀬駅間各駅にも同じものが設置されておりオートチャージにも対応している。かつては武蔵境駅・多磨駅でも簡易ICカード改札機が設置されていたが、前者は高架化、後者は橋上駅舎化に伴い自動改札機に置き換えられた。 武蔵境駅が高架化工事前にJRとの共同使用駅だった頃は、定期券発売窓口は、武蔵境駅から一つ目の新小金井駅に設置されていた。武蔵境駅の駅舎改築により多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅へ移転した。西武鉄道では定期券発売窓口と定期券専用発売機でのみ定期券が購入可能だったが、2017年の券売機更新により全駅の自動券売機で定期券購入が可能となった。 1996年4月1日よりワンマン運転を実施している。全駅の改札が初電から終電まで稼動しているため、車内には乗車駅証明書発行機・運賃箱や運賃表示機などの設備がない、いわゆる都市型ワンマン方式となっている。 ワンマン運転開始当初は、車両前面に「ワンマン」の文字を掲出していたが、現在運用されている新101系ではこの掲示はなく、始発駅発車後の車内放送で案内するのみとなっている。 運転士が運転席後部にある(通常は車掌が操作する)ドアスイッチを操作して、ドアを開閉する。起終点の武蔵境駅と是政駅では発車メロディが導入されているが、発車時にはチャイムが鳴る。途中駅ではこれが発車の合図となり、その後「ドアが閉まります。ご注意下さい」と車内放送が流れる。 多摩川の河原で採取した川砂利を運搬する目的で、1910年(明治43年)8月に設立された多摩鉄道により開業した路線である。 1907年2月26日に提出された敷設仮免許申請書に添えられていた起業目論見書の目的の項には「旅客貨物運輸の業を営む」と記されており、砂利輸送については触れられていないが、申請直後に「旅客貨物運輸の業を営み併せて砂利玉石石材等の採掘販売」と目的を変更している。この目的の変更は筆頭発起人の阿部貞助の影響があるとみられている。阿部貞助は個人で砂利運搬を目的とした専用鉄道(境 - 多摩間、明治41年6月8日)の免許を得ているが、多摩鉄道設立に参画することにより砂利輸送の役割を負わせたとみられている。 多摩鉄道は1908年2月、私設鉄道法に基づき境 - 是政間の仮免許を取得したが、東京天文台より反対があった。同天文台は当時、麻布から三鷹村大沢への移転計画があり(現在国立天文台本部がある国立天文台三鷹キャンパス)、鉄道がそばにあると天体観測業務に支障が出るとの理由からである(当時の鉄道は、排煙を出す蒸気機関車が主力だった)。鉄道会社側も路線変更は承服できないとして反論した。この結果についての書類が失われているため鉄道院の裁定は不明だが、現在路線が大きく迂回していないので鉄道会社の主張が認められたようである。 1909年2月、多磨村での約20年間の砂利採掘権を取得する(多摩川での砂利採掘は1964年に禁止された)。 1917年10月22日に境駅(現:武蔵境駅) - 北多磨駅(現:白糸台駅)間、1919年6月1日に北多磨駅 - 常久駅(現:競艇場前駅)間、1922年6月20日に常久駅 - 是政駅間が開業した。 1927年8月30日、(旧)西武鉄道に合併され同社の多摩線となった。砂利輸送のついでであった旅客輸送に関しては、1929年に参拝客の増加していた多磨霊園の近くに多磨墓地前駅(現・多磨駅)を開設してガソリンカーの運行を開始、その後は車両を増備して日曜祭日彼岸時には武蔵境駅 - 多磨墓地前駅間を15分毎に頻発運転するようになる。 多摩鉄道を合併した(旧)西武鉄道は西武新宿線系統の前身企業で、1945年に西武池袋線系統の前身である武蔵野鉄道に合併され西武農業鉄道となり、翌1946年に現在の西武鉄道となる。また太平洋戦争中は中島飛行機の工場への引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。 戦後の1950年に電化され、1967年に貨物輸送を廃止した。その後は沿線にある多磨霊園、多摩川競艇場、アメリカンスクール・イン・ジャパン(東京都調布市野水1丁目、最寄り駅は多磨駅)などのアクセス路線として活用されてきた。 過去には、是政駅から北西方向の東京競馬場、そして武蔵境駅から北東方向の西武新宿線武蔵関駅及びその途中(関前橋)から更に田無町駅(現・ひばりヶ丘駅)、多磨墓地前駅(現・多磨駅)から京王井の頭線の久我山駅を経由して西武新宿軌道線の杉並車庫前に至るルートの延長構想があった。さらに多摩ニュータウン計画では、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)・小田急電鉄・西武鉄道の3社が東京都多摩市への延伸について調印し、西武鉄道は多摩川線を延伸しようと試みた。当初は多摩センターまでの予定で、他の2社と同じくさらに橋本・城山方面への延伸も目論んでいた。しかし武蔵境駅で接続する国鉄(当時)中央線の混雑をさらに助長するとの判断から鉄道敷設免許申請が取り下げられ、調印した3社の中で唯一、多摩ニュータウン乗り入れが実現しなかった。 戦時中の1941年に日本陸軍航空隊向けの調布基地建設のため、多磨駅近くの府中市朝日町3丁目および調布市・三鷹市にまたがり東京調布飛行場が建設され、終戦後は進駐軍に接収され「関東村」となっていたが、地元3市の返還要求を受け、1974年12月10日に在日米軍から返還された(詳細は「調布飛行場#歴史」参照)。 関東村の広大な跡地は調布飛行場をはじめ、スタジアム(味の素スタジアム・アミノバイタルフィールド・都立武蔵野の森総合スポーツプラザ)、公園(調布基地跡地運動広場・都立武蔵野の森公園)などとして地元自治体によって活用され、2000年には東京外国語大学が東京都北区西ケ原から移転、翌2001年には警察大学校および警視庁警察学校が東京都中野区より移転。関東村跡地の再開発により、多摩川線の輸送需要は大きく増加した。 1996年4月1日、前述のとおりワンマン運転化される。 2003年より2009年にかけて、武蔵境駅の高架化工事を実施した(「武蔵境駅#高架化工事」参照)。高架化工事前、武蔵境駅がJRとの共同使用駅だった頃は、定期券発売窓口は白糸台駅にのみ設置されていた(西武鉄道では当時、定期券は定期券発売窓口と定期券専用発売機のみで購入可能であった)。武蔵境駅の駅舎改築に伴い、多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅に移転したが、2017年の券売機更新により全駅の券売機で定期券購入が可能となった。また武蔵境駅では2008年9月7日よりJRへの連絡改札口が設置された。 2007年3月18日からは、ICカードPASMOが導入された。また同年12月には、多摩川線開業90周年事業として記念ヘッドマーク掲出や記念乗車券発売などの記念イベント「多摩川線90周年 Since1917」を開催した。 2010年3月22日には、後述の四季をテーマとしたラッピングがされた新101系電車の出発式が武蔵境駅のホームで行われ、この様子は新聞記事などにも取り上げられた。 西武鉄道を含む西武ホールディングス(西武HD)の筆頭株主となっていたアメリカ合衆国の投資ファンド会社サーベラス・キャピタル・マネジメントが、2012年10月12日に西武HDの経営合理化策として多摩川線を含む5路線の廃止などを求め、西武HD側がこれを拒絶したことが報道された。サーベラス側は廃止提案の存在を否定していたが、多摩川線沿線の府中市・武蔵野市・小金井市は3市連名で路線存続の要望書を西武HDと西武鉄道宛てに提出した。その後、2017年8月にサーベラスが西武HDの保有株式を全て売却したことが判明した。 都市近郊路線では珍しく平日・土曜・休日共通ダイヤになっており、日中は12分間隔、早朝と夜間は20分間隔の運転である。 早朝には白糸台駅始発の列車があるが、白糸台行きの列車は設定されておらず、上り列車は全て武蔵境駅行きで、夜間の一部列車は是政駅まで運行した後、白糸台行きの回送列車となって車庫に入る。緊急時には白糸台駅で車両交換(取り替え)となる場合もある。 列車の行き違いは、日中は新小金井駅と白糸台駅で、早朝と夜間は白糸台駅で行う。2019年3月16日のダイヤ改正まで早朝と夜間は多磨駅で行き違いを行っていたが、多磨駅の駅改良工事に伴い列車交換設備を撤去した。 当線の車両は小手指車両基地に所属し、ワンマン運転に対応した仕様へ改造されている。現在は同仕様の車両が狭山線(かつては多摩湖線)でも運用されており、双方の車両の交換が年4回、JR線を経由する甲種輸送という形で実施される。簡単な検査や車体清掃などは、白糸台駅に併設された白糸台車両基地で行われる。大規模な検査・修繕については武蔵丘車両検修場(かつては旧西武所沢車両工場)で実施するため、本線側に常駐している間に行う。 JR中央線の高架化工事中は、甲種輸送ができなかったため部品の輸送で対応していたが、JR中央線の高架化工事完了後は車両の甲種輸送が再開された(「中央線快速#連続立体交差事業」も参照)。 2017年から2018年にかけて多摩川線開業100周年を記念し、伊豆箱根鉄道カラー、赤電塗装(西武鉄道の旧塗装)、ツートンカラー(101系デビュー時の塗装)、近江鉄道カラーに塗色変更された新101系が登場した。一部の駅には運行中の各車両のカラーリングを解説するポスターが掲示されていることがある。 ワンマン運転化以前は、新宿線系統から多摩川線へ転属してきた401系、701系、赤電と呼ばれていた451系や551系・571系などが使用されていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多摩川線(たまがわせん)は、東京都武蔵野市の武蔵境駅と東京都府中市の是政駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSW。本記事では、かつてこの路線を運営していた多摩鉄道(旧西武鉄道に合併)についても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線との乗換駅である武蔵境駅からほぼ南西に延びる路線で、西武鉄道の他路線とは接続しておらず、孤立した路線となっている。これは大正時代に開業させた多摩鉄道が1927年(昭和2年)、旧西武鉄道に買収された歴史による(「路線名称」「歴史」参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "武蔵境駅付近は2006年12月に一部高架化され、2008年7月19日に全面高架化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多摩川線は路線名の変遷が激しい。多摩鉄道時代の1922年に是政駅まで全通後、1927年に(旧)西武鉄道に吸収合併され、西武鉄道多摩線となる。その後是政線に変更され、さらに1952年に武蔵境線に変更。1955年に武蔵境線から多摩川線に変更されて現在に至る。", "title": "路線名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、2000年8月6日に東京急行電鉄(当時)の目蒲線が分割され、目黒線と東急多摩川線となった際、既に西武鉄道が「多摩川線」の路線名を使用していたため、正式路線名を「東急多摩川線」とすることで区別している。", "title": "路線名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "西武鉄道の路線としては孤立しているため、同社の他路線の各駅で発売されている企画乗車券の発売を行っておらず、多摩川線は西武鉄道発行の企画乗車券のフリー区間の適用外となっていることが多い。なお、西武鉄道では自社の鉄道路線全線を対象とした一日乗車券の発売を行っていない。例外的に東急電鉄の各駅(渋谷駅と世田谷線各駅を除く)で発売されている「東急線西武線まるごときっぷ」は多摩川線でも乗降できるが、この乗車券は西武鉄道側の駅では購入できない。", "title": "乗車券・乗降方式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "自動改札機が全駅に設置されていないため、西武線では唯一パスネットが利用できなかった。かつて発売されていた、SF機能を持たないレオカードでは切符を購入できたものの、2008年3月14日をもって使用できなくなった。SFレオカード(2008年1月10日発売終了)では切符の購入もできなかった。", "title": "乗車券・乗降方式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "自動改札機未設置駅から乗車するときは、乗車券を自動券売機で購入しそのまま入場する(武蔵境駅が有人改札だった時代は改札で「入鋏」のスタンプを押していた)。このため切符には「入鋏省略」と記載されている。出場時には駅係員により切符が回収される。連絡乗車券はJR武蔵境駅の連絡改札口の自動改札機にそのまま投入できる(「武蔵境駅#西武鉄道」も参照)。", "title": "乗車券・乗降方式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2007年3月18日からサービスを開始した交通系ICカードのPASMOは当路線にも導入され、簡易ICカード改札機を各駅に設置している。西武鉄道では池袋線・西武秩父線の武蔵横手駅 - 横瀬駅間各駅にも同じものが設置されておりオートチャージにも対応している。かつては武蔵境駅・多磨駅でも簡易ICカード改札機が設置されていたが、前者は高架化、後者は橋上駅舎化に伴い自動改札機に置き換えられた。", "title": "乗車券・乗降方式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "武蔵境駅が高架化工事前にJRとの共同使用駅だった頃は、定期券発売窓口は、武蔵境駅から一つ目の新小金井駅に設置されていた。武蔵境駅の駅舎改築により多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅へ移転した。西武鉄道では定期券発売窓口と定期券専用発売機でのみ定期券が購入可能だったが、2017年の券売機更新により全駅の自動券売機で定期券購入が可能となった。", "title": "乗車券・乗降方式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1996年4月1日よりワンマン運転を実施している。全駅の改札が初電から終電まで稼動しているため、車内には乗車駅証明書発行機・運賃箱や運賃表示機などの設備がない、いわゆる都市型ワンマン方式となっている。", "title": "ワンマン運転" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ワンマン運転開始当初は、車両前面に「ワンマン」の文字を掲出していたが、現在運用されている新101系ではこの掲示はなく、始発駅発車後の車内放送で案内するのみとなっている。", "title": "ワンマン運転" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運転士が運転席後部にある(通常は車掌が操作する)ドアスイッチを操作して、ドアを開閉する。起終点の武蔵境駅と是政駅では発車メロディが導入されているが、発車時にはチャイムが鳴る。途中駅ではこれが発車の合図となり、その後「ドアが閉まります。ご注意下さい」と車内放送が流れる。", "title": "ワンマン運転" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "多摩川の河原で採取した川砂利を運搬する目的で、1910年(明治43年)8月に設立された多摩鉄道により開業した路線である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1907年2月26日に提出された敷設仮免許申請書に添えられていた起業目論見書の目的の項には「旅客貨物運輸の業を営む」と記されており、砂利輸送については触れられていないが、申請直後に「旅客貨物運輸の業を営み併せて砂利玉石石材等の採掘販売」と目的を変更している。この目的の変更は筆頭発起人の阿部貞助の影響があるとみられている。阿部貞助は個人で砂利運搬を目的とした専用鉄道(境 - 多摩間、明治41年6月8日)の免許を得ているが、多摩鉄道設立に参画することにより砂利輸送の役割を負わせたとみられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多摩鉄道は1908年2月、私設鉄道法に基づき境 - 是政間の仮免許を取得したが、東京天文台より反対があった。同天文台は当時、麻布から三鷹村大沢への移転計画があり(現在国立天文台本部がある国立天文台三鷹キャンパス)、鉄道がそばにあると天体観測業務に支障が出るとの理由からである(当時の鉄道は、排煙を出す蒸気機関車が主力だった)。鉄道会社側も路線変更は承服できないとして反論した。この結果についての書類が失われているため鉄道院の裁定は不明だが、現在路線が大きく迂回していないので鉄道会社の主張が認められたようである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1909年2月、多磨村での約20年間の砂利採掘権を取得する(多摩川での砂利採掘は1964年に禁止された)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1917年10月22日に境駅(現:武蔵境駅) - 北多磨駅(現:白糸台駅)間、1919年6月1日に北多磨駅 - 常久駅(現:競艇場前駅)間、1922年6月20日に常久駅 - 是政駅間が開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1927年8月30日、(旧)西武鉄道に合併され同社の多摩線となった。砂利輸送のついでであった旅客輸送に関しては、1929年に参拝客の増加していた多磨霊園の近くに多磨墓地前駅(現・多磨駅)を開設してガソリンカーの運行を開始、その後は車両を増備して日曜祭日彼岸時には武蔵境駅 - 多磨墓地前駅間を15分毎に頻発運転するようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "多摩鉄道を合併した(旧)西武鉄道は西武新宿線系統の前身企業で、1945年に西武池袋線系統の前身である武蔵野鉄道に合併され西武農業鉄道となり、翌1946年に現在の西武鉄道となる。また太平洋戦争中は中島飛行機の工場への引き込み線があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "戦後の1950年に電化され、1967年に貨物輸送を廃止した。その後は沿線にある多磨霊園、多摩川競艇場、アメリカンスクール・イン・ジャパン(東京都調布市野水1丁目、最寄り駅は多磨駅)などのアクセス路線として活用されてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "過去には、是政駅から北西方向の東京競馬場、そして武蔵境駅から北東方向の西武新宿線武蔵関駅及びその途中(関前橋)から更に田無町駅(現・ひばりヶ丘駅)、多磨墓地前駅(現・多磨駅)から京王井の頭線の久我山駅を経由して西武新宿軌道線の杉並車庫前に至るルートの延長構想があった。さらに多摩ニュータウン計画では、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)・小田急電鉄・西武鉄道の3社が東京都多摩市への延伸について調印し、西武鉄道は多摩川線を延伸しようと試みた。当初は多摩センターまでの予定で、他の2社と同じくさらに橋本・城山方面への延伸も目論んでいた。しかし武蔵境駅で接続する国鉄(当時)中央線の混雑をさらに助長するとの判断から鉄道敷設免許申請が取り下げられ、調印した3社の中で唯一、多摩ニュータウン乗り入れが実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "戦時中の1941年に日本陸軍航空隊向けの調布基地建設のため、多磨駅近くの府中市朝日町3丁目および調布市・三鷹市にまたがり東京調布飛行場が建設され、終戦後は進駐軍に接収され「関東村」となっていたが、地元3市の返還要求を受け、1974年12月10日に在日米軍から返還された(詳細は「調布飛行場#歴史」参照)。 関東村の広大な跡地は調布飛行場をはじめ、スタジアム(味の素スタジアム・アミノバイタルフィールド・都立武蔵野の森総合スポーツプラザ)、公園(調布基地跡地運動広場・都立武蔵野の森公園)などとして地元自治体によって活用され、2000年には東京外国語大学が東京都北区西ケ原から移転、翌2001年には警察大学校および警視庁警察学校が東京都中野区より移転。関東村跡地の再開発により、多摩川線の輸送需要は大きく増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1996年4月1日、前述のとおりワンマン運転化される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2003年より2009年にかけて、武蔵境駅の高架化工事を実施した(「武蔵境駅#高架化工事」参照)。高架化工事前、武蔵境駅がJRとの共同使用駅だった頃は、定期券発売窓口は白糸台駅にのみ設置されていた(西武鉄道では当時、定期券は定期券発売窓口と定期券専用発売機のみで購入可能であった)。武蔵境駅の駅舎改築に伴い、多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅に移転したが、2017年の券売機更新により全駅の券売機で定期券購入が可能となった。また武蔵境駅では2008年9月7日よりJRへの連絡改札口が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2007年3月18日からは、ICカードPASMOが導入された。また同年12月には、多摩川線開業90周年事業として記念ヘッドマーク掲出や記念乗車券発売などの記念イベント「多摩川線90周年 Since1917」を開催した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年3月22日には、後述の四季をテーマとしたラッピングがされた新101系電車の出発式が武蔵境駅のホームで行われ、この様子は新聞記事などにも取り上げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "西武鉄道を含む西武ホールディングス(西武HD)の筆頭株主となっていたアメリカ合衆国の投資ファンド会社サーベラス・キャピタル・マネジメントが、2012年10月12日に西武HDの経営合理化策として多摩川線を含む5路線の廃止などを求め、西武HD側がこれを拒絶したことが報道された。サーベラス側は廃止提案の存在を否定していたが、多摩川線沿線の府中市・武蔵野市・小金井市は3市連名で路線存続の要望書を西武HDと西武鉄道宛てに提出した。その後、2017年8月にサーベラスが西武HDの保有株式を全て売却したことが判明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "都市近郊路線では珍しく平日・土曜・休日共通ダイヤになっており、日中は12分間隔、早朝と夜間は20分間隔の運転である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "早朝には白糸台駅始発の列車があるが、白糸台行きの列車は設定されておらず、上り列車は全て武蔵境駅行きで、夜間の一部列車は是政駅まで運行した後、白糸台行きの回送列車となって車庫に入る。緊急時には白糸台駅で車両交換(取り替え)となる場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "列車の行き違いは、日中は新小金井駅と白糸台駅で、早朝と夜間は白糸台駅で行う。2019年3月16日のダイヤ改正まで早朝と夜間は多磨駅で行き違いを行っていたが、多磨駅の駅改良工事に伴い列車交換設備を撤去した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "当線の車両は小手指車両基地に所属し、ワンマン運転に対応した仕様へ改造されている。現在は同仕様の車両が狭山線(かつては多摩湖線)でも運用されており、双方の車両の交換が年4回、JR線を経由する甲種輸送という形で実施される。簡単な検査や車体清掃などは、白糸台駅に併設された白糸台車両基地で行われる。大規模な検査・修繕については武蔵丘車両検修場(かつては旧西武所沢車両工場)で実施するため、本線側に常駐している間に行う。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "JR中央線の高架化工事中は、甲種輸送ができなかったため部品の輸送で対応していたが、JR中央線の高架化工事完了後は車両の甲種輸送が再開された(「中央線快速#連続立体交差事業」も参照)。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2017年から2018年にかけて多摩川線開業100周年を記念し、伊豆箱根鉄道カラー、赤電塗装(西武鉄道の旧塗装)、ツートンカラー(101系デビュー時の塗装)、近江鉄道カラーに塗色変更された新101系が登場した。一部の駅には運行中の各車両のカラーリングを解説するポスターが掲示されていることがある。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ワンマン運転化以前は、新宿線系統から多摩川線へ転属してきた401系、701系、赤電と呼ばれていた451系や551系・571系などが使用されていた。", "title": "使用車両" } ]
多摩川線(たまがわせん)は、東京都武蔵野市の武蔵境駅と東京都府中市の是政駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はSW。本記事では、かつてこの路線を運営していた多摩鉄道(旧西武鉄道に合併)についても述べる。 東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線との乗換駅である武蔵境駅からほぼ南西に延びる路線で、西武鉄道の他路線とは接続しておらず、孤立した路線となっている。これは大正時代に開業させた多摩鉄道が1927年(昭和2年)、旧西武鉄道に買収された歴史による(「路線名称」「歴史」参照)。 武蔵境駅付近は2006年12月に一部高架化され、2008年7月19日に全面高架化された。
{{混同|多摩川支線|東急多摩川線|redirect=多摩川線}} {{混同|西武多摩湖線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:SeibuRailway mark.svg|18px|link=西武鉄道]] 多摩川線 |路線色=#ef810f |ロゴ=File:SeibuTamagawa.svg |ロゴサイズ=50px |画像=Nimaibashi kyoryo Seibu Tamagawa line 20200328.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=桜咲く[[野川 (東京都)|野川]]を渡る、多摩川線の列車。<br />二枚橋橋梁にて(2020年3月) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[武蔵野市]]、[[小金井市]]、[[府中市 (東京都)|府中市]] |起点=[[武蔵境駅]] |終点=[[是政駅]] |駅数=6駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=SW |開業={{start date and age|1917|10|22}} |最終延伸={{start date and age|1922|6|20}} |休止= |廃止= |所有者=[[西武鉄道]] |運営者=西武鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=8.0 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[単線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年)p.59]]</ref> |最小曲線半径 = 300 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/> |最大勾配 = 11.1 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/>{{Efn|武蔵境駅付近の高架化前の数値}} |路線図= |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ef810f}} {{BS-table}} {{BS3|STRq|ABZq+r|BHFq|O3=HUBa|||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[中央線快速|中央線]]|}} {{BS3||ABZl+l|KBHFeq|O3=HUBe|0.0|SW01 [[武蔵境駅]]||}} {{BS3||BHF||1.9|SW02 [[新小金井駅]]||}} {{BS3||eABZgl|exKBSTeq||||}} {{BS3||hKRZWae|||二枚橋川橋梁|[[野川 (東京都)|野川]]|}} {{BS3||eABZgl|exKBSTeq|||米軍調布基地<!-- 旧中島飛行機? -->|}} {{BS3||BHF||4.1|SW03 [[多磨駅]]||}} {{BS3||BHF|KDSTa|O1=HUBrg|O2=HUBq|O3=HUBlg|5.5|SW04 [[白糸台駅]]/[[白糸台車両基地]]||}} {{BS3||ABZg+l|STRr|O1=HUB|O3=HUB||||}} {{BS3|HSTq|KRZu|HSTq|O1=HUBe|O3=HUBe|||[[多磨霊園駅]]/[[武蔵野台駅]]|}} {{BS3||STR||||[[京王電鉄|京王]]:[[京王線]]|}} {{BS3||eABZg+l|exKBSTeq||||}} {{BS3||BHF||7.0|SW05 [[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]]||}} {{BS3||KBHFe||8.0|SW06 [[是政駅]]||}} |} |} [[ファイル:Seibu Tamagawa line on Ichigo bashi Apr 2014.JPG|right|thumb|160px|新小金井駅 - 多磨駅間。新小金井駅先から白糸台駅手前まで、路線は南西方向へ直線に延びる。<br />([[人道橋]]「いちご橋」より、2014年4月撮影)]] '''多摩川線'''(たまがわせん)は、[[東京都]][[武蔵野市]]の[[武蔵境駅]]と東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]の[[是政駅]]を結ぶ[[西武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''SW'''。本記事では、かつてこの路線を運営していた'''多摩鉄道'''(旧[[西武鉄道]]に合併)についても述べる。 [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]との[[乗換駅]]である武蔵境駅<ref>[https://www.seiburailway.jp/railway/station/musashi-sakai/ 武蔵境] 西武鉄道(2022年7月18日閲覧)</ref>からほぼ南西に延びる路線で、西武鉄道の他路線とは接続しておらず、孤立した路線となっている<ref name="マイナビ20111001">[https://news.mynavi.jp/article/trivia-120/ 【鉄道トリビア】第120回:なぜ西武多摩川線は"孤立"しているのか?][[マイナビニュース]](2011年10月1日)2022年7月18日閲覧</ref>。これは[[大正時代]]に開業させた多摩鉄道が1927年([[昭和]]2年)、旧西武鉄道に買収された歴史による<ref name="マイナビ20111001"/>(「[[#路線名称|路線名称]]」「[[#歴史|歴史]]」参照)。 武蔵境駅付近は[[2006年]]12月に一部高架化され<ref name="SEIBU200612">{{Cite press release|和書|url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2006/1025.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061128165549/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2006/1025.pdf|format=PDF|language=日本語|title=12月9日(土)多摩川線武蔵境駅付近連続立体交差事業において 武蔵境駅付近の約840mを高架化し、3ヵ所の踏切を解消します。|publisher=西武鉄道|date=2006-10-25|accessdate=2022-03-26|archivedate=2006-11-28}}</ref>、[[2008年]][[7月19日]]に全面高架化された。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):8.0km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:6駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:全線(直流1500V[[架空電車線方式]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:95 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook"/> * [[編成 (鉄道)|編成]]両数:4両 == 路線名称 == 多摩川線は路線名の変遷が激しい。多摩鉄道時代の[[1922年]]に是政駅まで全通後、[[1927年]]に[[西武鉄道#西武鉄道(旧)|(旧)西武鉄道]]に吸収合併され<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2002年4月臨時増刊号 No.716([[電気車研究会]])p.108</ref>、西武鉄道'''多摩線'''となる<ref name="kid10">[{{NDLDC|1190630/30}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道。昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。{{いつ範囲|その後|date=2019年11月}}{{要検証範囲|'''是政線'''に変更され|date=2021年12月}}、さらに[[1952年]]に'''武蔵境線'''に変更<ref name="yuuhou78">西武鉄道『第78回上場[[有価証券報告書]]』自昭和26年10月1日 至昭和27年3月31日</ref>。[[1955年]]に武蔵境線から'''多摩川線'''に変更<ref name="yuuhou84">西武鉄道『第84回有価証券報告書』自昭和29年10月1日 至昭和30年3月31日</ref>されて現在に至る<ref>『鉄道ピクトリアル』2002年4月臨時増刊号 No.716(電気車研究会)p.104</ref>。 なお、[[2000年]][[8月6日]]に[[東京急行電鉄]](当時)の[[東急目蒲線|目蒲線]]が分割され、[[東急目黒線|目黒線]]と[[東急多摩川線]]となった際、既に西武鉄道が「多摩川線」の路線名を使用していたため、正式路線名を「'''東急'''多摩川線」とすることで区別している。 == 乗車券・乗降方式 == 西武鉄道の路線としては孤立しているため、同社の他路線の各駅で発売されている[[特別企画乗車券|企画乗車券]]の発売を行っておらず、多摩川線は西武鉄道発行の企画乗車券のフリー区間の適用外となっていることが多い<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=きっぷ・PASMO・おトクなきっぷ:西武鉄道Webサイト|url=https://www.seiburailway.jp/ticket/index.html|website=西武鉄道Webサイト|accessdate=2020-07-31|language=ja}}</ref>。なお、西武鉄道では自社の鉄道路線全線を対象とした[[一日乗車券]]の発売を行っていない<ref name=":2" />。例外的に東急電鉄の各駅([[渋谷駅]]と[[東急世田谷線|世田谷線]]各駅を除く)で発売されている「[[東急線西武線まるごときっぷ]]」は多摩川線でも乗降できるが<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=東急線西武線まるごときっぷ|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/ticket/types/value_ticket/marugoto_ticket.html|website=東急電鉄|accessdate=2020-07-31|publisher=}}</ref>、この乗車券は西武鉄道側の駅では購入できない<ref name=":2" /><ref name=":3" />。 [[自動改札機]]が全駅に設置されていないため、西武線では唯一[[パスネット]]が利用できなかった。かつて発売されていた、[[乗車カード#ストアードフェアカード|SF]]機能を持たない[[レオカード]]では切符を購入できたものの、2008年3月14日をもって使用できなくなった。SFレオカード(2008年1月10日発売終了)では切符の購入もできなかった。 自動改札機未設置駅から乗車するときは、乗車券を[[自動券売機]]で購入しそのまま入場する(武蔵境駅が有人[[改札]]だった時代は改札で「[[改札#改札鋏・改札スタンプ・途中下車印|入鋏]]」のスタンプを押していた)。このため切符には「入鋏省略」と記載されている。出場時には駅係員により切符が回収される。[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]はJR武蔵境駅の連絡改札口の自動改札機にそのまま投入できる(「[[武蔵境駅#西武鉄道]]」も参照)。 [[ファイル:Kani PASMO kaisatu.JPG|thumb|240px|right|多摩川線の簡易ICカード改札機<br />(競艇場前駅、2008年1月30日撮影)]] [[2007年]][[3月18日]]からサービスを開始した[[交通系ICカード]]の[[PASMO]]は当路線にも導入され、簡易ICカード改札機を各駅に設置している。西武鉄道では[[西武池袋線|池袋線]]・[[西武秩父線]]の[[武蔵横手駅]] - [[横瀬駅]]間各駅にも同じものが設置されており[[オートチャージ]]にも対応している。かつては武蔵境駅・[[多磨駅]]でも簡易ICカード改札機が設置されていたが、前者は高架化、後者は橋上駅舎化に伴い自動改札機に置き換えられた。 武蔵境駅が[[高架駅|高架化]]工事前にJRとの[[共同使用駅]]だった頃は、[[定期乗車券|定期券]]発売窓口は、武蔵境駅から一つ目の[[新小金井駅]]に設置されていた。武蔵境駅の駅舎改築により多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅へ移転した。西武鉄道では定期券発売窓口と定期券専用発売機でのみ定期券が購入可能だったが、[[2017年]]の券売機更新により全駅の自動券売機で定期券購入が可能となった。 == ワンマン運転 == [[1996年]][[4月1日]]より[[ワンマン運転]]を実施している。全駅の改札が[[始発列車|初電]]から[[終電]]まで稼動しているため、車内には[[乗車整理券|乗車駅証明書発行機]]・[[運賃箱]]や[[運賃表示機]]などの設備がない、いわゆる'''都市型ワンマン方式'''となっている。 ワンマン運転開始当初は、車両前面に「ワンマン」の文字を掲出していたが、現在運用されている[[西武101系電車#新101系・301系|新101系]]ではこの掲示はなく、始発駅発車後の車内放送で案内するのみとなっている。 [[動力車操縦者|運転士]]が[[操縦席#鉄道車両の運転席・運転台|運転席]]後部にある(通常は[[車掌]]が操作する)ドアスイッチを操作して、ドアを開閉する。起終点の武蔵境駅と是政駅では[[発車メロディ]]が導入されているが、発車時には[[チャイム]]が鳴る。途中駅ではこれが発車の合図となり、その後「ドアが閉まります。ご注意下さい」と[[車内放送]]が流れる。 == 歴史 == [[ファイル:NimaibasigawaKyoryoTamagawaLine.jpg|thumb|240px|right|二枚橋橋梁を渡る旧101系<br />(2008年1月)]] {{See also|武蔵境駅#歴史}} [[多摩川]]の河原で採取した川[[砂利]]を運搬する目的で、[[1910年]]([[明治]]43年)8月に設立された'''多摩鉄道'''<ref>[{{NDLDC|974389/72}} 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正元年(初版)』] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>により開業した路線である。 [[1907年]]2月26日に提出された敷設仮免許申請書に添えられていた起業目論見書の目的の項には「旅客貨物運輸の業を営む」と記されており、砂利輸送については触れられていないが、申請直後に「旅客貨物運輸の業を営み併せて砂利玉石石材等の採掘販売」と目的を変更している。この目的の変更は筆頭発起人の'''阿部貞助'''の影響があるとみられている。阿部貞助は個人で砂利運搬を目的とした専用鉄道(境 - 多摩間、明治41年6月8日)の免許<ref>[{{NDLDC|805358/92}} 『鉄道院年報. 明治41年度』]</ref>を得ているが、多摩鉄道設立に参画することにより砂利輸送の役割を負わせたとみられている<ref>益井茂夫「多摩鉄道と阿部貞助」『多摩のあゆみ』No99(2000年)所収</ref>。 多摩鉄道は[[1908年]]2月、[[私設鉄道法]]に基づき境 - 是政間の仮免許を取得した<ref name="kanp826"/>が、[[東京天文台]]より反対があった。同天文台は当時、[[麻布]]から[[三鷹村]][[大沢 (三鷹市)|大沢]]への移転計画があり(現在[[国立天文台]]本部がある[[国立天文台三鷹キャンパス]])、鉄道がそばにあると[[天体観測]]業務に支障が出るとの理由からである(当時の鉄道は、排煙を出す[[蒸気機関車]]が主力だった)。鉄道会社側も路線変更は承服できないとして反論した。この結果についての書類が失われているため[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]の裁定は不明だが、現在路線が大きく迂回していないので鉄道会社の主張が認められたようである<ref name="nazo160"/>。 [[1909年]]2月、[[多磨村]]での約20年間の砂利採掘権を取得する(多摩川での砂利採掘は[[1964年]]に禁止された)<ref name="nazo160">青木栄一『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』](吉川弘文館・歴史文化ライブラリー224、2006年)p.160, p.162</ref>。 [[1917年]][[10月22日]]に境駅(現:武蔵境駅) - 北多磨駅(現:白糸台駅)間、[[1919年]][[6月1日]]に北多磨駅 - 常久駅(現:競艇場前駅)間、[[1922年]][[6月20日]]に常久駅 - 是政駅間が開業した。 [[1927年]][[8月30日]]、[[西武鉄道#西武鉄道(旧)|(旧)西武鉄道]]に合併され同社の'''多摩線'''となった{{Efn|砂利採取用に開業していた[[西武安比奈線|安比奈線]]の成績がいまひとつだったからといわれている<ref name=100nen>『写真で見る西武鉄道100年』([[ネコ・パブリッシング]]、2013年7月19日発行 ISBN 978-4777013760)15-16頁</ref>。}}。砂利輸送のついでであった[[旅客輸送]]に関しては、[[1929年]]に参拝客の増加していた[[多磨霊園]]の近くに多磨墓地前駅(現・[[多磨駅]])を開設して[[気動車|ガソリンカー]]の運行を開始、その後は車両を増備して日曜祭日[[彼岸]]時には武蔵境駅 - 多磨墓地前駅間を15分毎に頻発運転するようになる<ref name=100nen />。 多摩鉄道を合併した(旧)西武鉄道は[[西武新宿線]]系統の前身企業で、1945年に[[西武池袋線]]系統の前身である'''武蔵野鉄道'''に合併され西武農業鉄道となり、翌1946年に現在の西武鉄道となる。また[[太平洋戦争]]中は[[中島飛行機]]の工場への[[専用鉄道|引き込み線]]があり、沿線工場への貨物輸送にも利用された。 戦後の[[1950年]]に[[鉄道の電化|電化]]され、[[1967年]]に[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]を廃止した。その後は沿線にある多磨霊園、[[多摩川競艇場]]、[[アメリカンスクール・イン・ジャパン]](東京都[[調布市]]野水1丁目、最寄り駅は多磨駅)などのアクセス路線として活用されてきた。 {{いつ範囲|過去には|date=2019年11月}}、是政駅から北西方向の[[東京競馬場]]、そして武蔵境駅から北東方向の西武新宿線[[武蔵関駅]]及びその途中(関前橋)から更に田無町駅(現・[[ひばりヶ丘駅]])、多磨墓地前駅(現・多磨駅)から[[京王井の頭線]]の[[久我山駅]]を経由して[[都電杉並線|西武新宿軌道線]]の杉並車庫前に至るルートの延長構想があった。さらに[[多摩ニュータウン]]計画では、京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])・[[小田急電鉄]]・西武鉄道の3社が東京都[[多摩市]]への延伸について調印し、西武鉄道は多摩川線を延伸しようと試みた。当初は[[多摩センター駅|多摩センター]]までの予定で、他の2社と同じくさらに[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]・[[城山町 (神奈川県)|城山]]方面への延伸も目論んでいた。しかし武蔵境駅で接続する[[日本国有鉄道|国鉄]](当時)中央線の混雑をさらに助長するとの判断から鉄道敷設免許申請が取り下げられ、調印した3社の中で唯一、多摩ニュータウン乗り入れが実現しなかった<ref>{{Cite book | 和書 | author = 森口誠之 | title = 鉄道未成線を歩く〈私鉄編 〉 | publisher = JTB | year = 2001 | pages = pp. 67-68 }}</ref>。 戦時中の[[1941年]]に[[日本陸軍]]航空隊向けの[[調布飛行場|調布基地]]建設のため、多磨駅近くの府中市[[朝日町 (東京都府中市)|朝日町]]3丁目および調布市・[[三鷹市]]にまたがり[[調布飛行場|東京調布飛行場]]が建設され、終戦後は[[進駐軍]]に接収され「関東村」となっていたが、地元3市の返還要求を受け、[[1974年]][[12月10日]]に[[在日米軍]]から返還された<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/ex_naze_tufsfuchu7.html 東京外国語大学の歴史と府中キャンパス移転 7 関東村] 東京外国語大学文書館(東京外国語大学公式サイト内)</ref>(詳細は「[[調布飛行場#歴史]]」参照)。 関東村の広大な跡地は[[調布飛行場]]をはじめ、[[スタジアム]]([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]・[[東京スタジアム補助グラウンド|アミノバイタルフィールド]]・[[武蔵野の森総合スポーツプラザ|都立武蔵野の森総合スポーツプラザ]])、[[公園]]([[調布基地跡地運動広場]]・[[武蔵野の森公園|都立武蔵野の森公園]])などとして地元自治体によって活用され、[[2000年]]には[[東京外国語大学]]<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/ex_naze_tufsfuchu7.html なぜ府中に外大が? 東京外国語大学の歴史と府中キャンパス移転 6 府中キャンパスへの移転] 東京外国語大学文書館(東京外国語大学公式サイト内)</ref>が東京都[[北区 (東京都)|北区]][[西ケ原]]から移転<ref>[http://www.tufs.ac.jp/common/archives/ex_naze_tufsfuchu5.html 東京外国語大学の歴史と府中キャンパス移転 5 西ケ原キャンパスと東京外国語大学の発足] 東京外国語大学文書館(東京外国語大学公式サイト内)</ref>、翌[[2001年]]には[[警察大学校]]および[[警視庁警察学校]]が東京都[[中野区]]より移転。関東村跡地の再開発により、多摩川線の輸送需要は大きく増加した。 [[1996年]][[4月1日]]、前述のとおりワンマン運転化される。 [[2003年]]より[[2009年]]にかけて、武蔵境駅の高架化工事を実施した(「[[武蔵境駅#高架化工事]]」参照)。高架化工事前、武蔵境駅がJRとの共同使用駅だった頃は、定期券発売窓口は白糸台駅にのみ設置されていた(西武鉄道では当時、定期券は定期券発売窓口と定期券専用発売機のみで購入可能であった)。武蔵境駅の駅舎改築に伴い、多摩川線の定期券発売窓口は武蔵境駅に移転したが、[[2017年]]の券売機更新により全駅の券売機で定期券購入が可能となった。また武蔵境駅では2008年9月7日よりJRへの連絡改札口が設置された。 [[2007年]][[3月18日]]からは、ICカード[[PASMO]]が導入された。また同年12月には、多摩川線開業90周年事業として記念[[ヘッドマーク]]掲出や[[記念乗車券]]発売などの記念イベント「多摩川線90周年 Since1917」を開催した<ref name="SEIBU200712">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20100223032412/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2007/__icsFiles/afieldfile/2009/11/18/071207.pdf 12月8日(土)~16日(日)多摩川線開通90周年イベント「多摩川線90周年 since1917」を実施いたします。]}}(西武鉄道ニュースリリース・[[インターネットアーカイブ]]・2015年時点の版)。</ref><ref name="90th">[https://railf.jp/event/2007/12/08/130700.html 西武鉄道「多摩川線90周年Since1917」開催] [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』公式サイト「railf.jp」(2007年12月8日配信)2019年11月7日閲覧</ref>。 [[2010年]][[3月22日]]には、後述の[[四季]]をテーマとした[[ラッピング車両|ラッピング]]がされた新101系電車の出発式が武蔵境駅のホームで行われ、この様子は新聞記事などにも取り上げられた<ref name="Seibu20100315">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20100331045006if_/http://www.seibu-group.co.jp:80/railways/news/news-release/2009/__icsFiles/afieldfile/2010/03/15/20100315-1tamagawa_rapping_train.pdf 多摩川線に四季を彩った電車が走ります]}} 西武鉄道ニュースリリース(2010年3月15日発表のインターネットアーカイブ)</ref>。 西武鉄道を含む[[西武ホールディングス]](西武HD)の筆頭[[株主]]となっていた[[アメリカ合衆国]]の[[投資ファンド]]会社[[サーベラス・キャピタル・マネジメント]]が、[[2012年]][[10月12日]]に西武HDの経営合理化策として多摩川線を含む5路線の廃止などを求め<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=「ハゲタカ外資」とついに別れた西武ホールディングスの行方|url=https://gendai.media/articles/-/52669|website=[[現代ビジネス]]|accessdate=2020-07-31|publisher=[[講談社]]|author=[[伊藤博敏]]|date=2017-08-24}}</ref>、西武HD側がこれを拒絶したことが報道された<ref name=":5" /><ref>「[http://toyokeizai.net/articles/-/13557 西武秩父線は本当に収益力がないのか サーベラスが廃線を提案する路線の採算性を分析]」[[東洋経済オンライン]](2013年4月4日配信)2013年5月25日閲覧</ref>。サーベラス側は廃止提案の存在を否定していたが<ref name=":5" />、多摩川線沿線の府中市・[[武蔵野市]]・[[小金井市]]は3市連名で路線存続の要望書を西武HDと西武鉄道宛てに提出した<ref>「[http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20130404ddlk13020279000c.html 米サーベラス:西武5路線廃止問題 多摩川線存続へ3市共同で要望 西武HD社長らに]」『[[毎日新聞]]』朝刊2013年4月4日付(多摩版)2013年5月25日閲覧</ref>。その後、2017年8月にサーベラスが西武HDの保有株式を全て売却したことが判明した<ref name=":5" /><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ16HNN_W7A810C1TI1000 「西武HD、サーベラスが全保有株売却 出資11年」]『[[日本経済新聞]]』2017年8月16日</ref><ref name="kotsu20170818">{{Cite news|title=サーベラス・グループ 西武HDの全株売却|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2017-08-18|page=1}}</ref>。 === 年表 === * [[1908年]]([[明治]]41年)[[2月6日]] - 鉄道布設仮免状下付([[鉄道省#帝国鉄道庁|帝国鉄道]]境停車場-多摩村[[大字]]是政)<ref name="kanp826">[{{NDLDC|2950730/5}} 「私設鉄道株式会社仮免状下付」『官報』1908年2月8日] ([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref> * [[1910年]](明治43年)[[11月15日]] - [[軽便鉄道]]指定<ref>[{{NDLDC|2951578/5}} 「軽便鉄道指定」『官報』1910年11月19日] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1917年]]([[大正]]6年)[[10月22日]] - '''多摩鉄道'''として、境駅 - 北多磨駅間開業。境駅(現:[[武蔵境駅]])、[[新小金井駅]]、北多磨駅(現:[[白糸台駅]])開業<ref>[{{NDLDC|2953686/9}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1917年10月27日] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1919年]](大正8年) ** [[6月1日]] - 北多磨駅 - 常久駅間延伸開業(貨物運輸のみ)。常久駅(現:[[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]])開業<ref>[{{NDLDC|2954167/5}} 「輕便鐵道貨物運輸開始」『官報』1919年6月10日] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[7月1日]] - 境駅を武蔵境駅に改称<ref name="imao">[[今尾恵介]]『日本鉄道旅行地図帳』4号 関東2([[新潮社]]、2008年)p.48</ref>。 * [[1922年]](大正11年)[[6月20日]] - 常久駅 - 是政駅間延伸開業。[[是政駅]]開業<ref>[{{NDLDC|2955084/19}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年6月23日] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月31日]] - (旧)西武鉄道が多摩鉄道を合併、路線名を'''多摩線'''と改称{{Efn|『西武鉄道株式会社 昭和二年下半期(昭和二年六月一日-昭和二年十一月三十日)第十一回営業報告』多摩鉄道買収について、同年8月31日に帳簿書類と共に一切の財産を引き受けたとある。同史料「運輸概況」に多摩線という名称で運輸成績が記載されている。}}。『[[官報]]』での譲渡許可は同年8月3日<ref>[{{NDLDC|2956640/5}} 「鉄道譲渡」『官報』1927年8月4日] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[1月1日]] - ガソリン(瓦斯倫)動力併用実施<ref name="kid10"/>。 ** [[1月5日]] - 新小金井駅 - 北多磨駅間に多磨墓地前駅(現:[[多磨駅]])開業。 * [[1950年]](昭和25年) ** [[7月11日]] - 武蔵境駅 - 北多磨駅間の電化完成。 ** [[11月1日]] - 北多磨駅 - 是政駅間の電化完成。 ** [[11月]] - 常久駅が0.1km武蔵境駅寄りに移転。 * [[1952年]](昭和27年)3月25日 - 路線名を{{要検証|是政線から|date=2021年12月}}'''武蔵境線'''に変更<ref name=yuuhou78 />。 * [[1954年]](昭和29年)[[5月1日]] - 常久駅を競艇場前駅に改称{{Efn|改称日は、西武鉄道『会社要覧』の「駅名の変遷」<ref>{{PDFlink|1=[https://www.seiburailway.jp/company/youran/youran2018_p73_79.pdf#page=7 「駅名の変遷」]}}</ref>では5月1日。今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2』(新潮社、2008年発行)p.48では5月21日。}}。 * [[1955年]](昭和30年)5月9日 - 路線名を'''多摩川線'''に変更<ref name=yuuhou84 />。 * [[1995年]]([[平成]]7年)11月 - 試行的にワンマン運転を開始<ref name="kotsu19961105">{{Cite news |title=大手も増加傾向 ワンマン運転 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1996-11-05 |page=2 }}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)4月1日 - ワンマン運転に全面移行<ref name="kotsu19961105"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]] - 多磨墓地前駅を多磨駅に、北多磨駅を白糸台駅に改称<ref>[https://web.archive.org/web/20040803172505/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2001/ekimeikae.html 3月28日(水)、多摩川線の駅名を変更します。](西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[10月28日]] - ダイヤ改正により運行間隔が早朝・深夜を除き12分間隔となる<ref name="SEIBU200410">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061008213008/http://www.seibu-group.co.jp/railways/kouhou/news/2004/1005kaisei.pdf 10月28日(木)西武多摩川線でダイヤ改正を実施]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref><ref>{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal = [[鉄道友の会#会報「RAIL_FAN」|RAIL FAN]] |date = 2005年1月号 |issue = 1 |volume = 52 |publisher = [[鉄道友の会]] |page = 23 }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[12月9日]] - 武蔵境駅付近が高架化<ref name="SEIBU200612"/>。これに伴い一時的にJR中央線との連絡線が廃止。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]] - [[PASMO]]サービス開始に伴い、多摩川線全線に導入。 ** 12月 - 多摩川線開業90周年記念イベント「多摩川線90周年 Since1917」開催<ref name="SEIBU200712"/><ref name="90th" />。 [[ファイル:Seibu_Tamagawa_Line_100th_Anniversary_Shiraitodai_station_20171030.jpg|thumb|180px|right|開業100周年記念ヘッドマークをつけた列車<br />(白糸台駅、2017年10月30日撮影)]] * [[2008年]](平成20年) ** [[3月29日]] - 武蔵境駅に多摩川線の駅では初となる自動改札機を設置。 ** [[7月19日]] - JR中央線との連絡線を再び設置。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月22日]] - 新101系ラッピング電車の出発式を武蔵境駅ホームで開催<ref name="Seibu20100315"/>。 ** [[11月9日]] - 旧101系が運用終了<ref name="nr101101" /><ref name="com101106" />。これにより西武鉄道から旧101系の運用が消滅<ref name="nr101101" /><ref name="com101106" />。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月14日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴う節電のため、一部列車を運休し節電ダイヤで運行。 ** [[4月2日]] - 節電ダイヤにより一時的に平日ダイヤと土休日ダイヤを設定。平日昼間と土休日の終日で列車本数を減少、武蔵境発の下り列車の一部に白糸台駅止まりの区間便を設定。 ** [[9月12日]] - 電力制限解除に伴い、従来のダイヤに復旧。 * [[2017年]](平成29年)[[9月29日]] - 開業100周年記念イベント「多摩川線開業100周年期間」を年末まで開催<ref name="nr170914" />。 * [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)[[3月16日]] - 15年ぶりのダイヤ改正を実施。多磨駅駅舎の橋上化工事に伴い、早朝夜間に行われていた同駅での[[列車交換]]を廃止。 * [[2021年]](令和3年) ** [[7月1日]] - 同年[[9月30日]]まで、[[サイクルトレイン]]の実証実験を行う。多磨駅以外の全駅で自転車乗降が可能<ref>{{Cite news |和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20210629/k00/00m/040/306000c |title=西武多摩川線で「サイクルトレイン」実証実験 7月1日から |date=2021-06-29 |accessdate=2021-07-01|newspaper=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP6Y6FLHP6YUTIL00F.html |title=自転車のまま乗れます 西武多摩川線で7月から実証実験 |date=2021-06-29 |accessdate=2021-07-01 |newspaper=[[朝日新聞]] |author=井上恵一朗 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2021/06/30/143000.html |title=西武鉄道が多摩川線でサイクルトレインの実証実験を実施 |date=2021-06-30 |accessdate=2021-07-01 |publisher=鉄道ファン }}</ref>。 **[[10月1日]] - サイクルトレイン本実施。多磨駅以外の全駅で自転車乗降が可能。平日9時 - 17時と、土休日は終日利用可能。1編成8台まで<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年10月1日(金)から西武多摩川線サイクルトレインは本実施へ!|publisher=西武鉄道|date=2021-09-21|url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2021/20210921_cycletrain.pdf|format=PDF|accessdate=2021-10-04}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)7月7日 - [[硬券]]の「多摩川線全線開通100周年記念乗車券」を武蔵境駅と是政駅で発売<ref>[https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20220620_tamagawa100_ticket/ 「多摩川線全線開通100周年記念乗車券」を発売します!]西武鉄道ニュースリリース(2022年6月20日)2022年7月18日閲覧</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** 1月 - [[CBTC|無線式列車制御]] (CBTC) システムの実証試験に向けた準備工事に着手<ref>{{Cite press release|和書|title=西武線全線に無線式列車制御システム導入を目指し、多摩川線で無線式列車制御(CBTC)システムの 実証試験を実施します|publisher=西武鉄道|date=2023-01-18|url=https://www.seiburailway.jp/newsroom/news/20230118_cbtc/|access-date=2023-01-22}}</ref>。 ** 4月1日 - 多磨駅でのサイクルトレインの自転車乗降が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|title=西武多摩川線サイクルトレインに置いて多磨駅での乗降が可能に!|publisher=西武鉄道|date=2023-03-23|url=https://www.seiburailway.jp/file.jsp?id=14619|format=PDF|accessdate=2023-08-07}}</ref>。 <gallery perrow="5" widths="220" style="font-size:100%;"> ファイル:Koremasa Station Platform Cycle train 20210703.JPG|サイクルトレイン専用車両<br />(是政駅、2021年7月3日撮影) ファイル:Seibu Tamagawa Line Cycle train inside 20210703.JPG|サイクルトレイン車内<br>オレンジ色の固定専用ベルトが設置された </gallery> {{-}} == 運行形態 == 都市近郊路線では珍しく平日・土曜・休日共通[[ダイヤグラム|ダイヤ]]になっており、日中は12分間隔、早朝と夜間は20分間隔の運転である。 早朝には白糸台駅始発の列車があるが、白糸台行きの列車は設定されておらず、上り列車は全て武蔵境駅行きで、夜間の一部列車は是政駅まで運行した後、白糸台行きの[[回送]]列車となって車庫に入る。緊急時には白糸台駅で車両交換(取り替え)となる場合もある。 列車の行き違いは、日中は新小金井駅と白糸台駅で、早朝と夜間は白糸台駅で行う。2019年3月16日のダイヤ改正まで早朝と夜間は多磨駅で行き違いを行っていたが、多磨駅の駅改良工事に伴い[[列車交換|列車交換設備]]を撤去した。 == 使用車両 == [[File:Series New101 259F in Kyoteijyo-mae 20101117.jpg|thumb|right|新101系 ワンマン運転対応改造車<br>([[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]]、2010年11月)]] 当線の車両は[[小手指車両基地]]に所属し、[[ワンマン運転]]に対応した仕様へ改造されている。現在は同仕様の車両が[[西武狭山線|狭山線]](かつては[[西武多摩湖線|多摩湖線]])でも運用されており、双方の車両の交換が年4回、JR線を経由する[[車両輸送|甲種輸送]]という形で実施される<ref name=":0">『[[鉄道ピクトリアル]]』2013年12月臨時増刊号(通巻884号)「車両所の概要」pp.69-75</ref>。簡単な検査や車体清掃などは、白糸台駅に併設された[[白糸台車両基地]]で行われる。大規模な検査・修繕については[[武蔵丘車両検修場]](かつては旧[[西武所沢車両工場]])で実施するため、本線側に常駐している間に行う。 JR中央線の高架化工事中は、甲種輸送ができなかったため部品の輸送で対応していたが、JR中央線の高架化工事完了後は車両の甲種輸送が再開された(「[[中央線快速#連続立体交差事業]]」も参照)。 === 現用車両 === * [[西武101系電車#新101系・301系|新101系]] (2010年 - )<ref name="zukan">{{Cite web|和書|title=101系|電車図鑑|西武鉄道Fan!|url=https://www.seiburailway.jp/fan/zukan/101-301/index.html|website=西武鉄道Webサイト|accessdate=2020-07-31|language=ja|publisher=|date=2020-03-31}}</ref> ** [[2010年]]3月より[[西武101系電車#旧101系|旧101系]]の置き換えのため導入開始<ref name="nr101101" />。車体色を白に変更したワンマン運転対応車を当初から使用している<ref name="nr101101" />。 ** 導入当初は、車両の投入時期にあわせ「春」「夏」「秋」「冬」の[[四季]]をテーマとしたイラストが先頭車両に[[ラッピング車両|ラッピング]]されていた<ref name="Seibu20100315"/><ref name="SEIBU2010summer">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20100613062923/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/06/04/20100604tamagawasen_summer.pdf 多摩川線に「夏」号6月12日デビュー!]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref><ref name="SEIBU2010Autumn">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120721063412/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/09/07/20100907tamagawa-autumn.pdf 多摩川線に「秋」号9月11日デビュー!]}}(西武鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2012年時点の版)。</ref><ref name="pr101216">{{Cite press release|和書|title=多摩川線に「冬」号 12月23日デビュー! |publisher=西武鉄道 |date=2010-12-16 |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/12/16/20101216tamagawa-winter.pdf |format=PDF |accessdate=2020-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160812012628/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/12/16/20101216tamagawa-winter.pdf |archivedate=2016-08-12}}</ref>。このイラストは沿線の小学生から募集したものである<ref name="Seibu20100315"/><ref name="SEIBU2010summer"/><ref name="SEIBU2010Autumn"/><ref name="pr101216" />。 <gallery> ファイル:Series New101 247F in Kyoteijyo-mae 20101117.jpg|「春」ラッピング<br>(2010年11月) ファイル:Seibu101kei natsu.JPG|「夏」ラッピング<br>(2010年7月) ファイル:Series New101 251F in Kyoteijyo-mae 20100911.jpg|「秋」ラッピング<br>(2010年9月) ファイル:Series New101 253F in Kyoteijyo-mae 20110212.jpg|「冬」ラッピング<br>(2011年2月) File:Series New101 spring summer 20100612.jpg|「春」「夏」ラッピング<br>(2010年6月) </gallery> ==== 新101系の塗色変更 ==== [[2017年]]から[[2018年]]にかけて多摩川線開業100周年を記念し、[[伊豆箱根鉄道1300系電車|伊豆箱根鉄道カラー]]<ref name=nr170914 />、[[赤電 (西武)|赤電]]塗装(西武鉄道の旧塗装)<ref name="nr171207">[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20171207akaden.pdf 多摩湖線・多摩川線になつかしの「赤電」が登場!西武鉄道で昔活躍していた701系「レッド×ベージュ色」塗装色の電車を多摩湖線・多摩川線で運転!多摩川線開業100周年で登場した「伊豆箱根鉄道創業100周年コラボレーション色電車」を多摩湖線で運転!] 西武鉄道ニュースリリース、2017年12月7日、2020年7月31日閲覧。</ref>、ツートンカラー(101系デビュー時の塗装)<ref name="nr180319">[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20180319yellow_beige101.pdf 多摩湖線・多摩川線になつかしの「101系」塗色復活!ツートンカラー「イエロー×ベージュ」] 西武鉄道ニュースリリース(2018年3月19日)2020年7月31日閲覧</ref>、[[近江鉄道100形電車 (2代)|近江鉄道カラー]]<ref name="nr180611">[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2018/20180611oumicolor101.pdf 多摩湖線・多摩川線に近江鉄道100形塗色の101系登場] 西武鉄道ニュースリリース(2018年6月11日)2020年7月31日閲覧</ref>に塗色変更された新101系が登場した<ref name="zukan" />。一部の駅には運行中の各車両のカラーリングを解説するポスターが掲示されていることがある。 * 伊豆箱根カラー ** 2017年[[10月22日]]に多摩川線が開業100周年を迎えたことを記念し、同年[[9月29日]]から年末まで行った記念イベント「多摩川線開業100周年期間」の一環として<ref name="nr170914" />、同年に創業100周年を迎えた[[伊豆箱根鉄道]]との[[コラボレーション]]企画で、[[伊豆箱根鉄道1300系電車|伊豆箱根鉄道カラー]]に塗色変更した編成を運行した<ref name="nr170914">[https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2017/20170914tamagawasen100.pdf おかげさまで多摩川線は開業100周年を迎えます!「多摩川線開業100周年」イベントなどを開催!9月29 日(金)~12月31日(日)までイベントなどを実施!「伊豆箱根鉄道」とコラボレーションした色の電車を運転!] 西武鉄道ニュースリリース、2017年9月24日、2020年7月31日閲覧。</ref>。その後は[[2018年]][[1月24日]]からは多摩湖線で運行している<ref name="nr171207" />。 * 赤電塗装 ** [[2018年]]1月24日からは、多摩川線開業100周年イベント時のアンケートで要望が多かった、西武鉄道の旧塗装「[[赤電 (西武)|赤電]]塗装」([[西武701系電車|西武701系]]のデビュー当時のレッド×ベージュの塗色)を復刻した編成を運行開始した<ref name="zukan" /><ref name="nr171207" />。赤電塗装の編成は、[[2017年]][[12月17日]]から2018年1月19日まで多摩湖線で運行した<ref name="nr171207" />。 * ツートンカラー ** 2018年[[4月18日]]からは、多摩川線開業100周年イベント時のアンケートで赤電塗装の次に要望が多かった、新101系のデビュー当時の塗色であるイエロー×ベージュのツートンカラーを復刻した編成を運行開始した<ref name="zukan" /><ref name="nr180319" />。ツートンカラーの編成は、同年3月24日から4月6日まで多摩湖線で運行した<ref name="nr180319" />。これにより、旧101系の運用終了で消滅していた多摩川線の「黄色い電車」<ref name="com101106">{{Cite web|和書|title=西武多摩川線の旧101系が引退|url=https://www.tetsudo.com/news/615/|website=[[鉄道コム]]|date=2010-11-06|accessdate=2020-07-31|language=ja|publisher=}}</ref>が復活した。 * 近江鉄道カラー(1251編成) ** 2018年[[7月11日]]からは、多摩川線開業100周年と[[近江鉄道]]創立120周年を記念して、[[近江鉄道100形電車 (2代)|近江鉄道「湖風号(うみかぜごう)」カラー]]に塗色変更した新101系も運行開始した<ref name="zukan" /><ref name="nr180611" />。近江鉄道カラーの編成は、同年6月14日から6月18日まで多摩湖線で運行した<ref name="nr180611" />。 <gallery> ファイル:Series New101 1249F Izuhakone 1300 20171030.jpg|[[伊豆箱根鉄道1300系電車|伊豆箱根鉄道1300系]]カラー<br>(2017年10月) ファイル:Seibu101n-akaden.jpg|[[赤電 (西武)|赤電]]塗装<br>(2018年1月) File:Seibu Series101-1245F.jpg|ツートンカラー復刻塗装<br>(2022年10月) File:Seibu Series101-1251F.jpg|[[近江鉄道100形電車 (2代)|近江鉄道100形「湖風号」]]カラー<br>(2022年10月) </gallery> === 過去の車両 === * [[西武101系電車#旧101系|旧101系]] (1996年 - 2010年) ** 1996年のワンマン運転開始に合わせて導入<ref name="nr101101" />。 ** 前述のとおり、2006年から2008年にかけては、JR中央線の高架化工事のため甲種輸送ができず、[[白糸台車両基地]]で部品を交換する形で整備を行っていた。 ** 2008年に[[西武多摩湖線|多摩湖線]]での運用が終了した後は、西武線唯一の旧101系運用路線となっていた<ref name="com101106" />。[[2010年]]3月より新101系への置き換えが始まり<ref name="nr101101" />、同年[[11月9日]]をもって最後の223号編成が運用終了した<ref name="nr101101">{{Cite press release|和書|title=11月9日(火)、感謝の気持ちを込めてラストラン 多摩川線の「黄色い電車」が引退します |publisher=西武鉄道 |date=2010-11-02 |url=http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/11/02/20101101_101-lastrun.pdf |format=PDF |accessdate=2020-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101121153458/http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2010/__icsFiles/afieldfile/2010/11/02/20101101_101-lastrun.pdf |archivedate=2010-11-21}}</ref>。最後の223号編成(4両編成)は、[[1976年]]に[[西武所沢車両工場]]で新造され[[西武池袋線|池袋線]]・[[西武秩父線]]に投入、1996年の多摩川線ワンマン運転開始に合わせて[[1995年]]度にワンマン改造を受け転属した<ref name="nr101101" />。この223号編成の運用離脱をもって旧101系の運用は終了した<ref name="nr101101" /><ref name="com101106" />。同年11月3日から11月9日までは[[さよなら運転|ラストラン]]として、223号編成に「さよなら黄色い電車」「ありがとう黄色い電車」の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]を付けて運行した<ref name="nr101101" /><ref name="com101106" />。 <gallery perrow="5" widths="220" style="font-size:100%;"> ファイル:Series 101 223F in Tama 20101104.jpg|「さよなら黄色い電車」<br>(多磨駅、2010年11月4日撮影) ファイル:Series 101 223F in Kyoteijyo-mae 20101104.jpg|「ありがとう黄色い電車」<br />(競艇場前駅、2010年11月4日撮影) </gallery> {{-}} ワンマン運転化以前は、新宿線系統から多摩川線へ転属してきた[[西武411系電車|401系]]、[[西武701系電車|701系]]、[[赤電 (西武)|赤電]]と呼ばれていた[[西武451系電車|451系]]や[[西武551系電車|551系・571系]]などが使用されていた。 {{-}} === 車両数の変遷 === {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%" |- !年!!351系!!クハ1411形!!501系!!701系!!571系!!451系!!クハ1651形!!551系!!401系!!101系!!合計 |- |1978||6||6||4||||||||||||||||16 |- |1982||||||||4||4||5||3||||||||16 |- |1983||||||||4||10||1||1||||||||16 |- |1984||||||||4||6||3||3||||||||16 |- |1985<br>-1987||||||||4||6||||3||3||||||16 |- |1988<br>-1991||||||||12||||||||||4||||16 |- |1992<br>-1995||||||||16||||||||||||||16 |- |1996<br>-2011||||||||||||||||||||16||16 |- |} * 1978年は10月1日時点、1982・1983年は1月1日時点、1984年以降は4月1日時点 * 出典:『私鉄車両編成表』各年版(ジェー・アール・アール) === 多摩鉄道(旧西武鉄道)時代の車両 === ;蒸気機関車 ;客車 :フハ1・2→ハフ1・2 :* 開業用に国鉄より払下げ<ref>[{{NDLDC|974236/92}} 『鉄道院鉄道統計資料. 大正6年度』] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>を受けた元[[甲武鉄道]]の木製2軸[[客車]](明治27年[[平岡工場]]製、定員50人)旧ハ2302・2303<ref>形式図[{{NDLDC|2942239/215}} 『客車略図』] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 : ;内燃動車 :キハ10形(10-12) :* 1928年黒板工業所製<ref>[{{NDLDC|968834/183}} 『日本全国諸会社役員録. 第30囘』] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(竣工図に目黒板工業所と表記されていたため誤って伝えられていた)の木製2軸ガソリンカー(定員40人)。調子が悪く翌年に松井製作所にて大改造されている。戦後は使用されることなく廃車となった。 : :キハ20形(21・22) :* 1938年[[日本車輌製造]]製の半鋼製2軸ガソリンカー(定員50人)。日曜祭日彼岸時には武蔵境駅 - 多磨墓地前駅間を15分毎に頻発運転していた。燃料が逼迫していた戦中は[[木炭]]瓦斯発生装置を取付した[[代燃車]]となっている<ref>『内燃動車発達史 上巻』103頁</ref>。1953年改造され3扉化、車体延長され[[ボギー車]]となりクハ1121・1122となる。その後は他の私鉄に譲渡され、[[羽後交通雄勝線]]デハ7、[[豊橋鉄道]]ク1505→2301となった<ref>『内燃動車発達史 上巻』105頁</ref>。詳細は「[[西武モハ101形電車]]」を参照。 == 駅一覧 == * 全駅[[東京都]]([[多摩地域]])に所在。 * 線路(西武多摩川線内は全線単線) … ∨、◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2013年]]3月までに順次導入された<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2011/__icsFiles/afieldfile/2012/02/23/20110223eki-number.pdf 西武線全駅で駅ナンバリングを導入します] 西武鉄道公式サイト(2012年4月25日閲覧)</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:4em;"|駅番号 !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:7.5em;"|駅名 !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:2.5em;"|駅間キロ !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:2.5em;"|累計キロ !style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #ef810f; width:1em;"|{{縦書き|線路}} !style="border-bottom:solid 3px #ef810f;"|所在地 |- !SW01 |[[武蔵境駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC13) |style="text-align:center;"|∨ |style="white-space:nowrap;"|[[武蔵野市]] |- !SW02 |[[新小金井駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|1.9 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |[[小金井市]] |- !SW03 |[[多磨駅]]<br />{{smaller|(東京外大前)}} |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|4.1 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="4"|[[府中市 (東京都)|府中市]] |- !SW04 |[[白糸台駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|5.5 | |style="text-align:center;"|◇ |- !SW05 |[[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|7.0 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !SW06 |[[是政駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|8.0 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |} == 輸送・収支実績 == {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !年度!!輸送人員(人)!!貨物量(トン) |- |1949||1,225,522||179,937 |- |1952||2,276,808||273,981 |- |1958||4,118千||226,039 |- |1963||7,263千||22,813 |- |1966||6,740千||7,512 |- |1970||4,980千||- |- |} * 出典:『地方鉄道軌道統計年報』『私鉄統計年報』各年版 === 戦前の輸送収支実績 === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;" |- ! colspan="10"|年度別実績 |- !年度!!輸送人員(人)!!貨物量(トン)!!営業収入(円)!!営業費(円)!!営業益金(円)!!その他益金(円)!!その他損金(円)!!支払利子(円)!!政府補助金(円) |- |1917||1,299||5,889||915||802||113||砂利販売 420|||||| |- |1918||10,242||207,681||18,261||46,470||▲ 28,209||||砂利販売 22,176||9,401|| |- |1919||14,165||117,043||32,346||31,010||1,336||砂利販売 86,340||償却金及差損金 13,621||29,707||19,939 |- |1920||18,587||109,594||36,445||48,170||▲ 11,725||砂利販売 58,197||||23,364||26,233 |- |1921||21,980||94,013||40,304||49,013||▲ 8,709|||||||| |- |1922||26,265||164,677||75,420||69,538||5,882|||||||| |- |1923||21,755||134,847||66,607||60,284||6,323||砂利販売 248,512||砂利販売 240,623||31,041|| |- |1924||23,883||189,767||100,059||63,930||36,129||砂利 39,142||||21,172|| |- |1925||28,890||170,269||91,218||62,995||28,223||砂利業 5,293||||19,619|| |- |1926||19,212||156,107||83,781||59,169||24,612||||砂利業 27,320||27,116|| |- |1927||13,955||98,238||51,162||50,171||991||||砂利 42,056||13,744|| |- |1928||21,234||189,095|||||||||||||| |- |1929||59,026||191,947|||||||||||||| |- |1930||158,935||128,734|||||||||||||| |- |1931||186,228||150,861|||||||||||||| |- |1932||193,523||131,912|||||||||||||| |- |1933||223,660||114,910|||||||||||||| |- |1934||254,577||58,720|||||||||||||| |- |1935||268,698||53,291|||||||||||||| |- |1936||289,251||62,437|||||||||||||| |- |1937||302,349||55,027|||||||||||||| |- |1939||515,728||90,608|||||||||||||| |- |1941||761,792||107,405|||||||||||||| |- |1943||962,493||82,776|||||||||||||| |- |} * 出典:『鉄道院鉄道統計資料』『鉄道省鉄道統計資料』『鉄道統計資料』『鉄道統計』『国有鉄道陸運統計』各年度版 * 1928年度以降の収支は西武鉄道への合併により省略 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]『[http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33826.html 鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町]』[[吉川弘文館]] [[歴史文化ライブラリー]]224、2006年12月1日 第1刷発行、2007年4月10日 第4刷発行、{{ISBN2|978-4-642-05622-9}} * 青木栄一「西武鉄道のあゆみ」『[[鉄道ピクトリアル]]』1992年5月臨時増刊号 No.560、103-104頁 * 加藤新一・今城光英・酒井秀夫「西武鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.231、63-64頁 * [[高嶋修一]]「西武鉄道のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』2002年4月臨時増刊号 No.716【特集】西武鉄道([[電気車研究会|鉄道図書刊行会]])97 - 112頁 *『写真で見る西武鉄道100年』[[ネコ・パブリッシング]]、2013年7月19日発行、ISBN 978-4777013760 == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * 他の大手私鉄の自社路線網からの孤立路線 ** [[名鉄瀬戸線]] ** [[近鉄田原本線]] ** [[西鉄貝塚線]] * [[盲腸線]] - 西武多摩川線のように、始発・終着駅のどちらかが他の鉄道路線に接続していない路線の俗称。 {{西武鉄道の路線}} {{デフォルトソート:せいふたまかわせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|たまかわせん]] [[Category:西武鉄道の鉄道路線|たまかわ]] [[Category:西武鉄道 (初代)|路]] [[Category:多摩鉄道|路]] [[Category:東京都の交通|せいふたまかわせん]]
2003-08-20T04:29:46Z
2023-12-18T19:01:20Z
false
false
false
[ "Template:西武鉄道の路線", "Template:要検証範囲", "Template:-", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:ISBN2", "Template:See also", "Template:Efn", "Template:Cite book", "Template:混同", "Template:Infobox 鉄道路線", "Template:UKrail-header2", "Template:BS3", "Template:いつ範囲", "Template:PDFlink", "Template:要検証", "Template:縦書き", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:BS-table", "Template:Smaller", "Template:Notelist", "Template:Cite press release" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E7%B7%9A
13,602
Sed (コンピュータ)
sed(セド)は、入力ストリーム(ファイルまたはパイプラインからの入力)に対してテキスト変換などのデータ処理をおこなうために使用されるプログラムである。名称「sed」は「ストリームエディタ」を意味する英語「stream editor」に由来する。 sedは、入力を行単位で読み取り、sedスクリプトと呼ばれるシンプルな命令文に従ってテキスト変換などの編集をおこない、また行単位で出力する。基本的には照合ルールに従い場合分けをおこなうフィルタと捉えることができる。オリジナル版のsedはベル研究所のマクマホンによって1973年前後に開発されたUNIXユーティリティで、現在ではコマンドラインをサポートするさまざまなオペレーティングシステムに搭載されている。 大量のテキストファイルに対して一括で定形の処理をおこなう場合に大きな威力を発揮する。正規表現に対応しており、ある条件の範囲内の文字列を探し出して処理することができる。特定の条件に合った文字列を検索し置換するなどの用途に用いる。 アドレスとは入力データの行を指定するもので、行番号または正規表現パターンのことである。sedのスクリプトはアドレスとコマンドを並べて書いたものである。 sedは基本的に、「アドレスで指定された条件を満たす入力データ行を、コマンドで処理して出力する」という動作を全データ行にわたり繰り返す。アドレス指定は省略することができ、その場合には、入力データの行番号や内容に関係なくコマンドが適用される。 例えば、下記のスクリプトは、入力データの10行目のみを出力するものである。 sedはデータを一行だけ読み込み、それをパターンスペースと呼ばれる場所に格納し、パターンスペースのデータに対してスクリプトを順に評価してゆく。まず、スクリプト「10 p」を評価し、入力データ(パターンスペース)の行番号が10である場合に p コマンドによってパターンスペースのデータを出力する。そして次のスクリプト「d」を評価し、入力データの行番号や内容に関係なく無条件に d コマンドを適用し、パターンスペースのデータを削除する。sedはスクリプトの終わりに到達すると、パターンスペースにデータが残っている場合、パターンスペースの内容を出力して、次の入力データの処理に移る。このスクリプトでは、スクリプトの2行目で、パターンスペースのデータが削除されているため、データの出力はせずに次の入力データの処理に移る。 条件によって次の行を読み込んだり、ホールドスペースと呼ばれるバッファに確保して後続の読み込みと合成することもできる。これらを利用するとフォーマット変換や特定の文脈パターンを抽出するなど、かなり高度な処理が可能となる。実際sedはチューリング完全な言語であることが証明されている。 通常のワークエリアの事をパターンスペースと呼び、これと対になる裏バッファを持っており、これをホールドスペースと呼ぶ。 ホールドスペースには、次のコマンドが使用できる。 sedのインストールされているコマンドライン環境において、以下のように入力することで、データの処理がおこなえる(入力.txt を入力ファイル名、出力.txt を出力ファイル名とする)。 対話型テキストエディタと異なり、処理の経過・内容を逐次ユーザに確認することはない。非対話型であること、複数ファイルを一括して処理できることから、作業は対話型エディタによる逐次処理に比して極めて高速であり、生産性も高い。 プログラムのソースコードや、HTMLファイル中のハイパーリンクを一括して訂正するなどの処理に使用される。また、通常の文章の誤記・表記不統一などを一括して訂正するなどの用途にも使用され、たとえば日本語データの場合、正規表現を用いることで送り仮名を含む文章の処理などに用いられる。 現在ではWindowsやMacintoshなどにも移植されている。基本的にコマンドラインツールだが、これらのOS向けの版では、ユーザーがCUI(コマンドライン)に慣れていないことも考慮し、近年ではGUIで扱うためのツールも提供され始めている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "sed(セド)は、入力ストリーム(ファイルまたはパイプラインからの入力)に対してテキスト変換などのデータ処理をおこなうために使用されるプログラムである。名称「sed」は「ストリームエディタ」を意味する英語「stream editor」に由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "sedは、入力を行単位で読み取り、sedスクリプトと呼ばれるシンプルな命令文に従ってテキスト変換などの編集をおこない、また行単位で出力する。基本的には照合ルールに従い場合分けをおこなうフィルタと捉えることができる。オリジナル版のsedはベル研究所のマクマホンによって1973年前後に開発されたUNIXユーティリティで、現在ではコマンドラインをサポートするさまざまなオペレーティングシステムに搭載されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大量のテキストファイルに対して一括で定形の処理をおこなう場合に大きな威力を発揮する。正規表現に対応しており、ある条件の範囲内の文字列を探し出して処理することができる。特定の条件に合った文字列を検索し置換するなどの用途に用いる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アドレスとは入力データの行を指定するもので、行番号または正規表現パターンのことである。sedのスクリプトはアドレスとコマンドを並べて書いたものである。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "sedは基本的に、「アドレスで指定された条件を満たす入力データ行を、コマンドで処理して出力する」という動作を全データ行にわたり繰り返す。アドレス指定は省略することができ、その場合には、入力データの行番号や内容に関係なくコマンドが適用される。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "例えば、下記のスクリプトは、入力データの10行目のみを出力するものである。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "sedはデータを一行だけ読み込み、それをパターンスペースと呼ばれる場所に格納し、パターンスペースのデータに対してスクリプトを順に評価してゆく。まず、スクリプト「10 p」を評価し、入力データ(パターンスペース)の行番号が10である場合に p コマンドによってパターンスペースのデータを出力する。そして次のスクリプト「d」を評価し、入力データの行番号や内容に関係なく無条件に d コマンドを適用し、パターンスペースのデータを削除する。sedはスクリプトの終わりに到達すると、パターンスペースにデータが残っている場合、パターンスペースの内容を出力して、次の入力データの処理に移る。このスクリプトでは、スクリプトの2行目で、パターンスペースのデータが削除されているため、データの出力はせずに次の入力データの処理に移る。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "条件によって次の行を読み込んだり、ホールドスペースと呼ばれるバッファに確保して後続の読み込みと合成することもできる。これらを利用するとフォーマット変換や特定の文脈パターンを抽出するなど、かなり高度な処理が可能となる。実際sedはチューリング完全な言語であることが証明されている。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "通常のワークエリアの事をパターンスペースと呼び、これと対になる裏バッファを持っており、これをホールドスペースと呼ぶ。 ホールドスペースには、次のコマンドが使用できる。", "title": "sedスクリプトの基本的な文型" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "sedのインストールされているコマンドライン環境において、以下のように入力することで、データの処理がおこなえる(入力.txt を入力ファイル名、出力.txt を出力ファイル名とする)。", "title": "コマンドラインでの実行" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "対話型テキストエディタと異なり、処理の経過・内容を逐次ユーザに確認することはない。非対話型であること、複数ファイルを一括して処理できることから、作業は対話型エディタによる逐次処理に比して極めて高速であり、生産性も高い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プログラムのソースコードや、HTMLファイル中のハイパーリンクを一括して訂正するなどの処理に使用される。また、通常の文章の誤記・表記不統一などを一括して訂正するなどの用途にも使用され、たとえば日本語データの場合、正規表現を用いることで送り仮名を含む文章の処理などに用いられる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現在ではWindowsやMacintoshなどにも移植されている。基本的にコマンドラインツールだが、これらのOS向けの版では、ユーザーがCUI(コマンドライン)に慣れていないことも考慮し、近年ではGUIで扱うためのツールも提供され始めている。", "title": "特徴" } ]
sed(セド)は、入力ストリーム(ファイルまたはパイプラインからの入力)に対してテキスト変換などのデータ処理をおこなうために使用されるプログラムである。名称「sed」は「ストリームエディタ」を意味する英語「stream editor」に由来する。 sedは、入力を行単位で読み取り、sedスクリプトと呼ばれるシンプルな命令文に従ってテキスト変換などの編集をおこない、また行単位で出力する。基本的には照合ルールに従い場合分けをおこなうフィルタと捉えることができる。オリジナル版のsedはベル研究所のマクマホンによって1973年前後に開発されたUNIXユーティリティで、現在ではコマンドラインをサポートするさまざまなオペレーティングシステムに搭載されている。 大量のテキストファイルに対して一括で定形の処理をおこなう場合に大きな威力を発揮する。正規表現に対応しており、ある条件の範囲内の文字列を探し出して処理することができる。特定の条件に合った文字列を検索し置換するなどの用途に用いる。
{{脚注の不足|date=2019年8月12日 (月) 18:30 (UTC)}}{{ページ番号|date=2019年8月}}{{小文字}} {{Infobox プログラミング言語 |fetchwikidata = ALL |name = sed }} '''sed'''(セド)は、入力ストリーム(ファイルまたはパイプラインからの入力)に対してテキスト変換などのデータ処理をおこなうために使用される[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]である。名称「sed」は「[[ストリームエディタ]]」を意味する英語「{{lang|en|'''s'''tream '''ed'''itor}}」に由来する<ref name=":0" />。 <!--本稿では、「行う」は「おこなう」の表記を用いる。「行」の字がlineのみを意味するようにするためである--> sedは、入力を行単位で読み取り、sedスクリプトと呼ばれるシンプルな命令文に従ってテキスト変換などの編集をおこない、また行単位で出力する<ref name=":0" />。基本的には照合ルールに従い場合分けをおこなうフィルタと捉えることができる。オリジナル版のsedは[[ベル研究所]]のマクマホンによって[[1973年]]前後に開発されたUNIXユーティリティ<ref>{{Cite web |url=http://www.princeton.edu/~hos/Mahoney/unixpeople.htm |title=In the Beginning: Unix at Bell Labs |access-date=2023/02/05 |publisher=Michael S. Mahoney Professor of Princeton University}}</ref><ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.pement.org/sed/sedfaq2.html#s2.1 |title=What is sed? The sed FAQ |access-date=2023/02/05 |publisher=[https://www.pement.org/ Eric Pement]}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.columbia.edu/~rh120/ch106.x09 |title=Netizens On the History and Impact of the Net /Netizens: An Anthology CHAPTER 9 |access-date=2023/02/05 |publisher=Jay & Ronda Hauben}}</ref>で、現在ではコマンドラインをサポートするさまざまな[[オペレーティングシステム]]に搭載されている<ref name=":0" />。 大量のテキストファイルに対して一括で定形の処理をおこなう場合に大きな威力を発揮する。[[正規表現]]に対応しており、ある条件の範囲内の文字列を探し出して処理することができる。特定の条件に合った文字列を[[検索]]し置換するなどの用途に用いる<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.gnu.org/software/sed/manual/sed.html#Introduction |title=GNU sed manual |access-date=2023/02/05 |publisher=gnu.org}}</ref>。 == sedスクリプトの基本的な文型 == === アドレスとコマンド === '''アドレス'''とは入力データの行を指定するもので、行番号または正規表現パターンのことである。sedのスクリプトはアドレスとコマンドを並べて書いたものである<ref name=":1" />。 アドレス<sub>1</sub> コマンド<sub>1</sub> アドレス<sub>2</sub> コマンド<sub>2</sub> アドレス<sub>3</sub> コマンド<sub>3</sub> : sedは基本的に、「アドレスで指定された条件を満たす入力データ行を、コマンドで処理して出力する」という動作を全データ行にわたり繰り返す。アドレス指定は省略することができ、その場合には、入力データの行番号や内容に関係なくコマンドが適用される。 例えば、下記のスクリプトは、入力データの10行目のみを出力するものである。 <code>10 p</code> <code>d</code> sedはデータを一行だけ読み込み、それを'''パターンスペース'''と呼ばれる場所に格納し、パターンスペースのデータに対してスクリプトを順に評価してゆく。まず、スクリプト「<code>10 p</code>」を評価し、入力データ(パターンスペース)の行番号が10である場合に <code>p</code> コマンドによってパターンスペースのデータを出力する。そして次のスクリプト「<code>d</code>」を評価し、入力データの行番号や内容に関係なく無条件に <code>d</code> コマンドを適用し、パターンスペースのデータを削除する。sedはスクリプトの終わりに到達すると、パターンスペースにデータが残っている場合、パターンスペースの内容を出力して、次の入力データの処理に移る。このスクリプトでは、スクリプトの2行目で、パターンスペースのデータが削除されているため、データの出力はせずに次の入力データの処理に移る。 条件によって次の行を読み込んだり、'''ホールドスペース'''と呼ばれるバッファに確保して後続の読み込みと合成することもできる。これらを利用するとフォーマット変換や特定の文脈パターンを抽出するなど、かなり高度な処理が可能となる。実際sedは[[チューリング完全]]な言語であることが証明されている。 === <tt>y</tt> コマンド === y/検索文字/置換文字/ : パターンスペースのある一文字を検索し置換するためには、行頭が <tt>y</tt> から始まるコマンドを用いる。これは一文字単位で検索置換をおこなうので、文字列(単語など)については用いることができない。なお、sedスクリプトにおいてはスラッシュ (<code>/</code>) で挟まれた文字ないし文字列を対象とするので、末尾のスラッシュを省略するとエラーになる。 <code>y/○/●/</code> <code>y/△/▲/</code> <code>y/□/■/</code> : このように記述すると、○→●、△→▲、□→■ というように、一文字ずつ置き換える。 : だがこれは、次のように一行にまとめることができ、スクリプトの行数を減らすことができる。 <code>y/○△□/●▲■/</code> : <code>y</code> コマンドは、先頭から一対一で実行していくため、 <code>y/○△□/●/</code> : というように、前と後とで字数が合っていない場合はエラーになる。 === <tt>s</tt> コマンド === s/検索パターン/置換文字列/g : 単語や文章などに照合するパターンを検索・置換する場合には、<tt>s</tt> から始まるコマンドを用いる。<tt>s</tt> の次の文字(上の例では <tt>/</tt> 文字)が、検索パターンや置換文字列の区切りになる。 : 上記のように末尾に <tt>g</tt> と指定することで、検索パターンに[[パターンマッチング|マッチ]](照合)する<u>すべて</u>の文字列を置換する。 : 検索文字列は正規表現で指定する。正規表現が区切り文字を含むときは、<tt>\</tt> 文字を前置きする。上記のように <tt>/</tt> が区切り文字のとき、<tt>/</tt> 文字を検索するなら、<tt>\/</tt> と指定する。 : 置換文字列では、<tt>&amp;</tt> 文字や <tt>\</tt> 文字が特別な意味をもつ。<tt>&amp;</tt> 文字は、照合した文字列に置き換わる。<tt>&amp;</tt> 文字自体に置換するときは、<tt>\&amp;</tt> と指定し、<tt>\</tt> 文字自体に置換するときは、<tt>\\</tt> と指定する。上記のように <tt>/</tt> が区切り文字のとき、<tt>/</tt> 文字に置換するなら <tt>\/</tt> と指定する。 : なお、末尾の <tt>g</tt> という指定を省くと、パターンスペースの中で最初の文字列にだけ検索・置換を実行し、2番目以降は無視する。 === ホールドスペースの利用 === 通常のワークエリアの事を'''パターンスペース'''と呼び、これと対になる裏バッファを持っており、これを'''ホールドスペース'''と呼ぶ。 ホールドスペースには、次のコマンドが使用できる。 * g:パターンスペースにホールドスペースの内容をコピーする。元のパターンスペースの内容は上書きで消される。 * G:パターンスペースの末尾にホールドスペースの内容が追加される。パターンスペースの末尾の改行は保持される。 * h:パターンスペースの内容をホールドスペースにコピーする。元のホールドスペースの内容は上書きで消される。 * H:パターンスペースの内容をホールドスペースの末尾にコピーする。 * x:パターンスペースの内容とホールドスペースの内容を入れ替える(交換する)。 == コマンドラインでの実行 == sedの[[インストール]]されているコマンドライン環境において、以下のように入力することで、データの処理がおこなえる(<tt>入力.txt</tt> を入力ファイル名、<tt>出力.txt</tt> を出力ファイル名とする)。 <tt>sed -e 's/検索文字列/置換文字列/g' 入力.txt &gt; 出力.txt</tt> : [[Bourne Shell]]や[[C Shell]]では、あるsedスクリプトを単独で使用する場合、このように入力する(これらのシェルを使用する場合、シングルクォート (<tt>'</tt>) は、[[ワイルドカード (情報処理)|ワイルドカード]]などのシェルの特殊文字をシェルが解釈してしまわないように付加する)。 : <tt>-e</tt> オプションは、「以下に続く文字列をスクリプトとして処理する」指定である。 : <tt>入力.txt</tt> の中の、検索条件に照合するすべての文字列を処理し、<tt>出力.txt</tt> というファイルに出力する。 <tt>sed -f スクリプト.sed 入力.txt &gt; 出力.txt</tt> : このように入力することで、予め用意したスクリプトファイルを読み込ませることができる。 : <tt>-f</tt> オプションは、「ファイルからコマンドを読み込み処理する」指定である。 : スクリプトファイル <tt>スクリプト.sed</tt> 中に記述された命令を順に読み込み、<tt>入力.txt</tt> の中の、検索条件に照合するすべての文字列を処理し、検索条件に照合するすべての文字列を処理し、<tt>出力.txt</tt> というファイルに出力する。 == 特徴 == 対話型テキストエディタと異なり、処理の経過・内容を逐次ユーザに確認することはない。非対話型であること、複数ファイルを一括して処理できることから、作業は対話型エディタによる逐次処理に比して極めて高速であり、生産性も高い。 プログラムのソースコードや、[[HyperText Markup Language|HTML]]ファイル中の[[ハイパーリンク]]を一括して訂正するなどの処理に使用される。また、通常の文章の誤記・表記不統一などを一括して訂正するなどの用途にも使用され、たとえば日本語データの場合、正規表現を用いることで送り仮名を含む文章の処理などに用いられる。 現在では[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Macintosh]]などにも移植されている。基本的にコマンドラインツールだが、これらの[[オペレーティングシステム|OS]]向けの版では、ユーザーがCUI(コマンドライン)に慣れていないことも考慮し、近年では[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]で扱うためのツールも提供され始めている。 == 関連項目 == * [[ed (テキストエディタ)]] * [[AWK]] * [[Perl]] * [[正規表現]] * [[フィルタ (ソフトウェア)]] == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=Brian W. Kerninghan|authorlink=ブライアン・カーニハン|coauthors=[[ロブ・パイク|Rob Pike]]|others=[[野中浩一]]訳、[[石田晴久]]監訳|year=1986|month=6|title=UNIXプログラミング環境|series=ASCII海外ブックス|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー出版局]]|isbn=4-87148-351-7}} *{{Cite book|和書|author=Dale Dougherty|authorlink=デール・ドゥラティ|coauthors=[[アーノルド・ロビンス|Arnold Robbins]]|others=[[福崎俊博]]訳|year=1997|month=10|title=sed & awkプログラミング 改訂版|publisher=[[オライリー・ジャパン]]|isbn=4-900900-58-3|url=https://www.oreilly.co.jp/books/4900900583/}} *{{Cite book|和書|author=Arnold Robbins|authorlink=アーノルド・ロビンス|others=[[福崎俊博]]訳|year=2000|month=7|title=sed & awkデスクトップリファレンス|publisher=[[オライリー・ジャパン]]|isbn=4-87311-017-3|url=https://www.oreilly.co.jp/books/4873110173/}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[http://sed.sourceforge.net/sedfaq.html The sed FAQ]{{en icon}} *[https://www.gnu.org/software/sed/manual/sed.html GNU sed manual]{{en icon}} *[http://sed.sourceforge.net/grabbag/scripts/ Sed script archive]{{en icon}} *[https://www.gcd.org/sengoku/sedlec/ SED 教室] *[https://linuxjm.osdn.jp/html/GNU_sed/man1/sed.1.html Manpages of SED] GNU 版{{ja icon}} *[https://docs.oracle.com/cd/E19683-01/817-7410/6mmnue1cm/index.html sed(1)] man page(SunOS リファレンスマニュアル) *[https://nixdoc.net/man-pages/HP-UX/man1/sed.1.html sed(1)] man page(HP-UX リファレンス) *[https://dotinstall.com/lessons/basic_sed sed入門 (全10回)] &mdash; ビデオ講座 {{Computer-stub}} {{テキストエディタ}} {{Unixコマンド}} {{Normdaten}} [[Category:テキストエディタ]] [[Category:標準UNIXプログラム]] [[Category:1974年のソフトウェア]]
null
2023-02-05T03:08:02Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Computer-stub", "Template:Infobox プログラミング言語", "Template:Lang", "Template:En icon", "Template:テキストエディタ", "Template:Unixコマンド", "Template:脚注の不足", "Template:Normdaten", "Template:小文字", "Template:Cite book", "Template:Ja icon", "Template:ページ番号" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Sed_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF)
13,606
学年別漢字配当表
学年別漢字配当表(がくねんべつかんじはいとうひょう)は、小学校で学習する漢字(いわゆる教育漢字、学習漢字)を各学年に割り当て、学年ごとに音訓順に字種を教科書体で示す表。文部科学省が告示する小学校学習指導要領の別表として示される。現行のものは1026字から成り、2017年(平成29年)に告示された小学校学習指導要領で改定され、2020年(令和2年)4月1日に施行された。各学年では、当該学年に配当された漢字を読むこと、前の学年に配当された漢字を書くことを身に付けるよう指導することとされる。 義務教育で扱う漢字は常用漢字のみとされており、この学年別漢字配当表に示された漢字はすべて常用漢字に含まれる。常用漢字2136字のうち、この表にない1110字は中学校以降で習うことになるが、中学校のどの学年でどの字を習うか割り振る定めはなく、教科書によって異なる。 『日本大百科全書』によると文部省は1887年に小学校で教える漢字を約2000字と定めた。『世界大百科事典』によると旧学制時代に学習すべき漢字は、義務教育6年間で約1360字であった。 戦後、1948年に「当用漢字別表」が告示され、義務教育で扱う漢字は881字とされた。学年ごとの割り当てについては規定がなかったことから、新出漢字が教科書によって異なるという状態が現れた。こうした不都合を解消するため1958年に告示され1961年に施行された小学校学習指導要領に学年別漢字配当表が示され、881字を小学校の6年間で学習することになった(1958年の学年別漢字配当表)。 1968年の小学校学習指導要領では「備考」として115字が追加された。1977年の小学校学習指導要領であらためて合計996字が学年別漢字配当表に示され、1980年に施行された(1977年の学年別漢字配当表)。この際、大蔵省印刷局の教科書体活字が使われ、「漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること」とされた。 1989年改定(1992年施行)では、20字追加された一方、10字削除され、1006字になった(1989年の学年別漢字配当表)。 2017年改定・2020年施行の現行のものでは、都道府県名に使われる20字が追加され、全都道府県の漢字表記を第4学年までに習得することとされた。 一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六 引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話 悪 安 暗 医 委 意 育 員 院 飲 運 泳 駅 央 横 屋 温 化 荷 界 開 階 寒 感 漢 館 岸 起 期 客 究 急 級 宮 球 去 橋 業 曲 局 銀 区 苦 具 君 係 軽 血 決 研 県 庫 湖 向 幸 港 号 根 祭 皿 仕 死 使 始 指 歯 詩 次 事 持 式 実 写 者 主 守 取 酒 受 州 拾 終 習 集 住 重 宿 所 暑 助 昭 消 商 章 勝 乗 植 申 身 神 真 深 進 世 整 昔 全 相 送 想 息 速 族 他 打 対 待 代 第 題 炭 短 談 着 注 柱 丁 帳 調 追 定 庭 笛 鉄 転 都 度 投 豆 島 湯 登 等 動 童 農 波 配 倍 箱 畑 発 反 坂 板 皮 悲 美 鼻 筆 氷 表 秒 病 品 負 部 服 福 物 平 返 勉 放 味 命 面 問 役 薬 由 油 有 遊 予 羊 洋 葉 陽 様 落 流 旅 両 緑 礼 列 練 路 和 愛 案 以 衣 位 茨 印 英 栄 媛 塩 岡 億 加 果 貨 課 芽 賀 改 械 害 街 各 覚 潟 完 官 管 関 観 願 岐 希 季 旗 器 機 議 求 泣 給 挙 漁 共 協 鏡 競 極 熊 訓 軍 郡 群 径 景 芸 欠 結 建 健 験 固 功 好 香 候 康 佐 差 菜 最 埼 材 崎 昨 札 刷 察 参 産 散 残 氏 司 試 児 治 滋 辞 鹿 失 借 種 周 祝 順 初 松 笑 唱 焼 照 城 縄 臣 信 井 成 省 清 静 席 積 折 節 説 浅 戦 選 然 争 倉 巣 束 側 続 卒 孫 帯 隊 達 単 置 仲 沖 兆 低 底 的 典 伝 徒 努 灯 働 特 徳 栃 奈 梨 熱 念 敗 梅 博 阪 飯 飛 必 票 標 不 夫 付 府 阜 富 副 兵 別 辺 変 便 包 法 望 牧 末 満 未 民 無 約 勇 要 養 浴 利 陸 良 料 量 輪 類 令 冷 例 連 老 労 録 圧 囲 移 因 永 営 衛 易 益 液 演 応 往 桜 可 仮 価 河 過 快 解 格 確 額 刊 幹 慣 眼 紀 基 寄 規 喜 技 義 逆 久 旧 救 居 許 境 均 禁 句 型 経 潔 件 険 検 限 現 減 故 個 護 効 厚 耕 航 鉱 構 興 講 告 混 査 再 災 妻 採 際 在 財 罪 殺 雑 酸 賛 士 支 史 志 枝 師 資 飼 示 似 識 質 舎 謝 授 修 述 術 準 序 招 証 象 賞 条 状 常 情 織 職 制 性 政 勢 精 製 税 責 績 接 設 絶 祖 素 総 造 像 増 則 測 属 率 損 貸 態 団 断 築 貯 張 停 提 程 適 統 堂 銅 導 得 毒 独 任 燃 能 破 犯 判 版 比 肥 非 費 備 評 貧 布 婦 武 復 複 仏 粉 編 弁 保 墓 報 豊 防 貿 暴 脈 務 夢 迷 綿 輸 余 容 略 留 領 歴 胃 異 遺 域 宇 映 延 沿 恩 我 灰 拡 革 閣 割 株 干 巻 看 簡 危 机 揮 貴 疑 吸 供 胸 郷 勤 筋 系 敬 警 劇 激 穴 券 絹 権 憲 源 厳 己 呼 誤 后 孝 皇 紅 降 鋼 刻 穀 骨 困 砂 座 済 裁 策 冊 蚕 至 私 姿 視 詞 誌 磁 射 捨 尺 若 樹 収 宗 就 衆 従 縦 縮 熟 純 処 署 諸 除 承 将 傷 障 蒸 針 仁 垂 推 寸 盛 聖 誠 舌 宣 専 泉 洗 染 銭 善 奏 窓 創 装 層 操 蔵 臓 存 尊 退 宅 担 探 誕 段 暖 値 宙 忠 著 庁 頂 腸 潮 賃 痛 敵 展 討 党 糖 届 難 乳 認 納 脳 派 拝 背 肺 俳 班 晩 否 批 秘 俵 腹 奮 並 陛 閉 片 補 暮 宝 訪 亡 忘 棒 枚 幕 密 盟 模 訳 郵 優 預 幼 欲 翌 乱 卵 覧 裏 律 臨 朗 論
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "学年別漢字配当表(がくねんべつかんじはいとうひょう)は、小学校で学習する漢字(いわゆる教育漢字、学習漢字)を各学年に割り当て、学年ごとに音訓順に字種を教科書体で示す表。文部科学省が告示する小学校学習指導要領の別表として示される。現行のものは1026字から成り、2017年(平成29年)に告示された小学校学習指導要領で改定され、2020年(令和2年)4月1日に施行された。各学年では、当該学年に配当された漢字を読むこと、前の学年に配当された漢字を書くことを身に付けるよう指導することとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "義務教育で扱う漢字は常用漢字のみとされており、この学年別漢字配当表に示された漢字はすべて常用漢字に含まれる。常用漢字2136字のうち、この表にない1110字は中学校以降で習うことになるが、中学校のどの学年でどの字を習うか割り振る定めはなく、教科書によって異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『日本大百科全書』によると文部省は1887年に小学校で教える漢字を約2000字と定めた。『世界大百科事典』によると旧学制時代に学習すべき漢字は、義務教育6年間で約1360字であった。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "戦後、1948年に「当用漢字別表」が告示され、義務教育で扱う漢字は881字とされた。学年ごとの割り当てについては規定がなかったことから、新出漢字が教科書によって異なるという状態が現れた。こうした不都合を解消するため1958年に告示され1961年に施行された小学校学習指導要領に学年別漢字配当表が示され、881字を小学校の6年間で学習することになった(1958年の学年別漢字配当表)。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1968年の小学校学習指導要領では「備考」として115字が追加された。1977年の小学校学習指導要領であらためて合計996字が学年別漢字配当表に示され、1980年に施行された(1977年の学年別漢字配当表)。この際、大蔵省印刷局の教科書体活字が使われ、「漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること」とされた。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1989年改定(1992年施行)では、20字追加された一方、10字削除され、1006字になった(1989年の学年別漢字配当表)。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2017年改定・2020年施行の現行のものでは、都道府県名に使われる20字が追加され、全都道府県の漢字表記を第4学年までに習得することとされた。", "title": "略史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六", "title": "第1学年(80字)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話", "title": "第2学年(160字)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "悪 安 暗 医 委 意 育 員 院 飲 運 泳 駅 央 横 屋 温 化 荷 界 開 階 寒 感 漢 館 岸 起 期 客 究 急 級 宮 球 去 橋 業 曲 局 銀 区 苦 具 君 係 軽 血 決 研 県 庫 湖 向 幸 港 号 根 祭 皿 仕 死 使 始 指 歯 詩 次 事 持 式 実 写 者 主 守 取 酒 受 州 拾 終 習 集 住 重 宿 所 暑 助 昭 消 商 章 勝 乗 植 申 身 神 真 深 進 世 整 昔 全 相 送 想 息 速 族 他 打 対 待 代 第 題 炭 短 談 着 注 柱 丁 帳 調 追 定 庭 笛 鉄 転 都 度 投 豆 島 湯 登 等 動 童 農 波 配 倍 箱 畑 発 反 坂 板 皮 悲 美 鼻 筆 氷 表 秒 病 品 負 部 服 福 物 平 返 勉 放 味 命 面 問 役 薬 由 油 有 遊 予 羊 洋 葉 陽 様 落 流 旅 両 緑 礼 列 練 路 和", "title": "第3学年(200字)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "愛 案 以 衣 位 茨 印 英 栄 媛 塩 岡 億 加 果 貨 課 芽 賀 改 械 害 街 各 覚 潟 完 官 管 関 観 願 岐 希 季 旗 器 機 議 求 泣 給 挙 漁 共 協 鏡 競 極 熊 訓 軍 郡 群 径 景 芸 欠 結 建 健 験 固 功 好 香 候 康 佐 差 菜 最 埼 材 崎 昨 札 刷 察 参 産 散 残 氏 司 試 児 治 滋 辞 鹿 失 借 種 周 祝 順 初 松 笑 唱 焼 照 城 縄 臣 信 井 成 省 清 静 席 積 折 節 説 浅 戦 選 然 争 倉 巣 束 側 続 卒 孫 帯 隊 達 単 置 仲 沖 兆 低 底 的 典 伝 徒 努 灯 働 特 徳 栃 奈 梨 熱 念 敗 梅 博 阪 飯 飛 必 票 標 不 夫 付 府 阜 富 副 兵 別 辺 変 便 包 法 望 牧 末 満 未 民 無 約 勇 要 養 浴 利 陸 良 料 量 輪 類 令 冷 例 連 老 労 録", "title": "第4学年(202字)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "圧 囲 移 因 永 営 衛 易 益 液 演 応 往 桜 可 仮 価 河 過 快 解 格 確 額 刊 幹 慣 眼 紀 基 寄 規 喜 技 義 逆 久 旧 救 居 許 境 均 禁 句 型 経 潔 件 険 検 限 現 減 故 個 護 効 厚 耕 航 鉱 構 興 講 告 混 査 再 災 妻 採 際 在 財 罪 殺 雑 酸 賛 士 支 史 志 枝 師 資 飼 示 似 識 質 舎 謝 授 修 述 術 準 序 招 証 象 賞 条 状 常 情 織 職 制 性 政 勢 精 製 税 責 績 接 設 絶 祖 素 総 造 像 増 則 測 属 率 損 貸 態 団 断 築 貯 張 停 提 程 適 統 堂 銅 導 得 毒 独 任 燃 能 破 犯 判 版 比 肥 非 費 備 評 貧 布 婦 武 復 複 仏 粉 編 弁 保 墓 報 豊 防 貿 暴 脈 務 夢 迷 綿 輸 余 容 略 留 領 歴", "title": "第5学年(193字)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "胃 異 遺 域 宇 映 延 沿 恩 我 灰 拡 革 閣 割 株 干 巻 看 簡 危 机 揮 貴 疑 吸 供 胸 郷 勤 筋 系 敬 警 劇 激 穴 券 絹 権 憲 源 厳 己 呼 誤 后 孝 皇 紅 降 鋼 刻 穀 骨 困 砂 座 済 裁 策 冊 蚕 至 私 姿 視 詞 誌 磁 射 捨 尺 若 樹 収 宗 就 衆 従 縦 縮 熟 純 処 署 諸 除 承 将 傷 障 蒸 針 仁 垂 推 寸 盛 聖 誠 舌 宣 専 泉 洗 染 銭 善 奏 窓 創 装 層 操 蔵 臓 存 尊 退 宅 担 探 誕 段 暖 値 宙 忠 著 庁 頂 腸 潮 賃 痛 敵 展 討 党 糖 届 難 乳 認 納 脳 派 拝 背 肺 俳 班 晩 否 批 秘 俵 腹 奮 並 陛 閉 片 補 暮 宝 訪 亡 忘 棒 枚 幕 密 盟 模 訳 郵 優 預 幼 欲 翌 乱 卵 覧 裏 律 臨 朗 論", "title": "第6学年(191字)" } ]
学年別漢字配当表(がくねんべつかんじはいとうひょう)は、小学校で学習する漢字(いわゆる教育漢字、学習漢字)を各学年に割り当て、学年ごとに音訓順に字種を教科書体で示す表。文部科学省が告示する小学校学習指導要領の別表として示される。現行のものは1026字から成り、2017年(平成29年)に告示された小学校学習指導要領で改定され、2020年(令和2年)4月1日に施行された。各学年では、当該学年に配当された漢字を読むこと、前の学年に配当された漢字を書くことを身に付けるよう指導することとされる。 義務教育で扱う漢字は常用漢字のみとされており、この学年別漢字配当表に示された漢字はすべて常用漢字に含まれる。常用漢字2136字のうち、この表にない1110字は中学校以降で習うことになるが、中学校のどの学年でどの字を習うか割り振る定めはなく、教科書によって異なる。
'''学年別漢字配当表'''(がくねんべつかんじはいとうひょう)は、小学校で学習する[[漢字]](いわゆる[[教育漢字|'''教育漢字'''、'''学習漢字''']])を各学年に割り当て、学年ごとに音訓順に字種を[[教科書体]]で示す表。[[文部科学省]]が告示する[[小学校学習指導要領]]の別表として示される<ref>[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/05/1384661_4_3_2.pdf 小学校学習指導要領], 42–45ページ.平成29年3月, 文部科学省.</ref>。現行のものは'''1026字'''から成り、[[2017年]](平成29年)に告示された小学校学習指導要領で改定され、[[2020年]](令和2年)4月1日に施行された。各学年では、当該学年に配当された漢字を読むこと、前の学年に配当された漢字を書くことを身に付けるよう指導することとされる。 [[義務教育]]で扱う漢字は[[常用漢字]]のみとされており、この学年別漢字配当表に示された漢字はすべて常用漢字に含まれる。常用漢字2136字のうち、この表にない1110字は中学校以降で習うことになるが、中学校のどの学年でどの字を習うか割り振る定めはなく、教科書によって異なる。 == 略史 == 『[[日本大百科全書]]』によると文部省は[[1887年]]に小学校で教える漢字を約2000字と定めた<ref>『[[日本大百科全書]]』「学習漢字」項(久米公 執筆)</ref>。『[[世界大百科事典]]』によると旧学制時代に学習すべき漢字は、義務教育6年間で約1360字であった<ref>『[[世界大百科事典]]』「漢字」項「日本の漢字教育」節(汐見稔幸 執筆)</ref>。 [[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]、[[1948年]]に「当用漢字別表」が告示され、義務教育で扱う漢字は881字とされた。学年ごとの割り当てについては規定がなかったことから、新出漢字が教科書によって異なるという状態が現れた。こうした不都合を解消するため[[1958年]]に告示され[[1961年]]に施行された小学校学習指導要領に学年別漢字配当表が示され、881字を小学校の6年間で学習することになった([[学年別漢字配当表 (1958-1967)|1958年の学年別漢字配当表]])。 [[1968年]]の小学校学習指導要領では「備考」として115字が追加された。[[1977年]]の小学校学習指導要領であらためて合計996字が学年別漢字配当表に示され、[[1980年]]に施行された([[学年別漢字配当表 (1977-1988)|1977年の学年別漢字配当表]])。この際、<!-- [[写研]]の石井中教科書体を基に49字を修整した -->[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]の[[教科書体]]活字が使われ<ref>板倉雅宣 著『教科書体変遷史』朗文堂、2003年、128ページ</ref>、「漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とすること」とされた。 [[1989年]]改定([[1992年]]施行)では、20字追加された一方、10字削除され、1006字になった([[学年別漢字配当表 (1989-2016)|1989年の学年別漢字配当表]])。 2017年改定・2020年施行の現行のものでは、都道府県名に使われる20字が追加され<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ5K4VGYJ5KUTIL02Q.html|title=小学校の必修漢字に都道府県名20字追加 20年度にも|newspaper=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]]|date=2016-05-18|accessdate=2021-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160518004607/http://www.asahi.com/articles/ASJ5K4VGYJ5KUTIL02Q.html|archivedate=2016-05-18}}</ref>、全都道府県の漢字表記を第4学年までに習得することとされた。 == 第1学年(80字) == '''[[wikt:一|一]] [[wikt:右|右]] [[wikt:雨|雨]] [[wikt:円|円]] [[wikt:王|王]] [[wikt:音|音]] [[wikt:下|下]] [[wikt:火|火]] [[wikt:花|花]] [[wikt:貝|貝]] [[wikt:学|学]] [[wikt:気|気]] [[wikt:九|九]] [[wikt:休|休]] [[wikt:玉|玉]] [[wikt:金|金]] [[wikt:空|空]] [[wikt:月|月]] [[wikt:犬|犬]] [[wikt:見|見]] [[wikt:五|五]] [[wikt:口|口]] [[wikt:校|校]] [[wikt:左|左]] [[wikt:三|三]] [[wikt:山|山]] [[wikt:子|子]] [[wikt:四|四]] [[wikt:糸|糸]] [[wikt:字|字]] [[wikt:耳|耳]] [[wikt:七|七]] [[wikt:車|車]] [[wikt:手|手]] [[wikt:十|十]] [[wikt:出|出]] [[wikt:女|女]] [[wikt:小|小]] [[wikt:上|上]] [[wikt:森|森]] [[wikt:人|人]] [[wikt:水|水]] [[wikt:正|正]] [[wikt:生|生]] [[wikt:青|青]] [[wikt:夕|夕]] [[wikt:石|石]] [[wikt:赤|赤]] [[wikt:千|千]] [[wikt:川|川]] [[wikt:先|先]] [[wikt:早|早]] [[wikt:草|草]] [[wikt:足|足]] [[wikt:村|村]] [[wikt:大|大]] [[wikt:男|男]] [[wikt:竹|竹]] [[wikt:中|中]] [[wikt:虫|虫]] [[wikt:町|町]] [[wikt:天|天]] [[wikt:田|田]] [[wikt:土|土]] [[wikt:二|二]] [[wikt:日|日]] [[wikt:入|入]] [[wikt:年|年]] [[wikt:白|白]] [[wikt:八|八]] [[wikt:百|百]] [[wikt:文|文]] [[wikt:木|木]] [[wikt:本|本]] [[wikt:名|名]] [[wikt:目|目]] [[wikt:立|立]] [[wikt:力|力]] [[wikt:林|林]] [[wikt:六|六]]''' == 第2学年(160字) == '''[[wikt:引|引]] [[wikt:羽|羽]] [[wikt:雲|雲]] [[wikt:園|園]] [[wikt:遠|遠]] [[wikt:何|何]] [[wikt:科|科]] [[wikt:夏|夏]] [[wikt:家|家]] [[wikt:歌|歌]] [[wikt:画|画]] [[wikt:回|回]] [[wikt:会|会]] [[wikt:海|海]] [[wikt:絵|絵]] [[wikt:外|外]] [[wikt:角|角]] [[wikt:楽|楽]] [[wikt:活|活]] [[wikt:間|間]] [[wikt:丸|丸]] [[wikt:岩|岩]] [[wikt:顔|顔]] [[wikt:汽|汽]] [[wikt:記|記]] [[wikt:帰|帰]] [[wikt:弓|弓]] [[wikt:牛|牛]] [[wikt:魚|魚]] [[wikt:京|京]] [[wikt:強|強]] [[wikt:教|教]] [[wikt:近|近]] [[wikt:兄|兄]] [[wikt:形|形]] [[wikt:計|計]] [[wikt:元|元]] [[wikt:言|言]] [[wikt:原|原]] [[wikt:戸|戸]] [[wikt:古|古]] [[wikt:午|午]] [[wikt:後|後]] [[wikt:語|語]] [[wikt:工|工]] [[wikt:公|公]] [[wikt:広|広]] [[wikt:交|交]] [[wikt:光|光]] [[wikt:考|考]] [[wikt:行|行]] [[wikt:高|高]] [[wikt:黄|黄]] [[wikt:合|合]] [[wikt:谷|谷]] [[wikt:国|国]] [[wikt:黒|黒]] [[wikt:今|今]] [[wikt:才|才]] [[wikt:細|細]] [[wikt:作|作]] [[wikt:算|算]] [[wikt:止|止]] [[wikt:市|市]] [[wikt:矢|矢]] [[wikt:姉|姉]] [[wikt:思|思]] [[wikt:紙|紙]] [[wikt:寺|寺]] [[wikt:自|自]] [[wikt:時|時]] [[wikt:室|室]] [[wikt:社|社]] [[wikt:弱|弱]] [[wikt:首|首]] [[wikt:秋|秋]] [[wikt:週|週]] [[wikt:春|春]] [[wikt:書|書]] [[wikt:少|少]] [[wikt:場|場]] [[wikt:色|色]] [[wikt:食|食]] [[wikt:心|心]] [[wikt:新|新]] [[wikt:親|親]] [[wikt:図|図]] [[wikt:数|数]] [[wikt:西|西]] [[wikt:声|声]] [[wikt:星|星]] [[wikt:晴|晴]] [[wikt:切|切]] [[wikt:雪|雪]] [[wikt:船|船]] [[wikt:線|線]] [[wikt:前|前]] [[wikt:組|組]] [[wikt:走|走]] [[wikt:多|多]] [[wikt:太|太]] [[wikt:体|体]] [[wikt:台|台]] [[wikt:地|地]] [[wikt:池|池]] [[wikt:知|知]] [[wikt:茶|茶]] [[wikt:昼|昼]] [[wikt:長|長]] [[wikt:鳥|鳥]] [[wikt:朝|朝]] [[wikt:直|直]] [[wikt:通|通]] [[wikt:弟|弟]] [[wikt:店|店]] [[wikt:点|点]] [[wikt:電|電]] [[wikt:刀|刀]] [[wikt:冬|冬]] [[wikt:当|当]] [[wikt:東|東]] [[wikt:答|答]] [[wikt:頭|頭]] [[wikt:同|同]] [[wikt:道|道]] [[wikt:読|読]] [[wikt:内|内]] [[wikt:南|南]] [[wikt:肉|肉]] [[wikt:馬|馬]] [[wikt:売|売]] [[wikt:買|買]] [[wikt:麦|麦]] [[wikt:半|半]] [[wikt:番|番]] [[wikt:父|父]] [[wikt:風|風]] [[wikt:分|分]] [[wikt:聞|聞]] [[wikt:米|米]] [[wikt:歩|歩]] [[wikt:母|母]] [[wikt:方|方]] [[wikt:北|北]] [[wikt:毎|毎]] [[wikt:妹|妹]] [[wikt:万|万]] [[wikt:明|明]] [[wikt:鳴|鳴]] [[wikt:毛|毛]] [[wikt:門|門]] [[wikt:夜|夜]] [[wikt:野|野]] [[wikt:友|友]] [[wikt:用|用]] [[wikt:曜|曜]] [[wikt:来|来]] [[wikt:里|里]] [[wikt:理|理]] [[wikt:話|話]]''' == 第3学年(200字) == '''[[wikt:悪|悪]] [[wikt:安|安]] [[wikt:暗|暗]] [[wikt:医|医]] [[wikt:委|委]] [[wikt:意|意]] [[wikt:育|育]] [[wikt:員|員]] [[wikt:院|院]] [[wikt:飲|飲]] [[wikt:運|運]] [[wikt:泳|泳]] [[wikt:駅|駅]] [[wikt:央|央]] [[wikt:横|横]] [[wikt:屋|屋]] [[wikt:温|温]] [[wikt:化|化]] [[wikt:荷|荷]] [[wikt:界|界]] [[wikt:開|開]] [[wikt:階|階]] [[wikt:寒|寒]] [[wikt:感|感]] [[wikt:漢|漢]] [[wikt:館|館]] [[wikt:岸|岸]] [[wikt:起|起]] [[wikt:期|期]] [[wikt:客|客]] [[wikt:究|究]] [[wikt:急|急]] [[wikt:級|級]] [[wikt:宮|宮]] [[wikt:球|球]] [[wikt:去|去]] [[wikt:橋|橋]] [[wikt:業|業]] [[wikt:曲|曲]] [[wikt:局|局]] [[wikt:銀|銀]] [[wikt:区|区]] [[wikt:苦|苦]] [[wikt:具|具]] [[wikt:君|君]] [[wikt:係|係]] [[wikt:軽|軽]] [[wikt:血|血]] [[wikt:決|決]] [[wikt:研|研]] [[wikt:県|県]] [[wikt:庫|庫]] [[wikt:湖|湖]] [[wikt:向|向]] [[wikt:幸|幸]] [[wikt:港|港]] [[wikt:号|号]] [[wikt:根|根]] [[wikt:祭|祭]] [[wikt:皿|皿]] [[wikt:仕|仕]] [[wikt:死|死]] [[wikt:使|使]] [[wikt:始|始]] [[wikt:指|指]] [[wikt:歯|歯]] [[wikt:詩|詩]] [[wikt:次|次]] [[wikt:事|事]] [[wikt:持|持]] [[wikt:式|式]] [[wikt:実|実]] [[wikt:写|写]] [[wikt:者|者]] [[wikt:主|主]] [[wikt:守|守]] [[wikt:取|取]] [[wikt:酒|酒]] [[wikt:受|受]] [[wikt:州|州]] [[wikt:拾|拾]] [[wikt:終|終]] [[wikt:習|習]] [[wikt:集|集]] [[wikt:住|住]] [[wikt:重|重]] [[wikt:宿|宿]] [[wikt:所|所]] [[wikt:暑|暑]] [[wikt:助|助]] [[wikt:昭|昭]] [[wikt:消|消]] [[wikt:商|商]] [[wikt:章|章]] [[wikt:勝|勝]] [[wikt:乗|乗]] [[wikt:植|植]] [[wikt:申|申]] [[wikt:身|身]] [[wikt:神|神]] [[wikt:真|真]] [[wikt:深|深]] [[wikt:進|進]] [[wikt:世|世]] [[wikt:整|整]] [[wikt:昔|昔]] [[wikt:全|全]] [[wikt:相|相]] [[wikt:送|送]] [[wikt:想|想]] [[wikt:息|息]] [[wikt:速|速]] [[wikt:族|族]] [[wikt:他|他]] [[wikt:打|打]] [[wikt:対|対]] [[wikt:待|待]] [[wikt:代|代]] [[wikt:第|第]] [[wikt:題|題]] [[wikt:炭|炭]] [[wikt:短|短]] [[wikt:談|談]] [[wikt:着|着]] [[wikt:注|注]] [[wikt:柱|柱]] [[wikt:丁|丁]] [[wikt:帳|帳]] [[wikt:調|調]] [[wikt:追|追]] [[wikt:定|定]] [[wikt:庭|庭]] [[wikt:笛|笛]] [[wikt:鉄|鉄]] [[wikt:転|転]] [[wikt:都|都]] [[wikt:度|度]] [[wikt:投|投]] [[wikt:豆|豆]] [[wikt:島|島]] [[wikt:湯|湯]] [[wikt:登|登]] [[wikt:等|等]] [[wikt:動|動]] [[wikt:童|童]] [[wikt:農|農]] [[wikt:波|波]] [[wikt:配|配]] [[wikt:倍|倍]] [[wikt:箱|箱]] [[wikt:畑|畑]] [[wikt:発|発]] [[wikt:反|反]] [[wikt:坂|坂]] [[wikt:板|板]] [[wikt:皮|皮]] [[wikt:悲|悲]] [[wikt:美|美]] [[wikt:鼻|鼻]] [[wikt:筆|筆]] [[wikt:氷|氷]] [[wikt:表|表]] [[wikt:秒|秒]] [[wikt:病|病]] [[wikt:品|品]] [[wikt:負|負]] [[wikt:部|部]] [[wikt:服|服]] [[wikt:福|福]] [[wikt:物|物]] [[wikt:平|平]] [[wikt:返|返]] [[wikt:勉|勉]] [[wikt:放|放]] [[wikt:味|味]] [[wikt:命|命]] [[wikt:面|面]] [[wikt:問|問]] [[wikt:役|役]] [[wikt:薬|薬]] [[wikt:由|由]] [[wikt:油|油]] [[wikt:有|有]] [[wikt:遊|遊]] [[wikt:予|予]] [[wikt:羊|羊]] [[wikt:洋|洋]] [[wikt:葉|葉]] [[wikt:陽|陽]] [[wikt:様|様]] [[wikt:落|落]] [[wikt:流|流]] [[wikt:旅|旅]] [[wikt:両|両]] [[wikt:緑|緑]] [[wikt:礼|礼]] [[wikt:列|列]] [[wikt:練|練]] [[wikt:路|路]] [[wikt:和|和]]''' == 第4学年(202字) == '''[[wikt:愛|愛]] [[wikt:案|案]] [[wikt:以|以]] [[wikt:衣|衣]] [[wikt:位|位]] [[wikt:茨|茨]] [[wikt:印|印]] [[wikt:英|英]] [[wikt:栄|栄]] [[wikt:媛|媛]] [[wikt:塩|塩]] [[wikt:岡|岡]] [[wikt:億|億]] [[wikt:加|加]] [[wikt:果|果]] [[wikt:貨|貨]] [[wikt:課|課]] [[wikt:芽|芽]] [[wikt:賀|賀]] [[wikt:改|改]] [[wikt:械|械]] [[wikt:害|害]] [[wikt:街|街]] [[wikt:各|各]] [[wikt:覚|覚]] [[wikt:潟|潟]] [[wikt:完|完]] [[wikt:官|官]] [[wikt:管|管]] [[wikt:関|関]] [[wikt:観|観]] [[wikt:願|願]] [[wikt:岐|岐]] [[wikt:希|希]] [[wikt:季|季]] [[wikt:旗|旗]] [[wikt:器|器]] [[wikt:機|機]] [[wikt:議|議]] [[wikt:求|求]] [[wikt:泣|泣]] [[wikt:給|給]] [[wikt:挙|挙]] [[wikt:漁|漁]] [[wikt:共|共]] [[wikt:協|協]] [[wikt:鏡|鏡]] [[wikt:競|競]] [[wikt:極|極]] [[wikt:熊|熊]] [[wikt:訓|訓]] [[wikt:軍|軍]] [[wikt:郡|郡]] [[wikt:群|群]] [[wikt:径|径]] [[wikt:景|景]] [[wikt:芸|芸]] [[wikt:欠|欠]] [[wikt:結|結]] [[wikt:建|建]] [[wikt:健|健]] [[wikt:験|験]] [[wikt:固|固]] [[wikt:功|功]] [[wikt:好|好]] [[wikt:香|香]] [[wikt:候|候]] [[wikt:康|康]] [[wikt:佐|佐]] [[wikt:差|差]] [[wikt:菜|菜]] [[wikt:最|最]] [[wikt:埼|埼]] [[wikt:材|材]] [[wikt:崎|崎]] [[wikt:昨|昨]] [[wikt:札|札]] [[wikt:刷|刷]] [[wikt:察|察]] [[wikt:参|参]] [[wikt:産|産]] [[wikt:散|散]] [[wikt:残|残]] [[wikt:氏|氏]] [[wikt:司|司]] [[wikt:試|試]] [[wikt:児|児]] [[wikt:治|治]] [[wikt:滋|滋]] [[wikt:辞|辞]] [[wikt:鹿|鹿]] [[wikt:失|失]] [[wikt:借|借]] [[wikt:種|種]] [[wikt:周|周]] [[wikt:祝|祝]] [[wikt:順|順]] [[wikt:初|初]] [[wikt:松|松]] [[wikt:笑|笑]] [[wikt:唱|唱]] [[wikt:焼|焼]] [[wikt:照|照]] [[wikt:城|城]] [[wikt:縄|縄]] [[wikt:臣|臣]] [[wikt:信|信]] [[wikt:井|井]] [[wikt:成|成]] [[wikt:省|省]] [[wikt:清|清]] [[wikt:静|静]] [[wikt:席|席]] [[wikt:積|積]] [[wikt:折|折]] [[wikt:節|節]] [[wikt:説|説]] [[wikt:浅|浅]] [[wikt:戦|戦]] [[wikt:選|選]] [[wikt:然|然]] [[wikt:争|争]] [[wikt:倉|倉]] [[wikt:巣|巣]] [[wikt:束|束]] [[wikt:側|側]] [[wikt:続|続]] [[wikt:卒|卒]] [[wikt:孫|孫]] [[wikt:帯|帯]] [[wikt:隊|隊]] [[wikt:達|達]] [[wikt:単|単]] [[wikt:置|置]] [[wikt:仲|仲]] [[wikt:沖|沖]] [[wikt:兆|兆]] [[wikt:低|低]] [[wikt:底|底]] [[wikt:的|的]] [[wikt:典|典]] [[wikt:伝|伝]] [[wikt:徒|徒]] [[wikt:努|努]] [[wikt:灯|灯]] [[wikt:働|働]] [[wikt:特|特]] [[wikt:徳|徳]] [[wikt:栃|栃]] [[wikt:奈|奈]] [[wikt:梨|梨]] [[wikt:熱|熱]] [[wikt:念|念]] [[wikt:敗|敗]] [[wikt:梅|梅]] [[wikt:博|博]] [[wikt:阪|阪]] [[wikt:飯|飯]] [[wikt:飛|飛]] [[wikt:必|必]] [[wikt:票|票]] [[wikt:標|標]] [[wikt:不|不]] [[wikt:夫|夫]] [[wikt:付|付]] [[wikt:府|府]] [[wikt:阜|阜]] [[wikt:富|富]] [[wikt:副|副]] [[wikt:兵|兵]] [[wikt:別|別]] [[wikt:辺|辺]] [[wikt:変|変]] [[wikt:便|便]] [[wikt:包|包]] [[wikt:法|法]] [[wikt:望|望]] [[wikt:牧|牧]] [[wikt:末|末]] [[wikt:満|満]] [[wikt:未|未]] [[wikt:民|民]] [[wikt:無|無]] [[wikt:約|約]] [[wikt:勇|勇]] [[wikt:要|要]] [[wikt:養|養]] [[wikt:浴|浴]] [[wikt:利|利]] [[wikt:陸|陸]] [[wikt:良|良]] [[wikt:料|料]] [[wikt:量|量]] [[wikt:輪|輪]] [[wikt:類|類]] [[wikt:令|令]] [[wikt:冷|冷]] [[wikt:例|例]] [[wikt:連|連]] [[wikt:老|老]] [[wikt:労|労]] [[wikt:録|録]]''' == 第5学年(193字) == '''[[wikt:圧|圧]] [[wikt:囲|囲]] [[wikt:移|移]] [[wikt:因|因]] [[wikt:永|永]] [[wikt:営|営]] [[wikt:衛|衛]] [[wikt:易|易]] [[wikt:益|益]] [[wikt:液|液]] [[wikt:演|演]] [[wikt:応|応]] [[wikt:往|往]] [[wikt:桜|桜]] [[wikt:可|可]] [[wikt:仮|仮]] [[wikt:価|価]] [[wikt:河|河]] [[wikt:過|過]] [[wikt:快|快]] [[wikt:解|解]] [[wikt:格|格]] [[wikt:確|確]] [[wikt:額|額]] [[wikt:刊|刊]] [[wikt:幹|幹]] [[wikt:慣|慣]] [[wikt:眼|眼]] [[wikt:紀|紀]] [[wikt:基|基]] [[wikt:寄|寄]] [[wikt:規|規]] [[wikt:喜|喜]] [[wikt:技|技]] [[wikt:義|義]] [[wikt:逆|逆]] [[wikt:久|久]] [[wikt:旧|旧]] [[wikt:救|救]] [[wikt:居|居]] [[wikt:許|許]] [[wikt:境|境]] [[wikt:均|均]] [[wikt:禁|禁]] [[wikt:句|句]] [[wikt:型|型]] [[wikt:経|経]] [[wikt:潔|潔]] [[wikt:件|件]] [[wikt:険|険]] [[wikt:検|検]] [[wikt:限|限]] [[wikt:現|現]] [[wikt:減|減]] [[wikt:故|故]] [[wikt:個|個]] [[wikt:護|護]] [[wikt:効|効]] [[wikt:厚|厚]] [[wikt:耕|耕]] [[wikt:航|航]] [[wikt:鉱|鉱]] [[wikt:構|構]] [[wikt:興|興]] [[wikt:講|講]] [[wikt:告|告]] [[wikt:混|混]] [[wikt:査|査]] [[wikt:再|再]] [[wikt:災|災]] [[wikt:妻|妻]] [[wikt:採|採]] [[wikt:際|際]] [[wikt:在|在]] [[wikt:財|財]] [[wikt:罪|罪]] [[wikt:殺|殺]] [[wikt:雑|雑]] [[wikt:酸|酸]] [[wikt:賛|賛]] [[wikt:士|士]] [[wikt:支|支]] [[wikt:史|史]] [[wikt:志|志]] [[wikt:枝|枝]] [[wikt:師|師]] [[wikt:資|資]] [[wikt:飼|飼]] [[wikt:示|示]] [[wikt:似|似]] [[wikt:識|識]] [[wikt:質|質]] [[wikt:舎|舎]] [[wikt:謝|謝]] [[wikt:授|授]] [[wikt:修|修]] [[wikt:述|述]] [[wikt:術|術]] [[wikt:準|準]] [[wikt:序|序]] [[wikt:招|招]] [[wikt:証|証]] [[wikt:象|象]] [[wikt:賞|賞]] [[wikt:条|条]] [[wikt:状|状]] [[wikt:常|常]] [[wikt:情|情]] [[wikt:織|織]] [[wikt:職|職]] [[wikt:制|制]] [[wikt:性|性]] [[wikt:政|政]] [[wikt:勢|勢]] [[wikt:精|精]] [[wikt:製|製]] [[wikt:税|税]] [[wikt:責|責]] [[wikt:績|績]] [[wikt:接|接]] [[wikt:設|設]] [[wikt:絶|絶]] [[wikt:祖|祖]] [[wikt:素|素]] [[wikt:総|総]] [[wikt:造|造]] [[wikt:像|像]] [[wikt:増|増]] [[wikt:則|則]] [[wikt:測|測]] [[wikt:属|属]] [[wikt:率|率]] [[wikt:損|損]] [[wikt:貸|貸]] [[wikt:態|態]] [[wikt:団|団]] [[wikt:断|断]] [[wikt:築|築]] [[wikt:貯|貯]] [[wikt:張|張]] [[wikt:停|停]] [[wikt:提|提]] [[wikt:程|程]] [[wikt:適|適]] [[wikt:統|統]] [[wikt:堂|堂]] [[wikt:銅|銅]] [[wikt:導|導]] [[wikt:得|得]] [[wikt:毒|毒]] [[wikt:独|独]] [[wikt:任|任]] [[wikt:燃|燃]] [[wikt:能|能]] [[wikt:破|破]] [[wikt:犯|犯]] [[wikt:判|判]] [[wikt:版|版]] [[wikt:比|比]] [[wikt:肥|肥]] [[wikt:非|非]] [[wikt:費|費]] [[wikt:備|備]] [[wikt:評|評]] [[wikt:貧|貧]] [[wikt:布|布]] [[wikt:婦|婦]] [[wikt:武|武]] [[wikt:復|復]] [[wikt:複|複]] [[wikt:仏|仏]] [[wikt:粉|粉]] [[wikt:編|編]] [[wikt:弁|弁]] [[wikt:保|保]] [[wikt:墓|墓]] [[wikt:報|報]] [[wikt:豊|豊]] [[wikt:防|防]] [[wikt:貿|貿]] [[wikt:暴|暴]] [[wikt:脈|脈]] [[wikt:務|務]] [[wikt:夢|夢]] [[wikt:迷|迷]] [[wikt:綿|綿]] [[wikt:輸|輸]] [[wikt:余|余]] [[wikt:容|容]] [[wikt:略|略]] [[wikt:留|留]] [[wikt:領|領]] [[wikt:歴|歴]]''' == 第6学年(191字) == '''[[wikt:胃|胃]] [[wikt:異|異]] [[wikt:遺|遺]] [[wikt:域|域]] [[wikt:宇|宇]] [[wikt:映|映]] [[wikt:延|延]] [[wikt:沿|沿]] [[wikt:恩|恩]] [[wikt:我|我]] [[wikt:灰|灰]] [[wikt:拡|拡]] [[wikt:革|革]] [[wikt:閣|閣]] [[wikt:割|割]] [[wikt:株|株]] [[wikt:干|干]] [[wikt:巻|巻]] [[wikt:看|看]] [[wikt:簡|簡]] [[wikt:危|危]] [[wikt:机|机]] [[wikt:揮|揮]] [[wikt:貴|貴]] [[wikt:疑|疑]] [[wikt:吸|吸]] [[wikt:供|供]] [[wikt:胸|胸]] [[wikt:郷|郷]] [[wikt:勤|勤]] [[wikt:筋|筋]] [[wikt:系|系]] [[wikt:敬|敬]] [[wikt:警|警]] [[wikt:劇|劇]] [[wikt:激|激]] [[wikt:穴|穴]] [[wikt:券|券]] [[wikt:絹|絹]] [[wikt:権|権]] [[wikt:憲|憲]] [[wikt:源|源]] [[wikt:厳|厳]] [[wikt:己|己]] [[wikt:呼|呼]] [[wikt:誤|誤]] [[wikt:后|后]] [[wikt:孝|孝]] [[wikt:皇|皇]] [[wikt:紅|紅]] [[wikt:降|降]] [[wikt:鋼|鋼]] [[wikt:刻|刻]] [[wikt:穀|穀]] [[wikt:骨|骨]] [[wikt:困|困]] [[wikt:砂|砂]] [[wikt:座|座]] [[wikt:済|済]] [[wikt:裁|裁]] [[wikt:策|策]] [[wikt:冊|冊]] [[wikt:蚕|蚕]] [[wikt:至|至]] [[wikt:私|私]] [[wikt:姿|姿]] [[wikt:視|視]] [[wikt:詞|詞]] [[wikt:誌|誌]] [[wikt:磁|磁]] [[wikt:射|射]] [[wikt:捨|捨]] [[wikt:尺|尺]] [[wikt:若|若]] [[wikt:樹|樹]] [[wikt:収|収]] [[wikt:宗|宗]] [[wikt:就|就]] [[wikt:衆|衆]] [[wikt:従|従]] [[wikt:縦|縦]] [[wikt:縮|縮]] [[wikt:熟|熟]] [[wikt:純|純]] [[wikt:処|処]] [[wikt:署|署]] [[wikt:諸|諸]] [[wikt:除|除]] [[wikt:承|承]] [[wikt:将|将]] [[wikt:傷|傷]] [[wikt:障|障]] [[wikt:蒸|蒸]] [[wikt:針|針]] [[wikt:仁|仁]] [[wikt:垂|垂]] [[wikt:推|推]] [[wikt:寸|寸]] [[wikt:盛|盛]] [[wikt:聖|聖]] [[wikt:誠|誠]] [[wikt:舌|舌]] [[wikt:宣|宣]] [[wikt:専|専]] [[wikt:泉|泉]] [[wikt:洗|洗]] [[wikt:染|染]] [[wikt:銭|銭]] [[wikt:善|善]] [[wikt:奏|奏]] [[wikt:窓|窓]] [[wikt:創|創]] [[wikt:装|装]] [[wikt:層|層]] [[wikt:操|操]] [[wikt:蔵|蔵]] [[wikt:臓|臓]] [[wikt:存|存]] [[wikt:尊|尊]] [[wikt:退|退]] [[wikt:宅|宅]] [[wikt:担|担]] [[wikt:探|探]] [[wikt:誕|誕]] [[wikt:段|段]] [[wikt:暖|暖]] [[wikt:値|値]] [[wikt:宙|宙]] [[wikt:忠|忠]] [[wikt:著|著]] [[wikt:庁|庁]] [[wikt:頂|頂]] [[wikt:腸|腸]] [[wikt:潮|潮]] [[wikt:賃|賃]] [[wikt:痛|痛]] [[wikt:敵|敵]] [[wikt:展|展]] [[wikt:討|討]] [[wikt:党|党]] [[wikt:糖|糖]] [[wikt:届|届]] [[wikt:難|難]] [[wikt:乳|乳]] [[wikt:認|認]] [[wikt:納|納]] [[wikt:脳|脳]] [[wikt:派|派]] [[wikt:拝|拝]] [[wikt:背|背]] [[wikt:肺|肺]] [[wikt:俳|俳]] [[wikt:班|班]] [[wikt:晩|晩]] [[wikt:否|否]] [[wikt:批|批]] [[wikt:秘|秘]] [[wikt:俵|俵]] [[wikt:腹|腹]] [[wikt:奮|奮]] [[wikt:並|並]] [[wikt:陛|陛]] [[wikt:閉|閉]] [[wikt:片|片]] [[wikt:補|補]] [[wikt:暮|暮]] [[wikt:宝|宝]] [[wikt:訪|訪]] [[wikt:亡|亡]] [[wikt:忘|忘]] [[wikt:棒|棒]] [[wikt:枚|枚]] [[wikt:幕|幕]] [[wikt:密|密]] [[wikt:盟|盟]] [[wikt:模|模]] [[wikt:訳|訳]] [[wikt:郵|郵]] [[wikt:優|優]] [[wikt:預|預]] [[wikt:幼|幼]] [[wikt:欲|欲]] [[wikt:翌|翌]] [[wikt:乱|乱]] [[wikt:卵|卵]] [[wikt:覧|覧]] [[wikt:裏|裏]] [[wikt:律|律]] [[wikt:臨|臨]] [[wikt:朗|朗]] [[wikt:論|論]]''' == 改定前との比較 == {| class="wikitable floatright" style="text-align:right" |+ 字数の変化 |- ! 学年 !! 改定前 !! 新規追加 !! 別学年から !! 別学年へ !! 改定後 |- !1 | 80 || - || - || - || 80 |- !2 | 160 || - || - || - || 160 |- !3 | 200 || - || - || - || 200 |- !4 | 200 || 20 || 5 || 23 || 202 |- !5 | 185 || - || 21 || 13 || 193 |- !6 | 181 || - || 11 || 1 || 191 |- ! 合計 | 1006 || 20 || colspan="2" style="text-align:center" | (37) || 1026 |} ; 第5学年から第4学年に移動(4字) : '''[[wikt:賀|賀]] [[wikt:群|群]] [[wikt:徳|徳]] [[wikt:富|富]]''' ; 第6学年から第4学年に移動(1字) : '''[[wikt:城|城]]''' ; 中学から第4学年に移動(20字) : '''[[wikt:茨|茨]] [[wikt:媛|媛]] [[wikt:岡|岡]] [[wikt:潟|潟]] [[wikt:岐|岐]] [[wikt:熊|熊]] [[wikt:香|香]] [[wikt:佐|佐]] [[wikt:埼|埼]] [[wikt:崎|崎]] [[wikt:滋|滋]] [[wikt:鹿|鹿]] [[wikt:縄|縄]] [[wikt:井|井]] [[wikt:沖|沖]] [[wikt:栃|栃]] [[wikt:奈|奈]] [[wikt:梨|梨]] [[wikt:阪|阪]] [[wikt:阜|阜]]''' ; 第4学年から第5学年に移動(21字) : '''[[wikt:囲|囲]] [[wikt:紀|紀]] [[wikt:喜|喜]] [[wikt:救|救]] [[wikt:型|型]] [[wikt:航|航]] [[wikt:告|告]] [[wikt:殺|殺]] [[wikt:士|士]] [[wikt:史|史]] [[wikt:象|象]] [[wikt:賞|賞]] [[wikt:貯|貯]] [[wikt:停|停]] [[wikt:堂|堂]] [[wikt:得|得]] [[wikt:毒|毒]] [[wikt:費|費]] [[wikt:粉|粉]] [[wikt:脈|脈]] [[wikt:歴|歴]]''' ; 第4学年から第6学年に移動(2字) : '''[[wikt:胃|胃]] [[wikt:腸|腸]]''' ; 第5学年から第6学年に移動(9字) : '''[[wikt:恩|恩]] [[wikt:券|券]] [[wikt:承|承]] [[wikt:舌|舌]] [[wikt:銭|銭]] [[wikt:退|退]] [[wikt:敵|敵]] [[wikt:俵|俵]] [[wikt:預|預]]''' == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Wikibooks|小学校国語/漢字|学年ごとに学ぶ漢字}} * 旧版 ** [[学年別漢字配当表 (1958-1967)|1958年の学年別漢字配当表]] ** [[学年別漢字配当表 (1977-1988)|1977年の学年別漢字配当表]] ** [[学年別漢字配当表 (1989-2016)|1989年の学年別漢字配当表]] * [[教育漢字]] * [[当用漢字]] - [[常用漢字]] <!-- == 外部リンク == * [https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/koku/001.htm 別表 学年別漢字配当表(小学校学習指導要領)]([[文部科学省]])←1989年版 --> {{Succession |title=学年別漢字配当表 |years=2017年 - |before=[[学年別漢字配当表 (1989-2016)]] |after=(現行) |beforetitle=前の版 |aftertitle=次の版 }} {{DEFAULTSORT:かくねんへつかんしはいとうひよう}} [[Category:日本の初等教育]] [[Category:日本の漢字]] [[Category:文字の一覧]]
null
2023-07-16T00:53:03Z
false
false
false
[ "Template:Succession", "Template:Cite news", "Template:Wikibooks" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%B9%B4%E5%88%A5%E6%BC%A2%E5%AD%97%E9%85%8D%E5%BD%93%E8%A1%A8
13,607
マジックナンバー (プログラム)
プログラムにおけるマジックナンバー(英: magic number、魔法の数字)とは、何らかの識別子もしくは定数として用いられる、プログラムのソースコード中に書かれた具体的な数値である。そのプログラムを書いた時点では製作者は数値の意図を把握しているが、他のプログラマーまたは製作者本人がマジックナンバーの意図を忘れたときに閲覧すると「この数字の意味はわからないが、とにかくプログラムは正しく動く。まるで魔法の数字だ」という皮肉を含む。 次のような理由で、マジックナンバーはプログラム中に含まれないことが好ましいとされる。 たとえば、消費税が8%の時に、税込価格 (tax-included price) を求める以下のようなソースコードをC言語で書いたとする。 これは、priceに商品の本体価格を入力することで消費税込みの価格が得られる、という計算式を実装する関数である。しかし消費税の税率 (tax rate) は変化し得るため、税率が8%以外に変更されたとき修正が必要となる。このとき「1.08」はマジックナンバーであり「なぜ1.08なのか」という意図が不明瞭である。 ここで、マジックナンバーを取り除くため、名前付きの定数シンボルTaxRateを導入する。 定数シンボルの導入により、式に意図が反映されるため修正が容易になる。 printColorText()関数は第1引数の文字列を、第2引数でRGBのフルカラー値として指定した色で印字する関数であるとする。 この場合、"color text"という文字列が「黄緑色」で表示される。ただし0x9acd32は直感的に「黄緑色」と伝えることは困難なマジックナンバーである。 マジックナンバーを取り除く手法の一つとして、以下のような書き方がある。 これらマジックナンバーを避けるため、マジックナンバーが書いてある箇所を定数や列挙型に置き換えるといった処置がとられる。定数は意味のわかりやすいような名前を付けることができるため、一読して数値の意味を理解できるからである。ここで、定数の初期化の際に右辺値に書かれる数値までマジックナンバーやハードコーディングとは呼ばない。 また、1や0はそれ自体が「真」・「偽」などの意味(真理値)を示しうる数値であり、使われる文脈によってはマジックナンバーとは呼ばないこともある。古いC言語では、意味を明確にするため、1/0の数値を直接用いるのではなく、TRUEやFALSEといったシンボルを明示的に定義して利用することがあった。 現在のC言語規格案では、 _Bool Definitions For true and false. を採用している。 マジックナンバーは、データ構造体の中にある本質的な意味を持たない数値を指すことがある。これはデータ構造体を識別し、間違った型として扱われる事を防ぐために使われる。これについてはフォーマット識別子としてのマジックナンバーを参照。 プログラムに直接書き込んでしまう具体的な値は数値に限らない。特定のファイルのフルパスを表す文字列を埋め込むこともままある。 このようにマジックナンバーを含めてプログラムに決め打ちの値を埋め込むことを、ハードコーディングと言う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "プログラムにおけるマジックナンバー(英: magic number、魔法の数字)とは、何らかの識別子もしくは定数として用いられる、プログラムのソースコード中に書かれた具体的な数値である。そのプログラムを書いた時点では製作者は数値の意図を把握しているが、他のプログラマーまたは製作者本人がマジックナンバーの意図を忘れたときに閲覧すると「この数字の意味はわからないが、とにかくプログラムは正しく動く。まるで魔法の数字だ」という皮肉を含む。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "次のような理由で、マジックナンバーはプログラム中に含まれないことが好ましいとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "たとえば、消費税が8%の時に、税込価格 (tax-included price) を求める以下のようなソースコードをC言語で書いたとする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これは、priceに商品の本体価格を入力することで消費税込みの価格が得られる、という計算式を実装する関数である。しかし消費税の税率 (tax rate) は変化し得るため、税率が8%以外に変更されたとき修正が必要となる。このとき「1.08」はマジックナンバーであり「なぜ1.08なのか」という意図が不明瞭である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ここで、マジックナンバーを取り除くため、名前付きの定数シンボルTaxRateを導入する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "定数シンボルの導入により、式に意図が反映されるため修正が容易になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "printColorText()関数は第1引数の文字列を、第2引数でRGBのフルカラー値として指定した色で印字する関数であるとする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この場合、\"color text\"という文字列が「黄緑色」で表示される。ただし0x9acd32は直感的に「黄緑色」と伝えることは困難なマジックナンバーである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "マジックナンバーを取り除く手法の一つとして、以下のような書き方がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これらマジックナンバーを避けるため、マジックナンバーが書いてある箇所を定数や列挙型に置き換えるといった処置がとられる。定数は意味のわかりやすいような名前を付けることができるため、一読して数値の意味を理解できるからである。ここで、定数の初期化の際に右辺値に書かれる数値までマジックナンバーやハードコーディングとは呼ばない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、1や0はそれ自体が「真」・「偽」などの意味(真理値)を示しうる数値であり、使われる文脈によってはマジックナンバーとは呼ばないこともある。古いC言語では、意味を明確にするため、1/0の数値を直接用いるのではなく、TRUEやFALSEといったシンボルを明示的に定義して利用することがあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在のC言語規格案では、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "_Bool Definitions For true and false.", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "を採用している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マジックナンバーは、データ構造体の中にある本質的な意味を持たない数値を指すことがある。これはデータ構造体を識別し、間違った型として扱われる事を防ぐために使われる。これについてはフォーマット識別子としてのマジックナンバーを参照。", "title": "フォーマット識別子" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プログラムに直接書き込んでしまう具体的な値は数値に限らない。特定のファイルのフルパスを表す文字列を埋め込むこともままある。", "title": "関連用語" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このようにマジックナンバーを含めてプログラムに決め打ちの値を埋め込むことを、ハードコーディングと言う。", "title": "関連用語" } ]
プログラムにおけるマジックナンバーとは、何らかの識別子もしくは定数として用いられる、プログラムのソースコード中に書かれた具体的な数値である。そのプログラムを書いた時点では製作者は数値の意図を把握しているが、他のプログラマーまたは製作者本人がマジックナンバーの意図を忘れたときに閲覧すると「この数字の意味はわからないが、とにかくプログラムは正しく動く。まるで魔法の数字だ」という皮肉を含む。
[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]における'''マジックナンバー'''({{lang-en-short|magic number}}、魔法の数字)とは、何らかの[[識別子]]もしくは定数として用いられる、プログラムの[[ソースコード]]中に書かれた具体的な数値<!--「10」「123」など、[[数字]]によって記述される値-->である。そのプログラムを書いた時点では製作者は数値の意図を把握しているが、他のプログラマーまたは製作者本人がマジックナンバーの意図を忘れたときに閲覧すると「この数字の意味はわからないが、とにかくプログラムは正しく動く。まるで魔法の数字だ」という皮肉を含む。 == 概要 == 次のような理由で、マジックナンバーはプログラム中に含まれないことが好ましいとされる。 * その数値の持つ意味がわかりづらい。 * 数値を変更する場合に、複数の箇所を変更しなければならない可能性がある。 ; 例1 たとえば、消費税が8%の時に、税込価格 (tax-included price) を求める以下のようなソースコードを[[C言語]]で書いたとする。 <!-- もともとオリジナルのサンプルコードはC言語の文法に沿っていなかったが、型を明示したほうが説明しやすくなるため、Cの文法に従ったコードに書き直した。通貨を扱う場合は専用の型を用いるべきだが、簡単のためdouble型を用いる。 --> <!-- 警告: ここで提示しているのは、あくまで例題なので、たとえ今後日本の消費税率が8%以外に変更されたとしても、記事およびサンプルコード中の税率をいちいち変更したりしないこと。重要なのは具体的な数値ではなく、概念および説明のほうであることを忘れないこと。 --> <syntaxhighlight lang="c"> double calculateTaxIncludedPrice(double price) { return 1.08 * price; } </syntaxhighlight> これは、<code>price</code>に商品の本体価格を入力することで消費税込みの価格が得られる、という計算式を実装する関数である。しかし消費税の税率 (tax rate) は変化し得るため、税率が8%以外に変更されたとき修正が必要となる。このとき「1.08」はマジックナンバーであり「なぜ1.08なのか」という意図が不明瞭である。 ここで、マジックナンバーを取り除くため、名前付きの定数シンボル<code>TaxRate</code>を導入する。 <syntaxhighlight lang="c"> double calculateTaxIncludedPrice(double price) { const double TaxRate = 0.08; return (1.0 + TaxRate) * price; } </syntaxhighlight> 定数シンボルの導入により、式に意図が反映されるため修正が容易になる。 ; 例2 <code>printColorText()</code>関数は第1引数の文字列を、第2引数で[[RGB]]の[[フルカラー]]値として指定した色で印字する関数であるとする。 <syntaxhighlight lang="c"> extern void printColorText(const char* text, uint32_t colorValue); printColorText("color text", 0x9acd32); </syntaxhighlight> この場合、"color text"という文字列が「黄緑色」で表示される。ただし0x9acd32は直感的に「黄緑色」と伝えることは困難なマジックナンバーである。 マジックナンバーを取り除く手法の一つとして、以下のような書き方がある。 <syntaxhighlight lang="c"> const uint32_t YellowGreen = 0x9acd32; printColorText("color text", YellowGreen); </syntaxhighlight> これらマジックナンバーを避けるため、マジックナンバーが書いてある箇所を[[定数 (プログラミング)|定数]]や[[列挙型]]に置き換えるといった処置がとられる。定数は意味のわかりやすいような名前を付けることができるため、一読して数値の意味を理解できるからである。ここで、定数の初期化の際に右辺値に書かれる数値までマジックナンバーやハードコーディングとは呼ばない。 また、[[1]]や[[0]]はそれ自体が「真」・「偽」などの意味([[真理値]])を示しうる数値であり、使われる文脈によってはマジックナンバーとは呼ばないこともある。古いC言語では、意味を明確にするため、1/0の数値を直接用いるのではなく、<code>TRUE</code>や<code>FALSE</code>といったシンボルを明示的に定義して利用することがあった。 <syntaxhighlight lang="c"> #define TRUE 1 #define FALSE 0 </syntaxhighlight> 現在のC言語規格案では、 _Bool Definitions For true and false. を採用している<ref>ISO IEC 9899 Programming language C WDN2731 http://www.open-std.org/jtc1/sc22/wg14/www/docs/n2731.pdf</ref>。 == フォーマット識別子 == マジックナンバーは、データ[[構造体]]の中にある本質的な意味を持たない数値を指すことがある。これはデータ構造体を識別し、間違った型として扱われる事を防ぐために使われる。これについては[[マジックナンバー (フォーマット識別子)|フォーマット識別子としてのマジックナンバー]]を参照。 == 関連用語 == プログラムに直接書き込んでしまう具体的な値は数値に限らない。特定のファイルのフルパスを表す文字列を埋め込むこともままある。 このようにマジックナンバーを含めてプログラムに決め打ちの値を埋め込むことを、'''[[ハードコーディング]]'''と言う。 == 出典 == {{Reflist}} {{ファイル (コンピュータ)}} {{デフォルトソート:ましつくなんはあ}} [[Category:プログラミング・フォークロア]] [[Category:ソフトウェア工学のフォークロア]] [[Category:アンチパターン]] [[Category:デバッグ]] {{Computer-stub}}
2003-08-20T05:57:57Z
2023-09-24T13:43:36Z
false
false
false
[ "Template:Lang-en-short", "Template:Reflist", "Template:ファイル (コンピュータ)", "Template:Computer-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0)
13,608
相模国
相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の神奈川県にあたる。 「相模」の模という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「摹」が使用されており、手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。 明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる。 境川の上流部は武相国境(武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と東京都との都県境)。 町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で東京湾と相模湾の分水嶺へ移った。なおその尾根道(武相国境道)は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区と瀬谷区の境)金沢区と鎌倉市の境まで続いた。 横浜・横須賀・逗子境界標識点からは分岐し、侍従川(横浜市金沢区六浦)と鷹取川(横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、横浜創学館高等学校を通り東京湾に達した。 相模国は古墳時代の成務朝に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。 なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。 国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている。 12世紀末に源頼朝が鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。頼朝が知行国主であった時代には、政所が国役の賦課などを行っていた。守護に関しては宝治合戦までは三浦氏が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、三浦氏は元々在庁官人として相模国内の雑事を行っていたことから、相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある。北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、執権が相模守となり、副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた。 1333年に鎌倉幕府は滅亡したが、その後も建武の新政の時期には鎌倉将軍府が、室町時代には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。1428年の永享の乱によって鎌倉府は下総国の古河へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、戦国時代になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。 江戸時代には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領・旗本領となった。 相模国府の所在地は、史料では『和名類聚抄』(931年~938年編纂)と『拾芥抄』では「大住郡」(平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末~鎌倉時代初期成立)では「餘綾郡」(中郡大磯町)にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた。いずれも国分寺の所在地である高座郡(海老名市)と異なるため、江戸末~明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された。また大正~昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した。さらに1950年代以降、小田原市(足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された。 現代の考古学の発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている。 なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている 延喜式内社 総社・一宮以下 寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は鎌倉時代の創建で、式内社ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の将軍である源氏の氏神を京都の石清水八幡宮から勧請した宮であり、鎌倉幕府が特別扱いしたためと考えられる。 また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「一国一社の八幡宮」として平塚八幡宮(平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の国府祭(こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、室町時代の兵火に合うまで権勢を誇った有鹿神社は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。 中世、後北条氏は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。 ※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の神奈川県にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「相模」の模という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「摹」が使用されており、手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。", "title": "「相模」の国名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち川崎市・横浜市を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧武蔵国を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の鎌倉郡にあたる。", "title": "現在の行政区分での領域" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "境川の上流部は武相国境(武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と東京都との都県境)。", "title": "現在の行政区分での領域" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で東京湾と相模湾の分水嶺へ移った。なおその尾根道(武相国境道)は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区と瀬谷区の境)金沢区と鎌倉市の境まで続いた。", "title": "現在の行政区分での領域" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "横浜・横須賀・逗子境界標識点からは分岐し、侍従川(横浜市金沢区六浦)と鷹取川(横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、横浜創学館高等学校を通り東京湾に達した。", "title": "現在の行政区分での領域" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "相模国は古墳時代の成務朝に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "12世紀末に源頼朝が鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。頼朝が知行国主であった時代には、政所が国役の賦課などを行っていた。守護に関しては宝治合戦までは三浦氏が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、三浦氏は元々在庁官人として相模国内の雑事を行っていたことから、相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある。北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、執権が相模守となり、副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1333年に鎌倉幕府は滅亡したが、その後も建武の新政の時期には鎌倉将軍府が、室町時代には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。1428年の永享の乱によって鎌倉府は下総国の古河へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、戦国時代になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "江戸時代には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領・旗本領となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "相模国府の所在地は、史料では『和名類聚抄』(931年~938年編纂)と『拾芥抄』では「大住郡」(平塚市)、『伊呂波字類抄』(平安時代末~鎌倉時代初期成立)では「餘綾郡」(中郡大磯町)にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた。いずれも国分寺の所在地である高座郡(海老名市)と異なるため、江戸末~明治時代に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された。また大正~昭和初期には「大住郡(平塚または伊勢原市)→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した。さらに1950年代以降、小田原市(足下郡)で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現代の考古学の発掘調査成果では、1989年(平成元年)に平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土したことや、2004年(平成16年)の湘南新道建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる8世紀前葉の大型掘立柱建物が検出されたことで、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "延喜式内社", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "総社・一宮以下", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は鎌倉時代の創建で、式内社ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の将軍である源氏の氏神を京都の石清水八幡宮から勧請した宮であり、鎌倉幕府が特別扱いしたためと考えられる。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「一国一社の八幡宮」として平塚八幡宮(平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の国府祭(こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、室町時代の兵火に合うまで権勢を誇った有鹿神社は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中世、後北条氏は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "", "title": "人物" } ]
相模国(さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の神奈川県にあたる。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 相模国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|相模国}} |別称 = 相州 (そうしゅう) |所属 = [[東海道]] |領域 = [[神奈川県]]の大部分(北東部を除く) |国力 = [[上国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 8郡57郷 |国府 = 1.(推定)神奈川県[[海老名市]]または[[小田原市]]<br/>2.(推定)神奈川県[[平塚市]]<br/>3.(推定)神奈川県[[中郡]][[大磯町]] |国分寺 = 神奈川県海老名市([[相模国分寺|相模国分寺跡]]) |国分尼寺 = 神奈川県海老名市([[相模国分寺|相模国分尼寺跡]]) |一宮 = [[寒川神社]](神奈川県[[高座郡]][[寒川町]])<br/>[[鶴岡八幡宮]](神奈川県[[鎌倉市]]) }} '''相模国'''(さがみのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属し、現在の[[神奈川県]]にあたる。 == 「相模」の国名 == 「相模」の'''模'''という文字について、現存する律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「{{ruby|摹|さがみ}}」が使用されており、手へんの「摸」による'''相摸'''とするのが本来の表記である。 == 現在の行政区分での領域 == [[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の行政区域で言うと、神奈川県のうち[[川崎市]]・[[横浜市]]を除いた地域が旧相模国に該当する。ただし、旧[[武蔵国]]を過半とする横浜市のうち一部の地域は旧相模国の[[鎌倉郡]]にあたる<ref>[http://www.yk.rim.or.jp/~kamide/yokohama/musashi-sagami/ 南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容]</ref><ref>[http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=792 武相国境の位置や当時の生活感はどうだった?]([http://hamarepo.com/ はまれぽ.com] 2012年1月25日)</ref><ref name="izumi-buso">[https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/izimamukasi.html いずみいまむかし―泉区小史] > [https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/3-michi/michi-03.html 第3章「道と川」] > [https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/3-michi/michikawa-4.html 境の道「武相国境道」](横浜市泉区公式ウェブサイト)</ref>。 * [[神奈川県]] ** [[川崎市]]・[[横浜市]]を除く全域 ** [[横浜市]] *** [[戸塚区]]の全域 *** [[栄区]]の全域 *** [[泉区 (横浜市)|泉区]]の全域 *** [[瀬谷区]] **** [[卸本町 (横浜市)|卸本町]]の一部を除く<ref group="注">[[1980年]](昭和55年)に起立した卸本町の町域は大部分が瀬谷区瀬谷町であったが、一部に旧武蔵国[[都筑郡]][[田奈村]]であった[[緑区 (横浜市)|緑区]][[長津田町]]と、同じく都筑郡都岡町であった[[旭区 (横浜市)|旭区]]上川井町が含まれている。</ref>全域 *** [[南区 (横浜市)|南区]] **** 六ツ川四丁目〈旧下永谷町字山谷〉 *** [[港南区]] **** 永野地区<ref group="注">旧[[鎌倉郡]][[永野村 (神奈川県)|永野村]]のうち港南区相当部分。範囲は現在の次の町丁にあたる。 * [[住居表示]]実施地区 ** 全域が含まれる地域 *** [[上永谷]] *** [[下永谷]](1〜4丁目のみ) *** [[東永谷]] *** [[芹が谷]] *** [[東芹が谷]] *** [[丸山台 (横浜市)|丸山台]] ** 一部が含まれる地域 *** [[下永谷]](5・6丁目のみ) *** [[日限山]] *** [[日野 (横浜市)|日野]] *** [[日野南]](5〜7丁目のみ) * 住居表示未実施地区 ** 全域が含まれる地域 *** [[上永谷町]] *** [[野庭町]]</ref><ref>{{PDF|[http://archive.city.yokohama.lg.jp/konan/koho/koho2007/pdf/k-0704-tk1.pdf 港南区は昔、東と西で違う「国」だった! 武相国境]}}([https://www.city.yokohama.lg.jp/konan/kusei/koho/koho_konan/ 広報よこはま港南区版「こうなん」] No.114 / 2007年4月号<small>〈[http://archive.city.yokohama.lg.jp/konan/koho/hiroiyomi.html バックナンバー:索引]〉</small>)</ref> *** [[金沢区]] **** 朝比奈町の全域 **** 東朝比奈二-三丁目(一部)<ref group="注">鎌倉郡[[鎌倉市|鎌倉町]]<small>([[1894年]]までは[[東鎌倉村]])</small>であったが、[[1897年]](明治30年)に当該地区の大字峠が'''[[武蔵国]]'''[[久良岐郡]][[六浦荘村]]に編入されているので、通常は旧武蔵国に含まれる。</ref> * [[静岡県]] ** [[熱海市]] *** 泉<ref group="注">[[1878年]](明治11年)に千歳川を県境と定め、神奈川県足柄下郡宮上村(後の湯河原町)のうち[[1700年]]([[元禄]]13年)以来、国境論争が続いていた[[伊豆山権現]]領(字泉・稲村。年貢は小田原藩に上納)が分立して静岡県[[賀茂郡]]泉村となったため。</ref> === 武相国境 === [[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]の[[上流]]部は[[相武|武相]][[国境]](武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と[[東京都]]との[[県境|都県境]])。 町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で[[東京湾]]と[[相模湾]]の[[分水嶺]]へ移った。なおその[[尾根]]道(武相国境道)は、[[聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院]]の辺りから([[旭区 (横浜市)|旭区]]と[[瀬谷区]]の境)[[金沢区]]と[[鎌倉市]]の境まで続いた<ref name="izumi-buso"/>{{refnest|group="注"|現在でも[[相鉄本線]][[三ツ境駅]]方面より続いている同病院前の道路は「野境道路」(のざかいどうろ)と呼ばれている<ref name="seya-buso">[https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/sanpo/buso/ 武相国境・緑の森コース] > [https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/sanpo/buso/corse02-02.html 武相国境 (野境道路)]〈[https://web.archive.org/web/20190404072442/https://www.city.yokohama.lg.jp/seya/shokai/bunkazai/sanpo/buso/corse02-02.html アーカイブ]〉(横浜市瀬谷区公式ウェブサイト)</ref>。}}。 [[横浜・横須賀・逗子境界標識]]点からは分岐し、[[侍従川]](横浜市金沢区六浦)と[[鷹取川]](横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、[[横浜創学館高等学校]]を通り東京湾に達した。 == 沿革 == 相模国は[[古墳時代]]の[[成務天皇|成務朝]]に成立した[[相武国造]](さがむ-)<ref group="注">相武は、山のない荒野の意。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=武光誠|authorlink=武光誠|year=2001|title=県民性の日本地図|publisher=[[文藝春秋]]|pages=86-87|series=文春新書|isbn=4-16-660166-0}}</ref>の領域([[相模川]]流域、県中央部)と[[師長国造]](しなが-)の領域([[酒匂川]]流域と[[中村川 (足柄上郡)|中村川]]流域、県西部)を合したとされる。さらに、[[ヤマトタケル]]の子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。 なお、もとは[[武蔵国]]と一つだったという説がある。[[賀茂真淵]]や『[[倭訓栞]]』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。[[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』で、[[佐斯国]](さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば[[総国]](ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては[[毛野国]]([[群馬県]]・[[栃木県]])地域と一体であったとする[[考古学]]の成果と合わない<ref name="kenshi">{{Cite book|和書|title=神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世|editor=神奈川県県民部県史編集室|publisher=神奈川県|date=1981-03-25|page=147|doi=10.11501/9522771}}</ref>。 国名の語源は不明。前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であった[[カラムシ]](苧・[[麻布]]などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛([[箱根]]の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている{{R|kenshi}}。 [[12世紀]]末に[[源頼朝]]が[[鎌倉]]を本拠地とし、以来相模国は[[鎌倉幕府]]の本拠地となった。頼朝が知行国主であった時代には、[[政所]]が[[国役]]の賦課などを行っていた<ref name=osawa>大澤泉「相模国の知行体制と地域秩序の形成」『三浦一族研究』19号(2015年)/真鍋淳哉 編『旧国中世重要論文集成 相模国』(戎光祥出版、2020年)、2020年、P52-55. </ref>。守護に関しては[[宝治合戦]]までは[[三浦氏]]が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、三浦氏は元々[[在庁官人]]として相模国内の雑事を行っていたことから、相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある<ref name=osawa/>。[[北条氏]]による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、[[執権]]が相模守となり、副執権である[[連署]]が任官された武蔵守と共に「両国司」(『[[沙汰未練書]]』)と呼ばれた<ref>[[日本史史料研究会]]編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』([[吉川弘文館]]、2018年)P133</ref>。 [[1333年]]に[[元弘の乱|鎌倉幕府は滅亡]]したが、その後も[[建武の新政]]の時期には[[鎌倉将軍府]]が、[[室町時代]]には[[鎌倉府]]が置かれ関東の政治の中心であった。[[1428年]]の[[永享の乱]]によって鎌倉府は[[下総国]]の[[古河公方|古河]]へ移り、関東の政治の中心の座から外れたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると[[小田原城]]を本拠地とした[[後北条氏]]が関東地方に勢力を広げ、[[1590年]](天正18年)の[[小田原征伐]]で小田原城が落城するまで、再び相模国が関東の政治の中心となった。 江戸時代には[[小田原藩]]を初めとする譜代の諸藩や[[天領|幕府領]]・[[旗本]]領となった。 === 明治以後の沿革 === * 「旧高旧領取調帳」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(680村・290,322石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[三浦郡]](77村・24,526石余) - [[天領|幕府領]]([[浦賀奉行]]、[[韮山代官所]]) ** [[鎌倉郡]](90村・31,487石余) - 幕府領(浦賀奉行、松村忠四郎支配所、韮山代官所)、[[地方知行|旗本領]]、[[下野国|下野]][[烏山藩]]、[[下総国|下総]][[生実藩]] ** [[高座郡]](112村・55,304石余) - 幕府領(韮山代官所)、旗本領、荻野山中藩、下野烏山藩、下総[[佐倉藩]]、[[三河国|三河]][[西大平藩]] ** [[足柄上郡]](94村・35,311石余) - 旗本領、小田原藩、荻野山中藩 ** [[足柄下郡]](92村・30,849石余) - 旗本領、'''[[小田原藩]]''' ** [[淘綾郡]](20村・8,118石余) - 旗本領、小田原藩、[[武蔵国|武蔵]][[六浦藩|金沢藩]] ** [[大住郡]](123村・66,439石余) - 幕府領(韮山代官所)、旗本領、小田原藩、下野烏山藩、下総佐倉藩、下総生実藩、武蔵金沢藩 ** [[愛甲郡]](43村・25,965石余) - 幕府領(韮山代官所)、旗本領、小田原藩、'''[[荻野山中藩]]'''、下野烏山藩、下総佐倉藩 ** [[津久井郡]](29村・12,320石余) - 幕府領(韮山代官所)、旗本領、小田原藩 * [[1868年]](慶応4年) ** [[3月19日 (旧暦)|3月19日]] - [[神奈川奉行]]が[[官軍|新政府軍]]に接収されて'''[[横浜裁判所]]'''となり、足柄下郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、三浦郡、鎌倉郡の幕府領・旗本領を管轄。ただし、旧韮山代官所、松村支配所管轄地域の一部事務は引き続き両支配所が扱った。 ** [[4月20日 (旧暦)|4月20日]] - [[横浜裁判所]]が'''[[神奈川裁判所]]'''に改称。内務は管下の'''[[戸部裁判所]]'''が担当した。 ** [[6月17日 (旧暦)|6月17日]] - 神奈川裁判所が'''[[神奈川府]]'''に改称。 ** [[6月29日 (旧暦)|6月29日]] - 韮山代官所が[[韮山県]]に改組。津久井県の幕府領・旗本領を管轄したほか、他郡の一部事務を引き継ぐ。 ** [[7月10日 (旧暦)|7月10日]] - 旧幕府代官の松村長為(忠四郎)が[[武蔵知県事]]に就任。一部事務を引き続き担当。 ** [[徳川将軍家]]の[[駿府藩|府中藩]]への転封にともなう小田原藩の領地替えにより、足柄下郡・足柄上郡・淘綾郡および大住郡の一部の神奈川府管轄地域が小田原藩に、大住郡・愛甲郡の小田原藩領が神奈川府にそれぞれ移管。また、愛甲郡の神奈川府管轄地域の一部が佐倉藩に移管。 * 1868年(明治元年)[[9月21日 (旧暦)|9月21日]] - 神奈川府が'''[[神奈川県]]'''に改称。 * 明治初年 - 鎌倉郡の一部が[[常陸国|常陸]]'''[[水戸藩]]'''の管轄となる。 * [[1869年]](明治2年) ** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]] - 武蔵知県事の一部事務を[[品川県]]が引き継ぐ。 ** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]] - 金沢藩が任知藩事にともない'''[[六浦藩]]'''に改称。 * [[1870年]](明治3年) - 津久井県が[[津久井郡]]に改称。 * [[1871年]](明治4年) ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]] - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[小田原県]]'''、'''[[荻野山中県]]'''、'''[[烏山県]]'''、'''[[水戸県]]'''、'''[[佐倉県]]'''、'''[[生実県]]'''、'''[[六浦県]]'''、'''[[西大平県]]'''となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]] - 第1次府県統合により、足柄上郡・足柄下郡・淘綾郡・大住郡・愛甲郡・津久井郡・高座郡が'''[[足柄県]]'''の管轄、三浦郡・鎌倉郡が'''神奈川県'''の管轄になる。しかし、高座郡は外国人遊歩区域に含まれていたことから、直後に神奈川県に所属することに改められた(日付は[[太政官布告]]のもので、実施日は不明)。 * [[1876年]](明治9年)[[4月18日]] - 第2次府県統合により、足柄県が神奈川県・[[静岡県]]に合併され、相模国全域が'''神奈川県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[File:Shonan-shindo Site, nishiwakiden.jpg|thumb|250px|right|{{center|推定相模国庁跡([[平塚市]]四之宮)}}{{small|湘南新道関連遺跡。歩道上に大型建物跡(推定国庁西脇殿)の遺構標示。}}]] 相模[[国府]]の所在地は、[[史料]]では『[[和名類聚抄]]』([[931年]]~[[938年]]編纂)と『[[拾芥抄]]』では「[[大住郡]]」([[平塚市]])、『[[伊呂波字類抄]]』([[平安時代]]末~[[鎌倉時代]]初期成立)では「[[淘綾郡|餘綾郡]]」([[中郡]][[大磯町]])にあったと見えることから、所在地に変遷があったとして長く論争が行われてきた{{Sfn|平塚市博物館|2005|pp=42-43}}。いずれも国分寺の所在地である[[高座郡]]([[海老名市]])と異なるため、[[江戸時代|江戸]]末~[[明治時代]]に「高座郡(海老名)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「国府三遷説A」が提唱された{{Sfn|神奈川考古学会|2015|p=44}}<ref name="洋泉社 国府">『あなたの知らない神奈川県の歴史』(洋泉社、2012年)Q.2。</ref>。また[[大正時代|大正]]~[[昭和時代|昭和]]初期には「大住郡(平塚または[[伊勢原市]])→余綾郡(大磯)」の「国府二遷説」も浮上した{{Sfn|神奈川考古学会|2015|p=44}}。さらに[[1950年]]代以降、[[小田原市]]([[足下郡]])で発見された「千代寺院(千代廃寺)跡<ref>{{Cite web|和書|author=小田原市文化部文化財課|url=https://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/maizoubunkazai/chiyojiinato.html|title=千代寺院跡(千代廃寺)|work=小田原市|accessdate=2022-05-21}}</ref>」を初期の相模国分寺と見て、その付近に初期国府もあったとし、「足下郡(小田原)→大住郡(平塚)→余綾郡(大磯)」という「三遷説B」(足柄国府説)が提唱された<ref name="洋泉社 国府"/>{{Sfn|神奈川考古学会|2015|p=44}}。 ; 高座郡国府説 : 相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説<ref>[[小島庸和]] 「相模国府の所在について」 表現学部紀要9 (2008) </ref><ref name="洋泉社 国府"/>。推定地は現在の[[海老名市]]付近。江戸時代の『[[新編相模国風土記稿]]』に高座郡国分村と見える一帯に推定される<ref name="洋泉社 国府"/>。 ; 大住郡国府説 : [[平安時代]]中期成立の『[[和名類聚抄]]』の記載に基づく説。別地から移ったと見る説では、[[元慶]]2年([[878年]])の[[相模・武蔵地震|関東大地震]]を契機として新たに建てられたと推測する<ref name="洋泉社 国府"/>。平塚市四之宮において関連遺跡が発掘されている<ref group="注">国庁の建物と思われる多数の掘立柱建物の跡、国庁の部局の「政所」(まんどころ)・「曹司」(そうじ)・「国厨」(くにのくりや)と墨書された土器などが出土した。</ref><ref name="洋泉社 国府"/>。ただし比定地については、平塚市四宮説以外にも伊勢原市比々多説・秦野市御門説がある<ref name="洋泉社 国府"/>。 ; 餘綾郡国府説 : 平安時代末期成立の『[[伊呂波字類抄]]』の記載に基づく説。推定地は相模国総社の[[六所神社 (大磯町)|六所神社]]が鎮座する[[大磯町]]国府本郷付近。 現代の[[考古学]]の[[発掘調査]]成果では、1989年(平成元年)に平塚市[[四之宮 (平塚市)|四之宮]]の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある[[墨書土器]]が出土したことや<ref>{{Cite web|和書|author=平塚市社会教育課|url=https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/bunka/page-c_01293.html|title=「国厨」墨書土器他 稲荷前A遺跡第1地点 1号竪穴住居址出土資料一括|work=平塚市|accessdate=2022-05-21}}</ref>、2004年(平成16年)の[[湘南新道]]建設事業に伴う調査で同市四之宮の六ノ域・坪ノ内遺跡から国府脇殿と見られる[[8世紀]]前葉の大型[[掘立柱建物]]が検出されたことで{{Sfn|かながわ考古学財団|2010|pp=66-67}}、相模国府は成立当初から平塚(大住郡)にあり、後に余綾へ移転したとする「二遷説」が有力化してきている{{Sfn|平塚市博物館|2005|pp=42-43}}{{Sfn|神奈川考古学会|2015|p=44}}。 === 国分寺・国分尼寺 === [[画像:Sagami Provincial Temple.jpg|thumb|right|200px|海老名中央公園の国分寺七重塔模型(3分の1スケールでの復元)]] * [[相模国分寺#相模国分寺跡|相模国分寺跡]] (海老名市国分南、{{Coord|35|27|15.56|N|139|23|52.31|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国分寺跡}}) *: 国の史跡。[[法隆寺]]式伽藍配置で、推定寺域は東西約240メートル・南北約300メートル<ref name="国分寺">海老名市教育委員会作成「史跡相模国分寺跡・相模国分尼寺跡」(2013年)。</ref>。寺院跡南方の[[相模国分寺|東光山医王院国分寺]]({{Coord|35|27|9.63|N|139|23|56.90|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国分寺(後継寺院)}})が法燈を伝承する。 * [[相模国分寺#相模国分尼寺跡|相模国分尼寺跡]] (海老名市国分北、{{Coord|35|27|35.29|N|139|23|53.08|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国分尼寺跡}}) *: 国の史跡。[[東大寺]]式伽藍配置で、推定寺域は約175-200メートル四方<ref name="国分寺"/>。後継寺院はない。 なお、小田原市千代では古代寺院跡が見つかっており、これを初期国分寺と見る説がある。ただし近年では、その寺院跡は地元豪族による8世紀初頭の建立と見る説が有力視される<ref name="千代寺院跡"/>。また、同寺院跡を国分寺跡とする説の根拠の1つは、その伽藍配置が諸国国分寺で採用される東大寺式と推測されたためであったが、近年では法隆寺式の可能性が指摘されている<ref name="千代寺院跡">[http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/kouhoushiryou/chiyojiinato.html 千代寺院跡](小田原市ホームページ)。</ref> === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社12座12社の計13座13社が記載されている(詳細は「[[相模国の式内社一覧]]」を参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。<!--式内社一覧項が存在するため、大社のみの記載とする(他の令制国と揃える)--> * [[高座郡]] 寒川神社 ** 比定社:[[寒川神社]] (高座郡[[寒川町]]宮山) '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 181-185。</ref>。 * 総社:[[六所神社 (大磯町)|六所神社]] (中郡[[大磯町]]国府本郷、{{Coord|35|18|24.45|N|139|16|27.60|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国総社:六所神社}}) - 寒川・川勾・比々多・前鳥4社と[[平塚八幡宮]]の[[分霊]]を[[合祀]]する。 * 一宮:[[寒川神社]] (高座郡寒川町宮山、{{Coord|35|22|46.55|N|139|22|59.76|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国一宮、名神大社:寒川神社}}) * 二宮:[[川勾神社]] (中郡二宮町山西、{{Coord|35|18|0.65|N|139|14|17.16|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国二宮:川勾神社}}) * 三宮:[[比々多神社]] (伊勢原市三ノ宮、{{Coord|35|24|4.56|N|139|17|2.24|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国三宮:比々多神社}}) * 四宮:[[前鳥神社]] (平塚市四宮神戸、{{Coord|35|21|25.18|N|139|21|52.84|E|region:JP-14_type:landmark|name=相模国四宮:前鳥神社}}) 寒川神社は古くから現代に至るまで一宮とされている。一方で[[鶴岡八幡宮]]([[鎌倉市]]雪ノ下)も全国一の宮会に加盟しており、一宮として扱われることがある。同宮は[[鎌倉時代]]の創建で、[[式内社]]ではないにもかかわらず一宮と同格の扱いを受けた。これは、当時の[[征夷大将軍|将軍]]である[[源氏]]の[[氏神]]を京都の[[石清水八幡宮]]から[[勧請]]した宮であり、[[鎌倉幕府]]が特別扱いしたためと考えられる。 また、一宮から四宮までの4社と共に国司巡拝の神社で「[[国府八幡宮|一国一社の八幡宮]]」として[[平塚八幡宮]](平塚市浅間町)があるが、同宮は四宮以上の4社と違って式内社ではない。平塚八幡宮を「五宮」と呼ぶことはなく神社側も五宮とは名乗っていないが、5月5日の[[国府祭]](こうのまち)では一宮から四宮と平塚八幡宮の五社が神揃山(かみそろいやま)に集まる神事があることから、五宮格と考えられている。一方、[[室町時代]]の兵火に合うまで権勢を誇った[[有鹿神社]]は五宮とされることもある(諸説あり)が、国府祭には参加していない。 === 安国寺利生塔 === * [[安国寺利生塔|安国寺]] - 鎌倉市山之内に存在したといわれるが廃寺。 * 利生塔 - 未詳。 == 地域 == === 郡 === * [[足柄上郡|足柄上(あしがらのかみ)郡]] - 西北の甲斐国境で松田・足柄・曾我など。 * [[足柄下郡|足柄下(あしがらのしも)郡]] - 西南の伊豆国境で小田原・箱根など。 * [[淘綾郡|餘綾(よろぎ)郡]] - 中部南岸のごく狭い平野部で大磯・国府など。 * [[大住郡|大住(おおすみ)郡]] - 中部の内、餘綾郡を除く南半分で平塚・秦野など。 * [[愛甲郡|愛甲(あゆかわ)郡]] - 中部の内、北半で厚木・愛川など。 ** [[津久井郡]] - 中部最北端の甲斐・武蔵国境。元禄4年(1691年)に愛甲郡、高座郡より分離され、津久井県として設けられた。領域の大半は愛甲郡に属していた。明治三年に津久井郡に改称。 * [[高座郡|高座(たかくら)郡]] - 東部の内、西半分で茅ヶ崎・座間・藤沢など。南に相模湾、北に武蔵と接する。 * [[鎌倉郡|鎌倉(かまくら)郡]] - 東端の武蔵国境。鎌倉など。 * [[三浦郡|御浦(みうら)郡]] - 東南の三浦半島全域。 中世、[[後北条氏]]は、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)とし、近世初頭まで用いられたようである。 == 人物 == === 国司 === ==== 相模守 ==== ※日付=旧暦※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。 * [[秦井出乙麻呂]](天平15年〈[[743年]]〉6月30日 - )外従五位下 * [[葛井諸会]](天平19年〈[[747年]]〉4月21日 - )外従五位下 * [[藤原宿奈麻呂]](天平勝宝4年〈[[752年]]〉11月3日 - )[[従五位下]] * [[石上宅嗣]](天平宝字元年〈[[757年]]〉6月16日 - )[[従五位上]] * [[紀伊保]](天平宝字5年〈[[761年]]〉5月9日 - )従五位下 * [[粟田人成]](天平宝字8年〈[[764年]]〉1月21日 - )従五位上 * [[牡鹿嶋足]](天平宝字8年〈764年〉10月20日 - )従四位下 授刀少将 * [[藤原長川]](宝亀11年〈[[780年]]〉3月 - )従五位下 * [[和気麻呂]](延暦14年〈[[795年]]〉2月 - )従四位下 * [[菅野真道]]([[801年]]〈延暦20年〉閏元日 - 延暦22年〈[[803年]]〉1月)正四位下 * [[藤原園人]](延暦22年〈[[803年]]〉1月7日 - )従四位上 * [[紀田上]]([[806年]]〈大同元年〉 - 「[[808年]]〈大同3年〉」)正五位下 * [[多入鹿]](弘仁元年〈[[810年]]〉1月10日 - 弘仁元年〈[[810年]]〉9月10日)従四位下 * [[直世王]](弘仁元年〈810年〉9月10日 - 「弘仁5年〈[[814年]]〉9月17日」)従五位下→従五位上 * [[春原五百枝]](弘仁7年〈[[816年]]〉1月10日 - 「弘仁10年〈[[819年]]〉3月1日)」従三位参議 * [[紀百継]](弘仁9年〈[[818年]]〉1月10日 - )従四位下 * [[路年継]](819年(弘仁10年) - [[822年]](弘仁13年))正五位下 * [[藤原友人]]( - 弘仁13年〈822年〉8月16日)従四位下 * [[大伴国造]](天長3年〈[[826年]]〉1月21日 - 天長3年〈826年〉3月3日)従四位上 * [[藤原綱継]](天長3年〈826年〉3月3日 - 「[[827年]]〈天長4年〉」)従四位下 * [[三原春上]](天長7年〈[[830年]]〉6月5日 - 「天長9年〈[[832年]]〉11月9日」)従四位下 * [[橘岑継]](天長9年〈832年〉1月 - 天長10年〈[[833年]]〉3月)従五位下 * [[藤原常嗣]](承和元年〈[[834年]]〉1月11日 - 承和元年〈834年〉5月13日)従四位上 * [[滋野貞主]](承和元年〈834年〉7月1日 - 承和2年〈[[835年]]〉8月14日)従四位上 * [[百済勝義]](承和4年〈[[837年]]〉1月 - )従四位下→従四位上 * [[藤原貞成]](承和6年〈[[839年]]〉1月11日 - )従五位上 * [[源融]](承和8年〈[[841年]]〉1月12日 - 承和9年〈[[842年]]〉9月18日)正四位下 * [[百済勝義]](承和8年〈841年〉1月13日 - )従三位 * (権守)[[藤原長良]](承和10年〈[[843年]]〉1月12日 - 承和13年〈[[846年]]〉9月13日)従四位下 * [[坂上清野]](承和12年〈[[845年]]〉1月 - 承和12年〈845年〉7月3日)従四位上 * [[橘岑継]](承和13年〈[[846年]]〉1月21日 - 嘉祥元年〈[[848年]]〉1月13日)従四位下 * (権守)[[藤原富士麻呂]](承和13年〈846年〉9月14日 - )従四位下 * [[藤原良相]](嘉祥元年〈848年〉1月 - 嘉祥2年〈[[849年]]〉11月29日)従四位下参議 * [[坂上清野]](嘉祥2年〈849年〉5月17日 - 嘉祥2年〈849年〉8月4日)正四位下 * [[滋野貞主]](嘉祥2年〈849年〉8月5日 - 仁寿2年〈[[852年]]〉2月8日)正四位下参議 * (権守)[[橘真直]](仁寿元年〈[[851年]]〉1月11日 - 仁寿2年〈852年〉6月20日)正五位下 * [[坂上正野]](仁寿2年〈852年〉2月15日 - 仁寿3年〈[[853年]]〉1月16日)従五位上 * [[時宗王]](仁寿3年〈853年〉1月16日 - )従四位下 * (権守)[[文屋有真]](斉衡元年〈[[854年]]〉1月16日 - 斉衡3年〈[[856年]]〉2月8日)従五位下 * [[源興]](天安元年〈[[857年]]〉1月14日 - 貞観元年〈[[859年]]〉1月3日)正五位下→従四位下 * [[源勤]](貞観元年〈859年〉1月13日 - 「[[860年]]〈貞観2年〉」)従四位上→正四位下 * [[源啓]](貞観5年〈[[863年]]〉2月10日 - )従四位上 * [[源生]](貞観9年〈[[867年]]〉1月12日 - 貞観10年〈[[868年]]〉1月11日)正四位下参議 * [[源冷]](貞観10年〈868年〉1月16日 - )従四位上 * (権守)[[源有]](貞観12年〈[[870年]]〉1月25日 - )従五位上 * (権守)[[源光 (公卿)|源光]](貞観14年〈[[872年]]〉2月29日 - 貞観15年〈[[873年]]〉2月22日)従四位上 * [[藤原良尚]](貞観17年〈[[875年]]〉1月13日 - 元慶元年〈[[877年]]〉3月10日)従四位上 * [[源直]]( - 貞観17年〈875年〉1月13日)従四位上 * [[源至]](元慶元年〈877年〉4月1日 - 元慶5年〈[[881年]]〉2月5日)正五位下 * (権守)[[在原業平]](元慶2年〈[[878年]]〉1月11日 - 元慶3年〈[[879年]]〉10月)従四位上 * [[源光 (公卿)|源光]](元慶5年〈881年〉2月15日 - 元慶6年〈[[882年]]〉2月2日)正四位下 * [[文屋巻雄]](元慶6年〈882年〉3月 - )従四位上 * (権守)[[源平]](仁和2年〈[[886年]]〉2月21日 - 仁和3年〈[[887年]]〉6月13日)従四位上 * [[藤原利基]](仁和3年〈887年〉2月2日 - )従四位上 * (権守)[[源光 (公卿)|源光]](仁和4年〈[[888年]]〉3月7日 - )正四位下参議 * (権守)[[藤原枝良]]([[909年]]〈延喜9年〉閏8月4日 - 延喜14年〈[[914年]]〉4月22日)従四位下→従四位上参議 * [[藤原枝良]](延喜14年〈[[914年]]〉4月22日 - 延喜15年〈[[915年]]〉6月25日)従四位上参議 * [[源宗干]]([[915年]](延喜15年)6月25日 - [[916年]](延喜16年))従四位上 * [[藤原安親]](安和元年〈[[968年]]〉10月19日 - 天禄3年〈[[972年]]〉1月24日)従四位下 * (権守)[[藤原忠輔]](天延元年〈[[973年]]〉11月28日 - 貞元元年〈[[976年]]〉6月16日)従五位下 * (権守)[[源重之]](貞元元年〈[[976年]]〉7月 - )従五位下 * [[平倫範]](長徳2年〈[[996年]]〉1月 - )従五位下 * [[平孝義]](寛弘5年〈[[1008年]]〉7月28日 - ) * [[大江公資]](寛仁4年〈[[1020年]]〉 - 万寿元年〈[[1024年]]〉) * [[源頼義]](長元9年〈[[1036年]]〉10月14日 - ) * [[大中臣明輔]](康平2年〈[[1059年]]〉2月 - 康平3年〈[[1060年]]〉2月17日) * [[源師光 (清和源氏)|源師光]]( - 永保2年〈[[1082年]]〉) * [[橘以綱]](嘉保元年〈[[1094年]]〉2月22日 - 「康和元年〈[[1099年]]〉」)正五位下 * (権守)[[紀宗兼]](康和元年〈[[1099年]]〉1月22日 - )従五位下 * [[藤原清家]](康和2年〈[[1100年]]〉1月23日 - ) * [[藤原宗佐]](嘉承2年〈[[1107年]]〉 - 天永3年〈[[1112年]]〉12月) * [[源雅職]](永久5年〈[[1117年]]〉 - 「保安元年〈[[1120年]]〉7月5日」) * [[藤原盛重]](保安元年〈[[1120年]]〉12月24日 - 大治2年〈[[1127年]]〉12月20日) * [[源時]](大治2年〈[[1127年]]〉12月20日 - [[1131年]](天承元年)) * [[平範家]](長承3年〈[[1134年]]〉閏12月30日 - 永治元年〈[[1141年]]〉12月2日)従五位下 * (権守)[[藤原経国]](保延4年〈[[1138年]]〉1月22日 - 久寿2年〈[[1155年]]〉10月26日) * (権守)[[藤原頼定]](康治元年〈[[1142年]]〉1月23日 - 「久寿元年〈[[1154年]]〉1月2日」)従五位下 * [[藤原頼憲]](天養元年〈[[1144年]]〉1月24日 - 仁平2年〈[[1152年]]〉1月28日)従五位下 * (権守)[[藤原敦憲]](久安2年〈[[1146年]]〉1月23日 - )従五位下 * (権守)[[藤原利宗]](久安6年〈[[1150年]]〉12月22日 - )従五位下 * [[藤原親弘]](仁平2年〈[[1152年]]〉1月28日 - 「久寿2年〈[[1155年]]〉12月15日」)正五位下 * [[大内惟義|平賀(大内)惟義]](文治元年〈[[1185年]]〉8月 - ) * [[北条義時]](元久元年〈[[1204年]]〉3月6日 - 建保5年〈[[1217年]]〉12月12日) 鎌倉幕府二代[[執権]] 従五位下→従四位下 * [[北条時房]](建保5年〈[[1217年]]〉12月12日 - 嘉禎3年〈[[1237年]]〉3月4日) 鎌倉幕府初代[[連署]] 従五位下→従四位上 * [[北条重時]](嘉禎3年〈[[1237年]]〉11月19日 - 建長元年〈[[1249年]]〉6月14日) 鎌倉幕府二代連署 従五位下→従四位上 * (権守)[[北条朝直]](文暦元年〈[[1234年]]〉1月26日 - 嘉禎3年〈[[1237年]]〉9月15日)従五位下 * [[北条時頼]](建長元年〈[[1249年]]〉6月14日 - 康元元年〈[[1256年]]〉11月3日) 鎌倉幕府五代執権 従五位上 * [[北条政村]](正嘉元年〈[[1257年]]〉6月12日 - 文永2年〈[[1265年]]〉3月28日) 鎌倉幕府七代執権 従四位下→従四位上 * [[北条時宗]](文永2年〈[[1265年]]〉3月28日 - 弘安7年〈[[1284年]]〉4月4日) 鎌倉幕府八代執権 従五位上→正五位下 * [[北条貞時]](弘安8年〈[[1285年]]〉4月18日 - 正安3年〈[[1301年]]〉8月22日) 鎌倉幕府九代執権 従五位下→従四位上 * [[北条師時]](正安3年〈[[1301年]]〉9月27日 - 応長元年〈[[1311年]]〉9月21日) 鎌倉幕府十代執権 従五位下 * [[北条煕時]](応長元年〈[[1311年]]〉10月24日 - 正和4年〈[[1315年]]〉7月19日) 鎌倉幕府十二代執権 正五位下 * [[北条基時]](正和4年〈[[1315年]]〉7月19日 - 正和5年〈[[1316年]]〉7月) 鎌倉幕府十三代執権 従五位下 * [[北条高時]](文保元年〈[[1317年]]〉3月10日 - 元応元年〈[[1319年]]〉1月) 鎌倉幕府十四代執権 従五位下→正五位下 * [[北条守時]](嘉暦元年〈[[1326年]]〉 - 元弘3年、正慶2年〈[[1333年]]〉5月) 鎌倉幕府十六代執権 従五位下→従四位下 * [[足利直義]]([[1333年]]〈元弘3年、正慶2年〉11月8日 - [[1338年]]〈南朝:延元3年、北朝:暦応元年〉8月11日)正五位下→従四位下 ==== 相模介 ==== * [[御杖祖足]](天平宝字5年〈[[761年]]〉1月16日 - )外従五位下 * [[源満快]] ==== 相模掾 ==== * [[藤原道成]] * [[藤原興風]] === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * ? - [[1194年]](建久5年) - [[三浦義澄]] * [[1209年]](承元3年) - ? - [[三浦義村]] * ? - [[1247年]](宝治元年) - [[三浦泰村]] * [[1247年]](宝治元年) - [[1333年]](元弘3年、正慶2年) - 不設置([[侍所]]・[[政所]]管掌?) ==== 室町幕府 ==== * [[1351年]](南朝:正平6年、北朝:観応2年) - [[1352年]](南朝:正平7年、北朝:文和元年) - [[三浦高通]] * [[1353年]](南朝:正平8年、北朝:文和2年) - [[1363年]](南朝:正平18年、北朝:貞治2年) - [[河越直重]] * [[1364年]](南朝:正平19年、北朝:貞治3年) - [[1367年]](南朝:正平22年、北朝:貞治6年) - 三浦高通 * [[1377年]](南朝:天授3年、北朝:永和3年) - [[1402年]](応永9年) - [[三浦高連]] * [[1416年]](応永23年) - [[三浦高明]]<ref group="注">上杉禅秀の乱に乗じた三浦高明の相模守護更迭とその後の上杉定頼・一色持家の守護就任は鎌倉公方足利持氏が最終任命権を持つ室町幕府を無視して任命したもので、事実上の鎌倉府の御料国化であった(風間洋「足利持氏専制の周辺」『国史学』第163号(1997年))。</ref> * [[1416年]](応永23年)? - [[1421年]](応永28年)? - [[上杉定頼]] * [[1426年]](応永33年) - [[1438年]](永享10年) - [[一色持家]] * [[1429年]](永享元年) - ? - [[三浦時高]] * [[1442年]](嘉吉2年) - [[1443年]](嘉吉3年) - [[武田信長]]? * [[1443年]](嘉吉3年) - ? - [[上杉清方]] * [[1448年]](文安5年) - ? - [[上杉持朝]] * [[1449年]](宝徳元年) - [[1455年]](康正元年) - [[上杉顕房]] * [[1485年]](文明17年) - [[1488年]](長享2年) - [[上杉定正]] * [[1510年]](永正7年) - ? - [[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]] * ? - [[1516年]](永正13年) - [[三浦義同]] === 国人 === ;足柄上郡 *[[松田氏]] - 松田郷。波多野氏族。本宗が頼朝に敵対して衰退したため惣領化していた。後北条氏の進出に協力して重臣となっている。 *[[大友氏]] - 大友郷。本姓近藤氏。能直の母の生家波多野氏が大友荘を所有していたことから大友氏を名乗る。豊後・筑後守護職を得、孫の頼康が西遷して基盤を移し、以後目立った活動は見られない。 ;足柄下郡 *[[大森氏]] - 小田原城主。駿河国駿東郡大森が名字の地だが、[[上杉禅秀の乱]]で相模に領地を得、勢力を扶植した。扇谷上杉氏の派閥に属したが、山内上杉派に転じたため、伊勢盛時(北条早雲)に滅ぼされた。 *[[曾我氏]] - 曾我荘。室町幕府奉公衆。仇討ちを成した[[曾我兄弟の仇討ち|曾我兄弟]]が有名。 *[[風間小太郎]] - 『[[鎌倉管領九代記]]』に登場する、相模国足下郡に住み慣れし[[忍者|忍びの上手]]。 ;餘綾郡 *[[中村氏 (相模国)|中村氏]] - 中村荘。板東平氏。[[相模平一揆]]を為して、実質守護を代行していた。[[土肥氏]]、[[土屋氏]]、[[小早川氏]]などが派生している。 ;大住郡 *[[波多野氏]] - 波多野荘。本姓佐伯氏。[[秦野盆地]]一体に根を張り、松田氏などが派生している。京武者として官位を得、源頼朝の父義朝とも縁戚関係になるなど大きな勢力を誇ったが、頼朝に敵対して没落した。御家人としては残っている。 ;愛甲郡 *[[内藤氏]] - 津久井城主。 ;高座郡 *[[渋谷氏]] - 渋谷庄。宝治合戦の恩賞で薩摩に[[東郷氏]]、[[祁答院氏]]、[[入来院氏]]などが派生している。 ;鎌倉郡 *[[鎌倉氏]] - 大庭氏、梶原氏、長尾氏などが派生し鎌倉党を為したが、源平の戦いの中で二分され解消していった。 ;御浦郡 *[[三浦氏]] - 三浦荘。古くから三浦半島に盤踞した。岡崎城主。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏は北条氏に滅ぼされ、再興した三浦氏は後に北条氏を称する伊勢氏に滅ぼされた。 === 戦国大名 === *[[後北条氏]] - 室町幕府政所執事を世襲する伊勢氏の氏族で備中を領する家に生まれた伊勢盛時が伊豆、相模を切り取り、子氏綱が北条氏を称した。 === 織豊大名 === *[[徳川家康]] - 豊臣秀吉による後北条氏の討滅後、徳川家を本拠地三河や獲得していた信濃などから旧北條領へ移封した。 === 武家官位としての相模守 === * [[大久保忠隣]](慶長5年〈[[1600年]]〉7月 - 元和2年〈[[1616年]]〉4月)従五位下 * [[土屋政直]](寛文5年〈[[1665年]]〉12月25日 - 享保7年〈[[1722年]]〉11月16日)従五位下→従四位下 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=平塚市博物館|title=平塚市博物館展示解説書|chapter=10.相模国府を探る|pages=42-43|year=2005|date=2005-03|url=https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/sonota/00000083/?q=hakubutsukan_archive/sonota/00000083|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=かながわ考古学財団|authorlink=かながわ考古学財団|chapter=第5章・古代の遺跡|pages=64-77|title=掘り進められた神奈川の遺跡-旧石器から近代まで-|publisher=[[有隣堂]]|year=2010|date=2010-03-30|isbn=4896602072|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=神奈川考古学会|title=第22回考古学講座・相模国を創る-古代の役所と寺院-|publisher=神奈川考古学会|year=2015|date=2015-02-22|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/21329|ncid=BB20506262|doi=10.24484/sitereports.21329|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sagami Province}} * [[令制国一覧]] * [[相模 (歌人)]] * [[相模原市]] * [[相模野台地]] * [[京王相模原線]] * [[相模鉄道]] * [[相模線]] * [[相模 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。元は[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の戦艦'''ペレスウェート'''。艦名は相模国に因む。 * [[相武]](武相) * [[神奈川県方言|相州弁]] * [[境川 (東京都・神奈川県)]] * [[境木地蔵]] * {{Prefix|相模}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.yk.rim.or.jp/~kamide/yokohama/musashi-sagami/ |title=南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容 |date=20020304202813}} * {{Wayback|url=http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/sagami.html |title=相模国府 |date=19990224071840}}(国府物語) * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/sinpensagami.html |title=『新編相模国風土記稿』|date=20130721222720}} - 江戸時代に描かれた相模国 {{令制国一覧}} {{相模国の郡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さかみのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国さかみ]] [[Category:神奈川県の歴史]] [[Category:相模国|*]]
2003-08-20T06:55:39Z
2023-11-28T23:09:40Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:座標一覧", "Template:Small", "Template:Notelist2", "Template:PDF", "Template:令制国一覧", "Template:Refnest", "Template:Coord", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Wayback", "Template:Archive.today", "Template:相模国の郡", "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 令制国", "Template:Center", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Prefix", "Template:Ruby", "Template:R", "Template:Sfn", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%9B%BD
13,610
預言者
預言者()とは、預言すなわち霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する者。宗教における祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果たす。 旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー (ヘブライ語ラテン翻字: nabi) である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である。なお、岩波委員会訳聖書では「ヒッテーフ=(よだれを)垂らす」の意から出た「ヒトナベー」からの派生であると主張している。 古典ギリシア語では、プロフェーテース (希: προφήτης、ギリシア語ラテン翻字: Prophetes) の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ。なお、接頭辞「προ-」には「代わりに」のほかに「前に」の意味もあることから「前もって語る人」を語源的意味とする論者もいるが、その場合でも聖書の文脈では「神の代弁者」の意味で用いられていたとしている。 とはいえ、聖書の預言には未来を対象とするものも少なからずあるため「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の「Prophet」やフランス語の「prophète」は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持つ。ただし「未来を語る者」については、英語では「foreteller」なども、フランス語では「prédiseur」などもそれぞれ用いられる。 預言と予言は、英語では同一の語「prophecy」であるが、日本語では予言が「未来のことを前もって語ること」であるのに対し、預言は「来たるべき世界の内容とその意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動を指し示し、倫理性を伴った宗教的世界を提示する行為」として区別されることもある。 英語の「prophet」に対応している現在の日本語は「預言者」である。これは漢訳聖書の訳語に由来する。清代には西洋の宣教師らによって複数の漢訳聖書が作られた。18世紀初頭のジャン・バセ訳『四史攸編』や1813年のロバート・モリソン訳『新遺詔書』では「先見」の訳があてられたが、19世紀半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようで、1860年代初めに日本人向けに作成されたヘボン訳『新約聖書』(四福音書のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された。 ただし「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国語では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、日本では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が「プロフェーテース」の原義に引きずられ、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と理解した。 本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる。 この区別を踏まえて、ある予言者(例えばノストラダムス)は神の言葉(預言)を聞いた、と解釈する場合に、その予言者を「預言者」と呼ぶことがある。 旧約聖書では、神がかり状態の中で幻を見てそれを伝えるシャーマンのような見者(けんじゃ、ローエー rō,eh)と、神のことばを語る預言者(ナービー nābî)とは区別されるが、これらも必ずしも明瞭に区別されているわけではない。 ユダヤ教のトーラーでは「偽預言者(英語版)」の話題が扱われている(申命記13章2-6、18章20-22)。預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、旧約時代には偽預言者は死罪とみなされていた。 ディアスポラ後のユダヤ教徒たちは、70年にエルサレム神殿が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考え、この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとする。ユダヤ教徒はモーセと神の「旧い契約」に対し、キリスト教が神と結んだ「新しい契約」と主張する新約聖書の内容を認めていない。 ヤムニア会議によってユダヤ教正典と決定されたヘブライ語聖書式の配列では、「トーラー」「ケスービーム(諸書)」の間に「預言者(Nəbhī'īm, nevi'im, ネビーイーム)」が配置される。「預言書」という表記も見られるが、厳密ではないという意見もある。 キリスト教はユダヤ教の伝統から出現したナザレのイエスの活動から始まる宗教であり、旧約聖書に記された預言者たちをユダヤ教と同様に預言者と認める。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では「聖霊は......預言者をもってかつて語った」と告白する。 キリスト教では、イエス自身をいわゆる預言者とは区別し、神の子にして救世主(メシア)(この場合はイエス・キリスト)であると信じる。ただし、イエスをその働きゆえに「預言者」と呼ぶこともある(使徒7:37)。新約聖書の使徒言行録や書簡などの文書からは、預言の活動自体は初期のキリスト教会(初代教会)でも行われ、預言を行う信徒らが当時「預言者」として認められていたことがうかがえる。エルサレムからアンテオケに預言者たちが移動し、このうちの1人であったアガボは大きな飢饉が訪れることを預言し、それが成就したことが記されている。このアガボは、後にパウロが捕縛され異邦人に引き渡されることも預言した。初めて異邦人への公の宣教師として派遣されたパウロとバルナバも、預言者や教師のグループに属し(使徒13:1)、エルサレム会議での大切な決定事項を伝えるために、異邦人の諸教会に派遣されたユダとシラスも預言者であった。このシラスは、パウロの第2回目の伝道旅行に同行した。またパウロ書簡(エフェソの信徒への手紙)の中で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語られているように、初代教会において預言者の役割は、使徒に次ぐ大切な働きとされていたことがわかる。 正教会では「聖預言者」の称号を付して記憶する。 キリスト教から派生したモルモン教では、自派の指導者(大管長)を「預言者」と称している。 イスラム教では、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書のイエス・キリスト(イーサー)も、歴代の預言者として認めている。 中でも を五大預言者として位置づけた上で、ムハンマドこそ最後の預言者であるとする。 イスラム教シーア派の十二イマーム派から分かれたバハイ教は、ムハンマドに至るまでのすべてのアブラハムの宗教の預言者たちを認め、バハイ教の始祖であるバハーウッラーも預言者の列に連なるひとりであるとする。バハイ教ではさらに、ブッダのようなアブラハムの宗教以外の宗教の始祖たちも唯一神の預言者であると説いており、アブラハムの宗教の潮流のみに留まらない普遍的世界宗教の性格を有している。 日本では、『立正安国論』で内憂外患を説いた鎌倉仏教の日蓮、非戦論を唱え戦争に反対した無教会主義キリスト教の内村鑑三や矢内原忠雄などが「預言者的人物」とされる。その根拠となるのは強烈な召命体験と終末意識に立脚した社会批判であり、その主張により伝統的宗教の祭司と対立し社会から迫害される点にある。預言者はしばしば社会の危機的状況において出現し時代の変革を促進する。 このほか新宗教系では、大本の出口王仁三郎や、真光系の岡田光玉、阿含宗の桐山靖雄なども預言者とされる。 オウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムスの予言などの「予言」を自らの宗教体系に取り込み、予言を繰り返した上で自らを絶対的預言者と称した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "預言者()とは、預言すなわち霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する者。宗教における祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果たす。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー (ヘブライ語ラテン翻字: nabi) である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である。なお、岩波委員会訳聖書では「ヒッテーフ=(よだれを)垂らす」の意から出た「ヒトナベー」からの派生であると主張している。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古典ギリシア語では、プロフェーテース (希: προφήτης、ギリシア語ラテン翻字: Prophetes) の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ。なお、接頭辞「προ-」には「代わりに」のほかに「前に」の意味もあることから「前もって語る人」を語源的意味とする論者もいるが、その場合でも聖書の文脈では「神の代弁者」の意味で用いられていたとしている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "とはいえ、聖書の預言には未来を対象とするものも少なからずあるため「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の「Prophet」やフランス語の「prophète」は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持つ。ただし「未来を語る者」については、英語では「foreteller」なども、フランス語では「prédiseur」などもそれぞれ用いられる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "預言と予言は、英語では同一の語「prophecy」であるが、日本語では予言が「未来のことを前もって語ること」であるのに対し、預言は「来たるべき世界の内容とその意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動を指し示し、倫理性を伴った宗教的世界を提示する行為」として区別されることもある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "英語の「prophet」に対応している現在の日本語は「預言者」である。これは漢訳聖書の訳語に由来する。清代には西洋の宣教師らによって複数の漢訳聖書が作られた。18世紀初頭のジャン・バセ訳『四史攸編』や1813年のロバート・モリソン訳『新遺詔書』では「先見」の訳があてられたが、19世紀半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようで、1860年代初めに日本人向けに作成されたヘボン訳『新約聖書』(四福音書のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただし「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字であり、中国語では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、日本では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、漢語としての由来を知らぬ者が「プロフェーテース」の原義に引きずられ、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と理解した。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本来は「副詞+動詞」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この区別を踏まえて、ある予言者(例えばノストラダムス)は神の言葉(預言)を聞いた、と解釈する場合に、その予言者を「預言者」と呼ぶことがある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "旧約聖書では、神がかり状態の中で幻を見てそれを伝えるシャーマンのような見者(けんじゃ、ローエー rō,eh)と、神のことばを語る預言者(ナービー nābî)とは区別されるが、これらも必ずしも明瞭に区別されているわけではない。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ユダヤ教のトーラーでは「偽預言者(英語版)」の話題が扱われている(申命記13章2-6、18章20-22)。預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、旧約時代には偽預言者は死罪とみなされていた。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ディアスポラ後のユダヤ教徒たちは、70年にエルサレム神殿が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考え、この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとする。ユダヤ教徒はモーセと神の「旧い契約」に対し、キリスト教が神と結んだ「新しい契約」と主張する新約聖書の内容を認めていない。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヤムニア会議によってユダヤ教正典と決定されたヘブライ語聖書式の配列では、「トーラー」「ケスービーム(諸書)」の間に「預言者(Nəbhī'īm, nevi'im, ネビーイーム)」が配置される。「預言書」という表記も見られるが、厳密ではないという意見もある。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "キリスト教はユダヤ教の伝統から出現したナザレのイエスの活動から始まる宗教であり、旧約聖書に記された預言者たちをユダヤ教と同様に預言者と認める。ニカイア・コンスタンティノポリス信条では「聖霊は......預言者をもってかつて語った」と告白する。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "キリスト教では、イエス自身をいわゆる預言者とは区別し、神の子にして救世主(メシア)(この場合はイエス・キリスト)であると信じる。ただし、イエスをその働きゆえに「預言者」と呼ぶこともある(使徒7:37)。新約聖書の使徒言行録や書簡などの文書からは、預言の活動自体は初期のキリスト教会(初代教会)でも行われ、預言を行う信徒らが当時「預言者」として認められていたことがうかがえる。エルサレムからアンテオケに預言者たちが移動し、このうちの1人であったアガボは大きな飢饉が訪れることを預言し、それが成就したことが記されている。このアガボは、後にパウロが捕縛され異邦人に引き渡されることも預言した。初めて異邦人への公の宣教師として派遣されたパウロとバルナバも、預言者や教師のグループに属し(使徒13:1)、エルサレム会議での大切な決定事項を伝えるために、異邦人の諸教会に派遣されたユダとシラスも預言者であった。このシラスは、パウロの第2回目の伝道旅行に同行した。またパウロ書簡(エフェソの信徒への手紙)の中で「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語られているように、初代教会において預言者の役割は、使徒に次ぐ大切な働きとされていたことがわかる。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "正教会では「聖預言者」の称号を付して記憶する。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "キリスト教から派生したモルモン教では、自派の指導者(大管長)を「預言者」と称している。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イスラム教では、旧約聖書の預言者たちや、新約聖書のイエス・キリスト(イーサー)も、歴代の預言者として認めている。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中でも", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "を五大預言者として位置づけた上で、ムハンマドこそ最後の預言者であるとする。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イスラム教シーア派の十二イマーム派から分かれたバハイ教は、ムハンマドに至るまでのすべてのアブラハムの宗教の預言者たちを認め、バハイ教の始祖であるバハーウッラーも預言者の列に連なるひとりであるとする。バハイ教ではさらに、ブッダのようなアブラハムの宗教以外の宗教の始祖たちも唯一神の預言者であると説いており、アブラハムの宗教の潮流のみに留まらない普遍的世界宗教の性格を有している。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本では、『立正安国論』で内憂外患を説いた鎌倉仏教の日蓮、非戦論を唱え戦争に反対した無教会主義キリスト教の内村鑑三や矢内原忠雄などが「預言者的人物」とされる。その根拠となるのは強烈な召命体験と終末意識に立脚した社会批判であり、その主張により伝統的宗教の祭司と対立し社会から迫害される点にある。預言者はしばしば社会の危機的状況において出現し時代の変革を促進する。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このほか新宗教系では、大本の出口王仁三郎や、真光系の岡田光玉、阿含宗の桐山靖雄なども預言者とされる。", "title": "各宗教における預言者" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "オウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムスの予言などの「予言」を自らの宗教体系に取り込み、予言を繰り返した上で自らを絶対的預言者と称した。", "title": "各宗教における預言者" } ]
預言者とは、預言すなわち霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する者。宗教における祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果たす。
{{redirect|預言書|その他|預言者 (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2014年12月}} {{読み仮名|'''預言者'''|よげんしゃ}}とは、'''[[預言]]'''すなわち[[霊感]]により[[啓示]]された神意([[託宣]])を伝達あるいは解釈し、[[神#一神教の神|神]]と人とを仲介する者<ref name="bri">{{Cite web|和書|author= |url=https://kotobank.jp/word/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85-146003 |title = 預言者 |work = [[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典、[[コトバンク]] |publisher = |accessdate=2017-08-01}}</ref>。[[宗教]]における[[祭司]]が預言者となる場合もあり、しばしば[[共同体]]の指導的役割を果たす<ref name="bri"/>。{{See also|預言}} == 語源 == 旧約聖書で預言者に対応する最も一般的な[[ヘブライ語]]はナービー ({{lang-*-Latn|he|nabi}}) である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのは[[アッカド語]]起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である<ref>『キリスト教大事典・改訂新版』[[教文館]]、1968年。</ref><ref>[[馬場嘉市]]『新聖書大辞典』[[キリスト新聞社]]、1971年。</ref>。なお、[[岩波委員会訳聖書]]では「ヒッテーフ=(よだれを)垂らす」の意から出た「ヒトナベー」からの派生であると主張している。 [[ギリシア語|古典ギリシア語]]では、プロフェーテース ({{lang-el-short|προφήτης}}、{{lang-*-Latn|el|Prophetes}}) の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ<ref>H. G. Liddell & R. Scott, ''An intermediate Greek-English lexicon'', Oxford, 1889.</ref><ref>''La Grande Encyclopédie'', Lib. Larousse, T.16, 1975.</ref><ref>[[玉川直重]]『新約聖書ギリシア語辞典』キリスト新聞社、1978年。</ref><ref>ルメートルほか『図説キリスト教文化事典』[[原書房]]、1998年。</ref>。なお、接頭辞「{{lang|el|προ-}}」には「代わりに」のほかに「前に」の意味もあることから「前もって語る人」を語源的意味とする論者もいるが、その場合でも聖書の文脈では「神の代弁者」の意味で用いられていたとしている<ref>『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、1988年。</ref><ref>[[織田昭]]『新約聖書ギリシャ語小事典』教文館、2002年。</ref>。 とはいえ、聖書の預言には未来を対象とするものも少なからずあるため「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の「{{lang|en|Prophet}}」や[[フランス語]]の「{{lang|fr|prophète}}」は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持つ。ただし「未来を語る者」については、英語では「{{lang|en|foreteller}}」なども、フランス語では「{{lang|fr|prédiseur}}」などもそれぞれ用いられる。 === 預言と予言 === '''[[預言]]'''<ref name="suzP"/>と'''[[予言]]'''<ref name="予言"/>は、英語では同一の語「prophecy」であるが<ref name="suzP"/><ref name="予言"/>、日本語では'''[[予言]]'''が「未来のことを前もって語ること」<ref name="予言"/>であるのに対し、'''預言'''は「来たるべき世界の内容とその意味、それを前にして人々のとるべき態度、行動を指し示し、倫理性を伴った[[宗教]]的世界を提示する行為」<ref name="suzP"/>として区別されることもある<ref name="suzP">[https://kotobank.jp/word/%E9%A0%90%E8%A8%80-146002 預言とは - 鈴木範久、日本大百科全書(ニッポニカ)「預言」] コトバンク</ref><ref name="予言">[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%88%E8%A8%80-465373 予言とは - 百科事典マイペディア「予言」の解説] [[コトバンク]]</ref>。 === 日本語の訳語の問題 === {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} 英語の「{{lang|en|prophet}}」に対応している現在の[[日本語]]は「預言者」である。これは[[中国語訳聖書|漢訳聖書]]の訳語に由来する。[[清]]代には[[西洋]]の[[宣教師]]らによって複数の漢訳聖書が作られた。[[18世紀]]初頭のジャン・バセ訳『四史攸編』や[[1813年]]の[[ロバート・モリソン (宣教師)|ロバート・モリソン]]訳『新遺詔書』では「先見」の訳があてられたが、[[19世紀]]半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようで、[[1860年代]]初めに[[日本人]]向けに作成された[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]訳『新約聖書』(四[[福音書]]のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された<ref>[[鈴木範久]]『聖書の日本語 - 翻訳の歴史』[[岩波書店]]、2006年</ref>。{{See also|日本語訳聖書#ヘボンによる聖書和訳事業}} {{要出典範囲|ただし「預」は「豫」(「予」の旧字体)の[[俗字]]であり、[[中国語]]では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかない。一方、[[日本]]では「預」に「預かる」という本来の用法にはなかった意味が加わっていたことから、[[漢語]]としての由来を知らぬ者が「プロフェーテース」の原義に引きずられ、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と理解した。|date=2015年6月}} 本来は「[[副詞]]+[[動詞]]」という構造であった「預言」という語を、みだりに動賓構造(動詞+目的語)に置き換えることは明らかな誤りであるとしてこれを問題視する見解もあるが<ref>[[高島俊男]]『お言葉ですが…11』[[連合出版]]、2006年。</ref>、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる<ref>織田昭『新約聖書ギリシャ語小事典』教文館、2002年</ref>。 {{要出典範囲|この区別を踏まえて、ある予言者(例えば[[ノストラダムス]])は神の言葉(預言)を聞いた、と解釈する場合に、その予言者を「預言者」と呼ぶことがある。|date=2015年6月}} == 各宗教における預言者 == === ユダヤ教における預言者 === {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} [[旧約聖書]]では、[[憑依|神がかり]]状態の中で幻を見てそれを伝える[[シャーマン]]のような'''見者'''(けんじゃ、ローエー rō,eh)と、神のことばを語る預言者(ナービー nābî)とは区別されるが、これらも必ずしも明瞭に区別されているわけではない<ref name="s-pt"/>。 ユダヤ教の[[トーラー]]では「{{仮リンク|偽預言者|en|False prophet}}」の話題が扱われている([[s:申命記(口語訳)|申命記]]13章2-6、18章20-22)<ref name="JE-False_Prophet">{{cite web|url=http://www.jewishencyclopedia.com/articles/12388-prophet-false|title=PROPHET, FALSE|last1=Schechter|first1=Solomon|last2=Mendelsohn|first2=S.|website=Jewish Encyclopedia|publisher=JewishEncyclopedia.com|access-date=26 April 2016}}</ref>。預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、[[旧約聖書|旧約]]時代には偽預言者は[[死刑|死罪]]とみなされていた。 {{要出典範囲|[[ディアスポラ]]後のユダヤ教徒たちは、[[70年]]に[[エルサレム神殿]]が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考え、この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとする。|date=2015年6月}}ユダヤ教徒は[[モーセ]]と神の「旧い契約」に対し、キリスト教が神と結んだ「新しい契約」と主張する[[新約聖書]]の内容を認めていない。 ==== ヘブライ語聖書における預言者の書の配列 ==== {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} [[ヤムニア会議]]によってユダヤ教正典と決定された[[ヘブライ語聖書]]式の配列では、「[[トーラー]]」「ケスービーム([[諸書]])」の間に「預言者(Nəbhī'īm, nevi'im, ネビーイーム)」が配置される。「預言書」という表記も見られるが、厳密ではないという意見もある{{誰2|date=2015年6月}}。 {|class=wikitable !大分類!!小分類!!書名(ヘブライ語仮名翻字)!!書名(日本語)!!預言者の名前!!書名(発音記号)!!書名(ヘブライ語ラテン翻字) |- |rowspan=4|[[前の預言者]]<ref>ネビービーム・リショーニーム</ref> |rowspan=4|&mdash; |イェホーシュア||[[ヨシュア記]]||&mdash;||{{ipa|Yəhōšua‘}}||{{lang|he-Latn|yoshua}} |- |ショーフティーム||[[士師記]]||&mdash;||{{ipa|Šōpht‘īm}}||{{lang|he-Latn|shoftim}} |- |シェムーエール(リーショーン、シェーニー)||[[サムエル記]]、上下||&mdash;||{{ipa|Šəmū’ēl}}||{{lang|he-Latn|shmu'el}} |- |メラーヒーム(リーショーン、シェーニー)||[[列王記]]、上下||&mdash;||{{ipa|Məlākhīm}}||{{lang|he-Latn|melakhim}} |- |rowspan=15|[[後の預言者]]<ref>ネビーイーム・アハローニーム</ref> |rowspan=3|三大預言者 |イェシャアヤー||[[イザヤ書]]||[[イザヤ]]||{{ipa|Yəša‘yāh}}||{{lang|he-Latn|yeshaya}} |- |イルミヤー||[[エレミヤ書]]||[[エレミヤ]]||{{ipa|Yirəmyāh}}||{{lang|he-Latn|yirmya}} |- |イェヘズケール||[[エゼキエル書]]||[[エゼキエル]]||{{ipa|Yəchezqē’l}}||{{lang|he-Latn|yekhezkel}} |- |rowspan=12|[[十二の小預言者]]<ref>[[トレー・アサル]] {{ipa|trēy-‘ǎsar}}</ref> |ホーシェーア||[[ホセア書]]||[[ホセア (預言者)|ホセア]]||{{ipa|Hōšēa‘}}||{{lang|he-Latn|hoshea}} |- |ヨーエール||[[ヨエル書]]||[[ヨエル]]||{{ipa|Yō’ēl}}||{{lang|he-Latn|yo'el}} |- |アーモース||[[アモス書]]||[[アモス]]||{{ipa|‘āmōs}}||{{lang|he-Latn|amos}} |- |オーバドヤー||[[オバデヤ書]]||[[オバデヤ]]||{{ipa|‘ôbhadhyāh}}||{{lang|he-Latn|'ovadya}} |- |ヨーナー||[[ヨナ書]]||[[ヨナ]]||{{ipa|Yōnāh}}||{{lang|he-Latn|yona}} |- |ミーハー||[[ミカ書]]||[[ミカ (預言者)|ミカ]]||{{ipa|Mīkhāh}}||{{lang|he-Latn|mikha}} |- |ナフーム||[[ナホム書]]||[[ナホム]]||{{ipa|Nachūm}}||{{lang|he-Latn|nakhum}} |- |ハバックーク||[[ハバクク書]]||[[ハバクク]]||{{ipa|Chăbhaqqūq}}||{{lang|he-Latn|khavakuk}} |- |ツェファニヤー||[[ゼファニヤ書]]||[[ゼファニヤ]]||{{ipa|Ŝəphanyāh}}||{{lang|he-Latn|tsfanya}} |- |ハッガイ||[[ハガイ書]]||[[ハガイ]]||{{ipa|Chaggay}}||{{lang|he-Latn|khagay}} |- |ゼハリヤー||[[ゼカリヤ書]]||[[ゼカリヤ (預言者)|ゼカリヤ]]||{{ipa|Zəkharyāh}}||{{lang|he-Latn|zkharya}} |- |マルアーヒー||[[マラキ書]]||[[マラキ]]||{{ipa|Mal’ākhī}}||{{lang|he-Latn|mal'akhi}} |} === キリスト教における預言者 === {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} キリスト教はユダヤ教の伝統から出現した[[史的イエス|ナザレのイエス]]の活動から始まる[[宗教]]であり、[[旧約聖書]]に記された預言者たちをユダヤ教と同様に預言者と認める。[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]では「[[聖霊]]は……預言者をもってかつて語った」と告白する。 キリスト教では、イエス自身をいわゆる預言者とは区別し、神の子にして[[メシア|救世主(メシア)]](この場合は[[イエス・キリスト]])であると信じる。ただし、イエスをその働きゆえに「預言者」と呼ぶこともある([[使徒言行録|使徒]]7:37)。新約聖書の[[使徒言行録]]や[[書簡 (新約聖書)|書簡]]などの文書からは、預言の活動自体は初期の[[教会 (キリスト教)|キリスト教会]]([[初代教会]])でも行われ、預言を行う[[信徒]]らが当時「預言者」として認められていたことがうかがえる。[[エルサレム]]から[[アンティオキア|アンテオケ]]に預言者たちが移動し、このうちの1人であったアガボは大きな[[飢饉]]が訪れることを預言し、それが成就したことが記されている。このアガボは、後に[[パウロ]]が捕縛され異邦人に引き渡されることも預言した。初めて異邦人への公の宣教師として派遣されたパウロと[[バルナバ]]も、預言者や教師のグループに属し(使徒13:1)、エルサレム会議での大切な決定事項を伝えるために、異邦人の諸教会に派遣されたユダとシラスも預言者であった。このシラスは、パウロの第2回目の[[福音伝道|伝道]]旅行に同行した。また[[パウロ書簡]]([[エフェソの信徒への手紙]])の中で「あなたがたは[[使徒]]と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語られているように、初代教会において預言者の役割は、使徒に次ぐ大切な働きとされていたことがわかる。 [[正教会]]では「'''聖預言者'''」の称号を付して記憶する。{{See also|[[:Category:正教会の聖人の称号]]}} キリスト教から派生した[[末日聖徒イエス・キリスト教会|モルモン教]]では、自派の指導者(大管長)を「預言者」と称している。 === イスラム教における預言者 === {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} {{main|イスラム教の預言者}} [[イスラム教]]では、[[旧約聖書]]の預言者たちや、[[新約聖書]]の[[イエス・キリスト]]([[イスラームにおけるイーサー|イーサー]])も、歴代の預言者として認めている。 中でも # [[ノア (聖書)|ノア]](ヌーフ) # [[アブラハム]](イブラーヒーム) # [[モーセ]](ムーサー) # [[ナザレのイエス]](イーサー) # [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]](もしくはモハメッド) を'''五大預言者'''として位置づけた上で、ムハンマドこそ最後の預言者であるとする。 {{See also|聖書の説話とクルアーンの関係}} === バハイ教における預言者 === {{出典の明記|section=1|date=2015年6月}} {{要出典範囲|イスラム教[[シーア派]]の[[十二イマーム派]]から分かれた[[バハイ教]]は、ムハンマドに至るまでのすべてのアブラハムの宗教の預言者たちを認め、バハイ教の始祖である[[バハーウッラー]]も預言者の列に連なるひとりであるとする。バハイ教ではさらに、[[仏陀|ブッダ]]のような[[アブラハムの宗教]]以外の宗教の始祖たちも唯一神の預言者であると説いており、アブラハムの宗教の潮流のみに留まらない普遍的[[世界宗教]]の性格を有している。|date=2015年6月}} === 日本で「預言者」とされる人物 === [[日本]]では、『[[立正安国論]]』で内憂外患を説いた[[鎌倉仏教]]の[[日蓮]]、[[非戦論]]を唱え[[大東亜戦争|戦争]]に反対した[[無教会主義]]キリスト教の[[内村鑑三]]や[[矢内原忠雄]]などが「預言者的人物」とされる<ref name="s-pt"/>。その根拠となるのは強烈な[[召命]]体験と[[終末論|終末意識]]に立脚した社会批判であり、その主張により伝統的宗教の[[祭司]]と対立し社会から迫害される点にある<ref name="s-pt"/>。預言者はしばしば社会の危機的状況において出現し時代の変革を促進する<ref name="s-pt">鈴木範久、日本大百科全書(ニッポニカ)「預言者」の解説、コトバンク</ref>。 このほか[[新宗教]]系では、[[大本]]の[[出口王仁三郎]]や、[[真光系諸教団|真光系]]の[[岡田光玉]]、[[阿含宗]]の[[桐山靖雄]]なども預言者とされる<ref name="takedaSyuma"/>。 [[オウム真理教]]の[[麻原彰晃]]は、[[ノストラダムスの予言]]などの「予言」を自らの宗教体系に取り込み、予言を繰り返した上で自らを絶対的預言者と称した<ref name="takedaSyuma">武田道生「現代の終末予言宗教・オウム真理教の終末論研究の意味と課題」『宗教と社会』1997年 2巻 Suppl号、pp.66-72</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[異言]] * [[迫害]] * [[士師]] * [[ユダヤ教史関連人物の一覧]] * {{仮リンク|偽預言者|en|False prophet}} ** [[ダッジャール]] - [[イスラム教]]における偽預言者 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{旧約聖書の預言者}} {{ネビーイーム}} {{Judaism-stub}} {{Christ-stub}} {{Islam-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:よけんしや}} [[Category:予言者|*]] [[Category:聖書]] [[Category:ヘブライ語聖書]] [[Category:旧約聖書]] [[Category:ユダヤ教]] [[Category:キリスト教の称号・役職]] [[Category:新約聖書]] [[Category:イスラム教]] [[Category:宗教の称号・役職]]
2003-08-20T08:05:50Z
2023-12-04T21:24:28Z
false
false
false
[ "Template:Judaism-stub", "Template:要出典範囲", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Christ-stub", "Template:Islam-stub", "Template:Redirect", "Template:Lang-*-Latn", "Template:Main", "Template:誰2", "Template:Ipa", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Kotobank", "Template:出典の明記", "Template:Lang-el-short", "Template:Lang", "Template:旧約聖書の預言者", "Template:ネビーイーム", "Template:Normdaten", "Template:読み仮名", "Template:See also", "Template:仮リンク" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85
13,611
アコースティック録音
アコースティック録音(アコースティックろくおん)とは、音楽・音響の録音において、音声を電気信号に変換することなく、機械的振動を直接レコード原盤に伝達して刻み込む録音方式のこと。ラッパ型の集音器を使うため、しばしば「ラッパ録音」と呼ばれることもあり、後に登場した電気録音に対するレトロニムであり、古い録音法の意から「旧吹き込み」などとも呼ばれる。 初期のレコード録音においては、マイクロフォンが発明されていなかったため、蓄音機の逆の方法、すなわちラッパに向かって歌いあるいは楽器を演奏し、その音でダイヤフラムを振動させ、その振動を針に伝達して記録用媒体に溝を記録(カッティングという)しており、これがアコースティック録音である。 この方式では、ある程度の音質で記録可能な音源は独唱曲か小編成の器楽曲程度で、オーケストラの記録はかなり貧弱な音質にしかならなかった。特にヴァイオリンなどの弦楽器の収録は楽器の広い範囲から音が輻射・拡散するため、集音用のラッパで捕らえることが難しかった。このため、録音専用の特殊なヴァイオリンとしてシュトローヴァイオリン(Stroh Violin)が使用された。これは、ヴァイオリンの発音機構にサキソフォーンのようなラッパを取り付けて音を拡大するとともに、集音ラッパの方向に音を集中させるものである。 指揮者レオポルド・ストコフスキーはアコースティック録音においてオーケストラの音を効果的に録音するため、オーケストラの楽器編成を大幅に改変した。一例として、弦楽器のパートに木管楽器を重ねて重要な音を増強する、逆に打楽器が他の楽器の音を隠さないように弱めたり省略したりする、などである。これはいわば原音におけるイコライゼーションと言うべき工夫であり、ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団が演奏したレコードは当時としてはかなりオーケストラの音らしく聴こえるため売上増に貢献したという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アコースティック録音(アコースティックろくおん)とは、音楽・音響の録音において、音声を電気信号に変換することなく、機械的振動を直接レコード原盤に伝達して刻み込む録音方式のこと。ラッパ型の集音器を使うため、しばしば「ラッパ録音」と呼ばれることもあり、後に登場した電気録音に対するレトロニムであり、古い録音法の意から「旧吹き込み」などとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "初期のレコード録音においては、マイクロフォンが発明されていなかったため、蓄音機の逆の方法、すなわちラッパに向かって歌いあるいは楽器を演奏し、その音でダイヤフラムを振動させ、その振動を針に伝達して記録用媒体に溝を記録(カッティングという)しており、これがアコースティック録音である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この方式では、ある程度の音質で記録可能な音源は独唱曲か小編成の器楽曲程度で、オーケストラの記録はかなり貧弱な音質にしかならなかった。特にヴァイオリンなどの弦楽器の収録は楽器の広い範囲から音が輻射・拡散するため、集音用のラッパで捕らえることが難しかった。このため、録音専用の特殊なヴァイオリンとしてシュトローヴァイオリン(Stroh Violin)が使用された。これは、ヴァイオリンの発音機構にサキソフォーンのようなラッパを取り付けて音を拡大するとともに、集音ラッパの方向に音を集中させるものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "指揮者レオポルド・ストコフスキーはアコースティック録音においてオーケストラの音を効果的に録音するため、オーケストラの楽器編成を大幅に改変した。一例として、弦楽器のパートに木管楽器を重ねて重要な音を増強する、逆に打楽器が他の楽器の音を隠さないように弱めたり省略したりする、などである。これはいわば原音におけるイコライゼーションと言うべき工夫であり、ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団が演奏したレコードは当時としてはかなりオーケストラの音らしく聴こえるため売上増に貢献したという。", "title": null } ]
アコースティック録音(アコースティックろくおん)とは、音楽・音響の録音において、音声を電気信号に変換することなく、機械的振動を直接レコード原盤に伝達して刻み込む録音方式のこと。ラッパ型の集音器を使うため、しばしば「ラッパ録音」と呼ばれることもあり、後に登場した電気録音に対するレトロニムであり、古い録音法の意から「旧吹き込み」などとも呼ばれる。 初期のレコード録音においては、マイクロフォンが発明されていなかったため、蓄音機の逆の方法、すなわちラッパに向かって歌いあるいは楽器を演奏し、その音でダイヤフラムを振動させ、その振動を針に伝達して記録用媒体に溝を記録(カッティングという)しており、これがアコースティック録音である。 この方式では、ある程度の音質で記録可能な音源は独唱曲か小編成の器楽曲程度で、オーケストラの記録はかなり貧弱な音質にしかならなかった。特にヴァイオリンなどの弦楽器の収録は楽器の広い範囲から音が輻射・拡散するため、集音用のラッパで捕らえることが難しかった。このため、録音専用の特殊なヴァイオリンとしてシュトローヴァイオリン(Stroh Violin)が使用された。これは、ヴァイオリンの発音機構にサキソフォーンのようなラッパを取り付けて音を拡大するとともに、集音ラッパの方向に音を集中させるものである。 指揮者レオポルド・ストコフスキーはアコースティック録音においてオーケストラの音を効果的に録音するため、オーケストラの楽器編成を大幅に改変した。一例として、弦楽器のパートに木管楽器を重ねて重要な音を増強する、逆に打楽器が他の楽器の音を隠さないように弱めたり省略したりする、などである。これはいわば原音におけるイコライゼーションと言うべき工夫であり、ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団が演奏したレコードは当時としてはかなりオーケストラの音らしく聴こえるため売上増に貢献したという。
{{出典の明記|date=2017年11月5日 (日) 04:11 (UTC)}} '''アコースティック録音'''(アコースティックろくおん)とは、音楽・音響の[[録音]]において、音声を電気信号に変換することなく、機械的振動を直接レコード原盤に伝達して刻み込む録音方式のこと。ラッパ型の集音器を使うため、しばしば「'''ラッパ録音'''」と呼ばれることもあり、後に登場した[[電気録音]]に対する[[レトロニム]]であり、古い録音法の意から「'''旧吹き込み'''」などとも呼ばれる。 初期の[[レコード]]録音においては、[[マイクロフォン]]が発明されていなかったため、蓄音機の逆の方法、すなわちラッパに向かって歌いあるいは楽器を演奏し、その音でダイヤフラムを振動させ、その振動を針に伝達して記録用媒体に溝を記録(カッティングという)しており、これがアコースティック録音である。 [[File:Violon de jazz a pavillon.JPG|thumb|200px|right|シュトローヴァイオリン]] この方式では、ある程度の音質で記録可能な音源は独唱曲か小編成の器楽曲程度で、[[オーケストラ]]の記録はかなり貧弱な音質にしかならなかった。特に[[ヴァイオリン]]などの[[弦楽器]]の収録は楽器の広い範囲から音が輻射・拡散するため、集音用のラッパで捕らえることが難しかった。このため、録音専用の特殊なヴァイオリンとして[[シュトローヴァイオリン]](Stroh Violin)が使用された。これは、ヴァイオリンの発音機構にサキソフォーンのようなラッパを取り付けて音を拡大するとともに、集音ラッパの方向に音を集中させるものである。 指揮者[[レオポルド・ストコフスキー]]はアコースティック録音においてオーケストラの音を効果的に録音するため、オーケストラの楽器編成を大幅に改変した。一例として、弦楽器のパートに[[木管楽器]]を重ねて重要な音を増強する、逆に[[打楽器]]が他の楽器の音を隠さないように弱めたり省略したりする、などである。これはいわば原音における[[イコライザー (音響機器)|イコライゼーション]]と言うべき工夫であり、ストコフスキーと[[フィラデルフィア管弦楽団]]が演奏したレコードは当時としてはかなりオーケストラの音らしく聴こえるため売上増に貢献したという。 == 関連項目 == * [[電気録音]] * [[ダイレクトカッティング]] {{music-stub}} {{audio-visual-stub}} {{デフォルトソート:あこうすていつくろくおん}} [[Category:録音]]
null
2017-11-30T02:06:03Z
false
false
false
[ "Template:Music-stub", "Template:Audio-visual-stub", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E9%8C%B2%E9%9F%B3
13,613
キングジョー
キングジョーは、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』への初登場を経て「ウルトラシリーズ」に登場する架空のロボット怪獣。別名は宇宙ロボット。 『ウルトラセブン』第14話「ウルトラ警備隊西へ 前編」、第15話「ウルトラ警備隊西へ 後編」に登場。 ペダン星人が作ったスーパーロボット。10万トン級以上の船舶を簡単に持ち上げる強靭な腕力を誇り、目のような部位から破壊光線を放つ。宇宙金属製による堅牢な装甲とバリアー機能を持ち、ウルトラセブンのいかなる攻撃もまったく寄せ付けない。身体は4つに分離でき、各パーツは飛行と潜水が可能。この形態でも上述の光線を使用できる。 独特の作動音を立て、合体変形後は頭部の電子ランプが点滅し、不気味な電子和音を発する。 ペダン星人の指令を受け、国際会議場に向かう科学者を乗せた原子力潜水艦アーサー号を分離形態で破壊して六甲山に飛来し、合体して防衛センターに迫る。防衛設備による砲撃にまったくダメージを負わず、建物が破壊される寸前にセブンが駆けつけるが、エメリウム光線やアイスラッガーもまったく通じず、セブンを失神状態にまで追い込む。しかし、体勢を立て直したセブンによって脚を背後から掴まれて仰向けに転倒し、起き上がれないまま再び分離して飛び去る。その後、ペダン星人はダンとの和解交渉に応じ、拉致していた科学者ドロシー・アンダーソンを解放するが、彼女の記憶は消されていた。美しい地球が欲しくなったペダン星人はダンとの公約を破棄し、目的を地球侵略に変更してキングジョーを神戸港に送り込み、建物や船舶を破壊する。応戦するウルトラ警備隊とセブンをキングジョーはタンカーを軽々と振り回すパワーで圧倒するが、その間にアンヌによる治療で記憶が戻ったドロシーの協力によって完成したライトンR30爆弾の砲撃を受け、大破炎上する。形勢不利と見たペダン星人は、キングジョーの腹部から円盤で脱出しようとするが、セブンのワイドショットで撃墜される。 ビデオ作品『ウルトラセブン1999最終章6部作』第5話「模造された男」に登場。 かつてペダン星人に操られてウルトラセブンに倒されたキングジョーを、新甲南重工が神戸港の海底から引き揚げ、ペダン星のテクノロジーを解析してレスキュー用の電子頭脳を搭載して復元・改修したもの。対侵略者用に量産する計画から一転、平和目的のレスキューロボットとして利用するために復活したが、1万5000年前のオーパーツ・ラハカムストーンがカジ参謀の侵略者を恐れる心をコピーして具現化させた影響で暴走し、再びセブンと戦う。主な攻撃手段は以前と同様だが、作動音が若干違う。改造により分離・合体のスピードが以前とは比べ物にならないほど早くなっており、セブンのワイドショットを分離して回避し、そのままセブンの背後に回り込んで再合体するという荒技も披露する。装甲の強固さも健在で、エメリウム光線を足に受けても大したダメージを負わない。かつてと同様にセブンを追い込むが、ライトンR30爆弾で損傷していた箇所へアイスラッガーによる集中攻撃を受け、最後はウルトラノック戦法で破壊される。 特撮テレビ番組『ウルトラマンマックス』第14話「恋するキングジョー」に登場。 ゼットン星人が地球に送り出した侵略兵器。頭部がキングアルファー号、胸部がキングベーター号、右脚部がキングガンマー号、左脚部がキングデルタ号の4機の宇宙戦闘機に分離する。原子レベルまでの分解・再構築が可能な金属ゼットン・ニュウムで造られているため、縮小も可能。胸部からのキング連射砲とキングパンチが武器。 ゼットンの地球侵入を支援するため、DASHの監視衛星を分離状態で破壊して地球に侵入し、町工場「松本板金」の息子である松本健をゼットン星人が利用して原型となる人間大のリモートコントロールで動くロボットを製作させ、名前や構造からDASHに目をつけられたため、巨大化する。分離状態の4機編隊で超高速飛行し、コバたちのダッシュバード2・ダッシュマザーと空戦を展開してこれを一蹴したうえ、ウルトラマンマックスとの戦闘中にも分離合体を巧みに使って攪乱()する。ゼットン星人に操られた女性・夏美が操縦していたこともあり、迂闊に手が出せないマックスを苦戦させるが、正気を取り戻した彼女に脱出された後は動きが鈍くなり、形勢は逆転する。最後はマクシウムカノンを受け、破壊される。 『てれびくん』と『テレビマガジン』での雑誌展開作品『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場。本作品にはキングジョーブラックも登場する(#『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場するキングジョーブラックを参照)。 『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』第8話「暗殺宇宙人ナックル星人」に登場。 ペダン星人の操るロボットとして登場。ナックル星人の襲来を受けて墜落したペダン星人の円盤から逃げ出した主人公とピグモンを発見し、襲いかかったところをバトルナイザーの怪獣により破壊される。 ステータスは原作同様スピードが極端に低いものの、ディフェンスが非常に高く相手を押し返しやすいが、パワーが非常に低いのが難点。必殺技も原作通りの「マウントチョップ連打」、「怪光線」があり、分離状態で各部から怪光線を一斉発射する「分離怪光線」もある。NEO第3弾よりキングジョーブラックとのタッグ必殺技「ペダニウムスペシャル」が追加された。 OV『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場。 かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーのデータがビートスターによりコピーされたもので、ビートスター天球の内部でビートスターが率いるロボット怪獣軍団の1体。レギオノイド(BS)がレイの召喚するゴモラに倒された直後にエースキラー(BS)やインペライザー(BS)と共に現れ、一度は3対1の勝負でゴモラに勝利するが、その後にウルティメイトフォースゼロと戦う。そのうち1体はウルトラマンゼロのゼロスラッガーアタックで上半身を切り落とされ、爆散する。ビートスタータワー付近で量産もされており、ウルティメイトフォースゼロやゴモラと戦うが、最後はビートスターの爆発により天球や他のロボット怪獣軍団もろとも全滅する。 『ウルトラゾーン』各話に登場。 第4話アイキャッチでは、夜店の射的の(絶対倒れない)一等景品として並べられている姿が描かれている。 第21話の「怪獣漫才」では、ナースと「ナースのジョー」という漫才コンビを組んで登場しており、ロボットゆえに最後までナースに電化製品扱いされる。 第19話・第20話「最後の攻撃命令」(前編・後編)に登場。 防衛軍で配置異動間近の山本が正体不明の飛行物体の襲来により非常呼集される直前、妻の洋子は自分が地球に潜入した宇宙人であり、飛来した物体は異星人の侵略兵器で、そのパイロットが自分であると告げる。 洋子は自分が止めると合体したキングジョーの腹部から搭乗するが、その動きは止めることができなかった。防衛軍がキングジョーと交戦し、多くの損害を出す中、苦悩する山本はキングジョーの撃滅を命令する。かろうじて右脚部に損傷を与えることに成功するが、その侵攻は止まらなかったため、山本はやむなく新型ミサイルの使用を許可する。 山本は中枢の腹部を狙うことを命令し、なぜか動きを止めたキングジョーに命中したミサイルは爆破に成功する。山本の顔に喜びはなく、帰宅した後には洋子が妊娠していた事実を知り、悲しみに暮れる。最後には自宅に何者かが訪れるが、正体は明かされていない。 『ウルトラマンX』第11話「未知なる友人」に登場。 4機に分離した状態で地球へ飛来。到着すると同時に合体して街を破壊し始め、スカイマスケッティを不時着させる。現れたウルトラマンエックスとも強硬な装甲を活かして優勢に戦い、ゼットンアーマーを纏ったエックスのゼットン火炎弾やザナディウム光線を分離して回避したり、4機に分離して同時攻撃するなどして苦戦させる。大地がリアライズさせたサイバーゴモラの参戦で2対1となっても互角に渡り合うが、激しい格闘戦で分離機能が壊れたところへサイバーゴモラのサイバー超振動波を浴びて怯み、最後はウルトラマンマックスのサイバーカードを使ったエックスのギャラクシーカノンで破壊される。 ファントン星人グルマン曰く、「7つの星の文明を滅ぼした」とのこと。また、ペダン星人の存在も触れられたが、登場はしていない。内部に生命反応はないと解析されたため、無人で稼働していたことが示唆されている。 Xioがキングジョーを解析して生み出したサイバー怪獣。 第19話にてサイバーカードが使用され、スカイマスケッティでキングジョーデストレイ砲を発射し、暴走するEXゴモラをダウンさせる。しかしあまり効果はなく、すぐに立ち上がられた。 劇場版でもスカイマスケッティからキングジョーデストレイ砲が発射され、カルロスタワーに向かって侵攻するザイゴーグへ放ったが、まったく効果はなかった。 『ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!』に登場。 レイバトスの呪文により復活させられた亡霊怪獣の個体が、グドン、ツインテール、バードン、ハイパーゼットン(イマーゴ)、ビクトルギエルと共に出現し、他の5体と共にウルトラマンゼロとウルトラマンオーブに襲いかかり、オーブがレイバトスを追った後はゼロを追い詰めるが、ゾフィーとセブンとウルトラマンジャックが駆けつけ、セブンと戦う。かつてとは異なり、歴戦を経たセブンの前にはまったく歯が立たず、最後はアイスラッガーで切り裂かれて倒される。 『ウルトラマンR/B』第19話「善人と悪人」に登場。 愛染マコトにより、ウルトラマンの活躍を支援する組織「地球防衛軍」の秘密兵器として開発されるが、何者かのハッキングを受けて美剣サキに反旗を翻してAZ計画を実行したダーリンによって起動する。湊アサヒを額からの吸引ビーム・ペダニウム・トラクターで額奥のコクピットに幽閉してアイゼンテック社に進撃し、迂闊に手が出せないウルトラマンロッソによる攻撃を電磁バリア・ペダニウム・シャッターを張って防ぐなどして追い詰めるが、サキによってアサヒを救出されたところにロッソのクロススパークシュートと遅れて現れたウルトラマンブルのダイナマイトスラッシュを受け、装甲に亀裂が入る。ロッソとブルが合体変身したウルトラマンルーブとも互角に戦うが、最後はサキに対獣拘束システムで動きを止められたところを、ルーブにルーブボルテックバスターで破壊される。残骸は、サキによってクリスタルと化して回収された。 『ウルトラマンZ』第9話「未確認物資護送指令」および第10話「宇宙海賊登場!」に登場。 ウルトラメダルを狙うバロッサ星人がペダン星人が作った宇宙ロボットを入手し、彼の宇宙船として使用される。武器は頭部から放つ破壊光線デスト・レイと分離体でも使用可能な牽引ビームペダニウム・トラクター。 地球防衛軍が回収していたウルトラメダルを強奪し、続いて残るメダルも狙って護送中のストレイジの輸送車を4機の小型UFOに分離して襲撃する。一度はストレイジがあらかじめ用意していた偽物のメダルを掴まされるが、カブラギの策略で本物のメダルの所在を感知し、強襲した統合先進装備研究所にてウルトラマンゼットと交戦する。ゼスティウム光線を防ぎきる装甲やベータスマッシュをも凌駕するパワーでゼットを苦しめるが、分離中は接合部がむき出しになるという弱点を分析され、最後は分離したところをガンマフューチャーに変身したゼットのガンマイリュージョンからガンマミラクルホールドで動けなくされたうえでライトニングジェネレードを浴びせられ、機能を停止する。 その後、残骸は地球防衛軍によってストレイジ基地へ回収・搬入され、奪還を狙うバロッサ星人によって再起動寸前まで追い込まれるも事なきを得て、後述のストレイジカスタムの原型となる。 映画『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ...』に登場。 プロフェッサー・ギベルス配下のペダン星人によって召喚される。テラフェイザー及びウルトラマンディナスと交戦、ディナスのディナライズバーンズで倒される。 ゲーム『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』のオリジナルキャラクターとして初登場。 キングジョーの強化型。名前の指す通りのステルス機能があるブラックメタリックボディーと、右手に新たに備え付けられた銃ペダニウムランチャーが特徴。 必殺技はキングジョーが目の部分から放つ雷属性が追加された怪光線の強化版ハイパーデスト・レイと、敵を押し倒した後、飛行してペダニウムランチャーを浴びせかけるペダニウムエアレイド、そしてその場で回転しながらペダニウムランチャーを連射するペダニウムハリケーンで、どれも強力な威力を持つ。 『てれびくん』と『テレビマガジン』での雑誌展開作品『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場。 特撮テレビ番組『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』第9話「ペンドラゴン浮上せず!」、第10話「予期せぬ再会」、第12話「レイブラッド」、第13話「惑星脱出」に登場。 かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーの改造強化タイプ。黒く塗られたステルス仕様のボディとなっており、右腕にペダニウムランチャーが装備されている。主に弾丸を乱射する攻撃を必殺技とし、周囲にいる生物を殲滅するまで攻撃を止めないようにプログラムされているが、その目的は不明。 第9話から4機の分離形態で登場し、怪獣たちの戦いに乱入。アングロス、グロマイト、サラマンドラ、ルナチクスなどを次々に葬り去る。第10話で合体した姿で登場。レイの主力怪獣3体(ゴモラ、リトラ(S)、エレキング)をまとめて圧倒するなど、驚異的な強さを見せつける。 その後、惑星ボリスに接近するZAP SPACYの救援艦隊を殲滅し、レイとケイトの戦いに乱入してゼットンと交戦。ペダニウムランチャーを吸収した波状光線を簡単にはじき返すなど、互角の勝負を繰り広げていたところにEXゴモラの乱入を受け、尻尾による串刺し攻撃を受けて敗れる。それでも機能停止には陥っておらず、惑星ボリスから脱出しようとするペンドラゴンを襲撃するが、復活したウルトラマンの八つ裂き光輪で腕を切断され、ウルトラマンと共に人工太陽の大爆発の中に消える。 送り込まれた目的については劇中で明確には語られないが、ゲーム版のカードによれば「レイブラッド星人の後継者覚醒を阻止するために送り込まれた」とされ、続編『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』では未来のペダン星人がレイオニクス抹殺のために送り込んだとされている。 第13話ではケイトからペダン星の暴走ロボットと呼ばれている。命名者はクマノ。 特撮テレビ番組『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』第10話「新たな戦いの地平で」、第11話「ある戦士の墓標」に登場。 前作にも登場したキングジョーの強化タイプ。ペダン星人がレイオニクス抹殺のために量産して送り込んでいる。遠隔装置によって遠隔操作される。 ダイルが操る機体はレイのゴモラと対決。前作のEXゴモラとの戦いで送られたデータを元に強化改良されていたが、暴走することなく力を発揮できるようになったレイオニックバーストのゴモラにはまったく歯が立たず、超振動波を受けて機能停止する。他のレイオニクスハンター部隊のペダン星人がグランデを抹殺するために送り込んだ機体も登場するが、こちらはグランデのレッドキングに圧倒され、強烈な飛び蹴りであえなく倒される。 第11話ではレイを戦力として捕らえようとするハーランの命令で大量に出現し、ゴモラ、リトラ、ミクラスと戦う。倒されても次々と送り込まれるうえ、ZAPクルーを人質に取られてレイが本気を出せないこともあり、次第にゴモラたちを追い詰めていく。しかし、ダイルの命を捨てた行動でZAPクルーが救出され、本気を出したレイの指示によって反撃を開始したゴモラたちによって次々と破壊されていき、最後はペンドラゴンの放ったペダニウムランチャーによって全滅する。 映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場。 怪獣墓場を漂っていた亡霊がウルトラマンベリアルのギガバトルナイザーの力で復活し、ウルトラ戦士たちと激突する。メトロン星人、ガッツ星人、エレキング、キングパンドンと共にウルトラセブンを攻撃し、ペダニウムランチャーの一撃を浴びせて苦戦させる。後から来たウルトラマンゼロとも戦い、最後はゼットンやタイラント共々ゼロスラッガーで切り刻まれて爆散する。 『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』第7話「宇宙の黒い影」、『NEO』第14話「闘争本能の惑星」に登場。 バトルナイザーを狙うペダン星人がバキシムを倒した主人公とピグモンの前に送り込んだ新型兵器。初代以上に硬い装甲を持っており、バトルナイザーの怪獣に倒されても破壊されるには至らない。ペダニウムハリケーンで主人公たちを攻撃した後、彼らをペダン星人の円盤に連行する。『NEO』では過去の惑星ハマーにて、『ウルトラギャラクシーNEO』に登場したペダン星人らレイオニクスハンターが操るものが登場。集団で現れて主人公やグランデらを攻撃するが、ネオバトルナイザーの怪獣に全て破壊される。 ステータス面に関しては、初代からアタックが上昇し、ディフェンスも本作品に登場する怪獣の中でトップクラスの値を有する。また、パワーの低さも若干ながら改善された。必殺技はインペライザーのごとく回転しながら光弾を乱射する「ペダニウムハリケーン」、「ハイパーデスト・レイ」、敵を殴り倒したうえで空中飛行中にペダニウムランチャーから光弾を連射する「ペダニウムエアレイド」がある。『NEO』第6弾以降は、ペダニウムランチャーから特大の光弾を打ち込む「ハイパーペダニウムバスター」が追加された。 この他、『NEO』第5弾で『ウルトラギャラクシー』で登場した際の円盤形態を再現した「キングジョーブラック飛行形態」が援軍カードとして登場。 漫画『大怪獣バトル ウルトラアドベンチャー』第10話に登場。 本作品にて初登場した紅きキングジョー。色以外の違いは背中のタンクが大型になり、右腕がランス状「ペダニウムランサー」になっているのが特徴である。ペダン星人の女司令官ドロシーの愛機として登場し、その機動力で敵を翻弄し、ランスで敵を貫いたりランスから発射される電撃攻撃で活躍を見せる。 後にゲーム版でもスーパーコンボカードとして登場。 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』第11話に登場。 キングジョーブラック軍団の中の1体に、赤い色のキングジョーが登場する。ペダニウムランチャーで破壊されたこのキングジョースカーレットの破片の直撃を受けてハーランが死亡する。 『ウルトラマンギンガS』第3話「孤高の戦士」、第8話「朝焼けの死闘」に登場。 キングジョーブラックと同様右腕にペダニウムランチャーを装備しているが、従来の一般型のカスタム機であるため、カラーリングは一般型と同じである。ライブする際も単にキングジョーと認識される。設定上は分離・合体機能も有するとされるが、劇中では未使用。ガッツ星人ボルスト(SD)がモンスライブし、インペライザー(SD)を複数引き連れてウルトラマンビクトリーを圧倒するが、駆けつけたウルトラマンギンガとUPGにインペライザー(SD)を全て倒される。最後はギンガへ一騎討ちを挑み、ギンガストリウムにパワーアップしたギンガのワイドショットで倒される。スパークドールズはヒカルが回収していたが、彼の手でショウに渡されている。 第8話では、ショウからスパークドールズを貸し与えられたヒカルがウルトライブしてファイブキング(SDU)と戦うが、ペダニウムランチャーでの攻撃が一切通じずにガンQビームを受け、倒される。 『ウルトラマンZ』第11話「守るべきもの」より登場。正式名称は対怪獣特殊空挺機甲3号 キングジョー ストレイジカスタム、略称はキングジョーSC。形式番号は「SC-3」。 地球防衛軍日本支部が回収したバロッサ星人が操縦していたキングジョーの破片より得た詳細な解析結果を元に、ストレイジが独自技術を用いて復元・改修・再構築することで火力重視型の戦う武器庫として生まれ変わった、ハイブリット機ともいえる特空機3号。キングジョーの異星テクノロジーによる動力源を解析して再構築した動力ペダニウムエンジンにより、ウインダムの5倍のエンジン出力と3倍の反応速度を獲得している。その一方、出力が一定値を超えるとオーバーヒートするリスクも抱えているうえに高い操縦練度も要求されるため、専任パイロットのナカシマヨウコをして「じゃじゃ馬」と言わしめるピーキーな仕上がりとなっている。腹部に黄色い機内照明の操縦席があるが、口元にもハッチがあるため、M1号戦ではイナバコジローが乗り込んでそこから無反動砲で細胞分裂逆進剤を打ち込んだ。戦況に応じて、高機動二足歩行型であるロボットモード、戦術分離戦闘型のセパレートモード、自走多目的兵装型のタンクモードの3形態で運用される。 起動テスト直前で出現したレッドキングへの対処で初陣を飾り、正式にロールアウト後は退役したセブンガーに代わるストレイジの主力として活躍する。ストレイジ解散後は新設された第一特殊空挺機甲群の所属となり、バロッサ星人(三代目)出現時はヨウコに代わって男性パイロットが操縦を担当する。デストルドスとの最終決戦ではナツカワハルキが搭乗し、ほかの特空機と協力してセレブロに寄生されたヨウコの救出に成功する。 『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』第7話「インター・ユニバース」および第8話「繁殖する侵略」に登場。 『ウルトラマンZ』の世界の地球からバロッサ星人(四代目)によって強奪され、ウルトラマンゼットとともにブルトンの異次元空間を経て作中世界の地球へ落下する。調査に当たったGUTS-SELECTからは、キングジョーをベースに地球の技術で改造されている事実によって存在目的を訝しまれるが、ナツカワハルキの説明もあって停止状態のままで監視下に置かれる。しかし、その後はダダにシステムを乗っ取られて再起動し、市街地を破壊していく。駆けつけたウルトラマントリガーやゼットとの交戦ではその高性能ゆえに優位に立つが、最後は両者のゼペリオン光線およびゼスティウム光線によって大破する。残骸はゼットに回収され、『Z』の世界へ運搬される。 データカードダスおよびそれを元にしたCGショートムービー『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場。 プラズマソウルを取り込んだプラズマ怪獣としてテレビ版「KING JOE Hunting」に登場。体を覆うペダニウム合金製の装甲はあらゆる攻撃を跳ね返し、さらに合体状態ではビームをエネルギーに変えて吸収してしまう。しかし合体直前に隙ができ、その時の一点集中攻撃が唯一にして最大の弱点である。シーズ曰く「ハンターを狩ることを楽しみにしている」とのこと。 かつてガルムとその弟はハンティングに失敗しており、特に弟は重傷を負い現在も治療中の身であるため、ガルムにとっては自身と弟のリベンジの相手と粋がっていた。 小惑星帯にてサタンビートルをハンティングする予定だったラッシュハンターズの前に現れ、分離合体をしながら攻撃を仕掛ける。その後、負傷したガルムに代わりマグナがシーズの支援で代わりにロングレンジビーム砲で狙撃を行うも胴体部をずらして回避、その後合体してマグナたちのいる小惑星を握り潰そうとしたが、バレルの放ったサンダーブーメランが接続部に挟まっておりビーム吸収ができない状態になっていたため、それを狙ったマグナの狙撃ですべてのプラズマソウルを破壊され大爆発した。 ゲーム用にアレンジされたプラズマメタルキングジョーと違い、かなり巨大だがボディの各所にあるプラズマソウル以外はオリジナルに近い姿をしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "キングジョーは、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』への初登場を経て「ウルトラシリーズ」に登場する架空のロボット怪獣。別名は宇宙ロボット。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『ウルトラセブン』第14話「ウルトラ警備隊西へ 前編」、第15話「ウルトラ警備隊西へ 後編」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ペダン星人が作ったスーパーロボット。10万トン級以上の船舶を簡単に持ち上げる強靭な腕力を誇り、目のような部位から破壊光線を放つ。宇宙金属製による堅牢な装甲とバリアー機能を持ち、ウルトラセブンのいかなる攻撃もまったく寄せ付けない。身体は4つに分離でき、各パーツは飛行と潜水が可能。この形態でも上述の光線を使用できる。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "独特の作動音を立て、合体変形後は頭部の電子ランプが点滅し、不気味な電子和音を発する。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ペダン星人の指令を受け、国際会議場に向かう科学者を乗せた原子力潜水艦アーサー号を分離形態で破壊して六甲山に飛来し、合体して防衛センターに迫る。防衛設備による砲撃にまったくダメージを負わず、建物が破壊される寸前にセブンが駆けつけるが、エメリウム光線やアイスラッガーもまったく通じず、セブンを失神状態にまで追い込む。しかし、体勢を立て直したセブンによって脚を背後から掴まれて仰向けに転倒し、起き上がれないまま再び分離して飛び去る。その後、ペダン星人はダンとの和解交渉に応じ、拉致していた科学者ドロシー・アンダーソンを解放するが、彼女の記憶は消されていた。美しい地球が欲しくなったペダン星人はダンとの公約を破棄し、目的を地球侵略に変更してキングジョーを神戸港に送り込み、建物や船舶を破壊する。応戦するウルトラ警備隊とセブンをキングジョーはタンカーを軽々と振り回すパワーで圧倒するが、その間にアンヌによる治療で記憶が戻ったドロシーの協力によって完成したライトンR30爆弾の砲撃を受け、大破炎上する。形勢不利と見たペダン星人は、キングジョーの腹部から円盤で脱出しようとするが、セブンのワイドショットで撃墜される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ビデオ作品『ウルトラセブン1999最終章6部作』第5話「模造された男」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "かつてペダン星人に操られてウルトラセブンに倒されたキングジョーを、新甲南重工が神戸港の海底から引き揚げ、ペダン星のテクノロジーを解析してレスキュー用の電子頭脳を搭載して復元・改修したもの。対侵略者用に量産する計画から一転、平和目的のレスキューロボットとして利用するために復活したが、1万5000年前のオーパーツ・ラハカムストーンがカジ参謀の侵略者を恐れる心をコピーして具現化させた影響で暴走し、再びセブンと戦う。主な攻撃手段は以前と同様だが、作動音が若干違う。改造により分離・合体のスピードが以前とは比べ物にならないほど早くなっており、セブンのワイドショットを分離して回避し、そのままセブンの背後に回り込んで再合体するという荒技も披露する。装甲の強固さも健在で、エメリウム光線を足に受けても大したダメージを負わない。かつてと同様にセブンを追い込むが、ライトンR30爆弾で損傷していた箇所へアイスラッガーによる集中攻撃を受け、最後はウルトラノック戦法で破壊される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "特撮テレビ番組『ウルトラマンマックス』第14話「恋するキングジョー」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ゼットン星人が地球に送り出した侵略兵器。頭部がキングアルファー号、胸部がキングベーター号、右脚部がキングガンマー号、左脚部がキングデルタ号の4機の宇宙戦闘機に分離する。原子レベルまでの分解・再構築が可能な金属ゼットン・ニュウムで造られているため、縮小も可能。胸部からのキング連射砲とキングパンチが武器。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ゼットンの地球侵入を支援するため、DASHの監視衛星を分離状態で破壊して地球に侵入し、町工場「松本板金」の息子である松本健をゼットン星人が利用して原型となる人間大のリモートコントロールで動くロボットを製作させ、名前や構造からDASHに目をつけられたため、巨大化する。分離状態の4機編隊で超高速飛行し、コバたちのダッシュバード2・ダッシュマザーと空戦を展開してこれを一蹴したうえ、ウルトラマンマックスとの戦闘中にも分離合体を巧みに使って攪乱()する。ゼットン星人に操られた女性・夏美が操縦していたこともあり、迂闊に手が出せないマックスを苦戦させるが、正気を取り戻した彼女に脱出された後は動きが鈍くなり、形勢は逆転する。最後はマクシウムカノンを受け、破壊される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『てれびくん』と『テレビマガジン』での雑誌展開作品『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場。本作品にはキングジョーブラックも登場する(#『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場するキングジョーブラックを参照)。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』第8話「暗殺宇宙人ナックル星人」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ペダン星人の操るロボットとして登場。ナックル星人の襲来を受けて墜落したペダン星人の円盤から逃げ出した主人公とピグモンを発見し、襲いかかったところをバトルナイザーの怪獣により破壊される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ステータスは原作同様スピードが極端に低いものの、ディフェンスが非常に高く相手を押し返しやすいが、パワーが非常に低いのが難点。必殺技も原作通りの「マウントチョップ連打」、「怪光線」があり、分離状態で各部から怪光線を一斉発射する「分離怪光線」もある。NEO第3弾よりキングジョーブラックとのタッグ必殺技「ペダニウムスペシャル」が追加された。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "OV『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーのデータがビートスターによりコピーされたもので、ビートスター天球の内部でビートスターが率いるロボット怪獣軍団の1体。レギオノイド(BS)がレイの召喚するゴモラに倒された直後にエースキラー(BS)やインペライザー(BS)と共に現れ、一度は3対1の勝負でゴモラに勝利するが、その後にウルティメイトフォースゼロと戦う。そのうち1体はウルトラマンゼロのゼロスラッガーアタックで上半身を切り落とされ、爆散する。ビートスタータワー付近で量産もされており、ウルティメイトフォースゼロやゴモラと戦うが、最後はビートスターの爆発により天球や他のロボット怪獣軍団もろとも全滅する。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『ウルトラゾーン』各話に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第4話アイキャッチでは、夜店の射的の(絶対倒れない)一等景品として並べられている姿が描かれている。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第21話の「怪獣漫才」では、ナースと「ナースのジョー」という漫才コンビを組んで登場しており、ロボットゆえに最後までナースに電化製品扱いされる。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第19話・第20話「最後の攻撃命令」(前編・後編)に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "防衛軍で配置異動間近の山本が正体不明の飛行物体の襲来により非常呼集される直前、妻の洋子は自分が地球に潜入した宇宙人であり、飛来した物体は異星人の侵略兵器で、そのパイロットが自分であると告げる。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "洋子は自分が止めると合体したキングジョーの腹部から搭乗するが、その動きは止めることができなかった。防衛軍がキングジョーと交戦し、多くの損害を出す中、苦悩する山本はキングジョーの撃滅を命令する。かろうじて右脚部に損傷を与えることに成功するが、その侵攻は止まらなかったため、山本はやむなく新型ミサイルの使用を許可する。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "山本は中枢の腹部を狙うことを命令し、なぜか動きを止めたキングジョーに命中したミサイルは爆破に成功する。山本の顔に喜びはなく、帰宅した後には洋子が妊娠していた事実を知り、悲しみに暮れる。最後には自宅に何者かが訪れるが、正体は明かされていない。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンX』第11話「未知なる友人」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "4機に分離した状態で地球へ飛来。到着すると同時に合体して街を破壊し始め、スカイマスケッティを不時着させる。現れたウルトラマンエックスとも強硬な装甲を活かして優勢に戦い、ゼットンアーマーを纏ったエックスのゼットン火炎弾やザナディウム光線を分離して回避したり、4機に分離して同時攻撃するなどして苦戦させる。大地がリアライズさせたサイバーゴモラの参戦で2対1となっても互角に渡り合うが、激しい格闘戦で分離機能が壊れたところへサイバーゴモラのサイバー超振動波を浴びて怯み、最後はウルトラマンマックスのサイバーカードを使ったエックスのギャラクシーカノンで破壊される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ファントン星人グルマン曰く、「7つの星の文明を滅ぼした」とのこと。また、ペダン星人の存在も触れられたが、登場はしていない。内部に生命反応はないと解析されたため、無人で稼働していたことが示唆されている。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "Xioがキングジョーを解析して生み出したサイバー怪獣。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "第19話にてサイバーカードが使用され、スカイマスケッティでキングジョーデストレイ砲を発射し、暴走するEXゴモラをダウンさせる。しかしあまり効果はなく、すぐに立ち上がられた。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "劇場版でもスカイマスケッティからキングジョーデストレイ砲が発射され、カルロスタワーに向かって侵攻するザイゴーグへ放ったが、まったく効果はなかった。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "『ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!』に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "レイバトスの呪文により復活させられた亡霊怪獣の個体が、グドン、ツインテール、バードン、ハイパーゼットン(イマーゴ)、ビクトルギエルと共に出現し、他の5体と共にウルトラマンゼロとウルトラマンオーブに襲いかかり、オーブがレイバトスを追った後はゼロを追い詰めるが、ゾフィーとセブンとウルトラマンジャックが駆けつけ、セブンと戦う。かつてとは異なり、歴戦を経たセブンの前にはまったく歯が立たず、最後はアイスラッガーで切り裂かれて倒される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンR/B』第19話「善人と悪人」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "愛染マコトにより、ウルトラマンの活躍を支援する組織「地球防衛軍」の秘密兵器として開発されるが、何者かのハッキングを受けて美剣サキに反旗を翻してAZ計画を実行したダーリンによって起動する。湊アサヒを額からの吸引ビーム・ペダニウム・トラクターで額奥のコクピットに幽閉してアイゼンテック社に進撃し、迂闊に手が出せないウルトラマンロッソによる攻撃を電磁バリア・ペダニウム・シャッターを張って防ぐなどして追い詰めるが、サキによってアサヒを救出されたところにロッソのクロススパークシュートと遅れて現れたウルトラマンブルのダイナマイトスラッシュを受け、装甲に亀裂が入る。ロッソとブルが合体変身したウルトラマンルーブとも互角に戦うが、最後はサキに対獣拘束システムで動きを止められたところを、ルーブにルーブボルテックバスターで破壊される。残骸は、サキによってクリスタルと化して回収された。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンZ』第9話「未確認物資護送指令」および第10話「宇宙海賊登場!」に登場。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウルトラメダルを狙うバロッサ星人がペダン星人が作った宇宙ロボットを入手し、彼の宇宙船として使用される。武器は頭部から放つ破壊光線デスト・レイと分離体でも使用可能な牽引ビームペダニウム・トラクター。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地球防衛軍が回収していたウルトラメダルを強奪し、続いて残るメダルも狙って護送中のストレイジの輸送車を4機の小型UFOに分離して襲撃する。一度はストレイジがあらかじめ用意していた偽物のメダルを掴まされるが、カブラギの策略で本物のメダルの所在を感知し、強襲した統合先進装備研究所にてウルトラマンゼットと交戦する。ゼスティウム光線を防ぎきる装甲やベータスマッシュをも凌駕するパワーでゼットを苦しめるが、分離中は接合部がむき出しになるという弱点を分析され、最後は分離したところをガンマフューチャーに変身したゼットのガンマイリュージョンからガンマミラクルホールドで動けなくされたうえでライトニングジェネレードを浴びせられ、機能を停止する。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後、残骸は地球防衛軍によってストレイジ基地へ回収・搬入され、奪還を狙うバロッサ星人によって再起動寸前まで追い込まれるも事なきを得て、後述のストレイジカスタムの原型となる。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "映画『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ...』に登場。 プロフェッサー・ギベルス配下のペダン星人によって召喚される。テラフェイザー及びウルトラマンディナスと交戦、ディナスのディナライズバーンズで倒される。", "title": "キングジョー" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ゲーム『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』のオリジナルキャラクターとして初登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "キングジョーの強化型。名前の指す通りのステルス機能があるブラックメタリックボディーと、右手に新たに備え付けられた銃ペダニウムランチャーが特徴。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "必殺技はキングジョーが目の部分から放つ雷属性が追加された怪光線の強化版ハイパーデスト・レイと、敵を押し倒した後、飛行してペダニウムランチャーを浴びせかけるペダニウムエアレイド、そしてその場で回転しながらペダニウムランチャーを連射するペダニウムハリケーンで、どれも強力な威力を持つ。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『てれびくん』と『テレビマガジン』での雑誌展開作品『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "特撮テレビ番組『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』第9話「ペンドラゴン浮上せず!」、第10話「予期せぬ再会」、第12話「レイブラッド」、第13話「惑星脱出」に登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーの改造強化タイプ。黒く塗られたステルス仕様のボディとなっており、右腕にペダニウムランチャーが装備されている。主に弾丸を乱射する攻撃を必殺技とし、周囲にいる生物を殲滅するまで攻撃を止めないようにプログラムされているが、その目的は不明。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第9話から4機の分離形態で登場し、怪獣たちの戦いに乱入。アングロス、グロマイト、サラマンドラ、ルナチクスなどを次々に葬り去る。第10話で合体した姿で登場。レイの主力怪獣3体(ゴモラ、リトラ(S)、エレキング)をまとめて圧倒するなど、驚異的な強さを見せつける。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その後、惑星ボリスに接近するZAP SPACYの救援艦隊を殲滅し、レイとケイトの戦いに乱入してゼットンと交戦。ペダニウムランチャーを吸収した波状光線を簡単にはじき返すなど、互角の勝負を繰り広げていたところにEXゴモラの乱入を受け、尻尾による串刺し攻撃を受けて敗れる。それでも機能停止には陥っておらず、惑星ボリスから脱出しようとするペンドラゴンを襲撃するが、復活したウルトラマンの八つ裂き光輪で腕を切断され、ウルトラマンと共に人工太陽の大爆発の中に消える。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "送り込まれた目的については劇中で明確には語られないが、ゲーム版のカードによれば「レイブラッド星人の後継者覚醒を阻止するために送り込まれた」とされ、続編『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』では未来のペダン星人がレイオニクス抹殺のために送り込んだとされている。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "第13話ではケイトからペダン星の暴走ロボットと呼ばれている。命名者はクマノ。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "特撮テレビ番組『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』第10話「新たな戦いの地平で」、第11話「ある戦士の墓標」に登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "前作にも登場したキングジョーの強化タイプ。ペダン星人がレイオニクス抹殺のために量産して送り込んでいる。遠隔装置によって遠隔操作される。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ダイルが操る機体はレイのゴモラと対決。前作のEXゴモラとの戦いで送られたデータを元に強化改良されていたが、暴走することなく力を発揮できるようになったレイオニックバーストのゴモラにはまったく歯が立たず、超振動波を受けて機能停止する。他のレイオニクスハンター部隊のペダン星人がグランデを抹殺するために送り込んだ機体も登場するが、こちらはグランデのレッドキングに圧倒され、強烈な飛び蹴りであえなく倒される。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第11話ではレイを戦力として捕らえようとするハーランの命令で大量に出現し、ゴモラ、リトラ、ミクラスと戦う。倒されても次々と送り込まれるうえ、ZAPクルーを人質に取られてレイが本気を出せないこともあり、次第にゴモラたちを追い詰めていく。しかし、ダイルの命を捨てた行動でZAPクルーが救出され、本気を出したレイの指示によって反撃を開始したゴモラたちによって次々と破壊されていき、最後はペンドラゴンの放ったペダニウムランチャーによって全滅する。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "怪獣墓場を漂っていた亡霊がウルトラマンベリアルのギガバトルナイザーの力で復活し、ウルトラ戦士たちと激突する。メトロン星人、ガッツ星人、エレキング、キングパンドンと共にウルトラセブンを攻撃し、ペダニウムランチャーの一撃を浴びせて苦戦させる。後から来たウルトラマンゼロとも戦い、最後はゼットンやタイラント共々ゼロスラッガーで切り刻まれて爆散する。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』第7話「宇宙の黒い影」、『NEO』第14話「闘争本能の惑星」に登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "バトルナイザーを狙うペダン星人がバキシムを倒した主人公とピグモンの前に送り込んだ新型兵器。初代以上に硬い装甲を持っており、バトルナイザーの怪獣に倒されても破壊されるには至らない。ペダニウムハリケーンで主人公たちを攻撃した後、彼らをペダン星人の円盤に連行する。『NEO』では過去の惑星ハマーにて、『ウルトラギャラクシーNEO』に登場したペダン星人らレイオニクスハンターが操るものが登場。集団で現れて主人公やグランデらを攻撃するが、ネオバトルナイザーの怪獣に全て破壊される。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ステータス面に関しては、初代からアタックが上昇し、ディフェンスも本作品に登場する怪獣の中でトップクラスの値を有する。また、パワーの低さも若干ながら改善された。必殺技はインペライザーのごとく回転しながら光弾を乱射する「ペダニウムハリケーン」、「ハイパーデスト・レイ」、敵を殴り倒したうえで空中飛行中にペダニウムランチャーから光弾を連射する「ペダニウムエアレイド」がある。『NEO』第6弾以降は、ペダニウムランチャーから特大の光弾を打ち込む「ハイパーペダニウムバスター」が追加された。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この他、『NEO』第5弾で『ウルトラギャラクシー』で登場した際の円盤形態を再現した「キングジョーブラック飛行形態」が援軍カードとして登場。", "title": "キングジョーブラック" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "漫画『大怪獣バトル ウルトラアドベンチャー』第10話に登場。", "title": "キングジョースカーレット" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "本作品にて初登場した紅きキングジョー。色以外の違いは背中のタンクが大型になり、右腕がランス状「ペダニウムランサー」になっているのが特徴である。ペダン星人の女司令官ドロシーの愛機として登場し、その機動力で敵を翻弄し、ランスで敵を貫いたりランスから発射される電撃攻撃で活躍を見せる。", "title": "キングジョースカーレット" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "後にゲーム版でもスーパーコンボカードとして登場。", "title": "キングジョースカーレット" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』第11話に登場。", "title": "キングジョースカーレット" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "キングジョーブラック軍団の中の1体に、赤い色のキングジョーが登場する。ペダニウムランチャーで破壊されたこのキングジョースカーレットの破片の直撃を受けてハーランが死亡する。", "title": "キングジョースカーレット" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンギンガS』第3話「孤高の戦士」、第8話「朝焼けの死闘」に登場。", "title": "キングジョーカスタム(SD)" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "キングジョーブラックと同様右腕にペダニウムランチャーを装備しているが、従来の一般型のカスタム機であるため、カラーリングは一般型と同じである。ライブする際も単にキングジョーと認識される。設定上は分離・合体機能も有するとされるが、劇中では未使用。ガッツ星人ボルスト(SD)がモンスライブし、インペライザー(SD)を複数引き連れてウルトラマンビクトリーを圧倒するが、駆けつけたウルトラマンギンガとUPGにインペライザー(SD)を全て倒される。最後はギンガへ一騎討ちを挑み、ギンガストリウムにパワーアップしたギンガのワイドショットで倒される。スパークドールズはヒカルが回収していたが、彼の手でショウに渡されている。", "title": "キングジョーカスタム(SD)" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "第8話では、ショウからスパークドールズを貸し与えられたヒカルがウルトライブしてファイブキング(SDU)と戦うが、ペダニウムランチャーでの攻撃が一切通じずにガンQビームを受け、倒される。", "title": "キングジョーカスタム(SD)" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンZ』第11話「守るべきもの」より登場。正式名称は対怪獣特殊空挺機甲3号 キングジョー ストレイジカスタム、略称はキングジョーSC。形式番号は「SC-3」。", "title": "キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC)" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "地球防衛軍日本支部が回収したバロッサ星人が操縦していたキングジョーの破片より得た詳細な解析結果を元に、ストレイジが独自技術を用いて復元・改修・再構築することで火力重視型の戦う武器庫として生まれ変わった、ハイブリット機ともいえる特空機3号。キングジョーの異星テクノロジーによる動力源を解析して再構築した動力ペダニウムエンジンにより、ウインダムの5倍のエンジン出力と3倍の反応速度を獲得している。その一方、出力が一定値を超えるとオーバーヒートするリスクも抱えているうえに高い操縦練度も要求されるため、専任パイロットのナカシマヨウコをして「じゃじゃ馬」と言わしめるピーキーな仕上がりとなっている。腹部に黄色い機内照明の操縦席があるが、口元にもハッチがあるため、M1号戦ではイナバコジローが乗り込んでそこから無反動砲で細胞分裂逆進剤を打ち込んだ。戦況に応じて、高機動二足歩行型であるロボットモード、戦術分離戦闘型のセパレートモード、自走多目的兵装型のタンクモードの3形態で運用される。", "title": "キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC)" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "起動テスト直前で出現したレッドキングへの対処で初陣を飾り、正式にロールアウト後は退役したセブンガーに代わるストレイジの主力として活躍する。ストレイジ解散後は新設された第一特殊空挺機甲群の所属となり、バロッサ星人(三代目)出現時はヨウコに代わって男性パイロットが操縦を担当する。デストルドスとの最終決戦ではナツカワハルキが搭乗し、ほかの特空機と協力してセレブロに寄生されたヨウコの救出に成功する。", "title": "キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC)" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』第7話「インター・ユニバース」および第8話「繁殖する侵略」に登場。", "title": "キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC)" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンZ』の世界の地球からバロッサ星人(四代目)によって強奪され、ウルトラマンゼットとともにブルトンの異次元空間を経て作中世界の地球へ落下する。調査に当たったGUTS-SELECTからは、キングジョーをベースに地球の技術で改造されている事実によって存在目的を訝しまれるが、ナツカワハルキの説明もあって停止状態のままで監視下に置かれる。しかし、その後はダダにシステムを乗っ取られて再起動し、市街地を破壊していく。駆けつけたウルトラマントリガーやゼットとの交戦ではその高性能ゆえに優位に立つが、最後は両者のゼペリオン光線およびゼスティウム光線によって大破する。残骸はゼットに回収され、『Z』の世界へ運搬される。", "title": "キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC)" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "データカードダスおよびそれを元にしたCGショートムービー『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場。", "title": "『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "プラズマソウルを取り込んだプラズマ怪獣としてテレビ版「KING JOE Hunting」に登場。体を覆うペダニウム合金製の装甲はあらゆる攻撃を跳ね返し、さらに合体状態ではビームをエネルギーに変えて吸収してしまう。しかし合体直前に隙ができ、その時の一点集中攻撃が唯一にして最大の弱点である。シーズ曰く「ハンターを狩ることを楽しみにしている」とのこと。", "title": "『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "かつてガルムとその弟はハンティングに失敗しており、特に弟は重傷を負い現在も治療中の身であるため、ガルムにとっては自身と弟のリベンジの相手と粋がっていた。", "title": "『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "小惑星帯にてサタンビートルをハンティングする予定だったラッシュハンターズの前に現れ、分離合体をしながら攻撃を仕掛ける。その後、負傷したガルムに代わりマグナがシーズの支援で代わりにロングレンジビーム砲で狙撃を行うも胴体部をずらして回避、その後合体してマグナたちのいる小惑星を握り潰そうとしたが、バレルの放ったサンダーブーメランが接続部に挟まっておりビーム吸収ができない状態になっていたため、それを狙ったマグナの狙撃ですべてのプラズマソウルを破壊され大爆発した。", "title": "『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ゲーム用にアレンジされたプラズマメタルキングジョーと違い、かなり巨大だがボディの各所にあるプラズマソウル以外はオリジナルに近い姿をしている。", "title": "『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー" } ]
キングジョーは、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』への初登場を経て「ウルトラシリーズ」に登場する架空のロボット怪獣。別名は宇宙ロボット。
{{otheruses|特撮番組「ウルトラシリーズ」の怪獣}} {{混同|キングジョージ}} {{Pathnav|ウルトラセブンの登場怪獣|frame=1}} {{Infobox character | series= [[ウルトラシリーズ]] | first=『[[ウルトラセブン]]』第14話 | creator = [[成田亨]](デザイン)<br />[[高山良策]](造型) }} '''キングジョー'''は、[[特撮]][[テレビドラマ]]『[[ウルトラセブン]]』への初登場を経て「[[ウルトラシリーズ]]」に登場する架空のロボット[[怪獣]]。別名は'''宇宙ロボット'''。 {{clear}} == キングジョー == === 『ウルトラセブン』に登場するキングジョー === <section begin=SEVEN /> {{キャラスペック |名称=キングジョー |英字表記=KING JOE{{Refnest|group="出典"|{{R|白書54|BESTBOOK46|画報上67}}}} |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOE"|{{R|max14|白書54|怪獣大全集24|BESTBOOK46|大辞典き|画報上67|ism106|怪獣列伝206|C大全62|読本209}}{{R|円谷全怪獣27|クロニクル81|大侵略者図鑑39}}}} |体重=4万8,000{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|KINGJOE}} |出身地=ペダン星{{Refnest|group="出典"|{{R|白書54|怪獣大全集24|BESTBOOK46|大辞典き|画報上67|読本209|円谷全怪獣27|大侵略者図鑑39}}}} }} <noinclude>『[[ウルトラセブン]]』</noinclude>第14話「ウルトラ警備隊西へ 前編」、第15話「ウルトラ警備隊西へ 後編」に登場。 [[ペダン星人]]が作った[[スーパーロボット]]。10万トン級以上の船舶を簡単に持ち上げる強靭な腕力{{efn|『ウルトラ怪獣攻げき技大図鑑』では「ダイナミックパワー」と命名された。}}を誇り、目のような部位から破壊光線{{Refnest|group="出典"|{{R|白書54|怪獣大全集24|ism106|怪獣列伝206|読本209|クロニクル81|大侵略者図鑑39}}}}を放つ。宇宙金属製による堅牢な装甲{{Sfn|怪獣大図鑑|2012|p=38}}{{R|クロニクル81}}とバリアー機能を持ち、ウルトラセブンのいかなる攻撃もまったく寄せ付けない。身体は4つに分離でき、各パーツは飛行と潜水が可能。この形態でも上述の光線を使用できる。 独特の作動音{{efn|2017年にバンダイから発売されたフィギュア『アルティメットルミナス キングジョー』の[[Impress Watch|GAME Watch]]による紹介記事では、「エンジンをかけたような音」と表現されている<ref>{{Cite news|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1057350.html|title=プレミアムバンダイ、「キングジョー」の発光ギミックを再現して立体化!|newspaper=GAME Watch|publisher=インプレス|date=2017-04-27|accessdate=2022-10-27}}</ref>。}}を立て、合体変形後は頭部の電子ランプが点滅し、不気味な電子和音を発する。 ペダン星人の指令を受け、国際会議場に向かう科学者を乗せた原子力潜水艦アーサー号を分離形態で破壊して[[六甲山]]に飛来し、合体して防衛センターに迫る。防衛設備による砲撃にまったくダメージを負わず、建物が破壊される寸前にセブンが駆けつけるが、エメリウム光線やアイスラッガーもまったく通じず、セブンを失神状態にまで追い込む。しかし、体勢を立て直したセブンによって脚を背後から掴まれて仰向けに転倒し、起き上がれないまま{{efn|書籍『ウルトラ怪獣列伝』では、「体を倒されると自力で起き上がることができない」ことが弱点の1つであると記述している{{R|怪獣列伝206}}。}}再び分離して飛び去る。その後、ペダン星人はダンとの和解交渉に応じ、拉致していた科学者ドロシー・アンダーソンを解放するが、彼女の記憶は消されていた。美しい地球が欲しくなったペダン星人はダンとの公約を破棄し、目的を地球侵略に変更してキングジョーを[[神戸港]]に送り込み、建物や船舶を破壊する。応戦する[[ウルトラ警備隊]]とセブンをキングジョーは[[タンカー]]を軽々と振り回すパワーで圧倒するが、その間にアンヌによる治療で記憶が戻ったドロシーの協力によって完成した'''ライトンR30爆弾'''の砲撃を受け、大破炎上する。形勢不利と見たペダン星人は、キングジョーの腹部から円盤で脱出しようとするが、セブンのワイドショットで撃墜される。 * スーツアクター:[[中村晴吉]]<ref>制作第17話・第18話の高野組制作日報。ウルトラセブン撮影日誌』復刊ドットコム、2017年。123-129頁</ref> ** スーツアクターの[[山村哲夫]]は前編が中村、後編が加藤芳巳であったと証言しているが{{R|読本72}}、制作第17話・第18話の高野組制作日報には、ロボットの演技者は全撮影日程(1967年11月17日から12月7日まで)において中村の名前のみが記載されている<ref>『ウルトラセブン撮影日誌』復刊ドットコム、2017年。123-129頁</ref>。 * 初期の構想では、ハチの大群のように無数の部品が飛来してわけの分からないうちに合体して巨大ロボットになるというものだったが、当時の特撮技術では実現が困難だったため、劇中の形態となった<ref>[[朝日ソノラマ]]刊「ファンタスティックコレクション ウルトラセブン」より{{要ページ番号|date=2016年10月}}。</ref>{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=68}}。 * 元々はキングジョーという名称は存在せず、放送前後に関係媒体に設定名称が知らされていた模様で、本編では「ペダン星人のロボット」と呼ばれていた{{Sfn|研究序説|2022|p=18}}。1968年にマルザンから発売されたソフビ人形で公式名称として設定され{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=68}}、同年2月ごろから、各媒体において「キングジョー」の名称が用いられるようになった{{Sfn|ウルトラセブンイズム|2002|p=77}}。 ** 名前の由来については、脚本の[[金城哲夫|{{読み仮名|金城|きんじょう}}哲夫]]の名を採ったというもの{{R|C大全62}}と、金城の父のあだ名から採ったというもの、戦艦の[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ]]から採ったもの、との3つ説があるが、金城の父が海外へ行った際に「キンジョー」と呼ばれず「キング、ジョー」と発音されていたことから、金城は「チャンスがあれば『キングジョー』という名前を使ってみたい」と話していたといい<ref>[[スポーツ報知]]2012年6月27日刊『ウルトラセブン45周年・ウルトラセブンを創った人たち』より。</ref>、[[満田かずほ]]もこれを証言している{{R|読本72}}。 ** 『[[ウルトラファイト]]』では'''キングジョオ'''と表記され、本編と違い自壊作用で倒れたことになっている。 * デザインは[[成田亨]]によるもので、分離形態の分割に苦労した旨を述べている{{Sfn|成田亨|2014|p=141}}。モチーフはテトラポットや灯台{{R|UPM vol.1531}}。初稿デザインは、顔がお面のようであったが、それを成田が天地逆転させ、無機質寄りにしている{{R|UPM vol.1531}}。 * 着ぐるみは背中にチャックが着いており、そこからスーツアクターが入るようになっている。後年の作品に登場する個体の着ぐるみは、上下分割式のタイプである。当初の着ぐるみには膝部分にも突起パーツがあったが、造形の[[高山良策]]がパーツを着け忘れたまま着ぐるみを納品してしまい、あとからパーツの存在を思い出して撮影所に持っていこうとしたが、撮影に間に合わなかったために使用されなかった<ref>『怪獣とヒーローを創った男たち』 辰巳出版〈タツミムック〉、2002年、110頁。</ref>。頭部のアンテナはカメラ用の小型三脚、目はボリュームのつまみが使用されている{{Sfn|新大全集|1994|p=154}}。石膏製の着ぐるみも存在するが、重すぎるという理由からFRP製のものに変更された{{Sfn|新大全集|1994|p=154}}。 * ウルトラシリーズに登場したそれまでのロボット怪獣はどこか有機的な生命体を想像させるものであったが、このキングジョーは完全に無機質な金属ロボットであり、『[[ウルトラマンタロウ]]』第40話で回想シーンに登場した際にも「ウルトラ史上初のスーパーロボット」とナレーションで説明されている。 <section end=SEVEN /> === 『アンドロメロス』に登場するキングジョー === :{{キャラスペック |名称=改造キングジョー |身長=56{{nbsp}}m{{R|小三820160}} |体重=9万6,000{{nbsp}}t{{R|小三820160}} |出力=6,000万馬力{{R|小三820160}} }} ; 改造キングジョー : 『[[アンドロメロス]]』のグラビアや漫画版で登場。[[ナックル星人]]に操られた改造キングジョーが登場し、アンドロ戦士たちと対決する。 : グラビア版では、てれびくん1982年1月号<ref>てれびくん1982年1月号、29-35頁</ref>に登場。グア軍団によって30倍に強化されており、両耳のボルトから500万ボルトの電流を放つとされている{{R|小三820160}}。 : メロスを海底に引きずり込んで水中戦に持ち込むことで苦戦させるも、駆けつけたウルフが、ナックル星人が装着しているキングジョーのコントロール装置を破壊したことで形勢逆転、ナックル共々ビームハリケーンで倒された。 : その後、1982年2月号<ref>てれびくん1982年2月号、31-37頁</ref>で他の改造怪獣たちと共に復活、全員でメロスとウルフを取り囲んで高速旋回しながら炎の渦を発生させる火炎車戦法を仕掛けるも、破られて2人のアンドロビームで倒された。 : 居村眞二の漫画版では10倍に強化されており、ナックル星人2号に連れられてSP5星雲の宇宙基地を襲撃、駆けつけたウルフをそのパワーで苦しめたが、メロスが駆けつけて形勢逆転、2人のビームハリケーンでナックル共々倒された。 ; キングジョーグ : 特撮テレビ番組『[[アンドロメロス]]』に登場。キングジョーを模した'''怪獣戦艦'''が登場する。 :{{Main|アンドロメロス#怪獣戦艦 キングジョーグ}} === 『ウルトラセブン1999最終章6部作』に登場するキングジョーII === {{キャラスペック |名称=キングジョーII |英字表記=KING JOE(II){{R|画報下210}} |別名=宇宙ロボット |身長=56{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOEII"|{{R|UYB00|大辞典き|TVMAGA18|ism106|画報下210|円谷全怪獣223|UPM vol.3919|クロニクル119}}}} |体重=4万9千{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KINGJOEII}} |出身地={{Plainlist| * ペダン星{{R|大辞典き|画報下210}} * 新甲南重工内ドック{{R|円谷全怪獣223}} }} }} ビデオ作品『[[平成ウルトラセブン#ウルトラセブン1999最終章6部作|ウルトラセブン1999最終章6部作]]』第5話「模造された男」に登場。 かつてペダン星人に操られてウルトラセブンに倒されたキングジョーを、新甲南重工が神戸港の海底から引き揚げ、ペダン星のテクノロジーを解析してレスキュー用の電子頭脳を搭載して復元・改修したもの。対侵略者用に量産する計画から一転、平和目的のレスキューロボットとして利用するために復活したが、1万5000年前のオーパーツ・ラハカムストーンがカジ参謀の侵略者を恐れる心をコピーして具現化させた影響で暴走し、再びセブンと戦う。主な攻撃手段は以前と同様だが、作動音が若干違う。改造により分離・合体のスピードが以前とは比べ物にならないほど早くなっており{{R|円谷全怪獣223}}、セブンのワイドショットを分離して回避し、そのままセブンの背後に回り込んで再合体するという荒技も披露する。装甲の強固さも健在で、エメリウム光線を足に受けても大したダメージを負わない。かつてと同様にセブンを追い込むが、ライトンR30爆弾で損傷していた箇所へアイスラッガーによる集中攻撃を受け、最後はウルトラノック戦法で破壊される{{efn|アイスラッガーはその衝撃のために先端が少し欠ける。}}。 * スーツアクター:[[外島孝一]]{{R|TVMAGA18}} * 当初、着ぐるみは初代を模して軟質なものが造られたが、再検討を経て硬質なものに造り直された{{Sfn|ウルトラセブンイズム|2002|p=38}}。 === 『ウルトラマンマックス』に登場するキングジョー === <section begin=MAX /> {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=侵略ロボット{{R|max14|UPM vol.2321}} |身長=2 - 56{{nbsp}}m{{R|max14|UPM vol.2321}} |体重=75{{nbsp}}[[キログラム|kg]] - 5万t{{R|max14|UPM vol.2321}} |出身地=ゼットン星{{Sfn|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=325}} |出現地=エリアJT-112(都市部){{Sfn|PASマックス|2006|p=45|loc=「第3章 怪獣大事典 キングジョー」}}{{R|FCmax25}} }} <noinclude>特撮テレビ番組『[[ウルトラマンマックス]]』</noinclude>第14話「恋するキングジョー」に登場。 [[ゼットン星人]]が地球に送り出した侵略兵器。頭部が'''キングアルファー号'''、胸部が'''キングベーター号'''、右脚部が'''キングガンマー号'''、左脚部が'''キングデルタ号'''の4機の宇宙戦闘機{{R|UPM vol.2321}}に分離する。原子レベルまでの分解・再構築が可能な金属'''ゼットン・ニュウム'''{{R|FCmax25}}で造られているため、縮小も可能。胸部からの'''キング連射砲'''と'''キングパンチ'''が武器{{R|FCmax25|UPM vol.2321}}。 [[ゼットン]]の地球侵入を支援するため、DASHの監視衛星を分離状態で破壊して地球に侵入し、町工場「松本板金」の息子である松本健をゼットン星人が利用して原型となる人間大のリモートコントロールで動くロボットを製作させ、名前や構造からDASHに目をつけられたため、巨大化する。分離状態の4機編隊で超高速飛行し、コバたちのダッシュバード2・ダッシュマザーと空戦を展開してこれを一蹴したうえ、ウルトラマンマックスとの戦闘中にも分離合体を巧みに使って{{読み仮名|攪乱|かくらん}}する。ゼットン星人に操られた女性・夏美が操縦していたこともあり、迂闊に手が出せないマックスを苦戦させるが、正気を取り戻した彼女に脱出された後は動きが鈍くなり、形勢は逆転する。最後はマクシウムカノンを受け、破壊される。 * スーツアクター:[[永田朋裕]] * 分離形態のデザインは[[板野一郎]]{{R|UYB06|FCmax25}}。分離形態は[[コンピュータグラフィックス|CG]]で描写され、合体シーンは約1か月をかけて制作された{{R|FCmax25}}。 * 造型は特殊メイクアーティストのピエール須田が担当した{{R|FCmax73}}。本物の[[リベット]]を使用するなどディテールにこだわっていたが、撮影では壊れやすかったという{{R|FCmax73}}。 * 倒される場面では初代を踏襲して直立不動の状態で後ろに倒れる{{Sfn|ネクサス&マックス|2006|p=105}}。 <section end=MAX /> === 『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場するキングジョー === {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 『[[てれびくん]]』と『[[テレビマガジン]]』での雑誌展開作品『[[ウルトラマンメビウス]]外伝 超銀河大戦』に登場。本作品にはキングジョーブラックも登場する([[#『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場するキングジョーブラック]]を参照)。 ; 『てれびくん』版 : 宇宙を調査していたウルトラセブンとウルトラマンヒカリの前に大群で現れ、襲いかかる。2人を苦戦させるが、最後はワイドショットとナイトシュートの同時発射攻撃で全滅する。 :* 記事中では[[バンダイ]]から発売された[[超合金魂]]版キングジョーを使用。 ; 『テレビマガジン』版 : [[ヤプール人]]により手足にレーザー砲を付けられた'''スーパーキングジョー'''として出現し、[[ウルトラマン]]とセブンを攻撃するが、2人の救援に駆けつけた[[ウルトラマンメビウス]]の光線でレーザー砲を破壊され、一旦退却する。その後、強化改造されたキングジョーブラックとなって再びウルトラ兄弟の前に現れる。 :* 記事中ではCGで表現されている。 === 『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』に登場するキングジョー === {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS]]』第8話「暗殺宇宙人ナックル星人」に登場。 ペダン星人の操るロボットとして登場。[[ナックル星人]]の襲来を受けて墜落したペダン星人の円盤から逃げ出した主人公と[[ピグモン]]を発見し、襲いかかったところをバトルナイザーの怪獣により破壊される。 ステータスは原作同様スピードが極端に低いものの、ディフェンスが非常に高く相手を押し返しやすいが、パワーが非常に低いのが難点。必殺技も原作通りの「マウントチョップ連打」、「怪光線」があり、分離状態で各部から怪光線を一斉発射する「分離怪光線」もある。NEO第3弾よりキングジョーブラックとのタッグ必殺技「ペダニウムスペシャル」が追加された。 === 『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場するキングジョー(BS) === {{キャラスペック |名称=キングジョー(BS) |別名=天球ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{R|円谷全怪獣375|UPM vol.0825}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|円谷全怪獣375|UPM vol.0825}} |出身地=ビートスター天球{{R|円谷全怪獣375}} }} OV『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』に登場。 かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーのデータが[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター#天球ガーディアン ビートスター|ビートスター]]によりコピーされたもので、ビートスター天球の内部でビートスターが率いるロボット怪獣軍団の1体。[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国#戦力|レギオノイド(BS)]]がレイの召喚する[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場するゴモラ|ゴモラ]]に倒された直後に[[エースキラー (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場するエースキラー(BS)|エースキラー(BS)]]や[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#『ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター』に登場するインペライザー(BS)|インペライザー(BS)]]と共に現れ、一度は3対1の勝負でゴモラに勝利するが、その後にウルティメイトフォースゼロと戦う。そのうち1体はウルトラマンゼロのゼロスラッガーアタックで上半身を切り落とされ、爆散する。ビートスタータワー付近で量産もされており、ウルティメイトフォースゼロやゴモラと戦うが、最後はビートスターの爆発により天球や他のロボット怪獣軍団もろとも全滅する。 * 着ぐるみは、キングジョーブラックを改修してオリジナルに近い造形に戻したもの<ref>[[ハイパーホビー]]2011年12月号のインタビューより{{要ページ番号|date=2016年10月}}。</ref>。 === 『ウルトラゾーン』に登場するキングジョー === 『[[ウルトラゾーン (テレビ番組)|ウルトラゾーン]]』各話に登場。 第4話アイキャッチでは、夜店の射的の(絶対倒れない)一等景品として並べられている姿が描かれている{{Sfn|ウルトラゾーン完全ガイド|2012|p=30|loc=「ウルトラゾーンアイキャッチコレクション2」}}。 第21話の「怪獣漫才」では、[[ナース (ウルトラ怪獣)|ナース]]と「ナースのジョー」という漫才コンビを組んで登場しており、ロボットゆえに最後までナースに[[電化製品]]扱いされる{{Sfn|ウルトラゾーン完全ガイド|2012|p=78|loc=「怪獣漫才ダイジェスト UNIT7-9」}}。 ==== 「最後の攻撃命令」 ==== {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{R|ZONE完全124|円谷全怪獣385}} |体重=4万8千{{nbsp}}t{{R|ZONE完全124|円谷全怪獣385}} |出身地=ペダン星{{R|ZONE完全124|円谷全怪獣385}} }} 第19話・第20話「最後の攻撃命令」(前編・後編)に登場。 防衛軍で配置異動間近の山本が正体不明の飛行物体の襲来により非常呼集される直前、妻の洋子は自分が地球に潜入した宇宙人であり、飛来した物体は異星人の侵略兵器で、そのパイロットが自分であると告げる。 洋子は自分が止めると合体したキングジョーの腹部から搭乗するが、その動きは止めることができなかった。防衛軍がキングジョーと交戦し、多くの損害を出す中、苦悩する山本はキングジョーの撃滅を命令する。かろうじて右脚部に損傷を与えることに成功するが、その侵攻は止まらなかったため、山本はやむなく新型ミサイルの使用を許可する。 山本は中枢の腹部を狙うことを命令し、なぜか動きを止めたキングジョーに命中したミサイルは爆破に成功する。山本の顔に喜びはなく、帰宅した後には洋子が妊娠していた事実を知り、悲しみに暮れる。最後には自宅に何者かが訪れるが、正体は明かされていない。 === 『ウルトラマンX』に登場するキングジョー === {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOEX"|{{R|X|X超全集42|UPM vol.1923}}}} |体重=4万8千{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KINGJOEX}} |出身地=ペダン星{{Sfn|光の巻増補改訂|2022|p=302}} }} 『[[ウルトラマンX]]』第11話「未知なる友人」に登場。 4機に分離した状態で地球へ飛来。到着すると同時に合体して街を破壊し始め、スカイマスケッティを不時着させる。現れたウルトラマンエックスとも強硬な装甲を活かして優勢に戦い、ゼットンアーマーを纏ったエックスのゼットン火炎弾やザナディウム光線を分離して回避したり、4機に分離して同時攻撃するなどして苦戦させる。大地がリアライズさせた[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)#サイバーゴモラ|サイバーゴモラ]]の参戦で2対1となっても互角に渡り合うが、激しい格闘戦で分離機能が壊れたところへサイバーゴモラのサイバー超振動波を浴びて怯み、最後はウルトラマンマックスのサイバーカードを使ったエックスのギャラクシーカノンで破壊される。 [[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#ファントン星人グルマン|ファントン星人グルマン]]曰く、「7つの星の文明を滅ぼした」とのこと。また、ペダン星人の存在も触れられたが、登場はしていない。内部に生命反応はないと解析されたため、無人で稼働していたことが示唆されている{{efn|Blu-ray BOXの解説では無人機であると明記している{{Sfn|ウルトラマンX BDBOX I|2015|loc=「KAIJU LABORATORY」}}。}}。 * スーツアクター:寺井大介 * 当初の脚本では、冒頭でキングジョーカスタムがエックスに倒され、そのコアをXioが回収して解析したところ、コアにシステムをハッキングされてXioの装備が使えなくなるという展開だったが、盛り込み過ぎであるとの判断からシンプルな内容に変更された{{R|XBD}}。 * 第11話の監督を務めた冨田卓は、歴代のキングジョーへのオマージュを入れつつ、新しい見せ方を意識して演出した旨を語っている{{R|XBD}}。最後の爆発では、通常のセメント爆破に加えて2ミリメートル角の金[[ラメ]]を火薬で飛ばし、表面の装甲が弾け飛ぶイメージを表現している{{R|U152}}。 ==== サイバーキングジョー ==== Xioがキングジョーを解析して生み出したサイバー怪獣。 第19話にてサイバーカードが使用され、スカイマスケッティでキングジョーデストレイ砲{{Sfn|X超全集|2016|p=37}}を発射し、暴走する[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンX』に登場するEXゴモラ|EXゴモラ]]をダウンさせる。しかしあまり効果はなく、すぐに立ち上がられた。 劇場版でもスカイマスケッティからキングジョーデストレイ砲が発射され、カルロスタワーに向かって侵攻する[[ウルトラマンX#閻魔獣 ザイゴーグ|ザイゴーグ]]へ放ったが、まったく効果はなかった。 === 『ウルトラファイトオーブ』に登場するキングジョー === {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1226}} |体重=4万8千{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1226}} }} 『[[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#ウルトラファイトオーブ|ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!]]』に登場。 [[劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!#亡霊魔導士 レイバトス|レイバトス]]の呪文により復活させられた亡霊怪獣の個体が、[[グドン#『ウルトラファイトオーブ』に登場するグドン|グドン]]、[[ツインテール (ウルトラ怪獣)#『ウルトラファイトオーブ』に登場するツインテール|ツインテール]]、[[バードン (ウルトラ怪獣)#『ウルトラファイトオーブ』に登場するバードン|バードン]]、[[ゼットン#『ウルトラファイトオーブ』に登場するハイパーゼットン(イマーゴ)|ハイパーゼットン(イマーゴ)]]、[[ウルトラマンギンガS#超咆哮獣 ビクトルギエル|ビクトルギエル]]と共に出現し、他の5体と共にウルトラマンゼロとウルトラマンオーブに襲いかかり、オーブがレイバトスを追った後はゼロを追い詰めるが、[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]とセブンとウルトラマンジャックが駆けつけ、セブンと戦う。かつてとは異なり、歴戦を経たセブンの前にはまったく歯が立たず、最後はアイスラッガーで切り裂かれて倒される。 * セブンとの対決シーンは、『ウルトラセブン』の同シーンをオマージュしている{{Sfn|オーブ完全超全集|2017|p=115|loc=「ウルトラファイトオーブ 親子の力、おかりします!監督インタビュー [[坂本浩一]]」}}。 === 『ウルトラマンR/B』に登場するキングジョー === {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{R|R/B超全集46|UPM vol.2524}} |体重=4万8千{{nbsp}}t{{R|R/B超全集46|UPM vol.2524}} }} 『[[ウルトラマンR/B]]』第19話「善人と悪人」に登場。 愛染マコトにより、ウルトラマンの活躍を支援する組織「地球防衛軍」の秘密兵器として開発されるが、何者かのハッキングを受けて美剣サキに反旗を翻してAZ計画を実行したダーリンによって起動する{{R|UPM vol.2524}}。湊アサヒを額からの吸引ビーム・'''ペダニウム・トラクター'''{{R|R/B超全集46}}で額奥のコクピットに幽閉してアイゼンテック社に進撃し、迂闊に手が出せないウルトラマンロッソによる攻撃を電磁バリア・'''ペダニウム・シャッター'''{{R|R/B超全集46}}を張って防ぐなどして追い詰めるが、サキによってアサヒを救出されたところにロッソのクロススパークシュートと遅れて現れたウルトラマンブルのダイナマイトスラッシュを受け、装甲に亀裂が入る。ロッソとブルが合体変身したウルトラマンルーブとも互角に戦うが、最後はサキに対獣拘束システムで動きを止められたところを、ルーブにルーブボルテックバスターで破壊される。残骸は、サキによってクリスタルと化して回収された。 * スーツアクター:[[永地悠斗]] * 『R/B』ではそれまで召喚によって登場する怪獣が多かったが、ダーリンがハッキングされて起動させるという展開からロボット怪獣となり、キングジョーが選ばれた{{R|R/B}}。マウントポジションで殴りかかるシーンや手前に置いたミニチュア越しに映すカットなどは、『ウルトラセブン』を踏襲している{{R|R/B}}。 * 格納庫での合体シーンは、CGとミニチュアを組み合わせている{{R|R/B}}。分離状態はミニチュアやCGデータが存在していなかったが、過去作品のグリーンバック素材を探し当てて使用した{{R|R/B超全集79}}。 * 初期脚本では他国によってハッキングされると明記されていたが、物語のスケールが大きくなりすぎてしまうため、完成作品ではハッキングした者は不明のままとなった{{R|R/B}}。 * キングジョー内部のセットは新規に制作された{{R|R/B}}。 === 『ウルトラマンZ』に登場するキングジョー === {{キャラスペック |名称=キングジョー |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOEZ"|{{R|z_kaiju|Z完全超全集96|UPM vol.4024}}}} |体重=4万8,000{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KINGJOEZ}} |出身地=ペダン星{{R|z_kaiju|Z完全超全集96}} }} 『[[ウルトラマンZ]]』第9話「未確認物資護送指令」および第10話「宇宙海賊登場!」に登場。 ウルトラメダルを狙う[[ウルトラマンZ#海賊宇宙人 バロッサ星人|バロッサ星人]]がペダン星人が作った宇宙ロボットを入手し、彼の宇宙船として使用される{{R|Z完全超全集96}}。武器は頭部から放つ破壊光線'''デスト・レイ'''{{R|Z完全超全集96}}と分離体でも使用可能な牽引ビーム'''ペダニウム・トラクター'''{{R|Z完全超全集96}}。 地球防衛軍が回収していたウルトラメダルを強奪し、続いて残るメダルも狙って護送中のストレイジの輸送車を4機の小型UFOに分離して襲撃する{{R|Z完全超全集96|UPM vol.4024}}。一度はストレイジがあらかじめ用意していた偽物のメダルを掴まされるが、カブラギの策略で本物のメダルの所在を感知し、強襲した統合先進装備研究所にてウルトラマンゼットと交戦する。ゼスティウム光線を防ぎきる装甲やベータスマッシュをも凌駕するパワーでゼットを苦しめるが、分離中は接合部がむき出しになるという弱点{{R|Z完全超全集96}}を分析され、最後は分離したところをガンマフューチャーに変身したゼットのガンマイリュージョンからガンマミラクルホールドで動けなくされたうえでライトニングジェネレードを浴びせられ、機能を停止する。 その後、残骸は地球防衛軍によってストレイジ基地へ回収・搬入され、奪還を狙うバロッサ星人によって再起動寸前まで追い込まれるも事なきを得て、後述のストレイジカスタムの原型となる{{R|Z完全超全集96}}。 * スーツアクター:[[岡部暁]] * 作中では出身地やペダン星人については言及されていないが、ボイスドラマではバロッサ星人がペダン星人からキングジョーを強奪したという噂が、バロッサ星人の1体を倒してウルトラの国へ帰還した直後のウルトラマンゼロからゼットに明かされている<ref>{{cite video|url=https://www.youtube.com/watch?v=fvI0pPzTX0c|time=1:34|medium=YouTube|title=【ウルトラマンZ】『ウルトラマンゼット&ゼロ ボイスドラマ』第10回「バロッサ星人」-公式配信- "Ultraman Z & Zero Voice Drama" episode 10|publisher=円谷プロダクション|date=2020-08-21|accessdate=2020-09-13}}</ref>。 * スーツは『マックス』のキングジョーを改修したもの{{R|Z特写50}}。分離状態のミニチュアは、部品ごとのスケールが合わず、手と首はスーツと同様のサイズだが、その下は3分の1程度のサイズになっている{{R|Z完全超全集122}}。 * ストレイジ基地に横たわるカットは、手前に小さな部品、奥に大きな部品を置いてサイズを盗むという強制遠近法となっている{{R|Z完全超全集122}}。 * キングジョーが手を道の向こうから出すシーンでは、山の斜面と円周道路を回転台の上に乗せて、山と道の方を回して車の主観移動のように見せ、タイミングを合わせて手を突き出している{{R|Z完全超全集122}}。下からせり出してマルチプレーンのように撮ったり、奥からキングジョーが来るなどが考えられたが、キングジョーが横からフレームインするインパクトが優先された{{R|Z完全超全集122}}。奥の山は美術部がミニチュアの山を動かしている{{R|Z完全超全集122}}。 === 『ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…』に登場するキングジョー === 映画『[[ウルトラマンデッカー#映画|ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…]]』に登場。 プロフェッサー・ギベルス配下のペダン星人によって召喚される<ref>[https://cocreco.kodansha.co.jp/telemaga/news/feature/decker/LFpAH 【ウルトラマンデッカー最終章 旅立ちの彼方へ…】『ウルトラセブン』登場の宇宙人が大集結!]TELEMAGA.net 2023年3月1日</ref>。テラフェイザー及びウルトラマンディナスと交戦、ディナスのディナライズバーンズで倒される。 * スーツアクター:永地悠斗 === その他の映像作品でのキングジョー === * 映画『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』では、[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]が戦いを紹介する形でウルトラセブンの必殺技・ウルトラバックブリーカーで倒される{{efn|映像自体は『ウルトラセブン』第15話でセブンに羽交い絞めにされ、ライトンR30爆弾で倒されるシーンの流用。}}。また、キングジョーが襲撃する防衛センターは「湾岸のコンビナート」とナレーターに読まれた。 * 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』では、[[小中和哉]]は登場怪獣を選ぶ際、同映画はキングジョーが初登場した神戸が舞台のため、「神戸だったらキングジョーなんだけど、使っちゃった(笑)」として登場を見送ったという{{R|超全集}}。 * 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』では、百体怪獣[[ウルトラマンベリアル#百体怪獣 ベリュドラ|ベリュドラ]]の左腕を構成する怪獣の1体となっている{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=80|loc=「百体怪獣ベリュドラ完全攻略」}}。 * 2009年12月5日放送の『[[めちゃ×2イケてるッ!]]』では、『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』の宣伝を兼ねてキングジョーブラックが他の怪獣たちと共にオーディションを受ける役柄で出演。[[ゼットン]]と球乗りで対決し、球から転げ落ち、ゼットンも[[プレッシャー (ウルトラ怪獣)#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE オーディション』に登場するプレッシャー星人|プレッシャー星人]]に妨害されたため、引き分ける。ロボットゆえに転び方もコミカルで、最後のダンス審査ではペダニウムランチャーを上げ下げするロボットならではのダンスを披露した。 * 2011年1月1日放送の『徹底検証!ぼくらのウルトラマン伝説 〜昭和のヒーロー「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」誕生秘話〜』では、『セブン』の中で好きな怪獣2位に選ばれた。 * アニメ『[[はいたい七葉]]』第20話では、「ウルトラ怪獣擬人化計画feat.POP」で擬人化された姿となって登場した。 === その他のゲーム作品でのキングジョー === * [[スーパーファミコン|SFC]]用ゲーム『[[ウルトラセブン (ゲーム)|ウルトラセブン]]』では、STAGE4の敵として登場。全身にバリアーを張り巡らし、セブンの攻撃をことごとく防ぐ。 * SFC用ゲーム『[[ザ・グレイトバトルIV]]』では、機械化惑星ラーガの中ボスとして登場。分離ユニットも攻撃し、合体すると誘導弾などで攻撃する。 * [[アーケードゲーム]]『[[ウルトラ警備隊 空想特撮ゲーム]]』では、ステージ2の[[ボスキャラクター|ボス]]として登場。最初は分離形態で[[ニューヨーク]]に出現し、その後に合体する。 * [[ニンテンドーDS]]用ゲーム『[[怪獣バスターズ]]』では、怪獣の1体として登場し、分離・攻撃を繰り出す。全身緑色で右手が槍になった、'''キングジョー(最新型)'''も登場。 * [[PlayStation (ゲーム機)|PS]]用ゲーム『[[スーパーヒーロー作戦]]』では、敵組織・ETFによって操られる怪獣として登場。[[ペガッサ星人|ペガッサシティー]]を攻撃してその機能を破壊し、地球との衝突コースに乗せる。主人公は地球に出現したキングジョーと戦うが、強靭な装甲の前に攻撃が通用せず、苦戦する。また、プレイヤー戦闘に入る前のイベント戦闘で『[[新機動戦記ガンダムW]]』の[[ガンダムデスサイズ]]と戦っている。 === その他の書籍作品でのキングジョー === * 小学二年生1972年9月増刊号に掲載された[[内山まもる]]の漫画『[[ウルトラマンA]]』「ウルトラ5兄弟たいヤプール人」でヤプール配下の怪獣軍団の一員として登場。 * 『[[ウルトラマンタロウ]]』放送中に発売された小学三年生1973年12月号に掲載された記事「ウルトラひみつ大作戦帰ってきた最強怪獣」では、第27話 - 第30話に登場する復活怪獣たちは「怪獣軍団」が過去の怪獣の中から強力なものを選んで送り込んだという設定が紹介されている。キングジョーもタロウ抹殺の怪獣の候補に挙がり、ペダン星人に製作するよう問い合わせたところ、1体を製作するのに3年掛かると言われ、建造期間の長さから投入は取り止めになったそうである。その代わりに送り込んだ[[エレキング#『ウルトラマンタロウ』に登場するエレキング|再生エレキング]]の敗北を見た怪獣軍団の幹部たちは、「キングジョーを選べば良かった」とコメントしている。 * 小学三年生1980年8月号に掲載された[[制野秀一]]の漫画『[[ウルトラマン80]]』「ロボット軍団の巻」でチブル星人配下のロボット軍団の一員として登場。 * 漫画『[[ウルトラ戦士銀河大戦争]]』では、通常のキングジョーの10倍の大きさの「キングジョージャイアント」が登場。ナックル大帝に操られる。 * 小説『[[Another Genesis]]』では、第4話に登場。超人ブラストが地球人だったころの同僚「ジョー」が暴走したブラストに殺害された後、その光の力を受けて周囲の機械を吸収して機人に変貌した姿であり、ブラストが超人化した惑星で彼を待ち受ける。 * 漫画『酩酊! 怪獣酒場』では、怪獣酒場の客として登場。不具合により感情を持ったことで、店員のハルに恋する。 * 漫画『ウルトラジャーニー ツインテール少女とツインテールな僕』では、「JO-001」という個体番号の少女として登場する<ref>{{Cite web|和書|url=https://shonen-sirius.com/series/w_sirius/ultra-journey/|title=ウルトラジャーニー ツインテール少女とツインテールな僕|website=月刊少年シリウス|publisher=講談社|accessdate=2021-03-25}}</ref>。魔女サバトに奪われた、後継機たちの心を取り戻すために双舞ひなたたちの旅に同行した。 == キングジョーブラック == ゲーム『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS]]』のオリジナルキャラクターとして初登場。 キングジョーの強化型。名前の指す通りのステルス機能があるブラックメタリックボディー{{Sfn|NEO超百科|2009|p=48}}と、右手に新たに備え付けられた銃'''ペダニウムランチャー'''が特徴。 必殺技はキングジョーが目の部分から放つ雷属性が追加された怪光線の強化版'''ハイパーデスト・レイ'''と、敵を押し倒した後、飛行してペダニウムランチャーを浴びせかける'''ペダニウムエアレイド'''、そしてその場で回転しながらペダニウムランチャーを連射する'''ペダニウムハリケーン'''で、どれも強力な威力を持つ。 * デザイン画での名称は、「ブラック・キングジョー」というものもあった{{R|デザインワークス282}}。黒くなったキングジョーに右腕を武装するというオーダーだったが、ただの黒では面白くないため、[[ロータス・78|JPSロータス]]をヒントにゴールドのラインを黒地に入れたものが2つ製作され、その中の1つが決定稿となった{{R|デザインワークス282}}。ペダニウムランチャーは、下の弾倉がリボルバー型の拳銃のように回転するイメージだった{{R|デザインワークス282}}。銃身部分は伸縮式として2パターン描かれていたが、いずれも採用されなかった{{R|デザインワークス282}}。 * キングジョーのソフビの仕様を変更する形でソフビ人形化されたが、最初は右腕のみを新造したウルフェス限定品で、後に左腕を新造し、CGのイメージに近付けるための追加塗装を施したものが一般販売されたうえ、NEO第4弾で怪獣カード付きのものが販売された。この他にも、ソフビと同様に超合金魂版キングジョーの仕様を変更したものも販売された。 === 『ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦』に登場するキングジョーブラック === {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 『てれびくん』と『テレビマガジン』での雑誌展開作品『[[ウルトラマンメビウス]]外伝 超銀河大戦』に登場。 ; 『てれびくん』版 : [[内山まもる]]の漫画『戦え!ウルトラ兄弟』の単行本書き下ろしシーンに登場。ウルトラマンヒカリとウルトラセブンのステップショット戦法を受けて一撃で粉砕された。 ; 『テレビマガジン』版 : スーパーキングジョーが強化改造されたもの。容姿は『[[大怪獣バトル]]』のキングジョーブラックと同じであるが、巨大なレーザー砲を抱えている。ウルトラマン、セブン、メビウスと戦い、最後はバーニングブレイブとなったメビウスのメビュームバーストを受けて大爆発した。また、氷の惑星ではエンディール星人によって7体のキングジョーブラックが送り込まれ、ゾフィー、ジャック、A、タロウを苦戦させるが、そこにウルトラマン、セブン、メビウスが合流し、7人揃ったウルトラ兄弟たちの必殺技で全滅させられる。 :* 記事中ではスーパーキングジョーと同様にCGで表現されていた。 ; ウルフェス2007ライブステージ版 : [[エンペラ星人]]を復活させるためにウルトラ兄弟を倒そうと目論む、[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#岩力破壊参謀 ジオルゴン|ジオルゴン]]と[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#知略遊撃宇宙人 エンディール星人|エンディール星人]]に操られる。セブンとタロウの合体光線にも耐えるなど、かなりの強さや防御力を持つ。最後はエネルギーが完全に充電されていない隙を突かれてアイスラッガーで敗北し、2大幹部の命令による自爆で[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#高次元捕食王 アークボガール|アークボガール]]を復活させる。 === 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』に登場するキングジョーブラック === {{キャラスペック |名称=キングジョーブラック |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOEB"|{{R|galaxy|宇宙船YB0825|UPM vol.0811}}}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KINGJOEB}} |出身地=ペダン星{{Sfn|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=358}} }} 特撮テレビ番組『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル]]』第9話「ペンドラゴン浮上せず!」、第10話「予期せぬ再会」、第12話「レイブラッド」、第13話「惑星脱出」に登場。 かつてペダン星人が地球に送り込んだキングジョーの改造強化タイプ。黒く塗られたステルス仕様のボディとなっており、右腕にペダニウムランチャーが装備されている。主に弾丸を乱射する攻撃を必殺技とし、周囲にいる生物を殲滅するまで攻撃を止めないようにプログラムされているが、その目的は不明{{R|宇宙船YB0825}}。 第9話から4機の分離形態で登場し、怪獣たちの戦いに乱入。[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#土塊怪獣 アングロス|アングロス]]、[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#宇宙礫岩怪獣 グロマイト|グロマイト]]、[[サラマンドラ (ウルトラ怪獣)|サラマンドラ]]、[[ルナチクス]]などを次々に葬り去る。第10話で合体した姿で登場。レイの主力怪獣3体([[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]、[[リトラ (ウルトラ怪獣)|リトラ(S)]]、[[エレキング]])をまとめて圧倒するなど、驚異的な強さを見せつける。 その後、惑星ボリスに接近するZAP SPACYの救援艦隊を殲滅し、レイとケイトの戦いに乱入してゼットンと交戦。ペダニウムランチャーを吸収した波状光線を簡単にはじき返すなど、互角の勝負を繰り広げていたところにEXゴモラの乱入を受け、尻尾による串刺し攻撃を受けて敗れる。それでも機能停止には陥っておらず、惑星ボリスから脱出しようとするペンドラゴンを襲撃するが、復活したウルトラマンの八つ裂き光輪で腕を切断され、ウルトラマンと共に人工太陽の大爆発の中に消える。 送り込まれた目的については劇中で明確には語られないが、ゲーム版のカードによれば「レイブラッド星人の後継者覚醒を阻止するために送り込まれた」とされ、続編『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY]]』では未来のペダン星人がレイオニクス抹殺のために送り込んだとされている。 第13話ではケイトから'''ペダン星の暴走ロボット'''と呼ばれている。命名者はクマノ。 * スーツアクター:[[寺井大介]] * ゲーム作品オリジナルのキャラクターの中で、初めて映像作品に登場した怪獣でもある。 === 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』に登場するキングジョーブラック === {{キャラスペック |名称=キングジョーブラック |別名=宇宙ロボット |身長=55{{nbsp}}m{{R|galaxyneo}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|galaxyneo}} |出身地=ペダン星{{R|galaxyneo}} }} 特撮テレビ番組『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY]]』第10話「新たな戦いの地平で」、第11話「ある戦士の墓標」に登場。 前作にも登場したキングジョーの強化タイプ。ペダン星人がレイオニクス抹殺のために量産して送り込んでいる。遠隔装置によって遠隔操作される{{R|UPM vol.0813}}。 ダイルが操る機体はレイのゴモラと対決。前作のEXゴモラとの戦いで送られたデータを元に強化改良{{Sfn|NEO超百科|2009|p=48}}{{Sfn|超百科|2019|p=39}}されていたが、暴走することなく力を発揮できるようになったレイオニックバーストのゴモラにはまったく歯が立たず、超振動波を受けて機能停止する。他のレイオニクスハンター部隊のペダン星人がグランデを抹殺するために送り込んだ機体も登場するが、こちらはグランデの[[レッドキング]]に圧倒され、強烈な飛び蹴りであえなく倒される。 第11話ではレイを戦力として捕らえようとするハーランの命令で大量に出現し、ゴモラ、リトラ、ミクラスと戦う。倒されても次々と送り込まれるうえ、ZAPクルーを人質に取られてレイが本気を出せないこともあり、次第にゴモラたちを追い詰めていく。しかし、ダイルの命を捨てた行動でZAPクルーが救出され、本気を出したレイの指示によって反撃を開始したゴモラたちによって次々と破壊されていき、最後はペンドラゴンの放ったペダニウムランチャーによって全滅する。 * スーツアクター:寺井大介 * オープニングでは通常のものと、胸と顔のパネルが異なるものの2体組みで登場している。オープニングに登場したパネルが異なる機体は、第11話で2体同時に映るカットにも登場する。 * 第11話に登場する大軍団のシーンの一部には、『[[超合金 (玩具)|超合金魂]]』のキングジョーブラックが大量に使用された。 === 『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するキングジョーブラック === 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』に登場。 [[怪獣墓場]]を漂っていた亡霊{{efn|ロボットだが、他の怪獣・宇宙人と同様に扱われている{{Sfn|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=371}}。}}が[[ウルトラマンベリアル]]のギガバトルナイザーの力で復活し、ウルトラ戦士たちと激突する{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=55}}。[[メトロン星人#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するメトロン星人|メトロン星人]]、[[ガッツ星人#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するガッツ星人|ガッツ星人]]、[[エレキング#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するエレキング|エレキング]]、[[パンドン#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するキングパンドン|キングパンドン]]と共にウルトラセブンを攻撃し、ペダニウムランチャーの一撃を浴びせて苦戦させる。後から来た[[ウルトラマンゼロ]]とも戦い、最後は[[ゼットン#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するゼットン|ゼットン]]や[[タイラント (ウルトラ怪獣)#『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』に登場するタイラント|タイラント]]共々ゼロスラッガーで切り刻まれて爆散する。 === 『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』に登場するキングジョーブラック === {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS]]』第7話「宇宙の黒い影」、『NEO』第14話「闘争本能の惑星」に登場。 バトルナイザーを狙うペダン星人が[[バキシム]]を倒した主人公と[[ピグモン]]の前に送り込んだ新型兵器。初代以上に硬い装甲を持っており、バトルナイザーの怪獣に倒されても破壊されるには至らない。ペダニウムハリケーンで主人公たちを攻撃した後、彼らをペダン星人の円盤に連行する。『NEO』では過去の惑星ハマーにて、『ウルトラギャラクシーNEO』に登場したペダン星人らレイオニクスハンターが操るものが登場。集団で現れて主人公やグランデらを攻撃するが、ネオバトルナイザーの怪獣に全て破壊される。 ステータス面に関しては、初代からアタックが上昇し、ディフェンスも本作品に登場する怪獣の中でトップクラスの値を有する。また、パワーの低さも若干ながら改善された。必殺技はインペライザーのごとく回転しながら光弾を乱射する「ペダニウムハリケーン」、「ハイパーデスト・レイ」、敵を殴り倒したうえで空中飛行中にペダニウムランチャーから光弾を連射する「ペダニウムエアレイド」がある。『NEO』第6弾以降は、ペダニウムランチャーから特大の光弾を打ち込む「ハイパーペダニウムバスター」が追加された。 この他、『NEO』第5弾で『ウルトラギャラクシー』で登場した際の円盤形態を再現した「キングジョーブラック飛行形態」が援軍カードとして登場。 === その他の作品でのキングジョーブラック === * 『ウルトラゾーン』第9話のアイキャッチでは、[[西部劇]]風に銃を構えて無法者と対峙する姿が描かれた{{Sfn|ウルトラゾーン完全ガイド|2012|p=59|loc=「ウルトラゾーンアイキャッチコレクション4」}}。 * [[1970年]]から[[1971年]]にかけて[[ブルマァク]]が販売した初代キングジョーの[[ソフビ]]人形には、キングジョーブラックに類似した黒い成形色の物{{efn|ファンの間での通称は「ブラックキングジョー」{{R|Saito}}。}}が存在している{{R|Saito}}。 * 漫画『ウルトラジャーニー ツインテール少女とツインテールな僕』では、「ブラック」という名前の少女として登場する。心を持ち平和に暮らしていたが、魔女サバトに心を奪われたことで殺戮兵器となっていた。 * テレビアニメ『[[SSSS.GRIDMAN]]』第8話では、新条アカネの部屋の棚にキングジョーブラックのフィギュアが飾られている{{R|別冊SSSS|SSSS超全集}}。同話に登場するメカグールギラスに合わせてメカ系怪獣でまとめられている{{R|別冊SSSS|SSSS超全集}}。 == キングジョースカーレット == === 『大怪獣バトルウルトラアドベンチャー』に登場するキングジョースカーレット === {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} 漫画『[[大怪獣バトル ウルトラアドベンチャー]]』第10話に登場。 本作品にて初登場した紅きキングジョー。色以外の違いは背中のタンクが大型になり、右腕がランス状「ペダニウムランサー」になっているのが特徴である。ペダン星人の女司令官ドロシーの愛機として登場し、その機動力で敵を翻弄し、ランスで敵を貫いたりランスから発射される電撃攻撃で活躍を見せる。 後にゲーム版でもスーパーコンボカードとして登場。 === 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』に登場するキングジョースカーレット === 『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY』第11話に登場。 キングジョーブラック軍団の中の1体に、赤い色のキングジョーが登場する。ペダニウムランチャーで破壊されたこのキングジョースカーレットの破片の直撃を受けてハーランが死亡する。 * 『宇宙船 YEAR BOOK 2009』では、ハーラン司令専用機であるとする説を紹介しており{{R|UYB09}}、『円谷プロ全怪獣図鑑』でも指揮機と解説している{{Sfn|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=365}}。 == キングジョーカスタム(SD) == {{キャラスペック |名称=キングジョーカスタム(SD) |別名=宇宙ロボット |身長=14{{nbsp}}[[センチメートル|cm]] - 55{{nbsp}}m(最大){{Refnest|group="出典"|name="KINGJOEC"|{{R|ギンガS|ギンガS超全集|UPM vol.3324}}}} |体重=150{{nbsp}}[[グラム|g]] - 5万{{nbsp}}t(最大){{R|group="出典"|KINGJOEC}} }} 『[[ウルトラマンギンガS]]』第3話「孤高の戦士」、第8話「朝焼けの死闘」に登場。 キングジョーブラックと同様右腕にペダニウムランチャーを装備しているが、従来の一般型のカスタム機であるため、カラーリングは一般型と同じである。ライブする際も単にキングジョーと認識される。設定上は分離・合体機能も有するとされるが、劇中では未使用。[[ガッツ星人#ガッツ星人ボルスト(SD)|ガッツ星人ボルスト(SD)]]がモンスライブし、[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#『ウルトラマンギンガS』に登場するインペライザー(SD)|インペライザー(SD)]]を複数引き連れてウルトラマンビクトリーを圧倒するが、駆けつけたウルトラマンギンガとUPGにインペライザー(SD)を全て倒される。最後はギンガへ[[一騎討ち]]を挑み、ギンガストリウムにパワーアップしたギンガのワイドショットで倒される。スパークドールズはヒカルが回収していたが、彼の手でショウに渡されている。 第8話では、ショウからスパークドールズを貸し与えられたヒカルがウルトライブして[[ウルトラマンギンガS#超合体怪獣 ファイブキング(SDU)|ファイブキング(SDU)]]と戦うが、ペダニウムランチャーでの攻撃が一切通じずにガンQビームを受け、倒される。 * スーツアクター:[[桑原義樹]] == キングジョー ストレイジカスタム(キングジョーSC) == === 『ウルトラマンZ』に登場するキングジョーSC === {{キャラスペック |名称=キングジョー ストレイジカスタム |英字表記=KING JOE STORAGE CUSTOM{{R|z_robot}} |別名=特空機3号{{Refnest|group="出典"|{{R|z_robot|Z特写50|UYB21|UPM vol.4017}}}} |身長=58{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOESC"|{{R|z_robot|U16972|Z特写50|UYB21|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|group="出典"|KINGJOESC}} |出身地=地球{{R|z_robot|Z完全超全集76}} }} 『ウルトラマンZ』第11話「守るべきもの」より登場。正式名称は'''対怪獣特殊空挺機甲3号 キングジョー ストレイジカスタム'''、略称は'''キングジョーSC'''<ref>{{Twitter status|ultraman_series|1304578019856506880}}</ref>。形式番号は「SC-3」{{R|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}。 地球防衛軍日本支部が回収したバロッサ星人が操縦していたキングジョーの破片より得た詳細な解析結果を元に、ストレイジが独自技術を用いて復元・改修・再構築することで火力重視型の戦う武器庫として生まれ変わった、ハイブリット機ともいえる特空機3号{{Refnest|group="出典"|{{R|U16962|U16972|U170|Z特写50|UYB21}}}}。キングジョーの異星テクノロジーによる動力源を解析して再構築した動力'''ペダニウムエンジン'''{{R|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}により、[[ウインダム (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマンZ』に登場するウインダム|ウインダム]]の5倍のエンジン出力と3倍の反応速度を獲得している{{Refnest|group="出典"|{{R|U16972|Z特写50|UYB21|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}}}。その一方、出力が一定値を超えるとオーバーヒートするリスクも抱えているうえに高い操縦練度も要求されるため{{R|Z特写50|Z完全超全集76}}、専任パイロットのナカシマヨウコをして「じゃじゃ馬」と言わしめるピーキーな仕上がりとなっている。腹部に黄色い機内照明の操縦席があるが{{R|Z完全超全集76}}、口元にもハッチがあるため、M1号戦ではイナバコジローが乗り込んでそこから無反動砲で細胞分裂逆進剤を打ち込んだ{{R|Z特写50}}。戦況に応じて、高機動二足歩行型である'''ロボットモード'''、戦術分離戦闘型の'''セパレートモード'''、自走多目的兵装型の'''タンクモード'''の3形態で運用される{{Refnest|group="出典"|{{R|U16972|U170|Z特写50|UYB21|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}}}。 起動テスト直前で出現したレッドキングへの対処で初陣を飾り、正式にロールアウト後は退役したセブンガーに代わるストレイジの主力として活躍する。ストレイジ解散後は新設された第一特殊空挺機甲群の所属となり、バロッサ星人(三代目)出現時はヨウコに代わって男性パイロットが操縦を担当する。デストルドスとの最終決戦ではナツカワハルキが搭乗し{{R|Z特写50|Z完全超全集76}}、ほかの特空機と協力してセレブロに寄生されたヨウコの救出に成功する。 ; セパレートモード各機 : ロボットモードから分離した4機の戦術分離戦闘型{{R|Z完全超全集76}}。各機が飛行能力を持ち、現地でも自在に合体分離が可能なため、上半身のみでも攻撃することが可能{{R|Z完全超全集76}}。主に広範囲の警戒時に用いられる{{R|Z完全超全集76}}。 :; ヘッドファイター{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOESC2"|{{R|z_robot|U16972|Z特写50|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}}} :: 頭部を構成する無人攻撃機。小回りが利く小型の戦闘機のため、警戒区域の哨戒にも使用される{{R|Z完全超全集76}}。多連装ペダニウム誘導弾発射システムを背面に装備している{{R|Z特写50|Z完全超全集76}}。 :; ブレストタンク{{R|group="出典"|KINGJOESC2}} :: 胸部と両腕部を構成する無人装軌自走砲。近接鉄拳攻撃システムと26口径750mm榴弾砲を装備している{{R|Z特写50}}。そのため、遠近両方の攻撃に対応するが、機動力が乏しいため、敵をヘッドファイターで誘導し、そこを迎撃するという連携戦法をとる{{R|Z完全超全集76}}。 :; コアシップ{{R|group="出典"|KINGJOESC2}} :: 腹部を構成する唯一操縦席を持ち、タンクモードとロボットモードの操縦席も兼ねる司令機。この機体で、他の3機の無人機の遠隔操作による制御を行い、レーザー誘導によって合体に導く{{R|Z完全超全集76}}。司令機に特化しているため、非武装{{R|Z完全超全集76}}。第22話ではオオタユカも搭乗し、レッグキャリアーを遠隔操作した{{R|Z特写50}}。 :; レッグキャリアー{{R|group="出典"|KINGJOESC2}} :: 脚部を構成する無人装軌輸送車。三連装砲を左右に装備し、4基の履帯で走行する。セブンガーを搭載して超信地旋回を行えるほど強固な車体を誇り、絶大な機動力と輸送力を発揮する{{R|Z特写50|Z完全超全集76}}。作戦区域まで怪獣を輸送し、車体を展開して放り投げる{{R|Z完全超全集76}}。また、煙幕用のスモークディスチャージャーを前部に装備している{{R|Z完全超全集76}}。 ; タンクモード{{Refnest|group="出典"|{{R|U16972|Z特写50|Z完全超全集76|UPM vol.4017}}}} : レッグキャリアーにヘッドファイター・ブレストタンク・コアシップが接続・搭載した自走多目的兵装型。前面に全機の兵装が向いており、同時に全ての武器を発射する'''全兵装一斉射'''{{R|Z完全超全集76}}で敵を激甚な飽和攻撃によって制圧する。 : ; 装備 :; 26口径750mmペダニウム粒子砲{{R|group="出典"|KINGJOESC}} :: 右腕内蔵の主砲から超強力なビームを放つ。ただし、メインエンジンに多大な負荷をかけるため、同じ砲身で実体弾である750ミリ榴弾と弾種を使い分けながら使用する。ブレストタンクではエネルギーの関係からビームの発射が不可能なため、750mm榴弾砲のみ使用可能{{R|Z完全超全集76}}。タンクモードではロボットモード同様の最高出力によるペダニウム粒子砲の発射が可能{{R|Z完全超全集76}}。[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#『ウルトラマンZ』に登場するケルビム|ケルビム]]殲滅作戦では、総合先進装備研究所が次元を操る[[ウルトラマンAの登場怪獣#『ウルトラマンZ』に登場するバラバ|バラバ]]の角を解析して開発した異次元壊滅兵器'''D4レイ'''に換装し、次元崩壊によって無数のケルビムを掃討する。D4レイがウルトロイドゼロに移設されたあとは、元に復旧された模様{{R|Z特写50}}。 :; 近接鉄拳攻撃システム(通称ベダニウムハンマー){{R|group="出典"|KINGJOESC}} :: 三段階に折りたたまれた左腕部を展開・伸縮させ強力なパンチを放つ。ブレストタンクでも使用可能。 :; 多連装ペダニウム誘導弾発射システム (MPLRS){{R|group="出典"|KINGJOESC}} :: 背部の5連装の筒状砲塔から最高射程距離100キロのペダニウム誘導弾を放つ。ヘッドファイターでも使用可能。 :; ペダニウムシールド{{R|Z完全超全集76|UPM vol.4017}} :: ボディ前面に展開したエネルギーシールドで敵の攻撃を防ぐ。 :; 煙幕弾{{R|Z特写50|Z完全超全集76}} :: 両足に装備されている。 :; 麻酔弾{{R|Z特写50|Z完全超全集76|UPM vol.4017}} :: 肩口に装備されている麻酔薬を内包した弾丸。M1号戦で使用された。 * スーツアクター:岡部暁{{R|Z特写50|UYB21}} * デザインは、井野元大輔が担当{{R|Z完全超全集163}}。スーツ用のデザインは玩具の設計図面を基に起こされている{{R|F28644}}。地球人が作ったという設定から意味と機能のあるデザインとして、実在する武装やメカ、ロボットの要素を取り入れており、原案のディテールを再構築して、右腕のペダニウム粒子砲や左手の指、胸の発光部の構造、足の側面に装備された銃の形状を変更し、地に足のついたハードSFガジェットとすることが志向された{{Refnest|group="出典"|{{R|U16970|Z特写87|F28644}}}}。発注時のプレックスがデザインした分離合体の仕組みはそのままに、新規要素を元を活かしながら加えてデザインを進めていき、パネルラインなどはカッコよさではなく、実際の機能としての必然性がある方向性が優先されている{{R|Z特写87}}。別途に左右側面も描かれている{{R|Z特写87}}。『Z』メイン監督の[[田口清隆]]はストレイジカスタムのコンセプトについて、映画『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』の[[モゲラ]]に対する映画『[[ゴジラvsスペースゴジラ]]』の[[モゲラ#『ゴジラvsスペースゴジラ』のモゲラ (MOGERA)|MOGERA]]に例えている{{R|U16970}}。セパレートモードは当初、ストレイジの基地玩具として考えられ、敷地に分離した状態で配置され、怪獣の襲撃時に各防衛ラインで迎撃にあたり、最期に合体して肉弾戦、というイメージで考えられていたが、そんなに大きな特空機は存在しえない、ということから却下となった{{R|F28644}}。タンクモードは、田口が玩具の試作でレッグキャリアーに各パーツを積み上げて組んで戦車のようになったものの図面を引き直したものが採用された{{Refnest|group="出典"|{{R|U16970|Z完全超全集124|F28644}}}}。全体のカラーリングと分離システムはプレックスがデザインし、ペダニウムハンマーの内側のディテールを井野元が担当した{{R|Z特写87}}。額の電飾は、原案では前のみであったが、後ろも光るようにディテールが追加された{{R|Z特写87}}。口元の部分や頭頂部のフィンはカッコよくなるように原案を変更し、右腕のペダニウム粒子砲や左手の指の構造も変更している{{R|Z特写87}}。白い装甲を外した内部のイメージもデザイン段階で描かれていたが、実際に分解することはできない{{R|Z特写87}}。スコープも付けられる案もあったが、キングジョーはスコープを覗かないであろうということからカットされた{{R|Z特写87}}。原案では肩のアーマーはくっ付いていたが、具体的な構造を考えてそこに落とし込んでいる{{R|Z特写87}}。足側面の銃は監督の田口の指示で形状を変更している{{R|Z特写87}}。 * スーツは新規造形{{R|Z特写50}}。6ピース構成のスーツとなっており、膝まで一体になったブーツを穿いて上半身を前後から装着、下腿部と前腕部左右を差し込んで完成となる{{R|U16972|Z特写50}}。白い面積が多く、ディテールが照明で白飛びして形状がわからなくなってしまうことを避けるため、シャドー塗装を全身のディテールやエッジに施している{{R|Z特写50|Z特写92}}。スーツの通常時の可動する左腕はスーツアクターのグリップ操作によりリアルタイムで開閉することができるほか、差し替えで握り拳が固定されたパーツも存在する{{Refnest|group="出典"|name="KINGJOESC3"|{{R|U16972|Z特写50|Z特写92}}}}。ペダニウムハンマー展開時は、左腕を肩の基部のプレートごとに回転する構造や伸縮機構を持つ専用の腕などに交換しており、スーツアクターの左腕は胴体部に引き込んでいることから可動域に限界がない{{R|group="出典"|KINGJOESC3}}。左手の指は開いた状態と閉じた状態を内部の固定具の位置を変えることで選択できる{{R|group="出典"|KINGJOESC3}}。左肩のみ交換でき、右肩はその機構がないことから交換できない{{R|Z特写92}}。額と後頭部、胸はLEDによってリレー発光し、回転・明減速度と光量は撮影のコマ数に応じて逆転や可変、全発光などの調節が可能となり、電子的な制御によって前後で光の流れる方向を逆にすることでパトランプのように回転しているように見せている{{R|group="出典"|KINGJOESC3}}。視界は目元の喉元までメッシュになっている黒い凹部で得ている{{R|Z特写50}}。胸部の3対ずつのLEDは頭部同様、撮影のコマ数に合わせて明減速度と光量を変更することが可能{{R|Z特写50}}。 * 企画段階では、キングジョーを最初に登場させる案も挙がっていたが、田口は最初から強くてはウルトラマンが不要になってしまうと考え、最初は弱いところからキングジョーへ向けて段階的に強化していくことを主張したという{{R|U16970}}。本作品にはセブンガーとウインダムが登場していたが、それだけではインパクトがないため、メカレッドキングやメカゴモラのような案もあったが、防衛隊を強くするとウルトラマンの必要性がなくなることから、合体変形ロボとしての特徴を持った新デザインのキングジョーを出すこととなった{{R|F28644}}。防衛隊の武装が激化していってしっぺ返しを喰らうという全体の流れは決まっていたため、その流れとも矛盾しないことから、それで行くこととなった{{R|F28644}}。 * CGではなく、分離形態もすべてプロップで表現されている{{R|U16972}}。分離形態のプロップは新規造形で、ロボットモードとはサイズが異なるため、パーツの使い回しが出来ず、それぞれのサイズで作り起されており、流用しているパーツもないといい、ディテールは暗く見えないようにやや抑え目のシャドー塗装となっている{{R|Z特写50|Z特写92}}。エッジを立てるような塗装を要所要所に施している{{R|Z特写92}}。ブレストタンクには撮影用スーツと同様の電飾が仕込まれており、明減・発光し、明減速度と光量を調節することが可能だが、小さなサイズのため、別途で専用に作成された{{R|U16972|Z特写92}}。ブレストタンクの両腕はタンクモードとデフォルトの肩の角度が異なるため、水平から真上まで四段階に調節することが可能{{R|Z特写50|Z特写92}}。レッグキャリアーのプロップの全長は成人男性一人分に相当する{{R|Z特写50}}。タンクモードのプロップはセパレートモードを積み重ねただけで成立しているが、固定する機構も組み込まれているため、揺れたり傾いたりした程度では簡単には崩れないようになっており、撮影によって使い分けができるように配慮している{{Refnest|group="出典"|{{R|Z特写50|Z特写92|F28644}}}}。 === 『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』に登場するキングジョーSC === {{キャラスペック |名称=キングジョー ストレイジカスタム |別名=特空機3号{{R|UYB22}} |身長=58{{nbsp}}m{{R|UYB22}} |体重=5万{{nbsp}}t{{R|UYB22}} }} 『[[ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA]]』第7話「インター・ユニバース」および第8話「繁殖する侵略」に登場。 『ウルトラマンZ』の世界の地球からバロッサ星人(四代目)によって強奪され、ウルトラマンゼットとともにブルトンの異次元空間を経て作中世界の地球へ落下する{{R|trigger_kaiju|UYB22}}。調査に当たったGUTS-SELECTからは、キングジョーをベースに地球の技術で改造されている事実によって存在目的を訝しまれるが、ナツカワハルキの説明もあって停止状態のままで監視下に置かれる。しかし、その後は[[ダダ (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』に登場するダダ|ダダ]]にシステムを乗っ取られて再起動し、市街地を破壊していく。駆けつけたウルトラマントリガーやゼットとの交戦ではその高性能ゆえに優位に立つが、最後は両者のゼペリオン光線およびゼスティウム光線によって大破する。残骸はゼットに回収され、『Z』の世界へ運搬される{{R|UYB22}}。 * スーツアクター:[[石川真之介]](第8話) * 第8話の放送後には、『Z』のイナバコジロー役だった[[橋爪淳]]が自身の[[Twitter]]でキングジョーSCの残骸を前に困り果てるコジローの姿を投稿し<ref>{{Twitter status2|Studio_Fuzios|1436620650156683268|4=@Studio_Fuziosの2021年9月11日のツイート|5=2021-09-13}}</ref>、同話監督の[[田口清隆]]やハルキ役の[[平野宏周]]から謝られている<ref>{{Twitter status2|TaguchiKiyotaka|1436624706304499713|4=@TaguchiKiyotakaの2021年9月11日のツイート|5=2021-09-13}}</ref><ref>{{Twitter status2|kohshu_hirano|1436663646185082882|4=@kohshu_hiranoの2021年9月11日のツイート|5=2021-09-13}}</ref>。 * 本作品の10年後を舞台とする次作『[[ウルトラマンデッカー]]』第11話では、本作品での一件が新生GUTS-SELECTの教本にも掲載されるほど熟知されていることが、落下した際の回想シーンと共に語られている。 ==『大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア』に登場するキングジョー == {{出典の明記|section=1|date=2022年6月}} データカードダスおよびそれを元にしたCGショートムービー『[[大怪獣ラッシュ ウルトラフロンティア]]』に登場。 ; プラズマメタルキングジョー : 4弾のボス怪獣として登場した。プラズマソウルを取りこんだことで装甲が分解・再構築され、やや細身な外見になっている。遺跡の番人として遺跡に近づく者たちをことごとく退ける。 ; オリハルコンキングジョー : 4弾の期間限定ミッションに登場。最高クラスのレア度を誇るオリハルコンプラズマソウルに侵食されたプラズマメタルキングジョー。その戦闘力は大幅に高まっている。 === 『KING JOE Hunting』に登場するキングジョー === プラズマソウルを取り込んだプラズマ怪獣としてテレビ版「KING JOE Hunting」に登場。体を覆うペダニウム合金製の装甲はあらゆる攻撃を跳ね返し、さらに合体状態ではビームをエネルギーに変えて吸収してしまう。しかし合体直前に隙ができ、その時の一点集中攻撃が唯一にして最大の弱点である。[[ガッツ星人#ガッツ星人シーズ|シーズ]]曰く「ハンターを狩ることを楽しみにしている」とのこと。 かつて[[ガッツ星人#ガッツガンナー・ガルム|ガルム]]とその弟はハンティングに失敗しており、特に弟は重傷を負い現在も治療中の身であるため、ガルムにとっては自身と弟のリベンジの相手と粋がっていた。 [[小惑星帯]]にて[[ウルトラマンレオの登場怪獣#宇宙昆虫 サタンビートル|サタンビートル]]をハンティングする予定だったラッシュハンターズの前に現れ、分離合体をしながら攻撃を仕掛ける。その後、負傷したガルムに代わり[[マグマ星人#マグママスター・マグナ|マグナ]]がシーズの支援で代わりにロングレンジビーム砲で狙撃を行うも胴体部をずらして回避、その後合体してマグナたちのいる小惑星を握り潰そうとしたが、[[バルタン星人#バルタンバトラー・バレル|バレル]]の放ったサンダーブーメランが接続部に挟まっておりビーム吸収ができない状態になっていたため、それを狙ったマグナの狙撃ですべてのプラズマソウルを破壊され大爆発した。 ゲーム用にアレンジされたプラズマメタルキングジョーと違い、かなり巨大だがボディの各所にあるプラズマソウル以外はオリジナルに近い姿をしている。 == ウルトラマンフェスティバルライブステージに登場するキングジョー == * 『[[ウルトラマンフェスティバル]]2009』のライブステージ第1部「翔べ!僕らのキングジョー」には、会場のロボット研究所で制作された地球製のキングジョーが登場。[[人工知能]]と声援によってパワーを発揮する回路「ウルトラハート」が搭載されている他、両腕のアタッチメントに各種武装を接続できる。武装にはペダニウムブレード、ペダニウムシールド、エメリウムビームキャノン、キングジョードリル、キングメタルハンマー、ウルトラパワーショベルの6種があり、観客のリクエストに応じて2つの武装が装備された{{Sfn|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=391}}。 * 『ウルトラマンフェスティバル2017』のライブステージ第2部「僕たちの翼!ウルトラホーク発進!」では、キングジョーと他のロボット怪獣を融合した'''パーフェクトキングジョー'''が登場{{R|GEED超全集}}。右腕には[[ナース (ウルトラ怪獣)|ナース]]の尾、左手には[[ウルトラセブンの登場怪獣#ロボット怪獣 クレージーゴン|クレージーゴン]]のハサミ、背中には[[ウルトラセブンの登場怪獣#軍艦ロボット アイアンロックス|アイアンロックス]]のアイアンキャノンを備えている{{R|GEED超全集}}。 == その他 == * プロバスケットボール[[bjリーグ]]と円谷プロダクションのコラボ企画として開催された「ウルトラ怪獣ドラフト2010」にて、キングジョーブラックが[[京都ハンナリーズ]]よりドラフト指名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.basketballjapantv.com/other/free/253|title=ウルトラ怪獣ドラフト2010|website=バスケットボールジャパンtv|publisher=ヒューマンアカデミー|accessdate=2022-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120728033425/https://www.basketballjapantv.com/other/free/253|archivedate=2012-07-28}}</ref>。 * [[ウルトラマンベリアル]]が、『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』の後に[[怪獣墓場]]で壊れていたキングジョーを修復し、[[インターネット]]やテレビとして利用していたことを、自身の[[Twitter]]で語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mobile.twitter.com/m78_belial/status/136730410704056320|title=ウルトラマンベリアル (m78_belial) on Twitter|accessdate=2022-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131228004116/https://mobile.twitter.com/m78_belial/status/136730410704056320|archivedate=2013-12-28}}</ref>。 * 「ウルトラ怪獣擬人化計画feat.POP」として擬人化される。 ** 「[[ウルトラ怪獣擬人化計画]]」として『[[電撃ホビーマガジン]]』2014年5月号(第6回)に頭部と腰に重点を置き、豊満な胸元を強調した装甲を纏う'''キングジョー'''(イラスト:谷裕司)が掲載。「ウルトラ怪獣擬人化計画 ギャラクシー☆デイズ」では怪獣図鑑の1ページとガッツ星人の隠し撮りした写真に登場しているが、本人は未登場。キングジョーIIも登場。 ** アニメ『[[怪獣娘 〜ウルトラ怪獣擬人化計画〜]]』に登場。声優は[[三森すずこ]]。 * 2016年の[[ファミリーマート (企業)|ファミリーマート]]のファミマ冬フェスタのテレビCMでは、[[カネゴン]]、[[メトロン星人]]、[[ミラーマン]]、[[レッドキング]]、[[バルタン星人]]と共に、くじ引きにチャレンジしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.family.co.jp/company/news_releases/2016/20160115_01.html|title=ファミリーマート 冬の大型キャンペーン 「ファミマ冬フェスタ」開催 〜ファミマフェスタ初企画、ウルトラマンコラボ中華まんも発売〜|publisher=ファミリーマート|date=2016-01-15|accessdate=2022-07-24}}</ref>。 * 2022年に[[All About]]にて実施された「『ウルトラセブン』で好きな宇宙人・怪獣ランキング」では、キングジョーが第1位に選ばれている<ref>{{Cite news|url=https://news.allabout.co.jp/articles/o/46048/|title=『ウルトラセブン』で好きな宇宙人・怪獣ランキング!3位エレキング、2位ウインダム、1位は?|newspaper=All About NEWS|publisher=オールアバウト|date=2022-07-08|accessdate=2022-07-24}}</ref>。 === オマージュ === * 漫画『[[クローズ]]』『[[WORST (漫画)|WORST]]』の両作品に登場する人物「金山丈」は、あだ名が「キングジョー」となっている。 * SF小説『[[MM9|MM9―destruction―]]』には、キングジョーへのオマージュである怪獣[[MM9#ゴウキング|ゴウキング]]が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="白書54">{{Harvnb|白書|1982|p=54|loc=「ウルトラセブン 怪獣リスト」}}</ref> <ref name="怪獣大全集24">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|p=24|loc=「ウルトラセブン 全怪獣」}}</ref> <ref name="BESTBOOK46">{{Harvnb|ベストブック|1993|pp=46-47}}</ref> <ref name="大辞典き">{{Harvnb|大辞典|2001|pp=109-110}}</ref> <ref name="ism106">{{Harvnb|ウルトラセブンイズム|2002|p=106|loc=「ウルトラセブン宇宙人・怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="TVMAGA18">{{Harvnb|平成ウルトラビデオ全集|2002|p=18}}</ref> <ref name="画報上67">{{Harvnb|画報 上巻|2002|p=67}}</ref> <ref name="画報下210">{{Harvnb|画報 下巻|2003|p=210}}</ref> <ref name="max14">{{Cite web|和書|url=https://hicbc.com/tv/max/contents/kaiju/20051001/20051001_1.php|title=hicbc.com:最強!最速!!ウルトラマンマックス 怪獣図鑑 |publisher=[[中部日本放送|CBC]] |accessdate=2020-11-07}}</ref> <ref name="FCmax25">{{Harvnb|マックス!マックス!マックス!|2006|p=25}}</ref> <ref name="FCmax73">{{Harvnb|マックス!マックス!マックス!|2006|pp=73-74|loc=「マックス怪獣造型の秘密 開米プロダクション」}}</ref> <ref name="超全集">{{Cite book |和書 |chapter=小中和哉×長谷川圭一ウルトラ対談 |title=ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟 超全集 |date=2006-10-10 |page=58 |publisher= [[小学館]] |lable=てれびくんデラックス 愛蔵版 |isbn = 4-09-105110-3}}</ref> <ref name="怪獣列伝206">{{Harvnb|ウルトラ怪獣列伝|2008|pp=206-210|loc=「ペダン星の秘密兵器 宇宙ロボット キングジョー」}}</ref> <ref name="Saito">{{Cite book|和書|title=斎藤和典コレクション ウルトラ・ゴジラ怪獣ソフビ大全|year=2008|publisher=[[講談社]]|ISBN=4-06-214617-7|page=48}}</ref> <ref name="galaxy">{{Cite web|和書|url=http://www.daikaijyu.com/galaxy1/monster/mons_kingjo.html|title=登場怪獣|work=ウルトラギャラクシー大怪獣バトル|publisher=バンダイ|accessdate=2022-10-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170202061410/http://www.daikaijyu.com/galaxy1/monster/mons_kingjo.html|archivedate=2017-02-02}}</ref> <ref name="galaxyneo">{{Cite web|和書|url=http://www.daikaijyu.com/galaxy/monster/kingjhoe.html|title=登場怪獣|work=ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY|publisher=バンダイ|accessdate=2022-10-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161212221341/http://www.daikaijyu.com/galaxy/monster/kingjhoe.html|archivedate=2016-12-12}}</ref> <ref name="C大全62">{{Harvnb|キャラクター大全 ウルトラセブン|2012|pp=62-63|loc=「第14話 - 第15話 ウルトラ警備隊西へ 前篇・後編」}}</ref> <ref name="読本72">{{Harvnb|ウルトラセブン研究読本|2012|pp=72-75|loc=「エピソードガイド第14話・第15話」}}</ref> <ref name="読本209">{{Harvnb|ウルトラセブン研究読本|2012|p=209|loc=「ウルトラセブン 宇宙人・怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="ZONE完全124">{{Harvnb|ウルトラゾーン完全ガイド|2012|p=124|loc=「最後の攻撃命令」}}</ref> <ref name="円谷全怪獣27">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=27}}</ref> <ref name="円谷全怪獣223">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=223}}</ref> <ref name="円谷全怪獣375">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=375}}</ref> <ref name="円谷全怪獣385">{{Harvnb|円谷プロ全怪獣図鑑|2013|p=385}}</ref> <ref name="ギンガS">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/ginga/2014/character/#content10|title=登場キャラクター|website=ウルトラマンギンガS 公式インフォメーション|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-08-16}}</ref> <ref name="ギンガS超全集">{{Harvnb|ギンガS超全集|2015|p=32|loc=「ウルトラマンギンガS怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="X">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/x/character/|title=ヒーロー&怪獣|website=『ウルトラマンX』公式サイト|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2022-10-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190712174417/https://m-78.jp/x/character/|archivedate=2019-07-12}}</ref> <ref name="z_kaiju">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/z/kaiju/|title=宇宙人・怪獣|website=『ウルトラマンZ』公式サイト|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-08-16}}</ref> <ref name="z_robot">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/z/robot/|title=対怪獣ロボット|website=『ウルトラマンZ』公式サイト|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-09-05}}</ref> <ref name="trigger_kaiju">{{Cite web|和書|url=https://m-78.jp/trigger/alien-monster/|title=宇宙人・怪獣|website=ウルトラマントリガー公式サイト|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2021-09-11}}</ref> <ref name="XBD">{{Harvnb|ウルトラマンX BDBOX I|2015|loc=「EPISODE GUIDE 第11話」}}</ref> <ref name="X超全集42">{{Harvnb|X超全集|2016|p=42|loc=「ウルトラマンX怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="GEED超全集">{{Harvnb|ジード超全集|2018|pp=100-101|loc=「オーブからジードへ!! ウルトライベント2017-2018」}}</ref> <ref name="R/B">Blu-ray『[[ウルトラマンR/B]] Blu-ray BOX II』([[バンダイビジュアル]] BCXS-1391)封入 SPECIAL NOTE(構成・執筆:トヨタトモヒサ) 第19話「善人と悪人」</ref> <ref name="R/B超全集46">{{Harvnb|R/B超全集|2019|p=46|loc=「怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="R/B超全集79">{{Harvnb|R/B超全集|2019|p=79|loc=「ウルトラマンR/B監督インタビュー 神谷誠」}}</ref> <ref name="別冊SSSS">{{Cite book|和書|others=構成・取材・執筆 谷崎あきら 取材・執筆:島田康治|title=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊 [[SSSS.GRIDMAN]]|date=2019-02-01|publisher=[[ホビージャパン]]|series=ホビージャパンMOOK|page=57|chapter=アカネの屋敷|isbn=978-4-7986-1859-3}}</ref> <ref name="SSSS超全集">{{Cite book|和書|others=構成:間宮尚彦 執筆:大石真司、吉澤範人|title=[[SSSS.GRIDMAN]][[超全集]]|date=2019-04-23|publisher=[[小学館]]|series=[[てれびくん]]デラックス愛蔵版|page=47|chapter=アカネの怪獣コレクション|isbn=978-4-09-105163-9}}</ref> <ref name="デザインワークス282">{{Harvnb|デザインワークス|2019|p=282|loc=「丸山浩デザイン解説 ウルトラギャラクシー大怪獣バトル&ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」}}</ref> <ref name="Z特写50">{{Harvnb|Z特写|2021|pp=50-61|loc=「特空機3号 キングジョー ストレイジカスタム」}}</ref> <ref name="Z特写87">{{Harvnb|Z特写|2021|p=87|loc=「interview 井野元大輔」}}</ref> <ref name="Z特写92">{{Harvnb|Z特写|2021|p=92|loc=「interview 円谷プロLSS」}}</ref> <ref name="Z完全超全集76">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|pp=76-79|loc=「特空機」}}</ref> <ref name="Z完全超全集96">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=96|loc=「ウルトラマンZ怪獣大図鑑」}}</ref> <ref name="Z完全超全集122">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=122|loc=「ウルトラマンZ監督インタビュー 尾上克郎監督」}}</ref> <ref name="Z完全超全集124">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=124|loc=「ウルトラマンZ監督インタビュー 武居正能監督」}}</ref> <ref name="Z完全超全集163">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=163|loc=「THE ART OF ウルトラマンZ」}}</ref> <ref name="UPM vol.0811">{{Harvnb|UPM vol.08|2020|p=11|loc=「惑星ボリス出現 各惑星からの召喚怪獣」}}</ref> <ref name="UPM vol.0813">{{Harvnb|UPM vol.08|2020|p=13|loc=「惑星ハマー出現 レイオニクスバトル怪獣、レイオニクスバトラー」}}</ref> <ref name="UPM vol.0825">{{Harvnb|UPM vol.08|2020|p=25|loc=「怪獣、宇宙人、宇宙怪獣、ロボット」}}</ref> <ref name="UPM vol.1226">{{Harvnb|UPM vol.12|2020|p=26|loc=「魔王獣、怪獣、惑星侵略連合、宇宙人」}}</ref> <ref name="UPM vol.1531">{{Harvnb|UPM vol.15|2021|p=31|loc=「ウルトラ特別企画vol.15 怪獣とかを作る!! -2-」}}</ref> <ref name="UPM vol.1923">{{Harvnb|UPM vol.19|2021|p=23|loc=「宇宙怪獣、怪獣、侵略宇宙人、怪生物」}}</ref> <ref name="UPM vol.2321">{{Harvnb|UPM vol.23|2021|p=21|loc=「怪獣、宇宙人、宇宙怪獣、怪生物」}}</ref> <ref name="UPM vol.2524">{{Harvnb|UPM vol.25|2021|p=24|loc=「召喚怪獣、変身怪獣、宇宙人」}}</ref> <ref name="UPM vol.3324">{{Harvnb|UPM vol.33|2021|p=24|loc=「スパークドールズ怪獣、アンドロイド、魔神」}}</ref> <ref name="UPM vol.3919">{{Harvnb|UPM vol.39|2022|p=19|loc=「侵略宇宙人、怪獣、宇宙怪獣、ロボット」}}</ref> <ref name="UPM vol.4017">{{Harvnb|UPM vol.40|2022|p=17|loc=「特空機1号~4号」}}</ref> <ref name="UPM vol.4024">{{Harvnb|UPM vol.40|2022|pp=24|loc=「宇宙怪獣、怪獣、宇宙人」}}</ref> <ref name="クロニクル81">{{Harvnb|クロニクル|2022|p=81|loc=「ウルトラセブン登場怪獣ファイル 宇宙人&アンドロイド/ロボット&怪獣」}}</ref> <ref name="クロニクル119">{{Harvnb|クロニクル|2022|p=119|loc=「ウルトラセブン1999最終章6部作 1999年」}}</ref> <ref name="大侵略者図鑑39">{{Harvnb|大侵略者図鑑|2023|pp=39-43|loc=「キングジョー」}}</ref> <ref name="UYB00">{{Harvnb|宇宙船YB|2000|p=21}}</ref> <ref name="UYB06">{{Cite book|和書|date=2006-04-20|title=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]YEAR BOOK 2006|series=ソノラマMOOK|publisher=[[朝日ソノラマ]]|page=26|isbn=4-257-13086-5}}</ref> <ref name="宇宙船YB0825">{{Harvnb|宇宙船YB|2008|p=25}}</ref> <ref name="UYB09">{{Cite journal|和書|date=2009-04-01|title=宇宙船vol.124特別付録 宇宙船 YEARBOOK 2009|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.124|issue=(2009.春号)|publisher=[[ホビージャパン]]|page=別冊p.23|isbn=978-4-89425-854-9}}</ref> <ref name="U152">{{Cite journal|和書|date=2016-04-01|title=ウルトラをつくる男たち 第2回 操演技師 根岸泉|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.152|issue=(SPRING 2016.春)|publisher=[[ホビージャパン]]|pages=78-79|isbn=978-4-7986-1218-8}}</ref> <ref name="U16962">{{Harvnb|宇宙船169|2020|p=62|loc=「ウルトラマンZ」}}</ref> <ref name="U16970">{{Harvnb|宇宙船169|2020|pp=70-71|loc=「[インタビュー][[田口清隆]]」}}</ref> <ref name="U16972">{{Harvnb|宇宙船169|2020|pp=72-77|loc=「DETAIL OF ULTRAMAN キングジョー ストレイジカスタム」}}</ref> <ref name="U170">{{Harvnb|宇宙船170|2020|p=61|loc=「ウルトラマンZ」}}</ref> <ref name="UYB21">{{Harvnb|宇宙船YB2021|2021|p=25|loc=「ウルトラマンZ」}}</ref> <ref name="UYB22">{{Harvnb|宇宙船YB2022|2022|p=24|loc=「ウルトラマントリガー」}}</ref> <ref name="F28644">{{Harvnb|フィギュア王286|2021|pp=44-45|loc=「1/3のウルトラ神話:chapter2「盆と正月には帰ってきます編」」}}</ref> <ref name="小三820160">小学三年生1982年1月号、60頁</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * [[ファンタスティックコレクション]]([[朝日ソノラマ]]) ** {{Cite book|和書|date=1982-12-31|title=不滅のヒーローウルトラマン白書|series=ファンタスティック・コレクション・スペシャル|publisher=朝日ソノラマ|edition=初版|id=雑誌コード:67897-80|ref={{SfnRef|白書|1982}}}} ** {{Cite book|和書|editor=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]編集部|others=[[円谷プロダクション]] 監修|date=2006-10-30|title=[[ウルトラマンマックス]] マックス!マックス!マックス!怪獣大画報|series=ファンタスティックコレクション|publisher=朝日ソノラマ|isbn=978-4-257-03735-4|ref={{SfnRef|マックス!マックス!マックス!|2006}}}} * [[てれびくん]]デラックス愛蔵版([[小学館]]) ** {{Cite book|和書|date=1984-09-10|title=ウルトラ怪獣大全集|publisher=小学館|series=てれびくんデラックス愛蔵版|isbn=4-09-101411-9|ref={{SfnRef|ウルトラ怪獣大全集|1984}}}} ** {{Cite book|和書|title=[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]][[超全集]]|publisher=小学館|series=てれびくんデラックス愛蔵版|date=2009-12-23|isbn=978-4-09-105129-5|ref={{SfnRef|ウルトラ銀河伝説超全集|2009}}}} ** {{Cite book|和書|title=[[ウルトラマンギンガS]]超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date=2015-02-03|publisher=小学館|isbn=978-4-09-105148-6|ref={{SfnRef|ギンガS超全集|2015}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=ウルトラマンX超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date=2016-03-16|publisher=小学館|isbn=978-4-09-105153-0|ref={{SfnRef|X超全集|2016}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=[[ウルトラマンオーブ]]完全超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date=2017-06-06<!--奥付表記-->|publisher=小学館|isbn=978-4-09-105158-5|ref={{SfnRef|オーブ完全超全集|2017}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=[[ウルトラマンジード]]超全集|publisher=小学館|series=てれびくんデラックス愛蔵版|date=2018-03-15<!--奥付表記-->|isbn=978-4-09-105161-5|ref={{SfnRef|ジード超全集|2018}}}} ** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=[[ウルトラマンR/B]]超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date = 2019-03-13<!--奥付表記-->|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-105164-6|ref={{SfnRef|R/B超全集|2019}} }} ** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=[[ウルトラマンZ]]完全超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date=2021-07-06|publisher=小学館|isbn=978-4-09-105171-4|ref={{SfnRef|Z完全超全集|2021}} }}※『ウルトラマンZ完全超全集 ストレイジBOX』所収 * {{Cite book|和書|date=1993-11-08|title=ウルトラセブン ベストブック|publisher=[[竹書房]]|isbn=4-88475-212-0|ref={{SfnRef|ベストブック|1993}}}} * {{Cite book|和書|date=2000-04-20|title=宇宙船YEAR BOOK 2000|series=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher=朝日ソノラマ|id=雑誌コード:01844-04|ref={{SfnRef|宇宙船YB|2000}}}} * {{cite book|和書|date=2001-12-21|others=監修 円谷プロダクション|title=ウルトラマン大辞典|publisher=[[中経出版]]|isbn=4-8061-1556-8|ref={{SfnRef|大辞典|2001}}}} * [[テレビマガジン]]特別編集([[講談社]]) ** {{Cite book|和書|others=監修:円谷プロダクション|date=1994-10-01|title=テレビマガジン特別編集 新・ウルトラマン大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178418-8|ref={{SfnRef|新大全集|1994}}}} ** {{Cite book|和書|title=平成ウルトラビデオ全集|publisher=講談社|series=テレビマガジン特別編集|date=2002-06-25|isbn=978-4-06-178427-7|ref={{SfnRef|平成ウルトラビデオ全集|2002}}}} ** {{Cite book|和書|date=2006-09-26|title=[[ウルトラマンネクサス]]&ウルトラマンマックス|series=テレビマガジン特別編集|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178433-1|ref={{SfnRef|ネクサス&マックス|2006}}}} * 画報シリーズ(竹書房) ** {{Cite book|和書|editor=竹書房/ブレインナビ|title=ウルトラマン画報 <small>光の戦士三十五年の歩み</small>|publisher=竹書房|volume=上巻|date=2002-10-04|isbn=978-4-8124-0888-9|ref={{SfnRef|画報 上巻|2002}}}} ** {{Cite book|和書|editor=竹書房/ブレインナビ|title=ウルトラマン画報 <small>光の戦士三十五年の歩み</small>|publisher=竹書房|volume=下巻|date=2003-05-09|isbn=4-8124-0999-3|ref={{SfnRef|画報 下巻|2003}}}} * {{Cite book|和書|title=ウルトラセブンイズム|publisher=[[辰巳出版]]|series=タツミムック|date=2002-11-15|isbn=4-88641-779-5|ref={{SfnRef|ウルトラセブンイズム|2002}}}} * {{Cite book|和書|date=2006-07-07|title=ウルトラマンマックス|series=パーフェクト・アーカイブ・シリーズ6|publisher=竹書房|isbn=4-8124-2802-5|ref={{SfnRef|PASマックス|2006}}}} * {{Cite book|和書|editor=ブレインナビ|date=2008-08-18|title=ウルトラ怪獣列伝 ウルトラマン・ウルトラセブン編|publisher=[[PHP研究所]]|series=[[PHP文庫]]| isbn=978-4-569-67071-3|ref={{SfnRef|ウルトラ怪獣列伝|2008}}}} * テレビマガジンデラックス(講談社) ** {{Cite book|和書|date = 2009-04-24|title =決定版 ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304599-4|ref = {{SfnRef|NEO超百科|2009}}}} ** {{Cite book|和書|title=決定版 全ウルトラ怪獣完全超百科 ウルトラマンメビウス〜ウルトラマンタイガ編|publisher=講談社|series=[[テレビマガジン]]デラックス|date=2019-07-05<!--奥付-->|isbn=978-4-06-516081-7|ref={{SfnRef|超百科|2019}}}} * {{Cite book|和書|editor=講談社|title=キャラクター大全 ウルトラセブン|publisher=[[講談社]]|date=2012-07-20|isbn=978-4-06-217833-4|ref={{SfnRef|キャラクター大全ウルトラセブン|2012}}}} * {{Cite book|和書|others=監修 [[円谷プロダクション]]|title=[[ウルトラゾーン (テレビ番組)|ウルトラゾーン]]オフィシャル完全ガイド|date=2012-08-11|publisher=[[扶桑社]]|isbn=978-4-594-06640-6|ref={{SfnRef|ウルトラゾーン完全ガイド|2012}}}} * {{Cite book|和書|date=2012-09-26|title=大人のウルトラ怪獣大図鑑|publisher=[[マガジンハウス]]|isbn=978-4-8387-8770-8|ref={{SfnRef|怪獣大図鑑|2012}}}} * {{Cite book|和書|title=別冊[[映画秘宝]]ウルトラセブン研究読本|series=洋泉社MOOK|publisher=[[洋泉社]]|date=2012-11-29|isbn=978-4-8003-0027-0|ref={{SfnRef|ウルトラセブン研究読本|2012}}}} * {{Cite book|和書|author=大石真司|coauthors=江口水基・島崎淳・間宮尚彦|date=2013-03-11|title=円谷プロ全怪獣図鑑|publisher=小学館|isbn=978-4-09-682074-2|ref={{SfnRef|円谷プロ全怪獣図鑑|2013}}}} * {{Cite book|和書|author=成田亨|authorlink=成田亨|date=2014-07-19|title=成田亨作品集|publisher=羽鳥書店|isbn=978-4-904702-46-8|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date = 2015-10-25|title = 大人のウルトラマンシリーズ大図鑑|series = MAGAZINE HOUSE MOOK |publisher = [[マガジンハウス]] |isbn = 978-4-8387-5051-1|ref = {{SfnRef|シリーズ大図鑑|2015}}}} * {{Cite book|和書|date=2019-12-06|title=丸山浩特撮デザインワークス|publisher=洋泉社|isbn=978-4-8003-1684-4|ref={{SfnRef|デザインワークス|2019}}}} * 講談社シリーズMOOK ウルトラ特撮 PERFECT MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2020-10-23|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.08|volume-title=ウルトラマンゼロ/ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520930-1|ref = {{SfnRef|UPM vol.08|2020}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-02-09|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.15|volume-title=ウルトラマンジード|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520937-0|ref = {{SfnRef|UPM vol.15|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-04-08|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.19|volume-title=ウルトラマンX|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520942-4|ref = {{SfnRef|UPM vol.19|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-06-09|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.23|volume-title=ウルトラマンマックス|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520945-5|ref = {{SfnRef|UPM vol.23|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-07-08|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.25|volume-title=ウルトラマンR/B|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520947-9|ref = {{SfnRef|UPM vol.25|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2021-11-09|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.33|volume-title=ウルトラマンギンガ/ウルトラマンギンガS|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520967-7|ref = {{SfnRef|UPM vol.33|2021}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2022-02-12|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.39|volume-title=ウルトラセブン 1994/1998/1999/2002 (平成ウルトラセブン)/ULTRASEVEN X|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-521066-6|ref = {{SfnRef|UPM vol.39|2022}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2022-02-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.40|volume-title=ウルトラマンZ|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-521067-3|ref = {{SfnRef|UPM vol.40|2022}}}} * {{Cite book|和書|date = 2021-03-31|title = Detail of ULTRAMAN ウルトラマンZ特写写真集 UNISON|publisher = ホビージャパン|isbn = 978-4-7986-2450-1|ref = {{SfnRef|Z特写|2021}}}} * {{Cite book|和書|title=全ウルトラマン オール怪獣 スーパー大図鑑 光の巻 増補改訂|date=2022-08-08|publisher=講談社|series=講談社MOOK|isbn=978-4-06-528261-8|ref={{SfnRef|光の巻増補改訂|2022}}}} * {{Cite book|和書|date = 2022-09-21<!--奥付表記-->|title = ウルトラ怪獣・宇宙人150 研究序説|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-528897-9|ref = {{SfnRef|研究序説|2022}}}} * {{Cite book|和書|date = 2022-11-01<!--奥付表記-->|title = ウルトラセブン・クロニクル|publisher = [[双葉社]]|isbn = 978-4-575-45922-7|ref = {{SfnRef|クロニクル|2022}}}} * {{Cite book|和書|date = 2023-03-25<!--奥付表記-->|title = ウルトラセブン大侵略者図鑑 |publisher = [[双葉社]]|isbn = 978-4-575-31780-0|ref = {{SfnRef|大侵略者図鑑|2023}}}} * 雑誌 ** [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]([[ホビージャパン]]) *** {{Cite journal|和書|date = 2008-04-01|title = 宇宙船vol.120特別付録 宇宙船 YEARBOOK 2008|journal = 宇宙船|volume = vol.120 |issue =(2008.春号)|publisher = ホビージャパン|isbn = 978-4-8942-5693-4 |ref={{SfnRef|宇宙船YB|2008}} }}(ページ数は別冊のもの) *** {{Cite journal|和書|date=2020-08-03|journal=宇宙船|volume=vol.169|issue=(SUMMER 2020.夏)|publisher=ホビージャパン|isbn=978-4-7986-2243-9|ref={{SfnRef|宇宙船169|2020}}}} *** {{Cite journal|和書|date = 2020-10-01|journal=宇宙船|volume=vol.170|issue=(AUTUMN 2020.秋)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2324-5|ref={{SfnRef|宇宙船170|2020}}}} *** {{Cite journal|和書|date = 2021-04-01|title=宇宙船vol.172特別付録 宇宙船YEARBOOK 2021|journal = 宇宙船|volume = vol.172 |issue =(SPRING 2021.春)|publisher = ホビージャパン |isbn = 978-4-7986-2470-9|ref={{SfnRef|宇宙船YB2021|2021}}}} *** {{Cite journal|和書|date = 2022-04-01|title=宇宙船vol.176特別付録 宇宙船YEARBOOK 2022|journal = 宇宙船|volume = vol.176 |issue =(SPRING 2022.春)|publisher = ホビージャパン |isbn = 978-4-7986-2796-0|ref={{SfnRef|宇宙船YB2022|2022}}}} ** {{Cite journal|和書|date=2021-12-30<!--奥付表記-->|journal=フィギュア王|volume=No.286|isbn=978-4-8465-3260-4|ref={{SfnRef|フィギュア王286|2021}}}} * 映像ソフト ** {{wikicite|ref={{SfnRef|ウルトラマンX BDBOX I|2015}}|reference=Blu-ray『[[ウルトラマンX]] Blu-ray BOX I』(バンダイビジュアル BCXS-1026)封入 SPECIAL NOTES(構成・執筆:[[ガイガン山崎]]、島崎淳)}}<!--ページ数表記なし--> == 関連項目 == * [[ペダン星人]] * [[ウルトラ怪獣一覧]] * [[ウルトラセブンの登場怪獣]] * [[ウルトラマンマックスの登場怪獣]] {{ウルトラ怪獣}} {{三森すずこ}} {{DEFAULTSORT:きんくしよお}} [[Category:ウルトラ怪獣]] [[Category:ウルトラセブンの登場怪獣]] [[Category:架空のロボット兵器]]
2003-08-20T10:03:16Z
2023-10-14T06:47:04Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:Cite book", "Template:Clear", "Template:Wikicite", "Template:キャラスペック", "Template:Pathnav", "Template:ウルトラ怪獣", "Template:混同", "Template:Infobox character", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Twitter status", "Template:Twitter status2", "Template:Cite web", "Template:三森すずこ", "Template:Sfn", "Template:Cite video", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:Efn", "Template:R", "Template:読み仮名", "Template:Refnest", "Template:出典の明記", "Template:Reflist", "Template:要ページ番号", "Template:Otheruses" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC
13,615
アブラハムの宗教
アブラハムの宗教(アブラハムのしゅうきょう、英語:Abrahamic religions) とは、聖書の預言者アブラハムの神を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教(イスラーム)の三宗教。初期のイスラームはこの概念によって、先行するユダヤ教・キリスト教とイスラームは立場が同じであることを強調した。「セム族の啓示宗教」、あるいは単に「啓示宗教」と称されることがある。 比較宗教学の観点ではインド宗教(Dharmic、Indian religions)、東アジア宗教(Taoic、East Asian religions)と並ぶ三分類の一つに位置付けられる。 神の言葉をまとめたものであるとされる聖典(聖書やクルアーン(コーラン)、そしてタルムード)に重きを置く。バハイ教のような三宗教から派生した宗教を含める場合もある。2006年現在、アブラハムの宗教の信者数は約34億人と推計されている(うちキリスト教約21億人、イスラム教約13億人、ユダヤ教約1500万人)。 『創世記』によると、アブラハムには二人の息子、イシュマエルとイサクがいたという。イシュマエルはアブラハムの妻サラの奴隷ハガルが生んだ子、イサクはアブラハムの妻サラが生んだ子である。ユダヤ人はイサクの息子ヤコブの子孫であるといい、イスラム教のコーランはアラブ人をイシュマエルの子であるとする。『創世記』では、ヤコブのまたの名がイスラエルであることから、ユダヤ人は「イスラエルの民」と呼ばれる。イスラエルの民の神との契約を記した書がタナハであり、キリスト教では旧約聖書と呼ばれる。 キリスト教はアブラハムの子孫であるナザレのイエスを神の子としてメシアである大祭司であり大王と認め、イエス以後の神との契約と歴史を記した新約聖書を旧約聖書とともに正典(啓典)とする。 なおユダヤ教やキリスト教が聖典とする以外にも偽典や外典が存在する。 イスラム教はイエスとモーゼらユダヤの預言者たちを神によって選び出され(召命され)神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、ムハンマドを最後の預言者であるとした。イスラム教は、ムハンマドに下された啓示をまとめたコーラン(クルアーン)がもっとも忠実に神の言葉を伝える啓典であると考えることから『モーセ五書』、『詩篇』、インジール(福音書)を啓典と認めはしても、これに重きを置くことはない。そのためユダヤ教団やキリスト教団と比べアブラハムから遠い。また啓典と認めるといっても、現在キリスト教徒やユダヤ教徒が使っているそのままの形のものを認めているわけではなく、本来有った正しい形のものは失われ、現存しているそれらは書き換えられたものだとしているため、歴史上の参考資料などには利用しても、それらを啓典として用いることはない。また、キリスト教とユダヤ教は少なくとも旧約聖書の部分では世界観を共有しているが、イスラームの世界観はそれらとは独立して存在している。イスラームの預言者伝承では、聖書と共通の人物の話であっても、人物の親族名称や、舞台、活躍した年代などが異なる例が多い。イスラム教による伝統的な呼び方ではユダヤ教およびキリスト教徒を「啓典の民」と呼んだ。その他、マニ教やバハイ教などの宗教もアブラハムの宗教に分類される。アブラハムの宗教はいずれも一神教であり偶像崇拝を禁じている。何が唯一神で何が偶像崇拝であるかということは、それぞれの宗教によって異なる。 「アブラハムの宗教」(アラビア語: ملة إبراهيم)という言葉は、『クルアーン』の中にしばしば登場する(「雌牛」130節ほか)。 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を、起源の係累や類似性から一つの宗教群として標識する試みは独自に幾度も行われている。そのため、これら三宗教は、「砂漠の一神教」、「聖書宗教」、「啓典宗教」など多くの「総称」を持ち、「アブラハムの宗教」もそのひとつである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アブラハムの宗教(アブラハムのしゅうきょう、英語:Abrahamic religions) とは、聖書の預言者アブラハムの神を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教(イスラーム)の三宗教。初期のイスラームはこの概念によって、先行するユダヤ教・キリスト教とイスラームは立場が同じであることを強調した。「セム族の啓示宗教」、あるいは単に「啓示宗教」と称されることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "比較宗教学の観点ではインド宗教(Dharmic、Indian religions)、東アジア宗教(Taoic、East Asian religions)と並ぶ三分類の一つに位置付けられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "神の言葉をまとめたものであるとされる聖典(聖書やクルアーン(コーラン)、そしてタルムード)に重きを置く。バハイ教のような三宗教から派生した宗教を含める場合もある。2006年現在、アブラハムの宗教の信者数は約34億人と推計されている(うちキリスト教約21億人、イスラム教約13億人、ユダヤ教約1500万人)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『創世記』によると、アブラハムには二人の息子、イシュマエルとイサクがいたという。イシュマエルはアブラハムの妻サラの奴隷ハガルが生んだ子、イサクはアブラハムの妻サラが生んだ子である。ユダヤ人はイサクの息子ヤコブの子孫であるといい、イスラム教のコーランはアラブ人をイシュマエルの子であるとする。『創世記』では、ヤコブのまたの名がイスラエルであることから、ユダヤ人は「イスラエルの民」と呼ばれる。イスラエルの民の神との契約を記した書がタナハであり、キリスト教では旧約聖書と呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "キリスト教はアブラハムの子孫であるナザレのイエスを神の子としてメシアである大祭司であり大王と認め、イエス以後の神との契約と歴史を記した新約聖書を旧約聖書とともに正典(啓典)とする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なおユダヤ教やキリスト教が聖典とする以外にも偽典や外典が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イスラム教はイエスとモーゼらユダヤの預言者たちを神によって選び出され(召命され)神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、ムハンマドを最後の預言者であるとした。イスラム教は、ムハンマドに下された啓示をまとめたコーラン(クルアーン)がもっとも忠実に神の言葉を伝える啓典であると考えることから『モーセ五書』、『詩篇』、インジール(福音書)を啓典と認めはしても、これに重きを置くことはない。そのためユダヤ教団やキリスト教団と比べアブラハムから遠い。また啓典と認めるといっても、現在キリスト教徒やユダヤ教徒が使っているそのままの形のものを認めているわけではなく、本来有った正しい形のものは失われ、現存しているそれらは書き換えられたものだとしているため、歴史上の参考資料などには利用しても、それらを啓典として用いることはない。また、キリスト教とユダヤ教は少なくとも旧約聖書の部分では世界観を共有しているが、イスラームの世界観はそれらとは独立して存在している。イスラームの預言者伝承では、聖書と共通の人物の話であっても、人物の親族名称や、舞台、活躍した年代などが異なる例が多い。イスラム教による伝統的な呼び方ではユダヤ教およびキリスト教徒を「啓典の民」と呼んだ。その他、マニ教やバハイ教などの宗教もアブラハムの宗教に分類される。アブラハムの宗教はいずれも一神教であり偶像崇拝を禁じている。何が唯一神で何が偶像崇拝であるかということは、それぞれの宗教によって異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「アブラハムの宗教」(アラビア語: ملة إبراهيم)という言葉は、『クルアーン』の中にしばしば登場する(「雌牛」130節ほか)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を、起源の係累や類似性から一つの宗教群として標識する試みは独自に幾度も行われている。そのため、これら三宗教は、「砂漠の一神教」、「聖書宗教」、「啓典宗教」など多くの「総称」を持ち、「アブラハムの宗教」もそのひとつである。", "title": "別称" } ]
アブラハムの宗教 とは、聖書の預言者アブラハムの神を受け継ぐと称するユダヤ教、キリスト教、イスラム教(イスラーム)の三宗教。初期のイスラームはこの概念によって、先行するユダヤ教・キリスト教とイスラームは立場が同じであることを強調した。「セム族の啓示宗教」、あるいは単に「啓示宗教」と称されることがある。 比較宗教学の観点ではインド宗教、東アジア宗教と並ぶ三分類の一つに位置付けられる。
[[File:ReligionSymbolAbr.PNG|thumb|right|200px|アブラハムの宗教のシンボルマーク]] '''アブラハムの宗教'''(アブラハムのしゅうきょう、[[英語]]:Abrahamic religions) とは、[[聖書]]の[[預言者]][[アブラハム]]の神を受け継ぐと称する'''[[ユダヤ教]]'''、'''[[キリスト教]]'''、'''[[イスラム教]]([[イスラーム]])'''の三[[宗教]]。初期のイスラームはこの概念によって、先行するユダヤ教・キリスト教とイスラームは立場が同じであることを強調した。「[[セム族 (民族集団)|セム族]]の啓示宗教」、あるいは単に「'''啓示宗教'''」と称されることがある。 [[比較宗教学]]の観点では[[インド発祥の宗教|インド宗教]](Dharmic、[[:en:Indian religions|Indian religions]])、[[東アジアの宗教|東アジア宗教]](Taoic、[[:en:East Asian religions|East Asian religions]])と並ぶ三分類の一つに位置付けられる。 == 概要 == 神の言葉をまとめたものであるとされる[[聖典]](聖書や[[クルアーン]](コーラン)、そして[[タルムード]])に重きを置く。[[バハイ教]]のような三宗教から派生した宗教を含める場合もある。2006年現在、アブラハムの宗教の信者数は約34億人と推計されている(うちキリスト教約21億人、イスラム教約13億人、ユダヤ教約1500万人)<ref>Preston Hunter, [http://www.adherents.com/Religions_By_Adherents.html ''Major Religions of the World Ranked by Number of Adherents'']</ref>。 [[File:Abraham Dharma.png|thumb|right|300px|アブラハムの宗教の分布(パープル)と東方諸宗教(黄色)]] 『[[創世記]]』によると、アブラハムには二人の息子、[[イシュマエル]]と[[イサク]]がいたという。イシュマエルはアブラハムの妻[[サラ]]の奴隷[[ハガル]]が生んだ子、イサクはアブラハムの妻サラが生んだ子である。[[ユダヤ人]]はイサクの息子[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]の子孫であるといい、イスラム教のコーランは[[アラブ人]]をイシュマエルの子であるとする。『創世記』では、ヤコブのまたの名がイスラエルであることから、ユダヤ人は「[[イスラエル (民族)|イスラエルの民]]」と呼ばれる。イスラエルの民の神との契約を記した書が[[タナハ]]であり、キリスト教では[[旧約聖書]]と呼ばれる。 キリスト教はアブラハムの子孫である[[イエス・キリスト|ナザレのイエス]]を神の子として[[メシア]]である大祭司であり大王と認め、イエス以後の神との契約と歴史を記した[[新約聖書]]を旧約聖書とともに[[正典]](啓典)とする。 なおユダヤ教やキリスト教が聖典とする以外にも[[偽典]]や[[外典]]が存在する。 イスラム教はイエスとモーゼらユダヤの[[預言者]]たちを神によって選び出され(召命され)神の言葉を伝える使命を帯びた者であると認め、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]を最後の預言者であるとした。イスラム教は、ムハンマドに下された啓示をまとめたコーラン([[クルアーン]])がもっとも忠実に神の言葉を伝える啓典であると考えることから『モーセ五書』、『[[詩篇]]』、[[インジール]]([[福音書]])を啓典と認めはしても、これに重きを置くことはない。そのためユダヤ教団やキリスト教団と比べ[[アブラハム]]から遠い。また啓典と認めるといっても、現在キリスト教徒やユダヤ教徒が使っているそのままの形のものを認めているわけではなく、本来有った正しい形のものは失われ、現存しているそれらは書き換えられたものだとしているため、歴史上の参考資料などには利用しても、それらを啓典として用いることはない。また、キリスト教とユダヤ教は少なくとも旧約聖書の部分では世界観を共有しているが、イスラームの世界観はそれらとは独立して存在している。イスラームの預言者伝承では、聖書と共通の人物の話であっても、人物の親族名称や、舞台、活躍した年代などが異なる例が多い。イスラム教による伝統的な呼び方ではユダヤ教およびキリスト教徒を「[[啓典の民]]」と呼んだ。その他、[[マニ教]]や[[バハイ教]]などの宗教もアブラハムの宗教に分類される。アブラハムの宗教はいずれも[[一神教]]であり[[偶像崇拝]]を禁じている。何が唯一神で何が偶像崇拝であるかということは、それぞれの宗教によって異なる。 「アブラハムの宗教」({{lang-ar|ملة إبراهيم}})という言葉は、『[[クルアーン]]』の中にしばしば登場する(「[[雌牛 (クルアーン)|雌牛]]」130節ほか)。 == 別称 == ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を、起源の係累や類似性から一つの宗教群として標識する試みは独自に幾度も行われている。そのため、これら三宗教は、「砂漠の[[一神教]]」、「聖書宗教」、「啓典宗教」など多くの「総称」を持ち、「アブラハムの宗教」もそのひとつである。 == アブラハムの宗教の一覧 == *[[ユダヤ教]] *[[キリスト教]] *[[モルモン教]] *[[イスラム教]] *[[バーブ教]] *[[バハイ教]] *[[マニ教]] - [[ローマ帝国]]に広まった西方キリスト教を批判し、自らを独立した宗教ではなく正統なキリスト教であると自称した。現在は中国に存在する一つの寺院を残して消滅。 *[[アフマディーヤ]] *[[アラウィー派]] *[[ドゥルーズ派]] == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 藤本勝次『マホメット』中央公論新社&lt;中公新書&gt;、1971年6月。ISBN 4-12-100254-7 == 関連項目 == * [[啓典の民]] * [[創造神話]] * [[宗教]] * [[天使]] * [[宗教一覧]] * [[唯一神教]] * [[ユダヤ教]] * [[キリスト教]] * [[イスラム教]] * [[キリスト教とイスラム教]] * [[ヴェーダの宗教]]…[[インド発祥の宗教]]に端を発する教えを指すものであり、現代では[[ヒンドゥー教]]・[[仏教]]などアブラハムの宗教では無い宗教として人口比で世界的に重要な地位にある。 {{Judaism-stub}} {{Christ-stub}} {{Islam-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あふらはむのしゆうきよう}} [[Category:アブラハムの宗教|*]] [[Category:アブラハム|*]] [[Category:比較宗教学]] [[Category:ユダヤ教用語]] [[Category:キリスト教用語]] [[Category:イスラーム用語]]
null
2023-04-20T06:13:29Z
false
false
false
[ "Template:Lang-ar", "Template:Reflist", "Template:Judaism-stub", "Template:Christ-stub", "Template:Islam-stub", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99
13,617
UNIVAC I
UNIVAC I (UNIVersal Automatic Computer I、ユニバック・ワン、万能自動計算機の略)は米国で作られたビジネスアプリケーション向けとして世界初の汎用電子デジタルコンピュータ。ENIACの発明者であるジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが中心となって設計した。彼らが設立したエッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション(EMCC)で開発が開始された。資金不足に陥り、IBMに資金援助を断られ、1950年にレミントンランドが買収して販売にこぎつけた。このマシンは後継機が出るまで単にUNIVACと呼ばれた。 1号機は1951年3月31日に米国国勢調査局が契約し、その年の6月14日に納品された。米国原子力委員会用に製作した5号機は1952年の大統領選挙で結果を予測するためにCBSが使用した。わずか1%のサンプル調査でアイゼンハワーの逆転勝利を的中させたことで有名。 ENIACと比較して真空管の本数は3分の1以下の5200本。メモリには100本の水銀遅延管を使用し、10000本のダイオードを搭載していた。重量7.5トン。入出力装置には初めて磁気テープが搭載された。プログラム内蔵方式で、1秒間に10万回の加算が可能だった。 当時、コンピュータといえばUNIVACと言われるほど普及した。この機械は更にUNIVAC IIとして進化した。UNIVAC IIではメインメモリ(2000ワード)や磁気テープ外部記憶装置のバッファメモリ(60ワード)が磁気コアメモリとなり、磁気テープの記録密度は250ppi(pulse per inch)の倍密度だった。内部レジスタは超音波を結晶中で反射させその遅延時間を利用していた。1ワードは7ビットの12桁で、通常の機械命令語はその半分の6文字で構成していた。日本でも東京電力が第29号機を輸入し昭和36年~昭和43年まで、主に従量電灯計算など大量データ処理に使用された。 現在、スミソニアン博物館に第一号機が展示されている。またミュンヘンのドイッチェ博物館にも本体が展示されている。 UNIVAC Iは比較的単純な計算とデータ処理を高速に実行するビジネス用途を目的として設計したものとしては米国初のコンピュータで、これまでの科学技術用の複雑な計算を行うコンピュータとは対照的だった。この分野はパンチカード集計機の市場であり、UNIVACはこれと競合する商品であったが、当初UNIVACにはパンチカードの入出力機能がなかった。カードに保存された大量のデータを手作業で入力しなければならず、作業コストの懸念から売り上げは伸びなかった。カードを読んで磁気テープに出力する装置と、磁気テープからカードに出力する装置の2つのコンバータをUNIVACが別途発売したことでこの問題は修正された。しかしながらUNIVAC Iの当初の売り上げはレミントンランドの希望よりも低かった。 宣伝のためCBSと提携してUNIVAC Iに1952年大統領選挙の結果を予想させた。事前の世論調査ではアドレー・スティーブンソンが有利とされていたが、UNIVAC Iはアイゼンハワーの逆転勝利を予想した。CBSのスタッフはUNIVACが間違っていると確信しており、UNIVACは使い物にならないと考えていた。開票作業が進むとUNIVACの予想が正しかったことが明らかになり、アナウンサーがUNIVACの能力を評価したことでマシンは有名になった。これによりコンピュータに対する国民の評価が変わり、以降コンピュータによる選挙予想は選挙結果を伝える夜の報道に欠かせないものとなった。 当初は国勢調査局、米空軍、米陸軍地図サービスなどの政府機関が顧客だった。エーシーニールセンやプルデンシャル・ファイナンシャルとも契約した。エッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーションがレミントンランドに買収されると、元の販売価格では安すぎて赤字になることが明らかになり、ニールセンとプレデンシャルにキャンセルを頼まなければならなくなった。 国勢調査局に販売した初号機は1951年3月31日にフィラデルフィアの3747リッジアベニューにあるエッカートモークリー部門の工場で落成式を公式に開催した。マシンは非常に繊細で壊れやすく、解体・輸送・再組み立ての困難が懸念されたことから、デモのためだけに暫定版を組み立てた物であり、完成版であるべき製品は実際には翌年の12月までインストールされなかった。この結果1952年6月に国防総省に納入された2号機の方が最初にインストールされることになった。 UNIVACのインストール 1951-1954年 UNIVAC Iの販売価格は当初15万9000ドルで、2~3台目が25万ドル。125万ドルから150万ドルになるまで値上げされた。最終的に46台が製造されて納品された。 UNIVAC Iは大学にはかなり高額で、IBMのような企業は大学にマシンを寄贈していたが、スペリー・ランドにはマシンを寄贈する経済的な余裕がなかった。それでもスペリー・ランドはUNIVAC Iシステムを1956年にハーバード大学へ、1957年にペンシルベニア大学へ、1957年にオハイオ州クリーブランドのケース産業大学に寄贈した。ケース産業大学のUNIVAC Iは1965年もまだ現役で稼働していたが、UNIVAC 1107に交換された。 技術の進歩により時代遅れになった後も一部のUNIVAC Iは長い間使われた。国勢調査局は1963年までに2台を所有しており、1台目は12年間、2台目は9年間稼働した。スペリー・ランド自身も1968年までにニューヨーク州バッファローに2台を所有していた。保険会社のライフ&カジュアルティ・オブ・テネシーは1970年まで13年以上使用した。 UNIVAC Iは約5,000本の真空管を搭載し、重量は16,686ポンド(7.5トン)、消費電力125kWで、2.25MHzのクロックで動作し1秒あたり約1,905個の命令を実行できた。プロセッサとメモリユニットを搭載したセントラルコンプレックスの部分だけで4.3m x 2.4m x 2.6mの大きさがあった。システム全体では35.5m2(382 ft2)の設置面積を必要とした。 メインメモリは12文字の1000ワード。数字は11桁の10進数で、これに正負の記号がついた。10ワードの水銀遅延メモリを100チャンネル組み合わせて1000ワードを実現していた。入出力バッファはそれぞれ60ワードで、10ワードの水銀遅延メモリを12チャンネル組み合わせていた。スペアとして10ワードの水銀遅延メモリが10チャンネルあった。アップグレード版ではさらに追加された7チャンネルで7本の水銀タンクの温度を制御し、さらにもう1チャンネルが10ワードのYレジスタとして用いられた。合計で126チャンネルの水銀遅延メモリがあり、7つの水銀タンクがMT、MV、MX、NT、NV、NX、GVの背面に装備された。各水銀タンクは18本の水銀チャンネルに接続された。 10ワードの水銀遅延ラインチャンネルは次の3つのセクションで構成される。 命令セットは6桁の英数字で、1ワードに2つの命令が含まれる。加算は525 μs、乗算は2150μsで処理される。オーバードライブと呼ばれる非公式の改造により条件付きながら4桁の命令を1ワードに3つ詰め込むことが可能だった(後述するIngermanのUNIVACシミュレータもこの改造に対応している)。 数字は内部的にXS3(3増し符号)によるBCD2進化10進数で、1桁は6ビットあり、英数字コードの数字がそのまま使用され、エラーチェック用に1ビットのパリティビットがあり、11桁の符号付き整数を扱えた。1~2個の例外的な命令を除いてマシン語には2進数を用いず、文字のバイナリは2進数表現であったものの、プログラマとしてはUNIVACは10進数機だった。数値演算中に数字以外の文字がデータ中に現れた場合、マシンはその文字をそのままスルーして出力し、キャリーフラグの値はその時点でリセットされて失われた。なおUNIVAC Iの加減算回路は、無視記号を-3、スペース( )を-2、マイナス記号(-)を-1、アポストロフィ(')を10、アンパサンド(&)を11、左括弧(()を12の数値として扱うことがあった。 オペレータ・コンソールの他には、最大10台のUNISERVOテープドライブ、レミントンランドの電子タイプライター、テクトロニクスのオシロスコープだけがUNIVAC Iに接続できた。UNISERVOは市販品としては世界初のコンピュータ用テープドライブだった。1インチに128ビットのデータ密度で(実測転送速度は秒間7200文字)、磁性メッキ加工を施したリン青銅テープだった。UNISERVOはまたUNITYPERが出力した1インチ20ビットのテープを読み書きすることもできた。UNITYPERはタイプライターからテープに出力する独立した装置で、プログラミングや簡単なデータ編集に用いられた。UNIVACはテープの正方向と逆方向の読み書きが可能で、CPUの命令と完全に対応しており、ソートやマージなどのデータ処理を非常に高速に行えた。パンチカードからテープに変換する独立した装置で作ったテープからデータを大量に入力し、結果を別のテープへ出力し、別の独立した装置でテープのデータをプリンタに印刷した。オペレータコンソールには10進コードのスイッチが3列あり、搭載された1000ワードのメモリから好きなデータを選んでオシロスコープに表示できた。水銀遅延メモリはデータを2進数の列で記憶しており、かなりの忍耐力は求められるが、プログラマやオペレータは好きなメモリの値をスコープに継続して表示させることができ、その内容を読み取ることが可能だった。コンピュータに接続したタイプライターにより、プログラムのブレークポイントの設定、チェックポイントの設定、メモリダンプの設定などに通常は使われた。 UNIVAC Iには通常は複数の周辺機器を併用した。一般的には、磁気テープを読んで連続用紙に印刷するプリンター、パンチカードを読んでイメージデータを磁気テープに書き込むカード・テープコンバータ、磁気テープを読んでパンチカードの束を生成するテープ・カードコンバータなどが使われた。UNIVACにはオペレーティングシステムは付属していなかった。オペレータがUNISERVOにテープをセットするとプロセッサの回路が自動的にこれをロードした。入力データと出力データのテープを適当に設定してプログラムを実行した。出力されたデータは外部のプリンタに渡される。または次のデータ処理の入力として使われる一時データとなり、カード・テープコンバータが出力した別のデータに従って更新される。水銀遅延メモリは、水銀の温度によって音速にばらつきが生じるため、水銀タンクの温度が非常に厳密に管理されていた。停電が発生すると温度が安定するまで数時間かかることがあった。 エッカートとモークリーはデジタル論理回路の信頼性について確信を持っておらず、当時は得られる情報も限られていた。UNIVAC Iは計算回路を並列で接続して結果を比較する設計だった。実際には設計した回路の信頼性は高く、故障した部分だけがエラーを生じた。真空管の信頼性を管理するために対策が講じられていた。主力の真空管である25L6は機械に組み付ける前に大量に熱を加えて慎重にテストした。製造された真空管の半分が破棄されることはよくあることだった。技術者はテストに合格した加熱済みの真空管を、メモリ再循環アンプなど、故障を簡単に確認できる場所に設置した。ある程度の使用に耐えた成熟したゴールデン真空管を確保しておき、故障の確認が困難な場所で用いられた。突入電流や熱による真空管へのストレスを低減するため、全ての真空管のフィラメントに電力が行き渡るまで、約30分かけてコンピュータを起動した。これにより数日から数週間の連続稼働時間(MTBF)を達成した。UNISERVOにはリールからキャプスタンまでの間にテープの張力を保つのに真空カラムではなくバネと糸を用いていた。これらはよくあるエラーの原因だった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "UNIVAC I (UNIVersal Automatic Computer I、ユニバック・ワン、万能自動計算機の略)は米国で作られたビジネスアプリケーション向けとして世界初の汎用電子デジタルコンピュータ。ENIACの発明者であるジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが中心となって設計した。彼らが設立したエッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション(EMCC)で開発が開始された。資金不足に陥り、IBMに資金援助を断られ、1950年にレミントンランドが買収して販売にこぎつけた。このマシンは後継機が出るまで単にUNIVACと呼ばれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1号機は1951年3月31日に米国国勢調査局が契約し、その年の6月14日に納品された。米国原子力委員会用に製作した5号機は1952年の大統領選挙で結果を予測するためにCBSが使用した。わずか1%のサンプル調査でアイゼンハワーの逆転勝利を的中させたことで有名。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ENIACと比較して真空管の本数は3分の1以下の5200本。メモリには100本の水銀遅延管を使用し、10000本のダイオードを搭載していた。重量7.5トン。入出力装置には初めて磁気テープが搭載された。プログラム内蔵方式で、1秒間に10万回の加算が可能だった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当時、コンピュータといえばUNIVACと言われるほど普及した。この機械は更にUNIVAC IIとして進化した。UNIVAC IIではメインメモリ(2000ワード)や磁気テープ外部記憶装置のバッファメモリ(60ワード)が磁気コアメモリとなり、磁気テープの記録密度は250ppi(pulse per inch)の倍密度だった。内部レジスタは超音波を結晶中で反射させその遅延時間を利用していた。1ワードは7ビットの12桁で、通常の機械命令語はその半分の6文字で構成していた。日本でも東京電力が第29号機を輸入し昭和36年~昭和43年まで、主に従量電灯計算など大量データ処理に使用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在、スミソニアン博物館に第一号機が展示されている。またミュンヘンのドイッチェ博物館にも本体が展示されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "UNIVAC Iは比較的単純な計算とデータ処理を高速に実行するビジネス用途を目的として設計したものとしては米国初のコンピュータで、これまでの科学技術用の複雑な計算を行うコンピュータとは対照的だった。この分野はパンチカード集計機の市場であり、UNIVACはこれと競合する商品であったが、当初UNIVACにはパンチカードの入出力機能がなかった。カードに保存された大量のデータを手作業で入力しなければならず、作業コストの懸念から売り上げは伸びなかった。カードを読んで磁気テープに出力する装置と、磁気テープからカードに出力する装置の2つのコンバータをUNIVACが別途発売したことでこの問題は修正された。しかしながらUNIVAC Iの当初の売り上げはレミントンランドの希望よりも低かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "宣伝のためCBSと提携してUNIVAC Iに1952年大統領選挙の結果を予想させた。事前の世論調査ではアドレー・スティーブンソンが有利とされていたが、UNIVAC Iはアイゼンハワーの逆転勝利を予想した。CBSのスタッフはUNIVACが間違っていると確信しており、UNIVACは使い物にならないと考えていた。開票作業が進むとUNIVACの予想が正しかったことが明らかになり、アナウンサーがUNIVACの能力を評価したことでマシンは有名になった。これによりコンピュータに対する国民の評価が変わり、以降コンピュータによる選挙予想は選挙結果を伝える夜の報道に欠かせないものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初は国勢調査局、米空軍、米陸軍地図サービスなどの政府機関が顧客だった。エーシーニールセンやプルデンシャル・ファイナンシャルとも契約した。エッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーションがレミントンランドに買収されると、元の販売価格では安すぎて赤字になることが明らかになり、ニールセンとプレデンシャルにキャンセルを頼まなければならなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国勢調査局に販売した初号機は1951年3月31日にフィラデルフィアの3747リッジアベニューにあるエッカートモークリー部門の工場で落成式を公式に開催した。マシンは非常に繊細で壊れやすく、解体・輸送・再組み立ての困難が懸念されたことから、デモのためだけに暫定版を組み立てた物であり、完成版であるべき製品は実際には翌年の12月までインストールされなかった。この結果1952年6月に国防総省に納入された2号機の方が最初にインストールされることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "UNIVACのインストール 1951-1954年", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "UNIVAC Iの販売価格は当初15万9000ドルで、2~3台目が25万ドル。125万ドルから150万ドルになるまで値上げされた。最終的に46台が製造されて納品された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "UNIVAC Iは大学にはかなり高額で、IBMのような企業は大学にマシンを寄贈していたが、スペリー・ランドにはマシンを寄贈する経済的な余裕がなかった。それでもスペリー・ランドはUNIVAC Iシステムを1956年にハーバード大学へ、1957年にペンシルベニア大学へ、1957年にオハイオ州クリーブランドのケース産業大学に寄贈した。ケース産業大学のUNIVAC Iは1965年もまだ現役で稼働していたが、UNIVAC 1107に交換された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "技術の進歩により時代遅れになった後も一部のUNIVAC Iは長い間使われた。国勢調査局は1963年までに2台を所有しており、1台目は12年間、2台目は9年間稼働した。スペリー・ランド自身も1968年までにニューヨーク州バッファローに2台を所有していた。保険会社のライフ&カジュアルティ・オブ・テネシーは1970年まで13年以上使用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "UNIVAC Iは約5,000本の真空管を搭載し、重量は16,686ポンド(7.5トン)、消費電力125kWで、2.25MHzのクロックで動作し1秒あたり約1,905個の命令を実行できた。プロセッサとメモリユニットを搭載したセントラルコンプレックスの部分だけで4.3m x 2.4m x 2.6mの大きさがあった。システム全体では35.5m2(382 ft2)の設置面積を必要とした。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "メインメモリは12文字の1000ワード。数字は11桁の10進数で、これに正負の記号がついた。10ワードの水銀遅延メモリを100チャンネル組み合わせて1000ワードを実現していた。入出力バッファはそれぞれ60ワードで、10ワードの水銀遅延メモリを12チャンネル組み合わせていた。スペアとして10ワードの水銀遅延メモリが10チャンネルあった。アップグレード版ではさらに追加された7チャンネルで7本の水銀タンクの温度を制御し、さらにもう1チャンネルが10ワードのYレジスタとして用いられた。合計で126チャンネルの水銀遅延メモリがあり、7つの水銀タンクがMT、MV、MX、NT、NV、NX、GVの背面に装備された。各水銀タンクは18本の水銀チャンネルに接続された。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "10ワードの水銀遅延ラインチャンネルは次の3つのセクションで構成される。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "命令セットは6桁の英数字で、1ワードに2つの命令が含まれる。加算は525 μs、乗算は2150μsで処理される。オーバードライブと呼ばれる非公式の改造により条件付きながら4桁の命令を1ワードに3つ詰め込むことが可能だった(後述するIngermanのUNIVACシミュレータもこの改造に対応している)。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "数字は内部的にXS3(3増し符号)によるBCD2進化10進数で、1桁は6ビットあり、英数字コードの数字がそのまま使用され、エラーチェック用に1ビットのパリティビットがあり、11桁の符号付き整数を扱えた。1~2個の例外的な命令を除いてマシン語には2進数を用いず、文字のバイナリは2進数表現であったものの、プログラマとしてはUNIVACは10進数機だった。数値演算中に数字以外の文字がデータ中に現れた場合、マシンはその文字をそのままスルーして出力し、キャリーフラグの値はその時点でリセットされて失われた。なおUNIVAC Iの加減算回路は、無視記号を-3、スペース( )を-2、マイナス記号(-)を-1、アポストロフィ(')を10、アンパサンド(&)を11、左括弧(()を12の数値として扱うことがあった。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "オペレータ・コンソールの他には、最大10台のUNISERVOテープドライブ、レミントンランドの電子タイプライター、テクトロニクスのオシロスコープだけがUNIVAC Iに接続できた。UNISERVOは市販品としては世界初のコンピュータ用テープドライブだった。1インチに128ビットのデータ密度で(実測転送速度は秒間7200文字)、磁性メッキ加工を施したリン青銅テープだった。UNISERVOはまたUNITYPERが出力した1インチ20ビットのテープを読み書きすることもできた。UNITYPERはタイプライターからテープに出力する独立した装置で、プログラミングや簡単なデータ編集に用いられた。UNIVACはテープの正方向と逆方向の読み書きが可能で、CPUの命令と完全に対応しており、ソートやマージなどのデータ処理を非常に高速に行えた。パンチカードからテープに変換する独立した装置で作ったテープからデータを大量に入力し、結果を別のテープへ出力し、別の独立した装置でテープのデータをプリンタに印刷した。オペレータコンソールには10進コードのスイッチが3列あり、搭載された1000ワードのメモリから好きなデータを選んでオシロスコープに表示できた。水銀遅延メモリはデータを2進数の列で記憶しており、かなりの忍耐力は求められるが、プログラマやオペレータは好きなメモリの値をスコープに継続して表示させることができ、その内容を読み取ることが可能だった。コンピュータに接続したタイプライターにより、プログラムのブレークポイントの設定、チェックポイントの設定、メモリダンプの設定などに通常は使われた。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "UNIVAC Iには通常は複数の周辺機器を併用した。一般的には、磁気テープを読んで連続用紙に印刷するプリンター、パンチカードを読んでイメージデータを磁気テープに書き込むカード・テープコンバータ、磁気テープを読んでパンチカードの束を生成するテープ・カードコンバータなどが使われた。UNIVACにはオペレーティングシステムは付属していなかった。オペレータがUNISERVOにテープをセットするとプロセッサの回路が自動的にこれをロードした。入力データと出力データのテープを適当に設定してプログラムを実行した。出力されたデータは外部のプリンタに渡される。または次のデータ処理の入力として使われる一時データとなり、カード・テープコンバータが出力した別のデータに従って更新される。水銀遅延メモリは、水銀の温度によって音速にばらつきが生じるため、水銀タンクの温度が非常に厳密に管理されていた。停電が発生すると温度が安定するまで数時間かかることがあった。", "title": "技術詳細" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エッカートとモークリーはデジタル論理回路の信頼性について確信を持っておらず、当時は得られる情報も限られていた。UNIVAC Iは計算回路を並列で接続して結果を比較する設計だった。実際には設計した回路の信頼性は高く、故障した部分だけがエラーを生じた。真空管の信頼性を管理するために対策が講じられていた。主力の真空管である25L6は機械に組み付ける前に大量に熱を加えて慎重にテストした。製造された真空管の半分が破棄されることはよくあることだった。技術者はテストに合格した加熱済みの真空管を、メモリ再循環アンプなど、故障を簡単に確認できる場所に設置した。ある程度の使用に耐えた成熟したゴールデン真空管を確保しておき、故障の確認が困難な場所で用いられた。突入電流や熱による真空管へのストレスを低減するため、全ての真空管のフィラメントに電力が行き渡るまで、約30分かけてコンピュータを起動した。これにより数日から数週間の連続稼働時間(MTBF)を達成した。UNISERVOにはリールからキャプスタンまでの間にテープの張力を保つのに真空カラムではなくバネと糸を用いていた。これらはよくあるエラーの原因だった。", "title": "技術詳細" } ]
UNIVAC Iは米国で作られたビジネスアプリケーション向けとして世界初の汎用電子デジタルコンピュータ。ENIACの発明者であるジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーが中心となって設計した。彼らが設立したエッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション(EMCC)で開発が開始された。資金不足に陥り、IBMに資金援助を断られ、1950年にレミントンランドが買収して販売にこぎつけた。このマシンは後継機が出るまで単にUNIVACと呼ばれた。 1号機は1951年3月31日に米国国勢調査局が契約し、その年の6月14日に納品された。米国原子力委員会用に製作した5号機は1952年の大統領選挙で結果を予測するためにCBSが使用した。わずか1%のサンプル調査でアイゼンハワーの逆転勝利を的中させたことで有名。 ENIACと比較して真空管の本数は3分の1以下の5200本。メモリには100本の水銀遅延管を使用し、10000本のダイオードを搭載していた。重量7.5トン。入出力装置には初めて磁気テープが搭載された。プログラム内蔵方式で、1秒間に10万回の加算が可能だった。 当時、コンピュータといえばUNIVACと言われるほど普及した。この機械は更にUNIVAC IIとして進化した。UNIVAC IIではメインメモリ(2000ワード)や磁気テープ外部記憶装置のバッファメモリ(60ワード)が磁気コアメモリとなり、磁気テープの記録密度は250ppiの倍密度だった。内部レジスタは超音波を結晶中で反射させその遅延時間を利用していた。1ワードは7ビットの12桁で、通常の機械命令語はその半分の6文字で構成していた。日本でも東京電力が第29号機を輸入し昭和36年~昭和43年まで、主に従量電灯計算など大量データ処理に使用された。 現在、スミソニアン博物館に第一号機が展示されている。またミュンヘンのドイッチェ博物館にも本体が展示されている。
[[ファイル:Museum_of_Science,_Boston,_MA_-_IMG_3163.JPG|サムネイル| UNIVAC Iオペレーターコンソール]] [[ファイル:UNIVAC-I-BRL61-0977.jpg|サムネイル| フランクリン生命保険会社のUNIVAC I]] '''UNIVAC I''' ('''UNIVersal Automatic Computer I'''、ユニバック・ワン、万能自動計算機の略)は[[アメリカ合衆国|米国]]で作られたビジネスアプリケーション向けとして世界初の汎用電子デジタル[[コンピュータ]]{{Efn|世界初の商用コンピュータはエッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーションが製造した[[BINAC]]であり、1949年に航空機メーカーのノースロップへ納品された。}}。[[ENIAC]]の発明者である[[ジョン・プレスパー・エッカート]]と[[ジョン・モークリー]]が中心となって設計した。彼らが設立した[[エッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーション]](EMCC)で開発が開始された。資金不足に陥り、[[IBM]]に資金援助を断られ、1950年に[[レミントンランド]]{{Efn|後に[[スペリー|スペリー・ランド]]が買収。現在は[[ユニシス]]となっている。}}が買収して販売にこぎつけた。このマシンは後継機が出るまで単に'''UNIVAC'''と呼ばれた<ref name=":1">Johnson, L.R., "Coming to grips with Univac," IEEE計算機の歴史の年代史, vol.28, no.2, 32,42ページ, 2006年4~6月. doi: 10.1109/MAHC.2006.27</ref>。 1号機は1951年3月31日に[[アメリカ合衆国国勢調査局|米国国勢調査局]]が契約し、その年の6月14日に納品された<ref>[https://edition.cnn.com/2001/TECH/industry/06/14/computing.anniversary/ Reference: CNN's feature on the 50th anniversary of the UNIVAC].</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=-f7NIGeIU2EC&lpg=PP1&dq=Computers%20and%20Commerce:%20A%20Study%20of%20Technology%20and%20Management%20at%20Eckert-Mauchly%20Computer%20Company&pg=PA190#v=onepage&q=univac%201951&f=false|title=Computers and Commerce: A Study of Technology and Management at Eckert-Mauchly Computer Company, Engineering Research Associates, and Remington Rand, 1946-1957|last=Norberg|first=Arthur Lawrence|date=2005|publisher=MIT Press|isbn=9780262140904|location=|pages=190, 217|language=en}}</ref>。[[アメリカ原子力委員会|米国原子力委員会]]用に製作した5号機は[[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|1952年の大統領選挙]]で結果を予測するために[[CBS]]が使用した。わずか1%のサンプル調査で[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]の逆転勝利を的中させたことで有名<ref name="Lukoff_1979">{{Cite book|last=Lukoff|first=Herman|author-link=Herman Lukoff|title=From Dits to Bits: A personal history of the electronic computer|date=1979|publisher=Robotics Press|location=Portland, Oregon, USA|isbn=0-89661-002-0|lccn=79-90567|pages=127–131}}</ref>。 [[ENIAC]]と比較して[[真空管]]の本数は3分の1以下の5200本。メモリには100本の[[遅延記憶装置|水銀遅延管]]を使用し、10000本の[[ダイオード]]を搭載していた。重量7.5[[トン]]。入出力装置には初めて[[磁気テープ]]が搭載された。[[プログラム内蔵方式]]で、1秒間に10万回の加算が可能だった。 当時、コンピュータといえばUNIVACと言われるほど普及した。この機械は更にUNIVAC IIとして進化した。UNIVAC IIではメインメモリ(2000ワード)や磁気テープ外部記憶装置のバッファメモリ(60ワード)が磁気コアメモリとなり、磁気テープの記録密度は250ppi(pulse per inch)の倍密度だった。内部レジスタは超音波を結晶中で反射させその遅延時間を利用していた。1ワードは7ビットの12桁で、通常の機械命令語はその半分の6文字で構成していた。日本でも[[東京電力ホールディングス|東京電力]]が第29号機を輸入し昭和36年~昭和43年まで、主に従量電灯計算など大量データ処理に使用された。 現在、[[スミソニアン博物館]]に第一号機が展示されている。またミュンヘンのドイッチェ博物館にも本体が展示されている。 == 歴史 == === 市場の開拓 === [[File:UNIVAC_1_demo.jpg|右|サムネイル|200x200ピクセル|[[レミントンランド]]の従業員であるハロルド・スウィーニー(左)とプレスパー・エッカート(中央)が米国国勢調査局のUNIVACの操作デモをCBSのレポーターである[[ウォルター・クロンカイト]](右)に披露している様子]] [[ファイル:Univac_I_at_CHM.agr.jpg|代替文=|サムネイル|UNIVAC Iオペレーターコンソールの近影]] UNIVAC Iは比較的単純な計算とデータ処理を高速に実行するビジネス用途を目的として設計したものとしては米国初のコンピュータで、これまでの科学技術用の複雑な計算を行うコンピュータとは対照的だった。この分野は[[パンチカード]]集計機の市場であり、UNIVACはこれと競合する商品であったが、当初UNIVACにはパンチカードの入出力機能がなかった。カードに保存された大量のデータを手作業で入力しなければならず、作業コストの懸念から売り上げは伸びなかった。[[:en:UNIVAC Card to Tape converter|カードを読んで磁気テープに出力する装置]]と、[[:en:UNIVAC Tape to Card converter|磁気テープからカードに出力する装置]]の2つのコンバータをUNIVACが別途発売したことでこの問題は修正された<ref>{{Cite web|url=https://search.credoreference.com/content/entry/encyccs/univac_i/0|title=Univac i. (2003). In Encyclopedia of computer science.|accessdate=2020-07-10|publisher=Credo Reference}}</ref>。しかしながらUNIVAC Iの当初の売り上げはレミントンランドの希望よりも低かった。 宣伝のため[[CBS]]と提携してUNIVAC Iに1952年大統領選挙の結果を予想させた。事前の世論調査では[[アドレー・スティーブンソン]]が有利とされていたが、UNIVAC Iはアイゼンハワーの逆転勝利を予想した。CBSのスタッフはUNIVACが間違っていると確信しており、UNIVACは使い物にならないと考えていた。開票作業が進むとUNIVACの予想が正しかったことが明らかになり、アナウンサーがUNIVACの能力を評価したことでマシンは有名になった。これによりコンピュータに対する国民の評価が変わり<ref>{{Cite book|title=American History: A Survey. 12th Ed.|date=2007|year=2007|publisher=McGraw-Hill|isbn=0-07-312492-3|author=Brinkley, Alan.}}</ref>、以降コンピュータによる選挙予想は選挙結果を伝える夜の報道に欠かせないものとなった。 === インストール === [[ファイル:Univac_I_at_Census_Bureau_with_two_operators.jpg|サムネイル| 国勢調査局のUNIVAC Iと2人のオペレータ 1960年頃]] 当初は[[アメリカ合衆国国勢調査局|国勢調査局]]、[[アメリカ空軍|米空軍]]、米陸軍地図サービスなどの政府機関が顧客だった<ref name=":1" />。[[エーシーニールセン]]や[[プルデンシャル・ファイナンシャル]]とも契約した。エッカート・モークリー・コンピュータ・コーポレーションがレミントンランドに買収されると、元の販売価格では安すぎて赤字になることが明らかになり、ニールセンとプレデンシャルにキャンセルを頼まなければならなくなった。 国勢調査局に販売した初号機は1951年3月31日にフィラデルフィアの3747リッジアベニューにあるエッカートモークリー部門の工場で落成式を公式に開催した。マシンは非常に繊細で壊れやすく、解体・輸送・再組み立ての困難が懸念されたことから、デモのためだけに暫定版を組み立てた物であり、完成版であるべき製品は実際には翌年の12月までインストールされなかった<ref>[http://purl.umn.edu/104288 UNIVAC conference], [[Charles Babbage Institute]], ミネソタ大学 171ページ 1990年5月17~18日にワシントンDCでUNIVACコンピュータに関与したコンピュータのパイオニアたちによるカンファレンスの内容を文字に起こしたもの。 </ref>。この結果1952年6月に国防総省に納入された2号機の方が最初にインストールされることになった。 '''UNIVACのインストール 1951-1954年'''<ref>Ceruzzi, Paul E. ''A history of modern computing'', MIT, 1998. </ref> {| class="wikitable" ! 日付 !納入先 ! 備考 |- | 1951 | [[アメリカ合衆国国勢調査局|米国国勢調査局]] 、メリーランド州スーツランド | 1952年まで出荷されなかった<ref>{{Cite journal|last=|first=|date=1951|title=Automatic Computing Machinery: News - UNIVAC Acceptance Tests|journal=Mathematics of Computation|volume=5|issue=35|pages=176–177|language=en-US|DOI=10.1090/S0025-5718-51-99425-2|ISSN=0025-5718}}</ref><ref>{{Cite journal|last=|first=|date=1951|title=Automatic Computing Machinery: News - Eckert-Mauchly Division, Remington Rand Inc.|journal=Mathematics of Computation|volume=5|issue=36|pages=245|language=en-US|DOI=10.1090/S0025-5718-51-99416-1|ISSN=0025-5718}}</ref> |- | 1952 | [[アメリカ空軍]] | バージニア州アーリントンのペンタゴン([[ペンタゴン|米国国防総省]])<ref>{{Cite journal|last=|first=|date=1952|title=Automatic Computing Machinery: News - UNIVAC Acceptance Tests|journal=Mathematics of Computation|volume=6|issue=38|pages=119|language=en-US|DOI=10.1090/S0025-5718-52-99400-3|ISSN=0025-5718}}</ref> |- | 1952 | [[アメリカ国家地理空間情報局|米軍地図サービス]] | ワシントンDC<ref>{{Cite journal|last=|first=|date=1952|title=Automatic Computing Machinery: News - UNIVAC Acceptance Tests|journal=Mathematics of Computation|volume=6|issue=40|pages=247|language=en-US|DOI=10.1090/S0025-5718-52-99384-8|ISSN=0025-5718}}</ref>。1952年4月〜9月に工場で稼働。 |- | 1953 | [[ニューヨーク大学]] (原子力委員会) | ニューヨーク州ニューヨーク<ref name=":0">{{Cite journal|date=July 1953|title=1. UNIVAC|url=http://www.bitsavers.org/pdf/onr/Digital_Computer_Newsletter/|journal=Digital Computer Newsletter|volume=5|issue=3|pages=2|language=en}}</ref> |- | 1953 | [[アメリカ原子力委員会|原子力委員会]] | カリフォルニア州リバモア |- | 1953 | [[アメリカ海軍|米海軍]] | デビッド・テイラー・モデル・ベイスン(船舶開発センター) メリーランド州ベセスダ |- | 1954 | [[レミントンランド]] | ニューヨーク州ニューヨークのセールス部門 |- | 1954 | [[ゼネラル・エレクトリック]] | ケンタッキー州ルイビルのアプライアンス部門 最初の民間企業<ref>{{Cite journal|date=Apr 1954|title=THE UNIVAC|url=http://www.dtic.mil/docs/citations/AD0694611|journal=Digital Computer Newsletter|volume=6|issue=1|page=2|language=en}}</ref> |- | 1954 | [[メットライフ|メトロポリタンライフ]] | ニューヨーク州ニューヨーク<ref>{{Cite journal|date=Jul 1954|title=7. UNIVAC|url=http://www.dtic.mil/docs/citations/AD0694613|journal=Digital Computer Newsletter|volume=6|issue=3|pages=4–5|language=en}}</ref> |- | 1954 | [[アメリカ空軍]] | [[ライト・パターソン空軍基地|ライトパターソン空軍基地]]、オハイオ州デイトン |- | 1954 | [[USスチール]] | ペンシルバニア州ピッツバーグ |- | 1954 | [[デュポン]] | デラウェア州ウィルミントン |- | 1954 | [[USスチール]] | インディアナ州ゲーリー |- | 1954 | フランクリン生命保険 | イリノイ州スプリングフィールド<ref>{{Cite journal|date=Jan 1954|title=2. The UNIVAC|url=http://www.dtic.mil/docs/citations/AD0694612|journal=Digital Computer Newsletter|volume=6|issue=2|page=2|language=en}}</ref> |- | 1954 | [[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]] | ペンシルバニア州ピッツバーグ |- | 1954 | パシフィック・ミューチュアル生命保険 | カリフォルニア州ロサンゼルス |- | 1954 | シルバニア・エレクトリック | ニューヨーク州ニューヨーク |- | 1954 | コンソリデーテッド・エジソン | ニューヨーク州ニューヨーク |} UNIVAC Iの販売価格は当初15万9000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で、2~3台目が25万ドル。125万ドルから150万ドルになるまで値上げされた。最終的に46台が製造されて納品された。 UNIVAC Iは大学にはかなり高額で、[[IBM]]のような企業は大学にマシンを寄贈していたが、スペリー・ランドにはマシンを寄贈する経済的な余裕がなかった。それでもスペリー・ランドはUNIVAC Iシステムを1956年に[[ハーバード大学]]へ、1957年に[[ペンシルベニア大学]]へ、1957年に[[クリーブランド (オハイオ州)|オハイオ州クリーブランドの]][[ケース・ウェスタン・リザーブ大学|ケース産業大学]]に寄贈した。ケース産業大学のUNIVAC Iは1965年もまだ現役で稼働していたが、UNIVAC 1107に交換された。 技術の進歩により時代遅れになった後も一部のUNIVAC Iは長い間使われた。国勢調査局は1963年までに2台を所有しており、1台目は12年間、2台目は9年間稼働した。スペリー・ランド自身も1968年までに[[バッファロー (ニューヨーク州)|ニューヨーク州バッファロー]]に2台を所有していた。保険会社のライフ&カジュアルティ・オブ・テネシーは1970年まで13年以上使用した。 == 技術詳細 == === ハードの主な特徴 === [[ファイル:7AK7_vacuum_tubes.jpg|サムネイル| 1956年製UNIVAC Iの7AK7真空管]] UNIVAC Iは約5,000本の[[真空管]]を搭載し{{Efn|UNIVAC Iで使われた真空管のほとんどは25L6だが、6AK5、7AK7、6AU6、6BE6、6SN7、6X5、28D7、807、829B、2050、5545、5651、5687、6AL5、6AN5、6AH6、5V4、5R4、4D32、3C23、8008などの真空管も使われた。}}、重量は16,686ポンド(7.5トン)<ref>{{Cite web|url=http://www.ed-thelen.org/comp-hist/BRL61-u3.html#UNIVAC-I|title=UNIVAC I|author=Weik|first=Martin H.|date=March 1961|website=ed-thelen.org|accessdate=2020-07-08|publisher=}}</ref>、消費電力125[[ワット|kW]]で、2.25[[ヘルツ (単位)|MHz]]のクロックで動作し1秒あたり約1,905個の命令を実行できた。プロセッサとメモリユニットを搭載したセントラルコンプレックスの部分だけで4.3m x 2.4m x 2.6mの大きさがあった。システム全体では35.5m²(382 ft²)の設置面積を必要とした。 === メインメモリ === [[ファイル:Mercury_memory.jpg|右|サムネイル|300x300ピクセル| UNIVAC Iの水銀遅延線メモリ]] メインメモリは12文字の1000[[ワード]]。数字は11桁の[[十進法|10進数]]で、これに[[符号付数値表現|正負の記号]]がついた。10ワードの[[水銀]][[遅延記憶装置|遅延メモリ]]を100チャンネル組み合わせて1000ワードを実現していた。[[入出力]]バッファはそれぞれ60ワードで、10ワードの水銀遅延メモリを12チャンネル組み合わせていた。スペアとして10ワードの水銀遅延メモリが10チャンネルあった。アップグレード版ではさらに追加された7チャンネルで7本の水銀タンクの温度を制御し、さらにもう1チャンネルが10ワードのYレジスタとして用いられた。合計で126チャンネルの水銀遅延メモリがあり、7つの水銀タンクがMT、MV、MX、NT、NV、NX、GVの背面に装備された。各水銀タンクは18本の水銀チャンネルに接続された。 10ワードの水銀遅延ラインチャンネルは次の3つのセクションで構成される。 # 水銀の列にあるチャンネル。送受信を担う水晶[[圧電素子]]が両端に装備されている。 # 中間振幅ケース。水晶圧電素子に接続され、アンプ、検出器、遅延補償などの回路があり、水銀タンクのケースに取り付けられている。 # 循環ケース。カソード・フォロワ回路、パルス発生器、リタイマ、水晶の伝達を制御する変調回路があり、入力・消去・記録のスイッチ回路・ゲート回路がある。水銀タンクの隣に設置されている。 [[ファイル:UNIVAC_1_Recirculation_Chassis_Board_(1951).jpg|サムネイル| UNIVAC Iの循環ケース基板]] === 命令とデータ === [[命令セット]]は6桁の[[英数字]]で、1ワードに2つの命令が含まれる。加算は525 µ[[マイクロ秒|s]]、乗算は2150µsで処理される。オーバードライブと呼ばれる非公式の改造により条件付きながら4桁の命令を1ワードに3つ詰め込むことが可能だった(後述するIngermanのUNIVACシミュレータもこの改造に対応している)。 [[ファイル:UNIVAC_I_Interior.jpg|サムネイル| UNIVAC Iの内部]] 数字は内部的に[[3増し符号|XS3]](3増し符号)による[[二進化十進表現|BCD2進化10進数]]で、1桁は6ビットあり、英数字コードの数字がそのまま使用され、[[誤り検出訂正|エラーチェック]]用に1ビットの[[パリティビット]]があり、11桁の[[符号付数値表現|符号付き整数]]を扱えた。1~2個の例外的な命令を除いてマシン語には2進数を用いず、文字のバイナリは2進数表現であったものの、プログラマとしてはUNIVACは10進数機だった。数値演算中に数字以外の文字がデータ中に現れた場合、マシンはその文字をそのままスルーして出力し、キャリーフラグの値はその時点でリセットされて失われた。なおUNIVAC Iの加減算回路は、無視記号を-3、スペース( )を-2、マイナス記号(<code>-</code>)を-1、アポストロフィ(<code>'</code>)を10、アンパサンド(<code>&</code>)を11、左括弧(<code>(</code>)を12の数値として扱うことがあった。 === 入出力 === オペレータ・コンソールの他には、最大10台のUNISERVOテープドライブ、[[レミントンランド]]の[[タイプライター|電子タイプライター]]、[[テクトロニクス]]の[[オシロスコープ]]だけがUNIVAC Iに接続できた。UNISERVOは市販品としては世界初のコンピュータ用テープドライブだった。1インチに128ビットのデータ密度で(実測転送速度は秒間7200文字)、磁性メッキ加工を施したリン青銅テープだった。UNISERVOはまたUNITYPERが出力した1インチ20ビットのテープを読み書きすることもできた。UNITYPERはタイプライターからテープに出力する独立した装置で、プログラミングや簡単なデータ編集に用いられた。UNIVACはテープの正方向と逆方向の読み書きが可能で、CPUの命令と完全に対応しており、ソートやマージなどのデータ処理を非常に高速に行えた。パンチカードからテープに変換する独立した装置で作ったテープからデータを大量に入力し、結果を別のテープへ出力し、別の独立した装置でテープのデータをプリンタに印刷した。オペレータコンソールには10進コードのスイッチが3列あり、搭載された1000ワードのメモリから好きなデータを選んでオシロスコープに表示できた。水銀遅延メモリはデータを2進数の列で記憶しており、かなりの忍耐力は求められるが、プログラマやオペレータは好きなメモリの値をスコープに継続して表示させることができ、その内容を読み取ることが可能だった。コンピュータに接続したタイプライターにより、プログラムのブレークポイントの設定、チェックポイントの設定、メモリダンプの設定などに通常は使われた。 === 運用の流れ === UNIVAC Iには通常は複数の周辺機器を併用した。一般的には、磁気テープを読んで連続用紙に印刷するプリンター、[[パンチカード]]を読んでイメージデータを磁気テープに書き込むカード・テープコンバータ、磁気テープを読んでパンチカードの束を生成するテープ・カードコンバータなどが使われた。UNIVACにはオペレーティングシステムは付属していなかった。オペレータがUNISERVOにテープをセットするとプロセッサの回路が自動的にこれをロードした。入力データと出力データのテープを適当に設定してプログラムを実行した。出力されたデータは外部のプリンタに渡される。または次のデータ処理の入力として使われる一時データとなり、カード・テープコンバータが出力した別のデータに従って更新される。水銀遅延メモリは、水銀の温度によって音速にばらつきが生じるため、水銀タンクの温度が非常に厳密に管理されていた。停電が発生すると温度が安定するまで数時間かかることがあった。 === 信頼性 === エッカートとモークリーはデジタル論理回路の信頼性について確信を持っておらず、当時は得られる情報も限られていた。UNIVAC Iは計算回路を並列で接続して結果を比較する設計だった。実際には設計した回路の信頼性は高く、故障した部分だけがエラーを生じた。真空管の信頼性を管理するために対策が講じられていた。主力の真空管である25L6は機械に組み付ける前に大量に熱を加えて慎重にテストした。製造された真空管の半分が破棄されることはよくあることだった。技術者はテストに合格した加熱済みの真空管を、メモリ再循環アンプなど、故障を簡単に確認できる場所に設置した。ある程度の使用に耐えた成熟したゴールデン真空管を確保しておき、故障の確認が困難な場所で用いられた。突入電流や熱による真空管へのストレスを低減するため、全ての真空管のフィラメントに電力が行き渡るまで、約30分かけてコンピュータを起動した。これにより数日から数週間の連続稼働時間(MTBF)を達成した。UNISERVOにはリールからキャプスタンまでの間にテープの張力を保つのに真空カラムではなくバネと糸を用いていた。これらはよくあるエラーの原因だった。 == 関連項目 == * [[計算機の歴史]] * [[真空管式コンピュータ一覧]] * [[Ferranti Mark 1]] * [[グレース・ホッパー]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [http://purl.umn.edu/104288 UNIVAC Conference Oral history on 17–18 May 1990.] [[:en:Charles_Babbage_Institute|Charles Babbage Institute]], ミネアポリス、ミネソタ大学 171ページ 1990年5月17~18日にUNIVACコンピュータに関与したジーン・バーティクなどのコンピュータのパイオニアたちによるカンファレンスの内容を文字に起こしたもの。このミーティングにはUNIVACに関わった25人のエンジニア、プログラマ、広報担当者、営業担当者に加え、ジェネラル・エレクトリック、アーサー・アンダーセン、国勢調査局などのユーザーの代表なども参加した。 * [http://purl.umn.edu/41420 Margaret R. Fox Papers, 1935–1976], [[:en:Charles_Babbage_Institute|Charles Babbage Institute]], ミネソタ大学。国立標準局(NBS)で、ENIACや'''UNIVAC'''などに関する活動報告を集めたもの。SEAC、SWAC、DYSEACについてのメモと歴史。'''UNIVAC'''、LARC、MIDACのプログラミングリファレンスマニュアル。コンピュータに関連する特許の紹介と評価。システム解説。[[:en:Margaret_R._Fox|Margaret Fox]]の同僚たちが書いた会話録や記事。Samuel Alexander、Margaret Fox、Samuel Williamsの通信録。 * [http://www.bitsavers.org/pdf/univac/univac1/ UNIVAC I documentation] &#x2013; コンピュータドキュメント保管庫www.bitsavers.org より * {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170422044157/https://wiki.cc.gatech.edu/folklore/index.php/UNIVAC_1:_The_First_Mass-Produced_Computer|date=April 22, 2017|title=UNIVAC 1: The First Mass-Produced Computer - Unisys History Newsletter, Volume 5, Number 1}} * [http://www.library.upenn.edu/special/gallery/mauchly/jwm11.html The UNIVAC and the Legacy of the ENIAC] &#x2013; From the University of Pennsylvania Library (PENN UNIVERSITY/exhibitions) * [https://web.archive.org/web/20080411023331/http://mywebpage.netscape.com/reitery2k/univac1.htm UNIVAC 1 Computer System] &#x2013; By Allan G. Reiter, formerly of the ERA division of Remington Rand * [http://www.ingerman.org/niche.htm#UNIVAC UNIVAC I & II Simulator] &#x2013; By Peter Zilahy Ingerman; UNIVAC IとIIのシェアウェアのシミュレーター。[https://web.archive.org/web/20120919051534/http://www.simtel.net/product/view/id/57390 ダウンロード] * [https://spectrum.ieee.org/jul07/coreslides Core memory slide show] &#x2013; UNIVAC Iの1951年製コアメモリモジュールの写真が含まれるスライド * [https://www.youtube.com/watch?v=j2fURxbdIZs Remington-Rand Presents UNIVAC] &#x2013; カリフォルニア州マウンテンビューにあるコンピュータ歴史博物館が所蔵する宣伝フィルム * {{cite web|title=Winky Blinky Lights « Off The Broiler|url=http://offthebroiler.wordpress.com/2006/05/16/winky-blinky-lights/|website=archive.is|date=10 December 2012|others=Pictures and video in flash of UNIVAC main console; sales and marketing documents|url-status=bot: unknown|archiveurl=https://archive.today/20121210064657/http://offthebroiler.wordpress.com/2006/05/16/winky-blinky-lights/|archivedate=10 December 2012|accessdate=2020/7/7|publisher=}} * [https://books.google.com/books?id=ZiQDAAAAMBAJ&pg=PA148&dq=popular+science+1949+%22earth+satellite+vehicle%22&hl=en&ei=xCTiTIKFAcWnnQesoInVDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDEQ6AEwAA#v=onepage&q&f=true "Want To Buy A Brain", May 1949, ''Popular Science''] 一般公開されたUNIVACに関する初期のイラスト付きの記事 * [https://www.youtube.com/watch?v=ZU-IVshCAss YouTube Video: 1951 UNIVAC 1 Computer Basic System Components] &#x2013; Computer History Archives Project [[Category:コンピュータ (歴代)]] [[Category:真空管式コンピュータ]] [[Category:UNIVACのメインフレーム]] [[Category:シリアル・コンピュータ]]
2003-08-20T12:10:09Z
2023-11-12T03:13:25Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Webarchive", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/UNIVAC_I
13,618
A
Aは、ラテン文字(アルファベット)の1番目の文字。小文字は a 。ローマ字では「あ」と読む。 ギリシャ文字のΑ(アルファ)に由来し、キリル文字のАに相当する。 大きく分けて3つの字形が使われる。 その他、横棒が無いギリシャ文字のΛ(ラムダ)の様な書体や、横棒がVのようになったものもある。これらはロゴタイプのデザイン上の違いであり意味としては本稿のAと同一である(アメリカ航空宇宙局の旧ロゴのΛはAである。)。 フェニキア文字、原カナン文字のアレフに由来し、さらに辿ると、その原型は「牡牛の頭」を象ったヒエログリフ(F1)にあるとされる。現代でもヘブライ文字でAにあたるאは牡牛の意味を持つ。 この文字が表す音素は原則として[a](非円唇前舌広母音)もしくは[ɑ](非円唇後舌広母音)、またはその類似音である。 他、EBCDIC では、「A」は 193 で表され、「a」は 129 で表される。 フォネティックコードはANSIでは"Alpha"、ICAO, ITU, IMO, FAAでは"Alfa"である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Aは、ラテン文字(アルファベット)の1番目の文字。小文字は a 。ローマ字では「あ」と読む。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギリシャ文字のΑ(アルファ)に由来し、キリル文字のАに相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大きく分けて3つの字形が使われる。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その他、横棒が無いギリシャ文字のΛ(ラムダ)の様な書体や、横棒がVのようになったものもある。これらはロゴタイプのデザイン上の違いであり意味としては本稿のAと同一である(アメリカ航空宇宙局の旧ロゴのΛはAである。)。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "フェニキア文字、原カナン文字のアレフに由来し、さらに辿ると、その原型は「牡牛の頭」を象ったヒエログリフ(F1)にあるとされる。現代でもヘブライ文字でAにあたるאは牡牛の意味を持つ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素は原則として[a](非円唇前舌広母音)もしくは[ɑ](非円唇後舌広母音)、またはその類似音である。", "title": "音素" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "他、EBCDIC では、「A」は 193 で表され、「a」は 129 で表される。", "title": "符号位置" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "フォネティックコードはANSIでは\"Alpha\"、ICAO, ITU, IMO, FAAでは\"Alfa\"である。", "title": "他の表現法" } ]
Aは、ラテン文字(アルファベット)の1番目の文字。小文字は a。ローマ字では「あ」と読む。 ギリシャ文字のΑ(アルファ)に由来し、キリル文字のАに相当する。
{{Otheruses}} <!-- 英語版 A の項目を参考に、ラテン文字としての A 以外の内容は、曖昧さ回避のページに移動するのがよいのでは?--> {{A-Z}} '''A'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[1]]番目の[[文字]]。小文字は '''a''' 。 [[ギリシャ文字]]の[[Α]](アルファ)に由来し、[[キリル文字]]の[[А]]に相当する。 == 字形 == [[File:A cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-A.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大きく分けて3つの字形が使われる。 # 三角形の左辺と右辺が下にのびた形であり、大文字に使われる。 # 丸の右に縦に接線を付けた形 ({{en|single-storey}}) であり、多く小文字に使われるが、大文字の筆記体でこの字形を使うことがある。また[[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{A\ a}</math>のようである。 # 2の変形として、接線を上に延ばして左に曲げて折り返した形 ({{en|double-storey}}) がある。この形は多く小文字印刷書体に使われる。 その他、横棒が無い[[ギリシャ文字]]の[[Λ]](ラムダ)の様な書体や、横棒がVのようになったものもある。これらはロゴタイプのデザイン上の違いであり意味としては本稿のAと同一である([[アメリカ航空宇宙局]]の旧ロゴのΛはAである。)。 == 歴史 == [[フェニキア文字]]、[[原カナン文字]]のアレフに由来し、さらに辿ると、その原型は「牡牛の頭」を象った[[ヒエログリフ]]([[w:List_of_Egyptian_hieroglyphs|F1]])にあるとされる。現代でも[[ヘブライ文字]]でAにあたるאは牡牛の意味を持つ。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[インドネシア語|印尼]]・[[ベトナム語|越]]・[[エスペラント|エス]]:アー {{IPA|aː}} * [[フランス語|仏]]・[[イタリア語|伊]]・[[スペイン語|西]]:ア {{IPA|a}} * [[ハンガリー語|洪]]:アー {{IPA|ɒː}} * [[英語|英]]:エイ {{IPA|eɪ}} * [[オーストラリア英語|豪]]:アイ {{IPA|aɪ}} * [[日本語|日]]:エー {{IPA|e̞ꜜː}}・エイ {{IPA|e̞ꜜi}} == 音素 == この文字が表す音素は原則として{{IPA|a}}([[非円唇前舌広母音]])もしくは{{IPA|ɑ}}([[非円唇後舌広母音]])、またはその類似音である。 * [[英語]]では[[大母音推移]]の結果、特に強勢が置かれた場合短音は{{IPA|æ}}、長音(二重母音)は{{IPA|eɪ}}となることが多い。 * [[ハンガリー語]]では{{IPA|ɒ}}([[円唇後舌広母音]])だが、[[á]] は非円唇前舌広母音の長音{{IPA|aː}}である。 * [[フランス語]]では an または am に他の子音が続くとき、または語末でやや[[円唇化]]した{{IPA|ɑ̃}}(非円唇後舌広[[鼻母音]])になる。 * [[ベトナム語]]では{{IPA|aː}}である。短音は[[Ă]], ăと書く。 * [[日本語]]の[[ローマ字]]表記では[[ア段]]の母音に用いる。また、「A」一文字で「[[あ]]」と読む。 * [[朝鮮語]]の[[朝鮮語のローマ字表記法|ローマ字表記]]では母音ㅏを示す。また、ㅐ、ㅑ、ㅒ、ㅘ、ㅙも、それぞれ'''a'''e, y'''a''', y'''ae''', w'''a''', w'''a'''eとaを含む綴りとなる。 == Aの意味 == === 学術的な記号・単位 === ;文法 * [[英語]]で、単数を表す[[不定冠詞]]。 * [[形容詞]]を示す英語辞典での記号。 * 直接名詞を装飾する限定用法を示す英語辞典での記号。 * [[ロマンス語]]で[[与格]]を表す[[前置詞]]。 * [[フランス語]]で与格を表す前置詞({{lang|fr|à}})。 * [[スペイン語]]で与格を表す前置詞。 * [[4格]]を表す[[ドイツ語]]辞典での記号。 ;単位 * [[加速度]]({{en|acceleration}})を示す物理学の記号(小文字、慣習) * [[振幅]]({{en|amplitude}})を示す物理学の記号(大文字、慣習) * [[ベクトルポテンシャル]]を示す物理学の記号(大文字、慣習) * [[アンペア]]を示す[[SI単位]](大文字、電流の単位) * [[アール (単位)|アール]](小文字、[[面積]]の単位) * [[アト]]を表す[[SI接頭語]](小文字) ;数学 * 既知の数を示す[[数学]]の記号(慣習) * 既知の集合を示す数学の記号(慣習) * 既知の行列を示す数学の記号(慣習) * 大文字で[[環 (数学)|環]] ({{en|anneau}}) を表す(慣習) * フラクトゥール小文字で[[イデアル]]を表す(慣習) * [[幾何学]]において[[軌道長半径]]を表す。 * [[10|十]]を意味する数字。[[十六進法]]や[[二十進法]]など、十一進法以上<small>(参照:[[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十(十進法の'''10''')を一桁で表すために用いられる。 ** 一つの部品に、[[0]]を用いずに十個以上でチャンネルを嵌合する場合、九を「[[9]]」、十を「A」、[[12|十二]]を「[[C]]」、[[15|十五]]を「[[F]]」、[[20|二十]]を「[[K]]」などというようにも用いられる。 ;コンピューター * [[アノード]]端子を示す記号(大文字)&mdash; [[ダイオード]]・[[サイリスタ]]・[[真空管]] * アンカー要素を示す[[HyperText Markup Language|HTML]]の語 * [[Domain Name System|DNS]]サーバの設定ファイルで「Aレコード」。 ;音楽 * [[音名]]の一つ(英米式、独式)。イタリア式では「{{lang|it|la}}」、日本式では「[[イ (音名)|イ]]」、[[音高]]では440Hzに相当。 * [[6]]を表す音楽関係者の隠語 ;その他 * [[ABO式血液型]]の一つ。A型。 * [[超音波検査#Aモード|Aモード]]。[[超音波検査]]における、検査方法の一つ。 * [[非金属元素]]の略号。 * [[アモルファス]]の略号(例:a-Si など)。 === その他の記号 === * [[国際音声記号]] では、[a] が[[非円唇前舌広母音]] を、[ɑ] が[[非円唇後舌広母音]]を表す。 * [[X-SAMPA]]では、「a」が[[非円唇前舌広母音]]を、「A」が[[非円唇後舌広母音]]を表す。 * [[キルシェンバウム]]では、「a」が[[非円唇中舌広母音]]を、「A」が[[非円唇後舌広母音]]を表す。 * [[解答]]のこと ({{en|'''A'''nswer}})(例:Q&A)。 * 「[[アルファベット]]上の順番」から派生して、第一位や最上級を意味することがある(例:A級)。 ** 一般に学校の成績では最上を表す。細かく成績を付ける際には+や-を用いる事がある(例:A+、A-)。 ** 劇場や競技場、業績等では[[S]](特別席)に次ぐよいランクを表す。 ** スポーツなどの競技での、リーグ等のグループの段階を表す。Sが「特A」としてA(即ち「平A」)より上で最上級の場合と、Aが「平A」でも最上級の場合がある。 ** 会社の経営状態に関するランク付け等でAは、BやCに対してよい状態を表すが、AA、AAAのように数が増えたり、AA+のように+が付くと、よりよい状態を表すので、Aが必ずしも最上を表すのではない。 ** 米国のプロ野球のマイナーリーグのランクでは、同様に、[[マイナーリーグベースボール#概要|AAA]]が一番よく、AAが次、Aはその下位におかれる。 <!-- Aと同様の意味ではあってもAの項目に書くことではない。**日本や中国では、等級のAを「[[甲]]」([[十干]])と呼ぶ事もある。--> * 「1」という意味の「[[エース]]」を「'''A'''」とも書く。しばしば[[トランプ]]の [[エース (トランプ)|'''A'''(エース)]]のことを指す。 * [[日本産業規格]](JIS)などで規定された紙のサイズ。[[紙の寸法#A列|A判]]。 * [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]における路線記号。 ** [[北海道旅客鉄道|JR]][[函館本線]]・[[石北本線]]([[白石駅 (JR北海道)|白石駅]] - [[旭川駅]] - [[網走駅]])('''A'''bashiri) ** [[都営地下鉄浅草線]] ('''A'''sakusa) ** [[北陸鉄道浅野川線]] ('''A'''sanogawa) ** [[西日本旅客鉄道|JR]][[北陸本線]]・[[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]・[[山陽本線]]、[[赤穂線]]([[敦賀駅]] - [[京都駅]] - [[大阪駅]] - [[上郡駅]]、[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] - [[播州赤穂駅]]) ** [[近鉄難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]] ** [[京福電気鉄道嵐山本線|嵐電嵐山本線]] ('''A'''rashiyama) ** JR[[山陰本線]]([[城崎温泉駅]] - [[米子駅]]) ** [[西鉄甘木線]] ('''A'''magi) * 軍用[[航空機]]の形式で[[攻撃機]] を表す記号。「'''A'''ttacker」の略。[[A-10 (航空機)|A-10]]、[[A-4 (航空機)|A-4]]、[[F/A-18 (航空機)|F/A-18]] など。 * [[古代ローマ|古代ローマ人]] の個人名アウルス('''A'''ulus)の略。 * [[接吻|キス]]を指す隠語。この用法では[[B]]は[[ペッティング]]、[[C]]は[[性行為|セックス]]、[[D]]は[[妊娠]]、[[E]]は[[人工妊娠中絶|中絶]]を指す。{{要出典範囲|日本の中高生間での間で使われた( - 1980年代?)|date=2022-10}}。→英語では[[X#Xの意味|X]]がよく用いられる。 * 円谷プロダクションが製作した特撮テレビ番組のタイトル及びその主人公「[[ウルトラマンA]](ウルトラマンエース)」の略。 * [[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]]のレーティング表示において全年齢対象を表す(2006年3月以降)。 * 「アルファ」[[フォネティックコード]]の第一コード。 * [[旅客機]]の形式で[[エアバス]] 製を表す(例:[[エアバスA300|A300]]、[[エアバスA320|A320]] )。 * [[少年犯罪]]においての[[被疑者]]の仮称。[[週刊誌]]などの[[出版物]]によく使われるが、[[新聞]]や[[テレビ]]では現在は使われていない。 * [[日本国有鉄道]]および[[JR|JRグループ]]では、次のような意味に用いている。 ** [[グリーン車]]に相当する[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]として、[[A寝台車]]を意味する。 ** [[特急料金]]の区分で、A特急料金。 ** [[速度種別]]で、運行される鉄道車両の[[速度]]の基準が100km/h台。 ** [[中央・総武緩行線]]で、「東行」を[[A線]]と呼称する。 * [[東京地下鉄]](東京メトロ)では、起点駅から終点駅へ向かう列車が走る方向の線路を[[A線]]と呼称する。 * ヨーロッパの鉄道では、[[一等車]]を意味する記号として、[[客車]]の形式に付けられる。 * [[牛肉]]の格付けで、[[歩留まり]]がもっともよいもの。 * [[アナログ]]の略。[[デジタル-アナログ変換回路|DA変換]]など。 * [[スピードスケート]](ショートトラック競技等)の競技結果の表示において、同走者の妨害行為による救済措置の適用者を示す記号。アドバンス('''A'''dvance)の意味。 * [[ナサニエル・ホーソーン]]の『[[緋文字]]』において、「姦通の罰として彼女は姦婦(adulteress)を示す赤いAの字を服につけさせられた」との記述がある。 * [[自閉症|自閉]]当事者(未診断者を含む)における「自閉(Autistic)」の略称。[[アスペルガー症候群]]の略称である「アスペ」は蔑称とみなされるため、二十一世紀以降、当事者によってこの用語が用いられるようになった。[[自閉症]]・[[自閉症スペクトラム障害]]・[[アスペルガー症候群]](いわゆる AS)・[[広汎性発達障害]]などを包括する概念である。 === 商品名・作品名 === * 1997年に[[森達也]]監督が作成した、[[オウム真理教]]をテーマにした[[ドキュメンタリー]][[映画]]。→[[A (映画)]] * 2001年-2002年まで[[テレビ愛知]]が採用していた放送局マスコットキャラクター。 * 2005年4月17日-6月26日まで[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列局で放送された[[バラエティ番組]]。→[[A (テレビ番組)]] * [[浜崎あゆみ]]の10枚目の[[シングル]]。→[[A (浜崎あゆみのシングル)]] * [[石川貴之]]作曲の[[楽曲]]、A(エース)。 * [[電気グルーヴ]]の7作目のアルバム、A(エース)。→[[A (電気グルーヴのアルバム)]] * [[SUPERCAR]]のベストアルバム。→[[A (SUPERCARのアルバム)]] * [[メルセデス・ベンツ]]の乗用車の1クラス。[[メルセデス・ベンツ・Aクラス|Aクラス]](例:'''A'''200など)。 * [[トヨタ]]車の形式名に於いては、 #FR世代の[[トヨタ・セリカ|セリカ]]、[[トヨタ・カリーナ|カリーナ]]/[[トヨタ・コロナ|コロナ]]、[[トヨタ・スープラ|スープラ]]を意味する車両識別記号(例:TA22、AA63、JZA80)。 #[[トヨタ・A型エンジン]]、またはそれを搭載していることを表す(例:[[トヨタ・AE86|AE86]]、AT210)。 <!-- == 歴史 == この文字がこの形状になったのは、古くは....の頃から見られる。 --> == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0041|65||1-3-33|0061|97||1-3-65|[[半角]]}} {{ULu|FF21|65313||1-3-33|FF41|65345||1-3-65|[[全角]]|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24B6|9398||‐|24D0|9424||1-12-33|丸囲み}} {{ULu|1F110|127248||‐|249C|9372||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D2C|7468||‐|1D43|7491||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D400|119808||‐|1D41A|119834||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D434|119860||‐|1D44E|119886||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D468|119912||‐|1D482|119938||‐|イタリック体太字}} {{ULu|1D49C|119964||‐|1D4B6|119990||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D0|120016||‐|1D4EA|120042||‐|筆記体太字}} {{ULu|1D504|120068||‐|1D51E|120094||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D538|120120||‐|1D552|120146||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D56C|120172||‐|1D586|120198||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A0|120224||‐|1D5BA|120250||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5D4|120276||‐|1D5EE|120302||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D608|120328||‐|1D622|120354||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D63C|120380||‐|1D656|120406||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D670|120432||‐|1D68A|120458||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|7424|1D00|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL A}} {{CharCode|127280|1F130|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER A|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127312|1F150|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER A|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127344|1F170|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER A|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|8336|2090|‐|LATIN SUBSCRIPT SMALL LETTER A}} |} 他、[[EBCDIC]] では、「A」は 193 で表され、「a」は 129 で表される。 == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=Alpha<!--don't change to official "alfa" until Commons images are moved to this spelling, or redirects are set up, as otherwise the table does not display the semaphore and flag images--> |Morse=・- |Character=A1 |Braille=⠁ }} フォネティックコードはANSIでは"Alpha"、ICAO, ITU, IMO, FAAでは"Alfa"である。 == 関連項目 == {{Wiktionarypar|A}} {{Wiktionarypar|a}} {{Commons|A}} * [[À]] à - [[グレイヴ・アクセント]] * [[Á]] á - [[アキュート・アクセント]] * [[Â]] â - [[サーカムフレックス]] * [[Æ]] æ - [[合字]] * [[Ä]] ä - [[ウムラウト]] * [[Å]] å - [[リング符号]] * [[Ã]] ã - [[ティルデ]] * [[Ā]] ā - [[マクロン]] * [[Ă]] ă - [[ブレーヴェ]] * [[Ą]] ą - [[オゴネク]] * [[Wikipedia:索引 A]] {{ラテン文字}} {{Normdaten}} [[Category:ラテン文字]] [[new:प्रिथिबी]]
2003-08-20T12:44:24Z
2023-11-29T02:26:20Z
false
false
false
[ "Template:ULu", "Template:Letter other reps", "Template:Wiktionarypar", "Template:Normdaten", "Template:CharCode", "Template:Commons", "Template:Otheruses", "Template:A-Z", "Template:En", "Template:IPA", "Template:Lang", "Template:要出典範囲", "Template:ラテン文字" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/A
13,622
1655年
1655年(1655 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1655年(1655 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1655年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1655}} {{year-definition|1655}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[承応]]4年、[[明暦]]元年4月13日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2315年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]12年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]9年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]] ([[南明]]) : [[定武]]10年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3988年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[盛徳 (黎朝)|盛徳]]3年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]18年 * [[仏滅紀元]] : 2197年 - 2198年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1065年 - 1066年 * [[ユダヤ暦]] : 5415年 - 5416年 * [[ユリウス暦]] : 1654年12月22日 - 1655年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1655}} == できごと == * [[3月25日]] - [[クリスティアーン・ホイヘンス]]が[[土星]]の[[衛星]][[タイタン (衛星)|タイタン]]を発見。 * [[5月18日]](承応4年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]) - 日本、[[改元]]して[[明暦]]元年 * [[8月9日]] - [[オリバー・クロムウェル]]、有力な将軍達に[[イングランド]]の地方を分け与える。 * [[北方戦争]]([[大洪水時代]])(-[[1661年]])。 * [[スペイン]]領[[ジャマイカ]]が[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]派遣の艦隊に占領され、[[イギリス]]領となる(-[[1958年]])。 * [[清]]朝が[[海禁]]令を発布。 == 誕生 == {{see also|Category:1655年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[クリスティアン・トマシウス]]([[w:Christian Thomasius|Christian Thomasius]])、[[法学者]](+ [[1728年]]) * [[5月4日]] - [[バルトロメオ・クリストフォリ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Bartolomeo-Cristofori Bartolomeo Cristofori Italian harpsichord maker] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[楽器]]製作者(+ [[1731年]]) * [[5月13日]] - [[インノケンティウス13世 (ローマ教皇)|インノケンティウス13世]]、[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1724年]]) * [[8月13日]] - [[ヨハン・クリストフ・デンナー]]、[[木管楽器]]製作者(+ [[1707年]]) * [[8月28日]]([[明暦]]元年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[稲生若水]]、[[医学者]]・[[本草学者]](+ [[1715年]]) * [[11月24日]] - [[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]、[[スウェーデン]][[国王|王]](+ [[1697年]]) * [[12月23日]]([[1656年]][[1月2日]]説もある) - [[フランソワ・ルフォール]]([[w:Franz Lefort|Franz Lefort]])、[[軍人]]、[[外交官]](+ [[1699年]]) * [[堀田正休]]、[[近江国|近江]][[近江宮川藩|宮川藩]]初代[[藩主]](+ [[1731年]]) * [[コルネリウス・クルイス]]([[w:Cornelius Cruys|Cornelius Cruys]])、[[バルチック艦隊]]初代司令官(+ [[1727年]]) * [[ズンビ・ドス・パルマーレス]]、[[ブラジル]]の逃亡[[奴隷]]の指導者(+ [[1695年]]) == 死去 == {{see also|Category:1655年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月7日]] - [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]、ローマ教皇(* [[1574年]]) * [[2月25日]] - [[ダニエル・ハインシウス]]([[w:Daniel Heinsius|Daniel Heinsius]])、[[西洋古典学|古典学者]]、[[詩人]](* [[1580年]]) * [[4月30日]] - [[ウスタシュ・ル・シュウール]]、[[画家]](* [[1617年]]) * [[7月15日]] - [[ジローラモ・ライナルディ]]([[w:Girolamo Rainaldi|Girolamo Rainaldi]])、[[建築家]](* [[1570年]]) * [[7月28日]]([[明暦]]元年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[鈴木正三]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Suzuki-Shosan Suzuki Shōsan Japanese Zen priest] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[僧]]、[[仮名草子]]作家(* [[1579年]]) *7月28日 - [[シラノ・ド・ベルジュラック]]、[[劇作家]](* [[1619年]]) * [[9月7日]] - [[フランソワ・トリスタン・レルミート]]([[w:François Tristan l'Hermite|François Tristan l'Hermite]])、劇作家(* [[1501年]]頃) * [[9月10日]](明暦元年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[李参平]]、陶工・[[有田焼]]([[伊万里焼]])の祖(* 生年不詳) * [[10月24日]] - [[ピエール・ガッサンディ]]、[[哲学者]]、[[科学者]]、[[数学者]](* [[1592年]]) * [[12月17日]](明暦元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[宇喜多秀家]]、[[大名]]、[[五大老]]の一人(* [[1573年]]) * [[12月31日]] - [[ヤヌシュ・ラジヴィウ (1612-1655)|ヤヌシュ・ラジヴィウ]]、[[リトアニア]]の[[貴族]](* [[1612年]]) * [[エイドリアン・ヴァン・ダー・ドンク]]([[w:Adriaen van der Donck|Adriaen van der Donck]])、[[弁護士]](* [[1618年]]頃) * [[エドワード・ウィンズロー]]([[w:Edward Winslow|Edward Winslow]])、プリマス[[植民地]][[総督]](* [[1595年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1655}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1655ねん}} [[Category:1655年|*]]
null
2021-10-26T18:00:45Z
false
false
false
[ "Template:Year-definition", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:年代ナビ", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:十年紀と各年" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1655%E5%B9%B4
13,623
1627年
1627年(1627 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1627年(1627 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1627年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1627}} {{year-definition|1627}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2287年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[天啓 (明)|天啓]]7年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3960年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]9年 * [[仏滅紀元]] : 2169年 - 2170年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1036年 - 1037年 * [[ユダヤ暦]] : 5387年 - 5388年 * [[ユリウス暦]] : 1626年12月22日 - 1627年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1627}} == できごと == * 中国の[[明]]朝で第16代[[皇帝]]の熹宗[[天啓帝]]が7年の在位の後に死去。直後に皇帝の信任を受けていた[[宦官]]の[[魏忠賢]]が補えられ、自殺した。 * [[丁卯胡乱]]が発生。[[後金]]が[[李氏朝鮮]]に侵攻し、後金に有利な和議を結んだ。 * [[ウシ]]の原種とされる[[オーロックス]]が、この年に[[ポーランド]]で死んだ1頭を最後に[[絶滅]]した。 * [[紫衣事件]]([[江戸幕府]]が高位・高徳の僧への紫衣の勅許を停止)。 * [[吉田光由]]が[[和算]]書『[[塵劫記]]』を公刊。 * [[ヨハネス・ケプラー]]が『[[ルドルフ表|ルドルフ惑星表]]』を公刊。 == 誕生 == {{see also|Category:1627年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月25日]] - [[ロバート・ボイル]]、[[アイルランド]]出身の貴族、[[物理学者]](+ [[1691年]]) * [[2月19日]] - [[シヴァージー]]、[[インド]]の[[マラーター王国]]の創始者(+ [[1680年]]) * [[4月9日]] - [[ヨハン・カスパール・ケルル]]、[[ドイツ]]の[[バロック音楽]]の[[作曲家]]、[[オルガニスト]](+ [[1693年]]) * [[5月29日]] - [[アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン]]、[[フランス王国]]の王族、[[モンパンシエ]]公爵夫人(+ [[1693年]]) * [[8月30日]]([[寛永]]4年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[伊藤仁斎]]、[[江戸時代]]初期の[[古学派]]の[[儒学者]](+ [[1705年]]) * [[9月27日]] - [[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ|ボシュエ]]、[[フランス]]の[[キリスト教]]聖職者、[[神学者]](+ [[1704年]]) * [[11月29日]] - [[ジョン・レイ (博物学者)|ジョン・レイ]]、[[博物学者]](+ 1705年) * [[桂昌院]]、3代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家光]]の[[側室]](+ [[1705年]]) * [[下河辺長流]]、[[歌人]]・[[和学]]者(+ [[1686年]]) == 死去 == {{see also|Category:1627年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月12日]] - [[カール1世 (リヒテンシュタイン公)|カール1世]]、初代[[リヒテンシュタインの統治者一覧|リヒテンシュタイン公]](* [[1569年]]) * [[5月2日]] - [[ロドヴィコ・ヴィアダーナ]]、[[イタリア]]の[[作曲家]]、音楽教師、[[フランシスコ会]]の[[托鉢]][[修道士]](* [[1560年]]) * [[8月21日]] - [[ジャック・モーデュイ]]、[[フランス]]の[[ルネサンス音楽]]の作曲家(* [[1557年]]) * [[8月27日]] - [[フランチェスコ・マリア・デル・モンテ]]、イタリア出身の[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の[[枢機卿]]、[[外交官]]、美術鑑定家(* [[1549年]]) * [[9月8日]] - [[フアン・サンチェス・コターン]]、[[スペイン]]の[[バロック]][[画家]](* [[1560年]]) * [[10月19日]] - [[魏忠賢]]、[[明]]の[[宦官]](* [[1568年]]) * [[10月21日]] - [[フレデリック・デ・ハウトマン]]、[[オランダ]]の[[探検家]](* [[1571年]]) * [[10月28日]] - [[ジャハーンギール]]、[[ムガル帝国]]の第4代[[皇帝]](* [[1569年]]) * [[姜弘立]]、[[李氏朝鮮]]の官僚、将軍(* [[1560年]]) * [[天啓帝]]、明の第16代皇帝(* [[1605年]]) * [[トマス・ミドルトン]]{{要出典|date=2021-03}}、[[イングランド]]の[[劇作家]]、[[詩人]](* [[1580年]]) * [[トマス・ルポ]]、イングランドの作曲家、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ|ヴァイオル]]奏者(* [[1571年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1627}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1627ねん}} [[Category:1627年|*]]
null
2021-05-02T13:54:11Z
false
false
false
[ "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:他の紀年法", "Template:Sup", "Template:Clear", "Template:年間カレンダー", "Template:See also", "Template:要出典" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1627%E5%B9%B4
13,624
1595年
1595年(1595 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1595年(1595 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1595年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1595}} {{year-definition|1595}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文禄]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2255年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]23年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]28年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3928年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]18年 *** [[阮明智]] : [[大徳 (阮明智)|大徳]]元年? *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2137年 - 2138年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1003年 - 1004年 * [[ユダヤ暦]] : 5355年 - 5356年 * [[ユリウス暦]] : 1594年12月22日 - 1595年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1595}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1595年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月27日]] - [[ヤン・ファン・ホーイェン]]、[[画家]](+ [[1656年]]) == 死去 == {{see also|Category:1595年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月17日]](文禄4年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[蒲生氏郷]]、[[武将]]、陸奥[[黒川城]]主(* [[1556年]]) * [[4月25日]] - [[トルクァート・タッソ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Torquato-Tasso-Italian-poet Torquato Tasso Italian poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[叙事詩]]人(* [[1544年]])  * [[8月20日]](文禄4年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) - [[豊臣秀次]]、[[豊臣秀吉]]の[[甥]]。[[天下人]]。(*[[1568年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1595}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1595ねん}} [[Category:1595年|*]]
null
2021-05-03T01:45:01Z
false
false
false
[ "Template:年間カレンダー", "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:十年紀と各年", "Template:年代ナビ", "Template:Year-definition", "Template:他の紀年法", "Template:Clear", "Template:See also" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/1595%E5%B9%B4
13,626
オーレ=ヨハン・ダール
オーレ=ヨハン・ダール(Ole-Johan Dahl、1931年10月12日 - 2002年6月29日)は、ノルウェーの計算機科学者。クリステン・ニゴールと共同で、オブジェクト指向の起源となるSimulaを開発したことで知られる。 オルヨハン・ダールと表記されることもあるが、ノルウェー語の発音としては正しくない。 ノルウェーのマンダールで生まれた。ノルウェーでは最も有名な計算機科学者である。クリステン・ニガールと共に1960年代にオブジェクト指向プログラミングのアイデアを生み出し、ノルウェー・コンピューティング・センター(英語版) (NR) で Simula I(1961年–1965年)と Simula 67(1965年–1968年)をシミュレーションのためのプログラミング言語として開発した。ダールとニゴールはここで世界初のクラス、(明示的カプセル化を可能とした)サブクラス、継承、動的オブジェクト生成などオブジェクト指向パラダイムに重要な観点の数々を生み出した。「オブジェクト」はソフトウェアシステムにおける自己完結型の部品であり、その中にデータ構造とメソッドを持つ。オブジェクト群を統合して完全なシステムを形成する。オブジェクト指向は現在ではソフトウェア開発手法として広く普及しており、JavaやC++といった言語がある。 1968年、ダールはオスロ大学の教授となり、教育者としての才能も発揮した。ここで、彼はアントニー・ホーアと共に Hierarchical Program Structures を執筆した。これは彼の発表した著作の中でも最も有名なものであり、1972年のダールやエドガー・ダイクストラとの共著 Structured Programming に収録されている。1970年代のソフトウェアに関する本としては最もよく読まれた本である。 その後、ダールは形式手法に興味を引かれるようになり、オブジェクト指向について論じるにも形式手法を用いるようになっていった。多くの優秀な計算機科学者と同様、ダールの専門知識はアイデアの実用化から、アプローチの妥当性を保証する数学的なベースにまで及んでいた。 2000年、聖オーラヴ勲章を受章。2001年にはクリステン・ニゴールとチューリング賞を共同受賞し、2002年には同じくニゴールとIEEEフォン・ノイマンメダルを共同受賞した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オーレ=ヨハン・ダール(Ole-Johan Dahl、1931年10月12日 - 2002年6月29日)は、ノルウェーの計算機科学者。クリステン・ニゴールと共同で、オブジェクト指向の起源となるSimulaを開発したことで知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オルヨハン・ダールと表記されることもあるが、ノルウェー語の発音としては正しくない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ノルウェーのマンダールで生まれた。ノルウェーでは最も有名な計算機科学者である。クリステン・ニガールと共に1960年代にオブジェクト指向プログラミングのアイデアを生み出し、ノルウェー・コンピューティング・センター(英語版) (NR) で Simula I(1961年–1965年)と Simula 67(1965年–1968年)をシミュレーションのためのプログラミング言語として開発した。ダールとニゴールはここで世界初のクラス、(明示的カプセル化を可能とした)サブクラス、継承、動的オブジェクト生成などオブジェクト指向パラダイムに重要な観点の数々を生み出した。「オブジェクト」はソフトウェアシステムにおける自己完結型の部品であり、その中にデータ構造とメソッドを持つ。オブジェクト群を統合して完全なシステムを形成する。オブジェクト指向は現在ではソフトウェア開発手法として広く普及しており、JavaやC++といった言語がある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1968年、ダールはオスロ大学の教授となり、教育者としての才能も発揮した。ここで、彼はアントニー・ホーアと共に Hierarchical Program Structures を執筆した。これは彼の発表した著作の中でも最も有名なものであり、1972年のダールやエドガー・ダイクストラとの共著 Structured Programming に収録されている。1970年代のソフトウェアに関する本としては最もよく読まれた本である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、ダールは形式手法に興味を引かれるようになり、オブジェクト指向について論じるにも形式手法を用いるようになっていった。多くの優秀な計算機科学者と同様、ダールの専門知識はアイデアの実用化から、アプローチの妥当性を保証する数学的なベースにまで及んでいた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2000年、聖オーラヴ勲章を受章。2001年にはクリステン・ニゴールとチューリング賞を共同受賞し、2002年には同じくニゴールとIEEEフォン・ノイマンメダルを共同受賞した。", "title": "経歴" } ]
オーレ=ヨハン・ダールは、ノルウェーの計算機科学者。クリステン・ニゴールと共同で、オブジェクト指向の起源となるSimulaを開発したことで知られる。 オルヨハン・ダールと表記されることもあるが、ノルウェー語の発音としては正しくない。
{{Infobox Scientist | name = オーレ=ヨハン・ダール | birth_date = {{生年月日と年齢|1931|10|12|no}} | birth_place = {{NOR}}・[[マンダール]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1931|10|12|2002|6|29}} | death_place = | field = [[計算機科学]] | work_institution = {{仮リンク|ノルウェー・コンピューティング・センター|en|Norwegian Computing Center}}<br/>[[オスロ大学]] | known_for = [[Simula]]<br/>[[オブジェクト指向]] | prizes = [[チューリング賞]](2001)<br/>[[フォン・ノイマンメダル]](2002) }} '''オーレ=ヨハン・ダール'''(Ole-Johan Dahl、[[1931年]][[10月12日]] - [[2002年]][[6月29日]])は、[[ノルウェー]]の[[計算機科学]]者。[[クリステン・ニゴール]]と共同で、[[オブジェクト指向]]の起源となる[[Simula]]を開発したことで知られる。 '''オルヨハン・ダール'''と表記されることもあるが、ノルウェー語の発音としては正しくない。 == 経歴 == [[ノルウェー]]の[[マンダール]]で生まれた。ノルウェーでは最も有名な計算機科学者である。クリステン・ニガールと共に[[1960年代]]にオブジェクト指向プログラミングのアイデアを生み出し、{{仮リンク|ノルウェー・コンピューティング・センター|en|Norwegian Computing Center}} (NR) で '''[[Simula|Simula I]]'''(1961年&ndash;1965年)と '''[[Simula|Simula 67]]'''(1965年&ndash;1968年)を[[シミュレーション]]のための[[プログラミング言語]]として開発した。ダールとニゴールはここで世界初の[[クラス (コンピュータ)|クラス]]、(明示的[[カプセル化]]を可能とした)[[継承 (プログラミング)|サブクラス]]、[[継承 (プログラミング)|継承]]、動的オブジェクト生成などオブジェクト指向パラダイムに重要な観点の数々を生み出した。「オブジェクト」はソフトウェアシステムにおける自己完結型の部品であり、その中にデータ構造とメソッドを持つ。オブジェクト群を統合して完全なシステムを形成する。オブジェクト指向は現在ではソフトウェア開発手法として広く普及しており、[[Java]]や[[C++]]といった言語がある。 [[1968年]]、ダールは[[オスロ大学]]の教授となり教育者としての才能も発揮した。ここで、彼は[[アントニー・ホーア]]と共に ''Hierarchical Program Structures'' を執筆した。これは彼の発表した著作の中でも最も有名なものであり、[[1972年]]のダールや[[エドガー・ダイクストラ]]との共著 ''Structured Programming'' に収録されている。1970年代のソフトウェアに関する本としては最もよく読まれた本である。 その後、ダールは[[形式手法]]に興味を引かれるようになり、オブジェクト指向について論じるにも形式手法を用いるようになっていった。多くの優秀な計算機科学者と同様、ダールの専門知識はアイデアの実用化から、アプローチの妥当性を保証する数学的なベースにまで及んでいた。 2000年、[[聖オーラヴ勲章]]を受章。[[2001年]]にはクリステン・ニゴールと[[チューリング賞]]を共同受賞し<ref>{{Cite web |url=http://amturing.acm.org/award_winners/dahl_6917600.cfm |title=OLE-JOHAN DAHL |publisher=ACM |accessdate=2012-08-29}}</ref>、[[2002年]]には同じくニゴールと[[IEEE]][[フォン・ノイマンメダル]]を共同受賞した<ref>[http://www.mn.uio.no/ifi/om/aktuelt/utmerkelser/john-von-neumann-medaljen-for-2002-tildelt-kristen-nygaard-og-ole-johan-dahl.html John Von Neumann-medaljen for 2002 tildelt Kristen Nygaard og Ole-Johan Dahl]</ref>。 == 初期の論文 == * ''Multiple index countings on the Ferranti Mercury computer'', by O.-J. Dahl. Oslo: Norwegian Defence Research Establishment, 1957年 * ''Programmer's handbook for the Ferranti Mercury Computer, Frederic at the Norwegian Defense Research Establishment'', By O.-J. Dahl, and Jan V. Garwick. &ndash; 2nd ed., Kjeller: Norwegian Defence Research Establishment, 1958年 * Automatisk kodning: et prosjekt ved Forsvarets forskningsinstitutt. * ''Simscript implementation'', by Vic Bell and Ole-Johan Dahl. Oslo: Norwegian Computing Center, 1963年 * ''Basic concepts of [[Simula|SIMULA]]: an [[ALGOL]] based simulation language'', by Ole-Johan Dahl and Kristen Nygaard. Oslo: Norsk regnesentral, 1965年ごろ * ''[[Simula|SIMULA]]: a language for programming and description of discrete event systems : introduction and user's manual'', Oslo: Norsk regnesentral, 1965年 * ''Discrete event simulation languages: lectures delivered at the NATO summer school, Villard-de-Lans, September 1966'', by Ole-Johan Dahl. Oslo: Norsk regnesentral/Norwegian Computing Center, 1966年 * ''[[Simula|SIMULA]]: an [[ALGOL]] based simulation language'', by Ole-Johan Dahl and Kristen Nygaard. Oslo: Norsk regnesentral, 1966年 * ''[[Simula]]: an [[ALGOL]]-based simulation language'', Ole-Johan Dahl and [[クリステン・ニゴール|Kristen Nygaard]]. [[ニューヨーク州|New York]]: [[Association for Computing Machinery]], 1966年 I: ''Communications of the ACM''; 9(1966). * ''Class and subclass declarations'', Ole-Johan Dahl and Kristen Nygaard. Amsterdam: [[北ホラント州|North-Holland]], 1968年. I: Simulation programming languages: proceedings of the IFIP working conference on simulation programming languages, Oslo, May 1967 / O.-J. Dahl, conference chairman; organized by IFIP Technical Committee 2, programming languages; edited by J.N. Buxton. * ''Discrete event simulation languages'', Ole-Johan Dahl. London: Academic Press, 1968年 (Programming languages : NATO Advanced Study Institute / edited by G. Genuys.) * ''[[Simula|SIMULA 67]]: common base language'', by Ole-Johan Dahl, Bjørn Myhrhaug and Kristen Nygaard. Oslo: Norsk regnesentral, 1968年 (Publication S / Norwegian Computing Center; 2) Rev. 1970: Common base language (Publ.; 22). == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * ''From Object-Orientation to Formal Methods: Essays in Memory of Ole-Johan Dahl'', Olaf Owe, Stein Krogdahl and Tom Lyche (eds.), [[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer]], Lecture Notes in Computer Science, Volume 2635, 2004. ISBN 3-540-21366-X. * ''Pioneer who Prepared the Ground for Road to Java'', Jonathan Bowen. ''[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション|The Times Higher Education Supplement]]'', 1677:34, 4 February 2005. == 外部リンク == * [http://www.olejohandahl.info Homepage -- comprehensive amount of info, pictures, and biblio] {{ソフトウェア工学}} {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たある おおれ よはん}} [[Category:ノルウェーの計算機科学者]] [[Category:チューリング賞受賞者]]<!-- 2001年 --> [[Category:フォン・ノイマンメダルの受賞者]]<!-- 2002年 --> [[Category:プログラミング言語設計者]] [[Category:ヨーロッパ・アカデミー会員]] [[Category:形式手法の人物]] [[Category:オスロ大学の教員]] [[Category:ヴェスト・アグデル県出身の人物]] [[Category:1931年生]] [[Category:2002年没]]
2003-08-20T15:39:38Z
2023-11-02T15:51:23Z
false
false
false
[ "Template:チューリング賞", "Template:典拠管理", "Template:Infobox Scientist", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:ソフトウェア工学" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%EF%BC%9D%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB
13,627
豊田商事事件
豊田商事事件(とよたしょうじじけん)は、1980年代前半に発生した豊田商事による金の地金を用いた悪徳商法(現物まがい商法)を手口とする組織的詐欺事件である。「豊田商事問題」とも。 高齢者を中心に全国で数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられている。当時、詐欺事件としては最大の被害額である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多い。 また、この詐欺事件が社会問題化したさなかの1985年6月18日、豊田商事会長の永野一男が、事件を取材中のマスコミの目前で殺害される事件が発生した。この事件については豊田商事会長刺殺事件を参照。 なお、同名の包装資材販売会社「豊田商事株式会社」が山口県岩国市に存在するが、本稿で扱う豊田商事との関連はない。 客は金の地金を購入する契約を結ぶが、現物は客に引き渡さずに会社が預かり「純金ファミリー契約証券」という証券を代金と引き替えに渡す形式をとった。このため客は現物を購入するのか確認できず、実態は証券という名目の紙切れしか手元に残らない現物まがい商法(ペーパー商法)と言われるものであった。豊田商事の営業拠点には金の延べ棒がこれ見よがしに積まれていたが、のちの捜査によってそれは「ニセモノ」であったことが明らかになっている。 また勧誘においてはおもに独居老人が狙われたのも特徴だった。まず電話セールスで無差別に勧誘し、脈ありと判断すると相手の家を訪問する。家に上がると線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込み、インチキな契約を結ばせていった。 客を信用させるため、知名度がある企業とブランド名を悪用したりテレビCMを多数放映したほか、主催イベントで芸能人を起用している。そもそも「豊田商事」という社名自体、トヨタ自動車の系列と錯覚させるためにつけられたものであった。トヨタを盗用した理由は永野が中学校を卒業後、最初の就職先がトヨタ自動車のグループ企業である日本電装(現デンソー)だったためと言われており、トヨタグループとの資本関係は当然ながらまったくなかった。これ以前よりトヨタグループの総合商社として豊田通商がすでに存在しているほか、山口県にも本項の企業と無関係の同名の紙製品業者「豊田商事株式会社」(1948年法人化。創業者の苗字に由来し、トヨタグループとは無関係)が存在しており、「豊田商事」が名前を似せたことで風評被害に見舞われた。 同様に鹿島商事(後述)も鹿島建設の系列企業であるかのように装っているほか、ベルギーダイヤモンド(後述)は国内で仕入れた二束三文のダイヤモンドしか扱わないにもかかわらず、ベルギー大使館が新規開設のダイヤモンド販売業者に対し、業者側からの申し入れを受けて儀礼的に発行するあいさつ文を掲載するといった手法も使われていた。これらの手口は2000年代の詐欺や悪徳商法、セクトでも模倣されているケースがある。 豊田商事が次々に設立した同系会社でも、類似の詐欺事件が行われていることが明らかになっている。以下はその一例。 こうした詐欺的商法を行う会社の一方で、他の事業を行う会社も設立された。以下はその一例である。 上記のほか、以下のような事業も計画されていた。 また、上部組織として以下のような企業があった。 当時、金に対する国民の関心は高まっており、1981年に国内金輸入量は史上最高を記録。このため私設の先物取引市場が横行し、それに伴う被害も多く、社会問題になっていた。豊田商事の前身の大阪豊田商事も、私設市場を舞台に先物取引を扱っていた業者の一つだった。 このため商品取引所法が改正され、商品先物取引は政府が公認した市場で指定した品目においてのみしか認められないようにするなど、先物取引を規制する政策が打ち出された。この法規制をきっかけとして豊田商事は現物まがい商法へと手口を変えたと言われている。 破産時、売り上げの半分は従業員への給与の支払い(支店長クラスで基本給90〜140万+役職手当90万。これに支店の売り上げの0.5%が加算される)とその後の会社の運営資金として、残り半分は永野個人の先物取引での損失や会社としての事業の失敗によりほとんど消えており、豊田商事には資産と呼べるものは皆無だった。また、永野個人も殺害されたときの所持金はわずか711円だった。しかし管財人となった中坊公平の率いるチームによって、今まで豊田商事が浪費した金が回収された。 中坊が率いる管財人チームの資金回収は徹底しており、豊田商事グループの賃貸先からの家賃や敷金、高額の給料をもらっていた豊田商事の従業員が納めた税金まで回収し、その総額は100億円を越えた。一方、回収に対する妨害行為も多々発生しており、一部の暴力団や金融機関等は、管財人チームが回収した金の奪取や建物占有行為を強行した。 その後、特定商品等の預託等取引契約に関する法律(特定商品預託法)が制定された。この法律により、金などの預託取引契約に対して、一定期間内であれば理由の如何を問わず契約を解除できるクーリングオフ制度が導入された(なお預託取引契約は、一般的なクーリングオフ制度と異なり、店舗外での契約だけでなく、店舗内での契約に対してもクーリングオフ制度の適用がある)。 テレビ中継では永野への「公開処刑」および瀕死となった永野の姿が映り、暴力表現に関する議論に繋がった。また一部の週刊誌(フォーカスなど)が殺害した犯人と血まみれとなった永野を掲載し、社会的非難を浴びた。なお、事件が起こる前後に事件現場前に多数のマスコミがいたため、各所で「マスコミは凶行を阻止できなかったのか」と言った自己批判の論調がマスコミに当時多かった。 当時はこの凶行に心情的理解を示す者も少なくなかった。それは豊田商事の手法と被害の深刻さによるものである。その「殺人犯」2人に対して「懲役10年、もう1人には8年」という減軽された判決が出た事実の背景には、そのような事情を斟酌されたとの意見もある。 なお、逮捕された犯人たちは当初「騙された老人たちに依頼されてやった」などと供述していたが、のちに現場にいた報道陣が「やれやれ」と煽り立てたため犯行に及んだという旨の主張をし、報道機関に対し裁判も起こしている。 この法律の適用事例は、事業者が、消費者が購入した物品等を事業者が預かって運用し消費者に配当等を支払う旨伝えて、物品を販売し預託させるが、実際にはその販売したはずの物品等やその運用実態は存在(つまり、「現物まがい」だという点)しないという事件である。 豊田商事事件をわかりやすくいえば、 1 豊田商事は、訪問販売などで「金は値上がりす る」などと勧誘し、消費者と「金(金地金)」の売買契約を締結する。 2 1と同時に、「金は保有しているだけでは金利が付かない、当社に預けてもらえば賃借料を支払う」と説明、売りつけた金を豊田商事が賃借し、契約期間の賃借料を消費者に支払う。 3 契約期間満了時には、豊田商事が金を引き渡すか時価で買い取り代金を消費者に支払う(実際には、契約を更新させることが多い)。 という事例で、 このような詐欺罪を防ぐための法律が制定された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "豊田商事事件(とよたしょうじじけん)は、1980年代前半に発生した豊田商事による金の地金を用いた悪徳商法(現物まがい商法)を手口とする組織的詐欺事件である。「豊田商事問題」とも。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高齢者を中心に全国で数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられている。当時、詐欺事件としては最大の被害額である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、この詐欺事件が社会問題化したさなかの1985年6月18日、豊田商事会長の永野一男が、事件を取材中のマスコミの目前で殺害される事件が発生した。この事件については豊田商事会長刺殺事件を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、同名の包装資材販売会社「豊田商事株式会社」が山口県岩国市に存在するが、本稿で扱う豊田商事との関連はない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "客は金の地金を購入する契約を結ぶが、現物は客に引き渡さずに会社が預かり「純金ファミリー契約証券」という証券を代金と引き替えに渡す形式をとった。このため客は現物を購入するのか確認できず、実態は証券という名目の紙切れしか手元に残らない現物まがい商法(ペーパー商法)と言われるものであった。豊田商事の営業拠点には金の延べ棒がこれ見よがしに積まれていたが、のちの捜査によってそれは「ニセモノ」であったことが明らかになっている。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また勧誘においてはおもに独居老人が狙われたのも特徴だった。まず電話セールスで無差別に勧誘し、脈ありと判断すると相手の家を訪問する。家に上がると線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込み、インチキな契約を結ばせていった。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "客を信用させるため、知名度がある企業とブランド名を悪用したりテレビCMを多数放映したほか、主催イベントで芸能人を起用している。そもそも「豊田商事」という社名自体、トヨタ自動車の系列と錯覚させるためにつけられたものであった。トヨタを盗用した理由は永野が中学校を卒業後、最初の就職先がトヨタ自動車のグループ企業である日本電装(現デンソー)だったためと言われており、トヨタグループとの資本関係は当然ながらまったくなかった。これ以前よりトヨタグループの総合商社として豊田通商がすでに存在しているほか、山口県にも本項の企業と無関係の同名の紙製品業者「豊田商事株式会社」(1948年法人化。創業者の苗字に由来し、トヨタグループとは無関係)が存在しており、「豊田商事」が名前を似せたことで風評被害に見舞われた。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "同様に鹿島商事(後述)も鹿島建設の系列企業であるかのように装っているほか、ベルギーダイヤモンド(後述)は国内で仕入れた二束三文のダイヤモンドしか扱わないにもかかわらず、ベルギー大使館が新規開設のダイヤモンド販売業者に対し、業者側からの申し入れを受けて儀礼的に発行するあいさつ文を掲載するといった手法も使われていた。これらの手口は2000年代の詐欺や悪徳商法、セクトでも模倣されているケースがある。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "豊田商事が次々に設立した同系会社でも、類似の詐欺事件が行われていることが明らかになっている。以下はその一例。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "こうした詐欺的商法を行う会社の一方で、他の事業を行う会社も設立された。以下はその一例である。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "上記のほか、以下のような事業も計画されていた。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、上部組織として以下のような企業があった。", "title": "手口" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当時、金に対する国民の関心は高まっており、1981年に国内金輸入量は史上最高を記録。このため私設の先物取引市場が横行し、それに伴う被害も多く、社会問題になっていた。豊田商事の前身の大阪豊田商事も、私設市場を舞台に先物取引を扱っていた業者の一つだった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このため商品取引所法が改正され、商品先物取引は政府が公認した市場で指定した品目においてのみしか認められないようにするなど、先物取引を規制する政策が打ち出された。この法規制をきっかけとして豊田商事は現物まがい商法へと手口を変えたと言われている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "破産時、売り上げの半分は従業員への給与の支払い(支店長クラスで基本給90〜140万+役職手当90万。これに支店の売り上げの0.5%が加算される)とその後の会社の運営資金として、残り半分は永野個人の先物取引での損失や会社としての事業の失敗によりほとんど消えており、豊田商事には資産と呼べるものは皆無だった。また、永野個人も殺害されたときの所持金はわずか711円だった。しかし管財人となった中坊公平の率いるチームによって、今まで豊田商事が浪費した金が回収された。", "title": "被害者救済" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中坊が率いる管財人チームの資金回収は徹底しており、豊田商事グループの賃貸先からの家賃や敷金、高額の給料をもらっていた豊田商事の従業員が納めた税金まで回収し、その総額は100億円を越えた。一方、回収に対する妨害行為も多々発生しており、一部の暴力団や金融機関等は、管財人チームが回収した金の奪取や建物占有行為を強行した。", "title": "被害者救済" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、特定商品等の預託等取引契約に関する法律(特定商品預託法)が制定された。この法律により、金などの預託取引契約に対して、一定期間内であれば理由の如何を問わず契約を解除できるクーリングオフ制度が導入された(なお預託取引契約は、一般的なクーリングオフ制度と異なり、店舗外での契約だけでなく、店舗内での契約に対してもクーリングオフ制度の適用がある)。", "title": "被害者救済" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "テレビ中継では永野への「公開処刑」および瀕死となった永野の姿が映り、暴力表現に関する議論に繋がった。また一部の週刊誌(フォーカスなど)が殺害した犯人と血まみれとなった永野を掲載し、社会的非難を浴びた。なお、事件が起こる前後に事件現場前に多数のマスコミがいたため、各所で「マスコミは凶行を阻止できなかったのか」と言った自己批判の論調がマスコミに当時多かった。", "title": "報道機関" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当時はこの凶行に心情的理解を示す者も少なくなかった。それは豊田商事の手法と被害の深刻さによるものである。その「殺人犯」2人に対して「懲役10年、もう1人には8年」という減軽された判決が出た事実の背景には、そのような事情を斟酌されたとの意見もある。", "title": "報道機関" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、逮捕された犯人たちは当初「騙された老人たちに依頼されてやった」などと供述していたが、のちに現場にいた報道陣が「やれやれ」と煽り立てたため犯行に及んだという旨の主張をし、報道機関に対し裁判も起こしている。", "title": "報道機関" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この法律の適用事例は、事業者が、消費者が購入した物品等を事業者が預かって運用し消費者に配当等を支払う旨伝えて、物品を販売し預託させるが、実際にはその販売したはずの物品等やその運用実態は存在(つまり、「現物まがい」だという点)しないという事件である。", "title": "豊田商事事件を契機に法定された法律" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "豊田商事事件をわかりやすくいえば、 1 豊田商事は、訪問販売などで「金は値上がりす る」などと勧誘し、消費者と「金(金地金)」の売買契約を締結する。 2 1と同時に、「金は保有しているだけでは金利が付かない、当社に預けてもらえば賃借料を支払う」と説明、売りつけた金を豊田商事が賃借し、契約期間の賃借料を消費者に支払う。 3 契約期間満了時には、豊田商事が金を引き渡すか時価で買い取り代金を消費者に支払う(実際には、契約を更新させることが多い)。 という事例で、 このような詐欺罪を防ぐための法律が制定された。", "title": "豊田商事事件を契機に法定された法律" } ]
豊田商事事件(とよたしょうじじけん)は、1980年代前半に発生した豊田商事による金の地金を用いた悪徳商法(現物まがい商法)を手口とする組織的詐欺事件である。「豊田商事問題」とも。 高齢者を中心に全国で数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられている。当時、詐欺事件としては最大の被害額である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多い。 また、この詐欺事件が社会問題化したさなかの1985年6月18日、豊田商事会長の永野一男が、事件を取材中のマスコミの目前で殺害される事件が発生した。この事件については豊田商事会長刺殺事件を参照。 なお、同名の包装資材販売会社「豊田商事株式会社」が山口県岩国市に存在するが、本稿で扱う豊田商事との関連はない。
{{混同|豊田通商}} {{基礎情報 会社 |社名 = 豊田商事 |英文社名 = Toyota Shoji Co. Ltd. |ロゴ = |画像= |画像説明 = |種類 = [[株式会社]] |市場情報 = 非上場 |略称 = |国籍 = |郵便番号 = 530-0001 |本社所在地 = 梅田1丁目11-4 <br />大阪駅前第4ビル |設立 = [[1977年]] |業種 = 先物取引業 |事業内容 = [[金]]の[[地金]]を用いた詐欺行為。 |代表者 = |資本金 = 1000万円 |売上高 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = |主要子会社 = [[#系列会社による類似事件|系列会社による類似事件の項目を参照]] |関係する人物 = [[永野一男]](創業者) |特記事項 = }} '''豊田商事事件'''(とよたしょうじじけん)は、[[1980年代]]前半に発生した豊田商事による[[金]]の[[地金]]を用いた[[悪徳商法]]([[現物まがい商法]])を手口とする組織的[[詐欺]]事件である。「'''豊田商事問題'''」とも<ref>{{Cite web|和書|title=第103回国会 衆議院 商工委員会流通問題小委員会 第1号 昭和60年12月10日|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110304531X00119851210|website=kokkai.ndl.go.jp|accessdate=2020-09-23|publisher=}}</ref>。 [[高齢者]]を中心に全国で数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられている。当時、詐欺事件としては最大の被害額<ref group="注">2009年2月5日付の[[日本経済新聞]]に掲載された「過去の大型詐欺事件と推定被害総額」によると、豊田商事事件に次ぐ被害額は[[八葉グループ事件]](2002年)の1559億円、次いで[[エル・アンド・ジー|L&G事件]](2009年)の1260億円となっている。</ref>である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多い。 また、この詐欺事件が社会問題化したさなかの[[1985年]][[6月18日]]、豊田商事会長の[[永野一男]]が、事件を取材中のマスコミの目前で殺害される事件が発生した。この事件については[[豊田商事会長刺殺事件]]を参照。 なお、同名の包装資材販売会社「豊田商事株式会社」が[[山口県]][[岩国市]]に存在するが、本稿で扱う豊田商事との関連はない。 == 年表 == * [[1977年]]頃、永野一男が名古屋市で「豊田商事」の商号により[[金地金]]の商品取引を始める<ref name=hanrei>[https://web.archive.org/web/20200719043311/https://daihanrei.com/l/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%96%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%82%8F%EF%BC%89%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%97%EF%BC%93%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 大阪地方裁判所 昭和62年(わ)2473号 判決]大判例</ref>。 * [[1978年]]7月8日、営業目的を貴金属の販売、有価証券の保有利用等と定め、本店を[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]に置き、名目上の代表者を道添憲男とし、資本金5,000万円で法人化<ref name=hanrei/>。ただし、実体は金ブラック業者であり、[[ノミ行為|呑み行為]]による導入金によって組織を拡大、大阪・福岡各支店、岐阜・三重各営業所等を新設<ref name=hanrei/>。 * [[1980年]]1月、同業者が[[外国為替及び外国貿易法|外国為替管理法]]違反で摘発されたことをきっかけに名古屋支店で取りつけ騒ぎが発生したため、大阪支店に拠点を移す<ref name=hanrei/>。 * 1980年8月28日、永野が代表取締役に就任<ref name=hanrei/>。 * 1981年3月、「純金等ファミリー契約」販売開始<ref name=hanrei/>。 * [[1981年]]4月22日、新たに「大阪豊田商事株式会社」を[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[梅田]]に設立(資本金1,000万円)。代表取締役社長に永野が就任<ref name=hanrei/>。 * [[1982年]]9月27日、大阪豊田商事株式会社を「豊田商事株式会社」に商号変更<ref name=hanrei/>。 * [[1985年]]、豊田商事の商法が社会問題化。[[国民生活センター]]などにより豊田商事関連の110番が設置された。 ** 4月、関連会社の鹿島商事の外務員が逮捕され、捜査が本格化する。 ** 6月18日、[[豊田商事会長刺殺事件|永野が殺害される事件]]が発生。 ** 7月1日、豊田商事が[[破産宣告]]を受け、[[破産管財人]]として弁護士の[[中坊公平]]が選出された。 == 手口 == 客は[[金]]の[[地金]]を購入する契約を結ぶが、現物は客に引き渡さずに会社が預かり「純金ファミリー契約証券」という[[証券]]を代金と引き替えに渡す形式をとった。このため客は現物を購入するのか確認できず、実態は証券という名目の紙切れしか手元に残らない[[現物まがい商法]](ペーパー商法)と言われるものであった。豊田商事の営業拠点には金の延べ棒がこれ見よがしに積まれていたが、のちの[[捜査]]によってそれは「ニセモノ」であったことが明らかになっている。 また勧誘においてはおもに[[独居老人]]が狙われたのも特徴だった。まず[[電話勧誘販売|電話セールス]]で無差別に勧誘し、脈ありと判断すると相手の家を訪問する。家に上がると線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込み、インチキな契約を結ばせていった。 客を信用させるため、知名度がある企業とブランド名を悪用したりテレビCMを多数放映したほか、主催イベントで芸能人を起用している。そもそも「豊田商事」という社名自体、[[トヨタ自動車]]の系列と錯覚させるためにつけられたものであった。トヨタを盗用した理由は永野が中学校を卒業後、最初の就職先がトヨタ自動車のグループ企業である日本電装(現[[デンソー]])だったためと言われており、トヨタグループとの資本関係は当然ながらまったくなかった。これ以前より[[トヨタグループ]]の[[総合商社]]として[[豊田通商]]がすでに存在しているほか、[[山口県]]にも本項の企業と無関係の同名の紙製品業者「豊田商事株式会社」(1948年法人化。創業者の苗字に由来し、トヨタグループとは無関係)が存在しており、「豊田商事」が名前を似せたことで[[風評被害]]に見舞われた<ref group="注">[[商法]]12条及び13条に「他の[[商人]]と誤認させる名称等の使用の禁止」が規定されており、類似[[商号]]の使用は禁止されている。</ref><ref>{{Cite news|title=社名が似ているばっかりに豊田通商 とばっちりに泣く 被害者から苦情の電話 家族まで“疑惑”の目|date=1985-06-18|newspaper=朝日新聞夕刊|agency=朝日新聞社}}</ref>。 同様に鹿島商事(後述)も[[鹿島建設]]の[[企業系列|系列企業]]であるかのように装っているほか、ベルギーダイヤモンド(後述)は国内で仕入れた二束三文の[[ダイヤモンド]]しか扱わないにもかかわらず、[[駐日ベルギー大使館|ベルギー大使館]]が新規開設のダイヤモンド販売業者に対し、業者側からの申し入れを受けて儀礼的に発行するあいさつ文を掲載するといった手法も使われていた。これらの手口は[[2000年代]]の[[詐欺]]や悪徳商法、[[セクト]]でも模倣されているケースがある。 === 系列会社による類似事件 === 豊田商事が次々に設立した同系会社でも、類似の詐欺事件が行われていることが明らかになっている。以下はその一例。 ==== 鹿島商事 ==== : 販売対象物を金から[[ゴルフ会員権|ゴルフクラブ会員権]]に変え、現物まがい商法に会員権商法を組み合わせた詐欺を行った。客が購入した会員権は自分ではプレーせず、これを「'''豊田ゴルフクラブ'''」という別会社に[[賃貸借|賃貸]]して、その賃貸収入を得ると謳っていたが、当の[[ゴルフ場]]は申し訳程度に営業しているだけであり、ゴルフ会員権に[[資産]]価値はなかった。 ==== ベルギーダイヤモンド ==== : 資産[[価値]]がほとんどない屑[[ダイヤモンド|ダイヤ]]を恒久資産になると称して、[[マルチまがい商法]]の手法で販売し、[[催眠商法]]の手口も悪用するなどして豊田商事本体と並ぶ多くの被害を出した。 === その他の事業会社 === こうした詐欺的商法を行う会社の一方で、他の事業を行う会社も設立された。以下はその一例である。 * 海外タイムス - おもな事業は[[新聞]]の発行。 * [[公共施設地図航空]] - [[航空会社]]。 * 公営競技施設株式会社 - [[競輪]]の[[競輪場外車券売場|場外車券発売所]]賃貸および[[投票券 (公営競技)|投票券]]の販売代行を行う目的で設立したが、競輪低迷により実現できなかった。 上記のほか、以下のような事業も計画されていた。 * [[インドネシア海軍]]の機材納入企業の設立(現地側の都合により実現せず) * [[ハイチ共和国]]の[[国軍]]向け[[被服]][[工場]]建設(現地側の都合により実現せず) * 大洋商事(たいようしょうじ) - [[オーストラリア]]や[[沖縄]]に総合レジャークラブを設立し、会員権を売り出そうとしたが、オーストラリアでは外国人による[[土地]]取引に関する規制、沖縄では地元住民の[[反対運動]]で思うままに進められず、販売体制を構築する前に豊田商事本体が行き詰まり、頓挫。 また、上部組織として以下のような企業があった。 * '''白道'''(びゃくどう) - グループの統括会社。[[宗教団体]]を目指していたと言う説もある。 * '''銀河計画'''(ぎんがけいかく) - 由来は「[[銀河]]にある星の数ほどグループ会社を作りたい」という思惑とされる。 == 背景 == 当時、金に対する国民の関心は高まっており、1981年に国内金輸入量は史上最高を記録。このため私設の[[商品先物取引|先物取引]]市場が横行し、それに伴う被害も多く、社会問題になっていた。豊田商事の前身の大阪豊田商事も、私設市場を舞台に先物取引を扱っていた業者の一つだった。 このため[[商品取引所法]]が改正され、商品先物取引は政府が公認した市場で指定した品目においてのみしか認められないようにするなど、先物取引を規制する政策が打ち出された。この法規制をきっかけとして豊田商事は現物まがい商法へと手口を変えたと言われている{{誰2|date=2014年12月}}。 == 被害者救済 == 破産時、売り上げの半分は従業員への給与の支払い(支店長クラスで基本給90〜140万+役職手当90万。これに支店の売り上げの0.5%が加算される)とその後の会社の運営資金として、残り半分は永野個人の先物取引での損失や会社としての事業の失敗によりほとんど消えており、豊田商事には資産と呼べるものは皆無だった。また、永野個人も殺害されたときの所持金はわずか711円だった<ref>{{Cite web|和書|title=被害総額2000億円!豊田商事「会長刺殺事件」の凄惨な結末(週刊現代) @gendai_biz|url=https://gendai.media/articles/-/48878|website=現代ビジネス|accessdate=2020-09-20}}</ref>。しかし管財人となった[[中坊公平]]の率いるチームによって、今まで豊田商事が浪費した金が回収された。 中坊が率いる管財人チームの資金回収は徹底しており、豊田商事グループの賃貸先からの家賃や敷金、高額の給料をもらっていた豊田商事の従業員が納めた[[税金]]まで回収し、その総額は100億円を越えた。一方、回収に対する妨害行為も多々発生しており、一部の暴力団や金融機関等は、管財人チームが回収した金の奪取や建物占有行為を強行した。 その後、[[特定商品等の預託等取引契約に関する法律]](特定商品預託法)が制定された。この法律により、金などの預託取引契約に対して、一定期間内であれば理由の如何を問わず契約を解除できる[[クーリングオフ|クーリングオフ制度]]が導入された(なお預託取引契約は、一般的なクーリングオフ制度と異なり、店舗外での契約だけでなく、店舗内での契約に対してもクーリングオフ制度の適用がある)。 == 報道機関 == {{main|豊田商事会長刺殺事件}} テレビ中継では永野への「公開処刑」および瀕死となった永野の姿が映り、暴力表現に関する議論に繋がった。また一部の週刊誌([[FOCUS|フォーカス]]など)が殺害した犯人と血まみれとなった永野を掲載し、社会的非難を浴びた。なお、事件が起こる前後に事件現場前に多数のマスコミがいたため、各所で「マスコミは凶行を阻止できなかったのか」と言った自己批判の論調がマスコミに当時多かった。 当時はこの凶行に心情的理解を示す者も少なくなかった。それは豊田商事の手法と被害の深刻さによるものである。その「殺人犯」2人に対して「懲役10年、もう1人には8年」という減軽された判決が出た事実の背景には、そのような事情を斟酌されたとの意見もある{{誰2|date=2014年12月}}。 なお、逮捕された犯人たちは当初「騙された老人たちに依頼されてやった」などと供述していたが、のちに現場にいた報道陣が「やれやれ」と煽り立てたため犯行に及んだという旨の主張をし、報道機関に対し裁判も起こしている。 == 豊田商事事件を契機に法定された法律 == 「特定商品等の預託等取引契約に関する法律(預託法)」が、豊田商事事件を契機として、詐欺的な販売預託商法を規制するために昭和 61 年に制定された。 この法律の適用事例は、事業者が、消費者が購入した物品等を事業者が預かって運用し消費者に配当等を支払う旨伝えて、物品を販売し預託させるが、実際にはその販売したはずの物品等やその運用実態は存在(つまり、「現物まがい」だという点)しないという事件である。 豊田商事事件をわかりやすくいえば、 ① 豊田商事は、訪問販売などで「金は値上がりす る」などと勧誘し、消費者と「金(金地金)」の売買契約を締結する。 ② ①と同時に、「金は保有しているだけでは金利が付かない、当社に預けてもらえば賃借料を支払う」と説明、売りつけた金を豊田商事が賃借し、契約期間の賃借料を消費者に支払う。 ③ 契約期間満了時には、豊田商事が金を引き渡すか時価で買い取り代金を消費者に支払う(実際には、契約を更新させることが多い)。 という事例で、 このような詐欺罪を防ぐための法律が制定された。 === 豊田商事事件を主要な題材とした作品 === * [[地獄の黄金 小説・豊田商事]] *: 豊田商事事件を題材とした[[大下英治]]の小説。取引のあった暴力団や新宗教団体の名称は、何らかの事情により仮名となっている。ただし、[[モルモン教]](この企業に[[オーストラリア]]進出を進めた人物が所属していた企業の親会社[[スーザンインベストメント]]と関連が深い)のように名称が出ている場合もある。 * 映画『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』 *: [[内田裕也]]脚本・主演、[[滝田洋二郎]]監督により[[1986年]]に製作・公開された日本映画作品。1985年の世相を内田扮する[[ワイドショー]]のリポーターの目線で描いたもので、豊田商事会長刺殺事件をモデルとした殺人事件の犯人を[[ビートたけし]]が演じた。 * [[土曜ワイド劇場]]15周年特別企画「金の夢は血に濡れて」- 1992年12月12日放送。主演は[[役所広司]]。永野一男は[[片岡鶴太郎]]が演じた。 * 小説『[[マネーゲーム]]』[[久間十義]](1988年1月、河出書房新社/1990年10月、河出文庫) === 類似業者 === * [[近未來通信]] - 豊田商事とは直接関係はないが、[[日本のIP電話|IP電話]]を口実にして詐欺行為を行っている。 * [[投資ジャーナル事件|投資ジャーナル]] - 同時期に活動していた詐欺グループ。両者のトップは面識があったことでも知られている。 == 債権回収や問題提起に関わった人物 == === 豊田商事破産事件管財人弁護士団 === * [[中坊公平]] *: 豊田商事破産事件管財人弁護士団管財人。活動が「[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]」で取り上げられたが、[[整理回収機構]]の不適切な債権回収の責任を取って弁護士を廃業。2013年死去。 * [[鬼追明夫]] *: 豊田商事破産事件管財人弁護士団管財人。 * [[児玉憲夫]] *: 豊田商事破産事件管財人弁護士団管財人。 *[[坂本堤]] *: 豊田商事破産事件管財人弁護士団に事務員として参加。 === 豊田商事被害者弁護団 === * [[北野弘久]] - 豊田商事被害者弁護団長を務める。 * [[山口健一]] - 豊田商事全国被害者弁護団連絡会議事務局長を務める。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[永野一男]] * [[豊田商事会長刺殺事件]] == 外部リンク == * [https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110205063X00619850606 衆議院会議録情報 第102回国会 物価問題等に関する特別委員会 第6号] * [https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110205063X00719850620 衆議院会議録情報 第102回国会 物価問題等に関する特別委員会 第7号] * {{NHK放送史|D0009030197_00000|豊田商事 悪徳商法}} * [https://web.archive.org/web/20210510190129/http://www.fuku2.co.jp/kuukou.html 公共施設地図航空紹介ページ] - 福ふくガイドによるもの。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とよたしようししけん}} [[Category:日本の詐欺事件]] [[Category:悪徳商法]] [[Category:経済犯罪]] [[Category:日本の組織犯罪]] [[Category:1985年の日本の事件]] [[Category:金融スキャンダル]] [[Category:戦後の大阪]]
2003-08-20T15:40:09Z
2023-12-02T17:52:43Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 会社", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:NHK放送史", "Template:混同", "Template:誰2", "Template:Main", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%95%86%E4%BA%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
13,629
クリステン・ニゴール
クリステン・ニゴール (Kristen Nygaard, 1926年8月27日 - 2002年8月10日)は、ノルウェー人の数学者、計算機科学者にして政治家。オスロ生まれ。2002年、心筋梗塞により死去。クリステン・ニガードと表記されることもある。ノルウェー語での発音により近い表記は、ニィゴール。 1960年代にオーレヨハン・ダールと共にオブジェクト指向プログラミングを創始し、プログラミング言語Simulaを開発したことで知られている。現代情報社会の基盤を形成しているコンピュータシステムは人類が創造した最も複雑なものである。ニゴールらが行った革新的研究によってその複雑さを管理することが可能となった。 1956年、オスロ大学で数学の修士号を取得した。論文テーマは "Theoretical Aspects of Monte Carlo Methods"(モンテカルロ法の理論的側面)である。 ノルウェー国防研究機構に1948年から1960年まで勤務した(1954年ごろまで、情報工学とプログラミング、1952年ごろから、オペレーションズリサーチを主に担当)。1957年以降、同機構初のオペレーションズリサーチグループのリーダーとなった。彼はノルウェーでのオペレーションズリサーチの学会の設立にも関与し、初代会長も務めた(1959年-1964年)。 1960年、ノルウェー・コンピューティング・センター (NR) に雇われ、研究機関としての基礎固めを行い、1962年に研究部門長となった。ここでオーレヨハン・ダールと共同で世界初のオブジェクト指向プログラミング言語 SIMULA I(1961年-1965年)とSIMULA 67を開発した。その後のオブジェクト指向言語を構成するオブジェクト、クラス、継承、マルチスレッドプログラム実行などはここで生み出された。1971年から1973年まで、労働運動の目的を考慮してノルウェーの労働組合の計画、コントロール、データ処理などを評価する研究を行った。また、1975年ごろまでコンピュータ技術が社会に与える影響などの研究を行い、同時に汎用システム記述言語 DELTA を開発した。 1975年から1976年まで、デンマークのオーフスで教授を務め、その後オスロで名誉教授となった(1977年からパートタイム、1984年から1996年までフルタイム)。この時期にシステム開発とコンピュータ技術の社会への影響について研究と教育を行い、参加型デザインと呼ばれる分野に密接に関連する Scandinavian School in System Development を設立した。 1976年から汎用オブジェクト指向プログラミング言語 BETA の開発と実装(1986年から)に携わった。この言語は今では様々なコンピュータで使用可能となっている。 1980年代前半、スカンディナヴィアの研究プログラム SYDPOL の運営委員会会長を務めた。これはシステム開発、言語研究、人工知能などを研究するグループをサポートするものである。 1990年6月、スウェーデンのルンド大学から名誉博士号を授与され、1991年6月にはデンマークの University of Aalborg からも名誉博士号を授与された。また、ノルウェー科学アカデミーの会員にもなった。1990年10月、社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会はニゴールの貢献に対してノーバート・ウィーナー賞を授与した。 1995年から1999年、分散型システムに関する研究を行った。1997年から3年間、GOODS(General Object-Oriented Distributed Systems)のリーダーを務めた。これはハードウェア基盤からユーザーまでを含めた階層型の分散システムを設計可能なオブジェクト指向言語と開発手法の改良を目指したものである。 2000年6月、「オブジェクト技術のコンセプトを生み出した」ことに対して、オブジェクト指向の国際標準化団体 Object Management Group(OMG) から名誉フェローとして表彰された。2001年11月、ダールと共に「SIMULA 67 の設計と実装を通してオブジェクト指向プログラミングのコンセプトを生み出したことに対して」IEEEフォン・ノイマンメダルを受賞した。2002年2月、再びダールと共に2001年のチューリング賞を受賞した。受賞理由は「プログラミング言語 Simula I と Simula 67 の設計を通してオブジェクト指向プログラミングの基本的なアイデアを生み出したことに対して」である。 晩年の研究は主に入門的なプログラミング教育と情報学のためのプロセス指向概念基盤の創造であった。このための新たな研究プロジェクト COOL(Comprehensive Object-Oriented Learning) で開発が行われた。 1970年代の約10年間、OECDにおいてノルウェーの情報技術関連の代表として働いた。また、ノルウェー労働組合連合会の研究委員会の一員として各国の労働組合とも協力していた。 1984年から1985年にかけて、オスロ大学情報学委員会の議長として大学内の研究・教育・コンピュータ設備などの計画策定に携わった。 彼はまた、環境保護、アルコール中毒患者救済などに関しても活動を行った。1960年代中盤以降、ノルウェーの政党 Venstre の運営委員会の一員として政治活動を行った。1971年から2001年、労働党のメンバーとして運営にも関わった。特に1972年の欧州連合加盟に関する投票の際には、加盟によって不利益を受ける若者たちと共に反対の立場をとり、積極的に活動を展開した。1994年の欧州連合加盟に関する投票に際して、ニゴールは Nei til EU(英語にすると No to EU)を組織して大々的なキャンペーンを行った。これにより11月28日、52.5%が欧州連合加盟に反対となったのである。 1996年から1997年にかけて、反マーストリヒト運動を組織した。これはマーストリヒト条約とヨーロッパの経済通貨統合に反対する各国の組織を連携させるもので、1997年3月3日に発足した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クリステン・ニゴール (Kristen Nygaard, 1926年8月27日 - 2002年8月10日)は、ノルウェー人の数学者、計算機科学者にして政治家。オスロ生まれ。2002年、心筋梗塞により死去。クリステン・ニガードと表記されることもある。ノルウェー語での発音により近い表記は、ニィゴール。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1960年代にオーレヨハン・ダールと共にオブジェクト指向プログラミングを創始し、プログラミング言語Simulaを開発したことで知られている。現代情報社会の基盤を形成しているコンピュータシステムは人類が創造した最も複雑なものである。ニゴールらが行った革新的研究によってその複雑さを管理することが可能となった。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1956年、オスロ大学で数学の修士号を取得した。論文テーマは \"Theoretical Aspects of Monte Carlo Methods\"(モンテカルロ法の理論的側面)である。 ノルウェー国防研究機構に1948年から1960年まで勤務した(1954年ごろまで、情報工学とプログラミング、1952年ごろから、オペレーションズリサーチを主に担当)。1957年以降、同機構初のオペレーションズリサーチグループのリーダーとなった。彼はノルウェーでのオペレーションズリサーチの学会の設立にも関与し、初代会長も務めた(1959年-1964年)。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1960年、ノルウェー・コンピューティング・センター (NR) に雇われ、研究機関としての基礎固めを行い、1962年に研究部門長となった。ここでオーレヨハン・ダールと共同で世界初のオブジェクト指向プログラミング言語 SIMULA I(1961年-1965年)とSIMULA 67を開発した。その後のオブジェクト指向言語を構成するオブジェクト、クラス、継承、マルチスレッドプログラム実行などはここで生み出された。1971年から1973年まで、労働運動の目的を考慮してノルウェーの労働組合の計画、コントロール、データ処理などを評価する研究を行った。また、1975年ごろまでコンピュータ技術が社会に与える影響などの研究を行い、同時に汎用システム記述言語 DELTA を開発した。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1975年から1976年まで、デンマークのオーフスで教授を務め、その後オスロで名誉教授となった(1977年からパートタイム、1984年から1996年までフルタイム)。この時期にシステム開発とコンピュータ技術の社会への影響について研究と教育を行い、参加型デザインと呼ばれる分野に密接に関連する Scandinavian School in System Development を設立した。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1976年から汎用オブジェクト指向プログラミング言語 BETA の開発と実装(1986年から)に携わった。この言語は今では様々なコンピュータで使用可能となっている。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代前半、スカンディナヴィアの研究プログラム SYDPOL の運営委員会会長を務めた。これはシステム開発、言語研究、人工知能などを研究するグループをサポートするものである。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1990年6月、スウェーデンのルンド大学から名誉博士号を授与され、1991年6月にはデンマークの University of Aalborg からも名誉博士号を授与された。また、ノルウェー科学アカデミーの会員にもなった。1990年10月、社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会はニゴールの貢献に対してノーバート・ウィーナー賞を授与した。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1995年から1999年、分散型システムに関する研究を行った。1997年から3年間、GOODS(General Object-Oriented Distributed Systems)のリーダーを務めた。これはハードウェア基盤からユーザーまでを含めた階層型の分散システムを設計可能なオブジェクト指向言語と開発手法の改良を目指したものである。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2000年6月、「オブジェクト技術のコンセプトを生み出した」ことに対して、オブジェクト指向の国際標準化団体 Object Management Group(OMG) から名誉フェローとして表彰された。2001年11月、ダールと共に「SIMULA 67 の設計と実装を通してオブジェクト指向プログラミングのコンセプトを生み出したことに対して」IEEEフォン・ノイマンメダルを受賞した。2002年2月、再びダールと共に2001年のチューリング賞を受賞した。受賞理由は「プログラミング言語 Simula I と Simula 67 の設計を通してオブジェクト指向プログラミングの基本的なアイデアを生み出したことに対して」である。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "晩年の研究は主に入門的なプログラミング教育と情報学のためのプロセス指向概念基盤の創造であった。このための新たな研究プロジェクト COOL(Comprehensive Object-Oriented Learning) で開発が行われた。", "title": "オブジェクト指向プログラミング" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1970年代の約10年間、OECDにおいてノルウェーの情報技術関連の代表として働いた。また、ノルウェー労働組合連合会の研究委員会の一員として各国の労働組合とも協力していた。", "title": "その他の業績" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1984年から1985年にかけて、オスロ大学情報学委員会の議長として大学内の研究・教育・コンピュータ設備などの計画策定に携わった。", "title": "その他の業績" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "彼はまた、環境保護、アルコール中毒患者救済などに関しても活動を行った。1960年代中盤以降、ノルウェーの政党 Venstre の運営委員会の一員として政治活動を行った。1971年から2001年、労働党のメンバーとして運営にも関わった。特に1972年の欧州連合加盟に関する投票の際には、加盟によって不利益を受ける若者たちと共に反対の立場をとり、積極的に活動を展開した。1994年の欧州連合加盟に関する投票に際して、ニゴールは Nei til EU(英語にすると No to EU)を組織して大々的なキャンペーンを行った。これにより11月28日、52.5%が欧州連合加盟に反対となったのである。", "title": "その他の業績" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1996年から1997年にかけて、反マーストリヒト運動を組織した。これはマーストリヒト条約とヨーロッパの経済通貨統合に反対する各国の組織を連携させるもので、1997年3月3日に発足した。", "title": "その他の業績" } ]
クリステン・ニゴール は、ノルウェー人の数学者、計算機科学者にして政治家。オスロ生まれ。2002年、心筋梗塞により死去。クリステン・ニガードと表記されることもある。ノルウェー語での発音により近い表記は、ニィゴール。
{{Infobox Scientist | name = クリステン・ニゴール<br>Kristen Nygaard | image = Kristen-Nygaard-SBLP-1997-head.png | image_size = 200px | caption =クリステン・ニゴール(1997) | birth_date = {{生年月日|1926|8|27|no}} | birth_place = {{NOR}} [[オスロ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1926|8|27|2002|8|10}} | death_place = {{NOR}} オスロ | field = [[計算機科学]] | work_institution = {{仮リンク|ノルウェー国防研究機構|en|Norwegian Defense Research Establishment}}<br/>ノルウェー・オペレーショナル・リサーチ学会<br/>{{仮リンク|ノルウェー・コンピューティング・センター|en|Norwegian Computing Center}}<br/>[[オーフス大学]]<br />[[オスロ大学]] | known_for = [[オブジェクト指向]]<br/>[[Simula]] | prizes = [[チューリング賞]](2001)<br/>[[フォン・ノイマンメダル]](2002)<br/>[[聖オーラヴ勲章]]<br/>[[ノーバート・ウィナー賞]](1990) }} '''クリステン・ニゴール '''(''Kristen Nygaard'', [[1926年]][[8月27日]] - [[2002年]][[8月10日]])は、[[ノルウェー]]人の[[数学者]]、計算機科学者にして[[政治家]]。[[オスロ]]生まれ。[[2002年]]、[[心筋梗塞]]により死去。'''クリステン・ニガード'''と表記されることもある。[[ノルウェー語]]での発音により近い表記は、'''ニィゴール'''。 ==オブジェクト指向プログラミング== [[1960年代]]に[[オーレヨハン・ダール]]と共に[[オブジェクト指向プログラミング]]を創始し、[[プログラミング言語]][[Simula]]を開発したことで知られている。現代情報社会の基盤を形成しているコンピュータシステムは人類が創造した最も複雑なものである。ニゴールらが行った革新的研究によってその複雑さを管理することが可能となった。 [[1956年]]、[[オスロ大学]]で[[数学]]の修士号を取得した。論文テーマは "Theoretical Aspects of Monte Carlo Methods"([[モンテカルロ法]]の理論的側面)である。 ノルウェー国防研究機構に[[1948年]]から[[1960年]]まで勤務した([[1954年]]ごろまで、[[情報工学]]と[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]、[[1952年]]ごろから、[[オペレーションズリサーチ]]を主に担当)。[[1957年]]以降、同機構初の[[オペレーションズリサーチ]]グループのリーダーとなった。彼はノルウェーでのオペレーションズリサーチの学会の設立にも関与し、初代会長も務めた(1959年-1964年)。 1960年、ノルウェー・コンピューティング・センター (NR) に雇われ、研究機関としての基礎固めを行い、1962年に研究部門長となった。ここでオーレヨハン・ダールと共同で世界初の[[オブジェクト指向プログラミング]]言語 [[Simula|SIMULA I]](1961年-1965年)と[[Simula|SIMULA 67]]を開発した。その後のオブジェクト指向言語を構成する[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]、[[クラス (コンピュータ)|クラス]]、[[継承 (プログラミング)|継承]]、[[マルチスレッド]]プログラム実行などはここで生み出された。1971年から1973年まで、[[労働運動]]の目的を考慮して[[ノルウェー]]の[[労働組合]]の計画、コントロール、データ処理などを評価する研究を行った。また、1975年ごろまでコンピュータ技術が社会に与える影響などの研究を行い、同時に汎用システム記述言語 DELTA を開発した。 1975年から1976年まで、[[デンマーク]]の[[オーフス]]で教授を務め、その後[[オスロ]]で名誉教授となった([[1977年]]からパートタイム、1984年から1996年までフルタイム)。この時期にシステム開発とコンピュータ技術の社会への影響について研究と教育を行い、[[参加型デザイン]]と呼ばれる分野に密接に関連する Scandinavian School in System Development を設立した。 1976年から汎用オブジェクト指向プログラミング言語 BETA の開発と実装(1986年から)に携わった。この言語は今では様々なコンピュータで使用可能となっている。 1980年代前半、[[スカンディナヴィア]]の研究プログラム SYDPOL の運営委員会会長を務めた。これはシステム開発、言語研究、[[人工知能]]などを研究するグループをサポートするものである。 [[1990年]]6月、[[スウェーデン]]の[[ルンド大学]]から名誉博士号を授与され、[[1991年]]6月には[[デンマーク]]の University of Aalborg からも名誉博士号を授与された。また、ノルウェー科学アカデミーの会員にもなった。1990年10月、[[社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会]]はニゴールの貢献に対して[[ノーバート・ウィーナー賞]]を授与した。 1995年から1999年、[[分散コンピューティング|分散型システム]]に関する研究を行った。1997年から3年間、GOODS(General Object-Oriented Distributed Systems)のリーダーを務めた。これはハードウェア基盤からユーザーまでを含めた階層型の分散システムを設計可能なオブジェクト指向言語と開発手法の改良を目指したものである。 [[2000年]]6月、「オブジェクト技術のコンセプトを生み出した」ことに対して、オブジェクト指向の国際標準化団体 [[Object Management Group]](OMG) から名誉フェローとして表彰された。2001年11月、ダールと共に「SIMULA 67 の設計と実装を通して[[オブジェクト指向プログラミング]]のコンセプトを生み出したことに対して」[[IEEE]][[フォン・ノイマンメダル]]を受賞した。2002年2月、再びダールと共に[[2001年]]の[[チューリング賞]]を受賞した。受賞理由は「[[プログラミング言語]] Simula I と Simula 67 の設計を通して[[オブジェクト指向プログラミング]]の基本的なアイデアを生み出したことに対して」である。<!-- In August 2000 he was made [[Commander of the Order of Saint Olav]] by the [[Harald V of Norway|King of Norway]]. 聖オラブの命による司令官って何? --> 晩年の研究は主に入門的なプログラミング教育と[[情報学]]のためのプロセス指向概念基盤の創造であった。このための新たな研究プロジェクト COOL(Comprehensive Object-Oriented Learning) で開発が行われた。 ==その他の業績== [[1970年代]]の約10年間、[[経済協力開発機構|OECD]]においてノルウェーの情報技術関連の代表として働いた。また、ノルウェー労働組合連合会の研究委員会の一員として各国の労働組合とも協力していた。 [[1984年]]から[[1985年]]にかけて、[[オスロ大学]]情報学委員会の議長として大学内の研究・教育・コンピュータ設備などの計画策定に携わった。 彼はまた、環境保護、アルコール中毒患者救済などに関しても活動を行った。[[1960年代]]中盤以降、ノルウェーの政党 Venstre の運営委員会の一員として政治活動を行った。[[1971年]]から[[2001年]]、労働党のメンバーとして運営にも関わった。特に[[1972年]]の[[欧州連合]]加盟に関する投票の際には、加盟によって不利益を受ける若者たちと共に反対の立場をとり、積極的に活動を展開した。[[1994年]]の欧州連合加盟に関する投票に際して、ニゴールは ''Nei til EU''(英語にすると No to EU)を組織して大々的なキャンペーンを行った。これにより11月28日、52.5%が欧州連合加盟に反対となったのである。 [[1996年]]から[[1997年]]にかけて、反マーストリヒト運動を組織した。これは[[マーストリヒト条約]]とヨーロッパの[[経済通貨統合]]に反対する各国の組織を連携させるもので、1997年3月3日に発足した。 ==出典== *[http://www.ifi.uio.no/~kristen/PRIVATDOK_MAPPE/PR_CV_KN.html Curriculum Vitae for Kristen Nygaard] (2002年2月15日) ==外部リンク== *[http://heim.ifi.uio.no/gisle/in_memoriam_kristen/index.html In Memoriam Kristen Nygaard] *[http://www.ifi.uio.no/~kristen/ Kristen Nygaard's homepage at Department of Informatics, University of Oslo] {{チューリング賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にこおる くりすてん}} [[Category:20世紀の数学者|260827]] [[Category:21世紀の数学者|-260827]] [[Category:ノルウェーの計算機科学者]] [[Category:ノルウェーの数学者]] [[Category:プログラミング言語設計者]] [[Category:プログラミング言語研究者]] [[Category:チューリング賞受賞者]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:オスロ大学の教員]] [[Category:ノルウェー科学文学アカデミー会員]] [[Category:オスロ大学出身の人物]] [[Category:オスロ出身の人物]] [[Category:心筋梗塞で亡くなった人物]] [[Category:1926年生]] [[Category:2002年没]]
2003-08-20T15:46:30Z
2023-10-07T14:23:11Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Scientist", "Template:チューリング賞", "Template:典拠管理" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB
13,634
モータルコンバット
『モータルコンバット』 (Mortal Kombat、略称:MK) は、ミッドウェイゲームズが1992年に開発・発売した対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称。日本においては『モーコン』と略されることもある。 米国での1作目はミッドウェイによるアーケード版が初出。日本では1992年12月中旬にアーケード版をタイトーがライセンス販売。家庭用ではアクレイムジャパンより『モータルコンバット』がスーパーファミコン、メガドライブ、ゲームボーイ、ゲームギア用に移植されたものが初上陸となる。 タイトルの『Mortal Kombat』は本来英語では『Mortal Combat』(命がけの争い)が正しい綴りだが、本シリーズにおいては「C」が頭文字の英単語は先頭の「C」を「K」に意図的に差し替えて表記する(例:Continue → Kontinue)。 1992年10月、実写取り込みのキャラクターが登場する2D対戦型格闘ゲームとして初代『モータルコンバット』はリリースされた。同作においては対戦に敗れた相手を惨殺するトドメ専用の演出である「フェイタリティ(Fatality)」が取り入れられており、賛否両論を呼んだ。 その後も、シリーズを重ねる中で様々な変遷を遂げてきた一方、フェイタリティは目玉要素として必ず取り入れられている。また、本シリーズは「残虐格闘ゲーム」と呼ぶべきジャンルを形成、数多くのフォロワーが生まれた。 第1作目は、ゲームボーイ、メガドライブ、メガCD、ゲームギアなど、数多くのプラットフォームに移植されている。『MKII』以降もAmigaやセガ・マスターシステム、スーパー32X、セガサターン、LSIゲームなど多くのプラットフォーム向けに移植された。 ゲームのみならずコミカライズやアニメ作品といったメディアミックス展開もなされ、後に映画版『バイオハザード』シリーズを手掛けているポール・W・S・アンダーソン監督によって1995年に映画『モータル・コンバット』が制作された。MPAAによるレーティングはPG-13であるため、残虐なシーンは皆無に等しく、ヒロイック要素が強い作品に仕上がっている。続編の『モータルコンバット2』も制作されたが、監督のアンダーソンをはじめ主要キャストがほぼ交代している。 略称「MK」。本編シリーズ1作目。 サブ・ゼロのフェイタリティ「Spine Rip」は「脊髄ごと首を引き抜く」というショッキングな内容であり、あまりのインパクトの強さに、北米のみならず日本のゲーマーからも注目を浴びた。1993年1月8日には、カリフォルニア州のアーケードゲーム事業者が連名で、本作のようなゲームの稼働停止を求める公開書簡を送っていた。 本作の登場が北米のレーティング審査機関であるエンターテインメントソフトウェアレイティング委員会(ESRB)設立の一翼を担ったとされている。イタリアでは本作の違法コピー基板が押収された例もあり、2019年にはこの出来事やメディア展開を受け、アメリカのストロング国立演劇博物館が主宰するゲームの殿堂入りを果たした。 なお、本作のみランキングがスコア形式となっている(『MKII』以降は勝利数で順位の決まるランキング形式になっている)。 略称「MKII」、またはアラビア数字表記の「MK2」。本編シリーズ2作目。日本では本作までアクレイムジャパンが各機種で販売していた。また、『MK』とカップリング移植されたGBA向けソフト『Mortal Kombat & Moral Kombat II』が発売されている。 略称「MK3」。本編シリーズ3作目。ソニー・コンピュータエンタテインメントより発売されたPS版はローカライズが施された唯一の作品で、各種デモが麦人による日本語音声で読み上げられている。北米では初期のPS本体に本ソフトが付属していた。スコーピオンを筆頭とする色違い忍者およびキタナ、ミレーナが削除されており、主要人物のライデンとジョニー・ケイジも登場しない(サブ・ゼロは本作独自のデザインで登場している)。一方、新キャラクターとして近代兵器を体内に内蔵したサイバー忍者の登場、従来の「魔界を中心とした(非科学的な)世界観」に加え、現代都市のステージが登場するなど、大胆な改訂が行われている。本作から「MKG」までの1人用モードは「BATTLE PLAN」(Choose Your Destinyとも呼ばれる)の難易度を選択してから対戦がスタートする形式になっている。また、一部のステージでアッパーカットをヒットさせると受け手が天井を突き破ってステージを移動する演出が追加されている。 略称「UMK3」。『MK3』のアップデート版。一度削除されたスコーピオンやキタナなどの忍者キャラクターの復活と新キャラクターの拡充が施されている。以降、数多くリリースされた3作目の移植作は、基本的に本作が対象となる。移植版のうち、iPad版は2011年2月10日に日本でも配信された。海外で発売されたGBA向けの移植版『Mortal Kombat: Advance』は、移植の精度が低く、容赦ないAIを持つCPUによる非常に高い難易度や、少ないボタン数などに起因する劣悪な操作性といった要素により、海外のゲーム雑誌Electronic Gaming Monthlyでは0点という低い評価が下された。海外で発売されたDS向けの移植版『Ultimate Mortal Kombat』は、上の画面にコマンド表が常時表示されており、ワイヤレス通信による対戦、ニンテンドーWi-Fiコネクションによるオンライン対戦をサポートしている。後述の『Mortal Kombat: Deception』のおまけモードである「Puzzle Kombat」も収録。 一部機種では、間髪入れずに打撃を繰り出し続けて相手の肉体を破壊するフィニッシュムーブ「ブルータリティ(Brutality)」が追加されており、各キャラクター固有の長いコマンドの入力が発動条件となっている。 略称「MKT」。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、PC、セガサターン。日本ではソフトバンクよりPlayStation向けに発売。『UMK3』までのキャラクターを結集させた、実写時代の『MK』の集大成的な作品。基本的なシステム、ストーリーは『UMK3』を踏襲。 略称「MK4」。本編シリーズ4作目。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、ゲームボーイカラー、PC。現時点で最後のアーケード作品であり、日本では家庭版は本作以降発売されていない。本作よりキャラクターのグラフィックが実写取り込みから3Dポリゴンに移行した。Digital Eclipseが開発した2Dグラフィックのゲームボーイカラー版は1998年12月12日に発売。 1999年9月9日にドリームキャスト用のマイナーチェンジ版『Mortal Kombat Gold』(略称 : MKG)が発売されており、バラカ、サイラックス、キタナ、クン・ラオ、ミレーナ、セクターの6名が追加された。開発期間が短期だったこともあり、同作は非常にバグが多い。発売から1ヶ月後、致命的なバグが修正され、ビジュアルメモリに対応したVer2.0(赤ディスク)がリリースされたが、不具合は完全には修正されていない。エンディングはリアルタイムレンダリングだが、PS版および『MKG』ではプリレンダリング映像で再生される。 略称「MK:DA」。本編シリーズ5作目。プラットフォームがPlayStation 2、Xboxに移行し、グラフィックの質、解像度が飛躍的に向上した。予定されていた日本版の発売は中止となった。GBA向けに移植版とマイナーチェンジ版『Mortal Kombat: Tournament Edition(略称 : MK:TE)」が発売されており、一部キャラクターが差し替えられている。 略称「MK:D」。本編シリーズ6作目。初回限定版にはアーケード版『MK』の移植版が収録されており、2005年3月1日に北米にてシャオ・カーン、ゴローがプレイアブルキャラクターとして追加されたGC版が発売。2006年にPSP向けのアップデート版『Mortal Kombat: Unchained』(略称「MK:U」)が発売され、同作はGC版の追加キャラクターに加えてキタナ、ジャックス、フロスト、ブレイズの4名が追加されている。 略称「MK:A」。本編シリーズ7作目。対応プラットフォームはWii、PlayStation 2。PS2のみアーケード版『UMK3』の移植版を収録した初回限定版が発売されている。『MK:D』までのほぼ全てのキャラクターが登場しており、使用可能なキャラクターは総勢63人。 略称「MKvs.DCU」。本編シリーズ8作目。対応プラットフォームはPS3、Xbox 360。「モータルコンバット」と『スーパーマン』『バットマン』などで知られる「DC Universe」によるクロスオーバー作品。使用エンジンはUnreal Engine 3。北米でのレーティングはESRB:T(13歳以上)指定であり、グロテスクな演出はかなり控えめになっている。 「モータルコンバット」サイドのキャラクターと「DC Universe」のヴィランはフェイタリティを使用する一方、バットマンなどのヒーローは相手を殺めず制裁を加えるフィニッシュムーブ「ヒロイックブルータリティ(Heroic Brutality)」を持つ。 本作よりチャプター毎に使用キャラクターを切り替えながら1つのストーリーが進行する「ストーリーモード」が実装された。 なおシリーズの開発元であるミッドウェイゲームスは2009年に経営不振により倒産したため今作は同社が開発・発売した最後のシリーズ作品となった。 通称「MK9」、「MK 2011」。本編シリーズ9作目。2011年4月19日に北米で発売。正式なタイトルは1作目と同様 『Mortal Kombat』だが、区別のため 『Mortal Kombat 9』, 『Mortal Kombat 2011』 と表記されることが多い。今作からミッドウェイゲームスの権利を買収した Warner Bros. Interactive Entertainment からの販売となり、開発は同社の傘下グループの NetherRealm Studiosが担当している。プラットフォームはPS3、Xbox 360、PS Vita。ゲームエンジンは、前作に引き続きUnreal Engine 3を使用。 タイトルが示す通り「原点回帰」をテーマとして開発された本作は、シリーズを重ね様々な派生作品がリリースされたことによるエピソードや設定の氾濫・矛盾を解消させ、『MK』から『MKT』までのストーリーを再構成している。『MKT』までのキャラクターが一部を除いて登場している反面、『MK4』以降の追加キャラクターはクァン・チーとケンシのみ登場。新キャラクターも『MKII』の開発段階で登場する案は用意されていたものの長らく採用されることの無かった「スカーレット」、サブ・ゼロ(カイ・リャン)がサイボーグ化した「サイバー・サブ・ゼロ」の2名のみ。 略称「MKX」。Warner Bros. Interactive Entertainment が販売し、NetherRealm Studiosが開発を担当。本編シリーズ10作目。使用エンジンは改良された「Unreal Engine 3」。プラットフォームはWindows、PlayStation 4、Xbox One、iOS、Android端末。当初リリースを予定されていたPlayStation 3版とXbox 360版は延期の末に発売中止となった。PS4版、Xbox One版は2015年4月14日発売。2016年1月、全DLCを同梱した新パッケージ『Mortal Kombat XL』を発表し、PS4とXbox One向けに同年3月1日発売。2016年10月04日にSteam向けにも配信された。 iOS、Android版はコンソール版と異なり、シンプルなゲームシステムとなっており、日本においても配信されている。なお、2019年2月27日をもって「Mortal Kombat Mobile」へと改題されている。 ストーリーは前作『MK9』の終了から25年間に起こる出来事を描く。ジョニー・ケイジの格闘センスを受け継いだ娘「キャシー・ケイジ」や、ハードボイルドなガンマン風の「エロン・ブラック」といった個性的な新キャラクターも追加されており、前作では言及されるのみに留まっていたボー・ライ・チョー、シノックといった『MK4』以降のキャラクターも一部復活し、外伝作品『MK:SF』に登場した忍者「トレマー」も参戦している。 フェイタリティも旧作とは異なり、対戦相手が無残な姿になった状態をメインに映すという、より残虐さが増した演出となっている。 略称「MK11」。本編シリーズ11作目。『MK4』以来のナンバリング表記となっている。2019年4月23日に米国にて発売。対応プラットフォームはPS4、Xbox One、Nintendo Switch、Windows。 ストーリーは、時を司る古代神「クロニカ」と彼女に立ち向かうリュウ・カンやライデン達の壮絶な戦いを描いており、異なる時間軸の同一人物が登場する場面もある。 キャラクターのカスタマイズ機能が導入され、バリエーションの名前、スキン、装備品、武器のデザイン、アビリティ(最大3つまで使用可能)、登場演出、勝利演出などを設定できる。ゲージの仕様が変更されており、本作では攻撃用と防御用の2本に分かれている。前作の要素のうち、ブルータリティ、Quitalityなどは継承されている一方、超必殺技「X-Ray」の名称は「Fatal Blow」へと変更され、「体力が30%以下まで減少する」という発動条件が設けられ、 使用できる回数も1マッチにつき1回までに制限されている(不発の場合は一定時間経過した後に再び発動できる)。マーシーやパリーといった過去作のシステムも一部復活した。 2020年5月26日の無料アップデートにて『MKT』以来となる「フレンドシップ」が実装されており、ライデンのフレンドシップはウクライナのダンスグループであるライトバランス(英語版)のパフォーマンスをモデルとしている。 バラカやカバルなどの前作には登場しなかったキャラクターや『MK9』にて初登場したスカーレット、『MK:A』以来の参戦となるフロストとフウジンが復活しており、1995年放映の映画版でシャン・ツンを演じたケイリー=ヒロユキ・タガワが同役の声を担当することも話題になった。後にライデン、ソニア、ジョニー・ケイジの三名を同映画で演じた俳優をモチーフとしたスキンもDLCとして配信されている。本作の予告編の音楽はベルギーのDJディミトリ・ヴェガスが担当しており、後にサブ・ゼロの見た目や音声をヴェガスのものに差し替えられるスキンが無料配信された。DLCゲストは『ターミネーター』よりT-800、『バットマン』よりジョーカー、スポーン、ロボコップ、『ランボー』よりジョン・ランボーが参戦している。 略称「MK1」。NetherRealm Studiosが開発を担当し、Warner Bros. Gamesより発売。本編シリーズ12作目。『MK11』の続編であり、「MK9」に続く、シリーズ2作目のリブート作品。対応プラットフォームはNintendo Switch、PlayStation 5、Windows、Xbox Series X/S。Kollector's EditionおよびPremium Editionは2023年9月14日に発売され、Standard Edition(通常版)は2023年9月19日に発売予定。 略称「MKM:SZ」。シリーズ初の外伝作品。主役はサブ・ゼロ(ビ・ハン)であり、時系列は『MK』の大会開催以前。 ライデンの弟であるフウジン、クァン・チーとシノックはこの作品から登場した。なお、本作が実写取り込みを用いた最後の『モータルコンバット』である。 略称「MK:SF」。ジャックスを主役に据えた作品。MKM:SZとは異なり、TPS視点のゲームとなっている。後に『MKX』に参戦するトレマーの初登場作品である。 略称「MK:SM」。リュウ・カンとクン・ラオを主役としたTPS視点のアクションアドベンチャーゲーム。ストーリーは、『MK』の大会後から『MKII』のラストまでをベースにしているが、一部に設定と食い違う箇所が存在する。ストーリーモードでは、有効範囲内の敵を一網打尽にするフィニッシュムーブ「マルタリティ(Multality)」が導入された。 隠し要素として、条件を満たすことでアーケード版『MKII』の完全移植版を遊ぶことができる。 米国で発売されたコミック版には液体化するサイバネティック忍者「ハイドロ(Hydro)」など、オリジナルキャラクターが多数登場する。コミック版を初出とするキャラクターのうち、スカーレットが『MK9』にも登場したことに加え、サブ・ゼロとスモークの友情関係など、ゲーム本編に継承されていった設定も多い。また、アニメシリーズもコミック版を原案として制作されている。 舞台は『MK』の500年前。主人公はクン・ラオの先祖である。 本シリーズは欧米において人気が高く、対戦格闘ゲームの大会Evolution Championship Seriesの競技種目に選ばれたり、ギネスブックにも様々な記録を残している。 鉄拳シリーズのプロデューサを務める原田勝弘は、独特の世界観や、シリーズ全体でキャラクターやゲストがいたことが人気につながったと、電撃オンラインとのインタビューの中で推測している。 一方、日本国内においては、一部のカルト的な人気にとどまっている。 ライターのBJ Foxは日本における本シリーズの知名度の低さについて、本シリーズにおける残酷表現をコメディ(Komedy〔ママ〕)だとしたうえで、日本の審査当局の切断表現に対する厳しい姿勢や、既に負けた相手を残酷な方法で死に至らせるシステムが日本人に受け入れられなかったためではないかと推測している。このほかにも、第一作における珍妙な世界観や操作性の悪さや、出荷台数の少なさなどが、日本における知名度の低さの理由として挙がっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『モータルコンバット』 (Mortal Kombat、略称:MK) は、ミッドウェイゲームズが1992年に開発・発売した対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称。日本においては『モーコン』と略されることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "米国での1作目はミッドウェイによるアーケード版が初出。日本では1992年12月中旬にアーケード版をタイトーがライセンス販売。家庭用ではアクレイムジャパンより『モータルコンバット』がスーパーファミコン、メガドライブ、ゲームボーイ、ゲームギア用に移植されたものが初上陸となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "タイトルの『Mortal Kombat』は本来英語では『Mortal Combat』(命がけの争い)が正しい綴りだが、本シリーズにおいては「C」が頭文字の英単語は先頭の「C」を「K」に意図的に差し替えて表記する(例:Continue → Kontinue)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1992年10月、実写取り込みのキャラクターが登場する2D対戦型格闘ゲームとして初代『モータルコンバット』はリリースされた。同作においては対戦に敗れた相手を惨殺するトドメ専用の演出である「フェイタリティ(Fatality)」が取り入れられており、賛否両論を呼んだ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後も、シリーズを重ねる中で様々な変遷を遂げてきた一方、フェイタリティは目玉要素として必ず取り入れられている。また、本シリーズは「残虐格闘ゲーム」と呼ぶべきジャンルを形成、数多くのフォロワーが生まれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第1作目は、ゲームボーイ、メガドライブ、メガCD、ゲームギアなど、数多くのプラットフォームに移植されている。『MKII』以降もAmigaやセガ・マスターシステム、スーパー32X、セガサターン、LSIゲームなど多くのプラットフォーム向けに移植された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲームのみならずコミカライズやアニメ作品といったメディアミックス展開もなされ、後に映画版『バイオハザード』シリーズを手掛けているポール・W・S・アンダーソン監督によって1995年に映画『モータル・コンバット』が制作された。MPAAによるレーティングはPG-13であるため、残虐なシーンは皆無に等しく、ヒロイック要素が強い作品に仕上がっている。続編の『モータルコンバット2』も制作されたが、監督のアンダーソンをはじめ主要キャストがほぼ交代している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "略称「MK」。本編シリーズ1作目。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "サブ・ゼロのフェイタリティ「Spine Rip」は「脊髄ごと首を引き抜く」というショッキングな内容であり、あまりのインパクトの強さに、北米のみならず日本のゲーマーからも注目を浴びた。1993年1月8日には、カリフォルニア州のアーケードゲーム事業者が連名で、本作のようなゲームの稼働停止を求める公開書簡を送っていた。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本作の登場が北米のレーティング審査機関であるエンターテインメントソフトウェアレイティング委員会(ESRB)設立の一翼を担ったとされている。イタリアでは本作の違法コピー基板が押収された例もあり、2019年にはこの出来事やメディア展開を受け、アメリカのストロング国立演劇博物館が主宰するゲームの殿堂入りを果たした。 なお、本作のみランキングがスコア形式となっている(『MKII』以降は勝利数で順位の決まるランキング形式になっている)。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "略称「MKII」、またはアラビア数字表記の「MK2」。本編シリーズ2作目。日本では本作までアクレイムジャパンが各機種で販売していた。また、『MK』とカップリング移植されたGBA向けソフト『Mortal Kombat & Moral Kombat II』が発売されている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "略称「MK3」。本編シリーズ3作目。ソニー・コンピュータエンタテインメントより発売されたPS版はローカライズが施された唯一の作品で、各種デモが麦人による日本語音声で読み上げられている。北米では初期のPS本体に本ソフトが付属していた。スコーピオンを筆頭とする色違い忍者およびキタナ、ミレーナが削除されており、主要人物のライデンとジョニー・ケイジも登場しない(サブ・ゼロは本作独自のデザインで登場している)。一方、新キャラクターとして近代兵器を体内に内蔵したサイバー忍者の登場、従来の「魔界を中心とした(非科学的な)世界観」に加え、現代都市のステージが登場するなど、大胆な改訂が行われている。本作から「MKG」までの1人用モードは「BATTLE PLAN」(Choose Your Destinyとも呼ばれる)の難易度を選択してから対戦がスタートする形式になっている。また、一部のステージでアッパーカットをヒットさせると受け手が天井を突き破ってステージを移動する演出が追加されている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "略称「UMK3」。『MK3』のアップデート版。一度削除されたスコーピオンやキタナなどの忍者キャラクターの復活と新キャラクターの拡充が施されている。以降、数多くリリースされた3作目の移植作は、基本的に本作が対象となる。移植版のうち、iPad版は2011年2月10日に日本でも配信された。海外で発売されたGBA向けの移植版『Mortal Kombat: Advance』は、移植の精度が低く、容赦ないAIを持つCPUによる非常に高い難易度や、少ないボタン数などに起因する劣悪な操作性といった要素により、海外のゲーム雑誌Electronic Gaming Monthlyでは0点という低い評価が下された。海外で発売されたDS向けの移植版『Ultimate Mortal Kombat』は、上の画面にコマンド表が常時表示されており、ワイヤレス通信による対戦、ニンテンドーWi-Fiコネクションによるオンライン対戦をサポートしている。後述の『Mortal Kombat: Deception』のおまけモードである「Puzzle Kombat」も収録。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一部機種では、間髪入れずに打撃を繰り出し続けて相手の肉体を破壊するフィニッシュムーブ「ブルータリティ(Brutality)」が追加されており、各キャラクター固有の長いコマンドの入力が発動条件となっている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "略称「MKT」。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、PC、セガサターン。日本ではソフトバンクよりPlayStation向けに発売。『UMK3』までのキャラクターを結集させた、実写時代の『MK』の集大成的な作品。基本的なシステム、ストーリーは『UMK3』を踏襲。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "略称「MK4」。本編シリーズ4作目。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、ゲームボーイカラー、PC。現時点で最後のアーケード作品であり、日本では家庭版は本作以降発売されていない。本作よりキャラクターのグラフィックが実写取り込みから3Dポリゴンに移行した。Digital Eclipseが開発した2Dグラフィックのゲームボーイカラー版は1998年12月12日に発売。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1999年9月9日にドリームキャスト用のマイナーチェンジ版『Mortal Kombat Gold』(略称 : MKG)が発売されており、バラカ、サイラックス、キタナ、クン・ラオ、ミレーナ、セクターの6名が追加された。開発期間が短期だったこともあり、同作は非常にバグが多い。発売から1ヶ月後、致命的なバグが修正され、ビジュアルメモリに対応したVer2.0(赤ディスク)がリリースされたが、不具合は完全には修正されていない。エンディングはリアルタイムレンダリングだが、PS版および『MKG』ではプリレンダリング映像で再生される。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "略称「MK:DA」。本編シリーズ5作目。プラットフォームがPlayStation 2、Xboxに移行し、グラフィックの質、解像度が飛躍的に向上した。予定されていた日本版の発売は中止となった。GBA向けに移植版とマイナーチェンジ版『Mortal Kombat: Tournament Edition(略称 : MK:TE)」が発売されており、一部キャラクターが差し替えられている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "略称「MK:D」。本編シリーズ6作目。初回限定版にはアーケード版『MK』の移植版が収録されており、2005年3月1日に北米にてシャオ・カーン、ゴローがプレイアブルキャラクターとして追加されたGC版が発売。2006年にPSP向けのアップデート版『Mortal Kombat: Unchained』(略称「MK:U」)が発売され、同作はGC版の追加キャラクターに加えてキタナ、ジャックス、フロスト、ブレイズの4名が追加されている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "略称「MK:A」。本編シリーズ7作目。対応プラットフォームはWii、PlayStation 2。PS2のみアーケード版『UMK3』の移植版を収録した初回限定版が発売されている。『MK:D』までのほぼ全てのキャラクターが登場しており、使用可能なキャラクターは総勢63人。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "略称「MKvs.DCU」。本編シリーズ8作目。対応プラットフォームはPS3、Xbox 360。「モータルコンバット」と『スーパーマン』『バットマン』などで知られる「DC Universe」によるクロスオーバー作品。使用エンジンはUnreal Engine 3。北米でのレーティングはESRB:T(13歳以上)指定であり、グロテスクな演出はかなり控えめになっている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「モータルコンバット」サイドのキャラクターと「DC Universe」のヴィランはフェイタリティを使用する一方、バットマンなどのヒーローは相手を殺めず制裁を加えるフィニッシュムーブ「ヒロイックブルータリティ(Heroic Brutality)」を持つ。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "本作よりチャプター毎に使用キャラクターを切り替えながら1つのストーリーが進行する「ストーリーモード」が実装された。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なおシリーズの開発元であるミッドウェイゲームスは2009年に経営不振により倒産したため今作は同社が開発・発売した最後のシリーズ作品となった。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "通称「MK9」、「MK 2011」。本編シリーズ9作目。2011年4月19日に北米で発売。正式なタイトルは1作目と同様 『Mortal Kombat』だが、区別のため 『Mortal Kombat 9』, 『Mortal Kombat 2011』 と表記されることが多い。今作からミッドウェイゲームスの権利を買収した Warner Bros. Interactive Entertainment からの販売となり、開発は同社の傘下グループの NetherRealm Studiosが担当している。プラットフォームはPS3、Xbox 360、PS Vita。ゲームエンジンは、前作に引き続きUnreal Engine 3を使用。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "タイトルが示す通り「原点回帰」をテーマとして開発された本作は、シリーズを重ね様々な派生作品がリリースされたことによるエピソードや設定の氾濫・矛盾を解消させ、『MK』から『MKT』までのストーリーを再構成している。『MKT』までのキャラクターが一部を除いて登場している反面、『MK4』以降の追加キャラクターはクァン・チーとケンシのみ登場。新キャラクターも『MKII』の開発段階で登場する案は用意されていたものの長らく採用されることの無かった「スカーレット」、サブ・ゼロ(カイ・リャン)がサイボーグ化した「サイバー・サブ・ゼロ」の2名のみ。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "略称「MKX」。Warner Bros. Interactive Entertainment が販売し、NetherRealm Studiosが開発を担当。本編シリーズ10作目。使用エンジンは改良された「Unreal Engine 3」。プラットフォームはWindows、PlayStation 4、Xbox One、iOS、Android端末。当初リリースを予定されていたPlayStation 3版とXbox 360版は延期の末に発売中止となった。PS4版、Xbox One版は2015年4月14日発売。2016年1月、全DLCを同梱した新パッケージ『Mortal Kombat XL』を発表し、PS4とXbox One向けに同年3月1日発売。2016年10月04日にSteam向けにも配信された。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "iOS、Android版はコンソール版と異なり、シンプルなゲームシステムとなっており、日本においても配信されている。なお、2019年2月27日をもって「Mortal Kombat Mobile」へと改題されている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ストーリーは前作『MK9』の終了から25年間に起こる出来事を描く。ジョニー・ケイジの格闘センスを受け継いだ娘「キャシー・ケイジ」や、ハードボイルドなガンマン風の「エロン・ブラック」といった個性的な新キャラクターも追加されており、前作では言及されるのみに留まっていたボー・ライ・チョー、シノックといった『MK4』以降のキャラクターも一部復活し、外伝作品『MK:SF』に登場した忍者「トレマー」も参戦している。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "フェイタリティも旧作とは異なり、対戦相手が無残な姿になった状態をメインに映すという、より残虐さが増した演出となっている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "略称「MK11」。本編シリーズ11作目。『MK4』以来のナンバリング表記となっている。2019年4月23日に米国にて発売。対応プラットフォームはPS4、Xbox One、Nintendo Switch、Windows。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ストーリーは、時を司る古代神「クロニカ」と彼女に立ち向かうリュウ・カンやライデン達の壮絶な戦いを描いており、異なる時間軸の同一人物が登場する場面もある。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "キャラクターのカスタマイズ機能が導入され、バリエーションの名前、スキン、装備品、武器のデザイン、アビリティ(最大3つまで使用可能)、登場演出、勝利演出などを設定できる。ゲージの仕様が変更されており、本作では攻撃用と防御用の2本に分かれている。前作の要素のうち、ブルータリティ、Quitalityなどは継承されている一方、超必殺技「X-Ray」の名称は「Fatal Blow」へと変更され、「体力が30%以下まで減少する」という発動条件が設けられ、 使用できる回数も1マッチにつき1回までに制限されている(不発の場合は一定時間経過した後に再び発動できる)。マーシーやパリーといった過去作のシステムも一部復活した。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2020年5月26日の無料アップデートにて『MKT』以来となる「フレンドシップ」が実装されており、ライデンのフレンドシップはウクライナのダンスグループであるライトバランス(英語版)のパフォーマンスをモデルとしている。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "バラカやカバルなどの前作には登場しなかったキャラクターや『MK9』にて初登場したスカーレット、『MK:A』以来の参戦となるフロストとフウジンが復活しており、1995年放映の映画版でシャン・ツンを演じたケイリー=ヒロユキ・タガワが同役の声を担当することも話題になった。後にライデン、ソニア、ジョニー・ケイジの三名を同映画で演じた俳優をモチーフとしたスキンもDLCとして配信されている。本作の予告編の音楽はベルギーのDJディミトリ・ヴェガスが担当しており、後にサブ・ゼロの見た目や音声をヴェガスのものに差し替えられるスキンが無料配信された。DLCゲストは『ターミネーター』よりT-800、『バットマン』よりジョーカー、スポーン、ロボコップ、『ランボー』よりジョン・ランボーが参戦している。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "略称「MK1」。NetherRealm Studiosが開発を担当し、Warner Bros. Gamesより発売。本編シリーズ12作目。『MK11』の続編であり、「MK9」に続く、シリーズ2作目のリブート作品。対応プラットフォームはNintendo Switch、PlayStation 5、Windows、Xbox Series X/S。Kollector's EditionおよびPremium Editionは2023年9月14日に発売され、Standard Edition(通常版)は2023年9月19日に発売予定。", "title": "本編作品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "略称「MKM:SZ」。シリーズ初の外伝作品。主役はサブ・ゼロ(ビ・ハン)であり、時系列は『MK』の大会開催以前。 ライデンの弟であるフウジン、クァン・チーとシノックはこの作品から登場した。なお、本作が実写取り込みを用いた最後の『モータルコンバット』である。", "title": "外伝作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "略称「MK:SF」。ジャックスを主役に据えた作品。MKM:SZとは異なり、TPS視点のゲームとなっている。後に『MKX』に参戦するトレマーの初登場作品である。", "title": "外伝作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "略称「MK:SM」。リュウ・カンとクン・ラオを主役としたTPS視点のアクションアドベンチャーゲーム。ストーリーは、『MK』の大会後から『MKII』のラストまでをベースにしているが、一部に設定と食い違う箇所が存在する。ストーリーモードでは、有効範囲内の敵を一網打尽にするフィニッシュムーブ「マルタリティ(Multality)」が導入された。", "title": "外伝作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "隠し要素として、条件を満たすことでアーケード版『MKII』の完全移植版を遊ぶことができる。", "title": "外伝作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "米国で発売されたコミック版には液体化するサイバネティック忍者「ハイドロ(Hydro)」など、オリジナルキャラクターが多数登場する。コミック版を初出とするキャラクターのうち、スカーレットが『MK9』にも登場したことに加え、サブ・ゼロとスモークの友情関係など、ゲーム本編に継承されていった設定も多い。また、アニメシリーズもコミック版を原案として制作されている。", "title": "メディアミックス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "舞台は『MK』の500年前。主人公はクン・ラオの先祖である。", "title": "メディアミックス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "本シリーズは欧米において人気が高く、対戦格闘ゲームの大会Evolution Championship Seriesの競技種目に選ばれたり、ギネスブックにも様々な記録を残している。 鉄拳シリーズのプロデューサを務める原田勝弘は、独特の世界観や、シリーズ全体でキャラクターやゲストがいたことが人気につながったと、電撃オンラインとのインタビューの中で推測している。 一方、日本国内においては、一部のカルト的な人気にとどまっている。 ライターのBJ Foxは日本における本シリーズの知名度の低さについて、本シリーズにおける残酷表現をコメディ(Komedy〔ママ〕)だとしたうえで、日本の審査当局の切断表現に対する厳しい姿勢や、既に負けた相手を残酷な方法で死に至らせるシステムが日本人に受け入れられなかったためではないかと推測している。このほかにも、第一作における珍妙な世界観や操作性の悪さや、出荷台数の少なさなどが、日本における知名度の低さの理由として挙がっている。", "title": "シリーズに対する評価" } ]
『モータルコンバット』 は、ミッドウェイゲームズが1992年に開発・発売した対戦型格闘ゲーム、およびそのシリーズの総称。日本においては『モーコン』と略されることもある。 米国での1作目はミッドウェイによるアーケード版が初出。日本では1992年12月中旬にアーケード版をタイトーがライセンス販売。家庭用ではアクレイムジャパンより『モータルコンバット』がスーパーファミコン、メガドライブ、ゲームボーイ、ゲームギア用に移植されたものが初上陸となる。 タイトルの『Mortal Kombat』は本来英語では『Mortal Combat』(命がけの争い)が正しい綴りだが、本シリーズにおいては「C」が頭文字の英単語は先頭の「C」を「K」に意図的に差し替えて表記する。
{{Otheruses|テレビゲーム}} {{暴力的}} {{出典の明記|date=2019年11月14日 (木) 03:07 (UTC)}} {{コンピュータゲーム |Title = モータルコンバットシリーズ |Genre = [[対戦型格闘ゲーム]] |Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]]<br />[[Microsoft Windows|Windows]]<br />[[Amiga]]<br />[[スーパーファミコン]]<br />[[NINTENDO64]]<br />[[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]]<br />[[Wii]]<br />[[Nintendo Switch]]<br />[[ゲームボーイ]]<br />[[ゲームボーイカラー]]<br />[[ゲームボーイアドバンス]]<br />[[ニンテンドーDS]]<br />[[セガ・マスターシステム]]<br />[[メガドライブ]]<br />[[ゲームギア]]<br />[[メガCD]]<br />[[スーパー32X]]<br />[[セガサターン]]<br />[[ドリームキャスト]]<br />[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]<br />[[PlayStation 2]]<br />[[PlayStation 3]]<br />[[PlayStation 4]]<br />[[PlayStation Portable]]<br />[[PlayStation Vita]]<br />[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]<br />[[Xbox 360]]<br />[[Xbox One]]<br />[[Game.com]]<br />[[iOS]] |Dev = {{flagicon|USA}} NetherRealm Studios(元 Midway Games Chicago) |Pub = {{flagicon|JPN}} アクレイムジャパン<br /> {{flagicon|USA}} [[ミッドウェイゲームズ]] (1992-2009)<br /> {{flagicon|USA}} [[:en:Warner Bros. Interactive Entertainment|Warner Bros. Interactive Entertainment]](2009-現在) |designer = [[:en:Ed Boon|エド・ブーン]]<br />[[:en:John Tobias|ジョン・トビアス]] |composer = [[:en:Dan Forden|ダン・フォーデン]] |Play = 1〜2人 |Media = |Date = '''1作目: '''[[:en:Mortal Kombat (video game)|モータルコンバット]]<br /> {{flagicon|USA}} [[1992年]][[10月8日]]<br /> {{flagicon|JPN}} [[1992年]]12月中旬<br /> <br /> '''最新作: '''[[:en:Mortal Kombat 11|モータルコンバット11]]<br /> {{flagicon|USA}} [[2019年]][[4月23日]] |Rating = |ContentsIcon = |Device = |Spec = |Engine = |Sale = |etc = }} 『'''モータルコンバット'''』 (''Mortal Kombat、略称:MK'') は、[[ミッドウェイゲームズ]]が[[1992年]]に開発・発売した[[対戦型格闘ゲーム]]、およびそのシリーズの総称。日本においては『モーコン』と略されることもある<ref name="AUTOMATON">[http://jp.automaton.am/articles/columnjp/jimmy-says-toasty/ ジミー・ライトニングの元ネタから知るカルチャーギャップと、求められる冷静さ]AUTOMATON公式ホームページ</ref>。 [[アメリカ合衆国|米国]]での1作目はミッドウェイによるアーケード版が初出。日本では[[1992年]]12月中旬にアーケード版をタイトーがライセンス販売<ref group="注釈">タイトーのライセンス販売は翌年の2まで。3以降はアーケードゲーム基板ブームから、並行輸入で一部の日本の業者により手に入れることができた。その為、各地店舗で入荷を見かけるには事情を知る限定された店舗にしか入らなかった。</ref>。家庭用ではアクレイムジャパンより『モータルコンバット』が[[スーパーファミコン|スーパーファミコン、]]メガドライブ、ゲームボーイ、ゲームギア用に移植されたものが初上陸となる。 タイトルの『Mortal Kombat』は本来英語では『Mortal Combat』(命がけの争い)が正しい綴りだが、本シリーズにおいては「C」が頭文字の英単語は先頭の「C」を「K」に意図的に差し替えて表記する(例:Continue → Kontinue)<ref group="注釈">ただし、『Continue』『Credit』と表記されている作品も存在する。</ref>。 ==概要== 1992年10月、実写取り込みのキャラクターが登場する2D対戦型格闘ゲームとして初代『モータルコンバット』はリリースされた。同作においては対戦に敗れた相手を惨殺するトドメ専用の演出<ref name="natsumega" />である「'''フェイタリティ'''''(Fatality)''」<ref group="注釈">日本版MK、MKIIにおける名称は「究極神拳」。</ref>が取り入れられており、賛否両論を呼んだ。 その後も、シリーズを重ねる中で様々な変遷を遂げてきた一方、フェイタリティは目玉要素として必ず取り入れられている。また、本シリーズは「'''残虐格闘ゲーム'''」と呼ぶべきジャンルを形成、数多くのフォロワーが生まれた<ref name="natsumega">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編『懐かしのメガドライブ 蘇れメガドライバー !!』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118704 p50-51</ref>。 第1作目は、[[ゲームボーイ]]、[[メガドライブ]]、[[メガCD]]、[[ゲームギア]]など、数多くのプラットフォームに移植されている。『MKII』以降も[[Amiga]]や[[セガ・マスターシステム]]、[[スーパー32X]]、[[セガサターン]]、[[電子ゲーム|LSIゲーム]]など多くのプラットフォーム向けに移植された。 ゲームのみならずコミカライズやアニメ作品といったメディアミックス展開もなされ、後に[[映画]]版『[[バイオハザード (映画)|バイオハザード]]』シリーズを手掛けている[[ポール・W・S・アンダーソン]][[映画監督|監督]]によって1995年に映画『[[モータル・コンバット (映画)|モータル・コンバット]]』が制作された。[[アメリカ映画協会 (業界団体)|MPAA]]によるレーティングはPG-13であるため、残虐なシーンは皆無に等しく、ヒロイック要素が強い作品に仕上がっている。続編の『[[モータルコンバット2]]』も制作されたが、監督のアンダーソンをはじめ主要キャストがほぼ交代している。 ==本編作品== ===Mortal Kombat=== {{Main|:en:Mortal Kombat (1992 video game)}} 略称「''MK''」。本編シリーズ1作目。 サブ・ゼロのフェイタリティ「''Spine Rip''」は「'''脊髄ごと首を引き抜く'''」というショッキングな内容であり、あまりのインパクトの強さに、北米のみならず日本のゲーマーからも注目を浴びた。1993年1月8日には、カリフォルニア州のアーケードゲーム事業者が連名で、本作のようなゲームの稼働停止を求める公開書簡を送っていた<ref>{{Cite news |和書 |title=米国オペレーターが 残虐遊戯に警告 とくに「タイムキラー」など |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19930415p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=447 |agency=[[アミューズメント通信社]] |date=1993-04-15 |page=19}}</ref>。 本作の登場が北米のレーティング審査機関である[[エンターテインメントソフトウェアレイティング委員会]](ESRB)設立の一翼を担ったとされている<ref>{{cite web|title=The Creation of the ESRB - Gaming Historian|url=https://www.youtube.com/watch?v=Wv3HDVd22P8|accessdate=2020-02-20}}</ref>。イタリアでは本作の違法コピー基板が押収された例もあり<ref>{{Cite news |和書 |title=デヌーノの会社など イタリア警察2社摘発|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19930415p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=447 |agency=[[アミューズメント通信社]] |date=1993-04-15 |page=19}}</ref>、2019年にはこの出来事やメディア展開を受け、アメリカのストロング国立演劇博物館が主宰するゲームの殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2019/05/03/89399.html|title=『マリオカート』『モータルコンバット』など4作品が「ビデオゲームの殿堂」入り|date=2019-05-03|accessdate=2020-06-21|publisher=イード|website=Game*Spark|author=RIKUSYO}}</ref>。なお、本作のみランキングがスコア形式となっており、『MKII』以降は勝利数で順位の決まるランキング形式になっている。 ;各バージョンの特徴 :SFC版、SNES版は流血表現が規制され、一部キャラクターのフェイタリティが変更されているが、MD版、GG版、メガCD版の残虐描写はアーケード版の内容を忠実に再現しており(MD、GG版は隠しコマンドの入力を要する)、アーケード版も設定により変更可能。 ;開発 :忍者のゲームを作ろうとしてミッドウェイに却下されたことが、本作の開発のきっかけとなった{{R|GameSpark20211024}}。開発チームはキャラクターを大きく表示したいという考えから、実写取り込みという手法を用いた{{R|GameSpark20211024}}。 :メモリスペース節約の観点から、カラーパレットを変えて別人にするなどの対策が取られた<ref>{{Cite web|和書|title=スコーピオンとサブゼロの違いはこうして生まれた! 初代『モータルコンバット』の新たな開発舞台裏映像公開 |url=https://www.gamespark.jp/article/2022/03/11/116778.html |website=Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト |accessdate=2022-03-11 |language=ja}}</ref>。また、フェイタリティというシステムは、ピヨり(気絶)中の相手を攻撃する面白さから、試合の最後に入れてはどうかという考えから生まれた{{R|GameSpark20211024}}。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || [[リュウ・カン]] / [[ライデン (モータルコンバット)|ライデン]] / ソニア / [[カノウ (モータルコンバット)|カノウ]] / [[サブ・ゼロ (モータルコンバット)|サブ・ゼロ]] / [[スコーピオン (モータルコンバット)|スコーピオン]] / [[ジョニー・ケイジ]] |- | NPC | [[レプタイル (モータルコンバット)|レプタイル]] / ゴロー / [[シャン・ツン]] |} ===Mortal Kombat II=== {{Main|:en:Mortal Kombat II}} [[File:Mortal Kombat II arcade cabinet.jpg|thumb|『MKII』のアーケード筐体]] {{Anchors|モータルコンバットII}}略称「''MKII''」、またはアラビア数字表記の「''MK2''」。本編シリーズ2作目。日本では本作までアクレイムジャパンがゲームボーイ、メガドライブ、SFC、PlayStation、セガサターン向けに販売していた。また、『MK』とカップリング移植されたGB向けソフト『Mortal Kombat & Moral Kombat II』が発売されている。 ;各バージョンの特徴 :日本発売のSFC版は前作同様表現に規制が加えられており、血の色が緑に変更され、フェイタリティ発動時にモノクロ画面に変化する。GB版では一部のフェイタリティが変更され<ref group="注釈">一例として、リュウ・カンのフェイタリティの「Dragon」は、「龍に変身して敵の上半身を喰らう」という内容だが、GB版は「炎で焼き殺す」ものに変更されている。</ref>、人骨も漫画風のグラフィックになっている。また、MD版は隠しコマンドを入力するとアーケード版をほぼ再現した残虐描写が解禁される<ref name="natsumega" />。PlayStation<ref name="MKIIPS1">{{Cite web|和書|title=MORTAL KOMBAT II {{!}} ソフトウェアカタログ {{!}} プレイステーション® オフィシャルサイト |url=https://www.jp.playstation.com/software/title/slps00444.html |website=www.jp.playstation.com |accessdate=2022-03-10}}</ref>やセガサターンへの移植も行われているが、サウンド関係のバグ<ref>http://voltexture.net/mk2-saturn-sound-bug/</ref>、COM戦で投げが繰り出せないなどの不具合があり流通量は少ない。 ;システム :新たに、硫酸のプールや天井の針などステージのギミックを利用してトドメを刺す「'''Stage Fatality'''」が導入され、ダンスを踊る、相手にプレゼントを贈るなどして友好を示す「'''Friendship'''」、相手を赤子に変える「'''Babality'''」といった残虐性の無いユニークなフィニッシュムーブも追加されている<ref name="GameSpark20211024">{{Cite web|和書|title=今更聞けない……『モータルコンバット』シリーズってなんなのさ?~前編~ |url=https://www.gamespark.jp/article/2021/10/24/112980.html |website=Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト |accessdate=2022-03-10 |date=2021.10.24|author=rate-dat}}</ref>。 :前作では1つのみだったフェイタリティが2つ(スコーピオン、シャン・ツンのみ3つ)に増えている<ref name="natsumega" />。 ;その他 :本作および後発の一部作品では、アッパーカットがヒットした際、稀に「Toasty!」というボイスとともに画面右下から謎の男性が現れるという演出が取り入れられており、次回作である『MK3』にも引き継がれた{{R|GameSpark20211024}}。この男性はサウンド担当のダン・フォーデンであり<ref>{{cite article|title=The Minds Behind Mortal Kombat II||magazine=''GamePro''|number=58|date=1994年5月|accessdate=2020-07-12||page=29|url=https://archive.org/details/GamePro_Issue_058_May_1994/page/n27/mode/2up}}</ref>{{R|GameSpark20211024}}、日本語話者の耳には登場する際のボイスが「トッシー!」と聞こえることから「トッシー」<ref name="AUTOMATON" />または「トッシーおじさん」という通称で呼ばれることもある{{要出典|date=2020年2月}}。GENESIS版では裏技を使うとフォーデンの息子が描いた落書きに変化する。 :GENESIS版のみ特定の条件下に限り、相手を移植に携わったProbe SoftwareのスタッフのFergus McGovernに変えるフィニッシュムーブ「'''Fergality'''」が使用できる。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】<ref group="注釈">(※太字は新登場。以降の作品も同様に表記)</ref> |- | プレイアブル || リュウ・カン / ライデン / ジョニー・ケイジ / スコーピオン / サブ・ゼロ / レプタイル / シャン・ツン / '''クン・ラオ''' / '''ジャックス''' / '''キタナ''' / '''ミレーナ''' / '''[[バラカ (キャラクター)|バラカ]]''' |- | NPC || '''スモーク''' / '''ジェイド''' / '''[[ヌーブ・サイボット]]''' / '''キンタロー'''/ '''[[シャオ・カーン]]''' |} ===Mortal Kombat 3=== {{Main|:en:Mortal Kombat 3}} 略称「''MK3''」。本編シリーズ3作目。[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]より発売されたPS版はローカライズが施された唯一の作品で、各種デモのナレーションを[[麦人]]が手掛けた。北米では初期のPS本体に本ソフトが付属していた。スコーピオンやキタナを筆頭とする色違い忍者はサブ・ゼロとヌーブ・サイボットを除いて削除されており、主要人物のライデンとジョニー・ケイジも登場しない。一方、新キャラクターとして近代兵器を内蔵したサイバー忍者の登場、従来の「魔界を中心とした(非科学的な)世界観」に加え、現代都市のステージが登場するなど、大胆な改訂が行われている。本作から「MKG」までのアーケードモードは「BATTLE PLAN」(Choose Your Destinyとも呼ばれる)の難易度を選択してから対戦がスタートする形式になっている。また、一部のステージでアッパーカットを食らった側が天井を突き破ってステージを移動する演出が追加されている。 ;システム :特定の順番でボタンを押すことで硬直をキャンセルしたコンボを繰り出せる「'''チェインコンボ'''」が導入されており{{R|GameSpark20211024}}、キャラクターごとに性能の異なる複数のチェインコンボが存在することからコンボゲームとしての側面が強まり、戦略性が高まった。『MK』の段階で既に確立されていた「'''ジャグルコンボ'''(空中コンボ)」の概念も正式に導入されている。これらのリニューアルに伴い、[[コンボ]]を決めた際にヒット数とコンボによるダメージ率が表示され、スタミナゲージを消費することで「ダッシュ」が可能になった{{R|GameSpark20211024}}。新規に、動物や架空の猛獣に変身して敵を屠り去るフィニッシュムーブ「'''Animality'''」<ref name="GameSpotMK3"/>と、これを使用するための必須条件となっている、相手の体力を僅かに回復してラウンドを再開する「'''Mercy'''」が導入されている<ref name="GameSpotMK3">{{cite web|url=http://www.gamespot.com/gamespot/features/video/hist_mortalk/p15.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20071005211458/http://www.gamespot.com/gamespot/features/video/hist_mortalk/p15.html|archive-date=2007-10-05|title=The History of Mortal Kombat - Mortal Kombat 3 (1995)|website=[[GameSpot]]|author1=Greeson, Jeff |author2=O'Neill, Cliff|access-date=2010-04-06}}</ref>。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル|| リュウ・カン / クン・ラオ / ソニア / ジャックス / カノウ / サブ・ゼロ / シャン・ツン / '''シンデル''' / '''ナイトウルフ''' / '''カバル''' / '''ストライカー''' / '''シーヴァ''' / '''セクター'''/ '''サイラックス''' / スモーク(サイボーグ) |- | NPC(MK3)|| ヌーブ・サイボット / モタロー / シャオ・カーン |- | 追加キャラクター(UMK3) || スコーピオン / キタナ / ジェイド / レプタイル / スモーク(人間)/ クラシック・サブ・ゼロ / ミレーナ / '''アーマック''' / ヌーブ・サイボット |- | 追加キャラクター(MKT) || ライデン / ジョニー・ケイジ / バラカ / ゴロー / キンタロー / '''レイン''' / '''カメレオン'''(PS版、PC版、SS版) / '''カメレオン(雌)'''(N64版) / モタロー / シャオ・カーン |} ====Ultimate Mortal Kombat 3==== [[ファイル:Festival du jeu video 20080926 032.jpg|thumb|200px|UMK3アップライト筐体]] {{Main|:en:Ultimate Mortal Kombat 3}} 略称「''UMK3''」。『MK3』のアップデート版。一度削除されたスコーピオンやキタナなどの忍者が復活し、新キャラクターが追加された。以降、数多くリリースされた3作目の移植作は、基本的に本作が対象となる{{R|GameSpark20211024}}。移植版のうち、iPad版は2011年2月10日に日本でも配信された<ref>{{Cite web|和書|title=EA、iPad「アルティメット モータルコンバット3」配信開始 端末1台での2人対戦も可能な対戦格闘ゲーム |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/426227.html |website=GAME Watch |date=2011-02-10 |accessdate=2020-07-09 |author=石田賀津男 |publisher=インプレス}}</ref>。海外版GBA向けの移植作品『Mortal Kombat: Advance』は、移植の精度が低く、容赦ない[[コンピュータゲームにおける人工知能|AI]]を持つCPUによる非常に高い難易度や、少ないボタン数などに起因する劣悪な操作性といった要素により、海外のゲーム雑誌[[w:Electronic Gaming Monthly|Electronic Gaming Monthly]]から0点という評価を下された。海外版DS向けの移植作品『Ultimate Mortal Kombat』は、上の画面にコマンド表が常時表示されており<ref group="注釈">フェイタリティはコマンドのみで間合いは記載されておらず、ステージフェイタリティはコマンド自体が記載されていない。</ref>、ワイヤレス通信による対戦、[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]<ref group="注釈">2014年5月20日にサービスが終了したため、現在は利用不可。</ref>によるオンライン対戦をサポートしている。後述の『Mortal Kombat: Deception』のおまけモードである「Puzzle Kombat」も収録。 一部機種では、間髪入れずに打撃を繰り出し続けて相手の肉体を破壊するフィニッシュムーブ「'''Brutality'''」が追加されており、各キャラクター固有の長いコマンドの入力が発動条件となっている。 ===Mortal Kombat Trilogy=== {{Main|:en:Mortal Kombat Trilogy}} 略称「''MKT''」。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、PC、セガサターン。日本では[[ソフトバンク]]よりPlayStation向けに発売。『UMK3』までのキャラクターを結集させた、実写時代の『MK』の集大成的な作品。基本的なシステム、ストーリーは『UMK3』を踏襲。 ;システム :本作のみ攻撃がヒットないしガードされると画面下に「AGGRESSOR」の文字が少しずつ表示され、ゲージが一杯になると短時間だがスピードと攻撃力が上昇し、移動の際に残像が描かれるゲージシステム「'''AGGRESSOR'''」が搭載されている。 ;各バージョンの特徴 :PS版 - カノウ、ジャックス、クン・ラオ、ライデンはキャラクターセレクト画面でL3とR3を同時押しすると、旧作のグラフィックに変化する。 :N64版 - 容量の関係で一部キャラクターが削除された一方、カメレオン(雌)、そしてシャオ・カーンのフェイタリティが追加された。 ===Mortal Kombat 4=== {{Main|:en:Mortal Kombat 4}} 略称「''MK4''」。本編シリーズ4作目。対応プラットフォームはPlayStation、Nintendo 64、ゲームボーイカラー、PC。Digital Eclipseが開発した2Dグラフィックのゲームボーイカラー版は1998年12月12日に発売。現時点で最後のアーケード作品であり、日本では家庭版は本作以降発売されていない{{R|GameSpark20200312}}。本作よりキャラクターのグラフィックが実写取り込みから3Dポリゴンに移行した<ref name="GameSpark20200312">{{Cite web|和書|title=GOGにて『Mortal Kombat 4』が配信開始! シリーズで初めて3Dを採用したタイトル|url=https://www.gamespark.jp/article/2020/03/12/97443.html|website=Game*Spark|date=2020-03-12|author=RIKUSYO|accessdate=2020-06-02|publisher=イード}}</ref>。エンディングはリアルタイムレンダリングだが、PS版および『MKG』ではプリレンダリング映像で再生される。 1999年9月9日にドリームキャスト専用のマイナーチェンジ版『'''[[:en:Mortal Kombat Gold|Mortal Kombat Gold]]'''』(略称 : ''MKG)''が発売されており、バラカ、サイラックス、キタナ、クン・ラオ、ミレーナ、セクターの6名が追加された。同作は開発期間が短期だったこともあり、多数のバグが確認されている。発売から1ヶ月後、致命的なバグが修正され、[[ドリームキャスト|ビジュアルメモリ]]に対応したVer2.0(赤ディスク)がリリースされたが、不具合は完全には修正されていない。 ;システム :全キャラクターのチェインコンボのモーションが統一され、コンボキャンセルから特殊技を繰り出せる。剣、[[メイス]]などの武器や緊急回避のアクションが追加されたほか、一部ステージの地面に投擲可能な岩、生首が点在しており、戦略の幅が広がっている。本作のみ、コンボのダメージが40%を超えると、お互いが吹き飛び強制的にコンボがキャンセルされるシステム「'''MAXIMUM DAMAGE'''」が搭載されており、これは『MK3』から『MKT』において、多数の大ダメージ・即死コンボが確立されたため、対策として導入されたシステムである。 :FriendshipやBabalityなどのフィニッシュムーブは削除されている。キャラクターセレクト画面にてコマンドを入力するとコスチュームが変化し、キャラクターによっては2種類用意されている。隠し要素として外皮が溶けた状態のキャラクターを使用でき、これが『MK:A』に登場するミートの原型にもなっている。 ;評価 :Game*Sparkのrate-datは、『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』や『[[デッド オア アライブ]]』といったポリゴンを採用した同年代の格闘ゲームと比較すると、『MK4』はあまり新鮮味のない作品だったと指摘しており、評価も振るわなかったと説明している{{R|GameSpark20211024}}。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || スコーピオン / サブ・ゼロ / リュウ・カン / ライデン / ソニア / ジャックス / ジョニー・ケイジ / レプタイル / '''カイ''' / '''フウジン''' / '''ジャレック''' / '''ターニャ''' / '''レイコ''' / '''シノック''' / '''クァン・チー''' / ゴロー / ヌーブ・サイボット |- | 追加キャラクター(MKG)|| キタナ / ミレーナ / クン・ラオ / バラカ / サイラックス / セクター |} === Mortal Kombat: Deadly Alliance === {{Main|:en:Mortal Kombat: Deadly Alliance}} {{Anchors|モータルコンバット:デッドリーアライアンス}}略称「''MK:DA''」。本編シリーズ5作目。対応プラットフォームはPlayStation 2、Xbox。予定されていた日本版の発売は中止となった<ref name="ITMedia20020920">{{Cite web|和書|title=SOFTBANK GAMES TOKYO GAME SHOW 2002NEWS 「モータルコンバット」の最新作が日本でも発売決定!! |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/tgs/tgs2002/news/01/33.html |website=ITメディア |date=2002-09-20 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。GBA向けに移植版とマイナーチェンジ版『'''[[:en:Mortal Kombat: Deadly Alliance#Game Boy Advance versions|Mortal Kombat: Tournament Edition]]'''(略称 : ''MK:TE'')」が発売されており、一部キャラクターが差し替えられている。 ;システム :前作は[[ポリゴン]]とはいえ既存の2D格闘ゲームに準じたゲームシステムだったが、本作から『MK:A』にかけて既存の3D格闘ゲームの流れを汲んだものとなっており{{R|ITMedia20020920}}、ステージの奥行きを利用した軸移動が可能となっている<ref group="注釈">前作においても回避の際のみ軸移動ができた。</ref>。フェイタリティは各キャラクターごとに1つのみ用意され、その他のフィニッシュムーブが全て廃止されている反面、格闘スタイルと武器<ref group="注釈">ブレイズとモカップは武器を持たない代わりに格闘スタイルを3種類使用する。</ref>を自由に切り替えて戦うシステムが搭載されている<ref name="gigazine20180204">{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20180204-mortal-kombat-fatality|title=25年以上続く人気格闘ゲーム「モータルコンバット」シリーズのショッキングな演出でとどめを刺す「フェイタリティ」を全てまとめたムービー|date=2018-02-04|accessdate=2020-11-24}}</ref>。斬撃系の武器を持つキャラクターは相手に突き刺すことによりラウンド中は武器を使用できなくなる代わりに、相手は決着が付くまで体力が減少し続ける。 ;ゲームモード :『MK』以来となるステージ間のミニゲーム「Test Your Might」が復活しており{{efn|今作ではクリアすると、スコアではなくコインを獲得できる。}}、コインを消費してコンセプトアートやキャラクター、コスチュームといった隠し要素を解禁する「'''Krypt'''」、各キャラクターの技やコンボを学習する「'''Konquest'''」など新規のモードを収録。 ;ストーリー :本作の物語は、スコーピオンのエンディングの続きであり、スコーピオンは自らの一族を殺した妖術師クァンチーをネザーレルムへ追放したところから物語が始まる。だが、クァンチーは堕神シノックから盗んだアミュレットを用いてネザーレルムから逃走する。彼は逃走先で見つけた古代の龍王の墓を世界征服に利用できることに気づき、利害の一致からシャン・ツンと同盟を結ぶ。2人がネザーレルムの支配者シャオ・カーンと人間界のモータルコンバットの優勝者リュウ・カンを抹殺したことにより、ライデンが守護者の地位を捨てて対応に乗り出す{{R|GameSpark20220103}}。2人はライデンの仲間たちを次々と殺した後、シノックのアミュレットをめぐり、殺し合いへと発展する{{R|GameSpark20220103}}。クァン・チーの勝利で幕を閉じるかと思いきや、かつて外界を支配していた龍王オナガが復活する{{R|GameSpark20220103}}。2人は一時休戦し、ライデンとともにオナガに立ち向かうも歯が立たず、最終的にはライデンがオナガを撃退すべく捨て身の一撃を放って死亡するも犬死に終わり、シノックのアミュレットをオナガが持って行く場面で物語は『Mortal Kombat:Deception』へと続く<ref name="GameSpark20220103">{{Cite web|和書|title=今だから知りたい…『モータルコンバット』シリーズってなんなのさ?~後編~ |url=https://www.gamespark.jp/article/2022/01/03/114782.html |website=Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト |accessdate=2022-03-10 |date=2022-01-03}}</ref>。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || クン・ラオ / ソニア / カノウ / ジョニー・ケイジ / クァン・チー / シャン・ツン / ライデン / キタナ / ジャックス / レプタイル / サイラックス / '''ケンシ''' / '''ボー・ライ・チョー''' / '''リ・メイ''' / '''マバド''' / '''フロスト'''/'''ス・ハオ''' / '''ニタラ''' / '''ドラミン''' / '''ブレイズ''' / '''モカップ''' |- | MK:TEのみ || サリーナ / ヌーブ・サイボット / セクター |- | NPC || '''モロク''' |} ===Mortal Kombat: Deception=== {{Main|:en:Mortal Kombat: Deception}} {{Anchors|モータルコンバット:ディセプション}}略称「''MK:D''」。本編シリーズ6作目。初回限定版にはアーケード版『MK』の移植版が収録されており、2005年3月1日に北米にてシャオ・カーン、ゴローがプレイアブルキャラクターとして追加されたGC版が発売された<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt0411677/alternateversions |title=Alternate Versions |accessdate=2020-11-24}}</ref>。2006年にPSP向けのアップデート版『[[:en:Mortal Kombat: Deception#Mortal Kombat: Unchained|Mortal Kombat: Unchained]]』(略称「''MK:U''」)が発売され、同作はGC版の追加キャラクターに加えてキタナ、ジャックス、フロスト、ブレイズが追加されている。 ;ゲームモード :冒険家の「シュジンコウ」が主人公を務めるアドベンチャー型のストーリーモードとしてリニューアルされた「Konquest」、キャラクターたちをチェスの駒になぞらえた「'''Chess Kombat'''」、[[デフォルメ]]されたキャラクターが登場する[[落ち物ゲーム]]「'''Puzzle Kombat'''」などが用意されている。Konquestでは『MK:DA』までの一部のキャラクターがNPCとして登場しており、話しかけるとコインを譲渡されたり、依頼を受ける、勝負を挑まれるなどのイベントが発生する(ただし、近づくと即座に姿を消したり、背景に映っているのみで話しかけられない場合もある)。 ;システム :基本システムは前作『MK:DA』をほぼ踏襲。各キャラクターは2種類のフェイタリティを持つ。新たに、敵のコンボや初撃を強制的にキャンセルさせる「'''Breaker'''」が導入されており、1マッチにつき3回まで使用できる。同作とアップデート版に相当する『MK:U』のみ、敗北後に自決するコマンド「'''Hara-Kiri'''」が導入された{{R|gigazine20180204}}。 :ステージフェイタリティ同様にオブジェクトを利用して敵を死に至らしめる「'''Death Trap'''」が追加されており、こちらは通常のリングアウト扱いとなっているため、場外に落としたり特定のオブジェクトに叩きつけるだけで発動する。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || スコーピオン / サブ・ゼロ / ナイトウルフ / シンデル / カバル / バラカ / アーマック / ボー・ライ・チョー / リュウ・カン / ライデン / ケンシ / リ・メイ / ジェイド / シンデル / ターニャ / ヌーブ・スモーク<ref group="注釈">ヌーブ・サイボットとスモークによるタッグ。</ref> / '''ハヴィック''' / '''ホタル''' / '''シュジンコウ''' / '''キラ''' / '''ダイロウ''' / '''ダリウス''' / '''アシュラ''' / '''コブラ''' |- | 追加キャラクター(GC版) || シャオ・カーン / ゴロー |- | 追加キャラクタ(MK:U) || キタナ / ジャックス / フロスト / ブレイズ |- | NPC || ソニア / ジョニー・ケイジ / クン・ラオ / シャン・ツン / クァン・チー / '''オナガ''' |} ===Mortal Kombat: Armageddon=== {{Main|:en:Mortal Kombat: Armageddon}} 略称「''MK:A''」。本編シリーズ7作目。対応プラットフォームはWii、PlayStation 2。PS2のみアーケード版『UMK3』の移植版を収録した初回限定版が発売されている。『MK:D』までのほぼ全てのキャラクターが登場している<ref group="注釈">ただし、カメレオン(雌)はWii版のみ使用可能であり、後述の外伝作品に登場するキャラクターはサリーナを除き登場しない。</ref>。 ;システム :基本システムは『MK:D』を踏襲しているが、格闘スタイルは1つのみとなり、フェイタリティも連続で攻撃を加えていき、決定打を与えてトドメを刺す「'''Kreate-A-Fatality'''」に変更された{{R|gigazine20180204}}。また、ジャストガードを成功させると相手の攻撃を拳で防ぐ「'''Parry'''」や、空中コンボが導入された。 ;ゲームモード :アクションゲームとしてリニューアルされた「Konquest」のほか、パーツの組み合わせ、スタイル、武器、攻撃モーション、特殊技、基本技、性別、配色、ボイスなどを自由に設定してキャラクターを作成する「'''Kreate a Fighter'''」、「Puzzle Kombat」のようにデフォルメされたキャラクターを操作する[[レーシングゲーム]]「'''Motor Kombat'''」が新規に追加されている。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || スコーピオン / サブ・ゼロ / リュウ・カン / ライデン / クン・ラオ / キタナ / ソニア・ブレイド / ジョニー・ケイジ / ジャックス / カノウ / ミレーナ / バラカ / カバル / レプタイル / ヌーブ・サイボット / スモーク / サイラックス / セクター / ジェイド / シンデル / ナイトウルフ / ストライカー / アーマック / レイン / シャン・ツン / ゴロー / キンタロー / モタロー / シーヴァ / シャオ・カーン / カメレオン(雄) / カメレオン(雌)(Wii版) / クァン・チー / シノック / カイ / フウジン / ターニャ / ジャレック / レイコ / ケンシ / フロスト / ボー・ライ・チョー / リ・メイ / ス・ハオ / マバド / ニタラ / ドラミン / シュジンコウ / ダイロウ / ダリウス / アシュラ / ハヴィック / ホタル / キラ / コブラ / モカップ / オナガ / サリーナ / ミート / '''テイヴン''' / '''ディーゴン''' / ブレイズ |} ===Mortal Kombat vs. DC Universe=== {{Main|:en:Mortal Kombat vs. DC Universe}} {{Anchors|モータルコンバット vs. DC Universe}}略称「''MKvs.DCU''」。本編シリーズ8作目。対応プラットフォームは[[PlayStation 3|PS3]]、[[Xbox 360]]。使用エンジンは[[Unreal Engine|Unreal Engine 3]]。「モータルコンバット」と『[[スーパーマン]]』『[[バットマン]]』などで知られる「[[DCコミックス|DC Universe]]」によるクロスオーバー作品。北米でのレーティングは[[ESRB]]:T(13歳以上)指定であり、グロテスクな演出はかなり控えめになっている{{R|GameSpark20181025}}。 「モータルコンバット」サイドのキャラクターと「DC Universe」の[[悪役|ヴィラン]]はフェイタリティを使用する一方、バットマンなどのヒーローは相手を殺めず制裁を加えるフィニッシュムーブ「'''Heroic Brutality'''」を持つ<ref name="GameSpark20181025">{{Cite web|和書|title=Fatalityのシーンも! 『Mortal Kombat vs. DC Universe』フィニッシュムーブ映像|url=https://www.gamespark.jp/article/2008/10/25/17199.html|website=Game*Spark|date=2018-10-25|accessdate=2020-06-15}}</ref>。 本作よりチャプター毎に使用キャラクターを切り替えながら進行する「ストーリーモード」が追加された。 なおシリーズの開発元であるミッドウェイゲームスは2009年に経営不振により倒産したため今作は同社が開発・発売した最後のシリーズ作品となった。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | モータルコンバットサイド || スコーピオン / サブ・ゼロ / ライデン / リュウ・カン / キタナ / ソニア・ブレイド / ジャックス / カノウ / バラカ / シャン・ツン / シャオ・カーン |- | DCユニバースサイド || バットマン / スーパーマン / グリーンランタン / フラッシュ / ワンダーウーマン / キャプテンマーベル / キャットウーマン / ジョーカー / デスストローク / レックス・ルーサー / ダークサイド |- | NPC || '''ダーク・カーン'''<ref group="注釈">[[ダークサイド (DCコミックス)|ダークサイド]]とシャオ・カーンが融合した存在。</ref> |} ===Mortal Kombat(2011年)=== {{Main|:en:Mortal Kombat (2011 video game)}} {{Anchors|モータルコンバット(2011)}}通称「''MK9''」、「''MK 2011''」。本編シリーズ9作目。2011年4月19日に北米で発売。正式なタイトルは1作目と同様 『Mortal Kombat』だが、区別のため 『'''Mortal Kombat 9'''』、『'''Mortal Kombat 2011'''』 と表記されることが多い。対応プラットフォームはPS3、Xbox 360、PS Vita。ゲームエンジンは、前作に引き続き[[Unreal Engine|Unreal Engine 3]]を使用。同作からミッドウェイゲームスの権利を買収した [[:en:Warner Bros. Interactive Entertainment|Warner Bros. Interactive Entertainment]] が販売を担当し、開発は同社の傘下グループの [[:en:NetherRealm Studios|NetherRealm Studios]]が担当している。 タイトルが示す通り「'''原点回帰'''」をテーマとして開発された同作は、シリーズを重ね様々な派生作品がリリースされたことによるエピソードや設定の氾濫・矛盾を解消させ、『MK』から『MKT』までのストーリーを再構成している。『MKT』までのキャラクターが一部を除いて登場している反面、『MK4』以降の追加キャラクターはクァン・チーとケンシのみ登場<ref group="注釈">ただし、レイコやフロスト、ボー・ライ・チョーなどの一部のキャラクターは、ステージ背景に登場したり名前のみ言及される形でカメオ出演しており、ストーリーのラストシーンではシノックも顔見せ程度に登場している。</ref>。新キャラクターも『MKII』の開発段階で登場する案は用意されていたものの長らく採用されることのなかった「'''スカーレット(Skarlet)'''」、サブ・ゼロ(カイ・リャン)がサイボーグ化した「'''サイバー・サブ・ゼロ(Cyber Sub-Zero)'''」のみ。 ;システム :『MK:DA』から『MKvs.DCU』まで導入されていたZ軸移動を廃した、「3Dグラフィックの2D座標対戦型格闘ゲーム」に回帰している。新たに「'''Super Meter'''」が導入され、特殊技の使用、攻撃を受けるかガードされた際にゲージが蓄積されていく。ゲージは3セクションに分かれており、1セクション消費で特殊技を強化した「'''Enhanced Attack'''」、2セクション消費で敵の攻撃を弾いて距離を置く「Breaker」を発動、3セクション消費でいわゆる超必殺技に相当する「'''X-ray move'''」を発動できる。これは、初撃がヒットするとさながら「[[X線撮影|レントゲン写真]](X-ray)」のように皮膚のみを透過して内臓や骨を映し、それらを破壊ないし損傷させて大ダメージを与える技である。 :シークレットフェイタリティ、ステージフェイタリティのほか、Babalityといった過去作のフィニッシュムーブも取り入れられている。 ;DLC :衣装やフェイタリティ、追加キャラクターなどの各種ダウンロードコンテンツに対応しており、ゲストキャラクターとして『[[エルム街の悪夢 (2010年の映画)|エルム街の悪夢]]』の[[フレディ・クルーガー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2011/07/22/28989.html|title=SDCC 11: 『Mortal Kombat』4人目のDLCキャラクターは“フレディ・クルーガー”!|accessdate=2020-06-21|date=2011.7.22 |publisher=イード|website=Game*Spark}}</ref>、PS3版とPS Vita版のみ『[[ゴッド・オブ・ウォー]]』のクレイトス<ref>{{Cite web|和書|title=スパルタの亡霊,参戦決定。欧米で人気の格闘ゲーム「Mortal Kombat」のPS3版に「ゴッド・オブ・ウォー」シリーズのクレイトスが登場する|url=https://www.4gamer.net/games/112/G011200/20101215037/|website=www.4gamer.net|accessdate=2020-06-30|publisher=Aetas|date=2012-12-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201203/19011768.html|title=[海外ゲームニュース]多分日本で出ない『Mortal Kombat』PS Vita版プレビュー【GDC 2012】|date=2012-03-19|accessdate=2020-06-30|publisher=KADOKAWA|website=ファミ通}}</ref>が配信されている。Xbox 360版では、特定モードでXbox LIVEのアバターが使用できる。 :2012年にXbox 360、PS3<ref name="gamespark20120110">{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2012/01/10/31320.html|title=Warner Brosが全DLC同梱の『Mortal Kombat Komplete Edition』を発表|date=2012-01-10|accessdate=2020-11-24}}</ref> 、PS Vita<ref name="digitalspy20120118">{{Cite web|url=https://www.digitalspy.com/videogames/a360636/mortal-kombat-announced-for-playstation-vita/|title='Mortal Kombat' announced for PlayStation Vita|date=2012-01-18|accessdate=2020-11-24}}</ref> 、PC<ref name="gamespark20130617">{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2013/06/17/41515.html|title=全DLCを付属したPC版『Mortal Kombat: Komplete Edition』のファーストスクリーンショットが披露|date=2013-06-17|accessdate=2020-11-24}}</ref> 向けにリリースされた完全版「Mortal Kombat: Komplete Edition」は既存のDLCが全て収録された上で、ゲームモードやコスチュームが追加されている。 ;受賞歴 :「Video Game Awards 2011」では、ベスト格闘ゲーム (Best Fighting Game)を受賞している<ref>[http://www.spike.com/events/video-game-awards-2011-nominees/voting/best-fighting-game Best Fighting Game | The King of Fighters XIII, Marvel vs. Capcom 3, Mortal Komvat, WWE All Stars | Video Game Awards 2011]</ref>。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || スコーピオン / サブ・ゼロ / リュウ・カン / ライデン /クン・ラオ/ キタナ / ジェイド / ジョニー・ケイジ / ソニア・ブレイド / ジャックス / ナイトウルフ / ストライカー / カバル / カノウ / シンデル / ミレーナ / バラカ / アーマック / リープテイル / スモーク / セクター / サイラックス / シーヴァ / シャン・ツン / クァン・チー / '''サイバー・サブ・ゼロ''' / トレマー(PS Vita版のチャレンジ・タワーのみ) |- | DLC || '''スカーレット''' / レイン / ケンシ / クレイトス(PS3版、PS Vita版) / フレディ・クルーガー |- | NPC || ゴロー / キンタロー / シャオ・カーン |} ===Mortal Kombat X=== {{Main|:en:Mortal_Kombat_X}} 略称「''MKX''」。[[ワーナー・ブラザース|Warner Bros. Interactive Entertainment]] が販売し、[[:en:NetherRealm Studios|NetherRealm Studios]]が開発を担当。本編シリーズ10作目<ref group="注釈">「X」はローマ数字の「10(テン)」と呼ばれるが、アルファベットの「エックス」が正しい。</ref>。使用エンジンは改良された「Unreal Engine 3」。対応プラットフォームは[[Windows]]、[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]、[[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android端末]]、Microsoft Windows(Steam)。当初リリースを予定されていた[[PlayStation 3]]版と[[Xbox 360]]版は延期の末に発売中止となった<ref>http://www.gamespark.jp/article/2015/08/29/59753.html</ref>。PS4版、Xbox One版は2015年4月14日発売。2016年1月、全DLCを同梱した新パッケージ『Mortal Kombat XL』を発表し、PS4とXbox One向けに同年3月1日発売<ref>{{Cite web|和書|title=新キャラ参戦!『Mortal Kombat XL』が海外発売―ローンチトレイラーも公開 |url=https://www.gamespark.jp/article/2016/03/02/64100.html |website=Game*Spark |date=2016-03-2 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。2016年10月04日にSteam向けにも配信された<ref>{{cite web |url=http://www.eurogamer.net/articles/2016-10-05-it-looks-like-warner-has-fixed-mortal-kombat-x-on-pc |title=It looks like Warner has fixed Mortal Kombat X on PC |date=2016-10-04 |publisher=EuroGamer.net |access-date=2022-10-05}}</ref>。 iOS、Android版はコンソール版と異なり、シンプルなゲームシステムとなっており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.excite.co.jp/News/android/20150511/Appget_Review_66082.html |title=スマホで最も残虐!モータルコンバット最新作でフェイタリティを決めろ! |publisher=エキサイト |accessdate=2016-01-03 |date=2015-05-11}}</ref>、日本語ローカライズが施されている。なお、2019年2月27日をもって「Mortal Kombat Mobile」へと改題された。 ストーリーは前作『MK9』の終了から25年間に起こる出来事を描く。ジョニー・ケイジの格闘センスを受け継いだ娘「'''キャシー・ケイジ(Cassie Cage)'''」や、ハードボイルドなガンマン風の「'''エロン・ブラック(Erron Black)'''」といった個性的な新キャラクターも追加されており、前作では言及されるのみに留まっていたボー・ライ・チョー、シノックといった『MK4』以降のキャラクターも一部復活し、外伝作品『MK:SF』に登場した忍者「トレマー」も参戦している<ref name="GS20150321">{{Cite web|和書| |title=プレデター参戦が正式発表!『Mortal Kombat X』のシーズンパス情報公開 |url=https://www.gamespark.jp/article/2015/03/21/55725.html |website=Game*Spark |date=2015-03-21 |accessdate=2022-10-05 |author=RIKUSYO}}</ref>。 フェイタリティも旧作とは異なり、対戦相手が無残な姿になった状態をメインに映すという、より残虐さが増した演出となっている<ref name="famitsu20140612">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201406/12055032.html|title=究極神拳がエグいぜ! 洋ゲー界が誇る格ゲー最新作『Mortal Kombat X』でフィニッシュヒム【E3 2014】|date=2014-06-12|author=ミル☆吉村|accessdate=2020-06-18}}</ref>。 ;DLC :前作に引き続きゲストキャラクターがDLCとして配信されており、『[[プレデター (映画)|プレデター]]』より[[プレデター (架空の生物)|プレデター]]<ref>{{Cite web|和書|title=クランクイン! - エンタメの「今」がわかる 映画&エンタメニュース|url=https://www.crank-in.net/news/36041/1|website=クランクイン!|date=2015/3/29 |accessdate=2020-11-24|lpublisher=ブロードメディア}}</ref>、『[[13日の金曜日シリーズ|13日の金曜日]]』より[[ジェイソン・ボーヒーズ]]<ref name="Jason">{{Cite web|和書|url=http://www.kotaku.jp/2015/05/mortal-kombat-x-jason-voorhees-kill-scenes.html|title=『モータルコンバットX』ジェイソン・ボーヒーズの全殺戮シーン|accessdate=2016-01-02|date=2015-05-07|publisher=[[kotaku]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150509220536/http://www.kotaku.jp/2015/05/mortal-kombat-x-jason-voorhees-kill-scenes.html|archivedate=2015-05-09}}</ref>、『[[悪魔のいけにえ]]』より[[レザーフェイス]]<ref name="gamespark20160302">{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2016/03/02/64100.html|title=新キャラ参戦!『Mortal Kombat XL』が海外発売―ローンチトレイラーも公開|date=2016-03-02|accessdate=2020-11-24}}</ref>、『[[エイリアン_(映画)|エイリアン]]』より[[エイリアン_(架空の生物)|エイリアン]](ゼノモーフ){{R|gamespark20160302}}が参戦している。サブ・ゼロ、スコーピオンなど初期の作品から登場している一部のキャラクターは実写取り込み時代のフェイタリティを再現したDLCが配信されている<ref name="ubergizmo20150707">{{Cite web|url=https://www.ubergizmo.com/2015/07/mkx-klassic-fatalities-dlc/|title=Mortal Kombat X Klassic Fatalities DLC Released|date=2015-07-07|accessdate=2020-11-24}}</ref>。 ;システム :各キャラクター毎に3種類<ref group="注釈">キャラクターによっては4つ目の隠しバリエーションが用意されている。</ref>のバリエーション''(Variation)''が用意されており{{R|famitsu20140612}}、たとえばスコーピオンの場合は「''HELLFIRE'' / ''NINJUTSU'' / ''INFERNO''」から選択できる<ref name="GameSpark20140611">{{Cite web|和書|title=【E3 2014】シャレにならない次世代残忍バトル!『Mortal Kombat X』インプレッション |url=https://www.gamespark.jp/article/2014/06/11/49254.html |website=Game*Spark |date=2014-06-11 |accessdate=2020-06-04 |author=Rio Tani}}</ref>。また、バリエーションによってキャラクターの容姿や技が変化する。同じくNetherRealm Studios開発の『[[インジャスティス:神々の激突]]』に引き続き、ステージ内のオブジェクトやギミックを用いた移動や攻撃が可能となっており、たとえば「Snow Forest」という森林のステージの場合、木を折って相手に叩きつけることができる{{R|famitsu20140612|GameSpark20140611}}。ブルータリティは特定の条件下とコマンドで体力を0にするとダイレクトにトドメに移行する仕様に変更され<ref name="gamespark20150227">{{Cite web|和書|url=https://www.gamespark.jp/article/2015/02/27/55193.html|title=『Mortal Kombat X』のブルタリティが遂にお披露目! もはやプチフェイタリティ|date=2015-02-27|accessdate=2020-11-24}}</ref>、コマンド入力によって演出が変化する物も存在する。新たな要素として、ネット対戦中に通信を切断すると、使用キャラクターが死亡するペナルティを課されるシステム「'''Quitality'''」<ref name="AUTOMATON20150320">{{Cite web|和書|title=『Mortal Kombat』最新作で新しいフェイタリティが採用、回線を抜いた敵を自爆させる"クイタリティ"|url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/mortal-kombat-quitality/|website=AUTOMATON|date=2015-03-20|accessdate=2020-06-02|publisher=アクティブゲーミングメディア|first=Shuji|last=Ishimoto}}</ref>、所属する組織のメンバーがトドメを刺す「'''Faction Kill'''」が導入されている。 ;モバイル版に対する評価 :アプリレビューサイト「アプリゲット」のむらさきは、タップやスワイプを主体としたモバイル版の操作体系が非常に快適であると評価しており、プレイヤーキャラクターの強化についても評価している<ref name="appget20150511">{{Cite web|和書|title=MORTAL KOMBAT Xのレビューと序盤攻略|url=https://appget.com/appli/view/66082/|website=アプリゲット|date=2015-05-11|accessdate=2020-07-09|author=むらさき}}</ref>。むらさきはグラフィックが美しい分、データ容量が1.5Gと重いと指摘している{{R|appget20150511}}。アプリレビューサイト「Appliv」編集部も、直感的な操作体系やプレイヤーキャラの強化といった仕様を評価している<ref>{{Cite web|title=【Appliv】MORTAL KOMBAT X|url=https://app-liv.jp/949701151/|website=Appliv|date=2015年5月25日|accessdate=2020-07-09|author=Appliv編集部}}</ref>。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル || スコーピオン / サブ・ゼロ / ライデン / ジョニー・ケイジ / ソニア / ジャックス / ケンシ / クァン・チー / リュウ・カン / クン・ラオ / キタナ / ミレーナ / カノウ / アーマック / レプタイル / '''キャシー・ケイジ''' / '''ジャッキー・ブリックス''' / '''タケダ''' / '''クン・ジン''' / '''コータル・カーン''' / '''デ・ヴォラ''' / '''エロン・ブラック''' / '''フェラー/トール''' / シノック<ref group="注釈">隠しキャラクター。もしくは『MKXL』を購入することでもアンロックできる。</ref> |- | DLC || ゴロー / ターニャ / ボー・ライ・チョー / トレマー / '''トライボーグ''' / ジェイソン・ボーヒーズ / プレデター / レザーフェイス / エイリアン |- | NPC || シンデル / バラカ / レイン / '''コラプテッド・シノック''' |} ===Mortal Kombat 11=== {{external media |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=bRjbIuJWtlg MK11 Kombat Pack Roster Reveal Official Trailer] - モータルコンバット11のDLC「Kombat Pack」トレーラー。シャン・ツン、ナイトウルフ、シンデル、スポーン、ジョーカー、T-800の順に登場。 |video2=[https://www.youtube.com/watch?v=6NKfebC2nY0 Mortal Kombat 11: Aftermath - Reveal Trailer] 大型アップデート「Aftermath」トレーラー}} {{Main|:en:Mortal_Kombat_11}} {{Anchors|モータルコンバット11}}略称「''MK11''」。本編シリーズ11作目。『MK4』以来のナンバリング表記となっている。2019年4月23日に米国にて発売。対応プラットフォームはPS4、Xbox One、Nintendo Switch、Microsoft Windows(Steam)。 ストーリーは、時を司る古代神「クロニカ」と彼女に立ち向かうリュウ・カンやライデン達の壮絶な戦いを描いており、異なる時間軸の同一人物が登場する場面もある{{R|famitsu20190118}}。 2020年5月26日の無料アップデートにて『MKT』以来となる「Friendship」が追加され、ライデンのフレンドシップはウクライナのダンスグループである{{仮リンク|ライトバランス|en|Light Balance}}のパフォーマンスをモデルとしている<ref>{{Cite web|和書|title=『Mortal Kombat 11: Aftermath』発売記念の超絶ダンスパフォーマンス映像!|url=https://www.gamespark.jp/article/2020/05/28/99397.html|website=Game*Spark|author=RIKUSYO||accessdate=2020-06-07|date=2020.5.28 }}</ref>。 ;システム :キャラクターのカスタマイズ機能が導入され、バリエーションの名前、スキン、装備品、武器のデザイン、アビリティ(最大3つまで使用可能)、登場演出、勝利演出などを設定できる<ref name="famitsu20190118">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201901/18170686.html|title=『Mortal Kombat 11』“Finish Him!!”最凶格ゲー“モーコン”シリーズ最新作のシステムや新キャラなどが公開|accessdate=2020-07-09|date= 2019.01.18|website=ファミ通}}</ref>。ゲージの仕様が変更されており、本作では攻撃用と防御用の2本に分かれている{{R|famitsu20190118}}。前作の要素のうち、ブルータリティ、Quitalityなどは継承されている一方、超必殺技「X-Ray move」の名称は「'''Fatal Blow'''」へと変更され、「体力が30%以下まで減少する」という発動条件が設けられ{{R|famitsu20190118}}、 使用できる回数も1マッチにつき1回までに制限されている(不発の場合は一定時間経過した後に再び発動できる)。MercyやParryといった過去作のシステムも一部復活した。 ;DLC :DLCとしてシャン・ツンが配信され、1995年放映の映画版で同役を演じた[[ケイリー=ヒロユキ・タガワ]]が声とフェイスモデルを担当した<ref>https://www.gamespark.jp/article/2019/06/01/90134.html</ref>。後にライデン、ソニア、ジョニー・ケイジを同映画で演じた役者をモチーフとしたスキンも配信されている<ref>https://www.gamespark.jp/article/2020/11/25/104108.html</ref>。本作の予告編の音楽はベルギーのDJ[[ディミトリ・ヴェガス&ライク・マイク|ディミトリ・ヴェガス]]が担当しており、後にサブ・ゼロの見た目や音声をヴェガスのものに差し替えられるスキンが無料配信された<ref>{{Cite web|和書|title=『Mortal Kombat 11』に人気DJ「ディミトリ・ヴェガス」が参戦!? サブゼロ用スキンとして配信決定|url=https://www.gamespark.jp/article/2019/07/23/91560.html|website=Game*Spark|author=RIKUSYO|accessdate=2020-06-02|date=2019-07-23|Publisher=イード}}</ref>。ゲストは『[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]』より[[T-800]]<ref name="engadget20190822">{{Cite web|和書|url=https://japanese.engadget.com/jp-2019-08-22-11-t-800-dlc.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220155944/https://japanese.engadget.com/jp-2019-08-22-11-t-800-dlc.html|archivedate=2022-02-20|deadlinkdate=2022-05-01|title=『モータルコンバット11』にターミネーターことT-800、バットマンのジョーカーがDLC参戦|date=2019-08-22|accessdate=2020-11-24}}</ref>、『[[バットマン]]』より[[ジョーカー (バットマン)|ジョーカー]]{{R|engadget20190822}}、[[スポーン]]{{R|engadget20190822}}、[[ロボコップ (架空のサイボーグ)|ロボコップ]]<ref>{{Cite web|和書|title=ロボコップがモータルコンバット11に殴り込み。有料追加ストーリー『Afermath』に登場|date=2020-05-06|url=http://japanese.engadget.com/jp-2020-05-06-11-afermath.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220033907/https://japanese.engadget.com/jp-2020-05-06-11-afermath.html|archivedate=2022-02-20|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2020-06-02}}</ref>、『[[ランボー|ランボー』]]より[[ジョン・ランボー]]<ref>{{Cite web|和書|title=ランボー参戦!『Mortal Kombat 11』新DLC「Kombat Pack 2」発表―次世代機への対応も決定|url=https://www.gamespark.jp/article/2020/10/08/102841.html|website=Game*Spark|accessdate=2020-10-09}}</ref>が参戦している。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+ 【登場キャラクター】 |- | プレイアブル|| スコーピオン / サブ・ゼロ / リュウ・カン / ライデン / クン・ラオ / キタナ / ジェイド / ジョニー・ケイジ / ジャックス / ソニア / カノウ / バラカ / カバル / ヌーブ・サイボット / フロスト<ref group="注釈">隠しキャラクター。DLCを購入することでもアンロックできる。</ref> / スカーレット / キャシー・ケイジ / ジャッキー・ブリッグス / コータル・カーン / エロン・ブラック / デ・ヴォラ / '''セトリオン''' / '''ゲラス''' / '''コレクター''' |- | DLC|| シャオ・カーン / シャン・ツン / ナイトウルフ / シンデル / フウジン / シーヴァ / レイン / ミレーナ / T-800 / ジョーカー / スポーン / ロボコップ / ジョン・ランボー |- | NPC|| サイラックス / セクター / '''クロニカ''' |} ===Mortal Kombat 1=== 略称「MK1」。NetherRealm Studiosが開発を担当し、Warner Bros. Gamesより発売。本編シリーズ12作目。『MK11』の続編であり、「MK9」に続く、シリーズ2作目のリブート作品<ref>{{Cite web |last=Cryer |first=Hirun |access-date=2023-07-27|date=2023-05-18 |title=Mortal Kombat 1 acts as a sequel to Mortal Kombat 11 (2019), as well as a reboot of the entire series in September |url=https://www.gamesradar.com/mortal-kombat-1-reboots-the-entire-series-in-september/|website=[[GamesRadar+]] |language=en}}</ref>。対応プラットフォームはNintendo Switch、PlayStation 5、Windows、Xbox Series X/S。Kollector's EditionおよびPremium Editionは2023年9月14日に発売され、Standard Edition(通常版)は2023年9月19日に発売。 ;システム :本作にはストーリーモード、{{仮リンク|ロールバックネットコード |en|rollback netcode}}によるオンラインマルチプレイ、オフラインプレイが搭載されている。新規に「Kameo Fighters」と呼ばれるパートナーに選んだキャラクターがプレイヤーをアシストする機能が追加され<ref>{{Cite web |last=Doolan |first=Liam|access-date=2023-07-27|date=2023-05|title=Mortal Kombat 1 Kameo Fighters Announced Alongside Main Roster|url=https://www.nintendolife.com/news/2023/05/mortal-kombat-1-kameo-fighters-announced-alongside-main-roster|website=[[GamesRadar+]] |language=en}}</ref>、さらに、『MK:A』と『MK:SM』で導入されたAir Kombat combo system(空中コンボシステム)が復活し、本作向けに改良されている<ref name=faq/>。 ;キャラクター :同作では、リュウ・カンやスコーピオン、サブ・ゼロなどのキャラクターに加えて、リ・メイやハヴィックなどの『MK4』以降のキャラクターが多数復活した<ref name="faq">{{Cite web |title=Frequently Asked Questions |url=https://www.mortalkombat.com/en-us/faq |website=MortalKombat.com|access-date=2023-07-27}}</ref>。また、ニタラの声を女優の[[ミーガン・フォックス]]が担当している<ref>{{Cite web|和書|title=『Mortal Kombat 1』にセクシー吸血鬼「ニタラ」参戦! ボイスは女優ミーガン・フォックスが担当 |url=https://www.gamespark.jp/article/2023/09/07/133779.html |website=Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト |date=2023-09-07 |access-date=2023-09-23 |language=ja}}</ref>。DLC「Kombat Pack」では、ジョニー・ケイジの[[ジャン=クロード・ヴァン・ダム]]風のスキンのほか、6人の追加キャラクターと5人のカメオファイターが収録<ref name=faq/>。同DLCにはゲストキャラクターとして[[オムニマン]]<ref name="MK1KombatPack">{{Cite web|和書|title=ホームランダーやピースメイカー、オムニマンが参戦する「Mortal Kombat 1」“Kombat Pack”のトレーラーが遂にお披露目|url=https://doope.jp/2023/07138074.html/|website=doope.jp/|access-date=2023-08-23}}</ref>、[[ザ・ボーイズ_(テレビドラマ)#セブン|ホームランダー]]{{R|MK1KombatPack}}、[[ピースメイカー (DCコミックス)|ピースメイカー]]{{R|MK1KombatPack}}が収録されている。 {| class="wikitable" style="width:100%" |+登場キャラクター |- ! scope="col" | プレイアブル ! scope="col" | '''''Kameo Fighters''''' ! scope="col" | '''''Kombat Pack''''' |- | style="vertical-align: top;" | * リュウ・カン * クン・ラオ * ライデン * キタナ * ジョニー・ケイジ * スコーピオン * サブ・ゼロ * スモーク * レプタイル * ケンシ * バラカ * リ・メイ * ミレーナ * レイン * シャン・ツン{{efn|予約特典として利用可能なほか、オンラインストアで購入可|group=注釈}} * ターニャ * アシュラ * ゲラス * ハヴィック<ref group="注釈">隠しキャラクター。Chapter 15をクリアするかオンラインストアで購入するとアンロックされる。</ref> * シンデル * ジェネラル・シャオ(シャオ・カーン) * ニタラ * レイコ | style="vertical-align: top;" | * スコーピオン * サブ・ゼロ * クン・ラオ * ジャックス * ソニア・ブレイド * ストライカー * サイラックス * セクター * サリーナ * カノウ * ダリウス * フロスト * ゴロー * モタロー * シュジンコウ | style="vertical-align: top;" | * アーマック * タケダ * クァン・チー * [[オムニマン]] * [[ザ・ボーイズ_(テレビドラマ)#セブン|ホームランダー]] * [[ピースメイカー (DCコミックス)|ピースメイカー]] <hr /> '''''Kameo Fighters''''' * フェラー * ジョニー・ケイジ * カメレオン(雌) * マバド * トレマー |} {{reflist|group=note}} ;Kameo Fighters :試合中にパートナーキャラクターがアシストするシステム<ref name="faq" />。一部のキャラクターは、Kameo Fighterとプレイアブルキャラクターの両方を兼ねており、ゲストキャラクターがKameo Fighterを務めることもある<ref>{{Cite web |last=Frech |first=Ricky |date=2023-06-08|access-date=2023-07-27|title=Mortal Kombat 1 Confirms First 8 Kameo Fighters |url=https://comicbook.com/gaming/amp/news/mortal-kombat-1-confirms-first-kameo-fighters-ps5-xbox-pc-switch/ |website=[[ComicBook.com]]}}</ref>。 ;開発 :『MK11』のサポートを終了したNetherRealm Studiosは、2021年7月に新たなプロジェクトに取り組んでいることを発表。ジョニー・ケイジの声優のアンドリュー・ボーウェンは、急遽削除したツイートで第12作目が開発中であることを示唆した<ref>{{Cite web |last=Dinsdale |first=Ryan |date=2023-05-18 |title=Mortal Kombat 12 Revealed As Mortal Kombat 1 |url=https://www.ign.com/articles/mortal-kombat-12-revealed-as-mortal-kombat-1 |access-date=2023-05-18|website=[[IGN]] |language=en}}</ref>。2023年2月、[[ワーナー・ブラザース・ディスカバリー]]のCEO{{仮リンク|デヴィッド・ザスラブ|en|David Zaslav}}は2022年第4四半期の決算説明会で、シリーズ第12弾を同年後半にリリースすると発表した<ref>{{Cite web |last=Plant |first=Logan |date=2023-02-23|access-date=2023-07-27|title=Mortal Kombat 12 Confirmed for 2023 Release |url=https://www.ign.com/articles/mortal-kombat-12-confirmed-for-2023-release |website=[[IGN]]}}</ref>。 :2023年5月18日、NetherRealm Studiosは「Mortal Kombat 1」を2023年9月19日に発売するとアナウンスした。同作はリブート作品であり、『MK11』で神として覚醒したリュウ・カンが創造した新時代の時間軸が舞台である<ref>{{Cite web |last=Bonthuys |first=Darryn |date=2023-05-18 |title=Mortal Kombat 1 Revealed, Releases In September |url=https://www.gamespot.com/articles/mortal-kombat-1-revealed-out-in-september/1100-6514056/ |access-date=2023-05-18 |website=[[GameSpot]] |language=en-US}}</ref>。NetherRealm Studiosは、PlayStation 5版、Xbox Series X/S版のいずれかを予約したユーザーは、8月にベータ版にアクセスすることができ、ゲームの発売後、同社はクロスプレイとクロスプログレッションをサポートすると発表した<ref>{{Cite web |last=Ivan |first=Tom |date=2023-05-18 |title=Mortal Kombat 1 announced for September release with first trailer |url=https://www.videogameschronicle.com/news/mortal-kombat-1-announced-for-september-release-with-first-trailer/ |access-date=2023-05-18 |website=[[Video Games Chronicle]] |language=en-GB}}</ref>。ジャン=クロード・ヴァン・ダムをベースにしたジョニー・ケイジのスキンが、プレミアムDLCとして配信予定<ref>{{Cite web |last=McWhertor |first=Michael |date=2023-05-18|access-date=2023-07-27|title=After 30 years of trying, Jean-Claude van Damme is coming to Mortal Kombat |url=https://www.polygon.com/23728320/mortal-kombat-1-johnny-cage-jean-claude-van-damme |website=[[Polygon (website)|Polygon]]}}</ref>。 PlayStation 5版とXbox Series X/S版はNetherRealm Studiosが、Windows版はQLOC、Nintendo Switch版はShiver Entertainmentと{{仮リンク|Saber Interactive|en|Saber Interactive}}が開発を担当<ref name="faq" />。 ==外伝作品== ===Mortal Kombat Mythologies: Sub-Zero=== {{Main|:en:Mortal Kombat Mythologies: Sub-Zero}} {{Anchors|モータルコンバット ミソロジース:サブゼロ}}略称「MKM:SZ」。シリーズ初の外伝作品。主役はサブ・ゼロ(ビ・ハン)であり、時系列は『MK』の大会開催以前。ライデンの弟フウジン、クァン・チーとシノックはこの作品から登場した。なお、本作が実写取り込みを用いた最後の作品である。 ===Mortal Kombat: Special Forces=== {{Main|:en:Mortal Kombat: Special Forces}} 略称「MK:SF」。ジャックスを主役に据えた作品。MKM:SZとは異なり、俯瞰視点のゲームとなっている。後に『MKX』に参戦するトレマーの初登場作品である。 ===Mortal Kombat: Shaolin Monks=== {{Main|:en:Mortal Kombat: Shaolin Monks}} 略称「MK:SM」。リュウ・カンとクン・ラオを主役とした[[アクションアドベンチャーゲーム]]。ストーリーは、『MK』の大会後から『MKII』のラストまでをベースにしているが、一部に設定と食い違う箇所が存在する。ストーリーモードでは、有効範囲内の敵を一網打尽にするフィニッシュムーブ「'''Multality'''」を使用できる。 隠し要素として、条件を満たすことでアーケード版『MKII』の完全移植版を遊ぶことができる。 ==用語集== ;フェイタリティ、究極神拳(きゅうきょくしんけん){{Efn|日本版『MK』および『MKII』で使用された名称。}} / [[:en:Fatality (Mortal Kombat)|Fatality]] :既にグロッキー状態の相手を主に残酷な方法で倒す、各キャラクター固有の'''トドメ専用'''の演出<ref name="natsumega" />。 :シリーズにおける基本的なフェイタリティ発動手順は以下の通り。 :#2ラウンド先取りすると「'''Finish Him(Her)!'''(トドメを刺せ!)」のアナウンスがかかる。ただし、この時一発でも攻撃を当ててしまうと単なる[[K.O.]]で終了する。 :#相手が倒れる前にフェイタリティのコマンドを正確に入力する。受け付け時間の長さは作品によって異なる。ほとんどのフェイタリティは、コマンドとは別に相手との距離も発動条件にある。 :#フェイタリティが発動し、一連の演出が流れる。 :作品によって数は異なるが、一人当たり1〜3種類のフェイタリティを持つ。主に相手を惨殺するという点は共通しているが、恐ろしい素顔を見せてショック死させる、爆弾で地球ごと爆破といった奇抜なフィニッシュも存在する。フェイタリティをはじめ、後述するステージフェイタリティ、Friendshipなどのコマンドは伝統的に“隠し”扱いとなっており、ほとんどの作品では説明書に未記載である。 ;ステージフェイタリティ / Stage Fatality :初出は『MKII』。強酸の[[沼]]に叩き落とす、天井の針で串刺しにするなど、ステージの地形やギミックを利用したフェイタリティ。「The Dead Pool」や「Pit」など一部のステージで専用コマンドを入力することで発動する。 :『MK:D』および『MK:A』では、通常のリングアウト扱いとなっているため、穴に落としたり特定のオブジェクトに叩きつけるだけで発動する。こちらは「Death Trap」として区別されることが多い。Death Trapは、1ラウンド目から対戦相手をいきなり串刺しにしたり細切れにすることが可能だが、次のラウンドでは何事もなかったかのように復活する。 :『MK』では、「Pit」ステージでリュウ・カンのフェイタリティかアッパーカットでトドメを刺すと、相手が高所から落下する演出が入るため、これをステージフェイタリティの雛形と捉えることもできる。 ;Friendship :『MKII』から『MKT』、『MK11』のみ使用可能。踊ったり遊んだりして友好的な行動をとる相手を殺さないフィニッシュムーブ。 :『MK11』ではアップデートで追加された。 ;Babality :『MKII』から『MKT』、『MK9』のみ使用可能。相手を赤子に変えるフィニッシュムーブ。あくまで赤子の姿と精神状態に変えるので、機械化したキャラクターは面影を残したまま赤子に変化する。『MK9』ではアーケードモードにおいて特定の条件を満たすと、ボスに対して使用することもできる(2ラウンド先取後に自動的に発動する)。 ;Mercy :『MK3』から『MKT』、『MK11』のみ使用可能。勝負が3ラウンド目にもつれ込んだ時のみ発動できる。専用コマンドを入力することで、相手の体力を少しだけ回復して勝負を再開する。後述のAnimalityを発動するためには、先にMercyを発動する必要がある。 ;Animality :『MK3』から『MKT』のみ使用可能。動物や[[恐竜]]、架空の猛獣などに変身してトドメを刺す。Mercyを実行した側、受けた側どちらでも発動可能。 ;Brutality :『UMK3』(SEGA GENESIS版、SNES版)と『MKT』のみ使用可能。相手の肉体が破壊されるまで攻撃を叩き込むフィニッシュムーブ。発動には各キャラクターごとの専用コマンドの入力を要する。 :『MKX』以降では、特定の条件下と技で相手の体力を0にすることでダイレクトにトドメを刺す仕様となっており、一部のブルータリティはコマンド入力で演出が変化する{{Efn|演出では、過去作品でのフェイタリティが採用されているキャラクターも存在している。}}。 ;チェインコンボ :初出は『MK3』。特定の順番で通常技ボタンを押すと、硬直をキャンセルしたコンボを繰り出せるシステムであり、各キャラクターごとに複数のチェインコンボが存在する。 :『MK4』と『MKG』では全キャラクターのチェインコンボのモーションが統一され、コンボキャンセルから特殊技を繰り出す事が可能。 ;Breaker :初出は『MK:D』。コンボや初撃を強制的にキャンセルさせるシステム。1マッチにつき3回まで使用できる。『MK9』以降はゲージ消費で発動。 ;Parry :初出は『MK:A』。ジャストガードを成功させると発動し、相手の攻撃を弾くことができる。後に『MK11』で復活した。 ;Hara-Kiri :『MK:D』のみ使用可能。二本先取された場合にトドメを刺される前に自決するコマンド。 ;Heroic Brutality :『MKvs.DCU』におけるDCUサイドのヒーローが使用する。フェイタリティとは異なり、相手を殺めることなく制裁を加えるフィニッシュムーブである。 ;Kreate-A-Fatality :『MK:A』のみ使用可能。制限時間内に相手に攻撃を加えていき、最終的に首折りや胴体切断などの決定打を与えてトドメを刺すシステムとなっている。最高で11段まで攻撃を加えられるが、1段与えるごとに時間制限が短くなっていく。通常キャラクターと巨大キャラクター(ゴロー、キンタロー、モロク、オナガ、ブレイズ)とでは打撃とトドメの順序が異なる。また、決定打を与えるまでの手数によってフェイタリティの名称が変化する(「''Fatality''」(初手)から「''Ultimate Fatality」''(11手)まで)。 ;X-ray move :『MK9』と『MKX』のみ使用可能。スーパーメーターを3セクション消費することで使用できる、いわゆる超必殺技。初撃がヒットするとさながら「X線(X-Ray)」のように皮膚や骨を透過する演出が入り、相手の部位を破壊ないし損傷させて大ダメージを与える(ガードされるか初撃がヒットしなかった場合は不発に終わる)。 :プレイヤーキャラクターの与ダメージ量は3〜4割程度だが、ボスキャラクターがこちらに与えるダメージ量は5割ほどあり、初撃がガード不能な場合も。逆にこちらがボスキャラクターに与えるダメージ量は大幅に補正がかかる。 ;Faction Kill :『MKX』限定のフィニッシュムーブ。ネット対戦モードの「Faction War」でのみ発動でき、所属する組織のメンバーがプレイヤーキャラクターに代わってトドメを刺すシステムである。各組織ごとに5つずつ用意されており、3つ目以降は特定の条件を満たすことで解放される。 ;Quitality :初出は『MKX』。ネット対戦中に通信を切断すると、使用キャラクターの首が飛んだり、どこからともなく飛んできた槍に貫かれて死亡するなどプレイヤーにペナルティが課せられる。 ;Fatal Blow :初出は『MK11』。残り体力が30%以下まで減少すると発動でき、ヒットすると相手に大ダメージを与える逆転技。不発に終わった場合も、時間経過によって再度発動できる。 ;Krushing Blow :『MK11』のみ導入。特定の条件下で特定のコマンドがヒットした際にスローモーションと同時にカメラがズームになり、よりダイナミックな演出とともにダメージを与えるシステム。 ==登場キャラクター== {{Main|モータルコンバットの登場人物}} == メディアミックス == === コミック版 === 米国で発売されたコミック版には液体化するサイバネティック忍者「ハイドロ(''Hydro'')」など、オリジナルキャラクターが多数登場する。コミック版を初出とするキャラクターのうち、スカーレットが『MK9』にも登場したことに加え、サブ・ゼロとスモークの友情関係など、ゲーム本編に継承されていった設定も多い。また、アニメシリーズもコミック版を原案として制作されている。 === 映画版 === * [[モータル・コンバット (映画)|モータル・コンバット]] :1995年公開。ストーリーは『MK』と『MKII』がベースとなっており、『MK』から『MK3』までのキャラクターが登場。 :ただし、シャオ・カーンとライデンが兄弟等、一部ゲームとは異なる設定があるほか、映画には登場しないキャラクターもいる。 * [[モータルコンバット2]] :1997年公開。 :前作の続編ではあるが、キャストはリュウ・カン役の[[ロビン・ショウ]]以外変更されている。 * [[モータルコンバット (2021年の映画)|モータルコンバット]] :2021年公開。上記2作とは違い、世界観やストーリーを一新したリブート作品。 === ドラマ版 === 舞台は『MK』の500年前。主人公はクン・ラオの先祖である。 == シリーズに対する評価 == {{Main|:en:Controversies surrounding Mortal Kombat}} {{See also|:en:1993 congressional hearings on video games}} 本シリーズは欧米において人気が高く、対戦格闘ゲームの大会[[Evolution Championship Series]]の競技種目に選ばれたり<ref>『電撃オンライン』2012年3月15日[http://news.dengeki.com/elem/000/000/464/464157/ 次にカプコンが戦いたいお相手は? 『ULTIMATE MARVEL VS. CAPCOM 3』の開発陣にロングインタビュー!!]。</ref>、[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]にも様々な記録を残している<ref>[http://ps3.gamespy.com/playstation-3/mortal-kombat-x/1162336p1.html GameSpy: Guinness World Records Lists Mortal Kombat's Achievements]</ref>。 [[鉄拳シリーズ]]のプロデューサを務める[[原田勝弘 (ゲームクリエイター)|原田勝弘]]は、独特の世界観や、シリーズ全体でキャラクターやゲストがいたことが人気につながったと、電撃オンラインとのインタビューの中で推測している<ref>{{Cite web|和書|title=『鉄拳7』稼働5年を原田さんが振り返る。新キャラ作成やバランス調整、シリーズについて明かす【周年連載】|url=https://dengekionline.com/articles/28096|website=電撃オンライン|accessdate=2020-07-09|date=2020年03月04日|author=kbj 、 栗田親方}}</ref>。 一方、日本国内においては、一部のカルト的な人気にとどまっている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/m/amusement/column/eva/news/201912120000227_m.html?mode=all|title=「モータルコンバット」海外で大人気の格闘ゲーム - ふぉーEVA eスポーツ - アミューズメントコラム|publisher=日刊スポーツ|date=2019-12-12|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 ライターのBJ Foxは日本における本シリーズの知名度の低さについて、本シリーズにおける残酷表現をコメディ(Komedy{{sic}})だとしたうえで、日本の審査当局の切断表現に対する厳しい姿勢や、既に負けた相手を残酷な方法で死に至らせるシステムが日本人に受け入れられなかったためではないかと推測している<ref name="GameWatch20190804">{{Cite web|和書|title=残虐格闘ゲームのド定番「Mortal Kombat 11」 僕はシスター校長先生がゲームを激しく罵倒したその放課後にメガドラ版を買ったんだよね|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/series/bjfox/1201556.html|website=GAME Watch|date=2019-08-14|accessdate=2020-06-03|author=BJ Fox|publisher=インプレス}}</ref>。このほかにも、第一作における珍妙な世界観や操作性の悪さ<ref>{{Cite web|和書|title=「モータルコンバット」実写取り込みの残虐描写が与えた衝撃を振り返る|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1541412719698/|website=エキサイトニュース|accessdate=2020-06-03|author=空閑叉京/HEW|date=2018年11月8日}}</ref>や、出荷台数の少なさ<ref>{{Cite web|和書|title=パンフレットで見るアーケード探訪:Mortal Kombat|url=https://maedahiroyuki.com/20180611-mortal-kombat/|website=電脳世界のひみつ基地|date=2018-06-10|accessdate=2020-06-03|author=稲波}}</ref>などが、日本における知名度の低さの理由として挙がっている。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== *[[対戦型格闘ゲーム一覧]] *[[残酷ゲーム]] *[[成人向けゲーム]] ==外部リンク== *[https://www.mortalkombat.com/ Mortal Kombat] {{en icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もおたるこんはつと}} [[Category:モータルコンバット|*]] [[Category:対戦型格闘ゲーム]] [[Category:アーケードゲーム作品]] [[Category:忍者を題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:実写取り込みを用いたコンピュータゲーム]] [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:メガドライブ用ソフト]] [[Category:メガCD用ソフト]] [[Category:スーパー32X用ソフト]] [[Category:セガサターン用ソフト]] [[Category:ゲームギア用ソフト]] [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:PlayStation 4用ソフト]] [[Category:1992年のコンピュータゲーム]] [[Category:1993年のコンピュータゲーム]] [[Category:スターフィッシュのゲームソフト]] [[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:ワーナー・ブラザースの作品]] [[Category:コンピュータゲームのクロスオーバー作品]] [[Category:DCコミックスのゲーム作品]] [[Category:世界ビデオゲームの殿堂]]
2003-08-20T16:16:37Z
2023-12-13T06:49:02Z
false
false
true
[ "Template:Otheruses", "Template:暴力的", "Template:Anchors", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:コンピュータゲーム", "Template:Main", "Template:R", "Template:Sic", "Template:Cite article", "Template:出典の明記", "Template:要出典", "Template:External media", "Template:Cite web", "Template:Efn", "Template:Reflist", "Template:See also", "Template:Notelist", "Template:En icon", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88
13,635
トリクロロエチレン
トリクロロエチレン (trichloroethylene) は有機塩素化合物の一種である。エチレンの水素原子のうち3つが塩素原子に置き換わったもの。洗浄剤として使われたが、発がん性があることが明らかとなった。常温では無色透明の液体で、不燃性である。揮発性があり、甘い香りを持つ。 脱脂力が大きいため、半導体産業での洗浄用やクリーニング剤として1980年代頃までは広く用いられていた。しかし発癌性が指摘され、代替物質への移行が行われている。 土壌汚染や地下水汚染を引き起こす原因ともなるため、各国で水質汚濁並びに土壌汚染に係る環境基準が定められている。日本では化学物質審査規制法により、1989年に第二種特定化学物質に指定された。国際がん研究機関の発がん性評価ではグループ 1 の「ヒトに対する発癌性が認められる」物質として規定されている。このがんリスクにより、労働安全衛生法の第二類物質特別有機溶剤等にも指定されている。 工業的な合成法とされていたのは、銅などの触媒のもと、1,2-ジクロロエタンに塩素、または塩素と酸素を作用させる方法であった。 1970年代初頭より前にはアセチレンから2段階の工程で作られていた。まず、塩化鉄(III) 触媒の存在下、90 °C でアセチレンに塩素を作用させて 1,1,2,2-テトラクロロエタンとする。 次に脱塩化水素を行い、トリクロロエチレンを得る。この反応は水酸化カルシウム水溶液で行われる。 または、塩化バリウムまたは塩化カルシウム触媒を用い、気相中 300–500 °C に加熱してもよい。 今日では、大部分がエチレンから合成されている。まず塩化鉄(III) を触媒として塩素化し、1,2-ジクロロエタンとする。 さらに塩素を加えて 400 °C 付近に加熱すると、トリクロロエチレンが得られる。 この反応を触媒する基質は数多い。最も一般的に用いられるのは塩化カリウムと塩化アルミニウムの混合物である。多孔質の炭素も用いられる。この反応ではテトラクロロエチレンが副生し、系に加えられた塩素の量によってはそちらが主生成物になることもある。一般的に、両者は一緒に回収され、蒸留によって分離される。 様々な有機化合物の良溶媒である。1920年代に初めて広く使われ始めたとき、その主用途はダイズ、ココナッツ、ヤシからの植物油の抽出であった。他にも、食品工業においてコーヒーのデカフェ、ホップや香辛料からの香料の抽出に使われた。ドライクリーニング用の溶媒としても利用されたが、この用途は1950年代にはテトラクロロエチレンに取って代わられた。 毒性をもつことから1970年代以降ほとんどの国で食品および医薬品工業での使用が禁止された。 その歴史の大部分を通して金属部品のグリース落としとして広く使われた。1950年代後期、より毒性の低い1,1,1-トリクロロエタンが登場したことにより、グリース落としとしての需要は減少し始めた。もう1つの問題点として、印刷をはがしやすくプラスチックを溶かしてしまうことから、多くの機械類へ適用する溶媒としては好ましくないという点が挙げられる。しかしながら、モントリオール議定書に従い 1,1,1-トリクロロエタンの製造は世界の大部分で廃止され、結果としてトリクロロエチレンが再び使われるようになった。100%エタノールを製造する際に、最後に残った微量の水を取り除くのにも使われている。 吸入麻酔薬としては、長い間クロロホルムやジエチルエーテル(エーテル)を抑え、製造にかかる時間およびコストの面で高い効率を示し続けた。イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)がさきがけとなり、クロロホルムのような肝毒性や、エーテルのような刺激性・可燃性を持たないことから、その発展は革命とたたえられた。それでもなお、心筋のアドレナリンへの感受性を増加させ不整脈を誘発するなど、いくつかの欠点がある。また、揮発性が低いので蒸発させるためには注意深く温度を制御しながら加熱する必要がある。肝機能検査の値に一過性の上昇が見られるとの研究結果から、肝毒性を持つ可能性があるとみなす考えが強まった。ハロタンと同程度の率だが死亡に至る場合もあった。炭酸ナトリウム(低流量の再呼吸装置の閉鎖回路で使われる二酸化炭素の吸収剤)と共存させると危険であり、容易に分解して 1,2-ジクロロアセチレンになる。この化合物は神経毒性を持ち、肝毒性も疑われているが、これはむしろ代謝生成物であるトリクロロ酢酸が原因となっている可能性が高いとされる。ハロタンは1956年には市場で隆盛を誇り、妊婦への鎮痛薬としての使用が胎児の死亡と関連付けられた1980年代まで、全廃は達成されなかった。発癌性への懸念も同時に起こった。 トリクロロエチレンの活性な代謝物質はトリクロロエタノールであり、これは抱水クロラールのそれと同じである。そのため後者の発癌性への懸念が高まり、議論が行われている。 金属のグリース落としとしては有用であることが示されているが、金属の存在下では長時間安定ではない。製造工業界では既に1961年にはこの特徴は明らかに認識されており、市販のトリクロロエチレンには添加剤が加えられていた。高温では不安定性がさらに増すため、還流冷却管を使用して沸点まで加熱し、分解を観測することによる安定剤の研究が行われた。最初に広く使われた安定剤はジオキサンであったが、その利用法に関してダウケミカルが特許を取得し独占してしまった。他の安定剤を求め、1960年代に大規模な研究が行われた。効果を発揮することがわかった主な化合物はメチルエチルケトンなどのケトン類であった。この種のケトンに関して、カンザス州ウィチタのフロンティアケミカル (Frontier Chemical Company) が加熱還流による研究を広く行った。 労働安全衛生法の第2類特定化学物質(特別有機溶剤等)に指定されている。 トリクロロエチレンを含む有機塩素化合物は自然にはほとんど分解しないこと、海洋汚染源になることから環境に大きな負荷を与える。 吸入すると、トリクロロエチレンは中枢神経系を抑制する。症状は急性アルコール中毒に類似し、頭痛、めまい、錯乱に始まり、吸入を続けると意識喪失を経て死亡する。香りに対して鼻はすぐに麻痺し、知らずに致死量を吸引するおそれがあるため、高濃度の蒸気が存在する可能性のある場所では注意・警戒が必要とされる。 ヒトに対する長期的影響は知られていない。動物実験では、慢性的な被曝によりマウスでは肝臓がんが引き起されるが、ラットの場合には起こらないことが知られている。動物の生殖における影響の検討でも同様な不一致が見られるため、ヒトの場合にも先天的な異常が起こるかどうかについて明確な結論は出ていない。最近の研究ではトリクロロエチレンへの被曝と受精率の間に関連があることが示されている。また、ある場合には精子数の減少が見られることが報告されている。 より最近の分析で変異原性と催奇性が弱い証拠が提示されており、機構は明らかでないが腫瘍の発生を促進することが知られている。しかし、環境量の被曝と比較した場合、外科用麻酔薬としての長期間の使用によるがんの発生率の増加は認められず、そのような効果はおそらく持たないであろうことが確からしいとされている。国際がん研究機関 によるIARC発がん性リスク評価では、2014年にGroup2A(ヒトに対する発癌性がおそらくある)からGroup1(ヒトに対する発癌性が認められる)に昇格された。 アメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) は1990年代にトリクロロエチレンがヒトの健康に及ぼす影響を評価するための大規模な調査を行った。4年間の研究ののち、2001年に EPA の主任研究員は以前に考えていたよりも発癌性を持つことが2から40倍確からしくなった、と結論した。 全米科学アカデミーは2006年7月27日にトリクロロエチレンの「発がんの危険性および他の健康に被害を及ぼす危険性を持つ証拠が2001年に比べて強まった」と発表した。さらに、トリクロロエチレンが腎臓がん、生殖機能および発育への障害、パーキンソン病、自己免疫疾患を引き起こす可能性を持つことを示す「膨大な疫学的データ」があることを報告した。アメリカスーパーファンド法で指定された最も汚染された地域(特にアメリカ国防総省、アメリカ合衆国エネルギー省、アメリカ航空宇宙局の管理区域)のうち 60% でトリクロロエチレンが検出されている。 東北地方太平洋沖地震では、江東区の金属加工会社で、地震の影響でこぼれたと見られるトリクロロエチレンを吸引し、2人が死亡した。 近年トリクロロエチレンの実質生産量は減少しており、グリース落としの代替品は豊富に存在するため、また健康への不可逆的な影響とそれによる法的責任から、塩素化脂肪族炭化水素は主要な工業分野から姿を消している。 アメリカ軍はほぼ使用を取りやめ、2005年には11ガロンのみしか購入していない。2006年のアメリカでの使用量はおよそ100トンである。 環境汚染された地域の改善を目的としたトリクロロエチレンを生分解可能なバクテリアも既に見つかっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トリクロロエチレン (trichloroethylene) は有機塩素化合物の一種である。エチレンの水素原子のうち3つが塩素原子に置き換わったもの。洗浄剤として使われたが、発がん性があることが明らかとなった。常温では無色透明の液体で、不燃性である。揮発性があり、甘い香りを持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "脱脂力が大きいため、半導体産業での洗浄用やクリーニング剤として1980年代頃までは広く用いられていた。しかし発癌性が指摘され、代替物質への移行が行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "土壌汚染や地下水汚染を引き起こす原因ともなるため、各国で水質汚濁並びに土壌汚染に係る環境基準が定められている。日本では化学物質審査規制法により、1989年に第二種特定化学物質に指定された。国際がん研究機関の発がん性評価ではグループ 1 の「ヒトに対する発癌性が認められる」物質として規定されている。このがんリスクにより、労働安全衛生法の第二類物質特別有機溶剤等にも指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "工業的な合成法とされていたのは、銅などの触媒のもと、1,2-ジクロロエタンに塩素、または塩素と酸素を作用させる方法であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年代初頭より前にはアセチレンから2段階の工程で作られていた。まず、塩化鉄(III) 触媒の存在下、90 °C でアセチレンに塩素を作用させて 1,1,2,2-テトラクロロエタンとする。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "次に脱塩化水素を行い、トリクロロエチレンを得る。この反応は水酸化カルシウム水溶液で行われる。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "または、塩化バリウムまたは塩化カルシウム触媒を用い、気相中 300–500 °C に加熱してもよい。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "今日では、大部分がエチレンから合成されている。まず塩化鉄(III) を触媒として塩素化し、1,2-ジクロロエタンとする。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "さらに塩素を加えて 400 °C 付近に加熱すると、トリクロロエチレンが得られる。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この反応を触媒する基質は数多い。最も一般的に用いられるのは塩化カリウムと塩化アルミニウムの混合物である。多孔質の炭素も用いられる。この反応ではテトラクロロエチレンが副生し、系に加えられた塩素の量によってはそちらが主生成物になることもある。一般的に、両者は一緒に回収され、蒸留によって分離される。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "様々な有機化合物の良溶媒である。1920年代に初めて広く使われ始めたとき、その主用途はダイズ、ココナッツ、ヤシからの植物油の抽出であった。他にも、食品工業においてコーヒーのデカフェ、ホップや香辛料からの香料の抽出に使われた。ドライクリーニング用の溶媒としても利用されたが、この用途は1950年代にはテトラクロロエチレンに取って代わられた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "毒性をもつことから1970年代以降ほとんどの国で食品および医薬品工業での使用が禁止された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その歴史の大部分を通して金属部品のグリース落としとして広く使われた。1950年代後期、より毒性の低い1,1,1-トリクロロエタンが登場したことにより、グリース落としとしての需要は減少し始めた。もう1つの問題点として、印刷をはがしやすくプラスチックを溶かしてしまうことから、多くの機械類へ適用する溶媒としては好ましくないという点が挙げられる。しかしながら、モントリオール議定書に従い 1,1,1-トリクロロエタンの製造は世界の大部分で廃止され、結果としてトリクロロエチレンが再び使われるようになった。100%エタノールを製造する際に、最後に残った微量の水を取り除くのにも使われている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "吸入麻酔薬としては、長い間クロロホルムやジエチルエーテル(エーテル)を抑え、製造にかかる時間およびコストの面で高い効率を示し続けた。イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)がさきがけとなり、クロロホルムのような肝毒性や、エーテルのような刺激性・可燃性を持たないことから、その発展は革命とたたえられた。それでもなお、心筋のアドレナリンへの感受性を増加させ不整脈を誘発するなど、いくつかの欠点がある。また、揮発性が低いので蒸発させるためには注意深く温度を制御しながら加熱する必要がある。肝機能検査の値に一過性の上昇が見られるとの研究結果から、肝毒性を持つ可能性があるとみなす考えが強まった。ハロタンと同程度の率だが死亡に至る場合もあった。炭酸ナトリウム(低流量の再呼吸装置の閉鎖回路で使われる二酸化炭素の吸収剤)と共存させると危険であり、容易に分解して 1,2-ジクロロアセチレンになる。この化合物は神経毒性を持ち、肝毒性も疑われているが、これはむしろ代謝生成物であるトリクロロ酢酸が原因となっている可能性が高いとされる。ハロタンは1956年には市場で隆盛を誇り、妊婦への鎮痛薬としての使用が胎児の死亡と関連付けられた1980年代まで、全廃は達成されなかった。発癌性への懸念も同時に起こった。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "トリクロロエチレンの活性な代謝物質はトリクロロエタノールであり、これは抱水クロラールのそれと同じである。そのため後者の発癌性への懸念が高まり、議論が行われている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "金属のグリース落としとしては有用であることが示されているが、金属の存在下では長時間安定ではない。製造工業界では既に1961年にはこの特徴は明らかに認識されており、市販のトリクロロエチレンには添加剤が加えられていた。高温では不安定性がさらに増すため、還流冷却管を使用して沸点まで加熱し、分解を観測することによる安定剤の研究が行われた。最初に広く使われた安定剤はジオキサンであったが、その利用法に関してダウケミカルが特許を取得し独占してしまった。他の安定剤を求め、1960年代に大規模な研究が行われた。効果を発揮することがわかった主な化合物はメチルエチルケトンなどのケトン類であった。この種のケトンに関して、カンザス州ウィチタのフロンティアケミカル (Frontier Chemical Company) が加熱還流による研究を広く行った。", "title": "化学的不安定性" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "労働安全衛生法の第2類特定化学物質(特別有機溶剤等)に指定されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "トリクロロエチレンを含む有機塩素化合物は自然にはほとんど分解しないこと、海洋汚染源になることから環境に大きな負荷を与える。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "吸入すると、トリクロロエチレンは中枢神経系を抑制する。症状は急性アルコール中毒に類似し、頭痛、めまい、錯乱に始まり、吸入を続けると意識喪失を経て死亡する。香りに対して鼻はすぐに麻痺し、知らずに致死量を吸引するおそれがあるため、高濃度の蒸気が存在する可能性のある場所では注意・警戒が必要とされる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ヒトに対する長期的影響は知られていない。動物実験では、慢性的な被曝によりマウスでは肝臓がんが引き起されるが、ラットの場合には起こらないことが知られている。動物の生殖における影響の検討でも同様な不一致が見られるため、ヒトの場合にも先天的な異常が起こるかどうかについて明確な結論は出ていない。最近の研究ではトリクロロエチレンへの被曝と受精率の間に関連があることが示されている。また、ある場合には精子数の減少が見られることが報告されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "より最近の分析で変異原性と催奇性が弱い証拠が提示されており、機構は明らかでないが腫瘍の発生を促進することが知られている。しかし、環境量の被曝と比較した場合、外科用麻酔薬としての長期間の使用によるがんの発生率の増加は認められず、そのような効果はおそらく持たないであろうことが確からしいとされている。国際がん研究機関 によるIARC発がん性リスク評価では、2014年にGroup2A(ヒトに対する発癌性がおそらくある)からGroup1(ヒトに対する発癌性が認められる)に昇格された。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) は1990年代にトリクロロエチレンがヒトの健康に及ぼす影響を評価するための大規模な調査を行った。4年間の研究ののち、2001年に EPA の主任研究員は以前に考えていたよりも発癌性を持つことが2から40倍確からしくなった、と結論した。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "全米科学アカデミーは2006年7月27日にトリクロロエチレンの「発がんの危険性および他の健康に被害を及ぼす危険性を持つ証拠が2001年に比べて強まった」と発表した。さらに、トリクロロエチレンが腎臓がん、生殖機能および発育への障害、パーキンソン病、自己免疫疾患を引き起こす可能性を持つことを示す「膨大な疫学的データ」があることを報告した。アメリカスーパーファンド法で指定された最も汚染された地域(特にアメリカ国防総省、アメリカ合衆国エネルギー省、アメリカ航空宇宙局の管理区域)のうち 60% でトリクロロエチレンが検出されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "東北地方太平洋沖地震では、江東区の金属加工会社で、地震の影響でこぼれたと見られるトリクロロエチレンを吸引し、2人が死亡した。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年トリクロロエチレンの実質生産量は減少しており、グリース落としの代替品は豊富に存在するため、また健康への不可逆的な影響とそれによる法的責任から、塩素化脂肪族炭化水素は主要な工業分野から姿を消している。", "title": "生産の縮小と処置" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アメリカ軍はほぼ使用を取りやめ、2005年には11ガロンのみしか購入していない。2006年のアメリカでの使用量はおよそ100トンである。", "title": "生産の縮小と処置" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "環境汚染された地域の改善を目的としたトリクロロエチレンを生分解可能なバクテリアも既に見つかっている。", "title": "生産の縮小と処置" } ]
トリクロロエチレン (trichloroethylene) は有機塩素化合物の一種である。エチレンの水素原子のうち3つが塩素原子に置き換わったもの。洗浄剤として使われたが、発がん性があることが明らかとなった。常温では無色透明の液体で、不燃性である。揮発性があり、甘い香りを持つ。 脱脂力が大きいため、半導体産業での洗浄用やクリーニング剤として1980年代頃までは広く用いられていた。しかし発癌性が指摘され、代替物質への移行が行われている。 土壌汚染や地下水汚染を引き起こす原因ともなるため、各国で水質汚濁並びに土壌汚染に係る環境基準が定められている。日本では化学物質審査規制法により、1989年に第二種特定化学物質に指定された。国際がん研究機関の発がん性評価ではグループ 1 の「ヒトに対する発癌性が認められる」物質として規定されている。このがんリスクにより、労働安全衛生法の第二類物質特別有機溶剤等にも指定されている。 工業的な合成法とされていたのは、銅などの触媒のもと、1,2-ジクロロエタンに塩素、または塩素と酸素を作用させる方法であった。
{{chembox <!-- infobox --> | Verifiedfields = changed | Watchedfields = changed | verifiedrevid = 417962339 | ImageFile1=Trikloreten.svg | ImageSize1=150px | ImageFileL2=Trichloroethylene-3D-balls.png | ImageSizeL2=100px | ImageFileR2=Trichloroethylene-3D-vdW.png | ImageSizeR2=100px | IUPACName=trichloroethene | OtherNames = 1,1,2-Trichloroethene,<br> 1,1-Dichloro-2-Chloroethylene,<br> 1-Chloro-2,2-Dichloroethylene,<br> Acetylene Trichloride, TCE, Trethylene, Triclene, Tri, Trimar, Trilene, HCC-1120 | Section1 = {{Chembox Identifiers | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 13837280 | ChEMBL_Ref = {{ebicite|correct|EBI}} | ChEMBL = 279816 | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/C2HCl3/c3-1-2(4)5/h1H | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = XSTXAVWGXDQKEL-UHFFFAOYSA-N | SMILES1 = Cl\C=C(/Cl)Cl | CASNo = 79-01-6 | CASNo_Ref = {{cascite|correct|CAS}} | PubChem = 6575 | SMILES = Cl\C=C(/Cl)Cl | Abbreviations = TCE | EINECS = 201-61-04 | SMILES2 = ClC=C(Cl)Cl | UNII_Ref = {{fdacite|correct|FDA}} | UNII = 290YE8AR51 | InChI = 1/C2HCl3/c3-1-2(4)5/h1H | RTECS = KX4550000 | MeSHName = | ChEBI_Ref = {{ebicite|changed|EBI}} | ChEBI = 16602 | KEGG_Ref = {{keggcite|correct|kegg}} | KEGG = C06790 | ATCCode_prefix = N01 | ATCCode_suffix = AB05 }} | Section2 = {{Chembox Properties | C = 2 | H = 1 | Cl = 3 | MolarMass = 141.4 g/mol | RationalFormula =ClCH=CCl<sub>2</sub> | Appearance = 無色液体 | Density = 1.46 g/cm<sup>3</sup> (20 °C) | MeltingPtC = −73 | Melting_notes = | BoilingPtC = 87.2 | Boiling_notes = <ref name="ChemIDplus"/> | Solubility = 1.280 g/L<ref name="ChemIDplus">{{ChemID|79-01-6}}</ref> | SolubleOther = [[ジエチルエーテル]], [[エタノール]], [[クロロホルム]] | Solvent = | pKa = | pKb = | IsoelectricPt = | LambdaMax = | Absorbance = | SpecRotation = | RefractIndex = 1.4777 at 19.8 °C | Viscosity = | Dipole = }} | Section3 = {{Chembox Hazards | ExternalMSDS = {{ICSC-small|0081}}<br/>[http://www.jtbaker.com/msds/englishhtml/t4940.htm Mallinckrodt Baker] | MainHazards = 吸入もしくは経口摂取すると有害 | FlashPt = | Autoignition = 420 °C | NFPA-H = 2 | NFPA-F = 1 | NFPA-R = | NFPA-O = }} | Section8 = {{Chembox Related | OtherAnions = | OtherCations = | OtherFunctn = [[クロロエチレン]] | Function = [[ビニルハライド]] | OtherCpds = [[クロロホルム]]<br>[[1,1,1-トリクロロエタン]]<br/>[[1,1,2-トリクロロエタン]] }} }} '''トリクロロエチレン''' (trichloroethylene) は[[有機塩素化合物]]の一種である。[[エチレン]]の[[水素]]原子のうち3つが[[塩素]]原子に置き換わったもの。洗浄剤として使われたが、発がん性があることが明らかとなった。常温では無色透明の液体で、不燃性である。揮発性があり、甘い香りを持つ。 [[脱脂]]力が大きいため、[[半導体]]産業での洗浄用やクリーニング剤として1980年代頃までは広く用いられていた。しかし[[発癌性]]が指摘され、代替物質への移行が行われている。 土壌汚染や地下水汚染を引き起こす原因ともなるため、各国で[[水質汚濁]]並びに[[土壌汚染]]に係る[[環境基準]]が定められている。日本では[[化学物質審査規制法]]により、1989年に第二種特定化学物質に指定された。[[国際がん研究機関]]の発がん性評価ではグループ 1 の「ヒトに対する発癌性が認められる」物質として規定されている。このがんリスクにより、[[労働安全衛生法]]の[[特定化学物質#第2類物質|第二類物質特別有機溶剤等]]にも指定されている。 工業的な合成法とされていたのは、銅などの触媒のもと、[[1,2-ジクロロエタン]]に[[塩素]]、または塩素と[[酸素]]を作用させる方法であった。 ==製造== 1970年代初頭より前には[[アセチレン]]から2段階の工程で作られていた。まず、[[塩化鉄|塩化鉄(III)]] 触媒の存在下、90 ℃ でアセチレンに塩素を作用させて 1,1,2,2-テトラクロロエタンとする。 :<chem>HC\equiv {CH} + 2Cl2 -> Cl2CHCHCl2</chem> 次に脱塩化水素を行い、トリクロロエチレンを得る。この反応は[[水酸化カルシウム]]水溶液で行われる。 :<chem>2Cl2CHCHCl2 + Ca(OH)2 -> 2ClCH=CCl2 + CaCl2 + 2H2O</chem> または、[[塩化バリウム]]または[[塩化カルシウム]]触媒を用い、気相中 300&ndash;500 ℃ に加熱してもよい。 :<chem>2Cl2CHCHCl2 -> ClCH=CCl2 + HCl</chem> 今日では、大部分がエチレンから合成されている。まず塩化鉄(III) を触媒として塩素化し、[[1,2-ジクロロエタン]]とする。 :<chem>CH2=CH2 + Cl2 -> ClCH2CH2Cl</chem> さらに塩素を加えて 400 ℃ 付近に加熱すると、トリクロロエチレンが得られる。 :<chem>ClCH2CH2Cl + 2Cl2 -> ClCH=CCl2 + 3HCl</chem> この反応を触媒する基質は数多い。最も一般的に用いられるのは[[塩化カリウム]]と[[塩化アルミニウム]]の混合物である。多孔質の[[炭素]]も用いられる。この反応では[[テトラクロロエチレン]]が副生し、系に加えられた塩素の量によってはそちらが主生成物になることもある。一般的に、両者は一緒に回収され、蒸留によって分離される。 ==用途== 様々な[[有機化合物]]の良[[溶媒]]である。[[1920年代]]に初めて広く使われ始めたとき、その主用途は[[ダイズ]]、[[ココナッツ]]、[[ヤシ]]からの[[植物油]]の抽出であった。他にも、[[食品工業]]において[[コーヒー]]の[[デカフェ]]、[[ホップ]]や[[香辛料]]からの[[香料]]の抽出に使われた。[[ドライクリーニング]]用の溶媒としても利用されたが、この用途は[[1950年代]]にはテトラクロロエチレンに取って代わられた。 [[毒性]]をもつことから[[1970年代]]以降ほとんどの国で[[食品]]および[[医薬品]]工業での使用が禁止された。 その歴史の大部分を通して金属部品の[[グリース]]落としとして広く使われた。[[1950年代]]後期、より毒性の低い[[1,1,1-トリクロロエタン]]が登場したことにより、グリース落としとしての需要は減少し始めた。もう1つの問題点として、[[印刷]]をはがしやすく[[合成樹脂|プラスチック]]を溶かしてしまうことから、多くの機械類へ適用する溶媒としては好ましくないという点が挙げられる。しかしながら、[[モントリオール議定書]]に従い 1,1,1-トリクロロエタンの製造は世界の大部分で廃止され、結果としてトリクロロエチレンが再び使われるようになった。100%[[エタノール]]を製造する際に、最後に残った微量の水を取り除くのにも使われている。 [[吸入麻酔薬]]としては、長い間[[クロロホルム]]や[[ジエチルエーテル]]([[エーテル (化学)|エーテル]])を抑え、製造にかかる時間およびコストの面で高い効率を示し続けた。イギリスの[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]](ICI)がさきがけとなり、[[クロロホルム]]のような[[肝毒性]]や、エーテルのような[[刺激性]]・[[可燃性]]を持たないことから、その発展は革命とたたえられた。それでもなお、[[心筋]]の[[アドレナリン]]への[[感受性]]を増加させ[[不整脈]]を誘発するなど、いくつかの欠点がある。また、[[相転移#物理学的性質|揮発性]]が低いので[[蒸発]]させるためには注意深く温度を制御しながら加熱する必要がある。[[肝機能]]検査の値に一過性の上昇が見られるとの研究結果から、肝毒性を持つ可能性があるとみなす考えが強まった。[[ハロタン]]と同程度の率だが[[死亡]]に至る場合もあった。[[炭酸ナトリウム]](低流量の再呼吸装置の閉鎖回路で使われる[[二酸化炭素]]の吸収剤)と共存させると危険であり、容易に分解して [[1,2-ジクロロアセチレン]]になる。この化合物は[[神経毒性]]を持ち、肝毒性も疑われているが、これはむしろ代謝生成物である[[トリクロロ酢酸]]が原因となっている可能性が高いとされる。[[ハロタン]]は[[1956年]]には市場で隆盛を誇り、[[妊婦]]への[[鎮痛薬]]としての使用が[[胎児]]の死亡と関連付けられた[[1980年代]]まで、全廃は達成されなかった。発癌性への懸念も同時に起こった。 トリクロロエチレンの活性な[[代謝物質]]は[[トリクロロエタノール]]であり、これは[[抱水クロラール]]のそれと同じである。そのため後者の[[発癌性]]への懸念が高まり、議論が行われている。 ==化学的不安定性== 金属のグリース落としとしては有用であることが示されているが、金属の存在下では長時間安定ではない。製造工業界では既に[[1961年]]にはこの特徴は明らかに認識されており、市販のトリクロロエチレンには添加剤が加えられていた。高温では不安定性がさらに増すため、[[冷却管|還流冷却管]]を使用して[[沸点]]まで加熱し、分解を観測することによる安定剤の研究が行われた。最初に広く使われた安定剤は[[ジオキサン]]であったが、その利用法に関して[[ダウケミカル]]が特許を取得し独占してしまった。他の安定剤を求め、[[1960年代]]に大規模な研究が行われた。効果を発揮することがわかった主な化合物は[[メチルエチルケトン]]などの[[ケトン]]類であった。この種のケトンに関して、カンザス州ウィチタのフロンティアケミカル (Frontier Chemical Company) が加熱還流による研究を広く行った。 ==健康への影響== [[労働安全衛生法]]の[[特定化学物質#第2類物質|第2類特定化学物質]](特別有機溶剤等)に指定されている。 トリクロロエチレンを含む[[有機塩素化合物]]は自然にはほとんど分解しないこと、[[海洋汚染]]源になることから環境に大きな負荷を与える。 吸入すると、トリクロロエチレンは[[中枢神経系]]を抑制する。症状は[[急性アルコール中毒]]に類似し、[[頭痛]]、[[めまい]]、[[錯乱]]に始まり、吸入を続けると[[意識喪失]]を経て[[死亡]]する。香りに対して鼻はすぐに[[麻痺]]し、知らずに[[致死量]]を吸引するおそれがあるため、高濃度の[[蒸気]]が存在する可能性のある場所では注意・警戒が必要とされる。 ヒトに対する長期的影響は知られていない。[[動物実験]]では、慢性的な被曝により[[ハツカネズミ|マウス]]では[[肝癌|肝臓がん]]が引き起されるが、[[ラット]]の場合には起こらないことが知られている。動物の[[生殖]]における影響の検討でも同様な不一致が見られるため、[[ヒト]]の場合にも[[先天的]]な異常が起こるかどうかについて明確な結論は出ていない。最近の研究ではトリクロロエチレンへの[[被曝]]と[[受精]]率の間に関連があることが示されている。また、ある場合には[[精子]]数の減少が見られることが報告されている。 より最近の分析で[[変異原性]]と[[催奇性]]が弱い証拠が提示されており、機構は明らかでないが[[腫瘍]]の発生を促進することが知られている。しかし、環境量の被曝と比較した場合、外科用[[麻酔薬]]としての長期間の使用によるがんの発生率の増加は認められず、そのような効果はおそらく持たないであろうことが確からしいとされている。[[国際がん研究機関]] による[[IARC発がん性リスク一覧|IARC発がん性リスク評価]]では、2014年にGroup2A(ヒトに対する発癌性がおそらくある)からGroup1(ヒトに対する発癌性が認められる)に昇格された<ref>[http://www.iarc.fr/print.php?&uri=/index.php IARC News]</ref>。 [[アメリカ合衆国環境保護庁|アメリカ合衆国環境保護庁 (EPA)]] は[[1990年代]]にトリクロロエチレンがヒトの健康に及ぼす影響を評価するための大規模な調査を行った。4年間の研究ののち、[[2001年]]に EPA の主任研究員は以前に考えていたよりも発癌性を持つことが2から40倍確からしくなった、と結論した。 [[米国科学アカデミー|全米科学アカデミー]]は[[2006年]]7月27日にトリクロロエチレンの「発がんの危険性および他の健康に被害を及ぼす危険性を持つ証拠が[[2001年]]に比べて強まった」と発表した。さらに、トリクロロエチレンが[[腎臓がん]]、[[生殖機能]]および[[発育]]への[[障害]]、[[パーキンソン病]]<ref>Kasarskis, Edward J.; Lindquist, Jennifer H.; Coffman, Cynthia J.; Grambow, Steven C.; Feussner, John R.; Allen, Kelli D.; Oddone, Eugene Z.; Kamins, Kimberly A.; Horner, Ronnie D.; Als Gulf War Clinical Review Team (2009). "Clinical aspects of ALS in Gulf War Veterans". Amyotrophic Lateral Sclerosis. 10 (1): 35–41. doi:10.1080/17482960802351029. {{PMID|18792848}}.</ref>、[[自己免疫疾患]]を引き起こす可能性を持つことを示す「膨大な疫学的データ」があることを報告した。アメリカ[[スーパーファンド法]]で指定された最も汚染された地域(特に[[アメリカ国防総省]]、[[アメリカ合衆国エネルギー省]]、[[アメリカ航空宇宙局]]の管理区域)のうち 60% でトリクロロエチレンが検出されている。 [[東北地方太平洋沖地震]]では、[[江東区]]の金属加工会社で、地震の影響でこぼれたと見られる'''トリクロロエチレン'''を吸引し、2人が死亡した。 ==生産の縮小と処置== 近年トリクロロエチレンの実質生産量は減少しており、グリース落としの代替品は豊富に存在するため、また[[健康]]への[[不可逆的]]な影響とそれによる[[法的責任]]から、[[ハロゲン化アルキル|塩素化]][[脂肪族化合物|脂肪族炭化水素]]は主要な工業分野から姿を消している。 [[アメリカ軍]]はほぼ使用を取りやめ、[[2005年]]には11[[ガロン]]のみしか購入していない。[[2006年]]のアメリカでの使用量はおよそ100トンである。 環境汚染された地域の改善を目的としたトリクロロエチレンを[[生分解]]可能な[[バクテリア]]も既に見つかっている<ref name="Irvine">{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=oLNtgk_VKXsC&pg=PA81&lpg=PA81&dq=Bioremediation+of+gypsum&source=bl&ots=qIBjEbqi9W&sig=bNl1WDUN_P0CyHhjztQZovSZwW0&hl=en&sa=X&ei=YdIZVLPsD8ecyASzsYG4Bw&ved=0CDUQ6AEwAw#v=onepage&q=Bioremediation%20of%20gypsum&f=false|title=Bioremediation Technologies: Principles and Practice|author1=Robert L. Irvine|author2=Subhas K. Sikdar|publisher=Books.google.com|accessdate=21 February 2015}} p142~144</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[デューレン病]] - [[骨髄]]抑制による[[再生不良性貧血]] * [[テトラクロロエチレン]] * [[環境基準]] * [[有害物質]] * [[新河岸川産業廃棄物処理対策]] * [[有機溶剤作業主任者]] == 追加資料 == * Agency for Toxic Substances and Disease Registry (ATSDR). 1997. Toxicological Profile for Trichloroethylene. [http://www.atsdr.cdc.gov/toxprofiles/tp19.html link] * {{cite journal |doi=10.1006/enfo.2000.0011 |title=A History of the Production and Use of Carbon Tetrachloride, Tetrachloroethylene, Trichloroethylene and 1,1,1-Trichloroethane in the United States: Part 2--Trichloroethylene and 1,1,1-Trichloroethane |year=2000 |last1=Doherty |first1=Richard E. |journal=Environmental Forensics |volume=1 |issue=2 |pages=83–93}} * {{cite journal |doi=10.1016/j.juro.2006.07.130 |title=The Epidemiology of Renal Cell Carcinoma |year=2006 |last1=Lipworth |first1=Loren |last2=Tarone |first2=Robert E. |last3=McLaughlin |first3=Joseph K. |journal=The Journal of Urology |volume=176 |issue=6 |pages=2353–8 |pmid=17085101}} * U.S. Environmental Protection Agency (USEPA). 2001. Trichloroethylene Health Risk Assessment: Synthesis and Characterization (External Review Draft) [http://cfpub.epa.gov/ncea/cfm/recordisplay.cfm?deid=23249 link] * U.S. National Academy of Sciences (NAS). 2006. Assessing Human Health Risks of Trichloroethylene - Key Scientific Issues. Committee on Human Health Risks of Trichloroethylene, National Research Council. [http://www.nap.edu/catalog/11707.html link] * U.S. National Toxicology Program (NTP). 2005. Trichloroethylene, in the 11th Annual Report of Carcinogens. [https://web.archive.org/web/20061223134943/http://ntp.niehs.nih.gov/ntp/roc/eleventh/profiles/s180tce.pdf link] * Comment on Voluntary Scheme for users of Trichloroethylene at [http://www.ensolv-europe.com] * [[:en:Pamela Des Barres|Des Barres, Pamela]]. ''[[:en:I'm with the Band: Confessions of a Groupie|I'm with the Band: Confessions of a Groupie]]''. Beech Tree & William Morrow, 1987-01-01. ISBN 978-1-55652-589-6. [[:en:I'm with the Band: Confessions of a Groupie|リンク]] == 外部リンク == {{Commons category|Trichloroethanes|トリクロロエチレン}} * [http://cfpub.epa.gov/ncea/cfm/recordisplay.cfm?deid=119268 U.S. EPA: Trichloroethylene—TCE information website] - [[アメリカ合衆国環境保護庁]]—EPA. * [http://www.eurochlor.org/qandatrienglish Euro Chlor: Q&A on Trichloroethylene] - [[Euro Chlor]], European Chlorinated Solvent Association—ESCA, [[:en:World Chlorine Council|World Chlorine Council]]. * [http://www.atsdr.cdc.gov/csem/tce/ ATSDR - Case Studies in Environmental Medicine: Trichloroethylene Toxicity] - [[:en:Agency for Toxic Substances and Disease Registry|Agency for Toxic Substances and Disease Registry]]—ATSDR, [[アメリカ合衆国保健福祉省]] - ''(public domain)'' * [http://www.nap.edu/catalog/11707.html NAS: Assessing Human Health Risks of Trichloroethylene - Key Scientific Issues] - [[米国科学アカデミー]]—NAS. * [https://web.archive.org/web/20061223134943/http://ntp.niehs.nih.gov/ntp/roc/eleventh/profiles/s180tce.pdf U.S. NIH: Eleventh Report on Carcinogens: Trichloroethylene Monograph] - [[アメリカ国立衛生研究所]]—NIH. * NIOSH Safety and Health Topic: [http://www.cdc.gov/niosh/topics/trichloroethylene/ Trichloroethylene—TCE] - U.S. [[:en:National Institute for Occupational Safety and Health|National Institute for Occupational Safety and Health]]—NIOSH. {{General anesthetics}} {{Normdaten}} [[Category:有機塩素化合物]] [[Category:ハロゲン化炭化水素溶媒]] [[Category:発癌性物質]] [[Category:SVHC]] [[Category:全身麻酔薬]] {{DEFAULTSORT:とりくろろえちれん}}
2003-08-20T16:19:56Z
2023-12-21T14:54:42Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Commons category", "Template:General anesthetics", "Template:Normdaten", "Template:Chembox" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AD%E3%82%A8%E3%83%81%E3%83%AC%E3%83%B3
13,637
AFM
AFM
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "AFM", "title": null } ]
AFM 原子間力顕微鏡 反強磁性(Antiferromagnetism) 砥粒流動加工 マカオサッカー協会 Adobe Font Metrics(アドビ・フォント・メトリクス) American Film Market(アメリカン・フィルム・マーケット) エフエム秋田の略称 AFMレコード - ドイツのレコード会社
'''AFM''' *[[原子間力顕微鏡]](Atomic Force Microscope) *[[反強磁性]](Antiferromagnetism) *[[砥粒流動加工]]([[:en:Abrasive flow machining]]) *[[マカオサッカー協会]] ({{Lang-pt|Associação de Futebol de Macau}}) *[[Adobe Font Metrics]](アドビ・フォント・メトリクス) *[[American Film Market]](アメリカン・フィルム・マーケット) *[[エフエム秋田]]の略称 *[[AFMレコード]] - [[ドイツ]]の[[レコード会社]] {{aimai}}
null
2020-01-02T10:43:21Z
true
false
false
[ "Template:Lang-pt", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/AFM
13,639
原子間力顕微鏡
原子間力顕微鏡(げんしかんりょくけんびきょう、英: atomic force microscope、 AFM)は、走査型プローブ顕微鏡(SPM)の一種であり、試料の表面と探針の原子間にはたらく力を検出して画像を得る顕微鏡である。 原子間力はあらゆる物質の間に働くため容易に試料を観察することができるため、走査型トンネル顕微鏡 (STM) とは異なり、絶縁性試料の測定も可能である。また電子線を利用する走査型電子顕微鏡 (SEM) のように、導電性コーティングなどの前処理や装置内の真空を必要とする事もない。このため、大気中や液体中、または高温~低温など様々な環境で、生体試料などを自然に近い状態で測定できる。 他の走査型プローブ顕微鏡と同様に空間分解能は探針の先端半径(nm程度)に依存し、現在では、原子レベルの分解能が実現されている。 カンチレバー(片持ち梁)の先端に取り付けた鋭い探針を用いて、試料表面をなぞる、または試料表面と一定の間隔を保って試料表面を走査し、その時のカンチレバーの上下方向への変位を計測することにより、試料表面の凹凸形状の評価を行う。AFMには様々な測定方法があり、以下に代表的な例を挙げる。 カンチレバー先端の平板部分に当てたレーザーの反射光を、4ないし2分割のフォトダイオードの中心で測定する。探針が試料表面に近づくと、探針と試料表面原子との原子間力によりカンチレバー(探針)が試料表面に引き寄せられ、変形して接触(コンタクト)する。この変形のために反射光の角度が変わり、フォトダイオードの上下の領域の光起電力に差が生じる。この起電力の差がなくなる(=探針の変位を一定にする)ようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら、試料をなぞるようにスキャンする(零位法)。このときの制御信号が試料の表面状態(凹凸の様子)として観察される。 カンチレバーおよび試料の位置変更は、圧電アクチュエータの圧電効果による変形を利用して制御している(観察する領域のサイズは数nm~数十μm程度であり、このスケールで移動を精密に制御する必要があるため。)。測定が容易だが、接触時に働く強い力や摩擦のためにやわらかい試料を損傷する場合がある。 圧電素子によってカンチレバーを上下に振動させながら試料表面のごく近傍(数ナノメートル程度)まで近づけ、両者の間に働く原子間相互作用による力を検出し、一定の力(=距離)を保ってスキャンする。探針と試料の間の距離に応じて振動の振幅、位相、周波数が変化するので、これらが一定になるようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら測定を行なう。 探針を接触させずに測定を行なうため、試料を傷つける心配がない。また光てこ方式よりも単純なので真空での測定にも適しており、ヤング率の高い(=硬い)プローブを用いることで非常に高い空間分解能を実現できる。2000年にGiessiblらはこの方式を用い、初めてAFMによるサブ原子レベルでのSi(111)表面における(7×7)構造の観察に成功した。 インターミッテントコンタクトモード、あるいはDFM (dynamic force microscope) とも呼ばれる。Tapping Modeは米国Bruker社の登録商標である。 ノンコンタクトモード同様に振動させた探針が試料表面を跳ねるように上下に動き、表面状態を測定する。生体試料や、表面に物質が弱く吸着されている場合などの破壊されやすい試料に対しても使え、分解能も高く精密な測定が必要な際によく使われる手法である。液中でも使用できる。一般的に液中と空気中におけるタッピングモードでは使用されるプローブの材質が異なる。 プローブを試料に接触させ、その際に生じるカンチレバーのしなりをモニターし、カンチレバーにかかる力を測定する。細胞膜タンパク質の検出や細胞の粘弾性力の測定などに用いられている。また、生体分子などを引っ張ることにより発生する力の変化から分子内構造(ドメイン)などの解析や、試料にプローブ先端で穴をあけ(インデンテーション)、剛性などを検査することも可能である。このモードでは一般的に表面形状などの分布は測定されない。 走査型トンネル顕微鏡 (STM) を1981年に開発した功績でノーベル物理学賞(1986年)を受賞したIBMのチューリッヒ研究所のゲルト・ビーニッヒ (Gerd Binnig) は、トンネル効果が生じるような非常に近い距離では探針と試料の間に有意な力が働くことを発見した。この力を利用する事により、STM では不可能な絶縁体の測定を実現しようとビーニッヒは考え、同研究所で1985年に AFM を開発した。 最初の AFM は金ホイルを貼ったダイヤモンド製カンチレバーの背面にSTMの探針を設置し、そのトンネル電流によってカンチレバーの変位を測定する非常に高価で複雑なものであった。その後、カンチレバーとしてSiなどが用いられるようになり、光てこなどの方式で変位を検出できるようになり、AFM システムは安価になった。 また当初は原子間力を利用して表面像を取得するのみであったが、現在では磁性や導電性を有するカンチレバーを用いることによって、表面形状像と同時に、磁気像を観察できる磁気力顕微鏡 (MFM) や、電気力(電気勾配力)を観察できる電気力顕微鏡 (EFM) という装置もある。最近ではこの他にも、AFM と蛍光顕微鏡、共焦点レーザー顕微鏡(英: confocal laser scanning microscope)、全反射(英: total internal reflection: TIRF)蛍光顕微鏡、ラマン分光法などを組み合わせた様々なハイブリッド AFM が使用されている。 2013年5月30日、カリフォルニア大学バークレー校のチームが、最先端の原子間力顕微鏡を用いて、化学反応前後の分子構造を直接撮影することに成功したとする論文が、学術誌サイエンス(オンライン)に掲載された。 AFM を含むプローブ顕微鏡における問題は、解像度および出力される構造データがプローブのサイズと形状に左右されることであり、測定者はこの事実とそのメカニズムを理解しておかなければならない。この問題は、対象となる試料がプローブの先端径に近いような生体分子や、微粒子などを測定する場合に顕著となる。このような場合、測定データは実際の試料より大きく出力される。この問題を軽減するため、これまでカーボンナノチューブなどをプローブ先端に取り付けるなどの改良が行なわれた。 このほか AFM 測定で解決されなければならない課題は、測定(観察)時間の短縮である。光学顕微鏡や電子顕微鏡では観察できない液体中に浸した生物試料をナノメータオーダで高分解能観察できる装置として期待があるが、この用途の AFM では、従来の AFM では数分から数十分/画面かかった生体試料の観察を 0.1 秒/画面で実現したという研究報告がある。分子生物研究分野では蛍光染色せずに画像化できる点が早い測定速度や高解像力とならんで評価されている。一方、大気中、真空中の測定では早い装置で 10 秒/画面程度まで測定時間が短縮されたが、更なる改良が望まれている。なお、測定時間を律速する主な要因は試料ステージの移動速度であり、正確な移動量の確保と高速化は背反している。 AFM では、表面の形状は観察できるものの、その原子・分子の種類を区別することができないため、全く無関係な不純物を観察してしまうことがある。近年では、元素に特有の力学的な特徴を利用することで、AFM だけから原子の種類を同定し、分布状態を可視化する手法も検討されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "原子間力顕微鏡(げんしかんりょくけんびきょう、英: atomic force microscope、 AFM)は、走査型プローブ顕微鏡(SPM)の一種であり、試料の表面と探針の原子間にはたらく力を検出して画像を得る顕微鏡である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "原子間力はあらゆる物質の間に働くため容易に試料を観察することができるため、走査型トンネル顕微鏡 (STM) とは異なり、絶縁性試料の測定も可能である。また電子線を利用する走査型電子顕微鏡 (SEM) のように、導電性コーティングなどの前処理や装置内の真空を必要とする事もない。このため、大気中や液体中、または高温~低温など様々な環境で、生体試料などを自然に近い状態で測定できる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "他の走査型プローブ顕微鏡と同様に空間分解能は探針の先端半径(nm程度)に依存し、現在では、原子レベルの分解能が実現されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "カンチレバー(片持ち梁)の先端に取り付けた鋭い探針を用いて、試料表面をなぞる、または試料表面と一定の間隔を保って試料表面を走査し、その時のカンチレバーの上下方向への変位を計測することにより、試料表面の凹凸形状の評価を行う。AFMには様々な測定方法があり、以下に代表的な例を挙げる。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "カンチレバー先端の平板部分に当てたレーザーの反射光を、4ないし2分割のフォトダイオードの中心で測定する。探針が試料表面に近づくと、探針と試料表面原子との原子間力によりカンチレバー(探針)が試料表面に引き寄せられ、変形して接触(コンタクト)する。この変形のために反射光の角度が変わり、フォトダイオードの上下の領域の光起電力に差が生じる。この起電力の差がなくなる(=探針の変位を一定にする)ようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら、試料をなぞるようにスキャンする(零位法)。このときの制御信号が試料の表面状態(凹凸の様子)として観察される。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カンチレバーおよび試料の位置変更は、圧電アクチュエータの圧電効果による変形を利用して制御している(観察する領域のサイズは数nm~数十μm程度であり、このスケールで移動を精密に制御する必要があるため。)。測定が容易だが、接触時に働く強い力や摩擦のためにやわらかい試料を損傷する場合がある。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "圧電素子によってカンチレバーを上下に振動させながら試料表面のごく近傍(数ナノメートル程度)まで近づけ、両者の間に働く原子間相互作用による力を検出し、一定の力(=距離)を保ってスキャンする。探針と試料の間の距離に応じて振動の振幅、位相、周波数が変化するので、これらが一定になるようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら測定を行なう。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "探針を接触させずに測定を行なうため、試料を傷つける心配がない。また光てこ方式よりも単純なので真空での測定にも適しており、ヤング率の高い(=硬い)プローブを用いることで非常に高い空間分解能を実現できる。2000年にGiessiblらはこの方式を用い、初めてAFMによるサブ原子レベルでのSi(111)表面における(7×7)構造の観察に成功した。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "インターミッテントコンタクトモード、あるいはDFM (dynamic force microscope) とも呼ばれる。Tapping Modeは米国Bruker社の登録商標である。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ノンコンタクトモード同様に振動させた探針が試料表面を跳ねるように上下に動き、表面状態を測定する。生体試料や、表面に物質が弱く吸着されている場合などの破壊されやすい試料に対しても使え、分解能も高く精密な測定が必要な際によく使われる手法である。液中でも使用できる。一般的に液中と空気中におけるタッピングモードでは使用されるプローブの材質が異なる。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "プローブを試料に接触させ、その際に生じるカンチレバーのしなりをモニターし、カンチレバーにかかる力を測定する。細胞膜タンパク質の検出や細胞の粘弾性力の測定などに用いられている。また、生体分子などを引っ張ることにより発生する力の変化から分子内構造(ドメイン)などの解析や、試料にプローブ先端で穴をあけ(インデンテーション)、剛性などを検査することも可能である。このモードでは一般的に表面形状などの分布は測定されない。", "title": "測定原理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "走査型トンネル顕微鏡 (STM) を1981年に開発した功績でノーベル物理学賞(1986年)を受賞したIBMのチューリッヒ研究所のゲルト・ビーニッヒ (Gerd Binnig) は、トンネル効果が生じるような非常に近い距離では探針と試料の間に有意な力が働くことを発見した。この力を利用する事により、STM では不可能な絶縁体の測定を実現しようとビーニッヒは考え、同研究所で1985年に AFM を開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "最初の AFM は金ホイルを貼ったダイヤモンド製カンチレバーの背面にSTMの探針を設置し、そのトンネル電流によってカンチレバーの変位を測定する非常に高価で複雑なものであった。その後、カンチレバーとしてSiなどが用いられるようになり、光てこなどの方式で変位を検出できるようになり、AFM システムは安価になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また当初は原子間力を利用して表面像を取得するのみであったが、現在では磁性や導電性を有するカンチレバーを用いることによって、表面形状像と同時に、磁気像を観察できる磁気力顕微鏡 (MFM) や、電気力(電気勾配力)を観察できる電気力顕微鏡 (EFM) という装置もある。最近ではこの他にも、AFM と蛍光顕微鏡、共焦点レーザー顕微鏡(英: confocal laser scanning microscope)、全反射(英: total internal reflection: TIRF)蛍光顕微鏡、ラマン分光法などを組み合わせた様々なハイブリッド AFM が使用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2013年5月30日、カリフォルニア大学バークレー校のチームが、最先端の原子間力顕微鏡を用いて、化学反応前後の分子構造を直接撮影することに成功したとする論文が、学術誌サイエンス(オンライン)に掲載された。", "title": "応用分野" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "AFM を含むプローブ顕微鏡における問題は、解像度および出力される構造データがプローブのサイズと形状に左右されることであり、測定者はこの事実とそのメカニズムを理解しておかなければならない。この問題は、対象となる試料がプローブの先端径に近いような生体分子や、微粒子などを測定する場合に顕著となる。このような場合、測定データは実際の試料より大きく出力される。この問題を軽減するため、これまでカーボンナノチューブなどをプローブ先端に取り付けるなどの改良が行なわれた。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このほか AFM 測定で解決されなければならない課題は、測定(観察)時間の短縮である。光学顕微鏡や電子顕微鏡では観察できない液体中に浸した生物試料をナノメータオーダで高分解能観察できる装置として期待があるが、この用途の AFM では、従来の AFM では数分から数十分/画面かかった生体試料の観察を 0.1 秒/画面で実現したという研究報告がある。分子生物研究分野では蛍光染色せずに画像化できる点が早い測定速度や高解像力とならんで評価されている。一方、大気中、真空中の測定では早い装置で 10 秒/画面程度まで測定時間が短縮されたが、更なる改良が望まれている。なお、測定時間を律速する主な要因は試料ステージの移動速度であり、正確な移動量の確保と高速化は背反している。", "title": "課題" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "AFM では、表面の形状は観察できるものの、その原子・分子の種類を区別することができないため、全く無関係な不純物を観察してしまうことがある。近年では、元素に特有の力学的な特徴を利用することで、AFM だけから原子の種類を同定し、分布状態を可視化する手法も検討されている。", "title": "課題" } ]
原子間力顕微鏡は、走査型プローブ顕微鏡(SPM)の一種であり、試料の表面と探針の原子間にはたらく力を検出して画像を得る顕微鏡である。 原子間力はあらゆる物質の間に働くため容易に試料を観察することができるため、走査型トンネル顕微鏡 (STM) とは異なり、絶縁性試料の測定も可能である。また電子線を利用する走査型電子顕微鏡 (SEM) のように、導電性コーティングなどの前処理や装置内の真空を必要とする事もない。このため、大気中や液体中、または高温~低温など様々な環境で、生体試料などを自然に近い状態で測定できる。 他の走査型プローブ顕微鏡と同様に空間分解能は探針の先端半径(nm程度)に依存し、現在では、原子レベルの分解能が実現されている。
[[Image:AFM fr.jpg|right|300px|thumb|'''原子間力顕微鏡'''の原理(光てこ方式)。中央の台に試料を載る。その上に描かれているのがカンチレバーである。台をX-Y軸方向に移動しながらカンチレバーにレーザー光をあて、反射光の変移に応じて左側のフィードバック用回路を用いて台をZ軸方向に上下させる。このX-Y-Z方向の動きが観察像となる(右下の矢印)]] [[ファイル:Compact disk data layer 2d 3d.PNG|サムネイル|原子間力顕微鏡により得られた[[コンパクトディスク|CD]]表面の画像]] '''原子間力顕微鏡'''(げんしかんりょくけんびきょう、{{lang-en-short|atomic force microscope}}、 {{en|AFM}})<ref>G. Binnig, C. F. Quate, & Ch. Gerber, "Atomic Force Microscope", ''Phys. Rev. Lett.'' '''56''', 930–933 (1986){{doi|10.1103/PhysRevLett.56.930}}</ref>は、[[走査型プローブ顕微鏡]](SPM)の一種であり、試料の表面と探針の[[原子]]間にはたらく[[力 (物理学)|力]]を検出して画像を得る[[顕微鏡]]である。 [[分子間力|原子間力]]はあらゆる物質の間に働くため{{要出典範囲|容易に試料を観察することができる|date=2020年10月}}ため、[[走査型トンネル顕微鏡]] (STM) とは異なり、絶縁性試料の測定も可能である。また電子線を利用する[[走査型電子顕微鏡]] (SEM) のように、導電性コーティングなどの前処理や装置内の[[真空]]を必要とする事もない。このため、大気中や液体中、または高温~低温など様々な環境で、生体試料などを自然に近い状態で測定できる。 他の[[走査型プローブ顕微鏡]]と同様に空間分解能は[[探針]]の先端半径(nm程度)に依存し、現在では、原子レベルの分解能が実現されている。 == 測定原理 == [[image:Argon dimer potential and Lennard-Jones.png|thumb|原子間にはたらく力を示した[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル]]。原子間の距離と、その間にはたらく力の関係性を利用したものがAFMである。]] [[カンチレバー]](片持ち梁)の先端に取り付けた鋭い探針を用いて、試料表面をなぞる、または試料表面と一定の間隔を保って試料表面を走査し、その時のカンチレバーの上下方向への変位を計測することにより、試料表面の凹凸形状の評価を行う。AFMには様々な測定方法があり、以下に代表的な例を挙げる。 [[File:AFM conf.jpg|thumb|原子間力顕微鏡の装置構成]] === コンタクトモード(Contact Mode) === [[カンチレバー]]先端の平板部分に当てた[[レーザー]]の反射光を、4ないし2分割の[[ダイオード|フォトダイオード]]の中心で測定する。探針が試料表面に近づくと、探針と試料表面原子との[[原子間力]]によりカンチレバー([[探針]])が試料表面に引き寄せられ、変形して接触(コンタクト)する。この変形のために反射光の角度が変わり、フォトダイオードの上下の領域の[[光起電力効果|光起電力]]に差が生じる。この起電力の差がなくなる(=探針の変位を一定にする)ようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら、試料をなぞるようにスキャンする([[零位法]])。このときの制御信号が試料の表面状態(凹凸の様子)として観察される。 カンチレバーおよび試料の位置変更は、[[圧電アクチュエータ]]の[[圧電効果]]による変形を利用して制御している(観察する領域のサイズは数[[ナノメートル|nm]]~数十&micro;m程度であり、このスケールで移動を精密に制御する必要があるため。)。測定が容易だが、接触時に働く強い力や摩擦のためにやわらかい試料を損傷する場合がある。 === ノンコンタクトモード(Non-contact Mode)=== [[圧電素子]]によって[[カンチレバー]]を上下に振動させながら試料表面のごく近傍(数[[ナノメートル]]程度)まで近づけ、両者の間に働く原子間相互作用による力を検出し、一定の力(=距離)を保ってスキャンする。[[探針]]と試料の間の距離に応じて振動の[[振幅]]、[[位相]]、[[周波数]]が変化するので、これらが一定になるようにカンチレバーもしくは試料を上下させながら測定を行なう。 探針を接触させずに測定を行なうため、試料を傷つける心配がない。また[[光てこ]]方式よりも単純なので[[真空]]での測定にも適しており、[[ヤング率]]の高い(=硬い)プローブを用いることで非常に高い空間分解能を実現できる。[[2000年]]にGiessiblらはこの方式を用い、初めてAFMによるサブ原子レベルでの[[シリコン|Si]](111)表面における(7×7)構造の観察に成功した。 ==== タッピングモード(Tapping Mode) ==== インターミッテントコンタクトモード、あるいはDFM (dynamic force microscope) とも呼ばれる。Tapping Modeは米国Bruker社の登録商標である。 ノンコンタクトモード同様に振動させた探針が試料表面を跳ねるように上下に動き、表面状態を測定する。生体試料や、表面に物質が弱く吸着されている場合などの破壊されやすい試料に対しても使え、分解能も高く精密な測定が必要な際によく使われる手法である。液中でも使用できる。一般的に液中と空気中におけるタッピングモードでは使用されるプローブの材質が異なる。 ==== フォースモード(Force Mode) ==== プローブを試料に接触させ、その際に生じるカンチレバーのしなりをモニターし、カンチレバーにかかる力を測定する。細胞膜タンパク質の検出や細胞の粘弾性力の測定などに用いられている<ref name=":0">Musashi T., Yusuke M., J. Ishii, Chiaki O., and Akihiko K., "The mapping of yeast's G-protein coupled receptor with an atomic force microscope", ''Nanoscale''. 2015, 7, 4956-1963. (doi: 10.1039/C4NR05940A)</ref>。また、生体分子などを引っ張ることにより発生する力の変化から分子内構造(ドメイン)などの解析や、試料にプローブ先端で穴をあけ(インデンテーション)、剛性などを検査することも可能である。このモードでは一般的に表面形状などの分布は測定されない。 == 歴史 == [[走査型トンネル顕微鏡]] (STM) を1981年に開発した功績で[[ノーベル物理学賞]]([[1986年]])を受賞した[[IBM]]の[[チューリッヒ]]研究所の[[ゲルト・ビーニッヒ]] (Gerd Binnig) は、[[トンネル効果]]が生じるような非常に近い距離では[[探針]]と試料の間に有意な力が働くことを発見した。この力を利用する事により、STM では不可能な[[絶縁体]]の測定を実現しようとビーニッヒは考え、同研究所で[[1985年]]に AFM を開発した。 最初の AFM は[[金]]ホイルを貼った[[ダイヤモンド]]製[[カンチレバー]]の背面に[[走査型トンネル顕微鏡|STM]]の探針を設置し、そのトンネル電流によってカンチレバーの変位を測定する非常に高価で複雑なものであった。その後、カンチレバーとして[[シリコン|Si]]などが用いられるようになり、[[光てこ]]などの方式で変位を検出できるようになり、AFM システムは安価になった。 また当初は原子間力を利用して表面像を取得するのみであったが、現在では[[磁性]]や[[電気伝導性|導電性]]を有するカンチレバーを用いることによって、表面形状像と同時に、磁気像を観察できる[[磁気力顕微鏡]] (MFM) や、電気力(電気勾配力)を観察できる電気力顕微鏡 (EFM) という装置もある。最近ではこの他にも、AFM と蛍光顕微鏡、共焦点レーザー顕微鏡({{lang-en-short|confocal laser scanning microscope}})、全反射({{lang-en-short|total internal reflection}}: TIRF)蛍光顕微鏡、[[ラマン効果|ラマン分光法]]などを組み合わせた様々なハイブリッド AFM が使用されている。 == 応用分野 == [[2013年]]5月30日、[[カリフォルニア大学バークレー校]]のチームが、最先端の原子間力顕微鏡を用いて、化学反応前後の分子構造を直接撮影することに成功したとする論文が、学術誌[[サイエンス]](オンライン)に掲載された<ref>{{Cite journal|url=http://newscenter.berkeley.edu/2013/05/30/scientists-capture-first-images-of-molecules-before-and-after-reaction/ |title=Scientists capture first images of molecules before and after reaction |author=Robert Sanders |publisher=UC Barkeley News Center |date=2013-05-30 }}</ref><ref>{{Cite journal|url=http://www.sciencemag.org/content/early/2013/05/29/science.1238187 |author=Dimas G. de Oteyza, Patrick Gorman, Yen-Chia Chen, Sebastian Wickenburg, Alexander Riss, Duncan J. Mowbray, Grisha Etkin, Zahra Pedramrazi, Hsin-Zon Tsai, Angel Rubio, Michael F. Crommie, Felix R. Fischer |title=Direct Imaging of Covalent Bond Structure in Single-Molecule Chemical Reactions |journal=[[サイエンス|Science]] |date=May 30 2013 |doi=10.1126/science.1238187 }}</ref>。 == 課題 == AFM を含む[[走査型プローブ顕微鏡|プローブ顕微鏡]]における問題は、解像度および出力される構造データがプローブのサイズと形状に左右されることであり、測定者はこの事実とそのメカニズムを理解しておかなければならない。この問題は、対象となる試料がプローブの先端径に近いような生体分子や、微粒子などを測定する場合に顕著となる。このような場合、測定データは実際の試料より大きく出力される。この問題を軽減するため、これまでカーボンナノチューブなどをプローブ先端に取り付けるなどの改良が行なわれた。 このほか AFM 測定で解決されなければならない課題は、測定(観察)時間の短縮である。[[光学顕微鏡]]や[[電子顕微鏡]]では観察できない液体中に浸した生物試料をナノメータオーダで高分解能観察できる装置として期待があるが、この用途の AFM では、従来の AFM では数分から数十分/画面かかった生体試料の観察を 0.1 秒/画面で実現したという研究報告がある。分子生物研究分野では蛍光染色せずに画像化できる点が早い測定速度や高解像力とならんで評価されている。一方、大気中、真空中の測定では早い装置で 10 秒/画面程度まで測定時間が短縮されたが、更なる改良が望まれている。なお、測定時間を律速する主な要因は試料ステージの移動速度であり、正確な移動量の確保と高速化は背反している。 AFM では、表面の形状は観察できるものの、その原子・分子の種類を区別することができないため、全く無関係な不純物を観察してしまうことがある。近年では、元素に特有の力学的な特徴を利用することで、AFM だけから原子の種類を同定し、分布状態を可視化する手法も検討されている<ref>Yoshiaki Sugimoto, Pablo Pou, Masayuki Abe, Pavel Jelinek, Rubén Pérez, Seizo Morita & Óscar Custance, "Chemical identification of individual surface atoms by atomic force microscopy", ''Nature'' '''446''', 64-67 (2007) {{doi|10.1038/nature05530}}</ref>。 == 参考文献 == <references /> == 関連項目 == * [[表面物理]] * [[走査型トンネル顕微鏡]] * [[走査型プローブ顕微鏡]] * [[ナノトライボロジー]] * [[ゲルト・ビーニッヒ]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けんしかんりよくけんひきよう}} [[category:走査型プローブ顕微鏡]] [[Category:表面物理学]] [[Category:科学的技法]]
null
2021-03-13T13:53:35Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Normdaten", "Template:Lang-en-short", "Template:En", "Template:要出典範囲", "Template:Doi" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E9%96%93%E5%8A%9B%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1
13,644
DEC
DEC(ディーイーシー、デック)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "DEC(ディーイーシー、デック)", "title": null } ]
DEC(ディーイーシー、デック)
'''DEC'''(ディーイーシー、デック) ==DEC== *[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]] ({{en|Digital Equipment Corporation}}) - 過去に存在した[[アメリカ合衆国]]の[[コンピューター]]企業 *[[daily effective circulation]] - 一日の有効通行量。広告業界で使用される用語。 *[[ニューヨーク州環境保護局]] ({{interlang|en|New York State Department of Environmental Conservation|Department of Environmental Conservation}}) *[[西オーストラリア州環境保護局]] ({{interlang|en|Department of Environment and Conservation (Western Australia)|Department of Environment and Conservation}}) *{{interlang|fr|diplôme d'études collégiales}} - [[カナダ]]・[[ケベック州]]教育・余暇・スポーツ省の定める[[カレッジ]]の大学基礎教養[[学位]]。[[シージェップ]](CEGEP)参照。 *{{interlang|en|Decatur Airport}} の[[IATA航空会社コード]] *[[ムグンファ号#9201系(DEC)|{{en|Diesel Electric (Excellent) Car}}]] - [[大韓民国|韓国]]の[[ディーゼル動車]] * [[世界銀行]][[世界銀行開発経済総局|開発経済総局]] * [[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式|電気式気動車]](Diesel Electric Car) ==Dec== *[[12月]] ({{en|December}}) ==dec== *[[十進法]] ({{en|decimal}}) *[[デクリメント]] ({{en|decriment}}) - 1減らすこと *[[赤緯]] ({{en|declination}}) *[[減少]] ({{en|decrease}}) *[[デカ]] ({{en|deca}}) - 10倍 *[[化学分解|分解]] ({{en|decomposition}}) *日本のAV監督。→[[dec (AV監督)]] {{aimai}}
null
2022-10-02T06:35:52Z
true
false
false
[ "Template:En", "Template:Interlang", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/DEC
13,646
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (Digital Equipment Corporation) は、かつてアメリカ合衆国を代表したコンピュータ企業の一つ。1957年、ケン・オルセンによってマサチューセッツ州メイナードに設立された。略称「DEC(デック)」。欧米では「Digital」と略称されることも多い。 DECのPDPシリーズとVAXシリーズは、1970年代と1980年代の科学技術分野において最も一般的なミニコンピュータだった。DECの本社は1957年から1992年まで、マサチューセッツ州メイナードにあるかつてウール工場であった Clock Tower Place に置かれていた。 1998年にコンパックに買収された。そのコンパックがさらに2001年にヒューレット・パッカード (HP) に買収されたことから、DECの製品群はHPのブランド名で販売されている。かつてのDECの一部事業(特にコンパイラ関連)やマサチューセッツ州ハドソンの工場はインテルに売却された。詳細は「#終焉」の節を参照。 ロゴマークの青色や会社規模から、IBMの愛称"Big Blue"に対して、"Small Blue"の愛称で呼ばれた。後にロゴマークは青色からバーガンディへ変更された。 なお、社名に「Digital」を用いるデジタルリサーチやウェスタン・デジタルとは無関係である。 当初は小型コンピュータ市場に集中したため、DECは強力なライバルのいない市場で成長することができた。1960年代にはPDPシリーズ、特に世界初の成功したミニコンピュータと言われるPDP-8が人気となった。1970年に発売したPDP-11はそれまでの小型機に取って代わり、DECはコンピュータ業界での地位を確立。PDP-11の後継として設計されたVAX-11は、32ビットミニコンピュータの先駆けとなり「スーパーミニコンピュータ」とも呼ばれた。これらは様々な場面でSystem/370などのメインフレームとも競合した。VAXシリーズもベストセラーとなり、同社が1980年代に世界第2位のコンピュータ企業となる原動力となった。最盛期にはマサチューセッツ州で州政府に次ぐ第2位の雇用者となっている。 1980年代後半にパーソナルコンピュータ市場が成長し、1990年代には強力な32ビットシステムがいくつも登場するようになると、DECのシェアは素早く侵食され始めた。DECの生き残りをかけた最後の大きな挑戦が、64ビットRISCプロセッサアーキテクチャ「DEC Alpha」であった。当初、VAXシリーズをAlphaで再実装しようとしたが、同時に高性能ワークステーションにも採用された。Alphaは良い性能を発揮したが、DECの業績を上向かせることはできなかった。 1998年6月、コンパックがDECを買収。当時のコンピュータ業界では最大となる買収であった。当時のコンパックは企業市場を中心に据える戦略をとっており、他にも大企業をいくつか買収している。その中でもDECはコンパックの弱点だったアメリカ国外で強かった。しかしコンパックは買収した企業群をその後どうするかについて明確なビジョンを持っていなかったため、財政的に苦境に立たされることになる。結局2002年5月、ヒューレット・パッカード (HP) がコンパックを吸収合併した。2007年時点でもDECの一部製品をHPが製造販売していた。 DECの日本支社は、1968年に5人から6人の人員で設立され、販売代理店の株式会社理経が納入したミニコンピュータの保守サービスのみを手掛けることから始まった。 日本法人である日本 ディジタル イクイップメント株式会社(英文社名:Digital Equipment Corporation Japan、略称:日本DEC)は、1982年に設立され、1998年10月、コンパックコンピュータ株式会社へ吸収合併された。 1957年、ケン・オルセンとハーラン・アンダーソン(英語版)が設立。彼らはマサチューセッツ工科大学 (MIT) のリンカーン研究所で働く技術者だった。リンカーン研究所は今で言う「インタラクティブ性」の研究で知られており、開発したコンピュータは動作中のプログラムをリアルタイムでオペレータが直接制御できる世界初のものだった。その端緒となったのが1944年のWhirlwindで、元々はアメリカ海軍のフライトシミュレータ向けに開発されたものだが、シミュレータとして使われることはなかった。代わりにその成果はアメリカ空軍のSAGEシステムに採用され、オペレータがコンピュータに格納されたレーダーのデータと対話するために大きな画面とライトガンを使用した。 空軍のプロジェクトが完了すると、リンカーン研究所はWhirlwindで使用していた真空管をトランジスタに置き換えたコンピュータの開発にとりかかった。新たな回路を試験するため、まず小型の18ビットマシン TX-0 を構築し、1956年に稼働させた。TX-0の成功で基本コンセプトに間違いがないことが明らかになると、36ビットの大型システムの開発にとりかかった。これが64kワードの磁気コアメモリを備えたTX-2である。磁気コアメモリは高価だったので、TX-0のメモリ部品をTX-2に流用し、TX-0の残りの部分はマサチューセッツ工科大学に恒久的に貸与された。 MITでオルセンとアンダーソンは奇妙な現象に気付いた。より高速なIBM製メインフレームも利用可能なのに、学生達は小さいTX-0を使うために何時間も並んだのである。2人は対話型コンピューティングが強い魅力を持っているためだと判断し、TX-0を製品化した小型マシンの市場があると考えた。それは、性能よりもグラフィカルな出力やリアルタイム操作が重視される市場である。また、特定タスクのための安価なソリューションを必要としているユーザー向けであり、そのような用途に36ビットの大型機は不要と思われた。 1957年、2人とケンの兄弟スタンは資本金を求めたが、当時のアメリカ実業界ではコンピュータ会社への投資に懐疑的になっていた。1950年代に多数の中小コンピュータ企業が生まれては消えていった経緯があり、技術革新があまりにも急激だったため製品がすぐに陳腐化していた。また、RCAやゼネラル・エレクトリックといった大企業もコンピュータ事業で利益を出せないでいた。そんな中で唯一興味を示したのがジョルジュ・ドリオ(英語版)と彼の率いるベンチャーキャピタル American Research and Development Corporation (AR&D) である。コンピュータ会社の創業という話ではそれ以上の資金が集まらない懸念があったため、ドリオは新会社の事業計画をコンピュータを中心としない形に変更させ、社名も「ディジタル・コンピュータ・コーポレーション」から変更させた。 2人は事業計画を更新し、会社を2段階で発展させる計画にした。まず、コンピュータのモジュールを独立したデバイスとして販売し、研究室などでそれを購入して各種デジタルシステムの構築に使用できるものとする。それによって会社がある程度自立したら、第二段階として完全なコンピュータを開発するという計画である。改称したDECはAR&Dから7万ドルの資金(全資本金の70%)を得て、マサチューセッツ州メイナードにあった南北戦争時代の毛織物工場だった建物で創業した。その工場だった建物を選んだのは、生産に使えるスペースが安価に得られたためである。 1958年の早い時期に、DECはその最初の製品である "Digital Laboratory Module" のラインナップを出荷した。このモジュールは、電子部品とゲルマニウムトランジスタをプリント基板に装着したもので、その回路はTX-2の回路を基にしている。 ひとつのDigital Laboratory Moduleは、論理回路の1、2個のフリップフロップ、ゲート、変換器などとして機能する。押し出し成型のアルミニウムでパッケージされており、各モジュールの前面パネルにあるジャックをコードで繋いで機能させる。科学技術関連の実験などが可能だった。動作速度には5MHz(1957年)、500kHz(1959年)、10MHz(1960年)というバージョンがある。特に他のコンピュータ企業が自社製システムの試験装置を構築するのによく使った。1950年代末の景気後退にもかかわらず、1958年だけで9万4千ドルを売り上げ、初年度で黒字を達成した。 間もなく、内部は同じだが異なるパッケージの "Digital Systems Module" も発売した。これは後端にあるアンフェノール型の22ピンコネクタで相互接続するよう設計されており、専用19インチラックに複数収めることができる。ラックの1つの棚(高さ5.25インチ)に25モジュールを収納でき、高密度に収納することでコンピュータを構築可能である。DEC自身もこれを使って磁気コアメモリシステムの試験装置を構築し、それを8年間で約50台販売した。 このようなモジュールは、PDPシリーズでも "System Building Blocks" として使用された。 後に、同様の回路を "R" (red) シリーズ「フリップチップ」モジュールとしてパッケージ化した(訳注:「フリップチップ」は商標(en:Flip Chip (trademark))で、集積回路を基板に実装する技術の、チップを直接基板に接触させ実装する手法の名称であるフリップチップとは無関係)。後に、もっと高速高密度なモジュールも製品化された。DECはモジュールに関して基礎から理解するための広範囲のデータを約A5版大、厚さ約2センチの無料のカタログ本(英文)の形で提供し、これが非常にポピュラーになった。 このカタログ本の無料提供はミニコンピュータでも継承されI/Oのハードウェア機能やインタフェース手法とアセンブリ言語を基礎から応用まで理解し、モジュールを買ったユーザは自ら制御システムを構築できた。事務用とは異なる制御用のコンピュータであるため、採用を検討しているユーザにも教科書(カタログ本)を広く配り、ユーザが独自に学び個々のシステムの構築することを促進する方針を採った。これら大量配布のカタログ本は自社内の印刷・製本部門で作られた。 創業後の最初の製品は成功を収め、DECは事業計画の第2段階であるコンピュータ市場への参入に向かった。1959年8月、ベン・ガーリーはDEC初のコンピュータ PDP-1の設計を開始した。ドリオの命令を守り、Programmed Data Processor の略であるPDPをシリーズ名とし、コンピュータという言葉を避けている。1959年12月、ボストンでの合同コンピュータ会議で初めてプロトタイプが一般公開された。PDP-1の一号機は1960年11月に Bolt, Beranek and Newman に納入され、翌年の4月に正式に検収された。基本構成の価格は12万ドルで、2011年時点の価値に換算すると90万ドルになる。1969年に生産終了となるまでに約50台を出荷している。 1ワードは18ビットで、基本構成では4096ワードの磁気コアメモリを搭載し、毎秒10万命令の基本性能である。いくつかの19インチラックに多数の System Building Blocks を収める形で構成され、ラック群を1つの大きなフレーム(メインフレーム)でパッケージしており、フレームの一端のテーブルぐらいの高さに六角形の制御パネルがあってスイッチとランプが並んでいる。制御パネルの上には標準入出力である紙テープリーダ/ライタがある。多くのシステムは、Type 30 ベクタグラフィックスディスプレイと Soroban Engineering がIBMのモデルBタイプライタを改造したコンソールタイプライタの2つの周辺機器を加えて購入された。Soroban の機構は信頼性に乏しいことで有名だった。オフラインのプリンターとして Friden Flexowriter 製の端末があり、紙テープリーダ/ライタ付きだった。磁気テープシステム、パンチカードリーダ/パンチ、高速紙テープ/プリンターシステムなどの周辺機器もあるが高価だった。 PDP-1を発表した際、DECは同じ設計に基づく24ビット、30ビット、36ビットのより大きなマシンについても言及していた。PDP-1のプロトタイプを構築中、24ビットのPDP-2と36ビットのPDP-3の設計が並行して進められていた。PDP-2は初期設計のみでそれ以上開発は行われなかったが、PDP-3は最後まで設計された。PDP-3は1960年、CIAの研究部門向けに1台だけ構築された。漏れ伝えられている情報によれば、CIAはそれをA-12偵察機のレーダー反射断面積データの処理に使ったという。ゴードン・ベルはPDP-3がその後オレゴン州で使われたと記憶しているが、誰が使っていたかは思い出せないという。 1962年11月、標準価格6万5千ドルのPDP-4をリリース。命令セットなどはPDP-1と似ているが、メモリを低速なものにし、パッケージを変更して低価格化している。全部で約50台が販売され、顧客層もPDP-1と似ていた。 1964年、DECはフリップチップ・モジュール設計を新たに採用し、PDP-4にそれを適用してPDP-7を生み出した。PDP-7は1964年12月にリリースされ、約100台を生産した。1965年、Rシリーズ・フリップチップにアップグレードした PDP-7A をリリースしている。PDP-7はUNIXオペレーティングシステムが誕生したプラットフォームとしてよく知られている。 PDP-1シリーズへの大胆なアップグレードとして、1966年8月にPDP-9をリリース。PDP-4やPDP-7と命令レベルで互換性があるが、PDP-7の約2倍の高速さで、より大きな構成で使用することを意図したものである。1968年時点で標準価格は19,900ドルだった。PDP-9は約450台を売り上げ、それまでのPDP-1ファミリの中では最大のヒットとなった。 PDP-9が登場したころ、既に後継機の設計が始まっており、1969年にPDP-15としてリリースされた。これはPDP-9を集積回路で構成しなおしたマシンである。基本構成でもPDP-9より高速だったが、さらにFPUと入出力用プロセッサを追加でき、さらに性能が向上する。発表から8カ月で400台以上の注文が入り、最終的に12機種で約800台が生産された。しかしそのころには後述する他のファミリがより低価格で似たような市場に対応できるようになっていたため、18ビットファミリはPDP-15で終結することになった。 1962年、リンカーン研究所は System Building Blocks を使って小型の12ビットマシンを実装し、それに様々なアナログ-デジタル変換入出力機器を接続して、アナログの各種実験装置とインタフェースしやすくしていた。これがLINCである。LINCは科学界で強烈な関心を惹きつけ、小さな研究室でも使える安価で小さいマシンだとして世界初の真のミニコンピュータとも呼ばれた。 LINCの成功を目にしたDECは1963年、その基本設計を踏襲してアナログ-デジタル変換機構を除いたPDP-5を開発した。PDP-1ファミリ以外の最初のマシンとして、1963年8月11日のWESTCONで発表。1964年の広告ではPDP-5の利点を「さあ、使われている磁気コアメモリの価格27,000ドルだけであなたもPDP-5を所有できます」と表現していた。1967年初めに生産終了となるまでに約100台が生産された。PDP-5は1964年(昭和39年)東京大学の旧田無市(現:西東京市)の原子核研究所(1997年3月閉所)に導入された日本初のPDP機だった。PDP-1と同様、PDP-5から基本設計が同じ一連の機種が生まれ、PDP-5よりも人気となった。 1965年3月22日、PDP-5で使用していたモジュールをRシリーズ・フリップチップで置換したPDP-8をリリース。小さな卓上型の筐体であり、CPUが格納された部分は半透明のプラスチックで覆われていて、外から配線が見えるようになっている。4kワード×12ビットの磁気コアメモリを搭載し、標準入出力機器としてASR-33を備えた基本構成で、18,000ドルだった。そのため、25,000ドルを割った世界初の「真の」ミニコンピュータと呼ばれた。販売は予想通り非常に堅調で、PDP-5の市場にいくつかの企業が参入しはじめたがPDP-8には敵わなかった。これによりDECは市場を2年間ほぼ独占し、同一設計の新機種が登場するまでに "straight eight"(最初のPDP-8)が約1400台生産された。 DECはさらに低価格なPDP-8/S(Sは "serial" の意)をリリース。名前が示す通りシリアル演算ユニットを採用しており、低速だがコストも低減され1万ドル以下で売られた。また、PDP-8のCPUとLINCのCPUを備えた2プロセッサ構成のLINC-8(英語版)をリリース。2つのCPUを切り替える命令を備えており、LINC用のプログラムとPDP-8用プログラムが実行可能である。ただしこれはあまり売れず、当初価格は38,500ドルで約140台を売り上げるに留まった。LINCからPDP-5が生まれたように、LINC-8を修正してシングルプロセッサ機にしたのがPDP-12である。これは約1000台生産された。1968年には回路設計を改めたPDP-8/IとPDP-8/Lをリリース。1975年には前年のインターシルとの合意に基づき、PDP-8をシングルチップ化した Intersil 6100 が登場した。それにより、DEC自体はPDP-8ファミリの終結を発表したが、その後もPDP-8向けのソフトウェアを生かす手段が残された。 PDP-5の系統で低価格路線をとったころ、DECは1963年、36ビットのPDP-6でメインフレーム市場に参入した。しかし、IBMやハネウェルといったメインフレームメーカーの同様のマシンとの差別化ができず、約30万ドルという低価格だったが販売は苦戦した。PDP-6は約20台しか売れなかった。あまり売れなかったため、PDP-6の改良版は開発されなかった。しかし歴史的には初期のタイムシェアリングOSである "Monitor" が導入されたプラットフォームとして重要であり、それが後のTOPS-10へと発展した。 PDP-6は商業的にはあまり成功しなかったが、商業的にも価値のある様々な機能がそこから生まれた。フリップチップによる再実装でPDP-6のコストを大幅に低減できるようになると、DECは1968年、PDP-10で36ビット市場に再び参入した。PDP-10は大いに成功し、1984年に生産終了となるまでに約700台を売り上げた。PDP-10は特に大学でよく採用され、1970年代のOSなどの発展に寄与した。DECは後に36ビットの全機種を "DECsystem-10" というブランド名にし、CPUの型番(例えば "KA10")で機種を示すようになった。さらに仮想記憶を実装したTOPS-20を搭載したシステムを "DECSYSTEM-20" と称した。 PDP-10で最も特筆すべき周辺機器がDECtapeである。DECtapeは5インチリールに巻かれた3/4インチ幅の特殊な磁気テープである。10トラックで固定長ブロックの記録フォーマットで、ディレクトリを含む標準的なファイル構造をその上に記録できる。DECtape上でファイルの書き込み、読み出し、更新、削除が可能で、磁気ディスク装置のような使い方が可能である。効率向上のため、DECtapeはどちらの方向に巻いているときでも読み書き可能になっていた。 実際、磁気ディスク装置を全く装備しないPDP-10システムもあり、DECtapeだけを主要な二次記憶装置として使っていた。複数の紙テープを人手で読み込ませるよりも簡単なので、他のPDPシリーズでもDECtapeが広く使われた。初期のタイムシェアリングシステムはDECtapeをシステムデバイス兼スワップデバイスとして使用可能だった。紙テープより優れていたものの、DECtapeは低速であり、信頼性の高い磁気ディスク装置が利用可能になるとそれに置き換えられていった。 1968年、DECではそれまでの6ビットの文字ではなく8ビットのバイトに基づいたPDPマシンを開発していた。"PDP-X" と名付けられたこのプロジェクトが中止されたため、一部のチームメンバーが退職して1968年5月にデータゼネラルを創業。すぐさま16ビットのミニコンピュータNovaを発売した。このため、8ビットのバイトという業界の潮流にDECは一時乗り遅れることになった。 16ビットコンピュータPDP-11は、ハロルド・マクファーランド、ゴードン・ベル、ロジャー・キャディらが突貫計画で設計した。このプロジェクトはカーネギーメロン大学で16ビット設計を研究していたハロルド・マクファーランドが入ったことで進捗が加速された。経営陣に最初の提案を行った際あまり好印象ではなく、あやうくキャンセルされそうになったものの、より単純な設計がPDP-11となった。 特にその新設計はアドレッシングモードがあまり豊富ではなく、DECの他のマシンやCISC設計全般で広く採用されていた豊富なアドレッシングモードによってプログラムを小さくするという技法が使えないものだった。それはメモリアクセスにより時間がかかり、システムが低速になることを意味していた。しかし、同時に多数の汎用レジスタを備えるという考え方も採用していたため、プログラミングの自由度が向上し、性能問題はそれである程度カバーされるようになっていた。 PDP-11の主要な改良点として、メモリマップドI/Oによって全周辺機器をサポートするUnibusがある。それにより、通常はバックプレーンにハードウェアインタフェースを挿入し、メモリにマッピングされたインタフェースを読み書きするソフトウェアをインストールするだけで新規機器を容易に追加することが可能となった。そのためPDP-11には、サードパーティによる巨大な周辺機器市場が出現し、それがPDP-11自体をさらに便利なものにするという相乗効果が生じた。 そうした技術革新によってPDP-11アーキテクチャは他社を圧倒して業界のリーダーとなり、DECの復権に寄与した。さらにページング方式とメモリ保護機構が追加されることで、マルチタスクやタイムシェアリングも容易になっていった。一部機種では命令とデータの空間を分離して128kBの仮想アドレス空間を使えるようにし、物理メモリ容量も最大4MBまで拡張している。後に、PDP-11はLSI化されたCPUを採用して小型化し、後継のVAX-11が発売されるまで好調な販売を維持した。 PDP-11にはいくつかのオペレーティングシステムがあった。ベル研究所のUNIXオペレーティングシステムやDECのRSX-11、RT-11、RSTS/Eなどである。初期のPDP-11用アプリケーションは紙テープユーティリティを使って開発された。最初のディスクオペレーティングシステムとしてDOS-11が登場したが、間もなくもっと高機能なOSに取って代わられた。RSX-11は汎用マルチタスク環境であり、各種プログラミング言語が動作した。IASはタイムシェアリング機能を追加したRSX-11である。RSTSとUNIXはタイムシェアリングシステムで、教育機関が無料(または低価格)で使うことができ、PDP-11は当時の技術者や情報工学者が様々なことを試す道具となった。1970年代には通信や工場の制御などでも広く使われている。AT&TはDECの最大の顧客となった。 RT-11は小さいメモリ容量で動作する実用的なリアルタイムオペレーティングシステムであり、DECは組み込みシステム向けのコンピュータ供給業者としても事業を展開した。歴史的には、当時PDP-11で経験を積んだプログラマが多く、そういった意味でRT-11はマイクロコンピュータ用OSにも影響を与えている。例えばCP/Mのコマンド構文はRT-11のそれと似ており、データコピー用プログラム PIP も模倣している。また、DECはコマンド行オプション(スイッチ)に "/" を使っており、それがMS-DOSでパス名に "\" を使うことに繋がっている(UNIXでは '/' が使われる)。 競合他社はPDP-11風の様々なシステムを生み出した。COMECON諸国でもPDP-11のクローンが生み出され、多数生産された。 1976年、DECはPDP-11アーキテクチャを32ビットに拡張し、完全な仮想記憶システムを追加することを決定。その結果、VAXアーキテクチャが生まれた。最初の機種はVAX-11/780で、DECはこれを「スーパーミニコンピュータ」と称した。それは世界初の32ビットミニコンピュータではなかったが、価格設定や販売戦略も相まって、1978年のリリースとともに市場のリーダーに躍り出た。VAXが大いに成功したため、DECは1983年にPDP-10の後継機開発プロジェクトをキャンセルし、VAXアーキテクチャを同社唯一のコンピュータアーキテクチャとして推進する方針を採用した。 VAXの成功を支えた要因のひとつとして、VT52(英語版)端末の成功がある。それまでのあまり成功しなかった機種(VT05(英語版)やVT50)をベースとした、誰もが欲する機能を1つの筐体に全て納めた端末である。その後さらに成功を収めたVT100やその後継機が登場し、DECは業界でも屈指の端末ベンダーとなった。VTシリーズの成功によってDECはあらゆる周辺機器を備えたシステム全体を提供できるようになった。 VAXシリーズの命令セットは今日の一般的な命令セットから見ても非常に豊富な命令群(と豊富なアドレッシングモード)を持っていた。PDPシリーズのページング方式とメモリ保護機能に加えて、VAXは仮想記憶をサポートしている。VAXではUNIXとDEC独自のVMSオペレーティングシステムを使うことができる。 VAX-11シリーズの登場後、DECはシェア拡大のため、ローエンド/ハイエンド市場に向けて様々なバリエーションのシリーズ展開を行っていき、最終的には1990年代初めにマイクロプロセッサ実装のNVAXとハイエンド機 VAX 7000/10000 を完成させた。 汎用マイクロプロセッサの登場により、1975年ごろには世界初のマイクロコンピュータが必然的に登場した。当時のマイクロコンピュータは機能や性能が限定的で、ケン・オルセンは1977年にあざ笑うように「個人が自宅にコンピュータを所有する理由はない」と言ったとされた。当然ながら当初DECはマイクロコンピュータ市場にはほとんど目を向けなかった。1980年代初めにDECが開発したVT180(コード名 "Robin")は、Z80ベースのマイクロコンピュータを内蔵してCP/Mが動作するVT100端末だったが、当初この製品はDEC従業員のみに販売された。 1981年、IBMが IBM PC を発売すると、DECもこの市場に参入することにした。1982年、DECはそれぞれ異なる自社製品アーキテクチャと関連する3種類の非互換なマシンを発売。1つ目はPDP-11/23(後には11/73)をベースにした DEC Professional で、RSX-11M+にメニュー機能を追加したP/OS ("Professional Operating System") が動作した。これはPCよりも高性能だが同時に高価であり、IBM PC とはハードウェアもソフトウェアも互換性がなく、システムのカスタマイズもほとんどできない。CP/MやDOSとは異なり、このマシン用のあらゆるプログラムは個々のマシン毎に発行されるキーを入力しないと使えない仕様になっていた。この方針は当時としては普通の感覚であり、多くのソフトウェアはシステムの製造元から購入するか、個々の顧客向けに開発するのが普通だった。しかしそのために勃興期のサードパーティのソフトウェア企業がProfessionalを無視し、ソフトウェアの流通が容易な他のパーソナルコンピュータに集中した。DEC自体にとってもProfessionalのためによいソフトウェアを開発することは優先度が低く、むしろPDP-11のシェアが侵食されることを恐れていた。Professionalは優れたマシンだったが、結果としてほとんどソフトウェアが供給されなかった。また、P/OSのメニューシステムは低速で柔軟性に欠けており、主流のPC-DOSやCP/Mとはかけ離れていた。2つ目はPDP-8をベースとした DECmate II だが、ワードプロセッサであって汎用コンピューティング向きではなかったし、ワング・ラボラトリーズのワードプロセッサにも太刀打ちできなかった。 DECの初期のパーソナルコンピュータとして最もよく知られているのは、Z80と8088を搭載した Rainbow 100(英語版) で、Z80上でCP/Mが動作し、8088上でCP/M-86が動作した。また、UNIX System III を移植した Venix も動作した。CP/M向けアプリケーションソフトウェアを再コンパイルすれば実行することができたが、そのころ既にMS-DOS上でLotus 1-2-3のような出来合いのアプリケーションを実行する使用法が一般的になりつつあったのに対し、MS-DOS 2.0 の移植が1983年後半まで遅れてしまった。Rainbowは多少報道されたものの、高価であり、マーケティングのサポートもなかったため失敗に終わった。 DECの初期のパーソナルコンピュータで使われたRX50フロッピーディスクドライブ (FDD) の規格は、DECがこの市場にどういう形で臨んだかを端的に表している。そのドライブの機構は他社の5.25インチFDDとほぼ同じだが、DECはディスクフォーマットを独自形式にすることで差別化を図ろうとした。DECのフォーマットは通常より高密度だったため、一般的なPC用FDDとは非互換だった。5.25インチ800KByteフロッピーディスクドライブを装備していた。そのためユーザーは特殊なフォーマットを施された高価なフロッピーディスクを買わされることになった。DECはその独自フォーマットの著作権を主張して独占販売しようとし、そのフォーマットのフロッピーディスクを販売しようとする者にはライセンス契約とロイヤルティ支払いを要求した。フロッピーディスク媒体だけでなく、DECの製品はPC市場に出回っている通常のソフトウェアも使えなかった。ハッカーらがRX50のフォーマットをリバースエンジニアリングで解明したころには、DEC製品の悪い評判は固まっていた。 1986年に登場した VAXmate は Microsoft Windows 1.0 が動作し、DECnet経由でVAX/VMSベースのサーバと接続して使用可能になっていた。Rainbowの後継であり、初期のディスクレス・ワークステーションの1つである。また、他社のIBM PCやNEC PC-9801とイーサネットを介して通信するためのソフトウェアとして DECnet-DOS をリリースしたり、マイクロソフト系のネットワークプロトコルをサポートした VAX/VMSサーバも発売している。 1995年からコンパックとの合併まで、PC/AT互換のノートPC、デスクトップPC、サーバを販売していた。 1984年、DECは10Mbit/sのイーサネットをリリースした。イーサネットはスケーラブルなネットワークを可能にし、VAXclusterはスケーラブルなコンピューティングを可能にした。DECnetとイーサネットに基づく端末サーバ (LAT) を組み合わせることで、DECはネットワーク化されたストレージアーキテクチャを生み出し、IBMと直接張り合えるようになった。イーサネットはトークンリングに取って代わり、今では最も広く使われているネットワーク形態となった。 1985年9月、DECは .com のドメイン名 (dec.com) を登録した5番目の企業となった。 VAXclusterはハードウェアとプロトコルとコンセプトで構成されており、複数のVAXマシンを相互接続して単一の大きなストレージシステムとする技術である。それにより、企業はクラスタに新たなVAXを追加することでサービスの規模拡大を図ることができるようになり、システム全体の買い替えをしなくて済むようになった。その柔軟性は注目を浴び、DECはそれまで手が届かなかったハイエンド市場に参入した。 マイクロコンピュータやパーソナルコンピュータでは失敗したが、PDP-11とVAXは記録的な売り上げを続けていた。1980年代中盤には、業界トップのIBMから20億ドルほど引き離された2位となって健闘していた。1986年にコンピュータ業界全体が不景気になるとDECの利益は38%低下したが、1987年にはIBMの業界1位の座を脅かすほど肉薄した。 1980年代終盤のピーク時、DECは世界第2位の規模のコンピュータ企業となり、従業員は10万人を超えていた。そのころDECは中核であるコンピュータ製造とはかけ離れた様々なプロジェクトを展開していた。カスタムソフトウェア開発にも多額の資金をつぎ込んだ。1970年代やそれ以前、ソフトウェアは特定タスク向けに個別に書かれることが多かったが、1980年代までに関係データベースなどのソフトウェアが登場し、モジュール式で強力なソフトウェアを素早く開発できるようになってきた。オラクルなどのソフトウェア企業が急成長してきたため、DECはあらゆる「ホット」なニッチ市場向けのプロジェクトを開始し、同じニッチ(すき間)に複数のプロジェクトが乱立することもあった。そういった製品の一部はDECのパートナー企業の製品と競合することがあり、例えばRdbは数年前にパートナー契約を始めたオラクルのVAX向け製品と競合した。 それらは良く設計されていたが、多くはDEC独特の仕様であり、顧客はそれらを使わずにサードパーティ製品を使うことが多かった。この問題はオルセンが普通の広告を嫌い、技術が確かならば必ず売れるという信念を持っていたことで悪化する。これらのプロジェクトには多大な予算が注ぎ込まれたが、同時期にRISCアーキテクチャをベースとしたワークステーションがVAXの性能に迫ろうとしていた。 1980年代になってもマイクロプロセッサの発展が続き、間もなく次世代のマイクロプロセッサがDECのローエンドのミニコンピュータの性能を凌駕するようになることは明らかだった。さらに悪いことに、バークレーRISC(英語版)とスタンフォードMIPSの設計は32ビットであり、DECのドル箱であるVAXファミリの最高性能を凌駕することが予想された。 独自のVAX/VMS製品があまりにも成功したため、DECはそれらの脅威に対して素早く反応できなかった。1990年代に入るとDECの売り上げは伸び悩み、同社初の人員整理も行われた。ミニコンピュータを生み出し、ネットワーク技術を支配し、世界初の個人用コンピュータと言われるものを生み出した会社は、かつてPDP-8が支配したローエンド市場を捨てることになる。この脅威に対してどう対応するかの決断が遅れ、DEC社内では内紛が発生した。 あるグループは、DECの技術力を結集して既存のマシンから飛びぬけた性能のVAXを開発することを提案した。それによって利益率の高いハイエンド市場だけは死守しようという戦略であり、DECはミニコンピュータメーカーとして生き残ることができる。この考え方に沿って開発されたのが VAX 9000 シリーズだが、そのリリースは当初の計画より2年遅れた1989年10月になった。システムの価格はあまりにも高くなり、DECは望んでいた成功を勝ち取ることができなかった。 DEC社内の他の人々は、自前でRISCを設計し新たなマシンを構築するのが適切だと考えた。しかし、あからさまに開発を行うことはできず、4つの小さなプロジェクトがアメリカ各地の研究所で並行して始められた。結局それらプロジェクトは DEC PRISM(英語版) プロジェクトに集結し、新たなVAXの実装の基盤として使える独特の機能を持つ32ビットの設計を開始した。しかしVAX部門との内紛でプロジェクトの資金集めは難しくなり、1988年4月時点で設計は完成せず、間もなくプロジェクト自体が中止となった。 DEC内の別のグループは、VAXシステムがその問題に対処する前にサン・マイクロシステムズやシリコングラフィックスのワークステーションがDECの既存顧客の大部分を奪ってしまうと考え、できるだけ早く自前のUnixワークステーションを開発する必要があると判断した。PRISMやVAXの遅々として進まない開発に業を煮やしたパロアルトのグループがプロジェクトを開始。MIPSプロセッサを採用したDECstationを開発し、1989年1月11日に DECstation 3100 をリリースした。それらシステムは市場である程度成功を収めたが、後にAlphaベースの類似シリーズで完全に置換された。 1992年、DECはAlpha命令セットアーキテクチャを初めて実装した Alpha 21064 をリリースした。VAXの32ビットCISCアーキテクチャとは全く異なる64ビットRISCアーキテクチャであり、32ビットからの拡張ではない純粋な64ビットマイクロプロセッサとしても最初期の1つである。当初から性能面ではずば抜けており、2000年代まで高性能さを維持し続けた。2004年11月時点でも AlphaServer SC45 というスーパーコンピュータが性能で世界第6位に位置していた。Alphaベースのコンピュータ(DEC AXPシリーズ。後にAlphaServer(英語版)とAlphaStation(英語版)に改称)はVAXアーキテクチャ製品とMIPSアーキテクチャのDECstationを代替することとなった。オペレーティングシステム (OS) としては、OpenVMS、DEC OSF/1 AXP(後に Digital Unix、さらには Tru64 UNIX と改称)、マイクロソフトの Windows NT が動作した。 1998年にDECがコンパックに買収されると、マイクロソフトはAlpha向け Windows NT の開発とサポートをやめることを決定。これがAlphaベースのコンピュータの終わりの始まりとなった。 DECはUNIXサーバ市場に対抗すべく、POSIX互換機能を追加してVMSをOpenVMSとし、また自前のUnix(PDP-11/VAX/MIPS用のUltrix、Alpha用のOSF/1)を売り出すため、積極的に広告を展開し始めた。しかし、DECは混沌としたUNIX市場に乗り込む準備ができていなかった。さらにインテル製CPUのWindows NTサーバがローエンド市場を侵食し始めた。かつてのDECの顧客を超えてシェアを獲得することは不可能だった。 1990年代中ごろ、DECの半導体部門はARMと共同でStrongARMを開発した。StrongARMはARM7とDECの技術に基づいた組み込みシステムや携帯機器向けのマイクロプロセッサである。ARMv4アーキテクチャと高い互換性を維持しており、携帯情報端末市場でSuperHやMIPSアーキテクチャと競合して成功を収め、マイクロソフトが一時期 Windows CE の対象プラットフォームをARMアーキテクチャに限定したほどだった。1997年、訴訟にからんでStrongARM関連の知的資産をインテルに売却。インテルでもStrongARMを生産し続け、さらに XScale へと発展させた。2006年、インテルはこの事業をマーベル・テクノロジー・グループに売却した。 DECsystem-10/20、PDP、VAX、Alpha以外に、DECはDNA(Digital Network Architecture、これを実装したのがDECnet)やDSA (Digital Storage Architecture) などの工学的設計でよく知られている。技術的詳細はDigital Technical Journal誌のアーカイブを参照されたい。 1992年6月、ケン・オルセンは社長の座をロバート・パーマーに明け渡した。取締役会はパーマーにそれまでDECでは使ってこなかった最高経営責任者 (CEO) の肩書きを与えた。パーマーは1985年にDECに入社し、半導体部門を担当していた。Alphaマイクロプロセッサでの成功によってオルセンの後継者の座を勝ち取った。また、このときDECのロゴが変更されている。 1990年代初めまで、DECでは一度も大規模な人員整理を行ったことがなかった。しかし1992年から景気後退期に入ると、人員整理が日常茶飯事となり、DECはなんとか規模を縮小して生き残ろうと図った。パーマーはDECをかつてのような収益を上げられる企業に戻すため、企業風土を変えようとしたり、新たな役員を社外から登用したり、中核でない事業部門を売却したりした。 1997年時点でDECには、オーストリア、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、中国、コロンビア、キプロス、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、アイルランド、日本、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、ロシア、シンガポール、スペイン、スウェーデン、スイス、台湾、イギリスなどに支社があった。 1998年1月26日、ついにDECの残り全ての部分がコンパックに売却された。当時としてはコンピュータ業界史上最大の買収である。コンパックは数年前にもDEC買収を検討したことがあるが、真剣に検討を始めたのはDECが周辺事業を整理してインターネット関連に集中するようになった1997年のことである。この買収でコンパックは企業向けサービス事業に参入してIBMと対抗することを意図しており、DECから受け継いだ部門により2001年にはそういったサービス事業での売り上げが全体の20%となっていた。DECのPC事業は合併後に中止されている。また、コンパックは主要な供給業者であるインテルとの競合を避けるため、半導体部門(Alphaマイクロプロセッサ部門)をインテルに売却した。 コンパック自体も2002年にヒューレット・パッカード (HP) に吸収合併された。コンパックもHPもDEC製品をブランド名を付け替え、ロゴを付け替えて販売した。digital.comとDEC.comというドメインはHPのものとなりHPのサイトにリダイレクトされていた。 DECにはいくつかの研究所があり、研究開発を主導していた。一部はコンパックに引き継がれ、さらに一部はヒューレット・パッカードに引き継がれている。次のような研究所があった。 これら研究所などで研究開発に携わっていた業界の著名人を以下に挙げる。 また、半導体部門でAlphaやStrongARMの開発を主導したかつての従業員として以下の人々がいる。 研究所の活動の一部は1985年から1998年まで発行されていた Digital Technical Journal で知ることができる。 DECのユーザーグループとしては、1960年代から1990年代まで DECUS (Digital Equipment Computer User Society) と呼ばれた団体がある。1998年にコンパックに買収されると、DECUSは CUO (Compaq Users' Organisation) と改称。2002年にコンパックがHPに買収されると HP-Interex となったが、いくつかの国ではDECUSがそのまま存続している。アメリカではEncompassがそれに相当する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (Digital Equipment Corporation) は、かつてアメリカ合衆国を代表したコンピュータ企業の一つ。1957年、ケン・オルセンによってマサチューセッツ州メイナードに設立された。略称「DEC(デック)」。欧米では「Digital」と略称されることも多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "DECのPDPシリーズとVAXシリーズは、1970年代と1980年代の科学技術分野において最も一般的なミニコンピュータだった。DECの本社は1957年から1992年まで、マサチューセッツ州メイナードにあるかつてウール工場であった Clock Tower Place に置かれていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1998年にコンパックに買収された。そのコンパックがさらに2001年にヒューレット・パッカード (HP) に買収されたことから、DECの製品群はHPのブランド名で販売されている。かつてのDECの一部事業(特にコンパイラ関連)やマサチューセッツ州ハドソンの工場はインテルに売却された。詳細は「#終焉」の節を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ロゴマークの青色や会社規模から、IBMの愛称\"Big Blue\"に対して、\"Small Blue\"の愛称で呼ばれた。後にロゴマークは青色からバーガンディへ変更された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、社名に「Digital」を用いるデジタルリサーチやウェスタン・デジタルとは無関係である。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当初は小型コンピュータ市場に集中したため、DECは強力なライバルのいない市場で成長することができた。1960年代にはPDPシリーズ、特に世界初の成功したミニコンピュータと言われるPDP-8が人気となった。1970年に発売したPDP-11はそれまでの小型機に取って代わり、DECはコンピュータ業界での地位を確立。PDP-11の後継として設計されたVAX-11は、32ビットミニコンピュータの先駆けとなり「スーパーミニコンピュータ」とも呼ばれた。これらは様々な場面でSystem/370などのメインフレームとも競合した。VAXシリーズもベストセラーとなり、同社が1980年代に世界第2位のコンピュータ企業となる原動力となった。最盛期にはマサチューセッツ州で州政府に次ぐ第2位の雇用者となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代後半にパーソナルコンピュータ市場が成長し、1990年代には強力な32ビットシステムがいくつも登場するようになると、DECのシェアは素早く侵食され始めた。DECの生き残りをかけた最後の大きな挑戦が、64ビットRISCプロセッサアーキテクチャ「DEC Alpha」であった。当初、VAXシリーズをAlphaで再実装しようとしたが、同時に高性能ワークステーションにも採用された。Alphaは良い性能を発揮したが、DECの業績を上向かせることはできなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1998年6月、コンパックがDECを買収。当時のコンピュータ業界では最大となる買収であった。当時のコンパックは企業市場を中心に据える戦略をとっており、他にも大企業をいくつか買収している。その中でもDECはコンパックの弱点だったアメリカ国外で強かった。しかしコンパックは買収した企業群をその後どうするかについて明確なビジョンを持っていなかったため、財政的に苦境に立たされることになる。結局2002年5月、ヒューレット・パッカード (HP) がコンパックを吸収合併した。2007年時点でもDECの一部製品をHPが製造販売していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "DECの日本支社は、1968年に5人から6人の人員で設立され、販売代理店の株式会社理経が納入したミニコンピュータの保守サービスのみを手掛けることから始まった。", "title": "日本法人" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本法人である日本 ディジタル イクイップメント株式会社(英文社名:Digital Equipment Corporation Japan、略称:日本DEC)は、1982年に設立され、1998年10月、コンパックコンピュータ株式会社へ吸収合併された。", "title": "日本法人" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1957年、ケン・オルセンとハーラン・アンダーソン(英語版)が設立。彼らはマサチューセッツ工科大学 (MIT) のリンカーン研究所で働く技術者だった。リンカーン研究所は今で言う「インタラクティブ性」の研究で知られており、開発したコンピュータは動作中のプログラムをリアルタイムでオペレータが直接制御できる世界初のものだった。その端緒となったのが1944年のWhirlwindで、元々はアメリカ海軍のフライトシミュレータ向けに開発されたものだが、シミュレータとして使われることはなかった。代わりにその成果はアメリカ空軍のSAGEシステムに採用され、オペレータがコンピュータに格納されたレーダーのデータと対話するために大きな画面とライトガンを使用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "空軍のプロジェクトが完了すると、リンカーン研究所はWhirlwindで使用していた真空管をトランジスタに置き換えたコンピュータの開発にとりかかった。新たな回路を試験するため、まず小型の18ビットマシン TX-0 を構築し、1956年に稼働させた。TX-0の成功で基本コンセプトに間違いがないことが明らかになると、36ビットの大型システムの開発にとりかかった。これが64kワードの磁気コアメモリを備えたTX-2である。磁気コアメモリは高価だったので、TX-0のメモリ部品をTX-2に流用し、TX-0の残りの部分はマサチューセッツ工科大学に恒久的に貸与された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "MITでオルセンとアンダーソンは奇妙な現象に気付いた。より高速なIBM製メインフレームも利用可能なのに、学生達は小さいTX-0を使うために何時間も並んだのである。2人は対話型コンピューティングが強い魅力を持っているためだと判断し、TX-0を製品化した小型マシンの市場があると考えた。それは、性能よりもグラフィカルな出力やリアルタイム操作が重視される市場である。また、特定タスクのための安価なソリューションを必要としているユーザー向けであり、そのような用途に36ビットの大型機は不要と思われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1957年、2人とケンの兄弟スタンは資本金を求めたが、当時のアメリカ実業界ではコンピュータ会社への投資に懐疑的になっていた。1950年代に多数の中小コンピュータ企業が生まれては消えていった経緯があり、技術革新があまりにも急激だったため製品がすぐに陳腐化していた。また、RCAやゼネラル・エレクトリックといった大企業もコンピュータ事業で利益を出せないでいた。そんな中で唯一興味を示したのがジョルジュ・ドリオ(英語版)と彼の率いるベンチャーキャピタル American Research and Development Corporation (AR&D) である。コンピュータ会社の創業という話ではそれ以上の資金が集まらない懸念があったため、ドリオは新会社の事業計画をコンピュータを中心としない形に変更させ、社名も「ディジタル・コンピュータ・コーポレーション」から変更させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2人は事業計画を更新し、会社を2段階で発展させる計画にした。まず、コンピュータのモジュールを独立したデバイスとして販売し、研究室などでそれを購入して各種デジタルシステムの構築に使用できるものとする。それによって会社がある程度自立したら、第二段階として完全なコンピュータを開発するという計画である。改称したDECはAR&Dから7万ドルの資金(全資本金の70%)を得て、マサチューセッツ州メイナードにあった南北戦争時代の毛織物工場だった建物で創業した。その工場だった建物を選んだのは、生産に使えるスペースが安価に得られたためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1958年の早い時期に、DECはその最初の製品である \"Digital Laboratory Module\" のラインナップを出荷した。このモジュールは、電子部品とゲルマニウムトランジスタをプリント基板に装着したもので、その回路はTX-2の回路を基にしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ひとつのDigital Laboratory Moduleは、論理回路の1、2個のフリップフロップ、ゲート、変換器などとして機能する。押し出し成型のアルミニウムでパッケージされており、各モジュールの前面パネルにあるジャックをコードで繋いで機能させる。科学技術関連の実験などが可能だった。動作速度には5MHz(1957年)、500kHz(1959年)、10MHz(1960年)というバージョンがある。特に他のコンピュータ企業が自社製システムの試験装置を構築するのによく使った。1950年代末の景気後退にもかかわらず、1958年だけで9万4千ドルを売り上げ、初年度で黒字を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "間もなく、内部は同じだが異なるパッケージの \"Digital Systems Module\" も発売した。これは後端にあるアンフェノール型の22ピンコネクタで相互接続するよう設計されており、専用19インチラックに複数収めることができる。ラックの1つの棚(高さ5.25インチ)に25モジュールを収納でき、高密度に収納することでコンピュータを構築可能である。DEC自身もこれを使って磁気コアメモリシステムの試験装置を構築し、それを8年間で約50台販売した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このようなモジュールは、PDPシリーズでも \"System Building Blocks\" として使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "後に、同様の回路を \"R\" (red) シリーズ「フリップチップ」モジュールとしてパッケージ化した(訳注:「フリップチップ」は商標(en:Flip Chip (trademark))で、集積回路を基板に実装する技術の、チップを直接基板に接触させ実装する手法の名称であるフリップチップとは無関係)。後に、もっと高速高密度なモジュールも製品化された。DECはモジュールに関して基礎から理解するための広範囲のデータを約A5版大、厚さ約2センチの無料のカタログ本(英文)の形で提供し、これが非常にポピュラーになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このカタログ本の無料提供はミニコンピュータでも継承されI/Oのハードウェア機能やインタフェース手法とアセンブリ言語を基礎から応用まで理解し、モジュールを買ったユーザは自ら制御システムを構築できた。事務用とは異なる制御用のコンピュータであるため、採用を検討しているユーザにも教科書(カタログ本)を広く配り、ユーザが独自に学び個々のシステムの構築することを促進する方針を採った。これら大量配布のカタログ本は自社内の印刷・製本部門で作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "創業後の最初の製品は成功を収め、DECは事業計画の第2段階であるコンピュータ市場への参入に向かった。1959年8月、ベン・ガーリーはDEC初のコンピュータ PDP-1の設計を開始した。ドリオの命令を守り、Programmed Data Processor の略であるPDPをシリーズ名とし、コンピュータという言葉を避けている。1959年12月、ボストンでの合同コンピュータ会議で初めてプロトタイプが一般公開された。PDP-1の一号機は1960年11月に Bolt, Beranek and Newman に納入され、翌年の4月に正式に検収された。基本構成の価格は12万ドルで、2011年時点の価値に換算すると90万ドルになる。1969年に生産終了となるまでに約50台を出荷している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1ワードは18ビットで、基本構成では4096ワードの磁気コアメモリを搭載し、毎秒10万命令の基本性能である。いくつかの19インチラックに多数の System Building Blocks を収める形で構成され、ラック群を1つの大きなフレーム(メインフレーム)でパッケージしており、フレームの一端のテーブルぐらいの高さに六角形の制御パネルがあってスイッチとランプが並んでいる。制御パネルの上には標準入出力である紙テープリーダ/ライタがある。多くのシステムは、Type 30 ベクタグラフィックスディスプレイと Soroban Engineering がIBMのモデルBタイプライタを改造したコンソールタイプライタの2つの周辺機器を加えて購入された。Soroban の機構は信頼性に乏しいことで有名だった。オフラインのプリンターとして Friden Flexowriter 製の端末があり、紙テープリーダ/ライタ付きだった。磁気テープシステム、パンチカードリーダ/パンチ、高速紙テープ/プリンターシステムなどの周辺機器もあるが高価だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "PDP-1を発表した際、DECは同じ設計に基づく24ビット、30ビット、36ビットのより大きなマシンについても言及していた。PDP-1のプロトタイプを構築中、24ビットのPDP-2と36ビットのPDP-3の設計が並行して進められていた。PDP-2は初期設計のみでそれ以上開発は行われなかったが、PDP-3は最後まで設計された。PDP-3は1960年、CIAの研究部門向けに1台だけ構築された。漏れ伝えられている情報によれば、CIAはそれをA-12偵察機のレーダー反射断面積データの処理に使ったという。ゴードン・ベルはPDP-3がその後オレゴン州で使われたと記憶しているが、誰が使っていたかは思い出せないという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1962年11月、標準価格6万5千ドルのPDP-4をリリース。命令セットなどはPDP-1と似ているが、メモリを低速なものにし、パッケージを変更して低価格化している。全部で約50台が販売され、顧客層もPDP-1と似ていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1964年、DECはフリップチップ・モジュール設計を新たに採用し、PDP-4にそれを適用してPDP-7を生み出した。PDP-7は1964年12月にリリースされ、約100台を生産した。1965年、Rシリーズ・フリップチップにアップグレードした PDP-7A をリリースしている。PDP-7はUNIXオペレーティングシステムが誕生したプラットフォームとしてよく知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "PDP-1シリーズへの大胆なアップグレードとして、1966年8月にPDP-9をリリース。PDP-4やPDP-7と命令レベルで互換性があるが、PDP-7の約2倍の高速さで、より大きな構成で使用することを意図したものである。1968年時点で標準価格は19,900ドルだった。PDP-9は約450台を売り上げ、それまでのPDP-1ファミリの中では最大のヒットとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "PDP-9が登場したころ、既に後継機の設計が始まっており、1969年にPDP-15としてリリースされた。これはPDP-9を集積回路で構成しなおしたマシンである。基本構成でもPDP-9より高速だったが、さらにFPUと入出力用プロセッサを追加でき、さらに性能が向上する。発表から8カ月で400台以上の注文が入り、最終的に12機種で約800台が生産された。しかしそのころには後述する他のファミリがより低価格で似たような市場に対応できるようになっていたため、18ビットファミリはPDP-15で終結することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1962年、リンカーン研究所は System Building Blocks を使って小型の12ビットマシンを実装し、それに様々なアナログ-デジタル変換入出力機器を接続して、アナログの各種実験装置とインタフェースしやすくしていた。これがLINCである。LINCは科学界で強烈な関心を惹きつけ、小さな研究室でも使える安価で小さいマシンだとして世界初の真のミニコンピュータとも呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "LINCの成功を目にしたDECは1963年、その基本設計を踏襲してアナログ-デジタル変換機構を除いたPDP-5を開発した。PDP-1ファミリ以外の最初のマシンとして、1963年8月11日のWESTCONで発表。1964年の広告ではPDP-5の利点を「さあ、使われている磁気コアメモリの価格27,000ドルだけであなたもPDP-5を所有できます」と表現していた。1967年初めに生産終了となるまでに約100台が生産された。PDP-5は1964年(昭和39年)東京大学の旧田無市(現:西東京市)の原子核研究所(1997年3月閉所)に導入された日本初のPDP機だった。PDP-1と同様、PDP-5から基本設計が同じ一連の機種が生まれ、PDP-5よりも人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1965年3月22日、PDP-5で使用していたモジュールをRシリーズ・フリップチップで置換したPDP-8をリリース。小さな卓上型の筐体であり、CPUが格納された部分は半透明のプラスチックで覆われていて、外から配線が見えるようになっている。4kワード×12ビットの磁気コアメモリを搭載し、標準入出力機器としてASR-33を備えた基本構成で、18,000ドルだった。そのため、25,000ドルを割った世界初の「真の」ミニコンピュータと呼ばれた。販売は予想通り非常に堅調で、PDP-5の市場にいくつかの企業が参入しはじめたがPDP-8には敵わなかった。これによりDECは市場を2年間ほぼ独占し、同一設計の新機種が登場するまでに \"straight eight\"(最初のPDP-8)が約1400台生産された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "DECはさらに低価格なPDP-8/S(Sは \"serial\" の意)をリリース。名前が示す通りシリアル演算ユニットを採用しており、低速だがコストも低減され1万ドル以下で売られた。また、PDP-8のCPUとLINCのCPUを備えた2プロセッサ構成のLINC-8(英語版)をリリース。2つのCPUを切り替える命令を備えており、LINC用のプログラムとPDP-8用プログラムが実行可能である。ただしこれはあまり売れず、当初価格は38,500ドルで約140台を売り上げるに留まった。LINCからPDP-5が生まれたように、LINC-8を修正してシングルプロセッサ機にしたのがPDP-12である。これは約1000台生産された。1968年には回路設計を改めたPDP-8/IとPDP-8/Lをリリース。1975年には前年のインターシルとの合意に基づき、PDP-8をシングルチップ化した Intersil 6100 が登場した。それにより、DEC自体はPDP-8ファミリの終結を発表したが、その後もPDP-8向けのソフトウェアを生かす手段が残された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "PDP-5の系統で低価格路線をとったころ、DECは1963年、36ビットのPDP-6でメインフレーム市場に参入した。しかし、IBMやハネウェルといったメインフレームメーカーの同様のマシンとの差別化ができず、約30万ドルという低価格だったが販売は苦戦した。PDP-6は約20台しか売れなかった。あまり売れなかったため、PDP-6の改良版は開発されなかった。しかし歴史的には初期のタイムシェアリングOSである \"Monitor\" が導入されたプラットフォームとして重要であり、それが後のTOPS-10へと発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "PDP-6は商業的にはあまり成功しなかったが、商業的にも価値のある様々な機能がそこから生まれた。フリップチップによる再実装でPDP-6のコストを大幅に低減できるようになると、DECは1968年、PDP-10で36ビット市場に再び参入した。PDP-10は大いに成功し、1984年に生産終了となるまでに約700台を売り上げた。PDP-10は特に大学でよく採用され、1970年代のOSなどの発展に寄与した。DECは後に36ビットの全機種を \"DECsystem-10\" というブランド名にし、CPUの型番(例えば \"KA10\")で機種を示すようになった。さらに仮想記憶を実装したTOPS-20を搭載したシステムを \"DECSYSTEM-20\" と称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "PDP-10で最も特筆すべき周辺機器がDECtapeである。DECtapeは5インチリールに巻かれた3/4インチ幅の特殊な磁気テープである。10トラックで固定長ブロックの記録フォーマットで、ディレクトリを含む標準的なファイル構造をその上に記録できる。DECtape上でファイルの書き込み、読み出し、更新、削除が可能で、磁気ディスク装置のような使い方が可能である。効率向上のため、DECtapeはどちらの方向に巻いているときでも読み書き可能になっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "実際、磁気ディスク装置を全く装備しないPDP-10システムもあり、DECtapeだけを主要な二次記憶装置として使っていた。複数の紙テープを人手で読み込ませるよりも簡単なので、他のPDPシリーズでもDECtapeが広く使われた。初期のタイムシェアリングシステムはDECtapeをシステムデバイス兼スワップデバイスとして使用可能だった。紙テープより優れていたものの、DECtapeは低速であり、信頼性の高い磁気ディスク装置が利用可能になるとそれに置き換えられていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1968年、DECではそれまでの6ビットの文字ではなく8ビットのバイトに基づいたPDPマシンを開発していた。\"PDP-X\" と名付けられたこのプロジェクトが中止されたため、一部のチームメンバーが退職して1968年5月にデータゼネラルを創業。すぐさま16ビットのミニコンピュータNovaを発売した。このため、8ビットのバイトという業界の潮流にDECは一時乗り遅れることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "16ビットコンピュータPDP-11は、ハロルド・マクファーランド、ゴードン・ベル、ロジャー・キャディらが突貫計画で設計した。このプロジェクトはカーネギーメロン大学で16ビット設計を研究していたハロルド・マクファーランドが入ったことで進捗が加速された。経営陣に最初の提案を行った際あまり好印象ではなく、あやうくキャンセルされそうになったものの、より単純な設計がPDP-11となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "特にその新設計はアドレッシングモードがあまり豊富ではなく、DECの他のマシンやCISC設計全般で広く採用されていた豊富なアドレッシングモードによってプログラムを小さくするという技法が使えないものだった。それはメモリアクセスにより時間がかかり、システムが低速になることを意味していた。しかし、同時に多数の汎用レジスタを備えるという考え方も採用していたため、プログラミングの自由度が向上し、性能問題はそれである程度カバーされるようになっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "PDP-11の主要な改良点として、メモリマップドI/Oによって全周辺機器をサポートするUnibusがある。それにより、通常はバックプレーンにハードウェアインタフェースを挿入し、メモリにマッピングされたインタフェースを読み書きするソフトウェアをインストールするだけで新規機器を容易に追加することが可能となった。そのためPDP-11には、サードパーティによる巨大な周辺機器市場が出現し、それがPDP-11自体をさらに便利なものにするという相乗効果が生じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "そうした技術革新によってPDP-11アーキテクチャは他社を圧倒して業界のリーダーとなり、DECの復権に寄与した。さらにページング方式とメモリ保護機構が追加されることで、マルチタスクやタイムシェアリングも容易になっていった。一部機種では命令とデータの空間を分離して128kBの仮想アドレス空間を使えるようにし、物理メモリ容量も最大4MBまで拡張している。後に、PDP-11はLSI化されたCPUを採用して小型化し、後継のVAX-11が発売されるまで好調な販売を維持した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "PDP-11にはいくつかのオペレーティングシステムがあった。ベル研究所のUNIXオペレーティングシステムやDECのRSX-11、RT-11、RSTS/Eなどである。初期のPDP-11用アプリケーションは紙テープユーティリティを使って開発された。最初のディスクオペレーティングシステムとしてDOS-11が登場したが、間もなくもっと高機能なOSに取って代わられた。RSX-11は汎用マルチタスク環境であり、各種プログラミング言語が動作した。IASはタイムシェアリング機能を追加したRSX-11である。RSTSとUNIXはタイムシェアリングシステムで、教育機関が無料(または低価格)で使うことができ、PDP-11は当時の技術者や情報工学者が様々なことを試す道具となった。1970年代には通信や工場の制御などでも広く使われている。AT&TはDECの最大の顧客となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "RT-11は小さいメモリ容量で動作する実用的なリアルタイムオペレーティングシステムであり、DECは組み込みシステム向けのコンピュータ供給業者としても事業を展開した。歴史的には、当時PDP-11で経験を積んだプログラマが多く、そういった意味でRT-11はマイクロコンピュータ用OSにも影響を与えている。例えばCP/Mのコマンド構文はRT-11のそれと似ており、データコピー用プログラム PIP も模倣している。また、DECはコマンド行オプション(スイッチ)に \"/\" を使っており、それがMS-DOSでパス名に \"\\\" を使うことに繋がっている(UNIXでは '/' が使われる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "競合他社はPDP-11風の様々なシステムを生み出した。COMECON諸国でもPDP-11のクローンが生み出され、多数生産された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1976年、DECはPDP-11アーキテクチャを32ビットに拡張し、完全な仮想記憶システムを追加することを決定。その結果、VAXアーキテクチャが生まれた。最初の機種はVAX-11/780で、DECはこれを「スーパーミニコンピュータ」と称した。それは世界初の32ビットミニコンピュータではなかったが、価格設定や販売戦略も相まって、1978年のリリースとともに市場のリーダーに躍り出た。VAXが大いに成功したため、DECは1983年にPDP-10の後継機開発プロジェクトをキャンセルし、VAXアーキテクチャを同社唯一のコンピュータアーキテクチャとして推進する方針を採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "VAXの成功を支えた要因のひとつとして、VT52(英語版)端末の成功がある。それまでのあまり成功しなかった機種(VT05(英語版)やVT50)をベースとした、誰もが欲する機能を1つの筐体に全て納めた端末である。その後さらに成功を収めたVT100やその後継機が登場し、DECは業界でも屈指の端末ベンダーとなった。VTシリーズの成功によってDECはあらゆる周辺機器を備えたシステム全体を提供できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "VAXシリーズの命令セットは今日の一般的な命令セットから見ても非常に豊富な命令群(と豊富なアドレッシングモード)を持っていた。PDPシリーズのページング方式とメモリ保護機能に加えて、VAXは仮想記憶をサポートしている。VAXではUNIXとDEC独自のVMSオペレーティングシステムを使うことができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "VAX-11シリーズの登場後、DECはシェア拡大のため、ローエンド/ハイエンド市場に向けて様々なバリエーションのシリーズ展開を行っていき、最終的には1990年代初めにマイクロプロセッサ実装のNVAXとハイエンド機 VAX 7000/10000 を完成させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "汎用マイクロプロセッサの登場により、1975年ごろには世界初のマイクロコンピュータが必然的に登場した。当時のマイクロコンピュータは機能や性能が限定的で、ケン・オルセンは1977年にあざ笑うように「個人が自宅にコンピュータを所有する理由はない」と言ったとされた。当然ながら当初DECはマイクロコンピュータ市場にはほとんど目を向けなかった。1980年代初めにDECが開発したVT180(コード名 \"Robin\")は、Z80ベースのマイクロコンピュータを内蔵してCP/Mが動作するVT100端末だったが、当初この製品はDEC従業員のみに販売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1981年、IBMが IBM PC を発売すると、DECもこの市場に参入することにした。1982年、DECはそれぞれ異なる自社製品アーキテクチャと関連する3種類の非互換なマシンを発売。1つ目はPDP-11/23(後には11/73)をベースにした DEC Professional で、RSX-11M+にメニュー機能を追加したP/OS (\"Professional Operating System\") が動作した。これはPCよりも高性能だが同時に高価であり、IBM PC とはハードウェアもソフトウェアも互換性がなく、システムのカスタマイズもほとんどできない。CP/MやDOSとは異なり、このマシン用のあらゆるプログラムは個々のマシン毎に発行されるキーを入力しないと使えない仕様になっていた。この方針は当時としては普通の感覚であり、多くのソフトウェアはシステムの製造元から購入するか、個々の顧客向けに開発するのが普通だった。しかしそのために勃興期のサードパーティのソフトウェア企業がProfessionalを無視し、ソフトウェアの流通が容易な他のパーソナルコンピュータに集中した。DEC自体にとってもProfessionalのためによいソフトウェアを開発することは優先度が低く、むしろPDP-11のシェアが侵食されることを恐れていた。Professionalは優れたマシンだったが、結果としてほとんどソフトウェアが供給されなかった。また、P/OSのメニューシステムは低速で柔軟性に欠けており、主流のPC-DOSやCP/Mとはかけ離れていた。2つ目はPDP-8をベースとした DECmate II だが、ワードプロセッサであって汎用コンピューティング向きではなかったし、ワング・ラボラトリーズのワードプロセッサにも太刀打ちできなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "DECの初期のパーソナルコンピュータとして最もよく知られているのは、Z80と8088を搭載した Rainbow 100(英語版) で、Z80上でCP/Mが動作し、8088上でCP/M-86が動作した。また、UNIX System III を移植した Venix も動作した。CP/M向けアプリケーションソフトウェアを再コンパイルすれば実行することができたが、そのころ既にMS-DOS上でLotus 1-2-3のような出来合いのアプリケーションを実行する使用法が一般的になりつつあったのに対し、MS-DOS 2.0 の移植が1983年後半まで遅れてしまった。Rainbowは多少報道されたものの、高価であり、マーケティングのサポートもなかったため失敗に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "DECの初期のパーソナルコンピュータで使われたRX50フロッピーディスクドライブ (FDD) の規格は、DECがこの市場にどういう形で臨んだかを端的に表している。そのドライブの機構は他社の5.25インチFDDとほぼ同じだが、DECはディスクフォーマットを独自形式にすることで差別化を図ろうとした。DECのフォーマットは通常より高密度だったため、一般的なPC用FDDとは非互換だった。5.25インチ800KByteフロッピーディスクドライブを装備していた。そのためユーザーは特殊なフォーマットを施された高価なフロッピーディスクを買わされることになった。DECはその独自フォーマットの著作権を主張して独占販売しようとし、そのフォーマットのフロッピーディスクを販売しようとする者にはライセンス契約とロイヤルティ支払いを要求した。フロッピーディスク媒体だけでなく、DECの製品はPC市場に出回っている通常のソフトウェアも使えなかった。ハッカーらがRX50のフォーマットをリバースエンジニアリングで解明したころには、DEC製品の悪い評判は固まっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1986年に登場した VAXmate は Microsoft Windows 1.0 が動作し、DECnet経由でVAX/VMSベースのサーバと接続して使用可能になっていた。Rainbowの後継であり、初期のディスクレス・ワークステーションの1つである。また、他社のIBM PCやNEC PC-9801とイーサネットを介して通信するためのソフトウェアとして DECnet-DOS をリリースしたり、マイクロソフト系のネットワークプロトコルをサポートした VAX/VMSサーバも発売している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1995年からコンパックとの合併まで、PC/AT互換のノートPC、デスクトップPC、サーバを販売していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1984年、DECは10Mbit/sのイーサネットをリリースした。イーサネットはスケーラブルなネットワークを可能にし、VAXclusterはスケーラブルなコンピューティングを可能にした。DECnetとイーサネットに基づく端末サーバ (LAT) を組み合わせることで、DECはネットワーク化されたストレージアーキテクチャを生み出し、IBMと直接張り合えるようになった。イーサネットはトークンリングに取って代わり、今では最も広く使われているネットワーク形態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1985年9月、DECは .com のドメイン名 (dec.com) を登録した5番目の企業となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "VAXclusterはハードウェアとプロトコルとコンセプトで構成されており、複数のVAXマシンを相互接続して単一の大きなストレージシステムとする技術である。それにより、企業はクラスタに新たなVAXを追加することでサービスの規模拡大を図ることができるようになり、システム全体の買い替えをしなくて済むようになった。その柔軟性は注目を浴び、DECはそれまで手が届かなかったハイエンド市場に参入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "マイクロコンピュータやパーソナルコンピュータでは失敗したが、PDP-11とVAXは記録的な売り上げを続けていた。1980年代中盤には、業界トップのIBMから20億ドルほど引き離された2位となって健闘していた。1986年にコンピュータ業界全体が不景気になるとDECの利益は38%低下したが、1987年にはIBMの業界1位の座を脅かすほど肉薄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1980年代終盤のピーク時、DECは世界第2位の規模のコンピュータ企業となり、従業員は10万人を超えていた。そのころDECは中核であるコンピュータ製造とはかけ離れた様々なプロジェクトを展開していた。カスタムソフトウェア開発にも多額の資金をつぎ込んだ。1970年代やそれ以前、ソフトウェアは特定タスク向けに個別に書かれることが多かったが、1980年代までに関係データベースなどのソフトウェアが登場し、モジュール式で強力なソフトウェアを素早く開発できるようになってきた。オラクルなどのソフトウェア企業が急成長してきたため、DECはあらゆる「ホット」なニッチ市場向けのプロジェクトを開始し、同じニッチ(すき間)に複数のプロジェクトが乱立することもあった。そういった製品の一部はDECのパートナー企業の製品と競合することがあり、例えばRdbは数年前にパートナー契約を始めたオラクルのVAX向け製品と競合した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "それらは良く設計されていたが、多くはDEC独特の仕様であり、顧客はそれらを使わずにサードパーティ製品を使うことが多かった。この問題はオルセンが普通の広告を嫌い、技術が確かならば必ず売れるという信念を持っていたことで悪化する。これらのプロジェクトには多大な予算が注ぎ込まれたが、同時期にRISCアーキテクチャをベースとしたワークステーションがVAXの性能に迫ろうとしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1980年代になってもマイクロプロセッサの発展が続き、間もなく次世代のマイクロプロセッサがDECのローエンドのミニコンピュータの性能を凌駕するようになることは明らかだった。さらに悪いことに、バークレーRISC(英語版)とスタンフォードMIPSの設計は32ビットであり、DECのドル箱であるVAXファミリの最高性能を凌駕することが予想された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "独自のVAX/VMS製品があまりにも成功したため、DECはそれらの脅威に対して素早く反応できなかった。1990年代に入るとDECの売り上げは伸び悩み、同社初の人員整理も行われた。ミニコンピュータを生み出し、ネットワーク技術を支配し、世界初の個人用コンピュータと言われるものを生み出した会社は、かつてPDP-8が支配したローエンド市場を捨てることになる。この脅威に対してどう対応するかの決断が遅れ、DEC社内では内紛が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "あるグループは、DECの技術力を結集して既存のマシンから飛びぬけた性能のVAXを開発することを提案した。それによって利益率の高いハイエンド市場だけは死守しようという戦略であり、DECはミニコンピュータメーカーとして生き残ることができる。この考え方に沿って開発されたのが VAX 9000 シリーズだが、そのリリースは当初の計画より2年遅れた1989年10月になった。システムの価格はあまりにも高くなり、DECは望んでいた成功を勝ち取ることができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "DEC社内の他の人々は、自前でRISCを設計し新たなマシンを構築するのが適切だと考えた。しかし、あからさまに開発を行うことはできず、4つの小さなプロジェクトがアメリカ各地の研究所で並行して始められた。結局それらプロジェクトは DEC PRISM(英語版) プロジェクトに集結し、新たなVAXの実装の基盤として使える独特の機能を持つ32ビットの設計を開始した。しかしVAX部門との内紛でプロジェクトの資金集めは難しくなり、1988年4月時点で設計は完成せず、間もなくプロジェクト自体が中止となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "DEC内の別のグループは、VAXシステムがその問題に対処する前にサン・マイクロシステムズやシリコングラフィックスのワークステーションがDECの既存顧客の大部分を奪ってしまうと考え、できるだけ早く自前のUnixワークステーションを開発する必要があると判断した。PRISMやVAXの遅々として進まない開発に業を煮やしたパロアルトのグループがプロジェクトを開始。MIPSプロセッサを採用したDECstationを開発し、1989年1月11日に DECstation 3100 をリリースした。それらシステムは市場である程度成功を収めたが、後にAlphaベースの類似シリーズで完全に置換された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1992年、DECはAlpha命令セットアーキテクチャを初めて実装した Alpha 21064 をリリースした。VAXの32ビットCISCアーキテクチャとは全く異なる64ビットRISCアーキテクチャであり、32ビットからの拡張ではない純粋な64ビットマイクロプロセッサとしても最初期の1つである。当初から性能面ではずば抜けており、2000年代まで高性能さを維持し続けた。2004年11月時点でも AlphaServer SC45 というスーパーコンピュータが性能で世界第6位に位置していた。Alphaベースのコンピュータ(DEC AXPシリーズ。後にAlphaServer(英語版)とAlphaStation(英語版)に改称)はVAXアーキテクチャ製品とMIPSアーキテクチャのDECstationを代替することとなった。オペレーティングシステム (OS) としては、OpenVMS、DEC OSF/1 AXP(後に Digital Unix、さらには Tru64 UNIX と改称)、マイクロソフトの Windows NT が動作した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1998年にDECがコンパックに買収されると、マイクロソフトはAlpha向け Windows NT の開発とサポートをやめることを決定。これがAlphaベースのコンピュータの終わりの始まりとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "DECはUNIXサーバ市場に対抗すべく、POSIX互換機能を追加してVMSをOpenVMSとし、また自前のUnix(PDP-11/VAX/MIPS用のUltrix、Alpha用のOSF/1)を売り出すため、積極的に広告を展開し始めた。しかし、DECは混沌としたUNIX市場に乗り込む準備ができていなかった。さらにインテル製CPUのWindows NTサーバがローエンド市場を侵食し始めた。かつてのDECの顧客を超えてシェアを獲得することは不可能だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1990年代中ごろ、DECの半導体部門はARMと共同でStrongARMを開発した。StrongARMはARM7とDECの技術に基づいた組み込みシステムや携帯機器向けのマイクロプロセッサである。ARMv4アーキテクチャと高い互換性を維持しており、携帯情報端末市場でSuperHやMIPSアーキテクチャと競合して成功を収め、マイクロソフトが一時期 Windows CE の対象プラットフォームをARMアーキテクチャに限定したほどだった。1997年、訴訟にからんでStrongARM関連の知的資産をインテルに売却。インテルでもStrongARMを生産し続け、さらに XScale へと発展させた。2006年、インテルはこの事業をマーベル・テクノロジー・グループに売却した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "DECsystem-10/20、PDP、VAX、Alpha以外に、DECはDNA(Digital Network Architecture、これを実装したのがDECnet)やDSA (Digital Storage Architecture) などの工学的設計でよく知られている。技術的詳細はDigital Technical Journal誌のアーカイブを参照されたい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1992年6月、ケン・オルセンは社長の座をロバート・パーマーに明け渡した。取締役会はパーマーにそれまでDECでは使ってこなかった最高経営責任者 (CEO) の肩書きを与えた。パーマーは1985年にDECに入社し、半導体部門を担当していた。Alphaマイクロプロセッサでの成功によってオルセンの後継者の座を勝ち取った。また、このときDECのロゴが変更されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1990年代初めまで、DECでは一度も大規模な人員整理を行ったことがなかった。しかし1992年から景気後退期に入ると、人員整理が日常茶飯事となり、DECはなんとか規模を縮小して生き残ろうと図った。パーマーはDECをかつてのような収益を上げられる企業に戻すため、企業風土を変えようとしたり、新たな役員を社外から登用したり、中核でない事業部門を売却したりした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1997年時点でDECには、オーストリア、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、中国、コロンビア、キプロス、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、アイルランド、日本、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、ロシア、シンガポール、スペイン、スウェーデン、スイス、台湾、イギリスなどに支社があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1998年1月26日、ついにDECの残り全ての部分がコンパックに売却された。当時としてはコンピュータ業界史上最大の買収である。コンパックは数年前にもDEC買収を検討したことがあるが、真剣に検討を始めたのはDECが周辺事業を整理してインターネット関連に集中するようになった1997年のことである。この買収でコンパックは企業向けサービス事業に参入してIBMと対抗することを意図しており、DECから受け継いだ部門により2001年にはそういったサービス事業での売り上げが全体の20%となっていた。DECのPC事業は合併後に中止されている。また、コンパックは主要な供給業者であるインテルとの競合を避けるため、半導体部門(Alphaマイクロプロセッサ部門)をインテルに売却した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "コンパック自体も2002年にヒューレット・パッカード (HP) に吸収合併された。コンパックもHPもDEC製品をブランド名を付け替え、ロゴを付け替えて販売した。digital.comとDEC.comというドメインはHPのものとなりHPのサイトにリダイレクトされていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "DECにはいくつかの研究所があり、研究開発を主導していた。一部はコンパックに引き継がれ、さらに一部はヒューレット・パッカードに引き継がれている。次のような研究所があった。", "title": "研究開発" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "これら研究所などで研究開発に携わっていた業界の著名人を以下に挙げる。", "title": "研究開発" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、半導体部門でAlphaやStrongARMの開発を主導したかつての従業員として以下の人々がいる。", "title": "研究開発" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "研究所の活動の一部は1985年から1998年まで発行されていた Digital Technical Journal で知ることができる。", "title": "研究開発" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "DECのユーザーグループとしては、1960年代から1990年代まで DECUS (Digital Equipment Computer User Society) と呼ばれた団体がある。1998年にコンパックに買収されると、DECUSは CUO (Compaq Users' Organisation) と改称。2002年にコンパックがHPに買収されると HP-Interex となったが、いくつかの国ではDECUSがそのまま存続している。アメリカではEncompassがそれに相当する。", "title": "ユーザー団体" } ]
ディジタル・イクイップメント・コーポレーション は、かつてアメリカ合衆国を代表したコンピュータ企業の一つ。1957年、ケン・オルセンによってマサチューセッツ州メイナードに設立された。略称「DEC(デック)」。欧米では「Digital」と略称されることも多い。 DECのPDPシリーズとVAXシリーズは、1970年代と1980年代の科学技術分野において最も一般的なミニコンピュータだった。DECの本社は1957年から1992年まで、マサチューセッツ州メイナードにあるかつてウール工場であった Clock Tower Place に置かれていた。 1998年にコンパックに買収された。そのコンパックがさらに2001年にヒューレット・パッカード (HP) に買収されたことから、DECの製品群はHPのブランド名で販売されている。かつてのDECの一部事業(特にコンパイラ関連)やマサチューセッツ州ハドソンの工場はインテルに売却された。詳細は「#終焉」の節を参照。 ロゴマークの青色や会社規模から、IBMの愛称"Big Blue"に対して、"Small Blue"の愛称で呼ばれた。後にロゴマークは青色からバーガンディへ変更された。 なお、社名に「Digital」を用いるデジタルリサーチやウェスタン・デジタルとは無関係である。
{{基礎情報 会社 | 社名 = ディジタル・イクイップメント・コーポレーション | 英文社名 = Digital Equipment Corporation | ロゴ = [[Image:Digital Equipment Corporation 1993 logo.svg|Digital Equipment Corporation Logo|200px]] | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = | 市場情報 = | 略称 = DEC | 国籍 = {{USA}} | 本社所在地 = [[マサチューセッツ州]]メイナード | 設立 = [[1957年]] | 業種 = 電気機器 | 事業内容 = [[PDPシリーズ|PDP]], [[VAX]], [[DEC Alpha|Alpha]], [[DECnet]], [[VT100]], [[StrongARM]], [[Digital Linear Tape]] | 従業員数 = 140,000人以上(1987年時点) | 関係する人物 = [[ケン・オルセン]]<br />[[ゴードン・ベル]] | 特記事項 = [[1998年]]に[[コンパック]]へ吸収合併。[[2002年]]に[[ヒューレット・パッカード]]がコンパックを吸収合併。 }} [[ファイル:Maynard MA Clock Tower Place.jpg|thumb|right|1957年から1992年まで本社が置かれていた Clock Tower Place(かつてのウール工場)]] '''ディジタル・イクイップメント・コーポレーション''' (Digital Equipment Corporation) は、かつて[[アメリカ合衆国]]を代表した[[コンピュータ]]企業の一つ。[[1957年]]、[[ケン・オルセン]]によって[[マサチューセッツ州]]メイナードに設立された。[[略称]]「'''DEC'''(デック)<ref group="注">ディジタル・イクイップメント・コーポレーション自身が "DEC" を使った例: ''PDP11 Processor Handbook'' (1973): page 8, "DEC, PDP, UNIBUS are registered trademarks of Digital Equipment Corporation;" page 1-4, "Digital Equipment Corporation (DEC) designs and manufactures many of the peripheral devices offered with [[PDP-11]]'s. As a designer and manufacturer of peripherals, DEC can offer extremely reliable equipment... The LA30 DECwriter, a totally DEC-designed and built teleprinter, can serve as an alternative to the Teletype."</ref>」。[[欧米]]では「'''Digital'''」と略称されることも多い。 DECの[[PDPシリーズ]]と[[VAX]]シリーズは、[[1970年代]]と[[1980年代]]の科学技術分野において最も一般的な[[ミニコンピュータ]]だった。DECの[[本社]]は[[1957年]]から[[1992年]]まで、マサチューセッツ州メイナードにあるかつて[[ウール]][[工場]]であった Clock Tower Place に置かれていた。 [[1998年]]に[[コンパック]]に買収された。そのコンパックがさらに[[2001年]]に[[ヒューレット・パッカード]] (HP) に買収されたことから、DECの製品群はHPの[[ブランド]]名で販売されている。かつてのDECの一部事業(特に[[コンパイラ]]関連)やマサチューセッツ州ハドソンの工場は[[インテル]]に売却された。詳細は「[[#終焉]]」の節を参照。 [[ロゴマーク]]の[[青色]]や会社規模から、[[IBM]]の愛称"'''Big Blue'''"に対して、"'''Small Blue'''"の愛称で呼ばれた。後にロゴマークは青色から[[ワインレッド|バーガンディ]]へ変更された。 なお、社名に「Digital」を用いる[[デジタルリサーチ]]や[[ウェスタン・デジタル]]とは無関係である<!--[[LSI-11]]チップセットを製造したのがウェスタン・デジタルという関係はある-->。 == 概要 == 当初は小型コンピュータ市場に集中したため、DECは強力なライバルのいない市場で成長することができた。[[1960年代]]には[[PDPシリーズ]]、特に世界初の成功した[[ミニコンピュータ]]と言われる[[PDP-8]]が人気となった。[[1970年]]に発売した[[PDP-11]]はそれまでの小型機に取って代わり、DECはコンピュータ業界での地位を確立。PDP-11の後継として設計された[[VAX|VAX-11]]は、[[32ビット]]ミニコンピュータの先駆けとなり「[[スーパーミニコンピュータ]]」とも呼ばれた。これらは様々な場面で[[System/370]]などの[[メインフレーム]]とも競合した。VAXシリーズもベストセラーとなり、同社が[[1980年代]]に世界第2位のコンピュータ企業となる原動力となった。最盛期にはマサチューセッツ州で州政府に次ぐ第2位の雇用者となっている。 1980年代後半に[[パーソナルコンピュータ]]市場が成長し、[[1990年代]]には強力な32ビットシステムがいくつも登場するようになると、DECのシェアは素早く侵食され始めた。DECの生き残りをかけた最後の大きな挑戦が、[[64ビット]][[RISC]][[マイクロアーキテクチャ|プロセッサアーキテクチャ]]「[[DEC Alpha]]」であった。当初、VAXシリーズをAlphaで再実装しようとしたが、同時に高性能[[ワークステーション]]にも採用された。Alphaは良い性能を発揮したが、DECの業績を上向かせることはできなかった。 [[1998年]]6月、[[コンパック]]がDECを買収。当時のコンピュータ業界では最大となる買収であった。当時のコンパックは企業市場を中心に据える戦略をとっており、他にも大企業をいくつか買収している。その中でもDECはコンパックの弱点だったアメリカ国外で強かった。しかしコンパックは買収した企業群をその後どうするかについて明確なビジョンを持っていなかったため、財政的に苦境に立たされることになる。結局2002年5月、[[ヒューレット・パッカード]] (HP) がコンパックを吸収合併した。2007年時点でもDECの一部製品をHPが製造販売していた。 == 日本法人 == {{基礎情報 会社 | 社名 = 日本 ディジタル イクイップメント株式会社 | 英文社名 = Digital Equipment Corporation Japan | ロゴ = |種類 = |市場情報 = |略称 = 日本DEC |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[東池袋]] [[サンシャイン60]] 35階<br />[[東京都]][[杉並区]][[上荻]]1丁目2-1 |設立 = [[1982年]][[9月24日]] |業種 = 電気機器 |事業内容 = 米国本社で開発・製造されたコンピュータ、ネットワーク製品、周辺装置、ソフトウェアの日本国内における販売・サービス、他社製品を含めたクライアント・サーバーソリューション |従業員数 = 2,715人(1997年9月時点)<ref name="archive19980130">{{cite web |url=http://www.dec-j.co.jp/overview/company_overview.html |title=DIGITAL Japan Profile |accessdate=2016年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19980130083322/http://www.dec-j.co.jp/overview/company_overview.html |archivedate=1998年1月30日 }}</ref> |関係する人物 = |特記事項 = [[1998年]]10月、[[コンパック|コンパックコンピュータ株式会社]]へ吸収合併。 }} DECの[[日本]]支社は、[[1968年]]に5人から6人の人員で設立され、販売代理店の[[理経|株式会社理経]]が納入したミニコンピュータの保守サービスのみを手掛けることから始まった。 [[日本法人]]である'''日本 ディジタル イクイップメント株式会社'''([[英語|英文]]社名:Digital Equipment Corporation Japan、略称:'''日本DEC''')は、[[1982年]]に設立され<ref name="archive19980130">{{cite web |url=http://www.dec-j.co.jp/overview/company_overview.html |title=DIGITAL Japan Profile |accessdate=2016年6月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19980130083322/http://www.dec-j.co.jp/overview/company_overview.html |archivedate=1998年1月30日 }}</ref>、[[1998年]]10月、[[コンパック|コンパックコンピュータ株式会社]]へ吸収合併された。 == 歴史 == === 起源 === 1957年、[[ケン・オルセン]]と{{仮リンク|ハーラン・アンダーソン|en|Harlan Anderson}}が設立。彼らは[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) の[[リンカーン研究所]]で働く技術者だった。リンカーン研究所は今で言う「インタラクティブ性」の研究で知られており、開発したコンピュータは動作中のプログラムをリアルタイムでオペレータが直接制御できる世界初のものだった。その端緒となったのが1944年の[[Whirlwind]]で、元々は[[アメリカ海軍]]の[[フライトシミュレーション|フライトシミュレータ]]向けに開発されたものだが、シミュレータとして使われることはなかった<ref>[http://www.mitre.org/news/releases/09/whirlwind_07_01_2009.html "MITRE's Project Whirlwind Computer Collection Transferred to MIT"], MITRE, 1 July 2009</ref>。代わりにその成果は[[アメリカ空軍]]の[[半自動式防空管制組織|SAGE]]システムに採用され、オペレータがコンピュータに格納された[[レーダー]]のデータと対話するために大きな画面と[[ライトガン]]を使用した<ref>[http://www.mitre.org/about/sage.html "Semi-Automatic Ground Environment (SAGE)"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090513053849/http://www.mitre.org/about/sage.html |date=2009年5月13日 }}, MITRE, 25 January 2005</ref>。 空軍のプロジェクトが完了すると、リンカーン研究所はWhirlwindで使用していた[[真空管]]を[[トランジスタ]]に置き換えたコンピュータの開発にとりかかった。新たな回路を試験するため、まず小型の[[18ビット]]マシン [[TX-0]] を構築し、1956年に稼働させた<ref>[http://www.computerhistory.org/collections/accession/XD154.75 "TX-0 Computer"], Computer History Museum</ref>。TX-0の成功で基本コンセプトに間違いがないことが明らかになると、[[36ビット]]の大型システムの開発にとりかかった。これが64kワードの[[磁気コアメモリ]]を備えた[[TX-2]]である。磁気コアメモリは高価だったので、TX-0のメモリ部品をTX-2に流用し、TX-0の残りの部分は[[マサチューセッツ工科大学]]に恒久的に貸与された<ref name=cm>[http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/tcmwebpage/reports/TCMReportSpring1984.pdf ''The Computer Museum Report'' Volume 8 Spring 1984], The Computer Museum, Boston, MA, </ref>。 MITでオルセンとアンダーソンは奇妙な現象に気付いた。より高速な[[IBM]]製[[メインフレーム]]も利用可能なのに、学生達は小さいTX-0を使うために何時間も並んだのである。2人は対話型コンピューティングが強い魅力を持っているためだと判断し、TX-0を製品化した小型マシンの市場があると考えた。それは、性能よりもグラフィカルな出力やリアルタイム操作が重視される市場である。また、特定タスクのための安価なソリューションを必要としているユーザー向けであり、そのような用途に36ビットの大型機は不要と思われた<ref name=companyhistory/>。 1957年、2人とケンの兄弟スタンは資本金を求めたが、当時のアメリカ実業界ではコンピュータ会社への投資に懐疑的になっていた。1950年代に多数の中小コンピュータ企業が生まれては消えていった経緯があり、技術革新があまりにも急激だったため製品がすぐに陳腐化していた。また、[[RCA]]や[[ゼネラル・エレクトリック]]といった大企業もコンピュータ事業で利益を出せないでいた。そんな中で唯一興味を示したのが{{仮リンク|ジョルジュ・ドリオ|en|Georges Doriot}}と彼の率いる[[ベンチャーキャピタル]] [[:en:American Research and Development Corporation|American Research and Development Corporation]] (AR&D) である。コンピュータ会社の創業という話ではそれ以上の資金が集まらない懸念があったため、ドリオは新会社の事業計画をコンピュータを中心としない形に変更させ、社名も「ディジタル・コンピュータ・コーポレーション」から変更させた<ref name=companyhistory/>。 2人は事業計画を更新し、会社を2段階で発展させる計画にした。まず、コンピュータのモジュールを独立したデバイスとして販売し、研究室などでそれを購入して各種デジタルシステムの構築に使用できるものとする。それによって会社がある程度自立したら、第二段階として完全なコンピュータを開発するという計画である<ref name=proposal>[http://archive.computerhistory.org/resources/text/dec/pdp-1/DEC.pdp_1.1957.102664472.pdf "A Proposal to American Research and Development Corporation 27 May 1957"]</ref>。改称したDECはAR&Dから7万ドルの資金(全資本金の70%)を得て<ref name=companyhistory/>、[[マサチューセッツ州]]メイナードにあった[[南北戦争]]時代の毛織物工場だった建物で創業した。その工場だった建物を選んだのは、生産に使えるスペースが安価に得られたためである。 === 回路モジュール === [[ファイル:Dec SYSTEM BUILDING BLOCKS 1103.jpg|thumb|System Building Blocks 1103 [[NOTゲート#論理部品としてのNOTゲート|ヘックス・インバータ・カード]](両面)]] 1958年の早い時期に、DECはその最初の製品である "Digital Laboratory Module" のラインナップを出荷した。このモジュールは、電子部品と[[バイポーラトランジスタ|ゲルマニウムトランジスタ]]を[[プリント基板]]に装着したもので、その回路はTX-2の回路を基にしている<ref name=modules>Richard Best, Russell Doane and John McNamara, [http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/computer_engineering/00000125.htm "Digital Modules, The Basis for Computers"], ''Computer Engineering, A DEC view of hardware systems design", Digital Press, 1978</ref>。 ひとつのDigital Laboratory Moduleは、[[論理回路]]の1、2個の[[フリップフロップ]]、ゲート、変換器などとして機能する。押し出し成型の[[アルミニウム]]でパッケージされており<ref>[http://www.computerhistory.org/collections/accession/102633142 "DEC Laboratory Module – FLIP-FLOP 201"], Computer History Museum</ref>、各モジュールの前面パネルにあるジャックをコードで繋いで機能させる。科学技術関連の実験などが可能だった。動作速度には5MHz(1957年)、500kHz(1959年)、10MHz(1960年)というバージョンがある<ref name=modules/>。特に他のコンピュータ企業が自社製システムの試験装置を構築するのによく使った。1950年代末の景気後退にもかかわらず、1958年だけで9万4千ドルを売り上げ、初年度で黒字を達成した<ref name=companyhistory/>。 間もなく、内部は同じだが異なるパッケージの "Digital Systems Module" も発売した。これは後端にあるアンフェノール型の22ピンコネクタで相互接続するよう設計されており、専用[[19インチラック]]に複数収めることができる。ラックの1つの棚(高さ5.25インチ)に25モジュールを収納でき、高密度に収納することでコンピュータを構築可能である<ref name=modules/>。DEC自身もこれを使って磁気コアメモリシステムの試験装置を構築し、それを8年間で約50台販売した<ref name=present3>{{Harvnb|Present|1978|p=3}}</ref>。 このようなモジュールは、PDPシリーズでも "System Building Blocks" として使用された。 後に、同様の回路を "R" (red) シリーズ「フリップチップ」モジュールとしてパッケージ化した(訳注:「フリップチップ」は商標([[:en:Flip Chip (trademark)]])で、集積回路を基板に実装する技術の、チップを直接基板に接触させ実装する手法の名称であるフリップチップとは無関係)。後に、もっと高速高密度なモジュールも製品化された<ref name=present10/>。DECは'''モジュール'''に関して基礎から理解するための広範囲のデータを約A5版大、厚さ約2センチの無料のカタログ本(英文)の形で提供し、これが非常にポピュラーになった。 このカタログ本の無料提供はミニコンピュータでも継承され[[入出力|I/O]]の[[ハードウェア]]機能や[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]手法と[[アセンブリ言語]]を基礎から応用まで理解し、モジュールを買ったユーザは自ら制御システムを構築できた。事務用とは異なる制御用のコンピュータであるため、採用を検討しているユーザにも教科書(カタログ本)を広く配り、ユーザが独自に学び個々のシステムの構築することを促進する方針を採った。これら大量配布のカタログ本は自社内の印刷・製本部門で作られた。 === PDP-1ファミリ === {{Main|PDP-1}} [[ファイル:Steve Russell and PDP-1 - Vintage Computer Fair 2006.jpg|thumb|220px|right|[[コンピュータ歴史博物館]]の[[PDP-1]]と「[[スペースウォー!]]」の開発者[[スティーブ・ラッセル]]。机の左に載っているのが Soroban 製コンソール・タイプライターで、ラッセルの背後に見えているのが Type 30 CRTディスプレイである。]] 創業後の最初の製品は成功を収め、DECは事業計画の第2段階であるコンピュータ市場への参入に向かった<ref name=proposal/>。1959年8月、ベン・ガーリーはDEC初のコンピュータ [[PDP-1]]の設計を開始した。ドリオの命令を守り、Programmed Data Processor の略である[[PDPシリーズ|PDP]]をシリーズ名とし、コンピュータという言葉を避けている。1959年12月、ボストンでの合同コンピュータ会議で初めてプロトタイプが一般公開された<ref>[http://www.computerhistory.org/collections/accession/102634161 Eastern Joint Computer Conference and Exhibition], official program of 1959 meeting in Boston</ref>。PDP-1の一号機は1960年11月に [[BBNテクノロジーズ|Bolt, Beranek and Newman]] に納入され<ref>[http://vt100.net/timeline/1960.html "DIGITAL Computing Timeline, 1960"]</ref>、翌年の4月に正式に検収された<ref>''Computers and Automation'', April 1961, pg. 8B</ref>。基本構成の価格は12万ドルで、2011年時点の価値に換算すると90万ドルになる<ref>[http://www.bls.gov/data/inflation_calculator.htm "Bureau of Labor Statistics Inflation Calculator, 1961–2011"]</ref>。1969年に生産終了となるまでに約50台を出荷している<ref name=present3/><ref>"History of Computing", Lexikon Services, ISBN 0-944601-78-2</ref><ref>http://ftrcrblog.g2.xrea.com/PDP/23.html</ref>。 1ワードは[[18ビット]]で、基本構成では4096ワードの[[磁気コアメモリ]]を搭載し、毎秒10万命令の基本性能である。いくつかの19インチラックに多数の System Building Blocks を収める形で構成され、ラック群を1つの大きなフレーム(メインフレーム)でパッケージしており、フレームの一端のテーブルぐらいの高さに六角形の制御パネルがあってスイッチとランプが並んでいる。制御パネルの上には標準[[入出力]]である[[紙テープ]]リーダ/ライタがある。多くのシステムは、Type 30 [[ベクタ形式|ベクタグラフィックス]]ディスプレイと Soroban Engineering が[[IBM]]のモデルBタイプライタを改造したコンソールタイプライタの2つの[[周辺機器]]を加えて購入された。Soroban の機構は信頼性に乏しいことで有名だった。オフラインのプリンターとして [[:en:Friden Flexowriter|Friden Flexowriter]] 製の端末があり、紙テープリーダ/ライタ付きだった。[[磁気テープ]]システム、[[パンチカード]]リーダ/パンチ、高速紙テープ/プリンターシステムなどの周辺機器もあるが高価だった。 PDP-1を発表した際、DECは同じ設計に基づく24ビット、30ビット、36ビットのより大きなマシンについても言及していた<ref>''Datamation'', Volume 5 Number 6 (November/December), pg. 24</ref>。PDP-1のプロトタイプを構築中、24ビットのPDP-2と36ビットのPDP-3の設計が並行して進められていた。PDP-2は初期設計のみでそれ以上開発は行われなかったが、PDP-3は最後まで設計された<ref>[http://www.gutenberg.org/etext/29461 "Preliminary Specifications: Programmed Data Processor Model Three (PDP-3)"], DEC, October 1960</ref>。PDP-3は1960年、[[中央情報局|CIA]]の研究部門向けに1台だけ構築された。漏れ伝えられている情報によれば、CIAはそれを[[A-12 (偵察機)|A-12]]偵察機の[[レーダー反射断面積]]データの処理に使ったという。[[ゴードン・ベル]]はPDP-3がその後[[オレゴン州]]で使われたと記憶しているが、誰が使っていたかは思い出せないという<ref>Posting in [http://www.decconnection.org/announcements.htm "Announcements from The DEC Connection"], ''The DEC Connection'', 14 January 2007</ref>。 1962年11月、標準価格6万5千ドルの[[PDPシリーズ|PDP-4]]をリリース。[[命令セット]]などはPDP-1と似ているが、メモリを低速なものにし、パッケージを変更して低価格化している。全部で約50台が販売され、顧客層もPDP-1と似ていた<ref name="PDPseries32">http://ftrcrblog.g2.xrea.com/PDP/32.html</ref>。 1964年、DECはフリップチップ・モジュール設計を新たに採用し、PDP-4にそれを適用して[[PDP-7]]を生み出した。PDP-7は1964年12月にリリースされ、約100台を生産した<ref>Gordon Bell, [http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/digital/timeline/1964-3.htm "DIGITAL Computing Timeline, 1964, PDP-7"]</ref><ref name="PDPseries32" />。1965年、Rシリーズ・フリップチップにアップグレードした PDP-7A をリリースしている<ref>Gordon Bell, [http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/digital/timeline/1965-1.htm "DIGITAL Computing Timeline, 1965, PDP-7A"]</ref>。PDP-7は[[UNIX]]オペレーティングシステムが誕生したプラットフォームとしてよく知られている<ref>Eric Steven Raymond, [http://www.faqs.org/docs/artu/ch02s01.html "Origins and History of Unix, 1969–1995"], 19 September 2003</ref>。 PDP-1シリーズへの大胆なアップグレードとして、1966年8月に[[PDPシリーズ|PDP-9]]をリリース<ref>Gordon Bell, [http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/digital/timeline/1966-1.htm "DIGITAL Computing Timeline, 1965, PDP-9"]</ref>。PDP-4やPDP-7と命令レベルで互換性があるが、PDP-7の約2倍の高速さで、より大きな構成で使用することを意図したものである。1968年時点で標準価格は19,900ドルだった<ref>DEC Advertisement, ''Chemical and Engineering News'', Volume 46 (1968), pg. 85</ref>。PDP-9は約450台を売り上げ、それまでのPDP-1ファミリの中では最大のヒットとなった<ref name="PDPseries33">http://ftrcrblog.g2.xrea.com/PDP/33.html</ref>。 PDP-9が登場したころ、既に後継機の設計が始まっており、1969年に[[PDPシリーズ|PDP-15]]としてリリースされた。これはPDP-9を[[集積回路]]で構成しなおしたマシンである。基本構成でもPDP-9より高速だったが、さらに[[FPU]]と[[入出力]]用プロセッサを追加でき、さらに性能が向上する。発表から8カ月で400台以上の注文が入り、最終的に12機種で約800台が生産された<ref name="PDPseries33" />。しかしそのころには後述する他のファミリがより低価格で似たような市場に対応できるようになっていたため、18ビットファミリはPDP-15で終結することになった。 === PDP-8ファミリ === {{Main|PDP-8}} [[ファイル:PDP-8.jpg|thumb|right|[[スミソニアン博物館]]の[[国立アメリカ歴史博物館]]に展示されている [[PDP-8]]。独立したトランジスタで構成された初期モデルで ''Straight 8'' と呼ばれているもの。]] 1962年、[[リンカーン研究所]]は System Building Blocks を使って小型の12ビットマシンを実装し、それに様々な[[アナログ-デジタル変換回路|アナログ-デジタル変換]][[入出力]]機器を接続して、アナログの各種実験装置とインタフェースしやすくしていた。これが[[LINC]]である。LINCは科学界で強烈な関心を惹きつけ、小さな研究室でも使える安価で小さいマシンだとして世界初の真の[[ミニコンピュータ]]とも呼ばれた<ref>Wesley Clark, [http://www.historyofscience.com/G2I/timeline/index.php?id=1006 "The Linc, Perhaps the First Mini-Computer"], From Cave Paintings to the Internet</ref>。 LINCの成功を目にしたDECは1963年、その基本設計を踏襲してアナログ-デジタル変換機構を除いた[[PDPシリーズ|PDP-5]]を開発した。PDP-1ファミリ以外の最初のマシンとして、1963年8月11日のWESTCONで発表。1964年の広告ではPDP-5の利点を「さあ、使われている磁気コアメモリの価格27,000ドルだけであなたもPDP-5を所有できます」と表現していた<ref name=faqpdp8>[http://www.faqs.org/faqs/dec-faq/pdp8-models/section-1.html "DEC FAQ: What is a PDP-8?"]</ref>。1967年初めに生産終了となるまでに約100台が生産された<ref name="PDPseries32" />。PDP-5は1964年(昭和39年)[[東京大学]]の旧[[田無市]](現:[[西東京市]])の原子核研究所([[1997年]][[3月]]閉所)に導入された日本初のPDP機だった。PDP-1と同様、PDP-5から基本設計が同じ一連の機種が生まれ、PDP-5よりも人気となった。 1965年3月22日、PDP-5で使用していたモジュールをRシリーズ・フリップチップで置換した[[PDP-8]]をリリース。小さな卓上型の筐体であり、CPUが格納された部分は半透明のプラスチックで覆われていて、外から配線が見えるようになっている。4kワード×12ビットの磁気コアメモリを搭載し、標準入出力機器として[[ASR-33]]を備えた基本構成で、18,000ドルだった。そのため、25,000ドルを割った世界初の「真の」[[ミニコンピュータ]]と呼ばれた<ref>[http://www.sciencemuseum.org.uk/objects/computing_and_data_processing/1982-960.aspx "DEC PDP-8 minicomputer, 1965"], ''The Science Museum''</ref><ref>[http://www.computerhistory.org/internet_history/ "Internet History:1965"], Computer History Museum</ref>。販売は予想通り非常に堅調で、PDP-5の市場にいくつかの企業が参入しはじめたがPDP-8には敵わなかった。これによりDECは市場を2年間ほぼ独占し<ref>{{Harvnb|Present|1978|p=7}}</ref>、同一設計の新機種が登場するまでに "straight eight"(最初のPDP-8)が約1400台生産された<ref name=faqpdp8/><ref>http://ftrcrblog.g2.xrea.com/PDP/31.html</ref>。 DECはさらに低価格なPDP-8/S(Sは "serial" の意)をリリース。名前が示す通りシリアル演算ユニットを採用しており、低速だがコストも低減され1万ドル以下で売られた<ref>{{Harvnb|Present|1978|p=8}}</ref>。また、PDP-8のCPUとLINCのCPUを備えた2プロセッサ構成の{{仮リンク|LINC-8|en|LINC-8}}をリリース。2つのCPUを切り替える命令を備えており、LINC用のプログラムとPDP-8用プログラムが実行可能である。ただしこれはあまり売れず、当初価格は38,500ドルで約140台を売り上げるに留まった<ref name=faqpdp8/><ref name="PDPseries33" />。LINCからPDP-5が生まれたように、LINC-8を修正してシングルプロセッサ機にしたのが[[PDPシリーズ|PDP-12]]である。これは約1000台生産された<ref name=faqpdp8/>。1968年には回路設計を改めたPDP-8/IとPDP-8/Lをリリース<ref name=present10>{{Harvnb|Present|1978|p=10}}</ref>。1975年には前年の[[インターシル]]との合意に基づき、PDP-8をシングルチップ化した [[:en:Intersil 6100|Intersil 6100]] が登場した。それにより、DEC自体はPDP-8ファミリの終結を発表したが、その後もPDP-8向けのソフトウェアを生かす手段が残された。 === PDP-10ファミリ === {{Main|PDP-10}} [[ファイル:KA10 mod end.jpg|thumb|right|220px|"B" (blue) シリーズ・フリップチップモジュール。9個のトランジスタを内蔵(1971年)]] PDP-5の系統で低価格路線をとったころ、DECは1963年、[[36ビット]]の[[PDP-6]]で[[メインフレーム]]市場に参入した。しかし、[[IBM]]や[[ハネウェル]]といったメインフレームメーカーの同様のマシンとの差別化ができず、約30万ドルという低価格だったが販売は苦戦した。PDP-6は約20台<ref>Gordon Bell, [http://research.microsoft.com/~gbell/Digital/timeline/1964-1.htm "DIGITAL Computing Timeline, 1964, PDP-6"]</ref><ref name="PDPseries32" />しか売れなかった。あまり売れなかったため、PDP-6の改良版は開発されなかった。しかし歴史的には初期の[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]][[オペレーティングシステム|OS]]である "Monitor" が導入されたプラットフォームとして重要であり、それが後の[[TOPS-10]]へと発展した<ref>[http://www.bitsavers.org/pdf/dec/pdp6/PDP-6_TimsharingBroch.pdf "PDP-6 Timesharing Software"], DEC Publication F-61B</ref>。 PDP-6は商業的にはあまり成功しなかったが、商業的にも価値のある様々な機能がそこから生まれた。フリップチップによる再実装でPDP-6のコストを大幅に低減できるようになると、DECは1968年、[[PDP-10]]で36ビット市場に再び参入した。PDP-10は大いに成功し、1984年に生産終了となるまでに約700台を売り上げた<ref name="PDPseries33" />。PDP-10は特に大学でよく採用され、1970年代のOSなどの発展に寄与した。DECは後に36ビットの全機種を "DECsystem-10" というブランド名にし、CPUの型番(例えば "KA10")で機種を示すようになった。さらに[[仮想記憶]]を実装した[[TOPS-20]]を搭載したシステムを "DECSYSTEM-20" と称した。 === DECtape === PDP-10で最も特筆すべき周辺機器が[[:en:DECtape|DECtape]]である。DECtapeは5インチリールに巻かれた3/4インチ幅の特殊な磁気テープである。10トラックで固定長ブロックの記録フォーマットで、ディレクトリを含む標準的なファイル構造をその上に記録できる。DECtape上でファイルの書き込み、読み出し、更新、削除が可能で、磁気ディスク装置のような使い方が可能である。効率向上のため、DECtapeはどちらの方向に巻いているときでも読み書き可能になっていた。 実際、磁気ディスク装置を全く装備しないPDP-10システムもあり、DECtapeだけを主要な二次記憶装置として使っていた。複数の紙テープを人手で読み込ませるよりも簡単なので、他のPDPシリーズでもDECtapeが広く使われた。初期のタイムシェアリングシステムはDECtapeをシステムデバイス兼スワップデバイスとして使用可能だった。紙テープより優れていたものの、DECtapeは低速であり、信頼性の高い磁気ディスク装置が利用可能になるとそれに置き換えられていった。 === PDP-11 === {{Main|PDP-11}} 1968年、DECではそれまでの6ビットの文字ではなく8ビットの[[バイト (情報)|バイト]]に基づいたPDPマシンを開発していた。"PDP-X" と名付けられたこのプロジェクトが中止されたため、一部のチームメンバーが退職して1968年5月に[[データゼネラル]]を創業。すぐさま16ビットのミニコンピュータ[[データゼネラルNova|Nova]]を発売した。このため、8ビットのバイトという業界の潮流にDECは一時乗り遅れることになった。 16ビットコンピュータ[[PDP-11]]は、ハロルド・マクファーランド、[[ゴードン・ベル]]、ロジャー・キャディらが突貫計画で設計した<ref name=birth>Larry McGowan, [http://hampage.hu/pdp-11/birth.html "How the PDP-11 Was Born (according to Larry McGowan)], 19 August 1998</ref>。このプロジェクトは[[カーネギーメロン大学]]で16ビット設計を研究していたハロルド・マクファーランドが入ったことで進捗が加速された。経営陣に最初の提案を行った際あまり好印象ではなく、あやうくキャンセルされそうになったものの、より単純な設計がPDP-11となった<ref name=birth/>。 特にその新設計は[[アドレッシングモード]]があまり豊富ではなく、DECの他のマシンや[[CISC]]設計全般で広く採用されていた豊富なアドレッシングモードによってプログラムを小さくするという技法が使えないものだった。それはメモリアクセスにより時間がかかり、システムが低速になることを意味していた。しかし、同時に多数の汎用レジスタを備えるという考え方も採用していたため、プログラミングの自由度が向上し、性能問題はそれである程度カバーされるようになっていた。 PDP-11の主要な改良点として、[[メモリマップドI/O]]によって全周辺機器をサポートする[[Unibus]]がある。それにより、通常はバックプレーンにハードウェアインタフェースを挿入し、メモリにマッピングされたインタフェースを読み書きするソフトウェアをインストールするだけで新規機器を容易に追加することが可能となった。そのためPDP-11には、サードパーティによる巨大な周辺機器市場が出現し、それがPDP-11自体をさらに便利なものにするという相乗効果が生じた。 そうした技術革新によってPDP-11アーキテクチャは他社を圧倒して業界のリーダーとなり、DECの復権に寄与した。さらに[[ページング方式]]と[[メモリ保護]]機構が追加されることで、[[マルチタスク]]や[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]も容易になっていった。一部機種では命令とデータの空間を分離して128kBの仮想アドレス空間を使えるようにし、物理メモリ容量も最大4MBまで拡張している。後に、PDP-11は[[集積回路|LSI]]化されたCPUを採用して小型化し、後継のVAX-11が発売されるまで好調な販売を維持した。 PDP-11にはいくつかの[[オペレーティングシステム]]があった。[[ベル研究所]]の[[UNIX]]オペレーティングシステムやDECの[[RSX-11]]、[[RT-11]]、[[RSTS/E]]などである。初期のPDP-11用アプリケーションは紙テープユーティリティを使って開発された。最初のディスクオペレーティングシステムとしてDOS-11が登場したが、間もなくもっと高機能なOSに取って代わられた。RSX-11は汎用[[マルチタスク]]環境であり、各種[[プログラミング言語]]が動作した。IASはタイムシェアリング機能を追加したRSX-11である。RSTSとUNIXはタイムシェアリングシステムで、教育機関が無料(または低価格)で使うことができ、PDP-11は当時の技術者や情報工学者が様々なことを試す道具となった。1970年代には通信や工場の制御などでも広く使われている。[[AT&T]]はDECの最大の顧客となった。 RT-11は小さいメモリ容量で動作する実用的な[[リアルタイムオペレーティングシステム]]であり、DECは[[組み込みシステム]]向けのコンピュータ供給業者としても事業を展開した。歴史的には、当時PDP-11で経験を積んだプログラマが多く、そういった意味でRT-11はマイクロコンピュータ用OSにも影響を与えている。例えば[[CP/M]]の[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]構文はRT-11のそれと似ており、データコピー用プログラム [[Peripheral Interchange Program|PIP]] も模倣している。また、DECはコマンド行オプション(スイッチ)に "/" を使っており、それが[[MS-DOS]]でパス名に "\" を使うことに繋がっている(UNIXでは '/' が使われる)<ref name="afu-faq">[http://www.netwhatever.com/faq/inicio.html#queIII15 alt.folklore.computers List of Frequently Asked Questions]</ref>。 競合他社はPDP-11風の様々なシステムを生み出した。[[経済相互援助会議|COMECON]]諸国でもPDP-11のクローンが生み出され、多数生産された。 === VAX === {{main|VAX}} 1976年、DECは[[PDP-11]]アーキテクチャを[[32ビット]]に拡張し、完全な[[仮想記憶]]システムを追加することを決定。その結果、[[VAX]]アーキテクチャが生まれた。最初の機種は{{仮リンク|VAX-11|en|VAX-11|label=VAX-11/780}}で、DECはこれを「[[スーパーミニコンピュータ]]」と称した。それは世界初の32ビットミニコンピュータではなかったが、価格設定や販売戦略も相まって、1978年のリリースとともに市場のリーダーに躍り出た。VAXが大いに成功したため、DECは1983年にPDP-10の後継機開発プロジェクトをキャンセルし、VAXアーキテクチャを同社唯一のコンピュータアーキテクチャとして推進する方針を採用した<ref>[https://books.google.ca/books?id=W7skAQAAIAAJ&q=dec+Jupiter+project+vax&dq=dec+Jupiter+project+vax&client=safari&cd=4&hl=en "The day Jupiter went out of orbit"], ''Electronic Business'', Volume 10 (1984), pg. 76–79</ref>。 VAXの成功を支えた要因のひとつとして、{{仮リンク|VT52|en|VT52}}[[端末]]の成功がある。それまでのあまり成功しなかった機種({{仮リンク|VT05|en|VT05}}やVT50)をベースとした、誰もが欲する機能を1つの筐体に全て納めた端末である。その後さらに成功を収めた[[VT100]]やその後継機が登場し、DECは業界でも屈指の端末ベンダーとなった。VTシリーズの成功によってDECはあらゆる周辺機器を備えたシステム全体を提供できるようになった。 VAXシリーズの命令セットは今日の一般的な命令セットから見ても非常に豊富な[[命令 (コンピュータ)|命令]]群(と豊富な[[アドレッシングモード]])を持っていた。PDPシリーズのページング方式とメモリ保護機能に加えて、VAXは[[仮想記憶]]をサポートしている。VAXではUNIXとDEC独自の[[VMS]]オペレーティングシステムを使うことができる。 VAX-11シリーズの登場後、DECはシェア拡大のため、ローエンド/[[ハイエンド]]市場に向けて様々なバリエーションのシリーズ展開を行っていき、最終的には1990年代初めに[[マイクロプロセッサ]]実装の[[:en:NVAX|NVAX]]<ref name="nvax">[http://simh.trailing-edge.com/semi/nvax.html DEC Microprocessors: NVAX (1991)]</ref>とハイエンド機 [[:en:VAX 7000/10000|VAX 7000/10000]] を完成させた。 === マイクロコンピュータ === 汎用[[マイクロプロセッサ]]の登場により、1975年ごろには世界初の[[マイクロコンピュータ]]が必然的に登場した。当時のマイクロコンピュータは機能や性能が限定的で、ケン・オルセンは1977年にあざ笑うように「個人が自宅にコンピュータを所有する理由はない」と言ったとされた<ref group="注">後にオルセンは[[ホームオートメーション]]のことを言ったのだと主張した。[http://www.snopes.com/quotes/kenolsen.asp "Ken Olsen"]</ref>。当然ながら当初DECはマイクロコンピュータ市場にはほとんど目を向けなかった。1980年代初めにDECが開発したVT180(コード名 "Robin")は、[[Z80]]ベースのマイクロコンピュータを内蔵して[[CP/M]]が動作する[[VT100]]端末だったが、当初この製品はDEC従業員のみに販売された<ref name=Croxton>{{Cite web |last=Croxton |first=Greg |title=DEC Robin (VT-180) & documentation |url= http://www.digibarn.com/collections/systems/dec-robin/ |work=DigiBarn Computer Museum |accessdate=2011-03-21}}</ref>。 === パーソナルコンピュータ === 1981年、[[IBM]]が [[IBM PC]] を発売すると、DECもこの市場に参入することにした。1982年、DECはそれぞれ異なる自社製品アーキテクチャと関連する3種類の非互換なマシンを発売。1つ目はPDP-11/23(後には11/73)をベースにした [[DEC Professional]] で、[[RSX-11|RSX-11M+]]にメニュー機能を追加した[[RSX-11|P/OS]] ("Professional Operating System") が動作した。これはPCよりも高性能だが同時に高価であり、IBM PC とはハードウェアもソフトウェアも互換性がなく、システムのカスタマイズもほとんどできない。CP/MやDOSとは異なり、このマシン用のあらゆるプログラムは個々のマシン毎に発行されるキーを入力しないと使えない仕様になっていた。この方針は当時としては普通の感覚であり、多くのソフトウェアはシステムの製造元から購入するか、個々の顧客向けに開発するのが普通だった。しかしそのために勃興期のサードパーティのソフトウェア企業がProfessionalを無視し、ソフトウェアの流通が容易な他のパーソナルコンピュータに集中した。DEC自体にとってもProfessionalのためによいソフトウェアを開発することは優先度が低く、むしろPDP-11のシェアが侵食されることを恐れていた。Professionalは優れたマシンだったが、結果としてほとんどソフトウェアが供給されなかった<ref>Katan, M.B., Scholte, B.A., 1984. Application of a Professional 350 in a university department - a consumer’s report, in: Proceedings Digital Equipment Computer Users Society. Amsterdam, p. 368. </ref>。また、P/OSのメニューシステムは低速で柔軟性に欠けており、主流の[[IBM PC DOS|PC-DOS]]や[[CP/M]]とはかけ離れていた。2つ目はPDP-8をベースとした [[:en:DECmate|DECmate II]] だが、[[ワードプロセッサ]]であって汎用コンピューティング向きではなかったし、[[ワング・ラボラトリーズ]]のワードプロセッサにも太刀打ちできなかった。 DECの初期のパーソナルコンピュータとして最もよく知られているのは、[[Z80]]と[[Intel 8088|8088]]を搭載した {{仮リンク|Rainbow 100|en|Rainbow100}} で、Z80上で[[CP/M]]が動作し、8088上で[[CP/M-86]]が動作した{{Sfn |ASCII 1983年5月号 |p=98}}。また、[[UNIX System III]] を移植した [[:en:Venix|Venix]] も動作した。CP/M向け[[アプリケーションソフトウェア]]を再[[コンパイラ|コンパイル]]すれば実行することができたが、そのころ既にMS-DOS上で[[Lotus 1-2-3]]のような出来合いのアプリケーションを実行する使用法が一般的になりつつあったのに対し、[[MS-DOS]] 2.0 の移植が1983年後半まで遅れてしまった。Rainbowは多少報道されたものの、高価であり、マーケティングのサポートもなかったため失敗に終わった<ref name="rainbow-faq">{{Cite web |title=The Rainbow 100 Frequently Asked Questions |url= http://rainbow-100.com/faq/question/1/ |work=Drive W |publisher=Approximatrix, LLC |accessdate=2010-12-15 |year=2009}}</ref>。 DECの初期のパーソナルコンピュータで使われたRX50<ref name=Stravers>{{Cite web |last=Stravers |first=Kees |title=The RX50 FAQ |url= http://users.bart.nl/users/pb0aia/vax/rx50.html |work=Kees's VAX page |accessdate=2011-03-21}}</ref>[[フロッピーディスク]]ドライブ (FDD) の規格は、DECがこの市場にどういう形で臨んだかを端的に表している。そのドライブの機構は他社の5.25インチFDDとほぼ同じだが<ref name=GeekHist>{{Cite web |last="Geek Historian" |title=MP01482 RX50 EngrDrws Jul82 |url= http://www.scribd.com/doc/881906/Tech-History-Digital-Equipment-Corporation-MP01482-RX50-EngrDrws-Jul82 |work=Tech History – Digital Equipment Corporation |accessdate= 2011-03-21}}</ref>、DECはディスクフォーマットを独自形式にすることで差別化を図ろうとした。DECのフォーマットは通常より高密度だったため、一般的なPC用FDDとは非互換だった。5.25インチ800KByteフロッピーディスクドライブを装備していた{{Sfn |ASCII 1983年5月号 |p=98}}。そのためユーザーは特殊なフォーマットを施された高価なフロッピーディスクを買わされることになった。DECはその独自フォーマットの[[著作権]]を主張して独占販売しようとし、そのフォーマットのフロッピーディスクを販売しようとする者にはライセンス契約とロイヤルティ支払いを要求した。フロッピーディスク媒体だけでなく、DECの製品はPC市場に出回っている通常のソフトウェアも使えなかった。ハッカーらがRX50のフォーマットを[[リバースエンジニアリング]]で解明したころには<ref name=Stravers /><ref>{{Cite web |last=Wilson |first=John |title=PUTR.COM V2.01 |url= http://www.dbit.com/pub/putr/ |accessdate=2011-03-21}} This relatively-recent work is a well-developed example of programs to enhance interchange of data between DEC formatted media and standard PC systems</ref>、DEC製品の悪い評判は固まっていた。 1986年に登場した [[:en:VAXmate|VAXmate]] は [[Microsoft Windows 1.0]] が動作し、[[DECnet]]経由で[[OpenVMS|VAX/VMS]]ベースのサーバと接続して使用可能になっていた。Rainbowの後継であり、初期のディスクレス・ワークステーションの1つである。また、他社のIBM PCやNEC PC-9801とイーサネットを介して通信するためのソフトウェアとして DECnet-DOS をリリースしたり、[[マイクロソフト]]系の[[通信プロトコル|ネットワークプロトコル]]をサポートした VAX/VMSサーバも発売している。 [[1995年]]からコンパックとの合併まで、PC/AT互換のノートPC、デスクトップPC、サーバを販売していた。 === ネットワークとクラスタ === 1984年、DECは10Mbit/sの[[イーサネット]]をリリースした。イーサネットはスケーラブルなネットワークを可能にし、[[:en:VAXcluster|VAXcluster]]はスケーラブルな[[コンピューティング]]を可能にした。[[DECnet]]とイーサネットに基づく[[端末サーバ]] ([[:en:Local Area Transport|LAT]]) を組み合わせることで、DECはネットワーク化されたストレージアーキテクチャを生み出し、IBMと直接張り合えるようになった。イーサネットは[[トークンリング]]に取って代わり、今では最も広く使われているネットワーク形態となった。 1985年9月、DECは [[.com]] の[[ドメイン名]] (dec.com) を登録した5番目の企業となった。 VAXclusterはハードウェアとプロトコルとコンセプトで構成されており、複数のVAXマシンを相互接続して単一の大きなストレージシステムとする技術である。それにより、企業は[[コンピュータ・クラスター|クラスタ]]に新たなVAXを追加することでサービスの規模拡大を図ることができるようになり、システム全体の買い替えをしなくて済むようになった。その柔軟性は注目を浴び、DECはそれまで手が届かなかったハイエンド市場に参入した。 === 多様化 === マイクロコンピュータやパーソナルコンピュータでは失敗したが、PDP-11とVAXは記録的な売り上げを続けていた。1980年代中盤には、業界トップのIBMから20億ドルほど引き離された2位となって健闘していた。1986年にコンピュータ業界全体が不景気になるとDECの利益は38%低下したが、1987年にはIBMの業界1位の座を脅かすほど肉薄した<ref name=companyhistory>[http://www.answers.com/topic/digital-equipment-corporation "Digital Equipment Corporation"], ''International Directory of Company Histories'', Volume 6, St. James Press, 1992</ref>。 1980年代終盤のピーク時、DECは世界第2位の規模のコンピュータ企業となり、従業員は10万人を超えていた。そのころDECは中核であるコンピュータ製造とはかけ離れた様々なプロジェクトを展開していた。カスタムソフトウェア開発にも多額の資金をつぎ込んだ。1970年代やそれ以前、ソフトウェアは特定タスク向けに個別に書かれることが多かったが、1980年代までに[[関係データベース]]などのソフトウェアが登場し、モジュール式で強力なソフトウェアを素早く開発できるようになってきた。[[オラクル (企業)|オラクル]]などのソフトウェア企業が急成長してきたため、DECはあらゆる「ホット」なニッチ市場向けのプロジェクトを開始し、同じニッチ(すき間)に複数のプロジェクトが乱立することもあった。そういった製品の一部はDECのパートナー企業の製品と競合することがあり、例えば[[:en:Oracle Rdb|Rdb]]は数年前にパートナー契約を始めたオラクルのVAX向け製品と競合した。 それらは良く設計されていたが、多くはDEC独特の仕様であり、顧客はそれらを使わずにサードパーティ製品を使うことが多かった。この問題はオルセンが普通の広告を嫌い、技術が確かならば必ず売れるという信念を持っていたことで悪化する。これらのプロジェクトには多大な予算が注ぎ込まれたが、同時期に[[RISC]]アーキテクチャをベースとしたワークステーションがVAXの性能に迫ろうとしていた。 === 陰り === 1980年代になってもマイクロプロセッサの発展が続き、間もなく次世代のマイクロプロセッサがDECのローエンドのミニコンピュータの性能を凌駕するようになることは明らかだった。さらに悪いことに、{{仮リンク|バークレーRISC|en|Berkeley RISC}}と[[MIPSアーキテクチャ|スタンフォードMIPS]]の設計は32ビットであり、DECのドル箱であるVAXファミリの最高性能を凌駕することが予想された<ref>John Hennessy, David Patterson and David Goldberg, [https://books.google.co.jp/books?id=XX69oNsazH4C&pg=PA152&redir_esc=y&hl=ja "Computer Architecture: A Quantitative Approach"], Morgan Kaufmann, 2003, pg. 152</ref>。 独自の[[VAX]]/[[OpenVMS|VMS]]製品があまりにも成功したため、DECはそれらの脅威に対して素早く反応できなかった。1990年代に入るとDECの売り上げは伸び悩み、同社初の人員整理も行われた。ミニコンピュータを生み出し、ネットワーク技術を支配し、世界初の個人用コンピュータと言われるものを生み出した会社は、かつてPDP-8が支配したローエンド市場を捨てることになる。この脅威に対してどう対応するかの決断が遅れ、DEC社内では内紛が発生した。 あるグループは、DECの技術力を結集して既存のマシンから飛びぬけた性能のVAXを開発することを提案した。それによって利益率の高いハイエンド市場だけは死守しようという戦略であり、DECはミニコンピュータメーカーとして生き残ることができる。この考え方に沿って開発されたのが [[:en:VAX 9000|VAX 9000]] シリーズだが、そのリリースは当初の計画より2年遅れた1989年10月になった<ref>John Markoff, "Market Place; Digital Finally Follows a Trend", ''The New York Times'', 16 July 1990</ref>。システムの価格はあまりにも高くなり、DECは望んでいた成功を勝ち取ることができなかった。 DEC社内の他の人々は、自前でRISCを設計し新たなマシンを構築するのが適切だと考えた。しかし、あからさまに開発を行うことはできず、4つの小さなプロジェクトがアメリカ各地の研究所で並行して始められた。結局それらプロジェクトは {{仮リンク|DEC PRISM|en|DEC PRISM}} プロジェクトに集結し、新たなVAXの実装の基盤として使える独特の機能を持つ32ビットの設計を開始した<ref>Dileep Bhandarkar et al., [http://ieeexplore.ieee.org/xpl/freeabs_all.jsp?arnumber=63667 "High performance issue oriented architecture"], ''Proceedings of Compcon Spring '90'', pg. 153–160</ref>。しかしVAX部門との内紛でプロジェクトの資金集めは難しくなり、1988年4月時点で設計は完成せず、間もなくプロジェクト自体が中止となった<ref>Mark Smotherman, [http://www.cs.clemson.edu/~mark/prism.html "PRISM (Parallel Reduced Instruction Set Machine)"], Clemson University School of Computing, October 2009</ref>。 === 32ビットのMIPSシステムと64ビットのAlphaシステム === {{main|DEC Alpha}} DEC内の別のグループは、VAXシステムがその問題に対処する前に[[サン・マイクロシステムズ]]や[[シリコングラフィックス]]の[[ワークステーション]]がDECの既存顧客の大部分を奪ってしまうと考え、できるだけ早く自前のUnixワークステーションを開発する必要があると判断した。PRISMやVAXの遅々として進まない開発に業を煮やした[[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]]のグループがプロジェクトを開始。[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]プロセッサを採用した[[DECstation]]を開発し、1989年1月11日に DECstation 3100 をリリースした<ref>Thomas Furlong et al., [http://www.dtjcd.vmsresource.org.uk/pdfs/dtj_v02-02_1990.pdf "Development of the DECstation 3100"], ''Digital Technical Journal'', Volume 2 Number 2 (Spring 1990), pg. 84–88</ref>。それらシステムは市場である程度成功を収めたが、後にAlphaベースの類似シリーズで完全に置換された。 [[ファイル:AlphaServer-2100-guts.jpg|thumb|AlphaServer 2100 の筐体内部]] 1992年、DECは[[DEC Alpha|Alpha]][[命令セット|命令セットアーキテクチャ]]を初めて実装した [[Alpha 21064]] をリリースした。VAXの[[32ビット]][[CISC]]アーキテクチャとは全く異なる[[64ビット]][[RISC]]アーキテクチャであり、32ビットからの拡張ではない純粋な64ビット[[マイクロプロセッサ]]としても最初期の1つである。当初から性能面ではずば抜けており、2000年代まで高性能さを維持し続けた。2004年11月時点でも AlphaServer SC45 という[[スーパーコンピュータ]]が性能で世界第6位に位置していた<ref>[http://www.top500.org/lists/2004/11 www.top500.org Top 10 Supercomputing Sites, November 2004]</ref>。Alphaベースのコンピュータ(DEC AXPシリーズ。後に{{仮リンク|AlphaServer|en|AlphaServer}}と{{仮リンク|AlphaStation|en|AlphaStation}}に改称)はVAXアーキテクチャ製品と[[MIPSアーキテクチャ]]の[[DECstation]]を代替することとなった。オペレーティングシステム (OS) としては、[[OpenVMS]]、DEC [[Tru64 UNIX|OSF/1]] AXP(後に Digital Unix、さらには Tru64 UNIX と改称)、マイクロソフトの [[Microsoft Windows NT|Windows NT]] が動作した。 1998年にDECがコンパックに買収されると、マイクロソフトはAlpha向け Windows NT の開発とサポートをやめることを決定。これがAlphaベースのコンピュータの終わりの始まりとなった。 DECはUNIXサーバ市場に対抗すべく、[[POSIX]]互換機能を追加してVMSを[[OpenVMS]]とし、また自前のUnix(PDP-11/VAX/MIPS用の[[Ultrix]]、Alpha用のOSF/1)を売り出すため、積極的に広告を展開し始めた。しかし、DECは混沌としたUNIX市場に乗り込む準備ができていなかった。さらにインテル製CPUのWindows NTサーバがローエンド市場を侵食し始めた。かつてのDECの顧客を超えてシェアを獲得することは不可能だった。 === StrongARM === {{Main|StrongARM}} 1990年代中ごろ、DECの半導体部門は[[ARMホールディングス|ARM]]と共同で[[StrongARM]]を開発した。StrongARMはARM7とDECの技術に基づいた[[組み込みシステム]]や携帯機器向けのマイクロプロセッサである。ARMv4アーキテクチャと高い互換性を維持しており、[[携帯情報端末]]市場で[[SuperH]]や[[MIPSアーキテクチャ]]と競合して成功を収め、[[マイクロソフト]]が一時期 [[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]] の対象プラットフォームを[[ARMアーキテクチャ]]に限定したほどだった。1997年、訴訟にからんでStrongARM関連の知的資産を[[インテル]]に売却。インテルでもStrongARMを生産し続け、さらに [[XScale]] へと発展させた。2006年、インテルはこの事業を[[マーベル・テクノロジー・グループ]]に売却した。 === 設計ソリューション === DECsystem-10/20、PDP、VAX、Alpha以外に、DECはDNA(Digital Network Architecture、これを実装したのがDECnet)やDSA (Digital Storage Architecture) などの工学的設計でよく知られている。技術的詳細は''Digital Technical Journal''誌のアーカイブ[http://www.hpl.hp.com/hpjournal/dtj/past.htm]を参照されたい。 === 終焉 === 1992年6月、ケン・オルセンは社長の座をロバート・パーマーに明け渡した。取締役会はパーマーにそれまでDECでは使ってこなかった[[最高経営責任者]] (CEO) の肩書きを与えた。パーマーは1985年にDECに入社し、半導体部門を担当していた。Alphaマイクロプロセッサでの成功によってオルセンの後継者の座を勝ち取った。また、このときDECのロゴが変更されている<ref>[http://vt100.net/dec/logo The digital LOGO] Vt100.net</ref>。 1990年代初めまで、DECでは一度も大規模な人員整理を行ったことがなかった<ref>{{Harvnb|Schein|2003|pp=67,109}}</ref>。しかし1992年から景気後退期に入ると、人員整理が日常茶飯事となり、DECはなんとか規模を縮小して生き残ろうと図った<ref>{{Harvnb|Schein|2003|p=233}}</ref>。パーマーはDECをかつてのような収益を上げられる企業に戻すため、企業風土を変えようとしたり、新たな役員を社外から登用したり、中核でない事業部門を売却したりした<ref>{{Harvnb|Schein|2003|pp=128,144,234}}</ref>。 * 教育研修部門は、独立した会社「[[グローバル ナレッジ ネットワーク]]」として分離された[http://www.globalknowledge.co.jp]。 * [[データベース]]製品[[Oracle Rdb|DEC Rdb]]は[[オラクル (企業)|オラクル]]に売却された。 * [[PDP-11]]とその一部のOSの権利は1994年にMentecに売却されたが、数年間はDECでもPDP-11ハードウェアが生産され続けた<ref>[https://web.archive.org/web/20060813131029/http://www.mentec-inc.com/ PDP-11 RSX RT RSTS Emulator Osprey Charon]</ref>。 * 1994年、TKシリーズの[[磁気テープ]]技術は[[クアンタム (企業)|クアンタム]]に売却され、今日の[[Digital Linear Tape|DLT および SuperDLT]]の技術基盤となった。 * [[端末]]事業([[VT100]]と後継機群)は1995年8月に [[:en:Boundless Technologies|Boundless Technologies]] に売却された。 * 1997年3月、[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]関連の ObjectBroker や MessageQ といったソフトウェア事業を[[BEAシステムズ]]に売却。 * 1997年5月、DECは[[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]、[[Pentium Pro]]、[[Pentium II]]の設計がAlphaの特許を侵害しているとして[[インテル]]を訴えた<ref>"DEC, Cyrix sue Intel", by Gale Bradley and Jim Detar, ''Electronic News'' '''43''', #2168 (19 May 1997), ISSN 1061-6624.</ref>。結果として、DECの半導体部門がインテルに売却されることとなった。それにはDECの[[StrongARM]]([[ARMアーキテクチャ]])が含まれており、インテルはこれを元に[[Intel XScale]]プロセッサを開発して[[携帯情報端末|PDA]]などに採用された。XScaleプロセッサは後に[[マーベル・テクノロジー・グループ]]に売却された。 * 1997年、[[プリンター]]部門は GENICOM に売却された。当時の機種は未だに DEC のロゴ付きで販売されている。 * ほぼ同じ時期に、ネットワーク部門は Cabletron Systems に売却され、間もなく Digital Network Products Group としてスピンオフされた。 1997年時点でDECには、オーストリア、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、中国、コロンビア、キプロス、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、アイルランド、日本、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、ロシア、シンガポール、スペイン、スウェーデン、スイス、台湾、イギリスなどに支社があった<ref>[http://www.secinfo.com/dsvRx.83Pe.7.htm SEC Web site] retrieved 22 January 2008</ref>。 [[1998年]][[1月26日]]、ついにDECの残り全ての部分が[[コンパック]]に売却された<ref>{{Cite web|和書|date=1998-01-26 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980126/compaq.htm |title=速報:米COMPAQ、米DECを96億ドルで買収 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-30}}</ref>。当時としてはコンピュータ業界史上最大の買収である。コンパックは数年前にもDEC買収を検討したことがあるが、真剣に検討を始めたのはDECが周辺事業を整理してインターネット関連に集中するようになった1997年のことである。この買収でコンパックは企業向けサービス事業に参入してIBMと対抗することを意図しており、DECから受け継いだ部門により2001年にはそういったサービス事業での売り上げが全体の20%となっていた<ref>[http://ecommerce.hostip.info/pages/323/Digital-Equipment-Corp-TAKEOVER-BY-COMPAQ-COMPUTER-CORP.html Digital Equipment Corp - Takeover By Compaq Computer Corp.]</ref>。DECのPC事業は合併後に中止されている。また、コンパックは主要な供給業者であるインテルとの競合を避けるため、半導体部門(Alphaマイクロプロセッサ部門)をインテルに売却した。 コンパック自体も2002年にヒューレット・パッカード (HP) に吸収合併された。コンパックもHPもDEC製品をブランド名を付け替え、ロゴを付け替えて販売した。digital.comとDEC.comというドメインはHPのものとなりHPのサイトにリダイレクトされていた。 == 研究開発 == DECにはいくつかの研究所があり、研究開発を主導していた。一部は[[コンパック]]に引き継がれ、さらに一部は[[ヒューレット・パッカード]]に引き継がれている。次のような研究所があった。 * Western Research Laboratory (WRL) - [[カリフォルニア州]][[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]] * Systems Research Center (SRC) - [[カリフォルニア州]][[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]] * Network Systems Laboratory (NSL) - [[カリフォルニア州]][[パロアルト (カリフォルニア州)|パロアルト]] * Cambridge Research Laboratory (CRL) - [[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]] * Paris Research Laboratory (PRL) - パリ(フランス) * MetroWest Technology Campus (MTC) - マサチューセッツ州メイナード これら研究所などで研究開発に携わっていた業界の著名人を以下に挙げる。 * [[ゴードン・ベル]] - 技術部門副社長(1972年-1983年)。その後[[マイクロソフトリサーチ]]へ * {{仮リンク|レナード・ボサック|en|Leonard Bosack}} - [[シスコシステムズ]]を創業 * {{仮リンク|マイケル・バローズ|en|Michael Burrows}} - [[AltaVista]]開発。その後[[マイクロソフト]]を経て[[Google]]へ * [[デヴィッド・カトラー]] - [[RSX-11|RSX-11M]]と[[OpenVMS|VAX/VMS]]という[[オペレーティングシステム]]開発を主導。その後[[マイクロソフト]]で [[Microsoft Windows NT|Windows NT]] 開発を指揮 * [[エドソン・デ・カストロ]] - [[データゼネラル]]を創業 * {{仮リンク|ジム・ゲッティーズ|en|Jim Gettys}} - [[X Window System]] の初期の開発 * {{仮リンク|アンリ・グーロー|en|Henri Gouraud (computer scientist)}} - [[グーローシェーディング]] * [[ジム・グレイ]] - [[データベース]]関連の研究で[[チューリング賞]]受賞 * [[アラン・コトック]] - [[World Wide Web Consortium|W3C]]などインターネット関連で活動 * [[レスリー・ランポート]] - [[LaTeX|{{LaTeX}}]]の開発などで知られる計算機科学者 * [[バトラー・ランプソン]] - [[Alto]]の開発などで[[チューリング賞]]受賞 * {{仮リンク|ルイス・モニアー|en|Louis Monier}} - [[AltaVista]]開発。その後[[eBay]]、[[Google]]を経て[[Cuil]]へ * [[アイク・ナッシ|アイザック・ナッシ]] - ナッシ・シュナイダーマン図で知られている。[[SAP (企業)|SAP]]副社長 * [[ラディア・パールマン]] - [[スパニングツリープロトコル]]を発明。その後[[サン・マイクロシステムズ]]を経て[[インテル]]へ * {{仮リンク|マーカス・J・レイナム|en|Marcus J. Ranum}} - ネットワークセキュリティの専門家 * [[ポール・ヴィクシー]] - [[Request for Comments|RFC]]執筆や[[BIND]]などインターネット関連で活動 また、半導体部門でAlphaやStrongARMの開発を主導したかつての従業員として以下の人々がいる。 * [[:en:Daniel W. Dobberpuhl|Daniel W. Dobberpuhl]] - MicroVAX、Alpha、StrongARM *[[ジム・ケラー]] * Rich Witek - StrongARM * [[ダーク・メイヤー]] - Alphaシステム開発者の一人。その後[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]へ 研究所の活動の一部は1985年から1998年まで発行されていた ''Digital Technical Journal'' で知ることができる<ref>[http://www.hpl.hp.com/hpjournal/dtj/past.htm Digital Technical Journal – Online Issues]</ref>。 == 成果 == * DECは[[ANSI]]標準、特に[[ASCII]][[文字集合]]をサポートしてきた。それは現在[[Unicode]]と[[国際標準化機構|ISO]]文字集合に受け継がれている。またDEC独自の Multinational Character Set は、[[ISO/IEC 8859-1|ISO 8859-1]]やUnicodeの[[Latin-1]]文字群に多大な影響を与えた。 * UNIXは最初にDEC のマシンPDP-7上で作られ、後にPDP-11に移植された。この際、PDP-7の[[アセンブリ言語]]で書かれていたUNIXをポータブルに移植する([[移植性]]を高める)ために[[C言語]]が設計され、世界で最初に PDP-11 上に実装された。 * VT-78は世界で初めて商業的に成功したワークステーションである。 * DECが作り出したオペレーティングシステム (OS) として、OS/8、[[TOPS-10]]、[[TOPS-20]]、[[RSTS/E]]、[[RSX-11]]、[[RT-11]]、VMS、[[Tru64|Digital UNIX]]がある。PDPシリーズの中でも PDP-11 は当時の[[プログラマ]]やソフトウェア開発者に影響を与えた。PDP-11 を使用した工場ライン制御システムや交通制御システムが25年経った2004年まで使われていたとの話もある。DECはタイムシェアリングシステムでも業界をリードした。 * [[グラフィカルユーザインターフェース]] (GUI) における[[Apple]]のように、DECは[[キャラクタユーザインターフェース|コマンド行インターフェイス]] (CLI) で重要な位置を占めている。起源や様々な発明はDEC以前にもあったが、CLIの形式を完成させたのはDECである。{{仮リンク|DIGITALコマンド言語|en|DIGITAL Command Language|label=DCL}}として成文化されたDECのOSに見られるコマンド行インターフェイスは、最近のCLIのユーザーから見れば非常に親しみ易い。一方、CTSS、IBMの[[Job Control Language|JCL]]、[[UNIVAC]]のタイムシェアリングシステムなどのCLIは全く別物に見えるだろう。CP/MやMS-DOSのCLIはDECのOSと近い特徴を多く有している。例えば、コマンド名(DIR、HELPなど)やファイル名にドットで区切って[[拡張子]]を付ける規則などである。 * VMSを実行するVAXや(1980年代に広範囲に使われた)Micro-VAXコンピュータは、[[インターネット]]以前の重要な[[コンピュータネットワーク]][[DECnet]]を形成した。DECnetの[[通信プロトコル]]は初期の[[Peer to Peer|P2P]]ネットワーク標準のひとつとなった。市場がその価値に気づく以前から、[[電子メール]]、[[ファイル共有]]、企業内分散協調プロジェクトなどを実現していた。 * DECは[[インテル]]や[[ゼロックス]]と共に[[イーサネット]]の元になったDIX規格を策定。DECは特にイーサネットを商業的成功に導いた。当初、イーサネットはDECnetとLAT (Local Area Transport) プロトコルと共に使われ、VAXや[[端末サーバ]]([[RS-232|RS-232C]]接続端末を複数台接続し、イーサネット経由でホストシステムに接続する機器)を接続するのに使用された。DECは[[Unibus]]用など様々なイーサネットアダプタやコントローラを生み出し、それが業界標準となった。CI "computer interconnect" は、今日では一般的な送信と受信を内部的に分離した初めてのネットワークインターフェイスコントローラーである。 * 複数のマシンを論理的にひとつとして扱う[[コンピュータ・クラスター]]技術はDECが開発した(正確には製品としてクラスタを発売して最初に商業的に成功したのがDECである)。[[VMScluster]]は単に分散処理ができるだけではなく、ディスクや磁気テープ装置なども共有できるようになっていた。 * LA36とLA120ドットマトリックスプリンタは業界標準になり、[[テレタイプ端末]]の終焉をもたらしている。 * [[VT100]][[端末]]が業界標準になり、今日の[[PuTTY]]、[[Xterm]]などの端末エミュレータでも、VT100をエミュレートできる(これら端末エミュレータのほとんどは、後継機種で上位互換のあるVT220をエミュレートする)。 * [[X Window System]]はマサチューセッツ工科大学 (MIT) の[[Project Athena]]と[[Project MAC|コンピュータ科学研究所]]が共同開発したが、DECはこのプロジェクトのメインスポンサーだった。 * [[RSX-11]]M、[[RSX-11]]M+、[[OpenVMS|VMS]]といったOS開発を手がけた[[デヴィッド・カトラー]]は1988年にDECを去り、マイクロソフトで [[Microsoft Windows NT|Windows NT]] の開発を指揮。そのため、Windows NTの内部構造は VMS に似ている部分が多い。VMSを同様の思想のもとに設計しなおしたのが Windows NT [[カーネル]]といえる。この命名には諸説あるが、VMSから進化させたことを受けて、"VMS" の英字を1文字ずつ進めて "WNT"、つまりWindows NTとなったと言われている。カトラーはこの噂を否定も肯定もしていない。 * Notes-11 とその後継プロジェクト VAXnotes は[[グループウェア]]の初期の研究である。Notes-11開発者の一人 Len Kawell は後に[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]]に転職し、[[Lotus Notes]]開発に関わった。 * DECは早くからインターネット関連事業を展開しており、1985年に ''dec.com'' というドメインを登録している<ref>[http://research.microsoft.com/Users/gbell/Digital/timeline/1985-6.htm dec.com]</ref>。[[World Wide Web]] が一般化する以前にはDECのソフトウェア[[リポジトリ]] ''gatekeeper.dec.com'' もよく知られていた。また、1993年10月1日には公式ウェブサイトを開設している<ref>[http://listserv.acsu.buffalo.edu/cgi-bin/wa?A2=ind9402&L=dectei-l&T=0&P=200 DECTEI-L Archives – February 1994 (#2)]{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。[[Google]]以前にインターネット上を席巻していた[[検索エンジン]][[Altavista]]のスポンサーでもあった。 * 磁気テープ [[Digital Linear Tape]] (DLT) の発明は、冷蔵庫ほどの大きさのオープンリールテープ装置を小型化して 5.25" スロットに収まるようにしたのが始まりで、それが800ギガバイトを超える容量のテープ装置にまで発展した。 * DECの[[DIGITAL HiNote|DIGITAL HiNote Ultra]]シリーズは、当時としては考えられない程スリム(薄型)な[[ノートパソコン]]だった。その優れたデザインや設計思想は、コンパック及びヒューレット・パッカードの製品に引き継がれている。 * 世界初のハードディスク内蔵型[[MP3]]プレイヤー Personal Jukebox は[[コンパック]]への吸収合併の約1ヵ月前に DEC Systems Research Center で開始された。 * コンパックの[[iPAQ]]のベースとなったのはDECで研究開発されていた[[:en:Itsy Pocket Computer|Itsy Pocket Computer]]である。 == ユーザー団体 == DECの[[ユーザーグループ]]としては、1960年代から1990年代まで [[:en:DECUS|DECUS]] (Digital Equipment Computer User Society) と呼ばれた団体がある。1998年に[[コンパック]]に買収されると、DECUSは CUO (Compaq Users' Organisation) と改称。2002年にコンパックが[[ヒューレット・パッカード|HP]]に買収されると [[:en:HP-Interex|HP-Interex]] となったが、いくつかの国ではDECUSがそのまま存続している。アメリカでは[[:en:Encompass|Encompass]]がそれに相当する。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation |url= http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/digital/DEC%201957%20to%20Present%201978.pdf |title=Digital Equipment Corporation: Nineteen Fifty-Seven to the Present |publisher=DEC Press |year=1978 |ref={{SfnRef|Present|1978}}}} * Alan R. Earls, ''Digital Equipment Corporation''; Arcadia Publishing, 2004, ISBN 0-7385-3587-7. * {{Cite book |author=Edgar H. Schein, Peter S. DeLisi, Paul J. Kampas, and Michael M. Sonduck |year=2003 |title=DEC Is Dead, Long Live DEC: The Lasting Legacy of Digital Equipment Corporation |publisher=Barrett-Koehler Pub |location=San Francisco |isbn=1-57675-225-9 |ref={{SfnRef|Schein|2003}}}} * Jamie P. Pearson, ''[http://research.microsoft.com/en-us/um/people/gbell/digital/Digital%20at%20work%201992.pdf Digital At Work – Snapshots of the First 35 Years]''; Digital Press, 1992, ISBN 1-55558-092-0 * Glenn Rifkin, and George Harrar, ''The Ultimate Entrepreneur – The Story of Ken Olsen and Digital Equipment Corporation''; Contemporary Books, 1988, ISBN 0-8092-4559-0. * {{Cite book |author=C. Gordon Bell, J. Craig Mudge, and John E. McNamara |year=1978 |title=Computer Engineering - A DEC View of Hardware Systems Design |publisher=Digital Press |isbn=0-932376-00-2 }} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年5月号 |volume=7 |issue=5 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1983-5-1 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年5月号}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Digital Equipment Corporation}} * [[システムユーザビリティスケール]] * [[コンパック]] - DECを買収 * [[ヒューレット・パッカード]] - コンパックを買収 == 外部リンク == * [http://research.microsoft.com/Users/gbell/Digital/timeline/1957.htm DIGITAL COMPUTING TIMELINE 1957-1997](英文サイト;DEC社歴史年表1957年から1997年まで) * [http://research.microsoft.com/users/gbell/Digital/DECMuseum.htm GBell's CyberMuseum for Digital Equipment Corp (DEC)] * [http://technikum29.de/en/devices/dec-history.shtm Rise and Fall of Digital (Equipment Corporation)] - ドイツのコンピュータ博物館による社史 {{DEC hardware}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていしたるいくいつふめんとこおほれえしよん}} [[Category:ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|*]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータ企業]] [[Category:コンピュータ史]] [[Category:コンパック]] [[Category:ヒューレット・パッカード]] [[Category:1998年の合併と買収]]
2003-08-21T02:08:20Z
2023-10-20T03:17:52Z
false
false
false
[ "Template:Sfn", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:仮リンク", "Template:Harvnb", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:DEC hardware", "Template:リンク切れ", "Template:Citation", "Template:基礎情報 会社", "Template:Main", "Template:LaTeX", "Template:Webarchive", "Template:Cite web", "Template:Notelist2", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
13,649
ダイレクトカッティング
ダイレクトカッティングとは、レコード制作方式の一つで、レコード制作において通常行われる、オリジナルテープへの録音・編集・マスターテープの作成、というプロセスを通さず、収録した音曲等をその場でミックスダウンし、そのままラッカー盤をカッティングマシンでカットする、という制作方式である。 アナログオーディオテープレコーダーがマスタリングに使えるレベルに実用化されたのはLPレコードの時代であるから、それ以前の蝋管やSPレコードはダイレクトカッティングであったわけだが、それらを指してこの語が使われることはあまりない。 LPレコード時代には録音時間が格段に延びたこともあり、テープレコーダーをセッション録音・編集に使用するようになった。しかしアナログテープレコーダーは信号の変化が不可避であるため、これを避けあえてリアルタイムでカッティングマシンに信号を入力して原盤を制作したのがダイレクトカッティングである。 ダイレクトカッティングでは、演奏およびカッティングが一発勝負であるため、許容できない演奏ミスやミキシング、エフェクト、カッティングレベルの調整不足等があるとレコード片面分が全面的にやり直しになってしまうため、ごく一部の高音質を求めるオーディオマニア向け録音として企画されるにとどまった。ダイレクトカッティングにはコンサートに期待される演奏の緊張感が求められるため(ファーストテイク、一発録り)、敢えてこの方法に挑戦するアーティストもあった。 LPレコード時代における最初のダイレクトカッティング盤は、1969年に日本コロンビアがリリースした一連の45回転LPであった。その後、1970年代中頃から国内外のレーベルからダイレクトカッティングLPが多数リリースされたが、PCM録音の導入により、徐々に製作・リリースは減っていった。 高音質デジタル録音で有名なテラーク社も、デジタル導入前はダイレクト・カッティングを採用していた。 CD登場の初期、いわゆる「DDD」と呼ばれる全ディジタルの制作プロセスが一般的になる以前には、物理的な切り貼りで編集可能なアナログで編集されることもあったため、アナログなプロセスが介在していないCDとしてダイレクトカッティングに意味がある場合もあった。現在も、生演奏を直接CDのガラスマスターにカッティングして制作しているダイレクトカッティングCDも少数ながら存在するが、ハイレゾディジタルオーディオによって信号を欠落なく編集可能な現在は、音質などの面ではダイレクトカッティングの意味は薄く、一発録音によるアーティストの緊張感などの精神的な面での意味合いが大きい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイレクトカッティングとは、レコード制作方式の一つで、レコード制作において通常行われる、オリジナルテープへの録音・編集・マスターテープの作成、というプロセスを通さず、収録した音曲等をその場でミックスダウンし、そのままラッカー盤をカッティングマシンでカットする、という制作方式である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アナログオーディオテープレコーダーがマスタリングに使えるレベルに実用化されたのはLPレコードの時代であるから、それ以前の蝋管やSPレコードはダイレクトカッティングであったわけだが、それらを指してこの語が使われることはあまりない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "LPレコード時代には録音時間が格段に延びたこともあり、テープレコーダーをセッション録音・編集に使用するようになった。しかしアナログテープレコーダーは信号の変化が不可避であるため、これを避けあえてリアルタイムでカッティングマシンに信号を入力して原盤を制作したのがダイレクトカッティングである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ダイレクトカッティングでは、演奏およびカッティングが一発勝負であるため、許容できない演奏ミスやミキシング、エフェクト、カッティングレベルの調整不足等があるとレコード片面分が全面的にやり直しになってしまうため、ごく一部の高音質を求めるオーディオマニア向け録音として企画されるにとどまった。ダイレクトカッティングにはコンサートに期待される演奏の緊張感が求められるため(ファーストテイク、一発録り)、敢えてこの方法に挑戦するアーティストもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "LPレコード時代における最初のダイレクトカッティング盤は、1969年に日本コロンビアがリリースした一連の45回転LPであった。その後、1970年代中頃から国内外のレーベルからダイレクトカッティングLPが多数リリースされたが、PCM録音の導入により、徐々に製作・リリースは減っていった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "高音質デジタル録音で有名なテラーク社も、デジタル導入前はダイレクト・カッティングを採用していた。", "title": "ダイレクトカッティング制作の例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "CD登場の初期、いわゆる「DDD」と呼ばれる全ディジタルの制作プロセスが一般的になる以前には、物理的な切り貼りで編集可能なアナログで編集されることもあったため、アナログなプロセスが介在していないCDとしてダイレクトカッティングに意味がある場合もあった。現在も、生演奏を直接CDのガラスマスターにカッティングして制作しているダイレクトカッティングCDも少数ながら存在するが、ハイレゾディジタルオーディオによって信号を欠落なく編集可能な現在は、音質などの面ではダイレクトカッティングの意味は薄く、一発録音によるアーティストの緊張感などの精神的な面での意味合いが大きい。", "title": "ダイレクトカッティング制作の例" } ]
ダイレクトカッティングとは、レコード制作方式の一つで、レコード制作において通常行われる、オリジナルテープへの録音・編集・マスターテープの作成、というプロセスを通さず、収録した音曲等をその場でミックスダウンし、そのままラッカー盤をカッティングマシンでカットする、という制作方式である。
{{出典の明記|date=2017年11月5日 (日) 04:08 (UTC)}} '''ダイレクトカッティング'''とは、[[レコード]]制作方式の一つで、レコード制作において通常行われる、オリジナルテープへの録音・編集・マスターテープの作成、というプロセスを通さず、収録した音曲等をその場で[[ミキシング|ミックスダウン]]し、そのままラッカー盤をカッティングマシンでカットする、という制作方式である。 == 概要 == アナログオーディオ[[テープレコーダー]]がマスタリングに使えるレベルに実用化されたのはLPレコードの時代であるから、それ以前の蝋管や[[SPレコード]]はダイレクトカッティングであったわけだが、それらを指してこの語が使われることはあまりない。 LPレコード時代には録音時間が格段に延びたこともあり、[[テープレコーダー]]をセッション録音・編集に使用するようになった。しかしアナログテープレコーダーは信号の変化が不可避であるため、これを避けあえてリアルタイムでカッティングマシンに信号を入力して原盤を制作したのがダイレクトカッティングである。 ダイレクトカッティングでは、演奏およびカッティングが一発勝負であるため、許容できない演奏ミスやミキシング、エフェクト、カッティングレベルの調整不足等があるとレコード片面分が全面的にやり直しになってしまうため、<!--制作費が高く、-->ごく一部の高音質を求めるオーディオマニア向け録音として企画されるにとどまった。ダイレクトカッティングにはコンサートに期待される演奏の緊張感が求められるため(ファーストテイク、一発録り)、敢えてこの方法に挑戦するアーティストもあった。 LPレコード時代における最初のダイレクトカッティング盤は、1969年に日本コロンビアがリリースした一連の45回転LPであった<ref>{{cite web|title=Columbia 45rpm Direct-Cutting Series|publisher=Discogs|url=https://www.discogs.com/label/587732-Columbia-45rpm-Direct-Cutting-Series|accessdate=15 March 2021}}</ref>。その後、1970年代中頃から国内外のレーベルからダイレクトカッティングLPが多数リリースされたが、PCM録音の導入により、徐々に製作・リリースは減っていった。 == ダイレクトカッティング制作の例 == * [[リー・リトナー]]『[[ジェントル・ソウツ]]』・『シュガー・ローフ・エクスプレス』(共に1977年) ** [[日本ビクター]]のプロデュースによる。ドラム以外はアンプを通したエレクトリックサウンドのため、[[電気録音]]以前に行われたような[[アコースティック録音]]ではないものの、難曲の数々を一発録りしている。本作はテイク違いで二つの音源がある。現在CD化されているものは同時に録音されたテープをマスターとしている。 * [[T-SQUARE|THE SQUARE]]『[[Midnight Lover]]』(1978年) ** 初回のみダイレクトカッティング制作。 * [[ザ・キング・トーンズ]]『DOO-WOP! Tonight』(1980年) ** [[大瀧詠一]]プロデュース。[[ロックンロール]]草創期の[[ドゥーワップ]]曲のカヴァーであるため、まだSP盤が現役であった当時の録音状況を再現するため[[モノラル]]ミックス・ダイレクトカッティングでの制作となった。<!--あえてモノラルミックスで制作されていることから、音質面より演奏の緊張感の方に重点を置いた制作の一例であると思われる。-->後年同録テープを使用してCD化されたが、そこでもモノラルミックスのままである。 * [[西島三重子]]『地球よ廻れ/ダイレクトカット45』(1988年) ** テープレコーダーを通さないためプレモニタができず、音溝が等間隔になっている。録音は公開で行われた。 * [[ジム・ホール]]『無言歌』(1972年) ** CDでは「ライヴ・イン・トーキョー」と2in1でカップリングされている。なおCDに収録の音源は、ダイレクトカッティングと同時に録音されたテープを編集したものをマスターとしている。 * [[ハービー・ハンコック]]『ダイレクトステップ』(1978年) * [[ジョー・サンプル]]、[[レイ・ブラウン]]、[[シェリー・マン]]『ザ・スリー』(1976年) ** 曲目が全く同じで別内容のテイク1とテイク2がそれぞれLPで発売された。CDには両方のテイクが収録されている。イーストウインド紙ジャケットCDシリーズの特典として、未発表テイクを収録したCDが応募者にもれなく進呈された。 * [[グレイト・ジャズ・トリオ]]『ダイレクト・フロム LA』 * ザ・ペンタゴン『ザ・ペンタゴン』(1976年) ** クリフォード・ジョーダン、シダー・ウォルトン、サム・ジョーンズ、ビリー・ヒギンズ、レイ・マンティーラのグループ。 * [[井筒香奈江]]『Direct Cutting at King Sekiguchidai Studio』(2019年) ** 先述の『地球よ廻れ/ダイレクトカット45』以来31年ぶりとなり、[[21世紀]]では初めてのダイレクトカッティング盤となる。 <!--(他はちょっと調べが付いていません)--> 高音質デジタル録音で有名な[[テラーク・インターナショナル・コーポレーション|テラーク社]]も、デジタル導入前はダイレクト・カッティングを採用していた。 [[コンパクトディスク|CD]]登場の初期、いわゆる「DDD」と呼ばれる<ref>[[:en:SPARS code]]を参照</ref>全ディジタルの制作プロセスが一般的になる以前には、物理的な切り貼りで編集可能なアナログで編集されることもあったため<ref>CDが登場した頃は、CD-DAのPCMを自在に編集できるようなスペックを持ったコンピュータはまだ一般的ではなかった。</ref>、アナログなプロセスが介在していないCDとしてダイレクトカッティングに意味がある場合もあった。現在も、生演奏を直接CDのガラスマスターにカッティングして制作しているダイレクトカッティングCDも少数ながら存在するが、ハイレゾディジタルオーディオによって信号を欠落なく編集可能な現在は、音質などの面ではダイレクトカッティングの意味は薄く、一発録音によるアーティストの緊張感などの精神的な面での意味合いが大きい。 == 注 == <references/> == 関連項目 == * [[録音]] * [[ダブ・プレート]] {{DEFAULTSORT:たいれくとかつていんく}} [[category:録音]] [[category:音楽に関するメディア]]
null
2022-04-07T13:02:21Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0
13,651
D
Dは、ラテン文字(アルファベット)の4番目の文字。ギリシャ文字のΔ(デルタ)に由来し、キリル文字のДに相当する。小文字は d 。 大きく分けて2つの字形が使われる。 この文字が表す音素は、[d](有声歯茎破裂音)ないしその類似の歯茎音である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Dは、ラテン文字(アルファベット)の4番目の文字。ギリシャ文字のΔ(デルタ)に由来し、キリル文字のДに相当する。小文字は d 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大きく分けて2つの字形が使われる。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素は、[d](有声歯茎破裂音)ないしその類似の歯茎音である。", "title": "音素" } ]
Dは、ラテン文字(アルファベット)の4番目の文字。ギリシャ文字のΔ(デルタ)に由来し、キリル文字のДに相当する。小文字は d 。
{{for|その他|D (曖昧さ回避)}} {{A-Z}} '''D'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[4]]番目の文字。[[ギリシャ文字]]の[[Δ]](デルタ)に由来し、[[キリル文字]]の[[Д]]に相当する。小文字は '''d''' 。 == 字形 == [[File:D cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-D.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大きく分けて2つの字形が使われる。 #縦線の右に半円を1つ続けた形で、大文字がそうである。[[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{D}</math>のようである。しばしば[[O]]や[[P]]や[[b]]との区別のため縦線に横棒を加えてÐのように書くことがある。また、[[アイスランド語]]、[[フェロー語]]の{{Unicode|[[Ð|Ð ð]]}}、並びに南[[スラヴ語派|スラヴ諸語]]や[[ベトナム語]]の {{Unicode|[[Đ|Đ đ]]}}、[[エヴェ語]]の{{Unicode|[[Ɖ|Ɖ ɖ]]}}は別の字である。 #縦線の下部の左に円を1つ付けた形で、小文字がそうである。[[フラクトゥール]]の<math>\mathfrak{d}</math>のように、しばしば上に延びた線が左に曲がることがあるが、この場合、線が折り返してはならず、また円との接点より下には線が続いていてはならない。そうでないとaと区別が付かなくなる。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]]:デー * [[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]・[[トルコ語|土]]:デ * [[イタリア語|伊]]:ディ * {{Lang-en-short|dee}}(ディー) ([[国際音声記号|IPA]]: {{IPA|diː}}) ''{{Audio|D (letter name).ogg|聞く}}'' * [[エスペラント|エス]]:ドー * [[ベトナム語|越]]:ゼー * [[日本語|日]]:ディー IPA:[dʲiꜜː]、デー IPA:[de̞ꜜː] == 音素 == この文字が表す音素は、{{IPA|d}}([[有声歯茎破裂音]])ないしその類似の[[歯茎音]]である。 * [[ドイツ語]]では語末や無声子音の前で無声化する。そのため、母音の前であってもこの{{IPA|t}}([[無声歯茎破裂音]])を表す事がある (例:zweitausendeins)。 * [[フランス語]]では語末の d を黙字とする(一部例外あり)。ただし、後続の単語が母音で始まっていれば、[[リエゾン]]して{{IPA|t}}となる({{IPA|d}}とはならない)。 * 英語では、規則動詞の過去形の語尾-edは、その前の音により{{IPA|d}}、{{IPA|t}}、{{IPA|Id}}などと変化する。 * [[中国語]]やその[[方言]]の[[ピンイン]]では[[有気音|無気]]の{{IPA|t}}([[無声歯茎破裂音]])を表す。 * [[中華人民共和国|中国]]南方の方言では、広東省教育部門式の広東語ローマ字のように[[歯茎音|歯茎]][[内破音]]{{IPA|t&#794;}}を表す例もある。 * [[ベトナム語]]では[[有声歯茎摩擦音]]の{{IPA|z}}を表す。ただし、南部方言では[[硬口蓋接近音]]の{{IPA|j}}で発音される。「Đ」や「đ」が[[声門破裂音|声門閉鎖]]を伴う[[有声歯茎破裂音]]の{{IPA|ʔd}}または[[歯茎入破音]]{{IPA|ɗ}}を表す。 * [[日本語]]のローマ字表記では訓令式、ヘボン式共にダ行([[タ行]]濁音)の子音に用いられる。ただし、「ぢ」「づ」は「じ」「ず」と同じ発音のため、それぞれ「JI」、「ZU」となる。日本式やIMEにおけるローマ字入力では、「ぢ」「づ」も含めた全てのダ行に用いられる。 * 朝鮮語のローマ字表記である文化観光部2000年式では有声音、無声音に関わらず初声のㄷに用いられる。マッキューン=ライシャワー式では有声で発音されるㄷに用いられる。 == Dの意味 == === 学術的な記号・単位 === ; 数学 * [[500|五百]]を意味する数字。[[ローマ数字]]で用いる。 * [[13|十三]]を意味する数字。[[十六進法]]や[[二十進法]]など、十四進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small> において十三([[十進法]]の'''13''')を一桁で表すために用いられる。 * "{{en|'''d'''ifferential}}"(微分)の頭文字として、[[数学]]では[[微分]]関連の記号としてよく使われる。(例)dy/dx, [[微分作用素]] ''D'', (余)[[鎖複体]]の微分 ''d'' * [[数学]]では、一般に既知の数、集合、行列等を示す、[[A]], [[B]], [[C]]に次ぐ文字として、また判別式を示す文字として用いられる。 * [[円 (数学)|円]]の[[直径]]({{en|diameter}}) * 数学・[[自然科学]]では差 ({{en|'''d'''ifference}})、距離 ({{en|'''d'''istance}})、次数 ({{en|'''d'''egree}}) や [[次元]] ({{en|'''d'''imension}}) を示す文字として用いられる。 ; 単位 * 繊度の単位、[[デニール]](D:大文字)。 * [[屈折力|屈折度]]の単位、[[ディオプトリ|ディオプトリー]](D:大文字)。 * [[1/10]]を表す[[SI接頭語]]'''[[デシ]]'''(d:小文字)。 * [[双極子モーメント]]の[[単位]]、[[デバイ]]('''D'''ebye、大文字)。 ; その他 * [[導来圏]] * [[ドイツ語]]で[[与格]](間接目的語を表す格){{de|'''''D'''ativ''}}の略。 * [[電界効果トランジスタ]](FET)の端子の一つ。ドレイン ({{en|'''d'''rain}}) * [[ダイオード]] ({{en|'''d'''iode}}) * [[音楽|洋楽]]で用いられる[[音名]]の一つ(英米式、独式)。イタリア式では「'''re'''」、日本式では「'''ニ'''」に相当。→[[ニ (音名)]] ** 音階の2番目の音であることから、音楽関係者の間で2を表す隠語として使われる。例:D(デー)万=2万(円) * Dで、[[ドイッチュ番号]]([[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の作品に付せられる) * [[血液型|Rh血液型]]における[[抗原]]の一つ。これにより、+と&minus;とが判定される。 * 電磁気学の分野では[[電束密度]]を表す。 * [[ケッペンの気候区分]]の[[亜寒帯|冷帯]]([[亜寒帯]])を表すD。 * [[水素]]の同位体[[重水素]]({{en|deuterium}})を表す記号(D:大文字)。 * [[化学]]で、[[キラリティー]]のある分子を識別する記号 ('''d'''extro)。 ** 分子全体が[[旋光性|右旋性]]であることを示す(小文字)。 ** d-[[グリセルアルデヒド]]と同じ立体配置を持つものを示す(大文字)。→[[DL表記法]] * 遅延[[開閉器|スイッチ]]。構内電気設備配線用図記号([[JIS]] C 0303:2000)で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 * [[博士号]] (doctor) の略。D1と表記されれば博士課程1年生の意。 * [[没年]] (Death year) の略字として使われる。d. 1945と表記されれば1945年没の意。 * 経済学で、[[需要と供給|需要]]('''D'''emand)。 === その他の記号 === * [[日]](day) * [[自動車]]の[[オートマチックトランスミッション|AT]]の[[ドライブ]](前進及び通常走行位置)。 * [[ダイニング]](dining 食事)の略。 ** ダイニングルーム(食堂 食事室) ** 鉄道車両の用途を表す副記号で、[[食堂車]]を表す(2階建て車と区別するため大文字で書く)。 * 鉄道車両の用途を表す副記号で、[[2階建車両]]を表す(食堂車と区別するため小文字で書く)。 * [[デザイナー]] (designer) の略。 * 古代ローマ人の個人名デキムス (Decimus) の略。 * [[テレビ]]・[[ラジオ]]の放送業界や、音楽業界などでの[[ディレクター]]の意味。 * [[二重]]を意味するdoubleの略。日本ではこの意味で[[W]]が使われることもあるが、英語圏では用いられない(詳しくはWの記事を参照)。 * 欧米の[[アスキーアート]]において、しばしば空けた[[口]]を意味する。(例 :-D) * 欧州の自動車のカテゴリー、全長を基準に設定されている記号。[[Dセグメント]]。 * 「デルタ」[[フォネティックコード]]の第四コード。 * [[デジタル]]の略。[[デジタル-アナログ変換回路|DA変換]]など。 === 商品名・作品名・固有名等 === * コンピュータ ** [[D (データベース言語仕様)]]([[Tutorial D]] などの[[データベース言語]]の基となっている仕様) ** [[D言語]]([[プログラミング言語]]の一つ)。 ** [[D〜欧州蜃気楼〜]]([[ウルフ・チーム]]が[[1990年]]に発売した[[第二次世界大戦]]を舞台としたパソコン用[[ウォー・シミュレーションゲーム]])。 * 電気・機械 ** [[日本国有鉄道|国鉄]]([[JR]])等の[[機関車]]で、動軸が4軸の形式に付される記号。'''D'''51、E'''D'''75など。 *** 国鉄(JR)等で[[ディーゼル機関車]]の形式に付される記号。'''D'''D51、'''D'''E10など。 *** 国鉄(JR)等の[[列車番号]]で[[気動車]]列車に付されるアルファベット。 *** [[東日本旅客鉄道株式会社|JR東日本]]が所有するディーゼル型[[検測車]]の愛称。[[JR東日本キヤE193系気動車|East i-'''D''']] ** [[スウェーデン国鉄D形電気機関車]] ** 電機業界では[[三菱電機]]を表す (D=Diamond)。 *** [[NTTドコモ]]や[[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]の携帯電話における[[三菱電機]]製端末に付く型番。 ** [[アステル]]では[[デンソー]]製端末を意味していた(通常は「DE」)。 ** [[ニコン]]の[[デジタルカメラ|デジタル]][[一眼レフカメラ]]。[[ニコンのカメラ製品一覧]]を参照のこと。 ** [[インテル]]が[[開発]]した[[デスクトップ]]向け[[CPU]]の名称『[[Pentium D]]』『[[Celeron D]]』。 ** [[映像機器]]接続用の[[D端子]]。[[コネクタ]]形状がDの形であることから名付けられた。 ** 日産車のエンジン形式では[[DOHC]]もしくは[[直噴エンジン]]を表す。 * 作品・キャラクター名等 ** [[菊地秀行]]原作の小説「[[吸血鬼ハンターD]]」の主人公の名"D"。 ** Pure Platinumの[[ビジュアルノベル]]、『D 〜その景色の向こう側〜』の略称。 ** アーケードゲーム『[[QUEST OF D]]』に登場する魔導書。 ** 映画作品。[[D (映画)]]を参照のこと。 ** 漫画及びそれを原作にしたアニメ/ゲーム/実写映画作品『[[頭文字D]]』。 *** 同作内のチーム「プロジェクトD」。 ** [[右寺修|Des-ROW]]のCDアルバム。[[D.]]を参照のこと。 * 芸能・スポーツ ** 日本の[[ヴィジュアル系]]バンド、[[D (バンド)]]。 ** 日本の女性アーティスト、[[D[diː]|<nowiki>D[diː]</nowiki>]]。 ** 日本の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[中日ドラゴンズ]] (Dragons) の略号。 ** 日本のプロ野球球団[[横浜DeNAベイスターズ]] の略号。中日との混合のために使われることは少ない。 * その他 ** [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[函館市電|函館市電5系統]] ('''D'''okku)、[[JR西日本|JR]][[奈良線]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[大阪線]]、[[JR西日本|JR]][[山陰線]]([[米子駅]]〜[[益田駅]])、[[JR四国|JR]][[土讃線]]([[多度津駅]]〜[[高知駅]])('''D'''osan)、[[西日本鉄道|西鉄]][[西鉄太宰府線|太宰府線]] ('''D'''azaifu) の[[路線記号]]として用いられる。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0044|68||1-3-36|0064|100||1-3-68|[[半角]]}} {{ULu|FF24|65316||1-3-36|FF44|65348||1-3-68|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24B9|9401||‐|24D3|9427||1-12-36|丸囲み}} {{ULu|1F113|127251||‐|249F|9375||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D30|7472||‐|1D48|7496||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D403|119811||‐|1D41D|119837||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D437|119863||‐|1D451|119889||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D46B|119915||‐|1D485|119941||‐|イタリック体太字}} {{ULu|1D49F|119967||‐|1D4B9|119993||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D3|120019||‐|1D4ED|120045||‐|筆記体太字}} {{ULu|1D507|120071||‐|1D521|120097||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D53B|120123||‐|1D555|120149||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|2145|8517||‐|2146|8518||‐|黒板太字イタリック}} {{ULu|1D56F|120175||‐|1D589|120201||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A3|120227||‐|1D5BD|120253||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5D7|120279||‐|1D5F1|120305||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D60B|120331||‐|1D625|120357||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D63F|120383||‐|1D659|120409||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D673|120435||‐|1D68D|120461||‐|[[等幅フォント]]}} {{ULu|216E|8558||1-3-36|217E|8574||1-3-68|[[ローマ数字]][[500]]|font=JIS2004フォント}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|7429|1D05|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL D}} {{CharCode|127283|1F133|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER D|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127315|1F153|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER D|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127347|1F173|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER D|font=ARIB外字フォント}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=Delta |Morse=-・・ |Character=D4 |Braille=⠙ }} == 関連項目 == {{Wiktionarypar|D|d}} *{{Unicode|[[Đ]] đ}} - [[ストローク符号]]([[クロアチア語]]、[[サーミ語]]、[[ベトナム語]]) *{{Unicode|[[Ð]] ð}} - ストローク符号<ref name="Unicode">[[Unicode]] ではストローク符号として見なされていない。</ref>([[アイスランド語]]、[[フェロー語]]) *{{Unicode|[[Ɖ]] ɖ}} - ストローク符号<ref name="Unicode" />([[エウェ語]]) *{{Unicode|[[Ď]] ď}} - [[ハーチェク]] *{{Unicode|[[Ḑ]] ḑ}} - [[セディーユ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
2003-08-21T04:20:05Z
2023-11-29T06:57:52Z
false
false
false
[ "Template:For", "Template:En", "Template:ラテン文字", "Template:Unicode", "Template:Lang-en-short", "Template:IPA", "Template:De", "Template:Letter other reps", "Template:Wiktionarypar", "Template:A-Z", "Template:CharCode", "Template:Reflist", "Template:Audio", "Template:ULu", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/D
13,653
E
Eは、ラテン文字(アルファベット)の5番目の文字。小文字は e 。ギリシャ文字のΕ(エプシロン)に由来し、キリル文字のЕに相当する。英文で最も使われる文字である。 大文字と小文字で異なる。 この文字が表す音素は、/e/(非円唇前舌狭半母音)または/ɛ/(非円唇前舌広半母音)、ないしその類似音である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Eは、ラテン文字(アルファベット)の5番目の文字。小文字は e 。ギリシャ文字のΕ(エプシロン)に由来し、キリル文字のЕに相当する。英文で最も使われる文字である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大文字と小文字で異なる。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素は、/e/(非円唇前舌狭半母音)または/ɛ/(非円唇前舌広半母音)、ないしその類似音である。", "title": "音素" } ]
Eは、ラテン文字(アルファベット)の5番目の文字。小文字は e。ギリシャ文字のΕ(エプシロン)に由来し、キリル文字のЕに相当する。英文で最も使われる文字である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{特殊文字|説明=[[アクセント記号]]「[[アキュート・アクセント]]」(é)}} {{A-Z}} '''E'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[5]]番目の文字。小文字は '''e''' 。[[ギリシャ文字]]の[[Ε]](エプシロン)に由来し、[[キリル文字]]の[[Е]]に相当する。英文で最も使われる文字である。 == 字形 == [[File:E cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-E.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大文字と小文字で異なる。 # 大文字は、縦線の上端、下端、中央から、右に垂直に線が付き出した形である。筆記体では<math>\mathcal{E}</math>のように上半分と下半分をそれぞれ円弧を書きながらで一筆で書く(中線は折り返して2度書く)。[[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{E}</math>のようである。 # 小文字は大文字を丸め(Є)、上と中の線を右で接続した形と言えるかもしれない。不完全な円と、それを横切る直線であり、円は直線との右の交点の下が少し欠ける。直線は右上がりに書かれることもある。また筆記体では円とひと続きの曲線で書かれる。フラクトゥールでは<math>\mathfrak{e}</math>。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]]・[[エスペラント|エス]]:エー {{ipa|ɛː}}, {{ipa|eː}} * [[イタリア語|伊]]・[[スペイン語|西]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[トルコ語|土]]:エ {{ipa|ɛ}}, {{ipa|e}} * [[フランス語|仏]]:ウ {{ipa|ə}} * [[英語|英]]・[[日本語|日]]:イー {{ipa|iː}} == 音素 == この文字が表す音素は、{{ipa|e}}([[非円唇前舌狭半母音]])または{{ipa|ɛ}}([[非円唇前舌広半母音]])、ないしその類似音である。 * しばしば[[曖昧母音]]化する。 ** [[フランス語]]では{{ipa|e}}等と曖昧母音とで[[アクサン]]などを使い、綴りの書き分けを行う。アクサンなしの e が語末に来たときは、綴字上は音節を成すが、e 自体は(詩などでない限り)決して発音されない。たとえば "illustre" は綴字上は "il-lus-tre" と三個に分綴されるが、音節は "il-lustre" {{ipa|i-lystr}} のように二音節である。 ** [[インドネシア語]]でも辞書では{{ipa|e}}をé、曖昧母音をeと書く。 * [[英語]]やフランス語では語尾のeは他に母音があれば無音になることが多い。 ** 英語では[[大母音推移]]により、多く短音は{{ipa|e}}, 長音は{{ipa|iː}}, [[母音弱化|弱化]]した場合は{{ipaxl|ɪ|I}}となる。母音字 + 子音字 + e のつづりで子音字が一つ、または二つの子音のとき、前者の母音を文字名称(長音)で読み、e は読まない。 ** 英語で “are” の3字で “ar” の綴りと同じ発音([[イギリス英語]]で{{ipa|ɑː}}、[[アメリカ英語]]で{{ipa|ɑːr}})を表す例がある。 * [[オランダ語]]ではアクセントが無いと曖昧母音になる。 * [[ハンガリー語]]では{{ipa|ɛ}}、[[é]] は{{ipa|eː}}。 * フランス語では en または em に他の子音が続くとき、または語末でやや円唇化した{{ipa|ɑ̃}}([[非円唇後舌広鼻母音]])になる。 * [[北京語]]の音素{{ipa|e}}は[[非円唇後舌狭半母音|後舌化]]している。 * [[日本語]]のローマ字表記では[[エ段]]の母音に用いる。 * 朝鮮語のローマ字表記では母音{{lang|ko|[[ㅔ]]}}を示す。[[文化観光部2000年式]]ではoやuの前に置いて類似の別音を示すのにも用いられる。 * [[リトアニア語]]では大きく分けて二通りの発音が為される。[[チルダ#各言語における用法|上昇アクセント]]がある場合は{{ipa|æː}}という発音となり(具体例: [[wikt:geras#リトアニア語|geras]] 〈良い〉)、それ以外の場合は{{ipa|ɛ}}となる, == Eの意味 == {{特殊文字|説明=[[通貨ユーロ]]の記号}} {{上付き文字}} {{Wiktionarypar|E}} {{Wiktionarypar|e}} === 学術的な記号・単位 === * [[数学]] ** [[ネイピア数|自然対数の底]]('''e'''xponential function(指数関数)、小文字) ''e'' = 2.7182818... ** [[単位ベクトル]](通例小文字) ** [[単位行列]](大文字) ** [[群 (数学)|群]]の単位元 ** [[離心率]]('''e'''ccentricity、通例小文字) ** [[期待値]]('''E'''xpectation、通例大文字) ** E系列([[リー群]]・[[リー代数|リー環]]論、大文字) ** 十四を意味する数字。[[十六進法]]や[[二十進法]]など、十五進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十四([[十進法]]の'''14''')を一桁で表すために用いられる。用例:<code>0x0E</code> = <code>0d14</code> ** [[十二進法]]では本来使用されない数字であるが、アルファベットの [[B]] と数字の [[8]] が紛らわしいことを理由にアルファベットの B を使用しない例があり、この場合に[[11|十一]](十進法の'''11''')を一桁で表す数字として使用される。この場合、十は 英語:tenの[[T]] または [[ローマ数字]]のように[[X]] で表記される。 * [[物理学]] ** [[エネルギー]]('''E'''nergy、通例大文字) ''E'' = ''mc''<sup>2</sup> ** [[反発係数]](はねかえり係数) **[[熱効率]](thermal '''e'''fficiency) ** e<sup>&minus;</sup> で[[電子]](英語名 '''e'''lectron、小文字) ** [[電気素量]]の値 ''e'' = 1.60217733×10<sup>&minus;19</sup> [[クーロン|C]] ** [[電場]](電界) ''E'' = ''V''/''d'' ** [[電圧]] ''E'' = ''IR''(単位:[[ボルト (単位)|V]])([[オームの法則]]) * [[化学]] ** [[求電子剤]] ('''E'''lectrophile) の略。 ** [[シス-トランス異性体]]で、[[トランス (化学)|トランス]]体を表す記号 ('''e'''ntgegen)。 ** [[グルタミン酸]]の略号 * [[工学]] ** [[SI接頭語]] [[エクサ]] (10<sup>18</sup>)(大文字) ** (主に[[コンピューター]]上で)[[数]]の[[指数表記]]を略記するときに使われる('''E'''xponent、Eの大小は状況による)<ref>[http://kikakurui.com/x0/X0210-1986-01.html JIS X0210-1986] 情報交換用文字列による数値表現</ref>。例:1.23×10<sup>4</sup>を1.23E4と表記。 ** [[トランジスタ]]の端子の一つ。エミッタ ('''E'''mitter) ** [[接地]](アース、'''E'''arth) ** [[E (計算複雑性理論)]] - [[計算複雑性理論]]における[[複雑性クラス]]の1つ。 ** [[標準数]]の'''E'''系列。(E12、E24など。「E」の由来については不詳)[[標準数#JIS C 60063の標準数列]]を参照。 * [[医学]]では[[エストロゲン]]の略。 * [[音楽|洋楽]]で用いられる[[音名]]の一つ(英米式、ドイツ式)。イタリア式では「'''mi'''」、日本式では「'''ホ'''」に相当。→[[ホ (音名)]] ** 音階の3番目の音であることから、音楽関係者の間で3を表す隠語として使われる。例:E(エー)万=3万(円) * [[ケッペンの気候区分]]の[[寒帯]]を表すE。 * €は通貨単位の「[[ユーロ]]」(Euro) の記号。 * 経済学では均衡(equilibrium)。 === その他の記号 === * 方位の東を表す。('''E'''ast) ** [[JR]]グループでは、[[東日本旅客鉄道]]を表すものとして、同社が切符の地紋、車輌系列や形式の番号(例: [[新幹線E2系電車|E2系]]、[[JR東日本E231系電車|E231系]])、「[[E電]]」などに用いる。 ** [[東日本]]向け商品に示される記号([[日清食品]]「[[どん兵衛]]」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/madeby/donbee/soup.html|title=東西で違うどん兵衛の味|publisher=日清食品|accessdate=2012-09-17}}</ref>など)。 * [[日本国有鉄道|国鉄]]([[JR]])等の[[機関車]]で、動軸が5軸の形式に付される記号: D'''E'''10など。 * 国鉄(JR)等で[[電気機関車]]の形式に付される記号: '''E'''F65など。 * [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[東京都交通局E5000形電気機関車|'''E'''5000形]]に付番されている記号。 * [[靴]]の幅の広さをあらわす。Eが多いほど内側の空間が広くなる。 * [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[東北楽天ゴールデンイーグルス]] ('''E'''agles) の略号。 * [[野球]]における、[[失策|エラー]](error)の略。 * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (ō'''E'''do)、[[えちぜん鉄道|えちぜん鉄道線]] ('''E'''chizen)、[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]] (m'''E'''ikō)、[[西日本旅客鉄道|JR]][[嵯峨野線]]・[[山陰線]]([[京都駅]]〜[[城崎温泉駅]])、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄名古屋線|名古屋線]]、[[叡山電鉄|叡山電鉄線]] ('''E'''izan)、JR[[木次線]]、[[広島電鉄]][[江波線]] ('''E'''ba) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[自動車]]・[[航空機]]・[[船舶]]等の燃料計で燃料が空であることを表す、'''E'''mptyの略。 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]における[[コンピュータゲーム]]の[[レーティング]]審査組織である[[エンターテインメントソフトウェアレイティング委員会]]による「6歳以上対象」の表示("Everyone"の略で、実質的に全年齢対象として扱われる)。 * [[音楽配信]]サイトにおいて、[[歌詞]]に[[卑語]]([[Fワード]]等)が含まれており、[[ペアレンタル・アドバイザリー]]に指定されている楽曲を示す記号、'''E。'''([[英語]]で「露骨な」という意味の”Explicit”の略。) * かつて存在したアメリカの巨大エネルギー企業[[エンロン]] ('''E'''nron) の略号。 * [[au (携帯電話)|au by KDDI]]の法人向け[[CDMA 1X WIN]]端末は型番が「E」で始まる。 * フランス語では語尾に e をつけると女性形となる。例として、男の[[婚約|フィアンセ]]は {{lang|fr|fiancé}}、女は {{lang|fr|fiancée}} となる。この e を付けるために調整して変化する場合もある: 男性名[[ジャン (曖昧さ回避)|ジャン]]は Jean、女性名[[ジャンヌ (曖昧さ回避)|ジャンヌ]]は Jeanne。男性名[[アントワーヌ (曖昧さ回避)|アントワーヌ]]は Antoine、女性名[[アントワネット (曖昧さ回避)|アントワネット]]は Antoinette。 * 接地極付[[コンセント]]。構内電気設備配線用図記号([[JIS]] C 0303:2000)で用いられる。 * [[NHK教育テレビジョン]](Eテレ)。 * アメリカのテレビ局。([[E!]]) === 自動車に関するもの === * [[1978年|昭和53年]]排ガス規制に適合した乗車定員10以下の[[乗用車]]を意味する記号。車両型式の前に付与。(例: '''E'''-[[トヨタ・マークII|GX81]]) * [[自動車]]や[[オートバイ]]の[[燃料計]]において空([[英語]]:'''E'''mpty)の略。 * [[ヨーロッパ|欧州]]の[[自動車]]のカテゴリー、全長を基準に設定されている記号: [[Eセグメント]]。 * [[メルセデス・ベンツ]]の車種名: [[メルセデス・ベンツ・Eクラス|Eクラス]]。 * [[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の絶版[[スポーツカー]]: [[ジャガー・Eタイプ|Eタイプ]]。 * [[トヨタ自動車|トヨタ]]車の形式名においては、以下の意味がある。 ** [[トヨタ・カローラ|カローラ]]/[[トヨタ・スプリンター|スプリンター]]およびその派生・後継車種([[トヨタ・カローラレビン|レビン]]/[[トヨタ・スプリンタートレノ|トレノ]]、[[トヨタ・カローラセレス|セレス]]/[[トヨタ・スプリンターマリノ|マリノ]]、[[トヨタ・カローラFX|FX]]、[[トヨタ・スプリンターカリブ|カリブ]]、[[トヨタ・ヴォルツ|ヴォルツ]]、[[トヨタ・アレックス|アレックス]]、[[トヨタ・WiLL VS|Will VS]]、[[トヨタ・オーリス|オーリス]]、[[トヨタ・ブレイド|ブレイド]]など)を意味する車両識別記号。(例: T'''E'''27、[[トヨタ・AE86|A'''E'''86]]、NZ'''E'''121) ** [[トヨタ・E型エンジン]]、またはそれを搭載していることを表す。(例: [[トヨタ・スターレット|'''E'''P82]]) ** エンジン形式のハイフンより後ろに付いた場合、[[燃料噴射装置]](EFIまたはD-4。"E"だけの場合はEFI,"SE"の場合はD-4)であることを意味する。(例: 4A-G'''E''',3S-FS'''E''') === その他 === * ''electronic'' の略。特に[[コンピュータ]]や[[インターネット]]などにより、[[電子化]]<ref>ここで言う電子化とは、デジタルデータを作る業務的、経営的、社会的な過程の意。</ref>されたもの: *: [[電子メール|Eメール]](Electronic mail, 電子メール)、[[eラーニング]](e-learning, electronic learning)、[[電子商取引|eコマース]](electronic commerce, 電子商取引)、[[電子政府|e-Government]](electronic government, 電子政府)とこれに倣った[[e-Japan]]、[[エレクトロニック・スポーツ|eスポーツ]]など。 *''education'' の略。[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]。 * [[スコットランド]]の[[河川]]: [[イー川]] (River E) * [[日本]]の[[ガールズバンド]]、[[ZONE (バンド)|ZONE]]の[[ベスト・アルバム]]: [[E 〜Complete A side Singles〜]] * 日本の歌手、[[奥田民生]]のアルバム: [[E (奥田民生のアルバム)]] * 日本のロックバンド、[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]の楽曲(アルバム『[[君繋ファイブエム]]』収録) * [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]携帯端末に対応した[[オペレーティングシステム]]: [[/e/ (オペレーティングシステム)]] == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0045|69||1-3-37|0065|101||1-3-70|[[半角]]}} {{ULu|FF25|65317||1-3-37|FF45|65349||1-3-70|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24BA|9402||‐|24D4|9428||1-12-37|丸囲み}} {{ULu|1F114|127252||‐|24A0|9376||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D31|7473||‐|1D49|7497||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D404|119812||‐|1D41E|119838||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D438|119864||‐|1D452|119890||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D46C|119916||‐|1D486|119942||‐|イタリック体太字}} {{ULu|2130|8496||‐|212F|8495||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D4|120020||‐|1D4EE|120046||‐|筆記体太字}} {{ULu|1D508|120072||‐|1D522|120098||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D53C|120124||‐|1D556|120150||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D570|120176||‐|1D58A|120202||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A4|120228||‐|1D5BE|120254||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5D8|120280||‐|1D5F2|120306||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D60C|120332||‐|1D626|120358||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D640|120384||‐|1D65A|120410||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D674|120436||‐|1D68E|120462||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|7431|1D07|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL E}} {{CharCode|8455|2107|‐|EULER CONSTANT}} {{CharCode|8494|212E|‐|ESTIMATED SYMBOL}} {{CharCode|8519|2147|‐|DOUBLE-STRUCK ITALIC SMALL E}} {{CharCode|127284|1F134|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER E|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127316|1F154|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER E|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127348|1F174|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER E|font=ARIB外字フォント}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Echo |Morse=・ |Character=E5 |Braille=⠑ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Æ]] æ - [[合字]] * [[Œ]] œ - 合字 * [[È]] è - [[グレイヴ・アクセント]] * [[É]] é - [[アキュート・アクセント]] * [[Ê]] ê - [[サーカムフレックス]] * [[Ë]] ë - [[トレマ]] * [[Ē]] ē - [[マクロン]] * [[Ė]] ė - [[ドット符号]] * [[Ę]] ę - [[オゴネク]] * [[Ě]] ě - [[ハーチェク]] * {{IPA2|[[Ə]] ə}} - [[曖昧母音]] * [[Ǝ]] ǝ {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
2003-08-21T04:24:18Z
2023-12-23T11:25:09Z
false
false
false
[ "Template:Lang", "Template:上付き文字", "Template:特殊文字", "Template:Wiktionarypar", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Pp-vandalism", "Template:A-Z", "Template:Ipa", "Template:Ipaxl", "Template:CharCode", "Template:Letter other reps", "Template:ULu", "Template:脚注ヘルプ", "Template:IPA2", "Template:ラテン文字" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/E
13,654
F
Fは、ラテン文字(アルファベット)の6番目の文字。小文字は f 。 この文字が表す音素は、 この字は、古代ギリシア語でかつて使われた、Ϝ(ワウ/ディガンマ)に由来し、本来は/w/音を表していた(ギリシア語の標準のもとになったイオニア・アッティカ方言では早く/w/音が消滅していたために、この文字も使われなくなった)。エトルリア語では当時のギリシア語になかった/f/の音を表すために古く「FH」の2文字で表し、エトルリアから文字を伝えられたローマでは同じ音を単純に「F」1文字で表した。 f は それに f, l, i 等が続くとき、しばしば合字(ligature; リガチャ)を形成する。合字に独立のコードを割り当てる文字コード体系に基づく欧文フォントセットにおいては ff, fi, fl, ffi, ffl のような合字も1つの文字として用意される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Fは、ラテン文字(アルファベット)の6番目の文字。小文字は f 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素は、", "title": "音素" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この字は、古代ギリシア語でかつて使われた、Ϝ(ワウ/ディガンマ)に由来し、本来は/w/音を表していた(ギリシア語の標準のもとになったイオニア・アッティカ方言では早く/w/音が消滅していたために、この文字も使われなくなった)。エトルリア語では当時のギリシア語になかった/f/の音を表すために古く「FH」の2文字で表し、エトルリアから文字を伝えられたローマでは同じ音を単純に「F」1文字で表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "f は それに f, l, i 等が続くとき、しばしば合字(ligature; リガチャ)を形成する。合字に独立のコードを割り当てる文字コード体系に基づく欧文フォントセットにおいては ff, fi, fl, ffi, ffl のような合字も1つの文字として用意される。", "title": "合字" } ]
Fは、ラテン文字(アルファベット)の6番目の文字。小文字は f。
{{Dablink|「'''F#'''」は[[Help:ページ名#特殊文字|MediaWiki上の制約]]から、この項目が表示されます。[[プログラミング言語]]については「[[F Sharp]]」をご覧ください。}} {{otheruses|[[ラテン文字]]のF|[[アルメニア文字]]のՔ|Ք}} {{otheruses||商品名・作品名|F#商品名・作品名}} {{A-Z}} '''F'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[6]]番目の文字。小文字は '''f''' 。 == 字形 == [[File:F cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-F.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] #大文字は、縦線の上端と中央から、右に垂直に線が付き出した形である。筆記体 <span style="font-family:'Arial Unicode MS',FreeSerif,OpenSymbol,Quivira,Symbola,'Komatuna P',YOzFont,'MS Pゴシック';">ℱ</span> などでは[[フラクトゥール]]の <math>\textstyle\mathfrak{F}</math> のように、上線が縦線の左にも大きくはみ出すことがある。 #小文字は大文字の中線より上を丸めた形であり、中線は縦線の左にはみ出す。小文字ながら大文字と同等の高さを持つ。フラクトゥールの <math>\textstyle\mathfrak{f}</math> やイタリック体では、さらに[[書体#欧文書体|ベースライン]]の下にはみ出し、しばしば左に曲げられて '''''{{Unicode|ƒ}}''''' のように書かれる。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[フランス語|仏]]・[[英語|英]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[インドネシア語|尼]]・[[日本語|日]]:エフ * {{Lang-es-short|efe}}(エフェ) * {{Lang-it-short|effe}}(エッフェ) * [[ウェールズ語]]:エヴ * [[エスペラント|エス]]:フォー == 音素 == この文字が表す音素は、 * [[国際音声記号]]では小文字の f が「[[無声唇歯摩擦音]]」を表す。また、J の棒付小型大文字{{IPA|ɟ}}は「[[有声硬口蓋破裂音]]」を表すが、これは180度回転させた小文字の f と見ることもできる。 * [[日本語]]のファ・フィ・フ・フェ・フォの子音は外来語の{{ipa|f}}の[[音写]]に使われ、[[ローマ字]]もfを使うが、実際の発音は{{IPA|f}}ではなく[[無声両唇摩擦音]]{{IPAXL|ɸ|p\}}である。 * [[インドネシア語]]ではしばしば{{IPA|p}}で発音される。 * [[朝鮮語]]では{{ipa|f}}の発音が{{IPA|p}}で発音される(ただし、{{IPA|h}}音で代替される場合も少なからず存在しており、その明確な基準はない)。 * [[フランス語]]ではごく僅かながら語末のf を[[黙字]]化する単語が存在する(例:「[[音部記号]]」を意味する clef {{IPA|kle}}。英語での発音は「'''クレフ'''」だがフランス語では「'''クレ'''」となる)。 * ウェールズ語では{{IPA|v}}を表す。ff と二重に書くと{{IPA|f}}と発音される。 * [[英語]]では母音間ではしばしばffと2つ重ねる。 == 歴史 == この字は、古代ギリシア語でかつて使われた、{{Unicode|Ϝ}}(ワウ/[[ディガンマ]])に由来し、本来は{{ipa|w}}音を表していた(ギリシア語の標準のもとになった[[イオニア方言|イオニア]]・[[アッティカ方言]]では早く{{ipa|w}}音が消滅していたために、この文字も使われなくなった)。[[エトルリア語]]では当時のギリシア語になかった{{ipa|f}}の音を表すために古く「FH」の2文字で表し、エトルリアから文字を伝えられたローマでは同じ音を単純に「F」1文字で表した。 == 合字 == [[ファイル:Ligature drawing.svg|thumb|f とのリガチャの例]] f は それに f, l, i 等が続くとき、しばしば[[合字]](ligature; リガチャ)を形成する。合字に独立のコードを割り当てる文字コード体系に基づく欧文フォントセットにおいては {{Unicode|'''ff''', '''fi''', '''fl''', '''ffi''', '''ffl'''}} のような合字も1つの文字として用意される。 == F の意味 == {{Wiktionarypar|F}} {{Wiktionarypar|f}} === 学術的な記号・単位 === * [[フッ素]]の元素記号。 * [[15|十五]]を意味する数字。[[二十進法]]など、[[十六進法]]以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十五([[十進法]]の'''15''')を一桁で表すために用いられる。 * [[温度計]]で、[[華氏]]([[ファーレンハイト]]、華倫海)。「{{°F}}」のように用いる。 * [[静電容量]]の[[SI組立単位]][[ファラド]] (Farad)の[[単位記号]]。[[立体活字|立体]]・大文字の '''F''' * [[SI接頭語]]、[[フェムト]](10<sup>&minus;15</sup>)(femto)の記号。[[立体活字|立体]]・小文字の '''f'''。 * [[数学]]において、[[関数 (数学)|関数]]や[[写像]] ('''f'''unction) をあらわすのに使われる。通常は ''f''(''x'') のように小文字が主に使われる。また関連の深い事物に同じ文字の大文字と小文字を充てる慣習から、 ''F''(''x'') と ''f''(''x'') とはなんらかの強い関係、例えば原始関数と導関数との関係のようなもの、を持つものである場合も多い。[[完全加法族]] {{lang|en|(''σ''-'''f'''ield)}} や[[層 (数学)|層]] {{lang|fr|('''f'''aisceau)}} などは、しばしばスクリプト体で ℱ と書かれる。慣例として ''E'' を用いる場合(例えばフランス語の[[集合]] {{lang|fr|('''e'''nsemble)}} や[[ベクトル空間]]における[[基底 (線型代数学)|基底]] など)は第二候補として ''F'' が用いられることも多い。 * 数学において、例えば[[有限体]] '''F'''<sub>''p''</sub> などのように、[[可換体|体]] {{lang|en|('''f'''ield)}} に用いることがある。 * [[フーリエ変換]] {{lang|en|('''F'''ourier transform)}} を表すのに[[スクリプト体]]の ℱ が用いられる。 * [[自然科学]]では[[力 (物理学)|力]] ('''f'''orce)、[[振動数]]・[[周波数]] ('''f'''requency)、[[自由エネルギー|ヘルムホルツ(自由)エネルギー]]('''F'''ree energy、大文字)を示す文字として用いられる。 * [[レンズ]]の明るさを示す値([[F値]])。レンズの[[焦点距離]] / レンズの口径で求められ、F1.4、F2.8などのように表記される。数字が小さいほど明るいレンズになる。 ** 小文字の f はレンズの焦点距離を表す場合がある(この場合、F値は大文字の F を使う)。 * [[竜巻]]の強さを表す記号。[[藤田スケール|フジタスケール]]の頭文字。 * 音楽記号の[[強弱法#一定の強弱を表すもの|フォルテ]](小文字)。 *[[音楽|洋楽]]で用いられる[[音名]]の一つ(英米式、独式)。イタリア式では「'''fa'''」、日本式では「'''へ'''」に相当。→[[ヘ (音名)]] ** 音階の4番目の音であることから、音楽関係者の間で4を表す隠語として使われる。例:F万=4万(円) * [[Fパラメータ]](F行列)。[[二端子対回路]]([[電気回路]])における表現手法。 * [[遺伝学]]において、[[雑種]]を表すための記号 ('''F'''ilial)。 === その他の記号 === * [[デパート]]などで 1F、2F などと書くのは、'''F'''loor の略字である。なお 1F は[[イギリス]]では2階、[[アメリカ合衆国|米]]では1階である。 * 西洋[[言語]]の[[性 (文法)|文法]]や[[パスポート]]などで、[[女性]] ('''f'''emina, '''f'''emale)。対義語で、男性は [[M]] 、中性は [[N]] である。 * [[鉛筆]]の芯の[[硬さ]]を表す記号。'''F'''irm(しっかりした)の頭文字。HB より硬く、H より軟らかい。 * [[衣服]]などのサイズ表示の一種。'''F'''ree size(フリーサイズ)の略。伸縮性素材などの衣服に用いられ、S、M、Lなどとともにサイズ分類に用いられる。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR北海道|JR]][[富良野線]] ('''F'''urano)、[[東京メトロ副都心線]] ('''F'''ukutoshin)、[[福井鉄道]][[福武線]] ('''F'''ukui)、[[JR西日本|JR]][[おおさか東線]]、[[京都丹後鉄道]][[宮福線]] (miya'''F'''uku)、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[南大阪線]]・[[吉野線]]の[[路線記号]]として用いられる。 * 電気業界、通信業界、[[コンピューター]]業界で[[富士電機]]、[[富士通]]を表す[[符丁]]。'''F'''uji Electric、'''F'''ujitsuの頭文字より。 * 電設業界では[[電線#ケーブル|VV-Fケーブル]]を表す符丁として使われている。 * [[ニコン]]製[[一眼レフ]][[カメラ]]用[[レンズ]]の[[レンズマウント|マウント]]「ニコンFマウント」のこと。 * [[試験]]の評価で「落第」を表す。'''F'''ailの略。 * [[Fラン]] - レベルが低い[[大学]]のこと。→[[ボーダーフリー]] * [[ダミーF]] - Fのキーは[[QWERTY配列]]の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]で最も押しやすいキーのうちの1つ(左手のホームポジション)であるために、何でもよいが文字を入れたい時に好んで使われる。 * [[スポーツ]]に関するもの ** [[競艇]]で、[[スタート事故|フライング]] ('''F'''lying) の略として「Fを切る(=フライングする)」のように用いられる。 ** [[ラグビーフットボール|ラグビー]]や[[バレーボール]]などでは、前衛(フォワード('''F'''orward)やフロント('''F'''ront))を表す記号。 ** [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[北海道日本ハムファイターズ]] ('''F'''ighters) の略号。前身の旧日ハム球団時代以前から使われている。 * [[電話帳]]で[[ファクシミリ]]専用電話。なお、ファクシミリ兼用電話は(F兼)などと表記される。 * 一般用[[照明器具]]の取付のうち床付。構内電気設備配線用図記号 ([[JIS]] C 0303:2000) で用いられる。 * [[テレビ]]と[[アンテナ]]を接続するためのコネクタ、[[F型コネクタ|F型接線]]。 * [[ヴァイオリン]]や一部の[[エレキギター]]などに見られる、[[f字孔]]。 * と次のもの(ページ等)。数字にスペースを入れずに f を書きピリオドを打つ。例えば“258f.”で258から259ページ。[[ラテン語]] ''folium'' の奪格 ''folio'' から。 === 乗り物に関するもの === * 自動車・[[航空機]]・[[船舶]]等の燃料計で燃料が満タンであることを表す、'''F'''ullの略。 * 自動車 ** 四輪[[自動車]]競走の規格のこと。'''F'''ormulaの略。[[フォーミュラ1|F1]]、[[フォーミュラ3|F3]]など。 ** [[イタリア]]の自動車メーカーの[[フェラーリ]] ('''F'''errari) の頭文字。[[フェラーリ・F40|F40]]、[[フェラーリ・F50|F50]]、[[フェラーリ・F355|F355]]、[[フェラーリ・F430|F430]]など。 ** [[ヒュンダイ・トラジェ]]の形式名。 ** [[スズキ・F型エンジン]]。 ** [[フォード・モーター]]に関して *** [[ニューヨーク証券取引所]]における同社の[[ティッカーシンボル]]。 *** フルサイズ[[ピックアップトラック]]、[[フォード・Fシリーズ]](F-150、F-250、F-350など)の略。 ** [[トヨタ自動車|トヨタ]]車においては、以下の意味がある。 *** エンジン形式のハイフンの直後の"F"は経済型[[DOHC]]エンジンを意味する。(例: 1NZ-FE、2GR-FSE) **** かつては経済型DOHC=[[ハイメカツインカム]]、と言う状況があったため事実上ハイメカツインカムとほぼ同義だった。(例: 5A-FE、3S-FSE) *** グレード名としてもよく使われる。だが、下記のように両極端な意味を持つ。 **** トヨタブランド車で使われる場合、最廉価グレードを意味する傾向がある。(例: [[トヨタ・カリーナED|カリーナED]]、[[トヨタ・プレミオ|プレミオ]]、[[トヨタ・ヴィッツ|ヴィッツ]]/[[トヨタ・プラッツ|プラッツ]]) **** 一方で、[[レクサス]]ブランド車ではハイパフォーマンスモデル(例:[[レクサス・IS F|IS F]])を意味する。[[富士スピードウェイ]]から取ったとされる。{{See|レクサス・F}} * 飛行機 ** 軍用[[航空機]]の形式で[[戦闘機]]を表す記号。'''F'''ighter の略。[[F-14 (戦闘機)|F-14]]、[[F-15 (戦闘機)|F-15]]、[[F-16 (戦闘機)|F-16]]など。 ** [[旅客機]]の座席クラスで[[ファーストクラス]] ('''F'''irst) を表す記号。 ** 旅客機をベースに製造される[[貨物機]] ('''F'''reighter) を表す記号で型式の末尾に付けて表す。 ** [[航空券]]に表示されるFは'''f'''emaleの頭文字で「女性」を表す。 * 列車 ** [[日本国有鉄道|旧国鉄]]・[[JR]] で、動軸を6軸有する[[機関車]]の形式に付される記号。EF65、DF200 など。 ** 電車などの[[編成 (鉄道)|編成]]を表す。1001Fとあれば1001号車両を含む編成。由来は'''F'''ormationの頭文字からとされる。 ** [[東京メトロ副都心線]] ('''F''' ukutoshin) を経由する速達列車「[[Fライナー]] 」を指すことがある(列車種別案内など、スペースの都合上。例、「F特急」(Fライナー特急、[[東急東横線]]・[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]内))。 ** [[三江線]]の[[路線記号]]、'''F'''。 === 商品名・作品名 === * [[ニコン]]の35mm銀塩[[一眼レフカメラ]]。[[ニコンのカメラ製品一覧]]を参照。 * [[六田登]]の[[漫画]]作品「[[F (漫画)|F]]」。 * [[鷺沢萠]]の短編集「F 落第生」および同作品を元にした映画「[[F (エフ)|F]]」([[羽田美智子]]・[[熊川哲也]]主演、[[金子修介]][[映画監督|監督]])。 * [[福山雅治]]が[[2001年]][[4月25日]]に発売した[[アルバム]]「[[F (福山雅治のアルバム)|F]]」。 * [[声優]]、[[後藤沙緒里]]の1stアルバムおよびタイトル曲「[[f (後藤沙緒里のアルバム)|f]]」。[[2005年]][[8月24日]]発売。 * [[マキシマムザホルモン]]の楽曲「[[爪爪爪/「F」|「F」]]」(鉤括弧つきが正式な題名)。[[2008年]][[7月9日]]発売の[[シングル]]「[[爪爪爪/「F」]]」収録。 * [[機動戦士ガンダムF91]]を中心とした[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]作品の総称および、それらの作品に登場する架空の兵器([[モビルスーツ]])、『F(フォーミュラ)』シリーズ。 * [[beatmaniaIIDX]]19 Lincleに収録された楽曲。作曲者は[[石川貴之|D.J.Amuro]]。 * [[川田まみ]]のベストアルバム、MAMI KAWADA BEST "F"。 * [[F (Flowerのアルバム)]] * [[F (フジファブリックのアルバム)]] * [[F (ファンキー加藤のアルバム)]] == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0046|70||1-3-38|0066|102||1-3-70|[[半角]]}} {{ULu|FF26|65318||1-3-38|FF46|65350||1-3-70|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|0191|401||&#45;|0192|402|&amp;fnof;|&#45;|鉤付きf}} {{ULu|1E1E|7710||&#45;|1E1F|7711||&#45;|上ドット付きf}} {{ULu|2132|8498||&#45;|214E|8526||&#45;|倒立F}} {{ULu|24BB|9403||‐|24D5|9429||1-12-38|丸囲み}} {{ULu|1F115|127253||‐|24A1|9377||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D405|119813||‐|1D41F|119839||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D439|119865||‐|1D453|119891||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D46D|119917||‐|1D487|119943||‐|イタリック体太字}} {{ULu|2131|8497||‐|1D4BB|119995||‐|[[筆記体]]|bfont=個別|bfamily='Arial Unicode MS',FreeSerif,OpenSymbol,Quivira,Symbola,'Komatuna P',YOzFont,'MS Pゴシック'}} {{ULu|1D4D5|120021||‐|1D4EF|120047||‐|筆記体太字|font=個別|family=Quivira,'Cambria Math',Symbola}} {{ULu|1D509|120073||‐|1D523|120099||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D53D|120125||‐|1D557|120151||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D571|120177||‐|1D58B|120203||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A5|120229||‐|1D5BF|120255||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5D9|120281||‐|1D5F3|120307||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D60D|120333||‐|1D627|120359||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D641|120385||‐|1D65B|120411||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D675|120437||‐|1D68F|120463||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|42800|A730|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL F}} {{CharCode|7584|1DA0|‐|MODIFIER LETTER SMALL F}} {{CharCode|8355|20A3|‐|FRENCH FRANC|font=通貨フォント}} {{CharCode|127285|1F135|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER F|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127317|1F155|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER F|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127349|1F175|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER F|font=ARIB外字フォント}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Foxtrot |Morse=・・-・ |Character=F6 |Braille=⠋ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
null
2023-06-08T03:11:06Z
false
false
false
[ "Template:Dablink", "Template:IPA", "Template:See", "Template:ラテン文字", "Template:Reflist", "Template:Lang-es-short", "Template:Ipa", "Template:ULu", "Template:Letter other reps", "Template:CharCode", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Otheruses", "Template:Unicode", "Template:Lang-it-short", "Template:IPAXL", "Template:A-Z", "Template:Wiktionarypar", "Template:°F", "Template:Lang" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/F
13,655
G
Gは、ラテン文字(アルファベット)の7番目の文字。小文字は g 。C同様、ギリシャ文字のΓ(ガンマ)に由来し、キリル文字のГに相当する。 エトルリア語に必要のなかった無声 /k/、有声 /g/ の区別を付けるために、Cにヒゲを付けて字を作り、当時必要なかったΖ(ゼータ、今日のラテン文字のZ)の位置に置いたものである。 大文字は、本来は、Cの右下の終端から真下にデセンダー(ベースラインの下)までステム(縦棒)を伸ばして左下へ払った字形である。なお、「I」から「J」を作ったのも同じ字形変化である。 近代にはステムは短くなり、ベースラインにも達しないようになった。また、Cの最後から下におろすのではなく、円弧の最後の部分と一体化することも多い。 ステムの上端にはセリフ(Iの上端などにある短く細い横棒)がある。サンセリフでは通常セリフは表さないが、Gに関してはステムのセリフを強調し、エジプシャン(セリフをステムと同じ太さで、つまり「I」を「エ」のように書くフォント)のように表現する。この場合、ステム自体は省略し、セリフの横棒だけを書くことも多い。 フラクトゥールでは G {\displaystyle {\mathfrak {G}}} 。 大文字の筆記体では、Cの右下の終端に、縦棒を下に付け、ベースラインの下にはみ出して左に回転し、しばしばそのまま右上に伸びて縦棒を突き抜ける形が取られることがある。 小文字では、ステムはcの最後から伸ばすのではなく、xハイト(小文字のxの高さ)から下に伸ばす。そのため、cのカウンター(線に囲まれた空白部分)は完全に閉じる。フラクトゥールの g {\displaystyle {\mathfrak {g}}} もそうである。 小文字では、しばしば下に降りる縦線が左に大きく湾曲し、印刷書体に使われる。 この文字が表す音素 /g/ の音価は、有声軟口蓋破裂音 [ɡ] ないし、その類似の軟口蓋音が主である。 [g]と発音するのを「固い (hard) g」、摩擦音や破擦音 /dʒ/ で発音するのを「柔らかい (soft) g」と呼ぶ (en:Hard and soft G)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Gは、ラテン文字(アルファベット)の7番目の文字。小文字は g 。C同様、ギリシャ文字のΓ(ガンマ)に由来し、キリル文字のГに相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "エトルリア語に必要のなかった無声 /k/、有声 /g/ の区別を付けるために、Cにヒゲを付けて字を作り、当時必要なかったΖ(ゼータ、今日のラテン文字のZ)の位置に置いたものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大文字は、本来は、Cの右下の終端から真下にデセンダー(ベースラインの下)までステム(縦棒)を伸ばして左下へ払った字形である。なお、「I」から「J」を作ったのも同じ字形変化である。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "近代にはステムは短くなり、ベースラインにも達しないようになった。また、Cの最後から下におろすのではなく、円弧の最後の部分と一体化することも多い。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ステムの上端にはセリフ(Iの上端などにある短く細い横棒)がある。サンセリフでは通常セリフは表さないが、Gに関してはステムのセリフを強調し、エジプシャン(セリフをステムと同じ太さで、つまり「I」を「エ」のように書くフォント)のように表現する。この場合、ステム自体は省略し、セリフの横棒だけを書くことも多い。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フラクトゥールでは G {\\displaystyle {\\mathfrak {G}}} 。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大文字の筆記体では、Cの右下の終端に、縦棒を下に付け、ベースラインの下にはみ出して左に回転し、しばしばそのまま右上に伸びて縦棒を突き抜ける形が取られることがある。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小文字では、ステムはcの最後から伸ばすのではなく、xハイト(小文字のxの高さ)から下に伸ばす。そのため、cのカウンター(線に囲まれた空白部分)は完全に閉じる。フラクトゥールの g {\\displaystyle {\\mathfrak {g}}} もそうである。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "小文字では、しばしば下に降りる縦線が左に大きく湾曲し、印刷書体に使われる。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素 /g/ の音価は、有声軟口蓋破裂音 [ɡ] ないし、その類似の軟口蓋音が主である。 [g]と発音するのを「固い (hard) g」、摩擦音や破擦音 /dʒ/ で発音するのを「柔らかい (soft) g」と呼ぶ (en:Hard and soft G)。", "title": "音価" } ]
Gは、ラテン文字(アルファベット)の7番目の文字。小文字は g。C同様、ギリシャ文字のΓ(ガンマ)に由来し、キリル文字のГに相当する。 エトルリア語に必要のなかった無声 、有声 の区別を付けるために、Cにヒゲを付けて字を作り、当時必要なかったΖ(ゼータ、今日のラテン文字のZ)の位置に置いたものである。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|ラテン文字のGとg|[[アルメニア文字]]のց|Ց|「G」のその他の用法|G (曖昧さ回避)}} {{A-Z}} '''G'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[7]]番目の文字。小文字は '''g''' 。[[C]]同様、[[ギリシャ文字]]の[[Γ]](ガンマ)に由来し、[[キリル文字]]の[[Г]]に相当する。 [[エトルリア語]]に必要のなかった無声 {{ipa|k}}、有声 {{ipa|g}} の区別を付けるために、Cにヒゲを付けて字を作り、当時必要なかった[[Ζ]](ゼータ、今日のラテン文字の[[Z]])の位置に置いたものである。 == 字形 == [[ファイル:LowercaseG.svg|thumb|230px|小文字gの2つの字形]] [[File:G cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-G.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大文字は、本来は、Cの右下の終端から真下にデセンダー(ベースラインの下)までステム(縦棒)を伸ばして左下へ払った字形である。なお、「[[I]]」から「[[J]]」を作ったのも同じ字形変化である。 近代にはステムは短くなり、ベースラインにも達しないようになった。また、Cの最後から下におろすのではなく、円弧の最後の部分と一体化することも多い。 ステムの上端には[[セリフ (文字)|セリフ]](Iの上端などにある短く細い横棒)がある。[[サンセリフ]]では通常セリフは表さないが、Gに関してはステムのセリフを強調し、[[エジプシャン]](セリフをステムと同じ太さで、つまり「I」を「エ」のように書くフォント)のように表現する。この場合、ステム自体は省略し、セリフの横棒だけを書くことも多い。 [[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{G}</math>。 大文字の筆記体では、Cの右下の終端に、縦棒を下に付け、[[書体#欧文書体|ベースライン]]の下にはみ出して左に回転し、しばしばそのまま右上に伸びて縦棒を突き抜ける形が取られることがある。 小文字では、ステムはcの最後から伸ばすのではなく、xハイト(小文字のxの高さ)から下に伸ばす。そのため、cのカウンター(線に囲まれた空白部分)は完全に閉じる。[[フラクトゥール]]の<math>\mathfrak{g}</math>もそうである。 小文字では、しばしば下に降りる縦線が左に大きく湾曲し、印刷書体に使われる。 == 呼称 == * [[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]]・[[スラヴ語]]:ゲー {{IPA|gɛː}}, {{IPA|geː}} * [[トルコ語|土]]:ゲ {{IPA|ge}} * [[フランス語|仏]]:ジェ * [[ポルトガル語|葡]]:ジェー {{IPA|ʒeː}} * [[イタリア語|伊]]:ヂ * [[ルーマニア語|羅]]:ヂェ * {{Lang-en-short|gee}}(ヂー){{IPA|dʒiː}} * [[オランダ語|蘭]]:ヘー {{IPA|ɣeː}} * [[スペイン語|西]]:ヘ {{IPA|xe}} * [[エスペラント|エス]]:ゴー {{IPA|ɡoː}} * [[ベトナム語|越]]:ゼー *[[日本語|日]]:ジー [d͡ʑiꜜː] == 音価 == この文字が表す[[音素]] {{ipa|g}} の[[単音|音価]]は、[[有声軟口蓋破裂音]] {{IPA|ɡ}} ないし、その類似の[[軟口蓋音]]が主である。 {{IPA|g}}と発音するのを「固い ({{en|hard}}) g」、[[摩擦音]]や[[破擦音]] {{ipa|dʒ}} で発音するのを「柔らかい ({{en|soft}}) g」と呼ぶ ([[:en:Hard and soft G]])。 * [[国際音声記号|IPA]]の {{IPA|ɡ}} は[[有声軟口蓋破裂音]]を表す。このときの文字は「[[File:LETTRE MINUSCULE LATINE G vs LETTRE MINUSCULE LATINE G CURSIF.png|20px]]」のグリフの内、左の[[字体]]ではなく右の字体を使わなければならないため、[[Unicode]]では通常の小文字「g」とは別の[[文字コード]](U+0261)を当てた文字「ɡ」を使う。また[[スモールキャピタル]]{{IPA|ɢ}}(U+0262)は[[有声口蓋垂破裂音]]を表す。なお、「ɡ」と「ɢ」の右上に曲がりを付けた{{IPA|ɠ}}(U+0260)は[[軟口蓋入破音]]を、{{IPA|ʛ}}(U+029B)は[[口蓋垂入破音]]を表す。 * [[ロマンス語]]では、[[e]], [[i]] (, [[y]]) の前で[[口蓋化]]する。 ** フランス語、ポルトガル語では[[有声後部歯茎摩擦音]] {{IPAXL|ʒ|Z}} に変化する。{{IPA|ɡ}} のまま発音するためにはgu-とする。 ** イタリア語、ルーマニア語、教会ラテン語では[[有声後部歯茎破擦音]] {{IPAXL|ʤ|dZ}} に変化する。{{IPA|ɡ}}のまま発音するためにはgh-とする。 ** スペイン語では[[無声軟口蓋摩擦音]] {{IPA|x}} に変化する。{{IPA|ɡ}} のまま発音するためにはgu-とする。 ** 英語はロマンス語ではないため、ゲルマン系の英語[[固有語|固有の語]]では変化しない(例: get {{IPA|ɡɛt}}, give {{IPA|ɡɪv}})。ただし[[古フランス語]]からの[[借用語]]では {{IPA|ʤ}} に変化する(例: gentle {{IPA|ʤɛntl}})。「e,i,yの前」とは発音ではなく綴りが基準である(例: giant {{IPA|ʤaɪənt}})。{{IPA|ɡ}} のまま発音するには gu- と綴る(例: guest {{IPA|ɡɛst}}, guide {{IPA|ɡaɪd}})。 * ドイツ語では語末や無声[[子音]]の前で無声化し {{IPA|k}} となる。ただし、語尾の -ig の g は標準ドイツ語ならこの g を[[無声硬口蓋摩擦音]] {{IPAXL|ç|C}} で発音する。 (例:Ta'''g''', Dialo'''g''', (fünfund-)dreißi'''g''') * フランス語では、語末のgを黙字化する。ただし、母音で始まる単語が後続する場合、[[リエゾン]]して{{IPA|ɡ}}を発音する。 * オランダ語では[[有声軟口蓋摩擦音]] {{IPA|ɣ}}, [[有声硬口蓋摩擦音]] {{IPA|ʝ}} を表す。 * ベトナム語ではフランス語の綴りの影響を受けているため、母音字 i、ê、e の前では[[有声後部歯茎摩擦音]] {{IPA|ʒ}}を、他の母音の前では[[有声軟口蓋摩擦音]] {{IPA|ɣ}} を表す。 * 非ラテン文字圏の言語をローマ字表記する場合でも、一般的に{{IPA|ɡ}}やその近似音に使われる。eやi,yが後続する場合であってもgのままで、guとはしないことが多い。有声無声の区別が無いが有気無気の区別がある言語の場合、方式によっては無気音の方に割り当てられ、その場合無声で{{IPA|k}}と発音されることもある。 ** [[日本語]]のローマ字表記では、[[訓令式]]、[[ヘボン式]]共に[[ガ行]]の子音 {{ipa|ɡ}} に用いる。したがって、発音は軟口蓋破裂音 {{IPA|ɡ}} だけではなく、[[鼻濁音]]の子音である語中の[[軟口蓋鼻音]] {{IPA|ŋ}} も表す。 ** [[朝鮮語]]のローマ字表記では、[[文化観光部2000年式]]の場合、[[有声音|有声]]、[[無声音|無声]]にかかわらず初声の{{lang|ko|ㄱ}}(母音が後続する場合)に用いられる。[[マッキューン=ライシャワー式]]では有声で発音される場合のみ初声{{lang|ko|ㄱ}}に用いる。 ** [[中国語]]やその[[方言]]の[[ピン音|ピンイン]]では[[有気音|無気]][[無声軟口蓋破裂音]] {{IPA|k}} を表す。ただし、[[ウェード式]]では {{IPA|ɡ}} である。 ** [[中華人民共和国|中国]]南方の方言では、広東省教育部門式の[[広東語]]ローマ字のように[[音節]]頭では無気無声軟口蓋破裂音の {{IPA|k}} を表すが、音節末では[[軟口蓋音|軟口蓋]][[内破音]] {{IPA|k&#794;}} を表す例もある。 *[[チワン語]]でも音節頭では中国語と同様に[[有気音|無気]][[無声軟口蓋破裂音]] {{IPA|k}} を表すが、音節末では[[声調|中促調]]を持つ軟口蓋[[内破音]] {{IPA|k&#794;}} を表す。 *[[マレー語]]では[[音節]]頭では[[有声軟口蓋破裂音]]の {{IPA|g}} を表すが、音節末での実際の発音は軟口蓋[[内破音]] {{IPA|k&#794;}} である。 * 多くの言語で、ng と綴ると[[軟口蓋鼻音]] {{IPA|ŋ}} を表すが、{{ipa|g}}とは別の音素である例が多い。 == G の意味 == === 大文字G === {{Wiktionarypar|G}} ==== 学術的な記号・単位 ==== * [[万有引力定数]] * 単位記号 ** [[標準重力加速度]]を1とした[[加速度]]の単位。「6G」など。 ** [[磁束密度]]の単位、[[ガウス (単位)|ガウス]] ** [[国際単位系]]で10億 (1000{{sup|3}} = 10{{sup|9}}) を表す[[SI接頭語|接頭語]][[ギガ]] (G)。 ** [[情報工学]]分野では現在は公式には Gi で表す 2{{sup|30}} = 1024{{sup|3}} の意味でも使われる。 * [[コンダクタンス]]を表す記号。 * [[ガロワ群]] * [[幾何学]]で、[[重心]] (center of gravity) を表す記号として用いられることがある。 * [[群 (数学)|群]] (group) を表す記号として用いられることがある。 * [[16|十六]]を意味する数字。[[二十進法]]など、十七進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十六([[十進法]]の'''16''')を一桁で表すために用いられる。 * [[音名]]の1つ(英米式、ドイツ式)。イタリア式では「so」、日本式では「[[ト (音名)|ト]]」に相当。 ** 音階の5番目の音であることから、音楽関係者の間で5を表す隠語として使われる。例:G(ゲー)千=5000(円) * [[混声合唱]] (general)。 * [[ドイツ語]]で[[属格]](所有格) {{de|Genetiv}}。 * [[光の三原色]]、[[RGB]] のうち[[緑]] (green)。 * [[電界効果トランジスタ]](FET)、[[サイリスタ]]の端子の一つ。ゲート (gate) * [[真空管]]の端子の一つ。グリッド (Grid) * [[発電機]] (generator)。 * [[ガルバノメーター]](検流計) (Galvano meter)。 * [[gパラメータ]]。[[二端子対回路]]([[電気回路]])における表現手法。 * [[ケッペンの気候区分]]の[[高山気候|山地気候]]{{要出典|date=2022年9月}}。 * [[ギブスエネルギー]] (Gibbs energy) を表す記号。 * [[海図]]の記号で底質が[[礫]]。 ==== その他の記号 ==== * 先進諸国での首脳会議時に使用される。グループ (group)。[[G7]]など。 * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において使用される[[路線記号]]。 ** [[JR北海道|JR]][[札沼線]](学園都市線)('''G'''akuentoshi) **[[東京メトロ銀座線]] ('''G'''inza) [[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|20x20px]] ** [[横浜市営地下鉄]][[横浜市営地下鉄グリーンライン|グリーンライン]] ('''G'''reen) [[File:Yokohama Municipal Subway Green Line symbol.svg|15px|G]] ** [[JR西日本|JR]][[福知山線]] {{JR西路線記号|K|G}} ** [[近畿日本鉄道|近鉄]][[生駒線]] {{近鉄駅番号|G}} **[[JR西日本|JR]][[山陽本線 (広島地区)|山陽線]]([[広島駅]]〜[[糸崎駅]])('''G'''reen) **[[JR四国|JR]][[予土線]](しまんとグリーンライン)('''G'''reen) ** [[ニューヨーク市地下鉄]][[:en:G (New York City Subway service)|G線]] [[File:NYCS-bull-trans-G.svg|20x20px]] ** [[ブエノスアイレス地下鉄]][[:en:Line G (Buenos Aires Metro)|G線]] [[File:Línea G (SBA).svg|20x20px]] ** [[:en:Toulouse tramway|トゥールーズ路面電車]] G線 [[File:Toulouse line G symbol.svg|20x20px]] ** [[:en:TransMilenio|トランスミレニオ]] G線 [[File:G-NQS Sur.png|20x20px]] * スポーツチーム ** [[日本プロ野球|日本のプロ野球]]球団、[[読売ジャイアンツ]] (Giants)。 ** [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]のクラブの[[ガンバ大阪]] (Gamba)。 * [[公営競技]]のレースにつけられる[[グレード制|グレード]] (grade) あるいは、[[ヨーロッパ]]の競馬における[[グレード制|グループ]] (group)。 * 英単語「General」より ** [[レイティング]]で、[[全年齢]] ({{en|general}})。 *** [[アメリカ合衆国]]での[[映画のレイティングシステム|映画レイティング]] [[File:RATED G.svg|20x20px|MPAA-G]]。 *** [[:en:TV Parental Guidelines|アメリカ合衆国のテレビ番組レイティング]] [[File:TV-G icon.svg|20x20px|TV-G]]。 *** [[NHK総合テレビジョン]] (NHK G・GTV) Generalの頭文字{{Colors|white|#ff2600|<sup>''NHK''</sup><ruby>'''G'''</ruby>}}。 * [[電子機器]]の世代 ({{en|generation}}) を表す。 ** [[携帯電話]]。例:3Gケータイ ** [[CPU]]。例:PowerPC G4 * [[つけペン]]の一種、Gペン。 * [[Gゲージ]][[鉄道模型]]。縮尺1/22.5 - 1/29、軌間45[[ミリメートル|mm]]の鉄道模型の通称。 *[[俗称]] ** ゴム([[コンドーム]]) ** [[自慰]]。 ** [[ゴキブリ]](Gokiburi)の隠語、俗語。ゴキブリという言葉を口に出したくない時などに使われる。 * [[将棋]]の[[金将]] (Gold)。 * 艦種記号でDD([[駆逐艦]])に対してDDG([[ミサイル駆逐艦]])のように[[ミサイル]] (guided missile) 搭載を表す。同様に CCG([[ミサイル巡洋艦]])、FFG([[ミサイルフリゲート]])などがある。 * [[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]がジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン (GENEON)時代に利用していた略号及びロゴマーク。 * [[ゴールドウイン]] (Goldwin) の略号及びロゴマーク。 * [[Gスポット]]。 * [[アメリカンフットボールのポジション]]の一つガード(guard)。 * [[建物]]の[[階]]の表記で地上階(ground floor、米日などの1階)。ヨーロッパ、香港などで使われる。日本でも稀に使われることがある。 * [[フリーメイソン]]のシンボル [[File:Square compasses.svg|20x20px|フリーメイソンのシンボル]] に描かれた文字。God(神)またはGeometry(幾何学)の意味とされる。 * [[グッドデザイン賞]]受賞を表すGマーク。 * [[ゴースティング]]。ゲームの[[実況プレイ]]において、YouTube等での生放送を見ながら同じゲームに参加し、配信者を倒しに行く違反行為。英語圏ではストリームスナイピング (stream sniping) とも呼ばれる。 *大沢誉志幸の楽曲。アルバムSerious Barbarian IIに収録。先行シングルでもある。 *[[タナー段階]]における指標のひとつ、Genitals(生殖器)。 ==== 商品名 ==== * Gポイント。[[NECビッグローブ]]と[[三井住友カード]]の合弁会社[[ジー・プラン]]が運営するポイントサービス。並びにその単位。 * 録画予約番号の[[Gコード]]。同様のシステムをさらに発展させた[[Gガイド]]。 * [[メルセデス・ベンツ]]の車種の[[メルセデス・ベンツ・Gクラス|Gクラス]]。 * [[インフィニティ (日産自動車)|インフィニティ]]の車種の[[インフィニティ・G|G]](日本名:[[日産・プリメーラ|プリメーラ]]、[[日産・スカイライン|スカイライン]])。 * [[トヨタ自動車|トヨタ]]のエンジンに関するもの。 ** [[トヨタ・G型エンジン (初代)]] - [[トヨタ・G型エンジン (2代目)|(2代目)]] ** エンジン形式のハイフンの直後の"G"はスポーツ指向のツインカムを意味する。(例:4A-GE、3S-GTE、2JZ-GTE) * [[カシオ計算機|カシオ]]の電子機器の商品名。 ** [[腕時計]]の[[G-SHOCK]]。 ** [[携帯電話]]の[[G'z One]]。 ** [[目覚し時計]]のG'z waqe(現在は販売終了)。 ==== 架空のもの ==== * [[ロールプレイングゲーム]]で通貨単位としてよく使われる。多くの場合、ゴールド (Gold) の頭文字。 * 劇画『[[ゴルゴ13]]』の主人公、[[ゴルゴ13 (架空の人物)|ゴルゴ13]]の頭文字。依頼組織の人員が、ゴルゴを示す隠語として用いることが多い。 * 『[[バイオハザード2]]』に登場するG-ウイルス。および、それによって誕生したクリーチャーG。 * [[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]における、[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]およびその[[ガンダムタイプ|派生機体]]、それらに関係した[[兵器]]を示す記号([[Gファイター]]、[[Gディフェンサー]]他)。 * アーケードゲーム『[[ザ・ハウス・オブ・ザ・デッドシリーズ]]』の[[G (架空の人物)|登場人物]]。 * 『[[ゴジラ]]』の一部作品(「平成ゴジラ」)作中で、[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]の略称。「Gルーム」「G対策」など。 * [[ドクトルG]] - 『[[仮面ライダーV3]]』などの[[仮面ライダーシリーズ]]の登場人物。 * ラオG - [[漫画]]及び[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[ONE PIECE]]』の[[王下七武海|登場人物]]。 * [[G (ストリートファイター)]] - 格闘ゲーム『[[ストリートファイターV]]』の登場人物。 === 小文字g === {{Wiktionarypar|g}} * [[質量]]の[[単位]]、[[グラム]]。 * 標準[[重力加速度]]。 * [[数学]]で ''[[f]]'' の次の2番目の[[関数 (数学)|関数]]を表す。 * フラクトゥールで[[リー環]]を表す。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0047|71||1-3-39|0067|103||1-3-71|}} {{ULu|FF27|65319||1-3-39|FF47|65351||1-3-71|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24BC|9404||‐|24D6|9430||1-12-37|丸囲み}} {{ULu|1F116|127254||‐|24A2|9378||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D33|7475||‐|1D4D|7501||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D406|119814||‐|1D420|119840||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D43A|119866||‐|1D454|119892||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D46E|119918||‐|1D488|119944||‐|イタリック体太字}} {{ULu|1D4A2|119970||‐|210A|8458||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D6|120022||‐|1D4F0|120048||‐|筆記体太字}} {{ULu|1D50A|120074||‐|1D524|120100||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D53E|120126||‐|1D558|120152||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D572|120178||‐|1D58C|120204||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A6|120230||‐|1D5C0|120256||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5DA|120282||‐|1D5F4|120308||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D60E|120334||‐|1D628|120360||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D642|120386||‐|1D65C|120412||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D676|120438||‐|1D690|120464||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|609|0261|‐|LATIN SMALL LETTER SCRIPT G}} {{CharCode|610|0262|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL G}} {{CharCode|127286|1F136|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER G|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127318|1F156|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER G|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127350|1F176|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER G|font=ARIB外字フォント}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Golf |Morse=--・ |Character=G7 |Braille=⠛ }} == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[Ĝ]] ĝ - [[サーカムフレックス]] *[[Ğ]] ğ - [[ブレーヴェ]] *[[Ġ]] ġ - [[ドット符号]] *[[Ģ]] ģ - [[セディーユ]] *[[ɢ]] - [[有声口蓋垂破裂音]] *[[ʛ]] - [[口蓋垂入破音]] *[[ɠ]] - [[軟口蓋入破音]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
2003-08-21T04:30:01Z
2023-08-18T23:16:41Z
false
false
false
[ "Template:De", "Template:近鉄駅番号", "Template:ULu", "Template:Ipa", "Template:Lang", "Template:Lang-en-short", "Template:En", "Template:Wiktionarypar", "Template:Commonscat", "Template:Otheruses", "Template:IPA", "Template:Colors", "Template:IPAXL", "Template:JR西路線記号", "Template:Sup", "Template:要出典", "Template:CharCode", "Template:Letter other reps", "Template:ラテン文字", "Template:Pp-vandalism", "Template:A-Z" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/G
13,656
B
Bは、ラテン文字(アルファベット)の2番目の文字。小文字は b 。ギリシャ文字のΒ(ベータ)に由来し、キリル文字のВ、Бと同系の文字であり、Бに相当する。 大きく分けて2つの字形が使われる。 またフラクトゥールでは B b {\displaystyle {\mathfrak {B\ b}}} のようである。 大文字は、数字の 8 と紛らわしいため、ラテンアルファベットの B は左に出張りを入れることがある。ラテンアルファベットを表示できるデジタル機器では、十四画ディスプレイで中央に縦線を入れて、8 と区別する。 小文字は、数字の 6 と紛らわしいため、筆記体で b と表記する場合がある。また、桁の底が十を超える場合、十一を一字で表記するときは、大文字の B を用いる。例えば、 3a + 6b - Bc = 8a + 5b というように区別する。 この文字が表す音素 /b/ の音価は、有声両唇閉鎖音 [b] ないし、その類似の両唇音である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Bは、ラテン文字(アルファベット)の2番目の文字。小文字は b 。ギリシャ文字のΒ(ベータ)に由来し、キリル文字のВ、Бと同系の文字であり、Бに相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大きく分けて2つの字形が使われる。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "またフラクトゥールでは B b {\\displaystyle {\\mathfrak {B\\ b}}} のようである。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大文字は、数字の 8 と紛らわしいため、ラテンアルファベットの B は左に出張りを入れることがある。ラテンアルファベットを表示できるデジタル機器では、十四画ディスプレイで中央に縦線を入れて、8 と区別する。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "小文字は、数字の 6 と紛らわしいため、筆記体で b と表記する場合がある。また、桁の底が十を超える場合、十一を一字で表記するときは、大文字の B を用いる。例えば、", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "3a + 6b - Bc = 8a + 5b", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "というように区別する。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この文字が表す音素 /b/ の音価は、有声両唇閉鎖音 [b] ないし、その類似の両唇音である。", "title": "音価" } ]
Bは、ラテン文字(アルファベット)の2番目の文字。小文字は b。ギリシャ文字のΒ(ベータ)に由来し、キリル文字のВ、Бと同系の文字であり、Бに相当する。
{{otheruses|ラテン文字のB|その他の用法|B (曖昧さ回避)|「ビー」のその他の用法|ビー}} {{A-Z}} '''B'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[2]]番目の文字。小文字は '''b''' 。[[ギリシャ文字]]の[[Β]](ベータ)に由来し、[[キリル文字]]の[[В]]、[[Б]]と同系の文字であり、Бに相当する。 == 字形 == [[File:B cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-B.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] 大きく分けて2つの字形が使われる。 #縦線の右に半円を縦に2つ続けた形で、大文字に使われる。 #縦線の下部に右に円ないし半円を1つ付けた形で、小文字に使われる。 また[[フラクトゥール]]では<math>\mathfrak{B\ b}</math>のようである。 大文字は、数字の [[8]] と紛らわしいため、ラテンアルファベットの B は左に出張りを入れることがある。ラテンアルファベットを表示できるデジタル機器では、[[7セグメントディスプレイ#14セグメントディスプレイ|十四画ディスプレイ]]で中央に縦線を入れて、8 と区別する。 小文字は、数字の [[6]] と紛らわしいため、筆記体で 𝒷 と表記する場合がある。また、[[位取り記数法|桁]]の底が[[10|十]]を超える場合、[[11|十一]]を一字で表記するときは、大文字の B を用いる。例えば、 {{fontsize|x-large|2= 3a + 6𝒷 - Bc = 8a + 5𝒷}} というように区別する。 == 呼称 == *[[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ポルトガル語|葡]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]]:ベー *[[ベトナム語|越]]:ベー、ボー *[[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]・[[ルーマニア語|羅]]:ベ *[[イタリア語|伊]]:ビ *{{Lang-en-short|bee}}(ビー) *[[エスペラント|エス]]:ボー *[[日本語|日]]:ビー {{IPA|bʲiꜜː}} == 音価 == この文字が表す[[音素]] {{ipa|b}} の[[単音|音価]]は、[[有声両唇閉鎖音]] {{IPA|b}} ないし、その類似の[[両唇音]]である。 *[[ドイツ語]]では語末や無声[[子音]]の前で[[無声化]]する。 *[[フランス語]]では語尾の b を[[黙字]]とする。[[英語]]でも語尾 mb のように b が黙字となる例がある (bom'''b'''など)。 *[[スペイン語]]の音素 {{ipa|b}}(bまたは[[v]]と書く)は、語頭では {{IPA|b}} であるが、語頭以外では弱化して[[有声両唇摩擦音]] {{IPA|β}} で発音される。 *[[中国語]]やその[[方言]]の[[ピン音|ピンイン]]では[[有気音|無気]][[無声両唇破裂音]]の {{IPA|p}} を表す。 *[[中華人民共和国|中国]]南方の方言では、広東省教育部門式の広東語ローマ字のように[[音節]]頭では無気無声両唇閉鎖音の {{IPA|p}} を表すが、音節末では[[両唇音|両唇]][[内破音]] {{IPA|p&#794;}} を表す例もある。 *[[マレー語]]では[[音節]]頭では[[有声両唇閉鎖音]]の {{IPA|b}} を表すが、音節末での実際の発音は両唇内破音 {{IPA|p&#794;}} である<ref>小野沢純、『基礎マレーシア語』、p xv、1996年、[[大学書林]]、ISBN 4-475-01051-9</ref>。 *[[ベトナム語]]では[[入破音]]の {{IPA|ɓ}} または[[声門破裂音|声門閉鎖音]]と[[有声両唇閉鎖音]]を同時に発音する {{IPA|ʔb}} を表す。 *[[チワン語]]では、上記のベトナム語と同じ発音は mb と表記し、b は中国語と同じく[[有気音|無気]][[無声両唇破裂音]]の {{IPA|p}} を表す。 * 日本語のローマ字表記では訓令式、ヘボン式共にバ行([[ハ行]]濁音)の子音に用いられる。 * 朝鮮語のローマ字表記である文化観光部2000年式では有声音、無声音に関わらず初声の[[ㅂ]]に用いられる。マッキューン=ライシャワー式では有声で発音されるㅂに用いられる。 == Bの意味 == {{Wiktionarypar|B}} {{Wiktionarypar|b}} === 学術的な記号・単位 === * [[ホウ素]](硼素)の[[元素記号]]。 * [[素粒子]]の一つボトム(もしくはビューティー)[[クォーク]]の略号、b。 * [[中間子]]の一つ、[[B中間子]]。 * [[B言語]]([[プログラミング言語]]の一種) * [[11|十一]]を意味する数字。[[十六進法]]や[[二十進法]]など、十二進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十一(十進法の'''11''')を一桁で表すために用いられる。ただし、[[8]] と紛らわしいために使用しない(特に十二進法で B を使用しない場合、十一を [[E]] と表記して、十を [[T]] または [[X]] と表記する)例もある。 * [[ABO式血液型]]の一つ。B型。 * [[数学]]では一般に既知の数、集合、行列等を示す、[[A]]に次ぐ文字として用いられる。 * {{仮リンク|B関数|en|Bernstein–Sato polynomial|label=b関数}} * [[ティッツ系]]におけるボレル部分群 * 大文字で[[ボレル]]部分群、フラクトゥール小文字でボレル部分環 * 大文字で[[有界作用素]]の空間 * 大文字で(コ)[[バウンダリ]]のなす部分加群 * [[反応断面積]]の単位[[バーン (単位)|バーン]]を表す記号(小文字)。 * [[圧力]]の単位''[[バール (単位)|バール]]''を表す記号(小文字)。現在では[[パスカル (単位)|パスカル]](記号は Pa、100 000 Pa = 1 b)が使われる。 * コンピュータの情報処理単位[[バイト (情報)|バイト]]を指す記号。'''B'''yteの頭文字を取った記号。 * コンピュータの情報処理単位[[ビット]]を指す記号。'''B'''itの頭文字を取った記号。主に[[記録密度]](bpiなど)や転送容量([[ビット毎秒|bps]])の単位として使われ、バイトと区別するために、小文字の b で表記されることが多い。 * 電気工学や振動・音響工学などで使用される単位ベル。基準電力に対する比の常用対数。通常はベル (B) ではなく、その10分の1の[[デシベル]] (dB) が用いられる。 * [[光の三原色]]、[[RGB]]のうち[[青|藍]] (Blue)。 * [[トランジスタ]]の端子の一つ。ベース (Base)。 * [[音楽|洋楽]]で用いられる[[音名]]の一つ(英米式、独式)。英米式の'''B'''は、イタリア式では「'''si'''」、日本式では「'''ロ'''」に相当し、また独式の'''B'''は、イタリア式の「'''si bemolle'''」、日本式の「'''変ロ'''」、中国式の「'''降B'''」に相当する(ドイツ語で日本の「ロ」に当たる文字はH)。尚、音楽の「シャープ」、「フラット」、「ナチュラル」の[[変化記号]]はこの文字に由来する。DTMでは、[[フォント]]の関係から、♭記号を小文字のbで代用することがある(その場合、音名のB(シ)は必ず'''大文字'''で表記される)。→[[ロ (音名)]]→[[変ロ]] * [[超音波検査#Bモード|Bモード]]。[[超音波検査]]における、検査方法方法の一つ。 * [[電磁気学]]の分野では[[磁束密度]]を表す。 * [[ケッペンの気候区分]]の[[乾燥帯]]([[亜熱帯]])を表すB *[[学士]] (Bachelor) の頭文字として使われる。B2と表記されれば学部2年生の意。 *[[生年月日|生年]] (Birth year) の略字として使われる。b. 1945と表記されれば1945年生まれの意。 === その他の記号 === *[[チェス]]の棋譜などで[[ビショップ]]を表し、[[将棋]]でも同じ動きをする[[角行]]をも表す。 *[[B級]]。殆どの場合、A級に次ぐクラスを意味する。転じて、いまいちな物や、好き嫌いの分かれる物などを指す時に使われることがある。 *[[鉛筆]]の芯の[[硬さ]]を表す記号。'''B'''lackの頭文字。HB (Hard Black) より軟らかく、以降軟らかくなるに従って2B、3B…となり、一番軟らかいのは10B。 *[[日本産業規格]](JIS)などで規定された[[紙]]のサイズ。[[紙の寸法#B列|B判]]。 * [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]における路線記号。 ** [[北海道旅客鉄道|JR]][[釧網本線]] (a'''B'''ashiri) ** [[横浜市営地下鉄ブルーライン]] ('''B'''lue) ** [[西日本旅客鉄道|JR]][[湖西線]] ** [[近鉄京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]] ** [[京福電気鉄道北野線|嵐電北野線]] ** JR[[因美線]] ** JR[[可部線]] ('''B'''lue) ** [[四国旅客鉄道|JR]][[徳島線]](よしの川ブルーライン)('''B'''lue) ** [[熊本市電B系統]] ('''B''') *[[ペッティング]]を指す[[隠語]]。Aは[[接吻|キス]]、Cは[[性行為|セックス]]。 *[[PC/AT互換機]]において、2台目の[[フロッピーディスク]]装置に割り当てられたドライブ番号。B: *[[アメリカ合衆国]]における電池の種別を表す記号の一つ。電圧は45[[ボルト (単位)|V]]など。 *軍用[[航空機]]の形式で[[爆撃機]]を表すことが多い記号。'''B'''omberの略。[[B-29 (航空機)|B-29]]、[[B-52 (航空機)|B-52]]、[[B-2 (航空機)|B-2]]など。 *民間[[航空機]]の登録番号(レジスタ)における国籍表示で[[ハイフン]]以下[[数字]]4桁なら[[中華人民共和国]]、数字5桁なら[[中華民国]]、[[ラテン文字]]3桁なら[[香港]]、[[マカオ]]を表す。 *航空機メーカー[[ボーイング]]の略称。[[B747]]、[[B767]]など。[[エアバス]]旅客機の名称にあるA(例えば[[エアバスA300|A300]])とは異なり、正式なモデルナンバーや型式名ではない。 *[[日本国有鉄道|旧国鉄]](現[[JR]])の[[機関車]]で、動軸が2軸の形式に付される記号。B20、EB10などがあった。 *文字[[書体]]のウェイト(線の太さ)で、通常より太い書体を表す。ボールド (bold)。 *[[建物]]の[[階]]の表記で[[地階]] ('''b'''asement) の略。階上は1F、2Fと数字の後に付けるのに対して、地下はB1、B2と前に付く。ただし、英語ではfirst basement, second basement, …と数字を前に付けて言う。地下1階しかない場合、単にBとすることもある。 *[[アメリカ合衆国]]の[[女性]][[歌手]][[ビヨンセ]]の愛称。 * [[野球]]の[[テレビ中継]]画面や[[野球場|球場]]内[[電光掲示板]]における、[[ボールカウント]]の略表記 ('''B'''all) →[[ボール (野球)]] *日本のプロ野球チーム・[[オリックス・バファローズ]]の略号 ('''B'''uffaloes) 。 **前身の「阪急ブレーブス」→「オリックス・ブレーブス」の略号も同じであった ('''B'''raves) が、「オリックス・ブルーウェーブ」に改称後はBW、球団統合により「オリックス・バファローズ」に改称後は2018年までBsであった。 *[[スポーツ]]の世界では、後衛(バック('''B'''ack))を表す記号。 *[[バックストレッチ]] ('''B'''ackstretch) - [[陸上競技場]]・[[競馬場]]・[[競輪場]]などで、決勝線のある側と反対側(向こう正面)の略。[[BS]]とも。 *[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構]]のレーティング表示において12歳以上対象を表す(2006年3月以降)。 *[[メルセデス・ベンツ・Bクラス]]。 *「ブラボー」[[フォネティックコード]]の第二コード。 * [[ローマ地下鉄]][[ローマ地下鉄B線|B線]] *日本の鉄道では、[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]に相当する[[寝台車 (鉄道)|寝台]]として、[[B寝台]]を意味する。 *ヨーロッパの鉄道では、[[二等車]]を意味する記号として、[[客車]]の形式に付けられる。 *[[ナミビア]]では、[[ナミビアの国道|国道]]を表す記号として、一桁の数字の前につけられる。 *[[三菱UFJ銀行]]における、[[東京三菱銀行|旧東京三菱店]]のこと。B店とも。英文名称が、''Bank of Tokyo-Mitsubishi''であることから、頭のBを取ってこう呼ぶ。 *[[首都高速湾岸線]]の路線番号「Bayshore Route」の頭文字 *[[インターネット]]上で「OK」や「GOOD」を表すために用いることがある。これは、「b」が親指を立てたポーズに見えるためである。 *[幅、横幅]を[breadth]の頭文字のB,bの記号で表す。 *[[タナー段階]]における指標のひとつ、Breasts (乳房)。 === 番組・作品名 === *日本のロックバンド、[[SUPERCAR]]のアルバム。→[[B (SUPERCARのアルバム)]] *[[毎日放送]](MBSラジオ)の[[ラジオ番組]]。→[[B (ラジオ番組)]] *日本のヴィジュアル系バンド、[[vistlip]]のシングル。→[[B (vistlipの曲)]] == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0042|66||1-3-34|0062|98||1-3-66|[[半角]]}} {{ULu|FF22|65314||1-3-34|FF42|65346||1-3-66|全角}} {{ULu|24B7|9399||‐|24D1|9425||1-12-34|丸囲み}} {{ULu|1F111|127249||‐|249D|9373||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D2E|7470||‐|1D47|7495||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D401|119809||‐|1D41B|119835||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D435|119861||‐|1D44F|119887||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D469|119913||‐|1D483|119939||‐|イタリック体太字}} {{ULu|212C|8492||‐|1D4B7|119991||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D1|120017||‐|1D4EB|120043||‐|筆記体太字}} {{ULu|1D505|120069||‐|1D51F|120095||‐|[[フラクトゥール]]}} {{ULu|1D539|120121||‐|1D553|120147||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D56D|120173||‐|1D587|120199||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A1|120225||‐|1D5BB|120251||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5D5|120277||‐|1D5EF|120303||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D609|120329||‐|1D623|120355||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D63D|120381||‐|1D657|120407||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D671|120433||‐|1D68B|120459||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|665|0299|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL B}} {{CharCode|127281|1F131|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER B|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127313|1F151|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER B|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127345|1F171|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER B|font=ARIB外字フォント}} |} == 他の表現法 == {{Letter other reps |NATO=Bravo |Morse=-・・・ |Character=B2 |Braille=⠃ }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[&#x243;|<span style="font-family:'DejaVu Sans','Komatuna P','M+ 1c','Meguri P','Segoe UI',Ubuntu,'UmePlus P Gothic','VL Pゴシック','DejaVu Serif',Code2000,'Doulos SIL',FreeSerif,'Linux Biolinum G',Quivira,'Nishiki-teki';">&#x243;</span> {{Unicode|&#x180;}}]] - [[ストローク符号]] *[[Ɓ|{{Unicode|Ɓ ɓ}}]] - [[フックつき文字]] *[[Ƃ|{{Unicode|Ƃ ƃ}}]] - トップバー *{{仮リンク|Ḃ|fr|Ḃ|label={{Unicode|Ḃ}}}} - [[ドット符号]] *{{仮リンク|Ḅ|de|Ḅ|label={{Unicode|Ḅ}}}} {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
2003-08-21T04:33:00Z
2023-08-19T09:10:46Z
false
false
false
[ "Template:仮リンク", "Template:Unicode", "Template:Fontsize", "Template:Letter other reps", "Template:脚注ヘルプ", "Template:ULu", "Template:ラテン文字", "Template:A-Z", "Template:Lang-en-short", "Template:IPA", "Template:Ipa", "Template:Wiktionarypar", "Template:Otheruses", "Template:CharCode" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/B
13,663
ラテン文字
ラテン文字(ラテンもじ、羅: abecedarium Latinum、英: Latin alphabet、ラテンアルファベット)とは、ラテン語や英語などの子音か、または母音の表記に用い、アルファベットに類する文字である。元来、ラテン語の文字であり、古代ラテン人つまり、広義のローマ人が用いたことからローマ文字(ローマもじ)、ローマ字(ローマじ、伊: alfabeto Romano、英: Roman alphabet)とも呼ばれる。今日、人類社会で最も使用者人口が多い文字である。なお日本語においてローマ字といえば、転じて日本語のラテン文字による転写を指すことが一般である。 ラテン文字は一般に表音文字、特に音素文字のアルファベットとして用いる。また、表記法はたとえば英語では、文字を右書きで横に並べ、単語と単語の間にスペース(space)と称される空白をはさむことで分かち書きをし、その単語を並べて文を構成する。また、文の終わりにピリオドやフル・ストップ(米: period、英: full stop、終止符)などと呼ばれる終止符などの役物を打つことで文の終了を示す。このほかの多くの言語でも同様に、横に右書きし、空白で分かち書きをするなどし、言語によってはさらにリガチャ(英: ligature)などと称される合字やダイアクリティカルマーク(英: diacritical mark)などと称される発音記号などのついた文字を併せて用いる。 古来、ラテン文字は、西ヨーロッパや中央ヨーロッパの諸言語(例えばイタリア語やスペイン語、ポルトガル語、フランス語、英語、ドイツ語、ポーランド語など)で使われていたが、近代以降はこれら以外にも使用言語が多い(詳細は後述の#19世紀以降のラテン文字化を参照されたい)。たとえばトルコ共和国においては1928年以降、トルコ語の表記を「近代化」するため、従前のアラビア文字に替えてラテン文字を用いたトルコ語アルファベットが使われる。 ラテン文字は表音文字であるが、広くさまざまな言語で用いられた結果、発音の文字への表記方法自体は各言語ごとに異なっており、同じ綴りでも言語によって異なる発音をすることが珍しくない。他方、広い時代で用いられ続けた結果、英語など、古い時代から表記法を受け継ぐ言語においては、表記と発音の間の乖離も大きなものとなってきている。 日本語における「ローマ字」という呼称は、ラテン文字の別名であるが、日本語のラテン文字を用いた音訳や翻字による表記法「ローマ字」の呼称でもあるため、どちらの意味なのかやや紛らわしく、前者を指してローマ文字と呼び分けることもある。 漢字で表記する場合は、日本産業規格 (JIS) の規格票において、「欧字(おうじ)」という表現が見られる。このほか特に、ラテン文字のうち基本26文字(英: basic Latin alphabet、ベーシックラテン・アルファベット)は英語の表記に用いることから「英字(えいじ)」と呼び、よく「英字新聞」などの語において用いる。 また、ラテン文字の基本26文字については「アルファベット」と呼ぶことも一般的であるが、これは英語のalphabetを片仮名で音訳したものであり、イギリス人やアメリカ人をはじめとする英語圏の人々と同じく、日本人や日本の英語教育の場などにおいては、英語の表記のための文字、つまり結果として基本ラテン文字を指すことが多い。 他方、日本語における呼称として一般でないが、ドイツ人をはじめとするドイツ語圏の人々と同じく、日本人のドイツ語学習者の間では、ドイツ語の発音にならう「アルファベート」と呼ぶことで、基本26文字にウムラウトと呼ばれるダイアクリティカルマークのついた文字やエスツェットと称されるリガチャなども加えた「ドイツ語アルファベット」を指す。また、フランス人をはじめとするフランス語圏の人々と同じく、日本人のフランス語学習者の間では、フランス語の発音にならう「アルファベ」と呼ぶことで、フランス語の表記に用いるアクサンテギュやアクサングラーヴ、セディーユなどのアクセント記号などをつけた文字やその他のリガチャなどを加えた「フランス語アルファベット」を指す。 古代のラテン文字は、最初期の古ラテン語から共和制ローマ以降の古典ラテン語において用いられた。また、中世のラテン文字は、ローマ帝国の東西分裂以降もゲルマン人の言語やキリスト教の典礼言語の表記に用いられることで、さらに広まっていった。 ラテン文字は本来、その名があらわす通り、ラテン語の表記に用いる文字として成立した。このため、ラテン語を公用語とするローマ帝国の勢力が伸長するとともにラテン文字の使用圏も拡大していった。しかし、ギリシア語を使用する帝国の東部においては、文字もギリシア文字が主流であった。 395年のローマ帝国の東西分裂以降、東ローマ帝国においてギリシア語化が進む一方で、西ローマ帝国はラテン語を使用し続け、文字もラテン文字を引き続き使用していた。 西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動などにより衰退してゆくことで476年に事実上の滅亡を迎えたとされるが、この地域に侵入したゲルマン人たちはラテン語とラテン文字を行政言語として使用するようになり、やがて彼らの祖語であるゲルマン諸語もラテン文字によって表記するようになっていった。また、このころから力を強めていったローマ教会は中世ラテン語を教会ラテン語と称して典礼言語にしており、それを表記するためのラテン文字も西方教会圏全域に広まっていき、西方教会圏の諸言語を表記するためにラテン文字が転用されるようになった。 こうして中世以降は、俗ラテン語に由来するロマンス諸語のみならず、西ヨーロッパや中央ヨーロッパのカトリックやプロテスタントを含む西方教会地域のほぼ全ての言語でラテン文字が使われるようになった。具体的にはゲルマン語派とスラヴ語派の一部、バルト語派やケルト語派、加えてバスク語やウラル語族の一部などである。 近代以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、19世紀には世界の大半を植民地化するようになった。当時の列強は、ロシア帝国と大日本帝国を除きすべてがラテン文字の使用する国家であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の覇権の影響を受け、西方教会圏の諸言語以外においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もとより文字を持たない言語が新たに文字を採用する場合と、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えた場合がある。 特に、文字を持たない言語が新たに正書法を定める場合については、新たに文字を発明したり、そのほかの文字を転用したりするよりも、多くラテン文字が採用された。こうした無文字言語社会に積極的に接触する者には、カトリックやプロテスタントのキリスト教の宣教師が多く、彼らは布教のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである。ラテン文字が表音文字であり、各地の言語を音訳しやすかったこともこの変化を進める要因となった。あるいは基礎的なラテン文字の文字数は、26文字とキリル文字などに比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした。 もっとも文字数が少ないことは、表記できる発音が少ないことと表裏一体である。こうした発音を文字としてあらわすために各言語は、ひとつの発音に2文字以上を用いたり、これを1つの文字として合字することでリガチャをさらに増やしたり、あるいはダイアクリティカルマークを付す文字を増やしたりすることで文字の不足を補ったほか、新しい文字や声調記号などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化はアフリカやオセアニアなどで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。 ヨーロッパ以外の地域において、もとより文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋の列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリックやプロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で支配層の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。 こうして近代以降に植民地化を原因としてラテン文字に切り替えた言語には、東南アジアの言語においてはアラビア文字を基にしたジャウィ文字から切り替えたインドネシア語やマレー語、アラビア文字とブラーフミー系文字であるアリバタの併用から切り替えてフィリピン語、漢字とそれを基にしたチュノムの併用から切り替えたベトナム語、アフリカ東部の言語においてはアラビア文字から切り替えたスワヒリ語などがある。 この例外はトルコ語であり、オスマン帝国は植民地化を受けていなかったものの、これに代わってトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクがトルコの近代化を目指して使用文字の変更を決定し、1928年にアラビア文字から置き換えられたものである。 またそれとは別の例外として、すべての植民地において必ずしも宗主国がラテン文字化を推進したり、あるいはラテン文字化を完了したりしたわけではなく、南アジアのインド地域やキリスト教化できなかったイスラム世界にあるアラブ圏の各国などのように植民地支配を受けたが、用いる文字を変更しなかった地域も多い。 植民地となった地域がラテン文字を用いるようになるのとは別に、ヨーロッパにおいても18世紀以降、西方教会地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。ルーマニア語はルーマニア正教会のもとで正教会圏であったため文語においてキリル文字を使用していたが、16世紀ごろには一部地域でハンガリーの言語であるマジャル語をまねた筆記法が用いられ、18世紀には民族主義の高まりによりロマンス諸語であることが強く意識され、ラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった。アルバニア語においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、1908年にラテン文字による表記が正式に決定した。 旧ソビエト連邦の諸言語の表記は、当初ラテン文字を採用していたものの、1940年にキリル文字が採用され、ソビエト連邦内の多くの言語でキリル文字化が進められた。しかしソビエト連邦の崩壊後、これら諸言語のいくつかにおいてふたたびラテン文字を再導入する動きが活発になった。元来、アラビア文字を用いていた地域においてはウズベク語やトルクメン語、アゼルバイジャン語が、初期のソビエト連邦にラテン文字に切り替えられ、その後1940年に連邦政府の言語政策の変化によりキリル文字に再び切り替えられたが、ソビエト連邦の崩壊後、ウズベク語とトルクメン語とにおいてラテン文字表記の導入が決定され、以前定められたものとは異なるものの、再びラテン文字への切り替えが行われることとなった。 同じく元来、アラビア文字を用いていたカザフスタンにおいてはソビエト連邦崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が2017年10月に、カザフ語の表記をラテン文字に改める準備を整えるよう担当部署に指示した。2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し、2025年には完全にカザフ語の表記をラテン文字に移行することを表明した。 このほか、ロマンス諸語に属し、ルーマニア語ときわめて似ている関係にあるモルドバ語においては、従前のラテン文字から1940年にキリル文字化されたものの、1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字を用いる国となった。 日本においては、漢字廃止論の一環としてのラテン文字化、いわゆるローマ字論が明治初期から唱えられており、第二次世界大戦後には、1946年の第一次アメリカ教育使節団報告書によって、漢字と平仮名、片仮名を廃止し、日本語表記をローマ字表記に一本化することが提言された。これを受け、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) のもとで「日本語表記は複雑であるため識字率が低く、識字率を高めるために簡便なローマ字表記への切り替えが必要」との意見が強まり、実態を調査するため1948年に全国各地で文部省教育研修所、現在の国立教育政策研究所とGHQの共催による漢字テストが行われた。しかし、その結果はGHQの予想とは異なり、識字率はおよそ10割に近いという結果が出たため、このローマ字表記化計画は頓挫、事実上撤回されることになった。 独自の文字を使用する言語でも、ほとんどはラテン文字による表記法が確立されており、借用語や略語などでもラテン文字を用いることが多い。日本語においては、1867年にアメリカ人のジェームス・カーティス・ヘボンがヘボン式ローマ字の表記法を考案し、さらに1885年に田中舘愛橘が日本式ローマ字を考案、さらにこれを発展させて1937年に発表された訓令式ローマ字があり、実際には訓令式とヘボン式の2つの表記法が並立している形となっている。 訓令式は1字または2字で多くの音を表記できるため使用はしやすい一方、英語の発音からやや離れた表記となっており、よく「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人からは正しく発音されにくいことが欠点だ」と指摘される。対して「ヘボン式はその逆で、実際の発音に沿った表記となっており、普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語西欧系各言語を母語とする欧米人からも正しく発音されやすい」などとみなされる半面、表記が長くやや使用しにくい面がある。 もっとも読みに関しては、ヘボン式で書いたところでそもそも、ラテン文字の読みがしばしば言語間で異なり、つまりフランス人が読めばフランス語読みになる。したがってヘボン式ローマ字は、アメリカ人や英語圏の人々から正しく発音されるかどうかはさておき、ヨーロッパの人々およびラテン文字を用いるあまねく人々に正しく発音される保証はなく、それはほかのどのローマ字にもいえることである。また、ある言語で用いる文字とその表記法については、特に使用する文字を完全に改めるような場合において、その言語をよくとらえているかどうかが論点のひとつとなる。この点について現代の日本語は、その発音を五十音表のようにとらえている話者が多く、したがって日本語話者にとってヘボン式は、タ行のように同じ行でも子音の文字が変わり、拗音の「シャ」などの「小さいヤ段」の表記が揺れるなど、日本語話者にとって変則的な表記が多い、日本語をよくとらえていない表記となる。この意味では、ヘボン式ローマ字は、外国人に向けて用いる場合はさておき、日本人の書く日本語のラテン文字化には向かないといえる。 文部省は1954年に訓令式に基づいた「ローマ字のつづり方」を定め、事情がある場合に限りヘボン式での表記を認めるという立場を取った。これに沿って、日本の教育現場においては訓令式での表記を教えている。しかし、実際のローマ字表記は、特に公共の場などにおいて一般に外国人に向けて用いられるため「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人にわかりやすい」というねらいから、ヘボン式での表記が圧倒的であり、統一を求める声も上がっている。 個々のラテン文字の成立について詳細は、該当する文字ごとの記事も参照されたい。 イタリア半島に、のちにローマ人と呼ばれるようになるラテン人という部族が棲みついていた。紀元前7世紀頃の古ラテン語の時代にラテン人は、紀元前1千年紀頃から同じくイタリア半島で現在のイタリア中部に棲みついていたエトルリア人とギリシア人などの部族から文字を採り入れた。 西方ギリシア文字から借用・派生し、古イタリア文字群へ至る歴史の流れにあって、ラテン人はクマエ文字から4字を除いて取り入れた。またエトルリア文字からは「𐌅 /v/」を採り入れて「F /f/」の音に用い、また、3箇所の屈曲がある「𐌔」を採り入れて現在の「S」の形にした。そして「ギリシア語のG音」と「エトルリア語のK音」を表すのには現在のCの字のような形の「𐌂 (希: Γ)」を用いた。こうして生まれたアルファベット21文字は、「G・J・U・W・Y・Z」がないなど、現代のラテン文字とは多少の違いがある。 このローマ人のアルファベットには、/k/の音を表す文字が「C・K・Q」の3つあり、このうち「C」は、/g/の音の表記にも用いた一方、ラテン語では当時、用いることのなかった現在の「Z」を表す「𐌆」が、アルファベットの文字表における現在の「G」の位置へ一時的に取り入れられた。その後、ローマ人は「C」にステムとも称されるヒゲをつけることで「G」を作りだし、当時のローマ人が用いない「Z」の代わりに、現在の位置と同じ「F」と「H」の間に置いた。 もっとも古いラテン文字の成立から数世紀を経て、紀元前3世紀にアレクサンドロス3世が地中海沿岸地域の東部とその周辺を征服した後、ローマ人はギリシア語の語彙を借用するようになり、それにともない以前は必要でなかった文字が借用語とともに再び輸入された。具体的には、東方ギリシア文字から「Υ」と「Ζ」を借用したが、あくまでギリシア語からの借用語を記述する事にしか使わなかったため、追加文字として文字表の最後に置いた。なお、この時代には小文字は開発されておらず、文章はすべて大文字で書かれていた。 ラテン文字を表すため、様々な書体が流行したが、3世紀ごろにはアンシャル体と呼ばれる書体が広く使用されるようになり、さらにそれから半アンシャル体と呼ばれる書体ができた。これらの書体は、元となったの大文字からはやや離れた形をしていたが、各地で広く使用されるなかで書体の乖離が激しくなったため、あらためて相互に通じる統一された書体を制定する必要になっていた。そこで8世紀頃にカロリング朝のフランク王国でカール大帝の庇護を受けたカロリング小文字体が普及した。このカロリング小文字体は、フランク王国のみならずラテン文字圏全体で広く使用されるようになったが、一方で従来の大文字もそのまま残存しており、これが大文字のほかに小文字が新しく成立する起源となった。 ブリテン島のアングロ・サクソン語は、11世紀にノルマン人による制圧を受けた後、ラテン文字でも表記されるようになった。古くは、/w/の音を表すためにルーン文字に由来する「Ƿ(wynn、ウィン)」を用いたこともあるが、音の異なる「P」に似ていたために混同されやすく、結局、/w/の音は現在の「U」を2つ並べた二重音字の「UU(英: double U、ダブル・ユー)」として表すように戻った。 この頃の「U」の形がVの字であったため、実際の字形はVを2つ並べた「VV」の形となり、追加文字としてWは、文字表において「V」の次に置かれた。なお、ロマンス諸語においては、この「W」を「2つのV」の意味する名称で呼ぶ。 また、丸みのある「U」で母音を表し、子音のときは「V」を用いるようになった。また「J」は、当初「I」の異字体であり、いくつか「I」が並ぶときの「最後のI」に長い尾のようなヒゲをつけたものだった。15世紀頃から、子音には「J」を、母音には「I」を用いるようになり、17世紀半ばには一般的になった。 ラテン文字は、大きく分けて基本字と追加字に分類される。 遅くとも1960年代に標準化がなされて以降、ラテン語の23字に「J・U・W」を加えた26字を基本と見なし、多く実用の際は、歴史的に書体の差から生じた異なる字形を持つ大文字と小文字を併用する。この基本字は英語の表記に必要最低限の文字であり、それ以外の字は外来語でしか用いない。英語においても大文字と小文字を併用し、ラテン文字を用いる多くの言語同様、文の最初の語の頭文字と、各言語ごとに異なる特別な語の頭文字や、あるいは強調したい部分などに大文字を用いて、それ以外はすべて小文字を用いる。 ラテン文字はもともとラテン語を表すための文字であり、他の言語に用いるには表記できない発音も存在していた。こうした状況を解決するために、現在の基本字にはいくつかの文字が付け加えられたものの、それでも表記できない発音に対しては、こうした音を表記するために基本字に発音を区別する符号を付けたり、2つ以上の文字を結合したり、さらに文字を追加したりする言語が多く表れるようになった。 ラテン文字の発音区別符号は、総称してダイアクリティカルマークなどと呼ばれる。ドイツ語やスウェーデン語などではウムラウト、フランス語やポルトガル語、トルコ語などではセディーユ、スペイン語やポルトガル語ではティルデが多く使用されるなど、ダイアクリティカルマークを採用しているラテン文字使用国は多数存在する。日本語のローマ字表記においては、サーカムフレックスやマクロンが長音の表記に使用される場合がある。 ラテン文字において、2つ以上の文字の合字は、リガチャーとも呼ばれる。代表的な合字としては、ドイツ語の「ß(エスツェット)」や、アイスランド語・デンマーク語・ノルウェー語の「Æ」、デンマーク語やノルウェー語の「Ø」などが挙げられる。なお、現在では基本字のひとつとなっているが、本来「W」も合字であり、多くの言語において「ダブルのU」、または「ダブルのV」を意味する名称で呼ばれる。 また、現代では消滅したが、アングロ・サクソン語の「Ƿ」のようにルーン文字など、基本字にさらに他の文字から取り入れられた文字も、一部では用いられる。 ラテン文字は、音読の際の休止符に由来する句読点や、感嘆符、疑問符、その他の約物、レタリングなどから生まれた記号をしばしば併用する。一般にアットマークは記号であるが、一部の言語の正書法において、音を表すアルファベットとして用いる。 主な言語での文字の名を以下に示す。 ラテン文字はギリシア文字から派生した文字であり、ラテン文字が新たな字を追加し大きく変化した現代においてもいくつかの文字は共通する。また、同じくギリシア文字を祖とするキリル文字ともいくつかの文字が共通している。 ラテン文字は他言語に適用される場合は綴りを工夫したり文字に記号を加えるなどしたうえでそのまま導入されることが多く、ラテン文字から派生した文字はそれほど多くはないが、アイルランド島などで5世紀から8世紀にかけて用いられたオガム文字はおそらくラテン文字から影響を受けて作られたと考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラテン文字(ラテンもじ、羅: abecedarium Latinum、英: Latin alphabet、ラテンアルファベット)とは、ラテン語や英語などの子音か、または母音の表記に用い、アルファベットに類する文字である。元来、ラテン語の文字であり、古代ラテン人つまり、広義のローマ人が用いたことからローマ文字(ローマもじ)、ローマ字(ローマじ、伊: alfabeto Romano、英: Roman alphabet)とも呼ばれる。今日、人類社会で最も使用者人口が多い文字である。なお日本語においてローマ字といえば、転じて日本語のラテン文字による転写を指すことが一般である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ラテン文字は一般に表音文字、特に音素文字のアルファベットとして用いる。また、表記法はたとえば英語では、文字を右書きで横に並べ、単語と単語の間にスペース(space)と称される空白をはさむことで分かち書きをし、その単語を並べて文を構成する。また、文の終わりにピリオドやフル・ストップ(米: period、英: full stop、終止符)などと呼ばれる終止符などの役物を打つことで文の終了を示す。このほかの多くの言語でも同様に、横に右書きし、空白で分かち書きをするなどし、言語によってはさらにリガチャ(英: ligature)などと称される合字やダイアクリティカルマーク(英: diacritical mark)などと称される発音記号などのついた文字を併せて用いる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古来、ラテン文字は、西ヨーロッパや中央ヨーロッパの諸言語(例えばイタリア語やスペイン語、ポルトガル語、フランス語、英語、ドイツ語、ポーランド語など)で使われていたが、近代以降はこれら以外にも使用言語が多い(詳細は後述の#19世紀以降のラテン文字化を参照されたい)。たとえばトルコ共和国においては1928年以降、トルコ語の表記を「近代化」するため、従前のアラビア文字に替えてラテン文字を用いたトルコ語アルファベットが使われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ラテン文字は表音文字であるが、広くさまざまな言語で用いられた結果、発音の文字への表記方法自体は各言語ごとに異なっており、同じ綴りでも言語によって異なる発音をすることが珍しくない。他方、広い時代で用いられ続けた結果、英語など、古い時代から表記法を受け継ぐ言語においては、表記と発音の間の乖離も大きなものとなってきている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語における「ローマ字」という呼称は、ラテン文字の別名であるが、日本語のラテン文字を用いた音訳や翻字による表記法「ローマ字」の呼称でもあるため、どちらの意味なのかやや紛らわしく、前者を指してローマ文字と呼び分けることもある。", "title": "日本語における呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "漢字で表記する場合は、日本産業規格 (JIS) の規格票において、「欧字(おうじ)」という表現が見られる。このほか特に、ラテン文字のうち基本26文字(英: basic Latin alphabet、ベーシックラテン・アルファベット)は英語の表記に用いることから「英字(えいじ)」と呼び、よく「英字新聞」などの語において用いる。", "title": "日本語における呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、ラテン文字の基本26文字については「アルファベット」と呼ぶことも一般的であるが、これは英語のalphabetを片仮名で音訳したものであり、イギリス人やアメリカ人をはじめとする英語圏の人々と同じく、日本人や日本の英語教育の場などにおいては、英語の表記のための文字、つまり結果として基本ラテン文字を指すことが多い。", "title": "日本語における呼称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "他方、日本語における呼称として一般でないが、ドイツ人をはじめとするドイツ語圏の人々と同じく、日本人のドイツ語学習者の間では、ドイツ語の発音にならう「アルファベート」と呼ぶことで、基本26文字にウムラウトと呼ばれるダイアクリティカルマークのついた文字やエスツェットと称されるリガチャなども加えた「ドイツ語アルファベット」を指す。また、フランス人をはじめとするフランス語圏の人々と同じく、日本人のフランス語学習者の間では、フランス語の発音にならう「アルファベ」と呼ぶことで、フランス語の表記に用いるアクサンテギュやアクサングラーヴ、セディーユなどのアクセント記号などをつけた文字やその他のリガチャなどを加えた「フランス語アルファベット」を指す。", "title": "日本語における呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "古代のラテン文字は、最初期の古ラテン語から共和制ローマ以降の古典ラテン語において用いられた。また、中世のラテン文字は、ローマ帝国の東西分裂以降もゲルマン人の言語やキリスト教の典礼言語の表記に用いられることで、さらに広まっていった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ラテン文字は本来、その名があらわす通り、ラテン語の表記に用いる文字として成立した。このため、ラテン語を公用語とするローマ帝国の勢力が伸長するとともにラテン文字の使用圏も拡大していった。しかし、ギリシア語を使用する帝国の東部においては、文字もギリシア文字が主流であった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "395年のローマ帝国の東西分裂以降、東ローマ帝国においてギリシア語化が進む一方で、西ローマ帝国はラテン語を使用し続け、文字もラテン文字を引き続き使用していた。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動などにより衰退してゆくことで476年に事実上の滅亡を迎えたとされるが、この地域に侵入したゲルマン人たちはラテン語とラテン文字を行政言語として使用するようになり、やがて彼らの祖語であるゲルマン諸語もラテン文字によって表記するようになっていった。また、このころから力を強めていったローマ教会は中世ラテン語を教会ラテン語と称して典礼言語にしており、それを表記するためのラテン文字も西方教会圏全域に広まっていき、西方教会圏の諸言語を表記するためにラテン文字が転用されるようになった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こうして中世以降は、俗ラテン語に由来するロマンス諸語のみならず、西ヨーロッパや中央ヨーロッパのカトリックやプロテスタントを含む西方教会地域のほぼ全ての言語でラテン文字が使われるようになった。具体的にはゲルマン語派とスラヴ語派の一部、バルト語派やケルト語派、加えてバスク語やウラル語族の一部などである。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "近代以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、19世紀には世界の大半を植民地化するようになった。当時の列強は、ロシア帝国と大日本帝国を除きすべてがラテン文字の使用する国家であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の覇権の影響を受け、西方教会圏の諸言語以外においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もとより文字を持たない言語が新たに文字を採用する場合と、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えた場合がある。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "特に、文字を持たない言語が新たに正書法を定める場合については、新たに文字を発明したり、そのほかの文字を転用したりするよりも、多くラテン文字が採用された。こうした無文字言語社会に積極的に接触する者には、カトリックやプロテスタントのキリスト教の宣教師が多く、彼らは布教のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである。ラテン文字が表音文字であり、各地の言語を音訳しやすかったこともこの変化を進める要因となった。あるいは基礎的なラテン文字の文字数は、26文字とキリル文字などに比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "もっとも文字数が少ないことは、表記できる発音が少ないことと表裏一体である。こうした発音を文字としてあらわすために各言語は、ひとつの発音に2文字以上を用いたり、これを1つの文字として合字することでリガチャをさらに増やしたり、あるいはダイアクリティカルマークを付す文字を増やしたりすることで文字の不足を補ったほか、新しい文字や声調記号などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化はアフリカやオセアニアなどで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ以外の地域において、もとより文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋の列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリックやプロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で支配層の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうして近代以降に植民地化を原因としてラテン文字に切り替えた言語には、東南アジアの言語においてはアラビア文字を基にしたジャウィ文字から切り替えたインドネシア語やマレー語、アラビア文字とブラーフミー系文字であるアリバタの併用から切り替えてフィリピン語、漢字とそれを基にしたチュノムの併用から切り替えたベトナム語、アフリカ東部の言語においてはアラビア文字から切り替えたスワヒリ語などがある。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この例外はトルコ語であり、オスマン帝国は植民地化を受けていなかったものの、これに代わってトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクがトルコの近代化を目指して使用文字の変更を決定し、1928年にアラビア文字から置き換えられたものである。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "またそれとは別の例外として、すべての植民地において必ずしも宗主国がラテン文字化を推進したり、あるいはラテン文字化を完了したりしたわけではなく、南アジアのインド地域やキリスト教化できなかったイスラム世界にあるアラブ圏の各国などのように植民地支配を受けたが、用いる文字を変更しなかった地域も多い。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "植民地となった地域がラテン文字を用いるようになるのとは別に、ヨーロッパにおいても18世紀以降、西方教会地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。ルーマニア語はルーマニア正教会のもとで正教会圏であったため文語においてキリル文字を使用していたが、16世紀ごろには一部地域でハンガリーの言語であるマジャル語をまねた筆記法が用いられ、18世紀には民族主義の高まりによりロマンス諸語であることが強く意識され、ラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった。アルバニア語においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、1908年にラテン文字による表記が正式に決定した。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "旧ソビエト連邦の諸言語の表記は、当初ラテン文字を採用していたものの、1940年にキリル文字が採用され、ソビエト連邦内の多くの言語でキリル文字化が進められた。しかしソビエト連邦の崩壊後、これら諸言語のいくつかにおいてふたたびラテン文字を再導入する動きが活発になった。元来、アラビア文字を用いていた地域においてはウズベク語やトルクメン語、アゼルバイジャン語が、初期のソビエト連邦にラテン文字に切り替えられ、その後1940年に連邦政府の言語政策の変化によりキリル文字に再び切り替えられたが、ソビエト連邦の崩壊後、ウズベク語とトルクメン語とにおいてラテン文字表記の導入が決定され、以前定められたものとは異なるものの、再びラテン文字への切り替えが行われることとなった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同じく元来、アラビア文字を用いていたカザフスタンにおいてはソビエト連邦崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が2017年10月に、カザフ語の表記をラテン文字に改める準備を整えるよう担当部署に指示した。2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し、2025年には完全にカザフ語の表記をラテン文字に移行することを表明した。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このほか、ロマンス諸語に属し、ルーマニア語ときわめて似ている関係にあるモルドバ語においては、従前のラテン文字から1940年にキリル文字化されたものの、1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字を用いる国となった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本においては、漢字廃止論の一環としてのラテン文字化、いわゆるローマ字論が明治初期から唱えられており、第二次世界大戦後には、1946年の第一次アメリカ教育使節団報告書によって、漢字と平仮名、片仮名を廃止し、日本語表記をローマ字表記に一本化することが提言された。これを受け、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) のもとで「日本語表記は複雑であるため識字率が低く、識字率を高めるために簡便なローマ字表記への切り替えが必要」との意見が強まり、実態を調査するため1948年に全国各地で文部省教育研修所、現在の国立教育政策研究所とGHQの共催による漢字テストが行われた。しかし、その結果はGHQの予想とは異なり、識字率はおよそ10割に近いという結果が出たため、このローマ字表記化計画は頓挫、事実上撤回されることになった。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "独自の文字を使用する言語でも、ほとんどはラテン文字による表記法が確立されており、借用語や略語などでもラテン文字を用いることが多い。日本語においては、1867年にアメリカ人のジェームス・カーティス・ヘボンがヘボン式ローマ字の表記法を考案し、さらに1885年に田中舘愛橘が日本式ローマ字を考案、さらにこれを発展させて1937年に発表された訓令式ローマ字があり、実際には訓令式とヘボン式の2つの表記法が並立している形となっている。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "訓令式は1字または2字で多くの音を表記できるため使用はしやすい一方、英語の発音からやや離れた表記となっており、よく「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人からは正しく発音されにくいことが欠点だ」と指摘される。対して「ヘボン式はその逆で、実際の発音に沿った表記となっており、普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語西欧系各言語を母語とする欧米人からも正しく発音されやすい」などとみなされる半面、表記が長くやや使用しにくい面がある。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "もっとも読みに関しては、ヘボン式で書いたところでそもそも、ラテン文字の読みがしばしば言語間で異なり、つまりフランス人が読めばフランス語読みになる。したがってヘボン式ローマ字は、アメリカ人や英語圏の人々から正しく発音されるかどうかはさておき、ヨーロッパの人々およびラテン文字を用いるあまねく人々に正しく発音される保証はなく、それはほかのどのローマ字にもいえることである。また、ある言語で用いる文字とその表記法については、特に使用する文字を完全に改めるような場合において、その言語をよくとらえているかどうかが論点のひとつとなる。この点について現代の日本語は、その発音を五十音表のようにとらえている話者が多く、したがって日本語話者にとってヘボン式は、タ行のように同じ行でも子音の文字が変わり、拗音の「シャ」などの「小さいヤ段」の表記が揺れるなど、日本語話者にとって変則的な表記が多い、日本語をよくとらえていない表記となる。この意味では、ヘボン式ローマ字は、外国人に向けて用いる場合はさておき、日本人の書く日本語のラテン文字化には向かないといえる。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "文部省は1954年に訓令式に基づいた「ローマ字のつづり方」を定め、事情がある場合に限りヘボン式での表記を認めるという立場を取った。これに沿って、日本の教育現場においては訓令式での表記を教えている。しかし、実際のローマ字表記は、特に公共の場などにおいて一般に外国人に向けて用いられるため「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人にわかりやすい」というねらいから、ヘボン式での表記が圧倒的であり、統一を求める声も上がっている。", "title": "使用言語" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "個々のラテン文字の成立について詳細は、該当する文字ごとの記事も参照されたい。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イタリア半島に、のちにローマ人と呼ばれるようになるラテン人という部族が棲みついていた。紀元前7世紀頃の古ラテン語の時代にラテン人は、紀元前1千年紀頃から同じくイタリア半島で現在のイタリア中部に棲みついていたエトルリア人とギリシア人などの部族から文字を採り入れた。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "西方ギリシア文字から借用・派生し、古イタリア文字群へ至る歴史の流れにあって、ラテン人はクマエ文字から4字を除いて取り入れた。またエトルリア文字からは「𐌅 /v/」を採り入れて「F /f/」の音に用い、また、3箇所の屈曲がある「𐌔」を採り入れて現在の「S」の形にした。そして「ギリシア語のG音」と「エトルリア語のK音」を表すのには現在のCの字のような形の「𐌂 (希: Γ)」を用いた。こうして生まれたアルファベット21文字は、「G・J・U・W・Y・Z」がないなど、現代のラテン文字とは多少の違いがある。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このローマ人のアルファベットには、/k/の音を表す文字が「C・K・Q」の3つあり、このうち「C」は、/g/の音の表記にも用いた一方、ラテン語では当時、用いることのなかった現在の「Z」を表す「𐌆」が、アルファベットの文字表における現在の「G」の位置へ一時的に取り入れられた。その後、ローマ人は「C」にステムとも称されるヒゲをつけることで「G」を作りだし、当時のローマ人が用いない「Z」の代わりに、現在の位置と同じ「F」と「H」の間に置いた。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "もっとも古いラテン文字の成立から数世紀を経て、紀元前3世紀にアレクサンドロス3世が地中海沿岸地域の東部とその周辺を征服した後、ローマ人はギリシア語の語彙を借用するようになり、それにともない以前は必要でなかった文字が借用語とともに再び輸入された。具体的には、東方ギリシア文字から「Υ」と「Ζ」を借用したが、あくまでギリシア語からの借用語を記述する事にしか使わなかったため、追加文字として文字表の最後に置いた。なお、この時代には小文字は開発されておらず、文章はすべて大文字で書かれていた。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ラテン文字を表すため、様々な書体が流行したが、3世紀ごろにはアンシャル体と呼ばれる書体が広く使用されるようになり、さらにそれから半アンシャル体と呼ばれる書体ができた。これらの書体は、元となったの大文字からはやや離れた形をしていたが、各地で広く使用されるなかで書体の乖離が激しくなったため、あらためて相互に通じる統一された書体を制定する必要になっていた。そこで8世紀頃にカロリング朝のフランク王国でカール大帝の庇護を受けたカロリング小文字体が普及した。このカロリング小文字体は、フランク王国のみならずラテン文字圏全体で広く使用されるようになったが、一方で従来の大文字もそのまま残存しており、これが大文字のほかに小文字が新しく成立する起源となった。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ブリテン島のアングロ・サクソン語は、11世紀にノルマン人による制圧を受けた後、ラテン文字でも表記されるようになった。古くは、/w/の音を表すためにルーン文字に由来する「Ƿ(wynn、ウィン)」を用いたこともあるが、音の異なる「P」に似ていたために混同されやすく、結局、/w/の音は現在の「U」を2つ並べた二重音字の「UU(英: double U、ダブル・ユー)」として表すように戻った。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この頃の「U」の形がVの字であったため、実際の字形はVを2つ並べた「VV」の形となり、追加文字としてWは、文字表において「V」の次に置かれた。なお、ロマンス諸語においては、この「W」を「2つのV」の意味する名称で呼ぶ。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、丸みのある「U」で母音を表し、子音のときは「V」を用いるようになった。また「J」は、当初「I」の異字体であり、いくつか「I」が並ぶときの「最後のI」に長い尾のようなヒゲをつけたものだった。15世紀頃から、子音には「J」を、母音には「I」を用いるようになり、17世紀半ばには一般的になった。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ラテン文字は、大きく分けて基本字と追加字に分類される。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "遅くとも1960年代に標準化がなされて以降、ラテン語の23字に「J・U・W」を加えた26字を基本と見なし、多く実用の際は、歴史的に書体の差から生じた異なる字形を持つ大文字と小文字を併用する。この基本字は英語の表記に必要最低限の文字であり、それ以外の字は外来語でしか用いない。英語においても大文字と小文字を併用し、ラテン文字を用いる多くの言語同様、文の最初の語の頭文字と、各言語ごとに異なる特別な語の頭文字や、あるいは強調したい部分などに大文字を用いて、それ以外はすべて小文字を用いる。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ラテン文字はもともとラテン語を表すための文字であり、他の言語に用いるには表記できない発音も存在していた。こうした状況を解決するために、現在の基本字にはいくつかの文字が付け加えられたものの、それでも表記できない発音に対しては、こうした音を表記するために基本字に発音を区別する符号を付けたり、2つ以上の文字を結合したり、さらに文字を追加したりする言語が多く表れるようになった。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ラテン文字の発音区別符号は、総称してダイアクリティカルマークなどと呼ばれる。ドイツ語やスウェーデン語などではウムラウト、フランス語やポルトガル語、トルコ語などではセディーユ、スペイン語やポルトガル語ではティルデが多く使用されるなど、ダイアクリティカルマークを採用しているラテン文字使用国は多数存在する。日本語のローマ字表記においては、サーカムフレックスやマクロンが長音の表記に使用される場合がある。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ラテン文字において、2つ以上の文字の合字は、リガチャーとも呼ばれる。代表的な合字としては、ドイツ語の「ß(エスツェット)」や、アイスランド語・デンマーク語・ノルウェー語の「Æ」、デンマーク語やノルウェー語の「Ø」などが挙げられる。なお、現在では基本字のひとつとなっているが、本来「W」も合字であり、多くの言語において「ダブルのU」、または「ダブルのV」を意味する名称で呼ばれる。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、現代では消滅したが、アングロ・サクソン語の「Ƿ」のようにルーン文字など、基本字にさらに他の文字から取り入れられた文字も、一部では用いられる。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ラテン文字は、音読の際の休止符に由来する句読点や、感嘆符、疑問符、その他の約物、レタリングなどから生まれた記号をしばしば併用する。一般にアットマークは記号であるが、一部の言語の正書法において、音を表すアルファベットとして用いる。", "title": "使用される文字" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "主な言語での文字の名を以下に示す。", "title": "文字の名称" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ラテン文字はギリシア文字から派生した文字であり、ラテン文字が新たな字を追加し大きく変化した現代においてもいくつかの文字は共通する。また、同じくギリシア文字を祖とするキリル文字ともいくつかの文字が共通している。", "title": "他の文字との関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ラテン文字は他言語に適用される場合は綴りを工夫したり文字に記号を加えるなどしたうえでそのまま導入されることが多く、ラテン文字から派生した文字はそれほど多くはないが、アイルランド島などで5世紀から8世紀にかけて用いられたオガム文字はおそらくラテン文字から影響を受けて作られたと考えられている。", "title": "他の文字との関係" } ]
ラテン文字とは、ラテン語や英語などの子音か、または母音の表記に用い、アルファベットに類する文字である。元来、ラテン語の文字であり、古代ラテン人つまり、広義のローマ人が用いたことからローマ文字(ローマもじ)、ローマ字とも呼ばれる。今日、人類社会で最も使用者人口が多い文字である。なお日本語においてローマ字といえば、転じて日本語のラテン文字による転写を指すことが一般である。
{{出典の明記|date=2021年2月}} {{Infobox WS | name = ラテン文字 | type = [[アルファベット]] | languages = [[ロマンス諸語]]、[[西ゲルマン語群]]、[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[中央ヨーロッパ|中欧]]の諸言語、ほか世界各地の言語 | time = [[紀元前7世紀]]から[[現在]] | fam1 = [[原カナン文字]] | fam2 = [[フェニキア文字]] | fam3 = [[ギリシア文字]](一部[[エトルリア文字]]) | sisters = [[キリル文字]]<br>[[コプト文字]]<br>[[ルーン文字]] | sample = Latin_alphabet.svg | image_size = 200px | caption = [[百科事典]]を意味する{{Lang-en|''[[wikt:encyclopedia|Encyclopedia]]''|links=no}}<br>[[書体]]は上が[[ローマン体]]、下が[[イタリック体]] | iso15924 = Latn }} {{音素文字}} '''ラテン文字'''(ラテンもじ、{{Lang-la-short|abecedarium Latinum}}、{{Lang-en-short|Latin alphabet}}、'''ラテンアルファベット''')とは、[[ラテン語]]や[[英語]]などの[[子音]]か、または[[母音]]の表記に用い、[[アルファベット]]に類する[[文字]]である。元来、ラテン語の文字であり、古代[[ラテン人]]つまり、広義の[[ローマ人]]が用いたことから'''ローマ文字'''(ローマもじ)、'''ローマ字'''(ローマじ、{{Lang-it-short|alfabeto Romano}}、{{Lang-en-short|Roman alphabet|links=no}})とも呼ばれる。今日、[[人間社会|人類社会]]で最も使用者人口が多い文字である。なお[[日本語]]において[[ローマ字]]といえば、転じて日本語のラテン文字による[[転写 (言語学)|転写]]を指すことが一般である。 == 概要 == ラテン文字は一般に[[表音文字]]、特に[[音素文字]]のアルファベットとして用いる。また、表記法はたとえば英語では、文字を'''[[右書き]]'''で横に並べ、単語と単語の間に[[スペース]]({{Lang|en|''space''}})と称される空白をはさむことで'''[[分かち書き]]'''をし、その単語を並べて[[文]]を構成する。また、文の終わりに'''ピリオド'''や'''フル・ストップ'''({{Lang-en-us-short|''period''}}、{{Lang-en-gb-short|''full stop''}}、終止符)などと呼ばれる[[終止符]]などの[[役物]]を打つことで文の終了を示す。このほかの多くの言語でも同様に、横に右書きし、空白で分かち書きをするなどし、言語によってはさらに'''[[リガチャ]]'''({{Lang-en-short|''ligature''}})などと称される[[合字]]や'''[[ダイアクリティカルマーク]]'''({{Lang-en-short|''diacritical mark''}})などと称される[[発音記号]]などのついた文字を併せて用いる。 古来、ラテン文字は、[[西ヨーロッパ]]や[[中央ヨーロッパ]]の諸言語(例えば[[イタリア語]]や[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[フランス語]]、英語、[[ドイツ語]]、[[ポーランド語]]など)で使われていたが、[[近代]]以降はこれら以外にも使用言語が多い(詳細は後述の[[#19世紀以降のラテン文字化]]を参照されたい)。たとえば[[トルコ共和国]]においては[[1928年]]以降、[[トルコ語]]の表記を「''近代化''」するため、従前の[[アラビア文字]]に替えてラテン文字を用いた[[トルコ語アルファベット]]が使われる<ref>{{Cite book |和書 |author=梶茂樹 |title=事典世界のことば141 |edition=初版第1刷 |date=2009-04-20 |publisher=[[大修館書店]] |language=ja |isbn=9784469012798 |ncid=BA89745081 |page=266 |location=東京 |author2=中島由美 |author2-link=中島由美 |author3=林徹 |author3-link=林徹 (言語学者)}}</ref>。 ラテン文字は表音文字であるが、広くさまざまな言語で用いられた結果、発音の文字への表記方法自体は各[[言語]]ごとに異なっており、同じ[[スペル|綴り]]でも言語によって異なる発音をすることが珍しくない。他方、広い[[時代]]で用いられ続けた結果、英語など、古い時代から[[表記法]]を受け継ぐ言語においては、[[スペル|表記]]と[[発音]]の間の[[wikt:乖離|乖離]]も大きなものとなってきている<ref>{{Cite book |和書 |author=町田和彦 |author-link=町田和彦 |title=世界の文字を楽しむ小事典 |edition=初版第1刷 |date=2011-11-15 |publisher=大修館書店 |language=ja |isbn=9784469213355 |ncid=BB07474128 |pages=124-128 |location=東京}}</ref>。 == 日本語における呼称 == [[日本語]]における「'''''[[wikt:ローマ字|ローマ字]]'''''」という呼称は、ラテン文字の別名であるが、日本語のラテン文字を用いた[[転写 (言語学)|音訳]]や[[翻字]]による表記法「'''[[ローマ字]]'''」の呼称でもあるため、どちらの意味なのかやや紛らわしく、前者を指して'''''[[wikt:ローマ文字|ローマ文字]]'''''と呼び分けることもある。 <!-- 日本語における呼称として -->[[漢字]]で表記する場合は、[[日本産業規格]] (JIS) の規格票において、「'''''[[wikt:欧字|欧字]]'''''(おうじ)」という表現が見られる。このほか特に、ラテン文字のうち[[基本ラテン文字|基本26文字]]({{Lang-en-short|''basic Latin alphabet''|links=no}}、ベーシックラテン・アルファベット)は英語の表記に用いることから「'''''[[wikt:英字|英字]]'''''(えいじ)」と呼び、よく「''[[wikt:英字新聞|英字新聞]]''」などの語において用いる{{Efn2|なお、他の言語に対し同様の表現が使われることはまれであり、たとえば[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字略称]]で「''[[wikt:仏語|仏語]]''」とされるフランス語の表記に用いても、フランス語で用いていることを強調しない場合は「''[[wikt:仏字|仏字]]''」などとは呼ばない。したがってフランス語で書かれていることがさほど重要ではない場合、ひとまとめに「''英字''」と称することさえ珍しくない。}}。 また、ラテン文字の基本26文字については「'''''[[wikt:アルファベット|アルファベット]]'''''」と呼ぶことも一般的であるが、これは英語の{{Lang|en|''alphabet''}}を[[片仮名]]で[[音訳]]したものであり、[[イギリス人]]や[[アメリカ人]]をはじめとする[[英語圏]]の人々と同じく、[[日本人]]や[[日本]]の[[英語教育]]の場などにおいては、'''英語の表記のための文字'''、つまり結果として[[基本ラテン文字]]を指すことが多い。 他方、日本語における呼称として一般でないが、[[ドイツ人]]をはじめとする[[ドイツ語圏]]の人々と同じく、日本人のドイツ語学習者の間では、ドイツ語の発音にならう「'''''[[wikt:アルファベート|アルファベート]]'''''」と呼ぶことで、基本26文字に'''[[ウムラウト]]'''と呼ばれるダイアクリティカルマークのついた文字や'''[[エスツェット]]'''と称されるリガチャなども加えた「'''[[ドイツ語アルファベット]]'''」を指す。また、[[フランス人]]をはじめとする[[フランス語圏]]の人々と同じく、日本人のフランス語学習者の間では、フランス語の発音にならう「'''''[[wikt:アルファベ|アルファベ]]'''''」と呼ぶことで、フランス語の表記に用いる'''[[アクサンテギュ]]'''や'''[[アクサングラーヴ]]'''、'''[[セディーユ]]'''などの[[アクセント記号]]などをつけた文字やその他のリガチャなどを加えた「'''[[フランス語#アルファベ|フランス語アルファベット]]'''」を指す。 {{関連記事|アルファベット|アルファベート|アルファベ}} == 使用言語 == {{色}} === 古代から中世まで === 古代のラテン文字は、最初期の[[古ラテン語]]から[[共和政ローマ#共和政期|共和制ローマ]]以降の[[古典ラテン語]]において用いられた。また、中世のラテン文字は、[[古代ローマ#東西分離後|ローマ帝国の東西分裂以降]]も[[ゲルマン人]]の言語や[[キリスト教]]の[[典礼言語]]の表記に用いられることで、さらに広まっていった。 ==== 古代 ==== {{関連記事|古ラテン語アルファベット}} ラテン文字は本来、その名があらわす通り、[[ラテン語]]の表記に用いる文字として成立した。このため、ラテン語を[[公用語]]とする[[ローマ帝国]]の勢力が伸長するとともにラテン文字の使用圏も拡大していった。しかし、[[ギリシア語]]を使用する帝国の東部においては、文字も[[ギリシア文字]]が主流であった。 [[395年]]の[[ローマ帝国#帝国の分裂|ローマ帝国の東西分裂]]以降、[[東ローマ帝国]]においてギリシア語化が進む一方で、[[西ローマ帝国]]はラテン語を使用し続け、文字もラテン文字を引き続き使用していた。 ==== 中世 ==== 西ローマ帝国は、[[ゲルマン民族の大移動]]などにより衰退してゆくことで[[476年]]に事実上の[[西ローマ帝国#西ローマ帝国の「滅亡」|滅亡]]を迎えたとされるが、この地域に侵入した[[ゲルマン人]]たちはラテン語とラテン文字を[[行政言語]]として使用するようになり、やがて彼らの[[祖語]]である[[ゲルマン諸語]]もラテン文字によって表記するようになっていった。また、このころから力を強めていった[[カトリック教会|ローマ教会]]は[[中世ラテン語#キリスト教のラテン語|中世ラテン語]]を[[教会ラテン語]]と称して[[典礼言語]]にしており、それを表記するためのラテン文字も[[西方教会]]圏全域に広まっていき、西方教会圏の諸言語を表記するためにラテン文字が転用されるようになった。 こうして[[中世]]以降は、[[俗ラテン語]]に由来する[[ロマンス諸語]]のみならず、[[西ヨーロッパ]]や[[中央ヨーロッパ]]の[[カトリック教会|カトリック]]や[[プロテスタント]]を含む西方教会地域のほぼ全ての言語でラテン文字が使われるようになった。具体的には[[ゲルマン語派]]と[[スラヴ語派]]の一部、[[バルト語派]]や[[ケルト語派]]、加えて[[バスク語]]や[[ウラル語族]]の一部などである。 {| class="wikitable mw-collapsible" style="word-break: keep-all;" |+[[18世紀]]までにラテン文字を使用していたヨーロッパの諸言語の例(五十音順) ! 系統 !! 言語 |- | [[ロマンス諸語]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[イタリア語]] *[[スペイン語]] *[[フランス語]] *[[ポルトガル語]]など **ただし当初は[[ルーマニア語]]を除く}} |- | [[ゲルマン語派]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[アイスランド語]] *[[英語]] *[[オランダ語]] *[[スウェーデン語]] *[[デンマーク語]] *[[ノルウェー語]] *[[ドイツ語]]など}} |- | [[スラヴ語派]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[クロアチア語]] *[[スロヴァキア語]] *[[スロヴェニア語]] *[[チェコ語]] *[[ポーランド語]]など}} |- | [[バルト語派]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[ラトビア語]] *[[リトアニア語]]}} |- | [[ケルト語派]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[アイルランド語]]など}} |- | [[ウラル語族]] || {{Flatlist | class = hlist-comma | *[[エストニア語]] *[[ハンガリー語]] *[[フィンランド語]]など}} |} [[ファイル:Latin alphabet world distribution.svg|thumb|350px|{{Legend|green|ラテン文字のみ使用}}{{Legend|lime|ラテン文字と他の文字を併用}}]] === 近代以降のラテン文字化 === {{詳細記事|ラテン文字化}} [[近代]]以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、[[19世紀]]には世界の大半を[[植民地]]化するようになった。当時の[[列強]]は、[[ロシア帝国]]と[[大日本帝国]]を除きすべてがラテン文字の使用する[[国家]]であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の[[覇権]]の影響を受け、西方教会圏の諸言語以外においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もとより文字を持たない言語が新たに文字を採用する場合と、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えた場合がある。 特に、文字を持たない言語が新たに[[正書法]]を定める場合については、新たに文字を発明したり、そのほかの文字を転用したりするよりも、多くラテン文字が採用された。こうした[[無文字言語社会]]に積極的に接触する者には、カトリックやプロテスタントの[[キリスト教]]の[[宣教師]]が多く、彼らは[[布教]]のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである<ref>{{Cite book |和書 |editor=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |editor-link=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |title=図説 アジア文字入門 |edition=初版発行 |date=2005-04-30 |publisher=[[河出書房新社]] |language=ja |isbn=9784309760629 |ncid=BA71677265 |page=102 |location=東京}}</ref>。ラテン文字が[[表音文字]]であり、各地の言語を[[転写 (言語学)|音訳]]しやすかったこともこの変化を進める要因となった<ref>{{Cite book |和書 |editor=町田和彦 |title=図説 世界の文字とことば |edition=初版発行 |series=ふくろうの本 |date=2009-12-30 |publisher=河出書房新社 |language=ja |isbn=9784309761336 |ncid=BB00577235 |page=19 |location=東京}}</ref>。あるいは基礎的なラテン文字の文字数は、26文字とキリル文字などに比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした{{Efn2|なお、ギリシャ文字の文字数は22文字、[[現代ギリシャ語]]においても24文字とさらに少ない。}}。 もっとも文字数が少ないことは、表記できる発音が少ないことと表裏一体である。こうした発音を文字としてあらわすために各言語は、ひとつの発音に2文字以上を用いたり、これを1つの文字として合字することでリガチャをさらに増やしたり、あるいはダイアクリティカルマークを付す文字を増やしたりすることで文字の不足を補ったほか、新しい文字や[[声調記号]]などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化は[[アフリカ]]や[[オセアニア]]などで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。 {{関連記事|アフリカの言語|オセアニアの言語}} [[ヨーロッパ]]以外の地域において、もとより文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋の列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリックやプロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で[[支配層]]の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。 こうして近代以降に植民地化を原因としてラテン文字に切り替えた言語には、[[東南アジア]]の言語においては[[アラビア文字]]を基にした[[ジャウィ文字]]から切り替えた[[インドネシア語]]や[[マレー語]]、アラビア文字とブラーフミー系文字である[[アリバタ]]の併用から切り替えて[[フィリピン語]]、[[漢字]]とそれを基にした[[チュノム]]の併用から切り替えた[[ベトナム語]]、[[アフリカ]]東部の言語においてはアラビア文字から切り替えた[[スワヒリ語]]などがある。 {{関連記事|[[インドネシア語#正書法と発音|インドネシア語の正書法]]|[[マレー語#文字|マレー語の文字]]|[[フィリピン語#歴史|フィリピン語の歴史]]|[[ベトナム語#表記法の歴史|ベトナム語の表記法の歴史]]|[[スワヒリ語#発展・伝播|スワヒリ語の歴史]]}} この例外は[[トルコ語]]であり、[[オスマン帝国]]は植民地化を受けていなかったものの、これに代わって[[トルコ共和国]]を建国した[[ケマル・アタチュルク]]がトルコの近代化を目指して使用文字の変更を決定し、[[1928年]]にアラビア文字から置き換えられたものである<ref>{{Cite book |和書 |editor=東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 |title=図説 アジア文字入門 |edition=初版発行 |series=ふくろうの本 |date=2005-04-30 |publisher=河出書房新社 |language=ja |isbn=9784309760629 |ncid=BA71677265 |page=105 |location=東京}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |editor=町田和彦 |title=図説 世界の文字とことば |edition=初版発行 |series=ふくろうの本 |date=2009-12-30 |publisher=河出書房新社 |language=ja |isbn=9784309761336 |ncid=BB00577235 |page=61 |location=東京}}</ref>。 {{関連記事|[[トルコ語#歴史と言語純化運動|トルコ語の歴史]]}} またそれとは別の例外として、すべての植民地において必ずしも[[宗主国]]がラテン文字化を推進したり、あるいはラテン文字化を完了したりしたわけではなく、[[南アジア]]の[[インド]]地域や[[キリスト教化]]できなかった[[イスラム世界]]にある[[アラブ圏]]の各国などのように植民地支配を受けたが、用いる文字を変更しなかった地域も多い。 {{関連記事|インドの言語|アラビア文字化}} 植民地となった地域がラテン文字を用いるようになるのとは別に、ヨーロッパにおいても[[18世紀]]以降、[[西方教会]]地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。[[ルーマニア語]]は[[ルーマニア正教会]]のもとで[[正教会]]圏であったため[[文語]]において[[キリル文字]]を使用していたが、16世紀ごろには一部地域で[[ハンガリー]]の言語である[[マジャル語]]をまねた筆記法が用いられ、18世紀には[[民族主義]]の高まりにより[[ロマンス諸語]]であることが強く意識され、ラテン文字化運動が広がっていき、[[1859年]]から[[1860年]]にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった<ref name=":1">{{Cite book |和書 |author=[[柴宜弘]] |editor=柴宜弘 |title=バルカンを知るための66章 |edition=第2版第1刷 |series=エリア・スタディーズ |date=2016-01-31 |publisher=[[明石書店]] |language=ja |isbn=9784750342986 |ncid=BB20639903 |page=272 |location=東京}}</ref>。[[アルバニア語]]においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、[[1908年]]にラテン文字による表記が正式に決定した<ref>{{Cite book |和書 |author=柴宜弘 |editor=柴宜弘 |title=バルカンを知るための66章 |edition=第2版第1刷 |series=エリア・スタディーズ |date=2016-01-31 |publisher=明石書店 |language=ja |isbn=9784750342986 |ncid=BB20639903 |pages=269-270 |location=東京}}</ref>。 {{関連記事|[[ルーマニア語アルファベット#歴史|ルーマニア語アルファベットの歴史]]}} === 旧ソビエト連邦地域におけるラテン文字化 === {{詳細記事|ラテン文字化|キリル文字化}} 旧[[ソビエト連邦]]の諸言語の表記は、当初ラテン文字を採用していたものの、[[1940年]]に[[キリル文字]]が採用され、ソビエト連邦内の多くの言語で[[キリル文字化]]が進められた。しかし[[ソビエト連邦の崩壊]]後、これら諸言語のいくつかにおいてふたたびラテン文字を再導入する動きが活発になった。元来、[[アラビア文字]]を用いていた地域においては[[ウズベク語]]や[[トルクメン語]]、[[アゼルバイジャン語]]が、初期のソビエト連邦にラテン文字に切り替えられ、その後1940年に連邦政府の言語政策の変化によりキリル文字に再び切り替えられた<ref>{{Cite book |和書 |author=宇山智彦 |author-link=宇山智彦 |editor=宇山智彦 |title=中央アジアを知るための60章 |edition=初版第1刷 |series=エリア・スタディーズ |date=2003-03-10 |publisher=明石書店 |language=ja |isbn=9784750331379 |ncid=BB01243734 |page=104 |location=東京}}</ref>が、ソビエト連邦の崩壊後、ウズベク語とトルクメン語とにおいてラテン文字表記の導入が決定され、以前定められたものとは異なるものの、再びラテン文字への切り替えが行われることとなった。 {{関連記事|[[ウズベク語#表記|ウズベク語の表記]]|[[トルクメン語#表記体系|トルクメン語の表記]]|[[アゼルバイジャン語#表記体系|アゼルバイジャン語の表記]]}} 同じく元来、アラビア文字を用いていた[[カザフスタン]]においてはソビエト連邦崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、[[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]大統領が[[2017年]][[10月]]に、[[カザフ語]]の表記をラテン文字に改める準備を整えるよう担当部署に指示した<ref>{{Cite news |title=カザフスタンが表記文字を変更、ロシア文字からローマ字へ |newspaper=Reuters |date=2017-10-30 |last=Zhang |first=Lintao |url=https://jp.reuters.com/article/kazakhstan-idJPKBN1CZ04T |access-date=2023-09-18 |agency=[[ロイター]] |publication-place=アルマトイ |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230418220830/https://jp.reuters.com/article/kazakhstan-idJPKBN1CZ04T |archive-date=2023-04-19 |work=Reuters}}</ref>。[[2018年]]には[[学校教育]]においてラテン文字の使用を開始し<ref>{{Cite news |和書 |title=ローマ字化、是か非か=旧ソ連のカザフで論議 |newspaper=Yahoo!ニュース |date=2017-06-21 |url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170621-00000081-jij-asia |access-date=2017-06-21 |agency=[[時事通信社]] |location=東京 |language=ja}}</ref>、[[2025年]]には完全にカザフ語の表記をラテン文字に移行することを表明した<ref>{{Cite news |和書 |title=ローマ字化、是か非か=旧ソ連のカザフで論議 |newspaper=Yahoo!ニュース |date=2017-06-21 |url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170621-00000081-jij-asia |access-date=2017-06-21 |agency=時事通信社 |location=東京 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=カザフスタンで文字が変わる? |newspaper=Global News View |date=2023-09-19 |author=ヨシダユミコ |url=https://globalnewsview.org/archives/6265 |access-date=2018-01-25 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230601012329/https://globalnewsview.org/archives/6265 |archive-date=2023-06-01}}</ref>。 {{関連記事|[[カザフ語#歴史|カザフ語の歴史]]|カザフ語アルファベット}} このほか、[[ロマンス諸語]]に属し、[[ルーマニア語]]{{Efn2|[[wikt:ルーマニア#語源|ルーマニア]]の語源は「''ローマの''」といった意味であり、ラテン文字を用いる。}}ときわめて似ている関係にある[[モルドバ語]]においては、従前のラテン文字から1940年にキリル文字化されたものの、[[1989年]]には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字を用いる国となった<ref name=":1" />{{Efn2|なお、モルドバ語は[[1996年]]に[[モルドバ共和国]]の公用語ではなくなり、名称が違うだけで同じ言語ともされるルーマニア語が現在のモルドバ共和国の公用語である。}}。 === 日本におけるローマ字論 === {{詳細記事|ローマ字|漢字廃止論}} [[日本]]においては、[[漢字廃止論]]の一環としてのラテン文字化、いわゆる[[ローマ字論]]が[[明治]]初期から唱えられており、[[第二次世界大戦]]後には、[[1946年]]の第一次[[アメリカ教育使節団報告書]]によって、[[漢字]]と[[平仮名]]、[[片仮名]]を廃止し、[[日本語]]表記を[[ローマ字]]表記に一本化することが提言された。これを受け、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) のもとで「日本語表記は複雑であるため[[識字率]]が低く、識字率を高めるために[[wikt:簡便|簡便]]なローマ字表記への切り替えが必要」との意見が強まり、実態を調査するため[[1948年]]に全国各地で[[文部省]]教育研修所、現在の[[国立教育政策研究所]]とGHQの共催による漢字テストが行われた。しかし、その結果はGHQの予想とは異なり、識字率はおよそ10割に近いという結果が出たため、このローマ字表記化計画は[[wikt:頓挫|頓挫]]、事実上撤回されることになった<ref>{{Cite news |和書 |title=教育改革から70年=保阪正康 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2017-01-14 |url=https://mainichi.jp/articles/20170114/ddm/005/070/039000c?inb=ys |access-date=2023-09-19 |agency=[[毎日新聞社]] |location=東京 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210616114542/https://mainichi.jp/articles/20170114/ddm/005/070/039000c?inb=ys |archive-date=2021-06-16 |edition=朝刊}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=「日本人から漢字を取り上げ、ローマ字だけにする」戦勝国アメリカが実行するはずだった"おそろしい計画" |newspaper=[[プレジデントオンライン]] |date=2022-12-30 |author=保阪正康 |authorlink=保阪正康 |url=https://president.jp/articles/-/64646 |access-date=2023-09-19 |agency=[[プレジデント社]] |location=東京 |pages=3-4 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230919062742/https://president.jp/articles/-/64646 |archive-date=2023-09-19 |work=[[プレジデント]]}}</ref>。 === 他文字使用言語のラテン文字表記法の成立 === 独自の文字を使用する言語でも、ほとんどはラテン文字による表記法が確立されており、[[借用語]]や[[略語]]などでもラテン文字を用いることが多い。日本語においては、[[1867年]]にアメリカ人の[[ジェームス・カーティス・ヘボン]]が[[ヘボン式ローマ字]]の表記法を考案し、さらに[[1885年]]に[[田中舘愛橘]]が[[日本式ローマ字]]を考案、さらにこれを発展させて[[1937年]]に発表された[[訓令式ローマ字]]があり、実際には訓令式とヘボン式の2つの表記法が並立している形となっている。 訓令式は1字または2字で多くの音を表記できるため使用はしやすい一方、[[英語]]の発音からやや離れた表記となっており、よく「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を[[母語]]とする[[欧米人]]からは正しく発音されにくいことが欠点だ」と指摘される。対して「{{fact-span|date= 2018年6月21日 (木) 21:10 (UTC)|ヘボン式はその逆で、実際の発音に沿った表記}}となっており、普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語西欧系各言語を母語とする欧米人からも正しく発音されやすい」などとみなされる半面、表記が長くやや使用しにくい面がある。 もっとも読みに関しては、ヘボン式で書いたところでそもそも、ラテン文字の読みがしばしば言語間で異なり、つまりフランス人が読めばフランス語読みになる。したがってヘボン式ローマ字は、アメリカ人や英語圏の人々から正しく発音されるかどうかはさておき、ヨーロッパの人々およびラテン文字を用いるあまねく人々に正しく発音される保証はなく、それはほかのどのローマ字にもいえることである{{Efn2|たとえば、学校教育により訓令式に慣れた日本人にとって、ヘボン式の「[[つ]]」の表記「tsu」は、見慣れないことから日本人でさえ読みづらいことがあり、あるいは[[MS IME|Microsoft 日本語 IME]]のローマ字入力に慣れたユーザーにとって、ヘボン式の[[ラ行]]に「[[l]]」を用いる表記は、事前に断りがなければ[[小書き仮名]]文字の表記として誤読される可能性がある。}}。また、ある言語で用いる文字とその表記法については、特に使用する文字を完全に改めるような場合において、その言語をよくとらえているかどうかが論点のひとつとなる。この点について現代の日本語は、その[[日本語の音韻|発音]]を[[五十音]]表のようにとらえている話者が多く、したがって日本語話者にとってヘボン式は、[[タ行]]のように同じ行でも子音の文字が変わり、[[拗音]]の「シャ」などの「小さいヤ段」の表記が揺れるなど、日本語話者にとって変則的な表記が多い、日本語をよくとらえていない表記となる。この意味では、ヘボン式ローマ字は、[[外国人]]に向けて用いる場合はさておき、日本人の書く日本語のラテン文字化には向かないといえる。 文部省は[[1954年]]に訓令式に基づいた「[[s:ローマ字のつづり方_(昭和29年内閣告示第1号)|ローマ字のつづり方]]」を定め、事情がある場合に限りヘボン式での表記を認めるという立場を取った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19541209001/k19541209001.html |title=ローマ字のつづり方 |access-date=2023-09-19 |date=1955-12-09 |website=文部科学省 |publisher=[[文部科学省]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20191121001055/https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19541209001/k19541209001.html |archive-date=2019-11-21 |url-status=unfit |deadlinkdate=2023-09-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/roma/index.html |title=ローマ字のつづり方 |access-date=2023-09-18 |author=吉田茂 |authorlink=吉田茂 |website=文化庁 |work=ローマ字のつづり方 |publisher=[[文化庁]] |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20230919013349/https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/roma/index.html |archive-date=2023-09-19 |url-status=unfit |deadlinkdate=2023-09-19}}</ref>。これに沿って、日本の教育現場においては訓令式での表記を教えている。しかし、実際のローマ字表記は、特に公共の場などにおいて一般に外国人に向けて用いられるため「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人にわかりやすい」というねらいから、ヘボン式での表記が圧倒的であり、統一を求める声も上がっている{{Efn2|主に教育現場において、児童が混乱するなどの理由から統一が求められている<ref>{{Cite news |和書 |title=<ローマ字>表記で混乱 英語教科化、教員ら「一本化を」 |newspaper=[[Yahoo!ニュース]] |date=2017-03-21 |author=伊澤拓也 |url=https://mainichi.jp/articles/20170321/k00/00e/040/204000c |access-date=2023-09-19 |agency=[[毎日新聞社]] |location=東京 |language=ja |quote=教育現場から「どちらかに一本化してほしい」との声も上がっている |archive-url=https://web.archive.org/web/20170322015539/https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170321-00000044-mai-soci |archive-date=2017-03-22}}</ref>。なお、この記事に関して「あくまで国語教育の中で行われるローマ字教育に対する問題を、英語教育が関係するとの誤解のもと書かれている」という指摘がある<ref>{{Cite news |和書 |title=「〈ローマ字〉表記による混乱」という報道の混乱ぶり(寺沢拓敬) - エキスパート |newspaper=Yahoo!ニュース |date=2017-03-22 |author=寺沢拓敬 |authorlink=寺沢拓敬 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ae1a852d95c9ae4aa6c2ddc090c5e4b87a59d9ad |access-date=2023-09-19 |language=ja |quote=ローマ字は日本語の話であって英語教育の話ではない |archive-url=https://web.archive.org/web/20230919045736/https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ae1a852d95c9ae4aa6c2ddc090c5e4b87a59d9ad |archive-date=2023-09-19 |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。}}。 {{関連記事|ヘボン式ローマ字|日本式ローマ字|訓令式ローマ字}} == 成立 == <!-- 似た形の文字が多いため、この節の個々の文字は、何度出現してもすべてリンクをつけてください。現代のラテン文字の意味では言語や文字のテンプレートを用いず、当時のラテン語の文字には{{Lang|la|文字}}を用い、当時のギリシア語の文字や古イタリア文字群には{{Script|Ital|文字}}を用いてください。 --> 個々のラテン文字の成立について詳細は、該当する文字ごとの記事も参照されたい。 {{関連記事|[[古ラテン語アルファベット]]|[[古イタリア文字#ファリスク語・古ラテン語|古イタリア文字と古ラテン語]]}} <!-- 以下は、ローマ人のアルファベットの順で並べたラテン文字に対応する古イタリア文字です。古イタリア文字を表示するための{{Script}}テンプレートごとカッペしてください。 A: {{Script|Ital|[[wikt:𐌀|&#66304;]]}} | B: {{Script|Ital|[[wikt:𐌁|&#66305;]]}} | C: {{Script|Ital|[[wikt:𐌂|&#66306;]]}} | D: {{Script|Ital|[[wikt:𐌃|&#66307;]]}} | E: {{Script|Ital|[[wikt:𐌄|&#66308;]]}} | F: {{Script|Ital|[[wikt:𐌅|&#66309;]]}} | Z: {{Script|Ital|[[wikt:𐌆|&#66310;]]}} | H: {{Script|Ital|[[wikt:𐌇|&#66311;]]}} | I: {{Script|Ital|[[wikt:𐌉|&#66313;]]}} | K: {{Script|Ital|[[wikt:𐌊|&#66314;]]}} | L: {{Script|Ital|[[wikt:𐌋|&#66315;]]}} | M: {{Script|Ital|[[wikt:𐌌|&#66316;]]}} | N: {{Script|Ital|[[wikt:𐌍|&#66317;]]}} | O: {{Script|Ital|[[wikt:𐌏|&#66319;]]}} | P: {{Script|Ital|[[wikt:𐌐|&#66320;]]}} | Q: {{Script|Ital|[[wikt:𐌒|&#66322;]]}} | R: {{Script|Ital|[[wikt:𐌓|&#66323;]]}} | S: {{Script|Ital|[[wikt:𐌔|&#66324;]]}} | T: {{Script|Ital|[[wikt:𐌕|&#66325;]]}} | U: {{Script|Ital|[[wikt:𐌖|&#66326;]]}} | X: {{Script|Ital|[[wikt:𐌗|&#66327;]]}} --> [[画像:Phönizisch-5Sprachen.svg|thumb|right|[[フェニキア]]の[[アブジャド]]を受け継ぐ4種の[[音素文字]]の比較。左からラテン文字、[[ギリシア文字]]、元になった[[フェニキア文字]]、[[ヘブライ文字]]、[[アラビア文字]]。]] <!-- 以下は、[[ラティウム戦争]]以前で、すべてがローマ人になる前の記述と思われるため、[[ラテン人]]との語を用います。 --> [[イタリア半島]]に、のちにローマ人と呼ばれるようになる[[ラテン人]]という[[部族]]が棲みついていた{{Efn2|特に[[紀元前338年]]に、[[ラティウム戦争#第二次ラティウム戦争|第二次ラティウム戦争]]で[[共和政ローマ]]が勝利し、それ以前のラテン人に[[ラテン市民権]]を与えたことで、ローマ共和国の人々としてラテン人はローマ人と呼ばれるようになる。}}。[[紀元前7世紀]]頃の'''[[古ラテン語]]'''の時代にラテン人は、[[紀元前1千年紀]]頃から同じくイタリア半島で現在の[[イタリア]]中部に棲みついていた[[エトルリア人]]と[[ギリシア人]]などの部族から文字を採り入れた。 [[西方ギリシア文字]]から借用・派生し、[[古イタリア文字|古イタリア文字群]]へ至る歴史の流れにあって、ラテン人は[[クマエ文字]]から4字を除いて取り入れた。また[[エトルリア文字]]からは「{{Script|Ital|[[wikt:𐌅|&#66309;]]}} {{IPA|/v/}}」を採り入れて「[[F]] {{IPA|/f/}}」の音に用い、また、3箇所の屈曲がある「{{Script|Ital|[[wikt:𐌔|&#66324;]]}}」を採り入れて現在の「[[S]]」の形にした。そして「ギリシア語の[[G]]音」と「[[エトルリア語]]の[[K]]音」を表すのには現在の[[C]]の字のような形の「{{Script|Ital|[[wikt:𐌂|&#66306;]]}} ({{Lang-el-short|[[Γ]]}})」を用いた。こうして生まれたアルファベット21文字は、「{{Lang|la|[[G]]}}・{{Lang|la|[[J]]}}・{{Lang|la|[[U]]}}・{{Lang|la|[[W]]}}・{{Lang|la|[[Y]]}}・{{Lang|la|[[Z]]}}」がないなど、現代のラテン文字とは多少の違いがある<ref name="phoenician">{{Cite web |url=http://phoenicia.org/alphabet.html |title=The Phoenician Alphabet |access-date=2008-02-14 |last=Khalaf |first=Salim |website=Encyclopedia Phoeniciana |publisher=Salim George Khalaf |language=en |archive-url=https://web.archive.org/web/20230321051602/https://phoenicia.org/alphabet.html |archive-date=2023-03-21}}</ref>。 <!-- 以降は[[ラティウム戦争]]を経て[[紀元前338年]]までにローマ人となった頃の記述と思われるため[[ローマ人]]との語を用います。 --> このローマ人のアルファベットには、{{IPA|/k/}}の音を表す文字が「{{Lang|la|[[C]]}}・{{Lang|la|[[K]]}}・{{Lang|la|[[Q]]}}」の3つあり、このうち「{{Lang|la|[[C]]}}」は、{{IPA|/g/}}の音の表記にも用いた一方、ラテン語では当時、用いることのなかった現在の「[[Z]]」を表す「{{Script|Ital|[[wikt:𐌆|&#66310;]]}}」が、アルファベットの文字表における現在の「[[G]]」の位置へ一時的に取り入れられた。その後、ローマ人は「{{Lang|la|[[C]]}}」に[[ステム]]とも称される[[セリフ|ヒゲ]]をつけることで「{{Lang|la|[[G]]}}」を作りだし、当時のローマ人が用いない「{{Lang|la|[[Z]]}}」の代わりに、現在の位置と同じ「{{Lang|la|[[F]]}}」と「{{Lang|la|[[H]]}}」の間に置いた。 もっとも古いラテン文字の成立から数世紀を経て、[[紀元前3世紀]]に[[アレクサンドロス3世]]が[[地中海沿岸]]地域の東部とその周辺を征服した後、ローマ人はギリシア語の[[語彙]]を借用するようになり、それにともない以前は必要でなかった文字が[[借用語]]とともに再び輸入された。具体的には、[[西方ギリシア文字|東方ギリシア文字]]から「{{Script|Ital|[[Υ]]}}」と「{{Script|Ital|[[Ζ]]}}」を借用したが、あくまでギリシア語からの借用語を記述する事にしか使わなかったため、追加文字として文字表の最後に置いた<ref name="phoenician" />。なお、この時代には[[小文字]]は開発されておらず、文章はすべて[[大文字]]で書かれていた。 {{関連記事|[[カリグラフィー#起源及び歴史|カリグラフィーの起源および歴史]]}} [[ファイル:Evolution of minuscule.svg|thumb|right|300px|[[書体]]の移ろいを簡易化して示した図。次第に大文字から小文字へと近づいていくことが確認できる。]] ラテン文字を表すため、様々な[[書体]]が流行したが、[[3世紀]]ごろには[[アンシャル体]]と呼ばれる書体が広く使用されるようになり、さらにそれから[[半アンシャル体]]と呼ばれる書体ができた。これらの書体は、元となったの大文字からはやや離れた形をしていたが、各地で広く使用されるなかで書体の乖離が激しくなったため、あらためて相互に通じる統一された書体を制定する必要になっていた。そこで[[8世紀]]頃に[[カロリング朝]]の[[フランク王国]]で[[カール大帝]]の庇護を受けた[[カロリング小文字体]]が普及した。このカロリング小文字体は、フランク王国のみならずラテン文字圏全体で広く使用されるようになったが、一方で従来の大文字もそのまま残存しており、これが大文字のほかに小文字が新しく成立する起源となった<ref>{{Cite book |和書 |editor=町田和彦 |title=世界の文字を楽しむ小事典 |edition=初版第1刷 |date=2011-11-15 |publisher=大修館書店 |language=ja |isbn=9784469213355 |ncid=BB07474128 |page=255 |location=東京}}</ref>。 {{関連記事|[[カロリング小文字体#特徴|カロリング小文字体の特徴]]|大文字と小文字}} <!-- 以下、アングロ・サクソン語の文字は、{{Lang|ang-Latn|文字}}を用いる。 --> [[グレートブリテン島|ブリテン島]]の[[アングロ・サクソン語]]は、[[11世紀]]に[[ノルマン人]]による[[ノルマン・コンクエスト|制圧]]を受けた後、ラテン文字でも表記されるようになった。古くは、{{IPA|/w/}}の音を表すために[[ルーン文字]]に由来する「{{Lang|ang-Latn|[[Ƿ]]}}<!-- /ƿ -->(''wynn''、ウィン)」を用いたこともあるが、音の異なる「{{Lang|ang-Latn|[[P]]}}」に似ていたために混同されやすく、結局、{{IPA|/w/}}の音は現在の「[[U]]」を2つ並べた[[二重音字]]の「{{Lang|ang-Latn|[[UU]]}}({{Lang-en-short|double U|links=no}}、''ダブル・ユー'')」として表すように戻った。 <!-- 以下は、アングロ・サクソン語に限らないため、{{Lang|ang-Latn|文字}}を用いない。 --> この頃の「[[U]]」の形が[[V]]の字であったため、実際の字形は[[V]]を2つ並べた「VV<!-- 曖昧さ回避ページ「[[VV]]」は、文字「W」と関係ないためリンクは張らない。 -->」の形となり、追加文字として[[W]]は、文字表において「[[V]]」の次に置かれた。なお、[[ロマンス諸語]]においては、この「[[W]]」を「''2つのV''」の意味する名称で呼ぶ<ref name="phoenician" />。 また、丸みのある「[[U]]」で母音を表し、子音のときは「[[V]]」を用いるようになった。また「[[J]]」は、当初「[[I]]」の[[異字体]]であり、いくつか「[[I]]」が並ぶときの「最後の[[I]]」に長い尾のようなヒゲをつけたものだった。[[15世紀]]頃から、子音には「[[J]]」を、母音には「[[I]]」を用いるようになり<!-- People began to use -->、[[17世紀]]半ばには一般的になった<ref name="phoenician" />。 == 使用される文字 == {{詳細記事|ラテン文字一覧}} ラテン文字は、大きく分けて基本字と追加字に分類される。 === 基本字 === {{詳細記事|ISO基本ラテンアルファベット}} 遅くとも[[1960年代]]に標準化がなされて以降、ラテン語の23字に「J・U・W」を加えた26字を基本と見なし、多く実用の際は、歴史的に[[書体]]の差から生じた異なる[[字形]]を持つ[[大文字]]と[[小文字]]を併用する。この基本字は[[英語]]の表記に必要最低限の文字であり、それ以外の字は外来語でしか用いない。英語においても大文字と小文字を併用し、ラテン文字を用いる多くの言語同様、'''文の最初の語の頭文字'''と、各言語ごとに異なる'''特別な語の頭文字'''や、あるいは'''強調したい部分'''などに大文字を用いて、それ以外はすべて小文字を用いる。 {{詳細記事2|原則的に基本字しか使わない英語におけるアルファベット|英語アルファベット}} {| class = wikitable cellpadding = 5 style="text-align:center" |+基本字 |- ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 大文字 | [[A]] || [[B]] || [[C]] || [[D]] || [[E]] || [[F]] || [[G]] || [[H]] || [[I]] || [[J]] || [[K]] || [[L]] || [[M]] | [[N]] || [[O]] || [[P]] || [[Q]] || [[R]] || [[S]] || [[T]] || [[U]] || [[V]] || [[W]] || [[X]] || [[Y]] || [[Z]] |- ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 小文字 | [[a]] || [[b]] || [[c]] || [[d]] || [[e]] || [[f]] || [[g]] || [[h]] || [[i]] || [[j]] || [[k]] || [[l]] || [[m]] | [[n]] || [[o]] || [[p]] || [[q]] || [[r]] || [[s]] || [[t]] || [[u]] || [[v]] || [[w]] || [[x]] || [[y]] || [[z]] |} {{詳細記事|[[ラテン文字一覧#基本ラテン文字|基本ラテン文字の一覧]]}} === 追加字 === ラテン文字はもともとラテン語を表すための文字であり、他の言語に用いるには表記できない[[発音]]も存在していた。こうした状況を解決するために、現在の基本字にはいくつかの文字が付け加えられたものの、それでも表記できない発音に対しては、こうした音を表記するために基本字に発音を区別する符号を付けたり、2つ以上の文字を結合したり、さらに文字を追加したりする言語が多く表れるようになった。 ==== ダイアクリティカルマーク ==== {{詳細記事|ダイアクリティカルマーク}} ラテン文字の発音区別符号は、総称して[[ダイアクリティカルマーク]]などと呼ばれる。ドイツ語や[[スウェーデン語]]などでは[[ウムラウト]]、フランス語やポルトガル語、トルコ語などでは[[セディーユ]]、スペイン語やポルトガル語では[[ティルデ]]が多く使用されるなど、ダイアクリティカルマークを採用しているラテン文字使用国は多数存在する。日本語のローマ字表記においては、[[サーカムフレックス]]や[[マクロン]]が長音の表記に使用される場合がある。 {{詳細記事2|ダイアクリティカルマーク付き文字の一覧については「[[ラテン文字一覧#ダイアクリティカルマーク付き文字|ラテン文字のダイアクリティカルマーク付き文字の一覧]]」を}} ==== 合字 ==== {{詳細記事|リガチャー}} ラテン文字において、2つ以上の文字の合字は、[[リガチャー]]とも呼ばれる。代表的な合字としては、ドイツ語の「[[ß]](エスツェット)」や、[[アイスランド語]]・[[デンマーク語]]・[[ノルウェー語]]の「[[Æ]]」、デンマーク語やノルウェー語の「[[Ø]]」などが挙げられる。なお、現在では基本字のひとつとなっているが、本来「[[W]]」も合字であり、多くの言語において「[[ダブル]]の[[U]]」、または「ダブルの[[V]]」を意味する名称で呼ばれる。 {{詳細記事2|リガチャーの一覧については「[[ラテン文字一覧#追加文字・合字|ラテン文字のリガチャーの一覧]]」を}} ==== その他 ==== また、現代では消滅したが、[[アングロ・サクソン語]]の「[[Ƿ]]」のように[[ルーン文字]]など、基本字にさらに他の文字から取り入れられた文字も、一部では用いられる{{Efn2|なお、ルーン文字に関しては、その多くがラテン文字に由来するとされるため、異字体が別の文字として追加されただけともいえる。}}。 {{詳細記事2|追加文字の一覧については「[[ラテン文字一覧#追加文字・合字|ラテン文字の追加文字の一覧]]」を}} {| class="wikitable nowraplinks" cellpadding = 5 style="text-align:center" |+追加字 |- ! ! colspan="6" scope="col" | [[アキュート・アクセント|アキュート<br>アクセント]] ! colspan="5" scope="col" | [[グレイヴ・アクセント|グレイヴ<br>アクセント]] ! colspan="5" scope="col" | [[サーカムフレックス|サーカム<br>フレックス]] ! colspan="6" scope="col" | [[ウムラウト]]<br>/[[トレマ]] |-lang="und-Latn" ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 大文字 | [[Á]] || [[É]] || [[Í]] || [[Ó]] || [[Ú]] || [[Ý]] || [[À]] || [[È]] || [[Ì]] || [[Ò]] || [[Ù]] || [[Â]] || [[Ê]] || [[Î]] || [[Ô]] || [[Û]] | [[Ä]] || [[Ë]] || [[Ï]] || [[Ö]] || [[Ü]] || [[Ÿ]] |-lang="und-Latn" ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 小文字 | [[á]] || [[é]] || [[í]] || [[ó]] || [[ú]] || [[ý]] || [[à]] || [[è]] || [[ì]] || [[ò]] || [[ù]] || [[â]] || [[ê]] || [[î]] || [[ô]] || [[û]] | [[ä]] || [[ë]] || [[ï]] || [[ö]] || [[ü]] || [[ÿ]] |} {| class="wikitable nowraplinks" cellpadding = 5 style="text-align:center" |- ! ! colspan="2" scope="col" | [[セディーユ]] ! colspan="3" scope="col" | [[ティルデ]] ! colspan="4" scope="col" | [[オゴネク]] ! colspan="5" scope="col" | [[合字]] ! colspan="2" scope="col" | [[ルーン文字]]由来 |- ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 大文字 | [[Ç]] || [[Ş]] | [[Ã]] || [[Õ]] || [[Ñ]] | [[Ą]] || [[Ę]] || [[Į]] || [[Ų]] | [[Æ]] || [[Œ]] || [[Ø]] || [[IJ|IJ]] || [[ẞ]] | [[Þ]] || [[Ƿ]] |- ! scope="row" style="white-space:nowrap;" | 小文字 | [[ç]] || [[ş]] | [[ã]] || [[õ]] || [[ñ]] | [[ą]] || [[ę]] || [[į]] || [[ų]] | [[æ]] || [[œ]] || [[ø]] || [[IJ|ij]] || [[ß]] | [[þ]] || [[ƿ]] |} {{詳細記事2|各国での利用状況を含めた全ての文字の一覧については「[[ラテン文字一覧]]」および「[[ラテンアルファベットに由来するアルファベット]]」を}} === 併用される記号の例 === ラテン文字は、[[音読]]の際の[[休止符]]に由来する[[句読点]]や、[[感嘆符]]、[[疑問符]]、その他の[[約物]]、[[レタリング]]などから生まれた[[記号]]をしばしば併用する。一般に[[アットマーク]]は記号であるが、一部の言語の正書法において、音を表すアルファベットとして用いる。 {| class = "wikitable Unicode" cellpadding = 10 style="text-align:center" |+併用される記号の例 |- ! colspan="7" scope="col" | [[役物]] ! colspan="2" scope="col" | [[記号]] |-style="font-size:x-large" | [[終止符|.]] || [[コンマ|,]] || [[コロン (記号)|:]] || [[セミコロン|;]] || [[疑問符|?]] || [[感嘆符|!]] || [[アンパサンド|&]] || [[アットマーク|@]] || [[番号記号|#]] |} == 文字の名称 == 主な言語での文字の名を以下に示す。 {| class="wikitable mw-collapsible nowraplinks" style=" text-align:center;" |+各言語におけるラテン文字の名称とその[[国際音声記号|発音]] ! style="white-space:nowrap;" | 文字 !! [[ラテン語]] !! [[英語]] !! [[フランス語]] !! [[ドイツ語]] !! [[イタリア語]] !! [[スペイン語]] !! [[ポルトガル語]] !! [[エスペラント]] !! [[日本語]]<ref>日本語での各文字の名称は『[[広辞苑]]』第五版、岩波書店、1998年に拠る。<!-- 『大辞林』、『大辞泉』では一部しか確認しておらず、相違もあるようだが、代表表記は同じ? 『広辞苑』第六版での変更点は未確認 --></ref> |- | style="font-size:x-large" | A | {{Lang|la|a}} {{IPA|aː}} | {{Lang|en|a}} {{IPA|eɪ}} | {{Lang|fr|a}} {{IPA|a}} | {{Lang|de|a}} {{IPA|aː}} | {{Lang|it|a}} {{IPA|a}} | {{Lang|es|a}} {{IPA|a}} | {{Lang|pt|a}} {{IPA|a}} | {{Lang|eo|a}} {{IPA|aː}} | エー |- | style="font-size:x-large" | B | {{Lang|la|be}} {{IPA|beː}} | {{Lang|en|bee}} {{IPA|biː}} | {{Lang|fr|bé}} {{IPA|be}} | {{Lang|de|be}} {{IPA|beː}} | {{Lang|it|bi}} {{IPA|bi}} | {{Lang|es|be}} {{IPA|be}} | {{Lang|pt|bê}} {{IPA|be}} | {{Lang|eo|bo}} {{IPA|boː}} | ビー |- | style="font-size:x-large" | C | {{Lang|la|ce}} {{IPA|keː}} | {{Lang|en|cee}} {{IPA|siː}} | {{Lang|fr|cé}} {{IPA|se}} | {{Lang|de|ce}} {{IPA|tseː}} | {{Lang|it|ci}} {{IPA|tʃi}} | {{Lang|es|ce}} {{IPA|θe}}, {{IPA|se}} | {{Lang|pt|cê}} {{IPA|se}} | {{Lang|eo|co}} {{IPA|tsoː}} | シー |- | style="font-size:x-large" | D | {{Lang|la|de}} {{IPA|deː}} | {{Lang|en|dee}} {{IPA|diː}} | {{Lang|fr|dé}} {{IPA|de}} | {{Lang|de|de}} {{IPA|deː}} | {{Lang|it|di}} {{IPA|di}} | {{Lang|es|de}} {{IPA|de}} | {{Lang|pt|dê}} {{IPA|de}} | {{Lang|eo|do}} {{IPA|doː}} | ディー |- | style="font-size:x-large" | E | {{Lang|la|e}} {{IPA|eː}} | {{Lang|en|e}} {{IPA|iː}} | {{Lang|fr|e}} {{IPA|ə}} | {{Lang|de|e}} {{IPA|eː}} | {{Lang|it|e}} {{IPA|e}} | {{Lang|es|e}} {{IPA|e}} | {{Lang|pt|e}} {{IPA|ɛ}}, {{IPA|e}} | {{Lang|eo|e}} {{IPA|eː}} | イー |- | style="font-size:x-large" | F | {{Lang|la|ef}} {{IPA|ɛf}} | {{Lang|en|ef}} {{IPA|ɛf}} | {{Lang|fr|effe}} {{IPA|ɛf}} | {{Lang|de|ef}} {{IPA|ɛf}} | {{Lang|it|effe}} {{IPA|ˈɛffe}} | {{Lang|es|efe}} {{IPA|ˈefe}} | {{Lang|pt|éfe}} {{IPA|ˈɛfɨ}}, {{IPA|ˈɛfi}} | {{Lang|eo|fo}} {{IPA|foː}} | エフ |- | style="font-size:x-large" | G | {{Lang|la|ge}} {{IPA|ɡeː}} | {{Lang|en|gee}} {{IPA|dʒiː}} | {{Lang|fr|gé}} {{IPA|ʒe}} | {{Lang|de|ge}} {{IPA|ɡeː}} | {{Lang|it|gi}} {{IPA|dʒi}} | {{Lang|es|ge}} {{IPA|xe}} | {{Lang|pt|gê}} {{IPA|ʒe}}<br>{{Lang|pt-PT|guê}} {{IPA|ɡe}} | {{Lang|eo|go}} {{IPA|ɡoː}} | ジー |- | style="font-size:x-large" | H | {{Lang|la|ha}} {{IPA|haː}} | {{Lang|en|aitch}} {{IPA|eɪtʃ}} | {{Lang|fr|ache}} {{IPA|aʃ}} | {{Lang|de|ha}} {{IPA|haː}} | {{Lang|it|acca}} {{IPA|ˈakka}} | {{Lang|es|hache}} {{IPA|ˈatʃe}} | {{Lang|pt|agá}} {{IPA|ɐˈɡa}}, {{IPA|aˈɡa}} | {{Lang|eo|ho}} {{IPA|hoː}} | エイチ、<!-- 日本語での名称にはIPAを示していないので、区切りに読点を加える --><br>エッチ |- | style="font-size:x-large" | I | rowspan="2"|{{Lang|la|i}} {{IPA|iː}} | {{Lang|en|i}} {{IPA|aɪ}} | {{Lang|fr|i}} {{IPA|i}} | {{Lang|de|i}} {{IPA|iː}} | {{Lang|it|i}} {{IPA|i}} | {{Lang|es|i}} {{IPA|i}} | {{Lang|pt|i}} {{IPA|i}} | {{Lang|eo|i}} {{IPA|iː}} | アイ |- | style="font-size:x-large" | J | {{Lang|en|jay}} {{IPA|dʒeɪ}} | {{Lang|fr|ji}} {{IPA|ʒi}} | {{Lang|de|jot}} {{IPA|jɔt}} | {{Lang|it|i lunga}} {{IPA|ilˈluŋga}}<br>{{Lang|it|iota}} {{IPA|ˈjota}} | {{Lang|es|jota}} {{IPA|ˈxota}} | {{Lang|pt|jota}} {{IPA|ˈʒɔtɐ}} | {{Lang|eo|jo}} {{IPA|joː}} | ジェー |- | style="font-size:x-large" | K | {{Lang|la|ka}} {{IPA|kaː}} | {{Lang|en|kay}} {{IPA|keɪ}} | {{Lang|fr|ka}} {{IPA|ka}} | {{Lang|de|ka}} {{IPA|kaː}} | {{Lang|it|kappa}} {{IPA|ˈkappa}} | {{Lang|es|ka}} {{IPA|ka}} | {{Lang|pt-PT|capa}} {{IPA|ˈkapɐ}}<br>{{Lang|pt-BR|cá}} {{IPA|ka}} | {{Lang|eo|ko}} {{IPA|koː}} | ケー |- | style="font-size:x-large" | L | {{Lang|la|el}} {{IPA|ɛl}} | {{Lang|en|el}} {{IPA|ɛl}} | {{Lang|fr|elle}} {{IPA|ɛl}} | {{Lang|de|el}} {{IPA|ɛl}} | {{Lang|it|elle}} {{IPA|ˈɛlle}} | {{Lang|es|ele}} {{IPA|ˈele}} | {{Lang|pt|ele}} {{IPA|ˈɛlɨ}}, {{IPA|ˈɛli}} | {{Lang|eo|lo}} {{IPA|loː}} | エル |- | style="font-size:x-large" | M | {{Lang|la|em}} {{IPA|ɛm}} | {{Lang|en|em}} {{IPA|ɛm}} | {{Lang|fr|emme}} {{IPA|ɛm}} | {{Lang|de|em}} {{IPA|ɛm}} | {{Lang|it|emme}} {{IPA|ˈɛmme}} | {{Lang|es|eme}} {{IPA|ˈeme}} | {{Lang|pt|éme}} {{IPA|ˈɛmɨ}}, {{IPA|ˈẽmi}} | {{Lang|eo|mo}} {{IPA|moː}} | エム |- | style="font-size:x-large" | N | {{Lang|la|en}} {{IPA|ɛn}} | {{Lang|en|en}} {{IPA|ɛn}} | {{Lang|fr|enne}} {{IPA|ɛn}} | {{Lang|de|en}} {{IPA|ɛn}} | {{Lang|it|enne}} {{IPA|ˈɛnne}} | {{Lang|es|ene}} {{IPA|ˈene}} | {{Lang|pt|éne}} {{IPA|ˈɛnɨ}}, {{IPA|ˈẽni}} | {{Lang|eo|no}} {{IPA|noː}} | エヌ |- | style="font-size:x-large" | O | {{Lang|la|o}} {{IPA|oː}} | {{Lang|en|o}} {{IPA|oʊ}} | {{Lang|fr|o}} {{IPA|o}} | {{Lang|de|o}} {{IPA|oː}} | {{Lang|it|o}} {{IPA|o}} | {{Lang|es|o}} {{IPA|o}} | {{Lang|pt|ó}} {{IPA|ɔ}} | {{Lang|eo|o}} {{IPA|oː}} | オー |- | style="font-size:x-large" | P | {{Lang|la|pe}} {{IPA|peː}} | {{Lang|en|pee}} {{IPA|piː}} | {{Lang|fr|pé}} {{IPA|pe}} | {{Lang|de|pe}} {{IPA|peː}} | {{Lang|it|pi}} {{IPA|pi}} | {{Lang|es|pe}} {{IPA|pe}} | {{Lang|pt|pê}} {{IPA|pe}} | {{Lang|eo|po}} {{IPA|poː}} | ピー |- | style="font-size:x-large" | Q | {{Lang|la|qu}} {{IPA|kuː}} | {{Lang|en|cue}} {{IPA|kjuː}} | {{Lang|fr|qu}} {{IPA|ky}} | {{Lang|de|qu}} {{IPA|kuː}} | {{Lang|it|cu}} {{IPA|ku}} | {{Lang|es|cu}} {{IPA|ku}} | {{Lang|pt|quê}} {{IPA|ke}} | {{Lang|eo|kuo}} {{IPA|ˈkuːo}} | キュー |- | style="font-size:x-large" | R | {{Lang|la|er}} {{IPA|ɛr}} | {{Lang|en|ar}} {{IPA|ɑː}}, {{IPA|ɑɹ}} | {{Lang|fr|erre}} {{IPA|ɛʁ}} | {{Lang|de|er}} {{IPA|ɛʀ}} | {{Lang|it|erre}} {{IPA|ˈɛrre}} | {{Lang|es|ere}} {{IPA|ˈeɾe}}<br>{{Lang|es|erre}} {{IPA|ˈere}} | {{Lang|pt|erre}} {{IPA|ˈɛʁɨ}}, {{IPA|ˈɛxi}}<br>{{Lang|pt-PT|rê}} {{IPA|ʁe}} | {{Lang|eo|ro}} {{IPA|roː}} | アール |- | style="font-size:x-large" | S | {{Lang|la|es}} {{IPA|ɛs}} | {{Lang|en|ess}} {{IPA|ɛs}} | {{Lang|fr|esse}} {{IPA|ɛs}} | {{Lang|de|es}} {{IPA|ɛs}} | {{Lang|it|esse}} {{IPA|ˈɛsse}} | {{Lang|es|ese}} {{IPA|ˈese}} | {{Lang|pt|ésse}} {{IPA|ˈɛsɨ}}, {{IPA|ˈɛsi}} | {{Lang|eo|so}} {{IPA|soː}} | エス |- | style="font-size:x-large" | T | {{Lang|la|te}} {{IPA|teː}} | {{Lang|en|tee}} {{IPA|tiː}} | {{Lang|fr|té}} {{IPA|te}} | {{Lang|de|te}} {{IPA|teː}} | {{Lang|it|ti}} {{IPA|ti}} | {{Lang|es|te}} {{IPA|te}} | {{Lang|pt|tê}} {{IPA|te}} | {{Lang|eo|to}} {{IPA|toː}} | ティー |- | style="font-size:x-large" | U | rowspan="2"|{{Lang|la|ū}} {{IPA|uː}} | {{Lang|en|u}} {{IPA|juː}} | {{Lang|fr|u}} {{IPA|y}} | {{Lang|de|u}} {{IPA|uː}} | {{Lang|it|u}} {{IPA|u}} | {{Lang|es|u}} {{IPA|u}} | {{Lang|pt|u}} {{IPA|u}} | {{Lang|eo|u}} {{IPA|uː}} | ユー |- | style="font-size:x-large" | V | {{Lang|en|vee}} {{IPA|viː}} | {{Lang|fr|vé}} {{IPA|ve}} | {{Lang|de|vau}} {{IPA|faʊ}} | {{Lang|it|vu}} {{IPA|vu}} | {{Lang|es|uve}} {{IPA|ˈuβe}} | {{Lang|pt|vê}} {{IPA|ve}} | {{Lang|eo|vo}} {{IPA|voː}} | ブイ、<br>ヴィー |- | style="font-size:x-large" | W | {{N/A}} | {{Lang|en|double-u}} {{IPA|ˈdʌbljuː}} | {{Lang|fr|double vé}} {{IPA|dubləve}} | {{Lang|de|we}} {{IPA|veː}} | {{Lang|it|doppia vu}} {{IPA|doppja vu}} | {{Lang|es|uve doble}} {{IPA|uβe ˈdoβle}} | {{Lang|pt-PT|dâblio}} {{IPA|ˈdɐ̃bliu}}<br>{{Lang|pt-BR|dáblio}} {{IPA|ˈdabliu}} | {{Lang|eo|duobla vo}} {{IPA|duˈobla voː}} | {{Nowrap|ダブリュー}} |- | style="font-size:x-large" | X | {{Lang|la|ex}} {{IPA|ɛks}}<br>{{Lang|la|ix}} {{IPA|iks}} | {{Lang|en|ex}} {{IPA|ɛks}} | {{Lang|fr|ixe}} {{IPA|iks}} | {{Lang|de|ix}} {{IPA|iks}} | {{Lang|it|ics}} {{IPA|iks}} | {{Lang|es|equis}} {{IPA|ˈekis}} | {{Lang|pt-PT|chis}} {{IPA|ʃiʃ}}<br>{{Lang|pt-BR|xis}} {{IPA|ʃis}} | {{Lang|eo|ikso}} {{IPA|ikso}} | エックス |- | style="font-size:x-large" | Y | {{Lang|la|y}} {{IPA|yː}}<br>{{Lang|la|ī Graeca}} {{IPA|iː ˈɡrajka}} | {{Lang|en|wye}} {{IPA|waɪ}} | {{Lang|fr|i grec}} {{IPA|iɡʁɛk}} | {{Lang|de|ypsilon}} {{IPA|ˈʏpsɪlɔn}} | {{Lang|it|i greca}} {{IPA|iɡˈɡrɛka}}<br>{{Lang|it|ipsilon}} {{IPA|ˈipsilon}} | {{Lang|es|ye}} {{IPA|ʝe}}<br>{{Lang|es|i griega}} {{IPA|i ˈɡɾjeɣa}} | {{Lang|pt|ípsilon}} {{IPA|ˈipsɨlɔn}}, {{IPA|ˈipsilõ}} | {{Lang|eo|ipsilono}} {{IPA|ipsiˈloːno}} | ワイ |- | style="font-size:x-large" | Z | {{Lang|la|zeta}} {{IPA|ˈzeːta}} | {{Lang|en-GB|zed}} {{IPA|zɛd}}<br>{{Lang|en-US|zee}} {{IPA|ziː}} | {{Lang|fr|zède}} {{IPA|zɛd}} | {{Lang|de|zet}} {{IPA|tsɛt}} | {{Lang|it|zeta}} {{IPA|ˈzɛta}} | {{Lang|es|zeta}} {{IPA|ˈθeta}}, {{IPA|ˈseta}} | {{Lang|pt|zê}} {{IPA|ze}} | {{Lang|eo|zo}} {{IPA|zoː}} | ゼット |} == 他言語の文字のラテン文字表記 == {| class="wikitable sortable mw-collapsible nowraplinks" style="text-align:center;" |+主なラテン字翻字の対応表 ! ラテン<br>文字 ! [[ギリシア文字]] ! [[キリル文字]] ! [[ヘブライ文字]] ! [[アラビア文字]] ! [[ペルシア文字]] ! [[カタカナ]] ! [[ハングル]] |-<!-- 誤記が疑われる文字に疑問符「?」を打ち、コメントアウトしています。 --> | {{Lang|und-Latn|A}} | Α| Α | А | 𛄠<!-- ヤ行のイ? -->{{Lang|und-Arab || آ ا}} | | ア | ㅏ |- | {{Lang|und-Latn|AE}} | | | | | | | ㅐ |- | {{Lang|und-Latn|AI}} | | | {{Hebrew|י ַ}} | | | | |- | {{Lang|und-Latn|B}} | {{Lang|und-Grek|ΜΠ}}, {{Lang|und-Grek|Β}} | {{Script|Cyrl|Б}} | {{Hebrew|בּ}} | {{Lang|und-Arab|ﺏ ﺑ ﺒ ﺐ}} | {{Nastaliq|ﺏ ﺑ}} | | ㅂ |- | {{Lang|und-Latn|C}} | {{Lang|und-Grek|Ξ}} | | | | | | |- | {{Lang|und-Latn|CH}} | T<!-- 希の列に羅? -->{{Lang|und-Grek|Σ̈}} | {{Script|Cyrl|Ч}} | {{Hebrew|צ׳}} | | {{Nastaliq|چ}} | | ㅊ |- | {{Lang|und-Latn|CHI}} | | | | | | チ | |- | {{Lang|und-Latn|D}} | {{Lang|und-Grek|ΝΤ}}, {{Lang|und-Grek|Δ}} | {{Script|Cyrl|Д}} | {{Hebrew|ד}} | {{Lang|und-Arab|ﺩ —ﺪ}} / {{Lang|und-Arab|ﺽ ﺿ ﻀ ﺾ}} | {{Nastaliq|د}} | | ㄷ |- | {{Lang|und-Latn|DH}} | {{Lang|und-Grek|Δ}} | | {{Hebrew|דֿ}} | {{Lang|und-Arab|ﺫ — ﺬ}} | | | |- | {{Lang|und-Latn|DZ}} | {{Lang|und-Grek|ΤΖ}} | {{Script|Cyrl|Ѕ}} | | | | | |- | {{Lang|und-Latn|E}} | {{Lang|und-Grek|Ε}}, {{Lang|und-Grek|ΑΙ}} | {{Script|Cyrl|Э}} | <!-- 余分なコンマ? -->, {{Hebrew|ֱ}}, {{Hebrew|י ֵֶ}}, {{Hebrew|ֵ}}, {{Hebrew|י ֶ}} | | | エ | ㅔ |- | {{Lang|und-Latn|EO}} | | | | | | | ㅓ |- | {{Lang|und-Latn|EU}} | | | | | | | ㅡ |- | {{Lang|und-Latn|EUI}} | | | | | | | ㅢ |- | {{Lang|und-Latn|F}} | {{Lang|und-Grek|Φ}} | {{Script|Cyrl|Ф}} | {{Hebrew|פ}}(語尾 {{Hebrew|ף}}) | {{Lang|und-Arab|ﻑ ﻓ ﻔ ﻒ}} | {{Nastaliq|ﻑ}} | | |- | {{Lang|und-Latn|FU}} | | | | | | フ | |- | {{Lang|und-Latn|G}} | {{Lang|und-Grek|ΓΓ}}, {{Lang|und-Grek|ΓΚ}}, {{Lang|und-Grek|Γ}} | {{Script|Cyrl|Г}} | {{Hebrew|ג}} | | {{Nastaliq|گ}} | | ㄱ |- | {{Lang|und-Latn|GH}} | {{Lang|und-Grek|Γ}} | {{Script|Cyrl|Ғ}} | {{Hebrew|גֿ}}, {{Hebrew|עֿ}} | {{Lang|und-Arab|ﻍ ﻏ ﻐ ﻎ}} | {{Nastaliq|ق غ}} | | |- | {{Lang|und-Latn|H}} | {{Lang|und-Grek|Η}} | {{Script|Cyrl|Һ}} | {{Hebrew|ח}}, {{Hebrew|ה}} | {{Lang|und-Arab|ﻩ ﻫ ﻬ ﻪ}}, {{Lang|und-Arab|ﺡ ﺣ ﺤ ﺢ}} | {{Nastaliq|ه ح ﻫ}} | | ㅎ |- | {{Lang|und-Latn|HA}} | | | | | | ハ | |- | {{Lang|und-Latn|HE}} | | | | | | ヘ | |- | {{Lang|und-Latn|HI}} | | | | | | ヒ | |- | {{Lang|und-Latn|HO}} | | | | | | ホ | |- | {{Lang|und-Latn|I}} | {{Lang|und-Grek|Η}}, {{Lang|und-Grek|Ι}}, {{Lang|und-Grek|Υ}}, {{Lang|und-Grek|ΕΙ}}, {{Lang|und-Grek|ΟΙ}} | {{Script|Cyrl|И}} | {{Hebrew|ִ}}, {{Hebrew|י ִ}} | {{Lang|und-Arab|دِ}} | | イ | ㅣ |- | {{Lang|und-Latn|IY}} | | | | {{Lang|und-Arab|دِي}} | | | |- | {{Lang|und-Latn|J}} | TZ̈<!-- 希の列に羅? --> | {{Script|Cyrl|ДЖ}}, {{Script|Cyrl|Џ}} | {{Hebrew|ג׳}} | {{Lang|und-Arab|ﺝ ﺟ ﺠ ﺞ}} | {{Nastaliq|ج}} | | ㅈ |- | {{Lang|und-Latn|JJ}} | | | | | | | ㅉ |- | {{Lang|und-Latn|K}} | {{Lang|und-Grek|Κ}} | {{Script|Cyrl|К}} | {{Hebrew|כּ}}(語尾 {{Hebrew|ךּ}} ) | {{Lang|und-Arab|ﻙ ﻛ ﻜ ﻚ}} | {{Nastaliq|ک}} | | ㅋ |- | {{Lang|und-Latn|KA}} | | | | | | カ | |- | {{Lang|und-Latn|KE}} | | | | | | ケ | |- | {{Lang|und-Latn|KH}} | X<!-- 希の列に羅? --> | {{Script|Cyrl|Х}} | {{Hebrew|כ}},{{Hebrew|חֿ}}(語尾 {{Hebrew|ך}}) | {{Lang|und-Arab|ﺥ ﺧ ﺨ ﺦ}} | {{Nastaliq|خ}} | | |- | {{Lang|und-Latn|KI}} | | | | | | キ | |- | {{Lang|und-Latn|KK}} | | | | | | | ㄲ |- | {{Lang|und-Latn|KO}} | | | | | | コ | |- | {{Lang|und-Latn|KU}} | | | | | | ク | |- | {{Lang|und-Latn|L}} | {{Lang|und-Grek|Λ}} | {{Script|Cyrl|Л}} | {{Hebrew|ל}} | {{Lang|und-Arab|ﻝ ﻟ ﻠ ﻞ}} | {{Nastaliq|ل}} | | |- | {{Lang|und-Latn|M}} | {{Lang|und-Grek|Μ}} | {{Script|Cyrl|М}} | {{Hebrew|מ}}(語尾 {{Hebrew|ם}}) | {{Lang|und-Arab|ﻡ ﻣ ﻤ ﻢ}} | {{Nastaliq|م}} | | ㅁ |- | {{Lang|und-Latn|MA}} | | | | | | マ | |- | {{Lang|und-Latn|ME}} | | | | | | メ | |- | {{Lang|und-Latn|MI}} | | | | | | ミ | |- | {{Lang|und-Latn|MO}} | | | | | | モ | |- | {{Lang|und-Latn|MU}} | | | | | | ム | |- | {{Lang|und-Latn|N}} | {{Lang|und-Grek|Ν}} | {{Script|Cyrl|Н}} | {{Hebrew|נ}}(語尾 {{Hebrew|ן}}) | {{Lang|und-Arab|ﻥ ﻧ ﻨ ﻦ}} | {{Nastaliq|ن}} | ン | ㄴ |- | {{Lang|und-Latn|NA}} | | | | | | ナ | |- | {{Lang|und-Latn|NE}} | | | | | | ネ | |- | {{Lang|und-Latn|NI}} | | | | | | ニ | |- | {{Lang|und-Latn|NO}} | | | | | | ノ | |- | {{Lang|und-Latn|NU}} | | | | | | ヌ | |- | {{Lang|und-Latn|O}} | {{Lang|und-Grek|Ο}}, {{Lang|und-Grek|Ω}} | {{Script|Cyrl|О}} | <!-- 余分なコンマ? -->, {{Hebrew|ֳ}}, {{Hebrew|וֹֹ}} | | {{Nastaliq|ا ُ}} | オ | ㅗ,ㅓ |- | {{Lang|und-Latn|OI}} | | | | | | | ㅚ |- | {{Lang|und-Latn|P}} | {{Lang|und-Grek|Π}} | {{Script|Cyrl|П}} | {{Hebrew|פּ}}(語尾 {{Hebrew|ףּ}} ) | | {{Nastaliq|پ}} | | ㅍ |- | {{Lang|und-Latn|PP}} | | | | | | | ㅃ |- | {{Lang|und-Latn|PS}} | {{Lang|und-Grek|Ψ}} | | | | | | |- | {{Lang|und-Latn|Q}} | {{Lang|und-Grek|Ϙ}} | | {{Hebrew|ק}} | {{Lang|und-Arab|ﻕ ﻗ ﻘ ﻖ}} | {{Nastaliq|ق}} | | |- | {{Lang|und-Latn|R}} | {{Lang|und-Grek|Ρ}} | {{Script|Cyrl|Р}} | {{Hebrew|ר}} | {{Lang|und-Arab|ﺭ — ﺮ}} | {{Nastaliq|ر}} | | ㄹ |- | {{Lang|und-Latn|RA}} | | | | | | ラ | |- | {{Lang|und-Latn|RE}} | | | | | | レ | |- | {{Lang|und-Latn|RI}} | | | | | | リ | |- | {{Lang|und-Latn|RO}} | | | | | | ロ | |- | {{Lang|und-Latn|RU}} | | | | | | ル | |- | {{Lang|und-Latn|S}} | {{Lang|und-Grek|Σ}} | {{Script|Cyrl|С}} | {{Hebrew|ס}}, {{Hebrew|שׂ}} | {{Lang|und-Arab|ﺱ ﺳ ﺴ ﺲ}}, {{Lang|und-Arab|ﺹ ﺻ ﺼ ﺺ}} | {{Nastaliq|س ص}} | | ㅅ |- | {{Lang|und-Latn|SA}} | | | | | | サ | |- | {{Lang|und-Latn|SE}} | | | | | | セ | |- | {{Lang|und-Latn|SH}} | {{Lang|und-Grek|Σ̈}} | {{Script|Cyrl|Ш}} | {{Hebrew|שׁ}} | {{Lang|und-Arab|ﺵ ﺷ ﺸ ﺶ}} | {{Nastaliq|ش}} | | |- | {{Lang|und-Latn|SHCH}} | | {{Script|Cyrl|Щ}} | | | | | |- | {{Lang|und-Latn|SHI}} | | | | | | シ | |- | {{Lang|und-Latn|SO}} | | | | | | ソ | |- | {{Lang|und-Latn|SS}} | | | | | | | ㅆ |- | {{Lang|und-Latn|SU}} | | | | | | ス | |- | {{Lang|und-Latn|T}} | {{Lang|und-Grek|Τ}} | {{Script|Cyrl|Т}} | {{Hebrew|ט}}, {{Hebrew|תּ}}, {{Hebrew|ת}} | {{Lang|und-Arab|ﺕ ﺗ ﺘ ﺖ}}, {{Lang|und-Arab|ﻁ ﻃ ﻄ ﻂ}} | {{Nastaliq|ت ط}} | | ㅌ |- | {{Lang|und-Latn|TA}} | | | | | | タ | |- | {{Lang|und-Latn|TE}} | | | | | | テ | |- | {{Lang|und-Latn|TH}} | {{Lang|und-Grek|Θ}} | | {{Hebrew|תֿ}} | {{Lang|und-Arab|ﺙ ﺛ ﺜ ﺚ}} | | | |- | {{Lang|und-Latn|TO}} | | | | | | ト | |- | {{Lang|und-Latn|TS}} | {{Lang|und-Grek|ΤΣ}} | {{Script|Cyrl|Ц}} | {{Hebrew|צ}}(語尾 {{Hebrew|ץ}}) | | | | |- | {{Lang|und-Latn|TSU}} | | | | | | ツ | |- | {{Lang|und-Latn|TT}} | | | | | | | ㄸ |- | {{Lang|und-Latn|U}} | {{Lang|und-Grek|ΟΥ}}, {{Lang|und-Grek|Υ}} | {{Script|Cyrl|У}} | <!-- 余分なコンマ? -->, {{Hebrew|וֻּ}} | {{Lang|und-Arab|دُ}} | | ウ | ㅜ |- | {{Lang|und-Latn|UW}} | | | | {{Lang|und-Arab|دُو}} | | | |- | {{Lang|und-Latn|V}} | B<!-- 希の列に羅? --> | {{Script|Cyrl|В}} | {{Hebrew|ב}} | | {{Nastaliq|و}} | | |- | {{Lang|und-Latn|W}} | {{Lang|und-Grek|Ω}} | | {{Hebrew|ו}}, {{Hebrew|וו}} | {{Lang|und-Arab|ﻭ — ﻮ}} | {{Nastaliq|و}} | | |- | {{Lang|und-Latn|WA}} | | | | | | ワ | ㅘ |- | {{Lang|und-Latn|WE}} | | | | | | ヱ | |- | {{Lang|und-Latn|WI}} | | | | | | ヰ | ㅟ |- | {{Lang|und-Latn|WO}} | | | | | | ヲ | ㅝ |- | {{Lang|und-Latn|X}} | {{Lang|und-Grek|Ξ}}, {{Lang|und-Grek|Χ}} | | | | | | |- | {{Lang|und-Latn|Y}} | {{Lang|und-Grek|Ψ}} | {{Script|Cyrl|Й}}, {{Script|Cyrl|Ы}}, {{Script|Cyrl|Ј}} | {{Hebrew|י}} | {{Lang|und-Arab|ﻱ ﻳ ﻴ ﻲ}} | {{Nastaliq|ی}} | | |- | {{Lang|und-Latn|YA}} | | {{Script|Cyrl|Я}} | | | | ヤ | ㅑ |- | {{Lang|und-Latn|YE}} | | {{Script|Cyrl|Е}}, {{Script|Cyrl|Є}} | | | | 𛄡 | |- | {{Lang|und-Latn|YEO}} | | | | | | | ㅕ |- | {{Lang|und-Latn|YI}} | | {{Script|Cyrl|Ї}} | | | | 𛄠 | |- | {{Lang|und-Latn|YO}} | | {{Script|Cyrl|Ё}} | | | | ヨ | ㅛ |- | {{Lang|und-Latn|YU}} | | {{Script|Cyrl|Ю}} | | | | ユ | ㅠ |- | {{Lang|und-Latn|Z}} | {{Lang|und-Grek|Ζ}} | {{Script|Cyrl|З}} | {{Hebrew|ז}} | {{Lang|und-Arab|ﺯ — ﺰ}}, {{Lang|und-Arab|ﻅ ﻇ ﻈ ﻆ}} | {{Nastaliq|ز}} | | |- | {{Lang|und-Latn|ZH}} | {{Lang|und-Grek|Ζ̈}} | {{Script|Cyrl|Ж}} | {{Hebrew|ז׳}} | | {{Nastaliq|ژ}} | | |} == 他の文字との関係 == ラテン文字はギリシア文字から派生した文字であり、ラテン文字が新たな字を追加し大きく変化した現代においてもいくつかの文字は共通する。また、同じくギリシア文字を祖とするキリル文字ともいくつかの文字が共通している。 ラテン文字は他言語に適用される場合は綴りを工夫したり文字に記号を加えるなどしたうえでそのまま導入されることが多く、ラテン文字から派生した文字はそれほど多くはないが、[[アイルランド島]]などで[[5世紀]]から[[8世紀]]にかけて用いられた[[オガム文字]]はおそらくラテン文字から影響を受けて作られたと考えられている<ref>{{Cite book |和書 |editor=アンヌ=マリー・クリスタン |editor-link=fr:Anne-Marie Christin |title=世界の文字の歴史文化図鑑 : ビジュアル版 : ヒエログリフからマルチメディアまで |edition=第1刷 |date=2012-04-15 |publisher=[[柊風舎]] |language=fr |isbn=9784903530574 |ncid=BB09123769 |pages=284-285 |translator=赤羽美鳥, [[澤田治美]] |location=東京}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Latin alphabet|Latin alphabet}} *[[カルメンタ]] - 神話上ラテン文字を考案したとされている女神 *[[アラビア数字とラテン文字のアルファベットによる二文字組み合わせの一覧]] *[[ラテン文字一覧]] *[[ラテン文字化]] <!--*[[フォネティックコード]]--関連が薄い--> == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{文字}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:らてんもし}} [[Category:ラテン文字|*]] [[Category:ラテン語|もし]] [[Category:ヨーロッパの文字]] [[Category:アフリカの文字]] [[Category:アジアの文字]]
2003-08-21T05:58:35Z
2023-11-01T05:21:56Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Kotobank", "Template:出典の明記", "Template:音素文字", "Template:Lang-en-gb-short", "Template:Nowrap", "Template:Cite news", "Template:文字", "Template:色", "Template:Fact-span", "Template:詳細記事2", "Template:Notelist2", "Template:Efn2", "Template:関連記事", "Template:Cite web", "Template:Script", "Template:Lang-en-us-short", "Template:N/A", "Template:Nastaliq", "Template:Flatlist", "Template:IPA", "Template:Lang-el-short", "Template:Reflist", "Template:Infobox WS", "Template:Lang-la-short", "Template:Lang-en-short", "Template:Lang", "Template:Commons&cat", "Template:Lang-it-short", "Template:Legend", "Template:Hebrew", "Template:Normdaten", "Template:詳細記事" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E6%96%87%E5%AD%97
13,664
H
Hは、ラテン文字(アルファベット)の8番目の文字。小文字は h 。ギリシャ文字のΗ(イータ)に由来し、キリル文字のИは同系である。 キリル文字のНは別字で、ラテン文字のNに相当する文字である。 はじめの字形がある。 これらの呼称は というような推移によるものと考えられている。 なお、英語名は、当初古いフランス語そのままにおおむね [aːtʃə] のごとく発音していたが、その後の規則的な変化(大母音遷移)により現在の音 [eɪtʃ] になっている。現在の英語では一般に単音節語の -aCe を [-eɪC] と発音する(ここで C は任意の子音とする)ものの、C にあたる位置に ch [tʃ] が立つ場合についてはほとんど例がないため、H [eɪtʃ] を ache と綴ることは通常行われない。ache という綴りは [eɪk] と発音する別の語彙に当てられている。 ギリシャ文字のΗ(イータ)に由来する。現在のΗやИが母音字なのに対し、このHが/h/を表すのは、Ηの古い音韻(ヘータと呼ばれ、/h/を表した)に基づくものである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Hは、ラテン文字(アルファベット)の8番目の文字。小文字は h 。ギリシャ文字のΗ(イータ)に由来し、キリル文字のИは同系である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キリル文字のНは別字で、ラテン文字のNに相当する文字である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "はじめの字形がある。", "title": "字形" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これらの呼称は", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "というような推移によるものと考えられている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、英語名は、当初古いフランス語そのままにおおむね [aːtʃə] のごとく発音していたが、その後の規則的な変化(大母音遷移)により現在の音 [eɪtʃ] になっている。現在の英語では一般に単音節語の -aCe を [-eɪC] と発音する(ここで C は任意の子音とする)ものの、C にあたる位置に ch [tʃ] が立つ場合についてはほとんど例がないため、H [eɪtʃ] を ache と綴ることは通常行われない。ache という綴りは [eɪk] と発音する別の語彙に当てられている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ギリシャ文字のΗ(イータ)に由来する。現在のΗやИが母音字なのに対し、このHが/h/を表すのは、Ηの古い音韻(ヘータと呼ばれ、/h/を表した)に基づくものである。", "title": "歴史" } ]
Hは、ラテン文字(アルファベット)の8番目の文字。小文字は h。ギリシャ文字のΗ(イータ)に由来し、キリル文字のИは同系である。 キリル文字のНは別字で、ラテン文字のNに相当する文字である。
{{otheruses|ラテン文字のHとh|[[ギリシア文字]]のΗ|Η|[[キリル文字]]のН|Н|キリル文字のҺ|Һ|[[グルジア文字]]のჩ|ჩ|[[アルメニア文字]]のհ|Հ}} {{A-Z}} '''H'''は、[[ラテン文字]]([[アルファベット]])の[[8]]番目の文字。小文字は '''h''' 。[[ギリシャ文字]]の[[Η]](イータ)に由来し、[[キリル文字]]の[[И]]は同系である。 キリル文字の[[Н]]は別字で、ラテン文字の[[N]]に相当する文字である。 == 字形 == [[File:H cursiva.gif|thumb|250px|筆記体]] [[File:Sütterlin-H.png|thumb|250px|[[ジュッターリーン体]]]] はじめの字形がある。 #2本の縦棒とそれを中央で結ぶ横棒から成る。大文字は普通この字形である。 #右の縦棒の上半分を欠く。右の角は丸まり、左の交点も同じ方向に丸まる。小文字はこの字形である。[[フラクトゥール]]は<math>\mathfrak{H\ h}</math>のように、大文字、小文字ともこの字形である。 == 呼称 == *[[ラテン語|拉]]・[[ドイツ語|独]]・[[オランダ語|蘭]]・[[ハンガリー語|洪]]・[[インドネシア語|尼]]:ハー *{{Lang-fr-short|ache}}(アシュ) *{{Lang-it-short|acca}}(アッカ) *{{Lang-es-short|hache}}(アチェ) *{{Lang-en-short|aitch}}(エイチ){{ipa|eɪtʃ}} **[[アイルランド英語|愛]]・{{Lang-en-au-short|haitch}}(ヘイチ){{ipa|heɪtʃ}} *{{Lang-pt-short|agá}}(アガー) *{{Lang-ro-short|haș}}(ハッシュ) *[[エスペラント|エス]]・[[スウェーデン語|典]]・[[ノルウェー語|諾]]・[[デンマーク語|丁]]・[[フィンランド語|芬]]:ホー *[[ポーランド語|波]]・[[ベトナム語|越]]:ハ *[[日本語|日]]:エイチ /e̞itɕi/、エッチ /e̞t̚tɕi/、ヘイチ /he̞itɕi/、ヘッチ /he̞t̚tɕi/ これらの呼称は :ラテン語「ha」→後期ラテン語 "aha" → "ahha" → "accha" ::→イタリア語 "acca" ::→スペイン語 "hache" → フランス語 "ache" → 英語 "aitch" というような推移によるものと考えられている。 なお、英語名は、当初古いフランス語そのままにおおむね {{IPA|aːtʃə}} のごとく発音していたが、その後の規則的な変化([[大母音遷移]])により現在の音 {{IPA|eɪtʃ}} になっている。現在の英語では一般に単音節語の -aCe を {{IPA|-eɪC}} と発音する(ここで C は任意の子音とする)ものの、C にあたる位置に ch {{IPA|tʃ}} が立つ場合についてはほとんど例がないため、H {{IPA|eɪtʃ}} を ache と綴ることは通常行われない。ache という綴りは {{IPA|eɪk}} と発音する別の語彙に当てられている。 == 音価 == *ドイツ語や英語では原則として[[無声声門摩擦音]]{{ipa|h}}ないしその類似音を表す。ドイツ語では語頭以外で前に母音、またはt,rを伴うhは発音されない(複合語中のhは元の単語の発音に準ずる)。また、その前の母音を長く伸ばすように作用し、英語でもそうなる場合があり、この場合hの文字そのものは発音されない。 **ドイツ語ではiの前で[[無声硬口蓋摩擦音]]{{IPA|ç}}を表すこともある(例えば'''H'''itomiなど)。 * [[ポーランド語]]や[[中国語]]の[[ピンイン]]では[[無声軟口蓋摩擦音]]{{ipa|x}}を表す。 *多くの[[ロマンス語]]では発音されない。 **フランス語では、「[[無音のh・有音のh|無音のh]]」と「[[無音のh・有音のh|有音のh]]」の2種類がある。両者とも単独では発音されることは無いが、有音のhで始まる単語は[[リエゾン]]・[[エリジオン]]・[[アンシェヌマン]]を起こさない(語頭以外のhはこの区別を考える必要は無い)。[[黙字#フランス語]]も参照のこと。 **イタリア語では発音に関わらないhについては、英語のhaveに相当する動詞avereの活用、感嘆詞、外来語を除き、書かれなくなった。なお、hはcやgの後ろに置かれてcやgを{{ipa|k}}や{{ipa|g}}の発音に保つ働きを持つ。 **例外的に、ルーマニア語では/h~x/で発音される。ch, ghはイタリア語と同じ。 *多くの言語で、"ch", "ph" などのように他の子音字の後ろに置かれ、類似の別音を表す。[[摩擦音]]になることが多い。 *他の子音字の後ろに置いて[[有気音]]を表すことがある。タイ語やヒンディー語などの有声無声の区別、有気無気の区別の両方がある言語のローマ字表記で使用される。 *[[日本語]]の[[ローマ字|ローマ字表記]]では[[は行|ハ行]]の子音に用いる。但し[[ヘボン式]]では「フ」の子音は他のハ行の子音と異なる為別の字 (F) を用いる。また、「ヒ」の子音も他のハ行の子音と異なるが、これには[[訓令式]]でもヘボン式でも他のハ行と同じHを用いる。オ段の長音の表記に使用する場合もある(佐藤→Sato'''h'''、妹尾→Seno'''h''')。 *朝鮮語のローマ字表記では[[初声]]の「{{lang|ko|ㅎ}}」に用いる。一般的ではないが、[[イェール式]]等、[[激音]]を示す為にも使用される表記法がある。 == 歴史 == [[ギリシャ文字]]の[[Η]](イータ)に由来する。現在のΗやИが[[母音]]字なのに対し、このHが{{ipa|h}}を表すのは、Ηの古い音韻(ヘータと呼ばれ、{{ipa|h}}を表した)に基づくものである。 == Hの意味 == === 学術的な記号・単位 === * [[17|十七]]を意味する数字。[[二十進法]]など、十八進法以上<small>(参照: [[位取り記数法#Nが十を超過]])</small>において十七([[十進法]]の'''17''')を一桁で表すために用いられる。 ==== 大文字 ==== * [[水素]]の[[元素記号]]。 * [[インダクタンス]]の[[SI組立単位]]、[[ヘンリー (単位)|ヘンリー]](大文字)。 * [[電磁気学]]における[[磁場]](磁界)の意。 * [[熱力学]]における[[エンタルピー]]の意。 * [[解析力学]]における[[ハミルトニアン]]の意。 * [[天気図]]における[[高気圧]] (High pressure area) の意。 * [[音楽|洋楽]]の、ドイツ[[音名]]の1つ、「ハー」。イタリア式では「'''si'''」、日本式では「'''ロ'''」、英米式や中国式では「'''B'''」に相当。→[[ロ (音名)]] ** 音階の7番目の音であることから、音楽関係者の間で7を表す隠語として使われる。例:H(ハー)万=7万(円) * 大文字太字の'''H'''あるいは<math>\mathbb{H}</math>は、[[数学]]において[[四元数]] (Hamilton) の全体を表す。 * [[コンピュータ]][[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]で数値リテラルが[[十六進数]] ('''H'''exadecimal) であることを示す接頭語または接尾辞。(例:[[マイクロソフト]]系BASICにおける「&amp;''H''C9」、[[Z80]]の[[アセンブリ言語]]における「0C9''H''」) * [[アイピース|接眼レンズ]]の中で、ホイヘンス形式を表す。 * [[真空管]]の端子の1つ。ヒータ ('''H'''eater) * (コ)[[ホモロジー (数学)|ホモロジー]] * [[HQ9+]]において、[[Hello world]]を出力する文字。 ==== 小文字 ==== * 高さ (height) の[[量記号]] * 100倍を表す[[SI接頭語]]の[[ヘクト]] * [[時間 (単位)|時間]]({{Lang-en-short|'''h'''our}}、{{Lang-fr-short|'''h'''eure}})を表す単位(小文字)。 ** 例:1h23 = 1時23分。 * [[熱力学]]における[[エンタルピー|比エンタルピー]]の意。 * [[量子力学]]で[[プランク定数]]。 (''h'' = 6.6260693(11)×10<sup>-34</sup> J·s) 。 * [[C言語]]の[[ヘッダファイル]]([[ライブラリ]])の拡張子。例 "stdio.''h''" = 標準入出力のライブラリ * [[二端子対回路#hパラメータ|hパラメータ]]、[[二端子対回路#hパラメータ|h行列]]。 * フラクトゥールで[[リー環]]、とくに[[カルタン部分環]] * [[コクセター数]] === その他の記号 === * [[元号]]「[[平成]]('''H'''eisei)」の略記。 * ドクターH - [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]「[[チキチキマシン猛レース]]」の登場人物。 * [[鉛筆]]の芯の[[硬さ]]を表す記号。'''H'''ard の頭文字。Fより硬く、以降硬くなるに従って2H、3H…となり、一番硬いのは9H。 *[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[JR北海道|JR]][[函館線]]・[[千歳線]]・[[室蘭線]]([[札幌駅]]〜[[東室蘭駅]]〜[[函館駅]]、[[大沼駅]]〜[[七飯駅]])('''H'''akodate)、[[札幌市営地下鉄]][[東豊線]] (tō'''H'''ō)、[[東京メトロ日比谷線]] ('''H'''ibiya)、[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] ('''H'''igashiyama)、[[JR西日本|JR]][[片町線]]・[[JR東西線|東西線]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]][[天理線]]、[[岡山電気軌道]][[東山本線|東山線]] ('''H'''igashiyama)、[[広島電鉄]][[皆実線]](比治山線)('''H'''ijiyama)、[[福岡市交通局]][[箱崎線]] ('''H'''akozaki) の[[路線記号]]として用いられる。 *[[ヘリポート]]の“H”。 * [[エッチ]]の意(''hentai''の頭字)。 * 高さ (Height)。⇔[[W]](幅 Width)。 * [[スリーサイズ]]のうちのヒップ ('''H'''ip)。 * 湯 ('''H'''ot) を表す記号。 * [[ホテル]] (hotel) を指す記号。 * [[ハードル|ハードル競走]]の略。「100mH」「110mH」など。 * [[写植]]において、歯 (0.25mm) の略。 * [[日本国有鉄道|国鉄]]・[[JR]]等の[[機関車]]で、動軸を8軸有するものの形式に付される記号。[[EH10]]、[[EH500]]、[[EH200]]。 * [[水銀灯]]。構内電気設備配線用図記号 ([[JIS]] C 0303:2000) で用いられる。HID灯の図記号に傍記。 * 医用コンセント。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。コンセントの図記号に傍記。 * 位置表示灯内蔵スイッチ。構内電気設備配線用図記号 (JIS C 0303:2000) で用いられる。スイッチの図記号に傍記。 * 電気業界で[[日立製作所]]を表す符丁。 ** 携帯電話・PHS業界でも、[[Au (携帯電話)|au]]・[[NTTパーソナル]]・[[アステル]]の日立製端末の型番にHが付けられた。[[W43H]]、[[W62H]]など。 ** [[東海道新幹線]]でも、開業当初は日立製の編成を「H編成」と称していた。 * [[ホールド]] ('''h'''old) の略。 * [[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団[[福岡ソフトバンクホークス]] ('''H'''awks) の略号。 * [[野球]]における、[[安打|ヒット]]('''H'''it)の略。[[スコアボード]]等で使用される。 * [[ケッペンの気候区分]]における、[[高山気候]]を表す。 * [[H5系]]以降の[[北海道旅客鉄道]]の車両形式に冠される文字。 * [[水平対向エンジン]] (Horizontally Opposed Engine) の略。 * [[石井竜也]]の[[オリジナルアルバム]]→[[H (石井竜也のアルバム)]]。 * 「[[H (雑誌)|H]]」又は「[[コミックH]]」は、株式会社[[ロッキング・オン]] (rockin'on) から出版された雑誌。 * [[田中康夫]]の小説→[[H (小説)]]。 * [[浜崎あゆみ]]のシングル。[[H (シングル)]]。 * [[フランス]]の[[自動車]]メーカー[[シトロエン]]が1947年から1981年まで発売していた貨物自動車→[[シトロエン・Hトラック|Hトラック]](アッシュトラック)。 * [[桜井まちこ]]の漫画。→[[H-エイチ-]]。 * [[きんこうじたま]]の漫画。→[[H (アッシュ)]]。 * 2002年公開の韓国映画。→[[H (映画)|H [エイチ]]]。 * 英語の疑問詞における'''H'''ow。詳しくは記事「[[5W1H]]」を参照のこと。 * [[大韓民国|韓国]] (Hanguk) の略称に使われることがある。 * [[ホームストレッチ]] ('''H'''omestretch) - [[陸上競技場]]・[[競馬場]]・[[競輪場]]などで、決勝線のある側の略。[[HS]]とも。 * 日本の[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[写真家]]、[[映像作家]]、[[音楽プロデューサー]]の名前。本名・[[濱洋一]]。別名義は「[[濱洋一|H(eichi)]]」。元「[[three tight b]]」ギター・ボーカル == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" !大文字!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!小文字!!Unicode!!JIS X 0213!!文字参照!!備考 {{ULu|0048|72||1-3-40|0068|104||1-3-72|半角}} {{ULu|FF28|65320||1-3-40|FF48|65352||1-3-72|全角|font=JIS2004フォント}} {{ULu|24BD|9405||‐|24D7|9431||1-12-38|丸囲み}} {{ULu|1F117|127255||‐|24A3|9379||‐|括弧付き|bfont=ARIB外字フォント|sfont=MacJapanese}} {{ULu|1D34|7476||‐|02B0|688||‐|[[上付き文字]]}} {{ULu|1D407|119815||‐|1D421|119841||‐|[[太字]]}} {{ULu|1D43B|119867||‐|210E|8462||‐|[[イタリック体]]}} {{ULu|1D46F|119919||‐|1D489|119945||‐|イタリック体太字}} {{ULu|210B|8459||‐|1D4BD|119997||‐|[[筆記体]]}} {{ULu|1D4D7|120023||‐|1D4F1|120049||‐|筆記体太字}} {{ULu|210C|8460||‐|1D525|120101||‐|[[フラクトゥール]]|bfont=個別|bfamily='Lucida Sans Unicode',FreeSerif,'Chrysanthi Unicode','DejaVu LGC Sans','Linux Biolinum G','HAN NOM A','New Athena Unicode','MS P明朝','MS Mincho',Komatuna,'UmePlus Gothic',YOzFont,'梅Pゴシック','S2Gうにフォント'}} {{ULu|210D|8461||‐|1D559|120153||‐|[[黒板太字]]}} {{ULu|1D573|120179||‐|1D58D|120205||‐|フラクトゥール太字}} {{ULu|1D5A7|120231||‐|1D5C1|120257||‐|[[サンセリフ]]}} {{ULu|1D5DB|120283||‐|1D5F5|120309||‐|サンセリフ太字}} {{ULu|1D60F|120335||‐|1D629|120361||‐|サンセリフイタリック}} {{ULu|1D643|120387||‐|1D65D|120413||‐|サンセリフイタリック太字}} {{ULu|1D677|120439||‐|1D691|120465||‐|[[等幅フォント]]}} |} {| class="wikitable" style="text-align: center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8341|2095|‐|LATIN SUBSCRIPT SMALL LETTER H}} {{CharCode|668|029C|‐|LATIN LETTER SMALL CAPITAL H}} {{CharCode|127287|1F137|‐|SQUARED LATIN CAPITAL LETTER H|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127319|1F157|‐|NEGATIVE CIRCLED LATIN CAPITAL LETTER H|font=ARIB外字フォント}} {{CharCode|127351|1F177|‐|NEGATIVE SQUARED LATIN CAPITAL LETTER H|font=ARIB外字フォント}} |} ==他の表現法== {{Letter other reps |NATO=Hotel |Morse=・・・・ |Character=H8 |Braille=⠓ }} == 関連項目 == {{Wiktionary|h|H}} * {{Unicode|[[Ĥ]] ĥ}} - [[サーカムフレックス]] * {{Unicode|[[Ħ]] ħ}} - [[ストローク符号|ストローク]] * {{Unicode|[[Ḧ]] ḧ}} - [[トレマ]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ḩ|de|Ḩ}} ḩ}} - [[セディーユ]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ȟ|de|Ȟ}} ȟ}} - [[キャロン]] * {{Unicode|{{仮リンク|Ḣ|fr|Ḣ}} ḣ}} - [[ドット符号|ドット]] * {{Unicode|[[Һ]] һ}} - [[キリル文字]] {{ラテン文字}} [[Category:ラテン文字]]
2003-08-21T06:10:42Z
2023-12-08T22:43:18Z
false
false
false
[ "Template:IPA", "Template:Lang", "Template:ULu", "Template:Otheruses", "Template:Lang-fr-short", "Template:Ipa", "Template:Lang-ro-short", "Template:CharCode", "Template:Unicode", "Template:Lang-es-short", "Template:Lang-en-short", "Template:Lang-pt-short", "Template:Wiktionary", "Template:Letter other reps", "Template:ラテン文字", "Template:A-Z", "Template:Lang-it-short", "Template:Lang-en-au-short" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/H
13,666
Adobe InDesign
Adobe InDesign(アドビ インデザイン)は、アドビが販売するDTPソフトウェアである。 アドビが販売するDTPソフトの名称。元々は紙媒体の印刷物の版下作成のため、文章や画像などのレイアウトを行うページレイアウトソフトと位置づけられていた。しかしながら最近ではデジタル端末の普及に伴い、HTML5コンテンツや音声や動画なども含まれるデジタルコンテンツの作成も行えるように進化している。 アドビは、以前Adobe PageMakerというDTPソフトを販売していたが、デファクトスタンダードとなった後発のQuarkXPressの牙城を崩すことができなかった。その状況を変えるため、PageMakerでは対応しきれないニーズに応えるため、1999年、自社製品であるAdobe IllustratorやAdobe Photoshopとの強力な連携性を持つInDesignを新たに開発し、投入した。 ライバルであるQuarkXPressのMac OS X対応が遅れる中、Mac OS XおよびOpenTypeフォントに完全対応し、高度な組版能力とデザインの自由度を兼ね備えたAdobe InDesignは大いに話題となり、一定のシェアを獲得した。InDesign CS3(5)以降、日本市場のデファクトスタンダードの地位を着々と築きつつある。 DTPのさきがけとなったPageMakerやInDesignを含め元来はAldus社の製品やプロジェクトであったが、同社との合併により、製品はアドビからリリースされることとなった。当初アドビはAdobe PageMakerをやめてInDesignに移行したわけではなく特徴に応じて使い分けていく、としていたが、InDesign 2.0リリース以降、PageMakerの新規開発は行われず、Mac OS Xに対応したバージョンは開発されなかった。 アドビでは既存のAdobe PageMakerユーザ向けにPMDファイルからInDesign CS1(3)へのファイル変換機能やトレーニングソフトなどを含むAdobe InDesign CS1(3) PageMaker Editionという製品も発売していた。InDesign CS3(5)発売にあたり、PageMaker6.0/6.5/7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS3(5)の優待版が販売されていた。優待版とアップグレード版は別々のパッケージで、添付されるシリアル番号が異なる。現在でもPageMaker 7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS5(7)の優待版が販売されている(InDesign CS4(6)についてもかつてはこれと同様に、優待版へのアップグレードパスが用意されていた)。 2013年以降、InDesignはAdobe Creative Cloudという、複数のアプリケーションを統合させた協調動作製品の一部である InDesign CC として公開されている。InDesign CCは他のアドビ製デザイン用アプリケーションソフトと同様、プログラムをインターネット経由でダウンロードし、その使用料金を毎月もしくは年単位で支払うことで利用できるサブスクリプション方式で提供されている。 グラフィック処理能力が他のDTPソフトよりも強力。他DTPソフトでは画像を挿入する時にはEPS形式やTIFF形式などのデータでなければならない事が多いが、InDesignではIllustratorやPhotoshopのネイティブデータをそのまま表示、出力することができる。これができるのはほかにCorelDRAW(ただしバージョン形式の対応が遅れる、一部条件で変換に失敗することがある)などしかない。 リンクだけでなく、それらのデータをドラッグ&ドロップ操作によってInDesignの中に取り込むことも可能。半透明の画像も扱うことができ、ドロップシャドウ処理を施した文字の再編集が容易な点などは、デザイナーの支持を集める要因となっている。 日本語版のCS2(4)・CS3(5)・CS4(6)では「SING外字ソリューション」(外字作成機能)が存在し、Illustratorで作成した自作の外字(グリフレット)を、コンバートソフトのSING Glyphlet Managerで文字として認識させ、InDesignに追加することができるようになっていた。Adobe-Japan1-6規格(2万3058グリフ)のOpenTypeフォントのラインナップの充実やこの最新文字セット規格の定着により、この機能の意義が薄れ、CS5(7)以降はこの機能が削除された。CS5(7)ではCS4(6)で作成した、SING Glyphlet Managerで文字として認識させたファイルの読み込み自体は可能である。 従来、デザイン性の高いレイアウトワークはIllustratorなどで行われることが多かったが、IllustratorはCS5.1(15.1)までのバージョンではページ管理機能を持っていなかったため、複数ページを持つデータの場合には手作業によるページ管理が必要であった。このため制作段階から製版段階に至るまで極めて煩雑でミスを招く原因となっており、そういったレイアウトワークをInDesignで行うことで、手間やミスを減少させることが期待された。なお、IllustratorのCS6(16.0.0)から、ひとつのデータ内で複数のページ(アートボード)を利用することが可能となったため、両ソフトの使い分けに関してユーザの選択により自由度が増している。 また単体でPDFとEPUBの出力が可能なため、オンラインパブリッシングに向けた取り組みの中で注目する動きもある。 特に、CS5.5において、CS5では、EPUB書き出しやHTML書き出しの処理に外部JavaScriptを利用していたのに比べ、C++での内部関数に統合されたほか、アーティクル、オブジェクト書き出し、スタイルマッピングなど、電子出版制作に有効なオブジェクトやプロパティを実装し、これまでの紙ベースでの出版を前提とした組版・レイアウト処理から電子出版へのシフトが顕著となった。 下記記載のリリース時期はアメリカで発売された英語バージョンのもの Adobe InDesign日本語版は、日本でのニーズに合わせて大規模な改修が行われており、ことに日本語特有の多様な文字組みルールを実現している点で、「日本語ローカライズ製品」というよりも「日本市場用製品」といえる製品に仕上がっている。この点において、日本語処理が実用的なレベルになることが遅れたQuark社のQuarkXPressに先んじたため、日本国内でのシェアを伸ばすことができた。なお、2015年10月時点の両者最新版においても、日本語処理の完成度は、InDesignがQuarkXPressにまさっている。 このソフトはOpenTypeフォントの異体字切り替え機能を駆使することで多数の文字種に対応でき、また日本語組版で要求される(それも出版社によって異なる)複雑なルールに対処できるツールとして、従来のDTPソフト(主にQuarkXPressやPage Makerを指す)や、写研などの電算写植システムからの乗り換えが起きている。 日本語を印刷物として版組するためには、禁則処理や文字組みなど、複数のルールが存在する。それらを処理するために、InDesignでは日本語専用のテキストエンジン(組版エンジン)という処理システムを持っており、これは本体のバージョンアップのたびに改良されている。テキストエンジンが変更されれば、同じ文章であっても組み付けが同じになるとは限らないため、出力結果が異なることがありえる。一般的なソフトウェアでは、バージョンアップしても以前のデータがそのまま利用できる上位互換が保証されることが多いが、上記のような理由から、InDesignでは上位バージョンでのデータの読み込みは保証されるが、出力結果が同一であることは保証されていない。下位互換については、通常のinddという拡張子とは異なる専用の形式で保存することで、直近もしくは数世代前までのバージョンでの読み込みのみ保証されるが、やはりレイアウトの同一性については保証されない。 このため、データの作成者と印刷会社で異なるバージョンを使用しているような場合には、当たり前のようにレイアウトの崩れなどの予期しない出力結果が発生することとなる。そのような状況を避けるため、データの作成に際しては印刷会社と製品のバージョンや使用するフォントについて細かい確認をとっておくことが必須となる。バージョンの移行がこのように簡単には行なえないことから、アドビでは製品のバージョンアップ後1年間は、並行して直前のバージョンを利用することができるとしていた。しかしながら、それ以降も以前のバージョンが必要となる可能性が非常に高いため、利用者の中には製品はバージョンアップではなく、その都度新ライセンスで購入し、古いバージョンの製品も使い続けるという方針を取るところも少なくない。6割近いユーザが複数のバージョンを併用しているという調査結果も出ている。 CS6の発売直後である2012年7月から行われたInDesignの利用バージョンの調査では、最も多く利用されているのはCS4であり、以下CS3、CS5と続き最新バージョンのCS6は10%にも満たない6位という報告もある。この調査結果からは、Creative Suiteに含まれる他のアプリケーションと比べて、InDesignの新バージョンへの移行が遅れていることが読み取れるが、背景には上記のような事情があるものと思われる。 CC 2015が発売された後の2015年9月に行なわれた調査では、メインで使用するバージョンとして最新バージョンであるCC 2015の利用率が2位と順位を上げており、同じくアドビの発売するPhotoshop等と同様、InDesignにおいても最新バージョンを利用するユーザが増えたことが伺える。しかしながら、依然として最も利用率が高いのは2012年5月に発売されたCS6であり、CC 2015の利用率の約2倍となっている。また、複数のInDesignのバージョンを併用しているケースで多いのは、2008年12月に発売されたCS4とCS6がほぼ同率となっている。この結果を見ると、この段階においてもInDesignにおける最新バージョンへの移行が遅れているということができる。 CC 2017がリリースされた後の、2016年12月から2017年1月にかけて行われた同じ調査では、以前とは異なる傾向が見られることとなった。この調査で初めて最新バージョンであるCC 2017が、バージョン的には4世代ほど前となるCS6パッケージ版と同率の首位を獲得する結果となった。同時に行なわれた Illustrator や Photoshop 等の他のアドビ製品でも、CC 2017が使用率を上げており、最新バージョンへの移行が比較的早く行なわれる傾向が顕著になってきたと言える。なお、同率首位となったCS6のバージョンが直近でないことについては、このCS6が最後のパッケージ製品となっており、これ以降はサブスクリクション版となっていることが考えられる。つまり、サブスクリクション版への移行を行なっていないユーザが、CS6の使用を続けているということである。これは、同じ調査で検証された、メインとは別に併用するバージョンの調査において、CS6が高い割合となっていることからも推測される。 このような状況下において、公式にはアナウンスはされていなかったものの、プロプライエタリソフトウェアとしてライセンスを1つ所有することで、過去に遡ってすべてのバージョンが使用できるという理解がされていた。しかしながら2019年5月に、ライセンスを所有しているユーザであっても、InDesignであれば最新版であるバージョン14から、最も古いバージョンであっても10までだけが使用可能で、バージョン9以前の製品については、使用を認めないということがアドビより正式にアナウンスされた。 前述のとおり、日本語版のテキストエンジンの互換性の問題があり、InDesignで作成したドキュメントは、作成したものより下位のバージョンのInDesignでは読み込むことができない。下位バージョンのInDesignで読み込むためには、あらかじめドキュメントを下位バージョンでも読み込める、「InDesign Markup」もしくは「InDesign CS4以降」のいずれかのフォーマット(いずれの場合も拡張子は"IDML")で保存し、そのファイルを下位バージョンのInDesignで読み込む必要がある。ただし、この方法で読み込みが可能なのは、InDesignのバージョンがCS4以降に限定される。 なお、Adobe Creative Cloudユーザであれば、クラウド上に保存したドキュメントを読み込む場合に限り、CS6以上のバージョンで読み込みを行うと、自動的に使用しているバージョン用に変換されたものを読み込むことができる。 上記のいずれの場合においても、読み込んだInDesignのバージョン以降に追加になった機能に関しては、変更または省略されて読み込まれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Adobe InDesign(アドビ インデザイン)は、アドビが販売するDTPソフトウェアである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アドビが販売するDTPソフトの名称。元々は紙媒体の印刷物の版下作成のため、文章や画像などのレイアウトを行うページレイアウトソフトと位置づけられていた。しかしながら最近ではデジタル端末の普及に伴い、HTML5コンテンツや音声や動画なども含まれるデジタルコンテンツの作成も行えるように進化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アドビは、以前Adobe PageMakerというDTPソフトを販売していたが、デファクトスタンダードとなった後発のQuarkXPressの牙城を崩すことができなかった。その状況を変えるため、PageMakerでは対応しきれないニーズに応えるため、1999年、自社製品であるAdobe IllustratorやAdobe Photoshopとの強力な連携性を持つInDesignを新たに開発し、投入した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ライバルであるQuarkXPressのMac OS X対応が遅れる中、Mac OS XおよびOpenTypeフォントに完全対応し、高度な組版能力とデザインの自由度を兼ね備えたAdobe InDesignは大いに話題となり、一定のシェアを獲得した。InDesign CS3(5)以降、日本市場のデファクトスタンダードの地位を着々と築きつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "DTPのさきがけとなったPageMakerやInDesignを含め元来はAldus社の製品やプロジェクトであったが、同社との合併により、製品はアドビからリリースされることとなった。当初アドビはAdobe PageMakerをやめてInDesignに移行したわけではなく特徴に応じて使い分けていく、としていたが、InDesign 2.0リリース以降、PageMakerの新規開発は行われず、Mac OS Xに対応したバージョンは開発されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アドビでは既存のAdobe PageMakerユーザ向けにPMDファイルからInDesign CS1(3)へのファイル変換機能やトレーニングソフトなどを含むAdobe InDesign CS1(3) PageMaker Editionという製品も発売していた。InDesign CS3(5)発売にあたり、PageMaker6.0/6.5/7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS3(5)の優待版が販売されていた。優待版とアップグレード版は別々のパッケージで、添付されるシリアル番号が異なる。現在でもPageMaker 7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS5(7)の優待版が販売されている(InDesign CS4(6)についてもかつてはこれと同様に、優待版へのアップグレードパスが用意されていた)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2013年以降、InDesignはAdobe Creative Cloudという、複数のアプリケーションを統合させた協調動作製品の一部である InDesign CC として公開されている。InDesign CCは他のアドビ製デザイン用アプリケーションソフトと同様、プログラムをインターネット経由でダウンロードし、その使用料金を毎月もしくは年単位で支払うことで利用できるサブスクリプション方式で提供されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "グラフィック処理能力が他のDTPソフトよりも強力。他DTPソフトでは画像を挿入する時にはEPS形式やTIFF形式などのデータでなければならない事が多いが、InDesignではIllustratorやPhotoshopのネイティブデータをそのまま表示、出力することができる。これができるのはほかにCorelDRAW(ただしバージョン形式の対応が遅れる、一部条件で変換に失敗することがある)などしかない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リンクだけでなく、それらのデータをドラッグ&ドロップ操作によってInDesignの中に取り込むことも可能。半透明の画像も扱うことができ、ドロップシャドウ処理を施した文字の再編集が容易な点などは、デザイナーの支持を集める要因となっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本語版のCS2(4)・CS3(5)・CS4(6)では「SING外字ソリューション」(外字作成機能)が存在し、Illustratorで作成した自作の外字(グリフレット)を、コンバートソフトのSING Glyphlet Managerで文字として認識させ、InDesignに追加することができるようになっていた。Adobe-Japan1-6規格(2万3058グリフ)のOpenTypeフォントのラインナップの充実やこの最新文字セット規格の定着により、この機能の意義が薄れ、CS5(7)以降はこの機能が削除された。CS5(7)ではCS4(6)で作成した、SING Glyphlet Managerで文字として認識させたファイルの読み込み自体は可能である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "従来、デザイン性の高いレイアウトワークはIllustratorなどで行われることが多かったが、IllustratorはCS5.1(15.1)までのバージョンではページ管理機能を持っていなかったため、複数ページを持つデータの場合には手作業によるページ管理が必要であった。このため制作段階から製版段階に至るまで極めて煩雑でミスを招く原因となっており、そういったレイアウトワークをInDesignで行うことで、手間やミスを減少させることが期待された。なお、IllustratorのCS6(16.0.0)から、ひとつのデータ内で複数のページ(アートボード)を利用することが可能となったため、両ソフトの使い分けに関してユーザの選択により自由度が増している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また単体でPDFとEPUBの出力が可能なため、オンラインパブリッシングに向けた取り組みの中で注目する動きもある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "特に、CS5.5において、CS5では、EPUB書き出しやHTML書き出しの処理に外部JavaScriptを利用していたのに比べ、C++での内部関数に統合されたほか、アーティクル、オブジェクト書き出し、スタイルマッピングなど、電子出版制作に有効なオブジェクトやプロパティを実装し、これまでの紙ベースでの出版を前提とした組版・レイアウト処理から電子出版へのシフトが顕著となった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "下記記載のリリース時期はアメリカで発売された英語バージョンのもの", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Adobe InDesign日本語版は、日本でのニーズに合わせて大規模な改修が行われており、ことに日本語特有の多様な文字組みルールを実現している点で、「日本語ローカライズ製品」というよりも「日本市場用製品」といえる製品に仕上がっている。この点において、日本語処理が実用的なレベルになることが遅れたQuark社のQuarkXPressに先んじたため、日本国内でのシェアを伸ばすことができた。なお、2015年10月時点の両者最新版においても、日本語処理の完成度は、InDesignがQuarkXPressにまさっている。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "このソフトはOpenTypeフォントの異体字切り替え機能を駆使することで多数の文字種に対応でき、また日本語組版で要求される(それも出版社によって異なる)複雑なルールに対処できるツールとして、従来のDTPソフト(主にQuarkXPressやPage Makerを指す)や、写研などの電算写植システムからの乗り換えが起きている。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本語を印刷物として版組するためには、禁則処理や文字組みなど、複数のルールが存在する。それらを処理するために、InDesignでは日本語専用のテキストエンジン(組版エンジン)という処理システムを持っており、これは本体のバージョンアップのたびに改良されている。テキストエンジンが変更されれば、同じ文章であっても組み付けが同じになるとは限らないため、出力結果が異なることがありえる。一般的なソフトウェアでは、バージョンアップしても以前のデータがそのまま利用できる上位互換が保証されることが多いが、上記のような理由から、InDesignでは上位バージョンでのデータの読み込みは保証されるが、出力結果が同一であることは保証されていない。下位互換については、通常のinddという拡張子とは異なる専用の形式で保存することで、直近もしくは数世代前までのバージョンでの読み込みのみ保証されるが、やはりレイアウトの同一性については保証されない。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このため、データの作成者と印刷会社で異なるバージョンを使用しているような場合には、当たり前のようにレイアウトの崩れなどの予期しない出力結果が発生することとなる。そのような状況を避けるため、データの作成に際しては印刷会社と製品のバージョンや使用するフォントについて細かい確認をとっておくことが必須となる。バージョンの移行がこのように簡単には行なえないことから、アドビでは製品のバージョンアップ後1年間は、並行して直前のバージョンを利用することができるとしていた。しかしながら、それ以降も以前のバージョンが必要となる可能性が非常に高いため、利用者の中には製品はバージョンアップではなく、その都度新ライセンスで購入し、古いバージョンの製品も使い続けるという方針を取るところも少なくない。6割近いユーザが複数のバージョンを併用しているという調査結果も出ている。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "CS6の発売直後である2012年7月から行われたInDesignの利用バージョンの調査では、最も多く利用されているのはCS4であり、以下CS3、CS5と続き最新バージョンのCS6は10%にも満たない6位という報告もある。この調査結果からは、Creative Suiteに含まれる他のアプリケーションと比べて、InDesignの新バージョンへの移行が遅れていることが読み取れるが、背景には上記のような事情があるものと思われる。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "CC 2015が発売された後の2015年9月に行なわれた調査では、メインで使用するバージョンとして最新バージョンであるCC 2015の利用率が2位と順位を上げており、同じくアドビの発売するPhotoshop等と同様、InDesignにおいても最新バージョンを利用するユーザが増えたことが伺える。しかしながら、依然として最も利用率が高いのは2012年5月に発売されたCS6であり、CC 2015の利用率の約2倍となっている。また、複数のInDesignのバージョンを併用しているケースで多いのは、2008年12月に発売されたCS4とCS6がほぼ同率となっている。この結果を見ると、この段階においてもInDesignにおける最新バージョンへの移行が遅れているということができる。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "CC 2017がリリースされた後の、2016年12月から2017年1月にかけて行われた同じ調査では、以前とは異なる傾向が見られることとなった。この調査で初めて最新バージョンであるCC 2017が、バージョン的には4世代ほど前となるCS6パッケージ版と同率の首位を獲得する結果となった。同時に行なわれた Illustrator や Photoshop 等の他のアドビ製品でも、CC 2017が使用率を上げており、最新バージョンへの移行が比較的早く行なわれる傾向が顕著になってきたと言える。なお、同率首位となったCS6のバージョンが直近でないことについては、このCS6が最後のパッケージ製品となっており、これ以降はサブスクリクション版となっていることが考えられる。つまり、サブスクリクション版への移行を行なっていないユーザが、CS6の使用を続けているということである。これは、同じ調査で検証された、メインとは別に併用するバージョンの調査において、CS6が高い割合となっていることからも推測される。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このような状況下において、公式にはアナウンスはされていなかったものの、プロプライエタリソフトウェアとしてライセンスを1つ所有することで、過去に遡ってすべてのバージョンが使用できるという理解がされていた。しかしながら2019年5月に、ライセンスを所有しているユーザであっても、InDesignであれば最新版であるバージョン14から、最も古いバージョンであっても10までだけが使用可能で、バージョン9以前の製品については、使用を認めないということがアドビより正式にアナウンスされた。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前述のとおり、日本語版のテキストエンジンの互換性の問題があり、InDesignで作成したドキュメントは、作成したものより下位のバージョンのInDesignでは読み込むことができない。下位バージョンのInDesignで読み込むためには、あらかじめドキュメントを下位バージョンでも読み込める、「InDesign Markup」もしくは「InDesign CS4以降」のいずれかのフォーマット(いずれの場合も拡張子は\"IDML\")で保存し、そのファイルを下位バージョンのInDesignで読み込む必要がある。ただし、この方法で読み込みが可能なのは、InDesignのバージョンがCS4以降に限定される。 なお、Adobe Creative Cloudユーザであれば、クラウド上に保存したドキュメントを読み込む場合に限り、CS6以上のバージョンで読み込みを行うと、自動的に使用しているバージョン用に変換されたものを読み込むことができる。 上記のいずれの場合においても、読み込んだInDesignのバージョン以降に追加になった機能に関しては、変更または省略されて読み込まれる。", "title": "日本語版における下位バージョンとの互換性" } ]
Adobe InDesignは、アドビが販売するDTPソフトウェアである。
{{独自研究|date=2015年6月}} {{Infobox Software | 名称 = Adobe InDesign | ロゴ = [[File:Adobe InDesign CC icon.svg|100px]] | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[アドビ]] | 最新版 = 18.0 | 最新版発表日 = {{release date|2022|10|18}} | 対応OS = [[macOS]]、[[Microsoft Windows|Windows]] | 種別 = [[DTP]] | ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] | 公式サイト = [https://www.adobe.com/jp/products/indesign.html Adobe InDesign] }} '''Adobe InDesign'''(アドビ インデザイン)は、[[アドビ]]が販売する[[DTP]]ソフトウェアである。 == 概要 == [[アドビ]]が販売する[[DTP]]ソフトの名称。元々は紙媒体の印刷物の[[版下]]作成のため、文章や画像などのレイアウトを行うページレイアウトソフトと位置づけられていた。しかしながら最近ではデジタル端末の普及に伴い、[[HTML5]]コンテンツや音声や動画なども含まれるデジタルコンテンツの作成も行えるように進化している。 アドビは、以前[[Adobe PageMaker]]というDTPソフトを販売していたが、[[デファクトスタンダード]]となった後発の[[QuarkXPress]]の牙城を崩すことができなかった。その状況を変えるため、PageMakerでは対応しきれないニーズに応えるため、[[1999年]]、自社製品である[[Adobe Illustrator]]や[[Adobe Photoshop]]との強力な連携性を持つInDesignを新たに開発し、投入した。 ライバルであるQuarkXPressの[[macOS|Mac OS X]]対応が遅れる中、Mac OS Xおよび[[OpenType]]フォントに完全対応し、高度な[[組版]]能力とデザインの自由度を兼ね備えたAdobe InDesignは大いに話題となり、一定のシェアを獲得した。InDesign CS3(5)以降、日本市場のデファクトスタンダードの地位を着々と築きつつある。 DTPのさきがけとなったPageMakerやInDesignを含め元来は[[Aldus]]社の製品やプロジェクトであったが、同社との合併により、製品はアドビからリリースされることとなった。当初アドビはAdobe PageMakerをやめてInDesignに移行したわけではなく特徴に応じて使い分けていく、としていたが、InDesign 2.0リリース以降、PageMakerの新規開発は行われず、Mac OS Xに対応したバージョンは開発されなかった。 アドビでは既存のAdobe PageMakerユーザ向けにPMDファイルからInDesign CS1(3)へのファイル変換機能やトレーニングソフトなどを含むAdobe InDesign CS1(3) PageMaker Editionという製品も発売していた。InDesign CS3(5)発売にあたり、PageMaker6.0/6.5/7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS3(5)の優待版が販売されていた。優待版とアップグレード版は別々のパッケージで、添付されるシリアル番号が異なる。現在でもPageMaker 7.0ユーザー向けに、アップグレード価格でInDesign CS5(7)の優待版が販売されている(InDesign CS4(6)についてもかつてはこれと同様に、優待版へのアップグレードパスが用意されていた)。 [[2013年]]以降、InDesignは[[Adobe Creative Cloud]]という、複数のアプリケーションを統合させた協調動作製品の一部である InDesign CC として公開されている。InDesign CCは他のアドビ製デザイン用アプリケーションソフトと同様、プログラムをインターネット経由でダウンロードし、その使用料金を毎月もしくは年単位で支払うことで利用できるサブスクリプション方式で提供されている。 == 特徴 == グラフィック処理能力が他のDTPソフトよりも強力。他DTPソフトでは画像を挿入する時には[[Encapsulated PostScript|EPS]]形式や[[Tagged Image File Format|TIFF]]形式などのデータでなければならない事が多いが、InDesignではIllustratorやPhotoshopのネイティブデータをそのまま表示、出力することができる。これができるのはほかに[[CorelDRAW]](ただしバージョン形式の対応が遅れる、一部条件で変換に失敗することがある)などしかない。 リンクだけでなく、それらのデータをドラッグ&ドロップ操作によってInDesignの中に取り込むことも可能。半透明の画像も扱うことができ、ドロップシャドウ処理を施した文字の再編集が容易な点などは、[[デザイナー]]の支持を集める要因となっている{{要出典|date=2013年3月}}。 日本語版のCS2(4)・CS3(5)・CS4(6)では「SING外字ソリューション」(外字作成機能)が存在し、Illustratorで作成した自作の外字(グリフレット)を、コンバートソフトのSING Glyphlet Managerで文字として認識させ、InDesignに追加することができるようになっていた。[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-6]]規格(2万3058グリフ)のOpenTypeフォントのラインナップの充実やこの最新文字セット規格の定着により、この機能の意義が薄れ、CS5(7)以降はこの機能が削除された。CS5(7)ではCS4(6)で作成した、SING Glyphlet Managerで文字として認識させたファイルの読み込み自体は可能である。 従来、デザイン性の高いレイアウトワークはIllustratorなどで行われることが多かったが、IllustratorはCS5.1(15.1)までのバージョンではページ管理機能を持っていなかったため、複数ページを持つデータの場合には手作業によるページ管理が必要であった。このため制作段階から[[製版]]段階に至るまで極めて煩雑でミスを招く原因となっており、そういったレイアウトワークをInDesignで行うことで、手間やミスを減少させることが期待された。なお、IllustratorのCS6(16.0.0)から、ひとつのデータ内で複数のページ(アートボード)を利用することが可能となったため、両ソフトの使い分けに関してユーザの選択により自由度が増している。 また単体で[[Portable Document Format|PDF]]と[[EPUB]]の出力が可能なため、オンラインパブリッシングに向けた取り組みの中で注目する動きもある{{要出典|date=2013年3月}}。 特に、CS5.5において、CS5では、[[EPUB]]書き出しや[[HyperText Markup Language|HTML]]書き出しの処理に外部[[JavaScript]]を利用していたのに比べ、C++での内部関数に統合されたほか、アーティクル、オブジェクト書き出し、スタイルマッピングなど、電子出版制作に有効なオブジェクトやプロパティを実装し、これまでの紙ベースでの出版を前提とした組版・レイアウト処理から電子出版へのシフトが顕著となった。 == バージョン == 下記記載のリリース時期はアメリカで発売された英語バージョンのもの * InDesign Ver. 1.0 (コードネーム K2):1999年8月31日<ref>{{Cite web|和書|title=Adobe InDesignが発売20周年を迎えました #InDesign|url=https://blogs.adobe.com/japan/cc-design-20-years-of-adobe-indesign/|website=Adobe Blog|date=2019-08-28|accessdate=2021-02-06|language=ja}}</ref> *InDesign Ver. 1.0J (コードネーム Hotaka):2001年1月26日<ref>{{Cite web|和書|title=InDesign20周年記念オンラインイベント開催! #InDesign #InDesign20周年|url=https://blogs.adobe.com/japan/cc-design-indesign20thevent/|website=Adobe Blog|date=2020-12-17|accessdate=2021-02-06|language=ja}}</ref> * InDesign Ver. 1.5 (コードネーム Sherpa):2001年4月1日 * InDesign Ver. 2.0 (コードネーム Annapurna):2002年1月 * InDesign CS(1) (Ver. 3.0) (コードネーム Dragontail) およびInDesign CS PageMakerエディション:2003年10月 * InDesign CS2 (Ver. 4.0) (コードネーム Firedrake):2005年5月 * InDesign Server:2005年10月 * InDesign CS3 (Ver. 5.0) (コードネーム Cobalt):2007年4月 * InDesign CS3 Server:2007年5月 * InDesign CS4 (Ver. 6.0) :2008年12月 * InDesign CS5 (Ver. 7.0) :2010年5月<ref group="注釈">英語版のダウンロード版は同年4月30日(米国時間)に先行発売された。</ref> * InDesign CS5.5 (Ver. 7.5) :2011年5月 * InDesign CS6 (Ver. 8.0) :2012年5月 * InDesign CC (Ver. 9.0) :2013年6月 * InDesign CC 2014 (Ver. 10.0) :2014年6月 * InDesign CC 2015 (Ver. 11.0) :2015年6月 * InDesign CC 2017 (Ver. 12.0) :2016年11月 * InDesign CC 2018.1 (Ver. 13.0): 2017年10月 * InDesign CC 2019 (Ver. 14.0): 2018年10月 * InDesign 2020 (Ver. 15.0): 2019年11月 * InDesign 2021 (Ver. 16.0): 2020年10月 *InDesign 2022 (Ver. 17.0): 2021年10月 *InDesign 2023 (Ver. 18.0): 2022年10月 == 日本語版 == {{独自研究|section=1|date=2021年9月}} Adobe InDesign日本語版は、{{要出典範囲|日本でのニーズに合わせて大規模な改修が行われており、ことに日本語特有の多様な文字組みルールを実現している|date=2021年9月}}点で、{{独自研究範囲|date=2021年9月|「日本語ローカライズ製品」というよりも「日本市場用製品」といえる製品に仕上がっている}}。{{要出典範囲|この点において、日本語処理が実用的なレベルになることが遅れたQuark社のQuarkXPressに先んじたため、日本国内でのシェアを伸ばすことができた|date=2021年9月}}。{{独自研究範囲|date=2021年9月|なお、2015年10月時点の両者最新版においても、日本語処理の完成度は、InDesignがQuarkXPressにまさっている}}。 {{See|QuarkXPress#日本語版の機能}} このソフトはOpenTypeフォントの[[異体字]]切り替え機能を駆使することで多数の文字種に対応でき、また日本語組版で要求される(それも出版社によって異なる)複雑なルールに対処できるツールとして、従来のDTPソフト(主に[[QuarkXPress]]や[[Adobe PageMaker|Page Maker]]を指す)や、[[写研]]などの[[電算写植]]システムからの乗り換えが起きている。 日本語を印刷物として版組するためには、[[禁則処理]]や文字組みなど、複数のルールが存在する。それらを処理するために、InDesignでは日本語専用のテキストエンジン(組版エンジン)という処理システムを持っており、これは本体のバージョンアップのたびに改良されている。テキストエンジンが変更されれば、同じ文章であっても組み付けが同じになるとは限らないため、出力結果が異なることがありえる。一般的なソフトウェアでは、バージョンアップしても以前のデータがそのまま利用できる[[上位互換]]が保証されることが多いが、上記のような理由から、InDesignでは上位バージョンでのデータの読み込みは保証されるが、出力結果が同一であることは保証されていない。[[下位互換]]については、通常のinddという拡張子とは異なる専用の形式で保存することで、直近もしくは数世代前までのバージョンでの読み込みのみ保証されるが<ref>[http://www.dtp-transit.jp/adobe/indesign/post_1545.html DTP Transit「InDesignのファイル互換 (CS3-CS6)」]</ref>、やはりレイアウトの同一性については保証されない。 このため、データの作成者と印刷会社で異なるバージョンを使用しているような場合には、当たり前のようにレイアウトの崩れなどの予期しない出力結果が発生することとなる。そのような状況を避けるため、データの作成に際しては印刷会社と製品のバージョンや使用するフォントについて細かい確認をとっておくことが必須となる。バージョンの移行がこのように簡単には行なえないことから、アドビでは製品のバージョンアップ後1年間は、並行して直前のバージョンを利用することができるとしていた。しかしながら、それ以降も以前のバージョンが必要となる可能性が非常に高いため、利用者の中には製品はバージョンアップではなく、その都度新ライセンスで購入し、古いバージョンの製品も使い続けるという方針を取るところも少なくない。6割近いユーザが複数のバージョンを併用しているという調査結果も出ている<ref name="名前なし-1">[http://blog.ddc.co.jp/mt/news/archives/20151014-142108.html 株式会社吉田印刷所「Adobeのデザイン用アプリで使用されているバージョン・Creative Cloud関連サービスについてのユーザーアンケート」]</ref>。 CS6の発売直後である2012年7月から行われたInDesignの利用バージョンの調査では、最も多く利用されているのはCS4であり、以下CS3、CS5と続き最新バージョンのCS6は10%にも満たない6位という報告もある<ref>[http://blog.ddc.co.jp/mt/news/archives/20120820-111500.html 株式会社吉田印刷所「DTP・デザインでよく使用するソフトのバージョン」アンケート結果]</ref>。この調査結果からは、Creative Suiteに含まれる他のアプリケーションと比べて、InDesignの新バージョンへの移行が遅れていることが読み取れるが、背景には上記のような事情があるものと思われる{{要出典|date=2013年3月}}。 CC 2015が発売された後の2015年9月に行なわれた調査では、メインで使用するバージョンとして最新バージョンであるCC 2015の利用率が2位と順位を上げており、同じくアドビの発売するPhotoshop等と同様、InDesignにおいても最新バージョンを利用するユーザが増えたことが伺える。しかしながら、依然として最も利用率が高いのは2012年5月に発売されたCS6であり、CC 2015の利用率の約2倍となっている。また、複数のInDesignのバージョンを併用しているケースで多いのは、2008年12月に発売されたCS4とCS6がほぼ同率となっている。この結果を見ると、この段階においてもInDesignにおける最新バージョンへの移行が遅れているということができる<ref name="名前なし-1"/>。 CC 2017がリリースされた後の、2016年12月から2017年1月にかけて行われた同じ調査では、以前とは異なる傾向が見られることとなった。この調査で初めて最新バージョンであるCC 2017が、バージョン的には4世代ほど前となるCS6パッケージ版と同率の首位を獲得する結果となった。同時に行なわれた Illustrator や Photoshop 等の他のアドビ製品でも、CC 2017が使用率を上げており、最新バージョンへの移行が比較的早く行なわれる傾向が顕著になってきたと言える。なお、同率首位となったCS6のバージョンが直近でないことについては、このCS6が最後のパッケージ製品となっており、これ以降はサブスクリクション版となっていることが考えられる。つまり、サブスクリクション版への移行を行なっていないユーザが、CS6の使用を続けているということである。これは、同じ調査で検証された、メインとは別に併用するバージョンの調査において、CS6が高い割合となっていることからも推測される<ref>[https://www.ddc.co.jp/news/archives/20170123-134000.html 株式会社吉田印刷所「【アンケート結果】デザイナーが使用しているAdobeのデザイン用アプリのバージョン、Creative Cloudの使用状況について(2016年12月~2017年1月調査)」]</ref>。 このような状況下において、公式にはアナウンスはされていなかったものの、[[プロプライエタリソフトウェア]]としてライセンスを1つ所有することで、過去に遡ってすべてのバージョンが使用できるという理解がされていた。しかしながら2019年5月に、ライセンスを所有しているユーザであっても、InDesignであれば最新版であるバージョン14から、最も古いバージョンであっても10までだけが使用可能で、バージョン9以前の製品については、使用を認めないということがアドビより正式にアナウンスされた。 == 日本語版における下位バージョンとの互換性 == 前述のとおり、日本語版のテキストエンジンの互換性の問題があり、InDesignで作成したドキュメントは、作成したものより下位のバージョンのInDesignでは読み込むことができない。下位バージョンのInDesignで読み込むためには、あらかじめドキュメントを下位バージョンでも読み込める、「InDesign Markup」もしくは「InDesign CS4以降」のいずれかのフォーマット(いずれの場合も拡張子は"IDML")で保存し、そのファイルを下位バージョンのInDesignで読み込む必要がある。ただし、この方法で読み込みが可能なのは、InDesignのバージョンがCS4以降に限定される。 なお、[[Adobe Creative Cloud]]ユーザであれば、クラウド上に保存したドキュメントを読み込む場合に限り、CS6以上のバージョンで読み込みを行うと、自動的に使用しているバージョン用に変換されたものを読み込むことができる。 上記のいずれの場合においても、読み込んだInDesignのバージョン以降に追加になった機能に関しては、変更または省略されて読み込まれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[Adobe Photoshop]] * [[Adobe Illustrator]] * [[Adobe Acrobat]] * [[CorelDRAW]] * [[PostScript]] * [[Adobe PageMaker]] * [[Adobe FrameMaker]] == 外部リンク == * [https://www.adobe.com/jp/products/indesign.html Adobe InDesign] * [https://spicy-inc.jp/ スパイシーソフト] - InDesignの自動組版 {{Adobe CS}} {{DEFAULTSORT:Adobe InDesign}} [[Category:アドビのソフトウェア|InDesign]] [[Category:DTPソフト]] [[Category:DTP]] [[Category:PDFソフト]] [[Category:グラフィックデザイン]] [[Category:MacOSのソフトウェア]] [[Category:1999年のソフトウェア|InDesign]]
2003-08-21T06:38:09Z
2023-09-23T10:58:09Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:独自研究", "Template:要出典", "Template:独自研究範囲", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Infobox Software", "Template:要出典範囲", "Template:See", "Template:Reflist", "Template:Adobe CS" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Adobe_InDesign
13,670
甲斐国
甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の山梨県に相当する。 7世紀に成立した。律令制下では東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、本居宣長は『古事記伝』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している萩原元克の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。 近代には橋本進吉が『上代特殊仮名遣』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している。 日本列島における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。考古学的には4世紀後半に甲府盆地南縁に東海地方経由で畿内色の影響を受けた甲斐国造墓と見られる甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が立地しており、中央のヤマト王権の東国における進出拠点になっている。古代には支配の中心地が盆地東部の東郡地域へ移る。神護景雲2年(762年)に全国から9人の善行の人が選ばれ孝養を受賞理由にして税を免ぜられた者の中に八代郡の小谷直五百依の名が見られる。 平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出する。中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。 室町時代には鎌倉府の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏が没落し、争乱状態となる。 戦国時代には武田氏が国人勢力を征圧して戦国大名化し、信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代期には拡大領国における本国となり、信虎期に開創された甲府が城下町として整備され、政治的・経済的中心地となる。 織田・徳川勢力による武田氏滅亡後は領主変遷が激しく、織田信長の家臣河尻秀隆らによる一時的な統治、信長が横死した本能寺の変後の政治的空白では徳川氏・北条氏が武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。豊臣政権時代には関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線となり、羽柴・加藤・浅野氏など豊臣系大名が配置された。 江戸時代には東海道や中山道とともに甲州街道が整備された。そして甲斐は江戸幕府の政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられ、甲府藩が成立し徳川一族や譜代大名による統治が行われた。享保年間には幕府直轄領化され甲府町方は甲府勤番による支配、在方は三分代官支配となり、幕末に至った。 甲斐国の国府は、『和名類聚抄』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市御坂町国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。 一方、山梨郡域にあたる笛吹市春日居町国府(こう、旧東八代郡岡部村)には古代寺院の寺本廃寺があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の萩原元克『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には木下良が方六町の国府域を想定している。 初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、広瀬広一、上野晴朗らの提唱した甲斐国分寺・国分尼寺のある笛吹市一宮町国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。 しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、坂本美夫は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。 未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎が躑躅ヶ崎館を建造してからである。 甲府盆地の国中地方 東部の郡内地方 管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。 東国において国郡制の整備は大化の改新の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では甲斐国造が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に加牟那塚古墳を盟主とする盆地北西部勢力と姥塚古墳を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に春日居古墳群を築き寺本廃寺などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では国造に次ぐ有力豪族が立評に携わっていたと考えられている。 国衙所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は渡来人勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を武蔵国・相模国と接し、相武国造の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、信濃国と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。 奈良時代の甲斐国司は13名が確認され、『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている。 甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の瑞祥記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。 甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている。甲斐国では古代に三御牧が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は甲斐の黒駒伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている。 田辺史氏は馬匹生産に関わる河内国安宿郡資母郷(大阪府柏原市)を本貫地とする渡来系豪族で、広足の甲斐守任官の背景。甲斐国では、広足以降の甲斐国司に馬史比奈麻呂や山口忌寸沙弥麻呂や坂上大忌苅田麻呂らの渡来系氏族出自の甲斐国司がおり、馬史比奈麻呂は田辺史氏と同じく馬匹生産に関わる馬史氏の出自である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の山梨県に相当する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "7世紀に成立した。律令制下では東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、本居宣長は『古事記伝』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している萩原元克の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。", "title": "「甲斐」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近代には橋本進吉が『上代特殊仮名遣』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している。", "title": "「甲斐」の名称と由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本列島における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。考古学的には4世紀後半に甲府盆地南縁に東海地方経由で畿内色の影響を受けた甲斐国造墓と見られる甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が立地しており、中央のヤマト王権の東国における進出拠点になっている。古代には支配の中心地が盆地東部の東郡地域へ移る。神護景雲2年(762年)に全国から9人の善行の人が選ばれ孝養を受賞理由にして税を免ぜられた者の中に八代郡の小谷直五百依の名が見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出する。中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "室町時代には鎌倉府の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏が没落し、争乱状態となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "戦国時代には武田氏が国人勢力を征圧して戦国大名化し、信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代期には拡大領国における本国となり、信虎期に開創された甲府が城下町として整備され、政治的・経済的中心地となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "織田・徳川勢力による武田氏滅亡後は領主変遷が激しく、織田信長の家臣河尻秀隆らによる一時的な統治、信長が横死した本能寺の変後の政治的空白では徳川氏・北条氏が武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。豊臣政権時代には関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線となり、羽柴・加藤・浅野氏など豊臣系大名が配置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "江戸時代には東海道や中山道とともに甲州街道が整備された。そして甲斐は江戸幕府の政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられ、甲府藩が成立し徳川一族や譜代大名による統治が行われた。享保年間には幕府直轄領化され甲府町方は甲府勤番による支配、在方は三分代官支配となり、幕末に至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "甲斐国の国府は、『和名類聚抄』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市御坂町国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、山梨郡域にあたる笛吹市春日居町国府(こう、旧東八代郡岡部村)には古代寺院の寺本廃寺があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の萩原元克『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には木下良が方六町の国府域を想定している。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、広瀬広一、上野晴朗らの提唱した甲斐国分寺・国分尼寺のある笛吹市一宮町国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、坂本美夫は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎が躑躅ヶ崎館を建造してからである。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "甲府盆地の国中地方", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東部の郡内地方", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東国において国郡制の整備は大化の改新の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では甲斐国造が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に加牟那塚古墳を盟主とする盆地北西部勢力と姥塚古墳を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に春日居古墳群を築き寺本廃寺などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では国造に次ぐ有力豪族が立評に携わっていたと考えられている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国衙所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は渡来人勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を武蔵国・相模国と接し、相武国造の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、信濃国と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "奈良時代の甲斐国司は13名が確認され、『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の瑞祥記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている。甲斐国では古代に三御牧が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は甲斐の黒駒伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "田辺史氏は馬匹生産に関わる河内国安宿郡資母郷(大阪府柏原市)を本貫地とする渡来系豪族で、広足の甲斐守任官の背景。甲斐国では、広足以降の甲斐国司に馬史比奈麻呂や山口忌寸沙弥麻呂や坂上大忌苅田麻呂らの渡来系氏族出自の甲斐国司がおり、馬史比奈麻呂は田辺史氏と同じく馬匹生産に関わる馬史氏の出自である。", "title": "人物" } ]
甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の山梨県に相当する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 甲斐国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|甲斐国}} |別称 = 甲州(こうしゅう) |所属 = [[東海道]] |領域 = [[山梨県]] |国力 = [[上国]] |距離 = [[中国 (令制国)|中国]] |郡 = 4郡31郷 |国府 = (推定)山梨県[[笛吹市]]内の3ヶ所 |国分寺 = 山梨県笛吹市([[甲斐国分寺跡]]) |国分尼寺 = 山梨県笛吹市([[甲斐国分尼寺跡]]) |一宮 = [[浅間神社 (笛吹市)|浅間神社]](山梨県笛吹市) }} '''甲斐国'''(かいのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属し、現在の[[山梨県]]に相当する。 == 「甲斐」の名称と由来 == {{Vertical_images_list |幅= 250px | 1=Kai-Choshizuka-kofun №1.JPG | 2=甲斐銚子塚古墳 | 3=Sakaorimiya zenkei.jpg | 4=酒折宮 }} [[7世紀]]に成立した。[[律令制]]下では東海道に属し、[[駿河国]]から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、[[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している[[萩原元克]]の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。 近代には[[橋本進吉]]が『[[上代特殊仮名遣]]』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は[[平川南]]が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している<ref>[[平川南]]「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、[[山梨県立博物館]])、p.12</ref>。 == 歴史 == [[日本列島]]における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。考古学的には4世紀後半に[[甲府盆地]]南縁に東海地方経由で畿内色の影響を受けた[[甲斐国造]]墓と見られる[[甲斐銚子塚古墳]]を代表とする大型古墳が立地しており、中央の[[ヤマト王権]]の東国における進出拠点になっている。古代には支配の中心地が盆地東部の東郡地域へ移る。[[神護景雲]]2年(762年)に全国から9人の善行の人が選ばれ孝養を受賞理由にして税を免ぜられた者の中に[[八代郡]]の[[小谷直五百依]]の名が見られる。 === 平安時代 === [[平安時代]]には[[出土文字資料]]にも甲斐国名が出現し、[[甲府市]]横根町の[[大坪遺跡]]では「甲斐国山梨郡表門」、[[南アルプス市]]百々(旧[[中巨摩郡]][[白根町]])の[[百々遺跡]]では「甲斐」の[[墨書土器]]が出土している。平安後期には[[甲斐源氏]]が盆地各地へ進出する。中世には京都と関東([[鎌倉]])の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。 === 室町時代 === [[室町時代]]には[[鎌倉府]]の影響下にあったが、[[上杉禅秀の乱]]を契機に守護[[武田氏]]が没落し、争乱状態となる。 === 戦国時代 === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[武田氏]]が国人勢力を征圧して[[戦国大名]]化し、[[武田信虎|信虎]]・[[武田信玄|晴信]](信玄)・[[武田勝頼|勝頼]]の三代期には拡大領国における本国となり、信虎期に開創された[[甲府]]が城下町として整備され、政治的・経済的中心地となる。 === 安土桃山時代 === 織田・徳川勢力による[[武田氏]]滅亡後は領主変遷が激しく、[[織田信長]]の家臣[[河尻秀隆]]らによる一時的な統治、信長が横死した[[本能寺の変]]後の[[権力の真空|政治的空白]]では[[徳川氏]]・[[後北条氏|北条氏]]が武田遺領を巡り[[天正壬午の乱]]が発生する。[[豊臣政権]]時代には関東8か国を領した[[徳川家康]]に備えた最前線となり、[[羽柴氏|羽柴]]・[[加藤氏|加藤]]・[[浅野氏]]など豊臣系大名が配置された。 === 江戸時代 === {{main|甲府藩}} [[江戸時代]]には[[東海道]]や[[中山道]]とともに[[甲州街道]]が整備された。そして甲斐は[[江戸幕府]]の政治的・経済的中心地である[[江戸]]防衛の戦略正面と位置付けられ、[[甲府藩]]が成立し徳川一族や譜代大名による統治が行われた。[[享保]]年間には[[幕府直轄領]]化され甲府町方は[[甲府勤番]]による支配、在方は三分[[代官]]支配となり、幕末に至った。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が[[天領|幕府領]]であった。管轄は以下の通り。(773村・311,097石余) ** [[山梨郡]](146村・78,992石余) - 甲府町奉行、[[甲府代官所]]、市川代官所、石和代官所、[[田安徳川家]]領 ** [[八代郡 (甲斐国)|八代郡]](183村・68,014石余) - 市川代官所、石和代官所、田安徳川家領 ** [[巨摩郡]](337村・142,620石余) - 甲府代官所、市川代官所、田安徳川家領 ** [[都留郡]](107村・21,470石余) - 石和代官所 * [[慶応]]4年 ** 5月 - 甲府町奉行が廃止され、甲府総町は甲府町差配の管轄となる。 ** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]]([[1868年]][[7月13日]]) - 田安徳川家が立藩して'''[[田安徳川家|田安藩]]'''となる。 ** [[9月4日 (旧暦)|9月4日]](1868年[[10月19日]]) - 甲府代官所・石和代官所・市川代官所の管轄地がそれぞれ'''[[府中県]]'''・'''[[石和県]]'''・'''[[市川県]]'''の管轄となる。 ** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1868年[[12月11日]]) - 田安藩領を除く全域が'''[[甲斐府]]'''の管轄となる。 * 明治2年 ** [[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1869年]][[8月27日]]) - 甲斐府が'''[[甲府県]]'''に改称。 ** [[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1870年]][[1月27日]]) - 田安藩が廃藩となり、翌年にかけて領地が甲府県の管轄となる。 * 明治3年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1871年]][[1月10日]]) - 甲府県が'''[[山梨県]]'''に改称。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[Image:Kai Kokuga government ruins.jpg|200px|thumb|後期国府推定地に建つ石碑と[[道祖神]]<br>(笛吹市御坂町国衙、{{Coord|35|38|13.78|N|138|39|14.86|E|region:JP-19_type:landmark|name=後期国府推定地}})]] 甲斐国の[[国府]]は、『[[和名類聚抄]]』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市[[御坂町]]国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。 一方、[[山梨郡]]域にあたる[[笛吹市]][[春日居町]]国府(こう、旧[[東八代郡]][[岡部村]])には古代寺院の[[寺本廃寺]]があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の[[萩原元克]]『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には[[木下良]]が方六町の国府域を想定している。 初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、[[広瀬広一]]、[[上野晴朗]]らの提唱した[[甲斐国分寺]]・[[甲斐国分尼寺跡|国分尼寺]]のある笛吹市[[一宮町 (山梨県)|一宮町]]国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。 しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、[[坂本美夫]]は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。 === 国分寺・国分尼寺 === * [[甲斐国分寺跡]] ([[笛吹市]]一宮町国分、{{Coord|35|38|17.44|N|138|41|00.83|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国分寺跡}}) :: 国の史跡。南西に後継の[[甲斐国分寺|護国山国分寺]](笛吹市一宮町国分、{{Coord|35|38|11.36|N|138|40|52.58|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国分寺(後継寺院)}})が所在。 * [[甲斐国分尼寺跡]] (笛吹市一宮町東原、{{Coord|35|38|35.54|N|138|41|01.73|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国分寺尼跡}}) :: 国の史跡。後継はない。 === 神社 === [[ファイル:Ichinomiya asama-jinja.jpg|250px|thumb|笛吹市の浅間神社]] ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小19座19社の計20座20社が記載されている([[甲斐国の式内社一覧]]参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。 * [[八代郡]] [[浅間神社#甲斐国|浅間神社]] - 以下3論社がある ** [[浅間神社 (笛吹市)|浅間神社]] (笛吹市、{{Coord|35|38|51.93|N|138|41|50.79|E|region:JP-19_type:landmark|name=名神大社論社、甲斐国一宮:浅間神社}}) ** [[河口浅間神社]] ([[富士河口湖町|南都留郡富士河口湖町]]、{{Coord|35|31|51.84|N|138|46|29.87|E|region:JP-19_type:landmark|name=名神大社論社:河口浅間神社}}) ** [[一宮浅間神社]] ([[三郷町|西八代郡市川三郷町]]) - 参考地 ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 ** [[甲斐奈神社#甲斐奈神社 (笛吹市春日居町国府)|甲斐奈神社]] (笛吹市春日居町国府、{{Coord|35|39|39.65|N|138|39|03.69|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国総社論社、甲斐国四宮:甲斐奈神社}}) - 四宮に同じ。元々の総社か ** [[甲斐奈神社#甲斐奈神社 (笛吹市一宮町橋立)|甲斐奈神社]] (笛吹市一宮町橋立、{{Coord|35|38|50.33|N|138|40|45.71|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国総社論社:甲斐奈神社}}) - 元々の総社か ** [[八幡神社 (甲府市宮前町)|府中八幡宮]] (甲府市、{{Coord|35|40|28.92|N|138|34|32.04|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国総社後継社:府中八幡宮}}) - 武田氏が創建し、機能が移された * 一宮:[[浅間神社 (笛吹市)|浅間神社]] (笛吹市) - 但し直接示す史料は中世にはなく、初見は[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]])の史料になる * 二宮:[[美和神社 (笛吹市)|美和神社]] (笛吹市御坂町、{{Coord|35|37|47.51|N|138|39|11.73|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国二宮:美和神社}}) * 三宮:[[玉諸神社#玉諸神社 (甲府市)|玉諸神社]] (甲府市、{{Coord|35|39|10.35|N|138|35|54.19|E|region:JP-19_type:landmark|name=甲斐国三宮:玉諸神社}}) * 四宮:[[甲斐奈神社#甲斐奈神社 (笛吹市春日居町国府)|甲斐奈神社]] (笛吹市春日居町国府) - 総社論社に同じ <!--一宮から四宮はいずれも、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[武田氏]]によって整備されたものである。:要出典--> === 守護所 === 未詳だが、[[鎌倉時代|鎌倉]]末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、[[永正]]16年([[1519年]])に[[武田信虎]]が[[躑躅ヶ崎館]]を建造してからである。 == 地域 == === 郡 === 甲府盆地の国中地方 * [[山梨郡]] * [[八代郡 (甲斐国)|八代郡]] * [[巨摩郡]] 東部の郡内地方 * [[都留郡]] 管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。 東国において[[国郡制]]の整備は[[大化の改新]]の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では[[甲斐国造]]が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に[[加牟那塚古墳]]を盟主とする盆地北西部勢力と[[姥塚古墳]]を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に[[春日居古墳群]]を築き[[寺本廃寺]]などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では[[国造]]に次ぐ有力[[豪族]]が立評に携わっていたと考えられている。 [[国衙]]所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は[[渡来人]]勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を[[武蔵国]]・[[相模国]]と接し、[[相武国造]]の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、[[信濃国]]と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。 == 人物 == === 国司 === ==== 奈良時代 ==== 奈良時代の甲斐[[国司]]は13名が確認され、『[[続日本紀]]』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている<ref>奈良時代の甲斐国司については、原正人「奈良時代の甲斐国司-その性格と任官の動向をめぐって-」『山梨県史研究』(第三号、1995年3月)、同「奈良時代の甲斐国司」『[[山梨県史]]』通史編1原始・古代(2004)</ref>。 * 田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』) 甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の[[瑞祥]]記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという<ref>『続日本紀』該当部は『山梨県史』資料編3原始・古代(文献・文字史料 - 史料31)所載、以下古代甲斐国に関する文献資料は同書に所載。</ref>。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。 甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている<ref>原 1995</ref>。甲斐国では古代に[[甲斐の三御牧|三御牧]]が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は[[甲斐の黒駒]]伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている<ref>原 1995、広足の神馬貢献の政治的意志については原文献のほか、[[磯貝正義]]「古代官牧制の研究-甲斐の御牧を中心に-」『郡司及び采女制度の研究』(吉川弘文館、1978)</ref>。 田辺史氏は馬匹生産に関わる[[河内国]][[安宿郡]]資母郷([[大阪府]][[柏原市]])を本貫地とする[[渡来人|渡来系豪族]]で、広足の甲斐守任官の背景。甲斐国では、広足以降の甲斐国司に馬史比奈麻呂や山口忌寸沙弥麻呂や坂上大忌苅田麻呂らの渡来系氏族出自の甲斐国司がおり、馬史比奈麻呂は田辺史氏と同じく馬匹生産に関わる馬史氏の出自である。 * 丹比間人乙万呂(天平10年4月か、『[[正倉院文書]]』) * 馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』以下も同じ) * 山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日) * 坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日) * 豊国真人秋篠(宝亀元年9月16日) * 粟田朝臣鷹守(宝亀3年4月20日) * 山上朝臣船主(宝亀9年3月10日) * 藤原朝臣内麻呂(延暦元年閏正月17日) * 紀朝臣豊庭(延暦3年4月30日) * 大伴王(延暦8年3月16日) * 橘朝臣安麻呂(延暦10年7月4日 ==== 平安以降 ==== * [[藤原内麻呂]]([[782年]]〈天応2年〉- ?)[[従五位下]] * [[文室秋津]]([[817年]]〈弘仁8年〉- ?)[[従五位下]] * [[源頼信]]([[1029年]]〈長元2年〉- [[1032年]]〈長元5年〉2月8日)[[従四位下]] === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * ? - 元徳3年/元弘元年([[1331年]]) : 武田三郎([[武田政義|政義]]?) ==== 室町幕府 ==== * 光明3年/延元元年([[1336年]]) - ? : [[武田政義]] * 観応2年/正平6年([[1351年]]) - 延文4年/正平14年(1359年)? : [[武田信武]] * 延文4年/正平14年([[1359年]]) - 応安元年/正平23年(1368年) : [[武田信成]]{{Efn|信武の死後、(信成を飛ばす形で)足利尊氏近習出身の孫の信春が甲斐守護に任じられたとする西川広平の説がある<ref>西川広平「南北朝期 安芸・甲斐武田家の成立過程について」(初出:中央大学文学部『紀要』史学65(2020年)/所収:西川広平 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三二巻 甲斐源氏一族』(戎光祥出版、2021年) ISBN 978-4-86403-398-5)P313-314.</ref>。}} * 応安6年/文中2年([[1373年]]) - 至徳2年/元中2年(1385年) : [[武田信春]] * ? - 応永24年([[1417年]]) - [[武田信満]] * 応永25年(1418年)- 応永26年([[1419年]]) : [[武田信元]] * 応永30年(1423年)- 宝徳2年([[1450年]]) : [[武田信重]] * 宝徳2年(1450年)- 康正元年([[1455年]]) : [[武田信守]] * 康正元年(1455年)- 文正元年([[1466年]]) : [[武田信昌]] * 明応3年(1494年)- 永正4年([[1507年]]) : [[武田信縄]] * 永正4年(1507年)- 天文10年([[1541年]]) : [[武田信虎]] * 天文10年(1541年)- 天正元年([[1573年]]) : [[武田信玄|武田晴信]](信玄) === 戦国時代 === ==== 戦国大名 ==== * [[武田氏]] : [[武田信玄]]の全盛期には、甲斐一国のほか、[[信濃国|信濃]]、[[駿河国|駿河]]、西[[上野国|上野]]、[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[越中国|越中]]の一部を領した。[[元亀]]4年([[1573年]])、[[武田勝頼]]が[[武田氏]]を継ぐ。[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信長]]の侵攻により、戦国大名[[武田氏]]が滅亡。 ** [[小山田氏#小山田氏 (平姓)|小山田氏]] : 甲斐東部の郡内地方を領した国人領主。1582年滅亡。 ** [[穴山氏]] : 武田氏庶流にあたり、河内地方(現在の西八代郡、南巨摩郡一体)を領した国人領主。宗家滅亡後も徳川氏麾下の大名として残った ==== 織豊政権の大名 ==== * [[穴山信君|穴山梅雪]]・[[穴山勝千代|勝千代]] : 河内下山(巨摩郡)、1582年 - 1587年。武田氏の庶流であるが、信長侵攻の際に信長方に加担し、本領を安堵された。1587年、勝千代が16歳で死亡し断絶。[[徳川家康]]は五男の[[武田信吉|松平信吉]]に穴山氏の名跡を継承させ、武田七郎信義と名乗らせたが、1603年無嗣断絶となった。 * [[河尻秀隆]] : 梅雪の河内領を除く甲斐一国と信濃諏訪領22万石、1582年 - 1582年。[[本能寺の変]]の後の国人一揆に巻き込まれて死亡。 * [[徳川家康]] : 1582年 - 1590年。本能寺の変の後発生した[[天正壬午の乱]]に勝利し、甲斐を自領とした。1590年、江戸に移封 ** [[鳥居元忠]] : [[谷村城]]、1582年 - 1590年(家康の関東移封に伴い、下総[[矢作藩|矢作]]4万石に移封) * [[豊臣秀勝]] : 甲斐・信濃2カ国、1590年 - 1591年(美濃移封) * [[加藤光泰]] : 甲斐一国24万石([[甲府城]])、1591年 - 1593年(朝鮮出兵中に死亡。嫡子の[[加藤貞泰]]は美濃[[黒野藩|黒野]]に移封) * [[浅野長政]]・[[浅野幸長|幸長]] : 甲斐一国21万5千石(甲府城)、1593年 - 1600年([[関ヶ原の戦い]]後、[[紀州藩]]37万6千石に移封) === 武家官位としての甲斐守 === * [[武田信武]] 安芸守護・甲斐守護 *[[小早川実義]]甲斐守 * [[日高守喜]] * [[毛利広包]] * [[荒川義広]] * [[速水守久]] ==== 江戸時代 ==== *[[筑前国]][[秋月藩]]主家[[黒田氏]] ** [[黒田長興]] 従五位下 筑前国秋月藩第初代藩主。 ** [[黒田長重]] 従五位下 筑前国秋月藩第2代藩主。 ** [[黒田長貞]] 従五位下 筑前国秋月藩第4代藩主。 ** [[黒田長邦]] 従五位下 筑前国秋月藩第5代藩主。 ** [[黒田長恵]] 従五位下 筑前国秋月藩第6代藩主。 ** [[黒田長舒]] 従五位下 筑前国秋月藩第8代藩主。 ** [[黒田長韶]] 従五位下 筑前国秋月藩第9代藩主。 ** [[黒田長義]] 従五位下 筑前国秋月藩第11代藩主。 ** [[黒田長徳]] 従五位下 筑前国秋月藩第12代藩主。 *[[長門国]][[長府藩]]主家[[毛利氏]] ** [[毛利秀元]] ** [[毛利綱元]] ** [[毛利匡広]] ** [[毛利重就|毛利匡敬(のち重就)]] ** [[毛利匡芳]] ** [[毛利元義]] ** [[毛利元運]] *その他 ** [[黒田長政]](1589年- 1603年〈慶長8年〉)[[従五位|従五位下]] 筑前[[福岡藩]]初代藩主。 ** [[松平忠良]] 従五位下 美濃[[大垣藩]]初代藩主。 ** [[南部利義]] 従四位下 [[陸奥国]][[盛岡藩]]主 ** [[山崎家治]] 従五位下 ** [[立花種吉]] 従五位下 [[旗本]] 幕府[[小姓]] ** [[徳山貞明]] 従五位下 旗本 幕府小姓、[[徒頭]]、御先手鉄砲頭 == 脚注 == === 注釈 === {{脚注ヘルプ}} {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 19 山梨県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Kai Province}} * [[令制国一覧]] * [[甲府市]]/[[甲斐市]]/[[甲州市]] * [[甲斐国の仏教]] * [[甲斐源氏]] * [[甲斐犬]] * [[甲州八珍果]] {{令制国一覧}} {{甲斐国の郡}} {{デフォルトソート:かいのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国かい]] [[Category:山梨県の歴史]] [[Category:甲斐国|*]]
2003-08-21T07:35:43Z
2023-12-29T12:56:08Z
false
false
false
[ "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Vertical images list", "Template:Main", "Template:座標一覧", "Template:Coord", "Template:Efn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:甲斐国の郡", "Template:基礎情報 令制国", "Template:Commonscat", "Template:令制国一覧" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD
13,671
QuarkXPress
QuarkXPress (クォーク・エクスプレス)は、Quark社の販売しているDTPソフトウェアで、同社の代表的製品。かつてMac OS 9の時代、MacintoshによるDTPのデファクトスタンダードであった。ティム・ギルおよびそのチームによって開発され、Quark社の黄金時代を築いた。 (特に日本では)「クォーク(クオーク)」といえばこのソフトのことを指し、会社名だという認識は薄い。綴りが「XPress」であるのは、「Press=印刷」という単語を踏まえているとされる。 DTP業界において圧倒的な支持を得ていたが、Mac OS Xへの対応が遅れ、2009年の時点で、先に完全対応を果たしたAdobe InDesignにシェアを奪われている。これは日本だけでなく、Quark社にとって自国市場である米国でも同じである。 QuarkXPressはDTP黎明期において最初に登場したアプリケーションではなく、当時の業界ではAldus PageMakerが先行していた。DTPという言葉自体がPageMakerのプロモーションのためにアルダスのポール・ブレイナード社長によって作られた言葉であるため、DTPという分野はPageMakerによって築かれたとも言える。QuarkXPressは、ライバルに先んじてカラー対応を果たしたことなどからデザイナーなどへ支持を広げ、大きなシェアを獲得するに至った。 2000年代前半まで「Macintosh DTPといえばQuark(XPress)」、という共通認識があっただけに、日本の出版業界で「マックで組む」という言葉は「QuarkXPress 3.3Jで組む」ことを意味していた。後継バージョンである4.1JではWindows版も提供され、Macintosh版とのクロスプラットフォーム互換性が実現されているにもかかわらず、3.3Jからの移行があまり進まなかった。これは既に3.3JとOCFフォントによるワークフローが確立していることや、4.0J発売当初の価格が新規購入、バージョンアップ共に高額で、3.3J導入時に多大な投資をした出版社・印刷会社で追加投資を嫌われたためといわれる。 2009年、米国と日本では、Mac OS Xへの移行に伴い、Adobe InDesignへの乗り換えが進んでいる。「先進的な機能をいち早く提供したQuarkXPressが、Aldus社との合併で動きが鈍かったAdobe社のPageMakerを一気に抜き去った」後に、「OpenTypeにいち早く対応するなど、先進的な機能を提供したInDesignが、Mac OS Xへの対応の遅れたQuarkXPressのシェアを奪った」という逆転現象が起きた。 軽快な動作と、入門者にも分かりやすい直感的な操作性が特徴。標準搭載されていない機能はXTension(エクステンション)と呼ばれるプラグインによって実現できるという柔軟な拡張性を備える。一方(種類によっては)XTensionの有無によって、同一バージョン間での互換性に問題が生じる場合もある。 2004年に発表されたバージョン6.0でMac OS Xにネイティブ対応した(Classic環境から起動する必要がない)。レイヤーやテーブル(表)機能の搭載、複数回のアンドゥ(操作の取り消し)・リドゥ(取り消した操作のやり直し)やコンテキストメニューの強化のほか、「プロジェクト」という新しい概念を導入し、書籍とWebを同時製作するなどの作業が簡略化された。しかしいずれもInDesignに搭載されている機能の後追いであった上、28万円強という高価格(アドビ製品ではInDesignだけでなくPhotoshopやIllustratorに加えAcrobatのProfessional版もバンドルされたAdobe Creative Suite Premiumパッケージが買えた)もあり、普及したとは言い難い。 バージョンは9.0からMac版はユニバーサルアプリケーションとなり、Mac ProなどIntel製CPUを搭載した機種でもネイティブ動作する。 日本語版は9.0Jが最新。6.5JからOpenTypeフォントのダイナミックダウンロードなどに対応した。日本語版5.0は予告されたものの実際にはリリースされなかったが、バージョン6で対応したことになる。 バージョン9からは、Kindleを始めとした電子書籍の出力機能が強化された。 日本語版(バージョン番号の末尾に「J」が付随する)は、早期のバージョンから、軽快な動作と直感的な操作性、先割りレイアウト対応、などの点で高く評価されていた。一方で、日本語独特の組版ルールには標準搭載の機能では対応できない、などの点で著しい問題があった。例えばぶら下げやルビがボックスよりはみ出ない、中黒を約物として処理しない、字間の調整がきちんと制御できないなど、特に縦書きには不向きで、当時の雑誌などでは縦書きのものは避けられる傾向にまでなっていた。しかしそういった古くからの問題は「過去のバージョンとの互換性」を理由に、改善されることはなかった。 表組機能を実装していなかった当時、表組が頻出するレイアウトでは別途XTensionの購入が必須で、日本語版はアプリケーション自体がかなり高価でもあったため、TCOはかなり高かった。 日本語版6.0Jから、Mac OS Xに対応した。表組機能が追加され、のちに価格も大幅に下げられた。縦組用ベースライングリッドを搭載し、多少縦書きが楽になるものの、またも日本語組版の問題が改善されることはなかった。新たにOpenTypeに対応したが、完全対応とはいかず、ダイナミックダウンロードと字体切り替えに非対応、ただ表示できるだけ、プリントもできないという状況だった。ただダイナミックダウンロードに関しては、後の無償バージョンアップで対応するとアナウンスされていた。 OpenTypeに対応した6.0Jが出てからダイナミックダウンロードに対応した6.5Jが出る前には、QuarkXPressのために、フォントメーカー側が出力機用OpenTypeフォントを開発するなど、本末転倒な事態になり、大いに混乱を呼んだ 。 日本語版8.0Jより、ようやく日本語版の大幅に改善された。デザイングリッド、文字組セットなどにより、日本語組版がかなり楽になったが、日本語組版を含む全体的なテキスト整形能力に関しては、まだまだInDesignの機能には追いついていない。 日本語や中国語などの、いわゆる2バイト言語向けのエディションでは、不正使用を阻止するためハードウェアキーと呼ばれる装置がソフトウェア・パッケージに同梱されていた。この装置はドングルとも呼ばれ、これがコンピュータにつながっていない状態ではQuarkXPressは起動しない上に、動作中に抜けた場合も警告を表示した後に自動的に終了する設定になっている。 以前はADBポートを利用した、デイジーチェーンの可能なドングルだったが、のちにUSB接続に移行した。 当初はハードウェアキー仕様ではなかったのが、ソフトウェアの違法コピーにたまりかねて機械的な認証に移行したところ売り上げが5倍に増えたと言われ、カジュアルコピーの撲滅を叫ぶ主張を裏付ける資料となっている。ただしこれは機能改善と同時であるため、単純にその差分を違法コピー数であると見なすことはできないかもしれない。 6.0以降では、故障時に正規ユーザが利用できなくなるなど不評であったこの方式は廃止され、プロダクトアクティベーションと呼ばれるライセンス認証形式に変更された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "QuarkXPress (クォーク・エクスプレス)は、Quark社の販売しているDTPソフトウェアで、同社の代表的製品。かつてMac OS 9の時代、MacintoshによるDTPのデファクトスタンダードであった。ティム・ギルおよびそのチームによって開発され、Quark社の黄金時代を築いた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "(特に日本では)「クォーク(クオーク)」といえばこのソフトのことを指し、会社名だという認識は薄い。綴りが「XPress」であるのは、「Press=印刷」という単語を踏まえているとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "DTP業界において圧倒的な支持を得ていたが、Mac OS Xへの対応が遅れ、2009年の時点で、先に完全対応を果たしたAdobe InDesignにシェアを奪われている。これは日本だけでなく、Quark社にとって自国市場である米国でも同じである。", "title": "業界標準化" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "QuarkXPressはDTP黎明期において最初に登場したアプリケーションではなく、当時の業界ではAldus PageMakerが先行していた。DTPという言葉自体がPageMakerのプロモーションのためにアルダスのポール・ブレイナード社長によって作られた言葉であるため、DTPという分野はPageMakerによって築かれたとも言える。QuarkXPressは、ライバルに先んじてカラー対応を果たしたことなどからデザイナーなどへ支持を広げ、大きなシェアを獲得するに至った。", "title": "業界標準化" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2000年代前半まで「Macintosh DTPといえばQuark(XPress)」、という共通認識があっただけに、日本の出版業界で「マックで組む」という言葉は「QuarkXPress 3.3Jで組む」ことを意味していた。後継バージョンである4.1JではWindows版も提供され、Macintosh版とのクロスプラットフォーム互換性が実現されているにもかかわらず、3.3Jからの移行があまり進まなかった。これは既に3.3JとOCFフォントによるワークフローが確立していることや、4.0J発売当初の価格が新規購入、バージョンアップ共に高額で、3.3J導入時に多大な投資をした出版社・印刷会社で追加投資を嫌われたためといわれる。", "title": "業界標準化" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2009年、米国と日本では、Mac OS Xへの移行に伴い、Adobe InDesignへの乗り換えが進んでいる。「先進的な機能をいち早く提供したQuarkXPressが、Aldus社との合併で動きが鈍かったAdobe社のPageMakerを一気に抜き去った」後に、「OpenTypeにいち早く対応するなど、先進的な機能を提供したInDesignが、Mac OS Xへの対応の遅れたQuarkXPressのシェアを奪った」という逆転現象が起きた。", "title": "業界標準化" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "軽快な動作と、入門者にも分かりやすい直感的な操作性が特徴。標準搭載されていない機能はXTension(エクステンション)と呼ばれるプラグインによって実現できるという柔軟な拡張性を備える。一方(種類によっては)XTensionの有無によって、同一バージョン間での互換性に問題が生じる場合もある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2004年に発表されたバージョン6.0でMac OS Xにネイティブ対応した(Classic環境から起動する必要がない)。レイヤーやテーブル(表)機能の搭載、複数回のアンドゥ(操作の取り消し)・リドゥ(取り消した操作のやり直し)やコンテキストメニューの強化のほか、「プロジェクト」という新しい概念を導入し、書籍とWebを同時製作するなどの作業が簡略化された。しかしいずれもInDesignに搭載されている機能の後追いであった上、28万円強という高価格(アドビ製品ではInDesignだけでなくPhotoshopやIllustratorに加えAcrobatのProfessional版もバンドルされたAdobe Creative Suite Premiumパッケージが買えた)もあり、普及したとは言い難い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バージョンは9.0からMac版はユニバーサルアプリケーションとなり、Mac ProなどIntel製CPUを搭載した機種でもネイティブ動作する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本語版は9.0Jが最新。6.5JからOpenTypeフォントのダイナミックダウンロードなどに対応した。日本語版5.0は予告されたものの実際にはリリースされなかったが、バージョン6で対応したことになる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "バージョン9からは、Kindleを始めとした電子書籍の出力機能が強化された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本語版(バージョン番号の末尾に「J」が付随する)は、早期のバージョンから、軽快な動作と直感的な操作性、先割りレイアウト対応、などの点で高く評価されていた。一方で、日本語独特の組版ルールには標準搭載の機能では対応できない、などの点で著しい問題があった。例えばぶら下げやルビがボックスよりはみ出ない、中黒を約物として処理しない、字間の調整がきちんと制御できないなど、特に縦書きには不向きで、当時の雑誌などでは縦書きのものは避けられる傾向にまでなっていた。しかしそういった古くからの問題は「過去のバージョンとの互換性」を理由に、改善されることはなかった。", "title": "日本語版の機能" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "表組機能を実装していなかった当時、表組が頻出するレイアウトでは別途XTensionの購入が必須で、日本語版はアプリケーション自体がかなり高価でもあったため、TCOはかなり高かった。", "title": "日本語版の機能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本語版6.0Jから、Mac OS Xに対応した。表組機能が追加され、のちに価格も大幅に下げられた。縦組用ベースライングリッドを搭載し、多少縦書きが楽になるものの、またも日本語組版の問題が改善されることはなかった。新たにOpenTypeに対応したが、完全対応とはいかず、ダイナミックダウンロードと字体切り替えに非対応、ただ表示できるだけ、プリントもできないという状況だった。ただダイナミックダウンロードに関しては、後の無償バージョンアップで対応するとアナウンスされていた。", "title": "日本語版の機能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "OpenTypeに対応した6.0Jが出てからダイナミックダウンロードに対応した6.5Jが出る前には、QuarkXPressのために、フォントメーカー側が出力機用OpenTypeフォントを開発するなど、本末転倒な事態になり、大いに混乱を呼んだ 。", "title": "日本語版の機能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本語版8.0Jより、ようやく日本語版の大幅に改善された。デザイングリッド、文字組セットなどにより、日本語組版がかなり楽になったが、日本語組版を含む全体的なテキスト整形能力に関しては、まだまだInDesignの機能には追いついていない。", "title": "日本語版の機能" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本語や中国語などの、いわゆる2バイト言語向けのエディションでは、不正使用を阻止するためハードウェアキーと呼ばれる装置がソフトウェア・パッケージに同梱されていた。この装置はドングルとも呼ばれ、これがコンピュータにつながっていない状態ではQuarkXPressは起動しない上に、動作中に抜けた場合も警告を表示した後に自動的に終了する設定になっている。", "title": "ハードウェアキー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以前はADBポートを利用した、デイジーチェーンの可能なドングルだったが、のちにUSB接続に移行した。", "title": "ハードウェアキー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当初はハードウェアキー仕様ではなかったのが、ソフトウェアの違法コピーにたまりかねて機械的な認証に移行したところ売り上げが5倍に増えたと言われ、カジュアルコピーの撲滅を叫ぶ主張を裏付ける資料となっている。ただしこれは機能改善と同時であるため、単純にその差分を違法コピー数であると見なすことはできないかもしれない。", "title": "ハードウェアキー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "6.0以降では、故障時に正規ユーザが利用できなくなるなど不評であったこの方式は廃止され、プロダクトアクティベーションと呼ばれるライセンス認証形式に変更された。", "title": "ハードウェアキー" } ]
QuarkXPress (クォーク・エクスプレス)は、Quark社の販売しているDTPソフトウェアで、同社の代表的製品。かつてMac OS 9の時代、MacintoshによるDTPのデファクトスタンダードであった。ティム・ギルおよびそのチームによって開発され、Quark社の黄金時代を築いた。 (特に日本では)「クォーク(クオーク)」といえばこのソフトのことを指し、会社名だという認識は薄い。綴りが「XPress」であるのは、「Press=印刷」という単語を踏まえているとされる。
{{Infobox Software | 名称 = QuarkXPress | ロゴ = | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[Quark, Inc.]] | 最新版 = 2022 | 最新版発表日 = 2022年2月9日 | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | プログラミング言語 = | 対応OS = [[macOS Mojave]] 10.14.6以降 / [[Microsoft Windows 8.1]] April 2014 update roll up update以降 | 対応プラットフォーム = | 種別 = [[DTP|デスクトッププリプレスソフト]] | サポート状況 = | ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] | 公式サイト = http://www.quark.com/jp/Products/QuarkXPress/ }}{{更新|date=2022年2月}} '''QuarkXPress''' ('''クォーク・エクスプレス''')は、[[Quark, Inc.|Quark社]]の販売している[[DTP]][[ソフトウェア]]で、同社の代表的製品。かつて[[Mac OS]] 9の時代、[[Macintosh]]によるDTPの[[デファクトスタンダード]]であった。ティム・ギルおよびそのチームによって開発され、Quark社の黄金時代を築いた。 (特に日本では)「クォーク(クオーク)」といえばこのソフトのことを指し、会社名だという認識は薄い。綴りが「XPress」であるのは、「Press=[[印刷]]」という単語を踏まえているとされる。 == 業界標準化 == DTP業界において圧倒的な支持を得ていたが、[[macOS|Mac OS X]]への対応が遅れ、2009年の時点で、先に完全対応を果たした[[Adobe InDesign]]にシェアを奪われている。これは日本だけでなく、Quark社にとって自国市場である[[アメリカ合衆国|米国]]でも同じである。 QuarkXPressはDTP黎明期において最初に登場したアプリケーションではなく、当時の業界では[[Adobe PageMaker|Aldus PageMaker]]が先行していた。DTPという言葉自体がPageMakerのプロモーションのためにアルダスのポール・ブレイナード社長によって作られた言葉であるため、DTPという分野はPageMakerによって築かれたとも言える。QuarkXPressは、ライバルに先んじて[[色|カラー]]対応を果たしたことなどからデザイナーなどへ支持を広げ、大きなシェアを獲得するに至った。 2000年代前半まで「Macintosh DTPといえばQuark(XPress)」、という共通認識があっただけに、日本の出版業界で「[[Macintosh|マック]]で組む」という言葉は「QuarkXPress 3.3Jで組む」ことを意味していた。後継バージョンである4.1Jでは[[Microsoft Windows|Windows]]版も提供され、[[Macintosh]]版とのクロスプラットフォーム互換性が実現されているにもかかわらず、3.3Jからの移行があまり進まなかった。これは既に3.3Jと[[OCFフォント]]によるワークフローが確立していることや、4.0J発売当初の価格が新規購入、バージョンアップ共に高額で、3.3J導入時に多大な投資をした[[出版社]]・[[印刷会社]]で追加投資を嫌われたためといわれる{{要出典|date=2009年4月}}。 2009年、米国と日本では、Mac OS Xへの移行に伴い、[[Adobe InDesign]]への乗り換えが進んでいる。「先進的な機能をいち早く提供したQuarkXPressが、Aldus社との合併で動きが鈍かったAdobe社のPageMakerを一気に抜き去った」後に、「[[OpenType]]にいち早く対応するなど、先進的な機能を提供したInDesignが、Mac OS Xへの対応の遅れたQuarkXPressのシェアを奪った」という逆転現象が起きた。 == 特徴 == 軽快な動作と、入門者にも分かりやすい直感的な操作性が特徴。標準搭載されていない機能は[[XTension]](エクステンション)と呼ばれる[[プラグイン]]によって実現できるという柔軟な拡張性を備える。一方(種類によっては)XTensionの有無によって、同一バージョン間での互換性に問題が生じる場合もある。 2004年に発表されたバージョン6.0でMac OS Xにネイティブ対応した(Classic環境から起動する必要がない)。レイヤーやテーブル(表)機能の搭載、複数回のアンドゥ(操作の取り消し)・リドゥ(取り消した操作のやり直し)や[[コンテキストメニュー]]の強化のほか、「プロジェクト」という新しい概念を導入し、[[本|書籍]]と[[World Wide Web|Web]]を同時製作するなどの作業が簡略化された。しかしいずれもInDesignに搭載されている機能の後追いであった上、28万円強という高価格([[アドビ]]製品ではInDesignだけでなく[[Adobe Photoshop|Photoshop]]や[[Adobe Illustrator|Illustrator]]に加え[[Adobe Acrobat|Acrobat]]のProfessional版もバンドルされた[[Adobe Creative Suite]] Premiumパッケージが買えた)もあり、普及したとは言い難い。 バージョンは9.0からMac版はユニバーサルアプリケーションとなり、[[Mac Pro]]などIntel製CPUを搭載した機種でもネイティブ動作する。 日本語版は9.0Jが最新。6.5JからOpenTypeフォントのダイナミックダウンロードなどに対応した。日本語版5.0は予告されたものの実際にはリリースされなかったが、バージョン6で対応したことになる。 バージョン9からは、[[Kindle]]を始めとした電子書籍の出力機能が強化された。 == 日本語版の機能 == {{節スタブ|date=2022年2月26日 (土) 05:03 (UTC)}} 日本語版(バージョン番号の末尾に「J」が付随する)は、早期のバージョンから、軽快な動作と直感的な操作性、先割りレイアウト対応、などの点で高く評価されていた。一方で、日本語独特の[[組版]]ルールには標準搭載の機能では対応できない、などの点で著しい問題があった。例えば[[ぶら下げ組み|ぶら下げ]]や[[ルビ]]がボックスよりはみ出ない、[[中黒]]を[[約物]]として処理しない、字間の調整がきちんと制御できないなど、特に縦書きには不向きで、当時の雑誌などでは縦書きのものは避けられる傾向にまでなっていた。しかしそういった古くからの問題は「過去のバージョンとの互換性」を理由に、改善されることはなかった。 表組機能を実装していなかった当時、表組が頻出するレイアウトでは別途XTensionの購入が必須で、日本語版はアプリケーション自体がかなり高価でもあったため、[[TCO]]はかなり高かった。 日本語版6.0Jから、Mac OS Xに対応した。表組機能が追加され、のちに価格も大幅に下げられた。縦組用ベースライングリッドを搭載し、多少縦書きが楽になるものの、またも日本語組版の問題が改善されることはなかった。新たにOpenTypeに対応したが、完全対応とはいかず、ダイナミックダウンロードと字体切り替えに非対応、ただ表示できるだけ、プリントもできないという状況だった。ただダイナミックダウンロードに関しては、後の無償バージョンアップで対応するとアナウンスされていた。 OpenTypeに対応した6.0Jが出てからダイナミックダウンロードに対応した6.5Jが出る前には、QuarkXPressのために、フォントメーカー側が出力機用OpenTypeフォントを開発するなど<ref>[http://www.biblosfont.co.jp/support.html#OTPF OpenType 外字パック対応プリンタフォントについて]</ref>、本末転倒な事態になり、大いに混乱を呼んだ 。 日本語版8.0Jより、ようやく日本語版の大幅に改善された。デザイングリッド、文字組セットなどにより、日本語組版がかなり楽になったが、日本語組版を含む全体的なテキスト整形能力に関しては、まだまだ[[InDesign]]の機能には追いついていない。 == ハードウェアキー == [[ファイル:QXhardwarekey.jpg|thumb|150px|3.3と4.1のドングル]] [[日本語]]や[[中国語]]などの、いわゆる[[2バイト言語]]向けのエディションでは、不正使用を阻止するためハードウェアキーと呼ばれる装置がソフトウェア・[[パッケージ]]に同梱されていた。この装置は[[ドングル]]とも呼ばれ、これが[[コンピュータ]]につながっていない状態ではQuarkXPressは起動しない上に、動作中に抜けた場合も警告を表示した後に自動的に終了する設定になっている。 以前は[[Apple Desktop Bus|ADB]]ポートを利用した、デイジーチェーンの可能なドングルだったが、のちに[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続に移行した。 当初はハードウェアキー仕様ではなかったのが、ソフトウェアの[[違法コピー]]にたまりかねて機械的な認証に移行したところ売り上げが5倍に増えたと言われ、カジュアルコピーの撲滅を叫ぶ主張を裏付ける資料となっている{{要出典|date=2009年4月}}。ただしこれは機能改善と同時であるため、単純にその差分を違法コピー数であると見なすことはできないかもしれない。 6.0以降では、故障時に正規ユーザが利用できなくなるなど不評であったこの方式は廃止され、プロダクト[[アクティベーション]]と呼ばれるライセンス認証形式に変更された。 == 日本語版のバージョン履歴 == * QuarkXPress 2.0J (1989) * QuarkXPress 3.1J (1993) * QuarkXPress 3.31J (1994) - Macintosh 版のみ * QuarkXPress 4.0J (1998) * QuarkXPress 4.1J (2000) * QuarkXPress 6.0J (2004) * QuarkXPress 6.5J (2004) * QuarkXPress 6.51J (2006) * QuarkXPress 8.0J (2008) * QuarkXPress 9 (2011) * QuarkXPress 10 (2013) * QuarkXPress 2015 Release 11.0 (2015) * QuarkXPress 2016 Release 12.0 (2016) * QuarkXPress 2017 Release 13.0 (2017) * QuarkXPress 2018 Release 14.0 (2018) * QuarkXPress 2019 Release 15.0 (2019) * QuarkXPress 2020 Release 16.0 (2020) * QuarkXPress 2021 Release 17.0 (2021) * QuarkXPress 2022 Release 18.0 (2022)<ref>{{Cite web|和書|title=QuarkXPress 新バージョン、サブスクリプション製品発売のご案内 |url=https://www.swtoo.com/news/2022/02/quarkxpress2022-release/ |website=株式会社ソフトウェア・トゥー:ニュースリリース |date=2022-02-09 |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref> == 出典 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[DTP]] * [[Quark, Inc.]] * [[アドビ]] == 外部リンク == * [http://www.quark.com/ クォークジャパン] * [http://www.quark.com/ Quark(米国本社)] * [https://apps.apple.com/jp/app/quarkxpress/id1445822612?mt=12 QuarkXPress - Mac App Store] {{DEFAULTSORT:QuarkXPress}} [[Category:DTPソフト]] [[Category:DTP]] [[Category:MacOSのソフトウェア]]
2003-08-21T07:57:58Z
2023-09-29T09:27:03Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Software", "Template:更新", "Template:要出典", "Template:節スタブ", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/QuarkXPress
13,672
ターミネーター
ターミネーター、ターミネータ (英語:terminator)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ターミネーター、ターミネータ (英語:terminator)", "title": null } ]
ターミネーター、ターミネータ (英語:terminator) terminate(ターミネート、断ち切る、終端、終焉、抹殺などの意)の名詞形。 ターミネーターシリーズ - アメリカのSF映画シリーズ。及び作品に登場する架空の戦闘ロボット群(T-シリーズ)。 ターミネーター (映画)(1984年公開) ターミネーター2(1991年公開) ターミネーター3(2003年公開) ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ(2008年放送) - テレビシリーズ。 ターミネーター4(2009年公開) ターミネーター:新起動/ジェニシス(2015年公開) ターミネーター:ニュー・フェイト(2019年公開) T-800 - アーノルド・シュワルツェネッガーが演じたアンドロイド ザ・ターミネーター (プロレスラー) - プロレスラー、マーク・ロウリネイティスのリングネーム。ロード・ウォリアー・アニマル、ジョニー・エースの弟。 終端抵抗、終端器 - コンピュータ機器などのケーブルの末端に取り付ける電子部品。通常「ターミネータ」と末尾の長音は表記しない。 終端子 - プログラミング言語やファイルフォーマットで、可変長の記述の最後を示す文字やバイト。C言語などの文ターミネータ「;」、文字列ターミネータ「\0」の類。通常「ターミネータ」。番人も参照。 明暗境界線 - 天体の、昼の地域と夜の地域の境界線。 遺伝子操作された作物で、野生化や無許可の栽培を防ぐため、ある条件下で発現する致死遺伝子。 →Terminator Technology ターミネーター (遺伝学) - 構造遺伝子の最後を示す塩基配列。プロモーターも参照。 終止コドン - 遺伝暗号を構成する64種のコドンのうち、対応するアミノ酸(とtRNA)がなく、最終産物である蛋白質の生合成を停止させるために使われているコドン。 Su-37の非公式愛称 - 旧ソ連・ロシアの戦闘機。Su-27の発展型。 BMP-Tの愛称 - ロシアの装甲戦闘車両。味方戦車に直接随伴し、敵歩兵を火力制圧する目的で開発された。 ターミネーターポリス - 蒼き流星SPTレイズナーに登場するメカ。 ターミネーター - DCコミックスに登場するヴィラン(悪役)デスストローク(スレイド・ウィルソン)の別名。 元F1ドライバーのミハエル・シューマッハの日本での愛称。 元格闘家のミルコ・クロコップの愛称。 元プロ野球選手のトム・ヘンキーの愛称。
'''ターミネーター'''、'''ターミネータ''' ([[英語]]:[[:en:terminator|terminator]]) {{wikt|terminate|en:terminator}} * {{仮リンク|terminate|en|terminate}}([[ターミネート]]、断ち切る、[[終端]]、[[終焉]]、[[抹殺]]などの意)の[[名詞]]形。 * [[ターミネーターシリーズ]] - アメリカのSF映画シリーズ。及び作品に登場する架空の戦闘[[ロボット]]群([[T-シリーズ]])。 ** [[ターミネーター (映画)]](1984年公開) ** [[ターミネーター2]](1991年公開) ** [[ターミネーター3]](2003年公開) ** [[ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ]](2008年放送) - テレビシリーズ。 ** [[ターミネーター4]](2009年公開) ** [[ターミネーター:新起動/ジェニシス]](2015年公開) ** [[ターミネーター:ニュー・フェイト]](2019年公開) ** [[T-800]] - アーノルド・シュワルツェネッガーが演じたアンドロイド * ザ・ターミネーター (プロレスラー) - [[プロレスラー]]、[[マーク・ロウリネイティス]]の[[リングネーム]]。[[ジョセフ・ロウリネイティス|ロード・ウォリアー・アニマル]]、[[ジョン・ロウリネイティス|ジョニー・エース]]の弟。 * [[終端抵抗]]、終端器 - [[コンピュータ]]機器などのケーブルの末端に取り付ける電子部品。通常「ターミネータ」と末尾の長音は表記しない。 * [[終端子]] - [[プログラム (コンピュータ)|プログラミング言語]]や[[ファイルフォーマット]]で、可変長の記述の最後を示す文字やバイト。[[C言語]]などの[[:en:Statement terminator|文ターミネータ]]「;」、文字列ターミネータ「\0」の類。通常「ターミネータ」。[[番人]]も参照。 * [[明暗境界線]] - 天体の、[[昼]]の地域と[[夜]]の地域の境界線。 * [[遺伝子操作]]された作物で、野生化や無許可の栽培を防ぐため、ある条件下で発現する[[致死遺伝子]]。 →[[:en:Genetic use restriction technology|Terminator Technology]] * [[ターミネーター (遺伝学)]] - [[構造遺伝子]]の最後を示す[[塩基配列]]。[[プロモーター]]も参照。 * [[終止コドン]] - 遺伝暗号を構成する64種のコドンのうち、対応するアミノ酸(とtRNA)がなく、最終産物である蛋白質の生合成を停止させるために使われているコドン。 * [[Su-37 (航空機)|Su-37]]の非公式愛称 - 旧ソ連・ロシアの[[戦闘機]]。[[Su-27_(航空機)|Su-27]]の発展型。 * [[BMP-T]]の愛称 - ロシアの[[装甲戦闘車両]]。味方戦車に直接随伴し、敵歩兵を火力制圧する目的で開発された。 * ターミネーターポリス - [[蒼き流星SPTレイズナー]]に登場するメカ。 * ターミネーター - [[DCコミックス]]に登場するヴィラン(悪役)'''[[デスストローク|デスストローク(スレイド・ウィルソン)]]'''の別名。 * 元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーの[[ミハエル・シューマッハ]]の日本での愛称。 * 元[[格闘技|格闘家]]の[[ミルコ・クロコップ]]の愛称。 * 元[[プロ野球選手]]の[[トム・ヘンキー]]の愛称。 == 関連項目 == *[[終了]] *{{prefix|ターミネーター}} *{{prefix|ターミネータ}} *{{prefix|ターミネ}} *{{prefix|terminator}} *{{prefix|terminat}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:たあみねえたあ}} [[Category:人物の愛称]] [[Category:プロレスの愛称]] [[Category:モータースポーツの愛称]] [[Category:総合格闘技の愛称]] [[Category:野球の愛称]] [[category:英語の語句]]
null
2022-05-01T07:32:35Z
true
false
false
[ "Template:Wikt", "Template:仮リンク", "Template:Prefix", "Template:Aimai" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
13,673
ターミネーター (映画)
『ターミネーター』(原題: The Terminator)は、1984年公開のアメリカのSFアクション映画。監督はジェームズ・キャメロン、脚本はキャメロンとゲイル・アン・ハードが務めた。 主演のアーノルド・シュワルツェネッガーは、2029年から1984年にタイムスリップして、サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)を殺すために送り込まれたサイボーグの暗殺者「ターミネーター」を演じ、マイケル・ビーンは、サラを守るために過去に送り込まれた兵士、カイル・リースを演じている。 公開前の予想に反して、『ターミネーター』は2週間にわたって米国の興行成績のトップに立ち、640万ドルの少ない製作費に対し、最終的に7,830万ドルの興行収入を記録した。この映画の成功により、いくつかの続編、テレビシリーズ、コミック、小説、ビデオゲームなどのメディアミックスが生まれた。 2008年、『ターミネーター』は、米国議会図書館により、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」として、アメリカ国立フィルム登録簿に保存された。 日本版のポスター等におけるキャッチコピーは、「冷酷!非情!残虐!史上最強《悪》のヒーロー!!」。 製作にまつわるエピソードとして、キャメロンが見た悪夢の話がある。1981年に監督した『殺人魚フライングキラー』が失敗した際、キャメロンは評論家やマスコミにひどくこき下ろされたため、屈辱のあまり熱を出して寝込んでしまったという。そのとき、「炎の中からロボットが現れて自分を殺しに来る」という悪夢を見たことが、本作を製作するきっかけとなったと語っている。 作中で「審判の日」 (Judgement day) とされているのは1997年8月29日であるが、この月日は当時アメリカと冷戦を激化させていたソ連による初の原爆実験 (RDS-1) に由来し、映画公開の前年(1983年)には、実際に第三次世界大戦が起きかねない監視システムのコンピュータが核ミサイル発射を誤報した事件も起きていた。キャメロンは本作について、冷戦を意識していたことを述べている。 製作に当たり、キャメロンは「現代の技術では殺人ロボットの実現は不可能であるし、かといって未来の話ではセットに費用がかかるうえに観客にも受け入れがたいと考えた結果、未来の殺人ロボットが現代にやって来るタイムトラベルのアイデアが浮かんだ」と語っている。 主役のT-800について、企画当初の予定では続編『ターミネーター2』(1991年)に登場するT-1000のような、「一見すると貧弱そうな普通の男が異様な強さを発揮する」というキャラクターを構想していた。その候補にはランス・ヘンリクセンが挙がっており、パイロット版も制作されていた。また、O・J・シンプソンをT-800役に配役する構想もあった。 一方、俳優としてのキャリアが浅かったシュワルツェネッガーは、台詞を多く喋りたいという理由や主役を演じたいという理由から、カイル・リース役を望んでいた。しかし、キャメロンはシュワルツェネッガーと会食した際にT-800の設定についての良いアイディアを1時間も力説され、この役には彼こそが相応しいと確信して変更する。その結果、T-800はシュワルツェネッガーを象徴する役柄となり、シリーズを通して出演する名キャラクターとなった。なお、次作『ターミネーター2』以降は悪役から主役へと立場が変化し、人類側(ジョン・コナーを守る立場)として活躍するようになる。 本作以前のシュワルツェネッガーは、『コナン・ザ・グレート』(1982年)のヒットもあって全くの無名というわけではなかったものの、元々オーストリア出身で強いドイツ訛りがあるうえ、当時は英語が不得意なこともあり中々役に恵まれず、苦労を重ねていた。しかし、却ってこの英語の不得手さがロボットであるT-800の非人間感と相性がよく、『コナン』に次ぐシュワルツェネッガーの当たり役となったことで、一躍国際的なスターへと上り詰めた。 カイルを演じたマイケル・ビーンも、オーディション当時は舞台劇の影響で南部訛りが強かったため、不自然という理由で落とされかけたが、エージェントによって南部出身者ではないと説明され、危機を脱した。 なお、主役を交代したヘンリクセンは本作でブコビッチ刑事を演じている。 設定の一部について、1963年のテレビドラマ『アウター・リミッツ』のハーラン・エリスンが脚本を担当した2つのエピソード(第33話「38世紀から来た兵士」、第37話「ガラスの手を持つ男」)から剽窃したものである、との訴えがエリスン側から起こされた。結局、キャメロンは80万ドルを支払い、ビデオ化以降のエンドクレジットに「Acknowledgement to the works of HARLAN ELLISON」(ハーラン・エリスンの作品に謝辞)と追加することを条件に和解した。 ガソリンスタンドにいた少年に「嵐が来るよ」と言われたサラが「ええ、わかってるわ」と返すシーンは「機械との戦争が待つ未来」を暗示させるものであるが、これは製作陣があらかじめ続編を意識していたことの表れともされている。元々は、破壊されたT-800のチップを技術者が回収するシーンに加え、最後の戦いを繰り広げた場所がサイバーダイン社であったという、より強い伏線を張ったエンディングであったが、キャメロンの「映画は説明しすぎず、観客の想像に任せたほうがいい」との判断により、カットされた。 本作は批評家から大絶賛されており、映画批評集積サイトの「Rotten Tomatoes」には60件以上のレビューがある。批評家支持率は100%、観客満足度は89%と、高く評価されている。平均点は10点満点中8点となっており、インターネット総合評価では、批評家による加重スコアが100のうち84、観客によるスコアが10のうち7.5となっている。 1985年5月25日に劇場公開された。 旧VHS版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではVHS版と表記されている)の初出はアスキー映画株式会社より発売(販売元はポニーキャニオン)のVHSにて。 新VHS/DVD/BD版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではBD/DVD版と表記されている)の初出は1998年2月25日カルチュア・パブリッシャーズより発売のDVDにて。その後20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン及びソニー・ピクチャーズ エンタテインメントより発売の各種VHS/DVD/BD(後述)に収録されている。 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンの「吹替の帝王」シリーズ第9弾として、上記の全4種類の吹替版を収録したBlu-ray Disc「ターミネーター 〈日本語吹替完全版〉 コレクターズ・ブルーレイボックス」が2015年6月24日に発売。特典としてテレビ版吹替台本2冊とインタビュー集が付属している。 特記がない場合20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンが発売。 このほか、SUNSOFTがライセンスを取得し、ファミリーコンピュータ/Nintendo Entertainment System向けアクションゲームを開発。1989年にPV映像を正式発表していたが、原作のストーリーに沿っていないことからライセンスが取り消された。このソフトはキャラクターや設定を変更し、翌年、『ラフワールド』(Journey to Silius)として世に出された。 上記のほか、ダーク・ホース社出版の『エイリアンVSプレデターVSターミネーター』のコミックがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ターミネーター』(原題: The Terminator)は、1984年公開のアメリカのSFアクション映画。監督はジェームズ・キャメロン、脚本はキャメロンとゲイル・アン・ハードが務めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主演のアーノルド・シュワルツェネッガーは、2029年から1984年にタイムスリップして、サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)を殺すために送り込まれたサイボーグの暗殺者「ターミネーター」を演じ、マイケル・ビーンは、サラを守るために過去に送り込まれた兵士、カイル・リースを演じている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "公開前の予想に反して、『ターミネーター』は2週間にわたって米国の興行成績のトップに立ち、640万ドルの少ない製作費に対し、最終的に7,830万ドルの興行収入を記録した。この映画の成功により、いくつかの続編、テレビシリーズ、コミック、小説、ビデオゲームなどのメディアミックスが生まれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2008年、『ターミネーター』は、米国議会図書館により、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」として、アメリカ国立フィルム登録簿に保存された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本版のポスター等におけるキャッチコピーは、「冷酷!非情!残虐!史上最強《悪》のヒーロー!!」。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "製作にまつわるエピソードとして、キャメロンが見た悪夢の話がある。1981年に監督した『殺人魚フライングキラー』が失敗した際、キャメロンは評論家やマスコミにひどくこき下ろされたため、屈辱のあまり熱を出して寝込んでしまったという。そのとき、「炎の中からロボットが現れて自分を殺しに来る」という悪夢を見たことが、本作を製作するきっかけとなったと語っている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "作中で「審判の日」 (Judgement day) とされているのは1997年8月29日であるが、この月日は当時アメリカと冷戦を激化させていたソ連による初の原爆実験 (RDS-1) に由来し、映画公開の前年(1983年)には、実際に第三次世界大戦が起きかねない監視システムのコンピュータが核ミサイル発射を誤報した事件も起きていた。キャメロンは本作について、冷戦を意識していたことを述べている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "製作に当たり、キャメロンは「現代の技術では殺人ロボットの実現は不可能であるし、かといって未来の話ではセットに費用がかかるうえに観客にも受け入れがたいと考えた結果、未来の殺人ロボットが現代にやって来るタイムトラベルのアイデアが浮かんだ」と語っている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "主役のT-800について、企画当初の予定では続編『ターミネーター2』(1991年)に登場するT-1000のような、「一見すると貧弱そうな普通の男が異様な強さを発揮する」というキャラクターを構想していた。その候補にはランス・ヘンリクセンが挙がっており、パイロット版も制作されていた。また、O・J・シンプソンをT-800役に配役する構想もあった。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "一方、俳優としてのキャリアが浅かったシュワルツェネッガーは、台詞を多く喋りたいという理由や主役を演じたいという理由から、カイル・リース役を望んでいた。しかし、キャメロンはシュワルツェネッガーと会食した際にT-800の設定についての良いアイディアを1時間も力説され、この役には彼こそが相応しいと確信して変更する。その結果、T-800はシュワルツェネッガーを象徴する役柄となり、シリーズを通して出演する名キャラクターとなった。なお、次作『ターミネーター2』以降は悪役から主役へと立場が変化し、人類側(ジョン・コナーを守る立場)として活躍するようになる。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本作以前のシュワルツェネッガーは、『コナン・ザ・グレート』(1982年)のヒットもあって全くの無名というわけではなかったものの、元々オーストリア出身で強いドイツ訛りがあるうえ、当時は英語が不得意なこともあり中々役に恵まれず、苦労を重ねていた。しかし、却ってこの英語の不得手さがロボットであるT-800の非人間感と相性がよく、『コナン』に次ぐシュワルツェネッガーの当たり役となったことで、一躍国際的なスターへと上り詰めた。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カイルを演じたマイケル・ビーンも、オーディション当時は舞台劇の影響で南部訛りが強かったため、不自然という理由で落とされかけたが、エージェントによって南部出身者ではないと説明され、危機を脱した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、主役を交代したヘンリクセンは本作でブコビッチ刑事を演じている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "設定の一部について、1963年のテレビドラマ『アウター・リミッツ』のハーラン・エリスンが脚本を担当した2つのエピソード(第33話「38世紀から来た兵士」、第37話「ガラスの手を持つ男」)から剽窃したものである、との訴えがエリスン側から起こされた。結局、キャメロンは80万ドルを支払い、ビデオ化以降のエンドクレジットに「Acknowledgement to the works of HARLAN ELLISON」(ハーラン・エリスンの作品に謝辞)と追加することを条件に和解した。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ガソリンスタンドにいた少年に「嵐が来るよ」と言われたサラが「ええ、わかってるわ」と返すシーンは「機械との戦争が待つ未来」を暗示させるものであるが、これは製作陣があらかじめ続編を意識していたことの表れともされている。元々は、破壊されたT-800のチップを技術者が回収するシーンに加え、最後の戦いを繰り広げた場所がサイバーダイン社であったという、より強い伏線を張ったエンディングであったが、キャメロンの「映画は説明しすぎず、観客の想像に任せたほうがいい」との判断により、カットされた。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本作は批評家から大絶賛されており、映画批評集積サイトの「Rotten Tomatoes」には60件以上のレビューがある。批評家支持率は100%、観客満足度は89%と、高く評価されている。平均点は10点満点中8点となっており、インターネット総合評価では、批評家による加重スコアが100のうち84、観客によるスコアが10のうち7.5となっている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1985年5月25日に劇場公開された。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "旧VHS版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではVHS版と表記されている)の初出はアスキー映画株式会社より発売(販売元はポニーキャニオン)のVHSにて。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新VHS/DVD/BD版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではBD/DVD版と表記されている)の初出は1998年2月25日カルチュア・パブリッシャーズより発売のDVDにて。その後20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン及びソニー・ピクチャーズ エンタテインメントより発売の各種VHS/DVD/BD(後述)に収録されている。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンの「吹替の帝王」シリーズ第9弾として、上記の全4種類の吹替版を収録したBlu-ray Disc「ターミネーター 〈日本語吹替完全版〉 コレクターズ・ブルーレイボックス」が2015年6月24日に発売。特典としてテレビ版吹替台本2冊とインタビュー集が付属している。", "title": "日本語版" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "特記がない場合20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンが発売。", "title": "VHS/DVD/Blu-ray" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このほか、SUNSOFTがライセンスを取得し、ファミリーコンピュータ/Nintendo Entertainment System向けアクションゲームを開発。1989年にPV映像を正式発表していたが、原作のストーリーに沿っていないことからライセンスが取り消された。このソフトはキャラクターや設定を変更し、翌年、『ラフワールド』(Journey to Silius)として世に出された。", "title": "ゲーム作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上記のほか、ダーク・ホース社出版の『エイリアンVSプレデターVSターミネーター』のコミックがある。", "title": "関連書" } ]
『ターミネーター』は、1984年公開のアメリカのSFアクション映画。監督はジェームズ・キャメロン、脚本はキャメロンとゲイル・アン・ハードが務めた。 主演のアーノルド・シュワルツェネッガーは、2029年から1984年にタイムスリップして、サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)を殺すために送り込まれたサイボーグの暗殺者「ターミネーター」を演じ、マイケル・ビーンは、サラを守るために過去に送り込まれた兵士、カイル・リースを演じている。 公開前の予想に反して、『ターミネーター』は2週間にわたって米国の興行成績のトップに立ち、640万ドルの少ない製作費に対し、最終的に7,830万ドルの興行収入を記録した。この映画の成功により、いくつかの続編、テレビシリーズ、コミック、小説、ビデオゲームなどのメディアミックスが生まれた。 2008年、『ターミネーター』は、米国議会図書館により、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」として、アメリカ国立フィルム登録簿に保存された。 日本版のポスター等におけるキャッチコピーは、「冷酷!非情!残虐!史上最強《悪》のヒーロー!!」。
{{Otheruses|1984年公開の映画単体|シリーズ全体|ターミネーターシリーズ}} {{出典の明記|date=2021-02-27}} {{Infobox Film | 作品名 = ターミネーター | 原題 = The Terminator | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[ジェームズ・キャメロン]] | 脚本 = ジェームズ・キャメロン<br />[[ゲイル・アン・ハード]] | 原案 = | 原作 = | 製作 = ゲイル・アン・ハード | 製作総指揮 = [[ジョン・デイリー (プロデューサー)|ジョン・デイリー]]<br />デレク・ギブソン | ナレーター = | 出演者 = [[アーノルド・シュワルツェネッガー]]<br />[[マイケル・ビーン]]<br />[[リンダ・ハミルトン]] | 音楽 = [[ブラッド・フィーデル]] | 主題歌 = | 撮影 = [[アダム・グリーンバーグ (撮影監督)|アダム・グリーンバーグ]] | 編集 = [[マーク・ゴールドブラット]] | 製作会社 = | 配給 = {{flagicon|USA}} [[オライオン・ピクチャーズ]]<br />{{flagicon|JPN}} [[ワーナー・ブラザース]] | 公開 = {{flagicon|USA}} [[1984年]][[10月26日]]<br />{{flagicon|JPN}} [[1985年]][[5月25日]] | 上映時間 = 108分 | 製作国 = {{USA}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = $6,400,000<ref name="boxoffice">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl3480585729/weekend/|title=The Terminator (1984) |work=[[Box Office Mojo]] |accessdate=2010年1月4日}}</ref> | 興行収入 = {{flagicon|World}} $78,371,200<ref name="boxoffice"/><br />{{flagicon|USA}}{{flagicon|CAN}} $38,371,200<ref name="boxoffice"/><br />{{flagicon|JPN}} 9.6億円<ref>[https://pixiin.com/terminator-series/ ターミネーターシリーズ全6作順番!おすすめ映画評価ランキングや興行収入一覧]</ref> | 配給収入 = {{flagicon|JPN}} 5.3億円<ref>「[[キネマ旬報]]」2016年3月下旬号 109頁</ref> | 前作 = | 次作 = [[ターミネーター2]] }} 『'''ターミネーター'''』(原題: ''The Terminator'')は、[[1984年の映画|1984年]]公開の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ]]の[[SF映画|SF]][[アクション映画]]。監督は[[ジェームズ・キャメロン]]、[[脚本]]はキャメロンと[[ゲイル・アン・ハード]]が務めた。 主演の[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]は、2029年から1984年に[[タイムトラベル|タイムスリップ]]して、サラ・コナー([[リンダ・ハミルトン]])を殺すために送り込まれた[[サイボーグ]]の[[アサシン|暗殺者]]「[[T-800|ターミネーター]]」を演じ、[[マイケル・ビーン]]は、サラを守るために過去に送り込まれた[[兵士]]、カイル・リースを演じている。 公開前の予想に反して、『ターミネーター』は2週間にわたって米国の興行成績のトップに立ち、640万ドルの少ない製作費に対し、最終的に7,830万ドルの[[興行収入]]を記録した。この映画の成功により、いくつかの続編、テレビシリーズ、コミック、小説、ビデオゲームなどの[[ターミネーターシリーズ|メディアミックス]]が生まれた。 2008年、『ターミネーター』は、[[アメリカ議会図書館|米国議会図書館]]により、「文化的、歴史的、美学的に重要な作品」として、[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に保存された。 日本版の[[ポスター]]等における[[キャッチコピー]]は、「'''冷酷''!''非情''!''残虐''!''史上最強《[[悪]]》のヒーロー''!!'''''」。 == ストーリー == ; プロローグ : ある夜、[[ロサンゼルス]]の[[郊外]]に青い電光とともに[[マッチョ|筋骨逞しい]]全裸の大男が現れる。大男は不良グループを殺害し服を奪い、銃砲店では店主を殺害し、火器・弾薬を強奪する。そして、[[電話帳]]を元に「'''[[ターミネーターの登場人物#サラ・コナー|サラ・コナー]]'''」という名前の女性を次々に殺害していく。 : 一方、若い男も一足遅れて電光と共に[[全裸]]で現れると、今ここが[[1984年]]5月12日のロサンゼルスであることを確認し、服と銃を手に入れ、悪夢にうなされつつサラ・コナーを探し始める。 ; 序盤 : 大学生のサラは、テレビニュースで見たニュースで自分と[[同姓同名]]の女性が連続殺人に遭っている事を知り、警察に保護を要求する。一方、警察も次に狙われるであろうサラを保護しようと探し始めていたところだった。その頃、大男はサラの自宅に侵入し、そこにいた男女を殺害するが、それはサラではなく、サラのルームメイトの'''ジンジャー'''と、そのボーイフレンドの'''マット'''であった。 : 大男は外出中のサラの顔と居場所を入手し、ついにサラを見つけ出すと銃口を向けるが、間一髪サラを追っていた若い男が阻止する。事態が飲み込めず促されるままに、'''カイル・リース軍曹'''と名乗る若い男に助けられながら、サラは襲撃者から逃走する。 : カイルはサラに、大男の襲撃者は[[超合金]]と[[人工皮膚]]でできた'''[[T-800|ターミネーター]]'''であることや、未来で起こる人類対機械軍の[[戦争]]の事を告げる。ターミネーターは、未来の戦争において人類勝利の立役者として英雄となる「'''[[ジョン・コナー]]'''」を抹殺するために、ジョンが産まれる前の時代に戻り、ジョンの母であるサラを殺すために未来から送られて来ているという。 : サラの顔を知らないターミネーターは、ロスに住む「サラ・コナー」を全員殺害するために探し回っており、カイルはそれを阻止するために送り込まれた「人類軍の兵士」であると説明する。 ; 中盤 : ターミネーターの追撃をなんとかかわした2人は、警察に保護される。カイルは尋問を受け、事情を説明するが警察には信じてもらえず拘束され続ける。しかし、その必死に訴える姿をモニターで見たサラは、徐々にその言葉を信じ始めていた。 : その夜、[[警察署]]をターミネーターが襲撃し、勤務中の[[警察官]]を皆殺しにしサラを探すが、サラはこの騒ぎに乗じて拘束から抜け出したカイルと共に脱出に成功。[[モーテル]]に宿泊した際、カイルは未来でジョンから貰ったサラの写真を見て以来、サラに思慕していたことを打ち明け、またサラも命がけで自分を守ってくれるカイルに心を開き、2人は結ばれる。 ; 終盤 : 翌日、2人はまたしてもターミネーターの追撃を受ける。カイルは手製のパイプ爆弾のみを武器に応戦し、被弾しながらもターミネーターが乗る[[タンクローリー]]を爆破。しかし燃えたのは服と表面の[[生体組織]]だけで、超合金製の骨組みをあらわにしたターミネーターの追撃は続く。 : 逃げ込んだ工場で、カイルは最後の[[パイプ爆弾]]をターミネーターの肋骨に押し込み爆破に成功したものの、自らも爆発に巻き込まれて命を落とし、サラも片脚に重傷を負う。カイルの死を嘆くサラに、上半身だけとなってもなお迫るターミネーター。サラはターミネーターをプレス機に誘導して超合金製頭蓋骨を押し潰し、ついに完全停止させる。 ; エピローグ : 数か月後、サラはやがて訪れる「'''審判の日'''」へ向けての戦いを決意し、[[メキシコ]]に向かっていた。途中、ジョンのために音声で記録を録っていたサラに、少年がサラを写した[[ポラロイド]]写真を売りつけてきた。それは、未来の世界でカイルがジョンから貰ったサラの写真であった。 : そして、サラのお腹にはカイルとの子、ジョンが宿っているのであった。未来の[[ヒーロー|英雄]]ジョン・コナーは、両親を結びつけるべく部下だったカイルを送り込んでいたのだ。 == 登場人物 == {{See also|ターミネーターの登場人物}} {{multiple image | align = center | image1 = Arnold Schwarzenegger on Capitol Hill (cropped).jpg | width1 = 150 | height1 = 180 | image2 = 10.17.09LindaHamiltonByLuigiNovi.jpg | width2 = 150 | height2 = 200 | image3 = Michael Biehn 2014 (cropped).jpg | width3 = 150 | height3 = 180 | footer = [[アーノルド・シュワルツェネッガー]](1991年)、[[リンダ・ハミルトン]]と[[マイケル・ビーン]]。 }} ; ターミネーター([[T-800]])- [[アーノルド・シュワルツェネッガー]] : 2029年、[[スカイネット]]にとって脅威となるジョン・コナーの出生を阻止すべく、1984年へ[[タイムスリップ]]した潜入型ターミネーター。ジョンの母となるサラ・コナーの[[抹殺]]を命令されており、ロサンゼルス在住の同姓同名の女性を次々と抹殺していく。 ; カイル・リース - [[マイケル・ビーン]] : 人類抵抗軍の[[指揮官]]ジョン・コナーの部下。サラ・コナーをT-800から守るため、志願して1984年へタイムスリップする。抵抗軍では技術情報部隊に属する[[軍曹]]で、認識番号はDN38416。スカイネット側に捕らえられ、[[強制労働]]に従事した経験がある。 ; [[ターミネーターの登場人物#サラ・コナー|サラ・コナー]] - [[リンダ・ハミルトン]] : ジョンの実母。大学に通っており、レストランの[[ウェイトレス]]としてアルバイトしていたが、未来から来たT-800に狙われたところをカイルに助けられる。 ; エド・トラクスラー - [[ポール・ウィンフィールド]] : ウエストハイランド警察署の[[警部]]。「サラ・コナー連続射殺事件」にて、最後に残ったサラ・コナーの身柄を署で保護するが、T-800の襲撃により、重傷を負う。 ; ハル・ブコビッチ - [[ランス・ヘンリクセン]] : ウエストハイランド警察署の警部補。逮捕されたカイルの話を真に受けない。署がT-800の襲撃を受けた時には[[自動小銃]]で応戦するが、反撃で死亡する。 ; ピーター・シルバーマン - [[アール・ボーエン]] : 犯罪[[心理学者]]。カイルの話をまったく信用しない。[[尋問]]を終えてウエストハイランド警察署を去る際にはT-800とすれ違うが、[[無線呼び出し|ポケットベル]]の着信に目を向けていたために直接その姿を見ることはなく、狙われずに済む。 == スタッフ == * 監督 - [[ジェームズ・キャメロン]] * 製作 - [[ゲイル・アン・ハード]] * 製作総指揮 - [[ジョン・デイリー (プロデューサー)|ジョン・デイリー]]/デレク・ギブソン * 脚本 - ジェームズ・キャメロン/ゲイル・アン・ハード * 撮影 - [[アダム・グリーンバーグ (撮影監督)|アダム・グリーンバーグ]] * 美術 - ジョージ・コステロ * 編集 - マーク・ゴールドブラット * 音楽 - [[ブラッド・フィーデル]] * 特殊効果 - [[スタン・ウィンストン]]/Fantasy 2 Film Effects/パシフィック・データー・イメージズ * 提供 - ヘムデイルフィルムコーポレーション/シネマ84/ユーロフィルムファンド/パシフィックウェスタン == 製作 == 製作にまつわるエピソードとして、キャメロンが見た[[悪夢]]の話がある。[[1981年]]に監督した『[[殺人魚フライングキラー]]』が失敗した際、キャメロンは[[評論家]]や[[マスメディア|マスコミ]]にひどくこき下ろされたため、屈辱のあまり熱を出して寝込んでしまったという。そのとき、「炎の中から[[ロボット]]が現れて自分を殺しに来る」という悪夢を見たことが、本作を製作するきっかけとなったと語っている{{要出典|date=2022-05-23}}。 作中で「'''審判の日'''」 ('''Judgement day''') とされているのは[[1997年]][[8月29日]]であるが、この月日は当時アメリカと[[冷戦]]を激化させていた[[ソビエト連邦|ソ連]]による初の[[原子爆弾|原爆]]実験 ([[RDS-1]]) に由来し<ref>{{Cite news|url=http://www.thehollywoodnews.com/2016/07/05/terminator-2-judgement-day-turns-25-things-never-knew-film/|title=‘Terminator 2: Judgement Day’ Turns 25: 25 Things You Never Knew About The Film|publisher=The Hollywood news|date=2016-07-05|accessdate=2019-06-27}}</ref>、映画公開の前年([[1983年]])には、実際に[[第三次世界大戦]]が起きかねない[[スタニスラフ・ペトロフ|監視システムのコンピュータが核ミサイル発射を誤報した事件]]も起きていた<ref>{{Cite web |url=https://medium.com/@mariogomes/terminator-d0bee5ac36bf |title=Terminator Franchise: An Analysis |publisher=Medium|date=2019-08-15 |accessdate=2019-08-21}}</ref>。キャメロンは本作について、冷戦を意識していたことを述べている<ref>{{Cite web |url=http://www.nerdreport.com/2015/06/29/franchise-fred-interview-david-ellison-and-dana-goldberg-on-terminator-genisys/ |title=Franchise Fred Interview: David Ellison and Dana Goldberg on Terminator: Genisys |publisher=Nerd Report|date=2015-06-29 |accessdate=2019-08-21}}</ref>。 製作に当たり、キャメロンは「現代の技術では殺人ロボットの実現は不可能であるし、かといって未来の話ではセットに費用がかかるうえに観客にも受け入れがたいと考えた結果、未来の殺人ロボットが現代にやって来る[[タイムトラベル]]のアイデアが浮かんだ」と語っている{{要出典|date=2022-05-23}}。 === 人選 === [[File:Reagan+Schwarzenegger1984.jpg|thumb|upright=0.8|『ターミネーター』の公開2ヶ月前に、[[ロナルド・レーガン]][[大統領]]と握手を交わすシュワルツェネッガー]] 主役の[[T-800]]について、企画当初の予定では続編『[[ターミネーター2]]』(1991年)に登場する[[T-1000]]のような、「一見すると貧弱そうな普通の男が異様な強さを発揮する」という[[キャラクター]]を構想していた。その候補には[[ランス・ヘンリクセン]]が挙がっており、[[パイロット版]]も制作されていた。また、[[O・J・シンプソン]]をT-800役に配役する構想もあった<ref name="front-row_17433732">{{Cite news|url=https://front-row.jp/_ct/17433732|title=シュワルツェネッガー、『ターミネーター』で当初T-800を演じたくない理由があった|newspaper=フロントロウ|publisher=オウトグラフ プロダクション|date=2021-02-24|accessdate=2021-02-27}}</ref>。 一方、俳優としてのキャリアが浅かったシュワルツェネッガーは、[[台詞]]を多く喋りたいという理由や主役を演じたいという理由から、カイル・リース役を望んでいた{{R|front-row_17433732}}。しかし、キャメロンはシュワルツェネッガーと会食した際にT-800の設定についての良いアイディアを1時間も力説され、この役には彼こそが相応しいと確信して変更する{{R|front-row_17433732}}。その結果、T-800はシュワルツェネッガーを象徴する役柄となり、シリーズを通して出演する名キャラクターとなった{{R|front-row_17433732}}。なお、次作『ターミネーター2』以降は[[悪役]]から[[主役]]へと立場が変化し、[[人類]]側(ジョン・コナーを[[正義の味方|守る立場]])として活躍するようになる。 本作以前のシュワルツェネッガーは、『[[コナン・ザ・グレート]]』(1982年)のヒットもあって全くの無名というわけではなかったものの、元々[[オーストリア]]出身で強い[[ドイツ]][[訛り]]があるうえ、当時は[[英語]]が不得意なこともあり中々役に恵まれず、苦労を重ねていた。しかし、却ってこの英語の不得手さがロボットであるT-800の非人間感と相性がよく、『コナン』に次ぐシュワルツェネッガーの当たり役となった<ref>[https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/81057/2]</ref>ことで、一躍国際的な[[セレブリティ|スター]]へと[[アメリカン・ドリーム|上り詰めた]]。 カイルを演じたマイケル・ビーンも、オーディション当時は[[舞台劇]]の影響で[[南部アメリカ英語|南部訛り]]が強かったため、不自然という理由で落とされかけたが、[[エージェント]]によって[[南部]]出身者ではないと説明され、危機を脱した{{要出典|date=2022-05-23}}。 なお、主役を交代したヘンリクセンは本作でブコビッチ[[刑事]]を演じている。 === 裁判 === 設定の一部について、[[1963年]]のテレビドラマ『[[アウター・リミッツ (1963年)|アウター・リミッツ]]』の[[ハーラン・エリスン]]が脚本を担当した2つのエピソード(第33話「38世紀から来た兵士」、第37話「ガラスの手を持つ男」)から剽窃したものである、との訴えがエリスン側から起こされた。結局、キャメロンは80万ドルを支払い、ビデオ化以降のエンドクレジットに「Acknowledgement to the works of HARLAN ELLISON」(ハーラン・エリスンの作品に謝辞)と追加することを条件に和解した{{要出典|date=2022-05-23}}。 ; 「38世紀から来た男」 : 未来から戦いしか知らない男がタイムスリップしてきて、愛や平和といった未来では存在しない感情や常識に触れていくことで、少しずつ人として変化していくストーリー。 ; 「ガラスの手を持つ男」 : 高層ビルの中で、なぜか異星人に狙われるガラス製の手をもつ男が、奪われた指(実は指は記憶回路である)を一つずつ取り戻していく。それにより、自身が背負うことになった重大な使命を思いだすというストーリー。 === エンディング === [[ガソリンスタンド]]にいた少年に「[[嵐]]が来るよ」と言われたサラが「ええ、わかってるわ」と返すシーンは「[[機械]]との戦争が待つ未来」を暗示させるものであるが、これは製作陣があらかじめ続編を意識していたことの表れともされている。元々は、破壊されたT-800の[[集積回路|チップ]]を技術者が回収するシーンに加え、最後の戦いを繰り広げた場所がサイバーダイン社であったという、より強い[[伏線]]を張ったエンディングであったが、キャメロンの「映画は説明しすぎず、観客の想像に任せたほうがいい」との判断により、カットされた{{要出典|date=2022-05-23}}。 == 評価 == 本作は批評家から大絶賛されており、映画批評集積サイトの「[[Rotten Tomatoes]]」には60件以上のレビューがある。批評家支持率は100%、観客満足度は89%と、高く評価されている<ref>{{Cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/terminator|title=ROTTEN TOMATOES|publisher=Variety|date=2020-08-03|accessdate=2020-08-03}}</ref>。平均点は10点満点中8点となっており<ref>{{Cite web|url=https://m.imdb.com/title/tt0088247/?ref_=fn_al_tt_0|title=IMDB|publisher=Variety|date=2020-08-03|accessdate=2020-08-03}}</ref>、インターネット総合評価では、批評家による加重スコアが100のうち84、観客によるスコアが10のうち7.5となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/the-terminator|title=METACRITIC|publisher=Variety|date=2020-08-03|accessdate=2020-08-03}}</ref>。 === 受賞記録 === * 1985年「'''[[アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭]]'''」グランプリ受賞<ref name="allcinema-1985">[[スティングレイ (企業)|株式会社スティングレイ]]、[[allcinema]]、[https://www.allcinema.net/award/726 1985年 第13回 アボリアッツ・ファンタスティック映画祭]。2020年2月1日閲覧。</ref>。 == 日本語版 == [[1985年]][[5月25日]]に劇場公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/46382/|title=ターミネーター:作品情報|website=映画.com|accessdate=2022-12-31}}</ref>。 === 日本語吹替 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !rowspan="2"|役名 !rowspan="2"|俳優 !colspan="4"|日本語吹替 |- ![[テレビ朝日]]版 !旧[[VHS]]版 ! 新VHS/[[DVD]]/[[Blu-ray Disc|BD]]版 ![[テレビ東京]]版 |- |ターミネーター<br />([[T-800]])||[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]||colspan="2"|[[大友龍三郎]]||colspan="2"|[[玄田哲章]] |- |カイル・リース||[[マイケル・ビーン]]||[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]||[[池田秀一]]||[[宮本充]]||[[小山力也]] |- |サラ・コナー||[[リンダ・ハミルトン]]||[[戸田恵子]]||[[高島雅羅]]||[[佐々木優子]]||[[松本梨香]] |- |エド・トラクスラー<ref>テレビ東京版の吹き替えでは警部補になっている。</ref>||[[ポール・ウィンフィールド]]||[[福田豊土]]||[[富田耕生]]||[[宝亀克寿]]||[[内海賢二]] |- |ハル・ブコビッチ||[[ランス・ヘンリクセン]]||colspan="2"|[[千田光男]]||[[仲野裕]]||[[内田直哉]] |- |ピーター・シルバーマン||[[アール・ボーエン]]||[[阪脩]]||rowspan="3"|[[塚田正昭]]||rowspan="3"|[[稲葉実]]||[[岩崎ひろし]] |- |アラモ鉄砲店店主||[[ディック・ミラー]]||[[徳丸完]]||塚田正昭 |- |掃除屋の男||ノーマン・フリードマン||[[藤本譲]]||藤本譲 |- |<small>ジンジャー・ヴェンチュラ</small>||ベス・モッタ||高島雅羅||[[叶木翔子]]||[[棚田恵美子]]||[[雨蘭咲木子]] |- |マット・ブキャナン||リック・ロッソヴィッチ||[[村山明 (声優)|村山明]]||[[二又一成]]||[[堀川仁]]||[[檀臣幸]] |- |パンクのリーダー||[[ビル・パクストン]]||[[鈴置洋孝]]||中博史||[[坂口賢一]]||[[加瀬康之]] |- |パンクA||[[ブライアン・トンプソン]]||二又一成||[[桜井敏治]]||[[加勢田進]]||[[中博史]] |- |パンクB||ブラッド・リアーデン||千田光男||[[島田敏]]||||[[土田大]] |- |サラの母(声のみ)||不明||[[水城蘭子]]||[[竹口安芸子]]||[[寺内よりえ]]||[[佐藤しのぶ (声優)|佐藤しのぶ]] |- |<small>ガソリンスタンド店主</small>||Tony Mirelez||[[及川ヒロオ]]||[[丸山詠二]]||仲野裕||[[水野龍司]] |- |ナンシー||ショウン・シェップス||[[小宮和枝]]||[[滝沢久美子]]||[[浅野まゆみ]]||[[魏涼子]] |- |路地裏の警官||エド・ドゥーガン||[[屋良有作]]||rowspan="2"|[[幹本雄之]]||rowspan="2"|[[乃村健次]]||[[廣田行生]] |- |電話の男||ジョン・E・ブリストル||[[村松康雄]]||[[辻つとむ]] |- |電話の妻(声のみ)||不明||[[高橋ひろ子]]||[[滝沢ロコ]]||||[[喜田あゆ美]] |- |男性キャスター||ジョー・ファラゴ||[[嶋俊介]]||[[中江真司]]||||[[津田英三]] |- |女性キャスター||ヘティ・リン・ハーツ||[[鳳芳野]]||竹口安芸子||||[[むたあきこ]] |- |警察署受付||ブルース・M・カーナー||村松康雄||[[島香裕]]||乃村健次||水野龍司 |- |写真を撮るメキシコの少年||フィリップ・ゴードン||colspan="2"|原語音声||浅野まゆみ||原語音声 |- |男性客3||ヒュー・ファリントン||阪脩||秋元羊介||||登場シーンカット |- |女性客1||ハリエット・メディン||竹口安芸子||滝沢ロコ||佐藤しのぶ||登場シーンカット |- |取り押さえられる容疑者男性||||藤本譲||島香裕||乃村健次||[[坂東尚樹]] |- |ナレーター||||[[伊藤惣一]]||中江真司||[[高宮俊介]]||立原淳平 |- !colspan=6|日本語版制作スタッフ |- |演出||||colspan="2"|[[蕨南勝之]]||[[高橋剛 (音響監督)|高橋剛]]||小山悟 |- |翻訳||[[岡枝慎二]](ソフト版字幕)<br />林完治([[BSプレミアム]]旧版字幕)<br />種市譲二(BSプレミアム新版字幕)||colspan="2"|[[宇津木道子]]||松田海||原口真由美 |- |効果||||リレーション<br />桜井俊哉<br />遠藤堯雄||||||リレーション |- |調整||||切金潤||||金谷和美||重光秀樹 |- |担当||||向井士郎||||夏海佑実||別府憲治 |- |プロデューサー||||猪谷敬二||||||久保一郎<br />渡邊一仁 |- |制作協力||||||||[[ビーライン]]|| |- |製作||||colspan="2"|[[東北新社]]||エンジェル<br />ワークス||テレビ東京<br /><small>[[ケイエスエス]]</small> |- |初回放送||||[[1987年]][[10月18日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』<br />正味約99分 | ||||[[2003年]][[5月29日]]<br />『[[木曜洋画劇場]]』<br />正味約98分 |- |} 旧VHS版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではVHS版と表記されている)の初出は[[エンターブレイン|アスキー映画]]株式会社より発売(販売元は[[ポニーキャニオン]])のVHSにて。 新[[VHS]]/[[DVD]]/BD版吹替(日本語吹替完全版コレクターズブルーレイボックスではBD/DVD版と表記されている)の初出は1998年2月25日[[カルチュア・パブリッシャーズ]]より発売のDVDにて。その後[[20世紀スタジオ#日本|20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン]]及び[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]より発売の各種VHS/DVD/BD(後述)に収録されている。 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンの「[[吹替の帝王]]」シリーズ第9弾として、上記の全4種類の吹替版を収録した[[Blu-ray Disc]]「ターミネーター 〈日本語吹替完全版〉 コレクターズ・ブルーレイボックス」が2015年6月24日に発売。特典としてテレビ版吹替台本2冊とインタビュー集が付属している<ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/690855.html|title=レアな大友龍三郎版も収録、「ターミネーター」“吹替の帝王”版Blu-rayが登場|newspaper=AV Watch|publisher=インプレス|date=2015-03-03|accessdate=2021-02-17}}</ref>。 === テレビ放送 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 地上波放送履歴 |- !回数 !放送局 !放送枠 !放送日 !放送時間([[日本標準時|JST]]) !放送分数 !吹替版 !視聴率 !備考 |- !1 |テレビ朝日||日曜洋画劇場||1987年10月18日(日) ||21:02-22:54||rowspan="5"|112分||rowspan="9"|テレビ朝日版||19.9%|| |- !2 |[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||[[ゴールデン洋画劇場]]|| 1989年2月4日(土) ||21:02-22:54||19.4%<ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou/column/page/19/index.html 今回の注目作:「プレデター」]</ref>|| |- !3 | rowspan="3"|テレビ朝日||rowspan="3"|日曜洋画劇場||1990年11月25日(日) ||21:02-22:54||19.4%|| |- !4 |1991年9月8日(日)||21:02-22:54||29.7% || |- !5 |1993年3月28日(日) ||21:02-22:54|| || |- !6 |フジテレビ||ゴールデン洋画劇場|| 1996年9月28日(土)||20:59-22:54||115分|| || |- !7 |テレビ朝日||日曜洋画劇場||1997年12月28日(日)||21:02-22:54||112分||12.8%|| |- !8 |[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||[[金曜ロードショー]]||2000年7月14日(金) ||21:03-22:54||111分||16.2%|| |- !9 |フジテレビ||ゴールデン洋画劇場 ||2001年4月21日(土) ||21:30-23:24||rowspan="4"|114分||14.8%|| |- !10 |rowspan="3"|テレビ東京||rowspan="2"|木曜洋画劇場||2003年5月29日(木) ||21:00-22:54||rowspan="3"|テレビ東京版||10.9%|| |- !11 |2004年12月16日(木) ||21:00-22:54||7.8%|| |- !12 |[[水曜シアター9]]||2009年6月3日(水) ||21:00-22:54||7.7%|| |- |} * 1991年9月放映時の視聴率は、日曜洋画劇場の歴代視聴率の第4位にランクインした。 * 1987年10月18日の[[地上波]]初放送に先立つ1~3週間前に放送された「番組予告編」は声優の[[小林清志]]が[[ナレーション]]を担当した。 == その他 == === 配役・設定など === * 1984年[[2月8日]]から撮影は開始されたが、その直後からシュワルツェネッガーはキャメロンの完全主義を思い知らされることになった。「あの時のジェームズは凄かったよ。事前に、撮影するショットをとても細かく説明するんだ。その位置が1ミリずれただけで、物凄く凶暴になるんだよ!」と述べている。また、ターミネーターが車の[[フロントガラス]]を叩き割るシーンで、ターミネーターの体から煙が出ている様子を再現する際に、本物の[[酸]]をかけて煙を発生させた。スタッフ側は「弱い酸だから大丈夫だ」と主張したが、シュワルツェネッガーは「もっと別の方法はなかったのか」とずっと疑問に思っていたという。 * カイルの回想にてシュワルツェネッガー以外の筋骨隆々のターミネーター(演者は[[ボディービルダー]]の[[フランコ・コロンブ]])が登場している。 * サラの[[アルバイト]]は、キャメロンの最初の妻シャロンがやっていた仕事と同じウエイトレスにした(サラは「ボブのビッグバンズ」で働いているが、シャロンは「ボブのビッグボーイ」という[[レストラン]]で働いていた)。 * 主役を外されたヘンリクセンは「ジムにごまかされたと感じたことは、一瞬たりとも無かったね。僕はもうこの業界が長くて、時にはそうなることもあるって分かってるし。確かに自分がターミネーターを演じることができなかったのは残念だけど、それと同じくらいこの映画を作って欲しかったんだよ」と語った。 * [[日本]]の[[安川電機]]製の[[産業用ロボット]]である「MOTOMAN」がクライマックスのシーンに出演している<ref>{{Cite web |url=https://www.yaskawa.co.jp/wp-content/uploads/2004/06/p06_071.pdf |format=PDF |title=YASKAWA NEWS No.267 |publisher=安川電機 |accessdate=2017-11-03}}</ref>。 === 撮影技術など === * 肉体を焼失したT-800が[[骨格]]のみ(エンドスケルトン)で[[追跡]]を再開する以降の部分は、トラックに轢かれて片足が[[故障]]した設定にし、[[ストップモーション・アニメーション]]の予算を削減している。また、ストップモーションが必要な全身が映るカットはわずかであり、ほとんどのシーンはフルサイズの[[模型]]をスタッフが操作している。 * 2001年発売の2枚組[[DVD]](GXBA-15917)発売の際に、次作で[[アカデミー賞]]を獲得した[[スカイウォーカー・サウンド]]により[[音響効果]]が全面的にリニューアルされた。2001年盤ではオリジナル・[[モノラル]]音声も収録されていたが、2003年の[[DTS (サウンドシステム)|DTS]]盤2枚組DVD(GXBU-15917)発売以降のすべての映像ソフトはオリジナルのモノラル音声がカットされており、オリジナル版を聴くことができなくなっている。 === 台詞 === * 警察署窓口を去る際にT-800が口にする「'''[[I'll be back (アーノルド・シュワルツェネッガー)|I'll be back.]]'''(また戻ってくる)」は、本作以降シュワルツェネッガーの[[トレードマーク]]となり、続編を含む以降の出演作で同じ台詞を言う[[シチュエーション]]が多用されている。 * サラがT-800を[[プレス機]]で押し潰すときのセリフ「You are terminated.(「抹殺完了」「お前を抹殺する」)」は、『[[ターミネーター3]]』(2003年)で[[T-850]]が[[T-X]]を破壊するときにも使用された。『[[ターミネーター2]]』(1991年)では、ジョンの「Is he dead?(死んだの?)」に対し「Terminated.(完全に)」という台詞が発せられている。 * カイルがサラに言った「機械のことは信用するな。やつらは[[悲しみ]]も[[感情]]もないのだ」という台詞は『ターミネーター2』や『[[ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ]]』(2008年)でサラが頑なに信じている言葉でもある。『ターミネーター2 特別編』(1993年)では[[T-800]]のチップを取り出し、叩き壊そうとしてジョンに制止されるシーンがある他、 サラはジョンを助けに来た[[TOK715]]型ターミネーター(キャメロン)をも信用してはいない<ref>『ターミネーター2』のT-800に関しては、ジョンが人間に関する事を教えたり、一緒に遊んだりする様子を見て次第に信用していき、別れの際には[[握手]]を交わしており、このT-800が[[命]]の[[尊厳]]や、悲しみの感情を理解した事に関して、彼等が理解出来たのなら、きっと私達にだって理解できるはずと言う語りをラストのシーンにて発言している。</ref>。 === 削除シーン === * サラがサイバーダイン社の住所を電話帳で確認し、カイルにスカイネットの破壊を提案するが、危険であるために拒否される。 * 全てが消え失せてしまった絶望に満ちた未来と現在のあまりの違いに涙を流すカイル。 * 最終決戦間近のサラが[[ディズニーランド]]に行こうと約束したり、未来人であるカイルが[[ホットドッグ]]を知らないなど、つかの間の日常生活を強調した場面があったが、「クライマックスに向けての流れを阻害する」との理由でカットされた。 === 銃器類 === * T-800は銃砲店から奪った[[AR-18]]や[[ウージー|UZI]]を[[フルオート]]で発砲しているが、比較的銃器に寛容な[[アメリカ合衆国]]といえど、フルオート機能を持つ銃器の売買には警察および[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局|BATFE]]の許可が必要である(劇中では許可申請証を店員が出す前に射殺した)。小説版には、T-800が改造マニュアルを見ながら、フルオート射撃可能な状態へ改造する場面が登場する。ちなみに、これは実際に[[アクション映画]]等の銃器担当スタッフがフルオート銃器を調達するために常用する手段(もちろん許可が必要)である。なお、T-800の使用する銃は大半が「[[自動火器|自動式]]」なのに対して、カイルは手動装填式の[[ショットガン]]や[[回転式拳銃]]という「原始的な構造」の銃を使っている。 * 銃砲店でT-800が[[銃]]を選ぶ際に、「[[射程]]400のフェイズド[[プラズマ]][[光線銃|ライフル]]」を指定するが、この時代には存在しない[[指向性エネルギー兵器|未来の兵器]]であり、情報ミスである。これに対応した銃砲店の店主は、「見た通りさ、ないだろ?(Hey, just what you see, pal!)」と軽い調子で受け答えしている。ソフト版字幕では「なんですそれ?」、テレビ朝日と旧[[VHS]]版吹替では「生憎そいつは今、無いんだ」、DVD版吹替では「それは今、置いてないね」、テレビ東京版吹替では「ここにある物にしてくれ」、公開時の劇場字幕と当時の[[ノベライズ]]版では「まだ入荷していません」とそれぞれ訳されている。 * 映画の宣伝[[ポスター]]等でT-800が構えていた[[AMTハードボーラー]]は、銃の上に[[照準器|レーザーサイト]]が装備されている。作中ではT-800が銃砲店から強奪した銃の中の1挺で、1人目のサラ・コナーの殺害から、[[ディスコ]]の[[銃撃戦]]まで使われている。この特徴的なレーザーサイトは、当時いち早く銃器用レーザーサイトを開発して販路を構築していたレーザープロダクツ社(後の[[シュアファイア]]社)の[[プロトタイプ|試作品]]で、宣伝も兼ねて提供されたものである。ただし、撮影に使われたものは開発段階のもので、作動に十分な容量のある内蔵式[[バッテリー]]の開発が済んでいなかったため、電源はコードを介して外部から取られている(腕の袖で隠れる部分にバッテリーが括り付けられている)。 === 後続シリーズとの関係 === * カイルは[[パトカー]]から奪ったショットガンを、[[ソードオフ・ショットガン|ストックを切り落として全長を短くし]]、使いやすく改造してから右腕にひもでくくりつけ、落としたり奪われないようにしているが、『[[ターミネーター4]]』(2009年)では少年時代のカイルがマーカス・ライトから銃に関する「[[手品]]」としてひもでくくりつけるアイディアを教わるシーンがある。 === その他 === * 日本での公開日([[1985年]]5月25日)から30年を記念して、2015年に[[日本記念日協会]]によって、[[5月25日]]を『'''ターミネーターの日'''』と認定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0073031|title=5月25日が「ターミネーターの日」に認定!シュワちゃんもご満悦|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-05-08|accessdate=2015-05-08}}</ref>。 * [[岐阜県]][[下呂市]]にある「留之助商店(オーナーは[[SFX]]著書で有名な[[中子真治]])」にて、実際に劇中で使用されたT-800の実物大モデルが展示されている。 * 1987年に本作と同じく[[オライオン・ピクチャーズ]][[映画配給|配給]]で公開された『[[ロボコップ]]』の予告において、本作の[[サントラ]]が用いられている。 == VHS/DVD/Blu-ray == 特記がない場合[[20世紀スタジオ#日本|20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン]]が発売。 === VHS === * ターミネーター 発売日:1989年10月21日(字幕版)、1992年2月21日(吹替版) ** [[エンターブレイン|アスキー映画]]株式会社(旧:ベストロン映画株式会社)より発売。[[ポニーキャニオン]]が販売。 * ターミネーター 発売日:1998年1月25日 ** [[カルチュア・パブリッシャーズ]]より発売。 * ターミネーター 発売日:2001年11月22日 === DVD === * ターミネーター 品番:CPVD-1001 発売日:1998年2月25日 ** カルチュア・パブリッシャーズより発売。 * ターミネーター〈特別編〉 品番:GXBA-15917 発売日:2001年11月22日 * ターミネーター〈特別編〉 品番:GXBD-15917 発売日:2002年6月28日 * ターミネーター アルティメット・エディション 品番:GXBU-15917 発売日:2003年7月04日 * ターミネーター 品番:GXBM-15917 発売日:2003年9月19日 * ターミネーター 品番:GXBH-15917 発売日:2003年11月21日 * ターミネーター 品番:GXBN-15917 発売日:2004年3月19日 * ターミネーター 品番:GXBNA-15917 発売日:2004年11月19日 * ターミネーター 品番:GXBNC-15917 発売日:2005年7月7日 * ターミネーター 品番:GXBND-15917 発売日:2005年11月12日 * ターミネーター アルティメット・コレクション 品番:TMUC-43877 発売日:2006年6月21日 ** [[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]より発売。 * ターミネーター 品番:MGBNJ-15917 発売日:2006年10月27日 * ターミネーター 品番:MGBGD-15917 発売日:2006年10月27日 * ターミネーター 品番:MGBNL-15917 発売日:2007年1月26日 * ターミネーター <新生アルティメット・エディション> 品番:MGBUB-15917 発売日:2007年3月23日 * ターミネーター 品番:MGBSY-15917 発売日:2007年7月27日 * ターミネーター 品番:MGBNT-15917 発売日:2007年10月24日 * ターミネーター 品番:MGBNY-15917 発売日:2008年10月16日 * ターミネーター <2枚組> 品番:MGBNX-15917 発売日:2009年11月20日 * ターミネーター 品番:MGBNW-15917 発売日:2010年04月23日 * ターミネーター 品番:MGBDC-15917 発売日:2010年10月8日 * ターミネーター<2枚組>〔初回生産限定〕 品番:MGBY-15917 発売日:2012年3月16日 * ターミネーター 品番:MGXC-15917 発売日:2012年12月19日 * ターミネーター 品番:MGBNG-15917 発売日:2014年4月17日 * ターミネーター 品番:MGBNGA-15917 発売日:2015年6月24日 ** [[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]より発売。 === Blu-ray === * ターミネーター スペシャル・[[Blu-ray|ブルーレイ]]BOX<3枚組>〔初回生産限定〕 品番:MFXL-38274 発売日:2012年12月19日 ** 『ターミネーター』『[[プレデター (映画)|プレデター]]』『[[コマンドー]]』の3作品を収録している。 * ターミネーター 品番:MGXJC-15917 発売日:2014年7月2日 ** ウォルト・ディズニー・ジャパンより発売。 * ターミネーター〈日本語吹替完全版〉コレクターズ・ブルーレイBOX〔初回生産限定〕 品番:MGXE-15917 発売日:2015年6月24日 ** ウォルト・ディズニー・ジャパンより発売。 * ターミネーター〔期間限定出荷〕 品番:MGXJD-15917 発売日:2015年6月24日 ** ウォルト・ディズニー・ジャパンより発売。 * ターミネーター〈日本語吹替完全版〉〔[[スチールブック]]仕様〕【完全数量限定生産】 品番:MGXEA-15917 発売日:2015年11月6日 * ターミネーター 品番:1000808495 発売日:2021年12月3日 ** [[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント]]より発売。[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|NBCユニバーサル]]が販売。 == ゲーム作品 == ; ザ・ターミネーター([[Super Nintendo Entertainment System]]) : 日本国外のみで発売されたゲーム。左・右スクロール型の[[アクションゲーム]]。[[カーチェイス]]ステージなどもある。難易度が高く、SNESのソフトでありながらコンティニューや[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]等もない。 ; ザ・ターミネーター([[メガCD]]) : 日本国外で発売されたメガCD版。{{仮リンク|ヴァージン・インタラクティブ|en|Virgin Interactive}}制作。 : 未来編、敵基地内、現代編とターミネーターの舞台となったシーンを舞台とする2Dアクション。メガCDを活かした映画ムービーの導入やトミー・タラリコ作曲のBGMが特徴。 ; モータルコンバット11 : 2019年10月8日に『{{仮リンク|モータルコンバット11|en|Mortal Kombat 11}}』にてT-800が[[ダウンロードコンテンツ|DLC]]キャラとして登場。『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』の姿で登場する<ref>{{Cite news|title=『モータルコンバット11』にターミネーターことT-800、バットマンのジョーカーがDLC参戦|newspaper=Engadget 日本版|date=2019-08-22|url=https://japanese.engadget.com/2019/08/22/11-t-800-dlc/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190822122725/http://japanese.engadget.com/2019/08/22/11-t-800-dlc/|archivedate=2019-08-22|deadlinkdate=2022-05-01|accessdate=2020-05-15}}</ref>。 このほか、[[サン電子|SUNSOFT]]がライセンスを取得し、[[ファミリーコンピュータ]]/[[Nintendo Entertainment System]]向けアクションゲームを開発。1989年にPV映像を正式発表していたが、原作のストーリーに沿っていないことから[[ライセンス]]が取り消された。このソフトはキャラクターや設定を変更し、翌年、『[[ラフワールド]]』([[:en:Journey to Silius|Journey to Silius]])として世に出された<ref>{{Cite news|title=発売されなかったファミコン版『ターミネーター』のプロモ映像が発掘! 後に『ラフワールド』になった作品|newspaper=Game*Spark|date=2019-07-09|url=https://www.gamespark.jp/article/2019/07/09/91228.html|accessdate=2020-05-15}}</ref>。 == 関連書 == * 『ターミネーター』(講談社X文庫)R・フレイクス、W・H・ウィッシャー訳 [[吉岡平]]著 1985年 {{ISBN2|4061900315}} * 『ターミネーターの秘密』 HOLLYWOOD見聞会 データハウス 1993年 {{ISBN2|4887181833}} * 『『ターミネーター』解剖』 ショーン・フレンチ [[矢口誠]]訳 扶桑社 2003年 {{ISBN2|9784594041007}} 上記のほか、ダーク・ホース社出版の『[[エイリアンVSプレデターVSターミネーター]]』のコミックがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *「[[I'll be back (アーノルド・シュワルツェネッガー)|台詞:I'll be back.]]」 *[[グリフィス天文台]] *[[ホンダ・ドリームCB750FOUR]] *[[技術的特異点]] *[[ウエストワールド]] == 外部リンク == * {{Allcinema title|13522|ターミネーター}} * {{Kinejun title|5389|ターミネーター}} * {{Movie Walker|mv5379|ターミネーター}} * {{映画.com title|46382|ターミネーター}} * {{Amg movie|49101|The Terminator}} * {{IMDb title|0088247|The Terminator}} {{ターミネーター}} {{ジェームズ・キャメロン監督作品}} {{サターン賞 SF映画賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たあみねえたあ}} [[Category:ターミネーター|1]] [[Category:タイムトラベルを題材とした映画作品]] [[Category:オライオン・ピクチャーズの作品]] [[Category:ワーナー・ブラザースの作品]] [[Category:ジェームズ・キャメロンの脚本映画]] [[Category:ジェームズ・キャメロンの監督映画]] [[Category:1984年の映画]] [[Category:サターン賞受賞作品]] [[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]] [[Category:未来を題材とした映画作品]] [[Category:ロサンゼルスで製作された映画作品]] [[Category:ストップモーション・アニメーションを使用した映画作品]]
2003-08-21T08:41:54Z
2023-12-22T05:04:19Z
false
false
false
[ "Template:Kinejun title", "Template:ジェームズ・キャメロン監督作品", "Template:Infobox Film", "Template:Multiple image", "Template:要出典", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Cite web", "Template:ターミネーター", "Template:See also", "Template:ISBN2", "Template:Reflist", "Template:映画.com title", "Template:IMDb title", "Template:サターン賞 SF映画賞", "Template:Otheruses", "Template:R", "Template:Allcinema title", "Template:Movie Walker", "Template:Amg movie" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
13,674
アーノルド・シュワルツェネッガー
アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガー(Arnold Alois Schwarzenegger、発音 [ˈʃvɑːrtsnɛɡər]、ドイツ語発音: [ˈaɐ̯nɔld̥ ˈalɔʏs ˈʃvaɐ̯t͡sn̩ˌɛɡɐ]、1947年7月30日 - )は、オーストリア系アメリカ人の俳優、実業家、元ボディビルダー、元政治家であり、2003年から2011年まで第38代カリフォルニア州知事を務めた。 シュワルツェネッガーは、ボディビル時代には「オーストリアのオーク(Austrian Oak)」、俳優時代には「アーニー(Arnie)」や「シュワジー(Schwarzy)」、政治家時代には「ガバネーター(The Governator)」(「州知事(Governor)」と「ターミネーター(Terminator)」を混ぜたもの)というニックネームで呼ばれていた。日本では「シュワちゃん」という愛称で知られている。 ユーリ・ウラソフへの憧れから15歳で重量挙げを始め、20歳でミスター・ユニバースのタイトルを獲得し、その後、ミスター・オリンピア・コンテストで7度の優勝を果たすなど、ボディビル界の重鎮として多くの著書や記事を残している。 ミスター・オリンピアに次いで重要なボディビル・イベントとされるアーノルド・スポーツ・フェスティバルは、彼の名前にちなんで命名されている。 彼は、史上最も偉大なボディビルダーの一人であると同時に、最もカリスマ的で有名なボディビル界のアンバサダーであると広く認められている。 ボディビルを引退した後、シュワルツェネッガーは、ハリウッドのアクション映画スターとして世界的に有名になった。ボディビルのドキュメンタリー映画『アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男』(1977年)に出演した後、剣と魔法の物語『コナン・ザ・グレート』(1982年)でブレイクし、1984年には続編が製作されるほどの興行成績を収めた。その後、批評家や商業的に成功したSF映画『ターミネーター』(1984年)にタイトルキャラクターとして出演し、その後、続編の『ターミネーター2』(1991年)、『ターミネーター3』(2003年)、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』(2015年)、『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2019年)で同様のキャラクターを演じている。また、『コマンドー』(1985年)、『バトルランナー』(1987年)、『プレデター』(1987年)、『トータル・リコール』(1990年)、『トゥルーライズ』(1994年)などの成功したアクション映画に加え、『ツインズ』(1988年)、『キンダーガートン・コップ』(1990年)、『ジュニア』(1994年)、『ジングル・オール・ザ・ウェイ』(1996年)などのコメディ映画や、アクションとスリラーが混在したバディ刑事ドラマ『レッドブル』(1988年)などにも出演している。 映画製作会社オーク・プロダクションズの創設者でもある。 2003年10月7日に行われたグレイ・デイビスカリフォルニア州知事(当時)の後継者を決める特別リコール選挙で、共和党候補として初当選した。投票率は48.6%で、次点のクルーズ・ブスタマンテに17ポイントの差をつけた。2006年のカリフォルニア州知事選挙では、55.9%の得票率で再選され、知事としての任期を全うした。2011年、知事としての任期を満了し、俳優業に復帰した。 1986年にジョン・F・ケネディ大統領の姪であるマリア・シュライバーと結婚。1997年に家政婦との間に子供をもうけたことをシュワルツェネッガーが認めたため、2011年に別居し、2021年に離婚が成立した。 アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガーは1947年7月30日、オーストリア共和国シュタイアーマルク州タール町で、父グスタフ・シュワルツェネッガー(1907年 - 1972年)と母アウレーリア・シュワルツェネッガー(旧姓・ヤドルニー、1922年 - 1998年)の次男として生まれた。 シュワルツェネッガーの家系は以前からチェコ系ではないかといわれていたが、2020年、スロバキアの家系研究者アリツァ・ヤンチョコヴァーらの調査により、父グスタフ方の元の姓はマフ(チェコ語:Mach)で、1841年生まれの曽祖父ウェンゼル・マフ(チェコ名・ヴァーツラウ、チェコ語:Václav)が、出身地のボヘミア地方コチョウ村(現・チェコ共和国プルゼニ県タホウ郡コチョウ村)から当時鉱山町だった現在のシュタイアーマルク州ノイベルク・アン・デル・ミュルツ町に移り住み、鍛冶屋を営んでいたことが明らかになった 。ヤンチョコヴァーの調査で、1872年に誕生した祖父カールは当初マフ姓を名乗ったものの、非嫡出子(婚外子)であったため、のち母方のシュワルツェネッガー姓に改めていたことも判明した。 また、ニーダーエスタライヒ州グログニッツ町出身の母アウレーリア方の家系はよく分かっていないが、旧姓のヤドルニー(チェコ語:Jadrný)はチェコ人の姓であり、やはりチェコ系であるとみられている。 父グスタフはオーストリア連邦陸軍小隊長を経て1937年に警察官になった後、アンシュルス(オーストリア併合)直前の1938年、自発的にオーストリア国内のドイツ国家社会主義労働者党への入党を申請し、1939年には同党所有の準軍事組織である突撃隊への入隊も申請したが、実際に入党できたのはドイツ国防軍入隊(1939年)後の1941年だった。第二次世界大戦では第4装甲軍第521野戦憲兵隊先任軍曹として東部戦線に従軍。スターリングラードの戦いで負傷し、第一級鉄十字章を受章した。戦傷治療を行っていたがマラリアの発作が続いたため1944年に除隊し、シュタイアーマルク州グラーツ市の郵便監察官として終戦を迎えた。1947年に内務省所管のオーストリア連邦憲兵隊警察官に復帰。地区憲兵隊司令などを歴任した。 グスタフとナチス・ドイツの関係は1990年に明るみになり、シュワルツェネッガーはのちにサイモン・ヴィーゼンタール・センターに対してグスタフの戦時中の記録調査を依頼したが、残虐行為に関与していた証拠は出てこなかった。この調査結果は2003年のカリフォルニア州知事立候補時に広く報道された。シュワルツェネッガーは2004年、『フォーチュン』誌のインタビューで、幼少期に父親から度重なる暴力を振るわれていたことを明らかにし、2021年に公表したビデオメッセージでは、ナチスへの協力に関して本人が戦後抱えた罪悪感と恥辱が暴力の原因だったとの見方を示した。 グスタフは戦争未亡人のアウレーリアと1945年10月20日に結婚した。シュワルツェネッガーによると、彼の両親はとても厳しかったという。「当時のオーストリアは非常に異質な世界だった...何か悪いことをしたり、親に従わなかったりした場合には、罰を免れなかった」とシュワルツェネッガーは語っている。アーノルドは毎週日曜日にミサに通うカトリックの家庭で育った。グスタフはアーノルドよりも長男のマインハルト(1946年-1971年)を好んでいた。彼の好意は「強くてあからさまなもの」であり、それはアーノルドが実子ではないという根拠のない疑惑から生じていた。シュワルツェネッガーは、父親が「(アーノルドの)問題に耳を傾けたり、理解したりすることに耐えられなかった」と語っている。母親とは良好な関係を築いており、母親が亡くなるまで連絡を取り合っていたという。 グスタフはカーリング競技のチャンピオンであったためアーノルドもスポーツに強い関心をもち、サッカー、陸上競技、ボクシング、水泳などを習い、1962年にウエイトトレーニングを始めた。その後徴兵でオーストリア連邦陸軍第4戦車大隊に配属され、史上最年少記録の18歳で戦車兵として任務についた。この基礎訓練期間中にジュニア・ミスター・ヨーロッパ大会で優勝したが、このコンテストに参加するため無許可離隊を冒したため、1週間の収監処分を受けている。 1968年に本格的にボディビルをするため、ジョー・ウイダーに誘われてアメリカ合衆国に移り住んだ。英語が流暢でなく、渡米時の所持金はわずか20ドルであった。1983年にアメリカ国籍を取得したが、オーストリアの国籍も継続して持っている。1979年にウィスコンシン大学から国際市場と経営管理に関してB.A.(Bachelor of Arts)を得た。また、UCLAにも通っており、こちらでは心理学を専攻していた。朝にトレーニングをしてから大学に行き、帰宅したらトレーニングをする日課があり、勉強とトレーニングを両立させる毎日を過ごしていたという。 マインハルトは1971年に飲酒運転で起こした交通事故で死亡し、父グスタフはその翌年、連邦憲兵隊最終勤務地であったシュタイアーマルク州ヴェイツ町で脳卒中のため他界。母アウレーリアは1998年、ヴェイツ町にあるグスタフの墓参直後に病没した。 シュワルツェネッガーはボディビルダーとしてその名が広く知られ、ボディービルの知名度の向上に非常に大きく貢献した点などで、ボディビルの歴史においても特に重要な人物と見なされている。 ボディビルを始めたきっかけは、ボディビル出身であるスティーヴ・リーヴスの主演映画を見て憧れたことによる。その鍛え抜かれた肉体は「オーストリアン・オーク(オーストリアの樫の木)」の愛称をもたらし、ジュニア・ミスター・ヨーロッパ、ミスター・ワールド、5回のミスター・ユニバースなどのタイトルを得ている。 特筆すべきはミスター・オリンピア(ボディビルディングの世界最高峰)での活躍であり、とくにシュワルツェネッガーとその他の選手のオリンピアまでの道のりと、戦いを映したドキュメンタリー『パンピング・アイアン』はボディビル人気に一気に火をつけ、同時にゴールドジムを一躍世界最大のジムにまで成長させた。 オリンピアでの戦績の面でもほぼ無敗という記録を持っており、セルジオ・オリバに唯一敗北しているもののそれ以降はまさしく無敗であり、連続して6連勝という記録を作り上げた。1978年には「世界で最も筋肉が発達した男」としてギネスブックに掲載された。 1980年以降ボディビルの大会に選手としては出場していないものの、おもにボディビルの知名度を上げるための活動に力を入れており、カリフォルニア州知事となったあともオリンピアなどに顔を出し、とくに自身の共同主催するアーノルド・クラシックにはどれほど忙しくても毎年必ず出席している。 その後、いったんは俳優業に移るものの、1980年に突如としてボディビルに復帰した。この復帰はかなり突然のものであり、ほかのオリンピア出場者が飛行機で乗りあった際も映画の撮影であると思われていたといわれている。この大会において優勝7回という大きな記録を作り上げたが、事前に審査委員がシュワルツェネッガーと親しい人物と変わっていたり、明らかに体の仕上がりが甘い、映画の宣伝を兼ねた勝利だとの声も上がり、疑惑が残ったままの勝利と大論争を巻き起こすこととなった。この際に、優勝を確信されていたマイク・メンツァーはその後もシュワルツェネッガーと険悪な関係が続いた。 達成した合計7回の優勝という記録は、リー・ヘイニーが1991年に、ロニー・コールマンが2005年にともに連続8連覇を成し遂げるまで破られなかった。また連続という点では、ドリアン・イエーツが1997年に連続6連覇を成し遂げている。ちなみにロニー・コールマンへのトロフィー授与の際にはシュワルツェネッガー自身も立ち会った。 その業績は毎年開催されるアーノルド・クラシック・ボディビル大会やミスターオリンピアにて称えられる。現在もマッスルアンドフィットネス等、フィットネス関連の雑誌にトレーニング理論の記事を執筆中。2013年よりボディビル雑誌の編集長に就任した。現在はメールマガジン『Arnold's Pump Club』にて、健康・フィットネス情報を無料配信している。 ボディビルから俳優への転身を目指していたシュワルツェネッガーは、『アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス』(1970年)の主人公に抜擢され、ついに実現した。「アーノルド・ストロング(Arnold Stang)」という芸名で出演したが、この映画での彼の訛りはあまりにも酷かったため、制作後にセリフが吹き替えられた。 2本目の映画出演は『ロング・グッドバイ』(1973年)の聾唖のマフィアの殺し屋役で、その後、映画『ステイ・ハングリー』(1976年)ではより重要な役を演じ、ゴールデングローブ賞の新人男優賞を受賞した。シュワルツェネッガーは、俳優としてのキャリアを築く上での初期の苦労を「エージェントやキャスティング担当者から、『体が変だ』『アクセントがおかしい』『名前が長すぎる』などと言われた。基本的に、どこに行ってもチャンスはないと言われていた」と語っている。 シュワルツェネッガーは、ボディビル映画『アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男』(1977年)で注目を集め、知名度を高めた。この映画の要素はドラマ化されている。1977年には、ABCのシットコム『The San Pedro Beach Bums』とABCの警察ドラマ『サンフランシスコ捜査線』に1話ずつゲスト出演している。 シュワルツェネッガーは、『超人ハルク』の主人公のオーディションを受けたが、身長の高さを理由に落選した。シュワルツェネッガーは、1979年のコメディ『サボテン・ジャック』でカーク・ダグラスやアン=マーグレットと共演。1980年には、1950年代の女優ジェイン・マンスフィールドの伝記映画に、マンスフィールドの夫であるミッキー・ハージティ役で出演した。 シュワルツェネッガーの出世作は、1982年に公開された剣と魔法の物語『コナン・ザ・グレート』で、興行的にもヒットした。 続いて1984年には続編の『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』が公開されたが、前作ほどの成功は収められなかった。 1984年には、ジェームズ・キャメロン監督のSFスリラー映画『ターミネーター』で、彼の俳優人生の代表的な役とも言える、タイトルキャラクターとして初登場した。 この後、シュワルツェネッガーは1985年に『レッドソニア』で準主役を演じている。 1980年代、観客はアクション映画を熱望し、シュワルツェネッガーとシルヴェスター・スタローンは共に国際的なスターとなった。 2人のライバルは報道機関で互いに攻撃し合い、スクリーン上での殺害回数や大型の武器で相手を凌ごうとした。 1980年代には、『コマンドー』(1985年)、『ゴリラ』(1986年)、『バトルランナー』(1987年)、『プレデター』(1987年)、『レッドブル』(1988年)など、数多くのアクション映画を成功させている。また、ダニー・デヴィートと共演したコメディ『ツインズ』(1988年)は、主演作として初めて全米興行収入が1億ドルを突破するなど成功を収めた。 『トータル・リコール』(1990年)は、シュワルツェネッガーに1,000万ドル(現在の1,960万ドルに相当)と映画の興行収入の15%をもたらした。『キンダガートン・コップ』(1990年)では、『ツインズ』で監督を務めたアイヴァン・ライトマン監督と再会した。シュワルツェネッガーは、最初にTVシリーズ『ハリウッド・ナイトメア』の1990年のエピソード「The Switch」、次に1992年のテレビ映画「Christmas in Connecticut」で、短期間ながら監督業に進出している。 シュワルツェネッガーの商業的ピークは、1991年の『ターミネーター2』でタイトルキャラクターとして復帰したことであり、この作品は1991年の最高興行収入を記録した。1993年には、全米劇場所有者協会から「10年に一度の国際的スター」に選ばれた。 次の映画企画である1993年のアクションコメディパロディ『ラスト・アクション・ヒーロー』は、当時としては史上最高額となる1億ドルの製作費をかけ『ジュラシック・パーク』と対になって公開されたが、興行面では5000万ドルと失敗した。次の作品であるコメディドラマ『トゥルー・ライズ』(1994年)は人気のスパイ映画で、シュワルツェネッガーはジェームズ・キャメロンと再会し、世界興行収入で約3億7,800万ドルの大ヒットを記録した。 同年、アイヴァン・ライトマン監督との3つのコラボレーションの最後を飾るコメディ映画『ジュニア』が公開され、ダニー・デヴィートと再び共演した。この作品で、シュワルツェネッガーは2度目のゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。その後、アクションスリラー『イレイザー』(1996年)、クリスマスコメディ『ジングル・オール・ザ・ウェイ』(1996年)に出演した。 コミックブックをベースにした『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997年)に出演し、悪役のミスター・フリーズを演じた。この作品は、手術前の最後の作品となった。『バットマン & ロビン』が大失敗に終わった後、シュワルツェネッガーの映画キャリアと興行成績は低迷した。1997年には心疾患のため肺動脈弁の置換手術を受けた(2018年と2020年にも同様の手術を受けている)が、超自然現象をテーマにしたスリラー映画『エンド・オブ・デイズ』(1999年)で復帰した。 その後、アクション映画『シックス・デイ』(2000年)と『コラテラル・ダメージ』(2002年)に出演したが、いずれも興行的には失敗に終わった。 2003年には『ターミネーター3』でタイトルキャラクターとして3度目の出演を果たし、国内で1億5000万ドル(現在の2億800万ドルに相当)を超える興行収入を記録した。 2002年、シュワルツェネッガーへの賛辞として、地元の文化協会であるフォーラム・シュタットパークが、グラーツ中心部の公園に高さ25メートル(80フィート)のターミネーター像を建てる計画を提案した。シュワルツェネッガーは、「お世辞でも嬉しいが、そのお金は社会事業やスペシャルオリンピックスに使った方が良い」と考えたと伝えられている。 その後、2003年~2011年までカリフォルニア州知事に就任した関係で、俳優としての活動は抑えられた。 カリフォルニア州知事就任後の映画出演は、『ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン』(2003年)での3秒間のカメオ出演や、同じくカメオ出演でジャッキー・チェンと初共演した『80デイズ』(2004年)などがある。2005年には映画『The Kid & I』に本人役で出演。『Liberty's Kids』のエピソード「Valley Forge」ではフォン・スチューベン男爵の声を担当した。 また、『ターミネーター4』(2009年)にオリジナルのT-800として出演すると噂されていたが、本人は関与を否定した。しかし最終的には『ターミネーター』第1作のストック映像から彼のイメージが映画に挿入される形で、短時間出演した。 2010年にはシルベスター・スタローン監督の『エクスペンダブルズ』にカメオ出演しており、スタローンと初共演を果たした。 2011年1月、カリフォルニア州知事を去った数週間後、シュワルツェネッガーは将来の映画のためにいくつかの新しい脚本を読んでいることを発表し、そのうちの1つが実話に基づいたランダル・ウォレス脚本の第二次世界大戦のアクションドラマ『With Wings as Eagles』であることを明らかにした。 2011年3月6日、アーノルド・クラシックでのアーノルドセミナーで、シュワルツェネッガーは、『ターミネーター』の続編、『プレデター』や『バトルランナー』のリメイク版など、いくつかの映画に出演を検討していること、そして、あるコミックブックのキャラクターを「パッケージ化」していることを明かした。シュワルツェネッガーは、このキャラクターにインスピレーションを与え、シリーズをプロデュースしたであろうスタン・リーと共同開発した。 2011年5月20日、シュワルツェネッガーの芸能顧問は、現在開発中のすべての映画プロジェクトを中止すると発表した。「シュワルツェネッガーは個人的な問題に集中しており、いかなる制作スケジュールや予定にもコミットする気はない」。 2011年7月11日、シュワルツェネッガーは離婚に関連する法的問題があるにもかかわらず、復帰映画を検討していることが発表された。『エクスペンダブルズ2』(2012年)にトレンチ・マウザー役で出演し、『ラストスタンド』(2013年)では10年ぶりに主役を務め、『大脱出』(2013年)ではシルベスター・スタローンとダブル主演を果たした。2014年3月に公開された『サボタージュ』で主演し、2014年8月に公開された『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』にも出演している。2015年には「ターミネーターシリーズ」の5作目『ターミネーター:新起動/ジェニシス』に主演し、2016年8月、アクションコメディ『キリング・ガンサー』に主演した。 2018年2月6日、アマゾン・スタジオは、シュワルツェネッガーと協力して、主演と製作総指揮を務める『Outrider』と題した新シリーズを開発すると発表した。このシリーズは、自身にとって、初めてのTV脚本の大役となる。 2019年11月1日に公開された『ターミネーター:ニュー・フェイト』で『ターミネーター』フランチャイズに復帰した。この作品は、シリーズの共同制作者であるジェームズ・キャメロンが最初の2作ぶりに製作に復帰した。 2015年9月、メディアはシュワルツェネッガーがドナルド・トランプの後任として『The New Celebrity Apprentice』のホストを務めることを発表した。 『アプレンティス』の第15シーズンにあたるこの番組は、2016年 - 2017年のテレビシーズンに放送された。番組内では、出場者を解雇する際に、自身の有名な役柄(それぞれ『ターミネーター』と『プレデター』)からの引用である「You're terminated(お前を抹殺する)」と「get to the choppa(チョッパー(ヘリ)のところに行け)」というフレーズを使用していた。 2017年3月、トランプからの度重なる批判を受け、シュワルツェネッガーは同番組を降板することが発表された。視聴者数400万から500万人と低迷した。また、2017年1月には、トランプの発言にインスタグラムで「"ねえ、ドナルド、いいアイデアがあるんだ。仕事を変えてみないか?君は視聴率の専門家だからテレビを引き継ぎ、僕は君の仕事を引き継ぎ、そうすれば人々はようやくまた快適に眠ることができる」と反応した。 共和党支持者であり1983年から共和党員として登録しており、1980年代からジョージ・H・W・ブッシュを公に支持するなど政治に関わりがあった。 民主党のバラク・オバマが推し進めるオバマケアに関しては、一貫して「社会主義だ」と強い批判を繰り返していた。その一方、同じ共和党のジョージ・W・ブッシュやドナルド・トランプに対しても批判を行っており、共和党支持でありながらも独自の路線を貫いている。そのため「ロックフェラー・リパブリカン」というレッテル貼りがなされることがある。 2021年1月6日にドナルド・トランプの支持者がアメリカ合衆国議会(連邦議会)を襲撃した事件に関して、自身の意見をTwitterに動画で投稿した。そこでは自身の父親について触れながら「6日は、ここ米国にとっての『水晶の日』だった」と語り、ドナルド・トランプを「最悪の大統領として歴史に刻まれる」と厳しく非難した。 2003年8月にカリフォルニア州知事のグレイ・デイヴィス(英語版)がリコールされたことを受け知事選へ出馬し、同年10月7日にカリフォルニア州知事に選出された。民主党の強力な地盤であるカリフォルニア州において、保守的な共和党からの立候補だったが、リコールで失職したデイヴィスへの反感も手伝い、民主党票も取り込んで有権者の約半数の支持を受けて当選した。これはシュワルツェネッガーの立場(同性愛者の権利や妊娠中絶などについての考え方)が民主党のそれに近いこと、彼が移民であることなどから部分的には説明されたとも言われる。当選した際は「当選したからには私に休みはない。24時間、州知事だ」と声明を発表した。 カリフォルニア電力危機などによって60億ドルにも上る負債を抱えた州の財政をどう再建するか、州経済をどのように活性化させるかが特に重要視され、シュワルツェネッガーは「増税なき財政再建」を掲げたことで注目された。と同時に、その公約を裏打ちするだけの具体的な政策がないことを指摘、批判する声もあった。共和党に所属しながらも、環境問題や同性婚の成立には積極的で、同性愛者の人権保障やドメスティック・パートナーシップを支持するだけでなく、カリフォルニア独自の国民皆保険を制定しようとしたり、銃規制にも賛成するなど、政治的にはリベラル寄りな立場をとっている。 2004年9月、屍姦(ネクロフィリア)を禁止する州法案を承認。これまで法的に罰することができなかった死体との姦淫が、公式にカリフォルニア州で違法となった。 2004年11月13日に訪日。小泉純一郎首相と会談し、カリフォルニアの名産品をアピールして売り込んだ。 2005年9月、シュワルツェネッガーは10代の肥満防止対策として州立高校での炭酸飲料の販売を禁止する法案に署名した。これにより州立高校の敷地内で販売できる飲料は水、牛乳、果汁50%以上のジュースなど一部のものに限られる事になった。 2005年11月、シュワルツェネッガーは財政改革のための州憲法改正など、4項目を問う住民投票を行ったが、4項目とも大差で否決された。これにより、シュワルツェネッガーの政治力の低下は避けられないという指摘もなされた。 また、2005年12月13日にはスタンリー・ウィリアムズ死刑囚の恩赦請求を拒否することを発表した。ウィリアムズは4人を殺害した元ギャングの死刑囚で、収監後、改心し反ギャング活動を行い2001年から2005年の間ノーベル平和賞にノミネートされ、多数の減刑嘆願書が出されていた。しかしシュワルツェネッガーは、ウィリアムズが自身の犯した殺人事件を依然として否認し、謝罪も行っていないことから「証拠を検討したが、恩赦を出す余地は見いだせなかった」と今回の決定を説明した。この決定に従い、予定通り12月13日午前0時1分(現地時間)にウィリアムズへの薬物注射による死刑が執行された。 これにともない、2005年12月27日までにシュワルツェネッガーの出身地であるオーストリア南部のグラーツで、1997年に改名されたサッカー競技場アーノルド・シュヴァルツェネッガー・スタジアムから彼の名前が撤去された。オーストリアでは1950年に死刑制度を廃止し、今回のシュワルツェネッガーの死刑執行命令に批判が高まっていた。 2006年9月8日、非公式の場で共和党のヒスパニック系女性議員に対し差別的な発言を行ったことを記者会見で謝罪した。ただし、彼はこの発言の証拠となるテープの出所が中間選挙での対立陣営からだったとしてその信憑性を疑問視している。 総じて1期目は民主党主導の議会や労組との対立に苦慮し続けたが、ケネディ家に連なる妻の人脈や中道寄りの政治路線によって困難な政治局面を乗り切り、2006年11月の州知事選で再選にこぎつけた。従来から環境問題等に力を入れて、女性票や民主党票を取り込んだことに成功したためだと言われている。2007年1月5日スキー事故で骨折するが、松葉杖で当時の妻マリア・シュライヴァー(英語版)と2期目の知事就任式に臨んだ。 2007年10月にカリフォルニアを襲った山火事は、州知事就任後最大の試練となったが、災害対応において卓越した指導力を発揮し、党派を越えた賞賛を得た。 2008年1月31日に、ロサンゼルス市内で同じ共和党所属で大統領候補のジョン・マケイン上院議員とともに記者会見を開き、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においての支持を表明。マケイン上院議員とは地球温暖化問題などで協力したりする古くからの友人で、マケインはシュワルツェネッガーが計画する州独自の排ガス規制に賛意を示していた。しかし、シュワルツェネッガーの当時の妻マリア・シュライヴァーは2月3日、民主党のバラク・オバマ上院議員の支持を表明したため、夫婦で別々の政党の候補を支持するかたちとなった。一方で排ガス規制を提案しているのにもかかわらず、自身はビジネスジェットで通勤しており、矛盾を指摘されている。 2009年5月、州の財政難を受け米国民の間でも未だ根強い議論が続いているマリファナ合法化について「検討すべき」だとガーディアン紙に対しコメントした。 アリゾナ州にて外見で不法移民とみなされた人物を職務質問でき、在留許可証を所持していない場合犯罪者として取り締まれる法案が通された際はこれに不快感を示し、「こんな法案はカリフォルニアでは絶対に通さない」と発言している。 2010年9月に訪日した際には新幹線E5系電車で東京駅から大宮駅間を試乗した。 2011年1月3日に2期7年の任期を終え、退任した。 2012年8月、南カリフォルニア大学(USC)と共同で国家政策と外交政策を研究するシンクタンクである「USCシュワルツェネッガー研究所」の設立を発表。9月24日に開催されるシンポジウムにはジェームズ・キャメロンやユニバーサル・ピクチャーズ社長であるロナルド・メイヤーも参加した。 ボディビルダー時代には「オーストリアン・オーク (The Austrian Oak) 」の愛称を持ち、のちにその出演作から「ガバナーター」または「ガバネーター」(The Governator=知事〈Governor〉とターミネーター〈Terminator〉の合成語)、「コナン・ザ・リパブリカン(共和党員コナン)」(主演作『コナン・ザ・グレート』の原題『コナン・ザ・バーバリアン(野蛮人コナン)』から)などと呼ばれるようになる。 日本においては、淀川長治がその独特かつ長い姓から一部分を取って命名した「シュワちゃん」という愛称で親しまれており、数度の訪日時にはバラエティ番組や各種のコマーシャルメッセージに出演している。 1977年にシュワルツェネッガーは自叙伝Arnold: The Education of a Body-Builderを出版している。また、2012年に出演作のひとつである『トータル・リコール』に引っかけたタイトルを付けた自伝Total Recall: My Unbelievably True Life Storyが出版された。この自伝の売り上げは低調な結果に終わり、批評家からは酷評された。さらに、大衆からは後述する隠し子騒動の直後ということもあって、シュワルツェネッガーの人間性を批判する意見が大半だった。 1986年にはジョン・F・ケネディ元大統領の姪でCBS記者、マリア・シュライヴァー(英語版)と10年越しの交際のすえ結婚した。2人の間には4人の子供(2女2男)がいる。2011年5月10日に別居を発表。理由は20年間シュワルツェネッガー家のメイドであった女性とシュワルツェネッガーの不倫と、隠し子の存在であることも本人により発表され、「家族らの怒りと落胆は当然で、言い訳できない」と謝罪もしている。隠し子騒動の件もあり、同年の6月にロサンゼルスタイムズが掲載した記事によると、大衆の75%がシュワルツェネッガーに否定的であり、全米からは非難が続出したという。2021年12月28日、ロサンゼルスの裁判所が2人の離婚手続きを承認し、離婚が成立した。 作家のキャサリン・シュワルツェネッガーは長女で第1子。俳優のパトリック・シュワルツェネッガーは長男で第3子。隠し子(三男)とされるジョセフ・バイーナは2016年に『ターミネーター2』の1シーンを再現した短編を自主制作し、ターミネーター役を演じている。 ハマーを初めて自家用車にした一人としても知られる。ハマーはもともとシュワルツェネッガーの要望により、軍用車両のハンヴィーを民生仕様にしたもの。 オートバイの愛好家でもあり、電気オートバイのようなZEV(ゼロエミッション・ヴィークル)を愛用している。カリフォルニア州の環境政策プロモーションで、電気オートバイの普及も積極的に行っており、購入金額から1500ドル分を州が補助する助成金制度なども進めていて、「カリフォルニアほど、電気オートバイに適した地域はない」と語っている。 兵役義務のころに戦車兵だった経験から、M47パットン戦車を購入している。 葉巻きたばこを吸う愛煙家で、好きな銘柄はキューバ産のコイーバである。 2006年1月8日午後、カリフォルニア州ロサンゼルスの路上で、サイドカー付き大型オートバイを運転中に乗用車と衝突事故を起こし、唇を15針縫う怪我を負った。 同10日には、米国での二輪免許の取得歴がなく、それまで二輪車の無免許運転を繰り返していた疑いの強いことが発覚した。ただし、 11日、ロサンゼルス市警察は審議の結果、警察官が運転を現認しておらず、処罰は困難との結論に至ったため、シュワルツェネッガーを処罰しない方針を決めた。 2022年の1月にも事故を起こしており、シュワルツェネッガーの信号無視が原因で4台の車両が衝突事故を引き起こしており、負傷者は病院送りになった。 2023年の2月にも事故を起こしており、自転車にのっていた女性とぶつかったという。 シルヴェスター・スタローンとは1980年代から1990年代にかけて、肉体派アクション俳優の代名詞としての存在を二分し、つねに比較され本人たちも互いを意識していた。『デッドフォール』(1989年)や『フェイス/オフ』(1997年)では両者のダブル主演での制作も計画されたが、ライバルとしての関係が共演を実現させなかった。しかし両者が直接わだかまりを作るような出来事はなく、スタローンが来日して日本のテレビ番組内でサインを求められた際は、シュワルツェネッガーの名前を書こうとするジョークをおこなったり、互いの映画作品内で相手を笑いの種に使うなど、関係は良好であった。 2008年1月24日、スタローンが主演・監督・脚本を務めた映画『ランボー/最後の戦場』のワールドプレミアを米・ラスベガス市内のホテル「プラネットハリウッド・リゾート&カジノ」で行い、シュワルツェネッガーも息子2人を連れて出席した。舞台挨拶に立ったスタローンは「今日はターミネーターが来ているんだ」と、会場に向かって嬉しそうにシュワルツェネッガーを紹介したという。レストランチェーン「プラネット・ハリウッド」と同ホテルの共同出資者というビジネスパートナーでもあり、会場を同チェーンのラスベガス店にした理由もそこにあった(ただし、シュワルツェネッガーは2000年にプラネット・ハリウッドの株を売却している)。固い握手を交わし、肩をたたき合うなど約5分間の交流に、スタローンは「アーノルドも来てくれたし、素晴らしい夜だ。気分は最高だよ」と述べていた。シュワルツェネッガーは、2006年12月にロサンゼルスで行われたスタローンの『ロッキー・ザ・ファイナル』の試写会場にも足を運んでおり、1年ぶりのツーショットとなった。 2009年2月、スタローンの監督・主演映画『エクスペンダブルズ』(2010年)へ出演することを明らかにした。スタローンのインタビューによると、現職の州知事ということもあり、ほかのキャストを立てることも考慮しつつオファーしたところ、職務に影響がないことを条件に快諾したという。映画でシュワルツェネッガーが演じるのは、当初はカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガー本人役であると報道されていたが、のちに公開された情報では、スタローン演じる役の元・ライバルで傭兵部隊の元・リーダーで、役名も本名ではないという設定となった。本編では上記のとおりライバルPMCの経営者役を演じ、ブルース・ウィリス演じるCIA担当官からの依頼を「自殺行為だ」と断って立ち去る数分間のカメオ出演であった。2012年の『エクスペンダブルズ2』では本格共演を果たし、2013年の『大脱出』ではスタローンとのダブル主演を務めてる。 『ラストスタンド』(2013年)撮影時の怪我で入院した際には、偶然にもスタローンと同じ病室であった。 2015年6月29日に行われた『ターミネーター:新起動/ジェニシス』(2015年)のロサンゼルスプレミアでは、スタローンが駆けつけツーショットを披露した。 ボディビルダー時代にアメリカのプロレス団体「WWWF」の世界王者ブルーノ・サンマルチノと出会い、以来交流を続けている。サンマルチノが2013年にWWE殿堂にノミネートされた際には、シュワルツェネッガーが紹介を務めた。そのほかにもレスラーのスーパースター・ビリー・グラハムやジェシー・ベンチュラとも交流を持った。ベンチュラとは『プレデター』や『バトルランナー』で共演している。 1999年11月にはWWE(当時はWWF)の看板番組である『SmackDown!』に出演、会長のビンス・マクマホンから長年の活躍を評されWWE(当時はWWF)王座のレプリカのベルトを授与された。番組では実況にも参加し、レスラーのトリプルHに「一発」お見舞いした。 2015年には自身もWWE殿堂にノミネートされ、HPパビリオンにおいて殿堂入りした(紹介役を務めたのはトリプルH)。翌日にはWWEの祭典レッスルマニアにも登場し、他の殿堂者と共に紹介された。なお、この大会のスポンサーを務めたのは『ターミネーター:新起動/ジェニシス』であり、トリプルHの入場はそれをフィーチャーしたものであった。 大衆から暴行を受けたこともあり、2003年には州知事の選挙中に演説会場で生卵を投げつけられた。また、2019年には背後からとび蹴りをくらわされた事もある。 『コマンドー』、『プレデター』の2作は、20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンの『吹替の帝王』シリーズより上記の両者の吹替えを収録したブルーレイが発売されている(両作ともに『吹替の帝王』シリーズ以外のソフトでは玄田版が収録されたものが発売されている)。 『イレイザー』はワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメントの『吹替の力』シリーズより両者の吹替えを収録したブルーレイが2014年12月23日に発売(『吹替の力』シリーズ以外のソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。 『トータル・リコール』はKADOKAWAおよび角川書店より両者の吹替えを収録したブルーレイが2019年10月4日に発売された(それまでのソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。 玄田と屋良の他に、1990年代までは様々な声優が起用され大友龍三郎や大塚明夫、津嘉山正種などが担当した作品もあり(『ターミネーターシリーズ』、『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』、『キンダガートン・コップ』など)、特に『ターミネーター』に関しては「この作品(『ターミネーター』)の極悪非道・冷徹無比の悪役サイボーグ(T-800)を演じたシュワルツェネッガーには大友の人並外れた重低音はまさにピッタリ」との声が多くある。この『ターミネーター』は『吹替の帝王』シリーズより大友(テレビ朝日版、旧VHS版)・玄田(新VHS/DVD/BD版、テレビ東京版)両者の吹替えを収録したブルーレイが2015年6月24日に発売されている。 シュワルツェネッガーにとってはジェームズ・キャメロン監督と『ターミネーター2』以来の作品となる『トゥルーライズ』では菅生隆之がソフト版のシュワルツェネッガーの吹き替えを担当しており、玄田が担当したバージョン(フジテレビ版)は、2010年4月23日発売のDVDにソフト版と併録する形で収録された(正味122分)。また、玄田(フジテレビ)版は2012年に上述の『吹替の帝王』シリーズ『コマンドー』の追加収録と並行して同一キャストによる初回放送時にカットされた部分の追加録音が行われた「完声版」の吹替が存在しているが、2013年当時、キャメロン監督が多忙なため、ブルーレイ版の発売が許可されていないと担当者が語っていた。本国でもブルーレイ版の発売はされておらず、20世紀FOXがウォルト・ディズニー・スタジオに買収されたことで傘下に入ったことにより、吹替の帝王シリーズも消滅、もしくは凍結状態となり、事実上のお蔵入りとなっている。この音源が収録されたソフトの発売や放送、配信などは2023年現在も行われていない。 『ツインズ』では堀勝之祐、『キンダガートン・コップ』では大塚明夫がソフト版のシュワルツェネッガーを担当し、玄田はテレビ朝日版を担当しているが、この後者のバージョンはPAL方式に基づいて収録されているため、長年市販ソフトへの収録や民放での再放送は行われていなかった(WOWOW、ザ・シネマなどの有料衛星放送において不定期放送がおこなわれる場合があった)が、『キンダガートン・コップ』は2021年に玄田版を収録したソフトの発売が決定した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガー(Arnold Alois Schwarzenegger、発音 [ˈʃvɑːrtsnɛɡər]、ドイツ語発音: [ˈaɐ̯nɔld̥ ˈalɔʏs ˈʃvaɐ̯t͡sn̩ˌɛɡɐ]、1947年7月30日 - )は、オーストリア系アメリカ人の俳優、実業家、元ボディビルダー、元政治家であり、2003年から2011年まで第38代カリフォルニア州知事を務めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーは、ボディビル時代には「オーストリアのオーク(Austrian Oak)」、俳優時代には「アーニー(Arnie)」や「シュワジー(Schwarzy)」、政治家時代には「ガバネーター(The Governator)」(「州知事(Governor)」と「ターミネーター(Terminator)」を混ぜたもの)というニックネームで呼ばれていた。日本では「シュワちゃん」という愛称で知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ユーリ・ウラソフへの憧れから15歳で重量挙げを始め、20歳でミスター・ユニバースのタイトルを獲得し、その後、ミスター・オリンピア・コンテストで7度の優勝を果たすなど、ボディビル界の重鎮として多くの著書や記事を残している。 ミスター・オリンピアに次いで重要なボディビル・イベントとされるアーノルド・スポーツ・フェスティバルは、彼の名前にちなんで命名されている。 彼は、史上最も偉大なボディビルダーの一人であると同時に、最もカリスマ的で有名なボディビル界のアンバサダーであると広く認められている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ボディビルを引退した後、シュワルツェネッガーは、ハリウッドのアクション映画スターとして世界的に有名になった。ボディビルのドキュメンタリー映画『アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男』(1977年)に出演した後、剣と魔法の物語『コナン・ザ・グレート』(1982年)でブレイクし、1984年には続編が製作されるほどの興行成績を収めた。その後、批評家や商業的に成功したSF映画『ターミネーター』(1984年)にタイトルキャラクターとして出演し、その後、続編の『ターミネーター2』(1991年)、『ターミネーター3』(2003年)、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』(2015年)、『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2019年)で同様のキャラクターを演じている。また、『コマンドー』(1985年)、『バトルランナー』(1987年)、『プレデター』(1987年)、『トータル・リコール』(1990年)、『トゥルーライズ』(1994年)などの成功したアクション映画に加え、『ツインズ』(1988年)、『キンダーガートン・コップ』(1990年)、『ジュニア』(1994年)、『ジングル・オール・ザ・ウェイ』(1996年)などのコメディ映画や、アクションとスリラーが混在したバディ刑事ドラマ『レッドブル』(1988年)などにも出演している。 映画製作会社オーク・プロダクションズの創設者でもある。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2003年10月7日に行われたグレイ・デイビスカリフォルニア州知事(当時)の後継者を決める特別リコール選挙で、共和党候補として初当選した。投票率は48.6%で、次点のクルーズ・ブスタマンテに17ポイントの差をつけた。2006年のカリフォルニア州知事選挙では、55.9%の得票率で再選され、知事としての任期を全うした。2011年、知事としての任期を満了し、俳優業に復帰した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1986年にジョン・F・ケネディ大統領の姪であるマリア・シュライバーと結婚。1997年に家政婦との間に子供をもうけたことをシュワルツェネッガーが認めたため、2011年に別居し、2021年に離婚が成立した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガーは1947年7月30日、オーストリア共和国シュタイアーマルク州タール町で、父グスタフ・シュワルツェネッガー(1907年 - 1972年)と母アウレーリア・シュワルツェネッガー(旧姓・ヤドルニー、1922年 - 1998年)の次男として生まれた。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーの家系は以前からチェコ系ではないかといわれていたが、2020年、スロバキアの家系研究者アリツァ・ヤンチョコヴァーらの調査により、父グスタフ方の元の姓はマフ(チェコ語:Mach)で、1841年生まれの曽祖父ウェンゼル・マフ(チェコ名・ヴァーツラウ、チェコ語:Václav)が、出身地のボヘミア地方コチョウ村(現・チェコ共和国プルゼニ県タホウ郡コチョウ村)から当時鉱山町だった現在のシュタイアーマルク州ノイベルク・アン・デル・ミュルツ町に移り住み、鍛冶屋を営んでいたことが明らかになった 。ヤンチョコヴァーの調査で、1872年に誕生した祖父カールは当初マフ姓を名乗ったものの、非嫡出子(婚外子)であったため、のち母方のシュワルツェネッガー姓に改めていたことも判明した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、ニーダーエスタライヒ州グログニッツ町出身の母アウレーリア方の家系はよく分かっていないが、旧姓のヤドルニー(チェコ語:Jadrný)はチェコ人の姓であり、やはりチェコ系であるとみられている。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "父グスタフはオーストリア連邦陸軍小隊長を経て1937年に警察官になった後、アンシュルス(オーストリア併合)直前の1938年、自発的にオーストリア国内のドイツ国家社会主義労働者党への入党を申請し、1939年には同党所有の準軍事組織である突撃隊への入隊も申請したが、実際に入党できたのはドイツ国防軍入隊(1939年)後の1941年だった。第二次世界大戦では第4装甲軍第521野戦憲兵隊先任軍曹として東部戦線に従軍。スターリングラードの戦いで負傷し、第一級鉄十字章を受章した。戦傷治療を行っていたがマラリアの発作が続いたため1944年に除隊し、シュタイアーマルク州グラーツ市の郵便監察官として終戦を迎えた。1947年に内務省所管のオーストリア連邦憲兵隊警察官に復帰。地区憲兵隊司令などを歴任した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "グスタフとナチス・ドイツの関係は1990年に明るみになり、シュワルツェネッガーはのちにサイモン・ヴィーゼンタール・センターに対してグスタフの戦時中の記録調査を依頼したが、残虐行為に関与していた証拠は出てこなかった。この調査結果は2003年のカリフォルニア州知事立候補時に広く報道された。シュワルツェネッガーは2004年、『フォーチュン』誌のインタビューで、幼少期に父親から度重なる暴力を振るわれていたことを明らかにし、2021年に公表したビデオメッセージでは、ナチスへの協力に関して本人が戦後抱えた罪悪感と恥辱が暴力の原因だったとの見方を示した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "グスタフは戦争未亡人のアウレーリアと1945年10月20日に結婚した。シュワルツェネッガーによると、彼の両親はとても厳しかったという。「当時のオーストリアは非常に異質な世界だった...何か悪いことをしたり、親に従わなかったりした場合には、罰を免れなかった」とシュワルツェネッガーは語っている。アーノルドは毎週日曜日にミサに通うカトリックの家庭で育った。グスタフはアーノルドよりも長男のマインハルト(1946年-1971年)を好んでいた。彼の好意は「強くてあからさまなもの」であり、それはアーノルドが実子ではないという根拠のない疑惑から生じていた。シュワルツェネッガーは、父親が「(アーノルドの)問題に耳を傾けたり、理解したりすることに耐えられなかった」と語っている。母親とは良好な関係を築いており、母親が亡くなるまで連絡を取り合っていたという。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "グスタフはカーリング競技のチャンピオンであったためアーノルドもスポーツに強い関心をもち、サッカー、陸上競技、ボクシング、水泳などを習い、1962年にウエイトトレーニングを始めた。その後徴兵でオーストリア連邦陸軍第4戦車大隊に配属され、史上最年少記録の18歳で戦車兵として任務についた。この基礎訓練期間中にジュニア・ミスター・ヨーロッパ大会で優勝したが、このコンテストに参加するため無許可離隊を冒したため、1週間の収監処分を受けている。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1968年に本格的にボディビルをするため、ジョー・ウイダーに誘われてアメリカ合衆国に移り住んだ。英語が流暢でなく、渡米時の所持金はわずか20ドルであった。1983年にアメリカ国籍を取得したが、オーストリアの国籍も継続して持っている。1979年にウィスコンシン大学から国際市場と経営管理に関してB.A.(Bachelor of Arts)を得た。また、UCLAにも通っており、こちらでは心理学を専攻していた。朝にトレーニングをしてから大学に行き、帰宅したらトレーニングをする日課があり、勉強とトレーニングを両立させる毎日を過ごしていたという。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マインハルトは1971年に飲酒運転で起こした交通事故で死亡し、父グスタフはその翌年、連邦憲兵隊最終勤務地であったシュタイアーマルク州ヴェイツ町で脳卒中のため他界。母アウレーリアは1998年、ヴェイツ町にあるグスタフの墓参直後に病没した。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーはボディビルダーとしてその名が広く知られ、ボディービルの知名度の向上に非常に大きく貢献した点などで、ボディビルの歴史においても特に重要な人物と見なされている。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ボディビルを始めたきっかけは、ボディビル出身であるスティーヴ・リーヴスの主演映画を見て憧れたことによる。その鍛え抜かれた肉体は「オーストリアン・オーク(オーストリアの樫の木)」の愛称をもたらし、ジュニア・ミスター・ヨーロッパ、ミスター・ワールド、5回のミスター・ユニバースなどのタイトルを得ている。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "特筆すべきはミスター・オリンピア(ボディビルディングの世界最高峰)での活躍であり、とくにシュワルツェネッガーとその他の選手のオリンピアまでの道のりと、戦いを映したドキュメンタリー『パンピング・アイアン』はボディビル人気に一気に火をつけ、同時にゴールドジムを一躍世界最大のジムにまで成長させた。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "オリンピアでの戦績の面でもほぼ無敗という記録を持っており、セルジオ・オリバに唯一敗北しているもののそれ以降はまさしく無敗であり、連続して6連勝という記録を作り上げた。1978年には「世界で最も筋肉が発達した男」としてギネスブックに掲載された。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年以降ボディビルの大会に選手としては出場していないものの、おもにボディビルの知名度を上げるための活動に力を入れており、カリフォルニア州知事となったあともオリンピアなどに顔を出し、とくに自身の共同主催するアーノルド・クラシックにはどれほど忙しくても毎年必ず出席している。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、いったんは俳優業に移るものの、1980年に突如としてボディビルに復帰した。この復帰はかなり突然のものであり、ほかのオリンピア出場者が飛行機で乗りあった際も映画の撮影であると思われていたといわれている。この大会において優勝7回という大きな記録を作り上げたが、事前に審査委員がシュワルツェネッガーと親しい人物と変わっていたり、明らかに体の仕上がりが甘い、映画の宣伝を兼ねた勝利だとの声も上がり、疑惑が残ったままの勝利と大論争を巻き起こすこととなった。この際に、優勝を確信されていたマイク・メンツァーはその後もシュワルツェネッガーと険悪な関係が続いた。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "達成した合計7回の優勝という記録は、リー・ヘイニーが1991年に、ロニー・コールマンが2005年にともに連続8連覇を成し遂げるまで破られなかった。また連続という点では、ドリアン・イエーツが1997年に連続6連覇を成し遂げている。ちなみにロニー・コールマンへのトロフィー授与の際にはシュワルツェネッガー自身も立ち会った。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その業績は毎年開催されるアーノルド・クラシック・ボディビル大会やミスターオリンピアにて称えられる。現在もマッスルアンドフィットネス等、フィットネス関連の雑誌にトレーニング理論の記事を執筆中。2013年よりボディビル雑誌の編集長に就任した。現在はメールマガジン『Arnold's Pump Club』にて、健康・フィットネス情報を無料配信している。", "title": "ボディビルの経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ボディビルから俳優への転身を目指していたシュワルツェネッガーは、『アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス』(1970年)の主人公に抜擢され、ついに実現した。「アーノルド・ストロング(Arnold Stang)」という芸名で出演したが、この映画での彼の訛りはあまりにも酷かったため、制作後にセリフが吹き替えられた。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2本目の映画出演は『ロング・グッドバイ』(1973年)の聾唖のマフィアの殺し屋役で、その後、映画『ステイ・ハングリー』(1976年)ではより重要な役を演じ、ゴールデングローブ賞の新人男優賞を受賞した。シュワルツェネッガーは、俳優としてのキャリアを築く上での初期の苦労を「エージェントやキャスティング担当者から、『体が変だ』『アクセントがおかしい』『名前が長すぎる』などと言われた。基本的に、どこに行ってもチャンスはないと言われていた」と語っている。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーは、ボディビル映画『アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男』(1977年)で注目を集め、知名度を高めた。この映画の要素はドラマ化されている。1977年には、ABCのシットコム『The San Pedro Beach Bums』とABCの警察ドラマ『サンフランシスコ捜査線』に1話ずつゲスト出演している。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーは、『超人ハルク』の主人公のオーディションを受けたが、身長の高さを理由に落選した。シュワルツェネッガーは、1979年のコメディ『サボテン・ジャック』でカーク・ダグラスやアン=マーグレットと共演。1980年には、1950年代の女優ジェイン・マンスフィールドの伝記映画に、マンスフィールドの夫であるミッキー・ハージティ役で出演した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーの出世作は、1982年に公開された剣と魔法の物語『コナン・ザ・グレート』で、興行的にもヒットした。 続いて1984年には続編の『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』が公開されたが、前作ほどの成功は収められなかった。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1984年には、ジェームズ・キャメロン監督のSFスリラー映画『ターミネーター』で、彼の俳優人生の代表的な役とも言える、タイトルキャラクターとして初登場した。 この後、シュワルツェネッガーは1985年に『レッドソニア』で準主役を演じている。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1980年代、観客はアクション映画を熱望し、シュワルツェネッガーとシルヴェスター・スタローンは共に国際的なスターとなった。 2人のライバルは報道機関で互いに攻撃し合い、スクリーン上での殺害回数や大型の武器で相手を凌ごうとした。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1980年代には、『コマンドー』(1985年)、『ゴリラ』(1986年)、『バトルランナー』(1987年)、『プレデター』(1987年)、『レッドブル』(1988年)など、数多くのアクション映画を成功させている。また、ダニー・デヴィートと共演したコメディ『ツインズ』(1988年)は、主演作として初めて全米興行収入が1億ドルを突破するなど成功を収めた。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "『トータル・リコール』(1990年)は、シュワルツェネッガーに1,000万ドル(現在の1,960万ドルに相当)と映画の興行収入の15%をもたらした。『キンダガートン・コップ』(1990年)では、『ツインズ』で監督を務めたアイヴァン・ライトマン監督と再会した。シュワルツェネッガーは、最初にTVシリーズ『ハリウッド・ナイトメア』の1990年のエピソード「The Switch」、次に1992年のテレビ映画「Christmas in Connecticut」で、短期間ながら監督業に進出している。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーの商業的ピークは、1991年の『ターミネーター2』でタイトルキャラクターとして復帰したことであり、この作品は1991年の最高興行収入を記録した。1993年には、全米劇場所有者協会から「10年に一度の国際的スター」に選ばれた。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "次の映画企画である1993年のアクションコメディパロディ『ラスト・アクション・ヒーロー』は、当時としては史上最高額となる1億ドルの製作費をかけ『ジュラシック・パーク』と対になって公開されたが、興行面では5000万ドルと失敗した。次の作品であるコメディドラマ『トゥルー・ライズ』(1994年)は人気のスパイ映画で、シュワルツェネッガーはジェームズ・キャメロンと再会し、世界興行収入で約3億7,800万ドルの大ヒットを記録した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同年、アイヴァン・ライトマン監督との3つのコラボレーションの最後を飾るコメディ映画『ジュニア』が公開され、ダニー・デヴィートと再び共演した。この作品で、シュワルツェネッガーは2度目のゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。その後、アクションスリラー『イレイザー』(1996年)、クリスマスコメディ『ジングル・オール・ザ・ウェイ』(1996年)に出演した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "コミックブックをベースにした『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997年)に出演し、悪役のミスター・フリーズを演じた。この作品は、手術前の最後の作品となった。『バットマン & ロビン』が大失敗に終わった後、シュワルツェネッガーの映画キャリアと興行成績は低迷した。1997年には心疾患のため肺動脈弁の置換手術を受けた(2018年と2020年にも同様の手術を受けている)が、超自然現象をテーマにしたスリラー映画『エンド・オブ・デイズ』(1999年)で復帰した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、アクション映画『シックス・デイ』(2000年)と『コラテラル・ダメージ』(2002年)に出演したが、いずれも興行的には失敗に終わった。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年には『ターミネーター3』でタイトルキャラクターとして3度目の出演を果たし、国内で1億5000万ドル(現在の2億800万ドルに相当)を超える興行収入を記録した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2002年、シュワルツェネッガーへの賛辞として、地元の文化協会であるフォーラム・シュタットパークが、グラーツ中心部の公園に高さ25メートル(80フィート)のターミネーター像を建てる計画を提案した。シュワルツェネッガーは、「お世辞でも嬉しいが、そのお金は社会事業やスペシャルオリンピックスに使った方が良い」と考えたと伝えられている。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その後、2003年~2011年までカリフォルニア州知事に就任した関係で、俳優としての活動は抑えられた。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "カリフォルニア州知事就任後の映画出演は、『ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン』(2003年)での3秒間のカメオ出演や、同じくカメオ出演でジャッキー・チェンと初共演した『80デイズ』(2004年)などがある。2005年には映画『The Kid & I』に本人役で出演。『Liberty's Kids』のエピソード「Valley Forge」ではフォン・スチューベン男爵の声を担当した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、『ターミネーター4』(2009年)にオリジナルのT-800として出演すると噂されていたが、本人は関与を否定した。しかし最終的には『ターミネーター』第1作のストック映像から彼のイメージが映画に挿入される形で、短時間出演した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2010年にはシルベスター・スタローン監督の『エクスペンダブルズ』にカメオ出演しており、スタローンと初共演を果たした。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2011年1月、カリフォルニア州知事を去った数週間後、シュワルツェネッガーは将来の映画のためにいくつかの新しい脚本を読んでいることを発表し、そのうちの1つが実話に基づいたランダル・ウォレス脚本の第二次世界大戦のアクションドラマ『With Wings as Eagles』であることを明らかにした。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2011年3月6日、アーノルド・クラシックでのアーノルドセミナーで、シュワルツェネッガーは、『ターミネーター』の続編、『プレデター』や『バトルランナー』のリメイク版など、いくつかの映画に出演を検討していること、そして、あるコミックブックのキャラクターを「パッケージ化」していることを明かした。シュワルツェネッガーは、このキャラクターにインスピレーションを与え、シリーズをプロデュースしたであろうスタン・リーと共同開発した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2011年5月20日、シュワルツェネッガーの芸能顧問は、現在開発中のすべての映画プロジェクトを中止すると発表した。「シュワルツェネッガーは個人的な問題に集中しており、いかなる制作スケジュールや予定にもコミットする気はない」。 2011年7月11日、シュワルツェネッガーは離婚に関連する法的問題があるにもかかわらず、復帰映画を検討していることが発表された。『エクスペンダブルズ2』(2012年)にトレンチ・マウザー役で出演し、『ラストスタンド』(2013年)では10年ぶりに主役を務め、『大脱出』(2013年)ではシルベスター・スタローンとダブル主演を果たした。2014年3月に公開された『サボタージュ』で主演し、2014年8月に公開された『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』にも出演している。2015年には「ターミネーターシリーズ」の5作目『ターミネーター:新起動/ジェニシス』に主演し、2016年8月、アクションコメディ『キリング・ガンサー』に主演した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2018年2月6日、アマゾン・スタジオは、シュワルツェネッガーと協力して、主演と製作総指揮を務める『Outrider』と題した新シリーズを開発すると発表した。このシリーズは、自身にとって、初めてのTV脚本の大役となる。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2019年11月1日に公開された『ターミネーター:ニュー・フェイト』で『ターミネーター』フランチャイズに復帰した。この作品は、シリーズの共同制作者であるジェームズ・キャメロンが最初の2作ぶりに製作に復帰した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2015年9月、メディアはシュワルツェネッガーがドナルド・トランプの後任として『The New Celebrity Apprentice』のホストを務めることを発表した。 『アプレンティス』の第15シーズンにあたるこの番組は、2016年 - 2017年のテレビシーズンに放送された。番組内では、出場者を解雇する際に、自身の有名な役柄(それぞれ『ターミネーター』と『プレデター』)からの引用である「You're terminated(お前を抹殺する)」と「get to the choppa(チョッパー(ヘリ)のところに行け)」というフレーズを使用していた。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2017年3月、トランプからの度重なる批判を受け、シュワルツェネッガーは同番組を降板することが発表された。視聴者数400万から500万人と低迷した。また、2017年1月には、トランプの発言にインスタグラムで「\"ねえ、ドナルド、いいアイデアがあるんだ。仕事を変えてみないか?君は視聴率の専門家だからテレビを引き継ぎ、僕は君の仕事を引き継ぎ、そうすれば人々はようやくまた快適に眠ることができる」と反応した。", "title": "俳優の経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "共和党支持者であり1983年から共和党員として登録しており、1980年代からジョージ・H・W・ブッシュを公に支持するなど政治に関わりがあった。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "民主党のバラク・オバマが推し進めるオバマケアに関しては、一貫して「社会主義だ」と強い批判を繰り返していた。その一方、同じ共和党のジョージ・W・ブッシュやドナルド・トランプに対しても批判を行っており、共和党支持でありながらも独自の路線を貫いている。そのため「ロックフェラー・リパブリカン」というレッテル貼りがなされることがある。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2021年1月6日にドナルド・トランプの支持者がアメリカ合衆国議会(連邦議会)を襲撃した事件に関して、自身の意見をTwitterに動画で投稿した。そこでは自身の父親について触れながら「6日は、ここ米国にとっての『水晶の日』だった」と語り、ドナルド・トランプを「最悪の大統領として歴史に刻まれる」と厳しく非難した。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2003年8月にカリフォルニア州知事のグレイ・デイヴィス(英語版)がリコールされたことを受け知事選へ出馬し、同年10月7日にカリフォルニア州知事に選出された。民主党の強力な地盤であるカリフォルニア州において、保守的な共和党からの立候補だったが、リコールで失職したデイヴィスへの反感も手伝い、民主党票も取り込んで有権者の約半数の支持を受けて当選した。これはシュワルツェネッガーの立場(同性愛者の権利や妊娠中絶などについての考え方)が民主党のそれに近いこと、彼が移民であることなどから部分的には説明されたとも言われる。当選した際は「当選したからには私に休みはない。24時間、州知事だ」と声明を発表した。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "カリフォルニア電力危機などによって60億ドルにも上る負債を抱えた州の財政をどう再建するか、州経済をどのように活性化させるかが特に重要視され、シュワルツェネッガーは「増税なき財政再建」を掲げたことで注目された。と同時に、その公約を裏打ちするだけの具体的な政策がないことを指摘、批判する声もあった。共和党に所属しながらも、環境問題や同性婚の成立には積極的で、同性愛者の人権保障やドメスティック・パートナーシップを支持するだけでなく、カリフォルニア独自の国民皆保険を制定しようとしたり、銃規制にも賛成するなど、政治的にはリベラル寄りな立場をとっている。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2004年9月、屍姦(ネクロフィリア)を禁止する州法案を承認。これまで法的に罰することができなかった死体との姦淫が、公式にカリフォルニア州で違法となった。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2004年11月13日に訪日。小泉純一郎首相と会談し、カリフォルニアの名産品をアピールして売り込んだ。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2005年9月、シュワルツェネッガーは10代の肥満防止対策として州立高校での炭酸飲料の販売を禁止する法案に署名した。これにより州立高校の敷地内で販売できる飲料は水、牛乳、果汁50%以上のジュースなど一部のものに限られる事になった。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2005年11月、シュワルツェネッガーは財政改革のための州憲法改正など、4項目を問う住民投票を行ったが、4項目とも大差で否決された。これにより、シュワルツェネッガーの政治力の低下は避けられないという指摘もなされた。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、2005年12月13日にはスタンリー・ウィリアムズ死刑囚の恩赦請求を拒否することを発表した。ウィリアムズは4人を殺害した元ギャングの死刑囚で、収監後、改心し反ギャング活動を行い2001年から2005年の間ノーベル平和賞にノミネートされ、多数の減刑嘆願書が出されていた。しかしシュワルツェネッガーは、ウィリアムズが自身の犯した殺人事件を依然として否認し、謝罪も行っていないことから「証拠を検討したが、恩赦を出す余地は見いだせなかった」と今回の決定を説明した。この決定に従い、予定通り12月13日午前0時1分(現地時間)にウィリアムズへの薬物注射による死刑が執行された。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "これにともない、2005年12月27日までにシュワルツェネッガーの出身地であるオーストリア南部のグラーツで、1997年に改名されたサッカー競技場アーノルド・シュヴァルツェネッガー・スタジアムから彼の名前が撤去された。オーストリアでは1950年に死刑制度を廃止し、今回のシュワルツェネッガーの死刑執行命令に批判が高まっていた。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2006年9月8日、非公式の場で共和党のヒスパニック系女性議員に対し差別的な発言を行ったことを記者会見で謝罪した。ただし、彼はこの発言の証拠となるテープの出所が中間選挙での対立陣営からだったとしてその信憑性を疑問視している。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "総じて1期目は民主党主導の議会や労組との対立に苦慮し続けたが、ケネディ家に連なる妻の人脈や中道寄りの政治路線によって困難な政治局面を乗り切り、2006年11月の州知事選で再選にこぎつけた。従来から環境問題等に力を入れて、女性票や民主党票を取り込んだことに成功したためだと言われている。2007年1月5日スキー事故で骨折するが、松葉杖で当時の妻マリア・シュライヴァー(英語版)と2期目の知事就任式に臨んだ。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2007年10月にカリフォルニアを襲った山火事は、州知事就任後最大の試練となったが、災害対応において卓越した指導力を発揮し、党派を越えた賞賛を得た。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2008年1月31日に、ロサンゼルス市内で同じ共和党所属で大統領候補のジョン・マケイン上院議員とともに記者会見を開き、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においての支持を表明。マケイン上院議員とは地球温暖化問題などで協力したりする古くからの友人で、マケインはシュワルツェネッガーが計画する州独自の排ガス規制に賛意を示していた。しかし、シュワルツェネッガーの当時の妻マリア・シュライヴァーは2月3日、民主党のバラク・オバマ上院議員の支持を表明したため、夫婦で別々の政党の候補を支持するかたちとなった。一方で排ガス規制を提案しているのにもかかわらず、自身はビジネスジェットで通勤しており、矛盾を指摘されている。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2009年5月、州の財政難を受け米国民の間でも未だ根強い議論が続いているマリファナ合法化について「検討すべき」だとガーディアン紙に対しコメントした。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アリゾナ州にて外見で不法移民とみなされた人物を職務質問でき、在留許可証を所持していない場合犯罪者として取り締まれる法案が通された際はこれに不快感を示し、「こんな法案はカリフォルニアでは絶対に通さない」と発言している。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2010年9月に訪日した際には新幹線E5系電車で東京駅から大宮駅間を試乗した。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2011年1月3日に2期7年の任期を終え、退任した。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2012年8月、南カリフォルニア大学(USC)と共同で国家政策と外交政策を研究するシンクタンクである「USCシュワルツェネッガー研究所」の設立を発表。9月24日に開催されるシンポジウムにはジェームズ・キャメロンやユニバーサル・ピクチャーズ社長であるロナルド・メイヤーも参加した。", "title": "政治家の経歴" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ボディビルダー時代には「オーストリアン・オーク (The Austrian Oak) 」の愛称を持ち、のちにその出演作から「ガバナーター」または「ガバネーター」(The Governator=知事〈Governor〉とターミネーター〈Terminator〉の合成語)、「コナン・ザ・リパブリカン(共和党員コナン)」(主演作『コナン・ザ・グレート』の原題『コナン・ザ・バーバリアン(野蛮人コナン)』から)などと呼ばれるようになる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本においては、淀川長治がその独特かつ長い姓から一部分を取って命名した「シュワちゃん」という愛称で親しまれており、数度の訪日時にはバラエティ番組や各種のコマーシャルメッセージに出演している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1977年にシュワルツェネッガーは自叙伝Arnold: The Education of a Body-Builderを出版している。また、2012年に出演作のひとつである『トータル・リコール』に引っかけたタイトルを付けた自伝Total Recall: My Unbelievably True Life Storyが出版された。この自伝の売り上げは低調な結果に終わり、批評家からは酷評された。さらに、大衆からは後述する隠し子騒動の直後ということもあって、シュワルツェネッガーの人間性を批判する意見が大半だった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1986年にはジョン・F・ケネディ元大統領の姪でCBS記者、マリア・シュライヴァー(英語版)と10年越しの交際のすえ結婚した。2人の間には4人の子供(2女2男)がいる。2011年5月10日に別居を発表。理由は20年間シュワルツェネッガー家のメイドであった女性とシュワルツェネッガーの不倫と、隠し子の存在であることも本人により発表され、「家族らの怒りと落胆は当然で、言い訳できない」と謝罪もしている。隠し子騒動の件もあり、同年の6月にロサンゼルスタイムズが掲載した記事によると、大衆の75%がシュワルツェネッガーに否定的であり、全米からは非難が続出したという。2021年12月28日、ロサンゼルスの裁判所が2人の離婚手続きを承認し、離婚が成立した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "作家のキャサリン・シュワルツェネッガーは長女で第1子。俳優のパトリック・シュワルツェネッガーは長男で第3子。隠し子(三男)とされるジョセフ・バイーナは2016年に『ターミネーター2』の1シーンを再現した短編を自主制作し、ターミネーター役を演じている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ハマーを初めて自家用車にした一人としても知られる。ハマーはもともとシュワルツェネッガーの要望により、軍用車両のハンヴィーを民生仕様にしたもの。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "オートバイの愛好家でもあり、電気オートバイのようなZEV(ゼロエミッション・ヴィークル)を愛用している。カリフォルニア州の環境政策プロモーションで、電気オートバイの普及も積極的に行っており、購入金額から1500ドル分を州が補助する助成金制度なども進めていて、「カリフォルニアほど、電気オートバイに適した地域はない」と語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "兵役義務のころに戦車兵だった経験から、M47パットン戦車を購入している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "葉巻きたばこを吸う愛煙家で、好きな銘柄はキューバ産のコイーバである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2006年1月8日午後、カリフォルニア州ロサンゼルスの路上で、サイドカー付き大型オートバイを運転中に乗用車と衝突事故を起こし、唇を15針縫う怪我を負った。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "同10日には、米国での二輪免許の取得歴がなく、それまで二輪車の無免許運転を繰り返していた疑いの強いことが発覚した。ただし、", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "11日、ロサンゼルス市警察は審議の結果、警察官が運転を現認しておらず、処罰は困難との結論に至ったため、シュワルツェネッガーを処罰しない方針を決めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2022年の1月にも事故を起こしており、シュワルツェネッガーの信号無視が原因で4台の車両が衝突事故を引き起こしており、負傷者は病院送りになった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2023年の2月にも事故を起こしており、自転車にのっていた女性とぶつかったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "シルヴェスター・スタローンとは1980年代から1990年代にかけて、肉体派アクション俳優の代名詞としての存在を二分し、つねに比較され本人たちも互いを意識していた。『デッドフォール』(1989年)や『フェイス/オフ』(1997年)では両者のダブル主演での制作も計画されたが、ライバルとしての関係が共演を実現させなかった。しかし両者が直接わだかまりを作るような出来事はなく、スタローンが来日して日本のテレビ番組内でサインを求められた際は、シュワルツェネッガーの名前を書こうとするジョークをおこなったり、互いの映画作品内で相手を笑いの種に使うなど、関係は良好であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2008年1月24日、スタローンが主演・監督・脚本を務めた映画『ランボー/最後の戦場』のワールドプレミアを米・ラスベガス市内のホテル「プラネットハリウッド・リゾート&カジノ」で行い、シュワルツェネッガーも息子2人を連れて出席した。舞台挨拶に立ったスタローンは「今日はターミネーターが来ているんだ」と、会場に向かって嬉しそうにシュワルツェネッガーを紹介したという。レストランチェーン「プラネット・ハリウッド」と同ホテルの共同出資者というビジネスパートナーでもあり、会場を同チェーンのラスベガス店にした理由もそこにあった(ただし、シュワルツェネッガーは2000年にプラネット・ハリウッドの株を売却している)。固い握手を交わし、肩をたたき合うなど約5分間の交流に、スタローンは「アーノルドも来てくれたし、素晴らしい夜だ。気分は最高だよ」と述べていた。シュワルツェネッガーは、2006年12月にロサンゼルスで行われたスタローンの『ロッキー・ザ・ファイナル』の試写会場にも足を運んでおり、1年ぶりのツーショットとなった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2009年2月、スタローンの監督・主演映画『エクスペンダブルズ』(2010年)へ出演することを明らかにした。スタローンのインタビューによると、現職の州知事ということもあり、ほかのキャストを立てることも考慮しつつオファーしたところ、職務に影響がないことを条件に快諾したという。映画でシュワルツェネッガーが演じるのは、当初はカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガー本人役であると報道されていたが、のちに公開された情報では、スタローン演じる役の元・ライバルで傭兵部隊の元・リーダーで、役名も本名ではないという設定となった。本編では上記のとおりライバルPMCの経営者役を演じ、ブルース・ウィリス演じるCIA担当官からの依頼を「自殺行為だ」と断って立ち去る数分間のカメオ出演であった。2012年の『エクスペンダブルズ2』では本格共演を果たし、2013年の『大脱出』ではスタローンとのダブル主演を務めてる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "『ラストスタンド』(2013年)撮影時の怪我で入院した際には、偶然にもスタローンと同じ病室であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2015年6月29日に行われた『ターミネーター:新起動/ジェニシス』(2015年)のロサンゼルスプレミアでは、スタローンが駆けつけツーショットを披露した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ボディビルダー時代にアメリカのプロレス団体「WWWF」の世界王者ブルーノ・サンマルチノと出会い、以来交流を続けている。サンマルチノが2013年にWWE殿堂にノミネートされた際には、シュワルツェネッガーが紹介を務めた。そのほかにもレスラーのスーパースター・ビリー・グラハムやジェシー・ベンチュラとも交流を持った。ベンチュラとは『プレデター』や『バトルランナー』で共演している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1999年11月にはWWE(当時はWWF)の看板番組である『SmackDown!』に出演、会長のビンス・マクマホンから長年の活躍を評されWWE(当時はWWF)王座のレプリカのベルトを授与された。番組では実況にも参加し、レスラーのトリプルHに「一発」お見舞いした。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2015年には自身もWWE殿堂にノミネートされ、HPパビリオンにおいて殿堂入りした(紹介役を務めたのはトリプルH)。翌日にはWWEの祭典レッスルマニアにも登場し、他の殿堂者と共に紹介された。なお、この大会のスポンサーを務めたのは『ターミネーター:新起動/ジェニシス』であり、トリプルHの入場はそれをフィーチャーしたものであった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "大衆から暴行を受けたこともあり、2003年には州知事の選挙中に演説会場で生卵を投げつけられた。また、2019年には背後からとび蹴りをくらわされた事もある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "『コマンドー』、『プレデター』の2作は、20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパンの『吹替の帝王』シリーズより上記の両者の吹替えを収録したブルーレイが発売されている(両作ともに『吹替の帝王』シリーズ以外のソフトでは玄田版が収録されたものが発売されている)。", "title": "日本語吹き替え" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "『イレイザー』はワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメントの『吹替の力』シリーズより両者の吹替えを収録したブルーレイが2014年12月23日に発売(『吹替の力』シリーズ以外のソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。", "title": "日本語吹き替え" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "『トータル・リコール』はKADOKAWAおよび角川書店より両者の吹替えを収録したブルーレイが2019年10月4日に発売された(それまでのソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。", "title": "日本語吹き替え" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "玄田と屋良の他に、1990年代までは様々な声優が起用され大友龍三郎や大塚明夫、津嘉山正種などが担当した作品もあり(『ターミネーターシリーズ』、『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』、『キンダガートン・コップ』など)、特に『ターミネーター』に関しては「この作品(『ターミネーター』)の極悪非道・冷徹無比の悪役サイボーグ(T-800)を演じたシュワルツェネッガーには大友の人並外れた重低音はまさにピッタリ」との声が多くある。この『ターミネーター』は『吹替の帝王』シリーズより大友(テレビ朝日版、旧VHS版)・玄田(新VHS/DVD/BD版、テレビ東京版)両者の吹替えを収録したブルーレイが2015年6月24日に発売されている。", "title": "日本語吹き替え" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "シュワルツェネッガーにとってはジェームズ・キャメロン監督と『ターミネーター2』以来の作品となる『トゥルーライズ』では菅生隆之がソフト版のシュワルツェネッガーの吹き替えを担当しており、玄田が担当したバージョン(フジテレビ版)は、2010年4月23日発売のDVDにソフト版と併録する形で収録された(正味122分)。また、玄田(フジテレビ)版は2012年に上述の『吹替の帝王』シリーズ『コマンドー』の追加収録と並行して同一キャストによる初回放送時にカットされた部分の追加録音が行われた「完声版」の吹替が存在しているが、2013年当時、キャメロン監督が多忙なため、ブルーレイ版の発売が許可されていないと担当者が語っていた。本国でもブルーレイ版の発売はされておらず、20世紀FOXがウォルト・ディズニー・スタジオに買収されたことで傘下に入ったことにより、吹替の帝王シリーズも消滅、もしくは凍結状態となり、事実上のお蔵入りとなっている。この音源が収録されたソフトの発売や放送、配信などは2023年現在も行われていない。", "title": "日本語吹き替え" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "『ツインズ』では堀勝之祐、『キンダガートン・コップ』では大塚明夫がソフト版のシュワルツェネッガーを担当し、玄田はテレビ朝日版を担当しているが、この後者のバージョンはPAL方式に基づいて収録されているため、長年市販ソフトへの収録や民放での再放送は行われていなかった(WOWOW、ザ・シネマなどの有料衛星放送において不定期放送がおこなわれる場合があった)が、『キンダガートン・コップ』は2021年に玄田版を収録したソフトの発売が決定した。", "title": "日本語吹き替え" } ]
アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガーは、オーストリア系アメリカ人の俳優、実業家、元ボディビルダー、元政治家であり、2003年から2011年まで第38代カリフォルニア州知事を務めた。 シュワルツェネッガーは、ボディビル時代には「オーストリアのオーク」、俳優時代には「アーニー(Arnie)」や「シュワジー(Schwarzy)」、政治家時代には「ガバネーター」(「州知事」と「ターミネーター」を混ぜたもの)というニックネームで呼ばれていた。日本では「シュワちゃん」という愛称で知られている。
{{出典の明記| date = 2021年4月}} {{redirect|シュワルツェネッガー|日本のロックバンド[[[Alexandros]|[Champagne]]](現:[Alexandros])のアルバム|Schwarzenegger}} {{Infobox officeholder |name=アーノルド・シュワルツェネッガー<br />Arnold Schwarzenegger |birth_place={{AUT1945}} タール |serviceyears=1965 |branch={{flagicon image|Roundel of Austria.svg|size=25px|border=}} ''[[オーストリア軍]]'' |allegiance={{flag|Austria}} |website={{url|http://www.schwarzenegger.com/|Official website}} |occupation={{hlist|俳優|政治家|ボディビルダー|実業家|作家}} |signature=Arnold Schwarzenegger Signature.svg |father= |children= |spouse= |party=[[共和党 (アメリカ)|共和党]] |death_place= |death_date= |birth_date={{birth date and age|1947|7|30}} |image=Arnold Schwarzenegger by Gage Skidmore 3 (cropped).jpg |successor1={{ubl|[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]] (共同議長)|{{仮リンク|トム・マクミレン|en|Tom McMillen}} (共同議長)}} |predecessor1={{仮リンク|ディック・カズマイアー|en|Dick Kazmaier}} |term_end1=[[1993年]][[5月27日]] |term_start1=[[1990年]][[1月22日]] |president1={{ubl|[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]|[[ビル・クリントン]]}} |office1={{仮リンク|体力とスポーツに関する大統領評議会|en|President's Council on Physical Fitness and Sports}}議長 |successor=[[ジェリー・ブラウン]] |predecessor=[[グレイ・デイヴィス]] |term_end=[[2011年]][[1月3日]] |term_start=[[2003年]][[11月17日]] |lieutenant={{ubl|クルーズ・ブスタマンテ|ジョン・ガラメンディ|モナ・パスキ (代行)|アビル・マルドナード}} |order=第38代 [[カリフォルニア州知事]] |caption=2019年[[コミコン・インターナショナル]]にて |unit=Belgier Barracks |module= |nationality={{AUT}}<br />{{USA}} |height=188cm |pronunciation= |birth_name= }} {{ActorActress | 芸名 = アーノルド・シュワルツェネッガー | 本名 = | 死没地 = | 国籍 = | 身長 = | 活動期間 = [[1968年]] - [[1975年]]、[[1980年]]([[ボディビル|ボディビルダー]])<br />[[1970年]] -([[俳優]]) | 活動内容 = | 著名な家族 = [[ジョン・F・ケネディ]](義叔父)<br>{{marriage|{{仮リンク|マリア・シュライバー|en|Maria Shriver}}<br />|1986|2021|end=divorced}}(妻)<br>[[キャサリン・シュワルツェネッガー]](娘)<br>[[パトリック・シュワルツェネッガー]](息子)<br>[[クリス・プラット]](義息子) | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[コナン・ザ・グレート|コナン]]』シリーズ<br/>『[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]』シリーズ<br/>『[[コマンドー]]』<br/>『[[ゴリラ (1986年の映画)|ゴリラ]]』<br/>『[[プレデター (映画)|プレデター]]』<br/>『[[バトルランナー (映画)|バトルランナー]]』<br />『[[レッドブル (映画)|レッドブル]]』<br />『[[ツインズ (映画)|ツインズ]]』<br/>『[[トータル・リコール]]』<br/>『[[キンダガートン・コップ]]』<br/>『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』<br/>『[[トゥルーライズ]]』<br/>『[[ジュニア (映画)|ジュニア]]』<br/>『[[イレイザー (映画)|イレイザー]]』<br/>『[[ジングル・オール・ザ・ウェイ]]』<br/>『[[バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲]]』<br/>『[[コラテラル・ダメージ]]』<br/>『[[エクスペンダブルズ]]』シリーズ<br/>『[[ラストスタンド]]』<br/>『[[大脱出]]』 | ゴールデングローブ賞 = '''新人男優賞'''<br />[[1976年]]『ステイ・ハングリー』 | AFI賞 = '''[[アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100]]'''(悪役部門第22位)<br />[[2004年]]『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』 | MTVムービー・アワード = '''[[MTVムービー・アワード 演技賞|最優秀男優賞]]'''<br />[[1992年]]『[[ターミネーター2]]』 | ゴールデンラズベリー賞 = '''25周年最低落選賞'''<br />[[第25回ゴールデンラズベリー賞|2004年]] 8度落選のため | 備考 = }} '''アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガー'''(Arnold Alois Schwarzenegger、{{IPA-all|ˈʃvɑːrtsnɛɡər|pron}}、{{IPA-de|ˈaɐ̯nɔld̥ ˈalɔʏs ˈʃvaɐ̯t͡sn̩ˌɛɡɐ}}、[[1947年]][[7月30日]] - )は、[[オーストリア系アメリカ人]]の[[俳優]]、[[実業家]]、元[[ボディビルダー]]、元[[政治家]]であり、2003年から2011年まで第38代[[カリフォルニア州知事]]を務めた。 シュワルツェネッガーは、ボディビル時代には「オーストリアのオーク(Austrian Oak)」、俳優時代には「アーニー(Arnie)」や「シュワジー(Schwarzy)」<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger at University of Houston Commencement: 'None of Us Can Make It Alone'|url=https://time.com/4779796/arnold-schwarzenegger-university-of-houston-uh-commencement-graduation/|website=Time|accessdate=2021-04-06}}</ref>、政治家時代には「ガバネーター(The Governator)」(「州知事(Governor)」と「ターミネーター(Terminator)」を混ぜたもの)というニックネームで呼ばれていた<ref>{{Cite web|和書|title=シュワルツェネッガー、アニメ番組のヒーロー“ガバネーター”に : 映画ニュース|url=https://eiga.com/news/20110331/10/|website=映画.com|accessdate=2021-04-06|language=ja}}</ref>。日本では「'''シュワちゃん'''」という愛称で知られている。 == 略歴 == ユーリ・ウラソフへの憧れから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6233dc38e4b009ab92f6393b|title=シュワルツェネッガーさんが9分の動画でロシアの人たちに訴えた。抗議の市民へ「勇気を見ている」|publisher=ハフポスト WORLD|date=2022-03-18|accessdate=2022-04-01}}</ref>15歳で[[重量挙げ]]を始め、20歳で[[ミスター・ユニバース]]のタイトルを獲得し、その後、[[ミスター・オリンピア]]・コンテストで7度の優勝を果たすなど、ボディビル界の重鎮として多くの著書や記事を残している<ref>{{Cite web|title=Lift Heavy To Build Muscle Like Arnold Schwarzenegger|url=https://www.bodybuilding.com/fun/lift-heavy-to-build-muscle-like-arnold-schwarzenegger.html|website=Bodybuilding.com|date=2014-05-28|accessdate=2021-04-06|language=en|last=tonygentilcorefanpage}}</ref>。 ミスター・オリンピアに次いで重要なボディビル・イベントとされる[[アーノルド・スポーツ・フェスティバル]]は、彼の名前にちなんで命名されている<ref>{{Cite web|title=50 years of the Mr Olympia {{!}} MUSCLE INSIDER|url=https://muscleinsider.com/features/50-years-mr-olympia|website=muscleinsider.com|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 彼は、史上最も偉大なボディビルダーの一人であると同時に、最もカリスマ的で有名なボディビル界のアンバサダーであると広く認められている<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger - The Greatest Bodybuilder Ever - IllPumpYouUp.com|url=https://web.archive.org/web/20150905072021/http://www.illpumpyouup.com/articles/arnold-schwarzenegger-the-greatest-bodybuilder-ever.htm|website=web.archive.org|date=2015-09-05|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 ボディビルを引退した後、シュワルツェネッガーは、[[ハリウッド]]の[[アクション映画]]スターとして世界的に有名になった。ボディビルの[[ドキュメンタリー映画]]『[[アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男]]』(1977年)に出演した後、[[剣と魔法]]の物語『[[コナン・ザ・グレート]]』(1982年)でブレイクし、1984年には続編が製作されるほどの興行成績を収めた。その後、批評家や商業的に成功したSF映画『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』(1984年)に[[T-800|タイトルキャラクター]]として出演し、その後、続編の『[[ターミネーター2]]』(1991年)、『[[ターミネーター3]]』(2003年)、『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』(2015年)、『[[ターミネーター:ニュー・フェイト]]』(2019年)で同様のキャラクターを演じている。また、『[[コマンドー]]』(1985年)、『[[バトルランナー (映画)|バトルランナー]]』(1987年)、『[[プレデター (映画)|プレデター]]』(1987年)、『[[トータル・リコール]]』(1990年)、『[[トゥルーライズ]]』(1994年)などの成功した[[アクション映画]]に加え、『[[ツインズ (映画)|ツインズ]]』(1988年)、『[[キンダガートン・コップ|キンダーガートン・コップ]]』(1990年)、『[[ジュニア (映画)|ジュニア]]』(1994年)、『[[ジングル・オール・ザ・ウェイ]]』(1996年)などのコメディ映画や、アクションとスリラーが混在した[[バディ]][[刑事ドラマ]]『[[レッドブル (映画)|レッドブル]]』(1988年)などにも出演している<ref>{{Cite web|title=Red Heat movie review &amp; film summary (1988) {{!}} Roger Ebert|url=https://www.rogerebert.com/reviews/red-heat-1988|website=https://www.rogerebert.com/|accessdate=2021-04-06|language=en|first=Roger|last=Ebert}}</ref>。 映画製作会社オーク・プロダクションズの創設者でもある<ref>{{Cite web|title=Alibaba’s Youku Boards ‘Stan Lee’s Superhero Kindergarten’ With Arnold Schwarzenegger|url=https://variety.com/2019/tv/global/alibaba-youku-stan-lees-superhero-kindergarten-arnold-schwarzenegger-mipcom-1203368897/|website=Variety|date=2019-10-14|accessdate=2021-04-06|language=en-US|first=Elsa|last=Keslassy}}</ref>。 2003年10月7日に行われた[[グレイ・デイビス]][[カリフォルニア州知事]](当時)の後継者を決める特別リコール選挙で、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補として初当選した。投票率は48.6%で、次点の[[クルーズ・ブスタマンテ]]に17ポイントの差をつけた。2006年のカリフォルニア州知事選挙では、55.9%の得票率で再選され、知事としての任期を全うした<ref>{{Cite news|title=Schwarzenegger Sworn in for Second Term|url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/05/AR2007010501386.html|date=2007-01-05|accessdate=2021-04-06|issn=0190-8286|language=en-US|first=LAURA|last=KURTZMAN}}</ref>。2011年、知事としての任期を満了し、俳優業に復帰した。 1986年に[[ジョン・F・ケネディ]]大統領の姪である[[マリア・シュライバー]]と結婚。1997年に[[家政婦]]との間に子供をもうけたことをシュワルツェネッガーが認めたため、2011年に別居し、2021年に離婚が成立した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20211231-ZMUSEIOS45LA5IRHUV3IOUUTVI/|title=シュワルツェネッガー、10年越し離婚成立 4億ドル財産を折半|publisher=サンスポ|date=2021-12-31|accessdate=2022-06-15}}</ref>。 == 生い立ち == [[ファイル:Thal - Geburtshaus Arnold Schwarzenegger1.jpg|サムネイル|シュワルツェネッガーの生家。現在は資料館になっている(シュタイアーマルク州タール町、[[2011年]])]] [[ファイル:Arnold Schwarzenegger 1971.jpg|サムネイル|24歳のシュワルツェネッガー(1971年)]] アーノルド・アロイス・シュワルツェネッガーは1947年7月30日、[[オーストリア共和国]][[シュタイアーマルク州]][[:de:Thal (Steiermark)|タール町]]<ref name="lifeline">{{Cite news|title=Arnold Schwarzenegger: Biography|url=http://schwarzenegger.com/bio|newspaper=Schwarzenegger.com|accessdate=December 31, 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171231002431/http://schwarzenegger.com/bio|archivedate=December 31, 2017}}</ref>で、父[[:en:Gustav Schwarzenegger|グスタフ・シュワルツェネッガー]]([[1907年]] - [[1972年]])と母アウレーリア・シュワルツェネッガー(旧姓・ヤドルニー、[[1922年]] - [[1998年]])の次男として生まれた。 シュワルツェネッガーの家系は以前から[[チェコ]]系ではないかといわれていたが、[[2020年]]、[[スロバキア]]の家系研究者アリツァ・ヤンチョコヴァーらの調査により、父グスタフ方の元の姓はマフ([[チェコ語]]:Mach)で、[[1841年]]生まれの曽祖父ウェンゼル・マフ(チェコ名・ヴァーツラウ、チェコ語:Václav)が、出身地のボヘミア地方[[:cs:Kočov|コチョウ村]](現・[[チェコ共和国]][[プルゼニ州|プルゼニ県]][[:cs:Okres Tachov|タホウ郡]]コチョウ村)から当時鉱山町だった現在のシュタイアーマルク州[[:de:Neuberg an der Mürz|ノイベルク・アン・デル・ミュルツ町]]に移り住み、[[鍛冶屋]]を営んでいたことが明らかになった<ref name="Rechcigl Jr.">{{Cite book|last=Rechcigl Jr.|first=Miloslav|title=Czech It Out: Czech American Biography Sourcebook|url=https://books.google.com/books?id=9uhMCgAAQBAJ&q=arnold&pg=PT118|date=2007|isbn=9781504920711}}</ref> <ref name="Bohemian Encyclopedia">{{Cite book|last=Miloslav Rechcigl Jr.|title=Encyclopedia of Bohemian and Czech-American Biography, Volym 2|url=https://books.google.com/books?id=cIKQDQAAQBAJ&q=arnold+schwarzenegger+czech&pg=PT47|date=2016|publisher=[[AuthorHouse]]|location=[[Bloomington, Indiana]]|isbn=978-1524620691}}</ref> <ref name="Novy cas">{{Cite web|和書|url=https://www.cas.sk/clanok/1015298/slovenka-vypatrala-skutocny-povod-akcneho-hrdinu-ziadny-schwarzenegger-ale-arnold-mach/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201223135920/https://www.cas.sk/clanok/1015298/slovenka-vypatrala-skutocny-povod-akcneho-hrdinu-ziadny-schwarzenegger-ale-arnold-mach/|archivedate=December 23, 2020|title="Slovenka vypátrala skutočný pôvod akčného hrdinu: Žiadny Schwarzenegger, ale Arnold Mach!"(スロバキア女性がアクションヒーローの真の起源をたどる=シュワルツェネッガーではなく、アーノルド・マフ!)|publisher=[[:sk:Nový Čas|ノヴィーチャス紙(スロバキア)]]|accessdate=23 December 2020}}</ref> <ref name="Prague Reporter">{{Cite web|url=https://www.praguereporter.com/home/2020/8/19/ill-be-mach-arnold-schwarzenegger-confirmed-czech-roots|title=Conan the Bohemian: Arnold Schwarzenegger's Czech roots confirmed|publisher=The Prague Reporter|accessdate=23 December 2020}}</ref>。ヤンチョコヴァーの調査で、[[1872年]]に誕生した祖父カールは当初マフ姓を名乗ったものの、[[非嫡出子]](婚外子)であったため、のち母方のシュワルツェネッガー姓に改めていたことも判明した<ref name="Novy cas" />。 また、[[ニーダーエスタライヒ州]][[:de:Gloggnitz|グログニッツ町]]出身の母アウレーリア方の家系はよく分かっていないが、旧姓のヤドルニー(チェコ語:Jadrný)はチェコ人の姓であり、やはりチェコ系であるとみられている<ref name="Novy cas" /><ref name="Prague Reporter" />。 父グスタフは[[オーストリア軍|オーストリア連邦陸軍]]小隊長を経て[[1937年]]に警察官になった後、[[アンシュルス]](オーストリア併合)直前の[[1938年]]、自発的にオーストリア国内の[[ドイツ国家社会主義労働者党]]への入党を申請し<ref name="nazi">{{Cite news|title=Arnie: 'I was abused as child'|date=August 4, 2004|url=http://news.scotsman.com/arnoldschwarzenegger/Arnie-I-was-abused-as.2551492.jp|newspaper=The Scotsman|location=Edinburgh|accessdate=April 18, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100818225021/http://news.scotsman.com/arnoldschwarzenegger/Arnie-I-was-abused-as.2551492.jp|archivedate=August 18, 2010}}</ref>、[[1939年]]には同党所有の準軍事組織である[[突撃隊]]への入隊も申請したが、実際に入党できたのは[[ドイツ国防軍]]入隊([[1939年]])後の[[1941年]]だった。[[第二次世界大戦]]では[[第4装甲軍]][[野戦憲兵 (ドイツ)|第521野戦憲兵隊]]先任軍曹として[[独ソ戦|東部戦線]]に従軍<ref name="nazi" />。[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]で負傷し<ref>{{Cite news|title=Surprised by Russia: 5 things that charmed Arnold Schwarzenegger in Moscow|url=https://www.rbth.com/lifestyle/327632-surprised-by-russia-schwarzenegger|newspaper=Russia Beyond|date=February 20, 2018|accessdate=July 17, 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180718030522/https://www.rbth.com/lifestyle/327632-surprised-by-russia-schwarzenegger|archivedate=July 18, 2018}}</ref>、[[ドイツ十字章|第一級鉄十字章]]を受章した。戦傷治療を行っていたが[[マラリア]]の発作が続いたため[[1944年]]に除隊し、シュタイアーマルク州[[グラーツ]]市の郵便監察官として終戦を迎えた。[[1947年]]に内務省所管の[[:de:Bundesgendarmerie|オーストリア連邦憲兵隊]]警察官に復帰。地区憲兵隊司令などを歴任した。 グスタフと[[ナチス・ドイツ]]の関係は[[1990年]]に明るみになり、シュワルツェネッガーはのちに[[サイモン・ウィーゼンタール・センター|サイモン・ヴィーゼンタール・センター]]に対してグスタフの戦時中の記録調査を依頼したが、残虐行為に関与していた証拠は出てこなかった<ref name="governG2" />。この調査結果は[[2003年]]のカリフォルニア州知事立候補時に広く報道された<ref>{{Cite news|url=https://www.usatoday.com/news/politicselections/2003-08-24-arnold-father_x.htm|title=Records: Arnold's father was member of Nazi storm troops|newspaper=USA Today|date=August 24, 2003|accessdate=August 24, 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110522170405/http://www.usatoday.com/news/politicselections/2003-08-24-arnold-father_x.htm|archivedate=May 22, 2011}}</ref>。シュワルツェネッガーは[[2004年]]、『[[フォーチュン (雑誌)|フォーチュン]]』誌のインタビューで、幼少期に父親から度重なる暴力を振るわれていたことを明らかにし、[[2021年]]に公表したビデオメッセージでは、ナチスへの協力に関して本人が戦後抱えた罪悪感と恥辱が暴力の原因だったとの見方を示した<ref>{{cite tweet |user=Schwarzenegger|number=1348249481284874240|date=10 January 2021 |title=My message to my fellow Americans and friends around the world following this week's attack on the Capitol.|accessdate=15 july 2021}}</ref>。 グスタフは戦争未亡人のアウレーリアと[[1945年]][[10月20日]]に結婚した。シュワルツェネッガーによると、彼の両親はとても厳しかったという。「当時のオーストリアは非常に異質な世界だった...何か悪いことをしたり、親に従わなかったりした場合には、罰を免れなかった<ref name="askarnold1">{{Cite news|title=Ask Arnold|url=http://www.schwarzenegger.com/en/news/askarnold/news_askarnold_eng_legacy_444.asp?sec=news&subsec=askarnold|publisher=Schwarzenegger.com|accessdate=April 18, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080523203926/http://www.schwarzenegger.com/en/news/askarnold/news_askarnold_eng_legacy_444.asp?sec=news&subsec=askarnold|archivedate=May 23, 2008}}</ref>」とシュワルツェネッガーは語っている。アーノルドは毎週日曜日に[[ミサ]]に通う[[カトリック教会|カトリック]]の家庭で育った<ref name="tmas">{{Cite book|last=Andrews|first=Nigel|title=True Myths of Arnold Schwarzenegger|year=2003|publisher=Bloomsbury|isbn=978-1-58234-465-2|url=https://archive.org/details/truemythslifetim0000andr}}</ref><ref>{{Cite news|first=Eric|last=Herman|title=Ah-nold in cross hairs Rivals blast Calif. front-runner|date=August 11, 2003|url=https://www.nydailynews.com/archives/news/ah-nold-cross-hairs-rivals-blast-calif-front-runner-article-1.522414|newspaper=[[Daily News (New York)|Daily News]]|accessdate=August 20, 2012|location=New York|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121026214348/http://www.nydailynews.com/archives/news/ah-nold-cross-hairs-rivals-blast-calif-front-runner-article-1.522414|archivedate=October 26, 2012}}</ref>。グスタフはアーノルドよりも長男のマインハルト([[1946年]]-[[1971年]])を好んでいた<ref name="governG2">{{Cite news|first=Xan|last=Brooks|title=The Governator|date=August 8, 2003|url=https://www.theguardian.com/film/2003/aug/08/usa.politicsandthearts|newspaper=The Guardian|location=London|accessdate=April 19, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130827055648/http://www.theguardian.com/film/2003/aug/08/usa.politicsandthearts|archivedate=August 27, 2013}}</ref>。彼の好意は「強くてあからさまなもの」であり、それはアーノルドが実子ではないという根拠のない疑惑から生じていた<ref name="wl">{{Cite book|last=Leigh|first=Wendy|title=Arnold: An Unauthorized Biography|year=1990|isbn=978-0-7207-1997-0|publisher=Pelham}}</ref>。シュワルツェネッガーは、父親が「(アーノルドの)問題に耳を傾けたり、理解したりすることに耐えられなかった」と語っている<ref name="tmas" />。母親とは良好な関係を築いており、母親が亡くなるまで連絡を取り合っていたという<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger: Mr. Olympia&nbsp;– 1970–1975, 1980|publisher=BodyBuild.com|url=http://www.bodybuildbid.com/articles/mrolympia/arnold-schwarzenegger.html|accessdate=April 18, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080421231324/http://www.bodybuildbid.com/articles/mrolympia/arnold-schwarzenegger.html|archivedate=April 21, 2008}}</ref>。 グスタフは[[カーリング]]競技の[[チャンピオン]]であったためアーノルドもスポーツに強い関心をもち、[[サッカー]]、[[陸上競技]]、[[ボクシング]]、[[水泳]]などを習い、1962年に[[ウエイトトレーニング]]を始めた。その後[[徴兵]]で[[オーストリア連邦陸軍]]第4戦車大隊に配属され、史上最年少記録の18歳で戦車兵として任務についた。この基礎訓練期間中にジュニア・ミスター・ヨーロッパ大会で優勝したが、このコンテストに参加するため[[脱走|無許可離隊]]を冒したため、1週間の[[軍事刑務所|収監]]処分を受けている。 [[1968年]]に本格的にボディビルをするため、[[ジョー・ウイダー]]に誘われて[[アメリカ合衆国]]に移り住んだ。[[英語]]が流暢でなく、渡米時の所持金はわずか20ドルであった。[[1983年]]にアメリカ国籍を取得したが、オーストリアの国籍も継続して持っている。[[1979年]]に[[ウィスコンシン大学]]から国際市場と経営管理に関して[[学士|B.A.]](Bachelor of Arts)を得た。また、[[UCLA]]にも通っており、こちらでは[[心理学]]を専攻していた。朝にトレーニングをしてから大学に行き、帰宅したらトレーニングをする日課があり、勉強とトレーニングを両立させる毎日を過ごしていたという。 マインハルトは[[1971年]]に[[飲酒運転]]で起こした[[交通事故]]で死亡し、父グスタフはその翌年、連邦憲兵隊最終勤務地であったシュタイアーマルク州[[:de:Weiz|ヴェイツ町]]で[[脳卒中]]のため他界。母アウレーリアは[[1998年]]、ヴェイツ町にあるグスタフの[[墓参]]直後に病没した。 == ボディビルの経歴 == [[ファイル:Arnold Schwarzenegger 1974.jpg|thumb|ボディビルダー時代のシュワルツェネッガー(1974年)]] シュワルツェネッガーは[[ボディビルダー]]としてその名が広く知られ、ボディービルの知名度の向上に非常に大きく貢献した点などで、ボディビルの歴史においても特に重要な人物と見なされている。 ボディビルを始めたきっかけは、ボディビル出身である[[スティーヴ・リーヴス]]の主演映画を見て憧れたことによる。その鍛え抜かれた肉体は「オーストリアン・オーク(オーストリアの樫の木)」の愛称をもたらし、ジュニア・ミスター・ヨーロッパ、ミスター・ワールド、5回の[[ミスター・ユニバース]]などのタイトルを得ている。 特筆すべきは[[ミスター・オリンピア]]([[ボディビルディング]]の世界最高峰)での活躍であり、とくにシュワルツェネッガーとその他の選手のオリンピアまでの道のりと、戦いを映したドキュメンタリー『パンピング・アイアン』はボディビル人気に一気に火をつけ、同時に[[ゴールドジム]]を一躍世界最大のジムにまで成長させた。 オリンピアでの戦績の面でもほぼ無敗という記録を持っており、[[セルジオ・オリバ]]に唯一敗北しているもののそれ以降はまさしく無敗であり、連続して6連勝という記録を作り上げた。1978年には「世界で最も筋肉が発達した男」として[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に掲載された<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger tribute to best friend bodybuilder Franco Columbu|url=https://news.theceomagazine.com/lifestyle/schwarzenegger-tribute-franco-columbu/|website=News {{!}} The CEO Magazine|date=2019-09-03|accessdate=2019-11-15|language=en-US}}</ref>。 [[1980年]]以降ボディビルの大会に選手としては出場していないものの、おもにボディビルの知名度を上げるための活動に力を入れており、カリフォルニア州知事となったあともオリンピアなどに顔を出し、とくに自身の共同主催するアーノルド・クラシックにはどれほど忙しくても毎年必ず出席している。 その後、いったんは俳優業に移るものの、[[1980年]]に突如としてボディビルに復帰した。この復帰はかなり突然のものであり、ほかのオリンピア出場者が飛行機で乗りあった際も映画の撮影であると思われていたといわれている。この大会において優勝7回という大きな記録を作り上げたが、事前に審査委員がシュワルツェネッガーと親しい人物と変わっていたり、明らかに体の仕上がりが甘い、映画の宣伝を兼ねた勝利だとの声も上がり、疑惑が残ったままの勝利と大論争を巻き起こすこととなった。この際に、優勝を確信されていた[[マイク・メンツァー]]はその後もシュワルツェネッガーと険悪な関係が続いた。 達成した合計7回の優勝という記録は、リー・ヘイニーが[[1991年]]に、[[ロニー・コールマン]]が[[2005年]]にともに連続8連覇を成し遂げるまで破られなかった。また連続という点では、[[ドリアン・イエーツ]]が[[1997年]]に連続6連覇を成し遂げている。ちなみにロニー・コールマンへの[[トロフィー]]授与の際にはシュワルツェネッガー自身も立ち会った。 その業績は毎年開催されるアーノルド・クラシック・ボディビル大会やミスターオリンピアにて称えられる。現在{{いつ|date=2017年1月}}もマッスルアンドフィットネス等、[[フィットネス]]関連の雑誌にトレーニング理論の記事を執筆中。2013年よりボディビル雑誌の編集長に就任した<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0050797|title=アーノルド・シュワルツェネッガー、ボディビル雑誌の編集長に就任|publisher=シネマトゥデイ|date=2013年3月4日 |accessdate=2013年3月22日}}</ref>。現在はメールマガジン『Arnold's Pump Club』にて、健康・フィットネス情報を無料配信している<ref>{{Cite web |title=Arnold's Pump Club |url=https://arnoldspumpclub.com/ |website=Arnold's Pump Club |access-date=2023-11-22 |language=en}}</ref>。 ; 大麻とステロイドの使用 : 1977年に製作されたドキュメンタリー映画『パンピング・アイアン(鋼鉄の男)』において、ボディビルダー時代に[[アナボリックステロイド|ステロイド]]と[[大麻]]を使用していたと告白している。ボディビルの知名度向上および肉体派俳優として大きな成功を手にしたシュワルツェネッガーの[[アナボリックステロイド]]の使用は論争を巻き起こした。肉体作りのために使用していたステロイドについては、使用していたことについての後悔はまったくないと述べ、大麻の使用については[[GQ (雑誌)|GQ誌]]でこのことに言及された際に「大麻は麻薬じゃない」と述べた<ref>[http://ncr2.net/2007105575.php アーノルド・シュワルツェネッガー、「マリファナは麻薬じゃない」] NCR2 Mon, Oct 29th, 2007</ref>が、シュワルツェネッガーの報道官は「単なる冗談」だったとして弁解している<ref>[http://ncr2.net/2007105587.php シュワルツェネッガー知事、マリファナ発言は「冗談」] NCR2 Tue, Oct 30th, 2007</ref>。オリバは「昔は誰もが使っていたよ」と断りを入れつつも「彼はアメリカにステロイドを持ち込んだ最初の人物だ」との見解を示している<ref>{{Cite web |url = https://www.uk-muscle.co.uk/threads/sergio-oliva-interview.87717/ |title = Sergio Oliva interview |author = |date = 18 April 2010 |work = uk-muscle |archive-url = |archive-date = |access-date = 2 April 2023 }}</ref>。 == 俳優の経歴 == === 初期の活躍 === ボディビルから俳優への転身を目指していたシュワルツェネッガーは、『[[アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス]]』(1970年)の主人公に抜擢され、ついに実現した。「アーノルド・ストロング(Arnold Stang)」という[[芸名]]で出演したが、この映画での彼の[[訛り]]はあまりにも酷かったため、制作後にセリフが吹き替えられた<ref name=":0">{{Cite news|title=Profile: Arnold Schwarzenegger|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3131155.stm|date=2004-08-31|accessdate=2021-04-06|language=en-GB}}</ref>。 2本目の映画出演は『[[長いお別れ|ロング・グッドバイ]]』(1973年)の聾唖の[[マフィア]]の[[殺し屋]]役で、その後、映画『ステイ・ハングリー』(1976年)ではより重要な役を演じ、[[ゴールデングローブ賞]]の新人男優賞を受賞した。シュワルツェネッガーは、俳優としてのキャリアを築く上での初期の苦労を「[[エージェント]]やキャスティング担当者から、『体が変だ』『アクセントがおかしい』『名前が長すぎる』などと言われた。基本的に、どこに行ってもチャンスはないと言われていた」と語っている<ref>{{Cite web|title=Schwarzenegger.com - News - Ask Arnold|url=https://web.archive.org/web/20080523203926/http://www.schwarzenegger.com/en/news/askarnold/news_askarnold_eng_legacy_444.asp?sec=news&subsec=askarnold|website=web.archive.org|date=2008-05-23|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 シュワルツェネッガーは、ボディビル映画『[[アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男]]』(1977年)で注目を集め、知名度を高めた<ref name=":3131155">{{Cite news|title=Profile: Arnold Schwarzenegger|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/americas/3131155.stm|date=2004-08-31|accessdate=2021-04-06|language=en-GB}}</ref>。この映画の要素はドラマ化されている。1977年には、[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]のシットコム『The San Pedro Beach Bums』とABCの警察ドラマ『サンフランシスコ捜査線』に1話ずつゲスト出演している。 シュワルツェネッガーは、『[[超人ハルク (テレビドラマ)|超人ハルク]]』の主人公の[[オーディション]]を受けたが、身長の高さを理由に落選した。シュワルツェネッガーは、1979年のコメディ『サボテン・ジャック』で[[カーク・ダグラス]]や[[アン=マーグレット]]と共演。1980年には、1950年代の女優[[ジェーン・マンスフィールド|ジェイン・マンスフィールド]]の伝記映画に、マンスフィールドの夫である[[ミッキー・ハージティ]]役で出演した。 === 1980年代 アクションスターへ === [[File:Arnold Schwarzenegger 1984.jpg|thumb|1984年]] シュワルツェネッガーの出世作は、1982年に公開された剣と魔法の物語『[[コナン・ザ・グレート]]』で、興行的にもヒットした<ref>{{Cite book|洋書|title=Film Encyclopedia. HarperCollins|year=2006|publisher=Katz, Ephraim}}</ref>。 続いて1984年には続編の『[[キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2]]』が公開されたが、前作ほどの成功は収められなかった<ref>{{Cite web|title=Empire Reviews Central - Review of EMPIRE ESSAY: The Terminator|url=https://web.archive.org/web/20070927235924/http://www.empireonline.com/reviews/reviewcomplete.asp?FID=132648|website=web.archive.org|date=2007-09-27|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 1984年には、[[ジェームズ・キャメロン]]監督のSFスリラー映画『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』で、彼の俳優人生の代表的な役とも言える、[[T-800|タイトルキャラクター]]として初登場した{{R|":3131155"}}。 この後、シュワルツェネッガーは1985年に『[[レッドソニア]]』で準主役を演じている。 1980年代、観客はアクション映画を熱望し、シュワルツェネッガーと[[シルヴェスター・スタローン]]は共に国際的なスターとなった<ref name=":0" />。 2人のライバルは報道機関で互いに攻撃し合い、スクリーン上での殺害回数や大型の武器で相手を凌ごうとした<ref>{{Cite web|title=Schwarzenegger Orchestrated a Legendary Hollywood Troll|url=https://www.slashfilm.com/arnold-schwarzenegger-beyond-fest/|website=/Film|date=2017-10-09|accessdate=2021-04-06|language=en-US}}</ref>。 1980年代には、『[[コマンドー]]』(1985年)、『[[ゴリラ (1986年の映画)|ゴリラ]]』(1986年)、『[[バトルランナー (映画)|バトルランナー]]』(1987年)、『[[プレデター (映画)|プレデター]]』(1987年)、『[[レッドブル (映画)|レッドブル]]』(1988年)など、数多くのアクション映画を成功させている。また、[[ダニー・デヴィート]]と共演したコメディ『[[ツインズ (映画)|ツインズ]]』(1988年)は、主演作として初めて全米興行収入が1億ドルを突破するなど成功を収めた。 === 1990年代 国際的スターへ === 『[[トータル・リコール]]』(1990年)は、シュワルツェネッガーに1,000万ドル(現在の1,960万ドルに相当)と映画の興行収入の15%をもたらした。『[[キンダガートン・コップ]]』(1990年)では、『ツインズ』で監督を務めた[[アイヴァン・ライトマン]]監督と再会した。シュワルツェネッガーは、最初にTVシリーズ『[[ハリウッド・ナイトメア]]』の1990年のエピソード「The Switch」<ref>{{Cite web|和書|title=Herald-Journal - Google ニュース アーカイブ検索|url=https://news.google.com/newspapers?nid=1876&dat=19900422&id=xdIpAAAAIBAJ&pg=5765,1660751|website=news.google.com|accessdate=2021-04-06}}</ref>、次に1992年の[[テレビ映画]]「Christmas in Connecticut」<ref>{{Cite web|和書|title=Eugene Register-Guard - Google ニュース アーカイブ検索|url=https://news.google.com/newspapers?nid=1310&dat=19920412&id=m1ZWAAAAIBAJ&pg=6719,2774672|website=news.google.com|accessdate=2021-04-06}}</ref>で、短期間ながら監督業に進出している。 シュワルツェネッガーの商業的ピークは、1991年の『[[ターミネーター2]]』でタイトルキャラクターとして復帰したことであり、この作品は1991年の最高興行収入を記録した。1993年には、全米劇場所有者協会から「10年に一度の国際的スター」に選ばれた<ref name="lifeline" />。 次の映画企画である1993年のアクションコメディ[[パロディ]]『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』は、当時としては史上最高額となる1億ドルの製作費をかけ『[[ジュラシック・パーク]]』と対になって公開されたが、興行面では5000万ドルと失敗した<ref name="BLT">https://www.cinematoday.jp/page/A0003871</ref>。次の作品であるコメディドラマ『[[トゥルーライズ|トゥルー・ライズ]]』(1994年)は人気のスパイ映画で、シュワルツェネッガーはジェームズ・キャメロンと再会し、世界興行収入で約3億7,800万ドルの大ヒットを記録した<ref>{{Cite web |url=https://cinemore.jp/jp/erudition/957/article_958_p1.html |title=『トゥルーライズ』シュワルツェネッガー&キャメロン、T2コンビが確立した「戦い」と「笑い」の黄金比 |publisher =CINEMORE |accessdate=2023-11-05}}</ref>。 同年、アイヴァン・ライトマン監督との3つのコラボレーションの最後を飾るコメディ映画『[[ジュニア (映画)|ジュニア]]』が公開され、[[ダニー・デヴィート]]と再び共演した。この作品で、シュワルツェネッガーは2度目の[[ゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|ゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]にノミネートされた。その後、アクションスリラー『[[イレイザー (映画)|イレイザー]]』(1996年)、[[クリスマス]]コメディ『[[ジングル・オール・ザ・ウェイ]]』(1996年)に出演した。 コミックブックをベースにした『[[バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲]]』(1997年)に出演し、悪役の[[ミスター・フリーズ]]を演じた。この作品は、手術前の最後の作品となった。『バットマン & ロビン』が大失敗に終わった後、シュワルツェネッガーの映画キャリアと興行成績は低迷した。1997年には心疾患のため肺動脈弁の置換手術を受けた(2018年と2020年にも同様の手術を受けている)<ref>https://www.cinemacafe.net/article/2020/10/26/69627.html</ref>が、超自然現象をテーマにしたスリラー映画『[[エンド・オブ・デイズ]]』(1999年)で復帰した<ref>http://www.werde.com/movie/interview/end_of_days.html</ref>。 === 2000年代 知事との兼業 === その後、アクション映画『[[シックス・デイ]]』(2000年)と『[[コラテラル・ダメージ]]』(2002年)に出演したが、いずれも興行的には失敗に終わった。 2003年には『[[ターミネーター3]]』でタイトルキャラクターとして3度目の出演を果たし、国内で1億5000万ドル(現在の2億800万ドルに相当)を超える興行収入を記録した<ref>{{Cite web|title=Terminator 3: Rise of the Machines|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl3413476865/|website=Box Office Mojo|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 2002年、シュワルツェネッガーへの賛辞として、地元の文化協会であるフォーラム・シュタットパークが、[[グラーツ]]中心部の公園に高さ25メートル(80フィート)のターミネーター像を建てる計画を提案した。シュワルツェネッガーは、「お世辞でも嬉しいが、そのお金は社会事業や[[スペシャルオリンピックス]]に使った方が良い」と考えたと伝えられている。 その後、2003年~2011年までカリフォルニア州知事に就任した関係で、俳優としての活動は抑えられた。 [[カリフォルニア州知事]]就任後の映画出演は、『[[ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン]]』(2003年)での3秒間の[[カメオ出演]]や、同じくカメオ出演で[[ジャッキー・チェン]]と初共演した『[[80デイズ]]』(2004年)などがある。2005年には映画『The Kid & I』に本人役で出演。『Liberty's Kids』のエピソード「Valley Forge」ではフォン・スチューベン男爵の声を担当した。 また、『[[ターミネーター4]]』(2009年)にオリジナルのT-800として出演すると噂されていたが<ref>{{Cite web|title=Arnold downplays a Terminator Salvation cameo {{!}} SCI FI Wire|url=https://web.archive.org/web/20090313234133/http://scifiwire.com/2009/03/arnold-confirms-but-downp.php|website=web.archive.org|date=2009-03-13|accessdate=2021-04-06}}</ref>、本人は関与を否定した。しかし最終的には『ターミネーター』第1作のストック映像から彼のイメージが映画に挿入される形で、短時間出演した<ref>{{Cite web|title=McG|url=https://web.archive.org/web/20090501190521/http://www.reelzchannel.com/person/176340/mcg|website=web.archive.org|date=2009-05-01|accessdate=2021-04-06}}</ref>。 2010年には[[シルベスター・スタローン]]監督の『[[エクスペンダブルズ]]』にカメオ出演しており、スタローンと初共演を果たした。 === 俳優業への復帰 === 2011年1月、カリフォルニア州知事を去った数週間後、シュワルツェネッガーは将来の映画のためにいくつかの新しい脚本を読んでいることを発表し、そのうちの1つが実話に基づいた[[ランダル・ウォレス]]脚本の第二次世界大戦のアクションドラマ『With Wings as Eagles』であることを明らかにした<ref>{{Cite web|title=Schwarzenegger: "Ich lese gerade drei Drehbücher"|url=https://www.krone.at/240860|website=Kronen Zeitung|accessdate=2021-04-06|language=de}}</ref>。 2011年3月6日、アーノルド・クラシックでのアーノルドセミナーで、シュワルツェネッガーは、『ターミネーター』の続編、『プレデター』や『バトルランナー』のリメイク版など、いくつかの映画に出演を検討していること、そして、あるコミックブックのキャラクターを「パッケージ化」していることを明かした。シュワルツェネッガーは、このキャラクターにインスピレーションを与え、シリーズをプロデュースしたであろう[[スタン・リー]]と共同開発した。[[ファイル:Arnold Schwarzenegger 2012.jpg|thumb|right|2012年|285x285ピクセル]]2011年5月20日、シュワルツェネッガーの芸能顧問は、現在開発中のすべての映画プロジェクトを中止すると発表した。「シュワルツェネッガーは個人的な問題に集中しており、いかなる制作スケジュールや予定にもコミットする気はない」<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger Halts Acting Projects|url=https://people.com/movies/arnold-schwarzenegger-halts-acting-projects/|website=PEOPLE.com|accessdate=2021-04-06|language=en}}</ref>。 2011年7月11日、シュワルツェネッガーは離婚に関連する法的問題があるにもかかわらず、復帰映画を検討していることが発表された。『[[エクスペンダブルズ2]]』(2012年)にトレンチ・マウザー役で出演し、『[[ラストスタンド]]』(2013年)では10年ぶりに主役を務め、『[[大脱出]]』(2013年)ではシルベスター・スタローンとダブル主演を果たした。2014年3月に公開された『[[サボタージュ (2014年の映画)|サボタージュ]]』で主演し、2014年8月に公開された『[[エクスペンダブルズ3 ワールドミッション]]』にも出演している。2015年には「[[ターミネーターシリーズ]]」の5作目『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』に主演し、2016年8月、アクションコメディ『[[キリング・ガンサー]]』に主演した。 2018年2月6日、[[アマゾン・スタジオ]]は、シュワルツェネッガーと協力して、主演と製作総指揮を務める『Outrider』と題した新シリーズを開発すると発表した。このシリーズは、自身にとって、初めてのTV脚本の大役となる<ref>{{Cite web|title=Arnold Schwarzenegger To Topline ‘Outrider’ Western TV Series In Works At Amazon|url=https://deadline.com/2018/02/arnold-schwarzenegger-outrider-western-event-series-amazon-development-1202278941/|website=Deadline|date=2018-02-06|accessdate=2021-04-06|language=en-US|first=Nellie|last=Andreeva}}</ref>。 2019年11月1日に公開された『[[ターミネーター:ニュー・フェイト]]』で『[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]』フランチャイズに復帰した。この作品は、シリーズの共同制作者であるジェームズ・キャメロンが最初の2作ぶりに製作に復帰した。 === アプレンティス === 2015年9月、メディアはシュワルツェネッガーが[[ドナルド・トランプ]]の後任として『The New Celebrity Apprentice』のホストを務めることを発表した。 『[[アプレンティス]]』の第15シーズンにあたるこの番組は、2016年 - 2017年のテレビシーズンに放送された。番組内では、出場者を解雇する際に、自身の有名な役柄(それぞれ『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』と『[[プレデター (映画)|プレデター]]』)からの引用である「You're terminated(お前を抹殺する)」と「get to the choppa([[チョッパー]]([[ヘリコプター|ヘリ]])のところに行け)」というフレーズを使用していた<ref>{{Cite news|title=With Schwarzenegger as Host, ‘Celebrity Apprentice’ Lacks Old Bite|url=https://www.nytimes.com/2017/01/03/arts/television/schwarzenegger-celebrity-apprentice-donald-trump.html|work=The New York Times|date=2017-01-03|accessdate=2021-04-06|issn=0362-4331|language=en-US|first=Mike|last=Hale}}</ref>。 2017年3月、トランプからの度重なる批判を受け、シュワルツェネッガーは同番組を降板することが発表された。視聴者数400万から500万人と低迷した。また、2017年1月には、トランプの発言にインスタグラムで「"ねえ、ドナルド、いいアイデアがあるんだ。仕事を変えてみないか?君は視聴率の専門家だからテレビを引き継ぎ、僕は[[アメリカ合衆国大統領|君の仕事]]を引き継ぎ、そうすれば人々はようやくまた快適に眠ることができる」と反応した。 === 俳優としての特徴 === * あこがれの俳優として、[[クリント・イーストウッド]]、[[ジョン・ウェイン]]、[[カーク・ダグラス]]を挙げている。特にイーストウッドは『[[荒野の用心棒]]』(1964年)のころからのファンであり、『[[ダーティハリー]]』シリーズに感銘を受けたことでアクション映画を志すようになったという。『ダーティハリー』(1971年)の[[DVD]]には彼のインタビューが収録されている。また、『ターミネーター2』(1991年)における[[ウィンチェスターM1887/1901|ショットガン]]の片手リロードは、『[[勇気ある追跡]]』(1969年)においてジョン・ウェインが行うリロード「スピンコック」の[[オマージュ]]である。 * 『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』(1984年)における台詞「{{en|[[I'll be back (アーノルド・シュワルツェネッガー)|I'll be back]]}}」(また戻ってくる)もしくは「{{en|I'm back}}」(戻ったぞ)は、以後の出演作品の台詞でもしばしば[[カメオ出演|カメオ]]的に使われたことから世界的に有名になっており、来日した際や日本のみならず海外のマスメディアのインタビューの際にも、必ずこの台詞を発している。『ターミネーター』シリーズ以外で、この台詞が使用されているのは『コマンドー』(1985年)『ゴリラ』(1986年)『バトルランナー』(1987年)『ツインズ』(1988年)『キンダガートン・コップ』(1990年)『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993年)『シックス・デイ』(2000年)『エクスペンダブルズ2』(2012年)など。 * 2014年に「映画史上最も人を殺した俳優」として第一位に選ばれている。出演作の中で劇中一番人を殺害したのは『コマンドー』で74人。 * 長女はシュワルツェネッガーの演技を下手と酷評したことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/life/living/1623744/|title=シュワちゃん長女が酷評「パパって演技が下手よね」|publisher=女性自身|date=2011-10-28|accessdate=2021-03-03}}</ref>。 * 不名誉なラジー賞には8回ノミネートされたが長らく受賞したことがなかったことから、2004年には25周年最低落選賞を受賞した。 * 米調査会社キグリー・パブリッシング社が毎年発表していた「マネーメイキングスター・トップ10」において、7回トップ10入り(1985、1987、1988、1990、1991、1994、1996)を果たしている。また、1990年には1位となっている<ref>[[:en:Top Ten Money Making Stars Poll|Top Ten Money Making Stars Poll]]</ref>。 * 北米において、1990年『トータル・リコール』、1991年『ターミネーター2』は年間最高のオープニング興行成績となった。また、『ターミネーター2』は年間興行収入でも1位となった。 * 『ターミネーター2』の出演料は約15億円であり、当時のハリウッド記録を樹立した。その後、『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』で2500万ドル、『ターミネーター3』で3000万ドルまで膨れ上がり、みずからが持つ記録を更新すると同時に、ハリウッド記録を更新した。 * 知事退任後の主演作は興行面では非常に苦戦することが多く、復帰作の『[[ラストスタンド]]』はこれまでの主演作のなかでは最低の興行収入を記録した<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0049567 シュワちゃん復帰作、大コケ…ここ27年で最低の成績]</ref>。その後は『[[サボタージュ]]』、『[[マギー (映画)|マギー]]』、『[[アフターマス]]』と従来とは異なる映画に主演するものの、それらの主演作も不発続きであり、『ターミネーター:新起動/ジェニシス』もアメリカでは9000万ドルを下回る興行収入で『3』や『4』以下の結果になるなど大コケし、批評家からは酷評された。そのため、当初は三部作の予定であったが続編の制作は無期限の延期が報道された<ref>[https://web.archive.org/web/20220308174405/https://getnews.jp/archives/1362453 2017年に予定されていた映画『ターミネーター』の続編3部作の計画が白紙に] - ガジェット通信</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20180904121138/http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=6&ai_id=201549 イ・ビョンホンゆえ? 『ターミネーター5』米では低調、韓では爆発的人気]</ref>。2019年の『ターミネーター:ニュー・フェイト』も不発となり<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0112147 『ターミネーター』新作、首位デビューも苦戦]</ref>製作費分の回収が出来ず<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/316541 「ターミネーター最新作」が世界中でコケた理由]</ref>、当初は三部作の予定だったがその続編は製作されなかった。映画が1990年代後半から不作続きのためもあってか、シュワルツェネッガーの黄金期は5年ほどと評する意見もある<ref>[https://business.nikkei.com/atcl/report/16/030800018/111400548/ シュワちゃん人気、実は黄金期は5年だけ]</ref>。 == 政治家の経歴 == {{see also|en:Political career of Arnold Schwarzenegger}} === 政治的立場 === [[File:Reagan+Schwarzenegger1984.jpg|thumb|[[ロナルド・レーガン]]と共に(1984年)]] [[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持者であり1983年から共和党員として登録しており<ref>{{Cite web|和書|url=https://st.crank-in.net/sgtk/news/36224|title=A・シュワルツェネッガー、米法律に抗議「同性愛者への差別を容認することになる」|publisher=クランクイン!|date=2015-04-11|accessdate=2023-07-08}}</ref>、1980年代から[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]を公に支持<ref>Noonan, Peggy (October 14, 2003). What I Saw at the Revolution: A Political Life in the Reagan Era. New York: Random House. p. 384. ISBN 978-0-8129-6989-4.</ref>するなど政治に関わりがあった。 [[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[バラク・オバマ]]が推し進める[[オバマケア]]に関しては、一貫して「[[社会主義]]だ」と強い批判を繰り返していた。その一方、同じ共和党の[[ジョージ・W・ブッシュ]]や[[ドナルド・トランプ]]に対しても批判を行っており、共和党支持でありながらも独自の路線を貫いている。そのため「[[ロックフェラー・リパブリカン]]」という[[レッテル]]貼りがなされることがある。 2021年1月6日に[[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件|ドナルド・トランプの支持者がアメリカ合衆国議会(連邦議会)を襲撃した事件]]に関して、自身の意見をTwitterに動画で投稿した。そこでは自身の父親について触れながら「6日は、ここ米国にとっての『[[水晶の夜|水晶の日]]』だった」と語り、ドナルド・トランプを「最悪の大統領として歴史に刻まれる」と厳しく非難した<ref name=huffington210112>{{Cite web|和書|url= https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ffbc668c5b63642b6fcf934 |title= シュワルツェネッガーさん「全ては嘘から始まった」。議会襲撃とナチス重ねたスピーチが胸を打つ【全文】|accessdate=2021/01/18|publisher= ハフポスト |author= |date=2021/01/12 }}</ref><ref name=afpbb210111>{{Cite web|和書|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3325554 |title= シュワ氏、「トランプ氏は最悪の大統領」 議会乱入をナチスに例える|accessdate=2021/01/18|publisher= AFPBB News |author= |date=2021/01/11 }}</ref>。 === 知事 === {{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}} {{政治家 | 各国語表記 = Arnold Schwarzenegger | 画像 = File:ArnoldSchwarzeneggerSDJun10.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 2010年 | 職名 = 第38代[[カリフォルニア州]][[知事]] | 国旗 = California | 就任日 = 2003年11月17日 | 退任日 = 2011年1月3日 | 当選回数 = 2回 | 前職 = 俳優、ボディビルダー | 出生地 = {{AUT}}・[[シュタイアーマルク州]] | 所属政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]] | 国略称 = {{USA}} }} [[ファイル:Aguirre and Schwarzenegger welcome new citizens 2004-01-30.jpg|thumb|280px|2004年、[[アメリカ海軍|海軍]]および[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]兵士の帰化式に知事として参列(左)]] [[2003年]]8月に[[カリフォルニア州]]知事の{{仮リンク|グレイ・デイヴィス|en|Gray Davis}}が[[国民解職#アメリカ合衆国|リコール]]されたことを受け知事選へ出馬し、同年10月7日にカリフォルニア州知事に選出された。民主党の強力な地盤であるカリフォルニア州において、[[保守]]的な共和党からの立候補だったが、[[リコール (地方公共団体)|リコール]]で失職したデイヴィスへの反感も手伝い、民主党票も取り込んで[[有権者]]の約半数の支持を受けて当選した。これはシュワルツェネッガーの立場([[同性愛|同性愛者]]の権利や[[妊娠中絶]]などについての考え方)が民主党のそれに近いこと、彼が移民であることなどから部分的には説明されたとも言われる。当選した際は「当選したからには私に休みはない。24時間、州知事だ」と声明を発表した。 [[カリフォルニア電力危機]]などによって60億ドルにも上る[[負債]]を抱えた州の財政をどう再建するか、州経済をどのように活性化させるかが特に重要視され、シュワルツェネッガーは「増税なき[[財政再建]]」を掲げたことで注目された。と同時に、その[[マニフェスト|公約]]を裏打ちするだけの具体的な政策がないことを指摘、批判する声もあった。共和党に所属しながらも、[[環境問題]]や[[同性結婚|同性婚]]の成立には積極的で、同性愛者の[[人権]]保障やドメスティック・パートナーシップを支持するだけでなく、カリフォルニア独自の[[国民皆保険]]を制定しようとしたり、[[銃規制]]にも賛成するなど、政治的には[[リベラル]]寄りな立場をとっている。 2004年9月、[[屍姦]](ネクロフィリア)を禁止する州法案を承認。これまで法的に罰することができなかった[[死体]]との[[姦淫]]が、公式にカリフォルニア州で違法となった。 2004年11月13日に訪日。[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]]と会談し、カリフォルニアの名産品をアピールして売り込んだ。 2005年9月、シュワルツェネッガーは10代の[[肥満]]防止対策として州立高校での[[炭酸飲料]]の販売を禁止する法案に署名した。これにより州立高校の敷地内で販売できる[[飲料]]は[[水]]、[[牛乳]]、果汁50%以上の[[ジュース]]など一部のものに限られる事になった。 2005年11月、シュワルツェネッガーは財政改革のための州憲法改正など、4項目を問う[[住民投票]]を行ったが、4項目とも大差で否決された。これにより、シュワルツェネッガーの政治力の低下は避けられないという指摘もなされた。 また、2005年12月13日には[[スタンリー・ウィリアムズ]]死刑囚の恩赦請求を拒否することを発表した。ウィリアムズは4人を殺害した元ギャングの[[死刑囚]]で、[[収監]]後、改心し反ギャング活動を行い2001年から2005年の間[[ノーベル平和賞]]にノミネートされ、多数の減刑嘆願書が出されていた。しかしシュワルツェネッガーは、ウィリアムズが自身の犯した殺人事件を依然として否認し、謝罪も行っていないことから「証拠を検討したが、恩赦を出す余地は見いだせなかった」と今回の決定を説明した。この決定に従い、予定通り12月13日午前0時1分(現地時間)にウィリアムズへの薬物注射による[[アメリカ合衆国における死刑|死刑]]が執行された。 これにともない、2005年12月27日までにシュワルツェネッガーの出身地であるオーストリア南部のグラーツで、1997年に改名されたサッカー競技場[[グラーツ・リーベナウ・シュターディオン|アーノルド・シュヴァルツェネッガー・スタジアム]]から彼の名前が撤去された。オーストリアでは1950年に[[オーストリアにおける死刑|死刑制度]]を廃止し、今回のシュワルツェネッガーの死刑執行命令に批判が高まっていた。 2006年9月8日、非公式の場で共和党の[[ヒスパニック]]系女性議員に対し差別的な発言を行ったことを[[記者会見]]で謝罪した。ただし、彼はこの発言の証拠となるテープの出所が[[中間選挙]]での対立陣営からだったとしてその信憑性を疑問視している。 総じて1期目は民主党主導の議会や[[労働組合|労組]]との対立に苦慮し続けたが、ケネディ家に連なる妻の人脈や中道寄りの政治路線によって困難な政治局面を乗り切り、2006年11月の州知事選で再選にこぎつけた。従来から環境問題等に力を入れて、女性票や民主党票を取り込んだことに成功したためだと言われている。2007年1月5日スキー事故で骨折するが、松葉杖で当時の妻{{仮リンク|マリア・シュライヴァー|en|Maria Shriver}}と2期目の知事就任式に臨んだ。 2007年10月にカリフォルニアを襲った山火事は、州知事就任後最大の試練となったが、災害対応において卓越した指導力を発揮し、党派を越えた賞賛を得た。 2008年1月31日に、[[ロサンゼルス]]市内で同じ共和党所属で大統領候補の[[ジョン・マケイン]]上院議員とともに記者会見を開き、[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]においての支持を表明。マケイン上院議員とは[[地球温暖化]]問題などで協力したりする古くからの友人で、マケインはシュワルツェネッガーが計画する州独自の排ガス規制に賛意を示していた。しかし、シュワルツェネッガーの当時の妻マリア・シュライヴァーは2月3日、民主党の[[バラク・オバマ]]上院議員の支持を表明したため、夫婦で別々の政党の候補を支持するかたちとなった。一方で排ガス規制を提案しているのにもかかわらず、自身は[[ビジネスジェット]]で通勤しており、矛盾を指摘されている。 2009年5月、州の財政難を受け米国民の間でも未だ根強い議論が続いている[[大麻|マリファナ]]合法化について「検討すべき」だとガーディアン紙に対しコメントした<ref>http://www.geocities.co.jp/Beautycare/8826/SYUWA.html</ref>。 アリゾナ州にて外見で不法移民とみなされた人物を職務質問でき、在留許可証を所持していない場合犯罪者として取り締まれる法案が通された際はこれに不快感を示し、「こんな法案はカリフォルニアでは絶対に通さない」と発言している。 2010年9月に訪日した際には[[新幹線E5系・H5系電車|新幹線E5系電車]]で[[東京駅]]から[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間を試乗した。 2011年1月3日に2期7年の任期を終え、退任した。 === 知事の退任後 === 2012年8月、南カリフォルニア大学(USC)と共同で国家政策と外交政策を研究するシンクタンクである「USCシュワルツェネッガー研究所」の設立を発表。9月24日に開催されるシンポジウムにはジェームズ・キャメロンやユニバーサル・ピクチャーズ社長であるロナルド・メイヤーも参加した<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20120919/13/|title=ジェームズ・キャメロン、シュワちゃんのシンクタンクに参加|publisher=映画.com|date=2012年9月19日|accessdate=2013年3月22日}}</ref>。 == 人物 == {{出典の明記| date = 2021年4月| section = 1}} === 愛称 === [[ボディビル|ボディビルダー]]時代には「オーストリアン・オーク (The Austrian Oak) 」の愛称を持ち、のちにその出演作から「ガバナーター」または「ガバネーター」(The Governator=知事〈Governor〉とターミネーター〈Terminator〉の[[合成語]])、「コナン・ザ・リパブリカン(共和党員コナン)」(主演作『[[コナン・ザ・グレート]]』の原題『コナン・ザ・バーバリアン(野蛮人コナン)』から)などと呼ばれるようになる。 [[日本]]においては、[[淀川長治]]がその独特かつ長い姓から一部分を取って命名した「シュワちゃん」という愛称で親しまれており、数度の訪日時にはバラエティ番組や各種の[[コマーシャルメッセージ]]に出演している。 === 自伝 === [[1977年]]にシュワルツェネッガーは自叙伝''Arnold: The Education of a Body-Builder''を出版している。また、2012年に出演作のひとつである『トータル・リコール』に引っかけたタイトルを付けた自伝''Total Recall: My Unbelievably True Life Story''が出版された。この自伝の売り上げは低調な結果に終わり、批評家からは酷評された<ref>https://www.cinematoday.jp/news/N0046949</ref>。さらに、大衆からは後述する隠し子騒動の直後ということもあって、シュワルツェネッガーの人間性を批判する意見が大半だった<ref>https://japan.techinsight.jp/2012/09/yokote2012092921080.html</ref>。 === 家族 === [[File:Arnold Schwarzenegger and Maria Shriver-mod.jpg|thumb|right|2007年、マリア・シュライヴァー(左)と]] [[1986年]]には[[ジョン・F・ケネディ]]元大統領の姪で[[CBS]]記者、{{仮リンク|マリア・シュライヴァー|en|Maria Shriver}}と10年越しの交際のすえ結婚した。2人の間には4人の子供(2女2男)がいる。[[2011年]]5月10日に別居を発表<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032193|title=シュワちゃん、離婚声明を発表 妻のマリア・シュライヴァーさんとはすでに別居|publisher=シネマトゥデイ|date=2011年5月10日|accessdate=2013年3月22日}}</ref>。理由は20年間シュワルツェネッガー家のメイドであった女性とシュワルツェネッガーの不倫<ref name="split2">{{cite news|url=https://www.latimes.com/local/la-me-0517-arnold-20110517-story.html|title=Schwarzenegger fathered a with child his mistress, longtime member of the household staff|work=Los Angeles Times | first1=Mark Z.|last1=Barabak|first2=Victoria|last2=Kim|date=May 17, 2011}}</ref>と、隠し子の存在<ref>{{cite web|url=https://news.sky.com/?lpos=Showbiz_News_Third_Home_Page_Article_Teaser_Region__3|title=Arnie 'Bought Home For Love Child And Mum'|publisher=Sky|accessdate=2013年3月22日}}</ref>であることも本人により発表され、「家族らの怒りと落胆は当然で、言い訳できない」と謝罪もしている。隠し子騒動の件もあり、同年の6月にロサンゼルスタイムズが掲載した記事によると、大衆の75%がシュワルツェネッガーに否定的であり<ref>https://www.latimes.com/local/la-xpm-2011-jun-18-la-me-arnold-poll-20110618-story.html</ref>、全米からは非難が続出したという<ref name="BLT">https://www.cinematoday.jp/page/A0003871</ref>。2021年12月28日、ロサンゼルスの裁判所が2人の離婚手続きを承認し、離婚が成立した<ref name="mainichi20211230">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20211230/k00/00m/030/051000c|title=シュワルツェネッガー氏、離婚成立 10年前に隠し子発覚|date=2021-12-30|accessdate=2021-12-30|newspaper=毎日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221022175611/https://mainichi.jp/articles/20211230/k00/00m/030/051000c|archivedate=2021-12-30}}</ref>。 作家の[[キャサリン・シュワルツェネッガー]]は長女で第1子。俳優の[[パトリック・シュワルツェネッガー]]は長男で第3子。隠し子(三男)とされるジョセフ・バイーナは2016年に『ターミネーター2』の1シーンを再現した短編を自主制作し、ターミネーター役を演じている。 === 趣味 === [[ハマー (自動車)|ハマー]]を初めて自家用車にした一人としても知られる。ハマーはもともとシュワルツェネッガーの要望により、軍用車両の[[ハンヴィー]]を民生仕様にしたもの。 [[オートバイ]]の愛好家でもあり、電気オートバイのような[[ZEV]](ゼロエミッション・ヴィークル)を愛用している。カリフォルニア州の環境政策プロモーションで、電気オートバイの普及も積極的に行っており、購入金額から1500ドル分を州が補助する助成金制度なども進めていて、「カリフォルニアほど、電気オートバイに適した地域はない」と語っている。 [[兵役]]義務のころに[[戦車]]兵だった経験から、[[M47パットン]]戦車を購入している。 [[葉巻きたばこ]]を吸う愛煙家で、好きな銘柄は[[キューバ]]産の[[コイーバ]]である。 === 事故 === 2006年1月8日午後、カリフォルニア州[[ロサンゼルス]]の路上で、サイドカー付き大型オートバイを運転中に乗用車と[[交通事故|衝突事故]]を起こし、唇を15針縫う怪我を負った。 同10日には、米国での二輪免許の取得歴がなく、それまで二輪車の無免許運転を繰り返していた疑いの強いことが発覚した<ref>{{cite news|last=Navarro|first=Mireya|title=Schwarzenegger Finally Gets a License|url=https://www.nytimes.com/2006/07/07/us/07arnold.html?_r=2&oref=slogin|accessdate=February 2, 2011|newspaper=The New York Times|date=July 7, 2006}}</ref>。ただし、 # 事故時に乗っていたのはサイドカー付きのオートバイであり、同州では[[自動車]]の運転免許で運転できる。 # 映画やテレビの中での運転シーンは、公道での撮影でなければ問題ない(撮影のために封鎖した道路も同じ)。 # [[ヨーロッパ]]での二輪免許は取得している。 11日、[[ロサンゼルス市警察]]は審議の結果、[[警察官]]が運転を現認しておらず、処罰は困難との結論に至ったため、シュワルツェネッガーを処罰しない方針を決めた。 2022年の1月にも事故を起こしており、シュワルツェネッガーの信号無視が原因で4台の車両が衝突事故を引き起こしており、負傷者は病院送りになった<ref>https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202201220000428.html</ref>。 2023年の2月にも事故を起こしており、自転車にのっていた女性とぶつかったという<ref>https://www.tvgroove.com/?p=109508</ref>。 === シルヴェスター・スタローンとの関係 === [[File:Sylvester Stallone & Arnold Schwarzenegger (7588431980).jpg|thumb|right|2012年の「[[コミコン・インターナショナル]]」にて、[[シルヴェスター・スタローン]](左)と]] [[シルヴェスター・スタローン]]とは1980年代から1990年代にかけて、肉体派アクション俳優の代名詞としての存在を二分し、つねに比較され本人たちも互いを意識していた。『[[デッドフォール]]』(1989年)や『[[フェイス/オフ]]』(1997年)では両者のダブル主演での制作も計画されたが、ライバルとしての関係が共演を実現させなかった。しかし両者が直接わだかまりを作るような出来事はなく、スタローンが来日して日本のテレビ番組内で[[サイン]]を求められた際は、シュワルツェネッガーの名前を書こうとする[[ジョーク]]をおこなったり、互いの映画作品内で相手を笑いの種に使う<ref group="注">代表的な例として『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』では、シュワルツェネッガーという俳優が存在しない劇中の映画内の[[パラレルワールド]]で代わりにスタローンが主演した「ターミネーター2」が公開されている、というシーンがある。また『[[デモリションマン]]』では、2032年の世界における[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]がシュワルツェネッガーと設定されており、それを知ったスタローン演じるスパルタンがうんざりする、というシーンが存在する。</ref>など、関係は良好であった。 [[2008年]][[1月24日]]、スタローンが主演・監督・脚本を務めた映画『[[ランボー/最後の戦場]]』のワールドプレミアを米・[[ラスベガス]]市内のホテル「プラネットハリウッド・リゾート&カジノ」で行い、シュワルツェネッガーも息子2人を連れて出席した。舞台挨拶に立ったスタローンは「今日は[[T-800|ターミネーター]]が来ているんだ」と、会場に向かって嬉しそうにシュワルツェネッガーを紹介したという。[[レストラン]]チェーン「[[プラネット・ハリウッド]]」と同ホテルの共同出資者という[[ビジネスパートナー]]でもあり、会場を同チェーンのラスベガス店にした理由もそこにあった(ただし、シュワルツェネッガーは2000年にプラネット・ハリウッドの株を売却している)。固い握手を交わし、肩をたたき合うなど約5分間の交流に、スタローンは「アーノルドも来てくれたし、素晴らしい夜だ。気分は最高だよ」と述べていた。シュワルツェネッガーは、2006年12月にロサンゼルスで行われたスタローンの『[[ロッキー・ザ・ファイナル]]』の試写会場にも足を運んでおり、1年ぶりのツーショットとなった。 [[2009年]]2月、スタローンの監督・主演映画『[[エクスペンダブルズ]]』(2010年)へ出演することを明らかにした。スタローンのインタビューによると、現職の州知事ということもあり、ほかのキャストを立てることも考慮しつつオファーしたところ、職務に影響がないことを条件に快諾したという。映画でシュワルツェネッガーが演じるのは、当初はカリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガー本人役であると報道されていたが、のちに公開された情報では、スタローン演じる役の元・ライバルで[[傭兵]]部隊の元・リーダーで、役名も本名ではないという設定となった。本編では上記のとおりライバルPMCの経営者役を演じ、[[ブルース・ウィリス]]演じる[[CIA]]担当官からの依頼を「自殺行為だ」と断って立ち去る数分間の[[カメオ出演]]であった。2012年の『[[エクスペンダブルズ2]]』では本格共演を果たし、2013年の『[[大脱出]]』ではスタローンとのダブル主演を務めてる。 『[[ラストスタンド]]』(2013年)撮影時の怪我で入院した際には、偶然にもスタローンと同じ病室であった。 2015年6月29日に行われた『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』(2015年)のロサンゼルスプレミアでは、スタローンが駆けつけツーショットを披露した。 === WWEとの関係 === ボディビルダー時代にアメリカのプロレス団体「[[WWWF]]」の世界王者[[ブルーノ・サンマルチノ]]と出会い、以来交流を続けている。サンマルチノが2013年に[[WWE殿堂]]にノミネートされた際には、シュワルツェネッガーが紹介を務めた。そのほかにもレスラーの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]や[[ジェシー・ベンチュラ]]とも交流を持った。ベンチュラとは『プレデター』や『バトルランナー』で共演している。 1999年11月にはWWE(当時はWWF)の看板番組である『[[スマックダウン|SmackDown!]]』に出演、会長の[[ビンス・マクマホン]]から長年の活躍を評されWWE(当時はWWF)王座のレプリカのベルトを授与された。番組では実況にも参加し、レスラーの[[トリプルH]]に「一発」お見舞いした。 2015年には自身もWWE殿堂にノミネートされ、[[HPパビリオン]]において殿堂入りした(紹介役を務めたのはトリプルH)。翌日にはWWEの祭典[[レッスルマニア]]にも登場し、他の殿堂者と共に紹介された。なお、この大会のスポンサーを務めたのは『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』であり、トリプルHの入場はそれを[[フィーチャー]]したものであった。 === その他 === 大衆から暴行を受けたこともあり、2003年には州知事の選挙中に演説会場で生卵を投げつけられた<ref>https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/print.aspx?id=20030904000123</ref>。また、2019年には背後からとび蹴りをくらわされた事もある<ref>https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000154922.html</ref>。 == 備考 == *日本では[[滝沢カレン]]<ref>{{Cite web |url=https://thetv.jp/news/detail/213159/ |title=滝沢カレン、憧れのシュワルツェネッガーと初対面!「生きててよかった」 |publisher =WEB[[ザテレビジョン]] |accessdate=2023-11-05}}</ref>、[[堀未央奈]]<ref>{{Cite web |url=https://mdpr.jp/news/detail/3052653 |title=堀未央奈、好きなタイプの“変化”明かす「夢から覚めた」 |publisher =[[モデルプレス]] |accessdate=2023-11-05}}</ref>、[[カズレーザー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jprime.jp/articles/-/9693?display=b |title=カズレーザー、型破りな素顔「ここ20年くらい何も悩みがない」 |publisher = |accessdate=2023-11-05}}</ref>、[[篠原信一]]<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/news/20150630/16/ |title=本家シュワが正式認定!“T-シノハラ型ターミネーター”、LAプレミアに参戦 |publisher =[[映画.com]] |accessdate=2023-11-05}}</ref>、[[西内まりや]]<ref>{{Cite web |url=https://moviewalker.jp/news/article/59121/ |title=西内まりや&篠原信一、巨大シュワの胸筋に大興奮! |publisher =[[MOVIE WALKER PRESS]] |accessdate=2023-11-05}}</ref>等がファンを公言している。 == 主な出演作 == === 映画 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;" |- !年!!題名!!役名!!備考 !日本語吹替 |- | 1969年 || [[アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス]]<br />''Hercules in New York'' || ヘラクレス || アーノルド・ストロング名義 | [[屋良有作]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版) |- | 1973年 || [[長いお別れ#映画|ロング・グッドバイ]]<br />''The Long Goodbye'' || チンピラ || クレジットなし | |- | 1976年 || {{仮リンク|ステイ・ハングリー|en|Stay Hungry}}<br />''Stay Hungry'' || ジョー・サント || |''TBA'' |- | 1977年 || [[アーノルド・シュワルツェネッガーの鋼鉄の男]]<br />''Pumping Iron'' || - || ドキュメンタリー | |- |rowspan="2"|1979年 || {{仮リンク|サボテン・ジャック|en|The Villain}}<br />''The Villain'' || Handsome Stranger || | |- | <br />''Scavenger Hunt'' || ラース || カメオ出演 | |- |rowspan="2"|1980年 || {{仮リンク|愛しのジェーン・マンスフィールド|en|The Jayne Mansfield Story}}<br />''The Jayne Mansfield Story'' || [[ミッキー・ハージティ]] || テレビ映画 | |- | {{仮リンク|鋼鉄の肉体/カムバック|en|The Comeback (1980 film)}}<br />''The Comeback'' || - || ドキュメンタリー | |- | 1982年 || [[コナン・ザ・グレート]]<br />''Conan the Barbarian'' || コナン || | [[壤晴彦]](日本テレビ版) <br /> [[玄田哲章]]([[テレビ朝日]]版) |- |rowspan="2"|1984年 || [[キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2]]<br />''Conan the Destroyer'' || コナン || | [[大塚芳忠]]([[TBSテレビ|TBS]]版)<br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- | [[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]<br />''The Terminator'' || [[T-800|ターミネーター(T-800)]] || | [[大友龍三郎]](旧[[VHS]]版・テレビ朝日版) <br /> 玄田哲章(新VHS版・[[DVD]]・[[Blu-ray Disc|BD]]版・[[テレビ東京]]版) |- |rowspan="2"|1985年 || [[レッドソニア]]<br />''Red Sonja'' || カリドー || | 屋良有作(日本テレビ版) |- | [[コマンドー]]<br />''Commando'' || ジョン・メイトリックス || | 屋良有作(TBS版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版・[[吹替の帝王]]版) |- | 1986年 || [[ゴリラ (1986年の映画)|ゴリラ]]<br />''Raw Deal'' || マーク / ジョセフ || | [[銀河万丈]](TBS版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- |rowspan="2"|1987年 || [[プレデター (映画)|プレデター]]<br />''Predator'' || アラン・"ダッチ"・シェイファー || | 屋良有作([[フジテレビジョン|フジテレビ]]版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- | [[バトルランナー (映画)|バトルランナー]]<br />''The Running Man'' || ベン・リチャーズ || | [[大塚明夫]](フジテレビ版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版・DVD版・オンデマンド配信版) |- |rowspan="2"|1988年 || [[レッドブル (映画)|レッドブル]]<br />''Red Heat'' || イワン・ダンコ || | 玄田哲章(VHS版・テレビ朝日版) |- | [[ツインズ (映画)|ツインズ]]<br />''Twins'' || ジュリアス・ベネディクト || | [[堀勝之祐]](ソフト版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- |rowspan="2"|1990年 || [[トータル・リコール]]<br />''Total Recall'' || ダグラス・クエイド || | 屋良有作(ソフト版・機内上映版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- | [[キンダガートン・コップ]]<br />''Kindergarten Cop'' || ジョン・キンブル || | 大塚明夫(ソフト版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- | 1991年 || [[ターミネーター2]]<br />''Terminator 2: Judgment Day'' || ターミネーター(T-800) || | [[津嘉山正種]](ソフト版1) <br /> 玄田哲章(フジテレビ版・ソフト版2)<br />大塚明夫(音声解説吹替版)<br />''TBA''(機内上映版) |- |rowspan="3"|1992年 || <br />''Lincoln'' || ジョン・G・ニコライ || テレビ映画(声優) | |- | {{仮リンク|キッチン・ウォーズ/彼女の恋は五ツ星|en|Christmas in Connecticut}}<br />''Christmas in Connecticut'' || トラックの男 || 兼監督・テレビ映画(アンクレジット)<br />日本では映画として劇場公開 | |- | {{仮リンク|ゴリラ2|en|Beretta's Island}}<br />''Beretta's Island'' || アーノルド・シュワルツェネッガー || カメオ出演 | |- |rowspan="2"|1993年 || [[デーヴ (映画)|デーヴ]]<br />''Dave'' || アーノルド・シュワルツェネッガー || カメオ出演 | [[古田信幸]](ソフト版) <br /> 玄田哲章(テレビ朝日版) |- | [[ラスト・アクション・ヒーロー]]<br />''Last Action Hero'' || ジャック・スレイター || 兼製作総指揮 | 玄田哲章(ソフト版・テレビ朝日版) <br /> 大塚明夫(フジテレビ版) |- |rowspan="2"|1994年 || [[トゥルーライズ]]<br />''True Lies'' || ハリー・タスカー || | [[菅生隆之]](ソフト版) <br /> 玄田哲章(フジテレビ版) |- | [[ジュニア (映画)|ジュニア]]<br />''Junior'' || アレックス || | 玄田哲章(ソフト版・日本テレビ版) |- |rowspan="3"|1996年 || [[イレイザー (映画)|イレイザー]]<br />''Eraser'' || ジョン・クルーガー || | 屋良有作(ソフト版) <br /> 玄田哲章(日本テレビ版) |- | [[ジングル・オール・ザ・ウェイ]]<br />''Jingle All the Way'' || ハワード・ラングストン || | 屋良有作(ソフト版) <br /> 玄田哲章(フジテレビ版) |- | [[ターミネーター 2:3-D]]<br />''T2 3-D: Battle Across Time'' || ターミネーター(T-800) || [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]のショー・アトラクション | 玄田哲章 |- | 1997年 || [[バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲]]<br />''Batman & Robin'' || [[ミスター・フリーズ|Mr.フリーズ / ヴィクター・フライズ]] || | 大友龍三郎(ソフト版) <br /> 玄田哲章([[テレビ朝日]]版) |- | 1999年 || [[エンド・オブ・デイズ]]<br />''End of Days'' || ジェリコ・ケイン || | 玄田哲章(ソフト版・テレビ朝日版) |- | 2000年 || [[シックス・デイ]]<br />''The 6th Day'' || アダム・ギブソン || 兼製作 | 玄田哲章(ソフト版・日本テレビ版) |- | 2002年 || [[コラテラル・ダメージ]]<br />''Collateral Damage'' || ゴーディー・ブルーアー || | 玄田哲章(ソフト版・フジテレビ版) |- |rowspan="2"|2003年 || [[ターミネーター3]]<br />''Terminator 3: Rise of the Machines'' || [[T-800#T-850|ターミネーター(T-850)]] || | 玄田哲章(ソフト版・日本テレビ版) |- | [[ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン]]<br />''The Rundown'' || クラブのオーナー || カメオ出演 | 古田信幸(ソフト版) <br /> 玄田哲章(テレビ東京版) |- | 2004年 || [[80デイズ]]<br />''Around the World in 80 Days'' || プリンス・ハピ || カメオ出演 | 玄田哲章(ソフト版・テレビ東京版) |- | 2005年 || <br />''The Kid & I'' || アーノルド || カメオ出演 | |- | 2007年 || [[アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生]]<br />''Annie Leibovitz: Life Through a Lens'' || - || ドキュメンタリー | |- | 2009年 || [[ターミネーター4]]<br />''Terminator : Salvation'' || ターミネーター(T-800) || CGによる出演 | 台詞なし |- | 2010年 || [[エクスペンダブルズ]]<br />''The Expendables'' || トレンチ || クレジットなし |rowspan="12"|玄田哲章 |- | 2012年 || [[エクスペンダブルズ2]]<br />''The Expendables 2'' || トレンチ || |- |rowspan="2"|2013年 || [[ラストスタンド]]<br />''The Last Stand'' || レイ・オーウェンズ保安官 || |- | [[大脱出]]<br />''Escape Plan'' || エミル・ロットメイヤー || |- |rowspan="3"|2014年 || [[サボタージュ (2014年の映画)|サボタージュ]]<br />''Sabotage'' || ジョン・“ブリーチャー”・ウォートン || |- | [[エクスペンダブルズ3 ワールドミッション]]<br />''The Expendables 3'' || トレンチ || |- | [[マギー (映画)|マギー]]<br />''Maggie''|| ウェイド || 兼制作 |- | 2015年 || [[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]<br />''Terminator: Genisys'' || ターミネーター(T-800) || |- |rowspan="2"|2017年 || [[キリング・ガンサー]]<br />''Why We're Killing Gunther'' || ガンサー || |- | [[アフターマス (映画)|アフターマス]]<br />''Aftermath'' || ローマン・メルニク || |- |rowspan="2"|2019年 || [[レジェンド・オブ・ドラゴン 鉄仮面と龍の秘宝]]<br />''Viy 2:Journey to China'' || ジェームズ・フック船長 || |- | [[ターミネーター:ニュー・フェイト]]<br />''Terminator: Dark Fate''|| T-800 || |- | 2022年 || <br />''Kung Fury 2'' || 大統領 || [[ポストプロダクション]] | |- | TBA || <br />''Triplets'' || ジュリアス・ベネディクト || [[プリプロダクション]] | |} === テレビシリーズ === {| class="wikitable" |+ !年 !題名 !役名 !備考 !日本語吹替 |- |rowspan="3"| 1973年 || <br />''Happy Anniversary and Goodbye'' || リコ || | |- | {{仮リンク|サンフランシスコ捜査線|en|The Streets of San Francisco}}<br />''The Streets of San Francisco'' || ジョセフ・シュミット || | |- | <br />''The San Pedro Beach Bums'' || 用心棒 || | |- | 1990年 || [[ハリウッド・ナイトメア|フィアー・ナイト]]<br />''Tales from the Crypt'' || 前科者 || アンクレジット・兼監督 | |- | 2003年 || <br />''Liberty's Kids: Est.1776'' || バロン・ヴォン・スチュバーン || | |- | 2015年 || [[チャーリー・シーンのハーパー★ボーイズ]]<br />''Two and a Half Men'' || ワグナー中尉 || | |- | 2019年 || <br />''Chad Goes Deep'' || 本人役 || | |- |rowspan="2"|2023年 ||[[FUBAR (テレビドラマ)|FUBAR]]<br />''Fubar'' ||ルーク |[[Netflix]]オリジナルドラマ<br />全8話出演 |(日本語吹替版なし) |- |[[アーノルド (テレビ番組)|アーノルド]]<br />''Arnold'' ||本人 |Netflixドキュメンタリー |玄田哲章 |} === ミュージック・ビデオ === * [[ガンズ・アンド・ローゼズ]] - "[[ユー・クッド・ビー・マイン|You Could Be Mine]]" (『[[ターミネーター2]]』主題歌/[[T-800]]役) * [[ボン・ジョヴィ]] - "[[:en:Say It Isn't So (Bon Jovi song)|Say It Isn't So]]" (本人役) * [[AC/DC]] - "[[:en:Big Gun|Big Gun]]" (『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』主題歌/ジャック・スレイター役) === ビデオゲーム === * ターミネーター2・ジ・アーケード(T-800役) * ターミネーター3 ライズ オブ ザ マシーン(T-850役) * [[プレデター ハンティンググラウンズ]](ダッチ・シェイファー役) === CM === * 缶コーヒー WEST([[サントリー]]) - 現在の「[[ボス (コーヒー)|BOSS]]」の前身。1987年新発売当初のCMで出演した。「WEST(ウェスト)」と「西」をかけて、アメリカ西海岸汽車旅([[アムトラック]])招待キャンペーンもしたことがある。 * [[スーパーホップス]](サントリー) * [[カップヌードル]]([[日清食品]]) - 両手に巨大な[[やかん]]を持った「やかん体操」編が有名。振り付けは[[ラッキィ池田]]。 * [[アリナミンV]]([[アリナミン製薬]]) - CMキャラクターの「魔人V」に扮した。[[吉本新喜劇]]メンバーや「アリナミンV&V」にリニューアルの際は[[宮沢りえ]]との共演も話題になった。 * [[ディレクTV]]<ref>[[別冊宝島]]430号『よいこの広告 テレビCMが10倍面白くなる本!』[[宝島社]]、1999年、38頁、ISBN 4-7966-9430-7。</ref> * カリフォルニア州観光局 - 「なんでもアリフォルニア」キャンペーン(2009年)。州知事として<ref>[http://www.visitcalifornia.jp/campaign/adgallery.html カリフォリニア州観光局「なんでもアリフォルニア」]</ref>。 * コーワ パワードコーヒー([[興和]]) - 2014年[[ブルース・ウィリス]]と共演。 === テレビアニメ === * スーパーヒーロー・キンダガートン(原題) ''Superhero Kindergarten''(2021年)- 声の出演 == 日本語吹き替え == ===専属声優([[フィックス]])=== ; [[玄田哲章]](シュワルツェネッガー公認の専属声優) : 日本語吹き替え版では『[[コナン・ザ・グレート]]』(テレビ朝日版、1989年4月23日放送)で初担当。その後、『[[コマンドー]]』(テレビ朝日版、1989年1月1日放送)における吹き替え時の反響が大きく<ref>[https://www.fukikaeru.com/interview_06_p3.html 第6回 玄田哲章【ふきカエルインタビュー】ふきカエル大作戦!!(ページ3)] 2014年9月8日閲覧</ref>、これ以降ほぼ全ての作品での吹き替えを玄田が担当している。『[[ターミネーター4]]』の公開時など<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0018447 『ターミネーター4』に最後は男泣き!シュワちゃん……の声優さんが激白! - シネマトゥデイ] 2014年9月8日閲覧</ref>雑誌メディア等もシュワルツェネッガーの映画作品の特集を組む際には吹き替え声優として玄田哲章にインタビューをしており、吹替に詳しくない映画ファンからも人気が高い。 : また、専属声優であることからシュワルツェネッガー本人をモデルにした、パロディ要素を含んだキャラクターを担当することも増えてきている。これまでに『[[ザ・シンプソンズ MOVIE]]』、『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』、『[[幽☆遊☆白書]]』、『[[瀬戸の花嫁 (アニメ)|瀬戸の花嫁]]』、『[[ダンベル何キロ持てる?]]』などの作品で、本人、または本人が演じたキャラクターにそっくりな役を担当している。 : カリフォルニア州知事就任時、[[カリフォルニア州]]が制作した日本向けの観光広報ビデオ『[http://www.visitcalifornia.jp/campaign/adgallery.html カリフォルニア州観光局 なんでもアリフォルニア カリフォルニア]』の日本向けCMを担当する際、正式にシュワルツェネッガー本人から[[フィックス]]として認められたとされているが、玄田自身は2014年の時点ではその認識はないとしている。20世紀FOXの吹替の帝王シリーズなどのテレビ用吹替版を収録したソフトの登場により玄田によるテレビ吹替版が追加、もしくは置き換えられて再発売されている作品がある。一時期パッケージラベルに「シュワルツェネッガーの声といえば玄田哲章」という赤いシールが貼られていた。 : シュワルツェネッガーの復帰後は『[[ラストスタンド]]』や『[[サボタージュ (2014年の映画)|サボタージュ]]』の宣伝を兼ねて試写会やイベントに出ている。また『[[コマンドー]]』、『[[プレデター (映画)|プレデター]]』のニコニコ生放送出演の際には当時の台詞を発しており、その度に書き込まれていくレスポンスを見て「すごいですねぇ」と感心していた。そして、2015年の『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』のジャパンプレミアに来日したシュワルツェネッガーと玄田は舞台上でついに共演を果たし、シュワルツェネッガー本人から「これから先も僕の声を100年務めてほしい」と名実ともに永久専属声優として公認された<ref name="mantanweb">{{Cite web|和書|url= https://mantan-web.jp/article/20150707dog00m200022000c.html|title=玄田哲章:30年以上声優を務めたシュワルツェネッガーとの初対面に大興奮|publisher=まんたんウェブ |accessdate=2015-07-07}}</ref>。なお、この30年越しの対面は当初ナレーションのみの出演だった玄田に本番10分前にシュワルツェネッガー本人が玄田に直接会いたいと申し出たため、急遽実現することになったことが後日玄田自身によって語られている<ref>https://www.youtube.com/watch?v=TKTFgquaIVc</ref>。 : 主な担当作品については以下のとおり。テレビ版を含めればほぼすべてだが、ソフト版収録作品を列挙する。 :* 『[[レッドブル (映画)|レッドブル]]』 :* 『[[ラスト・アクション・ヒーロー]]』 :* 『[[ジュニア (映画)|ジュニア]]』 :* 『[[エンド・オブ・デイズ]]』 :* 『[[シックス・デイ]]』 :* 『[[コラテラル・ダメージ]]』 : など === その他の担当声優 === : <!-- 箇条書きのスタイル崩壊防止用につき除去しないで下さい --> ; [[屋良有作]](かつての担当声優) :『コマンドー』([[TBS]]版、初回放送1987年10月6日『[[月曜ロードショー|ザ・ロードショー]]』)以後、主に1980年代から1990年代後半までの代表作を多く担当、1980年代までは担当作が最も多かった。[[20世紀FOX]]の吹替の帝王シリーズのインタビューでは当時のことはほとんど覚えていないが、シュワルツェネッガーの体格などはあまり意識せず自分なりの演技をしたと語っている。玄田が当てた作品を観た際には、「シュワルツェネッガーは玄田さんだと思った」「シュワルツェネッガーのフィックスとして残っていかれたわけだから、やっぱり玄田さんはすごいです」と語り、20年近く経っての追加収録について、当時の自分に近づけるのは難しかったと語っていた。コマンドーの追加収録時にも「当時に比べると声が変わったと感じるし、当時は演技も未熟な感じがして恥ずかしい」と回想している<ref name="吹替の帝王">[https://web.archive.org/web/20150929004615/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview21.html 『プレデター<日本語吹替完声版>コレクターズ・ブルーレイBOX』玄田哲章×屋良有作×平田勝茂 座談会|インタビュー|「吹替の帝王」 Powered by 20th Century FOX Home Entertainment (Wayback Machineによるアーカイブ)] 2021年01月23日閲覧</ref>。なお、屋良自身は今後のシュワルツェネッガーの吹替については意欲的ではないという。『[[ジングル・オール・ザ・ウェイ]]』ではソフト版を担当しているが、VHSとDVDに収録されている。後に発売されたブルーレイでは、フジテレビが制作した玄田版が本版と差し替えられる形で収録された。この作品のように屋良は準主役の別の役の吹替えを行っているものもある。 : 主な担当作品は、『[[アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス]]』、『[[レッドソニア]]』(共に[[日本テレビ]]版)など。 『[[コマンドー]]』、『[[プレデター (映画)|プレデター]]』の2作は、[[20世紀スタジオ#日本|20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン]]の『吹替の帝王』シリーズより上記の両者の吹替えを収録したブルーレイが発売されている<ref name="吹替の帝王"/><ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0048877 吹き替えファン歓喜!玄田哲章&屋良有作による“完声版ブルーレイ”が発売へ! - シネマトゥデイ] 2014年9月8日閲覧</ref>(両作ともに『吹替の帝王』シリーズ以外のソフトでは玄田版が収録されたものが発売されている)。 『[[イレイザー (映画)|イレイザー]]』は[[ワーナー・ホーム・ビデオ#ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント(日本)|ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント]]の『吹替の力』シリーズより両者の吹替えを収録したブルーレイが[[2014年]][[12月23日]]に発売<ref>[https://warnerbros.co.jp/home_entertainment/detail.php?title_id=4275 【ワーナー公式】映画(ブルーレイ,DVD & 4K UHD/デジタル配信) {{!}} イレイザー] 2022年6月6日閲覧</ref>(『吹替の力』シリーズ以外のソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。 『[[トータル・リコール]]』は[[KADOKAWA]]および[[角川書店]]より両者の吹替えを収録したブルーレイが[[2019年]][[10月4日]]に発売された(それまでのソフトでは屋良版が収録されたものが発売されている)。 玄田と屋良の他に、1990年代までは様々な声優が起用され[[大友龍三郎]]や[[大塚明夫]]、[[津嘉山正種]]などが担当した作品もあり(『[[ターミネーターシリーズ]]』、『[[バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲]]』、『[[キンダガートン・コップ]]』など)、特に『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』に関しては「この作品(『ターミネーター』)の極悪非道・冷徹無比の悪役サイボーグ([[T-800]])を演じたシュワルツェネッガーには大友の人並外れた重低音はまさにピッタリ」との声が多くある<ref>[https://www.fukikaekingdom.com/%e5%90%89%e7%94%b0d%e3%81%ae%e3%82%aa%e3%82%b9%e3%82%b9%e3%83%a1%e3%81%b5%e3%81%8d%e3%82%ab%e3%82%a8%e3%83%ab/ 吉田Dのオススメふきカエル 2022.12.1『実験室の天才監督 ジェームズ・キャメロンの軌跡』]</ref><ref>{{Cite interview |和書|subject=大友龍三郎 |interviewer=村上ひさし|url= https://web.archive.org/web/20160819203538/http://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview44/ |title=大友龍三郎インタビュー(Wayback Machineによるアーカイブ) |work=吹替の帝王、[[20世紀フォックス]] |accessdate=2021-01-23}}</ref>。この『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』は『吹替の帝王』シリーズより大友(テレビ朝日版、旧VHS版)・玄田(新VHS/DVD/BD版、テレビ東京版)両者の吹替えを収録したブルーレイが[[2015年]][[6月24日]]に発売されている<ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/690855.html|title=レアな大友龍三郎版も収録、「ターミネーター」“吹替の帝王”版Blu-rayが登場|newspaper=AV Watch|publisher=インプレス|date=2015-03-03|accessdate=2021-02-15}}</ref>。 === 備考 === シュワルツェネッガーにとってはジェームズ・キャメロン監督と『ターミネーター2』以来の作品となる『[[トゥルーライズ]]』では[[菅生隆之]]がソフト版のシュワルツェネッガーの吹き替えを担当しており、玄田が担当したバージョン(フジテレビ版)は、[[2010年]][[4月23日]]発売のDVDにソフト版と併録する形で収録された(正味122分)。また、玄田(フジテレビ)版は[[2012年]]に上述の『吹替の帝王』シリーズ『コマンドー』の追加収録と並行して同一キャストによる初回放送時にカットされた部分の追加録音が行われた「完声版」の吹替が存在しているが、2013年当時、キャメロン監督が多忙なため、ブルーレイ版の発売が許可されていないと担当者が語っていた。本国でもブルーレイ版の発売はされておらず、20世紀FOXが[[ウォルト・ディズニー・スタジオ]]に買収されたことで傘下に入ったことにより、吹替の帝王シリーズも消滅、もしくは凍結状態となり、事実上のお蔵入りとなっている。この音源が収録されたソフトの発売や放送、配信などは2023年現在も行われていない。 『[[ツインズ (映画)|ツインズ]]』では[[堀勝之祐]]、『キンダガートン・コップ』では大塚明夫がソフト版のシュワルツェネッガーを担当し、玄田はテレビ朝日版を担当しているが、この後者のバージョンは[[PAL]]方式に基づいて収録されているため、長年市販ソフトへの収録や民放での再放送は行われていなかった([[WOWOW]]、[[ザ・シネマ]]などの有料衛星放送において不定期放送がおこなわれる場合があった<ref>[https://www.thecinema.jp/program/04856]</ref>)が、『キンダガートン・コップ』は2021年に玄田版を収録したソフトの発売が決定した。 == 関連項目 == * [[ローランド・キッキンガー]] - シュワルツェネッガーと共通点が多い。『[[ターミネーター4]]』の[[T-800]]役に抜擢されたが、[[頭部]]はシュワルツェネッガーの顔が合成処理され、[[体|肉体]]だけの[[ボディダブル]]としての出演となった。 * [[ヘルマン・マイヤー]] - 母国オーストリアの[[アルペンスキー]]選手。派手なクラッシュでも負傷しない不死身ぶりとその風貌から、ターミネーターと自身の名前をあわせた「ハーミネーター」と呼ばれ、自身もスキーが得意なシュワルツェネッガーとの親交もあった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Arnold Schwarzenegger}} * {{Official website|http://www.schwarzenegger.com/}}{{en icon}} * {{Twitter|Schwarzenegger}} {{en icon}} * {{Instagram|schwarzenegger}} {{en icon}} * {{allcinema name|11017|アーノルド・シュワルツェネッガー}} * {{Kinejun name|247|アーノルド・シュワルツェネッガー}} * {{IMDb name|0000216|Arnold Schwarzenegger}} {{S-start}} {{s-off}} {{Succession box | title = {{Nowrap|[[Image:Flag of California.svg|25px]] カリフォルニア州知事}} | years = 第38代:2003 - 2011 | before = [[グレイ・デイヴィス]] | after = [[ジェリー・ブラウン]] }} {{S-end}} {{カリフォルニア州知事}} {{ターミネーター}} {{WWE殿堂}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆわるつえねつかあ ああのると}} [[Category:アーノルド・シュワルツェネッガー|*]] [[Category:アメリカ合衆国の男優]] [[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]] [[Category:アメリカ合衆国の俳優出身の政治家]] [[Category:アメリカ合衆国帰化市民]] [[Category:オーストリアの実業家]] [[Category:カリフォルニア州知事]] [[Category:アメリカ合衆国のボディビルダー]] [[Category:オーストリアのボディビルダー]] [[Category:ローレウス世界スポーツ賞受賞者]] [[Category:オーストリア系アメリカ人]] [[Category:ドイツ系アメリカ人]] [[Category:アメリカ合衆国・オーストリア関係]] [[Category:アクション俳優]] [[Category:ラジー賞受賞者]] [[Category:ターミネーター|+しゆわるつえねつかあ]] [[Category:WWE殿堂]] [[Category:共和党 (アメリカ)]] [[Category:スポーツ選手出身の政治家]] [[Category:20世紀オーストリアの人物]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の男優]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の男優]] [[Category:20世紀のスポーツ選手]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の政治家]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の政治家]] [[Category:シュタイアーマルク州出身の人物]] [[Category:サンタモニカカレッジ出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:チェコ系アメリカ人]]
2003-08-21T08:46:37Z
2023-12-30T16:51:02Z
false
false
false
[ "Template:Instagram", "Template:S-start", "Template:Infobox officeholder", "Template:IPA-de", "Template:Cite news", "Template:Cite tweet", "Template:Commonscat", "Template:出典の明記", "Template:仮リンク", "Template:IMDb name", "Template:Succession box", "Template:Redirect", "Template:IPA-all", "Template:いつ", "Template:S-end", "Template:Official website", "Template:En icon", "Template:S-off", "Template:ActorActress", "Template:En", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Cite interview", "Template:Normdaten", "Template:Cite book", "Template:Allcinema name", "Template:Kinejun name", "Template:ターミネーター", "Template:See also", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Twitter", "Template:カリフォルニア州知事", "Template:政治家", "Template:WWE殿堂" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
13,678
埼玉りそな銀行
株式会社埼玉りそな銀行(さいたまりそなぎんこう、英: Saitama Resona Bank, Limited)は、埼玉県さいたま市浦和区に本店を置く、りそなホールディングス傘下の都市銀行。 大和銀ホールディングス(現・りそなホールディングス)の子会社として設立後、埼玉銀行と協和銀行が合併して誕生した旧あさひ銀行の埼玉県内店舗および東京都内店舗の一部を継承する銀行として営業を開始した(その他の旧あさひ銀行の店舗は同グループのりそな銀行が継承)。 旧埼玉銀行の経営基盤を引き継いでおり、営業地盤の埼玉県においてはメガバンク3行を抑えて預金ならびに貸出金ともにトップシェアを誇り、約730万人の同県民のおよそ60%にあたる約450万件の個人口座を有する。また、かつての埼玉銀行の流れから、埼玉県を含む県内64の自治体のうち61の自治体から指定金融機関に指定されている。こうしたことから、一部市区町村役所・役場には埼玉りそな銀行の最寄支店職員が常駐する出納窓口があるほか、多くの埼玉県内の市区町村役所・役場やその周辺には同行ATMが設置されている。りそなグループの他社と違い、埼玉県のマスコット「コバトン」を現金用封筒や社員の名刺、及びキャッシュカード(個人顧客の「普通預金口座」に限って発行)などに使用している。このように名目上は都市銀行でありながら、地方銀行のような地域密着経営を行なっている。 本店はさいたま市浦和区(旧・浦和市)に所在する「さいたま営業部」である。同営業部は、もともと埼玉銀行本店営業部であった所以から、営業室(窓口・ロビー)の延べ床面積はメガバンクの本店営業部と同等の規模を誇る。建物は1977年にBCS賞を受賞している。有人店舗128店のうち125店を埼玉県内に展開する。地方銀行のように同じ駅前の東西両側に支店を設置しているエリアが複数所在する。埼玉県外の店舗については東京支店のほか、埼玉県と隣接する群馬県の高崎市と太田市に法人取引向けの出張所である「たかさきビジネスオフィス(本庄支店高崎出張所)」「おおたビジネスオフィス(熊谷支店太田出張所)」を展開している。店舗は東京支店やあさひ銀行時代に新設されたさいたま新都心支店などを除いて旧埼玉銀行時代に設置された土地建物を使用しており、協和銀行と合併してあさひ銀行(本店は東京都千代田区大手町)となっていた旧埼玉銀行が創業地へ戻ってきた恰好となっている。なお、本社の一部機能は、りそなホールディングス東京本社内(東京都江東区木場)に設置している。 旧あさひ銀行のうち埼玉県内および旧埼玉銀行の親密な法人取引先を分割継承したため、住宅ローン等の個人向け融資の割合が上昇し貸出金に占める不良債権比率が少なく、発足当初の自己資本比率は7%台後半を示していた(2009年度中間期決算時は10.78%)。事実上国有化されたりそなグループの中では唯一の優良行とされる。 旧埼玉銀行が都市銀行であり、都市銀行間ネットワークのBANCS加盟であったことなどから、都市銀行扱いになるが、金融庁の銀行分類では「その他」に区分されている。他の都市銀行4行(みずほ銀行、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、りそな銀行)が金融庁の直接の監督を受けるのに対し、当行は地方銀行と同様に関東財務局の監督を受ける。金融庁の2014年2014年7月の金融モニタリングレポートにおいて(p2)は、都市銀行と地域銀行の双方に含まれている。 小泉内閣下の2003年5月、りそな銀行は国に対して預金保険法102条1号措置に基づく予防的資本注入の申請を行い、1兆円規模の公的資金を同行株式の取得によって注入され、実質国有化された。 この措置は、りそな銀行単独であった事から、地元紙の『埼玉新聞』や全国紙の地域(埼玉県)版では県内経済への打撃を懸念する趣旨の記事は少なかった。逆に経済記事での金融アナリストや業界関係者が、りそなグループからの売却や独立の可能性を臆測するコメントを寄せた。埼玉県の指定金融機関の鍵を握る土屋義彦埼玉県知事(当時)が、2003年5月20日の定例記者会見で「(※前身のあさひ銀時代からの りそな銀を親に見立てて)もう成人したのだから独立しても良いのでは」との発言がなされた。 しかし、適用申請後間もない2003年5月末に、りそなホールディングスの川田憲治社長は、りそなホールディングス傘下の各銀行社員の賃金3割カット、人員削減というリストラ策を盛り込んだ経営健全化計画を政府へ提出した。「りそなグループ全体の経営方針について国の監視下に置かれると認識している」と発言し、経営面での大きな動きが無いことを示し、独立をめぐる臆測を牽制した。同年8月に預金保険機構が取得したりそな銀行普通株式の株式交換によって、親会社りそなホールディングスの筆頭株主となり実質国有化されている。 2003年11月には上田清司埼玉県知事と相川宗一さいたま市長(当時)らが、今後のりそなグループ再編に備え、りそなホールディングスから埼玉りそな銀行の株式を取得のうえ「県民銀行」化する構想を提唱したが、公金使用の是非を巡る意見や県内地銀である武蔵野銀行の統合の是非などから、構想は宙に浮いた経緯がある。 りそなショック後に埼玉りそな銀行は「リレーションシップバンキング機能強化計画」と「地域密着型金融の推進への取り組み」を公表した。これに基づき、埼玉県内在住の個人を対象とした住宅ローンの条件優遇や、中小企業向けの融資のラインナップ拡充など地域に着眼した独自のサービスを提供している。 また、銀行のディスクロージャー情報に加えて埼玉県に纏わる話題を掲載した『埼玉りそなTODAY』という小冊子や、投資信託・年金保険商品の宣伝および著名人の対談・エッセイ掲載したセカンドライフ情報誌『彩5L』(サイ ファイブエル 編集:ライフエンタテイメント)をそれぞれ季刊で発行している。 旧あさひ銀行の埼玉県内の有人店舗のうち、りそな銀行が引き継ぐ目的で合併間際に開設された空中店舗の浦和支店を除く108店舗(旧あさひ銀行の有人店舗総数の約3分の1に相当)と、りそな・マルハビルの大手町中央支店、池袋東口支店、新宿駅前支店(2004年9月17日閉店)の3店舗を承継した。 埼玉県外で支店扱いの拠点は東京支店のみである。埼玉りそな銀行単体での店舗・無人出張所(ATM)拠点数はBANCS提携の都市銀行5行の中では最も少ない、地方銀行と同等の水準となっている。なお、埼玉りそな銀とりそな銀行の現金自動預払機(ATM)では、通帳・キャッシュカードを自社(自行)扱いで相互利用できるが、店舗での取引では相互に銀行代理契約は結ばれているものの他社(他行)にあたるため、自社の口座以外では受付不可となっているものもある。なお、関西みらい銀行(相互に銀行代理契約あり)、みなと銀行(銀行代理契約なし)との取引も、りそな銀行と同様に全ての時間帯で手数料が自社扱いとなる。 2004年より、坂戸市の東坂戸代理店(2007年3月廃止)を除く全店舗で、窓口業務時間を午後5時までに拡大した。 埼玉県内を主な営業地域としているため、直接の海外拠点は保有していない(りそなグループとして有する拠点についてはりそな銀行#海外拠点参照のこと)。また、旧埼玉銀行が有していた海外拠点(サンパウロ駐在員事務所等)については、旧あさひ銀行時代の2001年(平成13年)に東京三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)へ全て売却している。 ほとんどのサービスはりそな銀行と共通で、オペレーションなどは共同で運営されている。 当社では総合口座を「りそなリテール口座」(「あさひリテール口座」を踏襲)と称しており、『くらしの通帳』と『ゆとりの通帳』の2冊に分かれている。冊子自体は、りそな銀行と同一のものを使用している。 インターネットバンキング・テレホンバンキングサービスである。 りそなグループ全体のシステムを、旧あさひ銀行のシステムをベースとした「統合システム」に移行した為、りそな銀行の旧あさひ店同様、2005年(平成17年)5月6日から「統合システム」に移行している。 あさひ銀行時代から継続されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "株式会社埼玉りそな銀行(さいたまりそなぎんこう、英: Saitama Resona Bank, Limited)は、埼玉県さいたま市浦和区に本店を置く、りそなホールディングス傘下の都市銀行。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大和銀ホールディングス(現・りそなホールディングス)の子会社として設立後、埼玉銀行と協和銀行が合併して誕生した旧あさひ銀行の埼玉県内店舗および東京都内店舗の一部を継承する銀行として営業を開始した(その他の旧あさひ銀行の店舗は同グループのりそな銀行が継承)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "旧埼玉銀行の経営基盤を引き継いでおり、営業地盤の埼玉県においてはメガバンク3行を抑えて預金ならびに貸出金ともにトップシェアを誇り、約730万人の同県民のおよそ60%にあたる約450万件の個人口座を有する。また、かつての埼玉銀行の流れから、埼玉県を含む県内64の自治体のうち61の自治体から指定金融機関に指定されている。こうしたことから、一部市区町村役所・役場には埼玉りそな銀行の最寄支店職員が常駐する出納窓口があるほか、多くの埼玉県内の市区町村役所・役場やその周辺には同行ATMが設置されている。りそなグループの他社と違い、埼玉県のマスコット「コバトン」を現金用封筒や社員の名刺、及びキャッシュカード(個人顧客の「普通預金口座」に限って発行)などに使用している。このように名目上は都市銀行でありながら、地方銀行のような地域密着経営を行なっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本店はさいたま市浦和区(旧・浦和市)に所在する「さいたま営業部」である。同営業部は、もともと埼玉銀行本店営業部であった所以から、営業室(窓口・ロビー)の延べ床面積はメガバンクの本店営業部と同等の規模を誇る。建物は1977年にBCS賞を受賞している。有人店舗128店のうち125店を埼玉県内に展開する。地方銀行のように同じ駅前の東西両側に支店を設置しているエリアが複数所在する。埼玉県外の店舗については東京支店のほか、埼玉県と隣接する群馬県の高崎市と太田市に法人取引向けの出張所である「たかさきビジネスオフィス(本庄支店高崎出張所)」「おおたビジネスオフィス(熊谷支店太田出張所)」を展開している。店舗は東京支店やあさひ銀行時代に新設されたさいたま新都心支店などを除いて旧埼玉銀行時代に設置された土地建物を使用しており、協和銀行と合併してあさひ銀行(本店は東京都千代田区大手町)となっていた旧埼玉銀行が創業地へ戻ってきた恰好となっている。なお、本社の一部機能は、りそなホールディングス東京本社内(東京都江東区木場)に設置している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "旧あさひ銀行のうち埼玉県内および旧埼玉銀行の親密な法人取引先を分割継承したため、住宅ローン等の個人向け融資の割合が上昇し貸出金に占める不良債権比率が少なく、発足当初の自己資本比率は7%台後半を示していた(2009年度中間期決算時は10.78%)。事実上国有化されたりそなグループの中では唯一の優良行とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "旧埼玉銀行が都市銀行であり、都市銀行間ネットワークのBANCS加盟であったことなどから、都市銀行扱いになるが、金融庁の銀行分類では「その他」に区分されている。他の都市銀行4行(みずほ銀行、三菱UFJ銀行、三井住友銀行、りそな銀行)が金融庁の直接の監督を受けるのに対し、当行は地方銀行と同様に関東財務局の監督を受ける。金融庁の2014年2014年7月の金融モニタリングレポートにおいて(p2)は、都市銀行と地域銀行の双方に含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "小泉内閣下の2003年5月、りそな銀行は国に対して預金保険法102条1号措置に基づく予防的資本注入の申請を行い、1兆円規模の公的資金を同行株式の取得によって注入され、実質国有化された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この措置は、りそな銀行単独であった事から、地元紙の『埼玉新聞』や全国紙の地域(埼玉県)版では県内経済への打撃を懸念する趣旨の記事は少なかった。逆に経済記事での金融アナリストや業界関係者が、りそなグループからの売却や独立の可能性を臆測するコメントを寄せた。埼玉県の指定金融機関の鍵を握る土屋義彦埼玉県知事(当時)が、2003年5月20日の定例記者会見で「(※前身のあさひ銀時代からの りそな銀を親に見立てて)もう成人したのだから独立しても良いのでは」との発言がなされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、適用申請後間もない2003年5月末に、りそなホールディングスの川田憲治社長は、りそなホールディングス傘下の各銀行社員の賃金3割カット、人員削減というリストラ策を盛り込んだ経営健全化計画を政府へ提出した。「りそなグループ全体の経営方針について国の監視下に置かれると認識している」と発言し、経営面での大きな動きが無いことを示し、独立をめぐる臆測を牽制した。同年8月に預金保険機構が取得したりそな銀行普通株式の株式交換によって、親会社りそなホールディングスの筆頭株主となり実質国有化されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2003年11月には上田清司埼玉県知事と相川宗一さいたま市長(当時)らが、今後のりそなグループ再編に備え、りそなホールディングスから埼玉りそな銀行の株式を取得のうえ「県民銀行」化する構想を提唱したが、公金使用の是非を巡る意見や県内地銀である武蔵野銀行の統合の是非などから、構想は宙に浮いた経緯がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "りそなショック後に埼玉りそな銀行は「リレーションシップバンキング機能強化計画」と「地域密着型金融の推進への取り組み」を公表した。これに基づき、埼玉県内在住の個人を対象とした住宅ローンの条件優遇や、中小企業向けの融資のラインナップ拡充など地域に着眼した独自のサービスを提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、銀行のディスクロージャー情報に加えて埼玉県に纏わる話題を掲載した『埼玉りそなTODAY』という小冊子や、投資信託・年金保険商品の宣伝および著名人の対談・エッセイ掲載したセカンドライフ情報誌『彩5L』(サイ ファイブエル 編集:ライフエンタテイメント)をそれぞれ季刊で発行している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "旧あさひ銀行の埼玉県内の有人店舗のうち、りそな銀行が引き継ぐ目的で合併間際に開設された空中店舗の浦和支店を除く108店舗(旧あさひ銀行の有人店舗総数の約3分の1に相当)と、りそな・マルハビルの大手町中央支店、池袋東口支店、新宿駅前支店(2004年9月17日閉店)の3店舗を承継した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "埼玉県外で支店扱いの拠点は東京支店のみである。埼玉りそな銀行単体での店舗・無人出張所(ATM)拠点数はBANCS提携の都市銀行5行の中では最も少ない、地方銀行と同等の水準となっている。なお、埼玉りそな銀とりそな銀行の現金自動預払機(ATM)では、通帳・キャッシュカードを自社(自行)扱いで相互利用できるが、店舗での取引では相互に銀行代理契約は結ばれているものの他社(他行)にあたるため、自社の口座以外では受付不可となっているものもある。なお、関西みらい銀行(相互に銀行代理契約あり)、みなと銀行(銀行代理契約なし)との取引も、りそな銀行と同様に全ての時間帯で手数料が自社扱いとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2004年より、坂戸市の東坂戸代理店(2007年3月廃止)を除く全店舗で、窓口業務時間を午後5時までに拡大した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "埼玉県内を主な営業地域としているため、直接の海外拠点は保有していない(りそなグループとして有する拠点についてはりそな銀行#海外拠点参照のこと)。また、旧埼玉銀行が有していた海外拠点(サンパウロ駐在員事務所等)については、旧あさひ銀行時代の2001年(平成13年)に東京三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)へ全て売却している。", "title": "海外拠点" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ほとんどのサービスはりそな銀行と共通で、オペレーションなどは共同で運営されている。", "title": "主な商品サービス" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当社では総合口座を「りそなリテール口座」(「あさひリテール口座」を踏襲)と称しており、『くらしの通帳』と『ゆとりの通帳』の2冊に分かれている。冊子自体は、りそな銀行と同一のものを使用している。", "title": "主な商品サービス" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "インターネットバンキング・テレホンバンキングサービスである。", "title": "主な商品サービス" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "りそなグループ全体のシステムを、旧あさひ銀行のシステムをベースとした「統合システム」に移行した為、りそな銀行の旧あさひ店同様、2005年(平成17年)5月6日から「統合システム」に移行している。", "title": "システム統合" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "あさひ銀行時代から継続されている。", "title": "地元局のスポンサー番組等" } ]
株式会社埼玉りそな銀行は、埼玉県さいたま市浦和区に本店を置く、りそなホールディングス傘下の都市銀行。
{{半保護}} {{Pathnavbox| {{pathnav|りそなホールディングス}} }} {{基礎情報 会社 |社名= 株式会社埼玉りそな銀行 |英文社名= Saitama Resona Bank, Limited |ロゴ= [[File:Saitama Resona Bank Logo.svg|250px]] |画像= [[ファイル:Saitama-resona headquarter01.JPG|250px]] |画像説明= 本部棟(左奥)・さいたま営業部(右手前) |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計= [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.saitamaresona.co.jp/about/gaiyo/index.html 会社概要] - 株式会社埼玉りそな銀行</ref> |市場情報= |略称= 埼玉りそな |国籍= {{JPN}} |本社郵便番号= 330-9088 |本社所在地= [[埼玉県]][[さいたま市]][[浦和区]][[常盤 (さいたま市)|常盤]]七丁目4番1号 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 52|本社緯度秒 = 1.0|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 38|本社経度秒 = 43.9|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |本店郵便番号 = |本店所在地 = <!-- 登記上の本店所在地を記入します。登記上の本店と実質的な本社機能が別の場所である場合に利用してください。省略可能です。 --> |設立= [[2002年]]([[平成]]14年)[[8月27日]] |業種= 7050 |統一金融機関コード= 0017 |SWIFTコード= SAIBJPJT |事業内容= 銀行・信託業務 |代表者= [[福岡聡]]([[代表取締役]][[社長]])<br />(2023年4月1日) |資本金= 700億円<br />(2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite web|和書|date= |url=https://www.resona-gr.co.jp/holdings/other/koukoku/sr/pdf/202103_sr.pdf |title=第20期決算公告 |format=PDF |publisher=株式会社埼玉りそな銀行 |accessdate=2023-4-2}}</ref> |発行済株式総数= 380万株<br />(2023年3月31日時点) |売上高= 1,528億1,500万円<br/>(経常収益、2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益= |経常利益 = 375億7,600万円<br/>(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益= 259億400万円<br/>(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産= 4,359億7,500万円<br/>(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産= 18兆3,342億9,800万円<br/>(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数= 3,100人<br/>(2023年3月31日時点) |決算期= [[3月31日]] |主要株主= [[りそなホールディングス]] 100% |主要子会社= |関係する人物= |外部リンク= https://www.saitamaresona.co.jp/ |特記事項= 埼玉りそな銀行としての営業開始日は[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月3日]]}} {{基礎情報 銀行 |銀行 = 埼玉りそな銀行 |英名 = |統一金融機関コード = '''0017''' |SWIFTコード = '''SAIBJPJT''' |代表者氏名 = |代表者種別 = |氏名 = |店舗数 = '''128'''店 |従業員数 = |資本金 = |総資産 = |貸出金残高 ='''8兆8,113億25百万円''' |預金残高 = '''16兆8,904億64百万円''' |設立日 = |郵便番号 = |所在地 = |外部リンク = |特記事項 = (2023年3月31日現在) |}} '''株式会社埼玉りそな銀行'''(さいたまりそなぎんこう、{{Lang-en-short|Saitama Resona Bank, Limited}})は、[[埼玉県]][[さいたま市]][[浦和区]]に本店を置く、[[りそなホールディングス]]傘下の[[都市銀行]]。 == 概要 == 大和銀ホールディングス(現・[[りそなホールディングス]])の子会社として設立後、[[埼玉銀行]]と[[協和銀行]]が合併して誕生した旧'''[[あさひ銀行]]'''の[[埼玉県]]内店舗および[[東京都]]内店舗の一部を継承する[[銀行]]として営業を開始した(その他の旧あさひ銀行の店舗は同グループの[[りそな銀行]]が継承)。 旧埼玉銀行の経営基盤を引き継いでおり、営業地盤の埼玉県においては[[メガバンク]]3行を抑えて[[預金]]ならびに貸出金ともにトップシェアを誇り、約730万人の同県民のおよそ60%にあたる約450万件の個人口座を有する。また、かつての[[埼玉銀行]]の流れから、埼玉県を含む県内64の自治体のうち61の自治体から[[指定金融機関]]に指定されている<ref>{{Cite web|和書|title=埼玉県下の自治体等と金融機関間の取引のデジタル化推進で協業を合意{{!}}ニュースリリース{{!}}埼玉りそな銀行 |url=https://www.saitamaresona.co.jp/about/newsrelease/detail/20190328_977.html |website=www.saitamaresona.co.jp |access-date=2022-06-16}}</ref><ref group="注">[[比企郡]][[小川町]]、同[[嵐山町]]は[[埼玉縣信用金庫]](←旧[[小川信用金庫]])、[[秩父郡]][[横瀬町]]は[[武蔵野銀行]]が指定金融機関とされており、[[所沢市]]は[[三菱UFJ銀行]]との輪番制である(三菱UFJ銀行が辞退のため、2019年7月以降は埼玉りそな銀行が単独指定金融機関となる予定)。</ref>。こうしたことから、一部市区町村役所・役場には埼玉りそな銀行の最寄支店職員が常駐する出納窓口があるほか、多くの埼玉県内の市区町村役所・役場やその周辺には同行[[現金自動預け払い機|ATM]]が設置されている。りそなグループの他社と違い<ref group="注">他のりそなグループ各社は[[スタジオジブリ]]製作の「ひびきが丘物語」廃止後はキャラクターを使用していない。2013年7月に猫の「[[りそにゃ]]」がコミュニケーションビジュアルとして登場したが、通帳・カードには使用されていない。</ref>、埼玉県のマスコット「[[コバトン]]」を現金用封筒や社員の名刺、及び[[キャッシュカード]](個人顧客の「普通預金口座」に限って発行)などに使用している。このように名目上は[[都市銀行]]でありながら、[[地方銀行]]のような地域密着経営を行なっている<ref>{{Cite web|和書|title=埼玉のみなさまとともに|その他|埼玉りそな銀行 |url=https://www.saitamaresona.co.jp/util/saitama/index.html |website=www.saitamaresona.co.jp |access-date=2022-06-16}}</ref>。 本店は[[さいたま市]][[浦和区]](旧・[[浦和市]])に所在する「さいたま営業部」である<ref group="注">旧[[埼玉銀行]]本店 → 旧[[あさひ銀行]]浦和営業部 → 旧あさひ銀行さいたま営業部。</ref>。同営業部は、もともと埼玉銀行本店営業部であった所以から、営業室(窓口・ロビー)の延べ床面積は[[メガバンク]]の本店営業部と同等の規模を誇る。建物は[[1977年]]に[[BCS賞]]を受賞している。有人店舗128店のうち125店を埼玉県内に展開する<ref>[https://www.saitamaresona.co.jp/about/gaiyo/index.html 埼玉りそな銀行/会社概要](2023年4月1日閲覧)</ref>。[[地方銀行]]のように同じ駅前の東西両側に支店を設置しているエリアが複数所在する。埼玉県外の店舗については東京支店のほか、埼玉県と隣接する[[群馬県]]の[[高崎市]]と[[太田市]]に法人取引向けの出張所である「たかさきビジネスオフィス(本庄支店高崎出張所)」「おおたビジネスオフィス(熊谷支店太田出張所)」<ref>[https://www.resona-gr.co.jp/holdings/news/saitama_c/20170330_3a.html 「おおたビジネスオフィス」「たかさきビジネスオフィス」の開設について]埼玉りそな銀行ニュースリリース(2017年3月30日)2018年8月8日閲覧</ref>を展開している。店舗は東京支店やあさひ銀行時代に新設された[[さいたま新都心]]支店などを除いて旧[[埼玉銀行]]時代に設置された土地建物を使用しており、[[協和銀行]]と合併して[[あさひ銀行]](本店は[[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]])となっていた旧埼玉銀行が創業地へ戻ってきた恰好となっている<!-- このため、前々身の「[[埼玉銀行]]が復活」と看做されている --><ref group="注">埼玉県内の旧大和銀行(りそな銀行)の支店は朝霞台支店しか現存していない。[[1970年代]]以降の埼玉銀行のロゴタイプは[[ゴシック|角字体]]で、りそなグループのロゴとは[[フォント]]が近いものであった。</ref>。なお、本社の一部機能は、りそなホールディングス東京本社内([[東京都]][[江東区]][[木場 (江東区)|木場]])に設置している。 旧あさひ銀行のうち埼玉県内および旧埼玉銀行の親密な法人取引先を分割継承したため、住宅ローン等の個人向け融資の割合が上昇し貸出金に占める[[不良債権]]比率が少なく、発足当初の[[自己資本比率]]は7%台後半を示していた([[2009年]]度中間期決算時は10.78%)。事実上国有化されたりそなグループの中では唯一の優良行とされる。 旧埼玉銀行が都市銀行であり、都市銀行間ネットワークの[[BANCS]]加盟であったことなどから、都市銀行扱いになるが、[[金融庁]]の銀行分類では「その他」に区分されている。他の都市銀行4行([[みずほ銀行]]、[[三菱UFJ銀行]]、[[三井住友銀行]]、[[りそな銀行]])が金融庁の直接の監督を受けるのに対し、当行は[[地方銀行]]と同様に[[関東財務局]]の監督を受ける<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyoj/ginkou.pdf|accessdate=2022-12-12|title=銀行免許一覧|author=金融庁}}</ref>。金融庁の2014年2014年7月の[https://www.fsa.go.jp/news/26/20140704-5/01.pdf 金融モニタリングレポート]において(p2)は、都市銀行と地域銀行の双方に含まれている。 === りそな銀行特別金融支援時の影響 === [[第1次小泉内閣 (第1次改造)|小泉内閣]]下の[[2003年]]5月、りそな銀行は国に対して[[預金保険法]]102条1号措置に基づく[[預金保険機構|予防的資本注入の申請]]を行い、1兆円規模の[[公的資金]]を同行株式の取得によって注入され、実質国有化された。 この措置は、りそな銀行単独であった事から、地元紙の『[[埼玉新聞]]』や[[全国紙]]の地域(埼玉県)版では県内経済への打撃を懸念する趣旨の記事は少なかった。逆に経済記事での金融アナリストや業界関係者が、りそなグループからの売却<ref>2003年5月20日『[[読売新聞]]』東京本社9面(※記事名不明)</ref>や独立の可能性を臆測するコメント<ref>2003年5月31日『読売新聞』東京本社朝刊3面(※記事名不明)</ref>を寄せた。埼玉県の[[指定金融機関]]の鍵を握る[[土屋義彦]]埼玉県[[知事]](当時)が、2003年[[5月20日]]の定例記者会見で「(※前身のあさひ銀時代からの りそな銀を親に見立てて)もう成人したのだから独立しても良いのでは」との発言がなされた。 しかし、適用申請後間もない2003年5月末に、りそなホールディングスの川田憲治社長は、りそなホールディングス傘下の各銀行社員の賃金3割カット、人員削減というリストラ策を盛り込んだ経営健全化計画を政府へ提出した。「りそなグループ全体の経営方針について国の監視下に置かれると認識している」と発言し、経営面での大きな動きが無いことを示し、独立をめぐる臆測を牽制した。同年[[8月]]に[[預金保険機構]]が取得したりそな銀行普通株式の[[株式交換]]によって、親会社りそなホールディングスの筆頭株主となり実質国有化されている。 === 地域密着型金融への取り組み === 2003年[[11月]]には[[上田清司]]埼玉県知事と[[相川宗一]]さいたま市長(当時)らが、今後のりそなグループ再編に備え、りそなホールディングスから埼玉りそな銀行の株式を取得のうえ「県民銀行」化する構想を提唱<ref>2003年12月23日『読売新聞』東京本社埼玉県南版24面(※記事名不明)</ref>したが、公金使用の是非を巡る意見や県内地銀である[[武蔵野銀行]]の統合の是非などから、構想は宙に浮いた経緯がある。 [[りそなショック]]後に埼玉りそな銀行は「リレーションシップバンキング機能強化計画」と「地域密着型金融の推進への取り組み」を公表した。これに基づき、埼玉県内在住の個人を対象とした住宅ローンの条件優遇や、中小企業向けの融資のラインナップ拡充など地域に着眼した独自のサービスを提供している。 また、銀行の[[ディスクロージャー]]情報に加えて埼玉県に纏わる話題を掲載した『埼玉りそなTODAY』という小冊子や、[[投資信託]]・[[年金保険]]商品の宣伝および著名人の対談・エッセイ掲載したセカンドライフ情報誌『彩5L』(サイ ファイブエル 編集:[[ライフエンタテイメント]])をそれぞれ季刊で発行している。 === 店舗 === [[ファイル: Saitama-resona headquarter01.JPG|thumb|250px|現・本店(さいたま営業部)<br>(旧[[埼玉銀行]]本店→旧[[あさひ銀行]]浦和営業部→旧あさひ銀行さいたま営業部)]] [[ファイル:Saitama-resona Urawa-chuoh 01.JPG|thumb|250px|浦和中央支店<br>(旧[[武州銀行]]本店跡・旧[[埼玉銀行]]前本店)]] [[ファイル:Saitama Risona Bank Kawagoe Branch.jpg|thumb|250px|川越支店蔵の街出張所<br>(旧[[第八十五国立銀行]]本店)]] 旧あさひ銀行の埼玉県内の有人店舗のうち、りそな銀行が引き継ぐ目的で合併間際に開設された[[空中店舗]]の浦和支店を除く108店舗(旧あさひ銀行の有人店舗総数の約3分の1に相当)と、[[りそな・マルハビル]]の大手町中央支店<ref group="注">[[2009年]](平成21年)[[11月24日]]に東京都[[文京区]][[後楽]]の住友不動産飯田橋ファーストビル7階に移転し「東京支店」に店名変更となる([http://www.resona-gr.co.jp/holdings/other/tenpo/saitama_iten.html 埼玉りそな銀行店舗移転のお知らせ(りそなホールディングス)])(2010年1月13日閲覧)</ref>、池袋東口支店<ref group="注">[[2012年]](平成24年)[[6月19日]]に東京支店に統合される([http://www.resona-gr.co.jp/holdings/other/tenpo/saitama_tougou.html 埼玉りそな銀行店舗統合のお知らせ(りそなホールディングス)])(2012年3月31日閲覧)</ref>、新宿駅前支店([[2004年]][[9月17日]]閉店)の3店舗を承継した。 埼玉県外で支店扱いの拠点は東京支店のみである。埼玉りそな銀行単体での店舗・無人出張所(ATM)拠点数は[[BANCS]]提携の都市銀行5行の中では最も少ない、地方銀行と同等の水準となっている。なお、埼玉りそな銀とりそな銀行の[[現金自動預け払い機|現金自動預払機]](ATM)では、通帳・キャッシュカードを自社(自行)扱いで相互利用できるが、店舗での取引では相互に銀行代理契約は結ばれているものの他社(他行)にあたるため、自社の口座以外では受付不可となっているものもある<ref group="注">例えば、[[デビットカード|りそなVISAデビットカード(JMB)]]は2012年1月時点ではりそな銀行でしか販売していないため、埼玉りそなの顧客が利用したい場合は、りそな銀行での口座開設が必要であった(通常、開設希望店舗周辺での在住・在勤・在学者でなければ開設できない)。2022年現在では、埼玉りそな銀行でも利用可能になっている。また、定期預金・投資信託類の預入・解約や各種諸手続きも他社店舗では取扱出来ない。</ref>。なお、[[関西みらい銀行]](相互に銀行代理契約あり)、[[みなと銀行]](銀行代理契約なし)との取引も、りそな銀行と同様に全ての時間帯で手数料が自社扱いとなる。 [[2004年]]より、[[坂戸市]]の東坂戸代理店([[2007年]][[3月]]廃止)を除く全店舗で、窓口業務時間を午後5時までに拡大した。 == 沿革 == * [[2002年]]([[平成]]14年)8月27日 - 株式会社大和銀ホールディングス(現・株式会社[[りそなホールディングス]])の完全子会社として設立。 * [[2003年]](平成15年) ** 3月1日 - 株式会社[[あさひ銀行]](同日付で株式会社[[大和銀行]]と合併して解散)を分割会社とする吸収分割により営業を承継。 ** 3月3日 - 埼玉りそな銀行としての営業開始。 * [[2009年]](平成21年)11月24日 - りそなホールディングス東京本社の移転に先立ち、[[大手町 (千代田区)|大手町]]中央支店を東京都[[文京区]][[後楽]]に移転し、空中店舗化。併せて、支店名を東京支店に改称(実体店としては、りそな銀行と重複名称となる支店は初となる)。 * [[2010年]](平成22年)5月6日 - 東京本部を[[深川ギャザリア]]へ移転。 * [[2017年]](平成29年) **4月 - 群馬県[[高崎市]]と[[太田市]]に法人向け営業拠点「たかさきビジネスオフィス」「おおたビジネスオフィス」を設置。[[北関東]]エリアに初進出。 **5月1日 - [[埼玉高速鉄道]][[埼玉スタジアム線]][[浦和美園駅]]の副駅名制度を利用し、「浦和美園とともに歩む 埼玉りそな銀行最寄駅」と命名。 **11月 - 2003年に営業を開始してから、初となる埼玉県内の新たな営業拠点として「浦和美園出張所」を設置。 *[[2018年]](平成30年) **4月10日 - [[さいたま新都心]]支店に法人顧客支援拠点「ビジネスプラザさいたま」開設<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00469184 「埼玉に事業支援拠点 埼玉りそな マッチング年1000件」]『[[日刊工業新聞]]』2018年4月11日(金融面)2019年9月7日閲覧</ref>。 **10月 - 「[[越谷レイクタウン]]出張所」を設置。 * [[2019年]]([[令和]]元年)12月26日 - さいたま市とキャッシュレス化推進のための覚書を締結<ref>[https://www.city.saitama.jp/006/014/008/003/008/009/p069055.html (令和元年12月24日記者発表)株式会社埼玉りそな銀行とキャッシュレス推進に関する覚書を締結します~キャッシュレス推進を通じた市民向けサービスの向上及びインバウンド対応の充実に~]さいたま市(2020年1月7日閲覧)</ref>。 * [[2020年]](令和2年)3月19日 - 信託業務の兼営認可を取得し、4月から業務を開始<ref>{{cite news |title=埼玉りそな銀行、信託業務の兼営認可取得|author= |agency=|publisher=『[[日本経済新聞]]』|date=2020-03-19|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57008990Z10C20A3L83000/|accessdate=2020-05-24}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)10月1日 - 銀行業等高度化会社制度に基づき「株式会社地域デザインラボさいたま」設立<ref>[https://www.saitamaresona.co.jp/about/newsrelease/detail/20210825_2251.html 「株式会社地域デザインラボさいたま」の設立について] 埼玉りそな銀行(2021年8月25日)2021年10月17日閲覧</ref>。 == 海外拠点 == 埼玉県内を主な営業地域としているため、直接の海外拠点は保有していない(''りそなグループとして有する拠点については[[りそな銀行#海外拠点]]参照のこと'')。また、旧埼玉銀行が有していた海外拠点([[サンパウロ]]駐在員事務所等)については、旧あさひ銀行時代の[[2001年]](平成13年)に[[東京三菱銀行]](現:[[三菱UFJ銀行]])へ全て売却している。 == 主な商品サービス == ほとんどのサービスはりそな銀行と共通で、オペレーションなどは共同で運営されている。 === 総合口座 === 当社では総合口座を「りそなリテール口座」(「[[あさひ銀行|あさひ]]リテール口座」を踏襲)と称しており、『くらしの通帳』と『ゆとりの通帳』の2冊に分かれている。冊子自体は、りそな銀行と同一のものを使用している。 {{see|りそな銀行#総合口座}} === TIMO === {{see|りそな銀行#TIMO}} === 埼玉りそな銀行マイゲート === [[インターネットバンキング]]・テレホンバンキングサービスである。 === 埼玉りそなクラブ === {{see|りそな銀行#りそなクラブ}} == システム統合 == りそなグループ全体のシステムを、旧あさひ銀行のシステムをベースとした「統合システム」に移行した為、りそな銀行の旧あさひ店同様、[[2005年]](平成17年)[[5月6日]]から「統合システム」に移行している<ref>{{cite news |title=りそなのシステム障害、原因は日付設定ミス|author= |agency=|publisher=日経コンピュータ |date=2005-5-9 |url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NC/NEWS/20050509/160513/|accessdate=2014-4-26}}</ref>。 == 地元局のスポンサー番組等 == あさひ銀行時代から継続されている。 ===現在=== * [[テレビ埼玉|テレ玉]] 『[[ニュース930 (テレビ埼玉)|ニュース930]]』『[[埼玉ビジネスウォッチ]]』 * [[エフエムナックファイブ|NACK5]] 平日の[[時報]][[スポンサー]] ===過去=== * テレ玉 『[[ウィークエンド930]]』 == 関連項目 == * [[埼玉銀行]] * [[協和銀行]] * [[協和埼玉銀行]] * [[あさひ銀行]] * [[コバトン]] - キャッシュカードのデザイン等で使用。 * [[北九州銀行]] - 設立手法が本行に類似する。 * [[浦和レッドダイヤモンズ]] - ファミリーパートナーを務める。 * [[浦和美園駅]] - 副駅名「浦和美園とともに歩む埼玉りそな銀行最寄駅」が掲出されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.saitamaresona.co.jp/ 株式会社埼玉りそな銀行] {{りそなホールディングス}} {{都市銀行}} {{信託銀行}} {{大輪会}} {{浦和}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいたまりそなきんこう}} [[Category:都市銀行]] [[Category:埼玉県の銀行]] [[Category:日本の信託兼営金融機関]] [[Category:浦和区の建築物]] [[Category:浦和区の企業]] [[Category:りそなホールディングス]] [[Category:2002年設立の銀行]]
2003-08-21T09:45:46Z
2023-11-16T20:22:17Z
false
false
false
[ "Template:浦和", "Template:半保護", "Template:Reflist", "Template:りそなホールディングス", "Template:都市銀行", "Template:信託銀行", "Template:Cite web", "Template:Pathnavbox", "Template:Lang-en-short", "Template:See", "Template:Normdaten", "Template:基礎情報 会社", "Template:基礎情報 銀行", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:大輪会" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E3%82%8A%E3%81%9D%E3%81%AA%E9%8A%80%E8%A1%8C